幸田露伴

鵞鳥——- 幸田露伴

ガラーリ
 格子《こうし》の開《あ》く音がした。茶の間に居た細君《さいくん》は、誰《だれ》かしらんと思ったらしく、つと立上って物の隙《すき》からちょっと窺《うかが》ったが、それがいつも今頃《いまごろ》帰るはずの夫だったと解《わか》ると、すぐとそのままに出て、
「お帰りなさいまし。」
と、ぞんざいに挨拶《あいさつ》して迎《むか》えた。ぞんざいというと非難するように聞えるが、そうではない、シネクネと身体《からだ》にシナを付けて、語音に礼儀《れいぎ》の潤《うるお》いを持たせて、奥様《おくさま》らしく気取って挨拶するようなことはこの細君の大の不得手《ふえて》で、褒《ほ》めて云《い》えば真率《しんそつ》なのである。それもその道理で、夫は今でこそ若崎《わかざき》先生、とか何とか云われているものの、本《もと》は云わば職人で、その職人だった頃には一※[#小書き片仮名ト、1-6-81]通りでは無い貧苦《ひんく》と戦ってきた幾年《いくねん》の間《あいだ》を浮世《うきよ》とやり合って、よく搦手《からめて》を守りおおさせたいわゆるオカミサンであったのであるし、それに元来が古風実体《こふうじってい》な質《たち》で、身なり髪《かみ》かたちも余り気にせぬので、まだそれほどの年では無いが、もはや中婆《ちゅうば》ァさんに見えかかっている位である。
「ア、帰ったよ。」
と夫が優しく答えたことなどは、いつの日にも無いことではあったが、それでも夫は神経が敏《さと》くて、受けこたえにまめで、誰に対《むか》っても自然と愛想好《あいそよ》く、日々家へ帰って来る時立迎えると、こちらでもあちらを見る、あちらでもこちらを見る、イヤ、何も互《たがい》にワザと見るというのでも無いが、自然と相見るその時に、夫の眼《め》の中に和《やわ》らかな心、「お前も平安、おれも平安、お互に仕合《しあわ》せだナア」と、それほど立入った細かい筋路《すじみち》がある訳では無いが、何となく和楽《わらく》の満足を示すようなものが見える。その別に取立てて云うほどの何があるでも無い眼を見て、初めて夫がホントに帰って来たような気がし、そしてまた自分がこの人の家内《かない》であり、半身であると無意識的に感じると同時に、吾《わ》が身が夫の身のまわりに附《つ》いてまわって夫を扱《あつか》い、衣類を着換《きか》えさせてやったり、坐《ざ》を定めさせてやったり、何にかかにか自分の心を夫に添《そ》わせて働くようになる。それがこの数年の定跡《じょうせき》であった。
 ところが今日《きょう》はどういうものであろう。その一※[#小書き片仮名ト、1-6-81]眼が自分には全く与《あた》えられなかった。夫はまるで自分というものの居ることを忘れはてているよう、夫は夫、わたしはわたしで、別々の世界に居るもののように見えた。物は失われてから真の価《あたい》がわかる。今になって毎日毎日の何でも無かったその一※[#小書き片仮名ト、1-6-81]眼が貴《たっと》いものであったことが悟《さと》られた。と、いうように何も明白に順序立てて自然に感じられるわけでは無いが、何かしら物苦しい淋《さび》しい不安なものが自分に逼《せま》って来るのを妻は感じた。それは、いつもの通りに、古代の人のような帽子《ぼうし》――というよりは冠《かんむり》を脱《ぬ》ぎ、天神様《てんじんさま》のような服を着換えさせる間にも、いかにも不機嫌《ふきげん》のように、真面目《まじめ》ではあるが、勇《いさ》みの無い、沈《しず》んだ、沈んで行きつつあるような夫の様子《ようす》で、妻はそう感じたのであった。
 永年《ながねん》連添《つれそ》う間には、何家《どこ》でも夫婦《ふうふ》の間に晴天和風ばかりは無い。夫が妻に対して随分《ずいぶん》強い不満を抱《いだ》くことも有り、妻が夫に対して口惜《くや》しい厭《いや》な思《おもい》をすることもある。その最も甚《はなはだ》しい時に、自分は悪い癖《くせ》で、女だてらに、少しガサツなところの有る性分《しょうぶん》か知らぬが、ツイ荒《あら》い物言いもするが、夫はいよいよ怒《おこ》るとなると、勘高《かんだか》い声で人の胸にささるような口をきくのも止《や》めてしまって、黙《だま》って何も言わなくなり、こちらに対って眼は開《あ》いていても物を見ないかのようになる。それが今日《きょう》の今のような調子合《ちょうしあい》だ。妙《みょう》なところに夫は坐《すわ》り込《こ》んだ。細工場《さいくば》、それは土間になっているところと、居間とが続いている、その居間の端《はし》、一段低くなっている細工場を、横にしてそっちを見ながら坐ったのである。仕方がない、そこへ茶をもって行った。熱いもぬるいも知らぬような風に飲んだ。顔色《かおいろ》が冴《さ》えない、気が何かに粘《ねば》っている。自分に対して甚しく憎悪《ぞうお》でもしているかとちょっと感じたが、自分には何も心当りも無い。で、
「どうかなさいましたか。」
と訊《き》く。返辞が無い。
「気色《きしょく》が悪いのじゃなくて。」
とまた訊くと、うるさいと云わぬばかりに、
「何とも無い。」
 附《つ》き穂《ほ》が無いという返辞の仕方だ。何とも無いと云われても、どうも何か有るに違《ちが》い無い。内《うち》の人の身分が好《よ》くなり、交際《こうさい》が上って来るにつけ、わたしが足らぬ、つり合い足らぬと他の人達に思われ云われはせぬかという女気《おんなぎ》の案じがなくも無いので、自分の事かしらんとまたちょっと疑《うたぐ》ったが、どうもそうでも無いらしい。
 定《き》まって晩酌《ばんしゃく》を取るというのでもなく、もとより謹直《きんちょく》倹約《けんやく》の主人であり、自分も夫に酒を飲まれるようなことは嫌《きら》いなのではあるが、それでも少し飲むと賑《にぎ》やかに機嫌好くなって、罪も無く興じる主人である。そこで、
「晩には何か取りまして、ひさしぶりで一本あげましょうか。」
と云った。近来|大《おおい》に進歩して、細君はこの提議《ていぎ》をしたのである。ところが、
「なぜサ。」
と善良な夫は反問の言外に明らかにそんなことはせずとよいと否定《ひてい》してしまった。是非《ぜひ》も無い、簡素《かんそ》な晩食《ばんしょく》は平常《いつも》の通りに済《す》まされたが、主人の様子は平常《いつも》の通りでは無かった。激《げき》しているのでも無く、怖《おそ》れているのでも無いらしい。が、何かと談話《だんわ》をしてその糸口《いとぐち》を引出そうとしても、夫はうるさがるばかりであった。サア、まことの糟糠《そうこう》の妻たる夫思いの細君はついに堪《こら》えかねて、真正面から、
「あなたは今日はどうかなさったの。」
と逼《せま》って訊いた。
「どうもしない。」
「だって。……わたしの事?」
「ナーニ。」
「それならお勤先の事?」
「ウウ、マアそうサ。」
「マアそうサなんて、変な仰《おっしゃ》り様《よう》ネ。どういうこと?」
「…………」
「辞職?」
と聞いたのは、吾が夫と中村という人とは他の教官達とは全く出《で》が異《ちが》っていて、肌合《はだあい》の職人風のところが引装《ひきつくろ》わしてもどこかで出る、それは学校なんぞというものとは映《うつ》りの悪いことである。それを仲の好い二人《ふたり》が笑って話合っていた折々のあるのを知っていたからである。
「ナーニ。」
「免職《めんしょく》? 御《お》さとし免職ってことが有るってネ。もしか免職なんていうんなら、わたしゃ聴《き》きやしない。あなたなんか、ヤイヤイ云われて貰《もら》われたレッキとした堅気《かたぎ》のお嬢《じょう》さんみたようなもので、それを免職と云えば無理|離縁《りえん》のようなものですからネ。」
「誰も免職とも何とも云ってはいないよ。お先ッ走り! うるさいネ。」
「そんならどうしたの? 誰か高慢《こうまん》チキな意地悪と喧嘩《けんか》でもしたの。」
「イイヤ。」
「そんなら……」
「うるさいね。」
「だって……」
「うるさいッ。」
「オヤ、けんどんですネ、人が一生懸命《いっしょうけんめい》になって訊《き》いてるのに。何でそんなに沈んでいるのです?」
「別に沈んじゃいない。」
「イイエ、沈んでいます。かわいそうに。何でそんなに。」
「かわいそうに、は好かったネ、ハハハハ。」
「人をはぐらかすものじゃありませんよ。ホン気になっているものを。サ、なんで、そんなに……。なんでですよ。」
「ひとりでにカなア。」
「マア! 何も隠《かく》さなくったッていいじゃありませんか。どういう入《い》※[#小書き片仮名リ、1-6-91]訳《わけ》なんですか聴かせて下さい。実はコレコレとネ。女だって、わたしあ、あなたの忠臣《ちゅうしん》じゃありませんか。」
 忠臣という言葉は少し奇異《きい》に用いられたが、この人にしてはごもっともであった。実際この主人の忠臣であるに疑いない。しかし主人の耳にも浄瑠璃《じょうるり》なんどに出る忠臣という語に連関して聞えたか、
「話せッて云ったって、隠すのじゃ無いが、おんなわらべの知る事ならずサ。」
 浄瑠璃の行われる西の人だったから、主人は偶然《ぐうぜん》に用いた語り物の言葉を用いたのだが、同じく西の人で、これを知っていたところの真率で善良で忠誠な細君はカッとなって瞋《いか》った。が、直《じき》にまた悲痛な顔になって堪《こら》え涙《なみだ》をうるませた。自分の軽視されたということよりも、夫の胸の中《うち》に在るものが真に女わらべの知るには余るものであろうと感じて、なおさら心配に堪《た》えなくなったのである。
 格子戸は一つ格子戸である。しかし明ける音は人々で異る。夫の明けた音は細君の耳には必ず夫の明けた音と聞えて、百に一つも間違《まちが》うことは無い。それが今日は、夫の明けた音とは聞えず、ハテ誰が来たかというように聞えた。今その格子戸を明けるにつけて、細君はまた今更に物を思いながら外へ出た。まだ暮《く》れたばかりの初夏《しょか》の谷中《やなか》の風は上野つづきだけに涼《すず》しく心よかった。ごく懇意《こんい》でありまたごく近くである同じ谷中の夫の同僚《どうりょう》の中村の家を訪《と》い、その細君に立話しをして、中村に吾家《うち》へ遊びに来てもらうことを請《こ》うたのである。中村の細君は、何、あなた、ご心配になるようなことではございますまい、何でもかえってお喜びになるような事がお有りのはずに、チラと承りました、しかし宅《たく》は必ず伺《うかが》わせますよう致《いた》しましょう、と請合《うけあ》ってくれた。同じ立場に在る者は同じような感情を懐《いだ》いて互によく理解し合うものであるから、中村の細君が一も二も無く若崎の細君の云う通りになってくれたのでもあろうが、一つには平常《いつも》同じような身分の出というところからごくごく両家が心安くし合い、また一つには若崎が多くは常に中村の原型によってこれを鋳《い》ることをする芸術上の兄弟分《きょうだいぶん》のような関係から、自然と離《はな》れ難《がた》き仲になっていた故もあったろう。若崎の細君《さいくん》はいそいそとして帰った。

     

 顔も大きいが身体《からだ》も大きくゆったりとしている上に、職人上りとは誰にも見せぬふさふさとした頤鬚《あごひげ》上髭《うわひげ》頬髯《ほおひげ》を無遠慮《ぶえんりょ》に生《は》やしているので、なかなか立派に見える中村が、客座にどっしりと構えて鷹揚《おうよう》にまださほどは居ぬ蚊《か》を吾家《うち》から提《さ》げた大きな雅《が》な団扇《うちわ》で緩《ゆる》く払《はら》いながら、逼《せま》らぬ気味合《きみあい》で眼のまわりに皺《しわ》を湛《たた》えつつも、何か話すところは実に堂々として、どうしても兄分である。そしてまたこの家《や》の主人に対して先輩《せんぱい》たる情愛と貫禄《かんろく》とをもって臨んでいる綽々《しゃくしゃく》として余裕《よゆう》ある態度は、いかにもここの細君をしてその来訪を需《もと》めさせただけのことは有る。これに対座している主人は痩形《やせがた》小づくりというほどでも無いが対手《あいて》が対手だけに、まだ幅《はば》が足らぬように見える。しかしよしや大智深智《だいちしんち》でないまでも、相応に鋭《するど》い智慧《ちえ》才覚が、恐《おそ》ろしい負けぬ気を後盾《うしろだて》にしてまめに働き、どこかにコッツリとした、人には決して圧潰《おしつぶ》されぬもののあることを思わせる。
 客は無雑作《むぞうさ》に、
「奥さん。トいう訳だけで、ほかに何があったのでも無いのですから、まわり気《ぎ》の苦労はなさらないでいいのですヨ。おめでたいことじゃありませんかネ、ハハハ。」
と朗《ほがら》かに笑った。ここの細君は今はもう暗雲を一掃《いっそう》されてしまって、そこは女だ、ただもう喜びと安心とを心配の代りに得て、大風《たいふう》の吹《ふ》いた後の心持で、主客の間の茶盆《ちゃぼん》の位置をちょっと直しながら、軽く頭《かしら》を下げて、
「イエもう、業《わざ》の上の工夫《くふう》に惚《ほ》げていたと解りますれば何のこともございません。ホントにこの人は今までに随分こんなこともございましたッけ。」
と云った。客と主人との間の話で、今日学校で主人が校長から命ぜられた、それは一週間ばかり後に天子様が学校へご臨幸《りんこう》下さる、その折に主人が御前《ごぜん》で製作をしてご覧《らん》に入れるよう、そしてその製品を直《ただち》に、学校から献納《けんのう》し、お持帰りいただくということだったのが、解ったのであった。それで主人の真面目顔をしていたのは、その事に深く心を入れていたためで、別にほかに何があったのでもない、と自然に分明《ぶんみょう》したから、細君は憂《うれい》を転《てん》じて喜と為《な》し得た訳だったが、それも中村さんが、チョクに遊びに来られたお蔭《かげ》で分ったと、上機嫌になったのであった。
 女は上機嫌になると、とかくに下らない不必要なことを饒舌《しゃべ》り出して、それが自分の才能ででもあるような顔をするものだが、この細君は夫の厳《きび》しい教育を受けてか、その性分からか、幸《さいわい》にそういうことは無い人であった。純粋《じゅんすい》な感謝《かんしゃ》の念の籠《こも》ったおじぎを一つボクリとして引退《ひきさが》ってしまった。主人はもっと早く引退ってもよかったと思っていたらしく、客もまたあるいはそうなのか、細君が去ってしまうとかえって二人は解放されたような様子になった。
「君のところへ呼《よ》びに行きはしなかったかネ。もしそうだったら勘弁《かんべん》してくれたまえ。」
「ム。ハハハ。ナニ、ちょうど、話しに来ようと思っていたのサ。」
 主客の間にこんな挨拶が交されたが、客は大きな茶碗《ちゃわん》の番茶をいかにもゆっくりと飲乾《のみほ》す、その間主人の方を見ていたが、茶碗を下へ置くと、
「君は今日最初辞退をしたネ。」
と軽く話し出した。
「エエ。」
と主人は答えた。
「なぜネ。」
「なぜッて。イヤだったからです。」
「御前へ出るのにイヤってことはあるまい。」
 ホンの会話的の軽い非難だったが、答えは急遽《せわ》しかった。
「御前へ出るのにイヤの何のと、そんな勿体《もったい》ないことは夢にも思いません。だから校長に負けてしまいました。」
「ハハア、校長のいいつけがイヤだったのだネ。」
「そうです。だがもう私がすぐに負けてしまったのだから論はありません。」
「負けた負けたというのが変に聞えるよ。分らないネ。校長が別に無理なことを云ったとも私には思えないが。私も校長のいいつけで御前製作をして、面目《めんぼく》をほどこしたことのあるのは君も知っててくれるだろうに。」
と、少し面《おもて》をあげて鬚をしごいた。少し兄分|振《ぶ》っているようにも見えた。しかし若崎の何か勘ちがいをした考《かんがえ》を有《も》っているらしい蒙《もう》を啓《ひら》いてやろうというような心切《しんせつ》から出た言葉に添った態度だったので、いかにも教師くさくは見えたが、威張《いば》っているとは見えなかった。
 若崎は話しの流れ方の勢《いきおい》で何だか自分が自分を弁護《べんご》しなければならぬようになったのを感じたが、貧乏神《びんぼうがみ》に執念《しゅうね》く取憑《とりつ》かれたあげくが死神にまで憑かれたと自ら思ったほどに浮世の苦酸《くさん》を嘗《な》めた男であったから、そういう感じが起ると同時にドッコイと踏止《ふみとど》まることを知っているので、反撃的《はんげきてき》の言葉などを出すに至るべき無益と愚《ぐ》との一歩手前で自ら省みた。
「ヤ、あの鶏《にわとり》は実に見事に出来ましたネ。私もあの鶏のような作がきっと出来るというのなら、イヤも鉄砲《てっぽう》も有りはしなかったのですがネ。」
と謙遜《けんそん》の布袋《ぬのぶくろ》の中へ何もかも抛《ほう》り込んでしまう態度を取りにかかった。世の中は無事でさえあれば好《い》いというのなら、これでよかったのだ。しかし若崎のこの答は、どうしても、何か有るのを露《あら》わすまいとしているのであると感じられずにはいない。
「きっと出来るよ。君の腕《うで》だからナ。」
と軽い言葉だ。善意の奨励《しょうれい》だ。赤剥《あかむ》きに剥いて言えば、世間に善意の奨励ほどウソのものは無い。悪意の非難がウソなら、善意の奨励もウソである。真実は意の無いところに在る。若崎は徹底《てってい》してオダテとモッコには乗りたくないと平常《いつも》思っている。客のこの言葉を聞くとブルッとするほど厭《いや》だった。ウソにいじりまわされている芸術ほどケチなものは無いと思っているからである。で、思わず知らず鼻のさきで笑うような調子に、
「腕なんぞで、君、何が出来るかネ。僕等《ぼくら》よりズット偉《えら》い人だって、腕なんかがアテになるものじゃあるまい。」
と云った。何かが破裂《はれつ》したのだ。客はギクリとしたようだったが、さすがは老骨《ろうこつ》だ。禅宗《ぜんしゅう》の味噌《みそ》すり坊主《ぼうず》のいわゆる脊梁骨《せきりょうこつ》を提起《ていき》した姿勢《しせい》になって、
「そんな無茶なことを云い出しては人迷《ひとまよ》わせだヨ。腕で無くって何で芸術が出来る。まして君なぞ既《すで》にいい腕になっているのだもの、いよいよ腕を磨《みが》くべしだネ。」
 戦闘《せんとう》が開始されたようなものだ。
「イヤ腕を磨くべきはもとよりだが、腕で芸術が出来るものではない。芸術は出来るもので、こしらえるものでは無さそうだ。君の方ではこしらえとおせるかも知れないが、僕の方や窯業《ようぎょう》の方の、火の芸術にたずさわるものは、おのずと、芸術は出来るものであると信じがちだ。火のはたらきは神秘《しんぴ》霊奇《れいき》だ。その火のはたらきをくぐって僕等の芸術は出来る。それを何ということだ。鋳金《ちゅうきん》の工作|過程《かてい》を実地にご覧に入れ、そして最後には出来上ったものを美術として美術学校から献上《けんじょう》するという。そううまく行くべきものだか、どうだか。むかしも今も席画というがある、席画に美術を求めることの無理で愚《ぐ》なのは今は誰しも認《みと》めている。席上鋳金に美術を求める、そんな分らない校長ではないと思っていたが、校長には校長の考えもあろうし、鋳金はたとい蝋型《ろうがた》にせよ純粋美術とは云い難いが、また校長には把掖《はえき》誘導《ゆうどう》啓発《けいはつ》抜擢《ばってき》、あらゆる恩《おん》を受けているので、実はイヤだナアと思ったけれども枉《ま》げて従った。この心持がせめて君には分ってもらいたいのだが……」
と、中頃は余り言いすごしたと思ったので、末にはその意を濁《にご》してしまった。言ったとて今更どうなることでも無いので、図に乗って少し饒舌《しゃべ》り過ぎたと思ったのは疑いも無い。
 中村は少し凹《へこ》まされたかども有るが、この人は、「肉の多きや刃《やいば》その骨に及《およ》ばず」という身体《からだ》つきの徳《とく》を持っている、これもなかなかの功《こう》を経ているものなので、若崎の言葉の中心にはかまわずに、やはり先輩ぶりの態度を崩《くず》さず、
「それで家《うち》へ帰って不機嫌だったというのなら、君はまだ若過ぎるよ。議論みたようなことは、あれは新聞屋や雑誌屋《ざっしや》の手合にまかせておくサ。僕等は直接に芸術の中に居るのだから、塀《へい》の落書《らくがき》などに身を入れて見ることは無いよ。なるほど火の芸術と君は云うが、最後の鋳《い》るという一段だけが君の方は多いネ。ご覧に入れるには割が悪い。」
と打解けて同情し、場合によったら助言でも助勢でもしてやろうという様子だ。
「イヤ割が悪いどころでは無い、熔金《ゆ》を入れるその時に勝負が着くのだからネ。機嫌が甚《ひど》く悪いように見えたのは、どういうものだか、帰りの道で、吾家《うち》が見えるようになってフト気中《きあた》りがして、何だか今度の御前製作は見事に失敗するように思われ出して、それで一倍|鬱屈《うっくつ》したので。」
「気アタリという奴《やつ》は厭なものだネ。わたしも若い時分には時々そういうおぼえがあったが。ナーニ必ず中るとばかりでも無いものだよ。今度の仏像《ぶつぞう》は御首《みぐし》をしくじるなんと予感して大《おおき》にショゲていても、何のあやまちも無く仕上って、かえって褒《ほ》められたことなんぞもありました。そう気にすることも無いものサ。」
と云いかけて、ちょっと考え、
「いったい、何を作ろうと思いなすったのか、まだ未定なのですか。」
と改まったように尋《たず》ねた。
「それが奇妙《きみょう》で、学校の門を出るとすぐに題が心に浮んで、わずかの道の中ですっかり姿《すがた》が纏《まと》まりました。」
「何を……どんなものを。」
「鵞鳥《がちよう》を。二|羽《わ》の鵞鳥を。薄い平《ひら》めな土坡《どば》の上に、雄《おす》の方は高く首を昂《あ》げてい、雌《めす》はその雄に向って寄って行こうとするところです。無論小さく、写生風《しゃせいふう》に、鋳膚《いはだ》で十二分に味を見せて、そして、思いきり伸《の》ばした頸《くび》を、伸ばしきった姿の見ゆるように随分《ずいぶん》細く」
と話すのを、こっちも芸術家だ、眼をふさいで瞑想《めいそう》しながら聴いていると、ありありとその姿が前に在るように見えた。そしてまだ話をきかぬ雌までも浮いて見えたので、
「雌の方の頸はちょいと一※[#小書き片仮名ト、1-6-81]うねりしてネ、そして後足の爪《つめ》と踵《かかと》とに一※[#小書き片仮名ト、1-6-81]工夫がある。」
というと、不思議にも言い中《あ》てられたので、
「ハハハ、その通りその通り。」
と主人は爽《さわ》やかに笑った。が、その笑声の終らぬ中《うち》に、客はフト気中りがして、鵞鳥が鋳損《いそん》じられた場合を思った。デ、好い図ですネ、と既に言おうとしたのを呑《の》んでしまった。
 主人は、
「気中りがしてもしなくても構いませんが、ただ心配なのは御前ですからな。せっかくご天覧いただいているところで失敗しては堪《たま》りませんよ。と云って火のわざですから、失敗せぬよう理詰《りづ》めにはしますが、その時になって土を割ってみない中は何とも分りません。何だか御前で失敗するような気がすると、居ても立っても居られません。」
 中村は今|現《げん》に自分にも変な気がしたのであったから、主人に同情せずにはいられなくなった。なるほど火の芸術は! 一切《いっさい》芸術の極致《きょくち》は皆そうであろうが、明らかに火の芸術は腕ばかりではどうにもならぬ。そこへ天覧という大きなことがかぶさって来ては! そこへまた予感という妖《あや》しいことが湧上《わきあが》っては! 鳴呼《ああ》、若崎が苦しむのも無理は無い。と思った。が、この男はまだ芸術家になりきらぬ中、香具師《やし》一流の望《のぞみ》に任《まか》せて、安直に素張《すば》らしい大仏を造ったことがある。それも製作技術の智慧からではあるが、丸太《まるた》を組み、割竹《わりだけ》を編み、紙を貼《は》り、色を傅《つ》けて、インチキ大仏のその眼の孔《あな》から安房《あわ》上総《かずさ》まで見ゆるほどなのを江戸《えど》に作ったことがある。そういう質《たち》の智慧のある人であるから、今ここにおいて行詰まるような意気地無《いくじな》しではなかった。先輩として助言した。
「君、なるほど火の芸術は厄介《やっかい》だ。しかしここに道はある。どうです、鵞鳥だからむずかしいので。蟾蜍《ひきがえる》と改題してはどんなものでしょう。昔《むかし》から蟾蜍の鋳物は古い水滴《すいてき》などにもある。醜《みにく》いものだが、雅はあるものだ。あれなら熔金《ゆ》の断《き》れるおそれなどは少しも無くて済む。」
 好意からの助言には相違無いが、若崎は侮辱《ぶじょく》されたように感じでもしたか、
「いやですナア蟾蜍は。やっぱり鵞鳥で苦《くるし》みましょうヨ。」
と、悲しげにまた何だか怨《うら》みっぽく答えた。
「そんなに鵞鳥に貼《つ》くこともありますまい。」
「イヤ、君だってそうでしょうが、題は自然に出て来るもので、それと定《き》まったら、もうわたしには棄《す》てきれませぬ。逃《に》げ道のために蝦蟇《がま》の術をつかうなんていう、忍術《にんじゅつ》のようなことは私には出来ません。進み進んで、出来る、出来ない、成就《じょうじゅ》不成就の紙|一重《ひとえ》の危《あやう》い境《さかい》に臨んで奮《ふる》うのが芸術では無いでしょうか。」
「そりゃそういえば確にそうだが、忍術だって入※[#小書き片仮名ト、1-6-81]用のものだから世に伊賀流《いがりゅう》も甲賀流《こうがりゅう》もある。世間には忍術使いの美術家もなかなか多いよ。ハハハ。」
「御前製作ということでさえ無ければ、少しも屈托《くったく》は有りませんがナア。同じ火の芸術の人で陶工《とうこう》の愚斎《ぐさい》は、自分の作品を窯《かま》から取出す、火のための出来損じがもとより出来る、それは一々取っては抛《な》げ、取っては抛げ、大地へたたきつけて微塵《みじん》にしたと聞いています。いい心持の話じゃありませんか。」
「ムム、それで六兵衛《ろくべえ》一家《いっか》の基《もとい》を成したというが、あるいはマアお話じゃ無いかネ。」
「ところが御前で敲《たた》き毀《こわ》すようなものを作ってはなりませぬ、是非とも気の済《す》むようなものを作ってご覧をいただかねばなりませぬ。それが果して成るか成らぬか。そこに脊骨《せぼね》が絞《しぼ》られるような悩《なや》みが……」
「ト云うと天覧を仰《あお》ぐということが無理なことになるが、今更|野暮《やぼ》を云っても何の役にも立たぬ。悩むがよいサ。苦むがよいサ。」
と断崖《だんがい》から取って投げたように言って、中村は豪然《ごうぜん》として威張った。
 若崎は勃然《むっ》として、
「知れたことサ。」
と見かえした。身体中に神経がピンと緊《きび》しく張ったでもあるように思われて、円味《まるみ》のあるキンキン声はその音ででも有るかと聞えた。しかしまたたちまちグッタリ沈んだ態《てい》に反《かえ》って、
「火はナア、……火はナア……」
と独《ひと》り言《ご》った。スルト中村は背を円くし頭《かしら》を低くして近々と若崎に向い、声も優しく細くして、
「火の芸術、火の芸術と君は云うがネ。何の芸術にだって厄介なところはきっと有る。僕の木彫《もくちょう》だって難関は有る。せっかくだんだんと彫上《ほりあ》げて行って、も少しで仕上《しあげ》になるという時、木の事だから木理《もくめ》がある、その木理のところへ小刀《こがたな》の力が加わる。木理によって、薄《うす》いところはホロリと欠けぬとは定まらぬ。たとえば矮鶏《ちゃぼ》の尾羽《おは》の端《はし》が三|分《ぶ》五分欠けたら何となる、鶏冠《とさか》の蜂《みね》の二番目三番目が一分二分欠けたら何となる。もう繕《つくろ》いようもどうしようも無い、全く出来損じになる。材料も吟味《ぎんみ》し、木理も考え、小刀も利味《ききあじ》を善《よ》くし、力加減も気をつけ、何から何まで十二分に注意し、そして技《わざ》の限りを尽《つく》して作をしても、木の理《め》というものは一々に異《ちが》う、どんなところで思いのほかにホロリと欠けぬものでは無い。君の熔金《ゆ》の廻りがどんなところで足る足らぬが出来るのも同じことである。万一|異《い》なところから木理がハネて、釣合《つりあい》を失えば、全体が失敗になる。御前でそういうことがあれば、何とも仕様は無いのだ。自分の不面目はもとより、貴人のご不興も恐多いことでは無いか。」
 ここまで説かれて、若崎は言葉も出せなくなった。何の道にも苦《くるし》みはある。なるほど木理は意外の業《わざ》をする。それで古来木理の無いような、粘《ねば》りの多い材、白檀《びゃくだん》、赤檀《しゃくだん》の類を用いて彫刻《ちょうこく》するが、また特に杉檜《すぎひのき》の類、刀《とう》の進みの早いものを用いることもする。御前彫刻などには大抵《たいてい》刀の進み易《やす》いものを用いて短時間に功を挙《あ》げることとする。なるほど、火、火とのみ云って、火の芸術のみを難儀《なんぎ》のもののように思っていたのは浅はかであったと悟った。
「なるほど。何の道にも苦しい瀬戸《せと》はある。有難い。お蔭で世界を広くしました。」
と心からしみじみ礼を云って頭《かしら》を畳《たたみ》へすりつけた。中村も悦《よろこ》ばしげに謝意を受けた。
「ところで若崎さん、御前細工というものは、こういう難儀なものなのに相違無いが、木彫その他の道において、御前細工に不首尾のあったことはかつて無い。徳川《とくがわ》時代、諸大名《しょだいみょう》の御前で細工事《さいくごと》ご覧に入れた際、一度でも何の某《なにがし》があやまちをしてご不興を蒙《こうむ》ったなどということは聞いたことが無い。君はどう思う。わかりますか。」
 これには若崎はまた驚《おどろ》かされた。
「一度もあやまちは無かった!」
「さればサ。功名《こうみょう》手柄《てがら》をあらわして賞美を得た話は折々あるが、失敗した談はかつて無い。」
 自分は今天覧の場合の失敗を恐れて骨を削《けず》り腸《はらわた》を絞《しぼ》る思をしているのである。それに何と昔からさような場合に一度のあやまちも無かったとは。
「ムーッ。」
と若崎は深い深い考に落ちた。心は光りの飛ぶごとくにあらゆる道理の中を駈巡《かけめぐ》ったが、何をとらえることも出来無かった。ただわずかに人の真心――誠《まこと》というものの一切に超越《ちょうえつ》して霊力《れいりょく》あるものということを思い得て、
「一心の誠というものは、それほどまでに強いものでしょうかナア。」
と真顔になって尋ねた。中村はニヤリと笑った。
「誠はもとより尊《たっと》い。しかし準備もまた尊いよ。」
 若崎には解釈出来なかった。
「竜《りゅう》なら竜、虎《とら》なら虎の木彫をする。殿様《とのさま》御前《ごぜん》に出て、鋸《のこぎり》、手斧《ちょうな》、鑿《のみ》、小刀を使ってだんだんとその形を刻《きざ》み出《いだ》す。次第に形がおよそ分明になって来る。その間には失敗は無い。たとい有ったにしても、何とでも作意を用いて、失敗の痕《あと》を無くすことが出来る。時刻が相応に移る。いかに物好な殿にせよ長くご覧になっておらるる間には退屈《たいくつ》する。そこで鱗《うろこ》なら鱗、毛なら毛を彫って、同じような刀法を繰返《くりかえ》す頃になって、殿にご休息をなさるよう申す。殿は一度お入りになってお茶など召させらるる。準備が尊いのはここで。かねて十分に作りおいたる竜なら竜、虎なら虎をそこに置き、前の彫りかけを隠《かく》しおく。殿|復《ふたた》びお出ましの時には、小刀を取って、危気《あぶなげ》無きところを摩《な》ずるように削り、小々《しょうしょう》の刀屑《かたなくず》を出し、やがて成就の由《よし》を申し、近々ご覧に入るるのだ。何の思わぬあやまちなどが出来よう。ハハハ。すりかえの謀計《ぼうけい》である。君の鋳物などは最後は水桶《みずおけ》の中で型の泥《どろ》を割って像を出すのである。準備さえ水桶の中に致しておけば、容易に至難《しなん》の作品でも現わすことが出来る。もとより同人の同作、いつわり、贋物《がんぶつ》を現わすということでは無い。」
と低い声で細々《こまごま》と教えてくれた。若崎は唖然《あぜん》として驚いた。徳川期にはなるほどすべてこういう調子の事が行われたのだなと暁《さと》って、今更ながら世の清濁《せいだく》の上に思を馳《は》せて感悟《かんご》した。
「有難うございました。」
と慄《ふる》えた細い声で感謝した。
 その夜若崎は、「もう失敗しても悔《く》いない。おれは昔の怜悧者《りこうもの》ではない。おれは明治《めいじ》の人間だ。明治の天子様は、たとえ若崎が今度失敗しても、畢竟《ひっきょう》は認《みと》めて下さることを疑わない」と、安心《あんしん》立命《りつめい》の一境地に立って心中に叫んだ。

     ○

 天皇《てんのう》は学校に臨幸《りんこう》あらせられた。予定のごとく若崎の芸術をご覧あった。最後に至って若崎の鵞鳥は桶の水の中から現われた。残念にも雄の鵞鳥の頸は熔金《ゆ》のまわりが悪くて断《き》れていた。若崎は拝伏《はいふく》して泣いた。供奉《ぐぶ》諸官、及び学校諸員はもとより若崎のあの夜の心の叫《さけ》びを知ろうようは無かった。
 しかし、天恩|洪大《こうだい》で、かえって芸術の奥には幽眇《ゆうびょう》不測なものがあることをご諒知《りょうち》下された。正直な若崎はその後しばしば大なるご用命を蒙り、その道における名誉《めいよ》を馳《は》するを得た。
                       (昭和十四年十二月)

底本:「ちくま日本文学全集 幸田露伴」筑摩書房
   1992(平成4)年3月20日第1刷発行
底本の親本:「露伴全集」岩波書店
入力:林 幸雄
校正:門田裕志
2002年12月5日作成
2004年7月8日修正
青空文庫作成ファイル:
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幸田露伴

旅行の今昔—— 幸田露伴

  旅行に就いて何か経験上の談話をしろと仰《おっし》ゃるのですか。
 どう致しまして。碌に旅行という程の旅行を仕た事も無いのですもの、御談し仕度くっても是といって御談し申上げるような事も有りません。いくら経験だと申して、何処其処の山で道に迷ったとか、或は又何処其処の海岸で寄宿《のじゅく》をしたとかいうような談は、文章にでも書いて其の文章に詩的の香があったらば少しは面白いか知れませぬが、ただ御話し仕たって一向おかしくもない事になりますから申し上げられません。
 経験談の代りに「空想談」は何様です?。
 旅行も日本内地は最早何等の思慮分別をも要せぬほどに開けてまいりました。で、鉄道や汽船の勢力が如何なる海陬山村にも文明の威光を伝える為に、旅客は何の苦なしに懐手で家を飛出して、そして鼻歌で帰って来られるようになりました。其の代りに、つい二三十年前のような詩的の旅行は自然《おのず》と無くなったと申して宜しい、イヤ仕様といっても出来なくなったのであります。
 汽車の上り下りには赤帽が世話をする、車中では給仕が世話をする、食堂車がある、寝台車がある、宿屋の手代は停車場に出迎えて居る、と言ったような時世になったのですから、今の中等人士は昔時《むかし》の御大名同様に人の手から手へ渡って行って、ひどく大切《だいじ》にされまするので、山も坂も有ったものじゃあ有りません。特更《ことさら》あれは支那流というのですか病人流というのですか知りませんが、紳士淑女となると何事も自分では仕無いで、アゴ指図を極め込んで甚だ尊大に構えるのが当世ですネ。ですから左様いう人が旅行をするのは何の事は無い、「御茶壺」になって仕舞うようなものですテ。ハハハハ。「御茶壺」というのは、むかし将軍御用の御茶壺を江戸まで持って来る、其の茶壺は茶壺の事ですから眼も鼻も有りは仕ませんし手も脚も動かしは仕ませんが、それでも其の威勢は大したもので、「下に居ろ、下に居ろ」の格をやって東海道を江戸へ来たものだそうです。そこで古風の人がタマに当今の人に其の御茶壺の話を仕て聞かせると、誰も噴飯《ふきだ》して笑うので有りますが、当今の紳士の旅行の状態を見ると、余り贅沢過ぎて何の事は無い、つまり御茶壺になって歩いて居るのだ、と或人が評を仕ましたのを聞いて、甚だおかしいと思って居ります。面白いものです。金が有って地位が有って、さて威張って見ると「御茶壺」になるのですナ。
 で、其の御茶壺旅行の出来るようになったのは文明の庇陰《おかげ》なのですから、今後はもう「きりをの草鞋」「紺の甲掛け」「三度笠」「桐油合羽」「振り分けにして行李を肩に」なんていう蛮カラ的の事は要せぬようになりまして、男子でも鏡、コスメチック、頭髪《かみ》ブラッシに衣服《きもの》ブラシ、ステッキには金物の光り美しく、帽子には繊塵も無く、靴には狗《いぬ》の髭の影も映るというように、万事奇麗事で、ユラリユラリと優美都雅を極めた有様でもって旅行するようになるのですから、まして夫人方は「虫の垂れ衣《ぎぬ》」を被《かぶ》った大時代や、「あづまからげ」に草履ばき、「引裂き紙で後ぐくり」なんという古めかしい事は夢に見ようといっても見られなくなり行きまして、母が真中で子供を左右にした「三宝荒神」などは浮世絵で見るほかには絵に見る事も無くなりましょう。で、万事贅沢安楽に旅行の出来るようになった代りには、芭蕉翁や西行法師なんかも、停車場で見送りの人々や出迎えの人々に、芭蕉翁万歳というようなことを云われるような理屈になって仕舞って、「野を横に汽車引むけよ郭公」とも云われない始末で、旅行に興味を与える主なる部分の「野趣」というものは甚だ減殺されて来たようです。と云って風雅がって汽車の線路の傍をポクポク歩くなんぞという事は、ヒネクレ過ぎて狂気《きちがい》じみて居ますから、とても出来る事では有りません。して見ると、いくら野趣が減殺されようが何様しようが、今日は今日で、何も今を難じ古を尚ぶにも当らないから、矢張り文明の利益は使うだけ使った方が宜さそうな事です。
 だが、昔の俳人歌人の行脚といったようなことには、商買的の気味も有りましたろうが、其の中におのずから苦行的修練的の真面目な意味が何分か籠って居て、生やさしい戯談半分遊山半分ばかりでは出来無かった旅行なのでした。其の修業的旅行という事は、文明の威力で津々浦々山の奥谷の底までが開けた結果として、今日では先ず日本内地では殆ど成り立たない事になりました。修学旅行というが如きもなかなか修業的旅行とは云えません。すべてが発達し開明した結果、今日では日本内地の旅行は先ず昔の所謂「江の島鎌倉見物」「石尊参り」「伊勢詣」「大和めぐり」「箱根七湯めぐり」などという旅行と同様、即ち遊山旅と丁度同様になって居るかと思います。可愛い子に旅行をさせろなどという語がありますが、今日では内地の旅行はすべてが遊山旅行になって居ますから、可愛い子に旅をさせたところで何にもなりません。却って宿屋で酒を飲みおぼえたり女にからかったりする事を知り初める位が結局《おち》です。もし旅行を仕て真実に自然に接したり野趣の中に身を※[#「宀/眞」、第3水準1-47-57]《お》いたり、幾分かにしろ修業的に得益しようと思ったなら、普通の旅行をしても左程面白い事は有りますまい。悪くすると天晴な好い若い者が、愍むべし「お茶壺」になって、ただ彼方《あっち》から此方《こっち》へ渡って歩く事になります。今後はもう国外旅行が宜さそうですネ。

底本:「露伴全集 第29巻」岩波書店
   1954(昭和29)年12月4日発行
初出:「新聲」
   1906(明治39)年8月号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
入力:地田尚
校正:今井忠夫
2001年6月18日公開
2012年5月11日修正
青空文庫作成ファイル:
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幸田露伴

野道—— 幸田露伴

 流鶯《りゅうおう》啼破《ていは》す一簾《いちれん》の春。書斎に籠《こも》っていても春は分明《ぶんみょう》に人の心の扉《とびら》を排《ひら》いて入込《はいりこ》むほどになった。
 郵便脚夫《ゆうびんきゃくふ》にも燕《つばめ》や蝶《ちょう》に春の来ると同じく春は来たのであろう。郵便という声も陽気に軽やかに、幾個《いくつ》かの郵便物を投込んで、そしてひらりと燕がえしに身を翻《ひるが》えして去った。
 無事平和の春の日に友人の音信《おとずれ》を受取るということは、感じのよい事の一《いつ》である。たとえば、その書簡《てがみ》の封《ふう》を開くと、その中からは意外な悲しいことや煩《わずら》わしいことが現われようとも、それは第二段の事で、差当っては長閑《のどか》な日に友人の手紙、それが心境に投げられた恵光《けいこう》で無いことは無い。
 見るとその三四の郵便物の中の一番上になっている一封の文字は、先輩《せんぱい》の某氏《ぼうし》の筆《ふで》であることは明らかであった。そして名宛《なあて》の左側の、親展とか侍曹《じそう》とか至急とか書くべきところに、閑事《かんじ》という二字が記されてあった。閑事と表記してあるのは、急を要する用事でも何んでも無いから、忙《いそ》がしくなかったら披《ひら》いて読め、他《た》に心の惹《ひ》かれる事でもあったら後廻《あとまわ》しにしてよい、という注意である。ところがその閑事としてあったのが嬉《うれ》しくて、他の郵書よりはまず第一にそれを手にして開読した、さも大至急とでも注記してあったものを受取ったように。
 書中のおもむきは、過日|絮談《じょだん》の折にお話したごとく某々氏|等《ら》と瓢酒《ひょうしゅ》野蔬《やそ》で春郊《しゅんこう》漫歩《まんぽ》の半日を楽《たのし》もうと好晴の日に出掛《でか》ける、貴居《ききょ》はすでに都外故その節《せつ》お尋《たず》ねしてご誘引《ゆういん》する、ご同行あるならかの物二三枚をお忘れないように、呵々《かか》、というまでであった。
 おもしろい。自分はまだ知らないことだ。が、教えられていたから、妻に対《むか》って、オイ、二三枚でよいが杉《すぎ》の赤身《あかみ》の屋根板は無いか、と尋ねた。そんなものはございません、と云《い》ったが、少し考えてから、老婢《ろうひ》を近処《きんじょ》の知合《しりあい》の大工《だいく》さんのところへ遣《や》って、巧《うま》く祈《いの》り出して来た。滝割《たきわり》の片木《へぎ》で、杉の佳《よ》い香《か》が佳い色に含《ふく》まれていた。なるほどなるほどと自分は感心して、小短冊《こたんじゃく》位の大きさにそれを断《き》って、そして有合せの味噌《みそ》をその杓子《しゃくし》の背で五|厘《りん》か七厘ほど、一|分《ぶ》とはならぬ厚さに均《なら》して塗《ぬ》りつけた。妻と婢とは黙《だま》って笑って見ていた。今度からは汝達《おまえたち》にしてもらう、おぼえておけ、と云いながら、自分は味噌の方を火に向けて片木《へぎ》を火鉢《ひばち》の上に翳《かざ》した。なるほどなるほど、味噌は巧《うま》く板に馴染《なじ》んでいるから剥落《はくらく》もせず、よい工合に少し焦《こ》げて、人の※[#「飫」のへん+「巉」のつくり、398-6]意《さんい》を催《もよお》させる香気《こうき》を発する。同じようなのが二枚出来たところで、味噌の方を腹合せにしてちょっと紙に包《くる》んで、それでもう事は了《りょう》した。
 その翌日になった。照りはせぬけれども穏《おだ》やかな花ぐもりの好い暖い日であった。三先輩は打揃《うちそろ》って茅屋《ぼうおく》を訪《と》うてくれた。いずれも自分の親としてよい年輩の人々で、その中《うち》の一人は手製の東坡巾《とうばきん》といったようなものを冠《かぶ》って、鼠紬《ねずみつむぎ》の道行振《みちゆきぶり》を被《き》ているという打扮《いでたち》だから、誰《だれ》が見ても漢詩の一つも作る人である。他の二人も老人らしく似《に》つこらしい打扮だが、一人の濃《こ》い褐色《かっしょく》の土耳古帽子《トルコぼうし》に黒い絹《きぬ》の総糸《ふさいと》が長く垂《た》れているのはちょっと人目を側立《そばだ》たせたし、また他の一人の鍔無《つばな》しの平たい毛織帽子に、鼠甲斐絹《ねずみかいき》のパッチで尻端折《しりはしょり》、薄《うす》いノメリの駒下駄穿《こまげたば》きという姿《なり》も、妙な洒落《しゃれ》からであって、後輩の自分が枯草色《かれくさいろ》の半毛織の猟服《りょうふく》――その頃《ころ》銃猟《じゅうりょう》をしていたので――のポケットに肩《かた》から吊《つ》った二合瓶《にごうびん》を入れているのだけが、何だか野卑《やひ》のようで一群に掛離《かけはな》れ過ぎて見えた。
 庭口から直《ちょく》に縁側《えんがわ》の日当りに腰《こし》を卸《おろ》して五分ばかりの茶談の後、自分を促《うなが》して先輩等は立出でたのであった。自分の村人は自分に遇《あ》うと、興がる眼《め》をもって一行を見て笑いながら挨拶《あいさつ》した。自分は何となく少しテレた。けれども先輩達は長閑気《のんき》に元気に溌溂《はつらつ》と笑い興じて、田舎道《いなかみち》を市川の方へ行《ある》いた。
 菜《な》の花畠《はなばたけ》、麦《むぎ》の畠、そらまめの花、田境《たざかい》の榛《はん》の木を籠《こ》める遠霞《とおがすみ》、村の児《こ》の小鮒《こぶな》を逐廻《おいまわ》している溝川《みぞかわ》、竹籬《たけがき》、薮椿《やぶつばき》の落ちはららいでいる、小禽《ことり》のちらつく、何ということも無い田舎路ではあるが、ある点を見出しては、いいネエ、と先輩がいう。なるほど指摘《してき》されて見ると、呉春《ごしゅん》の小品でも見る位には思えるちょっとした美がある。小さな稲荷《いなり》のよろけ鳥居が薮げやきのもじゃもじゃの傍《そば》に見えるのをほめる。ほめられて見ると、なるほどちょっとおもしろくその丹《に》ぬりの色の古ぼけ加減が思われる。土橋《どばし》から少し離《はな》れて馬頭観音《ばとうかんのん》が有り無しの陽炎《かげろう》の中に立っている、里の子のわざくれだろう、蓮華草《れんげそう》の小束《こたば》がそこに抛《ほう》り出されている。いいという。なるはど悪くはない。今はじまったことでは無いが、自分は先輩のいかにも先輩だけあるのに感服させられて、ハイなるほどそうですネ、ハイなるほどそうですネ、と云っていると、東坡巾の先生は※[#「單+展」、第4水準2-4-51]然《てんぜん》として笑出して、君そんなに感服ばかりしていると、今に馬糞《まぐそ》の道傍《みちばた》に盛上《もりあ》がっているのまで春の景色《けいしょく》だなぞと褒《ほ》めさせられるよ、と戯《たわむ》れたので一同《みんな》哄然《どっ》と笑声《しょうせい》を挙《あ》げた。
 東坡巾先生は道行振の下から腰にしていた小さな瓢《ひさご》を取出した。一合少し位しか入らぬらしいが、いかにも上品な佳《よ》い瓢だった。そして底の縁《へり》に小孔《こあな》があって、それに細い組紐《くみひも》を通してある白い小玉盃《しょうぎょくはい》を取出して自ら楽しげに一盃《いっぱい》を仰《あお》いだ。そこは江戸川の西の土堤《どて》へ上《あが》り端《ばな》のところであった。堤《つつみ》の桜《さくら》わずか二三|株《しゅ》ほど眼界に入っていた。
 土耳古帽《トルコぼう》は堤畔《ていはん》の草に腰を下して休んだ。二合余も入りそうな瓢にスカリのかかっているのを傍に置き、袂《たもと》から白い巾《きれ》に包《くる》んだ赤楽《あからく》の馬上杯《ばじょうはい》を取出し、一度|拭《ぬぐ》ってから落ちついて独酌《どくしゃく》した。鼠股引《ねずみももひき》の先生は二ツ折にした手拭《てぬぐい》を草に布《し》いてその上へ腰を下して、銀の細箍《ほそたが》のかかっている杉の吸筒《すいづつ》の栓《せん》をさし直して、張紙《はりこ》の※[#「髟/休」、第3水準1-94-26]猪口《ぬりちょく》の中は総金箔《ひたはく》になっているのに一盃ついで、一ト口|呑《の》んだままなおそれを手にして四方《あたり》を眺《なが》めている。自分は人々に傚《なら》って、堤腹に脚《あし》を出しながら、帰路《かえり》には捨てるつもりで持って来た安い猪口に吾《わ》が酒を注《つ》いで呑んだ。
 見ると東坡巾先生は瓢も玉盃も腰にして了《しま》って、懐中《ふところ》の紙入から弾機《ばね》の無い西洋ナイフのような総真鍮製《そうしんちゅうせい》の物を取出して、刃《は》を引出して真直《まっすぐ》にして少し戻《もど》すと手丈夫《てじょうぶ》な真鍮の刀子《とうす》になった。それを手にして堤下《どてした》を少しうろついていたが、何か掘《ほ》っていると思うと、たちまちにして春の日に光る白い小さい球根を五つ六つ懐《ふところ》から出した半紙の上に載《の》せて戻《もど》って来た。ヤア、と云って皆は挨拶した。
 鼠股引氏は早速《さっそく》にその球《たま》を受取って、懐紙《かいし》で土を拭って、取出した小短冊形の杉板の焼味噌にそれを突掛《つっか》けて喫《た》べて、余りの半盃を嚥《の》んだ。土耳古帽氏も同じくそうした。東坡巾先生は味噌は携《たずさ》えていなくって、君がたんと持って来たろうと思っていたといって自分に出させた。果して自分が他に比すれば馬鹿《ばか》に大きな板を二枚持っていたので、人々に哄笑《こうしょう》された。自分も一|顆《か》の球を取って人々の為《な》すがごとくにした。球は野蒜《のびる》であった。焼味噌の塩味《しおみ》香気《こうき》と合《がっ》したその辛味《からみ》臭気《しゅうき》は酒を下《くだ》すにちょっとおもしろいおかしみがあった。
 真鍮刀は土耳古帽氏にわたされた。一同《みんな》はまたぶらぶらと笑語しながら堤上や堤下を歩いた。ふと土耳古帽氏は堤下の田の畔《くろ》へ立寄って何か採《と》った。皆々はそれを受けたが、もっさりした小さな草だった。東坡巾先生は叮嚀《ていねい》にその疎葉《そよう》を捨て、中心部の※[#「嫩の攵の代りに欠」、第4水準2-5-78]《わか》いところを揀《えら》んで少し喫《た》べた。自分はいきなり味噌をつけて喫べたが、微《すこ》しく甘《あま》いが褒《ほ》められないものだった。何です、これは、と変な顔をして自分が問うと、鼠股引氏が、薺《なずな》さ、ベンペン草も君はご存知ないのかエ、と意地の悪い云い方をした。エ、ぺンペン草で一盃《いっぱい》飲まされたのですか、と自分が思わず呆《あき》れて不興《ふきょう》して言うと、いいサ、粥《かゆ》じゃあ一番いきな色を見せるという憎《にく》くもないものだから、と股引氏はいよいよ人を茶《ちゃ》にしている。土耳古帽氏は復《ふたた》び畠の傍《そば》から何か採《と》って来て、自分の不興を埋合《うめあわ》せるつもりでもあるように、それならこれはどうです、と差出してくれた。それを見ると東坡巾先生は悲しむように妙《みょう》に笑ったが、まず自ら手を出して喫べたから、自分も安心して味噌を着けて試みたが、歯切れの好いのみで、可も不可も無い。よく視《み》るとハコべの※[#「嫩の攵の代りに欠」、第4水準2-5-78]《わか》いのだったので、ア、コリャ助からない、※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]《とり》じゃあ有るまいし、と手に残したのを抛捨《なげす》てると、一同《みんな》がハハハと笑った。
 土耳古帽氏が真鍮刀を鼠股引氏に渡すと、氏は直《ただち》にそれを予《よ》に逓与《わた》して、わたしはこれは要《い》らない、と云いながら、見つけたものが有るのか、ちょっと歩きぬけて、百姓家《ひゃくしょうや》の背戸《せど》の雑樹籬《ぞうきがき》のところへ行った。籬には蔓草《つるぐさ》が埒無《らちな》く纏《まと》いついていて、それに黄色い花がたくさん咲きかけていた。その花や莟《つぼみ》をチョイチョイ摘取《つみと》って、ふところの紙の上に盛溢《もりこぼ》れるほど持って来た。サア、味噌までにも及びません、と仲直り気味にまず予に薦《すす》めてくれた。花は唇形《しんけい》で、少し佳い香《かおり》がある。食べると甘い、忍冬花《すいかずら》であった。これに機嫌《きげん》を直して、楽しく一杯酒を賞《しょう》した。
 氏はまた蒲公英《たんぽぽ》少しと、蕗《ふき》の晩《おく》れ出《で》の芽《め》とを採ってくれた。双方《そうほう》共に苦いが、蕗の芽は特《こと》に苦い。しかしいずれもごく少許《しょうきょ》を味噌と共に味わえば、酒客好《しゅかくごの》みのものであった。
 困ったのは自分が何か採ろうと思っても自分の眼《め》に何も入らなかったことであった。まさかオンバコやスギ菜を取って食わせる訳にもゆかず、せめてスカンポか茅花《つばな》でも無いかと思っても見当らず、茗荷《みょうが》ぐらいは有りそうなものと思ってもそれも無し、山椒《さんしょ》でも有ったら木《こ》の芽《め》だけでもよいがと、苦《くるし》みながら四方《あたり》を見廻《みまわ》しても何も無かった。八重桜が時々見える。あの花に味噌を着けたら食えぬことは有るまい、最後はそれだ、と腹の中で定《き》めながら、なお四辺を見て行くと、百姓家の小汚《こぎたな》い孤屋《こおく》の背戸に椎《しい》の樹《き》まじりに粟《くり》だか何だか三四本|生《は》えてる樹蔭《こかげ》に、黄色い四|弁《べん》の花の咲いている、毛の生えた茎《くき》から、薄い軟《やわ》らかげな裏の白い、桑のような形に裂《き》れこみの大きい葉の出ているものがあった。何というものか知らないが、菜の類《たぐい》の花を着けているからその類のものだろうと、別に食べる気でも食べさせる気でも無かったが、真鍮刀でその一茎を切って手にして一行のところへ戻《もど》って来ると、鼠股引は目敏《めざと》くも、それは何です、と問うた。何だか知らないのであるがそう尋《たず》ねられると、自分が食べてさえ見せればよいような気になって、答えもせずに口のほとりへ持って行った。途端《とたん》に恐ろしい敏捷《すばや》さで東坡巾先生は突《つ》と出て自分の手からそれを打落《うちおと》して、やや慌《あわ》て気味《ぎみ》で、飛んでもない、そんなものを口にして成るものですか、と叱《しっ》するがごとくに制止した。自分は呆《あき》れて驚《おどろ》いた。
 先生の言《げん》によると、それはタムシ草と云って、その葉や茎から出る汁《しる》を塗《ぬ》れば疥癬《ひぜん》の虫さえ死んでしまうという毒草だそうで、食べるどころのものでは無い危いものだということであって、自分も全く驚いてしまった。こんな長閑気《のんき》な仙人《せんにん》じみた閑遊《かんゆう》の間にも、危険は伏在《ふくざい》しているものかと、今更ながら呆れざるを得なかった。
 ペンペン草の返礼にあれを喫《た》べさせられては、と土耳舌帽氏も恐れ入った。人々は大笑いに笑い、自分も笑ったが、自分の慙入《はじい》った感情は、洒々落々《しゃしゃらくらく》たる人々の間の事とて、やがて水と流され風と払《はら》われて何の痕《あと》も留《とど》めなくなった。
 その日はなお種々《いろいろ》のものを喫《きっ》したが、今|詳《くわ》しく思出すことは出来ない。その後のある日にもまた自分が有毒のものを採って叱《しか》られたことを記憶《きおく》しているが、三十余年前のかの晩春の一日《いちじつ》は霞《かすみ》の奥《おく》の花のように楽しい面白かった情景として、春ごとの頭に浮んで来る。
                          (昭和三年五月)

底本:「ちくま日本文学全集 幸田露伴」筑摩書房
   1992(平成4)年3月20日第1刷発行
底本の親本:「現代日本文学全集4」筑摩書房
※底本の「小書き片仮名ト」(JIS X 0213、1-6-81)、「一ト口|呑《の》んだ」(底本401頁-4行)は、「ト」に置き換えました。
入力:林 幸雄
校正:門田裕志
2002年12月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

幸田露伴

夜の隅田川—— 幸田露伴

 夜の隅田川の事を話せと云ったって、別に珍らしいことはない、唯闇黒というばかりだ。しかし千住から吾妻橋、厩橋、両国から大橋、永代と下って行くと仮定すると、随分夜中に川へ出て漁猟《りょう》をして居る人が沢山ある。尤も冬などは沢山は出て居ない、然し冬でも鮒、鯉などは捕《と》れる魚だから、働いて居るものもたまにはある。それは皆んな夜縄を置いて朝早く捕るのである。此の夜縄をやるのは矢張り東京のものもやるが、世帯船《しょたいぶね》というやつで、生活の道具を一切備えている、底の扁《ひら》たい、後先もない様な、見苦しい小船に乗って居る余所《よそ》の国のものがやるのが多い。川続きであるから多く利根の方から隅田川へ入り込んで来る、意外に遠い北や東の国のものである。春から秋へかけては総ての漁猟の季節であるから、猶更左様いう東京からは東北の地方のものが来て働いて居る。
 又其の上に海の方――羽田《はねだ》あたりからも隅田川へ入り込んで来て、鰻を捕って居るやつもある。羽田などの漁夫《りょうし》が東京の川へ来て居るというと、一寸聞くと合点がいかぬ人があるかも知れないが、それは実際の事で、船を見れば羽根田の方のは※[#「舟+首」、第4水準2-85-77]《みよし》の方が高くなって居るから一目で知れる。全体漁夫という者は、自分の漁場を大切にするから、他所へ出て利益があるという場合にはドシドシ他所へ出て往って漁をする。それは是非共漁の総ての関係からして、左様いうように仕なければ漁場が荒れて仕舞うので、年のいかないものや、働きの弱い年寄などは蹈切って他所へ出ることが出来ないから、自分の方の漁場だけで働いて居るが、腕骨の強い奴は何時でも他所へ出漁する。そういうわけで羽根田の漁夫も隅田川へ入り込んで来て捕って居るのだ。それも昼間は通船も多いし、漁も利かぬから夜縄で捕るのである。此等の船は隅田川へ入って来て、適宜の場所へ夜泊して仕事をして居る。斯ういうように遠くから出掛けて来るということは誠に結構なことで、これが益々盛になれば自然日本の漁夫も遠洋漁業などということになるので、詰り強い奴は遠洋へ出掛けてゆく、弱い奴は地方《ぢかた》近くに働いて居るという訳になるのだろう。
 縄の他に※[#「竹かんむり/奴」、第4水準2-83-37]《ど》を以って魚を捕ってるものもある。縄というのは長い縄へ短い糸の著いた鉤《はり》が著いたもので、此鉤というのは「ヒョットコ鉤」といって、絵に書いたヒョットコの口のようにオツに曲って居る鉤です。此鉤に種々の餌《えさ》を付けて置くので、其餌には蚯蚓や沙蚕《ごかい》も用いる、芋なども用いるが、其他に「ゴソッカイ」だの「エージンボー」だのという、陸《おか》にばかり居る人は名も知らないようなものがある。
 それから又釣をして居る人もある。季節にもよるが、鰻を釣るので「珠数子釣《じゅずごづ》り」というをやらかして居る。これは娯楽にやる人もあり、営業にやる人もある。珠数子釣りは鉤は無くて、餌を綰《わが》ねて輪を作る、それを鰻が呑み込んだのを※[#「てへん+黨」、第3水準1-85-7]網《たま》で掬って捕るという仕方なのだ。面白くないということはないが、さりながら娯楽の目的には、ちと叶わないようなものである。同理別法で櫂釣《かいづり》というのを仕て居る人もある、此の方が多く獲れる。鉤を用いて鰻の夜釣をして居る人もある。時節によって鱸を釣ろうというので、夕方から船宿で船を借りて、夜釣をして居る人がある。その方法は全く娯楽の目的で、従って無論多く捕れるという訳にはゆかぬ。
 大きな四ッ手網を枝川の口々へかけているものも可なり有る。これには商売人の方が九分であろう。雨の後などは随分やっているものだ。また春の未明には白魚すくいをやるものがある。これには商売人も素人もある。
 マア、夜間通船の目的でなくて隅田川へ出て働いて居るのは大抵こんなもので、勿論種々の船は潮《しお》の加減で絶えず往来《ゆきき》して居る。船の運動は人の力ばかりでやるよりは、汐の力を利用した方が可い、だから夜分も随分船のゆききはある。筏などは昼に比較して却って夜の方が流すに便りが可いから、これも随分下りて来る。往復の船は舷灯の青色と赤色との位置で、往来《ゆきき》が互に判るようにして漕いで居る。あかりをつけずに無法にやって来るものもないではない。俗にそれを「シンネコ」というが、実にシンネコでもって大きな船がニョッと横合から顔をつん出して来るやつには弱る、危険千万だ。併し如何に素人でも夜中に船を浮べているようなものは、多少自分から頼むところがあるものが多いので、大した過失《あやまち》もなくて済み勝である。
 人によると、隅田川も夜は淋しいだろうと云うが決してそうでない。陸の八百八街は夜中過ぎればそれこそ大層淋しいが、大川は通船の道路にもなって居る。漁士も出て居る、また闇の夜でも水の上は明るくて陽気なものであるから川は思ったよりも賑やかなものだ。新聞を見ても知れることで、身を投げても死損ねる、……却って助かる人の方が多い位に都の川というものは夜でも賑やかなものだ。尤も中川となると夜は淋しい、利根は猶お更のことだ。
 大川も吾妻橋の上流《かみ》は、春の夜なぞは実によろしい。しかし花があり月があっても、夜景を称する遊船などは無いではないが余り多くない。屋根船屋形船は宵の中のもので、しかも左様いう船でも仕立てようという人は春でも秋でも花でも月でもかまうことは無い、酒だ妓《おんな》だ花牌《はな》だ※[#「虍/丘」、第3水準1-91-45]栄《みえ》だと魂を使われて居る手合が多いのだから、大川の夜景などを賞しそうにも無い訳だ。まして川霧の下を筏の火が淡く燃えながら行く夜明方の空に、杜鵑が満川の詩思を叫んで去るという清絶爽絶の趣を賞することをやだ。

底本:「露伴全集 第29巻」岩波書店
   1954(昭和29)年12月4日第1刷発行
初出:「文藝界 夜の東京號」
   1902(明治35)年9月
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
「※[#二の字点、1-2-22]」は、「々」に書き替えました。
入力:地田尚
校正:富田倫生
2005年1月18日作成
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幸田露伴

名工出世譚—— 幸田露伴

   一

 時は明治四年、処は日本の中央、出船入船賑やかな大阪は高津のほとりに、釜貞と云へば土地で唯一軒の鉄瓶の仕上師として知られた家であつた。主人は京都の浄雪の門から出た昔気質の職人肌、頑固の看板と人から笑はれてゐた丁髷《ちよんまげ》を切りもやらぬ心掛が自然その技《わざ》の上にあらはれて、豪放無類の作りが名を得て、関東関西の取引の元締たる久宝寺町の井筒屋、浪花橋の釘吉《くぎよし》、松喜《まつき》、金弥などと云ふ名高い問屋筋の信用も厚く、註文引きも切らずと云つた状態であつた。九夏三伏の暑熱にも怯《め》げず土佐炭|紅※[#二の字点、1-2-22]《あか/\》と起して、今年十六の伜の長次と職人一人を相手として他念なく働いたお庇《かげ》で、生計も先づ裕《ゆた》かに折※[#二の字点、1-2-22]は魚屋の御用聞きなどを呼入れて、世話女房の酌で一杯やるといつた無事な日常《くらし》、世人も羨む位であつた。
 が、儘ならぬは浮世の常、この忠実な鉄瓶職人の家庭に思はぬ運命の暗影が射し始めた。それは、京都に名高い龍文堂といふ鉄瓶屋が時勢の変遷、世人の嗜好に敏なるところから在来の無地荒作りの鉄瓶に工夫を凝らして、華奢な仕上、唐草模様や、奇怪な岩組などといつた、型さま/″\の新品を製鋳して評判をとつたのが抑※[#二の字点、1-2-22]の初め、追ひ/\同職の誰彼もがそれを真似して益※[#二の字点、1-2-22]珍奇を競ひ立つたので、正直一|途《づ》、唯手堅い一方の釜貞は、時流に悠然として己が職分を守つてゐたが、水清ければ魚棲まず、孤高を衒《てら》ふ釜貞への註文は日に尠くなつてゆく所へ持つて来て、同じ土地の新八、太七と云ふ職人が考案した七彩浮ぶかと想はるゝやうな新鋳品が「虹蓋《にじぶた》」と名づけられて世間の評判を博するに至つたので、今迄釜貞の上顧客《じやうとくい》であつた数軒の問屋筋も商売大事さから一人減り二人減りして、何時しか釜貞の土間には炭火もとかく湿り勝ちで、結局仕事が無ければ貯蓄《たくはへ》のない職人のこととて米櫃の中も空であるのが多いやうな仕儀となつた。
 居喰《ゐぐひ》売喰《うりぐひ》の心細い生活がやがて窮迫を告げるに至つた。釜貞は無念の歯噛みと共に今は已むなく、我から問屋に足を運んで、せめて一つの仕事にでもといふのであつたが、彼の虹蓋さへ作つて呉れるなら二十が三十の仕事でも頼むとの口上に、頑固一徹の彼は火の如き憤怒と共に座を蹴つて帰宅した。

    二

 斯うして何の才覚もなくして我家へ帰る途中、釜貞の心中には時世へ対する呪詛に満ちてゐた。が、明日の糧《かて》にも気心を配る女房の顔を見れば、釜貞も人間、只暗澹として首を俯する他はなかつた。
 ふと土間を見ると、鎚を持つて何やら打つてゐた伜の長次が、親の憂を身に引取つたやうな眼付で、
「父さん、矢張り虹蓋の註文で腹をお立てになつて帰つたんですか!」
と尋ねるではないか。
「ウム、その通りだ。だが長次、お前も十七、虹蓋つくる奴等が手筋も大方知つてゐようが、世の中は千人寄つても盲ばかりの素人たち、見かけ倒しの品物でも異《ちが》つたものを嬉しがる馬鹿さ加減つたらねえ!」
 すると長次は、親の心子知らず、只目下の窮状を見るにつけて、父親の徒らなる憤慨に異見を挟みたくなつた。
「でも父さん、何も商売、お客様の喜ぶのが虹蓋なら、長年の経験で父さんにもその製法は判つてゐやうに、ひとつお気を入れ替へてそれを作つて問屋を奪《と》り返しては如何です。今日も御留守に米屋の親父《おやぢ》が来て蓄《たま》つた米代の催促をするやら、それに炭屋や質屋の……」
 云はせも果てず父親は、
「馬鹿! 手前《てめへ》までがそんな腐つた了簡で、歿《な》くなられた浄雪師匠に済まぬとは思はぬか。軽薄な細工物は云はば廃《すた》り易い流行物《はやりもの》、一流の操《みさを》を立てゝ己《おのれ》の分を守るのが名人気質だと云ふのが分らぬか、この不了簡者。米屋がどうの、炭屋がどうの――仮令《たとへ》餓ゑ死しようと、今更虹蓋つくるやうな卑劣《けち》な了簡を持つてたまるものか!」
と大喝するのを、蔭で女房は夫の日頃の気性を知つてゐるだけに只黙※[#二の字点、1-2-22]と涙を拭ふばかりである。
 かうして、背戸に泣く虫の音もいたく衰へた秋の夜長、親子三人枕を並べはしたが、思ひ/\の悲愁に満ちた不眠の幾夜、分けても釜貞にとつては辛い苦しい悪夢の夜が続くのであつた。

    

 貧すれば鈍するとか、分別も智慧もありながら、頑固な気性がつひした借金の負目《おひめ》となつて、釜貞は、一月二月と経つうちに、破れ障子破れ衾《ぶすま》の夜寒に思案もなく、有る程のものを悉く売り尽して露の命を細※[#二の字点、1-2-22]と繋いでゐたが、山と重なる諸方の支払も云訳《いひわけ》ばかりでは済まなくなつたので、万一にも此処ばかりは頼るまいと念じてゐた京都の親類を尋ねるため、川蒸気に乗つて出立した。
 久※[#二の字点、1-2-22]の訪問に手土産一つも調《ととの》ひかねて、きまり悪さに胸を掻きむしられる思ひで、霜の朝をその親類へと辿り着いた。と、何とはなく変つた家内の様子、奥の間より洩れて来る線香の香などにハッと驚きながらに通されると、未だ通知も届かぬ刻限なのにようこそ来た、実は母が八十の高齢で遂に昨日死んだとの悼《くや》み言《ごと》、釜貞は仏前へ差出す一物もなく、まして非常の際に無心に来たとも言はれもせず、茫然自失の体《てい》であつた。

    

 一方、釜貞の家では、倅の長次は朝起きると共に父親の居らぬを怪しみ母に仔細を問へば、斯※[#二の字点、1-2-22]《かく/\》の次第と涙の繰言《くりごと》に歯を喰ひしばつて口惜《くや》しがつたが、これもみな、新八、太七の類が為せし業《わざ》、ようし、斯うなつたら幼しと雖も我も釜貞の倅だ、虹蓋位の手口が判らずに措《お》くものかと、それから凡《あら》ゆる智慧と経験に照らして土間に転《ころが》つてゐた地金の屑をかき集め、灼《や》き、打ち、又焼き又叩き、虹蓋の秘伝を自ら編み出さうと夜の目も寝ずに苦心に苦心を重ねたが、どう工夫し、どう溶《と》かし合せても、似よりのものさへ出来ず、憔悴せんばかりに幾日を送るのであつた。
 釜貞は他《ひと》の不幸に際会して目的の無心も云へず、といふて明日の命を繋ぐ糧さへ無い我家を想ふと矢も楯もあらず、男を枉《ま》げ心を殺して幾許《いくばく》かの金を才覚して、大阪の家へ細※[#二の字点、1-2-22]と認めた手紙に添へて送つてやり、自分は他の職を見つけるべく尚京都の縁者の許に身を置くのであつた。
 長次はやがて思案の末、新八、太七の買《かひ》つけの薬舗《くすりや》に行つて薬を調べたりして腐心するのであつたが、一向その秘法も埒明かず、果ては病人のやうに幼な心を痛めるのを、母親はとかくに慰め訓へて無駄な労力を止めようとするのであつた。
 しかし長次も親譲りの負けぬ気性、湯加減を偸《ぬす》んで名刀の名を馳せし刀鍛治左文字の故事を学ぶの最後の智慧を以て、或日は薄暮、或日は暁暗、亦時として通りすがりの様を装《よそほ》つて、新八、太七の工場の前を窺つては中の様子にそれとなく注意を払ふのであつたが、却※[#二の字点、1-2-22]《なか/\》にその効もなく、そのまゝ日数を経て行つた。

    五

 一日《あるひ》、雪降り凜※[#二の字点、1-2-22]たる寒気の中を例の如く太七の家の前を通るうち、プッツと切れた下駄の鼻緒に転ぶ途端、無作法に笑ひこける太七の家の職人共に、何が可笑しいと詰り寄るうち、ふと一人の職人が細工場の戸を開けて外を窺つた。その瞬間であつた。一種の異臭の幽《かす》かに浮び出るを敏《さと》くも感覚した長次は、身体の痛みも口惜しさも忘れ、跣足《はだし》のまゝに我家へ一散走り、
「母さん、判りました、判りました。漸く虹蓋の秘法が判りました。鉄漿《おはぐろ》です、あ、あの苦い鉄漿だつたのです」
と、雪まぶれ泥まぶれの体を畳に擦りつけて、語気も乱れて埒なく云へば、母親は呆れて我子の顔を仰ぐの他なかつた。
 元来金属の細工には色を出すのに必ず鉄漿を用ゐるもので、釜の仕上師ならば何処の家にでもそれ/″\貯蓄があつて、殊に古いものを珍重するため、弟子は独立するときその師匠から幾許《いくら》か頒つて貰ひ、それをまた己が弟子に頒ち伝へるのが例で、中には百年余りの鉄漿を有つてゐる者さへある程で、もとより釜貞の家にも家伝の鉄漿がないではなかつたが、たゞそのありふれた鉄漿などが虹蓋の色だしに用ゐるものだとは、不幸年少の長次には考へ及ばなかつたのである。
 が、さて長次は、一度太七の家で嗅いだ鉄漿の臭にヒントを得て忽ちに利発の性は虹蓋の秘法を自知し、それからと云ふもの一心不乱、鍛へに鍛へた苦心の虹蓋は今迄の同職より一層鮮かな色を湛へたので、奪はれた顧客も難なく旧に復したのみか、家運頓に挙り、日に隆昌を追ふて、後には父親を迎へて目出度く家庭の和楽を悦び合ふ身となつた。

 この幼年の長次こそ、誰あらう今尚宮城前に威風颯爽たる馬上の勇姿を止める彼の楠公の銅像を鋳造した岡崎雪声氏ではあつた。

底本:「日本の名随筆39 藝」作品社
   1986(昭和61)年1月25日第1刷発行
   1991(平成3)年9月1日第8刷発行
底本の親本:「露伴全集 第三十巻」岩波書店
   1954(昭和29)年7月初版発行
入力:渡邉 つよし
校正:門田 裕志
2001年9月12日公開
2005年6月24日修正
青空文庫作成ファイル:
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幸田露伴

魔法修行者—— 幸田露伴

魔法。
 魔法とは、まあ何という笑《わら》わしい言葉であろう。
 しかし如何《いか》なる国の何時《いつ》の代にも、魔法というようなことは人の心の中に存在した。そしてあるいは今でも存在しているかも知れない。
 埃及《エジプト》、印度《いんど》、支那《しな》、阿剌比亜《アラビア》、波斯《ペルシャ》、皆魔法の問屋《といや》たる国※[#二の字点、1-2-22]だ。
 真面目に魔法を取扱って見たらば如何《いかが》であろう。それは人類学で取扱うべき箇条が多かろう。また宗教の一部分として取扱うべき廉《かど》も多いであろう。伝説研究の中《うち》に入れて取扱うべきものも多いだろう。文芸製作として、心理現象として、その他種※[#二の字点、1-2-22]の意味からして取扱うべきことも多いだろう。化学、天文学、医学、数学なども、その歴史の初頭においては魔法と関係を有しているといって宜しかろう。
 従って魔法を分類したならば、哲学くさい幽玄高遠なものから、手づまのような卑小|浅陋《せんろう》なものまで、何程《なにほど》の種類と段階とがあるか知れない。
 で、世界の魔法について語ったら、一《ひと》月や二《ふた》月で尽きるわけのものではない。例えば魔法の中で最も小さな一部の厭勝《まじない》の術の中の、そのまた小さな一部のマジックスクェアーの如きは、まことに言うに足らぬものである。それでさえ支那でも他の邦《くに》でも、それに病災を禳《はら》い除く力があると信じたり、あるいはまたこれを演繹して未来を知ることを得るとしたりしている。洛書《らくしょ》というものは最も簡単なマジックスクェアーである。それが聖典たる易《えき》に関している。九宮方位《きゅうきゅうほうい》の談《だん》、八門遁甲《はちもんとんこう》の説、三命《さんめい》の占《うらない》、九星《きゅうせい》の卜《ぼく》、皆それに続いている。それだけの談《はなし》さえもなかなか尽きるものではない。一より九に至るの数を九格正方内《きゅうかくせいほうない》に一つずつ置いて、縦線《じゅうせん》、横線《おうせん》、対角線、どう数えても十五になる。一より十六を正方格内に置いて縦線、横線、対角線、各隅《かくぐう》、随処四方角、皆三十四になる。二十五格内に同様に一より二十五までを置いて、六十五になる。三十六格内に三十六までの数を置いて、百十一になる。それ以上いくらでも出来ることである。が、その法を知らないで列《なら》べたのでは、一日かかっても少し多い根数《こんすう》になれば出来ない。古代の人が驚異したのに無理はないが、今日はバッチェット方法、ポイグナード方法、その他の方法を知れば、随分大きな魔方陣でも列べ得ること容易である。しかし魔方陣のことを談《かた》るだけでも、支那印度の古《いにしえ》より、その歴史その影響、今日の数学的解釈及び方法までを談れば、一巻の書を成しても足らぬであろう。極※[#二の字点、1-2-22]《ごくごく》小さな部分の中の小部分でもその通りだ。そういう訳だから、魔法の談《はなし》などといっても際限のないことである。
 我邦《わがくに》での魔法の歴史を一瞥して見よう。先ず上古において厭勝《まじない》の術があった。この「まじなう」という「まじ」という語は、世界において分布区域の甚《はなは》だ広い語で、我国においてもラテンやゼンドと連なっているのがおもしろい。禁厭《きんえん》をまじないやむると訓《よ》んでいるのは古いことだ。神代《じんだい》から存したのである。しかし神代のは、悪いこと兇なることを圧し禁《と》むるのであった。奈良朝になると、髪の毛を穢《きたな》い佐保川《さほがわ》の髑髏《どくろ》に入れて、「まじもの」せる不逞《ふてい》の者などあった。これは咒詛調伏《じゅそちょうぶく》で、厭魅《えんみ》である、悪い意味のものだ。当時既にそういう方術があったらしく、そういうことをする者もあったらしい。
 神おろし、神がかりの類は、これもけだし上古からあったろう。人皇《にんのう》十五、六代の頃に明らかに見える。が、紀記ともに其処《そこ》は仮託が多いと思われる。かみなびの神より板《いた》にする杉のおもひも過《すぎ》ず恋のしげきに、という万葉巻九の歌によっても知られるが、後にも「琴の板」というものが杉で造られてあって、神教《しんきょう》をこれによりて受けるべくしたものである。これらは魔法というべきではなく、神教を精誠《せいせい》によって仰ぐのであるから、魔法としては論ぜざるべきことである。仏教|巫徒《ふと》の「よりまし」「よりき」の事と少し似てはいるであろう。
 仏教が渡来するに及んで咒詛《じゅそ》の事など起ったろうが、仏教ぎらいの守屋《もりや》も「さま/″\のまじわざものをしき」と水鏡《みずかがみ》にはあるから、相手が外国流で己《おのれ》を衛《まも》り人を攻むれば、こちらも自国流の咒詛をしたのかも知れぬ。しかし水鏡は信憑すべき書ではない。
 役《えん》の小角《しょうかく》が出るに及んで、大分魔法使いらしい魔法使いが出て来たわけになる。葛城《かつらぎ》の神を駆使したり、前鬼《ぜんき》後鬼《ごき》を従えたり、伊豆の大島から富士へ飛んだり、末には母を銕鉢《てつばち》へ入れて外国へ行ったなどということであるが、余りあてになろう訳もない。小角は孔雀明王咒《くじゃくみょうおうじゅ》を持してそういうようになったというが、なるほど孔雀明王などのような豪気なものを祈って修法成就したら神変奇特も出来る訳か知らぬけれど、小角の時はまだ孔雀明王についての何もが唐《とう》で出ていなかったように思われる。ちょっと調べてもらいたい。
 白山《はくさん》の泰澄《たいちょう》や臥行者《がぎょうしゃ》も立派な魔法使らしい。海上の船から山中の庵《いおり》へ米苞《こめづと》が連続して空中を飛んで行ってしまったり、紫宸殿《ししいでん》を御手製《おてせい》地震でゆらゆらとさせて月卿雲客《げっけいうんかく》を驚かしたりなんどしたというのは活動写真映画として実に面白いが、元亨釈書《げんこうしゃくしょ》などに出て来る景気の好い訳《わけ》は、大衆文芸ではない大衆宗教で、ハハア、面白いと聞いて置くに適している。
 久米《くめ》の仙人に至って、映画もニコニコものを出すに至った。仙人は建築が上手で、弘法大師《こうぼうたいし》なども初《はじめ》は久米様のいた寺で勉強した位である、なかなかの魔法使いだったから、雲ぐらいには乗ったろうが、洗濯女の方が魔法が一段上だったので、負けて落第生となったなどは、愛嬌と涎《よだれ》と一緒に滴《したた》るばかりで実に好人物だ。
 奈良朝から平安朝、平安朝と来ては実に外美内醜の世であったから、魔法くさいことの行われるには最も適した時代であった。源氏物語は如何にまじないが一般的であったかを語っており、法力《ほうりき》が尊いものであるかを語っている。この時代の人※[#二の字点、1-2-22]は大概現世祈祷を事とする堕落僧の言を無批判に頂戴し、将門《まさかど》が乱を起しても護摩《ごま》を焚《た》いて祈り伏せるつもりでいた位であるし、感情の絃《いと》は蜘蛛《くも》の糸ほどに細くなっていたので、あらゆる妄信にへばりついて、そして虚礼と文飾と淫乱とに辛《から》くも活きていたのである。生霊《いきりょう》、死霊《しりょう》、のろい、陰陽師《おんようし》の術、巫覡《ふげき》の言、方位、祈祷、物の怪《け》、転生、邪魅《じゃみ》、因果、怪異、動物の超常力、何でも彼《か》でも低頭《ていとう》してこれを信じ、これを畏れ、あるいはこれに頼り、あるいはこれを利用していたのである。源氏以外の文学及びまた更に下っての今昔《こんじゃく》、宇治《うじ》、著聞集《ちょもんじゅう》等の雑書に就いて窺《うかが》ったら、如何にこの時代が、魔法ではなくとも少くとも魔法くさいことを信受していたかが知られる。今|一※[#二の字点、1-2-22]《いちいち》例を挙げていることも出来ないが、大概日本人の妄信はこの時代に※[#「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88]醸《うんじょう》し出されて近時にまで及んでいるのである。
 大体の談《はなし》は先ずこれまでにして置く。
 我国で魔法の類の称《しょう》を挙げて見よう。先ず魔法、それから妖術、幻術、げほう、狐つかい、飯綱《いづな》の法、荼吉尼《だきに》の法、忍術、合気《あいき》の術、キリシタンバテレンの法、口寄せ、識神《しきじん》をつかう。大概はこれらである。
 これらの中《うち》、キリシタンの法は、少しは奇異を見せたものかも知らぬが、今からいえば理解の及ばぬことに対する怖畏《ふい》よりの誇張であったろう。識神を使ったというのは阿倍晴明《あべせいめい》きりの談になっている。口寄せ、梓神子《あずさみこ》は古い我邦の神おろしの術が仏教の輪廻《りんね》説と混じて変形したものらしい。これは明治まで存し、今でも辺鄙《へんぴ》には密《ひそか》に存するかも知れぬが、営業的なものである。但しこれには「げほう」が連絡している。忍術というのは明治になっては魔法妖術という意味に用いられたが、これは戦乱の世に敵状を知るべく潜入密偵するの術で、少しは印《いん》を結び咒《じゅ》を持する真言宗様《しんごんしゅうよう》の事をも用いたにもせよ、兵家《へいか》の事であるのがその本来である。合気の術は剣客武芸者等の我が神威を以て敵の意気を摧《くじ》くので、鍛錬した我が気の冴《さえ》を微妙の機によって敵に徹するのである。正木《まさき》の気合《きあい》の談《はなし》を考えて、それが如何なるものかを猜《さい》することが出来る。魔法の類ではない。妖術幻術というはただ字面《じめん》の通りである。しかし支那流の妖術幻術、印度流の幻師の法を伝えた痕跡はむしろ少い。小角《しょうかく》や浄蔵《じょうぞう》などの奇蹟は妖術幻術の中には算《さん》していないで、神通道力というように取扱い来っている。小角は道士羽客《どうしうかく》の流にも大日本史などでは扱われているが、小角の事はすべて小角死して二百年ばかりになって聖宝《しょうぼう》が出た頃からいろいろ取囃《とりはや》されたもので、その間に二百年の空隙があるから、聖宝の偉大なことやその道としたところはおよそ認められるが、小角が如何なるものであったかは伝説化したるその人において認めるほかはないのである。聖宝は密教の人である。小角は道家ではない。勿論道家と仏家は互に相奪っているから、支那において既に混淆しており、従って日本においても修験道の所為《しょい》など道家くさいこともあり、仏家が「九字」をきるなど、道家の咒《じゅ》を用いたり、符※[#「竹かんむり/(金+碌のつくり)」、第3水準1-89-79]《ふろく》の類を用いたりしている。神仏混淆は日本で起り、道仏混淆は支那で起り、仏法|婆羅門《ばらもん》混淆は印度で起っている。何も不思議はない。ただここでは我邦でいう所の妖術幻術は別に支那印度などから伝えた一系統があるのではなくて、字面だけの事だというのである。
 さて「げほう」というのになる。これは眩法《げんほう》か、幻法か、外法《げほう》か、不明であるが、何にせよ「げほう」という語は中古以来行われて、今に存している。増鏡《ますかがみ》巻五に、太政大臣|藤原公相《ふじわらきみすけ》の頭が大きくて大でこで、げほう好みだったので、「げはふとかやまつるにかゝる生頭《なまこうべ》のいることにて、某《それがし》のひじりとかや、東山のほとりなりける人取りてけるとて、後《のち》に沙汰がましく聞えき」という事があって、まだしゃれ頭にならない生頭を取られたというのである。して見ればこの人の薨去《こうきょ》は文永四年で北条|時宗《ときむね》執権の頃であるから、その時分「げほう」と称する者があって、げほうといえば直《ただち》に世人がどういうものだと解することが出来るほど一般に知られていたのである。内典《ないてん》外典《げてん》というが如く、げほうは外法《げほう》で、外道《げどう》というが如く仏法でない法の義であろうか。何にせよ大変なことで、外法は魔法たること分明だ。その後になっても外法頭《げほうあたま》という語はあって、福禄寿《ふくろくじゅ》のような頭を、今でも多分京阪地方では外法頭というだろう、東京にも明治頃までは、下駄の形の称に外法というのがあった。竹斎《ちくさい》だか何だったか徳川初期の草子《そうし》にも外法あたまというはあり、「外法の下り坂」という奇抜な諺《ことわざ》もあるが、福禄寿のような頭では下り坂は妙に早かろう。
 流布本太平記巻三十六、細川|相模守清氏《さがみのかみきようじ》叛逆の事を記した段に、「外法成就の志一上人《しいつしょうにん》鎌倉より上《のぼ》つて」云※[#二の字点、1-2-22]とある。神田本同書には、「此《この》志一上人はもとより邪天道法成就の人なる上、近頃鎌倉にて諸人|奇特《きとく》の思《おもい》をなし、帰依《きえ》浅からざる上、畠山入道《はたけやまにゅうどう》諸事深く信仰|頼入《たのみい》りて、関東にても不思議ども現じける人なり」とある。清氏はこの志一を頼んで、※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼天《だぎにてん》に足利義詮《あしかがよしあきら》を祈殺《いのりころ》そうとの願状《がんじょう》を奉ったのである。さすれば「邪天道法成就」というのは、※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼天を祈る道法成就ということで、志一という僧はその法で「ふしぎども現じける」ものである。これで当時外法と呼んだものは※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼天法であることが知れる。けだし外法は平安朝頃から出て来たらしい。
 狐つかいは同じく※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼法であるか知れぬ。しかし狐を霊物とするのは支那にもあったことで、禹《う》が九尾《きゅうび》の狐を娶《めと》ったなどという馬鹿気たことも随分古くから語られたことであろうし、周易《しゅうえき》にも狐はまんざら凡獣でもないように扱われており、後には狐王廟《こおうびょう》なども所※[#二の字点、1-2-22]《ところどころ》にあり、狐媚狐惑《こびこわく》の談《だん》は雑書小説に煩らわしいほど見える。印度でも狐は仏典に多く見え、野干《ヤッカル》(狐とは少し異《ちが》おう)は何時《いつ》も狡智あるものとなっている。※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼天も狐に乗っているので、孔雀明王が孔雀の明王化、金翅鳥《きんしちょう》明王が金翅鳥の明王化である如く、※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼天も狐の天化であろう。我邦では狐は何でもなかったが、それでも景戒《けいかい》の霊異記《れいいき》などには、もはや霊異のものとされていたことが跡づけられる。狐は稲荷《いなり》の使わしめとなっているが、「使わしめ」というものはすべて初《はじめ》は「聯想《れんそう》」から生じた優美な感情の寓奇《ぐうき》であって、鳩は八幡《はちまん》の「はた」から、鹿は春日《かすが》の第一殿|鹿島《かしま》の神の神幸《みゆき》の時乗り玉《たま》いし「鹿」から、烏《からす》は熊野《くまの》に八咫烏《やたがらす》の縁で、猿は日吉山王《ひよしさんのう》の月行事の社《やしろ》猿田彦大神《さるだひこおおかみ》の「猿」の縁であるが如しと前人も説いているが、稲荷に狐は何の縁もない。ただ稲荷は保食神《うけもちのかみ》の腹中に稲生《いねな》りしよりの「いなり」で、御饌津神《みけつかみ》であるその御饌津より「けつね」即ち狐が持出されたまでで、大黒《だいこく》様(太名牟遅神《おおなむちのかみ》)に鼠よりも縁は遠い話である。けれども早くから稲荷に狐は神使《かみつかい》となっている。といってお稲荷様が狐つかいに関係のあろうようはないから、やはりこれは狐に乗っている※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼天の方から出たことで、※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼の法をつかう者即ち狐つかいである。※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼は保食神どころではない、本来|餓鬼《がき》のようなもので、死人の心を※[#「口+敢」、第3水準1-15-19]食《かんしょく》したがっている者なのであるが、他の大鬼神に敵《かな》わないので、六ヶ月前に人の死を知り、先取権を確立するものであり、なかなか御稲荷様のような福※[#二の字点、1-2-22]《ふくふく》しいものではないのである。※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼はまた阿修羅波子《アシュラバス》とも呼ばれて、その義は「飲血者」である。狐つかいの狐は人に禍《わざわい》や死を与える者とされている。して見れば※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼の狐で、お稲荷様の狐ではないはずである。大江匡房《おおえのまさふさ》が記している狐の大饗《だいきょう》の事は堀河天皇の康和三年である。牛骨などを饗《きょう》するのであったから、その頃から※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼の狐ということが人の思想にあったのではないかと思われるが、これは真の想像である。明らかに狐を使った者は、応永二十七年九月足利将軍|義持《よしもち》の医師の高天《こうてん》という者父子三人、将軍に狐を付けたこと露顕して、同十月|讃岐国《さぬきのくに》に流されたのが、年代記にまで出ている。やはり※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼法であったろうことは思遣《おもいや》られるが、他の者に祈られて狐が二匹室町御所から飛出《とびだ》したなどというところを見ると、将軍長病で治らなかった余りに、人に狐を憑《つ》けるなどという事が一般に信ぜられていたに乗じて、他の者から仕組まれて被《き》せられた冤罪《えんざい》だったかも知れない。が、何にしろ足利時代には一般にそういう魔法外法邪道の存することが認められていたに疑《うたがい》ない。世が余りに狐を大したものに思うところから、釣狐《つりぎつね》のような面白い狂言が出るに至った、とこういうように観察すると、釣狐も甚だ面白い。
 飯綱《いづな》の法というといよいよ魔法の本統大系《ほんとうだいけい》のように人に思われている。飯綱は元来山の名で、信州の北部、長野の北方、戸隠山《とがくしやま》につづいている相当の高山である。この山には古代の微生物の残骸が土のようになって、戸隠山へ寄った方に存する処《ところ》がある。天狗の麦飯《むぎめし》だの、餓鬼の麦飯だのといって、この山のみではない諸処にある。浅間山観測所附近にもある。北海道にもある、支那にもあるから太平広記《たいへいこうき》に出ている。これは元来が動物質だから食えるものである。で、飯綱は仮名ちがいの擬字《ぎじ》で、これがあるからの飯沙山《いいすなやま》である。そういうちょっと異なものがあったから、古く保食神即ち稲荷なども勧請《かんじょう》してあったかも知れぬ。ところが荼吉尼法は著聞集に、知定院殿《ちていいんでん》が大権坊《だいごんぼう》という奇験の僧によりて修したところ、夢中に狐の生尾《せいび》を得たり、なんどとある通り、古くから行われていたし、稲荷と荼吉尼は狐によって混雑してしまっていた。文徳実録《もんとくじつろく》に見える席田郡《むしろだごおり》の妖巫《ようふ》の、その霊|転行《てんこう》して心を※[#「口+敢」、第3水準1-15-19]《くら》い、一種|滋蔓《じまん》して、民《たみ》毒害を被る、というのも※[#「口+敢」、第3水準1-15-19]心の二字が※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼法の如く思えるところから考えると、なかなか古いもので、今昔物語に外術《げじゅつ》とあるものもやはり外法と同じく※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼法らしいから、随分と索隠行怪《さくいんこうかい》の徒には輾転《てんてん》伝受されていたのだろうと思われる。伝説に依ると、水内郡《みのちごおり》荻原《おぎわら》に、伊藤|豊前守忠縄《ぶぜんのかみただつな》というものがあって、後堀河天皇の天福元年(四条天皇の元年で、北条|泰時《やすとき》執権の時)にこの山へ上って穀食を絶ち、何の神か不明だがその神意を受けて祈願を凝《こ》らしたとある。穀食を絶っても食える土があったから辛防《しんぼう》出来たろう。それから遂に大自在力を得て、凡《およ》そ二百年余も生きた後、応永七年足利義持の時に死したということだ。これが飯綱の法のはじまりで、それからその子|盛縄《もりつな》も同じく法を得て奇験を現わし、飯綱の千日家《せんにちけ》というものは、この父子より成立ち、飯綱権現の別当ともいうべきものになったのであり、徳川初期には百石の御朱印を受けていたものである。
 今は飯綱《いいづな》神社で、式内《しきない》の水内郡《みのちぐん》の皇足穂命《すめたりほのみこと》神社である。昔は飯綱《いづな》大明神、または飯綱権現と称し、先ず密教修験的の霊区であった。他からは多くは※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼天を祭るとせられたが、山では勝軍地蔵《しょうぐんじぞう》を本宮とするとしていた。勝軍地蔵は日本製の地蔵で、身に甲冑を着け、軍馬に跨《またが》って、そして錫杖《しゃくじょう》と宝珠《ほうじゅ》とを持ち、後光輪《ごこうりん》を戴いているものである。如何にも日本武士的、鎌倉もしくは足利期的の仏であるが、地蔵十輪経《じぞうじゅうりんきょう》に、この菩薩はあるいは阿索洛《アシュラ》身を現わすとあるから、甲《かぶと》を被《こうむ》り馬に乗って、甘くない顔をしていられても不思議はないのである。山城《やましろ》の愛宕《あたご》権現も勝軍地蔵を奉じたところで、それにつづいて太郎坊大天狗などという恐ろしい者で名高い。勝軍地蔵はいつでも武運を守り、福徳を授けて下さるという信仰の対的《たいてき》である。明智光秀も信長を殺す前には愛宕へ詣《まい》って、そして「時は今|天《あめ》が下知る五月《さつき》かな」というを発句に連歌を奉っている位だ。飯綱山も愛宕山に負けはしない。武田信玄は飯綱山に祈願をさせている。上杉謙信がそれを見て嘲笑《あざわら》って、信玄、弓箭《ゆみや》では意をば得ぬより権現の力を藉《か》ろうとや、謙信が武勇優れるに似たり、と笑ったというが、どうして信玄は飯綱どころか、禅宗でも、天台宗でも、一向宗までも呑吐《どんと》して、諸国への使《つかい》は一向坊主にさせているところなど、また信玄一流の大きさで、飯綱の法を行《おこな》ったかどうか知らぬが、甲州|八代《やつしろ》郡|末木《すえき》村|慈眼寺《じげんじ》に、同寺から高野《こうや》へ送った武田家品物の目録書の稿の中に、飯縄本尊|并《ならび》に法次第一冊信玄公|御随身《みずいしん》とあることが甲斐国志《かいこくし》巻七十六に見えているから、飯綱の法も行ったか知れぬ。
 勝軍地蔵か※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼天か、飯綱の本体はいずれでも宜《よ》いが、※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼は古くからいい伝えていること、勝軍地蔵は新らしく出来たもの、だきには胎蔵界曼陀羅《たいぞうかいまんだら》の外金剛部院《げこんごうぶいん》の一尊であり、勝軍地蔵はただこれ地蔵の一変身である。大日経《だいにちきょう》巻第二に荼枳尼《だきに》は見えており、儀軌真言《ぎきしんごん》なども伝来の古いものである。もし密教の大道理からいえば、荼枳尼も大日、他の諸天も大日、玄奥《げんおう》秘密の意義理趣を談ずる上からは、甲乙の分け隔てはなくなる故にとかくを言うのも愚なことであるが、先ず荼枳尼として置こう。荼枳尼天の形相、真言等をここに記するも益無きことであるし、かつまた自分が飯綱二十法を心得ているわけでもないから、飯綱修法に関することは書かぬが、やはり他の天部《てんぶ》夜叉部《やしゃぶ》等の修法の如くに、相伝を得て、次第により如法《にょほう》に修するものであろう。東京近くでは武州|高雄山《たかおさん》からも、今は知らぬが以前は荼枳尼の影像を与えたものである。諸国に荼枳尼天を祭ったところは少からずあるが、今その法を修する者はあるまい。まして魔法の邪法のといわれるものであるから、真に修法《じゅほう》する者は全くあるまいが、修法の事は、その利益功能のある状態や理合《りごう》を語ろうとしても、全然そういうことを知らぬ人に理解せしむることは先ず不可能であるから、まして批評を交えてなど語れるものではない。管狐《くだぎつね》という鼠ほどの小さな狐を山より受取って来て、これを使うなどということは世俗のややもすれば伝えることであるが、自分は知らぬ。天狗も荼枳尼には連なることで、愛宕にも太郎坊があれば、飯綱にも天狗嶽という魔所があり、餓鬼曼陀羅《がきまんだら》のような荼枳尼曼陀羅には天狗もあり、また荼吉尼天その物を狐に乗っている天狗だと心得ている人もある。むかし僧正|遍照《へんじょう》は天狗を金網の中へ籠めて焼いて灰にしたというが、我らにはなかなかそのような道力はないから、平生いろいろな天狗に脅《おびやか》されて弱っている、俳句天狗や歌天狗、書天狗画天狗|浄瑠璃《じょうるり》天狗、その上に本物の天狗に出られて叱られでもしたら堪《たま》らないから筆を擱《お》く。
 我邦で魔法といえば先ず飯綱の法、荼吉尼の法ということになるが、それならどんな人が上に説いた人のほかに魔法を修したか。志一や高天は言うに足らない、山伏や坊さんは職分的であるから興味もない。誰かないか。魔法修行のアマチュアは。
 ある。先ず第一標本には細川|政元《まさもと》を出そう。
 彼《か》の応仁の大乱は人も知る通り細川|勝元《かつもと》と山名宗全《やまなそうぜん》とが天下を半分ずつに分けて取って争ったから起ったのだが、その勝元の子が即ち政元だ。家柄ではあり、親父の余威はあり、二度も京都|管領《かんりょう》になったその政元が魔法修行者だった。政元は生れない前から魔法に縁があったのだから仕方がない。はじめ勝元は彼《あれ》だけの地位に立っていても、不幸にして子がなかった。そこでその頃の人だから、神仏に祈願を籠めたのであるが、観音《かんのん》か何かに祈るというなら普門品《ふもんぼん》の誓《ちかい》によって好い子を授けられそうなところを、勝元は妙なところへ願を掛けた。何に掛けたか。武将だから毘沙門《びしゃもん》とか、八幡《はちまん》とかへ願えばまだしも宜《い》いものを、愛宕山大権現へ願った。勝元は宗全とは異って、人あたりの柔らかな、分別も道理はずれをせぬ、感情も細かに、智慧も行届く人であったが、さすがに大乱の片棒をかついだ人だけに、やはり※[#「酉+嚴」、142-5]《きぶ》いところがあったと見えて、愛宕山権現に願掛けした。愛宕山は七高山の一として修験の大修行場で、本尊は雷神《らいじん》にせよ素盞嗚尊《すさのおのみこと》にせよ破旡神《はむじん》にせよ、いずれも暴《あら》い神で、この頃は既に勝軍地蔵を本宮とし、奥の院は太郎坊、天狗様の拠所《よりどころ》であった。武家の尊崇によって愛宕は最も盛大な時であったろうが、こういう訳で生れた政元は、生れぬさきより恐ろしいものと因縁があったのである。
 政元は幼時からこの訳で愛宕を尊崇した。最も愛宕尊崇は一体の世の風であったろうが、自分の特別因縁で特別尊崇をした。数※[#二の字点、1-2-22]《しばしば》社参する中《うち》に、修験者らから神怪|幻詭《げんき》の偉い談《だん》などを聞かされて、身に浸みたのであろう、長ずるに及んで何不自由なき大名の身でありながら、葷腥《くんせい》を遠ざけて滋味《じみ》を食《くら》わず、身を持する謹厳で、超人間の境界を得たい望《のぞみ》に現世の欲楽を取ることを敢《あえ》てしなかった。ここは政元も偉かった。憾《うら》むらくは良い師を得なかったようである。婦人に接しない。これも差支《さしつかえ》ないことであった。自由の利く者は誰しも享楽主義になりたがるこの不穏な世に大自由の出来る身を以て、淫欲までを禁遏《きんあつ》したのは恐ろしい信仰心の凝固《こりかたま》りであった。そして畏るべき鉄のような厳冷な態度で修法をはじめた。勿論生やさしい料簡|方《がた》で出来る事ではない。
 政元は堅固に厳粛に月日を過した。二十歳、三十歳、四十近くなった。舟岡記《ふなおかき》にその有様を記してある。曰く、「京管領細川右京太夫政元は四十歳の比《ころ》まで女人禁制にて、魔法飯綱の法愛宕の法を行ひ、さながら出家の如く、山伏の如し、或時は経を読み、陀羅尼《だらに》をへんしければ、見る人身の毛もよだちける。されば御家《おいえ》相続の子無くして、御内《みうち》、外様《とざま》の面※[#二の字点、1-2-22]、色※[#二の字点、1-2-22]|諫《いさ》め申しける。」なるほどこういう状態では、当人は宜《よ》いが、周囲の者は畏れたろう。その冷い、しゃちこばった顔付が見えるようだ。
 で、諸大名ら人※[#二の字点、1-2-22]の執成《とりな》しで、将軍|義澄《よしずみ》の叔母の縁づいている太政大臣九条|政基《まさもと》の子を養子に貰って元服させ、将軍が烏帽子親《えぼしおや》になって、その名の一字を受けさせ、源九郎|澄之《すみゆき》とならせた。
 澄之は出た家も好し、上品の若者だったから、人※[#二の字点、1-2-22]も好い若君と喜び、丹波《たんば》の国をこの人に進ずることにしたので、澄之はそこで入都した。
 ところが政元は病気を時※[#二の字点、1-2-22]したので、この前の病気の時、政元一家の内※[#二の字点、1-2-22]《うちうち》の人※[#二の字点、1-2-22]だけで相談して、阿波《あわ》の守護細川|慈雲院《じうんいん》の孫、細川|讃岐守之勝《さぬきのかみゆきかつ》の子息が器量骨柄も宜しいというので、摂州《せっしゅう》の守護代|薬師寺与一《やくしじよいち》を使者にして養子にする契約をしたのであった。
 この養子に契約した者も将軍より一字を貰って、細川六郎|澄元《すみもと》と名乗った。つまり澄元の方は内※[#二の字点、1-2-22]の者が約束した養子で、澄之の方は立派な人※[#二の字点、1-2-22]の口入《くちいれ》で出来た養子であったのである。これには種※[#二の字点、1-2-22]の説があって、前後が上記と反対しているのもある。
 澄元契約に使者に行った細川の被官の薬師寺与一というのは、一文不通《いちもんふつう》の者であったが、天性正直で、弟の与二《よじ》とともに無双の勇者で、淀《よど》の城に住し、今までも度※[#二の字点、1-2-22]《たびたび》手柄を立てた者なので、細川一家では賞美していた男であった。澄元のあるところへ、澄之という者が太政大臣家から養子に来られたので、契約の使者になった薬師寺与一は阿波の細川家へ対して、また澄元に対して困った立場になった。そこで根が律義勇猛のみで、心は狭く分別は足らなかった与一は赫《かっ》としたのである。この頃主人政元はというと、段※[#二の字点、1-2-22]魔法に凝《こ》り募《つの》って、種※[#二の字点、1-2-22]の不思議を現わし、空中へ飛上ったり空中へ立ったりし、喜怒も常人とは異り、分らぬことなど言う折もあった。空中へ上《のぼ》るのは西洋の魔法使もする事で、それだけ永い間修業したのだから、その位の事は出来たことと見て置こう。感情が測られず、超常的言語など発するというのは、もともと普通凡庸の世界を出たいというので修業したのだから、修業を積めばそうなるのは当然の道理で、ここが慥《たしか》に魔法の有難いところである。政元からいえば、どうも変だ、少し怪しい、などといっている奴は、何時《いつ》までも雪を白い、烏を黒いと、退屈もせずに同じことを言っている扨※[#二の字点、1-2-22]《さてさて》下らない者どもだ、と見えたに疑《うたがい》ない。が、細川の被官どもは弱っている。そこで与一は赤沢宗益《あかざわそうえき》というものと相談して、この分では仕方がないから、高圧的|強請的《きょうせいてき》に、阿波の六郎澄元殿を取立てて家督にして終《しま》い、政元公を隠居にして魔法三昧でも何でもしてもらおう、と同盟し、与一はその主張を示して淀の城へ籠り、赤沢宗益は兵を率いて伏見《ふしみ》竹田口《たけだぐち》へ強請的に上って来た。
 与一の議に多数が同意するではなかった。澄之に意を寄せている者も多かった。何にしろ与一の仕方が少し突飛《とっぴ》だったから、それ下《しも》として上《かみ》を剋《こく》する与一を撃てということになった。与一の弟の与二は大将として淀の城を攻めさせられた。剛勇ではあり、多勢ではあり、案内は熟《よ》く知っていたので、忽《たちまち》に淀の城を攻落《せめおと》し、与二は兄を一元寺《いちげんじ》で詰腹《つめばら》切らせてしまった。その功で与二は兄の跡に代って守護代となった。
 阿波の六郎澄元は与一の方から何らかの使者を受取ったのであろう、悠然として上洛した。無人《ぶにん》では叶わぬところだから、六郎の父の讃岐守は、六郎に三好筑前守之長《みよしちくぜんのかみゆきなが》と高畠与三《たかばたけよぞう》の二人を付随《つけしたが》わせた。二人はいずれも武勇の士であった。
 与二は政元の下で先度の功に因りて大《おおい》に威を振《ふる》ったが、兄を討ったので世の用いも悪く、三好筑前守はまた六郎の補佐の臣として六郎の権威と利益とのためには与二の思うがままにもさせず振舞うので、与二は面白くなくなった。
 そこで与二は竹田源七《たけだげんしち》、香西又六《こうさいまたろく》などというものと相談して、兄と同じような路をあるこうとした。異なっているところは兄は六郎澄元を立てんとし、自分は源九郎澄之を立てんとするだけであった。とても彼のように魔法修行に凝って、ただ人ならず振舞いたまうようでは、長くこの世にはおわし果つまじきである、六郎殿に御世《みよ》を取られては三好に権を張り威を立てらるるばかりである、是非ないことであるから、政元公に生害《しょうがい》をすすめ、丹波の源九郎殿を以て管領家を相続させ、我※[#二の字点、1-2-22]が天下の権を取ろう、と一決した。
 永正《えいしょう》四年六月二十三日だ。政元はそのような事を被官どもが企てているとも知ろうようはない。今日も例の通り厳冷な顔をして魔法修行の日課を如法に果そうとするほかに何の念もない。しかし戦乱の世である。河内《かわち》の高屋《たかや》に叛《そむ》いているものがあるので、それに対して摂州衆、大和衆、それから前に与一に徒党したが降参したので免《ゆる》してやった赤沢宗益の弟|福王寺喜島《ふくおうじきじま》源左衛門和田源四郎を差向けてある。また丹波の謀叛対治のために赤沢宗益を指向《さしむ》けてある。それらの者はこの六月の末という暑気に重い甲冑を着て、矢叫《やさけび》、太刀音《たちおと》、陣鐘《じんがね》、太鼓の修羅《しゅら》の衢《ちまた》に汗を流し血を流して、追いつ返しつしているのであった。政元はそれらの上に念を馳せるでもない、ただもう行法が楽しいのである。碁を打つ者は五|目《もく》勝った十目勝ったというその時の心持を楽んで勝とうと思って打つには相違ないが、彼一石我一石を下《くだ》すその一石一石の間を楽む、イヤそのただ一石を下すその一石を下すのが楽しいのである。鷹を放つ者は鶴を獲たり鴻《こう》を獲たりして喜ぼうと思って郊外に出るのであるが、実は沼沢林藪《しょうたくりんそう》の間を徐《おもむ》ろに行くその一歩一歩が何ともいえず楽しく喜ばしくて、歩※[#二の字点、1-2-22]に喜びを味わっているのである。何事でも目的を達し意を遂げるのばかりを楽しいと思う中《うち》は、まだまだ里《さと》の料簡である、その道の山深く入った人の事ではない。当下《とうげ》に即ち了《りょう》するという境界に至って、一石を下す裏に一局の興はあり、一歩を移すところに一日の喜《よろこび》は溢れていると思うようになれば、勝って本《もと》より楽しく、負けてまた楽しく、禽《とり》を獲て本より楽しく、獲ずしてまた楽しいのである。そこで事相《じそう》の成不成、機縁の熟不熟は別として一切が成熟するのである。政元の魔法は成就したか否か知らず、永い月日を倦《う》まず怠らずに、今日も如法に本尊を安置し、法壇を厳飾し、先ず一身の垢《あか》を去り穢《けがれ》を除かんとして浴室に入った。三業純浄《さんごうじゅんじょう》は何の修法にも通有の事である。今は言葉をも発せず、言わんともせず、意を動かしもせず、動かそうともせず、安詳《あんしょう》に身を清くしていた。この間に日影の移る一寸一寸、一分一分、一厘一厘が、政元に取っては皆好ましい魔境の現前であったろう歟《か》、業通自在《ぎょうつうじざい》の世界であったろうか、それは傍《はた》からは解らぬが、何にせよ長い長い月日を倦まずに行じていた人だ、倦まぬだけのものを得ていなくては続かぬ訳だった。
 ※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]吉尼天は魔だ、仏《ぶつ》だ、魔でない、仏《ほとけ》でない。※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]吉尼天だ。人心を※[#「口+敢」、第3水準1-15-19]尽《かんじん》するものだ。心垢《しんく》を※[#「口+敢」、第3水準1-15-19]尽するものだ。政元はどういう修法をしたか、どういう境地にいたか、更に分らぬ。人はただその魔法を修したるを知るのみであった。
 政元は行水《ぎょうずい》を使った。あるべきはずの浴衣《よくい》はなかった。小姓の波※[#二の字点、1-2-22]伯部《ははかべ》は浴衣を取りに行った。月もない二十三日の夕風は颯《さっ》と起った。右筆《ゆうひつ》の戸倉二郎というものは突《つっ》と跳り込んだ。波※[#二の字点、1-2-22]伯部が帰って来た時、戸倉は血刀《ちがたな》を揮《ふる》って切付けた。身をかわして薄手だけで遁《のが》れた。
 翌日は戦《たたかい》だった。波※[#二の字点、1-2-22]伯部は戸倉を打って四十二歳で殺された主《しゅ》の仇を復《ふく》したが、管領の細川家はそれからは両派が打ちつ打たれつして、滅茶苦茶になった。
 政元は魔法を修していた長い間に何もしなかったのではない。ただ足利将軍の廃立をしたり、諸方の戦をしたりしていた。今は政元の伝を筆にしたのではない。
 政元より後に飯綱の法を修した人には面白い人がある。それは政元よりも遥《はるか》に立派な人である。
 関白、内大臣、藤原氏の氏《うじ》の長者、従《じゅ》一位、こういう人が飯綱の法を修したのである。太政大臣|公相《きみすけ》は外法のために生首《なまくび》を取られたが、この人は天文から文禄へかけての恐ろしい世に何の不幸にも遭わないで、無事に九十歳の長寿を得て、めでたく終ったのである。それは名高い関白|兼実《かねざね》の後の九条|植通《たねみち》、玖山公《きゅうざんこう》といわれた人である。
 植通公の若い時は天下乱麻の如くであった。知行も絶え絶えで、如何に高貴の身分家柄でも生活さえ困難であった。織田信長より前は、禁庭《きんてい》御所得はどの位であったと思う。或《ある》記によればおよそ三千石ほどだったというのである。如何に簡素清冷に御暮しになったとて、三千石ではどうなるものでもない。ましてお公卿《くげ》様などは、それはそれは甚だ窘乏《きんぼう》に陥っておられたものだろう。それでその頃は立派な家柄の人※[#二の字点、1-2-22]が、四方へ漂泊して、豪富の武家たちに身を寄せておられたことが、雑史野乗《ざっしやじょう》にややもすれば散見する。植通も泉州の堺、――これは富商のいた処である、あるいはまた西方諸国に流浪し、聟《むこ》の十川《そごう》(十川|一存《かずまさ》の一系だろうか)を見放つまいとして、※[#「てへん+晉」、第3水準1-84-87]紳《しんしん》の身ながらに笏《しゃく》や筆を擱《お》いて弓箭《ゆみや》鎗《やり》太刀《たち》を取って武勇の沙汰にも及んだということである。
 この人が弟子の長頭丸《ちょうずまる》に語った。自分は何事でも思立ったほどならば半途で止まずに、その極処まで究めようと心掛けた。自分は飯綱の法を修行したが、遂に成就したと思ったのは、何処《どこ》に身を置いて寝ても、寝たところの屋《や》の上に夜半頃になればきっと鴟《ふくろう》が来て鳴いたし、また路を行けば行く前には必ず旋風《つじかぜ》が起った。とこういうことを語ったという。鴟は天狗の化するものであるとされていたのである。前に挙げた僧正遍照も天狗の化した鴟を鉄網に籠めて焼いたのである。屋の上で鴟の鳴くのは飯綱の法成就の人に天狗が随身|伺候《しこう》するのである意味だ。旋風の起るのも、目に見えぬ眷属《けんぞく》が擁護して前駆《ぜんく》するからの意味である。飯綱の神は飛狐《ひこ》に騎《の》っている天狗である。
 こういう恐ろしい飯綱成就の人であった植通は、実際の世界においてもそれだけの事はあった人である。
 織田信長が今川を亡ぼし、佐※[#二の字点、1-2-22]木、浅井、朝倉をやりつけて、三好、松永の輩《はい》を料理し、上洛して、将軍を扶《たす》け、禁闕《きんけつ》に参った際は、天下皆鬼神の如くにこれを畏敬した。特《こと》に癇癖《かんぺき》荒気《あらき》の大将というので、月卿雲客も怖れかつ諂諛《てんゆ》して、あたかも古《いにしえ》の木曾|義仲《よしなか》の都入りに出逢ったようなさまであった。それだのに植通はその信長に対して、立ったままに面とむかって、「上総《かずさ》殿か、入洛《じゅらく》めでたし」といったきりで帰ってしまった。上総殿とは信長がただこれ上総介《かずさのすけ》であったからである。上総介では強かろうが偉かろうが、位官の高い九条植通の前では、そのくらいに扱われたとて仕方のない談《はなし》だ。植通は位官をはずかしめず、かつは名門の威を立てたのである。信長の事だから、是《かく》の如き挨拶で扱われては大むくれにむくれて、「九条殿はおれに礼をいわせに来られた」と腹を立って、ぶつついたということである。信長の方では、天下を掃清《そうせい》したのである、九条殿に礼をいわせる位の気でいたろう。が、これはさすがに飯綱の法の成就している人だけに、植通の方が天狗様のように鼻が高かった。公卿にも一人くらいはこういう毅然たる人があって宜《よ》かったのである。
 木下秀吉が明智を亡ぼし、信長の後を襲《つ》いで天下を処理した時の勢《いきおい》も万人の耳目を聳動《しょうどう》したものであった。秀吉は当時こういうことをいい出した。自分は天の冥加《みょうが》に叶って今かく貴《とうと》い身にはなったが、氏も素性もないものである、草刈りが成上ったものであるから、古《いにしえ》の鎌子《かまこ》の大臣《おとど》の御名《おんな》を縁《よすが》にして藤原氏になりたいものだ。というのは関白になろうの下ごころだった。すると秀吉のその時の素ばらしい威勢だったから、宜しゅうござろう、いと易《やす》い事だというので、近衛竜山公《このえりゅうざんこう》がその取計《とりはから》いをしようとした。その時にこの植通公が、「いや、いや、五|摂家《せっけ》に甲乙はないようなれど、氏の長者はわが家である、近衛殿の御儘《おんまま》にはなるべきでない」と咎《とが》めた。異論のあるのに無理を通すようなことは秀吉は敢《あえ》てせぬところである。しかも当時の博識で、人の尊む植通の言であったから、秀吉は徳善院玄以《とくぜんいんげんい》に命じて、九条近衛両家の議を大徳寺に聞かせた。両家は各※[#二の字点、1-2-22]固くその議を執ったが、植通の言の方が根拠があって強かった。そうするとさすがに秀吉だ、「さようにむずかしい藤原氏の蔓《つる》となり葉となろうよりも、ただ新しく今までになき氏《うじ》になろうまでじゃ」といった。そこで菊亭《きくてい》殿が姓氏録を検《あらた》めて、はじめて豊臣秀吉となった。
 これも植通は宜《よ》かった。信長秀吉の鼻の頭をちょっと弾いたところ、お公卿様にもこういう人の一人ぐらいあった方が慥《たしか》に好かった。秀吉が藤原氏にならなかったのも勿論好かった。このところ両天狗大出来大出来。
 秀吉は遂に関白になった。ついで秀次《ひでつぐ》も関白になった。飯綱成就の植通は毎※[#二の字点、1-2-22]言った。「関白になって、神罰を受けように」と言った。果して秀次関白が罪を得るに及んで、それに坐して近衛殿は九州の坊《ぼう》の津《つ》へ流され、菊亭殿は信濃へ流され、その女《むすめ》の一台《いちだい》殿は車にて渡された。恐ろしいことだ、飯綱成就の人の言葉には目に見えぬ権威があった。
 和歌は勿論堪能の人であった。連歌はさまで心を入れたでもなかろうが、それでも緒余《しょよ》としてその道を得ていた。法橋紹巴《ほっきょうしょうは》は当時の連歌の大宗匠であった。しかし長頭丸が植通公を訪《と》うた時、この頃何かの世間話があったかと尋ねられたのに答えて、「聚落《じゅらく》の安芸《あき》の毛利《もうり》殿の亭《ちん》にて連歌の折、庭の紅梅につけて、梅の花|神代《かみよ》もきかぬ色香かな、と紹巴法橋がいたされたのを人※[#二の字点、1-2-22]褒め申す」と答えたのにつけて、神代もきかぬとの業平《なりひら》の歌は、竜田川《たつたがわ》に水の紅《くれない》にくくることは奇特不思議の多い神代にも聞かずと精を入れたのであるのに、珍らしからぬ梅を取出して神代も聞かぬというべきいわれはない。昔伊勢の国で冬咲の桜を見て夢庵《むあん》が、冬咲くは神代も聞かぬ桜かな、と作ったのは、伊勢であったればこそで、かように本歌を取るが本意である、毛利|大膳《だいぜん》が神主《かんぬし》ではあるまいし、と笑ったということである。紹巴もこの人には敵《かな》わない。光秀は紹巴に「天《あめ》が下しる五月《さつき》哉《かな》」の「し」の字は「な」の字|歟《か》といわれたが、紹巴はまたこの公には敵わない。毛利が神主にもあらばこその一句は恐ろしい。
 紹巴は時※[#二の字点、1-2-22]この公を訪《と》うた。或時参って、紹巴が「近頃何を御覧なされまする」と問うた。すると、公は他に言葉もなくて徐《おもむ》ろに「源氏」とただ一言。紹巴がまた「めでたき歌書は何でござりましょうか」と問うた。答えは簡単だった。「源氏」。それきりだった。また紹巴が「誰か参りて御閑居を御慰め申しまするぞ」と問うた。公の返事は実に好かった。「源氏」。
 三度が三度同じ返答で、紹巴は「ウヘー」と引退《ひきさが》った。なるほどこの公の歩くさきには旋風《つじかぜ》が立っているばかりではなく、言葉の前にも旋風が立っていた。
 源氏物語にも言辞事物《げんじじぶつ》の注のほかに深き観念あるを説いて止観《しかん》の説という。この公の源語の注の孟津抄《もうしんしょう》は、法華経の釈に玄義、文句《もんぐ》とありて扨《さて》、止観十巻のあるが如く、源氏についての止観の意にて説かれたということである。非常な源氏の愛読者で、「これを見れば延喜《えんぎ》の御代《みよ》に住む心地する」といって、明暮《あけくれ》に源氏を見ていたというが、きまりきった源氏を六十年もそのように見ていて倦《う》まなかったところは、政元が二十年も飯綱修法を行じていたところと同じようでおもしろい。
 長頭丸が時※[#二の字点、1-2-22]|教《おしえ》を請うた頃は、公は京の東福寺《とうふくじ》の門前の乾亭院《かんていいん》という藪の中の朽ちかけた坊に物寂《ものさ》びた朝夕を送っていて、毎朝※[#二の字点、1-2-22]|輪袈裟《わげさ》を掛け、印を結び、行法怠らず、朝廷長久、天下太平、家門隆昌を祈って、それから食事の後には、ただもう机に※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]《よ》って源氏を読んでいたというが、如何にも寂びた、細※[#二の字点、1-2-22]とした、すっきりとした、塵雑《じんざつ》の気のない、平らな、落《おち》ついた、空室に日の光が白く射したような生活のさまが思われて、飯綱も成就したろうが、自己も成就した人と見える。天文から文禄の間の世に生きていて、しかも延喜の世に住んでいたところは、実に面白い。
 或時長頭丸即ち貞徳《ていとく》が公を訪《と》うた時、公は閑栖《かんせい》の韵事《いんじ》であるが、和《やわ》らかな日のさす庭に出て、唐松《からまつ》の実生《みばえ》を釣瓶《つるべ》に手ずから植えていた。五葉《ごよう》の松でもあればこそ、落葉松《からまつ》の実生など、余り佳いものでもないが、それを釣瓶なんどに植えて、しかもその小さな実生のどうなるのを何時《いつ》賞美しようというのであろう。しかしここが面白いのである、出来た人でなければ出来ない真の楽みを取っているところである。貞徳は公より遥《はるか》に年下である。我身の若さ、公の清らに老い痩枯《やせが》れたるさまの頼りなさ、それに実生の松の緑りもかすけき小ささ、わびきったる釣瓶なんどを用いていらるるはかなさ、それを思い、これを感じて、貞徳はおのずから優しい心を動かしたろう、どうぞこの松のせめて一、二尺になるまでも芽出度《めでたく》おわしませ、と「植ゑておく今日から松のみどりをも猶《なお》ながらへて君ぞ見るべき」と祝いて申上げると、「日のもとに住みわびつゝも有《あ》りふれば今日から松を植ゑてこそ見れ」と、ただ物をいうように公は答えた。
 その器《き》その徳その才があるのでなければどうすることも出来ない乱世に生れ合せた人の、八十ごろの齢《とし》で唐松の実生を植えているところ、日のもとの歌には堕涙《だるい》の音が聞える。飯綱修法成就の人もまた好いではないか。
                           (昭和三年四月)

底本:「幻談・観画談 他三篇」岩波文庫、岩波書店
   1990(平成2)年11月16日第1刷発行
   1994(平成6)年5月15日第6刷発行
底本の親本:「露伴全集 第十五巻」岩波書店
   1952(昭和27)年5月刊
入力:土屋隆
校正:オーシャンズ3
2007年11月26日作成
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幸田露伴

墨子—— 幸田露伴

 墨子は周秦の間に於て孔子老子の學派に對峙した鬱然たる一大學派の創始者である。
 墨子の學の大に一時に勢力のあつたことは孔子系の孟子荀子等が之を駁撃してゐるのでも明白で、輕視して置けぬほどに當世に威※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]を有したればこそ孟子荀子等がこれに對して筆舌を勞したのである。それのみならず人間の善惡を超越し是非を忘却するやうなことを理想としたかの如き莊周でさへも墨家に論及し、それから又手嚴しい法治論者の韓非までも墨家を儒家と列べて論じてゐる。此等の事實は皆墨子の學が少からざる力を當時に有してゐたことの傍證であつて、秦以後の書の孔叢子、淮南子、史記、漢書、七略等に見えてゐることと、その前の尸子、晏子春秋、呂覽等に散見してゐることとを除いても、墨子の本書に、墨子の弟子禽滑釐等三百餘人が墨子の道の爲に守禦の器を持して宋の爲に楚を防がんとしたことが、魯問篇に見えてゐるし、又墨子の弟子の公尚過といふものは越王に優遇され、越王は墨子を故の呉の地方五百里を以て封ぜんことを申出し、又楚の惠王、魯陽文君等は墨子を崇敬し、衞、宋、魯等の君も墨子を尊んだことは本書の各篇に見え、墨子の弟子は禽滑釐を首として、高石子、縣子碩、耕柱子、魏越、管黔敖、高孫子、治徒娯、跌鼻、曹公子、勝綽、彭輕生、孟山譽、王子閭等は皆墨子に道を學び、或は道を問うたものであることは本書に見え、漢書藝文志、呂覽等によれば、隨巣子、胡非子等は墨子の弟子で書を著はし、禽滑釐の弟子には許犯、索盧があり、許犯の弟子には田繋があり、胡非子の弟子には屈將子があり、其他、韓非子、莊子、呂覽等によれば、墨子の學系には、田※[#「にんべん+求」、第4水準2-1-50]子、相里勤、相夫子、※[#「登+おおざと」、第3水準1-92-80]陵子、苦獲、相里氏の弟子の五侯子、それから孟勝、田襄子、腹※[#「享+(廣-广)」、U+2A3C6、174-5]、徐弱、謝子、唐姑果等を指摘し得る。是の如くに墨子の弟子又は再傳三傳の弟子を二千年前の昔に指摘し得ることは、墨子の道の盛行したことを語るもので無くて何であらう。
 墨子を孔子と同列のやうに取扱つたのは、早く韓非子の時からで、韓非子顯學篇に、既に儒墨と併稱して、八儒三墨と其の流派を擧げてゐる。儒の至る所は孔丘なり、墨の至るところは墨※[#「櫂のつくり」、第3水準1-90-32]なり、と韓非子が言つてゐるのであるが、是の如く墨子を孔子と併べ稱したのは、墨子の道が孔子の道の如くに天下に顯然としてゐたからでもあるが、一つは又孔子の道が世を救ひ人を正しうするに在る如く、墨子の道もまた世を救ひ人を正しうするに在つて、聖賢を稱揚し、道徳と政治とに兼ね亙つてゐること、相似通ふところがあるからに本づいたのでも有つたらう。で、後に至つて韓退之の如きは孔墨を論じて、其道は相戻るほどの鴻溝大嶺が其間に存するのでは無いとして、余おもへらく辯は末學の各※[#二の字点、1-2-22]其師を售るを務むるの説に生ず、二師の道の本より然るに非ざる也、孔子は必ず墨子を用ゐ、墨子は必ず孔子を用ゐん、相用ゐざれば孔墨たるに足らず、とさへ言つてゐる。退之の此論は勿論割引しなければ通ぜぬ論であるが、先秦諸子の各※[#二の字点、1-2-22]一家の言をなしてゐる中で、墨子の教が孔子の教に近いことは、それは他の莊、列、韓非の輩の孔子に遠いのに比して、大に近く、まことに一脈相通ずるものがあることは爭へない。孔子の堯舜禹湯文武を稱するが如く、墨子も堯舜禹湯文武を稱し、聖王賢主の民を率ゐ躬を正しうしたところに準據してゐるのであつて、自分の小さな知識や感情から一家の言を成し、我より古を成さうとしてゐたのでは無いのである。理想に於ては孔子も墨子も治國平天下、民をして安穩幸福に生を遂げしめんとしたのである。
 さて墨子は何樣いふ人であつたかといふに、墨子の姓は墨、名は※[#「櫂のつくり」、第3水準1-90-32]であつて、魯の人であつた。宋の人といふ説も諸書にあるが、それは恐らくは墨子が宋の太夫となつたところから生じたことであらう。墨氏は孤竹君の後で、墨台氏といつたのが、改めて墨氏となつたのであるといふのが、姓氏學者の説である。姓氏學者の説は時に信ずべからざることがあるが、墨氏が墨台氏で孤竹君の後で有らうと有るまいと、いづれにしても墨子に取つては大したことで無いから論ずるに足らぬ。墨子の姓は※[#「櫂のつくり」、第3水準1-90-32]で名は烏といふ異説もあるが、それは周櫟園が書影に記してから人の談に上るやうになつたので、櫟園は好い人物であり、書影は面白い雜筆だけれど、其説は元の伊世珍の※[#「螂」の「虫」に代えて「女」、U+5ACF、175-13]※[#「女+鐶のつくり」、U+5B1B、175-13]記に賈子説林といふものを引いて記したのが原で、賈子説林なんといふ書は有無不明であり、恐らくは世珍の妄言、墨子の母が日中の赤烏が室に入るを夢みて驚き覺めて生れたから烏と名づけたなどといふことを作り出したのだらう、他の古書に見及ばぬことであるから、面白い説だとて信ずるには足らぬ、たゞ是れ茶話の料たるまでである。
 墨子の在世時代は、墨子に接觸してゐる人※[#二の字点、1-2-22]の上から推測考定して、周の定王頃に生れて、安王の廿四五年頃に死んだのであり、其壽は甚だ長く、八十餘歳、九十一二歳かであつたらうと考へられる。孔子の時に並ぶ、或は曰く其後に在りと、と史記は記してゐるが、史記の撰者は墨子が嫌ひであつたか何樣か知らぬが、墨子に對しては甚だ同情少く、墨子のために其傳を立つるに勞を吝んでゐる。後漢の張衡が、公輸班と墨※[#「櫂のつくり」、第3水準1-90-32]と並びに子思の時に當り、仲尼の後に出づ、と云つてゐるが、實に當を得てゐる。墨子は孔子に後るゝこと百年近く、孟子の師の頃で、丁度子思よりは二十幾歳の年下であつたらうと思はれる。秦火以後に諸子は復活したが墨子は其の學統さへ全く絶えて、終に晉の代の魯勝が出るまでは少くも墨子に左袒する氣味の人が無かつたのであるから、今更判然と考定する事の出來ぬのも自然の數である。墨子の如き儉を尚び民を愛する主張の學説が、長城を築き阿房を起した如き秦の政府に憎惡されたらうことは、儒教其他の學説よりも一層太甚しかつたらうことは想像に難くないことで、秦以後に復び其の學説が起つ能はざるまでに壓迫されて了つたこともおのづから想像するに難くないことであるから、漢に於て儒教が復興し得たにかゝはらず、墨家は殆んど撲倒されたまゝになり了つて、從つて墨子の事に就いては漢でも既に不明になつて了つたのであり、たま/\淮南子に其の少許の傳説、論衡に其の教説の批難が見える位で、墨子派の遺緒を紹ぐ者などは見出されないのであつた。史記の撰者父子はたま/\墨子を愛尚しなかつたのか否か不明であるけれども、孔子と併稱された墨子に對しては、餘りに其の筆墨を吝んでゐるが、それもたま/\既に當時に於て墨子の繼紹者が絶無であつたか、或は甚だ微力であつたかを語るものである。
 墨子の説は墨子の創唱になつたものか、或は古より其の一派傳統のあつたものか、これも論定されてゐないことである。然し漢書の藝文志に、墨家の首に尹佚二篇を擧げてゐる。尹佚は即ち史佚で、周の太史であり文王の時から成王康王の時に亙つた功臣である。此の史佚の書は漢の時に猶ほ遺つてゐたもので、其言が墨家に同じきものがあると認められたからこそ、墨家の首に置かれたのであらう。して見れば墨子の學は、尹佚の流を汲んだものであるとしてよい。古の史官といふものは、實に禮經を司どり國典を管し、其の學は皆傳統的に受授したものである。魯の惠公が郊廟の禮を天子に請うた時、桓王は史角をして魯に往かしめられた。惠公は史角を魯に止めた。此の史角の後が魯に在つた者に就いて墨子は學んだといふことが、呂氏春秋の當染篇に見えて居り、丁度孔子が老※[#「耳+冉の4画目左右に突き出る」、第4水準2-85-11]や孟蘇※[#「(止+(首/儿)+巳)/夂」、第4水準2-5-28]靖叔に學んだと同じやうな例に引いてある。して見れば墨子は史角の後の人に學んだのだが、史角は其名と事とによつて考へれば無論周の史官であり、そして恐らくは史佚の後であらうと推察される。で、墨子の學は史佚の系と見ても可なることになる。漢書に、墨家者流は蓋し清廟の守に出づ、茅屋采椽、是を以て儉を貴ぶ、三老五更を養ふ、是を以て兼愛す、選士大射す、是を以て賢を上《たふと》ぶ、宗祀嚴父す、是を以て鬼を右《たふと》ぶ、四時に順つて行ふ、是を以て命を非とす、孝を以て天下に視《しめ》す、是を以て同を上ぶ、と云つてゐるのは、墨子の書の篇中の主目に依つて言を爲してゐるやうで、少し不穩のところも有るやうだが、大體に於ては當つて居り、そして莊子の天下篇に、後世に侈らず、萬物に靡せず、數度に暉せず、繩墨を以て自づから矯め、而して世の急に備ふ、古の道術、是に在るものあり、墨※[#「櫂のつくり」、第3水準1-90-32]禽滑釐其風を聞いて之を説《よろこ》ぶ、と云つてゐるのと相應ずるところがある。漢書の各家學説に對する言は、凡べて之を官に淵源する者としてゐるので、儒家は司徒の官に出で、道家は史官に出で、法家は理官に出で、名家は禮官に出で、縱横家は行人の官に出でたとする類で、大體は然樣も言ひ得るのであるが、少し押付がましい傾向もある。名家が禮官に出でたと云つても、公孫龍や惠施の學が禮官とは餘り關係が薄いし、二氏の學はむしろ墨家の末流である。縱横家が行人の官に出たと云つても、蘇秦や張儀の辯が行人の官とは縁遠いものであるが如く、出たと云へば出たやうなものゝ、必ずしも其の正系本統では無い。墨家の學が清廟の守に出たといふのも極※[#二の字点、1-2-22]稀薄な意味で、其の流れの末だといふ位に取らねばならぬ。然し、各派の學説の源を説いて、古の道術是に在る者有りと莊子の説いたのと、九流皆官に出づると爲して漢書の説いたのとは、同じく誣ひざる者があつて、各家の説皆古に原づくところのあることを語つて居るのであるから、墨家者流も忽然として新説を立てたのでは無く、古に依り古より出でゝ説を爲したとして宜しい。清廟に事有るものは巫でなければ史である、史佚史角の流は成程其人であらうし、墨子が史角の後に學び、史佚が墨家に列せられてゐるところを見れば、今は史佚の書が亡びて何樣な言を爲したものか考知することが出來無いが、墨子の學も其邊から出て來たとして認むべきである。但し墨子が史佚史角の學系に出たにせよ、墨子が自家の力量識見を以て、これを墨※[#「櫂のつくり」、第3水準1-90-32]流に擴張し開展して、そして所謂墨家を成立たせたことは認めなければならぬ。墨子以前の墨家者流の撰述と認むべきものは、尹佚二篇のみで、墨子以外の墨家者流著述は皆墨子の弟子の手に成つたもののみであるから。
 墨子の書は漢の時に於て七十一篇存在したが、今に存してゐるのは五十三篇である。そして其書は漢や晉に於て他の諸子が既に注釋詮考され出したにかゝはらず、墨子のみは棄てゝ置かれたので、唐から宋へかけても、誰も注疏などした人が無く、長い歳月の間に於て、漢の王充が墨子を論駁し、晉の魯勝が墨辯注を著はし、唐で韓退之が評し、宋で黄東發が評した位の事であつた。魯勝の墨辯注は何樣なものであつたか、晉の時代は後世の史家等から餘り立派な時代で無いやうに云はれてゐるが、定論になつてゐてもそれは感心されぬ論で、支那の各時代中でも哲學がゝつた方面は進歩した時代であると云ひたい位である。魯勝は天文學的知識の有つた人で、自分の生命を賭けて其學問上の自説を主張したと云はれて居り、其の注した部分は墨子の書の中でも今猶ほ甚だ讀み難き部分であるから、其の泯びたことは惜むべきであるが是非が無い。陶淵明の文と僞傳されてゐるものに、墨家の人のことに筆の及んでゐるものがあるところを見ると、晉時代には墨子が少しは士人の談論に上つたのかも知れないが、文の記するところも何だか異樣である。同じ晉の代には彼の博學能文の葛洪の爲に墨子は仙人のやうにされてしまつて、墨子は變化の術や金丹の法を得た人となり、墨子五行記などといふ者が有つて、神通變化の術を説いてあると云はれ、漢の劉安が未だ僊去せざる時に其要を抄記した一卷が遺つてゐるなどと傳へられ、五代の唐の莊宗の時に魏州の妖人楊千郎といふものが墨子の術を知つてゐて、能く鬼神を使役し、丹砂水銀を化する事を爲すとて、莊宗の崇愛を得た事實が、五代史卷十四に見えるに至つてゐる。葛洪は面白い人だが、神仙傳を撰んで、多く神異の事を録したために斯樣いふ事が起つたので、又同人の著はした抱朴子及び金※[#「さんずい+(勹<一)」、U+6C4B、180-9]經にも墨子と仙道に關することを載せてゐる。葛洪が妄撰した談だか、當時然樣いふ傳説が有つて、葛洪が之を記したのか不明だが、晉以來墨子が其爲に道家と縁を結んで、後には莊宗の爲に殺されて了ふ楊千郎の事の如きも五代の時には起るに至つたのである。然し何が幸になるか知れないもので、墨子が道家に混入させられた爲に、道藏の中に墨子の佳本が收採されてゐて、その爲に今日墨子を讀む便宜を得るに至つたのである。道藏外の墨子は訛舛の實に甚だしくて讀み難いものであつたのである。晉より後に至つて、梁の陶弘景、これも大學者の詩人であるが、道家が其の本領で、此人も神仙傳に依つて言を爲したのであらうが、墨子が金丹を服して仙となつたと記してゐる。孫子も鬼谷子も韓非子も諸葛孔明も、道家は皆これを道家にして了ふのであるから、墨子が道家にされても不思議は無いが、一つは墨子の學には「實物を處理する」ところがあつて、それが口授親傳され、そして其實際知識の得了されたものが所謂「巨子」となつて其學の宗師となる不文律のやうなものが有つたのであるから、神仙家の假託の談の成立つべき祕密傳授の如き地が有つたからであるかも知れない。墨子の弟子の禽滑釐が日に焦げ黒み、手足胼胝して苦學したといふが如きも、たゞ室内に在つて道を聞き教を受けるのでは然樣いふことになる譯は無い、工學的の實際を敢てしたればこそ然樣なるのであつて、然樣して其學成就すれば「巨子」となるのである。墨者の巨子孟勝が死に臨んで巨子を田襄子に屬した談の如くに、巨子といふのは儒家に於ける碩儒といふやうなたゞの美稱の意味のみでは無い、一種の相傳的地位といふやうなものの附加されてゐる意味を有してゐるのである。斯樣いふところは神仙家金丹家臭いところが無いでも無いのである。そして墨者は死を以て其道と地位とに殉ずる意氣が甚だ強かつたもので、墨子の弟子禽滑釐等三百人は楚を敵として死なうとし、巨子孟勝が呉起の亂に死した時は弟子徐弱をはじめ八十五人が皆死んでゐる。で、莊子には「巨子を以て聖人と爲し、皆之が尸たらんことを願ふ」と記し、淮南子には「墨子の服役百八十人、皆火に赴き刀を踏み、死して踵を旋さゞらしむ可し」と記し、新語の思務篇に「墨子の門、勇士多し」と云つてゐる。此等の有樣を考へると、墨學傳授の有樣は儒家とは大分異つて居り、特に兵科の事の實際を墨子の書の記してゐるところに照し考へれば、墨子は非戰主義では有るけれども、非戰主義でも無抵抗主義では無くて、侵略者を沈默させる主義であるため防禦的兵科を實習實行することをしたもので、それ故に史記に「守禦を善くす」と云はれたのである。神仙家の中には今日の化學作業の如きことをした者もある。墨子の學にも理化學的作業のやうなことをした部面も或は有つたかも知れぬ。飛行機の孩子の如き木鳶を墨子の造つた傳説も有り、雲梯等の攻城器械を無功ならしむる各般の實際設備と、攻城に對する防禦施爲とを墨子が説いてゐるところを觀ると、墨子の學は心識的のみで無くて手腕的の方面も伴なつてゐたもので、その實際施設の方面には口授親接によつて傳へられたものも多かつたらう。墨子が神仙家の方へ引張り込まれたのも少しは理由が有つたかも知れない。韓非子さへ其の學の核心に老子風の人生觀が少し許り存したため道家に入れられた位であるから。
 唐宋元明の間には前に言つた通り墨子は講明さるゝことも無くて過ぎたが、此は一つは墨子が讀み難い文であり、古字が有つたり、寫誤や錯簡が有つたり、又意味の元來晦澁なところが有つたり、解し易い部分は讀んでも興味が少かつたりしたためで、墨説の興味少くて華やかで無いことは既に韓非子に、楚王と田鳩との問答に見えてゐる通りである。先秦諸子の中で、公平に評して、墨子は餘り高級の出來榮の文章では無い。特に他書には見えぬやうな詞づかひなどもある。然樣いふ譯で長く顧みられず、且又儒學の兩大家である孟子荀子には斥けられ異端邪説とされてゐたのであるから、骨を折つて讀まうといふものも無く、僅に茅鹿門に明の時に評された位であつた。ところが清朝になつて古を攻むることが行はれたに際し、畢※[#「さんずい+元」、第3水準1-86-54]、孫星衍、盧文※[#「弓+召」、U+5F28、183-3]が初に出で、汪中、王念孫、引之が次で出で、後に兪※[#「木+越」、第3水準1-86-11]、孫詒讓等が出づるに及んで、衆燭の光り漸くにして闇を破り明を發し、何樣やら斯樣やら讀めるやうになつたのである。それでも中※[#二の字点、1-2-22]以て十分とはいかぬし、隅から隅まで明晰に解し得るとはならぬのであり、解釋に日が暮れて、批判といふところまで手を着けてゐるものは未だ見當らぬのである。何にせよ二千年も棄てゝ置かれた舊籍で爛脱訛舛が多いのみならず、孔老の道、莊列の書、管晏の説とも異なる墨子は墨子だけの特立の學であるから、其の理路を考へるにも沈涵の日數を累ねなければならぬので、今でも明白に讀み得ぬところが殘されてゐる。畢※[#「さんずい+元」、第3水準1-86-54]は博學な人ではあるが、一番最初に讀墨に着手した人なので、隨分多くの讀み誤りをしてゐる位である。でも畢氏から讀墨の道が拓けて、其後王引之が特に詞辭の學を詳にしたので、墨子特有の「惟母」といふやうな稀有の言葉づかひも明らかにされ、念孫の讀書雜志は大に墨子の錯簡や古字を闡明し、兪※[#「木+越」、第3水準1-86-11]の諸子平議は時に鑿説と思はるゝのもあるが、是亦少からぬ發明をして居り、孫詒讓が間話を撰するに至つて、衆説を※[#「さんずい+(匚<隹)」、第4水準2-79-7]會し、精力を傾倒して、おほよそは後學をして、此の滿目棒蕪の古典を窺知するを得せしめたのである。が、猶ほ甚だ多く不明の處が遺されてゐることは否定することが出來ぬのである。
 さて墨子の思想や主張に就いて語らうとするに、墨子を覗ひ知るべきものは今存してゐる五十三篇のほかに正しい材料とすべきものは無い。墨子に就ては先秦諸子及び漢の時の諸書が言及してゐるものが無いではないが、それ等は餘り價値は無い。淮南子の要略に、墨子儒者の業を學び孔子の術を受くなどと云つてゐるが如きは取るに足らぬ妄言であり、同書主術に、孔墨皆先聖の術を脩め、六藝の論に通ず、と云つてゐるのも、孔墨を同視した言で、孔墨の道の相反すること多きことを無視してゐる妄言である。古書古人の言と雖も間違つてゐるものは間違つてゐるのである。古書古人の言もたゞ參考とすべきであつて、無批判に採用は出來ぬ。それよりも墨子の書が幾篇を亡つても今幸に五十三篇を存してゐるから、直ちに其の書に就いて其説を觀取する方が宜い。
 但し現存の墨子は墨子の躬づから撰したもののみでは無い。古書多くは皆然りであるが、墨子の書の大部分は墨子の手に成つたのでは無くて、墨子の弟子、或は墨子の弟子の禽滑釐の弟子、或は其弟子の弟子等の手に成つたものである。其の證據は現存の墨子所染篇の末のところに「禽子傳説の徒是なり」とある句があるが、禽滑釐は墨子の弟子であるのに、それを「子」といふ尊稱を以て名いつてゐるのは、禽子系の弟子の手に文が成つたからである。又尚賢篇の中篇に、「且つ尚賢を以て政の本と爲す者は、亦豈獨り子墨子の言のみならんや」と記してある。墨子が自づから子墨子といふ譯は無いから、文が墨子の弟子、又は孫弟子の手に成つた證である。かゝる證は他にも幾箇處もある。して見れば現存墨子の書は少くも全部墨子の親撰に出でたものでは無い。論語が有子の弟子、若くは其同列地位の人の手で成つた如くに、現存墨子は禽子の弟子、孫弟子、若くは墨門の門弟子輩の手に成つたことは猜知するに難くない。然し其等の人の手に成つたとしても、現存墨子の中に、墨子の言の載つてゐることは疑も無いから、墨子を窺はんとするには現存墨子に依るのが不當でも何でも無い。現存墨子の中で、經篇は墨子自撰であるといふ人もある。それも疑はしいことで無くも無い。が、何にせよ現存墨子を除いては墨子を知るべき材料は何も無い。墨家の書といふものは、漢書に六部の書名が見えるが、胡非子隨巣子等の文は意林や太平御覽や北堂書鈔等に散見するのみで全豹は覗へぬのであり、何樣しても現存墨子を研究の標的とするほかに道は無い。
 墨子の現存五十三篇は、自分をして評させれば、おのづからにして三部を爲してゐるのである。此事は前人にかゝる言を爲したものは無いが、精しく墨子を讀んだ人ならば自分の言を首肯して呉れるだらう。其の三部といふのは何樣いふのであるかといふと、甲部は、
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親士、脩身、所染、法儀、七患、辭過、三辯、尚賢上、同中、同下、尚同上、同中、同下、兼愛上、同中、同下、非攻上、同中、同下、節用上、同中、同下、(闕)節葬上、(闕)同中、(闕)同下、天志上、同中、同下、明鬼上、(闕)同中、(闕)同下、非樂上、同中、(闕)同下、(闕)非命上、同中、同下、非儒上、(闕)同下、大取、小取、耕柱、貴義、公孟、魯問、公輸、□□、(闕)
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の篇※[#二の字点、1-2-22]であつて、これは墨子の對世間言、顯説、一般の士君子に對しての教諭訓説である。乙部は、
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經上、經下、經説上、經説下、
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の四篇であつて、これは前の諸篇の對外の言説であるとは異つて、墨學の學徒内のものであり、學問的に純なる部分であり、理論的、又は理論の取扱ひ方、認定論決の確實性を成立たしむる道の如きものである。或は墨子の死後に韓非子莊子の敍してゐる如く、別墨といふ一派、南方に於て墨學から開展したる學徒のものかも知れない。畢※[#「さんずい+元」、第3水準1-86-54]はこれを墨※[#「櫂のつくり」、第3水準1-90-32]の自著と云つたが、それは「經」といふ字に眼を奪はれたまでの説であるらしく、甲部の所説とは大に樣子が異つてゐる。墨子の中で最も讀み難いのは此部分である。甲部に擧げたが、大取、小取等の篇は、甲部の多數とは樣子が異つてゐて、或は此乙部に聯屬したもののやうな氣もする。公孫龍等の學説は漢書藝文志の説によれば、禮官に出たのであるが、公孫龍、惠施等の學と此の乙部及び大取小取等の篇の言とは少しく通ずるものがある。墨子の學と惠施の説と通ずるところがあるといへば、人は大口を開いて笑ふであらうが、これは他日細心の人の研覈に委ねることとして、こゝではたゞこれだけのことを言つて置く。それから丙部は、
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備城門、備高臨、備鉤、(佚)備衝、(佚)備梯、備堙、(佚)備水、□□、(佚)□□、(佚)備突、備穴、備蛾傅、備※[#「車+賁」、U+8F52、186-14]※[#「車+慍のつくり」、第4水準2-89-67]、(佚)備軒車、(佚)□□、(佚)□□、(佚)□□、(佚)迎敵祠、旗幟、號令、襍守、
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の篇※[#二の字点、1-2-22]である。此中に篇名不明なのと、篇名あるも佚字を記したのは今は亡はれたもので、七十一篇の目に合せしむるために篇名不明のものまでを擧げて置いたのである。此部は事と法とに約して判すれば、事の部で、理論や主張が説かれてあるのでは無く、全く兵事を説いたもので、防禦對敵の施爲を傳授したものである。嚴格に云へば非戰主義では無くて、非侵略主義であるところの墨子の説を實際に成立たせようとすれば、敵が侵略行爲に出て來る以上は對抗撃攘の道を講ぜねば空言に終るから、それで是の如き兵備施爲をば教へたものである。此部は甲部には關係があるが、乙部とは殆んど別途異門である。三部中の「事」の部として特立してゐるものと云つても宜い。然し理の中に事を觀るべく、事の中に理を觀るべしであるから、此部を度外視する譯にもゆかぬし、此部の所説に考へ照らして墨家の意途を觀て取るべきところも有る。
 以上の三部の中で、所謂墨家の説として古來の人※[#二の字点、1-2-22]の論議したところは甲の部であり、しかも墨家の思想や主張は實に殆んど甲部に盡きて居ると云つても宜いのである。
 墨子の道とするところは孔子の道とするところとは何としても異なつてゐる。然し古より儒墨といひ、又は孔墨と併べ稱したのは何故であるか、それは淮南子が謂つた通り、兩者いづれも先聖の術を脩め古王の道に依つたからで、孔子とは其の執るところが異なつたとは云へ、墨子も亦孔子と同じく堯舜禹湯文武を稱したのである。墨子も亦孔子と同じく詩、書を稱したのである。墨子は、吾嘗つて百國の春秋を見るといひ、又其の藏書の甚だ多かつたことを本書に記されてゐる。墨子も實に孔子と同じく古を學び史に據りて、そして所信を立てゝ居るので、我流に一家の見を立てたのでは無い。但し孔子と異なるに至つたところは、孔子は周の人として特に周公を尊び、周初の文治を謳歌し、何とかして周初の郁※[#二の字点、1-2-22]乎として文なる哉の代に一世をして引戻らせたい意を有してゐたのに、墨子は孔子よりも後の世に出で、世は愈※[#二の字点、1-2-22]自利自恣の念のみ強くなつて、且又人情は浮薄で、目前主義、享樂主義、虚榮の是認、奢侈の衒耀、殘虐と騙詐、侵略と劫掠、あらゆる惡徳の日に盛んならんとする時に際會したので、中※[#二の字点、1-2-22]孔子のやうに手緩い態度や思想や感情を抱いてゐることが出來ず、そこで孔子と同じく古王の道に依り、同じく先聖の術を脩めたのではあり、同じく道徳の念の強い人ではあつたが、其の實際に施爲せんとするところは、おのづから孔子とは色彩をも樣式をも異にするを以て時を救ひ世を濟ふの法に於て是なりとするに至つたものと見える。孔子は周公が周國の成立つて國家の機運と人民の精神との將に新しい文化を成就せんとするに適した時代の施爲にかゝる周初の道徳や教法や禮樂や及び其の精神を、理想の標的として言を立て教を布かれたと見えるが、墨子は同じ先聖古王の中でも、最も國家危難の時に當つて非常の勤勞を以て世を治め時を濟つたところの夏王の禹の道法や精神を以て、此の時代に對するのをば最適と信じたと見える。禹は非常の大洪水で天下が滅茶※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]になつた時に當つて、あらゆる困難窮乏に堪へて、其の偉大であり寛厚であり、そして畏るべき勞苦を辭せぬ勇健なる精神を以て、亂れ潰えた乾坤を處理し、人民を救濟した聖主である。尋常一樣のことでは如何ともする能はざる時に於て、大わらはになつて働いて、大抵の事は顧みるに遑も無く、一生懸命に世の爲に民の爲に勞苦したのが大禹である。周公だとて吐哺握髮して、一寸の暇隙も無く天下の爲にされたには相違無いが、大禹の時は周公の時どころでは無かつた。濁流山谷を掩うて、國境も分らなくなれば道路も無くなり、何も彼も眼鼻のつかないやうになつたのであるから、大禹は吾家にも歸らぬこと何年、眞黒になつて日に焦げ、向ふ臑に毛も無くなるまで奔走馳驅して、そして辛くも政治の功を擧げたのである。墨子の時は、孔子の時よりも世の中が愈※[#二の字点、1-2-22]亂れ立つて、爲政者は暑威暴利を縱いまゝにし、人民は頽廢的氣象になつて、まことに惡い世になり下つて來た。それは宛然濁水に山川陵谷を呑み盡された禹の大洪水の時の如くであつたのである。墨子が古聖賢の道を學んで、堯舜より周公に至るまでの人※[#二の字点、1-2-22]を稱しながら、特に大禹を稱すること、孔子が古聖賢を稱しながら、特に周公を夢みるまでに渇仰した如くであるのは、一つは孔墨の個性の差によること勿論だが、又一つは時代の形勢の差にもよつて居たらう。周公の施爲は文明的であり、大禹は生やさしいことは顧みて居られぬ時に當つたのであるから應急的施爲の常として實質的に傾かざるを得なかつたらう。墨子はもう孔子の如く周公の世に與へた文明的形式及び其精神を採るに堪へぬ時に當つてゐると、自己の時代を考へたであらうか、或は又自己の性質上に根ざす思想の傾向から、古聖の中に於て周公よりも大禹に心を惹かれたであらうか、何にせよ孔子が周公を仰いだ如くに墨子は夏王を仰いだのである。夏王の精神も周公の精神も國家人民に對する點に於ては勿論大同であらうが、其の施爲に於ては小異、イヤ大分の差異の有らうことは分明である。で、孔子墨子の其時を救ふの精神の大處は餘り間隔は有るまいとしても、一方が周初の文明施爲を理想の標的とし、一方が大洪水氾濫の時の實質的施爲を取るといふことになつては、其間に大なる距離が生じて來る。そこで韓文公は儒墨の距離を餘り大きく見ないで、其の精神の上に於て相通ずるところ有る者と評した、それは好觀察では有るけれど、孔墨兩家の爭は秦以前において既に發生してゐる。孟子と荀子とは其人生の信仰、及び古聖賢に對する解釋に於て大に差が有るが、兩子とも墨家に對しては同じく儒家として非難の鋒矢を向けてゐる。これも亦おのづから已む能はざるの勢といふもので、儒家が墨家を難じ、墨家が儒家を難ずるのは、互に相非とせずんば各※[#二の字点、1-2-22]自づから是とせざるに近きものであるから致し方は無いのである。
 儒墨は洵に異なるところが有る。然し異なるところの存すると同樣に同じきところもある。其同じきところは何かと云へば第一精神である。兩者同じく國家の安康にして人民の生を樂まんことを欲してゐる。此第一精神においては差は無い。佛氏は國家の觀念に於て甚だ稀薄であり、老氏は佛氏ほどでは無いが、又やゝ稀薄である。莊列は原人生活を謳歌するかの如く見えて、是亦國家を重視することに於て儒墨とは餘程の距離が有る。楊朱の學に至つては甚だしい個人主義である。墨子は他の諸家の如くに國家に對して稀薄の思想を有し、又は之を輕視無視する如き非實際的理想的思想的のところは無い。此點は儒家と同じである。墨子は其時代に於て用ゐらるれば直ちに國家人民の爲に有利であると信ずる實行可能性を有する言を爲したのであつて、實際的であり、空言的で無いところを、其力強い存在の支持としてゐる。空言の徒らに高くして實際の伴なはぬのをば墨家は「蕩口」といつて甚だしく卑んでゐる。言論の空しく美にして實に益無きをも「文を以つて用を害する」として恐れてゐる。すべて「實」を重んずるのは墨家の信條である。直ちに依つて以て天下國家を濟ふべきものを眞の道としてゐる。此點に於ては孔子の學と其色彩こそ少し異なるものがあれ、性質と精神とに於て相通じ相同じきものがある。
 たゞ其の實行の形式、及び其の形式の内に存する精神に於て、儒墨は何樣しても一致する譯には行かぬものがある。賢士を重んじ、正しき行爲を重んじ、教育を重んじ、法儀を重んずる等の點に於ては、儒墨同一である。然も墨子の孔子と相異なる第一は、墨子が甚だしく質素簡易な生活状態をば人の正當な生活状態と認め、これに反するものをば一切の社會惡の生ずる根本と見做してゐるのに、孔子は同じく儉素を尊び奢侈を惡みながらも、相當な文化を取入れることは、人間の自然でもあり、社會を善美にする所以でもあると認めて居られ、從つて「禮樂」を重んぜらるゝのであるから、そこで自づから左右に分岐するに至るのである。墨子は甚だしく「用を節する」ことを大切なこととする。用を節せぬ故に節度無き生活と慾求が起る。節度無き生活と慾求が起る故に自己を愛して已まぬ結果として他を侵害することが生じる。それが即ち社會の紛亂の根原である、と説いて、特に「治者」「優者」の節用を強調する。堯が天子の尊きを以て、「土階三等、茅茨剪らず」などと言囃したのも墨子から出たことである。堯が果して天子の尊きを以て然樣いふ生活をしたか否やは不明であつて、堯の女の墓と考へらるゝところの古墳の發掘に於て多くの珠玉を見出したことによつて、宋の羅廬陵は古傳の堯の甚だしい質素の眞否を疑つてゐる。が、史實は兎に角に墨子の時に於て然樣いふ傳説が有り、そして墨子がそれを振かざして、當時の分國の諸侯等の奢侈を戒め簡素儉約を強調したのは、墨子に於ては至當の事と考へたからであつた。詮ずるところ例へば齊の賢相の晏平仲の如きは墨子の最も善しとした人で、同じ賢相でも管仲の如きは三歸反※[#「土へん+占」、U+576B、192-9]の事があるから、墨子からは感心せぬ側の人であつたらう。此點が儒家でも實際世間といふものに對して判釋力を有してゐる人※[#二の字点、1-2-22]には必ずしも是認されない一つである。荀卿の如きは、そんな消極的な、不景氣招致に適したやうなことは不可である、社會が蹙然として萎縮してしまふ、人の上たる者は美ならず飾らずんば民を一にするに足らない、面白いものをあてがひ、味よきものを與へ、天下人民をして愉悦踴躍して、業を勤め生を樂ましめるやうにと取計らふのが聖王の道である、と論難してゐる。雙方に相當の主張は有るが、攻掠侵伐の爭亂が不節用の奢侈、無節度の生活に本づく場合の多いことも疑ふことの出來ない道理で、墨子の時代の君民皆放縱であつたに對し、墨子が節用を強調したのも確に一面の眞理を含んでゐる。今日簡易生活を叫ぶもののあるやうな譯で、時代の大勢は反對な或者を産み出す、河水が強く流れ下る時は其岸邊には上へ向く流れが生ずるやうなもので、墨子は放縱の世に際しておのづから敢然として節用を主張したのである。
 節用の主張を一環の半圓とすると、他の半圓として相助けて一環を成すものに兼愛の主張がある。兼愛とは非個人主義である。墨子の考では個人主義は罪惡の根源である。子が父を愛せず、弟が兄を愛せず、吏が上を愛せず、君が臣を愛せず、賊が自己を愛して他人を害し、諸侯が各※[#二の字点、1-2-22]自國を愛して異國を愛せず、皆自己を本位として、無節度の生活をすれば、天下の爭亂の生ぜぬ理は無い。兼ねるといふのは自他を兼ねるのである。兼の反對は別である、別は私である、兼は公である。古來の聖王、禹も湯も文王武王も皆「兼」の道を以て道と爲したのである、絶對に自己を利し他を顧みぬ如き、「別」の道を取つたのではない、「私」を爲したのでは無い、そこで終に天下の安と民庶の福とを致すを得たのである。人の上たる者、治者たる者は、「兼」に因らずして何樣して民を率ゐ世を治むるを得よう。民も亦「兼」によらずして何樣して家を齊へ生を樂むことを得よう。我が人の親をも愛利し、人も亦我が親を愛利し、交※[#二の字点、1-2-22]兼ねるの道が立つに至つて眞の平和と幸福とが成立つのである。詩に謂はゆる、我に投ずるに桃を以てす、之に報ゆるに李を以てす、といふやうでなければ、人生は眞の幸福では無い、といふのが墨子の説で、「兼」の道は古聖王の取つたところの大道であると、古に徴して論證し、世間是の如くならざるべからずと、今に照して説諭し、反對側の個人主義を不幸への道であるとして、論談甚だ力めてゐる。墨子の此の主張が、多分を治者優者に對つて爲されてゐるのは特に有理であつて、其意は先づ人の上長たる者の「兼」を以て道とせんことを求め、そして此「兼」の道に民庶も從ふに至るによつて理想的幸福世界を現ぜんとするに在る。此主張はもとより史的の正確不正確を以て爭ふべきでも無く、又其主張の中に含まれてゐる意圖の善惡等を以て爭ふべきでも無く、自己を中心とする楊朱の刻薄な思想などより遙に立勝つてゐる博大な善良な立派なものである。然し人は如何にしても自己を中心としてゐるものであるといふ現在事實とは牴觸してゐる弱味が有ることは爭はれぬ。たゞ眞の人間の幸福といふものは「兼」の道によつてのみ得らるべきものであるとしたら、眞の幸福を得んとするのは是亦人の如何ともする能はざる本願であるから、自己中心といふ現在事實を漸※[#二の字点、1-2-22]と克服せんとするに力むべきであるとせねばならぬのであるから、墨説も人類の本願といふところに於て非常な強みを有つてゐるのである。然も此説もまた儒家とは容れぬところがある。儒家は勿論楊朱の如き自己中心主義では無いが、自他に於て程度の差を立つることを自然の状態でもあり道理の眞致でも有るとしてゐる。人の親を敬愛せぬことは無いが、吾が親を敬愛して然して後に人の親を敬愛し得ると爲してゐる。そこに差別があつて、その差別は自然であり道理であるとしてゐる。そこで孟子は墨子の道をば、「墨子の兼愛するは是れ父を無みする也、父を無みするは是れ禽獸なり」と酷論してゐるが、これは少し苛評である。孟子は墨子が爲政者治者等に對して「兼」の道を強調してゐるところを看過してゐる。孟子が「何ぞ必ずしも利をいはん」と云つて、人各※[#二の字点、1-2-22]自ら利せんとすれば社會は何樣にもならぬものである、と説いたところは、正に是れ墨子の兼愛の説の由つて出づるところである。今少し墨子の精神を看取して、そして徐ろに儒家の差別説が墨子の無差別説に優るあるところを説破しなければ、墨家をして首肯せしむるには至らぬと考へられる。
 節用は質素簡樸の原徳を保持する所以であり、質樸は勤勞と因果の好循環を爲す所以である。これに對して奢侈は人の原徳を喪失するに至らしむる所以であり、又奢侈は安逸遊惰と因果の醜循環を形づくるものである。善く勤勞に服すれば、※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76]食冷水も其の甘きこと精饌美※[#「酉+碌のつくり」、U+9181、195-9]の如く、草に睡り樹に枕するも其夢は安靜甘美であるべきである。そして好き睡眠と善き攝養とは、復び勇健爽快なる精神による確實重厚性の尊き勞作を甘なはしむるものである。これと同じ比例に遊惰なる生活は奢侈を要求し、奢侈は又人をして遊惰ならざる能はざらしむるものである。此の意味に於て、墨子は節度ある生活、質樸なる生活を強調すると同時に、「勤勞」といふことを極力強調し、これが世を濟ひ社會を拯ふ所以の道であるとする。彼の大洪水の時に當つて、大禹が水行陸行、奔走寧日無く、營※[#二の字点、1-2-22]孜※[#二の字点、1-2-22]として身を碎き心を勞したところは、殆ど其の形儀の標的であるとするのである。莊子をして、「禹親自に※[#「士/冖/石/木」、第4水準2-15-30]耜を操つて天下の川を鳩雜し、腓に※[#「月+拔のつくり」、U+80C8、196-1]無く、脛に毛無く、甚雨に沐し、疾風に櫛けづり、萬國を置く、禹は大聖也、而して形の天下に勞するや斯の如し、後世の墨者をして多く裘褐を以て衣と爲し、跂※[#「足へん+喬」、第3水準1-92-40]を以て服と爲し、日夜休まず、自ら苦むを以て極と爲し、曰く、此の如くなる能はずんば、禹の道に非ざるなり、墨と謂ふに足らずと」と云はせた通り、實に墨子の道は勤勞に服することを人たるものの道の根幹と認めてゐたのである。勞に服することは道であり善であり美であり幸福であり、これによつて世界は化醇し人間は至樂を得るとしたもので、墨家が向臑に毛の無くなるまで奔走勞作することを尊んだことは、楊朱が吾が脚の一毛を拔いて天下を利することになるとも其の一毛を拔くことを肯んじない利己主義と極端の對照を爲してゐるものである。此墨子の服勞を重んじたことは如何にも立派な精神から出てゐることであるが、一面には明らかに當時の君主も士人も民庶も衰世的の精神傾向を有して皆各※[#二の字点、1-2-22]巧慧狡猾と遊惰安逸と奢侈放肆と虚榮浮美とを以て生活を遂げんとしてゐた状態に切齒して反抗したるに出で、勤勞に服せずんば人世それ如何との感想から出發してゐることも看取されるのである。
 そこで墨子の政體に就ての觀察も是の如きの思想精神から來るために、精しく論ずる時は少し儒家の見とは異なるもののあることが見える。墨子の目に映じた天子といふものは天子の名はあつても、天若くは神の寵命を受けて此世に君臨する運命を負うてゐる天子では無い、神權説的の天子ではない。墨子の思想では、人各※[#二の字点、1-2-22]其義とするところのものを有すれば、一人一義、十人十義、百人百義、千人千義で、義の定まるところは無い。各※[#二の字点、1-2-22]皆其義を是として人の義を非とすれば、厚き者は鬪、薄き者は爭を生ずる。そこで「兼」といふことの大切なるが如くに「同」といふことが大切である。衆義を一にして、衆異を融冶し、賢者を選擇して立てゝ天子と爲すのであり、そして天子の是とするところは民必ず之を是とし、天子の非とするところは民必ず之を非とし、天子は又必ず天即ち「兼愛」の本體と一致すべきである、とするのである。墨子の天子は「賢者を選擇して立てゝ天子と爲す」といふのであるから、天子の根源は「大統領」と同じものである。これは支那上古の政史に於て、或は然樣であつたので、墨子の上古史解釋は間違つて居らぬかも知れぬ、又或は然樣では無かつたかも知れぬ、墨子の理想の影を以て上古を掩うたのかも知れぬ。いづれにしても此の一半は史的の事にかゝるが、墨子の解では「尚同一義」といふことが非常に大切なことで、そこで、尚同一義のために、天子の獨力が天下を治むるに足らぬから其下に三公を立てる、三公の下に諸侯を立てる、諸侯の次に卿と宰とを立てる、卿と宰とで未だ足らぬから、次に郷長・家君を置く、正長・里長等、墨學に於ては天子以下次第に、絲縷の紀あり、網罟の綱有るが如くに組織立つた職制を置いて、そして同じきを尚び義を一にするのである。墨説によれば諸侯等は富貴遊佚を謂れ無く得るものでは無くて、天子と人民との間に尚同一義の機關として、馳驅して以て上に告げ下に臨むところのものである。墨子の尚同一義の旨を詳しく察すると、墨子は君主は兵力徳力等を以て人民を克服して成立つたものとせずして、民意によつて其異を去り同に歸し爭を除き利を公にする爲に成立したものとする。つまり君主政體を解釋するに民主政體を以てせんとするが如くに見える。上古の支那の政治の實相は或は墨子の言の如くであつたかも知れぬが、それは暫く保留して置く問題として、夏・殷・周に至つては君主政體が確立してゐるのだから、周制を是とする儒家とは此點に於ても墨家は異説であるに相違無い。尚同の論は墨家の古を援き語を壯んにして極力主張するところであるが、儒家でさへ政治の妨害とした秦の時、是の如きの學説が秦の朝廷から酷烈に彈壓されたらうことは分明であるから、秦の後に墨學の全く絶滅した如き觀があるのも不思議では無い。
 墨子の政論は是の如くであるから、勢として人世の最上權力者の上に「天」といふ者を立てなければならぬ。そこで墨學では「天」といふものを立てる。「天」は「兼愛兼利」である。天意に順ふを「義政」と爲し、天意に反くものを「力政」とする。上は天に、中は鬼神に、下は人民に利するものを聖王と云ひ、然らざるものを暴王といふとする。「政」は「正」であるとする、「義」は「善政」であるとする。義は「天」より出づるとする。天子の貴き所以は「天の意」を奉ずる故であるとする。是に於て墨學は少し宗教じみる。天は民を愛する厚きものである、堯舜禹湯文武は天意を奉じたもので、それで天の賞を得たものであるとする。兼愛は「天志」である、獨り我が「天志」を以て儀法と爲すのみならず、先王の書、大夏の道に於て然るあるなり、と斷じ、天志は義の經也と斷じてゐる。天志を規矩として世に臨まんとしてゐる。上帝鬼神は天子より庶民の上に存してゐるものとする。帝と鬼は義の體であり、兼愛其物であるとしてゐる。こゝは大に基督教的信仰に近い。從つて天地間の現象は有意義のものであり、天の褒美、天の刑罰が存在してゐるものと認めてゐる。從つて祭祀は無意義のもので無いとしてゐる。此點は儒家にも通じ、支那上代より存してゐる上帝の思想にも淵源してゐる。が、然し墨家では隨つて「運命」を信ぜぬ。「運命」といふものは盲目的なものであるが、墨家では盲目的な運命を認めず、吉凶禍福窮通は皆意義あるものとして、偶然といふやうなものを認める如き生緩い考を有せず、天志に從へば必ず可であるとしてゐる。「非命」の論の立つ所以で、ここは又儒家と岐れる。儒家では不可測の「命」が有るとする、墨家ではそんな不明なものは無いとして、牢固なる信念に立ち、天志を奉じて努力勤勞すれば可なりとしてゐる。
 鬼神を信ずることは又墨子の勇氣ある行爲を取らしむる所以の一である。不幸にして又其論の三の二を失つてゐるが、墨家の鬼神といふものは猶ほ耶蘇教の天使といふが如きものである。「深溪博林幽澗無人の所有りと雖も、施行は以て正しうせざるべからず、鬼神ありて之を視る」となして居る。虞夏商周の聖王の天下を治むるに鬼神を先にする者は必ず鬼神を以て有りとするからであると爲し、而して人死して或は鬼神となり、天の化育を贊し施運を輔くるものと爲し、古傳説を援いて之を證し、古儀式を釋して之を通じ、鬼神のまざ/\と存することを説いてゐる。これは明らかに古來からの信仰に依つたもので、必ずしも墨子一家の言では有るまいが、此點に於ても儒家は墨家ほどに人の死後或は生けるが如くに存することなどを執しては居らぬ。儒家では死後の状態などを問題にすることを好まない。天神地祇人鬼の語は儒家にも存するが、墨家ほどには語らない。
 人の鬼となるものの有ることを信じてはゐるが喪葬に關しては墨家は儒家ほどに重視せぬ。これは節用と勤勞とを尊ぶより出たことで、厚葬久喪は財を靡し事を妨げ、國家人民をして窮乏に陷らしむるからで、桐棺三寸、衣裳三領が古聖王の葬埋の法であるとなし、死則ち既に以て葬る、生者必ずしも久哭する無かれ、そして人各※[#二の字点、1-2-22]其事に從へ、といふのが墨説である。墨説では、堯でも舜でも禹でも、あれほどの聖者でも皆薄葬である、今に當つて何ぞ厚葬を用ゐんといふのであるが、周の俗に至つては中※[#二の字点、1-2-22]鄭重な葬儀を用ゐたもので、今に至つて支那人は世界各國民中でも厚葬する國民である、墨子時代にも隨分家を敗り産を毀つほどに半分は虚榮的俗習的壓逼を感じながらも厚葬したものと見える。で、何事にも實際を重んずる墨子は其俗を改めて、そんな事は人世を利する所以で無いと爲し、且又三年の喪などといふのも其實は虚禮虚式になつてゐる世なのであるから、むしろ三月で澤山であるとなしたのである。事實に於て三年の喪などは眞に行はれては居ないのであるが、虚禮は二千年後の今日にも稀に行はれてゐるほどの支那であるから、墨子の厚葬久喪を非とした論は、裏面は兎に角に表面は歡迎されなかつた事であらう。音樂も亦墨家の勤儉主義からは弊多く利少きものとして斥けられた。葬を薄くし樂を非とするといふことは、儒家では最も大切にする禮樂を輕視するのであるから、此點は大に儒家に論難せられ、荀子なんどには手嚴しく非樂説を糺彈されてゐる。然し墨子の當時、良い樂は聲を潛めて、むしろ人の善良の精神を破壞し、頽廢的氣分を増長させるやうな靡曼の音樂が行はれて、淫蕩の風を煽るやうなもののみ多かつたから、激して非樂の論を發するに至つたものでも有らうし、又墨子の性癖が是の如くなるに至らしめたのでも有つたらう。薄葬は可否相半してゐる。陶淵明の如き温藉の人でも、「裸葬また何ぞ惡からん」と云つて居る位だから、墨子及び其徒にして薄葬を好み、又久喪を非とするならば其の所望に任せて宜しいが、之を人に強ひんとするに至つては餘り感心も出來ぬ。況んや非樂に於ては、其意は或は可にして、其言は或は時弊に當つたものにせよ、人情に遠い頑固論であり、之を人に強ひんとするは不通の説である。且又古聖が樂を重んぜぬなどと言つたのは明らかに古聖を誣ひたもので、荀子に駁倒されたのも是非ないことである。莊子が墨家を評して、「其の生けるや勤め、其の死するや薄く、生きて歌うたはず、死して服せられず、桐棺三寸にして而も槨無く、其道や大※[#「轂」の「車」に代えて「角」、第4水準2-88-48]、人をして憂ひしめ、人をして悲ましむ、其爲し難きを行ふや、其の以て聖人の道と爲す可からざるを恐れ、天下の心に反す、天下堪へずんば、墨子獨り能く任ふと雖も、天下を奈何にせん」と云つたは實に適評で、大※[#「轂」の「車」に代えて「角」、第4水準2-88-48]といふのは「うるほひの無い」といふことである。墨子の道は惡しからずと雖も、「うるほひの無い」ことは爭へない。貞しい説でも有り善い教へでも有らうが、一口に云へば野暮なことで、天下堪へず、墨子獨り能く任ふと雖も天下を如何にせん、と云つたのは流石に洒落者の巧みな論破ぶりである。
 經、及び經説は前に述べた如くに奇異にまで見えるものである。恐らくは「別墨」の言であらう。晉の魯勝の書でも存して居たらば少しは明らかに解し得ようが、數學の如く、論理學の如く、實に異なものである。列子の中、莊子の中、淮南子の中などに、これと相渉るものが少し存するが、宛として幾何學の出來ぬ學生が強ひて幾何學的論證をしてゐるのを聞くが如く、理屈めいて而もとりとめの無いやうなものである。惠施や公孫龍の學に近い、イヤ惠施や公孫龍の學が或はこれから※[#「糸+寅」、U+7E2F、202-8]出されたものかを疑ふ。考古の念の強いものに在つては、ゆつくりと研鑽したら或は面白いことを發見するか知れぬが、要するに墨學の主張を是の如き辯證法で裏づけたものか、或は墨學を爲す者が、一部面に於て是の如きことを學んだのか知らぬけれど、尚同・兼愛・節用・天志等の論とは交渉の濃厚で無いものであり、おのづから別部を爲してゐるものであり、且其の思想を抽出して語り難いものである。強ひて言へば※[#「石+徑のつくり」、U+785C、202-13]※[#二の字点、1-2-22]然として理を析ち事を究めんとするの言を累ねたもので、而も零細叢※[#「月+坐」、第4水準2-85-33]、一貫の脈絡無きに近きもので、たゞ其の勃※[#「穴かんむり/卒」、第4水準2-83-16]として※[#「儡のつくり/糸」、第3水準1-90-24]瓦結繩の辯を陳ぶるを看るのみである。
 墨子の兵科の教は當時に於ては實用に供せらるべきことで有つたから、重要の事で有つたらう。狗を用ゐて敵の近づくを知つたり、火を用ゐて敵の攻撃器具を燒いたり、空罌を地に埋めて共鳴槽の道理によつて敵が隧道を掘鑿して城に入らんとするのを早く悟つて之に應ずべき處置を取つたりすることなど、中※[#二の字点、1-2-22]感ずべきことを説いてゐる。然し墨子の學説には皆交渉の薄いことであるが、墨子が兼愛の主張からして、侵攻は墨子の非常に憎惡するところで、これに對してはたゞに之を非とするのみでは無く、實際の防禦に訴へて侵略攻撃し來る者を撃退せんことを平常時に於て攻究し置き、時に臨んでは其不法非道の攻撃者を粉碎せんことを期してゐる。これは明らかに當時に於て墨子一派が世に重視せられた一因を爲してゐたに違ひ無い。其の方法擧施は今日に於て取るところが有るべくも無いが、たゞ其中に於て驚くべきことがある。それは墨子が、籠城守禦の場合に於ては、女子老少をして其の兵務を執らしむること殆ど男子に異なる無からしむることで、而も女子老少と雖も兵務を執らしむる以上は軍律を以て是を律することである。大抵兵士の割合、丈夫十人、壯女二十人、老少十人といふことで、兵の一には女子の二、老少の一を用ゐる比例になつてゐる。籠城の場合だから是非無しとは言へ、女子と老少とを斟酌無く使はうとすることは流石に墨子である。女子も參政權など要求する道理が有るのだから、兵務に就かせらるべき權利の有ることは勿論であるから、これは明らかに墨子の最も進歩した思想に本づいた施爲である。大※[#「轂」の「車」に代えて「角」、第4水準2-88-48]にして、「うるほひの無い」どころでは無い、女子より音樂を取上げて、土畚を荷はせたりなんぞしようとしたのは、隨分手強い人である。此事は前人が墨子を論ずるに當つて誰も指摘して居らぬが、孫子が女兵を調練して軍律を用ゐんとした談と共に、周秦の間の世相に就いて或種の考を抱かせる。大體に於ての墨子の評は先づ莊子の評が當つてゐる。
                          (昭和四年七月)

