一
ある年の正月下旬である。寒い風のふく宵に半七老人を訪問すると、老人は近所の銭湯《せんとう》から帰って来たところであった。その頃はまだ朝湯《あさゆ》の流行っている時代で、半七老人は毎朝六時を合図に手拭をさげて出ると聞いていたのに、日が暮れてから湯に行ったのは珍らしいと思った。それについて、老人の方から先に云い出した。
「今夜は久しぶりで夜の湯へ行きました。日が暮れてから帰って来たもんですから……」
「どこへお出かけになりました」
「川崎へ……。きょうは初大師の御縁日で」
「正月二十一日……。成程きょうは初大師でしたね」
「わたくしのような昔者《むかしもの》は少ないかと思ったら、いや、どう致しまして……。昔よりも何層倍という人出で、その賑やかいには驚きました。尤も江戸時代と違って、今日《こんにち》では汽車の便利がありますからね。昔は江戸から川崎の大師河原まで五里半とかいうので、日帰りにすれば十里以上、女は勿論、足の弱い人たちは途中を幾らか駕籠に助《す》けて貰わなければなりません。足の達者な人間でも随分くたびれましたよ」
「それでも相当に繁昌したんでしょうね」
「今程じゃありませんが、御縁日にはなかなか繁昌しました」と、老人はうなずいた。「なんでも文化の初め頃に、十一代将軍の川崎御参詣があったそうで……。御承知の通り、川崎は厄除《やくよけ》大師と云われるのですから、将軍は四十二の厄年で参詣になったのだと云うことでした。それが世間に知れ渡ると、公方《くぼう》様でさえも御参詣なさるのだからと云うので、また俄かに信心者が増して来て、わたくし共の若いときにも随分参詣人がありました。明治の今日《こんにち》はそんなことも無いでしょうが、昔はわたくし共のような稼業の者には信心者が多うござんして、罪ほろぼしの積りか、災難よけの積りか、忙がしい暇をぬすんで神社仏閣に足を運ぶ者がたくさんありました。わたくし共も川崎大師へは大抵一年に二、三度は参詣していましたが、どうも人間は現金なもので、明治になって稼業をやめると、とかく御無沙汰勝ちになりまして……。それでも正月の初大師だけは、まあ欠かさず御参詣をして、大師さまに平生《へいぜい》の御無沙汰のお詫びをしているんですよ。くどくも云う通り、こんにちは便利でありがたい。きょうも午頃から出て行って、ゆっくり御参詣をして、あかりの付く頃には帰って来られるんですからね。むかしは薄っ暗い時分から家を出て、高輪《たかなわ》の海辺の茶店でひと休み、その頃にちょうど夜が明けるという始末だから大変です。それだから正月の初大師などと来たら、寒いこと、寒いこと……。それもまあ、信心の力で我慢したんですが、大勢のなかには横着な奴があって、草鞋《わらじ》をはいて江戸を出ながら、品川で昼遊びをしている。昔はそういう連中のために、大師河原のお札《ふだ》が品川にあったり、堀ノ内のお洗米《せんまい》が新宿に取り寄せてあったりして、それをいただいて済ました顔で帰る……。はははは、いや、わたくしなぞはそんな悪いことをしないから、大師さまの罰《ばち》もあたらないで、まあこうして無事に生きているんですよ。その大師詣りに就いてこんな話があります。又いつもの手柄話をするようですが、まあ、お聴き下さい」
嘉永四年は春寒く、正月十四日から十七日まで四日つづきの大雪が降ったので、江戸じゅうは雪どけの泥濘《ぬかるみ》になってしまった。こんにちと違って、これほどの雪が降れば、その後の半月ぐらいは往来に悩むものと覚悟しなければならない。半七は足ごしらえをして、子分の庄太と一緒に、二十一日の初大師に参詣した。
明け六ツ頃に神田の家《うち》を出て、品川から先は殊にひどい雪どけ道をたどって行って、大師堂の参拝を型のごとくに済ませたのは、その日も午を過ぎた頃であった。
「さあ、午飯《ひるめし》だ。どこにしよう」
繁昌と云っても今日《こんにち》のようではないので、門前の休み茶屋の数《かず》も知れている。毎月の縁日とは違って、きょうは初大師というので、どこの店もいっぱいの客である。いっそ川崎の宿《しゅく》まで引っ返して、万年屋で飯を食おうと云って、二人は空腹《すきばら》をかかえて、寒い風に吹きさらされながら戻って来ると、ここらもやはり混雑していて、万年屋も新田屋も客留めの姿である。二人は隅のほうに小さくなって、怱々《そうそう》に飯をくってしまった。
「まあ、仕方がねえ。江戸へ帰るまで我慢するのだ」
ここで草鞋を穿《は》きかえて、六郷の川端まで来かかると、十人ほどが渡しを待っていた。いずれも旅の人か江戸へ帰る人たちで、土地の者は少ない。そのなかで半七の眼についたのは三十二三の中年増《ちゅうどしま》で、藍鼠《あいねずみ》の頭巾《ずきん》に顔をつつんでいるが、浅黒い顔に薄化粧をして、ひと口にいえば婀娜《あだ》っぽい女であった。女は沙原《すなはら》にしゃがんで、細いきせるで煙草を吸っていた。庄太はその傍へ寄って煙草の火を借りた。
「天気はいいが、お寒うござんすね」と、庄太は云った。
「雪のあとのせいか、風がなかなか冷えます」と、女は云った。
そのうちに船が出たので、人々は思い思いに乗り込んだ。女は船のまん中に乗った。半七と庄太は舳先《へさき》に乗った。やがて向うの堤《どて》に着いて、江戸の方角へむかって歩きながら、半七は小声で云った。
「おい、庄太。あの女はなんだか見たような顔だな」
「わっしもそう思っているのだが、どうも思い出せねえ。堅気《かたぎ》じゃありませんね」
「今はどうだか知れねえが、前から堅気で通して来た女じゃあねえらしい」
「小股の切れ上がった粋な女ですね」
「それだから火を借りに行ったのじゃあねえかえ」と、半七は笑った。
「まあ、まあ、そんなものさ」
庄太も笑いながら後《あと》を見かえると、女は雪どけ道に悩みながら、おなじく江戸へむかって来るらしかった。町屋から蒲田へさしかかって、梅屋敷の前を通り過ぎたが、あまり風流気のない二人はそのまま素通りにして、大森に行き着くと、名物の麦わら細工を売る店のあいだに、休み茶屋を兼ねた小料理屋を見つけた。
