国木田独歩

富岡先生——国木田独歩

        一

 何|公爵《こうしゃく》の旧領地とばかり、詳細《くわし》い事は言われない、侯伯子男の新華族を沢山出しただけに、同じく維新の風雲に会しながらも妙な機《はずみ》から雲梯《うんてい》をすべり落ちて、遂《つい》には男爵どころか県知事の椅子|一《ひとつ》にも有《あり》つき得ず、空《むな》しく故郷《くに》に引込んで老朽ちんとする人物も少くはない、こういう人物に限ぎって変物《かわりもの》である、頑固《がんこ》である、片意地である、尊大である、富岡先生もその一人たるを失なわない。
 富岡先生、と言えばその界隈《かいわい》で知らぬ者のないばかりでなく、恐らく東京に住む侯伯子男の方々の中にも、「ウン彼奴《やつ》か」と直ぐ御承知の、そして眉《まゆ》をひそめらるる者も随分あるらしい程《ほど》の知名な老人である。
 さて然《しか》らば先生は故郷《くに》で何を為《し》ていたかというに、親族が世話するというのも拒《こば》んで、広い田の中の一軒屋の、五間《いつま》ばかりあるを、何々|塾《じゅく》と名《なづ》け、近郷《きんじょ》の青年七八名を集めて、漢学の教授をしていた、一人の末子《ばっし》を対手《あいて》に一人の老僕に家事を任かして。
 この一人の末子は梅子という未《ま》だ六七《むつななつ》の頃から珍らしい容貌佳《きりょうよ》しで、年頃になれば非常の美人になるだろうと衆人《みんな》から噂《うわさ》されていた娘であるが、果してその通りで、年の行く毎《ごと》に益々《ますます》美しく成る、十七の春も空しく過ぎて十八の夏の末、東京ならば学校の新学期の初まるも遠くはないという時分のこと、法学士|大津定二郎《おおつていじろう》が帰省した。
 富岡先生の何々塾から出て(無論小学校に通いながら漢学を学び)遂に大学まで卒業した者がその頃三名ある、この三人とも梅子|嬢《さん》は乃公《おれ》の者と自分で決定《きめ》ていたらしいことは略《ほぼ》世間でも嗅《か》ぎつけていた事実で、これには誰《たれ》も異議がなく、但《ただ》し三人の中《うち》何人《だれ》が遂に梅子|嬢《さん》を連れて東京に帰り得《う》るかと、他所《よそ》ながら指を啣《くわ》えて見物している青年《わかもの》も少くはなかった。
 法学士大津定二郎が帰省した。彼は三人の一人である。何峠から以西《いせい》、何川辺までの、何町、何村、字《あざ》何の何という処々《しょしょ》の家の、種々の雑談に一つ新しい興味ある問題が加わった。愈々《いよいよ》大津の息子はお梅さんを貰《もら》いに帰ったのだろう、甘《うま》く行けば後《あと》の高山の文《ぶん》さんと長谷川の息子が失望するだろう、何に田舎《いなか》でこそお梅さんは美人じゃが東京に行けばあの位の女は沢山《やれ》にありますから後の二人だってお梅さんばかり狙《ねら》うてもおらんよ、など厄鬼《やっき》になりて討論する婦人連もあった。
 或日の夕暮、一人の若い品の佳《い》い洋服の紳士が富岡先生の家の前えに停止《たちど》まって、頻《しき》りと内の様子を窺《うかが》ってはもじもじしていたが遂に門を入《はい》って玄関先に突立《つった》って、
「お頼みします」という声さえ少し顫《ふる》えていたらしい。
「誰か来たぞ!」と怒鳴ったのは確《たしか》に先生の声である。
 襖《ふすま》が静《しずか》に開いて現われたのが梅子である。紳士の顔も梅子の顔も一時《いちじ》にさっと紅《こう》をさした。梅子はわずかに会釈して内に入った。
「何だ、大津の定さんが来た?、ずんずんお上りんさいと言え!」先生の太い声がありありと聞えた。
 大津は梅子の案内で久しぶりに富岡先生の居間、即ち彼がその昔《かみ》漢学の素読《そどく》を授った室《へや》に通った。無論大学に居た時分、一夏帰省した時も訪《と》うた事はある。
 老漢学者と新法学士との談話《はなし》の模様は大概次の如くであった。
「ヤア大津、帰省《かえ》ったか」
「ともかく法学士に成りました」
「それが何だ、エ?」
「内務省に出る事に決定《きま》りました、江藤さんのお世話で」
「フンそうか、それで目出度《めでた》いというのか。然し江藤さんとは全体誰の事じゃ」
「江藤侯のことで……直文《ちょくぶん》さんのことで」
「ウーン三輔《さんすけ》のことか、そうか、三輔なら三輔と早く言えば可《え》えに。時に三輔は達者かナ」
「相変らず元気で御座います」
「フンそうか、それは結構じゃ、狂之助は?」
「御丈夫のようで御座います」
「そうか、今度|逢《あ》ったら乃公《わし》が宜《よ》く言ったと言っとくれ!」
「承知致しました」
「ちっと手紙でもよこせと言え。エ、侯爵面《こうしゃくづら》して古い士族を忘れんなと言え。全体|彼奴《あいつ》等に頭を下げぺこぺこと頼み廻るなんちゅうことは富岡の塾の名汚《なよご》しだぞ。乃公《わし》に言えば乃公から彼奴等に一本手紙をつけてやるのに。彼奴等は乃公の言うことなら聴《き》かん理由《わけ》にいかん」
 先ずこんな調子。それで富岡先生は平気な顔して御座る。大津は間もなく辞して玄関に出ると、梅子が送って来た。大津は梅子の顔を横目で見て、「またその内」とばかり、すたこらと門を出て吻《ほっ》と息を吐《つ》いた。
「だめだ! まだあの高慢|狂気《きちがい》が治《なお》らない。梅子さんこそ可《い》い面《つら》の皮だ、フン人を馬鹿にしておる」と薄暗い田甫道《たんぼみち》を辿《たど》りながら呟《つぶ》やいたが胸の中は余り穏《おだやか》でなかった。
 五六日|経《た》つと大津定二郎は黒田の娘と結婚の約が成ったという噂が立った。これを聞いた者の多くは首を傾けて意外という顔色《かおつき》をした。然し事実全くそうで、黒田という地主の娘玉子嬢、容貌《きりょう》は梅子と比べると余程落ちるが、県の女学校を卒業してちょうど帰郷《かえ》ったばかりのところを、友人|某《なにがし》の奔走で遂に大津と結婚することに決定《きまっ》たのである。妙なものでこう決定《きま》ると、サアこれからは長谷川と高山の競争だ、お梅さんは何方《どっち》の物になるだろうと、大声で喋舌《しゃべ》る馬面《うまがお》の若い連中も出て来た。