底本:「露伴全集 第十八卷」岩波書店
   1949(昭和24)年10月10日発行
底本の親本:「岩波講座 世界思潮 第二册」岩波書店
   1929(昭和4)年7月発行
初出:「岩波講座 世界思潮 第二册」岩波書店
   1929(昭和4)年7月発行
入力:しだひろし
校正:大沢たかお
2011年1月7日作成
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幸田露伴

平将門—— 幸田露伴

 千鍾《せんしよう》の酒も少く、一句の言も多いといふことがある。受授が情を異にし※[#「口+卒」、第3水準1-15-7]啄《そつたく》が機に違《たが》へば、何も彼《か》もおもしろく無くつて、其れも是もまづいことになる。だから大抵の事は黙つてゐるに越したことは無い、大抵の文は書かぬが優《まさ》つてゐる。また大抵の事は聴かぬがよい、大抵の書は読まぬがよい。何も申《さる》の歳だからとて、視ざる聴かざる言はざるを尚《たつと》ぶわけでは無いが、嚢《なう》を括《くゝ》れば咎《とが》無しといふのは古《いにしへ》からの通り文句である。酒を飲んで酒に飲まれるといふことを何処かの小父さんに教へられたことがあるが、書を読んで書に読まれるなどは、酒に飲まれたよりも詰らない話だ。人を飲むほどの酒はイヤにアルコホルの強い奴で、人を読むほどの書も性《たち》がよろしくないのだらう。そんなものを書いて貰はなくてもよいから、そんなものを読んでやらなくてもよい理屈で、「一枚ぬげば肩がはら無い」世をあつさりと春風の中で遊んで暮らせるものを、下らない文字といふものに交渉をもつて、書いたり読んだり読ませたり、挙句《あげく》の果には読まれたりして、それが人文進歩の道程の、何のとは、はてあり難いことではあるが、どうも大抵の書は読まぬがよい、大抵の文は書かぬがよい。酒をつくらず酒飲まずなら、「下戸やすらかに睡る春の夜」で、天下太平、愚痴無智の尼入道となつて、あかつきのむく起きに南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》でも吐出した方が洒落《しやれ》てゐるらしい。何かの因果で、宿債《しゆくさい》未《いま》だ了《れう》せずとやらでもある、か毛武《まうぶ》総常《そうじやう》の水の上に度※[#二の字点、1-2-22]遊んだ篷底《はうてい》の夢の余りによしなしごとを書きつけはしたが、もとより人を酔はさう意《こゝろ》も無い、書かずともと思つてゐるほどだから、読まずともとも思つてゐる。たゞ宿酔《しゆくすゐ》猶《なほ》残つて眼の中がむづゝく人もあらば、羅山が詩にした大河の水ほど淡いものだから、却《かへ》つて胃熱を洗ふぐらゐのことはあらうか。飲むも飲まぬも読むも読まぬも、人※[#二の字点、1-2-22]の勝手で、刀根《とね》の川波いつもさらつく同様、紙に鉛筆のあたり傍題《はうだい》。
 六人箱を枕の夢に、そも我こそは桓武《くわんむ》天皇の後胤《こういん》に鎮守府将軍|良将《よしまさ》が子、相馬の小次郎|将門《まさかど》なれ、承平天慶のむかしの恨《うら》み、利根の川水日夜に流れて滔※[#二の字点、1-2-22]《たう/\》汨※[#二の字点、1-2-22]《ゐつ/\》千古|経《ふ》れども未だ一念の痕《あと》を洗はねば、※[#「にんべん+爾」、第3水準1-14-45]《なんぢ》に欝懐の委曲を語りて、修羅《しゆら》の苦因を晴るけんとぞ思ふ、と大《おほ》ドロ/\で現はれ出た訳でも何でも無いが、一体将門は気の毒な人である。大日本史には叛臣伝に出されて、日本はじまつて以来の不埒者《ふらちもの》に扱はれてゐるが、ほんとに悪《にく》むべき窺※[#「穴かんむり/兪」、第4水準2-83-17]《きゆ》の心をいだいたものであらうか。それとも勢《いきほひ》に駆られ情に激して、水は静かなれども風之を狂はせば巨浪怒つて騰《あが》つて天を拍《う》つに至つたのだらうか。先づそこから出立して考へて見ることを敢《あへ》てしないで、いきなり幸島《さじま》の偽闕《ぎけつ》、平親王呼はり、といふところから不届至極のしれ者とされゝば、一言も無いには定まつて居るが、事跡からのみ論じて心理を問は無いのは、乾燥派史家の安全な遣り方であるにせよ、情無いことであつて、今日の裁判には少し潤《うるほ》ひがあつて宜い訳だ。そこで自然と古来の史書雑籍を読んで、それに読まれてしまつた人で無い者の間には、不服を称《とな》ふる者も出て来て、現に明治年間には大審院、控訴院、宮内省等に対して申理を求めんとした人さへあつたほどである。然無《さな》くても古より今に至るまで、関東諸国の民、あすこにも此所にも将門の霊を祀《まつ》つて、隠然として其の所謂《いはゆる》天位の覬覦《きゆ》者《しや》たる不届者に同情し、之を愛敬してゐることを事実に示してゐる。此等は抑※[#二の字点、1-2-22]《そも/\》何に胚胎《はいたい》してゐるのであらうか、又|抑《そも》何を語つてゐるのだらうか。たゞ其の驍勇《げうゆう》慓悍《へうかん》をしのぶためのみならば、然程《さほど》にはなるまいでは無いか。考へどころは十二分にある。
 心理から事跡を曲解するのは不都合であるが、事跡から心理を即断するのも不都合である。まして事跡から心理を即断して、そして事実を捏造《ねつざう》し出すに至つては、愈※[#二の字点、1-2-22]《いよ/\》以て不都合である。日本外史はおもしろい書であるが、それに拠《よ》ると、将門が在京の日に比叡《ひえい》の山頂に藤原|純友《すみとも》と共に立つて皇居を俯瞰《ふかん》して、我は王族なり、当《まさ》に天子となるべし、卿は藤原氏なり、関白となるべし、と約束したとある。これは神皇正統記やなぞに拠《よ》つたのであるが、これでは将門は飛んでも無い純粋の謀反人《むほんにん》で、其罪逃るゝよしも無い者である。然しさういふ事が有り得るものであらうか。楚《そ》の項羽《かうう》や漢の高祖が未だ事を挙げざる前、秦《しん》の始皇帝の行列を観て、項羽は取つて以て代るべしと言ひ、高祖は大丈夫|応《まさ》に是の如くなるべしと言つたといふ、其の史記の記事から化けて出たやうなことだ。二人の言ですら、性格描写として看《み》れば非常に巧妙であるが、事実としては、史記に酔はぬ限は受取れない。黄石公を実在の人として受取るほどに読まれてしまへば、二人の言を受取らうし、大鏡を信仰しきつて、正統記を有難がればそれまでだが、どうも史記の香がしてならない。丁度将門乱の時の朱雀帝頃は漢文学の研究の大に行はれた時で、天慶の二年十一月、天皇様が史記を左中弁藤原|在衡《ありひら》を侍読《じどく》として始めて読まれ、前帝|醍醐《だいご》天皇様は三善清行《みよしきよつら》を御相手に史記を読まれた事などがある。それは兎に角大日本史も山陽同様に此事を記してゐるが、大日本史の筆法は博《ひろ》く采《と》ることはこれ有り、精《くは》しく判ずることは未だしといふ遣り方である。で、織田|鷹洲《ようしう》などは頭から叡山※[#二の字点、1-2-22]上の談を受取らない。清宮秀堅《せいみやひでかた》も受取らない。秀堅は鷹洲《ようしう》のやうに将門に同情してゐる人では無くて、「平賊の事、言ふに足らざる也、彼や鴟梟《しけう》之性を以て、豕蛇《しい》の勢に乗じ、肆然《しぜん》として自から新皇と称し、偽都を建て、偽官を置き、狂妄《きやうまう》ほとんど桓玄司馬倫の為《ゐ》に類す、宜《うべ》なるかな踵《くびす》を回《かへ》さずして誅《ちゆう》に伏するや」と云つて居るほどである。然し下瞰京師のことに就ては、「将門はもと検非違使佐《けびゐしのすけ》たらんことを求めて得ず、憤を懐《いだ》いて郷に帰り、遂に禍を首《はじ》むるのみ、後に興世《おきよ》を得て始めて僣称《せんしよう》す。猶《なほ》源頼朝の蛭《ひる》が島《しま》に在りしや、僅《わづか》に伊豆一国の主たらんことを願ひしも、大江広元を得るに及びて始めて天下を攘《ぬす》みしが如き也、正統記大鏡等、蓋《けだ》し其跡に就いて而して之を拡張せる也、故に採《と》らず」と云つてゐる。此言は心裏《しんり》を想ひやつて意を立てゝゐるのだから、此も亦|中《あた》ると中らざるとは別であるが、而も正統記等が其跡に就いて拡張したのであらうといふことは、一箭双※[#「周+鳥」、第3水準1-94-62]鵬《いつせんさうてう》を貫いてゐる。宮本|仲笏《ちゆうこつ》は、扶桑略記に「純友|遙《はるか》に将門|謀反《むほん》之由をきゝて亦乱逆を企つ」とあるのに照らして見れば、是れ将門と相約せるにあらざること明らかなりと云つてゐる。純友の南海を乱したのが同時であつたので、如何《いか》にも将門純友が合謀したことは、たとへば後の石田三成と上杉景勝とが合謀した如くに見え、そこで天子関白の分ちどりといふ談も起つたのであらう。純友は伊予掾《いよのじよう》で、承平年中に南海道に群盗の起つた時、紀淑人《きのよしひと》が伊予守で之を追捕した其の事を助けてゐたが、其中に賊の余党を誘つて自分も賊をはじめたのである。将門の事とはおのづから別途に属するので、将門の方は私闘――即ち常陸大掾《ひたちだいじよう》国香や前《さきの》常陸大掾|源護《みなもとのまもる》一族と闘つたことから引つゞいて、終《つひ》に天慶二年に至つて始めて私闘から乱賊に変じたのである。其間に将門は一旦上京して上申し、私闘の罪を赦《ゆる》されたことがある位である、それは承平七年の四月七日である。さすれば純友と将門と合謀の事は無い。随《したが》つて叡山|瞰京《かんきやう》の事も、演劇的には有つた方が精彩があるかも知れないが、事実的には受取りかねるのである。そこで夙《つと》に覬覦《きゆ》の心を懐《いだ》いてゐたといふことは、面白さうではあるが、正統記に返還して宜《よ》いのである。正統記の作者は皇室尊崇の忠篤の念によつて彼の著述をしたのであるから、将門如きは出来るだけ筆墨の力によつて対治して置きたい余りに、深く事実を考ふるに及ばずして書いたのであらう。山陽外史に至つては多く意を経ないで筆にしたに過ぎない。
 将門が検非違使《けびゐし》の佐《すけ》たらんことを求めたといふことも、神皇正統記の記事からで、それは当時の武人としては有りさうな望である。然し検非違使でゞもあれば兎に角、検非違使の別当は参議以上であるから、無位無官の者が突然にそれを望むべくは無い。して見れば検非違使の佐か尉《じよう》かを望んだとして解すべきである。これならば釣合はぬことでは無い。其代りに将門の器量は大に小さくなることであつて、そんなケチな官を望む者が、純友と共に天子関白わけ取りを心がけるとなると、前後が余りに釣合はぬことになる。明末の李自成が落第に憤慨して流賊となつたやうなものであると、秀堅は論じてゐるが、それは少しをかしい。彼《かの》国の及第は大臣宰相にもなるの径路であるから、落第は非常の失望にもならうが、我邦で検非違使佐や尉になれたからとて、前途洋※[#二の字点、1-2-22]として春の如しといふ訳にはならない。随つて摂政忠平が省みなかつたために検非違使佐や尉になれ無いとて、謀反《むほん》をしようとまで憤怨する訳もない。此事は、よしやかゝる望を抱いたことが将門にあつたとしても、謀反といふこととは余りに懸離《かけはな》れて居て、提燈《ちやうちん》と釣鐘、釣合が取れ無さ過ぎる。鷹洲は此事を頭から受取らないが、鷹洲で無くても、警部長になれなかつたから謀反《むほん》をするに至つたなどといふのは、如何に関東武士の覇気《はき》勃※[#二の字点、1-2-22]《ぼつ/\》たるにせよ、信じ難いことである。で、正統記に読まれることは御免を蒙らう。随つて将門始末に読まれることも御免蒙らう。
 将門謀反の初発心《しよほつしん》の因由に関する記事は、皆受取れないが、一体当時の世態人情といふものは何様《どん》なであつたらう。大鏡で概略は覗へるが、世の中は先づ以て平和で、藤原氏繁盛の時、公卿は栄華に誇つて、武士は漸《やうや》く実力がありながら官位低く、屈して伸び得ず、藤原氏以外の者はたまたま菅公が暫時栄進された事はあつても遂に左遷を免れないで筑紫《つくし》に薨《こう》ぜられた。丁度公の薨ぜられた其年に将門は下総に勇ましい産声《うぶごえ》をあげたのである。抑《そも/\》醍醐帝頃は後世から云へばまことに平和の聖世であるが、また平安朝の形式成就の頂点のやうにも見えるが、然し実際は何に原因するかは知らず随分騒がしい事もあり、嶮《さが》しい人心の世でもあつたと覚えるのは、史上に盗の多いので気がつく。仏法は盛んであるが、迷信的で、僧侶は貴族側のもので平民側のものでは無かつた。上《かみ》に貴冑《きちう》の私曲が多かつたためでもあらうか、下には武士の私威を張ることも多かつた。公卿や嬪媛《ひんゑん》は詩歌管絃の文明にも酔つてゐたらうが、それらの犠牲となつて人民は可なり苦んでゐたらしい。要するに平安朝文明は貴族文明形式文明風流文明で、剛堅確実の立派なものと云はうよりは、繊細優麗のもので、漸※[#二の字点、1-2-22]《ぜん/\》と次の時代、即ち武士の時代に政権を推移せしむる準備として、月卿雲客が美女才媛等と、美しい衣《きぬ》を纏《まと》ひ美しい詞を使ひ、面白く、貴く、長閑《のどか》に、優しく、迷信的空想的詩歌的音楽的美術的女性的夢幻的享楽的虚栄的に、イソップ物語の蟋蟀《きりぎりす》のやうに、いつまでも草は常緑で世は温暖であると信じて、恋物語や節会《せちゑ》の噂で日を送つてゐる其の一方には、粗《あら》い衣を纏《まと》ひ※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76]《あら》い詞《ことば》を使ひ、面白くなく、鄙《いや》しく、行詰つた、凄《すさま》じい、これを絵画にして象徴的に現はせば餓鬼《がき》の草子の中の生物のやうな、或は小説雑話にして空想的に現はせば、酒呑童子《しゆてんどうじ》や鬼同丸《きどうまる》のやうなものもあつたのであらう。醍醐天皇の御代と云へば、古今集だの、延喜式だのの出来た時であるが、其御代の昌泰二年には、都で放火殺人が多くて、四衛府兵をして夜を警《いまし》めしめられ、其三年には上野《かうつけ》に群盗が起り、延喜元年には阪東諸国に盗起り、其三年には前安芸守《さきのあきのかみ》伴忠行は盗の為に殺され、其前後|博奕《ばくち》大に行はれて、五年には逮捕をせねばならぬやうになり、其冬十月には盗賊が飛騨守《ひだのかみ》の藤原|辰忠《ときたゞ》を殺し、六年には鈴鹿山に群盗あり、十五年には上野介《かうづけのすけ》藤原厚載も盗に殺され、十七年には朝に菊宴が開かれたが、世には群盗が充ち、十九年には前《さき》の武蔵の権介《ごんのすけ》源任《みなもとのたふ》が府舎を焼き官物を掠《かす》め、現任の武蔵守高向利春を襲つたりなんどするといふ有様であつた。幸に天皇様の御聖徳の深厚なのによつて、大なることには至らなかつたが、盗といふのは皆|一揆《いつき》や騒擾《さうぜう》の気味合の徒で、たゞの物取りといふのとは少し違ふのである。此様な不祥のある度に威を張るのは僧侶|巫覡《ふげき》で、扶桑略記《ふさうりやくき》だの、日本紀略だの、本朝世紀などを見れば、厭《いと》はしいほど現世利益を祈る祈祷が繰返されて、何程|厭《いと》はしい宗教状態であるかと思はせられる。既に将門の乱が起つた時でも、浄蔵が大威徳法で将門を詛《のろ》ひ、明達が四天王法で将門を調伏し、其他神社仏寺で祈立て責立てゝ、とう/\祈り伏せたといふ事になつてゐる。かういふ時代であるから、下では石清水八幡《いはしみづはちまん》の本宮の徒と山科《やましな》の八幡新宮の徒と大喧嘩をしたり、東西両京で陰陽の具までを刻絵《きざみゑ》した男女の神像を供養礼拝して、岐神(さいの神、今の道陸神《だうろくじん》ならん)と云つて騒いだり、下らない事をしてゐる。先祖ぼめ、故郷ぼめの心理で、今までの多くの人は平安朝文明は大層立派なもののやうに言做《いひな》してゐる者も多いことであるが、少し料簡《れうけん》のある者から睨《にら》んだら、平安朝は少くも政権を朝廷より幕府へ、公卿より武士へ推移せしむるに適した準備を、気長に根深く叮嚀に順序的に執行して居たのである。かういふ時代に将門も純友も生長したのである。純友が賊衆追捕に従事して、そして盗魁《たうくわい》となつたのも、盗賊になつた方が京官になるよりも、有理であり、真面目な生活であると思つたところより、乱暴をはじめて、後に従五位下を以て招安されたにもかゝはらず、猶《な》ほ伊予、讃岐、周防、土佐、筑前と南海、山陽、西海を狂ひまはつたのかも知れない。純友は部下の藤原恒利といふ頼み切つた奴に裏斬りをされて大敗した後ですら、余勇を鼓《こ》して一挙して太宰府《だざいふ》を陥《おとしい》れた。苟《いやしく》も太宰府と云へば西海の重鎮であるが、それですら実力はそんなものであつたのである。当時|崛強《くつきやう》の男で天下の実勢を洞察するの明のあつた者は、君臣の大義、順逆の至理を気にせぬ限り、何ぞ首を俯《ふ》して生白い公卿の下《もと》に付かうやと、勝手理屈で暴れさうな情態もあつたのである。
 将門は然しながら最初から乱賊叛臣の事を敢《あへ》てせんとしたのではない。身は帝系を出でゝ猶未《なほいま》だ遠からざるものであつた。おもふに皇を尊び公に殉《じゆん》ずる心の強い邦人の常情として、初めは尋常におとなしく日を送つて居たのだらう。将門の事を考ふるに当つて、先づ一寸其の家系と親族等を調べて見ると、ざつと是の如くなのである。桓武天皇様の御子に葛原《かづらはら》親王と申す一品《いつぽん》式部卿の宮がおはした。其の宮の御子に無位の高見王がおはす。高見王の御子|高望王《たかもちわう》が平の姓を賜はつたので、従五位下、常陸大掾《ひたちだいじよう》、上総介《かづさのすけ》等に任ぜられたと平氏系図に見えてゐる。桓武平氏が阪東に根を張り枝を連ねて大勢力を植《た》つるに至つたことは、此の高望王が上総介や常陸大掾になられたことから起るのである。高望王の御子が、国香、良兼、良将、良※[#「搖のつくり+系」、第3水準1-90-20]《よしより》、良広、良文、良持、良茂と数多くあつた。其中で国香は従五位上、常陸大掾、鎮守府将軍とある。此の国香本名|良望《よしもち》は蓋《けだ》し長子であつた。これは即ち高望王亡き後の一族の長者として、勢威を有してゐたに相違無い。良兼は陸奥《むつ》大掾、下総介《しもふさのすけ》、従五位上、常陸平氏の祖である。次に良将は鎮守府将軍、従四位下或は従五位下とある。将門は此の良将の子である。次に良※[#「搖のつくり+系」、第3水準1-90-20]《よしより》は上総介、従五位上とある。それから良広には官位が見えぬが、次に良文が従五位上で、村岡五郎と称した、此の良文の後に日本将軍と号した上総介忠常なども出たので、千葉だの、三浦だの、源平時代に光を放つた家※[#二の字点、1-2-22]の祖である。次に良持は下総介、従五位下、長田《をさだ》の祖である。次に良茂は常陸少掾《ひたちせうじよう》である。
 扨《さて》将門は良将の子であるが、長子かといふに然様《さう》では無い。大日本史は系図に拠《よ》つたと見えて第三子としてゐるが、第二子としてゐる人もある。長子将持、次子将弘、第三子将門、第四子将平、第五子将文、第六子将武、第七子将為と系図には見えるが、将門の兄将弘は将軍太郎と称したとある。将持の事は何も分らない。将弘が将軍太郎といひ、将門が相馬小次郎といひ、系図には見えぬが、千葉系図には将門の弟に御廚《みくりや》三郎将頼といふがあつて、其次が大葦原四郎といつた事を考へると、将門は次男かとも思はれる。よし三男であつたにしろ、将持といふものは蚤《はや》く消えてしまつて、次男の如き実際状態に於て生長したに相違無い。イヤそれどころでは無い、太郎将弘が早世したから、将門は実際良将の相続人として生長したのである。将門の母は犬養春枝の女《むすめ》である。此の犬養春枝は蓋《けだ》し万葉集に名の見えてゐる犬養|浄人《きよひと》の裔《すゑ》であらう。浄人は奈良朝に当つて、下総《しもふさ》少目《せうさくわん》を勤めた人であつて、浄人以来下総の相馬に居たのである。此相馬郡寺田村相馬総代八幡の地方一帯は多分犬養氏の蟠拠《ばんきよ》してゐたところで、将門が相馬小次郎と称したのは其の因縁《いんねん》に疑無い。寺田は取手駅と守谷との間で、守谷の飛地といふことであり、守谷が将門拠有の地であつたことは人の知るところである。将門は斯様《かう》いふ大家族の中に生れて来て、沢山の伯父や叔父を有ち、又伯父国香の子には貞盛、繁盛、兼任、伯父良兼の子には公雅《きんまさ》、公連《きんつら》、公元、叔父良広の子には経邦、叔父良文の子には忠輔、宗平、忠頼、叔父良持の子には致持《むねもち》、叔父良茂の子には良正、此等の沢山の従兄弟《いとこ》を有した訳である。
 此の中で生長した将門は不幸にして父の良将を亡《うしな》つた。将門が何歳の時であつたか不明だが、弟達の多いところを見ると、蓋《けだ》し十何歳であつたらしい。幼子のみ残つて、主人の亡くなつた家ほど難儀なものはない。母の里の犬養老人でも丈夫ならば、差詰め世話をやくところだが、それは存亡不明であるが、多分既に物故してゐたらしい年頃である。そこで一族の長として伯父の国香が世話をするか、次の伯父の良兼が将門等の家の事をきりもりしたことは自然の成行であつたらう。後に至つて将門が国香や良兼と仲好くないやうになつた原因は、蓋し此時の国香良兼等が伯父さん風を吹かせ過ぎたことや、将門等の幼少なのに乗じて私《わたくし》をしたことに本づくと想像しても余り間違ふまい。さて将門が漸《やうや》く加冠するやうになつてから京上りをして、太政大臣藤原忠平に仕へた。これは将門自分の意に出たか、それとも伯父等の指揮に出たか不明であるが、何にせよ遙※[#二の字点、1-2-22]と下総から都へ出て、都の手振りを学び、文武の道を修め、出世の手蔓《てづる》を得ようとしたことは明らかである。勿論将門のみでは無い、此頃の地方の名族の若者等は因縁によつて都の貴族に身を寄せ、そして世間をも見、要路の人※[#二の字点、1-2-22]に技倆骨柄《ぎりやうこつがら》を認めて貰ひ、自然と任官叙位の下地にした事は通例であつたと見える。現に国香の子の常平太貞盛もまた都上りをして、何人の奏薦によつたか、微官ではあるが左馬允《さまのすけ》となつてゐたのである。今日で云へば田舎の豪家の若者が従兄弟《いとこ》同士二人、共に大学に遊んで、卒業後東京の有力者間に交際を求め、出世の緒を得ようとしてゐるやうなものである。此処で考へらるゝことは、将門も鎮守府将軍の子であるから、まさかに後の世の曾我の兄弟のやうに貧窮して居たのではあるまいが、一方は親無しの、伯父の気息《いき》のかゝつてゐるために世に立つてゐる者であり、一方は一族の長者常陸大掾国香の総領として、常平太とさへ名乗つて、仕送りも豊かに受けてゐたものである貞盛の方が光つて居たらうといふことは、誰にも想像されることである。ところが異《をか》しいこともあればあるもので、将門の方で貞盛を悪く思ふとか悪く噂《うはさ》するとかならば、※[#「女+冒」、第4水準2-5-68]嫉猜忌《ばうしつさいき》の念、俗にいふ「やつかみ」で自然に然様《さう》いふ事も有りさうに思へるが、別に将門が貞盛を何様《どう》の斯様《かう》のしたといふことは無くて、却《かへ》つて貞盛の方で将門を悪く言つたことの有るといふ事実である。
 勿論事実といつたところで古事談に出て居るに過ぎない。古事談は顕兼《あきかね》の撰で、余り確実のものとも為しかねるが、大日本史も貞盛伝に之を引いてゐる。それは斯様《かう》である。将門の在京中に、貞盛が嘗《かつ》て式部卿|敦実《あつざね》親王のところに詣《いた》つた。丁度其時に将門もまた親王の御許《おんもと》へ伺候《しこう》して帰るところで、従兄弟同士はハタと御門で行逢ふた。彼方《かなた》がジロリと見れば、此方《こちら》もギロリと見て過ぎたのであらう。貞盛は親王様に御目にかゝつて、残念なることには今日郎等無くして将門を殺し得ざりし、郎等ありせば今日殺してまし、彼奴《きやつ》は天下に大事を引出すべき者なり、と申したといふ事である。これは甚だ不思議なことで、貞盛が呂公や許子の術を得て居たか何様かは知らないが、人相見でも無くて思ひ切つたことを貴人の前で言つたものである。此時は将門純友叡山で相談した後であるとでも云は無ければ理屈の立たぬことで、将門はまだ国へも帰らず刀も抜かず、謀反どころか喧嘩さへ始めぬ時である。それを突然に、郎等だにあらば打殺してましものをと言ふのは、余りに従兄弟同士として貴人の前に口外するには太甚《はなはだ》しいことである。親王様に貞盛がこれだけの事を申したとすれば、もう此時貞盛と将門とは心中に刃を研《と》ぎあつてゐたとしなければならぬ。未だ父の国香が殺された訳でも無し、将門が何を企てゝ居たにせよ、貞盛が牒者《てふじや》をして知つてゐるといふ訳も無いのに、たゞ悪い者でござる、御近づけなさらぬが宜しいとでも云ふのならば、後世の由井正雪熊沢蕃山出会の談のやうな事で、まだしも聞えてゐるが、打殺さぬが口惜しいとまで申したとは余り奇怪である。然すれば貞盛の家と将門とが、もう此時は火をすつた中であつて、貞盛が其事を知つてゐたために、行く/\は無事で済むまいとの予想から、そんな事を云つたものだと想像して始めて解釈のつく事である。こゝへ眼を着けて見ると、古事談の記事が事実であつたとすると、国香が将門に殺されぬ前に、国香の忰《せがれ》は将門を殺さうとしてゐたといふ事を認め、そして殺さぬを残念と思つたほどの葛藤《かつとう》が既に存在して居たと睨まねばならぬことになるのである。戯曲的の筋は夙《はや》く此の辺から始まつてゐるのである。
 将門は京に居て龍口の衛士になつたか知らぬが、系図に龍口の小次郎とも記してあるに拠《よ》れば、其のくらゐなものにはなつたのかも知れぬ。が、其の詮議は擱《お》いて、将門と貞盛の家とは、中睦《なかむつま》じく無くなつたには相違無い。それは今昔物語に見えてゐる如くに、将門の父の良将の遺産を将門が成長しても国香等が返さなかつたことで、此の様な事情は古も今もやゝもすれば起り易いことで、曾我の殺傷も此から起つてゐる。今昔物語が信じ難い書であることは無論だが、此の事実は有勝の事で、大日本史も将門始末も皆採つてゐる。将門在京中に既に此事があつて、貞盛と将門とは心中互におもしろく無く思つてゐたところから、貞盛の言も出たとすれば合点が出来るのである。
 今一つは将門と源護一族との間の事である。これは其原因が不明ではあるが、因縁《いんねん》のもつれであるだけは明白である。護は常陸の前《さき》の大掾《だいじよう》で、そのまゝ常陸の東石田に居たのである。東石田は筑波《つくば》の西に当るところで、国香もこれに居たのである。護は世系が明らかでないが、其の子の扶《たすく》、隆、繁と共に皆一字名であるところを見ると、嵯峨《さが》源氏でゞもあるらしく思はれる。何にせよ護も名家であつて、護の女を将門の伯父上総介良兼は妻にしてゐる。国香も亦其一人を嫁にして貞盛の妻にしてゐる。常陸六郎良正もまた其一人を妻にしてゐる。此の良正は系図では良茂の子になつてゐるが、おそらくは誤りで、国香の同胞で一番|季《すゑ》なのであらう。
 将門と護とは別に相敵視するに至る訳は無い筈であるが、此の護の一族と将門と私闘を起したのが最初で、将門の伯叔父の多いにかゝはらず、護の家と縁組をしてゐる国香の家、良兼の家、良正の家が特《こと》に将門を悪《にく》んで之を攻撃してゐるところを見ると、何でも源護の家を中心とし、之に関聯して紛糾《ふんきう》した事情が有つての大火事と考へられる。将門始末では、将門が護の女《むすめ》を得て妻としようとしたが護が与へなかつたので、将門が怒つたのが原因だと云つて居る。して見れば将門は恋の叶《かな》はぬ焦燥《せうさう》から、車を横に推出したことになる。さすれば良正か貞盛か二人の中の一人が、将門の望んだ女を得て妻としてしまつた為に起つた事のやうに思はれるが、如何《いか》に将門が乱暴者でも、人の妻になつてしまつた者を何としようといふこともあるまい。又それが遺恨の本になるといふことも、成程野暮な人の間に有り得るにしても、皆が一致して手甚《てひど》く将門を包囲攻撃するに至るのは、何だか逆なやうである。思ふ女をば奪はれ、そして其女の縁に連《つらな》る一族総体から、此の失恋漢、死んでしまへと攻立てられたといふのは、何と無く奇異な事態に思へる。又たとへ将門の方から手出しをしたにせよ、恋の叶はぬ忌※[#二の字点、1-2-22]しさから、其女の家をはじめ、其姉妹の夫たちの家まで、撫斬《なでぎ》りにしようといふのも何となく奇異に過ぎ酷毒に過ぎる。何にせよ決してたゞ一条《ひとすぢ》の事ではあるまい、可なり錯綜《さくそう》した事情が無ければならぬ。貞盛が将門を殺したがつた事も、恋の叶《かな》つた者の方が恋の叶はぬ者を生かして置いては寝覚が悪いために打殺すといふのでは、何様《どう》も情理が桂馬筋《けいますぢ》に働いて居るやうである。
 故蹟考ではかう考へてゐる。将門が迎へた妻は、源護の子の扶、隆、繁の中で、懸想《けさう》して之を得んとしたものであつた。然るに其の婦人は源家へ嫁すことをせずして相馬小次郎将門の妻となつた。そこで※[#「女+冒」、第4水準2-5-68]嫉《ばうしつ》の念禁じ難く、兄弟姉妹の縁に連なる良兼貞盛良正等の力を併《あは》せて将門を殺さうとし、一面国香良正等は之を好機とし、将門を滅して相馬の夥《おびただ》しい田産を押収せんとしたのである。と云つて居る。成程源家の子のために大勢が骨折つて貰ひ得て呉れようとした美人を貰ひ得損じて、面目を失はせられ、しかも日比《ひごろ》から彼が居らなくばと願つて居た将門に其の婦人を得られたとしては、要撃して恨《うらみ》を散じ利を得んとするといふことも出て来さうなことである。然しこれも確拠があつてでは無い想像らしい。たゞ其中の将門を滅せば田産押収の利のあるといふことは、拠《よ》るところの無い想像では無い。
 要するに委曲《ゐきよく》の事は徴知することが出来ない。耳目の及ぶところ之を知るに足らないから、安倍晴明なら識神を使つて委細を悟るのであるが、今何とも明解することは我等には不能だ。天慶年間、即ち将門死してから何程の間も無い頃に出来たといふ将門記の完本が有つたら訳も分かるのであらうが、今存するものは残闕《ざんけつ》であつて、生憎発端のところが無いのだから如何《いかん》とも致方は無い。然し試みに考へて見ると、将門が源家の女《むすめ》を得んとしたことから事が起つたのでは無いらしい、即ち将門始末の説は受取り兼ねるのであつて、むしろ将門の得た妻の事から私闘は起つたのらしい。何故《なぜ》といへば将門記の中の、将門が勝を得て良兼を囲んだところの条《くだり》の文に、「斯《かく》の如く将門思惟す、凡《およ》そ当夜の敵にあらずといへども(良兼は)脈を尋《たづ》ぬるに疎《うと》からず、氏を建つる骨肉なり、云はゆる夫婦は親しけれども而も瓦に等しく、親戚は疎くしても而も葦に喩《たと》ふ、若し終に(伯父を)殺害を致さば、物の譏《そし》り遠近《をちこち》に在らんか」とあつて、取籠めた伯父良兼を助けて逃れしめてやるところがある。その文気を考へると、妻の故の事を以て伯父を殺すに至るは愚なことであるといふのであるから、将門が妻となし得なかつた者から事が起つたのでは無くて、将門が妻となし得たものがあつてそれから伯父と弓箭《きゆうせん》をとつて相見《あいまみ》ゆるやうにもなつたのであるらしい。それから又同記に拠ると、将門を告訴したものは源護である。記に「然る間|前《さき》の大掾《だいじよう》源護の告状に依りて、件《くだん》の護並びに犯人平将門及び真樹《まき》等召進ずべきの由の官符、去る承平五年十二月二十九日符、同六年九月七日到来」とあるから、原告となつた者は護である。真樹は佗田《わびた》真樹で、国香の属僚中の錚※[#二の字点、1-2-22]《さうさう》たるものである。これに依つて考へれば、良正良兼は記の本文記事の通り、源家が敗戦したによつて婦の縁に引かれて戦を開いたのだが、最初はたゞ源護一家と将門との間に事は起つたのである。して見れば将門が妻としたものに関聯して源護及び其子等と将門とは闘ひはじめたのである。
 戯曲はこゝに何程でも書き出される。かつて同じ千葉県下に起つた事実で斯《か》ういふのがあつた。将門ほど強い男でも何でも無いが、可なりの田邑《でんいふ》を有してゐる片孤《へんこ》があつた。其の児の未《いま》だ成長せぬ間、親戚の或る者は其の田邑を自由にして居たが、其の児の成人したに至つて当然之を返附しなければならなくなつた。ところで其の親戚は自分の娘を其の男に娶《めと》らせて、自己は親として其の家に臨む可く計画した。娘は醜くも無く愚でもなかつたが、男は自己が拘束されるやうになることを厭ふ余りに其の娘を強く嫌つて、其の婚儀を勧めた一族達と烈しく衝突してしまつた。悲劇はそこから生じて男は放蕩者《はうたうもの》となり、家は乱脈となり、紛争は転輾《てんてん》増大して、終に可なりの旧家が村にも落着いて居られぬやうになつた。これを知つてゐる自分の眼からは、一齣《いつしやく》の曲が観えてならない。真に夢の如き想像ではあるが、国香と護とは同国の大掾であつて、二重にも三重にもの縁合となつて居り、居処も同じ地で、極めて親しかつたに違ひ無い。若し将門が護の女《むすめ》を欲したならば、国香は出来かぬる縁をも纏《まと》めようとしたことであらう。其の方が将門を我が意の下に置くに便宜ではないか。して見れば将門始末の記するが如きことは先づ起りさうもない。もし反対に、護の女を国香が口をきいて将門に娶《めと》らせようとして、そして将門が強く之を拒否した場合には、国香は源家に対しても、自己の企に於ても償《つぐな》ひ難き失敗をした訳になつて、貞盛や良兼や良正と共に非常な嫌な思ひをしたことであらうし、護や其子等は不面目を得て憤恨したであらう。将門の妻は如何なる人の女であつたか知らぬが、千葉系図や相馬系図を見れば、将門の子は良兌《よしなほ》、将国、景遠、千世丸等があり、又十二人の実子があつたなどと云ふ事も見えるから、桔梗《ききやう》の前の物語こそは、薬品の桔梗の上品が相馬から出たに本づく戯曲家の作意ではあらうが、妻妾《さいせう》共に存したことは言ふまでも無い。で、将門が源家の女を蔑視《べつし》して顧みず、他より妻を迎へたとすると、面目を重んずる此時代の事として、国香も護の子等も、殊に源家の者は黙つて居られないことになる。そこで談判論争の末は双方後へ退らぬことになり、武士の意気地上、護の子の扶、隆、繁の三人は将門を敵に取つて闘ふに至つたらうと想像しても非常な無理はあるまい。
 闘《たたかひ》は何にせよ将門が京より帰つて後数年にして発したので、其の場所は下総の結城郡と常陸の真壁郡の接壌地方であり、時は承平五年の二月である。どちらから戦《いくさ》をしかけたのだか明記はないが、源の扶、隆等が住地で起つたのでも無く、将門の田園所在地から起つたのでも無い。将門の方から攻掛けたやうに、歴史が書いてゐるのは確実で無い。将門と源氏等と、どちらが其の本領まで戦場から近いかと云へば、将門の方が近いくらゐである。相馬から出たなら遠いが、本郷や鎌庭からなら近いところから考へると、将門が結城あたりへ行かうとして出た途中を要撃したものらしい。左も無くては釣合が取れない。若し将門が攻めて行つたのを禦《ふせ》いだものとしては、子飼川を渉《わた》つたり鬼怒《きぬ》川《がは》を渡つたりして居て、地理上合点が行かぬ。将門記に其の闘の時の記事中見ゆる地名は、野本、大串、取木等で、皆常陸の下妻附近であるが、野本は下総の野爪、大串は真壁の大越、取木は取不原《とりふばら》の誤か、或は本木村といふのである。攻防いづれがいづれか不明だが、記には「爰《こゝ》に将門|罷《や》まんと欲すれども能はず、進まんと擬するに由無し、然して身を励まして勧拠し、刃を交へて合戦す」とあるに照らすと、何様も扶等が陣を張つて通路を截《き》つて戦を挑《いど》んだのである。此の闘は将門の勝利に帰し、扶等三人は打死した。将門は勝に乗じて猛烈に敵地を焼き立て、石田に及んだ。国香は既に老衰して居た事だらう、何故《なぜ》といへば、国香の弟の弟の第二子若くは第三子の将門が既に三十三歳なのであるから。国香は戦死したか、又焼立てられて自殺したか、後の書の記載は不詳である。双方の是非曲直は原因すら不明であるから今評論が出来ぬが、何にせよ源護の方でも鬱懐|已《や》む能《あた》はずして是《こゝ》に至つたのであらうし、将門の方でも刀を抜いて見れば修羅心|熾盛《しせい》になつて、遣りつけるだけは遣りつけたのだらう。然しこゝに注意しなければならぬのは、是はたゞ私闘であつて、謀反《むほん》をして国の治者たる大掾を殺したのではない事である。
 貞盛は国香の子として京に在つて此事を聞いて暇《いとま》を請《こ》うて帰郷した。記に此場合の貞盛の心を書いて、「貞盛|倩※[#二の字点、1-2-22]《つら/\》案内を検するに、およそ将門は本意の敵にあらず、これ源氏の縁坐也云※[#二の字点、1-2-22]。孀母《さうぼ》は堂に在り、子にあらずば誰か養はん、田地は数あり、我にあらずば誰か領せん、将門に睦《むつ》びて云※[#二の字点、1-2-22]、乃《すなは》ち対面せんと擬す」とある。国香死亡記事の本文は分らないが、此の文気を観ると、将門が国香を心底から殺さうとしたので無いことは、貞盛が自認してゐるので、源氏の縁坐で斯様《かやう》の事も出来たのであるから、無暗《むやみ》に将門を悪《にく》むべくも無い、一族の事であるから寧《むし》ろ和睦《わぼく》しよう、といふのである。前に云つた通り将門は自分を攻めに来た良兼を取囲んだ時もわざと逃がした人である、国香を強ひて殺さう訳は無い。貞盛の此の言を考へると、全く源氏と戦つたので、余波が国香に及んだのであらう。伯父殺しを心掛けて将門が攻寄せたものならば、貞盛に斯様《かう》いふ詞の出せる訳も無い。但し国香としては田邑《でんいふ》の事につきて将門に対して心弱いこともあつた歟《か》、さらずも居館を焼亡されて撃退することも得せぬ恥辱に堪へかねて死んだのであらうか。こゝにも戯曲的光景がいろ/\に描き出さるゝ余地がある。まして国香の郎党佗田真樹は弱い者では無い、後に至つて戦死して居る程の者であるから、将門の兵が競ひかゝつて国香を攻めたのならば、何等かの事蹟を生ずべき訳である。
 良正は高望王の庶子で、妻は護の女《むすめ》であつた。護は老いて三子を尽《こと/″\》く失つたのだから悲嘆に暮れたことは推測される。そこで父の歎《なげき》、弟の恨《うらみ》、良正の妻は夫に対して報復の一[#(ト)]合戦をすゝめたのも無理は無い。云はれて見れば後へは退けぬので、良正は軍兵を動かして水守《みづもり》から出立した。水守は筑波山《つくばさん》の南の北条の西である。兵は進んで下総堺の小貝川の川曲に来た。川曲は「かはわた」と訓《よ》んだのであらう、今の川又村の地で当時は川の東岸であつたらしい。一水を渡れば豊田郡で将門領である。貞盛が此時加担して居なかつたのであるのは注意すべきだ。将門の方でも、其義ならば伯父とは云へ一[#(ト)]塩つけてやれと云ふので出動した。時は其年の十月廿一日であつた。将門の軍は勝を得て、良正は散※[#二の字点、1-2-22]に打《うち》なされて退いた。此も私闘である。将門はまだ謀反はして居らぬ、勝つて本郷へ帰つた。
「負け碁《ご》は兎角あとをひく也」で、良正は独力の及ぶ可からざるを以て下総介良兼(或はいふ上総介)に助勢を頼んで将門に憂き目を見せようとした。良兼は護の縁につながつて居る者の中の長者であつた。良兼の妻も内から牝鶏《めんどり》のすゝめを試みた。雄鶏は終《つひ》に閧《とき》の声をつくつた。同六年六月二十六日、十二分に準備したる良兼は上総下総の兵を発して、上総の地で下総へ斗入《とにふ》してゐる武射《むさ》郡の径路から下総の香取郡の神崎《かうざき》へ押出した。神崎は滑川より下、佐原より上の利根川沿岸の地だ。それより大河を渡つて常陸の信太郡の江前の津へかゝつた。江前はえのさきで、今の江戸崎である。それから翌日、良正がゐる筑波の南の水守へ到着したといふ事だ。私闘は段※[#二の字点、1-2-22]と大きくなつた。関を打破つて通りこそせざれ、間道※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]を通つて、苟《いやしく》も何の介《すけ》といふ者が、官司の禁遏《きんあつ》を省みず武力で争はうといふのである。良正は喜んで迎へた。貞盛も参会した。良兼は貞盛に対《むか》つて、常平太何事ぞ我等と与にせざるや、財物を掠《かす》められ、家倉を焼かれ、親類を害せられて、穏便を旨《むね》とするは何ぞや、早※[#二の字点、1-2-22]合力して将門を討ち候へと、叔父|様顔《さんがほ》の道理らしく説いた。言はれて見れば其の通りであるから、貞盛も吾が女房の兄弟の仇、言はず語らずの父の讐《かたき》であるから、心得た、と言切つた。姉妹三人の夫たる叔父甥三人は、良兼を大将にして下野《しもつけ》を指して出発した。下野から南に下つて小次郎めを圧迫しようといふのだ。将門はこれを聞いて、御座んなれ二本棒ども、とでも思つたらう。財布の大きいものが、博奕はきつと勝つと定まつては居ないのだ。何程の事かあらん、一[#(ト)]当てあてゝやれと、此方《こちら》からも下野境まで兵を出したが、如何さま敵は大軍で、地も動き草も靡《なび》くばかりの勢堂※[#二の字点、1-2-22]と攻めて来た。良兼の軍は馬も肥え人も勇み、鎧《よろひ》の毛もあざやかに、旗指物もいさぎよく、弓矢、刀|薙刀《なぎなた》、いづれ美※[#二の字点、1-2-22]しく、掻楯《かいだて》ひし/\と垣の如く築《つ》き立てゝ、勢ひ猛に壮《さか》んに見えた。将門の軍は二度の戦に甲冑《かつちう》も摺《す》れ、兵具《ひやうぐ》も十二分ならず、人数も薄く寒げに見えた。譬《たと》へば敵の毛羽艶やかに峨冠《がくわん》紅に聳《そび》えたる鶏の如く、此方《こなた》は見苦しき羽抜鳥の肩そぼろに胸|露《あら》はに貧しげなるが如くであつたが、戦つて見ると羽ふくよかなる地鶏は生命知らずの軍鶏《しやも》の敵では無かつた。将門の手下の勇士等は忽《たちま》ちに風の木の葉と敵を打払つた。良兼の勢は先を争つて逃げる、将門は鞭を揚げ名を呼《よば》はつて勢に乗つて吶喊《とつかん》し駆け崩した。敵はきたなくも下野の府に閉塞されてしまつた。こゝで将門が刻毒に攻立てたら、或は良兼等を酷《ひど》いめにあはせ得たかも知らぬが、将門の性質の美の窺《うかゞひ》知らるゝところはここにあつて、妻の故を以て伯父を殺したと云はるゝを欲せぬために一方をゆるして其の逃ぐるに任《まか》せた。良兼等は危い生命を助かつて、辛《から》くも遁《のが》れ去つてしまつた。そこで将門は明かな勝利を得て、府の日記へ、下総介が無道に押寄せて合戦しかけた事と、これを追退けてしまつたことをば明白に記録して置いて、悠然と自領へ引取つた。火事は大分燃広がつた、私闘は余国までの騒ぎになつたが、しかもまだ私闘である、謀反《むほん》をしたのでは無かつた。これだけの大事になつたのであるから、四方隣国も皆手出しこそせざれ、目を側《そば》だてゝ注意したに相違ない。将門が国庁の記録に事実をとゞめ、四方に実際を知らしめたのは、為し得て男らしく立派に智慮もあり威勢もあることであつた。
 源護の方は事を起した最初より一度も好い目を見無かつた。痴者《ちしや》が衣服の焼け穴をいぢるやうに、猿が疵口《きずくち》を気にするやうに、段※[#二の字点、1-2-22]と悪いところを大きくして、散※[#二の字点、1-2-22]な事になつたが、いやに賢く狡滑《かうくわつ》なものは、自分の生命を抛出《なげだ》して闘ふといふことをせずに、いつも他の勢力や威力や道理らしいことやを味方にして敵を窘《くるし》めることに長《た》けたものだ。何様《どう》いふ告訴状を上《たてまつ》つたか知らぬが、多分自分が前の常陸大掾であつたことと、現常陸大掾であつた国香の死したことを利用して、将門が暴威に募り乱逆を敢《あへ》てしたことを申立てたに相違無く、そしてそれから後世の史をして将門常陸大掾国香を殺すと書かしめるに至らせたのであらう。去年十二月二十九日の符が、今年九月になつて、左近衛番長の正六位上|英保純行《あぼのすみゆき》、英保氏立、宇自加|支興《もちおき》等によつて齎《もた》らされ、下毛下総常陸等の諸国に朝命が示され、原告源護、被告将門、および国香の麾下《きか》の佗田真樹を召寄せらるゝ事になつた、そこで将門は其年十月十七日、急に上京して公庭に立つた。一部始終を申立てた。阪東訛《ばんどうなま》りの雑つた蛮音《ばんおん》で、三戦連勝の勢に乗じ、がん/\と遣付《やりつけ》たことであらう。もとより事実を陰蔽して白粉を傅《つ》けた談をするが如きことは敢《あへ》てし無かつたらう。箭《や》が来たから箭を酬《むく》いた、刀が加へられたから刀を加へた、弓箭《ゆみや》取る身の是非に及ばず合戦仕つて幸《さいはひ》に斬り勝ち申したでござる、と言つたに過ぎまい。勿論|私《わたくし》に兵仗《へいぢやう》を動かした責罰|譴誨《けんくわい》は受けたに相違あるまいが、事情が分明して見れば、重罪に問ふには足《た》ら無いことが認められたのに、かてゝ加へて皇室御慶事があつたので、何等罪せらるゝに至らず、承平七年四月七日一件落着して恩詔を拝した。検非違使《けびゐし》庁《ちやう》の推問に遇《あ》うて、そして将門の男らしいことや、勇威を振つたことは、却《かへ》つて都の評判となつて同情を得たことと見える。然し干戈《かんくわ》を動かしたことは、深く公より譴責《けんせき》されたに疑無い。で、同年五月十一日に京を辞して下総に帰つた。
 とは記に載つてゐるところだが、これは疑はしい。こゝに事実の前後錯誤と年月の間違があるらしい。将門は幾度も符を以て召喚されたが、最初一度は上洛し、後は上洛せずに、英保純行に委曲《ゐきよく》を告げたのである。将門はそれで宜《よ》いが、良兼等は其儘《そのまゝ》指を啣《くは》へて終ふ訳には、これも阪東武者の腹の虫が承知しない。甥《おひ》の小僧つ子に塩をつけられて、国香亡き後は一族の長者たる良兼ともある者が屈してしまふことは出来ない。護も貞盛も女達も瞋恚《しんい》の火を燃《もや》さない訳は無い。将門が都から帰つて来て流石《さすが》に謹慎して居る状《さま》を見るに及んで、怨を晴らし恥辱を雪《そゝ》ぐは此時と、良兼等は亦復《また/\》押寄せた。其年八月六日に下総境の例の小貝川の渡に良兼の軍は来た。今度は良兼もをかしな智慧《ちゑ》を出して、将門の父良将祖父高望王の像を陣頭に持出して、さあ箭《や》が放せるなら放して見よ、鉾先《ほこさき》が向けらるゝなら向けて見よと、取つて蒐《かゝ》つた。籠城でもした末に百計尽き力乏しくなつてならばいざ知らず、随分いやな事をしたものだが、如何《いか》に将門勇猛なりとも此には閉口した。「親の位牌《ゐはい》で頭こつつり」といふ演劇には、大概な暴れ者も恐れ入る格で、根が無茶苦茶な男では無い将門は神妙におとなしくして居た。おとなしくした方が何程腹の中は強いか知れないのだが、差当つて手が出せぬのを見ると、良兼の方は勝誇つた。豊田郡の栗栖院《くるすゐん》、常羽御厩《いくはのみうまや》や将門領地の民家などを焼払つて、其翌日さつと引揚げた。
 芝居で云へば性根場《しやうねば》といふところになつた。将門は一[#(ト)]塩つけられて怒気胸に充《み》ち塞《ふさ》がつたが、如何とも為《せ》ん方《かた》は無かつた。で、其月十七日になつて兵を集めて、大方郷《おほかたがう》堀越の渡に陣を構へ、敵を禦《ふせ》がうとした。大方郷は豊田郡大房村の地で、堀越は今水路が変つて渡頭《ととう》では無いが堀籠村といふところである。併《しか》し将門は前度とは異つて、手痛くは働か無かつた。記には、脚気を病んで居て、毎事|朦※[#二の字点、1-2-22]《もうもう》としてゐたといふが、そればかりが原因か、或は都での訓諭に恐懼《きようく》して、仮りにも尊族に対して私《わたくし》に兵具を動かすことは悪いと思つた、しほらしい勇士の一面の優美の感情から、吽《うん》と忍耐したのかも知れない。弱くない者には却《かへ》つて此様《かう》いふ調子はあるものである。で、はか/″\しい抵抗も何等|敢《あへ》てしなかつたから、良兼の軍は思ふが儘に乱暴した。前の恨を霽《は》らすは此時と、郡中を攻掠《こうりやく》し焚焼《ふんせう》して、随分|甚《ひど》い損害を与へた。将門は※[#「けものへん+爰」、第3水準1-87-78]島|郡《ぐん》の葦津江、今の蘆谷といふところに蟄伏《ちつぷく》したが、猶危険が身に逼《せま》るので、妻子を船に乗せて広河《ひろかは》の江に泛《うか》べ、おのれは要害のよい陸閉といふところに籠つた。広河の江といふのは飯沼《いひぬま》の事で、飯沼は今は甚《はなはだ》しく小さくなつてゐるが、それは徳川氏の時になつて、伊達弥《だてや》惣兵衛《そうべゑ》為永《ためなが》といふものが、享保年間に飯沼の水が利根川より高いこと一丈九尺、鬼怒川より高いこと横根口で六尺九寸、内守谷川|辰口《たつぐち》で一丈といふことを知つて、大工事を起して、水を落し、数千町歩の新田を造つたからである。陸閉といふ地は不明だが、蓋《けだ》し降間《ふるま》の誤写で、後の岡田郡|降間木《ふるまぎ》村の地だらうといふことである。降間木ももと降間木沼とかいふ沼があつたところである。さあ物語は一大関節にさしかゝつた。将門が斯様におとなしくして居て、むしろ敵を避け身を屈して居るやうになつたところで、良兼方の一分は立つたのだから、其儘に良兼方が凱歌を奏して退《ひ》いて終《しま》つたれば、或は和解の助言なども他から入つて、宜い程のところに双方|折合《をりあ》ふといふことも成立つたか知れないのである。ところが転石の山より下《くだ》るや其の勢《いきほひ》必ず加はる道理で、終《つひ》に良兼将門は両立す可からざる運命に到着した。それは将門が安穏を得させようとして跡を埋め身を隠させた其の愛妻を敵が発見したことであつた。どうも良兼方の憎悪は此の妻にかゝつて居たらしい。それ占《し》めたといふのであつたらう、忽ちに手対《てむか》ふ者を討殺《うちころ》し、七八|艘《さう》の船に積載した財貨三千余端を掠奪し、かよわい妻子を無漸《むざん》にも斬殺《きりころ》してしまつたのが、同月十九日の事であつた。元来火薬が無かつた訳では無いから、如何に一旦は神妙にしてゐても、此処《こゝ》に至つて爆発せずには居ない。後の世の頼朝が伊豆に潜《ひそ》んで居た時も、たゞおとなしく世を終つたかも知れないが、伊東入道に意中の女は引離され児は松川に投入れらるゝに及んで、ぶる/\と其の巨《おほ》きい頭を振つて牙《きば》を咬《か》んで怒り、せめては伊豆一国の主になつて此恨を晴らさうと奮ひ立つたとある。人間以上に心を置けば、恩愛に惹《ひ》かれて動転するのは弱くも浅くも甲斐《かひ》無くもあるが、人間としては恩愛の情の已《や》み難《がた》いのは無理も無いことである。如何《いか》に相馬小次郎が勇士でも心臓が筑波御影《つくばみかげ》で出来てゐる訳でもあるまいから、落さうと思つた妻子を殺されては、涙をこぼして口惜《くやし》がり、拳を握りつめて怒つたことであらう。これはまた暴れ出さずには居られない訳だ。しかしまだ私闘である、私闘の心が刻毒になつて来たのみである、謀反《むほん》をしようとは思つて居ないのである。
 記の此処《こゝ》の文が妙に拗《ねぢ》れて居るので、清宮秀堅は、将門の妻は殺されたのでは無くて上総《かづさ》に拘《とら》はれたので、九月十日になつて弟の謀《はかりごと》によつて逃帰つたといふ事に読んでゐる。然し文に「妻子同共討取」とあるから、何様《どう》も妻子は殺されたらしく、逃還《にげかへ》つたのは一緒に居《い》た妾であるらしい。が、「爰将門妻去夫留、忿怨不[#レ]少」「件妻背[#二]同気之中[#一]、迯[#二]帰於夫家[#一]」とあるところを見ると、妻が拘はれたやうでもある。「妾恒存[#二]真婦之心[#一]」「妾之舎弟等成[#レ]謀」とあるところを見ると、妾のやうでもある。妻妾二字、形相近いから何共|紛《まぎ》らはしいが、妻子同共討取の六字があるので、妻子は殺されたものと読んで居る人もある。どちらにしても強くは言張り難いが、「然而将門尚与[#二]伯父[#一]為[#二]宿世之讐[#一]」といふ句によつて、何にせよ此事が深い怨恨《ゑんこん》になつた事と見て差支《さしつかへ》は無い。しばらく妻子は殺されて、拘《とら》はれた妾は逃帰つた事と見て置く。
 此事あつてより将門は遺恨《ゐこん》已《や》み難《がた》くなつたであらう、今までは何時《いつ》も敵に寄せられてから戦つたのであるが、今度は我から軍を率《ひき》ゐて、良兼が常陸《ひたち》の真壁郡の服織《はつとり》、即ち今の筑波山の羽鳥に居たのを攻め立つた。良兼は筑波山に拠《よ》つたから羽鳥を焼払ひ、戦書を贈《おく》つて是非の一戦を遂《と》げようとしたが、良兼は陣を堅くして戦は無かつたので、将門は復讐的に散※[#二の字点、1-2-22]《さん/″\》敵地を荒して帰つた。斯様《かう》なれば互《たがひ》に怨恨《ゑんこん》は重《かさ》なるのみであるが、良兼の方は何様《どう》しても官職を帯びて居るので、官符は下《くだ》つて、将門を追捕すべき事になつた。良兼、護、今は父の後を襲ふた常陸大掾《ひたちのだいじよう》貞盛、良兼の子の公雅、公連、それから秦清文《はたきよぶみ》、此等が皆職を帯びて、武蔵、安房《あは》、上総、下総、常陸、下野諸国の武士を駆催《かりもよほ》して将門を取つて押へようとする。将門は将門で後へは引け無くなつたから勢威を張り味方を募《つの》つて対抗する。諸国の介《すけ》や守《かみ》や掾《じよう》やは、騒乱を鎮める為に戮力《りくりよく》せねばならぬのであるが、元来が私闘で、其の情実を考へれば、強《あなが》ち将門を片手落に対治すべき理があるやうにも思へぬから、官符があつても誰も好んで矢の飛び剣の舞ふ中へ出て来て危い目に逢はうとはしない。将門は一人で、官職といへば別に大したものを有してゐるのでも無い、たゞ伊勢太神宮の御屯倉《みやけ》を預かつて相馬|御厨《みくりや》の司《つかさ》であるに過ぎぬのであるに、父の余威を仮《か》るとは言へ、多勢の敵に対抗して居られるといふものは、勇悍《ゆうかん》である故のみでは無い、蓋《けだ》し人の同情を得てゐたからであつたらう。然無《さな》くば四方から圧逼《あつぱく》せられずには済まぬ訳である。
 良兼は何様《どう》かして勝を得ようとしても、尋常《じんじやう》の勝負では勝を取ることが難かつた。そこで便宜《べんぎ》を伺《うかゞ》ひ巧計を以て事を済《な》さうと考へた。怠《おこた》り無く偵察《ていさつ》してゐると、丁度将門の雑人《ざふにん》に支部《はせつかべ》子春丸といふものがあつて、常陸の石田の民家に恋中《こひなか》の女をもつて居るので、時※[#二の字点、1-2-22]其許へ通ふことを聞出した。そこで子春丸をつかまへて、絹を与へたり賞与を約束したりして、将門の営の勝手を案内させることにした。将門は此頃石井に居た。石井は「いはゐ」と読むので、今の岩井が即《すなは》ちそれだ。子春丸は恋と慾とに心を取られ、良兼の意に従つて、主人の営所の勝手を悉《こと/″\》く良兼の士に教へた。良兼はほくそ笑《ゑ》んで、手腕のある者八十余騎を択《えら》んで、ひそ/\と不意打をかける支度をさせた。十二月の十四日の夕に良兼の手の者は発して、首尾よく敵地に突入し、風の如くに進んで石井の営に斫入《きりい》つた。将門の士は十人にも足らなかつたが、敵が襲ふのを注進した者があつて、急に起つて防ぎ戦つた。将門も奮闘《ふんとう》した。良兼の上兵|多治良利《たぢのよしとし》は一挙に敵を屠《ほふ》らんと努力したが、運|拙《つたな》く射殺《いころ》されたので、寄手は却《かへ》つて散※[#二の字点、1-2-22]になつて、命を落す者四十余人、可なり手痛き戦はしたが、敵地に踏込むほどの強い武者共が随分巧みに、うま/\近づいたにもかゝはらず、此の突騎襲撃も成功しなかつた。双方が精鋭|驍勇《げうゆう》、死物狂ひを極《きは》め尽した活動写真的の此の華※[#二の字点、1-2-22]しい騎馬戦も、将門方の一騎士が結城寺の前で敵が不意打に来たなと悟つて、良兼方の騎士の後から尾行《びかう》して居て、鴨橋《かもはし》(今の結城《ゆふき》郡|新宿《しんじゆく》村のかま橋)から急に駈抜《かけぬ》けて注進したため、危くも将門は勝を得てしまつた。良兼は此の失敗に多く勇士を失ひ、気屈して、勢《いきほひ》衰へ、怏※[#二の字点、1-2-22]《あう/\》として楽まず、其後は何も仕出《しいだ》し得ず、翌年天慶二年の六月上旬病死して終《しま》つた。子春丸は事あらはれて、不意討の日から幾程も無く捕へられて殺されてしまつた。
 突騎襲撃の不成功に終つた翌年の春、良兼は手を出すことも出来無くなつてゐるし、貞盛も為すこと無く居ねばならぬので、かくては果てじと、貞盛は京|上《のぼ》りを企てた。都へ行つて将門の横暴を訴へ、天威を藉《か》りてこれを亡《ほろ》ぼさうといふのである。将門はこれを覚《さと》つて、貞盛に兎角《とかく》云ひこしらへさせては面倒であると、急に百余騎を率《ひき》ゐて追駈けた。二月の二十九日、山道を心がけた貞盛に、信濃《しなの》の小県《ちひさがた》の国分寺《こくぶじ》の辺で追ひついて戦つた。貞盛も思ひ設けぬでは無かつたから防ぎ箭《や》を射つた。貞盛方の佗田真樹は戦死し、将門方の文屋好立《ぶんやのよしたつ》は負傷したが助かつた。貞盛は辛《から》くも逃《のが》れて、遂《つひ》に京に到《いた》り、将門暴威を振ふの始終を申立てた。此歳五月改元、天慶元年となつて、其の六月、朝廷より将門を召すの符を得て常陸に帰り、常陸介藤原|維幾《これちか》の手から将門に渡した。将門は符を得ても命を奉じ無かつた。維幾は貞盛の叔母婿《をばむこ》であつた。
 貞盛が京上りをした翌天慶二年の事である。武蔵の国にも紛擾《ふんぜう》が生じた。これも当時の地方に於て綱紀の漸《やうや》く弛《ゆる》んだことを証拠立てるものであるが、それは武蔵権守興世王と、武蔵介経基と、足立郡司判官武芝とが葛藤《かつとう》を結んで解けぬことであつた。武芝は武蔵国造《むさしのくにのみやつこ》の後で、足立《あだち》埼玉《さいたま》二郡は国中で早く開けたところであり、それから漸く人烟《じんえん》多くなつて、奥羽への官道の多摩《たま》郡中の今の府中のあるところに庁が出来たのであるが、武芝は旧家であつて、累代の恩威を積んでゐたから、当時中※[#二の字点、1-2-22]勢力のあつたものであらう、そこへ新《あらた》に権守《ごんのかみ》になつた興世王と新に介《すけ》になつた経基とが来た。経基は清和源氏の祖で六孫王其人である。興世王とは如何なる人であるか、古より誰も余り言はぬが、既に王といはれて居り、又経基との地位の関係から考へて見ても、帝系に出でゝ二代目位か三代目位の人であらう。高望王が上総介、六孫王が武蔵介、およそかゝる身分の人※[#二の字点、1-2-22]がかゝる官に任ぜられたのは当時の習《ならひ》であるから、興世王も蓋《けだ》し然様《さう》いふ人と考へて失当《しつたう》でもあるまい。其頃桓武天皇様の御子|万多《まんた》親王の御子の正躬《まさみ》王の御後には、住世《すみよ》、基世《もとよ》、助世、尚世《ひさよ》、などいふ方※[#二の字点、1-2-22]があり、又正躬王御弟には保世《やすよ》、継世《つぐよ》、家世など皆世の字のついた方が沢山《たくさん》あり、又桓武天皇様の御子仲野親王の御子にも茂世、輔世《すけよ》、季世《すゑよ》など世のついた方※[#二の字点、1-2-22]が沢山に御在《おいで》であるところから推《お》して考へると、興世王は或は前掲二親王の中のいづれかの後であつたかとも思へるが、系譜で見出さぬ以上は妄測《まうそく》は力が無い。たゞ時代が丁度相応するので或はと思ふのである。日本外史や日本史で見ると、いきなり「兇険にして乱を好む」とあつて、何となく熊坂|長範《ちやうはん》か何ぞのやうに思へるが、何様《どう》いふものであらうか。扨《さて》此の興世王と経基とは、共に我《が》の強い勢《いきほひ》の猛《さか》しい人であつたと見え、前例では正任未だ到《いた》らざるの間は部に入る事を得ざるのであるのに、推《お》して部に入つて検視しようとした。武芝は年来公務に恪勤《かくきん》して上下《しやうか》の噂も好いものであつたが、前例を申して之を拒《こば》んだ。ところが、郡司の分際《ぶんざい》で無礼千万であると、兵力づくで強《し》ひて入部し、国内を凋弊《てうへい》し、人民を損耗《そんかう》せしめんとした。武芝は敵せないから逃げ匿《かく》れると、武芝の私物《しぶつ》まで検封してしまつた。で、武芝は返還を逼《せま》ると、却《かへ》つて干戈《かんくわ》の備《そなへ》をして頑《ぐわん》として聴かず、暴を以て傲つた。是によつて国書生等は不治悔過《ふぢくわいくわ》の一巻を作つて庁前に遺《のこ》し、興世王等を謗《そし》り、国郡に其非違を分明にしたから、武蔵一国は大に不穏を呈した。そして経基と興世王ともまた必らずしも睦《むつ》まじくは無く、様※[#二の字点、1-2-22]なことが隣国下総に聴えた。将門は国の守でも何でも無いが、今は勢威おのづから生じて、大親分のやうな調子で世に立つて居た。武蔵の騒がしいことを聞くと、武芝は近親では無いが、一つ扱つてやらう、といふ好意で郎等《らうどう》を率《したが》へて武蔵へ赴《おもむ》いた。武芝は喜んで本末を語り、将門と共に府に向つた。興世王と経基とは恰《あたか》も狭服山に在つたが、興世王だけは既《すで》に府に在《あ》るに会ひ、将門は興世王と武芝とを和解せしめ、府衙《ふが》で各※[#二の字点、1-2-22]数杯を傾けて居つたが、経基は未だ山北に在つた。其中武芝の従兵等は丁度経基の営所を囲んだやうになつた。経基は仲悪くして敵の如き思ひをなしてゐる武芝の従兵等が自分の営所を囲んだのを見て、たゞちに逃《のが》れ去つてしまつて、将門の言によりて武芝興世王等が和して自分一人を殺さうとするのであると合点した。そこで将門興世王を大《おほい》に恨んで、京に馳せ上つて、将門興世王謀反の企《くはだて》を致し居る由を太政官に訴へた。六孫王の言であるから忽ち信ぜられた。将門が兵を動かして威を奮つてゐることは、既に源護、平良兼、平貞盛等の訴《うつたへ》によりて、かねて知れて居るところへ、経基が此言によつて、今までのさま/″\の事は濃い陰影をなして、新らしい非常事態をクッキリと浮みあらはした。
 将門の方は和解の事|画餅《ぐわへい》に属して、おもしろくも無く石井に帰つたが、三月九日の経基の讒奏《ざんそう》は、自分に取つて一方《ひとかた》ならぬ運命の転換を齎《もた》らして居るとも知る由《よし》無くて居た。都ではかねてより阪東が騒がしかつた上に愈※[#二の字点、1-2-22]《いよ/\》謀反といふことであるから、容易ならぬ事と公卿《くぎやう》諸司の詮議に上つたことであらう。同月二十五日、太政大臣忠平から、中宮少《ちゆうぐうせう》進多治《しんたぢ》真人《まびと》助真《すけざね》に事の実否を挙ぐべき由の教書を寄せ、将門を責めた。将門も謀反とあつては驚いたことであらうが、たとひ驕倣《けうがう》にせよ実際まだ謀反をしたのでは無いから、常陸下総下毛武蔵上毛五箇国の解文《げもん》を取つて、謀反の事の無実の由を、五月二日を以て申出た。余国は知らず、常陸から此の解文は出しさうも無いことであつた。少くとも常陸では、将門謀反の由の言を幸ひとして、虚妄《きよまう》にせよ将門を誣《し》ひて陥《おとしい》れさうなところである。貞盛の姑夫《をばむこ》たる藤原維幾が、将門に好感情を有してゐる筈は無いが、まさか未《いま》だ嘗《かつ》て謀反もして居らぬ者に謀反の大罪を与へることは出来兼ねて解文を出したか、それとも短兵急に将門から攻められることを恐れて、責め逼《せま》らるゝまゝに已むを得ず出したか、一寸《ちよつと》奇異に思はれる。然し五箇国の解文が出て見れば、経基の言はあつても、差当り将門を責むべくも無く、実際また経基の言は未然を察して中《あた》つてゐるとは云へ、興世王武芝等の間の和解を勧《すゝ》めに来た者を、目前の形勢を自分が誤解して、盃中《はいちゆう》の蛇影に驚き、恨みを二人に含んで、誣《し》ひるに謀反を以てしたのではあるから、「虚言を心中に巧みにし」と将門記の文にある通りで、将門の罪せらる可《べ》き理拠は無い。又|若《も》し実際将門が謀反を敢《あへ》てしようとして居たならば、不軌《ふき》を図《はか》るほどの者が、打解けて語らつたことも無い興世王や経基の処へわざ/\出掛けて、半日|片時《へんし》の間に経基に見破らるべき間抜さをあらはす筈《はず》も無いから、此時は未だ叛を図《はか》つたとは云へない。むしろ種※[#二の字点、1-2-22]の事情が分つて見れば、東国に於ける将門の勢威を致した其の材幹力量は多とすべきであるから、是《かく》の如き才を草莱《さうらい》に埋めて置かないで、下総守になり鎮守府《ちんじゆふ》将軍になりして其父の後を襲《つ》がせ、朝廷の為に用を為させた方が、才に任じ能を挙ぐる所以《ゆゑん》の道である、それで或は将門を薦《すゝ》むる者もあり、或は将門の為に功果ある可きの由が廷に議せられたことも有つたか知れない、記に「諸国の告状に依り、将門の為に功果有るべきの由宮中に議せらるゝ」と記されて居るのも、虚妄《きよまう》で無くて、有り得べきことである。傭前介《びぜんのすけ》藤原|子高《たねたか》を殺し播磨介《はりまのすけ》島田|惟幹《これもと》を殺した後にさへ、純友は従五位を授けられんとしてゐる、其は天慶二年の事である。何にせよ善《よ》かれ悪《あし》かれ将門は経基の訴の後、大《おほい》なる問題、注意人物の雄《ゆう》として京師の人※[#二の字点、1-2-22]に認められたに疑無いから、経基の言は将門の運命に取つては一転換の機を為してゐるのである。
 良兼は今はもう将門の敵たるに堪へ無くなつて、此年六月上旬病死して居るのであるが、死前には病牀に臥《ふ》しながら鬚髪《しゆはつ》を除いて入道したといふから、是《これ》も亦《また》一可憐の好老爺だつたらうと思はれる。貞盛は良兼には死なれ、孤影蕭然《こえいせうぜん》、たゞ叔母婿《をばむこ》の維幾を頼みにして、将門の眼を忍び、常陸の彼方此方《かなたこなた》に憂《う》き月日を送つて居た。良兼が死んでは、下総一国は全く将門の旗下《はたした》になつた。
 興世王は経基が去つて後も武蔵に居たが、経基の奏によつておのづから上の御覚えは宜《よ》くなかつたことだらう、別に推問を受けた記事も見えぬが、新《あらた》に興世王の上に一官人が下つて来た。それは百済貞連《くだらさだつら》といふもので、目下の者とさへ睦《むつ》ぶことの出来なかつた興世王だから、どうして目上の者と親しむことが成らう、忽《たちま》ち衝突してしまつた。ところが貞連は意有つてか無心でか知らぬが、まるで興世王を相手にしないで、庁に坐位をも得せしめぬほどにした。上には上があり、強い者には強いものがぶつかる。興世王もこれには憤然《ふんぜん》とせざるを得なかつたが、根が負け嫌ひの、恐ろしいところの有る人とて、それなら汝《きさま》も勝手にしろ、乃公《おれ》も勝手にするといつた調子なのだらう、官も任地も有つたものでは無い、ぶらりと武蔵を出て下総へ遊びに来て、将門の許に「居てやるんだぞぐらゐな居候《ゐさふらふ》」になつた。「王の居候」だからおもしろい。「置候《おきさふらふ》」の相馬小次郎は我武者に強いばかりの男では無い、幼少から浮世の塩はたんと嘗《な》めて居る苦労人《くらうにん》だ。田原藤太に尋ねられた時の様子でも分るが、ようございますとも、いつまででも遊んでおいでなさい位の挨拶で快《こゝろよ》く置いた。誰にでも突掛《つゝか》かりたがる興世王も、大親分然たる小次郎の太ッ腹なところは性《しやう》に合つたと見えて、其儘《そのまゝ》遊んで居た。多分二人で地酒《ぢざけ》を大酒盃《おほさかづき》かなんかで飲んで、都出《みやこで》の興世王は、どうも酒だけは西が好い、いくら馬処《うまどころ》の相馬の酒だつて、頭の中でピン/\跳《は》ねるのはあやまる、将門、お前の顔は七ツに見えるぜ、なんのかのと管《くだ》でも巻いてゐたか何様《どう》か知らないが、細くない根性の者同士、喧嘩《けんくわ》もせずに暮して居た。
 大親分も好いが、縄張《なはばり》が広くなれば出入《でい》りも多くなる道理で、人に立てられゝば人の苦労も背負つてやらねばならない。こゝに常陸の国に藤原|玄明《はるあき》といふ者があつた。元来が此《これ》は是《こ》れ一個の魔君で、余り性《しやう》の良い者では無かつた。図太《づぶと》くて、いらひどくて、人をあやめることを何とも思はないで、公に背《そむ》くことを心持が好い位に心得て、やゝもすれば上には反抗して強がり、下には弱みに付入つて劫《おび》やかし、租税もくすねれば、押借りも為《し》ようといふ質《たち》で、丁度幕末の悪侍《わるざむらひ》といふのだが、度胸だけは吽《うん》と堪《こた》へたところのある始末にいかぬ奴だつた。善悪無差別の悪平等《あくびやうどう》の見地に立つて居るやうな男だが、それでも人の物を奪つて吾が妻子に呉れてやり、金持の懐中《ふところ》を絞《しぼ》つて手下には潤《うるほ》ひをつけてやるところが感心な位のものだつた。で、こくめいな長官藤原維幾は、玄明が私《わたくし》した官物を弁償せしめんが為に、度※[#二の字点、1-2-22]の移牒《いてふ》を送つたが、斯様《かう》いふ男だから、横道《わうだう》に構《かま》へ込んで出頭などはしない。末には維幾も勘忍し兼ねて、官符を発して召捕るよりほか無いとなつて其の手配をした。召捕られては敵《かな》はないから急に妻子を連れて、維幾と余り親しくは無い将門が丁度《ちやうど》隣国に居るを幸《さいはひ》に、下総の豊田、即ち将門の拠処に逃げ込んだが、行掛《ゆきが》けの駄賃にしたのだか初対面の手土産《てみやげ》にしたのだか、常陸の行方《なめかた》郡|河内《かはち》郡の両郡の不動倉の糒《ほしひ》などといふ平常は官でも手をつけてはならぬ筈のものを掻浚《かつさら》つて、常陸の国ばかりに日は照らぬと極《き》め込んだ。勿論これだけの事をしたのには、維幾との間に一[#(ト)]通りで無いいきさつが有つたからだらうが、何にせよ悪辣《あくらつ》な奴だ。維幾は怒つて下総の官員にも将門にも移牒《いてふ》して、玄明を捕へて引渡せと申送つた。ところが尋常一様の吏員の手におへるやうな玄明では無い。いつも逃亡致したといふ返辞のみが維幾の所へは来た。維幾も後には業《ごふ》を煮やして、下総へ潜《ひそ》かに踏込んで、玄明と一[#(ト)]合戦して取挫《とりひし》いで、叩き斫《き》るか生捕るかしてやらうと息巻いた。維幾も常陸介、子息為憲もきかぬ気の若者、官権実力共に有る男だ。斯様《かう》なつては玄明は維幾に敵することは出来無い。そこで眼も光り口も利《き》ける奴だから、将門よりほかに頼む人は無いと、将門の処《ところ》へ駈込んで、何様《どう》ぞ御助け下さいと、切《しき》りに将門を拝み倒した。元来親分気のある将門が、首を垂れ膝を折つて頼まれて見ると、余《あま》り香《かん》ばしくは無いと思ひながらも、仕方が無い、口をきいてやらう、といふことになつた。居候の興世王は面白づくに、親分、縋《すが》つて来る者を突出す訳にはいかねえぢや有りませんか位の事を云つたらう。で、玄明は気が強くなつた。将門は常陸《ひたち》は元《もと》から敵にした国ではあり、また維幾は貞盛の縁者ではあり、貞盛だつて今に維幾の裾《すそ》の蔭か袖《そで》の蔭に居るのであるから、うつかり常陸へは行かれない。興世王はじめ皆相談にあづかつたに相違ないが、好うございますは、事と品とによれば刃金《はがね》と鍔《つば》とが挨拶《あいさつ》を仕合ふばかりです、といふ者が多かつたのだらう、とう/\天慶二年十一月廿一日常陸の国へ相馬小次郎|郎党《らうだう》を率《ひき》ゐて押出した。興世王ばかりではあるまい、平常むだ飯を食つて居る者が、桃太郎のお供の猿や犬のやうな顔をして出掛けたに違無い。維幾の方でも知らぬ事は無い、十分に兵を用意した。将門は、件《くだん》の玄明下総に入つたる以上は下総に住せしめ、踏込んで追捕すること無きやうにありたいと申込んだ。維幾の方にも貞盛なり国香なりの一《いち》まきが居たらう。維幾は将門の申込に対して、折角の御申状《おんまをしじやう》ではあるが承引致し申さぬ、とかう仰せらるゝならば公の力、刀の上で此方心のまゝに致すまで、と刎付《はねつ》けた。然《さ》らば、然らば、を双方で言つて終《しま》つたから、論は無い、後は斫合《きりあ》ひだ。揉合《もみあ》ひ押合つた末は、玄明の手引《てびき》があるので将門の方が利を得た。大日本史や、記に「将門撃つて三千人を殺す」とあるのは大袈裟《おほげさ》過ぎるやうだが、敵将維幾を生捕《いけど》りにし、官の印鑰《いんやく》を奪ひ、財宝を多く奪ひ、営舎を焚《や》き、凱歌《がいか》を挙《あ》げて、二十九日に豊田郡の鎌輪《かまわ》、即ち今の鎌庭に帰つた。勢《いきほひ》といふ条、こゝに至つては既に遣《や》り過ぎた。大親分も宜《よ》いけれども、奉行《ぶぎやう》や代官を相手にして談判をした末、向ふが承知せぬのを、此奴《こやつ》めといふので生捕りにして、役宅《やくたく》を焚き、分捕りをして還《かへ》つたといふのでは、余り強過ぎる。
 玄明の事の起らぬ前、官符があるのであるから、将門が微力であるか維幾が猛威を有してゐるならば、将門は先づ維幾のために促《うなが》されて都へ出て、糺問《きうもん》されねばならぬ筈の身である。それが有つたからといふのも一つの事情か知らぬが、又貞盛縁類といふことも一ツの理由か知らぬが、又打つてかゝつて来たからといふのも一の所以《いはれ》か知らぬが、常陸介を生捕り国庁を荒し、掠奪焚焼《りやくだつふんせう》を敢てし、言はず語らず一国を掌握《しやうあく》したのは、相馬小次郎も図に乗つて暴《あば》れ過ぎた。裏面の情は問ふに及ばず、表面の事は乱賊の所行だ。大小は違ふが此類の事の諸国にあつたのは時代的の一現象であつたに疑無いけれど、これでは叛意が有る無いにかゝはらず、大盗の所為、又は暴挙といふべきものである。今で云へば県庁を襲撃し、県令を生擒《いけどり》し、国庫に入る可《べ》き財物を掠奪したのに当るから、心を天位に掛けぬまでも大罪に相違無い。将門は玄明、興世王なんどの遣口《やりくち》を大規模にしたのである。将門|猶未《なほいま》だ僣《せん》せずといへども、既《すで》に叛したのである。純友の暴発も蓋《けだ》し此様《かう》いふ調子なのであつたらう。延喜年間に盗の為に殺された前安芸守《さきのあきのかみ》伴光行、飛騨守《ひだのかみ》藤原辰忠、上野介《かうづけのすけ》藤原厚載、武蔵守《むさしのかみ》高向利春などいふものも、蓋《けだ》し維幾が生擒《いけどり》されたやうな状態であつたらう。孔孟《こうまう》の道は尊ばれたやうでも、実は文章詩賦が流行《はや》つたのみで、仏教は尊崇されたやうでも、実は現世|祈祷《きたう》のみ盛んで、事実に於て神祠巫覡《しんしふげき》の徒と妥協《だけふ》を遂げ、貴族に迎合《げいがふ》し、甚《はなはだ》しく平等の思想に欠け、人は恋愛の奴隷、虚栄の従僕となつて納まり返り、大臣からしてが賭《かけ》をして他《ひと》の妻を取るほど博奕《ばくち》思想は行はれ、官吏は唯《ただ》民に対する誅求《ちゆうきう》と上に対する阿諛《あゆ》とを事としてゐる、かゝる世の中に腕節《うでふし》の強い者の腕が鳴らずに居られよう歟《か》。此の世の中の表裏を看《み》て取つて、構ふものか、といふ腹になつて居る者は決して少くは無く、悪平等や撥無《はつむ》邪正の感情に不知不識《しらずしらず》陥《おちい》つて居た者も所在にあつたらう。将門が恰《あたか》も水滸伝《すゐこでん》中の豪傑が危い目に度※[#二の字点、1-2-22]|逢《あ》つて終《つひ》に官に抗し威を張るやうな徑路を取つたのも、考へれば考へどころはある。特《こと》に長い間引続いた私闘の敵方|荷担人《かたうど》の維幾が向ふへまはつて互に正面からぶつかつたのだから堪らない。此方が勝たなければ彼方が勝ち、彼方が負けなければ此方が負け、下手にまごつけば前の降間木につぐんだ時のやうな目に遇《あ》ふのだらう。玄明をかくまつた行懸《ゆきがゝ》りばかりでは無い、自分の頸《くび》にも縄の一端はかゝつてゐるものだから、向ふの頸にも縄の一端をかづかせて頸骨の強さくらべの頸引《くびひき》をして、そして敵をのめらせて敲《たゝ》きつけたのだ。常陸下総といへば人気はどちらも阪東|気質《かたぎ》で、山城大和のやうに柔らかなところでは無い。野山に生《は》へる杉の樹や松の樹までが、常陸ッ木下総ッ木といへば、大工《だいく》さんが今も顔をしかめる位で、後年の長脇差《ながわきざし》の侠客も大抵《たいてい》利根川沿岸で血の雨を降らせあつてゐるのだ。神道《しんだう》徳次は小貝川の傍《そば》、飯岡《いひをか》の助五郎、笹川の繁蔵、銚子《てうし》の五郎蔵と、数へ立つたら、指がくたびれる程だ。元来が斯様《かう》いふ土地なので、源平時分でも徳川時分でも変りは無いから、平安朝時代でも異《こと》なつては居ないらしい。現に将門の叔父の村岡五郎の孫の上総介忠常も、武蔵|押領使《あふりやうし》、日本将軍と威張り出して、長元年間には上総下総安房を切従へ、朝廷の兵を引受けて二年も戦ひ、これも叛臣伝中の人物となつてゐる。かういふ土地、かういふ時勢、かういふ思潮、かういふ内情、かういふ行懸《ゆきがゝり》り、興世王や玄明のやうなかういふ手下、とう/\火事は大きな風に煽《あふ》られて大きな燃えくさに甚《はなは》だしい焔《ほのほ》を揚《あ》げるに至つた。もういけない。将門は毒酒に酔つた。興世王は将門に対《むか》つて、一国を取るも罪は赦《ゆる》さるべくも無い、同じくば阪東を併《あは》せて取つて、世の気色を見んには如《し》かじと云ひ出すと、如何《いか》にも然様《さう》だ、と合点して終《しま》つた。興世王は実に好《い》い居候だ。親分をもり立てゝ大きくしようと心掛けたのだ。天井が高くなければ頭を聳《そび》えさせる訳には行かない。蔭で親分を悪く言ひながら、台所で偸《ぬす》み酒をするやうな居候とは少し違つて居た。併《しか》し此の居候のお蔭で将門は段※[#二の字点、1-2-22]罪を大きくした。興世王の言を聞くと、もとより焔硝《えんせう》は沢山《たくさん》に籠《こも》つて居た大筒《おほづゝ》だから、口火がついては容赦《ようしや》は無い。ウム、如何にも、いやしくも将門、刹帝利《さつていり》の苗裔《べうえい》三世の末葉である、事を挙《あ》ぐるもいはれ無しとはいふ可からず、いで先づ掌《たなそこ》に八箇国を握つて腰に万民を附けん、と大きく出た。かう出るだらうと思つて、そこで性に合つて居た興世王だから、イヨー親分、と喜んで働き出した。藤原の玄明や文室《ぶんや》の好立等のいきり立つたことも言ふ迄は無い。ソレッといふので下野国へと押出した。馬を駈けさせては馬場所《うまばしよ》の士《さむらひ》だ。将門が猛威を張つたのは、大小の差こそあれ大元《だいげん》が猛威を振《ふる》つたのと同じく騎隊を駆使したためで、古代に於ては汽車汽船自働車飛行機のある訳では無いから、驍勇な騎士を用ゐれば、其の速力や負担力《ふたんりよく》に於て歩兵に陪※[#「くさかんむり/徙」、第4水準2-86-65]《ばいし》するから、兵力は個数に於て少くて実量に於て多いことになる。下総は延喜式で左馬寮《さまれう》御牧貢馬地《みまきこうばち》として、信濃上野甲斐武蔵の下に在るやうに見えるが、兵部省《ひやうぶしやう》諸国馬牛|牧式《ぼくしき》を見ると、高津《たかつ》牧、大結牧、本島《もとじま》牧、長州牧など、沢山な牧《まき》があつて、兵部省へ貢馬《こうば》したものである。鎌倉時代足利時代から徳川時代へかけて、地勢上奥羽と同じく産馬地として鳴つて居る。特《こと》に将門は武人、此の牧場多き地に生長して居れば、十分に馬政にも注意し、騎隊の利をも用ゐるに怠らなかつたらう。
 天慶の二年十一月二十一日に常陸を打従へて、すぐ其の翌月の十一日出発した。馬は竜の如く、人は雲の如く、勇威|凛※[#二の字点、1-2-22]《りん/\》と取つてかゝつたので、下野の国司は辟易《へきえき》した。経基の奏の後、阪東諸国の守や介は新らしい人※[#二の字点、1-2-22]に換《か》へられたが、斯様《かう》いふ時になると新任者は勝手に不案内で、前任者は責任の解けたことであるから、いづれにしても不便不利であつて、下野の新司の藤原の公雅は抵抗し兼ねて印鑰《いんやく》を差出して降《くだ》つて終《しま》つた。前司の大中臣《おほなかとみ》全行《まさゆき》も敵対し無かつた。国司の館《やかた》も国府も悉《こと/″\》く虜掠《りよりやく》されて終ひ、公雅は涙顔天を仰ぐ能《あた》はず、すご/\と東山道を都へ逃れ去つた。同月十五日馬を進めて上野へ将門等は出た。介の藤原尚範も印鑰《いんやく》を奪はれて終つた。十九日国庁に入り、四門の陣を固めて、将門を首《はじ》め興世王、藤原玄茂等堂※[#二の字点、1-2-22]と居流れた。(玄茂も常陸の者である、蓋《けだ》し玄明の一族、或は玄茂即玄明であらう。)此時、此等の大変に感じて精神異常を起したものか、それとも玄明等|若《も》しくは何人かの使嗾《しそう》に出でたか知らぬが、一伎あらはれ出でゝ、神がゝりの状になり、八幡大菩薩《はちまんだいぼさつ》の使者と口走り、多勢の中で揚言して、八幡大菩薩、位《くらゐ》を蔭子《いんし》将門に授く、左大臣正二位菅原|道真朝臣《みちざねあそん》之を奉ず、と云つた。一軍は訳も無く忻喜雀躍《きんきじやくやく》した。興世王や玄茂等は将門を勧めた。将門は遂に神旨を戴いた。四陣上下、挙《こぞ》つて将門を拝して、歓呼の声は天地を動かした。
 此の仕掛花火《しかけはなび》は唯[#「唯」はママ]が製造したか知らぬが、蓋し興世玄明の輩《やから》だらう。理屈は兎《と》もあれ景気の好い面白い花火が揚《あが》れば群衆は喝采《かつさい》するものである。群衆心理なぞと近頃しかつめらしく言ふが、人は時の拍子にかゝると途方も無いことを共感協行するものである。昔はそれを通り魔の所為だの天狗《てんぐ》の所為だのと言つたものである。群衆といふことは一体鰯だの椋鳥《むくどり》だの鴉《からす》だの鰊《にしん》だのの如きものの好んで為すところで、群衆に依《よ》つて自族を支へるが、個体となつては余りに弱小なものの取る道である。人間に在つても、立教者は孤独で信教者は群集、勇者は独往し怯者《けふしや》は同行する、創作者は独自で模倣者《もはうしや》は群集、智者は寥※[#二の字点、1-2-22]《れう/\》、愚者は多※[#二の字点、1-2-22]であつて、群衆して居るといへば既《すで》にそれは弱小|蠢愚《しゆんぐ》の者なる事を現はして居る位のものである。群衆心理は即《すなは》ち衆愚心理なのであるから、皆自から主たる能《あた》はざるほどの者共が、相率《あひひき》ゐて下らぬ事を信じたり、下らぬ事を怒つたり悲しんだり喜んだり、下らぬ行動を敢《あへ》てしたりしても何も異とするには足らない。魚は先頭魚の後へついて行き、鳥は先発鳥の後へつくものである。群衆は感の一致から妄従妄動するもので、浅野|内匠頭《たくみのかみ》の家は潰《つぶ》され城は召上げられると聞いた時、一二が籠城して戦死しようと云へば、皆争つて籠城戦死しようとしたのが即ち群衆心理である。其実は主家の為に忠に死するに至つた者は終《つひ》に何程も有りはし無かつた。感の一致が月日の立つと共に破れると、御金配分を受けて何処《どこ》かへ行つてしまふのが却《かへ》つて本態だつたのである。そこで衆愚心理を見破つて、これを正しく用ゐるのが良い政治家や軍人で、これを吾が都合上に用ゐるのが奸雄《かんゆう》や煽動家《せんどうか》である。八幡大菩薩《はちまんだいぼさつ》の御託宣は群衆を動かした。群衆は無茶に歓《よろこ》んだ。将門は新皇と祭り上げられた。通り魔の所為だ、天狗の所為だ。衆愚心理は巨浪を※[#「けものへん+爰」、第3水準1-87-78]島《ゑんたう》に持上げてしまつた。将門は毒酒を甘しとして其の第二盃を仰いでしまつた。
 道真公が此処《こゝ》へ陪賓《ばいひん》として引張り出されたのも面白い。公の貶謫《へんたく》と死とは余ほど当時の人心に響を与へてゐたに疑無い。現に栄えてゐる藤原氏の反対側の公の亡霊の威を藉《か》りたなどは一寸《ちよつと》をかしい。たゞ将門が菅公|薨去《こうきよ》の年に生れたといふ因縁で、持出したのでもあるまい。本来託宜といふことは僧道|巫覡《ふげき》の徒の常套で、有り難過ぎて勿体無いことであるが、迷信流行の当時には託宣は笑ふ可《べ》きことでは無かつたのである。現に将門を滅ぼす祈祷《きたう》をした叡山《えいざん》の明達《めいたつ》阿闍梨《あじやり》の如きも、松尾明神の託宣に、明達は阿倍仲丸の生れがはりであるとあつたといふことが扶桑略記《ふさうりやくき》に見えてゐるが、これなぞは随分|変挺《へんてこ》な御託宣だ。宇佐八幡の御託宣は名高いが、あれは別として、一体神がゝり御託宣の事は日本に古伝のあることであつて、当時の人は多く信じてゐたのである。此の八幡託宣は一場の喜劇の如くで、其の脚色者も想像すれば想像されることではあるが、或は又別に作者があつたのでは無く、偶然に起つたことかも知れない。古より東国には未だ曾《かつ》て無い大動揺が火の如くに起つて、瞬《またゝ》く間に無位無官の相馬小次郎が下総常陸上野下野を席捲《せきけん》したのだから、感じ易い人の心が激動して、発狂状態になり、斯様《かやう》なことを口走つたかとも思はれる。然《しか》らずば、一時の賞賜《しやうし》を得ようとして、斯様なことを妄言《まうげん》するに至つたのかも知れない。
 田原藤太が将門を訪ふた談《はなし》は、此の前後の事であらう。秀郷《ひでさと》は下野掾《しもつけのじよう》で、六位に過ぎぬ。左大臣|魚名《うをな》の後で、地方に蟠踞《ばんきよ》して威望を有して居たらうが、これもたゞの人ではない。何事の罪を犯したか知らぬが、延喜十六年八月十二日に配流《はいる》されたとある。同時に罪を得たものは、同国人で同姓の兼有《かねあり》、高郷《たかさと》、興貞《おきさだ》等十八人とあるから、何か可なりの事件に本《もと》づいたに相違無い。日本紀略にも罪状は出て居らぬが、都まで通つた悪事でもあり、人数も多いから、いづれ党を組み力を戮《あは》せて為《し》た事だらう。何にしても前科者だ、一筋《ひとすぢ》で行く男では無い。将門を訪ふた談《はなし》は、時代ちがひの吾妻鏡《あづまかゞみ》の治承四年九月十九日の条に、昔話として出て居るので、「藤原秀郷、偽《いつ》はりて門客に列す可《べ》きの由《よし》を称し、彼の陣に入るの処、将門喜悦の余り、梳《くし》けづるところの髪を肆《をは》らず、即ち烏帽子に引入れて之に謁《えつ》す。秀郷其の軽忽なるを見、誅罰《ちゆうばつ》す可《べ》きの趣《おもむき》を存じ退出し、本意の如く其首を獲たり云※[#二の字点、1-2-22]」といふので、源平盛衰記には、「将門と同意して朝家を傾け奉り、日本国を同心に知らんと思ひて、行向ひて角《かく》といふ」と巻二十二に書き出して、世に伝へたる髪の事、飯粒の事を書いて居る。盛衰記に書いてある通りならば、秀郷は随分|怪《け》しからぬ料簡方《れうけんかた》の男で、興世王の事を為《な》さずして終つたが、興世王の心を懐《いだ》いてゐた人だと思はれる。斎藤竹堂が論じた如く、秀郷の事跡を観《み》れば朝敵を対治したので立派であるが、其の心術を考へれば悪《にく》むべきところのあるものである。然し源平盛衰記の文を証にしたり、日本外史を引いて論じられては、是非も共に皆非であつて、田原藤太も迷惑だらう。吾妻鏡は「偽はりて称す云※[#二の字点、1-2-22]」と記し、大日本史は「秀郷陽に之に応じ、其の営に造《いた》りて謁を通ず」と記してゐる。此の意味で云へば、将門の勢《いきほひ》が浩大《かうだい》で、独力之を支ふることが出来無かつたから、下野掾の身ではあるが、尺蠖《せきくわく》の一時を屈して、差当つての難を免れ、後の便宜にもとの意で将門の許《もと》を訪《と》ふたといふのであるから、咎《とが》むべきでは無い。竹堂の論もむだ言である。が、盛衰記の記事が真相を得て居るのだらうか、大日本史の記事の方が真相を得て居るだらうか。秀郷の後の千晴《ちはる》は、安和年中、橘《たちばなの》繁延《しげのぶ》僧|連茂《れんも》と廃立を謀《はか》るに坐して隠岐に流されたし、秀郷自身も前に何かの罪を犯してゐるし、時代の風気をも考へ合せて見ると、或は盛衰記の記事、竹堂の論の方が当つて居るかと思へる。然し確証の無いことを深刻に論ずるのは感心出来無いことだ、憚《はゞか》るべきことだ、田原藤太を強《し》ひて、何方《どちら》へ賭《か》けようかと考へた博奕《ばくち》打《うち》にするには当らない。
 将門に逐《お》ひ立てられた官人連は都へ上る、諸国よりは櫛《くし》の歯をひくが如く注進がある。京師では驚愕《きやうがく》と憂慮と、応変の処置の手配《てくばり》とに沸立《わきた》つた。東国では貞盛等は潜伏し、維幾は二十九日以来鎌輪に幽囚された。
 将門は旧恩ある太政大臣忠平へ書状を発した。其書は満腔《まんかう》の欝気《うつき》を伸《の》べ、思ふ存分のことを書いて居るが、静かに味はつて見ると、強い言の中に柔らかな情があり、穏やかに委曲《ゐきよく》を尽してゐる中に手強いところがあつて中※[#二の字点、1-2-22]面白い。
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将門|謹《つゝし》み言《まを》す。貴誨《きくわい》を蒙《かうむ》らずして、星霜多く改まる、渇望の至り、造次《ざうじ》に何《いか》でか言《まを》さん。伏して高察を賜はらば、恩幸なり恩幸なり。」然れば先年源[#(ノ)]護等の愁状に依りて将門を召さる。官符をかしこみ、※[#「公/心」、第3水準1-84-41]然《しようぜん》として道に上り、祗候《しこう》するの間、仰せ奉りて云はく、将門之事、既に恩沢に霑《うるほ》ひぬ。仍《よ》つて早く返し遣《や》る者なりとなれば、旧堵《きうと》に帰着し、兵事を忘却し、弓弦を綬《ゆる》くして安居しぬ。」然る間に前《さきの》下総国介平良兼、数千の兵を起し、将門を襲ひ攻む。将門背走相防ぐ能《あた》はざるの間、良兼の為に人物を殺損奪掠《さつそんだつりやく》せらるゝの由《よし》は、具《つぶ》さに下総国の解文《げもん》に注し、官に言上《ごんじやう》しぬ、爰《こゝ》に朝家諸国に勢《せい》を合して良兼等を追捕す可きの官符を下され了《をは》んぬ。而《しか》るに更に将門等を召すの使を給はる、然るに心安からざるに依りて、遂に道に上らず、官使英保純行に付いて、由を具《ぐ》して言上し了んぬ。未だ報裁を蒙《かうむ》らず、欝包《うつはう》の際、今年の夏、同じく平貞盛、将門を召すの官符を奉じて常陸国に到《いた》りぬ。仍《よ》つて国内|頻《しき》りに将門に牒述《てふじゆつ》す。件《くだん》の貞盛は、追捕を免れて跼蹐《きよくせき》として道に上れる者也、公家は須《すべか》らく捕へて其の由を糺《たゞ》さるべきに、而もかへつて理を得るの官符を給はるとは、是尤も矯飾《けうしよく》せらるゝ也。」又|右少弁《うせうべん》源相職朝臣《みなもとすけときのあそん》仰せの旨を引いて書状を送れり、詞に云はく、武蔵介経基の告状により、定めて将門を推問すべきの後符あり了んぬと。」詔使到来を待つの比《ころ》ほひ、常陸介《ひたちのすけ》藤原維幾|朝臣《あそん》の息男為憲、偏《ひとへ》に公威を仮りて、ただ寃枉《ゑんわう》を好む。爰《こゝ》に将門の従兵藤原玄明の愁訴により、将門其事を聞かんが為に彼国に発向せり。而るに為憲と貞盛等と心を同じうし、三千余の精兵を率ゐて、恣《ほしいまゝ》に兵庫の器仗戎具《きぢやうじゆうぐ》並びに楯《たて》等を出して戦を挑《いど》む。是《こゝ》に於て将門士卒を励まし意気を起し、為憲の軍兵を討伏せ了んぬ。時に州を領するの間滅亡する者其数|幾許《いくばく》なるを知らず、況《いは》んや存命の黎庶《れいしよ》は、尽《こと/″\》く将門の為に虜獲せらるゝ也。」介の維幾、息男為憲を教へずして、兵乱に及ばしめしの由《よし》は、伏して過状を弁じ了《をは》んぬ。将門本意にあらずと雖《いへど》も、一国を討滅しぬれば、罪科軽からず、百県に及ぶべし。之によりて朝議を候《うかゞ》ふの間、しばらく坂東の諸国を虜掠《りよりやく》し了んぬ。」伏して昭穆《せうぼく》を案ずるに、将門は已に栢原《かしはばら》帝王五代之孫なり、たとひ永く半国を領するとも、豈《あに》非運と謂《い》はんや。昔兵威を振《ふる》ひて天下を取る者は、皆史書に見るところ也。将門天の与ふるところ既《すで》に武芸に在り、等輩を思惟するに誰か将門に比《およ》ばんや。而るに公家褒賞の由|无《な》く、屡《しば/″\》譴責《けんせき》の符を下さるゝは、身を省みるに恥多し、面目何ぞ施さん。推して之を察したまはば、甚だ以て幸《さいはひ》なり。」抑《そも/\》将門少年の日、名簿を太政大殿に奉じ、数十年にして今に至りぬ。相国摂政《しやうこくせつしよう》の世に意《おも》はざりき此事を挙げんとは。歎念の至り、言ふに勝《た》ゆ可《べ》からず。将門傾国の謀《はかりごと》を萌《きざ》すと雖《いへども》、何ぞ旧主を忘れんや。貴閣且つ之を察するを賜はらば甚だ幸なり。一を以て万を貫《つらぬ》く。将門謹言。
   天慶二年十二月十五
      謹※[#二の字点、1-2-22]上 太政大殿少将閣賀恩下
[#ここで字下げ終わり]
 此状で見ると将門が申訳《まをしわけ》の為に京に上つた後、郷に還《かへ》つておとなしくしてゐた様子は、「兵事を忘却し、弓弦を綬《ゆる》くして安居す」といふ語に明らかに見《あら》はれてゐる。そこを突然に良兼に襲はれて酷《ひど》い目に遇《あ》つたことも事実だ。で、其時に将門は正式の訴状を出して其事を告げたから、朝廷からは良兼を追捕すべきの符が下つたのだ。然《しか》るに将門は公《おほやけ》の手の廻るのを待たずに、良兼に復讐戦《ふくしゆうせん》を試みたのか、或は良兼は常陸国から正式に解文を出して弁解したため追捕の事が已《や》んだのを見て、勘忍《かんにん》ならずと常陸《ひたち》へ押寄せたのであつたらう。其時良兼が応じ戦は無いで筑波山《つくばさん》へ籠つたのは、丁度将門が前に良兼に襲はれた時応戦し無かつたやうなもので、公辺に対して自分を理に敵を非に置かうとしたのであつた。将門は腹立紛《はらたちまぎ》れに乱暴して帰つたから、今度は常陸方から解文《げぶん》を上して将門を訴へた。で、将門の方へ官符が来て召問はるべきことになつたのだ。事情が紛糾《ふんきう》して分らないから、官使純行等三人は其時東国へ下向したのである。将門は弁解した、上京はしなかつた。そこへ又後から貞盛は将門の横暴を直訴《ぢきそ》して頂戴した将門追捕の官符を持つて帰つて来たのである。これで極《きは》めて鮮《あざ》やかに前後の事情は分る。貞盛は将門追捕の符を持つて帰つたが、将門の方から云へば貞盛は良兼追捕の符の下つた時、良兼同罪であつて同じく配符の廻つて居た者だから、追捕を逃れ上京した時、公《おほやけ》に於て取押へて糺問《きうもん》さるべき者であるにかゝはらず、其者に取つて理屈の好い将門追捕の符を下さるゝとは怪《け》しからぬ矯飾《けうしよく》であると突撥《つつぱ》ねてゐるのである。こゝまでは将門の言ふところに点頭の出来る情状と理路とがある。玄明の事に就ては少し無理があり、信じ難い情状がある。玄明を従兵といふのが奇異だ。行方河内両郡の食糧を奪つたものを執《とら》へんとするものを、寃枉《ゑんわう》を好むとは云ひ難い。為憲貞盛合体して兵を動かしたといふのは、蓋《けだ》し事実であらうが、要するに維幾と対談に出かけたところからは、将門のむしやくしや腹の決裂である。此書の末の方には憤怨|恨※[#「りっしんべん+非」、第4水準2-12-50]《こんひ》と自暴の気味とがあるが、然し天位を何様《どう》しようの何のといふそんな気味は少しも無い。むしろ、乱暴はしましたが同情なすつても宜《よ》いではありませんか、あなたには御気の毒だが、男児として仕方が無いぢやありませんか、といふ調子で、将門が我武者一方で無いことを現はしてゐて愛す可《べ》きである。
 将門は厭《いや》な浮世絵に描かれた如き我武者一方の男では無い。将門の弟の将平は将門よりも又やさしい。将門が新皇と立てられるのを諫《いさ》めて、帝王の業は智慧《ちゑ》力量の致すべきでは無い、蒼天《さうてん》もし与《く》みせずんば智力また何をか為《な》さん、と云つたとある。至言である。好人である。斯様《かう》いふ弟が有つては、日本ではだめだが国柄によつては将門も真実の天子となれたかも知れない。弓削道鏡《ゆげのだうきやう》の一類には玄賓僧都《げんぴんそうづ》があり、清盛の子に重盛があり、将門の弟に将平の有つたのは何といふ面白い造物の脚色だらう。何様《どう》も戯曲には真の歴史は無いが、歴史には却《かへ》つて好い戯曲がある。将門の家隷《けらい》の伊和員経《いわのかずつね》といふ者も、物静かに将門を諫めたといふ。然し将門は将平を迂誕《うたん》だといひ、員経を心無き者だといつて容れなかつた由だが、火事もこゝまで燃えほこつては、救はんとするも焦頭爛頭《せうとうらんとう》あるのみだ。「とゞの詰りは真白《まつしろ》な灰」になつて何も浮世の埒《らち》が明くのである。「上戸《じやうこ》も死ねば下戸も死ぬ風邪《かぜ》」で、毒酒の美《うま》さに跡引上戸となつた将門も大酔淋漓《たいすゐりんり》で島広山《しまひろやま》に打倒れゝば、「番茶に笑《ゑ》んで世を軽う視る」といつた調子の洒落《しや》れた将平も何様《どう》なつたか分らない。四角な蟹《かに》、円い蟹、「生きて居る間のおの/\の形《なり》」を果敢《はか》なく浪の来ぬ間の沙《すな》に痕《あと》つけたまでだ。
 将平員経のみではあるまい、群衆心理に摂収されない者は、或は口に出して諫《いさ》め、或は心に秘めて非としたらうが、興世王や玄茂が事を用ゐて、除目《ぢもく》が行はれた。将門の弟の将頼は下野守に、上野守に常羽御厩別当多治経明を、常陸守に藤原玄茂を、上総守に興世王を、安房守に文室好立を、相模守に平将文を、伊豆守に平将武を、下総守に平将為を、それ/″\の受領が定められた。毒酒の宴は愈※[#二の字点、1-2-22]はづんで来た。下総の亭南《ていなみ》、今の岡田の国生《くにふ》村あたりが都になる訳で、今の葛飾《かつしか》の柳橋か否か疑はしいが※[#「木+義」、第3水準1-86-23]橋《ふなばし》といふところを京の山崎に擬《なぞ》らへ、相馬の大井津、今の大井村を京の大津に比し、こゝに新都が阪東に出来ることになつたから、景気の好いことは夥《おびたゞ》しい。浮浪人や配流人、なま学者や落魄公卿《らくはくくげ》、いろ/\の奴が大臣にされたり、参議にされたり、雑穀屋の主人が大納言金時などと納まりかへれば、掃除屋が右大弁|汲安《くみやす》などと威張り出す、出入の大工が木工頭《もくのかみ》、お針の亭主が縫殿頭《ぬひのかみ》、山井庸仙《やまゐようせん》老が典薬頭、売卜の岩洲友当《いはずともあて》が陰陽《おんやう》博士《はかせ》になるといふ騒ぎ、たゞ暦日博士だけにはなれる者が無かつたと、京童《きやうわらべ》が云つたらしい珍談が残つてゐる。
 上総安房は早くも将門に降つたらう。武蔵相模は新皇親征とあつて、馬蹄|戞※[#二の字点、1-2-22]《かつ/\》大軍南に向つて発した。武蔵も論無く、相模も論無く降伏したらしく別に抵抗をした者の談《はなし》も残つて居ない。諸国が弱い者ばかりといふ訳ではあるまいが、一つには官の平生の処置に悦服《えつぷく》して居なかつたといふ事情があつて、むしろ民庶は何様《どん》な新政が頭上《づじやう》に輝くかと思つたために、将門の方が勝つて見たら何様《どう》だらうぐらゐに心を持つてゐたのであらう。それで上野下野武蔵相模たちまちにして旧官は逐落《おひおと》され、新軍は勢《いきほひ》を得たのかと想像される。相模よりさきへは行かなかつたらしいが、これは古の事で上野は碓氷《うすひ》、相模は箱根|足柄《あしがら》が自然の境をなしてゐて、将門の方も先づそこらまで片づけて置けば一段落といふ訳だつたからだらう。相州|秦野《はたの》あたりに、将門が都しようかとしたといふ伝説の残つてゐるのも、将門軍がしばらくの間彷徨したり駐屯したりしてゐた為に生じたことであらう。燎原《れうげん》の勢《いきほひ》、八ヶ国は瞬間にして馬蹄《ばてい》の下になつてしまつた。実際平安朝は表面は衣冠束帯|華奢《くわしや》風流で文明くさかつたが、伊勢物語や源氏物語が裏面をあらはしてゐる通り、十二|単衣《ひとへ》でぞべら/\した女どもと、恋歌《こひか》や遊芸に身の膏《あぶら》を燃して居た雲雀骨《ひばりぼね》の弱公卿《よわくげ》共との天下であつて、日本各時代の中でも余り宜《よろ》しく無く、美なること冠玉の如くにして中|空《むな》しきのみの世であり、やゝもすれば暗黒時代のやうに外面のみを見て評する人の多い鎌倉時代などよりも、中味は充実してゐない危い代であつたのは、将門ばかりでは無い純友などにも脆《もろ》く西部を突崩されて居るのを見ても分る。元の忽必然《クビライ》が少し早く生れて、平安朝に来襲したならば、相模太郎になつて西天を睥睨《へいげい》してウムと堪《こら》へたものは公卿どもには無くつて、却《かへ》つて相馬小次郎将門だつたかも知れはし無い。「荒|壁《つと》に蔦のはじめや飾り縄」で、延喜式の出来た時は頼朝が頤《あご》で六十余州を指揮《しき》する種子《たね》がもう播《ま》かれてあつたとも云へるし、源氏物語を読んでは大江広元が生まれない遥《はるか》に前に、気運の既《すで》に京畿《けいき》に衰えてゐることを悟つた者が有つたかも知れないとも云へる。忠常の叛、前九年、後三年の乱は、何故に起つた。直接には直接の理由が有らうが、間接には粉面|涅歯《でつし》の公卿共がイソップ物語の屋根の上の羊みたやうにして居たからだ。奥州藤原家が何時《いつ》の間にか、「だんまり虫が壁を透《とほ》す」格で大きなものになつてゐたのも、何を語つてゐるかと云へば、「都のうつけ郭公《ほとゝぎす》待つ」其間におとなしくどし/\と鋤鍬《すきくは》を動かして居たからだ。天下枢機の地に立つ者が平安朝ほど惰弱|苟安《こうあん》で下らない事をしてゐたことは無い位だ。だから将門が火の手をあげると、八箇国はべた/\となつて、京では七|斛余《こくよ》の芥子《けし》を調伏祈祷の護摩《ごま》に焚《た》いて、将門の頓死屯滅《とんしとんめつ》を祈らせたと云伝《いひつた》へられて居る。八箇国を一月ばかりに切従へられて、七|斛《こく》の芥子を一七日に焚いたなぞは、帯紐の緩《ゆる》み加減も随分|太甚《はなはだ》しい。
 相模から帰つた将門は、天慶三年の正月中旬、敵の残党が潜んでゐる虞《おそれ》のある常陸へと出馬して鎮圧に力《つと》めた。丁度都では此時参議|右衛門督《うゑもんのかみ》藤原忠文を征東大将軍として、東征せしむることになつた。忠文は当時唯一の将材だつたので、後に純友征伐にも此人が挙げられて居る。忠文は命を受けた時、方《まさ》に食事をしてゐたが、命を聞くと即時に箸《はし》を投じて起つて、節刀《せつたう》を受くるに及んで家に帰らずに発したといふ。生《なま》ぬるい人のみ多かつた当時には立派な人だつた。しかし戦ふに及ばぬ間に将門が亡びたので賞に及ばなかつたのを恨んで、拳《こぶし》を握つて爪が手の甲にとほり、怨言を発して小野宮《をののみや》大臣を詛《のろ》つたといふところなどは余り小さい。将門が常陸へ入ると那珂久慈《なかくじ》両郡の藤原氏どもは御馳走をして、へいこらへいこらをきめた。そこで貞盛為憲等の在処《ありか》を申せと責めたが、貞盛為憲等は此等の藤原氏どもに捕へられるほど間抜《まぬけ》でも弱虫でも無かつた。其中将門軍の多治経明等の手で、貞盛の妻と源扶の妻を吉田郡の蒜間江《ひるまえ》で捕へた。蒜間江は今の茨城郡の涸沼《ひぬ》である。
 前には将門の妻が執《とら》へられ、今は貞盛の妻が執《とら》へられた。時計の針は十二時を指したかと思ふと六時を指すのだ。女等は衣類まで剥取《はぎと》られて、みじめな態《さま》になつたが、この事を聞いた将門は良兼とは異つた性格をあらはした。流浪《るらう》の女人を本属にかへすは法式の恒例であると、相馬小次郎は法律に通じ、思ひやりに富んで居た。衣|一襲《ひとかさね》を与へて放ち還《かへ》らしめ、且《か》つ一首の歌を詠じた。よそにても風のたよりに我ぞ問ふ枝離れたる花のやどりを、といふのである。貞盛の妻は恩を喜んで、よそにても花の匂《にほひ》の散り来れば吾が身わびしとおもほえぬかな、と返歌した。歌を詠《よ》みかけられて返しをせぬと、七生|唖《おし》にでもなるやうに思つてゐたらしい当時の人のことで此の返しはあつたのだらう。此歌此事を引掛けて、源護の家と将門との争闘の因縁《いんねん》にでもこじつけると、古い浄瑠璃作者が喉《のど》を鳴らしさうな材料になる。扶の妻も歌を詠んだ。流石《さすが》に平安朝の匂のする談で、吹きすさぶ風の中にも春の日は花の匂のほのかなるかな、とでも云ひたい。清宮秀堅がこゝに心をとめて、「将門は凶暴といへども草賊と異なるものあり、良兼を放てる也、父祖の像を観て走れる也、貞盛扶の妻を辱《はづ》かしめざる也」と云つて居るが、実に其の通りである。将門は時代が遠く事実が詳しく知れぬから、元亀天正あたりの人のやうに細かい想像をつけることは叶《かな》はぬが、何様《どう》も李自成やなんぞのやうなものでは無い。やはり日本人だから日本人だ。興世王や玄明を相手に大酒を飲んで、酔払つて管《くだ》さへ巻かなかつたらば、氏《うぢ》は異ふが鎮西《ちんぜい》八郎|為朝《ためとも》のやうな人と後の者から愛慕されただらうと思はれる。
 戯曲はこゝにまた一場ある。貞盛の妻は放されて何様《どう》したらう。およそ情のある男女の間といふものは、不思議に離れてもまた合ふもので、虫が知らせるといふものか何《ど》うか分らぬが、「慮《おも》つて而して知るにあらず、感じて而して然るなり」で、動物でも何でも牝牡《ひんぼ》雌雄が引分けられてもいつか互《たがひ》に尋ねあてゝ一所《いつしよ》になる。銀杏《いてふ》の樹の雄樹と雌樹とが、五里六里離れて居てもやはり実を結ぶ。漢の高祖の若い時、あちこちと逃惑つて山の中などに隠れて居ても、妻の呂氏がいつでも尋ねあてた。それは高祖の居るところに雲気が立つて居たからだといふが、いくら卜者《ぼくしや》の娘だつて、こけの烏のやうに雲ばかりを当にしたでは無からう。あれ程の真黒焦の焼餅やきな位だから、吾が夫のことでヒステリーのやうになると、忽ちサイコメトリー的、千里眼になつて、「吾が行へを寝《い》ぬ夢に見る」で、あり/\と分つて後追駈けたものであらうかも知れぬ。貞盛の妻もこゝでは憂き艱難しても夫にめぐり遇《あ》ひたいところだ。やうやくめぐり遇つたとするとハッとばかりに取縋《とりすが》る、流石《さすが》の常平太も女房の肩へ手をかけてホロリとするところだ。そこで女房が敵陣の模様を語る。柔らかいしつとりとした情合の中から、希望の火が燃え出して、扨《さて》は敵陣手薄なりとや、いで此機をはづさず討取りくれん、と勇気身に溢《あふ》れて常平太貞盛が突立上《つゝたちあが》る、チョン、チョ/\/\/\と幕が引けるところで、一寸おもしろい。が、何の書にもかういふところは出て居ない。
 然し実際に貞盛は将門の兵の寡《すくな》いことをば、何様《どう》して知つたか知り得たのである。将門精兵八千と伝へられてゐるが、此時は諸国へ兵を分けて出したので、旗本は甚《はなは》だ手薄だつた。貞盛はかねて糸を引き謀《はかりごと》を通じあつてゐた秀郷《ひでさと》と、四千余人を率ゐて猛然と起つた。二月一日矢合せになつた。将門の兵は千人に満たなかつたが、副将軍春茂(春茂は玄茂か)陣頭経明|遂高《かつたか》、いづれも剛勇を以て誇つてゐる者どもで、秀郷等を見ると将門にも告げずに、それ駈散らせと打つて蒐《かゝ》つた。秀郷、貞盛、為憲は兵を三手《みて》に分つて巧みに包囲した。玄明等大敗して、下野下総|界《ざかひ》より退《ひ》いた。勝に乗じて秀郷の兵は未申《ひつじさる》ばかりに川口村に襲ひかゝつた。川口村は水口村《みづくちむら》の誤《あやまり》で下総の岡田郡である。将門はこゝで自から奮戦したが、官と賊との名は異なり、多と寡《くわ》との勢《いきほひ》は競《きそ》は無いで退いた。秀郷貞盛は息をつかせず攻め立てた。勝てば助勢は出て来る、負ければ怯気《おぢけ》はつく。将門の軍は日に衰へた。秀郷の兵は下総の堺、即ち今の境町まで十三日には取詰めた。敵を客戦の地に置いて疲れさせ、吾が兵の他から帰り来るを待たうと、将門は見兵《けんぺい》四百を率ゐて、例の飯沼のほとり、地勢の錯綜《さくそう》したところに隠れた。秀郷等は偽宮を焼立てゝ敵の威を削り気を挫《くじ》いた。十四日将門は※[#「けものへん+爰」、第3水準1-87-78]島郡の北山に遁《のが》れて、疾《と》く吾が軍来れと待ち望んで居た。大軍が帰つて来ては堪らぬから、秀郷貞盛は必死に戦った。此の日南風急暴に吹いて、両軍共に楯《たて》をつくことも出来ず、皆ばら/\と吹倒されてしまつた。人※[#二の字点、1-2-22]面※[#二の字点、1-2-22]相望むやうになつた。修羅心《しゆらしん》は互に頂上に達した。牙を咬《か》み眼を瞋《いか》らして、鎬《しのぎ》を削り鍔《つば》を割つて争つた。こゝで勝たずに日がたてば、秀郷等は却《かへ》つて危ふくなるのであるから、死身になつて堪へ堪へたが、風は猛烈で眼もあけられなかつたため、秀郷の軍は終《つひ》に利を失つた。戦の潮合《しほあひ》を心得た将門は、轡《くつわ》を聯《つら》ね馬を飛ばして突撃した。下野勢は散※[#二の字点、1-2-22]に駈散《けち》らされて遁迷ひ、余るところは屈竟《くつきやう》の者のみの三百余人となった。此時天意かいざ知らず、二月の南風であつたから風は変じて、急に北へとまはつた。今度は下野軍が風の利を得た。死生勝負此の一転瞬の間ぞ、と秀郷貞盛は大童《おほわらは》になつて闘つた。将門も馬を乗走らせて進み戦つたが、たま/\どつと吹く風に馬が駭《おどろ》いて立つた途端、猛風を負つて飛んで来た箭《や》は、はつたとばかりに将門の右の額に立つた。憐れむべし剛勇みづから恃《たの》める相馬小次郎将門も、こゝに至つて時節到来して、一期三十八歳、一燈|忽《たちま》ち滅《き》えて五彩皆空しといふことになつた。
 本幹|已《すで》に倒れて、枝葉|全《まつた》からず、将門の弟の将頼と藤原玄茂とは其歳相模国で斬《き》られ、興世王は上総へ行つて居たが左中弁将末に殺され、遂高玄明は常陸で殺されてしまひ、弟将武は甲斐《かひ》の山中で殺された。
 将門の女《むすめ》で地蔵尼《ぢざうに》といふのは、地蔵|菩薩《ぼさつ》を篤信したと、元亨釈書《げんかうしやくしよ》に見えてゐる。六道|能化《のうげ》の主を頼みて、父の苦患《くげん》を助け、身の悲哀を忘れ、要因によつて、却《かへ》つて勝道を成さんとしたのであると考へれば、まことに哀れの人である。信田《しのだ》の二郎|将国《まさくに》といふのは将門の子であると伝へられて、系図にも見えてゐるが、此の人の事が伝説的になつたのを足利期に語りものにしたのであらうか、まことにあはれな「信田《しのだ》」といふものがある。しかし直接に将門の子とはして無い、たゞ相馬殿の後としてある。そして二郎とは無くて小太郎とあるが、まことに古樸《こぼく》の味のあるもので、想ふに足利末期から徳川初期までの多くの人※[#二の字点、1-2-22]の涙をしぼつたものであらう。信田の三郎|先生《せんじやう》義広も常陸の信田に縁のある人ではあるが、それは又おのづから別で、将門の後の信田との関係はない。義広は源氏で、頼朝の伯父である。
 将門には余程京都でも驚きおびえたものと見える。将門死して二十一年の村上天皇天徳四年に、右大将藤原朝臣が奏して云はく、近日人※[#二の字点、1-2-22]故平将門の男《なん》の京に入ることを曰《い》ふと。そこで右衛門督朝忠に勅して、検非違使をして捜《さが》し求めしめ、又延光をして満仲《みつなか》、義忠、春実《はるざね》等をして同じく伺《うかが》ひ求めしむといふことが、扶桑略記の巻二十六に出てゐる。馬鹿※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]《ばか/\》しいことだが、此の様な事もあつたかと思ふと、何程都の人※[#二の字点、1-2-22]が将門に魘《おび》えたかといふことが窺知《うかゞひし》られる。菅公に魘《おび》え、将門に魘え、天神、明神は沢山に世に祀《まつ》られてゐる。此中に考ふべきことが有るのではあるまいか。こんな事は余談だ、余り言はずとも「春は紺より水浅黄よし」だ。
                           (大正九年四月)

底本:「筑摩現代文学大系3 幸田露伴 樋口一葉集」筑摩書房
   1978(昭和53)年1月15日初版第1刷発行
   1984(昭和59)年10月1日初版第3刷発行
入力:志田火路司
校正:林 幸雄
2002年1月25日公開
2004年3月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

幸田露伴

風流仏—– 幸田露伴

 発端《ほったん》 如是我聞《にょぜがもん》

      上 一向《いっこう》専念の修業|幾年《いくねん》

 三尊《さんぞん》四天王十二童子十六|羅漢《らかん》さては五百羅漢、までを胸中に蔵《おさ》めて鉈《なた》小刀《こがたな》に彫り浮かべる腕前に、運慶《うんけい》も知《し》らぬ人《ひと》は讃歎《さんだん》すれども鳥仏師《とりぶっし》知る身の心|耻《はず》かしく、其道《そのみち》に志す事《こと》深きにつけておのが業《わざ》の足らざるを恨み、爰《ここ》日本美術国に生れながら今の世に飛騨《ひだ》の工匠《たくみ》なしと云《い》わせん事残念なり、珠運《しゅうん》命の有らん限りは及ばぬ力の及ぶ丈《た》ケを尽してせめては我が好《すき》の心に満足さすべく、且《かつ》は石膏《せっこう》細工の鼻高き唐人《とうじん》めに下目《しため》で見られし鬱憤《うっぷん》の幾分を晴《は》らすべしと、可愛《かわい》や一向専念の誓を嵯峨《さが》の釈迦《しゃか》に立《たて》し男、齢《とし》は何歳《いくつ》ぞ二十一の春|是《これ》より風は嵐山《らんざん》の霞《かすみ》をなぐって腸《はらわた》断つ俳諧師《はいかいし》が、蝶《ちょう》になれ/\と祈る落花のおもしろきをも眺《なが》むる事なくて、見ぬ天竺《てんじく》の何の花、彫りかけて永き日の入相《いりあい》の鐘にかなしむ程|凝《こ》り固《かたま》っては、白雨《ゆうだち》三条四条の塵埃《ほこり》を洗って小石の面《おもて》はまだ乾かぬに、空さりげなく澄める月の影宿す清水《しみず》に、瓜《うり》浸して食いつゝ歯牙香《しがこう》と詩人の洒落《しゃれ》る川原の夕涼み快きをも余所《よそ》になし、徒《いたず》らに垣《かき》をからみし夕顔の暮れ残るを見ながら白檀《びゃくだん》の切り屑《くず》蚊遣《かや》りに焼《た》きて是も余徳とあり難《がた》かるこそおかしけれ。顔の色を林間の紅葉《もみじ》に争いて酒に暖めらるゝ風流の仲間にも入《い》らず、硝子《ガラス》越しの雪見に昆布《こんぶ》を蒲団《ふとん》にしての湯豆腐を粋《すい》がる徒党にも加わらねば、まして島原《しまばら》祇園《ぎおん》の艶色《えんしょく》には横眼《よこめ》遣《つか》い一《ひ》トつせず、おのが手作りの弁天様に涎《よだれ》流して余念なく惚《ほ》れ込み、琴《こと》三味線《しゃみせん》のあじな小歌《こうた》は聞《きき》もせねど、夢の中《うち》には緊那羅神《きんならじん》の声を耳にするまでの熱心、あわれ毘首竭摩《びしゅかつま》の魂魄《こんぱく》も乗り移らでやあるべき。かくて三年《みとせ》ばかり浮世を驀直《まっすぐ》に渡り行《ゆか》れければ、勤むるに追付く悪魔は無き道理、殊さら幼少より備《そなわ》っての稟賦《うまれつき》、雪をまろめて達摩《だるま》を作《つく》り大根を斬《き》りて鷽《うそどり》の形を写しゝにさえ、屡《しばしば》人を驚かせしに、修業の功を積《つみ》し上、憤発《ふんぱつ》の勇を加えしなれば冴《さえ》し腕は愈々《いよいよ》冴《さ》え鋭き刀《とう》は愈《いよいよ》鋭く、七歳の初発心《しょほっしん》二十四の暁に成道《じょうどう》して師匠も是《これ》までなりと許すに珠運は忽《たちま》ち思い立ち独身者《ひとりもの》の気楽さ親譲りの家財を売ってのけ、いざや奈良鎌倉日光に昔の工匠《たくみ》が跡|訪《と》わんと少し許《ばかり》の道具を肩にし、草鞋《わらじ》の紐《ひも》の結いなれで度々解くるを笑われながら、物のあわれも是よりぞ知る旅。

