1
その第三十二番てがらです。
ザアッ――と、刷毛《はけ》ではいたようなにわか雨でした。空も川も一面がしぶきにけむって、そのしぶきが波をうちながら、はやてのように空から空へ走っていくのです。
まことに涼味|万斛《ばんこく》、墨田の夏の夕だち、八町走りの走り雨というと、江戸八景に数えられた名物の一つでした。とにかく、その豪快さというものはあまり類がない。砂村から葛飾野《かつしかの》の空へかけて、ザアッ、ザアッ、と早足の雨がうなって通りすぎるのです。
「下りだよう。急いでおくれよう、舟が出るぞう――」
「待った、待った。だいじなお客なんだから、ちょっと待っておくれよ!」
こぎ出そうとしていた船頭を呼びとめて、墨田名代のその通り雨を縫いながら、あわただしく駆けつけたのは二丁の駕籠《かご》でした。
場所はずっと川上の松崎《まつざき》渡し。
川のこっちは浅草もはずれの橋場通り、向こうは寺島、隅田《すみだ》とつづく閑静も閑静な雛《ひな》の里《さと》です。
「では、おだいじに……」
「ああ、ご苦労さん。ふたりとも無事に着いたと、おやじさまたちによろしくいっておくれ」
「へえへえ。かしこまりました。奥さま、かさを! かさを! おかさを忘れちゃいけませんよ。もう今夜から天下晴れてのご夫婦ですもの、なかよく相合いがさでいらっしゃいまし……」
お供の駕籠屋たちは、出入りの者らしい様子でした。かさをさしかけられて、はじらわしげに駕籠から出てきたのは、雪娘ではないかと思われるほどにも色の白い十八、九のすばらしい花嫁でした。つづいて、うしろの駕籠から出てきた男は二十三、四。――一見してだれの目にも新婿《にいむこ》新嫁《にいよめ》と見えるうらやましいひと組みです。
相合いがさに見える文字を拾っていくと、日本橋本石町薬種問屋林幸と読めるのでした。
しかし、雨は遠慮がない……。
ザアッ、ザアッと、けたたましく降り募って、しぶきの煙が川一面にもうもうとたちこめながら、さながらに銀の幕を引いたかのようでした。お客はその相合いがさのぬしがふたりきり……。
しぶきの中をゆさゆさとゆられながら、やがて相合いがさは並み木の土手へ上がりました。三本めの桜の横をだらだらと向こうへ降りながら、まもなく相合いがさのふたりが訪れたところは、ひと目にどこかの寮とおぼしきしゃれたひと構えです。
「ばあや。ばあや」
「あら、まあ! 若だんなさまじゃござんせんか! この降りに、どうしたんでござんす!」
「来たくなったから急に来たのよ」
「なんてまあお気軽なおかたでござんしょう。でも、ゆうべお嫁さんをもらったばかりで、まだろくろく式も済まんじゃござんせんか!」
「だから来たのさ。店にいたんじゃ、わいわいとお客がうるさくて、自分のお嫁さんだか人のお嫁さんだかわからないからね。こっちへ逃げてきたら、しみじみと話もできるだろうと思って、こっそりやって来たんだよ。早くしたくをしておくれ」
「なるほど、そうでござんしたか。ほんにそのとおりでござんす。日本橋《あちら》ではお客ばかりでゆるゆるおやすみなさるところもござんすまいからね。ええもう、こっちならば何をあそばそうと、目のあいている者はこのばあやばかりでござんす。そのばあやの目も、近ごろはとんと鳥目になりましてね。これはこれは、若奥さまでござりまするか、――お初にお目にかかります。いいえ、もう恥ずかしがるところはござんせんよ。お嫁にいらっしゃった晩はどなたもそうなんでございますからね。わたくしだっても、今はこんなに年が寄りましたが、昔はやっぱりお嫁にもいきましてね。そうですとも! ええ、ええ。万事このばあやが心得ておりますから、ちっとも恥ずかしいことなんかござんせんよ。じきにもうだんなさまがかわいくなりましてね。ええ、ええ、そうですとも! そうですとも!」
「もういいよ! ばあや! そんなにつべこべといろいろなことをいえば、よけい恥ずかしくなるじゃないか。早くしたくをおやり」
「はいはい。では、まずお湯のかげんでも見てまいりましょうよ、あちらでごゆっくり――」
変わった趣向といえば変わった趣向でした。
男は名を幸吉、もちろん林幸の店の若だんなでした。
新嫁《にいよめ》もまた同じ町内の同じ薬種問屋の妹娘で名はお冬。
秋にしたらいいだろうというのを幸吉がせきたてて、この夏のさなかに式を早め、それがちょうどゆうべのことなのです。早めて式をあげたはいいが、話のとおり日本橋のほうでは人目もうるさいし、何やかやとまだごたついて、ゆっくり語らうこともできないところからして、こうして人世離れたこの寮へのがれて、しみじみと新婚の夢を結ぼうというのでした。
ザアッ、ザアッと、また通り雨……。
ふたりきりになってしまうと、この雨までがなかなかふぜいがあるのです。
「おまえ、胸がどきどきしているんじゃないかえ」
「あんなことを……」
「なんだかこうそわそわとして、へんにうれしいね」
「そうですとも! ええ、ええ、だれだってうれしいもんですよ」
そこへばあやが無遠慮に顔を出すと、無遠慮に促しました。
「ちょうど上かげんでございます。情が移ってようござんすからね。仲よくごいっしょにおはいりなさいまし」
「よかろう! どうだい! おまえはいるかい」
「でも……」
「だいじょうぶ。だれも見ちゃおらんからはいろうよ」
「…………」
「恥ずかしいことなんかありゃしないよ。ね、ばあや。それが夫婦じゃないか。いっしょにはいったって、おかしくないやね」
「ええ、ええ、そうですとも! これがおかしかったら、おかしいというほうがおかしいですよ。ここの寮のお湯殿は、とても広くてせいせいしておりますからね、仲よくふたりで水鉄砲でもして遊ぶとようござんすよ」
もじもじしていたが、人目のない寮の湯殿ということが、新嫁の心をそそのかしたとみえるのです。うっすらと顔を赤らめながら、やがてお冬も立ち上がると、新婿のあとから湯殿の中へ姿を消しました。
しかし、ほとんどそれと同時でした。
「ばあや! ばあや! たいへんなことになったよ! ばあやはどこだ!」
幸吉がまっさおになって湯殿から飛び出してくると、なにごとが起きたか、うろたえながら叫びました。
「大急ぎだ。だれでもいい! すぐにだれかお使いを呼んできておくれッ」
「ど、ど、どうしたんでございます! 奥さまが何かおけがでもしたんでございますか」
「そんなこっちゃない! もっとたいへんなことなんだ。早くだれか呼んでくりゃいいんだよ!」
いぶかりながらまごまごしているばあやの目の前へ、帯もしめずにすそ前を押えたままでおろおろしながら出てきたお冬の顔をみると、どうしたというのか、まるで血の色もないのです。
「何がいったいどうあそばしたのでございます」
「おまえの知ったこっちゃない! 呼んでくりゃいいんだ! 早くお行き!」
「はいはい、参ります! 参ります! 近所といっても、ここでは法泉寺一軒きりでございますからね。寺男でも頼んでまいりましょう。それでようございましょうね」
「けっこうだとも! 早くしておくれ!」
