旗本退屈男 第十一話 千代田城へ乗り込んだ退屈男—- 佐々木味津三

     一

 その第十一話です。少し長物語です。
 神田明神《かんだみょうじん》の裏手、江戸ッ児が自慢のご明神様だが、あの裏手は、地つづきと言っていい湯島天神へかけて、あんまり賑やかなところではない。藤堂家《とうどうけ》の大きな屋敷があって、内藤豊後守《ないとうぶんごのかみ》の屋敷があって、ちょっぴりとその真中へ狭まった町家のうちに、円山派《まるやまは》の画描き篠原梅甫《しのはらばいほ》の住いがある。
 大していい腕ではないが、妻女の小芳《こよし》というのがつい近頃まで吉原で明石《あかし》と名乗った遊女あがりで、ちょっと別嬪《べっぴん》、これが町内での評判でした。
 そのほかに今一つ、世間町内の評判になっているものがある。住いの庭にある生き埋めの井戸というのがそれです。
 勿論この住いは、篠原梅甫が今の妻女の小芳を吉原から身請《みうけ》したとき、場所が閑静なのと、構えの洒落《しゃれ》ている割に値が安かったところから買い取ったものだが、安いというのも実はその生き埋めの井戸というあまりぞッとしない景物があったからのことでした。その井戸のある場所がまた変なところで、玄関の丁度右、寒竹《かんちく》が植わって、今は全く井戸の形も影もないが、人の噂によると、昔、ここは神谷なにがしというお旗本の下屋敷で、その某《それがし》の弟君というのが狂気乱心のためにここへ幽閉されていたところ、次第に乱行が募ったため、三河以来の名門の名がけがされるという理由から、むざんなことにもこの井戸へ生き埋めにされたと言うのです。
 だから出る。
 いいや、出ない。
 出たとも。ゆうべも出たぞ。日の暮れ頃だ。あの寒竹の中から、ふんわり白い影が、煙のようにふわふわと歩き出したとかしないとか、噂とりどり。評判もさまざま。
「馬鹿言っちゃいけねえ。惚れた女と一緒になって、むつまじいところを見せてやりゃ、幽霊の方が逃げらあな。それに井戸はもう埋めてあるし、家だって造りは変っておるし、出て来りゃ、おまえとふたりでのろけをきかすのさ。これが二十たア安いもんだ。新世帯にかっこうだぜ」
 買って住み出したのが五月のつゆどき。
 画はそんなにうまくはないが、篠原梅甫、真似ごとにやっとうのひと手ふた手ぐらいは遣って、なかなかに肝が据っているのです。
「よそで食ってもうまくねえ。おまえのお給仕が一番さ。おそくなっても晩にゃ帰るからね。やっこ豆腐で、一本たのんでおくぜ」
 出来あがった画を浅草へ持っていって、小急ぎに帰って来たのが六月初めのむしむしとする夕まぐれ……。
 ひょいと玄関の格子戸へ手をかけようとすると、ふわりと煙のような影だ。寒竹の繁みがガサガサと幽《かす》かにゆれたかと思うと、うす白い男の影がふんわり浮きあがりました。
「誰だッ」
「………」
「まてッ。誰だッ」
 そのまにすうと煙のように向うへ。
 肝は据っていたが、いいこころもちではない。少し青ざめて這入ってゆくと、妻の小芳が湯あがりの化粧姿もあらわに、胸のあたり、乳房のあたり、なまめかしい肉の肌をのぞかせながら気を失って打ち倒れているのです。
「どうした!」
「俺だ! 小芳! どうしたんだ!」
「あッ……」
 ふッと息を吹きかえすと、
「怕い!……。怕い怕い!……」
 かきすがりざま訴えた言葉がまた奇怪でした。
「白い影が……、煙のような男の影が……」
「のぞいたか!」
「そうざます。お湯からあがって、身仕舞いしているところへ、あのうす暗い庭さきからふうわりとのぞいて、また向うへ――」
 梅甫、ききながらぎょッと粟つぶ立ちました
「アハハ……。気のせいだよ」
「いいえ、ほんとうざます。ほかのことはぬしにさからいませぬが、こればっかりは――」
 ぞッと水でも浴びたように身ぶるいさせると、もう懲《こ》りごりと言うように訴えました。
「このようなうちに住むは、もういっ刻もいやざます。今宵にもどこぞへ引ッ越してくんなまし」
「馬鹿言っちゃいけねえ。俺もちらりと、――いいや、ちらりと見たという奴が目のせい、気のせい、みんなこっちの心で作り出すまぼろしさ、今御繁昌のお江戸に幽霊なんかまごまごしておってたまるかよ。それよりいい話があるんだ。おまえの兄さんに会ったぜ」
「まあ! いつ、どこで?」
 脅えていた小芳の顔が、急にはればれと晴れ渡りました。
「兄さんなら、下総《しもふさ》にいらっしゃる筈、嘘でありんしょう」
「嘘なもんか? 用を足して、来たついでだからと、観音さまにお詣りしていたら、ぽんと肩を叩いて、篠原の先生、という声がするじゃないかよ。ひょいとみたら田舎の兄さんさ。よいところじゃ、小芳も会いたがっておりますから、一緒にどうでござんすと誘ったが、ぜひにも今夜足さなくちゃならない用が馬道とかにあるから、今は行かれない、その代りあしたの朝早く行こうと言うからね。あすならなお幸い、小芳とふたりで森田座《こびきちょう》へ行くことになっているから、じゃ御一緒にあんたも芝居見はどうでござんすと言ったら大よろこびさ。朝早く起きぬけにこっちへやって来ると言ったよ」
「でも、不思議でござんすな。江戸へ来るなら来るとお便り位さきによこしておきそうなものなのに、忙しいお身体の兄さんがまた、何しに来たんでござんしょう」
「何の用だか知らないが、今朝、早立ちしたと言ってたよ。それから、こんなことも言ってたぜ。小芳め、さぞかし尻《しり》に敷くことでござんしょうな、とね。アハハ……」
「ま! いけすかない……。でも、兄さんが来るときいてすこうし胸がおちつきました。もういや! これから、わちきひとりにさせたらいやざんすよ。今のような怕いことがあるんだから……」
 丸あんどんの灯影《ほかげ》の下を、小芳のむっちりとした湯上がりの肉体が、不気味な生き物かなんかのように、ぐいと梅甫の両腕の中にいだきよせられました。

       

「これはようこそ。毎度、ご贔屓《ひいき》さまにありがとうござんす。まもなく二番目が開きますゆえ、お早くどうぞ。ひとり殖《ふ》えた、三人にしろとゆうべお使いがござりましたんで、ちやんと平土間が取ってござります……」
「じゃ兄さん……」
 顔なじみの出方に迎えられて導かれていった桟敷《さじき》は、花道寄りの恰好な場所でした。――下総から来た小芳の兄というのは、打ち見たところ先ず三十五六。小作りの実体《じってい》そうな男です。そのあとから小芳、つづいて梅甫、兄さんなる男も梅甫も別に人目を引く筈はないが、この日の小芳はまたいちだんの仇っぽさ。こういうところへ来ると、三年|曲輪《くるわ》の水でみがきあげた灰汁《あく》の抜けた美しさが、ひとしお化粧栄えがして、梅甫の鼻もまた自然と高い……。
 出しものは景政雷問答《かげまさいかずちもんどう》、五番続き。
 もう中日はすぎていたが、団十郎《なりたや》と上方くだりの女形《おやま》、上村吉三郎《うえむらきちさぶろう》の顔合せが珍しいところへ、出しものの狂言そのものが団十郎自作というところから、人気に人気をあおって、まこと文字通り大入り大繁昌でした。
「兄さん、下総の筵《むしろ》芝居とはちと違いましょう?」
「人前で恥をかかすものじゃねえ。下総、下総と大きな声で言や、田舎もののお里が分るじゃねえかよ。それにしても梅甫さん、江戸ってところは、よくよく閑人《ひまじん》の多いところだね」
 小芳を真中にして、幕のあくのを待ちながら、三人むつまじく話し合っているところを、
「ちょっとご免やす」
 変なところを通る男があればあるものです、すぐそばに花道もあることだし、横には桝目《ますめ》の仕切り板もあることだから、わざわざ三人の真中を割って通らなくてもよさそうなのに、幇間風《たいこもちふう》の男が無遠慮にも小芳の肩を乗りこえて、ひょいと大きく跨ぎながら通り越しました。
 咄嗟に首をまげてこちらは避けたが、向うは故意からか、それとも跨ぐはずみからか、その裾がひらりと舞うように小芳の結い立ての髪に触れて、見事に出した小鬢《こびん》をゆらりとくずしたからたまらない。――梅甫の声が咎めるように追いかけました。
「おいおい。ちょっとまてッ」
「へえへえ、毎度ありがとうござりやす」
「白っぱくれたこと言うな。大切な髪をこわして、毎度ありがとうござりやすとは何だよ。貴様、たいこだな」
「左様で。何かそそうを致しましたかい」
「これをみろ。この髪のこわれた奴が分らねえのかよ」
「なるほど。ちっとこわれましたね、しかし、こういう大入り繁昌の人込みなんだからね。こわれてわるい髪なら、兜《かぶと》でもやっていらっしゃることですよ」
「なに! 跨いで通るってことがそもそも間違っているんだ。詫[#「詫」は底本では「詑」と誤植]《あやま》りもしねえでその言い草は何だよ」
「何だ! 何だ!」
 声と一緒に、そのときどやどやと立ち上がって、花道向うの鶉《うずら》から飛び出して来たのは、六人ばかりのいかつい大小腰にした木綿袴のひと組です。たいこもちとは同じ連れか、でなくば見知り越しらしい話工合でした。
「何じゃ。三平。こやつら何をしたのじゃ」
「いいえなに、このおめかしさんの髪へ触ったとか触らないとか言ってね。大層もないお叱りをうけましたんで、ちょっとわびを言ったら、そのわびの言い草が気に入らないというんですよ」
「文句を言ったは貴様等か!」
「何でござんす」
 ひょいと見あげた梅甫の目と小芳の目とが、なにげなくうしろの鶉へ向けられると一緒に、
「あッ……」
 小さなおどろきの叫びが先ず小芳の口からあげられました。見覚えのある顔!
 いや、見覚えどころではない。小侍たち六人が飛び出して来たその鶉席に傲然《ごうぜん》と陣取って、嘲笑《あざわら》うようにこちらを見眺めていた顔こそは、小芳がまだ曲輪にいた頃、梅甫とたびたび張り合った腰本《こしもと》治右《じえ》衛門なのです。――元は卑《いや》しい黒鍬組《くろくわぐみ》の人足頭にすぎなかったが、娘が将軍家のお手かけ者となってこのかた、俄かに引き立てられて、今では禄も千石、城中へ出入りも自由のお小納戸頭取《こなんどとうどり》というすばらしい冥加者《みょうがもの》でした。
「あいつめが来ておるとすると――」
「企んで仕かけた事かも分りませぬ。兄さん!……」
 小芳はさッと青ざめ、兄の方へ目まぜを送ると、小声で囁きました。
「何とかうまく扱っておくんなんし……」
「よしよし。惚れ合っていると兎角こんなことになるんだ。こっちへどきな」
 小作りの下総男、田舎じみた風体をしているが、なかなか扱いが馴れたものです、腰低く小侍たちに一礼すると、人中で騒ぎを起して、近所迷惑になってはならぬと言うように、ひたすらわび入りました。
「こちらこそ飛んだ粗相、本当に三平さんとやらがおっしゃる通りです。髪なんどこわれようとつぶれようと、また結い直せば済みますこと、もう追っつけ幕もあくことでござんしょうから、いざこざなしにきれいさっぱり旦那方もお引きあげなすって下せえまし」
「いざこざなしとは何じゃ。こっちで売った喧嘩でない。うぬらがつけた因縁じゃ。わびを言うならそのように法をつけい」
「だから、立つ腹もこっちが納めて、この通り下手《したて》からおわびを申しているんでごぜえます」
「なにッ。下手からとは何じゃ! その言い草が面憎い! こっちへ出い!」
「笑《じょ》、笑談《じょうだん》じゃござんせぬ。ごらんの通りわたしどもは田舎ものばかり、この人前で手前ども風情《ふぜい》を恥ずかしめてみたとて、お旦那方のご自慢になるわけじゃござんせぬ。騒ぎ立てたら、みなさまも迷惑、小屋も迷惑、この位でもう御勘弁下さいまし」
「お旦那方がご自慢とは何じゃ! きさま、見くびっておるなッ。たわけものめがッ。出い! 出い! ここへ出い! こうしてやるわ!」
 ピシャリ、と、理も非もない。初めから売る因縁、売る喧嘩だったと見えるのです。前後左右から木綿袴の小侍共がこぶしを固めて、小芳の兄の横びんをおそいました。
「喧嘩だッ。喧嘩だッ」
「出方はおらんか! おうい! 出方! 早く鎮めろッ」
 どッとわき立つ人の波! 騒ぎの中を、六人の木綿袴は、なおピシャリピシャリとおそいました。
 打たれるままにまかせていたが、なかなかに打ち打擲《ちょうちゃく》はやむ色がないのです。
 刹那! 下総男、すさまじい豹変《ひょうへん》でした。
「さんぴん、よさねえなッ」
 ダッと一躍、花道の上へ飛び上がると、パラリぬいだもろ肌いちめん、どくろ首の大|朱彫《しゅぼ》り!
「べらぼうめ! 下手に出りゃつけ上がりゃがって、下総十五郎を知らねえか! 不死身《ふじみ》の肌だッ。度胸をすえてかかって来やがれッ」
 彫りも見ごと、啖呵《たんか》も見事、背いちめんの野晒《のざら》し彫りに、ぶりぶりと筋肉の波を打たせて、ぐいと大きくあぐらを掻《か》きました。
 同時です。
 舞台の幕をやんわり揚げて、ぬうと静かにのぞいた顔がある。
「御前だ!」
「早乙女の御前だ!」
 まことやそれこそ、眉間の傷もなつかしい早乙女の退屈男でした。