 ところで大津法学士は何でも至急に結婚して帰京の途中を新婚旅行ということにしたいと申出たので大津家は無論黒田家の騒動《さわぎ》は尋常《ひととおり》でない。この両家とも田舎では上流社会に位いするので、祝儀《しゅうぎ》の礼が引きもきらない。村落に取っては都会に於《お》ける岩崎三井の祝事《いわいごと》どころではない、大変な騒ぎである。両家は必死になって婚儀の準備に忙殺されている。
 その愈々《いよいよ》婚礼の晩という日の午後三時頃でもあろうか。村の小川、海に流れ出る最近《まぢか》の川柳|繁《しげ》れる小陰に釣を垂《たる》る二人の人がある。その一人は富岡先生、その一人は村の校長細川繁、これも富岡先生の塾に通うたことのある、二十七歳の成年男子である。
 二人は間を二三間隔てて糸を垂れている、夏の末、秋の初の西に傾いた鮮《あざ》やかな日景《ひかげ》は遠村近郊小丘樹林を隈《くま》なく照らしている、二人の背はこの夕陽《ゆうひ》をあびてその傾《かたぶ》いた麦藁帽子《むぎわらぼうし》とその白い湯衣地《ゆかたじ》とを真《ま》ともに照りつけられている。
 二人とも余り多く話さないで何となく物思に沈んでいたようであったが、突然校長の細川は富岡老人の方を振向いて
「先生は今夜大津の婚礼に招かれましたか」
「ウン招《よ》ばれたが乃公《おれ》は行かん!」と例の太い声で先生は答えた。実は招かれていないのである。大津は何と思ったかその旧師を招かなかった。
「貴様《おまえ》はどうじゃ?」
「大津の方からこの頃は私を相手にせんようですから別に招《よび》もしません」
「招んだって行くな。あんな軽薄な奴《やつ》のとこに誰が行く馬鹿があるか。あんな奴にゃア黒田の娘でも惜い位だ! あれから見ると同じ大学を出ても高山や長谷川は人間が一等上だのう、その中《うち》でも高山は余程見込がある男だぞ」
 細川繁は黙って何にも言わなかった、ただ水面を凝視《みつ》めている。富岡老人も黙って了《しま》った。
 暫《しばら》くすると川向《かわむこう》の堤の上を二三人話しながら通るものがある、川柳の蔭《かげ》で姿は能《よ》く見えぬが、帽子と洋傘《こうもり》とが折り折り木間《このま》から隠見する。そして声音《こわね》で明らかに一人は大津定二郎一人は友人|某《ぼう》、一人は黒田の番頭ということが解る。富岡老人も細川繁も思わず聞耳を立てた。三人は大声で笑い興じながらちょうど二人の対岸まで来た二人の此処《ここ》に蹲居《しゃが》んでいることは無論気がつかない。
「だって貴様《あなた》は富岡のお梅|嬢《さん》に大変熱心だったと言いますぜ」これは黒田の番頭の声である。
「嘘《うそ》サ、大嘘サ、お梅さんは善いにしてもあの頑固爺《がんこおやじ》の婿になるのは全く御免だからなア! ハッハッ……お梅さんこそ可憐《かわい》そうなものだ、あの高慢|狂気《きちがい》のお蔭で世に出ることが出来ない!」これは明らかに大津法学士の声である。
 三人は一度に「ハッハッハッ……」と笑った。富岡老人|釣竿《つりざお》を投出《なげだ》してぬッくと起上《たちあ》がった。屹度《きっと》三人の方を白眼《にらん》で「大馬鹿者!」と大声に一喝《いっかつ》した。この物凄《ものすご》い声が川面《かわづら》に鳴り響いた。
 対岸《むこう》の三人は喫驚《びっくり》したらしく、それと又気がついたかして忽《たちま》ち声を潜《ひそ》め大急ぎで通り過ぎて了《しま》った。
 富岡老人はそのまま三人の者の足音の聞こえなくなるまで対岸《むこう》を白眼《にら》んでいたが、次第に眼を遠くの禿山《はげやま》に転じた、姫小松《ひめこまつ》の生《は》えた丘は静に日光を浴びている、その鮮《あざ》やかな光の中にも自然の風物は何処《どこ》ともなく秋の寂寥《せきりょう》を帯びて人の哀情《かなしみ》をそそるような気味がある。背の高い骨格の逞《たく》ましい老人は凝然《じっ》と眺《なが》めて、折り折り眼をしばだたいていたが、何時《いつ》しか先きの気勢にも似ずさも力なさそうに細川繁を振向いて
「オイ貴公《おまえ》この道具を宅《うち》まで運こんでおくれ、乃公《おれ》は帰るから」
 言い捨てて去《い》って了った。校長の細川は取残されてみると面白くはないが、それでも糸を垂れていた、実は頻《しき》りと考え込んでいたのである。暫時《しばらく》するとこれも力なげに糸を巻き籠《びく》を水から上げて先生の道具と一緒に肩にかけ、程《ほど》遠からぬ富岡の宅《うち》まで行った。庭先で
「老先生どうかしたのか喃《のう》」と老僕倉蔵が声を潜めて問うた。
「イヤどうもなさらん」
「でも様子が少し違うから私《わし》又どうかなされたかと思うて」
「先生今何をしておいでる?」
「寝ていなさるが枕頭《まくらもと》に嬢様呼んで何か細《こまか》い声で話をしておいでるようで……」
「そうか」
「まア上って晩まで遊んでおいでなされませえの」
「晩にでも来る!」
 細川は自分の竿を担《か》ついで籠《びく》をぶらぶら下げ、浮かぬ顔をして、我家へと帰った。この時が四時過ぎでもあろう。家では老母が糸を紡《ひ》いていた。
 その夜の八時頃、ちょうど富岡老人の平時《いつも》晩酌が済む時分に細川校長は先生を訪《と》うた。田甫道《たんぼみち》をちらちらする提燈《ちょうちん》の数が多いのは大津法学士の婚礼があるからで、校長もその席に招かれた一人二人に途《みち》で逢《あ》った。逢う度《たび》毎《ごと》に皆《みん》な知る人であるから二言三言の挨拶《あいさつ》はしたが、可い心持はしなかった。