ばあやをせきたてて、幸吉はその場に筆をとりながら、何かこまごまと書きしたためました。よくよくぶきみなできごとででもあるとみえて、新嫁のお冬はひと間に隠れたきり、顔もみせないのです。
やがてまもなく、ばあやに伴われてきたのは、朴訥《ぼくとつ》らしい寺男でした。見るなり、幸吉のことばは火のつくようでした。
「早く! 早く! 早くしておくれ! 大急ぎだよ! 川を越したら駕籠《かご》をを飛ばしてね、このあて名のところへすぐ行っておくれ」
「わかりました。八丁堀ですね」
「ああ、八丁堀だよ。右門のだんなさまといやあ、すぐわかるはずだからね。ほら、お使い賃をあげます。人に知られると、女房が、いや、女ひとり死ぬようなことになるかもしれんからね。右門のだんなさまにも、なるべくこっそりこの書面をお渡ししておくれ――」
秘密秘密と、ひたかくしに隠しているところをみると、よくよく穏やかならぬできごとに相違ないのです。ザアッ、ザアッと、いまだにふりしきる夕だちの中を、雨がっぱにくるまった寺男の姿が、ぬれつばめのように土手の向こうへ消えました。
2
待つ身には、四半刻《しはんとき》が二刻にも三刻にも思えるような長さでした。
とっぶり暮れてしまえば、向島もこのあたりになると、まったくもう灯《ひ》の影もない。
雨はやんだが、そのかわり、夕だちあとの夜風が出たとみえて、ざわざわと岸べの蘆《あし》が気味わるく鳴きながら、まだ暮れたばかりの宵《よい》だというのに、まるで深夜のようなさみしさなのです。
「だいじょうぶだいじょうぶ、今さらくよくよ心配したとてどうなるもんでもない。気を大きく持っていなくちゃいけないよ」
「…………」
「なんだね。泣いてばかりおって、しようがないじゃないか。もう少しのしんぼうだから、しっかりしておいでよ」
しんしんとただひたすらに泣きつづけているお冬をしきりといたわり慰めているところへ、けたたましく表先で呼びたてたのは、まさしく伝六でした。
「どこだ、どこだ。入り口ゃどこだよ。この家にゃ目も鼻もねえじゃねえか。ちょうちんをつけな! ちょうちんをな! 観音さまへ行きゃ大きなやつがぶらさがっているから、なければあれを借りてきなよ」
「あッ、お越しだ。ただいま、ただいま。ただいまおあけいたします……」
あわててお冬が奥のへやへ駆け込んだのといっしょに、黙々としてはいってきた名人を見ると、越後《えちご》上布におとし差し、みずぎわだった姿に変わりはないが、その顔いろに曇りが見えるのです。何を訴えて依頼したか、書面のうちに書かれてある変事に対して、何か気に染まぬことでもがあるらしい顔いろでした。
「ようこそ、お出ましくださりました。てまえが幸吉、わざわざお呼びたていたしましてあいすみませぬ」
「…………」
「あの、あの、てまえが書面のぬしの幸吉でござります。何やらご不興の様子でござりますが、何かお気にさわりましたんでございましょうかしら……」
「大さわりだ」
「では、あの、お力をお貸しくださるわけにはまいりませぬか」
「あまりぞっとせぬが、たっての願いとあればしかたがない。ほかの仁に頼むとよかったな」
「ごもっともでござります。いわば私事でござりますゆえ、重々ご迷惑と存じましたが、なにしろ親兄弟にもうっかりとは明かされぬないしょごとでござりまするし、家内めもほかのおかたにお願いして世間に知れたら生きてはおれぬと申しますゆえ、だんなさまなら必ずともに他人へ知れぬよう、ご内密にご詮議《せんぎ》くださることと存じまして、失礼ながらあのようなお願いの書面をさしあげたのでござります」
「伝六は喜ぶだろうが、身どもにはありがた迷惑だったかもしれぬのう」
「へ? なんですかい。あっしが何をどうしたというんですかい」
「黙ってろ。まだはめをはずすには早いんだ。おまえには目の毒、おれには虫の毒、こういう色っぽい詮議をすると、二、三日おまんまがまずいから二の足を踏んだが、すがられてみりゃいやともいえまい。実物を見せてもらおう。花嫁御はどこだ」
「奥でござります。おい。冬! 冬! だんなさまがお力をお貸しくださるとおっしゃいましたぞ! もう心配はない! はよう来てお見せ申せ!」
「…………」
「何を恥ずかしがっているんだ。右門のだんなさまにお見せ申すんなら、ちっとも恥ずかしいことはない。早くせんか!」
せきたてられて、おずおずとお冬は奥から出てくると、丸あんどんの向こうへ隠れるようにすわりながら、ひた向きにさしうつむいてはじらいつづけていたが、ついに思いを決したか、パッと首筋までもまっかに染めながら、そろりそろりと着物をぬぎかけました。
おどろいたのは伝六です。なにごとかと思われたのに、目の前でとついだばかりの新嫁《にいよめ》がとつぜんはだを見せようというのです。栃《とち》のように目を丸めて、一大事とばかりかたずをのんだその鼻先へ、お冬は火のようにほおを染めながら、恥じに恥じつつ、上半身の玉なすはだをあらわにさらしました。
同時に目を射たのは、その二の腕に見える奇怪ないれずみです。
「ほほう。なるほど、これでござりまするな」
うちうろたえて名人の出馬を求めた子細と秘密は、じつにその怪しきいれずみなのでした。名人がいとわしげに心の進まなかった子細もまたこれがため、よしや求められたことではあろうとも、夫以外に犯してならぬ新妻《にいづま》のはだをまのあたり見ることが心苦しかったからなのです。
しかし、事ここにいたってはもうちゅうちょはない。
じっと見ると、ごく小さいいれずみではあるが、いかにも変わった趣向の、いかにもみごとな彫りでした。雪とも思われる白い膚へさながら張りつけたようなたんざく型の朱をさして、まぶしいほどにも澄み渡ったその朱いろの中から、喜七いのち、という五文字が地膚そのままにくっきりと白く浮きあがっているのです。
「なかなか珍しい彫りでござるな。書面によると、当人も知らなかった、そなたも知らなかった、だれも知らなかった。だれも知らぬうちに彫られたとあったが、ほんとうか」
「ほんとうとも、ほんとうとも、そのとおりでござります。いいえ、この幸吉が神にかけてお誓いいたしまする。実を申せば、てまえとこれなる冬は町内どうしで、小さいうちから知った仲でござりました。浮いたうわさ一つあるでなし、夜ふかし夜遊び一つするでなし、隠し男はいうまでもないこと、町内でも評判のほめ者ござりましたゆえ、親たちも大気に入り、てまえも心がすすんでゆうべ式をあげ、天にものぼるような心持ちでここへやって参り、うちそろうていましがたお湯を使おうといたしましたところ、はしなくもこのいれずみが目に止まったのでござります。てまえもぎょうてんしましたが、当人の冬は気を失わんばかりにおどろきまして、知らぬことじゃ、覚えないことじゃ、だいいち喜七という男がどこの人やら、それすらも心当たりがないと申しますゆえ、ただごとならずと、さっそくにだんなさまのところへお願いの書面さしあげたのでござります」
「まことならばいかにも不思議じゃが、冬どのとやらもそのとおりか」