      下 苦労は知らず勉強の徳

 汽車もある世に、さりとては修業する身の痛ましや、菅笠《すげがさ》は街道の埃《ほこり》に赤うなって肌着《はだぎ》に風呂場《ふろば》の虱《しらみ》を避け得ず、春の日永き畷《なわて》に疲れては蝶《ちょう》うら/\と飛ぶに翼|羨《うらや》ましく、秋の夜は淋《さび》しき床に寝覚《ねざ》めて、隣りの歯ぎしみに魂を驚かす。旅路のなさけなき事、風吹き荒《すさ》み熱砂顔にぶつかる時|眼《め》を閉《ふさ》ぎてあゆめば、邪見《じゃけん》の喇叭《らっぱ》気《き》を注《つ》けろがら/\の馬車に胆《きも》ちゞみあがり、雨降り切《しき》りては新道《しんどう》のさくれ石足を噛《か》むに生爪《なまづめ》を剥《はが》し悩むを胴慾《どうよく》の車夫法外の価《ね》を貪《むさぼ》り、尚《なお》も並木で五割|酒銭《さかて》は天下の法だとゆする、仇《あだ》もなさけも一日限りの、人情は薄き掛け蒲団《ぶとん》に襟首《えりくび》さむく、待遇《もてなし》は冷《ひややか》な平《ひら》の内《うち》に蒟蒻《こんにゃく》黒し。珠運《しゅうん》素《もと》より貧《まずし》きには馴《な》れても、加茂川《かもがわ》の水柔らかなる所に生長《おいたち》て初《はじめ》て野越え山越えのつらきを覚えし草枕《くさまくら》、露に湿《しめ》りて心細き夢おぼつかなくも馴れし都の空を遶《めぐ》るに無残や郭公《ほととぎす》待《まち》もせぬ耳に眠りを切って破《や》れ戸《ど》の罅隙《すきま》に、我は顔《がお》の明星光りきらめくうら悲しさ、或《ある》は柳散り桐《きり》落《おち》て無常身に染《しみ》る野寺の鐘、つく/″\命は森林《もり》を縫う稲妻のいと続き難き者と観ずるに付《つけ》ても志願を遂ぐる道遠しと意馬《いば》に鞭《むち》打ち励ましつ、漸《ようや》く東海道の名刹《めいさつ》古社に神像木仏|梁《はり》欄間《らんま》の彫りまで見巡《みめぐ》りて鎌倉東京日光も見たり、是より最後の楽《たのしみ》は奈良じゃと急ぎ登り行く碓氷峠《うすいとうげ》の冬|最中《もなか》、雪たけありて裾《すそ》寒き浅間《あさま》下ろしの烈《はげ》しきにめげず臆《おく》せず、名に高き和田《わだ》塩尻《しおじり》を藁沓《わらぐつ》の底に踏み蹂《にじ》り、木曾路《きそじ》に入りて日照山《ひでりやま》桟橋《かけはし》寝覚《ねざめ》後になし須原《すはら》の宿《しゅく》に着《つき》にけり。
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    第一 如是相《にょぜそう》

      書けぬ所が美しさの第一義諦《だいいちぎたい》

 名物に甘《うま》き物ありて、空腹《すきはら》に須原《すはら》のとろゝ汁殊の外《ほか》妙なるに飯《めし》幾杯か滑り込ませたる身体《からだ》を此尽《このまま》寝さするも毒とは思えど為《す》る事なく、道中日記|注《つ》け終《しま》いて、のつそつしながら煤《すす》びたる行燈《あんどん》の横手の楽落《らくがき》を読《よめ》ば山梨県士族|山本勘介《やまもとかんすけ》大江山《おおえやま》退治の際一泊と禿筆《ちびふで》の跡《あと》、さては英雄殿もひとり旅の退屈に閉口しての御《おん》わざくれ、おかしき計《ばか》りかあわれに覚えて初対面から膝《ひざ》をくずして語る炬燵《こたつ》に相《あい》宿《やど》の友もなき珠運《しゅうん》、微《かすか》なる埋火《うずみび》に脚を※[#「火+共」、第3水準1-87-42]《あぶ》り、つくねんとして櫓《やぐら》の上に首|投《なげ》かけ、うつら/\となる所へ此方《こなた》をさして来る足音、しとやかなるは踵《かかと》に亀裂《ひび》きらせしさき程の下女にあらず。御免なされと襖《ふすま》越しのやさしき声に胸ときめき、為《し》かけた欠伸《あくび》を半分|噛《か》みて何とも知れぬ返辞をすれば、唐紙《からかみ》する/\と開き丁寧《ていねい》に辞義《じぎ》して、冬の日の木曾路《きそじ》嘸《さぞ》や御疲《おつかれ》に御座りましょうが御覧下され是《これ》は当所の名誉|花漬《はなづけ》今年の夏のあつさをも越して今降る雪の真最中《まっさいちゅう》、色もあせずに居《お》りまする梅桃桜のあだくらべ、御意に入りましたら蔭膳《かげぜん》を信濃《しなの》へ向《む》けて人知らぬ寒さを知られし都の御方《おかた》へ御土産《おみやげ》にと心憎き愛嬌《あいきょう》言葉|商買《しょうばい》の艶《つや》とてなまめかしく売物に香《か》を添ゆる口のきゝぶりに利発あらわれ、世馴《よな》れて渋らず、さりとて軽佻《かるはずみ》にもなきとりなし、持ち来《きた》りし包《つつみ》静《しずか》にひらきて二箱三箱差し出《いだ》す手《て》つきしおらしさに、花は余所《よそ》になりてうつゝなく覗《のぞ》き込む此方《こなた》の眼《め》を避けて背向《そむ》くる顔、折から透間《すきま》洩《も》る風《かぜ》に燈火《ともしび》動き明らかには見えざるにさえ隠れ難き美しさ。我《が》折《お》れ深山《みやま》に是《これ》は何物。
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    第二 如是体《にょぜたい》

      粋《すい》の羯羅藍《かららん》と実《じつ》の阿羅藍《あららん》

 見て面白き世の中に聞《きい》て悲しき人の上あり。昔は此《この》京《きょう》にして此|妓《こ》ありと評判は八坂《やさか》の塔より高く其《その》名は音羽《おとわ》の滝より響きし室香《むろか》と云《い》える芸子《げいこ》ありしが、さる程に地主権現《じしゅごんげん》の花の色|盛者《しょうじゃ》必衰の理《ことわり》をのがれず、梅岡《うめおか》何某《なにがし》と呼ばれし中国浪人のきりゝとして男らしきに契《ちぎり》を込め、浅からぬ中となりしより他《よそ》の恋をば贔負《ひいき》にする客もなく、線香の煙り絶々《たえだえ》になるにつけても、よしやわざくれ身は朝顔のと短き命、捨撥《すてばち》にしてからは恐ろしき者にいうなる新徴組《しんちょうぐみ》何の怖《こわ》い事なく三筋《みすじ》取っても一筋心《ひとすじごころ》に君さま大事と、時を憚《はばか》り世を忍ぶ男を隠匿《かくまい》し半年あまり、苦労の中にも助《たすく》る神の結び玉《たま》いし縁なれや嬉しき情《なさけ》の胤《たね》を宿して帯の祝い芽出度《めでたく》舒《の》びし眉間《みけん》に忽《たちま》ち皺《しわ》の浪《なみ》立《たち》て騒がしき鳥羽《とば》伏見《ふしみ》の戦争。さても方様《かたさま》の憎い程な気強さ、爰《ここ》なり丈夫《おとこ》の志を遂《と》ぐるはと一《ひ》ト群《むれ》の同志《どうし》を率いて官軍に加わらんとし玉うを止《とど》むるにはあらねど生死《しょうじ》争う修羅《しゅら》の巷《ちまた》に踏《ふみ》入《い》りて、雲のあなたの吾妻里《あづまじ》、空寒き奥州《おうしゅう》にまで帰る事は云《い》わずに旅立《たびだち》玉う離別《わかれ》には、是《これ》を出世の御発途《おんかどいで》と義理で暁《さと》して雄々《おお》しき詞《ことば》を、口に云わする心が真情《まこと》か、狭き女の胸に余りて案じ過《すご》せば潤《うる》む眼《め》の、涙が無理かと、粋《すい》ほど迷う道多くて自分ながら思い分たず、うろ/\する内《うち》日は消《たち》て愈※[#二の字点、1-2-22]《いよいよ》となり、義経袴《よしつねばかま》に男山《おとこやま》八幡《はちまん》の守りくけ込んで愚《おろか》なと笑《わらい》片頬《かたほ》に叱《しか》られし昨日《きのう》の声はまだ耳に残るに、今、今の御姿《おすがた》はもう一里先か、エヽせめては一日路《いちにちじ》程も見透《みとお》したきを役|立《たた》ぬ此眼の腹|立《だた》しやと門辺《かどべ》に伸び上《あが》りての甲斐《かい》なき繰言《くりごと》それも尤《もっとも》なりき。一《ひ》ト月過ぎ二《ふ》タ月|過《すぎ》ても此《この》恨《うらみ》綿々《めんめん》ろう/\として、筑紫琴《つくしごと》習う隣家《となり》の妓《こ》がうたう唱歌も我に引き較《くら》べて絶ゆる事なく悲しきを、コロリン、チャンと済《すま》して貰《もら》い度《た》しと無慈悲の借金取めが朝に晩にの掛合《かけあい》、返答も力|無《な》や男松《おまつ》を離れし姫蔦《ひめづた》の、斯《こう》も世の風に嬲《なぶ》らるゝ者《もの》かと俯《うつむ》きて、横眼に交張《まぜば》りの、袋戸《ふくろど》に広重《ひろしげ》が絵見ながら、悔《くや》しいにつけゆかしさ忍ばれ、方様《かたさま》早う帰って下されと独言《ひとりごと》口を洩《も》るれば、利足《りそく》も払わず帰れとはよく云えた事と吠付《ほえつか》れ。アヽ大きな声して下さるな、あなたにも似合わぬと云いさして、御腹《おなか》には大事の/\我子《わがこ》ではない顔見ぬ先からいとしゅうてならぬ方様《かたさま》の紀念《かたみ》、唐土《もろこし》には胎教という事さえありてゆるがせならぬ者と或夜《あるよ》の物語りに聞しに此ありさまの口惜《くちおし》と腸《はらわた》を断つ苦しさ。天女も五衰《ごすい》ぞかし、玳瑁《たいまい》の櫛《くし》、真珠の根掛《ねがけ》いつか無くなりては華鬘《けまん》の美しかりける俤《おもかげ》とどまらず、身だしなみ懶《ものう》くて、光ると云われし色艶《いろつや》屈托《くったく》に曇り、好みの衣裳《いしょう》数々彼に取られ是《これ》に易《か》えては、着古しの平常衣《ふだんぎ》一つ、何の焼《たき》かけの霊香《れいきょう》薫ずべきか、泣き寄りの親身《しんみ》に一人の弟《おとと》は、有っても無きに劣《おと》る賭博《ばくち》好き酒好き、落魄《おちぶれ》て相談相手になるべきならねば頼むは親切な雇婆《やといばば》計《ばか》り、あじきなく暮らす中《うち》月|満《みち》て産声《うぶごえ》美《うるわ》しく玉のような女の子、辰《たつ》と名|付《づけ》られしはあの花漬《はなづけ》売りなりと、是《これ》も昔は伊勢《いせ》参宮の御利益《ごりやく》に粋《すい》という事覚えられしらしき宿屋の親爺《おやじ》が物語に珠運も木像ならず、涙|掃《はら》って其後《そののち》を問えば、御待《おまち》なされ、話しの調子に乗って居る内、炉の火が淋《さみ》しゅうなりました。
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    第三 如是性《にょぜしょう》

      上 母は嵐《あらし》に香《か》の迸《はし》る梅

 山家《やまが》の御馳走《ごちそう》は何処《いずく》も豆腐|湯波《ゆば》干鮭《からざけ》計《ばか》りなるが今宵《こよい》はあなたが態々《わざわざ》茶の間に御出掛《おでかけ》にて開化の若い方には珍らしく此《この》兀爺《はげじい》の話を冒頭《あたま》から潰《つぶ》さずに御聞《おきき》なさるが快ければ、夜長の折柄《おりから》お辰《たつ》の物語を御馳走に饒舌《しゃべり》りましょう、残念なは去年ならばもう少し面白くあわれに申し上《あげ》て軽薄《けいはく》な京の人イヤ是《これ》は失礼、やさしい京の御方《おかた》の涙を木曾《きそ》に落さ落《おと》させよう者を惜しい事には前歯一本欠けた所《とこ》から風が洩《も》れて此春以来|御文章《おふみさま》を読《よむ》も下手になったと、菩提所《ぼだいしょ》の和尚《おしょう》様に云《い》われた程なれば、ウガチとかコガシとか申す者は空抜《うろぬき》にしてと断りながら、青内寺《せいないじ》煙草《たばこ》二三服|馬士《まご》張《ば》りの煙管《きせる》にてスパリ/\と長閑《のどか》に吸い無遠慮に榾《ほだ》さし焼《く》べて舞い立つ灰の雪袴《ゆきんばかま》に落ち来《きた》るをぽんと擲《はた》きつ、どうも私幼少から読本《よみほん》を好きました故《ゆえ》か、斯《こう》いう話を致しますると図に乗っておかしな調子になるそうで、人我《にんが》の差別《しゃべつ》も分り憎くなると孫共《まごども》に毎度笑われまするが御聞《おきき》づらくも癖ならば癖ぞと御免《おゆるし》なされ。さてもそののち室香《むろか》はお辰を可愛《かわゆ》しと思うより、情《じょう》には鋭き女の勇気をふり起して昔取ったる三味《しゃみ》の撥《ばち》、再び握っても色里の往来して白痴《こけ》の大尽、生《なま》な通人《つうじん》めらが間《あい》の周旋《とりもち》、浮《うか》れ車座のまわりをよくする油さし商売は嫌《いや》なりと、此度《このたび》は象牙《ぞうげ》を柊《ひいらぎ》に易《か》えて児供《こども》を相手の音曲《おんぎょく》指南《しなん》、芸は素《もと》より鍛錬を積《つみ》たり、品行《みもち》は淫《みだら》ならず、且《かつ》は我子《わがこ》を育てんという気の張《はり》あればおのずから弟子にも親切あつく良い御師匠《おししょう》様と世に用いられて爰《ここ》に生計《くらし》の糸道も明き細いながら炊煙《けむり》絶《たえ》せず安らかに日は送れど、稽古《けいこ》する小娘が調子外れの金切声《かなきりごえ》今も昔わーワッとお辰のなき立つ事の屡《しばしば》なるに胸苦しく、苦労ある身の乳も不足なれば思い切って近き所へ里子にやり必死となりて稼《かせ》ぐありさま余所《よそ》の眼《め》さえ是《これ》を見て感心なと泣きぬ。それにつれなきは方様《かたさま》の其後《そののち》何の便《たより》もなく、手紙出そうにも当所《あてどころ》分らず、まさかに親子|笈《おい》づるかけて順礼にも出られねば逢《あ》う事は夢に計《ばか》り、覚めて考うれば口をきかれなかったはもしや流丸《それだま》にでも中《あた》られて亡くなられたか、茶絶《ちゃだち》塩絶《しおだち》きっとして祈るを御存知ない筈《はず》も無かろうに、神様も恋しらずならあり難くなしと愚痴と一所《いっしょ》にこぼるゝ涙流れて止《とどま》らぬ月日をいつも/\憂いに明《あか》し恨《うらみ》に暮らして我《わが》齢《とし》の寄るは知ねども、早い者お辰はちょろ/\歩行《あるき》、折ふしは里親と共に来てまわらぬ舌に菓子ねだる口元、いとしや方様に生き写しと抱き寄せて放し難く、遂《つい》に三歳《みっつ》の秋より引き取って膝下《ひざもと》に育《そだつ》れば、少しは紛《まぎ》れて貧家に温《ぬく》き太陽《ひ》のあたる如《ごと》く淋《さび》しき中にも貴き笑《わらい》の唇に動きしが、さりとては此子《このこ》の愛らしきを見様《みよう》とも仕玉《したま》わざるか帰家《かえら》れざるつれなさ、子供心にも親は恋しければこそ、父様《ととさま》御帰りになった時は斯《こう》して為《す》る者ぞと教えし御辞誼《おじぎ》の仕様《しよう》能《よ》く覚えて、起居《たちい》動作《ふるまい》のしとやかさ、能《よ》く仕付《しつけ》たと誉《ほめ》らるゝ日を待《まち》て居るに、何処《どこ》の竜宮《りゅうぐう》へ行かれて乙姫《おとひめ》の傍《そば》にでも居《お》らるゝ事ぞと、少しは邪推の悋気《りんき》萌《きざ》すも我を忘れられしより子を忘れられし所には起る事、正しき女にも切なき情《じょう》なるに、天道怪しくも是《これ》を恵まず。運は賽《さい》の眼の出所《でどころ》分らぬ者にてお辰の叔父《おじ》ぶんなげの七《しち》と諢名《あだな》取りし蕩楽者《どうらくもの》、男は好《よ》けれど根性図太く誰《たれ》にも彼にも疎《うと》まれて大の字に寝たとて一坪には足らぬ小さき身を、広き都に置きかね漂泊《ただよい》あるきの渡り大工、段々と美濃路《みのじ》を歴《へ》て信濃《しなの》に来《きた》り、折しも須原《すはら》の長者何がしの隠居所作る手伝い柱を削れ羽目板を付《つけ》ろと棟梁《とうりょう》の差図《さしず》には従えど、墨縄《すみなわ》の直《すぐ》なには傚《なら》わぬ横道《おうどう》、お吉《きち》様と呼ばせらるゝ秘蔵の嬢様にやさしげな濡《ぬれ》を仕掛け、鉋屑《かんなくず》に墨さし思《おもい》を云《い》わせでもしたるか、とう/\そゝのかしてとんでもなき穴掘り仕事、それも縁なら是非なしと愛に暗《くら》んで男の性質も見《み》分《わけ》ぬ長者のえせ粋《すい》三国一の狼婿《おおかみむこ》、取って安堵《あんど》したと知らぬが仏様に其年《そのとし》なられし跡は、山林|家《いえ》蔵《くら》椽《えん》の下の糠味噌瓶《ぬかみそがめ》まで譲り受けて村|中《じゅう》寄り合いの席に肩《かた》ぎしつかせての正坐《しょうざ》、片腹痛き世や。あわれ室香《むろか》はむら雲迷い野分《のわけ》吹く頃《ころ》、少しの風邪に冒されてより枕《まくら》あがらず、秋の夜|冷《ひややか》に虫の音遠ざかり行くも観念の友となって独り寝覚《ねざめ》の床淋しく、自ら露霜のやがて消《きえ》ぬべきを悟り、お辰|素性《すじょう》のあらまし慄《ふる》う筆のにじむ墨に覚束《おぼつか》なく認《したた》めて守り袋に父が書き捨《すて》の短冊《たんざく》一《ひ》トひらと共に蔵《おさ》めやりて、明日をもしれぬ我《わ》がなき後頼りなき此子《このこ》、如何《いか》なる境界に落《おつ》るとも加茂《かも》の明神も御憐愍《ごれんみん》あれ、其人《そのひと》命あらば巡《めぐ》り合《あわ》せ玉いて、芸子《げいこ》も女なりやさしき心入れ嬉《うれ》しかりきと、方様の一言《ひとこと》を草葉の蔭《かげ》に聞《きか》せ玉えと、遙拝《ようはい》して閉じたる眼をひらけば、燈火《ともしび》僅《わずか》に蛍《ほたる》の如く、弱き光りの下《もと》に何の夢見て居るか罪のなき寝顔、せめてもう十《とお》計りも大きゅうして銀杏《いちょう》髷《まげ》結わしてから死にたしと袖《そで》を噛《か》みて忍び泣く時お辰|魘《おそ》われてアッと声立て、母様《かかさま》痛いよ/\坊《ぼう》の父様《ととさま》はまだ帰《か》えらないかえ、源《げん》ちゃんが打《ぶ》つから痛いよ、父《とと》の無いのは犬の子だってぶつから痛いよ。オヽ道理《もっとも》じゃと抱き寄すれば其《その》儘《まま》すや/\と睡《ねむ》るいじらしさ、アヽ死なれぬ身の疾病《やまい》、是《これ》ほどなさけなき者あろうか。

      下 子は岩蔭《いわかげ》に咽《むせ》ぶ清水《しみず》よ

 格子戸《こうしど》がら/\とあけて閉《しめ》る音は静《しずか》なり。七蔵《しちぞう》衣装《いしょう》立派に着飾りて顔付高慢くさく、無沙汰《ぶさた》謝《わび》るにはあらで誇り気《げ》に今の身となりし本末を語り、女房《にょうぼう》に都見物|致《いた》させかた/″\御近付《おちかづき》に連《つれ》て参ったと鷹風《おおふう》なる言葉の尾につきて、下ぐる頭《かしら》低くしとやかに。妾《わたくし》めは吉《きち》と申す不束《ふつつか》な田舎者、仕合《しあわ》せに御縁の端に続《つな》がりました上は何卒《なにとぞ》末長く御眼《おめ》かけられて御不勝《ごふしょう》ながら真実《しんみ》の妹とも思《おぼ》しめされて下さりませと、演《のぶ》る口上に樸厚《すなお》なる山家《やまが》育ちのたのもしき所見えて室香《むろか》嬉敷《うれしく》、重き頭《かしら》をあげてよき程に挨拶《あいさつ》すれば、女心の柔《やわらか》なる情《なさけ》ふかく。姉様《あねさま》の是《これ》ほどの御病気、殊更《ことさら》御幼少《おちいさい》のもあるを他人任せにして置きまして祇園《ぎおん》清水《きよみず》金銀閣見たりとて何の面白かるべき、妾《わたし》は是《これ》より御傍《おそば》さらず[#「ず」は底本では「す」]御看病致しましょと云《い》えば七蔵|顔《つら》膨《ふく》らかし、腹の中《うち》には余計なと思い乍《なが》ら、ならぬとも云い難く、それならば家も狭しおれ丈《だ》ケは旅宿に帰るべしといって其《その》晩は夜食の膳《ぜん》の上、一酌《いっしゃく》の酔《よい》に浮《うか》れてそゞろあるき、鼻歌に酒の香《か》を吐き、川風寒き千鳥足、乱れてぽんと町か川端《かわばた》あたりに止《とど》まりし事あさまし。室香はお吉に逢《あ》いてより三日目、我子《わがこ》を委《ゆだ》ぬる処《ところ》を得て気も休まり、爰《ここ》ぞ天の恵み、臨終|正念《しょうねん》たがわず、安《やすら》かなる大往生、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》は嬌喉《きょうこう》に粋《すい》の果《はて》を送り三重《さんじゅう》、鳥部野《とりべの》一片の烟《けむり》となって御法《みのり》の風に舞い扇、極楽に歌舞の女菩薩《にょぼさつ》一員《いちにん》増したる事疑いなしと様子知りたる和尚様《おしょうさま》随喜の涙を落《おと》されし。お吉|其儘《そのまま》あるべきにあらねば雇い婆《ばば》には銭《かね》やって暇《ひま》取らせ、色々|片付《かたづく》るとて持仏棚《じぶつだな》の奥に一つの包物《つつみもの》あるを、不思議と開き見れば様々の貨幣《かね》合せて百円足らず、是はと驚きて能々《よくよく》見るに、我身《わがみ》万一の時お辰《たつ》引き取って玉《たま》わる方へせめてもの心許《こころばか》りに細き暮らしの中《うち》より一銭二銭積み置きて是をまいらするなりと包み紙に筆の跡、読みさして身の毛立つ程悲しく、是までに思い込まれし子を育てずに置《おか》れべきかと、遂《つい》に五歳《いつつ》のお辰をつれて夫と共に須原《すはら》に戻《もど》りけるが、因果は壺皿《つぼざら》の縁《ふち》のまわり、七蔵本性をあらわして不足なき身に長半をあらそえば段々悪徒の食物《くいもの》となりて痩《や》せる身代の行末《ゆくすえ》を気遣《きづか》い、女房うるさく異見《いけん》すれば、何の女の知らぬ事、ぴんからきりまで心得て穴熊《あなぐま》毛綱《けづな》の手品《てづま》にかゝる我ならねば負くる計《ばか》りの者にはあらずと駈出《かけだし》して三日帰らず、四日帰らず、或《あるい》は松本善光寺又は飯田《いいだ》高遠《たかとお》あたりの賭場《とば》あるき、負《まく》れば尚《なお》も盗賊《どろぼう》に追い銭の愚を尽し、勝てば飯盛《めしもり》に祝い酒のあぶく銭《ぜに》を費す、此癖《このくせ》止めて止まらぬ春駒《はるごま》の足掻《あがき》早く、坂道を飛び下《おり》るより迅《すみやか》に、親譲りの山も林もなくなりかゝってお吉心配に病死せしより、齢《とし》は僅《わずか》に十《とお》の冬、お辰浮世の悲《かなし》みを知りそめ叔父《おじ》の帰宅《かえ》らぬを困り途方《とほう》に暮れ居たるに、近所の人々、彼奴《きゃつ》め長久保《ながくぼ》のあやしき女の許《もと》に居続《いつづけ》して妻の最期《さいご》を余所《よそ》に見る事憎しとてお辰をあわれみ助け葬式《ともらい》済《すま》したるが、七蔵|此後《こののち》愈《いよいよ》身持《みもち》放埒《ほうらつ》となり、村内の心ある者には爪《つま》はじきせらるゝをもかまわず遂《つい》に須原の長者の家敷《やしき》も、空《むな》しく庭|中《うち》の石燈籠《いしどうろう》に美しき苔《こけ》を添えて人手に渡し、長屋門のうしろに大木の樅《もみ》の梢《こずえ》吹く風の音ばかり、今の耳にも替《かわ》らずして、直《すぐ》其傍《そのそば》なる荒屋《あばらや》に住《すま》いぬるが、さても下駄《げた》の歯《は》と人の気風は一度ゆがみて一代なおらぬもの、何一《ひ》トつ満足なる者なき中にも盃《さかずき》のみ欠かけず、柴木《しばき》へし折って箸《はし》にしながら象牙《ぞうげ》の骰子《さい》に誇るこそ愚《おろか》なれ。かゝる叔父を持つ身の当惑、御嶽《おんたけ》の雪の肌《はだ》清らかに、石楠《しゃくなげ》の花の顔|気高《けだか》く生れ付《つい》てもお辰を嫁にせんという者、七蔵と云う名を聞《きい》ては山抜け雪流《なだれ》より恐ろしくおぞ毛ふるって思い止《とま》れば、二十《はたち》を越《こ》して痛ましや生娘《きむすめ》、昼は賃仕事に肩の張るを休むる間なく、夜は宿中《しゅくじゅう》の旅籠屋《はたごや》廻《まわ》りて、元は穢多《えた》かも知れぬ客達《きゃくだち》にまで嬲《なぶ》られながらの花漬売《はなづけうり》、帰途《かえり》は一日の苦労の塊《かたま》り銅貨|幾箇《いくつ》を酒に易《か》えて、御淋《おさび》しゅう御座りましたろう、御不自由で御座りましたろうと機嫌《きげん》取りどり笑顔《えがお》してまめやかに仕うるにさえ時々は無理難題、先度《せんど》も上田《うえだ》の娼妓《じょうろ》になれと云い掛《かかり》しよし。さりとては胴慾《どうよく》な男め、生餌《いきえ》食う鷹《たか》さえ暖《ぬく》め鳥は許す者を。
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    第四 如是因《にょぜいん》

      上 忘られぬのが根本《こんぽん》の情《じょう》

 珠運《しゅうん》は種々《さまざま》の人のありさま何と悟るべき者とも知らず、世のあわれ今宵《こよい》覚えて屋《や》の角に鳴る山風寒さ一段身に染《し》み、胸痛きまでの悲しさ我事《わがこと》のように鼻詰らせながら亭主に礼|云《い》いておのが部屋《へや》に戻《もど》れば、忽《たちまち》気が注《つく》は床の間に二タ箱買ったる花漬《はなづけ》、衣《きぬ》脱ぎかえて転《ころ》りと横になり、夜着《よぎ》引きかぶればあり/\と浮ぶお辰《たつ》の姿、首さし出《いだ》して眼《め》をひらけば花漬、閉《とず》ればおもかげ、是《これ》はどうじゃと呆《あき》れてまた候《ぞろ》眼をあけば花漬、アヽ是を見ればこそ浮世話も思いの種となって寝られざれ、明日は馬籠峠《まごめとうげ》越えて中津川《なかつがわ》迄《まで》行かんとするに、能《よ》く休までは叶《かな》わじと行燈《あんどん》吹き消し意《い》を静むるに、又しても其《その》美形、エヽ馬鹿《ばか》なと活《かっ》と見ひらき天井を睨《にら》む眼に、此《この》度《たび》は花漬なけれど、闇《やみ》はあやなしあやにくに梅の花の香《かおり》は箱を洩《も》れてする/\と枕《まくら》に通えば、何となくときめく心を種として咲《さき》も咲《さき》たり、桃の媚《こび》桜の色、さては薄荷《はっか》菊の花まで今|真盛《まっさか》りなるに、蜜《みつ》を吸わんと飛び来《きた》る蜂《はち》の羽音どこやらに聞ゆる如《ごと》く、耳さえいらぬ事に迷っては愚《おろか》なりと瞼《まぶた》堅《かた》く閉《と》じ、掻巻《かいまき》頭《こうべ》を蔽《おお》うに、さりとては怪《け》しからず麗《うるわ》しき幻《まぼろし》の花輪の中に愛矯《あいきょう》を湛《たた》えたるお辰、気高き計《ばか》りか後光|朦朧《もうろう》とさして白衣《びゃくえ》の観音、古人にも是《これ》程の彫《ほり》なしと好《すき》な道に慌惚《うっとり》となる時、物の響《ひびき》は冴《さ》ゆる冬の夜、台所に荒れ鼠《ねずみ》の騒ぎ、憎し、寝られぬ。

      下 思いやるより増長の愛

 裏付股引《うらつきももひき》に足を包みて頭巾《ずきん》深々とかつぎ、然《しか》も下には帽子かぶり、二重とんびの扣釼《ぼたん》惣掛《そうがけ》になし其上《そのうえ》首筋胴の周囲《まわり》、手拭《てぬぐい》にて動《ゆる》がぬ様《よう》縛り、鹿《しか》の皮の袴《はかま》に脚半《きゃはん》油断なく、足袋二枚はきて藁沓《わらぐつ》の爪《つま》先に唐辛子《とうがらし》三四本足を焼《やか》ぬ為《ため》押し入れ、毛皮の手甲《てっこう》して若《もし》もの時の助けに足橇《かんじき》まで脊中《せなか》に用意、充分してさえ此《この》大吹雪、容易の事にあらず、吼立《ほえたつ》る天津風《あまつかぜ》、山山鳴動して峰の雪、梢《こずえ》の雪、谷の雪、一斉に舞立つ折は一寸先見え難く、瞬間《またたくま》に路《みち》を埋《うず》め、脛《はぎ》を埋《うず》め、鼻の孔《あな》まで粉雪吹込んで水に溺《おぼ》れしよりまだ/\苦し、ましてや准備《ようい》おろかなる都の御《お》客様なんぞ命|惜《おし》くば御逗留《ごとうりゅう》なされと朴訥《ぼくとつ》は仁に近き親切。なるほど話し聞《きい》てさえ恐ろしければ珠運《しゅうん》別段急ぐ旅にもあらず。されば今日|丈《だけ》の厄介《やっかい》になりましょうと尻《しり》を炬燵《こたつ》に居《すえ》て、退屈を輪に吹く煙草《たばこ》のけぶり、ぼんやりとして其辺《そこら》見回せば端なく眼《め》につく柘植《つげ》のさし櫛《ぐし》。さては花漬売《はなづけうり》が心づかず落し行《ゆき》しかと手に取るとたん、早《は》や其人《そのひと》床《ゆか》しく、昨夕《ゆうべ》の亭主が物語今更のように、思い出されて、叔父《おじ》の憎きにつけ世のうらめしきに付け、何となく唯《ただ》お辰《たつ》可愛《かわい》く、おれが仏なら、七蔵《しちぞう》頓死《とんし》さして行衛《ゆくえ》しれぬ親にはめぐりあわせ、宮内省《くないしょう》よりは貞順善行の緑綬《りょくじゅ》紅綬紫綬、あり丈《たけ》の褒章《ほうしょう》頂かせ、小説家には其《その》あわれおもしろく書かせ、祐信《すけのぶ》長春《ちょうしゅん》等《ら》を呼び生《いか》して美しさ充分に写させ、そして日本一|大々尽《だいだいじん》の嫁にして、あの雑綴《つぎつぎ》の木綿着を綾羅《りょうら》錦繍《きんしゅう》に易《か》え、油気少きそゝけ髪に極《ごく》上々|正真伽羅栴檀《しょうじんきゃらせんだん》の油|付《つけ》させ、握飯《にぎりめし》ほどな珊瑚珠《さんごじゅ》に鉄火箸《かなひばし》ほどな黄金脚《きんあし》すげてさゝしてやりたいものを神通《じんつう》なき身の是非もなし、家財|売《うっ》て退《の》けて懐中にはまだ三百両|余《よ》あれど是《これ》は我身《わがみ》を立《たつ》る基《もと》、道中にも片足満足な草鞋《わらじ》は捨《すて》ぬくらい倹約《つましく》して居るに、絹絞《きぬしぼり》の半掛《はんがけ》一《ひ》トつたりとも空《あだ》に恵む事難し、さりながらあまりの慕わしさ、忘られぬ殊勝さ、かゝる善女《ぜんにょ》に結縁《けちえん》の良き方便もがな、噫《ああ》思い付《つい》たりと小行李《こごうり》とく/\小刀《こがたな》取出し小さき砥石《といし》に鋒尖《きっさき》鋭く礪《と》ぎ上げ、頓《やが》て櫛《くし》の棟《むね》に何やら一日掛りに彫り付《つけ》、紙に包んでお辰|来《きた》らばどの様な顔するかと待ちかけしは、恋は知らずの粋様《すいさま》め、おかしき所業《しょぎょう》あてが外れて其晩吹雪|尚《なお》やまず、女の何としてあるかるべきや。されば流れざるに水の溜《たま》る如《ごと》く、逢《あ》わざるに思《おもい》は積りて愈《いよいよ》なつかしく、我は薄暗き部屋の中《うち》、煤《すす》びたれども天井の下、赤くはなりてもまだ破《や》れぬ畳の上に坐《ざ》し、去歳《こぞ》の春すが漏《もり》したるか怪しき汚染《しみ》は滝の糸を乱して画襖《えぶすま》の李白《りはく》の頭《かしら》に濺《そそ》げど、たて付《つけ》よければ身の毛|立《たつ》程の寒さを透間《すきま》に喞《かこ》ちもせず、兎《と》も角《かく》も安楽にして居るにさえ、うら寂しく自《おのずから》悲《かなしみ》を知るに、ふびんや少女《おとめ》の、あばら屋といえば天井も無《な》かるべく、屋根裏は柴《しば》焼《た》く煙りに塗られてあやしげに黒く光り、火口《ほくち》の如き煤は高山《こうざん》の樹《き》にかゝれる猿尾枷《さるおがせ》のようにさがりたる下に、あのしなやかなる黒髪|引詰《ひきつめ》に結うて、腸《はらわた》見えたるぼろ畳の上に、香露《こうろ》凝《こ》る半《なかば》に璧《たま》尚《なお》※[#「車+(而/大)」、第3水準1-92-46]《やわらか》な細軟《きゃしゃ》な身体《からだ》を厭《いと》いもせず、なよやかにおとなしく坐《すわ》りて居《い》る事か、人情なしの七蔵め、多分《おおかた》小鼻怒らし大胡坐《おおあぐら》かきて炉の傍《はた》に、アヽ、憎さげの顔見ゆる様な、藍格子《あいごうし》の大どてら着て、充分酒にも暖《あたたま》りながら分《ぶん》を知らねばまだ足らず、炉の隅《すみ》に転げて居る白鳥《はくちょう》徳利《どくり》の寐姿|忌※[#二の字点、1-2-22]《いまいま》しそうに睨《ね》めたる眼《め》をジロリと注ぎ、裁縫《しごと》に急がしき手を止《とめ》さして無理な吩附《いいつけ》、跡引き上戸の言葉は針、とが/\しきに胸を痛めて答うるお辰は薄着の寒さに慄《ふる》う歟《か》唇《くちびる》、それに用捨《ようしゃ》もあらき風、邪見に吹くを何防ぐべき骨|露《あらわ》れし壁|一重《ひとえ》、たるみの出来たる筵《むしろ》屏風《びょうぶ》、あるに甲斐《かい》なく世を経《ふ》れば貧には運も七分《しちぶ》凍《こお》りて三分《さんぶ》の未練を命に生《いき》るか、噫《ああ》と計《ばか》りに夢現《ゆめうつつ》分《わか》たず珠運は歎《たん》ずる時、雨戸に雪の音さら/\として、火は消《きえ》ざる炬燵《こたつ》に足の先|冷《つめた》かりき。
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    第五 如是作《にょぜさ》

      上 我を忘れて而生其心《にしょうごしん》

 よしや脊《せ》に暖《あたたか》ならずとも旭日《あさひ》きら/\とさしのぼりて山々の峰の雪に移りたる景色、眼《め》も眩《くら》む許《ばか》りの美しさ、物腥《ものぐさ》き西洋の塵《ちり》も此処《ここ》までは飛《とん》で来ず、清浄《しょうじょう》潔白|実《げ》に頼母敷《たのもしき》岐蘇路《きそじ》、日本国の古風残りて軒近く鳴く小鳥の声、是《これ》も神代を其儘《そのまま》と詰《つま》らぬ者《もの》をも面白く感ずるは、昨宵《ゆうべ》の嵐《あらし》去りて跡なく、雲の切れ目の所所、青空見ゆるに人の心の悠々とせし故なるべし。珠運《しゅうん》梅干渋茶に夢を拭《ぬぐ》い、朝|飯《はん》[#「飯」は底本では「飲」]平常《ふだん》より甘《うま》く食いて泥《どろ》を踏まぬ雪沓《ゆきぐつ》軽《かろ》く、飄々《ひょうひょう》と立出《たちいで》しが、折角|吾《わが》志《こころざし》を彫りし櫛《くし》与えざるも残念、家は宿の爺《おやじ》に聞《きき》て街道の傍《かたえ》を僅《わずか》折り曲りたる所と知れば、立ち寄りて窓からでも投込まんと段々行くに、果《はた》せる哉《かな》縦《もみ》の木高く聳《そび》えて外囲い大きく如何《いか》にも須原《すはら》の長者が昔の住居《すまい》と思わるゝ立派なる家の横手に、此頃《このごろ》の風吹き曲《ゆが》めたる荒屋《あばらや》あり。近付くまゝに中《うち》の様子を伺えば、寥然《ひっそり》として人のありとも想《おも》われず、是は不思議とやぶれ戸に耳を付《つけ》て聞けば竊々《ひそひそ》と※[#「口+耳」、第3水準1-14-94]《ささ》やくような音、愈《いよいよ》あやしく尚《なお》耳を澄《すま》せば啜《すす》り泣《なき》する女の声なり。さては邪見な七蔵《しちぞう》め、何事したるかと彼此《あちこち》さがして大きなる節《ふし》の抜けたる所より覗《のぞ》けば、鬼か、悪魔か、言語同断、当世の摩利《まり》夫人とさえ此《この》珠運が尊く思いし女を、取って抑えて何者の仕業ぞ、酷《むご》らしき縄からげ、後《うしろ》の柱のそげ多きに手荒く縛《くく》し付け、薄汚なき手拭《てぬぐい》無遠慮に丹花《たんか》の唇を掩《おお》いし心無さ、元結《もとゆい》空にはじけて涙の雨の玉を貫く柳の髪|恨《うらみ》は長く垂れて顔にかゝり、衣《きぬ》引まくれ胸あらわに、膚《はだえ》は春の曙《あけぼの》の雪今や消《きえ》入らん計《ばか》り、見るから忽《たちま》ち肉動き肝《きも》躍って分別思案あらばこそ、雨戸|蹴《け》ひらき飛込《とびこん》で、人間の手の四五本なき事もどかしと急燥《いらつ》まで忙《いそがわ》しく、手拭を棄《す》て、縄を解き、懐中《ふところ》より櫛《くし》取り出《いだ》して乱れ髪|梳《す》けと渡しながら冷え凍《こお》りたる肢体《からだ》を痛ましく、思わず緊接《しっかり》抱《いだ》き寄せて、嘸《さぞ》や柱に脊中がと片手に摩《な》で擦《さ》するを、女あきれて兎角《とかく》の詞《ことば》はなく、ジッと此方《こなた》の顔を見つめらるゝにきまり悪くなって一《ひ》ト足離れ退《の》くとたん、其辺《そこら》の畳雪だらけにせし我沓《わがくつ》にハッと気が注《つ》き、訳《わけ》も分らず其《その》まゝ外へ逃げ出し、三間ばかり夢中に走れば雪に滑りてよろ/\/\、あわや膝《ひざ》突かんとしてドッコイ、是は仕《し》たり、蝙蝠傘《こうもりがさ》手荷物忘れたかと跡《あと》もどりする時、お辰《たつ》門口に来《きた》り袖《そで》を捉《とら》えて引くにふり切れず、今更余計な仕業したりと悔むにもあらず、恐るゝにもあらねど、一生に覚《おぼえ》なき異な心持するにうろつきて、土間に落散る木屑《きくず》なんぞの詰《つま》らぬ者に眼を注ぎ上《あが》り端《はな》に腰かければ、しとやかに下げたる頭《かしら》よくも挙げ得ず。あなたは亀屋《かめや》に御出《おいで》なされた御客様わたくしの難儀を見かねて御救《おすくい》下されたは真《まこと》にあり難けれど、到底《とても》遁《のが》れぬ不仕合《ふしあわせ》と身をあきらめては断念《あきらめ》なかった先程までの愚《おろか》が却《かえ》って口惜《くちおしゅ》う御座りまする、訳《わけ》も申さず斯《こ》う申しては定めて道理の分らぬ奴《やつ》めと御軽侮《おさげすみ》も耻《はずか》しゅうはござりまするし、御慈悲深ければこそ縄まで解《とい》て下さった方に御礼も能《よく》は致さず、無理な願《ねがい》を申すも真《まこと》に苦しゅうは御座りまするが、どうぞわたくしめを元の通りお縛りなされて下さりませと案の外《ほか》の言葉に珠運驚き、是《これ》は/\とんでもなき事、色々入り込んだ訳もあろうがさりとては強面《つれなき》御頼《おたの》み、縛った奴《やつ》を打《ぶ》てとでも云《い》うのならば痩腕《やせうで》に豆|計《ばかり》の力瘤《ちからこぶ》も出しましょうが、いとしゅうていとしゅうて、一日二晩|絶間《たえま》なく感心しつめて天晴《あっぱれ》菩薩《ぼさつ》と信仰して居る御前様《おまえさま》を、縛ることは赤旃檀《しゃくせんだん》に飴細工《あめざいく》の刀で彫《ほり》をするよりまだ難し、一昨日《おととい》の晩忘れて行かれたそれ/\その櫛を見ても合点《がてん》なされ、一体は亀屋の亭主に御前の身の上あらまし聞《きき》て、失礼ながら愍然《かわいそう》な事や、私《わたし》が神か仏ならば、斯《こう》もしてあげたい彼《ああ》もしてやり度《たい》と思いましたが、それも出来ねばせめては心計《こころばかり》、一日肩を凝らして漸《ようや》く其彫《そのほり》をしたも、若《もし》や御髪《おぐし》にさして下さらば一生に又なき名誉、嬉《うれ》しい事と態々《わざわざ》持参して来て見れば他《よそ》にならぬ今のありさま、出過《ですぎ》たかは知りませぬが堪忍がならで縄も手拭も取りましたが、悪いとあらば何とでも謝罪《あやま》りましょ。元の通りに縛れとはなさけなし、鬼と見て我を御頼《おたのみ》か、金輪《こんりん》奈落《ならく》其様《そのよう》な義は御免|蒙《こうむ》ると、心清き男の強く云うをお辰聞ながら、櫛を手にして見れば、ても美しく彫《ほり》に彫《ほっ》たり、厚《あつさ》は僅《わずか》に一分《いちぶ》に足らず、幅は漸《ようや》く二分|計《ばか》り、長さも左《さ》のみならざる棟《むね》に、一重の梅や八重桜、桃はまだしも、菊の花、薄荷《はっか》の花の眼《め》も及ばぬまで濃《こまか》きを浮き彫にして香《にお》う計《ばか》り、そも此人《このひと》は如何《いか》なればかゝる細工をする者ぞと思うに連れて瞳《ひとみ》は通い、竊《ひそか》に様子を伺えば、色黒からず、口元ゆるまず、眉《まゆ》濃からずして末|秀《ひい》で、眼に一点の濁りなきのみか、形状《かたち》の外《ほか》におのずから賎《いや》しからぬ様|露《あらわ》れて、其《その》親切なる言葉、そもや女子《おなご》の嬉《うれ》しからぬ事か。

      中 仁《なさけ》はあつき心念《しんねん》口演《くえん》

 身を断念《あきらめ》てはあきらめざりしを口惜《くちおし》とは云《い》わるれど、笑い顔してあきらめる者世にあるまじく、大抵《たいてい》は奥歯|噛《か》みしめて思い切る事ぞかし、到底《とても》遁《のが》れぬ不仕合《ふしあわせ》と一概に悟られしはあまり浮世を恨みすぎた云い分、道理には合《あ》っても人情には外《はず》れた言葉が御前《おまえ》のその美しい唇《くちびる》から出るも、思えば苦しい仔細《しさい》があってと察しては御前の心も大方は見えていじらしく、エヽ腹立《はらだた》しい三世相《さんぜそう》、何の因果を誰《たれ》が作って、花に蜘蛛《くも》の巣お前に七蔵《しちぞう》の縁じゃやらと、天燈様《てんとうさま》まで憎うてならぬ此《この》珠運《しゅうん》、相談の敵手《あいて》にもなるまいが痒《かゆ》い脊中《せなか》は孫の手に頼めじゃ、なよなよとした其肢体《そのからだ》を縛ってと云うのでない注文ならば天窓《あたま》を破《わ》って工夫も仕様《しよう》が一体まあどうした訳《わけ》か、強《しい》て聞《きく》でも無《なけ》れど此儘《このまま》別れては何とやら仏作って魂入れずと云う様な者、話してよき事ならば聞《きい》た上でどうなりと有丈《あるたけ》の力喜んで尽しましょうと云《いわ》れてお辰《たつ》は、叔父《おじ》にさえあさましき難題《なんだい》云い掛《かけ》らるゝ世の中に赤の他人で是《これ》ほどの仁《なさけ》、胸に堪《こた》えてぞっとする程|嬉《うれ》し悲しく、咽《む》せ返りながら、吃《きっ》と思いかえして、段々の御親切有り難《がとう》は御座りまするが妾《わたくし》身の上話しは申し上ませぬ、否《いい》や申さぬではござりませぬが申されぬつらさを御《お》察し下され、眼上《めうえ》と折り合《あわ》ねば懲《こ》らしめられた計《ばかり》の事、諄々《くどくど》と黒暗《くらやみ》の耻《はじ》を申《もうし》てあなたの様な情《なさけ》知りの御方に浅墓《あさはか》な心入《こころいれ》と愛想《あいそ》つかさるゝもおそろし、さりとて夢さら御厚意|蔑《ないがしろ》にするにはあらず、やさしき御言葉は骨に鏤《きざ》んで七生忘れませぬ、女子《おなご》の世に生れし甲斐《かい》今日知りて此《この》嬉しさ果敢《はか》なや終り初物《はつもの》、あなたは旅の御客、逢《あう》も別れも旭日《あさひ》があの木梢《こずえ》離れぬ内、せめては御荷物なりとかつぎて三戸野《みどの》馬籠《まごめ》あたりまで御肩を休ませ申したけれどそれも叶《かな》わず、斯《こう》云う中《うち》にも叔父様帰られては面倒《めんどう》、どの様な事申さるゝか知れませぬ程にすげなく申すも御身《おんみ》の為《ため》、御迷惑かけては済《すみ》ませぬ故どうか御帰りなされて下さりませ、エヽ千日も万日も止めたき願望《ねがい》ありながら、と跡《あと》の一句は口に洩《も》れず、薄紅《うすくれない》となって顔に露《あらわ》るゝ可愛《かわゆ》さ、珠運の身《み》になってどうふりすてらるべき。仮令《たとい》叔父様が何と云わりょうが下世話にも云う乗りかゝった船、此儘《このまま》左様ならと指を※[#「口+敢」、第3水準1-15-19]《くわ》えて退《の》くはなんぼ上方産《かみがたうまれ》の胆玉《きもだま》なしでも仕憎《しにく》い事、殊更|最前《さいぜん》も云うた通りぞっこん善女《ぜんにょ》と感じて居る御前《おまえ》の憂目《うきめ》を余所《よそ》にするは一寸の虫にも五分の意地が承知せぬ、御前の云わぬ訳も先後《あとさき》を考えて大方は分って居るから兎《と》も角《かく》も私の云事《いうこと》に付《つい》たがよい、悪気でするではなし、私の詞《ことば》を立《たて》て呉《く》れても女のすたるでもあるまい、斯《こう》しましょ、是《これ》からあの正直|律義《りちぎ》は口つきにも聞ゆる亀屋《かめや》の亭主に御前を預けて、金も少しは入るだろうがそれも私がどうなりとして埒《らち》を明《あけ》ましょう、親類でも無い他人づらが要《い》らぬ差出《さしで》た才覚と思わるゝか知らぬが、妹《いもと》という者|持《もっ》ても見たらば斯《こう》も可愛い者であろうかと迷う程いとしゅうてならぬ御前が、眼《め》に見えた艱難《かんなん》の淵《ふち》に沈むを見ては居られぬ、何私が善根|為《し》たがる慾《よく》じゃと笑うて気を大きく持《もつ》がよい、さあ御出《おいで》と取る手、振り払わば今川流、握り占《しめ》なば西洋流か、お辰はどちらにもあらざりし無学の所、無類|珍重《ちんちょう》嬉しかりしと珠運後に語りけるが、それも其時《そのとき》は嘘《うそ》なりしなるべし。

      下 弱《よわき》に施《ほどこ》すに能以無畏《のういむい》

 コレ吉兵衛《きちべえ》、御《お》談義流の御説諭をおれに聞かせるでもなかろう、御気の毒だが道理と命と二つならべてぶんなげの七《しち》様、昔は密男《まおとこ》拐帯《かどわかし》も仕《し》てのけたが、穏当《おとなしく》なって姪子《めいっこ》を売るのではない養女だか妾《めかけ》だか知らぬが百両で縁を切《きっ》で呉《く》れろという人に遣《や》る計《ばかり》の事、それをお辰《たつ》が間夫《まぶ》でもあるか、小間癪《こましゃく》れて先の知れぬ所へ行《ゆく》は否《いや》だと吼顔《ほえづら》かいて逃《にげ》でも仕そうな様子だから、買手の所へ行く間|一寸《ちょっと》縛って置《おい》たのだ、珠運《しゅうん》とかいう二才野郎がどういう続きで何の故障《こしょう》。七《しち》、七、静《しずか》にしろ、一体貴様が分らぬわ、貴様の姪だが貴様と違って宿中《しゅくじゅう》での誉者《ほまれもの》、妙齢《としごろ》になっても白粉《おしろい》一《ひ》トつ付《つけ》ず、盆正月にもあらゝ木の下駄《げた》一足新規に買おうでもないあのお辰、叔父なればとて常不断|能《よく》も貴様の無理を忍んで居る事ぞと見る人は皆、歯切《はぎしり》を貴様に噛《か》んで涙をお辰に飜《こぼ》すは、姑《しゅうと》に凍飯《こおりめし》[#「飯」は底本では「飲」]食わするような冷い心の嫁も、お辰の話|聞《きい》ては急に角《つの》を折ってやさしく夜長の御慰みに玉子湯でもして上《あげ》ましょうかと老人《としより》の機嫌《きげん》を取る気になるぞ、それを先度《せんど》も上田の女衒《ぜげん》に渡そうとした人非人《にんぴにん》め、百両の金が何で要《い》るか知らぬがあれ程の悌順《やさしい》女を金に易《かえ》らるゝ者と思うて居る貴様の心がさもしい、珠運という御客様の仁情《なさけ》が半分汲《く》めたならそんな事|云《い》わずに有難涙《ありがたなみだ》に咽《むせ》びそうな者。オイ、亀屋《かめや》の旦那《だんな》、おれとお吉《きち》と婚礼の媒妁役《なこうどやく》して呉れたを恩に着せるか知らぬが貴様々々は廃《よし》て下され、七七四十九が六十になってもあなたの御厄介《ごやっかい》になろうとは申《もうし》ませぬ、お辰は私の姪、あなたの娘ではなしさ、きり/\此処《ここ》へ御出《おだし》なされ、七が眼尻《めじり》が上《あが》らぬうち温直《すなお》になされた方が御為《おため》かと存じます、それともあなたは珠運とかいう奴《やつ》に頼まれて口をきく計《ばか》りじゃ、おれは当人じゃ無《なけ》れば取計いかねると仰《おっし》ゃるならば其男《そのおとこ》に逢いましょ。オヽ其男御眼にかゝろうと珠運|立出《たちいで》、つく/″\見れば鼻筋通りて眼つきりゝしく、腮《あぎと》張りて一ト癖|確《たしか》にある悪物《しれもの》、膝《ひざ》すり寄せて肩怒らし、珠運とか云う小二才はおのれだな生《なま》弱々しい顔をして能《よく》もお辰を拐帯《かどわか》した、若いには似ぬ感心な腕《うで》、併《しか》し若いの、闘鶏《しゃも》の前では地鶏《じどり》はひるむわ、身の分限を知《しっ》たなら尻尾《しりお》をさげて四の五のなしにお辰を渡して降参しろ。四の五のなしとは結構な仰《おお》せ、私も手短く申しましょうならお辰様を売《うら》せたくなければ御相談。ふざけた囈語《ねごと》は置《おい》てくれ。コレ七、静《しずか》に聞け、どうか売らずと済む工夫をと云うをも待たず。全体|小癪《こしゃく》な旅烏《たびがらす》と振りあぐる拳《こぶし》。アレと走り出《いず》るお辰、吉兵衛も共に止《とめ》ながら、七蔵、七蔵、さてもそなたは智慧《ちえ》の無い男、無理に売《うら》ずとも相談のつきそうな者を。フ相談|付《つか》ぬは知れた事、百両出すなら呉れてもやろうがとお辰を捉《とら》え立上《たちあが》る裙《すそ》を抑え、吉兵衛の云う事をまあ下に居てよく聞け、人の身を売買《うりかい》するというは今日《こんにち》の理に外れた事、娼妓《じょうろ》にするか妾に出すか知らぬが。エヽ喧擾《やかま》しいわ、老耄《おいぼれ》、何にして食おうがおれの勝手、殊更内金二十両まで取って使って仕舞《しま》った、変改《へんがい》はとても出来ぬ大きに御世話、御茶でもあがれとあくまで罵《ののし》り小兎《こうさぎ》攫《つか》む鷲《わし》の眼《まな》ざし恐ろしく、亀屋の亭主も是《これ》までと口を噤《つぐ》むありさま珠運|口惜《くちおし》く、見ればお辰はよりどころなき朝顔の嵐《あらし》に逢《あ》いて露|脆《もろ》く、此方《こなた》に向いて言葉はなく深く礼して叔父に付添《つきそい》立出《たちいず》る二タ足《あし》三足め、又|後《うしろ》ふり向きし其《その》あわれさ、八幡《はちまん》命かけて堪忍ならずと珠運七と呼留《よびと》め、百両物の見事に投出して、亭主お辰の驚《おどろく》にも関《かま》わず、手続《てつづき》油断なく此《この》悪人と善女《ぜんにょ》の縁を切りてめでたし/\、まずは亀屋の養女分となしぬ。
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    第六 如是縁《にょぜえん》

      上 種子《たね》一粒《いちりゅう》が雨露《うろ》に養わる

 自分|妾狂《めかけぐるい》しながら息子《むすこ》の傾城買《けいせいがい》を責《せむ》る人心、あさましき中にも道理ありて、七《しち》の所業|誰《たれ》憎まぬ者なければ、酒|呑《のん》で居ても彼奴《きゃつ》娘の血を吮《す》うて居るわと蔭言《かげごと》され、流石《さすが》の奸物《かんぶつ》も此処《ここ》面白からず、荒屋《あばらや》一《ひ》トつ遺《のこ》して米塩《こめしお》買懸《かいがか》りの云訳《いいわけ》を家主《いえぬし》亀屋《かめや》に迷惑がらせ何処《どこ》ともなく去りける。珠運《しゅうん》も思い掛《がけ》なく色々の始末に七日余り逗留《とうりゅう》して、馴染《なじむ》につけ亭主《ていしゅ》頼もしく、お辰《たつ》可愛《かわゆ》く、囲炉裏《いろり》の傍《はた》に極楽国、迦陵頻伽《かりょうびんが》の笑声《わらいごえ》睦《むつま》じければ客あしらいされざるも却《かえっ》て気楽に、鯛《たい》は無《なく》とも玉味噌《たまみそ》の豆腐汁、心|協《あ》う同志《どし》安らかに団坐《まどい》して食う甘《うま》さ、或《あるい》は山茶《やまちゃ》も一時《いっとき》の出花《でばな》に、長き夜の徒然《つれづれ》を慰めて囲い栗《ぐり》の、皮|剥《むい》てやる一顆《いっか》のなさけ、嬉気《うれしげ》に賞翫《しょうがん》しながら彼も剥《む》きたるを我に呉《く》るゝおかしさ。実《げ》に山里も人情の暖《あたたか》さありてこそ住《すめ》ば都に劣らざれ。さりながら指折り数うれば最早《もはや》幾日か過《すぎ》ぬ、奈良という事|臆《おも》い起しては空《むな》しく遊び居《お》るべきにあらずとある日支度整え勘定促し立出《たちいで》んというに亭主《ていしゅ》呆《あき》れて、是《これ》は是は、婚礼も済《すま》ぬに。ハテ誰が婚礼。知れた事お辰が。誰と。冗談は置玉《おきたま》え。あなたならで誰とゝ云《いわ》れてカッと赤面し、乾きたる舌早く、御亭主こそ冗談は置玉《おきたま》え、私約束したる覚《おぼえ》なし。イヤ怪《け》しからぬ野暮《やぼ》を云《いわ》るゝは都の御方《おかた》にも似ぬ、今時の若者《わかいもの》がそれではならぬ、さりとては百両|投出《なげだし》て七蔵にグッとも云《い》わせなかった捌《さば》き方と違っておぼこな事、それは誰しも耻《はず》かしければ其様《そのよう》にまぎらす者なれど、何も紛《まぎら》すにも及ばず[#「ず」は底本では「す」]、爺《じじ》が身に覚あってチャンと心得てあなたの思わく図星の外れぬ様致せばおとなしく御《お》待《まち》なされと何やら独呑込《ひとりのみこみ》の様子、合点《がてん》ならねば、是是《これこれ》御亭主、勘違い致さるゝな、お辰様をいとしいとこそ思いたれ女房に為様《しよう》なぞとは一厘《いちりん》も思わず、忍びかねて難義を助《たすけ》たる計《ばかり》の事、旅の者に女房授けられては甚《はなは》だ迷惑。ハハハヽア、何の迷惑、器量美しく学問|音曲《おんぎょく》のたしなみ無《なく》とも縫針《ぬいはり》暗からず、女の道自然と弁《わきま》えておとなしく、殿御《とのご》を大事にする事|請合《うけあい》のお辰を迷惑とは、両柱《ふたはしら》の御神以来|図《ず》ない議論、それは表面《うわべ》、真《まこと》を云えば御前の所行《しょぎょう》も曰《いわ》くあってと察したは年の功、チョン髷《まげ》を付《つけ》て居ても粋《すい》じゃ、実《まこと》はおれもお前のお辰に惚《ほれ》たも善《よ》く惚た、お辰が御前に惚たも善く惚たと当世の惚様《ほれよう》の上手なに感心して居るから、媼《ばば》とも相談して支度出来次第婚礼さする積《つもり》じゃ、コレ珠運年寄の云う事と牛の鞦《しりがい》外れそうで外れぬ者じゃ、お辰を女房にもってから奈良へでも京へでも連立《つれだっ》て行きゃれ、おれも昔は脇差《わきざし》に好《このみ》をして、媼も鏡を懐中してあるいた頃《ころ》、一世一代の贅沢《ぜいたく》に義仲寺《ぎちゅうじ》をかけて六条様参り一所《いっしょ》にしたが、旅ほど嚊《かか》が可愛《かわゆ》うておもしろい事はないぞ、いまだに其頃《そのころ》を夢に見て後での話しに、此《この》間も嫗《ばば》に真夜中|頃《ごろ》入歯を飛出さして笑ったぞ、コレ珠運、オイ是は仕《し》たり、孫でも無かったにと罪のなき笑い顔して奇麗なる天窓《あたま》つるりとなでし。

   中 実生《みしょう》二葉《ふたば》は土塊《つちくれ》を抽《ぬ》く

 我今まで恋と云《い》う事|為《し》たる覚《おぼえ》なし。勢州《せいしゅう》四日市にて見たる美人三日|眼前《めさき》にちらつきたるが其《それ》は額に黒痣《ほくろ》ありてその位置《ところ》に白毫《びゃくごう》を付《つけ》なばと考えしなり。東京|天王寺《てんのうじ》にて菊の花片手に墓参りせし艶女《えんじょ》、一週間思い詰《つめ》しが是《これ》も其《その》指つきを吉祥菓《きっしょうか》持《もた》せ玉《たも》う鬼子母神《きしぼじん》に写してはと工夫せしなり。お辰《たつ》を愛《めで》しは修業の足しにとにはあらざれど、之《これ》を妻に妾《めかけ》に情婦《いろ》になどせんと思いしにはあらず、強《し》いて云わば唯《ただ》何となく愛《めで》し勢《いきおい》に乗りて百両は与《あたえ》しのみ、潔白の我《わが》心中を忖《はか》る事出来ぬ爺《じい》めが要《いら》ざる粋立《すいだて》馬鹿《ばか》々々し、一生に一つ珠運《しゅうん》が作意の新仏体を刻まんとする程の願望《のぞみ》ある身の、何として今から妻など持《もつ》べき、殊にお辰は叔父《おじ》さえなくば大尽《だいじん》にも望まれて有福《ゆうふく》に世を送るべし、人は人、我は我の思わくありと決定《けつじょう》し、置手紙にお辰|宛《あ》て少許《すこしばかり》の恩を伽《かせ》に御身《おんみ》を娶《めと》らんなどする賎《いや》しき心は露持たぬ由を認《したた》め、跡は野となれ山路にかゝりてテク/\歩行《あるき》。さても変物、此《この》男木作りかと譏《そし》る者は肉団《にくだん》奴才《どさい》、御釈迦様《おしゃかさま》が女房|捨《すて》て山籠《やまごもり》せられしは、耆婆《きば》も匕《さじ》を投《なげ》た癩病《らいびょう》、接吻《くちづけ》の唇《くちびる》ポロリと落《おち》しに愛想《あいそ》尽《つか》してならんなど疑う儕輩《やから》なるべし、あゝら尊し、尊し、銀の猫《ねこ》捨《すて》た所が西行《さいぎょう》なりと喜んで誉《ほ》むる輩《ともがら》是も却《かえっ》て雪のふる日の寒いのに気が付《つか》ぬ詮義《せんぎ》ならん。人間元より変な者、目盲《めしい》てから其《その》昔拝んだ旭日《あさひ》の美しきを悟り、巴里《パリー》に住んでから沢庵《たくあん》の味を知るよし。珠運は立鳥《たつとり》の跡ふりむかず、一里あるいた頃《ころ》不図《ふと》思い出し、二里あるいた頃珠運様と呼ぶ声、まさしく其人《そのひと》と後《うしろ》見れば何もなし、三里あるいた頃、もしえと袂《たもと》取る様子、慥《たしか》にお辰と見れば又人も居《お》らず、四里あるき、五里六里行き、段々遠くなるに連れて迷う事多く、遂《つい》には其顔見たくなりて寧《いっそ》帰ろうかと一《ひ》ト足|後《あと》へ、ドッコイと一二|町《ちょう》進む内、むか/\と其声|聞度《ききたく》て身体《からだ》の向《むき》を思わずくるりと易《かゆ》る途端|道傍《みちばた》の石地蔵を見て奈良よ/\誤ったりと一町たらずあるく向《むこう》より来る夫婦|連《づれ》の、何事か面白相に語らい行くに我もお辰と会話《はなし》仕度《したく》なって心なく一間《いっけん》許《ばか》り戻《もど》りしを、愚《おろか》なりと悟って半町歩めば我しらず迷《まよい》に三間もどり、十足《とあし》あるけば四足《よあし》戻りて、果《はて》は片足進みて片足戻る程のおかしさ、自分ながら訳も分らず、名物|栗《くり》の強飯《こわめし》売《うる》家《いえ》の牀几《しょうぎ》に腰|打掛《うちかけ》てまず/\と案じ始めけるが、箒木《ははきぎ》は山の中にも胸の中にも、有無分明《うむぶんみょう》に定まらず、此処《ここ》言文一致家に頼みたし。

     下 若木《わかき》三寸で螻《けら》蟻《あり》に害《そこの》う

 世の中に病《やまい》ちょう者なかりせば男心のやさしかるまじ。髭先《ひげさき》のはねあがりたる当世才子、高慢の鼻をつまみ眼鏡《めがね》ゆゝしく、父母干渉の弊害を説《とき》まくりて御異見の口に封蝋《ふうろう》付玉《つけたま》いしを一日粗造のブランディに腸|加答児《カタル》起して閉口|頓首《とんしゅ》の折柄、昔風の思い付、気に入らぬか知らぬが片栗湯《かたくりゆ》こしらえた、食《たべ》て見る気はないかと厚き介抱《かいほう》有難く、へこたれたる腹にお母《ふくろ》の愛情を呑《のん》で知り、是《これ》より三十銭の安西洋料理食う時もケーク丈《だけ》はポッケットに入れて土産《みやげ》となす様になる者ぞ、ゆめ/\美妙なる天の配剤に不足|云《い》うべからずと或人《あるひと》仰せられしは尤《もっとも》なりけり。珠運《しゅうん》馬籠《まごめ》に寒あたりして熱となり旅路の心細く二日|計《ばか》り苦《くるし》む所へ吉兵衛とお辰《たつ》尋ね来《きた》り様々の骨折り、病のよき汐《しお》を見計らいて駕籠《かご》安泰に亀屋《かめや》へ引取り、夜の間も寐ずに美人の看病、藪《やぶ》医者の薬も瑠璃光薬師《るりこうやくし》より尊き善女《ぜんにょ》の手に持たせ玉える茶碗《ちゃわん》にて呑《の》まさるれば何|利《きか》ざるべき、追々《おいおい》快方に赴き、初めてお辰は我身の為《ため》にあらゆる神々に色々の禁物《たちもの》までして平癒せしめ玉えと祷《いの》りし事まで知りて涙|湧《わ》く程|嬉《うれ》しく、一《ひ》ト月あまりに衰《おとろえ》こそしたれ、床を離れて其《その》祝義《しゅうぎ》済みし後、珠運思い切ってお辰の手を取り一間《ひとま》の中《うち》に入り何事をか長らく語らいけん、出《いず》る時女の耳の根《ね》紅《あか》かりし。其翌日男|真面目《まじめ》に媒妁《なこうど》を頼めば吉兵衛笑って牛の鞦《しりがい》と老人《としより》の云う事どうじゃ/\と云さして、元より其《その》支度《したく》大方は出来たり、善は急いで今宵《こよい》にすべし、不思議の因縁でおれの養女分にして嫁|入《いら》すればおれも一トつの善《よ》い功徳をする事ぞとホク/\喜び、忽《たちま》ち下女下男に、ソレ膳《ぜん》を出せ椀《わん》を出せ、アノ銚子《ちょうし》を出せ、なんだ貴様は蝶《ちょう》の折り様《よう》を知らぬかと甥子《おいご》まで叱《しか》り飛《とば》して騒ぐは田舎|気質《かたぎ》の義に進む所なり、かゝる中へ一人の男|来《きた》りてお辰様にと手紙を渡すを見ると斉《ひとし》くお辰あわただしく其男に連立《つれだち》て一寸《ちょっと》と出《いで》しが其まゝもどらず、晩方になりて時刻も来《きた》るに吉兵衛|焦躁《いらっ》て八方を駈廻《かけめぐ》り探索すれば同業の方《かた》に止《とま》り居し若き男と共に立去りしよし。牛の鞦《しりがい》爰《ここ》に外れてモウともギュウとも云うべき言葉なく、何と珠運に云い訳せん、さりとて猥褻《みだら》なる行《おこない》はお辰に限りて無《なか》りし者をと蜘手《くもで》に思い屈する時、先程の男|来《きた》りて再《また》渡す包物《つつみもの》、開《ひらき》て見れば、一筆啓上|仕《つかまつり》候《そうろう》未《いま》だ御意《ぎょい》を得ず候《そうら》え共お辰様身の上につき御|厚情《こうせい》相掛《あいかけ》られし事承り及びあり難く奉存候《ぞんじたてまつりそうろう》さて今日貴殿|御計《おんはからい》にてお辰婚姻取結ばせられ候由|驚入申《おどろきいりもうし》候|仔細《しさい》之《これ》あり御辰様儀婚姻には私|方《かた》故障御座候故従来の御礼|旁《かたがた》罷《まか》り出て相止申《あいとめもうす》べくとも存《ぞんい》候え共《ども》如何《いか》にも場合切迫致し居《お》り且《かつ》はお辰様心底によりては私一存にも参り難《がたく》候|様《よう》の義に至り候ては迷惑に付《つき》甚《はなは》だ唐突不敬なれども実はお辰様を賺《すか》し申し此《この》婚姻|相延《あいのべ》申候よう決行致し候|尚《なお》又《また》近日参上|仕《つかまつ》り入り込《こみ》たる御話し委細|申上《もうしあぐ》べく心得に候え共《ども》差当り先日七蔵に渡され候金百円及び御礼の印までに金百円進上しおき候|間《あいだ》御受納下され度《たく》候|不悉《ふしつ》 亀屋吉兵衛様へ岩沼子爵|家従《けらい》田原栄作《たはらえいさく》とありて末書に珠運様とやらにも此旨《このむね》御|鶴声《かくせい》相伝《あいつたえ》られたく候と筆を止《とど》めたるに加えて二百円何だ紙なり。
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    第七 如是報《にょぜほう》

     我は飛《とび》来《き》ぬ他化自在天宮《たけじざいてんぐう》に

 オヽお辰《たつ》かと抱き付かれたる御方《おかた》、見れば髯《ひげ》うるわしく面《おもて》清く衣裳《いしょう》立派なる人。ハテ何処《どこ》にてか会いたる様《よう》なと思いながら身を縮まして恐々《おそるおそる》振り仰ぐ顔に落来《おちく》る其《その》人の涙の熱さ、骨に徹して、アヽ五日前一生の晴の化粧と鏡に向うた折会うたる我に少しも違わず扨《さて》は父様《ととさま》かと早く悟りてすがる少女《おとめ》の利発さ、是《これ》にも室香《むろか》が名残の風情《ふぜい》忍ばれて心強き子爵も、二十年のむかし、御機嫌《ごきげん》よろしゅうと言葉|後《じり》力なく送られし時、跡ふりむきて今|一言《ひとこと》交《かわ》したかりしを邪見に唇|囓切《かみしめ》て女々《めめ》しからぬ風《ふり》誰《たが》為《ため》にか粧《よそお》い、急がでもよき足わざと早めながら、後《うしろ》見られぬ眼《め》を恨《うら》みし別離《わかれ》の様まで胸に浮《うか》びて切《せつ》なく、娘、ゆるしてくれ、今までそなたに苦労させたは我《わが》誤り、もう是からは花も売《うら》せぬ、襤褸《つづれ》も着せぬ、荒き風を其《その》身体《からだ》にもあてさせぬ、定めしおれの所業《しわざ》をば不審もして居たろうがまあ聞け、手前の母に別れてから二三日の間実は張り詰《つめ》た心も恋には緩《ゆる》んで、夜深《よふか》に一人月を詠《なが》めては人しらぬ露|窄《せま》き袖《そで》にあまる陣頭の淋《さび》しさ、又は総軍の鹿島立《かしまだち》に馬蹄《ばてい》の音高く朝霧を蹴《け》って勇ましく進むにも刀の鐺《こじり》引《ひ》かるゝように心たゆたいしが、一封の手簡《てがみ》書く間もなきいそがしき中、次第に去る者の疎《うと》くなりしも情合《じょうあい》の薄いからではなし、軍事の烈《はげ》しさ江戸に乗り込んで足溜《あしだま》りもせず、奥州《おうしゅう》まで直押《ひたおし》に推す程の勢《いきおい》、自然と焔硝《えんしょう》の煙に馴《なれ》ては白粉《おしろい》の薫《かお》り思い出《いだ》さず喇叭《らっぱ》の響に夢を破れば吾妹子《わぎもこ》が寝くたれ髪の婀娜《あだ》めくも眼前《めさき》にちらつく暇《いとま》なく、恋も命も共に忘れて敗軍の無念には励《はげ》み、凱歌《かちどき》の鋭気には乗じ、明《あけ》ても暮《くれ》ても肘《ひじ》を擦《さす》り肝《きも》を焦がし、饑《うえ》ては敵の肉に食《くら》い、渇しては敵の血を飲まんとするまで修羅《しゅら》の巷《ちまた》に阿修羅《あしゅら》となって働けば、功名|一《ひ》トつあらわれ二ツあらわれて総督の御覚《おんおぼ》えめでたく追々《おいおい》の出世、一方の指揮となれば其任|愈《いよいよ》重く、必死に勤めけるが仕合《しあわせ》に弾丸《たま》をも受けず皆々|凱陣《がいじん》の暁、其方《そのほう》器量学問見所あり、何某《なにがし》大使に従って外国に行き何々の制度|能々《よくよく》取調べ帰朝せば重く挙《あげ》用《もちい》らるべしとの事、室香に約束は違《たが》えど大丈夫青雲の志|此時《このとき》伸《のぶ》べしと殊に血気の雀躍《こおどり》して喜び、米国より欧州に前後七年の長逗留《ながとうりゅう》、アヽ今頃《いまごろ》は如何《どう》して居おるか、生れた子は女か、男か、知らぬ顔に、知られぬ顔、早く頬摺《ほおずり》して膝《ひざ》の上に乗せ取り、護謨《ゴム》人形空気鉄砲珍らしき手玩具《おもちゃ》数々の家苞《いえづと》に遣《や》って、喜ぶ様子見たき者と足をつま立《だ》て三階四階の高楼《たかどの》より日本の方角|徒《いたず》らに眺《ながめ》しも度々なりしが、岩沼卿《いわぬまきょう》と呼《よば》せらるる尊《たっと》き御身分の御方《おんかた》、是も御用にて欧州に御滞在中、数ならぬ我を見たて御子《おんこ》なき家の跡目に坐《すわ》れとのあり難き仰せ、再三|辞《いな》みたれど許されねば辞《いなみ》兼《かね》て承知し、共々|嬉《うれ》しく帰朝して我は軽《かろ》からぬ役を拝命する計《ばかり》か、終《つい》に姓を冒して人に尊まるゝに付《つい》てもそなたが母の室香が情《なさけ》何忘るべき、家来に吩附《いいつけ》て段々|糺《ただ》せば、果敢《はか》なや我と楽《たのしみ》は分《わ》けで、彼岸《かのきし》の人と聞くつらさ、何年の苦労一トつは国の為《ため》なれど、一トつは色紙《しきし》のあたった小袖《こそで》着て、塗《ぬり》の剥《はげ》た大小さした見所もなき我を思い込んで女の捨難《すてがた》き外見《みえ》を捨て、譏《そしり》を関《かま》わず危《あやう》きを厭《いと》わず、世を忍ぶ身を隠匿《かくまい》呉《く》れたる志、七生忘れられず、官軍に馳《はせ》参《さん》ぜんと、決心した我すら曇り声に云《い》い出《いだ》せし時も、愛情の涙は瞼《まぶた》に溢《あふ》れながら義理の詞《ことば》正しく、予《かね》ての御本望|妾《わたくし》めまで嬉《うれしゅ》う存じますと、無理な笑顔《えがお》も道理なれ明日知らぬ命の男、それを尚《なお》も大事にして余りに御髪《おぐし》のと髯《ひげ》月代《さかやき》人手にさせず、後《うしろ》に廻《まわ》りて元結《もとゆい》も〆力《しめちから》なき悲しさを奥歯に噛《か》んできり/\と見苦しからず結うて呉れたる計《ばかり》か、おのが頭《かしら》にさしたる金簪《きんかんざし》まで引抜き温《ぬく》みを添えて売ってのみ、我身のまわり調度にして玉《たま》わりし大事の/\女房に満足させて、昔の憂《う》きを楽《たのしみ》に語りたさの為《ため》なりしに、情無《なさけなく》も死なれては、花園《はなぞの》に牡丹《ぼたん》広々と麗《うるわ》しき眺望《ながめ》も、細口の花瓶に唯《ただ》二三輪の菊古流しおらしく彼が生《いけ》たるを賞《ほ》め、賞《ほめ》られて二人《ふたり》の微笑《ほほえみ》四畳半に籠《こも》りし時程は、今つくねんと影法師相手に独《ひとり》見る事の面白からず、栄華を誰《たれ》と共に、世も是迄《これまで》と思い切って後妻《のちぞい》を貰《もら》いもせず、さるにても其子|何処《どこ》ぞと種々《さまざま》尋ねたれど漸《ようや》くそなたを里に取りたる事ある嫗《ばば》より、信濃《しなの》の方へ行かれたという噂《うわさ》なりしと聞出《ききいだ》したる計《ばか》り、其筋の人に頼んでも何故《なにゆえ》か分らず、我《われ》外《ほか》に子なければ年老《としおい》る丈《だ》け愈《いよいよ》恋しく信州にのみ三人も家従《けらい》をやって捜《さが》させたるに、辛《から》くも田原が探し出《いだ》して七蔵《しちぞう》という悪者よりそなた貰《もら》い受けんとしたるに、如何《どう》いう訳か邪魔|入《いり》て間もなくそなたは珠運《しゅうん》とか云う詰《つま》らぬ男に、身を救われたる義理づくやら亀屋《かめや》の亭主の圧制やら、急に婚礼するというに、一旦《いったん》帰京《かえっ》て二度目にまた丁度《ちょうど》行き着《つき》たる田原が聞《きい》て狼狽《ろうばい》し、吾《わが》書捨《かきすて》て室香に紀念《かたみ》と遺《のこ》せし歌、多分そなたが知《しっ》て居るならんと手紙の末に書《かき》し頓智《とんち》に釣《つ》り出《いだ》し、それから無理に訳も聞かせず此処《ここ》まで連《つれ》て来たなれば定めし驚いたでもあろうが少しも恐るゝ事はなし、亀屋の方は又々田原をやって始末する程に是からは岩沼子爵の立派な娘、行儀学問も追々覚えさして天晴《あっぱれ》の婿《むこ》取り、初孫《ういまご》の顔でも見たら夢の中《うち》にそなたの母に逢《あ》っても云訳《いいわけ》があると今からもう嬉《うれし》くてならぬ、それにしても髪とりあげさせ、衣裳《いしょう》着かゆさすれば、先刻《さっき》内々戸の透《すき》から見たとは違って、是程までに美しいそなたを、今まで木綿|布子《ぬのこ》着せて置《おい》た親の耻《はずか》しさ、小間物屋も呼《よば》せたれば追付《おっつけ》来《くる》であろう、櫛《くし》簪《かんざし》何なりと好《すき》なのを取れ、着物も越後屋《えちごや》に望《のぞみ》次第|云付《いいつけ》さするから遠慮なくお霜《しも》を使《つか》え、あれはそなたの腰元だから先刻《さっき》の様《よう》に丁寧《ていねい》に辞義なんぞせずとよい、芝屋や名所も追々に見せましょ。舞踏会《ぶとうかい》や音楽会へも少し都風《みやこふう》が分って来たら連《つれ》て行《ゆき》ましょ。書物は読《よめ》るかえ、消息往来|庭訓《ていきん》までは習ったか、アヽ嬉しいぞ好々《よしよし》、学問も良い師匠を付《つけ》てさせようと、慈愛は尽《つき》ぬ長物語り、扨《さて》こそ珠運が望み通り、此《この》女菩薩《にょぼさつ》果報めでたくなり玉いしが、さりとては結構づくめ、是は何とした者。
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    第八 如是力《にょぜりき》

    上 楞厳呪文《りょうごんじゅもん》の功も見えぬ愛慾《あいよく》

 古風作者《こふうさくしゃ》の書《かき》そうな話し、味噌越《みそこし》提げて買物あるきせしあのお辰《たつ》が雲の上人《うえびと》岩沼《いわぬま》子爵《ししゃく》様《さま》の愛娘《まなむすめ》と聞《きい》て吉兵衛仰天し、扨《さて》こそ神も仏も御座る世じゃ、因果|覿面《てきめん》地ならしのよい所に蘿蔔《だいこ》は太りて、身持《みもち》のよい者に運の実がなる程理に叶《かなっ》た幸福と無上に有難がり嬉《うれ》しがり、一も二もなく田原の云事《いうこと》承知して、おのが勧めて婚姻さし懸《かけ》たは忘れたように何とも云わず物思わしげなる珠運《しゅうん》の腹《はら》聞《きか》ずとも知れてると万端|埒《らち》明け、貧女を令嬢といわるゝように取計《とりはから》いたる後、先日の百両|突戻《つきもど》して、吾《われ》当世の道理は知《しら》ねど此様《このよう》な気に入らぬ金受取る事|大嫌《だいきらい》なり、珠運様への百両は慥《たしか》に返したれど其人《そのひと》に礼もせぬ子爵から此《この》親爺《おやじ》が大枚《たいまい》の礼|貰《もらう》は煎豆《いりまめ》をまばらの歯で喰《く》えと云わるゝより有難迷惑、御返し申《もうし》ますと率直に云えば、否《いや》それは悪い合点《がてん》、一酷《いっこく》にそう云われずと子爵からの御志、是非|御取置《おとりおき》下され、珠運様には別に御礼を申《もうし》ますが姿の見えぬは御|立《たち》なされたか、ナニ奥の坐敷《ざしき》に。左様《さよう》なら一寸《ちょっと》と革嚢《カバン》さげて行《ゆき》かゝれば亭主《ていしゅ》案内するを堅く無用と止めながら御免なされと唐襖《からかみ》開きて初対面の挨拶《あいさつ》了《おわ》りお辰素性のあらまし岩沼子爵の昔今を語り、先頃《さきごろ》よりの礼厚く演《のべ》て子爵より礼の餽《おく》り物数々、金子《きんす》二百円、代筆ならぬ謝状、お辰が手紙を置列《おきなら》べてひたすら低頭平身すれば珠運少しむっとなり、文《ふみ》丈《だ》ケ受取りて其他には手も付《つけ》ず、先日の百両まで其処《そこ》に投出し顔しかめて。御持帰《おもちかえ》り下さい、面白からぬ御所置、珠運の為《し》た事を利を取ろう為《ため》の商法と思われてか片腹痛し、些許《ちとばかり》の尽力したるも岩沼令嬢の為にはあらず、お辰いとしと思うてばかりの事、夫《それ》より段々|馴染《なじむ》につけ、縁あればこそ力にもなりなられて互《たがい》に嬉敷《うれしく》心底打明け荷物の多きさえ厭《いと》う旅路の空に婚礼までして女房に持とうという間際になりて突然《だしぬけ》に引攫《ひきさら》い人の恋を夢にして貘《ばく》に食《くわ》せよという様《よう》な情《なさけ》なきなされ方、是はまあどうした訳と二三日は気抜《きぬけ》する程恨めしくは存じたれど、只今《ただいま》承れば御親子《ごしんし》の間柄、大切の娘御を私風情の賎《いやし》き者に嫁入《よめいら》してはと御家従《ごけらい》のあなたが御心配なすッて連《つれ》て行《ゆか》れたも御道理、決して私めが僣上《せんじょう》に岩沼子爵の御令嬢をどうのこうのとは申《もうし》ませぬから、金円品物は吃度《きっと》御持帰り下され、併《しか》しまざ/\と夫婦約束までしたあの花漬売《はなづけうり》は、心さえ変らねばどうしても女房に持つ覚悟、十二月に御嶽《おんたけ》の雪は消ゆる事もあれ此念《このおもい》は消《きえ》じ、アヽ否《いや》なのは岩沼令嬢、恋しいは花漬売と果《はて》は取乱《とりみだ》して男の述懐《じゅっかい》。爰《ここ》ぞ肝要、御主人の仰せ受《うけ》て来た所なり。よしや此恋|諏訪《すわ》の湖《うみ》の氷より堅くとも春風のぼや/\と説きやわらげ、凝りたる思《おもい》を水に流さし、後々の故障なき様にせではと田原は笑顔《えがお》あやしく作り上唇《うわくちびる》屡《しば》甞《なめ》ながら、それは一々至極の御道理、さりとて人間を二つにする事も出来ず、お辰様が再度《また》花漬売にならるゝ瀬も無《なか》るべければ、詰りあなたの無理な御望《おのぞみ》と云者《いうもの》、あなたも否《いや》なのは岩沼令嬢と仰せられて見ると、まさか推して子爵の婿になろうとの思召《おぼしめし》でも御座るまいが、夫婦約束までなさったとて婚礼の済《すみ》たるでもなし、お辰様も今の所ではあなたを恋しがって居らるゝ様子なれど、思想の発達せぬ生《なま》若い者の感情、追付《おっつけ》変って来るには相違ないと殿様の仰せ、行末は似つかわしい御縁を求めて何《いず》れかの貴族の若公《わかぎみ》を納《いれ》らるゝ御積り、是《これ》も人の親の心になって御考《おかんがえ》なされて見たら無理では無いと利発のあなたにはよく御了解《おわかり》で御座りましょう、箇様《かよう》申せばあなたとお辰様の情交《あいなか》を割《さ》く様にも聞えましょうが、花漬売としてこそあなたも約束をなされたれ、詰る所成就|覚束《おぼつか》なき因縁、男らしゅう思い切られたが双方《そのほう》の御為《おため》かと存じます、併《しか》しお辰様には大恩あるあなたを子爵も何でおろそかに思われましょう、されば是等《これら》の餽物《おくりもの》親御からなさるゝは至当の事、受取らぬと仰《おっしゃ》ったとて此儘《このまま》にはならず、どうか条理の立様《たつよう》御分別なされて、枉《まげ》ても枉《まげ》ても、御受納と舌《した》小賢《こざか》しく云迯《いいにげ》に東京へ帰ったやら、其後|音沙汰《おとさた》なし。さても浮世や、猛《たけ》き虎《とら》も樹《き》の上の猿《さる》には侮られて位置の懸隔を恨むらん、吾《われ》肩書に官爵あらば、あの田原の額に畳の跡深々と付《つけ》さし、恐惶謹言《きょうこうきんげん》させて子爵には一目置《いちもくおい》た挨拶《あいさつ》させ差詰《さしづめ》聟殿《むこどの》と大切がられべきを、四民同等の今日とて地下《じげ》と雲上《うんじょう》の等差《ちがい》口惜し、珠運を易《やす》く見積って何百円にもあれ何万円にもあれ札《さつ》で唇にかすがい膏打《こううつ》ような処置、遺恨千万、さりながら正四位《しょうしい》何の某《なにがし》とあって仏師彫刻師を聟《むこ》には為《し》たがらぬも無理ならぬ人情、是非もなけれど抑々《そもそも》仏師は光孝《こうこう》天皇|是忠《これただ》の親王等の系に出《いで》て定朝《じょうちょう》初めて綱位《こうい》を受《う》け、中々《なかなか》賎《いやし》まるべき者にあらず、西洋にては声なき詩の色あるを絵と云い、景なき絵の魂|凝《こり》しを彫像と云う程|尊《たっと》む技を為《な》す吾《われ》、ミチエルアンジロにもやはか劣るべき、仮令《たとい》令嬢の夫たるとも何の不都合あるべきとは云え、蝸牛《ででむし》の角立《つのだて》て何の益なし、残念や無念やと癇癪《かんしゃく》の牙《きば》は噛《か》めども食付《くいつく》所なければ、尚《なお》一段の憤悶《ふんもん》を増して、果《はて》は腑甲斐《ふがい》なき此身|惜《おし》からずエヽ木曾川の逆巻《さかまく》水に命を洗ってお辰見ざりし前に生れかわりたしと血相|変《かわ》る夜半《よわ》もありし。

    下 化城諭品《けじょうゆぼん》の諫《いさめ》も聴《きか》ぬ執着《しゅうじゃく》

 痩《やせ》たりや/\、病気|揚句《あげく》を恋に責《せめ》られ、悲《かなしみ》に絞られて、此身細々と心|引立《ひきたた》ず、浮藻《うきも》足をからむ泥沼《どろぬま》の深水《ふかみ》にはまり、又は露多き苔道《こけみち》をあゆむに山蛭《やまびる》ひいやりと襟《えり》に落《おつ》るなど怪しき夢|計《ばかり》見て覚際《さめぎわ》胸あしく、日の光さえ此頃《このごろ》は薄うなったかと疑うまで天地を我につれなき者の様《よう》恨む珠運《しゅうん》、旅路にかりそめの長居《ながい》、最早《もはや》三月《みつき》近くなるにも心|付《つか》ねば、まして奈良[#「良」は底本では「見」]へと日課十里の行脚《あんぎゃ》どころか家内《やうち》をあるく勇気さえなく、昼は転寝《うたたね》勝《がち》に時々|怪《け》しからぬ囈語《うわごと》しながら、人の顔見ては戯談《じょうだん》一《ひ》トつ云わず、にやりともせず、世は漸《ようや》く春めきて青空を渡る風|長閑《のどか》に、樹々《きぎ》の梢《こずえ》雪の衣脱ぎ捨て、家々の垂氷《たるひ》いつの間にか失《う》せ、軒伝う雫《しずく》絶間《たえま》なく白い者|班《まばら》に消えて、南向《みなみむき》の藁《わら》屋根は去年《こぞ》の顔を今年初めて露《あらわ》せば、霞《かす》む眼《め》の老《おい》も、やれ懐かしかったと喜び、水は温《ぬる》み下草は萌《も》えた、鷹《たか》はまだ出ぬか、雉子《きじ》はどうだと、終《つい》に若鮎《わかあゆ》の噂《うわさ》にまで先走りて若い者は駒《こま》と共に元気|付《づき》て来る中に、さりとてはあるまじき鬱《ふさ》ぎ様《よう》。此《この》跡ががらりと早変りして、さても/\和御寮《わごりょ》は踊る振《ふり》が見たいか、踊る振が見たくば、木曾路に御座れのなど狂乱の大陽気《おおようき》にでも成《なら》れまい者でもなしと亀屋《かめや》の爺《おやじ》心配し、泣くな泣きゃるな浮世は車、大八の片輪《かたわ》田の中に踏込んだ様《よう》にじっとして、くよ/\して居るよりは外をあるいて見たら又どんな女に廻《めぐ》り合《あう》かもしれぬ、目印の柳の下で平常《ふだん》魚は釣《つ》れぬ代り、思いよらぬ蛤《はまぐり》の吸物から真珠を拾い出すと云う諺《ことわざ》があるわ、腹を広く持て、コレ若いの、恋は他《ほか》にもある者を、と詞《ことば》おかしく、兀頭《はげあたま》の脳漿《のうみそ》から天保度《てんぽうど》の浮気論主意書《うわきろんしゅいがき》という所を引抽《ひきぬ》き、黴《かび》の生《はえ》た駄洒落《だじゃれ》を熨斗《のし》に添《そえ》て度々進呈すれど少しも取り容《い》れず、随分面白く異見を饒舌《しゃべ》っても、却《かえ》って珠運が溜息《ためいき》の合《あい》の手の如《ごと》くなり、是では行かぬと本調子整々堂々、真面目《まじめ》に理屈《りくつ》しんなり諄々《くどくど》と説諭すれば、不思議やさしも温順《おとなし》き人、何にじれてか大薩摩《おおざつま》ばりばりと語気|烈《はげ》しく、要《い》らざる御心配無用なりうるさしと一トまくりにやりつけられ敗走せしが、関《かま》わず置《おけ》ば当世|時花《はや》らぬ恋の病になるは必定、如何《どう》にかして助けてやりたいが、ハテ難物じゃ、それとも寧《いっそ》、経帷子《きょうかたびら》で吾家《わがや》を出立《しゅったつ》するようにならぬ内|追払《おっぱら》おうか、さりとては忍び難し、なまじお辰と婚姻を勧めなかったら兎《と》も角《かく》も、我口《わがくち》から事|仕出《しいだ》した上は我《わが》分別で結局《つまり》を付《つけ》ねば吉兵衛も男ならずと工夫したるはめでたき気象《きしょう》ぞかし。年《とし》は老《と》るべきもの流石《さすが》古兵《ふるつわもの》の斥候《ものみ》虚実の見所誤らず畢竟《ひっきょう》手に仕業《しわざ》なければこそ余計な心が働きて苦《くるし》む者なるべしと考えつき、或日《あるひ》珠運に向って、此日本一果報男め、聞玉《ききたま》え我昨夜の夢に、金襖《きんぶすま》立派なる御殿の中《うち》、眼《め》もあやなる美しき衣裳《いしょう》着たる御姫様床の間に向って何やらせらるゝ其《その》鬢付《びんつき》襟足《えりあし》のしおらしさ、後《うしろ》からかぶりついてやりたき程、もう二十年若くば唯《ただ》は置《おけ》ぬ品物めと腰は曲っても色に忍び足、そろ/\と伺いより椽側《えんがわ》に片手つきてそっと横顔拝めば、驚《おどろい》たりお辰、花漬売に百倍の奇麗をなして、殊更|憂《うれい》を含む工合《ぐあい》凄味《すごみ》あるに総毛立《そうけだち》ながら尚《なお》能《よ》くそこら見廻《みまわ》せば、床に掛《かけ》られたる一軸|誰《たれ》あろうおまえの姿絵|故《ゆえ》少し妬《ねた》くなって一念の無明《むみょう》萌《きざ》す途端、椽の下から顕《あらわ》れ出《いで》たる八百八狐《はっぴゃくやぎつね》付添《つきそい》て己[#「己」は底本では「已」]《おれ》の踵《かかと》を覗《ねら》うから、此奴《こやつ》たまらぬと迯出《にげだ》す後《うしろ》から諏訪法性《すわほっしょう》の冑《かぶと》だか、粟《あわ》八升も入る紙袋《かんぶくろ》だかをスポリと被《かぶ》せられ、方角さらに分らねば頻《しきり》と眼玉を溌々《ぱちぱち》したらば、夜具の袖《そで》に首を突込《つっこ》んで居たりけりさ、今の世の勝頼《かつより》さま、チト御驕《おおご》りなされ、アハヽヽと笑い転《ころ》げて其儘《そのまま》坐敷《ざしき》をすべり出《いで》しが、跡は却《かえっ》て弥《いや》寂《さび》しく、今の話にいとゞ恋しさまさりて、其事《そのこと》彼事《かのこと》寂然《じゃくねん》と柱に※[#「憑」の「心」に代えて「几」、第4水準2-3-20]《もた》れながら思ううち、瞼《まぶた》自然とふさぐ時あり/\とお辰の姿、やれまてと手を伸《のば》して裙《すそ》捉《とら》えんとするを、果敢《はか》なや、幻の空に消えて遺《のこ》るは恨《うらみ》許《ばか》り、爰《ここ》にせめては其|面影《おもかげ》現《うつつ》に止《とど》めんと思いたち、亀屋の亭主《ていしゅ》に心|添《そえ》られたるとは知らで自《みずから》善事《よきこと》考え出《いだ》せし様《よう》に吉兵衛に相談すれば、さて無理ならぬ望み、閑静なる一間《ひとま》欲《ほ》しとならばお辰|住居《すまい》たる家|尚《なお》能《よか》らん、畳さえ敷けば細工部屋にして精々《せいぜい》一ト月位|住《すま》うには不足なかるべし、ナニ話に来るは謝絶《ことわる》と云わるゝか、それも承知しました、それならば食事を賄《まかな》うより外に人を通わせぬよう致しますか、然《しか》し余り牢住居《ろうずまい》の様《よう》ではないか、ムヽ勝手とならば仕方がない、新聞|丈《だ》けは節々《せつせつ》上《あげ》ましょう、ハテ要《い》らぬとは悪い合点《がてん》、気の尽《つき》た折は是非世間の面白|可笑《おかし》いありさまを見るがよいと、万事親切に世話して、珠運が笑《えま》し気《げ》に恋人の住《すみ》し跡に移るを満足せしが、困りしは立像刻む程の大きなる良《よき》木なく百方|索《さが》したれど見当らねば厚き檜《ひのき》の大きなる古板を与えぬ。
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    第九 如是果《にょぜか》

 上 既《すで》に仏体《ぶったい》を作りて未得《みとく》安心《あんしん》

 勇猛《ゆうみょう》精進潔斎怠らず、南無帰命頂礼《なむきみょうちょうらい》と真心を凝《こら》し肝胆《かんたん》を砕きて三拝|一鑿《いっさく》九拝一刀、刻み出《いだ》せし木像あり難や三十二|相《そう》円満の当体《とうたい》即仏《そくぶつ》、御利益《ごりやく》疑《うたがい》なしと腥《なまぐさ》き和尚様《おしょうさま》語られしが、さりとは浅い詮索《せんさく》、優鈿《うでん》大王《だいおう》とか饂飩《うどん》大王《だいおう》とやらに頼まれての仕事《しわざ》、仏師もやり損じては大変と額に汗流れ、眼中に木片《ききれ》の飛込《とびこむ》も構わず、恐れ惶《かしこ》みてこそ作りたれ、恭敬三昧《きょうけいざんまい》の嬉《うれし》き者ならぬは、御本尊様の前の朝暮《ちょうぼ》の看経《かんきん》には草臥《くたびれ》を喞《かこ》たれながら、大黒《だいこく》の傍《そば》に下らぬ雑談《ぞうだん》には夜の更《ふく》るをも厭《いと》い玉わざるにても知るべしと、評せしは両親を寺参りさせおき、鬼の留守に洗濯する命じゃ、石鹸《シャボン》玉|泡沫《ほうまつ》夢幻《むげん》の世に楽を為《せ》では損と帳場の金を攫《つか》み出して御歯涅《おはぐろ》溝《どぶ》の水と流す息子なりしとかや。珠運《しゅうん》は段々と平面板《ひらいた》に彫浮《ほりうか》べるお辰《たつ》の像、元より誰《たれ》に頼まれしにもあらねば細工料取らんとにもあらず、唯《ただ》恋しさに余りての業、一刀《いっとう》削《けずり》ては暫《しばら》く茫然《ぼうぜん》と眼《め》を瞑《ふさ》げば花漬《はなづけ》めせと矯音《きょうおん》を洩《もら》す口元の愛らしき工合《ぐあい》、オヽそれ/\と影を促《とら》えて再《また》一《ひ》ト刀《かたな》、一ト鑿《のみ》突いては跡ずさりして眺《なが》めながら、幾日の恩愛|扶《たす》けられたり扶けたり、熱に汗蒸れ垢《あか》臭き身体《からだ》を嫌《いや》な様子なく柔《やさ》しき手して介抱し呉《くれ》たる嬉しさ今は風前の雲と消えて、思《おもい》は徒《いたずら》に都の空に馳《は》する事悲しく、なまじ最初お辰の難を助けて此家《このいえ》を出し其折《そのおり》、留《とど》められたる袖《そで》思い切《きっ》て振払いしならばかくまでの切なる苦《くるしみ》とはなるまじき者をと、恋しを恨む恋の愚痴、吾《われ》から吾を弁《わきま》え難く、恍惚《うっとり》とする所へ著《あらわ》るゝお辰の姿、眉付《まゆつき》媚《なまめ》かしく生々《いきいき》として睛《ひとみ》、何の情《じょう》を含みてか吾《わが》与《あた》えし櫛《くし》にジッと見とれ居る美しさ、アヽ此処《ここ》なりと幻像《まぼろし》を写して再《また》一鑿《ひとのみ》、漸《ようや》く二十日を越えて最初の意匠誤らず、花漬売の時の襤褸《つづれ》をも著《き》せねば子爵令嬢の錦をも着せず、梅桃桜菊色々の花綴衣《はなつづりぎぬ》麗しく引纏《ひきまとわ》せたる全身像|惚《ほれ》た眼からは観音の化身《けしん》かとも見れば誰《たれ》に遠慮なく後光輪《ごこう》まで付《つけ》て、天女の如《ごと》く見事に出来上り、吾《われ》ながら満足して眷々《ほれぼれ》とながめ暮《くら》せしが、其夜の夢に逢瀬《おうせ》平常《いつも》より嬉しく、胸あり丈《た》ケの口説《くぜつ》濃《こまやか》に、恋|知《しら》ざりし珠運を煩悩《ぼんのう》の深水《ふかみ》へ導きし笑窪《えくぼ》憎しと云えば、可愛《かわゆ》がられて喜ぶは浅し、方様《かたさま》に口惜しい程憎まれてこそ誓文《せいもん》移り気ならぬ真実を命|打込《うちこ》んで御見せ申《もうし》たけれ。扨《さて》は迷惑、一生|可愛《かわゆ》がって居様《いよう》と思う男に。アレ嘘《うそ》、後先|揃《そろ》わぬ御言葉、どうでも殿御は口上手と、締りなく睨《にら》んで打《ぶ》つ真似にちょいとあぐる、繊麗《きゃしゃ》な手首|緊《しっか》りと捉《とらえ》て柔《やわらか》に握りながら。打《ぶた》るゝ程憎まれてこそ誓文《せいもん》命|掛《かけ》て移り気ならぬ真実をと早速の鸚鵡《おうむ》返し、流石《さすが》は可笑《おか》しくお辰笑いかけて、身を縮め声低く、此《この》手を。離さぬが悪いか。ハイ。これは/\く大きに失礼と其儘《そのまま》離してひぞる真面目《まじめ》顔を、心配相に横から覗《のぞ》き込めば見られてすまし難《がた》く其眼を邪見に蓋《ふた》せんとする平手、それを握りて、離さぬが悪いかと男詞《おとこことば》、後《あと》は協音《きょうおん》の笑《わらい》計《ばか》り残る睦《むつま》じき中に、娘々《むすめむすめ》と子爵の※[#「金+肅」、第3水準1-93-39]声《さびごえ》。目《め》覚《さむ》れば昨宵《ゆうべ》明放《あけはな》した窓を掠《かす》めて飛ぶ烏《からす》、憎や彼奴《あれめ》が鳴いたのかと腹立《はらだた》しさに振向く途端、彫像のお辰夢中の人には遙《はるか》劣りて身を掩《おお》う数々の花うるさく、何処《どこ》の唐草《からくさ》の精霊《ばけもの》かと嫌《いや》になったる心には悪口も浮《うか》み来《きた》るに、今は何を着すべしとも思い出《いだ》せず工夫錬り練り刀を礪《と》ぎぬ。

   下 堅く妄想《もうそう》を捏《でつ》して自覚|妙諦《みょうたい》

 腕を隠せし花一輪削り二輪削り、自己《おの》が意匠の飾《かざり》を捨て人の天真の美を露《あら》わさんと勤めたる甲斐《かい》ありて、なまじ着せたる花衣|脱《ぬが》するだけ面白し。終《つい》に肩のあたり頸筋《くびすじ》のあたり、梅も桜も此《この》君の肉付《にくづき》の美しきを蔽《おお》いて誇るべき程の美しさあるべきやと截《た》ち落《おと》し切り落し、むっちりとして愛らしき乳首、是《これ》を隠す菊の花、香も無き癖《くせ》に小癪《こしゃく》なりきと刀|急《せわ》しく是も取って払い、可笑《おかし》や珠運《しゅうん》自ら為《し》たる業《わざ》をお辰《たつ》の仇《あだ》が為《し》たる事の様《よう》に憎み今刻み出《いだ》す裸体《はだかみ》も想像の一塊《いっかい》なるを実在《まこと》の様に思えば、愈々《いよいよ》昨日は愚《おろか》なり玉の上に泥絵具《どろえのぐ》彩りしと何が何やら独り後悔|慚愧《ざんき》して、聖書の中へ山水天狗楽書《やまみずてんぐらくがき》したる児童が日曜の朝|字消護謨《じけしゴム》に気をあせる如《ごと》く、周章|狼狽《ろうばい》一生懸命|刀《とう》は手を離れず、手は刀を離さず、必死と成《なっ》て夢我《むが》夢中、きらめく刃《やいば》は金剛石の燈下に転《まろ》ぶ光きら/\截切《たちき》る音は空《そら》駈《かく》る矢羽《やばね》の風を剪《き》る如く、一足|退《すさ》って配合《つりあい》を見《み》糺《ただ》す時は琴《こと》の糸断えて余韵《よいん》のある如く、意《こころ》糾々《きゅうきゅう》気|昂々《こうこう》、抑《そ》も幾年の学びたる力一杯鍛いたる腕一杯の経験|修錬《しゅれん》、渦《うず》まき起って沸々《ふつふつ》と、今|拳頭《けんとう》に迸《ほとばし》り、倦《うむ》も疲《つかれ》も忘れ果て、心は冴《さえ》に冴《さえ》渡る不乱不動の精進波羅密《しょうじんはらみつ》、骨をも休めず筋をも緩めず、湧《わ》くや額に玉の汗、去りも敢《あえ》ざる不退転、耳に世界の音も無《なく》、腹に饑《うえ》をも補わず自然《おのず》と不惜身命《ふじゃくしんみょう》の大勇猛《だいゆうみょう》には無礙《むげ》無所畏《むしょい》、切屑《きりくず》払う熱き息、吹き掛け吹込《ふっこ》む一念の誠を注ぐ眼の光り、凄《すさ》まじきまで凝り詰むれば、爰《ここ》に仮相《けそう》の花衣《はなごろも》、幻翳《げんえい》空華《くうげ》解脱《げだつ》して深入《じんにゅう》無際《むさい》成就《じょうじゅ》一切《いっさい》、荘厳《しょうごん》端麗あり難き実相|美妙《みみょう》の風流仏《ふうりゅうぶつ》仰ぎて珠運はよろ/\と幾足うしろへ後退《あとずさ》り、ドッカと坐《ざ》して飛散りし花を捻《ひね》りつ微笑《びしょう》せるを、寸善尺魔《すんぜんしゃくま》の三界《さんがい》は猶如《ゆうにょ》火宅《かたく》や。珠運さま珠運さまと呼声《よびごえ》戸口にせわし。
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    第十 如是本末究竟等《にょぜほんまつくきょうとう》

      上 迷迷迷《めいめいめい》、迷《まよい》は唯識所変《ゆいしきしょへん》ゆえ凡《ぼん》

 下碑《げじょ》が是非|御来臨《おいで》なされというに盗まれべき者なき破屋《あばらや》の気楽さ、其儘《そのまま》亀屋《かめや》へ行けば吉兵衛|待兼顔《まちかねがお》に挨拶して奥の一間へ導き、扨《さて》珠運《しゅうん》様、あなたの逗留《とうりゅう》も既に長い事、あれ程|有《あり》し雪も大抵は消《きえ》て仕舞《しまい》ました、此頃《このごろ》の天気の快《よ》さ、旅路もさのみ苦しゅうはなし其道《そのみち》勉強の為《ため》に諸国|行脚《あんぎゃ》なさるゝ身で、今の時候にくすぶりて計《ばか》り居らるるは損という者、それもこれも承知せぬでは無《なか》ろうが若い人の癖とてあのお辰《たつ》に心を奪《うばわ》れ、然《しか》も取残された恨《うらみ》はなく、その木像まで刻むと云《いう》は恋に親切で世間に疎《うと》い唐土《もろこし》の天子様が反魂香《はんごんこう》焼《たか》れた様《よう》な白痴《たわけ》と悪口を叩《たた》くはおまえの為を思うから、実はお辰めに逢《あ》わぬ昔と諦《あき》らめて奈良へ修業に行《いっ》て、天晴《あっぱれ》名人となられ、仮初《かりそめ》ながら知合《しりあい》となった爺《じい》の耳へもあなたの良《よい》評判を聞せて貰《もら》い度《た》い、然し何もあなたを追立《おいたて》る訳ではないが、昨日もチラリト窓から覗《のぞ》けば像も見事に出来た様子、此《この》上長く此地に居《いら》れても詰りあなたの徳にもならずと、お辰憎くなるに付《つけ》てお前|可愛《かわゆ》く、真から底から正直におまえ、ドッコイあなたの行末にも良様《よいよう》昨夕《ゆうべ》聢《しか》と考えて見たが、何《どう》でも詰らぬ恋を商買《しょうばい》道具の一刀に斬《きっ》て捨《すて》、横道入らずに奈良へでも西洋へでも行《ゆか》れた方が良い、婚礼なぞ勧めたは爺が一生の誤り、外に悪い事|仕《し》た覚《おぼえ》はないが、是《これ》が罪になって地獄の鉄札《てっさつ》にでも書《かか》れはせぬかと、今朝《けさ》も仏様に朝茶|上《あげ》る時|懺悔《ざんげ》しましたから、爺が勧めて爺が廃《よ》せというは黐竿《もちざお》握らせて殺生《せっしょう》を禁ずる様《よう》な者で真に云憎《いいにく》き意見なれど、此《ここ》を我慢して謝罪《わび》がてら正直にお辰めを思い切れと云う事、今度こそはまちがった理屈ではないが、人間は活物《いきもの》杓子定規《しゃくしじょうぎ》の理屈で平押《ひらおし》には行《ゆか》ず、人情とか何とか中々むずかしい者があって、遠くも無い寺|参《まいり》して御先祖様の墓に樒《しきみ》一束|手向《たむく》る易《やす》さより孫娘に友禅《ゆうぜん》を買《かっ》て着《きせ》る苦しい方が却《かえっ》て仕易《しやす》いから不思議だ、損徳を算盤《そろばん》ではじき出したら、珠運が一身|二一添作《にいちてんさく》の五も六もなく出立《しゅったつ》が徳と極るであろうが、人情の秤目《はかりめ》に懸《かけ》ては、魂の分銅《ふんどう》次第、三五《さんご》が十八にもなりて揚屋酒《あげやざけ》一猪口《ひとちょく》が弗箱《ドルばこ》より重く、色には目なし無二|無三《むざん》、身代《しんだい》の釣合《つりあい》滅茶苦茶《めちゃくちゃ》にする男も世に多いわ、おまえの、イヤ、あなたの迷《まよい》も矢張《やっぱり》人情、そこであなたの合点《がてん》の行様《ゆくよう》、年の功という眼鏡《めがね》をかけてよく/\曲者《くせもの》の恋の正体を見届た所を話しまして、お辰めを思い切《きら》せましょう。先《まず》第一に何を可愛《かわゆ》がって誰《たれ》を慕《した》うのやら、調べて見ると余程おかしな者、爺の考《かんがえ》では恐らく女に溺《おぼ》れる男も男に眩《くら》[#「眩」は底本では「呟」]む女もなし、皆々手製の影法師に惚《ほれ》るらしい、普通《なみなみ》の人の恋の初幕《しょまく》、梅花の匂《におい》ぷんとしたに振向《ふりむけ》ば柳のとりなり玉の顔、さても美人と感心した所では西行《さいぎょう》も凡夫《ぼんぷ》も変《かわり》はなけれど、白痴《こけ》は其女の影を自分の睛《ひとみ》の底に仕舞込《しまいこん》で忘れず、それから因縁あれば両三度も落合い挨拶《あいさつ》の一つも云わるゝより影法師殿段々堅くなって、愛敬詞《あいきょうことば》を執着《しゅうじゃく》の耳の奥で繰り返し玉い、尚《なお》因縁深ければ戯談《じょうだん》のやりとり親切の受授《うけさずけ》男は一寸《ちょっと》行《ゆく》にも新著百種の一冊も土産《みやげ》にやれば女は、夏の夕陽《ゆうひ》の憎や烈《はげ》しくて御暑う御座りましたろと、岐阜団扇《ぎふうちわ》に風を送り氷水に手拭《てぬぐい》を絞り呉《く》れるまでになってはあり難さ嬉《うれ》しさ御馳走《ごちそう》の瓜《うり》と共に甘《うま》い事胃の腑《ふ》に染渡《しみわた》り、さあ堪《たま》らぬ影法師殿むく/\と魂入り、働き出し玉う御容貌《ごきりょう》は百三十二|相《そう》も揃《そろ》い御声《おんこえ》は鶯《うぐいす》に美音錠《びおんじょう》飲ましたよりまだ清く、御心《ごしん》もじ広大|無暗《むやみ》に拙者《せっしゃ》を可愛《かわゆ》がって下さる結構|尽《づく》め故《ゆえ》堪忍ならずと、車を横に押し親父《おやじ》を勘当しても女房に持つ覚悟|極《き》めて目出度《めでたく》婚礼して見ると自分の妄像《もうぞう》ほど真物《ほんもの》は面白からず、領脚《えりあし》が坊主《ぼうず》で、乳の下に焼芋の焦《こげ》た様《よう》の痣《あざ》あらわれ、然も紙屑屋《かみくずや》とさもしき議論致されては意気な声も聞《きき》たくなく、印付《しるしつき》の花合《はなあわ》せ負《まけ》ても平気なるには寛容《おおよう》なる御心《おこころ》却《かえ》って迷惑、どうして此様《このよう》な雌《めす》を配偶《つれあい》にしたかと後悔するが天下半分の大切《おおぎり》、真実《まこと》を云《いえ》ば一尺の尺度《ものさし》が二尺の影となって映る通り、自分の心という燈《ともしび》から、さほどにもなき女の影を天人じゃと思いなして、恋も恨《うらみ》もあるもの、お辰めとても其如《そのごと》く、おまえの心から製《こしら》えた影法師におまえが惚《ほ》れて居る計《ばか》り、お辰の像に後光まで付《つけ》た所では、天晴《あっぱれ》女菩薩《にょぼさつ》とも信仰して居らるゝか知らねど、影法師じゃ/\、お辰めはそんな気高く優美な女ならずと、此爺《このじい》も今日悟って憎くなった迷うな/\、爰《ここ》にある新聞を読《よ》め、と初《はじめ》は手丁寧後は粗放《そほう》の詞《ことば》づかい、散々にこなされて。おのれ爺《じじい》め、えせ物知《ものしり》の恋の講釈、いとし女房をお辰めお辰めと呼捨《よびすて》片腹痛しと睨《にら》みながら、其事《そのこと》の返辞はせず、昨日頼み置《おき》し胡粉《ごふん》出来て居るかと刷毛《はけ》諸共《もろとも》に引※[#「怨」の「心」に代えて「手」、第4水準2-13-4]《ひきもぐ》ように受取り、新聞懐中して止むるをきかず突《つ》と立《たっ》て畳ざわりあらく、馴《なれ》し破屋《あばらや》に駈戻《かけもど》りぬるが、優然として長閑《のどか》に立《たて》る風流仏《ふうりゅうぶつ》見るより怒《いかり》も収り、何はさておき色合程よく仮に塗上《ぬりあげ》て、柱にもたれ安坐《あんざ》して暫《しばら》く眺《なが》めたるこそ愚《おろか》なれ。吉兵衛の詞《ことば》気になりて開く新聞、岩沼令嬢と業平侯爵《なりひらこうしゃく》と題せる所をふと読下せば、深山《みやま》の美玉都門《びぎょくともん》に入《いっ》てより三千の※[#「石+武」、第4水準2-82-42]※[#「石+夫、第4水準2-82-31]《ぶふ》に顔色なからしめたる評判|嘖々《さくさく》たりし当代の佳人岩沼令嬢には幾多の公子豪商熱血を頭脳に潮《ちょう》して其《その》一顰一笑《いっぴんいっしょう》を得んと欲《ほっ》せしが預《かね》て今業平《いまなりひら》と世評ある某侯爵は終《つい》に子爵の許諾《ゆるし》を経て近々結婚せらるゝよし侯爵は英敏閑雅今業平の称|空《むな》しからざる好男子なるは人の知所《しるところ》なれば令嬢の艶福《えんぷく》多い哉《かな》侯爵の艶福も亦《また》多い哉《かな》艶福万歳|羨望《せんぼう》の到《いたり》に勝《たえ》ず、と見る/\面色赤くなり青くなり新聞紙|引裂《ひきさき》捨《す》て何処《いづく》ともなく打付《うちつけ》たり。

      下 恋恋恋《れんれんれん》、恋《こい》は金剛不壊《こんごうふえ》なるが聖《せい》

 虚言《うそ》という者|誰《たれ》吐《つき》そめて正直は馬鹿《ばか》の如《ごと》く、真実は間抜《まぬけ》の様《よう》に扱わるゝ事あさましき世ぞかし。男女《なんにょ》の間変らじと一言《ひとこと》交《かわ》せば一生変るまじきは素《もと》よりなるを、小賢《こさか》しき祈誓三昧《きしょうさんまい》、誠少き命毛《いのちげ》に情《なさけ》は薄き墨含ませて、文句を飾り色めかす腹の中《うち》慨《なげ》かわしと昔の人の云《いい》たるが、夫《それ》も牛王《ごおう》を血に汚《けが》し神を証人とせしはまだゆかしき所ありしに、近来は熊野《くまの》を茶にして罰《ばち》を恐れず、金銀を命と大切《だいじ》にして、一《ひとつ》金《きん》千両|也《なり》右借用仕候段実正《みぎしゃくようつかまつりそうろうだんじっしょう》なりと本式の証文|遣《や》り置き、変心の暁は是《これ》が口を利《きき》て必ず取立《とりたて》らるべしと汚き小判《こばん》を枷《かせ》に約束を堅《かた》めけると、或書《あるしょ》に見えしが、是《これ》も烏賊《いか》の墨で文字書き、亀《かめ》の尿《いばり》を印肉に仕懸《しかく》るなど巧《たく》み出《いだ》すより廃《すた》れて、当時は手早く女は男の公債証書を吾名《わがな》にして取り置《おき》、男は女の親を人質《ひとじち》にして僕使《めしつか》うよし。亭主《ていしゅ》持《もつ》なら理学士、文学士|潰《つぶし》が利く、女房|持《も》たば音楽師、画工《えかき》、産婆三割徳ぞ、ならば美人局《つつもたせ》、げうち、板の間|※[#「てへん+(上/下)、第3水準1-84-76]《かせ》ぎ等の業《わざ》出来て然《しか》も英仏の語に長じ、交際上手でエンゲージに詫付《かこつけ》華族の若様のゴールの指輪一日に五六位《いつつむつくらい》取る程の者望むような世界なれば、汝《なんじ》珠運《しゅうん》能々《よくよく》用心して人に欺《あざむ》かれぬ様《よう》すべしと師匠教訓されしを、何の悪口なと冷笑《あざわらい》しが、なる程、我《われ》正直に過《すぎ》て愚《おろか》なりし、お辰《たつ》を女菩薩《にょぼさつ》と思いしは第一の過《あやま》り、折疵《おれきず》を隠して刀には樋《ひ》を彫るものあり、根性が腐って虚言《うそ》美しく、田原が持《もっ》て来た手紙にも、御《おん》なつかしさ少時《しばし》も忘れず何《いず》れ近き中《うち》父様《ととさま》に申し上《あげ》やがて朝夕《ちょうせき》御前様《おまえさま》御傍《おそば》に居《お》らるゝよう神かけて祈り居《お》りなどと我を嬉《うれ》しがらせし事憎し憎しと、怨《うらみ》の眼尻《まなじり》鋭く、柱にもたれて身は力なく下《さげ》たる頭《かしら》少し上《あげ》ながら睨《にら》むに、浮世のいざこざ知らぬ顔の彫像|寛々《かんかん》として大空に月の澄《すめ》る如《ごと》く佇《たたず》む気高さ、見るから我胸の疑惑|耻《はずか》しく、ホッと息|吐《つ》き、アヽ誤《あやま》てり、是程の麗わしきお辰、何とてさもしき心もつべき、去《さり》し日|亀屋《かめや》の奥|坐敷《ざしき》に一生の大事と我も彼も浮《うき》たる言葉なく、互《たがい》に飾らず疑わず固めし約束、仮令《たとい》天《あま》飛ぶ雷が今|落《おち》ればとて二人が中は引裂《ひきさか》れじと契りし者を、よしや子爵の威権烈しく他《あだ》し聟《むこ》がね定むるとも、我の命は彼にまかせお辰が命は珠運|貰《もら》いたれば、何《ど》の命|何《ど》の身体《からだ》あって侯爵に添うべきや、然《しか》も其時、身を我に投懸《なげかけ》て、艶《つや》やかなる前髪|惜気《おしげ》もなく我膝《わがひざ》に押付《おしつけ》、動気《どうき》可愛《かわゆ》らしく泣き俯《ふ》しながら、拙《つたな》き妾《わたくし》めを思い込まれて其程《それほど》までになさけ厚き仰せ、冥加《みょうが》にあまりてありがたしとも嬉しとも此《この》喜び申すべき詞《ことば》知らぬ愚《おろか》の口惜し、忘れもせざる何日《いつ》ぞやの朝、見所もなき櫛《くし》に数々の花|彫付《ほりつけ》て賜《たま》わりし折より、柔《やさ》しき御心ゆかしく思い初《そめ》、御小刀《おこがたな》の跡|匂《にお》う梅桜、花弁《はなびら》一片《ひとひら》も欠《かか》せじと大事にして、昼は御恩賜《おんめぐみ》頭《かしら》に挿《さ》しかざせば我為《わがため》の玉の冠、かりそめの立居《たちい》にも意《き》を注《つけ》て落《おち》るを厭《いと》い、夜は針箱の底深く蔵《おさ》めて枕《まくら》近く置《おき》ながら幾度《いくたび》か又|開《あけ》て見て漸《ようや》く睡《ねむ》る事、何の為とは妾《わたくし》も知らず、殊更其日|叔父《おじ》の非道《ひどう》、勿体《もったい》なき悪口|計《ばか》り、是も妾《わたくし》め故《ゆえ》思わぬ不快を耳に入れ玉うと一一《いちいち》胸先《むなさき》に痛く、さし詰《つむ》る癪《しゃく》押《おさ》えて御顔|打守《うちまもり》しに、暢《のび》やかなる御気象、咎《とが》め立《だて》もし玉わざるのみか何の苦もなくさらりと埒《らち》あき、重々の御恩|荷《にの》うて余る甲斐《かい》なき身、せめて肩|揉《も》め脚|擦《さす》れとでも僕使《つかい》玉わばまだしも、却《かえっ》て口きゝ玉うにも物柔かく、御手水《おちょうず》の温湯《ぬるゆ》椽側《えんがわ》に持《もっ》て参り、楊枝《ようじ》の房少しむしりて塩|一小皿《ひとこざら》と共に塗盆《ぬりぼん》に載《の》せ出《いだ》す僅計《わずかばかり》の事をさえ、我|夙起《はやおき》の癖故に汝《そなた》までを夙起《はやおき》さして尚《なお》寒き朝風につれなく袖《そで》をなぶらする痛わしさと人を護《かば》う御言葉、真《しん》ぞ人間五十年君に任せて露|惜《おし》からず、真実《まこと》あり丈《たけ》智慧《ちえ》ありたけ尽《つく》して御恩を報ぜんとするに付《つけ》て慕わしさも一入《ひとしお》まさり、心という者一つ新《あらた》に添《そう》たる様《よう》に、今迄《いままで》は関《かま》わざりし形容《なりふり》、いつか繕う気になって、髪の結様《ゆいよう》どうしたら誉《ほめ》らりょうかと鏡に対《むか》って小声に問い、或夜《あるばん》の湯上《ゆあが》り、耻《はずか》しながらソッと薄化粧《うすげしょう》して怖怖《こわごわ》坐敷《ざしき》に出《いで》しが、笑《わらい》片頬《かたほ》に見られし御|眼元《めもと》何やら存《あ》るように覚えて、人知らずカッと上気せしも、単《ひとえ》に身嗜《みだしなみ》計《ばかり》にはあらず、勿体《もったい》なけれど内内《ないない》は可愛《かわゆ》がられても見たき願い、悟ってか吉兵衛様の貴下《あなた》との問答、婚礼せよせぬとの争い、不図《ふと》立聞《たちぎき》して魂魄《たましい》ゆら/\と足|定《さだま》らず、其儘《そのまま》其処《そこ》を逃出《にげいだ》し人なき柴部屋《しばべや》に夢の如《ごと》く入《いる》と等しく、せぐりくる涙、あなた程の方の女房とは我身《わがみ》の為《ため》を思われてながら吉兵衛様の無礼過《なめすぎ》た言葉恨めしく、水仕女《みずしめ》なりともして一生|御傍《おそば》に居られさいすれば願望《のぞみ》は足る者を余計な世話、我からでも言わせたるように聞取《ききと》られて疎《うと》まれなば取り返しのならぬ暁《あかつき》、辰は何になって何に終るべきと悲《かなし》み、珠運様も珠運様、余りにすげなき御言葉、小児《こども》の捉《とっ》た小雀《こすずめ》を放して遣《や》った位に辰を思わるゝか知らねどと泣きしが、貴下《あなた》はそれより黙言《だんまり》で亀屋を御立《おたち》なされしに、十日も苅《か》り溜《ため》し草を一日に焼《やい》たような心地して、尼にでもなるより外なき身の行末を歎《なげき》しに、馬籠《まごめ》に御病気と聞く途端、アッと驚く傍《かたわら》に愚《おろか》な心からは看病するを嬉《うれし》く、御介抱|申《もうし》たる甲斐《かい》ありて今日の御|床上《とこあげ》、芽出度《めでたい》は芽出度《めでたけ》れど又もや此儘《このまま》御立《おたち》かと先刻《さっき》も台所で思い屈して居たるに、吉兵衛様御内儀が、珠運様との縁|続《つ》ぎ度《たく》ば其人様の髪一筋知れぬように抜《ぬい》て、おまえの髪と確《しっか》り結び合《あわ》せ※[#「口+急」、224-9]※[#「口+急」、224-9]《きゅうきゅう》如律令《にょりつりょう》と唱《とな》えて谷川に流し捨《すて》るがよいとの事、憎や老嫗《としより》の癖に我を嬲《なぶ》らるゝとは知《しり》ながら、貴君《あなた》の御足《おんあし》を止度《とめた》さ故に良事《よいこと》教《おし》られしよう覚《おぼえ》て馬鹿気《ばかげ》たる呪《まじない》も、試《やっ》て見ようかとも惑う程小さき胸の苦《くるし》く、捨《すて》らるゝは此身の不束《ふつつか》故か、此心の浅き故かと独り悔《くや》しゅう悩んで居《お》りましたに、あり難き今の仰せ、神様も御照覧あれ、辰めが一生はあなたにと熱き涙|吾《わが》衣物《きもの》を透《とお》せしは、そもや、嘘《うそ》なるべきか、新聞こそ当《あて》にならぬ者なれ、其《それ》を真《まこと》にして信《まこと》ある女房を疑いしは、我ながらあさましとは思うものゝ形なき事を記すべしとも思えず、見れば業平侯爵とやら、位|貴《たっと》く、姿うるわしく、才いみじきよし、エヽ妬《ねた》ましや、我《われ》位なく、姿美しからず、才もまた鈍ければ、較《くらべ》られては敵手《あいて》にあらず。扨《さて》こそ子爵が詞通《ことばどお》り、思想も発達せぬ生《なま》若い者の感情、都風の軽薄に流れて変りしに相違なきかと頻《しきり》に迷い沈みけるが思いかねてや一声|烈《はげ》しく、今ぞ知《しっ》たり移ろい易《やす》き女心、我を侯爵に見替《みかえ》て、汝《おのれ》一人の栄華を誇《ほこ》る、情《なさけ》なき仰せ、此《この》辰が。
 アッと驚き振仰向《ふりあおむけ》ば、折柄《おりから》日は傾きかゝって夕栄《ゆうばえ》の空のみ外に明るく屋《や》の内|静《しずか》に、淋し気に立つ彫像|計《ばか》り。さりとては忌々《いまいま》し、一心乱れてあれかこれかの二途《ふたみち》に別れ、お辰が声を耳に聞《きき》しか、吉兵衛の意見ひし/\と中《あた》りて残念や、妄想《もうぞう》の影法師に馬鹿にされ、有《あり》もせぬ声まで聞し愚《おろか》さ、箇程《かほど》までに迷わせたるお辰め、汝《おのれ》も浮世の潮に漂う浮萍《うきくさ》のような定《さだめ》なき女と知らで天上の菩薩《ぼさつ》と誤り、勿体《もったい》なき光輪《ごこう》まで付《つけ》たる事口惜し、何処《いずこ》の業平《なりひら》なり癩病《なりんぼ》なり、勝手に縁組、勝手に楽《たのし》め。あまりの御言葉、定めなきとはあなたの御心。あら不思議、慥《たしか》に其《その》声、是もまだ醒《さめ》ぬ無明《むみょう》の夢かと眼《め》を擦《こす》って見れば、しょんぼりとせし像、耳を澄《すま》せば予《かね》て知る樅《もみ》の木の蔭《かげ》あたりに子供の集りて鞠《まり》つくか、風の持来《もてく》る数え唄《うた》、
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一寸《ちょと》百|突《つい》て渡《わた》いた受取《うけと》った/\一つでは乳首|啣《くわ》えて二つでは乳首|離《はな》いて三つでは親の寝間を離れて四つにはより糸《こ》より初《そ》め五《いつつ》では糸をとりそめ六つでころ機織《はたおり》そめて――
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と苦労知らぬ高調子、無心の口々|長閑《のどか》に、拍子取り連《つれ》て、歌は人の作ながら声は天の籟《おと》美しく、慾《よく》は百ついて帰そうより他なく、恨《うらみ》はつき損ねた時罪も報《むくい》も共に忘れて、恋と無常はまだ無き世界の、楽しさ羨《うらやま》しく、噫《ああ》無心こそ尊《たっと》けれ、昔は我も何しら糸の清きばかりの一筋なりしに、果敢《はか》なくも嬉しいと云う事身に染初《しみそめ》しより、やがて辛苦の結ぼれ解《とけ》ぬ濡苧《ぬれお》の縺《もつれ》の物思い、其色《そのいろ》嫌よと、眼《め》を瞑《ふさ》げば生憎《あいにく》にお辰の面影あり/\と、涙さしぐみて、分疏《いいわけ》したき風情、何処《どこ》に憎い所なし。なる程定めなきとはあなたの御心、新聞一枚に堅き約束を反故《ほご》となして怒り玉うかと喞《かこ》たれて見れば無理ならねど、子爵の許《もと》に行《ゆき》てより手紙は僅《わずか》に田原が一度|持《もっ》て来《きた》りし計《ばか》り、此方《こなた》から遣《や》りし度々の消息、初《はじめ》は親子再会の祝《いわい》、中頃は振残《ふりのこ》されし喞言《かこちごと》、人には聞《きか》せ難《がた》きほど耻《はずか》しい文段《もんだん》までも、筆とれば其人の耳に付《つけ》て話しする様《よう》な心地して我しらず愚《おろか》にも、独居《ひとりい》の恨《うらみ》を数うる夜半《よわ》の鐘はつらからで、朧気《おぼろげ》ながら逢瀬《おうせ》うれしき通路《かよいじ》を堰《せ》く鶏《とり》めを夢の名残の本意《ほい》なさに憎らしゅう存じ候《そろ》など書《かい》てまだ足らず、再書《かえすがき》濃々《こまごま》と、色好み深き都の若佼《わこうど》を幾人《いくたり》か迷わせ玉うらん御標致《ごきりょう》の美しさ、却《かえ》って心配の種子《たね》にて我をも其等《それら》の浮《うき》たる人々と同じ様《よう》に思《おぼ》し出《いず》らんかと案《あん》じ候《そうろう》ては実《げ》に/\頼み薄く口惜《くちおし》ゅう覚えて、あわれ歳月《としつき》の早く立《たて》かし、御《おん》おもかげの変りたる時にこそ浅墓《あさはか》ならぬ我《わが》恋のかわらぬ者なるを顕《あらわ》したけれと、無理なる願《ねがい》をも神前に歎《なげ》き聞《きこ》え候《そろ》と、愚痴の数々まで記して丈夫そうな状袋を択《えら》み、封じ目油断なく、幾度か打《うち》かえし/\見て、印紙正しく張り付《つけ》、漸く差し出《いだ》したるに受取《うけとっ》たと計《ばかり》の返辞もよこさず、今日は明日はと待つ郵便の空頼《そらだのめ》なる不実の仕方、それは他《あだ》し婿がね取らせんとて父上の皆|為《な》されし事。又しても妄想《もうぞう》が我を裏切《うらぎり》して迷わする声憎しと、頭《かしら》を上《あぐ》れば風流仏悟り済《すま》した顔、外には
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清水《きよみず》の三本柳の一羽の雀《すずめ》が鷹《たか》に取られたチチャポン/\一寸《ちょっと》百ついて渡いた渡いた
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の他音もなし、愈々《いよいよ》影法師の仕業に定まったるか、エヽ腹立《はらだた》し、我|最早《もはや》すっきりと思い断ちて煩悩《ぼんのう》愛執《あいしゅう》一切|棄《すつ》べしと、胸には決定《けつじょう》しながら、尚《なお》一分《いちぶん》の未練残りて可愛《かわゆ》ければこそ睨《にら》みつむる彫像、此時《このとき》雲収り、日は没《い》りて東窓の部屋の中《うち》やゝ暗く、都《すべ》ての物薄墨色になって、暮残りたるお辰白き肌|浮出《うきいず》る如く、活々《いきいき》とした姿、朧《おぼろ》月夜に真《まこと》の人を見る様《よう》に、呼ばゞ答もなすべきありさま、我《わが》作りたる者なれど飽《あく》まで溺《おぼ》れ切《きっ》たる珠運ゾッと総身の毛も立《たち》て呼吸《いき》をも忘れ居たりしが、猛然として思い飜《かえ》せば、凝《こっ》たる瞳《ひとみ》キラリと動く機会《はずみ》に面色|忽《たちま》ち変り、エイ這顔《しゃっつら》の美しさに迷う物かは、針ほども心に面白き所あらば命さえ呉《くれ》てやる珠運も、何の操なきおのれに未練残すべき、其《その》生白《なましら》けたる素首《そっくび》見《みる》も穢《けがら》わしと身動きあらく後向《うしろむき》になれば、よゝと泣声して、それまでに疑われ疎《うと》まれたる身の生甲斐《いきがい》なし、とてもの事|方様《かたさま》の手に惜《おし》からぬ命|捨《すて》たしと云《いう》は、正しく木像なり、あゝら怪しや、扨《さて》は一念の恋を凝《こら》して、作り出《いだ》せしお辰の像に、我魂の入《いり》たるか、よしや我身の妄執《もうしゅう》の憑《の》り移りたる者にもせよ、今は恩愛|切《きっ》て捨《すて》、迷わぬ初《はじめ》に立帰《たちかえ》る珠運に妨《さまたげ》なす妖怪《ようかい》、いでいで仏師が腕の冴《さえ》、恋も未練も段々《きだきだ》に切捨《きりすて》くれんと突立《つったち》て、右の手高く振上《ふりあげ》し鉈《なた》には鉄をも砕くべきが気高く仁《やさ》しき情《なさけ》溢《あふ》るる計《ばかり》に湛《たた》ゆる姿、さても水々として柔かそうな裸身《はだかみ》、斬《き》らば熱血も迸《ほとばし》りなんを、どうまあ邪見に鬼々《おにおに》しく刃《やいば》の酷《むご》くあてらるべき、恨《うらみ》も憎《にくみ》も火上の氷、思わず珠運は鉈《なた》取落《とりおと》して、恋の叶わず思《おもい》の切れぬを流石《さすが》男の男泣き、一声|呑《のん》で身をもがき、其儘《そのまま》ドウと臥《ふ》す途端、ガタリと何かの倒るゝ音して天より出《いで》しか地より湧《わき》しか、玉の腕《かいな》は温く我|頸筋《くびすじ》にからまりて、雲の鬢《びん》の毛|匂《にお》やかに頬《ほほ》を摩《なで》るをハット驚き、急《せわ》しく見れば、有《あり》し昔に其儘《そのまま》の。お辰かと珠運も抱《だき》しめて額《ひたい》に唇。彫像が動いたのやら、女が来たのやら、問《とわ》ば拙《つたな》く語らば遅し。玄《げん》の又《また》玄《げん》摩訶不思議《まかふしぎ》。

    団円 諸法実相

      帰依仏《きえぶつ》の御利益《ごりやく》眼前にあり

 恋に必ず、必ず、感応《かんのう》ありて、一念の誠|御心《みこころ》に協《かな》い、珠運《しゅうん》は自《おの》が帰依仏《きえぶつ》の来迎《らいごう》に辱《かたじけ》なくも拯《すく》いとられて、お辰《たつ》と共に手を携え肩を駢《なら》べ優々と雲の上に行《ゆき》し後《あと》には白薔薇《ホワイトローズ》香《におい》薫《くん》じて吉兵衛《きちべえ》を初め一村の老幼|芽出度《めでたし》とさゞめく声は天鼓を撃つ如《ごと》く、七蔵《しちぞう》がゆがみたる耳を貫けば是《これ》も我慢の角《つの》を落《おと》して黒山《こくざん》の鬼窟《きくつ》を出《いで》、発心《ほっしん》勇ましく田原と共に左右の御前立《おんまえだち》となりぬ。
 其後《そののち》光輪《ごこう》美《うるわ》しく白雲に駕《のっ》て所々《しょしょ》に見ゆる者あり。或《ある》紳士の拝まれたるは天鷲絨《ビロウド》の洋服|裳《すそ》長く着玉いて駄鳥《だちょう》の羽宝冠に鮮《あざやか》なりしに、某《なにがし》貴族の見られしは白|襟《えり》を召《めし》て錦の御帯《おんおび》金色《こんじき》赫奕《かくえく》たりしとかや。夫《それ》に引変え破《やぶれ》褞袍《おんぼう》着て藁草履《わらぞうり》はき腰に利鎌《とがま》さしたるを農夫は拝み、阿波縮《あわちぢみ》の浴衣《ゆかた》、綿八反《めんはったん》の帯、洋銀の簪《かんざし》位《ぐらい》の御姿を見しは小商人《こあきんど》にて、風寒き北海道にては、鰊《にしん》の鱗《うろこ》怪しく光るどんざ布子《ぬのこ》、浪《なみ》さやぐ佐渡《さど》には、色も定かならぬさき織を着て漁師共の眼《め》にあらわれ玉いけるが業平侯爵《なりひらこうしゃく》も程《ほど》経て踵《かかと》小さき靴をはき、派手なリボンの飾りまばゆき服を召されたるに値偶《ちぐう》せられけるよし。是《これ》皆|一切経《いっさいきょう》にもなき一体の風流仏、珠運が刻みたると同じ者の千差万別の化身《けしん》にして少しも相違なければ、拝みし者|誰《たれ》も彼も一代の守本尊《まもりほんぞん》となし、信仰|篤《あつ》き時は子孫|繁昌《はんじょう》家内|和睦《わぼく》、御利益《ごりやく》疑《うたがい》なく仮令《たとい》少々御本尊様を恨めしき様《よう》に思う事ありとも珠運の如くそれを火上の氷となす者には素《もと》より持前《もちまえ》の仏性《ほとけしょう》を出《いだ》し玉いて愛護の御誓願《ごせいがん》空《むな》しからず、若《もし》又《また》過《あやま》ってマホメット宗《しゅう》モルモン宗《しゅう》なぞの木偶《もくぐう》土像などに近づく時は現当二世《げんとうにせ》の御罰《おんばち》あらたかにして光輪《ごこう》を火輪《かりん》となし一家《いっけ》をも魂魂《こんぱく》をも焼滅《やきほろぼ》し玉うとかや。あなかしこ穴《あな》賢《かしこ》。

底本:「日本の文学3 五重塔・運命」ほるぷ出版
   1985(昭和60)年2月1日初版第1刷発行
底本の親本:「風流仏」吉岡書籍店
   1889(明治22)年9月発行
入力:kompass
校正:今井忠夫
2003年12月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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幸田露伴

貧乏—— 幸田露伴

   その一

「アア詰《つま》らねえ、こう何もかもぐりはまになった日にゃあ、おれほどのものでもどうもならねえッ。いめえましい、酒でも喫《くら》ってやれか。オイ、おとま、一|升《しょう》ばかり取って来な。コウト、もう煮奴《にやっこ》も悪くねえ時候だ、刷毛《はけ》ついでに豆腐《とうふ》でもたんと買え、田圃《たんぼ》の朝というつもりで堪忍《かんにん》をしておいてやらあ。ナンデエ、そんな面《つら》あすることはねえ、女《おんな》ッ振《ぷり》が下がらあな。
「おふざけでないよ、寝《ね》ているかとおもえば眼《め》が覚《さ》めていて、出しぬけに床《とこ》ん中からお酒を買えたあ何の事《こっ》たえ。そして何時だと思っておいでだ、もう九時だよ、日があたってるのに寝ているものがあるもんかね。チョッ不景気な、病人くさいよ、眼がさめたら飛び起きるがいいわさ。ヨウ、起きておしまいてえば。
「厭《や》あだあ、母《かあ》ちゃん、お眼覚《めざ》が無いじゃあ坊《ぼう》は厭あだあ。アハハハハ。
「ツ、いい虫だっちゃあない、呆《あき》れっちまうよ。さあさあお起《おき》ッたらお起きナ、起きないと転がし出すよ。
と夜具を奪《と》りにかかる女房《にょうぼう》は、身幹《せい》の少し高過ぎると、眼の廻《まわ》りの薄黒《うすぐろ》く顔の色一体に冴《さ》えぬとは難なれど、面長《おもなが》にて眼鼻立《めはなだち》あしからず、粧《つく》り立てなば粋《いき》に見ゆべき三十前のまんざらでなき女なり。
 今まで機嫌《きげん》よかりし亭主《ていしゅ》は忽然《こつぜん》として腹立声に、
「よせエ、この阿魔《あま》あ、おれが勝手だい。
と云《い》いながら裾《すそ》の方《かた》に立寄れる女を蹴《け》つけんと、掻巻《かいまき》ながらに足をばたばたさす。女房は驚《おどろ》きてソッとそのまま立離《たちはな》れながら、
「オヤおっかない狂人《きちがい》だ。
と別に腹も立てず、少し物を考う。
「あたりめえよ、狂人にでもならなくって詰るもんか。アハハハハ、銭《ぜに》が無い時あ狂人が洒落《しゃれ》てらあナ。
「お銭《あし》が有ったらエ。
「フン、有情漢《いろおとこ》よ、オイ悪かあ無かったろう。
「いやだネ知らないよ。
「コン畜生《ちくしょう》め、惚《ほ》れやがった癖《くせ》に、フフフフフ。
「お前少しどうかおしかえ、変だよ。
「何が。
「調子が。
「飛んだお師匠様《ししょうさん》だ、笑わせやがる。ハハハハ、まあ、いいから買って来な、一人飲みあしめえし。
「だって、無いものを。
「何だと。
「貸はしないし、ちっとも無いんだものを。
「智慧《ちえ》がか。
「いいえさ。
「べらぼうめえ、無《ね》えものは無えやナ、おれの脱穀《ぬけがら》を持って行きゃ五六十銭は遣《よこ》すだろう。
「ホホホホ、いい気ぜんだよ、それでいつまでも潜《もぐ》っているのかい。
「ハハハハ、お手の筋だ。
「だって、後《あと》はどうするエ。一張羅《いっちょうら》を無くしては仕様がないじゃあないか、エ、後ですぐ困るじゃ無いか。
「案じなさんな、銭があらあ。
「妙《みょう》だねえ、無いから帯や衣類《きもの》を飲もうというのに、その後になって何が有るエ。
「しみッたれるなイ、裸百貫《はだかひゃっかん》男|一匹《いっぴき》だ。
「ホホホホホ、大きな声をお出しでない、隣家《おとなり》の児《こ》が起きると内儀《おかみさん》の内職の邪魔《じゃま》になるわネ。そんならいいよ買って来るから。
と女房は台所へ出て、まだ新しい味噌漉《みそこし》を手にし、外へ出でんとす。
「オイオイ此品《これ》でも持って行かねえでどうするつもりだ。
と呼びかけて亭主のいうに、ちょっと振《ふ》りかえって嬉《うれ》しそうに莞爾《にっこり》笑い、
「いいよ、黙《だま》って待っておいで。
 たちまち姿《すがた》は見えずなって、四五|軒《けん》先の鍛冶屋《かじや》が鎚《つち》の音ばかりトンケンコン、トンケンコンと残る。亭主はちょっと考えしが、
「ハテナ、近所の奴《やつ》に貸た銭でもあるかしらん。知人《なじみ》も無さそうだし、貸す風でもねえが。
と独語《ひとりご》つところへ、うッそりと来かかる四十ばかりの男、薄汚《うすぎたな》い衣服《なり》、髪垢《ふけ》だらけの頭したるが、裏口から覗《のぞ》きこみながら、異《おつ》に潰《つぶ》れた声で呼《よ》ぶ。
「大将、風邪《かぜ》でも引かしッたか。
 両手で頬杖《ほおづえ》しながら匍匐臥《はらばいね》にまだ臥《ふし》たる主人《あるじ》、懶惰《ぶしょう》にも眼ばかり動かして一《ひ》ト眼《め》見しが、身体《からだ》はなお毫《すこし》も動かさず、
「日瓢《にっぴょう》さんか、ナニ風邪じゃあねえ、フテ寝というのよ。まあ上るがいい。
とは云いたれど上りてもらいたくも無さそうな顔なり。
「ハハハ、運を寝て待つつもりかネ、上ってもご馳走《ちそう》は無さそうだ。
「違《ちげ》えねえ、煙草《たばこ》の火ぐらいなもんだ。
「ハハハ、これではお互《たがい》に浮ばれない。時に明日《あす》の晩からは柳原《やなぎはら》の例のところに○州屋《まるしゅうや》の乾分《こぶん》の、ええと、誰《だれ》とやらの手で始まるそうだ、菓子屋の源《げん》に昨日《きのう》そう聞いたが一緒《いっしょ》に行きなさらぬか。
「往《い》かれたら往こうわ、ムムそれを云いに来たのか。
「そうさ、お互に少し中《あた》り屋《や》さんにならねばならん。
「誰だってそうおもわねえものは無《ね》えんだ、御祖師様《おそしさま》でも頼みなせえ。
「からかいなさるな、罰《ばち》が当っているほうだ。
「ハハハ、からかいなさんなと云ってもらいてえ、どうも言語《ものいい》の叮嚀《ていねい》な中《うち》がいい。
「ガリスの果《はて》と知れるかノ。
「オヤ、気障《きざ》な言語《ふちょう》を知ってるな、大笑いだ。しかし、知れるかノというノの字で打壊《ぶちこわ》しだあナ、チョタのガリスのおん果《はて》とは誰が眼にも見えなくってどうするものか。
「チョタとは何だ、田舎漢《いなかもの》のことかネ。
「ムム。
「忌々《いまいま》しい、そう思わるるが厭《いや》だによって、大分気をつけているが地金《じがね》はとかく出たがるものだナ。
「ハハハ、厭だによってか、ソレそれがもういけねえ、ハハハ詰らねえ色気《いろけ》を出したもんだ。
「イヤ居《お》れば居るだけ笑われる、明日《あす》来てみよう、行かれたら一緒に行きなさい。
と立帰り行くを見送って、
「おえねえ頓痴奇《とんちき》だ、坊主《ぼうず》ッ返《けえ》りの田舎漢《いなかもの》の癖に相場《そうば》も天賽《てんさい》も気が強《つえ》え、あれでもやっぱり取られるつもりじゃあねえ中《うち》が可笑《おかし》い。ハハハ、いい業《ごう》ざらしだ。
と一人《ひとり》笑うところへ、女房おとまぶらりッと帰り来る。見れば酒も持たず豆腐も持たず。
「オイどうしたんだ。
「どうもしないよ。
 やはり寝ながらじろりッと見て、
「気のぬけたラムネのように異《おつ》うすますナ、出て行った用はどうしたんだ。
「アイ忘れたよ。
「ふざけやがるなこの婆《ばばあ》。
「邪見《じゃけん》な口のききようだねえ、阿魔だのコン畜生だの婆だのと、れっきとした内室《おかみさん》をつかめえてお慮外《りょがい》だよ、兀《はげ》ちょろ爺《じじい》の蹙足爺《いざりじじい》め。
と少し甘《あま》えて言う。男は年も三十一二、頭髪《かみ》は漆《うるし》のごとく真黒《まっくろ》にて、いやらしく手を入れ油をつけなどしたるにはあらで、短めに苅《か》りたるままなるが人に優《すぐ》れて見|好《よ》きなり。されば兀ちょろ爺と罵《ののし》りたるはわざとになるべく、蹙足爺《いざりじじい》とはいつまでも起き出でぬ故なるべし。男は罵られても激《はげ》しくは怒《おこ》らず、かえって茶にした風にて、
「やかましいやい、ほんとに酒はどうしたんでエ。
「こうしてから飲むがいいサ。
と突然《だしぬけ》に夜具を引剥《ひつぱ》ぐ。夫婦《ふうふ》の間とはいえ男はさすが狼狙《うろた》えて、女房の笑うに我からも噴飯《ふきだし》ながら衣類《きもの》を着る時、酒屋の丁稚《でっち》、
「ヘイお内室《かみさん》ここへ置きます、お豆腐は流しへ置きますよ。
と徳利《とくり》と味噌漉を置いて行くは、此家《ここ》の内儀《かみさん》にいいつけられたるなるべし。
「さあ、お前はお湯《ぶう》へいっておいでよ、その間にチャンとしておくから。
 手拭《てぬぐい》と二銭銅貨を男に渡す。片手には今手拭を取った次手《ついで》に取った帚《ほうき》をもう持っている。
「ありがてえ、昔時《むかし》からテキパキした奴《やつ》だったッケ、イヨ嚊大明神《かかあだいみょうじん》。
と小声で囃《はや》して後《あと》でチョイと舌を出す。
「シトヲ、馬鹿《ばか》にするにも程《ほど》があるよ。
 大明神|眉《まゆ》を皺《しわ》めてちょいと睨《にら》んで、思い切って強《ひど》く帚で足を薙《な》ぎたまう。
「こんべらぼうめ。
 男は笑って呵《しか》りながら出で行く。