「親分。少し休ませて貰えねえかね。寒くってどうにもこうにも遣り切れねえ」と、庄太は泣くように云った。
「一杯飲みてえのか。まあ、附き合ってやろう」と、半七は先に立って茶屋へはいった。
奥には庭伝いで行けるような小座敷もあったが、坐り込むと又長くなるというので、二人は店口の床几《しょうぎ》に腰をおろして、有り合いの肴《さかな》で飲みはじめた。半七は多く飲まないが、庄太は元来飲める口であるので、寒さ凌《しの》ぎと称してむやみに飲んだ。
「いいかえ、庄太。あんまり酔っ払うと置き去りにして行くぜ」
「そんな邪慳《じゃけん》なことを云わねえで、まあ、もう少し飲ませておくんなせえ。信心まいりに来て、風邪《かぜ》なんぞ引いて帰っちゃあ、先祖の助六に申し訳がねえ」と、庄太はもういい加減に酔っていた。
このときに一挺の駕籠がここの店さきに卸されて、垂簾《たれ》をあげて出たのは、かの中年増の女であった。女は金を払って駕籠屋を帰して、これも店口の床几に腰をかけたが、半七らと顔をみあわせて黙礼した。
「お駕籠でしたかえ」と、庄太は声をかけた。
「あるくつもりでしたが、なにしろ道が悪いので……」と、女は顔をしかめながら云った。彼女はほんの足休めに寄ったものと見えて、梅干で茶を飲んでいた。
ここらの店の習いで、庭と云っても型ばかりに出来ていて、その横手には大きい井戸があった。井戸のそばの空地《あきち》には、五、六羽の鶏《とり》が午後の日を浴びながら遊んでいたが、その雄鶏《おんどり》の一羽はどうしたのか俄かに全身の毛をさか立てて、店口の土間へ飛び込んで来たかと見る間もなく、かれはそこに休んでいる中年増の女を目がけて飛びかかった。女はあっ[#「あっ」に傍点]と驚いて立ちあがると、鶏は口嘴《くちばし》を働かせ、蹴爪《けづめ》を働かせて、突くやら蹴るやら散々にさいなんだ。女は悲鳴をあげて逃げまわるのを、かれは執念ぶかく追いまわした。
それを見て、店の男や女もおどろいて、彼らは鶏を叱って追いやろうとしたが、かれは狂えるように暴《あ》れまわって、あくまでも女を追い搏《う》とうとするのである。半七も庄太も見かねて立ちあがると、女は逃げ場を失ったように庄太のうしろに隠れた。鶏は五、六尺も飛びあがって、又もや女を搏とうとするので、半七は持っている煙管《きせる》で一つ撃った。撃たれて一旦は土間に落ちたが、かれはすぐに跳ね起きて又飛びかかって来た。その燃えるような眼のひかりが鷹よりも鋭いのを見て、半七もぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としたが、この場合、なんとかして女を救うのほかは無いので、手早く羽織をぬいで鶏にかぶせると、店の者も駈け寄った。男のひとりは伏せ籠を持って来て、暴れ狂う鶏をどうにか斯うにか押し込んだが、かれはその籠を破ろうとするように、激しく羽搏《はばた》きして暴れ狂っていた。
不意の敵におそわれて、女は真っ蒼になっていた。くちばしに刺されたのか、蹴爪に撃たれたのか、彼女は左右の脚を傷つけられて、白い脛《はぎ》からなま血が流れ出していた。飛びあがって来たときに、その顔をも蹴られたと見えて、左の小鬢にも血がしたたっていた。銀杏返《いちょうがえ》しの鬢の毛は羽風にあおられて、掻きむしられたように酷《むご》たらしく乱れていた。
わが屋の飼い鶏が客に対して、思いもよらない椿事を仕いだしたので、店の者共も蒼くなった。殊に相手が女であるだけに、その気の毒さは又一倍である。店の女房は平あやまりに謝まって、ともかくも女を介抱しながら奥の座敷へ連れ込んだ。女中のひとりは近所の医者を呼びに行くらしく、襷《たすき》がけのままで表へ駈け出した。
庄太もさすがに呆気《あっけ》に取られていた。半七も無言で眺めていると、鶏は伏せ籠のなかで暴れ狂いながら、無理にあき地の方へ押しやられて行った。
二
「あの鶏《とり》はどうしたのでしょうね」と、庄太は云い出した。「犬にゃあ病犬《やまいぬ》というものがあるが、鶏にゃあ珍らしい」
半七はやはり無言で考えていると、女房はやがて奥から出て来て、半七らにむかって頻《しき》りに詫びていた。
「おかみさん」と、半七は訊いた。「ここらじゃあ鶏が何か病気にでもなって、あんな騒ぎをすることが時々にあるのかね」
「それがまことに不思議でございます」と、女房は眉をよせた。「鶏が人にかかるというのは、まんざら無いことでもございませんが、わたくし共では初めてでございます。この通りのお客商売でございますから、一度でもそんな事があれば、決して鶏なぞを飼いは致しませんが、どうしてあの鶏が……あんな様子のいい女のかたに……。まったく訳が判りません。これからも何をするか知れませんから、いっそ男どもに云いつけて、絞めさせてしまおうかと思って居ります」
「あの鶏は前から飼ってあるのかえ」と、半七は又訊いた。
「はい。昨年の五月頃だと覚えて居ります。十羽ほどの鶏を籠に入れて、売りに来た者がありまして、雌鶏《めんどり》と雄鶏《おんどり》のひと番《つが》いを買いましたが、雌鶏の方は夏の末に斃《お》ちてしまいまして、雄《おす》の方だけが残りました。それでもほかの鶏と仲良く遊んで居りまして、ふだんは喧嘩なぞをした事もありませんでしたが、不意に気でも違ったように暴れ出して、人にこそよれ、女のお客さまに飛びかかって、あんな怪我をさせまして……。なんとも申し訳がございません」
「その鶏を売りに来た男というのは、始終ここらへ廻って来るのかね」
「時々に参ります。なんでも百姓の片手間に鶏を買ったり売ったりしているのだそうで……」
「名はなんといって、どこから来るのだね」
「名は……八さんといっていますが、八蔵か八助か判りません。なんでも矢口《やぐち》の方から来るのだそうで……」