「あい。いつこのようないたずらをされましたやら、少しも覚えござりませぬ。知っておりましたら、いいえ、いいえ、このようなはしたないものを腕に入れておりましたら、いずれはわかること、わたくしとても、そしらぬ顔でとついでまいられるはずはござりませぬ」
「このまえお湯にはいったはいつでござった」
「きのうの夕がた、里を出るまえでござります」
「そのときは別条ありませなんだか」
「ござりませぬ! ござりませぬ! 夕がたお湯を使って、お化粧をしていただいて、式へ参りまして、それからこちらというものは、ただいまここへ参りまするまで横になるおりもないほど忙しゅうござりましたゆえ、いつこんなにだいじな膚をけがされましたのやら、気味がわるいのでござります……」
「なるほどのう。いや、しかと拝見いたしました。もうけっこう、膚をおさめなされい」
消えも入りたいようなはじらい方であんどんのかげに隠れながら、着物のそでに手を通そうとしたとき、はしなくも名人の目を捕えたのは、その背に見えるなまなましい灸《きゅう》あとでした。
「不思議なものがござりまするな。なんの灸でござる」
「にんにく灸のあとでござります」
「なに? にんにく灸とのう! あまり耳にせぬが、なんの病にきくお灸じゃ」
「これをいたしますれば、とついでから気欝《きうつ》の病にかからぬとか申しまして、ゆうべ式へ出がけに、姉さまがわざわざおすえくださったものでござります」
「姉?」
「あい。なくなった母さまの代わりになって、わたくしと弟を育てあげてくださった姉でござります」
「ほほうのう。いや、もうよろしゅうござる。キリシタンバテレンのしわざなら格別、さもないかぎりは、ひとりでにいれずみが膚に浮き上がるはずもござるまい。なんとか詮議の道もたとうゆえ、それまではまずまず仲むつまじゅう語り暮らすが肝心じゃ。――いずれまたのちほど、おじゃまでござった」
長居は無用とばかり静かに立ち上がると、名人は止めるひまもないうちにもう表のやみの中へ吸われていきました。
「おどろいたね。目がくらくらしやがって、墨田の川がどっちにあるか見当もつかねえや」
出るといっしょに、たちまち音をあげたのは伝六です。
「力がはいるね、力がね。ひとさまのものだが、なんしろいい女の子のことなんだからね。おのずとこっちも力がはいるというもんですよ。え、ちょっと。はええがいいんだ。早いところ眼《がん》をつけねえことには、恥ずかしい、申しわけがないと、ざんぶりやらねえともかぎらねえからね。ひとにらみにホシを見つけ出して、功徳を施してやるといいんですよ」
むろん、それができたら文句はない。しかし、事は伝六が意のごとく、さようにあっさりとかんたんにひとにらみというわけにはいかないのです。だいいち、お冬の陳述からしてが、はたして真実であるかどうか、はなはだしく疑問でした。知らぬ、覚えはない、喜七なぞという男は耳にしたこともないと言い張ってはいたが、ないものの腕に喜七いのちと彫りつけられてあるのが疑わしいのです。詮議の道はそれを確かめることがまず第一でした。
つづいてはお冬の素姓の詮索《せんさく》。第三には喜七なるものがどこのだれであるかその詮議、第四にはあのすばらしく江戸まえな朱彫りの彫り手はいったい何者であるかその詮議。第五にはお湯からお湯までの間の行動。すなわち、お冬があの彫りものを見つけるまでの、ゆうべから今のさきまでに、何を、どうして、どうやっていたか、その穿鑿《せんさく》。なぞの根が深いだけに、それを解きほどくべき詮議のつるもまたじつに多種多様なのでした。
「ウフフ。ちっとこれは知恵がいるかのう……」
うち考えながら、大川べりをあちらこちらとさまようていたが、いく本かのつるの中から、すばらしい一本が見つかったとみえるのです。
とつぜん、意外な声が放たれました。
「寝るか」
「へ……?」
「うちへ帰って寝ようじゃないかといっているんだよ」
「ちぇッ。つがもねえ、何をもったいつけていうんですかい。夜が来りゃみんな寝るに決まってるんだ。わざわざおおぎょうに断わらなくてもいいんですよ。足もとがふらふらしていらっしゃるが、日ごろ偉そうなことをおっしゃって、だんなもあのべっぴんの雪の膚を見てから、脳のかげんがちっとおかしくなったんじゃござんせんかい」
「やかましいや! 早く船の勘考でもしろい」
夕だちあとのすがすがしい星空の下を八丁堀までずっと舟。帰るが早いか、ほんとうにそのまま青蚊帳《あおかや》の中へ、楽々と身を横たえました。
3
しかし、その翌朝が早いのです。
東が白んだか白まないかにむっくり起き上がると、不思議なことにも手ぬぐい片手にこちらから伝六の組小屋を訪れて、声もかけずにどんどんと破れんばかりにたたき起こしました。
「騒々しいな。どこのどいつだよ!」
「…………」
「人に頼まれて寝てるんじゃねえんだ。いくらたたいたって、気に入るまで寝なきゃ起きねえよ。こんな朝っぱらから、いったい何の用があるんだ」
ぶりぶりしながら戸をあけて、ひょいとのぞいたその鼻先へぬうと手ぬぐいをさしつけると、ひとこともむだ口をきかないのです。ついてこいというように、黙ってさっさと歩きだしました。
「話せるね。朝湯に行くとは、だんなもだんだんといきごとを覚えてきましたよ。行く段じゃねえ、朝湯ときちゃ、いちんちへえりつづけても飽きがこねえんだからね。すぐにめえりますよ」
上きげんであとから追いかけてきたかと思ったのもつかのま、たちまちその伝六がまた荒れもように変わりました。お組屋敷を出はずれた一軒と、八丁堀の河岸《かし》ぎわに一軒と二カ所あるそのお湯屋のうちの、遠い河岸ぎわのほうへどんどんと歩いていったからです。
「やりきれねえな。わざわざそんな遠方へ行かなくとも、近くになじみのお湯がちゃんとあるじゃござんぜんか。河岸《かし》っぷちのは鳶《とび》人足や沖仲仕が行くところなんだから、がらがわりいんですよ。それに、湯もちっと熱すぎるんだ。こっちへおいでなせえよ」
しかし、名人は何か思うところがあるとみえて、相手にもせず河岸っぷちのそのお湯屋の、てんぐぶろと染めぬいたのれんをさっとくぐりました。
先客がある。もうもうとたちこめている湯気の中に、一つ、二つ、三つ、四つ、合わせて六つほどの黒い頭が見えるのです。
湯はもとより熱い。てんぐぶろとはいかさま鼻を高くするだけあって、じつになんとも焼けただれそうな熱湯でした。
「チ、チ、チ、しみりゃがるね。ちくしょうめッ。いいこころもちすぎて涙が出りゃがらあ――おい、動くなよ、動くなよ。動くと鉄砲玉のようなやつが来るんだから、じっとしていてくんな」
悲鳴をあげている伝六をよそにして、こともなげに名人はその熱いのに首までつかると、目がしきりと鋭く動くのです。しかも、その的は、六人の先客の背中でした。鳶《とび》人足、沖仲仕など勇みはだの者が多いといったのは事実であるとみえて、そのうち三人の背から腕には、倶利伽羅紋々《くりからもんもん》の勇ましい彫りものが見えました。