   その二

 浴後《ゆあがり》の顔色|冴々《さえざえ》しく、どこに貧乏の苦があるかという容態《ありさま》にて男は帰り来る。一体|苦《にが》み走《ばし》りて眼尻《めじり》にたるみ無く、一の字口の少し大《おおき》なるもきっと締《しま》りたるにかえって男らしく、娘にはいかがなれど浮世《うきよ》の鹹味《からみ》を嘗《な》めて来た女には好《す》かるべきところある肌合《はだあい》なリ。あたりを片付け鉄瓶《てつびん》に湯も沸《たぎ》らせ、火鉢《ひばち》も拭いてしまいたる女房おとま、片膝《かたひざ》立てながら疎《あら》い歯の黄楊《つげ》の櫛《くし》で邪見《じゃけん》に頸足《えりあし》のそそけを掻《か》き憮《な》でている。両袖《りょうそで》まくれてさすがに肉付《にくづき》の悪からぬ二の腕《うで》まで見ゆ。髪はこの手合《てあい》にお定《さだ》まりのようなお手製の櫛巻なれど、身だしなみを捨てぬに、小官吏《こやくにん》の細君《さいくん》などが四銭の丸髷《まるまげ》を二十日《はつか》も保《も》たせたるよりは遥《はるか》に見よげなるも、どこかに一時は磨《みが》き立《たて》たる光の残れるが助《たすけ》をなせるなるべし。亭主の帰り来りしを見て急に立上り、
「さあ、ここへおいで。
と坐《ざ》を与《あた》う。男は無言で坐り込み、筒湯呑《つつゆのみ》に湯をついで一杯《いっぱい》飲む。夜食膳《やしょくぜん》と云いならわした卑《いや》しい式《かた》の膳が出て来る。上には飯茶碗《めしぢゃわん》が二つ、箸箱《はしばこ》は一つ、猪口が《ちょく》が二ツと香《こう》のもの鉢《ばち》は一ツと置ならべられたり。片口は無いと見えて山形に五の字の描《か》かれた一升徳利《いっしょうどくり》は火鉢の横に侍坐《じざ》せしめられ、駕籠屋《かごや》の腕と云っては時代|違《ちが》いの見立となれど、文身《ほりもの》の様に雲竜《うんりゅう》などの模様《もよう》がつぶつぶで記された型絵の燗徳利《かんどくり》は女の左の手に、いずれ内部《なか》は磁器《せともの》ぐすりのかかっていようという薄鍋《うすなべ》が脆《もろ》げな鉄線耳《はりがねみみ》を右の手につままれて出で来る。この段取の間、男は背後《うしろ》の戸棚《とだな》に※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]《よ》りながらぽかりぽかり煙草《たばこ》をふかしながら、腮《あご》のあたりの飛毛《とびげ》を人さし指の先へちょと灰《はい》をつけては、いたずら半分に抜《ぬ》いている。女が鉄瓶を小さい方の五徳《ごとく》へ移せば男は酒を燗徳利に移す、女が鉄瓶の蓋《ふた》を取る、ぐいと雲竜を沈《しず》ませる、危《あやう》く鉄瓶の口へ顔を出した湯が跳《おど》り出しもし得ず引退《ひっこ》んだり出たりしている間《ま》に鍋は火にかけられる。
「下の抽斗《ひきだし》に鰹節《かつぶし》があるから。
と女は云いながら立って台所へ出でしが、つと外へ行く。
「チョツ、削《か》けといやあがるのか。
と不足らしい顔つきして女を見送りしが、何が眼につきしや急にショゲて黙然《だんまり》になって抽斗を開《あ》け、小刀《こがたな》と鰹節《ふし》とを取り出したる男は、鰹節《ふし》の亀節《かめぶし》という小《ちさ》きものなるを見て、
「ケチびんなものを買っときあがる。
と独言《ひとりごと》しつつそこらを見廻して、やがて膳の縁《ふち》へ鰹節《ふし》をあてがって削く。
 女はたちまち帰り来りしが、前掛《まえかけ》の下より現われて膳に上《のぼ》せし小鉢《こばち》には蜜漬《みつづけ》の辣薑《らっきょう》少し盛《も》られて、その臭気《におい》烈《はげ》しく立《た》ち渡《わた》れり。男はこれに構わず、膳の上に散りし削《かい》たる鰹節を鍋の中《うち》に摘《つま》み込《こ》んで猪口《ちょく》を手にす。注《つ》ぐ、呑《の》む。
「いいかエ。
「素敵だッ、やんねえ。
 女も手酌《てじゃく》で、きゅうと遣《や》って、その後徳利を膳に置く。男は愉快気《ゆかいげ》に重ねて、
「ああ、いい酒だ、サルチルサンで甘《あめ》え瓶《びん》づめとは訳が違う。
「ほめてでももらわなくちゃあ埋《うま》らないヨ、五十五銭というんだもの。
「何でも高くなりやあがる、ありがてえ世界《せけえ》だ、月に百両じゃあ食えねえようになるんでなくッちゃあ面白くねえ。
「そりゃあどういう理屈《りくつ》だネ。
「一揆《いっき》がはじまりゃあ占《し》めたもんだ。
「下らないことをお言いで無い、そうすりゃあ汝《おまえ》はどうするというんだエ。
「構うことあ無えやナ、岩崎《いわさき》でも三井《みつい》でも敲《たた》き毀《こわ》して酒の下物《さかな》にしてくれらあ。
「酔《よ》いもしない中からひどい管《くだ》だねエ、バアジンへ押込んで煙草三本拾う方じゃあ無いかエ、ホホホホ。
「馬鹿あ吐《ぬ》かせ、三銭の恨《うらみ》で執念《しゅうねん》をひく亡者《もうじゃ》の女房《かかあ》じゃあ汝《てめえ》だってちと役不足だろうじゃあ無《ね》えか、ハハハハ。
「そうさネエ、まあ朝酒は呑ましてやられないネ。
「ハハハ、いいことを云やあがる、そう云わずとも恩には被《き》らあナ。
「何をエ。
「今飲んでる酒をヨ。
「なぜサ。
「なぜでもいいわい、ただ美味《うめ》えということよ。
「オヤ、おハムキかエ、馬鹿らしい。
「そうじゃあ無《ね》えが忘れねえと云うんだい、こう煎《せん》じつめた揚句《あげく》に汝《てめえ》の身の皮を飲んでるのだもの。
「弱いことをお云いだねエ、がらに無いヨ。
「だってこうなってからというものア運とは云いながら為《す》ることも為ることもどじを踏《ふ》んで、旨《うめ》え酒一つ飲ませようじゃあ無し面白い目一つ見せようじゃあ無し、おまけに先月あらいざらい何もかも無くしてしまってからあ、寒蛬《こおろぎ》の悪く啼《な》きやあがるのに、よじりもじりのその絞衣《しぼり》一つにしたッ放《ぱな》しで、小遣銭《こづけえぜに》も置いて行かずに昨夜《ゆうべ》まで六日《むいか》七日《なのか》帰りゃあせず、売るものが留守《るす》に在《あ》ろうはずは無し、どうしているか知らねえが、それでも帰るに若干銭《なにがし》か握《つか》んで家《うち》へ入《へ》えるならまだしもというところを、銭に縁のあるものア欠片《かけら》も持たず空腹《すきっぱら》アかかえて、オイ飯を食わしてくれろッてえんで帰っての今朝《けさ》、自暴《やけ》に一杯《いっぺえ》引掛《ひっか》けようと云やあ、大方|男児《おとこ》は外へも出るに風帯《ふうてえ》が無くっちゃあと云うところからのことでもあろうが、プッツリとばかりも文句無しで自己《おの》が締めた帯を外《はず》して来ての正宗《まさむね》にゃあ、さすがのおれも刳《えぐ》られたア。今ちょいと外面《おもて》へ汝《てめえ》が立って出て行った背影《うしろかげ》をふと見りゃあ、暴《あば》れた生活《くらし》をしているたア誰《た》が眼にも見えてた繻子《しゅす》の帯、燧寸《マッチ》の箱のようなこんな家に居るにゃあ似合わねえが過日《こねえだ》まで贅《ぜい》をやってた名残《なごり》を見せて、今の今まで締めてたのが無くなっている背《うしろ》つきの淋《さみ》しさが、厭《いや》あに眼に浸《し》みて、馬鹿馬鹿しいがホロリッとなったア。世帯《しょたい》もこれで幾度《いくたび》か持っては毀《こわ》し持っては毀し、女房《かかあ》も七度《ななたび》持って七度出したが、こんな酒はまだ呑まなかった。
「何だネエ汝《おまえ》は、朝ッぱらから老実《じみ》ッくさいことをお言いだネ。
「ハハハ、そうよ、異《おつ》に後生気《ごしょうぎ》になったもんだ。寿命《じゅみょう》が尽《つ》きる前にゃあ気が弱くなるというが、我《おら》アひょっとすると死際《しにぎわ》が近くなったかしらん。これで死んだ日にゃあいい意気地無《いくじな》しだ。
「縁起《えんぎ》の悪いことお云いでないよ、面白くもない。そんなことを云っているより勢いよくサッと飲んで、そしていい考案《かんがえ》でも出してくれなくちゃあ困るよ。
「いいサ、飲むことはこの通りお達者だ、案じなさんな。児を棄《す》てる日になりゃア金の茶釜《ちゃがま》も出て来るてえのが天運だ、大丈夫《だいじょうぶ》、銭が無くって滅入《めい》ってしまうような伯父《おじ》さんじゃあねえわ。
「じゃあ何《なん》かいい見込《みこみ》でも立ってるのかエ。
「ナアニ、ちっとも立ってねえのヨ。
「どうしたらそういい気になっていられるだろうネ。仕様が無いネエ、どうかしておくれで無くっちゃあわたしももうしようもようも有りゃあしないヨ。
「ナアニ、いよいよ仕様が無けりゃあ、またちょいと書く法もあらア。
「どうおしなのだエ。
「強盗《ごうとう》と出かけるんだ。
「智慧《ちえ》が無いねエ、ホホホホ。詰らない洒落《しゃれ》ばかり云わずと真実《ほんと》にサ。
「真実《ほんと》に遣付《やっつ》けようかと思ってるんだ。オイ、三年の恋《こい》も醒《さ》めるかナッ、ハハハ。
「冗談《じょうだん》を云わずと真誠《ほんと》に、これから前《さき》をどうするんだか談《はな》して安心さしておくれなネエ。茶かされるナア腹が立つよ、ひとが心配しているのに。
「心配は廃《よ》しゃアナ。心配てえものは智慧袋《ちえぶくろ》の縮《ちぢ》み目の皺《しわ》だとヨ、何にもなりゃあしねえわ。
「だって女の気じゃあいくらわたしが気さくもんでも、食べるもん無し売るもんなしとなるのが眼に見えてちゃあ心配せずにゃあいられないやネ。
「ご道理《もっとも》千万《せんばん》に違《ちげ》えねえ、これから売るものア汝《てめえ》の身体《からだ》より他にゃあ無《ね》えんだ。おれの身体でも売れるといいんだが、野郎と来ちゃあ政府《おかみ》へでも売りつけるより仕様がねえ、ところでおれ様と来ちゃあ政府《おかみ》でも買い切れめえじゃあねえか。川岸《かし》女郎《じょろう》になる気で台湾《たいわん》へ行くのアいいけれど、前借《ぜんしゃく》で若干銭《なにがし》か取れるというような洒落た訳にゃあ行かずヨ、どうも我ながら愛想《あいそ》の尽きる仕義だ。
「そんな事をいってどうするんだエ。
「どうするッてどうもなりゃあしねえ、裸体《はだか》になって寝ているばかりヨ。塵挨《ほこり》が積《たか》る時分にゃあ掘出し気《ぎ》のある半可通《はんかつう》が、時代のついてるところが有り難《がて》えなんてえんで買って行くか知れねえ、ハハハ。白丁《はくちょう》奴《め》軽くなったナ。
「ほんとに人を馬鹿にしてるね。わたしを何だとおもっておいでのだエ、こっちは馬鹿なら馬鹿なりに気を揉《も》んでるのに、何もかも茶にして済《す》ましているたあ余《あんま》り人を袖《そで》にするというものじゃあ無いかエ。
と少しつんとして、じれったそうにグイと飲む。酒の廻りしため面《おもて》に紅色《くれない》さしたるが、一体|醜《みにく》からぬ上|年齢《としばえ》も葉桜《はざくら》の匂《におい》無くなりしというまでならねば、女振り十段も先刻《さき》より上りて婀娜《あだ》ッぽいいい年増《としま》なり。
「そう悪く取っちゃあいけねエ。そんなら実《ほん》の事を云おうか、実《じつ》はナ。
「アアどうするッてエの。
「実はナ。ほんとうの事を云やあ、ナ。
「アアどうするッてエのだッていうのにサ。
「エエ糞《くそ》ッ、忌々《いめえま》しいが云ってしまおう。実は過日《こねえだ》家《うち》を出てから、もうとても今じゃあ真当《ほんと》の事ア遣《やっ》てる間《ま》がねえから汝《てめえ》に算段させたんで、合百《ごうひゃく》も遣りゃあ天骰子《てんさい》もやる、花も引きゃあ樗蒲一《ちょぼいち》もやる、抜目《ぬけめ》なくチーハも買う富籤《とみ》も買う。遣らねえものは燧木《マッチ》の賭博《かけ》で椋鳥《むくどり》を引っかける事ばかり。その中《うち》にゃあ勝ちもした負けもした、いい時ゃ三百四百も握《にぎ》ったが半日たあ続かねえでトドのつまりが、残ったものア空財布《からさいふ》の中に富籤《とみ》の札《ふだ》一枚《いちめえ》だ。こいつあ明日《あした》になりゃあ勝負がつくのだ、どうせ無益《むだ》にゃあ極《きま》ってるが明日《あした》行って見ねえ中は楽みがある、これよりほかに当《あて》は無えんだ。オイ軽蔑《さげすむ》めえぜ、馬鹿なものを買ったのも詮《せん》じつめりゃあ、相場をするのと差《ちげえ》はねえのだ、当らねえには極《き》まらねえわサ。もうこうなっちゃあ智慧も何も、有ったところで役に立たねえ、有体《ありてい》に白状すりゃこんなもんだ。
 女房《にょうぼ》は眉《まゆ》を皺《しわ》めながら、
「それもそうだろうが汝《おまい》そうして当らない時はどうするつもりだエ。
「ハハハ、どうもならねえそう聞かれちゃあ。生きてる中はどうかこうか食わずにゃあいねえものだ、構うものかイ。だから裸で寝ていようというんだ。愛想《あいそ》が尽きたか、可愛想《かわいそう》な。厭気《いやき》がさしたらこの野郎に早く見切をつけやあナ、惜いもんだが別れてやらあ。汝《てめえ》が未来《このさき》に持っている果報の邪魔《じゃま》はおれはしねえ、辛《つら》いと汝が《てめえ》がおもうなら辛いつきあいはさせたくねえから。
とさすが快活《きさく》な男も少し鼻声になりながらなお酔《よい》に紛《まぎ》らして勢《いきおい》よく云う。味わえば情も薄からぬ言葉なり。女は物も云わず、修行《しゅぎょう》を積んだものか泣きもせず、ジロリと男を見たるばかり、怒った様子にもあらず、ただ真面目《まじめ》になりたるのみ。
 男なお語をつづけて、
「それともこう云っちゃあ少しウヌだが、貧《ひん》すりゃ鈍《どん》になったように自分でせえおもうこのおれを捨ててくれねえけりゃア、真《ほん》の事《こっ》たあ、明日の富に当らねえが最期《さいご》おらあ強盗になろうとももうこれからア栄華《えいが》をさせらあ。チイッと覚悟《かくご》をし直してこれからの世を渡《わた》って行きゃあ、二度と汝《てめえ》に銭金の苦労はさせねえ。まだこの世界《せけえ》は金銭《かね》が落ちてる、大層くさくどこへ行っても金金と吐《ぬか》しゃあがってピリついてるが、おれの眼で見りゃあ狗《いん》の屎《くそ》より金はたくさんにころがってらア。ただ狗《いん》の屎を拾う気になって手を出しゃあ攫取《つかみど》りだ、真《ほん》の事《こっ》たあ、馬鹿な世界だ。
「訳が解《わか》らないよ汝《おまえ》の云うことア、やっぱり強盗におなりだというのかエ。
「馬鹿ア云え、強盗になりゃアどうなるとおもう。
「赤い衣服《きもの》を着る結局《おち》が汝《おまえ》のトドの望なのかエ、お茶人過ぎるじゃあ無いか。
「赤い衣服《きもの》ア善人《ぜんにん》だから被《き》せられるんだ。そんなケチなのとアちと違うんだが、おれが強盗になりゃ汝《てめえ》はどうする。
「厭だよ、そんな下らないことを云っては、お隣家《となり》だって聞いてるヨ。
「隣家で聞いたって巡査《じゅんさ》が聞いたって、談話《はなし》だイ、構うもんか、オイどうする。
「おふざけで無いよ馬鹿馬鹿しい。
と今は一切受付けぬ語気。男はこの様子を見て四方《あたり》をきっと見廻《みま》わしながら、火鉢越に女の顔近く我顔を出して、極めて低き声ひそひそと、
「そんなら汝《てめえ》、おれが一昨日《おととい》盗賊《ぬすみ》をして来たんならどうするつもりだ。
と四隣《あたり》へ気を兼ねながら耳語《ささや》き告ぐ。さすがの女ギョッとして身を退《ひ》きしが、四隣を見まわしてさて男の面をジッと見、その様子をつくづく見る眼に涙《なみだ》をにじませて、恐る恐る顔を男の顔へ近々と付けて、いよいよ小声に、
「金《きん》さん汝《おまい》情無い、わたしにそんなことを聞かなくちゃアならない事をしておくれかエ。エ、エ、エ。
「ム、ム、マアいいやナ、してもしねえでも。ただ汝《てめえ》の返辞が聞きてえのだ。
「どうしても汝《おまい》聞きたいのかエ。
 女の唇《くちびる》は堅《かた》く結ばれ、その眼は重々しく静かに据《すわ》り、その姿勢《なり》はきっと正され、その面は深く沈める必死の勇気に満《みた》されたり。男は萎《しお》れきったる様子になりて、
「マア、聞きてえとおもってもらおう。おらあ汝《おめえ》の運は汝に任《まか》せてえ、おらが横車を云おう気は持たねえ、正直に隠《かく》さず云ってくれ。
 女はグイとまた仰飲《あお》って、冷然として云い放った。
「何が何でもわたしゃアいいよ、首になっても列《なら》ぼうわね。
 面は火のように、眼は耀《かがや》くように見えながら涙はぽろりと膝《ひざ》に落ちたり。男は臂《ひじ》を伸《のば》してその頸《くび》にかけ、我を忘れたるごとく抱《いだ》き締《し》めつ、
「ムム、ありがてえ、アッハハハハ、ナニ、冗談《じょうだん》だあナ。べらぼうめえ、貧乏したって誰《だれ》が馬鹿なことをしてなるものか。ああ明日の富籤《とみ》に当りてえナ、千両取れりゃあ気息《いき》がつけらあ。エエ酒が無《ね》えか、さあ今度アこれを売って来い。構うもんかイ、構うもんかイ、当らあ当らあきっと当らあ。
とヒラリと素裸《すはだか》になって、寝衣《ねまき》に着かえてしまって、

  やぼならこうした うきめはせまじ、

と無間《むげん》の鐘《かね》のめりやすを、どこで聞きかじってか中音に唸《うな》り出す。
                         (明治三十年十月)

底本:「ちくま日本文学全集 幸田露伴」筑摩書房
   1992(平成4)年3月20日第1刷発行
底本の親本:「現代日本文学全集4」筑摩書房
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
※底本の次の個所(頁-行)の「小書き片仮名ト」(JIS X 0213、1-6-81)は「ト」に置き換えました。コウト(27-5) 一ト眼(31-9)
※閉じ括弧は無しはすべて、底本通り。
入力:林 幸雄
校正:門田裕志
2002年12月5日作成
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幸田露伴

馬琴の小説とその当時の実社会 ——幸田露伴

 皆さん。浅学不才な私如き者が、皆さんから一場の講演をせよとの御求めを受けましたのは、実に私の光栄とするところでござります。しかし私は至って無器用な者でありまして、有益でもあり、かつ興味もあるというような、気のきいた事を提出致しまして、そして皆さんの思召《おぼしめし》に酬《むく》いる、というような巧なる事はうまく出来ませぬので、已むを得ず自分の方の圃《はたけ》のものをば、取り繕《つくろ》いもしませんで無造作に持出しまして、そして御免を蒙るという事に致すことにしました。ちょうど温かい心もちが無いのではありませんが、機転のきかない妻君が、たまたまの御客様に何か薦《すす》めたい献《たてまつ》りたいと思っても、工合よく思い当るものが無いので、仕方なしに裏庭の圃のジャガイモを塩ゆでにして、そして御菓子にして出しました、といったような格でありまして、まことに智恵の無い御はずかしい事でありますが、御勘弁を願います。
 さてその智恵の無い談話の題目は「曲亭馬琴の小説とその当時の実社会」というのでございます。題の付けようが少し拙《まず》いか知れませんが、私の申し上げてみようというのは、その当時、即ち馬琴が生存して居た時代との関係が、どんな工合であろうかという点にあるのでございます。ただしかように申しますと、非常に広い問題になりまして、どうも一席の御話には尽す事が出来ないのでござりまする。馬琴が用いましたその小説中の言語と、当時の実際の言語とも一つの重要な関係点でありますれば、馬琴の描きました小説中の風俗習慣や儀式作法と、当時の実際の風俗習慣や儀式作法との関係も、また重要の一カ条でございますし、馬琴の小説中にあらわれて居りまする宗教上の信仰や俗間の普通思想と、当時の実際の士民男女の信仰や思想との関係もまた重要の一条件でございまする。その他曰く何、曰く何と相接触して居る関係点は非常に沢山あることでござりまするから、それらをいちいち遺漏無く申上げる事は甚だ困難の事で、かつまた一席の御話には不適当な事でございますから、ただ今はただ馬琴の小説中に現われて居りまする人物と当時の実社会の人物という一条について、御話を試みようと存じます。小説と社会との重要な関係点は、幾干《いくつ》も幾干も有るのでございまするが、小説中の人物と実社会の人物との関係と申す事は、取り分け重要であり、かつまた切実な点であることは申すまでもない事だと存じまするのでございます。
 馬琴という人は、或る種類の人、ひと口に申しますれば通人《つうじん》がったり大人物がったりする人々には、余り賞されないのみならず、あるいはクサされる傾きさえある人でありますが、先ず日本の文学史上にはどうしても最高の地位を占めて居る人でございまして、十二分に尊敬すべき人だとは、十目十指の認めて居るところでございます。なるほど酸《す》いも甘いも咬《か》み分けたというような肌合の人には、馬琴の小説は野暮《やぼ》くさいでもありましょうし、また清い水も濁った水も併せて飲むというような大腹中《ふとっぱら》の人には、馬琴の小説はイヤに偏屈で、隅から隅まで尺度《ものさし》を当ててタチモノ庖丁《ぼうちょう》で裁ちきったようなのが面白くなくも見えましょうが、それはそれとして置いて、馬琴の大手腕大精力と、それから強烈な自己の道義心と混淆化合してしまった芸術上の意見、即ち勧善懲悪という事を主義にして数十年間を努力した芸術的良心の熱烈であった事は、どうしても人をして尊敬讃嘆の念を発せしめずには居らしめないだけの大文豪であります。かくの如き馬琴が書きましたるところの著述は、些細なものまでを勘定すれば百部二百部ではきかぬのでありますが、その中で髄脳であり延髄であり脊髄であるところの著述は、皆当時の実社会に対して直接な関係は有して居りませぬので、皆異なった時代――足利時代とか鎌倉時代とか大内氏頃とか、最も近くても数十年前の時代を舞台にして描いて居るのであります。ですから馬琴の小説中の人物は、無論直接には当時の実社会の人物とは関係が無いのでございます。もっとも馬琴も至って年の若かった頃は、直接に実社会の人物を描いて居りまして、いわゆる「洒落本《しゃれぼん》」という、小説にもならぬ位の程度のものを作って居ります。『猫じやらし』という一巻ものなどは即ちそれで、読んでみますると、本所《ほんじょ》辺の賤しい笑を売る婦人の上を描こうと試みて居るのでございます。しかしそれらは素《もと》より馬琴のためにこれを語るさえ余り気の毒な位の、至って些細な、下らぬものでありまして、名誉心と道義心との非常に強かった馬琴は、晩年に至りまして、これらの下らぬ類の著作を自分が試みたといわれるのを遺憾に思って、自らその書をもとめては焼き棄てたといい伝えられて居る程でございます。馬琴と相前後して居る作者には、山東京伝《さんとうきょうでん》であれ、式亭三馬《しきていさんば》であれ、十返舎一九《じっぺんしゃいっく》であれ、為永春水《ためながしゅんすい》であれ、直接に当時の実社会を描き写して居るものが沢山ありますが、馬琴においては、三勝《さんかつ》・半七《はんしち》を描きましてもお染《そめ》・久松《ひさまつ》を描きましても、それをかなり隔たった時にして書きまして、すべてに、これは過ぎた昔の事であるという過去と名のついた薄い白いレースか、薄青い紗のきれのようなものを被《か》けて置いて、それを通して読者に種々なる相を示して居るのでございます。御覧なさいまし、『八犬伝』は結城《ゆうき》合戦に筆を起して居ますから足利氏の中葉からです、『弓張月』は保元からですから源平時代、『朝夷巡島記《あさいなしまめぐりのき》』は鎌倉時代、『美少年録』は戦国時代です。『夢想兵衛胡蝶物語《むそうびょうえこちょうものがたり》』などは、その主人公こそは当時の人ですが、これはまたその描いてある世界がすべて非現実世界ですから、やはり直接には当時の実社会と交渉がきれて居りますのです。
 それで馬琴のその「過去と名のついたレース」を通して読者に種々の事相を示した小説を読んでみますと、その小説の中の柱たり棟《むなぎ》たる人物は、あるいは「親孝行」という美徳を人に擬《なぞら》えて現わしたようなものであったり、あるいは「忠義」という事を人にして現わしたようなものであったり、あるいは強くて情深くて侠気《おとこぎ》があって、美男で智恵があって、学問があって、先見の明があって、そして神明の加護があって、危険の時にはきっと助かるというようなものであったり、美女で智慮が深くて、武芸が出来て、名家の系統で、心術が端正で、というようなものであったりするので、当時の実社会のどこをさがしてもなかなか居りませぬ人物です。当時どころではありません。明治の聖代の今日だって、犬塚信乃《いぬつかしの》だの犬飼現八《いぬかいげんはち》だの、八郎御曹司為朝《はちろうおんぞうしためとも》だの朝比奈三郎《あさいなさぶろう》だの、白縫姫《しらぬいひめ》だの楠《くすのき》こまひめだののような人は、どうも見当りません。まして火の中へ隠れてしまう魔法を知って居る犬山道節《いぬやまどうせつ》だの、他人の愛情や勇力を受けついでくれる寧王女《ねいおうにょ》のようなそんな人は、どう致しまして有るわけのものではありません。それでは馬琴が描いた小説中の人物は当時の実社会とはまるで交渉が無いかというと、前々から申しました通り、直接には殆ど関係が無いのでありますが、決して実社会と没交渉無関係ではありませんように考えられます。
 それならどういう風に関係が有ったろうかといいますと、便宜上その答案を三つに分けて申しますが、馬琴の小説中の人物は大別すれば三種類あるのでして、第一には前に申しました一篇の主人公や副主人公やその他にせよ、とにかくに篇中の柱たり棟たる役目を背負って居る「善良の人物」であります。第二には、梟悪《きょうあく》・奸悪等の「邪悪の人物」であります。『弓張月』で申しますれば曚雲《もううん》だの利勇《りゆう》だの、『八犬伝』で申しますれば蟇田素藤《ひきたもとふじ》だの山下|定包《さだかね》だの馬加大記《まくわりだいき》だのであります。第三には「端役《はやく》の人物」で、大善でもない、大悪でもない、いわゆる平凡の人物でありますが、これらの三種の人物中、第一類の善良なる人物は、疑いも無く作者たる馬琴および当時の実社会の善良なる人物の胸中の人物であります。もとより人の胸中の人物でありますから、その通りの人物は実世界において居なかったには相違ありません。しかしながら人の胸中の人物というものは、胸中の人物として別に自《おのずか》ら成り立って居るものでありまして、胸中の人物であるから世に全く無いものであるという訳にはまいりません。仏教徒は仏教徒の胸中の人物がございます、基督《キリスト》教徒は基督教徒の胸中の人物がございます、インデヤンにはインデヤンの胸中の人物がございます、鎌倉武士は鎌倉武士で胸中の人物があります。いわゆる「人の胸中の人物」は、「時代」により「処」によっていろいろに異なって居ります。そのいろいろに異なって居る所以《ゆえん》は、即ち「時代」により「処」によりて「人の胸中の人物」が生れたり活きたり死んだりする所以で、人の胸中の人物もあたかも実の人であるかの如くであるのであります。馬琴時代の「人の胸中の人物」は、紫式部時代の「人の胸中の人物」とは全然別なのでありまして、そして即ち馬琴時代にはその当時の人々の胸中に活きて居ったのであります。それを捉えて馬琴は描写したのであります。即ち馬琴の書いた第一種類の人物は当時の実世界には居らぬこと勿論であるが、当時の実社会の人々の胸中に居たところの人物なのであって、他の時代や他の土地の人々の胸中の人物を描いたのでは無い。ですから決して当時の実社会と没交渉や無関係な訳では無くて、そして、それであったればこそ、当時の実社会の人間を沢山に吸引して読者としたのであるのです。
 馬琴時代を歴史の眼を仮《か》りて観察しますれば、儒教即ち孔孟の教えは社会に大勢力を持って居りましたのです。で、八犬士でも為朝でも朝比奈でも皆儒教の色を帯びて居ります。仏教の三世因果《さんぜいんが》の教えも社会に深く浸潤して居りました。で、八犬士でも為朝でも朝比奈でも因縁因果の法を信じて居ります。神仙妖魅霊異の事も半信半疑ながらにむしろ信じられて居りました。で、八犬士でも為朝でもそれらを否定せぬ様子を現わして居ります。武術や膂力《りょりょく》の尊崇された時代であります。で、八犬士や為朝は無論それら武徳の権化《ごんげ》のようになって居ります。これらの点をなお多く精密に数えて、そして綜合して一考しまする時は、なるほど馬琴の書いたようなヒーローやヒロインは当時の実社会には居らぬに違い無いが、しかし馬琴の書いたヒーローやヒロインは当時の実社会の人々の胸中に存在して居たもので、決して無茶苦茶に馬琴が捏造したものでもよそから借りて来たものでも無いという事は分明《ふんみょう》であります。そして馬琴の小説はその点でも、当時の実社会と相離れ得ぬ強い関係交渉を持って居ると申す事が出来ると存じます。
 翻って第三の平凡人物即ち「端役の人物」を観ますと、ここに面白い現象が認められます。例を申しましょうなら、端役の人物の事ゆえ『八犬伝』を御覧の方でも御忘れでしょうが、小文吾《こぶんご》が牛の闘を見に行きました時の伴《とも》をしました磯九郎《いそくろう》という男だの、角太郎が妻の雛衣《ひなきぬ》の投身《みなげ》せんとしたのを助けたる氷六《ひょうろく》だの、棄児《すてご》をした現八の父の糠助《ぬかすけ》だの、浜路《はまじ》の縁談を取持った軍木五倍二《ぬるでごばいじ》だの、押かけ聟の簸上宮六《ひかみきゅうろく》だの、浜路の父|蟇六《ひきろく》だの母の亀篠《かめささ》だの、数え立てますれば『八犬伝』一部中にもどの位居るか知れませぬが、これらの人物は他の人物と共にやはり例の過去というレースのかなたに居る人物であるにかかわらず、即ち馬琴の生存して居る当時の実社会とは遥かに隔たって居る時代の人物であるにかかわらず、その実はその当時の実社会の人物なのであります。言い換えますれば馬琴が作中のこれらの第三類の人物は大抵その当時に存在して居るところの人物なのであります。たとえば磯九郎という男は、勇者の随伴《とも》をして牛の闘を見にまいりますと、ふと恐ろしい強い牛が暴れ出しまして、人々がこれを取り押えることが出来ぬという場合、牛に向って来られたので是非なく勇者たる小文吾がその牛を取り挫《ひし》いで抑えつけます。そこで人々は恩を謝し徳をたたえて小文吾を饗応します。すると磯九郎は自分が大手柄でも仕《し》たように威張り散らして、頭を振り立てて種々の事を饒舌《しゃべ》り、終に酒に酔って管《くだ》を巻き大気焔を吐き、挙句には小文吾が辞退して取らぬ謝礼の十|貫文《かんもん》を独り合点で受け取って、いささか膂力のあるのを自慢に酔に乗じてその重いのを担ぎ出し、月夜に酔が醒め身が疲れて終に難にあうというのですが、いかにも下らない人間の下らなさ加減がさも有りそうに書けております。これは馬琴が人々の胸中から取り出し来った人物ではありません。けだし当時の実社会に生存して居たものを取り来ってその材料に使ったのであります。というものは、この磯九郎のような人間、――勿論すっかり同じであるというのではありませんが、殆どこの磯九郎のような人間は、常に当時の実社会と密接せんことを望みつつ著述に従事したところの式亭三馬の、その写実的の筆に酔客の馬鹿げた一痴態として上《のぼ》って居るのを見ても分ることで、そしてまた今日といえども実際私どもの目撃して居る人物中に、磯九郎如きものを見出すことの難《かた》くないことに徴《ちょう》しても明らかであります。ただ馬琴はかような人間を端役として使い、三馬やなぞは端役とせずに使うの差があるまでです。馬琴の小説中の端役の人間は、実に馬琴の同時代もしくは前後の、他の作者の作中には重要の位置を占める人物となって現われて居るのを見出すに難くありません。も一歩進めていって見れば、京伝や三馬や一九や春水は、常に馬琴が端役として冷遇した人物、即ちわずかに刷毛《はけ》ついでに書きなぐったような人物を叮嚀に取扱って、御客様にも本尊様にもして、そして一篇なり一部なりを成して居る傾きがあります。磯九郎ばかりではありません、例に挙げたから申しますが、身の苦しさに棄児をした糠助なんぞでも、他の作者ならばそれだけを主題にしても一部を為《な》すのであります。少しく小説の数をかけて読んだお方が、ちょっと瞑目して回想なさったらば、馬琴前後および近時の写実的傾向を帯びた小説等の主人公や副主人公や、事件の首脳なんどが、いかに多く馬琴の著《あら》わした小説中の枝葉の部分に見出さるるかという点には必ず御心づきになる事であろうと信じます。
『八犬伝』の中の左母二郎《さもじろう》などという男は、凡庸人物というよりもやや奸悪の方の人物でありますが、まさに馬琴の同時代に沢山生存して居たところの人物でありまして、それらの一種の色男がり、器用がり、人の機嫌を取ることが上手で、そして腹の中は不親切で、正直質朴な人を侮蔑して、自分は変な一種の高慢を有して居る人物を、馬琴がその照魔鏡に照して写し出したのであります。何故と申しますまでもありません、馬琴の前後の小説、――いわゆる当時の実社会をそのまま描写することを主とした、小説ともいえぬほど低微なものでありますが、それらの小説は描写が実社会の急所にあたってること、即ちウガチということを主として居るものであります。そのウガチを主な目的として居るところの著作数種を瞥見《べっけん》しますれば、左母二郎のような人間がしばしば描かれて居るのを発見するに難くないのでありますから、左母二郎のような型の人物の当時に少なくなかった事はおのずから分明であります。ただ馬琴は左母二郎の軽薄|※[#「にんべん+鐶のつくり」、356-6]巧《けんこう》で宜しくない者であることを示して居るに反して、他の片々たる作者輩は左母二郎を、意気で野暮でなくって、物がわかった、芸のある、婦人に愛さるべき資格を有して居る、宜しいものとして描いて居るのです。彼の芝居で演じます『籠《かご》つるべ』の主人公の佐野治郎左衛門《さのじろうざえもん》なぞという人物は、ちょうどこの左母二郎の正反対の人物に描いてありまして、正直な、無意気な、生野暮な男なのであります。しかるにその脚本にはその田舎くさい、正直なのを同情するよりは、嘲笑する気味がありありと現われて居ます。時代の風潮は左母二郎のようなのを愛して居るのであります。また、谷峨《こくが》という作者の書いたものや、振鷺亭《しんろてい》などという人の書いたものを見ますれば、左母二郎くさい、イヤな男が、むしろ讃称され敬愛される的となって篇中に現われて居るのを発見するのでありまして、谷峨の描きました五郎などという男を、引き伸ばしの写真機械にかけますれば、左母二郎になってしまわずには居ないような気が致します。
 さて第二類の「悪の方の人物」はと申しますと、これはどうも実際社会に現存して居る人物の悪者を極端まで誇張して書いたような形跡があります。まさかに馬琴の書きましたほどの悪人が、その当時に存して居ったとは思えませぬが、さればとてそれは全く馬琴の空想ばかりで捏造したものではありません。ここに至りますと、半分は実社会の人物を種として、半分はそれに馬琴の該博な智識――おもに歴史から得来《えきた》った智識の衣を着せて、極端に誇張し、引き伸ばして、そして作り出したように考えられます。つまり悪の人物は、前に申しました第一第三の種類の人物の中間的に作り出されるかと思われますのです。ですからこれまた無論実社会と無関係没交渉では無いのであります。
 これはひとり馬琴に限って論ずる訳ではありませんが、すべて仮作物語の作者と実社会との関係を観察しますと、極端に異なった類例が二種あるのであります。一つはその仮作物語と実社会と並行線なのであります。他の一つはその仮作物語と実社会と直角的に交叉線《こうさせん》をなして居る、――物語そのものは垂直線をなして居るのであります。並行線をなして居るのは、作者の思想や感情や趣味が当時の実社会と同じであるところより生じ、交叉線をなすのは作者の思想感情趣味が当時の実社会と異なるところより生ずるのであります。京伝だの三馬だの一九だのという人々は即ち並行線的作者で、その思想も感情も趣味も当時の衆俗と殆ど同じなのであり、したがってその著作は実社会をそっくり写したような訳合《わけあい》になるのです。馬琴に至りますと、杉や檜《ひのき》が天をむいて立つように、地平線とは直角をなして、即ち衆俗を抽《ぬき》んでて挺然《ていぜん》として自《みずか》ら立って居りますので、その著述は実社会と決して没交渉でも無関係でもありませんが、しかし並行はして居りませぬのです。時代の風潮は遊廓で優待されるのを無上の栄誉と心得て居る、そこで京伝らもやはり同じ感情を有して居る、そこで京伝らの著述を見れば天明《てんめい》前後の社会の堕落さ加減は明らかに写って居ますが、時代はなお徳川氏を謳歌して居るのであります。しかし馬琴は心中に将軍政治を悦んでは居りませんでした。誰が馬琴の『侠客伝』などを当時の実社会の反映だとはいい得ましょう? 馬琴以外の作者は実に時代と並行線を描いて居ましたが、馬琴は実に時代と直角的に交叉して居たのであります。時代の流れと共に流れ漂って居た人で無かったのであります。自分は自分の感情思想趣味があって、そしてその自分の感情思想趣味を以て実社会を批判して書いたのであるという事を認めなければならんのであります。
 下手《へた》の長談義で余り長くなりますから、これまでに致して置きます。                      (明治四十一年四月)

底本:「南総里見八犬伝 (十)」岩波文庫、岩波書店
   1990(平成2)年7月16日第1刷発行
底本の親本:「露伴全集 第十五巻」岩波書店
   1952(昭和27)年
入力:しだひろし
校正:オーシャンズ3
2007年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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幸田露伴

二日物語—– 幸田露伴

    此一日

      其一

 観見世間是滅法《くわんけんせけんぜめつぽふ》、欲求無尽涅槃処《よくぐむじんねはんしよ》、怨親已作平等心《をんしんいさびやうどうしん》、世間不行慾等事《せけんふぎやうよくとうじ》、随依山林及樹下《ずゐえさんりんきふじゆげ》、或復塚間露地居《わくぶくちようかんろちきよ》、捨於一切諸有為《しやおいつさいしようゐ》、諦観真如乞食活《たいくわんしんによこつじきくわつ》、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。実《げ》に往時《いにしへ》はおろかなりけり。つく/″\静かに思惟《しゆゐ》すれば、我|憲清《のりきよ》と呼ばれし頃は、力を文武の道に労《つか》らし命を寵辱の岐《ちまた》に懸け、密《ひそ》かに自ら我をば負《たの》み、老病死苦の免《ゆる》さぬ身をもて貪瞋痴毒《とんじんちどく》の業《ごふ》をつくり、私邸に起臥しては朝暮|衣食《いゝし》の獄に繋がれ、禁庭に出入しては年月名利の坑《あな》に墜ち、小川の水の流るゝ如くに妄想の漣波《さゞなみ》絶ゆる間《ひま》なく、枯野の萱の燃ゆらむやうに煩悩の火※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《ほのほ》時あつて閃めき、意馬は常に六塵の境に馳せて心猿|動《やゝ》もすれば十悪の枝に移らんとし、危くもまた浅ましく、昨日見し人今日は亡き世を夢と見る/\果敢なくも猶驚かで、鶯の霞にむせぶ明ぼのの声は大乗妙典《だいじようめうてん》の御名を呼べども、羝羊《ていやう》の暗昧《あんまい》無智の耳うとくて無明の眠りを破りもせず、吹きわたる嵐の音は松にありて、空をさまよふ浮雲に磨かれ出づる秋の夜の月の光をあはれ宿す、荒野の裾のむら薄の露の白珠あへなくも、末葉元葉を分けて行く風に砕けてはら/\と散るは真《まこと》に即無常、金口説偈《きんくせげ》の姿なれども、※[#「目+(黒の旧字/土)」、117-上-19]※[#「塞」の「土」に代えて「目」、117-上-19]《ぼくそく》として視る無き瞎驢《くわつろ》の何を悟らむ由もなく、いたづらに御祓《みそぎ》済《すま》してとり流す幣《ぬさ》もろともに夏を送り、窓おとづるゝ初時雨に冬を迎へて世を経しが、物に定まれる性なし、人いづくんぞ常に悪《あし》からむ、縁に遇へば則ち庸愚《ようぐ》も大道を庶幾《しょき》し、教に順ずるときんば凡夫も賢聖に斉しからむことを思ふと、高野大師の宣ひしも嬉しや。一歳《ひととせ》法勝寺御幸の節、郎等一人六条の判官《はうぐわん》が手のものに搦められしを、厭離《おんり》の牙種《げしゆ》、欣求《ごんぐ》の胞葉《はうえふ》として、大治二年の十月十一日拙き和歌の御感に預り、忝なくも勅禄には朝日丸の御佩刀《おんはかせ》をたまはり、女院の御方よりは十五重りたる紅の御衣を賜はり、身に余りある面目を施せしも、畏くはあれど心それらに留まらず、ひたすら世路を出でゝ菩提に入り敷華成果《ふげじやうくわ》の暁を望まむと、遂に其月十五夜の、玉兎《つき》も仏国西方に傾く頃を南無仏南無仏、恩愛永離《おんないえいり》の時こそ来つれと、髻《もとゞり》斬つて持仏堂《ぢぶつ》に投げこみ、露憎からぬ妻をも捨て、いとをしみたる幼きものをも歯を切《くひしば》つて振り捨てつ、弦を離れし箭《や》の如く嵯峨《さが》の奥へと走りつき、ありしに代へて心安き一鉢三衣《いつぱつさんえ》の身となりし以来《このかた》、花を採り水を掬《むす》むでは聊か大恩教主の御前に一念の至誠を供《くう》じ、案を払ひ香を拈《ひね》つては謹んで無量義経の其中に両眼の熱光を注ぎ、兀坐寂寞《こつざじやくまく》たる或夜は、灯火《ともしび》のかゝげ力も無くなりて熄《と》まる光りを待つ我身と観じ、徐歩《じよほ》逍遥《せうえう》せる或時は、蜘蛛《さゝがに》の糸につらぬく露の珠を懸けて飾れる人の世と悟りて、ます/\勤行怠らず、三懺の涙に六度の船を浮めて、五力の帆を揚げ二障の波を凌がむとし、山林に身を苦しめ雲水に魂をあくがれさせては、墨染の麻の袂に春霞よし野の山の花の香を留め、雲湧き出づる那智の高嶺の滝の飛沫《しぶき》に網代小笠《あじろをがさ》の塵垢《ぢんく》を濯《そゝ》ぎ、住吉の松が根洗ふ浪の音、難波江の蘆の枯葉をわたる風をも皆|御法《みのり》説く声ぞと聞き、浮世をよそに振りすてゝ越えし鈴鹿や神路山、かたじけなさに涙こぼれつ、行へも知れず消え失する富士の煙《けぶ》りに思ひを擬《よそ》へ、鴫立沢《しぎたつさは》の夕暮に※[#「筑」の「凡」に代えて「卩」、第3水準1-89-60]《つゑ》を停《とゞ》めて一人歎き、一人さまよふ武蔵野に千草の露を踏みしだき、果白河の関越えて幾干《いくそ》の山河隔たりし都の方をしのぶの里、おもはくの橋わたり過ぎ、嵐烈しく雪散る日辿り着きたる平泉、汀《みぎは》凍《こほ》れる衣川を衣手寒く眺めやり、出羽にいでゝ多喜の山に薄紅《うすくれなゐ》の花を愛《め》で、象潟《きさかた》の雨に打たれ木曾の空翠《くうすゐ》に咽んで、漸く花洛《みやこ》に帰り来たれば、是や見し往時《むかし》住みにし跡ならむ蓬が露に月の隠るゝ有為転変の有様は、色即空《しきそくくう》の道理《ことわり》を示し、亡きあとにおもかげをのみ遺し置きて我が朋友《ともどち》はいづち行きけむ無常迅速の為体《ていたらく》は、水漂草の譬喩《たとへ》に異ならず、いよ/\心を励まして、遼遠《はるか》なる巌の間《はざま》に独り居て人め思はず物おもはゞやと、数旬《しばらく》北山の庵に行ひすませし後、飄然と身を起し、加茂明神に御暇《おいとま》告《まを》して仁安三年秋の初め、塩屋の薄煙りは松を縫ふて緩くたなびき、小舟の白帆は霧にかくれて静に去るおもしろの須磨明石を経て、行く/\歌枕さぐり見つゝ図らずも此所|讚岐《さぬき》の国|真尾林《まをばやし》には来りしが、此所は大日流布《だいにちるふ》の大師の生れさせ給ひたる地にも近く、何と無く心とゞまりて如斯《かく》草庵を引きむすび、称名《しようみやう》の声の裏《うち》には散乱の意を摂し、禅那《ぜんな》の行の暇《ひま》には吟咏のおもひに耽り悠※[#二の字点、1-2-22]自ら楽むに、有がたや三世諸仏のおぼしめしにも叶ひしか、凡念日※[#二の字点、1-2-22]に薄ぎて中懐淡きこと水を湛へたるに同じく、罪障刻※[#二の字点、1-2-22]に銷《せう》して両肩《りやうけん》軽きこと風を担ふが如くになりしを覚ゆ。おもへば往事は皆非なり、今はた更に何をか求めん。奢を恣《ほしいま》まにせば熊掌《ゆうしやう》の炙りものも食《くら》ふに美味《よきあぢ》ならじ、足るに任すれば鳥足《てうそく》の繕したるも纏ふに佳衣《よききぬ》なり、ましてや蘿《つた》のからめる窓をも捨てゞ月我を吊《とむら》ひ、松たてる軒に来つては風我に戯る、ゆかしき方もある住居なり、南無仏南無仏、あはれよき庵、あはれよき松。

 久に経てわが後の世をとへよ松あとしのぶべき人も無き身ぞ

       其二

 真清水の世に出づべしともおもはねば見る眼寒げにすむ我を、慰め顔の一つ松よ。汝は三冬《さんとう》にも其色を変へねば我も一条《ひとすぢ》に此心を移さず。なむぢ嵐に揺いでは翠光を机上の黄巻《くわうくわん》に飛ばせば、我また風に托して香烟を木末《こずゑ》の幽花にたなびかす。そも/\我と汝とは往時《むかし》如何なる契りありけむ、かく相互に睦ぶこと是も他生の縁なるべし。草木国土|悉皆成仏《しつかいじやうぶつ》と聞くときは猶行末も頼みあるに、我は汝を友とせん。菩提樹神のむかしは知らねど、腕を組み言葉を交へずとも、松心あらば汝も我を友と見よ。僧青松の蔭に睡れば松老僧の頂を摩す、僧と松とは相応《ふさは》しゝ。我は汝を捨つるなからん。

 此所をまた我すみ憂くてうかれなば松はひとりにならんとすらん

 あら、心も無く軒端《のきば》の松を寂《さび》しき庵の友として眺めしほどに、憶ひぞ出でし松山の、浪の景色はさもあらばあれ、世の潮泡《しほなわ》の跡方なく成りまし玉ひし新院の御事胸に浮び来りて、あらぬさまにならせられ仁和寺《にんなじ》の北の院におはしましける時、ひそかに参りて畏くも御髪《みぐし》落させられたる御姿を、なく/\おぼろげながらに拝みたてまつりし其夜の月のいと明く、影もかはらで空に澄みたる情無かりし風情さへ、今|眼前《まのあたり》に見ゆるがごとし。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。実《げ》に人界《にんがい》不定《ふぢやう》のならひ、是非も無き御事とは申せ、想ひ奉《まつ》るもいとかしこし。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏阿弥陀仏。おもへば不思議や、長寛二年の秋八月廿四日は果敢なくも志渡《しど》にて崩《かく》れさせ玉ひし日と承はれば、月こそ異《かは》れ明日は恰も其日なり。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。いで御陵《みさゝき》のありと聞く白峯といふに明日は着き、御墓《おんしるし》の草をもはらひ、心の及ばむほどの御手向《おんたむ》けをもたてまつりて、いさゝか後世御安楽の御祈りをもつかまつるべきか。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

       其三

 頃は十月の末、ところは荒凉たる境なれば、見渡す限りの景色いともの淋しく、冬枯れ野辺を吹きすさむ風|蕭※[#二の字点、1-2-22]《せう/\》と衣裾《もすそ》にあたり、落葉は辿る径を埋めて踏む足ごとにかさこそと、小語《さゝや》くごとき声を発する中を※[#「足へん+禹」、第3水準1-92-38]※[#二の字点、1-2-22]然《くゝぜん》として歩む西行。衆聖中尊《しゆじやうちゆうそん》、世間之父《せけんしふ》、一切衆生《いつさいしゆじやう》、皆是吾子《かいぜごし》、深着世楽《しんぢやくせらく》、無有慧心《むうゑしん》、などと譬喩品《ひゆぼん》の偈《げ》を口の中にふつ/\と唱へ/\、従ふ影を友として漸やく山にさしかゝり、次第/\に分け登れば、力なき日はいつしか光り薄れて時雨空の雲の往来《ゆきき》定めなく、後山《こうざん》晴るゝ歟《か》と見れば前山忽まちに曇り、嵐に駆《か》られ霧に遮《さ》へられて、九折《つゞら》なる岨《そば》を伝ひ、過ぎ来し方さへ失ふ頃、前途《ゆくて》の路もおぼつかなきまで黒みわたれる森に入るに、樅《もみ》柏《かしは》の大樹《おほき》は枝を交はし葉を重ねて、杖持てる我が手首《たなくび》をも青むるばかり茂り合ひ、梢に懸れる松蘿《さるをがせ》は※[#「髟/參」、第4水準2-93-26]※[#二の字点、1-2-22]《さん/\》として静かに垂れ、雨降るとしは無けれども空翠凝つて葉末より滴る露の冷やかに、衣の袖も立ち迷へる水気に湿りて濡れたるごとし。音にきゝたる児《ちご》が岳《たけ》とは今白雲に蝕まれ居る峨※[#二の字点、1-2-22]《がゞ》と聳えし彼《あの》峯ならめ、さては此あたりにこそ御墓《みしるし》はあるべけれと、ひそかに心を配る折しも、見る/\千仭《せんじん》の谷底より霧漠※[#二の字点、1-2-22]と湧き上り、風に乱れて渦巻き立ち、崩るゝ雲と相応じて、忽ち大地に白布を引きはへたる如く立籠むれば、呼吸するさへに心ぐるしく、四方《あたり》を視るに霧の隔てゝ天地《あめつち》はたゞ白きのみ、我が足すらも定かに見えず。何と思ひも分け得ざる間に、雲霧|自然《おのづ》と消え行けば、岩角の苔、樹の姿、ありしに変らで眼《まなこ》に遮るものもなく、たゞ冬の日の暮れやすく彼方の峯に既《はや》没《い》りて、梟の羽※[#「睹のつくり/栩のつくり」、第4水準2-84-93]《はばたき》し初め、空やゝ暗くなりしばかりなり。木立わづかに間《ひま》ある方の明るさをたよりて、御陵《みさゝぎ》尋ねまゐらする心のせわしく、荊棘《いばら》を厭はでかつ進むに、そも/\これをば、清凉紫宸《せいりやうししん》の玉台に四海の君とかしづかれおはしませし我国の帝の御墓ぞとは、かりそめにも申得たてまつらるべきや、わづかに土を盛り上げたるが上に麁末《そまつ》なる石を三重に畳みなしたるあり。それさへ狐兎《こと》の踰《こ》ゆるに任せ草莱《さうらい》の埋むるに任せたる事、勿体なしとも悲しとも、申すも畏し憚りありと、心も忽ち掻き暗まされて、夢とも現《うつゝ》とも此処を何処とも今を何時とも分きがたくなり、御墓の前に平伏《ひれふ》して円顱《ゑんろ》を地に埋め、声も得立てず咽《むせ》び入りぬ。

       其四

 実《げ》にも頼まれぬ世の果敢《はか》なさ、時運は禁腋《きんえき》をも犯し宿業は玉体にも添ひたてまつること、まことに免れぬ道理《ことわり》とは申せ、九重の雲深く金殿玉楼の中にかしづかれおはしませし御身の、一坏《いつぱい》の土あさましく頑石叢棘《ぐわんせきさうきよく》の下《もと》に神隠れさせ玉ひて、飛鳥《ひてう》音《ね》を遺し麋鹿《びろく》痕《あと》を印する他には誰一人問ひまゐらするものもなき、かゝる辺土の山間《やまあひ》に物さびしく眠らせらるゝ御いたはしさ。ありし往時《そのかみ》、玉の御座《みくら》に大政《おほまつりごと》おごそかにきこしめさせ玉ひし頃は、三公九|卿《けい》首《かうべ》を俛《た》れ百官諸司袂をつらねて恐れかしこみ、弓箭《きうぜん》の武夫《つはもの》伎能の士、あらそつて君がため心を傾ぶけ操を励まし、幸に慈愍《じみん》の御まなじりにもかゝり聊か勧賞の御言葉にもあづからむには、火をも踏み水にも没《い》り、生命を塵芥《ぢんかい》よりも軽く捨てむと競ひあへりしも、今かくなり玉ひては皆対岸の人|異舟《いしう》の客《かく》となりて、半巻の経を誦し一句の偈《げ》をすゝめたてまつる者だになし。世情は常に眼前に着《ぢやく》して走り天理は多く背後に見《あら》はれ来るものなれば、千鐘の禄も仙化《せんげ》の後には匹夫の情をだに致さする能はず、狗馬《くば》たちまちに恩を忘るゝとも固《もと》より憎むに足らず、三春の花も凋落の夕には芬芳《ふんばう》の香り早く失せて、※[#「虫+夾」、第3水準1-91-54]蝶《けふてふ》漸く情疎《じやうそ》なるもまた恨むに詮なし。恐れ多けれども一天万乗の君なりとて欲界の網羅を脱し得玉はねば、如是《かく》なり玉ふこと如是なり玉ふべき筈あり、憎まむ世も無く恨まむ天もあるべからず。おもんみれば、赫※[#二の字点、1-2-22]たる大日輪は螻蟻《ろうぎ》の穴にも光を惜まず、美女の面《おもて》にも熱を減ぜず、茫※[#二の字点、1-2-22]たる大劫運《だいごふうん》は茅茨《ばうし》の屋よりも笑声を奪はず、天子眼中にも紅涙を餽《おく》る、尽大地《じんだいち》の苦、尽大地の楽、没際涯《ぼつさいがい》の劫風《ごふふう》滾※[#二の字点、1-2-22]《こん/\》たり、何とりいでゝ歎き喞たむ。さはさりながら現土には無上の尊き御身をもて、よしなき事をおぼしたゝれし一念の御迷ひより、幾干《いくそ》の罪業《つみ》を作り玉ひし上、浪煙る海原越えて浜千鳥あとは都へ通へども、身は松山に音をのみぞなく/\孤灯に夜雨を聴き寒衾《かんきん》旧時を夢みつゝ、遂に空くなり玉ひし御事、あまりと申せば御傷《おんいたは》しく、後の世のほども推し奉るにいと恐ろしゝ。いざや終夜《よもすがら》供養したてまつらむと、御墓《みしるし》より少し引きさがりたるところの平《ひら》めなる石の上に端然《たんねん》と坐をしめて、いと静かにぞ誦しいだす。妙法蓮華経提婆達多品《めうほふれんげきやうだいばだつたぼん》第十二。爾時仏告諸菩薩及天人四衆《にじぶつかうしよぼさつきふてんにんししゆ》、吾於過去無量劫中《ごおくわこむりやうごふちゆう》、求法華経無有懈倦《ぐほけきやうむうげけん》、於多劫中常作国王《おたごふちゆうじやうさこくわう》、発願求於無上菩提《ほつぐわんぐおむじやうぼだい》、心不退転《しんふたいてん》、為欲満足六波羅密《ゐよくまんぞくろくはらみつ》、勤行布施《ごんぎやうふせ》、心無悋惜《しんむりんじやく》、象馬七珍国城妻子奴婢僕従《ざうめしつちんこくじやうさいしぬびぼくじゆう》、頭目身肉手足不惜躯命《づもくしんにくしゆそくふじやくくみやう》、……
 日は全く没《い》りしほどに山深き夜のさま常ならず、天かくすまで茂れる森の間に微なる風の渡ればや、樹端《こずゑ》の小枝《さえだ》音もせず動きて、黒きが中に見え隠れする星の折ふしきら/\と鋭き光りを落すのみにて、月はいまだ出でず。ふけ行くまゝに霜冴えて石床《せきしやう》いよ/\冷やかに、万籟《ばんらい》死して落葉さへ動かねば、自然《おのづ》と神《しん》清《す》み魂魄《たましひ》も氷るが如き心地して何とはなしに物凄まじく、尚御経を細※[#二の字点、1-2-22]と誦しつゞくるに、声はあやなき闇に迷ひて消ゆるが如く存《あ》るが如く、空にかくれてまたふたゝび空より幽に出で来るごときを、吾が声とも他《ひと》の声ともおぼつかなく聴きつゝ、濁劫悪世中《ぢよくごふあくせちゆう》、多有諸恐怖《たうしよきようふ》、悪鬼入其身《あくきにふごしん》、罵詈毀辱我《ばりきじよくが》、と今しも勧持品《くわんぢぼん》の偈《げ》を称ふる時、夢にもあらず我が声の響きにもあらで、正しく円位※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]と呼ぶ声あり。

       其五

 西行かすかに眼《まなこ》を転じて、声する方の闇を覗《うかゞ》へば、ぬば玉の黒きが中を朽木のやうなる光り有てる霧とも雲とも分かざるものの仄白く立ちまよへる上に、其|様《さま》異《こと》なる人の丈いと高く痩せ衰へて凄まじく骨立ちたるが、此方に向ひて蕭然《せうぜん》と佇《たゝず》めり。素より生死の際に工夫修行をつみたる僧なれば恐ろしとも見ず、円位と呼ばれしは抑《そも》何人にておはすや、と尋ぬれば、嬉しくも詣で来つるものよ、我を誰とは尋ねずもあれ、末葉吹く嵐の風のはげしさに園生の竹の露こぼれける露の身ぞ、よく訪《と》ひつるよ、と聞え玉ふ。あら情無や勿体なしや、さては院の御霊《みたま》の猶此|土《ど》をば捨てさせ玉はで、妄執の闇に漂泊《さすら》ひあくがれ、こゝにあらはれ玉ひし歟、あら悲しや、と地に伏して西行涙をとゞめあへず。
 さりとてはいかに迷はせ玉ふや、濁穢《ぢよくゑ》の世をば厭ひ捨て玉ひつることの尊くも有難くおぼえて、いさゝか随縁法施《ずゐえんほふせ》したてまつりしに、六慾の巷にふたゝび現形《げんぎやう》し玉ふは、いとかしこくも口惜き御心に侍り、仮現《けげん》の此|界《さかひ》にてこそ聖慮安らけからぬ節もおはしつれ、不堅如聚沫《ふけんによじゆまつ》の御身を地水火風にかへし玉ひつる上は、旋転如車輪《せんでんによしやりん》の御心にも和合動転を貪り玉はで、隔生即忘《かくしやうそくまう》、焚塵即浄《ふんぢんそくじやう》、無垢の本土に返らせ玉はむこそ願はまほしけれ、頓《やが》ては迂僧も肉壊骨散《にくゑこつさん》の暁を期し、弘誓《ぐぜい》の仏願を頼りて彼岸にわたりつき、楽しく御傍に参りつかふまつるべし、迷はせ玉ふな迷はせ玉ふな、唯何事も夢まぼろし、世に時めきて栄ゆるも虚空に躍る水珠の、日光により七彩を暫く放つに異ならず、身を狭められ悶ゆるも闇夜を辿る稚児《をさなご》の、樹影を認めて百鬼来たりと急に叫ぶが如くなれば、得意も非なり失意も非なり、歓ぶさへも空《あだ》なれば如何で何事の実在《まこと》ならんとぞ承はりおよぶ、無有寃親想《むうをんしんさう》、永脱諸悪趣《えいだつしよあくしゆ》、所詮は御心を刹那にひるがへして、常生適悦心《じやうしやうてきえつしん》、受楽無窮極《じゆらくむきゆうきよく》、法味を永遠に楽ませ玉へ、と思入つて諫めたてまつれば、院の御霊は雲間に響く御声してから/\と異様《ことやう》に笑はせ玉ひ、おろかや解脱の法を説くとも、仏も今は朕《わ》が敵《あだ》なり、涅槃《ねはん》も無漏《むろ》も肯《うけが》はじ、徃時《むかし》は人朕が光明《ひかり》を奪ひて、朕《われ》を泥犂《ないり》の闇に陥しぬ、今は朕人を涙に沈ましめて、朕が冷笑《あざわらひ》の一[#(ト)]声の響の下に葬らんとす、おもひ観よ汝、漸く見ゆる世の乱は誰が為すこととぞ汝はおもふ、沢の蛍は天に舞ひ、闇裏《やみ》の念《おもひ》は世に燃ゆるぞよ、朕は闇に動きて闇に行ひ、闇に笑つて闇に憩《やすら》ふ下津岩根の常闇《とこやみ》の国の大王《おほぎみ》なり、正法《しやうぼふ》の水有らん限は魔道の波もいつか絶ゆべき、仏に五百の弟子あらば朕《われ》にも六天八部の属あり、三世の諸仏菩薩の輩《ともがら》、何の力か世にあるべき、たゞ徒に人の舌より人の耳へと飛び移り、またいたづらに耳より舌へと現はれ出でゝ遊行するのみ、朕が眷属の闇きより闇きに伝ひ行く悪鬼は、人の肺腑に潜み入り、人の心肝骨髄《しんかんこつずゐ》に咬《く》ひ入つて絶えず血にぞ飽く、視よ見よ魔界の通力もて毒火を彼が胸に煽り、紅炎《ぐえん》を此《これ》が眼より迸《はし》らせ、弱きには怨恨《うらみ》を抱かしめ強きには瞋《いか》りを発《おこ》さしめ、やがて東に西に黒雲狂ひ立つ世とならしめて、北に南に真鉄《まがね》の光の煌《きら》めき交《ちが》ふ時を来し、憎しとおもふ人※[#二の字点、1-2-22]に朕が辛かりしほどを見するまで、朝家に酷《むご》く祟《たゝり》をなして天が下をば掻き乱さむ、と御勢ひ凛※[#二の字点、1-2-22]しく誥《つ》げたまふにぞ、西行あまりの御あさましさに、滝と流るゝ熱き涙をきつと抑へて、恐る惶《おそ》るいさゝか首《かうべ》を擡《もた》げゝる。

       其六

 こは口惜くも正《まさ》なきことを承はるものかな、御言葉もどかんは恐れ多けれど、方外の身なれば憚り無く申し聞えんも聊か罪浅う思し召されつべくやと、遮つて存じ寄りのほどを言《まを》し試み申すべし、御憤はまことにさる事ながら、若人|瞋《いか》り打たずんば何を以てか忍辱《にんにく》を修めんとも承はり伝へぬ、畏れながら、ながらへて終に住むべき都も無ければ憂き折節に遇ひたまひたるを、世中《よのなか》そむかせたまふ御便宜《おんたより》として、いよ/\法海の深みへ渓河《たにがは》の浅きに騒ぐ御心を注がせたまひ、彼岸の遠きへ此|土《ど》の汀去りかぬる御迷を船出せさせ玉ひて、玉をつらぬる樹《こ》の下に花降り敷かむ時に逢はむを待ちおはす由承はりし頃は、寂然《じやくねん》、俊成《としなり》などとも御志の有り難さを申し交して如何ばかりか欣ばしく存じまゐらせしに、御|納経《なふきやう》の御望み叶はせられざりしより、竹の梢に中つて流《そ》るゝ金弾の如くに御志あらぬ方へと走り玉ひ、鳴門の潮の逆風《さかかぜ》に怒つて天に滔《はびこ》るやう凄じき御祈願立てさせ玉ひしと仄に伝へ承はり侍りしが、冀《ねが》はくは其事の虚《いつはり》妄にてあれかしと日比《ひごろ》念じまゐらせし甲斐も無う、さては真に猶此|裟婆界《しやばかい》に妄執をとゞめ、彼《かの》兜卒天《とそつてん》に浄楽は得ず御坐《おはし》ますや、訝《いぶか》しくも御意《みこゝろ》の然《さ》ばかり何に留まるらん、月すめば谷にぞ雲は沈むめる、嶺吹き払ふ風に敷かれてたゞ御※[#「匈/(胃-田)」、121-上-27]《おんむね》の月|明《あか》からんには、浮き雲いかに厚う鎖すとも氷輪無為の天《そら》の半に懸り御坐《おは》して、而も清光|湛寂《たんじやく》の潭《ふち》の底に徹することのあるべきものを、雲憎しとのみおぼさんは、そも如何にぞや、降《くだ》れば雨となり、蒸せば霞となり、凝れば雪ともなる雲の、指して言ふべき自性も無きに、まして夏の日の峯と峙《そばだ》ち秋の夕の鱗とつらなり、或《ある》は蝶と飛び猪《ゐのこ》と奔りて緩くも急《はや》くも空行くが、おのれから為す業ならばこそ、皆風のさすことなるを何取り出でゝ憎むに足るべき、夫|尺蠖《せきくわく》は伸びて而も還《また》屈《かゞ》み、車輪は仰いで而も亦|低《た》る、射る弓の力窮まり尽くれば、飛ぶ矢の勢変り易《かは》りて、空向ける鏃も地に立つに至らんとす、此故に欲界の六天、天高けれども報尽きては宝殿|忽地《たちまち》に崩れ、魔王の十善、善|大《おほい》なればとて果《くわ》窮まれば業苦早くも逼る、人間五十年の石火の如くなるのみならず天上幾万歳も電光に等しかるべし、御怨恨《おんうらみ》も復《かへ》し玉ふべからむ、御忿恚《おんいきどほり》も晴らさせ玉ふべからん、さて其暁は如何にして御坐《おは》さんとか思す、一旦出離の道には入らせたまひたれど断縛の劒を手にし玉はず、流転の途は厭はせられたりしも人我《にんが》の空をば肯《うけが》ひは為玉はざりしや、何とて幺微《いさゝか》の御事に忌はしくも自ら躓かせたまひて、法《のり》の便りの牛車を棄て、罪の齎らす火輪にも駕《が》さんとは思したまふ、生空《しやうくう》を唯薀《ゆゐうん》に遮し、我倒《がたう》を幻炎に譬ふれば、我が瞋《いか》るなる我や夫《それ》いづくにか有る、瞋るが我とおぼすか我が瞋るとおぼすか、思ひと思ひ、言ふと言ふ万端《よろづ》のこと皆|真実《まこと》なりや、訝《いぶ》かれば訝かしく、疑へば疑はしきものとこそ覚え侍れ、笑ひも恨みも、はた歓びも悲みも、夕に来ては旦《あした》に去る旅路の人の野中なる孤屋《ひとつや》に暫時《しばし》宿るに似て、我とぞ仮に名を称《よ》ぶなるものの中をば過ぐるのみ、いづれか畢竟《つひ》の主人《あるじ》なるべき、客《かく》を留めて吾が主と仰ぎ、賊を認めて吾が子となす、其悔無くばあるべからず、恐れ多けれど聡明|匹儔《たぐひ》無く渡らせたまふに、凡庸も企図せざるの事を敢て為玉ひて、千人の生命を断たんと瞋恚《じんゐ》の刀を提《ひつさ》げし央掘魔《あうくつま》が所行《ふるまひ》にも似たらんことを学ばせらるゝは、一婦の毒咒《どくじゆ》に動かされて総持の才を無にせんとせし阿難陀《あなんだ》が過失《あやまち》にも同じかるべき御迷ひ、御傷《おんいた》はしくもまた口惜く、云ひ甲斐無くも過《あやま》たせたまふものかな、烈日が前の片時雨、聖智が中《うち》の御一失、疾《と》く/\御心を翻《ひるが》へしたまひて、三趣に沈淪し四生に※[#「足へん+令」、122-上-1]※[#「足へん+屏」、122-上-1]《れいへい》するの醜さを出で、一乗に帰依し三昧に入得《につとく》するの正きに仗《よ》り御坐しませ、宿福広大にして前業《ぜんごふ》殊勝に渡らせたまふ御身なれば、一念※[#二の字点、1-2-22]頭の転じたまふを限に弾指《たんし》転※[#「目+旬」、第3水準1-88-80]《てんけん》の間も無く、神通の宝輅《はうらく》に召し虚空を凌いで速かに飛び、真如の浄域に到り、光明を発して長《とこし》へに熾《さかん》に御坐しまさんこと、などか疑ひの侍るべき、仏魔は一紙、凡聖《ぼんじやう》は不二、煩悩即菩提《ぼんなうそくぼだい》、忍土即浄土《にんどそくじやうど》、一珠わづかに授受し了れば八歳の竜女当下《りゆうによたうか》に成仏すと承はる、五障女人《ごしやうによにん》の法器にあらぬにだに猶彼が如し、まして十善天子の利根に御坐すに、いかで正覚を成し玉はざらん、御経には成等正覚《じやうとうしやうがく》、広度衆生《くわうどしゆじやう》、皆因提婆達多善知識故《かいいんだいばだつたぜんちしきご》と説かれ侍るを、誰憎しとか思す、恐れ多けれど、そもや誰人憎しとか思す、怨敵まことは道の師なり、怨敵まことは道の師なり、眼《まなこ》をあげて大千三千世界を観るに、我が皇《きみ》の怨敵たらんもの、いづくにか将《はた》侍るべき、まこと我が皇の御敵《おんあだ》たらんものの侍らば、痩せたる老法師の力|乏《とも》しくは侍れども、御力を用ゐさせ玉ふまでもなく、大聖威怒王《だいしやうゐぬわう》が折伏《しやくぶく》の御劒をも借り奉り、迦楼羅《かるら》の烈炎の御猛威《おんみやうゐ》にも頼《よ》り奉りて、直に我が皇の御敵を粉にも灰にも摧《くだ》き棄て申すべし、さりながら皇の御敵の何処《いづく》の涯にもあらばこそ、巴豆《はづ》といひ附子《ぶし》といふも皆是薬、障礙《しやうげ》の悪神《あくじん》毘那耶迦《びなやか》も本地は即《すなはち》毘盧沙那如来《びるしやなによらい》、此故に耆婆《きば》眼《まなこ》を開けば尽大地の草木、保命《ほうみやう》の霊薬ならぬも無く、仏陀《ぶつだ》教を垂るれば遍虚空《へんこくう》の鬼刹《きせつ》、護法の善神ならぬも無しと申す、御敵やそも那処《いづく》にかある、詮ずるところ怨親の二つながら空華の仮相、喜怒もろともに幻翳《げんねい》の妄現《まうげん》、雪と見て影に桜の乱るれば花のかさ被《き》る春の夜の月が、まことの月にもあらず、水無くて凍りぞしたる勝間田の池あらたむる秋の夜の月が、まことの月にもあらじ、世間一切の種※[#二の字点、1-2-22]の相は、まことは戯論《げろん》の名目のみ、真如の法海より一瓢の量を分ち取りて、我執の寒風に吹き結ばせし氷を我ぞと着すれば、熱湯は即仇たるべく、実相の金山《こんざん》より半畚《はんぽん》の資を齎し来りて、愛慾の毒火に鋳成《いな》せし鼠を己なりと思はんには、猫像《めうざう》或は敵《かたき》たるベけれど、本来氷も湯も隔なき水、鼠も猫も異ならぬ金なる時んば、仮相の互に亡び妄現の共に滅するをも待たずして、当体即空《たうたいそくくう》、当事即了《たうじそくりやう》、廓然《くわくねん》として、天に際涯《はて》無く、峯の木枯、海の音、川遠白く山青し、何をか瞋《いか》り何にか迷はせたまふ、疾《と》く、疾く、曲路の邪業《じやごふ》を捨て正道の大心を発し玉へ、と我知らず地を撃つて諫め奉れば、院の御亡霊《みたま》は、山壑《さんがく》もたぢろき木石も震ふまでに凄《すさまじ》くも打笑はせ玉ひて、おろかなり円位、仏が好ましきものにもあらばこそ、魔か厭はしきものにもあらばこそ、安楽も望むに足らず、苦患《くげん》も避くるに足らず、何を憚りてか自ら意《こゝろ》を抑へ情《おもひ》を屈めん、妄執と笑はば笑へ、妄執を生命として朕《われ》は活き、煩悩と云はば云へ、煩悩を筋骨として朕は立つ、おろかや汝、四弘誓願《しぐせいぐわん》は菩薩の妄執、五時説教は仏陀の煩悩、法蔵が妄執四十八願、観音が煩悩三十三|身《じん》、三世十方|恒河沙数《がうがしやすう》の諸仏菩薩に妄執煩悩無きものやある、妄執煩悩無きものやある、何ぞ瞿曇《ぐどん》が舌長《したなが》なる四十余年の託言《かごと》繰言《くりごと》、我尊しの冗語《じようご》漫語《まんご》、我をば瞞《あざむ》き果《おほ》すに足らんや、恨みは恨み、讐《あだ》は讐、復《かへ》さでは我あるべきか、今は一切世間の法、まつた一切世間の相、森羅万象人畜草木《しんらばんしやうにんちくさうもく》、悉皆《しつかい》朕《わがみ》の敵《あだ》なれば打壊《うちくづ》さでは已むまじきぞ、心に染まぬ大千世界、見よ/\、火前の片羽となり風裏の繊塵《せんぢん》と為して呉れむ、仏に六種の神通あれば朕に千般の業通あり、ありとあらゆる有情含識《うじやうがんしき》皆朕が魔界に引き入れて朕が眷属となし果つべし、汝が述べたるところの如きは円顱の愚物が常套の談、醜し、醜し、将《もち》帰り去れ、※[#「けものへん+胡」、122-下-21]※[#「けものへん+孫」、122-下-21]《こそん》が瞋《いかり》を賺《す》かす胡餅《こべい》の一片、朕を欺かんとや、迂なり迂なり、想ひ見よ、そのかみ朕此讃岐の涯に来て、沈み果てぬる破舟《やれぶね》の我にもあらず歳月《としつき》を、空しく杉の板葺の霰に悲しき夜を泣きて、風につれなき日を送り、心くだくる荒磯の浪の響に霜の朝、独り寐覚めし凄じさ、思ひも積る片里の雪に灯火《ともし》の瞬く宵、たゞ我が影の情無く古びし障子に浸み入るを見つめし折の味気無さ、如何ばかりなりしと汝思ふや、歌の林に人の心の花香をも尋ね、詞の泉に物のあはれの深き浅きをも汲みて分くる、敷嶋の道の契りも薄からず結びし汝なれば、厳しく吹きし初秋の嵐の風に世を落ちて、日影傾く西山の山の幾重の外にさすらひ、初雁音《はつかりがね》も言づてぬ南の海の海遥なる離れ嶋根に身を佗びて、捨てぬ光は月のみの水より寒く庇廂《ひさし》洩る住家に在りし我が情懐《おもひ》は、推しても大概《およそ》知れよかし、されば徃時《むかし》は朕とても人をば責めず身を責めて、仏に誓ひ世に誓ひ、おのれが業をあさましく拙かりしと悔い歎きて、心の水の浅ければ胸の蓮葉《はちすば》いつしかと開けんことは難けれど、辿る/\も闇き世を出づべき道に入らんとて、天《そら》へと伸ぶる呉竹の直なる願を独り立て、他《あだ》し望みは思ひ絶つ其麻衣ひきまとひ、供ふる華に置く露の露散る暁《あした》、焼《た》く香の煙の煙立つ夕を疾《とく》も来れと待つ間、一字三礼妙典書写の功を積みしに、思ひ出づるも腹立たしや、たゞに朕が現世の事を破りしのみならず、また未来世の道をも妨ぐる人の振舞、善悪も邪正もこれ迄なりと入つたる此道、得たる此果、今は金輪崩るるとも、銕囲《てつゐ》劈裂《つんざ》け破るゝとも、思ふ事果さでは得こそ止まじ、真夏の午《ひる》の日輪を我が眼の中に圧し入れらるゝは能く忍ぶべし、胸の恨を棄てなんことは忍ぶべからず、平等の見は我が敵なり、差別の観は朕が宗なり、仏陀は智なり朕は情なり、智水千頃の池を湛へば情火万丈の※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《ほのほ》を拳げん、抜苦与楽《ばつくよらく》の法|可笑《をかし》や、滅理絶義の道こゝに在り、朕が一脚の踏むところは、柳紅に花緑に、朕が一指のそれと指すところは、烏も白く鷺も黒し、天死せしむべく地舞はしむべく、日月暗からしむべく江海涸れしむべし、頑石笑つて且歌ひ、枯草花さいて、しかも芬《かを》る、獅子は美人が膝下に馴れ大蛇は小児の坐前に戯る、朔風暖かにして絳雪《かうせつ》香しく、瓦礫《ぐわれき》光輝を放つて盲井醇醴《まうせいじゆんれい》を噴き、胡蝶声あつて夜深く相思の吟をなす、聾者《ろうしや》能く聞き瞽者《こしや》能く見る、劒戟も折つて食《くら》ふべく鼎钁《ていくわく》も就いて浴すべし、世界はほと/\朕がまゝなり、黄身《わうしん》の匹夫、碧眼の胡児《こじ》、烏滸《をこ》の者ども朕を如何にか為し得べき、心とゞめてよく見よや、見よ、やがて此世は修羅道《しゆらだう》となり朕が眷属となるべきぞ、あら心地快や、と笑ひたまふ御声ばかりは耳に残りて、放たせ玉ふ赤光の谷※[#二の字点、1-2-22]山※[#二の字点、1-2-22]に映りあひ、天地忽ち紅色《くれなゐ》になるかと見る間に失せ玉ひぬ。
 西行はつと我に復りて、思へば夢か、夢にはあらず。おのれは猶かつ提婆品《だいばぼん》を繰りかへし/\読み居たるか、其読続き我が口頭に今も途絶えず上り来れり。[#地から2字上げ](明治二十五年五月「国会」)

     彼一日

       其一

 頼み難きは我が心なり、事あれば忽に移り、事無きもまた動かんとす。生じ易きは魔の縁なり、念《おもひ》を放《ほしいまゝ》にすれば直に発《おこ》り、念を正しうするも猶起らんとす。此故に心は大海の浪と揺《ゆら》ぎて定まる時無く、縁は荒野の草と萠えて尽くる期《ご》あらねば、たま/\大勇猛の意気を鼓して不退転の果報を得んとするものも、今日の縁にひかれて旧年の心を失ふ輩は、可惜《あたら》舟を出して彼岸に到り得ず、憂くも道に迷ひて穢土《ゑど》に復還るに至る。されば心を収むるは霊地に身を※[#「宀/眞」、第3水準1-47-57]《お》くより好きは無く、縁を遮るは浄業《じやうごふ》に思を傾くるを最も勝れたりとなす。木片の薬師、銅塊《どうくわい》の弥陀《みだ》は、皆これ我が心を呼ぶの設け、崇《あが》め尊まぬは烏滸《をこ》なるべく、高野の蘭若《らんにや》、比叡《ひえ》の仏刹《ぶつさつ》、いづれか道の念を励まさゞらむ、参り詣《いた》らざるは愚魯《おろか》なるべし。古の人の、麻の袂を山おろしの風に翻し、法衣《ころも》の裾を野路の露に染めつゝ、東西に流浪し南北に行きかひて、幾干《いくそ》の坂に谷に走り疲れながら猶辛しともせざるものは、心を霊地の霊気に涵《ひた》し念を浄業の浄味に育みて、正覚の暁を期すればなり。鏡に対《むか》ひては髪の乱れたるを愧《は》ぢ、金《こがね》を懐にすれば慾の亢《たかぶ》るを致す習ひ、善くも悪くも其境に因り其機に随ひて凡夫の思惟《しゆゐ》は転ずるなれば、たゞ後の世を思ふものは眼に仏菩薩の尊容を仰ぎ、口に経陀羅尼《きやうだらに》の法文を誦《じゆ》して、夢にも現にも市※[#「廛+おおざと」、第3水準1-92-84]《してん》栄花《えいぐわ》の巷に立入ること無く、朝も夕も山林|閑寂《かんじやく》の郷に行ひ済ましてあるべきなり。首《かうべ》を回らせば徃時をかしや、世の春秋に交はりて花には喜び月には悲み、由無き七情の徃来に泣きみ笑ひみ過ごしゝが、思ひたちぬる墨染の衣を纏ひしより今は既《はや》、指を※[#「てへん+婁」、123-下-27]《かゞな》ふれば十《と》あまり三歳《みとせ》に及びて秋も暮れたり。修行の年も漸く積もりぬ、身もまた初老に近づきぬ。流石心も澄み渡りて乱るゝことも少くなり、旧縁は漸く去り尽して胸に纏《まつ》はる雲も無し。忽然《こつねん》として其初一人来りし此裟婆に、今は孑然《げつぜん》として一人立つ。待つは機の熟して果《このみ》の落つる我が命終《みやうじゆう》の時のみなり。あら快《こゝろよ》の今の身よ、氷雨降るとも雪降るとも、憂を知らぬ雲の外に嘯《うそぶ》き立てる心地して、浮世の人の厭ふ冬さへ却つてなか/\をかしと見る、此の我が思ひの長閑さは空飛ぶ禽もたゞならず。されど禅悦《ぜんえつ》に着《ぢやく》するも亦是修道の過失《あやまち》と聞けば、ひとり一室に籠り居て驕慢の念を萠さんよりは、歩《あゆみ》を処※[#二の字点、1-2-22]の霊地に運びて寺※[#二の字点、1-2-22]の御仏をも拝み奉り、勝縁《しようえん》を結びて魔縁を斥け、仏事に勤めて俗事に遠ざからんかた賢かるべしとて、そこに一日、かしこに二日と、此御仏彼御仏の別ちも無くそれ/\の御堂を拝み巡りては、或《ある》は祈願を籠めて参籠の誠を致し、或は和歌を奉りて讃歎の意を表し来りけるが、仏天の御思召にも協ひけん聊か冥加も有りとおぼしく、幸に道心のほかの他心《あだしごゝろ》も起さず勝縁を妨ぐる魔縁にも遇はで、終に今日に及ぶを得たり。既徃の誠に欣ぶべきに将来の猶頼まゝほしく、長谷の御寺の観世音菩薩の御前に今宵は心ゆくほど法施《ほふせ》をも奉らんと立出でたるが、夜※[#二の字点、1-2-22]に霜は募りて樹※[#二の字点、1-2-22]に紅は増す神無月《かんなづき》の空のやゝ寒く、夕日力無く舂《うすつ》きて、晩《おく》れし百舌の声のみ残る、暮方のあはれさの身に浸むことかな。見れば路の辺の草のいろ/\、其とも分かず皆いづれも同じやうに枯れ果てゝ崩折《くづほ》れ偃《ふ》せり。珍らしからぬ冬野のさま、取り出でゝ云ふべくはあらねども、折からの我が懐《おもひ》に合ふところあり。情《こゝろ》を結び詞《ことば》を束ねて、歌とも成らば成して見ん、おゝそれよ、さま/″\に花咲きたりと見し野辺のおなじ色にも霜がれにけり。嗚呼我人とも終には如是《かく》、男女美醜の別《わかち》も無く同じ色にと霜枯れんに、何の翡翠の髪の状《さま》、花の笑ひの顔《かんばせ》か有らん。まして夢を彩る五欲の歓楽《たのしみ》、幻を織る四季の遊娯《あそび》、いづれか虚妄《いつはり》ならざらん。たゞ勤むべきは菩提の道、南無仏、南無仏、と観じ捨てゝ、西行独り路を急ぎぬ。

       其二

 弓張月の漸う光りて、入相《いりあひ》の鐘の音も収まる頃、西行は長谷寺《はせでら》に着きけるが、問ひ驚かすべき法《のり》の友の無きにはあらねど問ひも寄らで、観音堂に参り上りぬ。さなきだに梢透きたる樹※[#二の字点、1-2-22]を嬲《なぶ》りて夜の嵐の誘へば、はら/\と散る紅葉なんどの空に狂ひて吹き入れられつ、法衣《ころも》の袖にかゝるもあはれに、又仏前の御灯明《みあかし》の目瞬《めはじき》しつゝ万般《よろづ》のものの黒み渡れるが中に、いと幽なる光を放つも趣きあり。法華経の品《ほん》第二十五を声低う誦するに、何となく平時《つね》よりは心も締まりて身に浸みわたる思ひの為れば、猶誠を籠めて誦し行くに天も静けく地も静けく、人も全く静まりたる、時といひ、処といひ相応して、我耳に入るは我声ながら、若くは随喜仏法の鬼神なんどの、声を和《あは》せて共に誦する歟《か》と疑はるゝまで、上無く殊勝に聞こえわたりぬ。特《こと》に参りたる甲斐はありけり、菩薩も定めしかゝる折のかゝる所作《しよさ》をば善哉《よし》として必ず納受《なふじゆ》し玉ふなるべし、今宵の心の澄み切りたる此の清《すゞ》しさを何に比へん、あまりに有り難くも尊く覚ゆれば、今宵は夜すがら此御堂の片隅になり趺坐《ふざ》なして、暁天《あかつき》がたに猶一[#(ト)]度誦経しまゐらせて、扨其後香華をも浄水をも供じて罷らめと、西行やがて三拝して御仏の御前を少し退《すさ》り、影暗き一[#(ト)]隅に身を捩ぢ据ゑ、凍れる水か枯れし木の、動きもせねば音も立てず、寂然《じやくねん》として坐し居たり。
 夜は沈※[#二の字点、1-2-22]と漸く更けて、風も睡れる如くになりぬ。右左に並びて立ちたりける御灯明《みあかし》は一つ消え、また一つ消えぬ。今はたゞいと高き吊灯籠の、光り朦朧として力無きが、夢の如くに残れるのみ。此寺《こゝ》の僧どもは寒気《さむさ》に怯ぢて所化寮《しよけれう》に炉をや囲みてあるらん、影だに終に見するもの無し。云ふべきかたも無く静なれば、日比《ひごろ》焼きたる余気なるべし今薫ゆるとにはあらぬ香の、有るか無きかに自然《おのづから》※[#「鈞のつくり」、第3水準1-14-75]ひを流すも最《いと》能《よ》く知らる。かゝる折から何者にや、此方を指して来る跫音す。御仏に仕ふる此寺《こゝ》のものゝ、灯燭《とうしよく》を続ぎまゐらせんとて来つるにやと打見るに、御堂の外は月の光り白※[#二の字点、1-2-22]として霜の置けるが如くに見ゆるが中を、寒さに堪へでや頭《かしら》には何やらん打被《うちかつ》ぎたれど、正しく僧形したるが歩み寄るさまなり。心を留むるとにはあらざれど、何としも無く猶見てあるに、やがて月の及ばぬ闇の方に身を入れたれば定かには知れぬながら、此御堂に打向ひて一度は先《まづ》拝み奉り、さて静※[#二の字点、1-2-22]と上り来りぬ。御堂は狭からぬに灯《ひ》は蛍ほどなり、灯の高さは高し、互の程は隔たりたり、此方を彼方は有りとも知らず、彼方を此方は能くも見得ねば、西行は只我と同じき心の人も亦有りけるよと思ふのみにて打過ぎたり。
 彼方は固より闇の中に人あることを知らざれば、何に心を置くべくも無く、御仏の前に進み出でつ、最《いと》謹《つゝし》ましげに危坐《かしこま》りて、数度《あまたゝび》合掌礼拝《がつしやうらいはい》なし、一心の誠を致すと見ゆ。同じ菩提の道の友なり、其|心操《こゝろばへ》の浅間ならぬも夜深の参詣に測り得たり。衣の色さへ弁《わか》ち得ざれば面《おもて》は況して見るべくも無けれど、浄土の同行の人なるものを、呼びかけて語らばや、名も問はばやと西行は胸に思ひけるが、卒爾に言《ものい》はんは悪《あし》かるべし、祈願の終つて後にこそと心を控へて伺ふに、彼方は珠数を取り出して、さや/\とばかり擦り初《そ》めたり。針の落つる音も聞くべきまで物静かなる夜の御堂の真中に在りて、水精《すゐしやう》の珠数を擦る音の亮《さや》かなる響きいと冴えて神※[#二の字点、1-2-22]し。御経は心に誦するとおぼしく、万籟《ばんらい》絶えたるに珠の音のみをたゞ緩やかに緩やかに響かす。其声或は明らかに或は幽に、或は高く或は低く、寐覚の枕の半は夢に霰の音を聞くが如く、朝霧晴れぬ池の面《おも》に※[#「くさかんむり/函」、第3水準1-91-2]※[#「くさかんむり/陷のつくり」、第4水準2-86-33]《かんたん》の急に開くを聞くが如く、小川の水の濁り咽ぶか雨の紫竹の友擦れ歟、山吹※[#「鈞のつくり」、第3水準1-14-75]ふ山川の蛙鳴くかと過たれて、一声※[#二の字点、1-2-22]中に万法あり、皆与実相《かいよじつさう》不相違背《ふさうゐはい》と、いとをかしくも聞きなさるれば、西行感に入つて在りけるが、期したるほどの事は仕果てゝや其人数珠を収めて御仏をば礼拝すること数度《あまたゝび》しつ、やをら身を起して退《まか》らんとす。菩提の善友、浄土の同行、契を此土に結ばんには今こそ言葉をかくべけれと、思ひ入て擦る数珠《ずゞ》の音の声すみておぼえずたまる我涙かな、と歌の調は好かれ悪かれ、西行|急《にはか》に読みかくれば、彼方は初めて人あるを知り、思ひがけぬに驚きしが、何と仰られしぞ、今一度と、心を圧《おし》鎮《しづ》めて問ひ返す。聞き兼ねけんと猜《すゐ》するまゝ、思ひ入りて擦る数珠の音の声澄みて、と復《ふたゝ》び言へば後は言はせず、君にて御坐せしよ、こはいかに、と涙《なんだ》に顫ふおろ/\声、言葉の文もしどろもどろに、身を投げ伏して取りつきたるは、声音に紛ふかたも無き其昔《そのかみ》偕老同穴の契り深かりし我が妻なり。厭いて別れし仲ならず、子まで生《な》したる語らひなれば、流石男も心動くに、況して女は胸逼りて、語らんとするに言葉を知らず、巌《いは》に依りたる幽蘭の媚《なまめ》かねども離れ難く、たゞ露けくぞ見えたりける。
 西行きつと心を張り、徐《しづか》に女の手を払ひて、御仏の御前に乱《らう》がはしや、これは世を捨てたる痩法師なり、捉へて何をか歎き玉ふ、心を安らかにして語り玉へ、昔は昔、今は今、繰言な露宣ひそ、何事も御仏を頼み玉へ、心留むべき世も侍らず、と諭せば女は涙にて、さては猶我を世に立交らひて月日経るものと思したまふや、灯火暗うはあれどおほよそは姿形をも猜《すゐ》し玉へ、君の保延に家を出でゝ道に入り玉ひしより、宵の鐘暁の鳥も聞くに悲く、春の花秋の月も眺むるに懶くて、片親無き児の智慧敏きを見るにつけ胸を痛め心を傷ましめしが、所詮は甲斐無き嗟歎《なげき》せんより今生は擱《さしお》き後世をこそ助からめと、娘を九条の叔母に頼みて君の御跡を追ひまゐらせ、同じ御仏の道に入り、高野の麓の天野といふに日比《ひごろ》行ひ居り侍《はべ》るなり、扨も君を放ち遣りまゐらせて御心のまゝに家を出づるを得さしめ奉りし徃時《そのかみ》より、我が子を人に預けて世を捨てたる今に至るまで、いづれか世の常としては悲しきことの限りならざらん、別れまゐらせし歳は我が齢、僅に二十歳《はたち》を越えつるのみ、また幼児《いとけなき》を離せしときは其《そ》が六歳《むつつ》と申す愛度無《あどな》き折なり、老いて夫を先立つるにも泣きて泣き足る例《ためし》は聞かず、物言はぬ嬰児《みづこ》を失ひても心狂ふは母の情、それを行末長き齢に、君とは故も無くて別れまゐらせ、可愛き盛りに幼児《をさなき》を見棄てつる悲しさは如何ばかりと覚す、されど斯ばかりの悲しさをも、女の胸に堪へ堪へて鬼女蛇神のやうに過ぎ来つるは、我が悲みを悲とせで偏に君が歓喜《よろこび》を我が歓喜とすればなるを、別れまゐらせしより十余年の今になりて繰言も云ふもののやう思はれまゐらせたる拙さ情無さ、君は我がための知識となり玉ひぬれば、恨み侍らざるばかりか却て悦びこそ仕奉れ、彼世にてもあれ君に遇ひまゐらせなば君の家を出で玉ひし後の我が上をも語りまゐらせて、能くぞ浮世を思ひ切りぬるとの御言葉をも得んとこそ日比は思ひ設け居たれ、別れたてまつりし時は今生に御言葉を玉はらんことも復有るまじと思ひたりしに、夢路にも似たる今宵の逢瀬、幾年《いくとせ》の心あつかひも聊か本意《ほい》ある心地して嬉しくこそ、と細※[#二の字点、1-2-22]《こま/\》と述ぶ。折から灯籠の中の灯《ひ》の、香油は今や尽きに尽きて、やがて熄《き》ゆべき一[#(ト)]明り、ぱつと光を発すれば、朧気ながら互に見る雑彩《いろ》無き仏衣《ぶつえ》に裹《つゝ》まれて蕭然《せうぜん》として坐せる姿、修行に窶《やつ》れ老いたる面ざし、有りし花やかさは影も無し。
 これが徃時《むかし》の、妻か、夫か、心根可愛や、懐かしやと、我を忘れて近寄る時、忽然《たちまち》ふつと灯は滅して一念|未生《みしやう》の元の闇に還れば、西行坐を正うして、能くこそ思ひ切り玉ひたれ、入道の縁は無量にして順逆正傍《じゆんぎやくしやうばう》のいろ/\あれど、たゞ徃生を遂ぐるを尊ぶ、徃時《むかし》は世間の契を籠め今は出世間の交りを結ぶ、御身は我がための菩提の善友、浄土の同行なり悦ばしや、たゞし然《さ》までに浮世をば思ひ切りたる身としては、懐旧の情はさることながら余りに涙の遣る瀬無くて、我を恨むかとも見えし故、先刻《さき》のやうには云ひつるなり、既に世の塵に立交らで法の門《かど》に足踏しぬる上は、然ばかり心を悩ますべき事も実《まこと》は無き筈ならずや、と最《いと》物優しく尋ね問ふ。
 慰められては又更に涙脆きも女の習ひ、御疑ひ誠に其|理由《ゆゑ》あり、もとより御恨めしう思ひまゐらする節もなし、御懐しうは覚え侍れど、それに然《さ》ばかりは泣くべくも無し、御声を聞きまゐらすると斉しく、胸に湛へに湛へし涙の一時に迸り出でしがため御疑を得たりしなり、其|所以《いはれ》は他ならぬ娘の上、深く御仏の教に達して宿命《しゆくみやう》業報を知るほどならば、是《こ》も亦煩ひとするに足らずと悟りてもあるべけれど然は成らで、ほと/\頭の髪の燃え胸の血の凍るやうに明暮悩むを、君は心強くましますとも何と聞き玉ふらん、聞き玉へ、娘は九条の叔母が許《もと》に、養ひ娘といふことにて叔母の望むまゝに与へしが、叔母には真《まこと》の娘もあり、母の口よりは如何なれど年齢こそ互に同じほどなれ、眉目容姿《みめかたち》より手書き文読む事に至るまで、甚《いた》く我が娘は叔母の娘に勝りたれば、叔母も日頃は養ひ娘の賢き可愛《いとし》さと、生《うみ》の女《むすめ》の自然《おのづから》なる可愛《いとし》さとに孰れ優り劣り無く育てけるが、今年は二人ともに十六になりぬ、髪の艶、肌の光り、人の※[#「女+瑁のつくり」、第4水準2-5-68]《そね》み心を惹くほどに我子は美しければ、叔母も生《おふ》したてたるを自《おの》が誇りにして、せめて四位の少将以上ならでは得こそ嫁《あは》すまじきなど云ひ罵り、おのが真の女をば却つて心にも懸け居ざるさまにもてあつかひ居たりしが、右の大臣の御子|某《それ》の少将の、図らずも我が女をば垣間見玉ひて懸想し玉ひしより事起りて、叔母の心いと頑兇《かたくな》になり日に/\口喧《くちかしがま》しう嘲《あざ》み罵り、或時は正なくも打ち擲き、密に調伏の法をさへ由無き人して行せたるよしなり、某の少将と云へるは才賢く心性《こゝろざま》誠ありて優しく、特《こと》に玉を展べたる様の美しき人なれば、自己が生の女の婿がねにと叔母の思ひつきぬるも然ることながら、其望みの思ふがまゝにならで、飾り立てたる我が女には眼も少将の遣り玉はざるが口惜しとて、養ひ娘を悪くもてあつかふ愚さ酷さ、昔時《むかし》の優しかりしとは別のやうなる人となりて、奴婢《ぬび》の見る眼もいぶせきまでの振舞を為る折多しと聞く、既に御仏の道に入りたまひたれば我には今は子ならずと君は仰すべけれど、其君が子はいと美しう才もかしこく生れつきて、しかも美しく才かしこくして位高き際の人に思はれながら、心の底には其人を思はぬにしもあらざるに、養はれたる恩義の桎梏《かせ》に情《こゝろ》を枉《ま》げて自ら苦み、猶其上に道理無き呵責《かしやく》を受くる憫然《あはれさ》を君は何とか見そなはす、棄恩《きおん》入無為《にふむゐ》の偈《げ》を唱へて親無し子無しの桑門《さうもん》に入りたる上は是非無けれども、知つては魂魄《たましひ》を煎らるゝ思ひに夜毎の夢も安からず、いと恐れあることながら此頃の乱れに乱れし心からは、御仏の御教も余りに人の世を外《そ》れたる、酷き掟なりと聊かは御恨み申すこともあるほど、子といひながら子と云へねば、親にはあれど親ならぬ、世の外の人、内の人、知らぬ顔して過すをば、一旦仏門に入りしものゝ行儀とするも理無《わりな》しや、春は大路の雨に狂ひ小橋の陰に翻る彼の燕だに、児を思ふては日に百千度《もゝちたび》巣に出入りす、秋の霜夜の冷えまさりて草野の荒れ行く頃といへば、彼の兎すら自己が毛を咬みて※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77]りて綿として、風に当てじと手を愛《いとほ》しむ、それには異《かは》りて我※[#二の字点、1-2-22]の、纔に一人の子を持ちて人となるまで育てもせず、児童《こども》の間《なか》の遊びにも片親無きは肩|窄《すぼ》る其の憂き思を四歳《よつ》より為せ、六歳《むつ》といふには継《まゝ》しき親を頭に戴く悲みを為せ、雲の蒸す夏、雪の散る冬、暑さも寒さも問ひ尋ねず、山に花ある春の曙、月に興ある秋の夜も、世にある人の姫|等《たち》の笑み楽しむには似もつかず、味気無う日を送らせぬる其さへ既に情無く親甲斐の無きことなれば、同じほどなる年頃の他家《よそ》の姫なんどを見るにつけ、嗚呼我が子はと思ひ出でゝ、木の片、竹の端くれと成り極めたる尼の身の我が身の上は露思はねど、かゝる父を持ち母を持ちたる吾が子の果報の拙さを可哀《あはれ》と思はぬことも無し、況して此頃の噂を聞き又余所ながら視もすれば、心に春の風渡りて若木の花の笑まんとする恋の山路に悩める娘の、女の身には生命なる生くる死ぬるの岐れにも差し掛りたる態なる上、生みの子の愛に迷ひ入りたる頑凶《かたくな》の老婆《ばゞ》に責められて朝夕を経る胸の中、父上|御坐《おは》さば母在らばと、親を慕ひて血を絞る涙に暮るゝ時もある体《てい》、親の心の迷はずてやは、打捨て置かば女は必ず彼方此方の悲さに身を淵河にも沈めやせん、然無くも逼る憂さ辛さに終には病みて倒れやせん、御仏の道に入りたれば名の上の縁《えにし》は絶えたれど、血の聯続《つらなり》は絶えぬ間《なか》、親なり、子なり、脈絡《すぢ》は牽《ひ》く、忘るゝ暇もあらばこそ、昼は心を澄まして御仏に事《つか》へまつれど、夜の夢は女《むすめ》のことならぬ折も無し、若し其儘に擱《さしお》いて哀しき終を余所※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]しく見ねばならずと定まらば、仏に仕ふる自分《みづから》は禽にも獣にも慚しや、たとへば来ん世には金《こがね》の光を身より放つとも嬉しからじ、思へば御仏に事ふるは本は身を助からんの心のみにて、子にも妻にもいと酷き鬼のやうなることなりけり、爽快《いさぎよき》には似たれども自己《おのれ》一人を蓮葉《はちすば》の清きに置かん其為に、人の憂きめに眼も遣らず人の辛きに耳も仮さず、世を捨てたればと一[#(ト)]口に、此世の人のさま/″\を、何ともならばなれがしに斥け捨つるは卑しきやうなり、何とて尼にはなりたりけん、如何にもして女と共に経るべかりしに、鈍《おぞ》くも自ら過ちけるよ、今は後世《ごせ》安楽も左のみ望まじ、火※[#「火+亢」、第4水準2-79-62]《くわかう》に墜つるも何かあらん、俗に還りて女を叔母より取り返さんと、思ひしことも一度二度ならずありたりき、然れども流石|年来《としごろ》頼める御仏に離れまゐらせんことも影護《うしろめた》くて、心と心との争ひに何となすべき道も知らず、幼きより頼みまゐらせたる此地《こゝ》の御仏に七夜参の祈願を籠めしも、女の上の安かれとおもふ為ばかり、恰も今宵満願の折から図らず御眼にかゝりて、胸には此事あり此|念《おもひ》あるに、情無かりし君が徃時《むかし》の家を出でたまひし時の御光景《おんありさま》まで一[#(ト)]時に眼に浮み来りしかば、思へば女が四歳《よつ》の年、振分髪の童姿、罪も報も無き顔に愛度《あど》なき笑みの色を浮めて、父上※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]と慕ひ寄りつゝ縋りまゐらせたるを御心強くも、椽より下へと荒らかに※[#「足へん+易」、第4水準2-89-38]落《けおと》し玉ひし其時が、女の憂目の見初《みはじめ》なりしと、思ふにつけても悲さに恨めしささへ添ふ心地、御なつかしさも取り交ぜて文《あや》も分かたずなりし涙の抑へ難かりしは此故なり、と細※[#二の字点、1-2-22]《こま/\》と語れば西行も数度《あまたゝび》眼を押しぬぐひしが、声を和らげていと静に、云ひたまふところ皆其理あり、たゞし女の上の事は未だ知らずに御在《おはす》と見えたり、此の五日ほど前の事なり、我みづから女を説き諭して、既に火宅《くわたく》の門を出でゝ法苑の内に入らしめ終んぬ、聊か聞くところありしかば、眼前の※[#「二点しんにょう+屯」、第4水準2-89-80]※[#「二点しんにょう+亶」、第4水準2-90-2]《ちゆんてん》を縁として身後の安楽を願はせんと、たゞ一度会ひて言《ものい》ひしに、親|羞《はづか》しき利根のものにて、宿智にやあらん其言ふところ自ら道に協へる節あり、父上既に世を逃れ玉ひぬ、おのれも御後に従はんとこそ思へ、世に百歳《もゝとせ》の夫婦《めをと》も無し、なにぞ一期の恩愛を説かん、たとひ思ふこと叶ひ、望むこと足りぬとも、※[#「女+瑁のつくり」、第4水準2-5-68]《そね》みを蒙り羨を惹きて在らんは拙るべし、もとより女の事なれば世に栄えん願ひも左までは深からず、親の御在さねば身を重んずる念《おもひ》もやゝ薄し、あながち御仏を頼みまゐらせて浄土に生れんとにはあらねど、如何なる山の奥にもありて草の庵の其内に、荊棘《おどろ》を簪《かざし》とし粟稗《あはひえ》を炊ぎてなりと、たゞ心|清《すゞ》しく月日経ばやなどと思ひたることは幾度と無く侍り、睦《むつ》ぶべき兄弟《はらから》も無し、語らふべき朋友《とも》も持たず、何に心の残り留まるところも無し、養はれ侍りし恩恵《みめぐみ》に答へまゐらすること無きは聊か口惜けれど、大叔母君の現世安穏後生善処《げんぜあんのんごしやうぜんしよ》と必ず日※[#二の字点、1-2-22]に祈りて酬ひまゐらせん、又情ある人のたゞ一人侍りしが、何と申し交したることも無ければ別れ/\になるとも怪《け》しうはあらず、雲は旧《もと》に依つて白く山は旧に依つて青からんのみなり、全く世をば思ひ切り侍りぬ、とく導師となりて剃度せしめ玉へと、雄※[#二の字点、1-2-22]しくも云ひ出でたれば、其心根の麗せきに愛でゝ、我また雄※[#二の字点、1-2-22]しくも丈なる烏羽玉《うばたま》の髪を落して色ある衣《きぬ》を脱ぎ棄てさせ、四弘誓願《しぐせいぐわん》を唱へしめぬ、や、何と仕玉へる、泣き玉ふか、涙を流し玉ふか、無理ならず、菩提の善友よ、泣き玉ふ歟、嬉しさにこそ泣き玉ふならめ、浄土の同行よ、落涙あるか、定めし感涙にこそ御坐すらめ、おゝ、余りの有難さに自分《おのれ》もまた涙聊か誘はれぬ、さて美しき姫は亡せ果てたり、美しき尼君は生《な》り出で玉ひぬ、青※[#二の字点、1-2-22]としたる寒げの頭《かしら》、鼠色《ねずみ》の法衣《ころも》、小き数珠《ずゞ》、殊勝なること申すばかり無し、高野の別所に在る由の菩提の友を訪《とぶら》はんとて飄然として立出で玉ひぬ、其後の事は知るよし無し、燕の忙《せは》しく飛ぶ、兎の自ら剥ぐ、親は皆自ら苦む習なれば子を思はざる人のあらんや、但し欲楽の満足を与へ栄華の十分を享けしむるは、木葉《このは》を与へて児の啼きを賺《す》かす其にも増して愚のことなり、世を捨つる人がまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ、たゞ幾重にも御仏を頼み玉へ、心留むべき世も侍らず、南無仏※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]、と云ひ切りて口を結びて復言はず。月はやがて没《い》るべく西に廻りて、御堂に射し入る其光り水かとばかり冷かに、端然として合掌せる二人の姿を浮ぶが如くに御堂の闇の中に照し出しぬ。

                 (明治三十四年一月「文芸倶楽部」)

底本:「日本現代文學全集 6 幸田露伴集」講談社
   1963(昭和38)年1月19日初版第1刷
   1980(昭和55)年5月26日増補改訂版第1刷
初出:「國會」
   1892(明治25)年5月
   「文藝倶樂部」
   1901(明治34)年1月
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記を新字、旧仮名にあらためました。
※「御陵《みさゝぎ》」と「御陵《みさゝき》」の混在は底本通りにしました。
入力:kompass
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年3月1日作成
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幸田露伴

突貫紀行——- 幸田露伴

 身には疾《やまい》あり、胸には愁《うれい》あり、悪因縁《あくいんねん》は逐《お》えども去らず、未来に楽しき到着点《とうちゃくてん》の認めらるるなく、目前に痛き刺激物《しげきぶつ》あり、慾《よく》あれども銭なく、望みあれども縁《えん》遠し、よし突貫してこの逆境を出《い》でむと決したり。五六枚の衣を売り、一|行李《こうり》の書を典し、我を愛する人二三にのみ別《わかれ》をつげて忽然《こつぜん》出発す。時まさに明治二十年八月二十五日午前九時なり。桃内《ももない》を過ぐる頃《ころ》、馬上にて、
  

  きていたるものまで脱《ぬ》いで売りはてぬ いで試みむはだか道中

 小樽《おたる》に名高きキトに宿りて、夜涼《やりょう》に乗じ市街を散歩するに、七夕祭《たなばたまつり》とやらにて人々おのおの自己《おの》が故郷の風《ふう》に従い、さまざまの形なしたる大行燈《おおあんどう》小行燈に火を点じ歌い囃《はや》して巷閭《こうりょ》を引廻《ひきま》わせり。町幅一杯《まちはばいっぱい》ともいうべき竜宮城《りゅうぐうじょう》に擬《ぎ》したる大燈籠《おおどうろう》の中に幾《いく》十の火を点ぜるものなど、火光美しく透《す》きて殊《こと》に目ざましく鮮《あざ》やかなりし。
 二十六日、枝幸丸《えさしまる》というに乗りて薄暮《はくぼ》岩内港《いわないみなと》に着きぬ。この港はかつて騎馬《きば》にて一遊せし地なれば、我が思う人はありやなしや、我が面を知れる人もあるなれど、海上|煙《けむ》り罩《こ》めて浪《なみ》もおだやかならず、夜の闇《くら》きもたよりあしければ、船に留《とど》まることとして上陸せず。都鳥に似たる「ごめ」という水禽《みずとり》のみ、黒み行く浪の上に暮《く》れ残りて白く見ゆるに、都鳥も忍《しの》ばしく、父母すみたもう方、ふりすてて来し方もさすがに思わざるにはあらず。海気は衣を撲《う》って眠《ねむ》り美ならず、夢魂《むこん》半夜|誰《た》が家をか遶《めぐ》りき。
 二十七日正午、舟《ふね》岩内を発し、午後五時|寿都《すっつ》という港に着きぬ。此地《ここ》はこのあたりにての泊舟《はくしゅう》の地なれど、地形|妙《みょう》ならず、市街も物淋《ものさび》しく見ゆ。また夜泊《やはく》す。
 二十七日の夜ともいうべき二十八日の夙《はや》くに出港せしが、浪風あらく雲乱れて、後には雨さえ加わりたり。福山すなわち松前《まつまえ》と往時《むかし》は云《い》いし城下に暫時《ざんじ》碇泊《ていはく》しけるに、北海道には珍《めず》らしくもさすがは旧城下だけありて白壁《しらかべ》づくりの家など眸《め》に入る。此地には長寿《ちょうじゅ》の人|他処《よそ》に比べて多く、女も此地生れなるは品よくして色|麗《うる》わしく、心ざま言葉つきも優しき方なるが多きよし、気候水土の美なればなるべし。上陸して逍遥《しょうよう》したきは山々なれど雨に妨《さまた》げられて舟を出でず。やがてまた吹き来し強き順風に乗じて船此地を発し、暮るる頃|函館《はこだて》に着き、直《ただ》ちに上陸してこの港のキトに宿りぬ。建築《けんちく》半ばなれども室広く器物清くして待遇《たいぐう》あしからず、いと心地よし。
 二十九日、市中を散歩するにわずか二年余見ざりしうちに、著しく家列《いえなら》びもよく道路も美しくなり、大町末広町なんどおさおさ東京にも劣《おと》るべからず。公園のみは寒気強きところなれば樹木の勢いもよからで、山水の眺《なが》めはありながら何となく飽《あ》かぬ心地すれど、一切の便利は備わりありて商家の繁盛《はんじょう》云《い》うばかり無し。客窓の徒然《つれづれ》を慰《なぐさ》むるよすがにもと眼にあたりしままジグビー、グランドを、文魁堂《ぶんかいどう》とやら云える舗《みせ》にて購《こ》うて帰りぬ。午後、我がせし狼藉《ろうぜき》の行為《こうい》のため、憚《はばか》る筋の人に捕《とら》えられてさまざまに説諭《せつゆ》を加えられたり。されどもいささか思い定むるよし心中にあれば頑《がん》として屈《くっ》せず、他の好意をば無になして辞して帰るやいなや、直ちに三里ほど隔《へだ》たれる湯の川温泉というに到《いた》り、しこうして封書《ふうしょ》を友人に送り、此地に来れる由《よし》を報じおきぬ。罪あらば罪を得ん、人間の加え得る罪は何かあらん。事を決する元来|癰《よう》を截《き》るがごとし、多少の痛苦は忍ぶべきのみ。此地の温泉は今春以来かく大きなる旅館なども設けらるるようなりしにて、箱館《はこだて》と相関聯《あいかんれん》して今後とも盛衰《せいすい》すべき好位置に在り。眺望《ちょうぼう》のこれと指して云うべきも無けれど、かの市より此地まであるいは海浜《かいひん》に沿《そ》いあるいは田圃《たんぼ》を過ぐる路《みち》の興も無きにはあらず、空気|殊《こと》に良好なる心地して自然と愉快《ゆかい》を感ず。林長館といえるに宿りしが客あしらいも軽薄《けいはく》ならで、いと頼《たの》もしく思いたり。
 三十日、清閑《せいかん》独り書を読む。
 三十一日、微雨《びう》、いよいよ読書に妙《みょう》なり。
 九月一日、館主と共に近き海岸に到りて鰮魚《いわし》を漁する態を観《み》る。海浜に浜小屋《はまごや》というもの、東京の長家《ながや》めきて一列に建てられたるを初めて見たり。
 二日、無事。
 三日、午後箱館に至りキトに一宿す。
 四日、初めて耕海入道と号する紀州の人と知る。齢《よわい》は五十を超《こ》えたるなるべけれど矍鑠《かくしゃく》としてほとんと伏波将軍《ふくはしょうぐん》の気概《きがい》あり、これより千島《ちしま》に行かんとなり。
 五日、いったん湯の川に帰り、引かえしてまた函館に至り仮寓《かぐう》を定めぬ。
 六日、無事。
 七日、静坐《せいざ》読書。
 八日、おなじく。
 九日、市中を散歩して此地には居るまじきはずの男に行き逢《あ》いたり。何とて父母を捨て流浪《るろう》せりやと問えば、情婦のためなりと答う。帰後|独坐感慨《どくざかんがい》これを久《ひさし》うす。
 十日、東京に帰らんと欲すること急なり。されど船にて直航せんには嚢中《のうちゅう》足らずして興|薄《うす》く、陸にて行かば苦《くるし》み多からんが興はあるべし。嚢中不足は同じ事なれど、仙台《せんだい》にはその人無くば已《や》まむ在らば我が金を得べき理《ことわり》ある筋あり、かつはいささかにても見聞を広くし経験を得んには陸行にしくなし。ついに決断して青森行きの船出づるに投じ、突然《とつぜん》此地を後になしぬ。別《わかれ》を訣《つ》げなば妨《さまた》げ多からむを慮《おもんぱか》り、ただわずかに一書を友人に遺《のこ》せるのみ。
 十一日午前七時青森に着き、田中|某《ぼう》を訪《と》う。この行|風雅《ふうが》のためにもあらざれば吟哦《ぎんが》に首をひねる事もなく、追手を避《さ》けて逃《に》ぐるにもあらざれば駛急《しきゅう》と足をひきずるのくるしみもなし。さればまことに弥次郎兵衛《やじろべえ》の一本立の旅行にて、二本の足をうごかし、三本たらぬ智恵《ちえ》の毛を見聞を広くなすことの功徳《くどく》にて補わむとする、ふざけたことなり。
 十二日午前、田中某に一宴《いちえん》を餞《せん》せらるるまま、うごきもえせず飲み耽《ふけ》り、ひるいい終わりてたちいでぬ。安方町《やすかたまち》に善知鳥《うとう》のむかしを忍び、外の浜に南兵衛のおもかげを思う。浅虫というところまで村々|皆《みな》磯辺《いそべ》にて、松風《まつかぜ》の音、岸波の響《ひびき》のみなり。海の中に「ついたて」めきたる巌《いわお》あり、その外しるすべきことなし。小湊《こみなと》にてやどりぬ。このあたりあさのとりいれにて、いそがしぶる乙女《おとめ》のなまじいに紅染《べにぞめ》のゆもじしたるもおかしきに、いとかわゆき小女のかね黒々と染《そめ》ぬるものおおきも、むかしかたぎの残れるなるべしとおぼしくて奇《き》なり。見るものきくもの味《あじわ》う者ふるるもの、みないぶせし。笥《け》にもるいいを椎《しい》の葉のなぞと上品の洒落《しゃれ》など云うところにあらず。浅虫にいでゆあるよしなれど、みちなかなればいらずありき、途中《とちゅう》帽子《ぼうし》を失いたれど購《あがな》うべき余裕《よゆう》なければ、洋服には「うつり」あしけれど手拭《てぬぐい》にて頬冠《ほおかぶ》りしけるに、犬の吠《ほ》ゆること甚《はなはだ》しければ自ら無冠《むかん》の太夫《たゆう》と洒落ぬ。旅宿《やど》は三浦屋《みうらや》と云うに定めけるに、衾《ふすま》は堅《かた》くして肌《はだ》に妙ならず、戸は風|漏《も》りて夢《ゆめ》さめやすし。こし方行末おもい続けてうつらうつらと一夜をあかしぬ。
 十三日、明けて糠《ぬか》くさき飯ろくにも喰《く》わず、脚半《きゃはん》はきて走り出づ。清水川という村よりまたまた野辺地《のべち》まで海岸なり、野辺地の本町《ほんまち》といえるは、御影石《みかげいし》にやあらん幅《はば》三尺ばかりなるを三四丁の間|敷《し》き連ねたるは、いかなる心か知らねど立派なり。戸数は九百ばかりなり。とある家に入りて昼餉《ひるげ》たべけるに羹《あつもの》の内に蕈《きのこ》あり。椎茸《しいたけ》に似て香《かおり》なく色薄し。されど味のわろからぬまま喰《く》い尽《つく》しけるに、半里ほど歩むとやがて腹痛むこと大方ならず、涙《なみだ》を浮《うか》べて道ばたの草を蓐《しとね》にすれど、路上|坐禅《ざぜん》を学ぶにもあらず、かえって跋提河《ばだいが》の釈迦《しゃか》にちかし。一時《ひととき》ばかりにして人より宝丹《ほうたん》を貰《もら》い受けて心地ようやくたしかになりぬ。おそろしくして駄洒落《だじゃれ》もなく七戸《しちのへ》に腰折《こしお》れてやどりけるに、行燈《あんどう》の油は山中なるに魚油にやあらむ臭《くさ》かりける。ことさら雨ふりいでて、秋の夜の旅のあわれもいやまさりければ、


   さらぬだに物思う秋の夜を長み いねがてに聞く雨の音かな

 食うものいとおかしく、山中なるに魚のなますは蕈のためしもあれば懼《おそ》れて手もつけず、椀《わん》の中のどじょうの五分切りもかたはら痛きに、とうふのかたさは芋《いも》よりとはあまりになさけなかりければ、


   塩辛《しおから》き浮世のさまか七《しち》の戸《へ》の
     ほそきどじょうの五分切りの汁《しる》

 十四日、朝早く立《たち》て行く間なく雨しとしとふりいでぬ。きぬぎぬならばやらずの雨とも云うべきに、旅には憂《う》きことのかぎりなり。三本木もゆめ路にすぎて、五戸《ごのへ》にて昼飯す。この辺牛馬殊に多し。名物なれど喰うこともならず、みやげにもならず、うれしからぬものなりと思いながら、三の戸まで何ほどの里程《みちのり》かと問いしに、三里と答えければ、いでや一走りといきせき立《たっ》て進むに、峠《とうげ》一つありて登ることやや長けれども尽《つ》きず、雨はいよいよ強く面をあげがたく、足に出来たる「まめ」ついにやぶれて脚《あし》折るるになんなんたり。並木《なみき》の松もここには始皇をなぐさめえずして、ひとりだちの椎はいたずらに藤房《ふじふさ》のかなしみに似たり。隧道《トンネル》に一やすみす。この時またみちのりを問うに、さきの答は五十町一里なりけり。とかくして涙ながら三戸につきぬ。床《とこ》の間《ま》に刀掛《かたなかけ》を置けるは何のためなるにや、家づくりいとふるびて興あり。この日はじめて鮭《さけ》を食うにその味美なり。
 十五日、朝、雨気ありたれども思いきりて出づ。三の戸、金田一、福岡《ふくおか》と来りしが、昨日《きのう》は昼餉《ひるげ》たべはぐりてくるしみければ今日はむすび二ツもらい来つ、いで食わんとするに臨み玉子うる家あり。価を問えば六|厘《りん》と云う。三つばかり買いてなお進み行くに、路傍《ろぼう》に清水いづるところあり。椀《わん》さえ添えたるに、こしかけもあり。草を茵《しとね》とし石を卓《たく》として、谿流《けいりゅう》の※[#「榮」の「木」に代えて「糸」、第3水準1-90-16、90-2]回《えいかい》せる、雲烟《うんえん》の変化するを見ながら食うもよし、かつ価も廉《れん》にして妙なりなぞとよろこびながら、仰《あお》いで口中に卵を受くるに、臭《におい》鼻を突《つ》き味舌を刺《さ》す。驚《おどろ》きて吐《は》き出すに腐《くさ》れたるなり。嗽《くちそそ》ぎて嗽げども胸わろし。この度は水の椀にとりて見るにまたおなじ、次もおなじ。これにて二銭種なしとぞなりける。腹はたてども飯ばかり喰いぬ。


   鳥目《ちょうもく》を種なしにした残念さ
     うっかり買《かっ》たくされ卵子《たまご》に
   やす玉子きみもみだれてながるめり
     知りなば惜《お》しき銭をすてむや

 これより行く手に名高き浪打峠《なみうちとうげ》にかかる。末の松山を此地という説もあり。いずれに行くとも三十里余りを経《へ》ずば海に遇《あ》うことはなり難かるべし。但《ただ》し貝の化石は湯田というところよりいづるよしにて処々《ところどころ》に売る家あり、なかなか価安からず。かくてすすむほどに山路に入りこみて、鬱蒼《うっそう》たる樹、潺湲《せんかん》たる水のほか人にもあわず、しばらく道に坐《ざ》して人の来るを待ち、一ノ戸[#「一ノ戸」の「ノ」は小書き]まで何ほどあるやと問うに、十五里ばかりと答う。駭然《がいぜん》として夢か覚《うつつ》か狐子《こし》に騙《へん》せらるるなからむやと思えども、なお勇気を奮《ふる》いてすすむに、答えし男急に呼《よ》びとめて、いずかたへ行くやと云う。不思議に思いて、一の戸に行くなりと生《なま》いらえするに、彼《かれ》笑って、ああおのし、まようて損したり、福岡の橋を渡《わた》らねばならずと云う。余ここにおいていよいよ落胆《らくたん》せり。されどそのままあるべきにもあらず、日も高ければいそぎて行くに、二時《ふたとき》ばかりにして一の戸駅と云える標杭《しるしぐい》にあいぬ。またまたあやしむこと限りなし。ふたたび貝石うる家の前に出《い》で、価を問うにいと高ければ、いまいましさのあまり、この蛤《はまぐり》一升|天保《てんぽう》くらいならば一|石《こく》も買うべけれと云えば、亭主《ていしゅ》それは食わむとにやと問う。元よりなりと答う。煮《に》るかと云うに、いや生《なま》こそ殊《こと》にうましなぞと口より出まかせに饒舌《しゃべ》りちらせば、亭主、さらば一升まいらせむ、食いたまえと云う。その面《つら》つきいと真面目《まじめ》なれば逃げんとしたれども、ふと思い付きて、まず殻《から》をとりてたまわれと答えける。亭主|噴飯《ふきだ》して、さてさておかしきことを云う人よと云う。おかしさはこれのみならず、余は今日二時間ばかりにて十五里歩みぬ、またおかしからずやと云えば、亭主、否々、吾等《われら》は老《おい》たれども二時間に三十里はあゆむべしと云う。だんだん聞くに六町一里にて大笑いとなりぬ。昼めし過ぎて小繋《こつなぎ》まではもくらもくらと足引の山路いとなぐさめ難く、暮れてあやしき家にやどりぬ。きのこずくめの膳部《ぜんぶ》にてことごとく閉口す。
 十六日、朝いと早く暗き内に出で、沼宮内《ぬまくない》もつつと抜けて、一里ばかりにて足をいため、一寸余りの長さの「まめ」三個できければ、歩みにくきことこの上なけれど、休みもせず、ついに渋民《しぶたみ》の九丁ほど手前にて水飲み飯したため、涙ぐみて渋民に入りぬ。盛岡《もりおか》まで二十銭という車夫あり、北海道の馬より三倍安し。ついにのりて盛岡につきぬ。久しぶりにて女子らしき女子をみる。一体土地の風俗温和にていやしからず。中学は東京の大学に似たれど、警察署は耶蘇《やそ》天主堂に似たり。ともかくも青森よりは遥《はるか》によろしく、戸数も多かるべし。肴町《さかなまち》十三日町|賑《にぎわ》い盛《さかん》なり、八幡《はちまん》の祭礼とかにて殊更《ことさら》なれば、見物したけれど足の痛さに是非《ぜひ》もなし。この日岩手富士を見る、また北上川の源に沼宮内より逢《あ》う、共に奥州《おうしゅう》にての名勝なり。
 十七日、朝早く起き出でたるに足|傷《いた》みて立つこと叶《かな》わず、心を決して車に乗じて馳《は》せたり。郡山《こおりやま》、好地《こうち》、花巻、黒沢尻《くろさわじり》、金が崎、水沢、前沢を歴《へ》てようやく一ノ関に着す。この日行程二十四里なり。大町なんど相応の賑いなり。
 十八日、朝霧《あさぎり》いと深し。未明|狐禅寺《こぜんじ》に到り、岩手丸にて北上《きたかみ》を下る。両岸景色おもしろし。いわゆる一山|飛《とん》で一山来るとも云うべき景にて、眼|忙《いそが》しく心ひまなく、句も詩もなきも口惜《くちお》しく、淀《よど》の川下りの弥次よりは遥かに劣れるも、さすがに弥次よりは高き情をもてる故なるべしとは負惜《まけおし》みなり。登米《とよま》を過ぐる頃、女の児《こ》餅《もち》をうりに来る。いくらぞと問えば三文と答う。三毛かと問えばはいと云い、三厘かといえばまたはいと云う。なおくどく問えば怫然《ふつぜん》として、面ふくらかして去る。しばらくして石の巻に着す。それより運河に添うて野蒜《のびる》に向いぬ。足はまた腫《は》れ上りて、ひとあしごとに剣をふむごとし。苦しさ耐《た》えがたけれど、銭はなくなる道なお遠し、勤《ごん》という修行、忍《にん》と云う観念はこの時の入用なりと、歯を切《くいしば》ってすすむに、やがて草鞋《わらじ》のそこ抜けぬ。小石原にていよいよ堪《た》え難きに、雨降り来り日暮るるになんなんたり。やむをえず負える靴《くつ》をとりおろして穿《うが》ち歩むに、一ツ家のわらじさげたるを見当り、うれしやと立寄り一ツ求めて十銭札を与うるに取らず、通用は近日に廃《はい》せらるる者ゆえ厭《いと》い嫌《きら》いて、この村にては通用ならぬよしの断りも無理ならねど、事情の困難を話してたのむに、いじわる婆《ばばあ》めさらに聞き入れず。なくなく買わずにまた五六町すぎて、さても旅は悲しき者とおもいしりぬ。鴻雁《こうがん》翔天《しょうてん》の翼《つばさ》あれども栩々《くく》の捷《しょう》なく、丈夫《じょうふ》千里の才あって里閭《りりょ》に栄|少《すくな》し、十銭時にあわず銅貨にいやしめらるなぞと、むずかしき愚痴《ぐち》の出所はこんな者とお気が付かれたり。ようやくある家にて草鞋を買いえて勇を奮《ふる》い、八時半頃|野蒜《のびる》につきぬ。白魚の子の吸物《すいもの》いとうまし、海の景色も珍《めず》らし。
 十九日、夜来の大雨ようよう勢衰《いきおいおとろ》えたるに、今日は待ちに待ちたる松島見んとて勇気も日頃にましぬ。いでやと毛布《ケット》深くかぶりて、えいさえいさと高城にさしかかれば早や海原《うなばら》も見ゆるに、ひた走りして、ついに五大堂|瑞岩寺《ずいがんじ》渡月橋《とげつきょう》等うちめぐりぬ。乗合い船にのらんとするに、あやにくに客一人もなし。ぜひなく財布《さいふ》のそこをはたきて船を雇《やと》えば、ひきちがえて客一人あり、いまいましきことかぎりなし。されどおもしろき景色にめでて煩悩《ぼんのう》も軽きはいとよし。松島の景といえばただただ、松しまやああまつしまやまつしまやと古人もいいしのみとかや、一ツ一ツやがてくれけり千松島とつらねし技倆《ぎりょう》にては知らぬこと、われわれにては鉛筆《えんぴつ》の一ダース二ダースつかいてもこの景色をいい尽し得べしともおもえず。東西南北、前後左右、あるいは大あるいは小、高きあり、ひくきあり、みの亀《がめ》の尾《お》ひきたるごとき者、臥《ふ》したる牛の首あげたるごとき者あり、月島星島|桂島《かつらじま》、踞《きょ》せるがごときが布袋島《ほていじま》なら立てるごときは毘沙門島《びしゃもんじま》にや、勝手に舟子《かこ》が云いちらす名も相応に多かるべし。松吟庵《しょうぎんあん》は閑《かん》にして俳士《はいし》髭《ひげ》を撚《ひね》るところ、五大堂は寂《さ》びて禅僧《ぜんそう》尻《しり》をすゆるによし。いわんやまたこの時金風|淅々《せきせき》として天に亮々《りょうりょう》たる琴声《きんせい》を聞き、細雨|霏々《ひひ》として袂《たもと》に滴々《てきてき》たる翠露《すいろ》のかかるをや。過《すぐ》る者は送るがごとく、来《きた》るものは迎《むか》うるに似たり。赤き岸、白き渚《なぎさ》あれば、黒き岩、黄なる崖《がけ》あり。子美太白《しびたいはく》の才、東坡柳州《とうばりゅうしゅう》の筆にあらずはいかむかこの光景を捕捉《ほそく》しえん。さてそれより塩竈《しおがま》神社にもうでて、もうこの碑《ひ》、壺《つぼ》の碑《いしぶみ》前を過ぎ、芭蕉《ばしょう》の辻《つじ》につき、青葉の名城は日暮れたれば明日の見物となすべきつもりにて、知る人の許《もと》に行きける。しおがまにてただの一銭となりければ、そを神にたてまつりて、


  からからとからき浮世《うきよ》の塩釜《しおがま》で
     せんじつめたりふところの中

 はらの町にて、


  宮城野《みやぎの》の萩《はぎ》の餅《もち》さえくえぬ身の
     はらのへるのを何と仙台

 二十日、朝、曇《くも》り。午前九時知る人をたずねしに、言葉の聞きちがえにて、いと知れにくかりければ、


  いそがずはまちがえまじを旅人の
     あとよりわかる路次のむだ道

 二十一日、この日もまた我が得べき筋の金を得ず、今しばらく待ちてよとの事に逗留《とうりゅう》と決しける。
 二十二日、同じく閑窓《かんそう》読書の他なし。
 二十三日、同じく。
 二十四日、同じく。
 二十五日、朝、基督《キリスト》教会堂に行きて説教をきく。仏教もこの教も人の口より聞けば有難《ありがた》からずと思いぬ。
 二十六日、いかがなしけん頭痛|烈《はげ》しくしていかんともしがたし。
 二十七日、同じく頭痛す。
 二十八日、少許《すこし》の金と福島までの馬車券とを得ければ、因循《いんじゅん》日を費さんよりは苦しくとも出発せんと馬車にて仙台を立ち、日なお暮れざるに福島に着きぬ。途中白石の町は往時《むかし》民家の二階立てを禁じありしとかにて、うち見たるところ今なお巍然《ぎぜん》たる家無し。片倉小十郎は面白き制を布《し》きしものかな。福島にて問い質《ただ》すに、郡山より東京までは鉄路|既《すで》に通じて汽車の往復ある由《よし》なり。その乗券の価を問うにほとんど嚢中有るところと相同じければ、今宵《こよい》この地に宿りて汽車賃を食い込み、明日また歩み明後日また歩み、いつまでも順送りに汽車へ乗れぬ身とならんよりは、苦しくとも夜を罩《こ》めて郡山まで歩み、明日の朝一番にて東京に到らん方極めて妙《みょう》なり、身には邪熱《じゃねつ》あり足はなお痛めど、夜行をとらでは以後の苦みいよいよもって大ならむと、ついに草鞋穿《わらじば》きとなりて歩み出しぬ。二本松に至れば、はや夜半ちかくして、市は祭礼のよしにて賑やかなれど、我が心の淋《さび》しさ云うばかりなし。市を出はずるる頃より月明らかに前途《ゆくて》を照しくるれど、同伴者《つれ》も無くてただ一人、町にて買いたる餅《もち》を食いながら行く心の中いと悲しく、銭あらば銭あらばと思いつつようよう進むに、足の疲れはいよいよ甚しく、時には犬に取り巻かれ人に誰何《すいか》せられて、辛《から》くも払暁《あけがた》郡山に達しけるが、二本松郡山の間にては幾度《いくど》か憩《いこ》いけるに、初めは路の傍《かたわら》の草あるところに腰《こし》を休めなどせしも、次には路央《みちなか》に蝙蝠傘《こうもりがさ》を投じてその上に腰を休むるようになり、ついには大の字をなして天を仰ぎつつ地上に身を横たえ、額を照らす月光に浴して、他年のたれ死をする時あらば大抵《たいてい》かかる光景ならんと、悲しき想像なんどを起すようなりぬ。
 二十九日、汽車の中に困悶《こんもん》して僅《わず》かに睡《ねむ》り、午後東京に辛《から》くも着きぬ。久しく見ざれば停車場より我が家までの間の景色さえ変りて、愴然《そうぜん》たる感いと深く、父上母上の我が思いなしにやいたく老いたまいたる、祖母上《ばばうえ》のこの四五日前より中風とやらに罹《かか》りたまえりとて、身動きも得《え》したまわず病蓐《びょうじょく》の上に苦しみいたまえるには、いよいよ心も心ならず驚《おどろ》き悲しみ、弟妹等の生長せるばかりにはやや嬉《うれ》しき心地すれど、いたずらに齢《よわい》のみ長じてよからぬことのみし出《いだ》したる我が、今もなお往時《むかし》ながらの阿蒙《あもう》なるに慚愧《ざんき》の情身を責《せ》むれば、他を見るにつけこれにすら悲しさ増して言葉も出でず。
                          (明治二十年八月)

底本:ちくま日本文学全集『幸田露伴』 筑摩書房
   1992(平成4)年3月20日第一刷
親本:「ちくま文学の森」筑摩書房
入力:真先芳秋
校正:丹羽倫子
1998年9月16日公開
2003年11月25日修正
青空文庫作成ファイル:
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幸田露伴

努力論—— 幸田露伴

自序

 努力は一である。併し之を察すれば、おのづからにして二種あるを觀る。一は直接の努力で、他の一は間接の努力である。間接の努力は準備の努力で、基礎となり源泉となるものである。直接の努力は當面の努力で、盡心竭力の時のそれである。人はやゝもすれば努力の無效に終ることを訴へて嗟歎するもある。然れど努力は功の有と無とによつて、之を敢てすべきや否やを判ずべきでは無い。努力といふことが人の進んで止むことを知らぬ性の本然であるから努力す可きなのである。そして若干の努力が若干の果を生ずべき理は、おのづからにして存して居るのである。ただ時あつて努力の生ずる果が佳良ならざることもある。それは努力の方向が惡いからであるか、然らざれば間接の努力が缺けて、直接の努力のみが用ひらるゝ爲である。無理な願望《ぐわんまう》に努力するのは努力の方向の惡いので、無理ならぬ願望に努力して、そして甲斐の無いのは、間接の努力が缺けて居るからだらう。瓜の蔓に茄子を求むるが如きは、努力の方向が誤つて居るので、詩歌の美妙なものを得んとして、徒らに篇を連ね句を累ぬるが如きは、間接の努力が缺けて居るのである。誤つた方向の努力を爲すことは寧ろ少いが、間接の努力を缺くことは多い。詩歌の如きは當面の努力のみで佳なるものを得べくは無い。不勉強が佳なる詩歌を得る因《ちなみ》にはならぬが、たゞ當面の勉強のみに因つて佳なる詩歌が得らるゝものでは無い。朝より暮に至るまで、紙に臨み筆を執つたからとて、字や句の百千萬をば連ね得はするだらうが、それで詩歌の逸品は出來ぬ。此意に於て勉強努力は甚だ價が低い。で、努力を喜ばず、勉強を斥ける人もある。特に藝術の上に於ては自然の生成を尚び、努力を排する者も多い。それも有理の説である。努力萬能なりとは斷じ得ぬ。印度の古傳の如く、技藝天即ち藝術の神は六欲の圓滿を得た者の美睡の頭腦中よりおのづからにして生《な》り出づる者であるかも知れぬ。當面の努力のみで、必らず努力の好果が得らるゝならば、下手の横好といふ諺は世に存せぬであらう。併しそれにしても其は努力の排斥すべき所以にはならないで、卻つて間接の努力を要求する所以になつてゐる。努力無效果の事實は、藝術の源泉となり基礎となる準備の努力、即ち自性の醇化、世相の眞解、感興の旺溢、製作の自在、それ等のものを致すの道を講ずることが重要であるといふことを、徒らに紙に臨み筆を執るのみの直接努力を敢てしてゐるものに明示して居るのである。努力はよしや其の效果が無いにせよ、人の性の本然が、人の生命ある間は、おのづからにして人の敢へてせんとするものである。厭ふことは出來ぬものである。
併し努力を喜ばぬ傾の人に存することを否定することは出來ぬ。將に睡らんとする人と漸く死せんとする人とは、直接の努力をも間接の努力をも喜ばぬ。それは燃ゆべき石炭が無くなつて、火が※[#「火+稻のつくり」、第4水準2-79-88]を擧げることを辭退して居るのである。
努力は好い。併し人が努力するといふことは、人としては猶不純である。自己に服せざるものが何處かに存するのを感じて居て、そして鐡鞭を以て之を威壓しながら事に從うて居るの景象がある。
努力して居る、若くは努力せんとして居る、といふことを忘れて居て、そして我が爲せることがおのづからなる努力であつて欲しい。さう有つたらそれは努力の眞諦であり、醍醐味である。
此の册の中、運命と人力と、自己革新論、幸福三説、修學の四標的、凡庸の資質と卓絶の事功と、接物宜從厚、四季と一身と、疾病説、以上數篇は明治四十三年より四十四年に於て成功雜誌の上に、着手の處、努力の堆積二篇は同じ頃の他の雜誌に、靜光動光は四十一年成功雜誌に、進潮退潮、説氣山下語は此の書の刊に際して草したのである。努力に關することが多いから、此の書を努力論と名づけた。
努力して努力する、それは眞のよいものでは無い。努力を忘れて努力する、それが眞の好いものである。併し其の境《さかひ》に至るには愛か捨《しや》かを體得せねばならぬ、然らざれば三|阿僧《あそう》祗劫《ぎごふ》の間なりとも努力せねばならぬ。愛の道、捨の道を此の册には説いて居らぬ、よつて猶且努力論と題してゐる。

壬子(大正元年)の夏著者識

運命と人力と

 世に所謂運命といふが如きもの無ければ則ち已む、若し眞に所謂運命といふが如きこれ有りとすれば、必らずや個人、若くは團體、若くは國家、若くは世界、即ち運命の支配を受くべきものと、之を支配するところの運命との間に、何等かの關係の締結約束され居るものが無くてはならぬ。勿論古よりの英雄豪傑には、「我は運命に支配せらるゝを好まず、我自ら運命を支配すべきのみ」といふが如き、熱烈|鷙悍《しかん》の感情意氣を有したものの存することは爭はれぬ事實で、彼の『天子は命《めい》を造る、命を言ふ可からず』と喝破した言の如きも、「天子といふものは人間に於ける大權の所有者で、造物者の絶對權を有するが如くに命を造るべきものである、それが命の我に利せざるを歎じたりなんどするといふが如き薄弱なことの有る可きものでは無い」と英雄的に道ひ放したものである。如何にも面白い言《ことば》であつて、凡そ英雄的性格を有して居る人には、常に是の如き意氣感情が多少存在して居るものと云つても宜い位であつて、そして又是の如き激烈勇猛の意氣感情を抱いて居るものは、即ち英雄的性格の人物である一徴、と云つても差支ない位である。運命が善いの惡いのと云つて、女々しい泣事を列べつゝ、他人の同情を買はんとするが如き形迹を示す者は、庸劣|凡下《ぼんげ》の徒の事である。苟も英雄の氣象あり、豪傑の骨頭あるものは、『大丈夫命を造るべし、命を言ふべからず』と豪語して、自ら大斧を揮ひ、巨鑿を使つて、我が運命を刻み出して然る可きなのである。徒らに賣卜者、觀相者、推命者流の言の如き、『運命前定説』の捕虜となつて、そして好運の我に與《く》みせざるを歎ずるといふが如きことは爲すべからざる筈である。
およそ世の中に、運命が自己の生誕の日の十干十二支や、九宮二十八宿やなんぞによつて前定して居るものと信じたり、又は自己の有して居る骨格や血色やなんぞに因つて前定して居るものと信じて、そして自己の好運ならざるを歎ずる者ほど、悲しむ可き不幸の人は無い。何故となれば、其の如き薄弱貧小な意氣や感情や思想は、直に是れ否運を招き致し、好運を疎隔するに相當するところのもので有るからである。生れた年月や、おのづからなる面貌やが、眞に其人の運命に關するか關せぬかは別問題としても、然樣《さう》いふことに頭を惱ましたり心を苦しめたりするといふことが、既に餘り感心せぬことである。
荀子に非相の篇が有つて、相貌と運命との關せざることを説いて居るのは二千餘年の昔である。論衡に命虚《めいきよ》の論があつて、生れた年月と運命との相關せざることを言つて居るのは漢の時である。よしや其等の論議が眞を得て居ないで、相貌は實に運命に關し、生年月日は實に運命に關するにしたところで、彼の因襲的從順的な支那人の間にさへ、然樣《さう》いふところの、運命の前定といふが如き思想に屈服せぬ思想を抱いたものが、遠い古から存したことを思ふと、甚だ頼もしい氣がすると同時に、それだのに今の人にして猶且運命前定論に屈伏するが如き情無い思想を抱いて居るものも有るかと思つては、歎息せざるを得ない譯なのである。
實に荀子の言つた通り、相貌は肖て心志は肖ざるものもあり、王充の言つた通り、同時に埋殺された趙の降卒何十萬が、皆同じ生年月を有した譯でも無からうが、其等の事は姑らく論外として置いて、兎に角運命前定論などには屈伏し難いのが、人の本然の感情であるといふことは爭はれない。吾人は或は運命に支配されて居るもので有らう、併し運命に支配さるゝよりは運命を支配したいといふのが吾人の欺かざる欲望であり感情である。然らば則ち何を顧みて自ら卑うし自ら小にせんやである。直に進んで自ら運命を造る可きのみである。是の如き氣象を英雄的氣象といひ、是の如きの氣象を有して、終にこれを事實になし得るものを英雄といふのである。
若し運命といふものが無いならば、人の未來はすべて數學的に測知し得べきもので、三々が九となり、五々が二十五となるが如く、明白に今日の行爲をもつて明日の結果を知り得べきである。併し人事は複雜で、世相は紛糾して居るから、容易に同一行爲が同一結果に到達するとは云へぬ。そこで何人の頭にも運命といふやうなものが、朧氣に意識されて、そして其の運命なるものが、偉大の力を以て吾人を支配するかのやうに思はれるのである。某《ぼう》は運命の寵兒であつて、某は運命の虐待を被つて居るやうに見えるといふことがある。自己一身にしても或時は運命の順潮に舟を行《や》つて快を得、或時は運命の逆風に帆を下して踟※[#「足へん+厨」、第3水準1-92-39]するやうに見えるといふことがある。そこで『運命』『運命』といふ語は、容易ならぬ權威のある語として、吾人の耳に響き、胸に徹するのである。
但し聰明な觀察者となり得ぬまでも、注意深き觀察者となつて、世間の實際を見渡したならば、吾人は忽ちにして一の大なる急所を見出すことが出來るで有らう。それは世上の成功者は、皆自己の意志や、智慮や、勤勉や、仁徳の力によつて自己の好結果を收め得たことを信じて居り、そして失敗者は皆自己の罪では無いが、運命の然らしめたが爲に失敗の苦境に陷つたことを歎じて居るといふ事實である。即ち成功者は自己の力として運命を解釋し、失敗者は運命の力として自己を解釋して居るのである。
此の兩個の相反對して居る見解は、其の何《ど》の一方が正しくて、何の一方が正しからざるかは知らぬが、互に自ら欺いて居る見解で無いには相違無い。成功者には自己の力が大に見え、失敗者には運命の力が大に見えるに相違無い。
是の如き事實は、抑※[#二の字点、1-2-22]何を語つて居るので有らうか。蓋し此の兩樣の見解は、皆いづれも其の一半は眞なのであつて、兩樣の見解を併合する時は、全部の眞《まこと》となるのでは無からうか。即ち運命といふものも存在して居つて、そして人間を幸不幸にして居るに相違無いが、個人の力といふものも存在して居つて、そして又人間を幸不幸にして居るに相違無いといふことに歸着するのである。たゞ其の間に於て成功者は運命の側を忘れ、失敗者は個人の力の側を忘れ、各※[#二の字点、1-2-22]一方に偏した觀察をなして居るのである。
川を挾んで同じ樣の農村がある。左岸の農夫も菽《まめ》を種ゑ、右岸の農夫も菽を作つた。然るに秋水大に漲つて左岸の堤防は決潰し、左岸の堤防の決潰した爲に右岸の堤防は決潰を免れたといふ事實が有る。此時に於て、左岸の農夫は運命の我に與《く》みせざるを歎じ、右岸の農夫は自己の熱汗の粒々辛苦の結果の收穫を得たことを悦んだとすれば、其の兩者はいづれも欺かざる、又誤まらざる、眞事實と眞感想とを語つて居るのである。其の相反して居るの故を以て左岸の者の言と、右岸の者の言との、那《ど》の一方かが、虚僞で有り誤謬で有るといふことは言へぬのである。そして天運も實に有り、人力も實に有ることを否む譯には行かぬ。たゞ左岸の者は、人力を遺《わす》れて運命を言ひ、右岸の者は運命を遺れて人力を言つて居るに過ぎずして、その人力や運命は、川の左右を以て扁行扁廢して居るのでは無いことも明白である。
扨既に運命といふものが有つて、冥々に流行するといふ以上は、運命流行の原則を知つて、そして好運を招致し、否運を拒斥したいと云ふのは、誰しもの抱くべき思念である。そこで此の至當な欲望に乘じて、推命者だの、觀相者だの、卜筮者だのが起つて、神祕的の言説を弄するのであるが、神祕的のことは姑らく擱いて論ずまい。吾人は飽までも理智の燭を執つて、冥々を照らす可きである。こゝに於て理智は吾人に何を教へるで有らう。
理智は吾人に教へて曰く、運命流行の原則は、運命其物のみ之を知る。たゞ運命と人力との關係に至つては我能く之を知ると。
運命とは何である。時計の針の進行が即ち運命である。一時の次に二時が來り、二時の次に三時が來り、四時五時六時となり、七時八時九時十時となり、是の如くにして一日去り、一日來り、一月去り、一月來り、春去り、夏來り、秋去り、冬來り、年去り、年來り、人生れ、人死し、地球成り、地球壞れる、其が即ち運命である。世界や國家や團體や個人に取つての好運否運といふが如きは、實は運命の一小斷片であつて、そしてそれに對して人間の私の評價を附したるに過ぎぬのである。併し既に好運と目すべきものを見、否運と目すべきものあるを覺ゆる以上は、其の好運を招き致し、否運を拒斥したいのは當然の欲望である。で、若し運命を牽き動かす可き線條があるならば、人力を以て其の幸運を牽き來り招き致しさへすれば宜いのである。即ち人力と好運とを結び付けたいので、人力と否運とを結び付けたくないのである。それが萬人の欺かざる欲望である。
注意深き觀察者となつて世上を見渡すことは、最良の教を得る道である。失敗者を觀、成功者を觀、幸福者を觀、不幸者を見、而して或者が如何なる線綫を手にして好運を牽き出し、或者が如何なる線綫を手にして否運を牽き出したかを觀る時は、吾人は明かに一大教訓を得る。これは即ち好運を牽き出し得べき線は、之を牽く者の掌《たなごゝろ》を流血淋漓たらしめ、否運を牽き出すべき線は、滑膩油澤《かつじいうたく》なる柔軟のものであるといふ事實である。即ち好運を牽き出す人は常に自己を責め、自己の掌より紅血を滴らし、而して堪へ難き痛楚を忍びて、其の線を牽き動かしつゝ、終に重大なる體躯の好運の神を招き致すのである。何事によらず自己を責むるの精神に富み、一切の過失や、齟齬や、不足や、不妙や、あらゆる拙なること、愚なること、好からぬことの原因を自己一個に歸して、決して部下を責めず、朋友を責めず、他人を咎めず、運命を咎め怨まず、たゞ/\吾が掌の皮薄く、吾が腕の力足らずして、好運を招き致す能はずとなし、非常の痛楚を忍びつゝ、努力して事に從ふものは、世上の成功者に於て必らず認め得るの事例である。蓋し自ら責むるといふ事ほど、有力に自己の缺陷を補ひ行くことは無く、自己の缺陷を補ひ行くことほど、自己をして成功者の資格を得せしむるものの無いのは明白な道理である。又自ら責むるといふことほど、有力に他の同情を惹くことは無く、他の同情を惹くことほど、自己の事業を成功に近づけることは無いのも明白な道理である。
前に擧げた左岸の農夫が菽《まめ》を植ゑて收穫を得ざりし場合に、其の農夫にして運命を怨み咎むるよりも、自ら責むるの念が強く、是我が智足らず、豫想密ならずして是の如きに至れるのみ、來歳は菽をば高地に播種し、低地には高黍《たかきび》を作るべきのみ、といふ樣に損害の痛楚を忍びて次年の計を善くしたならば、幸運は終に來らぬとは限るまい。すべて古來の偉人傑士の傳記を繙いて見たならば、何人も其の人々が必らず自ら責むるの人であつて、人を責め他を怨むやうな人で無い事を見出すで有らうし、それから又飜つて各種不祥の事を惹起した人の經歴を考へ檢《しら》べたならば、必らず其の人々が自己を責むるの念に乏しくて、他を責め人を怨む心の強い人である事を見出すで有らう。否運を牽き出す人は常に自己を責めないで他人を責め怨むものである、そして柔順な手當りの好い線を手にして、自己の掌を痛むる程の事をもせず、容易に輕くして且つ醜なる否運の神を牽き出し來るのである。
自己の掌より紅血を滴らすか、滑澤柔軟のもののみを握るか、此の二つは、明らかに人力と運命との關係の好否を語る所の目安である。運命のいづれかを招致せんとするものは、思を致すべきである。
[#改丁]

着手の處

 着手の處の不明な教は、如何に崇高な教でも、莊嚴な教でも、或は正大圓滿な教でも、教へらるゝ者に取つては、差當り困卻を免れぬ譯である。本來を云へば、教には着手の處の不明なものなぞが有る可き譯は無い。しかし吾人は實際其の旨意が甚だ高遠であることを感ずるが、それと同時に、漠として着手の處を見出し難いものに遭遇することが少く無い。それも歳月が立つて見ると、實は教其の物が漠として着手の處を認めしめないのではなくて、自分が或程度に達して居なかつた其の爲に、着手の處を見出し得なかつたのだと悟《さと》るので有るが、それは兎に角に、やゝもすると着手の處を知り得ない教に遭遇する事のあるといふ事は、誰しも實驗する事實で有るらしい。戲談ならば、論理的遊戲とも云ふべき謎のやうな教も宜いが、實際の利益を得ようといふ意で教を請ふのに、さて着手の處の分らぬ教を得たのでは實に弱る譯である。そこで問ふ者は籠耳《かごみゝ》になつて仕舞つて、教へは聞いたには違ひ無いが何らの益をも得ずに終るといふ事も少く無い。それは聞く人にも聞かせる人にも、不本意千萬なるに相違無い。教といふものも、兎もすれば一場の座談になる傾向が有りは仕ないか。そして又所謂「籠耳」で終る傾向が有りは仕まいかと危まれるけれども、若し左樣《さう》で有つたならば、それは聽者にも談者にも、着手の處といふことが強く印記されて居なかつた爲として、省みなければならないので、教其の物に就て是非をす可きではないのであらう。
着手の處、着手の處と尋ねなければならぬ。播種《はしゆ》耕耘《かううん》の事を學ぶとしても、經營建築の事を學ぶとしても、操舟航海の事を學ぶとしても、軍旅行陣の事を學ぶとしても、畫を學ぶとしても、書を學ぶとしても、着手の處、着手の處と逼《せ》り詰めて學ぶので無くては、百日過ぎてもまだ講堂の内に入らぬので有る、一年經つても實踐の域に進まぬので有る。何樣《どう》して心會《しんゑ》體得のなんのといふ境地に到り得るもので有らう。何でも彼でも着手の處を適切に知り得て、そしてそこに力を用ひ功を積んで、そしてそこから段々と進み得べきでは有るまいか。さて其樣《さう》ならば着手の處は何《ど》の樣なところで有らうか。それは蓋し學ぶところのもの如何によつて違ふで有らうから、今直に之を掲げ示す事は出來ぬが、一般の修養の上からならば、教ふる者に於ては敢て示せぬでは無からう。けれども着手の處、着手の處と逼《せ》り詰めて、人々各自が其の志す所の道程に於て或點を認め出した方が妙味が有るで有らう。