       

 観衆の目は、一斉に退屈男の姿へそそがれました。江戸|名代《なだい》の眉間傷がのぞいたからには、只ですむ筈はない。その眉間傷が今日はいちだんとよく光る。主水之介がまた実におちついているのです。
 揚げ幕からずいと出て、のそり、のそりと花道をやって来ると、猛《たけ》り狂っている黒鍬組小侍たちのうしろに、黙って立ちはだかりました。
 勿論下総十五郎の啖呵《たんか》は、大野ざらしの彫り物の中から、井水《いみず》のように凄じく噴きあげている最中なのです。
「べらぼうめ、見損った真似しやがるねえ! 江戸でこそ下総十五郎じゃ睨みが利かねえかも知れねえが、九十九里ガ浜へ行きゃ、松のてっぺんまで聞えた名めえだ。松魚《かつお》にしてもこんな生きのいい生き身はありゃしねえやい! 生かして帰《け》えせと言うんじゃねえんだ。のめすならのめす、斬るなら斬ってみろい!」
「な、な、何ッ」
「何を、何を大口叩くかッ。出、出、出ろッ」
「のめして貰いたくばのめしてもやるわ。斬ってもやるわッ。もそっとこっちへ出ろッ」
「べらぼうめ、出なくたって斬れらあ! 俎板《まないた》代りにちゃんと花道を背負っているんだ。斬ってみろ!」
「何ッ。な、な、何だと! もういっぺん言ってみろ!」
 劣らずに口では小侍たち、猛りつづけてはいたが、十五郎の思わざる豹変《ひょうへん》にいささか怖《お》じ気づいたらしい容子でした。真赤な髑髏《どくろ》首もこの際この場合、相当に六人の肝を冷やしていると見えるのです。――しかし、何を言うにも当人たちの腰には二本ある。背後にはまた、成上がり者ながら権勢に奢《おご》る腰本治右衛門がいるのです。そのうえに見物の目もある。手前もある。
「やれッ。やれッ。構わぬわッ、斬れ斬れッ」
「打《ぶ》ッた斬って吠え面《づら》掻《か》かしてやれッ」
 半分は脅すつもりもあったらしく、黒鞘の大刀《だいとう》を横にヒネってプツリ鯉口《こいぐち》切《き》ったところを、
「こりゃ下郎々々…」
 気味わるく静かにうしろから呼びかけて、のっそりと主水之介がその顔の真ん前へ立ちはだかると、あとは無言でした。黙ってにんめり打ち笑みながら、ぬうと向うの顔へこっちの顔をさしつけて、みい、みい、これを見い、というようにおのが指でおのが額の大看板を静かに指さしたものです。
 ぎょッとなってたじろいだところを、
「出口はあちらじゃ。行けッ」
「………」
「行かぬかッ。行かねば光るぞッ」
 睨んだ傷は江戸御免、しいんと見すくめたひと睨みに、たじ、たじとなりながら六人がさがりかけたのを見眺めて、怒気もろとも泳ぐように主水之介の前へ飛び出して来たのは腰本治右衛門でした。黒鍬者といえば土工です。千石の大身に成り上がっても、もとの素姓はなかなか洗い切れぬとみえて、言葉のところどころが巻舌がかってもつれました。
「誰に頼まれて要らざる真似をしやがるんじゃ。うぬは何者という野郎じゃ」
「その方、もぐりじゃな」
「なにッ。もぐりとは何じゃ! 怪しからぬことを申しやがって、もぐりとは何が何じゃ!」
「申しやがると申しおったのう。江戸に住まって、この眉間傷知らぬような奴は、もぐりじゃと申すのよ。その方も仲間ならば、出口はあちらじゃ。行けッ」
「た、たわけ申すなッ。鶉《うずら》ひと桝《ます》小判で買って参ったのじゃ。うぬのさし図うけんわい!」
「控えろッ。この小屋は喧嘩場でない。見物が迷惑するゆえ、表へ出いと言うのじゃ。参らねばこれなる眉間傷が今に鼠啼《ねずみな》きいたすぞッ。――行けい! 道が分らねば手伝うてやる! 早う行けい!」
 青白く光らして、柄頭《つかがしら》ぐいとこきあげながらその胸元へ突きつけると、もうどうしようもない。腕には諸羽流《もろはりゅう》の術がある。柄頭ながらそのひと突きは大身槍の穂尖《ほさき》にもまさるのです。腰本治右衛門の顔が盃んだかとみるまに、六人の小侍ともども、ぐいぐいと押されて木戸口から表へ消えました。
 わッと小屋の中は総立の大どよめき。
「兄さん! 兄さん! あれが早乙女の御前さまじゃ。お救い願えてようござりましたな。早う肌をお入れなんし……」
 打ちよろこびながら小芳が手伝って十五郎の肌をおさめさせたところへ、木戸からずいずい主水之介が戻って来ると、裁きに手落ちがない。
「その方たちも出い!」
「でも、あっしたちゃ――」
「売られた喧嘩であろうとも、出入りがあった上は両|成敗《せいばい》じゃ。何かと芝居の邪魔になる。早う出い!」
「なるほど、お裁き、よく分りました。ご尤もでござります――お見物のみなさま、飛んだお騒がせ致しまして相すみませぬ。下総十五郎、おわびいたしまする。小芳! 梅甫さん! 殿様のお裁きに手落ちはねえ。出ましょうよ」
 下総十五郎、背中の野ざらし彫りは伊達ではないとみえるのです。物分りよく立ち去ったあとから小屋のうちは、またひとしきりどッとどよめき立ちました。

       

「御前。有難うござります! 申しようもござりませぬ。すんでのことに狂言が割れますところを有難うござります!」
 事もなげに舞台の奥へ引き揚げていった主水之介を見てとるや、楽屋姿のまま飛び出して、拝まんばかりに迎えたのは団十郎《なりたや》でした。
「何ともお礼の言いようがござりませぬ。御前なればこそ、怪我人も出ずに納まりましてござります。お礼の申しようもござんせぬ」
「そうでもないのよ。丸く納まったとすればこの眉間傷のお蔭じゃ。身共に礼は要らぬわい!」
「いいえ、左様ではござりませぬ。手前|風情《ふぜい》がご贔屓《ひいき》頂いておりますさえも身の冥加《みょうが》、そのうえ直き直きにあのようなお扱いを頂きましては空恐しゅうござります。甚だぶしつけでござりまするが――」
「何じゃい。退屈払いでもしてくれると申すか」
「致しまする段ではござりませぬ。日頃御贔屓に預りまするお礼方々、今宵深川へお供させて頂きとうござりまするが、いかがでござります」
「深川はどこじゃ。女子がおるか」
「御前は御名代《おなだい》の女ぎらい、――いいえ、おすきなようなお嫌いなような変ったお気性でござりますゆえ、手前にいささか趣向がござります。女子《おなご》もおると思えばおるような、いないと思えばいないようなところでござります」
 さすがは団十郎です。主水之介ほどの男を招くからには、何かあッと言わせるようなすばらしい思いつきがあるらしい口吻《くちぶり》でした。
「気に入った。その言い草が面白い。主水之介も嫌いなような好きなような顔をして参ろうぞ。早う舞台を勤めい」
「有難い倖《しあわ》せでござります。お退屈でござりましょうが、ハネるまでこの楽屋ででも御待ち下さりませ」
 その大切りのひと幕が終ったのは、街にチラリ、ホラリと夏の灯の涼しい夕まぐれでした。
「では、お約束の趣向に取りかかりますゆえ、少々お待ち下さりませ。――おい。誰か、若い者、若い者は誰かおりませぬか」
 番頭を呼び招くと団十郎は、何の趣向にとりかかろうというのか、小声でそっと命じました。
「さき程ちょっと耳打ちしておいたから来て下さる筈だ。上方《かみがた》の親方を呼んで来な」
「いいえ、お使いには及びませぬ。参りました」
 まるで声は女です。恥ずかしそうに身をくねらせながら、鬘下地《かつらしたぢ》の艶《えん》な姿を見せたのは、上方下りの立女形《たておやま》上村吉三郎でした。
「お初に……」
「おう。主水之介じゃ。世の中がちと退屈でのう。楽屋トンビをしておるのよ。舞台は言うがまでもないが、そうしておる姿もなかなかあでやかじゃのう」
「御前が、御笑談ばっかり……。江戸の親方さん、では、身支度に――」
「ああ、急いでね。早乙女のお殿様のお目の前で女に化《な》ってお見せ申すのも一興だから、一ツ腕によりをかけて頼みますよ」
「ようます」
 吉三郎の姿は、みるみるうちに女と変りました。しかも只の女ではない。持ち役そのままの傾城姿《けいせいすがた》、奥州に早変りしたのです。いや、その声は言うもさらなり、言葉までがすっかり吉原育ちの傾城言葉に変りました。
「ごぜん、どうざます。女子《おなご》に見えますかえ。およろしかったら、わちきに酌なとさせておくんなまし……」
「わはは、そうか、そうか、団十郎《なりたや》め、心憎い趣向をやりおった。女子《おなご》がおると思えばおるような、いないと思えばいないようなと申したはこのことか。いや、いないどころか立派な女子じゃわい。主水之介、苦労がしとうなった。どうじゃ、奥州、いっそ成田屋を撒《ま》いてどこぞでしっぽり濡れてみるか」
「お口さきばっかり……。では成田屋さん、お伴《とも》させて頂きんしょう」
 櫛《くし》、こうがい、裲襠《うちかけ》姿のままで吉三郎が真ん中、先を成田屋、うしろに主水之介がつづいて、木挽町《こびきちょう》の楽屋を出た三|挺《ちょう》の列《つら》ね駕籠は、ひたひたと深川を目ざしました。
 すだれ越しに街の灯がゆれて、大川端は、涼味肌に泌《し》みるようです……。
 さしかかったのが江戸名代の永代橋。
「あの、もうし、かご屋さん……」
 渡り切ると、不意に簾垂《すだ》れの中から、吉三郎の奥州が、もじもじしながら恥ずかしそうに呼びとめました。
「ちょっと、あの、かごを止めてくんなんし……」
「へえへえ。止めますがお気分でもわりいんですかい」
「いいえ、あの、わちき、――おししがやりたい……」
 主水之介の目が簾垂れの中で、思わずピカリと光りました。消え入るような声で恥じらわしげに、おししがやりたいと言ったその声は、何ともかとも言いがたくなまめかしかったからです。
 ――しかもその身のこなし!
 どう見てもそれは男ではない。
「ごぜん、ごめんなんし……」
 パッと赤くもみじを散らして、消えも入りたげに、恥じらい恥じらい、駕籠の向うの小蔭へいって身をこごませると、さながらに女そのままの風情で用を足しました。
 そのえも言いがたいなまめかしさ!……。
 その身だしなみの言いようなきゆかしさ!……。
「ああ、いい女形《おやま》だな……。名人芸だ」
 思わず団十郎《なりたや》が感に堪えかねたように、すだれの中から呟きました。
 主水之介もまた恍惚となって見とれました。
 そのまに駕籠は大川端を下って料亭へ。

       

「いらっしゃいまし!……」
「あら! 成田屋さんじゃござんせんか。どうぞ! どうぞ! さあどうぞ……」
 行きつけのうちと見えて、下へも置かない歓待ぶりです。
 屋号は谷の家。
 川にのぞんだ座敷には、いく張りかの涼しげな夏提灯がつるされて、青い灯影《ほかげ》が川風にゆれながら流れ散って、ひとしおに涼しげでした。
「ま! 花魁《おいらん》も……」
「傷の御前も……」
 婢《おんな》たちは、目が高いと言っていいか、低いと言っていいか、主水之介をそれと看破《みやぶ》って成田屋、おいらん、二人が取巻きの川涼みと思ったらしく、忽ちそこへ見る目もさらに涼しい幾品かの酒肴《しゅこう》を運びました。
「おいらん、一|献《こん》汲むか」
「あい。お酌いたしんす……」
「のう、成田屋」
「はッ」
「は、とは返事がきびしいぞ。市川流の返事は舞台だけの売り物じゃ。もそっと二枚目の返事をせんと、奥州に振られるぞ。さきほどのおししは、十万石位のおししだったのう」
「あんなことを! 憎らしい御前ざます。覚えておいでなんし。そのようなてんごうお言いなんすなら――」
 くねりと身をくねらせて吉三郎の奥州が、やさしく主水之介を睨めながら、チクリと膝のあたりをつねりました。――こぼるるばかりの仇ッぽさ、退屈男上機嫌です。
「痛い! 痛い! おししが十万石なら、この痛さは百万石じゃ。――のう、成田屋。昼間の喧嘩《でいり》も女がもとらしいが、そち、あの女を見たか」
「いいえ、御本尊にはお目にかかりませぬが、番頭どもがきき出して参った話しによると、曲輪上りだそうでござります。玄人《くろうと》でいた頃、あの二人が張り合っていたそうでござりましてな、売ったお武家さまは、腰本治右衛門とかおっしゃるお歴々、売られたお方は湯島とやらの町絵師とかききました。ところがいぶかしいことにはその絵師の住いに、ときどきどろどろと――」
「出るか!」
「尾花のような幽霊とやらが折々出ると申すんですよ。それもおかしい、売った工合もおかしい、御前のお扱いをうけて、あの場はどうにか無事に納まりましたが、あとで何かまたやったんではないかと、番頭どもも心配しておりましてござります」
「のう」
「また喧嘩に花が咲きましたら、何をいうにも対手は七人、それにお武家、先ず十中八九――」
「どくろ首の入れ墨男が負けじゃと申すか」
「ではないかと思いまする。狂言の方ではえてして、あの類《たぐい》の勇み肌が勝つことに筋が仕組まれておりまするが、啖呵《たんか》では勝ちましても、本身の刄先が飛び出したとなりますると、筋書通りに参りますまいかと思いまする」
「いや、そうでない。喧嘩とても胆《きも》のものじゃ。抜身の二本三本あの度胸ならへし折ろうわい」
「いいえ、やられましてござります……」
 そのとき不意でした。突然、不気味に言った声と一緒に、するするとうしろの襖が開くと、降って湧いたかのように、そこへ姿を見せた男がある。血達磨《ちだるま》のように全身|朱《あけ》に染って、喘《あえ》ぎながら手をついているのです。
「ま! 怕い!……」
 すがりついた吉三郎の奥州を抱きかかえながら、ギョッとなって主水之介も目を瞠《みは》りました。
「おう! そちは!」
 同時におどろきの声がはぜました。
 誰あろう、十五郎なのです、血に包まれたその男こそは、今噂をしたばかりの下総十五郎だったのです。