しかし、どれにも捜し求めている彫りはないのか、ひと渡り見しらべてしまうと同時に、名人のおもてには明らかな失望の色が現われました。
いやそればかりではない。出たかと思うとまたはいり、はいったかと思うと熱い中へじっとつかって、なかなか名人が上がらないのです。
「かなわねえな。そんなに欲をかいてなんべんもはいったからとて、なんの足しにもならねえんだ。またあしたの朝来ればいいんだから、とっととお上がりなさいよ」
そろそろと鳴りだした伝六をしりめにかけて、出たかと思うとまたはいり、はいったかと思うと黙々とつかりながら、しきりに来る客、来る客と入れ替わり立ち替わりやって来る朝湯の客の背中を調べつづけました。三人、五人と、彫りのある背中が見えたが、しかし捜し求めているいれずみは容易に見当たらないとみえて、かれこれ一刻近くになるのに、まだ上がらないのです。とうとう伝六がゆでだこのようにふらふらとなりながら音をあげました。
「物にはほどってえものがあるんだ。あっしゃ朝湯のけいこをするために生まれてきたんじゃねえんですよ。あっしをゆで殺す了見ですかい!」
「でも、さっき出がけに、おまえ、たいそうもなく大口をたたいたじゃねえかよ。朝湯ならいちんちはいったっても飽きがこねえとかなんとかいってね。まだ日が暮れるまでには間があるよ」
「いちいちと揚げ足を取りなさんな! 物にほどがありゃ、ことばにだっても綾《あや》があるんだ、綾ってえものがね。いちんちはいっていたら朝湯じゃねえ、晩湯になるじゃねえですかよ。何が気に入らなくて、あっしをこんなにゆであげるんです! え! ちょっと! あっしのどこがお気にさわったんですかい!」
早雷が落ちかかったとき、ひょっくりとはいってきた新客がある。同時に、名人の目がきらりと鋭く輝きました。
背にある彫りがあの色なのです。お冬の二の腕に張りついていたあの色と同じすき通るような朱色のつぶし彫りなのでした。図がらもまたいかにもすっきりとあくぬけがして、斑女《はんにょ》の面がたった一つ。その面がさえざえとした朱色一つのつぶし彫りになって、その朱の中から、目と鼻と口が、いともみごとにくっきりと浮き上がっているのです。
「ホシだ。おい、あにい!」
さっと湯舟から上がると、名人がずかずかと近よりざま呼びかけました。
「あにい、りっぱな看板だな。ほれぼれしたよ」
「それほどでもねえんですがね。だんなも彫りはお好きですかい」
「好きなればこそ目についたんだ。いかにも胸のすくような朱色だな。さだめし、名のある彫り師だろうが、どこのだれだ」
「それがちっと変わっておりましてね、評判のたつのを当人が好かねえんで、あんまり世間に知られちゃおりませんが、神田の代地の伊三郎《いさぶろう》ってえいうちょっと気性の変わった名人はだの親方ですよ」
「道理でのう。おれも江戸の彫り師なら五、六人名のある男を耳に入れていねえわけじゃなかったが、このつぶし朱彫りだけは見当がつかなかった。彫り師によっちゃ、いっさい女の膚を手がけねえのがいるようだが、大将はどっちだい。女も彫るのかい」
「彫る段じゃござんせぬ。一生に若い女を千人彫ってみてえと、千人彫りの願までたてているとかいう話ですよ」
「なに! 若い女!――におってきやがったな! 伝六! 伝六!」
「…………」
「何をふうふうゆだっているんだ。話ゃ聞いたろう。眼《がん》がつきかかったんだ。早く上がりなよ」
「ええ、ええ、わかりました、わかりました。ようやく長湯をなすったいわく因縁がわかりましたがね。長湯にもよりけりだ。あっしゃもう……あっしゃもう……酢にしてもらいたくなりましたよ。骨までがゆであがって、ぐにやくにゃになっちまったんです。ええ、このとおり。ね、ほら。もう、ろれつも回らねえや……」
回るはずもない。
鳴ろうにも鳴りようがないのです。
幾本かあるつるの中から名人の選み出したのは、じつに彫り師詮議のつるでした。朝湯に来たのもそれがため、てんぐぶろを選んだのもそれがため、伝六をゆでだこにしたのもまたそれがため、すべてが右門流のあざやかな機知によって、名人十八番からめ手詮議のつるは、ついにかくのごとく今みごとにたぐりよせられたのです。
朝まだき、夏の大江戸の町は、すがすがしい涼風でした。神田の代地は、柳原寄り、籾倉《もみぐら》前の狭い一郭である。軒ごとに捜しても、百軒とはない。
「あのうちだ、あのうちだ。あのひょろひょろとした長っぽそい二階家がそうだというんですよ」
家捜しとなれば伝六自慢の一つの芸です。たちまちかぎ当てて、主従の足は、ちゅうちょなく千人彫り秘願の彫り師伊三郎の住まいを目ざしました。
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小格子《こごうし》造りの表に立って、ひょいとのぞくと、玄関口になまめかしい女物のげたが一足見えるのです。
「客があるぞ。鉄火な女だな」
「おどろいたね。げたを見ただけで、そんなことがわかるんですかい」
「目玉が違わあ。こんなことぐれえわからねえんでどうするんだ。脱ぎ方をみろ。小笠原《おがさわら》流にも今川流にも、こんな無作法な脱ぎ方はねえや。この鼻緒ならばまず年のころは二十一、二、あっちへ一方、こっちへ一方横向きにゆがんで脱いであるぐあいじゃ、気性もあっちへ一方、こっちへ一方、細かいことのきらいな鉄火ものだよ。いま彫っているさいちゅうにちげえねえ。いずれおまえのことだから、女の膚でも見りゃぽうっとなるにちげえあるめえが、のぼせて変な声を出しちゃいけねえぜ」
下か、二階か、土間にたたずんでけはいを探ると、どうやら仕事場ははしご段の上らしいのでした。
案内も請わず、ぎしぎしと鳴らしながら上がっていって、静かに障子をあけながらじろりとのぞくと、まさにそれは奇怪な絵模様でした。洗い髪、二十一、二のいかさま鉄火ものらしい若い女がなやましくもすべすべとした全裸体を惜しげもなくそこへさらしながら人魚のごとく長々と横たわって、むっちりと盛りあがった肉の膚に、吸いつけられでもしたかのごとく伊三郎がのぞき込みながら、一心不乱に針を運ばせているのです。振り返りもせず、見向こうともせず、さながらちくちくと女の膚へ針を刺すことが、たえかねる快楽ででもあるかのように、うっすらと気味のわるい薄笑いすらも浮かべながら、せっせと彫りつづけているのでした。
「ね……ちくしょうめ、胸がどきどき変な音をあげだしやがった。なんだか憎らしくてたまらねえね」
「黙ってろ」
目顔でしかりながら、じっと針の先の動くのを見ていると、図がらは男の生首、しゅうっと血糸を引いて、その血糸の吹き出しているしたたりにせっせと朱をさしているのです。
同じ色だ。身ぶるいの出るようなその朱の色こそは、けさてんぐぶろで見たあの色と、ゆうべお冬の二の腕で見たあの色と、寸分たがわぬ朱色でした。
「おやじ」
「…………」
「伊三郎!」
「え……? ご見物ですか。若いおかたが、こういうところを見ちゃいけませんね。二、三日眠れませんぜ」
