幸田露伴

水の東京—— 幸田露伴

 上野の春の花の賑ひ、王子の秋の紅葉の盛り、陸の東京のおもしろさは説く人多き習ひなれば、今さらおのれは言はでもあらなん。たゞ水の東京に至つては、知るもの言はず、言ふもの知らず、江戸の往時《むかし》より近き頃まで何人《なんびと》もこれを説かぬに似たれば、いで我試みにこれを語らん。さはいへ東京はその地勢河を帯にして海を枕せる都なれば、潮《しお》のさしひきするところ、船の上り下りするところ、一[#(ト)]条《すじ》二[#(タ)]条のことならずして極めて広大繁多なれば、詳しく記し尽さんことは一人の力一枝の筆もて一朝一夕に能くしがたし。草より出でゝ草に入るとは武蔵野の往時《むかし》の月をいひけん、今は八百八町に家※[#二の字点、1-2-22]立ちつゞきて四里四方に門※[#二の字点、1-2-22]相望めば、東京の月は真《まこと》に家の棟より出でゝ家の棟に入るともいふべけれど、また水の東京のいと大なるを思へば、水より出でゝ水に入るともいひつべし。東は三枚洲《さんまいず》の澪標《みおつくし》遥に霞むかたより、満潮の潮に乗りてさし上る月の、西は芝高輪白金の森影淡きあたりに落つるを見ては、誰かは大なるかな水の東京やと叫び呼ばざらん。されば今我が草卒に筆を執つて、斯《かく》の如く大なる水の東京の、上は荒川より下は海に至るまでを記し尽さんとするに当りては、如何で脱漏錯誤のなきを必するを得ん。たゞ大南風に渡船《わたし》のぐらつくをも怖るゝ如き船嫌ひの人※[#二の字点、1-2-22]の、更に水の東京の景色も風情も実利も知らで過ごせるものに、聊《いささ》かこの大都の水上の一般を示さんとするに過ぎねば、もとより水上に詳しき人※[#二の字点、1-2-22]のためにするにはあらず。看《み》るものいたづらにその備はらざるを責むるなかれ。
 東京広しといへども水の隅田川に入らずして海に入るものは、赤羽川《あかばねがわ》と汐留堀とのほか幾許《いくばく》もなし。されば東京の水を談《かた》らんには隅田川を挙げて語らんこそ実に便宜多からめ。けだし水の東京におけるの隅田川は、網におけるの綱なり、衣におけるの領《えり》なり。先づ綱を挙ぐれば網の細目はおのづから挙がり、先づ領を挙ぐれば衣の裙裾《すそ》はおのづから挙がるが如く、先づ隅田川を談れば東京の諸流はおのづから談りつくさるべき勢なり。よつて今先づ隅田川より説き起して、後に漸《ようや》くその他の諸流に及ぼして終《つい》に海に説き到るべし。東京の水を説かんとして先づ隅田川を説くは、例へばなほ水経《すいけい》の百川を説かんとして先づ黄河を説くが如し、説述の次第おのづから是《かく》の如くならざるを得ざるのみ。さてまた隅田川を説きながら語次横に逸《そ》れて枝路に入ること多きは、これまた黄序《こうじよ》に言ひけん如く、伊洛《いらく》を談ずるものは必ず熊外《ゆうがい》を連ね、漆沮《しつしよ》を語るものは遂に荊岐《けいぎ》に及ぶ、また自然の偶属《ぐうぞく》にして半離すべからざるものなればなり。
○荒川。隅田川の上流の称なり。隅田川とは隅田《すだ》を流るゝを以《も》て呼ぶことなれば、隅田村以上千住宿あたりを流るゝをば千住川と呼び、それより以上をば荒川と呼ぶ習ひなり。水源《みなもと》は秋の日など隅田堤より遠く西の方《かた》に青み渡りて見ゆる秩父郡の山※[#二の字点、1-2-22]の間にて、大滝村といへるがこの川の最上流に位する人里なれば、それより奥は詳しく知れねど、おもふに甲斐境の高山幽谷より出で来るなるべし。水源地附近のありさまは予が著はしゝ『秩父紀行』、ならびに『新編武蔵風土記』等を読みて知るべし。荒川の東京に近づくは豊島の渡《わたし》あたりよりなり。
○豊島の渡は荒川の川口の方より幾屈折して流れ来りて豊島村と宮城村との間を過ぐる処にあり。豊島村の方より渡りて行く事|僅少《わずか》にして荒川堤に出づ。堤は即ち花の盛りの眺望《ながめ》好き向島堤の続きにして、千住駅を歴《へ》てこゝに至り、なほ遠く川上の北側に連なるものなり。豊島の渡より川はかへつて西南に向つて流れて、やがて
○石神川《しやくしがわ》を収めてまた東に向つて去る。石神川は秋の日の遊びどころとして、錦繍《きんしゆう》の眺め、人をして車を停めて坐《そぞろ》に愛せしむる滝の川村の流れなり。水上は旧石神井村三宝寺の池なれば、正しくは石神井川といふべし。この川|舟楫《しゆうしゆう》の利便は具《そな》へざれども、滝の川村金剛寺の下を流れて後、王子の抄紙場のために幾許かの功を為して荒川に入るなり。古昔《いにしえ》は水の清かりしをもて人の便とするところとなりて、住むもの自ら多かりけむ、この川筋には古き器物を出すこと多し。石神井明神の神体たる石剣の如きもその一なり。
○尾久《おぐ》の渡は荒川小台村と尾久村との間を流るゝ処にあり。この辺りは荒川西より東に流れて、北の岸は卑湿《ひしゆう》の地なるまゝいと荒れたれば、自然の趣きありて、初夏の新蘆《しんろ》栄ゆる頃、晩秋の風の音に力入りて聞ゆる折などは、川面《かわも》の眺めいとをかしく、花紅葉のほかの好き風情あり。鱸《すずき》その他の川魚を漁する人の、豊島の渡よりこゝの渡にかけて千住辺りまでの間に小舟を泛《うか》めて遊ぶも少からず。蚊さへなくば夏の夕の月あかき時なんどは、特《こと》に川中に一杯を酌《く》みて袂に余る涼風に快なる哉を叫ぶべき価ある処なりといふ。川は尾久の渡より下二十町ほどにしてまた一転折して、千住製紙所の前を東に流る。一たび製紙所に入りて直《ただち》にまた本流に合する一|渠《きよ》あり。製紙所前を流れて、やがて大橋に至る。
○千住の大橋は千住駅の南組中組の間にかゝれる橋にして、東京より陸羽に至る街道に当るをもて人馬の往来絶ゆることなし。大橋より川上は小蒸気船の往来なくして、たゞ川船、伝馬、荷足《にたり》、小舟の類の帆を張り艫櫂《ろかい》を使ひて上下するのみなれば、閑静の趣を愛して夏の日の暑熱《あつさ》を川風に忘れんとするの人等は、大橋以西、製紙所の上、川の南西側に榛《はん》の樹立《こだち》の連なれるあたりの樹蔭に船を纜《もや》ひて遊ぶが多し。橋の上下|少《すこし》の間は両岸とも材木問屋多ければ、筏《いかだ》の岸に繋がれぬ日もなし。およそこゝの橋より下は永代橋に至るまで小蒸気船の往来絶ゆる暇なく、石炭の烟《けむり》、機関の響、いと勇ましくも忙《せ》はしく、浮世の人を載せ去り載せ来るなり。橋より下の方、東に向つて川の流るゝこと少許《しばし》にして汽車のための鉄橋の下を過ぎ、右に
○塩入村の茅舎竹籬《ぼうしやちくり》を見、左に蘆葭《ろか》の茂れるを見ながら一折して、終に南に向つて去る。このあたりは河水東西に流れて両岸の地もまた幽寂《ゆうじやく》空疎なれば、三秋月を賞するのところとして最も可なり。およそ月を観て興を惹くは、山におけるより水におけるを勝《すぐ》れりとす。月東山を離るといふの句は詞客《しかく》の套語となれりといへども、実は水に近き楼台《ろうだい》の先づ清輝を看るを得るの多趣なるに如《し》かず。また止水におけるは流水におけるの多趣なるに如かず。池をめぐりて夜もすがらといふの情も妙ならざるにはあらざれど、川上とこの川下や月の友といふの景のおもしろさには及ぶべからず。さてまた同じ流水にても、南北の流れにおけるは東西の流れにおけるのをかしきに如かず。南北の流れにては月の出づるところ東岸に迫られて妙ならねど、東西の流れにては月は直《ただち》に河水の水面よりさし昇るところなれば、見渡す眺めも広※[#二の字点、1-2-22]として、浪に砕くる清き光の白銀を流すが如くいと長く曳きてきら/\と輝くなど、いふにいはれぬ趣きあり。特《こと》にこの辺りは川幅も濶《ひろ》くかつ差し潮の力も利けば、大潮の満ち来る勢に河も膨るゝかと見ゆる折柄、潮に乗りて輾《きし》り出づる玉兎のいと大にして光り花やかなるを瞻《み》る、心もおのづから開くやう覚えて快し。一年の中に夕の潮は秋の潮最も大にして、一月の中に満月の夜の潮はまた最も大に、加之《しかも》月の上る頃はこのあたりにては潮のさし来る勢最も盛なる時なれば、東京広しといへども仲秋の月見にはこのあたりに上越したる好き地あるべくもあらず。人もし試《こころみ》に仲秋船を泛《うか》めてこのあたりに月を賞しなば、必ずや河も平生《ひごろ》の河にあらず月も平生の月にあらざるを覚えて、今までかゝる好風景の地を知らで過ぐしゝを憾《うら》むるならん。古《いにしえ》より文人墨客の輩綾瀬以上に遡らずして、たまたまかゝる地あるを知らざりしかば、詩文に載せられて世に現るゝことなく、以て今日に至りしならん。
○塩入りの渡口は月を観るに好き地の下流に在り。墨田堤の方より川を隔てゝ塩入村を望む眺め、呉春《ごしゆん》なんどの画を見る如く、淡き風景の中に詩趣乏しからず。
○綾瀬川は荒川の一転折して南に向つて流るゝところにて、東より来つて会する一渠の名なり。幅は濶からねども船を通ずべく、眺めもこれといふところはなけれどもまた棄てがたき節なきにあらず。その上流は小菅より浮塚に至りて、なほ遠く荒川より出で、こゝにて復《また》荒川の下流の隅田川には入るなり。上流には支流ありて中川にも通ずるをもて船の往来も少からず、隅田川の方より綾瀬橋といへる千住道にかゝれる橋あたりを望めば、一水遠く東に入りて景色おのづから小幀《しようとう》の画を為す。
○さんざいとは綾瀬川の隅田川に合するところの南の岸を呼ぶ俗称なり。おもふに前栽《せんざい》の訛にして、往時《むかし》御前栽畑ありし地なりしを以てなるべし。
○鐘が淵は紡績会社の地先《ちさき》にして、隅田綾瀬の二水相会するところのやゝ下の方をいふ。往時《むかし》普門院といふ寺の鐘この淵に沈みたればこの名ありとは江戸名所図会にも載せたる伝説ながら、けだし恐らくは信ずるに足らざるの談ならん。およそ鐘が淵と名づくるの深潭諸国に甚だ多し、皆必ずしも梵鐘の沈むの故を以てのみ名づけんや。予の考をもてすれば鐘が淵は曲尺《かね》が淵にて、川の形|曲尺《まがりがね》の如く曲折するによりて呼びたる名なりと判ず。こは諸所の同じ名を負へるところの地形を考へて悟るべく、なほまた明かに曲り金と称《とな》ふる地名の川沿の地に多く存するをも併せ考ふべし。
○関屋の里は定めてこれと指すべきところなし。鐘が淵附近の地一帯をいふにや、近き人の著しゝ『隅田川叢誌』には隅田川辺なる村里の総称なりといへり。鐘が淵の下にまた大川より東に入る渠あり、奥行いと浅けれど紡績会社のために漕運の便を与ふること少なからず。それよりまた下に
○水神の森あり。水神の社地を浮島といひて、洪水にも浸さるゝことなき由をもて名あり。このあたり皆川の東の方は深くして西の方は浅し。水神の森の対《むかい》の方に
○隅田川貨物停車場のための渠ありて西に入る。こは上野停車場より各地に至る汽車のために水運陸運を連絡すといふまでにはあらねど、石炭その他を供給するためいと大なる効をなせり。これより下流は川の深処東より移りて漸く西の岸に沿ひ、有名なる
○真先稲荷前を過ぐる頃は、東は甚だ浅く西は大に深きに至る。石浜神社は小社なれどもその古きをもて知られ、真先稲荷は社前に隅田川を控《ひかえ》て、遥に上は水神の森鐘が淵のあたりより下は長堤十里白くして痕なき花の名所の向島を一望の中に収むるをもて名あり。稲荷より下の方一町ほどにして
○思川といふ潮入りの小溝あれど、船を通ずるに至らねば取り出でゝいふべくもあらぬものなり。思川の南数十歩して
○橋場の渡あり。橋場といふ地名は往時《むかし》隅田川に架したる大なる橋ありければ呼びならはしたりとぞ。石浜といへるは西岸の此辺《ここ》をさしていへるなるべし。むかし業平の都鳥の歌を咏《よ》みしも此地《ここ》のあたりならんといふ。こゝより下は、左に小野某の小松島園あり、右に小松宮御別邸あり。小松島園より下は少許《しようきよ》の草生地を隔てゝ墨田堤を望む花時の眺めおもしろく、白髯の祠《ほこら》の森も少しく見ゆ。
○寺島の渡は寺島村なる平作河岸《へいさくがし》より橋場の方へ渡る渡なり。平作河岸とは大川より左に入りて直《ただち》に堤下に至る小渠に傍《そ》へる地をいふ。平作河岸より下流に、また桜組製革場に沿ひて堤下に至るの小渠あり。これより東は今戸、西は寺島の間を流れて河水漸く南に去り、西深く東浅かりし勢変じて東深く西浅きに至る。
○長命寺の下、牛の御前祠の地先あたりは水|特《こと》に深くして、いはゆる
○墨田の長堤もまた直《ただち》に水を臨むをもて、陽春三月の頃は水の洋※[#二の字点、1-2-22]たると花の灼※[#二の字点、1-2-22]たると互に相映発して、絶好の画趣と詩興とを生ず。特《こと》に此辺より吾妻橋上流までの間は府内各学校の生徒ならびに銀行会社の役員等の端艇競争の場となるを以て、春秋の好季には堤上と水面とは共に士女|※[#「門<眞」、第3水準1-93-54]噎《てんえつ》して、歓笑の声絶ゆる間もなく湧くに至る。
○竹屋の渡場は牛の御前祠の下流一町ばかりのところより今戸に渡る渡場にして、吾妻橋より上流の渡船場中《わたしばちゆう》最もよく人の知れるところなり。船に乗りて渡ること半途《なかば》にして眼を放てば、晴れたる日は川上遠く筑波を望むべく、右に長堤を見て、左に橋場今戸より待乳山を見るべし。もしそれ秋の夕なんど天の一方に富士を見る時は、まことにこの渡の風景一刻千金ともいひつべく、画人等の動《やや》もすればこの渡を画題とするも無理ならずと思はる。渡船の著するところに一渠の北西に入るあるは
○山谷堀《さんやぼり》にして、その幅甚だ濶からずといへども直《ただち》に日本堤の下に至るをもて、往時《むかし》は吉原通《よしわらがよい》をなす遊冶郎等のいはゆる猪牙船《ちよきぶね》を乗り込ませしところにして、「待乳沈んで梢のりこむ今戸橋、土手の相傘、片身がはりの夕時雨、君をおもへば、あはぬむかしの細布」の唱歌のいひ起しは、正しくはこの渠のことをいへるなり。今もなほ南岸の人家に往時《むかし》の船宿のおもかげ少しは残れるがなきにあらず。
○待乳山は聖天の祠あるをもて墨堤より望みたる景いとよし。あはれとは夕越えて行く人も見よの茂睡《もすい》の歌の碑は知らぬ人もなく、……の多き文章を嘲つて、待乳山の五丁の碑ぢやアあるめえし、と某先生が戯れたまひしその碑の今に立てるもをかし。こゝの舞台は隅田川を俯視《ふし》すべくして、月夜の眺望《ながめ》四季共に妙に、雪のあしたに瓢酒《ひさござけ》を酌んで、詩を吟じ歌を案ぜんはいよ/\妙なり。仙骨あるものは登臨の快を取りて予が言の欺かざるを悟るべし。待乳山の対岸のやゝ下に
○三囲《みめぐり》祠あり。中流より望みてその華表《とりい》の上半のみ見ゆるに、初めてこれを見る人も猜《すい》してその三囲祠たるを知るべし。この祠の附近よりは川を隔てながら、特《こと》に近※[#二の字点、1-2-22]と浅草なる観音堂ならびに五重塔凌雲閣等を眺め得べし。またこのあたりの堤下、上は柳畑辺より下は三囲祠前の下流十間までの間は有名なる
○鯉釣場にして、いはゆる浅草川の紫鯉を産するところなれば、漁獲の数甚だ多からざるにかゝはらず釣客の綸《いと》を垂るゝもの甚だ少からず。川はこれより山の宿町、花川戸、小梅町、新小梅町の間を下りて吾妻橋に至るなるが、東岸の方の深かりしは漸く転じて、中流もしくは西の方の深からんとするの勢をなす。新小梅町と中《なか》の郷《ごう》との間、一渠東に入るもの
○枕橋、源森橋《げんもりばし》の下を過ぎて業平町に至る。この水路は狭けれども深くして、やゝ大なる船を通ずべく、業平町に至りて後左すれば、いはゆる
○曳船川に出で、田圃の間を北して遠く亀有に達し、なほ遠くは琵琶溜より中川に至る。但し源森川と曳船川との間には水門あり。また源森川の流れを追ふて右に行けば、いはゆる
○横川に出づ。横川は業平橋報恩寺橋長崎橋の下を経、総武鉄道汽車の発著所たる本所停車場の傍を過ぎ、北辻橋南にてかの隅田川と中川との連絡するところの竪川に会し、南辻橋菊川橋猿江橋の下を過ぎて小名木川に会し、扇橋その他の下を過ぎて十間川に会し、なほ南して木場に至る。されば源森川の一路はその関するところ甚だ少からざる重要の一路たり。他日市区改正の成らん暁には、この源森川と押上の六間川(あるいは十間川ともいふ)との間二町ほどの地は鑿《うが》たれて、二水たゞちに聯絡せらるべきはずなり。もし二水相通ずるに至れば、この川|直《ただち》に隅田川と中川とを連ぬることとなりて、加之《しかも》その距離竪川小名木川に比して甚だ短ければ、人※[#二の字点、1-2-22]の便利を感ずること一[#(ト)]方ならざるべし、さて枕橋を左に見捨てゝ大川を南に下り
○花川戸への渡場を過ぎ
○吾妻橋の下を経、左に中の郷、右に材木町を見て下れば、水漸く西岸に沿ふて深く東岸の方浅し。遊女の句に名高き
○駒形の駒形堂を右に見、駒形の渡船場を過ぎ、左には長屋|越《ごし》に番場の多田の薬師の樹立《こだち》を望みて下ること少許《しばし》すれば
○厩橋《うまやばし》に至る。厩橋の下、右岸には古《いにしえ》の米廩の跡なほ存し、唱歌にいはゆる「一番堀から二番堀云※[#二の字点、1-2-22]」の小渠数多くありて、渠ごとに皆水門あり。首尾の松はこのあたりに尋ぬべし。猪牙船《ちよきぶね》の製は既に詳しく知りがたく、小蒸気の煽りのみいたづらに烈しき今日、遊子の旧情やがては詩人の想像にも上《のぼ》らざるに至るべし。米廩敷地の内の一処に電燈会社拠りて立ち、天に冲《ちゆう》する烟突を聳《そび》えしめて黒烟を揚ぐ。本所側にありては電燈会社対岸の下に当りて東に入るの小渠あり。御蔵橋《みくらばし》これに架りて陸軍倉庫の構内に入る。米廩の下、浅草文庫の旧跡の下にはまた西に入るの小渠あり。
○須賀町地先を経、一屈折して蔵前通りを過ぎ、二岐となる。その北に入るものはいはゆる
○新堀《しんぼり》にして、栄久町《えいきゆうちよう》三筋町等に沿ひ、菊屋橋合羽橋等の下に至る。この一条の水路は甚だ狭隘《きようあい》にしてかつ甚だ不潔なれども、不潔物その他の運搬には重要なる位置を占むること、その不快を極むるところの一路なるをも忌み厭ふに暇《いとま》あらずして渠身不相応なる大船の数※[#二の字点、1-2-22]《しばしば》出入するに徴して知るべし。かつ浅草区一帯の地の卑湿にして燥《かわ》きがたきも、この一水路によりて間接に乾燥せしめらるゝこと幾許なるを知らざれば、浅草区に取りては感謝すべき水路なりといふべし。その西に入るものは猿屋町鳥越町等の間を経て、下谷竹町の東、浅草小島町の西に至る、これいはゆる
○三絃堀《しやみせんぼり》なるものなり。この一条の水路もまた不潔と狭隘とを以て人の厭ふところなるが、これまた湿気排除のためと漕運の便とのために重要の一路たらずんばあらず。元来下谷は卑湿の地にして、西に湯島本郷の高地を負ふをもて、一朝雨雪の大に降るに会へば高処の水は自ら低処に来りて、下谷は一大|瀦水地《ちよすいち》となるの観を呈す。就中《なかんずく》御徒士町仲徒士町竹町等は氾濫の中心となるの勢あり。されば三味線堀は今も既に不忍の池の余水を受くるといへども、なほこれを修治拡大して立派なる渠となし、また一路を分岐せしめて、竹町仲徒士町等を経て南の方秋葉の原鉄道貨物取扱所構内の水路に通じ、神田川に達するに至らしめなば、漕運の利は必ずしも大ならずとするも衛生上の益は決して尠少《せんしよう》ならざるべし。さて隅田川いよ/\下りて、浅草瓦町、本所横網町まさに尽きんとするのところに至れば、
○富士見の渡といふ渡あり。この渡はその名の表はすが如く最も好く富士を望むべし。夕の雲は火の如き夏の暮方、または日ざし麗らかに天|清《す》める秋の朝なんど、あるいは黒※[#二の字点、1-2-22]と聳え、あるいは白妙に晴れたるを望む景色いと神※[#二の字点、1-2-22]《こうごう》しくして、さすがに少時《しばし》は塵埃《じんあい》の舞ふ都の中にあるをすら忘れしむ。
○百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出でたるところの懐《ふところ》をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特《こと》に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり。百本杭の下浅草側を西に入る一水は即ち
○神田川なり。幅は然《さ》のみ濶《ひろ》からぬ川ながら、船の往来のいと多くして、前船後船|舳艫《じくろ》相|啣《ふく》み船舷相摩するばかりなるは、川筋繁華の地に当りて加之《しかも》遠く牛込の揚場まで船を通ずべきを以てなり。この川は吹弾歌舞の地として有名なる
○柳橋の下を潜り、また浅草橋左衛門橋美倉橋等の下を経、豊島町にて一水の左より来るに会す。この一水は
○神田堀の余流にして、直ちに東南に向つて去つて、中洲下にて隅田川に入るものなるが、日本橋区を中断して神田川と隅田川とを連ぬるこの水路の上に
○柳原橋、緑橋、汐見橋、千鳥橋、栄橋《さかえばし》、高砂橋、小川橋、蠣浜橋、中の橋、その他の諸橋は架れるなり。材木町、東福田町地先にてこの水路と会する一水は即ち
○今川橋下を流るゝ神田堀にして、御城《おしろ》外濠《そとぼり》より竜閑橋その他諸橋の下を経て来れるものなり。
○外濠は神田堀より入りて、右すれば神田橋一ツ橋|雉子《きじ》橋下を経て俎《まないた》橋下に至り、いはゆる飯田川となりて堀留に窮まり、左すれば常磐橋その他の下に出づべし。さて神田川は上に述べし柳原橋下の一流に会するところより上
○和泉橋下を経て、昌平橋、万世橋、御茶の水橋、水道橋、小石川橋を過ぎ、飯田橋手前にて西北より来り注ぐところの江戸川の一水を呑み、飯田橋上流牛込揚場に至つて尽く。外濠はこれに尽くるにはあらねども漕運の便は実に揚場に極まりて、これより以上は神田川の称もまた止む。
○江戸川は水道の余水にして流れ清く、水量もまた河身の小なるに比して潤沢なれども、小舟のほかは往来しがたきを以て舟運の便甚だ少し。神田川の中、水道橋辺より
○御茶の水橋下流に至るまでの間は、扇頭の小景には過ぎざれども、しかもまた岸高く水|蹙《しじま》りて、樹木鬱蒼、幽邃《ゆうすい》閑雅の佳趣なきにあらず。往時《むかし》聖堂文人によりて茗渓《めいけい》と呼ばれたるは即ち此地《ここ》なり。女子師範学校及び高等師範学校の下、教育博物館の所在地は往時の大学ありしところにして、今なほ大成殿その他の建築保存せられ、境内また大概《おおよそ》旧に依りて存せらるゝを以て、塩谷《しおのや》宕陰《とういん》二十勝記のおもかげの残れるかたも少からず。茗渓より下
○稲荷河岸は小船への乗り場揚り場として古き人の能く知るところにして、美倉橋下左衛門橋浅草橋柳橋附近には釣船網船その他の遊船宿多し。神田川落口より下幾許ならずして隅田川には有名なる両国橋架れり。
○両国橋の名は東京を見ぬ人も知らぬはなければ、今さら取り出でゝ語らでもありなん。橋の上流下流にて花火を打揚ぐる川開きの夜の賑ひは、寺門静軒《てらかどせいけん》が記しゝ往時《むかし》も今も異りなし。橋の下流|少許《しばし》にして東に入るの一水あり。これを
○竪川といふ。竪川は一之橋二之橋竪川橋三之橋新辻橋四之橋等の下を経て、大島村小名木村亀戸村深川出村本所出村等の間を千葉街道に沿ひ、終に中川逆井橋下流に出づる一水路にして、甚だ重要なる一渠なり。特《こと》にその隅田川と中川とを連結するの中間において、松井町にては南に入りて小名木川に達するの一渠(この一水は中途二岐となりて、その一は直《ただち》に南に去つて小名木川に達すれども、他の一は数※[#二の字点、1-2-22]《しばしば》曲折して後富川町にて小名木川に会す)を併せ、菊川町にては北辻橋南辻橋の間の横川を貫き、四之橋の東少許のところにてはまた
○天神川と十字をなして会するを以て、その交通往来し得る区域甚だ広く、従つて漕運の功をなすこと甚だ大なり。天神川は亀戸天神祠前に流るゝを以て名づけられたる一水にして、南は砂村より北は請地村《うけじむら》に至るまでの間を南北に流るゝ一渠にして、丁字形をなして請地にて会する一水は、西中の郷にて堀溜となれど、東は境橋下を過ぎて中川に達する六間川これなり。されば天神川は横川と同じやうなる位置を占めて同じやうなる功をなすといふべし。竪川は是の如き天神川横川等を貫きて加之《しかも》隅田川と中川とを連結することなれば、他日この川沿岸一帯は工場相隣りするの地となるべし。この竪川の隅田川と相会するところより矢の倉町に至るの渡船をば
○千歳の渡といふ。このあたり川は南東に向つて流れ、水は西岸の方深く、安宅町《あたけちよう》地先に至つては川の東部に洲を見《あら》はすに及ぶ。
○安宅の渡は、洲の下流、浜町と安宅との間にあり。渡船場の下数町にして
○新大橋あり。川はこゝに至つて復《また》一転折して南西に向つて流る。新大橋の下|直《ただち》に
○中洲《なかず》ありて川の西部に横たはり、儼として一島をなし、酒楼の類のこゝに家するもの少からず。中洲の対岸一水遠く東に入るものを
○小名木川とす。芭蕉の居を卜せしは即ちこの川の北岸にして、満潮の潮がしらに川角へさし来る水の勢に乗つて照り渡れる月に句を按じ、あるいは五本松あたり、一川の上下に同じ観月の友を思へるなど、皆こゝに居たるよりの風雅のすさびなりけんと想はる。
○万年橋はこの川の口に架れる橋にして、往時《むかし》は匪徒を伊豆の諸島に流すに、この橋の畔《ほとり》と永代橋の畔より船を出すを例とし、かつこゝよりするものは帰期あるものと予定し、永代橋よりするものは帰期なきものと予定する習ひなりしといふ。橋より東少許のところに竪川に通ずる小渠あり。なほ東して高橋《たかばし》及び新高橋下を過ぐれば、扇橋猿江橋の間の横川に会す。なほ東して已《や》まざれば天神川と十字を為して、終に中川に会す。
○新川《しんかわ》はあたかもこの川に接続するものの如く中川より東南に入るの流なるをもて、なほ東して遠く去れば、利根の分流たる江戸川の妙見島上流に出づ。江戸川はこれを溯つて利根の本流に出づべく、利根川はこれを下つて銚子に至るべし。水路の通ずること是の如くなるを以て、小名木川は実に縷《いと》の如き小渠なるにもかゝはらず、荷足行き、伝馬行き、達磨行き、蒸汽船行き、夜※[#二の字点、1-2-22]日※[#二の字点、1-2-22]|艪声檣影《ろせいしようえい》絶ゆる間なし。小名木川は実に重要なる一流といふべし。今既にこの川一帯の地は工業者の占有するところとなれるが多し、他日の発達測り知るべきなり。小名木川の大川に会するところより下少許にして、また一水の大川より東南に入るあり。
○仙台堀といふはこれにして、あるいは十間川とも呼び、いよ/\東しては二十間川ともいふ。上《かみ》の橋《はし》相生橋亀久橋等の下を経て、木場の北に至り、要橋《かなめばし》崎川橋下を過ぎて横川に会し、なほ東して石小田新田《いしおだしんでん》、千田新田《せんだしんでん》の間を通り天神川に会して終る。この川より天神川に出でゝ少しく北し、あるいはまた小名木川より天神川に出でゝ少しく南すれば、東海に入るの一渠を得。これ即ち
○砂村川と称するものにして、砂村を過ぎて中川に至る。隅田川より中川に至るには小名木川あり竪川あれば、この小渠の如きは無用に似たれども、風潮の都合によりて時に舟夫の便とするところとなることあり。仙台堀と油堀とを連ぬる小渠は一条のみならず、また木場附近の大和橋及び鶴歩橋の架れる一渠その他の小渠は、一※[#二の字点、1-2-22]記するに遑《いとま》あらざるを以て省く。けだし木場の如きは溝渠縦横、水多くして地少く、一※[#二の字点、1-2-22]これを記する能《あた》はざればなり。仙台堀入口より中洲へ渡るの
○中洲の渡船場あり。渡船場の下一町余にして復《また》小渠の東南に入るあり。いはゆる
○油堀はこれにして、これもまた仙台堀と同じく木場に達するの渠なれば、二水共に材木船及び筏の多きは知るべきなり。深川側は既に説けり、日本橋側にありては仙台堀の対岸に神田川に達するの一水西北に入るあり、(既説)中洲の背後より箱崎と蠣殻町との間に存する一水あり、油堀と大川との会するところより下流に豊海橋の下を潜りて西北に入る一水あり。流に由りて溯れば、先づ
○豊海橋湊橋の下を経て
○鎧橋下に至る。鎧橋下の上流、思案橋親父橋下を過ぎて堀留に至る一支、荒布橋《あらめばし》中橋下を経て同じく堀留に至る。一支に入らずして本流を追ひて上れば、江戸橋下に至り
○日本橋下に至り、終に一石橋《いつこくばし》下に至りて御濠に出づ。御濠は西の方滝の口に至り、南の方呉服橋八重洲橋鍛冶橋数寄屋橋に至るまで船を通ずべし。豊海橋より一石橋に至るの水路の中、南西に岐《わか》れて霊岸島と亀島町との間に去るものは、新亀島橋亀島橋及び高橋の下を下りて本澪《ほんみよ》に入り、兜町地先にて岐れて南西に去るものは、兜橋海運橋久安橋その他諸橋の下を過ぎて京橋川に合す。
○永代橋は隅田川の最下流に架れる橋にして、これより以下には橋あることなし。(後、相生橋成る。)橋下水深く流れ濶くして、遠く海上を望む風景おのづから浩大にして、大河の河口たるに負《そむ》かざるの趣致あり。橋の下流、佃島石川島月島の一大島をなして横たはるあり。こはいはゆる三角洲に人為の修築を加へたるものにして、これがために川おのづから分岐して海に入るの勢を生ず。
○三ッ叉の名はこれより起り、一は築地に沿ひて西南に流れ、一は越中島に沿ひて東南に流る。西南に流るゝは即ち本流にして
○本澪と呼ばる。本澪は水深くして大船海舶の来り泊するもの甚だ多し。永代橋より下流は川幅甚だ濶く、かつ上に説けるが如く分岐して二となるを以て、便宜上先づ西流東流の二つに分ちて記すべし。先づ西岸の方より記せば、永代橋より下流幾許ならずして西に入るの一小渠あり、三の橋二の橋一の橋の三ツの橋の下を過ぎて亀島橋下を流るゝ一水に会す。
○大川口の渡はこの小渠の下に当りて、深川と越前堀との間を連結す。渡船場より下、町余にして二水の北西より来るを見る。その右なるは高橋下の流れにして即ち亀島橋下より来るもの、その左なるは即ち
○京橋下の流れなり。京橋下の一流は御濠の鍛冶橋南より比丘尼橋紺屋橋を経て来り、京橋の東炭谷橋白魚橋の下に出で、こゝにて南は真福寺橋下より来る一水と会し、北は兜橋より弾正橋下を経来れる一水と会し、桜橋東にてまた南より来る小渠と会し、遂に中の橋稲荷橋下を過ぎてこゝに来れるなり。この流れより下流、本湊町船松町の間に一水あり。明石町居留地の間を南して新栄橋下の一水に通ず。船松町佃島の間には渡船場あり。明石町の南
○明石橋下の一流は、築地一丁目二丁目三丁目を廻《めぐ》りて流るゝ釆女《うねめ》橋万年橋祝橋亀井橋合引橋築地橋軽子橋備前橋小田原橋三の橋等の下の一水に通ずる流れにして、栄橋新栄橋の下を過ぎてこゝに落つるなり。
○南小田原町の南、海軍省用地の北、安芸橋の架れる一水は三の橋の下流にして、三の橋上流より南の方海軍省用地に沿ひて尾張橋下を過ぎ、浜離宮脇より澪に入るの水と通ず。
○浜離宮の北、離宮と海軍省用地との間の一水は前に説きたる如し。別に離宮の西、汐留町との間を流れて直《ただち》に海に入るの流れは、土橋難波橋
○新橋蓬莱橋汐先橋の下を流るゝ水の末ともいふべし。
○三十間堀即ち真福寺橋の流れの続きにして、豊倉橋紀[#(ノ)]国橋豊玉橋朝日橋三原橋木挽橋出雲橋等の下を流るゝ一水は、前の一水と新橋の下、蓬莱橋の上にて丁字形をなして相会す。新橋の渠は御濠に通ずるを以て土橋以西に至るべからざるにはあらねど、地勢高低懸隔するを以て土橋以西には船を通ぜず。汐留堀以南は品川に至るまでの間たゞ一の
○赤羽川あるのみ。赤羽川は渋谷橋の下流にして、遠く幡谷《はたがや》の方より来るといへども、その漕運の功をなすは瓦斯《ガス》会社と芝新浜町との間の落口より溯つて金杉橋将監橋芝園橋赤羽根橋中の橋辺までにして、中の橋以上は辛うじて一之橋あたりまで小舟を通ずるのみ。さて永代橋以南の深川寄りの方を記せば、熊井町より大島町に沿ひて越中島の北の方を、富岡門前町と並行して木場に至り、またその南の方を東して遠く洲崎の遊廓に達するの一渠あり。けだし
○内川といひしはこれか。振鷺亭《しんろてい》が意妓の口に、大河の恋風は浮気な頬をなぐり、内川の旭は眼が覚めてから睡《ねむ》しといひたるも、おもふに古石場町富岡門前町などの間を行くこの一水を指したるなるべし。別に一水の熊井町中島町の間を北に行きて油堀仙台堀を連ぬるあり。深川側の川渠は大概《おおよそ》かくの如し。
 佃島と月島との間、及び月島六丁目と七丁目との間に各※[#二の字点、1-2-22]小渠ありて、本澪の方と上総澪の方との間の往来の便とす。
 東京諸溝渠の大概は上記の如し。たゞ
○下田川と称する名称のことを未だ説かざりしが、明治以前の雑書に時に下田川の名を記すものは、別に一水の流れをなすありて下田川と呼ぶところあるにはあらず、実に永代橋下流即ち隅田川本流の佃島近きところを指していへるのみ。
 川渠の大概は既に記したれば、これより聊《いささ》か海上の状を記さん。東京は概して南の方海に面して、隅田川の南の方海に注げるに伴つて発達したるところなれば、芝区及び品川の西南にありて海を抱いて湾曲なせるの外は、一丘一|砂嘴《さし》の突出して眼を遮るものだになし。されば大川の水のおのづからに土砂を流出するもの、極めて自然の状態をなして遠浅の海底を形づくるが中に、佃島の東の本澪の遠く南品川の沖に達すると、佃島西の上総澪の月島下流に至るとの二線がやゝ深き水路をなすあるのみ、岩礁の伏在するもなく、特別の潮路の去来するもなし。けだし東京前面の海の遠浅なるは、隅田川中川及び江戸川の流出する土砂の自然に堆積せるがためなれば、その砂洲の意外に広大にして、前に挙げたる二条の澪の外に大船巨艦を往来せしめがたきの観あるも怪むに足らずと言ふべし。本澪は第五第二の砲台の間を南へ通ずるなるが、その深さ大抵二|尋《ひろ》以上、上総澪はその深さにおいて及ばざること遠し。是の如くなるを以て北品川の陸嘴《りくし》より東北に向つて海上に散布されたる造船所、第一台場、第五台場、第二台場、第六台場、第三台場、未成のままにて終りし第七台場附近の地のやゝ深きを除きては、月島下流の地も芝浜沖も、東の方は越中島沖も木場沖も洲崎遊廓沖も砂村沖も、皆大抵春末の大干潮には現れ出づるほどの砂洲にして、これらの砂洲の上は即ち満都の士女等が
○汐干狩の楽地として、春末夏初の風|和《のど》かに天暖かなる頃、あるいは蛤蜊《こうり》を爪紅《つまくれない》の手に撈《と》るあり、あるいは銛《もり》を手にして牛尾魚《こち》比目魚《ひらめ》を突かんとするもあるところなり。釣魚の場、投網の場もまた多くはこれら砂洲の上にあり。海苔を収むるがために「ひゞ」と称して麁朶《そだ》を海中に柵立するところも、またこの砂洲の上もしくはその附近の地なり。中川の澪は洲崎の沖の方に東より来りて横《よこた》はれるなるが、本澪、上総澪、台場附近と共にこれらの澪筋もまた釣魚の場所たり。東京湾は甚だ広けれども品川以北中川以西即ち東京の前面の海上は大抵上に説けるが如し。もとより一朝の略説甚だ尽さゞるありといへども大概《おおよそ》はけだし叙し去りたるならん。往時《むかし》後魏の※[#「麗+おおざと」、第3水準1-92-85]善長《れきぜんちよう》は峻峭耿介《しゆんしようこうかい》にして博覧彊記、天下の奇書を読破して水経の註四十巻を著しゝが、後終に陰磐駅に囲まれて水を得ずして力屈し、賊のために殺さるゝに至りしことあり。予今水の東京を談《かた》るといへども、談つて甚だ詳しからず、必ずや水を得ざるの惨にあふことなからん。呵々     (明治三十五年二月)

底本:「一国の首都 他一篇」岩波文庫、岩波書店
   1993(平成5)年5月17日第1刷発行
   1999(平成11)年11月8日第2刷発行
底本の親本:「露伴全集 第二十九巻」岩波書店
   1954(昭和29)年12月
入力:八巻美恵
校正:染川隆俊
2001年8月1日公開
2005年12月7日修正
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幸田露伴

水—— 幸田露伴

 一切の味《あぢはひ》は水を藉《か》らざれば其の味を発する能はず。人若し口の渇くこと甚しくして舌の燥《かわ》くこと急なれば、熊の掌《たなそこ》も魚の腴《あぶらみ》も、それ何かあらん。味は唾液の之を解き之を親ましむるによつて人の感ずるところとなるのみ。唾液にして存せざれば、五味もまた無用のものたらん。唾液は水なり、ムチンの存在によつて粘《ねば》きも、其実は弱アルカリ性の水にして、酵素のプチアリンを含めるのみ。此中プチアリンは消化作用の一助をなすに止まり、ムチンは蓋し外物の強烈の刺激を緩和する為に存せりと覚しく、味を解きて人に伝ふるものは、実に水の力なり。体内の水の用|是《かく》の如し。而して身外の水も亦、味を解きて人に伝ふるの大作用をなす。譬へば青黄赤黒の色も畢竟水の力を得て素《しろ》を染むるが如し。水無ければ、絢爛の美、錦繍の文《あや》、竟《つひ》に成らざるなり。こゝに於て善く染むるものは水を論じ、善く味はふものは水を品す。蜀の錦の名あるは、蜀の水の染むるに宜しければなり。加茂の水ありて、京染の名は流るゝなり。染むる者の水に藉《よ》るも亦大なりといふべし。而して味の水に藉る、亦いよ/\大なり。
 中に就て酒と茶とは殊に水の力に藉る。酒は水に因つて体を成し、茶は水に縁《よ》つて用を発す。灘の酒は実に醸※[#「酉+慍のつくり」、第3水準1-92-88]の技の巧を積み精を極むるによつて成ると雖《いへども》、其の佳水を得るによつて、天下に冠たるに至れるもまた争ふべからず。醸家の水を貴び水を愛し水を重んじ水を吝《をし》む、まことに所以《ゆゑ》ある也。剣工の剣を鍛ひて之を※[#「火+卒」、第3水準1-87-47]《さい》するや、水悪ければ即ち敗る。醸家の酒を醸す、法あり技あり材あり具ありと雖、水佳ならざれば遂に佳なるを得ざるなり。豆腐は※[#「酉+慍のつくり」、第3水準1-92-88]醸の事無しと雖、水に因つて体を成すこと猶酒の如し。故に水佳なれば佳品を得、水佳ならざれば佳品を得ず。京の祇園豆腐も蓋し其の水の佳なるによつて名を得るなり。茶に至つては、其味もと至微の間に在り。こゝに於て水に須《ま》つ処のもの甚深甚大なり。東山氏は園内の清泉を用ゐ、豊臣氏は宇治の橋間に汲ましむ。予むしろ豊臣氏に左袒せん。小泉清しと雖、長流或は勝らんなり。堅田の祐菴は水の味を知るに於て精《くは》し。琵琶湖の水、甲処に於て汲む者と乙処に於て汲む者とを弁じて錯《あや》まらざりしといふ。茶博士たるもの、固《まこと》に是の如くなるべき也。支那に於ては西冷の水、天下に名あり。士の特に此を汲むもの、文の特に此を記するもの、甚だ多し。長江の水、おのづから又佳処あり不佳処ありて、而して郭墓《くわくぼ》の辺《あたり》、もつとも佳なるならん。凡そ水味を論ずるの書、唐の張又新《ちやういうしん》、盧仝《ろどう》等より始まりて、宋元明清に及び、好事の士、時に撰著あり。蘇東坡の真君泉を賞し、葛懶真《かつらいしん》の藍家井を揚ぐるが如き、詩詞雑述のこれに及ぶもの、また甚《はなはだ》少からず。我邦に於ては、乗化亭《じようくわてい》の書以外、寥※[#二の字点、1-2-22]聞くところ無し。千氏片桐氏等、茶技を以て名あるもの、水を品せざるにあらずと雖、面授して而して筆伝せず。故に其の言散見するありて、其書の完成せる無きならん。
 江戸の盛《さかん》なるに当つて、泉井以外、西に玉川の水あり、北に綾瀬の水あり。玉川の水、今猶市民これによりて活く。而れども明澄はこれ有り、真味は乏し。味に精《くはし》き者曰く、水道の水、礬気《ばんき》ありと。綾瀬の水、今は飲むに堪へず、溷濁汚腐、昔日の地志の此を称せしを疑はざるを得ざるなり。江戸川の水、久旱雨無ければ、御熊野の辺、今猶古人の評の我を欺かざるを覚ゆ。然れども上流漸く人家多くして、亦漸く綾瀬のごとくならんとするの虞《おそれ》あり。好事の人の就て汲む者の如き、終《つひ》に往時の一夢たらんのみ。利根川の水、「がまん」甚だ佳なり。がまんは忍耐の義にして、流《ながれ》急に水|駛《はや》く、忍耐せざれば舟を溯《さかのぼ》らしむる能はざるを以て名づく。地は三ッ堀に属し、鬼怒川の利根川に入り、両水衝撃滾混して流るゝの処たり。水品の美、真に赤松氏利根川図志の記するところの如し。予かつて数《しば/\》これを試みしに、山本氏の「清風」は茶の至美なる者にあらずと雖、神味|頓《とみ》に加はりて、霊気心胸に沁むものあるを覚ゆ。而して今鬼怒川の河口、河身改修によりて下つて一里余に在り、知らず我慢の水の味の旧に依るや否やを。

底本:「日本の名随筆33 水」作品社
   1985(昭和60)年7月25日初版発行
   1987(昭和62)年8月10日3刷
底本の親本:「露伴全集 第三一巻」岩波書店
   1956(昭和31)年8月初版発行
入力:とみ~ばあ
校正:門田裕志
2001年9月12日公開
2012年5月12日修正
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幸田露伴

震は亨る—— 幸田露伴

 震《しん》は亨《とほ》る。何をか悪《にく》まむやである。彖伝《たんでん》には、震来つて※[#「隙のつくり+虎」、225-3]※[#二の字点、1-2-22]《げきげき》たりとは、恐るれば福を致すなりとある。恐るれば福を致し、或は侮り、或は亢《たかぶ》れば災を致すのは、何事に於ても必ず然様有る可き道理である。古人は決して我等に虚言《うそ》を語つて居らぬ。恐るれば此心はおのづから誠に返る、誠なれば亨り、誠なれば福は至るべきである。そこで震の大象伝《たいしやうでん》にも、君子以て恐懼修省すとある。恐懼修省の工夫が有れば、以て宗廟社稷を守り、以て祭主と為るべきである。震前の一般社会の一切の事象を観るに、実に欠けてゐたものは、恐懼修省の工夫であつた。人※[#二の字点、1-2-22]は甚だしく亢り甚しく侮り、自ら智なりとし、自ら大なりとし、貴重なる経験を軽視し、所謂好んで自ら小智を用ゐて、而も揚※[#二の字点、1-2-22]として誇る、高慢増長慢等、慢心熾盛の外道そのまゝであつた。今に於て大震災の為に、自ら智なりとした其智が風に飛ぶ塵砂より力無きことを示された。自ら大なりとした其大なることが、猛火の前の紙片よりもつまらぬ小なるものであることを悟らされた。こゝに於て恐懼修省することを為せば、実に幸である。今に当つて猶且修省することを知らずして、旧態依然たるものが有らば、それは先に笑ひ、後に号※[#「口+兆」、第4水準2-3-83]《がうてう》する者であらねばならぬ。笑ひ娯み、笑ひ怠るものは、泣き号び泣きくるしむ者となるべきが自然の道理である。鳥《とり》其|巣《す》を焚かれたるが如くなつて、大なる凶を得べきである。其|屋《やね》を豊《おほい》にし、其家に蔀《しとみ》し、よさゝうにすれば、日中に斗だの沫《ばい》だのといふ星を見て、大なる光は遮られ、小さなる光はあらはれ、然るべき人は世にかくれ、つまらぬ者は時めき、そして、其戸を※[#「門<規」、第3水準1-93-57]《うかが》へば闃《げき》として其れ人|无《な》し、三歳|覿《み》えず、凶なりといふやうになつてしまふ。震前の社会のさまは、このやうでは無かつたか。今はもう言つて甲斐なきことだ。たゞ恐懼修省の工夫を為すべきである。懼れて慎み、慎みて誠ならば、修省の道はおのづから目前に在り足下に現はるべきである。修省すれば福来り幸《さいはひ》至るは自然の理である。慢心や笑容を去つて、粛然たる気合《きあひ》になれば、悪いことは生ずべきで無い。
 地震学はまだ幼い学問である。然るに、あれだけの大災に予知が出来無かつたの、測震器なんぞは玩器《おもちや》同様な物であつたのと難ずるのは、余りに没分暁漢《わからずや》の言である。強震大震の多い我邦の如き国に於てこそ地震学は発達すべきである。諸外国より其智識も其器械も歩を進めて、世界学界に貢献すべきである。科学に対して理解を欠き、科学の功の大ならざるを見る時は、忽ちに軽侮漫罵の念を生ずるのは、口惜しい悪風である。科学は吾人の盛り上げ育て上げて、そして立派なものにせねばならぬものである。喩へば吾人の子供を吾人が哀※[#二の字点、1-2-22]劬労して育て上げねばならぬのと同じことである。まして地震学の如きは、まだ幼い学科である。そして黴菌学なんぞの如くに研究者も研究の保護促進をする者も多く無いのである。これに対つて徒らに其功無きを責むるのは、所謂※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]卵に対つて其暁を報ぜざるを責むるの痴である。科学一点張りの崇拝も自分は厭ふが、科学慢侮も実に厭はしい。科学は十分に尊敬し、十分に愛護し、そして其の生長して偉才卓能をあらはすのを衷心より歓迎せねばならぬ。
 明治の末年の大洪水に先だつて、忌はしい謡が行はれた。それは今でも明記して居る人が有らうが、「たんたん、たん/\、田の中で……」といふ謡で、「おッかあも……田螺《たにし》も呆れて蓋をする」といふのであつた。謡の意は婦人もまた裳裾を※[#「寨」の「木」に代えて「衣」、第3水準1-91-84]《かゝ》げて水を渉《わた》るに至つて其影悪むべく、田螺も呆れて蓋をするといふのである。其謡は何人が作つたか知らぬが、童幼皆これを口にするに及んで、俄然として江東大水、家流れ家洗はれ、婦女も裳裾をかゝげて右往左往するに至つたのである。此度の大震大火、男女多く死するの前には、「おれは河原《かはら》の枯芒《かれすゝき》、おなしおまへも枯芒、どうせ二人が此世では花の咲かないかれすゝき」といふ謡が行はれて、童幼これを唱へ、特《こと》に江東には多く唱はれ、或は其曲を口笛などに吹く者もあつた。其歌詞曲譜ともに卑弱哀傷、人をして厭悪の感を懐かしめた。これは活動写真の挿曲から行はれたので、原意は必ずしも此度の惨事を予言したのでも何でも無いが、大震大火が起つて、本所や小梅、到るところ河原の枯芒となつた人の多いに及んで、唱ふ者はパッタリと無くなつたが、回顧すると厭《いや》な感じがする。菩薩蛮《ぼさつばん》行はれて安禄山《あんろくざん》の乱の起つた昔話や、泣面化粧《なきつらげしやう》が行はれて国の運の傾いた類を、支那史上から取出して談ずるまでも無い事だし、又「まひらくつのくれつれ……」の童謡が行はれて、斉明天皇の御代に我軍が大陸で敗績したり、好い方では「かつらぎ寺の前なるや豊浦《とよら》の寺の西なるや、おしとど、としとど、桜井に白璧《しらたま》しづく……」の童謡が行はれて後、光仁天皇が御登極あつて、前代の弊政を改められた事などを引出して語るまでも無いことであるが、忌はしい謡、或は妙な謡などが行はれたり変な風俗が行はれたりなんどした後に大きな事変があると、各人の記臆の中から、忌はしく感じたり異様に思つてゐた事などが頭を擡げて来て、さも/\其事変の前表予告でゞも有つたかの如く復現して来るものである。古の史家などは多くは此を前兆であらうかと取扱つて、そして正史にも野乗にも採記したのであるが、これも亦たしかに幾分か有理なる社会事相解釈の一面である。厭な歌詞や音楽や風俗化粧などは兎に角に無くて欲しいものであらねばならぬ。郷に入つて其謡を聞けば其郷知る可しである。そこで民を牧《やしな》ふ者は古から意をかゝる事にも用ゐたのである。邵子が橋上に杜鵑の声を聞いて天下の形勢を悟つたといふのも、豈直に杜鵑の声を聞いて而る後に悟るところ有りしならんやである。                      (大正十二年十月)

底本:「日本の名随筆 別巻96 大正」作品社
   1999(平成11)年2月25日発行
底本の親本:「露伴全集 第三〇巻」岩波書店
   1954(昭和29)年7月
入力:加藤恭子
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年1月18日作成
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幸田露伴

少年時代—–幸田露伴

 私は慶応三年七月、父は二十七歳、母は二十五歳の時に神田の新屋敷というところに生まれたそうです。其頃は家もまだ盛んに暮して居た時分で、畳数の七十余畳もあったそうです。併し世の中が変ろうというところへ生れあわせたので、生れた翌年は上野の戦争がある、危い中を母に負われて浅草の所有地へ立退いたというような騒ぎだったそうです。大層弱い生れつきであって、生れて二十七日目に最早医者に掛ったということです。御維新の大変動で家が追々微禄する、倹約せねばならぬというので、私が三歳の時|中徒士町《なかかちまち》に移ったそうだが、其時に前の大きな家へ帰りたい帰りたいというて泣いていて困ったから、母が止むを得ず連れて戻ったそうです。すると外の人が住んで居て大層様子が変わって居たものだから、漸く其後は帰りたいといわないようになったそうです。それから其後また山本町に移ったが、其頃のことで幼心にもうすうす覚えがあるのは、中徒士町に居た時に祖父《おじい》さんが御歿《おなく》なりになったこと位のものです。
 六歳の時、關雪江先生の御姉様のお千代さんと云う方に就いて手習を始めた。此方のことは佳人伝というものに出て居る、雪江先生のことは香亭雅談其他に出て居る。父も兄も皆雪江先生に学んだので、其縁で小さいけれども御厄介になったのです。随分大勢習いに来るものもありました。男女とも一室で、何でも年の大きい女の傍に小さい男の児が坐るというような体になって居たので、自然小さいものは其傍に居る娘さん達の世話になったのです。私はお蝶さんという方を大層好いて居て、其方をたよりにばかりして居た。其方に手を執って世話を仕て貰うと清書《きよがき》なども能く出来るような気が仕た。お蝶さんという方は後に關先生の家の方になられた。其頃習うたものは、「いろは」を終って次が「上大人丘一巳」というものであったと覚えて居る。
 弱い体は其頃でも丈夫にならなかったものと見えて、丁度「いろは」を卒《お》える頃からででもあったろうか、何でも大層眼を患って、光を見るとまぶしくてならぬため毎日々々戸棚の中へ入って突伏して泣いて居たことを覚えて居る。いろいろ療治をした後、根岸に二十八宿の灸とか何とかいって灸をする人があって、それが非常に眼に利くというので御父様に連れられて往った。妙なところへおろす灸で、而もその据えるところが往くたびに違うので馬鹿に熱い灸でした。往くたび毎に車に乗っても御父様の膝へ突伏してばかり居たが、或日帰途に弁天の池の端を通るとき、そうっと薄く眼を開いて見ると蓮の花や葉がありありと見えた。小供心にも盲目になるかと思って居たのが見えたのですから、其時の嬉しかったことは今思い出しても飛び立つようでした。最も永い病気で医者にもかかれば、観行院様(祖母)にも伴われて日朝様へ願を掛けたり、色々苦労したのです。其時日朝上人というのは線香の光で経文を写したという話を観行院様から聞いて、大層眼の良い人だと浦山しく思いました。然し幸に眼も快《よ》くなって何のこともなく日を過した。
 夏になると朝習いというのが始まるので、非常に朝早く起きて稽古に行ったものです。ところが毎朝通る道筋の角に柳屋という豆腐屋がある、其処の近所に何時も何時も大きな犬が寐転んで居る。子供の折は犬が非常に嫌いでしたから、怖々《こわごわ》に遠くの方を通ると、狗《いぬ》は却って其様子を怪んで、ややもすると吠えつく。余り早いので人通は少し、これには実に弱りました。或朝などは怖々ながらも、また今にも吠えられるか噛みつかれるかと思って、其犬の方ばかり見て往ったものだから、それに気をとられて路の一方の溝の中へ落ちたことがあった。別段怪我もしなかったが、身体中汚い泥染れになって叱られたことがある。其後親戚のものから、これを腰にさげて居れば犬が怖れて寄《より》つかぬというて、大きな豹だか虎だかの皮の巾着を貰ったので、それを腰にぶらぶらと下げて歩いたが、何だか怪しいものをさげて居た為めででもあったかして犬は猶更吠えつくようで、しばしば柳屋の前では閉口しました。然しまた可笑しかったのは、其巾着をさげて机の前に坐って手習をして居ると、女の人達が起ったり坐ったりする時に、動《やや》もすると知らずに踏みつける、すると毛がもじゃもじゃとするのでキャッといって驚く。其キャッと云って吃驚するのが如何にも面白いので、後には態と紐を引ぱって踏みそうなところへ出して置いて遣るのです。彼のお蝶さんという方なども私の後へ廻って清書の世話などを焼く時に、つい知らずに踏みつけて吃驚した一人でした。犬に吠えられるのは怖かったが、これはまた非常に可笑しく思ったから今以て思い出して独り興ずる折もある位で、本宅を捜したらまだ其大巾着がどこかにあるだろうと思います。
 手習いの傍、徒士町の會田という漢学の先生に就いて素読を習いました。一番初めは孝経で、それは七歳の年でした。元来其頃は非常に何かが厳重で、何でも復習を了らないうちは一寸も遊ばせないという家の掟でしたから、毎日々々朝暗いうちに起きて、蝋燭を小さな本箱兼見台といったような箱の上に立てて、大声を揚げて復読をして仕舞いました。そうすれば先生のところから帰って来て後は直ぐ遊ぶことが出来るのですから、家の人達のまだ寝ているのも何も構うことは無しに、聞えよがしに復読しました。随分迷惑でしたそうですが、然し止《よ》せということも出来ないので、御母様も堪えて黙って居らしったそうです。此復読をすることは小学校へ往くようになってからも相替らず八釜敷いうて遣らされました。併しそれも唯机に対って声さえ立てて居れば宜いので、毎日のことゆえ文句も口癖に覚えて悉皆暗誦して仕舞って居るものですから、本は初めの方を二枚か三枚開いたのみで後は少しも眼を書物に注がず、口から出任せに家の人に聞えよがしに声高らかに朗々と読んで居るのです。而《そ》して誰も見て居ないと豆鉄砲などを取り出して、ぱちりぱちりと打って遊んで居たこともある。そういうところへ誰かが出て来ると、さあ周章《あわて》て鉄砲を隠す、本を繰る、生憎開けたところと読んで居るところと違って居るのが見あらわされると大叱言を頂戴した。ああ、左様々々《そうそう》、まだ其頃のことで能く記臆して居ることがあります。前申した會田という人の許へ通って居た頃、或日雨が大層降って溝が開いたことがある。腿立を挙げる智慧も無かったと見えて袴を穿いたままのろのろと歩いていって、其儘上りこんで往ったものだから、代稽古の男に馬鹿々々、馬鹿々々と立続けに目の玉の飛び出るほど叱られた。振返って見ると、成程自分のあるいた跡は泥水が滴って畳の上にずーッとポタポタが着いて居た。併し此代稽古の男は兎角自分に出鱈目を教える男だったから、それに罵られたのが残念で残念で堪らなかった為め忘れずに居ります。
 九歳のとき彼のお千代さんという方が女子師範学校の教師になられたそうで、手習いは御教えにならぬことになりました。で、私を何所へ遣ったものでしょうと家でもって先生に伺うと、御茶の水の師範学校付属小学校に入るが宜かろうというので、それへ入学させられました。其頃は小学校は上等が一級から八級まで、下等が一級から八級までという事に分たれて居ましたが、私は試験をされた訳では無いが最初に下等七級へ編入された。ところが同級の生徒と比べて非常に何も彼も出来ないので、とうとう八級へ落されて仕舞った。下等八級には九つだの十だのという大きい小供は居なかったので、大きい体で小さい小供の中に交ぜられたのは小供心にも大に恥しく思って、家へ帰っても知らせずに居た。然し此不出来であったのが全く学校なれざるためであって、程なく出来るようになって来た。で、此頃はまだ頻りに学校で抜擢ということが流行って、少し他の生徒より出来がよければ抜擢してずんずん進級せしめたのです。私もそれで幸いにどしどし他の生徒を乗越して抜擢されて、十三の年に小学校だけは卒業して仕舞った。
 この小学校に通《かよ》って居る間に種々《いろいろ》の可笑しい話があるので。同級の生徒の中に西勃平というのと細川順太郎というのと私と、先ず此三人が年も同じ十一二歳で、気が合った朋友《ともだち》であった。この西勃平というのは、ああ今でも顔を能く覚えて居る。肥った饅頭面の、眼の小さい、随分おもしろい盛んな湾泊者《わんぱくもの》で、相撲を取って負かして置いて罵って遣ると、小さい眼からポロポロと涙を溢《こぼ》しながら非常な勢いで突かかって来るというような愉快な男でした。それで、己《おれ》は周勃と陳平とを一緒にしたんだなどと意張るのです。すると私が、何だ貴様が周勃と陳平とを一緒にしたのなら己は正成と正行とを一緒にしたのだと云って互に意張り合って、さあ来いというので角力を取る、喧嘩をする。正行が鼻血を出したり、陳平が泣面をしたりするという騒ぎが毎々でした。細川はそういうことは仕ない大人《おとな》のような小児《こども》でした。此二人は後にまた中学校でも落合ったことがあるので能くおぼえて居ました。
 また此外に矢張りこれも同級の男で野崎というのがありましたが、此野崎の家は明神前で袋物などをも商う傍、貸本屋を渡世にして居ました。ところが此処は朝夕学校への通り道でしたから毎日のように遊びに寄って、種々の読本の類を引ずり出しては、其絵を見るのと絵解を聞くのを楽しみにしました。勿論草双紙の類は其前から読み初めました。初めの中は変な仮名文字だから読み苦くって弱りましたが、段々読むに慣れてスラスラと読めるようになった。それから後は親類の家などへ往って、児雷也物語とか弓張月とか、白縫物語、田舎源氏、妙々車などいうものを借りて来て、片端から読んで一人で楽んで居た。併し何歳頃から草双紙を読み初めたかどうも確かにはおぼえません、十一位でしたろうか。此頃のことでした、観行院様にお前は何を仕て居たいかと問われたとき、芋を喰って本を読んで居ればそれで沢山だと答えたそうですが、芋ぐらいが好物であったと見えます、ハハハハ。猶学校友達の中に清川というのがありました。これは少し私より年長《としうえ》で、家は蒔絵職でした。仲の好い友達でしたから折々遊びにもゆきましたが、これが読本を家で読んで来ては、学校の休息時間に細川や私なぞに九紋龍史進、豹子頭林冲などという談しを仕て聞かせたのでした。
 前に申したように御維新の後は財産を亡くしたという訳では無かったですが、家は非常に質素な生活を仕て居て、どうかすれば大工の木ッ葉拾いにでも遣られようという勢いでしたから、学校へ遣って貰うのさえ漸々出来たような始末で、石筆でも墨でも小さくなったからとて浪りに棄てたおぼえは無い。指に持ちにくくなった鉛筆などは必らず少し太い筆の軸へ挟んで用いて居て、而もこれを至当の事と信じて居ました。種善院様(祖父)も非常に厳格な方で、而も非常に潔癖な方で、一生膝も崩さなかったというような行儀正しい方であったそうですが、観行院様もまた其通りの方であったので、家の様子が変って人少なになって居るに関わらず、種善院様の時代のように万事を遣って往こうというので、私は毎朝定められた日課として小学校へ往く前に神様や仏様へお茶湯を上げたりお飯を供えたりする、晩は灯明をも上げたのです。それがまた一ト通のことなら宜いが、なかなかどうしてどうして少なくないので、先ず此処で数えて見れば、腰高が大神宮様へ二つ、お仏器が荒神様へ一つ、鬼子母神様と摩利支天様とへ各一つ宛、御祖師様へ五つ、家廟《ほとけさま》へは日によって違うが、それだけは毎日欠かさず御茶を供えて、そらから御膳をあげるので、まだ此上に先祖代々の忌日命日には仏前へ御糧供というを上げねばならぬ。これはたとえ味噌汁に茄子か筍の煮たのにせよ御膳立をして上げるのだから頗る手間がかかるので、これも過去帳を繰って見れば大抵無い日は無い位のもの。また亥の日には摩利支天には上げる数を増す、朔日十五日二十八日には妙見様へもという工合で、法華勧請の神々へ上げる。其外、やれ愛染様だの、それ七面様だのと云うのがあって、月に三度位は必らず上げる。まだまだ此外に今上皇帝と歴代の天子様の御名前が書いてある軸があって、それにも御初穂を供える、大祭日だというて数を増す。二十四日には清正公様へも供えるのです。御祖母様《おばあさま》は一つでもこれを御忘れなさるということはなかったので、其他にも大黒様だの何だのがあるので、如何な日でも私が遣らなくてはならない務めは随分なものであった。勿論厳格に仕付けられたのだから別に苦労には思わなかったが、兎に角余程早く起き出て手捷くやらないでは学校へ往く間に合うようには出来ないのみならず、この事が悉皆済んで仕舞わないうちは誰も朝飯を食べることは出来ないのでした。斯《こ》のように神仏を崇敬するのは維新前の世間の習慣《ならわし》で、ひとり私の家のみのことではなかったのだが、私の家は御祖母様の保守主義のために御祖父様時代の通りに厳然と遣って行った、其衝に私が当らせられたのでした。畢竟《つまり》祖父祖母が下女下男を多く使って居た時の習慣が遺って居たので、仏檀神棚なども、それでしたから家不相応に立派でした。しかし観行院様はまた洒落たところのあった方で、其当時私に太閤が幼少の時、仏像を愚弄した話などを仕てお聞かせなさった事もありました。然し後年、左様私が二十一歳の時、旅から帰って見たら、足掛三年ばかりの不在中に一家悉く一時耶蘇教になったものですから、年久しく堅く仕付けられた習慣も廃されて仕舞って、毎朝の務も私を限りに終りました。こういう家庭のありさまでしたから、近来私の一家族の中に、学校へ行くのに眼が覚めぬなどというもののあるのを聞くと、思わず知らず可笑しく思う位です。
 学校へゆくほど面白いことは無いと思って居たため、小学校へ通って居る間一日も欠席したことは無かったでした。家の中の方が学校よりも都《すべ》て厳格で、山本町に居る間は土蔵位はあったでしたが下女などは置いて無かったのに、家中揃いも揃って奇麗好きであったから晩方になると我日課の外に拭掃除を毎日々々させられました。これに就いて可笑しい話は、柄が三尺もある大きい薪割が今も家に在りますが、或日それを窃《ひそか》に持出しコツコツ悪戯して遊んで居たところ、重さは重し力は無し、過《あやま》って如何なる機会《はずみ》にか膝頭を斬りました。堪らなく痛かったが両親に云えば叱られるから、人前だけは跛も曳かずに痩我慢して痛さを耐えてひた隠しに隠して居ましたが、雑巾掛けのときになって前へ屈んで膝を突くのが痛くて痛くてほとほと閉口しました。然し終《つい》に其の為めに叱られるには至りませんでしたが、今でも其疵痕は膝に名残りを止めてあります。斯ういうように朝も晩もいろいろの事をさせられたのは、其頃下女も子守も居なかったのに、御父様は昼は家に居られないし、御母様は私の下に妹やら弟やらを抱えて居られたのでしたから是非もない事でした。然しこういうように慣らされたため今でも弟などのように気不勝ではありません、至ってまめな方です。
 観行院様は非常に厳格で、非常に規則立った、非常に潔癖な、義務は必らず果すというような方でしたから、種善院様其他の墓参等は毫も御怠りなさること無く、また仏法を御信心でしたから、開帳などのある時は御出かけになり、柴又の帝釈あたりなどへも折々御出でになる。其時に自分は連れて往って頂く、これはまあ折々の一つの楽みであったのです。其他に慰みとか楽みとかいって玩弄物《おもちゃ》を買うて貰うようなことは余り無かったが、然し独楽と紙鳶とだけは大好きであっただけそれ丈上手でした。併し独楽は下劣の児童等《こどもら》と独楽あてを仕て遊ぶのが宜くないというので、余り玩び得なかったでした。紙鳶は他の子供が二枚も三枚も破り棄てて仕舞う間に自分は一枚の紙鳶を満足に※[#「風にょう+昜」、第3水準1-94-7]《あ》げて遊んで居た程でした。これは紙鳶を破るような拙なことを仕無いのと、一つは破れた紙鳶でも繕うことが上手であったからで、今でも私の手にかければ何様な紙鳶でも非常に良い紙鳶に仕て見せます、ハハハ。で、糸目の着加減を両かしぎというのにして、右へでも左へでも何方へでも遣りたいと思う方へ紙鳶が傾くように仕た上、近傍に紙鳶が揚って居ると其奴に引からめて敵の紙鳶を分捕って仕舞うので、左様甘く往くことばかりは無かったが、実に愉快で堪えられないほどの事におもって居たのです。
 家庭は世の常を越えて厳重でありましたが、確にこれは私の益になったに相違無いです。別に家庭の教育などという論は無い頃のことでしたが、先ず毎日々々復習を為し了らなければ遊べぬということと、朝は神仏祖先に対して為《す》るだけの事を必ず為る、また朝夕は学校の事さえ手すきならば掃除雑巾がけを為るということと、物を粗末にしてはならぬという事とで責め立てられたのは、私の幸福になったに相違ないと思います。また観行院様は至って注意深い方で、例えば星は四時地位の定まらないものであるのに一寸|戸外《そと》へ出て天《そら》を仰いで星を御覧になると、ああ彼星が彼辺に在るから最う何時であるなぞと、ちゃんと時を知って居られた。そういう調子であったから子供心にも時々驚いて服した。また植物にしても左様である、庭の雑草などの名や効能なんぞを教えて下すった事が幾度もある。私の注意力はたしかに其為に養われて居るかと思います。
 小学校を了えて後は一年ばかり中学校を修めたが、それも廃めて英学を修める傍、菊地松軒という先生に就《つい》て漢学を修めました。併し最うそれからの談は今は御免を蒙りたいです。

底本:「露伴全集 第29巻」岩波書店
   1954(昭和29)年12月4日発行
初出:「今世少年 10月増刊号 今世英傑少年時代」
   1900(明治33)年10月
※初出時の表題は、「小説家幸田露伴君」です。
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記を次の通りあらためました。
1.旧仮名づかいを現代仮名づかいにあらためました。
2.常用漢字表、人名漢字別表に掲げられている漢字を新字にあらためました。
  ただし、人名については底本のままとしました。
3.ひらがな・カタカナの繰り返し記号は、そのまま仮名を繰り返すようあらためました。
入力:地田尚
校正:今井忠夫
2001年6月18日公開
2009年9月15日修正
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幸田露伴

些細なやうで重大な事—— 幸田露伴

 人間には色々の仕草があるがつゞめて言へば、事に処すると、物に接するとの二ツになる、事に処すると云ふは、其処に生じて来た或る事情に対して、如何《どう》云ふ様に自分の態度を執るか、了見を定《き》めるか、口を利くか、身体を動かすか、智慧を回《めぐ》らすか、力を用ふるかといふ事である。
 事に処するは、非常に多端である。何となれば、其処に生ずる事情は、際限なく種々様々な形を以て現はれて来るから、之に対する道も決して一通りや二通りでない訳で、大体は道理の正しきに従ひ、人情の美しきに従ふべきではあるが、さりとて一様に言ひ切れぬ。或時は手強く、或時は誠実一方で、亦或時は便宜に従ふを宜しいとする場合もある。
 そこで、今それは暫くとして、物に接するといふ方を申さうならば、一体この物といふのは事と違つて死物である。事の方は事情であるから、千差万別が限りなく、変化百端動いて止まざるものであるが、物の方は、これも万物と云つて際限なく数多いものであるが、はるかに静的である。
 例えば、此処に茶碗がある、茶卓がある、土瓶がある、鉄瓶があるといふ如く、此等の物も実に測り知られざる数であるが、兎に角我心以外の物であつて、所謂物質といふ言葉で尽されるもので、その一箇一箇は固定してゐる。勿論、物質そのものも変化せぬではない。水が湯となり氷となるが、人生の事情の多端錯雑、変幻極まりなきに比べてはるかに簡単であり、したがつて物に接するは、事に処するよりも単純であるが、それでも本当に物に接するといふことに徹底するには、大分の知慮分別と、鍛練修業を必要とする。
 然し、物に接する事がよく出来ぬ位では、世に立ち人事百般に処するは、なほ能《よ》く出来ぬ訳であるから、我々は先づ物に接する処から鍛練修業を積んで行かねばならぬ。然るに多くの人は、相手の物そのものが口も利かなければ抵抗もせぬものであるまゝに、勝手にこれに接して、自ら非なりとせぬのが常である。これは詰らぬ事である。小学中学程度の物がよく出来ぬのにそれより高等の事がよく出来よう訳はない。物に接することさへも出来ないのに、巧に事に処さんとするは、イロハも知らんで難しい字を書かんとするが如きものである。
 例へば、我が帽子、我が衣服の如きは我物であるから、如何《どう》扱つてもよいやうなものであるが、これを正当に扱ふには、やはり心の持ち方の良否《よしあし》があつて、其処に違つた結果を生じる。例へば帽子を冠るにもリボンの結目《ゆはひめ》を左にして冠るべきか右にして冠るべきか、その何方《どちら》かゞ正しければ、何方かゞ間違つてゐる。それを何方でも関はぬとすれば、それは物に接する道を失つた訳である。袴をはき付けぬ人が、袴をはいて袴腰を前にしたといふ笑話がある、袴の事は誰でも心得てゐて、誰でも当を得た接し方をするものであるが、さてその他の物に接すると、仲々さうは不可《いか》ぬもので、どうも帽子を逆さに冠つたり、袴を逆にはいたりするやうな過失に陥り勝ちなものである。
 さういふ事は何でもない、些細の事であると思ふけれども大変な大切な事で、その当を得ると得ぬとは、その人の心の有様を語つてゐるものである、その人の事業の順当に行くか行かぬかを語つてゐるものである。些細と見るのは間違ひである。若し袴を逆にはいたり、刀を右に差したりして、それで何でも関《かま》はぬと云つて居る人があれば、明かに、其人は心理的欠陥を有してゐる。さういふ人は朋友としても余り有難くない人である。況《ま》してさういふ人に使はれたり、さういふ人を使つたりするといふ事は考へ物である。何故と云へば、その人は横紙破りで、我ばかり強いといふ性格を示してゐるので、平たく申せば非常識の人間であるからである。
 帽子や袴の事は誰でも知つてゐて、そんな事をするものもないが、一段進んで見るとそれに似た事で色々の接し方がある。例えば、日本家屋の部屋といふものは大抵は方形亦は矩形で、丸いのだの三角のだのは殆ど見当らぬ。それ故に、その部屋の内の色々の物の置き方も俗に云ふ畳の目なり[#「目なり」に傍点]に置けば都合が宜しいのである。然るに四角の火鉢を一ツ置くにしても、亦、机、本箱、煙草盆其他のものを置くにしても畳の目[#「目」に傍点]に従ふやうに置かぬ人が仲々多い。さう云ふ具合に置くと、室内は直に、乱雑、混乱、不体裁と、従つて不便を生じるものであるが、さて其処に気が注《つ》かないと誠に善い性格の人でも、その人が物に接する道を工夫した事も修業した事もないといふ事を示す。混雑、不体裁や不便宜がよいといふ道理はない。
 これはたゞ物の置き方の話であるが、物の積み方もさうで、小さい物を下にして大きい物を上に積めば、その結果は甚だ宜しくない。これ位の僅な事は考へるまでもなく誰でも承知してゐることであるが、実際は小さいものゝ上に大きい物を重ねる様な真似を屡《しば/\》演ずるものである。さうして菊判の本の下へポケット、ブツクを蔵つて了つて、俺の手帳が無くなつたと呟き出すことは、往々にして有り勝ちな事である。これは寔《まこと》に些細の事であるが、さてさういふ些細の事から時々大きい事が起るものである。
 これ等は物の扱ひ方といふ迄であるが、さて亦その上に物を扱ふにつけての心がけといふものがある、この心がけの段になると、仲々出来てゐる人は少い。物を扱ふ心がけに於ては、何処までもその物を愛し、重んじ、その物だけの理や、強さや、必要さやを尽させるのが正当である。この心がけが足りないと、物をしてその必要を尽す間もなく、その力を出す間もなく、その美しさを保たせずして終らせて了ふといふ事になる。
 例えば、一本の筆でも、これを扱ふに道を以てせなければ、直《すぐ》に用に立たなくなる。一挺のナイフでも、林檎を剥《む》いた儘、之を拭はずに捨てゝ置けば直に錆び腐つて、用ひられなくなる。一ツの鋸でも、素人といふものは、使つてへらす[#「へらす」に傍点]より、扱ひ方が悪くて、無用のものにして了ふ方が多い。一ツの茶碗、一ツの土瓶でも、之を扱ふ道を得ないと直に廃物となる。鉄瓶の如き堅いものすら水の強《したゝ》かに入つてゐるのを五徳の上に手荒く置くやうにすれば、やはり破損して水が洩るやうになる。一丁の墨、一箇のペンもその扱ひやうに依つては、充分に役立つに拘らず、何程の効も為さずして終つて了ふ。機械の如き、扱ひ方の如何、接する心がけの良否《よしあし》で非常な差を生ずる。時計の如き、捲くべき時間に必ずネジを捲き、これを正常に扱へば、十年なり、十五年なり、楽にもつものを、或時は捲き、或時は捲かず、或時は手荒く取り扱ふ時は、直《すぐ》壊《こは》れて、無用のものとなる。時計より一段進んだ船舶用のクロノメートルに至つては一段の心がけが必要である。若し、クロノメートルが狂ひ出すと、大洋中で船の位置を知る事が不能になる。クロノメートルの価は僅なものであるが、煙霧の中で船の位置を測定する事が不確実になつては、一大事を惹き起さぬとも限らぬ。発動機の如きはなほ取り扱ひが重大で、飛行機の墜落の大部分は発動機の故障より生ずるのである。
 然らば如何にして、物に接すべきか。
 それには、その物を愛する、この心がけが最も重大なものであつて、これは仁である。
 その物を理解し、正しく取り扱ふ、これは次に大切な心がけであつて、これは義である。物に接するにも仁義が第一である。      (大正十五年二月)

底本:「日本の名随筆 別巻76 常識」作品社
   1997(平成9)年6月25日第1刷発行
底本の親本:「露伴全集 別巻 下」岩波書店
   1980(昭和55)年3月28日第1刷発行
入力:渡邉つよし
校正:門田裕志
2001年9月28日公開
2012年5月12日修正
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幸田露伴

骨董—— 幸田露伴

 骨董といふのは元来支那の田舎言葉で、字はたゞ其音を表はしてゐるのみであるから、骨の字にも董の字にもかゝはつた義が有るのでは無い。そこで、汨董と書かれることもあり、又古董と書かれることもある。字を仮りて音を伝へたまでであることは明らかだ。さて然し骨董といふ音が何様して古物の義になるかといふと、骨董は古銅の音転である、といふ説がある。其説に従へば、骨董は初は古銅器を指したもので、後に至つて玉石の器や書画の類まで、すべて古いものを称することになつたのである。なるほど韓駒《かんく》の詩の、「言ふ莫《な》かれ衲子《なふし》の籃《らん》に底無しと、江南の骨董を盛り取つて帰る」などといふ句を引いて講釈されると、然様かとも思はれる。江南には銅器が多いからである。しかし骨董は果して古銅から来た語だらうか、聊か疑はしい。若し真に古銅からの音転なら、少しは骨董といふ語を用ゐる時に古銅といふ字が用ゐられることが有りさうなものだのに、汨董だの古董だのといふ字がわざ/\代用されることが有つても、古銅といふ字は用ゐられてゐない。※[#「櫂のつくり」、第3水準1-90-32]晴江《てきせいかう》は通雅《つうが》を引いて、骨董は唐の引船の歌の「得董※[#「糸+乞」、第3水準1-89-89]那耶《とくとうこつなや》、揚州銅器多《やうしうどうきおほし》」から出たので、得董の音は骨董二字の原《もと》だ、と云つてゐる。得董※[#「糸+乞」、第3水準1-89-89]那耶は、エンヤラヤの様なもので、囃し言葉である、別に意味も無いから、定まつた字も無いわけである。其説に拠つて考へると、得董又は骨董には何の意味も無いが、古い船引き歌の其の第二句の揚州銅器多の銅器の二字が前の囃し言葉に連接してゐるので、骨董といふことが銅器などを云ふことに転じて来たことになるのである。又それから種※[#二の字点、1-2-22]の古物をも云ふことになつたのである。骨董は古銅の音転などといふ解は、本を知らずして末に就いて巧解したもので、少し手取り早過ぎた似而非《えせ》解釈といふ訳になる。
 又、蘇東坡が種※[#二の字点、1-2-22]の食物を雑へ烹《に》て、これを骨董羮と曰《い》つた。其の骨董は零雑の義で、恰も我邦俗のゴッタ煮ゴッタ汁などといふゴッタの意味に当る。それも字面には別に義があるのでは無い。又、水に落つる声を骨董といふ。それもコトンと落ちる響を骨董の字音を仮りて現はしたまでで、字面に何の義も有るのでは無い。畢竟骨董はいづれも文字国の支那の文字であるが、文字の義からの文字では無く、言語の音からの文字であつて、文字は仮りものであるから、それに訓詁的のむづかしい理屈は無い。
 そんな事は何様でも可いが、兎に角に骨董といふことは、貴いものは周鼎漢彝玉器《しうていかんいぎよくき》の類から、下つては竹木雑器に至るまでの間、書画法帖、琴剣鏡硯、陶磁の類、何でも彼でも古い物一切を云ふことになつてゐる。そして世におのづから骨董の好きな人が有るので、骨董を売買する所謂骨董屋を生じ、骨董の目きゝをする人、即ち鑑定家も出来、大は博物館、美術館から、小は古郵便券、マッチの貼紙の蒐集家まで、骨董畠が世界各国都鄙到るところに開かれて存在して居るやうになつてゐる。実におもしろい事で、又盛んなことで、有難い事で、意義ある事である。悪口を云へば骨董は死人の手垢の附いた物といふことで、余り心持の好いわけの物でも無く、大博物館だつて盗賊《どろばう》の手柄くらべを見るやうなものだが、そんな阿房げた論をして見たところで、野暮な談《はなし》で世間に通用しない。骨董が重んぜられ、骨董蒐集が行はれるお蔭で、世界の文明史が血肉を具し脈絡が知れるに至るのであり、今までの光輝が吾曹の頭上にかゞやき、香気が我等の胸に逼つて、そして今人をして古文明を味はゝしめ、それから又古人とは異なつた文明を開拓させるに至るのである。食欲色欲ばかりで生きてゐる人間は、まだ犬猫なみの人間で、それらに満足し、若くはそれらを超越すれば、是非とも人間は骨董好きになる。云はゞ骨董が好きになつて、やつと人間並になつたので、豚だの牛だのは骨董を捻くつた例を見せてゐない。骨董を捻くり出すのは趣味性が長じて来たのである。それから又骨董は証拠物件である。で、学者も学問の種類によつては、学問が深くなれば是非骨董の世界に頭を突込み手を突込むやうになる。イヤでも黴臭いものを捻くらなければ、いつも定まりきつた書物の中をウロツイてゐる訳になるから、美術だの、歴史だの、文芸だの、其他いろ/\の分科の学者達も、有りふれた事は一[#(ト)]通り知り尽して終つた段になると、いつか知らぬ間に研究が骨董的に入つて行く。それも道理千万な談で、早い譬が、誤植だらけの活版本で何程《いくら》万葉集を研究したからとて、真の研究が成立たう訳は無い理屈だから、何様も学科によつては骨董的になるのがホントで、ならぬのがウソか横着かだ。マア此様な意味合もあつて、骨董は誠に貴ぶべし、骨董好きになるのは寧ろ誇るべし、骨董を捻くる度《ど》にも至らぬ人間は犬猫牛豚同様、誠にハヤ未発達の愍《あはれ》むべきものであると云つても可いのである。で、紳士たる以上はせめてムダ金の拾万両も棄てゝ、小町の真筆のあなめ/\の歌、孔子様の讃《さん》が金《きん》で書いてある顔回の瓢《ひさご》、耶蘇の血が染みてゐる十字架の切れ端などといふものを買込んで、どんなものだいと反身になるのもマンザラ悪くは有るまいかも知らぬ。
 骨董いぢりは実にオツである、イキである。おもしろいに違ひ無い、高尚に違ひ無い、そして有意義に違ひない、そして場合によつては個人のため社会のためになる事も有るに違ひ無い。自分なぞも資産家でさへあれば屹度すばらしい贋物《がんぶつ》や贋筆を買込で大ニコ/\であるに疑ひ無い。骨董を買ふ以上は贋物を買ふまいなんぞといふ其様なケチな事で何様なるものか、古人も死馬の骨を千金で買ふとさへ云つてあるでは無いか。仇十州の贋筆は凡そ二十階級ぐらゐあるといふ談だが、して見れば二十度贋筆を買ひさへすれば卒業して真筆が手に入るのだから、何の訳は無いことだ。何だつて月謝を出さなければ物事はおぼえられない。贋物贋筆を買ふのは月謝を出すのだから、少しも不当の事では無い。扨月謝を沢山出した挙句に、いよ/\真物真筆を大金で買ふ。嬉しいに違ひ無い、自慢をしても可いに違ひ無い。嬉しがる、自慢をする。其の大金は喜悦税だ、高慢税だ。大金と云つたつて、十円の蝦蟇口から一円出すのは其人に取つて大金だが、千万円の弗箱から一万円出したつて五万円出したつて、比例をして見れば其人に取つて実は大金では無い、些少の喜悦税、高慢税といふべきものだ。そして其の高慢税は所得税などと違つて、政府へ納められて盗賊役人だかも知れない役人の月給などになるのでは無く、直に骨董屋さんへ廻つて世間に流通するのであるから、手取早く世間の融通を助けて、いくらか景気をよくしてゐるのである。野暮でない、洒落切つた税といふもので、いや/\出す税や、督促を食つた末に女房の帯を質屋へたゝき込んで出す税とは訳が違ふ金なのだから、同じ税でも所得税なぞは、道成寺では無いが、かねに恨が数※[#二の字点、1-2-22]ござる、思へば此のかね恨めしやの税で、此方の高慢税の如きは、金と花火は飛出す時光る、花火のやうに美しい勢の好い税で、出す方も、ソレ五万両、やすいものだ、と欣※[#二の字点、1-2-22]《にこ/\》として投出す、受取る方も、ハッ五万円、先づ此位のものをお納めして置きますれば私も鼻が高うございますると欣※[#二の字点、1-2-22]して受取る。悪い心持のする景色では有るまい。誰だつて高慢税は出したからうでは無いか。自分も高慢税は沢山出したい。が、不埒千万、人生五十年過ぎてもまだ滞納とは怪しからぬものだ。
 此の高慢税を納めさせることをチャンと合点してゐたのは豊臣秀吉で、何といつても洒落た人だ。東山時分から高慢税を出すことが行はれ出したが、初めは銀閣金閣の主人みづから税を出してゐたのだ。まことに殊勝の心がけの人だつた。信長の時になると、もう信長は臣下の手柄勲功を高慢税額に引直して、所謂骨董を有難く頂戴させてゐる。羽柴筑前守《はしばちくぜんのかみ》なぞも戦《いくさ》をして手柄を立てる、其の勲功の報酬の一部として茶器を頂戴してゐる。つまり五万両なら五万両に相当する勲功を立てた時に、五万両の代りに茶器を戴いてゐるのである。其の骨董に当時五万両の価値が有れば、然様いふ骨董を頂戴したのはつまり筑前守は五万両の高慢税を出して喜んでそれを買つたのと同じことである。秀吉が筑前守時代に数※[#二の字点、1-2-22]の茶器を信長から勲功の賞として貰つたことを記して居る手紙を自分の知人が持つてゐる。専門の史家の鑑定に拠れば疑ふべくも無いものだ。で、高慢税を払はせる発明者は秀吉では無くて、信長の方が先輩であると考へらるゝのであるが、大に其の税法を広行したのは秀吉である。秀吉の智謀威力で天下は大分明るくなり安らかになつた。東山以来の積勢で茶事は非常に盛んになつた。茶道にも機運といふものでがな有らう、英霊底の漢子が段※[#二の字点、1-2-22]に出て来た。松永|弾正《だんじやう》でも織田信長でも、風流も無きにあらず、余裕も有つた人で有るから、皆|茶讌《ちやえん》を喜んだ。然し大煽りに煽つたのは秀吉で有つた。奥州武士の伊達政宗が罪を堂ヶ島に待つ間にさへ茶事を学んだほど、茶事は行はれたのである。勿論秀吉は小田原陣にも茶道宗匠を随へてゐたほどである。南方外国や支那から、おもしろい器物を取寄せたり、又古渡の物、在来の物をも珍重したりして、おもしろい、味のあるものを大に尊んだ。骨董は非常の勢をもつて世に尊重され出した。勿論おもしろくないものや、味の無いものや、平凡のものを持囃したのでは無い。人をして成程と首肯点頭せしむるに足るだけの骨董を珍重したのである。食色の慾は限りがある、又それは劣等の慾、牛や豚も通有する慾である。人間はそれだけでは済まぬ。食色の慾が足り、少しの閑暇が有り、利益や権力の慾火は断えず燃ゆるにしても其れが世態漸く安固ならんとする傾を示して来て、然様無暗に修羅心に任せて※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]きまはることも無効ならんとする勢の見ゆる時に於て、何様して趣味の慾が頭を擡げずに居よう。況んや又趣味には高下も有り優劣も有るから、優越の地に立ちたいといふ優勝慾も無論手伝ふことであつて、こゝに茶事といふ孤独的で無い会合的の興味ある事が存するに於ては、誰か茶讌を好まぬものが有らう。そして又誰か他人の所有に優るところの面白い、味のある、平凡ならぬ骨董を得ることを悦ばぬ者が有らう。需《もと》むる者が多くて、給さるべき物は少い。さあ骨董が何様して貴きが上にも貴くならずに居よう。上は大名達より、下は有福の町人に至るまで、競つて高慢税を払はうとした。税率は人※[#二の字点、1-2-22]が寄つてたかつて競《せ》り上げた。北野の大茶の湯なんて、馬鹿気たことでも無く、不風流の事でも無いか知らぬが、一方から観れば天下を茶の煙りに巻いて、大煽りに煽つたもので、高慢競争をさせたやうなものだ。扨又当時に於て秀吉の威光を背後に負ひて、目眩いほどに光り輝いたものは千利休であつた。勿論利休は不世出の英霊漢である。兵政の世界に於て秀吉が不世出の人であつたと同様に、趣味の世界に於ては先づ以て最高位に立つべき不世出の人であつた。足利以来の趣味は此人によつて水際立つて進歩させられたのである。其の脳力も眼力も腕力も尋常一様の人では無い。利休以外にも英俊は存在したが、少※[#二の字点、1-2-22]は差が有つても、皆大体に於ては利休と相呼応し相追随した人※[#二の字点、1-2-22]であつて、利休は衆星の中に月の如く輝き、群魚を率ゐる先頭魚となつて悠然として居たのである。秀吉が利休を寵用したのは流石秀吉である。足利氏の時にも相阿弥其他の人※[#二の字点、1-2-22]、利休と同じやうな身分の人※[#二の字点、1-2-22]は有つても、利休ほどの人も無く、又利休が用ゐられたほどに用ゐられた人も無く、又利休ほどに一世の趣味を動かして向上進歩せしめた人も無い。利休は実に天仙の才である。自分なぞは所謂茶の湯者流の儀礼などは塵ばかりも知らぬ者で有るけれども、利休が吾邦の趣味の世界に与へた恩沢は今に至て猶存して、自分等にも加被してゐることを感じてゐるものである。斯程の利休を秀吉が用ゐたのは実に流石に秀吉である。利休は当時に於て言はず語らずの間に高慢税査定者とされたのである。
 利休が佳なりとした物を世人は佳なりとした。利休がおもしろいとし、貴しとした物を、世人はおもしろいとし、貴しとした。それは利休に一毫のウソも無くて、利休の佳とし、おもしろいとし、貴しとした物は、真に佳なるもの、真におもしろい物、真に貴い物であつたからである。利休の指点したものは、それが塊然《くわいぜん》たる一陶器であつても一度其の指点を経るや金玉たゞならざる物となつたのである。勿論利休を幇《たす》けて当時の趣味の世界を進歩させた諸星の働きも有つたには相違ないが、一代の宗匠として利休は恐ろしき威力を有して、諸星を引率し、世間をして追随させたのである。それは利休のウソの無い、秀霊の趣味感から成立つたことで、何等其間にイヤな事も無い、利休が佳とし面白しとし貴しとした物は、長へに真に佳であり面白くあり貴くある物であるのであるが、然し又一面には当時の最高有力者たる秀吉が利休を用ゐ利休を尊み利休を殆んど神聖なるものとしたのが利休背後の大光※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《だいくわうえん》だつた事も争へない。で、利休の指の指した者は頑鉄も黄金となつたのである。点鉄成金は仙術の事だが、利休は実に霊術を有する天仙の臨凡《りんぼん》したのであつたのである。一世は利休に追随したのである。人※[#二の字点、1-2-22]は争つて利休の貴しとした物を貴しとした。これを得る喜悦、これを得る高慢のために高慢税を納めることを敢てしたのである、其の高慢税の額は間接に皆利休の査定するところであつたのである。自身は其様な卑役を取るつもりは無かつたらうが、自然の勢で自分も知らぬ間に何時か然様いふ役廻りをさせられるやうになつてゐたのである。骨董が黄金何枚何十枚、一郡一城、或は血みどろの悪戦の功労とも匹敵するやうなことになつた。換言すれば骨董は一種の不換紙幣のやうなものになつたので、そして其の不換紙幣の発行者は利休といふ訳になつたやうなものである。西郷が出したり大隈が出したりした不換紙幣は直に価値が低くなつたが、利休の出した不換紙幣は其後何百年を経て猶其価値を保つてゐる。流石に秀吉はエライ人間をつかまへて不換紙幣発行者としたもので、そして利休は又ホントに無慾で而も煉金術を真に能くした神仙であつたのである。不換紙幣は当時|何程《どれほど》世の中の調節に与つて霊力が有つたか知れぬ。其利を受けた者は勿論利休では無い、秀吉で有つた。秀吉は恐ろしい男で、神仙を駆使して吾が用を為さしめたのである。扨祭りが済めば芻狗《すうく》は不要だ。よい加減に不換紙幣が流通した時、不換紙幣発行は打切られ、利休は詰らぬ理屈を付けられて殺されて終つた。後から/\と際限無く発行されるのでは無いから、不換紙幣は長く其の価値を保つた。各大名や有福町人の蔵の中に収まりかへつてゐた。考へて見れば黄金や宝石だつて人生に取つて真価値が有るのでは無い、矢張り一種の手形ぢやまでなのであらう。徹底して観ずれば骨董も黄金も宝石も兌換券も不換紙幣も似たり寄つたりで、承知されて通用すれば樹の葉が小判でも不思議は無いのだ。骨董の佳い物おもしろい物の方が大判やダイヤモンドよりも佳くもあり面白くもあるから、金貨や兌換券で高慢税をウンと払つて、釉《くすり》の工合の妙味言ふ可からざる茶碗なり茶入なり、何によらず見処の有る骨董を、好きならば手にして楽しむ方が、暢達した料簡といふものだ。理屈に沈む秋のさびしさ、よりも、理屈をぬけて春のおもしろ、の方が好さゝうな訳だ。関西の大富豪で茶道好きだつた人が、死ぬ間際に数万金で一茶器を手に入れて、幾時間を楽んで死んでしまつた。一時間が何千円に当つた訳だ、なぞと譏《そし》る者が有るが、それは譏る方がケチな根性で、一生理屈地獄でノタウチ廻るよりほかの能の無い、理屈をぬけた楽しい天地の有ることを知らぬからの論だ。趣味の前には百万両だつて煙草の煙よりも果敢《はかな》いものにしか思へぬことを会得しないからだ。
 骨董は何様考へてもいろ/\の意味で悪いものでは無い。特《こと》に年寄になつたり金持になつたりしたものには、骨董でも捻くつて貰つてゐるのが何より好い。不老若返り薬などを年寄に用ゐて貰つて、若い者の邪魔をさせるなどは悪い洒落だ。老人には老人相応のオモチャを当がつて、落ついて隅の方で高慢の顔をさせて置く方が、天下泰平の御祈祷になる。小供はセルロイドの玩器《おもちや》を持つ、年寄は楽焼の玩器を持つ、と小学読本に書いて置いても差支無い位だ。又金持は兎角に金が余つて気の毒な運命に囚へられてるものだから、六朝仏《りくてうぶつ》印度仏ぐらゐでは済度されない故、夏殷周の頃の大古物、妲己《だつき》の金盥に狐の毛が三本着いてゐるのだの、伊尹《いゐん》の使つた料理鍋、禹《う》の穿いたカナカンジキだのといふやうなものを素敵に高く買はすべきで、此《これ》は是れ有無相通、世間の不公平を除き、社会主義者だの無産者だのといふむづかしい神※[#二の字点、1-2-22]の神慮をすゞしめ奉る御神楽の一座にも相成る訳だ。
 が、それはそれで可いとして、年寄でも無く、二才でも無く、金持でも無く、文無しでも無い、所謂中年中産階級の者でも骨董を好かぬとは限らない。斯様いふ連中は全く盲人《めくら》といふでも無く、さればと云つて高慢税を進んで沢山納め奉るほどの金も意気も無いので、得て中有に迷つた亡者のやうになる。ところが書画骨董に心を寄せたり手を出したりする者の大多数は此の連中で、仕方が無いから此の連中の内で聡明でも有り善良でも有る輩《やから》は、高級骨董の素晴らしい物に手を掛けたく無い事は無いが、それは雲に梯《かけはし》の及ばぬ恋路みたやうなものだから、矢張り自分等の身分相応の中流どころの骨董で楽しむことになる。一番聡明善良なるものは分科的専門的にして、自分の関係しようとする範囲を成るべく狭小にし、そして歳月を其中で楽しむ。所謂一

