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その第二十六番てがらです。
物語の起きたのは年改まった正月のそうそう。それも七草がゆのその七日の朝でした。起きても御慶、寝ても御慶の三カ日はとうにすぎたが、なにしろまだめでたいし、松の内はお昼勤めとお許しの出ているその出仕には時刻がまだ少し早いし、朝の間のそのひとときを、ふくふくとこたつに寝そべりながら、むっつり右門のお正月はやっぱりこれじゃといわぬばかりに、そろりそろりとあごをなでては一本、またなでては一本抜いていると、
「へへへ……へへへ」
不意に庭先で、いいようもなく奇怪な声をあげて笑う者があるのです。
「へへへ……へへへ」
笑っておいてからまた、いかにも人を小バカにしたようにやりました。
「へへへ……へへへ」
不審に思って、のっそりと手を伸ばしながら障子をあけてひょいと見ると、
「へえ、おはよう!」
こんなおかしなやつというものもない。かれです。あのおしゃべり屋の伝六なのです。
「なんだよ! 気に入らねえやつだな。朝っぱらから庭先でへへへというやつがあるかい!」
「へへへ。いえ、なにね、なんしろまだめでてえんだ。笑う門には福きたるってえいうからね。めでてえお正月そうそうにがみがみやっちゃいけめえと思って、ちょっと笑ったんですよ。――ところで、大忙しなんだ。ね! ちょっと! じれってえな! むかっ腹がたってくるじゃござんせんか! 起きりゃいいんだ。はええところ起きて、とっととしたくすりゃいいんですよ!」
よくよくのあいきょう者です。正月だから笑わなくちゃいけねえとやったその舌の根のかわかぬうちに、もうがんがんとお株を始めてどなりだしました。
「しゃくにさわるな! ね! ちょっと! あな(事件)なんだ! あななんだ! あごなんぞなでてやにさがっている場合じゃねえんですよ! 江戸八百八町のべたらにね――」
「ウフフ……」
「ウフフたア何がなんです! 人がいっしょうけんめいとほねをおってしゃべっているのに、笑うこたアねえじゃござんせんか。江戸八百八町、のべたらにね――」
「あきれたやつだよ」
「え……?」
「おめえみたいな変わり種もたくさんねえといってるんだ。大きな福の神のような顔をしてきた親方が、もうがらがらと鳴りだして、なんのまねかい。毒気をぬかれて、ものもいえねえやな」
「いらぬお世話ですよ! おいらだっても生き物なんだからね。笑うときだっても、泣くときだってもあるんだ。江戸八百八町、のべたらにね――」
「のべたらに何がどうしたというんだ」
「駕籠《かご》なんですよ。つじ駕籠なんだ。それもからっ駕籠がね、町じゅうのべたらに乗り捨ててあるんですよ。いえ、なに、こんなこたアなにもいまさらかれこれといやみったらしくいいたかねえんですがね、いってえ、あっしゃだんなのそのこたついじりが気に食わねえんだ。正月といやだれだっても気が浮きたって、じっとしちゃいられねえんだからね。せめて松の内ぐれえは、もっと生きのいいところを見せりゃいいのに。隠居じみたそのかっこうは、いったいなんのざまですかよ! だから、ついくやしくなって、けさ早くふらふらと江戸見物にいったんですよ」
「バカだな」
「え……?」
「ひとりでいいこころもちになりやがって、なんの話をしているんだ。駕籠はどうしたよ。町じゅうのべたらに乗り捨ててあったとかいう、からっ駕籠の話はどうなったんだ」
「だから、今その話をしているんじゃござんせんか。へびにだっても頭としっぽがあるんだ。しっぽだけ話したんじゃわからねえからね、江戸っ子のあっしともあろう者が、なんのために江戸見物に出かけたか、それをいま話しているんですよ。だんなを前にしてりこうぶるようだが、ことしゃ午《うま》の年なんだ。午年ゃ景気がぴんぴんはねるというからね、さぞやおひざもともたいした景気だろうと思って、起きぬけに、ちょッくらとばかりないしょでいってみるてえと、――これがどうです。だんなは驚きませんか!」
「変なやつだな。何もいわずに驚けといったって、驚きようがねえじゃねえかよ」
「そこをなんとかして、うそにも驚いた顔をしなせえといってるんだ。いいえ、なにね、まず景気を見るなら江戸は日本橋宿初め、五十三次も日本橋がふり出しだから景気もまたあそこがよかろうと思って、のこのこいってみるてえと、これがどうです。やっぱり江戸っ子は何べんお正月を迎えても物見だけえんですよ。橋の上いっぱいに人だかりがして、わいわいやっているからね。なんだと思ってのぞいてみるてえと、駕籠《かご》があるんだ、からっ駕籠がね」
「つがもねえ。ご繁盛第一の日本橋なんだもの、から駕籠の一つや二つ忘れてあったって、べつに珍しくもおかしくもねえじゃねえかよ」
「ところが、そうでねえんだ。その置き方ってえものがただの置き方じゃねえんですよ。つじ駕籠はつじ駕籠なんだが、いま人が乗ったばかりと思うようなから駕籠がね、橋のまんなかにこうぬうと置いてあるんですよ。むろん、人足はいねえんだ。どこへうしゃがったか、ひとりも駕籠かきどもはいねえうえにね、わいわいいっているやじうまどもの話を聞いてみるてえと、どうやらただごとじゃねえらしいんですよ。同じような気味のわるいから駕籠が、須田町《すだちょう》のまんなかにもぽつんと置いてあるというんだ。それからまた湯島の下のがけっぱなにもね、その先の水戸《みと》さまのお屋敷めえにもぽつねんと置き忘れてあるというんでね。さてこそあなだ、こいつただごとじゃあるめえと、さっそく通し駕籠をきばってひと走りにいってみたら、やっぱり話のとおり、須田町の町のまんなかにぽつりと置いてあるんですよ。湯島の下にもね。それから水戸さまのお屋敷前の濠《ほり》ばたにも、気味わるくぽつりと置いてあるんだ。そのうえなお先にもぽつりぽつりと同じようなのが置いてあるというんでね、さっそく捜しさがし行ってみるてえと、なるほどあるんですよ。牛込ご門の前のところにやはり一丁、それからぐるっと濠を回って、四ツ谷ご門のめえにも同じく一丁、あれからしばらくとだえているんで、もうそれっきりどこにもあるめえと思ったら、土橋ご門の前の向こうかどにやっぱり一丁置いてあるんですよ。それから先はもうどっちへ行っても、捜してみても人にきいても見つからねえのでね、やれやれと思ってさっそくお知らせに飛んできたんですが、いずれにしても、こいつただごとじゃねえですぜ。駕籠はからっぽであっても、人足がついておったら、ぽつりぽつりとどこにいくつ置いてあってもいっこうに不思議はねえが、乗り手もかつぎ手もまるで人っけのねえ気味のわるいから駕籠ばかりがひょくりひょくりと、それもよく考えてみりゃお城のまわりなんだ。日本橋から土橋までぐるりと大きく回って、なぞなぞみてえに置いてあるんだからね。こいつあどうしたって穏やかじゃねえですよ」
「いかさまな。何かいわくのありそうな捨て駕籠のようだが、それにしても触れ込みよりゃちっと駕籠の数が少なかったな」
「へ……?」
「へじゃないよ。さっきのお話じゃ、江戸八百八町、のべたらにあるようなことをおっしゃったはずだが、たった七丁だね」
「ちぇッ。もうそれだ。だんなときちゃ、まるであっしを目のかたきにしているんだからね。なにもそういちいちと、つまらねえところで揚げ足を取らなくたってもいいでやしょう。物には景気というものがあるんだ。はじめっから日本橋に須田町に湯島の下に水戸屋敷前と、それから牛込、四ツ谷、土橋御門の七所に七つのから駕籠がござえますといったんじゃ、話がはでにならねえからね。景気よく驚かしてやろうと思って、ついその江戸八百八町のべたらといったまでなんですよ。七丁きりじゃだんなは不足なんですかい。え! だんな! ご返事しだいによっちゃ、あっしにも了見があるんだ。ね! だんな! だんなはただの七丁じゃ気に入らねえというんですかい!」
「ウフフ。しようがねえな、つまらねえところで、けんかを売るなよ、けんかをな。気に入るにも入らねえにも、七丁なら七丁でいっこうさしつかえはねえが、七丁のそのから駕籠ってえのは、いったい、どっちを向いているんだよ」
「フェ……?」
