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――ひきつづき第十七番てがらに移ります。
前回の七化け騒動がそもそも端を発しましたところは品川でしたが、今回はその反対の両国|河岸《がし》。しかも、事件の勃発《ぼっぱつ》した日がまたえりにえって七月の七日。七日と申しますと、だれしも想起するものは今も昔ながらに伝わっているあのたなばた祭りです。土地土地、国々の風俗習慣によって、同じたなばた祭りもその祭り方に多少の相違があるようですが、この当時、すなわち徳川お三代ごろの江戸上流階級において、すこぶる盛んに用いられた方法は、王朝ながらの優雅をそのまま伝えたたんざく流し――俗にたなばた流しと称する催しでした。もっとも、こののち万治元年に至りまして花火がくふうされ、さらに享保十八年に至りまして、今もなお盛大に行なわれているあの川開きが催されるようになりましてからは、めめしい貴族的なたなばた流しよりも、むやみとパンパンはぜる花火のほうが江戸っ子の唐竹《からたけ》気性にずっとかないましたものか、年一年と花火にお株を奪われまして、ただいまではまったくその面影すらもとどめていないようですが、名人右門存生の当時は、すこぶるこのたんざく流しが隆盛をきわめたもので、夏場の両国河岸を色どる唯一の催し物でした。文字からしてたんざく流しというくらいですから、むろん、たんざくを流すのが遊びの眼目ですが、しかしその流すたんざくなるものが尋常普通の品ではないので、仙骨《せんこつ》を帯びだしたご老体は風流韻事の感懐を託したみそひと文字、血のけの多いあで人たちはいわずと知れた恋歌。お時世がお時世ですから、むろんのことに歌の一つもよもうというほどの者は、いずれもみな上つ方ばかりです。したがって、座用の舟なぞも金には糸めをつけぬぜいたくな屋形船で、おあつらえどおりに涼しげなすだれを囲い、みやびたぼんぼりの灯《ほ》ざしがちらちらと川風にゆらめく陰で付き添いのお腰元が蒔絵硯《まきえすずり》を介添え申し上げると、深窓玉なす佳人がぽっとほおを染めながら、紅筆とって恋歌を書きしたためる。そのたんざくを葉笹《はざさ》に結わいつけてあかり燈籠《とうろう》を添えながら水に流してやると、二、三町下った川下に前髪立ちの振りそで若衆が待ち構えていて、われ先にと拾いあげる、それから舟を上へこがして、拾った恋歌を目あてに、思いのたけをこめた返歌を流して贈る――一口にいうとただそれだけの遊びですが、これにたずさわる人々が、粒よりの風流人ばかりですので、優雅も優雅なら、情趣ふぜいの夏らしい点からいっても、なかなか評判とった催し物でした。
ことに、七日の宵《よい》がまたうってつけのたなばた晴れで、加うるに式部小町とあだ名をされた上野山下の国学者|神宮清臣《かんみやきよおみ》先生の愛女《まなむすめ》琴女《ことめ》が、その夜のたんざく流しに三国一の花婿選みをするという評判でしたから、物見高いはいつの世も同じ江戸っ子のつねです。たなばた流しのなにものであることすらもわからない無風流人までが、涼みがてらと小町娘をかいま見るためにわいわい押しかけまして、まだ日の暮れきらないうちから、両国河岸は身動きもならないほどの人出でした。水上もまた同様で、見物客を満載した伝馬船《てんません》が約二十|艘《そう》、それらの間をおもいおもいな趣向にいろどった屋形船が、千姿万態の娘たちをひとりずつすだれの奥にちらつかさせて、銀河きらめく暗夜の下を右に左に縫っていく情景は、見るからに涼味|万斛《ばんこく》、広重《ひろしげ》北斎がこの時代に存生していたにしても、とうていこのすがすがしい景趣ふぜいは描破できまいと思われるほどの涼しさでした。
かかるところへ、わけても涼しげな飾りつけで、奥宮戸のあたりからゆらりゆらりと流してきた一艘は、これぞ今宵《こよい》のぴか一、才色兼ね備わっているところから、式部小町と評判されたあで人|琴女《ことめ》が座用の屋形船です。遠くてよくはわからないが、年のころならまず十七、八歳、面長中肉江戸型の美貌《びぼう》はまことに輝くばかりで、そばに控えた父先生の神宮清臣、ひとひざ下がって介添え役の小童《こわらべ》。おりから青空高らかにのぞいた七日の月の光をあびて、金波銀波を水面に散らしながら、静々と下ってまいりましたので、両側土手のわいわい連が、見たとてどうにもなるわけではないのに、ひと目でもひとより近くかいま見ようと、互いに互いを押しのけながら、どっといちじにざわめきたちました。いっしょに川下の若衆屋形が、われこそ三国一の花婿的を射止めようと、これまた等しく色めきたったのはむろんのことです。
と見て、佳人琴女が、恥じらい恥じらい紅筆を取りあげた様子でしたが、やがてさらさらと書き流したは一枚のたんざく――
「おッ。そらそら、流すぞ! 流すぞ!」
つづいてまたさらさらと一枚。
「みろみろッ。若衆船がひしめき合って前に出てきたぞ」
いうまに、すらすらとまた一枚――
あとを追うようにまた一枚――
そして、五枚、七枚、八枚、十枚――
拾ってこれに最も巧みに恋歌を返した者が、式部小町をわが手にすることができるというんですから、三十艘のうえももやっていた若衆船が、われがちにときそいたったのは当然なことです。
だが、そのせつな!――、まことに人の世の吉凶禍福はあざなえるなわのごときものでした。たんざくを書き終えて流すまではなんらの異状も見せなかったのに、そもいったいどうしたというのでありましたろうぞ! 式部小町の座乗していた屋形船が、波もないのに突如左右へゆらゆらと揺れ動いたかと思われましたが、底からいちじに水でもが吹きあげてまいりましたものか、あッと思った間にぶくぶくと、吸われるごとく水中にめりこみました。時も時なら、おりもおりでしたから、思わぬ珍事|出来《しゅったい》に風流優雅の絵模様を浮かべたたえていた水上は、たちまち混乱|騒擾《そうじょう》の阿修羅《あしゅら》地獄にさまを変えたのは当然――
「火だッ、火だッ。早くたいまつ燃やせッ」
「どっちだッ、どっちだッ、姿が見えねえじゃねえかッ」
「こっちだッ、こっちだッ。ひとり抱き上げたから、早くなわを投げろッ」
響き合わせて、土手の上も喧々囂々《けんけんごうごう》と声から声がつづきました。
「あがったな、だれだッ、だれだッ。先生か、お嬢さまかッ。姿は見えねえかッ」
「髪のぐあいが小町らしいぞッ」
「違うッ、違うッ。おやじらしいぞッ」
と――わめき叫んでいる群集のうしろから、そのとき、突如聞いたような声が起こりました。
「じゃまだッ、じゃまだッ。道をあけろッ。通れねえじゃねえかッ」
いっしょに見たような顔が、にょっきりと現われましたので、よくよく見定めると、聞いたも道理、見たようなのも道理、声の主、姿の主はだれならぬ、われらのあいきょう男伝六でした。つづいてそのわきの下をくぐりぬけながら、まめまめしく飛び出したのは、のどかなお公卿《くげ》さまの善光寺|辰《たつ》でした。だのに、すこぶる不思議、ふたりの太刀《たち》持ち露払いが姿を見せた以上は、当然そのあとに名人右門が、あの秀麗かぎりない面にゆうぜんとあごをなでなで立ち現われるだろうと思われたのに、どうしたことかその姿がないのです。いつまでたっても見えないのです。
