パルチザン・ウォルコフ——黒島伝治

       

 牛乳色《ちちいろ》の靄《もや》が山の麓《ふもと》へ流れ集りだした。
 小屋から出た鵝《がちょう》が、があがあ鳴きながら、河ふちへ這って行く。牛の群は吼《ほ》えずに、荒々しく丘の道を下った。汚れたプラトオクに頭をくるんだ女が鞭を振り上げてあとからそれを追って行く。ユフカ村は、今、ようよう晨《あした》の眠りからさめたばかりだった。
 森の樹枝を騒がして、せわしい馬蹄の音がひびいてきた。蹄鉄に蹴られた礫《こいし》が白樺《しらかば》の幹にぶつかる。馬はすぐ森を駈けぬけて、丘に現れた。それには羊皮の帽子をかむり、弾丸《たま》のケースをさした帯皮を両肩からはすかいに十文字にかけた男が乗っていた。
 騎馬の男は、靄に包まれて、はっきりその顔形《かお》が見分けられなかった。けれども、プラトオクに頭をくるんだ牛を追う女は、馬が自分の傍を通りぬける時、なつこい声をかけた。
「ミーチャ!」
「ナターリイ。」
 騎者の荒々しい声を残して、馬は、丘を横ぎり、ナターリイの前を矢のように走り抜けてしまった。
 暫《しば》らくすると、再び森の樹枝が揺れ騒ぎだした。そして、足並の乱れた十頭ばかりの馬蹄の音が聞えて来た。日本軍に追撃されたパルチザンが逃げのびてきたのだ。
 遠くで、豆をはぜらすような小銃の音がひびいた。
 ドミトリー・ウォルコフは、(いつもミーチャと呼ばれている)乾草《ほしくさ》がうず高く積み重ねられているところまで丘を乗りぬけて行くと、急に馬首を右に転じて、山の麓の方へ馳《は》せ登った。そこには屋根の低い、木造の百姓家が不規則に建ち並んでいた。馬は、家と家との間の狭い通りへ這入《はい》って行った。彼は馬の速力をゆるくした。そして、静かに、そこらにある車や、木切れなどを蹴散らさないように用心しいしい歩んだ。栗毛の肉のしまった若々しい馬は全速力で馳せのがれて来たため、かなり疲れて、呼吸がはずんでいた。
 裏通りの四五軒目の、玄関とも、露台《バルコン》ともつかないような入口の作りつけられている家の前で、ウォルコフは、ひらりと身がるく馬からおりた。
 人々は、眠《ねむり》から覚めたところだった。白い粘土で塗りかためられた煙突からは、紫色の煙が薄く、かすかに立のぼりはじめたばかりだ。
 ウォルコフは、手綱《たづな》をはなし、やわい板の階段を登って、扉《ドア》を叩いた。
 寝室の窓から、彼が来たことを見ていた三十すぎのユーブカをつけた女は戸口へ廻って内から掛金《かけがね》をはずした。
「急ぐんだ、爺さんはいないか。」
「おはいり。」
 女は、居るというしるしに、うなずいて見せて、自分の身《からだ》を脇《わき》の箱を置いてある方へそらし、ウォルコフが通る道をあけた。
「どうした、どうした。また××の犬どもがやって来やがったか。」
 一分間ばかりたつと、その戸口へよく肥《ふと》った、頬の肉が垂れ、眉毛が三寸くらいに長く伸びている老人がチャンチャンコを着て出てきた。
「ワーシカがやられた。」
「ワーシカが?」
「…………。」
 ユーブカをつけた女は、頸《くび》を垂れ、急に改った、つつましやかな、悲しげな表情を浮べて十字を切った。
「あいつは、ええ若いものだったんだ!……可憐《かわい》そうなこった!」
 老人は、十字を切って、やわい階段をおりて行った。おりて行きながら彼は口の中でなお、「可憐そうなこった、可憐そうなこった!」とくりかえした。
 老人はウォルコフが乗りすてた栗毛の鞍やあぶみを外して、厩《うまや》の方へ引いて行った。
 ウォルコフは、食堂兼客間になっている室と、寝室とを通りぬけて、奥まった物置きへつれて行かれた。そこは、空気が淀《よど》んで床下の穴倉から、湿気と、貯えられた葱《ねぎ》や馬鈴薯の匂いが板蓋《いたぶた》の隙間《すきま》からすうっと伝い上って来た。彼は、肩から銃をおろし、剣を取り、羊皮の帽子も、袖に星のついた上衣も乗馬靴もすっかりぬぎ捨ててしまった。ユーブカをつけた女は、次の室から、爺さんの百姓服を持ってきた。
 ウォルコフは、その百姓服に着換え、自分が馬上で纏《まと》っていた軍服や、銃を床下の穴倉へかくしてしまった。木蓋の上へは燕麦《えんばく》の這入った袋を持ってきて積み重ね、穴倉があることを分らなくした。
 豆をはぜらすような鉄砲の音が次第に近づいて来た。
 ウォルコフのあとから逃げのびたパルチザンが、それぞれ村へ馳せこんだ。そして、各々、家々へ散らばった。