 富岡の門まで行ってみると門は閉《しま》って、内は寂然《ひっそり》としていた。校長は不審に思ったが門を叩《たた》く程の用事もないから、其処《そこ》らを、物思に沈みながらぶらぶらしていると間もなく老僕倉蔵が田甫道を大急ぎで遣《やっ》て来た。
「オイ倉蔵、先生は最早《もう》お寝《やす》みになったのかね?」
「オヤ! 細川先生、老先生は今東京へお出発《たち》になりました!」と呼吸《いき》をはずまして老僕は細川の前へ突立った。
「東京へ※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」細川は声も喉《のど》に塞《つま》ったらしい。
「ハア東京へ!」
「マアどうしたのだろう! お梅さんは?」
「御一緒に」
「マアどうしたのだろう!」校長は喫驚《びっくり》すると共に、何とも言い難き苦悩が胸を圧《あっ》して来た。心も空に、気が気ではない。倉蔵は門を開けながら
「マアお入りなされの」
 校長は後について門を入り縁先に腰をかけたが、それも殆《ほとん》ど夢中であったらしい。
「マア先生は何にも知らないのかね?」
「乃公《わし》が何を知るものか、今日釣に行っていたが老先生は何にも言わんからの」
「そうかの?」と倉蔵は不審な顔色《かおつき》をして煙草を吸い初めた。
「貴公《おまえ》理由《わけ》を知らんかね?」
「私《わし》唯《た》だ倉蔵これを急いで村長の処《とこ》へ持て行けと命令《いいつか》りましたからその手紙を村長さん処《とこ》へ持て行って帰宅《かえっ》てみると最早《もう》仕度《したく》が出来ていて、私《わし》直ぐ停車場まで送って今帰った処《とこ》じゃがの、何知るもんかヨ」
「フーン」と校長考えていたが「何日《いつ》頃|帰国《かえ》ると言われた?」
「老先生は十日ばかりしたら帰る、それも能《よ》くは解らんちゅうて……」
「そうか……」と校長は嘆息《ためいき》をしていたが、
「また来る」と細川は突然富岡を出て、その足で直ぐ村長を訪うた。村長は四十|何歳《いくつ》という分別盛りの男で村には非常な信用があり財産もあり、校長は何時《いつ》もこの人を相談相手にしているのである。
「貴公《あんた》富岡先生が東京へ行った事を知っているか」と校長細川は坐に着くや着かぬに問いかけた。
「知っているとも、先刻《さっき》倉蔵が先生の手紙を持って来たが、不在中家の事を托《たの》むと書いてあった」と村長は夜具から頭ばかり出して話している。大津の婚礼に招ねかれたが風邪《かぜ》をひいて出ることが出来ず、寝ていたのである。
「どういう理由《わけ》で急に上京したのだろう?」
「そんな理由《わけ》は手紙に書いてなかったが、大概想像が着くじゃアないか」と村長は微笑を帯びて細川の顔をじろじろ見ながら言った。彼は細川が梅子に人知れず思を焦がしていることを観破《みぬい》ていたのである。
「私《わし》には解《げ》せんなア」と校長は嘆息《ためいき》を吐《つ》いた。
「解せるじゃアないか、大津が黒田のお玉さんと結婚しただろう、富岡先生少し当《あて》が外《はず》れたのサ、其処《そこ》で宜《よろ》しい此処《こっち》にもその積《つもり》があるとお梅|嬢《さん》を連れて東京へ行って江藤侯や井下《いのした》伯を押廻わしてオイ井下、娘を頼む位なことだろうヨ」
「そうかしらん?」
「そうとも! それに先生は平常《ふだん》から高山々々と讃《ほ》めちぎっていたから多分井下伯に言ってお梅|嬢《さん》を高山に押付ける積りだろう、可《い》いサ高山もお梅|嬢《さん》なら兼て狙《ねら》っていたのだから」
「そうかしらん?」と細川の声は慄《ふる》えている。
「そうとも! それで大津の鼻をあかしてやろうと言うんだろう、可いサ、先生も最早《もう》あれで余程《よほど》老衰《よわっ》て御坐るから早くお梅|嬢《さん》のことを決定《きめ》たら肩が安まって安心して死ねるだろうから」 
 村長は理の当然を平気で語った。一つには細川に早く思いあきらめさしたい積りで。
「全くそうだ、先生も如彼《ああ》見えても長くはあるまい!」と力なさそうに言って校長は間もなく村長の宅《うち》を辞した。
 憐《あわれ》むべし細川繁! 彼は全く失望して了って。その失望の中には一《いつ》の苦悩が雑《まじ》っておる。彼は「我もし学士ならば」という一念を去ることが出来ない。幼時は小学校に於《おい》て大津も高山も長谷川も凌《しの》いでいた、富岡の塾でも一番出来が可《よ》かった、先生は常に自分を最も愛して御坐った、然るに自分は家計の都合で中学校にも入《い》る事が出来ず、遂に官費で事が足りる師範学校に入って卒業して小学教員となった。天分に於ては決して彼等|二三子《にさんし》には、劣らないが今では富岡先生すら何とかかんとか言っても矢張り自分よりか大津や高山を非常に優《まさ》った者のように思ってお梅|嬢《さん》に熨斗《のし》を附けようとする! 残念なことだと彼は恋の失望の外の言い難き恨を呑《の》まなければならぬこととなった。
 然し彼は資性篤実で又能く物に堪《た》え得る人物であったから、この苦悩の為めに校長の職務《つとめ》を怠るようなことは為《し》ない。平常《いつも》のように平気の顔で五六人の教師の上に立ち数《す》百の児童を導びいていたが、暗愁の影は何処《どこ》となく彼に伴うている。

        二

 富岡先生が突然上京してから一週間目のことであった、先生は梅子を伴うて帰国《かえ》って来た。校長細川は「今|帰国《かえ》ったから今夜遊びに来い」との老先生の手紙を読んだ時には思わず四辺《あたり》を見廻わした。
 自分勝手な空想を描きながら急いで往《い》ってみると、村長は最早《もう》座に居て酒が初まっていた。梅子は例の如く笑味《えみ》を含んで老父の酌をしている。
