一
ブラゴウエシチェンスクと黒河を距《へだ》てる黒竜江は、海ばかり眺めて、育った日本人には馬関と門司の間の海峡を見るような感じがした。二ツの市街が岸のはなで睨み合って対峙《たいじ》している。
河は、海峡よりはもっと広いひろがりをもって海のように豊潤に、悠々《ゆうゆう》と国境を流れている。
対岸には、搾取《さくしゅ》のない生産と、新しい社会主義社会の建設と、労働者が、自分たちのための労働を、行いうる地球上たった一つのプロレタリアートの国があった。赤い布で髪をしばった若い女が、男のような活溌な足どりで歩いている。ポチカレオへ赤い貨車が動く。河のこちらは、支那領だ。
黒竜江は、どこまでも海のような豊潤さと、悠々さをたたえて、遠く、ザバイガル州と呼倫湖から、シベリアと支那との、国境をうねうねとうねり二千里に渡って流れていた。
十一月の初めだった。氷塊が流れ初めた。河面一面にせり合い、押し合い氷塊は、一度に放りこまれた塵芥《じんかい》のように、うようよと流れて行った。ある日、それが、ぴたりと動かなくなった。冬籠もりをした汽船は、水上にぬぎ忘れられた片足の下駄のように、氷に張り閉されてしまった。
舷側の水かきは、泥濘《でいねい》に踏みこんで、二進《にっち》も三進《さっち》も行かなくなった五光のようだった。つい、四五日前まで船に乗って渡っていた、その河の上を、二頭立の馬に引かれた馬車が、勢いよくがらがらと車輪を鳴らして走りだした。防寒服を着た支那人が通る。
サヴエート同盟の市街、ブラゴウエシチェンスクと、支那の市街黒河とを距てる「海峡」は、その日から埋められた。黒橇《くろそり》や、荷馬車や、徒歩の労働者が、きゅうに檻《おり》から放たれた家畜のように、自由に嬉々として、氷上を辷《すべ》り、頻《ひん》ぱんに対岸から対岸へ往き来した。
「今日《こんにち》は! タワーリシチ! 演説を傍聴さしてもらうぞ」
支那人、朝鮮人たち、労働者が、サヴエート同盟の土を踏むことをなつかしがりながら、大きな露西亜《ロシア》式の防寒靴をはいて街の倶楽部《クラブ》へ押しかけて行った。
十一月七日、一月二十一日には、労働者たちは、河を渡ってやって行く。三月八日には女たちがやって行く。
「僕、日本人、行ってもいいですか?」
「よろしい」
その日本人は、二十歳を過ぎたばかりだった。モスクワへ行きたい希望を抑《おさ》えることができなかった。黒河に住んで一年になる。いつか、ブラゴウエシチェンスクにも、顔見知りが多くなっていた。
黒竜江にはところどころ結氷を破って、底から上ってくる河水を溜《た》め、荷馬車を引く、咽頭《のど》が乾いた馬に水をのませるのを商売とする支那人が現れた。いくら渇《かわき》を覚えても、氷塊を破って馬に喰わせるわけには行かない。支那人は一回、銅片一文を取って馬に水を飲ませるのだ。水が凍らないように、長い棒でしょっちゅう水面をばしゃばしゃかきまぜ、叩いていた。白鬚《しらひげ》まじりの鬚に氷柱をさがらした老人だった。
税関吏と、国境警戒兵は、そのころになると、毎年、一番骨が折れた。一番油断がならなかった。黒河からやってくる者たちは、何物も持たず、何物をも求めず、ただプロレタリアートの国の集団農場や、突撃隊の活動や、青年労働者のデモを見たいがためにやってくる。そういう風に見える。しかし、なかには、大褂児の下に絹の靴下を、二三十足もかくしていた。帽子の下に天子印の、四五間さきの空気をくんくんさせる高価な化粧品をしのばせていた。そして、彼らが市街のいずれかへ消えて行って、今夜ひっかえしてくる時には、靴下や化粧品のかわりに、ルーブル紙幣を、衣服の下にかくしている。そんな奴があった。
二
北方の国境の冬は、夜が来るのが早かった。
にょきにょきと屋根が尖《とが》った、ブラゴウエシチェンスクの市街は、三時半にもう、デモンストレーションのような電灯の光芒《こうぼう》に包まれていた。
郊外には闇が迫ってきた。