おどろくかと思いのほかに、じろりと見返したきりで、針の手を休めようともしないのです。変わり種の名人はだがそうさせるのか、千人彫りの秘願といったその念願がそうさせるのか、まるで伊三郎は魂を奪われているかのようでした。
「用がある! やめろッ」
なおも束針を運んでぷつりと肉の膚へ刺そうとしていたその手を軽くぎゅっと押えると、光った目で相手の目をじっと見すくめながら、静かに浴びせました。
「どろを吐けッ」
「どろ……?」
「しらっばくれるな! 千人彫りの秘願とやらの何人めにあの生娘の膚をいけにえにしたか知らねえが、同じ朱の色だ。おまえお冬の膚にもいたずらしたろう」
「お冬さん……? ああ、なるほど、本石町の薬屋さんのお妹御ですね」
「彫ったか!」
「冗、冗談じゃござんせぬ。いっこう知らないことですよ」
「でも、知っているような口ぶりじゃないか!」
「知っておりますとも! この朱はあの薬屋さんから買いつけておりますからね、よく知っておりますよ。姉娘のお秋さんはたしか三十、これもべっぴんだが、お冬さんのほうは若いだけにいい膚色のようでござんした。できることなら手がけてみたいとは思いましたが、彫った覚えなぞ毛頭ござんせんよ」
「うそをつけッ。朱の色も同じ、つぶし彫りもおまえのこの流儀だ。ぴかりとこの目が光ったら逃がさねえぞ、彫ったからとて、獄門にかけるの、はりつけにするのというんじゃねえ、頼まれたら頼まれた、盗んで彫ったなら盗んで彫ったと、すなおに白状すりゃいいんだ。どうだよ。名人かたぎが自慢なら自慢のように、あっさりどろを吐きなよ」
「情けないことをおっしゃいますな……てまえも朱彫りの伊三郎とちっとは人さまの口の端《は》にも乗っている男でござんす。生娘の膚が好きで千人彫りの秘願はかけておっても、盗んでまで彫ろうとは思いませんよ。あっしゃくやしくなりました……だんなも江戸っ子ならば、江戸っ子の職人がどんなきっぷのもんだか、よく胸に手をおいて考えてみておくんなさいまし……」
訴えるようにいった伊三郎の目には、恨めしげな露の光すらも見えました。膚に魅せられたごとく振り向きもしなかったあたり、疑われたことを怨《えん》ずるようなその目の光、どこか生一本の名人気質がほの見えて、まんざらその申し立てはうそでもなさそうなのです。
「なるほどのう。つるは見つかったが、根が違うというやつかな。それにしても、朱色の寸分違わねえのがちっと不審だ。ほかにもこんなさえた朱色を浮かす彫り師があるか」
「いいえ、ござんせぬ。これはてまえが自慢のつぶし彫り、口幅ったいことを申すようでござりまするが、まずこの色では日本一とうぬぼれているんでござります。しいてまねができるものといえば、弟子《でし》の栄五郎が少しばかりやるくらいのものですよ」
「なにッ。弟子がやるか! その栄五郎とやらは、いくつぐらいだ」
「二十八でござります」
「女は好きか!」
「さよう、きらいなほうじゃござんすまいね。ちょくちょく呼び出し状が舞い込んできたり、よる夜中、こっそり女が表へ会いに来たりしますからね。まず人並みに好きでしょうよ」
「姿が見えぬようだが、どこへ行った!」
「それが少しおかしんですよ。一昨晩、さよう、たしかにおとついの夕がたでござんした。だれからのものか、いつものような呼び出し状が届きましてね、こそこそと出ていった様子でしたが、一刻ほどたってから、何がうれしいのか、にやにややって帰ってくると、そのままおおはしゃぎで念入りにおめかしをしてから、ふらりとまたどこかへ出ていったきり、いまだに帰ってこないんですよ」
きらりと名人の目が鋭く光りました。つるにつるが新しくはえてきたのです。
「居間はどこだ」
「下でござります」
「案内しろ」
玄関わきの六畳へはいっていくと同時に、名人の目は、はしなくもその小机の上に止まりました。不思議やな、小机の上には幾本かの扇子が束になって置かれてあるのです。筆もある。絵の具ざらもある。絵心のないものに彫りはできないのであるから、絵筆絵の具に不思議はないが、束にしておいてある扇子がいかにも不審なのです。
「おやじ、栄五郎は下絵がうまいか」
「うまい段じゃござんせぬ。絵かきになるつもりで修業をしているうちに、ふいっと彫り物がやってみたくなりましてこの道へはいったんでございますから、玄人はだしの絵をかきますよ」
「よしよし。何か眼がつくだろう。あざやかなところをお目にかけようぜ」
取りあげてその扇子を開いてみると、なぞのような絵となぞのような字がかかれてあるのでした。絵は咲きみだれた小菊、すみに小さく両国新花屋と見えるのです。しかも一本だけではない。五十本ほどの扇子のほとんど半数に、同じその絵その文字が見えました。同時です。
「伝六、駕籠《かご》だッ」
「ちぇッ、たまらねえね。行く先ゃどこですかい。こないだは箱根へとっぱしったが、今度は奥州|仙台《せんだい》石巻《いしのまき》とでもしゃれるんですかい」
「両国の新花屋だよ」
「新花屋! はてね、あそこはこのごろできた白首女の岡場所《おかばしょ》だが、だんなのなじみがいるんですかい」
「しようのねえやつだな。なんて血のめぐりがわりいんだ。この扇子をよくみろい。栄五郎め、内職にこんなものをかいたはずあねえんだ。お中元用の配り物に新花屋のこの女から頼まれて、ちっとばかり鼻毛をのばしながら、せっせとかいたもんだよ」
「パカにしちゃいけませんよ。あっしだって字も読めりゃ、絵も読めるんだ。たいそうもなくいばって、この女、この女とおっしゃいますが、この女の顔がどこにかいてあるんですかい」
「あきれたやつだな。こないだじゅう少しりこうになったかと思ったら、またよりがもどりやがった。この絵をよくみろい。咲きみだれた小菊がどれにもかいてあるじゃねえか。両国新花屋小菊と申す女でござります、といわず語らずにこの絵でちゃんとご披露《ひろう》しているよ。きっと、栄五郎のやつ、この女にはまり込んでいるにちげえねえ。新花屋を当たりゃ野郎の足がつかあ。早くしたくしな」
「なるほどね。おつりきな読み絵をかいていやがらあ。さあ来い。ちくしょうッ。――駕籠《かご》屋! おうい! 駕籠屋!」
飛び出したら早い。
神田代地から両国|河岸《がし》までは、柳原の土手伝いにまっすぐ一本道です。このごろできた岡場所と伝六がホシをさしたとおり、河岸っぷちに怪しげな家が七、八軒看板を並べて、新花屋というのはその三軒めでした。
「あら。いきなにいさんね。ちょっと遊んでいらっしゃいよ」
「えへへ……たて引くかい。おら、八丁堀の伝六っていう勇み男なんだ。こっちのだんなは、江戸の娘がぞっこんの――」
「こらッ。何をのぼせているんだ。――許せよ」
伝六をたしなめながらずっとはいっていくと、むだがない。そこの女だまりの小べやの中へ、じろじろ鋭い目を送っていたが、五つ鏡台が並んでいるのに、遊び女は四人しかいないのを見定めるや、間をおかずに、さえざえとした声が飛びました。
「ひとり客を取っているな」
「おりますが、それがなんか――」
「小菊という名の女だろう――」
「そうでござんす。何かご用でも――」