「ヤ細川! 突如《だしぬけ》に出発《たった》ので驚いたろう、何急に東京を娘に見せたくなってのう。十日ばかりも居る積じゃったが癪《しゃく》に触《さわ》ることばかりだったから三日居て出立《たっ》て了《しま》った。今も話しているところじゃが東京に居る故国《くに》の者は皆《みん》なだめだぞ、碌《ろく》な奴《やつ》は一匹も居《お》らんぞ!」
 校長は全然《まるで》何のことだか、煙に捲《ま》かれて了って言うべき言葉が出ない、ただ富岡先生と村長の顔を見比べているばかりである。村長は怪しげな微笑を口元に浮べている。
「エえまア聞いてくれこうだ、乃公《おれ》は娘を連れて井下|聞吉《ぶんきち》の所へも江藤三輔の所へも行った、エえ、故国《くに》からわざわざ乃公《おれ》が久しぶりに娘まで連れて行ったのだから何とか物の言い方も有ろうじゃア、それを何だ! 侯爵顔《こうしゃくづら》や伯爵顔を遠慮なくさらけ[#「さらけ」に傍点]出してその※[#「傲」の「にんべん」に代えて「りっしんべん」、第4水準2-12-67]慢無礼《ごうまんぶれい》な風たら無かった。乃公もグイと癪に触ったから半時も居らんでずんずん宿へ帰《もど》ってやった」と一杯|一呼吸《ひといき》に飲み干して校長に差し、
「それも彼奴《きゃつ》等の癖だからまア可《え》えわ、辛棒出来んのは高山や長谷川の奴らの様子だ、オイ細川、彼等《きゃつら》全然《まる》でだめだぞ、大津と同じことだぞ、生意気で猪小才《ちょこざい》で高慢な顔をして、小官吏《こやくにん》になればああも増長されるものかと乃公も愛憎《あいそ》が尽きて了《しも》うた。業《ごう》が煮えて堪《たま》らんから乃公は直ぐ帰国《かえ》ろうと支度《したく》を為ているとちょうど高山がやって来て驚いた顔をしてこう言うのだ、折角連れて来たのだから娘だけは井下伯にでも托《あず》けたらどうだろう、井下伯もせめて娘だけでも世話をしてやらんと富岡が可憐《かわい》そうだと言ッて、大変乃公を気の毒がっていたとこう言うじゃアないか、乃公は直然《いきなり》彼奴《きゃつ》の頭をぽかり一本参ってやった、何だ貴様まで乃公を可憐そうだとか何とか思っているのか、そんな積りで娘を托けると言うのか、大馬鹿者! と怒鳴つけてくれた」
「そして高山はどうしました」と校長は僅《わず》かに一語を発した。
「どうするものか真赤な顔をして逃げて去《い》って了うた、それから直ぐ東京を出発《たっ》て何処《どこ》へも寄らんでずんずん帰《もど》って来た」
「それは無益《つまり》ませんでしたね、折角おいでになって」と校長はおずおずしながら言った。
 先生の気焔《きえん》は益々《ますます》昂《たか》まって、例の昔日譚《むかしばなし》が出て、今の侯伯子男を片端《かたっぱし》から罵倒《ばとう》し初めたが、村長は折を見て辞し去った。校長は先生が喋舌《しゃべ》り疲《くた》ぶれ酔《え》い倒れるまで辛棒して気※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《きえん》の的となっていた。帰える時梅子は玄関まで送って出たが校長何となくにこつ[#「にこつ」に傍点]いていた。田甫道に出るや、彼はこの数日《すじつ》の重荷が急に軽くなったかのように、いそいそと路《みち》を歩いたが、我家に着くまで殆《ほとん》ど路をどう来たのか解らなんだ。

        三

 その翌々日の事であった、東京なる高山法学士から一|通《つう》の書状《てがみ》が村長の許《もと》に届いた。その文意は次の如くである。
 富岡先生が折角上京されたと思うと突然帰国された、それに就《つい》て自分は大に胸を痛めている、先生は相変らず偏執《ひねくれ》ておられる。我々は勿論《もちろん》先輩諸氏も決して先生を冷遇するのではないが先生の方で勝手にそう決定《きめ》て怒っておられる、実に困った者で手の着けようがない。実は自分は梅子|嬢《さん》を貰《もら》いたいと兼ねて思っていたのであるから、井下伯に頼んで梅子|嬢《さん》だけ滞《と》めて置いて後《あと》から交渉して貰う積りでいた、然るに先生の突然の帰国でその計画も画餅《がべい》になったが残念でならぬ。自分は容貌《ようぼう》の上のみで梅子|嬢《さん》を思うているのでない、御存知の通り実に近頃の若い女子には稀《まれ》に見るところの美しい性質を以《もっ》ておられる、自分は随分東京で種々の令嬢方を見たが梅子|嬢《さん》ほどの癖のない、すらりとした、すなおなる女を見たことはない。女子の特質とも言うべき柔和な穏やかな何処《どこ》までも優《やさ》しいところを梅子|嬢《さん》は十二分に有《もっ》ておられる。これには貴所《あなた》も御同感と信ずる。もし梅子|嬢《さん》の欠点を言えば剛という分子が少ない事であろう、しかし完全無欠の人間を求めるのは求める方が愚である、女子としては梅子|嬢《さん》の如き寧《むし》ろ完全に近いと言って宜《よろ》しい、或《あるい》は剛の分子の少ないところが却《かえっ》て梅子|嬢《さん》の品性に一段の奥ゆかしさを加えておるのかとも自分は思う。自分は決して浮きたる心でなく真面目《まじめ》にこの少女を敬慕しておる、何卒《どう》か貴所《あなた》も自分のため一臂《いっぴ》の力を借して、老先生の方を甘《うま》く説いて貰いたい、あの老人程|舵《かじ》の取り難《にく》い人はないから貴所が其所《そこ》を巧にやってくれるなら此方《こっち》は又井下伯に頼んで十分の手順をする、何卒か宜しく御頼《おたのみ》します。