「矢口か。矢口の渡しなら六蔵でありそうなものだが……」と、庄太は笑った。
「まぜっ返すなよ」と、半七は横目で睨んだ。「そこで、その八蔵とか八助とかいう男は幾つぐらいだね」
「二十五六だろうと思いますが……。なにしろ一年に一度か二度しか廻って参りませんので……」と、女房は言葉をにごした。
こちらが余りに詮索するので、相手は一種の不安を感じて来たらしい。こうなっては詮議も無駄だと諦めて、半七は帰り支度にかかった。
「奥の怪我人には挨拶をせずに帰るから、あとで宜しく云っておくんなさい」
「かしこまりました」
勘定を払って、二人はここを出た。
「親分は頻りに鶏の売り主を詮議していなすったが、なにか眼を着けた事でもあるんですかえ」と、庄太はあるきながら訊いた。
「別にどうということもねえが……。今の一件で、おれがふい[#「ふい」に傍点]と考えたのは、あの鶏と、あの女と……なにか因縁があるのじゃあねえかしら……」
「ふむう。そんな事もねえとも云えねえが……」と、庄太は首をかしげた。「しかし相手が畜生ですからねえ」
「畜生だからたれかれの見さかいなしに飛びかかった……。そう云ってしまえば仔細はねえが、畜生だって相当の料簡がねえとは云えねえ。主人を救った犬もある。恨みのある奴を突き殺した牛もある。あの鶏もあの女に何かの恨みがあるのかと、考えられねえ事もねえと思うが……」
「成程、そう云えばそうだが……。あの女の風体《ふうてい》が……」と、庄太は又かんがえた。「鶏に縁がありそうにも見えねえが……。鳥屋の女房かね」
「まあ、そんなことかも知れねえ。なにしろ、あの女は堅気の人間じゃあなさそうだ。どうも何処かで見たことがあるように思われるのだが……。きょうは仕方がねえから此のまま引き揚げることにして、おめえ御苦労でもあしたか明後日《あさって》、もう一度出直して来て、あの女はそれからどうしたかと訊きただしてくれ。もちろんどっ[#「どっ」に傍点]と倒れてしまうほどの怪我じゃあねえから、医者にひと通りの手当てをして貰って、駕籠で江戸へ帰るに相違あるめえ。ああして厄介になった以上、自分の家《うち》は本所だとか浅草だとか話して行くだろうから、それもよく調べて来てくれ。恨みや因縁にもいろいろある。あの女があの鶏をひどい目に逢わせて、それを鳥屋へ売り飛ばしたのが、測《はか》らずここでめぐり合って、鶏がむかしの恨みを返したというような事ででもあれば、飛んだ猿蟹合戦か舌切り雀で、どうにも仕様のねえことだが、何かもう少し入り組んだ仔細がありそうにも思われる。まあ、無駄と思って洗ってみようぜ」
「承知しました」
「それから、あの女房は鶏を絞めると云っていたが、もしまだ無事でいるようだったら、もう少し助けて置くように云ってくれ」
この頃の春の日はまだ短いので、二人は暗くなってから江戸へはいった。途中で庄太に別れて、半七は三河町の家へ帰ると、すぐに手拭をさげて出た。
「信心まいりに行って、愚痴を云っちゃあ済まねえが、きょうは全く寒かった」
近所の銭湯へゆくと、五ツ(午後八時)過ぎの夜の湯は混雑していた。半七は柘榴口《ざくろぐち》へはいって体を湿《しめ》していると、湯気にとざされていた風呂のなかで、男同士の話し声がきこえた。
その一人もきょうの初大師に参詣したと見えて、寒さと雪どけ道の難儀を頻りに話していたが、やがて彼はこんなことを云い出した。
「おまえさんも御承知でしょう、軍鶏屋《しゃもや》の鳥亀のかみ[#「かみ」に傍点]さん……。あの人に逢いましたよ」
「ああ、あのお六さん……」と、相手は答えた。「今はどこにいますね」
「なんでも品川の方にいるそうで……。わたし達が川崎の新田屋で午飯《ひるめし》を食って、表へ出ようとするところへ、出逢いがしらにはいって来たので、ちっとばかり立ち話をして別れたのですが……。都合が悪くも無さそうな様子で、まあ無事にやっているようですよ」
それが半七の注意をひいた。薄暗いなかでよくは判らないが、その話し声が近所の下駄屋の亭主であるらしいので、流し場へ出たときに窺うと、果たして彼は下駄屋の善吉であった。
あくる朝、半七は下駄屋の店さきに立った。
「おまえさんも大師さまへ参詣しなすったそうだね。ひと足おくれで逢わなかったが……」
「親分も御参詣でしたか」と、善吉は店の火鉢を半七の前へ押しやりながら云った。「ずいぶんお寒うござんしたね」
「そこで、早速だが少し訊《き》きたいことがある」と、半七は店に腰をかけた。「ゆうべはお前さんは、鳥亀とかいう軍鶏屋の話をしなすっていたね」
「じゃあ、お前さんも聴いておいでなすったのですか」
「柘榴口のなかで聴いていましたよ。一体その軍鶏屋は何処ですえ」
「以前は浅草の吾妻橋ぎわにあったのですが、亭主が死んだので店を仕舞って、おかみさんは品川の方へ引っ込んで、もう小一年も逢わなかったのですが、きのう思いがけなく川崎で逢いました」
「おかみさんはお六というのだね。亭主は……」
「安蔵といいました。御承知の通り、わたくしは釣り道楽で、鳥亀の亭主とはおなじ釣り師仲間で、ふだんから懇意にしていたのですが、どうも可哀そうな事をしまして……」
善吉の話によると、安蔵は去年の春の彼岸ちゅうに鮒《ふな》釣りに出た。近所の釣り場所は大抵あさり尽くしているので、柴又《しばまた》の帝釈堂《たいしゃくどう》から二町ほど離れた下矢切《しもやぎり》の渡し場の近所まで出かけたのである。ここらは利根川べりで風景もよい。安蔵は夜の明け切らないうちに浅草の家を出て、吾妻橋を渡って行った。それまでは家内の者も知っているが、その後の消息は判らない。それから二日ほど過ぎて、安蔵の死体は川しもで発見された。かれが片手に釣り竿を持っていたのを見ると、なにかの過失《あやまち》で足を踏みすべらせて、草堤《くさどて》から転げ落ちたのであろう。釣り好きではあるが、彼は泳ぎを知らなかった。
