一
内地へ帰還する同年兵達を見送って、停車場《ていしゃば》から帰って来ると、二人は兵舎の寝台に横たわって、久しくものを言わずに溜息《ためいき》をついていた。これからなお一年間辛抱しなければ内地へ帰れないのだ。
二人は、過ぎて来たシベリヤの一年が、如何に退屈で長かったかを思い返した。二年兵になって暫らく衛戍《えいじゅ》病院で勤務して、それからシベリアへ派遣されたのであった。一緒に、敦賀から汽船に乗って来た同年兵は百人あまりだった。彼等がシベリアへ着くと、それまでにいた四年兵と、三年兵の一部とが、内地へ帰って行った。
シベリアは、見渡す限り雪に包まれていた。河は凍《こお》って、その上を駄馬に引かれた橇《そり》が通っていた。氷に滑べらないように、靴の裏にラシャをはりつけた防寒靴をはき、毛皮の帽子と外套をつけて、彼等は野外へ出て行った。嘴《くちばし》の白い烏が雪の上に集って、何か頻《しき》りにつゝいていたりした。
雪が消えると、どこまで行っても変化のない枯野が肌を現わして来た。馬や牛の群が吼《ほ》えたり、うめいたりしながら、徘徊《はいかい》しだした。やがて、路傍《ろぼう》の草が青い芽を吹きだした。と、向うの草原にも、こちらの丘にも、処々、青い草がちら/\しだした。一週間ほどするうちに、それまで、全く枯野だった草原が、すっかり青くなって、草は萌《めば》え、木は枝を伸し、鵞《がちょう》や鶩《あひる》が、そここゝを這い廻りだした。夏、彼等は、歩兵隊と共に、露支国境の近くへ移って行った。十月には赤衛軍との衝突があった。彼等は、装甲列車で、第一線から引き上げた。
草原は一面に霧がかゝって、つい半町《はんちょう》ほどさきさえも、見えない日が一週間ほどつゞいた。
彼等は、ある丘の、もと露西亜軍《ロシアぐん》の兵営だった、煉瓦造《れんがづく》りを占領して、掃除をし、板仕切で部屋を細かく分って手術台を据えつけたり、薬品を運びこんだりして、表へは、陸軍病院の板札をかけた。
十一月には雪が降り出した。降った雪は解けず、その上へ、雪は降り積り、降り積って行った。谷間の泉から、苦力が水を荷《にな》って病院まで登って来る道々、こぼした水が凍《こお》って、それが毎日のことなので、道の両側に氷がうず高く、山脈のように連っていた。
彼等は、ペーチカを焚《た》いて、室内に閉じこもっていた。
二人は来《こ》し方《かた》の一年間を思いかえした。負傷をして、脚や手を切断され、或は死んで行く兵卒を眼《ま》のあたりに目撃しつゝ常に内地のことを思い、交代兵が来て、帰還し得る日が来るのを待っていた。
交代兵は来た。それは、丁度《ちょうど》、彼等が去年派遣されてやって来たのと同じ時分だった。四年兵と、三年兵との大部分は帰って行くことになった。だが、三年兵のうちで、二人だけは、よう/\内地で初年兵の教育を了《お》えて来たばかりである二年兵を指導するために残されねばならなかった。
軍医と上等看護長とが相談をした。彼等は、性悪《しょうわる》で荒っぽくて使いにくい兵卒は、此際《このさい》、帰してしまいたかった。そして、おとなしくって、よく働く、使いいゝ吉田と小村とが軍医の命令によって残されることになった。
二
誰れだって、シベリアに長くいたくはなかった。
豪胆で殺伐なことが好きで、よく銃剣を振るって、露西亜人を斬りつけ、相手がない時には、野にさまよっている牛や豚を突き殺して、面白がっていた、鼻の下に、ちょんびり髭《ひげ》を置いている屋島という男があった。
「こういうこた、内地へ帰っちゃとても出来ないからね。――法律も何もないシベリアでウンとおたのしみをしとくんだ。」
彼は、よく軍医や看護長に喰ってかゝった。ある時など、拳銃を握って、軍医を追っかけまわしたことがあった。軍医が規則正しく勤務することを要求したのが、癪《しゃく》にさわったというのであった。彼は、逃げて行く軍医を、うしろからねらって、轟然《ごうぜん》と拳銃を放った。ねらいはそれて、弾丸《たま》は二重になった窓硝子を打ち抜いた。