一ト筋を通し、一ト流れを守つて、画なら画で何派の誰を中心にしたところとか、陶器なら陶器で何窯《なにがま》の何時頃とか、書なら書で儒者の誰※[#二の字点、1-2-22]とか、蒔絵なら蒔絵で極古いところとか近いところとか、と云ふやうに心を寄せ手を掛ける。此の「筋の通つた蒐集研究をする」これは最も賢明で本当の仕方であるから、相応に月謝さへ払へば立派に眼も明き味も解つて来て、間違無く、最も無難に清娯を得る訳だから論は無い。しかるに又大多数の人々はそれでは律義過ぎて面白くないから、コケが東西南北の水転《みづてん》にあたるやうに、雪舟くさいものにも眼を遣れば応挙くさいものにも手を出す、歌麿がゝつたものにも色気を出す、大雅堂や竹田ばたけにも鍬を入れたがる、運が好ければ韓幹《かんかん》の馬でも百円位で買はふ気で居り、支那の笑話にある通り、杜荀鶴《とじゆんかく》の鶴の画なんといふ変なものをも買はぬとは限らぬ勢で、それでも画のみならまだしもの事、彫刻でも漆器でも陶器でも武器でも茶器でもといふやうに気が多い。左様いふ人々は甚だ少く無いが、時に気の毒な目を見るのも左様いふ人々で、悪気は無くとも少し慾気が手伝つてゐると、百貨店で品物を買つたやうな訳では無い目にも自業自得で出会ふのである。中には些《ちと》性《しやう》が悪くて、骨董商の鼻毛を抜いて所謂掘出物をする気になつてゐる者もある。骨董商は一寸取片付けて澄まして居るものだが、それだつて何も慈善事業で店を開いてゐる訳では無い、其道に年期を入れて資本を入れて、それで妻子を過してゐるのだから、三十円のものは口銭や経費に二十円遣つて五十円で買ふつもりでゐれば何の間違は無いものを、五十円のものを三十円で買ふ気になつて居ては世の中がスラリとは行かない。五円のものを三十円で売附けられるやうなことも、罷り間違へば出来ることになる道理だ。それを弥《いや》が上にもアコギな掘出し気で、三円五十銭で乾山の皿を買はうなんぞといふ図※[#二の字点、1-2-22]しい料簡を腹の底に持つて居たとて、何の、乾也だつて手に入る訳は有りはしない。勧業債券は一枚買つて千円も二千円もになる事は有つても、掘出しなんといふことは先以て無かるべきことだ。悪性の料簡だ、劣等の心得だ、そして暗愚の意図といふものだ。然るに骨董いぢりをすると、骨董には必ず何程かの価があり金銭観念が伴ふので、知らず識らずに賤しく無かつた人も掘出し気になる気味のあるものである。これは骨董のイヤな箇条の一つになる。
 掘出し物といふ言葉は元来が忌はしい言葉で、最初は土中|冢中《ちようちゆう》などから掘出した物といふことに違ひ無い。悪い奴が棒一本か鍬一挺で、墓など掘つて結構なものを得る、それが即ち掘出物で、怪しからぬ次第だ。伐墓といふ語は支那には古い言葉で、昔から無法者が貴人などの墓を掘つた。今存してゐる三略は張良の墓を掘つて彼が黄石公から頂戴したものをアップしたといふ伝説だが、三略は然様して世に出たものでは無い。全く偽物だ。然し古い立派な人の墓を掘ることは行はれた事で、明の天子の墓を悪僧が掘つて種※[#二の字点、1-2-22]の貴い物を奪ひ、おまけに骸骨を足蹴にしたので罰が当つて脚疾になり、其事遂に発覚するに至つた読むさへ忌はしい談は雑書に見えて居る。発掘さるゝを厭つて曹操は多くの偽塚を造つて置いたなどといふことは、近頃の考証で然様では無いと分明したが、王安石などさへ偽塚の伝説を信じて詩を作つたりして居たところを見ると、伐墓の事は随分めづらしいことで無かつたことが思はれる。支那の古俗では、身分のある死者の口中には玉を含ませて葬ることもあるのだから、酷い奴は冢中の宝物から、骸骨の口の中の玉まで引ぱり出して奪ふことも敢てしようとしたことも有らう。※[#「さんずい+維」、第3水準1-87-26]県《ゐけん》あたりとか聞いたが、今でも百姓が冬の農暇になると、鋤鍬を用意して先達を先に立てゝ、あちこちの古い墓を捜しまはつて、所謂掘出し物|※[#「てへん+峠のつくり」、第3水準1-84-76]《かせ》ぎをするといふ噂を聞いた。虚談では無いらしい。日本でも時々飛んでもないことをする者があつて、先年西の方の某国で或る貴い塋域《えいゐき》を犯した事件といふのが伝へられた。聞くさへ忌はしいことだが、掘出し物といふ語は無論かういふ事に本づいて出来た語だから、苟も普通人的感情を有してゐる者の使ふべきでも思ふべきでも無い語であり事である。それにも関はらず掘出し物根性の者が多く、蚤取り眼、熊鷹目で、内心大掘出しを仕度がつてゐる。人が少し悪い代りに虫が大に好い談である。然様いふ人間が多いから商売が険悪になつて、西の方で出来たイカサマ物を東の方の田舎へ埋めて置いて、掘出し党に好い掘出しを仕たつもりで悦ばせて、そして釣鉤へ引掛けるなどといふ者も出て来る。京都出来のものを朝鮮へ埋めて置いて、掘出させた顔で、チャンと釣るなぞといふケレン商売も始まるのである。若し真に掘出しをする者が有れば、それは無頼溌皮の徒で無ければならぬ。又其の掘出物を安く買つて高く売り、其間に利を得る者があれば、それは即ち営業税を払つてゐる商売人で無ければならぬ。商売人は年期を入れ資本を入れ、海千山千の苦労を積んでゐるのである。毎日々々真剣勝負をするやうな気になつて、長い物、悪い物、二番手、三番手、いづれ結構上々の物は少い世の中に、一ト眼見損へば痛手を負はねばならぬ瀬に立つて、いろ/\さまざまあらゆる骨董相応の値ぶみを間違はず付けて、そして何がしかの口銭を得ようとするのが商売の正しい心掛である。何様して油断も隙もなりはしない。波の中に舟を操つてゐるやうなものである。波瀾重畳が此の商買の常である。そこへ素人が割込んだとて何が出来よう。今此の波瀾重畳険危な骨董世界の有様を想見するに足りる談を一寸示さう。但しいづれも自分が仮設したので無い、出処は有るのである。所謂「出」は判然《はつきり》してゐるので、御所望ならば御明かし申して宜しいのです。ハヽヽ。
 これは二百年近く古い書に見えてゐる談である。京都は堀川に金八といふ聞えた道具屋があつた。此の金八が若い時の事で、親父にも仕込まれ、自分も心の励みの功を積んだので、大分に眼が利いて来て、自分ではもう内※[#二の字点、1-2-22]、仲間の者にもヒケは取らない、立派な一人前の男になつた積りでゐる。実際また何から何までに渡つて、随分に目も届けば気も働いて、もう親父から店を譲られても、取りしきつて一人で遣つて行かれるほどに成つてゐたのである。併し何家《どこ》の老人《としより》も同じ事で、親父は其の老成の大事取りの心から、且は有余る親切の気味から、まだ/\位に思つてゐた事であらう、依然として金八の背後《うしろ》に立つて保護してゐた。
 金八が或時大阪へ下つた。其の途中深草を通ると、道に一軒の古道具屋があつた。そこは商買の事で、一寸一[#(ト)]眼見渡すと、時代蒔絵の結構な鐙《あぶみ》がチラリと眼についた。ハテ好い鐙だナ、と立留つて視ると、如何にも時代といひ、出来といひ、中※[#二の字点、1-2-22]めつたには無い好いものだが、残念なことには一方しか無かつた。揃つて居れば、勿論こんな店にあるべきものでは無い筈だが、それにしても何程《いくら》といふだらうと、価を聞くと、ほんの端金だつた。アヽ、一対なら、おれの腕で売れば慥に三十両にはなるものだが、片方では仕方が無い、少しの金にせよ売物にならぬものを買つたつて何様もならぬと、何とも云へない其鐙の好い味に心は惹かれながら、振返つては見つゝも思ひ捨てゝ買はずに大阪へと下つた。いくら好い物でも商売にならぬものを買はなかつたところは流石に宜かつた。ところが、それから道の程を経て、京橋辺の道具屋に行くと、偶然と云はうか天の引合せと云はうか、たしかに前の鐙と同じ鐙が片方あつた。ン、これが別れ/\て両方後家になつてゐたのだナ、しめた、これを買つて、深草のを買つて、両方合はせれば三十両、と早くも腹の中で笑を含んで、価を問ふと片方の割合には高いことを云つて、これほどの物は片方にせよ稀有のものだからと、中※[#二の字点、1-2-22]廉くない。仕方が無いから割に高いけれども、腹の中に目的があるので、先方の云ひ値で買つて、吾が家へ帰ると直に此話をした、勿論親父に悦ばれるつもりであつた。すると親父は悦ぶどころか大怒りで、「たはけづらめ、慾に気が急いて、鐙の左右にも心を附けずに買ひ居つたナ」と罵られた。金八も馬鹿ぢや無かつた。ハッと気が付いて、「しまつた。向後《きやうこう》気をつけます、御免なさいまし」と叩頭したが、それから「片鐙の金八」といふ渾名を付けられたといふことである。これは、もとより片方しか無かつた鐙を、深草で値を付けさせて置いて、捷径《ちかみち》のまはり道をして同じ其鐙を京橋の他の店へ埋めて置いて金八に掘出させたのだ。心さへ急かねば謀られる訳は無いが、他人に仕て遣られぬ前にといふのと、なまじ前に熟視して居て、テッキリ同じ物だと思つた心の虚といふものとの二ツから、金八ほどの者も右左を調べることを忘れて、一盃食はせられたのである。親父は流石に老功で、後家の鐙を買合せて大きい利を得る、そんな甘い事が有るものでは無いといふところに勘を付けて、直に右左の調べに及ばなかつたナと、紙燭をさし出して慾心の黒闇を破つたところは親父だけあつたのである。勿論深草を尋ねても鐙は無くつて、片鐙の浮名だけが金八の利得になつたのである。昔と今とは違ふが、今だつて信州と名古屋とか、東京と北京とかの間で此手で謀られたなら、慾気満々の者は一服頂戴せぬとは限るまい。片鎧の金八は一寸おもしろい談だ。
 も一ツ古い談をしようか、これは明末《みんまつ》の人の雑筆に出てゐるので、其の大分に複雑で、そして其談中に出て来る骨董好きの人※[#二の字点、1-2-22]や骨董屋の種々の性格、風貌《ふうぼう》がおのづと現はれて、且又高貴の品物に搦む愛着や慾念の表裏が如何様に深刻で険危なものであるといふことを語つて居る点で甚だ面白いと感ずるのみならず、骨董といふものに就て一種の淡い省悟《せいご》を発せしめられるやうな気味があるので、自分だけかは知らぬが興味有ることに覚える。談の中に出て来る人※[#二の字点、1-2-22]には名高い人々も有り、勿論虚構の談では無いと考へられるのである。
 定窯《ていえう》といへば少し骨董好きの人なら誰でも知つてゐる貴い陶器だ。宋の時代に定州で出来たものだから定窯といふのである。詳しく言へば其中にも南定と北定とあつて、南定といふのは宋が金に逐はれて南渡してからのもので、勿論其前の北宋の時、美術天子の徽宗皇帝の政和|宣和《せんな》頃、即ち西暦千百十年頃から二十何年頃までの間に出来た北定の方が貴いのである。又、新定といふものがあるが、それは下つて元の頃に出来たもので、ほんとの定窯では無い。北定の本色は白で、白の※[#「さんずい+幼」、170-下-17]水《いうすゐ》の加はつた工合に、何とも云へぬ面白い味が出て、然程に大したもので無くてさへ人を引付ける。
 ところが、こゝに一つの定窯の宝鼎があつた。それは鼎のことであるから蓋し当時宮庭へでも納めたものであつたらう、精中の精、美中の美で、実に驚くべき神品であつた。はじめ明の成化弘治の頃、朱陽の孫氏が山水山房に蔵してゐた。曲水山房主人孫氏は大富豪で、そして風雅人鑑賞家として知られた孫七峯《そんしちほう》とつゞき合で、七峯は当時の名士であつた楊文襄《やうぶんじやう》、文太史《ぶんたいし》、祝京兆《しゆくけいてう》、唐解元《たうかいげん》、李西涯《りせいがい》等《とう》と朋友《ともだち》で、七峯の居たところの南山で、正徳十五年七峯が蘭亭の古のやうに修禊《しうけい》の会をした時は、唐六如が図をつくり、兼ねて長歌を題した位で、孫氏は単に大富豪だつたばつかりで無かつたのである。そこで其の定窯の鼎の台座には、友人だつた李西涯が篆書《てんしよ》で銘を書いて、鐫《ゑ》りつけた。李西涯の銘だけでも、今日は勿論の事、当時でも珍重したものであつたらう。然様いふスバらしい鼎だつたのである。
 ところが嘉靖《かせい》年間に倭寇に荒されて、大富豪だけに孫氏は種※[#二の字点、1-2-22]の点で損害を蒙つて、次第※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]に家運が傾いた。で、蓄へてゐたところの珍貴な品※[#二の字点、1-2-22]を段々と手放すやうになつた。鼎は遂に京口の※[#「革+斤」、第3水準1-93-77]尚宝《きしやうはう》の手に渡つた。それから毘陵《びりよう》の唐太常凝菴《たうたいじやうぎようあん》が非常に懇望して、とう/\凝菴の手に入つたが、此の凝菴といふ人は、地位もあり富力もある上に、博雅で、鑒織《かんしき》にも長け、勿論学問も有つた人だつたから、家には非常に多くの優秀な骨董を有して居た。然し孫氏旧蔵の白定窯鼎が来るに及んで、諸の窯器《えうき》は皆其の光輝を失つたほどであつた。そこで天下の窯器を論ずる者は、唐氏凝菴の定鼎を以て、海内《かいだい》第一、天下一品とすることに定まつてしまつた。実際無類絶好の奇宝で有り、そして一見した者と一見もせぬ者とに論無く、衆口、嘖々《さく/\》として云伝へ聞伝へて羨涎を垂れるところのものであつた。
 こゝに呉門の周丹泉《しうたんせん》といふ人があつた。心慧思霊の非常の英物で、美術骨董にかけては先づ天才的の眼も手も有して居た人であつたが、或時|金※[#「門<昌」、第3水準1-93-51]《きんしやう》から舟に乗り、江右に往く、道に毘陵を経て、唐太常に拝謁を請ひ、そして天下有名の彼の定鼎の一覧を需めた。丹泉の俗物で無いことを知つて交つてゐた唐氏は喜んで引見して、そして其需に応じた。丹泉はしきりに称讃して其鼎をためつすがめつ熟視し、手をもつて大さを度《はか》つたり、ふところ紙に鼎の紋様を模《うつ》したりして、斯様いふ奇品に面した眼福を喜び謝したりして帰つた。そしてまた舟を出して自分の旅路に上つてしまつた。
 それから半歳余り経《たつ》た頃、また周丹泉が唐太常をおとづれた。そして丹泉は意気安閑として、過ぐる日の礼を述べた後、「御秘蔵のと同じやうな白定鼎をそれがしも手に入れました」と云つた。唐太常は吃驚した。天下一品と誇つてゐたものが他所にも有つたといふのだからである。で、「それならば其品を視せて下さい」といふと、丹泉は携へて来てゐたのであるから、異議なく視せた。唐は手に取つて視ると、大きさから、重さから、骨質から、釉色《いうしよく》の工合から、全く吾が家のものと寸分|達《たが》はなかつた。そこで早速自分の所有のを出して見競べて視ると、兄弟が※[#「戀」の「心」に代えて「子」、第4水準2-5-91]生《ふたご》か、いづれをいづれとも言ひかねるほど同じものであつた。自分のの蓋を丹泉の鼎に合せて見ると、しつくりと合する。台座を合せて見ても、又それが為に造つたもののやうにぴたりと合ふ。愈々驚いた太常は溜息を吐かぬばかりになつて、「して君の此の定鼎は何様いふところからの伝来である」と問うた。すると丹泉は莞爾《につこ》と笑つて、「此の鼎は実は貴家から出たのでござりまする。嘗て貴堂に於て貴鼎を拝見しました時、拙者は其の大小軽重|形貌《けいばう》精神、一切を挙げて拙者の胸中に了※[#二の字点、1-2-22]と会得しました。そこで実は倣《なら》つて之を造りましたので、有り体に申します、貴台を欺くやうなことは致しませぬ」と云つた。丹泉は元来|毎々《つね/″\》江西の景徳鎮《けいとくちん》へ行つては、古代の窯器の佳品の模製を良工に指図しては作らせて、そして所謂掘出し好きや、比較的低い銭で高い物を買はうとする慾張りや、訳も分らぬ癖に金銭づくで貴い物を得ようとする耳食者流の目をまはさせて居たもので、其の製作は款紋色沢、すべて咄々として真に逼つたものであつたのである。恐ろしい人も有つたもので、明の頃に既に斯様いふ人が有つたのであるから、今日でも此人の造らせた模品が北定窯だの何だのと云つて何処かの家に什襲珍蔵されて居ぬとは限るまい。扨、周の談を聞いて太常は又今頃に歎服した。で、「それならば此の新鼎は自分に御譲りを願ふ、真品と共に秘蔵して永く副品としますから」といふので、四十金を贈つたといふことである。無論丹泉は其後復同じ品を造りはしなかつたので有らう。
 此談だけでも可なり骨董好きは教へられるところが有らうが、談はまだ続くのである。それから年月を経て、万暦の末年頃、淮安《わいあん》に杜九如《ときうじよ》といふものが有つた。これは商人で、大身上で、素敵な物を買出すので名を得てゐた。千金を惜まずして奇玩を是れ購ふので、董元宰《たうげんさい》の旧蔵の漢玉章、劉海日の旧蔵の商金鼎なんといふものも、皆杜九如の手に落ちた位である。此の杜九如が唐太常の家に在る定鼎の噂を聞いて居て、かね/″\何様かして手に入れたいものだと覗つてゐた。太常の家は孫の代になつて、君兪《くんゆ》といふものが当主であつた。君兪は名家に生れて、気位も高く、且つ豪華で交際を好む人であつたので、九如は大金を齎らして君兪の為に寿を為し、是非とも何様か名高い定鼎を拝見して、生平の渇望を慰したいと申出した。君兪は金で面を撲《は》るやうな九如を余り好みもせず、且つ自分の家柄からして下眼に視たことでゞも有らう、ウン御覧に入れませうと云つて半分冗談に、真鼎は深蔵したまゝ、彼の周丹泉が倣造した副の方の贋鼎《がんてい》を出して視せた。贋鼎だつて、最初真鼎の持主の凝菴が歎服した位のものでは有り、まして真鼎を目にしたことは無い九如であるから、贋物と悟らうやうは無い、すつかり其の高雅妙巧の威に撲たれて終つて、堪らない佳い物だと思ひ込んで惚れ/″\した。そこで無理やりに千金を押付て、別に二百金を中間に立つて取做して呉れる人に酬ひ、そして贋鼎を豪奪するやうにして去つた。巧偸豪奪といふ語は、宋の頃から既に数※[#二の字点、1-2-22]《しば/\》見える語で、骨董好きの人※[#二の字点、1-2-22]には豪奪といふことも自然と起らざるを得ぬことである。マアそれも恕すべきこととすれば恕すべきことである。
 然し君兪の方では困ることであつた。何故と云へば持つて行かれたのが真物では無いからである。君兪は最初は気位の高いところから、町人の腹ッぷくれなんぞ何だといふ位のことで贋物を真顔で視せたのであるが、元来が人の悪い人でも何でも無く温厚の人なので、欺いたやうになつたまゝ済ませて置くことは出来ぬと思つた。そこで門下の士を遣つて、九如に告げさせた。「君が取つて行つたものは実は贋鼎である。真の定鼎はまだ此方に蔵してあるので、それは太常公の戒に遵《したが》つて軽※[#二の字点、1-2-22]しく人に示さぬことになつてゐるから御視せ申さなかつたのである。然るに君が既に千金を捐《す》てゝ贋品を有つてゐるといふことになると、君は知らなくても自分は心に愧ぢぬといふ訳にはゆかぬでは無いか。何様か彼の鼎を還して下さい、千金は無論御返しするから」と理解させたのである。ところが世間に得て有るところの例で、品物を売る前には金が貴く思へて品物を手放すが、手放して了ふと其物の無いのが淋しくなり、それに未練が出て取返したくなるものである。杜九如の方ではテッキリそれだと思つたから、贋物だつたなぞといふのは口実だと考へて、約束変改をしたいのが本心だと見た。そこで、「何様いたしまして。あの様な贋物が有るものではございますまい。仮令贋物にしましたところで、手前の方では結構でございます、頂戴致して置きまして後悔はございません」とやり返した。「そんなに此方の言葉を御信用が無いならば、二つの鼎を列べて御覧になつたらば如何です」と一方は云つたが、それでも一方は信疑相半して、「当方は何様しても頂戴して置きます」と意地張つた。そこで唐君兪は遂に真鼎を出して、贋鼎に比べて視せた。双方とも立派なものでは有るが、比べて視ると、神彩霊威、もとより真物は世間に二ツとあるべきで無いところを見《あら》はした。然し杜九如も前言の手前、如何ともしようとは云はなかつた。つまり模品だといふことを承知しただけに止まつて、返しはし無かつた。九如の其時の心の中は傍《はた》からは中※[#二の字点、1-2-22]面白く感ぜられるが、当人に取つては随分変なもので有つたらう。然し此の委曲を世間が知らう筈は無い、九如の家には千金に易へた宝鼎が伝はつたのである。九如は老死して、其子がこれを伝へて有つてゐた。
 王廷珸《わうていご》字《あざな》は越石《ゑつせき》と云ふ者が有つた。これは片鐙を金八に売りつけたやうな性質の良く無い骨董屋であつた。この男が杜九如の家に大した定鼎の有ることを知つてゐた。九如の子は放蕩もので有つたので、花柳の巷に大金を捨てゝ、家も段※[#二の字点、1-2-22]に悪くなつた。そこへ付込んで廷珸は杜生に八百金を提供して、そして「御返金にならない場合でも御宅の窯鼎《えうてい》さへ御渡し下されば」といふことを云つて置いた。杜生はお坊さんで、延珸の謀つた通りになり、鼎は廷珸の手に落ちて了つた。廷珸は大喜びで、天下一品、価値万金なんどと大法螺を吹立て、かねて好事《かうず》で鳴つてゐる徐六岳《じよりくがく》といふ大紳に売付けにかゝつた。徐六岳を最初から延珸は好い鳥だと狙つて居たのであらう。ところが徐はあまり延珸が狡譎《かうきつ》なのを悪んで、横を向いて了つた。延珸はアテがはづれて困つたが仕方が無かつた。もとよりヤリクリをして、狡辛《こすから》く世を送つてゐるものだから、嵌め込む目的《あて》が無い時は質に入れたり、色気の見える客が出た時は急に質受けしたり、十余年の間といふものは、まるで碁を打つやうなカラクリを仕てゐた其の間に、同じやうな族類系統の肖《に》たものをいろ/\求めて、何様かして甘い汁を啜らうとして居た。其中に泰興の季因是《きいんぜ》といふ、相当の位地のある者が延珸に引かゝつた。
 季因是もかねて唐家の定窯鼎の事を耳にしてゐた。勿論見た事も無ければ、詳しい談を聞いてゐたのでも無い。たゞ其の名に憧れて、大した名物だといふことを知つて居たに過ぎない。延珸は因是の甘いお客だといふことを見抜いて、「これが其の宝器でございまして、これ/\の訳で出たものでございまする」と宜い加減な伝来のいきさつを談して、一つの窯鼎を売りつけた。それも自分が杜生から得た物を売つたのならまだしもであつて、贋鼎にせよ周丹泉の立派な模品であるから宜いが、似ても似つかぬ物で、しかも形さへ異つてゐる方鼎であつた。然し季因是はまるで知らなかつたのだから、廷珸の言に瞞着されて、大名物を得る悦びに五百金といふ高慢税を払つて、大ニコ/\で居た。
 然るに毘陵の趙再思《てうさいし》といふ者が、偶然泰興を過ぎたので、知合で有つたから季因是の家をおとづれた。毘陵は即ち唐家の在るところの地で、同じ毘陵の者であるから、趙再思も唐家に遊んだことも有つて、彼の大名物の定鼎を見たことも有つたのである。其の毘陵の人が来たので、季因是は大天狗で、「近ごろ大した物を手に入れましたが、それは乃ち唐氏の旧蔵の名物で、わざとにも御評鑒《ごひやうかん》を得たいと思つて居りましたところを、丁度御光来を得ましたのは誠に仕合せで」と云ふ談だ。趙再思はたゞハイ/\と云つてゐると、季は重ねて、「唐家の定窯の方鼎は、君も曾て御覧になつたことが御有りですか」と云つた。そこで趙は堪へかねて笑ひ出して、「何と仰《おつし》あります、唐氏の定鼎は方鼎ではございませぬ、円鼎で、足は三つで、方鼎と仰あるが、それは何で」と答へた。季因是はこれを聴くと怫然として奥へ入つて了つて久しく出て来なかつた。趙再思は仕方無しに俟つてゐると、暮方になつて漸く季は出て来て、余怒猶ほ色に在るばかりで、「自分に方鼎を売付けた王廷珸といふ奴めは人を馬鹿にした憎い奴、南科の屈静源は自分が取立てたのですから、今書面を静源に遣はしました。静源は自分の為に此の一埒を明けて呉れませう」といふことであつた。果して屈静源は有司に属して追理しようとしたから、王廷珸は大しくじりで、一目散に姿を匿して仕舞つて、人をたのんで詫を入れ、別に偽物などを贈つて、やつと牢獄《らうや》へ打込まれるのを免れた。
 談はこれだけで済んでも、可なり可笑味も有り憎味も有つて沢山なのであるが、まだ続くから愈ゝ変なものだ。延珸の知合に黄※[#二の字点、1-2-22]石、名は正賓といふものがあつた。廷珸と同じ徽州《きしう》のもので、親類つゞきだなど云つてゐたが、此男は※[#「てへん+晉」、第3水準1-84-87]紳《しんしん》の間にも遊び、少しは鼎彝《ていい》書画の類をも蓄へ、又少しは眼もあつて、本業といふのでは無いが、半黒人で売つたり買つたりも仕ようといふ男だ。斯様いふ男は随分世間にも有るもので、雅のやうで俗で、俗のやうで物好でも有つて、愚のやうで怜悧《りこう》で、怜悧のやうで畢竟は愚のやうでもある。不才の才子である。此の正賓はいつも廷珸と互に所有の骨董を取易へごとをしたり、売買の世話をしたりさせたりして、そして面白がつてゐた。此男が自分の倪雲林の山水一幅、すばらしい上出来なのを延珸に託して売つて貰はうとしてゐた。価は百二十金で、一寸は無い程のものだつた。で、延珸の手へ託しては置いたが、金高ものでもあり、口が遠くて長くなる間に、何様な事が起らぬとも限らぬと思つたので、そこで中※[#二の字点、1-2-22]ウッカリして居ぬ男なので、其幅の知れないところへ予じめ自分の花押《くわあふ》を記して置いて、勿論延珸にも其事は秘して居つたのである。廷珸は其の雲林を見ると素敵に好いので、欲しくなつて堪らなかつた。で、上手な贋筆かきに頼んで、すつかり其通りの模本をこしらへさせた。正賓が取返しに来た時、米元章流の巧偸をやらかして、※[#「墓」の「土」に代えて「手」、第3水準1-84-88]本《もほん》の方を渡して知らん顔をきめようと云ふのであつた。ところが先方にも荒神様が付いてゐない訳では無くて、チャント隠し印のあることには気が付かなかつたのである。斯様いふイキサツだから何時まで経つても売れない。そこで正賓は召使の男を遣つて、雲林を取返して来いと云付けた。隠し印のことは無論男に呑込ませたのである。此の男の王仏元といふのも、平常《いつも》主人等の五分もすかさかいところを見聞して知つてゐるので、中々賢くなつてゐる奴だつた。で、仏元は延珸のところへ往つて、雲林を返して下さいと云ふと、廷珸は承知して一幅を返した。一幅は何も彼も異つては居なかつた。しかし仏元は隠しじるしの有り処に就いて其の有無を査べた。不思議や主人の花押は影も形も無かつた。無い筈である、延珸が今渡したものは正しく※[#「墓」の「土」に代えて「手」、第3水準1-84-88]品なのであるもの。
 仏元は扨こそと腹の中でニヤリと笑つた。ところで此男がまた真剣白刃取りを奉書の紙一枚で遣付けようといふ男だつたから、これは怪しからん、模本贋物を御渡しになるとは、と真正面から此方の理屈の木刀を揮つて先方の毒悪の真剣と切結ぶやうな不利なことをする者では無かつた。何でも無い顔をして模本の雲林を受取つた。敵の真剣を受留めはしないで、澄まして体を交はして危気の無いところに身を置いたのである。そして斯様いふことを言つた。「主人はたゞ私に画を頂戴して参れとばかりでは無く、こちらの定窯鼎をお預かり致してまゐれ、御直段の事はいづれ御相談致しますといふことで」と云つた。定鼎の売れ口が有りさうな談である。そこで延珸は悦んで例の鼎を出して仏元に渡した。延珸は仏元に、より長い真剣を渡して終つたのである。
 そこへ正賓は遣つて来た。そして画を検査してから、「售《う》れないなら售れないで、原物を返して呉れるべきに、狡いことをしては困る」と云ふと、「飛んでも無い、正しくこれは原物で」と延珸は云ひ張る。「イヤ、然様は脱けさせない。自分は隠しじるしを仕て置いた、それが今何処に在る。ソンナ甘い手を食はせられる自分ぢやない」と云ふ。「そりや云掛りといふもので、原物を返せば論は無い筈だ」と云ふ。双方負けず劣らず遣合つて、チャン/\バラと闘つたが、仏元は左右の指を鼎の耳へかけて、此鼎を還すまじいさまをして居た。論に勝つても鼎を取られては詰らぬと気のついた延珸は、スキを見て鼎を奪取らうとしたが、耳をしつかり持つてゐたのだつたから、巧くは奪へなかつた。耳は折れる、鼎は地に墜ちる。カチャンといふ音一ツで、千万金にもと思つて居たものは粉砕してしまつた。ハッと思ふと憤恨一時に爆裂した廷珸は、夢中になつて当面の敵の正賓にウンと頭撞《づつ》きを食はせた。正賓は肋を傷けられて卒倒し、一場は無茶苦茶になつた。
 元来正賓は近年逆境に居り、且又不如意で、惜しい雲林さへ放さうとして居た位のところへ、廷珸の侮りに遭ひ、物は取上げられ、肋は傷けられたので、鬱悶苦痛一時に逼り、越夕《ゑつせき》して終に死んで仕舞つた。延珸も人命沙汰になつたので土地には居られないから、出発して跡を杭州にくらました。周丹泉の造つた模品はこれで土に返つた訳である。
 談はもうこれで沢山であるのに、まだ続くから罪が深い。延珸が前に定窯の鼎類数種を蒐《あつ》めた中に、猶ほ唐氏旧蔵の定鼎と号して大名物を以て人を欺くべきものが有つた。延珸は杭州に逃げたところ、当時※[#「さんずい+路」、第3水準1-87-11]王が杭州に寓して居られた。延珸は※[#「さんずい+路」、第3水準1-87-11]王の承奉兪啓雲といふ者に遇つて、贋鼎を出して示して、これが唐氏旧蔵の大名物と誇耀した。そして※[#「さんずい+路」、第3水準1-87-11]王に手引して貰つて、手取り千六百金、四百金を承奉に贈ることにして、二千金で売付けた。時はもう明末にかゝり、万事不束で、人も満足なものも無かつたので、一厨役の少し麁※[#「滷-さんずい」、第3水準1-83-35]《そろ》なものに其鼎を蔵した管龠《くわんやく》を扱はせたので、其男があやまつて其の贋鼎の一足を折つて仕舞つた。で、其男は罪を懼れて身を投げて死んで終つた。其頃大兵が杭州に入り来たつて、※[#「さんずい+路」、第3水準1-87-11]王は奔り、承奉は廃鼎を銭塘江《せんたうかう》に沈めて仕舞つたといふ。
 これで此の一条の談は終りであるが、骨董といふものに附随して随分種※[#二の字点、1-2-22]の現象が見られることは、ひとり此の談のみの事では有るまい。骨董は好い、骨董はおもしろい。たゞし願はくはスラリと大枚な高慢税を出して楽みたい。廷珸や正賓のやうな者に誰しも関係したくは思ふまい。それからまた、何程《いくら》詰らぬ人にだつて、鼎の足を折つたために身を投げて貰つたりなぞしたくは有るまい。
                     (大正十五年十一月「改造」)

底本:「日本現代文學全集 6 幸田露伴集」講談社
   1963(昭和38)年1月19日初版第1刷発行
   1980(昭和55)年5月26日増補改訂版第1刷
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記を新字、旧仮名にあらためました。
※底本中164頁2段5行の「骨董羮」に《い》とルビがふってありますが、異本では《こつとうかん》となっているのでルビは削除しました。
※底本中167頁2段10行の「釉の工合《くすり》の」は異本を参照し、「釉《くすり》の工合の」としました。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2007年11月9日作成
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幸田露伴

五重塔—— 幸田露伴

     其一

 木理《もくめ》美《うるは》しき槻胴《けやきどう》、縁にはわざと赤樫を用ひたる岩畳《がんでふ》作りの長火鉢に対ひて話し敵《がたき》もなく唯一人、少しは淋しさうに坐り居る三十前後の女、男のやうに立派な眉を何日《いつ》掃ひしか剃つたる痕の青々と、見る眼も覚むべき雨後の山の色をとゞめて翠《みどり》の均しほ床しく、鼻筋つんと通り眼尻キリヽと上り、洗ひ髪をぐる/\と酷《むご》く丸《まろ》めて引裂紙をあしらひに一本簪《いつぽんざし》でぐいと留めを刺した色気無の様はつくれど、憎いほど烏黒《まつくろ》にて艶ある髪の毛の一綜《ふさ》二綜後れ乱れて、浅黒いながら渋気の抜けたる顔にかゝれる趣きは、年増嫌ひでも褒めずには置かれまじき風体《ふうてい》、我がものならば着せてやりたい好みのあるにと好色漢《しれもの》が随分頼まれもせぬ詮議を蔭では為べきに、さりとは外見《みえ》を捨てゝ堅義を自慢にした身の装《つく》り方、柄の選択《えらみ》こそ野暮ならね高が二子《ふたこ》の綿入れに繻子襟かけたを着て何所に紅くさいところもなく、引つ掛けたねんねこ[#「ねんねこ」に傍点]ばかりは往時《むかし》何なりしやら疎《あら》い縞の糸織なれど、此とて幾度か水を潜つて来た奴なるべし。
 今しも台所にては下婢《おさん》が器物《もの》洗ふ音ばかりして家内静かに、他には人ある様子もなく、何心なくいたづらに黒文字を舌端《したさき》で嬲《なぶ》り躍《おど》らせなどして居し女、ぷつりと其を噛み切つてぷいと吹き飛ばし、火鉢の灰かきならし炭火体よく埋《い》け、芋籠より小巾《こぎれ》とり出し、銀ほど光れる長五徳を磨きおとし[#「おとし」に傍点]を拭き銅壺の蓋まで奇麗にして、さて南部霰地《なんぶあられ》の大鉄瓶を正然《ちやんと》かけし後、石尊様詣りのついでに箱根へ寄つて来しものが姉御へ御土産《おみや》と呉れたらしき寄木細工の小繊麗《こぎよう》なる煙草箱を、右の手に持た鼈甲管《べつかふらお》の煙管《きせる》で引き寄せ、長閑に一服吸ふて線香の烟るやうに緩々《ゆる/\》と烟りを噴《は》き出し、思はず知らず太息《ためいき》吐いて、多分は良人《うち》の手に入るであらうが憎いのつそりめが対《むか》ふへ廻り、去年使ふてやつた恩も忘れ上人様に胡麻摺り込んで、強《たつ》て此度《こんど》の仕事を為《せ》うと身の分も知らずに願ひを上げたとやら、清吉の話しでは上人様に依怙贔屓《えこひいき》の御情《おこゝろ》はあつても、名さへ響かぬのつそりに大切《だいじ》の仕事を任せらるゝ事は檀家方の手前寄進者方の手前も難しからうなれば、大丈夫|此方《こち》に命《いひつ》けらるゝに極つたこと、よしまたのつそりに命けらるればとて彼奴《あれめ》に出来る仕事でもなく、彼奴の下に立つて働く者もあるまいなれば見事|出来《でか》し損ずるは眼に見えたこととのよしなれど、早く良人《うちのひと》が愈※[#二の字点、1-2-22]御用|命《いひつ》かつたと笑ひ顔して帰つて来られゝばよい、類の少い仕事だけに是非為て見たい受け合つて見たい、慾徳は何でも関はぬ、谷中《やなか》感応寺《かんおうじ》の五重塔は川越の源太が作り居つた、嗚呼よく出来した感心なと云はれて見たいと面白がつて、何日《いつ》になく職業《しやうばい》に気のはづみを打つて居らるゝに、若し此仕事を他に奪られたら何のやうに腹を立てらるゝか肝癪を起さるゝか知れず、それも道理であつて見れば傍《わき》から妾の慰めやうも無い訳、嗚呼何にせよ目出度う早く帰つて来られゝばよいと、口には出さねど女房気質、今朝|背面《うしろ》から我が縫ひし羽織打ち掛け着せて出したる男の上を気遣ふところへ、表の骨太格子手あらく開けて、姉御、兄貴は、なに感応寺へ、仕方が無い、それでは姉御に、済みませんが御頼み申します、つい昨晩《ゆうべ》酔《へゞ》まして、と後は云はず異な手つきをして話せば、眉頭に皺をよせて笑ひながら、仕方のないも無いもの、少し締まるがよい、と云ひ/\立つて幾干《いくら》かの金を渡せば、其をもつて門口に出で何やら諄々《くど/\》押問答せし末|此方《こなた》に来りて、拳骨で額を抑へ、何《どう》も済みませんでした、ありがたうござりまする、と無骨な礼を為たるも可笑《をかし》。

       其二

 火は別にとらぬから此方《こち》へ寄るがよい、と云ひながら重げに鉄瓶を取り下して、属輩《めした》にも如才なく愛嬌を汲んで与《や》る櫻湯一杯、心に花のある待遇《あしらひ》は口に言葉の仇繁きより懐かしきに、悪い請求《たのみ》をさへすらりと聴て呉れし上、胸に蟠屈《わだかま》りなく淡然《さつぱり》と平日《つね》のごとく仕做《しな》されては、清吉却つて心羞《うらはづ》かしく、何《どう》やら魂魄《たましひ》の底の方がむづ痒いやうに覚えられ、茶碗取る手もおづ/\として進みかぬるばかり、済みませぬといふ辞誼《じぎ》を二度ほど繰返せし後、漸く乾き切つたる舌を湿す間もあらせず、今頃の帰りとは余り可愛がられ過ぎたの、ホヽ、遊ぶはよけれど職業《しごと》の間《ま》を欠いて母親《おふくろ》に心配さするやうでは、男振が悪いではないか清吉、汝《そなた》は此頃仲町の甲州屋様の御本宅の仕事が済むと直に根岸の御別荘の御茶席の方へ廻らせられて居るではないか、良人《うち》のも遊ぶは随分好で汝達の先に立つて騒ぐは毎※[#二の字点、1-2-22]なれど、職業《しごと》を粗略《おろそか》にするは大の嫌ひ、今若し汝の顔でも見たらば又例の青筋を立つるに定つて居るを知らぬでもあるまいに、さあ少し遅くはなつたれど母親《おふくろ》の持病が起つたとか何とか方便は幾干でもつくべし、早う根岸へ行くがよい、五三《ごさ》様も了《わか》つた人なれば一日をふてゝ怠惰《なまけ》ぬに免じて、見透かしても旦那の前は庇護《かば》ふて呉るゝであらう、おゝ朝飯がまだらしい、三や何でもよいほどに御膳を其方へこしらへよ、湯豆腐に蛤鍋《はまなべ》とは行かぬが新漬に煮豆でも構はぬはのう、二三杯かつこんで直と仕事に走りやれ走りやれ、ホヽ睡くても昨夜をおもへば堪忍《がまん》の成らうに精を惜むな辛防せよ、よいは弁当も松に持たせて遣るは、と苦くはなけれど効験《きゝめ》ある薬の行きとゞいた意見に、汗を出して身の不始末を慚《は》づる正直者の清吉。
 姉御、では御厄介になつて直に仕事に突走ります、と鷲掴みにした手拭で額拭き/\勝手の方に立つたかとおもへば、既《もう》ざら/\ざらつと口の中へ打込む如く茶漬飯五六杯、早くも食ふて了つて出て来り、左様なら行つてまゐります、と肩ぐるみに頭をついと一ツ下げて煙草管《きせる》を収め、壺屋の煙草入《りやうさげ》三尺帯に、さすがは気早き江戸ッ子気質、草履つつかけ門口出づる、途端に今まで黙つて居たりし女は急に呼びとめて、此二三日にのつそり[#「のつそり」に傍点]奴《め》に逢ふたか、と石から飛んで火の出し如く声を迸《はし》らし問ひかくれば、清吉ふりむいて、逢ひました逢ひました、しかも昨日御殿坂で例ののつそりがひとしほのつそりと、往生した鶏《とり》のやうにぐたりと首を垂れながら歩行《ある》いて居るを見かけましたが、今度此方の棟梁の対岸《むかう》に立つてのつそりの癖に及びも無い望みをかけ、大丈夫ではあるものゝ幾干か棟梁にも姉御にも心配をさせる其面が憎くつて面が憎くつて堪りませねば、やいのつそりめと頭から毒を浴びせて呉れましたに、彼奴の事故気がつかず、やいのつそりめ、のつそりめと三度めには傍へ行つて大声で怒鳴つて遣りましたれば漸く吃驚して梟《ふくろ》に似た眼で我《ひと》の顔を見詰め、あゝ清吉あーにーいかと寝惚声の挨拶、やい、汝《きさま》は大分好い男児《をとこ》になつたの、紺屋《こうや》の干場へ夢にでも上《のぼ》つたか大層高いものを立てたがつて感応寺の和尚様に胡麻を摺り込むといふ話しだが、其は正気の沙汰か寝惚けてかと冷語《ひやかし》を驀向《まつかう》から与《や》つたところ、ハヽヽ姉御、愚鈍《うすのろ》い奴といふものは正直ではありませんか、何と返事をするかとおもへば、我《わし》も随分骨を折つて胡麻は摺つて居るが、源太親方を対岸に立てゝ居るので何《どう》も胡麻が摺りづらくて困る、親方がのつそり汝《きさま》為《やつ》て見ろよと譲つて呉れゝば好いけれどものうとの馬鹿に虫の好い答へ、ハヽヽ憶ひ出しても、心配相に大真面目くさく云つた其面が可笑くて堪りませぬ、余り可笑いので憎気《にくつけ》も無くなり、箆棒《べらぼう》めと云ひ捨てに別れましたが。其限《それぎ》りか。然《へい》。左様かへ、さあ遅くなる、関はずに行くがよい。左様ならと清吉は自己《おの》が仕事におもむきける、後はひとりで物思ひ、戸外《おもて》では無心の児童《こども》達が独楽戦《こまあて》の遊びに声※[#二の字点、1-2-22]喧しく、一人殺しぢや二人殺しぢや、醜態《ざま》を見よ讐《かたき》をとつたぞと号《わめ》きちらす。おもへばこれも順※[#二の字点、1-2-22]|競争《がたき》の世の状《さま》なり。

       其三

 世に栄え富める人々は初霜月の更衣《うつりかへ》も何の苦慮《くるしみ》なく、紬に糸織に自己《おの》が好き/″\の衣《きぬ》着て寒さに向ふ貧者の心配も知らず、やれ炉開きぢや、やれ口切ぢや、それに間に合ふやう是非とも取り急いで茶室|成就《しあげ》よ待合の庇廂《ひさし》繕へよ、夜半のむら時雨も一服やりながらで無うては面白く窓撲つ音を聞き難しとの贅沢いふて、木枯凄じく鐘の音氷るやうなつて来る辛き冬をば愉快《こゝろよ》いものかなんぞに心得らるれど、其茶室の床板《とこいた》削りに鉋《かんな》礪《と》ぐ手の冷えわたり、其庇廂の大和がき結ひに吹きさらされて疝癪も起すことある職人風情は、何《どれ》ほどの悪い業を前の世に為し置きて、同じ時候に他とは違ひ悩め困《くるし》ませらるるものぞや、取り分け職人仲間の中でも世才に疎く心好き吾夫《うちのひと》、腕は源太親方さへ去年いろ/\世話して下されし節《をり》に、立派なものぢやと賞められし程|確実《たしか》なれど、寛濶《おうやう》の気質《きだて》故に仕事も取り脱《はぐ》り勝で、好い事は毎※[#二の字点、1-2-22]《いつも》他《ひと》に奪られ年中嬉しからぬ生活《くらし》かたに日を送り月を迎ふる味気無さ、膝頭の抜けたを辛くも埋め綴つた股引ばかり我が夫に穿かせ置くこと、婦女《をんな》の身としては他人《よそ》の見る眼も羞づかしけれど、何にも彼も貧が為《さ》する不如意に是非のなく、今ま縫ふ猪之が綿入れも洗ひ曝した松坂縞、丹誠一つで着させても着させ栄えなきばかりでなく見とも無いほど針目勝ち、それを先刻は頑是ない幼心といひながら、母様|其衣《それ》は誰がのぢや、小いからは我《おれ》の衣服《べゞ》か、嬉いのうと悦んで其儘|戸外《おもて》へ駈け出し、珍らしう暖い天気に浮かれて小竿持ち、空に飛び交ふ赤蜻蜻蛉《あかとんぼ》を撲《はた》いて取らうと何処の町まで行つたやら、嗚呼考へ込めば裁縫《しごと》も厭気になつて来る、せめて腕の半分も吾夫《うちのひと》の気心が働いて呉れたならば斯も貧乏は為まいに、技倆《わざ》はあつても宝の持ち腐れの俗諺《たとへ》の通り、何日《いつ》其|手腕《うで》の顕れて万人の眼に止まると云ふことの目的《あて》もない、たゝき大工|穴鑿《あなほ》り大工、のつそり[#「のつそり」に傍点]といふ忌※[#二の字点、1-2-22]しい諢名さへ負せられて同業中《なかまうち》にも軽しめらるゝ歯痒さ恨めしさ、蔭でやきもきと妾が思ふには似ず平気なが憎らしい程なりしが、今度はまた何した事か感応寺に五重塔の建つといふ事聞くや否や、急にむら/\と其仕事を是非|為《す》る気になつて、恩のある親方様が望まるゝをも関はず胴慾に、此様な身代の身に引き受けうとは、些《ちと》えら過ぎると連添ふ妾でさへ思ふものを、他人は何んと噂さするであらう、ましてや親方様は定めし憎いのつそりめと怒つてござらう、お吉《きち》様は猶ほ更ら義理知らずの奴めと恨んでござらう、今日は大抵|何方《どちら》にか任すと一言上人様の御定めなさる筈とて、今朝出て行かれしが未だ帰られず、何か今度の仕事だけは彼程吾夫は望んで居らるゝとも此方は分に応ぜず、親方には義理もあり旁《かたが》た親方の方に上人様の任さるればよいと思ふやうな気持もするし、また親方様の大気にて別段怒りもなさらずば、吾夫に為せて見事成就させたいやうな気持もする、ゑゝ気の揉める、何なる事か、到底《とても》良人《うち》には御任せなさるまいが若もいよ/\吾夫の為る事になつたら、何の様にまあ親方様お吉様の腹立てらるゝか知れぬ、あゝ心配に頭脳《あたま》の痛む、また此が知れたらば女の要らぬ無益《むだ》心配、其故何時も身体の弱いと、有情《やさし》くて無理な叱言《こゞと》を受くるであらう、もう止めましよ止めましよ、あゝ痛、と薄痘痕《うすいも》のある蒼い顔を蹙《しか》めながら即効紙の貼つてある左右の顳※《こめかみ》を、縫ひ物捨てゝ両手で圧へる女の、齢は二十五六、眼鼻立ちも醜からねど美味《うま》きもの食はぬに膩気《あぶらけ》少く肌理《きめ》荒れたる態あはれにて、襤褸衣服《ぼろぎもの》にそゝけ髪ます/\悲しき風情なるが、つく/″\独り歎ずる時しも、台所の劃《しき》りの破れ障子がらりと開けて、母様これを見てくれ、と猪之が云ふに吃驚して、汝は何時から其所に居た、と云ひながら見れば、四分板六分板の切端を積んで現然《あり/\》と真似び建てたる五重塔、思はず母親涙になつて、おゝ好い児ぞと声曇らし、いきなり猪之に抱きつきぬ。

        其四

 当時に有名《なうて》の番匠川越の源太が受負ひて作りなしたる谷中感応寺の、何処に一つ批点を打つべきところ有らう筈なく、五十畳敷|格天井《がうてんじやう》の本堂、橋をあざむく長き廻廊、幾部《いくつ》かの客殿、大和尚が居室《ゐま》、茶室、学徒|所化《しよけ》の居るべきところ、庫裡《くり》、浴室、玄関まで、或は荘厳を尽し或は堅固を極め、或は清らかに或は寂《さ》びて各々其宜しきに適ひ、結構少しも申し分なし。そも/\微々たる旧基を振ひて箇程《かほど》の大寺を成せるは誰ぞ。法諱《おんな》を聞けば其頃の三歳児《みつご》も合掌礼拝すべきほど世に知られたる宇陀の朗圓上人とて、早くより身延の山に螢雪の苦学を積まれ、中ごろ六十余州に雲水の修行をかさね、毘婆舎那《びばしやな》の三行に寂静《じやくじやう》の慧剣《ゑけん》を礪《と》ぎ、四種の悉檀《しつたん》に済度の法音を響かせられたる七十有余の老和尚、骨は俗界の葷羶《くんせん》を避くるによつて鶴の如くに痩せ、眼《まなこ》は人世の紛紜に厭きて半睡れるが如く、固より壊空《ゑくう》の理を諦《たい》して意欲の火炎《ほのほ》を胸に揚げらるゝこともなく、涅槃《ねはん》の真を会《ゑ》して執着の彩色《いろ》に心を染まさるゝことも無ければ、堂塔を興し伽藍を立てんと望まれしにもあらざれど、徳を慕ひ風を仰いで寄り来る学徒のいと多くて、其等のものが雨露凌がん便宜《たより》も旧《もと》のまゝにては無くなりしまゝ、猶少し堂の広くもあれかしなんど独語《つぶや》かれしが根となりて、道徳高き上人の新に規模を大うして寺を建てんと云ひ玉ふぞと、此事八方に伝播《ひろま》れば、中には徒弟の怜悧《りこう》なるが自ら奮つて四方に馳せ感応寺建立に寄附を勧めて行《ある》くもあり、働き顔に上人の高徳を演《の》べ説き聞かし富豪を慫慂《すゝ》めて喜捨せしむる信徒もあり、さなきだに平素《ひごろ》より随喜渇仰の思ひを運べるもの雲霞の如きに此勢をもつてしたれば、上諸侯より下町人まで先を争ひ財を投じて、我一番に福田《ふくでん》へ種子を投じて後の世を安楽《やす》くせんと、富者は黄金白銀を貧者は百銅二百銅を分に応じて寄進せしにぞ、百川《ひやくせん》海に入るごとく瞬く間《ひま》に金銭の驚かるゝほど集りけるが、それより世才に長《た》けたるものの世話人となり用人なり、万事万端執り行ふて頓《やが》て立派に成就しけるとは、聞いてさへ小気味のよき話なり。
 然るに悉皆《しつかい》成就の暁、用人頭の爲右衞門普請諸入用諸雑費一切しめくゝり、手脱《てぬか》る事なく決算したるに尚大金の剰《あま》れるあり。此をば如何になすべきと役僧の圓道もろとも、髪ある頭に髪無き頭突き合はせて相談したれど別に殊勝なる分別も出でず、田地を買はんか畠買はんか、田も畠も余るほど寄附のあれば今更また此浄財を其様な事に費すにも及ばじと思案にあまして、面倒なり好《よき》に計らへと皺枯れたる御声にて云ひたまはんは知れてあれど、恐る/\圓道或時、思さるゝ用途《みち》もやと伺ひしに、塔を建てよと唯一言云はれし限《ぎ》り振り向きも為たまはず、鼈甲縁の大きなる眼鏡の中より微なる眼の光りを放たれて、何の経やら論やらを黙※[#二の字点、1-2-22]と読み続けられけるが、いよ/\塔の建つに定つて例の源太に、積り書出せと圓道が命令《いひつ》けしを、知つてか知らずに歟《か》上人様に御目通り願ひたしと、のつそりが来しは今より二月程前なりし。

       其五

 紺とはいへど汗に褪め風に化《かは》りて異な色になりし上、幾度か洗ひ濯《すゝ》がれたるため其としも見えず、襟の記印《しるし》の字さへ朧気となりし絆纏を着て、補綴《つぎ》のあたりし古股引を穿きたる男の、髪は塵埃《ほこり》に塗《まみ》れて白け、面は日に焼けて品格《ひん》なき風采《やうす》の猶更品格なきが、うろ/\のそ/\と感応寺の大門を入りにかゝるを、門番尖り声で何者ぞと怪み誰何《たゞ》せば、吃驚して暫時《しばらく》眼を見張り、漸く腰を屈めて馬鹿丁寧に、大工の十兵衞と申しまする、御普請につきまして御願に出ました、とおづ/\云ふ風態《そぶり》の何となく腑には落ちねど、大工とあるに多方源太が弟子かなんぞの使ひに来りしものならむと推察《すゐ》して、通れと一言|押柄《あふへい》に許しける。
 十兵衞これに力を得て、四方《あたり》を見廻はしながら森厳《かう/″\》しき玄関前にさしかゝり、御頼申《おたのまを》すと二三度いへば鼠衣の青黛頭《せいたいあたま》、可愛らしき小坊主の、応《おゝ》と答へて障子引き開けしが、応接に慣れたるものの眼|捷《ばや》く人を見て、敷台までも下りず突立ちながら、用事なら庫裡の方へ廻れ、と情無《つれな》く云ひ捨てゝ障子ぴつしやり、後は何方《どこ》やらの樹頭《き》に啼く鵯《ひよ》の声ばかりして音もなく響きもなし。成程と独言しつゝ十兵衞庫裡にまはりて復案内を請へば、用人爲右衞門仔細らしき理屈顔して立出で、見なれぬ棟梁殿、何所《いづく》より何の用事で見えられた、と衣服《みなり》の粗末なるに既《はや》侮り軽しめた言葉遣ひ、十兵衞さらに気にもとめず、野生《わたくし》は大工の十兵衞と申すもの、上人様の御眼にかゝり御願ひをいたしたい事のあつてまゐりました、どうぞ御取次ぎ下されまし、と首《かうべ》を低くして頼み入るに、爲右衞門ぢろりと十兵衞が垢臭き頭上《あたま》より白の鼻緒の鼠色になつた草履穿き居る足先まで睨め下し、ならぬ、ならぬ、上人様は俗用に御関りはなされぬは、願といふは何か知らねど云ふて見よ、次第によりては我が取り計ふて遣る、と然《さ》も/\万事心得た用人めかせる才物ぶり。それを無頓着の男の質朴《ぶきよう》にも突き放して、いゑ、ありがたうはござりますれど上人様に直※[#二の字点、1-2-22]で無うては、申しても役に立ちませぬ事、何卒たゞ御取次を願ひまする、と此方の心が醇粋《いつぽんぎ》なれば先方《さき》の気に触る言葉とも斟酌せず推返し言へば、爲右衞門腹には我を頼まぬが憎くて慍《いか》りを含み、理《わけ》の解らぬ男ぢやの、上人様は汝《きさま》ごとき職人等に耳は仮したまはぬといふに、取次いでも無益《むやく》なれば我が計ふて得させんと、甘く遇《あしら》へば附上る言分、最早何も彼も聞いてやらぬ、帰れ帰れ、と小人の常態《つね》とて語気たちまち粗暴《あら》くなり、謬《にべ》なく言ひ捨て立んとするに周章《あわ》てし十兵衞、ではござりませうなれど、と半分いふ間なく、五月蠅、喧しいと打消され、奥の方に入られて仕舞ふて茫然《ぼんやり》と土間に突立つたまゝ掌《て》の裏《うち》の螢に脱去《ぬけ》られし如き思ひをなしけるが、是非なく声をあげて復案内を乞ふに、口ある人の有りや無しや薄寒き大寺の岑閑《しんかん》と、反響《ひゞき》のみは我が耳に堕ち来れど咳声《しはぶき》一つ聞えず、玄関にまはりて復頼むといへば、先刻《さき》見たる憎気な怜悧|小僧《こばうず》の一寸顔出して、庫裡へ行けと教へたるに、と独語《つぶや》きて早くも障子ぴしやり。
 復庫裡に廻り復玄関に行き、復玄関に行き庫裡に廻り、終には遠慮を忘れて本堂にまで響く大声をあげ、頼む/\御頼申すと叫べば、其声《それ》より大《でか》き声を発《いだ》して馬鹿めと罵りながら爲右衞門づか/\と立出で、僮僕《をとこ》ども此|狂漢《きちがひ》を門外に引き出せ、騒※[#二の字点、1-2-22]しきを嫌ひたまふ上人様に知れなば、我等が此奴のために叱らるべしとの下知、心得ましたと先刻より僕人《をとこ》部屋に転がり居し寺僕《をとこ》等立かゝり引き出さんとする、土間に坐り込んで出されじとする十兵衞。それ手を取れ足を持ち上げよと多勢口々に罵り騒ぐところへ、後園の花二枝三枝|剪《はさ》んで床の眺めにせんと、境内彼方此方逍遙されし朗圓上人、木蘭色《もくらんじき》の無垢を着て左の手に女郎花桔梗、右の手に朱塗《しゆ》の把りの鋏持たせられしまゝ、図らず此所に来かゝりたまひぬ。

       其六

 何事に罵り騒ぐぞ、と上人が下したまふ鶴の一声の御言葉に群雀の輩《ともがら》鳴りを歇《とゞ》めて、振り上げし拳を蔵《かく》すに地《ところ》なく、禅僧の問答に有りや有りやと云ひかけしまゝ一喝されて腰の折《くだ》けたる如き風情なるもあり、捲り縮めたる袖を体裁《きまり》悪げに下して狐鼠※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]《こそ/\》と人の後に隠るゝもあり。天を仰げる鼻の孔より火烟も噴べき驕慢の怒に意気昂ぶりし爲右衞門も、少しは慚《は》ぢてや首を俛《た》れ掌《て》を揉みながら、自己《おのれ》が発頭人なるに是非なく、有し次第を我田に水引き/\申し出れば、痩せ皺びたる顔に深く長く痕《つ》いたる法令の皺溝《すぢ》をひとしほ深めて、につたりと徐《ゆるや》かに笑ひたまひ、婦女《をんな》のやうに軽く軟かな声小さく、それならば騒がずともよいこと、爲右衞門|汝《そなた》がたゞ従順《すなほ》に取り次さへすれば仔細は無うてあらうものを、さあ十兵衞殿とやら老衲《わし》について此方へ可来《おいで》、とんだ気の毒な目に遇はせました、と万人に尊敬《うやま》ひ慕はるゝ人は又格別の心の行き方、未学を軽んぜず下司をも侮らず、親切に温和《ものやさ》しく先に立て静に導きたまふ後について、迂濶な根性にも慈悲の浸み透れば感涙とゞめあへぬ十兵衞、段※[#二の字点、1-2-22]と赤土のしつとりとしたるところ、飛石の画趣《ゑごゝろ》に布《しか》れあるところ、梧桐の影深く四方竹の色ゆかしく茂れるところなど※[#「榮」の「木」に代えて「糸」、第3水準1-90-16]《めぐ》り繞《めぐ》り過ぎて、小《さゝ》やかなる折戸を入れば、花も此といふはなき小庭の唯ものさびて、有楽形《うらくがた》の燈籠に松の落葉の散りかゝり、方星宿《はうせいしゆく》の手水鉢に苔の蒸せるが見る眼の塵をも洗ふばかりなり。
 上人庭下駄脱ぎすてゝ上にあがり、さあ汝《そなた》も此方へ、と云ひさして掌に持たれし花を早速《さそく》に釣花活に投げこまるゝにぞ、十兵衞なか/\怯《おめ》ず臆せず、手拭で足はたくほどの事も気のつかぬ男とて為すことなく、草履脱いでのつそりと三畳台目の茶室に入りこみ、鼻突合はすまで上人に近づき坐りて黙※[#二の字点、1-2-22]と一礼する態は、礼儀に嫻《なら》はねど充分に偽飾《いつはり》なき情《こゝろ》の真実《まこと》をあらはし、幾度か直にも云ひ出んとして尚開きかぬる口を漸くに開きて、舌の動きもたど/\しく、五重の塔の、御願に出ましたは五重の塔のためでござります、と藪から棒を突き出したやうに尻もつたてゝ声の調子も不揃に、辛くも胸にあることを額やら腋の下の汗と共に絞り出せば、上人おもはず笑を催され、何か知らねど老衲《わし》をば怖いものなぞと思はず、遠慮を忘れて緩《ゆる》りと話をするがよい、庫裡の土間に坐り込うで動かずに居た様子では、何か深う思ひ詰めて来たことであらう、さあ遠慮を捨てゝ急かずに、老衲をば朋友《ともだち》同様におもふて話すがよい、と飽くまで慈《やき》しき注意《こゝろぞへ》。十兵衞脆くも梟と常々悪口受くる銅鈴眼《すゞまなこ》に既《はや》涙を浮めて、唯《はい》、唯、唯ありがたうござりまする、思ひ詰めて参上《まゐ》りました、その五重の塔を、斯様いふ野郎でござります、御覧の通り、のつそり十兵衞と口惜い諢名《あだな》をつけられて居る奴《やつこ》でござりまする、然し御上人様、真実《ほんと》でござりまする、工事《しごと》は下手ではござりませぬ、知つて居ります私しは馬鹿でござります、馬鹿にされて居ります、意気地の無い奴でござります、虚誕《うそ》はなか/\申しませぬ、御上人様、大工は出来ます、大隅流《おほすみりう》は童児《こども》の時から、後藤立川二ツの流義も合点致して居りまする、為《さ》せて、五重塔の仕事を私に為せていたゞきたい、それで参上《まゐり》ました、川越の源太様が積りをしたとは五六日前聞きました、それから私は寐ませぬは、御上人様、五重塔は百年に一度一生に一度建つものではござりませぬ、恩を受けて居ります源太様の仕事を奪《と》りたくはおもひませぬが、あゝ賢い人は羨ましい、一生一度百年一度の好い仕事を源太様は為るゝ、死んでも立派に名を残さるゝ、あゝ羨ましい羨ましい、大工となつて生てゐる生甲斐もあらるゝといふもの、それに引代へ此十兵衞は、鑿《のみ》手斧《てうな》もつては源太様にだとて誰にだとて、打つ墨縄の曲ることはあれ万が一にも後れを取るやうな事は必ず/\無いと思へど、年が年中長屋の羽目板《はめ》の繕ひやら馬小屋箱溝の数仕事、天道様が智慧といふものを我《おれ》には賜《くだ》さらない故仕方が無いと諦めて諦めても、拙《まづ》い奴等が宮を作り堂を受負ひ、見るものの眼から見れば建てさせた人が気の毒なほどのものを築造《こしら》へたを見るたびごとに、内※[#二の字点、1-2-22]自分の不運を泣きますは、御上人様、時々は口惜くて技倆《うで》もない癖に智慧ばかり達者な奴が憎くもなりまするは、御上人様、源太様は羨ましい、智慧も達者なれば手腕《うで》も達者、あゝ羨ましい仕事をなさるか、我《おれ》はよ、源太様はよ、情無い此我はよと、羨ましいがつひ高《かう》じて女房《かゝ》にも口きかず泣きながら寐ました其夜の事、五重塔を汝《きさま》作れ今直つくれと怖しい人に吩附《いひつ》けられ、狼狽《うろたへ》て飛び起きさまに道具箱へ手を突込んだは半分夢で半分|現《うつゝ》、眼が全く覚めて見ますれば指の先を鐔鑿《つばのみ》につつかけて怪我をしながら道具箱につかまつて、何時の間にか夜具の中から出て居た詰らなさ、行燈《あんどん》の前につくねんと坐つて嗚呼情無い、詰らないと思ひました時の其心持、御上人様、解りまするか、ゑゝ、解りまするか、これだけが誰にでも分つて呉れゝば塔も建てなくてもよいのです、どうせ馬鹿なのつそり[#「のつそり」に傍点]十兵衞は死んでもよいのでござりまする、腰抜|鋸《のこ》のやうに生て居たくもないのですは、其夜《それ》からといふものは真実《ほんと》、真実でござりまする上人様、晴れて居る空を見ても燈光《あかり》の達《とゞ》かぬ室《へや》の隅の暗いところを見ても、白木造りの五重の塔がぬつと突立つて私を見下して居りまするは、とう/\自分が造りたい気になつて、到底《とても》及ばぬとは知りながら毎日仕事を終ると直に夜を籠めて五十分一の雛形をつくり、昨夜で丁度仕上げました、見に来て下され御上人様、頼まれもせぬ仕事は出来て仕たい仕事は出来ない口惜さ、ゑゝ不運ほど情無いものはないと私《わし》が歎けば御上人様、なまじ出来ずば不運も知るまいと女房《かゝ》めが其雛形《それ》をば揺り動かしての述懐、無理とは聞えぬだけに余計泣きました、御上人様御慈悲に今度の五重塔は私に建てさせて下され、拝みます、こゝ此通り、と両手を合せて頭を畳に、涙は塵を浮べたり。

        其七

 木彫の羅漢のやうに黙※[#二の字点、1-2-22]と坐りて、菩提樹の実の珠数《ずゞ》繰りながら十兵衞が埒なき述懐に耳を傾け居られし上人、十兵衞が頭を下ぐるを制しとゞめて、了解《わか》りました、能く合点が行きました、あゝ殊勝な心掛を持つて居らるゝ、立派な考へを蓄へてゐらるゝ、学徒どもの示しにも為たいやうな、老衲《わし》も思はず涙のこぼれました、五十分一の雛形とやらも是非見にまゐりませう、然し汝に感服したればとて今直に五重の塔の工事《しごと》を汝に任するはと、軽忽《かるはずみ》なことを老衲の独断《ひとりぎめ》で云ふ訳にもならねば、これだけは明瞭《はつきり》とことわつて置きまする、いづれ頼むとも頼まぬとも其は表立つて、老衲からではなく感応寺から沙汰を為ませう、兎も角も幸ひ今日は閑暇《ひま》のあれば汝が作つた雛形を見たし、案内して是より直に汝が家へ老衲を連れて行ては呉れぬか、と毫《すこし》も辺幅《やうだい》を飾らぬ人の、義理《すぢみち》明かに言葉|渋滞《しぶり》なく云ひたまへば、十兵衞満面に笑を含みつゝ米|春《つ》くごとく無暗に頭を下げて、唯《はい》、唯、唯と答へ居りしが、願ひを御取上げ下されましたか、あゝ有難うござりまする、野生《わたくし》の宅《うち》へ御来臨《おいで》下さりますると、あゝ勿体ない、雛形は直に野生めが持つてまゐりまする、御免下され、と云ひさま流石ののつそりも喜悦に狂して平素《つね》には似ず、大袈裟に一つぽつくりと礼をばするや否や、飛石に蹴躓きながら駈け出して我家に帰り、帰つたと一言女房にも云はず、いきなりに雛形持ち出して人を頼み、二人して息せき急ぎ感応寺へと持ち込み、上人が前にさし置きて帰りけるが、上人これを熟視《よくみ》たまふに、初重より五重までの配合《つりあひ》、屋根庇廂の勾配、腰の高さ、椽木《たるき》の割賦《わりふり》、九輪請花露盤宝珠《くりんうけばなろばんはうじゆ》の体裁まで何所に可厭《いや》なるところもなく、水際立つたる細工ぶり、此が彼不器用らしき男の手にて出来たるものかと疑はるるほど巧緻《たくみ》なれば、独り私《ひそか》に歎じたまひて、箇程の技倆を有ちながら空しく埋もれ、名を発せず世を経るものもある事か、傍眼《わきめ》にさへも気の毒なるを当人の身となりては如何に口惜きことならむ、あはれ如是《かゝる》ものに成るべきならば功名《てがら》を得させて、多年抱ける心願《こゝろだのみ》に負《そむ》かざらしめたし、草木とともに朽て行く人の身は固より因縁仮和合《いんねんけわがふ》、よしや惜むとも惜みて甲斐なく止めて止まらねど、仮令《たとへ》ば木匠《こだくみ》の道は小なるにせよ其に一心の誠を委ね生命を懸けて、慾も大概《あらまし》は忘れ卑劣《きたな》き念《おもひ》も起さず、唯只鑿をもつては能く穿《ほ》らんことを思ひ、鉋《かんな》を持つては好く削らんことを思ふ心の尊さは金にも銀にも比《たぐ》へ難きを、僅に残す便宜《よすが》も無くて徒らに北※[#「亡+おおざと」、第3水準1-92-61]《ほくばう》の土に没《うづ》め、冥途《よみぢ》の苞《つと》と齎し去らしめんこと思へば憫然《あはれ》至極なり、良馬|主《しゆう》を得ざるの悲み、高士世に容れられざるの恨みも詮ずるところは異《かは》ることなし、よし/\、我図らずも十兵衞が胸に懐ける無価の宝珠の微光を認めしこそ縁なれ、此度《こたび》の工事を彼に命《いひつ》け、せめては少しの報酬《むくい》をば彼が誠実《まこと》の心に得させんと思はれけるが、不図思ひよりたまへば川越の源太も此工事を殊の外に望める上、彼には本堂|庫裏《くり》客殿作らせし因みもあり、然も設計予算《つもりがき》まで既《はや》做《な》し出して我眼に入れしも四五日前なり、手腕《うで》は彼とて鈍きにあらず、人の信用《うけ》は遙に十兵衞に超たり。一ツの工事に二人の番匠、此にも為せたし彼にも為せたし、那箇《いづれ》にせんと上人も流石これには迷はれける。

       其八

 明日辰の刻頃までに自身当寺へ来るべし、予て其方工事仰せつけられたきむね願ひたる五重塔の儀につき、上人|直接《ぢき》に御話示《おはなし》あるべきよしなれば、衣服等失礼なきやう心得て出頭せよと、厳格《おごそか》に口上を演ぶるは弁舌自慢の圓珍とて、唐辛子をむざと嗜《たしな》み食《くら》へる崇り鼻の頭《さき》にあらはれたる滑稽納所《おどけなつしよ》。平日《ふだん》ならば南蛮和尚といへる諢名を呼びて戯談口きゝ合ふべき間なれど、本堂建立中朝夕顔を見しより自然《おのづ》と狎《な》れし馴染みも今は薄くなりたる上、使僧らしう威儀をつくろひて、人さし指中指の二本でやゝもすれば兜背形《とつぱいなり》の頭顱《あたま》の頂上《てつぺん》を掻く癖ある手をも法衣《ころも》の袖に殊勝くさく隠蔽《かく》し居るに、源太も敬ひ謹んで承知の旨を頭下つゝ答へけるが、如才なきお吉は吾夫をかゝる俗僧《づくにふ》にまで好く評《い》はせんとてか帰り際に、出したまゝにして行く茶菓子と共に幾干銭《いくら》か包み込み、是非にといふて取らせけるは、思へば怪しからぬ布施の仕様なり。圓珍十兵衞が家にも詣《いた》りて同じ事を演べ帰りけるが、扨《さて》其翌日となれば源太は鬚《ひげ》剃り月代《さかやき》して衣服をあらため、今日こそは上人の自ら我に御用仰せつけらるゝなるべけれと勢込んで、庫裏より通り、とある一ト間に待たされて坐を正しくし扣《ひか》へける。
 態《さま》こそ異れ十兵衞も心は同じ張を有ち、導かるゝまゝ打通りて、人気の無きに寒さ湧く一室《ひとま》の中に唯一人|兀然《つくねん》として、今や上人の招びたまふか、五重の塔の工事《しごと》一切汝に任すと命令《いひつけ》たまふか、若し又我には命じたまはず源太に任すと定めたまひしを我にことわるため招ばれしか、然《さう》にもあらば何とせん、浮むよしなき埋れ木の我が身の末に花咲かむ頼みも永く無くなるべし、唯願はくは上人の我が愚鈍《おろか》しきを憐みて我に命令たまはむことをと、九尺二枚の唐襖に金鳳銀凰《きんほうぎんわう》翔《かけ》り舞ふ其箔模様の美しきも眼に止めずして、茫※[#二の字点、1-2-22]と暗路《やみぢ》に物を探るごとく念想《おもひ》を空に漂はすこと良《やゝ》久しきところへ、例の怜悧気な小僧《こばうず》いで来りて、方丈さまの召しますほどに此方へおいでなされまし、と先に立つて案内すれば、素破《すは》や願望《のぞみ》の叶ふとも叶はざるとも定まる時ぞと魯鈍《おろか》の男も胸を騒がせ、導かるゝまゝ随ひて一室の中へずつと入る、途端に此方をぎろりつと見る眼鋭く怒を含むで斜に睨むは思ひがけなき源太にて、座に上人の影もなし。事の意外に十兵衞も足踏みとめて突立つたるまゝ一言もなく白眼《にらみ》合ひしが、是非なく畳二ひらばかりを隔てしところに漸く坐り、力なげ首|悄然《しを/\》と己れが膝に気勢《いきほひ》のなきたさうなる眼を注ぎ居るに引き替へ、源太郎は小狗《こいぬ》を瞰下《みおろ》す猛鷲《あらわし》の風に臨んで千尺の巌の上に立つ風情、腹に十分の強みを抱きて、背をも屈げねば肩をも歪めず、すつきり端然《しやん》と構へたる風姿《やうだい》と云ひ面貌《きりやう》といひ水際立つたる男振り、万人が万人とも好かずには居られまじき天晴小気味のよき好漢《をとこ》なり。
 されども世俗の見解《けんげ》には堕ちぬ心の明鏡に照らして彼れ此れ共に愛し、表面《うはべ》の美醜に露|泥《なづ》まれざる上人の却つて何れをとも昨日までは択びかねられしが、思ひつかるゝことのありてか今日はわざ/\二人を招び出されて一室に待たせ置かれしが、今しも静※[#二の字点、1-2-22]居間を出られ、畳踏まるゝ足も軽く、先に立つたる小僧《こばうず》が襖明、額の皺の幾条の溝には沁出《にじみ》し熱汗《あせ》を湛へ、鼻の顔《さき》にも珠をくる後より、すつと入りて座につきたまへば、二人は恭《うやま》ひ敬《つゝし》みて共に斉しく頭を下げ、少時上げも得せざりしが、嗚呼いぢらしや十兵衞が辛くも上げし面には、未だ世馴れざる里の子の貴人の前に出しやうに羞《はぢ》を含みて紅|潮《さ》し湧かせば腋の下には雨なるべし。膝に載《お》きたる骨太の掌指《ゆび》は枯れたる松枝《まつがえ》ごとき岩畳作りにありながら、一本ごとに其さへも戦々《わな/\》顫へて一心に唯上人の一言を一期《いちご》の大事と待つ笑止さ。
 源太も黙して言葉なく耳を澄まして命を待つ、那方《どちら》を那方と判かぬる、二人の情《こゝろ》を汲みて知る上人もまた中※[#二の字点、1-2-22]に口を開かん便宜《よすが》なく、暫時は静まりかへられしが、源太十兵衞ともに聞け、今度建つべき五重塔は唯一ツにて建てんといふは汝達二人、二人の願ひを双方とも聞き届けては遣りたけれど、其は固より叶ひがたく、一人に任さば一人の歎き、誰に定めて命《いひつ》けんといふ標準《きめどころ》のあるではなし、役僧用人等の分別にも及ばねば老僧《わし》が分別にも及ばぬほどに、此分別は汝達の相談に任す、老僧は関はぬ、汝達の相談の纏まりたる通り取り上げて与《や》るべければ、熟く家に帰つて相談して来よ、老僧が云ふべき事は是ぎりぢやによつて左様心得て帰るがよいぞ、さあ確と云ひ渡したぞ、既早《もはや》帰つてもよい、然し今日は老僧も閑暇《ひま》で退屈なれば茶話しの相手になつて少時居てくれ、浮世の噂なんど老衲に聞かせて呉れぬか、其代り老僧も古い話しの可笑なを二ツ三ツ昨日見出したを話して聞かさう、と笑顔やさしく、朋友《ともだち》かなんぞのやうに二人をあしらふて、扨何事を云ひ出さるゝやら。

       其九

 小僧《こばうず》が将《も》つて来し茶を上人自ら汲み玉ひて侑《すゝ》めらるれば、二人とも勿体ながりて恐れ入りながら頂戴するを、左様遠慮されては言葉に角が取れいで話が丸う行かぬは、さあ菓子も挟んではやらぬから勝手に摘んで呉れ、と高坏《たかつき》推遣りて自らも天目取り上げ喉を湿《うるほ》したまひ、面白い話といふも桑門《よすてびと》の老僧等には左様沢山無いものながら、此頃読んだ御経の中につく/″\成程と感心したことのある、聞いて呉れ此様いふ話しぢや、むかし某《ある》国の長者が二人の子を引きつれて麗かな天気の節《をり》に、香のする花の咲き軟かな草の滋《しげ》つて居る広野を愉快《たのし》げに遊行《ゆきやう》したところ、水は大分に夏の初め故|涸《か》れたれど猶清らかに流れて岸を洗ふて居る大きな川に出逢《いであ》ふた、其川の中には珠のやうな小磧《こいし》やら銀のやうな砂で成《でき》て居る美しい洲のあつたれば、長者は興に乗じて一尋ばかりの流を無造作に飛び越え、彼方此方を見廻せば、洲の後面《うしろ》の方もまた一尋ほどの流で陸と隔てられたる別世界、全然《まるで》浮世の腥羶《なまぐさ》い土地《つち》とは懸絶れた清浄の地であつたまま独り歓び喜んで踊躍《ゆやく》したが、渉らうとしても渉り得ない二人の児童《こども》が羨ましがつて喚《よ》び叫ぶを可憐《あはれ》に思ひ、汝達には来ることの出来ぬ清浄の地であるが、然程に来たくば渡らして与《や》るほどに待つて居よ、見よ/\我が足下の此磧は一※[#二の字点、1-2-22]蓮華の形状《かたち》をなし居る世に珍しき磧なり、我が眼の前の此砂は一※[#二の字点、1-2-22]五金の光を有てる比類《たぐひ》稀なる砂なるぞと説き示せば、二人は遠眼にそれを見ていよ/\焦操《あせ》り渡らうとするを、長者は徐《しづか》に制しながら、洪水《おほみづ》の時にても根こぎになつたるらしき棕櫚の樹の一尋余りなを架渡して橋として与つたに、我が先へ汝《そなた》は後にと兄弟争ひ鬩《せめ》いだ末、兄は兄だけ力強く弟を終に投げ伏せて我意の勝を得たに誇り高ぶり、急ぎ其橋を渡りかけ半途《なかば》に漸く到りし時、弟は起き上りさま口惜さに力を籠めて橋を盪《うご》かせば兄は忽ち水に落ち、苦しみ※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]いて洲に達せしが、此時弟は既《はや》其橋を難なく渡り超えかくるを見るより兄も其橋の端を一揺り揺り動せば、固より丸木の橋なる故弟も堪らず水に落ち、僅に長者の立つたるところへ濡れ滴りて這ひ上つた、爾時《そのとき》長者は歎息して、汝達には何と見ゆる、今汝等が足踏みかけしより此洲は忽然《たちまち》前と異なり、磧は黒く醜くなり沙《すな》は黄ばめる普通《つね》の沙となれり、見よ/\如何にと告げ知らするに二人は驚き、眼《まなこ》を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》りて見れば全く父の言葉に少しも違はぬ沙磧、あゝ如是《かゝる》もの取らんとて可愛き弟を悩せしか、尊き兄を溺らせしかと兄弟共に慚ぢ悲みて、弟の袂を兄は絞り兄の衣裾《もすそ》を弟は絞りて互ひに恤《いた》はり慰めけるが、彼橋をまた引き来りて洲の後面《うしろ》なる流れに打ちかけ、既《はや》此洲には用なければ尚も彼方に遊び歩かん、汝達先づこれを渡れと、長者の言葉に兄弟は顔を見合ひて先刻には似ず、兄上先に御渡りなされ、弟よ先に渡るがよいと譲合ひしが、年順なれば兄先づ渡る其時に、転びやすきを気遣ひて弟は端を揺がぬやう確と抑ゆる、其次に弟渡れば兄もまた揺がぬやうに抑へやり、長者は苦なく飛び越えて、三人ともに最《いと》長閑《のどけ》く徐《そゞろ》に歩む其中に、兄が図らず拾ひし石を弟が見れば美しき蓮華の形をなせる石、弟が摘み上げたる砂を兄が覗けば眼も眩く五金の光を放ちて居たるに、兄弟とも/″\歓喜《よろこ》び楽み、互に得たる幸福《しあはせ》を互に深く讃歎し合ふ、爾時《そのとき》長者は懐中《ふところ》より真実の璧《たま》の蓮華を取り出し兄に与へて、弟にも真実の砂金を袖より出して大切《だいじ》にせよと与へたといふ、話して仕舞へば小供欺しのやうぢやが仏説に虚言《うそ》は無い、小児《こども》欺しでは決してない、噛みしめて見よ味のある話しではないか、如何ぢや汝等《そなたたち》にも面白いか、老僧《わし》には大層面白いが、と軽く云はれて深く浸む、譬喩方便も御胸の中に有たるゝ真実から。源太十兵衞二人とも顔見合せて茫然たり。

        其十

 感応寺よりの帰り道、半分は死んだやうになつて十兵衞、どんつく布子《ぬのこ》の袖組み合はせ、腕拱きつゝ迂濶《うか》迂濶 《/\》歩き、御上人様の彼様《あゝ》仰やつたは那方《どちら》か一方おとなしく譲れと諭しの謎※[#二の字点、1-2-22]とは、何程|愚鈍《おろか》な我《おれ》にも知れたが、嗚呼譲りたく無いものぢや、折角丹誠に丹誠凝らして、定めし冷て寒からうに御寝みなされと親切で為て呉るゝ女房《かゝ》の世話までを、黙つて居よ余計なと叱り飛ばして夜の眼も合さず、工夫に工夫を積み重ね、今度といふ今度は一世一代、腕一杯の物を建てたら死んでも恨は無いとまで思ひ込んだに、悲しや上人様の今日の御諭し、道理には違ひない左様も無ければならぬ事ぢやが、此を譲つて何時また五重塔の建つといふ的《あて》のあるではなし、一生|到底《とても》此十兵衞は世に出ることのならぬ身か、嗚呼情無い恨めしい、天道様が恨めしい、尊い上人様の御慈悲は充分了つて居て露ばかりも難有う無は思はぬが、吁《あゝ》何《どう》にも彼《かう》にもならぬことぢや、相手は恩のある源太親方、それに恨の向けやうもなし、何様しても彼様しても温順《すなほ》に此方《こち》の身を退くより他に思案も何もない歟、嗚呼無い歟、といふて今更残念な、なまじ此様な事おもひたゝずに、のつそりだけで済して居たらば此様に残念な苦悩《おもひ》もすまいものを、分際忘れた我《おれ》が悪かつた、嗚呼我が悪い、我が悪い、けれども、ゑゝ、けれども、ゑゝ、思ふまい/\、十兵衞がのつそりで浮世の怜悧《りこう》な人|等《たち》の物笑ひになつて仕舞へばそれで済むのぢや、連添ふ女房にまでも内々活用《はたらき》の利かぬ夫ぢやと喞《かこた》れながら、夢のやうに生きて夢のやうに死んで仕舞へば夫で済む事、あきらめて見れば情無い、つく/″\世間が詰らない、あんまり世間が酷《むご》過ぎる、と思ふのも矢張愚痴か、愚痴か知らねど情無過ぎるが、言はず語らず諭された上人様の彼御言葉の真実のところを味はへば、飽まで御慈悲の深いのが五臓六腑に浸み透つて未練な愚痴の出端《でば》も無い訳、争ふ二人を何方にも傷つかぬやう捌《さば》き玉ひ、末の末まで共に好かれと兄弟の子に事寄せて尚《たふと》い御経を解きほぐして、噛んで含めて下さつた彼御話に比べて見れば固より我は弟の身、ひとしほ他《ひと》に譲らねば人間《ひと》らしくも無いものになる、嗚呼弟とは辛いものぢやと、路も見分かで屈托の眼《まなこ》は涙《なんだ》に曇りつゝ、とぼ/\として何一ツ愉快《たのしみ》もなき我家の方に、糸で曳かるゝ|木偶《でく》のやうに我を忘れて行く途中、此馬鹿野郎|発狂漢《きちがひ》め、我《ひと》の折角洗つたものに何する、馬鹿めと突然《だしめけ》に噛つく如く罵られ、癇張声に胆を冷してハッと思へば瓦落離《ぐわらり》顛倒、手桶枕に立てかけありし張物板に、我知らず一足二足踏みかけて踏み覆したる不体裁《ざまのな》さ。
 尻餅ついて驚くところを、狐|憑《つき》め忌※[#二の字点、1-2-22]しい、と駄力ばかりは近江のお兼、顔は子供の福笑戯《ふくわらひ》に眼を付け歪めた多福面《おかめ》の如き房州出らしき下稗《おさん》の憤怒、拳を挙げて丁と打ち猿臂《ゑんぴ》を伸ばして突き飛ばせば、十衞兵堪らず汚塵《ほこり》に塗《まみ》れ、はい/\、狐に誑《つま》まれました御免なされ、と云ひながら悪口雑言聞き捨に痛さを忍びて逃げ走り、漸く我家に帰りつけば、おゝ御帰りか、遅いので如何いふ事かと案じて居ました、まあ塵埃まぶれになつて如何《どう》なされました、と払ひにかかるを、構ふなと一言、気の無ささうな声で打消す。其顔を覗き込む女房の真実心配さうなを見て、何か知らず無性に悲しくなつてぢつと湿《うるみ》のさしくる眼、自分で自分を叱るやうに、ゑゝと図らず声を出し、煙草を捻つて何気なくもてなすことはもてなすものゝ言葉も無し。平時《つね》に変れる状態《ありさま》を大方それと推察《すゐ》して扨慰むる便《すべ》もなく、問ふてよきやら問はぬが可きやら心にかゝる今日の首尾をも、口には出して尋ね得ぬ女房は胸を痛めつゝ、其一本は杉箸で辛くも用を足す火箸に挟んで添へる消炭の、あはれ甲斐なき火力《ちから》を頼り土瓶の茶をば温《ぬく》むるところへ、遊びに出たる猪之の戻りて、やあ父様帰つて来たな、父様も建てるか坊も建てたぞ、これ見て呉れ、と然《さ》も勇ましく障子を明けて褒められたさが一杯に罪無く莞爾《にこり》と笑ひながら、指さし示す塔の模形《まねかた》。母は襦袢の袖を噛み声も得たてず泣き出せば、十兵衞涙に浮くばかりの円《つぶら》の眼を剥き出し、※《まじろ》ぎもせでぐいと睨めしが、おゝ出来《でか》した出来した、好く出来た、褒美を与らう、ハッハヽヽと咽び笑ひの声高く屋の棟にまで響かせしが、其まゝ頭を天に対はし、嗚呼、弟とは辛いなあ。

       其十一

 格子開くる響爽かなること常の如く、お吉、今帰つた、と元気よげに上り来る夫の声を聞くより、心配を輪に吹き/\吸て居し煙草管《きせる》を邪見至極に抛り出して忙はしく立迎へ、大層遅かつたではないか、と云ひつゝ背面《うしろ》へ廻つて羽織を脱せ、立ながら腮《あご》に手伝はせての袖畳み小早く室隅《すみ》の方に其儘さし置き、火鉢の傍へ直また戻つて火急《たちまち》鉄瓶に松虫の音を発《おこ》させ、むづと大胡坐かき込み居る男の顔を一寸見しなに、日は暖かでも風が冷く途中は随分|寒《ひえ》ましたろ、一瓶《ひとつ》煖酒《つけ》ましよか、と痒いところへ能く届かす手は口をきく其|間《ひま》に、がたぴしさせず膳ごしらへ、三輪漬は柚《ゆ》の香ゆかしく、大根卸《おろし》で食はする※[#「魚+生」、第3水準1-94-39]卵《はらゝご》は無造作にして気が利たり。
 源太胸には苦慮《おもひ》あれども幾干《いくら》か此に慰められて、猪口把りさまに二三杯、後一杯を漫《ゆる》く飲んで、汝《きさま》も飲《や》れと与ふれば、お吉一口、つけて、置き、焼きかけの海苔畳み折つて、追付|三子《さんこ》の来さうなもの、と魚屋の名を独語しつ、猪口を返して酌せし後、上※[#二の字点、1-2-22]吉と腹に思へば動かす舌も滑かに、それはさうと今日の首尾は、大丈夫此方のものとは極めて居ても、知らせて下さらぬ中は無益《むだ》な苦労を妾は為ます、お上人様は何と仰せか、またのつそり奴は如何なつたか、左様真面目顔でむつつりとして居られては心配で心配でなりませぬ、と云はれて源太は高笑ひ。案じて貰ふ事は無い、御慈悲の深い上人様は何《ど》の道|我《おれ》を好漢《いゝをとこ》にして下さるのよ、ハヽヽ、なあお吉、弟を可愛がれば好い兄《あにき》ではないか、腹の饑《へ》つたものには自分が少しは辛くても飯を分けてやらねばならぬ場合もある、他《ひと》の怖いことは一厘無いが強いばかりが男児《をとこ》では無いなあ、ハヽヽ、じつと堪忍《がまん》して無理に弱くなるのも男児だ、嗚呼立派な男児だ、五重塔は名誉の工事《しごと》、たゞ我一人で物の見事に千年壊れぬ名物を万人の眼に残したいが、他の手も智慧も寸分|交《ま》ぜず川越の源太が手腕だけで遺したいが、嗚呼癇癪を堪忍するのが、ゑゝ、男児だ、男児だ、成程好い男児だ、上人様に虚言は無い、折角望みをかけた工事を半分他に呉るのはつく/″\忌※[#二の字点、1-2-22]しけれど、嗚呼、辛いが、ゑゝ兄《あにき》だ、ハヽヽ、お吉、我はのつそりに半口与つて二人で塔を建てやうとおもふは、立派な弱い男児か、賞めて呉れ賞めて呉れ、汝《きさま》にでも賞めて貰はなくては余り張合ひの無い話しだ、ハヽヽと嬉しさうな顔もせで意味の無い声ばかりはづませて笑へば、お吉は夫の気を量りかね、上人様が何と仰やつたか知らぬが妾にはさつぱり分らず些《ちつと》も面白くない話し、唐偏朴の彼《あの》のつそりめに半口与るとは何いふ訳、日頃の気性にも似合はない、与るものならば未練気なしに悉皆《すつかり》与つて仕舞ふが好いし、固より此方で取る筈なれば要りもせぬ助太刀頼んで、一人の首を二人で切る様な卑劣《けち》なことをするにも当らないではありませぬか、冷水で洗つたやうな清潔《きれい》な腹を有つて居ると他にも云はれ自分でも常※[#二の字点、1-2-22]云ふて居た汝《おまへ》が、今日に限つて何といふ煮切ない分別、女の妾から見ても意地の足らない愚図愚図思案、賞めませぬ賞めませぬ、何《どう》して中々賞められませぬ、高が相手は此方《こち》の恩を受けて居るのつそり奴、一体ならば此方の仕事を先潜りする太い奴と高飛車に叱りつけて、ぐうの音も出させぬやうに為れば成るのつそり奴を、左様甘やかして胸の焼ける連名工事《れんみやうしごと》を何で為るに当る筈のあらうぞ、甘いばかりが立派の事か、弱いばかりが好い男児か、妾の虫には受け取れませぬ、何なら妾が一[#(ト)]走りのつそり奴のところに行つて、重※[#二の字点、1-2-22]恐れ入りましたと思ひ切らせて謝罪《あやま》らせて両手を突かせて来ませうか、と女賢しき夫思ひ。源太は聞いで冷笑《あざわら》ひ、何が汝に解るものか、我の為ることを好いとおもふて居てさへ呉るればそれで可いのよ。

        其十二

 色も香も無く一言に黙つて居よと遣り込められて、聴かぬ気のお吉顔ふり上げ何か云ひ出したげなりしが、自己《おのれ》よりは一倍きかぬ気の夫の制するものを、押返して何程云ふとも機嫌を損ずる事こそはあれ、口答への甲斐は露無きを経験《おぼえ》あつて知り居れば、連添ふものに心の奥を語り明して相談かけざる夫を恨めしくはおもひながら、其所は怜悧《りこう》の女の分別早く、何も妾が遮つて女の癖に要らざる嘴《くち》を出すではなけれど、つい気にかゝる仕事の話し故思はず様子の聞きたくて、余計な事も胸の狭いだけに饒舌つた訳、と自分が真実籠めし言葉を態と極※[#二の字点、1-2-22]軽う為て仕舞ふて、何所までも夫の分別に従ふやう表面《うはべ》を粧ふも、幾許か夫の腹の底に在る煩悶《もしやくしや》を殺《そ》いで遣りたさよりの真実《まこと》。源太もこれに角張りかゝつた顔をやわらげ、何事も皆|天運《まはりあはせ》ぢや、此方の了見さへ温順《すなほ》に和《やさ》しく有つて居たなら又好い事の廻つて来やうと、此様おもつて見ればのつそりに半口与るも却つて好い心持、世間は気次第で忌々しくも面白くもなるもの故、出来るだけは卑劣《けち》な※[#「金+肅」、第3水準1-93-39]《さび》を根性に着けず瀟洒《あつさり》と世を奇麗に渡りさへすれば其で好いは、と云ひさしてぐいと仰飲《あふ》ぎ、後は芝居の噂やら弟子共が行状《みもち》の噂、真に罪無き雑話を下物《さかな》に酒も過ぎぬほど心よく飲んで、下卑《げび》た体裁《さま》ではあれどとり[#「とり」に傍点]膳睦まじく飯を喫了《をは》り、多方もう十兵衞が来さうなものと何事もせず待ちかくるに、時は空しく経過《たつ》て障子の日影《ひかげ》一尺動けど尚見えず、二尺も移れど尚見えず。
 是非|先方《むかう》より頭を低し身を縮《すぼ》めて此方へ相談に来り、何卒半分なりと仕事を割与《わけ》て下されと、今日の上人様の御慈愛《おなさけ》深き御言葉を頼りに泣きついても頼みをかけべきに、何として如是《かう》は遅きや、思ひ断めて望を捨て、既早相談にも及ばずとて独り我家に燻《くすぼ》り居るか、それともまた此方より行くを待つて居る歟《か》、若しも此方の行くを待つて居るといふことならば余り増長した了見なれど、まさかに其様な高慢気も出すまじ、例ののつそりで悠長に構へて居るだけの事ならむが、扨も気の長い男め迂濶にも程のあれと、煙草ばかり徒らに喫《ふ》かし居て、待つには短き日も随分長かりしに、それさへ暮れて群烏|塒《ねぐら》に帰る頃となれば、流石に心おもしろからず漸く癇癪の起り/\て耐へきれずなりし潮先、据られし晩食《ゆふめし》の膳に対ふと其儘云ひ訳ばかりに箸をつけて茶さへ緩《ゆる》りとは飲まず、お吉、十兵衞めがところに一寸行て来る、行違ひになつて不在《るす》へ来ば待たして置け、と云ふ言葉さへとげ/\しく怒りを含んで立出かゝれば、気にはかゝれど何とせん方もなく、女房は送つて出したる後にて、たゞ溜息をするのみなり。