「とんきょうな返事をするなよ。日本橋から始まってるか、土橋から始まっているか知らねえが、七つのそのから駕籠はちぐはぐに向いているか、それとも一つ方角に向いているか、それを聞いているんだ。いってえどっちを向いているんだよ」
「ちぇッ、何をとち狂ったことおっしゃるんですかい! ばかばかしいにもほどがあらあ。だから、あっしゃときどき、だんなながらあいそのつきることがあるんですよ。駕籠に目鼻や似顔絵がけえてあるんじゃあるめえし、どっちを向くもこっちを向くもねえんだ。前へ向いていると思や前へ向いているし、うしろへ向いていると思やうしろへ向いているんですよ」
「ウフフ。ことしでおまえさんいくつにおなりだか知らねえが、いつまでたってもあんまりおりこうにゃならないね。目鼻こそついちゃいねえが、駕籠にはちゃんと前うしろというものがきまってるんだ。乗ったお客のよっかかりぶとんがついているほうがすなわちうしろ、息綱のぶらさがっているほうがすなわち前と相場がきまってるんだ。どうだい、あにい、それでも前うしろがねえのかい」
「ちげえねえ! あいかわらず知恵がこまけえね。だんなもことしでいくつにおなりだか知らねえが、いつまでたっても知恵にさびの浮いてこねえのは豪儀ですよ。そういえば、なるほどそのとおりなんだが、はてね? ええと、どっちへ向いていたっけな? ええと、待てよ。――いや、思い出しました、思い出しました。まさに判然と、いま思い出しましたよ。日本橋の駕籠はたしかに須田町のほうへ向いてましたぜ」
「須田町の駕籠は?」
「まさしく湯島のほうへ向いてましたよ」
「湯島のやつは?」
「水戸さまのお屋敷のほうに向いてやしたよ」
「水戸家の前の駕籠は?」
「牛込ご門のほうです」
「そこにあったやつは?」
「四ツ谷のほうに向いてましたよ」
「四ツ谷の駕籠は?」
「土橋のほうへ向いてるんです」
「土橋のは?」
「そいつが気に入らねえんだ。ついでのことに日本橋のほうへ向いてりゃいいものを、ちくしょうめ、何を勘ちげえしたか、品川から富士山のほうへ向いていやがるんですよ」
「ウフフ、そうかい。そうするてえと――」
「そうするてえと、どうしたというんですかい」
「たよりのねえやつだな。どうしたんですかいとはまた、なんてぼんやりしているんだよ。駕籠の向きをしちっくどく聞いてみたのは、ひとりだか七人だか知らねえが、七つの捨て駕籠の乗り手がどこから先に捨てはじめて、どこで捨て終わっているか、それを探ってみたんだ。けっきょく方角をたどっていったら、ぐるりと大きくお城を回って、どれも申し合わせたように土橋のほうへ向いているとすると、ふり出しは日本橋、上がりはすなわち土橋ご門と決まったよ。正月そうそう、どうやらおつりきなあなのようだ。したくしなッ」
「ちぇッ。たまらねえことになりやがったね。さあ、忙しいぞ! さあ、忙しいぞ! ちくしょうめ! うれしすぎて目がくらみゃがった。ええと、何から先にしたらいいのかな。駕籠《かご》ですかい! おひろいですかい! 雪駄《せった》ですかい! お羽織ですかい! ね! ちょっと! かなわねえな。やけに黙って、どこへ行くんですかよ。――ね! ちょっと! なんとかおっしゃいましよ!」
だが、もう声はないのです。事ここにいたれば、じつにもうみごとなむっつり右門でした。源氏車の右門好みに例の巻き羽織。蝋色鞘《ろいろざや》を長目にずいと落として差して、黙々さっそうとしながら出ていった方角がまたじつに右門流なのです。当然日本橋から先に探って須田町湯島下と、七つの捨て駕籠を順々に追いながら見調べていくだろうと思われたのに、ひんやりとえり首に冷たい朝風を縫いながら、すいすいとやっていったところは、意外や土橋ご門の方角なのでした。さればこそ、やかまし屋の、おこり上戸の伝六が、たちまちまたふぐのようにほおをふくらましたのは無理のないことです。
「やりきれねえな。これだから何年いっしょにいても、だんなにばかりは芯《しん》からは気が許せねえんだ。きげんのいいときゃ、やけに朗らかにしゃべるくせに、むっつりしだしたとなると、べっぴんがしなだれかかっても、からきし感じねえんだからな。ね! ちょっと! ちょっと! どこへ行くんですかよ。ひとりの野郎が乗り捨てたんだか、七人の野郎が乗り捨てたんだか知らねえが、すごろくにしたってもふり出しから始めなきゃ上がりにならねえんだ。ことに、だいいち――」
「うるさいよ」
「いいえ、うるさかねえんですよ! だんなは何を気どって、お黙りなすっていらっしゃるか知らねえが、あっしにゃだいいち、駕籠かきどもの行くえが気になってならねえんだ。ひょっとすると、ばっさりやって乗り逃げしたかもしれねえんだからね。それに、どこからあの駕籠が迷ってきたか、出どころの見当をつけるにしても日本橋へ行くのが事の先なんですよ。――ね! ちょっと!」
「…………」
「ちょっとてたら! だんな! 聞こえねえんですかい!」
「うるせえな。からめ手|詮議《せんぎ》は右門流十八番の自慢の手なんだ。はしごを上っていくんじゃあるめえし、一丁一丁ごていねいに調べなくとも、どうせしまいは土橋へ来ておちつくんだ、おちつくものなら、最終の一つをこのおいらのできのいい目玉でぴかぴかとのぞいてみりゃ、七駕籠ひとにらみにたちまちすっと溜飲《りゅういん》の下がるような眼《がん》がつくよ。ろくでもねえことをべちゃくちゃとやる暇があったら、晩のお総菜の才覚でもしておきな」
「いいえ、そりゃいたしますがね。来いとおっしゃりゃ、土橋へだろうと、石橋へだろうとついてもいくし、お総菜もたんまりとくふうする段じゃねえが、行ってみたところでしようがねえんだ。から駕籠がしょんぼりと品川のほうへ向いているきりで、人ひとり、人足一匹いるわけじゃねえんだからね。いねえものを、――おやッ。ちくしょうッ。おかしいぞ!」
やかましく鳴りなり土橋ご門までついてきた伝六が、とつぜん、そのとき、目をぱちくりとさせながら、驚きの声を張りあげました。
「ふざけていやがらあ。なんて気味のわるい駕籠だろうね。さっき見に来たときゃ、たしかに人っ子ひとりいなかったのに、変な虫けらが降ってきやがったんですよ。ね! ほら! あの駕籠がそうなんですが、いつのまにかあのとおり、おかしな野郎が三人、天から降ってきやがったんですよ」
指さした町の向こうをみると、いかさま品川の方向をのぞんでかきすえてある駕籠のそばに、いとも不審な風体の男が三人たたずんでいるのです。一見するに、中のひとりは親分、あとのふたりはその子分と思われる町奴《まちやっこ》ふうの三人なのでした。しかも、その三人が、じつにぼうぜんとして、まことにいいようもなくぼんやりとしながら、だれかを待ちでもするかのように、つくねんと駕籠のわきに立ちすくんでいるのです。
「ほほう。なるほど、妙なやつががんくびを並べているね。そろそろと本筋になってきたかな。疑うようだが、たしかにさっき来たときにゃ、あの連中もだれも人影は見えなかったのかい」
「いねえんですよ! いなかったんですよ! だからこそ、化け駕籠だといってるんだ。きのこにしたっても、そうぞうさなくにょきにょきとはえるわけじゃねんだからね。野郎ども、くせえですぜ」
「ウフフ、さてのう。蛇《じゃ》が出るか、へびが出るか、ともかくも、お駕籠拝見と出かけるかな」
おちついたものでした。のっそりと近寄って、三人の者たちには目もくれず、ばらりと駕籠のたれをはねあげて、なにげなくのぞくや同時に、
「あッ!」
とばかり、伝六はいうまでもないこと、さすがの名人右門もしたたか意外にうたれながら、驚きの声をあげました。なんとも不審、いかにも奇怪、から駕籠と思いきや、中にはじつに不思議な乗り手が黙然として乗っていたからです。といったからとて人ではない! ほどよく色づいた橙《だいだい》がちょうど七個、――さながらに捨て駕籠の七丁となんらかぶきみななぞのつながりでもあるかのように、かっきり七個の橙が、それもうやうやしく三宝の上に飾られて、ぽつねんと置かれてあるのです。――当然のごとくに、名人右門の眼がぎろりと鋭い底光りを放つと、いまだにぼうぜんとたたずみながら、まるできつねにでもつままれたように、黙々と考え沈んでいる町奴《まちやっこ》たちのところへ、じつに伝法な、だが、むしろぶきみなくらいに物静かな尋問の矢が向けられました。