彼は、シベリアにいることを希望するだろうと誰れしも思っていた。
「一年や二年、シベリアに長くいようがいまいが、長い一生から見りゃ、同じこっちゃないか。――大《たい》したこっちゃないじゃないか!」
彼は、皆の前でのんきそうなことを云っていた。
だが、軍医と上等看護長とは、帰還者を決定する際、イの一番に、屋島の名を書き加えていた。――つまり、銃剣を振りまわしたり、拳銃を放ったりする者を置いていては、あぶなくて厄介《やっかい》だからだ。
自分からシベリアへ志願をして来た福田という男があった。福田は露西亜語が少し出来た。シベリアへ露西亜語の練習をするつもりで志願して来たのであった。一種の図太さがあって、露西亜人を相手に話しだすと、仕事のことなどそっちのけにして、二時間でも三時間でも話しこんだ。露西亜語が相当に出来るようになってから内地へ帰りたいというのが彼の希望だった。
けれども、福田も、帰還者名簿中に、チャンと書きこまれていた。
そういう例は、まだ/\他《ほか》にもあった。
無断で病院から出て行って、三日間、露人の家に泊ってきた男があった。それは脱営になって、脱営は戦時では銃殺に処せられることになっていた。だがそれを内密にすましてその男は処罰されることからは免《まぬが》れた。しかし、その代りとして、四年兵になるまで残しておかれるだろうとは、自他ともに覚悟をしていた。
だが、その男も、帰還者の一人として、はっきり記《しる》されてあった。
そして、残されるのは、よく働いて、使いいゝ吉田と小村の二人であった。
二人とも、おとなしくして、よく働いていればその報いとして、早くかえしてくれることに思って、常々から努めてきたのであった。少し風邪《かぜ》気味で、大儀な時にでも無理をして勤務をおろそかにしなかった。
――そうして、その報いとして得たものは、あと、もう一箇年間、お国のために、シベリアにいなければならないというだけであった。
二人は、だまし討ちにあったような気がして、なげやりに、あたり散らさずにはいられない位い胸がむか/\した。
三
――汽車を待っている間に、屋島が云った。
「君等は結局馬鹿なんだよ。――早く帰ろうと思えや、俺のようにやれ。誰だって、自分の下に使うのに、おとなしい羊のような人間を置いときたいのはあたりまえじゃないか――だが、一年や二年、シベリアにいたっていなくったって、長い一生から見りゃ同じこった。ま、気をつけてやれい。」
それをきいていた吉田も、小村も元気がなかった。
同年兵達は、既に内地へ帰ってから、何をするか、入営前にいた娘は今頃どうしているだろう? 誰れが出迎えに来ているだろう? ついさき頃まで熱心に通っていた女郎のことなど、けろりと忘れてしまって、そんなことを頻りに話していた。
「俺《お》れゃ、家《うち》へ帰ったら、早速、嚊《かゝあ》を貰うんだ。」シベリアへ志願をして来た福田も、今は内地へ帰るのを急いでいた。
「露西亜語なんか分らなくったっていゝや、――親爺《おやじ》のあとを継いで行きゃ、食いっぱぐれはないんだ、いつなんどきパルチザンにやられるかも知れないシベリアなんぞ、もうあき/\しちゃった。」
二人だけは帰って行く者の仲間から除外されて、待合室の隅の方で小さくなっていた。二人は、もと/\よく気が合ってる同志ではなかった。小村は内気で、他人《ひと》から云われたことは、きっとするが、物事を積極的にやって行くたちではなかった。吉田は出しゃばりだった。だが人がよかったので、自分が出しゃばって物事に容喙《ようかい》して、結局は、自分がそれを引き受けてせねばならぬことになってしまっていた。二人が一緒にいると、いつも吉田が、自分の思うように事をきめた。彼が大人顔をしていた。それが小村には内心、気に喰わなかった。しかし、今では、お互いに、二人だけは仲よくして行かなければならないことを感じていた。気に入らないことがあっても、それを怺《こら》えなければならないと思っていた。同年兵は二人だけであった。これからさき、一年間、お互いに助け合って生きて行かなければならなかった。