       

 血を見て、傷を見て、いたずらにうろたえるような退屈男ではない。主水之介は、しんしんと目を光らして、十五郎の先ず傷個所を見しらべました。
 右腕に二カ所、左肩に一カ所、腰に一カ所、小鬢《こびん》に一カ所、背の方にもあるらしいが、目に見えるは以上の五カ所です。
 しかし血は惨《むご》たらしい程に噴いていても、傷は皆浅い。
「女! 焼酎を一升ほど持って参れ。なにはともかく手当をしてやろう。襦袢《じゅばん》でも肌衣でもよい、巻き巾になりそうなものを沢山持って参れ」
 諸事無駄もなく、また手馴れたことでした。
 団十郎も手を貸し、吉三郎のおいらんも片袖をくわえて甲斐々々しく手伝い、血止めの手当が出来てしまうと、下総十五郎がまたすばらしく精悍《せいかん》なのです。
「焼酎がヒリヒリと泌みていい心持がいたしやす。ぶしつけでござんすが、景気づけに一杯呑ましておくんなさいまし」
 激痛をこらえて、歪んだように笑うと、なみなみ注いだ大盃をギュウと一気に呑みほしながら、ぶるぶると身ぶるいを立てました。
 主水之介の声が泳ぎ出しました。
「小気味のよい男じゃのう。対手はさっきのあれか」
「そうでござんす。喧嘩両成敗じゃ、おまえらも小屋を出ろと、殿様がお裁きなすったんで、御言葉通り出るは出たんですが、出れば刄物|三昧《ざんまい》になるは知れ切ったこと、――ええ、ままよ、おれも下総十五郎だ、江戸で膾斬《なますき》りになってみるのも、地獄へいってからの話の種だと、男らしく斬られる覚悟をしたんですが、妹という足手まといがござんす。どうにかして女たちふたりを逃がさなくちゃならねえ、しかし、逃がすにはあの通りの真ッ昼間、日の暮れるまで待とうとお茶屋で待って、こっそりふたりを裏から駕籠で落してから、あっしひとりでいのちを張りにいったんでござんす」
「喧嘩の花はどこで咲いた」
「小屋を出ると、案の定黒鍬組の奴等が、今出るか今出るかと待っていやがったとみえて、来いというからあの前の河岸《かし》ッぷちへいったんでござんす。抜いたのは手下のあの六人でした。さすがに腰本治右衛門だけや抜かなかったところが親分でござんす」
「得物《えもの》もあるまいに、よくそれだけの傷で済んだものじゃのう。どうしてまたその姿でここへ参った」
「そのことでござんす。こっちは只の素人《しろうと》、向うはともかくも二本差《りゃんこ》が六匹、無手の素町人が六人の侍を対手にして斬り殺されたと世間に知れたら、下総十五郎褒め者になっても死に恥じは掻くめえと、いのちを棄てる覚悟でござんしたが、斬られているうちに、ふいッと妹たちふたりのことを思い出したんでござんす。喧嘩のもとというのは妹のあの小芳、死ぬあっしゃいいが、あとで黒鍬組の奴等がきっと何かあのふたりにあくどい真似をするだろうと思いつきましたんで、こいつうっかり死なれねえ、死ぬにゃどなたかに妹たちふたりの身の上を頼んでからと、御迷惑なことですが、ふと気のついたのはお殿様のことでござんした。男が気ッ腑を張ってお頼み申したら、お眉間傷にかけても御いやとはおっしゃるまいと、地獄の一丁目から急に逃げ出して、楽屋の中へ駈け込んだんでござんす。ところが、お殿様たちはこっちへもうひと足違い――成田屋さんのお弟子さんでござんしょう、大層もなく御親切なお方がひとりおいでなすってな、行った先は深川《たつみ》の谷の家だ、気付けをあげます、駕籠も雇うてあげます、すぐにおいでなさいましと、いろいろ涙のこぼれるような御介抱をして下さいましたんで、こんな血まみれの姿のまますぐ、おあとをお慕い申して来たんでござんす」
「ほほう、そうか。では主水之介にそちの気ッ腑を買えと申すんじゃな」
「十五郎、無駄は申しませぬ。あっしの気ッ腑はともかく、妹たちは惚れ合った同士、不憫《ふびん》と思召しでござりましたら、うしろ楯となってやって下さいまし……」
「嫌と申したら?」
「………」
「人の喧嘩じゃ、身共の知ったことではない、嫌じゃ勝手にせいと申したら何とする?」
「………」
「どうする了簡《りょうけん》じゃ」
「いたし方がござんせぬ」
 さみしそうな声でした。あの気性なら、この気性を買って下さるだろうと思ったのに、当てがはずれたか! ――口では言わなかったが、十五郎は急にこの世がさみしくなったとみえるのです。全身これ精悍と思われた男が、しょんぼり立ち上がると、生血にもつれたおどろ髪を川風にそよがせながら、しょんぼりと出て行きました。
「まてッ」
 刹那でした。ひとたび命を張れば豹虎《ひょうこ》のごとく、ひとたび悲しめば枯れ葉のごとくに打ち沈んで行くその生一本の気性が、こよなくも主水之介の胸を衝《う》ったのです。
「眉間傷貸してやる! 妹の住いはいずれじゃ」
「え! じゃ、あの!……」
「眉間傷に暑気払いさせてやろうわい。小芳とやらの住いはいずれじゃ」
「十五郎、うれしくて声も出ませぬ。神田の明神裏の篠原梅甫というのが配《つ》れ合いでござんす。手前、ご案内いたします……」
「無用じゃ。その怪我ほってもおかれまい。そちはどこぞへ隠れて傷養生せい。成田屋、その方も江戸ッ児じゃ。下総男にひと肌ぬがぬか」
「よろしゅうござります。医者のこと、隠れ家のこと、一切お引きうけいたしましょう。たんと眉間傷を啼かしておいでなさいまし」
「味を言うのう。吉三郎のおいらん、浮気するでないぞ」
「あんなことを……。ぬしさんこそ、小芳さんとやらに岡惚れしんすなえ」
「腰本黒鍬左衛門とはちと手筋が違うわい。アハハ……。世の中にはまだ退屈払いがたんとあるのう。女共、気まぐれ主水之介、罷《まか》り帰るぞ。乗物仕立てい」
 眉間傷の出馬となると、主水之介の声までが冴えるのです。――ゆらゆらゆれて行く駕籠の右と左りに、江戸の夏の灯の海が涯なくつづきました。

       

 鐘が鳴る……。
 そんなにふけたわけではないが、明神裏というと元々宵の口から、街の底のようなさみしい街なのです。
「これか。惚れた同士の恋の巣は、どこかやっぱり洒落《しゃれ》ておるのう。駕籠屋ども、すき見するでない。早う行け」
 灯影一ツ洩れない暗い玄関先へ、主水之介はずかずかと這入りました。
 右手の寒竹の繁みが、ザアッと鳴った。
 生き埋めの井戸の上のあの繁みなのです。
 しかし、何も出たわけではない。黒い影も白い影も何の影もない。
 うちの中もしいんと静まり返っているのです。
 仔細にのぞいてみると、奥の座敷あたりに灯の影がある。
 退屈男はどんどんと上がりました。
 梅甫と小芳とがその灯の蔭で抱き合って、びっくりしながら、青ざめつ、目をみはりつつ、ふるえているのです。
「どうした!」
「………?」
「何をふるえているのじゃ。昼間小屋で会うた主水之介ぞよ。どうしたのじゃ」
「あの、ほ、ほんとに、傷《きず》のお殿様でござりますか!」
「おかしなことを申すのう、主水之介はふたりない。兄が駈けこんで来たゆえ参ったのじゃ。何を怕《こわ》がっているぞよ」
「兄!……。あの、十五郎がいったんでござりまするか!」
「そうよ。ほんの今深川まで血を浴びて身共を追っかけて来たゆえ、眉間傷の供養にやって来たのじゃ。何をそのようにびっくりしているのじゃ」
「いいえ! そ、そんな馬鹿なことはありませぬ! ある筈がござりませぬ!」
 真ッ青になると、梅甫が突然実に意外なことを言ってふるえ出しました。
「あ、兄が、十、十五郎が、深川なぞへ行かれる筈がござりませぬ。兄はほんの今しがた血を浴びて、ふわふわとここへ来たばかりでござります」
「なに!」
「うそではござりませぬ。それも二度、つい今しがたふわふわとその庭先へ来たばかりなんです。髪をみだして、血を浴びて、しょんぼりとそこの暗い庭先へ立って、にらめつけておりましたんで、どうしたんですとおどろいて声をかけたら、俺は喧嘩で斬られて死んだ、気になることが一ツあって行かれるところへも行かれないから、小芳に言いに来たんだ。この屋敷には生き埋めの井戸があってよくない、住んだのが因果だ、祟《たた》りがあるから夫婦別れをしろ、別れないと兄は恨むぞ、斬られたのもみんなおまえらのせいだ、兄が可哀そうなら今別れろ、別れないと何度でも迷って来てやるから、と二度が二度うらめしそうに言って、ふわふわと庭の向うの闇の中へ消えましたんで、ふたりがこの通りふるえていたところなんです……」
 不思議きわまる言葉でした。
 下総十五郎にふたりある筈はない。深川へ来た十五郎が嘘の十五郎か、こっちへ現れた十五郎が本当の十五郎か、どっちかの十五郎が怪しむべき十五郎なのです。
 主水之介の目がキラリと光りました。
「まだ出ると申したか」
「今別れろ、別れると約束するまでは何度でも迷って来るぞと、気味のわるいことを言いのこして、ふわふわと消えていったんでござんす」
 言うか言わないかに、ふわりと薄暗い庭先へ浮いた影がある。
 血を浴びたおどろ髪の十五郎なのです。
 刹那。
「あッ」
 と言ってその十五郎がおどろいたのと、
「まてッ」
 叫んで主水之介が庭へ飛びおりたのと同時でした。
 逃げ走る影をみると、同じ姿の同じ血を浴びた十五郎がふたりいるのです。
「たわけッ。化けたかッ」
 声と一緒に泳いで五尺、主水之介の手が手馴れの一刀にかかったと見るまに、見事な一斬り、五千両が程の涼しさでした。すういと薙《な》いでおいて、逃げのびようとしていた今ひとりの十五郎へ躍りかかると、
「面体みせい!」
 襟首押えて引きすえた下から、声がもうふるえているのです。
「相すみませぬ。十、十五郎ではござりませぬ。お見のがし願わしゅうござります。手、手前でござります」
「控えろッ。どこの手前かその手前を見るのじゃ。梅甫、灯《あか》りを持てい!」
 灯りをさしつけて見しらべると、傷なぞある筈はない。血は塗《ぬ》った血、おろか千万なこのつくり十五郎は、まぎれもなく昼間|森田座《こびきちょう》で見かけたあの黒鍬組の小侍のひとりなのです。
「たわけがッ。傷の早乙女主水之介を何と心得おるぞ。腰本治右の差図か!」
「そ、そ、そうなんでござります。おまえらふたり、十五郎に化けて、かようかように梅甫夫婦を脅《おど》して来いと言われましたゆえ、迷って出たのじゃ、今すぐ別れろと、うまうまひと狂言書いたのでござります」
「夜な夜な玄関先の寒竹の繁みの中とやらへも、白い影が出るとか申したが、それもおまえらの仕業《しわざ》か」
「相済みませぬ。あそこの生き埋めの井戸というのがあるのを幸い、脅しつけろ、と腰本様がおっしゃりましたゆえ、変化《へんげ》の真似をしたのでござります……」
「たわけものめがッ。その方共も黒鍬組のはしくれであろう。下賤者ではあろうとも黒鍬組はとにもかくにも御直参の御家人じゃ。他愛もない幽霊の真似なぞするとは何のことかッ。腰本治右に申すことがある。少し痛いが待て。――梅甫、料紙《りょうし》をこれへ持参せい」
 足で踏んまえながら、さし出した筆と紙を手にとると、主水之介はさらさらと書きしたためました。

「早乙女主水之介、傷供養に喧嘩を買った。いつでも退屈払いに参ってつかわす。汝、お手かけ馬の権を藉《か》りて挑《いど》み参らば、主水之介、眉間傷の威を以って応対いたそう。参れ」

 くるくると巻いてその果し状を小柄《こづか》へ結《ゆわ》いつけると、
「少し痛いぞ。天罰じゃ。我慢せい」
 プツリと背中の肉を抉《えぐ》って小柄を縫いとおしました。
 ひいひいと身をよじって悲鳴をあげた小侍を、どんと蹴起しながら小気味よげに言い放ちました。
「十五郎はもっと痛い目に会うているわッ、たわけものめがッ。いのちがあるだけ倖《しあわ》せじゃ。早う飛んで帰って腰本治右にしかじかかくかくとあることないこと搗《つ》きまぜて申し伝えい。アッハハ。……ずんと涼しゅうなった。梅甫夫婦また来てやるぞ。売られた喧嘩でも喧嘩のあとはまた、しっぽりとしていいもんじゃ。たんと楽しめ」
 ぽたぽたと血を撒きながら、飛んでいった小侍のあとから、退屈男の颯爽とした姿がゆらりゆらりと涼しげに街の灯の中へ遠のきました。

       