「大ありじゃ。座敷へ案内せい」
怪しみおびえながら導いていったひと間は、薄暗い二階の裏座敷でした。
案の定、へやの中には、目ざしたホシの栄五郎が朝酒の杯をふくみながら、それこそ小菊とおぼしきおしろいくずれのした女と、よろしく歓をつくしているのです。
「やにさがっているな」
「なんでござんす! 不意にひとのへやへはいってきて、失礼な! なんの用がおありでござんす!」
「ちっとばかりお上の御用筋さ。正直に申し立てろよ。おとついの夜から姿をかくして、ここへ居つづけしているのを突きとめたからこそ、わざわざお越しあそばしたんだ。安い金では、二日もとぐろが巻けるわけはない。どこから金の茶がまが降ってきたんだ」
「恐れ入りました。お上のかたがたでござりましたか。それとも存ぜず、とんだぶちょうほうな口をききましてあいすみませぬ。いいえ、お役人衆ならちょうどさいわい、当人のてまえも気味わるく思っておりましたやさきでござりますゆえ、何もかも申ましょうよ。じつは、この金の出どころが少し不思議でござりましてな」
「なにッ。不思議な出どころ! どうして手にはいった金だ」
「どうもこうもござんせぬ。ちょうどおとついの日暮れ少しすぎでござりました。駕籠屋が突然、てまえのところへだれかさっぱり差し出し人のわからぬ書面を持ってまいりましたのでな。何心なくあけてみると、特にあなたに朱彫りがしていただきたい、こちらのするとおりになっていたなら、お礼は五十両さしあげる、と、こんなに書いてあったのでござります。変なお頼みとは思いましたが、五十両なぞという大金は、わたくしふぜいが二年三年身を粉にして働いてもなかなか手にはいるものではござりませぬゆえ、つい欲にかられて道具の用意をしながら出てまいりますると、いきなり駕籠屋が力まかせに押えつけて、目隠しをしてしまったんですよ。それから先が不思議、どんどん飛ばしていって、目隠しのまま連れ込んだ家が、どこのどなたの住まいかわかりませぬが、たしかに薬屋なんでござんす」
「なにッ、薬屋!」
「そうなんでござんす。ぷうんと家じゅうに薬のにおいが漂っておりましたからね。はてな、変なことをなさるなと思っておりましたら、だれともわからぬ人がそでをひっぱって、ぐんぐん裏座敷らしいところへ連れていきましたのでな。いうとおりになっていろというのはこのことだろうと思って覚悟をしておりますると、男とも女とも、年寄りとも、若い者ともわからぬ声で、もうよい、目隠しを取れ、といいましたゆえ、こわごわ取りはずしてみますると、目の前に紙切れが置いてあって、それに変なことが書いてあるんでござんす。いま障子の穴から手が一本出るから、大急ぎで喜七いのちと――」
「ほんとうか!」
「ほんとうとも、ほんとうとも、当人のわたくしがちゃんと出会ったことなんだから、うそはござりませぬ。気味のわるいことになったなと思って、ひょいと座敷の様子を見たら、そのときはじめて、連れ込まれた家が日ごろ朱を買いに行く大西屋さんらしいのに気がつきました。ここにはお秋お冬おふたりの評判娘がおるはずだがと思っておりましたら、にゅっと障子の穴から女の手が出たんでござります。たしかに女の手でござりました。姉かしら、妹かしらと思いましたが、障子をあけてみることもならず、いわれたとおり黙って彫れば五十両になるだろうと思いまして、大急ぎに喜七いのちと、師匠ゆずりのつぶし彫りを仕上げましたら、また目隠しをしろとしかるように声がかかりましたのでな、いいつけどおりいたしましたら――」
「五十両、だれからともなく礼金が舞い込んできたと申すか!」
「そうなんでござんす。くれた人も、頼み手もたしかに大西屋さんのおかたに相違あるまいと思いまするが、だれともさっぱり見当がつきませぬ。しかし、別段わるいことをしたのでもなし、五十両はかたじけないと、さっそくこの女のところへ飛んできたんでございます」
がぜん、つるから出たつるは、さらに怪しくぶきみなつるを伸ばしました。彫った女は、いうまでもなくお冬に相違ない。怪しき頼み手もまた、栄五郎のいうがごとく、大西屋の中にいた者にちがいない。しかし、だれが頼んだかは全く即断を許さぬ濃いなぞでした。お嫁入りする当夜なのです。親戚《しんせき》縁者の者もあまた招かれていたことであろうし、町内の者もおおぜいてつだいに来ていたことであろう、いずれにしても人の出入りが多かったはずなのです。
それらのうちのだれかであるか?
それとも、じつはお冬自身がみずから計ってやったことであるか?
「おもしろくなりやがった。ちょうど夏場だ。知恵袋の虫干しをやろうよ。ここまで来りゃぞうさもあるめえ。栄五郎、大西屋は本石町だっけな」
「そうでござります。あそこは薬種屋ばかり。かどが林幸、大西屋さんはそれから二町ほど行った左側でござります」
「乗り込んでいったら、何か眼《がん》がつくだろう。伝六、ついてきな。――栄五郎もあんまりうつつをぬかしちゃいけねえぜ。女の子なんてえものは、脳に凝りがきたとき、薬味に用いるものだ。師匠に心配させねえように、早く帰んなよ」
駕籠を飛はして目ざしたのは、お冬の生家大西屋です。
5
なるほど、本石町は左右両側一面の薬屋でした。その中で大西屋は指折りの大家ででもあるのか、間口だけでも六間近く、店の者も番頭手代小僧まで合わせると二十人近くはいそうなのです。ずいとはいると、鷹揚《おうよう》でした。
「奥へ通るぞ」
「あの、ちょっと、どなたさまでござります、薬のご用ならこちらで承りまするが、何品でござりましょう」
「これ、勇吉、何をそそういたしまする!」
早くも見つけたか、やさしくしかっていそいそと出てきたのは、姉娘のお秋らしいしとやかな美人です。目に憂いがあって、どことなく寂しい面ざしでしたが、なかなかのしっかり者とみえて、目ききもたしかでした。
「失礼なことを申して、なんでござります! だんなさまのあの巻き羽織が目につきませぬか。とんだ無作法をいたしました。なんぞご密談でも?」
「少しばかり。そなたがお秋どのか」
「さようでござります。父はちょっと他出いたしましてただいま不在にござりまするが、御用でござりましたら、この秋が代わって承りまするでござります。奥へどうぞ」
応対のさわやかさ、物腰のしとやかさ、一糸の乱れもない。母代わりとなって妹弟ふたりを育ててくれたとお冬がいったのも、なるほどとうなずかれるのです。
導き入れた一室は、ちり一つない奥の広やかな客間でした。
「なにから何までがべっぴんだね」
「はい……?」
「いいえ、用のあるのはあっしじゃねえ。だんなえ、ぼんやりしていちゃいけませんよ。こういうご大家へ来ると、伝六はからきし板につかねえんだ。小さくなっていますからね。はええところ虫干しでもおせんたくでも、遠慮なくおやりなせえよ」
ことごとに鳴り場所を見つけてはいらざる口を出す伝六には取り合おうともしないで、いつも忘れぬあの右門流です。まずじろじろと座敷のうちの器具調度、ひととおりのものに鋭い目を向けました。お冬の慶事がどんなに盛大であったか、その夜のはなやかさを今も物語って、床の間には数々のお祝い物がうず高く積んであるのです。