「じゃ、わざ/\見送ってくれて、有がとう。」
汽車が来ると、帰る者たちは、珍らしい土産ものをつめこんだ背嚢《はいのう》を手にさげて、われさきに列車の中へ割込んで行った。そこで彼等は自分の座席を取って、防寒帽を脱ぎ、硝子窓の中から顔を見せた。
そこには、線路から一段高くなったプラットフォームはなかった。二人は、線路の間に立って、大きな列車を見上げた。窓の中から、帰る者がそれ/″\笑って何か云っていた。だが、二人は、それに答えて笑おうとすると、何故か頬がヒン曲って泣けそうになって来た。
二人は、そういう顔を見られたくなかったので、黙ってむっつりしていた。
……汽車が動き出した。
窓からのぞいていた顔はすぐ引っ込んでしまった。
二人は、今まで押し怺えていた泣けそうなものが、一時に顔面に溢れて来るのをどうすることも出来なかった。……
「おい、病院へ帰ろう。」
吉田が云った。
「うむ。」
小村の声はめそ/\していた。それに反撥するように、吉田は、
「あの橋のところまで馳せっくらべしよう。」
「うむ。」小村は相変らずの声を出した。
「さあ、一、二、三ン!」
吉田がさきになって、二人は、一町ほど走ったが、橋にまで、まだ半分も行かないうちに、気ぬけがしてやめてしまった。
二人は重い足を引きずって病院へ帰った。
五六日間、すべての勤務を二年兵にまかせきって、兵舎でぐう/\寝ていた。
四
「おい、兎狩りに行こうか。」
こう云ったのは吉田であった。
「このあたりに、一体、兎がいるんかい。」
小村は鼻の上まで毛布をかぶって寝ていた。
「居《お》るんだ。……そら、つい、そこにちょか/\してるんだ。」
吉田は窓の外を指さした。彼は、さっきから、腹這いになって、二重硝子の窓から、向うの丘の方を見ていたのであった。丘は起伏して、ずっと彼方《あちら》の山にまで連なっていた。丘には処々|草叢《くさむら》があり、灌木の群があり、小石を一箇所へ寄せ集めた堆《うずたか》があった。それらは、今、雪に蔽われて、一面に白く見境いがつかなくなっていた。
なんでも兎は、草叢があったあたりからちょか/\走り出して来ては、雪の中へ消え、暫らくすると、また、他の場所からちょか/\と出て来た。その大きな耳がまず第一に眼についた。でも、よほど気をつけていないと雪のようで見分けがつかなかった。
「そら、出て来た。」吉田が小声で叫んだ。「ぴん/\はねてるんだ。」
「どれ?……」小村は、のっそり起上って窓のところに来た。「見えやしないじゃないか。」
「よく見ろ、はねてるんだ。……そら、あの石を積み重ねてある方へ走ってるんだ。長い耳が見えるだろう。」
二人とも、寝ることにはあきていた。とは云え、勤務は阿呆らしくって、真面目にやる気になれなかった。帰還した同年兵は、今頃、敦賀へついているだろうか。すぐ満期になって家へ帰れるのだ! 二人はそんなことばかりを思っていた。シベリアへ来るため、乗船した前夜、敦賀で一泊した。その晩のことを思い出したりした。その港町がなつかしく如何にもかゞやかしく思い出された。何年間、海を見ないことか! 二人は、シベリアへ来てから、もう三年以上、いや五年にもなるような気がしていた。どうしてシベリアへ兵隊をよこして頑張ったりする必要があるのだろう。兵卒は、露西亜人を殺したり、露西亜人に殺されたりしているのである。シベリアへ兵隊を出すことさえ始めなければ、自分達だって、三年兵にもなって、こんなところに引き止められていやしないのだ。
二人は、これまで、あまりに真面目で、おとなしかった自分達のことを悔いていた。出たらめに、勝手気まゝに振るまってやらなければ損だ。これからさき、一年間を、自分の好きなようにして暮してやろう。そう考えていた。