けれども、ふたりの者には来ない理由がよくわかっているとみえて、必死に人込みを押し分けながら、岸べまで駆け降りていった様子でしたが、伝六が例の調子で、ガンガンとどなりながらいいました。
「伝馬《てんま》ッ、伝馬ッ。やい! そこの伝馬ッ。何をまごまごしてるんだッ。早くこっちへつけねえかッ」
「べらぼうめッ。おうへいな口ききゃがるねえ! おめえたちやじうまを乗せるためにこいでいる伝馬じゃねえや! こっちへつけろが聞いてあきれらあ!」
「なんだとッ。やじうまたあ何をぬかしゃがるんでえ! 八丁堀《はっちょうぼり》の伝六親方を知らねえかッ」
まことに伝六の名声広大とも広大――といいたいが、実は八丁堀といった啖呵《たんか》がものをいったとみえまして、通りすがりの伝馬船が倉皇《そうこう》としながら舳先《へさき》を岸へ向けましたので、ふたりはひらりと便乗――まだ混乱のままでいる現場へこがしていってみると、しかるにこれがすこぶる奇態です。屋形がぶくぶくとやりだすと同時に、乗り合わせていた船頭はいうまでもないこと、もよりの舟からもいっせいに舟子《かこ》どもがおどり込んで必死と水へもぐり、必死と流れを追って、三方五方から時を移さず救助を開始いたしましたのに、父先生の神宮清臣と介添え役の小童《こわらべ》はすぐに揚げられましたが、どうしたことか、式部小町の琴女だけは、流れたものか沈んだものか、いまだに行くえ不明であることがわかりましたものでしたから、うろたえて促したのは善光寺辰でした。
「こりゃいけねえ! な、おい伝六あにい! どうやらおれたちだけじゃ手に負えねえようだから、早くだんなに知らそうじゃねえか!」
「待てッ、待てッ、そう騒ぐなよ」
「だって、何かいわくがありそうだから、おれたちがまごまごするより、早いところだんなの耳へ入れたほうがいいじゃねえか」
「うるせえな。おれがついているじゃねえか!」
いいもいったり、きりもきったり、名人得意の啖呵《たんか》をすっかり口まねしながら、そこにぽっかりとまた浮かび上がって、黒々とさかしまに大きな腹を見せたままでいる屋形船をじっと見透かしていましたが、と――たまには伝六の目もさえるときがあるとみえて、おどろいたもののごとくに、言い叫びました。
「なるほど、こりゃまごまごしていられねえや! 船の底にくりぬいたでけえ穴があるぞッ。ちくしょうめ、ふざけたまねをやりやがって、どいつか沈めやがったなッ。おいこら、船頭! 早く岸へ帰せッ」
飛び移るや同時でしりからげになると、事重大とばかりに、人波をけちらしながらいちもくさんでした。
2
だから、当然八丁堀をでも目ざして行くだろうと思われたのに、駆け向かった先はいささか意外! 土手に沿って河岸《かし》を下へ小一町|韋駄天《いだてん》をつづけていましたが、お舟宿|垂水《たるみ》――と大きく掛けあんどんにしるされた一軒の二階めざしながら、矢玉のように駆け込みました。
いっしょにそのものものしい足音を聞きつけて、広々と明け放たれた二階座敷の涼しげな青畳の上にごろりと寝そべったまま、煩わしそうに面を振り向けた者は、これぞ待たれたわれらの捕物《とりもの》名人右門です。しかし、面を向けるには向けても、いっこう気がなさそうに、ゆうぜんとあごの先をなでさすったままでしたから、あいきょう者がたちまちガンガンとやりだしたのは当然でした。
「人が暑い思いをやっていっしょうけんめい飛んできたのに、そのやにさがり方はなんですかい! しかじかかくかくで、途方もねえことが起き上がったんだから、早くおしたくなさいましよ!」
「静かにしろい。おめえの声を聞きゃ暑くならあ」
「ちぇッ。暑いなあっしのせいじゃねえんですよ! 今も申し上げたとおり、しかじかかくかくで、とてもどえれえことになったんだから、早いことお出ましくださいましよ」
「騒々しいな。ひとりでしかじかかくかくといったって、何もまだ聞かねえじゃねえか。もっとおちついてものをいいなよ」
「だって、これがおちついたり、やにさがったりしていられますかい! おまえたちふたりがそばにいりゃ暑くてしようがねえからとおっしゃいましたんで、辰の野郎と河岸《かし》へ降りてめえりましたら、しかじかかくかくで小町の屋形がぶくぶくとやりましたんでね、さっそく舟をつけて調べましたら、屋形の底に刀かなんかでくりぬいた穴があるんですよ。おまけに、娘の行くえがまだわからねえというんだから、これじゃあわてるのがあたりまえじゃござんせんか!」
と、――むっくり起き上がったようでしたが、まことにどうもその尋ね方がじつに右門流でした。
「人足どもあ、みんなとち狂って、川下ばかり捜しているんだろ。だれかひとりぐれえ上へのぼって調べたやつあいねえのかい」
「ちぇッ。お寝ぼけなさいますなよ。墨田の川はいつだって下へ流れているんですよ。聞いただけでもあほらしい。この騒ぎのなかに川上なんぞゆうちょうなまねして捜すとんまがありますものかい? 沈んだものでなきゃ、下へ流されていったに決まってるじゃござんせんか!」
「しようのねえどじばかりだな。だから、おいらは安できの米の虫が好かねえんだ。頭数ばかりそろっていたって、世間ふさぎをするだけじゃねえか。せっかく久しぶりで気保養しようと思ってやって来たのに、ろくろく涼むこともできゃしねえや。ちょっくら知恵箱あけてやるから、ついてきな」
慧眼《けいがん》すでになにものかの見通しでもがついたもののごとく、一本|独鈷《どっこ》に越後《えちご》上布で、例の蝋色鞘《ろいろざや》を長めにしゅっと落として腰にしながら、におやかな美貌《びぼう》をたなばた風になぶらせなぶらせ、ゆうぜんとして表のほうへやって参りましたので、すっかり悦に入ったのはあいきょう者です。ことに、自分が先に手を染めて、屋形船の底の穴を見破った自慢がいくらかてつだっていたものでしたから、ことごとく鼻高の伝六でした。
「どけッ、どけッ。安できの米の虫がまごまごしたって、道ふさぎになるばかりじゃねえか。暑っくるしいから、やじうまはどぶへへえれよッ」
すぐともう名人のせりふを受け売りしながら、肩で風を切り、ありったけの蘊蓄《うんちく》を傾けて、いらざることをべらべらとしゃべりつづけました。
「ね、だんな、それであっしゃこう思うんですがね。聞きゃ、あの小町美人、たんざく流しで婿選みするっていうんでしょう。だから、きっと、あの式部小町に首ったけのとんまがあって、思いは通らず、ほっておきゃ人にとられそうなんで、くやし紛れにあんなだいそれたまねしたんだろうと思うんですがね。どうでしょうね。違いますかね」
「…………」