厚さ三尺ないし八尺、黒竜江の氷は、なおその上に厚さを加えようとして、ワチワチ音を立て、底から表面へ瘤《こぶ》のようにもれ上ってきた。警戒兵は、番小屋の中で、どこから聞えてくるともない、無慈悲《むじひ》な寒冷の音を聞いた。
二重硝子の窓の外には、きつきつたる肌ざわりの荒い岩のような、黒竜江の結氷が星空の下に光っていた。
番小屋は、舟着場から、約一露里(約九丁)上流にあって建てられていた。夏は、対岸から、踵《かかと》の高い女の白靴や、桜色に光沢を放っている、すき通るような薄い絹の靴下や、竹の骨を割った日傘が、舟で内密で持ちこまれてくる。ここは、流れが最も緩慢であった。そして、対岸の河岸が、三十メートル突きだして、ゆるく曲線を描いている関係から、舟は、流れの中へ放りだせば、ひとりでに流れに押されて、こちらの河岸へ吸いつけられるようにやってくる。地理的関係がめぐまれていた。支那人は、警戒兵が寝静まったころを見はからって、その自然を利用した。
かつては、この地点から、多くの酒精が、持ちこまれてきた。ウオッカの製造が禁じられていた、時代である。支那人は、錻力《ブリキ》で特別に作らせた、コルセット様の、ぴったりと人間の胴体に合う中が空洞となった容器に、酒精を満し、身肌につけて、上から服を着、何食わぬ顔で河岸からあがってきた。酒精に水をまぜて、火酒として売りつけた。資本主義時代から、飲んだくれることが労働者的であるように思いこんでいるルンペンを酒に酔わしてしまった。酒のために、困難な闘争を忘れさせた。そして、ゼーヤから掘りだしてきた砂金を代りにポケットへしのばして、また、河を渡り、国外へ持ち去った。
今は酒は珍らしくはない。国内で作られている。
今は、五カ年計劃の実行に忙がしかった。能率増進に、職場と職場が競争した。贅沢品《ぜいたくひん》や、化粧品をこしらえているひまはなかった。そんなものをかえりみているどころではなかった。
寒気が裂けるように、みしみし軋《きし》る音がした。
ペーチカへ、白樺の薪《まき》を放りこんだワーシカは、窓の傍によって聴き耳を立てた。二重硝子を透して遠くに、対岸の黒河の屋根が重い支那家屋の家なみが、黒く見えた。すべてがかたまりついた雪と氷ばかりだ。部分部分が白く、きらきらと光っていた。
また、きしきしという軋りが聞えて、氷上蹄鉄《ひょうじょうていてつ》を打ちつけられた馬が、氷を蹴る音がした。
「来ているぞ。また、来ているぞ」
ワーシカは、二重硝子の窓に眼をよりつけるようにして、外をうかがった。「偉大なる転換の一年」を読んでいたシーシコフは、頭を上げて、スヰッチをひねった。電灯が消えた。番小屋は真暗になった。と、その反対に、外界の寒気と氷の夜の風景が、はっきりと窓に映ってきた。
河を乗り起してやってくる馬橇が見えた。警戒兵としての経験からくるある直感で、ワーシカは、すぐ、労働組合の労働者ではなく、密輸入者の橇であると神経に感じた。銃をとると、彼は扉を押して、戸外へ躍《おど》りでた。扉が開いたその瞬間に、刺すような寒気が、小屋の中へ突き入ってきた。シーシコフもつづいて立ちあがった。
「止れ! 誰れだ?」
支那人は、抑圧《よくあつ》せられ、駆逐《くちく》せられてなお、余喘《よぜん》を保っている資本主義的分子や、富農や意識の高まらない女たちをめがけて、贅沢品を持ちこんでくるのだ。一足の絹の靴下に五ルーブルから、八ルーブルの金を取って帰って行く。そして国境外では、サヴエート同盟に物資が欠乏していると、でたらめを飛ばした。
一方では、飲酒反対、宗教反対のピオニールのデモを見習った対岸の黒河の支那の少年たちが、同様のデモをやったりするのに、他方どうしても、こちらの、すきを伺っては、穀物のぬすみ喰いにたかってくる雀のように、密輸入と、ルーブル紙幣の密輸出を企《くわだ》てる支那人があるのを、ワーシカはいまいましく思った。
「止れ! 誰れだ!」