       二

 ユフカ村から四五露里|距《へだた》っている部落――C附近をカーキ色の外皮を纏った小人のような小さい兵士達が散兵線を張って進んでいた。
 白樺や、榛《はんのき》や、団栗《どんぐり》などは、十月の初めがた既に黄や紅や茶褐に葉色を変じかけていた。露の玉は、そういう葉や、霜枯れ前の皺びた雑草を雨後のようにぬらしていた。
 草原や、斜丘にころびながら進んで行く兵士達の軍服は、外皮を通して、その露に、襦袢《じゅばん》の袖までが、しっとりとぬれた。汗ばみかけている彼等は、けれども、「止れ!」の号令で草の上に長々ところんで冷たい露に頬をぬらすのが快かった。
 逃げて行くパルチザンの姿は、牛乳色《ちちいろ》の靄に遮《さえぎ》られて見えなかった。彼等はそれを、ねらいもきめず、いいかげんに射撃した。
 左翼の疎《まば》らな森のはずれには、栗本の属している一隊が進んでいた。兵士達は、「止れ!」の号令がきこえてくると、銃をかたわらに投げ出して草に鼻をつけて匂いをかいだり、土の中へ剣身を突きこんで錆《さび》を落したりした。
 その剣は、豚を突殺すのに使ったり、素裸体《すっぱだか》に羽毛をむしり取った鵞鳥の胸をたち割るのに使って錆させたのだ。血に染った剣はふいても、ふいてもすぐ錆が来た。それを彼等は、土でこすって研ぐのだった。
 栗本は剣身の歪《ゆが》んだ剣を持っていた。彼は銃に着剣して人間を突き殺したことがある。その時、剣が曲ったのだ。突かれた男は、急所を殴られて一ッぺんに参る犬のようにふらふらッとななめ横にぴりぴり手足を慄《ふる》わしながら倒れてしまった。突きこんだ剣はすぐ、さっと引きぬかねば生きている肉体と血液が喰いついてぬけなくなることを彼はきいていた。が、それを思い出したのは、相手が倒れて暫らくしてからだった。彼は、人を殺したような気がしなかった。彼は、人を一人殺すのは容易に出来得ることではないと思っていた。が実際は、何のヘンテツもない土の中へ剣を突きこむのと同じようなことだった。銃のさきについていた剣は一と息に茶色のちぢれひげを持っている相手の汚れた服地と襦袢を通して胸の中へ這入ってしまった。相手はぶくぶくふくれた大きい手で、剣身を掴《つか》んで、それを握りとめようとした。同時に、ちぢれた鬚《ひげ》を持った口元を動かして何か云おうとするような表情をした。しかし、何も云わず、ぶくぶくした手が剣身を握りとめないうちに、剣は、肋骨《ろっこつ》の間にささって肺臓を突き通し背にまで出てしまった。栗本は夢ではないかと考えた。同時に、取りかえしのつかないことを仕出かしてしまったことに気づいた。銃を持っている両腕は、急にだらりと、力がぬけ去ってしまった。銃は倒れる男の身体について落ちて行った。
 暫らくして、両脚を踏ンばって、剣を引きぬくと、それは、くの字形に曲っていた。
 その曲ったあとがなかなかもとの通りになおらなかった。殺人をした証拠のようにいつまでも残っていた。
「これからだって、この剣にかかってやられる人間がいくらあるか知れやしないんだ。」栗本はそんなことを考えた。「また、俺等だって、いつやられるか知れやしないんだ。」
 右の森の中から「進めッ!」という声がひびいた。
「さ、進めだぞ。」
 兵士は横たわったままほかの者を促すように、こんなことを云った。
「ま、ゆっくりせい。」
「何だ、吉川はかくれて煙草をのんでいたんか――俺に残りをよこせ!」
 白樺の下で、軍曹が笑い声でこんなことを云っているのが栗本に聞えてきた。
 栗本は銃を杖にして立ち上った。
 兵士達は、靴を引きずりながら、草の上を進んだ。彼等は湿って水のある方へ出て行った。草は腰の帯革《たいかく》をかくすくらいに長く伸び茂っていた。
「見えるぞ、見えるぞ!」
 右の踏みならされた細道を進んでいる永井がその時、低声《こごえ》に云った。ロシアの女を引っかけるのに特別な手腕を持っている永井の声はいくらか笑《えみ》を含んでいた。
 栗本は、永井が銃をさし出した方を見た。
 靄に蔽《おお》われて、丘の斜面に木造の農家が二軒おぼろげに見えた。
「ここだ。ここがユフカだな。」
 そう思った。が、その実、そこはユフカではなかった。
 兵士達は、小屋にパルチザンがかくれていて、不意に捨身の抵抗を受けるかもしれないと予想した。その瞬間、彼等は緊張した。栗本の右側にいる吉田は白樺に銃身をもたして、小屋を射撃した。銃声が霧の中にこだまして、弾丸《たま》が小屋の積重ねられた丸太を通して向うへつきぬけたことがこちらへ感じられた。吉田はつづけて三四発うった。
 森の中を行っている者が、何者かにびっくりしたもののようにパチパチうちだした。
 小屋の中に誰もかくれていないことがたしかめられた。一列に散らばっていた兵士達は遠くから小屋をめがけて集って来た。
 小屋には、つい、二三時間前まで人間が住んでいた痕跡が残っていた。檐《のき》の鶏小屋には餌が木箱に残され、それがひっくりかえって横になっていた。扉《ドア》は閉め切ってあった。屋内はひっそりして、薄気味悪く、中にはなにも見えなかった。
 兵士は扉の前に来て、もしや、潜伏している者の抵抗を受けやしないか、再びそれを疑った。彼等は躊躇《ちゅうちょ》して立止った。誰れかさきに扉を開けて這入って行きさえすれば、あとは、すぐ、皆ながおじけずになだれこんで行ける。が、その皮切りをやる者がなかった。
「栗本、貴様行け。」
 煙草を吸っていた吉川をとがめた軍曹が云った。
 栗本は、なにか反感のようなものを感じながら、
「うむ、行くか!」
 そう云って、立ちふさがっている者達を押しのけて扉の前へ近づいた。「大きななりをして、胆力のないやつばかりだ。」そこらにいる者をさげすむように、腹の中で呟《つぶや》いた。彼の腰は据《すわ》ってきた。
 扉の中は暗かった。そこには、獣油や、南京袋の臭《にお》いのような毛唐の体臭が残っていた。栗本は、強く、扉《ドア》を突きのけて這入って行った。
「やっぱし、まっさきに露助を突っからかしただけあるよ。」
 うしろの方で誰れかが囁《ささや》いた。栗本は自分が銃剣でロシア人を突きさしたことを軽蔑していると、感じた。
「人を殺すんがなに珍しいんだ! 俺等は、二年間×××の方法を教えこまれて、人を殺しにやって来てるんじゃないか!」
 反感をなお強めながら、彼は、小屋の床をドシンドシン踏みならした。剣をつけた銃を振りまわした拍子に、テーブルの上の置ランプが倒れた。床板の上で、硝子《ガラス》のこわれるすさまじい音がした。
 扉の前に立っていた兵士達は、入口がこわれる程、やたらに押し合いへし合いしながら一時になだれこんできた。
 彼等は、戸棚や、テーブルや、ベッドなどを引っくりかえして、部屋の隅々まで探索した。彼等は、そこにある珍らしいものや、値打のありそうなものを、×××××××××××××××ろうとした。
 既に掠奪《りゃくだつ》の経験をなめている百姓は、引き上げる時、金目になるものや、必要な品々を持てるだけ持って逃げていた。百姓は、鶏をも、二本の脚を一ツにくくって、バタバタ羽ばたきするやつを馬の鞍につけて走り去った。だが産んだばかりの卵は持って行く余裕がなかったと見えて、巣箱に卵がころがっていた。兵士は、見つけると、ばい取りがちをし乍《なが》ら慌《あわ》てて残されたその卵をポケットに拾いこんだ。