「ちょッ。こっちへお向きなせえよ。あっしだっても、たまにゃ眼《がん》をつけるときがあるんだから、そんなにつれなくしねえだってもいいじゃござんせんか。だから、こんなにも思うんですがね。いまだにあのとおり行くえのわからねえところを見るてえと、下手人の野郎め、騒ぎの起きたどさくさまぎれにべっぴんをかっさらって、無理心中でもしたんじゃねえかと思うんですがね。でえいち、水へもぐって船底をくりぬいた手口なんぞから察してみるに、どうしたって野郎は河童《かっぱ》のようなやつにちげえねえんだからね。女をさらって川底へひきずり込んだかもしれませんぜ」
何をいっても黙々と聞き流しながら、ゆうようと歩を運ばせていましたが、いよいよいでていよいよ右門流でした。珍事のあった現場へは目もくれようとしないで、人波をよけよけ通りぬけながら、土手について河岸《かし》っぷちを上へ上へとどんどんやって参りましたものでしたから、急にさま変わりをしたのは伝六です。
「世話のやけるだんなじゃござんせんか! そんなほうで舟がぶくぶくやったんじゃねえんですよ。なまずつりに行くんじゃあるめえし、沈んだところはもっと下ですよ、下ですよ。ほら、あそこでわいわいいってるじゃござんせんか!」
押えてずばりと一喝《いっかつ》。
「静かにせい! だから、おめえなんざ安できの仲間だといってるんだ。ガンガンいうと人だかりがするから、黙ってついてきたらいいじゃねえか」
「じゃ、なんですかい、だんなの目にゃ、この大川が上へ流れているように見えるんですかい」
「うるせえな。右にすきあるごとく見ゆるときは左に真のすきあり――柳生《やぎゅう》の大先生が名言をおっしゃっていらあ。捕物だっても、剣道だっても、極意となりゃ同じなんだッ。さらって逃げたとすりゃ、下手人の野郎もそのこつ[#「こつ」に傍点]をねらって、みんなが川下ばかりへわいわい気をとられているすきに、きっとこっちへ来たにちげえねえんだッ」
じつに名人ならではできぬ着眼、舟宿を出かけたときからもう眼がついていたとみえて、いうまも烱々《けいけい》と目を光らしながら、しきりに何か捜しさがし、土手ぎわを上へ上へとなお歩を運ばせていたようでしたが、と――、果然! さえざえとした鋭い声があがりました。
「よッ。そろそろにおってきたな! 辰ッ。ちょうちんだッ、ちょうちんだッ。早くおまえのその目ぢょうちんで、あそこのくいのところをよく調べてみなよ!」
いわれて、のどかなお公卿さまがお役にたつはこのときとばかり、知恵伊豆折り紙つきの生きぢょうちんを光らしながら、しきりとくいぎわの葦《あし》むらを見調べていた様子でしたが、おどろいたもののごとくに叫びました。
「なるほど、におってきたにちげえねえや。ね、だんな、だんな! ここから何か土手の上へひきずり上げでもしたとみえて、葦が水びたしになりながら、一面に踏み倒されておりますぜ!」
きくや、会心そうな微笑とともに命令一下。
「見ろい! ぞうさがなさすぎて、あいそがつきるじゃねえか! きっと、近所の駕籠《かご》を雇って、女もろとも河童野郎めどこかへつっ走ったに相違ねえから、大急ぎにふたりして駕籠の足跡拾ってきなよ!」
今は伝六とても何しにとやかくとむだ口たたいていられましょうぞ! まことにわれらの名人右門がひとたび出馬したとならば、かくのごとくに慧眼《けいがん》俊敏、たちまち第一のなぞがばらりと解きほぐされましたものでしたから、ふたりの配下は雀躍《じゃくやく》として、大小二つのバッタのごとく、そでに風をはらみながら飛びだしました。
しかも、その報告がさらに上々吉でした。はね返りながら駆けもどってくると、あいきょう者がわがてがらのごとく遠くから言い叫びました。
「口まねするんじゃねえが、あんまりぞうさなさすぎて、ほんとうにあいそがつきまさあ。およそまぬけの悪党もあるもんじゃござんせんか。あそこの帳場から二丁雇ってきやがって、ここへ待たしておきながらつっ走ったといいますぜ」
「なるほど、まぬけたまねしたもんだな。行く先の眼もついたか」
「大つき、大つき! 河童権《かっぱごん》とかいう水もぐりの達者な船頭でね。ねぐらは蔵前の渡しのすぐと向こうだっていうんですよ」
「いかさま、名からしてそいつが犯人《ほし》にちげえねえや。じゃ、ちょっくら川下のとち狂っている人足どもにそういってきな。式部小町とやらのお嬢さまは、河童が丘を連れてつっ走ったから、もう腹減らしなまねはすんなといってな。だが、おれの名まえは隠しておきなよ。わいわい騒がれると暑っ苦しいからな」
いうべきときにはずばりと名のり、名のるべからざるところではゆかしく秘めて、まことここらあたりが右門党のうれしくなる江戸まえのきっぷですが、伝六またなかなかちょうほう、命令どおり意を伝えたものか、ころころと駆け帰ってまいりましたものでしたから、意気に、ガラガラ、まめまめしいのと、三人三様の涼しい影を大川土手にひきながら、主従足をそろえて目と鼻の先の蔵前渡しをただちに目ざしました。
3
夜はこのときようやく初更に近く、宮戸あたり墨田の川は、牽牛《けんぎゅう》織女お二柱の恋星が、一年一度のむつごとをことほぎまつるもののごとく、波面に散りはえる銀河の影を宿して、まさに涼味万金――。
けれども、ようやく目ざした蔵前へ行きついて、河童権のねぐらを捜し当ててみると、これが少し妙でした。出入り口はこうし戸のままであるのに、家の内はまっくらにあかりが消されて、人けもないもののごとくにひっそり閑と静まり返っていたものでしたから、あわて者の伝六がたちまちうろたえて、おかまいなく大声をあげました。
「ちくしょうッ、ひと足先にずらかりましたぜ! 早く眼をつけて、夜通しあとを追っかけましょうよ! 河童なんぞにあのべっぴんをあやからしちゃ、気がもめるじゃござんせんか」
「うるせえ! 声をたてるな!」
「でも、まごまごしてりゃ、遠くへ逐電しちまうじゃござんせんか!」
「あわてなくともいいんだよ。あそこの物干しざおにぶらさがっているしろものをよくみろ。源氏のみ旗が、しずくをたらしているじゃねえか。川へもぐってぬれたやつを、いましがた干したばかりにちげえねえんだッ」
まことにいつもながら名人の観察は一分のすきもない理詰めです。高飛びしたものであったら、あとへわざわざ下帯などを洗いすすいで宵干《よいぼ》ししておく酔狂者はないはずでしたので、ちゅうちょなく中へ押し入りました。
しかし、それと同時! ――はいっていった三人の鼻をプンと強く打ったものは、まさしく血のにおいです。
「よッ、異変があるな! 辰ッ。目ぢょうちんを光らしてみろッ」
いわれるまえに、お公卿さまがまっくらなへやの中を折り紙つきの逸品でじっと見透かしていたようでしたが、けたたましく言い叫びました。
「ちょッ。こりゃいけねえや。野郎め、のびちまっているようですぜ」
「女も、いっしょかッ」
「河童だけですよ」
「じゃ、早く火をつけろッ」
照らし出されたのを見ると同時に、名人、伝六のふたりは、したたかにぎょッとなりました。
なんたる奇怪!
なんたる凄惨《せいさん》!