「アッハハ……。罷り帰ったぞ。兄は機嫌がよいぞ」
 いとも機嫌よく帰っていったところは、妹菊路と小姓京弥と、あでやかなお人形たちが待っていたおのが屋敷です。
 待っていたというものの、この美しく憎らしやかな人形たちは、兄主水之介のいない方がいいとみえて、なんということもなく戯《たわ》むれに戯《たわ》むれていた手をパッと放すと、ふたりとも真赤になって迎えました。
「おかえり遊ばしませ……」
「何じゃい。気の抜けたころおかえり遊ばせもないもんじゃ。煮て喰うぞ。アッハハハ。兄が留守してうれしかったか」
「ああいうことばっかり……。ご機嫌でござりますのな」
「機嫌がようてはわるいかよ」
「またあんなことばっかり……。どこへお越しでござりました」
「あっちへいってのう」
「どこのあっちでござります」
「鼻の先の向いたあっちよ」
「またあんなことばっかり……。わたし、もう知りませぬ」
「わたしもう知りませぬ。わッははは。怒ったのう。おいちゃいちゃの巴御前《ともえごぜん》、兄が留守したとても、あんまり京弥とおいちゃいちゃをしてはいかんぞよ。兄はすばらしい恋の鞘当《さやあて》買うてのう。久方ぶりで眉間傷が大啼きしそうゆえ上機嫌じゃ。先ず早ければあすの朝、お膳立てに手間をとれば夕方あたり、――果報は寝て待てじゃ。床取れい」
 心待ちしながら上機嫌でその朝を迎えたのに、しかし腰本治右衛門からは、何の音沙汰もないのです。
 夕方までには、何か仕かけて来るだろうと待っていたが、やはりないのでした。
 二日経っても来ない。
 三日経っても来ない。
「腰本|治右《じえ》は意気地がのうても、娘は将軍家の息がかかっておるという話じゃからのう、おてかけ馬に乗って来そうなものじゃが――」
「何でござります。お将軍さまのお息がかかるというのは何のことでござります」
「おまえと京弥みたいなものよ」
「菊路はそんな、京弥さまに息なぞかけたことござりませぬ」
「アハハ。かけたことがなければ急いでかけいでもいい。このうえ見せつけられたら、兄は焼け死ぬでのう。あすは来るやも知れぬ。来たら分るゆえまてまて」
 しかし、四日が来たのにやはり何の沙汰もないのです。
 五日が経《た》ったがやはりない。
 こっちへは何の挑戦がなくとも湯島の方へ何か仕掛けたら、梅甫から急の使いでも来そうなのに、それすらもないのです。
 いぶかしみつつ六日目の夕方を迎えたとき、京弥が色めき立って手をつきました。
「来たか!」
「はッ」
「何人じゃ」
「ひとりでござります」
「なに、ひとり?」
「このようなもの持参いたしました」
「みせい!」
 さし出したのは、すばらしくも贅沢《ぜいたく》きわまる文筥《ふばこ》なのです。
 しかし、中の書状に見える文字《もんじ》は、またすばらしくもまずい金釘流なのでした。

「てまえごときもの、とうてい、お対手は出来申さず候。ついてはおわび旁々《かたがた》、おちかづきのしるしに、粗酒一|献《こん》さしあげたく候間、拙邸《せってい》までおこし下さらば腰本治右衛門、ありがたきしあわせと存じ奉りあげ候」

 粗酒一献とあるのです。
 拙邸ともある。
「わッははは。黒鍬組の親方、漢語を使いおるのう。拙邸と申しおるぞ。使いはいずれじゃ」
「お玄関に御返事お待ち申しておりまする」
「今行くと伝えい! 乗り物じゃ。すぐ支度させい!」
「御前、おひとりで?」
「そうだ。わるいか」
「でも、もし何ぞよからぬ企らみでもござりましたら――」
「企らみがあったら、ピカリと光るわ。江戸御免の眉間傷|対手《あいて》に治右《じえ》ごとき何するものぞよ。あとで菊路とおいちゃいちゃ遊ばしませい。わッははは。六日待たすとはしびれを切らしおった。いつ罷りかえるか分らぬぞ」
 乗って本所長割下水を出かけたのが日暮れどき。
 番町の治右衛門邸へ乗りつけたのが、かれこれもう初更《しょこう》近い刻限でした。
 成上がり者ながら、とにもかくにも千石という大禄を喰《は》んでいるのです。役がまたお小納戸頭《おなんどがしら》という袖の下勝手次第、収賄《しゅうわい》御免の儲け役であるだけに、何から何までがこれみよがしの贅沢ぶりでした。
「早乙女の御前様、御入来にござります」
「これはこれは、ようこそ。さあどうぞ。御案内仕りまする。さあ、どうぞ」
 ずらずらと配下の小侍が三四名飛び出すと、下へもおかぬ歓待ぶりが気に入らないのです。
 導いていった座敷というのも油断がならぬ。
 酒がある。
 燭台《しょくだい》がある。
 ずらずらと広間の左右に八九名の者が居並んで、正面にどっかと治右が陣取り、主水之介の姿をみるや否や座をすべって、気味のわるい程にもいんぎんに手をつきつつ迎えました。
「ようこそお越し下さりました。酒肴《しゅこう》の用意この通りととのいおりまする。どうぞこちらへ……」
 どんな酒肴か、槍肴《やりざかな》、白刄肴《しらはざかな》、けっこうとばかり退屈男はのっしのっしと這入って行くと、座敷の真中にぬうと立ちはだかりました。

       

 その夜ふけ……。
 丑満近《うしみつちか》い本所あたりは、死の国のような静けさでした。
 もうおかえりか、もう御戻りの頃であろうと、寝もやらず兄の帰りを待ったが、しかし主水之介は、番町の腰本治右屋敷へ乗り込んでいったきり、待てど暮せど一向に帰る気色《けしき》もないのです。
 るすを守る京弥と菊路のふたりは、当然のごとくに不安がつのりました。
「ちとおそうござりますのな。どうしたのでござりましょう。大丈夫かしら?」
「………」
「なぜお黙りでござります! 菊がこんなに心配しておりますものを、あなたさまは何ともござりませぬのか。もう他人ではない筈、いいえ、菊の兄ならあなたさまにもお兄上の筈、一緒に心配してくれたらいいではありませぬか」
「心配すればこそ、京弥もこうして、さきほどからいろいろと考えているのでござりまするよ」
「あんなことを! 心配していたら、御返事ぐらいしたとていいではありませぬか。憎らしい……。このごろのあなたさまは何だかわたくしにつれなくなりましたのな。そのような薄情のお方は――」
「イタイ! イタイ! なにをなさります! そんなところを抓《つね》ってなぞして痛いではありませぬか!」
「いいえ、つねります! 抓ります! もっとつねります!……」
 同じ心配をするにしても、このふたりの心配振りは諸事穏やかでない。
 だが、肝腎の主水之介は、いつまで経っても帰らないのです。
 しらじらとして、ついに夜があけかかりました。
 しかし、沓《よう》として消息はない。
「どうしたのでござりましょうな。いかなお兄上さまでも、少しおかえりがおそうござります。それにお招きなさった方は、素姓《すじょう》が素姓、わたくし何だか胸《むな》騒ぎがしてなりませぬ」
「ゆうべ届いた腰本の書面はどこにござります? ちょっとお貸しなされませい」
 読み直してみたが、しかしそれには、てまえごときもの、とうていお対手は出来申さず候、おちかづきのしるしに粗酒一|献《こん》さしあげたく、拙邸までお越し下さらば云々と書いてあるばかりなのです。
 何でもないと思えば何でもない。
 何か企らみがあると思えば思えないこともない。
 突然、京弥のおもてに、さッと血の色がのぼりました。
「お支度なさりませ!」
「いってくれまするか!」
「ぼんやり待っておりましたとて、心配がつのるばかりでござります。何ぞ容易ならぬこと、起きているやも計られませぬ。お伴仕ります!」
 緋じりめん鹿ノ子絞りの目ざめるような扱帯《しごき》キリキリと締め直して、懐剣《かいけん》甲斐々々しく乳房の奥にかくした菊路を随えながら、ふたりの姿は朝あけの本所をいち路番町に急ぎました。
 陽があがって間もないのに、江戸の六月は朝まだきから蒸し風呂のなかに這入ったような暑さです。
「あれじゃ、あれじゃ。あの大きな屋敷がそうでござります」
「どのようなことがあっても、狼狽《うろた》えてはなりませぬぞ。京弥が抜くまでは抜いてはなりませぬぞ」
 うしろに菊路を庇《かば》って、油断なく門前へ近づきました。
 だが、屋敷のうちはしいんと静まり返って、ことりとの音もない。
 八文字にひらかれた門から大玄関まで、打ち水さえもが打ってあって、血の嵐、争闘、殺陣は元よりのこと、騒ぎらしい騒ぎがあったらしい跡もなく、不気味なほどに静まり返っているのです。
 しかしそれだけに京弥たちふたりは、一層不安がつのりました。
 この静まり方は尋常な静まり方ではない。とうにもう主水之介を陥《おと》し入れて、あと片附けまでが済んだようにも思えるのです。
 京弥の目はいつのまにかほのぼのとして美しい殺気に彩《いろ》どられました。
「頼もう! 頼もう!」
「………」
「急用で参ったものじゃ。取次の者はおいで召さらぬか。頼もう! 頼もう!」
 二度目の声でようやくに小侍《こざむらい》がそこへ手を突いたのを見迎えると、京弥は殺気におどる声であびせました。
「侮《あなど》ったことを申すと、手は見せませぬぞ! 早乙女の屋敷から参った者じゃ。御前はいずれでござる!」
「ああ、なるほど。お暑いところをようこそ。少々お待ち下されませ」
 奥へ消えていったかと思うまもなく、再び姿をみせて手をつくと、言葉までが実に気味のわるいほどいんぎん鄭重《ていちょう》なのです。
「主人は火急の御用向にて只今御登城中にござりまするが、お出かけぎわにお言いのこしなされたとのことでござりました。早乙女家の方々が御前をお迎いに参られるやも知れぬ。参られたならばねんごろに御案内申せとの御伝言でござりますゆえ、手前これより御案内申しまするでござります。御遠慮なくどうぞあれへ――」
 指さしたのは駕籠である。
 それも只の乗物ではない。二挺ともにためぬり、定紋《じょうもん》入りの屋敷駕籠なのでした。
「まだ計るつもりか!」
「計るとは?」
「御前もこの手でたばかったであろう! われら二人も計るつもりか!」
「滅相もござりませぬ。あの通り陸尺《ろくしゃく》どもは只の下郎、御案内いたすものはこの手前ひとり、計るなぞとそのような悪企み毛頭ござりませぬ。早乙女の御前は少々他言を憚《はばか》るところに至って御満悦の体にてお越しにござりますゆえ、そこまで御案内を申上げるのでございます。どうぞお疑いなくお乗り下されませ」
「よしッ。乗ってやろう。菊どの、御油断あってはなりませぬぞ」
「あなたさまも!」
 乗るのを待って駕籠は、小侍を道案内に立てながら、しずしずと歩き出しました。

       一〇

 土手沿いに午込御門へ出て、そこから濠ばた沿いに右へ道をとり、水戸邸の手前からさらに左へ折れて、どうやら駕籠は伝通院を目ざしているらしいのです。
 目ざしているところも不思議だが、今か今かと油断なく駕籠の中から左右へ目を光らしていたのに、出る気色《けしき》もない。
 やがて乗りつけたところは、やはり伝通院でした。開基《かいき》は了誉上人《りょうよしょうにん》、始祖《しそ》家康《いえやす》の生母がここに葬られているために、寺領六百石を領して、開山堂、弁財天祠《べんざいてんし》、外久蔵主稲荷《たくぞうぬしいなり》、常念仏堂《じょうねんぶつどう》、経堂《きょうどう》、無縁塚《むえんづか》坊舎《ぼうしゃ》が三カ寺、所北寮《しょけのりょう》が百軒、浄土宗《じょうどしゅう》関東十八|檀林中《だんりんちゅう》の随一を誇るだけあって、広大壮麗言うばかりない大伽藍《だいがらん》です。
「ここからはお乗物さし止めでござりますゆえ、お拾いにてどうぞ。手前御案内いたしまするでござります」
 山門のまえで乗物をとめさせて、心得顔に小侍はさきに立ちながら、しんしんと静かな境内の中へ這入りました。
 場所が寺です。
 墓のあるお寺なのです。
 もしやもうお墓に!……。
「まてッ!」
 京弥は抑え切れぬ胸騒ぎを覚えて、するどく呼びとめました。
「われら、御前のむくろや新墓検分《にいばかけんぶん》に参ったのではない。不埓《ふらち》な振舞いいたすと容赦はせぬぞ!」
「どうぞお静かに。ご案内せいとの主人言いつけでござりますゆえ、手前は只御案内するだけでござります……」
 しいんとした声で言って、取り合おうともせずに小侍は本堂わきから裏へ廻ると、一杯の墓だ。
 ハッとなったとき、だが、導き入れたところはそこではない。墓の中を通り越して、そこの柴折戸《しおりど》をしずかにあけると、目で笑いながら立っているのです。
「ここにおいでか!」
「さようでござります。伝通院自慢の裏書院でござります。今もまだたしかにおいでの筈、手前の役目はこれで終りました。どうぞごゆっくり……」
 言いすてかとみるまに、もう一二間向うでした。
 躊躇《ちゅうちょ》はない。京弥は脇差し、菊路は懐剣、にぎりしめながら高縁におどりあがって、ガラリと左右からぬり骨障子をあけた刹那、――あッとおどろいてふたりは棒立ちになりました。書院というは名ばかり、几帳《きちょう》、簾垂《すだ》れ、脇息《きょうそく》、褥《しとね》、目にうつるほどのものはみな忍びの茶屋のかくれ部屋と言ったなまめかしさなのです。
 しかも、その几帳のわきには女がいるのです。年の頃二十二三。青ざおとした落し眉に、妖《あや》しき色香がこぼれんばかりにあふれ散って、肉はふくらみ、目はとろみ、だが只の女ではない。姿、容子、化粧《つくり》の奢《おご》り、身分のあるもののおてかけか寵姫《おもいもの》か、およそ容易ならぬ女でした。
 その女の膝へまた主水之介が何と穏やかならぬことか、江戸にゆかりの眉間傷を軽くのせて、この世の極楽ここにありと言いたげに、悠々と膝枕の夢を結んでいるのでした。のみならず不思議なのはその女です。さぞやおどろくだろうと思いのほかに、気色《けしき》ばんでふたりが闖入《ちんにゅう》したのを見眺めると、ことさらに主水之介の首のあたりを抱きすくめながら、恋をえたことを見せびらかそうとでもするかのように、淫花《いんか》のごとく嫣然《えんぜん》と笑いました。
 京弥は言うまでもないこと、妹菊路のろうばいはいたいたしい位でした。女遊び、曲輪通い、折々の退屈払いに兄主水之介がこの世の女どもとかりそめのたわむれはすることがあっても、こんなのは、寺の裏書院のかくれ部屋で素姓《すじょう》も計りがたい女と、かような目にあまる所業は今が初めてなのです。
 菊路の美しい柳眉《りゅうび》は知らぬまに逆立ちしました。
「何ごとでござります! お兄上!」
「………」
「この有様は何のことでござります! お兄上!」
「御案じ申してはるばると御迎いに参ったのではござりませぬか! このはしたないお姿は何のことでござります!」
 声に膝枕したまま薄目をあけて、物うげに見眺めていたが、こんな兄というものはまたとない。
「よう。お人形さまたち、いちゃいちゃとやって来おったのう。アハハハ……。膝枕五千石という奴じゃ。後学のためにようみい。男女陰陽《なんにょおんよう》の道にもとづいてたわむれするはこうするものぞよ。どうじゃ、妬《や》き加減は? アッハハハ。では、罷りかえるかのう。……」
 飄々《ひょうひょう》として立ち上がると、けろりとしているのです。
「いかい御馳走さまで御座った。御縁があらばまたお膝をお借り申したい。これにて御免仕る。両人かえるぞ。参れ」
 すうと出て行きました。