 但《ただ》し富岡老人に話されるには余程《よほど》よき機会《おり》を見て貰いたい、無暗《むやみ》に急ぐと却て失敗する、この辺は貴所に於《おい》て決して遺漏《ぬかり》はないと信ずるが、元来老先生といえども人並の性情を有っておるから了解《わか》ることは能く了解る人である。ただその資質に一点我慢強いところのある上に、維新の際妙な行きがかりから脇道《わきみち》へそれて遂に成るべき功名をも成し得ず、同輩は侯伯たり後進は子男たり、自分は田舎《いなか》の老先生たるを見、かつ思う毎《ごと》にその性情は益々《ますます》荒れて来て、それが慣《なら》い性《せい》となり遂には煮ても焼ても食えぬ人物となったのである、であるから老先生の心底《しんてい》には常に二個《ふたり》の人が相戦っておる、その一人は本来自然の富岡|氏《うじ》、その一人はその経歴が造った富岡先生。そして富岡先生は常に猛烈に常に富岡氏を圧服するに慣れている、その結果として富岡氏が希望し承認し或は飛びつきたい程に望んでいることでも、あの執拗《ひねく》れた焦熬《いらいら》している富岡先生の御機嫌《ごきげん》に少しでも触《さわ》ろうものなら直ぐ一撃のもとに破壊されて了《しま》う。この辺のところは御存知でもあろうが能《よ》く御注意あって、十分|機会《おり》を見定めて話して貰いたい。
 という意味を長々と熱心に書いてある。村長は委細を呑込《のみこ》んで、何卒《どうか》機会《おり》を見て甘《うま》くこの縁談を纏《まと》めたいものだと思った。
 三日ばかり経《た》って夜分村長は富岡老人を訪《と》うた。機会《おり》を見に行ったのである。然るに座に校長細川あり、酒が出ていて老先生の気焔《きえん》頗《すこぶ》る凄《すさ》まじかったので長居《ながい》を為《せ》ずに帰《かえ》って了った。
 その後五日経って、村長は午後二時頃富岡老人を訪う積りでその門まで来た。そうすると先生の声で
「馬鹿者! 貴様《きさま》まで大馬鹿になったか? 何が可笑《おか》しいのだ、大馬鹿者!」
 と例の大声で罵《ののし》るのが手に取るように聞えた。村長は驚いて誰が叱咤《しか》られるのかとそのまま足を停《とど》めて聞耳を聳《た》てていると、内から老僕倉蔵がそっと出て来た。
「オイ倉蔵、誰だな今怒鳴られているのは?」村長は私語《ささや》いた。倉蔵は手を以てこれを止めて、村長の耳の傍《そば》に口をつけて、
「お嬢様が叱咤《しか》られているのだ」
「エッお梅|嬢《さん》が※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」と村長は眼を開瞳《みは》った。その筈《はず》で、梅子は殆《ほとん》ど富岡老人に従来《これまで》一言《ひとこと》たりとも叱咤《しから》れたことはない。梅子に対してはさすがの老先生も全然《まるで》子供のようで、その父子《ふし》の間の如何《いか》にも平穏にして情愛こまかなるを見る時は富岡先生実に別人のようだと誰しも思っていた位。
「マアどうして?」村長は驚ろいて訊《たず》ねた。
「どうしてか知らんが今度東京から帰って来てからというものは、毎日酒ばかり呑んでいて、今まで御嬢|様《さん》にはあんなに優しかった老先生がこの二三日《にさんち》はちょっとしたことにも大きな声をして怒鳴るようにならしゃっただ、私《わし》も手の着けようがないので困っていたとこで御座りますよ」さも情なそうに言って、
「あの様子では最早《もう》先が永くは有りますめえ、不吉なことを言うようじゃが……」と倉蔵は眼を瞬《しばだ》たいた。この時老先生の声で
「倉蔵! 倉蔵!」と呼ぶ声が座敷の縁先でした。倉蔵は言葉を早めて、益々小さな声で
「然し晩になると大概校長さんが来ますからその時だけは幾干《いくら》か気嫌《きげん》が宜《え》えだが校長さんも感心に如何《いくら》なんと言われても逆からわないで温和《おとなしゅ》うしているもんだから何時《いつ》か老先生も少しは機嫌が可くなるだ……」
「倉蔵! 倉蔵は居らんか!」と又も老先生の太い声が響いた。
 倉蔵は目礼したまま大急ぎで庭の方へ廻《ま》わった。村長は腕を組んで暫時《しばら》く考えていたが歎息《ためいき》をして、自分の家の方へ引返《ひっかえ》した。

        

 村長は高山の依頼を言い出す機会《おり》の無いのに引きかえて校長細川繁は殆《ほとん》ど毎夜の如く富岡先生を訪《と》うて十時過ぎ頃まで談話《はなし》ている、談話《はなし》をすると言うよりか寧《むし》ろその愚痴やら悪口《あっこう》やら気焔《きえん》やら自慢噺《じまんばなし》やらの的になっている。先生はこの頃になって酒を被《こうむ》ること益々《ますます》甚《はなは》だしく倉蔵の言った通りその言語が益々荒ら荒らしくその機嫌《きげん》が愈々《いよいよ》難《むず》かしくなって来た。殊《こと》に変わったのは梅子に対する挙動《ふるまい》で、時によると「馬鹿者! 死んで了《しま》え、貴様《きさま》の在《あ》るお蔭で乃公《おれ》は死ぬことも出来んわ!」とまで怒鳴ることがある。然し梅子は能《よ》くこれに堪えて愈々|従順《すなお》に介抱していた。其処《そこ》で倉蔵が
「お嬢様、マア貴嬢《あんた》のような人は御座《ごわ》りませんぞ、神様のような人とは貴嬢のことで御座《ござ》りますぞ、感心だなア……」と老の眼に涙をぼろぼろこぼすことがある。
 こんな風で何時《いつ》しか秋の半《なかば》となった。細川繁は風邪《かぜ》を引いていたので四五日先生を訪うことが出来なかったが熱も去ったので或夜七時頃から出かけて行た。
 家内《やうち》が珍らしくも寂然《ひっそり》としているので細川は少し不審に思いつつ坐敷に通ると、先生の居間の次ぎの間に梅子が一人裁縫をしていた。細川が入って来ても頭《かしら》を上げないので、愈々|訝《いぶ》かしく能《よ》く見ると蒼《あお》ざめた頬《ほお》に涙が流れているのが洋燈《ランプ》の光にありありと解《わか》る。校長は喫驚《びっく》りして
「お梅さんどうかしたのですか」と驚惶《あわただ》しく訊《たず》ねた。梅子は猶《なお》も頭《かしら》を垂れたまま運ばす針を凝視《みつめ》て黙っている。この時次の室《ま》で
「誰だ?」と老先生が怒鳴った。
「私《わたくし》で御座います。細川で御座います」
「此方《こっち》へ入らんで何をしているのか、用があるからちょっと来い!」