――河童権は口からいっぱい、どろどろの黒血を吐きながら、すでに変死を遂げていたからです。それもちゃぶ台の上には飲みさしの一升どくりと大茶わんが置かれたままでしたので、むろんのことに最期を遂げたのはほんの一瞬まえに相違なく、ほかに一品も食べ物のないところから推定すると、変死の正体、毒死の種は、明々白々それなるとくりの中に仕掛けられてあることが一目|瞭然《りょうぜん》でしたから、事件の急転直下と新規ななぞの突発に、名人の目の烱々《けいけい》とさえまさったのは当然、伝六のうろたえて音をあげたのもこれまた当然でした。
「ちくしょうめ、なんだって気短におっ死にゃがったんでしょうね! ぞうさなくネタがあがるだろうと思っていたのに、これじゃまた、ちっとややこしくなったようじゃござんせんか!」
聞き流しながら、名人はへやのあちらこちらを烱々と見調べていましたが、――と、そのときふと目を射たものは、角あんどんの油やけした紙の表に、なまなましい血をもってべっとりと書かれてあった次のごとき文字です。
[#ここから1字下げ]
「よくもオレにドクを盛りゃがったな。化けて出てやるからそう思え。江戸の小町ムスメは気をつけろ。みんな比丘尼《びくに》小町に食われちまうぞ」
[#ここで字下げ終わり]
断末魔の苦しみにあがきもがきながら指先で書きしたためたと見えて、血の色のかすれたところや、べっとりとにじみすぎたところや、判じにくい文字ばかりでしたが、つづり合わせてみると以上のごとき文句が書き残されてありましたので、不審から不審へつづいた事実に、動ぜざること泰山のごとき名人も、いささか凝然となりました。また、これが奇怪不審でなくてなんでありましょうぞ! 手間暇いらず、たわいなく剔抉《てっけつ》できるだろうと思われたのはほんのつかのま――がぜんここにいたって、くみしやすしと見えた事件は、二段三段、第四第五の奇々怪々な新しいなぞの幕に包まれてしまったからです。式部小町はどこへ行ったか? 何者が河童権に一服盛ったか? そのことだけですらもすこぶる捨ておきがたき不審であるのに、江戸の小町娘は気をつけろ、比丘尼小町にみな食われちまうぞと、特に書き残されたいぶかしい一句は、なかんずく不審のなかの不審だったからでした。しかも、何者が毒殺したか、式部小町はどこへ消えたか、それに対する物的証拠となるべき遺留品は皆無なのです。ただあるものは、比丘尼《びくに》小町うんぬんの妖々《ようよう》たるなぞのみでしたから、名人の秀麗な面がしだいしだいに蒼白《そうはく》の度を加え、烱々たるまなざしが静かに徐々に閉じられて、やがてのことに深い沈吟が始められたのはあたりまえなことでした。
そして、一瞬!
やがて、二瞬!
つづいて、一瞬![#「一瞬!」は底本では「一瞬」]
さらに、二瞬!
ほとんど今までこれほどしんけんに考え沈んだことはあるまいと思われるほどに、黙念と長い間沈吟しつづけていましたが、突如! ――ずばりとさえた声が飛んでいきました。
「伝六ッ」
「ちッ、ありがてえ! 駕籠《かご》ですね! ――ざまアみろい! もうこれが出りゃこっちのものなんだッ。ひとっ走り行ってくるから、お待ちなせえよ!」
「あわてるな! 待てッ」
「えッ?」
「二丁だぜ」
「…………※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」
「何をパチクリさせてるんだ」
「だって、またちっともよう変わりのようじゃござんせんか! 二丁たアだれとだれが乗るんですかい」
「きさまとお公卿さまがお召しあそばすんだよ」
「…………※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」
「何を考えているんだい。いってることが聞こえねえのか」
「いいえ、ちゃんと聞こえているんですがね、やにわとまた変なことおっしゃいまして、どこへ行くんですかい」
「このおひざもとを、大急ぎでひと回りするんだ」
「ちぇッ、たまらねえことになりゃがったもんだな。じゃ、辰ッ、一刻千金だ、はええとこしたくをしろよ!」
「待てッ、あわてるな」
「でも、早駕籠で江戸をひと回りしろとおっしゃったんじゃござんせんか!」
「ただ回るんじゃねえんだよ。山の手に九人、下町に二十一人町名主がいるはずだ。辰あまだ江戸へ来て日があせえから山の手の九人、おめえは下町の二十一軒を回って、ふたりとも、いいか、忘れるな。もし町内に小町娘といわれるべっぴんがいたら、おやじ同道ひとり残らずあしたの朝の四ツまでに数寄屋橋《すきやばし》のお番所へ出頭しろと、まちがわずに言いつけておいでよ」
「ちぇッ。いよいよもってたまらねえことになりゃがったな。さあ、ことだぞ。ね、だんな――つかぬことをおねげえするようで面目ござんせんが、ちょっくら月代《さかやき》をあたりてえんですがね。それからあとじゃいけませんかね」
「不意にまた何をいうんだ。まごまごしてりゃ、回りきれねえじゃねえか」
「でも、小町娘を狩り出しに行くんだからね、暇があったら男ぶりをちょっと直していきてえんだが――、ええ、ままよ。男は気のもの、つらで色恋するんじゃねえんだッ。じゃ、辰ッ、出かけようぜ!」
言い捨てると、疾風|韋駄天《いだてん》。のどかなお公卿さまもちょこちょこと小またに韋駄天――。
見送りながら、名人は道の途中で自身番に立ち寄り、河童の権の始末を託しておくと、胸中そもなんの秘策があるのか、意気な雪駄《せった》に落とし差しで、ただ一人ゆうゆうと八丁堀へ道をとりました。
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かくして、そのあくる朝です。
ふたりの配下がけんめいに町名主どもへ伝達したとみえまして、申し渡した四ツ少しまえあたりから、いずれもなんのお呼び出しであろうといぶかりながら、遠くは乗り物、近くはおひろいで、それぞれ父親同道のもとに江戸美人たちが、ぞろぞろと名人係り吟味のお白州へ出頭いたしました。かりにこれが尋常普通のあまりおきれいでない女性であったにしても、三人五人と目の前へつぼみの花が妍《けん》を競ってむらがりたかってまいりましたら、よほど肝のすわっている者であっても、ぽうッといくらか気が遠くなるだろうと思われるのに、次から次へと姿を見せる者は、まこと三十二相兼ね備わった粒よりの逸品ばかりでしたので、生来肝のすわっていない伝六がことごとくもう精神に異状を呈して、さすがに小声でしたが、場所がらもわきまえず、たちまちうるさくお株を始めたのはいうまでもないことでした。