       一一

 不審《ふしん》なのは女の素姓です。
 京弥と菊路の目と顔が探るように左右からつめよりました。
「あれなる女はいったい何ものでござります」
「ききたいか」
「ききたければこそお尋ねするのでござります。どこの女狐《めぎつね》でござります」
「女狐なぞと申すと口が腫《は》れるぞ。あれこそはまさしく――」
「何者でござります」
「腰本治右の娘、将軍家御愛妾お紋の方よ」
「えッ! ……。ほ、ほ、ほんとうでござりまするか!」
「懸値《かけね》はない。びっくりいたしたか。なかなかの美人じゃ。別して膝の肉づきは格別じゃったのう」
 格別どころの段ではない。将軍家御愛妾の膝に枕したとあっては、いかに主水之介、江戸に名代の傷の御前であろうとも、事が只ですむ筈はないのです。
 京弥のおもても菊路の顔も血のいろを失いました。
「飛んだことになりましたな。もしもこの一条が上様お耳に這入りましたら何となされます!」
「何としようもない、先ず切腹よ」
「それ知ってかようなおたわむれ遊ばしましたか!」
「当り前よ。右膝は将軍家、左り膝は主水之介、恋には上下がのうてのう。美人の膝国を傾けるという位じゃ。切腹ですむなら先ず安いものよ。寄るぞ。寄るぞ。心配いたすと折角の顔に皺《しわ》がよる。そちたちも膝枕の工合、とくと見物した筈じゃ。やりたくば屋敷へかえって稽古せい」
「なにを笑談仰せでござります! いつものお対手とは対手が違いまするぞ! かりにも将軍家、もしもの事がありましたならば――」
「………」
「御前!」
「………」
「お兄様!」
「………」
「殿!」
 いち途《ず》の不安に京弥たちふたりはおろおろして左右からつめよったが、しかし主水之介はもう高枕です。屋敷へかえりつくと、ゆうべの膝枕を楽しみでもするかのようにそのまま横になって、かろやかな鼾《いびき》すらも立て初めました。
「飛んだことになりましたな……。さき程番町の屋敷へ訪れたときの容子、案内《あない》していきましたときの容子、お紋の方様が治右衛門めの娘とあっては、まさしく腰本が仕組んだ企らみに相違ござりませぬ。主人は只今火急の用向にて登城中と申したが気がかり、今になにか御城中から恐ろしいお使者が参るに相違ござりませぬぞ」
「な! ……。それにしてはお兄様の憎らしいこのお姿。こんなに御案じ申しあげておりますのに、すやすやとお休み遊ばして何のことでござりましょう。もし、お兄様!」
「………」
「お兄様!」
 起きる気色もない。ことさらに落ちついているあたり、今に訪れるに違いない禍いのその使者を待ちうけているかのようにも見えるのです。
 だが、不思議でした。
 もう来るかもう来るかと、菊路たちふたりはおびえつづけていたのに、城中はおろか、どこからも使者らしい使者は来る気勢《けはい》もないのでした。
 水の里本所は水に陽が沈んで、やがて訪れたのは夕ぐれです。高枕したまま起きようともしない主水之介の居間にもその夕やみが忍びよったとき、突然、玄関先で憚《はば》るように訪《おと》のうた声がある。
 ハッとなって京弥が出ていったと思うまもなく、青ざめて帰って来ると主水之介をゆり起しました。
「御前! 御前! ……。参りましたぞ!」
「来たか」
「来たかではござりませぬ。大目付様、おしのびで参りましたぞ」
「大目付にも多勢《おおぜい》ある。誰じゃ」
「溝口豊後守様《みぞぐちぶんごのかみさま》でござります」
「ほほう、豊後とのう。智恵者が参ったな」
 主水之介はようやくに起き上がりました。――大目付は芙蓉《ふよう》の間詰、禄は三千石、相役四人ともに旗本ばかりで、時には老中の耳目となり、時にはまた、将軍家の耳目となり、大名旗本の行状素行《ぎょうじょうそこう》にわたる事から、公儀お政治向き百般の事に目を光らす目付見張りの監察《かんさつ》の役目でした。その四人の中でも溝口豊後守と言えば、世にきこえた智恵者なのです。
「ここへ通せ」
 さすがにひと膝退って主水之介は下座。上座に直した褥《しとね》のうえに導かれて来たのは、目の底に静かな光りの見える微行《しのび》姿の豊後守でした。
「ようこそ……」
 目礼とともに見迎えた主水之介のその目の前へ、黙って豊後守はいきなり脇差しをつきつけると、声が静かです。
「これをお貸し申そう。早乙女主水之介の最期を飾らっしゃい」
「アハハ……。なるほど、ゆうべの膝枕の借財をお取り立てに参られましたか。なかなかよい膝で御座った。まさにひと膝五千石、切腹せいとの謎で御座るかな」
「その口が憎い。ひと膝五千石とは何ごとでござる。江戸八百万石、お上が御寵愛のお膝じゃ。言うも恐れ多い不義密通、上のお耳にもお這入りで御座るぞ。表沙汰とならばお身は申すに及はず、お紋の方のお名にもかかわろうと思うて、溝口豊後、かく密々に自刄《じじん》すすめに参ったのじゃ。わるうは計らぬわ。いさぎよう切腹さっしゃい」
「アハハハ。なるほど、五千石はちと安う御座ったか。いかさま八百万石の御膝じゃ。そうすればゆうべの片膝は四百万石で御座ったのう。道理でふくよかなぬくみの工合、世にえがたき珍品で御座りましたわい」
 恐るる色もないのです。ピカリと眉間傷光らして、静かに言葉を返しました。
「主水之介、もし切腹せぬと申さば?」
「知れたことじゃ。今宵にもお上よりお差し紙が参るは必定《ひつじょう》、お手討、禄は没収、家名は断絶で御座るぞ」
「智恵者に似合わぬことを申しますのう。もしもお紋の方、父治右衛門と腹を併《あわ》せて、知りつつ企らんだ不義ならば何と召さる。かような膳立てになろうとは承知のうえでこの主水之介、わざとお借り申した膝枕じゃ。どうあっても切腹せぬと申さば何と召さる!」
「さようかせぬか……」
 突然です。静かに見えた豊後守の目の底に冷たい光りがさッと走ったかと見えるや、何か第二段の用意が出来ているとみえて、そのまますうと玄関口へ消えました。
 刹那。異様な気勢《けはい》です。静まり返っていたその玄関のそとで、不意にざわざわと只ならぬざわめきがあがりました。

       一二

 ざわ、ざわ、ざわと、異様な音は、玄関口から座敷の中へ、次第に高まって近づきました。
 只の音ではない。
 まさしくそれは殺気を帯びた人の足音なのです。
 人数もまた少ない数ではない。
 たしかに八九名近い足音なのです。
 しかし主水之介は自若としたままでした。ぴかり、ぴかりと眉間傷を光らして、静かなること林のごとくに打ち笑みながら待ちうけているところへ、案の定、七人、八人、九人、十人近い人の顔が現れました。
 羽織、袴、申し合せたような黒いろずくめの長刀を握りしめて、鯉口《こいぐち》こそ切ってはいなかったが、その目には、その顔のうちには、歴然たる殺気がほの見えました。
 しかも悉《ことごと》く年が若い。
 察するところ、大目付溝口豊後守が飼い馴らしている腕ききの家臣ばかりらしいのです。
 その十人が右に五人、左に五人、声のない人のように気味わるく押し黙りながら片膝立て、ずらりと主水之介の両わきへ並んだところへ、当の溝口豊後守がけわしく目を光らしながら進みよって立ちはだかると、突然、冷たくきめつけるように促しました。
「立ちませい!」
「立てとは?」
「何と言い張ろうとも、不倫の罪はもはや逃がれがたい。今より登城して将軍家御じきじきのお裁きを仰ぐのじゃ。豊後、大目付の職権以って申し付くる。早々に立ちませい!」
「ほほ、なるほど、急に空模様が変りましたのう」
 冷たい笑いが、さッと主水之介のおもてをよぎり通りました。
 今のさき、脇差をつきつけて、割腹自裁を迫ったばかりなのです。死なぬと言ったら、俄かに将軍家お直裁《じきさい》に戦法を替えて来たのです。対手は智恵豊後と評判の智恵者なのだ。登城お直裁を仰ぐとは元より口実、裏には恐るべき智恵箱の用意があるに違いない。第一、自決を迫ったことからしてが、正邪黒白をうやむやにして、闇から闇へ葬り去ろうとした策だったに相違ないのです。今もなおやはり豊後の胸の奥底深くには、恐るべきその魂胆が動いているに相違ないのです。
 さればこそ、十名もの放し鳥をずらりと身辺へ配置して、隙あらばと狙っているに違いないのでした。
「名うての智恵者も老いましたのう。京弥!」
 それならばそのようにこちらにも策があるのです。主水之介は打ち笑みながらふりかえると、襖のあわいから血走った目をのぞかせて、いざとなったら躍り出そうと身構えていた京弥へ静かに命じました。
「月代《さかやき》じゃ。用意せい」
「ではあの、御登城なさるのでござりまするか!」
「そうじゃ。早乙女主水之介、死にとうないからのう、上様、おじきじきのお裁きとは願うてもないことじゃ。早う盥《たらい》の用意せい」
「でも、対手は御愛妾の縁につながる治右衛門、泣く児と地頭には勝たれぬとの喩《たと》えもござります。いかほど御潔白でござりましょうとも、白を黒と言いくるめられて、お身のあかし立ちませぬ節は何と遊ばすお覚悟でござります」
「潔白なるもの、潔白に通らぬ世の中ならば、こちらであの世へ逃げ出すだけのことよ。上様お待ちかねじゃ。早うせい」
 悠然と坐り直して、その首を京弥の前へさしのべました。
 しかし寸毫《すんごう》の油断もない。襲って来たら開いて一|閃《せん》、抜く手も見せじと大刀膝わきに引きよせておいて、じろりと十人の目の動きを窺いました。
 京弥もまた月代を剃《あた》りながら油断がないのです。
「おのびでござりまするな」
「そちと比べてどうじゃ」
「手前の何とでござります」
「鼻毛とよ」
「御笑談ばっかり、おいたを仰せ遊ばしますると傷がつきまするぞ」
 ジャイ、ジャイと剃《あた》りながらも、京弥の目はたえず十人の身辺へそそがれました。
 ひと剃《そ》り、ふた剃りと、青月代に変るにつれて、江戸に名代の眉間傷も次第にくっきりと浮き上がりました。
 したたるその傷!
 やがて月代は青ざおと冴《さ》え返って、三日ノ月型にくっきり浮き上がった傷がふるいつきたいようです。
「いちだんとお見事でござりまするな。京弥、惚れ惚れといたしました」
「では、惚れるか」
「またそんな御笑談ばっかり。お門違いでござります」
「ぬかしたな。こいつめ、つねるぞ。菊! 菊! 菊路はおらぬか。京弥め、憎い奴じゃ、兄に惚れいと言うたら御門違いじゃと申したぞ。罰じゃ。手伝うて早う着物を着せい」
 眼中、人なきごとき振舞いなのです。
 腹立たしげに豊後守が睨みつけていたが、どうしようもない。無役ながら千二百石、かりそめにも直参旗本の列につながる者が、登城、上様御前へ罷り出ようというに当って、月代を浄めるのは当り前のこと、せき立てたくとも文句の言いようがないとみえて、立ったり坐ったり、じれじれとしながら待ちうけているのを、主水之介がまた悠然と構えているのです。
「馬子にも衣裳という奴じゃ。あの妓《こ》、この妓があれば見せたいのう。駕籠じゃ。支度せい」
「お供は、京弥が――」
「いいや。いらぬ。その代りちと変った供をつれて参ろう。土蔵へ行けばある筈じゃ。馬の胸前《むなまえ》持って参って、駕籠につけい」
「胸前?」
「馬の前飾りじゃ。菊、存じておろう。鎧櫃《よろいびつ》と一緒に置いてある筈じゃ。大切《だいじ》な品ゆえ粗相あってはならぬぞ」
 意外な命を与えました。
 胸前《むなまえ》とは戦場往来、軍馬の胸に飾る前飾りです。品も不思議なら、不思議なその品を、いぶかしいことには馬ならぬ駕籠につけいと言うのでした。しかもそれを供にするというのです。
 怪しみながら躊《ため》らっているのを、
「持って参らば分る筈じゃ。早うせい」
 促して、ふたりに土蔵から運ばせました。
 見事な桐の箱です。
 表には墨の香も匂やかな筆の跡がある。