「唯今《ただいま》」と校長が起《た》とうとした時、梅子は急に細川の顔を見上げた、そして涙がはらはらとその膝《ひざ》にこぼれた。ハッと思って細川は躊躇《ためろ》うたが、一言《ひとこと》も発し得ない、止《とど》まることも出来ないでそのまま先生の居間に入った。何とも知れない一種の戦慄《せんりつ》が身うちに漲《みな》ぎって、坐った時には彼の顔は真蒼《まっさお》になっていた。富岡老人は床に就いていてその枕許《まくらもと》に薬罎《くすりびん》が置いてある。
「オヤ何所《どこ》かお悪う御座いますか」と細川は搾《しぼ》り出《いだ》すような声で漸《やっ》と言った。富岡老人一言も発しない、一間は寂《せき》としている、細川は呼吸《いき》も塞《つま》るべく感じた。暫《しばら》くすると、
「細川! 貴公《おまえ》は乃公《おれ》の所へ元来《いったい》何をしに来るのだ、エ?」
 寝たまま富岡先生は人を圧《お》しつけるような調声《ちょうし》、人を嘲《あざ》けるような声音《こわね》で言った。細川は一語も発し得ない。
「エ、元来《いったい》何をしに来るのだ? 乃公《おれ》の見舞に来るのか。娘の御|機嫌《きげん》を取りに来るのか、エ? 返事をせえ!」
 校長は眼を閉《つぶ》り歯を喰《くい》しばったまま頭《かしら》を垂《た》れ両の拳《こぶし》を膝《ひざ》に乗せている。
「貴公《おまえ》は娘を狙《ねら》っておるナ! 乃公の娘を自分の物にしたいと狙っておるナ! ふん」
 細川の拳は震えている。
「貴公よく考えてみろ! 貴公は高《たか》が田舎《いなか》の小学校の校長じゃアないか。同じ乃公の塾に居た者でも高山や長谷川は学士だ、それにさえ乃公は娘を与《やら》んのだぞ。身の程を知れ! 馬鹿者!」
 校長の顔は見る見る紅《くれない》をさして来た。その握りしめた拳の上に熱涙がはらはらと落ちた。侯爵伯爵を罵《ののし》る口から能《よ》くもそんな言葉が出る、矢張人物よりも人爵の方が先生には難有《ありがた》いのだろう、見下げ果てた方だと口を衝《つ》いて出ようとする一語を彼はじっと怺《こら》えている。この先生の言としては怪むに足《た》らない、もし理窟《りくつ》を言って対抗する積りなら初めからこの家に出入《でいり》をしないのである。と彼は思い返した。
「エ、それともどうしても娘が欲しいと言うのか、コラ!」
 校長は一語を発しない。
「判然《はっきり》と言え! どうしても欲しいと言うのか、男らしく言え、コラ!」
 細川はきっと頭《かしら》をあげた。
「左様で御座います! 梅子さんを私の同伴者《つれやい》に貰いたいと常に願っております!」きっぱりと言い放って老先生の眼睛《がんせい》を正視した。
「もし乃公が与《や》らぬと言ったらどうする?」
「致し方が御座いません!」
「帰れ! 招喚《よび》にやるまでは来るな、帰れ!」と老人は言放って寝返《ねがえり》して反対《むこう》を向いて了った。
 細川は直ちに起って室《へや》を出ると、突伏して泣いていた梅子は急に起て玄関まで送って来て、
「貴下《あなた》何卒《どうか》父の言葉を気になさらないで……御存知の通りな気性で御座いますから!」とおろおろ声で言った。
「イイエ決して気には留めません、何卒《どうか》先生を御大切《ごたいせつ》に、貴嬢《あなた》も御大事《ごだいじ》……」終《みな》まで言う能《あた》わず、急いで門を出て了った。
 その夜細川が自宅《うち》に帰ったのは十二時過ぎであった。何処《どこ》を徘徊《うろつ》いていたのか、真蒼《まっさお》な顔色をしてさも困憊《がっかり》している様子を寝ないで待っていた母親は不審そうに見ていたが、
「お前又た風邪を引きかえしたのじゃアないかの、未だ十分でないのに余り遅くまで夜あるきをするのは可くないよ」
「何に格別の事は御座いません」と細川は何気なく言ってそのま自分の居間へ入った。母親はその後姿を見送ってそっと歎息《ためいき》をした。

        

 その翌日より校長細川は出勤して平常《ふだん》の如く職務を執っていたが彼の胸中には生れ落ちて以来未だ経験したことのない、苦悩が燃えているのである。
 もし富岡先生に罵《のの》しられたばかりなら彼は何とかして思切るほうに悶《もが》いたであろう、その煩悶《はんもん》も苦痛には相違ないが、これ戦《たたかい》である、彼の意力は克《よ》くこの悩に堪《た》えたであろう。
 然《しか》し今の彼の苦悩は自《みずか》ら解く事の出来ない惑《まどい》である、「何故《なぜ》梅子はあの晩泣いていたろう。自分が先生に呼ばれてその居間に入る時、梅子は何故あんな相貌《かおつき》をして涙を流して自分を見たろう。自分が先生に向《むかっ》て自分の希望《のぞみ》を明言した時に梅子は隣室で聞いていたに違いない、もし自分の希望《のぞみ》を全く否《いな》む心なら自分が帰る時あんなに自分を慰める筈《はず》はない……」
「梅子は自分を愛している、少くとも自分が梅子を恋《こい》ていることを不快には思っていない」との一念が執念《しゅうね》くも細川の心に盤居《わだか》まっていて彼はどうしてもこれを否むことが出来ない、然し梅子が平常《ふだん》何人《なんびと》に向ても平等に優しく何人に向ても特種の情態《こころもち》を示したことのないだけ、細川は十分この一念を信ずることが出来ぬ。梅子が泣いて見あげた眼の訴うるが如く謝《わび》るが如かりしを想起《おもいおこ》す毎に細川はうっとり[#「うっとり」に傍点]と夢見心地になり狂わしきまでに恋しさの情《こころ》燃えたつのである。恋、惑、そして恥辱《はじ》、夢にも現《うつつ》にもこの苦悩は彼より離れない。