「ねえ、だんな! どうです。すっかり世間がほがらかになっちまうじゃござんせんか。これだから、お番所勤めはいくらどじだの、おしゃべり屋だのとしかられましても、なかなかどうして百や二百の目くされ金じゃこのお株は売れねえんですよ。ね、ほらほら、また途方もねえ上玉がご入来あそばしましたぜ。――でも、それにしちゃ、あのおやじめはちっとじじむさすぎるじゃござんせんか。もしかするてえと、もらい子じゃねえのかな。だとすると、これで広い世間にゃ、もらい合わせて跡めを譲ろうってえいうようなもののわかったやつがいねえわけでもねえんだからね、年もころあい、性はこのとおりの毒気なし、ちっと口やかましいのが玉に傷だが、そこをなんとか丸くおさめて、あっしが半口乗るわけにゃめえりますまいかね」
「…………」
「ちょッ、いやんなっちまうな。どういうお気持ちで狩り出したかしらねえが、だんなが発頭でお呼びなすったんじゃござんせんか。九人も十人もの小町娘をいっぺんに見られるなんてことあ、一度あって二度とねえながめなんですよ。やけにおちついていらっしゃらねえで、きょうばかりは近所づきあいに、もっとうれしくなっておくんなせえよ。な、辰ッ。おい、お公卿さまッ」
「…………」
「ちぇッ、のどかなくせに、きどっていやがらあ。寸は足りねえったって、耳は人並みについているじゃねえか。なんとか返事をしろよ」
「だって、このついたてが高すぎて、よく向こうが見えねえんだよ」
「ほい、そうか。高すぎるんじゃねえ、おめえがちっとこまかすぎるからな。じゃ、おれがふたり分|堪能《たんのう》してやるから、気を悪くすんなよ。――ねえ、だんな、ないしょにちょっと申しますが、ついでだからころあいなのをひとり見当つけておいたらどうですかい。あっしゃそればっかりが気になって、毎晩夢にまでも見るんですよ。似合いの小町とこうむつまじくお差し向かいで、堅すぎず、柔らかすぎず、ごいっしょに涼んでいらっしゃるところをでも拝見できたら、どんなにかあっしも涼しくなるだろうと思いましてね。――よッ。いううちに、今はいってきたべっぴん、だんなのほうをながめて、まっかになりましたぜ。助からねえな。おれなんかのほうは、半分だっても見当つけてくださる小町ゃねえんだからね」
それがまた小声だけに、うるさいことは並みたいていでないので。しかし、名人はただ黙々。集まってきた小町美人のほうへはまったく目もくれないで、何を待つのか、しきりと出入り口にばかり烱々《けいけい》と注意を放っていたようでしたが、と――そのとき、おどおどとしながらうろたえ顔でお白州に姿を見せた者は、裕福らしい町家のおやじふたりです。と見ると、じつに右門流の中の右門流でした。
「よしッ。いま来たふたりのおやじがたいせつなお客だ。あとの者たちは、もう目ざわりだから、引きさがるように申し伝えろッ」
「…………」
「何をパチクリやってるんだ。幾人来たか数えてもみないが、あとの小町娘たちにはもうご用済みだからと申し伝えて、引きさがるように手配しろよ」
「…………」
「…………※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」
「血のめぐりのわりいやつだな。いつまでパチクリやってぽかんとしているんだ。きさまは河童権があんどんへ残していった文句覚えてねえのか。江戸の小町娘は気をつけろ、比丘尼小町に食われちまうぞと、気味のわるい文句があったじゃねえか」
「ちぇッ、そうですかい。じゃ、あんな文句が残っているからにゃ、どこかほかでもう比丘尼小町とやらにやられた娘があるだろうと眼がついたんで、わざわざ小町改めをしたんですかい」
「決まってらあ。いま来たあのおやじどもを見ろ。なにか思いもよらねえいわくがあるとみえて、おどおどうろたえているじゃねえか。だから、もう小町娘を無事に連れてきた親どもにゃ用はねえんだ。早く引きさがるよう申し伝えろッ」
「これだからな。化かされまい、化かされまいと思っていても、じつにだんなときちゃあざやかだからな、せっかく堪能できると油が乗り出してきたのに、しかたがねえや。じゃ、辰ッ、遠慮しねえでついたての陰から首を出しなよ」
「まてまてッ」
「えッ?」
「ここに十金あるから、帰りの乗り物代に分けてつかわせ。暑いさなかをご苦労だった、このうえとも娘どもはたいせつにしろと、ねんごろにいたわってやれよ」
「いちいちとやることにそつがねえや。おい、辰ッ。背のちっちぇえのが恥ずかしかったら、せいぜい伸び上がってついてきなよ」
伝六、辰の配下たちが、そのまま帰してしまうのを惜しそうにひとりひとり手配したのを見すましてから、やおら名人はひざを進めると、いわくありげなふたりの町人に呼びかけました。
「遠慮はいらぬ。心配ごとがあらば、早く申し立てろ」
「へえい……」
「たぶん、両名とも娘たちの身の上に、何か異変があっての心配顔と察するが、どうじゃ、違うか」
「お察しのとおりなんでございまするが、でも、ちっと話がこみ入っているんでございますよ。じつは、ゆうべおそくに町名主がおみえなさいまして、この町内で小町娘と評判されているのはおまえのところのお千恵だけじゃ、しかじかかくかくでお番所から不意にお呼び出しがかかってきたから、四ツまでに出頭しろと、このように申されましたんで、なんのことやら、では参りましょうと、さっそくただいま、預けておいたところへ娘を連れに参りましたら、どうしたのでござりましょう、その娘がふいっと行くえ知れずになったのでござりますよ」
「なに! 預けておいたとな! 聞き捨てならぬことばじゃ。いつ、どうして、どこへ預けておいたか!」
「それがどうも、ちっと気味のわるい話なんでございますよ。聞けば、こちらの綿半さんも同じようなめにお会いなすったそうでございますが、ちょうど三日まえのことでございます。てまえは神田の連雀町《れんじゃくちょう》で畳表屋を営みおりまする久助と申す者でございますが、雨がしょぼしょぼ降っていました晩がた、おかしな比丘尼の女行者がひょっくりとやって参りましてな――」
「なにッ、女行者とな! 美人だったか!」
「へえい。目のさめるほど美しい比丘尼の行者でございましたが、ひょっくり、やって参りまして、いま通りかかりに見たのじゃが、おまえの家の屋の棟《むね》に妖気《ようき》がたちのぼっているゆえ、ほっておいたら恐ろしい災難がかかってくるぞ、とやにわにこのようなことを申しましたのでな、家内もてまえもそういうことは特別かつぎ屋でございますゆえ、何がそんなあだをするのでございましょうと尋ねましたら、気味のわるいこともあればあるものではござりませぬか。この屋敷には五代まえから白へびが主となって住んでいるはずじゃが、今まで一度も供養をせずにほっておいたゆえ、それがお怒りなすったのじゃ、とこんなことを申すんですよ。でも、そんなへびは祖先代々お目にかかったという話さえも承ったことがございませんゆえ、半信半疑に聞いておりましたところ、疑うならばお呼び申してしんぜようと申しまして、なにやら呪文《じゅもん》のようなことを二言三言おっしゃいましたら、二尺ばかりのまっしろいへびが、ほんとうに縁側からにょろにょろとはいってきたんでございますよ!」