        其十三

 渋つて聞きかぬる雨戸に一[#(ト)]しほ源太は癇癪の火の手を亢《たかぶ》らせつつ、力まかせにがち/\引き退け、十兵衞家にか、と云ひさまに突と這入れば、声色知つたるお浪早くもそれと悟つて、恩ある其人の敵《むかう》に今は立ち居る十兵衞に連添へる身の面を対《あは》すこと辛く、女気の繊弱《かよわ》くも胸を動悸《どき》つかせながら、まあ親方様、と唯一言我知らず云ひ出したる限《ぎ》り挨拶さへどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]して急には二の句の出ざる中、煤けし紙に針の孔、油染みなんど多き行燈の小蔭に悄然《しよんぼり》と坐り込める十兵衞を見かけて源太にずつと通られ、周章て火鉢の前に請ずる機転の遅鈍《まづき》も、正直ばかりで世態《よ》を知悉《のみこま》ぬ姿なるべし。
 十兵衞は不束に一礼して重げに口を開き、明日の朝|参上《あが》らうとおもふて居りました、といへばぢろりと其顔下眼に睨み、態と泰然《おちつき》たる源太、応、左様いふ其方の心算《つもり》であつたか、此方は例の気短故今しがたまで待つて居たが、何時になつて汝《そなた》の来るか知れたことでは無いとして出掛けて来ただけ馬鹿であつたか、ハヽヽ、然し十兵衞、汝は今日の上人様の彼お言葉を何と聞たか、両人《ふたり》で熟く/\相談して来よと云はれた揚句に長者の二人の児の御話し、それで態※[#二の字点、1-2-22]相談に来たが汝も大抵分別は既定めて居るであらう、我も随分虫持ちだが悟つて見れば彼《あの》譬諭《たとへ》の通り、尖りあふのは互に詰らぬこと、まんざら敵同士でもないに身勝手ばかりは我も云はぬ、つまりは和熟した決定《けつぢやう》のところが欲い故に、我慾は充分折つて摧《くだ》いて思案を凝らして来たものゝ、尚汝の了見も腹蔵の無いところを聞きたく、其上にまた何様とも為やうと、我も男児《をとこ》なりや汚い謀計《たくみ》を腹には持たぬ、真実《ほんと》に如是《かう》おもふて来たは、と言葉を少時とゞめて十兵衞が顔を見るに、俯伏たまゝたゞ唯《はい》、唯と答ふるのみにて、乱鬢の中に五六本の白髪が瞬く燈火《あかり》の光を受けてちらり/\と見ゆるばかり。お浪は既《はや》寝し猪の助が枕の方につい坐つて、呼吸さへせぬやう此もまた静まりかへり居る淋しさ。却つて遠くに売りあるく鍋焼饂飩の呼び声の、幽に外方《そと》より家《や》の中に浸みこみ来るほどなりけり。
 源太はいよ/\気を静め、語気なだらかに説き出すは、まあ遠慮もなく外見《みえ》もつくらず我の方から打明けやうが、何と十兵衞斯しては呉れぬか、折角汝も望をかけ天晴名誉の仕事をして持つたる腕の光をあらはし、慾徳では無い職人の本望を見事に遂げて、末代に十兵衞といふ男が意匠《おもひつき》ぶり細工ぶり此視て知れと残さうつもりであらうが、察しも付かう我とても其は同じこと、さらに有るべき普請では無し、取り外《はぐ》つては一生にまた出逢ふことは覚束ないなれば、源太は源太で我《おれ》が意匠ぶり細工ぶりを是非遺したいは、理屈を自分のためにつけて云へば我はまあ感応寺の出入り、汝は何の縁《ゆかり》もないなり、我は先口、汝は後なり、我は頼まれて設計《つもり》まで為たに汝は頼まれはせず、他の口から云ふたらばまた我は受負ふても相応、汝が身柄《がら》では不相応と誰しも難をするであらう、だとて我が今理屈を味方にするでもない、世間を味方にするでもない、汝が手腕の有りながら不幸《ふしあはせ》で居るといふも知つて居る、汝が平素《ふだん》薄命《ふしあはせ》を口へこそ出さね、腹の底では何《ど》の位泣て居るといふも知つて居る、我を汝の身にしては堪忍《がまん》の出来ぬほど悲い一生といふも知つて居る、夫故にこそ去年一昨年何にもならぬことではあるが、まあ出来るだけの世話は為たつもり、然し恩に被せるとおもふて呉れるな、上人様だとて汝の清潔《きれい》な腹の中を御洞察《おみとほし》になつたればこそ、汝の薄命《ふしあはせ》を気の毒とおもはれたればこそ今日のやうな御諭し、我も汝が慾かなんぞで対岸《むかう》にまはる奴ならば、我《ひと》の仕事に邪魔を入れる猪口才な死節野郎と一釿《ひとてうな》に脳天|打欠《ぶつか》かずには置かぬが、つく/″\汝の身を察すれば寧《いつそ》仕事も呉れたいやうな気のするほど、といふて我も慾は捨て断れぬ、仕事は真実何あつても為たいは、そこで十兵衞、聞ても貰ひにくゝ云ふても退けにくい相談ぢやが、まあ如是ぢや、堪忍《がまん》して承知して呉れ、五重塔は二人で建てう、我を主にして汝不足でもあらうが副《そへ》にたつて力を仮してはくれまいか、不足ではあらうが、まあ厭でもあらうが源太が頼む、聴ては呉れまいか、頼む/\、頼むのぢや、黙つて居るのは聴て呉れぬか、お浪さんも我《わし》の云ふことの了つたなら何卒口を副て聴て貰つては下さらぬか、と脆くも涙になりゐる女房にまで頼めば、お、お、親方様、ゑゝありがたうござりまする、何所に此様な御親切の相談かけて下さる方のまた有らうか、何故御礼をば云はれぬか、と左の袖は露時雨、涙に重くなしながら、夫の膝を右の手で揺り動しつ掻口説けど、先刻より無言の仏となりし十兵衞何とも猶言はず、再度三度かきくどけど黙※[#二の字点、1-2-22]《むつくり》として猶言はざりしが、やがて垂れたる首《かうべ》を擡げ、何《どう》も十兵衞それは厭でござりまする、と無愛想に放つ一言、吐胸をついて驚く女房。なんと、と一声烈しく鋭く、頸首《くびぼね》反らす一二寸、眼に角たてゝのつそりを驀向《まつかう》よりして瞰下す源太。

       其十四

 人情の花も失《なく》さず義理の幹も確然《しつかり》立てゝ、普通《なみ》のものには出来ざるべき親切の相談を、一方ならぬ実意《じつ》の有ればこそ源太の懸けて呉れしに、如何に伐つて抛げ出したやうな性質《もちまへ》が為する返答なればとて、十兵衞厭でござりまするとは余りなる挨拶、他《ひと》の情愛《なさけ》の全で了らぬ土人形でも斯は云ふまじきを、さりとては恨めしいほど没義道な、口惜いほど無分別な、如何すれば其様に無茶なる夫の了見と、お浪は呆れもし驚きもし我身の急に絞木にかけて絞《しめ》らるゝ如き心地のして、思はず知らず夫にすり寄り、それはまあ何といふこと、親方様が彼程に彼方此方のためを計つて、見るかげもない此方連《このはうづれ》、云はゞ一[#(ト)]足に蹴落して御仕舞ひなさるゝことも為さらば成《でき》る此方連に、大抵ではない御情をかけて下され、御自分一人で為さりたい仕事をも分与《わけ》て遣らう半口乗せて呉れうと、身に浸みるほどありがたい御親切の御相談、しかも御招喚《およびつけ》にでもなつてでのことか、坐蒲団さへあげることの成らぬ此様なところへ態※[#二の字点、1-2-22]|御来臨《おいで》になつての御話し、それを無にして勿体ない、十兵衞厭でござりまするとは冥利の尽きた我儘勝手、親方様の御親切の分らぬ筈は無からうに胴慾なも無遠慮なも大方|程度《ほどあひ》のあつたもの、これ此妾の今着て居るのも去年の冬の取り付きに袷姿の寒げなを気の毒がられてお吉様の、縫直《なほ》して着よと下されたのとは汝の眼には映《うつ》らぬか、一方ならぬ御恩を受けて居ながら親方様の対岸《むかう》へ廻るさへあるに、それを小癪なとも恩知らずなとも仰やらず、何処までも弱い者を愛護《かば》ふて下さる御仁慈《おなさけ》深い御分別にも頼《よ》り縋らいで一概に厭ぢやとは、仮令ば真底から厭にせよ記臆《ものおぼえ》のある人間《ひと》の口から出せた言葉でござりまするか、親方様の手前お吉様の所思《おもはく》をも能く篤《とつく》りと考へて見て下され、妾はもはや是から先何の顔さげて厚ヶ間敷お吉様の御眼にかゝることの成るものぞ、親方様は御胸の広うて、あゝ十兵衞夫婦は訳の分らぬ愚者なりや是も非もないと、其儘何とも思しめされず唯打捨て下さるか知らねど、世間は汝《おまへ》を何と云はう、恩知らずめ義理知らずめ、人情解せぬ畜生め、彼奴《あれめ》は犬ぢや烏ぢやと万人の指甲《つめ》に弾かれものとなるは必定、犬や烏と身をなして仕事を為たとて何の功名《てがら》、慾をかわくな齷齪するなと常※[#二の字点、1-2-22]妾に諭された自分の言葉に対しても恥かしうはおもはれぬか、何卒|柔順《すなほ》に親方様の御異見について下さりませ、天に聳ゆる生雲塔は誰※[#二の字点、1-2-22]二人で作つたと、親方様と諸共に肩を並べて世に称《うた》はるれば、汝の苦労の甲斐も立ち親方様の有難い御芳志《おこゝろざし》も知るゝ道理、妾も何の様に嬉しかろか喜ばしかろか、若し左様なれば不足といふは薬にしたくも無い筈なるに、汝は天魔に魅られて其をまだ/\不足ぢやとおもはるゝのか、嗚呼情無い、妾が云はずと知れてゐる汝《おまへ》自身の身の程を、身の分際を忘れてか、と泣声になり掻口説く女房の頭は低く垂れて、髷にさゝれし縫針の孔《めど》が啣《くは》へし一条《ひとすぢ》の糸ゆら/\と振ふにも、千※[#二の字点、1-2-22]に砕くる心の態の知られていとゞ可憫《いぢら》しきに、眼を瞑ぎ居し十兵衞は、其時例の濁声《だみごゑ》出し、喧しいはお浪、黙つて居よ、我の話しの邪魔になる、親方様聞て下され。

       其十五

 思ひの中に激すればや、じた/\と慄《ふる》ひ出す膝の頭を緊乎《しつか》と寄せ合せて、其上に両手《もろて》突張り、身を固くして十兵衞は、情無い親方様、二人で為うとは情無い、十兵衞に半分仕事を譲つて下されうとは御慈悲のやうで情無い、厭でござります、厭でござります、塔の建てたいは山※[#二の字点、1-2-22]でも既《もう》十兵衞は断念《あきらめ》て居りまする、御上人様の御諭《おさとし》を聞いてからの帰り道すつぱり思ひあきらめました、身の程にも無い考を持つたが間違ひ、嗚呼私が馬鹿でござりました、のつそりは何処迄ものつそりで馬鹿にさへなつて居れば其で可い訳、溝板でもたゝいて一生を終りませう、親方様|堪忍《かに》して下され我《わたし》が悪い、塔を建てうとは既《もう》申しませぬ、見ず知らずの他の人ではなし御恩になつた親方様の、一人で立派に建てらるゝを余所《よそ》ながら視て喜びませう、と元気無げに云ひ出づるを走り気の源太|悠※[#二の字点、1-2-22]《ゆるり》とは聴て居ず、ずいと身を進て、馬鹿を云へ十兵衞、余り道理が分らな過ぎる、上人様の御諭は汝《きさま》一人に聴けといふて為《なさ》れたではない我が耳にも入れられたは、汝の腹でも聞たらば我の胸で受取つた、汝一人に重石《おもし》を背負つて左様沈まれて仕舞ふては源太が男になれるかやい、詰らぬ思案に身を退て馬鹿にさへなつて居れば可いとは、分別が摯実《くすみ》過ぎて至当《もつとも》とは云はれまいぞ、応左様ならば我が為ると得たり賢《かしこ》で引受けては、上人様にも恥かしく第一源太が折角磨いた侠気《をとこ》も其所で廃つて仕舞ふし、汝は固《もとよ》り虻蜂取らず、智慧の無いにも程のあるもの、そしては二人が何可からう、さあ其故に美しく二人で仕事を為うといふに、少しは気まづいところが有つてもそれはお互ひ、汝が不足な程に此方にも面白くないのあるは知れきつた事なれば、双方|忍耐《がまん》仕交《しあふ》として忍耐の出来ぬ訳はない筈、何もわざ/\骨を折つて汝が馬鹿になつて仕舞ひ、幾日の心配を煙と消《きや》し天晴な手腕《うで》を寝せ殺しにするにも当らない、なう十兵衞、我の云ふのが腑に落ちたら思案を翻然《がらり》と仕変へて呉れ、源太は無理は云はぬつもりだ、これさ何故黙つて居る、不足か不承知か、承知しては呉れないか、ゑゝ我の了見をまだ呑み込んでは呉れないか、十兵衞、あんまり情無いではないか、何とか云ふて呉れ、不承知か不承知か、ゑゝ情無い、黙つて居られては解らない、我の云ふのが不道理か、それとも不足で腹立てゝか、と義には強くて情には弱く意地も立つれば親切も飽くまで徹す江戸ッ子腹の、源太は柔和《やさし》く問ひかくれば、聞居るお浪は嬉しさの骨身に浸みて、親方様あゝ有り難うござりますると口には出さねど、舌よりも真実を語る涙をば溢らす眼に、返辞せぬ夫の方を気遣ひて、見れば男は露一厘身動きなさず無言にて思案の頭重く低《た》れ、ぽろり/\と膝の上に散らす涙珠《なみだ》の零《お》ちて声あり。
 源太も今は無言となり少時《しばらく》ひとり考へしが、十兵衞汝はまだ解らぬか、それとも不足とおもふのか、成程折角望んだことを二人でするは口惜かろ、然も源太を心《しん》にして副になるのは口惜かろ、ゑゝ負けてやれ斯様して遣らう、源太は副になつても可い汝を心に立てるほどに、さあ/\清く承知して二人で為うと合点せい、と己が望みは無理に折り、思ひきつてぞ云ひ放つ。とッとんでも無い親方様、仮令十兵衞気が狂へばとて何して其様は出来ますものぞ、勿体ない、と周章て云ふに、左様なら我の異見につくか、と唯一言に返されて、其は、と窮《つま》るをまた追つ掛け、汝《きさま》を心に立てやうか乃至それでも不足か、と烈しく突かれて度を失ふ傍にて女房が気もわくせき、親方様の御異見に何故まあ早く付かれぬ、と責むるが如く恨みわび、言葉そゞろに勧むれば十兵衞つひに絶体絶命、下げたる頭を徐《しづか》に上げ円《つぶら》の眼を剥き出して、一ツの仕事を二人でするは、よしや十兵衞心になつても副になつても、厭なりや何しても出来ませぬ、親方一人で御建なされ、私は馬鹿で終りまする、と皆まで云はせず源太は怒つて、これほど事を分けて云ふ我の親切《なさけ》を無にしても歟。唯《はい》、ありがたうはござりまするが、虚言《うそ》は申せず、厭なりや出来ませぬ。汝《おのれ》よく云つた、源太の言葉にどうでもつかぬ歟。是非ないことでござります。やあ覚えて居よ此のつそりめ、他《ひと》の情の分らぬ奴、其様の事云へた義理か、よし/\汝《おのれ》に口は利かぬ、一生|溝《どぶ》でもいぢつて暮せ、五重塔は気の毒ながら汝に指もさゝせまい、源太一人で立派に建てる、成らば手柄に批点《てん》でも打て。

       其十六

 ゑい、ありがたうござります、滅法界に酔ひました、もう飲《いけ》やせぬ、と空辞誼《そらじぎ》は五月蠅ほど仕ながら、緒口もつ手を後へは退かぬが可笑き上戸の常態《つね》、清吉既馳走酒に十分酔たれど遠慮に三|分《ぶ》の真面目をとゞめて殊勝らしく坐り込み、親方の不在《るす》に斯様|爛酔《へゞ》ては済みませぬ、姉御と対酌《さし》では夕暮を躍るやうになつてもなりませんからな、アハヽ無暗に嬉しくなつて来ました、もう行きませう、はめを外すと親方の御眼玉だ、だが然し姉御、内の親方には眼玉を貰つても私《わつち》は嬉しいとおもつて居ます、なにも姉御の前だからとて軽薄を云ふではありませぬが、真実《ほんと》に内の親方は茶袋よりもありがたいとおもつて居ます、日外《いつぞや》の凌雲院の仕事の時も鐵や慶を対《むかう》にして詰らぬことから喧嘩を初め、鐵が肩先へ大怪我をさした其後で鐵が親から泣き込まれ、嗚呼悪かつた気の毒なことをしたと後悔しても此方も貧的、何様《どう》してやるにも遣り様なく、困りきつて逃亡《かけおち》とまで思つたところを、黙つて親方から療治手当も為てやつて下された上、かけら半分叱言らしいことを私《わつち》に云はれず、たゞ物和しく、清や汝《てめへ》喧嘩は時のはづみで仕方は無いが気の毒とおもつたら謝罪《あやま》つて置け、鐵が親の気持も好かろし汝《てめへ》の寝覚も好といふものだと心付けて下すつた其時は、嗚呼何様して此様《こんな》に仁慈《なさけ》深かろと有難くて有難くて私は泣きました、鐵に謝罪る訳は無いが親方の一言に堪忍《がまん》して私も謝罪に行きましたが、それから異《おつ》なもので何時となく鐵とは仲好になり、今では何方にでも萬一《ひよつと》したことの有れば骨を拾つて遣らうか貰はうかといふ位の交際《つきあひ》になつたも皆親方の御蔭、それに引変へ茶袋なんぞは無暗に叱言を云ふばかりで、やれ喧嘩をするな遊興《あそび》をするなと下らぬ事を小五月蠅く耳の傍《はた》で口説きます、ハヽヽいやはや話になつたものではありませぬ、ゑ、茶袋とは母親《おふくろ》の事です、なに酷くはありませぬ茶袋で沢山です、然も渋をひいた番茶の方です、あッハヽヽ、ありがたうござります、もう行きませう、ゑ、また一本|燗《つけ》たから飲んで行けと仰るのですか、あゝありがたい、茶袋だと此方で一本といふところを反対《あべこべ》にもう廃せと云ひますは、あゝ好い心持になりました、歌ひたくなりましたな、歌へるかとは情ない、松づくしなぞは彼奴に賞められたほどで、と罪の無いことを云へばお吉も笑ひを含むで、そろ/\惚気は恐ろしい、などと調戯《からか》ひ居るところへ帰つて来たりし源太、おゝ丁度よい清吉居たか、お吉飲まうぞ、支度させい、清吉今夜は酔ひ潰れろ、胴魔声の松づくしでも聞てやろ。や、親方立聞して居られたな。

       其十七

 清吉酔ふては※[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94]束《おぼつか》なくなり、砕けた源太が談話《はなし》ぶり捌《さば》けたお吉が接待《とりなし》ぶりに何時しか遠慮も打忘れ、擬《さ》されて辞《いな》まず受けては突と干し酒盞《さかづき》の数重ぬるまゝに、平常《つね》から可愛らしき紅ら顔を一層|沢※[#二の字点、1-2-22]《みづ/\》と、実の熟《い》つた丹波王母珠《たんばほゝづき》ほど紅うして、罪も無き高笑ひやら相手もなしの空示威《からりきみ》、朋輩の誰の噂彼の噂、自己《おのれ》が仮声《こわいろ》の何所其所で喝采《やんや》を獲たる自慢、奪《あげ》られぬ奪られるの云ひ争ひの末|何棲《なにや》の獅顔《しかみ》火鉢を盗り出さんとして朋友《ともだち》の仙の野郎が大失策《おほしくじり》を仕た話、五十間で地廻りを擲つた事など、縁に引かれ図に乗つて其から其へと饒舌り散らす中、不図のつそりの噂に火が飛べば、とろりとなりし眼を急に見張つて、ぐにやりとして居し肩を聳《そば》だて、冷たうなつた飲みかけの酒を異《をか》しく唇まげながら吸ひ干し、一体あんな馬鹿野郎を親方の可愛がるといふが私《わつち》には頭《てん》から解りませぬ、仕事といへば馬鹿丁寧で捗《はこ》びは一向つきはせず、柱一本|鴫居《しきゐ》一ツで嘘をいへば鉋を三度も礪《と》ぐやうな緩慢《のろま》な奴、何を一ツ頼んでも間に合つた例《ためし》が無く、赤松の炉縁一ツに三日の手間を取るといふのは、多方あゝいふ手合だらうと仙が笑つたも無理は有りませぬ、それを親方が贔屓にしたので一時は正直のところ、済みませんが私も金《きん》も仙も六も、あんまり親方の腹が大きすぎて其程でもないものを買ひ込み過ぎて居るでは無いか、念入りばかりで気に入るなら我等《おれたち》も是から羽目板にも仕上げ鉋、のろり/\と充分《したゝか》清めて碁盤肌にでも削らうかと僻味《ひがみ》を云つた事もありました、第一彼奴は交際《つきあひ》知らずで女郎買《ぢよろかひ》一度一所にせず、好闘鶏《しやも》鍋つゝき合つた事も無い唐偏朴、何時か大師へ一同《みんな》が行く時も、まあ親方の身辺《まはり》について居るものを一人ばかり仲間はづれにするでも無いと私が親切に誘つてやつたに、我《おれ》は貧乏で行かれないと云つた切りの挨拶は、なんと愛想も義理も知らな過ぎるではありませんか、銭が無ければ女房《かゝ》の一枚着を曲げ込んでも交際《つきあひ》は交際で立てるが朋友《ともだち》づく、それも解らない白痴《たはけ》の癖に段※[#二の字点、1-2-22]親方の恩を被て、私や金と同じことに今では如何か一人立ち、然も憚りながら青沸《あをつぱな》垂らして弁当箱の持運び、木片《こつぱ》を担いでひよろ/\帰る餓鬼の頃から親方の手について居た私や仙とは違つて奴は渡り者、次第を云へば私等より一倍深く親方を有難い忝ないと思つて居なけりやならぬ筈、親方、姉御、私は悲しくなつて来ました、私は若しもの事があれば親方や姉御のためと云や黒煙の煽りを食つても飛び込むぐらゐの了見は持つて居るに、畜生ッ、あゝ人情《なさけ》無い野郎め、のつそりめ、彼奴は火の中へは恩を脊負つても入りきるまい、碌な根性は有つて居まい、あゝ人情無い畜生めだ、と酔が図らず云ひ出せし不平の中に潜り込んで、めそ/\めそ/\泣き出せば、お吉は夫の顔を見て、例《いつも》の癖が出て来たかと困つた風情は仕ながらも自己《おのれ》の胸にものつそりの憎さがあれば、幾分《いくら》かは清が言葉を道理《もつとも》と聞く傾きもあるなるべし。
 源太は腹に戸締の無きほど愚魯《おろか》ならざれば、猪口を擬《さ》しつけ高笑ひし、何を云ひ出した清吉、寝惚るな我の前だは、三の切を出しても初まらぬぞ、其手で女でも口説きやれ、随分ころりと来るであらう、汝が惚けた小蝶さまの御部屋では無い、アッハヽヽと戯言《おどけ》を云へば尚真面目に、木※[#「木+患」、第3水準1-86-05]珠《ずゞだま》ほどの涙を払ふ其手をぺたりと刺身皿の中につつこみ、しやくり上げ歔欷《しやくりあげ》して泣き出し、あゝ情無い親方、私を酔漢《よつぱらひ》あしらひは情無い、酔つては居ませぬ、小蝶なんぞは飲べませぬ、左様いへば彼奴の面が何所かのつそりに似て居るやうで口惜くて情無い、のつそりは憎い奴、親方の対《むかう》を張つて大それた、五重の塔を生意気にも建てやうなんとは憎い奴憎い奴、親方が和《やさ》し過ぎるので増長した謀反人め、謀反人も明智のやうなは道理《もつとも》だと伯龍か講釈しましたが彼奴のやうなは大悪無道、親方は何日のつそりの頭を鉄扇で打ちました、何日《いつ》蘭丸にのつそりの領地を与《や》ると云ひました、私は今に若も彼奴が親方の言葉に甘へて名を列べて塔を建てれば打捨《うつちや》つては置けませぬ、擲《たゝ》き殺して狗《いぬ》に呉れます此様いふやうに擲き殺して、と明徳利の横面|突然《いきなり》打き飛ばせば、砕片《かけら》は散つて皿小鉢跳り出すやちん鏘然《からり》。馬鹿野郎め、と親方に大喝されて其儘にぐづりと坐り沈静《おとなし》く居るかと思へば、散かりし還原海苔《もどしのり》の上に額おしつけ既|鼾声《いびき》なり。源太はこれに打笑ひ、愛嬌のある阿呆めに掻巻かけて遣れ、と云ひつゝ手酌にぐいと引かけて酒気を吹くこと良久しく、怒つて帰つて来はしたものゝ彼様《あゝ》では高が清吉同然、さて分別がまだ要るは。

        其十八

 源太が怒つて帰りし後、腕|拱《こまぬ》きて茫然たる夫の顔をさし覗きて、吐息つく/″\お浪は歎じ、親方様は怒らする仕事は畢竟《つまり》手に入らず、夜の眼も合さず雛形まで製造《こしら》へた幾日の骨折も苦労も無益《むだ》にした揚句の果に他《ひと》の気持を悪うして、恩知らず人情無しと人の口端にかゝるのは余りといへば情無い、女の差出た事をいふと唯一口に云はるゝか知らねど、正直律義も程のあるもの、親方様が彼程《あれほど》に云ふて下さる異見について一緒に仕たとて恥辱《はぢ》にはなるまいに、偏僻《かたいぢ》張つて何の詰らぬ意気地立て、それを誰が感心なと褒ませう、親方様の御料簡につけば第一御恩ある親方の御心持もよい訳、またお前の名も上り苦労骨折の甲斐も立つ訳、三方四方みな好いに何故其気にはなられぬか、少しもお前の料簡が妾の腹には合点《のみこめ》ぬ、能くまあ思案仕直して親方様の御異見につい従ふては下されぬか、お前が分別さへ更《かへ》れば妾が直にも親方様のところへ行き、何にか彼にか謝罪《あやまり》云ふて一生懸命精一杯、打たれても擲かれても動くまい程覚悟をきめ、謝罪つて謝罪つて謝罪り貫《ぬ》いたら御情深い親方様が、まさかに何日まで怒つてばかりも居られまい、一時の料簡違ひは堪忍《かに》して下さる事もあらう、分別仕更て意地張らずに、親方様の云はれた通り仕て見る気にはなられぬか、と夫思ひの一筋に口説くも女の道理《もつとも》なれど、十兵衞はなほ眼も動かさず、あゝもう云ふてくれるな、ああ、五重塔とも云ふてくれるな、よしない事を思ひたつて成程恩知らずとも云はれう人情なしとも云はれう、それも十兵衞の分別が足らいで出来したこと、今更何共是非が無い、然し汝の云ふやうに思案仕更るは何しても厭、十兵衞が仕事に手下は使はうが助言は頼むまい、人の仕事の手下になつて使はれはせうが助言はすまい、桝組も椽配《たるきわ》りも我が為る日には我の勝手、何所から何所まで一寸たりとも人の指揮《さしづ》は決して受けぬ、善いも悪いも一人で背負つて立つ、他の仕事に使はれゝば唯正直の手間取りとなつて渡されただけの事するばかり、生意気な差出口は夢にもすまい、自分が主でも無い癖に自己《おの》が葉色を際立てゝ異《かは》つた風を誇顔《ほこりが》の寄生木《やどりぎ》は十兵衞の虫が好かぬ、人の仕事に寄生木となるも厭なら我が仕事に寄生木を容るゝも虫が嫌へば是非がない、和しい源太親方が義理人情を噛み砕いて態※[#二の字点、1-2-22]|慫慂《すゝめ》て下さるは我にも解つてありがたいが、なまじひ我の心を生して寄生木あしらひは情無い、十兵衞は馬鹿でものつそりでもよい、寄生木になつて栄えるは嫌《きらひ》ぢや、矮小《けち》な下草《したぐさ》になつて枯れもせう大樹《おほき》を頼まば肥料《こやし》にもならうが、たゞ寄生木になつて高く止まる奴等を日頃いくらも見ては卑い奴めと心中で蔑視《みさ》げて居たに、今我が自然親方の情に甘へて其になるのは如何あつても小恥しうてなりきれぬは、いつその事に親方の指揮のとほり此を削れ彼《あれ》を挽き割れと使はるゝなら嬉しけれど、なまじ情が却つて悲しい、汝も定めて解らぬ奴と恨みもせうが堪忍して呉れ、ゑゝ是非がない、解らぬところが十兵衞だ、此所がのつそりだ、馬鹿だ、白痴漢《たはけ》だ、何と云はれても仕方は無いは、あゝッ火も小くなつて寒うなつた、もう/\寝てでも仕舞はうよ、と聴けば一※[#二の字点、1-2-22]道理の述懐。お浪もかへす言葉なく無言となれば、尚寒き一室《ひとま》を照せる行燈も灯花《ちやうじ》に暗うなりにけり。

       其十九

 其夜は源太床に入りても中※[#二の字点、1-2-22]眠らず、一番鶏二番鶏を耳たしかに聞て朝も平日《つね》よりは夙《はよ》う起き、含嗽《うがひ》手水《てうづ》に見ぬ夢を洗つて熱茶一杯に酒の残り香を払ふ折しも、むく/\と起き上つたる清吉|寝惚眼《ねぼれめ》をこすり/\怪訝顔してまごつくに、お吉とも/″\噴飯《ふきだ》して笑ひ、清吉昨夜は如何したか、と嬲《なぶ》れば急に危坐《かしこま》つて無茶苦茶に頭を下げ、つい御馳走になり過ぎて何時か知らず寝て仕舞ひました、姉御、昨夜|私《わつち》は何か悪いことでも為は仕ませぬか、と心配相に尋ぬるも可笑く、まあ何でも好いは、飯でも食つて仕事に行きやれ、と和《やさ》しく云はれてます/\畏《おそ》れ、恍然《うつとり》として腕を組み頻りに考へ込む風情、正直なるが可愛らし。
 清吉を出しやりたる後、源太は尚も考にひとり沈みて日頃の快活《さつぱり》とした調子に似もやらず、碌※[#二の字点、1-2-22]お吉に口さへきかで思案に思案を凝らせしが、あゝ解つたと独り言するかと思へば、愍然《ふびん》なと溜息つき、ゑゝ抛《なげ》やうかと云ふかとおもへば、何して呉れうと腹立つ様子を傍にてお吉の見る辛さ、問ひ慰めんと口を出せば黙つて居よとやりこめられ、詮方なさに胸の中にて空しく心をいたむるばかり。源太は其等に関ひもせず夕暮方まで考へ考へ、漸く思ひ定めやしけむ衝《つ》と身を起して衣服をあらため、感応寺に行き上人に見《まみ》えて昨夜の始終をば隠すことなく物語りし末、一旦は私も余り解らぬ十兵衞の答に腹を立てしものゝ帰つてよく/\考ふれば、仮令ば私一人して立派に塔は建つるにせよ、それでは折角御諭しを受けた甲斐無く源太がまた我慾にばかり強いやうで男児《をとこ》らしうも無い話し、といふて十兵衞は十兵衞の思わくを滅多に捨はすまじき様子、彼も全く自己《おのれ》を押へて譲れば源太も自己を押へて彼に仕事をさせ下されと譲らねばならぬ義理人情、いろ/\愚昧《おろか》な考を使つて漸く案じ出したことにも十兵衞が乗らねば仕方なく、それを怒つても恨むでも是非の無い訳、既《はや》此上には変つた分別も私には出ませぬ、唯願ふはお上人様、仮令ば十兵衞一人に仰せつけられますればとて私かならず何とも思ひますまいほどに、十兵衞になり私になり二人共々になり何様《どう》とも仰せつけられて下さりませ、御口づからの事なれば十兵衞も私も互に争ふ心は捨て居りまするほどに露さら故障はござりませぬ、我等二人の相談には余つて願ひにまゐりました、と実意を面に現しつゝ願へば上人ほく/\笑はれ、左様ぢやろ左様ぢやろ、流石に汝《そなた》も見上げた男ぢや、好い/\、其心掛一つで既う生雲塔見事に建てたより立派に汝はなつて居る、十兵衞も先刻《さつき》に来て同じ事を云ふて帰つたは、彼も可愛い男ではないか、のう源太、可愛がつて遣れ可愛がつて遣れ、と心あり気に云はるゝ言葉を源太早くも合点して、ゑゝ可愛がつて遣りますとも、といと清《すゞ》しげに答れば、上人満面皺にして悦び玉ひつ、好いは好いは、嗚呼気味のよい男児ぢやな、と真から底から褒美《ほめ》られて、勿体なさはありながら源太おもはず頭をあげ、お蔭で男児になれましたか、と一語に無限の感慨を含めて喜ぶ男泣き。既此時に十兵衞が仕事に助力せん心の、世に美しくも湧たるなるべし。

       其二十

 十兵衞感応寺にいたりて朗圓上人に見《まみ》え、涙ながらに辞退の旨云ふて帰りし其日の味気無さ、煙草のむだけの気も動かすに力無く、茫然《ぼんやり》としてつく/″\我が身の薄命《ふしあはせ》、浮世の渡りぐるしき事など思ひ廻《めぐら》せば思ひ廻すほど嬉しからず、時刻になりて食ふ飯の味が今更|異《かは》れるではなけれど、箸持つ手さへ躊躇《たゆた》ひ勝にて舌が美味《うま》うは受けとらぬに、平常《つね》は六碗七碗を快う喫《く》ひしも僅に一碗二碗で終へ、茶ばかり却つて多く飲むも、心に不悦《まづさ》の有る人の免れ難き慣例《ならひ》なり。
 主人《あるじ》が浮かねば女房も、何の罪なき頑要《やんちや》ざかりの猪之まで自然《おのづ》と浮き立たず、淋しき貧家のいとゞ淋しく、希望《のぞみ》も無ければ快楽《たのしみ》も一点あらで日を暮らし、暖味のない夢に物寂た夜を明かしけるが、お浪|暁天《あかつき》の鐘に眼覚めて猪之と一所に寐たる床より密《そつ》と出るも、朝風の寒いに火の無い中から起すまじ、も少し睡《ね》させて置かうとの慈《やさ》しき親の心なるに、何も彼も知らいでたわい無く寐て居し平生《いつも》とは違ひ、如何せしことやら忽ち飛び起き、襦袢一つで夜具の上跳ね廻り跳ね廻り、厭ぢやい厭ぢやい、父様を打つちや厭ぢやい、と蕨《わらび》のやうな手を眼にあてゝ何かは知らず泣き出せば、ゑゝこれ猪之は何したものぞ、と吃驚しながら抱き止むるに抱かれながらも猶泣き止まず。誰も父様を打ちは仕ませぬ、夢でも見たか、それそこに父様はまだ寐て居らるゝ、と顔を押向け知らすれば不思議さうに覗き込で、漸く安心しは仕てもまだ疑惑《うたがひ》の晴れぬ様子。
 猪之や何にも有りはし無いは、夢を見たのぢや、さあ寒いに風邪をひいてはなりませぬ、床に這入つて寐て居るがよい、と引き倒すやうにして横にならせ、掻巻かけて隙間無きやう上から押しつけ遣る母の顔を見ながら眼をぱつちり、あゝ怖かつた、今|他所《よそ》の怖い人が。おゝおゝ、如何か仕ましたか。大きな、大きな鉄槌《げんのう》で、黙つて坐つて居る父様の、頭を打つて幾度《いくつ》も打つて、頭が半分|砕《こは》れたので坊は大変吃驚した。ゑゝ鶴亀※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]、厭なこと、延喜《えんぎ》でも無いことを云ふ、と眉を皺むる折も折、戸外《おもて》を通る納豆売りの戦《ふる》へ声に覚えある奴が、ちェッ忌※[#二の字点、1-2-22]しい草鞋が切れた、と打独語《うちつぶや》きて行き過ぐるに女房ます/\気色を悪《あし》くし、台所に出て釜の下を焚きつくれば思ふ如く燃えざる薪《まき》も腹立しく、引窓の滑よく明かぬも今更のやうに焦れつたく、嗚呼何となく厭な日と思ふも心からぞとは知りながら、猶気になる事のみ気にすればにや多けれど、また云ひ出さば笑はれむと自分で呵《しか》つて平日《いつも》よりは笑顔をつくり言葉にも活気をもたせ、溌※[#二の字点、1-2-22]《いき/\》として夫をあしらひ子をあしらへど、根が態とせし偽飾《いつはり》なれば却つて笑ひの尻声が憂愁《うれひ》の響きを遺して去る光景《ありさま》の悲しげなるところへ、十兵衞殿お宅か、と押柄《あふへい》に大人びた口きゝながら這入り来る小坊主、高慢にちよこんと上り込み、御用あるにつき直と来られべしと前後《あとさき》無しの棒口上。
 お浪も不審、十兵衞も分らぬことに思へども辞《いな》みもならねば、既《はや》感応寺の門くゞるさへ無益《むやく》しくは考へつゝも、何御用ぞと行つて問へば、天地顛倒こりや何《どう》ぢや、夢か現か真実か、圓道右に爲右衞門左に朗圓上人|中央《まんなか》に坐したまふて、圓道言葉おごそかに、此度|建立《こんりふ》なるところの生雲塔の一切工事川越源太に任せられべき筈のところ、方丈思しめし寄らるゝことあり格別の御詮議例外の御慈悲をもつて、十兵衞其方に確《しか》と御任せ相成る、辞退の儀は決して無用なり、早※[#二の字点、1-2-22]ありがたく御受申せ、と云ひ渡さるゝそれさへあるに、上人皺枯れたる御声にて、これ十兵衞よ、思ふ存分|仕途《しと》げて見い、好う仕上らば嬉しいぞよ、と荷担《になふ》に飾る冥加の御言葉。のつそりハッと俯伏せしまゝ五体を濤《なみ》と動《ゆる》がして、十兵衞めが生命はさ、さ、さし出しまする、と云ひし限《ぎ》り喉《のど》塞《ふさ》がりて言語絶え、岑閑《しんかん》とせし広座敷に何をか語る呼吸の響き幽《かすか》にしてまた人の耳に徹しぬ。

       其二十一

 紅蓮白蓮の香《にほひ》ゆかしく衣袂《たもと》に裾に薫り来て、浮葉に露の玉|動《ゆら》ぎ立葉に風の軟《そよ》吹《ふ》ける面白の夏の眺望《ながめ》は、赤蜻蛉|菱藻《ひしも》を嬲《なぶ》り初霜向ふが岡の樹梢《こずゑ》を染めてより全然《さらり》と無くなつたれど、赭色《たいしや》になりて荷《はす》の茎ばかり情無う立てる間に、世を忍び気《げ》の白鷺が徐※[#二の字点、1-2-22]《そろり》と歩む姿もをかしく、紺青色に暮れて行く天《そら》に漸く輝《ひか》り出す星を背中に擦つて飛ぶ雁の、鳴き渡る音も趣味《おもむき》ある不忍の池の景色を下物《さかな》の外の下物にして、客に酒をば亀の子ほど飲まする蓬莱屋の裏二階に、気持の好ささうな顔して欣然と人を待つ男一人。唐桟《たうざん》揃ひの淡泊《あつさり》づくりに住吉張の銀煙管おとなしきは、職人らしき侠気《きほひ》の風の言語《ものいひ》拳動《そぶり》に見えながら毫末《すこし》も下卑《げび》ぬ上品|質《だち》、いづれ親方※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]と多くのものに立らるゝ棟梁株とは、予てから知り居る馴染のお傳といふ女が、嘸《さぞ》お待ち遠でござりませう、と膳を置つゝ云ふ世辞を、待つ退屈さに捕《つかま》へて、待遠で/\堪りきれぬ、ほんとに人の気も知らないで何をして居るであらう、と云へば、それでもお化粧《しまひ》に手間の取れまするが無理は無い筈、と云ひさしてホヽと笑ふ慣れきつた返しの太刀筋。アハヽヽそれも道理《もつとも》ぢや、今に来たらば能く見て呉れ、まあ恐らく此地辺《こゝら》に類は無らう、といふものだ。阿呀《おや》恐ろしい、何を散財《おご》つて下さります、而《そ》して親方、といふものは御師匠さまですか。いゝや。娘さんですか。いゝや。後家様。いゝや。お婆さんですか。馬鹿を云へ可愛想に。では赤ん坊。此奴《こいつ》め人をからかふな、ハヽハヽヽ。ホヽホヽヽと下らなく笑ふところへ襖の外から、お傳さんと名を呼んで御連様と知らすれば、立上つて唐紙明けにかゝりながら一寸後向いて人の顔へ異《おつ》に眼を呉れ無言で笑ふは、御嬉しかろと調戯《からか》つて焦らして底悦喜《そこえつき》さする冗談なれど、源太は却つて心から可笑《をかし》く思ふとも知らずにお傳はすいと明くれば、のろりと入り来る客は色ある新造どころか香も艶もなき無骨男、ぼう/\頭髪《あたま》のごり/\腮髯《ひげ》、面《かほ》は汚れて衣服《きもの》は垢づき破れたる見るから厭気のぞつとたつ程な様子に、流石呆れて挨拶さへどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]せしまゝ急には出ず。
 源太は笑《ゑみ》を含みながら、さあ十兵衞此所へ来て呉れ、関ふことは無い大胡坐《おほあぐら》で楽に居て呉れ、とおづ/\し居るを無理に坐に居《す》ゑ、頓《やが》て膳部も具備《そなは》りし後、さてあらためて飲み干したる酒盃とつて源太は擬《さ》し、沈黙《だんまり》で居る十兵衞に対ひ、十兵衞、先刻に富松を態※[#二の字点、1-2-22]遣つて此様《こん》な所に来て貰つたは、何でも無い、実は仲直り仕て貰ひたくてだ、何か汝とわつさり飲んで互ひの胸を和熟させ、過日《こなひだ》の夜の我が云ふた彼云ひ過ぎも忘れて貰ひたいとおもふからの事、聞て呉れ斯様いふ訳だ、過日の夜は実は我も余り汝を解らぬ奴と一途に思つて腹も立つた、恥しいが肝癪も起し業も沸《にや》し汝の頭を打砕《ぶつか》いて遣りたいほどにまでも思ふたが、然し幸福《しあはせ》に源太の頭が悪玉にばかりは乗取られず、清吉めが家へ来て酔つた揚句に云ひちらした無茶苦茶を、嗚呼了見の小い奴は詰らぬ事を理屈らしく恥かしくも無く云ふものだと、聞て居るさへ可笑くて堪らなさに不図左様思つた其途端、某夜汝の家で陳《なら》べ立つて来た我の云ひ草に気が付いて見れば清吉が言葉と似たり寄つたり、ゑゝ間違つた一時の腹立に捲き込まれたか残念、源太男が廃《すた》る、意地が立たぬ、上人の蔑視《さげすみ》も恐ろしい、十兵衞が何も彼も捨て辞退するものを斜《はす》に取つて逆意地たてれば大間違ひ、とは思つても余り汝の解らな過ぎるが腹立しく、四方八方何所から何所まで考へて、此所を推せば某所に襞※[#「ころもへん+責」、第3水準1-91-87]《ひずみ》が出る、彼点《あすこ》を立てれば此点《こゝ》に無理があると、まあ我の智慧分別ありたけ尽して我の為ばかり籌《はか》るでは無く云ふたことを、無下《むげ》に云ひ消されたが忌※[#二の字点、1-2-22]しくて忌※[#二の字点、1-2-22]しくて随分|堪忍《がまん》も仕かねたが、扨いよ/\了見を定めて上人様の御眼にかゝり所存を申し上げて見れば、好い/\と仰せられた唯の一言に雲霧《もや/\》は既《もう》無くなつて、清《すゞ》しい風が大空を吹いて居るやうな心持になつたは、昨日はまた上人様から熊※[#二の字点、1-2-22]の御招で、行つて見たれば我を御賞美の御言葉数※[#二の字点、1-2-22]の其上、いよ/\十兵衞に普請一切申しつけたが蔭になつて助けてやれ、皆|汝《そなた》の善根福種になるのぢや、十兵衞が手には職人もあるまい、彼がいよ/\取掛る日には何人《いくら》も傭ふ其中に汝が手下の者も交らう、必ず猜忌邪曲《そねみひがみ》など起さぬやうに其等には汝から能く云ひ含めて遣るがよいとの細い御諭し、何から何まで見透しで御慈悲深い上人様のありがたさにつく/″\我折つて帰つて来たが、十兵衞、過日《こなひだ》の云ひ過ごしは堪忍して呉れ、斯様した我の心意気が解つて呉れたら従来《いままで》通り浄く陸じく交際《つきあ》つて貰はう、一切が斯様定つて見れば何と思つた彼と思つたは皆夢の中の物詮議、後に遺して面倒こそあれ益《やく》無いこと、此不忍の池水にさらりと流して我も忘れう、十兵衞汝も忘れて呉れ、木材《きしな》の引合ひ、鳶人足《とび》への渡りなんど、まだ顔を売込んで居ぬ汝には一寸仕憎からうが、其等には我の顔も貸さうし手も貸さう、丸丁、山六、遠州屋、好い問屋は皆馴染で無うては先方《さき》が此方を呑んでならねば、万事歯痒い事の無いやう我を自由に出しに使へ、め粗の頭の鋭次といふは短気なは汝も知つて居るであらうが、骨は黒鉄《くろがね》、性根玉は憚りながら火の玉だと平常《ふだん》云ふだけ、扨じつくり頼めばぐつと引受け一寸退かぬ頼母しい男、塔は何より地行が大事、空風火水の四ツを受ける地盤の固めを彼にさせれば、火の玉鋭次が根性だけでも不動が台座の岩より堅く基礎《いしずゑ》確と据さすると諸肌ぬいで仕て呉るゝは必定、彼《あれ》にも頓て紹介《ひきあは》せう、既此様なつた暁には源太が望みは唯一ツ、天晴十兵衞汝が能く仕出来しさへすりや其で好のぢや、唯※[#二の字点、1-2-22]塔さへ能く成《でき》れば其に越した嬉しいことは無い、苟且《かりそめ》にも百年千年末世に残つて云はゞ我等《おれたち》の弟子筋の奴等が眼にも入るものに、へまがあつては悲しからうではないか、情無いではなからうか、源太十兵衞時代には此様な下らぬ建物に泣たり笑つたり仕たさうなと云はれる日には、なあ十兵衞、二人が舎利《しやり》も魂魄《たましひ》も粉灰にされて消し飛ばさるゝは、拙《へた》な細工で世に出ぬは恥も却つて少ないが、遺したものを弟子め等に笑はる日には馬鹿親父が息子に異見さるゝと同じく、親に異見を食ふ子より何段増して恥かしかろ、生礫刑《いきばりつけ》より死んだ後塩漬の上礫刑になるやうな目にあつてはならぬ、初めは我も是程に深くも思ひ寄らなんだが、汝が我の対面《むかう》にたつた其意気張から、十兵衞に塔建てさせ見よ源太に劣りはすまいといふか、源太が建てゝ見せくれう何十兵衞に劣らうぞと、腹の底には木を鑽《き》つて出した火で観る先の先、我意は何《なんに》も無くなつた唯だ好く成て呉れさへすれば汝も名誉《ほまれ》我も悦び、今日は是だけ云ひたいばかり、嗚呼十兵衞其大きな眼を湿ませて聴て呉れたか嬉しいやい、と磨いて礪《と》いで礪ぎ出した純粋《きつすゐ》江戸ッ子粘り気無し、一《ぴん》で無ければ六と出る、忿怒《いかり》の裏の温和《やさし》さも飽まで強き源太が言葉に、身|動《じろ》ぎさへせで聞き居し十兵衞、何も云はず畳に食ひつき、親方、堪忍して下され口がきけませぬ、十兵衞には口がきけませぬ、こ、こ、此通り、あゝ有り難うござりまする、と愚魯《おろか》しくもまた真実《まこと》に唯|平伏《ひれふ》して泣き居たり。

       其二十二

 言葉は無くても真情《まこと》は見ゆる十兵衞が挙動《そぶり》に源太は悦び、春風|湖《みづ》を渡つて霞日に蒸すともいふべき温和の景色を面にあらはし、何もやさしき語気|円暢《なだらか》に、斯様打解けて仕舞ふた上は互に不妙《まづい》ことも無く、上人様の思召にも叶ひ我等《おれたち》の一分も皆立つといふもの、嗚呼何にせよ好い心持、十兵衞|汝《きさま》も過してくれ、我も充分今日こそ酔はう、と云ひつゝ立つて違棚に載せて置たる風呂敷包とりおろし、結び目といて二束《ふたつかさね》にせし書類《かきもの》いだし、十兵衞が前に置き、我にあつては要なき此品《これ》の、一ツは面倒な材木《きしな》の委細《くはし》い当りを調べたのやら、人足軽子其他|種※[#二の字点、1-2-22]《さま/″\》の入目を幾晩かかゝつて漸く調べあげた積り書、又一ツは彼所《あすこ》を何して此所《こゝ》を斯してと工夫に工夫した下絵図、腰屋根の地割だけなもあり、平地割だけなのもあり、初重の仕形だけのもあり、二手先または三手先、出組《だしぐみ》ばかりなるもあり、雲形波形唐草|生類彫物《しやうるゐほりもの》のみを書きしもあり、何より彼より面倒なる真柱から内法《うちのり》長押《なげし》腰長押切目長押に半長押、椽板橡かつら亀腹桂高欄垂木|桝肘木《ますひぢき》、貫《ぬき》やら角木《すみぎ》の割合算法、墨縄《すみ》の引きやう規尺《かね》の取り様余さず洩さず記せしもあり、中には我の為しならで家に秘めたる先祖の遺品《かたみ》、外へは出せぬ絵図もあり、京都《きやう》やら奈良の堂塔を写しとりたるものもあり、此等は悉皆《みんな》汝に預くる、見たらば何かの足しにもなろ、と自己《おの》が精神《こゝろ》を籠めたるものを惜気もなしに譲りあたふる、胸の広さの頼母しきを解せぬといふにはあらざれど、のつそりもまた一[#(ト)]気性、他の巾着で我が口濡らすやうな事は好まず、親方まことに有り難うはござりまするが、御親切は頂戴《いたゞ》いたも同然、これは其方に御納めを、と心は左程に無けれども言葉に膠《にべ》の無さ過ぎる返辞をすれば、源太大きに悦ばず。此品《これ》をば汝は要らぬと云ふのか、と慍《いかり》を底に匿して問ふに、のつそり左様とは気もつかねば、別段拝借いたしても、と一句|迂濶《うつか》り答ふる途端、鋭き気性の源太は堪らず、親切の上親切を尽して我が智慧思案を凝らせし絵図まで与らむといふものを、無下に返すか慮外なり、何程|自己《おのれ》が手腕の好て他の好情《なさけ》を無にするか、そも/\最初に汝《おのれ》めが我が対岸へ廻はりし時にも腹は立ちしが、じつと堪へて争はず、普通《なみ》大体《たいてい》のものならば我が庇蔭被《かげき》たる身をもつて一つ仕事に手を入るゝか、打擲いても飽かぬ奴と、怒つて怒つて何にも為べきを、可愛きものにおもへばこそ一言半句の厭味も云はず、唯※[#二の字点、1-2-22]自然の成行に任せ置きしを忘れし歟、上人様の御諭しを受けての後も分別に分別渇らしてわざ/\出掛け、汝のために相談をかけてやりしも勝手の意地張り、大体《たいてい》ならぬものとても堪忍《がまん》なるべきところならぬを、よく/\汝を最惜《いとし》がればぞ踏み耐へたるとも知らざる歟、汝が運の好きのみにて汝が手腕の好きのみにて汝が心の正直のみにて、上人様より今度の工事《しごと》命けられしと思ひ居る歟、此品をば与つて此源太が恩がましくでも思ふと思ふか、乃至は既慢《もはや》気の萌して頭《てん》から何の詰らぬ者と人の絵図をも易く思ふか、取らぬとあるに強はせじ、余りといへば人情なき奴、あゝ有り難うござりますると喜び受けて此中の仕様を一所《ひととこ》二所《ふたとこ》は用ひし上に、彼箇所は御蔭で美《うま》う行きましたと後で挨拶するほどの事はあつても当然なるに、開けて見もせず覗きもせず、知れ切つたると云はぬばかりに愛想も菅《すげ》もなく要らぬとは、汝十兵衞よくも撥ねたの、此源太が仕た図の中に汝の知つた者のみ有らうや、汝等《うぬら》が工風の輪の外に源太が跳り出ずに有らうか、見るに足らぬと其方で思はば汝が手筋も知れてある、大方高の知れた塔建たぬ前から眼に映《うつ》つて気の毒ながら批難《なん》もある、既堪忍の緒も断れたり、卑劣《きたな》い返報《かへし》は為まいなれど源太が烈しい煮趣返報は、為る時為さで置くべき歟、酸くなるほどに今までは口もきいたが既きかぬ、一旦思ひ捨つる上は口きくほどの未練も有たぬ、三年なりとも十年なりとも返報《しかへし》するに充分な事のあるまで、物蔭から眼を光らして睨みつめ無言でじつと待つてゝ呉れうと、気性が違へば思はくも一二度終に三度めで無残至極に齟齬《くひちが》ひ、いと物静に言葉を低めて、十兵衞殿、と殿の字を急につけ出し叮嚀に、要らぬといふ図は仕舞ひましよ、汝一人で建つる塔定めて立派に出来やうが、地震か風の有らう時壊るゝことは有るまいな、と軽くは云へど深く嘲ける語《ことば》に十兵衞も快よからず、のつそりでも恥辱《はぢ》は知つて居ります、と底力味ある楔《くさび》を打てば、中※[#二の字点、1-2-22]見事な一言口ぢや、忘れぬやうに記臆《おぼ》えて居やうと、釘をさしつゝ恐ろしく睥みて後は物云はず、頓て忽ち立ち上つて、嗚呼飛んでも無い事を忘れた、十兵衞殿|寛《ゆる》りと遊んで居て呉れ、我は帰らねばならぬこと思ひ出した、と風の如くに其座を去り、あれといふ間に推量勘定、幾金《いくら》か遺して風《ふい》と出つ、直其足で同じ町の某《ある》家が閾またぐや否、厭だ/\、厭だ/\、詰らぬ下らぬ馬鹿※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]しい、愚図※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]せずと酒もて来い、蝋燭いぢつて其が食へるか、鈍痴《どぢ》め肴で酒が飲めるか、小兼春吉お房蝶子四の五の云はせず掴むで来い、臑《すね》の達者な若い衆頼も、我家《うち》へ行て清、仙、鐵、政、誰でも彼でも直に遊びに遣《よ》こすやう、といふ片手間にぐい/\仰飲《あふ》る間も無く入り来る女共に、今晩なぞとは手ぬるいぞ、と驀向《まつかう》から焦躁《じれ》を吹つ掛けて、飲め、酒は車懸り、緒口《ちよく》は巴と廻せ廻せ、お房|外見《みえ》をするな、春婆大人ぶるな、ゑゝお蝶め其でも血が循環《めぐ》つて居るのか頭上《あたま》に鼬《いたち》花火載せて火をつくるぞ、さあ歌へ、ぢやん/\と遣れ、小兼め気持の好い声を出す、あぐり踊るか、かぐりもつと跳ねろ、やあ清吉来たか鐵も来たか、何でも好い滅茶 滅茶 に騒げ、我に嬉しい事が有るのだ、無礼講に遣れ/\、と大将無法の元気なれば、後れて来たる仙も政も煙《けぶ》に巻かれて浮かれたち、天井抜けうが根太抜けうが抜けたら此方の御手のものと、飛ぶやら舞ふやら唸るやら、潮来《いたこ》出島《でじま》もしほらしからず、甚句に鬨《とき》の声を湧かし、かつぽれに滑つて転倒《ころ》び、手品《てづま》の太鼓を杯洗で鐵がたゝけば、清吉はお房が傍に寐転んで銀釵《かんざし》にお前|其様《そのよ》に酢ばかり飲んでを稽古する馬鹿騒ぎの中で、一了簡あり顔の政が木遣を丸めたやうな声しながら、北に峨々たる青山をと異《おつ》なことを吐き出す勝手三昧、やつちやもつちやの末は拳も下卑て、乳房《ちゝ》の脹れた奴が臍の下に紙幕張るほどになれば、さあもう此処は切り上げてと源太が一言、それから先は何所へやら。

       其二十三

 鷹《たか》の飛ぶ時|他所視《よそみ》はなさず、鶴なら鶴の一点張りに雲をも穿《うが》ち風にも逆《むか》つて目ざす獲物の、咽喉仏|把攫《ひつつか》までは合点せざるものなり。十兵衞いよ/\五重塔の工事《しごと》するに定まつてより寐ても起きても其事《それ》三昧《ざんまい》、朝の飯喫ふにも心の中では塔を噬《か》み、夜の夢結ぶにも魂魄《たましひ》は九輪の頂を繞るほどなれば、況して仕事にかゝつては妻あることも忘れ果て児のあることも忘れ果て、昨日の我を念頭に浮べもせず明日の我を想ひもなさず、唯一[#(ト)]釿《てうな》ふりあげて木を伐るときは満身の力を其に籠め、一枚の図をひく時には一心の誠を其に注ぎ、五尺の身体こそ犬鳴き鶏歌ひ權兵衞が家に吉慶《よろこび》あれば木工右衞門《もくゑもん》が所に悲哀《かなしみ》ある俗世に在りもすれ、精神《こゝろ》は紛たる因縁に奪《と》られで必死とばかり勤め励めば、前《さき》の夜源太に面白からず思はれしことの気にかゝらぬにはあらざれど、日頃ののつそり益※[#二の字点、1-2-22]長じて、既何処にか風吹きたりし位に自然軽う取り做し、頓ては頓と打ち忘れ、唯※[#二の字点、1-2-22]仕事にのみ掛りしは愚鈍《おろか》なるだけ情に鈍くて、一条道より外へは駈けぬ老牛《おいうし》の痴に似たりけり。
 金箔銀箔瑠璃真珠|水精《すゐしやう》以上合せて五宝、丁子《ちやうじ》沈香《ぢんかう》白膠《はくきやう》薫陸《くんろく》白檀《びやくだん》以上合せて五香、其他五薬五穀まで備へて大土祖神埴山彦神埴山媛神《おほつちみおやのかみはにやまひこのかみはにやまひめのかみ》あらゆる鎮護の神※[#二の字点、1-2-22]を祭る地鎮の式もすみ、地曳土取故障なく、さて龍伏《いしずゑ》は其月の生気の方より右旋《みぎめぐ》りに次第据ゑ行き五星を祭り、釿《てうな》初めの大礼には鍛冶の道をば創められし天《あま》の目《ま》一箇《ひとつ》の命《みこと》、番匠の道|闢《ひらか》かれし手置帆負《ておきほおひ》の命《みこと》彦狭知《ひこさち》の命より思兼《おもひかね》の命|天児屋根《あまつこやね》の命太玉の命、木の神といふ句※[#二の字点、1-2-22]廼馳《くゝのち》の神まで七神祭りて、其次の清鉋の礼も首尾よく済み、東方提頭頼※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]持國天王《とうばうたいとらだぢごくてんわう》、西方尾※[#「口+魯」、第4水準2-4-45]叉廣目天王《さいはうびろしやくわうもくてんわう》や南方毘留勒叉増長天《なんぱうびるろしやぞうちやうてん》、北方毘沙門多聞天王《ほつぱうびしやもんたもんてんわう》、四天にかたどる四方の柱千年萬年|動《ゆる》ぐなと祈り定むる柱立式《はしらだて》、天星色星多願《てんせいしきせいたぐわん》の玉女三神、貪狼巨門《たんらうきよもん》等北斗の七星を祭りて願ふ永久安護、順に柱の仮轄《かりくさび》を三ツづゝ打つて脇司《わきつかさ》に打ち緊めさする十兵衞は、幾干《いくそ》の苦心も此所まで運べば垢穢顔《きたなきかほ》にも光の出るほど喜悦《よろこび》に気の勇み立ち、動きなき下津盤根《しもついはね》の太柱と式にて唱ふる古歌さへも、何とはなしにつく/″\嬉しく、身を立つる世のためしぞと其|下《しも》
の句を吟ずるにも莞爾《にこ/\》しつつ二度《ふたたび》し、壇に向ふて礼拝|恭《つゝし》み、拍手の音清く響かし一切成就の祓を終る此所の光景《さま》には引きかへて、源太が家の物淋しさ。
 主人は男の心強く思ひを外には現さねど、お吉は何程さばけたりとて流石女の胸小さく、出入るものに感応寺の塔の地曳の今日済みたり柱立式《はしらだて》昨日済みしと聞く度ごとに忌※[#二の字点、1-2-22]敷、嫉妬の火炎《ほむら》衝き上がりて、汝十兵衞恩知らずめ、良人《うち》の心の広いのをよい事にして付上り、うま/\名を揚げ身を立るか、よし名の揚り身の立たば差詰礼にも来べき筈を、知らぬ顔して鼻高※[#二の字点、1-2-22]と其日※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]を送りくさる歟、余りに性質《ひと》の好過ぎたる良人《うち》も良人なら面憎きのつそりめもまたのつそりめと、折にふれては八重縦横に癇癪の虫跳ね廻らし、自己《おの》が小鬢の後毛上げても、ゑゝ焦つたいと罪の無き髪を掻きむしり、一文貰ひに乞食が来ても甲張り声に酷く謝絶りなどしけるが、或日源太が不在《るす》のところへ心易き医者道益といふ饒舌坊主遊びに来りて、四方八方《よもやま》の話の末、或人に連れられて過般《このあひだ》蓬莱屋へまゐりましたが、お傳といふ女からきゝました一分始終、いやどうも此方の棟梁は違つたもの、えらいもの、男児は左様あり度と感服いたしました、と御世辞半分何の気なしに云ひ出でし詞を、手繰つて其夜の仔細をきけば、知らずに居てさへ口惜しきに知つては重々憎き十兵衞、お吉いよ/\腹を立ちぬ。

       其二十四

 清吉|汝《そなた》は腑甲斐無い、意地も察しも無い男、何故私には打明けて過般《こなひだ》の夜の始末をば今まで話して呉れ無かつた、私に聞かして気の毒と異《おつ》に遠慮をしたものか、余りといへば狭隘《けち》な根性、よしや仔細を聴たとてまさか私が狼狽《うろたへ》まはり動転するやうなことはせぬに、女と軽しめて何事も知らせずに置き隠し立して置く良人《うちのひと》の了簡は兎も角も、汝等《そなたたち》まで私を聾に盲目にして済して居るとは余りな仕打、また親方の腹の中がみす/\知れて居ながらに平気の平左で酒に浮かれ、女郎買の供するばかりが男の能でもあるまいに、長閑気《のんき》で斯して遊びに来るとは、清吉|汝《おまへ》もおめでたいの、平生《いつも》は不在《るす》でも飲ませるところだが今日は私は関へない、海苔一枚焼いて遣るも厭なら下らぬ世間咄しの相手するも虫が嫌ふ、飲みたくば勝手に台所へ行つて呑口ひねりや、談話が仕たくば猫でも相手に為るがよい、と何も知らぬ清吉、道益が帰りし跡へ偶然《ふと》行き合はせて散※[#二の字点、1-2-22]にお吉が不機嫌を浴せかけられ、訳も了らず驚きあきれて、へどもどなしつゝ段※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]と様子を問へば、自己《おのれ》も知らずに今の今まで居し事なれど、聞けば成程何あつても堪忍《がまん》の成らぬのつそりの憎さ、生命と頼む我が親方に重※[#二の字点、1-2-22]恩を被た身をもつて無遠慮過ぎた十兵衞めが処置振り、飽まで親切真実の親方の顔踏みつけたる憎さも憎し何して呉れう。
 ムヽ親方と十兵衞とは相撲にならぬ身分の差《ちが》ひ、のつそり相手に争つては夜光の璧《たま》を小礫《いしころ》に擲付《ぶつ》けるやうなものなれば、腹は十分立たれても分別強く堪へて堪へて、誰にも彼にも鬱憤を洩さず知らさず居らるゝなるべし、ゑゝ親方は情無い、他の奴は兎も角清吉だけには知らしても可さそうなものを、親方と十兵衞では此方が損、我とのつそりなら損は無い、よし、十兵衞め、たゞ置かうやと逸《はや》りきつたる鼻先思案。姉御、知らぬ中は是非が無い、堪忍して下され、様子知つては憚りながら既叱られては居りますまい、此清吉が女郎買の供するばかりを能の野郎か野郎で無いか見て居て下され、左様ならば、と後声《しりごゑ》烈しく云ひ捨て格子戸がらり明つ放し、草履も穿かず後も見ず風より疾く駆け去れば、お吉今さら気遣はしくつゞいて追掛け呼びとむる二[#(タ)]声三声、四声めには既《はや》影さへも見えずなつたり。

       其二十五

 材《き》を釿《はつ》る斧《よき》の音、板削る鉋の音、孔を鑿《ほ》るやら釘打つやら丁※[#二の字点、1-2-22]かち/\響忙しく、木片《こつぱ》は飛んで疾風に木の葉の翻へるが如く、鋸屑《おがくづ》舞つて晴天に雪の降る感応寺境内普請場の景況《ありさま》賑やかに、紺の腹掛頸筋に喰ひ込むやうなを懸けて小胯の切り上がつた股引いなせに、つつかけ草履の勇み姿、さも怜悧気に働くもあり、汚れ手拭肩にして日当りの好き場所に蹲踞み、悠※[#二の字点、1-2-22]然と鑿を※[#「石+刑」、第3水準1-89-2]《と》ぐ衣服《なり》の垢穢《きたな》き爺もあり、道具捜しにまごつく小童《わつぱ》、頻りに木を挽割《ひく》日傭取り、人さま/″\の骨折り気遣ひ、汗かき息張る其中に、総棟梁ののつそり十兵衞、皆の仕事を監督《みまは》りかた/″\、墨壺墨さし矩尺《かね》もつて胸三寸にある切組を実物にする指図|命令《いひつけ》。斯様《かう》截《き》れ彼様《あゝ》穿《ほ》れ、此処を何様して何様やつて其処に是だけ勾配有たせよ、孕みが何寸凹みが何分と口でも知らせ墨縄《なは》でも云はせ、面倒なるは板片に矩尺の仕様を書いても示し、鵜の目鷹の目油断無く必死となりて自ら励み、今しも一人の若佼《わかもの》に彫物の画を描き与らんと余念も無しに居しところへ、野緒《ゐのしゝ》よりも尚疾く塵土《ほこり》を蹴立てゝ飛び来し清吉。
 忿怒の面火玉の如くし逆釣つたる目を一段視開き、畜生、のつそり、くたばれ、と大喝すれば十兵衞驚き、振り向く途端に驀向《まつかう》より岩も裂けよと打下すは、ぎら/\するまで※[#「石+刑」、第3水準1-89-2]ぎ澄ませし釿を縦に其柄にすげたる大工に取つての刀なれば、何かは堪らむ避くる間足らず左の耳を殺ぎ落され肩先少し切り割かれしが、仕損じたりと又|踏込《ふんご》んで打つを逃げつゝ、抛げ付くる釘箱才槌墨壺|矩尺《かねざし》、利器《えもの》の無さに防ぐ術なく、身を翻へして退く機《はずみ》に足を突込む道具箱、ぐざと踏み貫く五寸釘、思はず転ぶを得たりやと笠にかゝつて清吉が振り冠つたる釿の刃先に夕日の光の閃《きら》りと宿つて空に知られぬ電光《いなづま》の、疾しや遅しや其時此時、背面《うしろ》の方に乳虎《にうこ》一声、馬鹿め、と叫ぶ男あつて二間丸太に論も無く両臑《もろずね》脆く薙《な》ぎ倒せば、倒れて益※[#二の字点、1-2-22]怒る清吉、忽ち勃然《むつく》と起きんとする襟元|把《と》つて、やい我《おれ》だは、血迷ふな此馬鹿め、と何の苦も無く釿もぎ取り捨てながら上からぬつと出す顔は、八方睨みの大眼《おほまなこ》、一文字口怒り鼻、渦巻縮れの両鬢は不動を欺くばかりの相形。
 やあ火の玉の親分か、訳がある、打捨つて置いて呉れ、と力を限り払ひ除けむと※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]《もが》き焦燥《あせ》るを、栄螺《さゞえ》の如き拳固で鎮圧《しづ》め、ゑゝ、じたばたすれば拳殺《はりころ》すぞ、馬鹿め。親分、情無い、此所を此所を放して呉れ。馬鹿め。ゑゝ分らねへ、親分、彼奴を活しては置かれねへのだ。馬鹿野郎め、べそをかくのか、従順く仕なければ尚《まだ》打つぞ。親分酷い。馬鹿め、やかましいは、拳殺すぞ。あんまり分らねへ、親分。馬鹿め、それ打つぞ。親分。馬鹿め。放して。馬鹿め。親分。馬鹿め。放して。馬鹿め。親。馬鹿め。放《はな》。馬鹿め。お。馬鹿め馬鹿め/\/\、醜態《ざま》を見ろ、従順くなつたらう、野郎我の家へ来い、やい何様した、野郎、やあ此奴は死んだな、詰らなく弱い奴だな、やあい、誰奴《どいつ》か来い、肝心の時は逃げ出して今頃十兵衞が周囲に蟻のやうに群《たか》つて何の役に立つ、馬鹿ども、此方には亡者が出来かゝつて居るのだ、鈍遅《どぢ》め、水でも汲んで来て打法《ぶつか》けて遣れい、落ちた耳を拾つて居る奴があるものか、白痴め、汲んで来たか、関ふことは無い、一時に手桶の水|不残《みんな》面へ打付《ぶつけ》ろ、此様野郎は脆く生るものだ、それ占めた、清吉ッ、確乎《しつかり》しろ、意地の無へ、どれ/\此奴は我が背負つて行つて遣らう、十兵衞が肩の疵は浅からうな、むゝ、よし/\、馬鹿ども左様なら。

       其二十六

 源太居るかと這入り来る鋭次を、お吉立ち上つて、おゝ親分さま、まあ/\此方へと誘へば、ずつと通つて火鉢の前に無遠慮の大胡坐かき、汲んで出さるゝ櫻湯を半分ばかり飲み干してお吉の顔を視、面色《いろ》が悪いが何様かした歟、源太は何所ぞへ行つたの歟、定めし既《もう》聴たであらうが清吉めが詰らぬ事を仕出来しての、それ故一寸話があつて来たが、むゝ左様か、既十兵衞がところへ行つたと、ハヽヽ、敏捷《すばや》い/\、流石に源太だは、我の思案より先に身体が疾《とつく》に動いて居るなぞは頼母しい、なあにお吉心配する事は無い、十兵衞と御上人様に源太が謝罪《わび》をしてな、自分の示しが足らなかつたで手《て》下の奴が飛だ心得違ひを仕ました、幾重にも勘弁して下されと三ツ四ツ頭を下げれば済んで仕舞ふ事だは、案じ過しはいらぬもの、其でも先方《さき》が愚図※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]いへば正面《まとも》に源太が喧嘩を買つて破裂《ばれ》の始末をつければ可いさ、薄※[#二の字点、1-2-22]聴いた噂では十兵衞も耳朶の一ツや半分|斫《き》り奪られても恨まれぬ筈、随分清吉の軽操行為《おつちよこちよい》も一寸をかしな可い洒落か知れぬ、ハヽヽ、然し憫然《かはいそ》に我の拳固を大分食つて吽※[#二の字点、1-2-22]《うん/\》苦しがつて居るばかりか、十兵衞を殺した後は何様始末が着くと我に云はれて漸く悟つたかして、噫悪かつた、逸り過ぎた間違つた事をした、親方に頭を下げさするやうな事をした歟|噫《あゝ》済まないと、自分の身体《みうち》の痛いのより後悔にぼろ/\涙を翻《こぼ》して居る愍然《ふびん》さは、何と可愛い奴では無い歟、喃お吉、源太は酷く清吉を叱つて叱つて十兵衞が所へ謝罪《あやまり》に行けとまで云ふか知らぬが、其時表向の義理なりや是非は無いが、此所は汝《おまへ》の儲け役、彼奴を何か、なあそれ、よしか、其所は源太を抱寝するほどのお吉様に了《わか》らぬことは無い寸法か、アハヽヽヽ、源太が居ないで話も要らぬ、どれ帰らうかい御馳走は預けて置かう、用があつたら何日でもお出、とぼつ/\語つて帰りし後、思へば済まぬことばかり。女の浅き心から分別も無く清吉に毒づきしが、逸りきつたる若き男の間違仕出して可憫《あはれ》や清吉は自己《おのれ》の世を狭め、わが身は大切《だいじ》の所天《をつと》をまで憎うてならぬのつそりに謝罪らするやうなり行きしは、時の拍子の出来事ながら畢竟《つまり》は我が口より出し過失《あやまち》、兎せん角せん何とすべきと、火鉢の縁に凭《もた》する肘のついがつくりと滑るまで、我を忘れて思案に思案凝らせしが、思ひ定めて、応左様ぢやと、立つて箪笥の大抽匣、明けて麝香《じやかう》の気《か》と共に投げ出し取り出すたしなみの、帯はそも/\此家《こゝ》へ来し嬉し恥かし恐ろしの其時締めし、ゑゝそれよ。懇話《ねだ》つて買つて貰ふたる博多に繻子に未練も無し、三枚重ねに忍ばるゝ往時《むかし》は罪の無い夢なり、今は苦労の山繭縞《やままゆじま》、ひらりと飛ばす飛八丈此頃好みし毛万筋《けまんすぢ》、千筋百筋気は乱るとも夫おもふは唯一筋、唯一筋の唐七糸帯《からしゆつちん》は、お屋敷奉公せし叔母が紀念《かたみ》と大切に秘蔵《ひめ》たれど何か厭はむ手放すを、と何やら彼やら有たけ出して婢《をんな》に包ませ、夫の帰らぬ其中と櫛|笄《かうがい》も手ばしこく小箱に纏めて、さて其品《それ》を無残や余所の蔵に籠らせ、幾干かの金懐中に浅黄の頭巾小提灯、闇夜も恐れず鋭次が家に。

       其二十七

 池の端の行き違ひより翻然《からり》と変りし源太が腹の底、初めは可愛う思ひしも今は小癪に障つてならぬ其十兵衞に、頭を下げ両手をついて謝罪らねばならぬ忌々しさ。さりとて打捨置かば清吉の乱暴も我が命令けて為せし歟のやう疑がはれて、何も知らぬ身に心地快からぬ濡衣被せられむ事の口惜しく、唯さへおもしろからぬ此頃余計な魔がさして下らぬ心|労《づか》ひを、馬鹿 馬鹿 しき清吉めが挙動《ふるまひ》のために為ねばならぬ苦々しさに益々心|平穏《おだやか》ならねど、処弁《さば》く道の処弁かで済むべき訳も無ければ、是も皆自然に湧きし事、何とも是非なしと諦めて厭々ながら十兵衞が家|音問《おとづ》れ、不慮の難をば訪ひ慰め、且は清吉を戒むること足らざりしを謝び、のつそり夫婦が様子を視るに十兵衞は例の無言三昧、お浪は女の物やさしく、幸ひ傷も肩のは浅く大した事ではござりませねば何卒《どうぞ》お案じ下されますな、態※[#二の字点、1-2-22]御見舞下されては実《まこと》に恐れ入りまする、と如才なく口はきけど言葉遣ひのあらたまりて、自然《おのづ》と何処かに稜角《かど》あるは問はずと知れし胸の中、若しや源太が清吉に内※[#二の字点、1-2-22]含めて為せし歟と疑ひ居るに極つたり。
 ゑゝ業腹な、十兵衞も大方我を左様視て居るべし、疾《とく》時機《とき》の来よ此源太が返報《しかへし》仕様を見せて呉れむ、清吉ごとき卑劣《けち》な野郎の為た事に何似るべき歟、釿《てうな》で片耳殺ぎ取る如き下らぬ事を我が為うや、我が腹立は木片の火のぱつと燃え立ち直消ゆる、堪へも意地も無きやうなる事では済まさじ承知せじ、今日の変事は今日の変事、我が癇癪は我が癇癪、全で別なり関係《かゝりあひ》なし、源太が為やうは知るとき知れ悟らする時悟らせ呉れむと、裏《うち》にいよ/\不平は懐けど露塵ほども外には出さず、義理の挨拶見事に済まして直其足を感応寺に向け、上人の御目通り願ひ、一応自己が隷属《みうち》の者の不埒を御謝罪《おわび》し、我家に帰りて、卒《いざ》これよりは鋭次に会ひ、其時清を押へ呉たる礼をも演べつ其時の景状《やうす》をも聞きつ、又一ツには散々清を罵り叱つて以後《こののち》我家に出入り無用と云ひつけ呉れむと立出掛け、お吉の居ぬを不審して何所へと問へば、何方へか一寸《ちよと》行て来るとてお出になりました、と何食はぬ顔で婢《をんな》の答へ、口禁《くちどめ》されてなりとは知らねば、応左様歟、よし/\、我は火の玉の兄《あにき》がところへ遊びに行たとお吉帰らば云ふて置け、と草履つつかけ出合ひがしら、胡麻竹の杖とぼ/\と焼痕《やけこげ》のある提灯片手、老の歩みの見る目笑止にへの字なりして此方へ来る婆。おゝ清の母親《おふくろ》ではないか。あ、親方様でしたか、

       其二十八

 あゝ好いところで御眼にかゝりましたが何所《どちら》へか御出掛けでござりまするか、と忙し気に老婆《ばゞ》が問ふに源太軽く会釈して、まあ能いは、遠慮せずと此方へ這入りやれ、態※[#二の字点、1-2-22]夜道を拾ふて来たは何ぞ急の用か、聴いてあげやう、と立戻れば、ハイ/\、有り難うござります、御出掛のところを済みません、御免下さいまし、ハイ/\、と云ひながら後に随いて格子戸くゞり、寒かつたらうに能う出て来たの、生憎お吉も居ないで関ふことも出来ぬが、縮《ちゞこ》まつて居ずとずつと前へ進《で》て火にでもあたるがよい、と親切に云ふてくるゝ源太が言葉に愈※[#二の字点、1-2-22]身を堅くして縮まり、お構ひ下さいましては恐れ入りまする、ハイ/\、懐炉を入れて居りますれば是で恰好でござりまする、と意久地なく落かゝる水涕を洲の立つた半天の袖で拭きながら遥《はるか》下《さが》つて入口近きところに蹲まり、何やら云ひ出したさうな素振り、源太早くも大方察して老婆《としより》の心の中嘸かしと気の毒さ堪らず、余計な事仕出して我に肝煎らせし清吉のお先走りを罵り懲らして、当分出入ならぬ由云ひに鋭次がところへ行かんとせし矢先であれど、視れば我が子を除いては阿彌陀様より他に親しい者も無かるべき孱弱《かよわ》き婆のあはれにて、我清吉を突き放さば身は腰弱弓の弦《つる》に断れられし心地して、在るに甲斐なき生命ながらへむに張りも無く的も無くなり、何程か悲み歎いて多くもあらぬ余生を愚痴の涙の時雨に暮らし、晴※[#二の字点、1-2-22]とした気持のする日も無くて終ることならむと、思ひ遣れば思ひ遣るだけ憫然《ふびん》さの増し、煙草捻つてつい居るに、婆は少しくにぢり出で、夜分まゐりまして実に済みませんが、あの少しお願ひ申したい訳のござりまして、ハイ/\、既御存知でもござりませうが彼清吉めが飛んだ事をいたしましたさうで、ハイ、/\、鐵五郎様から大概は聞きましたが、平常からして気の逸い奴で、直に打つの斫《き》るのと騒ぎまして其度にひや/\させまする、お蔭さまで一人前にはなつて居りましても未だ児童《がき》のやうな真一酷《まいつこく》、悪いことや曲つたことは決して仕ませぬが取り上せては分別の無くなる困つた奴《やつこ》で、ハイ/\、悪気は夢さら無い奴でござります、ハイ/\其は御存知で、ハイ有り難うござります、何様いふ筋で喧嘩をいたしましたか知りませぬが大それた手斧《てうな》なんぞを振り舞はしましたそうで、左様きゝました時は私が手斧で斫られたやうな心持がいたしました、め組の親分とやらが幸ひ抱き留めて下されましたとか、まあ責めてもでござります、相手が死にでもしましたら彼奴《あれめ》は下手人、わたくしは彼を亡くして生きて居る瀬はござりませぬ、ハイ有り難うござります、彼めが幼少《ちいさい》ときは烈《ひど》い虫持《むしもち》で苦労をさせられましたも大抵ではござりませぬ、漸く中山の鬼子母神様の御利益で満足には育ちましたが、癒りましたら七歳《なゝつ》までに御庭の土を踏ませませうと申して置きながら、遂何彼にかまけて御礼参りもいたさせなかつた其御罰か、丈夫にはなりましたが彼通の無鉄砲、毎※[#二の字点、1-2-22]お世話をかけまする、今日も今日とて鐵五郎様がこれ/\と掻摘んで話されました時の私の吃驚、刃物を準備《ようい》までしてと聞いた時には、ゑゝ又かと思はずどつきり胸も裂けさうになりました、め組の親分様とかが預かつて下されたとあれば安心のやうなものゝ、清めは怪我はいたしませぬかと聞けば鐵様の曖昧な返辞、別条はない案じるなと云はるゝだけに猶案ぜられ、其親分の家を尋ぬれば、其処へ汝《おまへ》が行つたが好いか行かぬが可いか我には分らぬ、兎も角も親方様のところへ伺つて見ろと云ひつ放しで帰つて仕舞はれ、猶※[#二の字点、1-2-22]胸がしく/\痛んで居ても起ても居られませねば、留守を隣家《となり》の傘張りに頼むでやうやく参りました、何うかめ組の親分とやらの家を教へて下さいまし、ハイ/\直にまゐりまするつもりで、何んな態して居りまするか、若しや却つて大怪我など為て居るのではござりますまいか、よいものならば早う逢て安堵したうござりまするし喧嘩の模様も聞きたうござりまする、大丈夫曲つた事はよもやいたすまいと思ふて居りまするが若い者の事、ひよつと筋の違つた意趣でゞも為た訳なら、相手の十兵衞様に先此婆が一生懸命で謝罪り、婆は仮令如何されても惜くない老耄《おいぼれ》、行先の長い彼奴《あれめ》が人様に恨まれるやうなことの無いやうに為ねばなりませぬ、とおろ/\涙になつての話し。始終を知らで一[#(ト)]筋に我子をおもふ老の繰言、此返答には源太こまりぬ。

       其二十九

 八五郎其所に居るか、誰か来たやうだ明けてやれ、と云はれて、なんだ不思議な、女らしいぞと口の中で独語《つぶやき》ながら、誰だ女嫌ひの親分の所へ今頃来るのは、さあ這入りな、とがらりと戸を引き退くれば、八《は》ッ様《さん》お世話、と軽い挨拶、提灯吹き減《け》して頭巾を脱ぎにかかるは、此盆にも此の正月にも心付して呉れたお吉と気がついて八五郎めんくらひ、素肌に一枚どてらの袵《まへ》広がつて鼠色《ねずみ》になりし犢鼻褌《ふんどし》の見ゆるを急に押し隠しなどしつ、親分、なんの、あの、なんの姉御だ、と忙しく奥へ声をかくるに、なんの尽しで分る江戸ッ児。応左様か、お吉来たの、能く来た、まあ其辺《そこら》の塵埃《ごみ》の無さゝうなところへ坐つて呉れ、油虫が這つて行くから用心しな、野郎ばかりの家は不潔《きたない》のが粧飾《みえ》だから仕方が無い、我《おれ》も汝《おまへ》のやうな好い嚊でも持つたら清潔《きれい》に為やうよ、アハヽヽと笑へばお吉も笑ひながら、左様したらまた不潔※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]と厳敷《きびしく》御叱《おいぢ》めなさるか知れぬ、と互ひに二ツ三ツ冗話《むだばな》し仕て後、お吉少しく改まり、清吉は眠《ね》て居りまするか、何様いふ様子か見ても遣りたし、心にかゝれば参りました、と云へば鋭次も打頷き、清は今がたすや/\睡着《ねつ》いて起きさうにも無い容態ぢやが、疵といふて別にあるでもなし頭の顱骨《さら》を打破つた訳でもなければ、整骨医師《ほねつぎいしや》の先刻云ふには、烈《ひど》く逆上したところを滅茶※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]に撲たれたため一時は気絶までも為たれ、保証《うけあひ》大したことは無い由、見たくば一寸覗いて見よ、と先に立つて導く後につき行くお吉、三畳ばかりの部屋の中に一切夢で眠り居る清吉を見るに、顔も頭も膨れ上りて、此様に撲つてなしたる鋭次の酷《むご》さが恨めしきまで可憫《あはれ》なる態《さま》なれど、済んだ事の是非も無く、座に戻つて鋭次に対ひ、我夫《うち》では必ず清吉が余計な手出しに腹を立ち、御上人様やら十兵衞への義理をかねて酷く叱るか出入りを禁《と》むるか何とかするでござりませうが、元はといへば清吉が自分の意恨で仕たではなし、畢竟《つまり》は此方の事のため、筋の違つた腹立をついむら/\としたのみなれば、妾は何《どう》も我夫《うち》のするばかりを見て居る訳には行かず、殊更少し訳あつて妾が何《どう》とか為てやらねば此胸の済まぬ仕誼《しぎ》もあり、それやこれやを種※[#二の字点、1-2-22]《いろ/\》と案じた末に浮んだは一年か半年ほど清吉に此地《こち》退かすること、人の噂も遠のいて我夫の機嫌も治つたら取成し様は幾干も有り、まづそれまでは上方あたりに遊んで居るやう為てやりたく、路用の金も調《こしら》へて来ましたれば少しなれども御預け申しまする、何卒宜敷云ひ含めて清吉めに与つて下さりませ、我夫は彼通り表裏の無い人、腹の底には如何思つても必ず辛く清吉に一旦あたるに違ひ無く、未練気なしに叱りませうが、其時何と清吉が仮令云ふても取り上げぬは知れたこと、傍から妾が口を出しても義理は義理なりや仕様は無し、さりとて慾で做出来《しでか》した咎でもないに男一人の寄り付く島も無いやうにして知らぬ顔では如何しても妾が居られませぬ、彼《あれ》が一人の母のことは彼さへ居ねば我夫にも話して扶助《たすく》るに厭は云はせまじく、また厭といふやうな分らぬことを云ひも仕ますまいなれば掛念はなけれど、妾が今夜来たことやら蔭で清をば劬ることは、我夫へは当分|秘密《ないしよ》にして。解つた、えらい、もう用は無からう、お帰り/\、源太が大抵来るかも知れぬ、撞見《でつくわ》しては拙からう、と愛想は無けれど真実はある言葉に、お吉嬉しく頼み置きて帰れば、其後へ引きちがへて来る源太、果して清吉に、出入りを禁《と》むる師弟の縁断るとの言ひ渡し。鋭次は笑つて黙り、清吉は泣て詫びしが、其夜源太の帰りし跡、清吉鋭次にまた泣かせられて、狗《いぬ》になつても我や姉御夫婦の門辺は去らぬと唸りける。
 四五日過ぎて清吉は八五郎に送られ、箱根の温泉《いでゆ》を志して江戸を出しが、夫よりたどる東海道いたるは京か大阪の、夢はいつでも東都《あづま》なるべし。

       其三十

 十兵衞傷を負ふて帰つたる翌朝、平生《いつも》の如く夙《と》く起き出づればお浪驚いて急にとゞめ、まあ滅相な、緩《ゆる》りと臥むでおいでなされおいでなされ、今日は取りわけ朝風の冷たいに破傷風にでもなつたら何となさる、どうか臥むで居て下され、お湯ももう直沸きませうほどに含嗽《うがひ》手水《てうづ》も其所で妾が為せてあげませう、と破土竃《やぶれべつつひ》にかけたる羽虧《はか》け釜の下焚きつけながら気を揉んで云へど、一向平気の十兵衞笑つて、病人あしらひにされるまでの事はない、手拭だけを絞つて貰へば顔も一人で洗ふたが好い気持ぢや、と箍《たが》の緩みし小盥に自ら水を汲み取りて、別段悩める容態《やうす》も無く平日《ふだん》の如く振舞へば、お浪は呆れ且つ案ずるに、のつそり少しも頓着せず朝食《あさめし》終ふて立上り、突然《いきなり》衣物を脱ぎ捨てゝ股引腹掛|着《つけ》にかゝるを、飛んでも無い事何処へ行かるゝ、何程仕事の大事ぢやとて昨日の今日は疵口の合ひもすまいし痛みも去るまじ、泰然《ぢつ》として居よ身体を使ふな、仔細は無けれど治癒《なほ》るまでは万般《よろづ》要慎《つゝしみ》第一と云はれた御医者様の言葉さへあるに、無理圧して感応寺に行かるゝ心か、強過ぎる、仮令行つたとて働きはなるまじ、行かいでも誰が咎めう、行かで済まぬと思はるゝなら妾が一寸《ちよと》一[#(ト)]走り、お上人様の御目にかゝつて三日四日の養生を直※[#二の字点、1-2-22]に願ふて来ましよ、御慈悲深いお上人様の御承知なされぬ気遣ひない、かならず大切《だいじ》にせい軽拳《かるはずみ》すなと仰やるは知れた事、さあ此衣《これ》を着て家に引籠み、せめて疵口《くち》の悉皆《すつかり》密着《くつつ》くまで沈静《おちつい》て居て下され、と只管とゞめ宥め慰め、脱ぎしをとつて復《また》被《き》すれば、余計な世話を焼かずとよし、腹掛着せい、これは要らぬ、と利く右の手にて撥ね退くる。まあ左様云はずと家に居て、とまた打被する、撥ね退くる、男は意気地女は情、言葉あらそひ果しなければ流石にのつそり少し怒つて、訳の分らぬ女の分で邪魔立てするか忌※[#二の字点、1-2-22]しい奴、よし/\頼まぬ一人で着る、高の知れたる蚯蚓膨《みゝずばれ》に一日なりとも仕事を休んで職人共の上《かみ》に立てるか、汝《うぬ》は少《ちつと》も知るまいがの、此十兵衞はおろかしくて馬鹿と常※[#二の字点、1-2-22]云はるゝ身故に職人共が軽う見て、眼の前では我が指揮《さしづ》に従ひ働くやうなれど、蔭では勝手に怠惰《なまけ》るやら譏《そし》るやら散※[#二の字点、1-2-22]に茶にして居て、表面《うはべ》こそ粧《つくろ》へ誰一人真実仕事を好くせうといふ意気組持つて仕てくるゝものは無いは、ゑゝ情無い、如何かして虚飾《みえ》で無しに骨を折つて貰ひたい、仕事に膏《あぶら》を乗せて貰ひたいと、諭せば頭は下げながら横向いて鼻で笑はれ、叱れば口に謝罪られて顔色《かほつき》に怒られ、つく/″\我折つて下手に出れば直と増長さるゝ口惜さ悲しさ辛さ、毎日※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]棟梁※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]と大勢に立てられるは立派で可けれど腹の中では泣きたいやうな事ばかり、いつそ穴鑿りで引使はれたはうが苦しうないと思ふ位、其中で何か斯か此日《こゝ》まで運ばして来たに今日休んでは大事の躓き、胸が痛いから早帰りします、頭痛がするで遅くなりましたと皆《みんな》に怠惰《なまけ》られるは必定、其時自分が休んで居れば何と一言云ひ様なく、仕事が雨垂拍子になつて出来べきものも仕損ふ道理、万が一にも仕損じてはお上人様源太親方に十兵衞の顔が向られうか、これ、生きても塔が成《でき》ねばな、此十兵衞は死んだ同然、死んでも業を仕遂げれば汝《うぬ》が夫《おやぢ》は生て居るはい、二寸三寸の手斧傷に臥て居られるか居られぬ歟、破傷風が怖しい歟仕事の出来ぬが怖しい歟、よしや片腕奪られたとて一切成就の暁までは駕籠に乗つても行かでは居ぬ、ましてや是しきの蚯蚓膨に、と云ひつゝお浪が手中より奪ひとつたる腹掛に、左の手を通さんとして顰《しか》むる顔、見るに女房の争へず、争ひまけて傷をいたはり、遂に半天股引まで着せて出しける心の中、何とも口には云ひがたかるべし。
 十兵衞よもや来はせじと思ひ合ふたる職人共、ちらりほらりと辰の刻頃より来て見て吃驚する途端、精出して呉るゝ嬉しいぞ、との一言を十兵衞から受けて皆冷汗をかきけるが、是より一同《みな/\》励み勤め昨日に変る身のこなし、一をきいては三まで働き、二と云はれしには四まで動けば、のつそり片腕の用を欠いて却て多くの腕を得つ日※[#二の字点、1-2-22]|工事《しごと》捗取《はかど》り、肩疵治る頃には大抵塔も成《でき》あがりぬ。