自己の革新

 歳といふものは何處に首が有り尾が有るといふ可き筈の者では無いが、古俳人の所謂「定め無き世の定め哉」であつて、おのづからにして人間には大晦日も有れば元日も有り、終に大晦日は尾の如く、元日は首《かしら》の如く思はるゝに至つて居るので有る。扨そこで既に頭が有り尾が有るといふことになると、歳の尾たる大晦日には一年の總勘定を行つて見、歳の首には將來の計畫をも行《や》つて見たくなるのが人の常情で有る。歳末の感慨やら、年頭の希望やらは、此の人情からして生じて來るので、誰しも然樣《さう》自分の思つたやうに物事の運べて居るものは鮮《すくな》いのであるから、歳末には日月の逝き易くして、流水奔馬の如くなるを今更ながら感歎し、そして又宿志の蹉※[#「足へん+它」、第3水準1-92-33]として所思の成就せざるを恨み歎くのが常で有り、それから又年首には、屠蘇の盃を手にし、雜※[#「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52]の膳に對《むか》ふに及んで、今年こそはと自ら祝福して、前途に十二分の希望と計畫とを懸けて、奮然として振ふのが常で有るのである。歳に首《かしら》があり尾が有るべき理は無いなどと、愚にも付かぬ理窟などを考へて居るものは一人だつて有りは仕ない。大抵の人は歳末には感慨嗟歎し、年頭には奮起祝福するのが常で有る。實に人情自然、然樣有るべき理なので有る、當然なので有る。大人小人、俊傑平凡の別無く、蓋し皆然樣いふ感情を懷くので有るから、即ちそれは正當の感情なのである。
是の如き感情の發動が正當で有るとすれば、吾人は其の歳末の嗟歎をば本年度に於ては除き去り、そして其の年頭の希望をば本年度に於ては實現したいと考ふることが、第二に起つて來るところの意思であつて、其の意思は本より正當にして、且美なる意思なのである。
有體を云へば、誰しも皆毎年々々に是の如き感情を懷き、是の如き意思を起し、そして又毎年々々嗟歎したり、發憤したりして居るのである。で、脚の立場を動かして、暫らく自己といふものに同情せぬ自己になつて客觀して見れば、年々歳々假定的の歳末年頭に於て、某甲《なにがし》なる一の拙き俳優が同じやうな筋書によつて、同じやうな思入れを、同じやうな舞臺の、同じやうな状態の、同じやうな機會に於て演じて居るのに過ぎぬのを認めない譯には行かないから、笑ひ出し度くもなり、馬鹿々々しいといふやうな考も起らずには居ない。が、併し此の考は自己に取つては決して良い考では無くつて、如何に達觀して悟《さと》つたやうな事を思つたからとて、そんなら明日から世外の人となれるかと云ふに、然樣《さう》はなれぬといふのなら、矢張り正直に筋書に從つて、同じ感慨、同じ希望、同じ思入れを爲《し》た方が宜いのである。すると、努力すべきは、たゞ來るべき歳末又は年頭に於ては、今迄とは些し違つた役廻りを受取つて、少しは氣※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]を吐き、溜飮を下げるやうなことを演ぜんとして、其の注文の通り貫けるやうにとすべき一事である。即ち某甲《なにがし》といふ自己を『新』にすべきのみなのである。例に依つて例の如き某甲では宜《い》けないから、例の某甲よりは優れた某甲に自己を改造すべきよりほかに正當な道は無いのである。
けれども其は知れ切つた事である。誰も皆『新しい自己』を造りたい爲に腐心して居るので有るが、其の新しい自己が造れぬので、歳末年頭の嗟歎や祝福を繰返すのである。と、いふ評言《ことば》は其處此處から出るに相違無い。如何にも自他共に實際は然樣《さう》で有らう。併し新しい自己が造れぬと定まつて居るのでは無いから、多くの人が新しい自己を造らんとして努力しても造れぬからと云つて、都《す》べての人が新しい自己を造り得ぬとは限らぬ。イヤ爲す有る人が隨分去年の自己と異なつた今年の自己を造り、或は一昨年の自己と違つた今年の自己を造つて、年末の嗟歎の代りに凱歌を擧げて、竊に歡呼の聲を洩して居るのも世の中には少からず有らう。して見れば若し新しい好い自己を造り得なかつたとあれば、其は新しい好い自己を造り得ない道理が有つてでは無くて、新しい好い自己を造るに適しない事を爲して歳月を送つたからだと云つて宜しいのである。即ち新しい自己を造るべき道を考へて之を實行することが粗漏で有つたために、新しい自己が造れなかつたといふ事は明らかなので有る。
同じ貨幣は同じ時に於ては同じ價値を有する道理で有る。若しも去年や一昨年と同一の自己で有るならば、自己が受取るべき運命も同一なるべき筈で有る。即ち新しい自己が造り成されぬ以上は、新しい運命が獲得される譯は無い。同一の自己は同一の状態を繰り返すだらう。そして其樣な事を幾度と無く繰り返す中に、時計のゼンマイは漸く弛んで、其の人の活力は漸く少くなり、終に幸福を得ざるのみならず、幸福を得べき豫想さへ爲し能はざるに至つて仕舞ふのであらう。で有るから大悟して幸不幸を雙忘して仕舞ひ得れば兎も角も、普通の處から立論すれば、在來年々に不滿足を感じて、嗟歎したり祝福したりして居るやうなものならば、是非共振ひ立つて自己を新《あらた》にして、そして新なる運命の下に新しい境遇を迎へねばならぬので有る。で、それなれば何樣《どう》して自己を新にしようかといふのが、是當面の緊急問題である。
此の問題は一つ勘査して見たい問題で有る。第一何によつて自己を新《あらた》にしたもので有らうか、といふ事が先決せられねばならぬ。即ち自己によつて自己を新にするか、他によつて自己を新にするか、といふ事で有る。こゝに自然の一塊石が有ると假定する。此の一塊石は或形状或性質を有して長い年月の間同一の運命を繰返して居たものとする。此の石に新しい運命を得させようとするには、此の石を新にすれば自ら成立つので有る。即ち他力を以て、或は其の凸凹を有用的にし、或は其の表面を裝飾的にすれば、其の石は建築用、或は器財用として用ひらるゝに至るので有らう。此は他によつて自己を新にして、そして自ら新しい運命を致したのである。又こゝに一醫學生が有つて、數年開業試驗に應じて、數年間同一の運命を繰返して居たものとする。此の醫學生が一朝にして同じ貨幣は同じ價値を有するものだといふことを悟り、發憤勉勵して、研鑚甚だ力めた末に試驗及第して開業するを得たものとすれば、それは自己によつて自己を新にしたので有る。
此の例のやうに、自己を新《あらた》にするにも、他によるのと、自らするのとの二ツの道が有る。他力を仰いで、自己の運命をも、自己其物をも新にした人も、決して世に少くは無い。立派な人や、賢い人や、勢力者や、黽勉家や、それらの他人に身を寄せ心を託して、そして其の人の一部分のやうになつて、其の人の爲に働くのは、即ち自己のために働くのと同じで有ると感じて居て、其の人と共に發達し、進歩して行き、詰り其の人の運命の分前を取つて自己も前路を得て行くといふのも世間に在ることで有つて、決して慚づ可き事でも厭ふ可きことでも無い。矢張《やツぱり》一の立派な事なのである。往々世に見える例で有るが、然程《さほど》能力の有つた人とも見え無かつた人が、或他の人に隨身して數年を經たかと思ふ中に、意外に其の人が能力の有る人になつて頭角を出して來る、といふのが有る。で近づいて其の人を觀ると既に舊阿蒙では無くて、其の人物も實際に價値を増して居つて、目下の好運を負うて居るのも成程不思議は無い、と思はれるやうになつて居るのがある。其は即ち其の初め、或人に身を寄せた時からして、他《ひと》によつて新しい自己を造り出し始めたので、そして新しい自己が出來上つた頃、新しい運命を獲得したのである。此の他力によつて新しい自己を造るといふ道の最も重要な點は、自分は自分の身を寄せて居るところの人の一部分同樣であるといふ感じを常に存する事なので有つて、決して自己の生賢《なまさか》しい智慧やなんぞを出したり、自己の爲に小利益を私しせんとする意を起したりなんぞしてはならぬのである。
他人によつて自己を新《あらた》になさうとしたらば、昨日の自己は捨てて仕舞はねばならぬのである。他人によつて新しい自己を造らうと思ひながら、矢張り自己は昨日の自己同樣の感情や習慣を保存して、内々一家の見識なぞを立てて居たいと思ふならば、それは當面の矛盾であるからして、何等の益を生じないばかりで無く、卻つて相互に無益の煩勞を起す基である。それほど自己に執着して居る位に、自己を好い物に思つて居るならば、他人に寄る事も要らないから自己で獨立して居て、そして在來の自己通りの状態や運命を持續して、自ら可なりとして居るが宜いのである。新しい自己を造る要も無いやうなものである。樹であるならば撓めることも出來るが、化石で有つては撓めることは出來ない。化石的自己を有して居る人も世には少く無い。若し化石的自己を有して居る人ならば、他力を頼んでも他力の益を蒙る事は蓋し少いで有らう。藤であるならば竹に交つても眞直にはなるまいが、蓬であるならば麻に交れば直《すぐ》になる。世には蓬的《よもぎてき》自己《じこ》を有して居る人も少くは無い、若し蓬的自己を有して居る人ならば、自己を沒卻して仕舞つて、自己より卓絶した人、即ち自己が然樣《さう》有り度いと望むやうな人に隨從して、其の人の立派な運命の圈中に於て自己の運命を見出すのも、見苦しい事では無いのみならず、合理的な賢良な事である。古來の良臣といふのには蓋し此の類の人が有るので有らう。これは他力によつて自己を新《あらた》にする方の談《はなし》である。
他力によつて自己を新《あらた》にするのには、何より先に自己を他力の中に沒卻しなければならぬのである。丁度淨土門の信者が他力本願に頼る以上は憖じ小才覺や、えせ物識《ものしり》を棄てて仕舞はねばならぬやうなものである。併し世には又|何樣《どう》しても自己を沒卻することの出來ぬ人もある。然樣《さう》いふ人は自ら新しい自己を造らんと努力せねばならぬのである。他力に頼るのは易行道《いぎやうだう》であつて、此は頗る難行道《なんぎやうだう》である。何故難行道で有るかと云ふに、今までの自己が宜しくないから、新しい自己を造らうといふのであるのに、其造らうといふものが矢張り自己なので有るからである。之を罵り嘲つて見るならば、恰も自己の脚の力によつて自己を空中に騰らしめんとするが如きもので有つて、殆ど不可能であると云ひたい。であるから成程世間の多數の人が毎年々々嗟歎したり祝福したりして、新しい自己を造らうと思ひ※[#「(屮/師のへん+辛)/子」、第4水準2-5-90]《た》ちながら、新しい自己を造り得ないで、又年々歳々同じ事を繰り返す譯である。けれども一轉語を下して見ようならば、『自己ならずして抑※[#二の字点、1-2-22]誰が某甲《なにがし》を新にせんや』で有る。
眞實の事を云へば、我流で碁が強くなる事は甚だ望の少い事で、卓絶した棊客に頼つて學んだ方が速に上達すると同じく、世間で自力のみで新しい自己を造つて年々歳々に進歩して行く人は非常に少く、矢張り他力に頼つて、そして進歩して行く人の方が多いので有る。が、自ら新しい自己を造らんとすることは實に高尚偉大な事業で有つて、假令《たとひ》其の結果は甚だ振はざるにせよ、男らしい立派な仕事たるを失はぬのである。況んや百川《ひやくせん》海《うみ》を學んで海《うみ》に至るであるからして、其の志さへ失はないで、一蹶しても二躓しても、三顛四倒しても、起上り/\して敢て進んだならば、鈍駑も奮迅すれば豈寸進無からんやである。であるからして、必らずや一年は一年に、一月は一月に、好處に到達するに疑は無いのである。自ら新にするといふことは、換言すれば詰り個々の理想を實現せんとする努力であるから、豈其の人の爲とのみ云はんやで、然樣《さう》いふ貴い努力が積累ねらるればこそ世が進歩するのであるから、實に世間全體に取つても甚だ尚ぶべく嘉《よみ》す可き事なのである。みづから新しくせんとする人が少くなれば、國は老境に入つたのである。現状に滿足するといふ事は、進歩の杜絶といふ事を意味する。現状に不滿で、未來に懸望して、そして自ら新にせんとするの意志が強烈で有れば、即ちそれが其の人の生命の存する所以なのである。他力に頼つて自己を新《あらた》にしようとするにしても、信といふものは自己に由つて存するのであるから、即ち他力に頼る中に、自力の働が有る。自力に依つて自己を新にせんとするにしても、自照の智慧は實に外圍からの賜物で有るから、自力に依る中に他力の働が有る。自力他力と云つて、強ひて嚴正には差別する事も難い位のものである。併し他力に頼る上は自己を沒卻するので有るから、舟に乘り車に乘つたやうなもので、大に易い氣味が有るが、自ら新《あらた》にせんとする以上は、自家の手脚を以て把握し歩行しなければならぬのだから、當面に直に考量作爲を要するので有るが、扨|何樣《どう》したらば自ら新にする事が出來よう。
假定するのでは無い、蓋し大抵の人の實際が斯樣なので有る。「某甲《なにがし》當年何十何歳、自ら顧みるに從來の自己は自己の豫期したりし所に負《そむ》くこと大にして、而して今日に及べり、既往は是非に及ばず、今後は奮つて自ら新にし、自己をして善美のものたらしめ、從つて自己の目的希望をして遂げしめ、福徳圓滿、自己の理想境に到達するを期せん。」といふやうな事を思つて居るのが普通善良の人の懸直無しの所で、此より下つた人は自ら新にするの工夫も爲さず、運命だけが新規上等のものになつて現前せんことを望んで居る位のもので有らうから、其は論ずるに足らぬとして擱いて、其なら差當り何樣して自ら新しい自己を造らうとしたら宜いかが喫緊な研究問題なのである。そして其の着手着意の處を知り得て過たずに、實作實效の境に處し得て錯《あや》まらざらんことを人も我も欲するのである。
自ら新にする第一の工夫は、新にせねばならぬと信ずるところの舊いものを一刀の下に斬つて捨てて、餘※[#「(屮/師のへん+辛)/子」、第4水準2-5-90]《よげつ》を存せしめざることである。雜草が今まで茂つてのみ居た圃《はたけ》を、これではならぬから新に良好な菜蔬を仕立てようとする場合であれば、それは即ち矢張り敢て新にするので有つて、若し其の地が新にされ了れば、多少はあれ菜蔬が出來る時が來て、即ち從來とは異つた運命が獲得される譯なのである。然れば其は雜草を棄てて菜蔬にせねばならぬと信ずるのであるから、第一に先づ新にせねばならぬ舊いもの、即ち雜草を根きり葉きり、耘《くさぎ》り去つて仕舞はねばならぬものである。舊いものは敵である。自分の地に生じて居たものでも、何でも古いものは敵である。雜草を耘り去つて仕舞はねば、新しく菜蔬は播き付けられぬのである。そこで此の道理に照らせば自然分明であるが、今までの自分の心術でも行爲でも、苟も自ら新にせんと思ふ以上は、其の新にせねばならぬと信ずるところの舊いものを、大刀一揮で、英斷を振つて斫り倒して仕舞はねばならぬものである。例へば今まで做し來つたところの事は、習慣でも思想でも何でも一寸棄て難いものであるが、今までの何某《なにがし》で無い何某にならうといふ以上は、今までの習慣でも思想でも何でも惡い舊いものは總べて棄てなければならぬ。併し然樣《さう》なると未練や何ぞが出て棄てられぬものである。妙な辯護説などを妙なところから考へ出して棄てぬものである。だが、古い齒を拔き去ることに於て遲疑しては、新しい齒の爲にならぬ、草莱を去らねば嘉禾は出來ぬのである。去年の自己は自己の敵であると位に考へねばならぬのである。何を斬つて棄てなければならぬかは人々によつて異なつて居るだらうが、人々皆自ら能く知つて居るだらう。
具象的に語れば斯樣で有る。從來不健康で有つた人ならば、不健康は一切の不妙の事の因《もと》で有るから、自ら新《あらた》にして健康體にならねばならぬと思ふのである。さて然樣《さう》思うたらば、自己の肉體に對する從來の自己の扱ひ方を一應糾して見て、先づ其の弊の顯著なる箇條を斬つて棄てて斥けて仕舞はねばならぬ。そして其の點に於て努力して新にせねばならぬ。例を擧げよう。從來貪食家で胃病勝であつたらば、貪食といふ事を斬つて棄てねばならぬ、節食せねばならぬ。貪食の爲に辯護して、貪食でも運動を多くしたら宜からうなぞと云ふのは宜く無い。雜草を拔かずとも肥料をさへ多く與へたら菜蔬が生長する餘地は有るだらう、といふやうな理窟は、理窟としては或を成立つで有らうけれども、要するに中正の説では無い。從來と同樣な身的行爲を保つて居れば、從來と同樣な身的状態を得るのは當然の事である。從來と異なつた身的状態を得度いとならば、從來做し來つた身的行爲を讎的のやうにして斬つて棄てて仕舞ふが宜い。從來と反對な結果が得たくば、從來と反對な原因を播くが宜い。貪食を爲しては胃病を患ひ、藥力を假りて病を癒しては、復《また》貪食して病みつゝ、永く自己の胃弱を歎じて恨むが如き人も世には甚だ少くは無い。昨日の自己をさへ斬つて棄てれば、明日の自己に胃病は無いのである。貪食と健胃劑とは雜草同士の搦み合なのである。二者共に耘《くさぎ》り去つて仕舞へば、健康體の精力は自然と得られるのである。胃病を歎じて居る人々を觀るに、多くは貪食家か、亂食家か、間食家か、大酒家か、異食家か、呆坐家で、そして自己の眞の病原たる惡習慣に對して賢く辯護することは、雜草を拔かずとも雜草が吸收するよりは猶多くの肥料を與へたら菜蔬の生育に差支は無からうと云ふやうな理論家に酷肖して居るのである。苟も自ら新にせんとするものは昨日の自己に媚びてはならぬのである。一刀の下に賊を斬つて仕舞はねばならぬのである。何をするにも差當つて健康は保ち得るやうにせねば、一切瓦解する虞が有るから、從來が不健康なら發憤して賊を馘《き》るのが何より大切だ。親讓りで體質の弱い人は實に氣の毒で有るが、それでもすべて從來做し來つた事で惡いと認めた事はずん/\と斬り棄てて行つたら、終に或は從來に異なつた健康體となり得ぬとも限らぬのである。再び言ふ。新しくせねばならぬと思ふところの舊いものは、未練氣なく斥けて仕舞はねばならぬのである。
不健康の人が衞生に苦勞する餘り、アレコレ云つて下らないことに齷齪として居るのは抑※[#二の字点、1-2-22]間違切つた談《はなし》で、齒磨、石鹸の瑣事まで神經を惱まして居たり、玩弄物のやうな、若くは間食が變形した樣な藥などを、嘗めたり噛つたりして居るが如き事に心を使つて居るのは、それが先づ第一に非衞生的の頂上で、それよりも酒を廢すとか、煙草を廢すとか、不規則生活を改めるとかした方が、何程早く健康を招き致すか知れたものでは無い。若し從來不健康の爲に甚だしく不利を蒙つて居ると思ふ人が有つたなら、是非共其の人は自ら新にして健康を招致せねばならぬのだが、扨眞誠に自ら新にしようと思つたなら、昨日までの自己の身體取扱方を斷然と改めねばならぬのである。今日以後も昨日以前同樣の取扱方を吾が身に加へて居て、而して明日からは往日と異なつた結果を得ようといふ其樣《そん》な得手勝手な注文は成り立つ道理が無い。胃病に就いて云へば、若し間食家だつたなら間食を斬つて棄てるがよい。大酒家だつたなら徳利と絶交するがよい。亂食家だつたならムラ食を改めるがよい。異食家だつたなら奇異なものを食はぬがよい。呆坐家だつたら、座蒲團を棄てて仕舞つて、火鉢を打碎いて、戸外に運動する習慣を得るが宜い。湯茶を無暗に飮む習慣が有つたなら、急須や茶碗を抛り出して仕舞ふが好い。喫煙家だつたら煙草を棄てて仕舞ふが宜い。自己の生活状態を新にすれば自己の身體状態は必らず變易せずには居ない。激變を與へるのだから、身心共に樂では無いに相違無いが、これが出來ぬなら矢張永久に、昨年の如く、一昨年の如く、一昨々年の如く、同じ胃病に惱んで青い顏をして居るが宜いので、そして胃病宗の歸依者となつて、遂に胃病の爲めに獻身的生涯を送るが宜いのだから、歎息して不足などを云はぬが宜いのである。右が嫌なら左に行け、左が嫌なら右に行けである。良醫の判斷に從ひ、自己の生活状態を新にして、それで胃病が治《ち》せぬなら、それは既に活力が消耗してゐる證據で有るから致方は無いが、大抵の人は活力消耗して病癒ゆる能はざる場合に立つて居るのでは無くて、自己の生活状態を新にせぬが爲に、即ち昨日までの自己身體取扱方に未練を殘して居る爲に、矢張り昨日通りの運命に付き纒はれて苦んで居るので有る。例に依つて例の如き舊い運命に生捕られたくないならば、舊い状態を改むるに若くは無いのである。
胃病のみでは無い。※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76]食《そしよく》を常にして諸病に犯され易い薄弱體を有して苦んで居る人も有る。刺激物を取り過ぎて、心|舍《いへ》に安んぜざる悵※[#「りっしんべん+中」、第3水準1-84-40]悸懼の状に捉へられて困つて居る人も有る。夜業を廢さないで眼を病んで弱つて居るものも有る。最も甚しい愚なのに至つては、唐辛《たうがらし》を嗜食して痔に苦んで居るなどと云ふ滑稽なのも有る。生活に逐はれて坐業をのみ執り居る爲に、運動不足で、筋肉弛緩を致し、所謂羸弱になつて悄然としてゐる、同情すべきものもある。父母の爲に惡體質を賦與されて、其が原因で常に藥餌と親む可き状を有してゐる、最も悲むべきものも有る。が、要するに從來の自己に不滿を感ずるならば、從來の自己状態を改めて仕舞ふのが宜いので有る。ところが昨日の自己も矢張り可愛いもので有つて、「酒は我が身體を惡くし居るな」とは知りつゝも「酒を棄てる事は出來無い」なんぞと云ふのが人の常で有る。兎角に理窟を付けて昨日の自己を保護辯護しつゝ、扨其の結果だけは昨日より好いものを得たいと望むのが人情で有るから、恕すべきでは有るが、それを恕するとすれば、數理上矢張り自己は新にならぬのであるから何にもならない。是非英斷を施さねばならぬのである、身體が弱くては一切不幸の根が斷れず、一切幸福の泉が涸れ勝であるから、苟も自ら新にしようと思つたならば、痛苦を忍んで不健康を致す昨日の自己の舊い惡習と戰つて之に克ち、之を滅し、之を殲《つく》して仕舞はねばならぬのである。
併し身體が弱くても事が成せぬのでは無い。身が弱くても意が強ければ、一日の身あれば一日の事は成せるので有る。が若し身體を弱くする原因が何で有るかを知悉しながらも、之を改むることが出來ぬやうに意が弱くて、そして身が弱くては、氣の毒ながら其人は自ら新にする事が出來難いのであつて、從來通りの状態を超脱する事は出來ぬのである。それではならぬ。宜しく發憤して自ら新にすべしである。

惜福の説(幸福三説第一)

 船を出して風に遇ふのに何の不思議は無い。水上は廣闊、風はおのづからにして有るべき理である。併し其の風にして我が行かんと欲する方向に同じき時は、我は之を順風と稱して、其の福利を蒙るを得るを悦び、又我が方向に逆行して吹く時は、我は之を逆風と稱して、其の不利を蒙るを悲み、又全くの順風にもあらず、全くの逆風にもあらざる横風に遇ふ時は、帆を繰り舵を使ふの技術と、吾が舟の有せる形状との優劣善惡によつて、程度の差はあるが之を利用するを得るのである故に、餘り多くの風の利不利を口にせず、我が福無福をも談《かた》らぬのが常である。
是の如き場合に於て風には本來福と定まり福ならずと定まつて居ることも無いのであるから、同一の南風が北行する舟には福となり南行する舟には福ならぬものとなるのである。順風を悦ぶ人の遇つて居る風は、即ち逆風を悲む人の遇つて居る風なのである。福ならずとせらるゝ風は即ち福なりとせらるゝ風なのである。して見れば福を享くるも福を享けぬも同じ風に遇つて居るのであるから、福を享けた舟が善い故福を享けたといふ事も無く、福を享けぬ舟が惡い故福を享けぬといふことも無く、所謂|運《まは》り合せといふもので有つて、福無福に就ては何等の校量計較によつて福を享け致すべきところも無いやうなものである。
併しながら福無福を偶然の運《めぐ》り合せであるとするのは、風に本來福も無福も無いといふ理や、甲の福とする風は即ち乙の無福とする風と同一の風であるからといふ理が有ればとて、それは聊か速斷過ぎるのである。如何となれば風は豫測し難いものには相違無いが、又全く豫測することは出來ないものとも限られては居ないのであるから、舟を出さんとするに臨みて、十二分の思議測量して我に取つて福利なる風を得べき見込を得たる後、初めて海に出づるに於ては、十の七八は福を享け無福を避け得る筈である故に、福に遇ひ無福に遇ふを以て偶然の廻り合せのみに歸すといふことは、正當の解釋とは認められない理である。
人の社會に在つて遭遇する事象は百端千緒であるが、一般俗衆がやゝもすれば發する言語の『福』といふものは、社會の海上に於て、無形の風力によつて容易に好位置に達し、又は權勢を得、富を得たるが如き場合を指すので、彼は福を得たといふものは、即ち富貴利達、若くは富貴利達の斷片的なるものを得たといふのである。
福を得んとする希望は決して最も立派なる希望では無い。世には福を得んとする希望よりも猶幾層か上層に位する立派な希望がある。併し上乘の根器ならざるものに在つては、福を得んとするも決して無理ならぬことで、しかも亦敢て強ちに之を批難排撃すべき事でも無い。福を得んとするの極、所謂淫祠邪神に事ふるをも辭せずして、白蛇に媚び、妖狐に諂ふ如きに至つては、其の醜陋なること當り難きものであるが、滔々たる世上幾多の人が、或は心を苦め、或は身を苦め、營々孜々として勉め勤めてゐるのも、皆多くは福を得んが爲なのであると思へば、福に就て言を爲すも亦徒爾ではあるまい。
太上は徳を立て、其の次は功を立て、又其次は言を立つるとある。およそ此等の人々に在つては、禍福吉凶の如きは抑※[#二の字点、1-2-22]末なるのみで、餘り深く立入つて論究思索する價も無いことで有らう。若し又單に福を得んことにのみ腐心して之を思ふに至らば、蓋し其の弊や救ひ難きものあらんで、論究思索も、單に、「如何にして福を得べきや」といふことのみに止まつたらば、或は人間の大道を離れて邪路曲徑に入るの虞が有らう。本來から言へば、事に處し物に接するに於て吾人は須らく『當不當』を思ふべきで、『福無福』の如きは論ぜずして可なる譯であるが、こゝに幸福の説をなすものは、愚意所謂落草の談をなして人をして道に進ましめんとするに他ならぬのである。甚しく正邪を語れば人をして狷介偏狹ならしむるの傾がある。多く禍福を談《かた》れば人をして卑小ならしむるの傾がある。言をなすも實に難い哉であるが、讀む人予が意を會して言を忘れて可なりである。
幸福不幸福といふものも風の順逆と同樣に、畢竟《つまり》は主觀の判斷によるのであるから、定體は無い。併し先づ大概は世人の幸福とし不幸とするものも定まつて一致して居るのである。で、其の幸福に遇ふ人、及び幸福を得る人と然らざる人とを觀察して見ると、其の間に希微の妙消息が有るやうである。第一に幸福に遇ふ人を觀ると、多くは『惜福』の工夫のある人であつて、然らざる否運の人を觀ると、十の八九までは、少しも惜福の工夫の無い人である。福を惜む人が必らずしも福に遇ふとは限るまいが、何樣《どう》も惜福の工夫と福との間には關係の除き去る可からざるものが有るに相違ない。
惜福とは何樣《どう》いふものかといふと、福を使ひ盡し取り盡して終《しま》はぬをいふのである。たとへば掌中に百金を有するとして、之を浪費に使ひ盡して半文錢も無きに至るがごときは、惜福の工夫の無いのである。正當に使用するほかには敢て使用せずして、之を妄擲浪費せざるは惜福である。吾が慈母よりして新たに贈られたる衣服ありと假定すれば、其の美麗にして輕暖なるを悦びて、舊衣猶ほ未だ敝《やぶ》れざるに之を着用して、舊衣をば行李中に押まろめたるまゝ、黴と垢とに汚さしめ、新衣をば早くも着崩して、折目も見えざるに至らしむるが如きは、惜福の工夫の無いのである。慈母の厚恩を感謝して新衣をば浪《みだ》りに着用せず、舊衣猶未だ敝れざる間は、舊衣を平常の服とし、新衣を冠婚喪祭の如き式張りたる日に際して用ふるが如くする時は、舊衣も舊衣として其の功を終へ、新衣も新衣として其の功を爲し、他人に對しても清潔謹嚴にして敬意を失はず、自己も諺に所謂『褻《け》にも晴にも』たゞ一衣なる寒酸の態を免るゝを得るのである。是の如くするを福を惜むといふのである。
樹の實でも花でも、十二分に實らせ、十二分に花咲かす時は、收穫も多く美觀でもあるに相違無い。併しそれは福を惜まぬので、二十輪の花の蕾を、七八輪も十餘輪も摘み去つて終ひ、百顆の果實を未だ實らざるに先立つて數十顆を摘み去るが如きは惜福である。花實を十二分ならしむれば樹は疲れて終ふ。七八分ならしむれば花も大に實も豐に出來て、そして樹も疲れぬ故、來年も花が咲き實が成るのである。
『好運は七度人を訪ふ』といふ意の諺が有るが、如何なる人物でも周圍の事情が其の人を幸にすることに際會することは有るものである。其の時に當つて出來る限り好運の調子に乘つて終ふのは福を惜まぬのである。控へ目にして自ら抑制するのは惜福である。畢竟福を取り盡して終はぬが惜福であり、又使ひ盡して終はぬが惜福である。十萬圓の親の遺産を自己が長子たるの故を以て盡く取つて終つて、弟妹親戚にも分たぬのは、惜福の工夫に缺けて居るので、其の幾分をば弟妹親戚等に分ち與ふるとすれば、自己が享けて取るべき福を惜み愛《いつくし》みて、之を存※[#「澑のつくり」、第4水準2-81-31]して置く意味に當る。これを惜福の工夫といふ。即ち自己の福を取り盡さぬのである。他人が自己に對して大に信用を置いて呉れて、十萬圓位ならば無擔保無利息でも貸與して呉れようといふ時、悦んで其の十萬圓を借りるのに毫も不都合は無い。しかし其は惜福の工夫に於ては缺けて居るのであつて、十萬圓の幾分を借りるとか、乃至は或擔保を提供して借りるとか、正當の利子を拂ふとかするのが、自己の福をば惜む意味になる。即ち自在に十萬圓を使用し得るといふ自己の福を使ひ盡さずに、幾分を存※[#「澑のつくり」、第4水準2-81-31]して置く、それを惜福の工夫といふものである。儉約や吝嗇を、惜福と解してはならぬ、すべて享受し得べきところの福佑を取り盡さず使ひ盡さずして、之を天と云はうか將來といはうか、いづれにしても冥々たり茫々たる運命に預け置き積み置くを福を惜むといふのである。
是の如きは當時の人の視て以て迂闊なり愚魯なりとすることでも有らうし、又自己を矯め飾り性情を僞はり瞞くことともするで有らうが、眞に迂闊なりや愚魯なりやは、人の言語判斷よりも世の實際が判斷するのに任せた方が宜しい。又聖賢の如き粹美の稟賦を以つて生れて來ぬものは、自然に任せ天成に委ねてはならぬ。曲竹は多く※[#「隱/木」、第4水準2-15-79]括《のだめ》を施さねばならぬ。撓め正さずして宜いのは、唯眞直な竹のみである。粗木は多く※[#「髟/休」、第3水準1-94-26]漆《きうしつ》塗染《とせん》するによつて用をなす。其儘で好いのは、唯緻密堅美な良材のみである。馬鹿々々しい誇大妄想を抱いて居るもので無い以上は、自己をみづから矯め、みづから治めるのを誰か是ならずとするものが有らうか。
それらの論は姑らく之を他日に讓りて擱き、兎に角上述したる如き惜福の工夫を積んでゐる人が、不思議にまた福に遇ふものであり、惜福の工夫に缺けて居る人は不思議に福に遇はぬものであることは、面白い世間の實際の現象である。試みに世の福人と呼ばるゝ富豪等に就て、惜福の工夫を積んで居る人が多いか、惜福の工夫を積まぬ人が多いかと糾して見れば、何人も忽にして多數の富豪が惜福を解する人であることを認めるで有らう。飜つて又世の才幹力量はありながら、しかも猶一起一倒、世路に沈淪して薄幸無福の人たるを免れぬものを見たならば、其の人の多くは惜福の工夫に缺けて居るのを見出すで有らう。
同じ事例はまた之を古來の有名なる福人の傳記に於て容易に檢出することを得る。福分の大なることは平清盛の如きは少い。併し惜福の工夫には缺けて、病中に憤死し、家滅び族|夷《たひら》げられたのは、人の知つてゐることである。木曾義仲は平氏を逐ひ落した大功が有つた。併し惜福の工夫には缺けて、旭將軍の光は忽ちに消え去つた。源義經もまた平氏討滅の大功が有つた。惜い哉、朝廷の御覺目出度きに乘じて、私に受領したために兄の忌むところとなつて終を全くしなかつた。頼朝の猜忌は到底避け難きところでは有つたらうが、義經に惜福の工夫の缺けたのも確に不幸の一因となつたのである。東照公は太閤秀吉に比して、器略に於ては或は一二段下つて居たかも知らぬが、併し惜福の工夫に於ては數段も優つて居た。腫物の膿を拭つた一片紙をも棄てなかつたのは公である。聚樂《じゆらく》の第《だい》に榮華を誇つた太閤に比して、如何に福を惜まれたか知る可きである。而して又一片の故紙をも棄てざるところより、莫大の大金を子孫に殘し※[#「澑のつくり」、第4水準2-81-31]めて、徳川氏初期數代を築き固むるの用とせられたに徴しても、如何に惜福に力められしかを知るべきである。當時の諸侯は皆馬上叱咤號呼の雄にして、悍※[#「敖/馬」、U+9A41、53-6]《かんがう》激烈《げきれつ》の人であつたが、いづれも惜福の工夫などには疎くて、みな多くは勝手元の不如意を來し、度支《たくし》紊亂《ぶんらん》、自ら支ゆる能はざるに至つて、威衰へ家傾き、甚だしきは身を失ひ封を褫《うば》はるゝに及び、然らざるも尾を垂《た》れ首を俛《た》れて制を受くるに至つたのが多いのである。三井家や住友家や、其の他の舊家、酒田の本間氏の如きも、連綿として永續せるものは、之を糾すに皆善く福を惜めるによつて福竭きず、福竭きざる間に、又|新《あらた》に福に遇ひて之を得るに及べるのである。外國の富豪の如きも、其の確固なるものは、皆之を質すに惜福の工夫に富んでゐるのである。
梁肉を貪り喰ひ、酒緑燈紅の間に狂呼して、千金一擲、大醉淋漓せずんば已まざるが如きは、豪快といへば豪快に似たれども、實は監獄署より放免せられたる卑漢が、渇し切つたる娑婆の風味に遇ひたるが如く、十二分に歡を※[#「磬」の「石」に代えて「缶」、第4水準2-84-70]《つく》せば歡を※[#「磬」の「石」に代えて「缶」、第4水準2-84-70]すだけ、其の状寧ろ憫む可く悲しむ可くして、寒酸の氣こそ餘り有れ、重厚のところは更に無いのである。器小にして意急なるものは、餘裕有る能はざる道理であるから、福を惜むことの出來ないのは即ち器小意急の輩で、福を惜むことの出來るのは即ち器大に意寛なるものである。新《あらた》に監獄を出たるものが一醉飽を欲するは人の免れぬ情であらうが、名門鉅族の人は、美酒佳肴前に陳《つら》なるも、然《さ》のみ何とも思はざるが如くである。此の點より觀れば、能く福を惜み得るに於ては其の人既に福人なのであるから、再三再四福に遇ふに至るも、怪むべきでは無いのである。試に世上を觀るに、張三李四の輩、たま/\福に遇ふことは無きにあらざるも、其一遭遇するや、新に監獄を出でし者の醉飽に急なるが如く、餓狗の肉に遇へるが如く、猛火の毛を燎《や》くが如く、直に其の福を取り盡し使ひ盡さずんば已まないのである。そこで土耳古人の過ぎたる後には地皆赤すといふが如く、福も亦一粒の種子だに無きやうにされ了るのであるから、急には再び福の生じ來らぬやうになるも、不思議は無いのである。
魚は數萬個の卵を産するものであるが、それでさへ惜魚の工夫が無くて酷漁すれば遠からずして滅し盡すものである。まして人一代に僅に七度來るといふ好運の齎らすところの福の如きが、惜福の工夫無くして、福神を酷待虐遇するが如き人に遇つて、何ぞ滅跡亡影せざらんやである。禽は禽を愛惜する家の庭に集り、草は草を除き殘す家の庭に茂るのである。福もまた之を取り盡さず使ひ盡さざる人の手に來るのである。世上滔々福を得んと欲するの人のみであるが、能く福を惜む者が若干人か有らう。福に遇へば皆是新出獄者の態をなす者のみである。たま/\福を取り盡さざるものあれば、之を使ひ盡すの人であり、又福を使ひ盡さざるの人であれば、之を取り盡すの人であつて、眞に福を惜む者は殆ど少い。世に福者の少いのも無理の無いことである。
個人が惜福の工夫を缺いて不利を享くる理は、團體若くは國家に於ても同樣で無ければならぬ。水産業は何樣《どう》である。貴重海獸の漁獲のみに力めて、保護に力めなかつた結果は、我が邦沿海に、臘虎《らつこ》膃肭臍《おつとせい》の乏少を來したでは無いか。即ち惜福の工夫無きために福を竭して終つたのである。蒸氣力トラウル漁獲に力めた結果、歐洲、特に英國に於ては海底魚の乏少を致して、終に該トラウル船を遙に日本などに賣卻するを利益とするに至つたのも、即ち福を竭して不利を招いたのである。山林も同樣である。山林濫伐を敢てして福を惜まなかつた結果は、禿山渇水を到處《いたるところ》に造り出して、土地の氣候を惡くし、天候を不調にし、一朝豪雨あるに至れば、山潰え水漲りて、不測の害を世間に貽《おく》るに至るではないか。樹を伐れば利益は有るに相違無からうが、所謂惜福の工夫を國家が積んだならば、山林も永く榮茂するで有らう。魚を獲れば利益が有るには相違無からう、が、これも國家が福を惜んだならば、水産も永く繁殖することで有らう。山林に輪伐法あり、擢伐法あり、水産に劃地法あり、限季法あり、養殖法あり、漁法制度ありて、此等の事を遂行し、國福を惜めば、國は福國となる理なのである。
軍事も同樣である。將強く兵勇なるに誇つて、武を用ひる上に於て愛惜する所が無ければ、終には破敗を招くのである。軍隊の強勇なるは一大福である。併し此の福を惜む工夫が無ければ、武を黷《けが》すに至る。武田勝頼は弱將や愚將ではなかつた。たゞ惜福の工夫に缺けて、福を竭し禍を致したのである。長篠の一戰は、實に福を惜まざるも亦甚しいものであつて、馬場山縣を首《はじめ》とし、勇將忠士は皆其の戰に死した爲、武田氏の武威は其後|復《また》振はなくなつたのである。將士忠勇にして武威烈々たるのは一大福であるが、之を惜まざれば、福の終に去ることは、黄金を惜まざれば、黄金の終に去ると同じ事である。那破崙《なぽれおん》は曠世の英雄である。武略|天縱《てんしよう》、實に當り難きの人であつたが、矢張り惜福の工夫には乏しかつたので、魯國への長驅に武運の福は盡き去つて終つた觀がある。我が邦は陸海軍の精鋭をもつて、宇内の強國を驚かして居る。併しこれとても惜福の工夫を缺いたならば、水産山林と同樣の状態に陷るべきは明瞭である。雄將忠卒も數限りは有り、金穀船馬も無限に生ずるものでは無い。まして軍隊の精神は麪麭《パン》を燔《や》くやうに急造し得るものでは無い。陸海軍の精鋭は我が邦の大幸福であるが、之を愛惜するの工夫を缺いたならば寒心すべきものがある。福を使ひ盡し取り盡すといふことは忌む可きであつて、惜福の工夫は國家に取つても大切である。
何故に惜福者はまた福に遇ひ、不惜福者は漸くにして福に遇はざるに至るで有らうか。此はたゞ事實として吾人の世上に於て認むることで、其の眞理の鍵は吾人の掌中に所有されて居らぬ。併し強ひて試に之を解して見れば、惜福者は人に愛好され信憑さるべきもので有つて、不惜福者は人に憎惡され危惧さるべきものであるから、惜福者が數※[#二の字点、1-2-22]《しば/\》福運の來訪を受け、不惜福者が終に漸く福運の來訪を受けざるに至るも、自ら然るべき道理である。前に擧げた慈母より新衣を贈られたる場合の如き、惜福者の擧動は慥に婦人の愛好を惹き、其の母をして、吾が兒の吾が與へしところのものを重んずる是の如きか、と怡悦滿足の情を動かさしむべきであるが、之に反して不惜福者の、亂暴に新衣を着崩し、舊衣を押丸めたるを見る時は、如何に慈愛深き母なればとて、慈愛こそは此が爲に減ずる如きことも無かるべけれども、嗚呼吾が與へしものを草率に取扱ふこと何ぞ甚しきやと、歎ずるに至るべきは明白である。人は感情の爲に動くものであるから、滿足怡悦すれば、再び復《また》新衣を造り與へんとするに至るべきも、聊かなりとも悦ばしからず感ずるに於ては、再び新衣を造り與へんとするに際しても、或は時遲く、或は物|粗《そ》なるに至るべき勢が幾分かある。慈母ならば而も甚しき差は無かるべけれど、繼母なんどならば、不惜福者に對しては厭惡の念を發して、或は故に再び之を與ふるに及ばざるやも知る可からずである。無擔保を以て資を借りるが如きも然りで、惜福者が利子を提供し、擔保を提供し、或は額面を減少して借りるが如きは、其の出資者の信憑を強くする所以の道であるから、其の後|復《また》再び借用を申込むも、直に承諾さるべき事態で、融通の一路は優に存するのであるが、不惜福者の擧動は、たとひ當面の出資者に於ては何等の厭ふべき點無しと認むるにせよ、出資者の家眷、乃至友人、婢僕等よりは危惧の眼《まなこ》を以て見らるべきものであるから、何時かは其等の人々の口より種々の言語が放たれて、そして終には出資者よりも危惧され、融通の一路は障礙物によつて埋めらるゝに至るのである。是の如き二の事例は實に瑣細の事であるが、萬事此の樣な道理が、暗々の中、冥々の間に行はれて、惜福者は數々《しば/\》福運の來訪を受け、不惜福者は漸く終に福運の來訪を受けざるに至るのであらう。
[#改丁]

 分福の説(幸福三説第二) 

 福を惜むといふことの重んずべきと同樣に、福を分つといふことも亦甚だ重んずべきことである。惜福は自己一身にかゝることで、聊か消極的の傾があるが、分福は他人の身上《みのうへ》にもかゝることで、おのづから積極的の觀がある。正しく論じたらば、惜福が必らずしも消極的ならず、分福が必らずしも積極的では有るまいが、自然《おのづ》と惜福と分福とは相對的に消極積極の觀をなして居る。惜福は既に前に説いた如くである。
分福とは何樣《どう》いふことであるかといふに、自己の得るところの福を他人に分ち與ふるをいふのである。たとへば自己が大なる西瓜を得たとすると、其の全顆を食し盡すべくも無かつた時、其の幾分を殘し※[#「澑のつくり」、第4水準2-81-31]むるのは惜福である。其の幾分を他人に分ち與へて自己と共に其の美を味はふの幸を得せしむるのは分福である。惜福の工夫を爲し得る場合と然らざる場合とに論無く、すべて自己の享受し得た幸福の幾分を割《さ》いて、之を他人に頒ち與へ、他人をして自己と同樣の幸福をば、少分にもせよ享受するを得せしむるのは分福といふのである。惜福は自己の福を取り盡さず用ひ盡さざるをいひ、分福は自己の福を他人に分ち加ふるを言ふので、二者は實に相異なり、又互に表裏をなして居るのである。惜福は自ら抑損するので、分福は他に頒與するところあるのであるから、彼は消極的、此は積極的なのである。
若したゞ一時の論や眼前の觀から言へば、惜福は自己の幸福を十分に獲得捕捉せずして、其の幾分を冥々茫々として測る可からざるところの未來若くは運命といふが如きものに委ねて、預け置き積み置くを云ひ、分福は亦自己の幸福を十分に使用享受せずして、其の幾分を直に他人に頒ち與ふるをいふのであるから、自己の幸福を自己が十分に享受し使用せぬところは二者全く相同じであつて、そして雙方共に自己に取つては、差當り利益を減損し、不利益を受けて居るやうなものである。併し惜福といふことが間接に大利益をなして、能く福を惜むものをして福運の來訪に接せしむるが如く、分福といふことも亦間接に其の福を分つところの人をして福運の來訪に接すること多からしむるのは世の實例の示して居ることである。
世には大なる福分を有しながら慳貪《けんどん》鄙吝《ひりん》の性癖のために、少しも分福の行爲に出でないで、憂は他人に分つとも、好い事は一人で占めようといふが如き人物もある。俚諺に所謂『雪隱《せつちん》で饅頭を食ふ』やうな卑劣なる行爲を敢てして、而して心竊かに之を智なりとして居るものも隨分有るのである。如何にも單に現在のみより立言したらば、福を他人に頒つよりは、福を獨占した方が、自己の享受し得る福の量は多いに相違無い。併し福を自己一個のみにて享受しようといふ情意、即ち福を專らにしようといふ情意は、實に狹小で鄙吝で、何とも云へぬ情無い物淋しい情意では無いか。言を換ふれば「福らしくも無く福を享くる」といふことになるではないか。一瓶の佳酒が有ると假定する。之を自己一人にて飮み盡せば、醉を得るに足り、他人と共に之を飮めば、自他共に醉を得るに足らずといふ場合に際して、自己一人にて之を飮み盡して、同座又は同寓の人に頒ち與へざるのは、福を專らにするのである。自分の酒量には些《ちと》過ぐる程なるにも關らず、之を飮み盡して終ふのは、福を惜まぬのである。他人と共に之を飮めば、只僅に口に麹香《きくかう》を※[#「澑のつくり」、第4水準2-81-31]むるのみなるにも關らず、自己のみにて之を飮むには堪へずして、他人と共に之を飮むといふのは福を分つのである。福を惜まぬ者の卑しい事は既に説いた通りで、實に新に監獄署より放免されたるものの如き状は、寧ろ哀む可く愍む可きものである。
福を分たぬものの卑吝の情状は抑※[#二の字点、1-2-22]何樣《どう》である。是亦餓狗の其の友に讓る能はざるが如くで有つて、實に『人類も亦一動物である』といふことを證據立てて居ると云へば其れ迄で有るところの情無い景色では無いか。餓狗の其の友に讓らざるのは、畜生の已むを得ざるところで有るが、苟も人として畜生と多く異ならざるの情状を做すのは、實に情無い談《はなし》である。よしや生物學者から言つたらば、人類もまた一動物であつて、脚走羽飛するところのものと多く異なる無きが實際で有るにせよ、少くとも動物中の最高級の者に屬する以上は、他の動物等の追隨企及し能はざる樣な、高尚都雅なる情状、即ち情を矯めて義に近づき、己を克して禮に復るやうな、崇美なところが無ければならぬのである。然らざれば人と他の動物とは何の區別するところも無くなるのである。己を抑へて人に讓る、是の如きは他の動物に殆ど無きところで、人にのみ有り得るところである。物に足らざるも心に足りて、慾に充たざるも情に充ちて甘んずる、是の如きは動物に無くして人にのみ有り得るところである。凡そ是の如きの情状を做し得てこそ、人も聊か他《ほか》の動物の上に立ち得るのであれ、然《さ》なくば那處《どこ》に人の動物たらざるところを見んやである。
一瓶の酒、我を醉はしむるに足らざるも人に其の味《あぢはひ》を分ち、半鼎の肉、我を飽かしむるに足らざるも人に其の臠《れん》を薦むる、是の如き分福の擧動は、實に人の餓狗たらず、貪狼たらざるところを現はすのであつて、啻に幸福を得るの道として論ずべき一箇條と云はんよりは、人としての高貴の情懷の發現といふ可きである。此の類の高貴の情懷の發現が有つてこそ、吾人の社會が「野獸や山禽の社會」と※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55]《はる》かに距つた上級のものとなるのであつて、かゝる情懷の發現が其の人に「超物的の高尚な幸福」を與ふるは言ふ迄も無く、そして亦他人には、物質的の幸福と、心靈的の幸福とを與ふるものなので有つて、即ち是の如き行爲は人類の社會を高尚にし、善良にし、愉快にするの重要な一原子たるのである。
一瓶の酒、半鼎の肉、之を頒つも頒たざるも、固より些細の事である。併し其の一瓶の酒を頒ち與へられ、半鼎の肉を頒ち與へられた人は、之によつて非常に甘美なる感情を惹起《ひきおこ》されるのであつて、其の感情の衝動された結果として生ずる影響は、決して些細なものでは無い。甚大甚深のものなのである。古の名將の傳記を繙いたならば、士卒に福を分ち惠を贈らんが爲に、古名將等が如何に臨機の處置を取つたかが窺はれるのであるが、之に反して愚將弱卒等は毎《つね》に分福の工夫に缺けた鄙吝の行爲を做すものである。酒少く人多き時に、酒を河水に投じて衆と共に飮んだ將があるが、是の如きは所謂分福の一事を極端に遂行したのであつて、流水に酒を委したとて、誰をも醉はすに足らないのは、知れ切つた事であるが、それでも猶且自己一人にて福を專にするに忍びないで、之を他人に頒たうとする情懷は、實に仁慈寛洪の徳に富んでゐるものである。されば其時に當つて、流水を掬して之を飮んだ者は、もとより酒には醉ふ可くもないのでは有るが、而も其の不可言の恩愛には醉はざるを得ないのである。是の如く下を愛する將に對しては、下も亦身を獻じて其用を爲さんとするのである。凡そ人の上となりて衆を帥《ひき》ゐるものは、必らず分福の工夫に於て徹底するところ有るもので無ければならぬ。禽は蔭深き枝に宿り、人は慈愛深きところに依るものである。慈愛深きものの發現は、たゞ二途あるのみで、其の一は人の爲に其の憂を分つて之を除くのであり、他の一は人の爲に我が福を分つて之を與ふるのである。憂を分つことは今姑らく擱いて言はず。福を分つの心は實に春風の和らぎ、春日の暖かなるが如きものであるから、人苟くも眞に福を分つの心を抱けば、其の分つところの福は、實際尠少にして言ふに足らざるにせよ、其の福を享受したる人は、非常に好感情を抱くものであることは、譬へば春風は和らぐと雖も、物を長ずるの力は南薫に如かず、春日は暖かなりと雖も、物を※[#「火+共」、第3水準1-87-42]《あぶ》るの能は夏日に如かざるが如きであるに關らず、猶春風春日は人をして無限の懷かしさを感ぜしむるやうなものである。故に分福の工夫に缺けて居るものは、おのづから寂寞蕭散の光景あるを免れざるに反し、分福の事を敢てするものは、自ら其の人の周圍に和氣祥光の氤※[#「气<慍のつくり」、第3水準1-86-48]《いんうん》搖曳するが如きを感じて、衆人が心を之に歸するに至るのである。
惜福の工夫と分福の工夫とを兼ね能くするに至つては、其の人實に既に福人たりと云ふ可きであるが、世の實際を觀るに、能く福を惜むの人は、多くは福を分たず、能く福を分つの人は、多くは能く福を惜まざるの傾があるのは、歎ず可く惜むべきである。福を惜むの工夫をも做さざるの人は、人の下として人に愛重さるべき人で無く、福を分つの工夫に乏しき人は人の上《かみ》として歸依《きえ》信頼さる可き人でない。人苟くも人の下として漸くに身を立てんとしたならば、必ず福を惜まねばならぬ。福を惜まざれば、福の積もり累なるところ無くして、其の人は長く無福の境界に居らねばならぬのである。福を分たざれば、其の人は長く唯自己一個の手脚を以て福を獲得するのみの小境界に止まり、他人の手脚よりは、何等の福祉をも得ざるに終るべき理が有るのである。
我能く人に福を分てば、人も亦我に福を與ふべく、たとひ人能く我に福を與へざるまでも、人皆心|私《ひそ》かに我をして福あらしめんことを祷るものである。こゝに一商店の主人ありと假定するに、其の主人の商利を得るや、必ずこれを使用人等に頒つとすれば、使用人等は、主人の福利を得るは、即ち自己等の福利を得ることとなるを以て、勉勵して業務に順ひ、力めて主人をして利を得せしめんとすべきは、論無きことである。之に反して、主人若し商利を得るも、唯自己の懷中をのみ膨大せしめて、使用人等に對して、何等分福の擧に出でずとすれば、其の使用人等は、勞力相當の報酬を得るの約あるを以て、何等不平不滿を抱かざるにせよ、主人の利不利は自己に痛痒少きをもつて、おのづからにして福利を得しめんとするの念淡く、終に主人をして福利を得るの事實と機會とを逸去せしむること多きに至るべき勢が生ずるのである。契約や、權利義務の觀念や、法律や、道徳や、種々の鎖鏈※[#「金+皎のつくり」、第3水準1-93-13]釘が、此の人世に存在するものであるから、假令分福の缺けた人でも、急に不利益の境遇に陷るといふ事は無いが、要するに分福の缺けた人は、自己の手脚をのみ頼まねばならぬ情状を有して居ると云つても宜いから、從つて他人の力によつて福を得ることは少いとせねばならぬのが、世の實際の示して居る現證である。
抑※[#二の字点、1-2-22]力は衆の力を併せた力より多い力は無く、智は人の智を使ふより大なる智は無いでは無いか。高山大澤の飛禽走獸は、一人の手脚の力、之を得るには足らぬのである。大事大業大功大利が、如何にして限り有る一人の心計|身作《しんさ》の力で能く成し得るもので有らうか。此故に大なる福を得んとするものは、必ず能く人に福を分つて、自ら獨り福を專にせず、衆人をして我が福を得んことを希はしむるのである。即ち我が福を分つて衆人に與へ、而して衆人の力に依つて得たる福を、我が福とするのである。分福の工夫の缺けたる人の如きは、いまだ大なる福を致すには足らざるものである。
惜福の工夫十分なる人が、福運の來訪を受くること多きは、實際の事實で有つて、遠く史上の古人に就て之を檢覈《けんかく》するを須《もち》ひず、近く吾人の目睹耳聞するところの今人に就て之を考査すれば、直に明瞭なることであるが、分福の工夫十分なる人が、好運の來訪を受くること多きも、亦明白なる事實である。殊に其の人未だ發達せざる中に、惜福の工夫さへあれば、其の人は漸次に福を積み得るものであるが、其の人漸く發達して、地平線上に出づるに及んでは、惜福の工夫のみでは大を成さぬ、必らずや分福の工夫を要するのである。商業者としては、店員や使用人や關係者や取引者に對して、常に自己の福分を頒ち與ふるの覺悟と行爲とを有する時は、自然と此等の人々は、其主人の爲に福運の來り到らんことを望むのであるから、人望の歸するところは天意これに傾く道理で、其の人は必らず福運の來到を受くるに至るのである。農業者としても其の如くで、小作人に對し、肥料商に對し、種苗供給者に對し、常に福を頒たんとするが如き温なる感情を有する時は、小作人の耕耘も、懇切精到になるから、其の農事も十分に出來、肥料商も粗惡な品質のものを供給せぬから、其の效果も十分に擧がり、種苗供給者も良好なる種子や苗を供給するから、收穫も多いやうになる道理である。
凡べて人世の事は時計の振子の如きもので有つて、右へ動かした丈は左へ動くものであり、左へ動いた丈は右に動くもので有る。天道は復《かへ》すことを好むといふが、實に其通りで、我より福を分ち與ふれば、人も亦我に福を分ち與ふるものである。工業でも政治でも何でも一切同じ事である。故に何によらず分福の工夫に疎にして人の上に立つことは甚だ難いのである。
東照公は惜福の工夫に於ては豐太閤に勝つて居られたが、分福の工夫に於いては太閤の方が勝れて居た。太閤の功を收むる事早くて、東照公の功を收むる事遲かつたのは、決してたゞ一二の理由に本づくのでは無いが、太閤の分福の工夫の甚だ到つて居た事も、慥に其の一理由である。東照公は自己の臣下に對しては、多く知行を與へられなかつた人である。徳川氏譜第恩顧の者は、多くは大録を與へられなかつた。之に反して、太閤は實に氣持好く其の臣下に大祿厚俸を與へた人である。此點に於て太閤は實に古今獨歩の觀がある。加藤や福島や前田や蒲生や、或は初より臣下であり、或は半途より旗下に屬したものにも、惜氣なく福を分ち惠を施したのは、太閤の一大美處であつて、一勇の夫も何十萬石を與へられたのであつた。則ち豐公が幸福を得さへすれば、臣下も亦必ず其の福の配分に與かるを得たのであり、主公をして一國を切取らしむれば、臣下も亦一郡或は一城を得るといふのであつた。臣下たり旗下たるもの如何んぞ主君の爲に鷹犬の勞を致して、血戰死鬪せざらんやである。是の如きは即ち太閤の早く天下を得た所以の一理由で無ければならぬ。
蒲生の如きは、大器雄畧ある士には相違無かつた。併し之を會津に封ずるに當つて、忽として百萬石を與へたのである。蒲生氏郷が、底の心の知れない伊達政宗と徳川家康との間に介在して、豐公の爲に大丈夫的苦慮健鬪を敢てしたのも、決して偶然では無いのである。北條氏を滅するや、豐公の徳川氏に與へたものは實に關八州であつた。徳川氏たるもの、焉んぞ豐臣氏に對して異圖を抱くを得んやである。太閤かつて宴安の席上にて、「天下の大小名、予に對して異志を抱くものあるべき筈無し、如何となれば、如何にしても予の如き好き主人は、世に二ツある可くも無ければなり。」と云つたといふことがある。實に太閤の其の言は、如何に當時に於て、太閤が福を分つて惜まざる天下第一の人で有つたかといふ事を語つて居るものである。
氏郷の傳を讀めば、當時の英雄等會合の席上に於て、太閤萬一の事あらば誰か天下の主たるもので有らう、と云ふ問に對して、蒲生氏郷が前田の老父《おやぢ》であると云つた。そこで前田殿を除いては、といふ再度の質問が起つて、それに答へては乃公《おれ》がと云つた。そこで又氏郷の眼中に徳川氏無きを訝つて、徳川殿はといふ質問が起つた。それに答へて彼の銀の鯰の※[#「灰/皿」、第3水準1-88-74]《かぶと》の主は笑ひながら、「徳川の如き人に物を呉れ惜むものが何を仕出かし得ようや。」と云つたといふ事が載つて居る。氏郷の心中には常に徳川公を何とか思つて居たらしいのであるから、此は一時の豪語でも有らうし、又其の事實も必らずしも信憑すべからざるものであるが、併しながら氏郷の語は、慥かに徳川公の短處に中つて居て、東照公の横ツ腹に匕首《あひくち》を加へたものである。
實に其の言の如く、徳川公は其の臣下に大祿厚俸を與へなかつた人で、其の遺制は近代に及び、維新前に至つて、徳川氏の譜第大名が、皆小祿薄俸の徒であつたため、眞に徳川氏の爲に力を致さんとするものの力は微に勢は弱くして、終に關ヶ原の一戰の敗者たる毛利島津等の外樣大名の爲に壓迫されたのである。太閤は惜福の工夫に於て缺くる所があつた代りに、分福の工夫に於て十二分であり、東照公は惜福の工夫に於て勝れて居た代りに、分福の工夫に於ては、やゝ不十分であつた。
平清盛は隨分短處の多い人であつた。併し分福の工夫に於ては、實に十二分の人であつて、一族一門に福を分つて惜まないこと、清盛の如き人は、日本史上に少い。清盛に反して、頼朝は實に福を分たぬ人で有つて、佐々木の功を賞した時は、日本半國を與ふべしなどと云ひながら、其後之を與へなかつたので佐々木は佛門に入つたのである。弟の義經、範頼にも碌に福を分たぬのみならず、卻つて禍《わざはひ》を贈つたのである。頼朝の家の爲に死力を出す人は少く、平家に忠臣の多かつたのも、偶然では無い。奈破崙《なぽれおん》も亦能く福を分つた人である。其の一族及び旗下臣下等の、奈翁の爲に巨福を得たものは何程あるか知れぬ。一敗の後、再び歐土に旗を樹てた時、殆んど復暴風浪を卷くの勢を爲したのも無理は無いのである。足利尊氏は缺點少からざる將軍であるが、其の福を分つに於て、天下の同情を得て、新田楠の如き智勇拔羣の人をも壓倒したのである。今の世に於て、千萬人中、誰か能く福を惜み、誰か能く福を分つものぞ。人試みに指を屈して之を數へて、其の功を成すことの大小を考へて見たならば興味が有らう。實に福は惜まざるべからずであつて、又福は分たざるべからずである。
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 植福の説(幸福三説第三) 

 人皆有福の羨む可きを知つて、更に大に羨む可きもののあるのを知らない。人皆惜福の敢てす可きを知つて、更に大に敢てす可きもののあるのを知らない。人皆分福の學ぶ可きを知つて、更に大に學ぶ可きもののあるのを知らない。有福は羨む可からざるにあらず、しかも福を有するといふのは、放たれたる箭の天に向つて上る間の状態の如きものであつて、力盡くる時は下り落つるを免れざると均しく、福を致したる所以の力が盡きる時は、直に福を失ふのである。惜福は敢てすべからざるにあらず、而も福を惜むといふは、爐中の炭火を妄《みだり》に暴露せざるが如きものであつて、たとひ之を惜むこと至極するにせよ、新《あらた》に炭を加ふる有るにあらざれば、別に其の火勢火力の増殖する次第でも無い。分福の學ぶ可からざる事でないのは勿論である。しかも福を分つといふのは、紅熟せる美果を人と共に食ふが如きもので、食ひ了れば即ち空しいのである。人悦び我悦べば、其の時に於て一應は加減乘除が行はれて仕舞つた譯なのであつて、要は人の悦びを得たところが、我のみの悦びを得たのに比して優つて居るに止まるのである。有福、惜福、分福、いづれも皆好い事であるが、其等に優つて卓越してゐる好い事は植福といふ事である。
植福とは何であるかといふに、我が力や情や智を以て、人世に吉慶幸福となるべき物質や、清趣や、智識を寄與する事をいふのである。即ち人世の慶福を増進長育するところの行爲を植福といふのである。かくの如き行爲の尊む可きものであることは、常識ある者のおのづからにして理解して居ることであるが、遼豕《れうし》の謗《そしり》を忘れて試みに之を説いて見よう。
予は單に植福と云つたが、植福の一の行爲は、自ら二重の意義を有し、二重の結果を生ずる。何を二重の意義、二重の結果といふかと云ふに、植福の一の行爲は、自己の福を植うることであると同時に、社會の福を植うることに當るから之を二重の意義を有するといひ、他日自己をして其の福を收穫せしむると同時に、社會をして同じく之を收穫せしむる事になるから、之を二重の結果を生ずると云ふのである。
今こゝに最も瑣細にして最も淺近な一例を示さうならば、人ありて其の庭上に一の大なる林檎の樹を有するとすれば、其の林檎が年々に花さき、年々に實りて、甘美清快なる味を供することは、慥に其の人をして幸福を感ぜしむるに相違無い。で、それは其の人が幸福を有するのであつて、即ち有福である。其の林檎の果實を浪《みだ》りに多産ならしめないで、樹の堅實と健全繁榮とを保たしむるのは、即ち惜福である。豐大甘美な果實の出來たところで、自己のみが之を專にしないで親近朋友に頒つのは分福である。有福といふことには善も惡も無く可も否も無いが、惜福分福は皆嘉尚す可きことである。
此等の事は既に説いたところであるが、扨植福といふのは何樣《どう》いふことかと云ふと、新に林檎の種子《たね》を播きて之を成木せしめんとするのが、植福である。同じ苗木を植付けて成木せしめんとするのが植福である。又惡木に良樹の穗を接ぎて、美果を實らしめんとするのも植福である。※[#「虫+冴のつくり」、第4水準2-87-34]蠧《がと》の害に遇つて枯死に垂《なんな》んたる樹が有るとすれば、之を藥療して復活蘇生せしむるのも亦植福である。凡そ天地の生生化育の作用を贊《たす》け、又は人畜の福利を増進するに適當するの事を爲すのが即ち植福である。
一株の林檎の樹といふ勿れ、一株の樹もまた數顆數十顆、乃至數百顆の實を結ぶのであつて、其の一顆よりは又數株乃至數十株の樹を生じ、果と樹は相交互循環しては、無量無邊の發生と産出とを爲すものである。故に一株の樹を植うる其事は甚だ微少瑣細であるけれども、其の事の中に包含されて居る將來は、甚だ久遠洪大なもので、其の久遠洪大の結果は、實に人の心念の機微に繋《かゝ》つて居るものであつて、一心一念の善良なる働は、何程の福を將來に生ずるかも知れぬのである。一株の果樹は霜虐雪壓に堪へさへすれば、必ずや、或時間に於て無より有を生じ、地の水と天の光とを結んで、甘美芳香の果實を生じ出す。既に果實が生ずれば、必らずや之を味はふ人をして幸福を感ぜしむるので有つて、主人自ら之を味はふにせよ、主人の親近朋友が之を味はふにせよ、又は主人に賣卻せられて、或他の人が之を味はふにせよ、何人かが造物主の人間に贈るところの福惠を享受して、滿足|怡悦《いえつ》の情を湛ふるに相違無い。されば一株の樹を培養成長せしむるといふことは、瑣事には相違無いが、自己に取りても他人に取りても幸福利益の源頭となることである故に、之を福を植うると云つて誤は無いのである。
凡そ是の如く幸福利益の源頭となることを爲すをば植福といふのであるが、此の植福の精神や作業によつて世界は何程進歩するか知れず、又何程幸福となるかも知れないのである。若し人類にして植福の精神や作業が無いならば、人類は假令《たとひ》勇猛なるも、數千年の古より、今猶獅子熊の如き野獸と相伍して居なければなるまい。假令智慧あるも、今猶猿猴猩々の類と林を分ちて相棲まねばなるまい。假令社會組織を爲すの性あるも今猶蜂や蟻と其の生活を同じうせねばなるまい。幸にして吾人は數千年の昔時の祖先よりして、植福の精神に富み、植福の作業に服し從つた爲、一時代は一時代より幸福が増進し、祖先以來の勇氣によつて建設せられたる人類の權利は、他動物に卓絶し、祖先以來の智識を堆積し得て生じたる人類の便利は、他動物の到底及ばざる者となり、祖先以來の社會組織の經驗を累ね來つて、他動物には到底見る能はざるの複雜にして巧妙なる社會組織を有するに至つたのである。
農業は植福の精神や作業を體現したかの觀あるものであるが、實に其の種を播き、秧《なへ》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《さしはさ》むの勞苦は、福神の權《かり》に化して人と現はれて、其の福の道を傳へんが爲に勞作する、と云つても宜い程のものである。工業も商業も亦然りで、苟も眞に自己の將來の幸福、又は他人の幸福の源頭となるものである以上は、之に從事する人は皆福を植うるの人である。
世に福を有せんことを希ふ人は甚だ多い。しかし福を有する人は少い。福を得て福を惜むことを知る人は少い。福を惜むことを知つても福を分つことを知る人は少い。福を分つことを知つても福を植うることを知る人は少い。蓋し稻を得んとすれば、稻を植うるに若くは無い。葡萄を得んとすれば、葡萄を植うるに若くは無い。此の道理を以て、福を得んとすれば福を植うるに若くは無い。しかるに人多くは福を植うるを以て迂闊の事として顧みない傾があるのは甚だ遺憾の事である。
樹を植うるを例としたから、復《ふたゝ》び其の例に就いて言はうならば、既に一度樹を植ゑたる以上、必ず其の樹は其の人又は他人乃至國家に對して與ふるところが無くて已むものでは無いから、此の位植福の事例として明白な好き説明を爲すものは無い。即ち植ゑられたる福は、時々刻々に生長し、分々寸々に伸展して、少しも止むこと無く、天運星移と共に進み/\て、何時と無く増大し、何時と無く結果を擧ぐるものである。杉や松の大木は天を摩するものもある。併し其の種子《たね》は二指を以て撮みて餘り有るものである。植福の結果は非常に大なるものである。併し其の植ゑられたる福は甚だ微細なるものでも、不思議は無いのである。
渇したる人に一杯の水を與ふる位の事は、如何なる微力の人でも爲すことを得ることである。飢ゑたる人に一飯を振舞ふ位の事は、貧者も亦之を能くするを得る事である。併し世には是の如き微細なる事は抑※[#二の字点、1-2-22]又何を値せんやと思ひ做して、之を爲さぬ人がある。但し其は明らかに誤りであつて、一撮《ひとつかみ》に餘りある微少の種子《たね》より、摩天の大樹の生ずることを解したならば、其の瑣細なことも亦必らずしも瑣細なことで終るとは限らぬことを解するに足るであらう。自己が幸福を得ようと思つて他人に福惠を與ふるのは、善美を盡したものでは無いけれども、福は植ゑざる可からず、と覺悟して、植福の事に從ふのは、福を植ゑざるに勝ること、萬々である。一盞の水、一碗の飯、渇者飢者に取つては、抑※[#二の字点、1-2-22]何程か幸福を感ずることであらう。
此の如きは福を植うるに於て最も末端の事では有るが、しかも亦決して小事では無い。人の飢渇に忍びざるの心よりして人の飢渇を救ふのは、即ち人の禽獸と異なる所以のものを發揮したので、是の如き人類の情懷の積り累なりて、人類の社會は今日の如く成立つて居るのである。他の疲憊困苦に乘じて、之を搏噬《はくぜい》するが如きは、野獸の所爲で有つて、是の如きの心を有せる野獸は、今猶野獸の生活を續けて居るのである。故に人の飢渇に同情するとせぬとの如きは、其の事小なるが如くなれども、野獸の社會とは異なる人類の今日の社會の出現するとせぬとに關する、と言つても可なる程、大なる徑庭の生ずるところの「幾微」の樞機がこれに存して居るのである。思はざる可けんやである。
今日の吾人は古代に比し、若くは原人に比して大なる幸福を有して居る。これは皆前人の植福の結果である。即ち好き林檎の樹を有して居るものは、好き林檎の樹を植ゑた人の惠を荷うて居るのである。既に前人の植福の庇陰に依る、吾人も亦植福の事をなして子孫に貽らざる可からずである。眞の文明といふことは、凡て或人々が福を植ゑた結果なのである。災禍といふことは、凡て或人々が福を※[#「爿+戈」、第4水準2-12-83]殘《しやうざん》した結果なのである。吾人は必ずしも自己の將來の福利に就いて判斷を下して、而して後に植福の工夫をなさずとも宜い。吾人は吾人が野獸たるを甘んぜざる、即ち野獸たる能はざる立場よりして福を植ゑたい。徳を積むのは人類の今日の幸福の源泉になつて居る。眞智識を積むのも亦人類の今日の幸福の源泉になつて居る。徳を積み智を積むことは、即ち大なる植福をうる所以であつて、樹を植ゑて福惠を來者に貽《おく》る如き比では無い。植福なる哉、植福なる哉、植福の工夫を能くするに於て始めて人は價値ありと云ふ可しである。
有福は祖先の庇陰に寄るので、尊む可きところは無い。惜福の工夫あるに至つて、人やゝ尚ぶ可しである。分福の工夫を能くするに至つて、人愈※[#二の字点、1-2-22]尚ぶ可しである。能く福を植うるに至つて、人眞に敬愛すべき人たりと云ふ可しである。福を有する人は或は福を失ふことあらん。福を惜む人は蓋し福を保つを得ん。能く福を分つ人は蓋し福を致すを得ん。福を植うる人に至つては即ち福を造るのである。植福なる哉。植福なる哉。
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努力の堆積

 人間の所爲を種々に分類すれば、隨分多數に分類し得る。そして其の所爲の價値に幾干と無い階級も有らうが、努力といふことは確に其の高貴なる部分に屬するものである。頃者《このごろ》世に行はれて居る言葉に奮鬪と云ふ言葉があつて、努力と稍や近似の意味を表はして居るが、これは假想の敵がある樣な場合に適當するもので、努力は我が敵の有無に拘らず、自己の最良を盡して而して或事に勉勵する意味で、奮鬪と云ふ言葉が有する感情意義よりは、高大で、中正で、明白で、人間の眞面目な意義を發揮して居る。元來一切の世界の文明は、此の努力の二字に根ざして其處から芽を發し、枝をつけ、葉を生じ、花を開くのであると云はねばならぬ。
併し努力に比して、丁度其の相手の如く見ゆるものがある。其れは好んで爲すことである。好んで爲すと云ふ事である。努力は厭な事をも忍んで爲し、苦しい思ひにも堪へて、而して勞に服し事に當ると云ふ意味である。が、嗜好と云ふ場合には、苦しい事も打ち忘れ、厭ふと云ふ感情も全く無くて、即ち意志と感情とが竝行線的、若しくは同一線的に働いて居る場合を云ふのである。努力は其れと稍や違つた意味を有し、意志と感情とが相《あひ》忤《ご》し戻つて居る場合でも、意識の火を燃え立たせて、感情の水に負けぬやうに爲し、そして熱して/\已まぬのを云ふのである。
或人が或事に從來し、而して其の人が我知らず自己の全力を其處に沒して事に當ると云ふ場合、其れは努力と云ふよりは好んで爲すと云つた方が適當である。其處で、世界の文明は、努力から生じて居る歟、好んで之れを爲す處から生じて居る歟と云へば、努力から生じて居る如く見える場合も、嗜好から生じて居るが如く見える場合もある。例へば文明の恩人、即ち各時代の俊秀なる人物が、或事業の爲に働いて、其の徳澤を後世に遺した場合を考へて見るに、努力の結果の如く見ゆる場合もあり、又、好んで爲した結果の如く見ゆる場合もある。これは人々の觀察、解釋、批評の仕方に因つて何方《どちら》にも取れる。が正當に之れを解釋して見たならば、好んで爲す場合にも、努力が伴はぬ時は其の進行は廢絶せざるを得ない。然らずとするも其の結果の偉大を期する事は出來ない。パリツシーの陶器製造に於けるも、コロンブスの新地發見に於けるも、皆さうである。如何に好んで爲すと云つても、例へば有福の人が園藝に從事する場合に就いても或時は確に其れは苦痛を感ぜしめよう。則ち酷寒酷暑に於ける從事、或は蟲害其の他に就ての繁雜なる手數、緻密なる觀察、時間的不規律な勞働に服するなどの種々の場合に、努力によらなければ、中途にして歇むの状態に立ち至ることもまゝある道理で、換言すれば好んで爲すと云つても、其の間に好まざる事情が生ずるのは人生に有り勝な事實である。其の好ましからぬ場合が生じた時に、自己の感情に打ち克ち、其の目的の遂行を專らにするのが、即ち努力である。
人生の事と云ふものは、座敷で道中雙六をして、花の都に到達する如きものではない。眞實《ほんとう》の旅行にして見れば、旅行を好むにして見ても、尚且つ風雪の惱みあり、峻坂嶮路の艱あり、或時は磯路に阻まれ、或時は九折《つゞらをり》の山逕に、白雲を分け、青苔に滑る等、種々なる艱苦を忍ばねばならぬ。即ち其處に明らかに努力を要する。若し一路坦々砥の如く、而も春風に吹かれ、良馬に跨つて旅行するならば、努力は無い樣なものの、全部の旅行がさうばかりは行かぬ。如何に財に富み、地位に於いて高くとも、天の時、地の状態等に因つて、相當の困苦艱難に遭遇するのは、旅行の免れない處である。
されば如何に之れを好む力が猛烈で、而して之を爲すの才能が卓越して居ても、徹頭徹尾、好適の感情を以て、或事業を遂行する事は、殆ど人生の實際にはあり得ない。種々なる障礙、或は蹉躓の伴ふ事は、已むを得ない事實である。而して其れを押し切つて進むのは其の人の努力に俟つより他はない。周公、孔子の如き聖人、ナポレオン、アレキサンドルの如き英雄、或はニユートン、コペルニカスの如き學者であらうとも、皆其の努力に因つて其の事業に光彩を添へ、黽勉《びんべん》に因つて大成して居る事實は、爰に呶々する迄もないことである。まして才乏しく、徳低き者にありては、努力は唯一の味方であると斷言して可いのである。恰も財力乏しく、地位亦低きの旅行者が、馬にも乘れず、車にも乘れず、只管《ひたすら》雙脚の力を頼むより他に山河跋渉の道なきと同樣である。
併し、俊秀な人の仕業を見ると、時には此の努力なくして出來た如く見ゆる場合もあるが、其れは皮相の觀察で、馬に乘つても雪の日は寒く、車に乘つても荒れたる驛路では難儀をする。如何に大才厚徳の士であつても、矢張り必ず安逸好適の状態のみを以て終始する事は出來ない。況や千里の駿馬は自らにして駑馬よりは多くを行き、大才厚徳の士は常人よりは人世の旅行を多くして、常人の到達し得ざる處に到達せんとするもの故、其の遭遇する各種の不快、不安、障礙蹉躓は、隨つて多いのであるから、其努力が常人を越えて居るのは云ふ迄もない。文明の恩人の傳記を繙き見るに、誰か努力の痕を留めない者があらう。殊に各種の發明者、若くは新説の唱道者、眞理の發見者等は、皆此の努力に因つて其の一代の事業を築き上げて居ると云はねばならぬ。東洋流の傳記や歴史で見ると、英才頓悟、若くは生れながらに智勇兼ね備はつて居たと云つたやうなものがあつて、俊秀な人は何事も容易に爲し得たかの如く書いてあるが、其れは寧ろ事實の眞を得ないものだと云はねばならぬ。又、縱《よ》しんば英才の人が容易に或事を爲し得たとするも、其の英才は何れから來たか。これは其の人の系統上の前代の人々の『努力の堆積』が其の人の血液の中に宿つて、而して其の人が英才たる事を得たのである。
天才と云ふ言葉は、動もすると努力に因らずして得たる智識才能を指《ゆびさ》すが如く解釋されてゐるのが、世俗の常になつて居る。が、其れは皮相の見たるを免れない。所謂天才なるものは、其の系統上に於ける先人の努力の堆積が然らしめた結果と見るのが至當である。美しい斑紋を持ち若しくは稀有なる畸形をなした萬年青《おもと》が生ずると數寄者は非常なる價値を認めるが、併し其の萬年青なるものを熟※[#二の字点、1-2-22]《つく/″\》研究して見ると、決して偶然に生じたものではなく、矢張り其系統の中に其の高貴なる所以の原因を有つて居た事を發見する。草木にして然り、況や人間の稀有なる尊いものが忽然として生れる筈は無いのである。
盲人の指の感覺は其の文字を讀み得ざる紙幣に對しても、猶眞贋を辨別し得る程に鋭敏になつて居る。併し其の感覺力は偶然に得たものではなく、其の盲目の不便より生ずる缺陷を補はんとする努力の結果として、其の指頭の神經細胞の配布を緻密ならしめたので、換言すれば單に其の感覺が鋭敏なるのみではなく、解剖上に於ける神經分布の細密を來し、而して後に鋭敏なる感覺力を有するに至つたのである。則ち『機能』が卓越するといふばかりでなく、其の『器質』に變化を生じて、而して常人に卓越したものとなつたのである。是れ畢竟努力の絶えざる堆積は、旋《やが》て物質上にも變化を與ふる例證として認識するに足るではないか。
此の理に據つて歸納すれば、俊秀なる人の如きも、偶然に發した天賦の才能の所有者と云はんよりは、俊秀なる器質の遺傳、即ち不斷の努力の堆積の相續者、若くは煥發者と云ふ方が適當である。如斯《かくのごとき》の説は、或は英雄聖賢の人に對して、其の徳を減ずるが如くにも聞えるが、實は然うでない。努力は人生の最大最善なる尊いもので、英雄聖賢は、其の不斷に努めた堆積の結果だといふのだから、愈※[#二の字点、1-2-22]英雄聖賢の光輝を揚ぐる所以だと思ふ。
野蠻人が算數に疎いと云ふのも、つまり算數に對する努力が、まだ堆積して居らぬからで、即ち代々の努力を基本として居らぬ者が、忽然として高等の數理を解釋し得よう道理がないから、そこで數學の高尚なる域に到達し難いと云ふ證例である。吾人は動もすると努力せずして或事を成さんとするが如き考へを持つが、其れは間違ひ切つた話で、努力より他に吾人の未來を善くするものはなく、努力より他に吾人の過去を美しくしたものはない。努力は即ち生活の充實である。努力は即ち各人自己の發展である。努力は即ち生の意義である。
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修學の四標的

 射を學ぶには的が無くてはならぬ、舟を行《や》るにも的が無くてはならぬ。路を取るにも的が無くてはならぬ。人の學を修め身を治むるにも亦的が無くてはならぬ。隨つて普通教育、即ち人々個々の世に立ち功を成す所以の基礎を與ふるところの教育にも、亦的が無くてはならぬ。又隨つて其の教育を受くるものに在つても、亦的とするところが無くてはならぬ。的無くして射を學べば、射の藝は空しきものになる。的無くして舟を行れば、舟は漂蕩して其の達するところを知らざることとなる。的無くして路を取れば、日暮れて驛《うまや》を得ず、身飢ゑて食を得ざることとなる。人にして的とするもの無ければ、歸するところ造糞機たるに止まらんのみである。教育にして的無く、教育を受くるものにして的とすべきところを知らざれば、讀書《どくしよ》※[#「にんべん+占」、第4水準2-1-36]畢《てんひつ》は、畢竟蚊虻の鼓翼に異ならず、雪案螢燈の苦學も、枉げて心を勞し身を疲らすに過ぎざるものであらう。然らば即ち基礎教育の的とすべきは、何樣《どう》いふもので有らうか。又其の教育を受くるものの的として、眼《まなこ》を着け心を注ぐべきは、何樣いふところで有る可きであらうか。
現今の教育は其の完全|周浹《しうせふ》なることに於て、前代の比す可きでは無い程度に發達して居る。其の善美精細なることに於いても、往時の及ぶべきにあらざる程度に進歩して居る。必ずしも智育に偏しては居ない。必ずしも徳育を缺いては居ない。必ずしも體育を懈つては居ない。教育家が十二分に教育方針を研究して、十二分に教育設備を圓滿になさんとして、努力して居る結果、殆ど容喙すべき餘地の無いまでに、一切は整頓して居るのが、現今の状態であるから、其の點に就ては、猶缺陷も有らうけれども、多く言はざるも可なりである。たゞ教育の標的が、最簡最明に擧示されて居らぬ。教育を受けるものも、明白に其の標的を自意識に上せて居らぬ如く見ゆるのは遺憾である。で、今其の點に就て少しく語らんと欲するのである。
もつとも教育の標的と云つても教育の精神と云つても宜しい教育勅語は、炳焉として吾人の頭上に明示されて居る。之を熟讀し爛讀して服膺すれば、萬事おのづから足るのであつて、別に更に予の如きものの絮説を要せぬのである。しかし予が別に言をなすものは、予の一片の婆心、已む能はざるに出づるのみであつて、固より勅語の外に別主張をなし、異意見を立つるが如き狂妄なことを敢てするのでは無く、ひそかに自ら我が言の必ず勅語と其の歸を同じうして違はざらんことを信じて居るのである。
予が教育及び教育を受くるもの若くは獨學師無くして自ら教ふるものの爲に、其の標的とせんことを奬むるものは僅に四箇の義である。標的たゞ四、其の題を稱ふれば、一口氣にして餘りあり、しかも其の義理、其の意味、其の情趣、其の應用に於けるや、滾々として盡きず、汪々として溢れんと欲するものがある。願はくは予は天下爲すあらんとするの人と共に、之を口稱心念して遺《わす》れざらんとするのである。
如何なるか是れ四箇の標的。一に曰く、正なり。二に曰く、大なり。三に曰く、精なり。四に曰く、深なり。此の四は是れ學を修め、身を立て、功を成し、徳に進まんとするものの、眼必ず之に注ぎ心必ず之を念ひ、身必ず之に殉《したが》はねばならぬところのものである。之を標的として進まば、時に小蹉躓あらんも、終に必ず大に伸達するを得べきは疑ふべくも無い。
正、大、精、深。是の如きは陳套である。今更點出して指示されずとも、我既に之を知れりと云ふ人も有らう。如何にも陳套である。新奇のことでは無い。併し修學進徳の標的としては、是の如く適切なものは無い。陳の故を以て斥け、新の故を以て迎ふるは、輕薄の才子と、淫奔の女子との所爲である。日照月曜は其久しきを以て人これに頼り、山峙河流は其常あるを以て人これに依り、三三が九、二五十の理は其の恆なるを以て人之を爭はぬのである。所謂大道理なるものは、其の行はるゝこと變ぜず、其の存すること誣ひ難きを以て、人之に信頼し、人之に依歸するのである。即ち愈※[#二の字点、1-2-22]久しくして、愈※[#二の字点、1-2-22]信ずべきを見、愈※[#二の字点、1-2-22]古くして、愈※[#二の字点、1-2-22]依るべきを見るのである。彼の毒菌の※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、87-11]《しふ》に生じ、冷※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]の朽《くちき》に燃ゆるが如き、※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2-1-57]生忽滅して、常無きものは、其の愈※[#二の字点、1-2-22]新にして愈※[#二の字点、1-2-22]取るに足らず、愈※[#二の字点、1-2-22]奇にして、愈※[#二の字点、1-2-22]道《い》ふに値せざるを見るのである。教育を受くるもの、若くは自ら教ふるもの等に對つて、新奇の題目を拈出し來つて其の視聽を驚かすが如きは、或は歡迎を受けるかも知れぬが其の實は事に益なきのみである。正、大、精、深の四標的、取り出し來つて奇無しと雖も、決して其の陳套の故を以て之を斥くべきでは無い。況んや又日月は舊しと雖も、實に朝暮に新しく、山河は老いたりと雖も、實に春秋に鮮《あざら》けく、三三が九、二五十の理は珍らしからずと雖も、實に算數の術日に新に開くるも、畢竟此の外に出でざるに於けるをや。之を思へば、此等皆愈※[#二の字点、1-2-22]古くして愈※[#二の字点、1-2-22]新《あらた》に、愈※[#二の字点、1-2-22]易にして愈※[#二の字点、1-2-22]奇なのである。正、大、精、深の四箇の事の如き、之を味へば味ひて窮り無く、之を取れば取つて竭きざるの妙が有る。如何ぞ之を新奇ならずとせんやである。
正とは中である。邪僻偏頗、詭※[#「言+皮」、U+8A56、88-4]傾側ならざるを言ふのである。學をなすに當つて、人に勝らんことを欲するの情の強きは、惡きことでは無い。しかし人に勝らんことを欲するの情強きものはやゝもすれば中正を失ふの傾きがある。人の知らざるを知り得、人の思はざるに思ひ到り、人の爲さざるを爲し了せんとする傾が生じて、知らず識らず中正公明のところを逸し、小徑邪路に落在せんとするの状をなすに至るものである。力めて之を避けて、自ら正しくせんとせざる時は、後に至つて非常の損失を招く。僻書を讀むのも、正を失つて居るのである。奇説に從はんとするのも、正を失つて居る。尋常普通の事は、都て之を面白しとせずして、怪詭稀有の事のみを面白しとするのも、正を失つて居るのである。たとへば飮食の事は、先づ善く其の飯を不硬不軟に作り得るを力むべきである。燕窩《えんくわ》鯊翅《しやし》の珍は、其の後に至つて之を烹※[#「敖/火」、U+24385、88-12]《ほうがう》すべきである。然るに只管珍饌異味を搜求して調理せんとし卻て日常の飯を作《な》すこと甚だ疎なるを致すが如きは、正しきを失つて居るのである。學をなすも亦然りで、學問の道もおのづから大門があり、正道があつて、師は之を教へ、世は之を示し、先づ坦々蕩々たる大道路を行かしめて、而して後人々の志すところに到らしめんとして居るのである。然るに好んで私見を立て、小智に任じ、傍門小徑を望んで走るのは、其の意蓋し惡むべからずと雖も、其の終や蓋し善からざるに至るのである。近來人皆勝つことを好むの心|亢《たかぶ》り、好んで詭※[#「言+皮」、U+8A56、89-1]の説を聽き、古往今來、萬人の行きて過たず、萬々人の行きて過たざるの大道路を迂なりとし、奮力向前して、荊棘滿眼、磊石填路の小徑を突破せんとするが如き傾がある。其の意氣は愛す可きも、其の中正を失へるは嘉《よみ》す可からざる事である。學やや成つて後に、然樣《さう》いふ路を取るならば、或は其の人の考次第で宜いかも知らぬが、それですら正を失はざらんとするの心が其の人に無くてはならぬのである。況んや書を讀んで未だ萬卷に達せず、識いまだ古今を照らすに及ばざる程の力量分際を以て、正を失はざらんとするの心甚だ乏しく、奇を追はんとするの念|轉《うたゝ》盛んにして、たま/\片々たる新聞雜誌等の一時の論、矯激の言等に動かされ、好んで傍門小徑に走らんとするのは、甚だ危いことである。呉々も正を失はざらんとし、自ら正しくせんとするの念を抱いて學に從はねばならぬ。
大は人皆之を好む。多く言ふを須ひぬ。今の人殊に大を好む。愈※[#二の字点、1-2-22]多く言ふを須ひぬ。然れども世或は時に自ら小にして得たりとするものあり。撼む可し善良謹直の青年の一派に、特に自ら小にするもの多きを。一二例を擧げんか、彼等の或者は曰く、予才拙學陋なり、たゞたま/\俳諧を好み、闌更に私淑す、願はくは一生を犧牲にして、闌更を研究せんと。或者は曰く、予詩文算數法醫工技、皆之を能くせず、たゞ心ひそかに庶物を蒐集するを悦ぶ。マツチの貼紙《ペーパ》を集むる既に一年、約三五千枚を得たり。異日積集大成して、天下に誇らんと欲すと。是の如きの類、或は學者の如く、或は好事家の如く、或は畸人の如きものが甚だ少くない。別に又一派の青年が有つて、甚だ小さなことを思つて居る。或は曰く、予は大望無し、學成りて口を糊し、二萬圓を積むを得ば足れりと。或は曰く、予父祖の餘惠に依り、家に負郭の田數頃、公債若干圓あり、今學に從ふと雖も、學成るも用ひるところ無し、たゞ吾が好むところの書を讀み、畫を觀、費さず、得ず、一生を中人生活に送らんのみと。是の如きの類、或は卑陋の人の如く、或は達識の人の如きものも、亦甚だ少くない。此等は皆強て咎む可きでは無い。闌更を研究するも可、マツチのペーパを蒐むるも可、身を低くして財を積むも可、徒坐して徒死するも、犯罪をするに比して不可は無い。されども學を修むるの時に當つて、是の如くにして我が學ぶところを限り、毫も自ら大にせんとするの念無きは、甚だ不可である。苟も學に從ふ以上は常に自ら自己を大くしようと思はねばならぬ。浪りに大望野心を懷くべきを勸むるのでは無い。闌更の研究、マツチのペーパの蒐集を廢せよといふのでは無い。たゞ是の如きことは、學成り年やゝ長《た》けて後、之を爲すも可なりである。學に從つて居る中は、力めて限界を擴大し、心境を開拓し、智を廣くし、識を多くし、自ら自己を大になさんことを欲せなければならぬ。
七歳八歳の時に、努力して僅に擡《あ》ぐるを得たる塊石も、年長じ身大なるに至つては、容易に之を擡ぐるを得るものである。七歳八歳の我が、十五歳二十歳の我に及ばざりしは、明白である。此故に青年修學時代の我が、他日壯歳にして、學やゝ成れる頃の我に及ばざるも亦明白である。然らば今の我を以て、後の我を律せんよりは、今はたゞ當面の事に勉め、學んで而して習はんのみで、何を苦んで自ら小にし、自ら卑しくし、自ら劃り、自ら狹くするを要せんやである。修學の道最も自ら小にするを忌む、自尊自大も、亦忌むべきこと勿論であるが、大ならんことを欲し、自ら大にすることを力めるは最も大切なことである。人學べば則ち漸く大、學ばざれば則ち永く小なのであるから、換言すれば學問は人をして大ならしむる所以だと云つても宜い位である。決して自ら劃つて小にしてはならぬ。自ら自己をば眞に大ならしめんとして力めねばならぬ。
大には廣の意味を含んで居る。今や世界の知識は、相混淆し相流注して、一大盤渦を成して居るのである。此時に當つて、學を修むるものは、特に廣大を期せねばならぬ。眼も大ならねばならぬ。膽も大ならねばならぬ。馬を萬仭の峯頭に立てて、眼に八荒を見渡すの氣概が無くてはならぬ。大千世界を見ること、掌中の菴羅果《あんらくわ》の如くすといふ程の意氣が無くてはならぬ。一卷の蠧書《としよ》に眼睛を瞎卻《かつきやく》されて、白首皓髯、猶机を離れずといふやうではならぬ。これも亦須らく大の一字を念じて、然樣《さやう》な境界を脱し得なければならぬのである。
精の一語は之に反對する粗の一語に對照して、明らかに解し知るべきである。卑俗の語のゾンザイと云ふは精ならざるを指して言ふので、精は即ちゾンザイならざるものをいふのである。物の緻密を缺き、琢磨を缺き、選擇おろそかに、結構行き屆かざる類は、即ち粗である。米の精白ならず、良美ならず、食ひて味佳ならず、糟糠いたづらに多きが如きは、即ち粗である。之に反して物の實質の善く緻密にして、琢磨も十分に、選擇も非ならず、結構も行屆きて居る類は即ち精である。米の糟糠全く去り除かれ、良美にして精白、玉のごとく、水晶の如く、味ひて其の味も佳なるものは、即ち精である。精の一字を與へて之を評すべき机ありと假定すれば、其の机は必ずや之に對する人をして滿足を感ぜしむるのみならず、又必ずや長く保存され、長く使用に堪へ得るものたるに相違無い。如何となれば、其の材の選擇に、十分の注意が拂はれて居るならば、乾※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、92-2]《けんしふ》に遇ひて、忽ち反つたり裂けたり歪んだり縮んだりするやうなことも無からうし、結構に十分の注意が拂はれて居るならば、少々位の撞突衝撃を受けても、忽ちにして脚が脱したり、前板や向板が逸《はづ》れて、バラ/\に解體して仕舞ふやうな事も無からうし、又實質が緻密であるならば、鬆疎のもののやうに脆弱でも有るまいから、自然と傷つき損ずる事も少なかろうし、琢磨が十分ならば、外觀も人の愛好珍重を買ふに足りるだけの事は有らうから、乃ち長く使用さるゝに堪へ、長く保存さるゝに至り、そして人をして恆に滿足を感ぜしむる丈のことは、おのづからにして其處に存在するで有らう。米も亦然りで、若し精の一語を以て評すべきやうの米ならば、米としては十分なる價値を有して居るもので有らう。これに反して粗の一語を以て評すべきやうの机あらば、其の机は之に對する人をして、不滿足を感ぜしめ、不快を覺えしむるのみならず、幾日月の使用にも堪へずして、破損して廢物となるに至るであらう。如何となれば材料實質が惡くて、結構も親切ならず、琢磨も行屆かぬものならば、誰しも之を取扱ふに愛惜の情も薄らぐで有らうし、物それ自身も、少々の撞突衝撃にあつても直に損ずるで有らうから、さういふ運命を現ずるも必然の勢である。米もまた然りで、其の粗なるものは、卻つて他の賤しい穀物の精なるものには劣る位である。何によらず精粗の差たるや實に大なりである。學問の道にも、精粗の二つがある。勿論其の精を尚ぶのである。其の大ザツパで、ゾンザイであるのをば、斥けねばならぬのである。
併し机や米に對しては、誰しも精の一語を下して其の製作を評されたり、其の物を評されたりするやうなものを可とするが、學問に於ては時に異議あることを免れない。と云ふものは古からの大人や偉才が、時に精と云ふことには反するやうな學問の仕方を爲したかの如く見ゆることが有るので、後の疎懶の徒が、やゝもすれば之に藉口して、豪傑ぶつたことを敢て放言して憚らぬところより、おのづからにして精を尚ばぬ一流を生じて居るからである。併しながら其主張は、誤解から來て居るものが多い。
精を尚ぶことをせぬ徒の、やゝもすれば口にすることは、句讀訓詁の學なぞは、乃公《おれ》は敢てせぬといふのが一つである。成程句讀訓詁の學は、學問の最大要用なことでは無いに相違無いけれども、古の人が句讀訓詁の學をなすことを欲しなかつた點に就ては、其の志の高くして大なるところに倣ふべきで有つて、其の語があるから句讀訓詁なぞは何樣《どう》でもよいと思ふのは間違ひである。句讀訓詁の學をなして、たゞ句讀訓詁に通ずるを以て足れりとし、句讀訓詁の師たるに甘んずるやうなる學問の仕方を爲したなら、其は非で有らう。併し句讀訓詁を全然顧みないでは、何を以て書を讀みて之を解し悟るを得んやである。句讀訓詁に沒頭して仕舞ふのは、勿論非である。句讀訓詁なぞは、と豪語してゾンザイな學風を身に浸みさせて仕舞ふのも決して宜しくはない。字以て文を載せ、文以て意を傳ふる以上は、全く句讀訓詁に通ぜずして、抑※[#二の字点、1-2-22]亦何を學ぶを得んやである。文辭に通ぜざるは弊を受くる所以である。徂徠先生の如き豪傑の資を以て、猶且つ文辭に呶々するものは、實に已むを得ざるものが有るからである。
假に句讀訓詁を事とせざるは可なりとするも、書を讀んで句讀訓詁を顧みざるが如き習慣を身に帶ぶるに及んでは、何事を爲すにも、粗笨にして脱漏多く、違算失計、甚だ多きを致すを免れざるものである。事を做すに當つて、違算失計多きを惡まざるの人は、世に存せずと雖も、習癖既に成れば、之を脱するは甚だ難きものである。句讀訓詁を事とせざるは或は可なるも、事を做すに精緻を缺いて、而も之を意とせざるの習を身に積むは、百弊あつて一利無きことである。況んや學問日に精緻を加ふるは、今日の大勢である。似而非豪傑流の習慣は、決して身に積まざるやうにと心掛けねばならぬ。句讀訓詁を事とせよといふのでは無いが、學をなすには精を尚ばねばならぬといふのである。
學問精密なることを尚ばぬ徒の、やゝもすれば據りどころとするのに、諸葛孔明が讀書たゞ其の大畧を領した、といふことも亦其の一つである。陶淵明が讀書甚だ解するを求めずと云つたと云ふのも、亦其の一つである。淵明は名家の後であつて、そして如何とも爲し難き世に生れた人である。其の人一生を詩酒に終つて仕舞つたのである。情意甚だ高しと雖も、其の幽致は、直に取つて以て庸常の人の規矩とし難きものがある。まして不求甚解とは、粗漏空疎で可いと云つたのでは無い。甚解と云ふことが不妙なのである。それで甚解を求めざるのである。學問讀書、細心精緻を缺いて可なりとしたのでは無い。孔明の大畧を領すといふのも、領すといふところに妙味があるのである。何樣《どう》して孔明の如き人が、※[#「囗<勿」、U+56EB、94-16]※[#「囗<侖」、U+5707、94-16]《こつりん》※[#「にんべん+龍」、U+5131、94-16]※[#「にんべん+同」、第3水準1-14-23]《ろうどう》の學をなすものでは無い。孔明といふ人は、身漸く衰へ、食大に減じた時に當つても、猶自ら吏事を執つた位の人で、盲判を捺すやうな宰相では無かつた。それで敵の司馬仲達をして、『事多く食少し、それ豈久しからんや』と其の死を豫想せしめた程に、事を做す精密周到で、勞苦を辭さなかつた英俊の士である。其の孔明が書を讀み學を治むるに當つて、ゾンザイな事などを敢てしたと思うては大なる誤謬である。庸人の書を讀むや、多くは枝葉瑣末の事を記得して、卻つて其の大處を遺《わす》るゝのである。孔明に至つては、その大畧を領得したのである。淵明や孔明の傳に是の如きあるを引き來つて、學を爲す精ならざるも可なるかの如くに謂ふものは、すなはち其の人既に讀書不精の過に落在してゐるのである。精は修學の一大標的とせねばならぬ。
殊に近時は人の心甚だ忙しく、學を修むるにも事を做すにも、人たゞ其の速ならんことを力めて、其の精ならんことを期せぬ傾がある。これもまた世運時習の然らしむるところであつて、直ちに個人を責むることは出來ないのである。併し不精といふことは、事の如何にかゝはらず、甚だ好ましからぬことである。箭を造る精ならずんば、何ぞ能く中るを得んやである。源爲朝|養由基《やういうき》をして射らしむるも、※[#「竹かんむり/幹」、第3水準1-89-75]《やがら》直からず、羽整はずんば、馬を射るもまた中らざらんとするのは、睹易き道理である。學問精ならざる時は、人をあやまるのみである。
『一事が萬事』といふ俗諺の教ふる如く、學を修むるものにして、苟も學の精なるを力めざるが如くんば、其の人萬事の觀察施設、皆精ならずして、世に立ち事に處するに當つても、自ら過を招き失を致すこと、蓋し多々ならんのみである。
之に反して、學問其の精ならんことを力むるに於ては、萬事に心を用ひる。また自ら精なるを得て知らず識らずの間に、多く智を得、多く事を解するに至り、世に立ち事に處するに當つても、おのづから過を招き失を致すこと、蓋し少かるを得べきである。フアラデーの電氣諸則を發見せるも、ニユートンの引力を發見せるも、世の※[#「耳+貴」、第4水準2-85-14]々《くわい/\》者《しや》流《りう》は、之を偶然に歸するが、實は精の功これをして然るを得せしめたので、學に精に、思に精に、何事にもゾンザイならず、等閑《なほざり》ならざる習慣の、其の人の身に存し居りたればこそ、是の如き有益の大發見をもなし出したるなれ、と云ふのが適當である。ニユートンの如きは、現に自ら『不斷の精思の餘に之を得たり』と云つて居るでは無いか。およそ世界の文明史上の光輝は、皆精の一字の變形ならざるもの無し、と云つても宜い位である。
深は大とは其のおもむきが異なつて居るが、これもまた修學の標的とせねばならぬものである。たゞ大なるを努めて、深きを勉めなければ、淺薄となる嫌がある。たゞ精なるを勉めて、深きを勉めなければ、澁滯拘泥のおそれがある。たゞ正なるを努めて、深なるを勉めなければ、迂闊にして奇奧なるところ無きに至る。井を鑿る能く深ければ、水を得ざること無く、學を做す能く深ければ、功を得ざることは無い。學を做す偏狹固陋なるも病であるが、學を做す博大にして淺薄なるも、また病である。たゞ憾むべきは其の大を勉むる人は、多くは其の深きを得るに至らざることである。
しかし人力はもとより限有るものであり、學海は※[#「水/(水+水)」、第3水準1-86-86]茫《べうばう》として、廣闊無涯のものであるから、百般の學科、悉く能く深きに達するといふ譯に行かぬのは無論である。故に、深を標的とする場合は、自ら限られたる場合で無ければならぬ。一切の學科に於て、皆其の學の深からんことを欲すれば、萬能力を有せざる以上は、其の人の神疲れ精竭きて、困悶斃死を免れざらんとするのが數理である。深は此の故に其の專攻部面にのみ之を求むべきである。濫りに深を求むれば、狂を發し病を得るに至るのである。
たゞ人々天分に厚薄があり、資質に強弱は有るけれども、既に其の心を寄せ念を繋《か》くるところを定めた以上は、其の深きを勉めなければ、井を鑿して水を得るに至らず、いたづらに空坎《くうかん》を爲す譯である。甚だ好ましからぬことであると云はなければならぬ。何處までも深く/\力め學ばねばならぬのである。天分薄く、資質弱く、力能く巨井を鑿つに堪へざるものは、初めより巨井を鑿せんとせずして、小井を鑿せんことをおもふやうに、即ち初めより部面廣大なる學をなさずして、一小分科を收むるが可い。分薄く質弱しと雖も、一小科を收むれば、深を勉めて已まざるや、能く其の深きを致し得て、而して終に功あるを得べき數理である。たとへば純粹哲學を學得せんとするや、其の力を用ひる甚だ洪大ならざるを得ざるも、某哲學者を擇んで其の哲學を攻究せんとすれば、部面おのづからにして其の深きを致し易きが如き理である。美術史を攻《をさ》むるを一生の事とすれば、其の深きを致さんこと甚だ易からざるも、一探幽、一雪舟、一北齋を攻究せんとすれば、質弱く分薄きものも、亦或は能く他人の遽に企及し易からざる深度の研究を爲し得べきやうの數理である。此故に深の一標に對しては人々個々によりて豫め考へねばならぬ。が、要するに修學の道、其のやゝ普通學を了せんとするに際しては、深の一標に看到つて、そして豫め自ら選擇するところが無ければならぬ。而して學問世界、事業世界のいづれに從ふにしても、深の一字を眼中に置かねばならぬことは、苟も或事に從ふものの皆忘れてはならぬところである。
以上述べたところは何の奇も無いことであるが、眼に正、大、精、深、此の四標的を見て學に從はば、其の人蓋し大過無きを得んとは、予の確信して疑はぬところである。
[#改丁]

凡庸の資質と卓絶せる事功

 何事に依らず、人の或る時間を埋めて行くには、心の中にせよ、或は掌《て》の上にせよ、何ものかを持つてゐなければ居られぬ。丸で空虚でゐることは、出來得るかも知れぬが、先づ普通の人々としては爲し得られない。さらば心の中、或は掌の上に、何物かを持つてゐる事が常住であるならば、其の持つてゐるものの善いものでありたいことは言ふまでもない。
所謂志を立つると云ふことは、或るものに向つて心の方向を確定する意味で、云ひ換ふれば、心の把持するところのものを定める譯なのだ。それであるから、心の執る處のものを最も善いものにしなければならぬのは、自然の道理である。隨つて志を立つるには固からんことを欲する前に、先づ高からんことを欲するのが必要で、扨志立つて後は其固からんことを必要とする。
然らば志を立つるに最高であればよいかと云ふに、固より然樣《さう》である。併し萬人が萬人同一の志であるといふ事は有り得ない理だ。各人の性格に基づいて、其の人が善しとする處に、心を向けて行くべきなのである。政治上の最高地位を得て、最大功徳を世に立てようとか、或は宗教上道徳上の最上階級に到達して、最大恩惠を世に與へようとか、更に又文教美術の最靈の境涯に到達して、其の徳澤を世に與へようとか、それ等は何れも最高の階級に屬するもので方面は其れ/″\變つても立派なことは同一であるが、方向を異にするのは各人の性格から根ざして來るのである。そこで或る性格の人は同じ最上最高のところに志を立つるにしても、或事には適當し、或事には適當せぬといふことがある。即ち性格が其の志に適應しなければ駄目である。
是等は最も卓絶した人に就て云ふので、普通の人は、又性格其者が最上最善には有り得ない。甲乙丙丁種々あるけれども、第一級性格の人もあれば、第二級性格の人もあり、又第三級の性格を持つてゐる人もある。元來人の性格はさう云ふやうに段階を區別することは出來ないものである。が、肉體にも或る人は五尺六寸のものもあり、或は五尺三寸のものもあり、又五尺のものも多くある。斯く肉體の身長《みのたけ》も、種々階級があるが如くに、性格といふものも、自らにして非常に高い人もある、中位の人もあり、更に低い人もある。そこで第一級の性格のものは、第二級の性格のものの志望するやうな事は自ら志望せず、第二級の性格のものは、第三級の性格の者の志望するやうな事は自然に望まぬ。其れは社會實際の状態であつて、各人の性格に基づくのだから致し方がない。譬へば是《こゝ》に美術家があると假定して見ると、古往今來盡未來の第一位の人たらんとするものもあり、古の人に比して、誰位になり得れば、滿足と思ふものもあり、それよりも低き古人を眼中に置いて、それ位が滿足であると思ふものもある。又更に低きになると唯一時代に稱賛を博して、生活状態の不滿さへなければ、其れで滿足とするものもある。斯く人々の身長の高さに種々あるが如くに、人々の志望の度合も、性格に相應して自ら高低が現はれて來る。
中には又非常に謙遜の美徳を其の性質に具へて居るが爲めに、自己の志望よりも自己の實質の方が卓越して居る位の人もある。さう云ふ人は先づ稀有のことであつて、事實に例證して云つて見れば、南宋の岳飛は、歴史上の關羽、張飛と肩を竝べれば滿足であると信じた。併し岳飛の爲した事は、關羽張飛と肩を竝べるどころではない。寧ろ關張よりも偉い位である。又三國の時の孔明は、管仲樂毅などの人々を自分の心の標的としてゐた。けれども孔明の人品事業は、決して管仲樂毅の下には居ない。斯く二人の如き謙遜の美はしい性質を有した人は、暫く除外例として、多くの人々は尺を得んとして寸を得、寸を得んとして其の半ばにだも達せずして終る。それ故志は性格に應じて、出來得るだけ高からんことを欲する。大なる志望を懷いても、三十四十五十と、追々年を取るに隨つて遂には陋巷に朽ち果てて終るのが常であるから、人は假初にも高い志望を懷かねばならぬ。
一生を委ぬる事業は、暫くさし措いても、日常些細のことでも矢張同一である。娯樂でも何でも心の中掌《て》の上に持つてゐるものは、願くは最高最善のものでありたい。或る人は盆栽を買つても安いものを買ひ、鳥を飼つてもイヤなものを飼ひ、園藝をしても拙劣《まづい》ものを作り、其の他謠曲にしても、和歌にしても、又三味線にしても、種々の娯樂を取るに、いづれも最低最下のところで終る人がある。又或る性格の人は、種々の樂しみの中で、「盆栽は好むが他は好まぬ。盆栽でも草の類は澤山あるが、己れは草は措いて木を愛する。又木にも色々あるけれども、己は柘榴を愛玩する。其の代り柘榴に於ては、誰よりも深く玩賞し、且つ柘榴に關する智識と栽培經驗とを、誰よりも深く博く有して、而して誰よりも善いのを育てよう」とするものがある。些細のことであるが、柘榴に於ては天下一にならんことを欲して、最高級に志望を立てるものがある。さういふ人が若し他の娯樂に心を移したなら善い結果を得られぬが、是の如くにして變ぜざれば第一になることは出來ないまでも、其の人甚だしい鈍物ならざる以上、柘榴に於ては決して平凡の地位に終らない。柘榴の盆栽つくりに於ては他人をして比肩し得難きを感ぜしむるまでの高度の手腕を、其の人は持ち得られるに至る。それは最高に志望を置いた結果で、凡庸の人でも、最狹の範圍に最高の處を求むるならば、その人は蓋し比較的に成功し易い。
近頃或る人が蚯蚓の生殖作用を研究して、專門家に利益を與へたといふ事が新聞に見えて居た。是は誠に興味ある事例で、蚯蚓の如き詰らぬものにしても、其の小さい範圍に長年月の間心を費せば、其の人は別に卓越した動物學者でないにも拘はらず、卓越した學者にすら利益を與へ得ると云ふことに到達し、永い間の經驗の結果は世の學界に或るものを寄與貢獻したと云ふことになつたのである。實に面白いことでは無いか。
人々の身長《みのたけ》の高さは大凡定つてゐるのであるから、無暗に最大範圍に於ける最高級に達することを欲せず、比較的狹い範圍内に於て志を立てて最高位を得んことを欲したならば、平凡の人でも知らず識らず世に對して深大なる貢獻をなし得るであらう。何をしても人はよい。一生瓜を作つても馬の蹄鐵を造つても、又一生杉箸を削つて暮しても差支ない。何に依らず其のことが最善に到達したなら、その人も幸福であるし、又世にも幾干かの貢獻を殘す。徒らに第二第三級の性格であることをも顧みずして、第一級の志望を懷かうよりも、各自の性格に適應するものの最高級を志望したならば、其の人は必らず其の人としての最高才能を發揮して、大なり小なり世の中に貢獻し得るであらう。
 

接物に接する宜しく厚きに從ふべし

 物に接する宜しく厚きに從ふべしといふのは黄山谷の詩の句である。人は心を存する須らく温なるべきである。
人の性情も多種である。人の境遇も多樣である。其の多樣の性情が、多樣の境遇に會ふのであるから、人の一時の思想や言説や行爲も亦實に千態萬状であつて、本人と雖も豫想し逆賭する能はざるものが有るのは、聖賢にあらざるより以上は免れざるところである。それであるから人の一時の所思や所言や所爲を捉へて、其の人全體なるかの如くに論議し評隲《ひやうしつ》するのは、本より其の當を得たことでは無い。併し是を是とし非を非とすることを不當だとすべき理由は、亦復《また》更に之無かるべきところのことに屬する。故に是を是とし非を非とするのも亦實は閑事で、物言へば脣寒し秋の風であるといふ一見解は姑く擱きて取らずとして、差支は無いが、こゝに當面の是を是とせずして非とし、非を非とせずして是とするが如きが有つたならば如何であらう。其の人の性情境遇が然らしめたることにせよ、之を可なりとすることは斷じて出來ないのである。況んや其の性情拗戻辛辣にして、自ら轗軻蹉躓、百事不如意の境遇を招致し、而して不平鬱勃、渇虎餓狼の如き状に在るものの、詭激側仄の感情より生じたる論議評隲に於てをやである。其の齒牙にかくるに足らざるは勿論である。隨つて之を酷排峻斥せざる可からざるも亦勿論である。性癖は如何とも爲し難いにせよ、人は成るべく『やはらかみ』と『あたゝかみ』とを有したいものである。假にも助長の作用を爲して、剋殺の作用を爲したく無いものである。
近く譬喩《たとへ》を設けて之を説かうか。人は皆容易に予の意を領得するで有らう。助長とは讀んで字の如しで助け長ずるのである。剋殺は剋し殺すのである。茲に一の牽牛花《あさがほ》の苗が地を抽いたと假定すると、之に適度の量の不寒不熱の水を與へ、或は淤泥、或は腐魚、或は糠秕、或は燐酸石灰等の肥料を與へ、其の蔓をして依つて以て纒繞せしむ可き竹條葭幹等を與へて之を扶殖して地に偃《ふ》すこと無からしめ、丁寧に其の蠹※[#「虫+冴のつくり」、第4水準2-87-34]《とが》を去るが如きは、即ち助長である。故無くして其の芽を摘み去り、其の葉を※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77]り取り、其の幹莖を蹂躪して地に委せしめ、瓦礫を投與して傷夷せしむるが如きは、剋殺である。牛馬犬豚の如きものに對しても、之を愛育し長成せしむるは助長である。草木禽獸に對してのみならず、一机一碗一匣一劔に對しても、助長剋殺の作用は有るのであつて、之を撫摩愛玩すれば、桑の机なら、其の机は漸くにして桑の特質たる褐色の美澤を増進し來つて、最初のたゞ淡黄色たりし時よりは其の優麗を加ふるものであり、樂燒の碗ならば、其の碗は漸くにして粗鬆のところも手に觸れて不快の感を起さしめざるを致し、黒漆の匣ならば、其の匣は漸くにして漆の愛す可からざる異臭も亡せ浮光も去り、賞す可き古色を帶ぶるに至り、劔は又其の拂拭を懈らざれば、其の利を加へざるまでも、其の鋭を保つて、※[#「金+肅」、第3水準1-93-39]花《しうくわ》の慘を受くるに至らざるものである。凡そ是の如きは皆助長の作用である。之に反して机をば汚して拭はず。或は刀※[#「金+纔のつくり」、第3水準1-93-44]し錐穿して之を傷つけて顧みず、碗には垢膩《こうじ》滓渣《さいさ》を附して洗はず、或は之を衝撃して、玉瑕氷裂の醜を與へ、匣をば毀損し、劔をば銹花滿面ならしむるが如きは、剋殺の作用である。古人の妙墨蹟好畫幅等に對しても亦然りで、片紙斷簡を將に廢せんとするに拯《すく》ひて、之を新裝し再蘇せしむるが如きは助長であり、心無く塵埃堆裏に抛置し、鼠牙《そが》※[#「虫+主」、U+86C0、107-3]殘《しゆざん》の禍を蒙らしめ、雨淋火爛の難を受けしむるが如きは剋殺である。
上擧の例に照らせば、不言の裏に予が意は自ら明らかであるが、之はまさに一切の美なるもの用有るものに對しては助長の念を懷くべく、決して剋殺の事をなすべからざるものである。助長を意とする人の周圍には、花は美しく笑ふべく、鳥は高らかに歌ふべく、羊は肥え馬は逞しかるべく、器物什具は優麗雅潔の觀を呈すべき情勢が有るが、之に反して剋殺を忌まざる人の周圍には、花も萎み枯れ、鳥も來り啼かず、羊痩せ馬衰へ、鼎は脚を折りて倒れ、弓は膠を脱して裂け、缺脣の罌《あう》、沒耳の鐺《たう》、雜然紛然として亂堆歪列すべき情勢がある。
人の性情は多種であるからして、自ら無意識的に剋殺の作用を敢てして憚からざるもの有り、而して人未だ必らずしも狂妄放漫の人ならざるも有るのであるが、其は蓋し幼時の庭訓之をして然らしめたもので、其の習慣其の人を累するには足らざるにせよ、其の習慣が決して其の人を幸福にするとは云ふべからざるものである。世にはまた一種拗戻偏僻の性質よりして、好んで剋殺の作用をなし、朱を名畫に加へ、指を寶器に彈ずるが如きことを敢てして、而も意氣は昂々、眼角は稜々、以て自ら傲《おご》るものも有るが、此等は眞に妄人癡物といふべきものである。何等の自ら益するところも無きのみならず、實に人を傷つけ世を害するものであつて、是の如き人に因つて吾人は如何に多大の損害を被つて居るか知れぬのである。雪舟は唯一人であり、乾山は只一人であるが、雪舟の畫を破り棄つる人乾山の皿を毀損する人は、何十人何百人何千人なりとも有り得る數理で有るから、剋殺を憚からぬ人ほど實に無價値なるものは世に無いのである。哲學的に論じたならば、剋殺も亦造化の一作用であるから、剋殺を敢てして憚からざる人も、亦造化の作用を助けて居るには相違無い。是の如きの人有つて、來者の爲に路を開くのであると論ずれば、論じ得られないのでは無いが、それは超人的の論議であつて、實際の社會とは懸絶して居るのである。美なるもの、用あるものを毀傷殘害するよりほかに能力無き人ほど憫むべく哀むべき人は復無いのである。人|應《まさ》に助長を意とすべし、剋殺を憚からざる勿れである。
以上は動植器物に對しての言であるが、予の言はんとする本意は庶物に對してでは無い。實に人の惡しからざる思想や言語や行爲に對して、妄りに剋殺的の思想や言語や行爲をなさずして、助長を意とせざる可からずと思ふからである。
こゝに人ありて或一事を爲さんことを欲すと假定せんに、其の事にして若くは不良なり、若くは兇惡なり、若くは狂妄なりとすれば則ち已む、苟も然らざる以上は、之を助長して其の志を成し其の功を遂げしむるも亦可ならずやである。たとひ我之を助長するを好まざるまでも、何で傍より之を剋殺して、其の志の成らず其の功を遂げざるを望むが如き擧に出づるを要せんやである。然るに世おのづから矯激詭異の思想を懷き、言語を弄し、行爲を敢てする一種の人ありて、是を是とし非を非とする以上に、不是を是とし、不非を非とし、以て快を一事に縱にするが如き擧に出づるものがあるは悲しむべきことである。人或は是の如きものは世に存する無しと云ふで有らうが、實際は動植器物に對しても助長を意とせず、剋殺を憚からざる人の少くないやうに、人の善や人の美に對しても、之を助け、之を濟さうとするものは、比較的に少く、之を毀損し之を傷害しようとするものは決して少く無い。
過日の事であつたが、予は山の手の名を知らざる一小坂路に於いて、移居の荷物を運搬する一車の、積荷重くして人力足らず、加ふるに、道路澁惡にして上るを難んずるを目撃した。時に坂下より相伴なひ來りし二人の學生の、其の一人は之を見るに忍びずして、進んで車後より力を假して之を推したるが爲に、車は辛うじて上らんとして動いたのである。然るに他の一人は聲高く之を冷罵して、「止めい、陰徳家よ」と叫んだので、車を推した學生は手を離して駈け拔けて仕舞つて、既に車より前に進んで居た冷罵者に追ひ及んで、前の如く相竝んで坂を上つたのである。車夫は忽然として助力者を失つた爲に、急に後へ引戻され、事態甚だ危險の觀を呈したが、幸に後より來りし二人が有つて、突差に力を假した爲に事無きを得た。併し予は坂上より差掛つて此の状を見て、思はず膽を冷し心を寒うしたのであつた。
此の事は眞に一瑣事で語るを値しないので有るが、此に類した事情は世に甚だ少く無いのである。一青年が力を假し車を推したのは、所謂惻隱の心とでも云はうか、仁恕の心とでも云はうか、何にせよ或心の發動現象で有つて、儒家者流に之を賞美するには値せずとするも、其の行爲たるや決して不良でも無く、兇惡でも無い。予をして言はしむれば、他の一青年が其の心の發動に對して剋殺的の言語を出すには及ばぬことである。否、むしろ助長的の意義ある言語を出して其の心の發動を遂げしめても可であり、又其の學生も協力して勞を分ちて不可無きことと思ふ。然るに冷罵を加へて、※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、110-3]《なんぢ》何ぞ自ら欺くやと云はぬばかりに刺笑したるが爲に、一青年の心は牽牛花《あさがほ》の苗の只一足に蹂躪されたるが如く、忽然として其の力を失ひ、突如として車を捨てて走るに至つたのである。之を目にしたる予は、後に至りて之を思ひ之を味はひて、一種愴然たる感を得た。吾人も亦時に彼の冷罵を加へたる青年の如き擧動を無意識の間に爲すことが無いには限らぬ。そして其の爲に自他に取りて何等の幸福をも來さずして、卻つて幾干かの不幸福を自他に貽《おく》りて居ることが無いには限らぬと思はずには居られ無かつた。
動植器物の愛すべく用ふべきに對して、毀損剋殺を敢てしてはならぬことは自明の道理である。人の善を成し美を濟《な》すことに於ても、亦助長的態度に出でねばならぬことも自明の道理である。他人の宗教を奉ぜんとするに會へば、之を嘲笑するは科學を悦ぶものの免れざるところであり、他人の科學を尊信するを見れば、之を罵詈するは宗教を悦ぶものの免れざるところである。併し人の性情は多種であり、人の境遇は多樣である。自己の是とするところのみを是とせば、天下は是ならざるものの多きに堪へざらんとするのである。故に苟も不良で無く、凶惡で無く、狂妄で無い限りは、人の思想や言説や行爲に對しては、苟も剋殺的で無く、助長的で有つて然る可きである。況んや多く剋殺的なるは、其の人の性情の拗戻偏僻なると、境遇の不滿なるとに基因する傾向の、實際世界に於て甚だ明白に認識せらるゝあるをや、と云ふも蓋し大なる誤謬では無いのである。
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四季と一身と(其一)

 人は其の内よりして之をいふときは、天地をも籠蓋し、古今をも包括してゐるものである。天地は廣大であるが、人の心の中のものに過ぎぬ。古今は悠久であるが、やはり人の心の中に存するものである。人の心は一切を容れて餘りあるものである。人ほど大なるものは無いのである。
併し其の外よりして之をいふときは、人の天地の間に在るのは、大海の一滴の如く、大沙漠の一砂粒の如きものであり、又人の古今の間に在るのは、大空の一塵の如く、大河の一|浮※[#「さんずい+區」、第3水準1-87-4]《ふおう》の如きものである。人は空間と時間との中の一の幺微《えうび》なるものに過ぎぬのである。
其の内よりしていふことは今姑らく擱くとして、其の外よりしていふ方に就いて言を爲さうならば、人既に空間及び時間中に包有せらるゝ一|幺微《えうび》の物たる以上は、我を包有するところの空間、及び時間の、大なる威力、及び勢力の爲に支配さるゝを免るゝことは出來ないので、即ち其の測る可からざる大威力大勢力の左右するところとなつて居るのである。
日本に生れたものは、おのづからにして日本語を用ひ、日本人の性情を有し、日本人の習慣に從つて居るのが事實である。魯西亞に生れたものは、おのづからにして魯西亞語を用ひ、魯西亞人の性情を有し、魯西亞人の習慣に從つて居るのが事實である。此等は明らかに人の空間の威勢に左右されて居ることを語つて居るのである。
空間の人に對することは姑く擱いて談ぜぬとする。
時間の人に對して其の威勢を加へて居ることも甚だ大なるものである。鎌倉期の人は、おのづからにして鎌倉期の言語風俗習慣を有し、又同じ期の思想や感情を有して居り、奈良朝時代の人は、おのづからにして奈良朝時代の言語風俗習慣を有し、又同じ期の思想や感情を有して居たのである。人々個々の遺傳や特質によつて、差異あるは勿論であるが、時代の威力勢力が、あらゆる人々に或色を與へて居るといふことは、誰しも認め得る事實である。是の如くなる一時期一時代といふ稍長い時間の勢力威力が人に及ぼすことは、これも今説かんとする點では無い故に姑く擱くとして、こゝに言はんとするところは、一年四季の人に及ぼす威力と勢力と、且つ人の其の威力勢力に對して如何に答應し、如何に之を利用すべきかといふことである。
年の四季が人の一身に及ぼすところの有るのは、大なる空間や、長い時間が其の威力勢力を人に加被すると同じ道理である。一時代は一時代で、其の勢威を有して居り、十年二十年は十年二十年で、其の勢威を有して居る。それと同樣に一年は短い時間では有るけれども、猶且一年だけの勢威を有して、そして其の勢力を人の上に加へるのである。猶一層詳言すれば、春は春の勢威を有して、之を人の上に加へ、夏は夏の勢威を有して、之を人の上に加へ、秋は秋、冬は冬の勢力威力を有して、之を人に加へて居るのである。
人間と季節との關係は、古來の感覺鋭敏なる詩人歌客等の十二分に之を認めて居るところの事に屬する。予が一々例證を擧ぐる迄も無く、苟くも詩歌を解する能力を有して居るものは、若し春の詩歌を讀んだならば、明らかに其の春の詩歌の中に、春の勢力威力が、如何に人間に加被したかといふことを現はした辭句を、容易に見出し得るで有らう。秋の詩歌を味はつたならば、明らかに其の詩歌の中に、秋の勢力威力が、人間に加被したことを現はした辭句を、容易に見出し得るで有らう。古來の四季の詩歌は、換言して見れば、殆んど皆四季の勢力威力が人間に加被する状態を吟詠してあるのが、即ち四季の詩歌である、と云つても宜しい位である。
詩歌以外に於ても、遠い古よりして、四季の人間に及ぼすところのものを道破して居るものは決して少く無い。其の斷片零句を拾つて、此の事を證據立てるとしたならば、人文あるより以來の多くの文字は、皆取つて以て此の事の證左とすべきもので有らう。若しそれ比較して、詳密に且つ適切に、かゝる事を説いたものを求めたならば經書を外にした古いものには『呂覽《りよらん》』などは最も詳しく説いて居るものとして認めることが出來るであらう。
古代の人の思想には、天時が人事に關係が有るばかりで無く、人事が天時にも關係影響するものとして、考へて居たのであることは、呂覽《りよらん》が極めて明白にあらはして居る。いやそれどころでは無い。殷湯が自ら責めた語などを見ても、天と人とは甚だ緊密に相關して居るものと、古人の認めて居た事が窺はれる。此等の事を考證するのが本意では無いから、今は論ぜぬが、かゝる事例や證左は、苟も少しく古を知るものの之を引擧するを難しとせぬところである。
古は古である。多く言ふを値せぬとしても宜しい。直に今の吾人の上に就て、吾人の實際に感じ、眞箇に知るところを基として語らう。吾人の目が睹、心が知るところに就て言をなして見ようか。吾人は矢張り、四季の吾人に及ぼす影響の少からぬことを認めぬ譯にはならぬのである。
鑛物界には生理が有るか無いか知らぬが、先づ常識の考へ得るところでは、生理は無いやうで、其の在るところは物理のみのやうである。植物界には心理は有るか無いか不明であるが、其の存するところは生理と物理とで、常識の判斷によれば、心理は無いやうである。舍利が子を産むの、柘榴石が生長するの、黄玉が漸く老いて其の色を失ふのといふことは、事實が有るにしても、それは物理の然らしむるので、生理の所攝の事では無いやうである。阿迦佗樹が感覺があるの、フライトラツプが自ら食物を取るの、含羞草《おじぎさう》が感情的に動くの、或植物は漸々《おひ/\》に自己の所在地を變更して、歩行するが如き觀をなすのと云つたところで、それは物理生理の然らしむるので、心理の然らしむるのでは無いやうである。人と動物とに至つては、物理生理心理を具有して居るのである。
で、鑛物界の物すら、四季の影響を受けて居る。即ち鑛物體の罅隙に在る水分は、冬の寒威に遇つて氷となつて膨張し、春の暖氣に會して融消して去るために、崩壞碎解の作用が行はれるのである。或は又夏の烈日や霖雨が、酸化作用を促して、秋の暴風や嚴霜が、力學的熱學的に働く爲に、斷えず變化が起されてゐるのである。それから又植物は、鑛物に比しては、愈※[#二の字点、1-2-22]多く四季の影響を受けて居る。太陽の光線の量が異なり、熱が異なる、其等の事情の爲に、物理の作用を受けるは勿論の事、植物自身が生理作用を有して居るだけに、物理作用が生理作用に影響して、生理状態が季節と共に變化遷移し、そして其の繁榮、若くは衰枯の始終を遂げるのである。春に華さき、夏に茂り、秋に實り、冬に眠るのは、樹木の多數が現はすところの四季の影響である。春生じ、夏長じ、秋自ら後に傳はるの子を遺し、冬自ら生活の閉止を現はすのが、穀※[#「くさかんむり/(瓜+瓜)」、第4水準2-86-59]《こくら》の多數が示すところの、四季の影響である。かゝる自然の有樣は、一切の人の認め識つて居るところで、そして自然の情勢を利用して、春は播種して之を生ぜしめ、夏は耕耘糞培して、其の長育を助け、秋は刈穫して、其の功を收めるのである。
これが穀※[#「くさかんむり/(瓜+瓜)」、第4水準2-86-59]に對するの概しての道である。又春には華を求め、夏には葉を取り、秋には實を收め、幾春秋を經たる後には材を取るのである。これが樹木に對して無理の無い處理の大概の道である。人は植物と四季との關係を明白に知つて居る。そして其の智識により、巧みに其の關係を利用する。それと同樣に、家畜家禽其他の動物等に對しても、四季が家畜其の他動物等に及ぼす關係を明知して、そして其の關係を利用するに拙くない。蜂より蜜を收め、蠶より繭を收め、※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]より卵を收め、家畜より其の仔を收むるにも、皆季節によりて之を得ることを知つて居る。狂妄の人にあらざるよりは、季節が與へぬものを得ようとはせぬのである。
此等の道理に照らして考へたならば、内省の力を有して居る人類は、自己が四季の作用を如何に被つて居るかを觀察して、そして其の四季との關係を洞視し其の關係状態に順應して自ら處したが宜しい、といふことに心づかねばならぬ筈である。
たゞ人類は他の動物よりは確に卓絶した有力の心理を有して居る。其の心理が有力であるだけそれだけ、四季の支配を受くることが、他の動物ほど著明で無くて、心理の力でのみ動作して居るやうに見えるものである。動物は下等になれば下等になるだけそれだけ、心理の力が弱くて、そして心理の力が弱ければ弱いだけ著明に、四季の支配を受けて居ることを現はして居る。狗や馬の如き高等動物は隨分心理で行動する。海鼠《なまこ》や蛞蝓《なめくぢ》は、矢張り心理で行動することも有るのでは有らうが、殆んど生理でのみ行動して居るやうで、心理で行動して居るところは吾人の眼には上らぬと云つても可なる位である。心理で行動することの多いものの行動は、其の一點頭一投足も、亦皆其の動物自身の意志感情からして、點頭し投足するやうに見えて、自然が之をして然らしめたやうには見えぬのである。特に人類は自意識が旺盛であるから、自己の行動はすべて自己が之を爲すやうに感じて居て、自然が之を爲さしめて居るところが有るやうに、感ぜぬのが常である。そこで人類は四季が人類に及ぼす影響を的確に知つて、そして自ら之を利用するとか、之に順應するとかいふところまでには至つて居らぬやうに見える。若し植物や家畜に於て、四季の作用することが、甚大甚深であり、且つ其の作用に順應し、又は之を利用することが、有理で且つ有益であることを認めたならば、人類も亦天地の外に立ち、日月の照らさざるところに居るもので無い以上は、他の動物や植物と同じく、四季の作用を受けて居る道理で有るから、詳しく四季の我に作用する所以を考へて、之に順應し、或は之を利用するのが、有理の事であり、有益の事で有らうでは無いか。自意識の旺盛なる爲に、一切我より出づとなして居るのは、自己の掌《てのひら》を以て自己の眼を掩うて居るが如き状が有りはせぬか。
人類の他物に比して優秀なるは、疑も無く其の自意識の旺盛なる點にも在るが、自意識の旺盛なるのみで一切の事が了してゐるのでは無い。太陽の熱は、自意識の旺盛なものにも、無意識のものにも、同樣に加被して居るのである。四季の循環は、一切の物の上に平等に行はれて居るのである。自意識の旺盛なるまゝに、自然が我に加ふる所以のものが存することを忘れて居るのは、觀察の智が不圓滿であるとせねばならぬ。試みに四季の循環が、吾人に及ぼすところのものを、觀察するに力めて見ようか。
春は草木の花を開かしめ芽を抽《ぬ》かしめ、禽獸蟲魚をして、其の蟄伏の状態よりして、活動の状態に移らしめる。草木の花が開き芽が出るといふことは、明らかに草木の體内に於て生活の働きが、盛んになつて、其の營養分たる水氣の類が、根鬚より吸收されて、幹を上り枝に傳はり、そして外に發するのだ、とも云ひ得ることを示して居る。換言すれば又太陽の温熱が加はつたり、空氣の※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、119-10]度《しつど》[#ルビの「しつど」は底本では「しふど」]が異なつて來たりする爲に、末端が刺激されて、そして其の爲に水氣等のものが、促進されて上昇する、とも云ひ得ることを示して居る。
禽獸蟲魚等の春に遇つて漸く多く活動するやうになるのは、抑※[#二の字点、1-2-22]何に因るので有らうか。專門學者にあらざれば、自説を詳述し、確信することは、困難であるが、要するに氣温氣※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、119-13]の變化と、地皮状態の變化とに本づくのが第一で、次に其の攝取する食物の性能の差異に本づくのが第二の原因で有らう。夏秋冬の三季に於ける植物動物の自然に受くるところのものも、亦猶春に於けるがごとくで、皆太陽熱より起る氣温氣※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、119-16]等の空氣状態、及び之によつて起る地皮の状態の差、食物の差等に本づくので有らう。
人類は四季の爲には何樣いふ影響を受くるであらうか。
春來り風和らげば、人も亦冬とは同じで無い。春になれば人の顏にも花は咲くのである。此事は古よりの人々も觀察し得て居ることである。黄ばみ黒ずんで居た人の顏は、紅色を帶びて來て、漸く鮮やかに美しくなり、悴《かじ》け萎びて、硬ばつたり龜裂したりして居た人の皮膚は、※[#「車+(而/大)」、第3水準1-92-46]らぎ潤ひて生氣を増し、瑞々しく若くなつて、皹《ひゞ》凍傷《しもやけ》なども治り、筋肉は緊張し、血量は増加したるが如く見える。從つて心理状態も亦冬期とは異なつて、慥に發揚すること多く、退嬰すること少く、籠居を厭ひ、外出を喜ぶやうになり、器械がするやうな勞作には倦み易くなつて、動物がするやうな、意志あり、感情有る仕事を爲さうとする。着實な事よりは、華麗《はなやか》な事に從ひたがる。温健な事よりは、矯激な事を悦ぶ。理性に殉ふよりは、感情に隨ひたがる。泣くよりは笑ひたがる。愁ふるよりは怡びたがる。勤むるよりは遊びたがる。青年壯年の士女に於ては、所謂春氣が發動する。是の如きは春が人に及ぼす大概である。
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四季と一身と(其二)

 顏色悦澤、感情|怡和《いわ》、人の春に於て是の如くなるに至るのは、自意識に基づくので有らうか。抑※[#二の字点、1-2-22]自然が然らしむるので有らうか。疑も無く意識のみには基づかぬのである。春に於て人の顏色の美しくなるのは、血液の充實に基づくのである。血液は何故に冬は乏少し、春は充實するで有らう。此の事實は寒暖計の水銀が直に示して居る。護謨毬の中の空氣が明らかに教へて居る。水銀や空氣が熱に遇へば、膨張するが如く、同一重量の血液にせよ、温熱にあへば、其の容積は膨張し増加して、同一容器内に於ては充實の觀を生じて來る。春暖に際して、人の皮下體内に血液の充實して漲溢せんとする如き觀を生じて來る理由は、決して唯一の理由では無く、複雜なる理由から成立つてゐるには相違無いが、温熱に著しく感ずるものは、氣體及び液體であるから、血液が暖暄《だんけん》の影響を受けて、人の體内に於て膨張することは確に有力の一原因に疑無い。そして血液容量の増加は、血壓力即ち血管内壁を壓する力の増加を致すに疑無い。腦の中に於ける血量の乏少と増加とは明らかに心理作用に影響する。肢體に於ける血量の増加と乏少とも、心理に影響する。飮酒、入浴、按摩等の心理に及ぼす影響は、何人も之を認むるところである。血液鬱滯は姑らく論ぜず、すべて適度の血量増加、即ち血壓増加は、心理に於ける陽性作用を致し、感情に於ては愉快怡和亢奮を現はし、理性に於ても同じく其の影響を被るに相違無いが、感情亢昇の爲に掩はれて、卻て聊か其の働が鈍らされるが如き觀を呈するに至る。春の人に及ぼす影響は、其の温暖といふ點のみより説いても是の如きものがある。
食物の變化が人に及ぼす影響もまた大なるもので、古の人すら養は體を移すとして認めて居る位である。春に當つて人が新鮮なる蔬菜海草、野生草木の嫩葉新芽、及び※[#「車+(而/大)」、第3水準1-92-46]幹等を取つて食とすること多きは、爭ふべからざる事實であるが、此等の食物中の或物は疑も無く其の特性の作用を人に及ぼすに相違無い。禽類獸類等が、春に於て著しく冬季に於けると其の動作を異にする原因の中の有力なる一件が、食物の變化に存するは、家禽家畜等に徴して明らかに知ることの出來ることで有る。緑色素を有する菜類、即ち菘《な》の類を與へざれば、家鷄は多く不活溌に陷る。これに反して之を與ふれば、其の肉冠は著しく鮮紅又は殷紅となり、其の擧動は活溌となるのである。人類も緑色素を有する蔬菜類を長く絶つ時は、憂悶に陷り、血液病に罹るを致すが、多く蔬菜を取るに至れば、血液は淨められ、憂悶は快活となり、顏色は蒼黄より淡紅となる。此等普通食物猶是の如しである。況んや、特異の性を有する植物に於てをやである。藥用草木として用ひらるゝのみの草木以外、即ち普通食物として用ひらるゝ草木でも、其の花を開き芽を抽く時、即ち多くは春の時に當つては、其の性能は、花又は嫩芽に存し勝のもので、例を擧ぐれば山椒や茶の如く、其の花や芽は其物の性能を全存して居るものである。芳香ある花柚《はなゆ》や、猛毒ある烏頭《うづ》は、春季には開花せぬものであるけれども、同じく花時に於て其の芳香をも猛毒をも其の花に存して居るがごとく、草木は其の開花抽芽の時に當つては、自體の性能精氣を花や芽に存して居るものである。そこで春の時に當つて吾人が取る植物性の食餌は、たとひ平凡のものでも、其の性能精氣をもつて、吾人に何等かの影響を與へることが少く無い。芥子菜であるとか、蕗の薹及び其の莖であるとか、茗荷であるとか、蕨であるとか、紫蕨《ぜんまい》であるとか、獨活《うど》、土筆、よめ菜、濱防風《はまばうふ》であるとか、※[#「木+怱」、第3水準1-85-87]《たら》の芽、山椒の芽であるとか、菜の莟であるとか、竹の子であるとか、野蜀葵《みつば》であるとか、菠薐草《はうれんさう》であるとか、花でも芽でも無いが春子《はるこ》香蕈《じひたけ》であるとか、此等のものは、其の性質に、和平甘淡のものも有り、辛辣峻急のものもあるが、いづれも多少の影響を生理上に及ぼし、延いては心理上に及ぼすことで有らう。茶の精氣は、老葉には少い、其の嫩葉に在る。嫩葉でも葉軸よりは葉尖にある。烏頭は花ある時は、其の毒が根には乏しい位で、蝦夷人は花無く葉枯れた後に至つて、其の毒の根に歸するを待つて利用する。※[#「くさかんむり/雲」、第4水準2-86-81]薹菜《あぶらな》は平淡のものであるが、其の莟を多く食へば人を興奮せしめる。虎杖《いたどり》の生長したのは食ふべくも無いものだが、其の嫩莖を貪り囓めば、爽快を感ぜしめる。蕗の薹は其の苦味《にがみ》を以ての故か知らぬが、慥に多少の藥餌的效能を有する。此等の零碎な事實を綜合して考ふる時は、草木の發花抽芽の季たる春に於ける植物性食餌の、吾人の生理上心理上に、比較的稍強い影響を與へることは看過し難いことである。
香氣が吾人を衝動する事も、決して些細なことでは無い。沈《ぢん》、白檀《びやくだん》、松脂等が吾人に或感を起さしむるのも、決して因襲習慣より來る聯想によるのみでは有るまい。佛教の儀式には、沈白檀等が用ひられ、耶蘇舊教の儀式には、其の香爐より松脂の香が振り散らされる。此等の香氣は、明らかに動物の生殖慾の亢昂時に成り立つところの麝香や※[#「鹿/章」、第3水準1-94-75]香や、植物の交精時に發する薇薔花香、百合花香、菫々菜《すみれ》[#「菫々菜《すみれ》」は底本では「董々菜《すみれ》」]花香《くわかう》、ヘリオトロープ花香、茉莉《ジヤスミン》花香《くわかう》等とは異なつたものである。物性異なれば反應も亦異なる。吾人の感の、彼に對する時と此に對する時との異なるのも、勢おのづから然らざるを得ざるものが有るので有らう。春の世界は冬に比して、大に香の有る世界だ。花が香を發する。若芽や嫩葉が薫る、小溝の水垢も春は浮立つて流れて、隨つて其の異な香がする、防風の生えて居る砂地や、土筆《つくし》蒲公英《たんぽぽ》の岡の邊や、街道の馬糞や、路傍の切れ草鞋から、陽炎の立つ柔らかな日の光の下で種々の香が蒸し出される。女は愈※[#二の字点、1-2-22]女くさく、男は愈※[#二の字点、1-2-22]男臭くなる。狐臭《わきが》のある女や男やは、愈※[#二の字点、1-2-22]其の奇臭を發揮して空氣の純潔を淆《みだ》す。食物に供せらるゝものの中でも、植物性のものの多くは或は愛賞すべく、或は嗜好すべき個々の香氣を發するものが、冬季に於けるよりは比較して多い。
およそ此等の數件、即ち温暖が與へる物理的の働きや、食物が與へる生理的、又は藥物學的の働きや、香氣が與へる心理的の働きや、此等の事は皆春が吾人に及ぼす明らかな事象である。猶此他にも、研究すれば研究するに從つて、春が大なる季節の流行といふ力を背後《うしろ》にして吾人に薄《せま》るところのものは、決して少く無いことを見出し得るであらう。是の如きの諸種の力の衝動するところとなつて、そして吾人は春に於ては春らしい心になるのであることは爭はれない。たゞ單に吾人自身の心理的で、或氣持を有するに至るのでは無いのである。
春のみでは無い。夏も秋も冬も亦同じである。吾人は明らかに四季の影響を受けて居る事、たとへば猶草木の如く禽獸の如くなのである。
果して然らば吾人は四季の吾人に對して與ふるところのものに順應して、吾人自身を處理するのが至當で有り、且又至妙であるに相違無い。
是の如き道理で、吾人は春が吾人に何樣《どう》いふことを爲さしむるべくあるか、又夏や秋冬が何樣いふことを爲さしむるべくあるかといふ事を考察して、そして之に順應して、自身を處理するに或る調攝を取つて行きたいと考へる。
扨春夏は吾人の肉體を發達長成せしむることが、秋冬に於けるよりも比較的に多く行はるゝやうである。秋冬は心靈を發達長成せしむることが、春夏よりは多く行はるゝやうである。春夏は四肢を多く働かす時は、目に見えて四肢が發達する。秋冬は腦を多く働かす時は、目に見えて腦が發達するやうである。そして春夏に於て體育を勤めた人は、秋冬に於て容易に腦を發達せしめ得るやうである。予は如しであると云つて居る。也とは云つて居らぬ。しかし何樣《どう》も予の觀察の範圍では、前に言つた如くに思へる。で、春夏に當つて、自然に逆らつて、餘り肢體を働かさずに、餘り多く腦を働かすと、其の人は腦の機能器質に疾患を起すに至るやうである。これは自然に逆行するが爲に生ずるのでは有るまいか。春分以後夏至以前には、動もすれば漫りに腦を使つた人が、恰も其の時期に精神的疾患を發したり得たりするやうである。或は又甚だしい發作をなすやうである。其は季節の力の最も猛なる時に當つて、其の季節に逆らつたことを敢てした結果が現はれるのでは有るまいか。
此等の事は少い範圍の經驗で確論する事は甚だ無思慮の事に屬するが、各人は各人で内省的能力を有して居るものであるから、深く自ら考察したら宜からうと思ふ。予は各人が、人と天との關係を考察して、而して適應して戻らざるやうに、自己を處せんことを勸めるのを道理ある親切と思考するのである。
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疾病の説(其一)

 疾病《しつぺい》は生物の無き能はざるところのものである。甚だ稀有の事としては、生に始まるより死に終るまで、疾病の現象を呈すること無くて、世に來り世を去るものも有らうけれど、そは其の事に就て思量考慮の費すことを要せぬ程に稀有である。植物と最下等動物とは姑らく措いて論ぜず、高等動物と目され居るもの、特に人類に在つては、男女を問はず疾病無しに終始するものは、甚だ少いと云はうよりは寧ろ絶無と云つても差支無い位である。されば疾病の爲に、大なり小なり、長い間なり短い間なり、人類が或る影響を受くるのが、通常有勝の事である以上は、疾病と云ふ事に就て多少の考量思慮を費すのは、疑心より生じたる暗鬼に就て、思慮考量を費すが如きことでは無い。いづれかと云へば至當の思慮考量の費し方である。物ずきでも無からう。不必要でも無からう。
疾病といふことは學者めかして其の定義を論ずる段になれば、隨分面倒なことで有らう。いづくよりいづくまでが平常状態で、いづくよりいづくまでが疾病状態であるか、專門の知識が相應に有つても、異論者の起るべき事を豫想して立論する時は、容易に言を立つる事は出來まい。併し生理學、病理學、健全學、解剖學等の精細な論議に立入ることを避けて、普通知識より立言して、疾病を論じた方が、醫療家、衞生學家、解剖學家、生理學家等が支配して居る精細な知識圈に立入つて居らぬ一般民人に取つては寧ろ實際に近くて卻つて利益も有らうし、正しき解釋にも近づかうといふものである。普通に疾病といふのは人の器質の異常を呈するに至り、器能の不全を呈するに至り、又換言すれば生理状態の缺陷を生じ、若くは示しつゝある場合を指すのである。
いづれにもせよ疾病ほど人世に取つて不幸を致すものは有るまい。自己の疾病、自己の近親朋友の疾病、乃至一面の知無き人の疾病も、皆直接間接に不幸を致すのである。自己が健康を失つたのは勿論不幸である。愛子が病むのも勿論不幸である。同じ町内に赤痢患者が出で、同じ市内に黒死病《ペスト》患者が出でるのも、我が不幸なるは明白である。此の道理を推して觀ずれば、北極圈内の蠢《しゆん》たる民や、亞弗利加内地や南洋の蠻民が、一人病を發しても、厚薄深淺の差こそあれ、吾人に取つて悲むべき不幸たることは爭ふべくも無い。小さな心の利己主義より言つても、優しい心の博愛主義より言つても、世の中に疾病といふものを無くしたいと思はぬ人も無からう。
然るに矛盾に滿ちて居る人の世は、如何なる時に於ても、人の望に副《かな》つた無疾病の世といふものが現在した例を見せて居ない。歴史は常に疾病によつて幸福が毀損され、不幸が惹《ひき》起《おこ》されたことを記して、其の全紙を埋めて居る、と云つても宜しい程である。疫癘流行の事實の如きは擱いても、智勇善良の人士の損耗は、斷えず疾病の爲に促されて、そして常に社會は大不幸を受けて居るのである。其の一點より論じても、何程疾病が人間に災して居るか分らぬ位で、假令《たとひ》醫術が進歩したの、衞生設備が完全に近づいて來たのと云うても、今日猶吾人は、常に疾病の爲に直接間接に惱まされぬいて居るのである。
疾病の絶滅は不可能であるかも知れぬ。併し吾人はこれを可能なりと假定し、吾人の理想の充實さるゝ時は即ち疾病絶無なるに至るものとして、疾病の驅除に力めねばならぬ。これは能くす可からざるの事にせよ、欺く可からざるの願であるでは無いか。
疾病絶滅の道は、決して一端では無い。多端である。
試に之を説けば、一は社會的であり、一は個人的である。個人的の方は多く言ふを須ひない。社會的方法が具備しなければ、或一個人はよしや無病なるを得るとも、社會の不幸は繼續するのであり、そして一個人の幸福もまた破壞さるべき數理を有して居る。社會的の驅病法も多端である。最も簡單で而も有效な方法は、病者隔離法で、野蠻人さへ古より實行して居るが、それより進んで、強制種痘の如き、檢疫檢黴の如き、消毒方法の如き、下水排泄の完全を期する如き、飮料水の善良ならんを圖る如き、都市村落の自然及び人爲を健康的に建設配置するが如き、空氣の淨化作用を助け、温度|※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、129-11]度《しつど》[#ルビの「しつど」は底本では「しふど」]の調節を圖るが如き、光線及び氣流に對して不健康的なるを善巧に處理するが如き、凡そ疾病の既發及び未發に對して取るべき萬般の手段を盡す等、一々枚擧するには堪へぬことである。此等の事の中、直接に疾病に關することは蓋し低級衞生法で、疾病絶滅には效が少い。直接に疾病に關せぬ部分の事、即ち水、空氣、光線、地物等に關する研究及び設備は蓋し高級衞生で、此等の事が十二分に至らないでは、疾病絶滅は實現さるゝに甚だ遠いのである。疾病は個人の所有の如くでもある。併し確に社會の共有である。故に疾病絶滅を希圖する上に於ては、社會が單に社會的、個人が單に個人的では成就せぬ。社會は個人を視ること全社會の如くにし、個人は社會を視ること自己の如くするに至らずば、病根は那方《どちら》かに存して、輪番芽をなして永久に絶滅すまい。社會が一賤人一兇人を其一賤人一兇人なるの故を以て冷視したならば、疾病は必らず其處より發芽して、そして蒲公英《たんぽゝ》の種子《たね》の如く風に乘じて飛散傳播するで有らう。個人が自己の體躯以外には痛痒を感ずることなきの故を以て社會を冷視したならば、社會は其の人の爲に恐るべき害を被らう。病者は消毒藥を盛りたる壺中に[#「壺中に」は底本では「壼中に」]喀痰するも、路傍に喀痰するも、其の自體に關しては何等の差を生ぜずと雖も、社會の此が爲に受くる差は決して少くは無い。故に意識及び感情に於て、個人と社會との圓融せる一致を得るといふ事は、疾病絶滅の道に於ては甚だ大切の事であつて、此の事が成立たぬ限りは、疾病といふものは決して絶滅せぬ。個人は社會に對し、社會は個人に對し、相互に明確嚴正な意識と、温良仁愛の感情とを有して、必らず其の爲すべきことを爲し、必らず其の爲すべからざることを爲さざるに至らなければ、疾病は絶滅せぬ。南京蟲は物の罅隙《すき》に其の生を保つ。疾病が個人と社會とのピツタリと相合して居らぬ罅隙に於て、其の生存と繁殖との地を占めて居ることは、蔽ふ可からざることである。
一個人の疾病に對する場合は、醫療を怠らぬ事と、健全學の指示に反かぬ事とで足りて居るやうである。併し疾病絶滅の道の個人的の部分を論ずれば、猶其の上に種《しゆ》の善良なるものを傳ふる事を當然の義務として希望するの念を持續することを要する。劣惡な種を世に存せしめざるやうにすることを思ふのを、社會に對する個人の正しい感情として持續するの念あるを要する。
以上に説いた如く、第一に社會的、第二に個人對社會、及び社會對個人的、第三に個人的、此の三方面に於て疾病絶滅を希望するの念慮及び施設が十二分で有つたら、長い歳月の後に至り、十二分の學術及び經驗の效力によつて、或は人間に疾病を絶滅し得るかも知れぬ。が併し其は理想郷の事で、蓋し實現は難中の難でも有らう。
疾病の絶滅は實に希望するところであるけれども、そは洪大永遠の問題で、一朝夕にして之を論ずるも、一掬水を以て劫火に對するが如きものであるから姑く擱かう。たゞ吾人は此の疾病常有の世界に處して如何に疾病を觀ずべきであらうか、又如何に疾病に處すべきで有らうか。それを試に考へて見よう。
誰しも疾病を好むものは無い。併し冷靜に觀察すると、疾病にもおのづから二途の來路が有る。一は招かずして得た疾病、一は招いて得た疾病である。不行跡よりして痳疾を得、暴飮よりして心臟異常を來し、無法の擧動よりして筋骨を挫折するを致せるが如きは、招いて得た疾病である。知らざる間に空氣より結核菌を得、水又は菜蔬より十二指腸蟲卵を[#「十二指腸蟲卵を」は底本では「十二腸蟲卵を」]得、アノフエレスより瘧を得るが如きは招かずして得た疾病である。併し誰しも自ら意識して疾病を招致するものは無いから、嚴正に論じたら、一切の疾病は招かずして得たものでも有らう。又反對に論じたならば、避け得べき筈の病氣をば、之を避くることをなさざりしが故に受取つたのは、縱ひ之を好まざりしまでも自ら招いて得た疾病だと云つても宜からう。けれども其等の論はいづれも中心を失して居る。みづから病因をつくつたものを自ら招いた疾といひ、おのづからにして病を得たものを招かずして得た病といふに不思議は有るまい。
たゞこゝに注意すべきは世人の多くが招かずして得た疾病であると思つて居るのにも其の實は招いて得たも同樣な事情が甚だ多く伏在して居ることである。不學者の解釋には偶然といふ語が多いのと同じく、疾病に關する知識の少い者には、何の理由といふことを解知せずとも、知識ある者の眼より觀る時は、明らかに招き致したも同樣の事情で疾病を得て居るものの多いことは、爭ふ可からざることであるから、自ら招いた病であると認むる病者は少くても、みづから招き致して居る病氣は比較的に世に多い、と認めて可なるものである。瘴癘の氣の多い卑※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、132-6]地《ひしふち》に入つて病を得、沮洳《そじよ》の地に遊んで瘧を得たり、水邊に長坐してレウマチスを得たりするが如きは、公務ででもあらば是非も無いが、さも無ければ自ら招いたと云はれても是非が無い。攝州の住吉だの、茨城、埼玉の某地だのの如きは、十二指腸蟲の[#「十二指腸蟲の」は底本では「十二脂腸蟲の」]巣窟で、そこの蔬菜井水を飮食すれば、危險至極で、其の附近には同患者の多いのは爭ふ可からざることである。しかし知識が無ければ之を飮食して其の病を得よう。若し病を得たらそれは全く自ら招いたでは無からうが自ら招いたに近からう。獨逸の醫コツホは京都に在つた時、其のホテルの下を通る多くの車が何を積めるかと問うて、そして其の物の用途を知つた後は、日本の蔬菜を食はなかつたといふことである。避くべきを思うて之を避け、自ら病を招くことを爲さなかつたので有る。是の如き點より考察すると、吾人が知識の乏少なるより自ら招いて病を得て居ることは、決して少くは無いのである。飮食被服の不注意、これらからのみでも吾人は何程多く病を得て居る事であらう。勞作、休息、睡眠、空氣、光線、此等の事に關して無知なるためにのみでも、吾人は何程多く疾病を招き致して居るで有らう。未丁年者、被保護者、官公務に服するもの、此等の人々以外の者の疾病は、自ら招致せるも亦多いことで有らうと思はれる。
眞に自ら招かざる疾病を得て居るもののが部分は[#「居るもののが部分は」はママ]、不幸にして強健ならざる體質を享けて生れ來つた者である。提督ネルソンが兵學校の身體試驗に落第した孱弱者で有つたことと、其後強健なる好提督となつたこととは、やゝもすれば先天の缺陷を後天の工夫で補ひ得る事の例に引かるゝ談であるけれども、千百年に一人の人を例に取り來つて、百千萬人を論じようとするのは失當で且つ酷である。若し世に悲む可き人ありとすれば、不幸にして良からぬ體質を享けて生れ來つて、そして其の爲に疾病の因俘となつて居る人である。これは全く自ら招かずして病を得て居る人である。
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疾病の説(其二)