「それで、いかがいたした。災難のがれに、娘を供養にあげろと申しおったか!」
「へえい。供養金を百両と、娘の千恵めを五日間お比丘尼さまのご祈祷所《きとうじょ》におこもりさせたら、へび静めができると、このようなことを申しましたゆえ、どんな災難がござりまするか、つまらぬあだをされてはと震え上がりまして、おっしゃるとおりにしましたところ、奇態ではござりませぬか、お祈祷所はそのままでございましたが、ただいま行ってみますると、娘もお比丘尼さまもどこへ行ったものやら、かいもくあとかたも見えないのでござります」
「綿半とやら、そちも同様だったか」
「へえい。一日だけてまえのほうが早いだけのことで、何から何までそっくりでござりました。ほかのものならそれほどもぎょうてんいたしませぬが、見たばかりでも気味のわるい白へびがにょろにょろ庭先へはい出してまいりましたゆえ、てまえも、家内も、娘のお美代もすっかりおじけたちまして、いうとおり百両さしあげ、やっぱりおこもりにつかわしましたのでござります」
「その間に祈祷所とやらへ、様子見に参ったことはなかったか」
「おきれいなお比丘尼さまでござりましたゆえ、安心しながらきょうまでお預け放しにしておいたのでござります」
奇怪も奇怪! ぶきみもぶきみ! 事実はがぜんここにいたって妖々《ようよう》と、さらにいっそうの怪奇ななぞと疑雲に包まれ終わったかと思われましたが、しかし、両名の陳述を聴取するや同時、さえざえとさえまさったことばが、ずばりと名人の口から言い放たれました。
「おろか至極な親どもだな! へび使いの比丘尼小町に、たいせつな娘をしてやられたぞッ」
「えッ! では、では、娘をかたり取るために、そんな気味のわるい長虫を使ったのじゃとおっしゃるのでござりまするか」
「決まってらあ。小へびのうちから米のとぎじるで飼い育てたら、どんなへびでも白うなるわ!」
「でも、呪文《じゅもん》を唱えましたら、それを、合い図ににょろにょろとはい出したのが、奇態ではござりませぬか!」
「だから、愚かな者どもじゃと申しているんだッ。前もって縁の下にでも放しておいて、使い慣らした白へびを呼び出したんだッ」
「ならば、娘の身にもなんぞ異変が起きているのでござりましょうか! かたりかどわかしたうえで、どこぞ遠いところの色里へでも売り飛ばしたのでござりましょうか!」
「相手はへびと一つ家に寝起きしている比丘尼行者だ。もっとむごたらしいめに会っているかもしれんぞッ。祈祷所とか申したところは、遠いか、近いか!」
「湯、湯島の天神下でござります」
「じゃ、伝六ッ」
「…………」
「伝六ッといっているのに、聞こえねえか!」
「き、聞こえますよ、聞こえますよ。ちゃんと聞こえているんですが、どうせのことなら、ゆうべの式部小町を先にかぎ出しておくんなせえな、生得あっしにゃ、長虫ってえやつがあんまりうれしくねえんでね。話きいただけでも、目先にちらついてならねえんですよ」
「忙しいやさきに、よくもたびたび手数のかかるこというやつだな! その式部小町もいっしょにしてやられているから、急いで駕籠呼んでこいといってるんだッ」
「えッ。じゃなんですかい! 河童権に一服盛りやがったのも、おんなじ比丘尼小町のへび使いのその女行者だというんですかい!」
「決まってらあ! 捨てておいたら、三人の小町娘が生き血を吸いとられてしまうかもしれねえんだから、早いところしたくをしたらいいじゃねえか! へびがこわかったら、鎧《よろい》でも兜《かぶと》でもかぶってこい!」
いっているまに、まめやかなお公卿さまがまめまめしい働きでした。
「駕籠なら三丁表につれてめえりましたよ」
「そうかみろ! のどかなあにいに、ヒリリと一本、小粒の辛いところを先回りされたじゃねえか! じゃ、そっちの町人衆! 青ざめていねえで、早く乗りなよ」
きくだに妖艶《ようえん》、その面影もさながらに彷彿《ほうふつ》できるへび使いの美人行者、そもなんの目的をもって三人の小町娘をさらい去ったか、疑問はただその一点! 日は旱天《かんてん》、駕籠は韋駄天《いだてん》。濠《ほり》ばた沿いをただ一路湯島に駆け向かいました。
5
行きついてみると、それなる祈祷所がすこぶる不審。比丘尼行者が祈祷を売り物にする住まいなら、玄関出入り口の構えなぞ、少しは神々《こうごう》しいこしらえでもしてあるだろうと思いのほかに、いたってちゃちな、ただのしもた屋でした。そのうえに、三間ばかりの小さい家でも、さすがにいちばん奥のへやの床の間に祭壇が設けてはありましたが、それとてもそまつなまにあわせ物で、ことに名人の目を強く射たものは、祭壇それ自体がつい四、五日まえにでも急設したらしい新しさを示していたことでした。いうまでもなく、その新しいことは、畳屋小町の千恵と綿屋小町のお美代のふたりをかたりかどわかすために急設したことが一目りょうぜんでしたので、名人は重なる不審に烱々とその目を光らしながら、くまなくへやの中を見調べましたが、しかし、そこに残されているものは、燭台《しょくだい》が大小三本、何がそのご神体であるのか小さなほこらが一つ、古ぼけた小机が一個、それから、こればかりは比丘尼にふつりあいななまめかしい夜着が一組み、さらになまめかしい朱塗りのまくらが一つ、よりもっとなまめかしいはだの香のまだ残り漂っている着替えが二枚。あるものとては、たったそれきりで、いずこへ逐電したか、どこへ小町娘をさらっていったか、肝心かなめのその手がかりとなるべき品は、なに一つとてもないもぬけのからでしたから、事に当たってつねに静かなること林のごとく、明知の尽きざること神泉の泉のごとき無双の捕物名人も、はたと当惑したもののごとく、十八番のあごの先にも手が回らないほどに、じっと沈吟したままでした。また、これは名人とても沈吟するのが当然でした。いかなる目的のもとに、小町娘ばかりをねらったものか、かいもくその推定がつかないからです。しかも、その下手人なる相手の女行者は、頭を丸めたへび使いのしたたるばかりな比丘尼小町であるというにいたっては、ただ妖々怪々としてそのなぞが色濃く深まるばかりだったからでした。わけても、その手口に白へびを使用したのと、河童権をそそのかして非常手段を用いたのとの全然相異なった二法があるにおいては、さらに疑問となぞを深めるばかりでした。
だのに、伝六というやつはおよそ捕捉《ほそく》しがたい岡《おか》っ引《ぴ》きです。ひょいと気がついてみると、どこへ消えてなくなったものか、影も形も見えなかったものでしたから、場合も場合、やさきもやさき、名人の鋭いことばが飛んでいきました。
「辰ッ」
「えッ」
「兄貴ゃどこへもぐったッ」
「それがどうもおかしいんですよ。目色を変えながらふいッと今のさっき表のほうへ飛び出したんでね。だいじょうぶだ、へびはいねえよっていってやりましたら、おれさまともあろうものが、こまっけえやつの下風についてたまるけえと、こんなことをガミガミ言いのこしまして、どこかへずらかっちまいましたんですよ」