――吉田は、防寒服を着け、弾丸を込めた銃を握って兵舎から走り出た。
「おい、兎をうつのに実弾を使ってもいゝのかい。」
小村も、吉田がするように、防寒具を着けながら、危ぶんだ。
「かまうもんか!」
「ブ(上等看護長のこと)が怒りゃせんかしら……」
銃と実弾とは病院にも配給されていたが、それは、非常時以外には使うことを禁ぜられていた。非常時というのは、つまり、敵の襲撃を受けたような場合を指すのであった。
吉田はかまわず出て行った。小村も、あとでなんとかなる、――そんな気がして、同様に銃を持って吉田のあとからついて行った。
吉田は院庭の柵をとび越して二三十歩行くなり、立止まって引金《ひきがね》を引いた。
彼は内地でたび/\鹿狩に行ったことがあった。猟銃をうつことにはなれていた。歩兵銃で射的をうつには、落ちついて、ゆっくりねらいをきめてから発射するのだが、猟にはそういう暇《ひま》がなかった。相手が命がけで逃走している動物である。突差にねらいをきめて、うたなければならない。彼は、銃を掌《て》の上にのせるとすぐ発射することになれていた――それで十分的中していた。
戦闘の時と同じような銃声がしたかと思うと、兎は一間ほどの高さに、空に弧を描いて向うへとんだ。たしかに手ごたえがあった。
「やった! やった!」
吉田は、銃をさげ、うしろの小村に一寸目くばせして、前へ馳せて行った。
そこには、兎が臓腑《ぞうふ》を出し、雪を血に紅く染めて小児のように横たわっていた。
「俺《おれ》だってうてるよ。どっか、もう一つ出て来ないかな。」
小村が負けぬ気を出した。
「居るよ、二三匹も見えていたんだ。」
二人は、丘を登り、谷へ下り、それから次の丘へ登って行った。途中の土地が少し窪んだところに灌木の群があった。二人がバリ/\雪を踏んでそこへかかるなり、すぐそのさきの根本から耳の長いやつがとび出した。さきにそれを見つけたのは吉田であった。
「おい、俺にうたせよ――おい!……」
小村は友の持ち上げた銃を制した。
「うまくやれるかい。」
「やるとも。」
小村は、ねらいをきめるのに、吉田より手間どった。でも弾丸は誤たなかった。
兎は、また二三間、宙をとんで倒れてしまった。
五
倉庫にしまってある実弾を二人はひそかに持ち出した。お互いに、十発ずつぐらいポケットにしのばせて、毎日、丘の方へ出かけて行った。
帰りには必ず獲物をさげて帰った。
「こんなに獲っていちゃ、シベリヤの兎が種がつきちまうだろう。」
吉田はそんなことを云ったりした。
でも、あくる日行くと、また、兎は二人が雪を踏む靴音に驚いて、長い耳を垂れ、草叢《くさむら》からとび出て来た。二人は獲物を見つけると、必ずそれをのがさなかった。
「お前等、弾丸《たま》はどっから工面してきちょるんだ?」
上等看護長は、勤務をそっちのけにして猟に夢中になっている二人を暗に病院から出て行かせまいとした。
「聯隊から貰ってきたんです。」吉田が云った。
「この頃、パルチザンがちょい/\出没するちゅうが、あぶないところへ踏みこまないように気をつけにゃいかんぞ!」
「パルチザンがやって来りゃ、こっちから兎のようにうち殺してやりまさ。」
冬は深くなって来た。二人は狩に出て鬱憤《うっぷん》を晴し、退屈を凌いだ。兎の趾跡は、次第に少くなった。二人が靴で踏み荒した雪の上へ新しい雪は地ならしをしたように平らかに降った。しかし、そこには、新しい趾跡は、殆んど印《しる》されなくなった。
「これじゃ、シベリアの兎の種がつきるぞ。」
二人はそう云って笑った。
一日、一日、遠く丘を越え、谷を渡り、山に登り、そうして聯隊がつくりつけてある警戒線の鉄条網をくゞりぬけて向うの方に出かけて行きだした。雪は深く、膝から腰にまで達した。二人はそれを面白がり、雪を蹴って濶歩した。