「拝領。胸前。早乙女家」

  重々しいそういう文字でした。
 只の品ではない。八万騎旗本が本来の面目使命は、一朝有事の際に、上将軍家のお旗本を守り固めるのがその本務です。井伊、本多、酒井、榊原の四天王は別格として、神君以来その八万騎中に、お影組というのが百騎ある。お影組とは即ち、将軍家お身代りとなるべき影武者なのです。兵家戦場の往来は、降るときもある、照る時もある、定めがたい空のように、勝ってみるまでは敗けて逃げる場合も覚悟しておかなければならないのです。お影組は即ちその時の用にあらかじめ備えた影武者なのでした。鎧、兜、陣羽織、着付の揃いは元よりのこと、馬もお揃い、馬具もお揃い、葵の御定紋もまた同じくお揃い、敗軍お旗本総崩れの場合があったら、いずれがいずれと定めがたい同じいで立ちのその百騎の中へ将軍家がまぎれ入って、取敢えず安全なところへ落ち伸びるための、お身代り役なのです。
 眉間《みけん》の傷に名代を誇る主水之介の家門家格は、実に又江戸徳川名代を誇るそのお影組百騎の中の一騎なのでした。
 さればこそ、蓋を払うと同時に現れた胸前は、紫|縒糸《よりいと》、総絹飾り房の目ざましき一領でした。
 紋がある。八百万石御威勢、葵《あおい》の御定紋が、きらめきながらその房の中から浮き上がって見えるのです。
 はッと、斬り伏せられたように豊後守以下の顔が、青たたみへひれ伏しました。
 天下、この御定紋にかかっては、草木の風に靡《なび》く比ではない。薄紙のようになって豊後守たちが平伏している間を、うやうやしく京弥に捧げ持たせながら主水之介は、心地よげに打ち笑み打ち笑み庭先の乗物へ近づくと、自ら手を添えてその駕籠前にふうわりと飾りつけました。
 不審は解けたのです。
 対手は機略縦横、評判の切れ者なのでした。途中が危ない。機を見て闇から闇へ葬ろうとの企らみがあるとすれば、必ずともに道中いずれかに油断の出来ぬ伏兵の用意もしてあるに相違ないのです。
 槍という手もある。
 弓という手もある。
 それからまた種ガ島。
 こればかりは防ぎようがない。わざわざ駕籠先に馬の胸前を飾りつけさせたのは、実にその飛び道具の襲撃を避けるためでした。まことや金城鉄壁、天下も慴《ひれ》伏す葵の御定紋が、その切れ端たりとも駕籠の先にかかったならば、もう只の駕籠ではないのです。上将軍家のお召し駕籠も同然なのです。
 これを狙って、プスリと一発見舞ったとしたら、溝口豊後、切腹どころの騒ぎではない。一|門《もん》震撼《しんかん》、九族は根絶やし。――果然、道中何かの計画があったとみえて、見る見るうちに豊後守の顔が青ざめました。
「アハハハ……。御定紋なるかな。御紋なるかなじゃ。馬鹿の顔が見たいのう。豊後どの、御供御苦労に存ずる。では、参ろうぞ。駕籠行けい」
 いいこころもちでした。
 無言の御威光古今に聞える紫房の御定紋が、供先お陸尺の手にせる灯りの流れの中をふさふさとゆれて、駕籠は静かに歩み初めました。

       一三

 割下水からお城への道は、両国橋を渡って大伝馬町をのぼり、四丁め、三丁め、二丁めと本町をいって、常盤橋《ときわばし》御門から下馬止めへかかるのが順序でした。
 道は暗い。
 狙うなら恰度頃合い……。
 その両国橋へさしかかったとき、察しの通り、やはり刺客《しかく》が伏せてあったのです。橋袂《はしたもと》のお制札場の横から、ちらりと黒い影が動いたかとみるまに、銃《つつ》さきらしい短い棒がじりッとのぞきました。
 しかし駕籠には、無双鉄壁|弾《たま》よけの御紋どころがある。
 只の通りものではない。八百万石御威光が通るのです。うしろに間を置いて引き随っていた豊後守の乗物の中から、慌ててさッと手が出ると、打ちうろたえながら影を制しました。
 同時に銃さきらしい短い捧が、怪しむように引っ込みました。
「わッははは。御定紋なるかな、御紋なるかなじゃ、馬鹿の顔が見たいのう。豊後どの、御供御警固御苦労に存ずる。駕籠行かっしゃい」
 爆発するような主水之介の声に、溝口豊後守も、取り巻いてひたひたと随っている十人の影も一様に歯ぎしりしたらしかったが、物を言うべき物が駕籠にかかっていたのでは手の出しようがないのです。
 駕籠は宵の口の大伝馬町へかかって、四丁め、三丁め、二丁めと本町を常盤橋御門めざしてのぼりました。
 その角。
 右は辻番所だが、左は炭部屋、矢来《やらい》廻の竹囲《たけがこ》いがあって、中は刺客の忍ぶには屈強な場所です。両国で仕損じたら、ここでという計画だったらしく、ちらりとまた二ツ、その竹囲いの中から黒い影がのぞきました。
 やはり短い銃《つつ》です。
 しかし、のぞくと一緒にうしろの駕籠から、豊後のうろたえた手がまたさッと出て、慌てふためきながら制しました。
「わッははは。御定紋なるかな、御紋なるかなじゃ。馬鹿の顔が見たいのう。豊後どの、御念の入ったる御警固御苦労に存ずる。駕籠行かっしゃい」
 崩れるような爆笑を打ちのせて、主水之介の乗物はゆさゆさと常盤橋御門へさしかかりました。
 ここを通ればもう御城内。下馬止めまでずっと安全でした。
 だが、それにしても気にかかるのは、豊後のこの計らいです。闇から闇へ片付けて、事の黒白を永遠に秘密の中に葬ろうとしたこの計らいが、豊後自身の方策から出ているか、それとも腰本治右が手を廻した策であるか、もしも治右が陰に動いて、破邪顕正の大役承わる大目付までをもおのが薬籠中《やくろうちゅう》のものにしているとしたら、ゆめ油断はならぬ。おそらく将軍家の耳にも、身の潔白は歪められて、ゆうべの一条もあることないこと様々に尾ひれをつけた上、さもこちらからお紋の方にゆるしがたき不義の恋しかけたごとく言上されているに違いないのです。
 主水之介は、ぐいと丹田に力を入れて、静かに腹をなでました。
 黒が白と通る将軍家です。
 ましてやその一|顰《びん》一笑によって、国も傾く女魔《にょま》がおつきなのです。
 下乗橋《げじょうばし》からお庭伝いに右へいって、中ノ口。そこが名だたる江戸御本丸の中ノ口大玄関でした。
「大目付、溝口豊後守様、御登城にござりますうウ……」
「おあと、早乙女主水之介殿、御案内イ……」
 時ならぬ夜の登城でした。呼び立てたお城坊主に案内されて、大廊下、中廊下を曲りながら導かれていったところは、老中御用都屋につづいた中御評定所《なかごひょうじょうしょ》です。
 主水之介の席は、はるかに下がって左り。
 右は、腰本治右衛門が控えるだろうと思われたのに、それらしい気色もない、御前裁きというからには、両々対決さすべきが当然であるのに、座の容子ではまさしく片手裁きです。
 お坊主たちを促して、何かと手配させている豊後の顔は真ッ青でした。
 その顔は、闇から闇へ葬ることの出来なかったことを恐るる色でした。
 御直裁《ごじきさい》を仰ぐと言ったものの、栽きを仰いでもし一主水之介、身の潔白を立て通しえたら、大目付職務の面目は丸潰れなのです。人を呪ったその穴は、おのが足元にぽっかりとあいて来るのです。
 城内、夜陰の気はしんしんと引きしまって、しわぶきの音一ツない。
 主水之介のおもても冴えて白く、光るのは只眉間傷ばかり。
 将軍家は大奥入りをしていられるとみえて、お坊主の顔がのぞいては消え、消えてはまたのぞきながら、しきりと豊後守の青い顔と何か囁き合っていたが、やがてのことにお廊下をこちらへ、高々と呼び立てた声があがりました。
「御出座!」
 右と左と、豊後、主水之介、ふたりの姿がはッと平伏したのと一緒に、ちょこちょこと出て来たのは赤白まだらの犬です。お犬公方様またなき御愛犬と見えて、お守役のお城小姓がふたり。
「五位さま、こちらこちら。お席はここでござります」
 変哲《へんてつ》もない只の犬だが、八百万石御寵愛の犬とあってはこれも御威光広大、位も五位と見えて、尾の長い五位さまがいとも心得顔に、将軍家お褥《しとね》のかたわらへちょこなんと坐ったところへ、荒々しいたたみの音がつづいて、お犬公方綱吉公のけわしい顔が現れました。
 同時です。
「不所存者めがッ。どの顔さげて参った!」
 はぜるような雷声《かみなりごえ》が、主水之介の頭上へ落ちかかりました。
 よくよく御癇癖《ごかんぺき》が募《つの》っているとみえるのです。それっきり、褥《しとね》を取ろうともせずに立ちはだかったまま、じりじりとしていられたが、意外なところへさらに大きな飛び雷が落ちました。
「豊後も何じゃ! うつけ者めがッ」
「はッ」
「は、ではない! このざまは何のことじゃ! なぜ、なぜ、――なぜ主水之介を生かして連れおった!」
 思いもよらぬ御諚《ごじょう》です。
 主水之介は、はッとなりました。おそらく首にして連れいとの御内命があったに相違ない。あったればこそ、生かして連れて来たことがお叱りの種にもなったのです。この雲行から察すると、治右の手がすでに将軍家にまでも伸びているのは言うまでもないこと、一言半句の失言があっても、御気色《みけしき》は愈々|険悪《けんあく》、恐るべき御上意の下るのは知れ切ったことでした。
 しかし主水之介は、森々沈着、神色また自若、しいんと声を含んで氷のごとく冷たく平伏したままでした。
 その頭上へ、立ちはだかったままの将軍家の尖《と》げ尖げしい声がふたたび落ちかかりました。
「憎い! 憎い! 憎いと申すも憎い奴じゃ! 不埓者めがッ。顔あげい!」
「………」
「なぜあげぬ! 顔あげてみい!」
「………」
「あげぬな! 不届者めがッ。それにて直参旗本の職分立つと思うか! たわけ者めがッ。治右よりその方の不埓、逐一きいたぞ。お紋を何と心得ておる! 言うも憎い奴じゃ! 顔あげてみい!」
 しかし主水之介は、ことさらに押し黙って、しんしんと静かに平伏したままでした。賢明な策です。立ちはだかったままで、お褥も取らないほどに御癇癖が募っている今、何を申上げたとてお耳に這入る筈はないのです。ないと知って、とやかく弁明したら、弁明したことがなお御癇癖に障るは必定、障ったら切腹、改易《かいえき》、お手討ち、上意討ち、黒白正邪をつけないうちに、只お憎しみ一途の御諚が下るのは知れ切ったことでした。
 すべては御癇癖が鎮まってからのこと。その御気色の軟らぐのを待つために、ことさら押し黙って、ことさらにおもてもあげずしんしんと平伏をつづけました。
 策は当った。
 次第に御癇の虫が軟らいだとみえて、先ずお座へ就かれました。
「茶! 茶! お茶はいずれじゃ」
「御前《おんまえ》にござります……」
 お召しあがりになった気はいでした。
 咽喉《のど》の乾きが止まれば、御癇の虫も止まる。
 案の定、声にはまだ嶮《けわ》しい名残りがあったが、どうやら御心も鎮ったらしい御諚が下りました。
「申開きあらば聞いてえさせる。顔あげい!」
「はッ……」
 もう頃合いです。
 静かにおもてをあげると、朗々とめでたくもなだらかな声が流れ出しました。
「いつにないお爽やかな御気色《みけしき》、主水之介何よりの歓びにござります」
「なに! 爽かな御気色とは何じゃ! 予の怒った顔がそちには爽やかに見ゆるか!」
「またなきお爽やかさ、天下兵馬の権を御司《おんつかさど》り遊ばす君が、取るにも足らぬ佞人《ねいじん》ばらの讒言《さんげん》おきき遊ばして、御心おみだしなさるようではと、恐れながら主水之介、道々心を痛めて罷り越しましてござりまするが、いつにも変らぬそのお爽やかさ、さすがは権現様《ごんげんさま》お血筋、二なき御明君と主水之介よろこばしき儀にござります」
「黙れッ! たわけッ。佞人ばらとは何じゃ! 誰のことじゃ!」
「すなわち腰本治右衛門、まったお紋の方様、倶《とも》に天を戴きかねる佞人にござります」
「黙れッ。黙れッ。紋が佞人とは何じゃ! お紋は予が寵愛の女、またなく可愛い奴じゃ。たわけ申すと許さぬぞッ」
「それこそ佞人の証拠、御明君のお目を紊《みだ》し奉つるが何より佞人の証拠にござります。上は天晴れ御明君、われら直参旗本が自慢の御明君――」
「黙れッ、黙れッ、黙らぬかッ」
「いいや、上は御明君、天下に誇るべき御明君、主水之介もまたつねづねそれを思い、これを思い――」
「黙れと申すに黙らぬかッ」
「いいや、上は天晴れ御明君、天下二なき御明君を戴き奉つることほど、よろこばしき儀はござりませぬ。女魔と申すものはとかく美しきもの、御寵愛はさることながら、それゆえにお上ほどの御明君が、正邪のお目違い遊ばされたとあっては由々《ゆゆ》しき大事、只々御明察のほど願わしゅうござります……」
 一にも明君、二にも明君、只明君々々と明君ずくめで押し通しました。賢明な策です。暗愚と言われたよりも明君と言われたら、八百万石のお心持も、さぞやいいお心持だったに違いない。将軍家のお顔いろは、果然軟らぎました。
「では、治右の申せし事、その方はみな偽りじゃと申すか」
「御意にござります。どのようなことどもお耳へ入れ奉ったかは存じませぬが、早乙女主水之介も三河ながらの由緒ある旗本、恐れながら上《かみ》、御寵愛のお部屋様ときくも憚《はばか》り多い不義密通なぞ致すほど、心腐ってはおりませぬ。すべて腰本治右の企らみましたるつくりごと、御賢察願わしゅうござります」
「でも治右は、その方がささに酔いしれて、紋にたわむれかけたと申しおるぞ」
「以ってのほかの讒言《ざんげん》、みなこの早乙女主水之介を罪ならぬ罪に陥し入れようとの企らみからでござります。上も御承知遊ばす通り、あの者はもと卑しき黒鍬上がり、権に驕《おご》って、昨今の身分柄もわきまえず、曲輪の卑しきはした女《め》に横恋慕せしが事の初まりにござります。小芳と申すその女、他へかしずきしを嫉《ねた》んで、あるまじき横道しかけましたを、はからずも主水之介、目にかけまして力となったが治右には目ざわり、あろうことかあるまいことか、上、御寵愛のお紋の方様をそそのかし、場所も言語同断の伝通院へこのわたくしを招き寄せ、ささのたわむれ、お膝のたわむれ、申すも恐れ多い御振舞い遊ばされたのでござります」
「なぜたわむれた! よしや治右《じえ》の企らみであろうとも紋は予が寵愛の女じゃ。知りつつその方がまたなぜたわむれた!」
「天下の為、上、御政道の御為にござります」
「たわけめッ! 将軍家が寵愛の女の膝にたわむるが何ゆえ天下の為じゃ!」
「父娘《おやこ》、腹を合せて不義を強《し》いるような不埓者、すておかば恩寵《おんちょう》に甘えて、どのような非望企らむやも計られませぬ、知りつつお膝をお借り申し奉ったは、みな、主水之介、上への御意見代り、いずれはお膝を汚し奉ったことも、御上聞に達するは必定《ひつじょう》、さすれば身の潔白もお申し開き仕り、御前に於て黒白のお裁き願い、君側の奸人《かんじん》どもお浄《きよ》め奉ろうとの計らい、君側の奸を浄むるはすなわち天下のため、上御政道のお為にござります」
「たわけめッ」
「は?」
「たわけじゃと申すわい」
「有難きしあわせ、早乙女主水之介は天下第一の大たわけ者でござります。さりながら、このたわけは只のたわけではござりませぬ。三河ながらの旗本はみなたわけ者、上、御政道、天下の為なら喜んでいのち棄てるたわけ者ばかりでござります。主水之介、天地に誓って身は潔白、御疑念晴れませねば、只今このところにおきまして、お紋の方様と対決致しましても苦しゅうござりませぬ」
「対決?」
「はッ。それにても御疑念晴れませねば伝通院の坊主どもお招きの上にて対決するともなお苦しゅうござりませぬ。上は二なき御明君、御明察願わしゅうござります」
「いずれにしても不埓者じゃ、不、不埓者めがッ」
「恐れ入ってござります。不義を強《し》いて天下を紊《みだ》そうといたしましたるは治右が不埓か、或いはまた貸すべからざる膝貸し与えたお紋の方様が不埓か、それとも御怒りに触るるを覚悟で、御意見代りにお膝汚し奉ったこの主水之介が不埓か、黒白は上のお目次第、もし万一、主水之介に不埓ありとの御諚《ごじょう》ならば、切腹、お手討、ゆめいといませぬ。おじきじきのお裁き願わしゅうござります」
「………」
「恐れながら御賢慮のほど、いかがにござります」
「憎い。いや、もう聞きとうない! 予は気分がわるうなった。見苦しい。もうゆけい!」
 清浄潔白、理非を正した主水之介の言葉に、怒りの的がなくなったのです。何ということもなく睨《にら》みつけて、やり場に困るお怒りをじりじりと押えつけていられたが、さッと褥を蹴って立ち上がると、荒々しげにおすだれ屏風のうしろへ消えました。
 しかし、よくよく御憤懣《ごふんまん》のやり場がなかったとみえるのです。つかつかとまたかえって来ると、叱りつけました。
「豊後、そちも不埓な奴じゃ。その方の申条とは大分違っておるぞ。憎い奴めがッ。ゆけい!」
 去りかけて、何となくまだそれではお胸のもやもやが晴れなかったとみえるのです。
「治右も不埓じゃ。お紋も不埓じゃ。いや、紋は可愛い。憎いは膝じゃ。たわけものたちめがッ。御意見代りに大切《だいじ》な膝借りるというたわけがあるかッ。貸すというても遠慮するが当りまえじゃ。三河流儀の旗本どもは骨が硬《かと》うて困る。お紋の膝だけは爾後《じご》遠慮するよう気をつけい。五位、行くぞ。参れ」
 犬はお膝がないから、しあわせでした。くるりと巻いた尾をふって、いらだたしげに消えた将軍家のあとから、ちょこちょこと姿を消しました。
 主水之介の潔白はついに通ったのです。
 豊後のおもては真ッ青でした。
 治右の手が廻っているといないとに拘わらず、大目付の役向きあるものが目違いした責《せめ》は免がれないのです。
 憎い奴めがッ、行けい、と御諚は只それだけだったが、取りようによっては黒白の見えぬ奴じゃ、切腹せい、という御上意にも取れないことはない。ましてや豊後も家門は同じ旗本、智恵者の評判の身を顧みたら、おのれの不明が恥ずかしくもなったに違いないのです。
 声もなくうなだれて、黙々と打ち沈んだままでした。
 引き替えて主水之介のほがらかさ。
「お介添《かいぞえ》、いろいろと御苦労でござった。そなたも同じ旗本、とかく旗本は大たわけ者に限りますのう。骨が硬うて困るとの仰せじゃ。飴《あめ》でも煎《せん》じて飲みましょうぞい。――お坊主! 早乙女主水之介罷りかえる。御案内下されい」
 サッ、サッと、袴の衣ずれが夜の大廊下にひびいて爽やかでした。