       其三十一

 時は一月の末つ方、のつそり十兵衞が辛苦経営むなしからで、感応寺生雲塔いよ/\物の見事に出来上り、段※[#二の字点、1-2-22]足場を取り除けば次第※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]とに露るゝ一階一階また一階、五重|巍然《ぎぜん》と聳えしさま、金剛力士が魔軍を睥睨《にら》んで十六丈の姿を現じ坤軸《こんぢく》動《ゆる》がす足ぶみして巌上《いはほ》に突立ちたるごとく、天晴立派に建つたる哉、あら快よき細工振りかな、希有ぢや未曾有ぢや再《また》あるまじと爲右衞門より門番までも、初手のつそりを軽しめたる事は忘れて讃歎すれば、圓道はじめ一山《いつさん》の僧徒も躍りあがつて歓喜《よろこ》び、これでこそ感応寺の五重塔なれ、あら嬉しや、我等が頼む師は当世に肩を比すべき人も無く、八宗九宗の碩徳《せきとく》達虎《たちこ》豹鶴鷺《へうかくろ》と勝ぐれたまへる中にも絶類抜群にて、譬へば獅子王孔雀王、我等が頼む此寺の塔も絶類抜群にて、奈良や京都はいざ知らず上野浅草芝山内、江戸にて此塔《これ》に勝るものなし、殊更塵土に埋もれて光も放たず終るべかりし男を拾ひあげられて、心の宝殊《たま》の輝きを世に発出《いだ》されし師の美徳、困苦に撓《たゆ》まず知己に酬いて遂に仕遂げし十兵衞が頼もしさ、おもしろくまた美はしき寄因縁なり妙因縁なり、天の成せしか人の成せし歟《か》将又諸天善神の蔭にて操り玉ひし歟、屋《をく》を造るに巧妙《たくみ》なりし達膩伽尊者《たにかそんじや》の噂はあれど世尊在世の御時にも如是《かく》快き事ありしを未だきかねば漢土《から》にもきかず、いで落成の式あらば我|偈《げ》を作らむ文を作らむ、我歌をよみ詩を作《な》して頌せむ讃せむ詠ぜむ記せむと、各※[#二の字点、1-2-22]互に語り合ひしは慾のみならぬ人間《ひと》の情の、やさしくもまた殊勝なるに引替へて、測り難きは天の心、圓道爲右衞門二人が計らひとしていと盛んなる落成式|執行《しふぎやう》の日も略定まり、其日は貴賤男女の見物をゆるし貧者に剰《あま》れる金を施し、十兵衞其他を犒《ねぎ》らひ賞する一方には、また伎楽を奏して世に珍しき塔供養あるべき筈に支度とり/″\なりし最中、夜半の鐘の音の曇つて平日《つね》には似つかず耳にきたなく聞えしがそも/\、漸※[#二の字点、1-2-22]《ぜん/\》あやしき風吹き出して、眠れる児童も我知らず夜具踏み脱ぐほど時候生暖かくなるにつれ、雨戸のがたつく響き烈しくなりまさり、闇に揉まるゝ松柏の梢に天魔の號《さけ》びものすごくも、人の心の平和を奪へ平和を奪へ、浮世の栄華に誇れる奴等の胆を破れや睡りを攪《みだ》せや、愚物の胸に血の濤《なみ》打たせよ、偽物の面の紅き色奪れ、斧持てる者斧を揮へ、矛もてるもの矛を揮へ、汝等が鋭《と》き剣は餓えたり汝等剣に食をあたへよ、人の膏血《あぶら》はよき食なり汝等剣に飽まで喰はせよ、飽まで人の膏膩を餌《か》へと、号令きびしく発するや否、猛風一陣どつと起つて、斧をもつ夜叉矛もてる夜叉餓えたる剣もてる夜叉、皆一斉に暴れ出しぬ。

       其三十二

 長夜の夢を覚まされて江戸四里四方の老若男女、悪風来りと驚き騒ぎ、雨戸の横柄子《よこざる》緊乎《しつか》と挿せ、辛張棒を強く張れと家※[#二の字点、1-2-22]ごとに狼狽《うろた》ゆるを、可愍《あはれ》とも見ぬ飛天夜叉王、怒号の声音たけ/″\しく、汝等人を憚るな、汝等|人間《ひと》に憚られよ、人間は我等を軽んじたり、久しく我等を賤みたり、我等に捧ぐべき筈の定めの牲《にへ》を忘れたり、這ふ代りとして立つて行く狗、驕奢《おごり》の塒《ねぐら》巣作れる禽《とり》、尻尾《しりを》なき猿、物言ふ蛇、露|誠実《まこと》なき狐の子、汚穢《けがれ》を知らざる豕《ゐのこ》の女《め》、彼等に長く侮られて遂に何時まで忍び得む、我等を長く侮らせて彼等を何時まで誇らすべき、忍ぶべきだけ忍びたり誇らすべきだけ誇らしたり、六十四年は既に過ぎたり、我等を縛せし機運の鉄鎖、我等を囚へし慈|忍《にん》の岩窟《いはや》は我が神力にて切断《ちぎ》り棄てたり崩潰《くづれ》さしたり、汝等暴れよ今こそ暴れよ、何十年の恨の毒気を彼等に返せ一時に返せ、彼等が驕慢《ほこり》の気《け》の臭さを鉄囲山外《てつゐさんげ》に攫《つか》んで捨てよ、彼等の頭を地につかしめよ、無慈悲の斧の刃味の好さを彼等が胸に試みよ、惨酷の矛、瞋恚《しんい》の剣の刃糞と彼等をなしくれよ、彼等が喉《のんど》に氷を与へて苦寒に怖れ顫《わなゝ》かしめよ、彼等が胆に針を与へて秘密の痛みに堪ざらしめよ、彼等が眼前《めさき》に彼等が生したる多数《おほく》の奢侈の子孫を殺して、玩物の念を嗟歎の灰の河に埋めよ、彼等は蚕児《かひこ》の家を奪ひぬ汝等彼等の家を奪へや、彼等は蚕児の智慧を笑ひぬ汝等彼等の智慧を讃せよ、すべて彼等の巧みとおもへる智慧を讃せよ、大とおもへる意《こゝろ》を讃せよ、美しと自らおもへる情を讃せよ、協《かな》へりとなす理を讃せよ、剛《つよ》しとなせる力を讃せよ、すべては我等の矛の餌なれば、剣の餌なれば斧の餌なれば、讃して後に利器《えもの》に餌《か》ひ、よき餌をつくりし彼等を笑へ、嬲らるゝだけ彼等を嬲れ、急に屠るな嬲り殺せ、活しながらに一枚※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]皮を剥ぎ取れ、肉を剥ぎとれ、彼等が心臓《しん》を鞠として蹴よ、枳棘《からたち》をもて脊を鞭《う》てよ、歎息の呼吸涙の水、動悸の血の音悲鳴の声、其等をすべて人間《ひと》より取れ、残忍の外快楽なし、酷烈ならずば汝等疾く死ね、暴《あ》れよ進めよ、無法に住して放逸無慚無理無体に暴《あ》れ立て暴れ立て進め進め、神とも戦へ仏《ぶつ》をも擲け、道理を壊《やぶ》つて壊りすてなば天下は我等がものなるぞと、叱咤する度土石を飛ばして丑の刻より寅の刻、卯となり辰となるまでも毫《ちつと》も止まず励ましたつれば、数万《すまん》の眷属《けんぞく》勇みをなし、水を渡るは波を蹴かへし、陸《をか》を走るは沙を蹴かへし、天地を塵埃《ほこり》に黄ばまして日の光をもほとほと掩ひ、斧を揮つて数寄者が手入れ怠りなき松を冷笑《あざわら》ひつゝほつきと斫るあり、矛を舞はして板屋根に忽ち穴を穿つもあり、ゆさ/\/\と怪力もてさも堅固なる家を動かし橋を揺がすものもあり。手ぬるし手ぬるし酷さが足らぬ、我に続けと憤怒の牙噛み鳴らしつゝ夜叉王の躍り上つて焦躁《いらだて》ば、虚空に充ち満ちたる眷属、をたけび鋭くをめき叫んで遮に無に暴威を揮ふほどに、神前寺内に立てる樹も富家の庭に養はれし樹も、声振り絞つて泣き悲み、見る/\大地の髪の毛は恐怖に一※[#二の字点、1-2-22]竪立《じゆりつ》なし、柳は倒れ竹は割るゝ折しも、黒雲空に流れて樫の実よりも大きなる雨ばらり/\と降り出せば、得たりとます/\暴るゝ夜叉、垣を引き捨て塀を蹴倒し、門をも破《こは》し屋根をもめくり軒端の瓦を踏み砕き、唯一ト揉に屑屋を飛ばし二タ揉み揉んでは二階を捻ぢ取り、三たび揉んでは某寺《なにがしでら》を物の見事に潰《つひや》し崩し、どう/\どつと鬨《とき》をあぐる其度毎に心を冷し胸を騒がす人々の、彼に気づかひ此に案ずる笑止の様を見ては喜び、居所さへも無くされて悲むものを見ては喜び、いよ/\図に乗り狼籍のあらむ限りを逞しうすれば、八百八町百万の人みな生ける心地せず顔色さらにあらばこそ。
 中にも分けて驚きしは圓道爲右衞門、折角僅に出来上りし五重塔は揉まれ挟まれて九輪は動ぎ、頂上の宝珠は空に得読めぬ字を書き、岩をも転ばすべき風の突掛け来り、楯をも貫くべき両の打付《ぶつか》り来る度撓む姿、木の軋る音、復《もど》る姿《さま》、又撓む姿、軋る音、今にも傾覆《くつがへ》らんず様子に、あれ/\危し仕様は無きか、傾覆られては大事なり、止むる術も無き事か、雨さへ加はり来りし上周囲に樹木もあらざれば、未曾有の風に基礎《どだい》狭くて丈のみ高き此塔の堪《こら》へむことの覚束なし、本堂さへも此程に動けば塔は如何ばかりぞ、風を止むる呪文はきかぬか、かく恐ろしき大暴風雨に見舞に来べき源太は見えぬ歟、まだ新しき出入なりとて重※[#二の字点、1-2-22]来では叶はざる十兵衞見えぬか寛怠なり、他《ひと》さへ斯様《かほど》気づかふに己が為《せ》し塔気にかけぬか、あれ/\危し又撓むだは、誰か十兵衞招びに行け、といへども天に瓦飛び板飛び、地上に砂利の舞ふ中を行かむといふものなく、漸く賞美の金に飽かして掃除人の七藏爺を出しやりぬ。

       其三十三

 耄碌頭巾に首をつゝみて其上に雨を凌がむ準備《ようい》の竹の皮笠引被り、鳶子《とんび》合羽に胴締して手ごろの杖持ち、恐怖《こは/″\》ながら烈風強雨の中を駈け抜けたる七藏|爺《おやぢ》、やうやく十兵衞が家にいたれば、これはまた酷い事、屋根半分は既《もう》疾《とう》に風に奪られて見るさへ気の毒な親子三人の有様、隅の方にかたまり合ふて天井より落ち来る点滴《しずく》の飛沫《しぶき》を古筵《ふるござ》で僅に避《よ》け居る始末に、扨ものつそりは気に働らきの無い男と呆れ果つゝ、これ棟梁殿、此|暴風雨《あらし》に左様して居られては済むまい、瓦が飛ぶ樹が折れる、戸外《おもて》は全然《まるで》戦争のやうな騒ぎの中に、汝の建てられた彼塔は如何あらうと思はるゝ、丈は高し周囲に物は無し基礎《どだい》は狭し、何《ど》の方角から吹く風をも正面《まとも》に受けて揺れるは揺れるは、旗竿ほどに撓むではきち/\と材《き》の軋る音の物凄さ、今にも倒れるか壊れるかと、圓道様も爲右衞門様も胆を冷したり縮ましたりして気が気では無く心配して居らるゝに、一体ならば迎ひなど受けずとも此天変を知らず顔では済まぬ汝が出ても来ぬとは余《あんま》りな大勇、汝の御蔭で険難《けんのん》な使を吩咐かり、忌※[#二の字点、1-2-22]しい此瘤を見て呉れ、笠は吹き攫はれる全濡《ずぶぬれ》にはなる、おまけに木片が飛んで来て額に打付りてくさつたぞ、いゝ面の皮とは我がこと、さあ/\一所に来て呉れ来て呉れ、爲右衞門様圓道様が連れて来いとの御命令《おいひつけ》だは、ゑゝ吃驚した、雨戸が飛んで行て仕舞ふたのか、これだもの塔が堪るものか、話しする間にも既倒れたか折れたか知れぬ、愚図愚図 せずと身支度せい、疾く/\と急り立つれば、傍から女房も心配気に、出て行かるゝなら途中が危険《あぶな》い、腐つても彼火事頭巾、あれを出しましよ冠つてお出なされ、何が飛んで来るか知れたものではなし、外見《みえ》よりは身が大切《だいじ》、何程《いくら》襤褸でも仕方ない刺子絆纏《さしこばんてん》も上に被ておいでなされ、と戸棚がた/\明けにかゝるを、十兵衞不興気の眼でぢつと見ながら、あゝ構ふてくれずともよい、出ては行かぬは、風が吹いたとて騒ぐには及ばぬ、七藏殿御苦労でござりましたが塔は大丈夫倒れませぬ、何の此程の暴風雨で倒れたり折れたりするやうな脆いものではござりませねば、十兵衞が出掛けてまゐるにも及びませぬ、圓道様にも爲右衞門様にも左様云ふて下され、大丈夫、大丈夫でござります、と泰然《おちつき》はらつて身動きもせず答ふれば、七藏少し膨れ面して、まあ兎も角も我と一緒に来て呉れ、来て見るがよい、彼の塔のゆさ/\きち/\と動くさまを、此処に居て目に見ねばこそ威張つて居らるれ、御開帳の幟《のぼり》のやうに頭を振つて居るさまを見られたら何程《なんぼ》十兵衞殿|寛濶《おうやう》な気性でも、お気の毒ながら魂魄《たましひ》がふはり/\とならるゝであらう、蔭で強いのが役にはたゝぬ、さあ/\一所に来たり来たり、それまた吹くは、嗚呼恐ろしい、中※[#二の字点、1-2-22]止みさうにも無い風の景色、圓道様も爲右衞門様も定めし肝を煎つて居らるゝぢやろ、さつさと頭巾なり絆纏なり冠るとも被るともして出掛けさつしやれ、と遣り返す。大丈夫でござりまする、御安心なさつて御帰り、と突撥る。其の安心が左様手易くは出来ぬわい、と五月蠅云ふ。大丈夫でござりまする、と同じことをいふ。末には七藏焦れこむで、何でも彼でも来いといふたら来い、我の言葉とおもふたら違ふぞ圓道様爲右衞門様の御命令ぢや、と語気あらくなれば十兵衞も少し勃然《むつ》として、我は圓道様爲右衞門様から五重塔建ていとは命令かりませぬ、御上人様は定めし風が吹いたからとて十兵衞よべとは仰やりますまい、其様な情無い事を云ふては下さりますまい、若も御上人様までが塔危いぞ十兵衞呼べと云はるゝやうにならば、十兵衞一期の大事、死ぬか生きるかの瀬門《せと》に乗かゝる時、天命を覚悟して駈けつけませうなれど、御上人様が一言半句十兵衞の細工を御疑ひなさらぬ以上は何心配の事も無し、余の人たちが何を云はれうと、紙を材《き》にして仕事もせず魔術《てづま》も手抜もして居ぬ十兵衞、天気のよい日と同じことに雨の降る日も風の夜も楽※[#二の字点、1-2-22]として居りまする、暴風雨が怖いものでも無ければ地震が怖うもござりませぬと圓道様にいふて下され、と愛想なく云ひ切るにぞ、七藏仕方なく風雨の中を駈け抜けて感応寺に帰りつき圓道爲右衞門に此よし云へば、さても其場に臨むでの智慧の無い奴め、何故其時に上人様が十兵衞来いとの仰せぢやとは云はぬ、あれ/\彼揺るゝ態を見よ、汝《きさま》までがのつそりに同化《かぶれ》て寛怠過ぎた了見ぢや、是非は無い、も一度行つて上人様の御言葉ぢやと欺誑《たばか》り、文句いはせず連れて来い、と圓道に烈しく叱られ、忌※[#二の字点、1-2-22]しさに独語《つぶや》きつゝ七藏ふたゝび寺門を出でぬ。

       其三十四

 さあ十兵衞、今度は是非に来よ四の五のは云はせぬ、上人様の御召ぢやぞ、と七藏爺いきりきつて門口から我鳴れば、十兵衞聞くより身を起して、なにあの、上人様の御召なさるとか、七藏殿それは真実《まこと》でござりまするか、嗚呼なさけ無い、何程風の強ければとて頼みきつたる上人様までが、此十兵衞の一心かけて建てたものを脆くも破壊《こは》るゝ歟のやうに思し召されたか口惜しい、世界に我を慈悲の眼で見て下さるゝ唯一つの神とも仏ともおもふて居た上人様にも、真底からは我が手腕《うで》たしかと思はれざりし歟、つく/″\頼母しげ無き世間、もう十兵衞の生き甲斐無し、たま/\当時に双《ならび》なき尊き智識に知られしを、是れ一生の面目とおもふて空《あだ》に悦びしも真に果敢無き少時《しばし》の夢、嵐の風のそよと吹けば丹誠凝らせし彼塔も倒れやせむと疑はるゝとは、ゑゝ腹の立つ、泣きたいやうな、それほど我は腑の無い奴《やつ》か、恥をも知らぬ奴《やつこ》と見ゆる歟、自己《おのれ》が為たる仕事が恥辱《はぢ》を受けてものめ/\面押拭ふて自己は生きて居るやうな男と我は見らるゝ歟、仮令ば彼塔倒れた時生きて居やうか生きたからう歟、ゑゝ口惜い、腹の立つ、お浪、それほど我が鄙《さも》しからうか、嗚呼々々生命も既《もう》いらぬ、我が身体にも愛想の尽きた、此世の中から見放された十兵衞は生きて居るだけ恥辱《はぢ》をかく苦悩《くるしみ》を受ける、ゑゝいつその事塔も倒れよ暴風雨も此上烈しくなれ、少しなりとも彼塔に損じの出来て呉れよかし、空吹く風も地《つち》打つ雨も人間《ひと》ほど我には情《つれ》無《な》からねば、塔|破壊《こは》されても倒されても悦びこそせめ恨はせじ、板一枚の吹きめくられ釘一本の抜かるゝとも、味気無き世に未練はもたねば物の見事に死んで退けて、十兵衞といふ愚魯漢《ばかもの》は自己が業の粗漏《てぬかり》より恥辱を受けても、生命惜しさに生存《いきながら》へて居るやうな鄙劣《けち》な奴では無かりしか、如是《かゝる》心を有つて居しかと責めては後にて吊《とむら》はれむ、一度はどうせ捨つる身の捨処よし捨時よし、仏寺を汚すは恐れあれど我が建てしもの壊れしならば其場を一歩立去り得べきや、諸仏菩薩も御許しあれ、生雲塔の頂上《てつぺん》より直ちに飛んで身を捨てむ、投ぐる五尺の皮嚢《かはぶくろ》は潰れて醜かるべきも、きたなきものを盛つては居らず、あはれ男児《をとこ》の醇粋《いつぽんぎ》、清浄の血を流さむなれば愍然《ふびん》ともこそ照覧あれと、おもひし事やら思はざりしや十兵衞自身も半分知らで、夢路を何時の間にか辿りし、七藏にさへ何処でか分れて、此所は、おゝ、それ、その塔なり。
 上りつめたる第五層の戸を押明けて今しもぬつと十兵衞半身あらはせば、礫を投ぐるが如き暴雨の眼も明けさせず面を打ち、一ツ残りし耳までも※[#「てへん+止」、第3水準1-84-71]断《ちぎ》らむばかりに猛風の呼吸さへ為せず吹きかくるに、思はず一足退きしが屈せず奮つて立出でつ、欄を握《つか》むで屹と睥《にら》めば天《そら》は五月《さつき》の闇より黒く、たゞ囂※[#二の字点、1-2-22]《がう/\》たる風の音のみ宇宙に充て物騒がしく、さしも堅固の塔なれど虚空に高く聳えたれば、どう/\どつと風の来る度ゆらめき動きて、荒浪の上に揉まるゝ棚無し小舟のあはや傾覆らむ風情、流石覚悟を極めたりしも又今更におもはれて、一期の大事死生の岐路《ちまた》と八万四千の身の毛|竪《よだ》たせ牙|咬定《かみし》めて眼《まなこ》を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》り、いざ其時はと手にして来し六分|鑿《のみ》の柄忘るゝばかり引握むでぞ、天命を静かに待つとも知るや知らずや、風雨いとはず塔の周囲《めぐり》を幾度となく徘徊する、怪しの男一人ありけり。

       其三十五

 去る日の暴風雨は我等生れてから以来《このかた》第一の騒なりしと、常は何事に逢ふても二十年前三十年前にありし例をひき出して古きを大袈裟に、新しきを訳も無く云ひ消す気質《かたぎ》の老人《としより》さへ、真底我折つて噂仕合へば、まして天変地異をおもしろづくで談話《はなし》の種子にするやうの剽軽な若い人は分別も無く、後腹の疾まぬを幸ひ、何処の火の見が壊れたり彼処の二階が吹き飛ばされたりと、他《ひと》の憂ひ災難を我が茶受とし、醜態《ざま》を見よ馬鹿慾から芝居の金主して何某め痛い目に逢ふたるなるべし、さても笑止彼の小屋の潰れ方はよ、又日頃より小面憎かりし横町の生花の宗匠が二階、御神楽だけの事はありしも気味《きび》よし、それよりは江戸で一二といはるゝ大寺の脆く倒れたも仔細こそあれ、実は檀徒から多分の寄附金集めながら役僧の私曲《わたくし》、受負師の手品、そこにはそこの有りし由、察するに本堂の彼の太い柱も桶でがな有つたらうなんどと様※[#二の字点、1-2-22]の沙汰に及びけるが、いづれも感応寺生雲塔の釘一本ゆるまず板一枚剥がれざりしには舌を巻きて讃歎し、いや彼塔《あれ》を作つた十兵衞といふは何とえらいものではござらぬ歟、彼塔倒れたら生きては居ぬ覚悟であつたさうな、すでの事に鑿|啣《ふく》んで十六間真逆しまに飛ぶところ、欄干《てすり》を斯う踏み、風雨を睨んで彼程の大揉の中に泰然《ぢつ》と構へて居たといふが、其一念でも破壊るまい、風の神も大方血眼で睨まれては遠慮が出たであらう歟、甚五郎このかたの名人ぢや真の棟梁ぢや、浅草のも芝のもそれ/″\損じのあつたに一寸一分歪みもせず退《ず》りもせぬとは能う造つた事の。いやそれについて話しのある、其十兵衞といふ男の親分がまた滅法えらいもので、若しも些《ちと》なり破壊れでもしたら同職《なかま》の恥辱知合の面汚し、汝《うぬ》はそれでも生きて居られうかと、到底《とても》再度鉄槌も手斧も握る事の出来ぬほど引叱つて、武士で云はば詰腹同様の目に逢はせうと、ぐる/\/\大雨を浴びながら塔の周囲を巡つて居たさうな。いや/\、それは間違ひ、親分では無い商売|上敵《がたき》ぢやさうな、と我れ知り顔に語り伝へぬ。
 暴風雨のために準備《したく》狂ひし落成式もいよ/\済みし日、上人わざ/\源太を召《よ》び玉ひて十兵衞と共に塔に上られ、心あつて雛僧《こぞう》に持たせられし御筆に墨汁《すみ》したゝか含ませ、我此塔に銘じて得させむ、十兵衞も見よ源太も見よと宣《のたま》ひつゝ、江都《かうと》の住人十兵衞之を造り川越源太郎之を成す、年月日とぞ筆太に記し了られ、満面に笑を湛へて振り顧り玉へば、両人ともに言葉なくたゞ平伏《ひれふ》ふして拝謝《をが》みけるが、それより宝塔|長《とこしな》へに天に聳えて、西より瞻《み》れば飛檐《ひえん》或時素月を吐き、東より望めば勾欄夕に紅日を呑んで、百有余年の今になるまで、譚《はなし》は活きて遣りける。
         (明治二十四年十一月―二十五年三月・四月「国会」)

底本:「日本現代文學全集 6 幸田露伴集」講談社
   1963(昭和38)年1月19日初版第1刷発行
   1980(昭和55)年5月26日増補改訂版第1刷
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記を新字、旧仮名にあらためました。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2004年11月3日作成
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幸田露伴

言語体の文章と浮雲—- 幸田露伴

 二葉亭主人の逝去は、文壇に取っての恨事で、如何にも残念に存じます。私は長谷川君とは対面するような何等の機会をも有さなかったので、親しく語を交えた事はありませんが、同君の製作をとおして同君を知った事は決して昨今ではありません。抑《そもそも》まだ私などが文筆の事にたずさわらなかった程の古い昔に、彼《か》の「浮雲」でもって同君の名を知り伎倆を知り其執筆の苦心の話をも聞知ったのでありました。
 当時所謂言文一致体の文章と云うものは専ら山田美妙君の努力によって支えられて居たような勢で有りましたが、其の文章の組織や色彩が余り異様であったために、そして又言語の実際には却て遠《とおざ》かって居たような傾《かたむき》もあったために、理知の判断からは言文一致と云うことを嫌わなかったものも感情上から之を悦ばなかったようの次第でありましたが、二葉亭さんの「浮雲」に於て取られた言語体の文章は其組織や其色彩に於いて美妙君のの一派とは大分異っていた為、一部の人々をして言語体の文章と云うものについて、内心に或省察をいだかしめ、若くは感情の上に或動揺を起さしめた点の有った事は、小さな事実には過ぎなかったにせよ、事実であったのでありまして、言語体の文章も「浮雲」のようなあんなのならば言語体を取った丈の甲斐もあると云うような評が所々に聞えた事は記臆しています。私等もそういう評をもっともだと聞いて居った一人であります。明治の言語体文章に就ての美妙齋君の功績は十二分に之を認めなければならぬのでありますが、二葉亭主人の「浮雲」が与えた左様いう感じも必ずしも小さい働《はたらき》ではないと思います。文章発達史の上から云えば矢張り顧視せねばならぬ事実だと思います。
 それはまあただ文章の上だけの話でありますが、其から「浮雲」其物が有した性質が当時に作用した事も中々少くはなかったように覚えています。今でこそ別に不思議でもないのでありますが、彼《あ》の頃でああいうものは実に類例のないものであったのであります。勿論西洋のものもそろそろ入って来ては居りましたのですが、リットンものや何ぞが多く輸入されていたような訳で、而して其が漢文訳読体の文になったり、馬琴風の文の皮を被《かぶ》ったりして行われていたのでしたから、余り西洋風のものには接していなかったのであります。そこへああいう風のものを出されたのですから、読書界ならびに作者界に大分異った感じを与えられた事は事実であります。もっとも某先生の助力があったという事も聞いて居《おり》ますが、西洋臭いものの割には言葉遣などもよくこなれていて、而して従来のやり方とは全然違った手振足取を示した事は少からぬ震動を世に与えて居りました。勿論あれが同じあのようなものにしても生硬粗雑で言葉づかいも何もこなれて居ないものでありましたならば、後の同路を辿るものに取って障礙となるとも利益とはなっていなかったでしょうが、立意は新鮮で、用意は周到であった其一段が甚だ宜しくって腐気と厭味と生煮《なまにえ》とを離れたため、後の同路を辿るもののために先達となった体になったのでありましょう。私なぞは当時あの書に対して何様《どん》な評をしたかと云うと、地質の断面図を見るようでおもしろいと云って居りました。
 其後同君の文を余り目にしませんでしたが、近く「二狂人」や「ふさぎの虫」等の翻訳、其から色色の作を見まして漸く文壇の為に働かるる事の多くなって来たのを感じて居りました中、突として逝去の報に接したのは何だか夢のように思えてなりません。近来の事は私が申さいでもいいから態と申しません。ただ同君の前期の仕事に抑々亦少からぬ衝動を世に与えて居ったという事を日比感じて居りましたまま、かく申《もうし》ます。

底本:「露伴全集 第二十九卷」岩波書店
   1954(昭和29)年12月4日第1刷発行
初出:「二葉亭四迷」易風社
   1909(明治42)年8月
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
入力:地田尚
校正:今井忠夫
2001年6月18日公開
2012年5月6日修正
青空文庫作成ファイル:
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幸田露伴

幻談—— 幸田露伴

 こう暑くなっては皆さん方《がた》があるいは高い山に行かれたり、あるいは涼《すず》しい海辺《うみべ》に行かれたりしまして、そうしてこの悩ましい日を充実した生活の一部分として送ろうとなさるのも御尤《ごもっと》もです。が、もう老い朽《く》ちてしまえば山へも行かれず、海へも出られないでいますが、その代り小庭《こにわ》の朝露《あさつゆ》、縁側《えんがわ》の夕風ぐらいに満足して、無難に平和な日を過して行けるというもので、まあ年寄《としより》はそこいらで落着いて行かなければならないのが自然なのです。山へ登るのも極《ご》くいいことであります。深山《しんざん》に入り、高山、嶮山《けんざん》なんぞへ登るということになると、一種の神秘的な興味も多いことです。その代りまた危険も生じます訳《わけ》で、怖《おそろ》しい話が伝えられております。海もまた同じことです。今お話し致そうというのは海の話ですが、先に山の話を一度申して置きます。

 それは西暦千八百六十五年の七月の十三日の午前五時半にツェルマットという処《ところ》から出発して、名高いアルプスのマッターホルンを世界始まって以来最初に征服致しましょうと心ざし、その翌十四日の夜明前《よあけまえ》から骨を折って、そうして午後一時四十分に頂上へ着きましたのが、あの名高いアルプス登攀記《とうはんき》の著者のウィンパー一行でありました。その一行八人がアルプスのマッターホルンを初めて征服したので、それから段※[#二の字点、1-2-22]とアルプスも開《ひら》けたような訳です。
 それは皆様がマッターホルンの征服の紀行によって御承知の通りでありますから、今|私《わたくし》が申さなくても夙《つと》に御合点《ごがてん》のことですが、さてその時に、その前から他の一行|即《すなわ》ち伊太利《イタリー》のカレルという人の一群がやはりそこを征服しようとして、両者は自然と競争の形になっていたのであります。しかしカレルの方は不幸にして道の取り方が違っていたために、ウィンパーの一行には負けてしまったのであります。ウィンパーの一行は登る時には、クロス、それから次に年を取った方のペーテル、それからその悴《せがれ》が二人、それからフランシス・ダグラス卿《きょう》というこれは身分のある人です。それからハドウ、それからハドス、それからウィンパーというのが一番|終《しま》いで、つまり八人がその順序で登りました。
 十四日の一時四十分にとうとうさしもの恐《おそろ》しいマッターホルンの頂上、天にもとどくような頂上へ登り得て大《おおい》に喜んで、それから下山にかかりました。下山にかかる時には、一番先へクロス、その次がハドウ、その次がハドス、それからフランシス・ダグラス卿、それから年を取ったところのペーテル、一番終いがウィンパー、それで段※[#二の字点、1-2-22]降りて来たのでありますが、それだけの前古《ぜんこ》未曾有《みぞう》の大成功を収め得た八人は、上《のぼ》りにくらべてはなお一倍おそろしい氷雪の危険の路を用心深く辿《たど》りましたのです。ところが、第二番目のハドウ、それは少し山の経験が足りなかったせいもありましょうし、また疲労したせいもありましたろうし、イヤ、むしろ運命のせいと申したいことで、誤って滑って、一番先にいたクロスへぶつかりました。そうすると、雪や氷の蔽《おお》っている足がかりもないような険峻《けんしゅん》の処で、そういうことが起ったので、忽《たちま》ちクロスは身をさらわれ、二人は一つになって落ちて行きました訳《わけ》。あらかじめロープをもって銘※[#二の字点、1-2-22]《めいめい》の身をつないで、一人が落ちても他が踏《ふみ》止《とど》まり、そして個※[#二の字点、1-2-22]の危険を救うようにしてあったのでありますけれども、何せ絶壁の処で落ちかかったのですから堪《たま》りません、二人に負けて第三番目も落ちて行く。それからフランシス・ダグラス卿は四番目にいたのですが、三人の下へ落ちて行く勢《いきおい》で、この人も下へ連れて行かれました。ダグラス卿とあとの四人との間でロープはピンと張られました。四人はウンと踏《ふみ》堪《こら》えました。落ちる四人と堪《こら》える四人との間で、ロープは力足らずしてプツリと切れて終《しま》いました。丁度《ちょうど》午後三時のことでありましたが、前の四人は四千尺ばかりの氷雪の処を逆《さか》おとしに落下したのです。後《あと》の人は其処《そこ》へ残ったけれども、見る見る自分たちの一行の半分は逆落しになって深い深い谷底へ落ちて行くのを目にしたその心持はどんなでしたろう。それで上に残った者は狂人の如く興奮し、死人の如く絶望し、手足も動かせぬようになったけれども、さてあるべきではありませぬから、自分たちも今度は滑って死ぬばかりか、不測の運命に臨んでいる身と思いながら段※[#二の字点、1-2-22]|下《お》りてまいりまして、そうして漸《ようや》く午後の六時頃に幾何《いくら》か危険の少いところまで下りて来ました。
 下りては来ましたが、つい先刻《さっき》まで一緒にいた人※[#二の字点、1-2-22]がもう訳も分らぬ山の魔の手にさらわれて終《しま》ったと思うと、不思議な心理状態になっていたに相違ありません。で、我※[#二の字点、1-2-22]はそういう場合へ行ったことがなくて、ただ話のみを聞いただけでは、それらの人の心の中《うち》がどんなものであったろうかということは、先ず殆《ほとん》ど想像出来ぬのでありまするが、そのウィンパーの記したものによりますると、その時夕方六時頃です、ペーテル一族の者は山登りに馴れている人ですが、その一人がふと見るというと、リスカンという方に、ぼうっとしたアーチのようなものが見えましたので、はてナと目を留《と》めておりますると、外《ほか》の者もその見ている方を見ました。するとやがてそのアーチの処へ西洋諸国の人にとっては東洋の我※[#二の字点、1-2-22]が思うのとは違った感情を持つところの十字架の形が、それも小さいのではない、大きな十字架の形が二つ、ありあり空中に見えました。それで皆もなにかこの世の感じでない感じを以《もっ》てそれを見ました、と記してありまする。それが一人見たのではありませぬ、残っていた人にみな見えたと申すのです。十字架は我※[#二の字点、1-2-22]の五輪《ごりん》の塔《とう》同様なものです。それは時に山の気象で以《もっ》て何かの形が見えることもあるものでありますが、とにかく今のさきまで生きておった一行の者が亡くなって、そうしてその後《あと》へ持って来て四人が皆そういう十字架を見た、それも一人《ひとり》二人《ふたり》に見えたのでなく、四人に見えたのでした。山にはよく自分の身体《からだ》の影が光線の投げられる状態によって、向う側へ現われることがありまする。四人の中《うち》にはそういう幻影かと思った者もあったでしょう、そこで自分たちが手を動かしたり身体《からだ》を動かして見たところが、それには何らの関係がなかったと申します。
 これでこの話はお終《しま》いに致します。古い経文《きょうもん》の言葉に、心は巧《たく》みなる画師《えし》の如し、とございます。何となく思浮《おもいうか》めらるる言葉ではござりませぬか。

 さてお話し致しますのは、自分が魚釣《うおつり》を楽《たのし》んでおりました頃、或《ある》先輩から承《うけたまわ》りました御話《おはなし》です。徳川期もまだひどく末にならない時分の事でございます。江戸は本所《ほんじょ》の方に住んでおられました人で――本所という処は余り位置の高くない武士どもが多くいた処で、よく本所の小《こ》ッ旗本《ぱたもと》などと江戸の諺《ことわざ》で申した位で、千|石《ごく》とまではならないような何百石というような小さな身分の人たちが住んでおりました。これもやはりそういう身分の人で、物事がよく出来るので以《もっ》て、一時は役《やく》づいておりました。役づいておりますれば、つまり出世の道も開けて、宜《よろ》しい訳でしたが、どうも世の中というものはむずかしいもので、その人が良いから出世するという風には決《きま》っていないもので、かえって外《ほか》の者の嫉《そね》みや憎みをも受けまして、そうして役を取上げられまする、そうすると大概|小普請《こぶしん》というのに入る。出る杙《くい》が打たれて済んで御《お》小普請、などと申しまして、小普請入りというのは、つまり非役《ひやく》になったというほどの意味になります。この人も良い人であったけれども小普請|入《いり》になって、小普請になってみれば閑《ひま》なものですから、御用は殆どないので、釣《つり》を楽みにしておりました。別に活計《くらし》に困る訳じゃなし、奢《おご》りも致さず、偏屈でもなく、ものはよく分る、男も好《よ》し、誰が目にも良い人。そういう人でしたから、他の人に面倒な関係なんかを及ぼさない釣を楽んでいたのは極く結構な御話でした。
 そこでこの人、暇具合《ひまぐあい》さえ良ければ釣に出ておりました。神田川《かんだがわ》の方に船宿《ふなやど》があって、日取《ひど》り即ち約束の日には船頭が本所側の方に舟を持って来ているから、其処《そこ》からその舟に乗って、そうして釣に出て行く。帰る時も舟から直《じき》に本所側に上《あが》って、自分の屋敷へ行く、まことに都合好くなっておりました。そして潮の好い時には毎日のようにケイズを釣っておりました。ケイズと申しますと、私が江戸|訛《なま》りを言うものとお思いになる方もありましょうが、今は皆様カイズカイズとおっしゃいますが、カイズは訛りで、ケイズが本当です。系図を言えば鯛《たい》の中《うち》、というので、系図鯛《けいずだい》を略してケイズという黒い鯛で、あの恵比寿《えびす》様が抱いていらっしゃるものです。イヤ、斯様《かよう》に申しますと、えびす様の抱いていらっしゃるのは赤い鯛ではないか、変なことばかり言う人だと、また叱られますか知れませんが、これは野必大《やひつだい》と申す博物の先生が申されたことです。第一えびす様が持っていられるようなああいう竿《さお》では赤い鯛は釣りませぬものです。黒鯛《くろだい》ならああいう竿で丁度釣れますのです。釣竿の談《だん》になりますので、よけいなことですがちょっと申し添えます。
 或《ある》日のこと、この人が例の如く舟に乗って出ました。船頭の吉《きち》というのはもう五十過ぎて、船頭の年寄なぞというものは客が喜ばないもんでありますが、この人は何もそう焦《あせ》って魚をむやみに獲《と》ろうというのではなし、吉というのは年は取っているけれども、まだそれでもそんなにぼけているほど年を取っているのじゃなし、ものはいろいろよく知っているし、この人は吉を好い船頭として始終使っていたのです。釣船頭というものは魚釣の指南番《しなんばん》か案内人のように思う方もあるかも知れませぬけれども、元来そういうものじゃないので、ただ魚釣をして遊ぶ人の相手になるまでで、つまり客を扱うものなんですから、長く船頭をしていた者なんぞというものはよく人を呑込《のみこ》み、そうして人が愉快と思うこと、不愉快と思うことを呑込んで、愉快と思うように時間を送らせることが出来れば、それが好い船頭です。網船頭《あみせんどう》なぞというものはなおのことそうです。網は御客自身打つ人もあるけれども先ずは網打《あみうち》が打って魚を獲るのです。といって魚を獲って活計《くらし》を立てる漁師とは異《ちが》う。客に魚を与えることを多くするより、客に網漁《あみりょう》に出たという興味を与えるのが主《しゅ》です。ですから網打だの釣船頭だのというものは、洒落《しゃれ》が分らないような者じゃそれになっていない。遊客も芸者の顔を見れば三弦《しゃみ》を弾《ひ》き歌を唄わせ、お酌《しゃく》には扇子《せんす》を取って立って舞わせる、むやみに多く歌舞《かぶ》を提供させるのが好いと思っているような人は、まだまるで遊びを知らないのと同じく、魚にばかりこだわっているのは、いわゆる二才客《にさいきゃく》です。といって釣に出て釣らなくても可《よ》いという理屈はありませんが、アコギに船頭を使って無理にでも魚を獲ろうというようなところは通り越している人ですから、老船頭の吉でも、かえってそれを好いとしているのでした。
 ケイズ釣というのは釣の中でもまた他の釣と様子が違う。なぜかと言いますと、他の、例えばキス釣なんぞというのは立込《たちこ》みといって水の中へ入っていたり、あるいは脚榻釣《きゃたつつり》といって高い脚榻を海の中へ立て、その上に上《あが》って釣るので、魚のお通りを待っているのですから、これを悪く言う者は乞食釣《こじきづり》なんぞと言う位で、魚が通ってくれなければ仕様がない、みじめな態《ざま》だからです。それからまたボラ釣なんぞというものは、ボラという魚が余り上等の魚でない、群れ魚ですから獲れる時は重たくて仕方がない、担《にな》わなくては持てないほど獲れたりなんぞする上に、これを釣る時には舟の艫《とも》の方へ出まして、そうして大きな長い板子《いたご》や楫《かじ》なんぞを舟の小縁《こべり》から小縁へ渡して、それに腰を掛けて、風の吹きさらしにヤタ一《いち》の客よりわるいかっこうをして釣るのでありまするから、もう遊びではありません。本職の漁師みたいな姿になってしまって、まことに哀《あわ》れなものであります。が、それはまたそれで丁度そういう調子合《ちょうしあい》のことの好きな磊落《らいらく》な人が、ボラ釣は豪爽《ごうそう》で好いなどと賞美する釣であります。が、話中の人はそんな釣はしませぬ。ケイズ釣りというのはそういうのと違いまして、その時分、江戸の前の魚はずっと大川《おおかわ》へ奥深く入りましたものでありまして、永代橋《えいたいばし》新大橋《しんおおはし》より上流《かみ》の方でも釣ったものです。それですから善女《ぜんにょ》が功徳《くどく》のために地蔵尊《じぞうそん》の御影《ごえい》を刷った小紙片《しょうしへん》を両国橋《りょうごくばし》の上からハラハラと流す、それがケイズの眼球《めだま》へかぶさるなどという今からは想像も出来ないような穿《うが》ちさえありました位です。
 で、川のケイズ釣は川の深い処で釣る場合は手釣《てづり》を引いたもので、竿などを振廻《ふりまわ》して使わずとも済むような訳でした。長い釣綸《つりいと》を※[#「竹かんむり/隻」、第3水準1-89-69]輪《わっか》から出して、そうして二本指で中《あた》りを考えて釣る。疲れた時には舟の小縁へ持って行って錐《きり》を立てて、その錐の上に鯨《くじら》の鬚《ひげ》を据えて、その鬚に持たせた岐《また》に綸《いと》をくいこませて休む。これを「いとかけ」と申しました。後《のち》には進歩して、その鯨の鬚の上へ鈴なんぞを附けるようになり、脈鈴《みゃくすず》と申すようになりました。脈鈴は今も用いられています。しかし今では川の様子が全く異《ちが》いまして、大川の釣は全部なくなり、ケイズの脈釣《みゃくづり》なんぞというものは何方《どなた》も御承知ないようになりました。ただしその時分でも脈釣じゃそう釣れない。そうして毎日出て本所から直ぐ鼻の先の大川の永代《えいたい》の上《かみ》あたりで以《もっ》て釣っていては興も尽きるわけですから、話中の人は、川の脈釣でなく海の竿釣をたのしみました。竿釣にも色※[#二の字点、1-2-22]ありまして、明治の末頃はハタキなんぞという釣もありました。これは舟の上に立っていて、御台場《おだいば》に打付ける浪《なみ》の荒れ狂うような処へ鉤《はり》を抛《ほう》って入れて釣るのです。強い南風《みなみ》に吹かれながら、乱石《らんせき》にあたる浪《なみ》の白泡立《しらあわだ》つ中へ竿を振って餌《えさ》を打込むのですから、釣れることは釣れても随分労働的の釣であります。そんな釣はその時分にはなかった、御台場もなかったのである。それからまた今は導流柵《どうりゅうさく》なんぞで流して釣る流し釣もありますが、これもなかなか草臥《くたび》れる釣であります。釣はどうも魚を獲ろうとする三昧《さんまい》になりますと、上品でもなく、遊びも苦しくなるようでございます。
 そんな釣は古い時分にはなくて、澪《みよ》の中《うち》だとか澪がらみで釣るのを澪釣《みよづり》と申しました。これは海の中に自《おのず》から水の流れる筋《すじ》がありますから、その筋をたよって舟を潮《しお》なりにちゃんと止《と》めまして、お客は将監《しょうげん》――つまり舟の頭《かしら》の方からの第一の室《ま》――に向うを向いてしゃんと坐って、そうして釣竿を右と左と八《はち》の字のように振込《ふりこ》んで、舟首《みよし》近く、甲板《かっぱ》のさきの方に亙《わた》っている簪《かんこ》の右の方へ右の竿、左の方へ左の竿をもたせ、その竿尻《さおじり》をちょっと何とかした銘※[#二の字点、1-2-22]《めいめい》の随意の趣向でちょいと軽く止めて置くのであります。そうして客は端然として竿先を見ているのです。船頭は客よりも後ろの次の間《ま》にいまして、丁度お供のような形に、先ずは少し右舷《うげん》によって扣《ひか》えております。日がさす、雨がふる、いずれにも無論のこと苫《とま》というものを葺《ふ》きます。それはおもての舟梁《ふなばり》とその次の舟梁とにあいている孔《あな》に、「たてじ」を立て、二のたてじに棟《むね》を渡し、肘木《ひじき》を左右にはね出させて、肘木と肘木とを木竿で連《つら》ねて苫を受けさせます。苫一枚というのは凡《およ》そ畳《たたみ》一枚より少し大きいもの、贅沢《ぜいたく》にしますと尺長《しゃくなが》の苫は畳一枚のよりよほど長いのです。それを四枚、舟の表《おもて》の間《ま》の屋根のように葺くのでありますから、まことに具合好く、長四畳《ながよじょう》の室《へや》の天井のように引いてしまえば、苫は十分に日も雨も防ぎますから、ちゃんと座敷のようになるので、それでその苫の下|即《すなわ》ち表の間――釣舟《つりぶね》は多く網舟《あみぶね》と違って表の間が深いのでありますから、まことに調子が宜《よろ》しい。そこへ茣蓙《ござ》なんぞ敷きまして、その上に敷物《しきもの》を置き、胡坐《あぐら》なんぞ掻《か》かないで正しく坐っているのが式《しき》です。故人|成田屋《なりたや》が今の幸四郎《こうしろう》、当時の染五郎《そめごろう》を連れて釣に出た時、芸道舞台上では指図を仰いでも、勝手にしなせいと突放《つっぱな》して教えてくれなかったくせに、舟では染五郎の座りようを咎《とが》めて、そんな馬鹿な坐りようがあるかと激しく叱ったということを、幸四郎さんから直接に聞きましたが、メナダ釣、ケイズ釣、すずき釣、下品でない釣はすべてそんなものです。
 それで魚が来ましても、また、鯛の類というものは、まことにそういう釣をする人※[#二の字点、1-2-22]に具合の好く出来ているもので、鯛の二段引きと申しまして、偶《たま》には一度にガブッと食べて釣竿を持って行くというようなこともありますけれども、それはむしろ稀有《けう》の例で、ケイズは大抵は一度釣竿の先へあたりを見せて、それからちょっとして本当に食うものでありまするから、竿先の動いた時に、来たナと心づきましたら、ゆっくりと手を竿尻にかけて、次のあたりを待っている。次に魚がぎゅっと締める時に、右の竿なら右の手であわせて竿を起し、自分の直《すぐ》と後ろの方へそのまま持って行くので、そうすると後ろに船頭がいますから、これが※[#「てへん+黨」、第3水準1-85-7]網《たま》をしゃんと持っていまして掬《すく》い取ります。大きくない魚を釣っても、そこが遊びですから竿をぐっと上げて廻して、後ろの船頭の方に遣《や》る。船頭は魚を掬って、鉤《はり》を外《はず》して、舟の丁度|真中《まんなか》の処に活間《いけま》がありますから魚を其処《そこ》へ入れる。それから船頭がまた餌《えさ》をつける。「旦那、つきました」と言うと、竿をまた元へ戻して狙ったところへ振込むという訳であります。ですから、客は上布《じょうふ》の着物を着ていても釣ることが出来ます訳で、まことに綺麗事《きれいごと》に殿様らしく遣《や》っていられる釣です。そこで茶の好きな人は玉露《ぎょくろ》など入れて、茶盆《ちゃぼん》を傍《そば》に置いて茶を飲んでいても、相手が二段引きの鯛ですから、慣れてくればしずかに茶碗を下に置いて、そうして釣っていられる。酒の好きな人は潮間《しおま》などは酒を飲みながらも釣る。多く夏の釣でありますから、泡盛《あわもり》だとか、柳蔭《やなぎかげ》などというものが喜ばれたもので、置水屋《おきみずや》ほど大きいものではありませんが上下箱《じょうげばこ》というのに茶器酒器、食器も具《そな》えられ、ちょっとした下物《さかな》、そんなものも仕込まれてあるような訳です。万事がそういう調子なのですから、真に遊びになります。しかも舟は上《じょう》だな檜《ひのき》で洗い立ててありますれば、清潔この上なしです。しかも涼しい風のすいすい流れる海上に、片苫《かたとま》を切った舟なんぞ、遠くから見ると余所目《よそめ》から見ても如何《いか》にも涼しいものです。青い空の中へ浮上《うきあが》ったように広※[#二の字点、1-2-22]《ひろびろ》と潮が張っているその上に、風のつき抜ける日蔭のある一葉《いちよう》の舟が、天から落ちた大鳥《おおとり》の一枚の羽のようにふわりとしているのですから。
 それからまた、澪釣《みよづり》でない釣もあるのです。それは澪で以《もっ》てうまく食わなかったりなんかした時に、魚というものは必ず何かの蔭にいるものですから、それを釣るのです。鳥は木により、さかなはかかり、人は情《なさけ》の蔭による、なんぞという「よしこの」がありますが、かかりというのは水の中にもさもさしたものがあって、其処《そこ》に網を打つことも困難であり、釣鉤《つりばり》を入れることも困難なようなひっかかりがあるから、かかりと申します。そのかかりにはとかくに魚が寄るものであります。そのかかりの前へ出掛けて行って、そうしてかかりと擦《す》れ擦れに鉤《はり》を打込む、それがかかり前の釣といいます。澪だの平場《ひらば》だので釣れない時にかかり前に行くということは誰もすること。またわざわざかかりへ行きたがる人もある位。古い澪杙《みよぐい》、ボッカ、われ舟、ヒビがらみ、シカケを失うのを覚悟の前にして、大様《おおよう》にそれぞれの趣向で遊びます。いずれにしても大名釣《だいみょうづり》といわれるだけに、ケイズ釣は如何にも贅沢に行われたものです。
 ところで釣の味はそれでいいのですが、やはり釣は根《ね》が魚を獲《と》るということにあるものですから、余り釣れないと遊びの世界も狭くなります。或《ある》日のこと、ちっとも釣れません。釣れないというと未熟な客はとかくにぶつぶつ船頭に向って愚痴《ぐち》をこぼすものですが、この人はそういうことを言うほどあさはかではない人でしたから、釣れなくてもいつもの通りの機嫌でその日は帰った。その翌日も日取りだったから、翌日もその人はまた吉公《きちこう》を連れて出た。ところが魚というのは、それは魚だからいさえすれば餌《えさ》があれば食いそうなものだけれども、そうも行かないもので、時によると何かを嫌って、例えば水を嫌うとか風を嫌うとか、あるいは何か不明な原因があってそれを嫌うというと、いても食わないことがあるもんです。仕方がない。二日ともさっぱり釣れない。そこで幾《いく》ら何でもちっとも釣れないので、吉公は弱りました。小潮《こじお》の時なら知らんこと、いい潮に出ているのに、二日ともちっとも釣れないというのは、客はそれほどに思わないにしたところで、船頭に取っては面白くない。それも御客が、釣も出来ていれば人間も出来ている人で、ブツリとも言わないでいてくれるのでかえって気がすくみます。どうも仕様がない。が、どうしても今日は土産《みやげ》を持たせて帰そうと思うものですから、さあいろいろな潮行《しおゆ》きと場処《ばしょ》とを考えて、あれもやり、これもやったけれども、どうしても釣れない。それがまた釣れるべきはずの、月のない大潮《おおしお》の日。どうしても釣れないから、吉もとうとうへたばって終《しま》って、
 「やあ旦那、どうも二日とも投げられちゃって申訳《もうしわけ》がございませんなア」と言う。客は笑って、
 「なアにお前、申訳がございませんなんて、そんな野暮《やぼ》かたぎのことを言うはずの商売じゃねえじゃねえか。ハハハ。いいやな。もう帰るより仕方がねえ、そろそろ行こうじゃないか。」
 「ヘイ、もう一《いっ》ヶ処《しょ》やって見て、そうして帰りましょう。」
 「もう一ヶ処たって、もうそろそろ真《ま》づみになって来るじゃねえか。」
 真づみというのは、朝のを朝《あさ》まづみ、晩のを夕《ゆう》まづみと申します。段※[#二の字点、1-2-22]と昼になったり夜になったりする迫《せ》りつめた時をいうのであって、とかくに魚は今までちっとも出て来なかったのが、まづみになって急に出て来たりなんかするものです。吉の腹の中では、まづみに中《あ》てたいのですが、客はわざとその反対をいったのでした。
 「ケイズ釣に来て、こんなに晩《おそ》くなって、お前、もう一ヶ処なんて、そんなぶいきなことを言い出して。もうよそうよ。」
 「済みませんが旦那、もう一ヶ処ちょいと当てて。」
と、客と船頭が言うことがあべこべになりまして、吉は自分の思う方へ船をやりました。
 吉は全敗《ぜんぱい》に終らせたくない意地から、舟を今日までかかったことのない場処へ持って行って、「かし」を決めるのに慎重な態度を取りながら、やがて、
 「旦那、竿は一本にして、みよしの真正面へ巧《うま》く振込んで下さい」と申しました。これはその壺《つぼ》以外は、左右も前面も、恐ろしいカカリであることを語っているのです。客は合点して、「あいよ」とその言葉通りに実に巧く振込みましたが、心中では気乗薄《きのりうす》であったことも争えませんでした。すると今手にしていた竿を置くか置かぬかに、魚の中《あた》りか芥《ごみ》の中りかわからぬ中り、――大魚《たいぎょ》に大《おお》ゴミのような中りがあり、大ゴミに大魚のような中りがあるもので、そういう中りが見えますと同時に、二段引どころではない、糸はピンと張り、竿はズイと引かれて行きそうになりましたから、客は竿尻を取ってちょいと当てて、直《すぐ》に竿を立てにかかりました。が、こっちの働きは少しも向うへは通じませんで、向うの力ばかりが没義道《もぎどう》に強うございました。竿は二本継《にほんつぎ》の、普通の上物《じょうもの》でしたが、継手《つぎて》の元際《もとぎわ》がミチリと小さな音がして、そして糸は敢《あ》えなく断《き》れてしまいました。魚が来てカカリへ啣《くわ》え込んだのか、大芥《おおごみ》が持って行ったのか、もとより見ぬ物の正体は分りませんが、吉はまた一つ此処《ここ》で黒星がついて、しかも竿が駄目になったのを見逃しはしませんで、一層心中は暗くなりました。こういうこともない例ではありませんが、飽《あく》までも練れた客で、「後追《あとお》い小言《こごと》」などは何も言わずに吉の方を向いて、
 「帰れっていうことだよ」と笑いましたのは、一切の事を「もう帰れ」という自然の命令の意味合《いみあい》だと軽く流して終《しま》ったのです。「ヘイ」というよりほかはない、吉は素直にカシを抜いて、漕《こ》ぎ出しながら、
 「あっしの樗蒲一《ちょぼいち》がコケだったんです」と自語的《しごてき》に言って、チョイと片手で自分の頭《かしら》を打つ真似《まね》をして笑った。「ハハハ」「ハハハ」と軽い笑《わらい》で、双方とも役者が悪くないから味な幕切《まくぎれ》を見せたのでした。
 海には遊船《ゆうせん》はもとより、何の舟も見渡す限り見えないようになっていました。吉はぐいぐいと漕いで行く。余り晩《おそ》くまでやっていたから、まずい潮《しお》になって来た。それを江戸の方に向って漕いで行く。そうして段※[#二の字点、1-2-22]やって来ると、陸はもう暗くなって江戸の方|遥《はるか》にチラチラと燈《ひ》が見えるようになりました。吉は老いても巧いもんで、頻《しき》りと身体《からだ》に調子をのせて漕ぎます。苫《とま》は既に取除《とりの》けてあるし、舟はずんずんと出る。客はすることもないから、しゃんとして、ただぽかんと海面《うみづら》を見ていると、もう海の小波《さざなみ》のちらつきも段※[#二の字点、1-2-22]と見えなくなって、雨《あま》ずった空が初《はじめ》は少し赤味があったが、ぼうっと薄墨《うすずみ》になってまいりました。そういう時は空と水が一緒にはならないけれども、空の明るさが海へ溶込《とけこ》むようになって、反射する気味が一つもないようになって来るから、水際《みずぎわ》が蒼茫《そうぼう》と薄暗くて、ただ水際だということが分る位の話、それでも水の上は明るいものです。客はなんにも所在がないから江戸のあの燈《ひ》は何処《どこ》の燈だろうなどと、江戸が近くなるにつけて江戸の方を見、それからずいと東の方を見ますと、――今漕いでいるのは少しでも潮が上《かみ》から押すのですから、澪《みよ》を外れた、つまり水の抵抗の少い処を漕いでいるのでしたが、澪の方をヒョイッと見るというと、暗いというほどじゃないが、よほど濃い鼠色《ねずみ》に暮れて来た、その水の中からふっと何か出ました。はてナと思って、そのまま見ているとまた何かがヒョイッと出て、今度は少し時間があってまた引込《ひっこ》んでしまいました。葭《よし》か蘆《あし》のような類《たぐい》のものに見えたが、そんなものなら平らに水を浮いて流れるはずだし、どうしても細い棒のようなものが、妙な調子でもって、ツイと出てはまた引込みます。何の必要があるではないが、合点が行きませぬから、
 「吉や、どうもあすこの処に変なものが見えるな」とちょっと声をかけました。客がジッと見ているその眼の行方《ゆくえ》を見ますと、丁度その時またヒョイッと細いものが出ました。そしてまた引込みました。客はもう幾度も見ましたので、
 「どうも釣竿が海の中から出たように思えるが、何だろう。」
 「そうでござんすね、どうも釣竿のように見えましたね。」
 「しかし釣竿が海の中から出る訳はねえじゃねえか。」
 「だが旦那、ただの竹竿《たけざお》が潮の中をころがって行くのとは違った調子があるので、釣竿のように思えるのですネ。」
 吉は客の心に幾らでも何かの興味を与えたいと思っていた時ですから、舟を動かしてその変なものが出た方に向ける。
 「ナニ、そんなものを、お前、見たからって仕様がねえじゃねえか。」
 「だって、あっしにも分らねえおかしなもんだからちょっと後学《こうがく》のために。」
 「ハハハ、後学のためには宜《よ》かったナ、ハハハ。」
 吉は客にかまわず、舟をそっちへ持って行くと、丁度|途端《とたん》にその細長いものが勢《いきおい》よく大きく出て、吉の真向《まっこう》を打たんばかりに現われた。吉はチャッと片手に受留《うけと》めたが、シブキがサッと顔へかかった。見るとたしかにそれは釣竿で、下に何かいてグイと持って行こうとするようなので、なやすようにして手をはなさずに、それをすかして見ながら、
 「旦那これは釣竿です、野布袋《のぼてい》です、良《い》いもんのようです。」
 「フム、そうかい」といいながら、その竿の根の方を見て、
 「ヤ、お客さんじゃねえか。」
 お客さんというのは溺死者《できししゃ》のことを申しますので、それは漁やなんかに出る者は時※[#二の字点、1-2-22]はそういう訪問者に出会いますから申出《もうしだ》した言葉です。今の場合、それと見定めましたから、何も嬉《うれ》しくもないことゆえ、「お客さんじゃねえか」と、「放してしまえ」と言わぬばかりに申しましたのです。ところが吉は、
 「エエ、ですが、良《い》い竿ですぜ」と、足らぬ明るさの中でためつすかしつ見ていて、
 「野布袋の丸《まる》でさア」と付足《つけた》した。丸というのはつなぎ竿になっていない物のこと。野布袋竹《のぼていだけ》というのは申すまでもなく釣竿用の良いもので、大概の釣竿は野布袋の具合のいいのを他の竹の竿につないで穂竹《ほだけ》として使います。丸というと、一竿《ひとさお》全部がそれなのです。丸が良い訳はないのですが、丸でいて調子の良い、使えるようなものは、稀物《まれもの》で、つまり良いものという訳になるのです。
 「そんなこと言ったって欲しかあねえ」と取合いませんでした。
 が、吉には先刻《さっき》客の竿をラリにさせたことも含んでいるからでしょうか、竿を取ろうと思いまして、折らぬように加減をしながらグイと引きました。すると中浮《ちゅううき》になっていた御客様は出て来ない訳には行きませんでした。中浮と申しますのは、水死者に三態あります、水面に浮ぶのが一ツ、水底に沈むのが一ツ、両者の間が即ち中浮です。引かれて死体は丁度客の坐の直ぐ前に出て来ました。
 「詰《つま》らねえことをするなよ、お返し申せと言ったのに」と言いながら、傍《そば》に来たものですから、その竿を見まするというと、如何《いか》にも具合の好さそうなものです。竿というものは、節《ふし》と節とが具合よく順※[#二の字点、1-2-22]に、いい割合を以て伸びて行ったのがつまり良い竿の一条件です。今手元からずっと現われた竿を見ますと、一目《ひとめ》にもわかる実に良いものでしたから、その武士も、思わず竿を握りました。吉は客が竿へ手をかけたのを見ますと、自分の方では持切れませんので、
 「放しますよ」といって手を放して終《しま》った。竿尻より上の一尺ばかりのところを持つと、竿は水の上に全身を凛とあらわして、あたかも名刀の鞘《さや》を払ったように美しい姿を見せた。
 持たない中《うち》こそ何でもなかったが、手にして見るとその竿に対して油然《ゆうぜん》として愛念《あいねん》が起った。とにかく竿を放そうとして二、三度こづいたが、水中の人が堅く握っていて離れない。もう一|寸《すん》一寸に暗くなって行く時、よくは分らないが、お客さんというのはでっぷり肥《ふと》った、眉の細くて長いきれいなのが僅《わずか》に見える、耳朶《みみたぶ》が甚《はなは》だ大きい、頭はよほど禿《は》げている、まあ六十近い男。着ている物は浅葱《あさぎ》の無紋《むもん》の木綿縮《もめんちぢみ》と思われる、それに細い麻《あさ》の襟《えり》のついた汗取《あせと》りを下につけ、帯は何だかよく分らないけれども、ぐるりと身体《からだ》が動いた時に白い足袋《たび》を穿《は》いていたのが目に浸《し》みて見えた。様子を見ると、例えば木刀にせよ一本差して、印籠《いんろう》の一つも腰にしている人の様子でした。
 「どうしような」と思わず小声で言った時、夕風が一[#(ト)]筋さっと流れて、客は身体《からだ》の何処《どこ》かが寒いような気がした。捨ててしまっても勿体《もったい》ない、取ろうかとすれば水中の主《ぬし》が生命《いのち》がけで執念深く握っているのでした。躊躇《ちゅうちょ》のさまを見て吉はまた声をかけました。
 「それは旦那、お客さんが持って行ったって三途川《さんずのかわ》で釣をする訳でもありますまいし、お取りなすったらどんなものでしょう。」
 そこでまたこづいて見たけれども、どうしてなかなかしっかり掴《つか》んでいて放しません。死んでも放さないくらいなのですから、とてもしっかり握っていて取れない。といって刃物を取出《とりだ》して取る訳にも行かない。小指でしっかり竿尻を掴《つか》んで、丁度それも布袋竹《ほていだけ》の節の処を握っているからなかなか取れません。仕方がないから渋川流《しぶかわりゅう》という訳でもないが、わが拇指《おやゆび》をかけて、ぎくりとやってしまった。指が離れる、途端に先主人《せんしゅじん》は潮下《しおしも》に流れて行ってしまい、竿はこちらに残りました。かりそめながら戦ったわが掌《て》を十分に洗って、ふところ紙《がみ》三、四枚でそれを拭《ぬぐ》い、そのまま海へ捨てますと、白い紙玉《かみだま》は魂《たましい》ででもあるようにふわふわと夕闇の中を流れ去りまして、やがて見えなくなりました。吉は帰りをいそぎました。
 「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏、ナア、一体どういうのだろう。なんにしても岡釣《おかづり》の人には違いねえな。」
 「ええ、そうです。どうも見たこともねえ人だ。岡釣でも本所、深川《ふかがわ》、真鍋河岸《まなべがし》や万年《まんねん》のあたりでまごまごした人とも思われねえ、あれは上《かみ》の方の向島《むこうじま》か、もっと上の方の岡釣師ですな。」
 「なるほど勘が好い、どうもお前うまいことを言う、そして。」
 「なアに、あれは何でもございませんよ、中気《ちゅうき》に決まっていますよ。岡釣をしていて、変な処にしゃがみ込んで釣っていて、でかい魚《さかな》を引《ひっ》かけた途端に中気が出る、転げ込んでしまえばそれまででしょうネ。だから中気の出そうな人には平場でない処の岡釣はいけねえと昔から言いまさあ。勿論《もちろん》どんなところだって中気にいいことはありませんがネ、ハハハ。」
 「そうかなア。」
 それでその日は帰りました。
 いつもの河岸に着いて、客は竿だけ持って家に帰ろうとする。吉が
 「旦那は明日《あす》は?」
 「明日も出るはずになっているんだが、休ませてもいいや。」
 「イヤ馬鹿雨《ばかあめ》でさえなければあっしゃあ迎えに参りますから。」
 「そうかい」と言って別れた。
 あくる朝起きてみると雨がしよしよと降っている。
 「ああこの雨を孕んでやがったんで二、三日|漁《りょう》がまずかったんだな。それとも赤潮《あかしお》でもさしていたのかナ。」
 約束はしたが、こんなに雨が降っちゃ奴《やつ》も出て来ないだろうと、その人は家《うち》にいて、しょうことなしの書見《しょけん》などしていると、昼近くなった時分に吉はやって来た。庭口からまわらせる。
 「どうも旦那、お出《で》になるかならないかあやふやだったけれども、あっしゃあ舟を持って来ておりました。この雨はもう直《じき》あがるに違《ちげ》えねえのですから参りました。御伴《おとも》をしたいともいい出せねえような、まずい後《あと》ですが。」
 「アアそうか、よく来てくれた。いや、二、三日お前にムダ骨を折らしたが、おしまいに竿が手に入るなんてまあ変なことだなア。」
 「竿が手に入るてえのは釣師には吉兆《きっちょう》でさア。」
 「ハハハ、だがまあ雨が降っている中《うち》あ出たくねえ、雨を止《や》ませる間《あいだ》遊んでいねえ。」
 「ヘイ。時に旦那、あれは?」
 「あれかい。見なさい、外鴨居《そとがもい》の上に置いてある。」
 吉は勝手の方へ行って、雑巾盥《ぞうきんだらい》に水を持って来る。すっかり竿をそれで洗ってから、見るというと如何にも良い竿。じっと二人は検《あらた》め気味《ぎみ》に詳しく見ます。第一あんなに濡れていたので、重くなっているべきはずだが、それがちっとも水が浸みていないようにその時も思ったが、今も同じく軽い。だからこれは全く水が浸みないように工夫がしてあるとしか思われない。それから節廻《ふしまわ》りの良いことは無類。そうして蛇口《へびぐち》の処を見るというと、素人細工《しろうとざいく》に違いないが、まあ上手《じょうず》に出来ている。それから一番太い手元の処を見るとちょいと細工がある。細工といったって何でもないが、ちょっとした穴を明けて、その中に何か入れでもしたのかまた塞《ふさ》いである。尻手縄《しってなわ》が付いていた跡でもない。何か解らない。そのほかには何の異《かわ》ったこともない。
 「随分|稀《めず》らしい良《い》い竿だな、そしてこんな具合の好《い》い軽い野布袋《のぼてい》は見たことがない。」
 「そうですな、野布袋という奴は元来重いんでございます、そいつを重くちゃいやだから、それで工夫をして、竹がまだ野に生きている中《うち》に少し切目《きりめ》なんか入れましたり、痛めたりしまして、十分に育たないように片っ方をそういうように痛める、右なら右、左なら左の片方をそうしたのを片《かた》うきす、両方から攻める奴を諸《もろ》うきすといいます。そうして拵《こしら》えると竹が熟した時に養いが十分でないから軽い竹になるのです。」
「それはお前|俺《おれ》も知っているが、うきすの竹はそれだから萎《しな》びたようになって面白くない顔つきをしているじゃないか。これはそうじゃない。どういうことをして出来たのだろう、自然にこういう竹があったのかなア。」
 竿というものの良いのを欲しいと思うと、釣師は竹の生えている藪《やぶ》に行って自分で以《もっ》てさがしたり撰《えら》んだりして、買約束《かいやくそく》をして、自分の心のままに育てたりしますものです。そういう竹を誰でも探しに行く。少し釣が劫《こう》を経《へ》て来るとそういうことにもなりまする。唐《とう》の時に温庭※[#「竹かんむり/(土へん+鈞のつくり)」、第3水準1-89-63]《おんていいん》という詩人、これがどうも道楽者で高慢で、品行が悪くて仕様がない人でしたが、釣にかけては小児《こども》同様、自分で以て釣竿を得ようと思って裴氏《はいし》という人の林に這入《はい》り込んで良い竹を探した詩がありまする。一径《いっけい》互《たがい》に紆直《うちょく》し、茅棘《ぼうきょく》亦《また》已《すで》に繁《しげ》し、という句がありまするから、曲がりくねった細径《ほそみち》の茅《かや》や棘《いばら》を分けて、むぐり込むのです。歴尋《れきじん》す嬋娟《せんえん》の節、翦破《せんぱ》す蒼莨根《そうろうこん》、とありまするから、一※[#二の字点、1-2-22]《いちいち》この竹、あの竹と調べまわった訳です。唐の時は釣が非常に行われて、薜氏《せつし》の池という今日まで名の残る位の釣堀《つりぼり》さえあった位ですから、竿屋だとて沢山《たくさん》ありましたろうに、当時|持囃《もてはや》された詩人の身で、自分で藪くぐりなんぞをしてまでも気に入った竿を得たがったのも、好《すき》の道なら身をやつす道理でございます。半井卜養《なからいぼくよう》という狂歌師の狂歌に、浦島《うらしま》が釣の竿とて呉竹《くれたけ》の節はろくろく伸びず縮まず、というのがありまするが、呉竹の竿など余り感心出来ぬものですが、三十六節あったとかで大《おおい》に節のことを褒《ほ》めていまする、そんなようなものです。それで趣味が高じて来るというと、良いのを探すのに浮身《うきみ》をやつすのも自然の勢《いきおい》です。
 二人はだんだんと竿に見入っている中《うち》に、あの老人が死んでも放さずにいた心持が次第に分って来ました。
 「どうもこんな竹は此処《ここい》らに見かけねえですから、よその国の物か知れませんネ。それにしろ二|間《けん》の余《よ》もあるものを持って来るのも大変な話だし。浪人の楽《らく》な人だか何だか知らないけれども、勝手なことをやって遊んでいる中《うち》に中気が起ったのでしょうが、何にしろ良《い》い竿だ」と吉はいいました。
 「時にお前、蛇口を見ていた時に、なんじゃないか、先についていた糸をくるくるっと捲《ま》いて腹掛《はらがけ》のどんぶりに入れちゃったじゃねえか。」
 「エエ邪魔っけでしたから。それに、今朝それを見まして、それでわっちがこっちの人じゃねえだろうと思ったんです。」
 「どうして。」
 「どうしてったって、段※[#二の字点、1-2-22]細《だんだんぼそ》につないでありました。段※[#二の字点、1-2-22]細につなぐというのは、はじまりの処が太い、それから次第に細いのまたそれより細いのと段※[#二の字点、1-2-22]細くして行く。この面倒な法は加州《かしゅう》やなんぞのような国に行くと、鮎《あゆ》を釣るのに蚊鉤《かばり》など使って釣る、その時蚊鉤がうまく水の上に落ちなければまずいんで、糸が先に落ちて後《あと》から蚊鉤が落ちてはいけない、それじゃ魚《さかな》が寄らない、そこで段※[#二の字点、1-2-22]細の糸を拵えるんです。どうして拵えますかというと、鋏《はさみ》を持って行って良い白馬の尾の具合のいい、古馬にならないやつのを頂戴して来る。そうしてそれを豆腐《とうふ》の粕《かす》で以て上からぎゅうぎゅうと次第※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]にこく。そうすると透き通るようにきれいになる。それを十六本、右|撚《よ》りなら右撚りに、最初は出来ないけれども少し慣れると訳なく出来ますことで、片撚《かたよ》りに撚る。そうして一つ拵える。その次に今度は本数を減らして、前に右撚りなら今度は左撚りに片撚りに撚ります。順※[#二の字点、1-2-22]に本数をへらして、右左をちがえて、一番終いには一本になるようにつなぎます。あっしあ加州の御客に聞いておぼえましたがネ、西の人は考《かんがえ》がこまかい。それが定跡《じょうせき》です。この竿は鮎をねらうのではない、テグスでやってあるけれども、うまくこきがついて順減《じゅんべ》らしに細くなって行くようにしてあります。この人も相当に釣に苦労していますね、切れる処を決めて置きたいからそういうことをするので、岡釣じゃなおのことです、何処《どこ》でも構わないでぶっ込むのですから、ぶち込んだ処にかかりがあれば引《ひっ》かかってしまう。そこで竿をいたわって、しかも早く埒《らち》の明《あ》くようにするには、竿の折れそうになる前に切れ処《どこ》から糸のきれるようにして置くのです。一番先の細い処から切れる訳だからそれを竿の力で割出《わりだ》していけば、竿に取っては怖いことも何もない。どんな処へでもぶち込んで、引《ひっ》かかっていけなくなったら竿は折れずに糸が切れてしまう。あとはまた直ぐ鉤《はり》をくっつければそれでいいのです。この人が竿を大事にしたことは、上手に段※[#二の字点、1-2-22]細にしたところを見てもハッキリ読めましたよ。どうも小指であんなに力を入れて放さないで、まあ竿と心中《しんじゅう》したようなもんだが、それだけ大事にしていたのだから、無理もねえでさあ。」
などと言っている中《うち》に雨がきれかかりになりました。主人は座敷、吉は台所へ下《さが》って昼の食事を済ませ、遅いけれども「お出《で》なさい」「出よう」というので以て、二人は出ました。無論その竿を持って、そして場処に行くまでに主人は新しく上手に自分でシカケを段※[#二の字点、1-2-22]細に拵えました。
 さあ出て釣り始めると、時※[#二の字点、1-2-22]雨が来ましたが、前の時と違って釣れるわ、釣れるわ、むやみに調子の好い釣になりました。とうとうあまり釣れるために晩《おそ》くなって終いまして、昨日《きのう》と同じような暮方《くれがた》になりました。それで、もう釣もお終いにしようなあというので、蛇口から糸を外《はず》して、そうしてそれを蔵《しま》って、竿は苫裏《とまうら》に上げました。だんだんと帰って来るというと、また江戸の方に燈《ひ》がチョイチョイ見えるようになりました。客は昨日からの事を思って、この竿を指を折って取ったから「指折《ゆびお》[#(リ)]」と名づけようかなどと考えていました。吉はぐいぐい漕いで来ましたが、せっせと漕いだので、艪臍《ろべそ》が乾いて来ました。乾くと漕ぎづらいから、自分の前の処にある柄杓《ひしゃく》を取って潮《しお》を汲んで、身を妙にねじって、ばっさりと艪の臍《へそ》の処に掛けました。こいつが江戸前の船頭は必ずそういうようにするので、田舎《いなか》船頭のせぬことです。身をねじって高い処から其処《そこ》を狙ってシャッと水を掛ける、丁度その時には臍が上を向いています。うまくやるもので、浮世絵《うきよえ》好みの意気な姿です。それで吉が今|身体《からだ》を妙にひねってシャッとかける、身のむきを元に返して、ヒョッと見るというと、丁度|昨日《きのう》と同じ位の暗さになっている時、東の方に昨日と同じように葭《よし》のようなものがヒョイヒョイと見える。オヤ、と言って船頭がそっちの方をジッと見る、表の間《ま》に坐っていたお客も、船頭がオヤと言ってあっちの方を見るので、その方を見ると、薄暗くなっている水の中からヒョイヒョイと、昨日と同じように竹が出たり引込《ひっこ》んだりしまする。ハテ、これはと思って、合点しかねているというと、船頭も驚きながら、旦那は気が附いたかと思って見ると、旦那も船頭を見る。お互《たがい》に何だか訳の分らない気持がしているところへ、今日は少し生暖《なまあたた》かい海の夕風が東から吹いて来ました。が、吉は忽《たちま》ち強がって、
 「なんでえ、この前の通りのものがそこに出て来る訳はありあしねえ、竿はこっちにあるんだから。ネエ旦那、竿はこっちにあるんじゃありませんか。」
 怪《かい》を見て怪とせざる勇気で、変なものが見えても「こっちに竿があるんだからね、何でもない」という意味を言ったのであったが、船頭もちょっと身を屈《かが》めて、竿の方を覗《のぞ》く。客も頭の上の闇を覗く。と、もう暗くなって苫裏《とまうら》の処だから竿があるかないか殆ど分らない。かえって客は船頭のおかしな顔を見る、船頭は客のおかしな顔を見る。客も船頭もこの世でない世界を相手の眼の中から見出したいような眼つきに相互に見えた。
 竿はもとよりそこにあったが、客は竿を取出して、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏と言って海へかえしてしまった。
                         (昭和十三年九月)

底本:「幻談・観画談 他三篇」岩波文庫、岩波書店
   1990(平成2)年11月16日第1刷発行
底本の親本:「露伴全集」第六巻、岩波書店
   1953(昭和28)年12月刊
入力:Sin
校正:伊藤時也
2000年5月31日公開
2012年5月11日修正
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幸田露伴

侠客の種類——- 幸田露伴

 侠客と一口に言つても徳川時代の初期に起つた侠客と其の以後に出た侠客とは、名は同じ侠客でも余程様子が違つて居るやうである。初期のは市人の中の気慨のある者か或は武士の仕官の途に断念した者などが、武士の跋扈に反抗して之を膺懲し或は之に対抗する考へから起つたのであるらしいが、夫から以後、即ち天明前後から天保あたりへ懸けての侠客といふものは多くは博徒のやうな類である。即ち之を分類すれば、徳川初期のは強い圧迫に対する強い反抗の体現であつて、其の物の本当の意味からすれば、強い者に当る必要上真実に強きものたるを主とするは勿論であるが、真実に於ては寧ろ啻に強いことを見得として居る様な傾きのあつた、やゝ虚栄的衒耀的のものであつたらしい。然るに天明あたりからの博徒に至つては、夫れ自らが非常に強い、鷙悍当る可らざるものがあつた。然様判然とした区別は意識的には付かぬまでも、少くとも両時代の侠客には何分かの差違があつたのである。我国で乱離の世と云へば先づ足利の末世を指すのであるが、博奕が此時代から大に盛んになつた。元来戦争其ものが已に一つの大博奕であるからと云ふ訳でも無からうが、梟盧一擲と云ふ冒険的思想は、戦争にも博奕にも通じた同一の根本思想である。此の戦国時代に起つた博奕は、太平の世になつても引続いて勇気の多い、事を好む徒輩の間に盛んに行はれて居たので、尤も元文(吉宗)になつて一度禁制はされたものゝ天明前後(家治)から又た盛んになり、所謂侠客は隠然として博徒の巨魁たる観を呈して居た。
 夫れから第三次の侠客は、諸大名の中に何か一つ事が起ると人夫が必要になる、二本指《にほんざし》の人間は使つて居ても之を雑役には使へぬし、又た俸禄の関係から云つても、平時用の無い時に万一を慮つて沢山の雇人を使つて置くといふことが出来ぬ。其処で臨時の用事が出来ると一時限りの人夫を雇ひ入れる、今日でも兵士の外に軍夫の必要があると同様で、平時でも士分以外のものなどの事故があつて引いたり居なくなつたり為た時分にも、夫れに代へる人間の必要もある、其の需要を満たす為に大名や武門と平民商人との間に、今の雇人口入業とも一緒には言へぬが所謂「人入れ」なる職業があつた。而して其の人入れ親方なるものは、職業の性質上どうしても侠客肌の者で無ければならぬ処から、斯う云ふ種類の親方なるものは大抵侠客の名を以て呼ばれたもので、たとへば近世の大侠客相政の如きも亦た土州侯の人入れであつたし、新門辰五郎の如きも矢張りたゞの博徒ではない。此等は寧ろ前述の博徒などとは全く訳が違ふのである。凡て侠客には此の一種類がある。以上で三種あつた訳だ。
 夫れで古い書物に見える初期の侠客は、「武野俗談」などにあるのであるが、正確の事実は能く解らぬ。之は古の談話製造家が面白く書き出したもので、尤も多少の事実はあつたにした処が正確なことは解つて居らぬ。西鶴も武士とか商人とか色※[#二の字点、1-2-22]な階級を一つづゝに纏めて、其の特性|気質《かたぎ》をいかにも綿密に巧みに書き表はして居る「武道伝来記」とか「世間胸算用」とか、其他にも色※[#二の字点、1-2-22]あるが、どうも侠客を専門にまとめて書いたものは一つも無い。近松のものでも全く無いといふでは無いが、後の講談師の述べるやうな侠客は描いて居らぬ。之は一つは地方的関係もあらうが、兎に角初期の侠客の面目は解つて居らぬ。多少雑劇などに残つてる計りで、今日からは精確の状態は知り難いのである。
 然るに天明以後に顕はれる博徒の事蹟になると、之は多少明白になつて来る。殊に講釈師の飯の種になつて居る博徒は最も多く関東に居り、関東でも甲州、上州、野州、常州などいふ国は、侠客や博徒の名に連れて必ず呼び出されるのは余程面白いことである。之には一つの理由のあることで、博徒の非常に横行する処には必らず有名な山がある。常陸には筑波山、上総には鹿野山、上州には榛名、赤城、野州には日光、甲州には山が到る処にある。而して此等の山の上には山神のあるのみではない、山に相当した駅場のやうな町が建つて居て、其の盛んな所には、おじやれや遊女の様な者までがある。斯うした場所は皆な恰好な賭場の開かれる地であつて、夫れと共に山の上には山の神を祭つた祠がある、此の山の神の祭日は即ち大賭場の開かれる日で、此日は地方近在の博徒の親分子分が皆な集まる許りで無い、素人即ち所謂「客人」が大金を馬につけて運んで来て、賭博を茲に試みるのを楽しみにして居た。つまり中世乱離の頃は戦争と博奕といふものが密接な関係を有して居たのが、末代太平の世には山の祭と云ふものと博奕とが大きな関係を持つやうになつた。又山は上代にあつては所謂|※[#「女+櫂のつくり」、第3水準1-15-93]歌《かゞひ》や歌垣で、若い男女の縁結《えんむすび》の役目を勤めて居たものだが、末代になつては博徒のために男を磨く戦場の役目を務めて居る。斯《かく》て博奕を為すに適当な便宜のある山は極めて繁昌し、駅場も大きくなつた。夫れで若し山霊をして、当時其の山に開帳された大博奕の光景や各親分の性行を語らしめたならば、講釈師が張扇で叩き出すやうな作り話では無く、本当の面白い侠客伝が何程出来ることであらう。従つて今日存在して居る山の上に在る大きな町で、別に貨物集散の中枢となつた訳でも無く、又別に風景の勝れた為でも無く、神霊灼乎たるわけでもなくて猶ほ盛んなものがあつたならば、夫は大抵博奕の為に出来た町と想像が付く。甲州然り、武州然り、筑波、日光然り。夫れが今日は避暑や逍遥の地になつて居ると云ふも、又た時勢の変遷面白いものではない乎。
 斯《かう》して到る処に博奕が盛んになり博徒が多くなると、自然他所他国の親分達の面を合せる場合も多いから、互に敵愾心も起らう、自負心も負けじ魂も湧かう、勢ひ親分でも子分でも互に人間を磨き、他の組には笑はれまいといふ、無言の中に一致した愛党心も出来る。つまりが互に一種の面目を重んじて、一種の男らしい精神を発揮して来る。所在の子分が亦其の風を聞いて、千里を遠しとせずして有名な親分の下に奔せ集まると云つた姿である。博奕其のものの善悪は論外として、其の親分なるものの性格には洵に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53]《およ》び難い美点があつた。講釈師の捉へた侠客は即ち之れである、此の呼吸を張扇で叩き出して、聴客をして血湧き骨躍らしむるものである。之と違つて、人入れを専門とする者は、多少前者と関聯して居るにしても、表面だけは決して前者のやうな殺伐な振舞が無い、極めて穏かである。たゞ其の全精神は責任の完了、義務の負担を敢てして一歩も後へ退かぬといふことにある。国定忠次、飯岡助五郎、清水次郎長抔は前者の鷙悍なるものであるが、相政などになると後者の雄なるもので、自然其のやり口も形も違つて居る。然し第一流に居る者は大抵穏やかな、思慮も大きくて落着きのある人間で持つて居る。次郎長の如きは、賭場を或所で開く、勝つた人が大金を持つて帰ると途中に危険が多い、夫れを次郎長が心配して少しも危険の無いやうに子分の勇者をして之を護らしめ、行き届いて客人に色※[#二の字点、1-2-22]な世話をしたので、益※[#二の字点、1-2-22]侠名が隆※[#二の字点、1-2-22]と揚つたといふことである。又た後者になると、そんな華※[#二の字点、1-2-22]しい処が無いが、矢張り大勢の子分に親分と立てられるには夫れ相応の力量人格がなければならぬ。紺屋町の相政などは其方で名を為した。又た極く近いところの石定(人入れといふではないが)なども却※[#二の字点、1-2-22]《なか/\》名高く、彼は数年前に死んだが、之れなどは先づ侠客の打止めであらう。侠客も一度講釈師の手に懸ると、何でも火花を散らして戦つてばかりゐるやうになるが、皆が皆さうと云ふ事は無い。互に時勢の差、境遇の差に連れ得意の方面の其の特長を発揮して居るものゝ、其中に大をなして居る者は必ず張良、陳平の徒が多く、水火を踏んで辞せず、剣戟の林に入つて退かざる者は、寧ろ第三流第四流に居る処の樊※[#「口+會」、第3水準1-15-25]、鯨布の徒である。之によつて見ても、若し侠客の本領は此の殺伐の点にのみ存する様に見るならば夫れは大なる間違ひである。たとへば石定などは釣が非常に好きで能く片舟忘機の楽を取つたものだが、船頭等にさへ其の物やさしい、察しのよい呼吸が如何にも穏かなのをなつかしがられた程であつた。然し当人は東京の盛り場を大抵其の縄張り地内として、その勢力の大したものなるは、其の葬の日に歌舞伎座を使用したに照してもわかる。
 其処で今日になると、制度も社会状態も著しい変化を来して、昔の様に山上で賭博を公開する様なことは出来なくなり、各地共博奕は衰退の気運に向つて、先に公開的であつたものは今は奥座敷的になつてゐる。之れは一つは警察制度と関係をして居る。即ち昔の博徒の或者などは、一方で公儀の御用殊に警察の用を足して居て、夫れが引続いて明治に至つた。然るに近来は警察の方針が全く違つて来て、あゝ云ふ性質の者はどし/\圧迫して止まぬから、侠客は益※[#二の字点、1-2-22]窮境に居るが、自分は斯《こん》なに苦める結果は何様変形するかと危み思ふ。夫れは余談であるが、先づ大名や武士が無くなつて人入れの必要も無くなつて、其の方面の侠客は亡せ、賭博の公開が出来ぬやうになつて、在来の姿で往くことは出来ぬので博徒の巨豪は尽きて了つた。然し講釈師が之を唯一の材料として、国民少くとも市井の人※[#二の字点、1-2-22]の元気精神を鼓舞することは暫く止むまい。又た事実に於ても此侠客気質の幾部分は、形骸を土木の労働者、鉱山の人夫などに止《とゞ》めて暫らくは存在しやう。彼等の間には彼等土木業者鉱夫の如きものの間にすら通有な、礼儀があり契約があり、若し之に背けば厳重な制裁を蒙る。まして真の侠客肌の親分子分の情誼などは実に篤いもので、又意気相許した親分の為とあらば如何なる事にも身を投ずることを辞せぬ。二十年も前であつたらう、桃川燕林が上野広小路の吹ぬきといふ寄席で次郎長の伝を演じた。すると毎日のやうに其の高座の前に、一見恐ろしい容貌をした男が六七人来て聞いて居る。怪んで之を質して見ると、夫れは次郎長の子分共で、若し少しでも間違つた事を云つたなら、直ぐ高座へ躍り上つて燕林を責め糺す気であつたらしいが、燕林の調査が行届いて居て余り間違ひの無いのに感服して帰つて行つたといふ事があつた位である。
 尤も関東ばかりが侠客が跋扈したと云ふでは無い、京大阪にも侠客はある。又た所謂たゞの博徒の種類で侠客と称するには足らぬか知らぬが、十年も前には女の親分さへ山形にあつた位で、福島以北にも可なりの博徒はあつたらしいが、何を云つても関東が一番盛んであつた。今日講談師が地方を廻ると、やゝもすれば其土地の古侠客の話を望まれる。若し有名の親分の話を知らぬ者ならば直ぐ追出され兼ねもしない。所で講談師も商売柄、能く種※[#二の字点、1-2-22]の談を知つても居れば、また心ある者は土地の人に尋ねて種※[#二の字点、1-2-22]詮索もする。して見れば彼の講談と云ふ物も全く事実の無い事では無いのであるが、若し此処に本当の風俗家が居て、所※[#二の字点、1-2-22]を廻つて今の中に侠客や博徒の歴史を尋ねて歩行《ある》いたならば、余程宜しい材料が得られる事であらうと思ふ。之を要するに、若し徳川の文学や小説から侠客と仇討を除いたならば、其の余は極めて索寞たるものであらうと思はれる。
 夫れから支那に侠客が在つたかの問題になると、之は何とも言ひ兼ねる。然し太史公の書いたものもあれば、又其の後のものにも劒侠などいふ者が出没して居るが、支那の劒侠は日本のに比すればどうも神仙的、且つは超世的で、其上之と云つた思想上の社会的の関係が薄い、系統がたしかで無い。然るに日本のは義勇任侠などの血脈が終始一貫して居る。武士に武士道の存するが如く、侠客には侠客道が儼然として居る。之は確かに日本人の間に生じた一特質として、他国に類の無い者と云つて宜しからう。唯だ日本の侠客、少くとも勇み肌の人間に対し、「水滸伝」が陰に陽に感化を与へた、其の勢力の莫大なことを看過する訳には往かぬ。「水滸伝」の翻訳したのは馬琴蘭山を待つて大に行はれたのであるが、其の後盛んに芝居にも行はれ、魯智深、史進、李逵、浪裡白跳張順など痛く彼等の理想に投じたものがあつたらしく、其の背に彼等の花繍などをせぬならば、大哥の面目を損じた様な風を形づくつた。徳川末期の市井の状態の書き物を見ると、斯んな風俗が盛んに行はれた事が解る。又た「水滸伝」に傚つて、「天保水滸伝」何水滸伝と云ふ類が盛んに出て来たことも多少は察せられる。之は偶然な事乍ら一寸面白い現象であつたと思ふ。
                         (明治四十四年一月)

底本:「日本の名随筆 別巻94 江戸」作品社
   1998(平成10)年12月25日発行
底本の親本:「露伴全集 第二四巻」岩波書店
   1954(昭和29)年6月
入力:加藤恭子
校正:浦田伴俊
2000年12月12日公開
2012年5月12日修正
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幸田露伴

菊 食物としての—— 幸田露

 菊の季節になつた。其のすが/\しい花の香や、しをらしい花の姿、枝ぶり、葉の色、いづれか人の心持ちを美しい世界に誘はぬものはない。然《しか》し取訳《とりわけ》菊つくりの菊には俗趣の厭ふべき匂《におい》が有ることもある。特《こと》に此頃流行の何玉何々玉といふ類、まるで薬玉《くすだま》かなんぞのやうなのは、欧羅巴《ヨーロッパ》から出戻りの種で、余り好い感じがしないが、何でも新しいもの好きの人々の中には八九年来此のダリヤ臭い菊がもて囃される。濃艶だからであらう。けれども美しい方へかけては最も進歩した二色もの、花弁の表裏が色を異にする蜀紅などの古いものからしてが、そも/\菊の有《も》つ本性の美とは少し異つた方面へ発達したもののやうに思へる。これも老人の感情か知らぬ。陶淵明は菊を愛したので知れた古い人だが、淵明の愛した菊は何様《どのよう》な菊だつたか不明である。云伝へでは後の大笑菊といふのであるとされてゐるが、それならばむしろ其花はさして立派でもない小さな菊である。あの風流の人が営々として花作の爺さんのやうに齷齪《あくせく》したらうとも思はれないから、自然づくり、お手数かけずのヒョロケ菊かモジャモジャ菊かバサケ菊で、それのおのづからに破れ籬《まがき》かなんかに倚《よ》りかゝり咲きに星光日精の美をあらはしたのを賞美したことだらうと想はれて、宋の詩人の笵石湖のやうに園芸美の満足を求めた菊つくりではなかつたらうと想はれるが、これは果たして当つていゐるか何様か知れない。
 菊をたべるといふことになると聊《いささ》か野蛮で小愧《こはず》かしいやうな気もせぬではないが、お前死んでも寺へはやらぬ焼いて粉にして酒で飲むといふ戯れ唄の調子とも違ひはするが、愛のはてが萎れ姿を眼にするよりも一寸のわざくれに摘んで取つて其清香秀色を口にするのもさして咎めるにも及ぶまい。既に楚辞にも、秋菊の落英を餐《く》ふ、とある位だ。ところが、此の落英の落の字が厄介で、菊ははら/\と落ちるものではないから、落は先日某君から質問された「チヌル」の事に関係のある落成の落の字と見なして、落英は即ち咲いた花だといふ説もあるが、何だかおちつきの悪い解ではある。菊の花の落ちる落ちぬについては、後に王安石と蘇東坡との間に軽い争があつた談などもあるが、話の横道入りを避けて今は抛って置く。さて、たべる菊は普通は黄の千葉又は万葉の小菊で、料理菊と云つて市場にも出て来るのであるが、それは下物《さかな》のツマにしか用ゐられぬ、あまり褒めたものではない。稀に三杯酢、二杯酢などの※[#「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1-91-44]物《ひたしもの》として、小皿、小猪口に単用されることもあるが、それにしても話題になるほどではない。たゞし菊には元来甘いと苦いとの二種あること瓢《ひさご》の如くであつて、又|恰《あたか》も瓢の形の良いのには苦性《にがだち》のものが多くて、酒を入れると古くなつてゐても少し苦味を帯びさせるが如く、菊も兎角花の大にして肉厚く色好いものには苦いのが多い。といつて甘い菊にも類が多いから、普通料理菊の如くに平々凡々の何の奇無きもののみではない。秋田の佐々木氏から得た臙脂色の菊の管状弁の長さ六寸に余つて肉の厚いものなどは、実に美観でもあり美味でもあつた。菊、※[#「くさかんむり/意」、第3水準1-91-30]の二字ある位であるから、其他にも大菊の中で甘いものが折々ある。此等の菊は梅の肉で保たせると百日にも余つて其の色香を保つことが出来るものであるから、我等の如き富まぬ者の寒厨からも随時に一寸おもしろい下物を得られるのである。花で味のよいものは何と云つても牡丹であるが、これは力よく之を得るに及びやすい訳にゆかぬ。ゆふ菅《すげ》の花も微甘でもあり、微気の愛すべきものがあつて宜いが、併《しか》し要するに山人のかすけき野饌である。甘菊の大なるものは実に嬉しいものである。一坪の庭も無い家へ急に移つた時に一切の菊を失つて終つてから、今はもう自分は一株の甘菊をも有たぬが、秋更けて酒うまき時、今はたゞ料理菊でもない抛つたらかし咲かせの白き小菊の一二輪を咬んで一盞《いつさん》を呷る[#「呷る」は底本では「呻る」]と、苦い、苦い、それでも清香歯牙に浸み腸胃に透つて、味外の味に淡い悦びを覚える。
 菊の名はいろ/\むづかしいのがあるが、無くもがなと嵐雪に喝破された二百年余のむかしから、今にいろ/\と猶更むづかしいのが出来る。そして古い名は果して其実を詮してゐるか何様か分らなくなつて終ふ。たべる菊、薬用の菊としては「ぬれ鷺」といふ菊が、徳川期の名で、良いものとして伝へられてゐる。所以《ゆえん》なくしてぬれ鷺の名が伝へられてゐるのではあるまいから、何様かしてそれを得て見たいと思つたのも久しいことであるが、ほんとのそれらしいのには遇はずじまひになりさうだ。薬用になるといふのは必ず菊なら菊の其本性の気味を把握してゐることが強いからのことであらう。進歩は進歩だらうが、ダリヤのやうになつた菊よりは、本性の気味を強く把握してゐるものを得て見たい。そんなら野菊や山路菊や竜脳菊で足りるだらうと云はれゝばそれも然様《さよう》である、富士菊や戸隠菊を賞してそれで足りる、それも然様である。
                         (昭和七年十一月)

底本:「花の名随筆10 十月の花」作品社
   1999(平成11)年9月10日第1刷発行
底本の親本:「露伴全集 第三十巻」岩波書店
   1954(昭和29)年7月初版発行
入力:門田裕志
校正:LM3
2001年12月26日公開
2012年5月11日修正
青空文庫作成ファイル:
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幸田露伴