いっているところへ、どうもやることなすことが伝六流でした。
「ちくしょうッ、ざまあみろい! 日ごろはどじの血のめぐりがわりいのと、いっぺんだっておほめにあずかったこたあねえが、きょうばかりは伝六様のできが違うんだッ。ね、だんな、だんな! このとおり、おてがらあげてきたんだから、頭をなでておくんなせえよ!」
「それどころじゃねえや! 三人の小町が生きているかも死んでいるかもわからねえ早急《さっきゅう》の場合じゃねえかッ。のそのそと、どこをほつき歩いていたんだッ」
「ちぇッ、犬っころじゃあるめえし、のそのそほつき歩いているはねえでがしょう! あっしだっても、だんなにゃ一の子分です! 辰みていな豆公卿にお株とられてたまりますかい! たまさか気イきかして駕籠のしたくをしたぐれえで、小粒のさんしょうにヒリリとやられたもねえもんじゃござんせんか! 大張りの伝六太鼓だって、たたきようによっちゃいい音が出るんだッ。あんまり辰ばかりをおほめなすったんで、くやしまぎれに、ちょっといま小手先を動かしたら、こういうもっけもねえ品が手にへえったんですよ。早いところご覧なせえよ! あて名も、差し出し人も、字は一つもねえっていう白封の気味のわるい手紙じゃござんせんか!」
「どこからそんなものかっぱらってきたんだッ」
「ちぇッ。あっし[#「あっし」は底本では「あつし」]が手に入れてくりゃ、かっぱらってきたとおっしゃるんだからね。細工は粒々、隣ののり売りばばあから巻きあげてきたんですよ。なんでも、ばばあのいうにゃ、ゆんべ夜中すぎに、比丘尼の行者が式部小町らしいべっぴんをしょっぴいてきて、けさまたうろたえながら大きなつづら荷つくって人足に背負わしたあとを、こそこそとどっかへ出かけたというんですよ。その出かけたるすへ、この白封が入れ違いに届いたんで、のり売りばばあが預かっていたというんですがね。聞いただけでも、大きにくせえじゃござんせんか! 早いところあけてご覧なせえよ!」
まこと、伝六太鼓もたたきようによってはすてきもない音の出るときがあるとみえて、いかさまいぶかしい一通を目の前にさし出したものでしたから、中身やいかにと押し開いてみると、これがまたすこぶる奇怪でした。厚漉《あつず》きの鳥の子紙に、どうしたことか裏にも表にも変な文句が書いてあるのです。しかも、その裏なる文字がひととおりでない奇怪さでした。
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「――寝棺《ねかん》、 三個。
経帷子《きょうかたびら》、 三枚。
水晶数珠《すいしょうじゅず》、三連。
三途笠《さんずがさ》、 三基。
六|道杖《どうづえ》、 三|杖《じょう》。
右まさに受け取り候《そうろう》こと実証なり
久世|大和守《やまとのかみ》家中
小納戸頭《おなんどがしら》 茂木|甚右衛門《じんえもん》」
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それすらが容易ならざるところへ、表の文字はさらに数倍の奇々怪々たるものでした。
「――おそくもゆうべのうちには、あとのひとりの小町を届けると申したのに、けさになってもたよりのないのはいかがされた。満願の日まではあと幾日もないゆえ、そうそうお運びしかるべし。さもなくば、奉納金五百両はさし上げることなりませぬぞ」
寝棺、経帷子うんぬんのぶきみさといい、しかもその数の三人分であるあたりといい、あまつさえ表の文句に見える満願の日うんぬんにいたっては、いかに小町娘たちの無事息災なるべきことを祈り願っても祈りきれぬ不安と絶望がだれにも思い合わされましたので、伝六、辰はもちろんのこと、ふたりの父親たちはいうもさらなり、いぶかしき手紙をひざにのせて、蒼然《そうぜん》とその面を名人も青めくらましながら、ややしばしじっと考えに沈んでいたようでしたが、やがて突如!
「ちくしょうめッ。すっかり頭を痛めさせゃがって、やっと行き先だきゃ眼がついたぞッ。伝六ッ、駕籠はどうしたッ」
「表に待たしてごぜえますよ!」
「よしッ。じゃ、小石川だッ」
「えッ?」
「行く先は小石川の白山下だよ!」
「だって、葬式道具の受取にゃ、久世大和守家中としてあるじゃござんせんか! 久世の屋敷なら麹町《こうじまち》ですぜ!」
「うるせえや! おれがこうと眼をつけたんだッ。やっこだこになってついてこい!」
かくして乗りつけた行き先がすこぶる意外! 大名屋敷ででもあろうと思いのほかに、八百八業中これにましたるぶきみな職業はあるまいと思われる葬具屋九郎兵衛の店先でしたから、伝六、辰の唖然《あぜん》としたのはいうまでもないことですが、しかし、名人右門は期するところのあるもののごとく、居合わした店の者に、突如ずばりときき尋ねました。
「九郎兵衛は家をあけているはずだが、いつからるすをしているかッ」
「いいえ、いるんですよ、いるんですよ。ご主人ならば、家なんぞあけやしませんよ」
「なにッ、いるとな! 奥か、二階か!」
「三日まえから裏の土蔵にたてこもって、何をしていらっしゃいますのか、一歩も外へ顔を見せないんですよ」
狂ったためしのない慧眼《けいがん》が、今度ばかりは意想外といいたげな面持ちをつづけていましたが、かくと知らばまた右門流でした。
「名のればきりきり舞いをするだろうから、手数をかけずに案内せい!」
一刻も猶予ならぬもののようにおどり上がると、三日まえからたてこもっているという聞き捨てがたき土蔵のかぎをこじあけさせながら、ちゅうちょなく押し入りました。
と同時に、目を射たその妖々たる光景は、なんといういぶかしさでありましたろう! なんたる意外でありましたろう! じつに意想外のうちの意想外な光景でした。土蔵の中に設けられた祭壇の上には、無事でいまいと覚悟された式部小町、綿屋小町、畳屋小町の三人が、いずれも等しく水色の行衣をまとって、人ごこちもないもののごとくおびえつづけていたからです。しかも、その前へ三方にうちのせて、供物のごとくにささげ供えられてあるものは、見るだに慄然《りつぜん》とぶきみにとぐろを巻いた一匹の白へびでした。その一歩うしろにさがって綸子《りんず》白衣の行服に緋《ひ》のはかまうちはきながら、口に怪しき呪文《じゅもん》を唱えていた者は、これぞ妖艶《ようえん》そのもののごとき、尋ねる比丘尼行者でした。さらに一歩うしろにひれ伏して一心不乱にぬかずいていた者は、いわずと知れた葬具屋主人の九郎兵衛です。
いぶかしともいぶかしい光景に、押し入った五人の者の目をみはったのはむろんでしたが、それと同時に早くも知って、あッとおどろきあわてながら、疾風のごとく逃げだそうとした者は、九郎兵衛ならぬ比丘尼小町です。しかし、一瞬に草香流!