「うすみっともねえつらしているじゃねえかよ。まるで、伸びたうどんみてえじゃねえか。近ごろそんなつらは、あんまり江戸ではやらねえぜ。え! おい、大将、まさかに、おまえさん、おいらがだれだか知らねえわけじゃあるめえね」
「…………」
「何をきょとんとした顔しているんだ。おいらがだれだか知らねえわけじゃあるめえねといってきいてるんだよ。え! おい! 奴《やっこ》の大将。この巻き羽織を見ただけでも、おめえたちにはちっと苦手の八丁堀衆《はっちょうぼりしゅう》ってえことがわかるはずだ。黙っているのは知らねえのかい」
「フフン」
ところが、おこったようにふり向くと、親分らしいのがフフンとあざわらいながら、ふらちなことにもひどくけんまくが荒いのです。
「巻き羽織がどうしたとおっしゃるんです! いいや、やにわと権柄ずくに、おかしなことをおっしゃいますが、あんたの名まえとやらをあっしが知らねえといったらどうなさるんです」
「ほほう、陰にこもって、からまったことをいうね。知らねえというなら知らねえでもさしつかえねえが、おいら、むだ手間取ることがおきらいなたちなんだからね、そういうことなら、すっぱり名のろうじゃねえか。むっつり[#「むっつり」に傍点]の右門ってえいうな、おいらのことだよ」
「…………!」
ぎょッとなりながら声も出ないほどにおどろいて、いまさらのようにしげしげと見直したのを、すかさずにやんわりと浴びせかけました。
「ウフフ、むっつりの右門ときいて目をぱちくりやったところをみると、おいらのあだ名もいくらか効能があるとみえるね。ききめがあるならあるで、なおさいわいだ。お互いこういうことははええがいいんだからね。隠さずに、なにもかもすっぱりいいな。詮議《せんぎ》に来たんだ。どういう了見から七ところも捨て駕籠をやって、お正月そうそうお公方《くぼう》さまのお住まい近くを騒がせやがったか、その詮議に来たんだからね。この駕籠の中にある七つのおかしな橙もまた、なんのまねだか白状すりゃいいんだ。え! おい! 大将。江戸っ子らしく、あっさりとどろを吐きなよ」
「…………」
「じれってえね。また黙り込んだところをみると、せっかく名のったむっつり右門の名まえもききめがねえというのかい。七味とうがらしにしたっても、おいらの名まえのようなききのいい薬味はねえはずだ。きかなきゃきくように、ぴりっとしたところを混ぜてやるぜ」
「ところが、なんと啖呵《たんか》をきられてもしかたがねえんですよ。やった本人のあっしにせえも、何がなんだかさっぱりわからねえんだからね。白状しようにも、どろを吐くにも、吐くどろがねえんです」
「へへえ。こいつアまた妙なことをいうね。じゃ、なにかい、捨て駕籠をした本人は、たしかにおまえにまちがいねえというんだね」
「そうなんです。いかにもあっしが人騒がせをやった当人なんですが、当人でありながらさっぱり見当がつかねえんですよ」
「控えろッ。やった当人でありながら、なんのためか知らぬという法があるものかッ、大手責めの十八番、からめ手責めも十八番、知らぬ存ぜぬとしらをきるなら、責め手も合わせて三十六番、どろを吐かせる手品はいくつもあるぞッ」
「いいえ、なんとおしかりになっても、お答えのしようがねえんですよ。さるおかたから頼まれまして、この変な七つの飾り橙《だいだい》を、七日の朝の七ツ刻《どき》から始めて、七つの駕籠に乗せ、だれにもわからぬよう見とがめられぬように、お城のぐるりをこの土橋ご門まで運んでくれろとのことでごぜえましたゆえ、気味のわるいお頼みだなとは思いましたが、日ごろごひいきのお屋敷でごぜえますから、いわれるとおりにいたしましたところ、どう考えてもいっこうにがてんがいかねえんでごぜえます。こっそりと向こうの横町にかくれておって、このおかしな橙を受け取ってくださるとのお約束のその頼み手が、待てど暮らせどいまだに姿を見ませんので、じつは、ご覧のとおり、先ほどからぼんやりと思案していたんですよ」
「その頼み手は、どこのだれだッ」
「それは、その――」
「それはその、がどうしたんだよ! 頼み手があるというなら、それを聞きゃ用が足りるんだッ。日ごろごひいきのそのお屋敷とやらは、どこのどやつだッ」
「そいつばかりゃ、せっかくながら――」
「いえねえというのかッ」
「あっしも男達《おとこだて》とか町奴《まちやっこ》とか人にかれこれいわれる江戸っ子、いうな、いいませぬと男に誓って頼まれたからにゃ、鉛の熱湯をつぎ込まれましても名は明かされませぬッ」
「な、な、なんだと! やい! ひょうろく玉!」
聞いて横から飾り十手を斜《しゃ》に構えながら、ここぞとばかりしゃきり出たのは、だれならぬおしゃべり屋の伝あにいです。
「な、な、何をぬかしゃがるんだッ。ふやけたつらアしやがって、江戸っ子がきいてあきれらあ! 品が違うんだッ、品がな! 熱湯つぎこまれてもいいませぬ、白状しませぬというつらは、そんなつらじゃねえや! おいらのようなこういう生きのいいお面が、正真正銘江戸っ子のお面なんだッ。のぼせたことをいわずと白状しろい! 吐きゃいいんだ! すっぱりどろを吐きなよ!」
「いいえ、申しませぬ! お気にさわったつらをしているかもしれませんが、このつらで引き受けたんじゃねえ、男と見込まれて頼まれたんだッ、割らぬといったら命にかけても口を割りませぬッ」
「ぬかしたなッ。ぬかさなきゃぬかせる手があるんだッ。ぴしりとこいつが飛んでいくぞッ」
あまり飛ばしがいもなさそうな十手を打ちふり打ちふり威嚇したのを、
「ウフフ。よしな、よしな。伝あにい、手はあるよ。右門流には打ち出の小づちがいくつもあるんだ。ちょっと用があるから、こっちへ来なよ」
なにごとか早くも思いついたとみえて、さわやかに微笑しながら、不意に伝六を五、六間向こうへいざなっていくと、三人の町奴《まちやっこ》たちをあごでさし示しつつ、そっとささやきました。
「あいつを見ろよ。ね、ほら、変な物をいじくっている野郎がいるよ。あれをよく見ろな」
「なんです? どれです? あいつとはどれですかい」
「子分だよ。あの左に立っている子分の野郎が、目をつりあげやがって、出したり入れたり手のひらの上でさいころをいじくっているじゃねえかよ。上役人のおいらがお出ましになっているのもかまわねえで、はばかりもなくコロいじりをしているぐあいじゃ、よくよくあの三下奴め、あれが好物にちげえねえんだ。好きなものにゃ目がねえというからな、おめえ、うまいことあいつを誘い出して、じょうずに何かコロのにおいでもかがせてから、それとなくどろを吐かしてみなよ」
「なるほど、打ち出の小づちにちげえねえや。目もはええが、あとからあとからと知恵がふんだんにわき出すからかなわねえね。ようがす。カマをかけてどろを吐かせる段になると、これがまたおいらのおはこなんだからね。ちょっくら吐かしてめえりますから、どこかその辺の小陰にかくれて、あごでもなでていなせえよ」
得意顔に引っ返していった伝六を見送りながら、名人はそこの横路地の中に身を忍ばせて、様子やいかにと待ちうけました。
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こがらし冷たい寒ながら、にかにかと日が照りだして、小春日といえば小春日のほどのよい七草びよりです。――待つほどに首尾よくいったとみえて、気早にもあの三宝の飾り橙《だいだい》までもこわきにしながら、おおいばりでその伝六が姿を見せました。
「どうやら、つじうらは上吉らしいな。珍しく気がきいているようだが、橙までも持ってきて、ホシの眼《がん》はついたかい」
「大つき大つき! あっしだっても、たまにゃてがらをするときだってあるんだ。いえ、なにね、こうなりゃもう締めあげるにしても何をするにしても、このなぞなぞの七つ橙が大慈大悲の玉手箱なんだからと思って、ご持参あそばしたんですよ。さっそくあの野郎をさそい出して、うまいことカマをかけたらね――」