雁坂越 ——幸田露伴

   その一

 ここは甲州《こうしゅう》の笛吹川《ふえふきがわ》の上流、東山梨《ひがしやまなし》の釜和原《かまわばら》という村で、戸数《こすう》もいくらも無い淋《さみ》しいところである。背後《うしろ》は一帯《いったい》の山つづきで、ちょうどその峰通《みねどお》りは西山梨との郡堺《こおりざかい》になっているほどであるから、もちろん樵夫《きこり》や猟師《りょうし》でさえ踏《ふ》み越《こ》さぬ位の仕方の無い勾配《こうばい》の急な地で、さて前はというと、北から南へと流れている笛吹川の低地《ひくち》を越してのその対岸《むこう》もまた山々の連続《つながり》である。そしてこの村から川上の方を望めば、いずれ川上の方の事だから高いには相違《そうい》ないが、恐《おそ》ろしい高い山々が、余り高くって天に閊《つか》えそうだからわざと首を縮《すく》めているというような恰好《かっこう》をして、がん張《ば》っている状態《ありさま》は、あっちの邦土《くに》は誰《だれ》にも見せないと、意地悪く通《とお》せん坊《ぼう》をしているようにも見える位だ。その恐ろしい山々の一《ひ》ト列《つらな》りのむこうは武蔵《むさし》の国で、こっちの甲斐《かい》の国とは、まるで往来《ゆきかい》さえ絶えているほどである。昔時《むかし》はそれでも雁坂越と云《い》って、たまにはその山を越して武蔵へ通った人もあるので、今でも怪《あや》しい地図に道路《みち》があるように書いてあるのもある。しかしこの釜和原から川上へ上《のぼ》って行くと下釜口《しもかまぐち》、釜川《かまがわ》、上釜口《かみかまぐち》というところがあるが、それで行止りになってしまうのだから、それから先はもうどこへも行きようは無いので、川を渡《わた》って東岸《ひがしぎし》に出たところが、やはり川下へ下《さが》るか、川浦《かわうら》という村から無理に東の方へ一ト山越して甲州|裏街道《うらかいどう》へと出るかの外には路《みち》も無いのだから、今では実際雁坂越の道は無いと云った方がよいのである。こういうように三方は山で塞《ふさ》がっているが、ただ一方川下の方へと行けば、だんだんに山合《やまあい》が闊《ひろ》くなって、川が太《ふと》って、村々が賑《にぎ》やかになって、ついに甲州街道へ出て、それから甲斐一国の都会《みやこ》の甲府《こうふ》に行きつくのだ。笛吹川の水が南へ南へと走って、ここらの村々の人が甲府甲府と思っているのも無理は無いのである。
 釜和原はこういったところであるから、言うまでも無く物寂《ものさ》びた地だが、それでも近い村々に比べればまだしもよい方で、前に挙《あ》げた川上の二三ヶ村はいうに及《およ》ばず、此村《これ》から川下に当る数ヶ村も皆この村には勝らないので、此村《ここ》にはいささかながら物を売る肆《みせ》も一二|軒《けん》あれば、物持だと云われている家《うち》も二三|戸《こ》はあるのである。
 今この村の入口へ川上の方から来かかった十三ばかりの男の児《こ》がある。山間僻地《さんかんへきち》のここらにしてもちと酷過《ひどす》ぎる鍵裂《かぎざき》だらけの古布子《ふるぬのこ》の、しかもお坊《ぼう》さんご成人と云いたいように裾短《すそみじか》で裄短《ゆきみじか》で汚《よご》れ腐《くさ》ったのを素肌《すはだ》に着て、何だか正体の知れぬ丸木《まるき》の、杖《つえ》には長く天秤棒《てんびんぼう》には短いのへ、五合樽《ごんごうだる》の空虚《から》と見えるのを、樹《き》の皮を縄《なわ》代《がわ》りにして縛《くく》しつけて、それを担《かつ》いで、夏の炎天《えんてん》ではないからよいようなものの跣足《すあし》に被《かぶ》り髪《がみ》――まるで赤く無い金太郎《きんたろう》といったような風体《ふうてい》で、急足《いそぎあし》で遣《や》って来た。
 すると路《みち》の傍《そば》ではあるが、川の方へ「なだれ」になっているところ一体に桑《くわ》が仕付《しつ》けてあるその遥《はるか》に下の方の低いところで、いずれも十三四という女の児が、さすがに辺鄙《ひな》でも媚《なまめ》き立つ年頃《としごろ》だけに紅《あか》いものや青いものが遠くからも見え渡る扮装《つくり》をして、小籃《こかご》を片手に、節こそ鄙《ひな》びてはおれど清らかな高い徹《とお》る声で、桑の嫩葉《わかば》を摘《つ》みながら歌を唄《うた》っていて、今しも一人《ひとり》が、

と唱い終ると、また他の一人が声張り上げて、

   わかりやすくたしぁ桑摘む主《ぬし》ぁ※[#「坐+りっとう」、第3水準1-14-62、52-2]《きざ》まんせ、春蚕《はるご》上簇《あが》れば二人《ふたり》着る。


   桑を摘め摘め、爪紅《つまべに》さした 花洛《みやこ》女郎衆《じょろしゅ》も、桑を摘め。

と唱ったが、その声は実に前の声にも増して清い澄《す》んだ声で、断《た》えず鳴る笛吹川の川瀬《かわせ》の音をもしばしは人の耳から逐《お》い払ってしまったほどであった。
 これを聞くとかの急ぎ歩《あし》で遣って来た男の児はたちまち歩みを遅《おそ》くしてしまって、声のした方を見ながら、ぶらりぶらりと歩くと、女の児の方では何かに打興《うちきょう》じて笑い声を洩《も》らしたが、見る人ありとも心付かぬのであろう、桑の葉《は》越《ごし》に紅いや青い色をちらつかせながら余念も無しに葉を摘むと見えて、しばしは静《しずか》であったが、また前の二人《ふたり》とは違《ちが》った声で、


    桑は摘みたし梢《こずえ》は高し、

と唄い出したが、この声は前のように無邪気《むじゃき》に美しいのでは無かった。そうするとこれを聞いたこなたの汚《きたな》い衣服《なり》の少年は、その眼鼻立《めはなだち》の悪く無い割には無愛想《ぶあいそう》で薄淋《うすさみ》しい顔に、いささか冷笑《あざわら》うような笑《わらい》を現わした。唱《うた》の主《ぬし》はこんな事を知ろうようは無いから、すぐと続いて、


   誰に負われて摘んで取ろ。

と唄い終ったが、末の摘んで取ろの一句だけにはこちらの少年も声を合わせて弥次馬《やじうま》と出掛《でか》けたので、歌の主は吃驚《びっくり》してこちらを透《す》かして視《み》たらしく、やがて笑いを帯びた大きな声で、
「源三《げんぞう》さんだよ、憎《にく》らしい。」
と誰に云ったのだか分らない語《ことば》を出しながら、いかにも蓮葉《はすは》に圃《はたけ》から出離れて、そして振り返って手招《てまね》ぎをして、
「源三さんだって云えば、お浪《なみ》さん。早く出てお出《い》でなネ。ホホわたし達が居るものだから羞《はずか》しがって、はにかんでいるの。ホホホ、なおおかしいよこの人は。」
と揶揄《からか》ったのは十八九のどこと無く嫌味《いやみ》な女であった。
 源三は一向|頓着《とんじゃく》無く、
「何云ってるんだ、世話焼め。」
と口の中《うち》で云い棄《す》てて、またさっさと行き過ぎようとする。圃の中からは一番最初の歌の声が、
「何だネお近《ちか》さん、源三さんに託《かこつ》けて遊んでサ。わたしやお前はお浪さんの世話を焼かずと用さえすればいいのだあネ。サアこっちへ来てもっとお採《と》りよ。」
と少し叱《しか》り気味《ぎみ》で云うと、
「ハイ、ハイ、ご道理《もっとも》さまで。」
と戯《たわむ》れながらお近はまた桑を採りに圃へ入る。それと引違えて徐《しずか》に現れたのは、紫《むらさき》の糸のたくさんあるごく粗《あら》い縞《しま》の銘仙《めいせん》の着物に紅気《べにっけ》のかなりある唐縮緬《とうちりめん》の帯を締《し》めた、源三と同年《おないどし》か一つも上であろうかという可愛《かわい》らしい小娘である。
 源三はすたすたと歩いていたが、ちょうどこの時虫が知らせでもしたようにふと振返《ふりかえ》って見た。途端《とたん》に罪の無い笑は二人の面に溢《あふ》れて、そして娘の歩《あし》は少し疾《はや》くなり、源三の歩《あし》は大《おおい》に遅《おそ》くなった。で、やがて娘は路《みち》――路といっても人の足の踏《ふ》む分だけを残して両方からは小草《おぐさ》が埋《うず》めている糸筋《いとすじ》ほどの路へ出て、その狭《せま》い路を源三と一緒《いっしょ》に仲好く肩を駢《なら》べて去った。その時やや隔《へだ》たった圃の中からまた起った歌の声は、


    わたしぁ桑摘む主ぁ※[#「坐+りっとう」、第3水準1-14-62、55-3]まんせ、春蚕上簇れば二人着る。

という文句を追いかけるように二人の耳へ送った。それは疑いも無くお近の声で、わざと二人に聞かせるつもりで唱ったらしかった。

   その二

「よっぽど此村《こっち》へは来なかったネ。」
と、浅く日の射《さ》している高い椽側《えんがわ》に身を靠《もた》せて話しているのはお浪で、此家《ここ》はお浪の家《うち》なのである。お浪の家は村で指折《ゆびおり》の財産《しんだい》よしであるが、不幸《ふしあわせ》に家族《ひと》が少くって今ではお浪とその母とばかりになっているので、召使《めしつかい》も居れば傭《やとい》の男女《おとこおんな》も出入《ではい》りするから朝夕などは賑《にぎや》かであるが、昼はそれぞれ働きに出してあるので、お浪の母が残っているばかりで至って閑寂《しずか》である。特《こと》に今、母はお浪の源三を連れて帰って来たのを見て、わたしはちょいと見廻《みまわ》って来るからと云って、少し離《はな》れたところに建ててある養蚕所《ようさんじょ》を監視《みまわり》に出て行ったので、この広い家に年のいかないもの二人|限《きり》であるが、そこは巡査《おまわり》さんも月に何度かしか回って来ないほどの山間《やまあい》の片田舎《かたいなか》だけに長閑《のんき》なもので、二人は何の気も無く遊んでいるのである。が、上れとも云わなければ茶一つ出そうともしない代り、自分も付合って家へ上りもしないでいるのは、一つはお浪の心安立《こころやすだて》からでもあろうが、やはりまだ大人《おとな》びぬ田舎娘の素樸《きじ》なところからであろう。
 源三の方は道を歩いて来たためにちと脚《あし》が草臥《くたびれ》ているからか、腰《こし》を掛《か》けるには少し高過ぎる椽の上へ無理に腰を載《の》せて、それがために地に届かない両脚をぶらぶらと動かしながら、ちょうどその下の日当りに寐《ね》ている大《おおき》な白犬の頭を、ちょっと踏んで軽《かろ》く蹴《け》るように触《さわ》って見たりしている。日の光はちょうど二人の胸あたりから下の方に当っているが、日ざしに近くいるせいだか二人とも顔が薄《うっす》りと紅くなって、特《こと》に源三は美しく見える。
「よっぽどって、そうさ五日《いつか》六日《むいか》来なかったばかりだ。」
と源三はお浪の言葉に穏《おだ》やかに答えた。
「そんなものだったかネ、何だか大変長い間見えなかったように思ったよ。そして今日《きょう》はまた定《きま》りのお酒買いかネ。」
「ああそうさ、厭《いや》になっちまうよ。五六日は身体《からだ》が悪いって癇癪《かんしゃく》ばかり起してネ、おいらを打《ぶ》ったり擲《たた》いたりした代りにゃあ酒買いのお使いはせずに済《す》んだが、もう癒《なお》ったからまた今日《きょう》っからは毎日だろう。それもいいけれど、片道一里もあるところをたった二合ずつ買いに遣《よこ》されて、そして気むずかしい日にあ、こんなに量りが悪いはずはねえ、大方《おおかた》途中《とちゅう》で飲んだろう、道理で顔が赤いようだなんて無理を云って打撲《ぶんなぐ》るんだもの、ほんとに口措《くやし》くってなりやしない。」
「ほんとに嫌《いや》な人だっちゃない。あら、お前の頸《くび》のところに細長い痣《あざ》がついているよ。いつ打《ぶ》たれたのだい、痛そうだねえ。」
と云いながら傍《そば》へ寄って、源三の衣領《えり》を寛《くつろ》げて奇麗《きれい》な指で触ってみると、源三はくすぐったいと云ったように頸を縮《すく》めて障《さえぎ》りながら、
「お止《よし》よ。今じゃあ痛くもなんともないが、打たれた時にあ痛かったよ。だって布袋竹《ほていちく》の釣竿《つりざお》のよく撓《しな》う奴《やつ》でもってピューッと一ツやられたのだもの。一昨々日《さきおととい》のことだったがね、生《なま》の魚が食べたいから釣って来いと命令《いいつ》けられたのだよ。風が吹《ふ》いて騒《ざわ》ついた厭な日だったもの、釣れないだろうとは思ったがね、愚図愚図《ぐずぐず》していると叱《しか》られるから、ハイと云って釣には出たけれども、どうしたって日が悪いのだもの、釣れやしないのさ。夕方まで骨を折って、足の裏が痛くなるほど川ん中をあっちへ行ったりこっちへ行ったりしたけれども、とうとう一尾《いっぴき》も釣れずに家へ帰ると、サア怒《おこ》られた怒られた、こん畜生《ちくしょう》こん畜生と百ばかりも怒鳴《どな》られて、香魚《あゆ》や山※[#「魚へん+完」、第4水準2-93-48、58-7]《やまめ》は釣れないにしても雑魚《ざこ》位釣れない奴があるものか、大方遊んでばかりいやがったのだろう、この食《く》い潰《つぶ》し野郎《やろう》めッてえんでもって、釣竿を引奪《ひったく》られて、逃《に》げるところを斜《はす》に打《ぶ》たれたんだ。切られたかと思ったほど痛かったが、それでも夢中《むちゅう》になって逃げ出すとネ、ちょうど叔父《おじ》さんが帰って来たので、それで済《す》んでしまったよ。そうすると後で叔父さんに対《むか》って、源三はほんとに可愛《かわい》い児ですよ、わたしが血の道で口が不味《まず》くってお飯《まんま》が食べられないって云いましたらネ、何か魚でも釣って来てお菜《さい》にしてあげましょうって今まで掛《かか》って釣をしていましたよ、運が悪くって一尾《いっぴき》も釣れなかったけれども、とさもさも自分がおいらによく思われていでもするように云うのだもの、憎くって憎くってなりあしなかった。それもいいけれど、何ぞというと食い潰しって云われるなあ腹が立つよ。過日《こないだ》長六爺《ちょうろくじじい》に聞いたら、おいらの山を何町歩《なんちょうぶ》とか叔父さんが預《あず》かって持っているはずだっていうんだもの、それじゃあおいらは食潰しの事は有りあしないじゃあないか。家の用だって随分《ずいぶん》たんとしているのに、口穢《くちぎたな》く云われるのが真実《ほんと》に厭だよ。おまえの母《おっか》さんはおいらが甲府へ逃げてしまって奉公《ほうこう》しようというのを止めてくれたけれども、真実《ほんと》に余所《よそ》へ出て奉公した方がいくらいいか知れやしない。ああ家に居たくない、居たくない。」
と云いながら、雲は無いがなんとなく不透明《ふとうめい》な白みを持っている柔和《やわらか》な青い色の天《そら》を、じーっと眺《なが》め詰《つ》めた。お浪もこの夙《はや》く父母《ちちはは》を失った不幸の児が酷《むご》い叔母《おば》に窘《くるし》められる談《はなし》を前々から聞いて知っている上に、しかも今のような話を聞いたのでいささか涙《なみだ》ぐんで茫然《ぼうぜん》として、何も無い地《つち》の上に眼を注いで身動もしないでいた。陽気な陽気な時節ではあるがちょっとの間はしーんと静になって、庭の隅《すみ》の柘榴《ざくろ》の樹《き》の周《まわ》りに大きな熊蜂《くまばち》がぶーんと羽音《はおと》をさせているのが耳に立った。

   その三

 色々な考えに小《ちいさ》な心を今さら新《あらた》に紛《もつ》れさせながら、眼ばかりは見るものの当《あて》も無い天《そら》をじっと見ていた源三は、ふっと何《なん》の禽《とり》だか分らない禽の、姿も見えるか見えないか位に高く高く飛んで行くのを見つけて、全くお浪に対《むか》ってでは無い語気で、
「禽は好《い》いなア。」
と呻《うめ》き出した。
「エッ。」
と言いながら眼を挙《あ》げて源三が眼の行く方《かた》を見て、同じく禽の飛ぶのを見たお浪は、たちまちにその意《こころ》を悟《さと》って、耐《た》えられなくなったか※[#「さんずい+玄」、第3水準1-86-62、60-10]然《げんぜん》として涙を堕《おと》した。そして源三が肩先《かたさき》を把《とら》えて、
「またおまえは甲府へ行ってしまおうと思っているね。」
とさも恨《うら》めしそうに、しかも少しそうはさせませぬという圧制《あっせい》の意の籠《こも》ったような語《ことば》の調子で言った。
 源三はいささかたじろいだ気味で、
「なあに、無暗《むやみ》に駈《か》け出して甲府へ行ったっていけないということは、お前の母様《おっかさん》の談《はなし》でよく解《わか》っているから、そんな事は思ってはいないけれど、余《あんま》り家に居て食い潰し食い潰しって云われるのが口惜《くやし》いから、叔父さんにあ済まないけれどどこへでも出て、どんな辛《つら》い思いをしても辛棒《しんぼう》をして、すこしでもいいから出世したいや。弱虫だ弱虫だって衆《みんな》が云うけれど、おいらだって男の児だもの、窘《いじ》められてばかりいたかあ無いや。」
と他《ひと》の意《こころ》に逆《さか》らわぬような優しい語気ではあるが、微塵《みじん》も偽《いつわ》り気《げ》は無い調子で、しみじみと心の中《うち》を語った。
 そこで互《たがい》に親み合ってはいても互に意《こころ》の方向《むき》の異《ちが》っている二人の間に、たちまち一条の問答が始まった。
「どこへでも出て辛棒をするって、それじゃあやっぱり甲府へ出ようって云うんじゃあないか。」
とお浪は云い切って、しばし黙《だま》って源三の顔を見ていたが、源三が何とも答えないのを見て、
「そーれご覧《らん》、やっぱりそうしようと思っておいでのだろう。それあおまえも、品質《もの》が好いからって二合ばかりずつのお酒をその度々《たびたび》に釜川から一里もあるこの釜和原まで買いに遣《よこ》すような酷《ひど》い叔母様《おばさん》に使われて、そうして釣竿で打《ぶ》たれるなんて目に逢うのだから、辛《つら》いことも辛いだろうし口惜《くや》しいことも口惜しいだろうが、先日《せん》のように逃げ出そうと思ったりなんぞはしちゃあ厭だよ。ほんとに先日《いつか》の夜《ばん》だって吃驚《びっくり》したよ。いくら叔母さんが苛《ひど》いったって雪の降ってる中を無暗に逃げ出して来て、わたしの家《とこ》へも知らさないで、甲府へ出てしまって奉公しようと思うとって、夜にもなっているのにそっと此村《ここ》を通り抜けてしまおうとしたじゃあないか。吾家《うち》の母《おっか》さんが与惣次《よそうじ》さんところへ招《よ》ばれて行った帰路《かえり》のところへちょうどおまえが衝突《ぶつか》ったので、すぐに見つけられて止められたのだが、後で母様《おっかさん》のお話にあ、いくら下りだって甲府までは十里近くもある路を、夜にかかって食物の準備《ようい》も無いのに、足ごしらえも無しで雪の中を行こうとは怜悧《りこう》のようでも真実《ほんと》に児童《こども》だ、わたしが行き合って止めでもしなかったらどんな事になったか知れやしない、思い出しても怖《おそろ》しい事だと仰《おっし》ゃったよ。そればかりじゃあ無い、奉公をしようと云ったって請人《うけにん》というものが無けりゃあ堅《かた》い良い家《うち》じゃあ置いてくれやしないし、他人ばかりの中へ出りゃあ、この児はこういう訳のものだから愍然《かわいそう》だと思ってくれる人だって有りゃあしない。だから他郷《よそ》へ出て苦労をするにしても、それそれの道順を踏《ふ》まなければ、ただあっちこっちでこづき廻《まわ》されて無駄《むだ》に苦しい思《おもい》をするばかり、そのうちにあ碌《ろく》で無い智慧《ちえ》の方が付きがちのものだから、まあまあ無暗に広い世間へ出たって好いことは無い、源さんも辛いだろうがもう少し辛棒していてくれれば、そのうちにあどうかしてあげるつもりだと吾家《うち》の母《おっか》さんがお話しだった事は、あの時の後にもわたしが話したからおまえだって知りきっているはずじゃあ無いかエ。それだのにまだおまえは隙《すき》さえありゃあ無鉄砲《むてっぽう》なことをしようとお思いのかエ。」
と年齢《とし》は同じほどでも女だけにませたことを云ったが、その言葉の端々《はしはし》にもこの女《こ》の怜悧《りこう》で、そしてこの児を育てている母の、分別の賢《かしこ》い女であるということも現れた。
 源三は首を垂《た》れて聞いていたが、
「あの時は夢中になってしまったのだもの、そしてあの時おまえの母様《おっかさん》にいろんな事を云って聞かされたから、それからは無暗の事なんかしようとは思ってやしないのだヨ。だけれどもネ、」
と云いさして云い澱《よど》んでしまった。
「だけれどもどうしたんだエ。ああやっぱり吾家《うち》の母様《おっかさん》の云うことなんか聴《き》かないつもりなのだネ。」
「なあに、なあにそうじゃないけれども、……」
「それ、お見、そうじゃあないけれどもってお云いでも、後の語《ことば》は出ないじゃあないか。」
「…………」
「ほら、ほら、閊《つか》えてしまって云えないじゃあないか。おまえはわたし達にあ秘《かく》していても腹《おなか》ん中じゃあ、いつか一度は、誰の世話にもならないで一人で立派なものになろうと思っているのだネ。イイエ頭を掉《ふ》ってもそうなんだよ。」
「ほんとにそうじゃないって云うのに。」
「イイエ、何と云ってもいけないよ。わたしはチャーンと知っているよ。それじゃあおまえあんまりというものだよ、何もわたし達あおまえの叔母《おば》さんに告口《いつけぐち》でもしやしまいし、そんなに秘《かく》し立《だて》をしなくってもいいじゃあないか。先《せん》の内はこんなおまえじゃあなかったけれどだんだんに酷い人におなりだネエ、黙々《だんまり》で自分の思い通りを押通《おしとお》そうとお思いのだもの、ほんとにおまえは人が悪い、怖《こわ》いような人におなりだよ。でもおあいにくさまだが吾家《うち》の母様《おっかさん》はおまえの心持を見通していらしって、いろいろな人にそう云っておおきになってあるから、いくらお前が甲府の方へ出ようと思ったりなんぞしてもそうはいきません。おまえの居る方から甲府の方へは笛吹川の両岸のほかには路は無い、その路にはおまえに無暗なことをさせないようにと思って見ている人が一人や二人じゃあ無いから、おまえの思うようにあなりあしないヨ。これほどに吾家《うち》の母様《おっかさん》の為《な》さるのも、おまえのためにいいようにと思っていらっしゃるからだとお話があったわ。それだのに禽《とり》を見て独語《ひとりごと》を云ったりなんぞして、あんまりだよ。」
と捲《まく》し立ててなおお浪の言わんとするを抑《おさ》えつけて、
「いいよ、そんなに云わなくったって分っているよ。おいらあ無暗に逃げ出したりなんぞしようと思ってやしないというのに。」
と遮《さえぎ》る。
「おや、まだ強情《ごうじょう》に虚言《うそ》をお吐《つ》きだよ。それほど分っているならなぜ禽はいいなあと云ったり、だけれどもネと云って後の言葉を云えなかったりするのだエ。」
と追窮《ついきゅう》する。追窮されても窘《くるし》まぬ源三は、
「そりゃあただおいらあ、自由自在になっていたら嬉《うれ》しいだろうと思ったからそう云ったのさ。浪ちゃんだってあの禽のように自由だったら嬉しいだろうじゃあないか。」
と云うと、お浪はまた新に涙ぐんで其言《それ》には答えず、
「それ、その通りだもの。おまえにやまだ吾家《うち》の母《おっか》さんだのわたしだのが、どんなにおまえのためを思っているかが解らないのかネエ。真実《ほんと》におまえは自分|勝手《がって》ばかり考えていて、他《ひと》の親切というものは無にしても関《かま》わないというのだネ。おおかたわたし達も誰も居なかったら自由自在だっておまえはお悦《よろこ》びだろうが、あんまりそりゃあ気随《きずい》過《す》ぎるよ。吾家《うち》の母様《おっかさん》もおまえのことには大層心配をしていらしって、も少しするとおまえのところの叔父さんにちゃんと談をなすって、何でもおまえのために悪くないようにしてあげようって云っていらっしゃるのだから、辛いだろうがそんな心持を出さないで、少しの間辛抱おしでなくちゃあ済まないわ。」
としみじみと云うその真情《まごころ》に誘《さそ》い込まれて、源三もホロリとはなりながらなお、
「だって、おいらあ男の児だもの、やっぱり一人で出世したいや。」
と自分の思わくとお浪の思わくとの異《ちが》っているのを悲む色を面《おもて》に現しつつ、正直にしかも剛情《ごうじょう》に云った。その面貌《かおつき》はまるで小児《こども》らしいところの無い、大人《おとな》びきった寂《さ》びきったものであった。
 お浪はこの自己《おのれ》を恃《たの》む心のみ強い言《ことば》を聞いて、驚《おどろ》いて目を瞠《みは》って、
「一人でって、どう一人でもって?」
と問い返したが返辞が無かったので、すぐとまた、
「じゃあ誰の世話にもならないでというんだネ。」
と質《ただ》すと、源三は術《じゅつ》無《なさ》そうに、かつは憐愍《あわれみ》と宥恕《ゆるし》とを乞《こ》うような面《かお》をして微《かすか》に点頭《うなずい》た。源三の腹の中は秘《かく》しきれなくなって、ここに至ってその継子根性《ままここんじょう》の本相《ほんしょう》を現してしまった。しかし腹の底にはこういう僻《ひが》みを持っていても、人の好意に負《そむ》くことは甚《ひど》く心苦しく思っているのだ。これはこの源三が優しい性質《うまれつき》の一角と云おうか、いやこれがこの源三の本来の美しい性質で、いかなる人をも頼《たの》むまいというようなのはかえって源三が性質の中のある一角が、境遇《きょうぐう》のために激《げき》せられて他の部よりも比較的《ひかくてき》に発展したものであろうか。
 お浪は今明らかに源三の本心を読んで取ったので、これほどに思っている自分親子をも胸の奥《おく》の奥では袖《そで》にしている源三のその心強さが怨《うら》めしくもあり、また自分が源三に隔《へだ》てがましく思われているのが悲しくもありするところから、悲痛の色を眉目《びもく》の間《かん》に浮《うか》めて、
「じゃあ吾家《うち》の母様《おっかさん》の世話にもなるまいというつもりかエ。まあ怖しい心持におなりだネエ、そんなに強《きつ》くならないでもよさそうなものを。そんなおまえじゃあ甲府の方へは出すまいとわたし達がしていても、雁坂を越えて東京へも行きかねはしない、吃驚《びっくり》するほどの意地っ張りにおなりだから。」
と云った。すると源三はこれを聞いて愕然《ぎょっ》として、秘せぬ不安の色をおのずから見せた。というものは、お浪が云った語《ことば》は偶然《ぐうぜん》であったのだが、源三は甲府へ逃げ出そうとして意《こころ》を遂《と》げなかった後、恐ろしい雁坂を越えて東京の方へ出ようと試みたことが、既《すで》に一度で無く二度までもあったからで、それをお浪が知っていようはずは無いが、雁坂を越えて云々《しかじか》と云い中《あて》られたので、突然《いきなり》に鋭《するど》い矢を胸の真正中《まっただなか》に射込《いこ》まれたような気がして驚いたのである。
 源三がお浪にもお浪の母にも知らせない位であるから無論誰にも知らせないで、自分一人で懐《いだ》いている秘密《ひみつ》はこうである。一体源三は父母を失ってから、叔母が片付いている縁《えん》によって今の家に厄介《やっかい》になったので、もちろん厄介と云っても幾許《いくばく》かの財産をも預けて寄食していたのだからまるで厄介になったという訳では無いので、そこで叔母にも可愛がらるればしたがって叔父にも可愛がられていたところ、不幸にしてその叔母が病気で死んでしもうて、やがて叔父がどこからか連れて来たのが今の叔母で、叔父は相変らず源三を愛しているに関《かかわ》らず、この叔父の後妻はどういうものか源三を窘《いじ》めること非常なので、源三はついに甲府へ逃《に》げて奉公しようと、山奥の児童《こども》にも似合わない賢《かしこ》いことを考え出して、既にかつて堪《た》えられぬ虐遇《ぎゃくぐう》を被《こうむ》った時、夢中になって走り出したのである。ところが源三と小学からの仲好《なかよし》朋友《ともだち》であったお浪の母は、源三の亡くなった叔母と姉妹《きょうだい》同様の交情《なか》であったので、我《わ》が親かったものの甥《おい》でしかも我が娘の仲好しである源三が、始終|履歴《りれき》の汚《よご》れ臭《くさ》い女に酷《ひど》い目に合わされているのを見て同情《おもいやり》に堪《た》えずにいた上、ちょうど無暗滅法《むやみめっぽう》に浮世《うきよ》の渦《うず》の中へ飛込もうという源三に出会ったので、取りあえずその逸《はや》り気《ぎ》な挙動《ふるまい》を止《とど》めておいて、さて大《おおい》に踏ん込《ご》んでもこの可憫《あわれ》な児を危い道を履《ふ》ませずに人にしてやりたいと思い、その娘のお浪はまたただ何と無く源三を好くのと、かつはその可哀《あわれ》な境遇を気《き》の毒《どく》と思うのとのために、これもまたいろいろに親切にしてやる。これらの事情の湊合《そうごう》のために、源三は自分の唯一《ゆいいつ》の良案と信じている「甲府へ出て奉公住みする」という事をあえてしにくいので、自分が一刻も早く面白くない家を出てしまって世間へ飛び出したいという意《こころ》からは、お浪親子の親切を嬉しいとは思いながら難有迷惑《ありがためいわく》に思う気味もあるほどである。もちろんお浪親子がいかに一本路を見張っているにしても、その眼《め》を潜《くぐ》って甲府へ出ることはそれほど難しいことでは無いが、元は優しいので弱虫弱虫と他《ほか》の児童等《こどもたち》に云われたほどの源三には、その親切なお浪親子の家の傍を通ってその二人を出《だ》し抜《ぬ》くことが出来ないのであった。しかし家に居たく無い、出世がしたい、奉公に出たらよかろうと思わずにはいられない自分の身の上の事情は継続《けいぞく》しているので、小耳に挟《はさ》んだ人の談話《はなし》からついに雁坂を越えて東京へ出ようという心が着いた。
 東京は甲府よりは無論|佳《よ》いところである。雁坂を越して峠《とうげ》向うの水に随《つ》いてどこまでも下れば、その川は東京の中を流れている墨田川《すみだがわ》という川になる川だから自然と東京へ行ってしまうということを聞きかじっていたので、何でも彼嶺《あれ》さえ越せばと思って、前の月のある朝|酷《ひど》く折檻《せっかん》されたあげくに、ただ一人思い切って上りかけたのであった。けれどもそこは小児《こども》の思慮《かんがえ》も足らなければ意地も弱いので、食物を用意しなかったため絶頂までの半分も行かぬ中《うち》に腹は減《へ》って来る気は萎《な》えて来る、路はもとより人跡《じんせき》絶えているところを大概《おおよそ》の「勘《かん》」で歩くのであるから、忍耐《がまん》に忍耐《がまん》しきれなくなって怖《こわ》くもなって来れば悲しくもなって来る、とうとう眼を凹《くぼ》ませて死にそうになって家へ帰って、物置の隅《すみ》で人知れず三時間も寐《ね》てその疲労《つかれ》を癒《いや》したのであった。そこでその四五日は雁坂の山を望んでは、ああとてもあの山は越えられぬと肚《はら》の中で悲しみかえっていたが、一度その意《こころ》を起したので日数《ひかず》の立つ中《うち》にはだんだんと人の談話《はなし》や何かが耳に止まるため、次第次第に雁坂を越えるについての知識を拾い得た。そうするとまたそろそろと勇気《いきおい》が出て来て、家を出てから一里足らずは笛吹川の川添《かわぞい》を上って、それから右手の嶺通《みねどお》りの腰をだんだんと「なぞえ」に上りきれば、そこが甲州|武州《ぶしゅう》の境で、それから東北《ひがしきた》へと走っている嶺を伝わって下って行けば、ついには一つの流《ながれ》に会う、その流に沿《そ》うて行けば大滝村《おおたきむら》、それまでは六里余り無人の地だが、それからは盲目《めくら》でも行かれる楽な道だそうだ、何でも峠《とうげ》さえ越してしまえば、と朝晩雁坂の山を望んでは、そのむこうに極楽でもあるように好ましげに見ていた。
 すると叔父は山|※[#「峠」の「山へん」が「てへん」、第3水準1-84-76、72-5]《かせ》ぎをするものの常で二三日帰らなかったある夜の事であった。叔母の肩《かた》をば揉《も》んでいる中《うち》、夜も大分《だいぶ》に更《ふ》けて来たので、源三がつい浮《うか》りとして居睡《いねむ》ると、さあ恐ろしい煙管《きせる》の打擲《ちょうちゃく》を受けさせられた。そこでまた思い切ってその翌朝《よくあさ》、今度は団飯《むすび》もたくさんに用意する、銭《かね》も少しばかりずつ何ぞの折々に叔父に貰《もら》ったのを溜《た》めておいたのをひそかに取り出す、足ごしらえも厳重にする、すっかり仕度《したく》をしてしまって釜川を背後《うしろ》に、ずんずんずんずんと川上に上った。やがて小《こ》一里も来たところで、さあここらから川の流れに分れて、もう今まで昼となく夜となく眼にしたり耳にしたりしていた笛吹川もこれが見納めとしなければならぬという場所にかかった。そこで歳《とし》こそ往《ゆ》かないが源三もなんとなく心淋しいような感じがするので、川の側《そば》の岩の上にしばし休んで、※[#「革+堂」、第3水準1-93-80、72-14]鞳《どうとう》と流れる水のありさまを見ながら、名づけようを知らぬ一種の想念《おもい》に心を満たしていた。そうするといずくからともなく人声が聞えるようなので、もとより人も通わぬこんなところで人声を聞こうとも思いがけなかった源三は、一度《ひとたび》は愕然《ぎょっ》として驚いたが耳を澄まして聞いていると、上の方からだんだんと近づいて来るその話声は、復《ふたた》び思いがけ無くもたしかに叔父の声音《こわね》だった。そこで源三は川から二三|間《けん》離《はな》れた大きな岩のわずかに裂《さ》け開《ひら》けているその間に身を隠《かく》して、見咎《みとが》められまいと潜《ひそ》んでいると、ちょうど前に我が休んだあたりのところへ腰を下して憩《やす》んだらしくて、そして話をしているのは全《まった》く叔父で、それに応答《うけこた》えをしているのは平生《ふだん》叔父の手下になっては※[#「峠」の「山へん」が「てへん」、第3水準1-84-76、73-8]ぐ甲助《こうすけ》という村の者だった。川音と話声と混《まじ》るので甚《ひど》く聞き辛《づら》くはあるが、話の中《うち》に自分の名が聞えたので、おのずと聞き逸《はず》すまいと思って耳を立てて聞くと、「なあ甲助、どうせ養子をするほども無い財産《しんだい》だから、嚊《かかあ》が勧める嚊の甥なんぞの気心も知れねえ奴《やつ》を入れるよりは、怜悧《りこう》で天賦《たち》の良《い》いあの源三におらが有《も》ったものは不残《みんな》遣《や》るつもりだ。そうしたらあいつの事だから、まさかおらが亡くなったっておらの墓《はか》を草ん中に転《ころ》げさせてしまいもすめえと思うのさ。前の嚊にこそ血筋《ちすじ》は引け、おらには縁の何も無いが、おらあ源三が可愛くって、家へ帰るとあいつめが叔父さん叔父さんと云いやがって、草鞋《わらじ》を解《と》いてくれたり足の泥《どろ》を洗ってくれたり何やかやと世話を焼いてくれるのが嬉しくてならない。子という者あ持ったことも無いが、まあ子も同様に思っているのさ。そこでおらあ、今はもう※[#「峠」の「山へん」が「てへん」、第3水準1-84-76、74-3]がないでも食って行かれるだけのことは有るが、まだ仕合《しあわせ》に足腰も達者だから、五十と声がかかっちゃあ身体《からだ》は太義《たいぎ》だが、こうして※[#「峠」の「山へん」が「てへん」、第3水準1-84-76、74-4]いで山林方《やまかた》を働いている、これも皆《みんな》少《すこし》でも延ばしておいて、源三めに与《や》って喜ばせようと思うからさ。どれどれ今日《きょう》は三四日ぶりで家へ帰って、叔父さん叔父さんてあいつめが莞爾《にこつく》顔を見よう、さあ、もう一服やったら出掛けようぜ」と高話《たかばなし》して、やがて去った。これを聞いていた源三はしくしくしくしくと泣き出したが、程立《ほどた》って力無げに悄然《しょんぼり》と岩の間から出て、流の下《しも》の方をじっと視《み》ていたが、堰《せ》きあえぬ涙《なみだ》を払《はら》った手の甲を偶然《ふっと》見ると、ここには昨夜《ゆうべ》の煙管の痕《あと》が隠々《いんいん》と青く現れていた。それが眼に入るか入らぬに屹《きっ》と頭《かしら》を擡《あ》げた源三は、白い横長い雲がかかっている雁坂の山を睨《にら》んで、つかつかと山手の方へ上りかけた。しかしたちまちにして一ト歩《あし》は一ト歩より遅《おそ》くなって、やがて立止まったかと見えるばかりに緩《のろ》く緩くなったあげく、うっかりとして脱石《ぬけいし》に爪端《つまさき》を踏掛《ふんがけ》けたので、ずるりと滑《すべ》る、よろよろッと踉蹌《よろけ》る、ハッと思う間も無くクルリと転《まわ》ってバタリと倒れたが、すぐには起きも上《あが》り得ないでまず地《つち》に手を突《つ》いて上半身を起して、見ると我が村の方はちょうど我が眼の前に在った。すると源三は何を感じたか滝《たき》のごとくに涙を墜《おと》して、ついには啜《すす》り泣《なき》して止《や》まなかったが、泣いて泣いて泣き尽《つく》した果《はて》に竜鍾《しおしお》と立上って、背中に付けていた大《おおき》な団飯《むすび》を抛《ほう》り捨ててしまって、吾家《わがや》を指して立帰った。そして自分の出来るだけ忠実《まめやか》に働いて、叔父が我が挙動《しうち》を悦んでくれるのを見て自分も心から喜ぶ余りに、叔母の酷《むご》さをさえ忘れるほどであった。それで二度までも雁坂越をしようとした事はあったのであるが、今日まで噫《おくび》にも出さずにいたのであった。
 ただよく愛するものは、ただよく解するものである。源三が懐《いだ》いているこういう秘密を誰から聞いて知ろうようも無いのであるが、お浪は偶然にも云い中《あ》てたのである。しかし源三は我が秘密はあくまでも秘密として保って、お浪との会話《はなし》をいい程《ほど》のところに遮《さえぎ》り、余り帰宅《かえり》が遅くなってはまた叱られるからという口実のもとに、酒店《さかや》へと急いで酒を買い、なお村の尽頭《はずれ》まで連れ立って来たお浪に別れて我が村へと飛ぶがごとくに走り帰った。

   その四

 ちょうどその日は樽《たる》の代り目で、前の樽の口のと異《ちが》った品ではあるが、同じ価《ね》の、同じ土地で出来た、しかも質《もの》は少し佳《よ》い位のものであるという酒店《さかや》の挨拶《あいさつ》を聞いて、もしや叱責《こごと》の種子《たね》にはなるまいかと鬼胎《おそれ》を抱《いだ》くこと大方ならず、かつまた塩《しお》文※[#「遙」の「しんにゅう」が「魚」、第4水準2-93-69、76-5]《とび》を買って来いという命令《いいつけ》ではあったが、それが無かったのでその代りとして勧められた塩鯖《しおさば》を買ったについても一ト方ならぬ鬼胎《おそれ》を抱いた源三は、びくびくもので家の敷居《しきい》を跨《また》いでこの経由《わけ》を話すと、叔母の顔は見る見る恐ろしくなって、その塩鯖の※[#「竹かんむり+擇」、補助5092、76-8]包《かわづつ》みを手にするや否《いな》やそれでもって散々《さんざん》に源三を打《ぶ》った。
 何で打たれても打たれて佳いというものがあるはずは無いが、火を見ぬ塩魚の悪腥《わるなまぐさ》い――まして山里の日増しものの塩鯖の腐《くさ》りかかったような――奴《やつ》の※[#「竹かんむり+擇」、補助5092、76-10]包みで、力任せに眼とも云わず鼻とも云わず打たれるのだから堪《こら》えられた訳のものでは無い。まず※[#「竹かんむり+擇」、補助5092、76-12]《たけのかわ》は幾条《いくすじ》にも割《わ》れ裂《さ》ける、それでもって打たれるので※[#「竹かんむり+擇」、補助5092、76-12]《かわ》の裂目のひりひりしたところが烈《はげ》しく触《さわ》るから、ごくごく浅い疵《きず》ではあるが松葉《まつば》でも散らしたように微疵《かすりきず》が顔へつく。そこへ塩気《しおけ》がつく、腥気《なまぐさっけ》がつく、魚肉《にく》が迸裂《はぜ》て飛んで額際《ひたいぎわ》にへばり着いているという始末、いやはや眼も当てられない可厭《いや》な窘《いじ》めようで、叔母のする事はまるで狂気《きちがい》だ。もちろん源三は先妻の縁引きで、しかも主人《あるじ》に甚《ひど》く気に入っていて、それがために自分がここへ養子に入れて、生活状態《くらしざま》の割には山林《やま》やなんぞの資産の多いのを譲《ゆず》り受けさせようと思っている我が甥がここへ入れないのであるから、憎《にく》いにはあくまで憎いであろうが、一つはこの女の性質が残忍《ざんにん》なせいでもあろうか、またあるいは多くの男に接したりなんぞして自然の法則を蔑視《べっし》した婦人等《おんなたち》は、ややもすれば年老《としお》いて女の役の無くなる頃《ころ》に臨《のぞ》むと奇妙《きみょう》にも心状《こころ》が焦躁《じれ》たり苛酷《いらひど》くなったりしたがるものであるから、この女もまたそれ等《ら》の時に臨んでいたせいででもあろうか、いかに源三のした事が気に入らないにせよ、随分《ずいぶん》尋常外《なみはず》れた責めかたである。
 最初は仕方が無いと諦めて打たれた。二度目は情無いと思いながら打たれた。三度目四度目になれば、口惜しいと思いながら打たれた。それから先はもう死んだ気になってしまって打たれていたが、余りいつまでも打たれている中《うち》に障《ささ》えることの出来ない怒《いかり》が勃然《ぼつぜん》として骨々《ほねぼね》節々《ふしぶし》の中から起って来たので、もうこれまでと源三は抵抗《ていこう》しようとしかけた時、自分の気息《いき》が切れたと見えて叔母は突き放って免《ゆる》した。そこで源三は抵抗もせずに、我を忘れて退いて平伏《ひれふ》したが、もう死んだ気どころでは無い、ほとんど全く死んでいて、眼には涙も持たずにいた。
 その夜源三は眠《ねむ》りかねたが、それでも少年の罪の無さには暁天方《あかつきがた》になってトロリとした。さて目※[#「目へん+屯」、補助4556、78-5]《まどろ》む間も無く朝早く目が覚《さ》めると、平生《いつも》の通り朝食《あさめし》の仕度にと掛ったが、その間々《ひまひま》にそろりそろりと雁坂越の準備《ようい》をはじめて、重たいほどに腫《は》れた我が顔の心地|悪《あ》しさをも苦にぜず、団飯《むすび》から脚《あし》ごしらえの仕度まですっかりして後、叔母にも朝食をさせ、自分も十分に喫《きっ》し、それから隙《すき》を見て飄然《ふい》と出てしまった。
 家を出て二三町歩いてから持って出た脚絆《きゃはん》を締《し》め、団飯《むすび》の風呂敷包《ふろしきづつ》みをおのが手作りの穿替《はきか》えの草鞋《わらじ》と共に頸《くび》にかけて背負い、腰の周囲《まわり》を軽くして、一ト筋の手拭《てぬぐい》は頬《ほお》かぶり、一ト筋の手拭は左の手首に縛《くく》しつけ、内懐《うちぶところ》にはお浪にかつてもらった木綿財布《もめんざいふ》に、いろいろの交《まじ》り銭《ぜに》の一円少し余《よ》を入れたのを確《しか》と納め、両の手は全空《まるあき》にしておいて、さて柴刈鎌《しばかりがま》の柄《え》の小長い奴を右手に持ったり左手に持ったりしながら、だんだんと川上へ登り詰めた。
 やがて前《さき》の日叔父の言《ことば》を聞いて引返したところへかかると、源三の歩みはまた遅くなった。しかし今度は、前の日自分が腰掛けた岩としばらく隠れた大《おおき》な岩とをやや久《ひさ》しく見ていたが、そのあげくに突然と声張り上げて、ちとおかしな調子で、「我は官軍、我が敵は」と叫《さけ》び出して山手へと進んだ。山鳴り谷答えて、いずくにか潜《ひそ》んでいる悪魔《あくま》でも唱い返したように、「我は官軍我敵は」という歌の声は、笛吹川の水音にも紛《まぎ》れずに聞えた。
 それから源三はいよいよ分り難《にく》い山また山の中に入って行ったが、さすがは山里で人となっただけにどうやらこうやら「勘」を付けて上って、とうとう雁坂峠の絶頂へ出て、そして遥《はるか》に遠く武蔵一国が我が脚下《あしもと》に開けているのを見ながら、蓬々《ほうほう》と吹く天《そら》の風が頬被《ほおかぶ》りした手拭に当るのを味った時は、躍《おど》り上《あが》り躍り上って悦んだ。しかしまた振り返って自分等が住んでいた甲斐の国の笛吹川に添う一帯の地を望んでは、黯然《あんぜん》としても心も昧《くら》くなるような気持がして、しかもその薄《うっ》すりと霞んだ霞《かすみ》の底《そこ》から、


   桑を摘め摘め、爪紅さした、花洛《みやこ》女郎衆《じょろしゅ》も、桑を摘め。

と清い清い澄み徹《とお》るような声で唱い出されたのが聞えた。もとより聞えるはずが有ろう訳は無いのであるが。

                         (明治三十六年五月)

底本:「ちくま日本文学全集 幸田露伴」筑摩書房
   1992(平成4)年3月20日第1刷発行
底本の親本:「露伴全集」岩波書店
※底本の「小書き片仮名ト」(JIS X 0213、1-6-81)は、「ト」に置き換えました。但し「トロリ」(底本78ページ-4行)の「ト」を除きます。
※本作品中には、今日では差別的表現として受け取れる用語が使用されています。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、あえて発表時のままとしました。(青空文庫)
入力:kompass
校正:林 幸雄
2001年10月2日公開
2003年11月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

幸田露伴

観画談—— 幸田露伴

 ずっと前の事であるが、或《ある》人から気味合《きみあい》の妙《みょう》な談《はなし》を聞いたことがある。そしてその話を今だに忘れていないが、人名や地名は今は既に林間《りんかん》の焚火《たきび》の煙のように、何処《どこ》か知らぬところに逸《いっ》し去っている。
 話をしてくれた人の友達に某甲《なにがし》という男があった。その男は極めて普通人|型《がた》の出来の好い方《ほう》で、晩学ではあったが大学も二年生まで漕ぎ付けた。というものはその男が最初|甚《はなは》だしい貧家に生れたので、思うように師を得て学に就くという訳《わけ》には出来なかったので、田舎《いなか》の小学を卒《おえ》ると、やがて自活生活に入って、小学の教師の手伝《てつだい》をしたり、村役場《むらやくば》の小役人みたようなことをしたり、いろいろ困苦勤勉の雛型《ひながた》その物の如き月日を送りながらに、自分の勉強をすること幾年であった結果、学問も段※[#二の字点、1-2-22]進んで来るし人にも段※[#二の字点、1-2-22]認められて来たので、いくらか手蔓《てづる》も出来て、終《つい》に上京して、やはり立志篇《りっしへん》的の苦辛《くしん》の日を重ねつつ、大学にも入ることを得るに至ったので、それで同窓《どうそう》中では最年長者――どころではない、五ツも六ツも年上であったのである。蟻《あり》が塔《とう》を造るような遅※[#二の字点、1-2-22]たる行動を生真面目《きまじめ》に取って来たのであるから、浮世の応酬《おうしゅう》に疲れた皺《しわ》をもう額《ひたい》に畳んで、心の中にも他の学生にはまだ出来ておらぬ細かい襞※[#「ころもへん+責」、第3水準1-91-87]《ひだ》が出来ているのであった。しかし大学にある間だけの費用を支えるだけの貯金は、恐ろしい倹約と勤勉とで作り上げていたので、当人は初めて真の学生になり得たような気がして、実に清浄純粋な、いじらしい愉悦と矜持《きょうじ》とを抱いて、余念もなしに碩学《せきがく》の講義を聴いたり、豊富な図書館に入ったり、雑事に侵《おか》されない朝夕《ちょうせき》の時間の中に身を置いて十分に勉強することの出来るのを何よりも嬉《うれ》しいことに思いながら、いわゆる「勉学の佳趣《かしゅ》」に浸《ひた》り得ることを満足に感じていた。そして他の若い無邪気な同窓生から大噐晩成《たいきばんせい》先生などという諢名《あだな》、それは年齢の相違と年寄《としより》じみた態度とから与えられた諢名を、臆病臭い微笑でもって甘受しつつ、平然として独自一個の地歩を占めつつ在学した。実際大噐晩成先生の在学態度は、その同窓間の無邪気な、言い換《かえ》れば低級でかつ無意味な飲食の交際や、活溌な、言い換れば青年的勇気の漏洩《ろうえい》に過ぎぬ運動遊戯の交際に外れることを除けば、何人《なんぴと》にも非難さるべきところのない立派なものであった。で、自然と同窓生もこの人を仲間はずれにはしながらも内※[#二の字点、1-2-22]は尊敬するようになって、甚だしい茶目吉《ちゃめきち》一、二人のほかは、無言の同情を寄せるに吝《やぶさか》ではなかった。
 ところが晩成先生は、多年の勤苦が酬《むく》いられて前途の平坦|光明《こうみょう》が望見《ぼうけん》せらるるようになった気の弛《ゆる》みのためか、あるいは少し度の過ぎた勉学のためか何か知らぬが気の毒にも不明の病気に襲われた。その頃は世間に神経衰弱という病名が甫《はじ》めて知られ出した時分であったのだが、真にいわゆる神経衰弱であったか、あるいは真に漫性胃病であったか、とにかく医博士《いはかせ》たちの診断も朦朧《もうろう》で、人によって異《ことな》る不明の病《やまい》に襲われて段※[#二の字点、1-2-22]衰弱した。切詰《きりつ》めた予算だけしか有しておらぬことであるから、当人は人一倍|困悶《こんもん》したが、どうも病気には勝てぬことであるから、暫《しばら》く学事を抛擲《ほうてき》して心身の保養に力《つと》めるが宜《よ》いとの勧告に従って、そこで山水清閑の地に活気の充ちた天地の※[#「さんずい+景+頁」、第3水準1-87-32]気《こうき》を吸うべく東京の塵埃《じんあい》を背後《うしろ》にした。
 伊豆や相模《さがみ》の歓楽郷兼保養地に遊ぶほどの余裕のある身分ではないから、房総《ぼうそう》海岸を最初は撰《えら》んだが、海岸はどうも騒雑《そうざつ》の気味があるので晩成先生の心に染《そ》まなかった。さればとて故郷の平蕪《へいぶ》の村落に病躯《びょうく》を持帰《もちかえ》るのも厭《いと》わしかったと見えて、野州《やしゅう》上州《じょうしゅう》の山地や温泉地に一日二日あるいは三日五日と、それこそ白雲《はくうん》の風に漂い、秋葉《しゅうよう》の空に飄《ひるがえ》るが如くに、ぶらりぶらりとした身の中に、もだもだする心を抱きながら、毛繻子《けじゅす》の大洋傘《おおこうもり》に色の褪《あ》せた制服、丈夫|一点張《いってんば》りのボックスの靴という扮装《いでたち》で、五里七里歩く日もあれば、また汽車で十里二十里歩く日もある、取止《とりと》めのない漫遊の旅を続けた。
 憫《あわれ》むべし晩成先生、|嚢中自有[#レ]銭《のうちゅうおのずからせんあり》という身分ではないから、随分切詰めた懐《ふところ》でもって、物価の高くない地方、贅沢《ぜいたく》気味のない宿屋※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]を渡りあるいて、また機会や因縁《いんねん》があれば、客を愛する豪家や心置《こころおき》ない山寺なぞをも手頼《たよ》って、遂に福島県宮城県も出抜けて奥州《おうしゅう》の或|辺僻《へんぺき》の山中へ入ってしまった。先生|極《ごく》真面目な男なので、俳句なぞは薄生意気《うすなまいき》な不良老年の玩物《おもちゃ》だと思っており、小説|稗史《はいし》などを読むことは罪悪の如く考えており、徒然草《つれづれぐさ》をさえ、余り良いものじゃない、と評したというほどだから、随分退屈な旅だったろうが、それでもまだしも仕合せな事には少しばかり漢詩を作るので、それを唯一の旅中の楽《たのしみ》にして、※[#「足+禹」、第3水準1-92-38]※[#二の字点、1-2-22]然《くくぜん》として夕陽《せきよう》の山路や暁風《ぎょうふう》の草径《そうけい》をあるき廻ったのである。
 秋は早い奥州の或|山間《さんかん》、何でも南部《なんぶ》領とかで、大街道《おおかいどう》とは二日路《ふつかじ》も三日路《みっかじ》も横へ折れ込んだ途方もない僻村《へきそん》の或《ある》寺を心ざして、その男は鶴の如くに※[#「やまいだれ+瞿」、第3水準1-88-62]《や》せた病躯を運んだ。それは旅中で知合《しりあい》になった遊歴者、その時分は折節そういう人があったもので、律詩《りっし》の一、二章も座上で作ることが出来て、ちょっと米法山水《べいほうさんすい》や懐素《かいそ》くさい草書《そうしょ》で白《しろ》ぶすまを汚《よご》せる位の器用さを持ったのを資本《もとで》に、旅から旅を先生顔で渡りあるく人物に教えられたからである。君はそういう訳で歩いているなら、これこれの処にこういう寺がある、由緒は良くても今は貧乏寺だが、その寺の境内《けいだい》に小さな滝があって、その滝の水は無類の霊泉である。養老の霊泉は知らぬが、随分響き渡ったもので、二十里三十里をわざわざその滝へかかりに行くものもあり、また滝へ直接《じか》にかかれぬものは、寺の傍《そば》の民家に頼んでその水を汲んで湯を立ててもらって浴《よく》する者もあるが、不思議に長病が治ったり、特《こと》に医者に分らぬ正体の不明な病気などは治るということであって、語り伝えた現の証拠はいくらでもある。君の病気は東京の名医たちが遊んでいたら治るといい、君もまた遊び気分で飛んでもない田舎などをノソノソと歩いている位だから、とてもの事に其処《そこ》へ遊んで見たまえ。住持《じゅうじ》といっても木綿《もめん》の法衣《ころも》に襷《たすき》を掛けて芋畑《いもばたけ》麦畑で肥柄杓《こえびしゃく》を振廻すような気の置けない奴《やつ》、それとその弟子の二歳坊主《にさいぼうず》がおるきりだから、日に二十銭か三十銭も出したら寺へ泊めてもくれるだろう。古びて歪《ゆが》んではいるが、座敷なんぞはさすがに悪くないから、そこへ陣取って、毎日風呂を立てさせて遊んでいたら妙だろう。景色もこれという事はないが、幽邃《ゆうすい》でなかなか佳《よ》いところだ。という委細の談《はなし》を聞いて、何となく気が進んだので、考えて見る段になれば随分|頓興《とんきょう》で物好《ものずき》なことだが、わざわざ教えられたその寺を心当《こころあて》に山の中へ入り込んだのである。
 路はかなりの大《おおき》さの渓《たに》に沿って上《のぼ》って行くのであった。両岸の山は或時は右が遠ざかったり左が遠ざかったり、また或時は右が迫って来たり左が迫って来たり、時に両方が迫って来て、一水|遥《はるか》に遠く巨巌の下に白泡《しらあわ》を立てて沸《たぎ》り流れたりした。或|場処《ばしょ》は路が対岸に移るようになっているために、危《あやう》い略※[#「彳+勺」、52-12]《まるきばし》が目の眩《くるめ》くような急流に架《かか》っているのを渡ったり、また少時《しばらく》して同じようなのを渡り反《かえ》ったりして進んだ。恐ろしい大きな高い巌《いわ》が前途《ゆくて》に横たわっていて、あのさきへ行くのか知らんと疑われるような覚束《おぼつか》ない路を辿《たど》って行くと、辛《かろ》うじてその岩岨《いわそば》に線《いと》のような道が付いていて、是非なくも蟻《あり》の如く蟹《かに》の如くになりながら通り過ぎてはホッと息を吐《つ》くこともあって、何だってこんな人にも行会《ゆきあ》わぬいわゆる僻地窮境《へきちきゅうきょう》に来たことかと、聊《いささ》か後悔する気味にもならざるを得ないで、薄暗いほどに茂った大樹《たいじゅ》の蔭に憩いながら明るくない心持の沈黙を続けていると、ヒーッ、頭の上から名を知らぬ禽《とり》が意味の分らぬ歌を投げ落したりした。
 路が漸《ようや》く緩《なる》くなると、対岸は馬鹿※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]しく高い巌壁《がんぺき》になっているその下を川が流れて、こちらは山が自然に開けて、少しばかり山畠《やまばたけ》が段※[#二の字点、1-2-22]を成して見え、粟《あわ》や黍《きび》が穂を垂れているかとおもえば、兎《うさぎ》に荒されたらしいいたって不景気な豆畠に、もう葉を失って枯れ黒んだ豆がショボショボと泣きそうな姿をして立っていたりして、その彼方《むこう》に古ぼけた勾配の急な茅屋《かやや》が二軒三軒と飛び飛びに物悲しく見えた。天《そら》は先刻《さっき》から薄暗くなっていたが、サーッというやや寒い風が下《おろ》して来たかと見る間《ま》に、楢《なら》や槲《かしわ》の黄色な葉が空からばらついて降って来ると同時に、木《こ》の葉の雨ばかりではなく、ほん物の雨もはらはらと遣《や》って来た。渓《たに》の上手《かみて》の方を見あげると、薄白い雲がずんずんと押して来て、瞬く間に峯巒《ほうらん》を蝕《むしば》み、巌を蝕み、松を蝕み、忽《たちま》ちもう対岸の高い巌壁をも絵心《えごころ》に蝕んで、好い景色を見せてくれるのは好かったが、その雲が今開いてさしかざした蝙蝠傘《こうもり》の上にまで蔽いかぶさったかと思うほど低く這下《はいさが》って来ると、堪《たま》らない、ザアッという本降《ほんぶ》りになって、林木《りんぼく》も声を合せて、何の事はないこの山中に入って来た他国者《たこくもの》をいじめでもするように襲った。晩成先生もさすがに慌《あわ》て心《ごころ》になって少し駆け出したが、幸い取付《とりつ》きの農家は直《すぐ》に間近《まぢか》だったから、トットットッと走り着いて、農家の常の土間へ飛び込むと、傘が触って入口の檐《のき》に竿を横たえて懸け吊《つる》してあった玉蜀黍《とうもろこし》の一把《いちわ》をバタリと落した途端に、土間の隅の臼《うす》のあたりにかがんでいたらしい白い庭鳥《にわとり》が二、三羽キャキャッと驚いた声を出して走り出した。
 何だナ、
と鈍《にぶ》い声をして、土間の左側の茶の間から首を出したのは、六十か七十か知れぬ白髪《しらが》の油気《あぶらけ》のない、火を付けたら心よく燃えそうに乱れ立ったモヤモヤ頭な婆さんで、皺《しわ》だらけの黄色い顔の婆さんだった。キマリが悪くて、傘を搾《すぼ》めながらちょっと会釈して、寺の在処《ありか》を尋ねた晩成先生の頭上から、じたじた水の垂れる傘のさきまでを見た婆さんは、それでもこの辺には見慣れぬ金釦《きんボタン》の黒い洋服に尊敬を表《あらわ》して、何一つ咎立《とがめだて》がましいこともいわずに、
 上へ上へと行げば、じねんにお寺の前へ出ます、此処《ここ》はいわば門前村《もんぜんむら》ですから、人家さえ出抜ければ、すぐお寺で。
 礼をいって大噐|氏《し》はその家を出た。雨はいよいよ甚《ひど》くなった。傘を拡げながら振返って見ると、木彫《きぼり》のような顔をした婆さんはまだこちらを見ていたが、妙にその顔が眼にしみ付いた。
 間遠《まどお》に立っている七、八軒の家の前を過ぎた。どの家も人がいないように岑閑《しんかん》としていた。そこを出抜けるとなるほど寺の門が見えた。瓦《かわら》に草が生えている、それが今雨に湿《ぬ》れているので甚《ひど》く古びて重そうに見えるが、とにかくかなりその昔の立派さが偲《しの》ばれると同時に今の甲斐《かい》なさが明らかに現われているのであった。門を入ると寺内は思いのほかに廓落《からり》と濶《ひろ》くて、松だか杉だか知らぬが恐ろしい大きな木があったのを今より何年か前に斫《き》ったと見えて、大きな切株の跡の上を、今降りつつある雨がおとずれて其処《そこ》にそういうもののあることを見せていた。右手に鐘楼《しょうろう》があって、小高い基礎《いしずえ》の周囲には風が吹寄せた木の葉が黄色くまたは赭《あか》く湿《ぬ》れ色《いろ》を見せており、中ぐらいな大《おおき》さの鐘が、漸《ようや》く逼《せま》る暮色の中に、裾は緑青《ろくしょう》の吹いた明るさと、竜頭《りゅうず》の方は薄暗さの中に入っている一種の物※[#二の字点、1-2-22]《ものもの》しさを示して寂寞《じゃくまく》と懸《かか》っていた。これだけの寺だから屋《や》の棟《むね》の高い本堂が見えそうなものだが、それは回禄《かいろく》したのかどうか知らぬが眼に入らなくて、小高い処に庫裡様《くりよう》の建物があった。それを目ざして進むと、丁度《ちょうど》本堂仏殿のありそうな位置のところに礎石《そせき》が幾箇《いくつ》ともなく見えて、親切な雨が降る度《たび》に訪問するのであろう今もその訪問に接して感謝の嬉《うれ》し涙を溢《あふ》らせているように、柱の根入《ねい》りの竅《あな》に水を湛《たた》えているのが能《よ》く見えた。境内の変にからりとしている訳もこれで合点《がてん》が行って、あるべきものが亡《う》せているのだなと思いながら、庫裡へと入った。正面はぴったりと大きな雨戸が鎖《とざ》されていたから、台所口のような処が明いていたまま入ると、馬鹿にだだ濶い土間で、土間の向う隅には大きな土竈《へっつい》が見え、つい入口近くには土だらけの腐ったような草履《ぞうり》が二足ばかり、古い下駄《げた》が二、三足、特《こと》に歯の抜けた下駄の一ツがひっくり返って腹を出して死んだようにころがっていたのが、晩成先生のわびしい思《おもい》を誘った。
 頼む、
と余り大きくはない声でいったのだが、がらんとした広土間《ひろどま》に響いた。しかしそのために塵一ツ動きもせず、何の音もなく静《しずか》であった。外にはサアッと雨が降っている。
 頼む、
と再び呼んだ。声は響いた。答はない。サアッと雨が降っている。
 頼む、
と三たび呼んだ。声は呼んだその人の耳へ反《かえ》って響いた。しかし答は何処《どこ》からも起らなかった。外はただサアッと雨が降っている。
 頼む。
 また呼んだ。例の如くややしばし音沙汰《おとさた》がなかった。少し焦《じ》れ気味になって、また呼ぼうとした時、鼬《いたち》か大鼠《おおねずみ》かが何処《どこ》かで動いたような音がした。するとやがて人の気はいがして、左方の上《あが》り段の上に閉じられていた間延《まの》びのした大きな障子が、がたがたと開かれて、鼠木綿が斑汚《むらよご》れした着附《きつけ》に、白が鼠になった帯をぐるぐるといわゆる坊主巻《ぼうずまき》に巻いた、五分苅《ごぶがり》ではない五分|生《ば》えに生えた頭の十八か九の書生のような僮僕《どうぼく》のような若僧が出て来た。晩成先生も大分《だいぶ》遊歴に慣れて来たので、此処《ここ》で宿泊謝絶などを食わせられては堪《たま》らぬと思うので、ずんずんと来意を要領よく話して、白紙に包んだ多少銭《なにがし》かを押付けるように渡してしまった。若僧はそれでも坊主らしく、
 しばらく、
と、しかつめらしく挨拶を保留して置いて奥へ入った。奥は大分深いかして何の音も聞えて来ぬ、シーンとしている。外では雨がサアッと降っている。
 土間の中の異《ことな》った方で音がしたと思うと、若僧は別の口から土間へ下りて、小盥《こだらい》へ水を汲んで持って来た。
 マ、とにかく御すすぎをなさって御上《おあが》りなさいまし。
 しめたと思って晩成先生|泥靴《どろぐつ》を脱ぎ足を洗って導かるるままに通った。入口の室《へや》は茶の間と見えて大きな炉《ろ》が切ってある十五、六畳の室であった。そこを通り抜けて、一畳|幅《はば》に五畳か六畳を長く敷いた入側《いりかわ》見たような薄暗い部屋を通ったが、茶の間でもその部屋でも処※[#二の字点、1-2-22]《しょしょ》で、足踏《あしぶみ》につれてポコポコと弛《ゆる》んで浮いている根太板《ねだいた》のヘンな音がした。
 通されたのは十畳位の室で、そこには大きな矮《ひく》い机を横にしてこちらへ向直《むきなお》っていた四十ばかりの日に焦《や》けて赭《あか》い顔の丈夫そうなズク入《にゅう》が、赤や紫の見える可笑《おか》しいほど華美《はで》ではあるがしかしもう古びかえった馬鹿に大きくて厚い蒲団《ふとん》の上に、小さな円《まる》い眼を出来るだけ※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]開《そうかい》してムンズと坐り込んでいた。麦藁帽子を冠《かぶ》らせたら頂上《てっぺん》で踊《おどり》を踊りそうなビリケン頭《あたま》に能《よ》く実《み》が入っていて、これも一分苅ではない一分生えの髪に、厚皮《あつかわ》らしい赭い地《じ》が透いて見えた。そしてその割合に小さくて素敵に堅そうな首を、発達の好い丸※[#二の字点、1-2-22]《まるまる》と肥《ふと》った豚のような濶《ひろ》い肩の上にシッカリすげ込んだようにして、ヒョロヒョロと風の柳のように室へ入り込んだ大噐氏に対《むか》って、一刀《いっとう》をピタリと片身《かたみ》青眼《せいがん》に擬《つ》けたという工合に手丈夫《てじょうぶ》な視線を投げかけた。晩成先生|聊《いささ》かたじろいだが、元来正直な君子《くんし》で仁者《じんしゃ》敵なしであるから驚くこともない、平然として坐って、来意を手短に述べて、それから此処《ここ》を教えてくれた遊歴者の噂をした。和尚《おしょう》はその姓名を聞くと、合点が行ったのかして、急にくつろいだ様子になって、
 アア、あの風吹烏《かざふきがらす》から聞いておいでなさったかい。宜《よ》うござる、いつまででもおいでなさい。何室《どこ》でも明いている部屋に勝手に陣取らっしゃい、その代り雨は少し漏《も》るかも知れんよ。夜具はいくらもある、綿は堅いがナ。馳走はせん、主客《しゅかく》平等と思わっしゃい。蔵海《ぞうかい》、(仮設し置く)風呂は門前の弥平爺《やへいじい》にいいつけての、明日《あす》から毎日立てさせろ。無銭《ただ》ではわるい、一日に三銭も遣《つか》わさるように計らえ。疲れてだろう、脚を伸ばして休息せらるるようにしてあげろ。
 蔵海は障子を開けて庭へ面した縁へ出て導いた。後《あと》に跟《つ》いて縁側を折曲《おれまが》って行くと、同じ庭に面して三ツ四ツの装飾も何もない空室《あきま》があって、縁の戸は光線を通ずるためばかりに三|寸《ずん》か四寸位ずつすかしてあるに過ぎぬので、中はもう大《おおい》に暗かった。此室《ここ》が宜《よ》かろうという蔵海の言《ことば》のままその室の前に立っていると、蔵海は其処《そこ》だけ雨戸を繰《く》った。庭の樹※[#二の字点、1-2-22]《きぎ》は皆雨に悩んでいた。雨は前にも増して恐しい量で降って、老朽《おいく》ちてジグザグになった板廂《いたびさし》からは雨水がしどろに流れ落ちる、見ると簷《のき》の端に生えている瓦葦《しのぶぐさ》が雨にたたかれて、あやまった、あやまったというように叩頭《おじぎ》しているのが見えたり隠れたりしている。空は雨に鎖《とざ》されて、たださえ暗いのに、夜はもう逼《せま》って来る。なかなか広い庭の向うの方はもう暗くなってボンヤリとしている。ただもう雨の音ばかりザアッとして、空虚にちかい晩成先生の心を一ぱいに埋《う》め尽しているが、ふと気が付くとそのザアッという音のほかに、また別にザアッという音が聞えるようだ。気を留めて聞くと慥《たしか》に別の音がある。ハテナ、あの辺か知らんと、その別の音のする方の雨煙|濛※[#二の字点、1-2-22]《もうもう》たる見当《けんとう》へ首を向けて眼を遣《や》ると、もう心安げになった蔵海がちょっと肩に触って、
 あの音のするのが滝ですよ、貴方《あなた》が風呂に立てて入ろうとなさる水の落ちる……
といいさして、少し間《ま》を置いて、
 雨が甚《ひど》いので今は能《よ》く見えませんが、晴れていればこの庭の景色の一ツになって見えるのです。
といった。なるほど庭の左の方の隅は山嘴《さんし》が張り出していて、その樹木の鬱蒼《うっそう》たる中から一条の水が落ちているのらしく思えた。
 夜に入った。茶の間に引かれて、和尚と晩成先生と蔵海とは食事を共にした。なるほど御馳走はなかった。冷《つめた》い挽割飯《ひきわりめし》と、大根《だいこ》ッ葉《ぱ》の味噌汁と、塩辛《しおから》く煮た車輪麩《くるまぶ》と、何だか正体の分らぬ山草の塩漬《しおづけ》の香《こう》の物《もの》ときりで、膳こそは創《きず》だらけにせよ黒塗《くろぬり》の宗和膳《そうわぜん》とかいう奴で、御客あしらいではあるが、箸《はし》は黄色な下等の漆《うるし》ぬりの竹箸で、気持の悪いものであった。蔵海は世間に接触する機会の少いこの様な山中にいる若い者なので、新来の客から何らかの耳新らしい談を得たいようであるが、和尚は人に求められれば是非ないからわが有《も》っている者を吝《おし》みはしないが、人からは何をも求めまいというような態度で、別に雑話《ぞうわ》を聞きたくも聞かせたくも思っておらぬ風《ふう》で、食事が済んで後、少時《しばらく》三人が茶を喫《きっ》している際でも、別に会話をはずませる如きことはせぬので、晩成先生はただ僅《わずか》に、この寺が昔時《むかし》は立派な寺であったこと、寺の庭のずっと先は渓川《たにがわ》で、その渓の向うは高い巌壁になっていること、庭の左方も山になっていること、寺及び門前の村家のある辺一帯は一大盆地を為している事位の地勢の概略を聞き得たに過ぎなかったが、蔵海も和尚も、時※[#二の字点、1-2-22]風の工合でザアッという大雨の音が聞えると、ちょっと暗い顔をしては眼を見合せるのが心に留まった。
 大噐氏は定められた室へ引取った。堅い綿の夜具は与えられた。所在なさの身を直《すぐ》にその中に横たえて、枕許《まくらもと》の洋燈《ランプ》の心《しん》を小さくして寝たが、何となく寐つき兼ねた。茶の間の広いところに薄暗い洋燈《ランプ》、何だか銘※[#二の字点、1-2-22]《めいめい》の影法師が顧視《かえりみ》らるる様な心地のする寂しい室内の雨音の聞える中で寒素《かんそ》な食事を黙※[#二の字点、1-2-22]として取った光景が眼に浮んで来て、自分が何だか今までの自分でない、別の世界の別の自分になったような気がして、まさかに死んで別の天地に入ったのだとは思わないが、どうも今までに覚えぬ妙な気がした。しかし、何の、下《くだ》らないと思い返して眠ろうとしたけれども、やはり眠《ねむり》に落ちない。雨は恐ろしく降っている。あたかも太古から尽未来際《じんみらいざい》まで大きな河の流《ながれ》が流れ通しているように雨は降り通していて、自分の生涯の中《うち》の或日に雨が降っているのではなくて、常住不断《じょうじゅうふだん》の雨が降り通している中に自分の短い生涯がちょっと挿《はさ》まれているものででもあるように降っている。で、それがまた気になって睡《ねむ》れぬ。鼠が騒いでくれたり狗《いぬ》が吠えてくれたりでもしたらば嬉しかろうと思うほど、他には何の音もない。住持も若僧もいないように静かだ。イヤ全くわが五官の領する世界にはいないのだ。世界という者は広大なものだと日頃は思っていたが、今はどうだ、世界はただこれ
 ザアッ
というものに過ぎないと思ったり、また思い反《かえ》して、このザアッというのが即ちこれ世界なのだナと思ったりしている中《うち》に、自分の生れた時に初めて拳げたオギャアオギャアの声も他人の※[#「囗<力」、64-6]地《ぎゃっと》いった一声も、それから自分が書《ほん》を読んだり、他の童子《こども》が書《ほん》を読んだり、唱歌をしたり、嬉しがって笑ったり、怒って怒鳴《どな》ったり、キャアキャアガンガンブンブングズグズシクシク、いろいろな事をして騒ぎ廻ったりした一切の音声《おんじょう》も、それから馬が鳴き牛が吼《ほ》え、車ががたつき、※[#「さんずい+氣」、第4水準2-79-6]車が轟き、※[#「さんずい+氣」、第4水準2-79-6]船が浪を蹴開《けひら》く一切の音声も、板の間へ一本の針が落ちた幽《かす》かな音も、皆残らず一緒になってあのザアッという音の中に入っているのだナ、というような気がしたりして、そして静かに諦聴《たいちょう》すると分明《ぶんみょう》にその一ツのザアッという音にいろいろのそれらの音が確実に存していることを認めて、アアそうだったかナ、なんぞと思う中《うち》に、何時《いつ》か知らずザアッという音も聞えなくなり、聞く者も性《しょう》が抜けて、そして眠《ねむり》に落ちた。
 俄然《がぜん》として睡眠は破られた。晩成先生は眼を開くと世界は紅《あか》い光や黄色い光に充たされていると思ったが、それは自分の薄暗いと思っていたのに相異して、室《へや》の中が洋燈《ランプ》も明るくされていれば、またその外《ほか》に提灯《ちょうちん》などもわが枕辺《まくらべ》に照されていて、眠《ねむり》に就いた時と大《おおい》に異なっていたのが寝惚眼《ねぼけまなこ》に映ったからの感じであった事が解った。が、見れば和尚も若僧もわが枕辺にいる。何事が起ったのか、その意味は分らなかった。けげんな心持がするので、頓《とみ》には言葉も出ずに起直《おきなお》ったまま二人を見ると、若僧が先ず口をきった。
 御やすみになっているところを御起しして済みませんが、夜前《やぜん》からの雨があの通り甚《ひど》くなりまして、渓《たに》が俄《にわか》に膨《ふく》れてまいりました。御承知でしょうが奥山の出水《でみず》は馬鹿に疾《はや》いものでして、もう境内にさえ水が見え出して参りました。勿論《もちろん》水が出たとて大事にはなりますまいが、此地《ここ》の渓川の奥入《おくいり》は恐ろしい広い緩傾斜《かんけいしゃ》の高原なのです。むかしはそれが密林だったので何事も少かったのですが、十余年|前《ぜん》に悉《ことごと》く伐採したため禿《は》げた大野《おおの》になってしまって、一[#(ト)]夕立《ゆうだち》しても相当に渓川が怒《いか》るのでして、既に当寺の仏殿は最初の洪水の時、流下《りゅうか》して来た巨材の衝突によって一角《いっかく》が壊《やぶ》れたため遂に破壊してしまったのです。その後は上流に巨材などはありませんから、水は度※[#二の字点、1-2-22]《たびたび》出ても大したこともなく、出るのが早い代りに退《ひ》くのも早くて、直《じき》に翌日《あくるひ》は何の事もなくなるのです。それで昨日《きのう》からの雨で渓川はもう開きましたが、水はどの位で止まるか予想は出来ません。しかし私どもは慣れてもおりますし、此処《ここ》を守る身ですから逃げる気もありませんが、貴方《あなた》には少くとも危険――はありますまいが余計な御心配はさせたくありません。幸《さいわい》なことにはこの庭の左方《ひだり》の高みの、あの小さな滝の落ちる小山の上は絶対に安全地で、そこに当寺の隠居所の草庵があります。そこへ今の内に移っていて頂きたいのです。わたくしが直《すぐ》に御案内致します、手早く御支度《おしたく》をなすって頂きます。
ト末の方はもはや命令的に、早口に能弁《のうべん》にまくし立てた。その後《あと》について和尚は例の小さな円い眼に力を入れて※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]開《そうかい》しながら、
 膝まで水が来るようだと歩けんからノ、早く御身繕《おみづくろ》いなすって。
と追立てるように警告した。大噐晩成先生は一[#(ト)]たまりもなく浮腰《うきごし》になってしまった。
 ハイ、ハイ、御親切に、有難うございます。
ト少しドギマギして、顫《ふる》えていはしまいかと自分でも気が引けるような弱い返辞をしながら、慌《あわ》てて衣を着けて支度をした。勿論少し大きな肩から掛ける鞄《カバン》と、風呂敷包《ふろしきづつみ》一ツ、蝙蝠傘《こうもり》一本、帽子、それだけなのだから直《すぐ》に支度は出来た。若僧は提灯を持って先に立った。この時になって初めてその服装《みなり》を見ると、依然として先刻《さっき》の鼠の衣だったが、例の土間のところへ来ると、そこには蓑笠《みのかさ》が揃えてあった。若僧は先ず自《みずか》ら尻を高く端折《はしょ》って蓑を甲斐※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]《かいがい》しく手早く着けて、そして大噐氏にも手伝って一ツの蓑を着けさせ、竹の皮笠《かわがさ》を被《かぶ》せ、その紐《ひも》を緊《きび》しく結んでくれた。余り緊しく結ばれたので口を開くことも出来ぬ位で、随分痛かったが、黙って堪えると、若僧は自分も笠を被《かぶ》って、
 サア、
と先へ立った。提灯の火はガランとした黒い大きな台所に憐れに小さな威光を弱※[#二の字点、1-2-22]と振った。外は真暗《まっくら》で、雨の音は例の如くザアッとしている。
 気をつけてあげろ、ナ。
と和尚は親切だ。高※[#二の字点、1-2-22]《たかだか》とズボンを捲《まく》り上げて、古草鞋《ふるわらじ》を着けさせられた晩成|子《し》は、何処《どこ》へ行くのだか分らない真黒暗《まっくらやみ》の雨の中を、若僧に随《したが》って出た。外へ出ると驚いた。雨は横振《よこぶ》りになっている、風も出ている。川鳴《かわなり》の音だろう、何だか物凄《ものすご》い不明の音がしている。庭の方へ廻ったようだと思ったが、建物を少し離れると、なるほどもう水が来ている。足の裏が馬鹿に冷《つめた》い。親指が没する、踝《くるぶし》が没する、脚首《あしくび》が全部没する、ふくら脛《はぎ》あたりまで没すると、もうなかなか渓《たに》の方から流れる水の流れ勢《ぜい》が分明にこたえる。空気も大層冷たくなって、夜雨《やう》の威がひしひしと身に浸みる。足は恐ろしく冷い。足の裏は痛い。胴ぶるいが出て来て止まらない。何か知らん痛いものに脚の指を突掛《つっか》けて、危く大噐氏は顛倒しそうになって若僧に捉《つか》まると、その途端に提灯はガクリと揺《ゆら》めき動いて、蓑の毛に流れている雨の滴《しずく》の光りをキラリと照らし出したかと思うと、雨が入ったか滴がかかったかであろう、チュッといって消えてしまった。風の音、雨の音、川鳴の音、樹木の音、ただもう天地はザーッと、黒漆《こくしつ》のように黒い闇の中に音を立てているばかりだ。晩成先生は泣きたくなった。
 ようございます、今更帰れもせず、提灯を点火《つけ》ることも出来ませんから、どうせ差しているのではないその蝙蝠傘《こうもり》をお出しなさい。そうそう。わたくしがこちらを持つ、貴方《あなた》はそちらを握って、決して離してはいけませんよ。闇でもわたしは行けるから、恐れることはありません。
ト蔵海先生|実《じつ》に頼もしい。平常は一[#(ト)]通りの意地がなくもない晩成先生も、ここに至って他力宗《たりきしゅう》になってしまって、ただもう世界に力とするものは蝙蝠傘《こうもり》一本、その蝙蝠傘《こうもり》のこっちは自分が握っているが、むこうは真の親切者が握っているのだか狐狸《こり》が握っているのだか、妖怪変化、悪魔の類《たぐい》が握っているのだか、何だか彼《か》だかサッパり分らない黒闇※[#二の字点、1-2-22]《こくあんあん》の中を、とにかく後生《ごしょう》大事にそれに縋《すが》って随《したが》って歩いた。
 水は段※[#二の字点、1-2-22]足に触れなくなって来た。爪先上《つまさきあが》りになって来たようだ。やがて段※[#二の字点、1-2-22]|勾配《こうばい》が急になって来た。坂道にかかったことは明らかになって来た。雨の中にも滝の音は耳近く聞えた。
 もうここを上《のぼ》りさえすれば好いのです。細い路ですからね、わたくしも路でないところへ踏込《ふんご》むかも知れませんが、転びさえしなければ草や樹で擦りむく位ですから驚くことはありません。ころんではいけませんよ、そろそろ歩いてあげますからね。
 ハハイ、有り難う。
ト全く顫《ふる》え声だ。どうしてなかなか足が前へ出るものではない。
 こうなると人間に眼のあったのは全く余り有り難くありませんね、盲目《めくら》の方がよほど重宝《ちょうほう》です、アッハハハハ。わたくしも大分小さな樹の枝で擦剥《すりむ》き疵《きず》をこしらえましたよ。アッハハハハ。
ト蔵海め、さすがに仏の飯で三度の埒《らち》を明けて来た奴だけに大禅師《だいぜんじ》らしいことをいったが、晩成先生はただもうビクビクワナワナで、批評の余地などは、よほど喉元《のどもと》過ぎて怖《こわ》いことが糞《くそ》になった時分まではあり得《え》はしなかった。
 路は一[#(ト)]しきり大《おおい》に急になりかつまた窄《せま》くなったので、胸を突くような感じがして、晩成先生は遂に左の手こそは傘をつかまえているが、右の手は痛むのも汚れるのも厭《いと》ってなどいられないから、一歩一歩に地面を探るようにして、まるで四足獣が三|足《ぞく》で歩くような体《てい》になって歩いた。随分長い時間を歩いたような気がしたが、苦労には時間を長く感じるものだから実際はさほどでもなかったろう。しかし一|町余《ちょうよ》は上《のぼ》ったに違いない。漸《ようや》くだらだら坂《ざか》になって、上りきったナと思うと、
 サア来ました。
ト蔵海がいった。そして途端に持っていた蝙蝠傘《こうもり》の一端《いったん》を放した。で、大噐氏は全く不知案内《ふちあんない》の暗中の孤立者になったから、黙然《もくねん》として石の地蔵のように身じろぎもしないで、雨に打たれながらポカンと立っていて、次の脈搏、次の脈搏を数えるが如き心持になりつつ、次の脈が搏《う》つ時に展開し来《きた》る事情をば全くアテもなく待つのであった。
 若僧はそこらに何かしているのだろう、しばらくは消息も絶えたが、やがてガタガタいう音をさせた。雨戸を開けたに相違ない。それから少し経《たっ》て、チッチッという音がすると、パッと火が現われて、彼は一ツの建物の中の土間に踞《うずくま》っていて、マッチを擦って提灯の蝋燭《ろうそく》に火を点じようとしているのであった。四、五本のマッチを無駄にして、やっと火は点《つ》いた。荊棘《いばら》か山椒《さんしょう》の樹のようなもので引爬《ひっか》いたのであろう、雨にぬれた頬から血が出て、それが散っている、そこへ蝋燭の光の映ったさまは甚《はなは》だ不気味だった。漸く其処《そこ》へ歩み寄った晩成先生は、
 怪我《けが》をしましたね、御気の毒でした。
というと、若僧は手拭《てぬぐい》を出して、此処《ここ》でしょう、といいながら顔を拭《ふ》いた。蚯蚓脹《みみずば》れの少し大きいの位で、大した事ではなかった。
 急いでいるからであろう、若僧は直《すぐ》にその手拭で泥足をあらましに拭いて、提灯を持ったまま、ずんずんと上《あが》り込んだ。四畳半の茶の間には一尺二寸位の小炉《しょうろ》が切ってあって、竹の自在鍵《じざい》の煤《すす》びたのに小さな茶釜《ちゃがま》が黒光りして懸《かか》っているのが見えたかと思うと、若僧は身を屈して敬虔の態度にはなったが、直《すぐ》と区劃《しきり》になっている襖《ふすま》を明けてその次の室《ま》へ、いわば闖入《ちんにゅう》せんとした。土間からオズオズ覗《のぞ》いて見ている大噐氏の眼には、六畳敷位の部屋に厚い坐蒲団《ざぶとん》を敷いて死せるが如く枯坐《こざ》していた老僧が見えた。着色の塑像の如くで、生きているものとも思えぬ位であった。銀のような髪が五分ばかり生えて、細長い輪郭の正しい顔の七十位の痩《や》せ枯《から》びた人ではあったが、突然の闖入に対して身じろぎもせず、少しも驚く様子もなく落《おち》つき払った態度で、あたかも今まで起きてでもいた者のようであった。特《こと》に晩成先生の驚いたのは、蔵海がその老人に対して何もいわぬことであった。そしてその老僧の坐辺《ざへん》の洋燈《ランプ》を点火すると、蔵海は立返って大噐氏を上へ引《ひき》ずり上げようとした。大噐氏は慌《あわ》てて足を拭《ぬぐ》って上ると、老僧はジーッと細い眼を据えてその顔を見詰めた。晩成先生は急に挨拶の言葉も出ずに、何か知らず叮嚀《ていねい》に叩頭《おじぎ》をさせられてしまった。そして頭《かしら》を挙げた時には、蔵海は頻《しき》りに手を動かして麓《ふもと》の方の闇を指したり何かしていた。老僧は点頭《うなず》いていたが、一語をも発しない。
 蔵海はいろいろに指を動かした。真言宗《しんごんしゅう》の坊主の印《いん》を結ぶのを極めて疾《はや》くするようなので、晩成先生は呆気《あっけ》に取られて眼ばかりパチクリさせていた。老僧は極めて徐《しず》かに軽く点頭《うなず》いた。すると蔵海は晩成先生に対《むか》って、
 このかたは耳が全く聞えません。しかし慈悲の深い方ですから御安心なさい。ではわたくしは帰りますから。
トいって置いて、初《はじめ》の無遠慮な態度とはスッカリ違って叮嚀《ていねい》に老僧に一礼した。老僧は軽く点頭《うなず》いた。大噐氏にちょっと会釈するや否や、若僧は落付いた、しかしテキパキした態度で、かの提灯を持って土間へ下り、蓑笠《みのがさ》するや否や忽《たちま》ち戸外《そと》へ出て、物静かに戸を引寄せ、そして飛ぶが如くに行ってしまった。
 大噐氏は実に稀有《けう》な思《おもい》がした。この老僧は起きていたのか眠っていたのか、夜中《やちゅう》真黒《まっくら》な中に坐禅ということをしていたのか、坐りながら眠っていたのか、眠りながら坐っていたのか、今夜だけ偶然にこういう態《てい》であったのか、始終こうなのか、と怪《あやし》み惑《まど》うた。もとより真の已達《いたつ》の境界《きょうがい》には死生の間《かん》にすら関所がなくなっている、まして覚めているということも睡《ねむ》っているということもない、坐っているということと起きているということとは一枚になっているので、比丘《びく》たる者は決して無記《むき》の睡《ねむり》に落ちるべきではないこと、仏説離睡経《ぶっせつりすいきょう》に説いてある通りだということも知っていなかった。またいくらも近い頃の人にも、死の時のほかには脇を下に着け身を横たえて臥《ふ》さぬ人のあることをも知らなかったのだから、吃驚《びっくり》したのは無理でもなかった。
 老僧は晩成先生が何を思っていようとも一切無関心であった。
 □□さん、サア洋燈《ランプ》を持ってあちらへ行って勝手に休まっしゃい。押入《おしいれ》の中に何かあろうから引出して纏《まと》いなさい、まだ三時過ぎ位のものであろうから。
ト老僧は奥を指さして極めて物静《ものしずか》に優しくいってくれた。大噐氏は自然に叩頭《おじぎ》をさせられて、その言葉通りになるよりほかはなかった。洋燈《ランプ》を手にしてオズオズ立上《たちあが》った。あとはまた真黒闇《まっくらやみ》になるのだが、そんな事をとかくいうことはかえって余計な失礼の事のように思えたので、そのままに坐を立って、襖《ふすま》を明けて奥へ入った。やはり其処《そこ》は六畳敷位の狭さであった。間《あい》の襖を締切《しめき》って、そこにあった小さな机の上に洋燈《ランプ》を置き、同じくそこにあった小坐蒲団《こざぶとん》の上に身を置くと、初めて安堵《あんど》して我に返ったような気がした。同時に寒さが甚《ひど》く身に染《し》みて胴顫《どうぶるい》がした。そして何だかがっかりしたが、漸《ようや》く落《おち》ついて来ると、□□さんと自分の苗字をいわれたのが甚《ひど》く気になった。若僧も告げなければ自分も名乗らなかったのであるのに、特《こと》に全くの聾《つんぼ》になっているらしいのに、どうして知っていたろうと思ったからである。しかしそれは蔵海が指頭《ゆびさき》で談《かた》り聞かせたからであろうと解釈して、先ず解釈は済ませてしまった。寝ようか、このままに老僧の真似をして暁《あかつき》に達してしまおうかと、何かあろうといってくれた押入らしいものを見ながらちょっと考えたが、気がついて時計を出して見た。時計の針は三時少し過ぎであることを示していた。三時少し過ぎているから、三時少し過ぎているのだ。驚くことは何もないのだが、大噐氏はまた驚いた。ジッと時計の文字盤を見詰めたが、遂に時計を引出して、洋燈《ランプ》の下、小机の上に置いた。秒針はチ、チ、チ、チと音を立てた。音がするのだから、音が聞えるのだ。驚くことは何もないのだが、大噐氏はまた驚いた。そして何だか知らずにハッと思った。すると戸外《そと》の雨の音はザアッと続いていた。時計の音は忽《たちま》ち消えた。眼が見ている秒針の動きは止まりはしなかった、確実な歩調で動いていた。
 何となく妙な心持になって頭を動かして室内を見廻わした。洋燈《ランプ》の光がボーッと上を照らしているところに、煤《すす》びた額《がく》が掛っているのが眼に入った。間抜《まぬけ》な字体で何の語かが書いてある。一字ずつ心を留めて読んで見ると、
 橋流水不流
とあった。橋流れて水流れず、橋流れて水流れず、ハテナ、橋流れて水流れず、と口の中で扱い、胸の中で咬《か》んでいると、忽《たちま》ち昼間渡った仮《かり》そめの橋が洶※[#二の字点、1-2-22]《きょうきょう》と流れる渓川《たにがわ》の上に架渡《かけわた》されていた景色が眼に浮んだ。水はどうどうと流れる、橋は心細く架渡《かけわた》されている。橋流れて水流れず。サテ何だか解らない。シーンと考え込んでいると、忽《たちま》ち誰だか知らないが、途方もない大きな声で
 橋流れて水流れず
と自分の耳の側《はた》で怒鳴《どな》りつけた奴があって、ガーンとなった。
 フト大噐氏は自《みずか》ら嘲《あざけ》った。ナンダこんな事、とかくこんな変な文句が額なんぞには書いてあるものだ、と放下《ほうげ》してしまって、またそこらを見ると、床《とこ》の間《ま》ではない、一方の七、八尺ばかりの広い壁になっているところに、その壁をいくらも余さない位な大きな古びた画《え》の軸《じく》がピタリと懸っている。何だか細かい線で描《か》いてある横物《よこもの》で、打見たところはモヤモヤと煙っているようなばかりだ。紅《あか》や緑や青や種※[#二の字点、1-2-22]《いろいろ》の彩色《さいしき》が使ってあるようだが、図が何だとはサッパリ読めない。多分ありがちな涅槃像《ねはんぞう》か何かだろうと思った。が、看《み》るともなしに薄い洋燈《ランプ》の光に朦朧《もうろう》としているその画面に眼を遣《や》っていると、何だか非常に綿密に楼閣だの民家だの樹だの水だの遠山だの人物だのが描《か》いてあるようなので、とうとう立上《たちあが》って近くへ行って観《み》た。するとこれは古くなって処※[#二の字点、1-2-22]《ところどころ》汚れたり損じたりしてはいるが、なかなか叮嚀《ていねい》に描《か》かれたもので、巧拙は分らぬけれども、かつて仇十州《きゅうじっしゅう》の画だとか教えられて看たことのあるものに肖《に》た画風で、何だか知らぬが大層な骨折から出来ているものであることは一目《ひとめ》に明らかであった。そこで特《ことさら》に洋燈《ランプ》を取って左の手にしてその図に近※[#二の字点、1-2-22]《ちかぢか》と臨んで、洋燈《ランプ》を動かしては光りの強いところを観ようとする部分※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]に移しながら看た。そうしなければ極めて繊細な画が古び煤けているのだから、ややもすれば看て取ることが出来なかったのである。
 画は美《うる》わしい大江《たいこう》に臨んだ富麗《ふれい》の都の一部を描いたものであった。図の上半部を成している江《え》の彼方《むこう》には翠色《すいしょく》悦ぶべき遠山が見えている、その手前には丘陵が起伏している、その間に層塔《そうとう》もあれば高閤《こうこう》もあり、黒ずんだ欝樹《うつじゅ》が蔽《おお》うた岨《そば》もあれば、明るい花に埋《うず》められた谷もあって、それからずっと岸の方は平らに開けて、酒楼《しゅろう》の綺麗なのも幾戸《いくこ》かあり、士女老幼、騎馬の人、閑歩《かんぽ》の人、生計にいそしんでいる負販《ふはん》の人、種※[#二の字点、1-2-22]雑多の人※[#二の字点、1-2-22]が蟻ほどに小さく見えている。筆はただ心持で動いているだけで、勿論その委曲が画《か》けている訳ではないが、それでもおのずからに各人の姿態や心情が想い知られる。酒楼の下の岸には画舫《がほう》もある、舫中の人などは胡麻《ごま》半粒ほどであるが、やはり様子が分明に見える。大江の上には帆走《ほばし》っているやや大きい船もあれば、篠《ささ》の葉形の漁舟《ぎょしゅう》もあって、漁人の釣《つり》しているらしい様子も分る。光を移してこちらの岸を見ると、こちらの右の方には大きな宮殿|様《よう》の建物があって、玉樹※[#「王+其」、第3水準1-88-8]花《ぎょくじゅきか》とでもいいたい美しい樹や花が点綴《てんてい》してあり、殿下の庭|様《よう》のところには朱欄曲※[#二の字点、1-2-22]《しゅらんきょくきょく》と地を劃《かく》して、欄中には奇石もあれば立派な園花《えんか》もあり、人の愛観を待つさまざまの美しい禽《とり》などもいる。段※[#二の字点、1-2-22]と左へ燈光《ともしび》を移すと、大中小それぞれの民家があり、老人《としより》や若いものや、蔬菜《そさい》を荷《にな》っているものもあれば、蓋《かさ》を張らせて威張《いば》って馬に騎《の》っている官人《かんじん》のようなものもあり、跣足《はだし》で柳条《りゅうじょう》に魚の鰓《あぎと》を穿《うが》った奴をぶらさげて川から上《あが》って来たらしい漁夫もあり、柳がところどころに翠烟《すいえん》を罩《こ》めている美しい道路を、士農工商|樵漁《しょうぎょ》、あらゆる階級の人※[#二の字点、1-2-22]が右徃左徃《うおうさおう》している。綺錦《ききん》の人もあれば襤褸《らんる》の人もある、冠《かぶ》りものをしているのもあれば露頂《ろちょう》のものもある。これは面白い、春江《しゅんこう》の景色に併せて描いた風俗画だナと思って、また段※[#二の字点、1-2-22]に燈《ともしび》を移して左の方へ行くと、江岸がなだらになって川柳が扶疎《ふそ》としており、雑樹《ぞうき》がもさもさとなっているその末には蘆荻《ろてき》が茂っている。柳の枝や蘆荻の中には風が柔らかに吹いている。蘆《あし》のきれ目には春の水が光っていて、そこに一|艘《そう》の小舟が揺れながら浮いている。船は※[#「竹かんむり/遽」、80-1]※[#「竹かんむり/除」、80-1]《あじろ》を編んで日除《ひよけ》兼|雨除《あまよけ》というようなものを胴《どう》の間《ま》にしつらってある。何やら火爐《こんろ》だの槃※[#「石+喋のつくり」、第4水準2-82-46]《さら》だのの家具も少し見えている。船頭の老夫《じいさん》は艫《とも》の方に立上《たちあが》って、※[#「爿+戈」、第4水準2-12-83]※[#「爿+可」、80-3]《かしぐい》に片手をかけて今や舟を出そうとしていながら、片手を挙げて、乗らないか乗らないかといって人を呼んでいる。その顔がハッキリ分らないから、大噐氏は燈火《ともしび》を段※[#二の字点、1-2-22]と近づけた。遠いところから段※[#二の字点、1-2-22]と歩み近づいて行くと段※[#二の字点、1-2-22]と人顔《ひとがお》が分って来るように、朦朧《もうろう》たる船頭の顔は段※[#二の字点、1-2-22]と分って来た。膝ッ節《ぷし》も肘《ひじ》もムキ出しになっている絆纏《はんてん》みたようなものを着て、極※[#二の字点、1-2-22]《ごくごく》小さな笠を冠《かぶ》って、やや仰いでいる様子は何ともいえない無邪気なもので、寒山《かんざん》か拾得《じっとく》の叔父さんにでも当る者に無学文盲のこの男があったのではあるまいかと思われた。オーイッと呼《よば》わって船頭さんは大きな口をあいた。晩成先生は莞爾《かんじ》とした。今行くよーッと思わず返辞をしようとした。途端に隙間を漏《も》って吹込んで来た冷たい風に燈火《ともしび》はゆらめいた。船も船頭も遠くから近くへ飄《ひょう》として来たが、また近くから遠くへ飄として去った。唯《ただ》これ一瞬の事で前後はなかった。
 屋外《そと》は雨の音、ザアッ。