       

 山の麓のさびれた高い鐘楼《しょうろう》と教会堂の下に麓から谷間へかけて、五六十戸ばかりの家が所々群がり、また時には、二三戸だけとびはなれて散在していた。これがユフカ村だった。村が静かに、平和に息づいていた。
 兵士達は、ようよう村に這入る手前の丘にまでやって来た。
 彼等はうち方をやめて、いつでも攻撃に移り得る用意をして、姿勢を低く草かげに散らばった。
「ここの奴等は、だいぶいいものを持っていそうだぞ。」
 永井は、村なりを見て掠奪心を刺戟された。彼は、ここでもロシアの女を引っかけることが出来る――それを考えていた。
「おい、いくら露助だって、生きてゆかなきゃならんのだぜ。いいものばかりをかっぱらわれてたまるものか!」
 栗本の声は不機嫌にとげ立っていた。
「なあに、××が許してることはやらなけりゃ損だよ。」
 珍しい、金目になるものを奪い取り、慾情の饉《う》えを満すことが出来る、そういう期待は何よりも兵士達を勇敢にする。彼等は、常に慾情に飢え、金のない、かつかつの生活を送っていた。だから、自分に欠けているものがほしくてたまらなかった。そこの消息を見抜いている×××は、表面やかましく云いながら、実は大目に見のがした。五十銭銀貨を一つ盗んでも禁固を喰う。償勤兵とならなければならない。それが内地に於ける軍人である。軍人は清廉潔白でなければならない。ところが、その約束が、ここでは解放されているのだ。兵士は、その××に引っかかって、ほしいものが得たさに勇敢に、捨身になるのだった。
「前島、その耳輪を俺によこしとけよ。」
 兵士は命令を待っている間に、今さっき百姓小屋で取ってきた獲物を、今度はお互いに、口でだまして奪い合った。
「いやですよ、軍曹殿。」
「俺のナイフと交換しようか。」
 ほかの声が云った。
「いやだよ。そんなもの十銭の値打もすりゃせんじゃないか。」
「馬鹿! 片ッ方だけの耳輪にどれだけの値打があるんだ!」
 斜丘の中ほどに壊《こわ》れかけた小屋があった。そこで通訳が向うからやって来た百姓の一人に何か口をきいているのが栗本の眼に映じた。その側に中隊長と中尉とが立っていた。顔が黒く日に焦げて皺《しわ》がよっている百姓の嗄《しゃが》れた量のある声が何か答えているのがこっちまで聞えてきた。その声は、ほかの声を消してしまうように強く太くひびいた。
 掠《かす》めたものを取りあっていた兵士達は、口を噤《つぐ》んで小舎の方を見た。十人ばかりの百姓が村から丘へのぼってきた。中隊長は、軍刀のつばのところへ左手をやって、いかつい眼で、集って来る百姓達を睨《ね》めまわしていた。百姓達には少しも日本の兵タイを恐れるような様子が見えなかった。
 通訳は、この村へパルチザンが逃げこんで来ただろう。それを知らぬかときいているらしかった。
 いくらミリタリストのチャキチャキでも、むちゃくちゃに百姓を殺す訳にや行かなかった。パルチザンはそれにつけこんで、百姓に化けて、安全に、平気であとから追っかけて来た軍隊の傍を歩きまわった。向うに持っている兵器や、兵士の性質を観察した。そして、次の襲撃方法の参考とした。
 中隊長は、それをチャンと知っていた。しかし、パルチザンと百姓とは、同じ服装をしていれば、見分けがつかなかった。
「逃げて行くパルチザンなんど、面倒くさい、大砲でぶっ殺してしまえやいいじゃないか。」
 小屋のところをぶらぶら歩きながら無遠慮に中隊長の顔を見ていた男が不意に横から口を出した。
 その男は骨組のしっかりした、かなり豊かな肉づきをしていた。しかし、せいが高いので寧《むし》ろ痩《や》せて見える敏捷《びんしょう》らしい男だった。
 見たところ、彼は、日本の兵タイなど面倒くさい、大砲で皆殺しにしてしまいたいと思っているらしかった。
 それが目的格をとっかえて表現されているのだった。
 中隊長は、通訳からその意味をきくと、じろりと、いかつい眼で暫らくその男を睨みつけた。
「そんなことをぬかす奴が、パルチザンをかくまっているんだ。」
 中隊長は日本語で云った。
「そっちにゃ、大砲を沢山持ってるんだろう。」
 その男は、中隊長のすごい眼には無頓着に通訳にきいた。
 再び中隊長は、じいっとその男を睨みつけた。中尉が、中隊長の耳もとへ口を持って行って何か囁いた。
 兵士達には攻撃の命令が発しられた。
 骨組のしっかりした男の表情には、憎悪と敵愾心《てきがいしん》が燃えていた。それがいつまでも輝いている大きい眼から消えなかった。