「手もなくどろを吐いたか!」
「大吐きですよ。お番所勤めをしている者がばくちをやるといっちゃ聞こえがわるいが、そこはそれ、お釈迦《しゃか》さまのおっしゃるうそも方便というやつさアね。あの三下奴をちょいと向こうかどまで連れていってね、どうでえ、わけえの、おいらもさいころは大好きなんだ。おめえがべらべらっとひと口しゃべりゃ、だんなばくちのいいカモばかりそろっているたまりべやを教えてやるが、どこのだれから親分が頼まれたのか、ないしょにしゃべっちまいなよと、いろけたっぷりににおわしたらね。えっへへ――」
「しゃべったのかい」
「みんごとしゃべったからこそ、えっへへ、おてがらだというんですよ。じつあ、あの町奴め、さかさねこの伝兵衛《でんべえ》とかいう野郎でね。ねぐらがまた大笑いなことに、八丁堀とは目と鼻の日本橋|馬喰町《ばくろうちょう》の大根|河岸《がし》だとぬかしゃがるんだ。そこへ行きゃ、七つの駕籠かきどもが数珠《じゅず》つなぎになってころがっているはずだからね。野郎どもを締めあげりゃ、頼み手はいうまでもないこと、何もかもなぞなぞの正体がわかるというんですよ。どんなもんです。伝六様だっても、ときどきは味をやるんですよ」
「なるほど、味なてがらかもしれねえ。こうなりゃおまえさんまかせだ、橙を落とさねえようにして、はええところ伝兵衛とやらのねぐらへ案内してみな」
得たりや応とばかり、鼻高々として伝六が案内していったのは、話のその大根河岸なるさかさねこ伝兵衛のひと構えです。
「しッ。静かに! 静かに! 口を割らしてこのねぐらのありかを吐かしたな、おいらのてがらなんだ。これから先ゃ、伝六様がおおいばりなんだからね、そんなにとんとん足音をさせりゃ聞こえるじゃござんせんか。いずれ、数珠つなぎにしてこかし込んであるへやは、どこかうちの奥のほうにちげえねえからね、こっそりと庭先へ回ってみましょうよ」
じつにいい気な男でした。少しばかりのてがらに得々として、名人右門をしかりしかり、息をころして内庭へ回りながら、子分べやらしいひと間の障子をそっとのぞいてみると、なるほどいるのです。すべてでは十四人。その十四人の駕籠かきどもが、ひとり残らず厳重なさるぐつわをかまされて、高手小手にくくされながら、まるで芋虫のようにごろごろと投げ込まれてあるのでした。
「ちくしょうめッ。ねこ伝の野郎、ふてえまねをしやがったね。べらべらしゃべられちゃならねえというんで、さるぐつわをかましておいたにちげえねんだ。ね! だんな! いいでやしょうね? なにもあっしがだんなをそでにするってえわけじゃねえんだが、あの三下奴を抱きこんでどろを吐かせたからこそ、ぞうさなくネタが上がることにもなったんだからね。このてがらの半分は、伝六様もおすそ分けにあずかりてえんだ。野郎どもはあっしが締めあげますぜ」
「いいとも、やってみな」
ぱっとおどり入ったそのけはいを聞きつけたとみえて、ばらばらと奥のへやから駆けだしながら行く手をさえぎったのは、七、八人の子分どもです。
「ひょっとこみてえな野郎が来やがったなッ。どこのどやつだ! 名を名のれッ。どこから迷ってきやがったんだッ」
「なんだと! やい! ひょっとこみてえな野郎たアだれにいうんだッ。どなたさまにおっしゃるんだッ。つらで啖呵《たんか》をきるんじゃねえ! この十手が啖呵をおきりあそばすんだ。あれを見ろッ、あそこの格子窓《こうしまど》の向こうからのぞいていらっしゃるだんなの顔をみろッ。音に名だけえむっつり右門のだんなは、ああいうこくのあるお顔をしていらっしゃるんだッ。ひょっとこなぞとぬかしゃがって、気をつけろい! 一の子分の伝六様たアおいらだよ!」
「…………」
「…………」
十手も啖呵《たんか》もものをいったのではないが、われこそその一の子分と巻き舌でぱんぱんと名のったむっつり右門の名がきいたのです。ぎょっとしながら、町奴どもがたじたじとなってあとへ引いたのを、意気揚々として伝六がくくされているさるぐつわの面々のところへ近づくと、なかなかに味な締め方でした。
「情けに刃向こうやいばはねえといってな、武蔵《むさし》坊弁慶でせえも、ほろりとなりゃ形見に片そでを置いてくるんだ、伝六様はむだをいわねえ。な! ほら! このとおりさるぐつわをはずしてやらあ。知ってることはみんないいな」
「なんです? 何をいうんですかい」
「とぼけるねえ! 右門のだんなのせりふを請け売りするんじゃねえが、大手責めも十八番、からめ手責めも十八番、合わせて三十六番の責め手を持っていらっしゃるおいらだよ。すっぱりいやいいんだ。隠さずにすっぱり白状すりゃいいんだよ」
「わからねえおかただね。ぱんぱんと、ひとりでいいこころもちそうに啖呵《たんか》をおきりのようですが、いってえ何を白状するんですかい」
「決まってるんだッ。どこのどやつに頼まれて、こんなろくでもねえ飾り橙《だいだい》をぐるぐると駕籠《かご》なんぞに乗せて持ちまわったか、それを白状すりゃいいんだよ」
「こいつアおどろいた。変な言いがかりはつけっこなしにしてもらいましょうぜ。どこのどやつに頼まれたんだとおっしゃいましたが、気味のわるい橙運びをわっちとらに頼んだのは、ここのうちのねこ伝親分ですよ」
「なにッ。なんだと! やい! もういっぺんいってみろ! 何がなんだと!」
「いえとおっしゃりゃなんべんでもいいますがね。運べといって頼んだのは、まさにまさしくここの親分なんですよ。わっちとらも駕籠かき渡世の人足になって、こんなおかしなめに出会ったのははじめてなんだ。日本橋から須田町まで最初に運んでいったのは、このひとつなわにくくされているあっしたちふたりですがね。景気よく小判を一枚投げ出してむやみとただ運べといったんで、正月そうそういいかせぎだとばかり、欲得ずくでなんの気なしに須田町まで飛ばしていったら、あそこに受け駕籠が一丁待ち構えておって、橙を何こうに移したかと思うといっしょに、ぽかぽかとこちらの子分衆にたたきのめされたあげくの果てが、ここへしょっぴかれて、このざまなんですよ。七駕籠七組みの兄弟がみんなその伝なんだ。文句があるなら、ねこ伝親分を締めあげなせえよ」
「ウフフフ。アハハハ。ウフウフアハハハ……」
聞いて格子窓《こうしまど》の外からおかしくてたまらないといったように、いとも朗らかにうち笑ったのは名人右門です。
「わはは。ウフフ。伝あにい、あっさりとやられたな、どうせおめえのやるこった。ちっとおおできすぎると思っておったら、案の定これだよ。ウフフ。アハハハハ。くやしかろうが、さっきの三下奴にみんごとやられたね」
「ちぇッ。何がおかしいんですかい! 笑いごっちゃねえんだ。しゃくにさわるね。笑いごっちゃねえんですよ!――やい! 野郎ッ。野郎たち!」
事の案外な結果に、すっかり男を下げて、すっかり腹をたてたのは伝六でした。
「やい! 野郎どもッ、人足たち! まさかに今いったことはうそじゃあるめえな!」
「ばかばかしい。たたかれて、のめされて、さんざんなめに会ったものが、うそなんぞいってなんの足しになりますかよ! うそだったら、十四人みんながくくされちゃおりませんよ」
「ちくしょうめッ。くやしいね。あの三下奴め、ぬうとしたつらアしてやがって、一杯はめりゃがったんだ。べらぼうめ。さかさねこだか曲がりねこだかしらねえが、ねこ伝ふぜいになめられてたまるけえ。おんなじ身内だ、ここにいる子分どもを締め上げりゃ、頼み手がわかるにちげえねえから、ね! だんな! やっつけますぜ! だまされたと思やくやしいんだッ。荒療治でぎゅうとしめあげますぜ! やい! げじげじのかぶとむし! 前へ出ろッ」
腹だちまぎれに伝六がかみつこうとしたのを、
「ウフフ。よしな、よしな。荒療治は古手だよ。よしな、よしな――」
静かにうち笑って名人が押し止めると、いいようもよくおちつき払っていったことでした。
「袋があるんだ。知恵の実のざくざくはいった袋がな。荒療治荒責めはおいらの手じゃねえんだよ。七つの橙さえ手もとにありゃ、なんとかまた知恵袋の口が開かアね。ひとなでなでながら、ぴかぴかと眼《がん》をつけてやるから、気を直してついてきな」
「でも、くやしいね!」