       一四

 表はもう四ツ近かった。
 暗い。
 大江戸は、目路《めじ》の限り、黒い布をひろげたような濃い闇です。
「供! 主水之介じゃ。供の者はおらぬか」
「あッ。おかえり遊ばしませ。よく、御無事でござりましたなあ」
「眉間の傷はのう。お城へ参っても有難い守り札じゃ。上様《うえさま》はいつもながらの御名君、先ず先ず腹も切らずに済んだというものじゃ。ゆっくりゆけい」
「お胸前は?」
「まだ馬鹿者が迷うて出ぬとも限らぬ。そのままつけて行けい」
 下乗橋からゆったり乗って、さしかかったのが常盤橋御門、ぬけると道は愈々暗い。
 お濠を越えて吹き渡る夜風がふわり、ふわりと柳の糸をそよがせながら、なぜともなしに鬼気《きき》身に迫るようでした。
 濠について街のかなたへ曲ろうとしたとき、不意です。
 殺気だ。
 窺測《きそく》の殺気だ。
 只の殺気ではない。
 刺客の窺い狙う殺気です。
 ひた、ひた、ひたと足首ころして忍び寄って来たその殺気が、ぴいんと主水之介の胸を刺しました。
 刹那です。
「あッ。殿様、狼藉者《ろうぜきもの》でござりまするぞッ!」
 声より早い。
 供の陸尺《ろくしゃく》たちが叫んだまえに、主水之介の身体はさッともうおどり出して仁王立ち、ぴたりと駕籠に身をよせながら、見すかすと、槍、槍、槍、四方、八方、槍ばかりです。
 三本、四本。
 六本、八本。
 いずれも短槍《たんそう》でした。
 もも立ち取って、すはだしの黒頭巾、しかも侮《あなど》りがたい構えなのです。
 無言のままぴたりとその八本が八方から穂先をつけて、じりじりと主水之介の身辺へにじり迫りました。

       一五

 何者?――
 一瞬主水之介の目が、稲妻のように光りました。
 御定紋なるかな、御定紋なるかな、と、これある限りたとえいかなる狼藉者といえども、刄向う術《すべ》はあるまいと思われたのに、そのお胸前が眼に入らぬのか、それとも知りつつ不敵な闇討かけたか、もし知ってなお恐れもなく刄向う者ありとしたら、容易ならぬ刺客に違いないのです。
「うろたえ者めがッ。この御定紋、目に入らぬかッ。うかつな真似致すと取りかえしつかぬぞッ」
 だが、不敵です。火のような主水之介の一|喝《かつ》も耳に入らぬのか、駕籠先につけたお胸前の葵の御紋は、陸尺たちが取り落して燃え上がっている提灯の火にあかあかと照し出されているというのに、刺客の影はビクともしないのです。ばかりか、無言のままじりッ、じりッと、包囲の環をちぢめて来る。
 八方にかこまれたままでは策はない。――今はこれ迄、と機をうかがって、パッと駕籠をはね飛ばすと、主水之介は、開いたその隙をものの見事な一足飛び――が、瞬間、崩れたとみえた短槍の包囲陣は、間もおかず半月形に立ち直って、無言のまま、またもじりじりと、主水之介へつめよせて来ました。
 影はやはり八ツ。しかもまことに整然そのものと言いたいみごとな構え、態勢です。
 只者ではない!
 腰本治右衛門の一味か――、当然起る疑問です。が、それにしては態勢がみごとすぎる。
 なら、将軍家の御機嫌を損《そこな》った溝口豊後が主水之介の口を永久に封じて、首尾つくろい直そうと放った刺客か――。
 主水之介の眼は不審にきらめきました。鋭く闇に動くその眼に、ふと、更に三つの影が映りました。槍襖の向うから、一つの影に二つの影が守るように寄り添って、じっと形勢を窺っているのです。
「………?」
 探るように主水之介の眼は、短槍の列を越えて、向うの三つの影へ喰い入りました。――その真中の影が、殺気をはらんだこの対峙《たいじ》を前にして、これはまた何としたことか、鷹揚《おうよう》そのものといいたいふところ手で、ぬうッと立っているのを見定めた瞬間、何思ったか、主水之介の面ににんまりわいたものは不敵な微笑でした。同時に太い声が放たれました。
「アハ……。おもしろい。お相手仕ろうぞ…」
 何ごとか期するところあるに違いない。左手《ゆんで》を丹田に右手《めて》を上向きにつきあげた揚心流水月当身《ようしんりゅうすいげつあてみ》の構え!
 ――素手《すで》で行こうというのです。しかも、ぐっと相手をにらんだその目の底には、明るい微笑が漂うたままなのです。
「これでまいる! 素手は素手ながら三河ながらの直参旗本、早乙女主水之介が両の拳《こぶし》、真槍《しんそう》白刄《しらは》よりちと手強《てごわ》いぞ。心してまいられい…」
「………」
「臆するには及ばぬ……遠慮も御無用!………額の三カ月傷こわかろうが、とっては食わぬ。腕一杯、踏んで来られたらどうじゃ」
 広言にくしとはやったか、右の一槍が、夜目にもしるくスルリと光って、
「えいッ」
 裂帛《れつばく》の気合もろともに突っかかったがヒラリ、半身《はんみ》に開いた主水之介の横へ流れて、その穂先は、ぐっと主水之介の小脇にかかえこまれてしまいました。
 のばした槍はうかつにはなせない。はなした一瞬、槍ははねかえって、おそろしい石突きの当身が見舞うのは知れたこと、引きもならず、進みもならず、必死と槍の一方にすがってもたついているのを、
「小|癪《しゃく》ッ」
 左から一槍が救いに走ってのびたが、また、いけない。寸前かるく体をひねった主水之介の右の小脇に、その穂先までがかいこまれてしまったのです。
「いかが! 敵を即座の楯とする、早乙女主水之介、無手勝流の奥義。お気に召しましたか」
「………」
「そのまま! そのまま! 突いてかかれば二つの槍につかまったお仲間が田楽ざしじゃ。次には同じく早乙女流、追い立て追い落しの秘芸御覧に入れる。――まいるぞ!」
 十字に組んだ二本の槍を、ぐいと両脇でかかえなおしたかとみるや、槍先の二人もろ共、わが身もろ共、じりりッと、残る六本の槍襖へ押し迫りました。仲間を楯に来られては、もはや返るより他はないのです。
「賢い! 賢い! はなれず後退《あとさが》りが兵法《へいほう》の妙じゃ! ほら! 一尺! ほら! 二尺! 一人でもはなれたら、この石突きがお見舞い申すぞ! ほら! ほら! 突いてかかればお仲間が田楽ざし! ほら! ほら!」
 六本の槍襖がじりじりと背後の指揮者とみえる影のところまで退って、一緒になった九つの影がじりりッとお濠の方へ――。
「ほら! ほら! あとすこしでお濠でござるぞ。お濠の水雑炊《みずぞうすい》おたしなみなさるも御一興。鮒《ふな》、鯉、どしょう、お好みならばいもり、すっぽんもおりましょうぞ。――ほらッ。ほらッ」
 あぶない。お濠の角石まであとがつまって、爪先立ってよろめく一番うしろから、今にも人|雪崩《なだ》れ打ってお濠へ落ちこむ、――と見えた途端でした。――不意に退屈男の背後から、どすぐろい叫びがあがりました。
「おひるみめさるな! そちらの方々! 押し返しめされい。加勢じゃ! 加勢じゃ! われらがお加勢つかまつるぞ! 挟み打ちにいたそう! 押し返しめされいッ」