防寒帽で、すっかり、耳から鼻までかくしてしまった橇の上の男は、声で警戒兵が出てきたことを知るより先に、眼で危険を見て取った。
「止れ! 止らなけゃ打つぞ!」
ワーシカは氷を踏んで進んだ。シーシコフは彼につづいていた。彼らと橇の距離はもう六七間になった。一人が馭者台で鞭を持ち、二人が、その後に坐っていた。馬は二頭だ。橇はちょっと止ったように見えた。と、馭者台から舌打ちがして、馬はくるりと反対にまわってしまった。鞭が、はげしく馬の尻をしばく音がした。
「逃げるな!」
ワーシカは、すぐ折敷をして、銃をかまえた。命令をきかず、逃げだす奴は打ってもいいことになっているのだ。
何か、橇の上から支那語の罵《ののし》る声がきこえた。ワーシカは引鉄を引いた。手ごたえがあった。ウーンと唸る声がした。同時に橇は、飛ぶような速力を出した。つづいて、シーシコフが発射した。
銃の響きは、凍った闇に吸いこまれるように消えて行った。
「畜生! 逃がしちゃった!」
三
戸外で蒙古《もうこ》馬が嘶《いなな》いた。
馭者の呉はなだめるような声をかけて馬を止めた。
ぶるぶる身慄いして、馬は、背の馬具を揺すぶった。今さっき出かけたばかりの橇《そり》がひっかえしてきたらしい。
外から頼むように扉を叩く。ボーイが飛んで行った。鍵をはずした。
きゅうにドカドカと騒がしい音がして、二人の支那人が支那服を着た田川を両方から助け肩にすがらしてはいってきた。
「大人、露西亜《ロシア》人にやられただ」
支那人の呉清輝は、部屋の入口の天鵞絨《びろうど》のカーテンのかげから罪を犯した常習犯のように下卑《げび》た顔を深沢にむけてのぞかした。深沢は、二人の支那人の肩のあいだにぶらさがって顔をしかめている田川を睨《にら》めつけた。
「何、貴様が、ボンヤリしているんだ! 今どき夏じゃあるまいし、警戒兵の網にひっかかるなんて、わざわざ小屋のある方を選って馬の頭をむけて行ったんだろう?」
「このごろ、大人、川凍ったばかりで道がない。まるで、山の岩のよう。夜、なお行きにくい」
「嘘言え、横着をしてもっと上流の方を廻らんからだ」
「大人、行ったことがない。どんなにあぶないか、どんなに行きにくいか知らない。何もしない者、何も知らない」
危険をくぐってやる仕事にかけては、俺の方がうわ手だ。ということを言いたげに呉は、安楽椅子に、ポンと落ちこんでチューインガムをしがんでいる深沢をチラと見て、にたにたと笑った。
「そうだ。何もしない者、何も知らないそうだ」
田川は唸く声の間から、とぎれとぎれに繰りかえした。弾丸のあたった腰は、火がついたように疼《うず》きほてついていた。
「チッ! しようがないね。貴様ら、呉と郭と二人で、それじゃ夜明に出かけろ、今度はうまくやらないと荷物を没収されちゃ、怺《こら》えせんぞ!」
「ああで」
荷物を積んだ橇は、門から厩《うまや》の脇にひっぱりこまれた。橇の毛布には、田川の血が落ちて、凍りついていた。支那人はボール箱の荷物をおろすと、脂ぎった手で無神経にその毛布をめくり上げた。相変らず、おかしげににやにや独《ひと》りで笑っていた。
「イーイーイイイ!」という掛声とともに、別の橇が勢いよく駈けこんできた。手綱が引かれて馬が止ると同時に防寒帽子の毛を霜だらけにした若いずんぐりした支那人がとびおりた。ひと仕事すまして帰ってきたのだ。
「どうしたい?」
毛布を丸めている呉清輝にきいた。
「田川がうたれただよ」と呉は朗らかに笑った。「時にゃうたれることもあろうでか。これがおもしれえんだ」
「俺れら、こら、これだけやってきたぞ」
若い男は、一と握りの紙幣束を紙屑のようにポケットから掴みだしてみせた。そして、また、ルーブル相場がさがってきたと話した。
「さがれゃ、さがって、こちとらは、物を高く売りつけりゃええだ。なに、かまうこっちゃねえだ」