 自ら招くと、自ら招かざるとに約して論ずれば、自ら招いて病を得た者は、自ら省察を加へて同一事を繰返さぬやうにせねばならぬ。自ら病を招くは自己に對しては愚なり、自己の父母長上に對しては不幸なり不徳なり、子女や目下に對しては不慈なり、其の事情によりて輕重の差は甚だ大なるものが有るが、要するに社會に對して債務を負へる者の如き位地に立つて居るので、極言すれば一ツの罪である。酷論には相違無いが、一ツの罪である。
扨自ら招かずして疾病に惱むに至れる者は、本より罪は無い。併し實に不幸の頂點に在るものだ。父母はこれに對して悲み、目下はこれに對して憂ひ、社會はこれに對して債務を負へる者の如き地位に立つて居る。宿命説の如きものが眞理なるかの觀を呈するのも、實に是の如き人あつて世に存する以上は、亦已むを得ぬことである。自己が何等の原因を作爲したので無くて、たゞ單に父母の惡血を遺傳し、乃至は薄弱の體質を遺傳して、そして一年中藥餌に親しむといふが如き現果を受けて居るのは、實に同情に餘りあることである。本來の道理から云へば、社會は惡事をなしたものを監獄に收容するよりも前に、かゝる不幸の人を然るべき園囿に安んじて、そしてこれに十二分の療養を加へしめて宜い譯である。然るに惡人は直接に吾人に危險を及ぼすといふ道理からして、之を監獄裏に置き、衣食を給して居るのであつて、そして不幸なる病者には猶租税を課して、其の膏血を絞り取り、それを以て兇惡の人を養つて居るのである。奇と云はうか慘と云はうか、實に間違ひきつて居ることである。
先天的に悲むべき體質を受け來つて居る人は、社會から是の如き待遇を受けて居ても、今日までのところでは誰も熱心に其の誤謬を指摘するものの無かつたため、社會の重い/\壓力の下に壓し潰されて、恰も丈の低い草が丈の高い草の爲に、太陽の光線や熱や、空氣の清さや、何も彼も奪はれて、殘念乍ら萎縮し枯死し腐つて仕舞ふやうに、悲慘な情状の下に廢滅して仕舞つて居るのである。
惡人を處刑するといふことが復讎の意味で無い以上、即ち社會の安靜を保つ爲といふ文明の精神から出でて、そして其の爲に多大の智慮と施設と費用とを消耗して完全なる監獄を立てて居る道理から推せば、先天的に病躯を有して居る人に對しては、同じく社會の安靜を保つ爲に其の病者を社會が扶持して、十分の智慮と施設とが盡されて、十分の費用の投ぜられた完全なる仁慈院の内に、其の健康が囘復さるゝ迄は收容して置いて然る可き理である。それが出來ぬまでも、少くとも租税を免じて、社會的負擔を輕くし、國家的社會的の重壓を、羸弱の身の上に加へないやうにするが、然るべき理である。然るに今日の社會組織では、盜賊にはお膳立をして飯を與へて、裁縫をして衣服を與へて、一坪何十圓といふ立派な居宅に住はせて、髮も刈つてやれば入浴もさせ、堂々たる役人の多數を其の看護者として附隨させ、醫師をして其の健康を保たせ、宗教家をして其の談敵たらしめ、其の人自個の生産力によつて自個を支ふるの勞苦を免れしめて、國家の供養、換言すれば良民の膏血を以て、これを供養して居るのである。而して先天的に不幸の體質を受けて、病魔の手裏に囚はれて居る病人に對しては、其の病人たるの故を以て與ふるところの斟酌といふものは一毫も無く、收税者は其の怠納の場合には鐵の定矩の決して枉ぐべからざるが如くに租税を嚴取するのは抑※[#二の字点、1-2-22]何といふ事で有らう。醫を業とするもの、看護を業とするもの、神佛の靈驗を説くもの等は、人の爲に必らず報酬的に働き、飮食衣服其他の材料若くは便宜を供給するものは、さらぬだに疲弊せる病者の膏血と交換的に各般の事を了するのが、現社會の實相である。此等は是非も無い事ではあるが、無資力の不幸な人に取つては實に情無い事では無いか。社會が覺醒せぬ間は是非無い事であるが、先天的病弱者は慥に社會から誤つた待遇を受けて居る。過去世《くわこぜ》の因果であるとか、宿命といふものが有るとかいふ思想の勢力が無くなつたらば、先天的病弱者は是の如き冷酷なる社會に對して怨嗟呪詛の聲を放つに至つても無理とのみは決して思はれぬでは無いか。
自ら招くと、自ら招かざるとに論無く、病は明らかに現在に於て其の人の好運で無いのみならず、又將來に於ける其の人の好運を※[#「爿+戈」、第4水準2-12-83]害する。人の希望を破り、陽性には自暴自棄の兇惡なる思想及び擧動を發せしめ、陰性には怠惰、萎靡、悲觀、絶望觀、欲死觀等を生ぜしめ、一切の不幸を連續的に招致する。特に青年期に於ける疾病は、甚だしく其の人をして蹉躓懊惱悲哀を惹起《ひきおこ》さしむる傾がある。病者が是の如くなるに至るは、一毫も無理とすべき所は無い。希望の大なる者、功名心の強い者、聰明の者は、青年期に病を得る時は、愈※[#二の字点、1-2-22]益※[#二の字点、1-2-22]苦惱する。かゝる人々が病の爲に身を苦めらるゝのみならず、又病の爲に自から心を苦めて、二重の苦痛を負ふは、實に氣の毒のことで有り、且つ其の心を苦むることが病の爲に數※[#二の字点、1-2-22]不利益を來すの因となり、治療すべき病も不治に陷り、輕かるべきも重きに陷るの基となる。併し病者に對して「君よ心を苦むる勿れ」と制止したところが其は無效に終るに過ぎぬ。たゞ病者に對して深厚なる同情を與ふるのが、病者の周圍に在るものの最善である。病者に對する同情は挫骨者に對するギフス繃帶の如きもので、藥劑や手術の如き働きはせぬけれども、しかも外に在つて不知不識の間に病者を利益する。病者に對して他人の爲すべきところは實に此のみで、干渉がましき事などは寧ろ避けねばならぬ。しかし病者自身に在りては、病の爲に悲觀に陷り、意氣の銷沈に陷るは萬々已むを得ぬことでは有るけれども、餘り多く自意識を使つて想像的に主觀的に苦惱するよりも、寛やかな心を有し、のび/\とした考を懷き、天若くは神、佛、若くは運命といふが如きものを信じて委順して行くのが最も宜しいので、最勝者の存在を認めずとも安心を得る人はそれでも宜いのである。
疾病は人の免れぬもので有る以上、たま/\疾病を得たとて、然《さ》のみ急に驚くべくも愁ふべくも無い譯である。生命ある以上は寧ろ疾病を豫想すべきであつて、そして其の豫想に本づいて第一には病に罹らざるを力め、第二には病に罹つた時、如何にすべきか、を考へて置くべきことである。病に罹らざるを力むるには、第一に自己の健全ならんを力め、次いで自己の近親者、及び他人の病まざらんことを力むべきであるが、自己一個の力を以ては、自己をすら完全に保護することの出來ぬのが人間の眞相であり實際であるから、病に罹らざることを力むるにも、單獨的にするよりも相互的にせねば其の目的は達せられぬ。即ち夫婦間で云へば、夫も自己の病まざるやうに注意し努力するは勿論であるが、妻もまた其の夫の健康を保たしむる爲に十二分の注意と努力とを取らねばならぬ。妻も自ら病まざるやうにするのは勿論であるが、夫もまた妻の健康に關して十二分の注意を拂ひ、努力を敢てせねばならぬ。如何なる明眼の人も、我が眉を視ることは難い。拙技の棊客も傍觀者たるに於ては、時に好着手を見出すものである。正しき意味に於ての仲好き夫婦の互に健康なるものが多いことは、世上に多いところの例である。そして不幸にして其の一方が缺ける時は、遺された他の一方が健康を損じ易い例も世に多いことである。これは悲哀が人を弱くすることも實際では有らうが、眞の愛情より成立つて居る保護者が亡くなり、眞の親切よりの助言者監督者を亡せることが、病魔の侵入すべき隙を多く與ふることも其の一因である。世間に體質の良好なるが爲に健康を保ち得て幸福に生活して居る人も甚だ多からうが、良い妻、良い夫、有難い父母、優しい兄弟、孝行な子女の爲に健康の幸福を得て居る人も何程有るか知れない。長壽の人を觀るに孝子順孫を有して居る人が多い。其の反對に立派な體質を有しながら不健康な人を觀るに、多くは不良な妻や夫を有し、又は幸に善良な夫や妻を有しながら、之に聽かずして卻つて不良の朋友などに親むところのもので有る。此故に疾病は相互的に豫防せねばならぬ。一家は一家で申合せて、互に注意し合つて病魔の進入を防がねばならぬ。一兵卒の怠りも數※[#二の字点、1-2-22]強敵の襲來を致す道理であるから、全軍が注意せねば堅守の功は收め難い。主人の勉學も、過ぎさせては睡眠不足より脱力を生じさせ、脱力より感冒を致させるから、細君は之を優しく制さねばならぬ。細君の自から奉ずることの薄いのは美徳だが、此も度に過ぎさせてはならぬ。暑熱や、寒冷や、雨雪や、飮酒や、日光直射や、異常の食物や、甚だしき飢《き》や飽《はう》や、浴後の薄衣《うすぎ》や、皮膚の不潔や、すべて病因たることは、盡く自己の判斷と、他の批判と、即ち一個的及び相互的の注意によつて、之を避けねばならぬ。たゞこれは平生に於て健全學と衞生學との知識によるべきことで、如何に相互的であつても、若し既に病んで醫療を要する場合になつては、素人が醫師の領分を犯して治療上の指摘や干渉などをするのは卻て危險で不可である。
平常状態を維持せんとするも、病を退くるの大道であるが、守れば足らず攻むれば餘有《あまりあ》る道理であるから、病むまいとするよりは平常状態以上の健康を得んと力むるも甚だ有效の事である。體躯の能力《ポツシビリテイ》を普通人より卓越させようといふ希望を燃え立たせて生活することは慥に有益である。普通ならんことを願つて居ては、時には普通なることをすら能くし得ぬかも知れぬが、普通には卓越せんことを願つたなら或は普通位には有り得るであらう。毎朝一回齒を清め口を清むるは普通の人の爲す所であるが、毎食後に齒を清め口を清めたなら、其人は必らず普通人よりも、齲齒其他の口内の疾患との距離を多くし得るに疑ひ無い。胃の弱きことを悲める人は多く有れども、普通人より強き胃を有するに至らんことを望む人は少い。が、其は慥に不智で有らう。普通人よりも強い胃を得ようとして努力して然るべきでは有るまいか。一寸願つて五分を得、一尺を得んとして五寸を得るのが、人事の常である。運動することを力め、規則正しくすることを力め、力め/\て已まなければ、胃は必らず強くならう。
普通人の自己の身體に對する注意が甚だ疎《おろそか》であるのは實に愚な事である。胃弱を患ふる人がタカヂアスターゼを服し、苦味《くみ》丁幾《ちんき》を服し、ペプシンを服し、粥を※[#「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52]て吸ひ、フランス麪麭を購《あがた》ひて喫《くら》ひ、壓し麥を喫ふのを見ることは多いが、咀嚼時間を長くして、丁寧に咀嚼することを敢てするのを見ることの少いなどは其の一例である。たゞ單に藥劑に依頼し、軟脆食物に依り縋るやうなことのみを爲さないで、合理的に胃弱を普通の胃に、普通の胃を強健な胃に、一歩は一歩より進むやうにと心掛けたならば、其の效は決して少く有るまい。藥物と醫療のみを尊んで、健全法と持心の道とを尊まぬのは今の人の弊である。物を尊んで心を尊ばず、外を重んじて内を重んぜぬのは、慥に今の人の弊である。
※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、141-9]《なんぢ》の鍋で粥を造るのみよりは、※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、141-9]の口腔で弼を造れ。※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、141-9]の藥鋪よりのみ消化劑のヂアスターゼを得んよりは、※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、141-10]の體内よりヂアスターゼを得よ。逃げ腰になつてゐて城の守れた例《ためし》は聞かない。造化の我に與へたる所以のものを考察して凡べての其を空しくせざるやうにしたならば、即ち自然に順應して、そして自然を遂ぐる譯で有る。飮食に就て例を取つた因《ちなみ》に猶一度飮食に就て言はうか。※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、141-13]飮食する前に※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、141-13]の眼を閉づる勿れ。※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、141-13]の眼は忌むべき飮食物を視ば、※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、141-13]に之を取る勿れと教へるであらう。又※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、141-14]の鼻を塞ぐ勿れ。※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、141-14]の鼻は忌むべき飮食物を嗅がば、※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、141-14]に之を取る勿れと教へるで有らう。又※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、141-15]の舌を欺罔する勿れ。※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、141-15]の舌は忌むべき飮食物に會はば、※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、141-15]に之を取る勿れと教へるで有らう。※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、141-16]の齒牙を用ひざる勿れ。※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、141-16]の齒牙は物を咬み囓み、之を破碎して、物の分子の間に、※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、141-17]の唾液を混入せしめ浸潤せしめて、嚥下と消化とを容易ならしめるで有らう。※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、142-1]の口腔を無意味のものとする勿れ。暫く食物をこゝに停めて、胃腸に於ける融消吸收の作用の準備をなさしむるの要あればこそ、喉頭以外に存するの空處なれである。※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、142-2]の知識を閑卻する勿れ。※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、142-3]の知識は、飮食に就て、他の諸機關が預かる能はざる最高有益の判斷をなすで有らう。胃膓は※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、142-4]の隨意にのみは動かざるものであるが、猶分泌は感情に影響せらるゝものであるから、胃に取つて不適なる感情を有して胃を苦むる勿れ。然る時は胃は十二分に其の胃液を分泌して、其の作用を以て圓滿に消毒と消化とをなすで有らう。胃病患者が食物に就て恐怖する時は、胃液不供給となりて、愈※[#二の字点、1-2-22]消化不良を起すのである。未だ病まざる人にして、造化が我に與へたる、凡べてのものを適當に用ひなば、胃を病むに至るまいでは有るまいか。他はこれに準じて知る可しである。我に筋肉あり、筋肉も用ふべしである。筋肉の運動を閑卻すれば、筋肉は日に衰へて體躯は薄弱になる。我に呼吸器あり、呼吸器も虐使せずして、適當に用ふべきである。呼吸の不整調は恐るべき病と關聯する。是の如く身體諸機關を偏頗無く用ひたらば、身體の調子が整つて蓋し健康なるを得るであらう。
疾病は實に忌むべきである。併し疾病の人に存するも、或は意義あるやうに見える。※[#「やまいだれ+火」、第4水準2-81-39]疾《ちんしつ》の身に在るものは卻て其の志すところが成るといふ理は古の人も道破して居る。又病といふものが全く無かつたら、人は道を思ひ理を觀ずることも或は少いかも知れぬ。病が吾人を啓發することは決して少くない。是の如く觀ずれば自ら招かざるの病に苦むものも必ずしも不幸のみとは云へぬ。併しこれは道理は然樣《さう》で有るにしても、病者に對しては言ふに忍びざることである。たとひ世の文明が呼吸器病者神經系病者に負ふところは、甚だ少からざるにせよ、願はくは一切の人が無病息災長壽幸福ならんことを祈らねばならぬ。
[#改丁]

靜光動光(其一)

 光に靜かな光と、動く光がとがある。靜かな光とは密室の中の燈《ともしび》の光の如くなるものである。動く光とは風吹く野邊の焚火の光の如くなるものである。
光は同じ力であると假定する。併し靜かなる光と動く光とは、其の力は同じでも、其の働き工合は同じでは無い。
室中の燈の光は、細字の書をも讀ませて呉れる。風の裏の火の光は、可なりの大きな字の書をも讀み難からしむるでは無いか。アーク燈の光は強いけれど、それで新聞は讀みづらい。室内電燈の光は弱くても卻つて讀み宜い。靜かな光と動く光とは其の働き工合に大きな差がある。
同じ心の力だと假定する。併し靜かに定まつた心の働きと、動いた亂れた心の働きとは、大分に違ふのが事實である。丁度同じ力の光でも、靜かなのと動いて居るのとでは、其の働きに於て大分に違ふやうに。
散る心、即ち散亂心は、其の働きの面白くない心である。動き亂れた心は、喩へば風中の燈のやうなもので、之をして明らかならしむるとも、物を照らす働きの面白くないことは、大論にも説いてある通りだ。
散亂心とは何樣《どう》いふ心だ。曰く、散亂心とは定まらぬ心で、詳しく論ずれば二種ある。其の一は有時性で、其の二は無時性のである。有時性の散亂心とは、今日法律を學ぶかと思へば、明日は醫學を學ぶ、今月文學を修めて居るかとおもへば、明月は兵學を修めて居るといふやうなのだ。無時性の散亂心とは、一時に二念も三念もあつて散亂するのだ。併し猶一層確論すると、本來一時は一念なものであるから、長期的散亂心と短期的散亂心と、唯聊か時間の長短の差のあるのみで、有時無時といふ事も無いのである。いづれにしても丁度風中の燈火のチラ/\するやうに、心が凝然と靜かに定まつて居られぬのを云ふのだ。
たとへば今數學の問題を考へて居て、aだのbだの、mだのnだの、xだのyだのといふものを捏ね返して居るかと思ふと、眼の方向は猶其のabmnなどの文字を書いた紙上に對して居ながら、また手には其等の文字を書く爲の鉛筆を把つて居ながら、心は何時か昨日見た活動寫眞の映畫の樣を思ふやうになつて仕舞つて、そして其の映じ出された美人の舞態の婆娑婀娜たる状《さま》などを思ふと同時にそれからそれへと其の一段の畫の變化して行く筋道を辿つて、終に其の美人に尾行して付けつ廻はしつする一癡漢が、小川の橋を渡り損じて水に落つる滑稽の結局に至つた時分、オヤ、自分は今|其樣《そん》な事を想つて居る筈では無かつた。數學を學んで居たのだつた。と心づいて、そして急に復びaプラスb括弧の三乘は、などと當面の問題に心を向ける。で、少し又xだのyだのを捏ねて居る。どうも工合好く解決が出來ぬ。其の中に戸外で狗の吠える聲を聞くと、アゝ彼の狗は非常に上手に鴫狩りをする。彼犬《あれ》を連れて伯父の鳥銃《てつぱう》を持ち出して、今度の日曜は柏から手賀沼附近を渉獵して見たい。獵銃は何樣《どう》もグリーナーが使ひ心地からして好い、などと紳士然たる事も門前の小僧の身分でありながらも思ふ。狗が尾を振つて此方《こなた》を一顧する、曳金に指をかける、狗は一躍する、鴫はパツと立つ、ドーンと撃ち放す、濛々たる白煙の消える時には、ハヤ狗が其の手柄の獲物を銜へて駈けて來る、といふ調子に行つたら實に愉快だナア、などと考へる。イヤ、こんな事を思つて居てはならなかつた。ルートのPマイナスのQは、などと復び數學をやり出す。すべて斯樣《かう》いふ風に、心が向ふべきところにのみ向ふことが出來無くて、チラ/\チラ/\と餘事に走つて行くのを、氣が散ると俗にいふが、此の氣が散つて心の靜定の出來ぬのを、散亂心といふのである。
誰でも有る事である。で、どうも氣が散つて思ふやうに仕事が出來ない、といふ事は、やゝもすれば人の言ふ事である。畢竟多くの人の實驗に乏しくないところの事例なので、然樣《さう》いふやうな言葉も有れば、又古くから、それではならぬなどといふ教もあるのである。實に大論に言つてある通り、此のチラ/\チラ/\する心は、恰も風の中の燈の如くで、たとへ聰明な資質を抱いて居る人にしてからが、さういふ心では、何に對つても十二分にうまく仕事は出來ぬ、物を照らして明らかなる能はずである。慶すべからざる心の状態である。イヤ、寧ろ願つても然樣《さう》有り度く無い心の状態なのである。
今若し劔を執つて人と相鬪つて居るとすれば、一念の逸《そ》れると同時に、斬り殺されて仕舞ふべきなのであるでは無いか。今若し此のチラ/\チラ/\する心で碁を圍むとする時は、必らず深謀遠慮の有る手段は案じ出し得ぬであらうでは有るまいか。イヤ、思はず識らずウツケ千萬な、ヌカリ切つて拙《へた》た石を下しさうな事では有るまいか。數學の問題が解決出來ぬどころでは無い。算術の最も易い寄せ算をするにしても、散る氣でもつて運算して居たら、桁違をしたり、餘計な珠《たま》を彈《はじ》き込んだり仕さうな事である。とても難解難悟の高遠な理を説いた書物などを讀んでも、散亂心では解る筈は無い。三十一音の和歌、二十八字の詩でも、散る氣で作つて佳いものが出來よう理は無い。まして偉大な事業や、錯綜した智計や、幽玄な藝術やが、氣の散るやうな淺薄な人の手で成し遂げられようか。何樣《どう》であらう。おのづからにして明らかな事である。
氣の散るのは實に好ましからぬ事である。多くの學生の學業の成績宜しからぬものを觀れば、其人多くは聰明ならざるが故にはあらずして、其の人多くは散り亂るゝ氣の習癖が有る故である。世間の凡庸者失敗者といふ者を觀察すると、他の原因の故に凡庸者失敗者と成り了つて居るものも本より少く無いが、心氣散亂の惡癖あるが故に、一事成る無く、寸功擧がる無くして年を經て居るものが決して少く無い。氣の散る癖などは實に好ましからぬ事である。
氣の散る反對に氣の凝るといふ事がある。氣の凝るといふのも亦宜しく無いことである。併し場合により事態によつては、氣の凝る方はまだしも氣の散るに比して宜しい事がある。玉突といふ遊技に耽つて、氣の凝りを致した人などは、往來をあるいて居ながらも、矢張り玉突きの事を思つて、道路《みち》の上を盤と見做し、道行く人の頭顱《あたま》を球と思ひ做して、此の男の頭顱の左の端《はた》を撞いて、彼の男の頭顱の右の端に觸れさせると向う側の髮結牀の障子に當つてグルツと一轉して來て、そして彼處《あすこ》を行く廂髮の頭と角帽の頭顱とへ一時に衝突《ぶつか》つて、慥に五點は屹度取れる、などと考へる。其の考へが高じて終には洋杖《ステツキ》で前の男の耳の後を撞突《つつ》くが如き奇な事を演じ出す人も折節は世にある。それ等は皆氣の凝りを致した結果で、これも隨分困つたものである。併し凝つた方は、惡いと云つても散る方より仕末が宜くて、そして藝術などの如き不善不惡のものに凝つたのは、決して最上乘とは行かぬのであるが、それでも何がしかの結果を遺《のこ》すから、散る氣に比してはまだしも佳い方である。其の代り賭博だの何だのといふ惡いものに氣の凝るといふ段になると、散亂心で居る人よりも惡い。いづれにしても氣の凝るといふのも、矢張り氣の散る同樣に、好ましく無い事なのである。
扨此の散ると凝るとは正反對であるが、恰も晝と夜とは正反對であつて、そして相呼應し、黒と白とは正反對であつて、そして白は日に黒に之《ゆ》き、黒は日に白に之くやうに、又乾と坤とは正反對であつて、そして乾は坤の分子たる陰を招かざる能はず、坤は乾の當體たる陽を招き來さざるを得ざるが如くに、散る氣は凝る氣を致し、凝る氣は散る氣を致すものである。
凝る氣も宜しく無い、散る氣も宜しく無い。併し氣が凝つたり、氣が散つたりして、そして碌に何事も得《え》出來《でか》さずに五十年を終つて仕舞ふのが、所謂凡人である、恨む可き事である。
少年の時は誰しも純氣である。赤子の時は猶更純氣である。歳月を經て嗜欲の生ずるに連れて、是も自然の數といふものだから是非は無いが、純氣は其の正反對の駁氣を來して、自然々々に駁雜な氣になつて來る。少年の時は、鞠が有れば鞠投げ、羽子《はね》が有れば羽子突き、駈けツ競《くら》や、飛びツ競のやうな單純な事をしても、心が其の事イツパイ、其の事が心イツパイで、そして嬉々洋々として、遊技もすれば、學問もしたのが、誰しもの實際である。然るに漸く長ずるに連れて、誰しも何かに凝り出す。で、嗜欲中に生ずれば眞氣日に衰へて、氣は復《また》純なる能はざるに至るのである。内慾日に熾んにして、外物外境を追隨するに至るのである。物が目の前を去つても、心が其を逐つて居る。境が背後《うしろ》になつて仕舞つても、心が其に付き隨つて居るやうになる。
譬へば目の前に鞠が無くつて、手の中には羽子板を持つて居ても、鞠が好きだと心が鞠を追つて居り、鞠の影が心の中に消えずに殘つて居るので、羽子板を持ちながら鞠を思つて居る。これを外物に追隨するといふのだ。又たとへば學校の一室に居りながら、昨日面白く遊んだ公園を思つて居る。これを外境に追隨するといふのだ。
鏡で云へば對ふところの物の影は善く映つて居ないで、何かの汚れが鏡面に粘りついて居るやうな状《さま》になる。即ち此の鏡上に物のコビリ付いて居るところが氣の凝りなのである。又鏡の全部明らかで無いところが駁氣なのである。是の如くにして愈※[#二の字点、1-2-22]歳月を經て愈※[#二の字点、1-2-22]純氣の徳を失ひ、明處もあれば暗處もある駁雜不純のものとなつて行くのが凡庸の人の常なのである。其の有樣は、恰も鏡の上に墨をもつて種々の落書を爲たやうになつて居るのが普通人の心の状態で、其の落書は皆得意や失意や憤怒や迷や悶や悔恨や妄想や執着やの記念なのである。そして齡の漸く老いんとするに連れて、鏡の上は隙間も無く落書を以て滿たされ、其の物に應じ象《かたち》を宿す本來の虚靈の働を爲すところの明處は漸く少くなり、乃ち又|新《あらた》に學問識見を吸收長育するの作用を爲す能はざるやうになるのが凡庸者の常なのである。此の鏡面が暗くなつて仕舞つて、對ふところのもの一切を鏡中に收めることが出來なくなり、即ち鏡イツパイに當面のものを映し取ることが出來なくなるところが即ち散亂心の有樣なのである。當面の物の影の外に、何かがチラ/\映つて居るところが、即ち散亂心の有樣なのである。實に愍れな事なのである。
人若し事を爲し、若くは思を運らす時に當つて、おのれが胸裏の消息に注意して見て、苟くも氣が散ると知つたならば修治せねばならぬ。散る氣の習が付いて居ては、何事を爲しても善く出來ぬ筈で有るからである。よしんば其の人が天祐を受くることが多くて、高才多力である爲に善く事を爲し得たにしても、散る氣の習が付いて居れば、蓋し其の人も少からず苦しみ困しみて、そして後僅に其の事を成し得るに疑ひ無い。若し氣が散りさへせねば、其の人は猶其の事以上の事を爲し得るに相違無いのである。くれ/″\も散る氣は宜しからぬ氣である。
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靜光動光(其二)

 散る氣の習の付いて居る人は、何《ど》の樣な象《かたち》を現はすかといふに、先づ第一に瞳が其の舍《いへ》を守らない。眼の功徳は三百六十や三千六百ともゆかぬ。三百六十や三千六百ならば圓滿の數であるが、眼の功徳は百二十や千二百かである。二百四十若くは二千四百だけは缺けて居て、三分の二は見えぬ者である。此の數の喩は佛經に見えて居る。そこで眼には動くといふ事が有つて、どうやら四方八方が見えるのである。ところで此の動きは即ち心の指す方に動く譯になる。で、心の指向ふ方がチラ/\チラ/\として定まらねば、おのづからにして瞳は其の舍即ち居り處を守ることが出來無くて、矢張りチラ/\チラ/\と動き度くなる譯である。そこで散る氣の習のある人は眼がチラ/\と動く。さも無ければ沈んで動きが鈍くなり、眼は氣に置去りにされて、氣のみ忙しく動いてゐる。
次に散る氣の習のある人は、耳が其の圓を保たぬのである。耳の功徳は圓滿なもので、四方八方|何方《どちら》から話しかけられても、必らず之を聽くことの出來るものである。然るに散る氣の習のある人になると、人と對話して居ても、時々人の談話を聽き逸《はづ》す事が有つて、其の圓滿な功徳のある耳が、其の圓滿な功徳を保ちきらぬやうになるものである。是は暫時|耳聾《つんぼ》になる譯でも何でも無い。耳に在つて聲を聞く所以のものが一寸|不在《るす》になつて居るからなのである。眼に在つて物を見る所以のものも、耳にあつて聲を聞く所以のものも、意に在つて情理を思ふ所以のものも、元來|種子《たね》はたゞ一つなのである。其の一ツしか無い種子が、例の散る氣の習によつて一寸何處やら異な處に入り込んで居るので、聽く所以の者が居ないのだから聞えよう譯はない。サアそこで耳其の圓滿を保たざるやうになるのである。人が談話を仕終つた時分に、へ、何でございます、と聞返すやうになるのである。で、其の談話を聞き逸して居た間は、何をして居たかと篤と糾して見ると、或は自分の商賣の駈引を考へたり、或は明日の米代の才覺をして居たり、或は昨日の酒宴に侍した藝妓が振撒いた空世辭を愚にもつかず悦んだり何ぞして居たのであるといふ事を調べ出し得るであらう。心こゝにあらざれば、聞いて聞えず、なのであるから、いつか人の談話を聞く氣になつて居られないで氣が外へ散る、其の爲に耳の働きが不在《るす》になつて仕舞ふのである。で、聞いて居る話も、蠧《むし》が物を蝕《く》つたやうに、ところ/″\ウロ拔けがしたものになるのであるから、首尾貫通前後相應したものとなつて、明瞭に我が心頭に受取り終る事が出來ぬのである。是の如くであれば、釋迦に面晦して其の教を聞き、孔子に手を取つて貰つて道を學んだところで、何が滿足に會得されるであらう。眞に歎くべく憾むべきのことである。
次に陰性の人は蝉殼蛇蛻の相を現じ、陽性の人は飄葉驚魚の態をなし、中性の人は前の二相を共に交へ現はす。
陰性の人とは俗にいふ内氣の人であるが、其の人若し散る氣の習が付く時は、身體四肢を少しも動かさなくなつて、恰も蝉の拔け殼か、蛇の脱ぎ衣のやうに、机なら机の前に坐つたきり、火鉢なら火鉢に取り付いたきりになつて、手も餘り動かさず、足も餘り動かさず、活動が殆ど絶えたやうな状《さま》をなして、そして心中には取り止め無くチラ/\と種々に物を思つて居るやうになる。
陽性の人とは俗にいふマメ人、又は活溌な人であるが、此等の人に氣の散る習が付くと、恰も空中に飜る木の葉かなぞのやうに、ふら/\と右へ行つたり、左へ行つたり、書籍を開いたり閉ぢたり、急に筆を取つたり鉛筆を取つたり、手の爪を剔《と》りかけると思ふと、半途で戸外《そと》へ出たりなんどする。然樣《さう》かと思ふと又物に驚いた魚のやうに一寸した物音に甚く驚いて度を失つたり、或は然《さ》までをかしくも無いことに甚だしく笑ひ出したり、一寸した人の雜言に勃然として怒つたり、挨拶無しに人の家を辭したりなんどする。彼等は陽性の人のやゝもすれば演ずることで、一ト口に云へば、落付きのないソハ/\した態度になるのである。
中性の人は前に擧げた二性の中間の人で、或は甚だしく尻くさらせになつたり、或は又ソハ/\するやうになつたり、時によつて定まりは無いが、要するに陰性陽性の人の現はすところの象《かたち》を錯へ現はすのである。勿論陰性陽性中性の人に論無く、容儀擧動にまで氣の散る習の付いて居る事が發露するに至つては、病既に膏肓に入つて居る傾があつて、其の人に取つては悦ぶ可からざる事であるが、さりとてそれでは其の惡い習が脱し得られぬかといふに、決して然樣《さう》は定《き》まつて居ぬのである。
容《かたち》其の正を得ざるの次に現はるゝ象《かたち》は、血其の行く事を周くせぬのである。血の運行といふものは、氣と相附隨して居るものである。血は氣を率ゐもすれば、血は氣に隨ひもする。氣と血と相離れぬ中が生で、氣と血と相別るゝが死なのである位だから、氣と血とは實に相近接密着して居るのである。氣力の旺盛といふ事は、即ち血行の雄健といふことで、血行の萎靡は、即ち氣力の消衰といふことである。試みに察して見れば解る事である。汝の氣力を盛んにせんとならば、汝の血行を盛んにして見よ。汝は直に自己の氣力の盛んになつたことを自覺し得るであらう。手近い例を擧げようならば、人試みに直立して胸を張り拳を固め頭《かしら》を擡げ視を正しくして、横綱が土俵入りをして雄視するやうな姿勢を取り、そして兩手を動かすこと數分時、或は上下し、或は屈伸し、或は撃つが如くし、或は攫するが如くして、任意に力を用ふれば、忽にして身暖く筋張るを覺ゆるであらう。其の時は即ち血行盛んなる時である。して其の時自己の氣力は何樣《どう》であるかと、運動を取らなかつた前に比較して見たらば、必らずや人の言を待たずして悟るところが有るであらう。猶一つ例を示さうならば、温浴又は冷浴などをした場合も然樣である。浴後の精神の爽快なるを致す原因は種々あるが、其の主なる原因は血行の増進する爲に氣の暢和を致すのである。血が動けば氣が動く、氣が動けば血が動く、血と氣とは生ある間は相離れぬものである。イヤ、一歩を進めて云へば、血が動いて居る間が即ち氣が有つて、氣の盡きぬ間が即ち生きて居るのである。で、血が動けば氣が動くから、血行が常時より疾くなれば、血が上り、亢《たかぶ》り、長《たけ》り、強まるし、血行が遲くなれば、氣が下り、沈み、萎《かじ》け、弱る。氣が動けば血が動くから、怒れば血行は疾くなる。憂ふれば血壓は低くなる。樂めば血行は水の地上を行くが如くに整ふ。驚き怖るれば血行は流水に土塊を投じた如くに亂れる。
是の如き道理で、氣の散る習の付いて居る人は、血行が宜しくない。何樣《どう》いふやうに宜しくないと云ふに、多くは血の下降する癖が有り勝で、頭部の血が不足し、腹部などに澱もる。從つて顏面は若くは蒼白、若くは黝黄、若くは枯赭で、間々或は肺病徴候のやうに兩頬の美淡紅色を呈して居るのもあるが、先づ大抵は眼の結膜などの紅色も薄くて、腦の血量の乏しいことを現はして居る。時には之に全然反對して、結膜も殷紅色を呈し、腦も充血して、血液の亢上性習慣を有することを示して居るのも有るが、これは散る氣の正反對の凝る氣の働きの現はれて居るので、前にも云つた通りに反對は相引くものであるから、散る氣の習の強い人は又凝る氣の働きを有する人であるから、たま/\人によつて其の凝る氣の働きの方の象《かたち》が現はれて居るのである。
元來心は氣を率ゐ、氣は血を率ゐ、血は身を率ゐるものである。たとへば今自分は脚力が弱くてならぬから、健脚の人とならんと希望する時は、一念の心が脚に向ふ。脚と自分と一氣相連なつて居ないのではダメだが、先づ普通の状態、即ち病態で無い以上は、心が脚を動かさんとすると同時に、氣が心に率ゐられて動く、そこで脚はおのづから動く。言ふ迄も無く脚と自分と一氣流通して居るからである。ところで健脚法の練習といふ段になると、たゞぶら/\と歩いたのではいけぬ。一歩々々に心を入れるのである。すると心に從つて氣がそこに注ぎ入るのである。從つて血が氣に伴なつて脚部の筋肉に充ちるのである。そこで血管末端が膨脹して、神經末端を壓迫する樣になるから、肚《ふくらはぎ》や腿肚《うちもゝ》や踝《くるぶし》あたりが痛んで來て、手指で之を押せば大に疼痛を感ずるに至る。遠足した人が經驗する足の痛みも同じことである。それに辟易せずに毎日々々健脚を欲するところの猛勇なる心を以て氣を率ゐ、氣を以て功を積むと、毎日々々血の働きの爲に足は痛むのであるが、漸々に其の痛みが減じて、終に全く痛を覺えざるに至れば、血が既に身を率ゐて仕舞つて、何時の間にか常人には卓絶したところの強い脚になつて居るのである。即ち血が其の局部に餘分に供給されつ供給されつした結果、筋肉組織が緊密になつて、俗に所謂筋が鍛へられて、常人のやうな脆弱でないものになつたのである。それから今度は一貫目若くは二三貫目の重量を身に付けて、そして舊に從つて一心一氣を用ひて歩法を演習するのだ。すると又脚が痛む。痛むのは即ち血の所爲である。扨月日を經れば疼痛は無くなつて、脚は愈※[#二の字点、1-2-22]強くなる。又重量を増す、又脚が疼む。終に疼まなくなる。脚は愈※[#二の字点、1-2-22]強くなる。といふ順序を繰り返し、繰り返して、其の人の限度に至つて初めて止む。其の間に種々の形式の歩法を學び盡せば、健脚法の成就といふ事であるのだ。で、其の人の脚は、常人の脚とは、實際に物質の緊密の度が大に異なつたものとなつて仕舞ふので、從つて常人と大に懸隔した力を有するに何も不思議の無いことになるのである。所謂氣が血を率ゐ、血が身を率ゐて然樣《さう》いふ結果に至るのである。
力士が常人に卓絶した體力を得るに至るのも、決して先天的の約束ばかりで然るを得るのでは無い。能く心を以て氣を率ゐ、氣を以て血を率ゐ、血を以て身を率ゐる男が、即ち卓絶した力士になるのである。無論先天的のもの、即ち稟賦といふものが有る事は爭へぬ事實である。併し後天的のもの、即ち修行といふもので、何の位に變化が起るかは、範疇の定まつて居らぬ事である。祐天顯譽上人の資質は愚鈍であつた。併し心を以て氣を率ゐ、氣を以て血を率ゐ、終に碩徳となつたのは人の知つて居る事である。清の閻百詩は一代の大儒である。併し幼時は愚鈍で、書を讀むこと千百遍、字々に意を着けても、それでも善く出來なかつた位の人であつた。しかも吃《どもり》で、多病で、まことに劣等な資質を抱いて生れて居たのである。で、母が其の憐れむべき兒の讀書の聲を聞くたびに、言ふべからざる悲哀の情に胸が逼つて、もう止して呉れ、止して呉れ、と云つては勉學を止めさせたといふ位である。しかるに百詩が年十五の時の或寒夜の事であつた。例の如く百詩が精苦して書を讀んでも猶通ぜぬので、發憤して寢《いぬ》るを肯んぜず、夜は更け寒氣《さむけ》は甚だしく、筆硯皆凍つたのであるが、燈下に堅坐して、凝然として沈思して敢て動かなかつた。其の時忽然として心が俄に開け朗かになつて、門※[#「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1-87-69]を開き屏障を撤するが如くになり、それから頴悟異常になつたと云ふでは無いか。自分の書齋の柱に題して、『一物を知らざれば、以て深き恥となす。人に遭うて問ふ、寧《やす》き日有る少し。』と署したといふ位の、學問に就ては勇猛精進の人であつたことに照らし考へても、其の少年の時の精苦の有樣は思ひ遣られて涙の出るほどである。健脚法を學ぶものが漸くにして健脚になり、相撲の技を修むるものが漸くにして立派な身體になるのも、勉學するものが漸くにして透明敏慧な頭腦になつて行くのも、毫も怪み疑ふ可きところは無い。心が氣を率ゐ、氣が血を率ゐれば、血は遂に身を率ゐるのであるから、腦其物も、脚其物も身體其物も、皆變化し得るのであつて、そして何の位の程度まで變化するものであるといふ事は、小さな人間の智でもつて測度する事は出來ない、たゞ神が之を知つて居るばかりなのである。ネルソンは英國海軍兵學校の入學試驗に於て其の體格が惡いとて落第した人であるでは無いか。例外の事は例にはならぬが、是等の事を思ふと、無形と有形との關係に靈妙なる連鎖の有る事を心づいて、そして其の連鎖を捕捉したい意《こゝろ》は誰しもの胸にも湧かずには居るまい。
氣と血との結ばりは是の如くである。ソコデ散る氣の習の付いて居る人の血の運行は、おのづから其の習に相應した運行の習癖を有するであらうし、又血の運行の或る傾向は散る氣の習を生ずるであらう。氣が凝れば腦に充血し、氣が散れば腦は貧血する傾がある。若し又凝つてそして鬱血すれば鬱血したため氣は甚だしく散るが、其の散り方は寧ろ散ると云ふよりは亂るといふべきで、煩悶衝動すること、山猿が檻中に在るが如き状を做すに至るのである。普通は先づ氣の散る習のある人は、血の下降性習慣を有する人で、即ち腦が貧血状態になつて居勝なのである。ところで、氣の習として其の反對の氣の習を引くことは前に言つた通りであるから、散る氣の習を有して居る人は、或時には兎角腦充血をしたり、即ち逆上したり、或時は輕い腦鬱血をしたり、即ち頭痛を感じ迷蒙を覺えたりする傾のあるもので、其の交替推移する状は、恰も負債家は即ち濫費家であつて、或時は寒酸凄寥、或時は金衣玉食、定まり無きが如くである。
童子の美質のものの如きは左樣《さう》では無い。純氣未だ毀れざるものは、晝間は極少々ばかり極めて適度に血が上昇して居る。即ち腦の方は少々餘計に血が上つて居る。暮れてから血が少し下降して、即ち腦は極|微《すこ》しく貧血する。試みに夜間すや/\と美睡せる健康の童子の額に手を觸れて見よ、必らず清涼である。そして身體は温※[#「火+共」、第3水準1-87-42]《あたゝか》である。晝間嬉戲せる童子の額に手を觸れて見よ、夜間とは聊か相違して居るのを認むるであらう。天地和熙の時、晝は地氣の上昇し、夜は天氣の下降すると同じに、健全純氣の童子は、晝は氣が上り、夜は氣が下り、晝は陽動し、夜は陰靜し、そして平穩に靈妙に、腦力も發達し、體力も生長するのである。童子で無くても、教を受け道を得て、年やうやく老いるとも、駁氣にならぬ人は、矢張り童子と同じく晝は少し血が上へ上り、夜は少しく氣が踵《きびす》へ還つて、そして身體の調子が整ひ、そして日夜に發達するのである。
しかし、幼にしては長じ、長じては老い、老いては死するのが天數といふものであるから、誰も彼も生長するだけ生長して仕舞へば、純氣は漸く駁氣になつて仕舞ふ。駁氣になつて仕舞へば、氣は或は凝り、或は散る習が付くし、又は其の他の種々の惡習が付く。そこで氣の上り過ぎる習が付けば、聰明は少しく長ずるが、頭勝になつて仕舞つて、激し易く感じ易く、或は功名にあてられ、或は戀慕に墮ち入りて、夜も安らかには眠らぬやうになる。氣の下る習が付けば、心に定まりが無くチラ/\として、物事取り※[#「澑のつくり」、第4水準2-81-31]まらず、ウカリヒヨンとなつて、晝も亦睡つたりなんどするやうになる。借金をしては荒く金を使ふといふやうな状態で、或は凝り、或は散つて、そして氣の全體が衰へて行く。人のみでは無い。死に至るまで發達するといふ※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55]魚《がくぎよ》を除いては、獅子でも豹虎でも一切の動物が皆或程度より以上は毫も發達せずして衰退する。それが自然である。天數である。それが常態である。普通である。平凡である。
是に於て順人逆仙の語が靈光を放つのである。順なれば人なのだ。公等碌々たる其の通りにして行けば、所謂雪は秦嶺に横たはり、雲は藍關を擁する時に至つて、一長歎して萬事休するのみなのである。汝生き居れりと云ふ乎、憐む可し汝の有する者は死のみ也である。造物の傀儡となり、蒭狗となつて、倦《あ》きられた時投げ出されて死するのが凡人なのである。純氣が駁氣になり、血行が靈妙の作用を爲さなくなり、血行が晝も下降的になつたり、或は又上昇すれば上昇し過ぎたり、夜も上昇したり、或は又下降すれば下降し過ぎたりして、極々適度に晝夜醒睡を以て其の穩健な上下の靈妙作用を爲るやうな事がなくなり、そして終に發達が止み、やがて白髮痩顏の人となつて行くのが凡人の常態であるから、中年からは氣が凝り過ぎる習が付いたり、散り過ぎる習が附いたりするのも、寧ろ當然であつて、當人が自ら仕出來した事と云はうよりは、自然の數に支配されて、而《そ》して氣が散つたり凝つたりするのだ、と云つた方が至當な位である。當人の心的状態よりして、散る氣の習を致すと云はうよりは、自然の支配によつて、散る氣の習を付けられて居ると云つた方が適切である位である。換言して見れば、人の成長するのも、衰死するのも、其の人自身の意より成ることでは無くて、自然の手が爲すことであるのだから、散る氣の習の付くのも何も皆自然の手が爲ることである。
しかしこゝに逆なれば仙なりといふ道家の密語が有る。人はたゞに自然に頤使されるばかりで無く、中に自然に逆らふことを許されて居る。禽獸蟲魚は造化の意志に參する權能を有して居ないが、人は太古の赤裸々的状態を永續しなくても宜いので、烏が必らず黒衣し鷺が必らず白衣するのとは違つて居る。たゞ單に自然の命に服從して居るならば、凡人即ち禽獸と相距る遠からざるものとなつて醉生《すゐせい》夢死《ぼうし》するのみであるが、聖賢仙佛の教は、皆凡人の常態、即ち人と禽獸と相《あひ》距《さ》ること幾何もあらざる所以のものを超越して仕舞つて、そして禽獸ならず蟲魚ならず赤裸々の裸蟲ならざるものになることを指示して居るのである。そして造化の意志に參する大權能を有するものであることを示して居るのである。純粹に自然に順へば、人はたゞ野猿である、山羊である、人の尊き所以は何處にも無い。高野の大師が羝羊心と云はれたのは即ち其の心である。羝羊は淫欲食欲のほかに何が多く有らうぞやだ。
然るに人は決して羝羊となつて滿足するもので無い。淫欲にも克ち、食欲にも克ち、人の禽獸と同じき所以のものを超越して、そして人の禽獸と異なる所以のものを發輝しようと努めて居るのが、人類の血を以て描いた五六千年の歴史である。基督も此の爲に死し、瞿曇も此の爲に苦み、孔子も此の爲に痩せ、老※[#「耳+冉の4画目左右に突き出る」、第4水準2-85-11]も此の爲に饒舌を敢てして居るのである。人はたゞ單に黒鴉白鷺の如く、生れてそして死ぬことを肯んずるもので無い。無意識的又は意識的に一切動物に超越し、前代文明に超越し、且つ自己に超越し行くことを欲して居るものである。そして人々の其の希望が幾分かづゝ容れられるのである。即ち造化が自己の意志に參することを、人間に限りて許して居るのである。で、人間は小造化となり得るのである。喩へて説けば造化は立法者である。宇宙は其の法律に支配されて居るのである。禽獸はたゞ譯も無く其の法律に順つて、畫一的に生死して居るのである。人類も其の或者、否其の多數、即ち凡愚は、たゞ之に順つて醉生夢死して居るのである。然るにたゞ單に其の法律には盲從せずして、造化の其の法律の精神を體得し、其の法律の如何なるものであるかを知りて之を運用し、被治者の地位たる野猿山羊の羣より超越して仕舞つて、漸やくにして治者、即ち造化の分身たる地位に到達せんと欲して居るのが人類の情状で、古來の賢哲は皆幾分か其の望を達し得て居るのである。そして造化は造化が人類に與へた野猿山羊的の形骸及び機能等、即ち一般動物の有すると同一なる低級約束に對しては、或程度の自由を得て之を辭し之を脱するを得ることを許容して居るし、一方には又野猿山羊等の與かる能はざる高級權利、即ち造化の分身たり得る權利を人類に與へて居るのである。そこで、或人は動物と同一なる低級約束たる淫欲を辭し、或人は食味の嗜欲を辭し、或人は耳目の娯樂を辭し、或人は瞋恚爭鬪を辭し、或人は愚癡愛執を辭し、或人は身命を愛するの大慾をも辭して居る。此等の事實は古今賢哲の事實に於て發見するに難くない事である。皆いづれも普通には違つて居る。併し此等の人は多く野猿山羊及び凡人が與かる能はざる高級希望を、幾分か遂げて得るので、即ち逆なれば仙なりなのである。
仙といふは露を喫し葉を衣《き》るものを言ふのでは無い。道の至れるものを指して言ふので、儒に於て聖賢といひ、佛に於て佛菩薩といふと同じく、道に於て仙といふのである。で、此の逆なれば仙なる所より言ふと、普通の人は、成程年老いればおのづからにして氣が駁雜になり、散亂する習が付いて、復び童兒の時の如くはなり得ざる筈なのであるが、必らずしも然樣《さう》ばかりにならずとも、氣を練り神を全くして、其の惡習を除く事が出來るのである。造化が野猿山羊には是の如き事を爲し得るを許して居ないが、人間には是の如き事を爲し得るを許して居るのである。抑※[#二の字点、1-2-22]如何にして散亂の氣の習を除くことを得ようか。
[#改丁]

靜光動光(其三)

 扨てそれならば氣の散る習の付いて居るのを何樣《どう》して改めようか癒さうかと云ふに、一旦の負傷でも其の癒ゆるまでに二日三日はかゝる、一旬の病も二旬三旬たたでは癒えぬ道理であるから、氣の散る習も昨日今日付いたのならば僅々の日數で癒えもしようが、斯樣な事は何樣《どう》も人が打捨てて構はずに知らず識らず歳月を經て居るものであるから、扨之を改めよう癒さうと云つても、何樣も一朝一夕には行かぬ。相當の歳月を要すると思はねばならぬ。それでも年の若い人は何と云うても容易に癒るが、四十から後の人では先づむづかしい。餘程當人が發憤せねばならぬのである。植物にしても若い木は隨分甚だしい傷を負うても直に癒るが、老木が少し傷を負ふと、動《やゝ》もすれば枯れたがる。それは全體に於て所謂生氣といふものが若いものには強い。それに反して老いたものは生氣が衰へ、所謂餘氣になつて、死氣が既に萌してゐるからである。動物は殊に植物と違つて、自己の氣を自己で調節し使用する權利を與へられて居る其の權利を濫用して、常に氣を洩らす事を悦び樂しみ、日々夜々に生氣を漏洩して仕舞つて、そして其を竭すので、餘計に早く生氣の枯渇して居るものが多い。欲界の諸天は氣を泄らして樂《たのしみ》となすといふ語が佛書にあるが、天部にも及ばぬ人間だの畜生だのは、氣と血とを併せ泄らして樂とするから堪らない。命は猶耗きずして氣は既に竭きて居るのが少くない。で、然樣《さう》いふ人だと隨分難儀である。何故といふに散る氣の習を改めようにも何にも、既に其の氣が竭きかけて居るのでは、たとへば散財の習慣の付いて居るのを改めて遣らうと思つても、改めるにも改めぬにも、先づ既に其の財が竭きかけて居るのでは仕方が無いやうなものである。
年が若くても餘り頼みにもならぬ。三十歳にもならないで懷爐を借りたがる程に、生氣の乏しくなつて居る人なども隨分今日は多い。天賦の體質にも因るが、此等は氣を漏洩する方が多くて、※[#「酉+慍のつくり」、第3水準1-92-88]釀するのが間に合はぬからで、煩渇連飮、辛くも支へて居るのなぞは隨分困つたものだ。それでもまだ若い人の方は、少しく自ら顧みれば直に立直つて來るのであるから好いが、中年以上の者は、中々容易には癒りかぬるのである。併し中年以上の者でも失望してはならない。失望は非常に氣を傷つけるからである。
散る氣の習を癒すばかりでは無い、すべて氣の病癖を癒さんとする時は、たとへば偏氣の習を改めんとするのでも、弛む氣の習、逸る氣の習、萎《すく》む氣の習等を癒さんとする等の時にも、年の老若に依らず、若し氣を過泄する癖があつたらば、先づ其を改めねばならぬ。牢藏玄關と云つて、嚴しく氣を惜嗇することは凡人には能はぬまでも、過泄しては本來|種子《たね》無しになつて仕舞ふのであるから甚だ宜しくない。氣を泄らさざるに過ぎると、怒り易くなる傾があるが、先づ/\氣を嗇《をし》みて嗇み得る人は幾干も無いものであるとても、能ふ限りは嗇んだが宜いのである。
元來人が二十歳前後までは日に發達する。それは生氣の爲る事である。扨發達して、殆んど成熟すると、生氣が漸くにして中に屯鬱して、終に外に洩るゝに至つて、又|新《あらた》に生氣の一寓處を成すのである。是の如くにして天地の生氣は生々循環して已まぬのである。そこで一個に取つて言へば、自分の一身は、天地の生氣の容器《いれもの》であつて、此の容器たる自分の身より生氣を漏洩するのは、即ち此の容器を不用に歸せしむる所以で、愈※[#二の字点、1-2-22]多く漏洩するのは、愈※[#二の字点、1-2-22]早く此の容器を無用の物にする譯なのである。勿論おのづからにして大なる容器に生れて來て、十二分に多く生氣を容れ得る約束を有つて居るものもあり、又小弱な容器に生れ來て、元來餘り多くの生氣を容れる事も無いやうに定つて居るものも有る。それは即ち稟賦とも天分ともいふものであるから、漏洩の多少が直ちに夭壽の分るゝ所以とは云へぬが、要するに生氣を耗損するのは宜しく無いこと言を待たぬ。であるから、人若し自己を損耗する惡習が強いと思つたらば、先づ漸々に其の習を矯めねばならぬ。併し急遽に之を矯めるに過ぎると氣が鬱屈旋轉して、焦燥悶亂し、やゝもすれば爆裂的状態をなして、怒り易く狂ひ易くなるから、漸を以て矯めねばならぬ。放肆淫蕩の青年や壯者が、忽然として自ら新にして、嚴正に身を持すると、其の擧句が異な調子の人になることは世に多い例で、甚だしきに至つては、急弦忽斷して、死亡して仕舞ふのもある。併し玄關牢藏などといふことは、爲さんとしても出來ぬ勝の事であるから、先づは寧ろ思ひ切つて嚴正に己に克ち、氣を洩すまいとした方が宜しい。
出來ない迄も兎に角に氣を過泄する癖を除かんと企つる其の次には、事理の相應といふ事を心掛けるので、散る氣の習を改めんとする第一着手の處は、之を措いて他には無いのである。
一體散る氣の習の付く所以の根源を考へると、天數から云へば、人の漸く發達し切つて、そして純氣より駁氣に移る其處から生じて來るのではあるが、其の當人の心象から云ふと、氣が散らねばならぬ道理が有るに關らず、強ひて眼前の事に從ふところから起つて來るのであつて、約言すれば氣の散る可き事を度々敢てするより氣の散る習が付くのである。極々淺近な例を取つて語らうならば、此處に一商人があつて碁を非常に好む人とする。其の人が碁を客と圍んで居る最中に、商業上の電報が來たとする。電報は元來至急を要するに因つて發信者が發したものに定まつて居るのは知れ切つて居るが、碁を打掛けて居るので、直に其を開封もせずに、左の手に握つた儘、二手三手と碁を打つ。其の中に先方が考へて居る間などに、一寸開封して見る。早速返辭の電報を打たねばならぬとは思ひながらも、打掛けた此の碁も今|少時《しばし》にて勝負の付くことだから、一局濟んでから返事を出さうなどと矢張り續いて碁を打つて居る。斯樣《かう》いふ場合は其の例の少くない事であるが、これが抑※[#二の字点、1-2-22]散る氣の習の付く原因の最大有力な一箇條である。
斯樣《かやう》な場合に當つて、其の人の氣合は、純一に碁なら碁に打對ふことが出來るかといふに、元來商業上の電報の價値の如何なものであるか、又之を取扱ふ態度は何樣《どう》いふやうにす可きものであるか等を知らぬ筈の無い人で有つて見れば、如何に圍碁の興に心が魅せられて居るにしても、今や吾が手にして居る電報に氣の注《そゝ》がぬといふ事は無い。さすれば一方には碁の方へ心を入れて居るが、一方には電報の方へも氣を注いで居る。さあそこで氣といふものが散らずには居られない。人といふものは、一時に二念は懷き得られないものであるから、此の一刹那は碁を思ふ、彼の一刹那は電報を思ふ、といふやうに刹那々々に氣が彼方《あちら》へ行つたり此方《こちら》へ來たりする、氣は靜かに一處へ注定する譯には行かぬのである。で、かゝる時は碁の方にも意外の見落しや、積り損ひが出來て、そして結局は負になつて仕舞つたり、商業の方は寸時の怠慢より飛んでも無い損耗を仕たりするもので、いづれにしても、餘り好い結果を齎らさぬ勝のものである。
無論それは散る氣といふやうな良くない氣でする事であつて見れば、面白からぬ結果に至るのは寧ろ當然の數であるから、それは姑らく措いて論ぜざる事として、たゞ此處に觀察すべき事は、散る氣の起る前後の状態である。前に言つた通り、氣が散らねばならぬ道理が有るに關はらず、強ひて眼前の事に從ふから、氣が散るといふのは此處の事で、電報を受取つたならば、直に之を開封し、讀了し、而して其の處置を做し了らねばならぬ、と思ひながらも、其を敢て仕ないで碁を打つて居れば、何樣《どう》しても氣が電報に惹かれる、そこで氣が散らねばならぬ道理で有るのである。然れば、強ひて圍碁をして居れば、勢ひ氣が散らざるを得ぬのに、それに關せず碁の圍みたき儘に圍みつゞけて居るといふやうな事を、一度ならず二度ならず幾度と無く爲る時は、終に一つの癖になつて仕舞つて、電報を碁の中途で落手したといふが如き事情が無くても、碁を圍みながら商業上の駈引や事件の處理や何ぞを考へるやうになる。一轉しては、商業上の事務にたづさはつて居ながらも、碁の方の事を思ふ折もあるやうになる。再轉し三轉しては、甲の事を仕ながら乙丙の事を思ひ丁の事に當りながら戊己庚辛壬癸の事を思ふやうになり、終に全く散る氣の習の付くやうになるのである。こゝに能く合點すれば散る氣の習を除く道も、おのづから分明なのである。
それなら何樣《どう》して氣の散る習を除くかといふに、元來散る氣は、爲す可きことを爲さず、思ふ可き事を思はずして、爲す可からざることを爲し、思ふ可からざる事を思ふところから生じて散亂するのであるから、先づ能く心を治め意を固くして、思ふ可きところを思ひ、爲す可きところを爲さんと決定し、決行するのが、第一着手のところである。前に擧げた例で云へば、碁を圍みかけて居るところへ電報が來たなら、其の電報に付いての處置をなすのが、即ち爲す可きところなので、然樣《さう》いふ大切な用事が有るに關らず碁を圍んで居るのは、即ち爲す可からざる事を爲して居るのであるから、電報を落手する當下に、ズイと立つて碁盤の前を離れて仕舞つて、そして帳場格子の内なり、事務室の内なりへ入つて、其の電報を讀み、之を如何にせんと商量し、それから其の返電なり何なり、然る可き處置を爲し終つて、それから復び碁を打ちたくば碁盤の前に坐し、全幅の精神を以て碁を圍むが宜しいのである。
散る氣の習の既に付いて居る人には一寸|斯樣《かう》いふやうに萬般の事を爲て行く事は出來難いものであるが、先づ些細の事からでも宜い、第一着手のところは何でも、爲す可きを爲し、爲す可からざるを爲さぬ、思ふ可きを思ひ、思ふ可からざるを思はぬと、決意決行するのに在る。食事を爲しながら書を讀み、新聞を讀むなどいふ事などは、誰も爲る事であるが、實は宜しくないことで、それだから碌な書も讀めず、且又一生芋の※[#「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52]えたか※[#「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52]えずも知らずに終つて仕舞ふのである。食事の時は心靜かに食事をして、飯が硬いか軟らかいか、汁が鹹いか淡いか其の宜しきを得て居るか、※[#「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52]肴は何の魚であるか、新しいか陳いか腐りかゝつて居るか、それ等の事が都べて瞭然と心に映るやうに、全幅の心でもつて、食事するのが宜しいので、明智光秀が粽《ちまき》の茅《ち》を去らずに啖つたのなんぞは、正に光秀が長く天下を有するに堪へぬ事を語つてゐると評されても仕方の無い事である。俳諧連歌の催しを仕て居る商人が、俳諧連歌の最中に商用の生じたのに會つた時、古の宗匠が、商賣の御用を濟ませられて後また連歌をさるゝが宜敷《よろしい》、と云つたのは實に面白い。流石に一夜庵の主人である。一短句一長句でも散る氣では出來ぬものであるから、用事を濟まさせて後に、句案に耽らせようとしたのは、正に人を教ふる所以の道を得、且つ佳吟を得べき所以の道を示して居るのである。粽は其の皮を取つて食べるが宜しい位の事を知らぬものは無いのであるが、粽を食べながら、氣が散つて心が他所《よそ》へ走つて居たので、たとへ三日にせよ天下を取つた程の者が愚人に等しい事をするに至る。光秀もえらいには相違ないが、定めし平生も、此の事に對ひながら彼の事を思ひ、甲の事を爲しながら乙の事を心に懷いて居るといふやうな、散る氣の習の付いて居た事らしい。本能寺の溝の深さを突然に傍の人に問うたといふのも、連歌をしながら氣が連歌にイツパイにはなつて居なかつた證である。是の如き調子だつたから光秀は敗れたといふのでは無いが、是の如き心の状態は蓋し光秀に取つて決して良好の状態では無かつたのである。其の胸中の悶々推測る可きである。不健全であつたのである。光秀の爲めに悲む可きであつたのである。併し前にも云つた通り、是も亦氣が散らねばならぬ理が有つて散つたので、光秀も信長の爲に忍び難き凌辱を加へられた其の爲に、心が其の事を秒時も離れる事が出來なくなつて居る。それだのに粽を食べたり、連歌を試みたりしたとて、何樣《どう》して心が粽を食べることに一杯になつたり、連歌を試みる事に一杯になつたり爲し得るであらう。うつかりして粽の皮を剥かずに食べたり、連歌をしながらヒヨンな事を尋ね出すのも無理では無いのである。そこで是等の道理に本づいて考へれば、散る氣の習を治する所以は、おのづから分明だ。
先づ第一に、爲す可き事があらば、爲して仕舞ふのである。思ふ可き事があらば、思つて仕舞ふのである。爲す可くも思ふ可くも無い事であるならば放下《はうげ》して仕舞ふのである。そして明鏡の上に落書だの塵埃《ほこり》だのの痕を止め無いやうにした其の上で、いで爲さうといふ事、いで思はうといふ事に打對ふのである。然すれば鏡淨ければ影おのづから鮮やかなるの道理で、對ふところのものがおのづから明らかに映るのである。氣は散り亂れずに、全氣で事物に對する事が出來る譯である。然樣《さう》いふやうに心掛けて、何事によらず一事一物をハキ/\と片附けて仕舞ふのである。最初は非常に煩はしく思ふものであるが、馴れゝば然程でも無いもので、たとへば朝起きる、衣服を更へる、夜具を疊む、雨戸を繰り明ける、燈火を消す、室内を掃除する、手水を使ふ、といふやうに、着々と一事々々を拙な事の無いやうに取り行つて行く、譯も造作も無い事である。
だが、それがチヤンと出來るやうになる迄は少し修行が入る事で、口で云へば何でも無い事であり、行《や》つて見ても容易な事ではあるが、扨それならば皆出來るかと云ふと、誰もあんまり能くは出來ぬ事であつて、夜具を疊むにしても丸めるやうに疊んだり、室内を掃除するにしても、塵の遺るやうに掃除したり、手水を使ひながら、もう他の事を考へたり仕て居るものである。爲る事が一々徹底するやうに出來ぬ勝のものである。そこで一生四十歳五十歳になつても、箒の使ひやう一ツ知らずに過ごして仕舞ふのが誰しもの實際で、一室の掃除などは出來なくても、それならそれで、陳蕃《ちんばん》のやうに天下の掃除をするほどの偉物《えらぶつ》ならば亦宜しいが、天下の事は偖置き、ヤツと腰辨位で終るのが、我々凡人の紋切形なのである。是皆何事をするにも一々徹底するやうに、と心掛けぬからの事で、全氣全念で事を爲さぬからなのであるが、若し全氣全念で事を爲せば、いくら凡愚庸劣の我々でも、部屋の掃除位は四十五十の年になる頃を待たずとも、二週間か三週間もする内には上手になる筈で、せめて塵戻りのするやうな箒の使ひ方はせぬ勘定である。
太閤が微賤であつた時、信長に仕へて卑役《ひえき》を執つたのは、人の知つてゐる事であるが、其の太閤が如何に卑賤の事務を取り行つたかといふ事は考察せぬ人が多い。如何《どん》な詰らぬ事でも全氣全念で太閤は之を取り行つたに相違ない。で、其點を信長が見て取つて段々に採用したに相違無い。我々が夜具を丸めて疊むやうな遣り口を仕たならば、信長は決して秀吉を拔擢しなかつたらうと思はれる。蓋し當時秀吉と共に賤役を執つて居た多くの平凡者流は、即ち今日我々が日々夜々に行つて居るやうな、所謂『宜い加減に遣ツつける』遣り方を仕て居たに違ひ無い。それらの人は、何事も一々徹底するやうにと心掛けるが如き心掛も持たずに、即ち四十五十の齡になつても箒の使ひ樣一ツ卒業せずに居るやうな日の送り方を仕て居たために、一生其の卑賤の地位を經過して仕舞ふ事も無く終つたものであらうと想像しても餘り甚だしい間違は無ささうである。
然《さ》あれば瑣事をするにも、瑣事だと思つて輕んずるのは、我が心を尊まぬ所以である。詰らないものは歪み曲つて映つても構はないといふのは、鏡に對して懷くべき正當の考では無いでは無いか。詰らないものでも、明鏡ならば善く映るのである。孔子さまは何を爲さつても能く御出來だつたといふ事實がある。太宰が「夫子は聖者か、何ぞ其の多能なるや」と云つたのは、全く孔子が何を爲すにも之を能くするところを認めて感じて言つたのか、ひそかに輕蔑して言つたか知らぬが、孔子がそれに答へて、「イヤ吾|少《わか》きときや賤しかりき、故に多く鄙事を能くするのみ、君子は多ならんや、多ならざるなり」と謙遜して言はれて居るが、鄙事即ち詰らん事を能くせられた事に徴して見て、孔子の如き聖人が、何事にも全氣全念全力を以て打對はれたことも明らかに察せらるゝでは無いか。
詰らんことなどは何樣《どんな》でも宜いと、詰らぬ事も出來ない癖に威張つて居るのは凡愚の常で、詰らぬ事まで能く出來て、而して謙遜して居らるゝのは聖賢の態である。飜つて思ふと、其の詰らぬことの能く出來るのは、全氣全念で打對はるゝからで、我々の分際でさへ、詰らぬ事なら少し全氣全念で打對へば、大抵出來るものなのであるから、聖賢の英資を以て之に臨むとすれば、譯も造作も無く出來る筈なのである。そして其の詰らぬ事にさへ全氣全念を以て打對はるゝ健全純善の氣の習は、やがて赫々たる功業徳澤を成さるゝ所以なのである。一方に凡愚の輩が、詰らぬ事さへ能く出來ぬのは、即ち何も出來ずに卒《おは》る所以なのである。全氣全念を以て事に從ふのは、儒教に於ては『敬』といふのが即ち其で、全氣全念を保たんとするのが道家の『錬※[#「既のつくり/れんが」、第4水準2-79-60]《れんき》』の第一着なのである。であるから、譯も造作も無い日常の瑣事がチヤンと出來る迄には、少し修行がいると云ふのである。併し一度手に入れば忘れようとしても忘れられぬことは、丁度一度水に浮ぶ事を覺えると、水にさへ入ればおのづから浮くやうなもので、掃除なら掃除に一度徹底して仕舞ふところまで行けば、もう煩らはしい事は無くおのづから善く出來るのであるから、案外面倒な事では無いのである。朝起きるから夜半に寢るまで、都《す》べて踏み外し無く全氣で仕事が出來れば、それこそ實に大したものであるが、然樣は行かぬまでも、机の前に坐つたり、六ツかしい問題を考へる時ばかりを修行と思はずに、一擧手一投足、煙草一ツ吸ふところにも修行場は有ると思つて見ると、嘘でも何でも無い。何人と雖も六七日乃至、八九日にして必ず一進境を見得るであらう、イヤ少くとも瑣事の三ツや四ツは徹底することが出來よう。
手近い例を擧ぐれば、黒闇《くらやみ》に脱いだ吾が下駄は、黒闇で穿けるのが當然だが、全氣で脱がなかつた下駄ならば、急に智炬を燃やしても巧く穿けぬのである。併し下駄を脱ぐ事に徹底すれば、何時でも黒闇で穿ける、智炬を燃すには及ばないのである。坐り方に徹底すれば、衣服の褄や襟先を手で揃へずとも、チヤンと坐れるのである。机上の整理に徹底すれば、文房具の置合せの位置などは、何樣《どう》變化しても、おのづから整頓するのである。室内の清楚で有り得るか有り得えぬかも僅々の日數で徹底し得るのである。藝術となれば碁や將棋の樣な微技でも、深奧測る可からざるものであるから、二週間や三週間では玄關丈も覗へぬけれども、日常の瑣事などは、誰しも直に徹底する事が出來る。そこで一ツでも二ツでも、何か突き貫いて徹底し得たと思つたらば、全氣で事に當ると何《ど》の樣な光景で何の樣な結果に至るといふことを觀得て、そして刹那々々秒々分々、時々刻々に當面の事を全氣で遣りつけて行く習をつけると、何時の間にか散る氣の習は脱けて仕舞ふやうになるのである。
電報を握りながら碁を圍んだり、新聞を讀みながら飯を食べたり、小説を讀みながら人と應對したりするやうな事は、聰明の人の、やゝもすれば爲る事であるが、何樣《どう》も宜敷無い、惡い習を氣に付ける傾がある。聖徳太子が數人の訴訟を一時に聽かれたなどといふ事は希有例外の談で、決して常規では出來ぬ。學んではならぬ。學べば必ず鵜の眞似の烏となるのである。爲さねばならぬこと、思はねばならぬ事が有つたらば、直に其に取り掛るが宜い。それは氣を順當《すなほ》にするの道であるから、然樣《さう》すればおのづから氣が順當に流れて派散することが無くなる。爲してはならぬこと、思つてはならぬ事が有つたらば、直に其を放下《ほうげ》するが宜い。それは氣を確固にするの道であるから、然樣すれば氣が確くなつて散渙することが無くなる。併し此の放下といふ方は難い傾きがあるから、先づ爲さねばならぬ事の方に取掛つて氣を順當《すなほ》にするが宜しいのである。そして一着々々に全氣で事を爲す習を付けるのが肝要である。二ツも三ツも爲さねばならぬ事が有つたらば、其の中の最も早く爲し終り得べき、且つ最も早く爲さねばならぬ事を擇みて、自分は此の事を爲しながら死す可きなのである、と構へ込んで悠々乎《ゆつくり》と從事するが宜いので、そして實際壽命が盡きたら其の事の半途で倒れても結構なのである。全氣で死ねば、即ち尸解の仙なのである。ところが全氣では、病氣などは中々出て來ぬ。人二氣あれば即ち病むとは、隋の王子の名言であつて、二氣になると病むけれども、一氣では病まぬ。戰爭に出て卻つて丈夫になつたものが、何程多くあるか知れぬし、得力の處の有る禪僧などは、風邪にも餘り犯されぬといふ面白い現象が有る。
散る氣の習を除く第二の着手の處は、趣味に隨順するのである。凡そ人といふものは各※[#二の字点、1-2-22]其の因、縁、性、相、體、力があつて、そして後に其の作用を發するものであるから、云はば先天的の約束のやうなものが有ると云つても宜い。一飮一啄も亦前定であるといふ語が有るが、然程《さほど》に運命を信じ過ぎても困るけれど、先づ/\何樣《どう》しても好き、何樣《どう》しても嫌ひなどと云ふ事も無いのでは無い。畫を描くのは、親が禁じても好きなものもある。病人いぢりをする醫者になるのは、親兄弟が勸めても、何樣しても嫌ひだといふものもある。僧侶になりたがるものも無いのでは無し、軍人をゑたより嫌ふものも無いのでは無い。それは各自の因縁性相體力なのであるから、傍より之を強ひる能はざるのみならず、當人自身にも之を強ひる能はざるところがある。年齡の若いものの一時の好惡などこそ餘り深く信ずるにも足らないけれども、趣味の相違といふことの存在する事は爭はれぬ事實である。
然れば今こゝに畫を描くのを非常に好むものが有つて、其の者が親兄弟の觀誘に從ひ、自ら勵みて、自分の好まぬ僧侶たらんと志して、厭々ながら三藏に眼を曝すとすると、何樣《どう》しても其の氣が全幅を擧げて宗教の事には對はないで、おのづから繪畫の方へ赴きたがる傾が有るものである。斯樣なものを強ひて佛學なら佛學をさせると、表面は宜いやうでも、矢張り至極の好い處に至らぬものである。
何となれば其は繪を好む可き遺傳などがあり、繪に強烈な趣味を有するに至つた幼時の特殊の出來事などが有り、物品景色の象を寫し取るに巧みな慧性を有し、他の職業者たるには適せぬけれども、畫伯たるには適する體質や筋肉の組織を有し、手裏に整均妙巧な線を描く力や、微幺《びえう》な色彩を鑑別辨識し得る眼の力などを具備し、物象の急所を捉へる作用を會得し居るものとすれば、其の人はおのづからにして畫伯たるべき運命を有するやうなもので、換言すれば僧侶たるべからざる運命を有して居るやうなものであるからである。其の樣な人が強ひて宗教を修めるとすると、何樣しても氣は散るのであるが、然樣《さう》いふのは散る氣の習が付いて居る人に甚だ酷《よ》く肖て居るけれども、實は氣の散る習が付いて居るといふよりも、他の事に氣が凝つて居るのであると云つた方が適切なのである。で、然樣いふ人を強ひて、宗教なら宗教の方へ心を向けるやうに修行させれば、修行をするだけの功の顯はれぬといふ事は無いが、併し其は寧ろ愚な事で、若し然樣いふ場合で氣が散り亂れるならば、それは寧ろ趣味に隨順して、思ひきつて宗教の事を捨て、そして好むところの畫技ならば畫技に心を委ねて、仕舞ふ方が宜いのである。散る氣の習はおのづから除けるのである。
前に述べたやうな場合で無くても、義理の上から何方《どちら》を取つても宜い事ならば、すべて趣味に隨順して、不興不快の事を棄てるといふ事は、氣を順當にし、且つ之を養ふ上に於て非常な有力な事であり、間接に氣の散る習などを除く事に何程の功が有るか知れぬ事である。芝居の好きなものは芝居を觀、角力の好きな者は角力を觀、盆栽いぢりの好きなものは盆栽をいぢるが好いのである。趣味は氣を涵養して生氣を與へ、且つ順當に發動せしむるに於て大有力なものである。之を喩ふれば、硫黄の氣を好む茄子の如き植物に、硫黄の少許《すこしばかり》を與へ、清冽の水を好む山葵《わさび》の如き植物に、清冽の水を與へるのは、即ち茄子や山葵を壯美ならしめて、其の本性を遂げしむる所以なのであつて、茄子は茄子の美味の氣、山葵は山葵の辛味の氣を、其の硫黄や清水から得來るのであるから、人の趣味に隨順する事は、氣の上からは非常に有力の事なのである。若し其を趣味に隨順せずして、茄子に清冽の水を與へ、山葵に硫黄を與へるやうな事をすれば、二者の氣は各※[#二の字点、1-2-22]萎靡して、共に不妙の結果を現はさずには終らない。本來趣味なるものは本具の約束から生じて來るものなのであるから、之に隨順するのは非常に緊要なのである。山水に放浪するを好むもの、美術を鑑賞して悦ぶもの、銃獵馳驅を快とするもの、皆各※[#二の字点、1-2-22]異つた事で、各※[#二の字点、1-2-22]異つた作用をなすが、本具の約束に應ずる事なら何も隨順したが宜い。但し氣を耗《へら》し氣を亂るものは宜敷ない。淫事、賭博等は、人の性質によりて殊に之を好むものもあるが、如何に本具の約束だと云つて、之を放縱にすれば氣は耗り氣は亂れるから、節制禁遏せなければならぬのは勿論である。
氣血の關係は前に略説したが、其の點からして生ずる道理で、散る氣の習を除く第三の道には、血行を整理する、といふ一箇條が有るが、是は今こゝに説破する事を姑らく擱くと仕よう。如何となれば生中《なまなか》血行の事などを文字言語によりて知つて、之をいぢり廻しては惡果を來さぬとも限らぬからである。たゞこゝに擧げ置くは、酒類は之を用ひる事宜しきを得ざる時は血行を亂すものであるから成る可く用ひぬが宜しい事、呼吸機能を完全に遂行する事、唱歌吟詠によつて、血行を催進する靈妙の作用の大有力なる事等の數點に止める。
要するに血を以て氣を率ゐる勿れ、氣を以て血を率ゐよ、氣を以て心を率ゐる勿れ、心を以て氣を率ゐよ、心を以て神を率ゐる勿れ、神を以て心を率ゐよである。血を整へて氣に資し、氣を煉りて心に資し、心を澄まして神に資せよである。血即ち氣、氣即ち心、心即ち神で不二不三である。氣の惡習の中、散る氣の習は、先づ目前の刹那に就て其の因を除けといふのである。瑣事に實參體得して自ら氣の消息を知れといふのである。如法に修行せば二三週にして直に眞着手の處を知らんといふのである。
[#改丁]

進潮退潮

 同一の江海である。しかも其の朝は朝の光景を現はし、其の暮は暮の光景を現はす。
曉の水煙が薄青く流れて、東の天が漸くに明るくなると、やがて半空の雲が燒け初めて、又紅に又紫に、美しく輝く。爾《そ》の時一道の金光が漫々と涯《かぎり》無き浪路の盡頭から、閃くが如く、迸るが如く、火箭の天を射るが如くに發する。忽地《たちまち》にして其の金光の一道は二道となり、三道となり、四道五道となり、奕々灼々として、火龍舞ひ、朱蛇驚き、萬斛の黄金の※[#「火+共」、第3水準1-87-42]爐を溢れて光※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]熾盛、烈々※[#「火+(日/立)」、第3水準1-87-55]《いく》々たる炎を揚ぐるが如くになると、紅玉熔け爛れんとする大日輪が滄波の間から輾《きし》り出す。混沌忽ち拆けて、天地遽に開け、魑魅遁竄して、翔走皆欣ぶの勢が現はれるところの、所謂『水門《みなと》開《あけ》』の有樣を示す。さうすると岸打つ波の音も、濱に寄つた貝の色も、默して居る磯の巖の顏も、死せるが如き藻鹽木の香も、皆盡く歡喜の美酒に醉ひ、吉慶の頌歌を唱へて、愉々快々の空氣に嘯くやうな相を現はすのである。朝の江海の状《さま》は實に是の如くである。
其の同じ江海でも、若し日の既に虞淵に沒して後、西天の紅霞漸く色を失ひて、四邊蒼茫、將に夜に入らんとする時になると、刻一刻に加はりまさる黯淡たる雲の幕の幾重に、大空の嘉光は薀《つゝ》み蔽はれて、陰鬱の氣は瀾一瀾に乘りて流れ來り、霧愁ひ、風悲んで、水と天とは憂苦に疲れ萎えたる體の自ら支ふる能はざる如くに、互に力無き身を寄せ合ひ靠《もた》らせ合ひて、終に死の闇の中に消えて終ふが如き觀を呈する。其の時の有樣は實に哀れなものである。
江や海や、本來は無心である。其の朝に於けるも、其の暮に於けるも、全く異ならぬのである。しかも同一江海と雖も、其の朝に於けるや彼の如く、其の暮に於けるや此の如くである。同一の物と雖も常に同一では有り得ぬのである。
詳らかに精しく論ずる時は、世に『時間』といふものの存在する以上は、同一の物といふものは實は存在せぬのである。こゝに一本の松の樹が存すると假定する。其の松樹の種子《たね》よりして苗となり、苗よりして稚松となり、稚松よりして今存するところの壯樹となりたるまでは、時々刻々に生長し居るので有つて、昨日の該松樹が昨年一昨年、乃至一昨々年の松樹と異なるが如く、昨日の該松樹と今日の該松樹とは、必らず異なつて居るのである。若し又其の松樹にして漸く老い、漸く衰へ、一半身は枯れ、終に全く枯るゝに至るとすれば、明日の松樹も亦今日の松樹と異なり、明年の松樹も亦今年の松樹と異なるのである。一切の物は皆一松樹の如きのみである。苟も『時間』無くして存在するものが世に無き以上は、一切の物は時間の支配を受けて居るのである。然る時は或時の或物は『或時間を以て除したる或物』である。其の物の始より終までは、『或時間を乘じたる或物』である。
黄玉は黄色を有する寶石である。併し甚だ長き時間を經る時は、漸々に其の黄色を失ふ。鷄血石は鷄血の如き殷紅の斑理を有する貴い石である。併し十餘年を經る時は、其の表面に存する斑理の紅色は、漸くにして黒暗色を帶びるに至るのである。此等の物は時間の影響を被ること、植物動物等の如く明白ならざるものであるが、而も猶長時間の後には、明らかに時間の影響の加被せざるにあらざることを示すのである。故に諦觀《たいくわん》する時は、百年前の黄玉や鷄血石と百年後の其の黄玉や鷄血石とが、其の色彩の濃度に於て異なるのみならず、昨日の黄玉や鷄血石と、今日の其の黄玉や鷄血石とも、亦|復《また》相異なつた色彩の濃度を有して居るのである。
此理によつて同一松樹も、實は同一松樹では無い、日々夜々に異なつたものになつて居るのである。同一江海といふと雖も、江海其物は日々夜々時々刻々に異なりつゝあるのである。
一切の物自體が時々刻々に異なりつゝあるのである。まして其の自體以外の、日の炙り風の曝すことが之に加はるに於けるをやである。同一江海の朝と夕と相異なるが如きは、怪み訝るを要せぬことである。況やまた大觀すれば、日もまた光を失ひ、海もまた底を見《あら》はすの時の來るべきをやである。畢竟するに世間一切の相は、無定を其の本相とし、有變を其の本相として居る。
併し無定の中に一定の常規が有り、有變の裏《うち》に不變の通則が存するのも、亦是世間一切の相の眞歸である。
黄玉は或程度の率を以て漸くに其の黄色を失ふのである。鷄血石は或程度の率を以て漸くに黝變するのである。松樹は或時に花を飛ばし、或時に葉を換へ、而して漸く長じ、漸く老い、漸く枯るゝのである。江海は朝々に其の陽發快活の光景を示し、暮々に其の陰鬱凄凉の光景を示して居るのである。
一切の物皆然る以上は、人々豈獨り能く理範數疇を脱せんやである。人もまた黄玉の如く、鷄血石の如く、松樹の如く、江海の如くである。特に人は黄玉鷄血石に比しては生命あり、松樹に比しては、感情あり意志あり、江海に比しては、萬象に應酬し、三世に交錯するの關係あり、其の自體より他體に及ぼし、他體より自體に及ぼし、自心より他心に及ぼし、他心より自心に及ぼし、自體より他心に及ぼし、他心より自體に及ぼし、自心より自體に及ぼし、自體より自心に及ぼし、自心より他體に及ぼし、他體より自心に及ぼし、自體より自體に及ぼし、自心より自心に及ぼす、其の影響の紛糾錯落して多樣多状なる、殆ど百千萬億張の密羅繁網を縱横に交錯し、上下に鋪陳したるが如くなれば、其の日に變じ、月に變じ、年に變じて而して生より死に之《ゆ》くの間、同一人と雖も其の變化も亦急に、亦劇しく、亦大に、亦多き譯である。
扨變ずる有りて定まる無きは、人の固より免れぬことである。無機物有機物皆然るので有る。併し變の中にも不變あり、無定の中にも定がある。江海の朝は朝の光景を呈し、暮は暮の光景を呈するが如く、人もまた生より死に之くまでの間に或規道を廻りて、そして漸く長じ、漸く老い、漸く衰ふるのである。
個人の事情は姑く擱いて論ぜず、又人間の心理や生理の全部に亙る談《はなし》は姑らく措いて語らないで、今は人の『氣の張弛』に就て語らうとおもふ。
誰しもが經驗して記憶して居ることで有らう、人には氣の張ると云ふことと、氣の弛むといふこととが有る。氣の張つた時の光景、氣の弛んだ時の光景、其の兩者の間には著しい差が有る。
張る氣とは抑※[#二の字点、1-2-22]何樣《どう》いふもので有らう。弛む氣とは抑※[#二の字点、1-2-22]何樣いふもので有らう。何かは知らず、人の氣分が張つてのみも居らず、弛んでのみも居らず、一張一弛して、そして張つた後は弛み、弛みたる後は張りて、循環すること譬へば猶晝夜の如く、朝夕の如く、相互に終始して行くことは誰しも知つて居ることである。
試みに人の氣の張つた場合を觀よう。張るとは内にある者の外に向つて擴がり發し伸び長ぜんとする場合を指して云ふが、普通の語釋である通りに、其の人の内に在る或者が、外に向つて伸長擴張せんとする状《さま》を呈したる時に、之を氣が張りたりといふのである。努力して事に從ふといふ場合には、なほ一分の苦を忍び痛に堪へるの光景を帶びて居る。譬へば女子の夜に入りて人少き路を行くに、其の心に恐怖を抱きながらも強ひて歩を進むるやうな場合をば、努力して事に從つて居るといふのである。
又人あつて流に溯つて船を行《や》るに水勢の我に利あらずして、腕力既に萎えんとしたる如き時、猶強ひて※[#「てへん+虜」の「田」に代えて「田の真ん中の横棒が横につきぬけたもの」、第3水準1-85-1]《ろ》を操り※[#「竹かんむり/高」、第3水準1-89-70]《さを》を張るを廢せず、流汗淋漓として勞に服する場合などをも、努力して事に從ふといふのである。努力して事に從ふのは素より立派な事では有るが、猶其の中に一縷の厭惡の情や苦痛の感の存するのを認め得べきである。然るに同じ女子の同じ寂寥の路を行くにも、若し其の女子が病母の危急に際して醫を聘せんが爲に、孝思甚だ深き餘り、たゞ速かに母の苦を救はんとするの念慮熾んにして走り、路次の寂寥をも意とする無くして行くとすれば、其のごとき場合を指して『氣が張つた』と人は言ふのである。又同じ流に溯りて同じ人の船を行《や》るにも、某々の處に多大の魚羣を認めたりといふの報に接して、漁利を思ふこと切なる餘り、一刻を爭つて溯り、又流の強きと腕の疲れとを問ふ暇無くして勞に服すとすれば、其の如き場合を指して『氣が張つた』と言ふのである。勿論努力にも氣の張りは含まれて居る。氣の張つたにも努力は含まれて居る。併し努力といふのには些少にせよ苦痛を忍ぶところが含まれて居る氣味が有るが、氣の張つて事を做す場合には苦痛を忍ぶといふことは含まれて居ないで、苦痛を忘れるとか、乃至は之を物の數とも仕ないといふやうな光景が含まれて居るのである。微細に觀察すると、相似て居る中に相異なつたところが有る。
深夜に書を讀み學に從ふ場合の如き、更闌け時移つて、漸く睡を催して來るに際して、意を奮ひ志を勵まして肯て睡らぬのは努力である。學を好んでおのづからに睡を思はざるのは、氣の張りである。努力は『力めて氣を張る』のであり、氣の張りは『おのづからにして努力する』のである。二者の間に相通ずるところの存するのは勿論で有るが、不自然と自然との差が有り、結果を求めるのと原因となるとの差が有る。努力も好い事には相違無いが、氣の張りは努力にも増して好ましいことである。此の氣の張りといふことが存する以上は、願はくは張る氣を保つて日を送り事に從ひたいものである。併し人は一切の物と同じく常に同一では有り得ぬのである。で、或時はおのづから張る氣になり、或時はおのづから弛む氣になつてゐるのである。一張一弛して、そして次第に或は生長し或は老衰するのである。張る氣を保つてゐることは中々困難である。
同一人でも、其の氣の張つた時は、平常に比して優越した人ででも有るやうな觀を呈し、且又實際に於て平常の時の其人よりは卓越した人になるのである。前《さき》に擧げた女子の村路を行くの例、漁夫の流に溯るの例、學生の燈下研學の例の如きも然樣《さう》で有るが、孱弱な婦人が近鄰の火を失するに會ひて、意外に重量の家財を運搬したりなんぞするのも、亦氣の張つた時には人が平時の自己を超越するの證例として數ふ可きことで、其例と同じやうな例は世上多數の人の實に數※[#二の字点、1-2-22]《しば/\》遭遇して居る事である。然らば學問をするにも、事務を執るにも、勞働に服するにも、張る氣を以て之に當つたならば、所謂其の人の最高能力を出した譯で、非常に其の結果は宜しかるべきである。假令《たとひ》張る氣をして常に存せしむることは甚だ難いにもせよ、少くとも事に當り務を執る時は、張る氣を以て之に臨みたいものだ。一氣大に張る時は、女子にしても猶且怯ならざるを得るのである。重量あるものを搬出し得るのである。況んや堂々たる男子が、張る氣を以て事に當り務を執るに於ては、天下また難事有るを見ざらんとするのである。
琴絃は其の張らるゝに於て唯音を發するのである。弛めば即ち音低く、愈※[#二の字点、1-2-22]弛めば則ち音無きに至るのである。弓弦《ゆづる》は其の張らるゝに於て箭《や》を飛ばすのである。弛めば則ち箭の飛ぶや力無く、愈※[#二の字点、1-2-22]弛めば則ち弓箭の功倶に廢するのである。人も亦然りで、其の氣の張るは則ち其の人をして功を立て事を成さしむる所以で、其の氣の弛むや、功廢し事敗るゝのである。氣の張弛の人に於けるは、關係實に重大なりといふ可しである。
張る氣の景象は、夜漸く明けて、一寸々々づゝ明るくなると共に一刻々々に陽氣の増し行く時の如くである。草木の種子《たね》の土膏水潤を得て、漸くに膨らみ充ち、將に芽を抽かんとするが如くである。男兒の十五六歳になりて漸く雄威を生じ、おのづと大望をも起しかける氣象や、押し太鼓の初めは緩く、中は緩からず、終りに急になりて、打逼り/\撃ち込む調子も、皆張る氣のすがたである。最も善く張る氣のすがたを示すものは進潮である。朔望の潮のむく/\と押し進み來り、汪々とさし進み來り、言はず語らずの間に、洲《す》を呑み渚《なぎさ》を犯し、見渡す沖の方は中高に張り膨らみて、禦ぎ止む可からざるの勢を以て寄せ來る状の如きは、實に張る氣のすがたである。種子の如く、弓弦の如く、曉天の如く、少男の如く、進潮の勢の如く、進軍の鼓聲の如く、凡そ内より外に對ひて發舒展開せんとするの象《かたち》は、皆張る氣の相にして、人に就て之を言へば、吾が打對ふところに吾が心の一ぱいになる氣合である。空氣の充ちた護謨球のやうに、其の内なるものが乏少の氣味無くして、能く一ぱいになり得て、そして外に對つて其處に存して居るのが張る氣の象である。書を讀めば其の書と我が全幅の精神とが過不及無く相應じ相對して居り、算盤を取れば算盤の上に我が全幅の精神が打向つて居るのが張る氣の氣合である。
書を讀みながら其の書の上を我が心が一寸離れて、昨夜聽きたる音樂の調節を思ひ浮めるなどといふのは、氣の張つて居らぬので、散る氣である。書を讀みながら、他の事を思ふといふのでも無くて、たゞ淺々と書を讀み、弱々と書を味はひ、精彩無く、氣力無く、たゞ一巧妙なる木偶《でく》の書卷に對し居るが如くなるは、此亦氣の張つて居らぬので、則ち氣の弛んで居るのである。氣の散るのは譬へば燈火の動き瞬いて物を照らして明らかなる能はざるが如く、氣の弛んだのは譬へば護謨球の中の空氣の稀薄乏少で彈撥跳躍の作用の衰へて居るやうなものである。算盤に對して加減乘除を事とするとしても、氣が散れば必らずや過失を生じ勝である。又氣が弛めば必らずや算を做す敏明なる能はぬ勝である。若し夫れ氣が張つて居れば、又確に、又敏に、少くとも其の人の技倆の最高最頂だけの事は做し得るのである。
同じ蝋燭が燃えて居るのでも、其の一本の蝋燭の火に氣の張弛があつて、從つて光の明暗が有り、功の多少が有る。蝋燭の火に氣の張弛が有ると云へば可笑しく聞えるが、少しく其の心を剔《き》らずに、心の燼餘を其の儘にして置けば蝋燭の火の氣は弛んで、其の光は暗くなり、其の功は少くなる。若し其の心を剪れば、火の氣は張つて來る、そして其の光は明らかになり、其の功は多くなる。一本の蝋燭にも一盞の燈火にも、諦觀《たいくわん》すれば其の氣の張弛は有る。同じ護謨球でも、其の護謨球の冷えた場合には、其の中の氣は萎縮して弛む。之を暖むれば其の中の氣は膨張して張る。氣が張れば彈撥反跳の力は加はり、氣が弛めば其の力は衰へる。蝋燭の俄に太くもなり細くもなるでは無く、護謨球の中の空氣の俄に或は増し或は減ずるのでは無いが、一張一弛は慥に其處に存在し、一張一弛其處に存在すれば、其の結果は明らかに差異を生ずる。其の二つの譬喩《たとへ》の示すが如く、人もまた張る氣で事を做し務を執るのと、弛んだ氣で事を做し務を執るのとでは、大なる差異を其の結果に生ずる。同じくは張る氣を以て事を做し務を執りたいものである。
我が全幅の精神を以て事に當り務を執るといふことは、正直にさへ有つたならば、何人にも容易に出來さうなことであるが、併し然樣《さう》容易に出來るものでは無い、或人には散る氣の習癖が附いて居り、或る人には即ち弛む氣の生ずる習癖が附いて居る。其の他逸る氣の癖であるとか、戻る氣の癖であるとか、暴ぶ氣の癖であるとか、空《うつ》ける氣の習であるとか、亢ぶる氣の習であるとか、種々の惡い氣の習が有るものであるから、中々以て張る氣をのみ保つて居ることは難いのである。蝋燭の心を剪つてより暫時は漸く明らかになる、其は張る氣で有るが、又やがて暗くなるのは火の氣が餘燼に妨げられて弛み弱るからである。護謨球のやゝ古びたのは既に氣が足らなくなつて居るから、一時は温暖の作用によつて張つても、又頓て弛んで彈撥反跳の力は衰へるのである。
張る氣の反對の氣は弛む氣で有る。氣といふものは元來『二氣を合せて一元となり、一元が剖れて二氣となる』ものであるから、必らず其の反對の氣を引きあひ生じ合ひ招き合ひ隨へ合ふものである。そこでたま/\張る氣を以て事に當り務を執つて居ること少時であれば、直に又反對の弛む氣が引き出されて來て、漸くにして張る氣は衰へ、弛む氣は長じて來ること、譬へば進潮の長く進潮たり得ずして、やがて退潮を生ずるが如くである。で、折角張る氣を以て事に處し物に接して居ても、反對の弛む氣が頓て生じて來る。これが一難である。
それから又『母氣は子氣を生ずる』のが常である。張る氣を母氣とすれば、逸《はや》[#ルビの「はや」は底本では「けや」]る氣は子氣である。逸る氣は直上して功を急ぐ氣で、枯草|乾柴《けんさい》の火の續かず、飆風の朝を卒《を》へざるが如き者である。『駒の朝勇み』といふ俗諺が有るが、駒の未だ馬と成らざる者は、甚だしく逸り勇むもので、朝は好んで馳奔※[#「鶩」の「鳥」に代えて「馬」、第4水準2-92-92]躍するけれども、夕に及んでは萎頓して復其の勇無きが常である。逸る氣で事を做す者は、書を讀めば流るゝ如く、字を作せば飛ぶが如く、一日にして數十卷の書を讀み、千萬字を筆にせんとするが如き勢を做し、路を行けば忽にして山河丘陵をも飛び過ぎんとするが如き意氣を示す。併し逸る氣を以て事を做すものの常として必らず疲勞と蹶躓とを得て、勇氣一頓、萎靡|復《また》振はざるに至るのである。張る氣は甚だ善い不惡の氣であるが、張る氣が一轉して逸る氣となると、善惡は別として、多凶少吉の氣となる。書を讀めば速解して武斷して終ふ氣味が有る。字を寫せば落字錯畫の失をなす氣味がある。算を做せば桁違や撥込《はじきこみ》などをする氣味がある。路を行けば或は旁徑に入り、或は轉折の處を誤る氣味が有る。左樣《さう》いふ過失や蹉躓に幸にして陷らぬとしても、一氣疾く盡きて、餘氣死せんと欲するやうになつて終ふから、書を讀んで居たのなら書を讀んで居ることも出來ず、字を寫して居たのなら、遂げても字を寫しては居り得ず、算數の事を做して居たのなら、算數の事をも遂げては做し得ず、路を行きつゝ有つたのなら、半途にして退屈するやうになつて終ふものである。折角張る氣で有つても、流れて逸る氣となつて終ふ。これも一難である。
亢《たかぶ》る氣もまた張る氣の子氣として生ずる。幸にして張る氣よりして逸《はや》[#ルビの「はや」は底本では「けや」]る氣を生ぜずに、暫らく張る氣を保ちて幾干時を經ると、張る氣の結果として幾干かの功徳を生ずる。其の時其の人の器が小さいとか氣質の偏が有るとかすると、おのづからにして亢る氣を生ずる。亢る氣の象は、人の上、天の下に横流して暴溢し、自を張つて他を壓するのである。一卷の書を讀むこととすれば、其の三四分を讀みて、一卷の説くところ知る可きのみとするが如きは亢る氣の所爲である。人の言を聽くに、其の言を盡さしめずして、既に之を是非するは、亢る氣の習のある人の常である。十萬二十萬の富を致し得て百千萬の富致す可きのみと謂ふは亢る氣の習のある人の常である。世上多少の半英雄、市井幾多の半聰明の徒は、皆此の亢る氣の習を有して居て、其の爲に功を遂げず、業敗れて終に邪曲欹側の氣の習を抱くに至るものである。此の亢る氣一たび生ずれば、張る氣の働は張る氣の正を得ないで、良い張る氣の働をなすことは日に/\無いやうになり行くのである。たま/\其の人が張る氣になつても、早くも亢る氣の乘ずるところとなつて、後には殆んど、純正の張る氣の働は無いやうになるものである。譬へば南海の潮のさす時に、強い南風が之に乘ずれば、『潮ぐるひ』になつて所謂『潮信』といふものを失つて終ふに至るが如しである。眞の潮の進む時に潮の進むといふことは、其の場合には無くなつて終ふが如く、眞に妙作用ある張る氣といふものは、卻つて見えなくなつて終ふのである。張る氣の後に亢る氣の生じ易き、此も一難である。
凝る氣は張る氣の『鄰氣』である。其の象《かたち》は張る氣に似て、甚だ近いものである。併し張る氣とは大に差がある。張る氣は吾が向ふ所に對して、吾が心が一ぱいに充ちて居るのであるが、凝る氣は向ふところに吾が氣が注潜埋沒して終ふのである。吾が心既に吾が心にあらざるが如くなつて、たゞ一向になるのが凝る氣である。譬へば路を行く旅客の、行きかけたる路なればと云つて、右も左も見ずに一向に進むが如きものである。其の取りたる路にして過らざる時は宜けれども、若し正路を失して居る時は、非常の悔恨を招く。碁を圍むに當りて、敵と相爭へる一局部の處に於てのみ勝を制せんとして、他の處をば打忘るゝが如きは即ち凝りである。全盤を見渡して、好き手/\をと心掛けて勇みを含み居るのは張る氣の働である。今相爭へる一局處のほかには、爭ふ可き處も、石を下す可き處も無きやうに思つて、如何にもして敵を屈せんと思ふことは、即ち凝るといふものである。凝るのは死定である。高山の湖水の凝然として澄めるが如きは凝る氣の象《かたち》である。大不自在、大不自由の象で、扨又恐ろしい嚴しいところの有るものである。張る氣は善惡を論ずれば善である。大小を論ずれば大である。吉凶を言へば不凶不吉である。凝る氣は善惡を言へば不善不惡である。大小を言へば小である。吉凶を言へば、多凶少吉である。英雄にも俊傑にも凝る氣の習の多い人は有る。信玄謙信も晩年までは凝る氣が脱せずして、川中島四郡に半生の心血を費したのである。秀忠も凝る氣の働に任せて關ヶ原の戰の間に合はなかつた。東照公と戰つて負けた豐太閤は、口惜くも思つたらうが、小牧山の追目にかゝつて戰爭沙汰をせずに、自分の母をさへ質にして家康を上洛させ、そして天下の整理を早めたところは、流石に凝る氣の弊を受けずに、張る氣の功を用ひた秀吉の大人物たるところである。勇士、學者、軍師、藝術の士などといふものは、剛勇でも聰明でも、多く凝る氣の弊を受け勝のものである。武田勝頼の長篠の無理戰の如きは、如何に凝りたる氣合の恐ろしきもので有るかを見る可きである。出もせず入りもせず、其の一塊物の其處に居るのみで、後《あと》へも前《さき》へも右へも左へも行かず、是非に凱歌を奏せずんば退かじと、吾が向へるところに一念凝り詰めて、惡戰苦鬪して辭さなかつたのは勝頼である。若し勝頼をして一部將たらしめて、秀吉如き人をして之を用ひしめたならば實に勝頼は偉勳大功をも立つ可き猛勇の將であるが、凝る氣を以て恐ろしい敗を招いたのである。勇者といふのは凡べて張る氣の強い人をいふので、勝頼の如きも勇者には相違無い。が、惜むべし其の恐ろしい強い張る氣が、鄰氣の凝る氣になつて終つたので、事を敗り功を失つたのである。秀吉は小牧の一戰に敗れたとて、氣は屈しは爲ない、勇氣は十二分に張つて居たのである。併し其の張る氣をのみ用ひて、凝る氣には落ちなかつたので、機略縱横、終に家康をして沓を取らしめて、徳川殿に沓を取らせたる事よと、謙遜の中に豪快の趣を寓したる語をすら放つを得たのである。死生より論ずれば、凝る氣は死氣である。張る氣は生氣である。凝る氣は一處不動の氣である。張る氣は融通無礙の氣である。凝る氣は惡氣では無い、併し凝る氣にはならずに張る氣を保ちたい。氣の張ること旺んに強きものは、動《やゝ》もすれば凝る氣になる。此も亦實に一難である。
上に擧げた以外に、猶多く子氣も有れば、鄰氣も有るから、張る氣を張る氣として保つて、そして事に當り物に接するといふことは、中々容易では無いのである。扨それでは如何にして張る氣を保たさうといふことに就て語りたいが、之に先だつて張る氣の生滅起伏の終始に就て語らう。人事は悟り難いやうであるが、實は曉り易いところもある。天數は知り易いやうであるが、詳らかには解し難い。但し人の事は畢竟天の數の中に含まれて居る。天の數を以て、人の事を推して知ることは出來るけれども、人の事を以て天の數を蓋ひ盡す譯には行かぬ。人は天地の間の一塵であるから、其の大處より論ずれば、天地の則に從ふほかは無い。併し人事は我に親しく、天數は情に遠いから、其の密接切實の處より論ずれば、人事を觀ずるに越した事は無い。
張る氣の起つて來るところを、人事から考へると、おのづから種々ある。
第一には『我と我が信との一致の自覺』より起る。これは最も正大崇高のものである。假令《たとひ》其の所謂我が信なるものが誤つて居ても、猶其の立派なることを失はぬと云ひ度い。佛教であれ、儒教であれ、基督教であれ、回教であれ、道教であれ、乃至は自己が發見し、若くは證悟し、若くは認識肯定したる信條にせよ、凡そ眞實なり公明なり中正なりと信ずるところのものと、自己との間に相反無くして、一致有りと自覺したならば、人は此位勇氣の渾身に滿ち張ることは有るまい。
古の傳道者や殉教者や立教者や奉道者が、世俗より云へば堪ふ可からざる困難や凌辱や痛楚や悲哀やに堪へて、そして屈せず撓まず、一氣緊張して、鋼鐡の軌條の如き立派な生涯を遂げた所以のものは、多く實に我と我が信との一致の自覺に因るのである。人間の道こゝに在り、天神の教こゝに在り、枉ぐべからざる眞理こゝに在り、最勝妙諦こゝに在り、信ぜざるを得ざるものこゝに在り、と確信して居る其の至大至神至眞至聖のものと我と一致して居ると自覺するに於ては、おのづからにして我が氣は張らざるを得ない道理である。道義宗教の上のみでは無い、數學天學地學、乃至理學化學其の他の學科に就いて、我が信ずるところと我との一致の自覺は、明らかに其の人をして十二分に其の氣を張らしむるに疑無い。そして氣が張れば愈※[#二の字点、1-2-22]其の道や其の教や其の學やに、精進奮勵せしむるから、益※[#二の字点、1-2-22]其の自覺の核心を鞏固にし、長養する。自覺の核心が愈※[#二の字点、1-2-22]鞏固になりて長養するに至れば、愈※[#二の字点、1-2-22]氣が張り得るに至るから、遂に一氣徹定して至偉至大の事を做し得るに及ぶのである。
孟子の所謂浩然の氣の説の如きは、此の間の消息を語つて居るものと解し得る。至大至正至公至明の道と我とを一致せしむるのが、即ち浩然の氣を養ふ所以である。古今偉大の人、賢聖の流、誰か浩然の氣を養はざるもの有らん、皆善く浩然の氣を養ひ得て居る人である。日蓮でも、法然でも、保羅《ぽーろ》でも、彼得《ぺとろ》でも、氣の萎えた人などは、一人も無いのである。若し夫れ徳愈※[#二の字点、1-2-22]進み道愈※[#二の字点、1-2-22]高ければ、其の氣は所謂凡常の徒の所謂氣といふものとは自ら異なつて來るには相違無いから、聖賢の分際の事は今姑らく避けて言はずとするが、要するに『我と我が信との一致の自覺』は、最も良い意味に於ての張る氣の因つて起るところとなる。
信は意と情と智との融和の上に立つの信を上品とする。しかし多數人の上に就て言へば、然樣《さう》いふ上乘の信のみは有り得ない。智不足の信もある、情不足の信も有る、意不足の信もある、情智不足の信も有る、智意不足の信もある、意情不足の信も有る。三因具備の信は寧ろ稀少である。併し因不足の信でも何でも、信は信である。智が返逆を企てて居る信もある、意が反して居る信も有る、情が反して居る信もある。此等は不可思議に感ぜらるゝ矛盾で有るが、而も實際に於ては存在して居るものである。智情が反して居る信もある、情意が反して居る信も有る、智意が反して居る信も有る。此等も奇な事では有るが世に存在して居る。凡そ信の力は、因の不足、及び反因の存在に因つて甚だしく高低大小を生ずるが、それでも信は信である。其等の各等級の力の信と自己との一致は、信力の差違によつて、差違の状を現はし、從つて又張る氣の状を異にするは勿論であるが、それでも我と我が信との一致の自覺は、或は多、或は少であるにせよ、張る氣に影響することは勿論である。
第二には『意の料簡』によつて張る氣を生ずる。譬へば幼き兒を有せる商家の婦の、忽として夫を亡ひたる場合の如くである。悲哀泣涕のほかは無き折なれども、こゝは大切の時である。徒らに泣き崩折れ居る場合にはあらず、如何《どう》にかして亡夫の遺子を育て上げ、夫の跡目も見苦しからぬやうになさでは叶はず、と女ながらも店肆をも閉ぢずして、出來ぬまでもと甲斐々々しく働くが如きは、意の料簡より張る氣の生じたのである。
人は境界の變轉に因つて、意の一大轉回を爲すことが有り、一大發作を爲すことが有るものである。然樣《さう》いふ場合には甚だしい氣の變化が起る。逸《はや》[#ルビの「はや」は底本では「けや」]る氣になるのもある、散る氣になるのもある、弛む氣の生ずるのもある、亢《たかぶ》る氣の生ずるのもある、凝る氣の生ずるのもある、縮《すく》む氣の生ずるのも有り、舒びる氣の生ずるのも有る。上に擧げた寡婦の場合の如きに當つては、先づ普通の婦人であれば、縮み萎える氣が生じて、身體も衰へ、才能も鈍り、祥星頭上を照らさざる限りは、次第に悲境に陷るので有る。又或は凝る氣を生じて、神とか佛とか基督とか、或は其より下つて牛鬼蛇神の類の如きもの、巫覡《ふげき》卜筮《ぼくぜい》方鑑《はうかん》の道、其の樣なことに心を委ぬるやうになるのもある。併し又張る氣を生じて、今までは夫の存在に因つて我知らず弛みきつて居た氣を張り、衣服裝飾より飮食の末までを改め更め、必死になつて家を保ち、兒を養はんとするものも有るのである。然樣《さう》いふ場合には一婦人の身を以ても、中々侮り難い事を做し出すもので、所謂『氣の張り』は才智をも發展させ、擧手投足をも敏活にさせるもので有るから、「其の人の天より稟けただけのものを十分に使用し盡す」情状になる。氣が張つて事を做したからとて、必らずしも功を成し果を收むるとは限らぬが、人の天より稟けただけのものを十分に使用し盡すに於ては、天豈無祿の人を生ぜんやであるから、其の人の分限相應だけには勞作の報を受けて、案外に張る氣といふ善氣の結果を現出し得て、然《さ》まで吉祥といふでも無い代りには然まで大凶といふにも至らぬ勝のものである。背水の陣卒、必らずしも勇士のみでは有るまいが、之をして意の料簡より、張る氣を生ぜしめたのは、韓將軍の兵機を觀得て卓絶なるところである。斯樣いふ場合のみならず、種々の場合に於て、人は意の料簡よりして張る氣を生ずるものである。
第三には『情の感激』よりして張る氣を生ずる。前に擧げた孝女の醫を聘せんとして寂寥の路を夜行くが如きは即ち是である。嫉妬の念、感恩の情、憤怨、恨怒、憎疾、喜悦、誠忠、其他諸種の情の感激は、時にやゝもすれば人をして張る氣を生ぜしむる。併し醜惡の情感は張る氣の如き善氣を發せしむるよりは、或は戻る氣、或は暴ぶ氣、或は逸る氣の如き惡氣を生ぜしむる場合が多く、歡喜の情の如きは醜惡といふにはあらざれど、張る氣を生ぜしむるよりは弛む氣を生ぜしむる場合が多い。美にして正しき情の感激は、張る氣を生ぜしむる場合が多い。女王イサベラの幇助は、蓋しコロンブスをして十分に張る氣を生ぜしめたで有らう。巣林子は其の戲曲に於て、美人の温情が、難與兵衞をして奮つて氣を張らしめたことを描いて、一場の佳景を作り爲して居る。實際に於ては情の感激より張る氣の如き善氣を生ずる場合は、寧ろ少き方に屬するが、歴史や傳記や戲曲や小説に於ける佳話は、多く情の感激より善にして正しき氣の緊張の終に良果を結ぶことに傾いて居るといつても宜い位である。
第四に智の光輝よりして張る氣を生ずる場合を擧げたい。併し此も亦寧ろ稀少の事實に屬する。但し多くの發見者發明者等の傳記を繙けば、智の燭光よりして或事象の一端一隅を知り得て、而して忽地に張る氣を生じ、少からざる時日の困厄苦痛を意とせずして終に氣を成したるの例を見出すことは難くは無い。張る氣は人の學才能智慮を擴大すること、猶膂力意氣を擴大するがごとくで有るから、智光愈※[#二の字点、1-2-22]輝けば、氣は愈※[#二の字点、1-2-22]張り、氣愈※[#二の字点、1-2-22]張れば智慮學才は愈※[#二の字点、1-2-22]擴大されて、其の人は自ら意識せずに、自己の最高能力を發揮する。其の光景は蓋し經驗無き者の窺知し難きところでは有るが、たとへば勇士の敵を望んで愈※[#二の字点、1-2-22]意氣の軒昂たるを致す如きものが有るのを疑はない。
元來智識の威力は恰も燭火の如きものである。燭火は外界の暗黒なるに從つて其の威力を増し、闇黒の度を減じて明らかなるに從つて其の威力を減じ、光明清白なる晝間に於ては殆ど全く其の威力を失ふ。それと同じく智識は社會の智識を缺いて居る度の強いのに從つて、甚だ微少の智識にもせよ、一歩進んだ智識の其處に生ずる時は、其の智識は燦然たる光輝を放つて無智識の黒闇世界に美しい威力を振ふものである。一點の星火も猶漆黒の闇裏には大威力をなすが如く、微弱稀少の智識でも、其處に一點の光明ありて社會の黒闇を破れるを覺ゆる時は、之を見出したる人をして、何程の勇氣を生ぜしむるで有らうか。ニープスやダゲールが、光線の他物に及ぼす力の差等あることを知つて、捕影の術の遂に成る可きを思つた最初の時の智識は、今日の吾人が有する寫眞術の智識に比しては如何にも微弱稀少のもので有つたに相違無い。併し出來難きものの譬喩《たとへ》に、影を捉へるといふことを以てした程の當時の無智識の闇の裏に在つて、一歩進んだ智識を有した二人が、其の自己の手の裏に有する智識の一枝燭の燦然たる光輝が黒闇世界を照破しつゝある景色を認めた時は、如何に其の大威力を讃歎し、感賞して、其の爲に言ふ可からざるの靈光神威を授けられた思がしたことで有らう。そして又其の靈光神威に勵まされたことは、御伽談《おとぎばなし》の魔力ある寶物を掌裏にした人が、一切の困苦や厄難を物の數ともせざるが如く、如何に二人に無限の希望と怡悦と勇氣とを與へて、四圍の慘苦の光景に堪へ、一身の氣分を緊張せしめた事で有らう。凡そ智能が世に先だちて羣を拔くの人は、蓋し多く如是の光景に遭遇して、箇中の滋味を知れるより、他人の視て以て難しとなすところを敢てし得たのである。
第五に美術及び音樂等に寓存された他人の強大なる張る氣より張る氣は生ずる。此は特に張る氣のみ然るのでは無い、人はすべて共鳴作用の如き心理を有するのであるから、甲人の萎えた氣は乙人の萎えた氣を誘起し、丙人の散る氣は丁人の散る氣を誘起する。其他すべて多少によらず或人の或氣は他の或人に或氣を起さしむるものである。狂氣は散る氣、凝る氣、戻る氣、暴ぶ氣、沈む氣、浮く氣等あらゆる惡氣の錯雜、※[#「酉+慍のつくり」、第3水準1-92-88]釀して、時、境の二圈の輪郭の破碎を致すに及びて發するものであるが、其の氣は一切惡氣の最たるものであるから、甚だ稀少の事實では有るが、やゝ傳染感染の作用をなす場合が有る。狂氣までには至らずとも、惡氣は總べて善氣よりも、共鳴作用を起すに有力である。其は世おのづからにして平生善良の資質を抱けるものよりも、駁雜不純の資質を有せるものが多いからの事で、愚劣なる事が賢良なる事よりも卻て俗衆に歡迎されると同じ理である。
多人數の集會といふことは、換言すれば優良なる資質を有せる人よりも、優良ならざる資質を有せる人の多數なることで有るから、動もすれば甚だしき氣の偏を有して居る二三人が其の中に在つて突飛な狂妄な言動を演ずると、其の氣の偏の威力に動かされて、共鳴作用に類したる心海の波動を起し、そして各人が有して居る同じ氣が發現し浮動しはじめる、やがて其の同氣の發現浮動が五人より十人、十人より二十人と云ふやうに、漸々多數の人々の上に及ぶと、之を音響にたとふれば、漸々に洪大な音響を發して來たやうな譯に當るから、其の大音響に衝動されて、又々他の人々が氣の絃《いと》の共鳴作用を起し、終には比較的健全平正な人々、即ち少量しか同じ其の氣を有せぬ人々までも、強ひて共鳴を餘儀無くせられて騷ぎ立つに至り、一惡氣一凶氣が場を蓋うて、他の善氣吉氣が潜沒して終ふの極は、隨分狂妄愚陋を極めた事をも演出するものである。
これ皆氣の共鳴作用とも云ふ可きもので、特に暴ぶ氣の如きは他の種々の惡氣の之《ゆ》いて歸するところのもので有るから、容易に共鳴作用を各種の氣に對して發し易い。凝る氣も一變すれば暴ぶ氣になる。猛勇の將士の惡氣羅刹の如くになる事實を考へると了解し得ることである。凝る反對の氣の散る氣も暴ぶ氣になる。街頭で些細の事より毆打格鬪などをして、警吏の手を煩はすに至る人には、散る氣の習の有るものが多い。逸る氣もまた暴ぶ氣になる。輕擧妄動して事を敗るものは、多く逸る氣の一轉である。戻る氣は本より暴ぶ氣の陰性に念入りなので、恰も鉤《はり》の※[#「金+饑のつくり」、第4水準2-91-39]《もどり》の如く、薔薇の刺の如く、人をして右せんとすれば右する能はざらしめ、左せんとすれば左する能はざらしむるものであるが、此が一回轉して暴ぶ氣になれば、狠毒苛辣を極めて、人を殺しては其の肉を啖ひ、邦を夷《たひら》げては其の陵《はか》を發くに至るのである。亢る氣も一屈再屈三屈すれば、終に轉じて暴ぶ氣になる。百千萬人を殺して笑つて下酒の料とせんとするのはそれである。其の他暴ぶ氣と脈絡相通じ、調諧相應ずるものは、甚だ多いから、凡庸の多人數の集會の如きも、やゝもすれば愚擧を生ずる。況んや或意味の存し、或一氣の流行の見ゆる時に於てをやである。此故に古より奸雄の如きは毎々此の氣の共鳴作用を利して事を做す位である。此の如くに氣の共鳴作用の存するが中に、善氣の共鳴作用は多く有り得ない。而も耶蘇教徒のリバイバルの如くに『氣の伸び』を欲して、直に一切の利害を擺脱《はいだつ》して、正しきに合せんとすることも起る。
美術音樂は天地の自然の做し出した者では無い。人の自然が做し出したものである。人は何等かの氣無き能はざるものである。で、人の做し出した美術音樂には、粉本の綴合、古譜の剪裁で無い限りは、其の作者の氣の寓在せぬことは無い。されば或作者の或氣の寓在した美術音樂は、其の中に存して居る氣の作用によつて、觀者や聽者の氣に共鳴作用を起さしめる。前に擧げた多人數集會の場合に於ける共鳴的作用は、普通の人の氣の働が他の人に及ぼして起るので有るが、それですら猶偉大なる傳播を生ずるのである。況んや美術や音樂は、特異な才能を有せる人の、特異な興奮状態より結晶して成り立つたもので有るから、其作用は普通の人の氣の作用より何程強いか知れぬ。そこで若し其の美術や音樂の作者が、或る氣より生じた或製作品或樂曲を社會に提供するに際しては其の製作品又は樂曲に接するところの人はおのづからにして、其の中に寓存するところの氣の作用をば、意識的に若くは無意識的に感受して、そして其の氣によつて衝動刺激さるゝ結果、共鳴的作用を起して、自己も亦其の氣を誘發されるのを免れぬ。即ち頽廢の意趣感情を含めるものを目睹耳聞する場合には、同じく頽廢的になり、奮激緊張の意趣感情を含めるものを睹聞する場合には、同じく奮激緊張せんとするのであり、幽玄の作品や樂曲に接しては、又同じく幽玄の心緒を動かされ、輕佻淫靡の作品や樂曲に接しては、又同じく輕佻淫靡の心を唆り立てられるのである。換言すれば授者と受者との間に共鳴的作用の成立した時が、即ち藝術の功の成り力の行はれたのであると云つて宜い位なのである。吾人が卓絶した美術家作曲家等の作品音樂等に接して、或は美しく、或は悦ばしく、或は悲壯、或は清怨等の感を生ずるのは、畢竟ずるに作者の藝術に臨める時の心象の反映に過ぎぬのである。
此の理に因つて藝術家の擇んだ題目、若くは手法、若くは内容がたま/\吾人の張る氣を誘發するに足る者で有つた時には、吾人の氣は此が爲に共鳴的作用を起して、そして張らしめらるゝのであるし、弛む氣を誘發するに足る者である時は、必らず弛ましめらるゝのである。特に張る氣に限つて美術音樂によつて起さるゝといふのでは無い、何の氣でも起さるゝ。併し其の中でも、藥は效が薄いが、毒は能く利く道理で、弛む氣であるとか、殺《そ》げる氣であるとか、浮く氣であるとかの惡い氣は容易に誘發されて共鳴的作用をなすものである。褻畫淫曲は、拙なるも猶人を動かすが、之に反して高尚な畫や雍雅《ようが》の曲は、巧なるも猶俗眼俚耳の賞するところとはならぬ。これには種々の理が有るが、多數の凡下の人には善い氣を有して居る者が少くて、隨つて共鳴的作用を起さぬ勝であることも大なる原因である。
一幅の畫、一※[#「門<癸」、第3水準1-93-53]の曲、意に懸くるに足らずと云ふこと勿れで、冶容嬌態をなせる美人の、倩眄《せんべん》の媚趣滴らんと欲するばかりな畫を觀る時は、確に人の氣は強猛には存し得ぬのであり、※[#「糸+二点しんにょうの遣」、第4水準2-84-58]綣の情、纒綿の意、憐香惜玉の念、※[#「にんべん+畏」、第4水準2-1-65]紅《わいこう》倚翠《いすゐ》の趣を傳ふる靡々曼々の曲を聽いては、確に人の氣は氷冽石貞では有り得ぬのである。同じ美人を描いた畫にせよ、聖母や仙女を描いたものに對しては、若し其の畫家が畫題に適應した精神と其の表現法とを以て描いたものならば、吾人は冶容をなした美人の圖を觀るとは大に異なつた氣を誘發されるで有らうし、同じ人情を傳へた曲にせよ、或は貞女征夫を思ひ、或は勇士家園を辭するが如き場合の情を示した曲を聽いたならば、吾人は靡々の曲を聽くとは大に異なつた氣を誘發されるで有らう。されば張る氣の如き善氣を保たんとするには弛む氣を生ぜしむる傾ある美術音樂等は力めて之を遠ざくるを要する。彫像は運慶以上、書は魯公以上、李杜の詩、韓蘇の文、畫にしても音樂にしても、謹嚴にして法度あるもの、豪宕にして力量あるもの、雍雅《ようが》にして卑俗ならざるもの、醇正にして邪侈ならざるものは、其の中に存するところの者の堂々凛々として汪溢し儼在する有る以上は、皆以て吾が張る氣を誘發して共鳴的作用を起し、若くは吾が氣の絃《いと》をして協音的に鳴り響き振ひ起さしむるものである。
新境の現前もまた張る氣を起さしむるものである。昨日まで陋室内の處士たりし人が、今朝官署の一椅に坐するとか、昨月まで官吏となつて長官の頤使するところとなり居し人が、今月より自ら店鋪を開きて、自己の身心を自己の情意に任せて使ふとか、或は僻遠の地方に居りし人の、出幽《しゆつゆう》遷喬《せんけう》の希望を遂げて都門に寓するを得るに至つたとか、或は又虚榮空華の都會の粉塵裏を脱して山高水長の清境に嘯傲するとか、或は金門玉堂の人の、忽ちにして蜑煙《たんえん》蠻雨《ばんう》の荒郷に身を投ずるとか、貧人の暴《にはか》に富むとか、貴人の忽ちに簪纓《しんえい》を抛つとか、寡婦の夫を得るとか、桀黠《けつかつ》の士の亂の起るに會ふとか、凡そ是の如き境遇際會の變易よりして、新しき状況の現前するに遇ふ時は、人の氣は自らにして張る者で有る。これ新境の現前によつて、自ら意識して大に其の氣を張るにも本づくが、而も亦無意識にして張る場合もあるので、凡そ土地、氣候、天候、空氣、風俗、習慣、言語、此等のものに於て昨日と今日と大に異なるところへ臨めば、昨日と今日との我が受くるところのものが大に相違する爲に、之に對して身の状態及び心の状態が、自然の數理として昨日と同状態には存在し得ないといふことになり、自己に取つて利益状態で有るにせよ不利益状態で有るにせよ、其の人の活力にして存する以上、即ち生氣の存する以上は、其の氣の大に張らるゝのは必定の事である。
境遇の變化は何が故に氣の張りを致すかといふに、此の問に對しては一條の答のみを與へて足れりとする事は不能で、數條の答を與ふ可き地が有るのである。第一に境遇が善變した場合、第二に境遇が惡變した場合、第三に甚だしく善變も惡變もせぬながら、兎に角に新境の現前した場合、此等場合の種々の差に因つて、人の受くるところのものも相違し、隨つて之に對して生ずる身心状態も相違するから、一樣一率には説過する事が出來ぬ。境遇の善變する第一の場合には、身體状態が精神状態と共に善變して、而して張る氣を生ずる。溷濁した空氣中に生活したものが清淨の空氣中に生活する時は、空氣其物より受くるのみの影響でも、決して少く無い。咽喉、氣管、肺臟が好適を得るのみならず、肺に於ける酸素の供給が十分で、血液の淨化作用が完全に行はるゝ結果として、衞營は概して良好となり、腦及び各器官は其の消費に對する代償を得易くなり、胃腸の作用は強まりたるが如き状を呈し、攝取と排泄とは相關的に善く行はれ、新陳代謝の遂行爽利を得るが爲に、身體の靖康、精神の調整を致す。若し之に加ふるに自然的に時々オーゾンを發生するところの波濤激蘯する海岸とか、又は自然的に氣温を調理して激變無からしむる大洋附近とか、又は大氣の※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、206-7]溽《しふじよく》鬱熱を除く高燥の地、乃至は鬆疎質土壤の地とかで有るならば、愈※[#二の字点、1-2-22]以て其の人に物質的利益を供給する。若又清鮮なる蔬菜、魚肉、鳥獸肉、果※[#「くさかんむり/(瓜+瓜)」、第4水準2-86-59]《くわら》等を潤澤に得可き地であるとすれば、其等の事情は愈※[#二の字点、1-2-22]以て其の人の身體を良好にし、隨つて其の精神状態をも良好にする。若し又僻地寒村より都會に出でて、美饌嘉肴を得るに至つたと云ふが如き場合にも、其の失つた良状態が得た所よりも少い時は、同じく其の人の身體状態が良好になる事は、但馬の牛が神戸附近に出でて、美食を得る爲に、俄に毛色も美しくなり、肉置《しゝおき》も十分に發達するが如くで有らう。其の他事情は種々樣々あれ、凡そ此等境遇の善變中、形而下状態の善變は、先づ身體状態を善變して、而して精神状態を善變する。そこで營養の十分な樹はおのづからにして生々の力が充實するが如くに、身體状態の善變より及ぼして精神状態も善變するに至れば、おのづからにして氣の張るに至るは不可思議では無い。
營養不良にして身體日に衰ふる場合には、昨日は十五貫の物を扛《あ》げ得たるに、今日は十四貫しか扛げ得ず、今日十四貫を扛げ得ても、明日は十三貫五百匁しか扛げ得ぬやうになる。これは身體の衰弱より力の減少し行くのである。これと反對に營養良好にして身體日に強健を増し行く場合には力は漸くに強まり行くものである。膂力は筋腱のみによつて存するものでは無い。又意志のみによつて存するものでも無い。意志と筋腱との互成因縁によつて成立つものであるが、筋腱のおのづからに發達して實質の増加を致す場合には、力もまたおのづからにして増加する。日々に意志の注加を懈らなければ力の増加を致すのは事實で有るが、是の如く意志によつて力の増加するのは、畢竟意志の爲に催進されて筋腱の發達に必要なる物質の日に/\提供さるゝ其の結果として、漸く實質の増加を致して、而して後に力の増加を致すのである。故に意志の注加によつて力量の増進するのも、形而下に約して論ずれば、筋腱の太まり強まつた爲である。今力量を増加せんとする何等の意志無しとするも、小兒の漸くにして長大するが如く、又病餘の人の漸くにして回復するが如く、實質にして漸く増加する場合には、力量は漸くにして増加するのである。從來に比して營養良好にして身體日に強健を増し行く場合にもまた力量は多少こそ有れ不知不識《しらずしらず》の間に増加して行くのである。恰も此の身體の力量の増加の例と同じく、精神の力量もまた營養良好にして身體日に強健を増すが如き場合には日に/\増加し行くものである。扨潮の刻々に進み滿つるが如く、春の温度の日に進み高まるが如く、精神の力量が身體状態の爲に漸々増加する場合には、氣もおのづからにして張るものである。張るとは漸々に無よりして有に之《ゆ》き、少よりして多に之く場合を言ふのであるから、假令《たとひ》微少づゝにせよ、精神の力の増加し行く場合は即ち張る氣の現ずるのである。境遇善變の際には、境遇の善變が直に精神状態を快適にするといふことも、正しく張る氣を致す一因で有ると同時に、身體状態の變化が精神機關の實質、即ち腦、神經等其物の改善に及ぼす結果として、精神力量の漸々増加を致す其の現象がおのづからにして張る氣を生ぜしむるといふことも存するのである。
されば境遇善變の場合には、直接と間接との二の理由よりして張る氣が生ずるのであるが、猶其の他に、善變、惡變、不善不惡變の三の場合を通じて、すべて新境の現前といふことは張る氣を生ずる理がある。それは凡べて新しき刺激は心海に新しい衝動を與へて波浪を扇るものであつて、そして其の波浪の活動衝激は心海の死靜を破り、腐氣を掃蕩し、元氣を振策するが爲に、自ら氣の張るを致すと云ふのに本づいて居るので、新境の現前は言ふまでも無く新しい刺激を與へるからである。詳しく言へば一切の生物には、其の活力の存する限りは、變に應じ新に對して自己を防衞保存せしむる爲に外境に對抗する作用が先天的に與へられて居るので、其の對抗作用が振興される場合には、他の一面に於て今まで長く或任務に服して疲憊して居た精神の一部分が休養を得ると同時に、今まで長く閑地に在つて髀肉の感を有して居た部分が猛然として起つて其の力を伸べるといふが如き情態を現はし、恰も政局一新して、老吏は歸田し、新才は登用されたる時、廟廊の上活氣横溢するもの有るに髣髴たる状をなす氣味が有るより、身心全體の沈衰若くは平靜が破られて、そして興奮若くは發展が惹起される。人類に限らず他の動物でも植物でも、長く同一状態に在る時は、衰斃枯凋を來す道理が有る。動物が同一状態を繰返す時は、身體及び精神の同一器質及び機能のみが使用されるから、或る程度までは進歩するが、其から後は倦怠疲弊を致すを免れない。植物は常に其の根幹莖葉を張つて、自然に同一状態に在ることを避けて居るが、若し盆栽の如く常に同一範圍内に在らしむれば、其の葉を剪り枝を除き、或は肥料を與ふる等の處置が巧妙で、そして努めて其の單調を破るにあらざる時は、或る程度に至つて枯死する。一年生植物でも荳科茄子科植物の如きが連作を忌むのは、明らかに同一系統の者の永く同一状態を繰返すの不利を證して居ると云つても宜い。人も此の理の攝する處たるを漏れない。境遇變轉して、南船北馬日も足らずといふやうな困難流離の生活をする者が、意氣銷沈するかと思へば、卻つて然も無くて、美妾左右に侍り、膳夫廚に候するといふやうな安逸の生活を續けるものが、勇往の氣永く存するかと思へば卻つて※[#「兀のにょうの形+王」、第3水準1-47-62]弱で、やゝもすれば腸胃病乃至神經衰弱やなんぞに罹つてゐるものが多い。境遇の固定は慥に或度までは幸福であるが、或度を過ぐれば發達進歩を停止し、次に萎靡不振を來し、張る氣を保つを得ざらしむるのである。
草木は動物と違つて、或る地點に植ゑらるれば、復《また》自ら移動する能はざるものであるが、斷えず努力して新しい土へ/\と其の根を伸張させて居る者である。で、土中に於て或障害に遭遇して復根を新土に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]入する能はざるに至れば、其の發達は停止するの傾を爲すが、幸にして障害物の罅隙等を穿つて復び新しい土地に其の根を伸張するを得れば、俄然として活氣は増加し、發達は復び遂げらるゝのである。庭上の松柏の類の生長發達に間歇があつて、俗にいふ『節』の有る育ち方をするのも此の理である。盆栽の如きは最小範圍に固定せられて生を保つものであり、新しき土地に根を伸張せんにも其の途を得ざるが故に、自然に放置すれば、幾年ならずして枯死するを免れぬのであるが、巧に之を保つて老蒼の態を生ぜしむるの技を有する人の爲す所を見れば、常に抑損法を施して居るので有つて、或は枝を剪り、或は芽を摘み、或は花葉を芟り去つて居る。自然に放任すれば伸びるだけ伸びて、即ち或極度の發達を遂げるから、その後は復發達する能はざるに至り、終に漸々凋枯衰死に赴くので有るが、未だ十分に其の極度に至らざるに先だつて、抑損せらるゝ時は、猶幾分の發達の餘地が存せらるゝ。そこで其鉢裏の植物は復努力して發達する。復未だ發達の極度に至らざるに先だつて抑損せらるゝ。復發達する。畢竟するところ鉢裏に於ては發達の極度は甚だ低微であるが、其の低微なる極度に達せざるに先だつて抑損法を施して常に發達の餘地あらしむる時は、其の植物の先天的命數の存する限りは時間に於て永く發達の餘地を存して居る理に當る。そこで其の發達の餘地に向つて其の植物は絶えず發達しつゝ行くところの生を遂ぐるの道は人爲に因つて處理されて循環的に行はるゝから急速の枯死を免れて、年月と共に老蒼の態を爲し得るのである。上に擧げた庭前の松柏は自ら新境を求めるのであるが、此の盆栽の植物は人爲によりて與へらるゝ自體の新状によつて生を保つのである。又或宿根草は舊根の一方に偏しては新根を下して、そして舊根は漸く朽腐するが爲に、恰も歩行するが如く移動するものもある。此も亦新境の現前を欲して、新土の中より自己の生を遂ぐるに適した養分を吸收せんが爲に然るのであらう。
人も一定の職業、土地、營養、宗教、習慣、智識等に繩縛釘着せらるゝ時は、或度までは慥に發達し、且つ幸福なるも、其後は自然に其の繩を脱し釘を去らんことを欲するに至る傾が有る。此は人類の生を遂ぐる所以の大法の然るよりして來る歟《か》否|耶《や》は姑らく論ぜずとして、世上に多く見るの事實である。稀には科學上に所謂安定性の物質のやうに、十年一日の如くして晏如たる人も有るが、多くは新を追ひ舊を棄てんとするの傾が有る。此の大なる事實をば、單に其の人の操守の不確や意志の不固や性質の輕浮に歸して解釋しても解釋は出來るのであるが、それよりは寧ろ人々の内部に潜んでゐる自然の要求が然らしめるのであると解釋した方が、正鵠に中つては居ないで有らうか。菽科植物が連作を忌むのは、其の土壤の養分を吸收し盡すからであるか、或は該植物の發育の有力原因たる一種のバクテリヤ類の乏少に本づくのであるか知らぬが、いづれにしても内的要求が存在して、そして新地に身を置きたがるのである。人と菽《まめ》とを同一に論ずることは出來ぬが、三代以上純粹の倫敦人は漸く羸弱に傾くといふ説の生じたるが如き事實は、たゞに都會生活の不良なる事を語るのみでは無く、人が或る状態に繩縛釘着せらるゝことを幸とせずして、新に就き舊を去るを幸とする内的要求に左右さるゝところの有ることを語つて居るのでは有るまい歟。土地のみではない、實に一切の事物の舊きが厭かれ新しきが好まるゝは、蓋し生物の内的要求あるが爲に然るので有らう。
併し生物には安定を喜び因縁を戀ふの情も有る。草木は數※[#二の字点、1-2-22]《しば/\》移動せしめらるゝを喜ばぬものである。魚族は多くは其の孵化地に囘り來るものである。地磁氣が然らしむるか、記性が然らしむるか、他の何が然らしむるかは不明であるが、魚族の如き單純なる智能を有せるものが、故地に囘り來るは奇蹟とも云ふ可きである。狐の首丘の談《はなし》や、胡馬越鳥の喩の如きは、しばらく信ず可からずとするも、燕、雁、狗、猫の類の舊を記《しる》し故を忘れざるは、又異とすべきである。此等と同じく人もまた故郷を忘れぬもので、郷を懷ふが爲に病をさへ生ずるに至るものである。されば新境の現前は人を利し、人をして張る氣を生ぜしむるとは云へ、時に又人をして張る氣を生ぜしめざる時も有るのみか、卻つて散る氣や萎む氣等の好ましからぬ氣をさへ生ぜしむることも有る。新境の現前が必らず張る氣を致すものであると思つてはならない。張る氣の生ずる原因が幾個も有る中に、其の一個は新境の現前で有るといふ迄である。
新境の現前が張る氣を生ぜしむる原因となることの有るは上に述べた通りである。さて張る氣は他の惡氣を逐ふものであるから、一氣大に張るに當つては、種々の惡氣は掃蕩せられて、おのづからに精神状態及び身體状態を一新する。轉地、湯治、海水浴等は、其の土地状態、温泉成分、海潮刺激等が有效なるのみならず、新境の現前といふことが、直ちに人の外境に對する對抗應變の自然の作用を開始せしめて、そして其の爲に張る氣を致さしめ、其の張る氣の生ずると同時に疾病や疲憊をして吾が身心より去るを致さしむるのである。神經衰弱症のごときは多くは氣の死定もしくは氣の失調より生ずるもので、同一のことに長時日の間吾が氣を死定せしめて使用したり、氣の調節を、あるひは心理上、或は生理上より缺くやうにしたりすると起るのであるが、之を氣の作用より説けば、或は萎《すく》む氣、或は亢《たかぶ》る氣、或は散る氣、或は凝る氣等の爲さしむることである。で、新境の現前によつて、幸に張る氣を致すを得れば、直に其の病を忘れて終ふ。すべて疾病は不覺に生じて、自覺に成るものが多い。自覺せざるときは、病既に身に生じて居ても猶未だ病を知らず、一たび病あるを自覺するに及んで、病は大に其の勢を張る。換言すれば若し自覺せざれば病は有るも猶無きが如くで、又自覺すれば病は無きも猶有るが如きである。神經衰弱の如きは其の病の性質が殆んど自覺病たるの觀有るもので、古い支那の諺に、『病を忘るれば病おのづから逃る』と云ふのが有るが、實に近代の此の病の爲に言つてあるかと思はれる程で、新境の現前によつて張る氣が致さるれば、おのづからにして病を忘れ、そして其の病は既に治したるが如き觀を呈するものである。併し數日若くは一二週間にして、昨日の新境も今日の熟境となり了るに至れば、一旦張る氣になつたのも昨日の夢となつて、卻つて一旦張る氣を生じたため其の反對の弛む氣を生じたり、其の他の惡氣を生じて、復《また》其の病を自覺することが強くなるものである。此の故に轉地療養其他の新境現前によつて張る氣を生ぜしむることを利用する治療法を無效の如く説き做す人も有るが、而も全然無效として排斥せんよりは、幾分にせよ有效なりとして利用した方が不智ならざる事である。而して世人の多くが此等の病症に對して、新境現前を有效なりとして採用して居る事の多いといふ事實は、事實其物が新境現前によりて張る氣の生ぜらるゝ場合の多いといふことを明白に語つて居るのである。
第二に境遇惡變の場合も亦張る氣を生ぜしむるといふのは、一寸矛盾の如く聞える。併し其の理由は、此も亦新境現前が張る氣を生ぜしむる傾の有るのと同一で、しかも從來に比して不快不良不適の状態に陷るといふことが、より多く應變對抗の作用を做し出さしむるといふに本づくので有るから、少しも疑ふを須《もち》ひない。是の如き場合に際しては、勿論多くの人は萎縮退卻して、才能も勇氣も衰へるのであるが、或は又卻つて事情の吾に不利なるだけそれだけ多く反抗興奮の作用を起して、決然凛然として張る氣を生ずるも有る。幼兒を有せる婦人が夫の死に會ひて奮發する前に擧げた例の如きも是である。忠臣孝子が國運家運の非なるに會して、卻つて愈※[#二の字点、1-2-22]奮ふ如きもそれである。官吏が職を褫はれて、卻つて勢を發し、才を揮ふに至る者有るが如きもそれで有る。戰爭が苦境に陷つて、將卒の意氣卻つて旺なる如きも是である。凡そ是の如きの例は決して少くない。皆其の境遇の惡變によつて張る氣の生ぜしめらるゝのである。
但し境遇の善變によつて張る氣の生ずるのは元動で有り、惡變によつて張る氣の生ずるは反動である。一は單なる自然であり、一は複なる自然である。一は天數であり、一は人情である。されば善變によつて生ずる張る氣は持續性であり、惡變によつて生ずる張る氣は一時性である。明の大軍が我が朝鮮駐屯軍を襲うた時、辟易萎靡せぬ將士の一團は大に張る氣を生じたのである。しかし其の張る氣は一時性で有つて持續性では有り得ぬのであつた。頭腦明敏の小早川隆景が、「我が將卒は土を※[#「冫+(餮-殄)」、第4水準2-92-45]《くら》つて而して戰ふ能はず」と云つたのは、持續性ならざる張る氣の恃むに足らざるを喝破した言とも聞き做し得る。たゞ逆境に生じたる張る氣の一時性なるのみならず、張る氣と云はず何の氣でも彼の氣でも、氣は實は皆一時性で、持續性のものは無いが、こゝに一時性と云ふのは、其の中でも急速に消散し變化し了るのを云ふのである。譬へば潮の如きは、毎日夜に二囘づゝ進潮になり退潮になる。進潮を張る氣に比すれば其の象《しやう》は殆ど似て居る。さて其の進潮は、進潮になつた初から終まで、五時間ほどの間を刻々分々に進み滿ちるのであるが、滿ち盡せば則ち、潮止りとなつて、それから引反して退潮となるのであるから、畢竟五時間だけを持續するに過ぎぬのである。一日夜の間に就て論ずればかくの如きのみである。人の張る氣も一日夜に就て論ずれば、十六時間内外の時間だけは、極端の例では有るが、張る氣で有り得るとしても、張る氣は終に或時に至つて衰へ竭きて、弛む氣は漸く生じて來るのである。甚だしい極端の例を擧ぐれば、二十時間乃至二十二時間、或は全一晝夜を通じて張る氣で有り得ることもあり、然樣《さう》いふ人も有るが、多數人の實際は其の氣たるや駁雜で、決して純粹では有り得ぬもので有るから、一日夜中に二三時間も張る氣を保ち得るものが有れば、それは上等の事業家であり學者であると云つて宜い位である。兎に角或時間だけで張る氣は竭きる。實に是の如きのみである。併し一月に就て論ずれば、月齡の第七第八頃より潮の高まる度は日々夜々に長じて、第十五第十六に至るまでは、次第に増大する。其の増大の極度に至るには七日間程あるが、極に至れば又漸次に減少して、七日間程を經て減少の極度に至る。此の月齡の第七八より第十五第十六に至る間の潮は、此れを氣に比すば、即ち張る氣の象《かたち》である。其の後、漸々に低くなつて行く潮は、比《たと》へば弛む氣である。即ち一月の中七日餘は張り、七日餘は弛み、復《また》七日餘は張り、七日餘は弛むので、一月に約して論ずれば、二回づゝ潮は張るが、其の持續するのは七日餘だけなのである。これと同樣に人の張る氣も自然に其の持續し易い間は凡そ限度が有る。若し其の徴《かたち》を求むれば、男子に於ては不明であるが、女子に於ては明らかに潮信同樣の作用が月々に行はれてゐる。而して其の月信の來去する時に於ては、身體状態に盈虚が有り、精神状態にも消長が生ずる。精神よりして身體の此の状態も變化するが、身體の此の状態よりして精神も亦影響せられるところの此の事實の存在は、即ち海潮の張るのにも自ら持續期限の有るのと同じく、人の氣の張るのも亦自ら持續期限が有ることを示してゐる。是の如く女子の身體に於て一月にして小なる一更始が行はれて居ることは、自然が人を支配して居る其の法律の定案に、人まさに自らにして盈虚消長すべしといふことの存して居ることを明示してゐるので、仔細に生理及び心理の觀察を爲すものの首肯せざる能はざるところである。男子には女子の如く身體に行はるゝ小更始の状の明徴が無いけれども、蓋し循環更始の法律は行はれてゐるに疑ひ無い。たゞ劫初より以來、自意識の強大なる爲と、内省の疎漫なる爲とに、女子の如く明著の徴無きによりて之を覺知せずにゐるので、生理及び心理の研究が進んだならば、恐らくは男子にも亦女子の如く自然の或るリズムが心身に跨つて存してゐる事を唱ふる者が生ずるで有らう。日あり夜ありて、覺あり睡あり、月逝き年移つて、漸く長じ漸く老い、終に死することは、男子も女子も同じリズムを辿つてゐるのである。之を一日の小にし、之を一生の大にして相同じきである。其の中に於て男子のみに限りてリズムの支配を脱して居る理は無い。季の循環、月の盈虚、時の終始は、一定のリズムをなして、一切の生物に加被して居る以上、生物もまた一定のリズムをなして或時は發揚し、或時は沈衰し、或時は睡り、或時は覺めて居るのである。苟もリズムといふものの存在を認めなければ已む、然らざる以上は、人の身心も律調《リズミツク》運動《ムーヴメント》を爲すことを認めなければならぬ。されば何等の他の原因が無ければ、一日に於ては幾時間にして張る氣の漸く弛む氣となるが如く、一月に於ても幾日にして張る氣は漸く弛む氣となるのが、自然の數である。自然の數は是の如くなるのみである。
順境に自らにして生じた張る氣でさへも上説の如くである。まして逆境に生じた張る氣が如何で持續し得べきや。何等の他の原因無しには、幾時日をも持續し得ぬ理である。譬へば退潮時に當つて、たま/\風壓や地變によつて生じたる進潮の如きものである。また譬へば長潮《ながしほ》や小潮《こしほ》たらんとする時に當つて、たま/\生じたる高潮《かうてう》の如きものである。其の根基に於て相副ひ相協はざるものがあるのであるから、持續し得る間は甚だ短い。瘠土に樹を移しても、其の小枝繁葉を除去すること夥しければ、樹はなほ葱色を保つて、しかも新に葉を出し枝を生じ、勢少しく張るが如き觀を呈する。しかも幾干時ならずして漸く張らざるに至る。舊《もと》の地より肥沃の地に移して其の勢の張るのは自然であるが、磽瘠の地に移して勢少しく張るのは人爲の然らしむるのみであるから、其の樹の中に蓄有したる養分の發し竭さるゝに及んでは、之に繼ぐところのもの足らずして、終に勢弛み威衰ふるに至るのである。境遇惡變して生ずる張る氣は、其の未だ惡變せざるに先だつて其の人の有して居た潜勢力の發現で、其の潜勢力にして費し盡さるれば漸くに弛むに至るを免れぬ。土を※[#「冫+(餮-殄)」、第4水準2-92-45]つても戰ふといふ意氣は、大に張つたのには相違無いが、幺蟲《えうちう》殘骸が形成したところの食土といふ稀有な土ならば知らぬこと、普通の土などは※[#「冫+(餮-殄)」、第4水準2-92-45]へる譯のものでは無いから、必定幾日を支ふることも出來るものでは無い。體衰ふれば氣衰へ、筋弛めば氣弛んで、一日々々に支ふる能はざるに至る理である。人はやゝもすれば境遇の惡變に際しては張る氣を生ずるもので、勝つことを好む者などに在つては特に然るけれども、能く其の張る氣を持續し得るは少い。おのづからにして張る氣を持續し得る理の有る原因が附加するにあらざる以上は、忽ちにして弛む氣其の他の氣に變じて終ふ。前に擧げた婦人の夫を失ひて偏孤を擁せる場合の如き、若し其の婦人にして特殊の技能や經驗を有するとすれば、其の技能や經驗の力の支ふるに依つて、張る氣を持續することも能くし得るだらうが、然らざる時は一旦は張つても忽ちにして弛漫し萎靡するを免れない。
境遇の惡變より張る氣を生じて、而して能く持續するが如く見ゆるものには、大に似て非なるものが有る。例へば貧を厭へる妻が一富翁の許に奔《はし》れるを怒つて、其の遺されたる夫が富を欲する非常なる勤勉家となるが如き、又例へば家庭に伏在せる波瀾に苦むに至れる人の、或藝術や或事業に熱心して、常人の企及す可からざる精勵をなすが如き、かゝる事例は世に稀ならぬことであるが、此等の中には眞に張る氣を生ずるに至れるも有れど、多くは似而非《にてひ》なる氣の働で、張る氣では無い勝である。即ち前の場合には、怒る氣が一轉して、凝る氣になつて、そして然樣《さう》いふ擧動をするやうになるものが多い。稀に眞の張る氣を生ずる者も有らうが、寧ろ凝る氣になつて理も非も關はず、富を爲すに汲々たるに至る方が多い。其の張る氣と凝る氣との異は、凝る氣の方は陰性で、收縮的で、張る氣の方は陽性で、擴充的である。俗に所謂無茶苦茶になつて、非理非道をも、敢てして蓄財をこれ事とする如きは、凝る氣の所爲である。又或藝術や或事業に熱心して、常人の企及す可からざる勵精をなすが如きも、張る氣で爲すのと凝る氣で爲すのとでは大なる差がある。眞に張る氣で爲す場合には、事業ならば、其の事業は其の人の周圍状態に比例して、經營もされ、發達もするで有らうが、凝る氣で爲さるゝ場合には、事業其の物は十分に經營もされ、發達もするで有らうが、周圍状態には不均衡な、跛者的状態を呈するを免れぬ。藝術の如きは、張る氣を以てこれに當りこれに當りする時は、終に一氣兩拆して、『澄む氣』を生じて、『濁る氣』を離れるに至り、全く塵俗の毀譽褒貶などを超脱し、又浮世の得失利害などを忘卻しきつた境界に立到るに及び、明らかに一進境を現ずるに至るのである。藝術に身心を委するものにあつては、本より人に褒められ度い、人に勝り度い、世に喜ばれ度い、善報厚酬を得度いなどと思ふべきでは無いが、然樣いふ俗氣俗意を何人でも無くし得て居るかと云ふに中々然樣では無い。眞面目な藝術家でも、張る氣の境界で藝術に從事する程度の間は、人にも褒められ度い、人に勝り度い、世にも喜ばれ度い、善報厚酬をも得度いといふ念が一毫も無いといふ譯には行かぬ。少くとも然樣いふ種々の念が、張る氣の隨伴者となつたり、後押や、前牽《まへひき》を爲したりして居る光景が有らう。しかし其の人が張る氣で眞面目に藝術に從事する以上は、少くも其の張る氣の健在してゐる間だけは、鳥なら鳥、花なら花を描かんとして筆を執り絹に臨んで居る其の當下には、人に褒められ度いことも無くなり、人に勝り度い思も無くなり、世に喜ばれ度い念も無く、善報厚酬を得度い心も無く、某君の胸の底、腦の奧より兩眼十指の末々に至るまで、たゞ鳥が滿ち花が滿ちて居て、殆ど他の物は無くなつて居るであらう。技の巧拙と力の強弱とは別として、執筆臨絹の場合にも猶種々の他の者が働いて居るならば、それは張る氣の状態では無く、兎に角に純氣で無い。駁氣で事に從つて居るのである。技は巧に、力は強くても、俗氣匠氣の多い作品といふのは、畢竟は駁氣で事に當つてゐる人、即ち執筆臨絹の時に當つても、猶俗意が口を出して何か囁く其の聲に聽くところの人の作品である。技は未だ巧ならず、力は未だ強からざるも、下手は下手なりに、吾が身の何處《どこ》を截つても其の畫題たる花なり鳥なりが咲き出し啼き出して、直ちに其の香を放ち其の聲を出しさうな位になつて、其の畫題のほかに別の物も無くなるか、吾と畫題と融合するか、我が畫題中に沒入するか、境界は種々で有らうが、何にせよ張る氣で畫に從事する場合には、少くとも其の人の其の時の最高能力は其處に瀝盡《れきじん》され發揮されて、夾雜物が無いだけそれだけ其の人の精神全幅が其處に出て居るのである。で、藝術は其處から進み上るのである。然れども張る氣の事に從ふ境界では、それだけである。筆を抛ち絹に背けば、また褒められたい、勝りたい、喜ばれたい、酬はれたいのである。ところが今日も張る氣を以て事に從ひ、明日も明後日も張る氣を以て事に從ひ、一月二月、乃至十數月、一年、二年、乃至十數年、數十年も張る氣を以て事に從うて已まざる時は、自然に泥水分離の境が現じて來る。不知《しらず》不識《しらず》の間に修行が積んで、技が進み術が長けると云ふのみでは無い。日々月々張る氣を湛へて、純氣となり得、駁氣にならざる習の付く結果として、次第々々に人に褒められたいのも何時か忘れるやうになり、人に勝りたい、世に喜ばれたい、厚く酬はれたいといふ念も漸々に薄くなつて來て、たゞ我が或物の命のまゝに描くやうになる。譬へば潮滿ちて海おのづから淨きが如く、又泥水日久しうして泥は沈み水は澄むが如きである。これを『澄む氣』の生じたところといふ。この泥水分離の境に到り得たにしても、有つて生れた天分の大小は如何ともすることは出來無いから、矢張り小者は小、狹者は狹、偏者は偏、淺者は淺で有るが、それでも各必らず其の妙を呈する。芍藥培ひ得て全きも牡丹とならず、龍眼甚だ美なるも※[#「くさかんむり/協のつくり」、第4水準2-86-11]枝《れいし》の味をなさずであるが、併し芍藥は芍藥の清艶、龍眼は龍眼の甘美をなすのである。藝術の人も終に『澄む氣』の境に到り得れば、實に尚ぶべきものである。人を描いて鼻無く、象を描いて牙を遺れても、また咎め難き境地に達して居るので、漸く佳處に入らんとして居るのである。張る氣を積んで此に至れば、一技脩め徹して即ち仙を得たのである。世評人言の役使するところとなつて、風裏の飄葉、空中の游塵たるが如き、何の甲斐も無い境界を脱し了つて、雨|淋《そゝ》げども竹愈※[#二の字点、1-2-22]翠に、天寒けれども鴨水に親しむ面白い境に到り得たのであるが、何樣《どう》して容易に其處に到り得よう。而も眞面目に張る氣を積み/\して、終に澄む氣を保つに至れば、拙くても偏つても、其の人だけの本來を空しくせぬところに到達するので、古來より一分半分なりとも做し得たる有る人は、誰か此の境に脚を投ぜざるものあらんやである。
『澄む氣』を養ひ得て已まざれば、終に『冴ゆる氣』に至る。冴ゆる氣に至れば氣漸く化して神ならんとするのである。冴ゆる氣になれば、氣象玄妙、神理幽微、予輩たゞ教を外に受けて證を内に全うせざる者は、兌《だ》を塞ぎ坤に居る可きのみであるから姑く擱きて言はぬ。たゞ張る氣を以て藝術に從事する者は、時に澄む氣の閃光を示し、而して其の藝術の進境を示すが、凝る氣で藝術に從事するものは決して澄む氣の象《かたち》を視《しめ》さぬといふことだけをこゝに言へば足りる。張る氣で藝術に從事すれば、假令《たとひ》其の人が鈍根なるにせよ、時日を經るに隨ひて遲々ながらも進歩する。又或は一進一止するにせよ、時に進境あるを思はしむるの痕を示す。併し凝る氣で從事するものは、其の絹紙筆墨を費すや甚大甚夥なるも、畢に繋がれたる馬の一つの柱を遶《めぐ》り、籠められたる猿の六つの窗に忙しげなると同樣に、何の進境をも示さぬものである。七年碁を弄び、九年俳諧を嗜んで、千局二千局を圍み、一萬句二萬句を吐いても、たゞ熟するといふ事が有つて、更に進むといふ事の無いのが有る。境遇の惡變から張る氣を生じて而して持續するが如く見えて居るもの、例へば家庭に伏在せる波瀾に苦める人の、非常に勵精して碁に耽るといふが如きは、其の勵精して倦まずといふ點より言へば、張る氣の働に類して居るが、多くは凝る氣などの働である。張る氣の如き善氣の働ならば、さほど持續する間には、澄む氣にさへなる可き理が有る。よしや常住澄む氣にはなり得ぬまでも、少くとも其の心を寄せ身を委ねた藝術に於ては著しい進境を現出せでは叶はぬ道理である。全幅の精神を以て長き時日を一藝一術に對して居て、そして進境無きといふ道理は無いのである。而も凝る氣を以て之に對して居るならば、不出不入、停滯一處の死氣、即ち刻々に進んで已まず念々に長じて止まらざる生氣の張る氣とは大に違ふところの氣を以て對して居るのだから、其の結果もまた不出不入、停滯一處で不思議は無いのである。凝る氣を以て事に從ふは、譬へば氷を以て物と共に※[#「宀/眞」、第3水準1-47-57]《お》くが如しで、其の物能く幾干か變ぜん[#「變ぜん」は底本では「變せん」]である。張る氣を以て事に從ふは、流水を以て物を涵《ひた》すが如しで、物漸くに長大生育する。俳優の舞臺上に於て駛走《はしり》を演ずるが如く、其の脚動かざるにあらざるも終に長く一處に在る状態に、凝る氣を以て事に從つて居る人の情状は實に酷似して居る。七年八年碁に耽つて、一切を忘るゝが如くで、而も其の技進まぬ人の如きは、其の對局下子の時の状《さま》を觀るに、たゞ局に對するのみ、子を下すのみで、其の對局下子の時、此の一着の果して好手なりや否やといふに就いてわが全幅の精神を以て對して居るのでは無い。勝を欲するの意は燃ゆるが如くで有つても、たゞ徒らに其の意のみ高く燃えて居て、一着の可否に就ては、交渉商量甚だ疎なのである。勝を欲するの意の燃ゆるをば火の燃ゆるに喩ふれば、一下子の可否を商量するところは、物を鍋上に置いて之を※[#「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52]るが如くで無ければならぬのである。張る氣を以て事に從ふ情状は即ちそれであり、全部の火氣一鍋に對して居るので、一鍋中の熱氣おのづからに鍋中の物に作用して、そこで※[#「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52]熟の功を遂げ妙を現ずるのである。碁ならば、其の一下子の可否の商量の熟したところは即ち鍋中の物の※[#「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52]熟されたところである。そこで物は※[#「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52]熟されて後、はじめて食さる可きが如く、一着の可否の商量計較が、其の人力量の及ぶ限りを盡されて後、はじめて石が下さるゝならば其は本來の道であつて、一石一石が然樣《さう》いふ次第を經て局に下さるゝなら、其の人|假令《たとひ》鈍根なりとも、幾十局幾百局を圍むの後に於ては必らずや棊技漸く進むことで有らう。然るに凝る氣で事に從ふの象は、譬へば燃ゆる火が鍋の上に置かれたり、又は鍋の傍に置かれたりして、徒らに烈炎熾光を揚げて燃えて居るやうなものである。其の火の力と鍋中の物との交渉は甚だ疎であつて、火は火のみで燃えて居る、鍋中の物は鍋中の物で依然として居る、そして其の鍋中の物は漫然として口にさるゝといふやうなのが、凝る氣で事に從ふの象である。勝を欲するの心は烈々として獨り燃えて居る。而も其の心が一下子の可否の計較商量に對つて烹爛《はうらん》※[#「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52]熟の作用をば少しも爲しては居らぬ。そして漫然として石を下し局を了するのが凝る氣で碁を圍むの状である。是の如くにして如何で能く技の進むを得んやである。或事情に由つて凝る氣になつて居る人の爲す所は、張る氣で事に從ふとは異なるのであるから、たゞ其の打對つたところに意が※[#「澑のつくり」、第4水準2-81-31]まるばかりで、氣は眞實には働かず、不出不入、停滯一處で、碁なら碁にへばり着いて居るのみで有つて、そして其の眞の流通活溌であるべき氣の作用が凝然として死定されて妨げられて居るだけそれだけ、水には稜《かど》無けれども氷には稜ある道理で、恐ろしい鋭さと固さとを以て、或點に對しては嚴しくもまた苛酷《いらひど》く強く働くものである。即ち碁ならたゞ無暗に勝つことに向つて鐵石も衝き貫かんが如き無比の猛勢を爲して居るものである。張る氣で事に從つて居る場合は、勝つ勝たぬは局を終る時のことで、現前の案では無いから、それには寧ろ意は着いて居ないで、或は之を忘れたるにも近い状態を做し、たゞ現在の一着の可否如何に就いて、心は千條萬條の路を歩み盡し往き還り、千頭萬頭の計《はかりごと》を索め竭し考へ究めて、そして海涸れ底現はるゝ的の光景に至つて初めて一石を下すに及ぶのである。張る氣の作用は、刻々分々、刹那々々に於て、流動滾沸、活々溌々の生氣を以て、恰も那※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]太子《なだたいし》の六臂の、用に應じて即ち※[#「辧」の「刀」に代えて「力」、第3水準1-92-50]ずるが如く、江を截るの長網の、千萬億目、目々皆張つて、魚來れば便ち執ふるが如くである。凝る氣の作用は然樣いふ生動飛躍のところは無い。凝る氣と張る氣との差は非常なものである。
張る氣は或は澄む氣に之き、或は澄む氣に之かずして已みもするが、凝る氣は『戻る氣』なんぞに之《ゆ》く。これが常數である。併し時に或は張る氣から凝る氣に之くこともある。張る氣で局に對し碁を圍んでも、たま/\二敗三敗數敗する時は、一意たゞ勝を欲するに至つて、遂に凝る氣に墮する。又凝る氣になつてゐる人も、天分優秀で、因縁佳良なる場合には、時にたま/\張る氣になることも無いでは無い。併し皆それは稀少の例である。境遇惡變の如き場合には、中々張る氣になり得る人は多くあるものでは無い。大抵は凝る氣に墮して終ふものである。ところが其の凝る氣と張る氣とは、朱紫相近似して居るから、人の或は凝る氣の作用を認めて張る氣の作用とせんことを恐れて、是の如くに多く言を費したのである。張る氣の持續する場合には、藝術の如きは日々に向上する。自己状態の不妙なるより生じた凝る氣の持續が張る氣の如く見ゆる場合には、藝術にたづさはつて其の外觀如何ばかり勵精倦まずして一意他念無きが如くに見えても、假令《たとひ》日々に局に對し碁を圍むとも、日々に絹紙に對し筆墨に親むとも、日々に幾篇の文を作り詩歌を作つて、連篇累牘山積車載するに至るとも、實に價値の低い、進歩の路の無い、惡達者なものを※[#「澑のつくり」、第4水準2-81-31]めて、舞臺の駈足の如きことを繰返すに過ぎない。其の爲すところを見て判ずれば、張る氣と凝る氣との差は何人にも明瞭に辨知し得るのである。
境遇が善變したといふ程でも無く、また惡變したといふ程でも無く、不善不惡、善惡中間に變じた場合にも氣は變移して、時に或は張る氣を生ずることも有る。併し其はたゞ新境の現前といふ個條の中に攝取して説き盡し得るので、既に上に説いたところの屋上に屋を架するにも及ぶまいから擱く。
人事の上に於て張る氣の由つて生ずるところは其の大概を説いたが、猶微密に渉つて論ずれば、言ふ可きところの事は甚だ少く無い。併し人事は、其の人に切なる上に於ては天數にも過ぎて居るが、畢竟天の數は人の事を包含して餘が有る。人事は天數の中に於ける一波一瀾に過ぎぬ。天數の中に於て、極めて小さい、極めて短い、極めて弱い、極めて薄い地位を有して居るのが人事の全體である。扨又其の人事の全體の中で、極小、極短、極弱、極薄の地位を有して居るのが個人の状態である。それから又個人の状態の全體の中で、短小薄弱の地位を有して居るのが、個人の一時の状態である。人間の何事も自然に比すれば、甚だ短小薄弱なもので、如何に自然が長く大きく厚く強くて、そして人間が幺微《えうび》なものであるといふ事は、何人と雖も少しく思索に耽つたことの有るものの心づくところであるが、特に吾人が假に所有して居るものの如き觀のあるを免れぬ吾人の氣といふものの上に就て一たび思を致す時は、一層其の感を深くするのである。
人事から生ずる張る氣の事を言つた以上、自然の天の數から生ずる張る氣のことを言はぬ時は、其の小を説いて其の大を遺《わす》るゝことになるから、試に之を概説しよう。
天の數。あゝ何といふ威嚴のある犯す可からざる語だらう。一日に日の晝夜あり、一月に月の盈虚あり、一年に季の春夏秋冬ある、皆是所謂天の數である。夏が來ぬやうにと思つたところで、春が去れば自らにして夏は來る、夜にならぬやうにと思つたところで、日傾けば夜おのづから來るのである。是の如きものは是天の數であつて、人力の如何ともす可からざるものである。人の嬰兒より漸く長じて、少に至り、壯に至り、老に至る。皆是天の數であつて、無限に生きて居たくても、必らずや死に至るのも天の數である。生を欲するの餘りに長生といふことを考へ出しても、乃公は千年生きるとも云ひ兼ねるので、天の數の前には些し遠慮して、精一杯の注文を百二十五歳位にして置かねばならぬのは、如何に口惜くても仕方が無い、人間の微力さの已むを得ぬところである。扨此の偉大な天の數に就て氣の張弛を觀察して見よう。
無始……一、一、一、一、一、一、一、……無終。これが天の數である。一を一日と解しても宜い、一時間と解しても、乃至一月、一季、一年と解しても宜い。無始は知らぬ。無終も想ひ得ぬ。たゞ吾人は、一、一、一、一、一の場合と状態とを知つて居る。これを換畫《くわんくわく》して、無始……一、一の次の一=第二、一の次の次の一=第三、第四、第五、第六……無終としても同じことである。又無始……甲、乙、丙、丁……無終としても同じことである。無始は姑らく擱いて論ぜず、假定の人類發生の年を第一として、吾人の存して居る今が第幾萬幾千幾百幾十幾年だか知らぬが、兎に角に吾人は其の第幾萬幾千幾百幾十幾年より通例概算によれば五十年ほどの間を一人分だけ填めるのである。此の間の吾人は天の數の支配を受けて居るので、天の數を支配しては居らぬのである。人壽五十年とすれば、五十年間、二百季間、六百月間、一萬八千二百六十餘日間、四十三萬八千七百餘時間を經る間は、曉ならざらんことを望んでも夜には明けられ、暮れざらんことを欲しても日には暮れられ、冬ならざらんことを欲しても秋に去られ、夏ならざらんことを欲しても春に逝かれ、風や雨や雪や霜や旱《ひでり》や地震や洪水や噴火や雷霆や、種々樣々のものの支配を受けて居るのが吾人の實際である。
で、其の最も近きところより論ずれば、先づ第一に晝夜の支配を受けて居る。燈を用ひることを知つてから何千年になるか知らぬが、獸や鳥の如くに燈を用ひることを知らなかつた吾人の祖先は、日出でて作し、日入つて休息することを餘儀無くされたらう。此の習慣は吾人の靈性を熏染《くんせん》して、熏染又熏染、遺傳又遺傳、先祖代々同一情状を重複した結果、電燈もあれば瓦斯燈もある今日に於ても猶且吾人は、日出でて起き、日入つて睡るといふ周期作用に服從して居る。たゞ習慣のみならず、實に又太陽が與ふる光明、温熱、夜が與ふる黒暗、寒冷、晝夜によつて變ずる空氣の成分の搖錘的運動推移それ等の爲に支配されてで有らう、吾人はおのづからにして旦《あした》に起き出で、暮に歸り休みたいのである。此の一日間の著明なる事實は何を語つて居るか。吾人の精神力は強大なるには相違無いが、過大視してはならぬ。確實に精神が色界即ち物質の世界の法律に支配されて居て、治外法權の如きものは、或許されたる小範圍だけにしか存して居らぬ事を語つて居るのである。身心の相交渉するところの人の氣は、上下の相交渉するところの天地の氣と應和協諧して居る。人の氣は天地の氣の支配を受けて居るのである。試みに秋の夜の長き寂寞さを、人間と關係殆ど絶えたる江心一艇の闇に守り明かして、何を何樣《どう》したいと云ふ意念も餘り動かすこと無きまゝ曉天日出づる時にまで至つて見るが宜い。吾が體内へ飮料食物を吸收するといふでも無く、意念の火の手を特に擧げるといふでも無いのに、午前一時より二時半頃までの氣合に比して、天明らかに曦《あさひ》昇る頃の氣合は、大に相違するで有らう。掌中の紋理の『て』の字が見え初むる時より、寸々に明るく分々に明るくなつて、拇指の腸處《わたどころ》の細紋が見え、指の木賊條《とくさすぢ》の縱の纎《ほそ》いのが見え、漸く指頭の渦卷や流れ紋《すぢ》の見ゆるに至るまで、次第次第に夜が明け放るゝに及び、やがて日がさし昇るに及ぶ、其の間に天地の氣が人の氣に及ぼすもの無しとは誰か言ひ得よう。朝の氣と暮の氣との差は、二千餘年前の孫子さへ道破して居る。旦《あした》の氣のことは孟子も説いてゐる。人の朝の氣は實に張つてゐるのである。天地の陽性の氣に影響されて然るのである。
朝に於ける人の氣の張つてゐるのは、之を生理的にも解し得る。先づ第一には疲勞の回復の出來て居ることである。則ち體内の廢殘物の處置は睡眠中に整へられて終つて、排泄機に附さるゝばかりになつて居るのであり、新しい活動の起さるゝに適した状態になつて居る。疲勞の原因たるものは、疲勞を起すべき位置に在らずして、殆ど除去されんとして居るのである。第二には胃が空虚になつて、胃部附近に血液の充實することが無くなつて居るのに反し、腦には腦の作用を活溌に營むに堪ふる血液が注がれて居るために、精神機能は十分に其の能力を揮ふを得るのである。毀傷によつて腦蓋骨の剥離した人が實驗に供されて、腦の働く場合には血液の潮上の要さるゝことが明白になつてから、捕捉して證明し難きものになつて居た精神の勞作も、また筋肉の勞作と同樣に解知さるゝに至つたのであるが、精神勞作も實に血液を要するのである。腸胃中に物有る時は、腸胃は運動して、而して腸胃部に血液は潮し集まるのであると同時に腦部は微少ながら貧血を惹起して、精神勞作は弛緩遲鈍となるの傾をなす。食後に眠を催すに徴して此の事知るべしである。貪食の睡の因をなすことは、何人も知ることで、睡ることを欲せざる時に食を少くするが利あるのは、跋伽林外道《ばつかりんげだう》の爲たやうな事を暫時にせよ試みた者などの知つて居ることである。
佛法の僧侶は元來睡眠を取る可きものでは無いので、離睡經の睡眠を呵して居るのを見ても、阿那律《あなりつ》失明の談に照らしてみても、明白なことであるが、其の教條と其の僧侶の日に三度などは食せざるのが釋迦在世の時の行儀であつたこととを合せ考へて見ると、すべて形式を輕視する傾のある今日の僧等の卻つて淺薄なることを思はずには居られない。扨腦が血液を消費した場合には、勢として其の消費の餘の廢殘物が堆積する。廢殘物はすべて毒威を有するもので有るから、精神勞作より生じた廢殘物は、精神勞作を弛緩ならしめ遲鈍ならしめる。其の極は睡眠を致し、若くは不快の頭痛を惹起するに至るのであるが、或時間の休息中には、此等廢殘物は體内機關によりて漸く搬出されるのである。廢殘物の搬出せられて、新鮮なる血液の腦に潮するに及んでは、腦は復《また》漸くにして爽快に働き出す。是の如くにして勞作と休息とが、交互に行はるゝのは吾人の普通状態である。
心と身とを全く區別して考へるのも非であるが、又全く同一なりと考へて、心即身、身即心とするも非である。二者は是一にして即二、是二にして即一なのである。吾人が睡りつ寤《さ》めつするのは、睡らんと欲して睡る時も有り、寤めんと欲して寤むる時も有るが、又睡らんと欲するにあらずして、おのづからに睡り、寤めんと欲するにあらずして、おのづからにして寤むる時もある。吾人が寤めて而して精神作用を起し出し做し出すに當つて、仔細に觀察する時は、或事を思ひ、或業を執らんが爲に寤めたのでは無くて、寤めたるが爲に或事を思ひ或業を執るに至る場合も本より少く無い。即ちおのづからにして寤めたるが爲に、精神勞作を開始することも有るのである。前夜就眠の時に當つて、明朝五時に於て覺めて、而して獵に赴かんと思ひ、或は六時に覺めて直に文を草せんと思ひて、そして五時或は六時に起き出づることも本より少くは無いが、然樣《さう》いふ精神の命令有るにあらずして、而もおのづからにして寤むることも亦少く無い。若し夫れおのづからにして寤むる場合は、之を其の人の精神、詳言すれば自意識よりして、身體に於て精神作用が開始されたのであると云はんよりは、之を其の人の身體、詳言すれば血液の運行状態よりして、睡眠境が攪破されて、そして精神作用が開始さる可くされたのだと云つた方が適當である。
猶一歩進めて説かうか。『夢』は最も明らかに心身兩者の關係状態を示せる適切な事例である。夢は言ふまでも無く精神上の過程である、受、想、感情、記憶、智慮、意識等が不完全では有るが働いて居る事を否定する譯にはゆかぬ。此の夢といふものは、是の如く是の如きの夢を夢みんと欲して、而して後に夢みるものでは無い。精神上の過程で有ることは爭はれぬ事實で有るけれども、吾人が前夜に於て、是の如き精神勞作を爲さんと欲して、そして夢みるので無いことは明瞭で有る。即ち期せずして來るところのものである。吾が精神内に起るところの事では有るが、おのづからにして或夜は夢みるのである。此の夢の生ずる所以を心理的に解釋すれば、何等かの解釋を索め出し得ぬことは無い。併し其は夢の中の或物件又は或事態が何故に其人の心海に湧出して夢となつたかといふことを解釋し得るに過ぎないで、全體に夢の起る所以を解釋し得はせぬのである。たとへば鳩が文筥を銜み來つた夢の、其の鳩、其の文筥、文使ひ、といふ諸件に就ては、其の夢みた人の心理に立入つて推測する時は、不明白ながらも幾分の解釋を得よう。併し其は夢の中の事態物件の由つて來れる所以を解釋し得たので、夢其物の由つて來れる所以を解釋し得たのでは無い。如何となれば、夢みつゝある時と、未だ夢みざる時との、其の人の事情が境遇や心理は殆ど同樣であるのに、一二時間前は夢みず、一二時間後は夢みる、其の所以如何といふことは、心理の上では解釋に及び難い理で有るから、是非も無いのである。
殆ど同一の事情、境遇、心理を有せる人が、一二時間前には夢みず、一二時間後には夢みるの理は如何。其の人の意識の自由が用ひられて、そして或時に當つては夢み、或時に當つては夢みずに居たので無いことは分明である。然らば則ち期せず招かざるの夢といふものは、其人の心の方面より生ぜざることは明らかである。夢になつたものは、心から出て來たで有らうが、夢みさせた所以の者は他から出て來たのを疑はない。物質道理から言へば、一切事物の發生、存在及び變化、運動はすべて力を要する。力は力の因あるを要する。夢は秤量し度測することの出來るものでは無いけれど、明らかに精神過程の一たる以上は、精神を支持する所以の或力によつて生ぜられて、そして其の存在を爲すに疑無い。精神の勞作は血液の消費によつて起され、血液の供給は精神の勞作を爲すに堪へしむる。此の理によつて考察する時は、夢みるといふ精神勞作は、假令輕微の勞作にせよ、また血液と相待つて起さるゝものに相違無い。飜つて夢みる時の血行状態を考察すれば、腦に向つて血液の漸く多く流注さるゝ曉、即ちこれより將に完全なる精神勞作の行はるゝ範圍に入らんとする醒覺の前に當つて、其の準備たるの觀をなして、自然の律調により、血液の腦に注ぎ入る場合に、所謂夢といふものは生ずることが多い。又之に反して將に睡に入らんとする時、即ち腦は輕微なる貧血状態をなして、其の完全なる精神勞作をなすに堪ふべき良き血液の不足を告げ、精神勞作の休息を取らざるを得ざる場合に立到りながら、猶幾分の餘力を存して全くの睡眠には陷らざるに際して夢の生ずる場合も多い。此の醒覺前、及び睡眠前は、完全なる精神勞作を爲すには、其の力及び力の因たる資料不足にして又精神勞作の完全なる休息若くは閉止をなすには、其の力、力の因たる資料の存在する有りて、休息と活動との那方《いづれ》にも屬する能はざる事情の時である。夢は多く是の如き場合に生ずる。夢其の物も亦實に醒覺と睡眠との中間に位して居るもので、不完全なる精神勞作、若くは不完全なる精神休息の状態であると云ひ得るものである。
此の故に夢の體の成立原因、即ち夢の當體を組織するところのものは、明らかに心理より來るが、夢を結ぶ所以のものは、生理が然らしむるによつて來ると云ひ得る。即ち腦に血液の多からんとする或時、及び腦より血液の漸減する或時に於て、夢みる人の意識より起らざる血液の運行によつて、起さるゝのである。此の生理的なる血液運行の初期若くは末期に、心理的の或記憶、感情、豫想、追念其の他の或物が結ぶ時は、夢は初めて完全に成り立つのである。生理的の血行に心理的の想念等の加はつて夢の成るは、比へて見れば潮頭《しほばな》といふ進潮《あげしほ》の初、又は退潮《ひきしほ》の初に當つて、やゝもすれば風の之に加はるのに甚だ酷く似て居る。潮が風を誘ひもすまいが、潮頭には風が加はり勝であるし、時には雨も亦添うて來る。此の風を潮風《しほて》と云ひ、潮風と共に來る雨を、潮風の雨といひ、又略しては單に潮風とも云ふ。恰も此の潮の初に當つて風雨の加はると同じ樣な光景《ありさま》に、生理的の血行に心理的の種々のものが加はるのは、其の那方が那方を誘ひ起すのか知らぬが、觀察に値する事實である。若し十二分に觀察して徹底したらば、將に睡眠より醒覺せんとするに際しては、血行が因となつて、生理的が心理的を誘ひ、そして夢を成すのであり、又將に醒覺より睡眠に入らんとするに際しては、心理の方が因となつて、漸くにして腦より流れ減ぜんとする血行が縁となり、そして其の腦の血量不足が十分ならざる心理状態即ち夢を成すのであると云ひ得るかも知れない。
夢の研究をするのが本意では無いから、夢の事はこれに止めて、姑く措いて論ぜぬが、半醒半睡、若くは不醒不睡の夢といふものの由つて起るところを考察したならば人の身心の動作が、人よりのみ來らずして天の數より來ることの存するを明確に認めるを得るであらう。即ち一日夜に於ては、曉に於て氣が漸く張り、暮に及んで漸く弛み、夜に至つて大に弛み、復《また》曉に至つて復張るといふのが天の數である。是の如きが一日夜の自然の數である。故に一日夜に就て論ずれば、朝に於ては人の氣はおのづからにして張る可き數なのであり、血行の道理がおのづからにして是の如きを致して居るのである。今一歩進めて論ずれば、人の一日に於ける氣の張弛の状が是の如くであると云はうよりは、自然の一日に於ける氣の張弛の中に包まれて居る人の状《さま》が是の如くであると云つた方が宜いのである。日沒頃よりして天氣は下降する。日出頃よりして地氣は上昇する。水分の蒸發及び隕落は晝夜によつて行はれてゐる。日光の光波及び熱量の加被し作用するのも、晝夜によつて交替的に行はれてゐる。草木は明らかに日光と日温との作用によつて、大氣を分解し吸收し、氣温と氣壓との作用によつて燥氣を排し水氣を取つてゐる。草木の花若くは葉を諦觀《たいくわん》する時は、リンナウスならざるも今の何時に相當するやを知り得るほど、正確に且つ明白に、其の草木の一日の間の氣の張弛を知り得る。殊に朝顏の花の如く一張一弛して即ち休んで了ふもので無いところの花、たとへば木芙蓉の花の如きに就て諦觀する時は、朝の何時より晝の何時までに至るまでは其の氣張り、それより後に至つては其の氣弛みて、また次の日に至つて如何に且つ張り且つ弛むかといふことを仔細に知り得る。草木稟性の差によつて朝顏の花の如く、曉に於て其の氣の張るものもある、鼓子花《ひるがほ》の如く、日中に於て張るものもある。また夜會草や月見草の如く暮に及んで張るものもあるが、要するに朝より晝に及んで氣の張るものは多い。草木は人間の如くに高級にして且つ自由なる意識機關を有して居らぬため、明白に自然が加被するところの光景を反射的に彰はし、宇宙に於ける一氣流行の消息を洩らし示して居る。一枝頭上の妙色香、等閑に看る勿れ毘盧《びる》の身である。宇宙の氣の昇降伸屈盤旋交錯によつて孕育生長せられて居るのが、一切庶物の状なのであるから、怪むところも訝るところも無いが、草木を觀ると如何にも面白い。草木は正直に無私に一氣の流行を示し、其の起伏消長の情状を見せて居る。酸素を出す樹の葉、窒素を蒐むる荳の根、炭素を收めて莖幹をつくる夏日の經營、玄機を一塊球に祕して再來の春風を待つ冬の沈默、含羞草《おじぎさう》の情あるが如き、蓮花の雨を知るの智あるが如き、蜀葵《ひまはり》の日を悦ぶが如き、貝殼草や木芙蓉や其の他の多くの草花が、自ら調節して開閉するが如き、氣の寓處《やどりば》たる草木各自の體に於て天地の氣の流行運移する状は、明々白々に示されて居る。人若し能く草木に於て諦觀したならば、花開き花落つるも、葉の翠に葉の黄ばむも、一切の現象はたゞ天地の氣の動の姿たるに止まるを知つて、一切庶物に於て氣が働いて居るといふよりは、氣の中に於て一切庶物が存して居ると云つた方が適切なのを感ずるであらう。
草木以上のもの、即ち禽獸蟲魚の類に就て觀察するも、明らかに一日の氣の張弛によつて、此等の生物が種々力《しゆ/″\りき》、種々相《しゆ/″\さう》を以て、種々作《しゆ/″\さ》をなし、種々報《しゆ/″\はう》を取るを觀得る。禽は曉に於て大に勇み、翔り、飛び、啼き、餌を求め、雌雄相喚ぶものである。朝禽《あさとり》の語が日本歌人によつて如何に取扱はれたるかを考察しても解し得る。獸も朝に於て勇むのは、駒のみでは無い。狗も牛も皆勇むのである。蟲は卻つて暮夜に勇むのが多いが、朝より晝にかけて勇むものは亦甚だ多い。魚の中に於て、海魚は潮汐によつて其の氣が張弛するが、河魚は朝間詰《あさまづみ》夕間詰《ゆふまづみ》に於て著しく活溌になることは、老漁の看取して十二分に信じて居ることである。凡そ一切の物は、それ/\の氣の寓處《やどりば》となつて居るのであるから、衆花は晝に開くのに、暮に及んで開くものもあり、衆鳥は曉に勇むのに、夜に入つて勇む梟や杜鵑《ほとゝぎす》の類も有り、羣獸は晝に出で夜に伏すのに、夜騷ぎ晝|蟄《ちつ》する鼠の如きも有り、晝に當つて飛翔營作する蟲が多いのに、夜に當つて遊行する螢の如く蚯蚓の如く牀蟲《とこむし》の如きも有り、天和らぎ水清きを悦ぶ魚は多いのに、黒夜濁水を悦ぶ※[#「魚+夷」、第3水準1-94-41]魚《なまず》の如きも有る道理で、氣の特處偏處を稟けたものは普通のものとは異なつた状《さま》をも現はすが、要するに旦より午に至るの氣は張り、暮に至つては弛む。自然の大法は先づ是の如くである。
此故に人は此の自然の力が人をして自らに氣を張らしむる拂曉より暮までの間に、自己の分内からも氣を張つて何事にも從ふが宜い。吾が氣さへ張れば夜に當つて事に從ひ務に服しても宜いには相違無いが、それは自己分内の消息に於ては可であるが、自然圈内の消息に於ては不可である。自然に順應して、自然と自己とが協和諧調して張る氣になつた方が宜しい譯である。風に逆つても舟を行《や》り得るものでは有るが、風に順つて舟を行つた方が功は多い。自然に逆らつて吾が分内の氣をのみ張るのは、たとへば北風の吹いて居る中に、強ひて舟を北行せしむるが如きである。陽にして善、明らかにして正しき氣は朝に於て張る。陰にして惡、闇くして邪なる事に從ふならば、いざ知らず、苟も然らざる限りは朝の張る氣の中に涵《ひた》つて而して自己の張る氣を保つて事に從ひ務に服するを可とする。是の如く内外相應ずる、之を二重の張る氣といふ。
一月は二節である、一節は上り潮と下り潮との一回環を爲し、一潮《ひとしほ》は恰も七日餘である。而して潮は節々月々に少しづゝ遞減遞増して、春に於て晝間の大高潮大低潮を爲し、秋に於て夜間の大高潮大低潮を爲し、春秋晝夜を以て一年の一大回環を爲し遂ぐるのである。潮や節や月の盈昃や、此等の點から觀察して、或潮の或時は何樣《どう》であるとか、或節の或場合は何樣であるとか、或月齡の時は何樣であるとか云ふことを、氣の張弛の上に就て説きたくは思ふが、胸裏の祕として予の懷いて居るものは有つても、敢て人前に提示するまでには内證が足らぬから言はぬ。併し一日に於て自らに張る氣の時の存するが如く、或節、或潮、或は又月の或時に於て自らにして張る氣の時の有ることを信ぜぬ譯には行かぬ。蟹の肉は月によつて増減し、イトメの生殖は潮によつて催さるゝ如く、一切庶物が自然から或支配を受けて居ることは爭ふ可からざるものが有る。たゞ壯歳の婦人のみが月々に其の身體に影響を受けてゐるのでは無い。
一年に於ての氣の伸縮往來消長の状《さま》は、一月に於けるよりは稍明瞭に古來より人の意に上つて居る。冬は冷ゆるの意で、其の語は直に物皆凝凍收縮の象をあらはして居る。冬の凝る氣や萎《すく》む氣の状《さま》は多言を要せずして明らかである。秋の語《ことば》は明らかなること、空疎清朗なることを語つてゐるので、林空しく天明らかに、氣象清澄の状と、物皆歸するところへ歸せんとするの勢とを示して居るのである。夏は生り出づる、若くは成り立つの義より名を得て居るので、夏の時に當つて生々の氣の宇宙に充溢し、百草萬木、皆各勢を發し生を遂げ、生り熟ること著しきは何人も認むるところである。扨又春は即ち張るで有つて、木の芽も草の芽も皆張り膨らみて、萬物盡く内より外に發《は》り、水も四澤に滿つる程である。故に一年の中、春はおのづからにして人の氣も張るのである。三冬の嚴寒に屈ませられた生物は、來復の時に遇つて皆爭つて萌え出で動き出で、草木より蟲豸《ちうち》に至るまで盡く活氣に充ちる。日光、空氣、温熱、風位、※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、238-11]潤《しふじゆん》、およそ此等の作用によつて起さるゝ變化で有らうが、實際地下の水までが土工の所謂『木の芽水』で、其の量が冬よりは多くなつて膨れて居る、樹木の根より上る水壓は水壓計が示す如く著しく冬よりは増加して居る。人類の生理及び心理は慥に冬と異なつて興奮的發揚的になる。植物の體内の衞營の状態さへ變ずるのであるから、人の體内の状態の變ずるのは不思議は無い。そして其の變易の状如何といふと、人體の事であるから、植物學者が植物の根を截つて水壓の力を計るやうな試驗は出來ぬけれども、吾人の内省及び内證によつて、又他人の上の觀察及び校量によつて、明らかに春はおのづからにして人の氣をして張らしめること猶草木をして張らしめるが如きであることを知り得るのである。春はこれ即ち自然の張る氣の時季であつて、而して偶然に其の季に對して『はる』といふ語の命ぜられて居るのも、おのづからにして天地の機を語つて居るがごとく思へる。
四季に於ては春は慥に張る氣の季であるが、自然の張る氣の時はこれのみかと云ふに然樣《さう》では無い。算數的に詳しく論ずることは甚だ困難であるが、一國は一國、一世界は一世界、一星系は一星系で、張る氣の時期も有れば、漸くにして弛む氣になる時期も有るを疑は無い。我が地球の年壽は今論定し易く無い。十二萬八千載であるなどと妄測するのは甚だ非である。併し我が地球が漸々に寒冷に趣きつゝある事實は認めない譯には行かぬ。そして今日より後數千年乃至數萬年數十萬年を經るに於ては、今の勢にして變ぜざる以上は、終に吾人人類の生息に適せざるに至るは豫測し得べきである。又飜つて今日より數千年乃至數萬年數十萬年以前を考ふるに、古は我が地球が甚しく高温度であつて、今日の寒帶も猶熱帶の如くであつた事は、所在に發見さるゝ石炭の如き植物の化生物や、象、マンモス等の古生物の遺骸によつて明らかに推測さるゝものであり、猶數歩を進めて考ふる時は、愈※[#二の字点、1-2-22]遡つて太古に到れば、吾人人類の生息に適せざる程の高温度の時期の存した事を推測し得べきである。
然れば單に温度のみより推測しても、此の地球に始が有り終が有り、漸くにして生長し、漸くにして老衰し行きて、終に死滅に歸す可きは明らかである。既に始終あり盛衰あるものとすれば、假に子丑寅等の十二運に之を分つ時は、子より巳に至るの間は張る氣の時期で、午より亥に至るの間は衰弛の時期である。歐米の人はすべて古代を侮り、未來を夢想的に賞美して居つて、時間さへ經過すれば世は必らず文明光耀の黄金期に入るもののやうに感じて居る傾が多いが、大空間の地球も掌上の獨樂《こま》も同じ事であつて、其の能く自ら保ち支へて廻轉して立つて居る間は幾干も無いのである。運來つて起つて舞ひ、時至つて偃して休するのである。世界の生物の生々の力が衰へないで、繁茂し孳息する間は、張る氣の運の世界なのである。若し夫れ陰陽漸く調はず、動植漸く衰萎するもの多きに至れば、それは氣漸く弛み衰へんとするものである。石炭になつてゐる彼の羊齒類植物を、今日の地球の力では温帶地などには生じ得ぬのである。欅や柏や樫や、此等の植物を繁榮せしむるだけの力無き時も蓋し終に必らず來るのであらう。個種個族個體の内部より愍む可き小さな智慧の炬火で照らして觀察し解釋し批判すれば、生物の生滅は生存の競爭の結果だなどとも道ひ得るのであるが、大處より觀れば手を拍つて笑ふ可き人間の私から造り出した棘刺刻猴の淺論であるに過ぎぬ。巧は是巧なるも、またたゞ棘刺に沐猴を彫る、棘刺と沐猴とを併せ失つて居るのみである。劫運浩蕩として、太陽漸く冷え、地球既に老いて、石炭空しく遺つて居るのが、今日の世界である。劫初より今日に至つて、太陽の熱は兎に角に、地球上の温度が、次第次第に變化増減して來て居ることは、推算の理が信ず可からざるもので無い以上は、確に吾人をして非認せしむる能はざる事實である。此の地球上の温度の漸く減じて、長大鬱茂の植物を生育するに堪へず、また巨躯偉體の動物を繁殖せしむるにも堪へなくなつて、そして其の植物や動物が亡滅して終つた事は、其の個物の側より觀れば、個物の性質や能力が自己の存在を支持する能はざるに至つたからであるが、眞誠の原因を根本的に考ふれば、疑も無く太陽及び地球の力量の變化より生じた事で、地上の一切の個物は本來宇宙の或力量より發遣《ドライヴン》され、若くは現出せしめられ、若くは生育され、若くは保持され、而して其の力量の若くは消え去るか、若くは遷り移るかによつて、蛇蛻《じやぜい》蝉殼《ぜんかく》となつて、終に萎枯し廢滅し、嘗て存在したといふ痕跡のみを※[#「澑のつくり」、第4水準2-81-31]め、又終に其の痕跡をも※[#「澑のつくり」、第4水準2-81-31]めざるに至り、死の後の後は生の前の前に還るのである。諦觀《たいくわん》すれば個物は本これ唯々現象のみで、現象は本これ唯々力の移動の相なのである。個物――現象――力の移動の状態を察し、數學的の推測を地質學礦物學動植物學上の事實に本づきて下す時は、子より亥に至る十二運の説は措きて論ぜざるも、此の地球の氣にも張弛あり長消ある事は明らかである。力不滅論は圈内の論としては實に妙であるが、盆地の小魚拳石を廻つて、水の長さ終に究まる無きを信じて居るのである。太陽漸く冷えて其の熱|那處《いづく》かに存せる。試みに※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、241-10]《なんぢ》が一句を道ひ來れ。※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、241-11]は道はん、熱は熱として存せざるも、或物として存すれば、是即ち存するなりと。然らば則ち※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、241-12]に問はん。力不滅なる時は、力の量不増不減ならん、力の量不増不減なる時は力の相を變ぜしむるものは是力か非耶。それ眼の視るところ、指の觸るゝところ、何物か力の變じて而して生れる相ならざらんや、※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、241-14]道ふ、太陽の熱日々に加被して而して後に樹生る、樹を焚けば則ち熱を得と。これ説き得て甚だ善し、たゞ※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、241-15]に問はん、太陽の熱をして寓在して松樹柏樹の枝幹莖葉を成さしむる所以のものは是|力歟《ちからか》非耶《ひか》、若し是力ならずんば何物の之をして然らしむるぞや、又若し是力ならんには、此の力は如何にして生じ、如何にして終るぞや、那處《いづく》より起り那處にか滅するぞや、抑※[#二の字点、1-2-22]又何の力の之をして然らしめて太陽系を生じ、乃至他の星辰を生じ、乃至|彗孛《すゐはい》や銀河や星雲を生ぜるぞや、抑※[#二の字点、1-2-22]又宇宙の大動力は何に由つて生ぜられたるぞや、乃至此の大動力は何の力によつて分岐に分岐を累ねて、而して東奔西走南向北進せしめられて、松柏を爲し、梅櫻をなし、飛禽奔獸をなし、千萬億兆の差別の個々相を生滅せしむるぞや、問ひてこゝに至れば※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、242-4]は必らず問を以て答と爲すの窮途に墮在するのみならん。只一つの直線といふものだに存在してゐない。直線といふものはたゞ「想」の世界にのみ存在してゐるのである。分子といひ原子といひ、電子といひ、ラヂウムといひ、ウラニウムといひ、ヘリウムといふも、またたゞ「※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、242-7]の智の圈内のX/A、X/B、X/C、若くはYn[#「n」は下付き小文字]、Zn[#「n」は下付き小文字]の名」たるに過ぎずや如何に。三角の内角の和は二直角なりといふも、是先づ※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、242-9]の『想の所立の平面』の存在を成就して而して後に成るの計較に過ぎずや如何に。俯して下を瞰る時は、球上に立てるなり、三角内角の和は二直角より大ならざる能はずである。仰いで上に對する時は無限大の卵殼内に在るなり、三角内角の和は二直角より小ならざる能はずである。シヨウスキーやレーマンが否宥克立《ノンユークリツト》幾何學を唱ふるも、唱へ得て畢竟不可得なるにあらずやである。宇宙は※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、242-13]の智の圈内で盡きて居るのでは無い。宇宙は※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、242-13]の想の所立の學術内に籠罩《らうたう》され終つて居るものでは無い。※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、242-14]の智の圈の内で、※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、242-14]の想の所立の學術を頼んで論ずれば、今日の天文學も眞實で、物理學も化學も眞實で、幾何學も力學も皆眞實である、其代り古人の圈の内で、古人の想の所立の學術を以て古人が論じて居たことも其の古に在つては眞實だつたのであり、又將來に於て來者の智の圈内で、來者の想所立の學術を以て論ずるのも其の時に當つては眞實となつて、而して今日の吾人の所論の空疎だつたことが指摘されて笑はるゝことは、猶今日の吾人が古人の所説を指摘して其の空疎なるを笑ふが如くであらう。是の如き言をなすのは、今の科學を輕んじ、若くは疑ふ意では無い、たゞ科學は圈内の談であつて、其の絶對權の有るもので無いといふことを言ふに止まるのである。力不滅論の如きも圈内の談としては點頭す可きであること、譬へば日本國の民が日本の法律習慣に點頭す可きが如くである。併し時代や國家を超越してまでも今の法律習慣に點頭することが出來るや否やは圈外の談である。力不滅の論の如きも、吾人が知り得る天體關係(甚だ狹隘なる)の中の太陽系(甚だ小なる)の中の地球(又甚だ小なる)の中の吾人の知り得る年代範圍(甚だ短き)の中の現時(愈※[#二の字点、1-2-22]短小なる)に於て吾人の解得せる現象關係の中で眞實と見ゆるのである。地球の生住《しやうじう》壞空《えくう》、太陽系の生住壞空の論などになれば、それでも力不滅の論を立てれば立て得るが、それは小に據つて大を掩ひ、短を以て長を律せんとするので、餘り信ずるには足らぬのである。地球や太陽が冷えて、地球は頑石の如くなり、太陽は光※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]大に衰へた後、太陽や地球が不斷に發揮した力は何かになつて存在して居るでも有らうが、其の太陽當體地球當體は甚だ力の無い者となる譯である。第一自體の熱量を出し盡した太陽は何となる、又地熱も冷え盡き、太陽より受くる熱も少くなつた曉の地球は何となる。太陽や地球から發した熱は何處かに變形して存在するにしても、天王星の世界ならばまだしもの事、それよりも遠い/\他星系の世界なんぞに流注加被して終つたり攝取沒收されて終ふといふのでは、吾人は其の有無の二端の言を以て之を判ずるのをさへ懶しとするほどまで交渉も無ければ空漠にも落ちた事で、殆ど意料思議の外に逸した次第である。況んやまた本來天體の存立といふものは、不測の出來事、たとへば大彗星と他星との衝突といふが如きことの到來するまでの間を限つて、吾人の測度と思議とが成立ち得る状態を保つて居るので、其の出來事は何日到來して、太陽系や地球の位置も質量も回轉も那樣に變化して終つて、吾人の智識及び智識を堆積し組織した學問も根柢から改められなければならぬかも知れぬのである。是の如く説いたらば然樣《さう》いふことは稀有に屬す、杞憂で有るといふ人も有らうが、決して稀有では無い。現に吾人の住居して居る地球全體の質量や位置や回轉も刻々時々規則的及び不規則的に變化して居るのである。其の規則的の部分は精密なる學者の計量に上つて居るし、其の不規則的の部分は如何なる學者も未だ計量する能はざるのである。然樣いふ事は無いと云ふならば、※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、244-9]に一例を示さう。彼の隕石や天降鐡は那處《いづく》から來つたのである歟。隕石や天降鐡は疑も無く他世界から來つたもので、既に地球にそれだけの物が來つた以上は、地球の全體の質量は鐡及び他の鑛物の増加によつて變化させられて居ることを否定する譯にはゆかぬのである。また其だけの物が増加さるれば、太陽にも同時に其の隕石に比例するだけの或物が増加されぬ以上は、遠心力は若干だけ求心力に超過した譯になつて、運行軌道に變化を起す數理である。隕石は稀有の例でも、地球が始まつてから受取つた隕石の總量は決して尠少だと考ふることは出來ない。況んやまたノルデンスキヨルドが歐洲より西比利亞北海を過ぎて日本に航した時の同氏の觀察によれば、地球の受取つて居る微小隕石、即ち吾人の注意を脱して居る隕石の總量は實に驚歎す可き洪量のもので、隕石によつて地球は生成せられ、若くは増大せられて居ると云つても然る可き程であると云ふでは無いか。ノルデンスキヨルドの隕石説は、全部是認する能はざるまでも、吾人をして吃驚し確認し注意せしめた隕石のみでも、太古より今日に至るまでは、何程で有らうぞ。天變を重大視した古の史籍に見ゆる記事や、野蠻人をして初めて鐡の用を知らしめた西大陸の事實や、禪僧をして詩を賦せしめた落星灣の口碑、凡そ此等の事の載籍に見ゆるものは少くないにしても、實際は何程多かつたことか知れぬ。其の度毎に蓋し何處かの世界に異動の有つたことは爭はれぬし、我が地球もまた同じく大なる異動を起してゐるので、其の測ること難き異動が連續する間の或短い時間が、吾人の天文學や物理學や化學や其の他の科學やの寓居なのである。故に精密に論ずれば、時々刻々に吾人の世界は、太陽熱及び地熱の冷卻といふが如き自體の發作力の耗散によつて變化しつゝあるのであるのが其の一、隕石等の如きものによつて他世界の力の加被を受けて變化しつゝあるのが其の二、又粗大に論ずれば、吾人の世界に取つては未逢着で有るが、宇宙に於ては稀有でも何でも無く、殆ど不斷に生じて行はれて居るところの『隕石の起る原因』と同じ大變動の爲に變化すべきのが其の三、此等の事情の爲に吾人の住し居る世界は、其の質は畢に空とならざるまでも、變化即ち現在相《げんざいさう》、現在性《げんざいしやう》、現在體《げんざいたい》、現在力《げんざいりよく》、現在作《げんざいさ》等の壞れ行くべきことを否認する譯には行かぬ。
科學の力不滅論が眞理で有らうと有るまいとに論無く、此の世界が吾人人類及び一切生物に對しての働く力は、不増不減とは行かない。印度思想の生住《しやうぢう》壞空《ゑくう》の説、支那思想の易理の説、百年毎に人壽一年を減ずる時もあれば、また一年を増すこともあつて、人壽八萬歳より十歳に至り、又十歳より八萬歳に至るといふ倶舍《ぐしや》其他の説や、此の世界は衆生の業力《ごふりき》で成立つて居るといふ楞嚴《れうごん》其他の説や、創世記、默示録の言や、其等の説の那方《いづれ》の説を信ずるといふでも無いが、此の世界が人類の生活に適するやうに、又は人類を生活せしむる事の負擔に堪へ得るやうに存在して居るのには、必らず時間の制限が有る、決して無際限では無い、といふことを否認する譯には行かぬ。扨そこで既に人類と世界との關係に命數が有つて、始が有り終が有る以上は、中間も有り、壯期もあり、老期も有る理である。勿論壯老は人類の私から名づけるに過ぎぬのであるが、人類及び人類に必要あるものの繁殖生育が容易である時は即ち人類と世界との關係の壯期であり、人類及び人類に必要なるものの生育繁殖の困難となつた時は即ち老期である。始期及び壯期は即ち世界の張る氣の時であり、老期及び終期は即ち弛む氣の時である。中期は恰も其の間に當る。佛教や基督教や道教の所説では、人類は其の始期が最幸福で、文明史家や政治史家や科學者の所説に照らして今人が想像すれば將來が幸福に思へるから、過去が眞に幸福であつたとすれば、今は既に老期に入つて居るが如く、將來が愈※[#二の字点、1-2-22]幸福だとすれば、今は猶壯期に屬するが如く考へられる。併し必ずしも其の那方の説が眞を得て居るといふを決定するにも及ばないで、世界人類が猶未だ衰殘減少に傾かざるに徴して、世界が今張る氣を有して居ることは明らかである。若し夫れ世界が生々の氣漸く衰へて、秋夕凄凉たるが如きに至れば、吾人に必要なる植物は、漸く矮小となつて、結實も少く、根幹莖葉を吾人に供することも不足になり、動物は繁殖力を減じ、吾人の身體精神も漸く※[#「兀のにょうの形+王」、第3水準1-47-62]弱を致すに至るであらう事は、譬へば猶荳科植物を生育繁茂せしむるに堪へなくなつた土地に播かれた荳科植物の状態の如くになるで有らう。世界が永遠に同一状態で有り得ず、同一の力や相や體や性を有し得ざる可き事は、前に言つた如くである。吾人の世界が時々刻々に變化し居るに照らして、此の事は實に確信す可きである。併し人類は手を束ねて死滅を待ち得るほど賢い者では無い。佛陀や菩薩の如き賢過ぎるほど賢くのみは有り得ぬものである。人類亡滅の運に向つて居ることを覺る時になつたらば、其の掘鑿し難い智慧の井を深く/\掘鑿せんと、恐ろしい猛烈鋭利な意識の錐や鶴嘴を振り廻して、そして燃ゆるやうな生存慾の渇を止めんが爲に生命の水を汲まうとするで有らうか。
たゞし午前十一時が過ぎれば、やがて十二時となり、零時が過ぎれば、やがて午後一時になり、二時になり、三時になるのは如何とも爲し難いから、日暮の恨を呑みながら、終に石炭やマンモスの仲間入を爲るで有らう。が、幸ひにして今日はまだ人類繁昌期である、而して此の繁昌が猶幾百年幾千年幾萬年續くか、吾人の比量智の判斷は下し得ぬほどである。虚僞の文明と卑陋甚だしき私慾との爲に、天地生々の氣を強ひて※[#「爿+戈」、第4水準2-12-83]害して竊に其の分別あることを誇つて居る似而非怜悧の刻薄無情の人民の國の人員が増加して行かぬといふ事情は有つても、世界全體の人類は慥に繁昌しつゝあるのである。氣は世界を包んで居るのである。吾人は張る氣の中に包容されて居るのである。生存の競爭の苦痛は存在するにしても、それは個體若くは團體の接觸の密度に比例して居るので、滋く播かれた菜の種子が互に根を張り合つて居るが如きものである。密度の高く無い場合には非常に減殺されるのである。地力の竭きかけた地へ播かれた荳科植物とは大に異なつて居るのである。實に張る氣の中に包まれて居るのである。
自然の大處より言をなせば、實に是の如くである。吾人は先づ第一に天地の張る氣の中に包まれて居ぬやうになつたらば知らぬ事、今は慥に張る氣の中に包まれて居る。次に一年の中では春は最も張る氣の強い時であるが、生々の氣未だ衰へぬ期に在るのだから、それは比較的の事で、夏も秋も冬もまた張る氣の働の絶えぬ中に居るのである。又次に一日の中で言を爲せば、朝より晝迄は最も強い張る氣に包まれて居るのだが、これも比較的の談《はなし》で、生々の氣未だ衰へぬ世に在つては同じ理で一日を通して張る氣の働の絶えぬ中に包まれて居るのである。天の數實に是の如しである。
人事と天數との間に在るが如き人壽といふものは、勿論重要の位置に在るものである。此の人壽より論ずれば、人の生れてより壯に及び、壯より老に及び、老より死に及ぶ間に於て、其の半生は明らかに張る氣の働が強いのである。壯より老、老より死に至るまで、苟も一綫の氣息の存する間は、勿論張る氣が存するのであるが、漸くにして張る氣は少く、漸くにして他の氣は多くなるのである。既に張る氣の事を説くも、再三に亙つて居るから、人少しく自ら省察すれば、おのづから其の消息を悟り得よう。よつて復こゝには多言せずに擱く。
昧爽より午に至るまでの氣象、人須らく其の氣象を體得して生を遂ぐべしである。世界は生々の氣に張られて居るのである。天數、人事、人壽、此の三者を考察して、張る氣を持續せよ。たゞ夫れ能く日に於て張り得よ、夜に於て善く弛まん。たゞ夫れ生に於て張り得よ、死に於て善く弛まん。進潮、退潮、潮よく動いて海長へに清く、春季秋季、よく移つて年永く豐ならんである。
[#改丁]