「くやしかろうと思えばこそ、霊験あらたかなあごをなでてやるといってるんだ。もう用はねえ。十四人の人足たちゃなわじり切って、けえしてやんな。では、行くぜ。橙を落とすなよ。――身内のやつら、おやかましゅう」
すうと胸のすくような男まえです。悪あがきをせずに、なぞの橙を伝六にかかえさせながら、さっさと引き揚げていったところは、いわずと知れた八丁堀のお組屋敷でした。
しかも、帰りつくや同時です。ずらずらと目の前に七つのその橙を押し並べながら、そろりそろりとあごをなでなで、じろりと鋭い一瞥《いちべつ》をくれたかと見えるや、果然、知恵の袋の口があいたとみえて、さえまさった声がたちまちずばりと放たれました。
「七つともに、この橙はみな落ち残りだな!」
「え! なんですかい。おっかねえくれえだな。ぴかりとひと光りひかったかと思うと、もうそれだからね。なんのことですかい」
「この七つの橙は、みんな落ち残りだといってるんだよ」
「はあてね。妙なことをおっしゃいましたが、その落ち残りとかいうのは、なんのことですかい」
「少なくとも四年か五年、どの橙も落ちずに木に残っていたひね橙ばかりだといってるんだ。この臍《ほぞ》をみろ。一年成りの若実だったら、すんなりとしてもっと青々としておるが、臍がこのとおりしなびて節くれだっているのは、まさしく落ち残りの証拠だよ。ことによると――」
「ことによると、なんでござんす!」
「昔から橙は縁起かつぎのお飾りに使われている品だ。そのなかでも三年五年の落ち残りとなりゃ、ざらにある品じゃねえ。朝の七ツ刻《どき》から七つの駕籠に移し替えて、人目にかからぬよう持ち運んだとかぬかしておったが、数も七つ、刻も七ツ、駕籠も七つと気味のわりい七ずくめから察するに、どうやらこりゃただのいたずらじゃねえかもしれねえぜ。ましてや、持ちまわったところはご将軍さまのお住まいのお城のぐるりだ。凶か吉か何のおまじないか知らねえが、どっちにしてもただごとじゃねえぞ!」
「ちくしょうめッ。さあいけねえ! さあいけねえ! さあいけねえぞ! 容易ならんことになりゃがったね。さあいけねえぞ!」
ことごとくうろたえて、伝六がことごとくあわてだしたのは当然でした。
「気に入らねえんだ。食い物だけに、あっしゃ橙なんぞをおまじないにしたことがしゃくにさわるんですよ! なんでしょうな! え! ちょっと! なんのおまじないでしょうね!」
「…………」
「じれってえな! そんなに思わせぶりをしねえで、すぱっといやアいいんだ、すぱっとね、こんなものを七つの駕籠で七ツ刻《どき》から持ちまわりゃ、なんのおまじないになるんですかい。ね! ちょっと! え? だんな!」
「騒々しいやつだね。黙ってろ。なんのおまじないかわからねえからこそ、こうしてじっと考え込んでいるじゃねえか。気味のわりい細工がしてあるかもしれねえ。中を改めてみるから、その三宝をちょっとこっちへ貸しな」
引きよせて三宝の上にその一個をうちのせながら、すういと静かにわきざしでまっ二つに切り裂いたせつな! 果然、中からにょっきりと奇怪なひと品が現われました。針です! 針です! ぶきみに妖々《ようよう》と研《と》ぎすまされた長い針なのです。
「ちくしょうッ。気味のわりいものが出やがったね。ぞおッとなりゃがった! なんです! なんです!」
「…………」
「え! だんな! 針じゃござんせんか! ミスヤのもめん針にしちゃ長すぎるし、畳針にしちゃ短すぎるし、なんです! なんです! いってえなんの針ですかい!」
やかましくそばから鳴りたったのを、黙々としながらあごをなでなで、ややしばしじいっと見守っていましたが、やがて、ずばりとさえまさった一語が放たれました。
「含み針だッ。たしかにこりゃ含み針だぜ!」
「え……?」
「一|太刀《たち》、二|槍《やり》、三|鎖鎌《くさりがま》、四には手裏剣、五に含み針と数え歌にもあるじゃねえか。口に含んでこれを一本急所に吹き込んだら、大の男も命をとられるというあの含み針だよ。しかも、こりゃまさしく山住流《やまずみりゅう》の含み針だ。三角にとがったこの先をみろ。村雨流《むらさめりゅう》、一伝流と含み針にもいろいろあるが、針の先の三角にとがっているのは山住流自慢のくふうだよ。ここまで眼《がん》がつきゃ、もうお手のものだ。そろそろと、伝六ッ――」
「ありがてえ! 駕籠《かご》ですかい! 駕籠ですかい! ざまあみろッ。だからいわねえこっちゃねえんだ。もぞりとひとなであごをなでりゃ、このとおりぱんぱんと眼がつくんだからね、景気よくぶっ飛ばすようにちょっくらと駕籠をめっけてめえりますから、お待ちなせえよ」
わがことのようにおどり上がって駆けだそうとしたとき、
「お願いでござります! お願いでござります! たいへんなことになりました。お願いでござります!」
あわただしげに表先から呼びたてる声が耳を打ちました。
「どなたか早くお顔をお貸しくだせえまし! たいへんなことになったのでごぜえます! お早くだれかお顔をお貸しくだせえまし!」
「うるせえな! 何がどうしたというんだ。それどころじゃねえ、いま大忙しなんだよ。用があったら庭へ回りゃいいんだ。だれだよ! だれだよ! どこのどいつなんだ!」
「お騒がせいたしましてあいすみませぬ。では、ごめんなんし。そちらへ参ります。――さっきはどうも失礼。どこのどやつでもねえ、あそこでお目にかかったあっしでごぜえますよ」
声といっしょにぺこりと頭をさげながら、ぬうとその庭先にのぞいた顔は、だれでもないあの土橋ご門のわきで親分さかさねこ伝兵衛の影にかくれながら、しきりとさいころをいじくっていた三下奴です。――見ながめるや同時に伝六のいきりたったのは当然でした。
「ちくしょうッ。うぬかッ、うぬかッ、さっきはよくもおいらをはめりゃあがったな! なんの用があってうしゃがったんだッ。まだだまし足りねえので[#「足りねえので」は底本では「足りええので」]、またのめのめと来やがったか!」
「冗、冗、冗談じゃござんせんよ! さっきはさっき、今は今なんでごぜえます。じつあ、親分が、あの親分がね、死んだんです! 殺されたんです! 突然と変な死に方をしちまったんですよ!」
「なにッ。え、そりゃほんとうかい! ほんとうかい! いつ、どこで、どんな死に方しやがったんだ」
「うちなんです! 大根河岸のあのうちなんですがね。だんなたちと別れてうちへけえってくるとまもなく、庭先からだれか呼ぶ声がありましたんでね、なにげなく親分が縁側まで出ていったと思ったら、もうどたりとひっくりけえちまったんですよ。なんしろ、死に方が尋常じゃねえからね、さっきはさっき、今は今と大急ぎにだんなたちのところへお知らせに飛んでめえったんです」
「ちくしょうめッ、さあことだッ。さあことだッ。またややこしいことになりやがったですぜ! だんな! だんな! どうするんですかい! え! だんな! どうなさるんですかい!」
「ウフフ、やったな。がんがん騒ぐなよ。雲行きが変われば変わったで、また手はあるんだ。筋書きどおりかもしれねえ。早く駕籠の用意しな」
うち騒ぐかと思いのほかに、名人はいたって静かでした。ご用駕籠を仕立てさせて、のっそりと腰うちすえながら飛ばせていったところは、話のその大根|河岸《がし》です。
3
「まごまごするない! どこなんだ。どこなんだ。ねこ伝がふんぞりけえっているところはどっちだよ」
伝六にしかられながら三下奴が案内するままに内庭さきへはいってみると、いかさま不審な死に方でした。縁側からさかさになって半身をのめらしながら、あおむけざまに打ち倒れているのです。しかも、血はない! どこに一点血の吹いたところも、ぐさりとやられた跡もないのです。
「野郎め、つまらねえ死に方しやがったね。名まえも考えてつけるもんですよ。さかさねこの伝兵衛なんてつけやがったから、さかさにのめって死にやがったんだ。まさかに、てんかんじゃありますまいね。え? ちょっと! 縁側てんかんってのがあるかもしれませんぜ」
たちまちやかましく始めたのを、柳に風と聞き流しながら、ねこ伝の胸のあたりをじろりと見つめたそのせつな! すばらしいともなんともいいようのない眼のさえでした。