       

 百姓たちは、たびたび××の犬どもを襲撃した経験を持っていた。
 襲撃する。追いかえされる。又襲撃する。又追いかえされる。負傷する。
 彼等は、それを繰りかえしていた。そのうちに彼等の憎悪と敵愾心はつのってきた。
 最初、日本の兵士を客間に招待して紅茶の御馳走をしていた百姓が、今は、銃を持って森かげから同じ兵士を狙撃《そげき》していた。
 彼等の村は犬どもによって掠奪され、破壊されたのだ。
 ウォルコフもその一人だった。
 ウォルコフの村は、犬どもによって、一カ月ばかり前に荒されてしまった。彼は、村の牧者だった。
 彼は村にいて、怒った日本の兵タイが近づいて来るのを知ると、子供達をつれて家から逃げた。ある夕方のことだった。彼は、その時のことをよく覚えている。一人の日本兵が、斧《おの》で誰れかに殺された。それで犬どもが怒りだしたのだ。彼は逃げながら、途中、森から振りかえって村を眺めかえした。夏刈って、うず高く積重ねておいた乾草が焼かれて、炎が夕ぐれの空を赤々と焦がしていた。その余映は森にまで達して彼の行く道を明るくした。
 家が焼ける火を見ると子供達はぶるぶる顫《ふる》えた。「あれ……父《と》うちゃんどうなるの……」
「なんでもない、なんでもない、火事ごっこだよ。畜生!」彼は親爺《おやじ》と妹の身の上を案じた。
 翌朝、村へ帰ると親爺は逃げおくれて、家畜小屋の前で死骸《しがい》となっていた。胸から背にまでぐさりと銃剣を突きさされていた。動物が巣にいる幼い子供を可愛がるように、家畜を可愛がっていたあの温《おとな》しい眼は、今は、白く、何かを睨みつけるように見開《みひらか》れて動かなかった。異母妹のナターリイは、老人の死骸に打倒れて泣いた。
 長男は、根もとから折られた西洋桜を、立てらしてつぎ合わそうとした。それは、春、長男が山から掘ってきて、家の前に植えたものだ。子供は、つぎ合わせば、それがいきつくもののように、熱心に、倒れようとする桜を立てらした。しかし、駄目だった。
 壊された壁の下から鍬《くわ》を引っぱり出して、彼は、親爺の墓穴を掘りに行った。
 村中の家々は、目ぼしい金目になるようなものを掠奪せられ、たたきつぶされていた。餌がなくて飢えた家畜は、そこら中で悲しげにほえていた。
「父うちゃんこんなところへ穴を掘ってどうするの?」
「おじいさんがここんとこでねむるんだよ。」
 村の者は、その時、誰れも、日本人に対する憎悪を口にしなかった。
しかし、日本人に対する感情は、憎悪を通り越して、敵愾心になっていた。彼等は、×××を形容するのに、犬という動物の名前を使いだした。
 彼等は、自分の生存を妨害する犬どもを、撃滅してしまわずにはいられない欲求に迫られてきた。…………
 ウォルコフは、憎悪に満ちた眼で窓から、丘に現れた兵士を見ていた。
 丘に散らばった兵士達は、丘を横ぎり、丘を下って、喜ばしそうに何か叫びながら、村へ這入ってきた。そのあとへ、丘の上には、また、別な機関銃を持った一隊が現れてきた。
 犬どもが、どれほどあとからやってきているか、それは地平線が森に遮られて、村からは分らなかった。森の向うは地勢が次第に低くなっているのだ。けれども、ウォルコフは、犬どもの、威勢が、あまりによすぎることから推察して、あとにもっと強力な部隊がやって来ていることを感取した。
 村に這入ってきた犬どもは、軍隊というよりは、むしろ、××隊だった。彼等は、扉口に立っている老婆を突き倒して屋内へ押し入ってきた。武器の捜索を命じられているのだった。
「こいつ鉄砲をかくしとるだろう。」
「剣を出せ!」
「あなぐらを見せろ!」
「畜生! これゃ、また、早く逃げておく方がいいかもしれんて。」
近づいて来る叫声を耳にしながら、ウォルコフは考えた。
「銃を出せ!」
「剣を出せ!」
 兵士達は、それを繰りかえしながら、金目になる金や銀でこしらえた器具が這入っていそうな、戸棚や、机の引出しをこわれるのもかまわず、引きあけた。
 彼等は、そこに、がらくたばかりが這入っているのを見ると、腹立たしげに、それを床の上に叩きつけた。