 或時は断然倉蔵に頼んで窃《ひそ》かに文《ふみ》を送り、我情《わがこころ》のままを梅子に打明けんかとも思い、夜の二時頃まで眠らないで筆を走らしたことがある、然し彼は思返してその手紙を破って了《しま》った。こういう風で十日ばかり経《た》った。或日細川は学校を終えて四時頃、丘の麓《ふもと》を例の如く物思に沈みつつ帰って来ると、倉蔵に出遇《であ》った。倉蔵は手に薬罎《くすりびん》を持ていた。
「先生! どうしてこの頃は全然《まるきり》お見えになりません?」倉蔵はないない様子を知りながら素知らぬ風で問うた。
「老先生の御病気はどうかね?」と校長も又た倉蔵の問に答えないで富岡老人の様子を訊《たず》ねた。
「この頃はめっきりお弱りになって始終床にばかり就ていらっしゃるが、別に此処《ここ》というて悪るい風にも見えねえだ。然し最早《もう》長くは有りますめえよ!」と倉蔵は歎息《ためいき》をした。
「ふうん、そうかな、一度見舞に行きたいのだけれど……」と校長の声も様子も沈んで了った。
「お出《いで》なされませ、関《かま》うもんかね、疳癪《かんしゃく》まぎれに何言うたて……」
「それもそうだが……お梅さんの様子はどうだね?」と思切って問うた。
「何だかこの頃は始終|鬱屈《ふさい》でばかり御座るが、見ていても可哀そうでなんねえ、ほんとに嬢さんは可哀そうだ……」と涙にもろい倉蔵は傍《わき》を向いて田甫《たんぼ》の方を眺《なが》め最早《もう》眼をしばだたいている。
「困ったものだナ、先生は相変らず喧《やか》ましく言うかね?」
「ナニこの頃は老先生も何だか床の中で半分眠ってばかり居て余り口を用《き》かねえだ」
「妙だねえ」と細川は首をかしげた。
「これまで煩《わず》らったことが有《あっ》ても今度のように元気のないことは無《ね》えが、矢張《やっぱ》り長くない証《しるし》であるらしい」
「そうかも知れん!」と細川は眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。
「それに何だか我が折れて愚に還《かえ》ったような風も見えるだ。それを見ると私も気の毒でならん、喧《やか》まし人は矢張《やっぱり》喧しゅうしていてくれる方が可《え》えと思いなされ」
「今夜見舞に行ってみようかしらん」
「是非来なさるが可え、関うもんか!」
「うん……」と細川は暫時《しばら》く考えていたが、「お梅さんに宜しく言っておくれ」
「かしこまりました、是非今夜来なさるが可《え》え」
 細川は軽く点頭《うなず》き、二人は分れた。いろいろと考え、種々《いろいろ》に悶《もが》いてみたが校長は遂にその夜富岡を訪問《とう》ことが出来なかった。
 それから三日目の夕暮、倉蔵が真面目《まじめ》な顔をして校長の宅《うち》へ来て、梅子からの手紙を細川の手に渡した、細川が喫驚《びっくり》して目を円《まる》くして倉蔵の顔を見ているうちに彼は挨拶《あいさつ》も為《し》ないで帰って了《しま》った。
 梅子からの手紙! 細川繁の手は慄《ふ》るえた。無理もない、曾《かつ》て例のないこと、又有り得《う》べからざること、細川に限らず、梅子を知れる青年《わかもの》の何人も想像することの出来ないことである!
 封を切て読み下すと、頗《すこぶ》る短い文《ふみ》で、ただ父に代ってこの手紙を書く。今夜直ぐ来て貰いたい是非とのことである、何か父から急にお話したいことがあるそうだとの意味。
 細川は直ぐ飛んで往《い》った。「呼びにやるまで来るな!」との老先生の先夜の言葉を今更のように怪しゅう思って、彼は途々《みちみち》この一言《いちごん》を胸に幾度《いくたび》か繰返した、そして一念|端《はし》なくもその夜の先生の怒罵《どば》に触れると急に足が縮《すく》むよう思った。
 然し「呼びに来た」のである。不思議の力ありて彼を前より招き後《あと》より推《お》し忽《たちま》ち彼を走らしめつ、彼は躊躇《ためら》うことなく門を入った。
 居間に通って見ると、村長が来ている。先生は床に起直って布団《ふとん》に倚掛《よっかか》っている。梅子も座に着いている、一見一座の光景《ようす》が平常《ふだん》と違っている。真面目で、沈んで、のみならず何処《どこ》かに悲哀の色が動いている。
 校長は慇懃《いんぎん》に一座に礼をして、さてあらためて富岡老人に向い、
「御病気は如何《いかが》で御座いますか」
「どうも今度の病気は爽快《はっきり》せん」という声さえ衰えて沈んでいる。
「御大事《ごだいじ》になされませんと……」
「イヤ私《わし》も最早《もう》今度はお暇乞《いとまごい》じゃろう」
「そんなことは!」と細川は慰さめる積りで微笑《えみ》を含んだ。しかし老人は真面目で
「私《わし》も自分の死期の解らぬまでには老耄《もうろく》せん、とても長くはあるまいと思う、其処《そこ》で実は少し折入って貴公《おまえ》と相談したいことがあるのじゃ」
 かくてその夜は十時頃まで富岡老人の居間は折々|談声《はなしごえ》が聞え折々|寂《しん》と静まり。又折々老人の咳払《せきばらい》が聞えた。
 その翌日村長は長文の手紙を東京なる高山法学士の許《もと》に送った、その文の意味は次ぎの如くである、――
 御申越《おんもうしこ》し以来一度も書面を出さなかったのは、富岡老人に一条を話すべき機会《おり》が無かったからである。
 先日の御手紙には富岡先生と富岡|氏《し》との二個《ふたり》の人がこの老人の心中に戦かっておるとのお言葉が有った、実にその通りで拙者も左様思っていた、然るにちょうど御手紙を頂いた時分以来は、所謂《いわゆ》る富岡先生の暴力|益々《ますます》つのり、二六時中富岡氏の顔出《かおだし》する時は全く無かったと言って宜《よろ》しい位、恐らく夢の中《うち》にも富岡先生は荒《あば》れ廻っていただろうと思われる。