       一六

 ハッとふりかえると、いつの間に迫ったか、いる! いる! かれこれ二十人ばかり、あまり風体もよろしくないごろつき付らしいのが、これが頭と見える白覆面を先頭に、ズラズラと白刄をならべているのです。
「やっておしまいなされ! この通り大勢、加勢がいるのじゃ! どなたたちか知らぬが、われ等も主水之介には恨みがあるのじゃ。どうでも今宵の中に呼吸《いき》の根をとめねばならぬそやつじゃ。われ等も必死に助勢つかまつるぞ! ――早う、早う! かかれッ。かかれッ。お前達もかかれッ」
 けしかける白覆面の声にサッと黒い人山が動いた。刹那です! かかえていた槍の一本を、ぐいと突いて、ぐいと引いてわが手に奪った退屈男、斜めに体をとばして、側面へぬけるや、きっと構えて大喝一声――。
「推参者めッ。主水之介と存じながら、この三カ月傷に鼠泣きさせたいかッ」
 その神速! その凛烈の気合! まこと大江戸名代旗本退屈男の威風が燃えるばかりです。黒い人山がぎょッと立ちすくんだ。――途端でした。闇の向うから、バタバタという足音が、はげしいいきづかいとともに近づいたと思うと、
「ま、間にあったか!」
 まぎれもない下総の十五郎でした。
 つづいて京弥――。
 つづいて菊路――。
「兄上!」
「殿ッ」
「ご、御前! ご、ご無事でごぜえやしたか! よかった! よかった! よよッ。そっちにもいやがるな。そ、そのお濠端の方は知らねえが、そ、そこにいるその白覆面は――」
「腰本治右衛門であろう」
 白覆面がピクリと動きました。
「お見通し! そうなんだ。じ、じつあ、京弥さまから、御前が不意の御呼び出しで御登城なすったお知らせいただいたんで、どうせこりゃ腰本の狒狒侍《ひひざむらい》の小細工、この上どんなたくらみしやがるかと屋敷の前へ張って容子をさぐっていたら、お城の小者が顔色かえて飛びつけて来ると、屋敷の中が急にガタつき出し、狒狒爺め覆面なんぞつけそこにいるガラクタどもをつれてお城の方へ急ぐんだ。あとをつけながら話をぬすみ聞いたら、どうやらお城じゃ御前の言い分が通り、狒狒爺のお蔵に火がついたんでこいつらアやぶれかぶれ、この上は今夜の中に御前を闇から闇へ消してしまってあとはお紋狐の口細工で将軍さまをいいくるめ直そうって悪だくみだ、こいつあ大変、腕はなまくらでもこの人数だ。御前だってお怪我の一つぐらいはなさるかも知んねえ、すこしも早くお屋敷へとすっとんでいったら、有がてえ! 途中で心配して出迎いに来られた菊路さまと京弥さまにバッタリ、三人火の玉になってかけつけて来たんだ。――さあ、狒狒侍ッ」
 おぞましや面皮《めんぴ》はがれて白覆面の腰本治右衛門、ピクリとまた後へさがりました。
「チビ狒狒どもも前へ出ろい! 下総の十五郎がかけつけたからにゃ、もう御前様にゃ、指一本ささせるもんじゃねえぞ。九十九里の荒浜でゴマンと鯨《くじら》を退治たこの腕で片ッ端から成仏さしてやらあ! 冥途急ぎのしてえ奴からかかって来い!」
「ひかえい! 十五郎!」
 はやり立った十五郎を、主水之介、キッと押えました。
「仔細があるゆえ、そちは後ろにひかえろ! ――京弥! 菊路!」
「はッ」
 よりそって進み出た二人へ、
「そちたちには腕だめしゆるすぞ。よき機会《おり》ぞ。日頃仕込んだ揚心流当身の術、心ゆくまで楽しむ用意せい」
「はッ」
 りりしくもういういしくも、勇んで二人が身構えると、主水之介、お濠端の方へはまったく警戒をといたように、ぐるりと真正面から腰本一味へ向き直りました。烱々《けいけい》たる眼光が、白覆面を射通すように見すくめました。
「腰本治右衛門……この目をみい!」
「………」
「今のこの男の申し分、何ときいたぞ!」
「………」
「お小納戸頭取《こなんどとうどり》の重職すらいただく身が、漁師|渡世《とせい》の者よりこれほどまでにののしられて、上の御政道相立つと思うか! よこしまの恋に心がくらみ、御恩寵うくる妹に不義しかけさせるさえあるに、この主水之介の命うぼうて上の御賢明をくらまそうとは何事ぞ! 目をさませッ。本心とりもどせ。性根《しょうね》入れ替えると一言申さば、主水之介とて同じお旗本につらなる身、ことを荒立てとうはない! いかがじゃ!」
「な、な、なにをッ。う、うぬのその口封じてしまえばよいのじゃ!」
 白覆面の中からにごったわめきをふきあげました。
「い、妹の器量ならうぬもうつつぬかそうと考えたのがこっちの手違い、いやさ、うぬさえこの世におらずば、おれと妹の天下じゃわい。やるッ。やるッ。――か、方々ッ。そっちの方々ッ」
「………」
「おかかりなされッ。この邪魔者消すは今宵じゃ、明日にならば、――いや、善は急げじゃッ、そっちも多勢、こっちも多勢、力を合せたらこやつ一匹ぐらいわけはないのじゃッ。早うとびこみめされいッ。早うお突き立てめされいッ」
 黒鍬上がりのいやしさをまる出しに、お濠端の方へ懸命にわめきかけましたが、――不思議でした。動かないのです。濠端の一団は、どうしたというのか、いつのまにか槍の構えもすてて、もくもくとこちらを見守ったままなのです。腰本治右衛門のいら立ちも今は必死――。
「お、臆されたかッ。で、ではわれ等の新手《あらて》がかかるゆえ、後につづかれいッ。――さ、かかれッ。かかれッ。ほうびじゃ! ほうびじゃッ! こいつさえたたんだら、あとはおれと妹の天下じゃ! ほうびは望み次第、つかみ次第! 千両でもやるぞッ。かかれッ。かかれッ」
 ほうびが千両! 望み次第というのにけしかけられたのです。人体よろしくない人山が、一せいに獰猛な歯をむき、サッと白刄をきらめかすと、わあッと異様な叫びをあげて、主水之介、菊路、京弥の三人めがけて襲いかかりました。
「京弥さま! しっかり!」
「菊路さま! おぬかり遊ばすな!」
 見事です! ひらり、ひらり、草原の嵐に舞う胡蝶《こちょう》のように、京弥の小姓姿と、菊路の振袖姿が、おしよせた一陣の中をかいくぐり、かいくぐり、右へ左へ、動いたかと思うと、
「あ!」
「うーん!」
 バタリ、また一人。
 バタリ、また一人。――まこと早乙女主水之介|薫陶《くんとう》の揚心流当身のものすさまじさ! 夜目にも玉をあざむく二人の若人の腕ののびるところ、鬼をもひしぎそうな大男の浪人姿がつぎつぎとたおれて、うしろからバラバラと、裏崩れ。たまりかねたか、
「めあては早乙女だッ。おれにつづけッ」
 とびかかった腰本治右衛門――。
「ばか者めッ」
 そのまま、退屈男の前へ金縛《かなしば》りにあったように立ちすくんでしまいました。
 おそろしい目です。射通すようにおそろしい主水之介の烱々《けいけい》たる眼光です。
「………」
 じりッと、そのおそろしい目が一足動いた――。
「た、たすけてくれッ」
 悲鳴をあげて腰本治右衛門、お濠端の一団の中へ逃げこもうとした途端、奇ッ怪です。サッと、一本の槍の石突きが、当の一団の中から流れ出たかと思うと、物の見事に治右衛門のみぞおちへ、――治右衛門の身体は、投げ出されたように砂利の上へ叩きつけられました。
 同時にお濠端の一団から、袴のもも立ちりりしい姿がバラバラととび出すと、この逆転にあけっにとられた腰本一味の者を片ッ端からとっておさえる。おどりあがったのは十五郎です。
「おもしれえことになりゃがったぞッ。ざまを見ろい。この野郎!」
 とび出して、腰本治右衛門をしめあげようとしたのを、
「ひかえろッ。十五郎ッ」
 主水之介の大|喝《かつ》が下りました。
「京弥も菊路もひかえい。下座ッ。下座ッ。神妙に下座せいッ」
 自らもまたその場に正座して、お濠端にのこった指揮者らしい姿にうやうやしく一礼すると、神色かわらぬその面にはればれとした笑みをただよわせながらいいました。
「上《かみ》! 三河ながらの旗本の手の内、まった生《き》ッ粋《すい》旗本の性根のほど、この辺で御堪能にござりましょうや」

       一七

「あははは。にっくい奴のう! 見破りおったか!」
 さわやかな笑いでした。笑いと共にずいと進みよった覆面の中から流れ出た声は、意外、将軍家綱吉公のそれでした。ふところ手のまま、主水之介の面前に立たれて、一段とお声が明るくかかりました。
「堪能じゃ堪能じゃ。いや、濠ぎわに追いつめられた時は汗が出るほど堪能いたしたぞ。あはははは、天下の将軍にあれまで堪能さすとは、にっくい主水之介よのう。はじめより余と知っての馳走か!」
「御意!」
「のう……」
「おそれながら、御骨相におのずとそなわる天下の御威光、夜目にもさえざえと拝しました上、御近習衆のお槍筋が、揃いも揃ったお止め流の正法眼流《せいほうがんりゅう》! 更には又、葵《あおい》御紋をも憚《はばか》らぬ不審! さては、上《かみ》、この主水之介の三河ながらの手の内試し、御所望ならんと存じ、御心ゆくばかり――」
「堪能させおったか」
「御意!」
「はははははは。いよいよもってにっくい主水之介じゃ。おもしろい。――おもしろい。いやのう。さきほどのそちの申し開き、胸にこたえてよくわかったが、心冴えぬは紋の不始末じゃ。女の表裏二心は大賢をも苦しむると申すが、尤もじゃのう。ふと、三河ながら、三河ながらと吹きおったそちの手の内ためしたら癇癪《かんしゃく》も晴れようと気づき、豊後《ぶんご》をはじめこの者共ひきつれて涼みにまいったのじゃ。よくやりおったな! 主水之介! 天ッ晴れじゃ! 見ごとじゃ! わしの胸の内、見ごとに晴れたわい。――主水之介!」
「は!」
「紋には暇《いとま》とらすぞよ」
「ははッ」
「まったこれなる人非人――」
 不興げに治右衛門の上を走ったお目が、うしろへ流れました。
「豊後! 豊後!」
「ははッ」
 するすると出てうずくまったのは、大目付溝口豊後その人でした。
「そのうじ虫に活を入れい!」
「はッ」
 エイッと、豊後に背を打たれて正気づいた治右衛門、キョトキョトまわりを見まわしましたが、前に立ったのが将軍家と知ると、あッとばかりに、顔をふせて、砂利へくい入るようにはいつくばいました。
「よくもこの綱吉に一代の恥かかせおったな。裁きは豊後に申しつくる。なお、町人どもをどのように苦しめているやも知れぬ。仮借《かしゃく》のう糾明《きゅうめい》せい。――目障りじゃ。早うひけいッ」
 鶴の一声、とびかかった御近習の刀の下げ緒《お》でくくしあげられた腰本治右衛門、まことあわれ千万なその姿は、おりからほのかにさしはじめた月明りの中を、一味ともども伝馬町の大牢の方へひかれて行きました。
「笑止な奴よのう! ――主水之介!」
「はッ」
「君子の謬《あやまち》は天下万民これを見る。よくぞ紋めの膝で諌言《かんげん》いたしてくれた。綱吉、礼をいうぞ」
 光風霽月《こうふうせいげつ》、さきほどまでのことには何のこだわりもない明るいお声です。見上げる退屈男の目に光るものがわきました。
「上《かみ》!」
「綱吉の仕置き、これでよいか」
「なにをか、なにをか――」
 このお裁きいただきたさに、決死の登城をしたのです。天下万民のため命をすててと、こめた願いは通ったのです。主水之介の声はぐっと感激につまりました。
「――なにをか主水之介、申しましょうや。ただただ……」
「胸がすいたか」
「ははッ。聖人は色を以て賢に替えず。天っ晴れ神君御血筋の御名君! この君戴いて天下泰平、諸民安堵! 御名君! 御名君! 主水之介のよろこびは四民のよろこび、何とも申し上げようもござりませぬ」
「いかん! いかん! そちの御名君々々々が出るとあとがこわいぞ、のう、豊後!」
「御意!」
「また冷汗かかされぬうちに引揚げた方が賢明じゃ。――よい夜気《やき》のう。今宵は快うやすまれるぞ。豊後! 馬!」
「はッ」
 最後のさしまねいた手に応じて、橋の向うからかけよって来た御乗馬にゆらりとまたがられると、
「主水之介、時おりはまた小言を堪能させにまいれよ。さらばじゃ」
「主水之介どの今宵のお手柄、祝着《しゅうじゃく》に存ずる。挨拶はいずれ後日――」
 はれやかな会釈のこして溝口豊後守も騎乗。カバ、カバ、こころよい蹄の音ひびかせて将軍家の一行は千代田城の奥へ、――見送る中から、くくと男の泣声がわきました。
 十五郎です。
 うれしかったのです。とるに足らないと思っていた自分の妹風情の恋の倖《しあわ》せが、天下将軍じきじきのお裁きで、執拗《しつよう》な邪悪の手から救われたことのよろこびが、頑丈なその胸をくい破ったのです。
「うれしいか、十五郎」
 将軍家をお見送りおわると、主水之介の目はこのもしげに十五郎をうながしました。
「そのよろこび、早う妹へ伝えてつかわせ。われらもともに引上げようぞ。――京弥。お胸前!」
「はッ」
 陸尺共がおきすてて逃げたお胸前を捧げて京弥が先頭に――。
 ぴたり、よりそって菊路。それから退屈男、十五郎――。
 月が出た。人の心を明るくさわやかにそそるように、屋並《やなみ》の向うからさしのぼった月の光の中を明るい影が動いて行きました。
      (完)

底本:「旗本退屈男」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年7月20日新装第1刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:tatsuki
校正:大野晋
2001年12月18日公開
2002年1月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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