 永井は、戦友達と共に、谷間へ馳せ下った。触れるとすぐ枝から離れて軍服一面に青い実が附着する泥棒草の草むらや、石崖や、灌木の株がある丘の斜面を兵士は、真直に馳せおりた。
 ここには、内地に於けるような、やかましい法律が存在していないことを彼等は喜んだ。責任を問われる心配がない××××と××は、兵士達にある野蛮な快味を与える。そして彼等を勇敢にするのだった。
 武器の押収を命じられていることは、殆《ほと》んど彼等の念頭になかった。快活らしい元気な表情の中には、ただ、ゼーヤから拾ってきた砂金を掴み取り、肌の白い豊満な肉体を持っているバルシニヤを快楽する、そのことばかりでいっぱいだった。
 永井は、ほかの者におくれないように、まっしぐらに突進した。着剣した、兵士の銃と銃、剣と剣が触れあって、がちゃがちゃ鳴ったり、床尾板《しょうびはん》がほかの者の剣鞘をはねあげたりした。
「栗本、なに、ぐずぐずしてるんだ! 早く進まんか!」
 軍曹がうしろの方で呶鳴っているのを永井は耳にした。が、彼は、うしろへ振りかえろうともしなかった。
 少尉が兵士達の注意を右の方へ向けようとして、何やら真剣に叫んで、抜き身の軍刀を振り上げながら、永井の傍を馳せぬけた。しかし、それが何故であるか、永井には分らなかった。彼の頭の中には娘の豊満な肉体を享楽するただそのことがあるばかりだった。
「看護卒!」
 どっかで誰れかが叫んだ。しかし、それも何故であるか分らなかった。そして、叫声は後方へ去ってしまった。
「突撃! 突撃ッ!」
 小さい溝をとび越したところで少尉は尻もちをついて、軍刀をやたらに振りまわして叫んでいた。少尉の軍袴《ズボン》の膝のところは、血に染んでいた。兵士は、左右によけて、そこを通りぬけた。火薬の臭いが、永井の鼻にぷんときた。
 すぐ眼のさきの傾斜の上にある小高い百姓家の窓から、ロシア人が、こっちをねらって射撃していた。
「何しにこんなところまで、おりてきたんだい。俺れゃ、人をうち殺すのにゃ、もうあきあきしちゃったぞ!」
 栗本は、進撃の命令を下した者に明かな反感を現して呶鳴った。
 が、誰れも、何も云わなかった。
 兵士達はロシア人をめがけて射撃した。