 これには理由《わけ》があるので、この秋の初に富岡老人の突然上京せられたるのは全く梅子|嬢《さん》を貴所《あなた》に貰わす目算であったらしい、拙者はそう鑑定している、ところが富岡先生には「東京」が何より禁物なので、東京にゆけば是非、江藤侯井下伯その他|故郷《くに》の先輩の堂々たる有様を見聞せぬわけにはいかぬ、富岡先生に取ってはこれ則《すなわ》ち不平、頑固《がんこ》、偏屈の源因《げんいん》であるから、忽《たちま》ち青筋を立てて了って、的《あて》にしていた貴所《あなた》の挙動《ふるまい》すらも疳癪《かんしゃく》の種となり、遂《つい》に自分で立てた目的を自分で打壊《たたきこわ》して帰国《かえ》って了われたものと拙者は信ずる、然るに帰国って考えてみると梅子|嬢《さん》の為めに老人の描いていた希望は殆《ほと》んど空《くう》になって了った。先生何が何やら解らなくなって了った。其所《そこ》で疳《かん》は益々起る、自暴《やけ》にはなる、酒量は急に増す、気は益々狂う、真《まこと》に言うも気の毒な浅ましい有様となられたのである、と拙者は信ずる。
 現に拙者が貴所《あなた》の希望に就き先生を訪うた日などは、先生の梅子|嬢《さん》を罵《ののし》る大声《たいせい》が門の外まで聞えた位で、拙者は機会《おり》悪《わる》しと見、直《ただち》に引返えしたが、倉蔵の話に依ればその頃先生はあの秘蔵子なるあの温順なる梅子|嬢《さん》をすら頭ごなしに叱飛《しかりとば》していたとのことである、以て先生の様子を想像したまわば貴所も意外の感あることと思う。
 拙者ばかりでなくこういう風であるから無論富岡を訪《たず》ねる者は滅多になかった、ただ一人、御存知の細川繁氏のみは殆ど毎晩のように訪ねて怒鳴られながらも慰めていたらしい。
 然るに昨夕《さくせき》のこと富岡老人近頃|病床《とこ》にある由《よし》を聞いたから見舞に出かけた、もし機会《おり》が可かったら貴所の一条を持出す積りで。老人はなるほど床に就いていたが、意外なのは暫時《しばら》く会《あわ》ぬ中に全然《すっかり》元気が衰えたことである、元気が衰えたと云うよりか殆ど我が折れて了って貴所の所謂《いわゆ》る富岡氏、極く世間並の物の能く通暁《わかっ》た老人に為《な》って了ったことである、更に意外なのは拙者の訪問をひどく喜こんで実は招《よ》びにやろうかと思っていたところだとのことである。それから段々話しているうちに老人は死後のことに就き色々と拙者に依托《いたく》せられた、その様子が死期の遠からぬを知っておらるるようで拙者も思わず涙を呑《の》んだ位であった、其処《そこ》で貴所の一条を持出すに又とない機会《おり》と思い既に口を切ろうとすると、意外も意外、老人の方から梅子|嬢《さん》のことを言い出した。それはこうで、娘は細川繁に配する積りである、細川からも望まれている、私《わし》も初は進まなかったが考えてみると娘の為め細川の為め至極良縁だと思う、何卒《どう》か貴所《あなた》その媒酌者《なこうど》になってくれまいかとの言葉。胸に例の一条が在る拙者は言句《ごんく》に塞《つま》って了った、然し直ぐ思い返してこの依頼を快く承諾した。
 と云うのは、貴所に対して済ぬようだが、細川が先に申込み老人が既に承知した上は、最早《もはや》貴所の希望は破れたのである、拙者とても致し方がない。更に深く考えてみると、この縁は貴所の申込が好し先であってもそれは成就せず矢張、細川繁の成功に終わるようになっていたのである、と拙者は信ずるその理由は一に貴所の推測に任かす、富岡先生を十分に知っている貴所には直ぐ解るであろう。
 かつ拙者は貴所の希望の成就を欲する如く細川の熱望の達することを願う、これに就き少も偏頗《へんぱ》な情《こころ》を持ていない。貴所といえども既に細川の希望が達したと決定《きま》れば細川の為めに喜こばれるであろう。又梅子|嬢《さん》の為にも、喜ばれるであろう。
 そして拙者の見たところでは梅子|嬢《さん》もまた細川に嫁《か》することを喜こんでいるようである。
 これが良縁でなくてどうしよう。
 拙者が媒酌者《なこうど》を承諾するや直ぐ細川を呼びにやった、細川は直ぐ来た、其処《そこ》で梅子|嬢《さん》も一座し四人同席の上、老先生からあらためて細川に向い梅子|嬢《さん》を許すことを語られ又梅子|嬢《さん》の口から、父の処置に就いては少しも異議なく喜んで細川氏に嫁すべきを誓い、婚礼の日は老先生の言うがままに来《きたる》十月二十日と定めた。鬮《くじ》は遂に残者《のこりもの》に落ちた。
 貴所からも無論老先生及細川に向て祝詞を送らるることと信ずる。

        

 婚礼も目出度《めでた》く済んだ。田舎《いなか》は秋晴|拭《ぬぐ》うが如く、校長細川繁の庭では姉様冠《あねさまかぶり》の花嫁中腰になって張物をしている。
 さて富岡先生は十一月の末|終《つい》にこの世を辞して何国《なにくに》は名物男一人を失なった。東京の大新聞二三種に黒枠《くろわく》二十行ばかりの大きな広告が出て門人高山文輔、親戚《しんせき》細川繁、友人野上子爵等の名がずらり並んだ。
 同国の者はこの広告を見て「先生到頭死んだか」と直ぐ点頭《うなず》いたが新聞を見る多数は、何人なればかくも大きな広告を出すのかと怪むものもあり、全く気のつかぬ者もあり。
 然しこの広告が富岡先生のこの世に放った最後の一喝《いっかつ》で不平満腹の先生がせめてもの遣悶《こころやり》を知人《ちじん》に由《よ》って洩《も》らされたのである。心ある同国人の二三はこれを見て泣いた。

底本:「牛肉と馬鈴薯」新潮文庫、新潮社
   1970(昭和45年)年5月30日初版発行
   1983(昭和58年)年7月30日22刷
入力:Nana Ohbe
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年6月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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