「まさに含み針だッ。ウフフ。よくみろよ。おめえのようなあわて者では、いわれるまでわかるめえが、ねらわれたところは心の臓だ。ぶつぶつと小さな穴が乳下にあいているところをみると、あのおっかねえ山住流の三角針が五、六本心の臓をお見舞い申したんだよ。七つ橙の頼み手が、名をしゃべられちゃなるめえと、口止めにこんなむごいまねをしたにちげえねんだ。こうなりゃ、もう先を急がなくちゃならねえんだから、がんがん鳴ると縁を切るぜ!」
ぴたりと一本おしゃべり太鼓の伝六にとどめのくぎをさしておくと、鋭く烱々《けいけい》とまなこを光らしながら、何か手がかりになるべき品はないかと、しきりにあちらこちら見調べていましたが、そのときはしなくも目に映ったのは、惨事のあった内庭に通ずる裏木戸のくいの根もとに、無言の秘密となぞを残しながら捨てられてあった一個の小さな赤い袋です。それもただの袋ではない。小楊枝《こようじ》でも入れてあったのではないかと思われるような、なまめかしくも赤い紅絹《もみ》の切れの袋でした。
拾いあげてかいでみると、におうのです! におうのです! ぷーんとなやましいはだのにおいが、否、紛れもないおしろいの移り香がするのです。――同時でした。
「まさしく女だッ。飛んだお忘れものよ。含み針を入れてあった袋だぜ。ね、おい、伝あにい。下手人は女と決まったぞ」
「そ、そう、そうですよ。そうなんですよ」
聞いて口をさしはさんだのは、伝六ならぬあの三下奴でした。
「おっしゃるとおり、たしかに女ですよ。やさしい声で、この木戸口のあたりから、もうし親分、あのもし親分さんえ、と、こんなに呼びましたんでね。ひょっくりとうちの親分がこの縁側まで出ていったと思ったら、ぱたりとのけぞる音がきこえたんですよ。だから、すぐに飛び出してみたんですが、声はあれども姿はなしというやつでね。もうそのときゃ、影も形もなかったんですよ」
「なんでえ、つがもねえ。それならそうと早くいやいいじゃねえかよ。女の声で呼んだことまでも知っているなら、どこのどやつかおおよそ見当がつくだろう。さっきはうまいことこちらのかわいいあにいに一杯食わせたようだが、今度の相手はちっと役者がお違いあそばすんだ。どこのだれが七つ橙を頼んだか、隠さずに名をいいな。親分殺しの下手人は、その頼み手にちげえねえんだ。早く白状すりゃ、それだけ早くかたきがとれるぜ」
「ところが、あいすみませぬ。あっしはもとより、子分の者はだれひとり肝心のその頼み手を知らねえんですよ。また、うちの親分という人は、日ごろがそういう偏屈屋なんです。何をするにしても、どこからけんかを頼み込まれても、自分ひとりだけが心得ておって、あっしら子分にはつめのあかほども物を明かさねえ人なんだからね、隠そうにも、打ち明けようにも、だいたい見当がつかねえんですよ。だからこそ、さっきもいっそ駕籠かきどもを締めあげたほうが早くわかるだろうと、そちらのだんなにも思ったとおり申しあげたんですよ」
「そのことば、うそじゃあるめえな」
「いまさらうそなんぞいってなりますものか! あの橙の頼み手を知っているものは、この広い世の中でうちの親分がたったひとりなんだ。その親分が殺されたとなりゃ、わっちらにとっても頼み手の野郎はもうかたきですよ。かたきならば、隠すどころか、何もかも申し上げて、ことのついでにあっしどもも仕返しがやりてえんだ。いいますよ! いいますよ! 知っておったら隠さずに申しますよ!」
「なるほどな。そうと事が決まりゃ、ひと知恵絞らざなるめえ。正月そうそう飛び歩くのはぞっとしねえが、しかたがねえや。では、ひとつ右門流のあざやかなところをお披露《ひろう》してやろうよ」
いいつつ、あごをなでなで、片手でしきりとあの紅絹《もみ》の袋をもてあそんでいましたが、――せつな! なにごとか思いついたとみえて、フフンというように軽く微笑すると、じつに不意です。ずばりとあざやかなその右門流が飛び出しました。
「急がなくちゃならねえ! ひとっ走り、伝六、寺社奉行さまのところへ行ってきな」
「フェ……?」
「何をとんきょうな返事しているんだ。寺社奉行さまのところへ大急ぎに行ってこいといってるんだよ。行きゃいいんだ。まごまごしねえで、はええところ行ってきなよ!」
「行きますよ! 行きますよ! そんなにつんけんとおっしゃらなくとも、行けといやどこへだって行きますがね。それにしても、やにわと途方もねえ、寺社奉行さまなんぞになんのご用があるんですかい」
「お町方とはお支配違いのお寺で少しばかり調べ物をしなくちゃならねえから、踏むだけの筋道を踏んでおかなくちゃならねえんだ。八丁堀同心近藤右門、いささか子細がござりましてご差配の寺改めをいたしとうござりますゆえ、お差し許し願いとうござりますとお断わりしてくりゃいいんだよ。行く先ゃ四ツ谷からだ。おいら、ひと足先にあっちへいって、四ツ谷ご門のところに待っているからな。ほら、駕籠代の一両だ。残ったら、あめでも買いな」
「…………?」
「何をいつまでひねってるんだ。行けといったら、とっとと行きゃあいいんだよ。――ねこ伝身内の奴さんたちもおさらばだ。正月そうそう仏を出して縁起でもなかろうが、因縁ならしかたもあるめえ。ねんごろに葬っておやりよ」
紅絹の袋から寺社奉行へ、寺社奉行からまた四ツ谷ご門へ、なんのかかわり、なんのなぞの橋があるか、不意打ちだけにおよそ不思議な右門流です。――証拠のその赤い袋をそっとうちふところ深くしまい入れて、右と左に伝六とたもとをわかちながら、ゆらりゆらりとここちよげに駕籠をうたせつつ、やがて行きついたところはその四ツ谷ご門前でした。
風が冷たい。いつのまにか新春《にいはる》の日も昼をすぎて、行きついたその四ツ谷ご門あたりは飄々《ひょうひょう》、颯々《さつさつ》とめでためでたの正月風が、あわただしげに行きかわす中間小者折り助たちのすそを巻いて、御慶の声をのせながら吹き通りました。
「お寒う」
「おめでとう」
「ごきげんだね」
「お互いさまだよ。ことしもまたあいかわらず――」
「なんでえ! なんでえ! 何をいいやがるんだ。ことしもまたあいかわらず抜き打ちの右門流でこんなふうにたびたびどぎもをぬかれたひにゃ[#「ぬかれたひにゃ」は底本では「ぬかれたおにゃ」]、お相手のおいらがたまらねえよ。やせるじゃねえか! ほんとうに!――どきな! どきな! じゃまっけだよ! へえい、ただいま――」
声を押し分けながら、八つ当たりに当たり散らして、黙然とあごをなでなで待ちうけていた名人の前へがちゃがちゃと駕籠を止めさせながらようやくに姿を見せたのは、寺社奉行所へお断わりにいった伝あにいです。
「早かったな。お奉行さまはなんておいいだ」
「どうもこうもねえんですよ。ほかならぬ右門のことなら、許す段ではない。詮議《せんぎ》の筋があったら気ままにせいとおっしゃいましたがね、それにしても、いってえ――」
「なんだよ」
「とぼけなさんな! あっしに汗をかかせるばかりが能じゃねえんですよ。わざわざと寺社奉行さまなんぞにお断わりをして、お寺の何をいってえ調べなさるんですかい」
「下手人の女よ」
「その女が、お寺のどこを詮議したらわかるんですといってきいているんですよ。おもしろくもねえ。昔からお寺は女人禁制と相場が決まってるんだ。その寺のどこへ行きゃ女がいるとおっしゃるんですかい」
「やかましいやつだな。広い江戸にも武芸者はたくさんあるが、槍《やり》や太刀《たち》と違って含み針なぞに堪能《たんのう》な者はそうたくさんにいねえんだ。数の少ねえそのなかで、山住流含み針に心得のある達人は、第一にまず四ツ谷|永住町《ながずみちょう》の太田《おおた》五斗兵衛《ごとべえ》、つづいては牛込の小林|玄竜《げんりゅう》、それから下谷竹町の三ノ瀬《せ》熊右衛門《くまえもん》と、たった三人しきゃいねえんだよ。くやしいだろうが、この紅絹《もみ》の袋をよく見ろい。持ち主のあたしはかくのとおり色香ざかりの若い女でござりますといわぬばかりに、憎いほどにもなまめかしくまっかで、そのうえぷーんといいにおいのおしろいの移り香がするじゃねえかよ。ひと吹きで大の男をのめらした手並みから察するに、おそらく下手人は今いった三人のうちのどやつかから一子相伝の奥義皆伝でもうけた娘か妹か、いずれにしても身寄りの者にちげえねえんだ。かりにそれが眼《がん》ちげえであっても、流儀の流れをうけた内弟子《うちでし》か門人か、どちらにしても、近親の若い女にちげえねえよ。ちげえねえとするなら、まず事のはじめに三人のやつらの家族調べ、人別改めをやって、下手人とにらんだ若い女のあるやつはどこのどれか、その眼をつけるが先じゃねえか。それをするなら寺だ。お寺だ。お寺の寺帳を調べてみたら、てっとり早くその人別がわかるはずだよ。どうだい、あにい。まだふにおちませんかね」