鳥亀の女房お六は上野辺で茶屋奉公をしていた女で、夫婦のあいだに子はなかった。その頃、軍鶏屋へ来て鳥鍋や軍鶏鍋を食うのは、あまり上等の客でない。女や子供はもちろん来ない。従って女あるじで此の商売をつづけて行くのはむずかしいというので、お六は思い切って店を閉めた。品川の南番場《みなみばんば》の辺に身寄りの者が住んでいるので、そこへ引っ越して小さい世帯《しょたい》を持つことにした。
「きのう逢ったときの話では、まあ無事に暮らしているということでした」と、善吉は云った。
「釣りに行って死んだ時には、誰も一緒じゃあなかったのだね」
「その時はあいにく安さん一人で出かけたので、どうして死んだのか、よく判らないのです。渡し場の船頭の話では、そんな釣り師の姿を見かけなかったということですから、行くと間もなくすべり落ちたのかも知れません。ほんとうに夜が明け切らないので足もとが暗かったのでしょう。なにしろまだ三十五か六で、可哀そうな事をしました。おかみさんは三十二三の小粋な女ですが、まだ独り者で暮らしているそうです」
善吉がきのう久し振りで出逢ったというお六の人相や服装《みなり》を聞いて、それが彼《か》の中年増の女に相違ないことを半七は確かめた。彼女は果たして鳥屋の女房であった。彼女は店を畳むときに、飼い残りの鶏をどこへか売ったのであろうと察せられた。
それにしても、かの鶏がなぜ旧主人のお六に襲いかかったのか。そのむかし彼女に虐待されたのを恨んだのか、雌鶏が殺されたのを恨んだのか。鶏はどれほど記憶がよいか知らないが、小一年の後までも其の人の顔や姿を見忘れないものであろうかと、半七は又かんがえた。しかもここに一つの疑いは、お六の亭主の変死一件である。その一件と鶏とを結び付けて考えれば、なにかの謎が解けないでもなかった。
「いや、朝っぱらからお邪魔をしました」
半七は下駄屋の店を出た。
三
その次の日の午頃に庄太が顔を見せると、彼はすぐに半七にひやかされた。
「おい、庄太。おれもぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]だが、おめえもよっぽどうっかり者だぜ。例の一件の中年増はおめえの縄張り内の浅草で、しかも眼のさきの吾妻橋に住んでいたのじゃあねえか」
「いや、閉口。すっかり度忘《どわす》れをしてしまって……」と、庄太はあたまを掻いた。「家《うち》へ帰ってから思い出しましたよ。鳥亀、鳥亀……。いつか一度、親分を案内して行ったことがありましたよ」
「むむ。雪駄《せった》の皮のような軍鶏を食わせた家《うち》だ。そこで、きのうはどうした。大森へ出かけたか」
「行きましたよ。相変らず道が悪くって……。あの茶屋へ行って訊《き》いてみると、あれから医者が来て手当てをして、女は駕籠に乗って帰ったそうです。駕籠屋の話を聞くと、送り着けた先は品川の南番場で、海保寺という寺の門前……。それから帰りに覗いて見ましたら、女の家は桂庵《けいあん》で、主《おも》にあの辺の女郎屋や引手茶屋や料理屋の女の奉公人を出したり入れたりしているようです。女は去年の三月頃から引っ越して来て、二十五六の番頭と二人暮らしだが、その番頭というのが亭主か情夫《いろ》だろうという近所の評判ですよ。そこで、番頭というのはどんな奴だか、面《つら》をあらためてやろうと思ったが、あいにく留守で首実検は出来ませんでした。それからね、親分。鶏は助からねえ。その日の夕方に絞められてしまったそうですよ」
「鳥亀の亭主というのは、矢切の渡し場の近所へ釣りに行って、沈んでしまったというじゃあねえか」
「よく知っていなさるね」と、庄太は眼を丸くした。「実はわっしも今朝《けさ》調べて来たのですが、鳥亀の亭主の安蔵というのは、去年の春の彼岸に下矢切で土左衛門になったそうで……。こうなると親分のいう通り、ちっと変な事になりそうですね。これから矢切へ行って見たところで、去年のことじゃあ仕様がねえから、いっそ矢口へ行ってみましょうか。大森のかみ[#「かみ」に傍点]さんは曖昧なことを云っていましたが、ほかの女中にカマをかけて、鶏を売りに来た奴の居所《いどこ》をちゃんと突き留めて来ました。そいつは矢口の新田《にった》神社の近所にいる八蔵という奴だそうです」
「矢切で死んだ奴の詮議に矢口へ行く……。矢の字|尽《づく》しも何かの因縁かも知れねえ。おまけにどっちも渡し場だ」と、半七は笑った。「じゃあ気の毒だが矢口へ行って、あの鶏はどこで買ったのか、調べてくれ。こうなったら、ちっとぐらい手足を働かせても無駄にゃあなるめえ」
「そうです、そうです。こいつは何か引っかかりそうですよ。だが、これから矢口までは行かれねえから、あしたにしましょう」
なにかの期待をいだいて、庄太は威勢よく帰った。明くる日も寒い風が吹いたので、庄太も定めて弱っているだろうと思っていると、果たしてその日の灯《ひ》ともし頃に、彼はふるえながら引き上げて来た。
「矢口へ行って、八蔵という奴の家《うち》をさがし当てました。あの鶏はやっぱり海保寺門前の桂庵の家で買ったということですから、鳥亀の女房が売ったに相違ありません」
八蔵は農家の伜であるが、家には兄弟が多いので、彼は農業の片手間に飼い鶏《どり》や家鴨《あひる》などを売り歩いていた。大きい笊に麻縄の網を張ったような鳥籠を天秤棒に担《かつ》いで、矢口の村から余り遠くない池上《いけがみ》、大森、品川のあたりを廻っていたのである。去年の五月ごろ、彼は品川方面へ商売に出て、南番場の海保寺門前を通りかかると、桂庵の家から呼びかけられて、ひと番《つが》いの飼い鶏を買ってくれと云われた。八蔵は売るばかりが商売ではない。買って売って其のあいだに利益を見るのであるから、承知して売り値を訊《き》くと、幾らでもいいから持って行ってくれと云う。その売りぬしは三十二三の婀娜《あだ》っぽい女であった。