「おめでたがござりまして、なによりでござったな」
「おかげさまで……お用談はそれについて何か……?」
「さよう。なぞが解けるまではちと他聞をはばかるが、血を分けたお姉御ならばさしつかえもあるまい。お冬どのに変なことがござってな」
「なんでござりましょう?」
「知らぬまに、二の腕へいれずみが降ってわいたのじゃ」
「ま!……あの子が? あの子の膚に! どんな、どんないれずみでござりましょう!」
「喜七いのちと、五文字の浮かし彫りじゃ」
「喜七!」
「ご存じか!」
「いいえ、存じませぬ、知りませぬ。似通った名まえの者さえも、あの子の知り人にはござりませぬ。だいいち、あの子はいたって内気もの、みだりがましい男狂いのうわさなぞなにひとつござりませぬのに、なんとしたのでござりましょう。そんな、そのような不思議なことがある道理ござりませぬ!」
「でも、現在彫ってあるからにはいたしかたもあるまい。聞き込んだこともあるゆえ、お尋ねつかまつる。当家のご家族は?」
「奉公人残らず入れまして二十八人にござります。父、わたくし、弟、女中が五人、店の者は番頭三人、手代六人、あとの十一人はいずれも十二、三の小僧たちでござります」
年齢《としは》のいかぬ小僧たちに、色恋ざたがあろうとは思えない。疑わしいのは、手代六人と、番頭三人の九名です。
「番頭の名は?」
「伝右衛門《でんえもん》、五兵衛《ごへえ》、正助、みんな五十に近い者ばかりでござります」
「手代どもは?」
「新吉、宗太郎、竹造、源助、与之助《よのすけ》、巳太郎《みたろう》の六人でござります」
喜七はおろか、喜の字のついた名も、七の字のついた名まえすらもないのでした。奉公人のうちに嫌疑《けんぎ》のかかる者がいないとしたら、結婚当夜招かれた者たちにめぼしを移さねばならないのです。ふと、そのとき、名人の目はもっけもない品を見つけました。床の間にうず高く積まれた祝い品のかたわらに、婚儀招客帳と書かれた一冊が見えるのです。当夜出入りの者の名をしらべるには、これに越したものはない。
黙って立ち上がって手にすると同時に、まず目を射たのは、親戚《しんせき》招客ご芳名とある文字でした。これがざっと六十一名、喜右衛門、喜太郎と似た名まえがふたりあったが、喜七というのはどこにも見当たらないのです。
つづいて町内招客ご芳名とあるのが十六名、おてつだい衆とあるのが十一名。
しかし、そのいずれにも喜七なる名まえは皆無でした。
「ないか!」
「狂いましたかい」
どうやら、狂いかけたらしいのです。どうやら、眼《がん》は横へそれかかったらしいのです。伝六の声が乗りだしました。
「さるも木から落ちるんだからな。それに、この夏場じゃ知恵袋にもかびがはえますよ」
「黙ってろ。お秋どの!」
「あい」
「いかにも不思議じゃが、当夜はお冬どののお身のまわり、だれがおやりなさった」
「わたくしでござります。たったひとりのかわいい妹、日ごろわたくしが母代わりになっておりましたゆえ、当夜もこのわたくしが片ときも目を離さず、なにから何まで世話をしたのでござります」
だのに、障子の穴からにゅっと手が出たとすれば、怪奇の雲はいよいよ怪奇な雲に包まれてきたのです。
「…………」
青い顔でした。黙然として立ち上がると、名人右門は珍しやしんしんとうち沈んで、思いあぐねたようにふらふらと真昼の表口をどこへともなく歩きだしました。あたりまえなことにちがいない。一本つるをつかんだら、ホシを逃がしたことのない右門なのです。それが、いま一歩というところまでたどり着きながら、ばったりと大きな岩にぶつかったのでした。つるはある。手が障子の穴からにゅっとのぞいたというつるはある。しかし、どちらへ掘り下げていったらいいか、喜七いのちの正体は根も見せないのです。
「だめですよ。そこは日本橋だ。何をぼんやりしているんですかよ!」
「…………」
「じろじろと人が見ているじゃござんせんか。日本橋から飛び込んだっても死ねやしませんよ。五十三次東海道へは行かれるが、冥土《めいど》へ行くなら道が違うんだ。だんならしくもねえ、こっちまでが悲しくなるじゃござんせんか。しっかりおしなせえよ」
だが、名人は黙々、しんしん、そこが日本橋であるのも、橋の上であるのも知らないもののように、ぼんやりとたたずみながら、うち考えたままでした。
もはや策はない……。
ただ疑われるのは、お冬自身がはたして真実の陳述をしているか否かです。女だ!――心の秘密はわかるものでない。虫も殺さぬような美しい顔をしていて、じつはとうからもう喜七虫がついていたかもしれないのです。
それにしても、もどかしいのはその喜七の何者であるか、さらに目鼻のつかないことでした。
暑い日ざかりでした。
青い顔でした。
悲しげな目の色でした。
「効験あらたかってえおまじないはねえのかな。ね、ちょっとあごをなでてみてごらんなせえよ。なんとかなるかもしれねえんだから……え、ちょっと」
「…………」
「あやまったな、もういっぺんたこになれってえなら昼湯にでも晩湯にでもいって、いくらでもゆだりますよ。あっしゃだんなのその悲しそうな顔をみると、おまんまがまずくなるんだ、ね、ちょっと。うそにでもいいから、笑っておくんなせえよ」
「ウフフ……!」
「え、ほんとうですかい。ほんとうに笑ったんですかい」
「ほんとうさ。おいらが笑や、ひと笑い五千両の値がするよ。すんでのことに、むっつり右門も世をはかなむところだった。いくらかおいらも焼きが回ったらしいよ」
「へいへい。なるほど。それで……?」
「たいへんなことを見のがしていたのよ。こんなバカなはずはねえ。何か見のがしていやしねえかと考え直しているうちに、ふといま思い出したんだが、おまえは物覚えのいいのが自慢だ。何か思い出すことアねえかい」
「はてね。いかにももの覚えのいいのは自慢だが、品によりけり、ときによりけりでね。いっこう心あたりはねえが、なんですかい」
「灸《きゅう》よ。にんにく灸のあとよ」
「ちげえねえ、なるほど、ありましたね。ええ、ありましたとも! あのもちはだにやけどのあとをこしれえて、もってえねえまねしやがると、じつアちっとばかりしゃくにさわっていたんですが、それがどうかしたんですかい」
「決まってらあ、いましがたお秋はたしかに、当夜お冬のそばから片ときも離れなかった、といったね」
「ええ、いいましたとも! りっぱにいいましたよ」
「しかるに、障子の穴からお冬の手がにゅっと出ているんだ。それがちっとおかしかねえかい」
「ふん、なるほど、おかしいですよ」
「そうだろう。おかしいだろう。しかもだ、冬坊に灸をすえたのはだれだと思うよ。そのお秋がすえたといったじゃねえか」
「かたじけねえ! そろそろ眼《がん》がついてきやがったね。なるほど、灸がおかしいや、なにも式の晩になってやらなくともいいんだからね。わざわざすえたってえのが怪しいですよ」
「怪しけりゃ、お秋がちっとばかりくせえじゃねえかよ。おまえ、にんにく灸はどこに売ってるか知らねえかい」