獲物は次第に少くなった。半日かかって一頭ずつしか取れないことがあった。そういう時、二人は帰りがけに、山の上へ引っかえして、ヤケクソに持っているだけの弾丸をあてどもなく空に向けて発射してしまったりした。
ある日、二人は、鉄条網をくゞって谷間に下った。谷間から今度は次の山へ登った。見渡すかぎり雪ばかりで、太陽は薄く弱く、風はなく、たゞ耳に入るものは、自分達が雪を踏む靴音ばかりであった。聯隊が駐屯《ちゅうとん》している町も、病院がある丘も、後方の山にさえぎられて見えなかった。山の頂上を暫らく行くと、又、次の谷間へ下るようになっていた。谷間には沼があった。それが氷でもれ上っていた。沼の向う側には雪に埋《うも》れて二三の民屋が見えた。
二人は、まだ一頭も獲物を射止めていなかった。一度、耳の長いやつを狩り出したのであったが、二人ともねらい損じてしまった。逃げかくれたあたりを追跡してさがしたが、どうしても兎はそれから耳を見せなかった。
「もう帰ろう。」
小村は立ち止まって、得体の知れない民屋があるのを無気味がった。
「一匹もさげずに帰るのか、――俺れゃいやだ。」
吉田は、どん/\沼の方へ下って行った。小村は不承無承に友のあとからついて行った。
谷は深かった。谷間には沼に注ぐ河があって、それが凍っているようだった。そして、川は、沼に入り、それから沼を出て下の方へ流れているらしかった。
下って行く途中、ひょいと、二人の足下から、大きな兎がとび出した。二人は思わず、銃を持ち直して発射した。兎は、ものゝ七間とは行かないうちに、射止められてしまった。
二人の弾丸《たま》は、殆んど同時に、命中したものらしかった。可憐な愛嬌ものは、人間をうつ弾丸にやられて、長い耳を持った頭が、無残に胴体からちぎれてしまっていた。恐らく二つの弾丸が一寸ほど間隔をおいて頸にあたったものであろう。
二人は、血がたら/\雪の上に流れて凍って行く獲物を前に置いて、そこで暫らく休んでいた。疲れて、のどが乾いてきた。
「もう帰ろう。」小村が促した。
「いや、あの沼のところまで行ってみよう。」
「いや、俺《お》れゃ帰る。」
「なにもうすぐそこじゃないか。」
そう云って、吉田は血がなおしたゝっている獲物をさげて、立ち上りしなに、一寸、自分達が下って来た山の方をかえり見た。
「おやッ!」
彼は思わず驚愕《きょうがく》の叫びを発した。
彼等が下って来るまで、見渡す限り雪ばかりで、犬一匹、人、一人見えなかった山の上に、茶色のひげを持った露西亜人が、毛皮の外套を着、銃を持って、こちらを見下しているのであった。それは馬賊か、パルチザンに相違なかった。
小村は、脚が麻痺したようになって立上れなかった。
「おい、逃げよう。」吉田が云った。
「一寸、待ってくれ!」
小村はどうしても脚が立たなかった。
「おじるこたない。大丈夫だ。」吉田は云った。「傍《そば》へよってくりゃ、うち殺してやる。」
でも、彼は慌《あわ》てゝ逃げようとした。だが、こちらの山の傾斜面には、民屋もなにもなく、逃げる道は開かれていると思っていたのに、すぐそこに、六七軒の民屋が雪の下にかくれて控えていた。それらが露西亜人の住家になっているということは、疑う余地がなかった。
山の上の露西亜人は、散り/\になった。そして間もなく四方から二人を取りかこむようにして近づいて来た。
吉田は銃をとって、近づいて来る奴を、ねらって射撃しだした。小村も銃をとった。しかし二人は、兎をうつ時のように、微笑《ほゝえ》むような心持で、楽々と発射する訳には行かなかった。ねらいをきめても、手さきが顫えて銃が思う通りにならなかった。十発足らずの弾丸は、すぐなくなってしまった。二人は銃を振り上げて近づいて来る奴を殴りつけに行ったが、間もなく四方から集って来た力強い男に腕を掴まれ、銃をもぎ取られてしまった。
吉田は、南京袋のような臭気を持っている若者にねじ伏せられて、息が止まりそうだった。