呉清輝は、実際、かげにかくれてこそこそと、あぶない仕事をやるために産れてきたような男だった。してはならぬ、ということがある。呉は、そのしてはならぬことを、かげにかくれて反対にやってみせる、それに快よさを覚えるようなたちの男だ。掏摸《すり》が一度、豪勢な身なりをしている男の懐中物をくすねて鼻をあかしてやると、その快味が忘れられず、何回もそれを繰りかえし、かっぱらう。そして、そのことのおもしろ味を享楽する。彼は、ちょうど、その掏摸根性のような根性を持っていた。
密輸入商人の深沢洋行には、また、呉清輝のごとき人間がぜひ必要なのであった。
深沢は、シベリアを植民地のように思って、利権を漁《あさ》って歩いた男だ。
ルーブル紙幣は、サヴエート同盟の法律によって国外持出しを禁じられていた。そこでまた、国外から国内へ持ちこむこともできなかった。旅行者は、国境で円をルーブルに交換して行く、そして国外へ出る時には、ルーブルを円に交換してもらう。それは、一ルーブルが一円四銭の割合で交換された。ところが、ある時、深沢は、一ルーブル二十一銭で引きとった多くの紙幣を、国外から国内へ持ちこんで行った。そして、出てくる時、一円四銭で換えてもらって、ほくほくと逃げてきた。いっぱい喰わされたのはサヴエート同盟だった。彼は、昔から、こんな手段を使っていた。日本が出兵していたころ、御用商人に早変りして、内地なら三円の石油を一と鑵十二円で売りつけた。一ちょうの豆腐を十五銭に勘定した。ロシア人の馬車を使って、五割の頭をはねた。女郎屋のおやじになった。森林の利権を買って、それをまた会社へ鞘《さや》を取って売りつけた。日本軍が撤退《てったい》すると、サヴエート同盟の経済力は、シベリアにおいても復旧した。社会主義的建設が行われだした。シベリアで金儲けをしようとする人間は駆逐《くちく》された。それでも深沢は、どこまでもシベリアに喰いさがろうとした、黒竜江のこちら側へ渡った。火酒の密輸入をやった。火酒がだめになると、今度は贅沢品でサヴエート同盟の資本主義的分子を釣った。
さまざまな化粧品や、真珠のはまった金の耳輪や、蝶形のピンや、絹の靴下や、エナメル塗った踵《かかと》の高い靴や、――そういう嵩《かさ》ばらずに金目になる品々が、哈爾賓《ハルピン》から河航汽船に積まれて、松花江を下り、ラホスースから、今度は黒竜江を遡って黒河へ運ばれてきた。それらの品々は、一時、深沢洋行の倉庫の中で休息した。それからおもむろに、支那人の手によって、国境をくぐりぬけ、サヴエート国内へもぐりこんで行った。
これは二重の意義を持っていた。密輸入につきものの暴利をむさぼるだけではなかった。
肉色に透き通るような柔らかい絹の靴下やエナメルを塗った高い女の靴の踵は、ブルジョア時代の客間と、頽廃的《たいはいてき》なダンスと、寝醒めの悪い悪夢を呼び戻す。花から取った香水や、肌色のスメツ白粉や、小指のさきほどの大きさが六ルーブルに価する紅は、集団農場の組織や、労働者の学校や、突撃隊の活動などとは、およそ相反するものだ。それをわざわざ持ちこんで行くのは意味がなければならなかった。社会主義的社会の建設に恐怖しているブルジョア国家の手がそこに動いていた。警戒兵たちがいまいましがっている支那人の背後には、×××がいた。
商品とかえられて持ちだされてきいたルーブル紙幣は、十二銭内外で、サヴエート国内でただ一カ所密売買をやっている、浦潮《ウラジオ》の朝鮮銀行へ吸収されて行った。
鮮銀はさらに、カムチャッカ漁場の利権を買ってる漁業会社へ、一ルーブル十八銭――二十銭で売りつけた。
そこで、漁業会社は、普通相場の五分の一にあたる安いルーブル紙幣を借区料としてサヴエート同盟へ納《おさ》めるのだった。そして、ぬくらんと懐を肥やして、威張っていた。
密輸入者の背後には、その商品を提供する哈爾賓《ハルピン》のブルジョアが控えているばかりではなかった。資本主義××が控えていた。
どうすれば、こういう側面からのサヴエート攻撃の根を断つことができるか!