 大隊長とその附近にいた将校達は、丘の上に立ちながら、カーキ色の軍服を着け、同じ色の軍帽をかむった兵士の一団と、垢《あか》に黒くなった百姓服を着け、縁のない頭巾《ずきん》をかむった男や、薄いキャラコの平常着を纏《まと》った女や、短衣をつけた子供、無帽の老人の群れが、村に蠢《うごめ》き、右往左往しているのを眺めていた。カーキ色の方は、手あたり次第に、扉《ドア》を叩き壊し、柱を押し倒した。逃げて行く百姓の背を、うしろから銃床で殴りつける者がある。剣で突く者がある。煮え湯をあびせられたような悲鳴が聞えて来た。
「あァ、あァ、あァ。」語学校を出て間がない、若い通訳は、刺すような痛みでも感じたかのように、左右の手を握りしめて叫んだ。「女を殺している。若い女を突き殺してる!――大隊長殿あんなことをしてもいいんですか!」
 でぶでぶ腹の大隊長の顔には、答えの代りに、冷笑が浮んだばかりだった。
 谷間や、向うの傾斜面には、茶色の鬚《ひげ》を持っている男が、こっちでパッと発火の煙が上ると同時に、バタバタ倒れた。
「今度は誰れが倒れるだろう……女か、子供か?――それともこっちのカーキ色の軍服だろうか!」
 通訳は子供のようにおどおどしながら、村の方を見ていた。――銃声は、一つまた一つ、またまた一つと、つづけてパチパチ鳴りひびいた。
 大隊長と、将校は、野球の見物でもするように、面白そうに緊張していた。
 ユフカは、外国の軍隊を襲撃したパルチザンが逃げこんで百姓に化けるので有名だった。そればかりでなく、そこの百姓が残らずパルチザンだ。――ポーランド人の密偵の報告によるとそうだった。
 密偵は、日本軍にこびるために、故意に事実を曲げて仰山《ぎょうさん》に報告したことがあった。が、パルチザンの正体と居所を突きとめることに苦しんでいる司令部員は、密偵の予想通り、この針小棒大な報告を喜んだ。彼等は、パルチザンには、手が三本ついているように、はっきりほかの人間と見分けがつくことを望んでいたのだ。
 大隊長は、そのパルチザンの巣窟を、掃除することを司令官から命じられていた。
「……しかし、ここには、パルチザンばかりでなしに、おとなしい、いい百姓も住んどるらしいんです。」
 通訳は攻撃命令を発する際に、村の住民の性質を説明してこう云った。通訳は、内気な初心《うぶ》い男だった。彼はいい百姓が住んどるんです、とはっきり、云い切ることが出来なかった。大隊長は、ここがユフカで、過激派がいることだけを耳にとめた。それ以外、彼れにとって必要でない説明は一切、きき流してしまった。
 過激派討伐を命ぜられた限り、出来るだけ派手な方法を以て、そこらへんにいる、それに類した者をも鏖《みなごろし》にしなければならない。こういう場合、派手というのは、残酷の同意語であった。不明瞭な点を残さず、悉《ことごと》くそれを赤ときめて、一掃してしまえば功績も一層|水際《みずぎわ》立って司令部に認められる。
 大隊長は、そのへんのこつをよくのみこんでいた。彼は先《ま》ず武器を押収することを命じた。それから、パルチザンを、捕虜とすることを命じた。それから……。
 汚れた百姓服や、頭巾は無抵抗に、武器を取り上げられたり、××××たり、――殺されたりなどされるがままになっている訳には行かなかった。木造の壁の代りに丸太を積重ねていた家の中や乾草の堆積のかげからも、発射の煙が上った。これまでの銃声にまじって、また別の異《ちが》った太く鈍い銃声がひびいてきた。百姓が日本の兵士に抵抗して射撃しだしたのだ。
「やはり、パルチザンだったですね、一寸、抵抗しだしました。」
 副官は、事もなげに笑った。
「おや! おや! 今度は、日本の兵たい[#「たい」に傍点]がやられました。」通訳は、前よりも、もっと痛切な声で叫んだ。「倒れました。倒れました。倒れて夢中で手と頭を振っとります。」
「三人やられたね。――一人は将校だ。脚をやられたらしい。」
「どうして司令官は、こんなことをやらせるんです! 悲惨です! 悲惨です! 隊長殿すぐやめさしておしまいなさい!」
 銃を乱射するひびきは、一層はげしくなってきた。丘の上に整列していた別の中隊は、カーキ色と、百姓服が入り乱れ、蠢く方をめがけてウワッと叫びながら馳せくだりだした。
 副官でない方の中尉は、通訳を、壊れかけた小屋の裏へ引っぱって行った。
「何を、君、ばかなことを云ってるんだ!」
 中尉は、腹立たしげに通訳に云った。
「だって悲惨じゃありませんか! あんまり悲惨じゃありませんか!」
「君自身が、たま[#「たま」に傍点]にあたらんように用心し給え!」
 中尉は通訳をにらみつけて大隊長のそばへ引っかえした。
 通訳は、小屋のかげから、悲鳴や叫喚や、銃声がごったかえしに入りまじって聞えて来る方をおずおず見やった。右の一層高くなっている麓に据えつけられた狙撃砲は、その砲《つつ》さきへ弾丸《たま》をつめこんで、村をめがけてぶっぱなした。