 大噐晩成先生はこれだけの談《はなし》を親しい友人に告げた。病気はすべて治った。が、再び学窓にその人は見《あら》われなかった。山間水涯《さんかんすいがい》に姓名を埋《うず》めて、平凡人となり了《おお》するつもりに料簡をつけたのであろう。或《ある》人は某地にその人が日に焦《や》けきったただの農夫となっているのを見たということであった。大噐|不成《ふせい》なのか、大噐|既成《きせい》なのか、そんな事は先生の問題ではなくなったのであろう。
                           (大正十四年七月)

底本:「幻談・観画談 他三篇」岩波文庫、岩波書店
   1990(平成2)年11月16日第1刷発行
   1994(平成6)年5月15日第6刷発行
底本の親本:「露伴全集 第四巻」岩波書店
   1953(昭和28)年3月刊
入力:土屋隆
校正:オーシャンズ3
2008年1月15日作成
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幸田露伴

蒲生氏郷—— 幸田露伴

 大きい者や強い者ばかりが必ずしも人の注意に値する訳では無い。小さい弱い平々凡々の者も中々の仕事をする。蚊の嘴《くちばし》といえば云うにも足らぬものだが、淀川両岸に多いアノフェレスという蚊の嘴は、其昔其川の傍の山崎村に棲《す》んで居た一夜庵《いちやあん》の宗鑑の膚《はだえ》を螫《さ》して、そして宗鑑に瘧《おこり》をわずらわせ、それより近衛《このえ》公をして、宗鑑が姿を見れば餓鬼つばた、の佳謔《かぎゃく》を発せしめ、随《しがた》って宗鑑に、飲まんとすれど夏の沢水、の妙句を附けさせ、俳諧《はいかい》連歌《れんが》の歴史の巻首を飾らせるに及んだ。蠅《はえ》といえば下らぬ者の上無しで、漢の班固をして、青蠅《せいよう》は肉汁を好んで溺《おぼ》れ死することを致す、と笑わしめた程の者であるが、其のうるさくて忌々《いまいま》しいことは宋《そう》の欧陽修をして憎蒼蠅賦の好文字を作《な》すに至らしめ、其の逐《お》えば逃げ、逃げては復《また》集るさまは、片倉小十郎をしてこれを天下の兵に擬《なぞら》えて、流石《さすが》の伊達政宗をして首《こうべ》を俛《ふ》して兎も角も豊臣秀吉の陣に参候するに至るだけの料簡《りょうけん》を定めしめた。微物凡物も亦|是《かく》の如くである。本より微物凡物を軽《かろ》んずべきでは無い。そこで今の人が好んで微物凡物、云うに足らぬようなもの、下らぬものの上無しというものを談話の材料にしたり、研究の対象にするのも、まことにおもしろい。蚤《のみ》のような男、蝨《しらみ》のような女が、何様《どう》致した、彼様《こう》仕《つかまつ》った、というが如き筋道の詮議立やなんぞに日を暮したとて、尤《もっとも》千万なことで、其人に取ってはそれだけの価のあること、細菌学者が顕微鏡を覗いているのが立派な事業で有ると同様であろう。が、世の中はお半や長右衛門、おべそや甘郎《あまろう》ばかりで成立って居る訳でも無く、バチルスやヒドラのみの宇宙でも無い。獅子《しし》や虎のようなもの、鰐魚《わに》や鯱鉾《しゃちほこ》のようなものもあり、人間にも凡物で無い非凡な者、悪く云えばひどい奴、褒めて云えば偉い者もあり、矮人《わいじん》や普通人で無い巨人も有り、善なら善、悪なら悪、くせ者ならくせ者で勝《すぐ》れた者もある。それ等の者を語ったり観たりするのも、流行《はや》る流行らぬは別として、まんざら面白くないこともあるまい。また人の世というものは、其代々で各々異なって居る。自然そのままのような時もある、形式ずくめで定《き》まりきったような時もある、悪く小利口な代もある、情慾崇拝の代もある、信仰|牢固《ろうこ》の代もある、だらけきったケチな時代もある、人々の心が鋭く強くなって沸《たぎ》りきった湯のような代もある、黴菌《ばいきん》のうよつくに最も適したナマヌルの湯のような時もある、冷くて活気の乏しい水のような代もある。其中で沸り立ったような代のさまを観たり語ったりするのも、又面白くないこともあるまい。細かいことを語る人は今少く無い。で、別に新らしい発見やなんぞが有る訳では無いが、たまの事であるから、沸った世の巨人が何様《どん》なものだったかと観たり語ったりしても、悪くはあるまい。蠅の事に就いて今挙げた片倉小十郎や伊達政宗に関聯《かんれん》して、天正十八年、陸奥《むつ》出羽《でわ》の鎮護の大任を負わされた蒲生氏郷《がもううじさと》を中心とする。
 歴史家は歴史家だ、歴史家くさい顔つきはしたくない。伝記家と囚《とら》われて終《しま》うのもうるさい。考証家、穿鑿《せんさく》家、古文書いじり、紙魚《しみ》の化物と続西遊記に罵《ののし》られているような然様《そう》いう者の真似もしたくない。さればとて古い人を新らしく捏直《こねなお》して、何の拠り処もなく自分勝手の糸を疝気《せんき》筋に引張りまわして変な牽糸傀儡《あやつりにんぎょう》を働かせ、芸術家らしく乙に澄ますのなぞは、地下の枯骨に気の毒で出来ない。おおよそは何かしらに拠って、手製の万八《まんぱち》を無遠慮に加えず、斯様《こう》も有ったろうというだけを評釈的に述べて、夜涼の縁側に団扇《うちわ》を揮《ふる》って放談するという格で語ろう。
 今があながち太平の世でも無い。世界大戦は済んだとは云え、何処か知らで大なり小なりの力瘤《ちからこぶ》を出したり青筋を立てたり、鉄砲を向けたり堡塁《ほるい》を造ったり、造艦所をがたつかせたりしている。それでも先々女房には化粧をさせたり、子供には可憐な衣服《なり》をさせたりして、親父殿も晩酌の一杯ぐらいは楽んでいられて、ドンドン、ジャンジャン、ソーレ敵軍が押寄せて来たぞ、酷《ひど》い目にあわぬ中に早く逃げろ、なぞということは無いが、永禄、元亀、天正の頃は、とても今の者が想像出来るような生優しい世では無かった。資本主義も社会主義も有りはしない、そんなことは昼寝の夢に彫刻をした刀痕《とうこん》を談ずるような埒《らち》も無いことで、何も彼も滅茶《めちゃ》滅茶だった。永禄の前は弘治、弘治の前は天文だが、天文よりもまだ前の前のことだ、京畿地方は権力者の争い騒ぐところで有ったから、早くより戦乱の巷《ちまた》となった。当時の武士、喧嘩《けんか》商買、人殺し業、城取り、国取り、小荷駄取り、即ち物取りを専門にしている武士というものも、然様然様チャンチャンバラばかり続いている訳では無いから、たまには休息して平穏に暮らしている日もある。行儀のよい者は酒でも飲む位の事だが、犬を牽《ひ》き鷹を肘《ひじ》にして遊ぶ程の身分でも無く、さればと云って何の洒落《しゃれ》た遊技を知っているほど怜悧《れいり》でも無い奴は、他に智慧が無いから博奕《ばくち》を打って閑《ひま》を潰《つぶ》す。戦《いくさ》ということが元来博奕的のものだから堪《たま》らないのだ、博奕で勝つことの快さを味わったが最期、何に遠慮をすることが有ろう、戦乱の世は何時でも博奕が流行《はや》る。そこで社や寺は博奕場になる。博奕道の言葉に堂を取るだの、寺を取るだの、開帳するだのというのは今に伝わった昔の名残だ。そこで博奕の事だから勝つ者があれば負けるものもある。負けた者は賭《か》ける料が無くなる。負ければ何の道の勝負でも口惜しいから、賭ける料が尽きても止《や》められない。仕方が無いから持物を賭ける。又負けて持物を取られて終うと、遂には何でも彼でも賭ける。愈々《いよいよ》負けて復《また》取られて終うと、終《つい》には賭けるものが無くなる。それでも剛情に今一[#(ト)]勝負したいと、それでは乃公《おれ》は土蔵一ツ賭ける、土蔵一ツをなにがし両のつもりにしろ、負けたら今度戦の有る節には必ず乃公が土蔵一ツを引渡すからと云うと、其男が約を果せるらしい勇士だと、ウン好かろうというので、其の口約束に従ってコマを廻して呉れる。ひどい事だ。自分の土蔵でも無いものを、分捕《ぶんどり》して渡す口約束で博奕を打つ。相手のものでも無いのに博奕で勝ったら土蔵一[#(ト)]戸前受取るつもりで勝負をする。斯様いうことが稀有《けう》では無かったから雑書にも記されて伝わっているのだ。これでは資本の威力もヘチマも有ったものでは無い。然様かと思うと一方の軍が敵地へ行向う時に、敵地でも無く吾《わ》が地でも無い、吾が同盟者の土地を通過する。其時其の土地の者が敵方へ同情を寄せていると、通過させなければ明白な敵対行為になるので武力を用いられるけれども、通過させることは通過させておいて、民家に宿舎することを同盟謝絶して其一軍に便宜を供給しない。詰り遊歴者諸芸人を勤倹同盟の村で待遇するように待遇する。すると其軍の大将が武力を用いれば何とでも随意に出来るけれど、好い大将である、仁義の人であると思われようとする場合には、寒風雨雪の夜でも押切って宿舎する訳には行かない。憎いとは思いながらも、非常の不便を忍び困苦を甘受せねばならぬ。斯様《こう》いう民衆の態度や料簡方《りょうけんかた》は、今では一寸想像されぬが、中々|手強《てごわ》いものである。現に今語ろうとする蒲生氏郷は、豊臣秀吉即ち当時の主権執行者の命によりて奥羽鎮護の任を帯びて居たのである。然るに葛西《かさい》大崎の地に一揆《いっき》が起って、其地の領主木村父子を佐沼の城に囲んだ。そこで氏郷は之を援《たす》けて一揆を鎮圧する為に軍を率いて出張したが、途中の宿々《しゅくじゅく》の農民共は、宿も借さなければ薪炭など与うる便宜をも峻拒《しゅんきょ》した。これ等は伊達政宗の領地で、政宗は裏面は兎に角、表面は氏郷と共に一揆鎮圧の軍に従わねばならぬものであったのである。借さぬものを無理借りする訳には行かぬので、氏郷の軍は奥州の厳冬の時に当って風雪の露営を幾夜も敢てした困難は察するに余りある。斯様いう場合、戦乱の世の民衆というものは中々に極度まで自己等の権利を残忍に牢守《ろうしゅ》している。まして敗軍の将士が他領を通過しようという時などは、恩も仇《あだ》もある訳は無い無関係の将士に対して、民衆は剽盗《ひょうとう》的の行為に出ずることさえある。遠く源平時代より其証左は歴々と存していて、特《こと》に足利《あしかが》氏中世頃から敗軍の将士の末路は大抵土民の為に最後の血を瀝尽《れきじん》させられている。ひとり明智光秀が小栗栖《おぐるす》長兵衛に痛い目を見せられたばかりでは無い。斯様いうように民衆も中々手強くなっているのだから、不人望の資産家などの危険は勿論の事想察に余りある。其代り又|手苛《てひど》い領主や敵将に出遇《であ》った日には、それこそ草を刈るが如くに人民は生命も取られれば財産も召上げられて終《しま》う。で、つまり今の言葉で云う搾取階級も被搾取階級も、何れも是れも「力の発動」に任せられていた世であった。理屈も糸瓜《へちま》も有ったものでは無かった。債権無視、貸借関係の棒引、即ち徳政はレーニンなどよりずっと早く施行された。高師直《こうのもろなお》に取っては臣下の妻妾《さいしょう》は皆自己の妻妾であったから、師直の家来達は、御主人も好いけれど女房の召上げは困ると云ったというが、武田信玄になると自分はそんな不法行為をしなかったけれども「命令雑婚」を行わせたらしく想われる。何処の領主でも兵卒を多く得たいものは然様《そう》いうことを敢てするを忌まなかったから、共婚主義などは随分古臭いことである。滅茶苦茶《めちゃくちゃ》なことの好きなものには実に好い世であった。
 斯様いう恐ろしい、そして馬鹿げた世が続いた後に、民衆も目覚めて来れば為政者権力者も目覚めて来かかった時、此世に現われて、自らも目覚め、他をも目覚めしめて、混乱と紛糾に陥っていたものを「整理」へと急がせることに骨折った者が信長であった、秀吉であった。醍醐《だいご》の醍の字を忘れて、まごまごして居た佑筆《ゆうひつ》に、大の字で宜いではないかと云った秀吉は、実に混乱から整理へと急いで、譬《たと》えば乱れ垢《あか》づいた髪を歯の疎《あら》い丈夫な櫛《くし》でゴシゴシと掻いて整え揃えて行くようなことをした人であった。多少の毛髪は引切っても引抜いても構わなかった。其為に少し位は痛くっても関《かま》うものかという調子で遣りつけた。ところが結ぼれた毛の一[#(ト)]かたまりグッと櫛の歯にこたえたものがあった。それは関八州横領の威に誇っていた北条氏であった。エエ面倒な奴、一[#(ト)]かたまり引ッコ抜いて終え、と天下整理の大旆《たいはい》の下に四十五箇国の兵を率いて攻下ったのが小田原陣であったのだ。
 北条氏のほかに、まだ一[#(ト)]かたまりの結ぼれがあって、工合好く整理の櫛の歯に順《したが》って解けなければ引ッコ抜かれるか※[#「てへん+止」、第3水準1-84-71]断《ひっちぎ》られるかの場合に立っているのがあった。伊達政宗がそれであった。伊達藤次郎政宗は十八歳で父輝宗から家を承《う》けた「えら者」だ。天正の四年に父の輝宗が板屋峠を踰《こ》えて大森に向い、相馬|弾正大弼《だんじょうたいひつ》と畠山|右京亮義継《うきょうのすけしつぐ》、大内備前定綱との同盟軍を敵に取って兵を出した時、年はわずかに十歳だったが、先鋒《せんぽう》になろうと父に請うた位に気嵩《きがさ》で猛《さか》しかった。十八歳といえば今の若い者ならば出来の悪くないところで、やっと高等学校の入学試験にパスしたのを誇るくらいのところ、大抵の者は低級雑誌を耽読《たんどく》したり、活動写真のファンだなぞと愚にもつかないことを大したことのように思っている程の年齢だ。それが何様《どう》であろう、十八で家督相続してから、輔佐の良臣が有ったとは云え、もう立派に一個の大将軍になって居て、其年の内に、反復常無しであった大内備前を取って押えて、今後異心無く来り仕える筈に口約束をさせて終っている。それから、十九、二十、二十一、二十二、二十三、二十四と、今年天正の十八年まで六年の間に、大小三十余戦、蘆名、佐竹、相馬、岩城、二階堂、白川、畠山、大内、此等を向うに廻して逐《お》いつ返しつして、次第次第に斬勝《きりか》って、既に西は越後境、東は三春、北は出羽に跨《またが》り、南は白川を越して、下野《しもつけ》の那須、上野《こうつけ》の館林までも威※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《いえん》は達し、其城主等が心を寄せるほどに至って居る。特《こと》に去年蘆名義広との大合戦に、流石《さすが》の義広を斬靡《きりなび》けて常陸《ひたち》に逃げ出さしめ、多年の本懐を達して会津《あいづ》を乗取り、生れたところの米沢城から乗出して会津に腰を据え、これから愈々《いよいよ》南に向って馬を進め、先ず常陸の佐竹を血祭りにして、それから旗を天下に立てようという勢になっていた。仙道諸将を走らせ、蘆名を逐って会津を取ったところで、部下の諸将等が大《おおい》に城を築き塁を設けて、根を深くし蔕《へた》を固くしようという議を立てたところ、流石は後に太閤《たいこう》秀吉をして「くせ者」と評させたほどの政宗だ、ナニ、そんなケチなことを、と一笑に附してしまった。云わば少しばかり金が出来たからとて公債を買って置こうなどという、そんな蝨《しらみ》ッたかりの魂魄《たましい》とは魂魄が違う。秀吉、家康は勿論の事、政宗にせよ、氏郷にせよ、少し前の謙信にせよ、信玄にせよ、天下麻の如くに乱れて、馬烟《うまげむり》や鬨《とき》の声、金鼓《きんこ》の乱調子、焔硝《えんしょう》の香、鉄と火の世の中に生れて来た勝《すぐ》れた魂魄はナマヌルな魂魄では無い、皆いずれも火の玉だましいだ、炎々烈々として已《や》むに已まれぬ猛※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《もうえん》を噴き出し白光を迸発《ほうはつ》させているのだ。言うまでも無く吾《わ》が光を以て天下を被《おお》おう、天下をして吾が光を仰がせよう、と熱《いき》り立って居るのだ。政宗の意中は、いつまで奥羽の辺鄙《へんぴ》に欝々《うつうつ》として蟠居《ばんきょ》しようや、時を得、機に乗じて、奥州駒《おうしゅうごま》の蹄《ひづめ》の下に天下を蹂躙《じゅうりん》してくれよう、というのである。これが数え年で二十四の男児である。来年卒業証書を握ったらべそ子嬢に結婚を申込もうなんと思い寐《ね》の夢魂|七三《しちさん》にへばりつくのとは些《ちと》違って居た。
 諸老臣の深根|固蔕《こたい》の議をウフンと笑ったところは政宗も実に好い器量だ、立派な火の玉だましいだ。ところが此の火の玉より今少しく大きい火の玉が西の方より滾転《こんてん》殺到して来た。命に従わず朝《ちょう》を軽《かろ》んずるというので、節刀を賜わって関白が愈々東下して北条氏を攻めるというのである。北条氏以外には政宗が有って、迂闊《うかつ》に取片付けられる者では無かった。其他は碌々《ろくろく》の輩、関白殿下の重量が十分に圧倒するに足りて居たが、北条氏は兎に角八州に手が延びて居たので、ムザとは圧倒され無かった。強盗をしたのだか何をしたのだか知らないが、黄金を沢山持って武者修行、悪く云えば漂浪して来た伊勢新九郎は、金貸をして利息を取りながら親分肌を見せては段々と自分の処へ出入する士《さむらい》どもを手なずけて終《つい》に伊豆相模に根を下し、それから次第に膨脹《ぼうちょう》したのである。此の早雲という老夫《おやじ》も中々食えない奴で、三略の第一章をチョピリ聴聞すると、もうよい、などと云ったという大きなところを見せて居るかと思うと、主人が不取締だと下女が檐端《のきば》の茅《かや》を引抽《ひきぬ》いて焚付《たきつ》けにする、などと下女がヤリテンボウな事をする小さな事にまで気の届いている、凄《すさま》じい聡明《そうめい》な先生だった。が、金貸をしたというのは蓋《けだ》し虚事ではなかろう。地生《じおい》の者でも無し、大勢で来たのでも無し、主人に取立てられたと云うのでも無し、そんな事でも仕無ければ機微にも通じ難く、仕事の人足も得難かったろう。明治の人でも某老は同国人の借金の尻拭いを仕て遣り遣りして、終におのずからなる勢力を得て顕栄の地に達したという話だ。嘘《うそ》八百万両も貸付けたら小人島《こびとじま》の政治界なんぞには今でも頭の出せそうに思われる理屈がある。で、早雲は好かったが、其後氏綱、氏康、これも先ず好し、氏康の子の氏政に至っては世襲財産で鼻の下の穴を埋めて居る先生で、麦の炊き方を知らないで信玄にお坊ッちゃんだと笑われた。下女が乱暴に焚付《たきつけ》を作ることまで知った長氏に起って、生の麦を直《すぐ》に炊けるものだと思っていた氏政に至って、もう脉《みゃく》はあがった。麦の炊きようも知らない分際で、台所奉行から出世した関白と太刀打《たちうち》が出来るものでは無い。関白が度々|上洛《じょうらく》を勧めたのに、悲しいことだ、お坊さん殻威張《からいば》りで、弓矢でこいなぞと云ったから堪《たま》らない。待ってましたと計《ばか》りに関白の方では、此の大石を取れば碁は世話無しに勝になると、堂々たる大軍、徳川を海道より、真田《さなだ》を山道より先鋒《せんぽう》として、前田、上杉、いずれも戦にかけては恐ろしく強い者等に武蔵、上野、上総《かずさ》、下総《しもうさ》、安房《あわ》の諸国の北条領の城々六十余りを一月の間に揉潰《もみつぶ》させて、小田原へ取り詰めた。
 最初北条方の考では源平の戦に東軍の勝となっている先蹤《せんしょう》などを夢みて居たかも知れぬが、秀吉は平家とは違う。おまけに源平の時は東軍が踏出して戦っているのに、北条氏は碌《ろく》に踏出しても居ず、まるで様子が違っている。勝形は少しも無く、敗兆は明らかに見えていた。然し北条も大々名だから、上方勢と関東勢との戦はどんなものだろうと、上国の形勢に達せぬ奥羽の隅に居た者の思ったのも無理は無い。又政宗も朝命を笠に被《き》て秀吉が命令ずくに、自分とは別に恨も何も無い北条攻めに参会せよというのには面白い感情を持とう筈は無かった。そこで北条が十二分に上方勢と対抗し得るようならば、上方勢の手並の程も知れたものだし、何も慌てて降伏的態度に出る必要は無いし、且《かつ》北条が敵し得ぬにしても長く堪え得るようならば、火事は然程《さほど》に早く吾《わ》が廂《ひさし》へ来るものでは無い、と考えて、狡黠《こうかつ》には相違無いが、他人|交際《づきあい》の間柄ではあり、戦乱の世の常であるから、形勢観望、二[#(タ)]心抱蔵と出かけて、秀吉の方の催促にも畏《かしこ》まり候とは云わずに、ニヤクヤにあしらっていた。一ツは関東は関東の国自慢、奥羽は奥羽の国自慢があって、北条氏が源平の先蹤を思えば、奥羽は奥羽で前九年後三年の先蹤を思い、武家の神のような八幡太郎を敵にしても生やさしくは平らげられなかった事実に心強くされて居た廉《かど》もあろうし、又一ツは何と云っても鼻ッ張りの強い盛りの二十三四であるから、噂に聞いた猿面冠者に一も二も無く降伏の形を取るのを忌々《いまいま》しくも思ったろう。
 然し政宗は氏康のような己を知らず彼を知らぬお坊ッちゃんでは無かった。少くも己を知り又彼を知ることに注意を有《も》って居た。秀吉との交渉は天正十二年頃から有ったらしい。秀吉と徳川氏との長湫《ながくて》一戦後の和が成立して、戦は勝ったが矢張り徳川氏は秀吉に致された形になって、秀吉の勢威隆々となったからであろうか、後藤基信をして政宗は秀吉に信書を通ぜしめている。如才無い家康は勿論それより前に使を政宗に遣わして修好して居る。家康は海道一の弓取として英名伝播して居り、且秀吉よりは其位置が政宗に近かったから、政宗もおよそ其様子合を合点して居たことだろう。天正十六年には秀吉の方から書信があり、又刀などを寄せて鷹を請うて居る。鷹は奥州の名物だが、もとより鷹は何でもない、是は秀吉の方から先手を打って、政宗を引付けようというにあったこと勿論である。秀吉の命に出たことであろう、前田利家からも通信は来ている。が、ここまでは何れにしても何でも無いことだったが、秀吉も次第に膨脹すれば政宗も次第に膨脹して、いよいよ接触すべき時が逼《せま》って来た。其年の九月には家康から使が来、又十二月には玄越というものを遣わして、関白の命を蒙《こうむ》って仙道の諸将との争を和睦《わぼく》させようと存じたが、承れば今度和議が成就した由、今後|復《また》合戦沙汰になりませぬよう有り度い、と云って来た。これは秀吉の方に政宗の国内の事情が知悉《ちしつ》されているということを語って居るものである。まだ其時は政宗が会津を取って居たのでは無いが、徳川氏からの使の旨で秀吉の意を猜《すい》すれば、秀吉は政宗が勝手な戦をして四方を蚕食しつつ其大を成すを悦《よろこ》ばざること分明であることが、政宗の※[#「匈/月」、1015-上-9]中《きょうちゅう》に映らぬことは無い。それでも政宗は遠慮せずに三千塚という首塚を立てる程の激しい戦をして蘆名義広を凹《へこ》ませ、とうとう会津を取って終《しま》ったのが、其翌年の五月のことだ。秀吉の意を破り、家康の言を耳に入れなかった訳である。そこで此の敵の蘆名義広が、落延びたところは同盟者の佐竹義宣方であるから、佐竹が、政宗という奴はひどい奴でござる、と一切の事情を成るべく自分方に有利で政宗に不利のように秀吉や家康に通報したのは自然の勢である。これは政宗も万々合点していることだから、其年の暮には上方の富田左近|将監《しょうげん》や施薬院玄以に書を与えて、何様《どん》なものだろうと探ると、案の定一白や玄以からは、会津の蘆名は予《か》ねてより通聘《つうへい》して居るのに、貴下が勝手に之を逐《お》い落して会津を取られたことは、殿下に於て甚しく機嫌を損じていらるるところだ、と云って遣《よこ》した。もう此時は秀吉は小田原の北条を屠《ほふ》って、所謂《いわゆる》「天下の見懲らし」にして、そして其勢で奥羽を刃《やいば》に血ぬらず整理して終おうという計画が立って居た時だから、勿論秀吉の命を受けての事だろう、前田利家や浅野長政からも、又秀吉の後たるべき三好秀次からも、明年小田原征伐の砌《みぎり》は兵を出して武臣の職責を尽すべきである、と云って来ている。家康から、早く帰順の意を表するようにするが御為だろう、と勧めて来ていることも勿論である。明けて天正十八年となった、正月、政宗は良覚院《りょうがくいん》という者を京都へ遣った。三月は斎藤九郎兵衛が京都から浅野長政等の書を持って来て、いよいよ関東奥羽平定の大軍が東下する、北条征伐に従わるべきである、会期に違ってはなりませぬぞ、というのであった。そこで九郎兵衛に返書を齎《もた》らさしめ、守屋|守柏《しゅはく》、小関《おぜき》大学の二人を京へ遣ったが、政宗の此頃は去年大勝を得てから雄心|勃々《ぼつぼつ》で、秀吉東下の事さえ無ければ、無論常陸に佐竹を屠って、上野下野と次第に斬靡《きりなび》けようというのだから、北条征伐に狩出されるなどは面白くなかったに相違無い。ところが秀吉の方は大軍堂々と愈々《いよいよ》北条征伐に遣って来たのだ。サア信書の往復や使者の馬の蹄《ひづめ》の音の取り遣りでは無くなった、今正に上方勢の旗印を読むべき時が来たのだ。金の千成瓢箪《せんなりびょうたん》に又一ツ大きな瓢箪が添わるものだろうか、それとも北条氏|三鱗《みつうろこ》の旗が霊光を放つことであろうか、猿面冠者の軍略兵気が真実其実力で天下を取るべきものか。政宗は抜かぬ刀を左手《ゆんで》に取り絞って、ギロリと南の方を睥睨《へいげい》した。
 たぎり立った世の士《さむらい》に取って慚《は》ずべき事と定まっていたことは何ヶ条もあった。其中先ず第一は「聞怯《ききお》じ」というので、敵が何万来るとか何十万寄せるとか、或は猛勇で聞えた何某《なにがし》が向って来るとかいうことを聞いて、其風聞に辟易《へきえき》して闘う心が無くなり、降参とか逃走とかに料簡《りょうけん》が傾くのを「聞怯じ」という。聞怯じする奴ぐらいケチな者は無い、如何に日頃利口なことを云っていても聞怯じなんぞする者は武士では無い。次に「見崩れ」というのは敵と対陣はしても、敵の潮の如く雲の如き大軍、又は勇猛|鷙悍《しかん》の威勢を望み見て、こいつは敵《かな》わないとヒョコスカして逃腰になり、度を失い騒ぎかえるのである。聞怯じよりはまだしもであるが、士分の真骨頭の無い事は同様である。「不覚」というのは又其次で、これは其働きの当を得ぬもので、不覚の好く無いことは勿論であるが、聞怯じ見崩れをする者よりは少しは恕《じょ》すべきものである。「不鍛煉《ふたんれん》」は「不覚」が、心掛の沸《たぎ》り足らないところから起るに比して又一段と罪の軽いもので、場数を踏まぬところから起る修行不足である。聞怯《ききお》じ[#ルビの「ききお」は底本では「ききおじ」]、見崩れする奴ほど人間の屑《くず》は無いが、扨《さて》大抵の者は聞怯じもする、見崩れもするもので、独逸《ドイツ》のホラアフク博士が地球と彗星《すいせい》が衝突すると云ったと聞いては、眼の色を変えて仰天し、某国のオドカシック号という軍艦の大砲を見ては、腰が抜けそうになり、新学説、新器械だ、ウヘー、ハハアッと叩頭する類《たぐい》は、皆是れ聞怯じ見崩れの手合で、斯様《こう》いう手合が多かったり、又大将になっていたりして呉れては、戦ならば大敗、国なら衰亡する。平治の戦の大将藤原信頼は重盛に馳向われて逃出して終《しま》った。あの様な見崩れ人種が大将では、義朝や悪源太が何程働いたとて勝味は無い。鞭声《べんせい》粛々夜河を渡った彼《か》の猛烈な謙信勢が暁の霧の晴間から雷火の落掛るように哄《どっ》と斬入った時には、先ず大抵な者なら見ると直に崩れ立つところだが、流石《さすが》は信玄勢のウムと堪《こら》えたところは豪快|淋漓《りんり》で、斬立てられたには違無かろうが実に見上げたものだ。政宗の秀吉に於ける態度の明らかに爽《さわ》やかで無かったのは、潔癖の人には不快の感を催させるが、政宗だとて天下の兵を敵にすれば敵にすることの出来る力を有《も》って居たので、彼の南部の九戸《くのへ》政実ですら兎に角天下を敵にして戦った位であるから、まして政宗が然様《そう》手ッ取早く帰順と決しかねたのも何の無理があろう。梵天丸《ぼんてんまる》の幼立からして、聞怯じ、見崩れをするようなケチな男では無い。政宗の幼い時は人に対して物羞《ものはじ》をするような児で、野面《のづら》や大風《おおふう》な児では無かったために、これは柔弱で、好い大将になる人ではあるまいと思った者もあったというが、小児の時に内端《うちば》で人に臆したような風な者は柔弱臆病とは限らない、却《かえ》って早くから名誉心が潜み発達して居る為に然様いう風になるものが多いのである。片倉小十郎景綱というのは不幸にして奥州に生れたからこそ陪臣で終ったれ、京畿に生れたらば五十万石七十万石の大名には屹度《きっと》成って居たに疑無い立派な人物だが、其|烱眼《けいがん》は早くも梵天丸の其様子を衆人の批難するのを排して、イヤイヤ、末頼もしい和子《わこ》様である、と云ったという。二本松義継の為に遽《にわか》に父の輝宗が攫《さら》い去られた時、鉄砲を打掛けて其為に父も殺されたが義継をも殺して了った位のイラヒドイところのある政宗だ。関白の威勢や、三好秀次や浅野長政や前田利家や徳川家康や、其他の有象無象《うぞうむぞう》等の信書や言語が何を云って来たからと云って、禽《とり》の羽音、虻《あぶ》の羽音だ。そんな事に動く根性骨では無い。聞怯じ人種、見崩れ人種ではないのである。自分が自分で合点するところが有ってから自分の碁の一石を下そうという政宗だ。確かに確かに関白と北条とを見積ってから何様《どう》とも決めようという料簡だ、向背の決着に遅々としたとて仕方は無いのだ。
 そこで政宗が北条氏の様子をも上方勢の様子をも知り得る限り知ろうとして、眼も有り才も有る者共を沢山に派出したことは猜知《すいち》せられることだ。北条の方でも秀吉の方でも政宗を味方にしたいのであるから、便宜は何程でも有ったろうというものだ。で、関白は愈々《いよいよ》小田原攻にかかり、事態は日に逼《せま》って来た。ところへ政宗が出した視察者の一人の大峯金七は帰って来た。
 金七の復命は政宗及び其老臣等によって注意を以て聴取られた。勿論小田原攻め視察の命を果して帰ったものは金七のみでは無かったであろうが、其他の者の姓名は伝わらない。金七が還《かえ》っての報告によると、猿面冠者の北条攻めの有様は尋常一様、武勇一点張りのものでは無い、其大軍といい、一般方針といい、それから又千軍万馬往来の諸雄将の勇威と云い、大剛の士、覚えの兵等の猛勇で功者な事と云い、北条方にも勇士猛卒十八万余を蓄わえて居るとは云え、到底関白を敵として勝味は無い。特《こと》に秀吉の軍略に先手先手と斬捲《きりまく》られて、小田原の孤城に退嬰《たいえい》するを余儀なくされて終《しま》って居る上は、籠中《ろうちゅう》の禽、釜中《ふちゅう》の魚となって居るので、遅かれ速かれどころでは無い、瞬く間に踏潰《ふみつぶ》されて終うか、然《さ》無《な》くとも城中|疑懼《ぎく》の心の堪え無くなった頃を潮合として、扱いを入れられて北条は開城をさせられるに至るであろう、ということであった。金七の言うところは明白で精確と認められた。ここに至って政宗も今更ながら、流石に秀吉というものの大きな人物であるということを感じない訳には行かなかった。沈黙は少時《しばし》一座を掩《おお》うたことであろう。金七を退かせてから政宗は老臣等を見渡した。小田原が遣付けらるれば其次は自分である。北条も此方に対しては北条|陸奥守《むつのかみ》氏輝が後藤基信に好《よし》みを通じて以来仲を好くしている、猿面冠者を敵にして立上るなら北条の亡ぼされぬ前に一日も早く上州野州武州と切って出て北条に勢援すべきだが、仙道諸将とは予《かね》てよりの深仇《しんきゅう》宿敵であり、北条の手足を※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]《も》ぐ為に出て居る秀吉方諸将の手並の程も詳しく承知しては居ぬ。さればと云って今更帰伏して小田原攻参会も時おくれとなっている、忌々《いまいま》しくもある。切り合って闘いたいが自分の方の石の足らぬ碁だ、巧く保ちたいが少し手数後《てかずおく》れになって居る碁で、幾許《いくばく》かの損は犠牲にせねばならなくなっている。そして決着は孰《いず》れにしても急がねばならないところだ。胸算の顔は眼玉がパッチパチ、という柳風の句があるが、流石の政宗だから見苦しい眼パチパチも仕無かったろうけれど、左思右考したには違い無い。しかし何様しても天下を敵に廻し、朝命に楯《たて》をついて、安倍の頼時や、平泉の泰衡《やすひら》の二の舞を仕て見たところが、骰子《さい》の目が三度も四度も我が思う通りに出ぬものである以上は勝てようの無いことは分明だ。そこで、残念だが仕方が無い、小田原が潰《つぶ》されて終ってからでは後手《ごて》の上の後手になる、もう何を擱《お》いても秀吉の陣屋の前に馬を繋《つな》がねばならぬ、と考えた。そこで、何様である、徳川殿の勧めに就こうかと思うが、といいながら老臣等を見渡すと、ムックリと頭《こうべ》を擡《もた》げたのが伊達藤五郎|成実《しげざね》だ。
 藤五郎成実は立派な奥州侍の典型だ。天正の十三年、即ち政宗の父輝宗が殺された其年の十一月、佐竹、岩城以下七将の三万余騎と伊達勢との観音堂の戦に、成実の軍は味方と切離されて、敵を前後に受けて恐ろしい苦戦に陥った。其時成実の隊の下郡山内記《したこおりやまないき》というものが、此処で打死しても仕方が無い、一旦は引退かれるが宜くはないか、と云った折に、ギリギリと歯を切《くいしば》って、ナンノ、藤五郎成実、魂魄《たましい》ばかりに成り申したら帰りも致そう、生身で一[#(ト)]歩《あし》でも後へさがろうか、と罵《ののし》って悪戦苦闘の有る限りを尽した。それで其戦も結局勝利になったため、今度《このたび》の合戦、全く其方一手の為に全軍の勝となった、という感状を政宗から受けた程の勇者である。戦場には老功、謀略も無きにあらぬ中々の人物で、これも早くから信長秀吉の眼の近くに居たら一ヶ国や二ヶ国の大名にはなったろう。政宗元服の式の時には此の藤五郎成実が太刀《たち》を奉じ、片倉小十郎景綱が小刀《しょうとう》を奉じたのである。二人は真に政宗が頼み切った老臣で、小十郎も剛勇だが智略分別が勝り、藤五郎も智略分別に逞《たくま》しいが勇武がそれよりも勝って居たらしい。
 其藤五郎成実が主人の上を思う熱心から、今や頭を擡げ眼を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》って、藤五郎存ずる旨を申上げとうござる、秀吉関東征伐は今始まったことではござらぬ、既に去年冬よりして其事定まり、朝命に従い北条攻めの軍に従えとは昨年よりの催促、今に至って小田原へ参向するとも時は晩《おく》れ居り、遅々緩怠の罪は免るるところはござらぬ、たとえ厳しく咎《とが》められずとも所領を召上げられ、多年|弓箭《ゆみや》にかけて攻取ったる国郡をムザムザ手離さねばならぬは必定の事、我が君今年正月七日の連歌《れんが》の発句に、ななくさを一[#(ト)]手によせて摘む菜|哉《かな》と遊ばされしは、仙道七郡を去年の合戦に得たまいしよりのこと、それを今更秀吉の指図に就かりょうとは口惜しい限り、とてもの事に城を掻き寨《とりで》を構え、天下を向うに廻して争おうには、勝敗は戦の常、小勢が勝たぬには定まらず、あわよくば此方が切勝って、旗を天下に樹《た》つるに及ぼうも知れず、思召《おぼしめ》しかえさせられて然るべしと存ずる、と勇気|凜々《りんりん》四辺《あたり》を払って扇を膝に戦場|叱咤《しった》の猛者声《もさごえ》で述べ立てた。其言の当否は兎に角、斯様《こう》いう場合斯様いう人の斯様いう言葉は少くも味方の勇気を振興する功はあるもので、たとえ無用にせよ所謂《いわゆる》無用の用である。ヘタヘタと誰も彼も降参気分になって終《しま》ったのでは其後がいけない、其家の士気というものが萎靡《いび》して終う。藤五郎も其処を慮《おもんぱか》って斯様いうことを言ったものかも知れぬ、又或は真に秀吉の意に従うのが忌々《いまいま》しくて斯様云ったのかも知れぬ。政宗も藤五郎の勇気ある言を嬉しく聞いたろう。然し何等の答は発せぬ。片倉小十郎は黙然として居る。すると原田左馬介宗時という一老臣、これも伊達家の宗徒《むねと》の士だが成実の言に反対した。伊達騒動の講釈や芝居で、むやみに甚《ひど》い悪者にされて居る原田甲斐は、其の実|兇悪《きょうあく》な者では無い、どちらかと云えばカッとするような直情の男だったろうと思われるが、其の甲斐は即ち此の宗時の末だ。宗時も十分に勇武の士で、思慮もあれば身分もあった者だが、藤五郎の言を聞くと、イヤイヤ、其御言葉は一応|御尤《ごもっとも》には存ずるが、関白も中々世の常ならぬ人、匹夫《ひっぷ》下郎《げろう》より起って天下の旗頭となり、徳川殿の弓箭《ゆみや》に長《た》けたるだに、これに従い居らるるというものは、畢竟《ひっきょう》朝威を負うて事を執らるるが故でござる、今|若《も》しこれに従わずば、勝敗利害は姑《しば》らく擱《お》き、上《かみ》は朝庭に背くことになりて朝敵の汚命を蒙《こうむ》り、従って北条の如くに、あらゆる諸大名の箭の的となり鉄砲の的となるべく、行末の安泰|覚束無《おぼつかな》きことにござる、と説いた。片倉小十郎も此時宗時の言に同じて、朝命に従わぬという名を負わされることの容易ならぬことを説いた、という説も有るが、また小十郎は其場に於ては一言も発せずに居たという説もある。其説に拠ると小十郎は何等の言をも発せずに終ったので、政宗は其夜|窃《ひそ》かに小十郎の家を訪《と》うた。小十郎は主人の成りを悦《よろこ》び迎えた。政宗は小十郎の意見を質《ただ》すと、小十郎は、天下の兵はたとえば蠅《はえ》のようなもので、これを撲《う》って逐《お》うても、散じては復《また》聚《あつ》まってまいりまする、と丁度手にして居た団扇《うちわ》を揮《ふる》って蠅を撲つ状《まね》をした。そこで政宗も大《おおい》に感悟して天下を敵に取らぬことにしたというのである。いずれにしても原田宗時や片倉小十郎の言を用いたのである。
 そこで政宗は小田原へ趨《おもむ》くべく出発した。時が既に機を失したから兵を率いてでは無く、云わば帰服を表示して不参の罪を謝するためという形である。藤五郎成実は留守の役、片倉小十郎、高野|壱岐《いき》、白石|駿河《するが》以下百騎余り、兵卒若干を従えて出た。上野を通ろうとしたが上野が北条領で新関が処々に設けられていたから、会津から米沢の方へ出て、越後路から信州甲州を大廻りして小田原へ着いた。北条攻は今其最中であるが、関白は悠然たるもので、急に攻めて兵を損ずるようなことはせず、ゆるゆると心|長閑《のどか》に大兵で取巻いて、城中の兵気の弛緩《しかん》して其変の起るのを待っている。何の事は無い勝利に定まっている碁だから煙草をふかして笑っているという有様だ。茶の湯の先生の千利休《せんのりきゅう》などを相手にして悠々と秀吉は遊んでいるのであった。政宗参候の事が通ぜられると、あの卒直な秀吉も流石《さすが》に直《すぐ》には対面をゆるさなかった。箱根の底倉に居て、追って何分の沙汰を待て、という命令だ。今更政宗は仕方が無い、底倉の温泉の烟《けむり》のもやもやした中に欝陶《うっとう》しい身を埋めて居るよりほか無かった。日は少し立った。直に引見されぬのは勿論上首尾で無い証拠だ。従って来た者の中で譜代で無い者は主人に見限りを付け出した。情無いものだ、蚤《のみ》や蝨《しらみ》は自分がたかって居た其人の寿命が怪しくなると逃げ出すのを常とする。蚤は逃げた、蝨は逃げた。貧乏すれば新らしい女は逃腰になると聞いたが、政宗に従っていた新らしい武士は逃げて退いた。其中でも矢田野伊豆《やだのいず》などいう奴は逃出して故郷の大里城に拠《よ》って伊達家に対して反旗を翻えした位だ。そこで政宗の従士は百騎あったものが三十人ばかりになって終った。
 ところへ潮加減を量って法印玄以、施薬院全宗、宮部善祥坊、福原直高、浅野長政諸人が関白の命を含んで糾問《きゅうもん》に遣って来た。浅野弥兵衛が頭分で、いずれも口利であり、外交駈引接衝応対の小手《こて》の利いた者共である。然し弥兵衛等も政宗に会って見て驚いたろう、先ず第一に年は僅に二十四五だ、短い髪を水引即ち水捻《みずより》にした紙線《こより》で巻き立て、むずかしい眼を一[#(ト)]筋縄でも二[#(タ)]筋縄でも縛りきれぬ面魂《つらだましい》に光らせて居たのだから、異相という言葉で昔から形容しているが、全く異相に見えたに相違無い。弥兵衛等もただ者で無いとは見て取ったろうが、関白の威光を背中に背負って居るのであるから、先ず第一に朝命を軽《かろ》んじて早く北条攻に出陣しなかったこと、それから蘆名義広を逐払《おいはら》って私に会津を奪ったこと、二本松を攻略し、須賀川を屠《ほふ》り、勝手に四隣を蚕食した廉々《かどかど》を詰問した。勿論これは裏面に於て政宗の敵たる佐竹義宣が石田三成に此等の事情を宜いように告げて、そして大有力者の手を仮りて政宗を取押えようと謀った為であると云われている。政宗が陳弁は此等諸方面との取合いの起った事情を明白に述べて、武門の意気地、弓箭の手前、已《や》むに已まれず干戈《かんか》を執ったことを云立てて屈しなかった。又朝命を軽んじたという点は、四隣皆敵で遠方の様子を存じ得申さなかったからというので言開きをした。翌日|復《また》弥兵衛等は来って種々の点を責めたが、結局は要するに、会津や仙道諸城、即ち政宗が攻略蚕食した地を納め奉るが宜かろう、と好意的に諭したのである。そこで政宗は仕方が無い、もとより我慾によって国郡を奪ったのではござらぬ、という潔い言葉に吾《わ》が身をよろおって、会津も仙道諸郡も命のままに差上げることにした。
 埒《らち》は明いた。秀吉は政宗を笠懸山《かさがけやま》の芝の上に於て引見した。秀吉は政宗に侵掠《しんりゃく》の地を上納することを命じ、米沢三十万石を旧《もと》の如く与うることにし、それで不服なら国へ帰って何とでもせよ、と優しくもあしらい、強くもあしらった。歯のあらい、通りのよい、手丈夫な立派な好い大きな櫛《くし》だ。天下の整理は是《かく》の如くにして捗取《はかど》るのだ。惺々《せいせい》は惺々を愛し、好漢は好漢を知るというのは小説の常套《じょうとう》文句だが、秀吉も一瞥《いちべつ》の中の政宗を、くせ者ではあるが好い男だ、と思ったに疑無い。政宗も秀吉を、いやなところも無いでは無いが素晴らしい男だ、と思ったに疑無い。人を識《し》るは一面に在り、酒を品するは只三杯だ。打たずんば交りをなさずと云って、瞋拳《しんけん》毒手の殴り合までやってから真の朋友《ほうゆう》になるのもあるが、一見して交《まじわり》を結んで肝胆相照らすのもある。政宗と秀吉とは何様《どう》だったろう。双方共に立派な男だ、ケチビンタな神経衰弱野郎、蜆貝《しじみがい》のような小さな腹で、少し大きい者に出会うと些《ちっと》も容れることの出来ないソンナ手合では無い。嬶《かかあ》や餓鬼を愛することが出来るに至って人間並の男で、好漢を愛し得るに至ってはじめて是れ好漢、仇敵《きゅうてき》を愛し得るに至ってホントの出来た男なのだ。猿面冠者も独眼竜も立派な好漢だ、ケチビンタな蜆ッ貝野郎ではない。貴様が予《か》ねて聞いた伊達藤次郎か、おぬしが予ねて聞いた木下藤吉か、と互に面を見合せて重瞳《ちょうどう》と隻眼と相射った時、ウム、面白そうな奴、話せそうな奴、と相愛したことは疑無い。だが、お互に愛しきったか何様だか、イヤお互に底の底までは愛しきれなかったに違無い。政宗は秀吉の男ぶりに感じて之を愛したには相違ないが、帰ってから人に語って、其の底の底までは愛しきらぬところを洩《もら》したことは、尭雄僧都話《ぎょうゆうそうずばなし》に見えて居るとされている。秀吉も政宗の押えに彼《か》の手強《てごわ》な蒲生氏郷を置いたところは、愛してばかりは居なかった証拠だ。藤さんと藤さんとお互に六分は愛し、四分は余白を留《とど》めて居たのである。戦乱の世の事だ、孰《いず》れにも無理は無いと為すべきだ。
 関白が政宗に佩刀《はいとう》を預けて山へ上って小田原攻の手配りを見せた談《はなし》などは今|姑《しばら》く措《お》く。さて政宗は米沢三十万石に削られて帰国した。七十万石であったという説もあるが、然様《そう》いうことは考証家の方へ預ける。秀吉が政宗の帰国を許したに就ては、秀吉の左右に、折角山を出て来た虎を復《ふたた》び深山に放つようなものである、と云った者があるということだ。そんなことを云った者は多分石田左吉の輩ででもあろう。其時秀吉は笑って、おれは弓箭沙汰《きゅうせんざた》を用いないで奥羽を平定して終《しま》うのだ、汝等の知るところでは無い、と云ったというが、実に其辺は秀吉の好いところだ。政宗だとて何で一旦関白面前に出た上で、復《また》今更に牙《きば》をむき出し毛を逆立てて咆哮《ほうこう》しようやである。
 小田原は果して手強い手向いもせず、埒《らち》も無く軍気が沮喪《そそう》して自ら保てなくなり、終《つい》に開城するの已むを得ざるに至った。秀吉は何をするのも軽々と手早い大将だ、小田原が済むと直《すぐ》に諸将を従えて奥州へと出掛けた。威を示して出羽奥州一[#(ト)]撫でに治めて終おうというのである。政宗が服したのであるから刃向おうという者は無い。秀吉が宇都宮に宿営した時に政宗は片倉小十郎を従えて迎接した。小十郎は大谷吉隆に就いて主家を悪く秀吉に思取られぬよう行届いた処置をした。吉隆も人物だ。小十郎が会津蘆名の旧領地の図牒《ずちょう》の入って居る筐《はこ》を開いて示した時には黙って開かせながら、米沢の伊達旧領の図牒の入っている筐を小十郎が開いて示そうとした時には、イヤそれには及び申さぬ、と挨拶したという。大谷吉隆に片倉景綱、これも好い取組だ。互に抜目の無い挙動応対だったろう。秀吉の前に景綱も引見された時、吉隆が、会津の城御引渡しに相成るには幾日を以てせらるる御積りか、と問うたら、小十郎は、ただ留守居の居るばかりでござる、何時にても差支はござらぬ、と云ったというが、好い挨拶だ。平生行届いていて、事に当って埒の明く人であることが伺われる。これで其上に剛勇で正実なのだから、秀吉が政宗の手から取って仕舞いたい位に思ったろう、大名に取立てようとした。が、小十郎は恩を謝するだけで固辞して、飽迄伊達家の臣として身を置くを甘んじた。これも亦感ずべきことで、何という立派な其人柄だろう。浅野六右衛門正勝、木村弥一右衛門清久は会津城を受取った。七月に小田原を潰《つぶ》して、八月には秀吉はもう政宗の居城だった会津に居た。土地の歴史上から云えば会津は蘆名に戻さるべきだが、蘆名は一度もう落去したのである、自己の地位を自己で保つ能力の欠乏して居ることを現わして居るものである。此の枢要《すうよう》の地を材略武勇の足らぬものに托《たく》して置くことは出来ぬ。まして伊達政宗が連年血を流し汗を瀝《したた》らして切取った上に拠ったところの地で、いやいやながら差出したところであり、人情として涎《よだれ》を垂らし頤《あご》を朶《た》れて居るところである、又|然《さ》なくとも崛強《くっきょう》なる奥州の地武士が何を仕出さぬとも限らぬところである、また然様いう心配が無くとも広闊《こうかつ》な出羽奥州に信任すべき一雄将をも置かずして、新付《しんぷ》の奥羽の大名等の誰にもせよに任かせて置くことは出来ぬところである。是《ここ》に於て誰か知ら然る可き人物を会津の主将に据えて、奥州出羽の押えの大任、わけては伊達政宗をのさばり出さぬように、表はじっとりと扱って事端を発させぬように、内々はごっつりと手強くアテテ屏息《へいそく》させるような、シッカリした者を必要とするのである。
 此のむずかしい場処の、むずかしい場合の、むずかしい役目を引受けさせられたのが鎮守府将軍田原|藤太秀郷《とうだひでさと》の末孫《ばっそん》と云われ、江州《ごうしゅう》日野の城主から起って、今は勢州松坂に一方の将軍星として光を放って居た蒲生忠三郎氏郷であった。
 氏郷が会津の守護、奥州出羽の押えに任ぜられたに就ては面白い話が伝えられている。その話の一ツは最初に秀吉が細川越中守|忠興《ただおき》を会津守護にしようとしたところが、越中守忠興が固く辞退した、そこで飯鉢《おはち》は氏郷へ廻った、ということである。細川忠興も立派な一将であるが、歌人を以て聞えた幽斎の後で、人物の誠実温厚は余り有るけれど、不知案内の土地へ移って、気心の知り兼ねる政宗を向うへ廻して取組もうというには如何であった。若《も》し其説が真実であるとすれば、忠興が固辞したということは、忠興の智慮が中々深くて、能《よ》く己を知り彼を知って居たということを大《おおい》に揚げるべきで、忠興の人物を一段と立派にはするが、秀吉に取っては第一には其の眼力が心細く思われるのであり、第二に辞退されて、ああ然様《そう》か、と済ませたことが下らなく思われるのである。で、この話は事実で有ったか知らぬが面白く無く思われる。
 又今一つの話は、秀吉が会津を誰に托《たく》そうかというので、徳川家康と差向いで、互に二人ずつ候補者を紙札に書いて置いてから、そして出して見た。ところが秀吉の札では一番には堀久太郎|秀治《ひではる》、二番には蒲生忠三郎、家康の札では一番に蒲生忠三郎、二番に堀久太郎であった。そこで秀吉は、奥州は国侍の風が中々|手強《てごわ》い、久太郎で無くては、と云うと、家康は、堀久太郎と奥州者とでは茶碗と茶碗でござる、忠三郎で無くては、と云ったというのである。茶碗と茶碗とは、固いものと固いものとが衝突すれば双方砕けるばかりという意味であろう。で、秀吉が悟って家康の言を用いたのであるというのだ。此|談《はなし》は余程おもしろいが、此談が真実ならば、蟹《かに》では無いが家康は眼が高くて、秀吉は猿のように鼻が低くなる訳だ。堀久太郎は強いことは強いが、後に至って慶長の三年、越後の上杉景勝の国替のあとへ四十五万石(或は七十万石)の大封《たいほう》を受けて入ったが、上杉に陰で糸を牽《ひ》かれて起った一揆《いっき》の為に大に手古摺《てこず》らされて困った不成績を示した男である。又氏郷は相縁《あいえん》奇縁というものであろう、秀吉に取っては主人筋である信長の婿でありながら秀吉には甚だ忠誠であり、縁者として前田又左衛門利家との大の仲好しであったが、家康とは余り交情の親しいことも無かったのであり、政宗は却《かえっ》て家康と馬が合ったようであるから、此談も些《ちと》受取りかねるのである。
 今一ツの伝説は、秀吉が会津守護の人を選ぶに就いて諸将に入札をさせた。ところが札を開けて見ると、細川越中守というのが最も多かった。すると秀吉は笑って、おれが天下を取る筈だわ、ここは蒲生忠三郎で無くてはならぬところだ、と云って氏郷を任命したというのだ。おれが天下を取る筈だわ、という意は人々の識力眼力より遥に自分が優《まさ》って居るという例の自慢である。此話に拠ると、会津に蒲生氏郷を置こうというのは最初から秀吉の肚裏《とり》に定まって居たことで、入札はただ諸将の眼力を秀吉が試みたということになるので、そこが些《ちと》訝《いぶ》かしい。往復ハガキで下らない質問の回答を種々の形の瓢箪《ひょうたん》先生がたに求める雑誌屋の先祖のようなものに、千成瓢箪殿下が成下るところが聊《いささ》か憫然《びんぜん》だ。いろいろの談の孰れが真実だか知らないが、要するに会津守護は当時の諸将の間の一問題で好談柄で有ったろうから、随《したが》って種々の臆測談や私製任命や議論やの話が転伝して残ったのかも知れないと思わざるを得ぬ。
 何はあれ氏郷は会津守護を命ぜられた。ところが氏郷も一応は辞した。それでも是非頼むという訳だったろう、そこで氏郷は条件を付けることにした。今の人なら何か自分に有利な条件を提出して要求するところだが、此時分の人だから自己利益を本として釣鉤《つりばり》の※[#「金+幾」、第4水準2-91-39]《かかり》のようなイヤなものを出しはしなかった。ただ与えられた任務を立派に遂行し得るために其便宜を与えられることを許されるように、ということであった。それは奥州鎮護の大任を全うするに付けては剛勇の武士を手下に備えなければならぬ、就ては秀吉に対して嘗《かつ》て敵対行為を取って其|忌諱《きい》に触れたために今に何《ど》の大名にも召抱えられること無くて居る浪人共をも宥免《ゆうめん》あって、自分の旗の下に置くことを許容されたい、というのであった。まことに此の時代の事であるから、一能あるものでも嘗《かつ》て秀吉に鎗先《やりさき》を向けた者の浪人したのは、たとい召抱えたく思う者があっても関白への遠慮で召抱えかねたのであった。氏郷の申出は立派なものであった。秀吉たる者之を容れぬことの有ろう筈は無い。敵対又は勘当の者なりとも召抱|扶持《ふち》等随意たるべきことという許しは与えられた。小田原の城中に居た佐久間|久右衛門尉《きゅうえもんのじょう》は柴田勝家の甥であった。同じく其弟の源六は佐々《さっさ》成政の養子で、二人|何《いづ》れも秀吉を撃取《うちとり》にかかった猛将佐久間|玄蕃《げんば》の弟であったから、重々秀吉の悪《にく》しみは掛っていたのだ。此等の士は秀吉の敵たる者に扶持されぬ以上は、秀吉が威権を有して居る間は仮令《たとい》器量が有っても世の埋木《うもれぎ》にならねばならぬ運命を負うて居たのだ。まだ其他にも斯様《こう》いう者は沢山有ったのである。徳川家康に悪まれた水野三右衛門の如きも其一例だ。当時自己の臣下で自分に背いた不埒《ふらち》な奴に対して、何々という奴は当家に於て差赦《さしゆる》し難き者でござると言明すると、何《ど》の家でも其者を召抱えない。若《も》し召抱える大名が有れば其大名と前の主人とは弓箭沙汰《きゅうせんざた》になるのである。これは不義背徳の者に対する一種の制裁の律法であったのである。そこで斯様いう埋木に終るべき者を取入れて召抱える権利を此機に乗じて秀吉から得たのは実に賢いことで、氏郷に取っては其大を成す所以《ゆえん》である。前に挙げた水野三右衛門の如きも徳川家から赦されて氏郷に属するに至り、佐久間久右衛門尉兄弟も氏郷に召抱えられ、其他同様の境界《きょうがい》に沈淪《ちんりん》して居た者共は、自然関東へ流れ来て、秀吉に敵対行為を取った小田原方に居たから、小田原没落を機として氏郷の招いだのに応じて、所謂《いわゆる》戦場往来のおぼえの武士《つわもの》が吸寄せられたのであった。
 氏郷が会津に封ぜられると同時に木村伊勢守の子の弥一右衛門は奥州の葛西大崎に封ぜられた。葛西大崎は今の仙台よりも猶《なお》奥の方であるが、政宗の手は既に其辺にまで伸びて居て、前年十一月に大崎の臣の湯山隆信という者を引込んで、内々大崎氏を図らしめて居たのである。秀吉が出て来さえしなければ、無論大崎氏葛西氏は政宗の麾下《きか》に立つを余儀なくされるに至ったのであろう。此の木村父子は小身でもあり、武勇も然程《さほど》では無い者であったから、秀吉は氏郷に対して、木村をば子とも家来とも思って加護《かば》って遣れ、木村は氏郷を親とも主《しゅ》とも思って仰ぎ頼め、と命令し訓諭した。これは氏郷に取っては旅行に足弱を托《かず》けられたようなもので、何事も無ければまだしも、何事か有った時には随分厄介な事で迷惑千万である。が、致方は無い、領承するよりほかは無かったが、果して此の木村父子から事起って氏郷は大変な目に会うに至って居るのである。
 氏郷は何様《どん》な男であったろう。田原藤太十世の孫の俊賢《としかた》が初めて江州蒲生郡を領したので蒲生と呼ばれた家の賢秀《かたひで》というものの子である。此の蒲生郡を慶長六年即ち関ヶ原の戦の済んだ其翌年三月に至って家康は政宗に賜わって居る。仲の悪かった氏郷の家の地を貰ったから、大きな地で無くても政宗には一寸好い心地であったろうが、既に早く病死して居た氏郷に取っては泉下に厭《いや》な心持のしたことで有ろう。家康も亦一寸変なことをする人である。氏郷の父の賢秀というのは、当時の日野節の小歌に、陣とだに云えば下風《げふ》おこる、具足を脱ぎやれ法衣《ころも》召せ、と歌われたと云われもしている。下風という言葉は余り聞かぬ言葉で、医語かとも思うが、医家で風というのは其義が甚だ多くて、頭風といえば頭痛、驚風といえば神経疾患、中風といえば脳溢血《のういっけつ》其他からの不仁の病、痛風はリウマチス、猶|馬痺風《ばひふう》だの何だのと云うのもあって、病とか邪気とかいうのと同じ位の広い意味を有して居て、又一般にただ風といえば気狂《きちがい》という意で、風僧といえば即ち気狂坊主である。中風の中は上中下の中では無いと思われるから下風とは関せぬ。これは仏経中の翻訳語で、甚だ拙な言葉である。風は矢張りただの風で、下風は身体《からだ》から風を泄《も》らすことである。鄙《いや》しい語にセツナ何とかいうのが有る、即ちそれである。其人が心弱くて、戦争とさえ云えば下風おこる、とても武士にはなりきらぬ故に甲冑《かっちゅう》を脱ぎ捨てて法衣を被《き》よ、というのが一首の歌の意である。これが果して賢秀の上を嘲《あざけ》ったとならば、賢秀は仕方の無い人だが、又其子に忠三郎氏郷が出たものとすれば、氏郷は愈々《いよいよ》偉いものだ。然し蒲生家の者は、其歌は賢秀の上を云ったのでは無く、賢秀の小舅《こじゅうと》の後藤末子に宗禅院という山法師があって、山法師の事だから兵仗《へいじょう》にもたずさわった、其人の事だ、というのである。成程|然様《そう》でなければ、法衣めせの一句が唐突過ぎるし、又領主の事を然様|酷《ひど》く嘲りもすまいし、且又賢秀は信長に「義の侍」と云われたということから考えても、賢秀の上を歌ったものではないらしい。但し賢秀が怯《よわ》くても剛《つよ》くても、親父の善悪は忰《せがれ》の善悪には響くことでは無い、親父は忰の手細工では無い。賢秀は佐々木の徒党であったが、佐々木義賢が凡物で信長に逐落《おいおと》されたので、一旦は信長に対し死を決して敵となったが、縁者の神戸蔵人《かんべくらんど》の言に従って信長に附いた。神戸蔵人は信長の子の三七信孝の養父である。そこで子の鶴千代丸即ち後年の氏郷は十三歳で信長のところへ遣られた。云わば賢秀に異心無き証拠の人質にされたのである。
 信長は鶴千代丸を見ると中々の者だった。十三歳といえば尋常中学へ入るか入らぬかの齢《とし》だが、沸《たぎ》り立っている世の中の児童だ、三太郎甚六等の御機嫌取りの少年雑誌や、アメリカの牛飼馬飼めらの下らない喧嘩《けんか》の活動写真を看ながら、アメチョコを嘗《な》めて育つお坊ちゃんとは訳が違う。其の物ごし物言いにも、段々と自分を鍛い上げて行こうという立派な心の閃《ひらめ》きが見えたことであろう、信長は賢秀に対《むか》って、鶴千代丸が目つき凡ならず、ただ者では有るべからず、信長が婿にせん、と云ったのである。これは賢秀の心を攬《と》る為に云ったのでは無く、其翌年鶴千代丸に元服をさせて、信長の弾正《だんじょう》[#(ノ)]忠《ちゅう》の忠の字に因《ちな》み、忠三郎|秀賦《ひでます》と名乗らせて、真に其言葉通り婿にしたのである。目つきは成程其人を語るが、信長が人相の術を知って居た訳では無い、十三歳の子供の目つきだけでは婿に取るとまでは惚《ほ》れないだろうが、別に斯様《こう》いうことが伝えられている。それは鶴千代丸は人質の事ゆえ町野左近という者が附人として信長居城の岐阜へ置かれた。或時稲葉一鉄が来て信長と軍議に及んだ。一鉄は美濃三人衆の第一で、信長が浅井朝倉を取って押えるに付けては大功を立てて居る、大剛にして武略も有った一将だ。然し信長に取っては外様《とざま》なので、後に至って信長が其将材を憚《はばか》って殺そうとした位だ。ところが茶室に懸って居た韓退之の詩の句を需《もと》められるままに読み且つ講じたので、物陰でそれを聞いた信長が感じて殺さずに終《しま》ったのである。詩の句は劇的伝説を以て名高い雲横雪擁の一|聯《れん》で有ったと伝えられて居るが、坊主かえりの士とは云え、戦乱の世に於て之を説くことが出来たと云えば修養の程も思う可き立派な文武の達人だ。此の一鉄と信長とが、四方の経略、天下の仕置を談論していた。夜は次第に更けたが、談論は尽きぬ。もとより機密の談《はなし》だから雑輩は席に居らぬ。燭《しょく》を剪《き》り扇を揮《ふる》って論ずる物静かに奥深き室の夜は愈々更けて沈々となった。一鉄がフト気がついて見ると、信長の坐を稍々《やや》遠く離れて蒲生の小伜が端然と坐っていた。坐睡《いねむり》をせぬまでも、十三歳やそこらの小童《こわっぱ》だから、眼の皮をたるませて退屈しきって居るべき筈だのに、耳を傾け魂を入れて聞いて居た様子は、少くとも信長や自分の談論が解って、そして其上に興味を有《も》っているのだ。流石《さすが》に武勇のみでない一鉄だから人を鑑識する道も知っている。ヤ、こりゃ偉い物だぞ、今の年歯で斯様では、と感歎《かんたん》して、畏《おそ》るべし、畏るべし、此児の行末は百万にも将たるに至ろう、と云ったという。随分|怜悧《りこう》な芸妓《げいしゃ》でも、可《い》い加減に年を取った髯面《ひげづら》野郎でも、相手にせずに其処へ坐らせて置いて少し上品な談話でも仕て居ると、大抵の者は自分は自分だけの胸の中で下らぬ事を考えて居るか坐睡《いねむ》り[#ルビの「いねむ」は底本では「いねむり」]したりするものである。鶴千代丸の此事のあったのは、ただ者で無いことを語っている。一鉄の眼に入ったほどのものが、信長の胸に映らぬことは無い。おまけに信長は人を試みるのが嫌いでは無い男で、森蘭丸の正直か不正直かを試みた位であるから、何ぞに附けて鶴千代丸を確《しか》と見定めるところがあって、そして吾《わ》が婿にと惚《ほ》れ込んだのであろう。
 鶴千代丸は信長一鉄の鑑識に負《そむ》かなかった。十四歳の八月の事である。信長が伊勢の国司の北畠と戦った時、鶴千代丸は初陣をした。蒲生家の覚えの勇士の結解《けっかい》十郎兵衛、種村伝左衛門という二人にも先んじて好い敵の首を取ったので、鶴千代丸に付置かれた二人は面目無いやら嬉しいやらで舌を巻いた。信長も大感悦で手ずから打鮑《うちあわび》を取って賜わったが、そこで愈々《いよいよ》其歳の冬十二になる女子を与えて岐阜で式を行い、其女子に乳人《めのと》加藤次兵衛を添えて、十四と十二の夫婦を日野の城へと遣った。もはや人質では無く、京畿に威を振った信長の縁者、小さくは有るが江州日野の城主の若君として世に立ったのである。
 これよりして忠三郎は信長に従って各処の征戦に従事して功を立てて居り、信長が光秀に弑《しい》された時は、光秀から近江《おうみ》半国の利を啗《くら》わせて誘ったけれども節を守って屈せず、明智方を引受けて城に拠《よ》って戦わんとするに至った。それから後は秀吉の旗の下に就いて段々と武功を積んだが、特《こと》に九州攻めには、堀秀政の攻めあぐんだ巌石《がんじゃく》の城に熊井越中守を攻め伏せて勇名を轟《とどろ》かした。今ここに氏郷の功績を注記したい意も無いから省略するが、かくて十余年の間に次第に大身になり、羽柴の姓を賜わって飛騨守《ひだのかみ》氏郷といえば味方は頼もしく思い、敵は恐ろしく思う一方の雄将となって終《しま》った。秀賦の名は秀吉と相犯すを忌んで、改めて氏郷としたのであって、先祖田原藤太秀郷の郷の字を取ったのである。天正の十六年、秀吉が聚楽《じゅらく》の第《だい》を造った其年、氏郷は伊勢の四五百森《よいおのもり》へ城を築いて、これを松坂と呼んだ。前の居城松ヶ島の松の字を目出度しとして用いたのである。当時正四位下左近衛少将に任官し、十八万石を領するに至った。
 小田原陣の時、無論氏郷は兵を率いて出陣して居て、割合に他の大名よりは戦に遇って居り、戦功をあらわして居る。それから関白が武威を奥羽に示すのに従属して、宇都宮から会津と附いて来たのであるが、今しも秀吉の鑑識を以て会津の城主、奥州出羽の押えということに定められたのである。
 氏郷は法を執ること厳峻《げんしゅん》な人で、極端に自分の命令の徹底的ならんことを然る可き事とした人である。勿論乱れ立った世に在っては、一軍の主将として下知《げぢ》の通りに物事の捗《はこ》ぶのを期するのは至当の訳で、然《さ》無《な》くても軍隊の中に於ては下々の心任せなどが有ってはならぬものであるが、それでも自らに寛厳の異があり程度がある。郭子儀《かくしぎ》、李光弼《りこうひつ》はいずれも唐の名将であるが、陣営の中のさまは大《おおい》に違っていたことが伝えられている。氏郷は恐ろしく厳しい方で、小田原北条攻の為に松坂を立った二月七日の事だ、一人の侍に蒲生重代の銀の鯰《なまず》の兜《かぶと》を持たせて置いたところ、氏郷自身先陣より後陣まで見廻ったとき、此処に居よというところに其侍が居なかった。そこで氏郷が、屹度《きっと》此処に居よ、と注意を与えて置いて、それから組々を見廻り終えて還《かえ》った、よくよく取締めた所存の無かった侍と見えて、復《また》もや此処に居よと云付けたところに居なかった。すると氏郷は物も言わずに馬の上で太刀《たち》を抜くが否や、そっ首|丁《ちょう》と打落して、兜を別の男に持たせたので、士卒等これを見て舌を振って驚き、一軍粛然としたということである。巌石の城を攻落した時に、上坂左文、横山喜内、本多三弥の三人が軍奉行《いくさぶぎょう》でありながら令を犯して進んで戦ったので厳しく之を咎《とが》めたところ、上坂横山の二人は自分の高名《こうみょう》の為ではなく、火を城に放とうと思うたのであると苦しい答弁をしたので免《ゆる》されたが、本多は云分立たずであったので勘当されて終《しま》った。三弥は徳川家の譜代侍の本多佐渡正信の弟で、隠れ無い勇士であったが其の如くで、其他旗本から抜け出でて進み戦った岡左内、西村|左馬允《さまのすけ》、岡田大介、岡半七等、いずれも崛強《くっきょう》の者共で、其戦に功が有ったのだったが、皆令を犯した廉《かど》で暇《いとま》を出されて浪人するの已《や》むを得ざるに至った。
 氏郷は是《かく》の如く厳しい男だったが、他の一面には又人を遇するにズバリとした気持の好いところも有った人だった。必らずしも重箱の中へ羊羹《ようかん》をギチリと詰めるような、形式好き融通利かずの偏屈者では無かった。前に挙げた関白其他に敵対行為を取って世の余され者になった強者共《つわものども》を召抱えた如きは其著しい例で、別に斯様《こう》いう妙味のある談《はなし》さえ伝わっている。それは氏郷が関白に従って征戦を上方《かみがた》やなんぞで励んで居た頃、即ち小田原陣前の事であろうが、或時松倉権助という士が蒲生家に仕官を望んだ。権助は筒井順慶に仕えて居たが何様《どう》いう訳であったか臆病者と云われた。そこで筒井家を去ったのであるが、蒲生家へ扶持《ふち》を望むに就いて斯様いうことを云った。拙者は臆病者と云われた者でござる、但し臆病者も良将の下に用いらるる道がござらば御扶持を蒙《こうむ》りとうござる、と云ったのである。筒井家は順慶流だの洞《ほら》ヶ|峠《とうげ》だのという言葉を今に遺している位で、余り武辺の芳《かん》ばしい家ではない。其家で臆病者と云われたのは虚実は兎に角に、是も芳ばしいことでは無い。ところが氏郷は其男を呼出して対面した上、召抱えた。自分から臆病者と名乗って出た正直なところを買ったのだろう、正直者には勇士が多い。臆病者が知遇に感じて強くなったか、多分は以前から臆病者なぞでは無かったのだろう、権助は合戦ある毎に好い働きをする。で氏郷は忽《たちま》ち物頭《ものがしら》にして二千石を与えたというのである。後に此男が打死したところ氏郷が自ら責めて、おれが悪かった、も少しユックリ取立てて遣ったらば強いて打死もせずに段々武功を積んだろうに、と云ったということだ。此話を咬《か》みしめて見ると松倉権助もおもしろければ氏郷も面白い。
 氏郷は法令|厳峻《げんしゅん》である代りには自ら処することも一毫《いちごう》の緩怠も無い、徹底して武人の面目を保ち、徹底して武人の精神を揮《ふる》っている。所謂《いわゆる》「たぎり切った人」である、ナマヌルな奴では無い。蒲生家に仕官を望んで新規に召抱えられる侍があると、氏郷は斯様云って教えたということである。当家の奉公はさして面倒な事は無い、ただ戦場という時に、銀の鯰の兜を被《かぶ》って油断なく働く武士があるが、其武士に愧《は》じぬように心掛けて働きさえすればそれでよい、と云ったという。勿論これは未だ小身であった時の事で有ろうが、訓諭も糸瓜《へちま》も入ったものではない、人を使うのはこれで無ければ嘘だ。碌《ろく》な店も工場も持って居ぬ奴が小やかましい説教沙汰ばかりを店員や職工に下して、おのれは坐蒲団《ざぶとん》の上で煙草をふかしながら好い事を仕たがる如き蝨《しらみ》ッたかりとは丸で段が違う。言うまでも無く銀の鯰の兜を被って働く者は氏郷なのである。斯様いう人だったから四位の少将、十八万石の大名となってからも、小田原陣の時は驚くべき危険に身を暴露して手厳しい戦をして居る。それは氏郷の方から好んで為出したことではないが、他の大将ならば或は遁逃《とんとう》的態度に出て、そして敵をして其企図を多少なりとも成就するの利を得、味方をして損害を被《こうむ》るの勢を成さしめたであろうに、氏郷が勇敢に職責を厳守したので、敵は何の功をも立てることが出来なかった。これは五月三日の夜の事で、城中に居縮《いすく》んでばかり居ては軍気は日々に衰えるばかりなゆえに、北条方にさる者有りと聞えた北条氏房が広沢重信をして夜討を掛けさせた時と、七月二日に氏房が復《また》春日|左衛門尉《さえもんのじょう》をして夜討を掛けさせた時とである。五月三日の夜のは小田原勢がまだ勢の有った時なので中々猛烈であったが、蒲生勢の奮戦によって勿論|逐払《おいはら》った。然し其時の闘は如何にも突嗟《とっさ》に急激に敵が斫入《きりい》ったので、氏郷自身まで鎗《やり》を取って戦うに至ったが、事済んで営に帰ってから身内をばあらためて見ると、鎧《よろい》の胸板《むないた》掛算《けさん》に太刀疵《たちきず》鎗疵《やりきず》が四ヶ処、例の銀の鯰《なまず》の兜《かぶと》に矢の痕《あと》が二ツ、鎗の柄には刀痕《とうこん》が五ヶ処あったという。以て氏郷が危険を物の数ともせずして、自分の身を自分が置くべきとする処に置いた以上は一歩も半歩も退《ひ》かぬ剛勇の人であることが窺《うかが》い知られる。つまり氏郷は他を律することも厳峻《げんしゅん》な代りに自ら律することも厳峻な人だったのである。
 是《かく》の如き人は主人としては畏《おそ》ろしくもあれば頼もしくもある人で、敵としては所謂《いわゆる》手強《てごわ》い敵、味方としては堅城鉄壁のようなものである。然し是の如きの人には、ややもすれば我執の強い、古い言葉で云えば「カタムクロ」の人が多いものだが、流石《さすが》に氏郷は器量が小さくない、サラリとした爽朗《そうろう》快活なところもあった人だ。嘗《かつ》て九州陣巌石の城攻の時に軍令に背いて勘当された臣下の者共が、氏郷と交情の好かった細川越中守忠興を頼んで詫言《わびごと》をして貰って、復《また》新《あらた》に召抱えられることになった。其中に西村左馬允という者があって、大の男の大力の上に相撲は特更《ことさら》上手の者であった。其男が勘当を赦《ゆる》されて新に召還《めしかえ》されたばかりの次の日出仕すると、左馬允、汝は大力相撲上手よナ、さあ一番来い、おれに勝てるか、といって氏郷が相撲を挑《いど》んだ。氏郷ももとより非力の相撲弱では無かったのであろう。左馬允は弱った。勘気を赦されて帰り新参になったばかりなので、主人を叩きつけて主人が好い心持のする筈は無いから、当惑するのに無理は無い。然し主命である、挑まれて相手にならぬ訳には行かぬから、心得ましたと引組んで捻合《ねじあ》った。勝てば怒られる、わざと負けるのは軽薄でもあり心外でもある、と惑わぬことは無かったろうが、そこは人の魂の沸《たぎ》り立って居る代である、左馬允は思い切って大力を出してとうとう氏郷を捻倒した。そこで、ヤア左馬允、汝は強い、と主人に笑って貰えれば上首尾なのだが、然様《そう》は行かなかった。忠三郎氏郷ウンと緊張した顔つきになって、無念である、サアもう一度来い、と力足を踏んで眼ざし鋭く再闘を挑んだ。観て居る者は気の毒で堪《たま》らない、オヤオヤ左馬允め、負ければ無事だろうが、勝った段にはもともと勘気を蒙《こうむ》った奴である、手討になるか何か知れた者では無いと危ぶんだ。左馬允も斯様《こう》なっては是非が無い、ここで負けては仮令《たとい》過まって負けたにしても軽薄者表裏者になると思ったから、油断なく一生懸命に捻合った。双方死力を出して争った末、とうとう左馬允は氏郷を遣付けた。其時はじめて氏郷は莞爾《かんじ》と笑って、好い奴だ、汝は此の乃公《おれ》に能《よ》う勝ったぞ、と褒美して、其の翌日知行米加増を出したという。此|談《はなし》の最初一度負けたところで、褒詞を左馬允に与えて済ます位のところなら、少し腹の大きい者には出来ることだが、二度目の取ッ組合をしたところが一寸面白い。氏郷の肚《はら》は闊《ひろ》いばかりでなく、奥深いところがあった。
 斯様いう性格で、手厳しくもあり、打開けたところもあり、そして其能は勇武もあり、機略もあった人だが、其上に氏郷は文雅を喜び、趣味の発達した人であった。矢叫《やたけ》び鬨《とき》の声《こえ》の世の中でも放火殺人専門の野蛮な者では無かった。机に※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]《よ》りて静坐して書籍に親んだ人であった。足利以来の乱世でも三好実休や太田道灌や細川幽斎は云うに及ばず、明智光秀も豊臣秀吉も武田信玄も上杉謙信も、前に挙げた稲葉一鉄も伊達政宗も、皆文学に志を寄せたもので、要するに文武両道に達するものが良将名将の資格とされて居た時代の信仰にも因ったろうが、そればかりでも無く、人間の本然《ほんねん》を欺き掩《おお》う可からざるところから、優等資質を有して居る者が文雅を好尚するのは自からなることでも有ったろう。今川や大内などのように文に傾き過ぎて弱くなったのもあるが、大将たる程の者は大抵文道に心を寄せていて、相応の造詣《ぞうけい》を有して居た。我儘《わがまま》な太閤《たいこう》殿下は「奥山に紅葉《もみじ》踏み分け鳴く蛍」などという句を詠じて、細川幽斎に、「しかとは見えぬ森のともし火」と苦しみながら唸《うな》り出させたという笑話を遺して居るが、それでも聚楽第《じゅらくだい》に行幸を仰いだ時など、代作か知らぬが真面目くさって月並調の和歌を詠じている。政宗の「さゝずとも誰かは越えん逢坂《あふさか》の関の戸|埋《うず》む夜半《よは》の白雪《しらゆき》」などは関路[#(ノ)]雪という題詠の歌では有ろうか知らぬが、何様《どう》して中々素人では無い。「四十年前少壮[#(ノ)]時、功名聊[#(カ)]復[#(タ)]自[#(カラ)]私[#(カニ)]期[#(ス)]、老来不[#レ]識干戈[#(ノ)]事、只把[#(ル)]春風桃李[#(ノ)]巵《サカヅキ》」なぞと太平の世の好いお爺さんになってニコニコしながら、それで居て支倉《はせくら》六右衛門、松本忠作等を南蛮から羅馬《ローマ》かけて遣って居るところなどは、味なところのある好い男ぶりだ。その政宗監視の役に当った氏郷は、文事に掛けても政宗に負けては居なかった。後に至って政宗方との領分争いに、安達ヶ原は蒲生領でも川向うの黒塚というところは伊達領だと云うことであった時、平兼盛の「陸奥《みちのく》の安達か原の黒塚に鬼|籠《こも》れりといふはまことか」という歌があるから安達が原に附属した黒塚であると云った氏郷の言に理が有ると認められて、蒲生方が勝になったという談《はなし》は面白い公事《くじ》として名高い談である。其の逸話は措《お》いて、氏郷が天正二十年即ち文禄元年朝鮮陣の起った時、会津から京まで上って行った折の紀行をものしたものは今に遺っている。文段歌章、当時の武将のものとしては其才学を称すべきものである。辞世の歌の「限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風」の一章は誰しも感歎《かんたん》するが実に幽婉《ゆうえん》雅麗で、時や祐《たす》けず、天|吾《われ》を亡《うしな》う、英雄志を抱いて黄泉に入る悲涼《ひりょう》愴凄《そうせい》の威を如何にも美《うる》わしく詠じ出したもので、三百年後の人をして猶《なお》涙珠《るいじゅ》を弾ぜしむるに足るものだ。そればかりでは無い、政宗も底倉幽居を命ぜられた折に、心配の最中でありながら千[#(ノ)]利休を師として茶事《さじ》を学んで、秀吉をして「辺鄙《ひな》の都人」だと嘆賞させたが、氏郷は早くより茶道を愛して、しかも利休門下の高足であった。氏郷と仲の好かった細川忠興は、茶庭の路次の植込に槙《まき》の樹などは面白いが、まだ立派すぎる、と云ったという程に侘《わび》の趣味に徹した人だが、氏郷も幽閑清寂の茶旨には十分に徹した人であった。利休が心《こころ》窃《ひそ》かに自ら可なりとして居た茶入を氏郷も目が高いので切《しき》りに賞美して之を懇望し、遂に利休をして其を与うるを余儀無くせしめたという談も伝えられている。又氏郷が或時に古い古い油を運ぶ竹筒を見て、其の器を面白いと感じ、それを花生《はないけ》にして水仙の花を生け、これも当時風雅を以て鳴って居た古田織部に与えたという談が伝わっている。織部は今に織部流の茶道をも花道をも織部好みの建築や器物の意匠をも遺して居る人で、利休に雁行すべき侘道の大宗匠であり、利休より一段簡略な、侘に徹した人である。氏郷の其の花生の形は普通に「舟」という竹の釣花生に似たものであるが、舟とは少し異ったところがあるので、今に其形を模した花生を舟とは云わずに、「油さし」とも「油筒」とも云うのは最初の因縁から起って来て居るのである。古い油筒を花生にするなんというのは、もう風流に於て普通を超えて宗匠分になって居なくては出来ぬ作略《さりゃく》で、宗匠の指図や道具屋の入れ智慧を受取って居る分際の茶人の事では無い。彼の山科《やましな》の丿貫《べちかん》という大の侘茶人が糊《のり》を入れた竹器に朝顔の花を生けて紹鴎《じょうおう》の賞美を受け、「糊つぼ」という一器の形を遺したと共に、作略|無礙《むげ》の境界《きょうがい》に入っている風雅の骨髄を語っているものである。天下指折りの大名で居ながら古油筒のおもしろみを見付けるところは嬉しい。山県含雪公は、茶の湯は道具沙汰に囚《とら》われるというので半途から余り好まれぬようになったと聞いたが、時に利休も無く織部も無かった為でも有ろうけれど、氏郷がわびの趣味を解して油筒を花器に使うまで踏込《ふんご》んで居たのは利休の教を受けた故ばかりではあるまい、慥《たしか》に料簡《りょうけん》の据え処を合点して何にも徹底することの出来る人だったからであろう。しかも油筒如き微物を取上げるほどの細かい人かと思えば、細川越中守が不覚に氏郷所有の佐々木の鐙《あぶみ》を所望した時には、それが蒲生重代の重器で有ったに拘《かかわ》らず、又家臣の亘《わたり》利八右衛門という者が、御許諾なされた上は致方なけれども御当家重代の物ゆえに、ただ模品《うつし》をこしらえて御遣わしなされまし、と云ったほどにも拘らず、天下に一ツの鐙故他に知る者は有るまいけれど、模品を遣わすなどとは吾《わ》が心が耻《はず》かしい、と云って真物を与えた。そこで忠興も後に吾が所望したことが不覚《そぞろ》であったことを悟って、返そうとしたところが、氏郷は、一旦差上げたものなれば御遠慮には及ばぬ、と受取らなかった。忠興も好い人だから、氏郷の死後に其子秀行へとうとう返戻したという談《はなし》がある。竹の油筒を掘り出して賞美するかと思えば、ケチでは無い人だ、家重代の者をも惜気無く親友の所望には任せる。中々面白い心の行きかたを有《も》った人だった。
 さて話は前へ戻る。是《かく》の如き忠三郎氏郷は秀吉に見立てられて会津の主人となった。当時氏郷は何万石取って居たか分明でないが、松坂に居た天正十六年は十六万石|若《もし》くは十八万石であったというから、其後は大戦も無く大功も立つ訳が無いから、大抵十八万石か少し其《それ》以上ぐらいで有ったろう。然るに小田原陣の手柄が有って後に会津に籠《こ》めらるるに就ては、大沼、河沼、稲川、耶摩《やま》、猪苗代《いなわしろ》、南の山以上六郡、越後の内で小川の庄、仙道には白河、石川、岩瀬、安積《あさか》、安達、二本松以上六郡、都合十二郡一庄で、四十二万石に封ぜられたのだ。十八万石程から一足飛に四十二万石の大封を賜わったのだから、たとい大役を引受けさせられたとは云え、奥州出羽の押えという名誉を背負い、目覚ましい加禄《かろく》を得たので、家臣連の悦《よろこ》んだろうことは察するに余りある。これは八月十七日の事と云われている。
 丁度仲秋の十六夜の後一日である。秋は早い奥州の会津の城内、氏郷は独り書院の柱に倚《よ》って物を思って居た。天は高く晴れ渡って碧落《へきらく》に雲無く、露けき庭の面の樹も草もしっとりとして、おもむきの有る夜の静かさに虫の声々すずしく、水にも石にも月の光りが清く流れて白く、風流に心あるものの幽懐も動く可き折柄の光景だった。北越の猛将上杉謙信が「数行[#(ノ)]過雁月三更」と能登の国を切従えた時吟じたのも、霜は陣営に満ちて秋気清き丁度|斯様《こう》いう夜であった。三国の代の英雄の曹孟徳が、百万の大軍を率いて呉の国を呑滅《どんめつ》しようとしつつ、「月明らかに星|稀《まれ》にして、烏鵲《うじゃく》南《みんなみ》に飛ぶ」と槊《さく》を馬上に横たえて詩を賦したのも丁度斯様いう夜であった。江州日野五千石ばかりから取上って、今は日本|無双《ぶそう》の大国たる出羽奥州、藤原の秀衡や清原武衡の故地に踏みしかって、四十二万石の大禄を領するに至った氏郷がただ凝然と黙々として居る。侍座して居たのは山崎家勝というものだった。如何に深沈な人とは云え、かかる芽出度き折に当って何か考えに沈んで居る主人の様子を、訝《いぶか》しく思って窃《ひそか》に注意した。すると是は又何事であろう、やがて氏郷の眼からはハラハラと涙がこぼれた。家勝は直ちに看て取って怪《あやし》んだ。が、忽《たちま》ちにして思った、是は感喜の涙であろうと。蟹《かに》は甲《こうら》に似せて穴を掘る。仕方の無いもので、九尺梯子《くしゃくばしご》は九尺しか届かぬ、自分の料簡《りょうけん》が其辺だから家勝には其辺だけしか考えられなかった。然しそれにしては何様《どう》も様子が腑に落ち兼ねたから、恐る恐る進んで、恐れながら我が君には御落涙遊ばされたと見受け奉ってござるが、殿下の取分けての御懇命、会津四十二万石の大禄を被《かず》けられたまいし御感《ぎょかん》の御涙にばし御座《おわ》すか、と聞いて見た。自分が氏郷であれば無論嬉し涙をこぼしたことであろうからである。すると氏郷は一寸嘆息して、ア、其様なことに思われたか、我|羞《はず》かしい、と云ったが、一段と声を落して殆んど独語のように、然様《そう》では無い山崎、我たとい微禄小身なりとも都近くにあらば、何ぞの折には如何ようなる働きをも為し得て、旗を天下に吹靡《ふきなび》かすことも成ろうに、大禄を今受けたりとは申せ、山川遥に隔たりて、王城を霞の日に出でても秋の風に袂《たもと》を吹かるる、白川の関の奥なる奥州出羽の辺鄙《ひな》に在りては、日頃の本望も遂げむことは難く、我が鎗《やり》も太刀も草叢《くさむら》に埋もるるばかり、それが無念さの不覚《そぞろ》の涙じゃ哩《わ》、今日より後は奥羽の押え、贈太政大臣信長の婿たる此の忠三郎がよし無き田舎武士《いなかざむらい》の我武者《がむしゃ》共をも、事と品によりては相手にせねばならぬ、おもしろからぬ運命《はめ》に立至ったが忌々《いまいま》しい、と胸中の欝《うつ》をしめやかに洩《も》らした。無論家勝もこれを聞いて解った。成程我が主人は信長公の婿だ、今|遽《にわか》に関白に楯突《たてつ》こうようはあるまいが、云わば秀吉は家来筋だ、秀吉に何事か有らば吾《わ》が主人が手を天下に掛けようとしたとて不思議は無い、男たる者の当り前だ、と悟るに付けて斯様な草深い田舎に身柄と云い器量と云い天晴《あっぱれ》立派な主人が埋められかかったのを思うと、凄然《せいぜん》惻然《そくぜん》として家勝も悲壮の感に打たれない訳には行かなかったろう。主人の感慨、家臣の感慨、粛として秋の気は坐前坐後に満ちたが、月は何知らず冷やかに照って居た。
 氏郷が会津四十二万石を受けて悦《よろこ》ばずに落涙したというのは何という味のある話だろう。鼻糞《はなくそ》ほどのボーナスを貰ってカフェーへ駈込んだり、高等官になったとて嚊殿《かかあどの》に誇るような極楽蜻蛉《ごくらくとんぼ》、菜畠蝶々《なばたけちょうちょう》に比べては、罪が深い、無邪気で無いには違い無いが、氏郷の感慨の涙も流石《さすが》に氏郷の涙だと云いたい。それだけに生れついて居るものは生れついているだけの情懐が有る。韓信が絳灌樊※[#「口+會」、第3水準1-15-25]《こうかんはんかい》の輩と伍《ご》を為すを羞《は》じたのは韓信に取っては何様することも出来ないことなのだ。樊※[#「口+會」、第3水準1-15-25]だって立派な将軍だが、「生きて乃《すなは》ち※[#「口+會」、第3水準1-15-25]等と伍を為す」と仕方が無しの苦笑をした韓信の笑には涙が催される。氏郷の書院柱に靠《よ》りかかって月に泣いた此の涙には片頬《かたほ》の笑《えみ》が催されるではないか。流石に好い男ぶりだ。蜻蛉蝶々やきりぎりすの手合の、免職されたア、失恋したアなどという眼から出る酸ッぱい青臭い涙じゃ無い。忠三郎の米の飯は四十二万石、後には百万石も有り、女房は信長の女《むすめ》で好い器量で、氏郷死後に秀吉に挑まれたが位牌《いはい》に操を立てて尼になって終《しま》った程、忠三郎さんを大事にして居たのだった。
 天下の見懲らしに北条を遣りつけてから、其の勢の刷毛《はけ》ついでに武威を奥州に示して一[#(ト)]撫でに撫でた上に氏郷という強い者を押えにして、秀吉は京へ帰った。奥州出羽は裏面ではモヤモヤムクムクして居ても先ず治まった。ところがおさまらぬのは伊達政宗だ。折角|啣《くわ》えた大きな鴨をこれから※[#「口+敢」、第3水準1-15-19]《く》おうとして涎《よだれ》まで出したところを取上げられて終った犬のような位置に立たせられたのである。関白はじめ諸大将等が帰って終って見ると何とかしたい。何とかする段には仕方はいくらでもある。仕方が無ければ手も引込めて居るのだが、仕方が有るから手が出したくなる。然し氏郷という重石《おもし》は可なり重そうである。氏郷は白河をば関|右兵衛尉《うひょうえのじょう》、須賀川をば田丸|中務少輔《なかつかさしょうゆう》、阿子《あこ》が嶋《しま》をば蒲生源左衛門、大槻を蒲生忠右衛門、猪苗代を蒲生四郎兵衛、南山を小倉孫作、伊南《いなみ》を蒲生左文、塩川を蒲生喜内、津川を北川平左衛門に与えて、武威も強く政治も届く様子だから、政宗も迂闊《うかつ》に手を掛ける訳にはゆかぬ。斯様なると暴風雨は弱い塀に崇《たた》る道理で、魔の手は蒲生へ向うよりは葛西大崎の新領主となった木村伊勢守父子の方へ向って伸ばされ出した。木村父子は武辺も然程《さほど》では無く、小勢でもある。伊勢父子がドジを踏んでマゴマゴすれば蒲生は之を捨てて置く訳にはゆかぬ、伊勢父子の居る地方と蒲生の会津とは其間遥に距《へだた》って居るけれども必ず見継ぐだろう。蒲生が会津を離れて動き出せば長途の出陣、不知案内の土地、臨機応変の仕方は何程も有ろう、木村蒲生に味噌を附けさせれば好運は自然に此方へ転げ込んで来る理合だ、という様な料簡は自も存したことであろう。政宗方の史伝に何も此様《こう》いう計画をしたという事が遺って居るのでは無いが、前後の事情を考えると、邪推かは知らぬが斯様《こう》思える節が有るのである。又木村父子は実際小身で無能で有ったから、今度葛西大崎を賜わったに就ては人手が足らぬから急に浪人共を召抱えたに違い無く、浪人共を召抱えても法度《はっと》厳正に之を取締れば差支無いが、元来地盤が固く無い処へ安普請をしたように、規模が立たんで家風家法が確立して居ないところへ、世に余され者の浪人共を無鑑識に抱え込んだのでは、いずれおとなしく無いところが有るから浪人するにも至った者共が、ナニ此の奥州の田舎者めと侮って不道理を働くことも有勝なことで、然様《そう》なれば然無《さな》きだに他国者の天降《あまくだ》り武士を憎んで居る地侍の怒り出すのも亦有り内の情状であるから、そこで一揆《いっき》も起るべき可能性が多かったのである。戦乱の世というものは何時も其下と其上と和睦《わぼく》し難いような事情が起ると、第三者が窃《ひそ》かに其下に助力して其主権者を逐落《おいおと》し、そして其土地の主人となって終《しま》うのである。或は特《こと》に利を啗《くら》わせて其下をして其上に負《そむ》かせて我に意《こころ》を寄せしめ置いて、そして表面は他の口実を以て襲って之を取るのであるし、下たるものも亦|是《かく》の如くにして自己の地位や所得を盛上げて行くのである。窃かに心を寄せるのが「内通」であり、利を啗わせて事を発《おこ》させるのが「嘱賂《そくろ》を飼う」のであり、まだ表面には何の事も無くても他領他国へ対して計略を廻らすのが「陰謀」である。たとえば伊達政宗が会津を取った時、一旦は降参した横田氏勝の如きは、降参して見ると所領を余り削減されたので政宗を恨んだ。そこで政宗から会津を取返したくて使を石田三成へ遣わしたりなんぞしている。然様いう理屈だから、秀吉の方へ政宗が小田原へ出渋った腹の底でも何でも知れて終うのである。是の如きことは甲にも乙にも上《かみ》にも下《しも》にも互に有ることで、戦乱の世の月並で稀《めず》らしい事では無い。小田原は松田尾張、大道寺駿河等の逆心から関白方に亡ぼされたのであり、会津は蘆名の四天王と云われた平田松本佐瀬富田等が心変りしたから政宗に取られたのである。政宗は前に云った通り、まだ秀吉に帰服せぬ前に、木村父子が今度拝領した大崎を取ろうと思って、大崎の臣下たる湯山隆信を吾《われ》に内通させて氏家吉継と与《とも》に大崎を図らせて居たのである。然様いう訳なのであるから、大崎の一揆の中に其の湯山隆信等が居たか何様《どう》だかは分らぬが、少くとも大崎領に政宗の電話が開通して居たことは疑無い。サア木村父子が新来無恩の天降り武士で多少の秕政《ひせい》が有ったのだろうから、土着の武士達が一揆を起すに至って、其一揆は中々手広く又|手強《てごわ》かった。木村伊勢守が成合平左衛門を入れて置いた佐沼城を一揆は取囲んだ。佐沼は仙台よりはまだずっと奥で、今の青森線の新田《にった》駅或はせみね駅あたりから東へ入ったところであり、海岸へ出て気仙《けせん》の方へ行く路にあたる。伊勢守父子は成合を救わずには居られないから、伊勢守吉清は葛西の豊間城、即ち今の登米《とめ》郡の登米《とよま》という北上川沿岸の地から出張し、子の弥一右衛門清久は大崎の古河城、今の小牛田《こごた》駅より西北の地から出張して、佐沼の城の後詰を議したところ、一揆の方は予《あらかじ》め作戦計画を立てて居たものと見えて、不在になった豊間と古河の両城をソレ乗取れというので忽《たちま》ち攻陥《せめおと》して終った。佐沼は豊間よりは西北、古河よりは東に当るが、豊間と古河との距離は直接にすれば然のみ距《へだた》って居らぬとは云え、然程に近い訳でも無いのに、是《かく》の如く手際|能《よ》く木村父子が樹に離れた猿か水を失った鮒のように本拠を奪われたところを見ると、一揆の方には十分の準備が有り統一が保てて居て、思う壺へ陥れたものと見える。ナマヌル魂の木村父子は旅《りょ》の卦《け》の文に所謂《いわゆる》鳥其巣を焚《や》かれた旅烏、バカアバカアと自ら鳴くよりほか無くて、何共《なんとも》せん方ないから、自分が援助するつもりで来た成合平左衛門に却《かえっ》て援《たす》けられる形となって、佐沼の城へ父子共|立籠《たてこも》ることになった。