呉清輝は、警戒兵も居眠りを始める夜明け前の一と時を見計って郭進才と橇を引きだした。橇は、踏みつけられた雪に滑桁を軋らして、出かけて行った。
風も眠っていた。寒気はいっそうひどかった。鼻孔に吸いこまれる凍った空気は、寒いという感覚を通り越して痛かった。
十五分ばかりして、橇はひっかえしてきた。
呉は、左の腕を捩《ね》じ曲げるように、顎の下に、も一方の手で抱き上げ、額にいっぱい小皺《こじわ》をよせてはいってきた。
「早や行ってきたのかい?」
腰の傷の疼痛《とうつう》で眠れない田川は、水を飲ましてもらいたいと思いながら声をかけた。
「火酒は残っていねえか? チッ! 俺れもやられた!」
「やっぱし、あしこのところからはいろうとしたのか?」
「いや、ずっと上へ廻ったんだ。ところがそこにも警戒兵がいた」
「どこにだって警戒兵はいるさ。番をするのはあたりまえだ」
「ふーむ、ふーむ、みごとにうたれちゃった」
呉清輝はうたれたのが愉快だというような声を出した。
火酒は、戸棚の隅に残っていた、呉は、それを傷口に流しかけた。酒精分が傷にしみた。すると、呉は、歯を喰いしばって、イイイッと頸を左右に慄《ふる》わした。
「何て、縁儀《えんぎ》の悪いこっちゃ、一と晩に二人も怪我をしやがって! 貴様ら、横着をして兵タイのいるいい道を選って行っとるんだろう。この荷物は急ぐんだぞ。これ、こんな催促《さいそく》の手紙が来とるんだぞ!」
朝、深沢洋行のおやじは、ねむげな眼に眼糞をつけて支那人部屋にはいってきた。呉清輝と田川とは、傷の痛さに唸りながら、半ば、うつらうつらしつつ寝台に横たわっていた。おやじは、いきなり、ペーチカの横の水汲みの石油鑵を蹴《け》とばした。
「この荷物は急ぐんだぞ。これ、こんな催促の手紙が来とるんだぞ!」
クヅネツォフからの暗号の手紙を田川の頭のさきで振りまわした。それには、アルファベットとアラビア数字がきれぎれに、一字一字、全部で三十字ほど折れ釘のように並んでいた。クヅネツォフは、対岸の、北の村に住んでいる富農だ。パン粉を買い占めたり、チーズを買い占めたり、そして、それを労働者に高くで売りつける。そんなことを常習のようにやっている男だ。みんなに毛ぎらいされていた。
「へへ、自分で持って行くがええや」
おやじが去ったあとで、呉清輝は呟いた。
田川は、これまで生きてきた日本の生活よりも、また、北満の河の北方側の生活よりも、河のかなたの生活の方がはるかにいいと心から思うことがたびたびあった。理屈ではなかった。街を歩いていると彼と同年くらいのロシアの青年たちの暗い影がちっともない顔を見てそう思うのだ。大またに、のしのしとまったく心配なげな歩きッぷりで歩いている。それを見てそう思うのだ。あの顔と較べて、いつも、じろじろ気を配って歩かなければならない罪人のような俺の境遇はどうだ!