ともかくも其の鶏を見せてくれと云うと、女は裏へまわれと云う。そこには空地同様の小さい庭があって、二羽の鶏が籠に伏せてあった。女はもう姿を見せないで、二十五六の男が薪《まき》ざっぽうを持って出て来た。彼は八蔵にむかって、この鶏はいっそ打《ぶ》ち殺してしまおうと思うのだが、おかみさんがぐずぐず云うから持って行ってくれと暴々《あらあら》しく云った。いい加減な値をつけて引き取ることにすると、二羽の鶏はしきりに暴《あ》れ狂って、八蔵の籠に移されるのを拒《こば》むので、男も手伝って無理に押し込んだ。男は薪ざっぽうを放さずに掴んで、絶えず何事をか警戒しているように見えた。
八蔵はその足で大森へまわって、かの茶屋へ二羽の鶏を売ったが、その時には皆おとなしく翼《つばさ》を収めて、前のように暴れ狂うことは無かった。右から左に鶏を処分して、八蔵は相当の利益を得て帰った。雌鶏はその時から少し弱っているようであったが、ふた月ほどの後に死んだという話を聞いた。
「まあ、そういうわけなんです」と、庄太はひと通りの報告を終った。「八蔵の話の様子じゃあ、あの鶏はお六の家にいる時から、なにか暴《あ》れていたらしいようですから、大森の時も恐らくお六と知って飛びかかったのでしょう。そこでお六の家《うち》の番頭という奴を、きょうは確かに見とどけて来ましたが、小作りの苦味走った男で、顔に見覚えはありませんが、これも唯の町人らしくない奴です。と云って、遊び人にしちゃあ野暮に出来ているし、まあ、屋敷の大部屋にでも転がっていたような奴ですね」
「折助《おりすけ》か」と、半七はうなずいた。「折助なんぞは軍鶏屋のお客だ。まんざら縁のねえこともねえ。これでどうにか白と黒の石が揃ったようだ。まあ、おめえの五目《ごもく》ならべをやってみろ」
「わっしの列べ方じゃあ、鳥亀の女房が店の客の折助と出来合って、亭主の釣り好きを幸いに、暗いうちから下矢切へ鮒釣りに出してやる。折助は先廻りをして、芦の間か柳の蔭にでも隠れていて、不意に亭主を突き落とす……。と、まあ、云ったような段取りでしょうね。土地にいちゃあ面倒だから、浅草の店をしめて品川へ引っ越して、桂庵に商売換えをして、その折助が番頭実は亭主になって一緒に暮らしている。そこで、例の鶏の一件だが……。店を仕舞うときにみんな売ってしまいそうなものだが、何かの都合でひと番《つが》いだけ品川まで持って行くと、こいつが変に暴れたりする。二人はなんだか気が咎めて、薄っ気味が悪いような気もするので、ぶち殺すか売り飛ばすか二つに一つということになって、それが八蔵の手を渡って、大森の茶屋に売られて行った。どうでしょう。違いますか」
「誰の眼も違わねえ。まずそこらだろうな。いくら商売でも忌《いや》になるぜ」と、半七は溜め息をついた。「その通りであって見ろ、女も男も重罪で、引き廻しの上に磔刑《はりつけ》だ。それを知りながら科人《とがにん》の種は尽きねえ。どうも困ったものだ。といって、こうなったら打っちゃっても置かれねえ。松吉と手分けをして詮議にかかれ。おめえは浅草の方を受け持って、鳥亀の亭主はどんな人間だったか、女房はどんな事をしていたか、昔のことを洗ってみろ。鳥亀にも何か親類があるだろう。店の奉公人もあった筈だ。そんなのを詮議したら、大抵の見当は付くだろう。松には品川の方を受け持たせて、男の身許《みもと》を洗わせて見よう」
「ようござんす。浅草の方は引き受けました」
「毎日の遠出《とおで》でくたびれただろうが、これも御用で仕方がねえ。早く家《うち》へ帰って、かみさんを相手に寝酒の一杯も飲め」
幾らかの小遣いを貰って、庄太はにこにこして帰った。
それから三日の後、正月二十七日の午後である。品川の方を受け持ちの子分松吉が帰って来て、こんなことを半七に報告した。
「鈴ヶ森の仕置き場のそばで死骸が見付かりました」
「男か、女か」
「二十一二の若い男で、色白の小綺麗な、旗本屋敷の若侍とでも云いそうな風体《ふうてい》で、匕首《あいくち》か何かで突かれたらしい疵《きず》が四カ所……。首に手拭が巻き付けてあるのを見ると、初めに咽喉《のど》を絞めようとして、それを仕損じて今度は刃物でやったらしいのです。大小は誰か持って行ったらしく、本人は丸腰で、そこらにも落ちていませんでした。死骸は海へでも投げ込むつもりで、浪打ちぎわまで引き摺って行ったらしいが、人が来たのでそのままにして逃げたと見えます。懐中物はなんにも無いので、ちっとも手がかりになりそうな物はありません」
「その死骸はけさ見つけたのか」
「そうです。多分ゆうべのうちにやったのでしょうね。検視の済むのを見とどけて、わっしは急いで帰って来たのですが、どうしましょう」
「鈴ヶ森じゃあ町方《まちかた》の係り合いじゃあねえが、いずれ頼んで来るだろう。殊に屋敷者だから、まあひと通りは調べて置くがいいな」と、云いかけて半七は思い出したように云った。「それから、品川の桂庵の一件だが、亭主の身許《みもと》はまだ判らねえか」
「なんでも湯島《ゆしま》か池《いけ》の端《はた》あたりに中間奉公をしていたらしいのですが、どこの屋敷かまだ突き留められません。なにしろあの辺には屋敷が多いので……。まあ、そのうちに何とかしますから、もう少し待って下さい」
「鈴ヶ森の人殺しは、ひょっとすると鳥亀の一件にからんでいるかも知れねえな」
「なぜです」と、松吉は不思議そうに訊《き》いた。
「なぜと訊かれちゃあ返事に困るが、多年この商売をしていると、自然に胸に浮かぶことがある。まあ、虫が知らせるとでもいうのかも知れねえが、それが又、奇妙にあたることがあるものだ。今度の一件も何だかそんな気がしてならねえ」
「もしそうならば、いよいよ事が大きくなりますね。なにしろ鈴ヶ森の方を調べてみましょう。案外の手がかりがあるかも知れません」
四
あくる日の朝、半七は八丁堀同心坂部治助の屋敷へ呼ばれた。すぐに行ってみると、それは彼《か》の鈴ヶ森の一件で、変死人は市内の屋敷者らしいから、町方の方でその身もとを詮議して貰いたいと郡代《ぐんだい》からの依頼があった。下手人《げしゅにん》も分明次第に召し捕ってくれというのである。