 だが、そのたまが、どこに落ちて、どれだけ家をつぶし、人を殺したか、もう通訳には分らなかった。乾草を積重ねてあるところと、それから、百姓家と、二カ所から紫色の煙が上って、そこらへんに蠢めき騒いでいる兵たいや、百姓や、女や子供達を包んでしまった。と、また、別の離れたところからも、つづいて煙が上りだした。兵士達は、大隊長の一つの命令を遂行したのだ。
 村は焼き払われだした。紫色や、硫黄色《いおういろ》の煙が村の上に低迷した。狙撃砲からは二発目、三発目の射撃を行った。それは何を撃つのか、目標は見えなかった。やたらに、砲先の向いた方へ弾丸をぶっぱなしているのであった。
「副官、中隊を引き上げるように命令してくれ!」
 大隊長は副官を呼んだ。
「それから、機関銃隊攻撃用意!」
 村に攻めこんだ歩兵は、引き上げると、今度は村を包囲することを命じられた。逃げだすパルチザンを捕《つか》まえるためだ。
 カーキ色の軍服がいなくなった村は、火焔と煙に包まれつつ、その上から、機関銃を雨のようにばらまかれた。
 尻尾を焼かれた馬が芝生のある傾斜面を、ほえるように嘶《いなな》き、倒れている人間のあいだを縫って狂的に馳せまわった。
 女や、子供や、老人の叫喚が、逃げ場を失った家畜の鳴声に混って、家が倒れ、板が火に焦げる刺戟的な音響や、何かの爆発する轟音《ごうおん》などの間から聞えてくる。
 見晴しのきく、いくらか高いところで、兵士は、焼け出されて逃げてくる百姓を待ち受けて射撃した。逆襲される心配がないことは兵士の射撃を正確にした。
 こっちに散らばっている兵士の銃口から硝煙がパッと上る。すると、包囲線をめがけて走《は》せて来る汚れた短衣や、縁なし帽がバタバタ人形をころばすようにそこに倒れた。
「無茶なことに俺等を使いやがる!」栗本は考えた。
 傾斜面に倒れた縁なし帽や、ジャケツのあとから、また、ほかの汚れた短衣やキャラコの室内服の女や子供達が煙の下からつづいて息せき現れてきた。銃口は、また、その方へ向けられた。パッと硝煙が上った。子供がセルロイドの人形のように坂の芝生の上にひっくりかえった。
 汚れたジャケツは、吃驚《びっくり》して、三尺ほど空へとび上った。何事が起ったのか一分間ばかりジャケツが理解できないでいるさまが兵士達に見えた。
 ジャケツに抱き上げられた子供は泣声を発しなかった。死んでいたのだ。
「おい撃方《うちかた》やめろ!――俺等は誰のためにこんなことをしてるんだい!」
 栗本が腹立たしげに云った。その声があまりに大きかったので機関銃を持っている兵士までが彼の方へ振り向いた。
「百姓はいくら殺したってきりが有りゃしない。俺達はすきこのんで、あいつ等をやっつける身分かい!」彼はつづけた。「こんなことをしたって、俺達にゃ、一文だって得が行きゃしないんだ!」
 機関銃の上等兵は、少尉に鼓膜を叩き破られた兄を持っていた。何等償われることなしに兄は帰休になって、今は小作をやっている。入営前大阪へ出て、金をかけて兄は速記術を習得したのであった。それを兄は、耳が聞えなくなったため放棄しなければならなかった。上等兵は、ここで自分までも上官の命令に従わなくって不具者にされるか、或は弾丸《たま》で負傷するか、殺されるか、――したならば、年がよってなお山伐りをして暮しを立てている親爺がどんなにがっかりするだろうか、そのことを思った。――老衰した親爺の顔が見えるような気がした。
 けれども彼は、煙の中を逃げ出して来る短衣やキャラコも、子供や親があることを考えた。彼等も、耕すか、家畜を飼うかして、口を糊《のり》しているのだ。上等兵はそういうことを考えた。――同様に悲しむ親や子供を持っているのだ。
 こんなことをして彼等を撃ち、家を焼いたところで、自分には何にも利益がありやしないのだ。
 流れて来る煙に巻かれながら、また、百姓や女や、老人達がやって来た。
 上等兵は、機関銃のねらいをきめる役目をしていた。彼は、機関銃のつつさきを最大限度に空の方へねじ向けた。
 弾丸は、坂を馳せ登ってくる百姓や、女の頭の上をとびぬけ出した。
「撃てッ、パルチザンが逃げ出して来るじゃないか、撃てッ!」
 包囲線を見張っている将校は呶鳴りたてた。
 兵士の銃口からは、つづけて弾丸が唸《うな》り出た。
「撃てッ! パルチザンがいッくらでもこっちへ逃げ出して来るじゃないか。うてッ! うてッ!」
 兵士は撃った、あまりにはげしい射撃に銃身が熱くなった。だが弾丸は、悉く、一里もさきの空へ向ってとび上った。そこで人を殺す威力を失って遙か向うの草原に落下した。機関銃ばかりでなく、そこらの歩兵銃も空の方へそのつつさきを向けていたのだ。
 百姓は、逃げ口が見つかったのを喜んで麓の方へ押しよせてきた。
彼等は、物をくすねそこねた泥棒のように頸をちぢめてこそこそ周囲を盗み見ながら兵士の横を走せぬけた。
「早く行け!」
 栗本が聞き覚えのロシア語で云った。百姓は、道のない急な山を、よじ登った。
「撃てッ! 撃てッ! パルチザンを鏖《みなごろし》にしてしまうんだ! うてッ! うたんか!」
 士官は焦躁にかられだして兵士を呶鳴りつけた。
「ハイ、うちます。」
 また、弾丸が空へ向って呻《うな》り出た。
「うてッ! うてッ!」
「ハイ。」
 濃厚な煙が流れてきた。士官も兵士も眼を刺された。煙ッたくて涙が出た。