彼れらは、銭を持っていることがいらない。仕事を失う心配がない。食うものも着るものも必要なだけ購買組合からあてがわれる。俺らは、ただ金を取るために、危いことだって、気にむかないことだって、何だってやっている。内地でだってそうだ。満州でだってそうだ。ところが、彼れらは、金を取るためではなく、自分たちの生活を築きあげるために働いている。他人のために働いているんではなく、自分のために働いているんだ!
むつまじげに労働学生が本をかかえて歩いている。それだけが、もう、彼をすばらしく引きつけるのだった。
夜になると、怪我をしない郭と、若いボーイが扉のかげで立話をした。倉庫の鍵を外套から氷の上へガチャッと落した。やがて、橇に積んだボール紙の箱を乾草で蔽《おお》いかくし、馬に鞭打って河のかなたへ出かけて行った。
「あいつ、とうとう行っちゃったぞ!」
呉清輝は、田川の耳もとへよってきて囁いた。
「どうしてそれが分るかい!」
「どうしても、こうしてもねえ。あいつだってばかじゃねえからな」
呉清輝は、腹からおかしく、快よいもののようにヒヒヒと笑った。
翌朝、おやじが、あたふたと、郭を探しにはいってきた。郭の所有物を調べた。ズックの袋も、破れ靴も、夏の帽子も何一つ残っていなかった。
「くそッ! 畜生! 百円がところ品物を持ち逃げしやがった!」おやじは口をとがらしていた。
呉清輝と田川とはおやじが扉の外に見えなくなると、吹きだすようにヒヒヒヒと笑いだした。
三日たった。呉清輝は、一方の腕を頸にぶらさげたまま、起《おき》て橇に荷物を積んだ。香水、クリイム、ピン、水白粉、油、ヘアネット、摺《す》り硝子《ガラス》の扇形の壜《びん》、ヘチマ形の壜。提灯《ちょうちん》形の壜。いろいろさまざまな恰好の壜がはいったボール箱が橇いっぱいに積みこまれた。呉は、その上へアンペラを置いた。そして、その上へ、秣草《まぐさ》を入れた麻袋を置いた。傷ついた腕はまだ傷そうであった。しかし、人には、もうだいじょうぶだ、癒《なお》った、と言った。
「一人で出かけるのかい!」
田川は訊ねた。
「うむ、お前も行きたいか? 連てってやろうか」
呉清輝は、小鼻でくッくッと笑って、自分の所有物を纏《まと》めた。河のかなたへ※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]《ずらか》ってしまうのだ。
「俺ゃ、まだ起られねえ」
晩が来ると、夜がふけるのを待たずに呉は出発した。
田川は、ベットに横たわっていた。
「気をつけろよ」
呉は出かけに言った。
「ああ」
一時間して、おやじが支那人部屋へとびこんできた。おやじは、また、郭進才の場合のように呉の床箆子の附近をさがしまわって、破った、虱《しらみ》のいる肌着が一枚丸めて放ってあるのをつまみ上げ、舌打ちをした。
「チッ! まったく、油断もすきもならん! 貴様は、こらッ、田川! ここに寝ていて呉が何をしていたか分ったであろうが!」
田川は、毛布をひっかむって眠ったふりをしていた。そして、おやじが出て行った後で声をあげて愉快げに笑った。
だが、数日の後、おやじは、別の支那人をつれてきた。保証金を取った。そして、倉庫に休んでいる品々を別の橇に積みこませた。
四
黒竜江の結氷が轟音《ごうおん》とともに破れ、氷塊《ひょうかい》は、濁流《だくりゅう》に押し流されて動きだす春がきた。
河蒸汽ののどかな汽笛が河岸に響きわたった。雪解の水は、岸から溢れそうにもれ上がっている。帆をあげた舟、発動汽船、ボート、櫓《ろ》で漕《こ》ぐ舟、それらのものが春のぽかぽかする陽光をあびて上ったり下ったりした。