説氣 山下語

 天下を通じて一氣のみとは南華經の言である。其の大處よりして説けば、萬象皆一氣で、一氣百變して百花開き、一氣千轉して千草萌えるのみで、山峙水流、雲屯雨下、春※[#「火+共」、第3水準1-87-42]秋冷、清白濁黒、正と邪と、賢と愚と、通と塞と、伸と屈と、人と禽と、神と鬼と、又皆一氣の剖判し旋回し曲折し摩蘯し衝突し交錯して生ずるのである。たゞ其の小處よりして論ずれば、氣も亦多端だ、蘭竹梅菊にも各※[#二の字点、1-2-22]其の氣あり、※[#「木+虎」の「儿」に代えて「且」、第4水準2-15-45]梨《さり》柚橘《いうきつ》にも各※[#二の字点、1-2-22]其の氣あるのである。よつて之を總べて談ずれば蕩々浩々たる一氣であるが、之を拆《さば》いて語れば、方處性相名目差別無き能はずである。
試みに之を説かう。氣の言たるや、本は物より發するところのものの幾微にして知る可からず捉ふ可からざるものを謂つたのである。蓋し其の物の氣は即ち其の物の本體と同一にして、恰も本體の微分子なるが如く、一にして而して二、二にして而も一、氣あれば必らず物あり、物あれば必らず氣あり、氣と物と相離るれば則ち物既に物たらず、物と氣と相失へば則ち氣既に氣たらず、氣は即ち物より生ずるの物にして、物は即ち氣の本づくところの氣である。靜なるに就て之を謂へば物といひ、動くところに就て之を謂へば氣といひ、本に着して之を謂へば物といひ、末に着して之を謂へば氣といふのである。譬へば水は是物、水上の※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、251-14]潤は是水の氣、火は是物、火邊の燥熱は是火の氣である。水あればおのづからにして※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、251-15]潤《しふじゆん》、此の※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、251-15]潤は正に水より發し來る、火あればおのづからにして燥熱、此の燥熱は正に火より發し來る。※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、252-1]潤や燥熱や、幾微にして知る可からず捉ふ可からずと雖も、水氣火氣の本體の水火に於けるは、二にして一、一にして二、氣は恰も本體の微分子たるが如き觀あり。若し水氣竭き、※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、252-3]潤の作用乏しきに至れば、水もまた既に涸渇して居るので、火氣盡き、燥熱の威力作用衰耗するに及べば、火もまた既に餘燼となつて居るのであつて、水火の體が無ければ※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、252-5]燥の氣も亦無いのである。
で、物には物の氣が有る。蘭には蘭の氣が有る。蘭氣新酌に添ひ、花香別衣を染むといへる蘭氣はそれである。菊には菊の氣がある。荷香晩夏に銷し、菊氣新秋に入るといへる菊氣はそれである。神を祭る鬱鬯《うつちやう》の氣は即ち鬯氣である。梅には梅氣、竹には竹氣がある、松に松氣、茶に茗氣、藥の氣は藥氣、酒の氣は酒氣、毒氣があり、蟒氣があり、霜氣があり、雪氣があり、一切種々の物に一切種々の氣が有る。邦語に「にほひ」といふのは殆ど此等の氣といふのに當つてゐる。「にほひ」の語は、香臭を稱するのが今の常になつて居るが、それのみでは無い、色の澤《てり》、聲の韻、劔の光、人の容、すべてこれを「にほひ」と云ふのである。香臭ある物の氣は即ち香臭であるから、蘭氣茗氣酒氣藥氣といへば、恰も蘭の香茶の香酒の香藥の香といふのに當つて、氣を「にほひ」と解して實に相當るのである。又劔の光や、人の容は即ち劔の氣、人の氣であるから、これを「にほひ」と云つても、「にほひ」の古い用語例に於て通ず可きのみならず、氣の意味を明かした語としても妙に相當つて居るのである。竹氣、霜氣、雪氣の如きは、竹の香、霜の香、雪の香、とも云ひ難けれど、これを竹、霜、雪の「にほひ」とするも、「にほひ」の語の本の意に照らせば、不可なる無く、「にほひ」の語は實に克く氣の字に當つて居るのである。
水の熱を得て蒸發さるゝに當つては、所謂「ゆげ」の騰るを見る。ゆげは湯の氣である。甑上の氣といふものは即ち是ゆげである。およそ是の如く其の物より立騰り、若くは横迸《よこはし》り、若くは游離するものにして、有るが如く無きが如く、見る可きが如く、見る可からざるが如きものをも、名づけて氣といふ。海潮の氣を潮氣といひ、山岳の氣を山氣といふやうに、河氣といひ、澤氣といひ、野氣といひ、泉氣といひ、虹氣といひ、暈氣といひ、塵氣といひ、雲氣といひ、日輪の兩傍に現はるゝものを珥氣《じき》といふ類は、實に數限りも無いことであるが、此等も亦皆其の物より發する其の微分子の如きものを稱すると解して差支無い。山澤河海の微分子と云へば、甚だ不明なことであるが、畢竟山澤河海の影の如く香の如くにして、譬へば人のエアーの如き山澤河海の氣象、即ち樣子の如きをも氣といふのである。
支那には古より『望氣の術』といふことがある。戰鬪の道は兩陣相對し相爭ふのであるが、酒には酒の氣、茶には茶の氣の有るが如くに、軍陣には軍陣の氣が有る可き理であるとすれば、軍陣の上には其の軍陣の内質に相應した外氣の發露騰上す可き譯である。そこで軍氣を考へ、察し、其の甲兵を見ずして、既に其の意氣、即ち軍陣の内質本體の如何なるものなるかを知り、而して我と彼とを比較して勝敗利鈍の數を籌《はか》らうとするところから其の術を生じたのである。たとへば決死の覺悟の軍隊の上には如何なる氣が立つ、驕り慢《あなど》つて居る軍隊の上には如何なる氣が立つといふやうなことを、一々觀察し得て誤らざるやうにとするのが望氣の術で、古く別成子の望軍氣の書六篇圖三卷の存したことは古史がこれを記して居る。其の書の説くところ如何をば詳らかにせずと雖も、蓋し望氣の術を傳へて、而して氣の形象を圖し、是の如く是の如きの氣を現ずるの軍は是の如く是の如しと指示したもので有らう。後に至つて有名の雄將|李光弼《りくわうひつ》の九天察氣訣などいふものも、疑僞か假託かは明らかならぬが、又其の書名を傳へて居る。歴史及び稗史に軍氣を望んで其の勝敗を豫想した例も、絶無では無い。日本に於ける望軍氣の術は支那よりの傳來であるか、邦人の發明であるか知らぬが、所謂兵法家者流の祕奧として珍重されたもので、いづれも板本では無いが、其の稀有奇怪なる氣の象を描いた着色圖、及び其の講説を録したものを目にした人は少くは有るまい。そして又各種の戰記野乘にも軍氣に關する記事の散見するのを認める。勇奮猛烈の軍隊の氣は黒み、薄弱にして敗退せんとする軍隊の氣は白けるといふが如きことは、今遽に某の書の某の章に出づといふことを擧ぐる能はずと雖も、蓋し何人も記憶して居ることであらう。
鑛山の如きは特殊の鑛物を包有せるもので、おのづから平々凡々の尋常一樣の山とは異なるのであるから、氣もまたおのづからにして各※[#二の字点、1-2-22]相異なる可き理である。そこで紅氣あれば瓊《けい》あり、※[#「赤+色」、U+8D69、254-13]氣《きよくき》あれば銅ありなどといふことを記して居るといふ望氣經もあれば、採鑛|取璞《しゆはく》の事をも記した天工開物の如き書にも些少ながら望氣の事が載つて居たと記憶して居る。日本にも佐藤氏の山相祕録の如き書あつて、鑛山を鑑定するに望氣の法を以てすることを説きたるもあり、又實驗を重んじて學説を輕んずる實際家者流の鑛山師等は、今猶望氣の祕に憑つて山を相して居るのである。單に望氣の法のみによつて鑛山の有望無望を考定するは迂陋なること勿論であるが、既に何等かの物あれば又おのづからにして何等かの氣有るべき道理であるから、氣を望んで山を相するのも一理無きにあらずである。
天象と人事と密着せる關係ありとする思想は、支那に於ては古より存して居た。大旱に際して聖王湯が自ら責めた事實は史上に著明であり、竇娥《とうが》が冤に死して暑月に霜を飛ばした事は戲曲の好題となつて居る。是の如き思想の餘流に出でたりと考へらるゝ時序と人事との關係は載籍に於ては禮や呂覽《りよらん》に就て窺ひ知る可く、實に印度や歐羅巴の如き宗教らしき宗教を有せざりし常識一點張りの國民の中にも、宇宙を人格化して、宇宙の根本は神威靈力を有するものにして、しかも情理を解知し、これに反應するの作用を具するものとするの思想の存在したるを知る。凡そ此等の思想と關係してか、或は又關聯せずして、或は又正當に關聯せずして斜歪に關聯してかは明らかならぬが、星氣を侯したり雲氣を望んだりするの道は、早く支那に於て行はれた。星及び星座近傍の氣、日、及天の氣を觀るの術は、那《いづれ》の邦にも古より存して、アストロロジーがアストロノミーの先驅となつたことは、煉金術が化學の先驅となつた如くである。支那の占星の術は蓋し星の位置と、他星との交渉と、光威と、其の附近に氤※[#「气<慍のつくり」、第3水準1-86-48]《いんうん》する霞氣の類との状態に照らして、人事世運の吉凶を考判するのであつて、星氣を侯するといふ語と共に數※[#二の字点、1-2-22]支那の書に於て遭遇するところである。戰陣のことに關してのみならず、單に氣を望んで、よつて以て禍福旺衰百端千般のことを考ふるの術、即ち廣義の望氣の術もまた早く支那に行はれて居た。從つて古史の天官書には種々の氣に就てのテクニツクが見えて居る。冠氣、履氣、少室氣、營頭氣、車氣、騎氣、烏氣なんどと云ふのは、其の形象によつて名があるので、白氣は其の色、善氣喜氣等は其の結果によつて存する名であらう。軍兵は國の大事であるから、望氣の道も、此等の語も、十の九は軍陣の事に關して居るが、氣を以て事の應とするの思想は單に軍陣の事のみに局限せられてゐるのでも無い。聖人偉人帝王豪傑は、星辰之に符し、雲氣之に應ずるものとして信ぜられて居たことは、歴史や雜書が吾人に語るところであるから、望氣の術が軍陣以外の事を包含して居たことも自ら明らかである。譬へば猶支那の占卜の道の書たる易が軍旅の事を説くこと甚だ多しと雖も、戀愛婚媾の事をも説かざるに非ざるが如しで有らう。扨凡そ此等の氣といふものは、煙の如く、雲の如く、陽※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]の如く、遠く望む可くして、近づき視るべからざるものを謂ふので、そこで望氣の望の字が下されて居るので有らうが、また全く見えざるものを謂ふので無いことは、形や色や方處が記されて居るに徴して分明で、覇氣や秀氣や才氣などといふところの氣とは異なつて居るのである。老子が關を出でんとするに先だつて關尹喜が望んで之を知つた氣は紫氣である。范増が望氣の術を善くするものに問うて劉季の大成せんことを知つた其の氣は龍虎五采を爲して居たとある。呂后の微なる時、高祖の芒※[#「石+昜」、第3水準1-89-10]山に隱れたのを見出したのは、高祖の居る所の上に雲氣あるを認めてだとある。呂后は人を相することを能くした者の女《むすめ》である。光武皇帝の未だ龍騰せざるに、南陽から其の居處春陵を望んで、佳なるかな氣や、鬱々葱々然たりと評したとあるから、其の氣の象たる秀茂せる森林の如くで有つたのだらう。そこに蘇伯阿といふ望氣の術を能くするものの名が見えて居るが、これは漢末であり、水に沒した周鼎の在る處を望氣の術によつて考へた新垣平は漢初の人である。紫氣を望んで寶劔を識つた張華は晉の人である。而して同じ晉の世の仙人|葛稚川《かつちせん》は其の自敍傳に望氣の術を學んだことを記して居る。此等によつて考ふれば、支那には古より前漢後漢晉に及び、唐宋より近時に至るまで、望氣の術の傳はつて居て、そして其が歴史の莊飾と天命の符瑞となり、幽祕の學を爲すものの一科たるが如き觀をなして居たことが徴知される。で、天命の革まる時などに氣の談の無い事は殆ど無い位である。事は荒唐無稽に近いけれども、蓋し一理無きにあらずである。大坂の戰の起る前に當つて氣の騰つたのは、餘程著しかつたと見えて、望氣の術を知つて居た人が指摘したのでは無いが、大に驚異して、そして卜するに焦氏の易林を以てしたといふ記事は我が史上に見えて居る。平安朝前後の史には稀に異氣の記事を見る。俗間に火柱などといふも氣の事である。酉の祭の夜、吉原の天などを見れば、望氣の術も何も知らぬ者でも盛んなる哉氣や、勃々騰々たり、其の下必らずや火坑あらんと笑つても間違は無いのである。吾人の眼に親しい龍宮城の圖なども、史記の天官書にある蜃氣の釋に本づいて出て來て居るので、氣の事も可なり普通的になつてゐる。凡そ此の條に説ける氣といふものは、皆彼の蜃氣の如くに、描畫すべく望見すべきものである。
氣といふ語は其等に用ひらるゝばかりで無い。望見す可からずして、たゞ思量す可き或作用を有するものをも氣というた場合がある。例へば山氣多男、澤氣多女と准南子《ゑなんじ》に記してある山氣澤氣の氣の如きが、其である。此の山氣男多しといへる山氣は、山氣日夕佳なりとある有名の陶詩の句の中の山氣とは、やゝ異なつて居る。又澤氣女多しとある澤氣は鮑照《はうせう》の詩の句の澤氣晝體に薫ずとある澤氣とも、同中に異がある。准南子のは山澤の精神髓氣の力といふやうな意で、其の氣たる無形無臭のものを指して居る。陶鮑の詩の句のは、或は望む可く、或は感知す可きもので、山澤より放散する氤※[#「气<慍のつくり」、第3水準1-86-48]《いんうん》溟漠《めいばく》たる氣を指して居る。もとより同語であるから、其の間に一綫の意の相通ずるものが有るは無論であるが、仔細に玩味すれば、自ら寸毫半釐の差がある。なほ准南子には、障氣は暗多く、嵐氣は聾多く、林氣|※[#「やまいだれ+(ふゆがしら/一/生)」、U+24E07、258-6]《りう》多く、木氣|傴《く》多く、岸下の氣|腫《しゆ》多く、石氣力多く、嶮岨の氣|※[#「やまいだれ+嬰」、第3水準1-88-61]《えい》多く、谷氣|痺《ひ》多く、丘氣狂多く、陵氣|貪《たん》多く、衍氣仁多く、暑氣|夭《えう》多く、寒氣壽多くなどと説いて居る。此の中、寒暑とあるは寒冷の地暑熱の地を指すので、すべて皆地方の特状と人の身心との關係に就ての觀察を語つたのである。中には觀得て中つて居るのもあり、中らずと思はるゝもあるが、大體に於て地方の特状に基づくところの其の土地の氣が住民の心身に影響を與ふるあることは必然の道理で、彼の俊才偉人の傳を立つるに當つて、山水秀麗の氣、是の如きの人を生ずなどと、庸常の傳記家が陳套の語をなすのは、其の人の特異な努力や苦心を沒卻した愚説で、甚だ忌む可く嫌ふ可きものであるが、雋異《せんい》の士よりは寧ろ平凡の民が土地の氣を被つて、而して他地方の民とは自らにして異なつた性情才能體質持病を有するに至ることを認めぬ譯にはゆかぬ。最明寺時頼に假託されてゐる人國記の如きも、地氣と民風士氣との關係の觀察を語つてゐるのである。此等の地の氣の或は※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、258-16]潤、或は乾燥などといふことは、望氣の事を説いた條の氣の如くに目に觸るゝものでは無いが、たしかに人に對して作用するもので、其の※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、258-17]氣が水邊に親しむ釣客をして僂麻質斯《りうまちす》に惱み勝ならしむることは外國の釣經《てうけい》に明記され、燥氣強き地が或病者に快癒を與ふることなどは實驗者によつて誇説さるゝを致すところである。海濤衝激するところにオゾーンの自らにして發し、又松林密なるところに雷大に下る時オゾーンの發生するが如きは、單に地の氣とは云ひ難いが、此等の如きは最も著しく人の心身に影響するもので、地の理の招き致すところであるから、地の氣といふ中に含まれよう。輕井澤の如く氣流の懸瀑《たき》を爲して居る地や、駿相海岸の如く北方に高山の屏障を有して南方大洋に臨んで居る爲に氣温の平和を得て居る地も、地氣清爽とか平和とか云ひ得るで有らう。泥沼氣が立つ地や、瘴氣の多い地も、亦|復《また》地状の之をして然らしむるのであるから、古ならば地の氣が何々であると云ふのであらう。凡そ此等の氣といふのは、指すところ漠然として空に墮ちて居る嫌は有るが、望見す可からずして而も或作用を爲す有るものの當體を氣と云つたのである。
時に關しても其の時の作用を爲す當體を氣と云うて居る。春氣夏氣秋氣冬氣といふのは、各季の氣で、春氣は愛、夏氣は樂、秋氣は嚴、冬氣は哀といふが如きは、四季の作用上から考へて、四季の氣の性質を抽象的に語つたのである。孫子の朝氣暮氣晝氣の言や、孟子の平旦之氣の言は人の上に係つた言で、直接に朝や暮、若くは平旦の上に係つた言では無いから擱くとしても、また一日には一日の氣あるを認めて居るのである。十二ヶ月は十二ヶ月の氣、二十四節は二十四節の氣、六十年は六十年の氣ありとして居るのは古の説である。天元紀大論や、五運行大論や六微旨大論や、皆畢竟するに時にかゝる氣の論を説いて居るのである。六微旨大論に天の氣は甲《きのえ》に始まり、地の氣は子《ね》に始まる、子甲相合するを、命《なづ》けて歳立《さいりふ》といふ、謹んで其の時を候すれば、氣與に期す可し、と説けるものや、甲子の歳は、初の氣、天の數水の下る一刻に始まつて、八十七刻半に終り、二の氣、八十七刻六分に始まつて七十五刻に終ると説き、三の氣、四の氣、五の氣、六の氣に至るまでを説けるものや、六元正紀大論に、甲子《きのえね》より癸亥《みづのとゐ》に至る六十年の氣を序して論じて居るものや、凡そかくの如き所謂運氣論といふものは、皆其時に某氣行はるゝとして信じたる世の論である。天地の始終を觀ること、掌上の菴摩羅《あんまら》菓《くわ》を視るが如くなるにあらずんば、是の如き説の當否を判ずること能はざる譯であるが、餘りに格套的に某の歳は某の氣行はるゝといふのは、信じ難くもあり、事實にも符し難い。それも聖王が治を爲して、小人が屏息し、三才相應じ、四境清平なること、儒家の理想のごとくなるの世であつたら、いざ知らず、人を以て天を擾ることの多い世に、何として格套的に運氣が行はれよう。儒家者流に言をなしたところで、理は自ら是の如しである。黄帝の氣を談ずる言さへ、至つて至ることあり、至つて至らざることあり、至つて太過なることありとある。五運六氣必ずしも規則通りには行はれまい。鬼臾區《きゆく》の言に、天は六を以て節を爲し、地は五を以て制を爲す。天氣を周するもの、六期を一備となし、地紀を終るもの、五歳を一周と爲す、君火は明を以てし、相火は位を以てす、五と六と相合《さうがふ》して、七百二十氣を一紀となす、凡べて三十歳なり、千四百四十氣、凡べて六十歳なり、而して不及《ふきふ》太過《たいくわ》斯《こゝ》に皆|見《あら》はる、と云つて居る。成程一甲子六十歳の間には、陰陽の太過不及も皆備はらうが、其の六十歳の中の某の歳は是の如くなるべしと想定されて居るところの、たとへば丙寅《ひのえとら》の歳は、上は少陽相火で、火化は二、寒化は六、風化は三なぞと定められて居ても、それが次年の陽明金が早く逼つたり、前年の太陰土が後れて遺つたり、火化、寒化、風化の數が狂つたり、※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、261-2]化や燥化や熱化が有つたりしさうなことで、然樣《さう》いふ過不足が生じさうに思はれる。然《さ》無ければ洪水も噴火も疫癘も、印判で捺したやうに三十年目六十年目に屹度來るやうになる次第で無ければならぬが、實際は蓋し其の通りでは無い。今更古の人の鬼臾區やなんぞを捉へて運氣論をする好奇心は無いから、それは擱くが、陰陽の交和の状を時に係けて論じて氣を説いた其の所謂氣なるものが、望氣の事を説いた前の條に擧げた紫氣や龍虎五采の氣やなぞの氣とは異なつたものであるといふことを説けば足りるのである。
人の氣、即ち老子や漢の高祖や後漢の光武帝なぞの事を説いた條に擧げた氣は、人より立つて外に現はるゝ氣であるが、人より立つ氣で無くて、人其の人に現はるゝ氣といふものがある。二者は相同じきやうでも、亦實に異なつて居るので、彼が雲や煙の如くならば、此は色や光の如きものである。※[#「萠+りっとう」、第3水準1-91-14]通《くわいてつ》が韓信に説く條《くだり》に、骨と肉と氣との事を談じて居るが、人の骨組|肉置《しゝおき》の外に氣といふものが見える。氣といふは喩へば猶色といふが如く、又光といふが如きもので、相書には實に疊見累出するものである。一二例を擧ぐれば、印堂に黒氣ある者は不幸であるとか、臥蠶に黄氣あるものは慶事有りとか云ふ類である。此等は詳しく言へば黒色黄色と云つても少し相違するし、黒光黄光と云つても少し相違するから、甚だ語り難いが、要するに人の面上の一部又は全部に何と無く見ゆる或ものを云ふのである。黒氣蒼氣青氣黄氣紫氣赤氣紅氣等は其の色から云ふ名で、明、暗、浮、沈、滑、嗇、蒙、爽等は其の光から云ひ、殺氣、死氣、病氣、憂氣、驕氣、憤氣、爭氣等は其の氣の有する意味から名づけた名である。凡そ風鑑人相の事を説いた書で、氣を説かぬ者は無いので、其の術を學ぶ者、骨肉の形象を論ずるのみで、氣を察する事が出來ぬなら、未だ至らざるもので、琴柱《ことぢ》に膠《にかは》して音を求むるの陋を免れぬのである。此の故に麻衣相法にせよ、柳莊相法にせよ、又我が邦の南北相法の如き特色無き書より、朝睛堂相法の如き支那傳來以外に實驗體得を基礎として他人の廡下《ぶか》に依らぬ書に至るまで、いづれも氣を説かぬものは無いのである。朝睛堂に至つては面上のみならず人の頭を裹んで氣が有ることを説いて、そして其の氣によつて、豐滿の相、破敗の相の見ゆることを云つて居るが、朝睛堂の如きは相書の氣といふものを進一歩した解釋に爲たものだと云へる。佛菩薩の像を描くものが圓光を其の頭に添へたり、或は所謂佛※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]を描いたり、基督教の聖像及び聖人像に輪光が描いて有つたりするのは、其の徳を表するのでも有らうが、相書の所謂氣といふものを朝睛堂が扱つた如くに扱つて超人的に形に現はしたやうで面白い。老子や漢高の氣は高く升りて天にあらはれ、遠く望んで之を知る可きほどであつたと云ふのに、佛陀なぞのは土星の鉢卷や袋蛛蜘の袋のやうに、僅に其の體に貼して小光圈をなして居るに過ぎぬのは、自由の力の大なる畫家が、束縛を被ること大なる彫刻家に降伏して居る結果でも有らうか知らぬが、をかしく思はれる。其は擱《さしお》き、相家の所謂氣といふものは、望氣者流の所謂氣といふものとも異なつて、前に述べた如くである。元來支那の相術は、呂后の父や、許負やの談でも傳へられ、これに關した議論は早く荀卿や王充によつて試みられた程で、其の淵源は甚だ遠いが、其の成書あるは何時頃よりのこと歟、恐らくは麻衣畫灰の事あつての後でも有らうか。たゞ其のテクニツクが古い醫書に見えて居り、醫の道に貌を望み、色を視、氣を察するの事あるを思へば、或は醫の道より岐分派出して別に一道を爲すに至つたかとも疑はれる。人中の語は師傅篇に見え、明堂の語も靈樞中の何處かに見えたと記憶する。猶搜り索めたらば、相家の術語の多く岐黄に出づるを見出し得るで有らう。況や古醫書中に太陰の人、太陽の人等を論ずるは殆んど相家の言に近きものあるに於てをやである。併し相家の所謂氣といふものは、醫家の所謂氣といふものと一致してのみは居ない。
醫家ほど多く氣といふ語を用ひたものは有るまい。從つて氣に關する至言もまた少くは無い。醫家の書に見ゆる氣は、其の指す所のもの一ならず、從つて其の意義甚だ多く、一概に談じ去ることは難い。太始《たいし》天元《てんげん》册《さつ》に見えて居るといふ丹天の氣、※[#「(廣-广)+今」、U+9EC5、263-10]天《きんてん》の氣、蒼天の氣、素天の氣、玄天の氣などといふのは、天の四方及び中央に五色を配した空言なるが如く、何の特別意義も無きかと見ゆる。然樣《さう》いふ價値無きに近き言も有るが、決氣篇に見えた精、氣、津、液、血、脈の六者の一たる氣は、上焦《じやうせう》開發《かいはつ》して、五穀の味を宣し、膚に薫し身に充ち毛を澤す、霧露の漑ぐが如し、是を氣といふと説いてある。これ猶今の所謂神經といふものを無形物と見做して而して其の作用を氣と名づけたるが如くに見える。氣府論や氣穴論に見ゆる氣の義の如きは、今の語を以つて的解を下すに難《なや》む。衞氣篇に見ゆる營氣衞氣は、浮氣の經を循《めぐ》らざるものを衞氣と爲し、精氣の經を行く者を營氣と爲すとある。衞氣行篇を見れば衞氣の行くことを説き、日の行くこと一舍にして、人の氣の行くこと一周と十分身の八と説いて居る。
營衞の氣のことは、古の醫道に在つては太だ重要のことに屬し、其の言は猶解すべきも、肝氣肺氣腎氣などと、氣の一語を濫發多用すること機關砲より彈丸を飛ばすが如く、風氣、寒氣、熱氣、燥氣、※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、264-4]氣等を説き、陰氣陽氣を説き、天氣地氣を説き、金氣土氣木氣等を説き、天運の浩々たるより神經の微々たるまで、其の間には氣象の事、臟器の事、氣息の事、何も彼も氣の一語に攝し盡して、而して之に宗氣だの、元氣だの、邪氣だの、といふことをさへ加へらるゝに至つて、衆語を綜べて一解を下さんことは到底不可能であつて、古醫書に見ゆるところの氣の一語は多義多方にわたつて居て概言す可きにあらずと云ふを正當とする。之を詳言して、或は柝《わか》ち或は合して、某々の氣の義は何、某々の氣の意は何とせんことは、煩瑣をだに厭はずば爲し能はざるにあらずと雖も、強ひて之を力むるも蓋し勞多く功少からんのみである。
氣に氣息の義、即ち「いき」の義あるは普通の事である。前の條に擧げた「にほひ」の義の如きも之に通ずる事で、物の香は即ち物の吐くところの「いき」である。呼氣、吸氣、出氣、入氣は即ち「いき」で仙人の餐芝《さんし》服氣《ふくき》といひ、道家の導氣養性といひ、亢倉子《かうさうし》の氣を嚥み神を谷《やしな》ひ、思を宰し慮を損し、逍遙輕擧すといへるのも、抱朴子《はうぼくし》にいへる※[#「希+おおざと」、第3水準1-92-69]儉が空冢中《くうちやうちう》に墮ちて、大龜の口を張りて氣を呑むを見て之を學んだ事や、(史記龜策傳、早く人の龜の氣を引くを學ぶことを書し、蘇東坡の雜著、晩れて同樣の事を記して居る)氣を吸して以て精を養ふと關尹子の言へるや、彭祖は閉氣して内息するといへるも、氣を食ふといへるも、氣を呑むといへるも、皆是氣を「いき」とのみ※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76]解しては妙味を殺ぐが、而も大畧「いき」と解して差支無い。人の氣を存するのは即ち人の生の存する所以で、氣絶ゆれば即ち生絶ゆるのである。此の點に於ては邦語は言靈《ことだま》の幸《さき》はふ國の語だけに甚だ面白く成立つて居るので、氣の「いき」は直に是生の「いき」であり、生命の「いのち」は「いきのうち」である。氣息の古邦語は「い」で、「いぶき」は氣噴《いぶき》であり、病癒ゆの「いゆ」は氣延《いきは》ゆの約、休憩の「いこふ」は氣生《いきは》ふである。言説する義の「いふ」は氣經《いふ》であり、鼾聲の「いびき」は、氣響《いきひゞ》きの約である。萎頓困敝の「いきつく」は氣盡《いきつ》くで、奮發努力せんとするの「いきごむ」は氣籠《いきご》むである。現に「生き」は「いき」にして「生命《いのち》」は氣《いき》の内なれば、氣の「いき」の義は一轉して人の精神情意と其の威※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]光彩の義となる。人の氣の盛んに騰るを「いきる」といひ、物の氣の騰るをも※[#「酉+它」、第4水準2-90-34]《いき》るといふ。「いきり立つ」は即ち人の意氣壯烈なるので、「いきまく」は即ち人の氣の風動火燃せんとするを云ひ、「いきざし」は心の向ひ指す所あるを心ざしと云ふに同じく、人の意氣の向ふところあるを云ふ。「いきほひ」は氣暢《いきはひ》若くは氣榮《いきはえ》の義、「いかる」は氣上《いきあが》るの義にして、古書の擧痛論に、怒るときは則ち氣上るとあるに吻合して居るのを見ても、地に彼此の別ありて人に東西の差無きを思はずに居られぬ。憂悒の義の「いぶせし」は氣噴《いぶき》狹《せま》しの意にして、憂ふる者の氣噴《いぶき》は暢達寛大なる能はざるの實に副うて居る。之も悲む時は則ち心系急に、肺布き葉擧つて上焦通ぜずと擧痛論に説けるに應じて居る。「いきどほり」は怒りて發する能はず、氣の屯蹇《ちゆんけん》して徘徊《もとほ》りて已まざる「いきもとほり」の約ででも有らう。嚴《いか》し、嚴つし、嚴めし、啀※[#「口+柴」、U+558D、265-17]《いがむ》の類の語も、深く本づくところを考ふれば、皆|氣息《いき》に關して居るかも知れぬ。此等の語は氣の「いき」の義なることを表はすと同時に、氣息に係けて人身状態を表はして居るので、實に氣息は人の心理や身状と離れぬ關係があるからである。氣有るは則ち生あるので、氣を失へば則ち死するといふことは、韓嬰の傳を待たずして自ら明らかなることである。で、人の心身にかゝる或意味を表はすことに於て、漢字の氣の字も、邦語の「いき」といふ語も、氣息の義より一轉再轉三轉して、甚だ包含量の多い字となり語となるに至つて居る。色、酒、財、氣と連ねて言ふときは、氣一字でも氣息の義では無く、威張つたり怒つたりすることの方になつて居る。「いきの荒い」といふときは、氣息の荒いといふよりは威※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]の烈しいといふことになつてゐる。醉うて凶暴になるを古い語に「さかがり」といふも、酒氣騰《さかいきあがり》の約である。神氣、血氣、才氣、眞氣などといふ語は姑らく擱きても、老子の氣を專らにして柔を致すと云ひ、萬物陰を負ひて陽を抱く、沖氣以て和を爲すといひ、孫子の氣を併せ力を積むといひ、張耳の客等が生平氣を爲すといひ、關尹子の豆《うつは》の中に鬼を攝し、杯の中に魚を釣り、畫門開く可く、土鬼語る可し、皆純氣の爲す所なりと云ひ、莊氏の座を安くし氣を定むといひ、靜ならんを欲すれば則ち氣を平らかにし、神ならんを欲すれば則ち心を順にすといひ、管仲の人足らざれば則ち逆氣生ず、逆氣生じて而して令行はれずといひたる類は、皆氣息の義より出でたるにせよ、氣息の義即ち氣なりとしては意を失ふので、それらの氣の義は、人の心の或|作用《はたらき》を爲すものと見、包含量の甚だ多い語として見るが至當である。併し此の條では氣息以上に及んでゐる氣の事を説きたくないから其等は姑らく措きて、猶少し氣息に關した事を語らうなら、道者は氣を足に引くといひ、猿は壽八百、好く其の氣を引くといへる類は、大體氣息の氣と解釋して宜いやうだが、猶且氣息の義のみではない。踵《くびす》に於てする眞人の氣息のことは南華其の他の道經に見えてゐるが、それも氣息の義のみと解しては通じない。「おきなが」の術は道家から出たものか、日本古傳であるか明らかならぬが、「おき」は氣息《いき》で、養性全命の道であるとせられてゐるもので、道家の胎息内息、佛者の調息數息の道に似て居る。之も心理と氣息とを連ねて處理するところに其の術の核心は存すると思はれる。所謂「おきなが」は單に氣息《いき》長《なが》のみとしては面白味は幾分かを失ふ。此頃行はるゝ腹式呼吸等の説は、突然として新出したものでは無い。それに類した事は二三千年の古から行はれて居り、醫家道家佛家の間には歴々とした存在の跡を認め得る。「いくむすび」「たるむすび」「いくたま」「たるたま」の教は、日本の神傳であらう。併し其の教に連なつて氣息に關する事の存して居るのも蓋し神傳で有らう。いきが單に鼓肺運血の事をなすのみならずして、猶其の上に靈作《れいさ》妙用《めうよう》あることは、古より傳はつてゐることで、延喜式に數※[#二の字点、1-2-22]見えたる※[#「口+句」、第3水準1-14-90]の字や、江次第に「人形《ひとがた》をもて※[#「口+句」、第3水準1-14-90]《いきか》けさしめ給ふ」と見えたる※[#「口+句」、第3水準1-14-90]の字は、老子に早く見えた字であるが、※[#「口+句」、第3水準1-14-90]嘘祓禊の道は、必らずしも支那傳來で無く、日本神傳に自ら然るもの有つて存して居たと思はれる。氣息の道を以て、正を存し邪を驅り、病を厭し壽を全うするの事は、佛家にもまた存して居たことで、吹氣、呼氣、嘘氣、呵氣《かき》、※[#「口+煕」、U+21071、267-15]氣《きき》、※[#「口+詩」、U+21017、267-15]氣《しき》の六氣は天台の智者大師が示した六氣である。吹氣は吹いて冷やかならしむる氣、呼氣は※[#「火+(而/大)」、U+7157、267-16]氣《だんき》、嘘氣は出氣、呵※[#「口+煕」、U+21071、267-16]※[#「口+詩」、U+21017、267-16]三氣は科解にも全く此の字體無しとあり、全く字の體を以て義と爲さずとあるから、たゞ其の帶ぶる聲を取るので、呵氣は「かー」又は「ハー」といふ聲を帶びた氣、※[#「口+煕」、U+21071、268-1]氣は「きー」又は「ヒー」といふ聲、※[#「口+詩」、U+21017、268-1]は「しー」といふ聲を帶びた氣をいふのである。而して其の調子は、呵は商、吹呼《すゐこ》は羽、嘘は徴《ち》、※[#「口+煕」、U+21071、268-2]は宮、※[#「口+詩」、U+21017、268-2]は角であると傳へられて居る。此等の六氣を以て治病保身の法を説いて居のであるが、此の氣が「いき」の義であるのは疑ふまでも無い。凡そ此の條に擧げたるところは、氣の「いき」として解す可きものあることを言つたのである。
以上に擧げたる以外に、百姓怨氣無しといへる怨氣の如き、爭氣ある者は與に辯ずる勿れと云へる爭氣の如き、憤氣の如き、怒氣の如き、喜氣の如き、妬氣の如き人の感情として解す可きやうなのも有れば、老子が孔子を評して驕氣ありと云つた驕氣の如き、陳元龍《ちんげんりよう》は湖海の士、豪氣除かずと許※[#「さんずい+巳」、第3水準1-86-50]が評した豪氣の如き、老氣の如き、高氣の如き、福氣の如き、邦語の「やうす」といふが如くに解して當るやうなのも有り、村氣、工氣、匠氣、乳氣の如く、田舍くさい、職人くさい、乳くさいと解して恰當なるもある。氣の語の用ひかたは區分し綜合して説けば、幾樣にも分ち得て、中々際限が無い。併し氣の根本の義及び用語例の例擧や分類は此の位に止めて、人の氣分氣合の上にかゝる氣に就て語らう。
人には器と非器とがある。人の器と非器とを併せて、一の人が成立つのである。臟腑より腦髓骨骸筋肉血液神經髮膚爪牙等に至るまで、眼見る可く手觸る可くして、空間を填塞せるもの、即ち世の呼んで身となすところのものは、是器である。其の人の器の破壞せられざる存在は即ち其の人の存在である。又眼見る可からず、手觸る可からず、空間を填塞せずして存する名づけ難く捉へ難きものがある。世は漠然と之を呼んで心となすのであるが、是即ち非器である。非器の損傷せられざる存在は即ち其の人の存在である。此の器分と非器分とを併せて呼んで人といふのである。
眞實をいへば、器も非器も假の名である、身も心も便宜上の稱である。人といふものをXとすれば、身はXより、料簡、感思、命令等をなすものを除き去つたものを假に名づけて身といふのである。數式にすれば、
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X=人
X-(A+B+C+……………)=身=器
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といふに止まる。心はまた所謂身をば人から減じ去つたものをいふに過ぎぬ。之を數式にすれば、
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X-{X-(A+B+C+……………)}=心=非器
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といふに過ぎぬ。そして兩者を併せて、
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X=X-(A+B+C+……………)+X-{X-(A+B+C+……………)}
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と云ふに過ぎぬ。數の誤謬は無いが、表示式が長くなるばかりで、Xが何樣《どう》處理解決されたといふのでも無い。從つて心も身も、猶且Xを脱し得ぬ數式で表はされて居るに過ぎぬ。假令《たとひ》A、B、Cより進んで、D、E、F、G、と既知數を多く増し得たにしても同じ事である。併し便宜上から器と非器とを別ち、身と心とを分つて、指呼表示に便にして居るのが自然の勢なのである。
器分を離れて人は存在せぬ。非器分無しにも人は存在せぬ。否、器分を離れたり、非器分を離れたりして、人の存在するといふことは、詩境以外には、想像することさへ甚だ難いのである。基督教の靈魂や小乘佛教の我體は、器分と分離して後、猶審判を待つたり、六道に輪囘《りんゑ》したりして居ること、提燈から脱け出して蝋燭が猶光つて居るが如く、又ランプが壞れて終つて、心も油壺も[#「油壺も」は底本では「油壼も」]別々になつてから、猶光明が存して居るが如く、又電球が碎けて終つてから、猶光明が存するが如くである。それは實に玄妙でもあり、又|然樣《さう》いふ道理も存在して居る。が、それは圈外の玄談である。世人の間にも、死したる人に幽靈があり、生きて居る人に生靈《いきすだま》があると言はれて居る。それも實に然樣《さう》で、幽靈も無くは無い。生靈も有ることである。が、それも圈内の談にあらずである。有ると思つて居るものが實は無いものだと云ふ理を談ぜねば、無いと思つて居るものが實は有るものだといふことを示すことは難い。神の道を棄てて動物の道を眞とし、卓絶した智見を排して普通智識を以て一切を律せんとする多數本位の今日の世の中に在つては、身を離れて人の存するなどといふことを思ひ得るものも無い。心が無くて人といふものが成立つなどと思ふものの無いのは知れきつた事である。
器分は非器分を離れて存し得るであらうか。又非器分は器分を離れて存し得るであらうか。器分即ち非器分で、身即心ではあるまいか。非器即器で、心即身では有るまいか。古の人は或は身を外にして心あることを思ひ、或は心を外にして身あることを思ひ、身心を分離し得るやうに考へたものもある。其の思想の由つて來ることを尋ぬるに、蓋し人死して身猶存し、而して其の感思し料簡し命令する所以のものの存せざるに至れるを見たるより發したので有らう。又身少しも動變せずして、而して其の感思し料簡し命令する所以のものの活動するに似たる夢といふものを認むるより發したのでも有らう。又身の欲する所と心の欲する所と牴牾するが如き場合、即ち慾と道義心との相爭ふ場合などを省察したるより發したのでも有らう。併し死の場合には、身猶存して心の游離するのでは無い。死する時には身もまた破壞せられずに存して居るのでは無い。或は心臟鼓動の力盡き、若くは障害あるにより、或は腦血管の破るゝにより、或は不時の失血多量により、或は呼吸器障害、若くは缺損により、或は腦の血液供給を得ざるにより、或は體温の昂騰により、其の他種々の器分の破壞の生ずるにより、其の死を致すに足る破壞缺損の生ずると同時に死するのである。稀には非器分の大打撃を被るによりて死を致すのも有るが、而も其の死と同時に器分の或物が破壞缺損せらるゝは疑ふ可からざることである。
死の因、死の縁は種々無量であるが、器分の破壞缺損無くして死するといふことは無い。たゞ其の外の皮膚形骸の破壞缺損せられずして、身猶生けるが如くなるに、心鼓休み、肺鞴《はいはい》動かざるに至るを以て、神既に去るを見て、非器分と器分とを分離し得べきやうに考へたのであらう。而して稀に見るところの蘇生者の談話は非器分の游離を思はしめ、又他世界の存在をも思はしめるに與かつて力が有つたらう。但し蘇生者が多く他世界の談を爲すこと、たとへば智光の古談の如きは、即ち其の人猶眞に死せずして、不完全ながら腦作用を繼續し居たるを證するものであり、又微量ながら腦に向つて血液の供給されて居たことを語るものである。夢は心理及び生理の併合作用である。若くは生理より惹起さるゝ心理作用であるとして差支無い。身の欲するところと心の欲する所と牴牾する場合も、詳しく省察すれば碁の爭ひの如きもので、交替爭鬪である、同時爭鬪では無い、一室一主である、一室二主では無い。猶詳しく省察すれば輾轉して休まざる一の骰子《さい》の或は一を示し或は六を示して居るやうなもので、本是一個物である。最小時間に於ては二者相對して居ないのである。是の如く看來るに、身心は分つ可からざるが如くである。
併し吾が身を觀るに吾が所攝で無き如きものが有り、吾が所知で無き如き運動が行はれて居るのを覺える。肺臟の如き、心臟の如き、胃の如き、腸の如きものが、吾が命を得て後に運動して居るので無い事は明らかである。爪の如き、髮の如きものが、吾に屬して居るものでは有るが、我が料簡し、感思し、命令する所以のものとは甚だ遠き距離を有して居ることも明らかである。髮の如きは某甲《なにがし》既に死して後猶其の生長を續けるのである。此等の物は我の部分なるが如く、又外物なるが如く、庭前の松柏、路傍の石礫《せきれき》と同視することは出來ぬけれども、しかも亦我と相遠きを覺える。蓋し是の如きは亦古の人をして身心を分離して考へるに至らしめた一端で有らう。肺臟心臟の如きものが吾人に近きことは、髮や爪とは大に異なつて居る。併し吾人は吾人の肺臟や心臟が何の状を爲して居るかをも解剖學の圖畫、若くは模型、又は他人の實物を目にするより以外には知らぬのである。盲腸の如き、生活状態の變化したる今日の吾人には何の用をもなさずして、卻て病患を貽《のこ》すほかには作用無き物の體内に存在して居るのは、吾人が料簡し感思し命令する所以のものから言へば、摘出し驅除したくも覺ゆ可きものである。此は我の中の矛盾である。腸の無用の長さの如きも、吾人が爪を剪るが如く容易に短く爲し得るならば、或は之を短縮せんことを敢てするであらう。此も我の中の矛盾に近い。是の如くに我の中に我の所攝ならざるが如きものあり、又矛盾をさへ認むべきものがある位であるから、假に我を分つて二とし、身とし心とし、器とし非器とするに至るも無理は無い。是の如く看來るに、身心は分つ可きが如くである。
身心は分つ可きが如くである。たゞ仔細に校量するに、一分の器を減ずる時は一分の非器を減じ、三分の身を減ずる時は三分の心を減じ、全分の器を滅すれば全分の非器を滅するに當る。乃ち身心の終に分つ可からざるを思はずには居られぬ。兩臂を栽《き》り落し、兩脚を斷り去つても、生命の存する以上、某甲《なにがし》の心は缺くる無く存して居るやうである。併し臂脚の失はれたる上に、某甲の心の中から、臂脚の用たる把握歩行等の事に就ての心作用、即ち命令其他の權力は失はれて居るのである。譬へば一國の主の或郡縣を失ひて、其の國の小さくなつたやうなものである。又某甲若し眼を失つたと假定すれば、視界は滅し、鼓膜を破つたとすれば、聽界は亡び、※[#「鼾のへん+嗅のつくり」、第4水準2-94-73]神經の障害を得れば香《にほひ》の世界は滅する。こゝに若し人あつて、臂脚無く眼《まなこ》無く、鼓膜無く、※[#「鼾のへん+嗅のつくり」、第4水準2-94-73]神經無く、而して又生殖能力を除去されたとしても、生命の存續だけは或は保ち得るのである。併し其の人の心は、心の傳達の器、及び心の接受の器の大部分を失つて居るのであるから、假に身心を二つの異なつたものとしても、其の心の作用、及び作用を惹起さしむるの因を缺いて居て、畢竟普通人の心の二分の一、乃至三分の一、乃至四分の一しか力も無ければ質も無いことになる。若し極端に想像して頭蓋骨内の物のみで生存して居る人が有り得たとした時、扨其の人の心は何樣《どう》で有らう。自意識は猶存在するでも有らうが、外界を認むることも、外界に認めしむることも不可能になつては、有るも猶無きが如くであらう。記憶は心内のものの如くに普通の人は考へて居る。しかし記憶もまた或器分、即ち腦の某部分に鏤刻印染された如くになつて存して居るもので有ることは、負傷によつて腦を缺損した人の記憶を失することによつて明らかである。淫念をも心内のものの如く普通の人は考へて居る。併し淫念もまた或器分、即ち生殖系器の發達に伴なつて萌し來るものであり、造精器の摘出によつては殆ど亡滅するものである。フレノロジストの主張の如くに、腦の某部分が某才能某情感の根基若くは寓居であるや否やは猶未確定に屬すると雖も、要するに器分と非器分との間には脱し難き連鎖があり、器分が一を減ずれば非器分が一を減じ、器分が一を増せば非器分が一を増すことは爭ふ可からざる事である。勿論吾人の生存を便宜にする爲として、複雜靈妙なる應酬作用や代償作用が行はるゝものであるから、器分非器分の増減關係は必ずしも正比例的にのみは發現せぬ場合がある。併し大體に於て、假に器分非器分の二を立つれば、器分と非器分とは相應交和して居るものである。例へばこゝに一空瓶ありとするに、其の瓶内の空虚の立方積は、即ち其の瓶内に充てる空氣の立方積と同じきが如くである。二者即一、一者即二、身心と分ち、器分非器分と別つも、畢竟假の名までのことである。今猶饑に備ふる食積《くひだめ》をするエスキモー人乃至他の蠻人以外の人類の盲腸は年々に縮小し行くのである。裁ち去るを要せずして長い間には消滅するであらう。双生子をなすことが減じて、婦人の複乳は其の痕跡をすら稀に見るやうになつて居るでは無いか。吾人の膂力は原始時代には驚く可く大なるものであつたに疑無いが、文明の進歩と共に衰へて今の如くなつたので、稀に見る怪力の所有者は、發達の新現象では無くて、むしろ舊現象の殘存といふ可きものであらう。假に分ち名づけたる心が身に先だてば、身は心に隨つて後を追うて漸く一となり、身が左の方へ進めば、心も左の方へ伴なつて行き、心身一即二、二即一、の妙趣を不斷に繰返すのである。佛教渡來以後、邦人の身體は必らず其の思想と共に變じたのを疑はない。葷羶《くんせん》を食ふことを忌むに至つた後、邦人の思想は身體と共に變じたのを疑はない。現代の青年の思想が舊に依らぬのを驚くに先んじて、其の父母等は、古は牛肉丸といふ丸藥によつて稀に牛肉を味はひ、家猪《ぶた》、野猪《しし》、野獸を甚だ稀に且つ竊に食ひ、しやも、かしはの鍋屋さへ甚だ少かりしほど肉食をなすこと稀なりしに引替へて、魯文の安愚樂鍋《あぐらなべ》時代より漸く盛んに前代人の卑み嫌へる所謂二足四足を食うて、而して後に生み出した子である事を思はねばならぬ。身心は二即一である。身が既に異なつて來てゐるのであるから、思想が異つて來るも當然である。豈ひとり西洋思想の傳播の故のみならんやである。牽牛花《あさがほ》の色は土壤のアルカリ分酸分の多少によつて異つて來る。人の思想の傾向は、食物によつて體が變り、體が變ると同時に變つて來る。養は體を移すとは、古賢の説けるところであるが、體移れば思想の移らぬといふことは難い。佛陀は葷羶を禁じてゐる。葷を喫すれば惡魔其の脣を舐むるとまで説いてゐる。戒律《かいりつ》煩苛《はんか》、鐡鎖《てつさ》木枷《ぼくが》の粉々たるも、畢竟身心不二なるがゆゑに、身をして如法たらしむるは心をして如法ならしめ、身をして不如法ならしむる時は、心をして如法ならしむる能はざるを致すが爲である。形式と精神とを分離して考ふるは、形式を破卻するに好都合であるが、口に精を取り※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76]を舍き、内を尊びて外を遺るゝに藉りて、先づ律儀を壞るのは、大坂城の外濠を埋むるのである。明治以前の舊思想舊感情の外濠は既に埋められて居る。現代青年を如何に咎めても、眞田幸村や後藤基次は餘命幾干も無くなつて居り、いろ/\の立派な由緒ある古いものは高冢《かうちやう》となつて新時代に遺るであらう。餘談に渉つたが、心、身、器分、非器分の別は實に假の名である。
假の名ではあるが、東といひ西といふ名目のあるは便宜である。器分と非器分とを假に立てて置くも甚だ便宜である。扨既に器と非器とを分てば、器はひとり器なる能はず、非器はひとり非器なる能はず、或は器が非器を率ゐ、或は非器が器を將ゐ、或は器と非器と一にして分つ可からざるの状を爲し、或は器と非器と二にして相對するが如き状を爲し、或は器が非器を超越し、或は非器が器を超越し、其他千樣萬態の觀を生ずる。此の器と非器との交渉のところを氣と名づくるのである。其の氣の象を某の氣某々の氣といふのである。體に體格があり、性に性格があると假定すれば、體格と性格との交渉のところを氣といふのである。體格はもと假定である、體は時々刻々に變ずる。性格はまた本來假定である。性は時々分々秒々に變じ行くものである。器も刹那々々に變じ行き、非器も念々に變じ行き、※[#「囗<力」、U+361E、276-13]啼《ぎやてい》一聲地に落つるより、心鼓響を絶つて元に還るまで、遷り移り變り易つて止まざるが人である。此の人の未だ死せざるを氣存するとなし、此の氣の痕無きに至るを死となすのである。將に爲すあらんとするを生氣とし、爲す無からんとするを死氣とし、爲すあらんとして爲す能はず、爲す無からんとして未だ爲す無き能はざるを餘氣といふ。一氣存すれば氣の象無き能はず、氣の象あれば、善と惡と正と偏と吉と凶と純と駁と生と死と陰と陽と、種々般々の差別無き能はず。普通生理と普通心理との會、異常心理と異常生理との會、普通生理と異常心理との會、異常生理と普通心理との會、皆之を氣といふ。氣或は心を帥ゐ、心或は氣を帥ゐ、身或は氣を帥ゐ、氣或は身を帥ゐ、外物或は氣を帥ゐ、氣或は外物を帥ゐ、他氣或は氣を帥ゐ、氣或は他氣を帥ゐる。内に省ると、外に對すると、學を爲すと、事に從ふと、情を御すると、智を役すると、藝に遊ぶと、神に事ふると、道に殉ずると、惡に墮すると、人間一切の事象皆氣の攝するところである。此の氣をして漸く佳ならしむる、之を氣を錬るといふ、錬り錬つて復《また》錬るを須ひざるに至る、之を氣を化するといふのである。(關尹子に行氣煉氣化氣の説あるもこれには關せず)人の氣に就ての言はこれに止めて擱く。
人に器非器を假に別つが如く天地宇宙に器と非器とを別つことは奇に過ぎる。併し人も本器非器二即一である。或は器のみとも觀じ得、或は非器のみとも觀じ得る。唯物論も唯心論も、其の通處を既徹となし、其の塞處を未究となせば、皆成立ち得る。否、其の如き説を立せずとも本自即一である。それを假に分つて、身心の二、器非器の二にするのである。天地宇宙に其の心とか非器分とかいふものの存するを認めること、吾人の心より非器とかいふものを認むるが如くには、吾人に近證親覺が無い。併し基督教の神の思想は、天地宇宙を人格化して、そして所有《あらゆる》見る可く觸る可き所謂物質を身とし、神を心として居るに近い。基督教以外の思想でも、宇宙に不可知の大主宰者ありとする思想は、皆不知不識の間に、宇宙を器とし、而して非器のものあつて之を綜理統會するとなすもので、おのづからに吾人の思議の及ぶ限りの範圍を吾人の身の如くに取扱ひ、そして其の中心を冥想|盲模《まうぼ》して、之に主宰者造物主等の名を負はせて居るに近い。換言すれば宇宙全部を吾人其物を擴大したるが如くに取扱つて居るので、人の免る可からざる「人中心論」の最大發展を遂げたものである。正直な思索及び直覺の最大輪郭が是の如くなるを致すのは、人が爲ることだから不思議は無い。此の宇宙の主宰者、若くは宇宙の心というが如きものが有るか無いかは姑く論ぜずして、宇宙が是の如く生々活動して居るにつけて、宇宙を器分と非器分とに假に別てば、日月水陸等は器分で、一切の運行活動の由つて生ずる所以のものは非器分で、二者の交渉の存する間が此の宇宙の存續で、其の關係の破壞が此の宇宙の死滅である。そこで此の宇宙の存在生息する間は、又そこに氣といふべきものの存することを認めて、地に地の氣あり、天に天の氣あり、水に水の氣あり、草木に草木の氣あり、一切萬物に一切萬物の氣ありとする。北に北の氣あり、南に南の氣あり、高山に高山の氣あり、深谷に深谷の氣があるとする。時季は手も捉へ難く、眼も見難きものである。併し時季といふものの存して、而して運移流行する以上何物が之をして運移流行せしむるかは知らぬが、時季にも時季の氣ありとする。すべて運動し作用するものを、其の當體と本因とに分てば、其の當體と本因との相交渉する所を氣と名づけ、運動あり作用ある所は、氣有りとする。
氣と氣との親和、協應、交錯、背反、※[#「てへん+倍のつくり」、U+638A、278-15]搏《ばいはく》、相殺、相生《さうじやう》、忤逆《ごぎやく》、掩蔽等の種々の状、一氣の生、少、壯、老、衰、死等の種々の態、一日の人の氣、一日の時の氣、一節乃至一年、十年、百年、千年、萬年、萬々年の氣、一人の氣、一交友團の氣、一階級間の氣、一職業團の氣、一國の氣、一人種の氣、一世の氣、此等の或は短、或は長、或は小、或は大なる氣の種々状態を觀察し、批判し、導引し、廻轉し、洗滌し、鍛冶し、淨濾し、精錬し、而して其の微なるは一瞬の懷を快くし、一事の功を成し、一心の安を得るより、其の大なるは天下萬々年億兆の氣をして一團の嘉氣たらしむるに至る。之を氣の道といふのである。
[#改丁]

 此書は今を距る三十餘年前に於て、其前半は村上氏の需に應じ、其後半は伊東氏の請に因つて起草したものであつた。主意は當時の人※[#二の字点、1-2-22]の功を立て業を成さんと欲するあまりに、不如意のこと常に七八分なる世に在りて、徒らに自ら惱み苦みて、朗らかに爽やかなる能はざる多きを悲み、心の取りかた次第にて、然樣に陰慘なる思のみを持たずとも、陽舒の態を有して、のび/\と勢よく日を送り、樂しく生を遂げ得べきものをと、聊か筆墨を鼓して、苦を轉じて樂と爲し、勇健の意氣を以て懊惱焦燥の態度を拂拭せんことを勸めたまでゝあつた。爾るに微著にいくらかの手答があつて、小册の世の需むるところとなつたのは鉅大の數に上つた。其後村上氏は逝き、伊東氏は轉業して今に至つたが、猶より/\此書を得んと欲する人が絶えぬので、今復岩波氏の文庫に採入されて、再び新刊さるゝことになつた。三十餘年の長い歳月の間に、世の學藝は驚くべき進歩を爲し、人の思想も幾變轉した。されば新刊に臨みては、改正し増補すべき點ももとより多※[#二の字点、1-2-22]であるが、瓷壺既に成る、苦※[#「穴かんむり/(瓜+瓜)」、第3水準1-89-53]を如何ともする無きところも有るので、其儘にした。元來詩の類といふのでも無いが、又科學の書といふのでも無いから、舊態を存して新需に應じたのである。少しでも人に勇健の氣を振起さすることに於て此書が役立たば、初念今願、本より異なるところ無く、吾が滿足するところである。

                昭和十四年歳末  露伴學人識

底本:「努力論」岩波文庫、岩波書店
   1940(昭和15)年2月16日第1刷発行
   1982(昭和57)年11月10日第4刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本の「口+煕」に、U+21071をあてました。(Unihan Databaseのグリフは、「口+熙」です。)
入力:岡村和彦
校正:大沢たかお
2011年3月8日作成
2011年7月17日修正
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幸田露伴

知々夫紀行—— 幸田露伴

 八月六日、知々夫の郡へと心ざして立出ず。年月隅田の川のほとりに住めるものから、いつぞはこの川の出ずるところをも究《きわ》め、武蔵禰乃乎美禰と古《いにしえ》の人の詠《よ》みけんあたりの山々をも見んなど思いしことの数次《しばしば》なりしが、ある時は須田の堤の上、ある時は綾瀬の橋の央《なかば》より雲はるかに遠く眺めやりし彼《か》の秩父嶺の翠色《みどり》深きが中に、明日明後日はこの身の行き徘徊《たもとお》りて、この心の欲しきまま林谷に嘯《うそぶ》き傲《おご》るべしと思えば、楽しさに足もおのずから軽く挙るごとくおぼゆ。牛頭山前よりは共にと契《ちぎ》りたる寒月《かんげつ》子と打連れ立ちて、竹屋の渡りより浅草にかかる。午後二時というに上野を出《い》でて高崎におもむく汽車に便《たよ》りて熊谷まで行かんとするなれば、夏の日の真盛りの頃を歩むこととて、市中《まちなか》の塵埃の※[#「鈞のつくり」、第3水準1-14-75]《にお》い、馬《うま》車《くるま》の騒ぎあえるなど、見る眼あつげならざるはなし。とある家にて百万遍の念仏会を催し、爺嫗《じじばば》打交りて大なる珠数を繰りながら名号唱えたる、特に声さえ沸ゆるかと聞えたり。
 上野に着きて少時待つほどに二時となりて汽車は走り出でぬ。熱し熱しと人もいい我も喞《かこ》つ。鴻巣《こうのす》上尾《あげお》あたりは、暑気《あつさ》に倦《う》めるあまりの夢心地に過ぎて、熊谷という駅夫の声に驚き下りぬ。ここは荒川近き賑《にぎ》わえる町なり。明日は牛頭天王の祭りとて、大通りには山車小屋をしつらい、御神輿《おみこし》の御仮屋をもしつらいたり。同じく祭りのための設《もう》けとは知られながら、いと長き竿を鉾立に立てて、それを心にして四辺に棒を取り回し枠の如くにしたるを、白布もて総て包めるものありて、何とも悟り得ず。打見たるところ譬《たと》えば糸を絡う用にすなる※[#「竹かんむり/隻」、第3水準1-89-69]子《いとわく》というもののいと大なるを、竿に貫《ぬ》きて立てたるが如し。何ぞと問うに、四方幕というものぞという。心得がたき名なり。
 石原というところに至れば、左に折るる路ありて、そこに宝登山《ほどさん》道としるせる碑《いし》に対《むか》いあいて、秩父|三峰《みつみね》道とのしるべの碑立てり。径路《こみち》は擱《お》きていわず、東京より秩父に入るの大路は数条ありともいうべきか。一つは青梅線の鉄道によりて所沢に至り、それより飯能《はんのう》を過ぎ、白子より坂石に至るの路《みち》なり。これを我野通《あがのどお》りと称えて、高麗《こま》より秩父に入るの路とす。次には川越《かわごえ》より小川にかかり、安戸に至るの路なり。これを川越通りと称え、比企《ひき》より秩父に入るの路とす。中仙道熊谷より荒川に沿い寄居《よりい》を経て矢那瀬に至るの路を中仙道通りと呼び、この路と川越通りを昔時《むかし》は秩父へ入るの大路としたりと見ゆ。今は汽車の便《たより》ありて深谷《ふかや》より寄居に至る方、熊谷より寄居に至るよりもやや近ければ、深谷まで汽車にて行き越し、そこより馬車の便りを仮《か》りて寄居に至り、中仙道通りの路に合する路を人の取ることも少からずと聞く。同じ汽車にて本庄《ほんじょう》まで行き、それより児玉《こだま》町を経て秩父に入る一路は児玉郡よりするものにて、東京より行かんにははなはだしく迂《う》なるが如くなれども、馬車の接続など便よければこの路を取る人も少からず。上州の新町にて汽車を下り、藤岡より鬼石にかかり、渡良瀬《わたらせ》川を渡りて秩父に入るの一路もまた小径にあらざれど、東京よりせんにはあまりに迂遠《まわりどお》かるべし。我野、川越、熊谷、深谷、本庄、新町以上合せて六路の中、熊谷よりする路こそ大方《おおかた》は荒川に沿いたれば、我らが住家のほとりを流るる川の水上と思うにつけて興も多かるべけれと択び定め来しが、今この岐路《わかれじ》にしるべの碑のいと大きなるが立てられたるを見ては、あるが中にも正しき大路を取りたるかとおぼえて心嬉し。
 広瀬、大麻生、明戸などいえる村々が稲田桑圃の間を過ぎて行くうち、日はやや傾きて雨持つ雲のむずかしげに片曇りせる天《そら》のさま、そぞろに人をして暑さを厭《いと》う暇もなく心忙しく進ましむ。明戸を出はずるる頃、小さき松山の行く手にありて、それにかかれる坂路の線《いと》の如くに翠の影の中に入れるさま、何の事はなけれど繕《つくろ》わぬ趣ありておもしろく見えければ、寒月子はこれを筆に写す。おとう坂というところとかや。菅沼というにかかる頃、暑さ堪えがたければ、鍛冶する片手わざに菓子などならべて売れる家あるを見て立寄りて憩《いこ》う。湯をと乞うに、主人《あるじ》の妻、少時待ちたまえ、今沸かしてまいらすべしとて真黒なる鉄瓶に水を汲み入るれば、心長き事かなと呆《あき》れて打まもるに、そを火の上に懸るとひとしく、主人|吹革《ふいごう》もて烈《はげ》しく炭火を煽《あお》り、忽地にして熱き茶をすすめくれたる、時に取りておかしくもまた嬉しくもおぼえぬ。田中という村にて日暮れたれば、ここにただ一軒の旅舎《やど》島田屋というに宿る。間《あい》の宿《しゅく》とまでもいい難きところなれど、幸にして高からねど楼あり涼風を領すべく、美《うま》からねど酒あり微酔を買うべきに、まして膳の上には荒川の鮎《あゆ》を得たれば、小酌《しょうしゃく》に疲れを休めて快く眠る。夜半の頃おい神鳴り雨過ぎて枕に通う風も涼しきに、家居続ける東京ならねばこそと、半《なかば》は夢心地に旅のおかしさを味う。
 七日、朝いと夙《はや》く起き出でて、自ら戸を繰り外の方を見るに、天《そら》いと美わしく横雲のたなびける間に、なお昨夜の名残の電光《いなびかり》す。涼しき中にこそと、朝餉《あさげ》済ますやがて立出ず。路は荒川に沿えど磧《かわら》までは、あるは二、三町、あるいは四、五町を隔てたれば水の面を見ず。少しずつの上り下りはあれど、ほとほと平なる路を西へ西へと辿《たど》り、田中の原、黒田の原とて小松の生いたる広き原を過ぎ、小前田というに至る。路のほとりにやや大なる寺ありて、如何にやしけむ鐘楼はなく、山門に鐘を懸けたれば二人相見ておぼえず笑う。九時少し過ぐる頃寄居に入る。ここは人家も少からず、町の彼方《かなた》に秩父の山々近く見えて如何《いか》にも田舎びたれど、熊谷より大宮郷に至る道の中にて第一の賑わしきところなりとぞ。さればにや氷売る店など涼しげによろずを取りなして都めかしたるもあり。とある店に入り、氷に喉《のんど》の渇《かわき》を癒《いや》して、この氷いずくより来るぞと問えば、荒川にて作るなりという。隅田川の水としいえば黄ばみ濁りて清からぬものと思い馴《な》れたれど、水上にて水晶のようなる氷をさえ出すかと今更の如くに、源の汚れたる川も少く、生れだちより悪き人の鮮《すくな》かるべきを思う。ここの町よりただ荒川|一条《ひとすじ》を隔《へだ》てたる鉢形村といえるは、むかしの鉢形の城のありたるところにて、城は天正《てんしょう》の頃、北条氏政《ほうじょううじまさ》の弟|安房守《あわのかみ》氏邦の守りたるところなれば、このあたりはその頃より繁昌したりと見ゆ。
 寄居を出離れて行くこと少時にして、水の流るるとおぼしき音の耳に入れば、さては道と川と相近づきたるかと疑いつつ行くに、果して左の方に水の光り見えたり。問わずして荒川とは知るものから、昨日と今日とは見どころ異《かわ》れば同じ流れながら如何なるさまをかなせると、路より少し左に下る小径のあるにまかせて伝い行くに、たちまちにしてささやかなる家を得たり。家は数十丈の絶壁にいと危くも桟《かけ》づくりに装置《しつら》いて、旅客が欄に※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]《よ》り深きに臨みて賞覧を縦《ほしいまま》にせんを待つものの如し。こはおもしろしと走り寄りて見下せば、川は開きたる扇の二ツの親骨のように右より来りて折れて左に去り、我が立つところの真下の川原は、扇の蟹眼釘《かにめ》にも喩《たと》えつべし。ところの名を問えば象が鼻という。まことにその名|空《むな》しからで、流れの下にあたりて長々と川中へ突き出でたる巌のさま、彼の普賢菩薩《ふげんぼさつ》の乗りもののおもかげに似たるが、その上には美わしき赤松ばらばらと簇立《むらだ》ち生いて、中に聖天尊の宮居神さびて見えさせ給える、絵を見るごとくおもしろし。川は巌の此方《こなた》に碧《みどり》の淵をなし、しばらく澱《よど》みて遂に逝《ゆ》く。川を隔てて遥《はるか》彼方には石尊山白雲を帯びて聳《そび》え、眼の前には釜伏山の一[#(ト)]つづき屏風《びょうぶ》なして立つらなれり。折柄《おりから》川向の磧には、さしかけ小屋して二、三十人ばかりの男|打集《うちつど》い、浅瀬の流れを柵して塞き、大きなる簗《やな》をつくらんとてそれそれに働けるが、多くは赤はだかにて走り廻れる、見る眼いとおかし。ここに※[#「田+比」、第3水準1-86-44]奈耶迦天を祀《まつ》れるは地の名に因《ちな》みてしたるにやあらんなど思いつづくるにつけて、竹屋の渡しより待乳山《まつちやま》あたりのありさま眼に浮び、同じ川のほとりなり、同じ神の祠《ほこら》なれど、此処と彼処とのおもむきの違えば違うものよなど想いくらべて、そぞろに時を移せしが、寒月子の図も成りたれば、いざとて立ち出ず。
 末野を過ぐる頃より平地ようやく窄《せばま》り、左右の山々近く道に逼《せま》らんとす。やがて矢那瀬というに至れば、はや秩父の郡なり。川中にいと大なる岩の色|丹《あか》く見ゆるがあり。中凹みていささか水を湛《たた》う。土地《ところ》の人これを重忠《しげただ》の鬢水と名づけて、旱《ひでり》つづきたる時こを汲《く》み乾《ほ》せば必ず雨ふるよしにいい伝う。また二つ岩とて大なる岩の川中に横たわれるあり。字《あざ》滝の上というところにかかれる折しも、真昼近き日の光り烈《はげ》しく熱さ堪えがたければ、清水を尋ねて辛くも道の右の巌陰に石井を得たり。さし当りては鬢水よりもこれこそ嬉しけれと、汲みて喉《のんど》を潤おしつ、この井に名ありやと問えばなしという。名のなくてすみぬるも心にくし、ただやすらかに巌陰の清水と名づけばやなど戯れて過ぎ、やがて本野上に着く。
 おのずからなる石の文理《あや》の尉姥鶴亀なんどのように見ゆるよしにて名高き高砂石といえるは、荒川のここの村に添いて流るるあたりの岸にありと聞きたれば、昼餉《ひるげ》食《とう》べにとて立寄りたる家の老媼《おうな》をとらえて問い質《ただ》すに、この村今は赤痢《せきり》にかかるもの多ければ、年若く壮《さか》んなるものどもはそのために奔《はし》り廻りて暇なく、かつはまた高砂石見せまいらする導《しるべ》せんとて川中に下り立ち水に浸りなどせんは病を惹《ひ》くおそれもあれば、何人か敢《あえ》て案内しまいらせん、ましてその路に当りて仮の病院の建てられつれば、誰人も傍《かたえ》を過《よ》ぎらんをだに忌わしと思うべし、道しるべせん男得たまうべきたよりはなしとおぼせという。要なき時疫《えやみ》の恨めしけれど是非《ぜひ》なく、なおかにかくとその石のさまなど問うに、強て見るべきほどのものとも思われねば已《や》む。今日は市《いち》立つ日とて、秤《はかり》を腰に算盤《そろばん》を懐にしたる人々のそこここに行きかい、糸繭の売買《うりかい》に声かしましく罵《ののし》り叫《わめ》く。文化文政の頃に成りたる風土記稿にしるせる如く、今も昔の定めを更えで二七の日をば用いるなるべし。昼餉を終えたれど暑さ烈しければ、二時過ぐる頃ようやく立出ず。
 四方《よも》の山々いよいよ近づくを見るのみ、取り出でていうべき眺望《ながめ》あるところにも出会わねば、いささか心も倦《う》みて脚歩《あし》もたゆみ勝ちに辿り行くに、路の右手に大なる鳥居立ちて一条《ひとすじ》の路ほがらかに開けたるあり。里の嫗《おうな》に如何なる神ぞと問えば、宝登神社という。さては熊谷の石原にしるしの碑の立てりしもこの御神のためなるべし、ことさらにまいる人も多しとおぼゆるに、少しの路のまわりを厭《いと》いて見過ごさんもさすがなりと、大路を横に折れて、蝉の声々かしましき中を山の方へと進み入るに、少時して石の階《きざはし》数十級の上に宮居見えさせ玉う。色がらすを嵌《は》めたる「ぶりっき」の燈籠の、いと大きくものものしげなるが門にかけられたるなど、見る眼いたく、あらずもがなとおもわる。境内広く、社務所などもいかめしくは見えたれど、宮居を初めよろずのかかり、まだ古びねばにや神々しきところ無く、松杉の梢を洩りていささか吹く風のみをぞなつかしきものにはおぼえける。ここの御社の御前の狛犬《こまいぬ》は全く狼の相《すがた》をなせり。八幡《やわた》の鳩、春日《かすが》の鹿などの如く、狼をここの御社の御使いなりとすればなるべし。
 さてこれより金崎へ至らんとするに、来し路を元のところまで返りて行かんもおかしからねばとて、おおよその考えのみを心頼みに、人にさえ逢えば問いただして、おぼつかなくも山添いの小径の草深き中を歩むに、思いもかけぬ草叢《くさむら》より、けたたましき羽音させていと烈しく飛びたつものあり。何ぞと見るに雉子《きじ》の雌鳥《めんどり》なれば、あわれ狩する時ならばといいつつそのままやみしが、大路を去る幾何《いくばく》もあらぬところに雉子などの遊べるをもておもえば、土地《ところ》のさまも測り知るべきなり。
 かくてようやく大路に出でたる頃は、さまで道のりをあゆみしにあらねど、暑《あつさ》に息もあえぐばかり苦しくおぼえしかば、もの売る小家の眼に入りたるを幸とそこにやすむ。水湯茶のたぐいをのみ飲まんもあしかるべし、あつき日にはあつきものこそよかるべけれとて、寒月子くず湯を欲しとのぞめば、あるじの老媼《おうな》いなかうどの心|緩《ゆる》やかに、まことにあしき病なんど行わるる折なれば、くず湯召したまわんとはよろしき御心づきなり、湯の沸えたぎらばまいらせんほどに、しばし待ちたまえといいて、傍《かたえ》の棚をさぐりて小皿をとりいだし懐にして立出でしが、やがて帰り来れるを見れば白き砂糖をその皿に山と盛りて手にしたり。くず湯に入るべき白き砂糖のなかりければ、老の足のたどたどしくも母屋がり行きもどりせしとは問わでも知らるるに、ここらのさびしさ、人の優しさ目のあたり見ゆ。ただし今の世の風に吹かれたる若き人はこうもあらぬなるべし。
 かくてくず湯も成りければ、啜る啜るさまざまの物語する序《ついで》に、氷雨塚というもののこのあたりにあるべきはずなるが知らずやと問えば、そのいわれはよくも知らねど塚は我が家のすぐ横にあり、それその竹の一《ひ》[#(ト)]|簇《むら》しげれるが、尋ねたまうものなりと指さし示す。氷の雨塚とは太古《おおむかし》のいまだ開けざる頃の人の住家もしくは墓穴のたぐいを、むかし氷の雨降りたる時人々の隠れたりしところならんと後のものの思いしより呼びならわせし名にやあるべき、詳《くわし》くは考うべき由なし。大淵、小柱、金崎、皆野、久那、寺尾等秩父郡の村々には氷雨塚と称うるもの甚《はなは》だ多く、大野原には百八塚などいうものあり、また贄川《にえがわ》、日野あたりには棒神と唱えて雷槌《いかずち》を安置せるものありと聞きしまま、秩父へ来し次手《ついで》には、おおむかしのかたみの氷の雨塚というもののさまをも見おぼえおかんとおもいしまでなりしが、休めるところの鼻のさきにその塚ありと聞きては、心もはずみて興を増しつ、身を起してそこに行き見るに、塚は小高き丘をなして、丘の上には翠の葉かげ濃《こま》やかに竹美しく生い立ちたり。塚のやや円形《まるがた》に空虚《うつろ》にして畳二ひら三ひらを敷くべく、すべて平めなる石をつみかさねたるさま、たとえば今の人の煉瓦《れんが》を用いてなせるが如し。入口の上框《あがりかまち》ともいうべきところに、いと大なる石を横たえわたして崩れ潰《つい》えざらしめんとしたる如きは、むかしの人もなかなかに巧みありというべし。寒月子の図も成りければ、もとのところに帰り、この塚より土器の欠片《かけ》など出したる事を耳にせざりしやと問えば、その様《よう》なることも聞きたるおぼえあり、なお氷雨塚はここより少しばかり南へ行きたる処の道の東側なる商家のうしろに二ツほどありという。さらばそれも見んとて老媼《おうな》にわかれ立出で、それとおぼしき家にことわりいいて、突《つ》と裏の方に至り見るに、大さのやや異なるのみにて、ここのもそのさま前のと同じく、別に見るべきところもなし。ただここにはそれと知れたる外に、穴の口全く埋もれしままにて、いまだ掘発《ほりおこ》さざるがありて、そぞろに人の事を好む心を動かす。されど敢て乞うて掘るべくもあらねば、そのままに見すてて道を急ぎ、国神村というに至る。この村の名も、国神塚といえるがこのあたりにあるより称えそめしなるべし。
 今宵《こよい》は大宮に仮寝の夢を結ばんとおもえるに、路程《みちのり》はなお近からず、天《そら》は雨降らんとし、足は疲れたれば、すすむるを幸に金沢橋の袂《たもと》より車に乗る。流れの上へ上へとのぼるなれど、路あしからねば車も行きなずまず。とかくするうち夏の夕の空かわりやすく、雨雲|天《そら》をおおいしと見る程もなく、山風ざわざわと吹き下し来て草も木も鳴るとひとしく、雨ばらばらと落つるやがて車の幌もかけあえぬまに篠《しの》つく如くふり出しぬ。赤平川の鉄橋をわたる頃は、雷さえ加わりたればすさまじさいうばかりなく、おそるおそる行くての方を見るに、空は墨より黒くしていずくに山ありとも日ありとも見えわかず、天地《あめつち》一つに昏《くら》くなりて、ただ狂わしき雷、荒ぶる雨、怒れる風の声々の乱れては合い、合いてはまた乱れて、いずれがいずれともなく、ごうごうとして人の耳を驚かし魂をおびやかすが中に、折々雲裂け天《そら》破れて紫色《むらさき》の光まばゆく輝きわたる電魂《いなだま》の虚空に跳り閃く勢い、見る眼の睛《ひとみ》をも焼かんとす。ところは寂びたり、人里は遠し、雨の小止をまたんよすがもなければ、しとど降る中をひた走りに走らす。ようやく寺尾というところにいたりたる時、路のほとりに一つ家の見えければ、車ひく男駆け入りて、おのれらもいこい、我らをもいこわしむ。男らの面を見れば色もただならず、唇までも青みたり。牛馬に等しき事して世をわたるいやしきものながら、同じ人なればさすがにあわれに覚ゆ。我らのほかにも旅人三人ばかり憩い居けるが、口々にあらずもがなのおそろしき雨かなとつぶやき、この家の主が妻は雷をおそれて病める人のようにうちふしなやむ。
 されどとかくする中、さしもの雷雨もいささか勢弱りければ、夜に入らぬ中にとてまた車を駛《は》せ、秩父橋といえるをわたる。例の荒川にわたしたるなれば、その大なるはいうまでもなく、いといかめしき鉄の橋にて、打見たるところ東京なる吾妻《あずま》橋によく似かよいたる節あり。同じ人の作りたるなりというも、まことにさもあるべしとうけがわる。ほどなく大宮につきて、関根屋というに宿かれば、雨もまたようやく止みて、雲のたえだえに夕の山々黒々と眼近くあらわれたり。ここは秩父第一の町なれば、家数も少からず軒なみもあしからねど、夏ながら夜の賑《にぎ》わしからで、燈の光の多く見えず、物売る店々も門の戸を早く鎖《とざ》したるが多きなど、一つは強き雨の後なればにもあるべけれど、さすがに田舎びたりというべし。この日さのみ歩みしというにはあらねど、暑かりしこととていたく疲れたるに、腹さえいささか痛む心地《ここち》すれば、酒も得飲まで睡《ねむ》りにつく。
 八日、朝餉《あさげ》を終えて立出で、まず妙見尊の宮に詣ず。宮居は町の大通りを南へ行きて左手にあり。これぞというべきことはなけれど樹立《こだち》老いて広前もゆたかに、その名高きほどの尊さは見ゆ。中古《なかむかし》の頃この宮居のいと栄えさせたまいしより大宮郷というここの称えも出で来りしなるべく、古くは中村郷といいしとおぼしく、『和名抄』に見えたるそのとなえ今も大宮の内の小名に残れりという。この祠の祭の行わるるときは、御花圃とよぶところにて口々に歌など唱いながら、知る知らぬ男女ども、こなた行き、かなた行きして、会いつ別れつしつつ相戯れて遊びくらすを習いとすとかや。かかるならいは、よその国々も少なからず、むかしの「かがい」ということなどの名残にもやあるべき。磐城《いわき》の相馬《そうま》のは流山ぶしの歌にひびき渡りて、その地に至りしことなき人もよく知ったることなるが、しかも彼処といい此処といい、そのまつる所のものの共に妙見尊なるいとおかしく、相馬も将門《まさかど》にゆかりあり、秩父も将門にゆかりある地なるなど、いよいよ奇《くす》し。
 やがて立出でて南をむきて行くに、路にあたりていと大きなる山の頭を圧す如くに峙《そばだ》てるが見ゆ。問わでも武甲山《ぶこうさん》とは知らるるまで姿雄々しくすぐれて秀《ひい》でたり。横瀬、大宮、上影森、下影森、浦山、上名栗、下名栗の七村に跨《またが》れるといえる、まことにさもあるべし。この山のとなえをいつの頃よりか武甲と書きならわししより、終《つい》に国の名の武蔵の文字と通わせて、日本武尊《やまとたけるのみこと》東夷《あずまえびす》どもを平げたまいて後|甲冑《よろいかぶと》の類をこの山に埋めたまいしかは、国を武蔵と呼び山を武甲というなどと説くものあるに至れり。説のいつわりなるべきは誰しも知るところなれど、山の頂に日本武尊をいつきまつりありなんどするまま、なおあるいは然らんとおもう人もなきにあらず。されど文字も古くは武光とのみ書きて武甲とは書かねば、強言《しいごと》そのよりどころを失うというべし。さてまたひそかにおもうに、武光のとなえも甚だ故なきに似て、地理の書などにもその説を欠けり。けだし疑うらくはここらを領せし人の名などより、たけ光の庄、たけ光の山などとの称の起りたるならんか。いと古くより秩父の郡に拠《よ》りて栄えたる丹の党には、その初めてここに来りし丹治比武信、また初めてここを領せし武経などの如く、武の字を名につけたるもの多ければ、あるいは武光というものもありしかと思わる。ただし地の名より人の名の起れる例《ためし》は多けれど、人の名より地の名の起れる例はいと少ければ、武光は人の名ならんとの考えもいと力なしなど思いつつ、桑圃の中の一すじ路を行くに、露もまだ乾ぬ桑の葉の上吹く朝風いと涼しく、心地よきこというばかりなし。武光山より右にあたりて山々連なり立てるが中に、三峰《みつみね》は少しく低く黒みて見ゆ。それより奥の方、甲斐境《かいざかい》信濃境の高き嶺々重なり聳《そび》えて天《そら》の末をば限りたるは、雁坂十文字《かりさかじゅうもんじ》など名さえすさまじく呼ぶものなるべし。
 進み進みて下影森を過ぎ上影森村というに至るに、秩父二十八番の観音へ詣らんにはここより入るべしと、道のわかれに立札せるあり。二十八番の観音は、その境内にいと深くして奇しき窟あるを以て名高きところなれば、秩父へ来し甲斐《かい》には特にも詣らんかとおもいしところなり。いざとて左のかたの小き径に入る。枝路のことなれば闊《ひろ》からず平かならず、誰《た》が造りしともなく自然《おのず》と里人が踏みならせしものなるべく、草に埋もれ木の根に荒れて明らかならず、迷わんとすること数次《しばしば》なり。山沿いの木下蔭小暗きあたりを下ること少時にして、橋立川と呼ぶものなるべし、水音の涼しげに響くを聞く。それより右に打ち開けたるところを望みつつ、左の山の腰を繞りて岨道《そばみち》を上り行くに、形おかしき鼠色の巌の峙てるあり。おもしろきさまの巌よと心留まりて、ふりかえり見れば、すぐその傍《かたえ》の山の根に、格子しつらい鎖さし固め、猥《みだり》に人の入るを許さずと記したるあり。これこそ彼の岩窟《いわや》ならめと差し覗《のぞ》き見るに、底知れぬ穴一つ※[#「穴かんむり/目」、第3水準1-89-50]然《ようぜん》として暗く見ゆ。さてはいよいよこれなりけりと心勇みて、疾《と》く嚮導《しるべ》すべき人を得んと先ず観音堂を索むるに、見渡す限りそれかと覚しきものも見えねばいささか心惑う折から、寒月子は岨道を遥かに上り行きて、ここに堂あり堂ありと叫ぶ。嬉しやと己も走り上りて其処《そこ》に至れば、眼の前のありさま忽ち変りて、山の姿、樹立の態《さま》も凡《ただ》ならず面白く見ゆるが中に、小き家の棟二つ三つ現わる。名にのみ聞きし石竜山の観音を今ぞ拝み奉ると、先ず境内に入りて足を駐《と》めつ、打仰ぎて四辺《あたり》を見るに、高さはおよそ三、四百尺もあるべく亙りは二町あまりもあるべき、いと大きなる一[#(ト)]つづきの巌の屏風なして聳《そび》え立ちたるその真下に、馬頭尊の御堂の古びたるがいと小やかに物さびて見えたるさま、画としても人の肯うまじきまで珍らかにめでたければ、言語《ことば》を以ては如何にしてか見ぬものをして点頭《うなず》かしむることを得ん、まことにただ仙境の如しといわんのみ。巌といえば日光の華厳の滝のかかれる巌、白石川の上なる材木巌、帚川のほとりの天狗巌など、いずれ趣致《おもむき》なきはなけれど、ここのはそれらとは状《さま》異《かわ》りて、巌という巌にはあるが習いなる劈痕《さけめ》皺裂《ひびり》の殆《ほとん》どなくして、光るというにはあらざれど底におのずから潤《うるおい》を含みたる美しさ、たとえば他《よそ》のは老い枯びたる人の肌の如く、これは若く壮《さかん》なる人の面の如し。特に世の常の巌の色はただ一[#(ト)]色にしておかしからぬに、ここのは都《すべ》ての黒きが中に白くして赤き流れ斑の入りて彩色《いろどり》をなせる、いとおもしろし。憾《うら》むらくは橋立川のやや遠くして一望の中に水なきため、かほどの巌をして一[#(ト)]しおの栄《はえ》あらしむること能わず、惜みてもなお惜むべきなり。
 堂のこなた一段低きところの左側に、堂守る人の居るところならんと思しき家ありて、檐に響板《ばんぎ》懸り、それに禅教尼という文字見えたり。ここの別当橋立寺と予《かね》て聞けるはこれにやと思いつつ音ない驚かせば、三十路《みそぢ》あまりの女の髪は銀杏返《いちょうがえ》しというに結び、指には洋銀の戒指《ゆびわ》して、手頸《てくび》には風邪ひかぬ厭勝《まじない》というなる黒き草綿糸《もめんいと》の環《わ》かけたるが立出でたり。さすがに打収めたるところありて全くのただ人とも見えぬは、これぞ響板の面に見えたる人なるべし。奥の院の窟の案内頼みたき由をいい入るれば、少時待ち玉えとて茶を薦《すす》めなどしつ、やおら立上りたり。何するぞと見るに、やがて頸《くび》長き槌を手にして檐近く進み寄り、とうとうとうと彼の響板を打鳴らす。禽《とり》も啼《な》かざる山間《やまあい》の物静かなるが中なれば、その声谿に応え雲に響きて岩にも侵み入らんばかりなりしが、この音の知らせにそれと心得てなるべし、筒袖の単衣《ひとえ》着て藁草履《わらぞうり》穿《は》きたる農民の婦《おんな》とおぼしきが、鎌を手にせしまま那処《いずく》よりか知らず我らが前に現れ出でければ、そぞろに梁山泊《りょうざんぱく》の朱貴が酒亭も思い合わされて打笑まれぬ。
 婦は我らを一目見て直ちに鎌を捨て、蝋燭《ろうそく》、鍵などを主人《あるじ》の尼より受け取り、いざ来玉えと先立ちて行く。後に従いて先に見たる窟の口に到れば、女先ず鎖を開き燭《ひ》を点《とも》して、よく心し玉えなどいい捨てて入る。背をかがめ身を窄《せば》めでは入ること叶わざるまで口は狭きに、行くては日の光の洩るる隙もなく真黒にして、まことに人の世の声も風も通わざるべきありさま、吾他《われひと》が終《つい》に眠らん墓穴もかくやと思わるるにぞ、さすがに歩《あゆみ》もはかばかしくは進まず。されど今さら入らずして已《や》まん心もなければ、後れじものと従いて入るに、下ること二、三十歩にして窟の内やや広くなり、人々立ち行くことを得《う》。婦燭を執《と》りて窟壁《いわ》の其処此処《そこここ》を示し、これは蓮花の岩なり、これは無明の滝、乳房の岩なりなどと所以《いわれ》なき名を告ぐ。この窟上下四方すべて滑らかにして堅き岩なれば、これらの名は皆その凸《たか》く張り出でたるところを似つかわしきものに擬《よそ》えて、昔の法師らの呼びなせしものにて、窟の内に別に一々岩あるにはあらず。
 道二つに岐《わか》れて左の方に入れば、頻都廬《びんずる》、賽河原《さいのかわら》、地蔵尊、見る目、※[#「鼾のへん+嗅のつくり」、第4水準2-94-73]《か》ぐ鼻、三途川《さんずのかわ》の姥石《うばいし》、白髭明神、恵比須、三宝荒神、大黒天、弁才天、十五童子などいうものあり。およそ一町あまりにして途《みち》窮まりて後戻りし、一度|旧《もと》の処に至りてまた右に進めば、幅二尺ばかりなる梯子《はしご》あり。このあたり窟の内闊くしてかえって物すさまじ。梯の子十五、六ばかりを踏みて上れば、三十三天、夜摩天、兜率天《とそつてん》、※[#「りっしんべん+刀」、第3水準1-84-38]利天《とうりてん》などいうあり、天人石あり、弥勒仏《みろくぶつ》あり。また梯子を上りて五色の滝、大梵天、千手観音などいうを見る。難界が谷というは窟の中の淵ともいうべきものなるが、暗くしてその深さを知るに由なく、さし覗くだに好《よ》き心地せず。蓮花幔とて婦燭を岩の彼方にさしつくれば、火の光朧気に透きて見ゆるまで薄くなりて下れる岩あり。降り竜といえるは竜の首めきたる岩の、上より斜に張り出でたるなるが、燭を執りたる婦に従いて寒月子があたかもその岩の下を行くを後より見れば、さなきだに燭の光りのそこここに陰影《かげ》をつくれるが怪しく物怖ろしげに見ゆる中に、今や落ちかからんずる勢して、したたかなる大きさの岩の人の頭の上に臨めるさま、見るものの胆を冷さしむ。それよりまた梯子を上り、百万遍の念珠、五百羅漢、弘法大師の護摩壇、十六善神などいうを見、天の逆鉾《さかほこ》、八大観音などいうものあるあたりを経て、また梯子を上り、匍匐《はらば》うようにして狭き口より這い出ずれば、忽ち我眼我耳の初めてここに開けしか、この雲行く天《そら》、草|芳《かお》る地の新にここに成りしかを疑う心の中のすがすがしさ、更に比えんかたを知らず。
 古よりこの窟に入りて出ずることを窟禅定と呼びならわせる由なるが、さらばこの窟を出でたる時の心地をば窟禅定の禅悦ともいうべくやなどと、私《ひそか》に戯れながら堂の前に至る。この窟地理の書によるに昇降《のぼりくだり》およそ二町半ばかり、一度は禅定すること廃《すた》れしが、元禄年中三谷助太夫というものの探り試みしより以来《このかた》また行わるるに至りしという。窟のありさまを考うるに、あるいは闊くなりあるいは狭くなり、あるいは上りあるいは下り、極めて深き底知れぬ谷などのあるのみならず、岩のさま角だたず滑らかにして、すべて物の自然《おのずから》溶け去りし後の如くなれば、人の造りしものともおもわれず、七宝所成にして金胎両部の蓮華蔵海なりなどいう法師らが説はさておき、まことにおのずから成れる奇窟なるべく、東の出口と西の入口と相隔たること窟の外にてもおよそ一町ほどなれば、窟の中二町余りというも虚妄《いつわり》にあらじと肯わる。ただ窟の内のさまざまの名は皆強いて名づけたるにて、名に副うものは一もなし。
 窟禅定も仕はてたれば、本尊の御姿など乞い受けて、来し路ならぬ路を覚束《おぼつか》なくも辿ることやや久しく、不動尊の傍《かたえ》の清水に渇《かわ》きたる喉を潤《うるお》しなどして辛くも本道に出で、小野原を経て贄川に憩《いこ》う。荒川橋とて荒川に架《わた》せる鉄橋あり。岸高く水遠くして瀬をなし淵をなし流るる川のさまも凡《ただ》ならぬに、此方の岩より彼方の岩へかかれる吊橋の事なれば、塗りたる色の総べて青きもなかなかに見る眼|厭《いと》わしからず、瑞西《スイツル》あたりの景色の絵を目のあたり此処に見る心地す。贄川は後に山を負い前に川を控えたる寂びたる村なれど、家数もやや多くて、蚕《かいこ》の糸ひく車の音の路行く我らを送り迎えするなど、住まば住み心よかるべく思わるるところなり。昼食《ひるげ》しながらさまざまの事を問うに、去年《こぞ》の冬は近き山にて熊を獲《と》りたりと聞き、寒月子と顔見合わせて驚き、木曾路の贄川、ここの贄川、いずれ劣らぬ山里かな、思えば思い做《な》しにや景色まで似たるところありなどと語らう。
 贄川を立ち出でて猪の鼻を経、強石に到る。贄川より隧道《トンネル》を過ぐるまでの間、山ようやく窄り谷ようやく窮まりて、岨道の岩のさまいとおもしろく、原広く流れ緩きをもて名高き武蔵の国の中にもかかるところありしかと驚かる。されど隧道を過ぐれば趣き変りて、兀げたる山のみ現れ来るもおかし。上りつ下りつして強石を過ぎ、川のほとりにいたる。川のむかいは即ち三峰にて、強石は即ち多くの地図に大滝と見えたる村の小名なり。大滝というも贄川というも、水の流れ烈しきより呼び出せる名にて、仮名は違えど贄川は沸川ならんこと疑いなし。いよいよ雲採《くもとり》、白石、妙法の三峰のふもとに来にけりと思いつつ勇み進むに、十八、九間もあるべき橋の折れ曲りて此方より彼方にわたれるが、その幅わずか三尺ばかりにして、しかも処々腐ちたれば、脚の下の荒川の水の青み渡りて流るるを見るにつけ、さすがに胸つぶれて心|易《やす》からず、渡りわずらうばかりなり。むかしは独木橋《まるきばし》なりしといえばその怖ろしさいうばかりなかりしならん。
 ようやくにして渡り終れば大華表ありて、華表のあなたは幾百年も経たりとおぼゆる老樹の杉の、幾本となく蔭暗きまで茂り合いたり。これより神の御山なりと思う心に、日の光だに漏らぬ樹蔭の涼しささえ打添わりて、おのずから身も引きしまるようにおぼゆ。山は麓より巓まで、ひた上り五十二町にして、一町ごとに町数を勒せる標石あり。路はすべて杉の立樹の蔭につき、繞《めぐ》り※[#「螢」の「虫」に代えて「糸」、第3水準1-90-16]《めぐ》りて上りはすれど、下りということ更になし。三十九町目あたりに到れば、山|急《にわか》に開けて眼の下に今朝より歩み来しあたりを望む。日も暮るるに近き頃、辛くして頂に至りしが、雲霧|大《おおい》に起りて海の如くになり、鳥居にかかれる大なる額の三峰山という文字も朧気《おぼろげ》ならでは見えわかず、袖《そで》も袂《たもと》も打湿りて絞るばかりになりたり。急ぎて先ず社務所に至り宿仮らん由を乞えば、袴つけたる男我らを誘《いざな》いて楼上《にかい》に導き、幅一間余もある長々しき廊を勾《かぎ》に折れて、何番とかやいう畳十ひらも敷くべき一室《ひとま》に入らしめたり。
 あたりのさまを見るに我らが居れる一[#(ト)]棟は、むかし観音院といいし頃より参詣のものを宿らしめんため建てたると覚しく、あたかも廻廊というものを二階建にしたる如く、折りまがりたる一[#(ト)]つづきのいと大なる建物にて、室の数はおおよそ四十もあるべし。一つの堂を中にし、庭を隔てて対《むか》いの楼上の燈を見るに、折から霧濃く立迷いたれば、海に泊まれる船の燈を陸《くが》より遥に望むが如し。此処は水乏しくして南の方の澗《たに》に下る八町ならでは得る由なしと聞けるに、湯殿に入りて見れば浴槽《ゆぶね》の大さなど賑える市の宿屋も及ばざる程にて、心地好きこと思いのほかなり。参詣のものを除きここの人々のみにて百人に近しといえば、まことに然《さ》もあるべきことなるが、水をば今は新らしき装置《しかけ》もて絶ゆる間《ひま》なく汲み上ぐるという。
 夜の食を済ませて後、為すこともなければ携えたる地理の書を読みかえすに、『武甲山蔵王権現縁起』というものを挙げたるその中に、六十一代|朱雀《すざく》天皇|天慶《てんぎょう》七年秩父別当武光同其子七郎武綱|云々《うんぬん》という文見え、また天慶七年武光奏し奉りて勅を蒙《こうむ》り五条天皇(疑わし)少彦名命《すくなひこなのみこと》を蔵王権現の宮に合せ祀《まつ》りて云々と見えたり。さてはいよいよ武光という人もありけり、縁起などいうものは多く真《まこと》とし難きものなれど、偽り飾れる疑ありて信《まこと》とし難しものの端々にかえって信とすべきものの現るる習いなることは、譬えば鍍金《めっき》せるものの角々に真の質《きじ》の見《あらわ》るるが如しなどおもう折しも、按摩《あんま》取りの老いたるが入り来りたり。眼|盲《し》いたるに如何でかかる山の上にはあるならんと疑いつ、呼び入れて問いただすに、秩父に生れ秩父に老いたるものの事とて世はなれたる山の上を憂しともせず、口に糊するほどのことは此地《ここ》にのみいても叶えば、雲に宿かり霧に息つきて幾許《いくばく》もなき生命を生くという。おかしき男かなと思いてさまざまの事を問うに、極めて石を愛《め》ずる癖ある叟《おじ》にて、それよりそれと話の次《ついで》に、平賀源内の明和年中大滝村の奥の方なる中津川にて鉱《かね》を採《と》りし事なども語り出でたり。鳩渓の秩父にて山を開かんと企てしことは早くよりその伝説《いいつたえ》ありて、今もその跡といえるが一処ならず残れるよしなれば、ほとほと疑いなきことなるが、知る人は甚だ稀なるようなり。功利に急なりし人の事とて、あるいは秩父の奥なんどにも思いを疲らして手をつけ足を入れしならん。
 按摩済む頃、袴を着けたる男また出で来りて、神酒を戴かるべしとて十三、四なる男《お》の児《こ》に銚子|酒杯《さかずき》取り持たせ、腥羶《なまぐさ》はなけれど式立ちたる膳部を据えてもてなす。ここは古昔《むかし》より女のあることを許さねば、酌するものなどすべて男の児なるもなかなかにきびきびしくて好し。神酒をいただきつつ、酒食のたぐいを那処《いずく》より得るぞと問うに、酒は此山《ここ》にて醸《かも》せどその他は皆山の下より上すという。人馬の費《ついえ》も少きことにはあらざるべきに盛なることなり。この山|是《かく》の如く栄ゆるは、ここの御神の御使いの御狗というを四方の人々の参り来て乞い求むるによれり。御神は伊奘諾伊奘冊二柱の神にましませば申すもかしこし、御狗とは狼をさしていう。もとより御狗を乞い求むるとて符牘のたぐいを受くるには止まれど、それに此山《ここ》の御神の御使の奇しき力籠れりとして人々は恐れ尊むめり。狼の和訓おおかみといえるは大神の義にて、恐れ尊めるよりの称《となえ》なれば、おもうに我邦のむかし山里の民どもの甚《いた》く狼を怖れ尊める習慣《ならわし》の、漸くその故を失ないながら山深きここらにのみ今に存《のこ》れるにはあらずや。
 我邦には獅子虎の如きものなければ、獣には先ず狼熊を最も猛しとす。されば狼を恐れて大神とするも然るべきことにて、熊野は神野の義、神稲をくましねと訓《よ》むたぐいを思うに、熊をくまと訓むはあるいは神の義なるや知るべからず。(或曰、くまは韓語、或曰、くまは暈《くま》にて月の輪のくま也。)ただ狼という文字は悪《あし》きかたにのみ用いらるるならいにて、豺狼、虎狼、狼声、狼毒、狼狠、狼顧、中山狼、狼※[#「冫+(餮-殄)」、第4水準2-92-45]、狼貪、狼竄、狼藉、狼戻、狼狽、狼疾、狼煙など、めでたきは一つもなき唐山《もろこし》のためし、いとおかし。いわゆる御狗を出すところは此山のみならず、来し路の宝登神社、贄川の猪狩明神、薄村の両神神社なども皆人の乞うに任せて与うという。秩父は山重なり谷深ければ、むかしは必ず狼の多かりしなるべく、今もなお折ふしは見ゆというのみか、此山《ここ》にては月々十九日に飯生酒など本社より八町ほど隔たりたるところに供置きて与うといえば、出で来ぬには限らぬなるべし、おそろしき事かななど寒月子と窃《ひそ》かに語り合いつつ、好きほどに酒杯《さかずき》を返し納めて眠りに就くに、今宵は蚊もなければ蚊屋も吊《つ》らで、しかも涼しきに過ぐれば夜被《よぎ》引被ぎて臥《ふ》す。室は紙障子引きたてしのみにて雨戸ひくということもせず戸の後鎖《しりざし》することもせざる、さすがに御神の御稜威《みいづ》ありがたしと心に浸みて嬉しくおぼえ、胸の海浪おだやかに夢の湊に入る。
 九日、朝四時というに起き出でて手あらい口そそぎ、高き杉の樹梢《こずえ》などは見えわかぬほど霧深き暁の冷やかなるが中を歩みて、寒月子ともども本社に至り階《きざはし》を上りて片隅に扣《ひか》ゆ。朝々の定まれる業なるべし、神主|禰宜《ねぎ》ら十人ばかり皆|厳《おごそ》かに装束《しょうぞく》引きつくろいて祝詞《のりと》をささぐ。宮柱太しく立てる神殿いと広く潔《きよ》らなるに、此方《こなた》より彼方《かなた》へ二行《ふたつら》に点《とも》しつらねたる御燈明《みあかし》の奥深く見えたる、祝詞の声のほがらかに澄みて聞えたる、胆にこたえ身に浸《し》みて有りがたく覚えぬ。やがて退《まか》り立ちて、ここの御社の階《はし》の下の狛犬も狼の形をなせるを見、酒倉の小さからぬを見などして例のところに帰り、朝食《あさげ》をすます。
 これよりなお荒川に沿いて上り、雁坂《かりさか》峠を越えて甲斐《かい》の笛吹《ふえふき》川の水上に出で、川と共に下りて甲斐に入り、甲斐路を帰らんと予《かね》ては心の底に思い居けるが、ここにて問い糺《ただ》せば、甲斐の川浦という村まで八里八町人里もなく、草高くして路もたえだえなりとの事に望を失ない、引返さんと心をきわむ。日本武尊の常陸《ひたち》より甲斐の酒折に至りたまいし時は、いずれの路を取り玉いしやらん。常陸より甲斐に至らんに武蔵《むさし》よりせんには、荒川に沿いて上ると玉川に沿いて上るとの二路あり。三峰、武光、八日見山を首とし、秩父には尊の通り玉いし由のいい伝え処々に存《のこ》れるが、玉川の水上即ち今の甲斐路にも同じようの伝説《いいつたえ》なきにあらず。また尊の酒折より武蔵上野を経て信濃《しなの》に至りたまいし時は、いずくに出で玉いしならん。酒折より笛吹川に沿うて上りたまいしならんには必ず秩父を経たまいしなるべし。雁坂の路は後北条氏頃には往来絶えざりしところにて、秩父と甲斐の武田氏との関係浅からざりしに考うるも、甚《はなは》だ行き通いし難からざりし路なりしこと推測《おしはか》らる。家を出ずる時は甲斐に越えんと思いしものを口惜《くちおし》とはおもいながら、尊の雄々しくましませしには及ぶべくもあらねば、雁坂を過ぎんことは思い断えつ、さればとて大日向の太陽寺へ廻らん心も起さず、ひた走りに走り下りて大宮に午餉《ひるげ》す。ふたたび郷平《ごうへい》橋を渡りつつ、赤平川を郷平川ともいうは、赤平の文字もと吾平と書きたるを音もて読みしより、訛《なま》りて郷平となりたるなりという昔の人の考えを宜《うべ》ない、国神野上も走りに走り越し、先には心づかざりし道の辺に青石の大なる板碑立てるを見出しなどしつ、矢那瀬寄居もまた走り過ぎ、暗くなりて小前田に泊りたり。
 十日、宿を立出でて長善寺の傍《かたえ》より左へ横折れ、観音堂のほとりを過ぎ、深谷《ふかや》へと心ざす。幸に馬車の深谷へ行くものありければ、武蔵野というところよりそれに乗りて松原を走る。いと広き原にて、行けども行けども尽くることなし。名を問えば櫛挽の原という。夕日さす景色も淋し松たてる岡部の里と、為相《ためすけ》の詠めるあたりもこの原つづきなり。よっておもうに、岡部の里をよめる歌には松をよめるが多きようなり。深谷に着きて汽車に打乗り、鴻巣《こうのす》にいたりて汽車を棄て、人力車《くるま》を走らせて西吉見の百穴《あな》に人間の古《むかし》をしのび、また引返して汽車に乗り、日なお高きに東京へ着き、我家のほとりに帰りつけば、秩父より流るる隅田川の水笑ましげに我が影を涵《ひた》せり。