       

「今度こそ、俺れゃ金鵄勲章《きんしくんしょう》だぞ。」
 銃をかついで、来た道を引っかえしながら軍曹は、同僚の肩をたたいて笑った。彼は、中隊長の前で、三人の逃げ出そうとするパルチザンを突き殺した。それが、中隊長の眼にとまった自信が彼にあったのだ。
「俺だって功六級だ。」
 同僚もそれに劣らない自信があった。
 看護卒は、負傷した少尉の脚に繃帯《ほうたい》をした。少尉の傷は、致命的なものではなかった。だから、傷が癒《い》えると、少尉から上司へいい報告がして貰える。看護卒には、看護卒なりに、そういう自信があった。
 彼等は、愉快な、幸福な気分を味わいながら駐屯地へ向って引き上げて行った。
 大隊長は、司令部へ騎馬伝令を発して、ユフカに於けるパルチザンを残さず殲滅《せんめつ》せしめたと報告した。彼は、部下よりも、もっと精気に満ちた幸福を感じていた。背後の村には燃えさしの家が、ぷすぷす燻《くすぶ》り、人を焼く、あの火葬場のような悪臭が、部隊を追っかけるようにどこまでも流れ拡がってついてきた。けれども、それも、大隊長の内心の幸福を妨げなかった。
「ユフカは、たしかに司令官閣下の命令通り、パルチザンばかりの巣窟でありました――そう云います。」
 活溌な伝令が、出かける前、命令を復唱した、小気味のよい声を隊長は思い出していた。
「うむ、そうだ。」彼は肯《うなず》いて見せたのだった。「それを一人も残らず殲滅してしまった。我軍の戦術もよかったし、将卒も勇敢に奮闘した。これで西伯利亜《シベリア》のパルチザンの種も尽きるでありましょう。と、ね。」
「はい。――若《も》し、我軍の損傷は? ときかれましたら、三人の軽傷があったばかりであります。その中、一人は、非常に勇敢に闘った優秀な将校でありました。と云います。」
「うむ、そうだ、よろしッ!」その時の、自分の声が、朗らかにすき通って、いい響きを持っていたのを大隊長は満足に思った。
 ――今持っている旭日章《きょくじつしょう》のほかに、彼は年金のついている金鵄勲章を貰うことになる。俸給以外に、三百円か五百円、遊んでいても金が這入ってくることになるのだ。――功四級だろうか、それとも五級かな。四級だと五百円だ。それから勲功によって中佐に抜てきされる。……ただ一つ、彼の気に喰わぬことがあった。それは、鉄砲を空に向けて、わざとパルチザンを逃がしてしまった兵タイがあることだった。だが、それは表沙汰にして罰すると、自分の折角の勲功がふいになってしまうのだった。部下を指揮する手腕が十分でなかった責任は当然彼の上にかかって来るからだ。不届きな兵タイは、ほかの機会にひどいめにあわしてやることにして、今は、かくしておくことにした。その方が利巧な方法だ。
「閣下も討伐の目的が達して、非常にお喜びになることでしょう。」
 あとから来ている副官が云った。閣下とは司令官のことだ。
「うむ。」
 大隊長は、空へ鉄砲を向けた兵タイのことは忘れて、内心の幸福を抑えることが出来ずにこにこした。
「全く、うまく行きましたな。」
「うむ。――ご苦労だった。」
 ――彼はまた、功四級だろうか、それとも五級かな、と考えた。ひょっとすると、三級にありつけるかもしれんて。この頃は、金鵄も貰い易くなっているからな。そうすると、年金が七百円とれると……
 不意に、どこからか、数発の銃声がして、彼の鼻のさきを、ヒュッと弾丸《たま》が唸ってとび去った。彼は、思わず頸をすくめた。その拍子に馬はびっくりしてはね上った。そして尻をしたたかにぶん殴られたように前方へ驀進《ばくしん》した。隊長は、辷《すべ》り落ちそうになりながら、
「おォ、おォ、おォ!」
と悲しげな声を出した。
「誰れか来て呉れい!」彼は、おおかた、口に出して、それを叫ぼうとした。
 左側の樅《もみ》やえぞ松がある山の間にパルチザンが動いているのが兵士達の眼に映じた。彼等は、すぐ地物のかげに散らばった。
 パルチザンは、その山の中から射撃していたのだ。
 パルチザンは、明らかに感情の興奮にかられているようだった。
 その森の中からとんで来る弾丸は髪の毛一本ほどにま近く、兵士の身体をかすめて唸った。

       

 パルチザンは、山伝いに、カーキ色の軍服を追跡していた。
 彼等は空に向って、たま[#「たま」に傍点]をぶっぱなしたあの一角から、逃げのびた者だった。――その中には馬を焼かれたウォルコフもまじっていた。
 そこらへんの山は、パルチザンにとって、自分の手のようによく知りぬいているところだった。
 村を焼き討ちされたことが、彼等の感情を極端に激越に駆りたてていた。
 弾丸は逃げて行くカーキ色の軍服の腰にあたり、脚にあたり、また背にあたった。短い脚を、目に見えないくらい早くかわして逃げて行く乱れた隊列の中から、そのたびに一人また一人、草ッ原や、畦《あぜ》の上にころりころり倒れた。露西亜語を話す者のでない呻《うめ》きが倒れたところから聞えてきた。
「あたった。あたった。――そら一匹やっつけたぞ。」
 そのたびに、森の中では、歓喜の声を上げていた。
 中には、倒れた者が、また起き上って、びっこを引き引き走って行く者がある。傷ついた手をほかの手で握って走る者がある。それをパルチザンは森の中からねらいをきめて射撃した。興奮した感情は、かえってねらいを的確にした。
 カーキ色の軍服は、こっちで引鉄《ひきがね》を握りしめると、それから十秒もたたないうちに、足をすくわれたように草の上へ引っくりかえった。
「そら、また一匹やった。」
「あいつは兵卒だね。長い刀をさげて馬にのっている奴を引っくりかえしてやれい! 俺ら、あいつが憎らしいんだ。」
「ようし!」
「俺ら、あの長い軍刀がほしいんだ。あいつもやったれい!」
 彼等はだんだん愉快になってきた。…………

 (昭和三年十月)

底本:「現代日本文學大系 56 葉山嘉樹・黒島伝治・平林たい子集」筑摩書房
   1971(昭和46)年7月15日初版第1刷発行
   1974(昭和49)年5月30日初版第2刷発行
入力:大野裕
校正:柳沢成雄
2001年8月24日公開
2005年12月7日修正
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