 西を向いても東を向いても親類縁者が有るでも無い新領地での苦境に陥っては、二人は予《かね》ての秀吉の言葉に依って、会津の蒲生氏郷とは随分の遠距離だが其の来援を乞うよりほか無かった。一体余り器量も無い小身の木村父子を急に引立てて、葛西、大崎、胆沢《いさわ》を与えたのは些《ちと》過分であった。何様も秀吉の料簡《りょうけん》が分らない。木村父子の材能が見抜けぬ秀吉でも無く、新領主と地侍とが何様《どん》なイキサツを生じ易いものだということを合点せぬ秀吉でも無い。一旦自分に対して深刻の敵意を挟《さしはさ》んだ狼戻《こんれい》豪黠《ごうかつ》の佐々成政を熊本に封じたのは、成政が無異で有り得れば九州の土豪等に対して成政は我が藩屏《はんぺい》となるので有り、又成政がドジを踏めば成政を自滅させて終うに足りるというので、竟《つい》に成政は其の馬鹿暴《ばかあら》い性格の欠陥により一揆の蜂起《ほうき》を致して大ドジを演じたから、立花、黒田等諸将に命じて一揆をも討滅すれば成政をも罪に問うて終った。木村父子は何も越中立山から日本アルプスを越えて徳川家康と秀吉を挟撃する相談をした内蔵介《くらのすけ》成政ほどの鼬花火《いたちはなび》のような物狂わしい火炎魂を有《も》った男でも無いし、それを飛離れた奥地に置いた訳は一寸解しかねる。事によると是は羊を以て狼を誘うの謀《はかりごと》で、斯《こ》の様な弱武者の木村父子を活餌《いきえ》にして隣の政宗を誘い、政宗が食いついたらば此畜生《こんちくしょう》めと殺して終おうし、又何処までも殊勝気に狼が法衣《ころも》を着とおすならば物のわかる狼だから其儘《そのまま》にして置いて宜い、というので、何の事は無い木村父子は狼の窟《いわや》の傍《そば》に遊ばせて置かれる羊の役目を云い付かったのかも知れない。筋書が若《も》し然様ならば木村父子は余り好い役では無いのだった。
 又氏郷に対して木村父子を子とも家来とも思えと云い、木村父子に対して氏郷を親とも主とも思えと秀吉の呉々《くれぐれ》も訓諭したのは、善意に解すれば氏郷を羊の番人にしたのに過ぎないが、人を悪く考えれば、羊が狼に食い殺された場合は番人には切腹させ、番人と狼と格闘して狼が死ねば珍重珍重、番人が死んだ場合には大概|草臥《くたび》れた狼を撲《ぶ》ちのめすだけの事、狼と番人とが四ツに組んで捻合《ねじあ》って居たら危気無しに背面から狼を胴斬《どうぎ》りにして終う分の事、という四本の鬮《くじ》の何《ど》れが出ても差支無しという涼しい料簡で、それで木村父子と氏郷とを鎖で縛って膠《にかわ》で貼《つ》けたようにしたのかも知れない。して見れば秀吉は宜いけれど、氏郷は巨額の年俸を与えられたとは云え極々短期の間に其年俸を受取れるか何様か分らぬ危険に遭遇すべき地に置かれたのだ。番人に対しての関白の愛は厚いか薄いか、マア薄いらしい。会津拝領は八月中旬の事で、もう其歳の十月の二十三日には羊の木村父子は安穏に草を※[#「口+敢」、第3水準1-15-19]《は》んでは居られ無くなって、跳ねたり鳴いたり大苦みを仕始めたのであった。
 一体氏郷は父の賢秀の義に固いところを受けたのでもあろうか、利を見て義を忘れるようなことは毫《ごう》も敢てして居らぬ、此の時代に於ては律義な人である。又佐々成政のような偏倚《へんき》性格を有った男でも無かった。だから成政を忌むように秀吉から忌まれるべきでも無かった。が、氏郷を会津に置いて葛西大崎の木村父子と結び付けたのは、氏郷に対して若し温かい情が有ったとすれば、秀吉の仕方は聊《いささ》か無理だった。葛西大崎と会津との距離は余り懸隔して居る、其間に今一人ぐらい誰かを置いて連絡を取らせても宜い筈と思われる。温かでは無くて、冷たいものであったとすれば、あの通りで丁度宜いであろう。氏郷が秀吉に心《こころ》窃《ひそ》かに冷やかに思われたとすれば、それは氏郷が秀吉の主人信長の婿で有ったことと、最初は小身であったが次第次第に武功を積んで、人品骨柄の中々立派であることが世に認めらるるに至ったためとで、他にこれということも見当らぬ。然し小田原征伐出陣の時に、氏郷が画師に命じて、白綾《しらあや》の小袖《こそで》に、左の手には扇、右の手には楊枝《ようじ》を持ったる有りの儘の姿を写させ、打死せば忘れ形見にも成るべし、と云い、奉行町野左近将監|繁仍《しげより》の妻で、もと鶴千代丸の時の乳母だった者に、此絵は誰に似たるぞ、と笑って示したので、左近が妻は、忌々《いまいま》しきことをせさせ玉う君かな、御年も若うおわしながら何の為にかかる事を、と泣いたと云う談《はなし》が伝わっている。戦の度毎に戦死と覚悟してかかるのが覚悟有る武士というものでは有るが、一寸おかしい、氏郷の心中奥深きところに何か有ったのではないかと思われぬでもないが、又|然程《さほど》に深く解釈せずとも済む。秀吉が姿絵を氏郷の造らせたということを聞いて感涙を墜《おと》したというのも、何だか一寸考えどころの有るようだが、全くの感涙とも思われる。すべてに於て想察の纏《まと》まるような材料は無い。秀吉が憎んだ佐々成政の三蓋笠《さんがいがさ》の馬幟《うまじるし》を氏郷が請うて、熊の棒という棒鞘《ぼうざや》に熊の皮を巻付けたものに替えたのは、熊の棒が見だてが無かったからと、且は驍勇《ぎょうゆう》の名を轟《とどろ》かした成政の用いたものを誰も憚《はばか》って用いなかったからとで有ったろうが、秀吉に取って面白い感じを与えたか何様《どう》か、有らずもがなの事だった。然し勿論そんな些事《さじ》を歯牙《しが》に掛ける秀吉では無い。秀吉が氏郷を遇するに別に何も有った訳では無い、ただ特《こと》に之を愛するというまでに至って居らずに聊《いささ》か冷やかであったというまでである。細川忠興が会津の鎮守を辞退したというのは信じ難い談だが、忠興が別に咎立《とがめだて》もされず此の難い役を辞したとすれば、忠興は中々手際の好い利口者である。
 氏郷が政宗の後の会津を引受けさせられたと同じ様に、織田|信雄《のぶかつ》は小田原陣の済んだ時に秀吉から徳川家康の後の駿遠参《すんえんさん》に封ぜられた。ところが信雄は此の国替を悦《よろこ》ばなくて、強いて秀吉の意に忤《さから》った。そこで秀吉は腹を立てて、貴様は元来国を治め民を牧《やしな》う器量が有る訳では無いが、故信長公の後なればこそ封地を贈ったのに、我儘《わがまま》に任せて吾《わ》が言を用いぬとは己を知らぬにも程がある、というので那賀《なか》二万石にして終《しま》った。信雄は元来立派な父の子でありながら器量が乏しく、自分の為に秀吉家康の小牧山の合戦をも起させるに至ったに関わらず、秀吉に致されて直《じき》に和睦《わぼく》して終ったり、又父の本能寺の変を鬼頭内蔵介から聞かされても嘘だろう位に聞いた程のナマヌル魂で、彼の無学文盲の佐々成政にさえ見限られたくらいの者ゆえ、秀吉に逐《お》われたのも不思議は無い。前田利家は余り人の悪口を云うような人では無いが、其の世上の「うつけ者」の二人として挙げた中の一人は、確《しか》と名は指して無いが信雄ではないかと思われる。氏郷の父賢秀が光秀に従わぬ為に攻められかかった時援兵を乞うたのにも、怯儒《きょうだ》で遷延して、人質を取ってから援兵を出すことにし、それも捗々《はかばか》しいことを得せず、相応の兵力を有しながら父を殺した光秀征伐の戦の間にも合わなかった腑甲斐無しであるから、高位高官名門大封の身でありながら那賀へ逐われ、次《つい》で出羽の秋田へ蟄《ちっ》せしめられたも仕方は無い。然し秀吉が之を清須百万石から那賀へ貶《へん》したのも余り酷《ひど》かった。馬鹿でも不覚者でも氏郷に取っては縁の兄弟である、信雄信孝合戦の時は氏郷は柴田に馴染が深かったが、信孝方に付かず信雄方に附いたのである。其信雄が是《かく》の如くにされたのは氏郷に取って好い心持はせず、秀吉の心の冷たさを感じたことであろう。然し天下の仕置は人情の温い冷たいなどを云っては居られぬのである、道理の当不当で為すべきであるから致方は無い。致方は無いけれども些《ちと》酷過ぎた。秀吉の此の酷いところ冷たいところを味わせられきっていて、そして天下の仕置は何様すべきものだということを会《え》しきっている氏郷である。木村父子の厄介な事件が起ったとて、予《かね》ても想い得切って居ることであり、又如何にすべきかも考え得抜いて居ることである、今更何の遅疑すべきでもない。
 木村父子は佐沼から氏郷へ援を請うた。遠くても、寒気が烈《はげ》しくても棄てては置けぬ。十一月五日には氏郷はもう会津を立っている。新領地の事であるから、留守にも十分に心を配らねばならぬ、木村父子の覆轍《ふくてつ》を踏んではならぬ。会津城の留守居には蒲生左文|郷可《さとよし》、小倉豊前守、上坂兵庫助、関入道万鉄、いずれも頼みきったる者共だ。それから関東口白河城には関右兵衛尉、須賀川城には田丸中務少輔を籠《こ》めて置くことにした。政宗の方の片倉|備中守《びっちゅうのかみ》が三春の城に居るから、油断のならぬ奴への押えである。中山道口の南山城には小倉作左衛門、越後口の津川城には北川平左衛門尉、奥街道口の塩川城には蒲生喜内、それぞれ相当の人物を置いて、扨《さて》自分は一番|先手《さきて》に蒲生源左衛門、蒲生忠右衛門、二番手に蒲生四郎兵衛、町野左近将監、三番に五手組《いつてぐみ》、梅原弥左衛門、森|民部丞《みんぶのじょう》、門屋助右衛門、寺村半左衛門、新国上総介《にっくにかずさのすけ》、四番には六手組、細野九郎右衛門、玉井数馬助、岩田市右衛門、神田清右衛門、外池《とのいけ》孫左衛門、河井公左衛門、五番には七手与《ななてぐみ》、蒲生将監、蒲生|主計助《かずえのすけ》、蒲生忠兵衛、高木助六、中村仁右衛門、外池甚左衛門、町野|主水佑《もんどのすけ》、六番には寄合与《よりあいぐみ》、佐久間久右衛門、同じく源六、上山弥七郎、水野三左衛門、七番には弓鉄砲頭、鳥井四郎左衛門、上坂源之丞、布施次郎右衛門、建部《たけべ》令史、永原孫右衛門、松田金七、坂崎五左衛門、速水勝左衛門、八番には手廻《てまわり》小姓与《こしょうぐみ》、九番には馬廻、十番には後備《あとそなえ》関勝蔵、都合其勢六千余騎、人数多しというのでは無いが、本国江州以来、伊勢松坂以来の一族縁類、切っても切れぬ同姓や眷族《けんぞく》、多年恩顧の頼み頼まれた武士、又は新規召抱ではあるが、家来は主の義勇を慕い知遇を感じ、主は家来の器量骨柄を愛《め》でいつくしめる者共、皆各々言わねど奥州出羽初めての合戦に、我等が刃金の味、胆魂《きもだましい》の程を地侍共に見せ付けて呉れんという意気を含んだ者を従えて真黒になって押出した。其日は北方奥地の寒威早く催して、会津山|颪《おろし》肌に凄《すさま》じく、白雪紛々と降りかかったが、人の用い憚《はば》かりし荒気大将佐々成政の菅笠《すげがさ》三蓋《さんがい》の馬幟《うまじるし》を立て、是は近き頃下野の住人、一家|惣領《そうりょう》の末であった小山小四郎が田原藤太相伝のを奉りしより其れに改めた三[#(ツ)]頭|左靹絵《ひだりどもえ》の紋の旗を吹靡《ふきなび》かせ、凜々《りんりん》たる意気、堂々たる威風、膚《はだえ》撓《たゆ》まず、目まじろがず、佐沼の城を心当に進み行く、と修羅場読みが一[#(ト)]汗かかねばならぬ場合になった。が、実際は額に汗をかくどころでは無い、鶏肌立つくらい寒かったので、諸士軍卒も聊《いささ》か怯《ひる》んだろう。そこを流石《さすが》は忠三郎氏郷だ、戦の門出に全軍の気が萎《な》えているようでは宜しく無いから、諸手《もろて》の士卒を緊張させて其の意気を振い立たせる為に、自分は直膚《すぐはだ》に鎧《よろい》ばかりを着したということが伝えられている。鎧を着るには、鎧下と云って、錦《にしき》や練絹などで出来ているものを被《き》る。袴《はかま》短く、裾や袖《そで》は括緒《くくりお》があって之を括る。身分の低い者のは錦などでは無いが、先ずは直垂《ひたたれ》であるから、鎧直垂とも云う。漢語の所謂《いわゆる》戦袍《せんぽう》で、斎藤実盛の涙ぐましい談を遺したのも其の鎧直垂に就いてである。氏郷が風雪出陣の日に直膚に鎧を着たというのも、ふざけ者が土用干の時の戯れのように犢鼻褌《ふんどし》一ツで大鎧を着たというのでは無く、鎧直垂を着けないだけであったろうが、それにしても寒いのには相違無かったろう。しかし斯様《こう》いう大将で有って見れば、士卒も萎《し》けかえって顫《ふる》えて居るわけには行かぬ、力肱《ちからひじ》を張り力足を踏んだことだろう。斯様いう長官が居無くて太平の世の官員は石炭ばかり気にして焚《く》べて仕合せな事である。
 冗談は扨置《さてお》き、新らしい領主の氏郷が出陣すると、これを見て会津の町人百姓は氏郷を気の毒がって涙をこぼしたという。それは噂によれば木村伊勢守父子も根城を奪われた位では、奥州侍は皆敵になったのであるし、御領主の御領内も在来の者共の蜂起《ほうき》は思われる、剛気の大将ではあらせられても御味方は少く、土地の者は多い、敵《かな》わせられることでは無かろう、痛わしい御事である、定めし畢竟《ひっきょう》は如何なる処にてか果てさせたまうであろう、と云うのであった、奥州に生立って奥州武士よりほかのものを見ぬものは、一ツは国自慢で、奥州武士という者は日本一のように強い者に思って居たせいもあろうが、其の半面には文雅で学問が有って民を撫する道を知っていたろう氏郷の施為《しい》が、木村父子や佐々成政などと違って武威の恐ろしさのみを以て民に臨まなかったため、僅々の日数であったに関らず、今度の領主は何様《どう》いう人で有ろうと怖畏《ふい》憂虞《ゆうぐ》の眼を張って窺《うかが》って居た人民に、安堵《あんど》と随《したが》って親愛の念を懐《いだ》かせた故であったろう。
 氏郷の出陣には民百姓ばかりで無い、町野左近将監も聊《いささ》か危ぶんで、願わくは今しばらく土地にも慣れ、四囲の事情も明らかになってから、戦途に上って欲しいと思った。会津から佐沼への路は、第一日程は大野原を経て日橋川を渡り、猪苗代湖を右手《めて》に見て、其湖の北方なる猪苗代城に止《とど》まるのが、急いでも急がいでも行軍上至当の頃合であった。で、氏郷の軍は猪苗代城に宿営した。猪苗代城の奉行は、かつて松坂城の奉行であった町野左近将監で、これは氏郷の乳母を妻にしていて、主人とは特《こと》に親しみ深い者であった。そこで老人の危険を忌む思慮も加わってであろうが、氏郷を吾《わ》が館《やかた》に入れまいらせてから、密《ひそか》に諫言《かんげん》を上《たてまつ》って、今此の寒天に此処より遥に北の奥なるあたりに発向したまうとも、人馬も労《つか》れて働きも思うようにはなるまじく、不案内の山、川、森、沼、御勝利を得たまうにしても中々容易なるまじく思われまする、ここは一応こらえたまいて、来年の春を以て御出なされては如何でござる、と頻《しき》りに止めたのである。町野繁仍の言も道理では有るが、それはもう魂の火炎が衰えている年寄武者の意見である。氏郷此時は三十五歳で有ったから、氏郷の乳母は少くとも五十以上、其夫の繁仍は六十近くでもあったろう。老人と老馬は安全を得るということに就ては賢いものであるから、大抵の場合に於て老人には従い、老馬には騎《の》るのが危険は少い。けれども其は無事の日の事である。戦機の駈引には安全第一は寧《むし》ろ避く可きであり、時少く路長き折は老馬は取るべからずである。今起った一揆《いっき》は少しでも早く対治して終《しま》って其の根を張り枝を茂らせぬ間に芟除《かりのぞ》き抜棄てるのを機宜《きぎ》の処置とする。且又信雄が明智乱の時のような態度を取って居た日には、武道も立たぬし、秀吉の眼も瞋《いか》ろうし、木村父子を子とも旗下とも思えと、秀吉に前以て打って置かれた釘がヒシヒシと吾《わが》胸に立つ訳である。で、氏郷は町野に対して、汝の諫言を破るでは無いが、何様《どう》も然様《そう》は成りかねる、仮令《たとい》運|拙《つたな》く時利あらずして吾が上はともなれかくもなれ、子とも見よ、親とも仰げと殿下の云われた木村父子を見継がぬならば、我が武道は此後全く廃《すた》る、と云切った。町野も合点の悪い男ではなかった。老眼に涙を浮べて、御尤《ごもっとも》の御仰と承わりました、然らば某《それがし》も一期《いちご》の御奉公、いさぎよく御[#(ン)]先を駈け申そう、と皺腕《しわうで》をとりしぼって部署に就く事に決した。斯様《こう》いう思慮を抱き、斯様いう決着を敢てしたのは必ず町野のみでは無かったろう、一族譜代の武士達には、よくよく沸《たぎ》り切った魂の持主と、分別の遠く届く者を除いては、随分数多いことで有ったろうし、そして皆氏郷の立場を諒解するに及んで、奮然として各自の武士魂に紫色や白色の火※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《かえん》を燃やし立てたことであろう。それで無くては四方八方難儀の多い上に、横ッ腹に伊達政宗という「くせ者」が凄い眼をギロツカせて刀の柄《つか》に手を掛けて居る恐ろしい境界《きょうがい》に、毅然《きぜん》たる立派な態度を何様して保ち得られたろう! であるから氏郷の佐沼の後詰は辺土の小戦のようであるが、他の多くの有りふれた戦には優《まさ》った遣りにくい戦で、そして味わって見ると中々|濃《こま》やかな味のある戦であり、鎗《やり》、刀、血みどろ、大童《おおわらわ》という大味な戦では無いのである。
 ここに不明の一怪物がある。それは云う迄もなく、殊勝な念仏行者の満海という者の生れ代りだと言われている伊達の藤次郎政宗である。生れ代りの説は和漢共に随分俗間に行われたもので、恐れ多いことだが何某《なにがし》天皇は或修行者の生れ代りにわたらせられて、其前世の髑髏《どくろ》に生いたる柳が風に揺られる度毎に頭痛を悩ませたもうたなどとさえ出鱈目《でたらめ》を申して居たこともある。武田信玄が曾我五郎の生り代りなどとは余り作意が奇抜で寧《むし》ろ滑稽《こっけい》だが、宋の蘇東坡《そとうば》は戒禅師の生れ代り、明の王陽明は入定僧《にゅうじょうそう》の生れ代り、陽明先生の如きは御丁寧にも其入定僧の屍骸《しがい》に直《じき》に対面をされたとさえ伝えられている。二生《にしょう》の人というのは転生を信じた印度に行われた古い信仰で、大抵二生の人は宿智即ち前生修行の力によって聡明《そうめい》であり、宿福即ち前世善根の徳によって幸福であり、果報広大、甚だ貴《たっと》ぶべき者とされて居る。政宗の生るる前、米沢の城下に行いすまして居た念仏行者が有って満海と云った。満海が死んで、政宗が生れた。政宗は左の掌《たなごころ》に満海の二字を握って誕生した。だから政宗は満海の生れ代りであろうと想われ、そして梵天丸という幼名はこれに因りて与えられた。梵天は此世の統治者で、二生の人たる嬰児《えいじ》の将来は、其の前生の唱名不退の大功徳によって梵天の如くにあるべしという意からの事だ。満海の生れ代りということを保証するのは御免|蒙《こうむ》りたいが、梵天丸という幼名だったことは虚誕では無く、又其名が梵天|帝釈《たいしゃく》に擬した祝福の意であったろう事も想察される。思うに伊達家の先人には陸奥介行宗《むつのすけゆきむね》の諡《おくりな》が念海、大膳太夫持宗が天海などと海の字の付く人が多かったから、満海の談《はなし》も何か夫等《それら》から出た語り歪めではあるまいか。都《す》べての奇異な談は大概浅人妄人無学者好奇者が何か一寸した事を語り歪めるから起るもので、語り歪めの大好物な人は現在そこらに沢山転がっている至ってお廉《やす》いしろ物であるから、奇異な談は出来|傍題《ほうだい》だ。何はあれ梵天丸で育ち、梵天丸で育てられ、片倉小十郎の如き傑物に属望されて人となった政宗は立派な一大怪物だ。人取る魔の淵は音を立てぬ、案外おとなしく秀吉の前では澄ましかえったが、其の底知れぬ深さの蒼い色を湛《たた》えた静かな淵には、馬も呑めば羽をも沈めようという※[#「さんずい+回」、第3水準1-86-65]《まき》を為して居るのである。不気味千万な一怪物である。
 此の政宗は確に一怪物である。然し一怪物であるからとて其の政宗を恐れるような氏郷では無い。※[#「さんずい+回」、第3水準1-86-65]の水の巻く力は凄《すさま》じいものだが、水の力には陰もある陽《おもて》もある、吸込みもすれば湧上りもする。能《よ》く水を知る者は水を制することを会《え》して水に制せらるることを為さぬ。魔の淵で有ろうとも竜宮へ続く渦で有ろうとも、怖るることは無い。況《いわ》んや会津へ来た初より其政宗に近づくべく運命を賦与されて居るのであり、今は正《まさ》に其男に手を差出して触れるべき機会に立ったのである。先方の出す手が棘々満面《とげとげだらけ》の手だろうが粘滑油膩《ぬらぬらあぶら》の手だろうが鱗《うろこ》の生えた手だろうが蹼《みずかき》の有る手だろうが、何様《どん》な手だろうが構わぬ、ウンと其手を捉えて引ずり出して淵のヌシの正体を見届けねばならぬのである。秀吉は氏郷政宗に命令して置いた。新規平定の奥羽の事、一揆《いっき》騒乱など起ったる場合は、政宗は土地案内の者、政宗を先に立て案内者として共に切鎮《きりしず》めよ、という命令を下して置いた。で、氏郷は其命の通り、サア案内に立て、と政宗に掛らねばならぬのであった。其の案内人が甚だ怪しい物騒千万なもので、此方から差出す手を向うから引捉《ひっつか》んで竜宮の一町日あたりへ引込もうとするか何様かは知れたもので無いのである。此の処活動写真の、次の映画幕は何《ど》の様な光景を展開するか、タカタカ、タンタン、タカタカタンというところだが、賢い奴は猿面冠者の藤吉郎で、二十何万石という観覧料を払った代り一等席に淀君《よどぎみ》と御神酒徳利《おみきどくり》かなんかで納まりかえって見物して居るのであった。しかも洗って見れば其の観覧料も映画中の一方の役者たる藤次郎政宗さんから実は巻上げたものであった。
 木村伊勢領内一揆|蜂起《ほうき》の事は、氏郷から一面秀吉ならびに関東押えの徳川家康に通報し、一面は政宗へ、土地案内者たる御辺は殿下の予《かね》ての教令により出陣征伐あるべし、と通牒《つうちょう》して置て、氏郷が出陣したことは前に述べた通りであった。五日は出発、猪苗代泊り、六日は二本松に着陣した。伊達政宗は米沢から板谷の山脈を越えてヌッと出て来た。其の兵数は一万だったとも一万五千だったとも云われて居る。氏郷勢よりは多かったので、兵が少くては何をするにも不都合だからであることは言うまでも無い。板谷山脈を越えれば直《すぐ》に飯坂だ。今は温泉場として知られて居るが、当時は城が有ったものと見える。政宗は本軍を飯坂に据えて、東の方《かた》南北に通って居る街道を俯視《ふし》しつつ氏郷勢を待った。氏郷の先鋒《せんぽう》は二本松から杉[#(ノ)]目、鎌田と進んだ。杉[#(ノ)]目は今の福島で、鎌田は其北に在る。政宗勢も其先鋒は其辺まで押出して居たから、両勢は近々と接近した。蒲生勢も伊達勢の様子を見れば、伊達勢も蒲生勢の様子を見たことだろう。然るに伊達勢が本気になって案内者の任を果し、先に立って一揆《いっき》対治に努力しようと進む意の無いことは、氏郷勢の場数を踏んだ老功の者の眼には明々白々に看えた。すべて他の軍の有して居る真の意向を看破することは戦に取って何より大切の事であるから、当時の武人は皆これを鍛錬して、些細《ささい》の事、機微の間にも洞察することを力《つと》めたものである。関ヶ原の戦に金吾中納言の裏切を大谷|刑部《ぎょうぶ》が必ず然様《そう》と悟ったのも其の為である。氏郷の前軍の蒲生源左衛門、町野左近将監等は政宗勢の不誠実なところを看破したから大《おおい》に驚いた。一揆討伐に誠意の無いことは一揆方に意を通わせて居て、そして味方に対して害意を有《も》っているので無くて何で有ろう。それが大軍であり、地理案内者である。そこで前隊から急に蒲生四郎兵衛、玉井数馬助二人を本隊へ馳《は》せさせて政宗の異心|謀叛《むほん》、疑無しと見え申す、其処に二三日も御|逗留《とうりゅう》ありて猶《なお》其体をも御覧有るべし、と告げた。すると氏郷は警告を賞して之に従うかと思いのほか、大に怒って瞋眼《しんがん》から光を放った。ここは流石《さすが》に氏郷だ。二人を睨《にら》み据えて言葉も荒々しく、政宗謀叛とは初めより覚悟してこそ若松を出でたれ、何方《いずく》にもあれ支えたらば踏潰《ふみつぶ》そうまでじゃ、明日《あす》は早天に打立とうず、と罵《ののし》った。総軍はこれを聞いてウンと腹の中に堪《こた》えが出来た。
 政宗勢の方にも戦場往来の功を経た者は勿論有るし、他の軍勢の様子を見て取ろうとする眼は光って居たに違無い。見ると蒲生勢は凜《りん》としている、其頃の言葉に云う「戦《たたかい》を持っている」のである。戦を持っているというのは、何時でも火蓋《ひぶた》を切って遣りつけて呉れよう、というのである。コレハと思ったに違いない。
 氏郷は翌日早朝に天気の不利を冒して二本松を立った。今の街道よりは西の方なる、今の福島近くの大森の城に着いた。政宗遅滞するならば案内の任を有っている者より先へも進むべき勢を氏郷が示したので、政宗も役目上仕方が無いから先へ立って進んだ。氏郷は其後から油断無く陣を押した。何の事は無い政宗は厭々《いやいや》ながら逐立《おいた》てられた形だ。政宗は忌々《いまいま》しかったろうが理詰めに押されて居るので仕方が無い、何様《どう》しようも無い。氏郷は理に乗って押して居るのである。グングンと押した。大森辺から北は大崎領まで政宗領である。北へ北へと道順に云えば伊達郡、苅田《かった》郡、柴田郡、名取郡、宮城郡、黒川郡であって、黒川郡から先が一揆|叛乱地《はんらんち》になって居るのである。其間随分と長い路程であるが、政宗は理に押されてシブシブながら先へ立たぬ訳にゆかず、氏郷は理に乗ってジリジリと後から押した。政宗が若《も》しも途中で下手《へた》に何事か起した日には、吾《わ》が領分では有るし、勝手は知ったり、大軍では有り、無論政宗に取って有利の歩合は多いが、吾が領内で云わば関白の代官同様な氏郷に力沙汰に及んだ日には、免《まぬか》るるところ無く明白に天下に対して弓を挽《ひ》いた者となって終《しま》って、自ら救う道は絶対に無いのである。そこを知らぬ政宗では無いから、振捩《ふりもぎ》ろうにも蹴たぐろうにも為《せ》ん術《すべ》無くて押されている。又そこを知り切っている氏郷だから、業を為るなら仕て見よ、と十分に腰を落して油断無くグイグイ押す。氏郷の方が現われたところでは勢を得ている。でも押す方にも押される方にも、力士と力士との双方に云うに云われぬ気味合が有るから、寒気も甚《ひど》かったし天気も悪かったろうが、福島近傍の大森から、政宗領のはずれ、叛乱地の境近くに至るまでに十日もかかって居る。
 此|間《かん》政宗は面白く無い思をしたであろうが、其代り氏郷も酷《ひど》い目にあっている。それは此十日の間に通った地方は政宗の家の恩威が早くから行われて居た地で、政宗の九代前の政家、十代前の宗遠あたりが切従えたのだから、中頃之を失ったことが有るにせよ、今又政宗に属しているので、土豪民庶皆伊達家|贔屓《びいき》であるからであった。本来なら氏郷政宗は友軍であるから、氏郷軍の便宜をば政宗領の者も提供すべき筋合であるが、前に挙げた如く人民は蒲生勢を酷遇した。寒天風雪の時に当って宿を仮さなかったり敷物を仮さなかったり、薪や諸道具を供することを拒んだ。朧月夜《おぼろづきよ》にしくものぞ無き、という歌なんどは宜いが、雪まじり雨の降る夜の露営つづきは如何に強い武人であり優しい歌人であり侘《わび》の味知りの茶人である氏郷でも、木《こ》の下風《したかぜ》は寒くして頬に知らるる雪ぞ降りけるなどは感心し無かったろう。桑折《こおり》、苅田、岩沼、丸森などの処々、斯様《こう》いう目を見たのであるから、蒲生家の士の正望の書いたものに「憎しということ限り無し」と政宗領の町人百姓の事を罵《ののし》っているのも道理である。
 押されつ押しつして、十一月の十七日になった。仲冬の寒い奥州の長途も尽きて漸《ようや》く目ざす叛乱地に近づいた。政宗は吾が領の殆んど尽頭《はずれ》の黒川の前野に陣取った。前野とあるのは多分富谷から吉岡へ至る路の東に当って、今は舞野というところで即ち吉岡の舞野であろう。其処で其日政宗から氏郷へ使者が来た。使者の口上は、明日路ははや敵の領分にて候、当地のそれがしが柴の庵《いおり》、何の風情も無く侘しうは候が、何彼《なにか》と万端御意を得度く候間、明朝御馬を寄せられ候わば本望たる可く、粗茶進上|仕度《つかまりたく》候、という慇懃《いんぎん》なものであった。日頃懇意の友情こまやかなる中ならば、干戈《かんか》弓鉄砲の地へ踏込む前に当って、床の間の花、釜の沸音《にえおと》、物静かなる草堂の中で風流にくつろぎ語るのは、趣も深く味も遠く、何という楽しくも亦嬉しいことであろう。然し相手が相手である、伊達政宗である。異《おつ》な手を出して来たぞ、あやしいぞ、とは氏郷の家来達の誰しも思ったことだろう。皆氏郷の返辞を何と有ろうと注意したことであろう。ところが氏郷は平然として答えた。誠に御懇志かたじけのうこそ候え、明朝参りて御礼を申そうず、というのであった。
 イヤ驚いたのは家来達であった。政宗|謀叛《むほん》とは初めより覚悟してこそ若松を出たれ、と云った主人が、政宗に招かれて躪《にじ》り上りから其茶室へ這入《はい》ろうというのである。若《も》し彼方に於てあらかじめ大力|手利《てきき》の打手を用意し、押取籠《おっとりこ》めて打ってかからんには誰か防ぎ得よう。主人若し打たれては残卒全からず、何十里の敵地、其処《そこ》の川、何処の峡《はざま》で待設けられては人種《ひとだね》も尽きるであろう。こは是れ一期《いちご》の大事到来と、千丈の絶壁に足を爪立て、万仞《ばんじん》の深き淵に臨んだ思がしたろう。飛んでも無い返辞をして呉れたものだと、怨みもし呆れもし悲みもした事であろう。然し忠三郎氏郷は忠三郎氏郷だ。しおらしくも茶を習うたる田舎大名が、茶に招くというに我が行かぬ法は無い、往《ゆ》いて危いことは有るとも、招くに往かずば臆したに当る、機に臨みて身を扱おうに、何程の事が有ろうぞ、朝の茶とあるに手間暇はいらぬ、立寄って政宗が言語《ものいい》面色《つらつき》をも見て呉りょう、というのであったろう。政宗の方には何様いう企図が有ったか分らぬ。蒲生方では政宗が氏郷を茶讌《ちゃえん》に招いたのは、正《まさ》に氏郷を数寄屋《すきや》の中で討取ろう為であったと明記して居る。然しそれは実際|然様《そう》だったかも知れぬが、何も政宗の方で手を出して居る事実が無いから、蒲生方で然様思ったという証拠にはなるが、政宗方で然様いう企を仕たという証拠にはならぬ。又万一然様いう企をしたとすれば、鶺鴒《せきれい》の印の眼球《めだま》で申開きをするほどの政宗が、直接自分の臣下などに手を下させて、後に至って何様《どう》ともすることの出来ぬような不利の証拠を遺そうようはない。前野と敵地大崎領とは目睫《もくしょう》の間であるから、或は一揆方《いっきがた》の剛の者を手引して氏郷の油断に乗じて殺させ、そして政宗方の者が起って其者共を其場で切殺して口を滅して終《しま》おう、という企をしたというのならば、其の企も聊《いささ》かは有り得もす可きことになる。然《さ》も無くば政宗にしては些《ちと》智慧が足らないで手ばかり荒いように思える。但し蒲生方の言も全く想像にせよ中《あた》って居るところが有るのでは無いかと思われる所以《ゆえん》は幾箇条もあり、又ずっと後に至って政宗が氏郷に対して取った挙動で一寸|窺《うかが》えるような気のすることがある。それは後に至って言おう。此処では政宗に悪意が有った証は無いというのを公平とする。が、何にせよ此時蒲生方に取って主人氏郷が茶讌《ちゃえん》に赴くことを非常に危ぶんだことは事実で、そして其の疑懼《ぎく》の念を懐《いだ》いたのも無理ならぬことであった。氏郷が其の請を拒まないで、何程の事やあらんと懼《おそ》れ気《げ》も無しに、水深うして底を知らざる魔の淵の竜窟|鮫室《こうしつ》の中に平然として入ろうとするのは、縮むことを知らない胆ッ玉だ。織田信長は稲葉一鉄を茶室に殺そうとしたし、黒田|孝高《よしたか》は城井谷|鎮房《しずふさ》を酒席で遣りつけて居る世の中であるに。
 夜は明けた、十八日の朝となった。氏郷は約に従って政宗を訪《と》うた。氏郷は無論馬上で出かけたろうが、服装は何様であったか記されたものが無い。如何にこれから戦に赴く途中であるとしても、皆具《かいぐ》取鎧《とりよろ》うて草摺長《くさずりなが》にザックと着なした大鎧《おおよろい》で茶室へも通れまいし、又如何に茶に招かれたにしても直《ただち》に其場より修羅の衢《ちまた》に踏込もうというのに袴《はかま》肩衣《かたぎぬ》で、其肩衣の鯨も抜いたような形《なり》も変である。利久高足と云われた氏郷だから、必ずや武略では無い茶略を然るべく見せて、工合の宜い形で参会したろうが、一寸想像が出来ない。是は茶道鍛錬の人への問題に提供して置く。氏郷の家来達は勿論|甲冑《かっちゅう》で、鎗《やり》や薙刀《なぎなた》、弓、鉄砲、昨日に変ること無く犇々《ひしひし》と身を固めて主人に前駆後衛した事であろう。やがて前野に着く。政宗方は迎える。氏郷は数寄屋の路地へ潜門《くぐり》を入ると、伊達の家来はハタと扉を立てんとした。これを見ると氏郷に随《したが》って来た蒲生源左衛門、蒲生忠左衛門、蒲生四郎兵衛、町野左近将監、新参ではあるが名うての荒武者佐久間玄蕃が弟と聞えた佐久間久右衛門、同苗《どうみょう》舎弟《しゃてい》源六、綿利《わたり》八右衛門など一人当千の勇士の面々、火の中にもあれ水の中にもあれ、死出|三途《さんず》主従一緒と思詰めたる者共が堪《たま》り兼ねてツツと躍り出た。伊達の家来は此《こ》は狼籍《ろうぜき》に近き振舞と支え立てせんとした。制して制さるる男共であればこそ、右と左へ伊達の家来を押退け押飛ばして、楯《たて》に取る門の扉をもメリメリと押破った。氏郷の相伴つかまつって苦しい者ではござらぬ、蒲生源左衛門|罷《まか》り通る、蒲生忠右衛門罷り通る、町野左近将監罷り通る、罷り通る、罷り通る、と陣鐘《じんがね》のような声もあれば陣太鼓のような声も有る、陣法螺《じんぼら》吹立てるような声も有って、間《あわい》隔たったる味方の軍勢の耳にも響けかしに勢い猛《たけ》く挨拶して押通った。茶の道に押掛の客というも有るが、これが真個《ほんと》の押掛けで、もとより大鎧|罩手《こて》臑当《すねあて》の出で立ちの、射向けの袖《そで》に風を切って、長やかなる陣刀の鐺《こじり》あたり散らして、寄付《よりつき》の席に居流れたのは、鴻門《こうもん》の会に樊※[#「口+會」、第3水準1-15-25]《はんかい》が駈込んで、怒眼を円《つぶら》に張って項王を睨《にら》んだにも勝ったろう。外面《そとも》は又外面で、士卒各々|兜《かぶと》の緒を緊《し》め、鉄砲の火縄に火をささぬばかりにし、太刀《たち》を取りしぼって、座の中に心を通わせ、イザと云えばオッと応えようと振い立っていた。これでは仮令《たとい》政宗に何の企が有っても手は出せぬ形勢であった。
 茶の湯に主と家来とは一緒に招く場合も有るべき訳で、主従といえば離れぬ中である。然し主人と臣下とを如何に茶なればとて同列にすることは其の主に対しては失礼であり、其の臣下に対しては※[#「にんべん+(先+先)/日」、1038-下-25]上《せんじょう》に堪うる能《あた》わざらしむるものであるから、織田|有楽《うらく》の工夫であったか何様であったか、客席に上段下段を設けて、膝突合わすほど狭い室ではあるが主を上段に家来を下段に坐せしむるようにした席も有ったと記《おぼ》えている。主従関係の確立して居た当時、もとより主従は一列にさるべきものでは無い。多分政宗方では物柔らかに其他意無きを示して、書院で饗応《きょうおう》でも仕たろうが、鎧武者《よろいむしゃ》を七人も八人も数寄屋に請ずることは出来もせぬことであり、主従の礼を無視するにも当るから、御免|蒙《こうむ》ったろう。扨《さて》政宗出坐して氏郷を請じ入れ、時勢であるから茶談軍談|取交《とりま》ぜて、寧《むし》ろ軍事談の方を多く会話したろうが、此時氏郷が、佐沼への道の程に一揆《いっき》の城は何程候、と前路の模様を問うたに対し、政宗は、佐沼へは是より田舎町(六町程|歟《か》)百四十里ばかりにて候、其間に一揆の籠《こも》りたる高清水と申すが佐沼より三十里|此方《こなた》に候、其の外には一つも候わず、と謀《はか》るところ有る為に偽りを云ったと蒲生方では記している。殊更に虚言を云ったのか、精《くわ》しく情報を得て居なかったのか分らぬ。次いで起る事情の展開に照らして考えるほかは無い。然《さ》候わば今日道通りの民家を焼払わしめ、明日は高清水を踏潰《ふみつぶ》し候わん、と氏郷は云ったが、目論見《もくろみ》の齟齬《そご》した政宗は無念さの余りに第二の一手を出して、毒を仕込み置いたる茶を立てて氏郷に飲ませた、と云われている。毒薬には劇毒で飲むと直《じき》に死ぬのも有ろうし、程経て利くのも有ろうが、かかる場合に飲んで直に血反吐《ちへど》を出すような毒を飼おうようは無いから、仕込んだなら緩毒、少くとも二三日後になって其効をあらわす毒を仕込んだであろう。氏郷も怪しいと思わぬことは無かった。然し茶に招かれて席に参した以上は亭主が自ら点じて薦《すす》める茶を飲まぬという其様《そん》な大きな無礼無作法は有るものでないから、一団の和気を面に湛《たた》えて怡然《いぜん》として之を受け、茶味以外の味を細心に味いながら、然も御服合《おふくあい》結構の挨拶の常套《じょうとう》の讃辞まで呈して飲んで終った。そして茶事が終ったから謝意を叮嚀《ていねい》に致して、其席を辞した。氏郷の家来達も随《したが》って去った。客も主人も今日これから戦地へ赴かねばならぬのである。
 氏郷は外へ出た。政宗方の眼の外へ出たところで、蒲生源左衛門以下は主人の顔を見る、氏郷も家来達の面を見たことであろう。主従は互に見交わす眼と眼に思い入れ宜しくあって、ム、ハハ、ハハ、ハハハと芝居ならば政宗方の計画の無功に帰したを笑うところであった。けれど細心の町野左近将監のような者は、殿、政宗が進じたる茶、別儀もなく御味わいこれありしか、まった飲ませられずに御[#(ン)]済ましありしか、飲ませられしか、如何に、如何に、と口々に問わぬことは無かったろう。そして皆々の面は曇ったことだろう。氏郷は、ハハハ、飲まねば卑怯《ひきょう》、余瀝《よれき》も余さず飲んだわやい、と答える。家来達はギェーッと今更ながら驚き危ぶむ。誰《た》そあれ、水を持て、と氏郷が命ずる。小ばしこい者が急に駛《はし》って馬柄杓《ばびしゃく》に水を汲んで来る。其間に氏郷は印籠《いんろう》から「西大寺」(宝心丹をいう)を取出して、其水で服用し、彼に計謀《はかりごと》あれば我にも防備《そなえ》あり、案ずるな、者共、ハハハハハハ、と大きく笑って後を向くと、西大寺の功験早く忽《たちま》ちにカッと飲んだ茶を吐いて終った。
 以上は蒲生方の記するところに拠って述べたので、伊達方には勿論毒を飼うたなどという記事の有ろうようは無い。毒を用いて即座に又は陰密に人を除いて終うことは恐ろしい世には何様しても起り、且つ行われることであるから、かかる事も有り得べきではある。毒がいは毒飼で、毒害は却《かえ》ってアテ字である、其毒飼という言葉が時代の※[#「均のつくり」、第3水準1-14-75]《にお》いを表現している通り、此時代には毒飼は頻々として行われた。けれども毒飼は最もケチビンタな、蝨《しらみ》ッたかりの、クスブリ魂の、きたない奸人《かんじん》小人|妬婦《とふ》悪婦の為すことで、人間の考え出したことの中で最も醜悪卑劣の事である。自死に毒を用いるのは耻辱《ちじょく》を受けざる為で、クレオパトラの場合などはまだしも恕《じょ》すべきだが、自分の利益の為に他を犠牲にして毒を飼う如きは何という卑しいことだろう。それでも当時は随分行われたことであるから、これに対する用心も随《したが》って存したことで、治世になっても身分のある武士が印籠《いんろう》の根付にウニコールを用いたり、緒締《おじめ》に珊瑚珠《さんごじゅ》を用いた如きも、珊瑚は毒に触るれば割れて警告を与え、ウニコールは解毒の神効が有るとされた信仰に本づく名残りであった。宝心丹は西大寺から出た除毒催吐の効あるものとして、其頃用いられたものと見える。扨《さて》此の毒飼の事が実に存したこととすれば、氏郷は宜いが政宗は甚《いた》く器量が下がる。但し果して事実であったか何様《どう》かは疑わしい。政宗にも氏郷にもゆかりは無いが、政宗の為に虚談想像談で有って欲しい。政宗こそ却《かえ》って今歳《ことし》天正の十八年四月の六日に米沢城に於て危うく毒を飼わりょうとしたのである。それは政宗が私に会津を取り且つ小田原参向遅怠の為に罪を得んとするの事情が明らかであったところから、最上《もがみ》義光に誑《たぶら》かされた政宗の目上が、政宗を亡くして政宗の弟の季氏《すえうじ》を立てたら伊達家が安泰で有ろうという訳で毒飼の手段を廻らした。幸にそれは劇毒で、政宗の毒味番が毒に中《あた》って苦悶《くもん》即死したから事|露《あら》われて、政宗は無事であったが、其為に政宗は手ずから小次郎季氏を斬《き》り、小次郎の傅《もり》の小原縫殿助《おばらぬいのすけ》を誅《ちゅう》し、同じく誅されそこなった傅の粟野藤八郎は逃げ、目上の人即ち政宗の母は其実家たる最上義光の山形へ出奔《いではし》ったという事がある。小次郎を斬ったのは鈴木七右衛門だったとも云う。これも全部は信じかねるが、何にせよ毒飼騒ぎのあったことは有ったらしく、又世俗の所謂《いわゆる》鬼役即ち毒味役なる者が各家に存在した程に毒飼の事は繁かったものである。されば政宗が氏郷に毒を飼ったことは無かったとしても、蒲生方では毒を飼ったと思っても強《あなが》ち無理では無く、氏郷が西大寺を服したとても過慮でも無い。又ずっと後の寛永初年(五年|歟《か》)三月十二日、徳川二代将軍秀忠が政宗の藩邸に臨んだ時、政宗が自ら饗膳《きょうぜん》を呈した。其時将軍の扈従《こじゅう》の臣の内藤|外記《げき》が支え立てして、御主人《おんあるじ》役に一応御試み候え、と云った。すると政宗は大《おおい》に怒って、それがし既にかく老いて、今さら何で天下を心掛きょうず、天下に心を掛けしは二十余年もの昔、其時にだに人に毒を飼う如ききたなき所存は有《も》たず、と云い放った。それで秀忠が笑って外記の為に挨拶が有って其儘《そのまま》に済んだ、という事がある。政宗の答は胸が透《す》くように立派で、外記は甚だ不面目であったが、外記だとて一手《ひとて》さきが見えるほどの男ならば政宗が此の位の返辞をするのは分らぬでもあるまいに、何で斯様《かよう》なことを云ったろう。それは全く将軍を思う余りの過慮から出たに相違無いが、見す見す振飛ばされると分ってながら一[#(ト)]押し押して見たところに、外記は外記だけの所存が有ったのであろう。政宗と家康と馬の合ったように氏郷と仲の好かった前田利家は、温厚にして長者の風のあった人で、敵の少い人ではあったが、それでも最上の伊白という鍼医《はりい》の為に健康を危うくされて、老臣の村井|豊後《ぶんご》の警告により心づいて之を遠ざけた、という談《はなし》がある。毒によらず鍼によらず、陰密に人を除こうとするが如きことは有り内の世で、最も名高いのは加藤清正|毒饅頭《どくまんじゅう》一件だが、それ等の談は皆虚誕であるとしても、各自が他を疑い且つ自ら警《いまし》め備えたことは普《あまね》く存した事実であった。政宗が毒を使ったという事は無くても、氏郷が西大寺を飲んだという事は存在した事実と看て差支あるまい。
 其日氏郷は本街道、政宗は街道右手を、並んで進んだ。はや此辺は叛乱地《はんらんち》で、地理は山あり水あって一寸|錯綜《さくそう》し、処々に大崎氏の諸将等が以前|拠《よ》って居た小城が有るのだった。氏郷軍は民家を焼払って進んだところ、本街道筋にも一揆《いっき》の籠《こも》った敵城があった。それは四竈《しかま》、中新田《なかにいだ》など云うのであった。氏郷の勢に怖れて抵抗せずに城を開いて去ったので、中新田に止《とど》まり、氏郷は城の中に、政宗は城より七八町|距《へだ》たった大屋敷に陣取ったから、氏郷の先隊四将は本隊を離れて政宗の営の近辺に特に陣取った。無論政宗を監視する押えであった。此の中新田附近は最近、即ち足掛四年前の天正十五年正月に戦場となった処で、其戦は伊達政宗の方の大敗となって、大崎の隣大名たる葛西左京太夫晴信が使を遣わして慰問したのはまだしも、越後の上杉景勝からさえ使者を遣《よこ》して特に慰問されたほど諸方に響き渡り、又反覆常無き大内定綱は一度政宗に降参した阿子島民部を誘って自分に就かせたほど、伊達の威を落したものだった。それは大崎の大崎義隆の臣の里見隆景から事起って、隆景が義隆をして同じ大崎の巨族たる岩出山の城主氏家弾正を殺させんとしたので、弾正が片倉小十郎に因って政宗に援を請うたところから紛糾した大崎家の内訌《ないこう》が、伊達対大崎の戦となり、伊達が勝てば氏家弾正を手蔓《てづる》にして大崎を呑んで終《しま》おうということになったのである。ところが氏家を援《たす》けに出た伊達軍の総大将の小山田筑前は三千余騎を率いて、金の采配《さいはい》を許されて勇み進んだに関らず、岩出山の氏家弾正を援けようとして一本槍に前進して中新田城を攻めたため、大崎から救援の敵将等と戦って居る中に、中新田城よりは後《あと》に当って居る下新田城や師山《もろやま》城や桑折《くわおり》城やの敵城に策応されて、袋の鼠《ねずみ》の如くに環攻され、総大将たる小山田筑前は悪戦して死し、全軍殆んど覆没し、陣代の高森|上野《こうつけ》は婿《むこ》舅《しゅうと》の好《よし》みを以て哀《あわれみ》を敵の桑折(福島附近の桑折《こおり》にあらず、志田郡鳴瀬川附近)の城将黒川月舟に請うて僅に帰るを得た程である。今氏郷は南から来て四竈を過ぎて其の中新田城に陣取ったが、大崎家の余り強くも無い鉾先《ほこさき》ですら、中新田の北に当って同盟者をさえ有した伊達家の兵に大打撃を与え得た地勢である。氏郷の立場は危いところである。政宗の兵が万一敵意をあらわして、氏郷勢の南へ廻って立切った日には、西には小野田の城が有って、それから向うは出羽奥羽の脊梁《せきりょう》山脉に限られ、北には岩出山の城、東北には新田の城、宮沢の城、高清水の城、其奥に弱い味方の木村父子が居るがそれは一揆《いっき》が囲んでいる、東には古川城、東々南には鳴瀬川の股に師山城、松山城、新沼城、下新田城、川南には山に依って桑折城、東の一方を除いては三方皆山であるから、四方策応して取って掛られたが最期、城に拠って固守すれば少しは支え得ようが、動こうとすれば四年前の小山田筑前の覆轍《ふくてつ》を履《ふ》むほかは無い。氏郷が十二分の注意を以て、政宗の陣の傍へ先手《さきて》の四将を置いたのは、仮想敵にせよ、敵の襟元に蜂を止まらせて置いたようなものである。動静監視のみでは無い、若《も》し我に不利なるべく動いたら直に螫《さ》させよう、螫させて彼が騒いだら力足を踏ませぬ間に直に斬立《きりた》てよう、というのである。七八町の距離というのは当時の戦には天秤《てんびん》のカネアイというところである。
 小山田筑前が口措くも大失敗を演じた原因は、中新田の城を乗取ろうとして掛ったところ、城将|葛岡監物《くずおかけんもつ》が案外に固く防ぎ堪《こら》えて、そこより一里内外の新田に居た主人義隆に援を請い、義隆が直ちに諸将を遣わしたのに本づくので、中新田の城の外郭《そとぐるわ》までは奪《と》ったが、其間に各処の城々より敵兵が切って出たからである。譬《たと》えば一箇の獣《けもの》と相搏《あいう》って之を獲ようとして居る間に、四方から出て来た獣に脚を咬《か》まれ腹を咬まれ肩を攫《つか》み裂かれ背を攫み裂かれて倒れたようなものである。氏郷は今それと同じ運命に臨まんとしている。何故といえば氏郷は中新田城に拠って居るとは云え、中新田を距《さ》ること幾許《いくばく》も無いところに、名生《めふ》の城というのがあって、一揆が籠っている。小さい城では有るが可なり堅固の城である。氏郷が高清水の方へ進軍して行けば、戦術の定則上、是非其の途中の敵城は落さねばならぬ。其名生の城にして防ぎ堪えれば、氏郷に於ける名生の城は恰《あたか》も小山田筑前に於ける中新田の城と同じわけになるのである。しかも政宗は高清水の城まで敵の城は無いと云ったのであるから、蒲生軍は名生の城というのが有って一揆が籠って居ることを知らぬのである。されば氏郷は明日名生の城に引かかったが最期である、よしんば政宗が氏郷に斬って掛らずとも、傍観の態度を取るだけとしても、一揆《いっき》方の諸城より斬《き》って出たならば、蒲生勢は千手観音《せんじゅかんのん》でも働ききれぬ場合に陥るのである。
 明日は愈々《いよいよ》一揆勢との初手合せである。高清水へは田舎道六十里あるというのであるが、早朝に出立して攻掛かろう。若《も》し途中の様子、敵の仕業《しわざ》に因って、高清水に着くのが日暮に及んだなら、明後日は是非攻め破る、という軍令で、十八日の中新田の夜は静かに更けた。無論政宗勢は氏郷勢の前へ立たせられる任務を負わせられていたのである。然るに其朝は前野の茶室で元気好く氏郷に会った政宗が、其夜の、しかも亥《い》の刻、即ち十二時頃になって氏郷陣へ使者をよこした。其の言には、政宗今日夕刻より俄《にわか》に虫気《むしけ》に罷《まか》り在り、何とも迷惑いたし居り候、明日の御働き相延ばされたく、御[#(ン)]先鋒《さき》を仕《つかまつり》候事成り難く候、とあるのであった。金剛の身には金剛の病、巌石も凍融《いてとけ》の春の風には潰《くず》るる習いだから、政宗だとて病気にはなろう。虫気というは当時の語で腹痛苦悩の事である。氏郷及び氏郷の諸将は之を聞いて、ソリャコソ政宗めが陰謀は露顕したぞ、と思って眼の底に冷然たる笑《えみ》を湛《たた》えて点頭《うなず》き合ったに違いあるまい。けれども氏郷の答は鷹揚《おうよう》なものであった。仰《おおせ》の趣は承り候、さりながら敵地に入り、敵を目近に置きながら留まるべくも候わねば、明日は我が人数を先へ通し候べし、御養生候て後より御出候え、と穏やかな挨拶だ。此の返答を聞いて政宗は政宗で、ニッタリと笑ったか何様《どう》だか、それは想像されるばかりで、何の証も無い。ただ若し政宗に陰険な計略が有ったとすれば、思う壺に氏郷を嵌《は》めて先へ遣ることになったのである。
 十九日の早朝に氏郷は中新田を立った。伊達勢は主将が病気となってヒッソリと静かにして居る。氏郷は潮合を計って政宗の方《かた》へ使者を出した。それがしは只今打立ち候、油断無くゆるゆる御養生の上、後より御出候え、というのであった。そして氏郷は諸軍へ令した。政宗を後へ置く上は常体の陣組には似る可からず、というのであったろう、五手与《いつてぐみ》、六手与、七手与、此|三与《みくみ》を後備《あとぞなえ》と定め、十番手後備の関勝蔵を三与の後へ入替えた。前にも見えた五手与、六手与などというのは、此頃の言葉で五隊で一集団を成すのを五手与、六隊で一集団を成すのを六手与というのであった。さて此の三与は勿論政宗の押えであるから、十分に戦を持って、皆後へ向って逆歩《しりあし》に歩み、政宗打って掛らば直にも斬捲《きりまく》らん勢を含んで居た。逆歩に歩むとは記してあるが、それは言葉通りに身構は南へ向い歩《あし》は北へ向って行くことであるか、それとも別に間隔交替か何かの隊法があって、後を向きながら前へ進む行進の仕方が有ったか何様か精《くわ》しく知らない。但し飯田忠彦の野史《やし》に、行布[#二]常蛇陣[#一]とあるのは全く書き損いの漢文で、常山蛇勢の陣というのは、これとは異なるものである。何はあれ関勝蔵の一隊を境にして、前の諸隊は一揆勢に向い、後の三与は政宗に備えながら、そして全軍が木村父子救援の為に佐沼の城を志して、差当りは高清水の敵城を屠《ほふ》らんと進行したのは稀有《けう》な陣法で、氏郷|雄毅《ゆうき》深沈とは云え、十死一生、危きこと一髪を以て千鈞《せんきん》を繋《つな》ぐものである。既に急使は家康にも秀吉にも発してあるし、又政宗が露骨に打って掛るのは、少くとも自分等全軍を鏖殺《みなごろし》にすることの出来る能《よ》く能く十二分の見込が立た無くては敢てせぬことであると多寡を括《くく》って、其の政宗の見込を十二分には立たせなくするだけの備えを仕て居れば恐るるところは無い、と測量の意味であるところの当時の言葉の「下墨《さげすみ》」を仕切って居り、一揆征服木村救援の任を果そうとして居るところは、其の魂の張り切り沸《たぎ》り切って居るところ、実に懦夫《だふ》怯夫《きょうふ》をしてだに感じて而して奮い立たしむるに足るものがある。
 高清水まで敵城は無いと云う事であったが、それは真赤な嘘であった。中新田を出て僅の里数を行くと、そこに名生の城というが有って一揆の兵が籠《こも》って居り、蒲生軍に抵抗した。先隊の四将、蒲生源左衛門、蒲生忠右衛門、蒲生四郎兵衛、町野左近等、何|躊躇《ちゅうちょ》すべき、しおらしい田舎武士めが弓箭《ゆみや》だて、我等が手並を見せてくれん、ただ一[#(ト)]揉《もみ》ぞと揉立てた。池野作右衛門という者一番首を取る、面々励み勇み喊《おめ》き叫んで攻立った。作右衛門|素捷《すばや》く走り戻って本陣に入り、首を大将の見参《げんざん》に備え、ここに名生の城と申す敵城有って、先手の四人合戦仕った、と述べた。サアここである。氏郷がここで名生の城に取掛けて手間取って居れば、四年前の小山田筑前と同じ事になって、それよりも猶《なお》甚だしい不利の場合に身を置くことになるのである。鏖殺《おうさつ》さるべき運命を享受する位置に立つのである。
 氏郷は真に名生の城が前途に在ったことを知らなかったろうか。種々の書には全く之を知らずに政宗に欺かれたように記してある。成程氏郷の兵卒等は知らなかったろうが、氏郷が知らなかったろうとは思えぬ。縮みかえって居た小田原を天下の軍勢と共に攻めた時にさえ、忍びの者を出して置いて、五月三日の夜の城中からの夜討を知って、使番を以て陣中へ夜討が来るぞと触れ知らせた程に用意を怠らぬ氏郷である。まして未だ曾《かつ》て知らぬ敵地へ踏込む戦、特《こと》に腹の中の黒白《こくびゃく》不明な政宗を後へ置いて、三里五里の間も知らぬ如き不詮議の事で真黒闇《まっくらやみ》の中へ盲目探りで進んで行かれるものでは無い。小田原の敵の夜討を知ったのは、氏郷の伊賀衆の頭《かしら》、忍びの上手《じょうず》と聞えし町野輪之丞という者で、毎夜毎夜忍びて敵城を窺《うかが》ったとある。伊賀衆というのは伊賀侍、若《もし》くは伊賀侍から出た忍びの術を習得した者共という義で、甲賀衆と云うのは江州甲賀の侍に本づく同様の義の語、そして転じては伊賀衆甲賀衆といえば忍びの術を知って偵察の任を帯びて居る者という意味に用いられたのである。日本語も満足に使えぬ者等が言葉の妄解妄用を憚《はばか》らぬので、今では忍術は妖術《ようじゅつ》のように思われているが、忍術は妖術では無い、潜行偵察の術である。戦乱の世に於て偵察は大必要であるから、伊賀衆甲賀衆が中々用いられ、伊賀流甲賀流などと武術の技としての名目も後には立つに至った。石川五右衛門は伊賀河内の間の石川村から出た忍術者だったまでだ。町野輪之丞は伊賀衆の頭とある、頭が有れば手足は無論有る。不知案内の地へ臨んで戦い、料簡《りょうけん》不明の政宗と与《とも》にするに、氏郷が此の輪之丞以下の伊賀衆をポカリと遊ばせて置いたり徒《いたず》らに卒伍《そつご》の間に編入して居ることの有り得る訳は無い。輪之丞以下は氏郷出発以前から秘命を受けて、妄談者流の口吻《こうふん》に従えばそれこそ鼠《ねずみ》になって孔《あな》から潜《もぐ》り込んだり、蛇になって樹登りをしたりして、或者は政宗の営を窺い或者は一揆方の様子を探り、必死の大活躍をしたろうことは推察に余り有ることである。そして此等の者の報告によって、至って危い中から至って安らかな道を発見して、精神|気魄《きはく》の充ち満ちた力足を踏みながら、忠三郎氏郷は兜《かぶと》の銀の鯰《なまず》を悠然と游《およ》がせたのだろう。それで無くて何で中新田城から幾里も距《へだた》らぬところに在った名生の敵城を知らずに、十九日の朝に政宗を後にして出立しよう。城は騎馬武者の一隊では無い、突然に湧いて出るものでも何でもない。まして名生の城は木村の家来の川村|隠岐守《おきのかみ》が守って居たのを旧柳沢の城主柳沢隆綱が攻取って拠って居たのである。それだけの事実が氏郷の耳に入らぬ訳はない。
 氏郷は前隊からの名生攻の報を得ると、其の雄偉豪傑の本領を現わして、よし、分際知れた敵ぞ、瞬く間に其城乗取れ、気息《いき》吐《つ》かすな、と猛烈果決の命令を下した。そして一方五手組、六手組、七手組の後備に対《むか》っては、おもしろいぞ、おもしろいぞ、名生の城攻むると聞かば必定政宗めが寄せて来うぞ、三段に陣を立てて静まりかえって待掛けよ、比類無き手柄する時は汝等に来たぞ、と励まし立てる。後備《あとぞなえ》の三隊は手薬錬《てぐすね》ひいて粛として、政宗来れかし、眼に物見せて呉れんと意気込む。先手は先手で、分際知れた敵ぞや、瞬く間に乗取れという猛烈の命令に、勇気既に小敵を一[#(ト)]呑みにして、心頭の火は燃えて上《のぼ》る三千丈、迅雷の落掛るが如くに憤怒の勢|凄《すさま》じく取って掛った。敵も流石《さすが》に土民ではない、柳沢隆綱等は、此処を堪《こら》えでは、と熱湯の玉の汗になって防ぎ戦った。然し蒲生勢の恐ろしい勢は敵の胆《きも》を奪った。外郭《そとぐるわ》は既に乗取った。二の丸も乗取った。見る見る本丸へ攻め詰めた。上坂源之丞、西村左馬允、北川久八、三騎並んで大手口へ寄せたが、久八今年十七八歳、上坂西村を抜いて進む。さはせぬ者ぞと云う間もあらせず、敵を切伏せ首を取る。先んぜられたり、心外、と二人も駈入りて手痛く戦う。氏郷本陣の小姓馬廻りまで、ただ瞬く間に陥《おと》せ、と手柄を競って揉立《もみた》つる。中にも氏郷が小小姓名古屋山三郎、生年十五歳、天下に名を得た若者だったが、白綾《しらあや》に紅裏《もみうら》打ったる鎧下《よろいした》、色々糸縅《いろいろおどし》の鎧、小梨打《こなしうち》の冑《かぶと》、猩々緋《しょうじょうひ》の陣羽織して、手鑓《てやり》提《ひっさ》げ、城内に駈入り鑓を合せ、目覚ましく働きて好き首を取ったのは、猛《たけ》きばかりが生命《いのち》の武者共にも嘆賞の眼を見張らさせた。名古屋は尾州の出で、家の規模として振袖《ふりそで》の間に一[#(ト)]高名してから袖を塞《ふさ》ぐことに定まって居たとか云う。当時此戦の功を讃えて、鎗仕《やりし》鎗仕は多けれど名古屋山三は一の鎗、と世に謡われたということだが、正《まさ》に是《これ》火裏《かり》の蓮華《れんげ》、人の眼《まなこ》を快うしたものであったろう。或は山三の先登は此の翌年、天正十九年九戸政実を攻めた時だともいうが、其時は氏郷のみでは無く、秀次、徳川、堀尾、浅野、伊達、井伊等大軍で攻めたのだから、何も氏郷が小小姓まで駈出させることは無かったろう。此の戦は瞬間に攻落すことを欲したから、北村、名古屋の輩までに力を出させたのである。それは兎もあれ角もあれ、敵も一生懸命に戦ったから、蒲生勢にも道家孫一、粟井六右衛門、町野新兵衛、田付理介等の勇士も戦死し、兵卒の討死手負も少くなかったが、遂に全く息もつかせず瞬く間に攻落して終《しま》って、討取る首数六百八十余だったと云うから、城攻としては非常に短い時間の、随分激烈|苛辣《からつ》の戦であったに疑無い。
 政宗は謀った通りに氏郷を遣り過して先へ立たせて仕舞った。氏郷は名生の城へ引掛るに相違無い、と思った。そこで、いざ急ぎ打立てや者共と、同苗藤五郎成実、片倉小十郎景綱を先手にして、揉《も》みに揉んで押寄せた。ところが氏郷の手配《てくばり》は行届いて居て、彼《か》の三隊の後備は三段に備を立てて、静かなること林の如く、厳然として待設けて居た。すわや政宗寄するぞ、心得たり、手を出さば許すまじ、弾丸《たま》振舞わん、と鉄砲の火縄の火を吹いて居る勢だ。名生の城は既に落されて烟《けむり》が揚り、氏郷勢は皆城を後にして、政宗如何と観て居るのである。これを看て取った政宗は案に相違して、何様《どう》にも乗ろう潮が無い。仕方が無いから名生の左の野へ引取って、そこへ陣を取った。
 氏郷は名生の城へ入って之に拠った。政宗が来ぬ間に城を落して終ったから、小田山筑前と同じようにはならなかった。氏郷が名生の城を攻めるに手間取って居たならば、名生の城で相図の火を挙げる、其時宮沢、岩手山、古川、松山四ヶ処の城々より一揆《いっき》勢は繰出し、政宗と策応して氏郷勢を鏖殺《おうさつ》し、氏郷武略|拙《つたな》くて一揆の手に斃《たお》れたとすれば、木村父子は元来論ずるにも足らず、其後一揆共を剛、柔、水、火の手段にあしらえば、奥州は次第に掌《たなごころ》の大きい者の手へ転げ込むのであった。然し名生の城は気息《いき》も吐けぬ間に落されて終って、相図の火を挙げる暇《いとま》なぞも無く、宮沢、岩手山等四ヶ処の城々の者共は、策応するも糸瓜《へちま》も無く、却《かえっ》て氏郷の雄威に腰を抜かされて終った。
 政宗は氏郷へ使を立てた。名生を攻められ候わばそれがしへも一方仰付けられたく候いしに、かくては京都への聞えも如何と残念に候、と云うのであった。氏郷の返辞はアッサリとして妙を極めたものであった。此の敵城あることをば某《それがし》も存ぜず候間に、先手の者ども、はや攻落して候、と空嘯《そらうそぶ》いて片付けて置いて、扨《さて》それからが反対に政宗の言葉に棒を刺して拗《こじ》って居る。京都への聞え、御心づかいにも及び申すまじく候、此の向うに宮沢とやらん申す敵城の候、それを攻められ候え、然るべく聞え候わむ、というのであった。政宗は違儀も出来ない。宮沢の城へ寄せたが、もとより政宗の兵力宮沢の城の攻潰《せめつぶ》せぬことは無いに関らず、人目ばかりに鉄砲を打つ位の事しか為無《しな》かった。宮沢の城将岩崎隠岐は後に政宗に降った。
 明日は高清水を屠《ほふ》って終おうと氏郷は意を洩《も》らした。名生の一戦は四方を震駭《しんがい》して、氏郷の頼むに足り又|畏《おそ》るるに足る雄将である事を誰にも思わせたろう。特《こと》に政宗方に在って、一揆の方の様子をも知り、政宗の画策をも知っていた者に取っては、驚くべき人だと思わずには居られなかったろう。そこで政宗に心服して居る者はとに角、政宗に対して予《かね》てからイヤ気を持って居た者は、政宗に付いて居るよりも氏郷に随身した方が吾《わ》が行末も頼もしい、と思うに至るのも不思議では無い。ここに政宗に取っては厄介の者が出て来た。それは政宗の臣の須田|伯耆《ほうき》という者で、伯耆の父の大膳という者は政宗の父輝宗の臣であった。輝宗が二本松義継に殺された時、後藤基信が殉死しようとしたのを政宗は制した位で、政宗は殉死を忌嫌ったけれど、其基信も須田大膳も、馬場右衛門という人も遂に殉死して終った。殉死の是非は別として、不忠の心から追腹は切られぬ。大膳の殉死は輝宗に対する忠誠に出でたのだ。ところが殉死を忌嫌う政宗の意は非とすべきでは無いが、殉死を忌む余りに殉死した者をも悪《にく》んだ。で、大膳は狂者のように謂《い》われ、大膳の子たる伯耆まで冷遇さるるに至った。父が忠誠で殉死したのである、其子は優遇されなくても普通には取扱われても然るべきだが、主人の意に負《そむ》いたと云う廉《かど》であろう、伯耆は自ら不遇であることを感じたから、何につけ彼《か》につけ、日頃不快に思っていた。これも亦凡人である以上は人情の当《まさ》に然るべきところだ。氏郷の大将振り、政宗の処置ぶり、自分が到底政宗に容れられないで行末の頼もしからぬことなどを思うと、今にして政宗を去って氏郷に附いた方が賢いと思った。丁度其家を思わぬでは無い良妻も、夫の愛を到底得ぬと思うと、誘う水に引かれて横にそれたりなぞするのと同じことである。人情といい世態という者は扨々なさけ無いものだ。大忠臣の子は不忠者になって政宗に負いたのである。
 そこで其十九日の夜深《よふか》に須田伯耆は他の一人と共に逃げ込んで来て、蒲生源左衛門を頼んだ。ただ来たところで容れられる訳は無いから、飛んでもない手土産を持って来た。それは政宗と一揆方との通謀の証拠になる数通の文書であった。逃げて来た二人の名は蒲生方の記には山戸田八兵衛、牛越宗兵衛とある。須田は政宗が米沢を去った後に氏郷の方へ来て、政宗の秘を訐《あば》いた者となって居る。
 蒲生源左衛門は須田等を糺《きゅう》した。二人は証拠文書を攘《と》って来たのだから、それに合せて逐一に述立てた。大崎と伊達との関係、大崎義隆の家は最上義光を宗家としていること、最上家は政宗の母の家であること、母と政宗とは不和の事、政宗が大崎を図った事、そんな事をも語ったろうが、それよりは先ず差当って、一揆を勧めたこと、黒川に於ての企の事、中新田にて虚病の事、名生の城へ氏郷を釣寄せる事、四城と計《はかりごと》を合せて氏郷を殺し、一揆の手に打死を遂げたることにせんとしたる事、政宗方に名生の城の落武者来りて、余りに厳しく攻められて相図|合期《ごうご》せざりしと語れる事等を訐き立てた。そして其上に、高清水に籠城《ろうじょう》して居る者も、亦佐沼の城を囲んで居る者も、皆政宗の指図に因って実は働いて居る者であることを語り、能《よ》く政宗が様子を御見留めなされて後に御働きなさるべしと云った。
 二人が言は悉皆《しっかい》信ずべきか何様《どう》かは疑わしかったろう。然し氏郷は証拠とすべきところの物を取って、且二人を収容して生証拠とした。もうなまじいに働き出すことは敵に乗ずべきの機を与えるに過ぎぬ。木村父子を一揆《いっき》が殺す必要も無く政宗が殺す必要も無いことは明らかだから、焦慮する要は無い。却《かえ》って此城に動かずに居れば政宗も手を出しようは無い、と高清水攻を敢てせずに政宗の様子のみに注意した。伊賀衆は頻《しき》りに働いたことだろう。
 氏郷は兵粮《ひょうろう》を徴発し、武具を補足して名生に拠るの道を講じた。急使は会津へ馳《は》せ、会津からは弾薬を送って来た。政宗は氏郷が動かぬのを見て何とも仕難かった。自分に有理有利な口実があって、そして必勝|鏖殺《おうさつ》が期せるので無ければ、氏郷に対して公然と手を出すのは、勝っても負けても吾身《わがみ》の破滅であるから為す術《すべ》は無かった。須田伯耆が駈込んだことは分って居るが、氏郷の方からは知らぬ顔でいる。そこで十二月二日まで居たが、氏郷は微動だに為さぬので、事皆成らずと見切って、引取って帰って終《しま》った。勿論氏郷の居る名生の城の前は通らず、断りもしなかったが、氏郷が此を知って黙して居たのであることも勿論である。もう氏郷は秀吉に対して尽すべき任務を予期以上の立派さを以て遂げているのである。佐々成政にはならなかったのである。一揆等は氏郷に対して十分|畏《おそ》れ縮んで居り、一揆の一雄将たる黒沢豊前守という者は、吾子を名生の城へ人質に取られて居るのを悲んで、佐沼の城から木村父子を名生に送り届けるから交換して欲しいと請求めたので、之を諾して其翌月二十六日、其交換を了したのである。豊前守の子は後に黒沢六蔵と云って氏郷の臣となった。
 浅野長政は関東の諸方の仕置を済ませて駿河府中まで上った時に、氏郷の飛脚に逢った。江戸に立寄って家康に対面し、蒲生忠三郎を見継がん為に奥州へ罷《まか》り下《くだ》る、御加勢ありたし、と請うたから家康も黙っては居られぬ。結城秀康を大将に、榊原康政を先鋒《せんぽう》にした。長政等の軍は十二月中旬には二本松に達した。それより先に長政は浅野六右衛門を氏郷の許《もと》へ遣った。六右衛門は名生へ行ったから、一切の事情は分明した。長政は政宗を招《よ》ぶ、政宗は出ぬわけには行かぬ、片倉小十郎其外三四人を引連れて、おとなしく出て来て言訳をした。何事も須田伯耆の讒構《ざんこう》ということにした。それならば成実盛重両人を氏郷へ人質に遣りて、氏郷これへ参られて後に其|仔細《しさい》を承わりて、言上《ごんじょう》可申《もうすべし》と突込んだ。政宗は領掌したが、人質には盛重一人しか出さなかった。氏郷は承知しなかった。遂に十二月二十八日成実は人質に出た。此の成実は嘗《かつ》て政宗に代って会津の留守をした程の男で、後に政宗に対して何を思ったか伊達家を出た時、上杉景勝が五万石を以て迎えようとした。然し景勝には随身しないで、復《また》伊達家へ帰ったが、其時は僅に百人|扶持《ぶち》を給されたのみであったのに、斎藤兵部というものが自ら請うて信夫《しのぶ》郡の土兵五千人を率いて成実に属せんことを欲したので、成実は亘理《わたり》郡二万三千八百石を賜わって亘理城に居らしめらるるに至ったという。所謂《いわゆる》埋没さるること無き英霊底の漢《おのこ》である。大坂陣の時は老病の床に在ったが、子の重綱に対《むか》って、此戦は必ず一度和談になって、そして明年に結局を見るだろう、と外濠《そとぼり》を埋められてから大阪が亡びるに至るだろうことを予言した片倉小十郎と共に実に伊達家の二大人物であった。其の成実を強要して一旦にせよ人質に取った氏郷は、戦陣のみでは無い樽俎《そんそ》折衝に於ても手強《てごわ》いものであった。
 其年は明けて天正十九年正月元日、氏郷は木村父子を携えて名生を発して会津へと帰る其途で、浅野長政に二本松で会した。政宗の様子は凡《す》べて長政に合点出来た。長政はそこで上洛《じょうらく》する。政宗も手を束《つか》ね居てはならぬから、秀吉の招喚に応じて上洛する。氏郷は人質を返して、彼の二人が提出した証文を持参し、これも同じく上洛《じょうらく》した。政宗が必死を覚悟して、金箔《きんぱく》を押した磔刑柱《はりつけばしら》を馬の前に立てて上洛したのは此時の事で、それがしの花押《かきはん》の鶺鴒《せきれい》の眼の睛《たま》は一[#(ト)]月に三たび処を易《か》えまする、此の書面の花押はそれがしの致したるには無之《これなく》、と云い抜けたのも此時の事である。鶺鴒の眼睛《がんせい》の在処《ありどこ》を月に三度易えるとは、平生から恐ろしい細かい細工を仕たものだ。
 政宗は是《かく》の如く証拠書類を全然否定して剛情に自分の罪を認めなかった。溝《みぞ》の底の汚泥を掴《つか》み出すのは世態に通じたもののすることでは無い、と天明度の洒落者《しゃれもの》の山東京伝は曰《い》ったが、秀吉も流石《さすが》に洒落者だ。馬でも牛でも熊でも狼でも自分の腹の内を通り抜けさせてやる気がある。人の腹の中が好いの悪いのと注文を云って居る絛虫《さなだむし》や蛔虫《かいちゅう》のようなケチなものではない。三百代言|気質《かたぎ》に煩わしいことを以て政宗を責めは仕無かった。却って政宗に、一手を以って葛西大崎の一揆を平《たいら》げよと命じた。或は是れは政宗が自ら請うたのだとも云うが、孰《いず》れへ廻っても悪い役目は葛西大崎の土酋《どしゅう》で、政宗の為に小苛《こっぴど》い目に逢って終った。
 此年の夏、南部の九戸左近政実という者が葛西大崎などのより規模の大きい反乱を起したが、秀次の総大将、氏郷の先鋒《せんぽう》、諸将出陣というので論無く対治されて終い、それで奥羽は腫物《はれもの》の根が抜けたように全く平定した。氏郷は此時も功が有ったので、前後勲功少からずとて七郡を加増せられ、百万石を領するに至った。
 多分九戸乱の済んだ後、天正十九年か二十年の事であったろう。前年の行掛りから何様も氏郷政宗の間が悪い。自分の腹の中で二人に喧嘩《けんか》されては困るから、秀吉は加賀大納言前田利家へ聚楽《じゅらく》での内証話に、大納言方にて仲を直さするようにとの依頼をした。利家も一寸迷惑で無いことも無かったろう。仲の悪い二人を一室に会わせて仲が直れば宜いが、却て何かの間違から角立《かどだ》った日には、両虎|一澗《いっかん》に会うので、相搏《あいう》たんずば已《や》まざるの勢である。刃傷《にんじょう》でもすれば喧嘩両成敗、氏郷も政宗も取潰《とりつぶ》されて終うし、自分も大きな越度《おちど》である。二桃三士を殺すの計《はかりごと》とも異なるが、一席の会合が三人の身の上である。秀吉に取っては然様《そう》いうことが起っても差支は有るまいか知らぬが、自分等に取っては大変である。そこで辞し度いは山々だったろうが、両人の仲悪きは天下にも不為《ふため》であるという秀吉の言には、重量《おもみ》が有って避けることが出来ぬ。是非が無いから、氏郷政宗を請待《しょうたい》して太閤《こう》の思わくを徹することにした。氏郷は承知した。政宗も太閤内意とあり、利家の扱いとあり、理の当然で押えられているのであるから戻《もど》くことは出来ぬ。然し主人の利家は氏郷と大の仲好しで、且又免れぬ中の縁者である、又左衛門が氏郷|贔屓《びいき》なのは知れきった事である。特《こと》に前年自分が氏郷を招いた前野の茶席の一件がある。如何に剛胆な政宗でも、コリャ迂闊《うかつ》には、と思ったことで有ろう。けれども我儘《わがまま》に出席をことわる訳にはならぬ、虚病も卑怯《ひきょう》である。是非が無い。有難き仕合、当日|罷出《まかりい》で、御芳情御礼申上ぐるでござろう、と挨拶せねばならなかった。余り御礼など申上度いことは無かったろう。然し流石は政宗である、シャ、何事も有らばあれ、と参会を約諾した。
 其日は来た。前田利家も可なり心遣いをしたことであろうが、これは又人物が大きい、ゆったりと肉つきの豊かなところが有って、そして実は中々骨太であり、諸大名の受けも宜くて徳川か前田かと思われたほどであるから、かかる場合にも坦夷《たんい》の表面の底に行届いた用意を存して居たことであろう。相客には浅野長政、前田徳善院、細川越中守、金森法印、有馬法印、佐竹|備後守《びんごのかみ》、其他五六人の大名達を招いた。場処は勿論主人利家の邸《やしき》で、高楼の大広間であった。座席の順位、人々の配り合せは、斯様《こう》いう時に於て非常に主人の心づかいの要せらるるものだ。無論氏郷を一方の首席に、政宗を一方の首席に、所謂《いわゆる》両立《りょうだて》というところの、双方に甲乙上下の付かぬように請じて坐せしめた事だろう。それから自然と相客の贔負《ひいき》贔負が有るから、右方贔負の人々をば右方へ揃え、左方贔負の人々を左方へ揃えて坐らせる仕方もあれば、これを左右|錯綜《さくそう》させて坐らせる坐らせ方も有る訳で、其時其人其事情に因って主人の用意は一様に定った事では有るまいが、利家が此日人々を何様《どう》組合せて坐らせたかは分らない。但し此日の相客の中で、佐竹の家は伊達の家と争い戦った事はあるが元来が親類合だから、伊達が蒲生に対する場合は無論備後守は伊達贔負の随一だ。徳善院は早くから政宗と懇親である。細川越中守は蒲生贔負たること言うまでも無い。浅野弾正大弼長政は中々硬直で、場合によれば太閤殿下をも、狐に憑《つ》かれておわすなぞと罵《ののし》ることもある程だが、平日は穏便なることが好きな、物分りの宜い人であるから、氏郷贔負では有るが政宗にも同情を吝《おし》む人では無い。有馬、金森、いずれも中々立派に一[#(ト)]器量ある人々であり、他の人々も利家が其席を尊《たっと》くして吾子《わがこ》の利長利政をも同坐させなかった程だから、皆相応の人々だったに疑無い。主人利家に取っては自分の支持をするものが一人でも多いのが宜い訳だから、子息達も立派な大名である故同座させた方が万事に都合が好いのだが、そこは又左衛門利家そんなナマヌル魂では無い。両者の仲裁仲直りの席に、司会者の側の顔を大勢並べて両者を威圧するようにするのは卑怯《ひきょう》で、かかる場合万々一間違が出来れば、左方からも右方からも甘んじて刀を受けて、一身を犠牲にして、そして飽迄も双方を取纏《とりまと》めるのを当然の覚悟とするから、助勢なんぞは却《かえ》って要せぬのである。
 人々は座に直った。利家は一坐を見ると、伊達藤次郎政宗は人々に押つけられまじい面魂でウムと坐っている。それも其筈で、いろいろの経緯《いきさつ》があった蒲生忠三郎を面前に扣《ひか》えているのであるから。又蒲生忠三郎氏郷も、何をと云わぬばかりの様子でスイと澄まして居る。これも其筈だ。氏郷は「錐《きり》、嚢《ふくろ》にたまらぬ風情の人」だと記されて居るから、これも随分恐ろしい人だ。厄介な人達の仲直りを利家は扱わせられたものだ。前田家の家臣の書いているところに拠ると、「其節御勝手衆も申候は、今日政宗の体《てい》、大納言殿御[#(ン)]屋にて無く候はば、まんをも仕《つかまつ》られ申すべく候、又飛騨守殿も少も/\左様の事|堪忍《かんにん》これなき仁にて、事も出来申候事も之有るべく候へども云々《うんぬん》」とある。まんとは我儘《わがまま》である。氏郷政宗二人の様子を饗応《きょうおう》掛りの者の眼から見たところを写して居るのである。そこで利家が見ると、政宗は肩衣《かたぎぬ》でいる、それは可《よ》い、脇指をさして居る、それも可いが、其の脇指が朱鞘《しゅざや》の大脇指も大脇指、長さが壱尺八九寸もあった。そんな長い脇指というものが有るもので無い。利家の眼は斯様《かよう》な恐ろしく長い脇指を指している政宗の胸の中を優しく見やった。ここを我等から政宗の器量が小さいように看て取ってはならぬ。政宗は政宗で、寧《むし》ろ此処《ここ》が政宗の好い処である。脇指は如何に長くても脅かしにはならぬ、まして一坐の者は皆|血烟《ちけむ》りの灌頂《かんちょう》洗礼を受けている者達だ。だから其の恐ろしく長い大脇指は使うつもりで無くて何で有ろう。使うつもりである、ほんとに使うつもりであったのである。好んで此を使おうようは無いが、主人の挨拶、相手の出方、罷《まか》り間違ったら、おれはおれだ、の料簡《りょうけん》がある。何十万石も捨てる、生命《いのち》も捨てる、屈辱に生きることは嫌だ、遣りつけるまでだ、という所存があったのである。沸《たぎ》り立った魂は誰も斯様《こう》である。これが男児たる者の立派な根性で無くて何で有ろう。後に至っては政宗もずっと人が大きくなって、江戸の城中で徳川の旗本から一拳を食わせられたが、其時はもう「蟻、牡丹《ぼたん》に上る、観を害せず」で、殴った奴は蟻、自分は大きな白牡丹と納まりかえったのである。が、此時はまだ若盛り、二十六七、せいぜい二十八である。まだ泰平の世では無い、戦乱の世である。少しでも他に押込まれて男を棄てては生甲斐が無いのである。壱尺七八寸の大脇指は、珍重珍重。政宗は政宗だ、誰に遠慮がいろうか。元来政宗は又人に異った一[#(ト)]気象が有った者で、茶の湯を学んでから、そこは如何に政宗でも時代の風には捲込《まきこ》まれて、千金もする茶碗を買った。ところが其を玩賞《がんしょう》していた折から、ふと手を滑らせて其茶碗を落した。すると流石《さすが》大々名でもハッと思うて胸ドッキリと心が動いた。そこで政宗は自ら慚《は》じ自ら憤った。貴《たっと》いとは云え多寡が土細工の茶碗だ、それに俺ほどの者が心を動かしたのは何事だ、エエ忌々《いまいま》しい、と其の茶碗を把《と》って、ハッシ、庭前の石へ叩きつけて粉にして終《しま》ったということがある。千両の茶碗を叩きつけたところは些《ちと》癇癪《かんしゃく》が強過ぎるか知らぬが、物に囚《とら》われる心を砕いたところは千両じゃ廉《やす》いくらいだ。千両の茶碗をも叩ッ壊した其政宗が壱尺七八寸の叩き壊し道具を腰にして居る、何を叩き壊すか知れたものでは無い。そして其の対坐《むこうざ》に坐って居るのは、古い油筒を取上げて三百年も後まで其器の名を伝えた氏郷である。片や割茶碗、片や油筒、好い取組である。
 氏郷其日の容儀《ようぎ》は別に異様では無かった。「飛騨守殿|仕立《したて》は雨かゝりの脇指にて候」とある。少し不明であって精《くわ》しくは分らぬ。が、政宗の如きでは無く、尋常に優しかったのであろう。主人はじめ其他の人々も無論普通礼服で、法印等|法体《ほったい》の人々は直綴《じきとつ》などであったと思われる。何にせよ政宗の大脇指は目に立った。人々も目を着けて之を読んだろう。仲直り扱いの主人である又左衛門利家は又左衛門利家だけに流石に好かった。其大脇指に眼をやりながら、政宗殿にはだてなる御[#(ン)]仕立、と挨拶ながら当てた。綿の中に何かが有る言葉だ。実に味が有る。又左衛門大出来、大出来。太閤《たいこう》が死病の時、此人の手を押頂いて、秀頼の上を頼み聞えたが、実に太閤に頂かせるだけの手を此人は持っていたのだ。何とまあ好い言葉だろう、此時此場、此上に好い語は有るまい。政宗は古禅僧の徳山《とくさん》の意気である、それも慥《たしか》におもしろい。然し利家は徳山どころではない、大禅師だ。「政宗は殊のほか当りたる体にて候」と前田の臣下が書いて居るが、如何に政宗でも、扱い役である利家に対《むか》って此語を如何ともすることは出来無かったろう、殊のほか当ったに相違無い。然し政宗も悪くはなかった、遠国に候故、と云って謹んでおとなしくしたという。田舎者でござるから、というようなものだ。そこで盃が二ツ座上に出された。利家は座の中へ出て、殿下の意を伝え、諸大名も自分も双方の仲好からん事を望む趣意を挨拶し、双方へ盃を進め、酒礼宜しく有って、遂に無事円満に其席は終ってしまった。利家の威も強く徳もあり器量も有ったので上首尾に終ったのである、殿下が利家に此事を申付けられたのも御尤《ごもっとも》だった、というので秀吉までが讃《ほ》められて、氏郷政宗の仲直りは済んだ。「だてなる御仕立」は実に好かった。「だて」という語は伊達家の衣裳持物の豪華から起ったの、朝鮮陣の時に政宗の臣遠藤宗信や原田宗時等が非常に大きな刀や薙刀《なぎなた》などを造ったから起ったのだなどと云うのは疑わしい。も少し古くから存した言葉だろう。
 天正二十年即ち文禄元年、彼の朝鮮陣が起ったので、氏郷は会津に在城していたが上洛《じょうらく》の途に上った。白河を越え、下野にかかり、遊行上人に道しるべした柳の陰に歌を詠じ、それから那須野が原へとかかった。茫々《ぼうぼう》たる曠野、草莱《そうらい》いたずらに茂って、千古ただ有るがままに有るのみなのを見て、氏郷は「世の中にわれは何をかなすの原なすわざも無く年や経ぬべき」と歎《たん》じた。歌のおもては勿論那須野が原の世に何の益をもなさで今後も甲斐なく年を経るであろうかと歎じたのである。然し歌は顕昭|阿闍黎《あじゃり》の論じた如く、詩は祇園南海の説いた如く、其裏に汲めば汲むべき意の自然に存して居るものである。此歌を味わえば氏郷が身|漸《ようや》く老いんとして志未だ遂げざるをば自ら悲み歎じたさまが思い浮められる。それから佐野の舟橋を過ぎ信濃へ入ったところ、火を有《も》つ浅間の山の煙は濛々《もうもう》漠々として天を焦して居る。そこで「信濃なる浅間の岳《たけ》は何を思ふ」と詠み掛けたりなぞしている。自分が日頃胸を焦がして思うところが有るからであったろう。
 肥前名護屋に在って太閤《たいこう》に侍して居た頃、太閤が朝鮮陣の思うようにならぬを悦《よろこ》ばずして、我みずから中軍を率い、前田利家を右軍、蒲生氏郷を左軍にして渡海しようと云った時、氏郷が大《おおい》に悦んで、人生は草葉の露、願わくは思うさま働きて、と云ったことは名高い談《はなし》である。其事は実現し無かったけれども、氏郷の英雄の意気と、太閤に頼もしく思われた程度とは想察に余りある。氏郷が病死したのは文禄四年二月七日で、齢《よわい》は四十歳で有ったが、其死後右筆頭の満田長右衛門が或時氏郷の懸硯《かけすずり》を開いて、「朝鮮へ国替《くにかへ》仰せ付けられたく、一類|眷属《けんぞく》悉《こと/″\》く引率して彼地へ渡り、直ちに大明《だいみん》に取って掛り、事果てぬ限りは帰国|仕《つかまつ》るまじき旨の目安《めやす》」を作り置かれしが、これを上《たてまつ》らるるに及ばずして御寿命が尽きさせられた、と歎じたという。これをケチな史家共は、太閤に其材能を忌まれたから、氏郷が自ら安んぜずして然様《そう》いう考を起したのであるというが、そんな蝨《しらみ》ッたかりの秀吉でもない氏郷でもない、九尺|梯子《ばしご》は九尺梯子で、後の太平の世に生れて女飯《おんなめし》を食った史伝家輩は、元亀天正の丈高い人を見損う傾がある。
 太閤が氏郷を忌んで、石田三成と直江兼続の言を用い、利休の弟子の瀬田|掃部《かもん》正忠に命じて毒茶を飲ませたなどと云うのは、実に忌々《いまいま》しい。正忠の茶に招かれて、帰宅して血を咯《は》いたことは有ろうが、それは病気の故で有ったろう。無い事に証拠は無いものであるから、毒を飼わなかったという証拠は無い訳だが、太閤が毒を飼ったということは信ぜられない。太閤が然様《そん》なことをする人とは思えないばかりで無い、然様なことをする必要が何処にあるであろう。氏郷が生きて居れば、豊臣家は却《かえ》って彼様《あんな》にはならなかったろう。氏郷が利家と仲好く、利家は好い人物であり、氏郷と家康とは肌合が合わぬのであった。然様いうことを知らぬような寐惚《ねぼ》けた秀吉では無い。或時氏郷邸で雁の汁の会食があって、前田肥前守、細川越中守、上田主水、戸田武蔵守など参会したことがあった。食後雑談になって、若《も》し太閤殿下に万一の事があったら、天下を掟《おきて》するものは誰だろうということが話題になった。其時氏郷は、あれあれ、あの親父、と云って肥前守利長を指さした。利長の親父は即ち利家だ。利長は、飛騨殿は何を申さるるや、とおとなしい人だから笑った。皆々は些《ちと》合点しかねた。で氏郷は、利家は武辺なり、北国三州の主なり、京都までの道すがらに足に障る者もなく、毛利は有りても浮田が遮り申す、家康|上洛《じょうらく》を心掛けなば此の飛騨が之有る、即時に喰付て箱根を越えさせ申すまじ、又諸大名多く洛に在りて事起らば、猶更《なおさら》利家の味方多からん、と云ったと云う。氏郷が家康に喰付けば、政宗が氏郷に喰付きもするだろうが、それは兎に角として、氏郷は利家|贔屓《びいき》であった。又他の場合にも氏郷は利家が天下を掟するに足ることを云い、前田殿を除きてはと問われたら、其時はおれが、と云ったので、徳川殿はと問う者が出たところ、彼《あ》の物悋《ものおし》みめがナニ、と云った談《はなし》が伝えられている。氏郷が家康を重く視ていず、又余り快く思っていなかったことは実際だったろう。秀吉も猜忌《さいき》の念の無いことは無い。然し氏郷を除きたがる念があったとすれば、余程訳の分らぬ人になって、秀吉の価は大下落する。氏郷に毒を飼ったのは三成の讒《ざん》に本づくと、蒲生家の者は記しているが、氏郷は下血を患ったと同じ人が記し、面は黄に黒く、項頸《うなじ》の傍《かたわら》、肉少く、目の下|微《すこ》し浮腫《ふしゅ》し、其後|腫脹《しゅちょう》弥《いよいよ》甚しかったと記してある。法眼|正純《まさずみ》の薬、名護屋にて宗叔の薬、又京の半井道三《なからいどうさん》等の治療を受けたとある。一朝一夕の病気ではない。想像するに腎臓《じんぞう》などの病で終ったのだろう。南禅寺霊三和尚の慶長二年の氏郷像賛に「可[#レ]惜談笑中窃置[#二]|鴆毒《ちんどく》[#一]」の句が有ったとしても、それは蒲生の家臣の池田和泉守が氏郷の死を疑ったに出た想像に本づいたものであろう。下風の謡が氏郷の父の賢秀の上を笑ったのであろうとも、一族の山法師の崇禅院の事を云ったのであろうとも、何でも差支無いと同じく、深く論ずるに値せぬ。
 彼《か》の氏郷が自ら毒飼をされた事を知って、限りあればの歌を詠ずると、千利休が「降ると見ば積らぬさきに払へかし雪には折れぬ青柳《あをやぎ》の枝」という歌を示して落涙したなどというのは余り面白くない演劇だ。降ると見ばの歌を聞いたとて毒を飼われて終《しま》った後に何になろう。且《かつ》其歌も講釈師が示しそうな歌で、利休が示しそうな歌ではない。氏郷の辞世の歌は毒を飼われたのを悟って詠じたと解せずとも宜かろう。二月七日に死んだのである。春の事であり、花を惜むことを詠んだので、其中おのずからに自ら傷んで居るのである。別に毒の※[#「均のつくり」、第3水準1-14-75]《におい》などはせぬ。政宗をさえ羽柴陸奥守にして居る太閤が、何で氏郷に毒を飼うような卑劣狭小な心を有《も》とう。太閤はそんなケチな魂を有っては居ぬ人と思われる。ただ氏郷が寿命が無くて、朝鮮へ国替の願を出さずに終ったことは、氏郷の為に、太閤の為に惜んでも余りある。太閤は無論悦んで之を許した事であろうに。家康も家康公と云って然るべき方である、利家も利家公と云って然るべき人である、其他上杉でも島津でも伊達でも、当時に立派な沸《たぎ》り立った魂は少くないが、朝鮮へ国替の願を出そう者は、忠三郎氏郷のほかに誰が有ったろう。