「そういう訳だから、なんとか埒を明けてくれ」と、坂部は云った。
「かしこまりました。わたくしにも少し心あたりがありますから、早速取りかかります」
こうなると子分任せにもして置かれないので、半七はその足で品川へ出向いた。
このあいだの大雪以来、もう十日あまりの天気がつづいたので、大通りのぬかるみも大かたは踏み固められた。この頃の寒い風もきょうは忘れたように吹きやんで、いわゆる梅見|日和《びより》の空はうららかに晴れていた。高輪の海辺《うみべ》をぶらぶらあるいて行くと、摺れ違う牛の角《つの》にも春の日がきらきらと光って、客を呼ぶ茶屋女の声もひとしお春めいてきこえた。品川の北から南へ通りぬけて、宿《しゅく》のはずれへ来かかると、ここらには寺が多い。その門内には梅でも咲いているのであろう、ところどころで鶯の声がきこえて、無風流の半七もときどきに足を止めた。
目あての桂庵は海保寺の門前にあって、入口にむさし屋という暖簾《のれん》が懸かっていた。近所で訊くと、おかみさんは三十三の厄年で川崎の初大師へ参詣に行って、その帰り道で暴れ馬に蹴られて、駕籠に乗って帰って来たが、それから熱が出たので今も寝ているという噂であった。お六は鶏に襲われたことを秘《かく》して、馬に蹴られたと云っているらしい。鶏というのを憚っているのは、そこに何かの仔細が無ければならないと、半七の疑いはいよいよ深められた。彼は思い切って、むさし屋の暖簾をくぐってはいると、手引きらしい四十前後の女が店さきに腰をかけていた。
「ごめんなさい」と、半七は会釈《えしゃく》した。「おかみさんは内ですかえ」
「おかみさんは二階に寝ていますよ」と、女も会釈しながら答えた。「七日ほど前に怪我をしましてね」
「番頭さんは……」
「番頭さん……。勇さんですか」
「ええ、勇さんです」
「勇さんは二、三日留守ですよ」
「どこへ行ったのです」
「さあ、わたしもよく知りませんが、金さんのところへでも行っているのじゃありませんか」
「金さんの家《うち》はどこでしたね」
「金さんの家は……。なんでも鮫洲《さめず》を出はずれて右の方へはいった畑のなかに、古い家が二軒ある。一軒は空家《あきや》で、その隣りが金さんの家だそうですよ」
「いや、ありがとう。おかみさんをお大事に……」
半七はそこを出て、更に近所で訊いてみると、むさし屋に出入りする金さんは金造といって、この品川の宿をごろ[#「ごろ」に傍点]付き歩いて、女郎屋の妓夫《ぎゆう》などを相手に、小博奕などを打っている男であることが判った。それを友達にしている勇さんの正体も大抵想像された。
「ともかくも鮫洲へ行ってみよう」
半七は浜川の方にむかって、東海道をたどって行くと、涙橋のたもとで松吉に逢った。
「やあ、お出かけでしたか」と、松吉は寄って来てささやいた。「実は少し聞き込んだことがあるのですがね。品川の宿の入口に駕籠屋がある。あすこの奴らの話じゃあ、おとといの晩ひとりの若い侍が来て、桂庵のむさし屋はどこだと聞いて行ったそうで……。その侍の年頃や人相が鈴ヶ森の死骸にそっくりですから、やっぱり親分の鑑定通り、鈴ヶ森の一件は鳥亀の奴らに何かの引っかかりがあるに相違ありません。むさし屋の番頭だか亭主だか知らねえが、お六と一緒に暮らしている奴は勇二といって、土地の遊び人なんぞとも附き合っているそうですから、何をするか判りませんよ」
「その勇二は二、三日前から帰らねえと云うじゃあねえか」
「二十六日の晩から家《うち》へ帰らねえそうです」
「鮫洲の金造という奴の家へ行っているという話だから、これからともかくも行ってみようと思っているのだ」
「鮫洲の金造……。あいつならわっしも知っています。現にきのうも品川で逢いましたよ。生薬屋《きぐすりや》の店で何か買っていました」
「金造はどんな奴だ」
「なに、けちな野郎ですよ」
半七は立ちどまって考えていた。
「おい、松。御苦労だが、品川へ引っ返して、その生薬屋で金造が何を買ったか調べて来てくれ。風薬《かざぐすり》の葛根湯《かっこんとう》ぐらいならいいが、疵《きず》薬でも買やあしねえか」
「ようがす。すぐに調べて来ます」
「往来に立ってもいられねえ。そこの団子茶屋に休んでいるぜ」
橋のたもとの茶店にはいって暫く待っていると、やがて松吉が急ぎ足で帰って来た。
「親分。案の通り、金造は切疵《きりきず》のくすりを買って行きました。金創《きんそう》いっさいの妙薬という煉薬《ねりぐすり》だそうで……」
勇二は金造の家にかくれて疵養生をしているのであろうと、半七は推量した。鈴ヶ森で侍を殺した時に、彼も手疵を負ったらしい。自分の家へ帰って療治をすると、秘密露顕の虞れがあるので、金造に頼んで薬を買わせにやったのであろう。どんな様子か実地を見とどけて、怪しい節《ふし》があればすぐに引き挙げてもいいと決心して、松吉にもそっとささやくと、彼も同意して親分のあとに続いた。
街道から右へ切れると、そこらには田畑が多かった。細い田川も流れていた。その田川で小鮒でもあさっているらしい子供に教えられて、金造の家はすぐに知れた。むさし屋の女の云った通り、近所に遠い畑のなかに二軒の藁葺き屋根が隣り合っていて、外には型ばかりの低い垣根が結いまわしてあった。軒は朽ち、柱は傾いて、どっちが空家か判らないほどに荒れているので、二人は垣根の外に忍び寄って、右と左の家をうかがっていると、左の家のなかで忽ちにわっ[#「わっ」に傍点]という男の悲鳴がきこえた。
二人ははっと顔を見あわせると、破れ障子を蹴倒して一人の男がころげ出した。彼は左の脇腹をかかえながら、庭の空地《あきち》に転げ落ちたかと思うと、また這い起きて駈け出して、竹の朽ちている垣根を押し破って、表へくぐり出ると直ぐにのめって倒れた。その腰から下は溢れるばかりの生血《なまち》にひたされていた。