「知ってますとも! 薬屋にきまってるんですよ! ほらほら! あそこにも薬屋があらあ。何を洗うんですかい。用があるならひとっ走りいってめえりますが、にんにく灸の百両ほども買ってくるんですかい」
「能書きを聞いてくるんだ。気欝《きうつ》の病封じにすえてくれたとぬかしたが、お秋めとんでもねえ気欝封じをしたかもしれねえ。何々にききめがあるか、よく聞いてきな」
「がってんのすけだ」
飛んでいった姿がくるくると舞いながら帰ってくると、意外なことをいったのです。
「ふざけていやがらあ、気欝封じなんてまっかなうそですよ。ありゃ胃にきく灸だというんだ。おまけに、あいつをすえたら急に眠くなって、死んだように寝込むというんですよ」
「なにッ、眠り灸! 眠くなる灸だってな。ふふん、そうか! さては、お秋め、ひと狂言書いたな――来い! 逆もどりだ。啖呵《たんか》を聞かしてやるよ」
乗りこんでいったところは、今のさき風に吹き流されている人のようにふらふらと出てきたばかりの、あの大西屋でした。しかし、今はもう颯爽《さっそう》明快、莞爾《かんじ》と笑ってお秋を前にすると、やにわにおどろかして、ずばりといったものです。
「栄五郎の目隠しに穴があったっていいましたぜ」
「えッ!」
二度訪れたおどろきに、さらにおどろきを重ねて、さっと青ざめた顔の上へ、静かな声がふりかかりました。
「たたみ文句はいくらでもござんす。しかし、夏場はあっさりと行くにかぎりますからね。むだな啖呵は控えましょう。あなたもお妹御に負けず劣らずおきれいでいらっしゃる。だが、少うしお年を召していらっしゃる。でき心の種は、そのお年までおひとり身でいらっしゃったことに根を張っていそうでござんすが、違いますかい」
「なにをおっしゃいます! わたしは何も! わたくしはいっこうに何も……」
「知らん存ぜぬというんですかい。おきのどくだが、灸のにおいがね、にんにく灸のにおいが、栄五郎にやった五十両の小判にはっきりしみついていましたよ」
「ま、にんにく灸のことを!――そうでござんしたか! あれをかぎつけなすったんでございますか……! それではもう、それではもう……」
じり、じり、と、なにものかに押しつけられでもしたかのようにうなだれると、お秋ははらはらと、そのひざへしずくをはうりおとしました。
と同時に、たえられなくなったと見えるのです。がばと泣きくずれると、すすりあげ、すすりあげいうのでした。
「取り返しのつかぬことをいたしました。かわいい妹の膚を傷物にして、恐ろしゅうござります……! そら恐ろしゅうござります」
「やっぱり、あんたでござんしたな。なんだとて、またあんないれずみをしたんです」
「かわいかったから、ただもうかわいかったからでござんす」
「なに! かわいかったから?――ほほうね。じゃ、ねたみ心からじゃなかったんですね。あんたはその年でおひとり身、お冬さんは年下なのに、うれしいおめでたごとになったんで、女心のねたましさから、ついふらふらと何かじゃまを入れたんじゃないかと思いましたが、そうじゃなかったんですね」
「とんでもない。ただもう、ただもうかわいかったからなのでござります。と申しただけではご不審にお思いでござりましょうが、ご存じのように、わたくしどもは母のない姉妹、それゆえに自身の身が年とるのも忘れ、ただもうあの子がいじらしさ、かわいさに、いくつかあった縁談も断わりまして、きょうが日までこのわたくしが手しおにかけてきたのでござります。さればこそ、あの子にこのたびの縁談がありましたときにも、だれよりわたしが喜んで、したくのこと日取りのこと、みんなわたくしがめんどうをみたんでござりまするが、女の心というものはわれながら解せませぬ。だれよりも喜んでおりながら、式の晩になってお化粧をしてやろうと、いっしょにあの子とお湯を使っておりましたら、急にあの子を人手に取られるのが惜しくなりたのでござります。こんなかわいい娘を、こんな美しい妹を、知らぬ他人にとられたらと思いましたら、もう矢もたてもたまらなくなりまして、――魔がさしたのでござりましょう、こうやって、ああやって、こっそりいれずみをしたら、一生わたしのそばから離れまいと、ついあのようなそら恐ろしいことをしたのでござります」
「どういうわけじゃ。いれずみしたら一生離れまいとは、どうした子細じゃ」
「喜七なぞとはもともとありもしない人の名、そのありもしない人とさもさも契り合いでもしたように見せかけて、二の腕へあのような彫り物をしておけば、今度の縁談も式をあげた日のうちに破れて生娘のまま帰ってまいりましょうし、こののちともあの彫り物がじゃまをして二度とお嫁の口がかかるまいと、ただただあの子がかわいい一方から、あさはかなことを考えまして、だれともわからぬように栄五郎さんを呼びよせ、にんにく灸で眠ったところを、喜七いのちと障子の穴から彫らしたのでござります……」
なぞからなぞへ、怪奇につづいた朱彫りのいれずみの陰には、意外な秘密がひそんでいるのです。しかも、そのすべては、聞くも涙ぐましい姉心から根を生じ、つるを伸ばしていたのです――右門の目がしらは、みるみるうちにうるみました。
「ご心中、ほろりとなってござる。よくわかりました。気になるのはお冬どののこの先、どうあっても娘のままお手元におくおつもりでござるか」
「いいえ! いいえ! 今になりましては、もうあの子のしあわせが第一、夫婦仲はどんなでござりましたでしょう。あれがもとで、なんぞいさかいでもありませんでござりましょうか。それが、そればかりが心配でござります……」
「よろしい! その心ならば、今すぐ向島の寮へ参られよ! しかじかかくかくであったと、そなたから正直にお打ちあけなさらば、かえって夫婦仲がむつまじゅうなりましょう。行きまするか!」
「行きまする! 参りまする……!」
「伝六ッ。駕籠《かご》だ。用意をしておやり!」
「ちゃんともう」
「そうか。気がきいたな。では、お秋どの、お早く! 送ってしんぜましょう」
「あい」
とばかり泣きぬれて、美しい姉の姿は、駕籠の中へ消えました。とみるまに、真夏の真昼の町をゆさゆさ揺れながら遠のきました。――うるんだまなこで見送りながらいったことです。
「伝六、なんだかいいこころもちだな……」
「ちげえねえ。どうでござんす、もういっぺんお昼の朝湯にへえって、たこになりましょうかね」
「ごめんだよ。夏場の酢だこは身の毒だとさ」
柳の葉かげをくぐって遠のいていく越後上布のうしろ姿が、心憎い涼しさでした……。
底本:「右門捕物帖(四)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:菅野朋子
2000年2月24日公開
2005年9月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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