戦争について——黒島傳治

 ここでは、遠くから戦争を見た場合、或は戦争を上から見下した場合は別とする。
 銃をとって、戦闘に参加した一兵卒の立場から戦争のことを書いてみたい。
 初めて敵と向いあって、射撃を開始した時には、胸が非常にワク/\する。どうしても落ちつけない。稍《やや》もすると、自分で自分が何をしているのか分らなくなる。でも、あとから考えてみると、チャンと、平素から教えならされたように、弾丸をこめ、銃先《つゝさき》を敵の方に向けて射撃している。左右の者があって、前進しだすと、始めて「前へ」の号令があったことに気づいて自分も立ち上る。
 敵愾心を感じたり、恐怖を感じたりするのは、むしろ戦闘をしていない時、戦闘が始る前である。シベリアでの経験であるが、戦闘であることを思うと、どうしても気持が荒々しくなり、投げやりになり、その日暮しをするようになる。家《うち》から、手紙に札《さつ》を巻きこんで送られて、金が手に這入ると、酒を飲み、女を買いに行く。明日の生命も分らないということが常に心にあって、今日のうちに出来るだけ快楽をむさぼっておかないと損だ、というような気持になるのだ。
 街へ出ると、露西亜人がいる。露西亜の兵隊が、隊伍を組んで歩いている。始めは、そういうのを見ても何ともない。ところが、一度、日本人が彼等に殺されたのを目撃すると非常な敵愾心が湧き上って来る。子供の時からつめこまれた愛国心とかいうものがまだどっかに残っているのかな。何故、吾々がシベリアへよこされて、三年兵になるまでお国のために奉公して、露西亜人と殺し合いをしなければならないか。その根本の理由はよく分っている。吾々が誰れかの手先に使われて、馬鹿を見ていることはよく分っている。露西亜人に恨がある訳ではない。そういうことはよく分っているつもりだのに、日本人がやられたのを見ると、敵愾心が起って来るのをどうすることも出来ない。
 人を殺すことはなか/\出来るものではない。身体の芯から慄えてきて、着剣している銃を持った手がしびれて力が抜けてしまう。そしてその時の情景が、頭の中に焼きつけられて、二三日間、黒い、他人に見えない大きな袋をかむりたいような気がする。しかし、それも、最初の一回、それから、二人目くらいまでである。戦闘の気分と、その間の殺気立った空気とは、兵卒を酔わして半ば無意識状態にさせる。そこで、彼等は人を殺すことが平気になり、平素持っていそうもない力が出てくる。
 ある時、三人の兵卒が、一つの停車場を占領したことがある。向うは百人ばかり押しよせてきて、そこを奪いかえそうとした。銃を持たずにやってきた者も大分あったらしい。二人は[#「二人は」はママ]、無茶苦茶に射ったのであるが、その間、彼等は、殆ど無意識で、あとから、自分等のやったことに気づいて吃驚したということだ。
 兵卒は、誰れの手先に使われているか、何故こんな馬鹿馬鹿しいことをしなければならないか、そんなことは、思い出す余裕なしに遮二無二に、相手を突き殺したり殺されたりするのだ。彼等は殺気立ち、無鉄砲になり、無い力まで出して、自分達に勝味が出来ると、相手をやっつけてしまわねばおかない。犬喧嘩のようなものだ。人間は面白がって見物しているのに、犬は懸命の力を出して闘う。持主は自分の犬が勝つと喜び、負けると悲観する。でも、負けたって犬がやられるだけで、自分に怪我はない。利害関係のない者は、面白がって見物している。犬こそいい面の皮だ。

底本:「黒島傳治全集 第三巻」筑摩書房
   1970(昭和45)年8月30日第1刷発行
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2009年6月17日作成
2009年7月15日修正
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