「はあてね。寺帳とね。亡者《もうじゃ》調べの過去帳なら話もわかるが、寺帳とはまた初耳だ。そんなものを調べたら、何のなにがし、娘が何人ござりますと、現世に生きている人間の人別がいちいちけえてあるんですかい」
「気をつけろ。お番所勤めをする者が、寺帳ぐれえをご存じなくてどうするんかい! 江戸に住まって江戸の人間になろうとするにゃ、ご藩士ご家中お大名仕えの者はいざ知らず、その他の者は、士農工商いずれであろうと、もよりもよりのお寺に人別届けをやって、だれそれ子どもが何人、父母いくつと寺受けをしてもらわなくちゃならねえおきてなんだ。さればこそ、まず四ツ谷から手始めに太田五斗兵衛のだんな寺へ押しかけて、やつに娘があるか、若い女の身寄りがあるか、その人別改めをするというのに、なんの不思議があるかよ。しかも、そのお寺までちゃんともう眼がついてるんだ。永住町なら町人は妙光寺、お武家二本差しなら大園寺と、受け寺がちゃんと決まっているよ。おいらの知恵がさえだしたとなると、ざっとこんなもんだ。どうです、あにい! 気に入ったかね」
「ちきしょう。大気に入りだ。あやまったね。恐れ入りましたよ。さあこい! 矢でも鉄砲でももうこわくねえんだ。駕籠屋! 駕籠屋! 何をまごまごとち狂っているんだ。大園寺だよ! 大園寺だよ! おいらもう尾っぽを巻いて小さくなっているから、ひとっ走りにやってくんな」
走らせて景気よく永住町のその大園寺へ乗りつけると、ものごし態度の鷹揚《おうよう》さ、あいさつ口上のあざやかさ、まことにみずぎわだった男ぶりです。
「許せよ。八丁堀同心近藤右門ちと詮議《せんぎ》の筋があるゆえ、寺社奉行さまのお許しうけてまかり越した。遠慮のう通ってまいるぞ」
不意の来訪にめんくらいながら、うちうろたえている小坊主たちをしり目にかけて、ずかずかと方丈の間へ通っていくと、貫禄《かんろく》ゆたかにどっかと上座へ陣取りながら、なにごとか、なんの詮議かというように怪しみ平伏しつつ迎え入れた方丈をずいと眼下に見下して、おのずからなる威厳もろとも、ずばりといったことでした。
「そちが住持か。役儀をもって、申しつくる。当寺の寺帳そうそうにこれへ持てい」
「はっ。心得ました。お役目ご苦労さまにござります。これよ、哲山。そそうのないように、はよう持参さっしゃい」
うやうやしくさし出したのを受け取って、目あての太田五斗兵衛の人別を巨細《こさい》に調べたが、しかしいない! 娘や妹も、それと思わしき若い女の名まえは見当たらないのです。
「まかり帰る! ご接待ご苦労でござった」
さっと立ち上がると、あっけにとられている寺僧どもをしり目にかけながら、さっそうとして待たせてあった駕籠にうち乗るや、間をおかずに命じました。
「牛込じゃ。宗山寺へ乗りつけい!」
いわずと知れたその宗山寺こそは、第二の目あてたる小林玄竜の受け寺なのである。
早い! 早い! 河童《かっぱ》坂をひと飛びに乗りきって、目ざした弁天町のその宗山寺へ息づえを止めさせると、
「許せよ」
ずいと通っていって、ことばもおごそかに小坊主へ浴びせかけました。
「住職に申しつけい。八丁堀同心近藤右門、吟味の筋あって寺社奉行さまのお許しこうむり、寺帳改めにまかり越した。そうそうに持参させい」
はっとばかりに平伏しながら小坊主が立ち去るやまもなく、入れ違いに住職が伺候してうやうやしくさし出したその受け帳をしらべてみると、――あるのです! あるのです!
[#ここから1字下げ、折り返して6字下げ]
小林玄竜 四十三歳。左京流|小太刀《こだち》、ならびに山住流含み針指南。
同妻、かね三十八歳。
同娘、菊代、十九歳。
[#ここで字下げ終わり]
その名もなまめかしく菊代、十九歳としてあるのです。同時に、莞爾《かんじ》として笑《え》みがのぼると、さわやかな声が放たれました。
「住持! 玄竜の所が見えぬようじゃが、これはなんとしたのじゃ」
「なるほど、ござりませぬな。いかい手落ちをいたしまして、あいすみませぬ。じつは、よくひっこしをいたしますおかたで、近ごろもまたお変わりのようでござりましたゆえ、あとから書き入れようと存じまして、ついそのまま度忘れいたしましたのでござります」
「お上にとってはたいせつな人別帳じゃ。以後じゅうぶん気をつけねばあいならんぞ。移り変わったところはどこじゃ」
「目と鼻の弁天町のかどでござります」
「手数をかけた。――じゃ、あにい!」
がらりと江戸まえの伝法に変わると、シュッシュッと一本|独鈷《どっこ》をしごきながら、はればれとしていったことです。
「眼《がん》に狂いのねえのが自慢よ。相手はとにもかくにも道場だ。十手もいるが、命も七、八ついるかもしれねえぜ。こわかったら、小さくなってついてきな」
ものもいえないほどに意気張りだした伝六をうち従えながら、ゆうぜんとして訪れたのは弁天町かど屋敷のそのひと構えでした。――見ると、なるほど、ものものしい看板があるのです。
「ウフフ、おどしているぜ。左京流小太刀ならびに山住流含み針指南所とふた道かけたこの看板がすさまじいじゃねえかよ。では、ひとつお嬢さまを拝見するかね」
取り次ぎも受けずにずいと上がっていくと、さっそくに目あての菊代なる女の姿を捜し求めながら、奥座敷にでも通るかと思いのほかに、むっつり黙々、ぬうと押し入ったところは、門人どもがけいこさいちゅうの道場大広間でした。
「なんじゃ! なんじゃ!」
「おかしなやつが来よったな!」
「案内も請わずにぬうとはいって、何用じゃ!」
同時に左右八方からけしきばんで門人たちが言い迫ったのを、
「騒ぐな。見物じゃ。諸公のお手並み拝見に参ったのよ」
うち笑《え》みながら静かにいって、しきりに門弟たちの首実検をしていましたが、そのとき計らずも名人の注意を強くひいたものは、わき目もふらず一心不乱に弟|弟子《でし》たちへけいこをつけている師範代らしい一人です。しかも、これが他の門弟たちとは群を抜いて、腕もたしか、わざもみごと、眉目《びもく》もきわだってひいでた若者でした。いや、それと知ったせつなです。
「源之丞《げんのじょう》さま! 源之丞さま! な! もし! 源之丞さま……!」
不意に廊下の向こうから呼びたてた声が、ハッと名人の耳を打ちました。娘です。娘です。それぞまさしく目ざした菊代と思われる、年もちょうど十八、九ごろの意外なほどにも美しい娘なのです。娘は、そこにおそるべき名人がさし控えているのも知らぬげに、ためらい、はじらいつつも顔をのぞかせると、一心不乱にけいこさいちゅうのその師範代を、恨みがましくにらめるようにして、さらに呼び立てました。
「なんというつれないおかたでござりましょうな! さきほどからわたくしが何度も何度も呼んでおりますのに、せめてご返事ぐらいしてくださってもいいではござりませぬか! けいこなぞいつでもできまする。な! もし、源之丞さま!――お聞こえになりませぬか! な! もし、源之丞さま!」
いいつつ、哀々と訴えるようににらんだその目の光!――慧眼《けいがん》並びない名人の目が、思いに悩み、もだえに輝く娘のその目を見のがすはずはないのです。
「ウフフ。おかしなほうへにおってきたな、あの目がなぞのかぎかい。――もしえ! ちょっと!」
さっと立ち上がりながら、すかさずにつかつかと追いかけると、源之丞と呼んだ師範代の若者が相手にしようともしないのを恨むように、おこったように、やさしくにらみにらみ奥の間へ立ち去ろうとしていた娘のあとから不意に呼びかけました。