「や、金造か」と、松吉は叫んだ。「おい、どうした、どうした」
金造は倒れたままで声も出さなかった。その間《ひま》に半七は垣を破って内へ駈け込むと、破れ畳にもなまなましい血が流れて、うす暗い家のなかに幽霊のような若い女が、さながら喪神《そうしん》したようにべったり[#「べったり」に傍点]と坐っていた。坐るというよりも半分は倒れたようなしどけ[#「しどけ」に傍点]ない姿で、手には匕首《あいくち》を握っていた。しかもそれが相当の武家の奥方とでも云いそうな人柄であるので、半七も少し躊躇した。
「あなたはどなたでございます」
女は黙っていた。
「あの男はあなたがお手討ちになったのですか」
女はやはり黙っていたが、やがて気がついたように匕首をとり直して、自分の咽喉《のど》に突き立てようとしたので、半七は飛びあがって其の手を押さえたが、もう間に合わなかった。彼女の蒼白い頸筋からくれないの血が流れ出した。
五
半七老人はここまで話して来て、例によって「これでお仕舞」というような顔をした。
「その女は何者ですか」と、私は追いすがるように訊《き》いた。
「その女は湯島の化物稲荷《ばけものいなり》……と云っても、この頃の人にはお判りにならないでしょうが、今の天神|町《ちょう》の一丁目、その頃は松平|采女《うねめ》という武家屋敷の向う角で、そこに化物稲荷というのがありました。なぜ化け物と云ったのか知りませんが、江戸時代には化物稲荷という名になっていて、江戸の絵図にも化物稲荷と出ている位ですから、嘘じゃありません。その稲荷さまの近所に屋敷を持っている塚田弥之助という六百石の旗本の奥さまで、お千恵さんという人でした」
「そんな身分の人がどうして鮫洲の金造という奴の家に来ていたんですか」
「それには仔細があります。その塚田弥之助というのは、今年《ことし》二十二の若い人で、正月いっぱいに江戸を引き払って甲府勤番ということになりました。仕様のない道楽者であるために、いわゆる山流しで甲州へ追いやられたんです。就いては自分の屋敷を他人《ひと》に譲り、そのほかの家財なども売り払って百両ほどの金をこしらえ、いよいよ二十八日には江戸を立つという間際《まぎわ》になって、奥様のお千恵さんはお名残《なご》りに湯島の天神さまへ御参詣して来ると云って、二十五日のひる過ぎに屋敷を出て、途中で女中を撒《ま》いてしまって、ゆくえ知れずになりました。奥様も奥様だが、殿様も殿様で、これも江戸のお名残りだというので吉原へ昼遊びに行っている。その留守中に奥様は家出というのですから、屋敷は乱脈でお話になりません。お千恵さんというのは十六の秋にこの屋敷へ縁付いて来て、あしかけ四年目の十九で、夫婦のあいだには子供はない。亭主は道楽者で、内を外に遊び歩くためでもありましょうが、お千恵さんはいつか自分の屋敷の若侍の安達文次郎という者と密通していて、今度の甲府詰めを機会にかの百両をぬすみ出して、二人は駈け落ちをするという相談を決めたんです。そこへ現われて来たのが品川のむさし屋の勇二という奴で……」
「勇二は塚田の屋敷に何か関係があったんですか」
「勇二は去年の春まで塚田の屋敷に中間奉公をしていたんです。その時から奥様と文次郎の関係を薄々覚っていたのかも知れませんが、当人の白状では、正月の初めに下谷《したや》の往来で文次郎に出逢って、そこらの小料理屋へ連れ込まれて、初めて相談を掛けられたのだということです。いずれにしても、胸に一物《いちもつ》ある勇二はすぐにその相談に乗って、ひとまず奥様を鮫洲の金造の家に隠まうことにして、約束の二十五日の午《ひる》過ぎに湯島の天神の近所に忍んでいて、お千恵さんを駕籠に乗せて鮫洲に送り込みました。一緒に出ては忽ちに覚られるというので、文次郎は素知らぬ顔で騒いでいて、翌日の二十六日の夕方から奥様のゆくえを探すという体《てい》にして、かの百両を懐中にして、これも屋敷を飛び出してしまいました。行くさきは品川ですが、文次郎は勇二の家を知らないので、宿《しゅく》の入口の駕籠屋で訊いて、桂庵のむさし屋へたずねて行くと、勇二は待っていて表へ連れ出しました。
文次郎はまだ夜食を食わないというので、勇二はそこらの料理屋へ案内して、二人は飲んで食って、文次郎をいい加減に酔わせて置いて、さあこれから鮫洲の金造の家へ行こうと云って出たんですが、もう其の頃は五ツ(午後八時)過ぎで夜は真っ暗、文次郎はここらの案内を知らないので、黙って勇二のあとに付いて行くと、鮫洲を通り越して鈴ヶ森の縄手にさしかかる。勇二は草履の鼻緒が切れたと云って、提灯を路ばたに置いて何時までもぐずぐずしているので、文次郎もどうしたのかと覗きに来ると、勇二は不意に手拭を文次郎の首にまき付けて絞め殺そうとしたのが巧く行かない。そこで、今度は隠していた匕首《あいくち》をぬき出して、滅茶苦茶に突いた。それでも相手は侍ですから倒れながらも抜き撃ちの太刀さきが勇二の右の膝にあたったので、勇二も倒れる。文次郎も倒れる。文次郎はそのまま息が絶えてしまったので、勇二は這い起きてその懐中の金を奪い、その上に大小は勿論、煙草入れから鼻紙まで残らず奪い取って、死骸は海へ突き流そうと浪打ちぎわまで引き摺って行くときに、誰かそこへ通りかかったので、勇二はあわてて提灯を吹き消して、怱々《そうそう》に逃げ出しました。
鮫洲のあたりまで引っ返して来て気がつくと、右の膝がしらから血が流れる、疵が痛む。跛足《びっこ》をひきながら金造の家へ転げ込んで、疵を洗って手当てをして、その晩はともかくも寝てしまったが、明くる朝になると疵口がいよいよ痛む。刀の先が少しあたっただけで、さのみに深い疵でも無いんですが、ひどく痛む。金造に頼んで傷薬を買って来て貰って、内証で療治をしていると、その翌日の午過ぎに、わたくし共に踏み込まれたというわけです。それですから勇二は逃げるも、どうするもありません、なんの苦もなく召し捕られました」