底本:「山の旅 明治・大正篇」岩波文庫、岩波書店
   2003(平成15)年9月17日第1刷発行
   2004(平成16)年2月14日第3刷発行
底本の親本:「太陽」博文館
   1899(明治32)年2月
初出:「太陽」博文館
   1899(明治32)年2月
※表題は底本では、「知々夫《ちちぶ》紀行」となっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年2月23日作成
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幸田露伴

淡島寒月氏—— 幸田露伴

 寒月氏は今年七十歳を以て二月廿三日に永逝した。本間久雄氏から、予の知るところの寒月氏を傳へて呉れと依頼を受けたので、ほんとにたゞ予の知れる限りの寒月氏――予の知らぬ他の方面の寒月氏も定めし多いだらうが、それに就ての臆測や聞取りなぞを除いて――を有りのまゝに思出づるまゝに記す。人の事をしるすに、當推量《あてずゐりやう》や嘘を交《ま》ぜて、よい加減に捏上《こねあ》げるのは、予の好かぬことである。だから以下にしるすことは、予自身の目賭した事か、さもなければ予が氏より直接に聞いたことである。
 氏の極若い時は無論予は知らぬ。然し氏から聞いたところでは、氏は極若い時は當時の所謂文明開化の風の崇拜者で、今で云へば大《だい》のハイカラであつたのだ。何でも西洋風の事が好きであつたとの事だつた。氏の父の椿岳氏《ちんがくし》がまだ西洋樂器が碌に舶來せぬ頃、洋樂の曲を彈奏する日本人などの全然無かつた時に於て、ピアノだつたかオルガンだつたか何でも西洋音樂を殆んどイの一番に横濱で買込み、それから又西洋風の覗き眼鏡を買つて、淺草公園で人に觀せたことが有つたといふ事實などに思合せて、如何にも文明黨だつたらうとも思はれる。
 然し予が氏を知つた時分は、氏は既に日本趣味の人であつた。今でこそ燕石十種は刊本にもあるが、其頃は寫本のみであつたし、大册六十册の完本は非常に珍稀であつた。それで氏はそれを圖書館で毎日毎日氣長に樂み/\影寫してゐられた。毎日借覽する本が定まつてゐるので、圖書館の出納係から云へば、まことに手數のかゝらぬ好い閲覽人で、いつとなく燕石十種先生といふ綽名をつけられたが、予輩の如き卒讀亂讀者流の出納係に手數をかけること夥しい厄介ものとは違つて、館の人とも自然に懇《ねんごろ》にしあつてゐられた。
 繪は椿岳氏から學ばれたのか何樣か知らない。が、後に至つて自然と何處か椿岳氏と血脈|相牽《あひひ》くところの畫を作られたのに比して、早い頃のものは畫は眞面目な、手際のきれいな方のものであつた。
 讀書はヘチ堅いものの方へは向はれ無かつたが、美術、文學、隨筆、雜書方面へは中※[#二の字点、1-2-22]廣く渉られ、文學は徳川期、美術は奈良あたりまで、特《こと》に美術の方は書籍研究のみで無く、實物研究にも年月を過されたから、其の鑑識眼は實技上の智識が内部から支持するのと相伴つて、直覺的にばかりで無く、比較的にばかりで無く、精髓から出發して看到するところの中※[#二の字点、1-2-22]手強いものが有つた。世間慾が盛んで、書畫骨董でも取扱つた日には、學問も文字も相當にあり、愛嬌も有り聰明怜悧の人であつたから、慥に巨萬の富を獲るに足るのであつたが、それでゐて其樣な事で利を得る人を冷眼に見るやうな傾が有つて、そんな事を敢てしなかつたところは、一ツは生活難が無かつた爲でもあらうが、氏のおもしろい氣風のところであつて、傲岸の氣味の無いでも無かつた依田學海氏などの氏を打寛いだ好い友人とした所以であつた。文學に於ても矢張り其氣味があつて、根深く手を染めてゐれば、多數で無いにせよ、必ずや一部二部は此人で無ければ書けないといふやうなものを留めたのに相違無いのに、西鶴ばりの「百美人」だのなんだのといふのを一寸書いた位で終つて仕舞つたのは、それも却つて其一生が幸福で有つた證據で芽出度には相違無いが、少し殘りをしい氣がする。俳諧なぞも芭蕉以後のイヤにショボたれたやうなのは嫌ひで、宗因風の所謂檀林がゝつたのを、我流でホンのよみすてに吟出するに止まつたから、永機なぞと知合つたにもかゝはらず、俳諧もおもちやにするに過ぎなかつた。エラがつて、おれの俳諧は眞劍だなぞと云ひながら、好い句も作れぬばかりで無く、審美眼さへまだ碌に開いてゐないやうな人※[#二の字点、1-2-22]とはまるで行き方が違つてゐて、勝手に遊んでゐたといふ風なので、句も

     行水は其日々々の湯くわん哉

といふやうなのが多い。寫實の句になると猶更抛り出したやうなのが好きで、

    見おろすや音羽の瀧に三人ならぶ

は何樣だい、なぞと自ら笑つてゐるといふ調子であつた。かつて聯句を試みたことが有つたが、すべて其調子だから、何も彼も構ふものでは無いので、其の自由自在で、おもしろいことと云つたら無かつた。其代り所謂宗匠に視せると、宗匠は苦《にが》い澁い顏をするもので、其の又宗匠のイヤな顏をするのを面白がつたものであつた。
 禪にも或時代には參したのであるが、參禪などしない中から寒月流の一家の悟りを開いてゐるのだから、そして又恐ろしい禪師に出會するやうな機縁も無かつたのであるから、傍《はた》から觀ると禪師の方は立派な師家であらうが、氏の方が中※[#二の字点、1-2-22]洒落てゐる。本所の五百羅漢寺で或時問答をしたのを、丁度誘引されて傍觀した事があるが、思ひ出しても涙がこぼれるほどおもしろかつた。禪師が侍者を具して威張り込んで椅子にかけてゐると、僧俗が交《かは》る/″\出て何か云ふ、應酬宜敷あるといふ次第だ。やがて氏が出て、何をいふかとおもふと、如何なるか是れらいうん、と何か分らない方角を指でさして問うた。予には何だか分らなかつた。「らいうん」なんて何の事だか誰にも分らなかつたらう。すると禪師は、先刻既に説了す、と答へた。流石に澄ましたものだ。氏はそこで工合よく禮を作《な》して而して去つたのである。其場はそれで濟んで仕舞つたのであるが、自分にも「らいうん」といふのが何樣も、トツケも無くて分らなかつた。何樣も禪録にも「らいうん」といふのは思當らないので、後で、あの「らいうん」といふのは何だね、と聞くと、らいうんは來る雲さ、雲がブラ/\と來る其意は何樣だと問うてやつたのさ、と云ふので、予は堪《たま》らなくなつて笑ひ出すと、氏も一緒になつて面白がつて笑つてゐるのであつた。後年基督教の外人宣教師が小梅あたりに來て住んでゐたので、氏も其教を聽いたから、宣教師の妻が氏の家に訪ふに及んだ。ところが來て見ると、室中一ぱいに色※[#二の字点、1-2-22]な物がゴテゴテ有る、中にも古い佛像などが二ツや三ツで無く飾つてあつたので、外國婦人の事だから眼を瞠《みは》つて驚いた。氏は其樣子を見て、其等の偶像を指さしながら、“All is my toys.”と云つたので、其日だつたか其次の日だつたか、其談を聞いて、予は「らいうん」を思ひ出して、おもしろいと思つた。
 人類學を研究するなぞといふ然樣いふ肩の張つた譯では無かつたらしいが、原人土器採集や比較などにも興味を有して、數※[#二の字点、1-2-22]近在へ出掛けられたが、予は土器いぢりは好まなかつたから餘り知らぬ。然し一日、土器破片を氏が模造してゐるのを見て、實に其の好事に驚いた。何千年前の土器の破片を模造して、そして樂しんで居る人が、他に何所に有らう。すべて此樣な調子で自ら娯《たのし》んでゐたのが、氏の面目で有つた。
 氏の一生を通じて、氏は餘り有るの聰明を有してゐながら、それを濫用せず、おとなしく身を保つて、そして人の事にも餘り立入らぬ代りに、人にも厄介を掛けず人をも煩はさず、來れば拒まず、去れば追はずといふ調子で、至極穩やかに、名利を求めず、たゞ趣味に生きて、樂しく長命した人で有つた。晩年の氏は、予が貧困多忙でおちついて遊ぶ暇が少くなつたために不知不識訪問して閑談を樂むの機會が乏しくなり、又住所も遠ざかつたので、傳聞に其無事なのを知つて居た位に過ぎなかつたから、よくは知らぬが、矢張り例に依つて例の如くおとなしく面白く世を送つてゐられた事とおもふ。中年頃の氏が藏書に富んで、そして其を予輩等に貸與することを悋まず、無邪氣にして趣味ある談話を交換することを厭はれ無かつたことは、今猶追懷やまざることである。
                          (大正十五年四月)

底本:「露伴全集第三十卷」岩波書店
   1954(昭和29)年7月16日初版発行
   1979(昭和54)年7月16日2刷
初出:「早稻田文学」
   1926(大正15)年4月号
入力:土倉明彦
校正:小林繁雄
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幸田露伴

淡島寒月のこと—— 幸田露伴

 吾が友といつては少し不遜に當るかも知れないが、先づ友達といふことにして、淡島寒月といふ人は實に稀有な人であつた。やゝもすれば畸人の稱を與へたがる者もあるが、畸人でも何でもない、むしろ常識の圓滿に驚くばかり發達した人で、そして徹底的に世俗の眞實が何樣なものであるかといふことを知盡した人であつた。しかも多くの人は苦勞をしたり困難に出會つたり、痛い思や辛い目を見たりしてから、はじめて浮世の鹽辛さを悟るのであるが、別に人生の磨※[#「龍/石」、第3水準1-89-17]に逢つたといふこともないらしい生活を經て來て、夙く然樣いふ境地に到り得てゐたのであつたのは、裏面の消息はもとより知らぬが、蓋し天稟の聰明さが然らしめたのであらう。
 それで何人に對しても極めて平等に、また温和に、支那流にいつたら、いはゆる一團の和氣を以て人に接した人であつた。かりそめにも人を強ひたり人を壓したりするやうなことはその氣味さへ見せぬ人であつた。勿論自分も人に干渉されることや、また強ひられるやうなことは甚だ好まなかつた。どこまでも他を一個の人として存在させ、自分も一個の人として立ち、そして同じ日月の下にこの生を了せんとする、といふ調子をもつて終始してゐた。で、交際も餘り深入りすること無しに淡※[#二の字点、1-2-22]と淺い川の水が清く流るゝやうに濟ませて行くといふ人であつた。そのあつさりした風格は或種類の人には冷淡だなど評されもしたが、よし冷淡であつたにしても、それはたゞ相互の自由を尊重するところから出たものであつた。天成の自由人であつたのであり、且善良であつたのであり、そして自分は自分の趣味を自分の生命としてゐたのであつた。人に迷惑を掛けないで、自分でおとなしく遊んでゐるのに越したことは無い、といふのがその欺かざる信向であつた。
 ところでそのおとなしく遊んでゐるのが、泥繪具で汚らしい拙いやうな畫を寫實にも寫意にも筆法にも何にも拘らはずに描いたり、先史時代の土器のやうなものを造つたり、古風な家具を※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76]樸な方法でこしらへたり、狹いところへ自然生の雜木に篠をあしらつて、田舍の野原の端か、塚原の末のやうな庭を作つたり、筆墨に親しんで日を送ることの多いにもかゝはらず甘泉宮や長樂未央の瓦でも何でも無い丸瓦の裏を硯にして使つてゐたり、室内の造作を薪のやうなもので手ごしらへに歪みなりに埒明けたりして、それで面白がつてゐたので、普通の人は畸人だと噂したものなのだ。しかしその異樣なる物の中に、人をして面白いと思はせることも勿論あつたのである。
 何でも彼でも自分でして見たのであるが、「疊ばかりは別に面白いわけには行かなかつた」と或時語られたのを聽いたことがあつた。して見ると疊までも手製を試みたのかと驚かされた。手染め澁染の衣は、これは慥に畸人の大槻如電と相客になつた時、流石の如電先生もその澁臭いのに悲鳴を擧げさせられたといふ。
 君は何でもない人が何でもない談をするのを聽いてゐても、時※[#二の字点、1-2-22]、おもしろい、といふのが癖のやうなものだつた。内田不知庵はその「おもしろい」について、何か不知庵流の説を出したが、それは今忘れた。たゞし君は不思議な才能を有してゐた。自分と共に景色が好いでも何でもない東京近郊を遊歩してゐると、一寸スケッチにかゝることなどが有つた。自分は、何だ、つまらない、と思ふ。ところが君が注意したところは、たとひそこが杜といふほどでも無い痩樹が五六本生えて、田舍細工のつまらぬ小祠があるに過ぎぬといふやうな平※[#二の字点、1-2-22]凡※[#二の字点、1-2-22]の有觸れたものでも、成程、斯樣看れば面白く無くもない、と思はれるのである。農村の老幼の風俗などでも、自分は何の氣もつかず看過《みすご》して終ふところを、おもしろいといはれて氣がついて看ると、成程一寸おもしろい、と思はれることが度※[#二の字点、1-2-22]有つた。
 淺草の年の市や、奧山の見せ物小屋の前などを通つて、群集の中からおもしろいものを見出して、或時君はみづからつか/\と近寄つて、その人物に對談などはじめる。何だらうと思つて、後で糺すと、君あの顏つきや音の出かたなどに氣がつかなかつたかい、隨分おもしろかつたぢや無いか、といはれて、ハヽアと心づいたことも幾度かあつた。
 髮の禿切《かぶつきり》のことを「かぶつちろ」といふ田舍言葉などは、かぶつきりのアイヌの繪看板の前で、それを見てゐた田舍者と君とが對談してゐたところを聽いてから、いまだに可笑しくて記憶してゐる。このやうに何でもないところや何でもない人から、何かおもしろいものを抽出すのは、實に驚くべき君の能力であつた。
 で、君と遊歩すると、面白くも何ともないところを通つても、大なり小なり何か興味を覺えるところがあつた。君は天成の福人で、造化の音樂を樂しく聽く聽慧を有した人であつた。君の大體の輪廓は、嘗つて一文を草してこれを描いてゐるつもりであるから今は省く。
                          (昭和十三年六月)

底本:「露伴全集第三十卷」岩波書店
   1954(昭和29)年7月16日初版発行
   1979(昭和54)年7月16日2刷
初出:「東京日日新聞」
   1938(昭和13)年6月4日号、5日号
入力:土倉明彦
校正:小林繁雄
2007年8月15日作成
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幸田露伴

太郎坊——- 幸田露伴

 見るさえまばゆかった雲の峰《みね》は風に吹《ふ》き崩《くず》されて夕方の空が青みわたると、真夏とはいいながらお日様の傾《かたむ》くに連れてさすがに凌《しの》ぎよくなる。やがて五日|頃《ごろ》の月は葉桜《はざくら》の繁《しげ》みから薄《うす》く光って見える、その下を蝙蝠《こうもり》が得《え》たり顔にひらひらとかなたこなたへ飛んでいる。
 主人《あるじ》は甲斐甲斐《かいがい》しくはだし尻端折《しりはしょり》で庭に下り立って、蝉《せみ》も雀《すずめ》も濡《ぬ》れよとばかりに打水をしている。丈夫《じょうぶ》づくりの薄禿《うすっぱげ》の男ではあるが、その余念《よねん》のない顔付はおだやかな波を額《ひたい》に湛《たた》えて、今は充分《じゅうぶん》世故《せこ》に長《た》けた身のもはや何事にも軽々《かろがろ》しくは動かされぬというようなありさまを見せている。
 細君は焜炉《しちりん》を煽《あお》いだり、庖丁《ほうちょう》の音をさせたり、忙《いそ》がしげに台所をゴトツカせている。主人が跣足《はだし》になって働いているというのだから細君が奥様然《おくさまぜん》と済《すま》してはおられぬはずで、こういう家の主人《あるじ》というものは、俗にいう罰《ばち》も利生《りしょう》もある人であるによって、人の妻たるだけの任務は厳格に果すように馴《な》らされているのらしい。
 下女は下女で碓《うす》のような尻を振立《ふりた》てて縁側《えんがわ》を雑巾《ぞうきん》がけしている。
 まず賤《いや》しからず貴《とうと》からず暮《く》らす家の夏の夕暮れの状態としては、生き生きとして活気のある、よい家庭である。
 主人は打水を了《お》えて後満足げに庭の面を見わたしたが、やがて足を洗って下駄《げた》をはくかとおもうとすぐに下女を呼《よ》んで、手拭《てぬぐい》、石鹸《シャボン》、湯銭等を取り来らしめて湯へいってしまった。返って来ればチャンと膳立《ぜんだ》てが出来ているというのが、毎日毎日版に摺《す》ったように定《き》まっている寸法と見える。
 やがて主人はまくり手《で》をしながら茹蛸《ゆでだこ》のようになって帰って来た。縁に花蓙《はなござ》が敷《し》いてある、提煙草盆《さげたばこぼん》が出ている。ゆったりと坐《すわ》って烟草《たばこ》を二三服ふかしているうちに、黒塗《くろぬり》の膳は主人の前に据《す》えられた。水色の天具帖《てんぐじょう》で張られた籠洋燈《かごランプ》は坐敷《ざしき》の中に置かれている。ほどよい位置に吊《つる》された岐阜提灯《ぎふぢょうちん》は涼《すず》しげな光りを放っている。
 庭は一隅《ひとすみ》の梧桐《あおぎり》の繁みから次第に暮れて来て、ひょろ松《まつ》檜葉《ひば》などに滴《したた》る水珠《みずたま》は夕立の後かと見紛《みまご》うばかりで、その濡色《ぬれいろ》に夕月の光の薄く映ずるのは何とも云《い》えぬすがすがしさを添《そ》えている。主人は庭を渡《わた》る微風《そよかぜ》に袂《たもと》を吹かせながら、おのれの労働《ほねおり》が為《つく》り出した快い結果を極めて満足しながら味わっている。
 ところへ細君は小形の出雲焼《いずもやき》の燗徳利《かんどくり》を持って来た。主人に対《むか》って坐って、一つ酌《しゃく》をしながら微笑《えみ》を浮《うか》べて、
「さぞお疲労《くたびれ》でしたろう。」
と云ったその言葉は極めて簡単であったが、打水の涼しげな庭の景色《けしき》を見て感謝の意を含《ふく》めたような口調《くちぶり》であった。主人はさもさも甘《うま》そうに一口|啜《すす》って猪口《ちょく》を下に置き、
「何、疲労《くたびれ》るというまでのことも無いのさ。かえって程好《ほどよ》い運動になって身体《からだ》の薬になるような気持がする。そして自分が水を与《や》ったので庭の草木の勢いが善くなって生々《いきいき》として来る様子を見ると、また明日《あした》も水撒《みずまき》をしてやろうとおもうのさ。」
と云い了《おわ》ってまた猪口を取り上げ、静《しずか》に飲み乾《ほ》して更《さら》に酌をさせた。
「その日に自分が為《や》るだけの務めをしてしまってから、適宜《いいほど》の労働《ほねおり》をして、湯に浴《はい》って、それから晩酌に一盃《いっぱい》飲《や》ると、同じ酒でも味が異《ちが》うようだ。これを思うと労働ぐらい人を幸福にするものは無いかも知れないナ。ハハハハハ。」
と快げに笑った主人の面からは実に幸福が溢《あふ》るるように見えた。
 膳の上にあるのは有触《ありふ》れた鯵《あじ》の塩焼だが、ただ穂蓼《ほたで》を置き合せたのに、ちょっと細君の心の味が見えていた。主人は箸《はし》を下《くだ》して後、再び猪口を取り上げた。
「アア、酒も好い、下物《さかな》も好い、お酌はお前だし、天下|泰平《たいへい》という訳だな。アハハハハ。だがご馳走《ちそう》はこれっきりかナ。」
「オホホ、厭《いや》ですネエ、お戯謔《ふざけ》なすっては。今|鴫焼《しぎやき》を拵《こしら》えてあげます。」
と細君は主人が斜《ななめ》ならず機嫌《きげん》のよいので自分も同じく胸が闊々《ひろびろ》とするのでもあろうか、極めて快活《きさく》に気軽に答えた。多少は主人の気風に同化されているらしく見えた。
 そこで細君は、
「ちょっとご免《めん》なさい。」
と云って座を立って退いたが、やがて鴫焼を持って来た。主人は熱いところに一箸つけて、
「豪気《ごうぎ》豪気。」
と賞翫《しょうがん》した。
「もういいからお前もそこで御飯《ごぜん》を食べるがいい。」
と主人は陶然《とうぜん》とした容子《ようす》で細君の労を謝して勧めた。
「はい、有り難う。」
と手短に答えたが、思わず主人の顔を見て細君はうち微笑《ほほえ》みつつ、
「どうも大層いいお色におなりなさいましたね、まあ、まるで金太郎のようで。」
と真《しん》に可笑《おかし》そうに云った。
「そうか。湯が平生《いつも》に無く熱かったからナ、それで特別に利いたかも知れない。ハハハハ。」
と笑った主人は、真にはや大分とろりとしていた。が、酒呑《さけのみ》根性《こんじょう》で、今一盃と云わぬばかりに、猪口の底に少しばかり残っていた酒を一息に吸い乾してすぐとその猪口を細君の前に突《つ》き出した。その手はなんとなく危《あやう》げであった。
 細君が静かに酌をしようとしたとき、主人の手はやや顫《ふる》えて徳利の口へカチンと当ったが、いかなる機会《はずみ》か、猪口は主人の手をスルリと脱《ぬ》けて縁に落ちた。はっと思うたが及ばない、見れば猪口は一つ跳《おど》って下の靴脱《くつぬぎ》の石の上に打付《ぶつか》って、大片《おおきいの》は三ツ四ツ小片《ちいさい》のは無数に砕《くだ》けてしまった。これは日頃主人が非常に愛翫《あいがん》しておった菫花《すみれ》の模様の着いた永楽《えいらく》の猪口で、太郎坊太郎坊と主人が呼んでいたところのものであった。アッとあきれて夫婦はしばし無言のまま顔を見合せた。
 今まで喜びに満されていたのに引換《ひきか》えて、大した出来ごとではないが善いことがあったようにも思われないからかして、主人は快く酔《よ》うていたがせっかくの酔《よい》も興も醒《さ》めてしまったように、いかにも残念らしく猪口の欠けを拾ってかれこれと継《つ》ぎ合せて見ていた。そして、
「おれが醺《よ》っていたものだから。」
と誰《だれ》に対《むか》って云うでも無く独語《ひとりごと》のように主人は幾度《いくど》も悔《くや》んだ。
 細君はいいほどに主人を慰《なぐさ》めながら立ち上って、更に前より立優《たちまさ》った美しい猪口を持って来て、
「さあ、さっぱりとお心持よく此盃《これ》で飲《あが》って、そしてお結局《つもり》になすったがようございましょう。」
と慇懃《まめやか》に勧めた。が、主人はそれを顧みもせずやっぱり毀《こわ》れた猪口の砕片《かけら》をじっと見ている。
 細君は笑いながら、
「あなたにもお似合いなさらない、マアどうしたのです。そんなものは仕方がありませんから捨てておしまいなすって、サアーツ新規に召し上れな。」
という。主人は一向言葉に乗らず、
「アア、どうも詰《つ》まらないことをしたな。どうだろう、もう継げないだろうか。」
となお未練《みれん》を云うている。
「そんなに細《こま》かく毀れてしまったのですから、もう継げますまい。どうも今更仕方はございませんから、諦《あきら》めておしまいなすったがようございましょう。」
という細君の言葉は差当って理の当然なので、主人は落胆《がっかり》したという調子で、
「アア諦めるよりほか仕方が無いかナア。アアアア、物の命数には限りがあるものだナア。」
と悵然《ちょうぜん》として嘆《たん》じた。
 細君はいつにない主人が余りの未練さをやや訝《いぶか》りながら、
「あなたはまあどうなすったのです、今日に限って男らしくも無いじゃありませんか。いつぞやお鍋《なべ》が伊万里《いまり》の刺身皿《さしみざら》の箱を落して、十人前ちゃんと揃《そろ》っていたものを、毀したり傷物にしたり一ツも満足の物の無いようにしました時、傍《そば》で見ていらしって、過失《そそう》だから仕方がないわ、と笑って済ましておしまいなすったではありませんか。あの皿は古びもあれば出来も佳《よ》い品で、価値《ねうち》にすればその猪口とは十倍も違《ちが》いましょうに、それすら何とも思わないでお諦めなすったあなたが、なんだってそんなに未練らしいことを仰《おっ》しゃるのです。まあ一盃《ひとつ》召《め》し上れな、すっかり御酒《ごしゅ》が醒《さ》めておしまいなすったようですね。」
と激《はげ》まして慰めた。それでも主人はなんとなく気が進まぬらしかった。しかし妻の深切《しんせつ》を無にすまいと思うてか、重々しげに猪口を取って更に飲み始めた。けれども以前のように浮き立たない。
「どうもやはり違った猪口だと酒も甘《うま》くない、まあ止めて飯《めし》にしようか。」
とやはり大層|沈《しず》んでいる。細君は余り未練すぎるとややたしなめるような調子で、
「もういい加減にお諦らめなさい。」
ときっばり言った。
「ウム、諦めることは諦めるよ。だがの、別段未練を残すのなんのというではないが、茶人は茶碗《ちゃわん》を大切《だいじ》にする、飲酒家《さけのみ》は猪口を秘蔵にするというのが、こりゃあ人情だろうじゃないか。」
「だって、今出してまいったのも同じ永楽ですよ。それに毀れた方はざっとした菫花《すみれ》の模様で、焼も余りよくありませんが、こちらは中は金襴地《きんらんじ》で外は青華《せいか》で、工手間《くでま》もかかっていれば出来もいいし、まあ永楽という中《うち》にもこれ等《ら》は極上《ごくじょう》という手だ、とご自分で仰《おっし》ゃった事さえあるじゃあございませんか。」
「ウム、しかしこの猪口は買ったのだ。去年の暮におれが仲通の骨董店《どうぐや》で見つけて来たのだが、あの猪口は金銭《おあし》で買ったものじゃあないのだ。」
「ではどうなさったのでございます。」
「ヤ、こりゃあ詰らないことをうっかり饒舌《しゃべ》った。ハハハハハ。」
と紛《まぎ》らしかけたが、ふと目を挙《あ》げて妻の方を見れば妻は無言で我が面をじっと護《まも》っていた。主人もそれを見て無言になってしばしは何か考えたが、やがて快活《きさく》な調子になって、
「ハハハハハハ。」
と笑い出した。その面上にははや不快の雲は名残《なごり》無く吹き掃《はら》われて、その眼《まなこ》は晴やかに澄《す》んで見えた。この僅少《わずか》の間に主人はその心の傾《かたむ》きを一転したと見えた。
「ハハハハ、云うてしまおう、云うてしまおう。一人で物をおもう事はないのだ、話して笑ってしまえばそれで済むのだ。」
と何か一人で合点《がてん》した主人は、言葉さえおのずと活気を帯びて来た。
「ハハハハハ、お前を前に置いてはちと言い苦《にく》い話だがナ。実はあの猪口は、昔《むかし》おれが若かった時分、アア、今思えば古い、古い、アアもう二十年も前のことだ。おれが思っていた女があったが、ハハハハ、どうもちッと馬鹿《ばか》らしいようで真面目《まじめ》では話せないが。」
と主人は一口飲んで、
「まあいいわ。これもマア、酒に酔ったこの場だけの坐興で、半分位も虚言《うそ》を交《ま》ぜて談《はな》すことだと思って聞いていてくれ。ハハハハハ。まだ考のさっぱり足りない、年のゆかない時分のことだ。今思えば真実《ほんと》に夢《ゆめ》のようなことでまるで茫然《ぼんやり》とした事だが、まあその頃はおれの頭髪《あたま》もこんなに禿《は》げてはいなかったろうというものだし、また色も少しは白かったろうというものだ。何といっても年が年だから今よりはまあ優《ま》しだったろうさ、いや何もそう見っともなく無かったからという訳ばかりでも無かったろうが、とにかくある娘に思われたのだ。思えば思うという道理で、性《しょう》が合ったとでもいう事だったが、先方《さき》でも深切にしてくれる、こっちでもやさしくする。いやらしい事なぞはちっとも口にしなかったが、胸と胸との談話《はなし》は通って、どうかして一緒《いっしょ》になりたい位の事は互《たがい》に思い思っていたのだ。ところがその娘の父に招《よ》ばれて遊びに行った一日《あるひ》の事だった、この盃で酒を出された。まだその時分は陶工《やきものし》の名なんぞ一ツだって知っていた訳では無かったが、ただ何となく気に入ったので切《しきり》とこの猪口を面白《おもしろ》がると、その娘の父がおれに対《むか》って、こう申しては失礼ですが此盃《これ》がおもしろいとはお若いに似ずお目が高い、これは佳いものではないが了全《りょうぜん》の作で、ざっとした中にもまんざらの下手《へた》が造ったものとは異《ちが》うところもあるように思っていました、と悦《よろこ》んで話した。そうすると傍《そば》に居た娘が口を添えて、大層お気に入ったご様子ですが、お気に召しましたのは其盃《それ》の仕合せというものでございます、宜《よろ》しゅうございますからお持帰下さいまし、失礼でございますけれど差上げとうございます、ねえお父様、進上《あ》げたっていいでしょう、と取りなしてくれた。もとより惜むほどの貴いものではなし、差当っての愛想《あいそ》にはなる事だし、また可愛《かわい》がっている娘の言葉を他人《ひと》の前で挫《くじ》きたくもなかったからであろう、父《おや》は直《ただち》に娘の言葉に同意して、自分の膳にあった小いのをも併《あわ》せて贈《おく》ってくれた。その時老人の言葉に、菫《すみれ》のことをば太郎坊次郎坊といいまするから、この同じような菫の絵の大小二ツの猪口の、大きい方を太郎坊、小さい方を次郎坊などと呼んでおりましたが、一ツ離《はな》して献《あ》げるのも異なものですから二つともに進じましょう、というのでついに二つとも呉《く》れた。その一つが今|壊《こわ》れた太郎坊なのだ。そこでおれは時々自分の家で飲む時には必らず今の太郎坊と、太郎坊よりは小さかった次郎坊とを二ツならべて、その娘と相酌《あいじゃく》でもして飲むような心持で内々《ないない》人知らぬ楽みをしていた。またたまにはその娘に逢《あ》った時、太郎坊があなたにお眼にかかりたいと申しておりました、などと云って戯《たわむ》れたり、あの次郎坊が小生《わたくし》に対って、早く元のご主人様のお嬢様《じょうさま》にお逢い申したいのですが、いつになれば朝夕お傍に居られるような運びになりましょうかなぞと責め立てて困りまする、と云って紅《あか》い顔をさせたりして、真実《ほんとう》に罪のない楽しい日を送っていた。」
と古《いにし》えの賤《しず》の苧環《おだまき》繰《く》り返して、さすがに今更|今昔《こんじゃく》の感に堪《た》えざるもののごとく我《わ》れと我が額に手を加えたが、すぐにその手を伸して更に一盃を傾けた。
「そうこうするうち次郎坊の方をふとした過失《そそう》で毀してしまった。アア、二箇《ふたつ》揃っていたものをいかに過失とは云いながら一箇《ひとつ》にしてしまったが、ああ情無いことをしたものだ、もしやこれが前表《ぜんぴょう》となって二人が離ればなれになるような悲しい目を見るのではあるまいかと、痛《いた》くその時は心を悩《なや》ました。しかし年は若《わかい》し勢いは強い時分だったからすぐにまた思い返して、なんのなんの、心さえ慥《たしか》なら決してそんなことがあろうはずはないと、ひそかに自《みず》から慰めていた。」
と云いかけて再び言葉を淀《よど》ました。妻は興有りげに一心になって聞いている。庭には梧桐を動かしてそよそよと渡《わた》る風が、ごくごく静穏《せいおん》な合の手を弾《ひ》いている。
「頭がそろそろ禿げかかってこんなになってはおれも敵《かな》わない。過般《こないだ》も宴会《えんかい》の席で頓狂《とんきょう》な雛妓《おしゃく》めが、あなたのお頭顱《つむり》とかけてお恰好《かっこう》の紅絹《もみ》と解《と》きますよ、というから、その心はと聞いたら、地が透《す》いて赤く見えますと云って笑い転《ころ》げたが、そう云われたッて腹《はら》も立てないような年になって、こんなことを云い出しちゃあ可笑いが、難儀《なんぎ》をした旅行《たび》の談《はなし》と同じことで、今のことじゃあ無いからなにもかも笑って済《す》むというものだ。で、マア、その娘もおれの所へ来るという覚悟《かくご》、おれも行末はその女と同棲《いっしょ》になろうというつもりだった。ところが世の中のお定まりで、思うようにはならぬ骰子《さい》の眼《め》という習いだから仕方が無い、どうしてもこうしてもその女と別れなければならない、強いて情を張ればその娘のためにもなるまいという仕誼《しぎ》に差懸《さしかか》った。今考えても冷《ひや》りとするような突き詰めた考えも発《おこ》さないでは無かったが、待てよ、あわてるところで無い、と思案に思案して生きは生きたが、女とはとうとう別れてしまった。ああ、いつか次郎坊が毀れた時もしやと取越苦労《とりこしぐろう》をしたっけが、その通りになったのは情け無いと、太郎坊を見るにつけては幾度《いくたび》となく人には見せぬ涙《なみだ》をこぼした。が、おれは男だ、おれは男だ、一婦人《いっぷじん》のために心を労していつまで泣こうかと思い返して、女々《めめ》しい心を捨ててしきりに男児《おとこ》がって諦めてしまった。しかし歳《とし》が経《た》っても月が経っても、どういうものか忘れられない。別れた頃の苦しさは次第次第に忘れたが、ゆかしさはやはり太郎坊や次郎坊の言伝《ことづて》をして戯れていたその時とちっとも変らず心に浮ぶ。気に入らなかったことは皆《みな》忘れても、いいところは一つ残らず思い出す、未練とは悟《さと》りながらも思い出す、どうしても忘れきってしまうことは出来ない。そうかと云ってその後はどういう人に縁付いて、どこにその娘がどう生活《くら》しているかということも知らないばかりか、知ろうとおもう意《こころ》も無いのだから、無論その女をどうこうしようというような心は夢《ゆめ》にも持たぬ。無かった縁に迷《まよ》いは惹《ひ》かぬつもりで、今日に満足して平穏《へいおん》に日を送っている。ただ往時《むかし》の感情《おもい》の遺《のこ》した余影《かげ》が太郎坊の湛《たた》える酒の上に時々浮ぶというばかりだ。で、おれはその後その娘を思っているというのではないが、何年後になっても折節は思い出すことがあるにつけて、その往昔《むかし》娘を思っていた念《おもい》の深さを初めて知って、ああこんなにまで思い込んでいたものがよくあの時に無分別をもしなかったことだと悦《よろ》こんでみたり、また、これほどに思い込んでいたものでも、無い縁は是非が無いで今に至ったが、天の意《こころ》というものはさて測られないものではあると、なんとなく神さまにでも頼《たよ》りたいような幽微《かすか》な感じを起したりするばかりだった。お前が家へ来てからももうかれこれ十五六年になるが、おれが酒さえ飲むといえばどんな時でも必らずあの猪口で飲むでいたが、談《はな》すには及《およ》ばないことだからこの仔細《しさい》は談しもしなかった。この談《はなし》は汝《おまえ》さえ知らないのだもの誰《だれ》が知っていよう、ただ太郎坊ばかりが、太郎坊の伝言《ことづて》をした時分のおれをよく知っているものだった。ところでこの太郎坊も今宵《こよい》を限りにこの世に無いものになってしまった。その娘はもう二十年も昔から、存命《ながら》えていることやら死んでしもうたことやらも知れぬものになってしまう、わずかに残っていたこの太郎坊も土に帰ってしまう。花やかで美しかった、暖かで燃え立つようだった若い時のすべての物の紀念《かたみ》といえば、ただこの薄禿頭、お恰好の紅絹《もみ》のようなもの一つとなってしもうたかとおもえば、ははははは、月日というものの働きの今更ながら強いのに感心する。人の一代というものは、思えば不思議のものじゃあ無いか。頭が禿げるまで忘れぬほどに思い込んだことも、一ツ二ツと轄《くさび》が脱《ぬ》けたり輪《わ》が脱《と》れたりして車が亡《な》くなって行くように、だんだん消ゆるに近づくというは、はて恐ろしい月日の力だ。身にも替《か》えまいとまでに慕《した》ったり、浮世を憂《う》いとまでに迷ったり、無い縁は是非もないと悟ったりしたが、まだどこともなく心が惹かされていたその古い友達の太郎坊も今宵は摧《くだ》けて亡くなれば、恋《こい》も起らぬ往時《むかし》に返った。今の今まで太郎坊を手放さずおったのも思えば可笑しい、その猪口を落して摧いてそれから種々《いろいろ》と昔時《むかし》のことを繰返して考え出したのもいよいよ可笑しい。ハハハハ、氷を弄《もてあそ》べば水を得るのみ、花の香《におい》は虚空《そら》に留まらぬと聞いていたが、ほんとにそうだ。ハハハハ。どれどれ飯《めし》にしようか、長話しをした。」
と語り了《おわ》って、また高く笑った。今は全く顔付も冴えざえとした平生《つね》の主人であった。細君は笑いながら聞き了りて、一種の感に打たれたかのごとく首を傾けた。
「それほどまでに思っていらしったものが、一体まあどうして別れなければならない機会《はめ》になったのでしょう、何かそれには深い仔細があったのでしょうが。」
とは思わず口頭《くちさき》に迸《はし》った質問で、もちろん細君が一方《ひとかた》ならず同情を主人の身の上に寄せたからである。しかし主人はその質問には答えなかった。
「それを今更話したところで仕方がない。天下は広い、年月《つきひ》は際涯無《はてしな》い。しかし誰一人おれが今ここで談す話を虚言《うそ》だとも真実《ほんと》だとも云い得る者があるものか、そうしてまたおれが苦しい思いをした事を善いとも悪いとも判断してくれるものが有るものか。ただ一人遺っていた太郎坊は二人の間の秘密をも悉《くわ》しく知っていたが、それも今|亡《むな》しくなってしまった。水を指さしてむかしの氷の形を語ったり、空を望んで花の香《か》の行衛《ゆくえ》を説いたところで、役にも立たぬ詮議《せんぎ》というものだ。昔時《むかし》を繰返して新しく言葉を費《ついや》したって何になろうか、ハハハハ、笑ってしまうに越したことは無い。云わば恋の創痕《きずあと》の痂《かさぶた》が時節到来して脱《はが》れたのだ。ハハハハ、大分いい工合《ぐあい》に酒も廻《まわ》った。いい、いい、酒はもうたくさんだ。」
と云い終って主人は庭を見た。一陣《いちじん》の風はさっと起《おこ》って籠洋燈《かごランプ》の火を瞬《またた》きさせた。夜の涼しさは座敷に満ちた。
                         (明治三十三年七月)

底本:「ちくま日本文学全集 幸田露伴」筑摩書房
   1992(平成4)年3月20日第1刷発行
底本の親本:「現代日本文学全集4」筑摩書房
入力:林 幸雄
校正:門田裕志
2002年12月5日作成
2003年7月20日修正
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幸田露伴

鼠頭魚釣り—– 幸田露伴

 鼠頭魚は即ちきすなり。其頭の形いとよく鼠のあたまに肖たるを以て、支那にて鼠頭魚とは称ふるならん。俗に鱚の字を以てきすと訓ず。鱚の字は字典などにも見えず、其拠るところを知らず。蓋し鮎鰯鰰等の字と同じく我が邦人の製にかゝるものにて、喜の字にきすのきの音あるに縁りて以て創め作りしなるべし。
 鼠頭魚に二種あり。青鼠頭魚といひ、白鼠頭魚といふ。青鼠頭魚は白鼠頭魚より形大にして、其色蒼みを帯び、其性もやゝ強きが如し。青鼠頭魚は川に産し、春の末海底の沙地に子を産む、と大槻氏の言海には見えたれど、如何にや、確に知らず。海底の沙地に生まるゝものならば海に産するにはあらずや、将また川に産すとは川にて人に獲らるゝものなりとの事ならば、青鼠頭魚といふものの川にてはほと/\獲らるゝこと無きを如何にせん。大槻氏の指すところのものは東京近くにて青鼠頭魚といふものと異るにやあらん、いぶかし。凡そ東京近くにて青鼠頭魚といふものは、春の末夏の初頃より数十日の間、内海の底浅く沙平らかなる地にて漁るものの釣に上るものを指して称へ、また白鼠頭魚とは青鼠頭魚の漁期より一ト月も後れて釣れ初むるものをいふ。青鼠頭魚に比ぶれば白鼠頭魚はすべて弱※[#二の字点、1-2-22]しくして、喩へば彼は男の如く此は女の如しとも云ひつべし。
 鼠頭魚釣りは、魚釣の遊びの中にても一ト風異《かは》りて興ある遊びなり。且つ又鼠頭魚は、魚の中にても姿清らに見る眼厭はしからず、特に鱗に粘《ぬめり》無く身に腥気《なまぐさけ》少ければ、仮令其味美ならずとも好ましかるべき魚なるに、まして其味さへ膩濃《あぶらこ》きに過ぎずして而も淡きにも失せず、まことに食膳の佳品として待たるべきものなれば、これが釣りの興も一[#(ト)]しほ深かるべき道理《ことわり》ならずや。
 今年五月の中の頃、鼠頭魚釣りの遊びをせんと思ひ立ちて、弟を柳橋のほとりの吾妻屋といふ船宿に遣り、来む二十一日の日曜には舟を虚《むなし》うして吾等を待てと堅く約束を結ばしめつ、ひたすらに其日の至るを心楽みにして、平常《つね》のおのれが為すべき業《わざ》を為しながら一日《ひとひ》※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]と日を送りけり。
 待つには長き日も立ちて、明日はいよ/\其日となりたる二十日の朝、聊か事ありて浅草まで行きたる帰るさ、不図心づきて明日の遊びの用の釣の具一[#(ト)]揃へを購《か》はんと思ひしかば、二天門前に立寄りたり。こは家に釣の具の備への無きにはあらねど、猶ほ良きものを新に買ひ調へて携へ行かんには必ず利多かるべしと思ひてなり。書を能くするものは筆を撰まずとは動《やゝ》もすれば人の言ふところにして、下手の道具詮議とは、まことによく拙きありさまを罵り尽したる語《ことば》にはあれど、曲りたる矢にては※[#「栩のつくり/廾」、第3水準1-90-29]《げい》も射て中てんこと難かるべく、飛騨の大匠《たくみ》も鰹節小刀《かつぶしこがたな》のみにては細工に困ずべし。されば善く射るものは矢を爪遣《つまや》りすること多く、美しく細工するものは刀を礪ぐこと頻りなり。如何ぞ書を能くするものの筆を撰まずといふことあらん、また如何ぞ下手のみ道具を詮議せん。知る可し、筆を撰まずといふは、たゞ書を能くするものの自在を称したるの言にして、書を能くするもの必ずしも筆を択まずといふにもあらず、又下手の道具詮議といふは、固より道具詮議をなすもの即ち下手なりといふにもあらず、下手のみ道具詮議をなすといふにもあらで、拙き人の自己《おの》が道具の精粗利鈍を疑ふやうなるをりを指して云へる語なることを。心の底浅くして鼻の端《さき》のみ賢き人々、多くは右の二つの諺を引きて、其諺の理に協へるや協はざるやをも考へで、筆を択み道具を論ずるなど重※[#二の字点、1-2-22]しげに事を做すものを嘲るは、世の常の習ひながら、忌※[#二の字点、1-2-22]しき我が邦人の悪《あし》き癖なり。卒然として事を做して赫然として功有らんことを欲するは、卑き男の痴《しれ》たる望みならずや。粗心浮気、筆をも択まず道具をも詮議せざるほどの事にて、能く何をか為し得ん。筆択むべし、道具詮議すべし、魚を釣らんとせば先づ釣の具を精《よ》くすべし。まして魚を釣り小禽を狩るが如き遊び楽みの上にては、竿の調子、綸《いと》の性質、鉤の形などを論ずるも、実は遊びの中にして、弾丸《たま》と火薬との量の比例、火薬の性質、銃の重さの分配の状《さま》、銃床の長さ、銃の式などを論ずるも、また実は楽みの中なるをや。嘗て釣りの道に精く通ぜる人※[#二の字点、1-2-22]の道具を論ずるを聞くに、甲も中田といひ、乙も中田といひ、丙もまた中田といひて、苟も道具を論ずるに当りては中田の名を云ひ出でざること無き程なれば、名の下果して虚しからずば中田といふもの必ず良き品を作り出すなるべし、おのれもまた機《をり》を得て購《か》はんと、其家の在り処《か》など予て問ひ尋ね置きたりしかば、直ちにそれかと覚しき店を見出して、此家《こゝ》にこそあれと突《つ》と入りぬ。
 名の聞こえたる家のことなれば、店つきなども美しく売るところの品※[#二の字点、1-2-22]数多く飾り立てられたるならんとは誰人も先づ想ふべけれど、打見たるところにては品物なども眼に入らぬほど少く、店と云はんよりは細工場と云ふべきさまなるも、深く蔵して無きが如くすといふ語さへ思ひ合はされてゆかし。主人《あるじ》に打向ひて、鼠頭魚釣りに用うべき竿を得たしと云へば、日をさへ仮し玉はば好み玉はんまゝ如何様にも作りまゐらすべけれど、今直ちに欲しとの仰せならば参らすべきはたゞ二本よりほか無し、其中にて好きかたを択み取りたまふべしと答ふ。如何で然《さ》は竿の数乏しきやと問へば、主人の子なるべし年若くして清らなる男、随つて成れば随つて人の需め去るまゝ常に是の如し、御心に飽くほどのものを得玉はんとならば、極めて細《こまか》に兎せよ角せよと命じたまへといふ。良工の家なれば滞貨無きも宜《むべ》なり、特に我が好めるやうに作らせんは甚だ可なるに似たれど、実は我が知れるところよりも此家《ここ》の主人の知れる所の方深くして博かるべきは云ふまでも無きに、我は顔して浅はかなる好みを云ひ出でんも羞かし、且は日も逼りたれば是は寧ろ此家の主人が良しと思ひて作り置けるものを良しとして購《か》はんかた、※[#「(來+攵)/心」、第4水準2-12-72]《なまじ》に賢立《かしこだ》てして我が好みのまゝに作らせんよりは却て可かるべしと思ひしかば、いや、我猶釣の道に昧ければ我が好みを云ふべくもあらず、たゞ此家《こゝ》の品の必ず佳かるべきを知りて来れるものなれば、一も二も無く此家の主人の君の言に従ひて、その良しとするものを良しとし其の良からずとするものを良からずとせん、二本ありとならば其の一本を択みて与へよ、価の高き低きは問ふところにあらずと云ひ出づれば、主人も聊か笑を含みて、然《さ》らば此の方を召し玉へ、我が口よりは如何で誇らん、只眼あらん人は必ず此竿を知るべし、君もまた用ゐ玉ひて後、価の君を欺かざるを知り玉ふべしと云ひつゝ、一本の竿を我が手にわたす。受け取りてつく/″\見るに、竿に具ふべきかど/\の中にても重きかどの一つなる節※[#二の字点、1-2-22]の配りもいとよく斉ひて、本より末に至るに随ひ漸く其間|蹙《しゞ》まり、竹の育ちすらりとして捩れも無く癖も無く、特に穂竿の剛《かた》からず弱からずして靭《しな》やかに能く耐ふる力の八方に同じきなど、用ゐざるに既《はや》其|効《かひ》もおもひ遣らるゝまでなり。嬉しきはそれのみならず、竿の長さは鼠頭魚釣りに用うべき竿の大概《おほよそ》の定めの長さ一丈一尺だけ有りながら、其重さの旧《もと》より用ゐしものに比べてはいと軽きもまた好ましき一つなれば、我が心全く足りて之を購《か》ひつ、次《ついで》を以て我が知らぬ新しき事もやあらんと装置《しかけ》をも一ト揃購ひぬ。
 綸、天蚕糸《てぐす》など異りたること無し。鉤もまた昔ながらの狐形と袖形となり。たゞ鉛錘《おもり》は近来《ちかごろ》の考に成りたる由にて、「にっける」の薄板を被《き》せたれば光り輝きて美し。さては外国《とつくに》の人の誤つて銀の匙を水に落せし時魚の集り来りしを見て考へつきしといふ、光りあるものの付きたる鉤と同じく、これも光りに寄る魚の性に基づきたるなるべしなんど思ひつゝ、家に帰る路すがら、雲立ちたる空を仰ぎて、今はたゞ明日の雨ふらざらんことをのみ祈りける。
 其日昼過ぐる頃、弟は学校より帰り来りて、おのれが釣竿、装置《しかけ》など検めゐしが、見おぼえぬ竿のあるを見出して、此《こ》は兄上の新に購《か》ひ給ひしにやと問ふ。然《さ》なりと答ふれば、何処《いづこ》にて求め給ひしやと云ふ。汝《そなた》が嘗て我に誇り示したる鮒釣の竿を購《か》ひし家にてと云へば、弟は羨ましげに眼を光らせて左視右視《とみかうみ》暫らく打護り居けるが、やがて大きなる声して、良き竿を購《か》ひ給ひしかな、かくては明日の釣りに兄上最も多く魚を獲給ふべし、我等は遠く及ぶべからず、されど其《そ》は兄上の釣り給ふこと我等より巧みなるがためにはあらず、竿の力、装置《しかけ》の力の為ならんのみ、我等にも是の如き竿と装置《しかけ》とだにあらば、やはか兄上に劣るべきと、喞言がましく云ひ罵る。然《さ》ばかり明日の釣りに負けまじと思はば汝も新に良き竿を求めよかしと云へば、雀躍《こをどり》して立出で行きしが、時経て帰り来りしを見れば、おもしろからぬ色をなせり。如何にせしぞと問ふに、売りまゐらすべきもの無ければ七八日過ぎて後来玉へと彼の家にて云はれたりと、云ふ声さへもやゝ沈めり。然《さ》ありしか弟、さて釣竿買はで帰りしかと云へば、力無げに、然なりと云ふ。望を失ひて勢抜け、頭を垂れて物思へるさま、傍より観ていと哀れなれば、然《さ》のみ心を屈するにも及ばじ、釣竿売る家はかしこのみかは、茶屋町か材木町かとおぼえしが吾妻橋を渡りて左に折るゝあたりに中田といふ家あり、また広徳寺前には我が幼き頃より知れる藤作といへる名高き店あり、特に藤作は世の聞え人の用ゐも宜し、彼家《かしこ》に至らば良き品を得んこと疑ひあらじ、同じ業《わざ》をするものは相忌み相競ふものなれば、彼も励み此も励みて互に劣らじとする習ひなり、藤作にはまた藤作の妙無きことあらじと諭せば、やうやく心に勇みの湧きしにや、さらばとて復家を立出でぬ。
 時経れど弟は帰り来らず。朝より雲おぼつかなく迷ひ居し天《そら》は、遂に暮るゝ頃より雨を墜し来ぬ。此幾日といふもの楽みにして待ちに待ちたる明日の若《もし》雨ふらんには如何にかせんと、檐の玉水の音を聞くさへ物憂くおぼえて、幾度か椽端《えんばな》に出で雲のたゝずまひを仰ぎ見て打囁《うちつぶや》きしが、程経て雨の小止みしける時、弟はやうやく帰り来りぬ。此度はさきに帰りし時とは違ひて、家に入るや否や大きなる声を揚げて、兄上、はや明日の釣りに兄上には必ず負けまじ、兄上三十尾を獲たまはば我四十尾を獲ん、兄上五十尾を獲玉はば我六十尾を獲ん、兄上に中田の竿あれば我に藤作の竿あり、我が拙きか兄上が拙きか、釣りの道の技《わざ》くらべは明日こそとて、鼻息荒く誇る。それには答へで、好し好し、もはや灯火《ともしび》も点《つ》き人※[#二の字点、1-2-22]も皆|夜食《ゆふげ》を終へたるに、汝のみ空言《あだごと》言ひ居て腹の膨るゝやらん、まづ/\飯食へと云ひて其竿を見るに、これもなか/\悪《あし》からぬ竿なり。されど我が物は傘の雪をも軽しとし、人の物は正宗にも疵を索むるが傾きやすき我等の心なれば、我は我が竿を良しといひ、弟はまたおのれのを良しと云ひて、互ひに視誉《みほ》め手誉めを敢てす。弟また袂より紙包みにしたる一の鉛錐を取り出して、兄上が購《か》ひ来玉ひし品は「にっける」を被《き》せたれば、陸にては甚《よ》く輝けど、水の中にては黒みて見ゆる気味ありて魚の眼を惹くこと少しとなり、我が購ひ来しは銀色なせる梨子肌のものなれば、陸にては輝かねど水の中にては白く見えて却つて魚の眼を惹くこと多かるべしとなり、且兄上がのは円※[#「土へん+壽」、第3水準1-15-67]形にして我がものは球形なり、円※[#「土へん+壽」、第3水準1-15-67]形|若《もしく》は方※[#「土へん+壽」、第3水準1-15-67]形のものは其《そ》を水底に触れつ離れつせしむる折に臨み、水底にて立ちては仆れ立ちては仆るゝまゝ要無き響きの手に伝はりて悪《あし》し、球形のは水底に触るゝ時たゞ一たび其響き手に至るのみなれば、いと明らかにして好しと聞きぬ、如何にも道理《ことわり》あることにはあらずや、鉛錐は我が買ひ来しものこそ好けれと云ふ。よつて弟が購《か》ひ来りしものを視るに、銀色にして上光《うはびかり》無く、球形にして少しく肌|麁《あら》し。弟の言ふも一[#(ト)]わたり聞えたれど、光りの事は水の中に入りて陽《ひなた》のところ陰のところに二種のものの如何に見ゆべきやを検めでは何とも云ひ難し、又※[#「土へん+壽」、第3水準1-15-67]形球形の説も道理には聞ゆれど、此頃の鼠頭魚釣りには鉛錐を水底に触れさせ離れさすやうなることを為さでもあるべく、たゞ及ぶたけ遠きところに鉛錐を投げ込みて漸く手元に引き近づくるのみなれば、響きの紛れの有る無しの如きは固より要無き談なりと思ひつ、打出して、かく/\なれば汝の言は取るに足らずと云ふ。弟は弟、兄は兄、互に言ひ募りて少時は争ひしが、さらば明日に至りて我言の誤らぬしるしを見せん、見せまゐらせんと云ふ言葉にて、争ひは已みぬ。
 雨はまた一[#(ト)]しきり木々の梢に音立てゝ降り来り、夜は静かにして灯火黄なり。兄は弟の面を視、弟は兄の面を視て、ものいはぬこと良《やゝ》久し。明日の天《そら》を気づかひて今朝より人※[#二の字点、1-2-22]に幾度か尋ね問ひしに、おぼえある人※[#二の字点、1-2-22]は皆、今日こそ斯く曇れ明日は必ず雨無かるべしと云ひしが、此のありさまにては晴るゝべくもあらず、空頼めとはかゝる時より云ひ出したる言葉なるべしなどと心の内に喞つ折しも、雨を衝《つい》て父上来玉へり。
 かねて御申しかはせは仕たりしも此の雨にては明日のほども覚束無し、まことに本意《ほい》無《な》くは侍れど心に任せぬは天《そら》の事なり、まづ兎も角も休ませ玉へと云へば、父上は打笑ひ玉ひて、天のさまの測り難きは常の事なれば喞つべからず、されど今斯程に雨ふるは却つて明日の晴れぬべき兆《しるし》ならんも知るべからず、我が心にては何と無く明日は必ず晴るべきやう思ひ做さるゝなりなどと説き玉ふ。弟も我もこれに聊か頼もしくは思ひながらも、猶板戸打つ雨の音に心悩ましくおぼえて、しぶる/\枕につく。天若し晴れたらんには夜の二時といふに船を出さんとの約束なれば、夢も結ぶか結ばざるに寐醒めて静かに外のさまを考ふるに、雨の音は猶止まず、庭樹の戦《そよぎ》に風さへ有りと知らる。今はこれまでなりと其儘枕に就きたれど、流石に若くは今少時にして晴れもやせんとの心に引かされて、直ちには睡りかね居たるに、思ひは同じ弟も常には似ず眼さとく起き出でゝ、耳を欹てつ何やらん打案じ顔したりしが、やがて腹立たしげに舌打ち一つして、また夜被《よぎ》引かつぎたるさまいとをかしかりければ、思はず知らずふゝと笑ひを洩らす。其声を聞きつけて、兄上も寤め居たまへるや、此雨はまた如何に降りに降る事ぞ、さても口惜からずやと力無く睡気に云ふ。我もあまりの興無さに答へをせんも物憂くて、おゝとのみ応へつ、また睡る。
 若くは雨の止むこともあらんとの思ひに心休まらで、睡るとも無く睡らぬとも無く時を過ごしける中、いつしか我を忘れて全く睡りに入りけるが、兄上※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]と揺り覚まされて、はつと我に返れば、灯火《ともしび》の光きら/\として室の内明るく、父上も弟も既《はや》衣をあらためて携ふべきものなど取揃へ、直にも立出でんありさまなり。雨は止みたりや、天《そら》は如何にと云へば、弟、雨は猶降れゝど音も無き霧雨となりたり、雲の脚|断《き》れて天明るくなりたれば、やがて麗はしく晴れん、人々の言葉も必ず空頼めなるまじと勇み立つて云ふ。雨戸一枚繰り開けたるところより首をさし出して窺ふに、薄墨色の雲の底に有るか無きかの星影の見えたるなど、猶おぼつか無くは思はるれど望みを断つべくもあらぬさまとなりぬ。いざさらば船宿まで行かめ、船出す出さぬは船頭こそ判じ定むべけれ、我等の今こゝにて測り知るべきにはあらず、行かめ、行かめと手疾く衣を更へて立出づ。
 三時を纔に過ぎたるほどの頃なれば、吾が家の門の戸引開くる音さへいと耳立ちて、近き家※[#二の字点、1-2-22]に憚りありとおもはるゝまで、四囲《あたり》は物静かなり。傘さゝでもあるべき雨、堤の樹※[#二の字点、1-2-22]の梢に音さするまでならぬ風、おぼろげなる星の光、人顔定かならぬ明るさなど、なか/\にめでたき払曉《あけがた》のおもむきを味はひて、歌もがななんど思ひつゝ例の長き堤を辿る。おのれは竿を肩にし、弟は食料を提げ、父上は※[#「竹かんむり/令」、第3水準1-89-59]※[#「竹かんむり/省」、第4水準2-83-57]を持ち玉ひつゝ、折※[#二の字点、1-2-22]おつる樹の下露に湿るゝも厭はず三人して川添ひを行くに、水の面は霧立ち罩めて今戸浅草は夢のやうに淡く、川幅も常よりは濶※[#二の字点、1-2-22]と見ゆる中を、篝火焚きつゝいと長き筏の流れ下るさまなど、画にも描くべくおもしろし。
 枕橋吾妻橋も過ぎて、蔵前通りを南へ、須賀橋といふにさしかゝりける折しも、橋のほとりの交番所にて巡査の誰何するところとなりぬ。唯一[#(ト)]声、釣りせんとて通るものなりと答へしのみにて、咎めらるゝ事も無く済みけるが、此のあたりの地をば吾が家にて有ちし往時《むかし》もありければ、一[#(ト)]言にても糺されしことの胸わろきにつけて、よし無き感を起しゝも烏滸がまし。
 あづま屋に着きたるに、時は思ひのほかに早くて猶未だ四時には至らず。小糠雨猶止まねど雲脚しきりに断れて西の方の空いよ/\明るく、朝風涼しく吹きて心地よきこと云ふばかり無し。我等の至れるを見て舟子は急がはしく立ち出で、柳橋の上に良久しく佇みて四方《よも》の空のさまを見めぐらす。今日の晴雨を詳《つまびらか》に考ふるなるべしと思へば、天《そら》のさま悪しゝ、舟出し難しなど云はれんには如何せんと、傍観《わきみ》する身の今さら胸轟かる。舟子やがて橋より下り来て、悪しかりし空のさまも悉く変りて今は少しも虞れ無くなりぬ、雨は必ず快く霽るべし、風は必ず好きほどに吹くべし、いざ船に召し玉へと心強く云へば、弟も我も笑みかたぶきて父上とも/″\船に乗る。
 纜縄《もやひ》解く、水※[#「竹かんむり/高」、第3水準1-89-70]《みさお》撞き張る、早緒取り掛けて櫓を推し初むれば、船は忽ち神田川より大川に出で、両国の橋間を過ぎ、見る目も濶き波の上に一羽の鴎と心長閑に浮びて下る。新大橋を過ぐる折から雨またばら/\と降り来。されど舟子の少しも心にかけぬさまなるに我等も驚かで、火を打《おこ》し湯を沸《たぎ》らしなどす。およそ船の遊びには、貴きも富めるも何くれと無く幇け合ひて働くを習ひとす。若し自ら高ぶり或は又全く心づかずして何事をも為さゞる者あれば、逸り気なる舟子などはこれを達磨さまと云ひて冷笑ふ。手も脚も無きといふ意《こころ》なるべし。また船の※[#「舟+首」、第4水準2-85-77]《へさき》の方に我は顔して坐りなどする者をば将監様とよぶ。これは江戸の頃の水の上の司《つかさ》向井将監にかけて云へるにて、将監のやうに坐りて傲り高ぶれるといふ意なるべし。達磨と云はるゝがうしろめたくてにはあらねど、舟を行るのみにても人一人だけの働きなるに、猶飯を炊かせ味噌汁つくるまでの事※[#二の字点、1-2-22]を悉く打任せたらんは余りに心無きわざなれば、慣れぬ手もとの覚束無くはあれど何よ彼よと働く。其むかし一人住みしける折の事も思ひ出されて、拙くもをかしきことのみ多し。
 風の向き好くなりぬ、帆を揚げんとて、舟子帆をあぐ。永代橋を過ぎて後は四方《よも》のさま全く変りて、眼を障るものも無き海原の眺め、心ものび/\とするやうなり。雨全く収まりて、雲のうしろに朝日昇りたる東の天《そら》の美しさ、また紅に、また紫に、また柑子色に、少しづゝ洩るゝ其光りの此雲彼雲の縁《へり》を焼きたるさま、喩へん方無く鮮やかに眼も眩むばかりなり。雨の後の塵無き天の下にて快き風に船を送らせながら、絵も及びがたき雲の美しさに魂を酔はせつゝ、熱き飯、熱き汁を味はふ此楽しさは、土にのみ脚をつけ居る人の知らぬところなり。幸福《さいはひ》多かるべきかな舟の上の活計《みすぎ》や、日に/\今朝の如くならんには我は櫓をとり舵を操りて、夕の霧、旦《あした》の潮烟りが中に五十年の皮袋を埋め果てんかなと我知らず云ひ出づれば、父上は何とも応へ玉はで唯笑ひ玉ふ、弟はひたすら物食ふ、舟子は聞かざるが如く煙草管《きせる》啣みて空嘯けり。
 朝食《あさげ》仕果てゝ心静かに渋茶を喫みつゝ、我は猶胴梁に※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]つて限り無き想ひに耽る。詩趣来ること多くして、塵念生ずること無し。声を放つて漁夫の詞を誦して、素髪風に随《まか》せて揚げ遠心雲と与に遊ぶといふに至つて、立つて舞はんと欲しぬ。
 今さら云はんはいと烏滸なれど、都は流石に都なるかな。昨夜の雨に大かたの人は望みを絶ちたるなるべければ、今日は釣る人の幾干《いくばく》もあらじと思ひけるに、釣るべきところに来りて見れば釣り舟の数もいと多くして、なか/\数へ得べくもあらぬまでおびたゞしく、秋の木の葉と散り浮きたるさま、喩へば源平屋島の戦ひを画に見る如し。あゝ都なればこそ、都なればこそと、そゞろに都の大なるを感ずるも、あながち我がおろかなるよりのみにはあらで、其処に臨みて其様を見ば何人も起すべき思ひなるべし。
 舟子はやがて好しと思ふところに船をとゞめて、※[#「舟+首」、第4水準2-85-77]に積み来りし「きゃたつ」を海の中におろす。「きゃたつ」は高さ一間あまりもあるべし、裾広がりなる梯二つを頂にて合せ、海中にはだかり立ちて、其上に人を騎らしむるやう造りたるものなり。およそ青鼠頭魚は物音を嫌ひ、物影の揺ぐをも好まざるまで神経《こゝろ》敏《はや》きものなれば、船にて釣ることも無きにはあらねど、「きゃたつ」に騎りて唯一人静かに綸を下すを常の事とす。仮にも酒など用ゐて笑ひさゞめきながら釣るが如きことは、此遊びには叶はぬことなり。されど中川寄りの人※[#二の字点、1-2-22]は一人乗の小舟を漕ぎ出して、こゝぞと思ふところに碇を下し、いと静かにして釣るに、其獲るところ必しも「きゃたつ」釣りに劣らずといふ。そは舟も髫髪児《うなゐこ》が流れに浮くる笹舟の如くさゝやかにして、浪の舟腹打つ音すら、するかせぬかといふ程なるより、魚も流石に嫌はぬなるべし。白鼠頭魚はかく「きゃたつ」に騎るなどといふこと無く、一つ船の中にて親子妹脊打語らひながら釣るべければ、女など伴はんには白鼠頭魚釣りをよしとするとぞ。
 さて舟子は既《はや》「きゃたつ」を海の中にたてゝ、餌匣《えばこ》と※[#「竹かんむり/令」、第3水準1-89-59]※[#「竹かんむり/省」、第4水準2-83-57]とを連ねたるものをも其に結ひつけ終りければ、弟先づ釣竿を携へて「きゃたつ」に上り、兄上羨みたまふな、必ず数多く釣りて見せまうすべしと誇る。舟子は笑ひながら船を漕ぎ放して、弟の「きゃたつ」立てるところよりは三十間も距たりたらんと思はるゝところに船を止め、「きゃたつ」を立つ。此度は父上これに騎り玉ふ。父上、父上、よく釣り玉へなどいふ間に、舟子はまた舟を漕ぎ開きて、同じ三十間ばかり距たりたるところに「きゃたつ」を立つ。こたびは我これに跨がり、急ぎて鉤に餌を施し、先づこれを下して後はじめて四方《あたり》を見るに、舟子は既《はや》舟を数十間の外に遠ざけて、こなたのさまを伺ひ居れり。
 弟は如何に、父上はと見るに、弟も父上も竿を手にして余念も無げに水の上を見つめたるさま、更に憐む垂綸の叟、静かなること沙上の鷺の若《ごと》し、といへる詩の句も想ひ浮めらる。父上弟のみならず、眼も遥かに見渡す限りの人※[#二の字点、1-2-22]「きゃたつ」に乗りていと静かに控へぬは無ければ、まことに脚長き禽の群れて水に立てるが如く、また譬へば野面に写真機を据えたるを見るが如し。腰を安んずるところ方一尺ばかりを除きては身の囲り皆水なれば、まことに傍観《わきめ》は心細げなれど、海浅くして沙平らかなるところの事とて、まことは危《あやふ》げ更に無く、海原に我たゞ一人立ちたる心地よさ、天《そら》よりおろす風に塵無く、眼に入るものに厭ふべきも無し。滄浪の水に足を濯ふといふもかくてこそと微笑まる。一身已に累無し、万事更に何をか欲せん、たゞ魚よ疾く鉤にかゝれと念ずる折から、こつりと手ごたへす。さてこそと急ぎ引きあげんとするに、魚は免れんとして水の中をいと疾く走る。其速きこと思ひのほかにして、鉤につけたる天蚕糸の、魚の走るに連れて水を截る音きう/\と聞え、竿は弓なして丸く曲りけるが、やうやくにして魚の力弱りたるを釣りあげ見れば、五寸あまりの大きさのなり。悦びて※[#「竹かんむり/令」、第3水準1-89-59]※[#「竹かんむり/省」、第4水準2-83-57]の中にこれを放ち入れつ、父上は弟はと見めぐらすに、父上の手にも弟の手にも既《はや》幾尾か釣れたりとおぼしく、網※[#「竹かんむり/令」、第3水準1-89-59]※[#「竹かんむり/省」、第4水準2-83-57]はいと長く垂れて其底水に浸り居れり。さては彼方にても獲たりと見ゆ、釣り負けまじものをと心を励まして、また綸を下すに、また少時して一尾を獲たり。
 一尾又一尾と釣りて正午《まひる》に至りける頃、船を舟子の寄せければ、それに乗り移りて、父上弟をも迎へ入れ、昼餉す。昼餉を終へて後、今一[#(ト)]潮とて舟子船を前と同じからざるところに行りつ、それぞれ「きゃたつ」を立つ。こたびは潮《しほ》の頭《はな》の事とて忙しきまで追ひかけ追ひかけて魚の鉤に上り来れば、手も眼も及びかぬるばかりなり。我はかくばかり善く釣り得るが、父上弟はと遥かに視るに、父上も弟も面に喜びの色あるやうなれば、おのれも心満ちたらひて一向《ひたすら》に釣り居けるが、やがて潮満ち来て「きゃたつ」を余すこと二尺足らずとなりし時、舟子舟を寄せ来りて、今日はこれまでなり、又の日の潮にと云ふ。おのれ等これに足ることを知つておの/\船に戻り、其得たるところの多き少きを比ぶるに、父上第一にして、其次はおのれ、其また次は弟なりければ、齢の数に叶ひたるにやと父上打笑ひ玉ふ。さらば恨むところも無しと、弟も笑へば我も笑ふ。船の帰るさに順風《おひて》を得たるは、船子にも嬉しからぬことあらじ。こゝろよき南風に帆を張りて、忽ち永代橋、忽ち大橋、忽ち両国橋を過ぎ、柳橋より車に乗りて家に帰りつ、其得たるところを合せ数ふれば壱百三十尾にあまりける。父上の悦び、弟の笑顔、妻孥の其多く獲たるを驚きたゝふる、いづれ我が胸に嬉しと響かぬも無かりき。

底本:「日本の名随筆32 魚」作品社
   1985(昭和60)年6月25日初版発行
   1987(昭和62)年8月10日第2刷
底本の親本:「露伴随筆 第一冊」岩波書店
   1983(昭和58)年3月初版発行
入力:とみ~ばあ
校正:今井忠夫
2001年1月22日公開
2012年5月12日修正
青空文庫作成ファイル:
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幸田露伴

雪たたき—— 幸田露伴

 

 鳥が其巣を焚《や》かれ、獣が其|窟《あな》をくつがえされた時は何様《どう》なる。
 悲しい声も能《よ》くは立てず、うつろな眼は意味無く動くまでで、鳥は篠《ささ》むらや草むらに首を突込み、ただ暁の天《そら》を切ない心に待焦るるであろう。獣は所謂《いわゆる》駭《おどろ》き心になって急に奔《はし》ったり、懼《おそ》れの目を張って疑いの足取り遅くのそのそと歩いたりしながら、何ぞの場合には咬《か》みつこうか、はたきつけようかと、恐ろしい緊張を顎骨《あごぼね》や爪の根に漲《みなぎ》らせることを忘れぬであろう。
 応仁、文明、長享、延徳を歴《へ》て、今は明応の二年十二月の初である。此頃は上《かみ》は大将軍や管領から、下《しも》は庶民に至るまで、哀れな鳥や獣となったものが何程《どれほど》有ったことだったろう。
 此処は当時|明《みん》や朝鮮や南海との公然または秘密の交通貿易の要衝で大富有の地であった泉州堺の、町外れというのでは無いが物静かなところである。
 夕方から零《お》ち出した雪が暖地には稀《めず》らしくしんしんと降って、もう宵の口では無い今もまだ断《き》れ際《ぎわ》にはなりながらはらはらと降っている。片側は広く開けて野菜圃《やさいばたけ》でも続いているのか、其間に折々小さい茅屋《ぼうおく》が点在している。他の片側は立派な丈の高い塀つづき、それに沿うて小溝が廻されている、大家《たいか》の裏側通りである。
 今時分、人一人通ろうようは無い此様《こん》なところの雪の中を、何処を雪が降っているというように、寒いも淋しいも知らぬげに、昂然《こうぜん》として又悠然として田舎の方から歩いて来る者があった。
 こんなところを今頃うろつくのは、哀れな鳥か獣か。小鳥では無いまでも、いずれ暖い洞窟が待っているのでは無い獣でもあるか。
 薄筵《うすむしろ》の一端を寄せ束《つか》ねたのを笠にも簑《みの》にも代えて、頭上から三角なりに被《かぶ》って来たが、今しも天《そら》を仰いで三四歩ゆるりと歩いた後に、いよいよ雪は断れるナと判じたのだろう、
「エーッ」
と、それを道の左の広みの方へかなぐり捨てざまに抛《ほう》って了った。如何にも其様《そん》な悪びれた小汚い物を暫時にせよ被《き》ていたのが癇《かん》に触るので、其物に感謝の代りに怒喝を加えて抛《なげ》棄《す》てて気を宜《よ》くしたのであろう。もっとも初から捨てさせるつもりで何処ぞで呉れ、捨てるつもりで被て来たには相違無いわびしいものであった。
 少し速足になった。雪はもとよりべた雪だった。ト、下駄の歯の間に溜《たま》った雪に足を取られて、ほとほと顛《ころ》びそうになった。が、素捷《すばや》い身のこなし、足の踏立変《ふみたてが》えの巧さで、二三歩泳ぎはしたが、しゃんと踏止まった。
「エーッ」
 今度は自分の不覚を自分で叱る意で毒喝したのである。余程|肚《はら》の中がむしゃくしゃして居て、悪気が噴出したがっていたのであろう。
 叱咤《しった》したとて雪は脱《と》れはしない、益々固くなって歯の間に居しこるばかりだった。そこで、ふと見ると小溝の上に小さな板橋とおぼしいのが渡っているのが見えたので、其板橋の堅さを仮りてと橋の上にかかったが、板橋では無くて、柴橋に置土をした風雅のものだったのが一ト[#「ト」は小書き]踏で覚り知られた。これではいけぬと思うより早く橋を渡り越して其突当りの小門の裾板に下駄を打当てた。乱暴ではあるが構いはしなかった。
「トン、トン、トン」
 蹴《け》着《つ》けるに伴なって雪は巧く脱《ぬ》けて落ちた。左足の方は済んだ。今度は右のをと、左足を少し引いて、又
「トン、トン」
と、蹴つけた。ト、漸《ようや》くに雪のしっかり嵌《はま》り込んだのが脱けた途端に、音も無く門は片開きに開いた。開くにつれて中の雪がほの白く眼に映った。男はさすがにギョッとしない訳にはゆかなかった。
 が、逃げもしなかった、口も利かなかった。身体は其儘《そのまま》、不意に出あっても、心中は早くも立直ったのだ。自分の方では何とすることもせず、先方の出を見るのみに其瞬間は埋められたのであった。然し先方は何のこだわりも無く、身を此方へ近づけると同時に、何の言葉も無く手をさしのべて、男の手を探り取ってやさしく握って中へ引入れんとした。触った其手は暖かであった、なよやかであった。其力はやわらかであった、たしかに鄙《いや》しく無い女の手であった。これには男は又ギョッとした。が、しかし逃げもしなかった、口もきかなかった。
「何んな運にでもぶつかって呉りょう、運というものの面《つら》が見たい。」
というような料簡《りょうけん》が日頃|定《き》まって居るので無ければ斯様《こう》は出来ぬところだが、男は引かるるままに中へ入った。
 女は手ばしこく門を鎖《とざ》した。佳《よ》い締り金物と見えて音も少く、しかもぴったりと厳重に鎖されたようだった。雲の余りの雪は又ちらちらと降って来た。女は門の内側に置いてあった恐ろしい大きな竹の笠、――茶の湯者の露次に使う者を片手で男の上へかざして雪を避けながら、片手は男の手を取って謹《つつし》まやかに導く。庭というでは無い小広い坪の中《うち》を一ト[#「ト」は小書き]筋敷詰めてある石道伝いに進むと、前に当って雪に真黒く大きな建物が見えた。左右は張り出たように、真中は引入れてあるように見えたが、そこは深廂《ふかびさし》になっていて、其突当りは中ノ[#「ノ」は小書き]口とも云うべきところか。其処へかかると中に灯火《ともしび》が無く、外の雪明りは届かぬので、ただ女の手に引かるるのみの真暗闇に立つ身の、男は聊《いささ》か不安を覚えぬでは無かった。
 然し男は「ままよ」の安心で、大戸の中の潜《くぐ》り戸《ど》とおぼしいところを女に従って、ただ只管《ひたすら》に足許《あしもと》を気にしながら入った。女は一寸|復《また》締りをした。少し許《ばか》りの土間を過ぎて、今宵《こよい》の不思議な運を持来らした下駄と別れて上へあがった。女は何時の間に笠を何処へ置いたろう、これに気付いた時は男は又ギョッとして、其のさかしいのに驚いた。板の間を過ぎた。女は一寸男の手を上げた。男は悟った。畳厚さだけ高くなるのだナと。それで躓《つまず》くことなども無しに段々進んだ。物騒な代《よ》の富家大家は、家の内に上り下りを多くしたものであるが、それは勝手知らぬ者の潜入|闖入《ちんにゅう》を不利ならしむる設けであった。
 幾間かを通って遂に物音一ツさせず奥深く進んだ。未だ灯火を見ないが、やがてフーンと好い香がした。沈《じん》では無いが、外国の稀品《きひん》と聞かるる甘いものであった。
 女はここへ坐れと云うように暗示した。そして一寸会釈したように感じられたが、もの静かに去った。男は外国織物と思わるる稍《やや》堅い茵《しとね》の上にむんずと坐った。室隅には炭火が顔は見せねど有りしと知られて、室《へや》はほんのりと暖かであった。
 これだけの家だ。奥にこそ此様《こんな》に人気《ひとけ》無くはしてあれ、表の方には、相応の男たち、腕筋も有り才覚も有る者どもの居らぬ筈は無い。運の面は何様《どん》なつらをして現われて来るものか、と思えば、流石《さすが》に真暗の中に居りながらも、暗中一ぱいに我が眼が見張られて、自然と我が手が我が左の腰に行った。然し忽《たちま》ち思返して、運は何様な面をしておれの前に出て来るか知らぬが、おれは斯様《こん》な面をして運に見せて遣《や》れ、とにったりとした笑い顔をつくった。
 其時|上手《かみて》の室に、忍びやかにはしても、男の感には触れる衣《きぬ》ずれ足音がして、いや、それよりも紅燭《こうしょく》の光がさっと射して来て、前の女とおぼしいのが銀の燭台を手にして出て来たのにつづいて、留木のかおり咽《む》せるばかりの美服の美女が現われて来た。が、互に能《よ》くも見交さぬに、
「アッ」
と前の女は驚いて、燭台を危く投げんばかりに、膝も腰も潰《つい》え砕けて、身を投げ伏して面《おもて》を匿《かく》して終《しま》った。
「にッたり」
と男は笑った。
 主人は流石に主人だけあった。これも驚いて仰反《のけぞ》って倒れんばかりにはなったが、辛く踏止まって、そして踏止まると共に其姿勢で、立ったまま男を憎悪と憤怒との眼で睨《にら》み下した。悍《たけ》しい、峻《さが》しい、冷たい、氷の欠片《かけ》のような厳しい光の眼であった。しかし美しいことは美しい、――悪の美しさの眼であった。
「にッたり」
と男は笑った。曇った鏡が人を映すように男は鈍々《のろのろ》と主人を見上げた。年はまだ三十前、肥《ふと》り肉《じし》の薄皮だち、血色は激したために余計紅いが、白粉《おしろい》を透《とお》して、我邦《わがくに》の人では無いように美しかった。眼鼻、口耳、皆立派で、眉は少し手が入っているらしい、代りに、髪は高貴の身分の人の如くに、綰《わが》ねずに垂れている、其処が傲慢《ごうまん》に見える。
 夜盗の類《たぐい》か、何者か、と眼稜《めかど》強《きつ》く主人が観た男は、額広く鼻高く、上り目の、朶《たぶ》少き耳、鎗《やり》おとがいに硬そうな鬚《ひげ》疎《まば》らに生い、甚だ多き髪を茶筅《ちゃせん》とも無く粗末に異様に短く束《つか》ねて、町人風の身づくりはしたれど更に似合わしからず、脇差一本指したる体《てい》、何とも合点が行かず、痩《や》せて居れども強そうに、今は貧相なれども前には人の上に立てるかとも思われ、盗賊の道の附入りということを現在には為したのなれど、癇癖《かんぺき》強くて正《まさ》しく意地を張りそうにも見え、すべて何とも推量に余る人品であった。その不気味な男が、前に
「にッたり」
と笑ったきり、何時までも顔の様子をかえず、にッたりを木彫《きぼり》にしたような者に「にッたり」と対《むか》っていられて、憎悪も憤怒も次第に裏崩れして了った。実に怒る者は知る可し、笑う者は測るべからず、である。求むる有るものは弱し、恐るるに足らず、求むる無き者は強し、之を如何ともする能《あた》わず、である。不可解は恐怖になり、恐怖は遁逃《とんとう》を思わしめるに至った。で、何も責め立てられるでも無く、強請されるでも無いが、此男の前に居るに堪え無くなって、退《の》こうとした。が、前に泣《なき》臥《ふ》している召使を見ると、そこは女の忽然《こつねん》として憤怒になって、
「コレ」
と、小さい声ではあったが叱るように云った。
「…………」
「…………」
「…………」
であって、短い時間では有ったが、非常に長い時間のように思われて、女は其の無言無物の寂寞《せきばく》の苦に、十万億土を通るというのは斯様いうものででもあるかと苦んでいたので、今、「コレ」と云われると、それが厳しい叱咤であろうと何であろうと、活路を死中に示され、暗夜に灯火を得たが如く、急に涙の顔を挙げて、
「ハイ」
と答えたが、事態の現在を眼にすると、復《また》今更にハラハラと泣いて、
「まことに相済みませぬ疎忽《そこつ》を致しました。御相図《おあいず》と承わり、又御物ごしが彼方《あのかた》様|其儘《そのまま》でござりましたので、……如何様にも私を御成敗下さりまして、……又此方様は、私、身を捨てましても、御引取いただくよう願いまして、然《さ》よう致しますれば……」
と、今まで泣伏していた間に考えていたものと見えて、心有りたけを澱《よど》みなく言立てた。真実はおもてに現われて、うそや飾りで無いことは、其の止途無《とめどな》い涙に知れ、そして此の紛《まぎ》れ込者を何様《どう》して捌《さば》こうか、と一生懸命真剣になって、男の顔を伺った。目鼻立のパラリとした人並以上の器量、純粋の心を未だ世に濁されぬ忠義|一図《いちず》の立派な若い女であった。然し此女の言葉は主人の昨日《きのう》今日《きょう》を明白にして了った。そして又真正面から見た
「にッたり」
の木彫に出会って、これが自分で捌き得る人物だろうかと、大《おおい》に疑懼《ぎく》の念を抱かざるを得なくなり、又今更に艱苦《かんく》にぶつかったのであった。
 主人の憤怒はやや薄らいだらしいが、激情が退くと同時に冷透の批評の湧く余地が生じたか、
「そちが身を捨てましても、と云って、ホホホ、何とするつもりかえ。」
と云って冷笑すると、女は激して、
「イエ、ほんとに身を捨てましても」
とムキになって云ったが、主人は
「いや、それよりも」
と、女を手招きして耳に口を寄せて、何かささやいた。女は其意を得て屏風《びょうぶ》を遶《めぐ》り、奥の方《かた》へ去り、主人は立っても居られず其便に坐した。
 やがて女は何程か知れぬが相当の金銀を奉書を敷いた塗三宝に載せて持て来て男の前に置き、
「私|軽忽《きょうこつ》より誤って御足を留《とど》め、まことに恐れ入りました。些少《さしょう》にはござりますれど、御用を御欠かせ申しましたる御勘弁料差上げ申しまする。何卒《なにとぞ》御納め下されまして、御随意御引取下されまするように。」
と、利口に云廻して指をついて礼をすると、主人も同時に軽く頭《かしら》を下げて挨拶した。
 すると「にッたり」は「にッたり」で無くなった。俄《にわか》に強く衝《つ》き動かされて、ぐらぐらとなったように見えたが、憤怒と悲みとが交り合って、ただ一ツの真面目さになったような、犯し難い真面目さになって、
「ム」
と行詰ったが如くに一ト[#「ト」は小書き]息した。真面目の顔からは手強《てごわ》い威が射した。主人も女も其威に打たれ、何とも測りかねて伏目にならざるを得なかった。蝋燭《ろうそく》の光りにちらついていた金銀などは今誰の心にも無いものになった。主人にも女にも全く解釈の手がかりの無い男だった。
「おのれ等」
と、見だての無い衣裳を着けている男の口からには似合わない尊大な一語が発された。然し二人は圧倒されて愕然《がくぜん》とした、中辺の高さでは有るが澄んで良い声であった。
「揃いも揃って、感心しどころのある奴の。」
 罵《ののし》らるべくもあるところを却《かえ》って褒められて、二人は裸身《はだかみ》の背中を生《なま》蛤《はまぐり》で撫でられたでもあるような変な心持がしたろう。
「これほどの世間の重宝を、手ずからにても取り置きすることか、召使に心ままに出し入れさすること、日頃の大気、又|下《しも》の者を頼みきって疑わぬところ、アア、人の主《しゅ》たるものは然様《そう》無《の》うては叶わぬ、主に取りたいほどの器量よし。……それが世に無くて、此様《こん》なところにある、……」
 二人を相手にしての話では無かった。主は家隷《けらい》を疑い、郎党は主を信ぜぬ今の世に対しての憤懣《ふんまん》と悲痛との慨歎《がいたん》である。此家《このや》の主人はかく云われて、全然意表外のことを聞かされ、へどもどするより外は無かった。
「しかし、此処の器量よしめの。かほどの器量までにおのれを迫《せり》上《あ》げて居おるのも、おのれの私を成そうより始まったろう。エーッ、忌々しい。」
 眼の中より青白い火が飛んで出たかと思われた。主人は訳はわからぬが、其|一閃《いっせん》の光に射られて、おのずと吾《わ》が眼を閉じて了った。
「この女めも、弁口、取りなし、下の者には十二分の出来者。しかも生命《いのち》を捨ててもと云居った、うその無い、あの料簡《りょうけん》分別、アア、立派な、好い侍、かわゆい、忠義の者ではある。人に頼まれたる者は、然様のうては叶わぬ。高禄をくれても家隷《けらい》に有《も》ちたいほどの者ではある。……しかし大すじのことが哀れや分って居らぬ、致方無い、教えの足らぬ世で、忠義の者が忠義でないことをして、忠義と思うて死んで行く。善人と善人とが生命を棄てあって、世を乱している。エーッ忌々しい。」
 全然二人の予期した返答は無かったが、ここに至って、此の紛れ入り者は、何の様な者かということが朧気《おぼろげ》に解って来た。しかし自分達が何様扱われるかは更に測り知られぬので、二人は畏服《いふく》の念の増すに連れ、愈々《いよいよ》底の無い恐怖に陥った。
 男はおもむろに室《へや》の四方を看まわした。屏風《びょうぶ》、衝立《ついたて》、御厨子《みずし》、調度、皆驚くべき奢侈《しゃし》のものばかりであった。床の軸は大きな傅彩《ふさい》の唐絵《からえ》であって、脇棚にはもとより能《よ》くは分らぬが、いずれ唐物と思われる小さな貴げなものなどが飾られて居り、其の最も低い棚には大きな美しい軸盆様のものが横たえられて、其上に、これは倭物《わもの》か何かは知らず、由緒ありげな笛が紫絹を敷いて安置されていた。二人は男の眼の行く方《かた》を見護ったが、男は次第に復「にッたり」に反った。透《す》かさず女は恐る恐る、
「何卒わたくし不調法を御ゆるし下されますよう、如何ようにも御詫《おわび》の次第は致しまする。」
と云うと、案外にも言葉やさしく、
「許してくれる。」
と訳も無く云放った。二人はホッとしたが、途端にまた
「おのれの疎忽は、けも無い事じゃ。ただし此|家《や》の主人《あるじ》はナ」
と云いかけて、一寸口をとどめた。主人と云ったのは此処には居らぬ真《まこと》の主人を云ったことが明らかだったから、二人は今さらに心を跳《おど》らせた。
「実は、我が昵懇《じっこん》のものであるでの。」
と云い出された。二人は大鐘を撞《つ》かれたほどに驚いた。それが虚言《うそ》か真実《まこと》かも分らぬが、これでは何様いう始末になるか全く知れぬので、又|新《あらた》に身内が火になり氷になった。男はそれを見て、「にッたり」を「にたにたにた」にして、
「ハハハ、心配しおるな、主人は今、海の外に居るのでの。安心し居れ。今宵《こよい》の始末を知らそうとて知らそう道は無い。帰って来居る時までは、おのれ等、敵の寄せぬ城に居るも同然じゃ。好きにし居れ、おのれ等。楽まば楽め。人のさまたげはせぬが功徳じゃ。主人が帰るそれまでは、我とおのれ等とは何の関りも無い。帰る。宜かろう。何様じゃ。互に用は無い。勝手にしおれおのれ等。ハハハハハハ、公方《くぼう》が河内《かわち》正覚寺《しょうがくじ》の御陣にあらせられた間、桂の遊女を御相手にしめされて御慰みあったも同じことじゃ、ハハハハハハ。」
と笑った。二人は畳に頭《こうべ》をすりつけて謝した。其|間《ひま》に男は立上って、手早く笛を懐中して了って歩き出した。雪に汚れた革《かわ》足袋《たび》の爪先の痕《あと》は美しい青畳の上に点々と印《いん》されてあった。

   

 南北朝の頃から堺は開けていた。正平の十九年に此処の道祐《どうゆう》というものの手によって論語が刊出され、其他|文選《もんぜん》等の書が出されたことは、既に民戸の繁栄して文化の豊かな地となっていたことを語っている。山名|氏清《うじきよ》が泉州守護職となり、泉府と称して此処に拠った後、応永の頃には大内義弘が幕府から此地を賜わった。大内は西国の大大名で有った上、四国中国九州諸方から京洛《きょうらく》への要衝の地であったから、政治上交通上経済上に大発達を遂げて愈々《いよいよ》殷賑《いんしん》を加えた。大内は西方智識の所有者であったから歟《か》、堺の住民が外国と交商して其智識を移し得たからである歟、我邦《わがくに》の城は孑然《げつぜん》として町の内、多くは外に在るのを常として、町は何等の防備を有せぬのを例としていたが、堺は町を繞《めぐ》らして濠《ほり》を有し、町の出入口は厳重な木戸木戸を有し、堺全体が支那の城池のような有様を持っていた。乱世に於けるかかる形式は、自然と人民をして自ら治むることの有利にして且喫緊なことを悟らしめた。当時の外国貿易に従事する者は、もとより市中の富有者でもあり、智識も手腕も有り、従って勢力も有り、又多少の武力――と云ってはおかしいが、子分子方、下人|僮僕《どうぼく》の手兵ようの者も有って、勢力を実現し得るのであった。それで其等の勢力が愛郷土的な市民に君臨するようになったか、市民が其等の勢力を中心として結束して自己等の生活を安固幸福にするのを悦《よろこ》んだためであるか、何時となく自治制度様のものが成立つに至って、市内の豪家《ごうか》鉅商《きょしょう》の幾人かの一団に市政を頼むようになった。木戸木戸の権威を保ち、町の騒動や危険事故を防いで安寧を得せしむる必要上から、警察官的権能をもそれに持たせた。民事訴訟の紛紜《ふんうん》、及び余り重大では無い、武士と武士との間に起ったので無い刑事の裁断の権能をもそれに持たせた。公辺からの租税夫役等の賦課其他に対する接衝等をもそれに委《ゆだ》ねたのであった。実際に是《かく》の如き公私の中間者の発生は、栄え行こうとする大きな活気ある町には必要から生じたものであって、しかも猫の眼の様にかわる領主の奉行、――人民をただ納税義務者とのみ見做《みな》して居る位に過ぎぬ戦乱の世の奉行なんどよりは、此の公私中間者の方が、何程か其土地を愛し、其土地の利を図り、其人民に幸福を齎《もた》らすものであったか知れぬのであった。それで足利《あしかが》幕府でも領主でも奉行でも、何時となくこれを認めるようになったのである。此等の人々を当時は、納屋衆、又は納屋貸衆と云い、それが十人を定員とした時は納屋十人衆などと云ったのであった。納屋とは倉庫のことである。交通の便利は未だ十分ならず、商業機関の発達も猶《なお》幼稚であった時に際して、信頼すべき倉庫が、殆んど唯一の此の大商業地に必要で有ったろうことは云うまでも無い。納屋貸衆は多くの信ぜらるる納屋を有していて之を貸し、或は其在庫品に対して何等かの商業上の便宜を与えもしたで有ろうから、勿論世間の為にもなり、自分の為にも利を見たのであろう。夙《つと》に外国貿易に従事した堺の小島太郎左衛門、湯川|宣阿《せんあ》、小島三郎左衛門等は納屋衆の祖先となったのか知れぬ。しかも納屋衆は殆ど皆、朝鮮、明、南海諸地との貿易を営み、大資本を運転して、勿論冒険的なるを厭《いと》わずに、手船《しゅせん》を万里に派し、或は親しく渡航視察の事を敢てするなど、中々一ト[#「ト」は小書き]通りで無い者共で無くては出来ぬことをする人物であるから、縦《たと》い富有の者で無い、丸裸の者にしてからが、其の勇気が逞《たくま》しく、其経営に筋が通り、番頭、手代、船頭其他のしたたか者、荒くれ者を駕馭《がぎょ》して行くだけのことでも相当の人物で無くてはならぬのであったろうから、町の者から尊敬もされ、依信もされ、そして納屋衆と人民とは相持《あいもち》に持合って、堺の町は月に日に栄を増して行ったものであろう。後に至って、天正の頃|呂宋《ルソン》に往来して呂宋助左衛門と云われ、巨富を擁して、美邸を造り、其死後に大安寺となしたる者の如きも亦是れ納屋衆であった。永禄年中三好家の堺を領せる時は、三十六人衆と称し、能登屋《のとや》臙脂屋《べにや》が其|首《しゅ》であった。信長に至っては自家集権を欲するに際して、納屋衆の崛強《くっきょう》を悪《にく》み、之を殺して梟首《きょうしゅ》し、以て人民を恐怖せしめざるを得無かったほどであった。いや、其様《そん》な後の事を説いて納屋衆の堺に於て如何様の者であったかを云うまでも無く、此物語の時の一昨年延徳三年の事であった。大内義弘亡滅の後は堺は細川の家領《けりょう》になったが、其の怜悧《れいり》で、機変を能《よ》く伺うところの、冷酷|険峻《けんしゅん》の、飯綱《いづな》使《つか》い魔法使いと恐れられた細川政元が、其の頼み切った家臣の安富元家を此処の南の荘《しょう》の奉行にしたが、政元の威権と元家の名誉とを以てしても、何様《どう》もいざこざが有って治まらなかったのである。安富は細川の家では大したもので、応仁の恐ろしい大乱の時、敵の山名方の幾《いく》頭《かしら》かの勇将軍が必死になって目ざして打取って辛くも悦んだのは安富之綱であった。又|打死《うちじに》はしたが、相国寺の戦に敵の総帥の山名宗全を脅かして、老体の大入道をして大汗をかいて悪戦させたのは安富喜四郎であった。それほど名の通った安富の家の元家が、管領細川政元を笠に被《き》て出て来ても治まらなかったというのは、何で治まらなかった歟、納屋衆が突張ったからで無くて何であろう。それほどの誇りを有《も》った大商業地、富の地、殷賑の地、海の向うの朝鮮、大明《だいみん》、琉球《りゅうきゅう》から南海の果まで手を伸ばしている大腹中のしたたか者の蟠踞《ばんきょ》して、一種特別の出し風を吹出し、海風を吹入れている地、泣く児と地頭には勝てぬに相違無いが、内々は其|諺《ことわざ》通りに地頭を――戦乱の世の地頭、銭ばかり取りたがる地頭を、飴《あめ》ばかりせびる泣く児のように思っている人民の地、文化は勝《すぐ》れ、学問諸芸|遊伎《ゆうぎ》等までも秀でている地の、其の堺の大小路《おおしょうじ》を南へ、南の荘の立派な屋並の中《うち》の、分けても立派な堂々たる家、納屋衆の中でも頭株の嚥脂屋の奥の、内庭を前にした美しい小室に、火桶《ひおけ》を右にして暖かげに又安泰に坐り込んでいるのは、五十余りの清らな赭《あか》ら顔の、福々しい肥《ふと》り肉《じし》の男、にこやかに
「フム」
とばかりに軽く聴いている。何を些細《ささい》な事という調子である。これに対して下坐に身を伏せて、如何にもかしこまり切っている女は、召使筋の身分の故からというばかりでは無く、恐れと悲しみとにわなわなと顫《ふる》えているのは、今下げた頭《かしら》の元結《もとゆい》の端の真中に小波《さざなみ》を打っているのにも明らかであり、そして訴願の筋の差逼《さしせま》った情に燃えていることと見える。
「…………」
「…………」
 双方とも暫時《しばし》言葉は無かった。屈託無げにはしているが福々爺《ふくふくや》の方は法体《ほったい》同様の大きな艶々した前《まえ》兀頭《はげあたま》の中で何か考えているのだろう、にこやかには繕っているが、其眼はジッと女の下げている頭《かしら》を射透《いすか》すように見守っている。女は自分の申出たことに何の手答のある言葉も無いのに堪えかねたか、やがて少し頭を擡《もた》げた。燐みを乞う切ない眼の潤み、若い女の心の張った時の常の血の上った頬の紅色《くれない》、誰が見てもいじらしいものであった。
「どうぞ、然様《そう》いう訳でございますれば、……の御帰りになりまする前までに、こなた様の御力を以て其品を御取返し下さいまするよう。」
と復《また》一度、心から頭を下げた。そして、
「御帰りの近々に逼って居りますことは、こなた様にも御存知の通り。御帰りになりますれば、日頃|御重愛《ごちょうあい》の品、御手ならしの品とて、しばらく御もてあそび無かった後ゆえ、直にも御心のそれへ行くは必定《ひつじょう》、其時其御秘蔵が見えぬとあっては、御方様の御申訳の無いはもとより、ひいては何の様なことが起ろうも知れませぬ。御方様のきつい御心配も並一通りではござりませぬ。それ故に、御方様の、たっての御願い、生命《いのち》にもかかることと思召《おぼしめ》して、どうぞ吾《わ》が手に戻るようの御計らいをと、……」
 生命にもかかるの一語は低い声ではあったが耳に立たぬわけには行かなかった。
「ナニ、生命にもかかる。」
 最高級の言葉を使ったのを福々爺は一寸|咎《とが》めた迄ではあるが、女に取ってはそれが言葉甲斐の有ったので気がはずむのであろう、やや勢込んで、
「ハイ、そうおッしゃられたのでござりまする。全く彼《あ》の笛が無いとありましては、わたくし共めまでも何の様な……」
「いや、聟《むこ》殿《どの》があれを二《に》の無いものに大事にして居らるるは予《かね》て知ってもおるが、……多寡が一管の古物《こぶつ》じゃまで。ハハハ、何でこのわし程のものの娘の生命《いのち》にかかろう。帰って申せ、わしが詫《わ》びてやる、心配には及ばぬとナ。女は夫を持つと気が小さくなるというが、娘の時のあれは困り者のほどな大気の者であったが、余程聟殿を大事にかけていると見えて、大層女らしくなり居ったナ。好いわ、それも夫婦中が細やかなからじゃ。ハハハハ。」
「…………」
「分らぬか、まだ。よいか、わしが無理借りに此方《こち》へ借りて来て、七ツ下《さが》りの雨と五十からの芸事、とても上りかぬると謗《そし》らるるを関《かま》わず、しきりに吹習うている中《うち》に、人の居らぬ他所《よそ》へ持って出ての帰るさに取落して終《しも》うた、気が付いて探したが、かいくれ見えぬ、相済まぬことをした、と指を突いてわしがあやまったら聟殿は頬を膨《ふく》らしても何様《どう》にもなるまい。よいわ、京へ人を遣って、当りを付けて瘠《やせ》公卿《くげ》の五六軒も尋ね廻らせたら、彼《あの》笛に似つこらしゅうて、あれよりもずんと好い、敦盛《あつもり》が持ったとか誰やらが持ったとかいう名物も何の訳無う金で手に入る。それを代りに与えて一寸あやまる。それで一切は済んで終《しま》う。たとえ聟殿心底は不足にしても、それでも腹なりが治まらぬとは得云うまい。代りに遣る品が立派なものなら、却《かえ》って喜んで恐縮しようぞ。分ったろう。……帰って宜《よ》う云え。」
 話すに明らさまには話せぬ事情を抱いていて、笛の事だけを云ったところを、斯様《こう》すらりと見事に捌《さば》かれて、今更に女は窮して終った。口がききたくても口がきけぬのである。
「…………」
 何と云って宜いか、分らぬのである。しかし何様あっても此《この》儘《まま》に帰ったのでは何の役にも立たぬ。これでは何様あっても帰れぬのである。苧《お》ごけの中に苧は一杯あるのだが、抽出《ひきだ》して宜い糸口が得られぬ苦みである。いや糸口はハッキリして居て、それを引っぱり出しさえずれば埒《らち》は明くのだが、それを引出すことは出来なくて、強いて他の糸口、それは無いに定《き》まっている糸口を見出さなくてはならぬので、何とも為方の無い苦みに心が※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]《もが》かれているのである。
「…………」
 頭《かしら》も上げ得ず、声も出し得ず、石のようになっている意外さに、福々爺も遂に自分の会得のゆかぬものが有ることを感じ出した。其感じは次第次第に深くなった。そして是は自分の智慧の箭《や》の的たるべき魔物が其中に在ることは在るに違無いが何処に在るか分らないので、吾《わ》が頼むところの利器の向け処を知らぬ悩みに苦しめられ、そして又今しがた放った箭が明らかに何も無いところに取りっぱなしにされた無効さの屈辱に憤りを覚えた。福々爺もやや福々爺で無くなった。それでも流石《さすが》に尖《とが》り声などは出さず、やさしい気でいじらしい此女を、いたわるように
「そうしたのではまずいのか。」
と問うた。驚くべき処世の修行鍛錬を積んだ者で無くては出ぬ語調だった。女は其の調子に惹《ひ》かれて、それではまずいので、とは云兼ぬるという自意識に強く圧《お》されていたが、思わず知らず
「ハ、ハイ」
と答えると同時に、忍び音《ね》では有るが激しく泣出して終った。苦悩が爆発したのである。
「何も彼《か》も皆わたくしの恐ろしい落度から起りましたので。」
 自ら責めるよりほかは無かったが、自ら責めるばかりで済むことでは無い、という思が直に※[#「匈/月」、997-上-1]《むね》の奥から逼《せま》り上《のぼ》って、
「おかた様のきつい御難儀になりました。若《も》し其の笛を取った男が、笛を証拠にして御帰りなされた御主人様におかた様の上を悪しく申しますれば、証拠のある事ゆえ、抜差しはならず、おかた様は大変なことに御成りなされまする。それで是非共に、あれを、御自由のきく此方《こなた》様《さま》の御手で御取返しを願いに、必死になって出ました訳。わたくしめに死ねとなら、わたくしは此処ででも何処ででも死んでも宜しゅうございます、どうぞ此願の叶えられますよう。」
と、しどろもどろになって、代りの品などが何の役にも立たぬことをいう。潜在している事情の何かは知らず重大なことが感ぜられて、福々爺も今はむずかしい顔になった。
「ハテ」
と卒爾《そつじ》の一句を漏らしたが、後はしばらく無言になった。眼は半眼になって終った。然しまだ苦んだ顔にはならぬ、碁の手でも按《あん》ずるような沈んだのみの顔であった。
「取った男は何様《どん》な男だ。其顔つきは。」
「額広く鼻は高く、きれの長い末上りのきつい目、朶《たぶ》の無いような耳、おとがい細く一体に面長で、上髭《うわひげ》薄く、下鬚《したひげ》疎《まば》らに、身のたけはすらりと高い方で。」
「フム――。……して浪人か町人か。」
「なりは町人でござりましたなれど、小脇差。御発明なおかた様は慥《たしか》に浪人と……」
 問わるるままに女は答えた。それを咎《とが》めるというのではなく、
「娘もそなたもそれほど知ったものに、何で大切《だいじ》な物を取らせた。」
と、おのずから出ずべき疑をおのずからの調子で尋ね問われて、女はギクリと行詰まったが、
「それがわたくしの飛んでも無い過ちからでござりまして。」
と、悪いことは身にかぶって、立切《たてき》って終う。そして又切なさに泣いて終う。福々爺の顔は困惑に陥り、明らかに悶《もだ》えだした。然し、
「よいよい、そなたを責めるのでは無い。訳が分らぬから聞くまでじゃ。では面《おもて》は見知っても、名はもとより知らぬものじゃナ。前々から知った者でも無いナ。」
と責めるでは無いと云いながら責め立てる。
「ハイ。ハイ。取られました其夜初めて見ました者で。」
と答える。
「フム――。そなた等で承知して奪《と》らせよう訳は無いことじゃ。忍び入ることなどは叶わぬようにしてもあるし、又物騒の世なれば、二人三人の押入り者などが来るとも、むざとは物など奪られぬよう、用心の男も飼うてある家じゃ。それじゃに、そなた等、おもては知ったが、知らぬ者に、大事なものを奪られたというのか。フム――。そして何も彼もそなたの恐ろしい落度から起ったというのじゃナ。身の罪に責められて、そなたは生命を取られてもと云い居るのじゃナ。」
「ハイ、あの有難いお方様のために、御役に立つことならば只今でも……」
 真紅《まっか》になった面をあげて、キラリと光った眼に一生懸命の力を現わして老主人の顔を一寸見たが、忽《たちま》ちにして崩《くず》折《お》れ伏した。髪は領元《えりもと》からなだれて、末は乱れた。まったく、今首を取るぞと云われても後へは退《ひ》かぬ態《てい》に見えた。
 心の誠というものは神力《しんりき》のあるものである。此の女の心の誠は老主人の心に響いたのであろう。主人の面には甘さも苦さも無くなって、ただ正しい確乎《しか》とした真面目さばかりになった。それは利害などを離れて、ただ正しい解釈と判断とを求めようとする真剣さの威光の籠《こも》り満ちているものであった。
「して其男が聟殿に何事を申そうという心配があるのか。何事。何事を……」
 的の真ただ中に箭鏃《やじり》のさきは触れた。女は何とすることも出来無かった。其儘《そのまま》に死にでもするように、息を詰めるより外はなかった。
「…………」
「…………」
 恐るべき沈黙はしばし続いた。そして其沈黙はホンノしばしであったに関らず、三阿僧祇劫《さんあそぎごう》の長さでもあるようだった。
「チュッ、チュッ、チュ、チュッ」
 庭樹に飛んで来た雀が二羽三羽、枝《えだ》遷《うつ》りして追随しながら、睦《むつ》ましげに何か物語るように鳴いた。
「告口……証拠……大変なことになる……フム――」
と口の中で独りつぶやいて居た主人は、突然として
「アッ」
と云って、恐ろしいものにでも打のめされたように大動揺したが、直ちに
「ム」
と脣《くちびる》を結んで自ら堪えた。我を失ったのであった。大努力したのであった。今や満身の勇気を振い起したのであった。勇気は勝った。顔は赤みさした。
「アア」
という一嘆息に、過ぎたことはすべて葬り去って終《しま》って、
「よいわ。子は親を悩ませ苦めるようなことを為し居っても、親は子を何処までも可愛《かわゆ》く思う。それを何様《どう》とも仕ようとは思わぬ。あれはかわゆい、助けてやらねば……」
と、自分から自分を評すように云った。たしかにそれは目の前の女に対《むか》って言ったのでは無かった。然し其調子は如何にもしんみりとしたもので、怜悧《りこう》な此の女が帰って其主人に伝え忘れるべくも無いものであった。
 一切の事情は洞察されたのであった。
 女の才弁と態度と真情とは、事の第一原因たる吾《わ》が女主人の非行に触れること無く、又此|家《や》の老主人の威厳を冒すことも無く、巧みに一枝《いっし》の笛を取返すことの必要を此家の主人に会得させ、其の力を借《か》ることを乞いて、将《まさ》に其目的を達せんとするに至ったのである。此家の主人の処世の老練と、観照の周密と、洞察力の鋭敏とは、一切を識破して、そして其力を用いて、将に発せんとする不幸の決潰《けっかい》を阻止せんとするのである。しかも其の中でも老主人は人の心を攬《と》ることを忘れはし無かった。
「分った。言う通りにして計らってやる。それにしてもそちは見上げた器量じゃ。過ちは時の魔というものだ、免《ゆる》してやる。口も能《よ》く利ける、気立も好い、感心に忠義ごころも厚い。行末は必ず好い男を見立てて出世させて遣る。」
と附足して、やさしい眼で女を見遣った時は、前の福々爺《ふくふくや》になっていた。女はただ頭《かしら》を下げて無言に恩を謝するのみであった。
「ただナ、惜いことは其時そちが今一ト[#「ト」は小書き]働きして呉れていたら十二分だったものを。其様に深くは、望む方が無理じゃが。あれも其処までは気が廻らなかったろうか。」
「ト仰《おっし》ありまするのは。」
「イヤサ、少し調べれば直《じき》に分ることだから好いようなものの、此方《こなた》は何の何某《なにがし》というものの家と、其男めには悟られて了って居ながら、其男めを此方では、何処の何という者と、大よその見当ぐらいも着かぬままに済ませたは、分が悪かったからナ。」
と余談的に云うと、女は急に頭を上げて勇気に充ちた面持で、小声ではあるが、
「イエ、其事でございまするなら、一旦其男を出して帰らせました後、直《ただち》に身づくろい致しまして、低下駄の無提灯《むぢょうちん》、幸いの雪の夜道にポッツリと遠く黒く見えまする男のあとを、悟られぬようつけてまいりました。」
と云いかくるに、老主人は思わず知らず声を出して、
「ナニ、直に其後をつけたというのか。」
「ハイ、悟られぬよう……、見失わぬよう……、もし悟られて逆に捉えられましたならば何と致しましょうか、と随分切ない心遣いをいたしながら、冷たさに足も痛く、寒さに身も凍り縮みましたなれど、一生懸命、とうとう首尾好くつけおおせました。」
 主人は感心極まったので身を乗出して、
「オオ。ヤ、えらい奴じゃ。よくやり居った。思いついて出たのもえらいが、つけ果《おお》せたとは、ハテ恐ろしい。女にしては恐ろしいほどの甲斐性者。シテ……」
「イエ何、御方様の御指図でござりましたので、……私はただ私の不調法を償《つぐな》いましょうばっかりに、一生懸命に致しましたことで。それに全く一面の雪の明るさが有ったればこそで、随分遠く遠く見失いかねませぬほど隔たっても、彼方《あなた》の丈高い影は見え、此方は頭上から白《しら》はげた古かつぎを細紐《ほそひも》の胴ゆわいというばかりの身なりから、気取られました様子も無く、巧くゆきましたのでございまする。」
「フム。シテ其男の落着いたところは。」
「塩孔《しおな》の南、歟《か》とおぼえまする、一丁余りばかり離れて、人家少し途絶え、ばらばら松七八本の其のはずれに、大百姓の古家か、何にせよ屋の棟の割合に高い家、それに其姿は蔵《かく》れて見えずなりましたのでございまする。ばらばら松の七八本が動かぬ目処《めど》にございまする。」
「ム、よし。すぐに調べはつく。アア、峻《さが》しい世の中のため、人は皆さかしくなっているとは云え、女子供までがそれほどの事をするか。よし、厭《いや》なことではあるが、乃公《おれ》も何とかして呉れいでは。」
と、強い決意の色を示したが、途端に身の周囲《まわり》を見廻して、手近にあった紙おさえにしてあった小さなものを取って、
「遣る。」
と、女に与えた。当座の褒美と思われた。それは唐《から》の※[#「唆」の「口へん」に代えて「けものへん」、第3水準1-87-75]猊《さんげい》か何かの、黄金色《きん》だの翠色《みどり》だのの美しく綺《いろ》え造られたものだった。畳に置かれた白々《しろじろ》とした紙の上に、小さな宝玩《ほうがん》は其の貴い輝きを煥発《かんぱつ》した。女は其前に平伏《ひれふ》していた。
「チュッ、チュッ、チュ、チュ」
 雀の声が一霎時《いちしょうじ》の閑寂の中《うち》に投入れられた。

   下

 舳《へ》の松村の村はずれ、九本松《くほんまつ》という俚称《りしょう》は辛く残りながら、樹々は老い枯《から》び痩《や》せかじけて将《まさ》に齢《よわい》尽きんとし、或は半ば削《そ》げ、或は倒れかかりて、人の愛護の手に遠ざかれるものの、自然の風残雪虐に堪えかねたる哀しき姿を現わしたる其の端に、昔は立派でも有ったろうが、今は不幸な家運を語る証拠物のように遺っているに過ぎぬというべき一軒屋の、ほかには母屋を離れて立腐れになりたる破れ厩《まや》、屋根の端の斜に地に着きて倒れ潰《つぶ》れたる細長き穀倉などの見ゆるのみの荒廃さ加減は、恐らくは怨霊《おんりょう》屋敷なんど呼ばれて人住まずなった月日が、既に四五年以上も経たものであろう。それでも、だだ広い其の母屋の中《うち》の広座敷の、古畳の寄せ集め敷《じき》、隙間もあれば凸凹《たかひく》もあり、下手の板戸は立附が悪くなって二寸も裾があき、頭があき、上手の襖《ふすま》は引手が脱《ぬ》けて、妖魔《ようま》の眼のように※[#「穴/目、第3水準1-89-50]然《ようぜん》と奥の方《かた》の灰暗《ほのぐら》さを湛《たた》えている其中に、主客の座を分って安らかに対座している二人がある。客はあたたかげな焦茶の小袖《こそで》ふくよかなのを着て、同じ色の少し浅い肩衣《かたぎぬ》の幅細なのと、同じ袴《はかま》。慇懃《いんぎん》なる物ごし、福々しい笑顔。それに引かえて主人《あるじ》は萎《な》え汚れて黒ばめる衣裳を、流石《さすが》に寒げに着てこそは居ないが、身の痩《やせ》の知らるる怒り肩は稜々《りょうりょう》として、巌骨《がんこつ》霜を帯びて屹然《きつぜん》として聳《そび》ゆるが如く、凜《りん》として居丈高に坐った風情は、容易に傍《そば》近く寄り難いありさまである。然し其姿勢にも似ず、顔だけは不思議にもにッたりと笑を含んで、眼にも嶮《けわ》しい光は見せて居らぬが、それは此人が此頃何処からか仮りて来て被《かぶ》っている仮面では無いかと疑われる、むしろ無気味なものであった。
 座の一隅には矮《ひく》い脚を打った大きな折敷《おしき》に柳樽《やなぎだる》一|荷《か》置かれてあった。客が従者《じゅうしゃ》に吊らせて来て此処へ餉《おく》ったものに相違無い。
 突然として何処やらで小さな鈴の音《ね》が聞えた。主人《あるじ》も客も其の音《おと》に耳を立てたというほどのことは無かったが、主人は客が其音を聞いたことを覚り、客も主人が其の音を聞いたことを覚った。客は其音が此|家《や》へ自分の尋ねて来た時、何処からか敏捷《びんしょう》に飛出して来て脚元に戯《じゃ》れついた若い狗《いぬ》の首に着いていた余り善くも鳴らぬ小さな鈴の音であることを知った。随《したが》って新に何人かが此家へ音ずれたことを覚った。しかし召使の百姓上りのよぼよぼ婆《ばば》が入口へ出て何かぼそぼそと云っていたようだったが、帰ったのか入ったのか、それきりで此方へは何も通じは仕無かった。
 主人は改めて又にッたりとして、
「ヤ、了休禅坊の御話といい、世間の評話といい、いろいろ面白うござった。今日《きょう》はじめて御尋をいただいたなれど十年の知己の心持が致す。」
「左様仰あって頂き得て、何よりにござる。人と人との気の合うたるは好い、合いたがったるは悪い、と然《さ》る方が仰せられたと承わり居りまするが、まことに自然に、性分の互に反りかえらぬ同士というはなつかしいものでござる。」
「反りかえった同士が西と東とに立分れ、反りかえらぬ同士が西にかたまり、東にかたまり、そして応仁の馬鹿戦が起ったかナ。ハハハハ。」
「イヤ、そればかりでもござりますまい。損得勘定が大きな分け隔てを致しましたろう。」
「其の損得という奴が何時も人間を引廻すのが癪《しゃく》に障る。損得に引廻されぬ者のみであったなら世間はすらりと治まるであろうに。」
「ハハハ。そこに又面白いことがござりまする。先ず世間の七八分までは、得に就かぬものは無いのでござりまするから、得に就いた者が必定に得になりましたなら、世間は疾《と》く治まりまする訳でござりまするが、得を取る筈の者が却《かえ》って損を取り、損をする筈の者が意外に得をしたり致しますことが、得て有るものでござりまするので、二重にも三重にも世間は治まり兼ぬるのではござりますまいか。」
「おもしろい。されば愈々《いよいよ》損得に引廻わされぬ者を世間の心《しん》にせねばならぬ。」
「ところが、見す見す敗《ま》けるという方に附く者は今の世――何時の世にも少いでござりましょう。されば損得に引廻されないような大将の方に旗の数が多くなろう理は先ず以て無いことでござれば、そこで世の中は面倒なのでござる。」
「癪に触る。損得勘定のみに賢い奴等、かたッぱしからたたき切るほかは無い。」
「しかし、申しては憚《はばか》りあることでござれど」
と声を落して、粛然として、
「正覚寺の、さきだっての戦《いくさ》の如く、桃井、京極、山名、一色殿等の上に細川殿まで首《しゅ》となって、敵勢の四万、味方は二三千とあっては、如何《いかに》とも致し方無く、公方、管領の御職位、御権威は有っても遂に是非なく、たたき切ろうにも力及ばず、公方は囚《とら》われ、管領は御自害、律儀者の損得かまわずは、世を思切って、僧になって了休となるような始末、彼などは全く損得の沖を越えたものでござる。人柄はまことになつかしいものでござるが、世捨人入道雲水ばかり出来ても善人が世に減る道理。又管領殿御臣下も多人数御切腹あり、武士の行儀はそれにて宜敷けれど、世間より申せば、義によって御腹召すほどの善い方々が、それだけ世間に減った道理。そういうことで世間の行末が好くなって行こう理窟はござらぬ。これは何としても世間一体を良くしようという考え方に向わねば、何時迄経っても鑓《やり》刀《かたな》、修羅の苦患《くげん》を免れる時は来ないと存じまする。」
 主人は公方や管領の上を語るのを聞いている中《うち》に、やや激したのであろう、にッたりと緩めて居た顔つきは稍々《やや》引緊《ひきしま》って硬《こわ》ばって来たが、それを打消そうと力《つと》むるのか、裏の枯れたような高笑い、
「ハッハッハ。其通り。了休がまだ在俗の時、何処からか教えられてまいったことであろうが、二ツの泥づくりの牛が必死に闘いながら海へ入って了う、それが此世の様《さま》だと申居った。泥牛、泥人形、みんな泥牛、泥人形。世間一体を良くしようなどと心底から思うものが何処にござろう。又|仮令《たとい》然様《そう》思う者が有ったにしても、何様《どう》すれば世間が良くなるか、其様な道を知っているものが何処にござろう。道が分らぬから術《て》を求める。術を以て先ずおのが角を立派にし、おのが筋骨を強くし、おのが身を大きくしようとする。其段になればやはり闘だ。如何に愛宕《あたご》の申子なればとて、飯綱愛宕の魔法を修行し、女人禁制の苦を甘ない、経陀羅尼《きょうだらに》を誦《じゅ》して、印を結び呪《じゅ》を保ち、身を虚空に騰《あが》らせようなどと、魔道の下《もと》に世をひれ伏さしょうとするほどのたわけ者が威を振って、公方を手づくねの泥細工で仕立つる。それが当世でござる。癪に触らいでか。道も知らぬ、術も知らぬ、身柄家柄も無い、頼むは腕一本|限《ぎ》りの者に取っては、気に食わぬ奴は容赦無くたたき斬《き》って、時節到来の時は、つんのめって海に入る。然様したスッキリした心持で生きて、生きとおしたら今宵死んでも可い、それが又自然に世の中の為にもなろう。ハハハハハハ。」
「それで世の中は何時迄も修羅道つづきで……御身は修羅道の屈原のような。」
「ナニ、屈原とナ。」
「心を厳しく清く保って主に容れられず、世に容れられず、汨羅《べきら》に身を投げて歿《な》くなられた彼《あ》の。」
「フ、フ。ヤ、それがしはおとなしくは死なぬ、暴れ屈原か。ハハハハ。」
「世を遁《のが》れて仏道に飛込まれた彼の了休禅坊はおとなしい屈原で。」
「ハハ、ハハ。良い男だが、禅に入るなど、ケチな奴で。」
「失礼御免を蒙《こうむ》りまするが、たたき斬り三昧《ざんまい》で、今宵死んで悔いぬとのみの暴れ屈原も……」
「貴様の存分な意見からは……」
「ケチではござらぬかナ。と申したい。」
「アッハッハ。何でまた。」
「物さしで海の深さを測る。物さしのたけが尽きても海が尽きたではござらぬ。今の武家の世も一ト[#「ト」は小書き]世界でござる、仏道の世界も一ト[#「ト」は小書き]世界でござる、日本国も一ト[#「ト」は小書き]世界でござる。が、世界がそれらで尽きたではござらぬ。高麗《こうらい》、唐土《もろこし》、暹羅《シャム》国、カンボジャ、スマトラ、安南《あんなん》、天竺《てんじく》、世界ははて無く広がって居りまする。ここの世界が癪に触るとて、癪に触らぬ世界もござろう。紀伊の藤代から大船《たいせん》を出して、四五十反の帆に東々北の風を受ければ、忽《たちま》ちにして煩わしい此の世界はこちらに残り、あちらの世界はあちらに現われる。異った星の光、異った山の色、随分おもしろい世界もござるげな。何といろいろの世界を股にかける広い広い大きな渡海商いの世界から見ましょうなら、何人が斬れるでも無い一本の刀で癇癪《かんしゃく》の腹を癒《いや》そうとし、時節到来の暁は未練なく死のうまでよと、身を諦めて居らるる仁有らば、いさぎよくはござれど狭い、小さい、見て居らるる世界が小さく限られて、自然と好みも小さいかと存ずる。大海《だいかい》に出た大船の上で、一天の星を兜《かぶと》に被《き》て、万里の風に吹かれながら、はて知れぬ世界に対《むか》って武者振いして立つ、然様いう境界《きょうがい》もあるのでござりまするから」
と言いかけたる時、狗の鈴の音しきりに鳴りて、又此家に人の一人二人ならず訪《と》い来れる様子の感ぜらる。
 此時主人は改めて大きくにッたりと笑って、其眼は客を正目《まさめ》に見ながら、
「如何にも手広い渡海商いは、まことに心地よいことでござろう。小さな癇癪などは忘るるほどのことでもござろう。然しナ、其の大海の上で万里の風に吹かれながら、真蒼《まっさお》の空の光を美しいと見て立っている時、これから帰り着くべき故郷の吾《わ》が家でノ、最愛の妻が明るうないことを仕居って、其召使が誤って……あらぬ男を引入れ、そして其のケチな男に手証の品を握って帰られた……と知ったなら、広い海の上に居ても、大腹中でも、やはり小さな癇癪《かんしゃく》が起らずには居まいがナ。」
と、三斗の悪水《おすい》は驀向《まっこう》から打澆《うちか》けられた。
 客は愕然《がくぜん》として急に左の膝を一ト[#「ト」は小書き]膝引いて主人《あるじ》を一ト眼見たが、直に身を伏せて、少時《しばし》は頭《かしら》を上げ得無かった。然し流石《さすが》は老骨だ。
「恐れ入りました。」
と、一句、ただ一句に一切を片づけて了って、
「了休禅坊とは在俗中も出家後も懇意に致居りましたを手寄《たよ》りに、御尋致しましたるところ、御隔意無く種々御話し下され、失礼ながら御気象も御思召《おぼしめし》も了休御噂の如く珍しき御器量に拝し上げ、我を忘れて無遠慮に愚存など申上げましたが、畢竟《ひっきょう》は只今御話の一ト[#「ト」は小書き]品を頂戴致したい旨を申出ずるに申出兼ねて、何《なに》彼《かに》、右左、と御物語致し居りたる次第、但し余談とは申せ、詐《いつわ》り飾りは申したのではござりませぬ、御覧の如くの野人にござりまする。何卒了休禅坊御懇親の御縁に寄り、私の至情御汲取り下されまして、私めまで右品御戻しを御願い致しまする。御無礼、御叱りには測り兼ねまするが、今後御熟懇、永く御為に相成るべき者と御見知り願い度、猶《なお》不日了休禅坊同道相伺い、御礼に罷出《まかりで》ます、重々御恩に被《き》ますることでござりまする。親子の情、是《かく》の如く、真実心を以て相願いまする。」
と、顔を擡《あ》げてじっと主人を看る眼に、涙のさしぐみて、はふり墜《お》ちんとする時、また頭《かしら》を下げた。中々食えぬ老人《としより》には相違無いが、此時の顔つきには福々しさも図々《ずうずう》しさも無くなって、ただ真面目ばかりが充ち溢《あふ》れていた。ところが、それに負けるような主人では無かった。
「いやでござる。」
と言下に撥《は》ねかえした。にッたりとはして居なかった、苦りかえっていた。
「おいやと御思いではござりましょうが、何卒御思い返し下されまして、……何卒、何卒、私娘の生命《いのち》にかかることでござりまする。」
「…………」
「あの生先《おいさき》長いものが、酷《むご》らしいことにもなりまするのでござりまするから。」
「…………」
「何としても、私、このままに見ては居れませぬ。仏とも神とも仰ぎたてまつります。何卒、何卒、御あわれみをもちまして。」
「…………」
「如何様の事でも致しまする。あれさえ御返し下さりょうならば、如何様の事を仰せられましょうと、必ず仰のままに致しまする。何卒、何となりと仰せられて下さりませ。何卒何卒。」
「…………」
「斯程《かほど》に御願い申上げても、よしあし共に仰せられぬは、お情無い。私共を何となれとの御思召か、又|彼《かの》品《しな》を何となさりょう御思召か。何の御役に立ちましょうものでもござりますまいに。」
「御身等を、何となれとも、それがしは思っておらぬ。すべて他人の事に差図がましいことすることは、甚だ厭《いと》わしいことにして居るそれがしじゃ。御身等は船の上の人が何とか捌《さば》こうまでじゃ。少しもそれがしの関《あず》からぬことじゃ。」
「如何にも冷い厳しい……彼の品は何となさる思召で。」
「彼品は船の上の人の帰り次第、それがしが其人に逢い、かくかくの仔細《しさい》で、かくかくの場合に臨んだ、其時の証として仮りに持帰った、もとより御身の物ゆえ御身に返す、と其人に渡す。それがしの為すべきことはそれだけのことじゃ。」
「何故に、然様《さよう》なさりませねばならぬと固くは御思いになりまする?」
「表裏反覆の甚だしい世じゃ。思うても見られい、公方と管領とが総州を攻められた折は何様《どう》じゃ。総州が我《が》を立てたが故に攻められたのじゃ。然るに細川、山名、一色等は公方管領を送り出して置いて、長陣《ながじん》に退屈させて、桂の遊女を陣中に召さするほどに致し置き、おのれ等ゆるゆると大勢《たいぜい》を組揃え、急に起《た》って四方より取囲み、其謀計|合期《ごうご》したれば、管領は御自害ある。留守の者が急に敵になって、出先の者を攻めたでは出先の者の亡びぬ訳は無い。恐ろしい表裏の世じゃ。ましてそれがしが、御身の妻女はこれこれと、其の良からぬことを告げたところで、証拠無ければただ是|讒言《ざんげん》。女の弁舌に云廻されては、男は却《かえ》ってそれがしをこそ怪しき者に思え、何で吾《わ》が妻女を疑い、他人を信としようぞ。惣《そう》じてかかる場合、たといそれがしが其家譜代の郎党であって、忠義かねて知られたものにせよ、斯様の事を迂闊《うかつ》に云出さば、却って逆に不埒者《ふらちもの》に取って落され、辛き目に逢うは知れた事、世上に其|例《ためし》いくらも有り。又後暗いことするほどの才ある女が、其迷いが募っては何ぞの折に夫を禍するに至ることも世に多きためし。それがしが彼《かの》人《ひと》に証を以て告口せずに置かば、彼人の行末も空恐ろしく、又それがしは悪を助けて善を助けぬ外道魔道の眷属《けんぞく》となる。此の外道魔道の眷属が今の世には充ち満ちている。公方を追落し、管領を殺したも、皆かかる眷属共の為たことである。何事も知らぬ顔して、おのが利得にならぬことは指一ツ動かさず、ぬっぺりと世を送りくさって、みずから手は下さねど、見す見す正道の者の枯れ行き、邪道の者の栄え行くのを見送っている、癇《かん》に触る奴めらが世間一杯。一々たたき斬《き》って呉れたい虫けらども。其虫けらにそれがしがなろうや。もとよりとげとげしい今の此世、それがしが身の分際では、朝起きれば夕までは生命ありとも思わず、夜を睡れば明日《あした》まであたたかにあろうとも思わず、今すぐここに切死にするか、切り殺さるるか、と突詰め突詰めて時を送っている。殊更此頃は進んでも鎗《やり》ぶすまの中に突懸り、猛火の中にも飛入ろう所存に燃えておる。癪に触るものは一ツでも多く叩き潰《つぶ》し、一人でも多く叩き斬ろうに、遠慮も斟酌《しんしゃく》も何有ろう。御身は器量骨柄も勝《すぐ》れ、一ト[#「ト」は小書き]風ある気象もおもしろいで、これまでは談《はなし》も交したなれど、御身の頼みは聴入れ申さぬ。」
と感慨交りに厳しくことわられ、取縋《とりすが》ろうすべも無く没義道《もぎどう》に振放された。
「かほどまでに真実《まこと》を尽して御願い申しましても。」
「いやでござる。」
「金銀財宝、何なりと思召す通りに計らいましても。」
「いやでござる。」
「何事の御手助けなりとも致しましても。」
「いやでござる。」
「如何様にも御指図下さりますれば、仮令《たとい》臙脂屋身代|悉《ことごと》く灰となりましても御指図通りに致しまするが……」
「いやでござる。」
 ここに至って客の老人《としより》は徐《おもむ》ろに頭《こうべ》を擡《あ》げた。艶やかに兀《は》げた前頭からは光りが走った。其の澄んだ眼はチラリと主人を射た。が、又|忽《たちま》ちに頭《かしら》を少し下げて、低い調子の沈着な声で、
「おろかしい獣は愈々《いよいよ》かなわぬ時は刃物をも咬《か》みまする、あわれに愚かしいことでござります。人が困《こう》じきりますれば碌《ろく》でないことをも致しまする、あわれなことでござりまする。臙脂屋は無智のものでござりまする、微力なものでござりまする。しかし碌でないことなど致しまする心は毛頭持ちませぬが、何とか人を困じきらせぬように、何とか御燐み下されまするのも、正しくて強い御方に、在って宜い御余裕かと存じまするが……」
と、飽《あく》まで下からは出て居るが、底の心は測り難い、中々根強い言廻しに、却って激したか主人は、声の調子さえ高くなって、
「何と。求めて得られぬものは、奪うという法がある、偸《ぬす》むという法もある、手だれの者を頼んでそれがしを斬殺して了うという法もある、公辺の手を仮りて、怪しき奴と引括《ひっくく》らせる法もある。無智どころでは無い、器量人で。微力どころではない、痩《やせ》牢人《ろうにん》には余りある敵だ。ハハハハ、おもしろい。然様《そう》出て来ぬにも限らぬとは最初から想っていた。火が来れば水、水が来れば土。いつでも御相手の支度はござる。」
と罵《ののし》るように云うと、客は慌てず両手を挙げて、制止するようにし、
「飛んでも無い。ハハハ。申しようが悪うござりました。私、何でおろかしい獣になり申そう。ただ立《た》チ[#「チ」は小書き]端《ば》が無いまで困《こう》じきって、御余裕のある御挨拶を得たさの余りに申しました。今一応あらためて真実心を以て御願い致しまする。如何様の事にても、仮令《たとい》臙脂屋を灰と致しましても苦しゅうござりませぬ、何卒|彼《かの》品《しな》御かえし下されまするよう折入って願い上げまする。真実《まこと》、斯《こ》の通り……」
と誠実こめて低頭《じぎ》するを、
「いやでござる。」
と膠《にべ》も無く云放つ。
「かほどに御願い申しましても。」
「くどい。いやと申したら、いやでござる。」
 客は復《ふたた》び涙の眼になった。
「余りと申せば御情無い。其品を御持になったればとて其方《そなた》様《さま》には何の利得のあるでも無く、此方《こなた》には人の生命《いのち》にもかかわるものを……。相済みませぬが御恨めしゅう存じまする。」
「恨まれい、勝手に恨まれい。」
「我等の仇《あだ》でもない筈にあらせらるるに、それでは、我等を強いて御仇になさるると申すもの。」
「仇になりたくばならるるまで。」
「それでは何様《どう》あっても。」
「いやでござる。もはや互に言うことはござらぬ。御引取なされい。」
「ハアッ」
と流石《さすが》の老人《としより》も男泣に泣倒れんとする、此時足音いと荒く、
「無作法御免。」
と云うと同時に、入側様《いりがわよう》になりたる方より、がらりと障子を手ひどく引開けて突入し来たる一個の若者、芋虫《いもむし》のような太い前差、くくり袴《ばかま》に革《かわ》足袋《たび》のものものしき出立、真黒な髪、火の如き赤き顔、輝く眼、年はまだ二十三四、主人《あるじ》の傍《かたえ》にむんずと坐って、臙脂屋の方へは会釈も仕忘れ、傍に其人有りともせぬ風で、屹《きっ》として主人の面《おもて》を見守り、逼《せま》るが如くに其眼を見た。主人は眼をしばたたいて、物言うなと制止したが、それを悟ってか悟らいでか、今度はくるり臙脂屋の方へ向って、初めて其面をまともに見、傲然《ごうぜん》として軽く会釈し、
「臙脂屋御主人と見受け申す。それがしは牢人丹下右膳。」
と名乗った。主人は有らずもがなに思ったらしいが、にッたりと無言。臙脂屋は涙を収めて福々爺《ふくふくや》に還《かえ》り、叮寧《ていねい》に頭《かしら》を下げて、
「堺、臙脂屋隠居にござりまする。故管領様|御内《おうち》、御同姓備前守様御身寄にござりますか、但しは南河内の……」
と皆まで云わせず、
「備前守弟であるわ。」
と誇らしげに云って、ハッと兀頭《はげあたま》が復び下げられたのに、年若者だけ淡い満足を感じたか機嫌が好く、
「臙脂屋。」
と、今度ははや呼びすてである。然し厭味《いやみ》は無くて親しみはあった。
「ハ」
と、老人は若者の目を見た。若い者は無邪気だった。
「其方は何か知らぬが余程の宝物を木沢殿に所望致し居って、其願が聴かれぬので悩み居るのじゃナ。」
「ハ」
「一体何じゃ其宝物は。」
「…………」
「霊験ある仏体かなんぞか。」
「……ではござりませぬ。」
「宝剣か、玉《ぎょく》か、唐渡《からわた》りのものか。」
「でもござりませぬ。」
「我邦|彼《かの》邦《くに》の古筆、名画の類《たぐい》でもあるか。」
「イエ、然様《さよう》のものでもござりませぬ。」
「ハテ分らぬ、然らば何物じゃ。」
「…………」
 主人は横合より口を入れた。
「丹下氏、おきになされ。貴殿にかかわったことではござらぬ。」
「ハハハ。一体それがしは宝物などいうものは大嫌い、鼻汁《はな》かんだら鼻が黒もうばかりの古臭い書画や、二本指で捻《ひね》り潰《つぶ》せるような持遊《もてあそ》び物を宝物呼ばわりをして、立派な侍の知行何年振りの価をつけ居る、苦々しい阿房《あほう》の沙汰じゃ。木沢殿の宝物は何か知らぬが、涙こぼして欲しがるほどの此老人に呉れて遣って下されては如何でござる。喃《のう》、老人、臙脂屋、其方に取っては余程欲しいものと見えるナ。」
「然様でござりまする。上も無く欲しいものにござりまする。」
「ム、然様か。臙脂屋身代を差出しても宜いように申したと聞いたが、聢《しか》と然様か。」
「全く以て然様で。如何様の事でも致しまする。御渡しを願えますれば此上の悦《よろこ》びはござりませぬ。」
「聢と然様じゃナ。」
「御当家木沢左京様、又丹下備前守様御弟御さまほどの方々に対して、臙脂屋|虚言《うそ》詐《いつわ》りは申しませぬ。物の取引に申出を後へ退《ひ》くようなことは、商人《あきゅうど》の決して為《せ》ぬことでござりまする。臙脂屋は口広うはござりまするが、商人でござりまする。日本国は泉州堺の商人でござる。高麗大明、安南天竺、南蛮諸国まで相手に致しての商人でござる。御武家には人質を取るとか申して、約束|変改《へんがい》を防ぐ道があると承わり居りまするが、其様《そん》なことを致すようでは、商人の道は一日も立たぬのでござりまする。御念には及びませぬ、臙脂屋は商人でござる。世界諸国に立対《たちむか》い居る日本国の商人でござりまする。」
と暗に武家をさえ罵《ののし》って、自家の気を吐き、まだ雛※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]《ひなどり》である右膳を激動せしめた。右膳は真赤な顔を弥《いや》が上に赤くした。
「ウ、ほざいたナ臙脂屋。小気味のよいことをぬかし居る。其儀ならば丹下右膳、汝《そち》の所望を遂げさせて遣わそう。」
「ヤ、これは何ともはや、有難いこと。御助け下さる神様と仰ぎ奉りまする。」
と真心見せて臙脂屋は平伏したが、ややあって少し頭《かしら》を上げ、憂わし気に又悲しげに右膳を見て、
「トは仰《おっし》あって下さりましても。」
と、恨めし気に主人の方を一寸見て、又急に丹下の前に頭を下げ、
「ヤ、ナニ。何分御骨折、宜しく願いまする。事叶わずとも、……重々御恩には被《き》ますでござります。」
と萎《しお》れて云った。
 雛※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]は頸《くび》の毛を立てんばかりの勢になった。にッたりはにッたりで無くなった。
「木沢殿」と呼ぶ若い張りのある声と
「丹下氏」と呼ぶ緩《ゆる》い錆《さ》びた声とは、同時に双方の口から発してかち合った。
 二人が眼々《がんがん》相看た視線の箭《や》は其|鏃《やじり》と鏃とが正《まさ》に空中に突当った。が、丹下の箭は落ちた。木沢は圧《お》し被《かぶ》せるように、
「おきになされい、丹下氏。貴殿にかかわった事ではござらぬ。左京|一分《いちぶん》だけのずんと些細《ささい》なことでござる。」
と冷やかに且つ静かに云った。軽く若者を払い去って了おうとしたのであった。然し丹下の第二箭《だいにせん》は力強く放たれた。
「イヤ、木沢殿。御言葉を返すは失礼ながら、此の老人の先刻よりの申状、何事なりとも御意のまにまに致しまするとの誓言立《せいごんだて》、御耳に入らぬことはござるまい。臙脂屋と申せば商人ながら、堺の町の何人衆とか云われ居る指折、物も持ち居れば力も持ち居る者。ことに只今の広言、流石《さすが》は大家《たいけ》の、中々の男にござる。貴殿御所持の宝物、如何ようのものかは存ぜぬが、此男に呉れつかわされて、誓言通り此男に課状を負わさば、我等が企も」
と言いかくるを、主人《あるじ》左京は遽《あわ》ただしく眼と手とに一時に制止して、
「卒爾《そつじ》にものを言わるる勿《な》。もう宜《よ》い。何と仰せられてもそれがしはそれがし。互に言募れば止まりどころを失う。それがしは御相手になり申せぬ。」
と苦りきったる真面目顔、言葉の流れを截《き》って断たんとするを、右膳は
「ワッハハ」
と大河の決するが如く笑って、木沢が膝と我が膝と接せんばかりに詰寄って逼《せま》りながら、
「人の耳に入ってまこと悪くば、聴いた其奴《そやつ》を捻《ひね》りつぶそうまで。臙脂屋、其方が耳を持ったが気の毒、今此の俺《わし》に捻り殺されるか知れぬぞ。ワッハハハ」
と狂気《きちがい》笑《わら》いする。臙脂屋は聞けども聞かざるが如く、此勢に木沢は少しにじり退《すさ》りつつ、益々|毅然《きぜん》として愈々《いよいよ》苦りきり、
「丹下氏、おしずかに物を仰せられい。」
と云えども丹下は鎮《しず》まらばこそ、今は眼を剥《む》いて左京を一ト[#「ト」は小書き]睨《にら》みし、右膝に置ける大の拳《こぶし》に自然と入りたる力さえ見せて、
「我等が企と申したが御気に障ったそうナが、関《かま》わぬ、もはや関わぬ、此の機《しお》を失って何の斟酌《しんしゃく》。明日《あす》といい、明後日《あさって》といい、又明日といい明後日と云い、何の手筈がまだ調わぬ、彼《かに》の用意がまだ成らぬと、企を起してより延び延びの月日、人々の智慧才覚は然《さ》もあろうが、丹下右膳は倦《うん》じ果て申した。臙脂屋のじじい、それ、おのれの首が飛ぶぞ、用心せい、そもそも我等の企と申すのはナ」
と云いかけて、主人の面《おもて》をグッと睨む。主人も今は如何ともし難しと諦めてか、但しは此一場の始末を何とせんかと、※[#「匈/月」、1006-中-18]底《きょうてい》深く考え居りてか、差当りて何と為ん様子も無きに、右膳は愈々勝に乗り、
「故管領殿河内の御陣にて、表裏異心のともがらの奸計《かんけい》に陥入り、俄《にわか》に寄する数万《すまん》の敵、味方は総州征伐のためのみの出先の小勢、ほかに援兵無ければ、先ず公方をば筒井へ落しまいらせ、十三歳の若君|尚慶《ひさよし》殿ともあるものを、卑しき桂の遊女の風情に粧《よそ》いて、平《たいら》の三郎御供申し、大和《やまと》の奥郡《おくごおり》へ落し申したる心外さ、口惜《くちおし》さ。四月九日の夜に至って、人々最後の御盃、御《お》腹召されんとて藤四郎の刀を以て、三度まで引給えど曾《かつ》て切れざりしとよ、ヤイ、合点が行くか、藤四郎ほどの名作が、切れぬ筈も無く、我が君の怯《おく》れたまいたるわけも無けれど、皆是れ御最期までも吾《わ》が君の、世を思い、家を思い、臣下を思いたまいて、孔子《こうし》が魯《ろ》の国を去りかね玉いたる優しき御心ぞ。敵愈々逼りたれば吾が兄備前守」
と此処まで云いて今更の感に大粒の涙ハラハラと、
「雑兵共に踏入られては、御かばねの上の御恥も厭《いと》わしと、冠《かむ》リ[#「リ」は小書き]落しの信国が刀を抜いて、おのれが股《もも》を二度突通し試み、如何にも刃味|宜《よ》しとて主君に奉る。今は斯様《こう》よとそれにて御自害あり、近臣一同も死出の御供、城は火をかけて、灰今冷やかなる、其の残った臣下の我等一党、其儘《そのまま》に草に隠れ茂みに伏して、何で此世に生命《いのち》生きようや。無念骨髄に徹して歯を咬《か》み拳を握る幾月日、互に義に集まる鉄石の心、固く結びてはかりごとを通じ力を合せ、時を得て風を巻き雲を起し、若君尚慶殿を守立てて、天《あま》翔《か》くる竜の威を示さん存念、其企も既に熟して、其時もはや昨今に逼った。サ、かく大事を明かした上は、臙脂屋、其座はただ立たせぬぞ、必ず其方、武具、兵粮《ひょうろう》、人夫、馬、車、此方の申すままに差出さするぞ。日本国は堺の商人《あきゅうど》、商人の取引、二言は無いと申したナ。木沢殿所持の宝物は木沢殿から頂戴して遣わす。宜いではござらぬか、木沢殿。失礼ながら世に宝物など申すは、いずれ詰らぬ、下らぬもの。心よく呉れて遣って下されい。我等同志がためになり申す。……黙然として居らるるは……」
「不承知と申したら何となさる。」
「ナニ。いや、不承知と申さるる筈はござるまい。と存じてこそ是《かく》の如く物を申したれ。真実《まこと》、たって御不承知か。」
「臙脂屋を捻り潰《つぶ》しなさらねばなりますまいがノ。貴殿の御存じ寄り通りになるものとのみ、それがしを御見積りは御無体でござる。」
「ム」
「申した通り、此事は此事、左京一分の事。我等一党の事とは別の事にござる。」
「と云わるるは。扨《さて》は何処までも物惜みなされて、見す見す一党の利になることをば、御一分の意地によって、丹下右膳が申す旨、御用い無いとかッ。」
 目の色は変った。紫の焔《ほのお》が迸《ほとばし》り出たようだった。怒ったのだ。
「…………」
「然程《さほど》に物惜みなされて、それが何の為になり申す。」
「何の為にもなり申さぬ。」
と憎いほど悠然と明白に云って退けた。右膳は呆れさせられたが、何の為にもなり申さぬと云った言葉は虚言《うそ》では無かったから仕方が無かった。
「何の為にもならぬことに、いやと申し張らるることもござるまい。応と言われれば、日頃の本懐も忽《たちま》ち遂げらるる場合にござる。手段は既に十分にととのい、敵将を追落し敵城を乗取ること、嚢《ふくろ》の物を探るが如くになり居れど、ただ兵粮其他の支えの足らぬため、勝っても勝を保ち難く、奪っても復《また》奪わるべきを慮《おもんぱか》り、それ故に老巧の方々《かたがた》、事を挙ぐるに挙げかね、現に貴殿も日夜此段に苦んで居らるるではござらぬか。然るに、何かは存ぜず、渡りに舟の臙脂屋が申出、御用いあるべしと丹下が申出したは不埒《ふらち》でござろうや。損得利害、明白なる場合に、何を渋らるるか、此の右膳には奇怪《きっかい》にまで存ぜらる。主家に対する忠義の心の、よもや薄い筈の木沢殿ではござるまいが。」
と責むるが如くに云うと、左京の眼からも青い火が出たようだった。
「若輩の分際として、過言にならぬよう物を言われい。忠義薄きに似たりと言わぬばかりの批判は聞く耳持たぬ。損得利害明白なと、其の損得沙汰を心すずしい貴殿までが言わるるよナ。身ぶるいの出るまで癪《しゃく》にさわり申す。そも損得を云おうなら、善悪邪正《ぜんなくじゃしょう》定まらぬ今の世、人の臣となるは損の又損、大だわけ無器量でも人の主《しゅ》となるが得、次いでは世を棄てて坊主になる了休如きが大の得。貴殿やそれがし如きは損得に眼などが開いて居らぬ者。其損得に掛けて武士道――忠義をごったにし、それはそれ、これはこれと、全く別の事を一ツにして、貴殿の思わくに従えとか。ナニ此の木沢左京が主家を思い敵を悪《にく》む心、貴殿に分寸もおくれ居ろうか、無念骨髄に徹して遺恨|已《や》み難ければこそ、此の企も人先きに起したれ。それを利害損得を知らぬとて、奇怪にまで思わるるとナ。それこそ却《かえ》って奇怪至極。貴殿一人が悪いではないが、エーイ、癪に触る一世の姿。」
「訳のよく分らぬことを仰せあるが、右膳申したる旨は御取あげ無いか。」
「…………」
「必ず御用いあることと存じて、大事も既に洩《も》らしたる今、御用いなくば、後へも前《さき》へも、右膳も、臙脂屋も動きが取れ申さぬ。ナ、御返答は……」
「…………」
「主家のためなり、一味のためなり、飽まで御返辞無きに於ては、事すでに逼《せま》ったる今」
と、決然として身を少く開く時、主人の背後《うしろ》の古襖《ふるぶすま》左右へ急に引除《ひきの》けられて、
「慮外御免。」
と胴太き声の、蒼く黄色く肥ったる大きなる立派な顔の持主を先に、どやどやと人々入来りて木沢を取巻くように坐る。臙脂屋早く身《み》退《すさ》りし、丹下は其人を仰ぎ見る、其眼を圧するが如くに見て、
「丹下、けしからぬぞ、若い若い。あやまれあやまれ。後輩の身を以て――。御無礼じゃったぞ。木沢殿に一応、斯様《かよう》に礼謝せい。」
と、でっぷり肥ったる大きな身体を引包む緞子《どんす》の袴《はかま》肩衣《かたぎぬ》、威儀堂々たる身を伏せて深々と色代《しきたい》すれば、其の命拒みがたくて丹下も是非無く、訳は分らぬながら身を平め頭《かしら》を下げた。偉大の男はそれを見て、笑いもせねば褒めもせぬ平然たる顔色《かおつき》。
「よし、よし、それでよし。よくあやまってくれたぞ、丹下。木沢|氏《うじ》、あの通りにござる。卒爾《そつじ》に物を申し出したる咎《とが》、又過言にも聞えかねぬ申しごと、若い者の無邪気の事で。ござる。あやまり入った上は御《お》免《ゆる》し遣わされい。さて又丹下、今一度ただ今のように真心|籠《こ》めて礼を致してノ、自分の申したる旨御用い下されと願え。それがしも共に願うて遣わす、斯《か》くの通り。」
と、小山を倒すが如くに大きなる身を如何にも礼儀正しく木沢の前に伏せれば、丹下も改めて、
「それがしが申したる旨御用い下さるよう、何卒、御願い申しまする木沢殿。」
という。猶《なお》未だ頭を上げなかった男、胴太い声に、
「遊佐《ゆさ》河内守、それがしも同様御願い申す。」
と云い、
「エイ、方々《かたがた》は何をうっかりとして居らるる。敵に下ぐる頭ではござらぬ、味方同士の、兄弟の中ではござらぬか。」
と叱《しっ》すれば、皆々同じく頭を下げて、
「杉原太郎兵衛、御願い申す。」
「斎藤九郎、御願い申す。」
「貴志ノ[#「ノ」は小書き]余一郎、御願い申す。」
「宮崎剛蔵……」
「安見宅摩も御願い申す。」
と渋い声、砂利声、がさつ声、尖《とが》り声、いろいろの声で巻き立って頼み立てた。そして人々の頭は木沢の答のあるまでは上げられなかった。丹下はむずむずしきった。無論遊佐の見じろぎの様子一ツで立上るつもりである。
「遊佐殿も方々も御手あげられて下されい。丹下右膳殿御申出通りに計らい申しましょう。」
 人々は皆明るい顔を上げた。右膳は取分け晴れやかな、花の咲いたような顔をした。臙脂屋の悦《よろこ》んだのはもとよりだつたが、遊佐河内守は何事も無かったような顔であった。そして忽《たちま》ちに臙脂屋に対《むか》って、
「臙脂屋殿。」
と殿づけにして呼びかけた。臙脂屋は
「ハ」
と恐縮して応ずると、
「只今聞かるる通り。就ては此方より人を差添え遣わす。貴志ノ余一郎殿、安見宅摩殿、臙脂屋と御取合下されて、万事宜敷御運び下されい。ただし事皆世上には知られぬよう、臙脂屋のためにも此方のためにも、十二分に御斟酌《ごしんしゃく》あられい。ハテ、心地よい。木沢殿、事すでにすべて成就も同様、故管領御家再興も眼に見えてござるぞ。」
というと、人々皆勇み立ち悦ぶ。
「損得にはそれがしも引廻されてござるかナ。」
と自ら疑うように又自ら歎《たん》ずるように、木沢は室《へや》の一隅を睨《にら》んだ。

 其後|幾日《いくか》も無くて、河内の平野の城へ突として夜打がかかった。城将桃井兵庫、客将一色|何某《なにがし》は打って取られ、城は遊佐河内守等の拠るところとなった。其一党は日に勢を増して、漸《ようや》く旧威を揮《ふる》い、大和に潜んで居た畠山尚慶を迎えて之を守立て、河内の高屋《たかや》に城を構えて本拠とし、遂に尚慶をして相当に其大を成さしむるに至った。平野の城が落ちた夜と同じ夜に、誰がしたことだか分らなかったが、臙脂屋の内に首が投込まれた。京の公卿方《くげがた》の者で、それは学問諸芸を堺の有徳の町人の間に日頃教えていた者だったということが知られた。

底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷
底本の親本:「露伴全集」岩波書店
   1978(昭和53)年
入力:kompass
校正:今井忠夫
2003年5月18日作成
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