大きな眼に、すごい輝やきを持っている頑丈な老人が二人を取りおさえた者達に張りのある強い声で何か命令するように云った。吉田の上に乗りかぶさっていた若者は、二三言老人に返事をした。吉田は立てらされた。
老人は、身動きも出来ないように七八本の頑固な手で掴まれている二人の傍《そば》へ近づいて執拗《しつよう》に、白状させねばおかないような眼つきをして、何か露西亜語で訊ねた。
吉田も小村も露西亜語は分らなかった。でも、老人の眼つきと身振りとで、老人が、彼等の様子をさぐりにやってきたと疑っていることや、町に、今、日本兵がどれ位い駐屯しているか二人の口から訊こうとしていることが察しられた。こうしているうちにでも日本兵が山の上から押しかけて来るかもしれない。老人は、そんなことにまで気を配っているらしかった。
吉田は、聞き覚えの露西亜語で、「ネポニマーユ」(分らん)と云った。
老人は、暫らく執拗な眼つきで、二人をじろ/\見つめていた。藍色の帽子をかむっている若者が、何か口をさしはさんだ。
「ネポニマーユ」吉田は繰返した。「ネポニマーユ。」
その語調は知らず/\哀願するようになってきた。
老人は若者達に何か云った。すると若者達は、二人の防寒服から、軍服、襦袢《じゅばん》、袴下、靴、靴下までもぬがしにかかった。
……二人は雪の中で素裸体《すっぱだか》にされて立たせられた。二人は、自分達が、もうすぐ射殺されることを覚《さと》った。二三の若者は、ぬがした軍服のポケットをいち/\さぐっていた。他《ほか》の二人の若者は、銃を持って、少し距った向うへ行きかけた。
吉田は、あいつが自分達をうち殺すのだと思った。すると、彼は思わず、聞き覚えの露西亜語で「助けて! 助けて!」と云った。だが、彼の覚えている言葉は正確ではなかった。彼が「助けて」(スパシーテ)というつもりで云った言葉が「有がとう」(スパシーポ)と響いた。
露西亜人には、二人の哀願を聞き入れる様子が見えなかった。老人の凄い眼は、二人に無関心になってきた。
向うへ行った二人の若者は銃を持ちあげた。
それまでおとなしく雪の上に立っていた吉田は、急に前方へ走りだした。すると、小村も彼のあとから走りだした。
「助けて!」
「助けて!」
「助けて!」
二人はそう叫びながら雪の上を走った。だが、二人の叫びは、露西亜人には、
「有難う!」
「有難う!」
「有難う!」
と聞えた。
……間もなく二ツの銃声が谷間に轟き渡った。
老人は、二人からもぎ取った銃と軍服、防寒具、靴などを若者に纏めさして、雪に埋れた家の方へ引き上げた。
「あの、頭のない兎も忘れちゃいけないぞ!」
六
三日目に、二個中隊の将卒総がゝりで、よう/\探し出された時、二人は生きていた時のまゝの体色で凍っていた。背に、小指のさき程の傷口があるだけであった。
顔は何かに呼びかけるような表情になって、眼を開《あ》けたまゝ固くなっていた。
「俺が前以て注意をしたんだ、――兎狩りにさえ出なけりゃ、こんなことになりゃしなかったんだ!」
上等看護長は、大勢の兵卒に取りかこまれた二人の前に立って、自分に過失はなかったものゝように、そう云った。
彼は、他の三年兵と一緒に帰らしておきさえすればこんなことになりはしなかったのだ、とは考えなかった!
彼は、二個の兵器、二人分の被服を失った理由書をかゝねばならぬことを考えていた。
(一九二七年三月)
底本:「黒島傳治全集 第一巻」筑摩書房
1970(昭和45)年4月30日第1刷発行
※「シベリア」と「シベリヤ」の混在は底本通りにしました。
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2006年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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