「金造はなぜ殺されたんですか」
「金造の殺されたのは自業自得《じごうじとく》で……。勇二は先ず塚田の奥様を金造の家《うち》へ連れ込み、その明くる晩に文次郎をさそい出して鈴ヶ森で殺してしまい、文次郎から百両の金を奪い取った上に、奥様を東海道筋の宿場女郎に売り飛ばすという、重々の悪事を企《たくら》んでいたんです。そこで二十五日の晩は無事だったんですが、二十六日の晩になっても約束の文次郎が来ないので、お千恵さんも気を揉み出した。おまけに勇二ひとりが帰って来て、ひそかに疵の手当てなどをしているので、お千恵さんはいよいよ疑って何かと詮議を始めたので、文次郎殺しを覚られては面倒、お千恵を逃がしてはいよいよ面倒と、勇二と金造は相談の上で、二人はここで正体をあらわし、奥様の手足を荒縄で縛って、手拭を口に噛ませて、隣りの空家へ押し籠めて置いたんです。いや、それだけならまだいいんですが、二十七日の晩には金造が隣りの空家へ忍んで行って、手足の利かないお千恵さんを匕首で嚇し付けて、どうで女郎に売られる体だから、置土産におれの云うことを肯《き》けなどと迫ったそうです。こんにちの言葉でいえば監禁暴行、昔はこんな悪い奴が往々ありました。
勇二はそれを知っていたが、自分も足が不自由なので、奥様を救うことが出来なかったと云っていましたが、こいつも体が達者ならば何をしたか判りません。金造はそれに味を占めて、その翌日の午過ぎにも再び隣りへ押し掛けて行って、又もや匕首を突きつけると、お千恵さんはもう観念したらしく、なんでもお前の云う通りになるから、この縄を解いてくれと云うと、金造も甘い野郎で、むむそうかと縄を解く。その途端にお千恵さんは相手の匕首を引ったくって、横ッ腹へずぶり[#「ずぶり」に傍点]……。金造め、わっ[#「わっ」に傍点]と叫んで表まで逃げ出したが、急所のひと突きで脆《もろ》くも往生という始末、まったく自業自得と云うのほかはありません。奥様もつづいて自害と覚悟しましたが、わたくしが早く押さえたので、幸いに疵は浅手で済みました。いや、こうと知ったら留めずに殺した方がよかったかと思いますが、その時にはなんにも知らないで、あわてて留めてしまいました」
「お六という女も召し捕られたんですね」
「これもすぐに召し捕りましたが、例の鶏《とり》に突かれたり蹴られたりした幾カ所の疵が膿《う》んで熱を持って、こんにちで云えば何か悪い黴菌《ばいきん》でもはいったんでしょう、ようよう這って歩くような始末なので、駕籠に乗せて連れて行きました。この方はもう大抵お察しでしょうが、勇二は塚田の屋敷に中間奉公している頃から、浅草の鳥亀へ軍鶏《しゃも》や鶏を食いに行って、女房のお六と関係が出来て、結局ふたりが相談の上で邪魔になる亭主を殺すことになったんです。安蔵が釣りに行くのを知って、勇二が先廻りをしていて不意に川へ突き落とす……。すべてが思う通りに運んで、お六は鳥屋の店を畳む、勇二は屋敷から暇を取る。そうして、品川へ引っ越して桂庵を始める。それで先ず小一年は無事に済んだのですが、旧い罪と新らしい罪とが一度にあらわれて、もう助からない事になりました。
そこで例の鶏ですが、お六の申し立てによると、その一番《ひとつが》いは亭主の安蔵の死ぬ五、六日前に、千住の問屋から仕入れた鶏で、店を仕舞う時にこの一|番《つが》いだけが潰《つぶ》されずに残ったので、ともかくも品川まで持って行って、自分の家に飼って置くと、鶏の様子がだんだんに可怪《おか》しくなって、お六らをみると飛びかかりそうになるので、腹が立つやら気味が悪いやらで、かの八蔵に売ってしまったのです。いっそ殺したらよかったかも知れませんが、それを食うのも心持が悪し、殺して捨てるのも惜しいというわけで、捨て売りに売ったのが因果、大森の茶屋で不思議にめぐり逢って、飛んだ事になりました。お六もその鶏に見覚えがあるので、自分に飛びかかって来た時には、はっと思ったと云っていました。それにしても、安蔵の死ぬ五、六日前に買った鶏がどうして旧主人のかたきを討とうとしたのか。世間の人の知らないお六と勇二の秘密を、どうしてこの鶏が知っていたのか。唯なんとなくお六と勇二が憎いように思われたのか。それとも別に仔細があるのか。鶏の料簡《りょうけん》は誰にも判りませんから思い思いに判断するのほかはありませんが、恐らく死んだ亭主の魂が鶏に乗憑《のりうつ》ったのでしょうと、お六は恐ろしそうに云っていました。お六ばかりでなく、昔の人はとかくにそんなことを云いたがりますが、実際はどんなものでしょうか。なにしろ不思議といえば不思議です。
塚田の屋敷では奥さまの家出、家来の逐電《ちくてん》、おまけに路用の百両が紛失しては、甲州へ出発することも出来ず、さすがの殿様も途方にくれ、屋敷の者共はただ茫然としているところへ、町奉行所からの沙汰があって、金は無事に戻ったので、まずほっ[#「ほっ」に傍点]としたわけです。殺された文次郎は仕方もありませんが、生き残った奥様の始末には困ったのでしょう。結局離縁になって里方《さとかた》へ帰されたようです。
お六と勇二は前にも申す通り、どっちも疵の経過が悪く、吟味が済まないのに、二人ともに大熱を発して牢死してしまいましたので、その死骸は塩詰めにして日本橋に三日晒しの上、千住《せんじゅ》で磔刑《はりつけ》に行なわれました」
底本:「時代推理小説 半七捕物帳(四)」光文社文庫、光文社
1986(昭和61)年8月20日初版1刷発行
1997(平成9)年3月25日9刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:はやしだかずこ
2000年1月27日公開
2004年3月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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