「おそいや! 神妙にしろッ」
ぎゅっとそのなまめかしくもやわらかい色香盛りのきき腕押えて、ややしばし蔵の中の異様きわまりない光景を見ながめていましたが、いまぞはじめて名人の本来真面目に立ち返ったもののごとく、ずばりと溜飲《りゅういん》下しの名|啖呵《たんか》が飛んでいきました。
「むっつり右門といわれるおれを向こうに回して、とんでもねえ茶番をうったものじゃねえか。さすがのおれも、今度ばかりはちっと汗をかいたよ。九郎兵衛おやじ!」
「へえ?」
「きさまも途方もねえいかもの行者に化かされたな」
「何をめっそうなことをおっしゃいますか! 屋敷の主のお白へびさまに一度も供養したことがございませんため、屋の棟《むね》に妖気《ようき》がたち上っているとそちらのお比丘尼さまがおっしゃってくださいましたゆえ、こうして一心不乱におへびしずめの行を積んでいるのに、何をもったいないことをおっしゃいますか!」
「隠坊屋《おんぼうや》の親類みてえな商売やっているくせに、みっともねえのぼせ方しているな。目がさめなきゃ、おれが正気にさせてやらあね。おいおい、比丘尼さん!」
「…………」
「ひとりあってふたりといねえおれなんだッ。早く涼みてえから、すっぱりと吐いちまいなせえよ」
「…………」
「ほほう、このうえ小知恵小才覚で、おれを向こうに回そうとおっしゃるのですかい。大味のようならこっちも大味、小味に出ればこっちも小味、むっつり右門にゃいくらでも隠し札があるぜ」
「恐れ入ってござります……」
「恐れ入っただけじゃわかりませんよ。玉の輿《こし》に乗ろうと思えば、いくらでも乗られるそのご器量で、この大仕組みの茶番をするにゃ、何か思いもよらねえいわくがあるだろうとにらみましたが、違いますかね」
「…………」
「もじもじなさる年ごろでもなさそうじゃござんせんか。じらさずに、すっぱり吐きなせえよ」
「お恥ずかしいことでござりまするが、じつは、一生一度と契り誓いました情人《おもいびと》に、金ゆえ寝返りされましたため、思い込んだが身の因果、小判で男の心をもう一度昔に返すことができますものならと、とんだ人騒がせをしたのでござります……」
「なにッ、恋が身を焼いたとがですとな! そいつあちっと思いもよらなすぎますが、そう聞いちゃなお聞かずにおられねえや。てっとりばやくおいいなせえよ」
「申します、申します。もとわたくしは京に育ちまして、つい去年の暮れまで、二条のほとりでわび住まいいたしまして、古い判じのへび使いをなりわいにいたしておりましたが、ふと知恩院の所化道心《しょけどうしん》様となれそめまして、はかない契りをつづけていましたうちに、わたしとの道にそむいた恋がお上人《しょうにん》さまのお目にとまり、たいせつなたいせつな所化様は寺を追われたのでござります。それまではなれそめたが因果にござりましたゆえ、男もわたしも互いに変わらじ変わるまいと、さっそく還俗《げんぞく》いたしまして、行く末先のよいなりわいを捜し求めようといたしましたが、先だつものは金。困《こう》じ果てているところへ魔がさしたというのでござりましょう、所化のころから出入りしておりましたるお檀家《だんか》の裕福なお家さまが、命とかけたわたしの思い人を金にまかせて奪い取り、ふたり手を携えこの江戸に走りまして、四谷《よつや》の先に袋物屋を営みおりますと知りましたゆえ、恥ずかしさもうち忘れあと追いかけまして、昔のふたりに返るよう迫りましたところ、男の申しますには、金子七百両がなくば義理をうけたお家さまから手が切れぬとこのように申しましたゆえ、男心がほしいばっかりにその七百両をこしらえようと、このような人騒がせのまねする気になったのでござります」
「でも、そのために、無垢《むく》な小町娘をねらうたあ、ちっとやり方があくどすぎるじゃござんせんか」
「いいえ、それがわたしにしてみれば、そういたしまするよりほかに手段がなかったのでござります。七百両といえばもとより大金、女子の腕一つで手に入れますためには、――だいじなだいじな……」
「だいじなだいじな何でござりまするか」
「女子には命よりもだいじな操を売るか、でござりませねば、なりわいのへび占いで、あくどくはござりますとも、人の迷信につけ入るよりほかによい手段はないはずではござりませぬか。なればこそ、こちらの九郎兵衛様がお見かけによらぬご信心家で、お蔵にもたんまりお宝があると聞き知りましたゆえ、使い慣らした白へびをあやつり、魔をはらってしんぜると巧みにつけこみまして、それには三十二相そろった三人の小町娘を生き宮にして五日間へびしずめの祈祷《きとう》せねばならぬとまことしやかにもったいつけたうえで、五百金のお宝を祈祷料にかたり取るつもりでござりました。さればこそ、綿屋様と畳屋様のお二軒にも同じ手口で白へびをあやつり、おたいせつなお娘御をことば巧みにお借り申したのでござりまするが、あとのひとりはあいにくとご迷信深い親御さまがたやすく見つかりませなんだゆえ、たんざく流しの催しがあると聞いたをさいわい、船頭の権七どのに三両渡して事情を打ちあけ、ゆうべのような手荒いまねをしたのでござります。それというのも、こちらの九郎兵衛様があとのひとりをせきたてなさいましたゆえ、はよう金を手に入れまして、天下晴れてのめおととなりたいばっかりに、つい手荒なまねをいたしましたのが運のつきでござりました。なれども、ただ一つお三方のお嬢さまがたにみだらな指一本触れさせませなんだことだけは、どうぞおほめくだされませ。せめて、それをたった一つのみやげに、くやしゅうござりまするが、男をあとへのこして、地獄の旅へ参りましょう……ごめんなさりませ。ごめんなさりませ」
小町行者は見せまいとした涙があふれ上がったとみえて、白衣のそでを面におおいながら、よよとそこに泣きくずれました。うち見守って名人は、ややしばしじっと考えこんでいましたが、やむをえまいというもののように、声も重く言い放ちました。
「聞いてみりゃもっと慈悲をかけてやりてえが、とにかくも人ひとりの命をあやめていなさるんだ。河童権に一服盛ったとがだきゃまげられますまいからね、十年ばかり八丈島へでも行っておいでなせえよ。男もそれを知れば、ちったあ情にほだされて、また帰ってくる日を待ちましょうにな。――では、そちらの町人衆、お嬢さんたちは三日ばかり神隠しに会ったようだが、無傷で手にもどったんだから、それをおみやげにかたられた罪は水に流してやっておくんなせえよ。じゃ、伝六、辰ッ。それぞれ乗り物を雇って、よく手配してあげな。比丘尼さんは、おかわいそうだが自身番へ届けてな」
手落ちなく手配の終わったのを見届けて、名人は心も今宵は重いもののように、黙然と歩を運ばせました。しかるに、伝六がまたしきりにひねるのです。見とめてうるさそうに一喝《いっかつ》!
「きょうはちっと気がめいっているんだッ。何がわからなくてひねるんだい!」
「いいえね、あっしもそうそうたびたびひねりたかあねえんだが、どうしてまた、だんなが葬具屋の九郎兵衛に行き先の眼をつけたか、そいつが奇態でならねえんですよ」
「うるせえが、いってやらあ。何かにつけて世間のうわさや人のうわさは聞いておくもんだよ。おれもあの妙ちきりんな白封の手紙を見たときゃ、ちっとぞっとしたが、あれこそは九郎兵衛が世間の口にけち九といわれているとんだ大ネタさ。だいじな手紙なんだから、半紙の一枚や二枚けちけちしねえだってよかりそうなのに、あんな葬式道具の受取を二度の用に使ったんで、こんなけちな野郎はどやつだろうと糸をたぐったその先へ、ピンときたのがけち九郎兵衛の世間のうわさ。しかも、受取書が葬式道具じゃねえか。まだそれでもわからねえのかい」
「でも、それにしちゃ、なんだってまたそんなけち九郎兵衛が、五百両もの大金積んで、あの比丘尼小町にはめられたんでしょうね」
「もううるせえや! 恋とご幣かつぎは、昔から思案のほかと相場が決まっているじゃねえか」
ずばりというと、思案のほかのその恋ゆえに罪とが犯した比丘尼小町をあわれむもののように、重たげな足を運ばせました。
底本:「右門捕物帖(二)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
※誤植は、『右門捕物帖 第二巻』新潮文庫と対照して、訂正した。ただし、底本、新潮文庫版ともに「あっし」を一箇所「あつし」としているが、「あっし」とした。
入力:tatsuki
校正:M.A Hasegawa
2000年4月22日公開
2005年9月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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