黒河からブラゴウエシチェンスクへは、もう、舟に乗らなければ渡ってくることはできない。しかし、警戒兵は、油断がならなかった。税関の船着場以外へ、毎晩、支那人の舟が闇に乗じてしのびよってきた。舟は、暗い。霧がおりた流れを、上流にむかって漕ぎのぼって行く。三四丁のぼると、すきを伺って、相手の頸もとへひらりと飛びこんでくるシャモのように、舳《へさき》の向きをかえ、矢のように流れ下りながら、こちらへ泳ぎついてきた。そして、河岸へ這い上ると、それぞれの物を衣服の下や、長靴の中にしのばして、村の方へ消えて行った。
哈爾賓《ハルピン》から運ばれたばかりのものを持ちこんでいるのだ。
警戒兵は見のがすわけには行かなかった。
彼れらは、まったく手ぶらで、ただ、衣服を着けただけで上がってくる。たんなる労働者か、百姓のように見えた。ところが、上衣を引きはぐと、どこにどうしてかくしているのか、五十足の靴下が、ばらばらと足もとへ落ちてきた。一人の少年が三十七個の化粧品の壜を持っていた。逃げる奴は射撃した。
それは、一時途絶えたかと思うと、また、警戒兵が気を許している時をねらって、闇に乗じてしのびよってきた。
五月にもやってきた。六月にもやってきた。七月にもやってきた。
「畜生! あいつらのしつこいのには根負けがしそうだぞ!」
ワーシカは、夜が短い白夜を警戒した。涼しかった。黒竜江の濁った流れを見ながら、大またに、のしのしと行ったりきたりするのは、いい気持のものだ。
八月に入って、密輸入者はどうしたのか、ふッと一人も発見されなくなった。「しかし、これで油断をしていると、またきゅうに、ドカドカと押しよせてくるんだぞ!」と警戒兵は考えた。
ある日だ。太陽が没して、まだ、あたりが白く見えていた。対岸の三十メートル突きだした一番地理にめぐまれた地点から、三艘の舟が列をなして、こちらの岸へ吸いつけられるように流れてきた。ワーシカがこれを見た。彼れは身をひそめて待ちかまえた。
舟は、矢のように岸へ流れ着いた。支那語で笑い喋りながら、六七人の若者がごそごそとあがってきた。ワーシカは、一種の緊張《きんちょう》から、胸がドキドキした。
「待て!」
彼れは、小屋のかげから着剣した銃を持って踊りでた。
若者は立止った。そして、
「何でがすか? タワリシチ!」
馴れ馴れしい言葉をかけた。倶楽部《クラブ》で顔見知りの男が二人いた。中国人労働組合の男だ。
「や!」
ワーシカは、ひょくんとして立止った。
「今晩は、タワーリシチ! 倶楽部で催しがあるんでしょう? 行ってもいいですか」
「ああ、よろしい」
青年たちは愉快げに笑いながら番小屋の前を通りすぎて行った。ワーシカは、ポカンとして、しばらくそこに不思議がりながら立っていた。密輸入者はどうしたんだろう。
だが、間もなく、ワーシカの疑問は解決された。朝鮮銀行がやっていた、暗黒相場のルーブル売買が禁止されたのが明らかになった。密輸入者が国外へ持ちだしたルーブル紙幣を金貨に換える換え場がなくなったのだ。
日本のブル新聞は、鮮銀と、漁業会社に肩を持って、ぎょうぎょうしげに問題を取り上げていた。
しかし、「そうだ、もっと早くから、ルーブル紙幣の暗黒売買を禁止しとかなけゃならなかったのだ! これさえ抑えとけば、香水をつけたり、絹の靴下をはいたりして、封建時代の気分を呼び戻そうとするような、反動分子に何も手にはいれゃしなかったのだ! プロレタリアの国に喰い下ろうとするブルジョアどもも何も手出しができやしなかったのだ!」と考えていた。
「よろしく、今のうちにその根から掘取りおくべしだ!」
底本:「日本文学全集 44」集英社
1969(昭和44)年10月11日発行
初出:「戦旗」
1931(昭和6)年2月
入力:岡本ゆみ子
校正:noriko saito
2009年10月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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