「もしえ! お嬢さん! 用があるんだ。ちょっとあんたに用があるんですが」
「ま?――どなたでござります! 知らぬおかたが、わたくしになんの、なんのご用でござります!」
「これですがね」
聞きとがめるように振り返ったその目の先へ、ずいとつきつけたのは証拠のあの紅絹《もみ》の小袋です。
「これですがね。どうです? 覚えがござんしょうね」
「ま! いいえ! あの! あなたがそれをどうして! いいえ! あの! いいえ! あの!」
「しらをきるなッ。神妙にしろい」
ずばりと伝法にしかりつけて、やさしくぎゅっと草香流で、むっちりとしたその腕を押えておくと、手も早いが声も早い! なにごとかとばかり、けしきばみながらどやどやと木刀小|太刀《だち》ひっさげて駆け迫ってきた門人どもに莞爾《かんじ》とした笑《え》みを送ると、叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]《しった》したその一喝《いっかつ》のすばらしさ! すうと胸のすくくらいです。
「騒々しいや! 名を聞いてからにしろい! おいらがむっつりとあだ名の右門だッ。じたばたすりゃ、ききのいい草香流が飛んでいくぞ! 引っ込んでろい!」
せりふもききのいいとどめの針をぴたりと一本打っておくと、手を押えながらいざなっていったところは奥のひと間でした。
「玄竜、玄竜! あるじはおらぬか! 娘の詮議《せんぎ》にやって来たんだ。玄竜夫婦はどこだ!」
「…………」
「ほほう。声のねえのは、どこぞへご年始回りにでもいったとみえるな。るすならるすで、なおいいや。――お嬢さん! むっつりの右門はね、むだ責めむだ口はでえきれえ、意気ときっぷで名を売った江戸まえの男のつもりだ。うじゃうじゃしておりゃ、おたげえ癇《かん》の虫が高ぶるからね。すっぱりと何もかもおいいなせえよ」
柔らかく震えている菊代のふっくらとした肩先を押えるようにしながらそこへすわらせると、責め方がまたほどよく情にからんで、いいようがないのです。
「ぼうと首筋までがなにやら陰にこもって赤らんでおりますね、あかねさす色も恥ずかし恋心というやつだ。目のでき、眼《がん》のつけどころ、慈悲の用意も人とは違うおいらですよ。隠さずおいいなせえな」
「…………」
「え! お嬢さん! 今のさきやさしくにらんで、な、もし、源之丞さまと呼んだあの声になぞがあるはずだ。一をきいて十を判ずる、勘のいいのはむっつり右門の自慢ですよ。いいなといったら、いいなせえな!」
「…………」
「ほほう。江戸娘にも似合わず強情だね。ならば、おいらがずばりと一本肝を冷やしてやらあ。あの橙《だいだい》に打ち込んだ山住流の三角針はなんのまねです!」
「ま! そうでござりましたか! あればっかりはだれも気づくまいと思いましたのに――さすがはあなたさまでござります。それまでもご看破なさいましたら、申します! 申します! かくさずに何もかも申します……」
はらはらとたまりかねたように、とつぜん露のしずくをひざに散らすと、消え入るように打ちあけました。
「お騒がせいたしましてあいすみませぬ。ご慈悲おかけくだされませ。それもこれも、ひと口に申しますれば、みな恥ずかしいおとめ心の――」
「恋からだというんですかい!」
「あい。それも片思い――そうでござります! そうでござります! ほんとに、いうも恥ずかしいあのかたさまへの片思いが、思うても思うても思いの通らぬ源之丞さまへの片思いが、ついさせたわざなのでござります。と申しましただけではご不審でござりましょうが、源之丞さまは父も大の気に入りの一の弟子《でし》、お気だて、お姿、なにから何までのりりしさに、いつとはのう思いそめましたなれど、憎いほどもつれないおかたさまなのでござります。武道修行のうちは、よしや思い思われましてもそのような火いたずらなりませぬと、ふぜいも情けもないきついこと申されまして、つゆみじんわたしの心くんではくださりませぬゆえ、つい思いあまって目黒のさる行者に苦しい胸をうちあけ、恋の遂げられますようななんぞよいくふうはござりませぬかときき尋ねましたところ、それならば七七の橙《だいだい》のおまじないをせいとおっしゃいまして、あのように七草、七ツ刻《どき》、七|駕籠《かご》、七場所、七|橙《だいだい》と七七ずくめの恋慕祈りをお教えくださったのでござります。それもただ祈っただけでは願いがかなわぬ、もめん針でもなんでもよいゆえ、落ち残りの橙《だいだい》捜し出して、人にわからぬよう思い針を打ち込むがよいとおっしゃいましたゆえ、日ごろ手なれの含み針を使うたが運のつき、――いいえ、あれをあなたさまに山住流三角針と見破られたのが、このような恥ずかしいめに会うもとになったのでござります。ほかに子細はござりませぬ。みな恥ずかしい恋ゆえのこと、ふびんと思うてお慈悲おかけくださらば、しあわせにござります……」
「ほほうね。しかし、気に入らねえのはお城のまわりを騒がせたあの一条だ。ありゃいったいなんのまねです!」
「あいすみませぬ。あれもそれもみな恋慕祈りのおまじないになくてはならぬ約束、なるべく高貴のおかたのお住まいのまわりを持ち運べとのことでござりましたゆえ、恐れ多いこととは知りながら、あのようにお騒がせしたのでござります」
「なるほどね。それにしても、人間一匹殺すにゃあたるめえ。ねこ伝をあんなむごいめに会わすたアなんのことです!」
「おしかり恐れ入りました。あいすみませぬ。あいすみませぬ。それもやはり祈りの約束、人に知られたら念が通らぬとのことでござりましたゆえ、思いこがれたこの片思い、つい遂げたいばかりの一心から、お命いただいたのでござります」
「たわいがなくてあいそがつきらあ、口のすっぱくなるほどいったせりふだが、だから女はいつまでたっても、魔物だっていうんですよ。――伝あにい! 源之丞だか弁之丞だか知らねえが、一の弟子《でし》とやらをここへしょっぴいてきな」
おどおどしながらいざなわれてきた源之丞を、ぎろりと鋭くにらみすえると、しみじみとたしなめるようにいった訓戒がまたすてきです。
「ちっとこれから気をつけろい! 武道熱心は見あげたもんだが、堅いばかりが能じゃねえんだ。ヤットウ、チャンバラ面小手と年じゅう血走った目ばかりさせておるから、こんなことにもなるんだよ。みりゃ、お菊さんなかなかに上玉のべっぴんさんだ。そのべっぴんさんが、おまえさんへの片思いゆえに人殺しまでもしたじゃねえかよ。のちのちもあるこった。少しこれから気をつけてな、堅く柔らかくほっかりと、蒸しかげんもほどのいい人間になりなせえよ。――菊代さんへ。慈悲をかけてやりてえが人殺しの罪はまぬかれねえ。寒の中をおきのどくだが、当分伝馬町でお涼みなせえよ。そのかわり、ご牢《ろう》払いになればまた源之丞どのとやらも情にほだされて、二世かけましょうと、うれしいことばもろともお迎えに参りましょうからね。じゃ、伝あにい! いつものとおりにな、自身番にいいつけて、この女の始末させなよ」
言いおくと同時に、何もかももう忘れ果てたもののごとく、夕風たった町の道を、すういすういと歩み去っていく名人に追いついて、用をすましながら駆けつけてきた伝六がいったことでした。
「ウッフフ。ね、だんな! 口はちょうほうなものですよ。あんまりはばったいことをおっしゃるもんじゃござんせんぜ。堅いばかりが能じゃねえとかなんとか大きにご説法なすったようだが、そういうだんなはどうです! 焦がれ死にするくれえに片思いの娘っ子たちが幾人いるかわからねえんだ。いいかげんにだんなもほっかりと蒸しかげんのいい人間にならねえと、七橙《ななだいだい》かなにかで祈られますぜ」
――知らぬ知らぬというように、名人の足の下でちゃらりちゃらりと雪駄《せった》の音が鳴りました。
底本:「右門捕物帖(三)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:kazuishi
1999年12月8日公開
2005年9月21日修正
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