底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
底本の親本:「露伴全集 第十六巻」岩波書店
   1978(昭和53)年
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校正:土屋隆
2006年6月27日作成
2007年5月29日修正
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幸田露伴

学生時代—— 幸田露伴

 わたくしの学生時代の談話をしろと仰《おっし》ゃっても別にこれと云って申上げるようなことは何もございません。特《こと》にわたくしは所謂学生生活を仕た歳月が甚だ少くて、むしろ学生生活を為《せ》ずに過して仕舞ったと云っても宜い位ですから、自分の昔話をして今の学生諸君に御聞かせ申そうというような事は、実際ほとんど無いと云ってもよいのです。ですから平に御断りを致します。何処ぞの学校の寄宿舎にでも居ったとか何とかいう経歴がありましたら、下らない談話でも何でも、何か御話し致しましょうけれども。
 強《たっ》て何か話が無いかとお尋ねならば、仕方がありません、わたくしが少時の間――左様です、十六七の頃に通学した事のある漢学や数学の私塾の有様や、其の頃の雑事や、同じ学舎に通った朋友等の状態に就いてのお話でも仕て見ましょう。今でも其の時分の面影を残して居る私塾が市中を捜したらば少しは有るでしょうが、殆ど先ず今日は絶えたといっても宜敷いのです。私塾と云えばいずれ規模の大きいのは無いのですが、それらの塾は実に小規模のもので、学舎というよりむしろただの家といった方が適当な位のものでして、先生は一人、先生を輔佐して塾中の雑事を整理して諸種の便宜を生徒等に受けさせる塾監みたような世話焼が二三人――それは即ち塾生中の先輩でして、そして別に先生から後輩の世話役をしろという任命を受けて左様いう事を仕て居るというのでも無いのですが、長らく先生の教を受けて居る中に自然《おのず》と左様いう地位に立たなければならぬように、自然と出来上がった世話役なので、塾は即ち先生と右の好意的世話役の上足弟子とで維持されて居る訳なのです。
 左様いう塾に就いて教を乞うのは、誰か紹介者が有ればそれで宜しいので、其の頃でも英学や数学の方の私塾はやや営業的で、規則書が有り、月謝束修の制度も整然《ちゃん》と立って居たのですが、漢学の方などはまだ古風なもので、塾規が無いのではありませんが至って漠然たるものでして、月謝やなんぞ一切の事は規則的法律的営業的で無く、道徳的人情的義理的で済んで居た方が多いのです。ですから私の就学した塾なども矢張り其の古風の塾で、特《こと》に先生は別に収入の途が有って立派に生活して行かるる仁であったものですから、猶更寛大極まったものでした。紹介者に連れて行って貰って、些少の束修――金員でも品物でもを献納して、そして叩頭《おじぎ》して御願い申せば、直ちに其の日から生徒になれた訳で、例の世話焼をして呉れる先輩が宿所姓名を登門簿へ記入する、それで入学は済んだ訳なのです。銘々勝手な事を読んで行って勝手な質問をする、それが唯一の勉強法なのでしたが、中には何を読んで好いか分らないという向がある。すると、正直に先生に其の旨をいって御尋ねする、それなら何を読んだら宜敷かろうと、学力相応に書物を指定して下さるといったような事で誰しも勉強したものです。
 そういう訳で銘々勝手な本を読みますから、先生は随分うるさいのですが、其の代り銘々が自家でもって十分苦しんで読んで、字が分らなければ字引を引き、意味が取れなければ再思三考するというように勉強した揚句に、いよいよ分らないというところだけを先生の前に持出して聞くのですから、一人が先生の何分間をも費すのでは有りません。よくよく勉強の男でも十分間も先生を煩わすと云うのは無い位でした。それで、「誰某《だれそれ》は偉い奴だ、史記の列伝丈を百日間でスッカリ読み明らめた」というような噂が塾の中で立つと、「ナニ乃公なら五十日で隅から隅まで読んで見せる」なんぞという英物《えらもの》が出て来る、「乃公はそんなら本紀列伝を併せて一[#(ト)]月に研究し尽すぞ」という豪傑が現われる。そんな工合で互に励み合うので、ナマケル奴は勝手にナマケて居るのでいつまでも上達せぬ代り、勉強するものはズンズン上達して、公平に評すれば畸形的に発達すると云っても宜いが、兎に角に発達して行く速度は中々に早いものであったのです。
 併し自修ばかりでは一人合点で済まして居て大間違いをして居る事があるものですから、そこで輪講という事が行われる。それは毎日輪講の書が変って一週間目にまた旧《もと》の書を輪講するというようになって居るのです。即ち月曜日には孟子、火曜日には詩経、水曜日には大学、木曜日には文章規範、金曜日には何、土曜日には何というようになって居るので、易いものは学力の低い人達の為、むずかしいものは学力の発達して居るもののためという理窟なのです。それで順番に各自が宛がわれた章を講ずる、間違って居ると他のものが突込む、論争をする、先生が判断する、間違って居た方は黒玉を帳面に記されるという訳なのです。ですから、「彼奴高慢な顔をして、出来も仕無い癖にエラがって居る、一つ苦しめて遣れ」というような事ですから、今思い出すとおかしくてならんような争い方を仕たものです。或る一人が他の一人を窘《くるし》めようと思って、非常に字引を調べて――勿論平常から字引をよく調べる男でしたが、文字の成立まで調べて置いて、そして敵が講じ了るのを待ち兼ねて、難問の箭を放ちました。何様《どう》も十分調べて置いてシツッコク文字論をするので講者は大に窘められたのでしたが、余り窘められたのでやがて昂然として難者に対って、「僕は読書ただ其の大略を領すれば足りるので、句読訓詁の事などはどうでもよいと思って居る」など互に鎬を削ったものである。
 此の外は復文という事をする。それは訳読した漢文を原形に復するので、ノーミステーキの者が褒詞を得る。闘文闘詩が一月に一度か二度ある、先生の講義が一週一二度ある、先ずそんなもので、其の他何たる規定は無かったのです。わたくしの知っている私塾は先ずそんなものでした。で、自宅練修としては銘々自分の好むところの文章や詩を書写したり抜萃したり暗誦したりしたもので、遲塚麗水君とわたくしと互に相争って荘子の全文を写した事などは記憶して居ます。私は反古にして無くして仕舞いましたが、先達《せんだっ》て此事を話し出した節聞いたらば、麗水君は今も当時写したのを持って居るという事でした。
 わたくしは前にも申した通り学生生活の時代が極短くて、漢学の私塾にすらそう長くは通いませんでした。即ち輪講をして窘められて、帳面に黒玉ばかりつけられて、矢鱈に閉口させられてばかり居たぎりで、終《つい》に他人を閉口させるところまでには至らずに退塾《さが》って仕舞いましたのです。

底本:「露伴全集 第二十九卷」岩波書店
   1954(昭和29)年12月4日第1刷発行
初出:「中學文藝」
   1906(明治39)年6月臨時増刊
※初出時の表題は、「三十年前の小私塾」です。
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
入力:地田尚
校正:今井忠夫
2001年6月18日公開
2012年5月6日修正
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幸田露伴

華嚴瀧—— 幸田露伴

   一

 昭和二年七月の九日、午後一時過ぐるころ安成子《やすなりし》の來車を受け、かねての約に從つて同乘して上野停車場へと向つた。日本八景の一と定められた華嚴《けごん》の瀑布及びその附近景勝遊覽のためであつた。
 二時五分の日光直行の汽車はわれ等二人を乘せてはしり出した。車窓の眺めは例によつて例の如しであるから退屈の餘りの時間を雜談に消すほかはなかつたが、安成子は職分に忠實なので、しきりに八景論を提出して老人の談話《はなし》を引出さうとつとめる。景勝などといふものは論談の對象にするには聊か宜し過ぎるものであつて、山にしろ、水にしろ、たゞこれに打ち對つて怡然《いぜん》として神《しん》喜び心樂めばそれで宜《よ》いので、甲地乙地の比較をしたり上下をしたりするのは第二第三の餘計な事で、眞にいはゆる蛇足を畫《ゑが》くものであるから、ナアニ八景は勿論好いサ、二十五勝もまた勿論好いサ、百景の中へ入れられた地にも中々好いところが有るのサ位に片づけてしまつても、それでは先生承知しない、風景論の投繩を頻《しきり》に投げ掛けて、野馬的に勝手氣隨に奔逸したがる老人の意馬の頭《かしら》を主要問題の方に向はせようとする。とう/\八景の談《はなし》に引張りこまれてしまつた。
 一體八景といふのは隨分長い間の流行《はやり》言葉であつて、何八景|彼《かに》八景、しまひには吉原《よしはら》八景、辰巳《たつみ》八景とまで用ゐられて、ふけて逢ふ夜は寢てからさきのなぞと、イヤハヤ途轍《とてつ》も無い邊にまで利用されるに至つたほどであるが、最初はこれも矢張り支那文學美術すべて支那影響を受けた頃に起つたことである。八景といふ字面《じめん》は唐《たう》あたりからある、イヤ景色に八ツを取立てゝいつたのは南齊《なんせい》の沈約《しんやく》の八詠樓など、或はもつと古いところにあるか知らぬが、金華の元暢樓に沈約が八篇の詩を題してその景色をほめたところから、後に八詠樓と人が呼んだ。李太白が金華《きんくわ》|開[#二]八景[#一]《はつけいをひらく》と吟じたのも即ちその八詠樓の事で、任華といふ男が太白に寄せた詩に、八詠樓中|坦腹《たんぷく》にして眠るといふ句のあるのも、即ち同じその元暢樓をいつたのである。又たゞ單に八景といふ字面は別にあるが、それは三元や三聖といふ言葉と對になるので、景色の事では無い、黄庭内景などといふ景の字と同じ意味に用ゐられたもので、人の身體に上部中部下部の八景がある。上部の八景は腦、髮、眼、耳、鼻、口、舌、齒であるといふのであつて、道家《だうか》の語である。そんなことはどうでもよい。が、古い詩の句の八景といふのは、この道家の語の八景を知らぬと解がとゞかぬやうになる。今の何々八景といふのは、白石《はくせき》手簡《しゆかん》に八景のはじめは宋人か元人かにて宋復古と申す畫工云々とあるが、それは夢溪筆談に出てゐる度支員外郎|宋迪《そうてき》の事で、平沙《へいさ》落雁《らくがん》、遠浦《ゑんぽ》歸帆《きはん》、山中《さんちゆう》晴嵐《せいらん》、江天《こうてん》暮雪《ぼせつ》、洞庭《どうてい》秋月《しうげつ》、瀟湘《せうしやう》夜雨《やう》、煙寺《えんじ》晩鐘《ばんしよう》、漁村《ぎよそん》夕照《せきせう》、之を八景といつて得意の畫であつたといふのである。後の八景といふのがこれに基《もと》づいてゐることは疑はれない。美術天子の宋の徽宗《きそう》皇帝が、張※[#「晉+戈」、第4水準2-12-85]《ちやうせん》といふ畫人をして舟に乘じて往いて山水《さんすゐ》の勝《しよう》を觀て八景の圖を作るやうに命ぜられたといふことも、傳へられてゐる談であるから、八景のはじまりは宋であつて、そしてその山水は平遠山水であつたことも疑はれない。
 我邦では東山《ひがしやま》の頃、玉澗《ぎよくかん》の八景の畫が珍重されて、それから八景々々といひ出されたのだが、その玉澗の八景が宋迪の八景から系統を引いたものであることも想像されるに難くない。それからその後|慶長《けいちやう》元和《げんな》の頃、京の圓光寺の長老がゆゑあつて近江|蟄居《ちつきよ》の時、琵琶湖付近の景を瀟湘八景に擬して當時の人々から詩歌などを得た。それがいはゆる近江八景のはじまりだが、白石でさへ、好い景色は何も八景には限らないことだのに、景としては夜雨、秋月、歸帆、落雁ならぬはないのは餘り不雅《ふが》なことである、と厭《いと》はしく思つてゐる。も一つ又八景については、徳川期最初の大儒の惺窩《せいくわ》先生がその市原山莊に八景を擇んで人々の詩歌を得たことがある。そんなこんなで八景といふことを段々人がいふやうになつたのだが、その市原山莊の八景沙汰も契沖《けいちゆう》は雜々記に餘りよくはいつてゐない。とにかくに江戸期はこんな譯で八景を擇むことは大流行を來し、少し眺望《ながめ》が好いところは何八景彼八景といつたものだが、いづれも復古や玉澗の餘唾《よだ》で、有難くないことだつた。ところが今度の八景は、すつかりさういふ古軌道にあづからず、新眼新選、廣く大八洲内から八勝を選んで、一景一面目、各※[#二の字点、1-2-22]その美を揚ぐるやうにせしめたのは、景色觀賞においての畫時代的記録を作つたもので甚だ愉快である。
 と、こんなことを語つたり思つたりしてゐる中に、晴れたり曇つたりする日の右手の車窓には梅雨《つゆ》の雲の間に筑波の山が下總《しもふさ》の青田の上、野州《やしう》の畑の上から美しいその姿を見せ、左方の日光つゞきの山々はなほ薄雲の中に隱れてゐて、早くも宇都宮《うつのみや》に着き、やがて日光驛に着いた。

    

 停車場を出ると直《たゞち》に自動車に乘つて山上へと心ざした。本來|今市《いまいち》から日光までの路は、例の杉並木の好い路であるから、汽車で乘越すのは惜いのであるが、時代を逆行させて、白地の夏の衣の袖さへ青む杉の翠《みどり》の蔭を、煙草《たばこ》の烟吹きながら歩くむかしに返すことも出來ないことであるから是非無いとして、日光へは一夜宿つて東照宮其他を拜觀すべきであるが、それはすでに二人共に幾度か濟ませてゐることでもあり今度の目的でもないから、いきなりプー/\と山へ上つたが、馬返しまではたゞ一飛びであつた。それからは地名があらはしてゐる如く山路けはしくなるので、道路は文明のお蔭で汗も流さず車中に安坐しながら登り得るものゝ、時々急勾配の電光形状の屈曲角になると、車も一寸《ちよつと》逆行して方向を鹽梅《あんばい》しなければ登れぬところも有つて、山嘴《さんし》突端の逆行は餘り好い心持では無い。けれど日光自動車に事故はかつて無いといふ歴史を信じて談笑してゐる中に、般若方等の瀧徑も後に段々樹深く山深く入つて、溪添路は殊更に夕霧の深くなる中を大平へ着いた。
 霧は可なり濃くなつて何もはつきりとは見えず、夏の長き日も暮かゝつて來るので、わが乘つた車の轟きも或時は奇妙に反響《こだま》して、瀧の轟きが聞えるのでは無いかと疑つたりした。大平と聞いたので車を止めて下り立つた。瀧見臺へかゝつた。こゝは華嚴の瀧をその三分の二位の高さに當るところから望むところで、三十年も前には人々は大抵こゝから瀧を見るのみであつた。古い記憶は丁度今起つてゐる霧の立隔てゝゐるやうになつてゐるその中をたどつて、瀧を見るべき突端に至つた。客を接する人も居らず、岑閑《しんかん》とした霧の暮に、あらい金網を張つてゐる危ふげな突端にいたると、一谷|呀然《がぜん》として開けて、たゞ白煙蒼霧の埋めてゐるかなたに、恐ろしい瀧の音が不斷の響きを立てゝゐるばかりであつた。心當《こゝろあて》にかなたと思はるる方をぢつと見てゐると眞白な霧の中に薄々と、薄青い帛《きぬ》を下げたやうにそれとうなづかるゝものがかすかに透かして見えた。山氣と嵐氣と暮氣とは刻々に懷《ふところ》に迫つて、幽奧の境、蒼茫の態、一聲|鳥《とり》だに啼かず、千古水いたづらに落つる景、丁度人去つて霧卷くこの時に會つて、却つて原始的の状を味はふことは出來て幽趣無きにあらずでは有つたが、これだけでは仕方が無い、いづれあとは又明日と車に上つた。
 時計を見ると七時五分であつた。そこで東京上野からは正しく僅々《きん/\》五時間で八景の一たる景勝が連接されてゐると思ふと、莞爾《くわんじ》として滿足欣快の感のわき上《あが》るのを覺えた。五時間である。僅に五時間である。それで海拔四千尺の地に、直下七十何間(七十五丈ともいふ、説はまち/\だ)の大瀑布に對し、白樺や山毛欅《ぶな》や唐松《からまつ》の梢吹く凉しい風に松蘿《さるをがせ》の搖ぐ下に立つことが出來るかと思ふと、昭和の御世《みよ》が齎らしてゐる文明が今のわれ等を祝福してゐてくれると誰も感ぜずには居られまい。
 車は忽ち電燈の光の華やぐ旅館の門並の前を過ぎて、朱の鳥居の見ゆるところに來た。中禪寺へ着いたなと思ふ間もなく、華嚴の瀧の上流である湖尻の川にかゝつてゐる橋を渡ると、周圍七里の一大湖は眼前に開けたが、霧が來去するので何程の濶《ひろ》さがあるか朦朧として、たゞ人の想像に任せるものとして見えたのも却つて興があつた。以前は橋を渡らずに二荒山《ふたらさん》神社の方へ湖畔に沿うて行つて、そこらに點在する旅館に泊つたものであるが、われ等は歌が濱の米屋といふに着いた。樓に上つて欄によると、湖を壓《あつ》して立つてゐる筈の男體山《なんたいざん》もぼんやりとして、近き對岸の家々の燈火《ひ》も霧のさつと風に拂はれる時は點々と明るく、霧のおほひかゝる時は忽ち薄れ忽ち見えずなつた。雲霧は山につきものであり、塵埃は都の屬物《つきもの》であるが、萬丈の塵は景氣が好い代りに少し息苦しい。山の湖の霧は凉やかでこそあれ、安らかに吾人の睡眠《ねむり》を包んでくれた。夢を訪《と》ふものは銀鈴を振るやうな河鹿の聲ばかりであつた。

    

 平和の夢からさめて十日の朝だなと意識した時には、昨夜は少し厚過ぎるやうに思つた夜被《よぎ》も更に重く覺えなかつた。湖に面した廣縁に置かれた籐椅子によつて眺めると、昨日は水の面をはつて一望をたゞ有耶無耶《うやむや》の中に埋めた霧が、今朝はあとも無く晴れて、大湖を繞《めぐ》る遠い山々の胸や腰のあたりに白雲が搖曳《えうえい》してゐるばかりで、男體山は右手の前面に湖岸から直ちに四千尺の高さをもつて美しい傾斜で、翠色|滴《したゝ》るばかりに聳え立つてゐる。山が自然の作用によつて條をなして崩れて襞※[#「ころもへん+責」、第3水準1-91-87]《ひだ》のやうなものを造り出すのを、ゾレといふ國もありナギといふ國もあるが、男體山は頂上まで滿山樹木が茂つてゐるので、そのいはゆるナギの少いのは、人をして山に對してなつかしい和《やは》らかな感じをもたしむる所以で、それが加之《しかも》清らかに澄みきつた萬頃《ばんけい》の水の上にノッシリと臨んでゐるところは、水晶盤上に緑玉を堆《うづたか》うすとでもいひたい氣がする。二荒山神社及びその附近の人家が昨夜は霧のために遠く想はれたが、今朝は近々《ちか/″\》と指點し得るだけ空氣が明るいので、眼を男體山から左方へ移すと、連山が肩をつらね手を接して爭ひ立ち並び圍んでゐる中に、前白根奧白根が流石《さすが》にそれとうなづかせるだけの勇姿を示して、まだ殘つてゐる谷の雪が銀白の光を見せてゐるのもうれしい景色であつた。
 朝食を終つてから宿の主人や東日《とうにち》の通信員の案内を得て復《ふたゝ》び華嚴の瀧へと向つた。大平の瀧見臺へ到る途中、瀧の流れる見當へと行く右手の、道も無い林間叢裏に處々《ところ/″\》鐵網を張つて人の通行をさせぬやう用心してあるのが見えた。無理に瀧の上へ出て生命《いのち》を粗末にしようとする狂人共を制する爲の手配であるが、見るさへにが/\しい。
 瀧見臺に立つて見ると、昨夜の幽味は少しも無くて瀧は明らかに見え、無數の岩燕《いはつばめ》が瀧飛沫《たきしぶき》の煙の中を、朝の日の光を負ひながら翼も輕げに快く入亂れて上下左右してゐる。この臺から瀧を望むのも惡くは無いが、瀑布といふものの性質が俯瞰《ふかん》もしくは對看するよりは、その下にゐて仰望する方がその美を發揮する。然《さ》なくばやゝ離れた位置から遠くわが帽子の簷《ひさし》のあたりに看る方がおもしろい。李太白の廬山《ろざん》の瀑布を望む詩の句にも、仰ぎ觀れば勢|轉《うたゝ》雄なり、壯《さかん》なる哉《かな》造化の功、といつてゐるが、瀑布の畫を描けば大抵李太白は點景人物になつてゐるほど瀑布好《たきず》きの詩人で、自分からも、仍《よつ》て諧《かな》ふ夙《つと》に好む所に、永く願はくは人間を辭せん、といつてゐる位に、名山の中に飽《あく》までも浸りたがつた先生である。その李太白先生も仰觀の一語を道下《いひくだ》してゐる。どうも瀑布そのものが高處より落ちるところがその生命なのであるから、仰ぎ觀るのがよいに相違無く、さうしてからこそ、初めて驚く河漢の落つるを、半《なかば》灑《そゝ》ぐ雲天の裏《うち》、なぞといふ詩句も出來て來るのである。また遠望するのも宜しい。同じ人が、日は香爐(峯の名)を照して紫煙を生ず、遙に看る瀑布の長川を挂《か》くるを、といつてゐるのは遠望の觀賞である。華嚴は遠望する譯にはゆかぬが、瀑布の下へは幸にして下りられる。そこで瀧見臺より少し下つて、休み茶屋のあるところから谷底へと下りた。丁度瀧見臺の眞下へ下りるのだから、徑は甚だ危急であるが、老人の自分が靴をはいたまゝで下りられるのであるから、さして老人の冷水業といふほどでもない。勿論|巖岨《いはそば》を截《き》り削つて造つた道だから、歩を誤つては大變であるが、鐵の棒を巖へ立てたり、力になるやうに鐵線《はりがね》を架《わた》してあつたり、親切に出來てゐるから危いことも無い。
 次第々々に下りて行くと華嚴の瀑布は見えなくなるが、やがてどう/\といふ瀑布の音が聞えて、右手に立派な瀧が見える。それは白雲の瀧といふので、その瀧の末の流れを鵲《かさゝぎ》の橋によつて渡つて對岸へ路はつゞく。橋の上は丁度白雲の瀧を見るによい。これは屈折はしてゐるが五十間であるから、他の土地に在つたら本尊樣になるだけの立派な瀧だが、華嚴の近くにあるので月前の星のやうに人に思はれるのは是非が無い。併し鵲の橋の上に立つてゐると瀧が近いので、瀧飛沫は冷やかに領《えり》に下《お》ちて衣袂《いべい》皆しめり、山風颯然として至つて、瀧のとゞろき、流の沸《たぎ》りと共に、人をして夏のいづこにあるかを忘れしむるところ、捨て難いものがある。橋の名も宜い、瀧の名も宜い、紅葉の頃には特《こと》にウツリが宜からうと思はれる雅境である。橋を渡つて巖路を一轉囘すると、やがて華嚴の大觀は前面に現れた。

     

 大谷川の源頭の流れに對し、華嚴の大瀑布を右手の軒近く看て、小茶亭が立つてゐる。それが即ち五郎兵衞茶屋であつて、今日のところではこの茶店又はその附近程、天下の名瀑布たるこの瀑布の絶景を賞するに適した處は無い。大谷川となつて瀧の水が流れ出す東の一方を除いては、三方は翠峯青嶂に包まれてゐるその中央の高處から雪と噴《ふ》き雷《らい》と轟いて、岩壁にもさはらずに一線に懸空的に落ちて來るのが華嚴の壯觀である。瀧の幅と高さの比例も自然に甚だ審美的であり、瀧壺の大きさもこれにかなつてゐる。瀧の背景になつてゐる岩壁も上半部が三段ばかりに横※[#「ころもへん+責」、第3水準1-91-87]《よこひだ》になつて見えるが、その最上部のものは恰も屋簷《ひさし》のやうに張出してゐて、その縁邊が鋸齒状《きよしじやう》をなしてゐるので鋸岩《のこぎりいは》といふさうであるが、若《も》しそれ近くついて視る時は、屋簷のやうに張り出してゐるその出《で》が五間餘もあるといふのであるから驚く。これ等の巖壁の罅隙は、無數に亂飛してゐる巖燕の巣であつて、全く燕でなくては到る能はざるところである。巖壁の中部より下は、幾條となく水がほとばしり出してゐて各※[#二の字点、1-2-22]衞星的小瀑布をなしてゐる。その中で數へるに足りるのが十二もあるので、十二の瀧といふ名を與へられてゐる。十二の瀧の一つで、華嚴に近く、向つて右手のものは、高さが百三十尺もあるといふから、たとへ衞星的のものですらも他處へ持出せば、壯觀だの偉觀だのといはれるに足りるのである。これを以て推《お》して華嚴の雄大を知るべしである。
 まして此境《こゝ》が冬になつて氷雪の時にあへば、岩壁四圍悉く水晶とこほり白壁と輝いて、たゞ一條|長《とこし》へに九天より銀河の落つるを看る、その美しさは夏季に勝ることは遠いものであらうが、今は、千年流れて盡きず、六月地|長《とこし》へに寒しといふ詩の句の通り、人をして萬斛《ばんこく》の凉味に夏を忘れしめ、飛沫餘煙翠嵐を卷いて、松桂千枝萬枝|潤《うるほ》ひ、龍姿雷聲白雲を起して、岩洞清風冷雨鎖してゐる快さをもつて吾人を待つてくれる。この華嚴の景を直寫しようとして、石偏《いしへん》や山偏や散水《さんずゐ》や雨冠《あまかんむり》の字を澤山持ち出したら千言二千言の文の綴るのも難事では有るまいが、活字制限の世の中に文選《もんぜん》的の詞章を作つて活字の文選者《ぶんせんしや》を弱らせたとて野暮《やぼ》なことであるし、女學生や小學生も修學旅行で昵懇になつてゐる場所のことを、今更らしく艮齋張《ごんさいば》りの文なぞにするのも餘り小兒《こども》臭いから、夏向はすべて抛下著《はうげぢやく》にかぎると、あつさり瀧の水に流してしまつて、煙草のしめる瀧壺の冷え、その煙草から李白の詩句では無いが紫煙を生じさせてゆつくり一休み。
 五郎兵衞茶屋の主人、名は五郎作、六十餘の好人物的風采を具した男で、茶屋開始者五郎兵衞老人の子である。五郎兵衞老人は華嚴の瀧が立派な瀧であるに拘らず適當な觀賞場所が無くて、たゞ瀧見臺から觀望するに過ぎぬ事を他國の人々が飽かず思ふのを道理と感じた。そしてこれは瀧壺へ下りさせるに足る徑《みち》を開くに限ると考へた。本業は人を使つて山深く入つて曲物《まげもの》(日光名物であるに拘らず、今はこれを鬻《ひさ》いでゐることの少いのは遺憾だ)の材料たる木をとるのであつたが、その事を思ひ立つてから、獨力で測量し、獨力で開鑿しはじめた。人々はそんな無理な事が出來るものかと嗤笑《しせう》した。非難や嗤笑は、世の中の賢顏《かしこがほ》する詰らない男、ガスモク野郎、十把一《じつぱひと》からげ野郎の必ず所有してゐる玩具《おもちや》である。五郎兵衞老人は玩具におどかされるやうな男では無かつた。その鶴嘴《つるはし》を手にしだした時はすでに六十三歳であつたが、せかず忙《いそ》がず、毎年々々コツ/\と路を造つた。七年の歳月は過ぎた。明治三十三年に至つて路は成就した。それが即ち今の路である。三十三年以前は瀧壺へは下りられなかつたが、徑が出來てから世人は華嚴を十分に觀賞するを得るに至つたのである。耶馬溪《やばけい》も昇仙峽《しやうせんけう》も、これを愛しこれを開く人が有つてから世にあらはれるに至つたのである。華嚴も五郎兵衞老人を得てから愈※[#二の字点、1-2-22]その美を發したのである。瀧の神も吾人も五郎兵衞老人に滿腔の謝意を致さねばならぬ。

    

 對岸の高處に明智平《あけちだひら》といふのがある。馬返しからそこを經て中禪寺へケーブルカー敷設の企てがある。それが成就すれば、八分乃至十二三分で馬返しから中禪寺へ行く事が出來るやうになる筈であるとのことだ。五郎兵衞老人の工事は誠意と勇氣との自力で出來たのだが、この工事は資本と巧智との衆力で出來るのである。出來上つた上はいづれも感謝に値するが、ケーブルカーの工事が勝景の風致の上に十分の考慮を拂つて施行されんことを望む。叡山筑波山の如きは無くもがなのものだといふ評さへ聞くが、こゝのは蓋《けだ》し出來れば出來た方が婦女老幼のために甚大の利を餽《おく》ることにならう。
 歸路《きろ》についた。白雲の瀧、かさゝぎの橋は矢張り好い感じを人に與へる。歸りは上りになるのと、一度でも歩いた路なのとで、嶮峻の感じを大に薄くする。上り了《をは》つて一休みしながら、下までの深さを考へると、箱根の大路から堂ヶ島へ下りる位、或はそれより一二丁少しくらゐのものであつた。
 中禪寺の區長に迎へられて、人々と共に宿に還ると直《たゞち》に湖に泛んだ。モーターボートで湖を一周しようといふのである。四山環翠、一水澄碧の湖上に輕艇を駛《はし》らすれば、凉風|面《おもて》を撲《う》つて、白波ふなばたに碎くるさま、もとより爽快の好い心持である。歌が濱の佛國、英國、獨國大使別館、いづれも景勝の地を占めて湖に臨んでゐる。立木觀音で艇を出でゝ、立木をきざんだ本尊の古拙ではあるが面白い像を見、勝道上人の所持であつたといふ傳《でん》の刀子《たうす》だの錫杖《しやくぢやう》だのを見た。
 勝道上人は日光の開山者で、日光を開くために前後十數年を費《つひや》し、それまでは世に知られ無い神祕境であつたのを遂に開いたのである。その事は空海の性靈集中の碑文に見え、またそれによつて書いたと見える元亨釋書《げんかうしやくしよ》にも見えてゐる。神護《じんご》景雲《けいうん》から延暦《えんりやく》にわたつての事で、弘法大師よりは少し前の人である。この頃は有力の佛者が諸所の山々を開いた時代で、小角《をつぬ》が芳野を開き、泰澄《たいちよう》が白山《はくさん》を開いたのなどは先蹤《せんしよう》をなしてゐる。上人の所持物だつたといふものが眞實であるならば、相當に貴族的有力者的生活者だつた事が窺ひ知られる。おもふに地方において中々の權力地位を有してゐた人であつて、それでこの山をも開き得たのであらう。元來この山の名は二荒山であつて、音讀して美しい字面を填《は》めて日光山となつたのは、たとへば赤倉温泉の中《なか》の嶽《たけ》が名香《なか》の嶽《たけ》の字で填められ、名香《みやうかう》を音讀して妙高山となり、今日《こんにち》では妙高山で通るやうになつたと同じである。また二荒を普陀落《ふだら》にあてゝ觀音所縁の山名に通はせ、それで觀音をきざみ、勸請《くわんじやう》などもしたのであらう、弘法の文にもはやくその洒落《しやれ》が見えてゐる。とにかく勝道上人のおかげで好い山が開けたものであるから、感謝の情を起さずにはゐられない。
 堂を出て心づくのは、華嚴の瀧に飛び込んだ馬鹿者どものために供養塔が建てられたり、地藏尊がきざまれたりしてゐることである。これは死者をかなしむ美しい人情のあらはれであるが、死者は眞に人をわづらはし地を汚したものである。死にたくなるには何《いづ》れそれだけの事由《わけ》があつてだらうから、一概に罵倒したくも無いことでは有るが、同胞の一人が飛び込んだとすると、さあ大變だ、大騷ぎをしてその死骸を搜し出す、それ/″\の公私手續きを取る、その面倒さは一通りのもので無い。死んだ人は彼《あ》の恐ろしい瀧の中へ飛込んだなら一切この世とは連絡が絶えてしまふ位に考へてでも有らうが、何樣《どう》してそんなに容易に一切が水の泡となるものでは無い。瀧壺は三十何尺の深さが有つても、屍骸を食つて消化するのでも何でも無いから、必ず之を吐き出す。大勢の土地の人々は必ず之を見付け出す。見るも物憂い醜い屍は、煩雜な手續きを經て後に適法に處理される。その厄介を人々に掛ける事は一通りや二通りで無い。死者もその間は死恥《しにはぢ》をさらさぬ譯にはゆかぬし、死者の遺族などは重々困難の立場に立つ譯だ。自殺は人の勝手のやうなものだが、華嚴飛び込くらゐ智慧の無い、後腐《あとぐさ》れの多い、下らない死方《しにかた》は無い。生を否定してゐるに近い佛教ですら自殺は禁ぜられてゐて、釋迦存生當時厭世觀の極點に立つて、獵師であつたものに自分を殺させた者、その他の自殺をはかつた者等が釋迦の彈呵《だんか》を被《かうむ》つたことは記録に明らかである。西藏《チベツト》や印度の蒙昧信者が身を棄てる如きも誰か今日之を是認しよう。まして宗教的からでも何でも無い、詰らないことから自殺しようとして華嚴を擇ぶ如きやからには、自分の權利も何も有るものでは無い。特《こと》に華嚴をえらぶ如き下らぬわがまゝを許せる理由が何處《どこ》に有らう。涅槃《ねはん》の瀧といふのが何處かに有つたら知らぬこと、華嚴は高華偉麗の世界である、白牡丹花に蟻の這ひ上るのはまだしも許し得るとしても、華嚴に汚穢《きたな》い馬鹿者の屍體を晒《さら》さうといふ場席は無いわけだ。華嚴行願には火の中へ飛び込んで清凉世界を得る談はあるが、それも淺間山へ飛び込めといふやうな譯ではない。華嚴へ飛び込みたいやうな氣のする人があつたら、六十三歳から瀧壺道を七年かゝつて造つた人にも慚《は》ぢて、せめて故郷へかへつて半年なりと鍬でも鋤でも振廻して働いて見て貰ひたい。「石塔に鉢卷」といふ壯んな諺が日本にはあるが、石塔になつた氣で鉢卷をして働いたなら、華嚴の瀧はその人の棺前の華では無くて、必ず酒の下物《さかな》たる好い眺めであらう。と先亡諸靈を哀《かなし》むにつけて、つく/″\と心中に思つた。

     

 復《ふたゝ》び艇へ戻つて寺ヶ崎の端《はな》を廻り、上野島かけて大日崎の方を走ると、艇の位置が變るにつけて四圍の山々も動き、今までは見えなかつた山が姿をあらはしたり、今まで見えた山が隱れて行つたり、青山《せいざん》翠巒《すゐらん》應接にいとまがない。その中に足尾方面の山だけが、その鑛毒に蒸《む》されて焦枯《やけが》れた林木の見るも情ない骨立《こつりつ》した姿を見せてゐる。あれだけに育つた木々だから、何とかしたらば繁茂をつゞけられるのだらうが、二十世紀的、資本的、ドシ/\バタ/\的に無遠慮に採鑛精煉の事業をやられては、自然も破壞|潰裂《くわいれつ》させられるのを如何《いかん》ともし難い。地獄|變相《へんざう》の圖の樣な景色が出來ても是非に及ばないが、何人にも詩人的情緒は有るから、生氣に充《み》ちた青々《あを/\》とした山々の間に、鬼々《おに/\》しくなつた枯木の山を望んでは黯然としてこれを哀しまないものは無い。段々走つて白岩あたりに行くと、岸のさま湖のさまも物さびて、巨巖危ふく水に臨み、老樹|矮《ち》びて巖に倚《よ》るさまなど、世ばなれてうれしい。仰げば蓋《かさ》を張つたやうな樹の翠、俯《うつむ》けば碧玉を溶《と》いたやうな水の碧《あを》、吾が身も心も緑化するやうに思はれた。
 千手が濱から赤岩、丁度白岩に對してゐるが、岩こそ赭色なれ、こゝも宜い景色である。千手が濱で艇を出て、アングリング・エンド・カウンツリー・クラブの養魚場を見たが、舟から上つて平地の林の中へ入つて行く感じは眞に平和な仙郷へでも入るやうで、甚だ人に怡悦《いえつ》の情を味はしめた。緑蔭鮮かなるところ、小流れの清水を一區畫一區畫的に段々たゝへて、川マス、ニジマス、ブルトラウト、スチールヘッド等の各種鱒族の幼魚を養つてある。水清く魚|健《すこ》やかに、日光樹梢を漏りてかすかに金を篩《ふる》ふところ、梭影《さえい》縱横して魚|疾《と》く駛《はし》るさま、之を視て樂んで時の經つのを忘れしむるものがある。
 菖蒲ヶ濱にも養魚場がある。これは帝室關係のもので、野趣は少い代り堂々たる設備で、養魚池もひろく、鱒も二尺位になつてゐるのが數多く見えた。釣魚もおもしろいが養魚はなほ更《さら》佳趣の多いことで、二ヶ所の養魚場を見て、自分も一閑地を得たら魚を養ひたいナアと、羨み思ふを免《まぬか》れなかつた。莊惠觀魚《さうけいくわんぎよ》の談このかた、魚を觀るのは長閑《のどか》な好い情趣のものに定つてゐるが、やがて割愛して、今度は艇を捨て、自動車で龍頭《りゆうづ》の瀧へと向つた。
 龍頭の瀧もまた別趣を有してゐる好い瀧である。水は斜《なゝめ》に巨巖の上を幾段にも錯落離合してほとばしり下るので、白龍|競《きそ》ひ下るなどと古風の形容をして喜ぶ人もあるのだが、この瀧の佳い處はたゞ瀧の末のところに安坐して、手近に樂々と見ることと、巖石の磊※[#「石+可」、166-上-15]《らいか》たるをば眼前にする所にある。
 路は男體山の西へ廻り込んで、さしたる傾斜もない野を知らず識らずに上つて戰場ヶ原にかゝる。古は湖底か沮洳地《そじよち》ででもあつたかと思はれるのが戰場ヶ原である。可《か》なり濶い面積の平野に躑躅や山菖蒲が咲いてゐて高原氣分を漂はせてゐる荒寞の景が人を襲ふが、此處《こゝ》は雪がまだ山々にむら消《ぎえ》むら殘りの頃か、さなくば秋の夕べの物淋しい頃が、最も人に浸《し》み入る情趣をもつところで、日光や中禪寺の人々が「歡《よろこ》びの花」といふよしの躑躅花(この花が咲けばやがて多くの遊覽者が入込んで土地がにぎやかに潤ふ)が咲いてゐる、今はむしろ特有の持味を漲《みなぎ》らせてゐないのを遺憾とする。
 車はやがて湯元に着いた。湯の湖《うみ》は左手にその幽邃味の溢るゝばかりなすがたを、沈默のうちに見せてゐる。湯元は山奧の突き當りのやうな感じのする地であり、古風の湯宿と今樣《いまやう》の旅館とが入り交つてゐる温泉《ゆ》の香《か》の高い小さな村であるが、何となく人をゆつたりと沈着《おちつ》かせてしまふやうなところが、實際山奧の湯村の氣分でもあらう。
 一浴して晝餐を取ると、村の人々が東京日日に對する好感を表示して訪うてくれた。その人々に擁されて、特《こと》に仕立ててくれた手※[#「戔+りっとう」、第3水準1-14-63]舟《てこぎぶね》二隻に分乘して、湯の湖を廻つた。湖は中禪寺湖より遙に小さいが、周圍の樹木の鬱々と茂つて、その枝も葉も今|將《まさ》に水に入らんとするほど重げに撓々《たわ/\》に湖面に蔽ひかぶさつてゐるところや、藻の花が處々に簇《む》れ咲いたり、杉木賊《すぎとくさ》といふ杉菜の如く木賊の如き一種の水草が淺處にすく/\としてゐたりするさまは、まるで繪の如く小じんまりしてゐて、仙人の庭の池では無いかと思はれるやうな氣がする。南岸には石楠花《しやくなげ》が簇生してゐて、今は花はすがれてゐるが、花時の美しさは思ひ遣られる。兎島といふ半島的突出の北部の灣形に入り込んだところなどは、何樣《どう》見ても茶人的の大庭の池の甚だ寂び古びたやうな感じで、幽雅愛すべきである。この景色を取入れて別莊を設けた人の無いのが不思議な位である。

    

 三十七八年前になる。自分は湯元から金精峠《こんじやうたうげ》を越えて沼田の方へ出たことがあるが、今はその頃よりは甚だ開けて、西澤金山などがその後開けたために、又群馬の方の菅沼等も遊覽地になつたために、道路は北へも西へも通じてゐて、實際に突きあたりの地では無くなつたのである。しかし自動車で行ける路でも無いので、昔日の健脚、今の寢足《ねあし》、しかた無いからまた中禪寺へ歸つた。
 湯瀧は湯の湖より落つる水である。たきといふ語の通りに、眞白になつて岩の傾斜面をたぎり落つるのである。兒童《こども》のすべり臺を水が落ちると思へば間違ひはない。今に遊戲的にこの瀧を落下する設備をする人があるかも知れない、といふのは戲諢談《おどけばなし》だが、ほんとにさういふことをしたら、可なり突飛なことの好きな人を滿足させ得るだらう。
 車は夕暮に迫つて菖蒲が濱から歌が濱へと走つたが、この間のドライブは實に愉快である。右は中禪寺湖水なり、左は男體山なり、道は好し、樹木の茂れる中を走るのであるから、そのさわやかさは幾度も繰返して味はひたいと思ふくらゐである。車中から偶然《ふと》見る湖岸に漣波《さゞなみ》が立つて赤腹といふ小魚が群騷いでゐる。産卵のために雌魚雄魚が夢中になつてゐるのである。古い語で「クキル」とこれをいふ。北海道では今、群來の二字を充《あ》てるが、古は漏の字を充てゝゐる。鯡《にしん》のくきる時は漕いでゐる舟の櫂でも艫でも皆、かずの子を以てかずの子|鍍金《めつき》をされてしまふ位である。今雜魚はその生殖期の特徴たる赤い線を身側に鮮かにして、騷ぎまはつてゐる。と見るや否や土地の人は忽ち車を止めさせた。人々は渚《なぎさ》に歩み寄つて、各※[#二の字点、1-2-22]手取りにせんとした。安成子も早速に水の中へ手を突つ込んで首尾よく手づかみにしたのは、時に取つての無邪氣な餘興であつた。宿へ歸つて鹽燒にさせて、先生大得意で天賜の佳肴に一盞の麥酒《ビール》を仰いだところは如何にも樂しさうであつた。但しその魚の大さ三尺五寸也、十倍にして。
 十一日。人力車をやとひて馬返しまで下る。途中、かごの岩、屏風岩など、いづれも他所にあつては名を高くするに足りるものであると賞した。馬返しより自動車を頼んで日光へ下り、東照宮大猷廟《たいいうべう》その他は今囘は遙拜のみして、稻荷川を渡つて霧降の瀧へと向つた。瀧見臺の茶屋まで車で行ける樣になつてゐるので勞は無い。そこから細徑《ほそみち》を少し行くと、俄然として路は巖端《いははな》に止まつて、脚下は絶壁の深澗になり、眼前の對《むか》ひの巖壁に霧降の麗はしい相《すがた》は見えた。華嚴は男性美、霧降は女性美、一は直條的、一は曲折的、一は太い線、一は纖《ほそ》い線、巖の樣子もまた二者の間に相應した差があつて、霧降の瀧の美しさは、瀑布の形容によく素練《それん》などといふ字を使ふが、素練などといつたのでは端的にその實《じつ》は寫し得ない。しなやかに細い多くの線をなして麗はしく輝やかしく落下《おちくだ》る美しさは、恰も纖く裂いた絖《ぬめ》を風に晒《さら》して聚散させたを觀るやうな感じである。雄偉は華嚴にとゞめをさす、妍麗は霧降を首位とする。わざ/\鑑賞するだけの價値は十分にある。
 日光の美の中で、他にまだ看過《かんくわ》し難いものがある。それは街道の杉並木である。平泉澄氏の撰の東照宮志にこの並木の事は詳しく出てゐる。並木といへば何でも無いもののやうであるが、實に此も亦人の爲《し》たことの美しい一つである。で、今市までその並木の下を走らせて、わが國人の心の姿であり、神の愛したまふ相である正直其物の杉の樹蔭に、翠影甚だ濃く凉氣おのづから湧くすが/\しさを十分に味はつた。神路山《かみぢやま》の山路、日光の例幣使街道、春日《かすが》の參道、芳野の杉山、碇《いかり》が關《せき》の杉山、いづれも好い心持のところであるが、特《こと》に此處は好い。たゞ行末齒の脱けたやうにならぬことを望むのみである。
 今市より北折して會津へ至る道も、神々《かう/\》しさは餘程缺けるが同じく杉並木が暫くは續く。田舍《ゐなか》びて好い路で、菅笠|冠《かぶ》つた人でも通りさうな氣がする。大谷川がもう恐ろしく發達して大きな河原になつてゐるのを越して、車はひた走りに大桑といふを過ぎると、頓《やが》て稀有なる好景に出會した。それは石壁の岸高きが下に碧潭深く湛へてゐる一大河に架《かゝ》つてゐる橋が、しかも直《たゞち》に對岸にかゝつてゐるのでは無く、河中の一大巨巖が中流に蟠峙《ばんぢ》して河を二分してゐる其巨巖に架つてゐるので、橋は一旦巖上に中絶した如くなつて後に、また新に對岸に架《わた》されてゐるのである。丁度東京の相生橋《あひおひばし》と同じやうな状であるが、其の中島が素ばらしい大きな一つ巖であるのが、目ざましくも稀《めづ》らしい景色をなしてゐる。自分は初めてこの路を通つたのであるが、こゝに差掛かると同時に、これが鬼怒川《きぬがは》の中岩であるなと心付いて車を止めさせた。舊い頃では橘《たちばな》南谿《なんけい》と共に可成り足跡《そくせき》が廣く、且又同じく紀行(漫遊文草)を遺した澤元※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1-84-59]《たくげんがい》が、この中岩を稱して、その上で酒など飮んでゐる事がその文によつて記臆に存してゐたからである。車を下りて靜かに四方を見ると、鬼怒川が北から來つてこの巖にせかれて、分れて深潭をなし、※[#「榮」の「木」に代えて「糸」、第3水準1-90-16]廻《えいくわい》して悠揚|逼《せま》らず南に晴れやかに去る風情はまことに面白く、兩岸の巖壁沙汀のさまも好く、松や雜樹《ざふき》の畫意《ゑごゝろ》に簇立《むらだ》つてゐるのもうれしい。安成子は河原へ下り立つて寫眞を撮《と》つた。

    

 中岩より以北の道路は水をはなれるので景色は平凡になる。中岩の奇は平凡の中に突として奇をほしいまゝにしてゐるので愈※[#「二の字点」、1-2-22]妙なのである。しかし鬼怒川の兩岸は、中岩以北も相當に太古よりの秋霖春漲に洗ひ出されて巖壁を露《あら》はしてゐることだらう、隨つて細《こま》かに川筋を見たら美しいところもあるだらうと思はれる。
 車は高徳、大原を經て、遙に左方對岸に鬼怒川發電の設備を見、それから鬼怒川に架つてゐるよぼ/\橋を渡りかゝつた。橋上の眺めは左右に岸壁を見、白沫立《しらあわだ》つてたぎり流るゝ川に臨むのであるから、緑蔭水聲、おのづから兩袖に清風を湧かす概があつて、名も餘り高く無いところだが、小じんまりして溪谷美のあることを感じさせられる。橋を渡ると下瀧温泉の旅舍があつて、溪《たに》に臨んで樓を起してゐる。われ等は此處の草分の麻屋といふに投じて晝餐を取つた。
 樓上の一室の欄に※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]ると、溪は目の下に白くなり碧くなつて流れてゐる。水聲は中々激しくて、川といはうよりは瀧といつた方が好い位であり、成程「瀧」といふ地名も名詮自性であると首肯《うなづ》かせた。下瀧より少し上に河一體が大瀧になつてゐるのが眞白に見えて、そこより上は上瀧と小名《こな》に呼ぶところだ。川上は高原、鷄頂の諸山が聳えて、海拔はさほどに高いところでは無いが山懷の窄《せま》いところを鬼怒川が怒流してゐるので氣流の加減によつてか、他處では雨が無かつたのに、聞けば毎日雨があつたといふことで、この日も驟雨的の雨が颯然《さつ》と降り澆《そゝ》いだ。山間の私雨《わたくしあめ》といふ言葉は實に斯樣《かう》いふのをいふのであらう。我等は此地《こゝ》の探勝を他日の樂みにして復《ふたゝ》び車上の人となつた。それより船生《ふにふ》、玉生《たまにふ》、田所《たどころ》の地を矢板へ走らせて、それから那須野が原の一部分を突破し、關谷から山へ入つて鹽原へ行かうといふのである。
 車を出すとやがて驟雨は沛然《はいぜん》として到つた。爽快を呼んで走ると、船生に到る頃に止んだ。船生は知人の經營した銅山の所在地で、地名だけは自分も親しみを有《も》つてゐたが、山岳地ではない、むしろ平野の地であつた。玉生もその他も山といふほどのものはない。矢板へは僅かの間に着いた。矢板から那須野へとかゝる頃に、雨はまた來つた。那須野が原へかかつて雨煙が野を籠めて路に塵も無く、一路坦々、砥《と》の如く平らかに矢の如く直《なほ》くして、目地《めぢ》遙かに人影を見ざる中を、可なりの速力で駛らせると、恰も活動寫眞を觀るが如くに遠くの小さな物が忽ち中位になり、大きくなつて、そして飛ぶやうに背後《うしろ》へ、抛《な》げ遣《や》るが如くに過ぎ失せてしまふのも一種の快味がある。これからの人々は自動車ぐらゐは自分で操縱して、遊覽旅行の一程にドライブの一項を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]入するやうにならうと想つた。
 關谷からは鹽原山である。入勝橋あたりからの道路は實に樂しい美しいところだ。路幅《みちはゞ》はあり、屈折は婉曲であり、樹蔭は深いし、左手の帚川の溪は眼に快いし、右手の山は高し、時々小瀑布を景物に視《しめ》すし、山嵐溪風いづれにしても人の膚《はだへ》に清新其物の氣味を感ぜしめる。必ずしも取出でゝ一々何の景彼の勝といふを須《もち》ひない、全體が一致して人に清凉感を起させるのである。花氣人を襲ふ、必ずしもその薔薇たり芍藥たるを問はずして名園の春に醉ふやうに、何が齎《もたら》すといふことも無しに鹽原の溪は人を好い氣持にする。松、五葉松、楢、桂の類から、アクダラの樹や橡《とち》の樹のやうな樹でも、それが損傷《そこな》はれずに老いて巨大になれば、それ/″\の美しさをもて人に酬いる。日光でも鹽原でも箱根でも、今は景勝地の人民は樂しんで樹木を大切にする。それは眞にその土地を愛し、且土地を品位づける所以《ゆえん》である。山高きがゆゑに貴《たふと》からず、樹あるを以つて貴しとするといふ古い語は今でも生きてゐる。樹が多ければ、山が潤ふ、水が清くなる、空氣が好くなる、景色が乾枯《かんこ》と怪詭《くわいき》といふイヤな味を出さなくなる、人をして親しみと懷かしみとを覺えさせる。縣廳の世話の屆くからでもあらうが、土地の人民の聰明と善良とが何程その土地をよくするかも知れぬ。二十何年ぶりかで鹽原へ來て、前の鹽原より今の鹽原が便利で、そして平安であるのみならず、到るところ清潔《きれい》になつて、しかも幸に俗趣味にも墮《だ》せぬ公園的の美に仙郷的の幽を兼ねた土地と發達したのを見て、愉悦の情に堪へぬ氣がした。魚どめ、左靱《ひだりうつぼ》、寒凄橋、一々列擧していふまでもない、皆好い/\とほめちぎつて、福渡戸《ふくわた》の桝屋に投宿した。日はまだ高かつたが、雨ははら/\と降つてゐた。
 翌十二日は天狗岩、野立岩、七ツ岩を賞し、門前、古町、木の葉石、畑下《はたおり》、須卷、小太郎ヶ淵、玉簾《たまだれ》の瀧、鹽の湯等を見めぐつて、晝過ぎに西那須發車、夕暮上野着、この三泊の旅を終つた。鹽原にも瀧は多く、仁三郎の瀧、萬五郎の瀧、龍化《りゆうげ》の瀧等、觀るべきものであるが、わざと觀ないで濟ませたのは、いくら夏の日の瀧見でも、重複は暑苦しいからと、華嚴に敬意を表して、今度の秋の紅葉の頃の樂みに殘したのであつた。

底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
初出:「東京日日新聞」
   1927(昭和2)年8月1~8日
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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幸田露伴

花のいろ/\ ——幸田露伴

     梅

 梅は野にありても山にありても、小川のほとりにありても荒磯の隈にありても、たゞおのれの花の美しく香の清きのみならず、あたりのさまをさへ床しきかたに見さするものなり。崩れたる土塀、歪みたる衡門、あるいは掌のくぼほどの瘠畠、形ばかりなる小社などの、常は眼にいぶせく心にあかぬものも、それ近くにこの花の一ト木二タ木咲き出づるあれば、をかしきものとぞ眺めらるゝ。たとへば徳高く心清き人の、如何なるところにありても、其居るところの俗には移されずして、其居るところの俗を易ふるがごとし。出師の表を読みて涙をおとさぬ人は猶友とすべし、この花好まざらん男は奴とするにも堪へざらん。

      紅梅

 紅梅の香なきは艶なる女の歌ごゝろ無きが如し。香あるはいと嬉し。まだ新しくて青き光失せぬ建仁寺籬折りまはしたる小さき坪の中に咲き出でたる、あるはまたよろづ黒みわたりたる古き大寺の書院の椽近く※[#「※」は「均のつくり」、読みは「にほひ」、第3水準1-14-75、123-2]ひこぼるゝなど、云ひがたき佳きおもむきあり。梅は白きこそよけれ紅なるは好ましからずなんど賢《さか》しげにいふ人は、心ざまむげに賤し。花は彼此をくらべて甲乙をいふべきものかは。

      牡丹

 牡丹は人の力の現はるゝ花なり。打捨て置きては、よきものも漸く悲しき花のさまになり行けど、培ひ養ふこと怠らねば、おのづからなる美しさも一トしほ増して、おだやかなる日の光りの下に、姿ゆたけく咲き出でたる、憂き世の物としも無くめでたし。ひとへざきなるも好く、八重ざきなるも好く、やぐらざきなるも好し。此花のすぐれて美しきを見るごとに、人の力といふものも、さて価低からぬものなるよ、と身にしみてぞ思はるゝ。

      巌桂

 木犀というもの、花は眼をたのしますほどにあらねど、時至りて咲き出づるや、たれこめて書《ふみ》読む窓の内にまでも其香をしのび入らせ、我ありと知らせ顔に園の隅などにてひそかに風に嘯ける、心にくし。甘く芳《かぐ》はしき香も悪しからず、花の黄金色なせるも地にこぼれて後も見ておもむき無きならず。たゞ余りに香の強きのみぞ、世を遁れたる操高き人の余りに多く歌よみたらん如く、却つて少し口惜きかたもあるように思はる。

      柘榴

 人の心もやゝ倦む頃の天《そら》に打対ひて、青葉のあちこち見ゆる中に、思切つたる紅の火を吐く柘榴の花こそ眼ざましけれ。人の眼を惹くあはれさのありといふにもあらず、人の眼を驚かす美はしさのありといふにもあらねど、たゞ人の眼を射る烈しさを有てりとやいふべき。

      海棠

 牡丹の盛りには蝶蜂の戯るゝを憎しとも思はねど、海棠の咲き乱れたるには色ある禽《とり》の近づくをだに嫉《ねた》しとぞおもふ。まことに花の美しくあはれなる、これに越えたるはあらじ。雨に悩める、露に※[#「※」は「さんずい+邑」、第3水準1-86-72、124-9]《うる》ほへる、いづれ艶なるおもむきならぬは無し。緋《ひ》木瓜《ぼけ》はこれの侍婢《こしもと》なりとかや。あら美しの姫君よ。人を迷ひに誘ふ無くば幸なり。

      巵子

 くちなしは花のすねものなり。生籬《いけがき》などに籠めらるれど恨む顔もせず、日の光りも疎きあたりに心静けく咲きたる、物のあはれ知る人には、身を潜め世に隠れたるもなか/\にあはれ深しと見らるべし。花の香もけやけくはあらで優に澄みわたれる、雲さまよふ晨、風定まる黄昏など、特《こと》に塵の世のものならぬおもむきあり。

      瑞香

 ぢんちやうげは、市人の俳諧学びたるが如し。たけも高からず、打見たるところも栄《はえ》無けれど、賤しきかたにはあらず。就いて見《まみ》えばをかしからじ、距《へだゝ》りて聞かんには興あらん。

      忘憂

 萱草のさま/″\の草の間より独り抜け出でゝ長閑に咲ける、世に諂はず人に媚びず、さればとて世を疎みもせず人に背きもせざるおもむきあり。花も百合の美しさは無けれど、しほらしさはあり。よろづ温順《すなほ》にして、君子の体を具へて小なるものともいひつべきさまなる、取り出でゝ賞むべきものにもあらぬやうなれど、なか/\に好まし。心にまかせざること二ツ三ツあれば、怨みもし憂ひもするは人の常なるが、心|敦《あつ》げなるこの花に対ひて願はくは憂ひを忘れ愁ひを癒《いや》さんかな。

      雪団

 てまりはあぢさゐに似て心多からず。初めは淡く色あれど、やがては雪と潔くなりて終る。たとへば聊か気質《こゝろ》の偏《かたよ》りのある人の、年を積み道に進みて心さま純《きよ》く正しくなれるが如し。遠く望むも好し、近く視るも好し。花とのみ云はんや、師とすべきなり。

      水仙

 姿あり才ある女の男を持たず世にも習はで、身を終るまで汚《けがれ》を知らず、山ぎはの荘などに籠り居て、月よりほかには我が面をだに見せず、心清く過ごせるが如きは水仙の花のおもむきなり。麓の里のやや黒み行く夕暮に、安房なる鋸山の峻《さか》しきあたり、「きんだい」といへるが咲きて立ちたる、またなく気高し。

      

 菊は、白き、好し。黄なる、好し。紅も好し。紫も好し。蜀紅も好し。大なる、好し。小なる、好し。鶴※[#「※」は「令+羽」、読みは「れい」、第3水準1-90-30、126-12]もよし。西施も好し。剪絨も好し。人の力は、花大にして、弁の奇、色の妖なるに見《あら》はれ、おのづからなる趣きは、花のすこやかにして色の純なるに見ゆ。淵明が愛せしは白き菊なりしとかや、順徳帝のめでたまひしも白きものなりしとぞ。げに白くして大きからぬは、花を着くる多くして、性も弱からず、雨風に悩まさるれば一度は地に伏しながらも忽《たちまち》起きあがりて咲くなど、菊つくりて誇る今の人ならぬ古《いにしへ》の人のまことに愛《め》でもすべきものなり。ありあけの月の下、墨染の夕風吹く頃も、花の白きはわけて潔く趣きあり。黄なるは花のまことの色とや、げに是も品あがりて奥ゆかしく見ゆ。紫も紅もそれ/″\の趣きあり。厭はしきが一つとしてあらばこそ。たとひおのが好まぬもののあればとて、人の塗りつけたる色ならねば、遮りて悪くはいひがたし。折に触れては知らぬ趣きを見いだしつ、かゝるおもしろさもありけるものを、むかしは慮《おもひ》足らで由無くも云ひくだしたるよ、と悔ゆることあらん折は、花のおもはんところも羞かしからずや。このごろ或人菊の花を手にせる童子を画きたり。慈童かとおもへどさにもあらぬやうなり、蜀の成都の漢文翁石室の壁画にありといふ菊花娘子の図かと思へど、女とも見えず、また※[#「※」は「けものへん+彌」、第3水準1-87-82、127-11]猴《さる》も見えねば然《さ》にもあらぬやうなりと心まどひしけるが、画ける人のおもひより出でたる菊の花の精なりと後に聞きぬ。若し其人菊をめづること深くして、菊その情に酬ひざるを得ざるに至り、童子の姿を仮りて其人の前に現はれしことなどありて後、筆をとりて其おもかげを写したらんには、一ト入おもしろきものの成りたるならんとぞ微笑まる。

      芙蓉

 
 芙蓉 《はなはちす》は花の中の王ともいふべくや。おのづから具はれる位高く、徳秀でたり。芬陀利も好し、波頭摩も好し。香は遠くわたれど、巌桂、瑞香、薔薇などのやうに、さし逼りたるごときおもむき無く、色はすぐれて麗はしけれど、海棠、牡丹、芍薬などのやうに媚めき立てるかたにはあらず。人の見るを許して人の狎《な》るゝを許さゞる風情、またたぐひ無く尊し。暁の星の光の薄るゝ頃、靄霧たちこむる中に、開く音する、それと姿を見ざる内よりはや人をしてあこがれしむ。雲の峰たちまち崩れて風ざは/\と高き樹に騒ぎ、空黒くなるやがて夕立雨の一トしきり降り来るに、早くも花を閉ぢたる賢《かしこ》さ、大智の人の機に先だちて身をとりおき、変に臨みて悠々たるにも似たり。散り際も莟の時も好く、散りてののち一トひら二タひら漣※[#「※」は「さんずい+猗」、第3水準1-87-6、128-9]《さざなみ》に身をまかせて動くとも動かざるとも無く水に浮べるもおもしろし。花ばかりかは。葉の浮きたる、巻きたる、開き張りたる、破れ裂けたる、枯《から》び果てたる、皆好し。茄《くき》の緑なせる時、赭く黒める時、いづれ好からぬは無く、蜂の巣なせるものも見ておもむき無からず。此花のすゞしげに咲き出でたるに長く打対ひ居れば、我が花を観る心地はせで、我が花に観らるゝ心地し、かへりみてさま/″\の汚れを帯びたる、我が身甲斐無く口惜きをおぼゆ。この花をめづるに堪ふべき人、そも人の世にいくたりかあらん。

      厚朴

 ほゝは、山深きあたりの高き梢に塵寰《ちりのよ》の汚れ知らず顔して、たゞ青雲《あをぐも》を見て嘯き立てる、気高さ比《たと》へんかた無し。香は天つ風の烈しく吹くにも圧《お》されず、色は白璧を削りたればとてかくはあらじと思はるゝまで潔きが中に猶|温《あたゝ》かげなるおもむきさへあり。弁はひとへなれど、おもひきつて大きく咲きたる、なか/\に八重なる花の大なるより眼ざまし。心《しん》のさまも世の常有りふれたるものとは異ひて、仙女の冠などにも為さば為すべき花のおもかげ、かう/\しく貴し。此の花を瓶にせんは、たゞ人の堪ふべきところにあらず。まづは漢にて武帝、我邦にて太閤などこそこれを瓶中のものとなし得べき人なれと思はる。

     浜茄子

 
 浜茄子 《はまなす》の花の紅なる、あはれ深し。馬の上にて山々の遙に連なりつ断えつするを望み、海の音のとゞろき渡るを聞きながら、旅のおもひを歌なんどに案ずる折から、ゆかしき香を手綱かいくるついでに聞きつけて、ふと見る眼の下に、この花のあやしき蔓草まじり二つ三つ咲きたるを認めたる、おもしろさ何とも云ひがたし。

      棣棠

 やまぶきは唐《から》めかぬ花なり。籬にしたるは、卯の花とおもむき異にして、ゆかしさ同じ。八重ざきの黄なる殊に美し。あてなる女の髪黒く面白きが、此の花を簪《かざし》にしたる、いと美はし。女の簪には、此の花などこそをかしかるべけれ。薔薇は香高きに過ぎ、花美しきに過ぎたらずや。

      米嚢花

 けしは咲きたりと見るやがて脆くも散り行きて、心たくましき人に物のあはれを教へ顔なる、をかし。たとへば、をさなくて美しき児の、女になりたりと見ゆるやがてに、はや身ごもりて腹ふくだみたるがごとし。今しばし男持たずてありもすべきをと、よそより云ふも、美しさに浅からず心寄せたるあまりの後言《しりうごと》なるべし。

      山茶花

 つばきはもと冬の花なり。爛紅火の如く雪中に開く、と東坡の云ひけんはまことの風情なるべし。我邦にては、はやくより咲くもあれど、春に至りて美しく咲きこぼるゝを多しとす。花の品甚だ夥《おほ》きにや、享保の頃の人の数へ挙げたるのみにても六十八種あり。これもまた好み愛づる人の多くなれば、花の品の多くなり行くこと、牡丹などの如くなるものならん。月丹、照殿紅などは、唐土《もろこし》にての花大なるものの名なり。わびすけ、しら玉は我邦にての花白きものの名なり。藪椿のもさ/\と枝葉茂れるが中に濃き紅の色して咲ける、人は賤しといふ、我はおもしろしと思ふ。わびすけの世をわび顔に小さく咲ける、人は見るに栄《はえ》無しといふ、我はをかしと思ふ。こせ山のつら/\つばきと歌にいへるも、いかで今の人の美しとほむるきはの花ならんや。
 つばきは葉もよし。いつも緑にして光ある、誰か愛づるに足らずといふべきや。松杉の常盤なるとは異りて、これはまた、これのおもむきあり。奉書といふ紙を造るをり、この葉の用ゐらるゝことあるに定まれるもをかし。

      側金盞花

 福寿草は、小さき鉢に植ゑて一月の床に飾らるゝものと定まれるやうなり。野山に生ひたるは、画にこそ見たることもあれ、まことには眼にしたる事無し。さすがに、ゆかしきかたも無きにはあらず。されどこの花、備後おもての畳の上にのみある人の愛づべきものなるべし。土踏むことを知りたるものの心ひくべきおもむきは有たざらむ歟《か》。款冬花《ふきのたう》にはほゝゑみたる事あり、この花には句を案じたること無し。

      

 あんずと漢《から》めきたる名を呼ばるゝからもゝの花は、八重なる、一重なる、ともに好し。ことに八重の淡紅《うすくれなゐ》に咲けるが、晴れたる日、砂立つるほどの風の急《にはか》に吹き出でたるに、雨霰と夕陽《ゆふひ》さす中を散りたるなど、あはれ深し。名も無き小川のほとりなる農家の背戸の方に一本《ひともと》二本《ふたもと》一重なるが咲ける、其蔭に洗はれたる鍋釜の、うつぶせにして日に干されたるなんど、長閑なる春のさま、この花のあたりより溢れ出づる心地す。

      山桜桃

 にはうめは、いと小さき花の簇《む》れて咲くさま、花の数には入るべくもあらず見ゆるものながら、庭の四つ目籬の外などに、我は顔《がほ》もせず打潜みたる、譬へば田舎より出でたる小女の都慣れぬによろづ鼻白み勝にて人の背後《うしろ》にのみ隠れたるが、猶其の姿しほらしきところ人の眼を惹くが如し。枝のしなやかなる、葉のこは/\しからぬ、花のおもむきに協《かな》ひて憎からず。この花を位無しとは我もおもへ、あはれげ無しとは人も云はざらん。

      桃

 桃は書を読みたることも無く、歌をつくるすべも知らぬ田舎の人の、年老いて世の慾も失せたるが、村酒の一碗二碗に酔ひて罪も無く何事をか語り出でつ高笑ひなせるが如し。野気は多けれど塵気は少し。なまじ取り繕ひたるところ無く、よしばみて見えざるところ、却つて嬉し。川を隔てゝ霞の蒸したる一ト村の奥に尽頭《はづれ》に咲き誇りたるを見たる、谷に臨みて春風ゆるく駐《とど》まるべき崖下などの小家包みて賑はしく咲けるを見たる、いづれをかしき趣あらぬは無し。この花を俗なりといひて謗る男あり。おほかたはおのれが少しの文字知りたるより、我が親を愚なりと云ひくだすきはの人なるべくや。片腹いたし。

      木瓜

 ぼけは、緋なるも白きも皆好し、刺《とげ》はあれど木ぶりも好ましからずや。これを籬にしたるは奢りがましけれど、処子が家にもさばかりの奢りはありてこそ宜かるべけれ。水に近き郷なるこれが枝には蘚《こけ》の付き易くして、ひとしほのおもむきを増すも嬉し。狭き庭にては高き窓の下、蔀《したみ》のほとり、あるは檐のさきなどの矮き樹。広き庭にては池のあなた、籬の隅、あるは小祠の陰などのやゝ高き樹。春まだ更《た》けぬに赤くも白くも咲き出したる、まことに心地好し。

 東京にはまるめろの樹少し、北の方の国々には多きやうなり。我が嘗て住みし谷中の家の庭に一|本《もと》の此樹ありき。初めは名をだに知らざりければ、枝葉のふりも左のみ面白からぬに、幹の瘤多きも見る眼|疚《やま》しく、むづかしげなる人に打対ひ立つ心地して、をかしからずとのみ思ひ居りけるが、或日の雨の晴れたるをり、ゆくりなくも花の二つ三つ咲き出でたるを見て、日頃の我が胸の中のさげすみを花の知らばと、うらはづかしくおぼえき。花は淡紅《うすくれなゐ》の色たぐふべきものも無く気高く美しくて、いやしげ無く伸びやかに、大さは寸あまりもあるべく、単弁《ひとへ》の五|片《ひら》に咲きたる、極めてゆかし。花の白きもありとかや、未だ見ねば知らねど、それも潔かるべし。むかし孔子の弟子に子羽といへる人ありて、其猛きこと子路にも勝れり。璧を齎《も》ちて河を渡りける時、河の神の、璧を得まくおもふより波を起し、蛟《みづち》をして舟を夾《はさ》ましめ其《そ》を脅《おど》し求むるに遇ひしが、吾は義を以て求むべし、威を以て劫《おびやか》すべからずとて、左に璧を操《と》り右に剣を操り、蛟を撃ちて皆殺しにしけるとぞ。かゝる人なりければ其|面貌《つらつき》も恐ろしげに荒びて夷《えびす》などの如くなりけむ、孔子も貌を以て人を取りつ之を子羽に失しぬと云ひ玉へり。まるめろを子羽に擬《よそ》へんは烏滸の限りなれど、子羽といひし人、おほよそは喩へば此樹の如くにもありけむと、其後此花を見るたびに思ふも、花の添へたる智慧なれや。

      胡蝶花

 しやが、鳶尾草《いちはつ》は同じ類なり。相模、上野あたりにて見かくる事多し。射干《ひあふぎ》にも似、菖蒲《あやめ》にも似たる葉のさま、燕子花《かきつばた》に似たる花のかたち、取り出でゝ云ふべきものにもあらねど、さて捨てがたき風情あり。雨の後など古き茅屋《かやや》の棟に咲ける、おもしろからずや。すべて花は家の主人《あるじ》が眼の前に植ゑらるゝが多きに、此花ばかりは頭の上に植ゑらるゝこと多きも、あやしき花の徳といふものにや。おもへばをかし。

      躑躅花

 つゝじは品多し。花紅にして単弁《ひとへ》なるもの、珍しからねど真《まこと》の躑躅花のおもむきありと思はる。取りつくろはぬ矮き樹の一|本《もと》二本庭なる捨石の傍などに咲きたる、或は築山に添ひて一ト簇《むら》一ト簇なせるが咲きたる、いづれも美し。此花咲けば此頃よりやがて酒の味《あぢはひ》うまからずなりて、菊の花咲くまでは自ら酒盃《さかづき》に遠ざかること我が習ひなり。人は如何にや知らず、我は打対ひて酒飲むべき花とは思はず。

      李花

 すもゝの花は、淋しげに青白し。夜は疑ふ関山の月、暁は似たり沙場の雪、と古の人の詠《よ》みしもいつはりならず。貧しげなる家の頽れかゝりたる納屋のほとり、荒れたる籬の傍などに咲きたる、春の物としも無く悲し。歌に、消えがての雪と見るまで山がつのかきほのすもゝ花咲きにけり、といへるもまことにおもしろし。実《げ》に山がつのかきほなどにこそ此花咲きてふさはしかるべけれ。それも花繁く間《あはひ》遠からではをかしからじ。李花遠きに宜しく更に繁きに宜しと楊萬里の云ひたるは、よく云ひ得たりといふべし。

      玉蘭花

 もくれんは辛夷《こぶし》の類なり。花白きあり紫なるあれど、玉蘭といへば白き方をさすなるべし。散りぎははおもしろからねど、今や咲かんとする時のさまいと心地よく見ゆ。たとへば肥へて丈高き女の、雪と色白きが如し、眉つき眼つきは好くもあれ悪くもあれ、遠くより見たるに先づ心ひかる。されど此花の姿の、何となく漢《から》めきたるは、好かぬ人もあるべし。さる代りには、大寺の庭などに咲きて、其漢めきたるところあるがために褒めたゝへらるゝこともあるなるべし。

      梨花

 李の花は悲しげなり、梨の花は冷《つめた》げなり。海棠の花は朝の露に美しく、梨の花は夕月の光りに冴ゆ。桜の花は肉づきたり、梨の花は※[#「※」は「やまいだれ+瞿」、第3水準1-88-62、137-3]《や》せたり。花の中のそげものとや梨をばいふべき。飽まで俗ならで寂びたる花なり。異邦《ことくに》には色紅なる千葉のものもありときく。さる珍しきものならぬも、異邦のは我邦のより花美しきにや。また或は我邦にては果《み》を得んとのみ願ひて枝を撓《た》め幹を矮くするため、我も人もまことの梨の樹のふり花のおもむきをも知ること少く、おのづから美しきところを見出すをりも乏しく過ぎ来つる故にや。詩に比べては歌には梨の花を褒め称ふること稀なり。

      薔薇

 刺あるをもて薔薇の花を、心に毒ありて貌美しき女に擬《よそ》へんは余りに浅はかなるべし。刺も緑の茎に紅く見えたる、おもむき無きならず。我さへ触れずば憎かるべきにもあらぬを、よそに見るだに忌はしき人の心の毒に比べんは如何にぞや。花の色の美しき、香の濃き、枝ぶり、葉ぶり、実のさま、刺のさま、いづれか厭はしかるべき。支那西洋の人たちの此花を愛づる、まことに所以あり。白きが暁の風に嘯きたる、紅きが日の午に立てる、或は架に倚りて※[#「※」は「食へん+昜」、第4水準2-92-64、137-13]《あめ》の如き香気を吐きたる、或は地に委して火に似たる光※[#「※」は「艷の正字」、第4水準2-88-94、138-1]《くわうえん》を発したる、皆好し。たゞ此花の何と無く油こきやうに思はるゝはをかし。如何なるものを地より吸ひけん、知らず。

      紫藤

 春の花いづれとなく皆開け出《いづ》る色ごとに目おどろかぬは無きを、心短く打すてゝ散りぬるが恨めしうおぼゆるころほひ、此花の独《ひとり》たち後れて夏にさきかゝるなん、あやしく心にくゝ、あはれにおぼえ侍る。と古の人の云ひたる藤の花こそ、花の中にもいと物静かにして而も艶なるものなれ。古りたる園の、主変りて顧みられずなり行き、籬は破れ土は瘠せ、草木も人の手の恵《めぐみ》に遠ざかりたるより色失せ勢|萎《な》へて見る眼悲しくなりたるが中に、此花の喬《たか》き常盤樹の梢に這ひ上りて、おのが心のまゝに紫の浪織りかけて静けく咲き出でたるなど、特《こと》に花の色も身に染《し》みてあはれ深きものにぞ覚ゆる。紫の色に咲く桐の花、樗の花、いづれか床しき花ならぬは無けれど、此花は花の姿さへ其色に協ひたりとおぼしく、ひとしほ人の心を動かす。これの秋咲くものならぬこそ幸なれ。風冷えて鐘の音も清み渡る江村の秋の夕など、雲漏る薄き日ざしに此花の咲くものならんには、我必ずや其蔭に倒れ伏して死《しに》もすべし。虻の声は天地の活気を語り、風の温く軟《やはらか》きが袂軽き衣を吹き皺めて、人々の魂魄《たましひ》を快き睡りの郷に誘はんとする時にだも、此花を見れば我が心は天にもつかず地にもつかぬ空に漂ひて、物を思ふにも無く思はぬにも無き境に遊ぶなり。

      桐花

 朝風すゞしく地は露に湿《うるほ》ひたる時、桐の花の草の上などに落ちたるを見たる、何となく興あり。梢にあるほどは、人に知られぬもをかし。花の形しほらしく、色ゆかし。花弁《はなびら》のちり/″\にならで散ればにや、手に取りて弄びたき心地もするなり。

      
     はなあやめ

 はなあやめは、花の姿やさしく、葉の態《さま》いさぎよし。心といふ字の形して開きたる、筆の穂の形して猶開かざる、皆好し。雨の日のものにはあらず、晴れたる日のものなり。夕のものにはあらず、暁または昼のものなり。人の力を仮らざれば花いと※[#「※」は「やまいだれ+瞿」、読みは「や」、第3水準1-88-62、139-9]す。されど、おのづからなるが沼などに弱々しく咲き出でたるものまた趣ありて、都にして見んには口惜き花のさまやなどいふべし、旅にして見れば然《さ》もおもはず。古き歌にいへるあやめはこれならずとかや。今上野あたりの野沢などに多く咲くものは何なるべきや。物の名の古と今との違ひは、しば/\よまむとおもふ歌をも心の疑ひに得読まで終らしむ。おろかなることかな。

      石竹

 なでしこは野のもの勝れたり。草多くしげれるが中に此花の咲きたる、或は水乾きたる河原などに咲きたる、道ゆくものをして思はずふりかへりて優しの花やと独りごたしむ。馬飼ふべき料にとて賤の子が苅りて帰る草の中に此花の二ツ三ツ見えたるなど、誰か歌ごゝろを起さゞるべき。

      豆花

 豆の花は皆やさし。そらまめのは其色を嫌ふ人もあるべけれど、豌豆のは誰か其姿を愛でざらむ。鵲豆《ふぢまめ》のは殊にめでたし。何とて都の人はかゝる花実共によきものを植ゑざるならん。花の色白きも紫なるもをかし。歌人の知らず顔にて千年あまり経たる、更に心得ず。我がひが心の好みにや。

      紫薇

 猿滑りとは其幹の攀ぢがたく見ゆるよりの名なるべく、百日紅と呼び半年花と呼ぶは其花の盛り久しきよりの称なるべし。雲の峯の天にいかめしくて、磧礫《こいし》も火炎《ほのほ》を噴くかと見ゆる夏の日、よろづの草なども弱り萎《しを》るゝ折柄、此花の紫雲行きまどひ蜀錦碎け散れるが如くに咲き誇りたる、梅桜とはまた異るおもむきあり。掃へど掃へど又しても又しても新しく花の散るとて、子僮《わつぱ》はつぶやくべけれど、散りても散りても後より後より新しき花の咲き出づるは、主人《あるじ》がよろこぶところなるべし。木ぶりの※[#「※」は「やまいだれ+瞿」、読みは「や」、第3水準1-88-62、141-3]せからびて老いたるものめきたるにも似ず、小女などのやうに、人の手のおのが肌に触るれば身を慄はしておのゝくは如何なる故にや。をかし。

      紅花

 べにの花は、人の園に養ひ鉢に植ゑたるをば見ねど、姿やさしく色美しくて、よのつね人々の愛でよろこぶ草花なんどにも劣るべくはあらぬものなり。人は花の大きからねば眼ざましからずとてもてはやさぬにや、香の無ければゆかしくもあらずとて顧みぬにや。花は其形の大きくて香の高きをのみ愛づべきものかは。此花おほよそは薊に似て薊のように鬼々《おに/\》しからず、色の赤さも薊の紫がゝりたるには似で、やゝ黄ばみたれば、いやしげならず、葉の浅翠《あさみどり》なるも、よく暎《うつ》りあひて美しく、一体の姿のかよはく物はかなげなる、まことにあはれ深し。べには此花より取るものなれど、此花のみにては色を出さず、梅の酸《す》にあひて始めて紅の色の成るなり。いまだこの事を知らざりし折、庭の中にいささかこの花を生《おふ》し立てしが、其紅の色の濃からぬを訝しみつゝ朝な夕な疑ひの眼を張りて打まもりたりしをかしさ、今に忘れず。

      鉄線蓮

 てつせんは、詩にも歌にも遺《わす》れられて、物のもやうにのみ用ゐらるゝものなるが、詩歌に採らるべきおもむき無きものにはあらじ。籬などに纏ひつきつ、風車のようなる形して咲き出でたる花の色白く大なるが程よく紫ばみたる、位高く見えて静に幽《かすか》なるところある美はしきものなり。愛で悦ぶ人の少きにや、見ること稀なり。心得ず。

      芍薬

 牡丹は幹の老いからびて、しかも眼ざましく艶なる花を開くところおもしろく、芍薬は細く清げなる新しき茎の上にて鮮やかに麗はしき花を開くところ美し。牡丹の花は重げに、芍薬の花は軽げなり。牡丹の花は曇りあるやうにて、芍薬の花は明らかなるやうなり。牡丹は徳あり、芍薬は才あり。

      鳳仙花

 前栽の透籬《すいがき》の外などに植ゑたるは、まことによし。眼近きあたりに置きて見んはいさゝかおもしろからざるべくや。浅みどりの葉の色茎の色、日の光に透くやうに見えたるに、小き花のいと繁くも簇《むらが》がりて紅う咲きたる、もてあそびものめきたれど憎からず。これの実を指にて摘めば虫などの跳《はね》るやうに自ら動きて、莢《さや》破れ子《み》飛ぶこと極めて速やかなり。かゝるものを見るにつけても、草に木に鳥に獣にそれ/″\行はるゝ生々の道のかしこきをおもふ。此物何ぞ数ふるに足らんと劉伯温の云ひしはいかが。

      断腸花

 秋海棠は丈《たけ》の矮きに似ず葉のおほやうにて花のしほらしきものなり。たとへば貴ききはにあらぬ女の思ひのほかに心ざま寛《ゆる》やかにて、我はと思ひあがりたるさまも無く、人に越えたる美しさを具へたらんが如し。北にむきたる小さき書斎の窓の下などに此花の咲きて、緑の苔の厚う閉ぢたる地を蔽ひたる、いかにも物さびて住む人の人柄もすゞしげに思ひなさる。

      白※[#「※」は「くさかんむり+及」、読みは「きゅう」、第4水準2-85-94、143-10]

 白※[#「※」は「くさかんむり+及」、読みは「きゅう」、第4水準2-85-94、143-11]は世の人しらんと呼ぶ。紅勝ちたる紫の薄色の花の形、春蘭に似て細かに看れば甚だ奇なり。葉は一葉《はらん》をいたく小さくしたるが如く、一つの茎に花の六つ七つ五つ咲くさまは玉簪花《ぎぼし》の如し。谷中に住める時、庭の隅にこれの咲きたるを見出して、雨そゝぎに移し植ゑ置きしに、いつとも無く皆亡せたりき。寺島の住居の庭のは日あたりよきところにあればにや今に栄ゆ。湿り気を嫌ふ性とおぼゆ。此花のさまに依りて少しく想ひを加へ、鬼の面を画き出さんにはいとあやしかるべしと、去年もおもひき、今年もおもひつ。

      牽牛花

 朝寐は福の神のお嫌ひなり。若き時|活計《みすぎ》疎く、西南の不夜城に居びたりのいきつき酒して耳に近き逐ひ出しの鐘を恨み、明けて白む雲をさへうるさやと遣戸《やりど》さゝせ、窓塞がせ、蝋燭を列べさせて、世上の昼を夜にして遊ぶも、金銀につかへぬ身のすることならば、人のかまふべくも無し。されども尽くる時には尽き易き金銀にて、光りを磨きし餝屋《かざりや》とて日本の長者の名ありしものも、今は百貫目に足らぬ身代となり、是にては中々今までの格式を追ひ難しと急《にはか》に分別極めて家財を親類に預け、有り金を持つて代々の住所を立退き、大阪の福島に坊主行義の世帯して北に見渡す野山の気色《けしき》に自ら足れりとしける。さりとは物のいらぬなぐさみなり。百貫目の利銀には今すこしは思ふまゝなるべきところを、いかな/\然《さ》はせずして心を心にいましめ、なまなかの遊びを思はず、只花鳥に物好をあらためて、宗因の孫西山昌札の門弟となり、連歌を仕習ふ。むかしは島原にて聞くを悦びし時鳥も今は聞かぬ初音に五文字をたくむなど、人のするほどのことは仕尽してのなれの果にもまた楽みあり。折から葭籬《よしがき》のもとに、いつのこぼれ種子《だね》やら朝顔の二葉《ふたば》土を離れて、我がやどすてぬといへる発句の趣向をあらはす。日暮々々に水そゝげば此草とりつく便《たより》あるに任せて蔓をのばし、はや六月の初め、ひと花咲きそめて白き※[#「※」は「均のつくり」、読みは「にほひ」、第3水準1-14-75、145-3]に露も猶をかしう七夕の名を捨てぬしるしを見《あらは》す。これに心を寄せていつしか我が癖の朝寐を忘れ、紐とく花の姿見んと蚊帳を離れて一ぷくの煙草吸ふに、心嬉しさいふばかりなし。手づから井の水を汲みあげ、寐顔の※[#「※」は「均のつくり」、読みは「にほ」、第3水準1-14-75、145-5]ひを洗ひ捨てゝ四方山《よもやま》を見るに、さりとは口惜しや一銭つかはで是ほど面白く風情ありしことを知らず、もたれたる遊びに金銭を費して無益の年月を送りけるよと、今ぞ心のほこりを掃ひける。それより起き慣れて、朝々座敷を掃ひ庭の塵を取り、身をまめに動かせば、朝飯も自らすゝみ、むかしの痞《つかへ》を忘れて無病の楽みを知りぬ。これ皆朝顔のおかげといたく愛して翌年の夏に至りけるに、去年の花より多くの種残りて、さりとは数多《あまた》生ひ出で、蔓の頃はさぞかしと思ひやらる。男つく/″\おもふに、唯ひともとの草なりしも其種のたゞ一ト年にてかく多くひろがること、まことに驚くべし、初はわづかの雫、末に至りては大河をなし海をなすといへる譬喩《たとへ》も目前なり、此道理にて我今少しの元手なれども一稼ぎ働かば以前の大身代に立戻らんこと遠きにあらじ、さても用無き隠者がゝりかなと悟り、即日《そのひ》に金子預け置きたる方へことわりを云ひこみ、密々に商ひを見立つるに、とかく大廻しの船の利あるに及ぶものなし、勿論《もとより》海上のおそれあることながら、綱碇を丈夫にして檜木造りにする上は難風を乗り逃るゝたよりあるべき事古き沖船頭の言ふところ虚妄《いつはり》ならざるべしと考へ定め、九百石と八百石との船を新に造り、律義なる水主《かこ》船頭を載せて羽州能代に下しけるに、思ふまゝなる仕合せを得、二年目に万事さし引《ひい》て六貫目の利を見たり。是より商ひの拍子にのつて米木綿の買ひ込み、塩浜の思ひ入、ひとつもはづさず、さいて取る鳥飼の里より養子して、猶それに指図して、いよ/\分限者となり、以前にまさる目出度《めでたき》家のしるし、叶の字かくれ無く栄え時めきぬ。これは團水が、朝顔の花につけ、面白く想を構へて作り出せるものがたりなり。花もめでたし、ものがたりもめでたし。花の風情はまことにこの物語に云へるが如し、人のさとりはこの物語にあらはしたるが如くならぬが多きぞ口惜しき。

      木芙蓉

 木芙蓉は葉も眼やすく花ことに美し。秋の花にて菊を除きては美しさこれに及ぶべきもの無し。睛※[#「※」は「雨かんむり+文」、第3水準1-93-69、146-10]《せいぶん》といふ女の死して此花を司《つかさど》る神となりしときゝ、恋しさのあまり、男、此花の美しく咲きたる前に黄昏の露深きをも厭はず額づきて、羣花の蕊《ずゐ》、氷鮫の※[#「※」は「穀のへんにある禾が系」、読みは「こく」、第4水準2-84-52、146-11]、沁芳の泉、楓露の茗四つのものを捧げ、嘔心の文を念じつ祭りしといへるものがたりいとをかし。橋場のさる人の庭のいと濶きに此花のいと多く咲きたるを見しそれの年の秋の夕暮、かゝるところにてこそさる男も泣きけめと、楸楡《しうゆ》颯々|蓬艾《ほうがい》蕭々として夕月の光り薄く西風の音の淋しかりしまゝ、勝れて艶なる此花を見る/\徘徊《たもとほ》りて想ひやりたることありき。物語は皆まことにもあらぬを、おもへば我も彼男に劣らずおろかなる思ひを馳せたるかな、と後に自からあざ笑ひけるも、今またおもへば、それもことさらに我賢からんと願ひたるやうにていよ/\おろかなることなりけり。

底本:「露伴全集 第29巻」岩波書店
   1954(昭和29)年12月4日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記を次の通りあらためました。
1.常用漢字表、人名漢字別表に掲げられている漢字を新字にあらためました。
  ただし、人名については底本のままとしました。
※底本に見られる「劒」は「剣」に書き換えました。
※「悠々」「山々」「国々」などの「々」は、底本では二の字点(第3水準1-2-22)を使用
※「一ト」「二タ」の各カタカナは、底本では小さな文字を使用
入力:地田尚
校正:今井忠夫
2001年6月18日公開
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幸田露伴

雲のいろ/\ —–幸田露伴

夜の雲

 夏より秋にかけての夜、美しさいふばかり無き雲を見ることあり。都会の人多くは心づかぬなるべし。舟に乗りて灘を行く折、天《そら》暗く水黒くして月星の光り洩れず、舷を打つ浪のみ青白く騒立《さわだ》ちて心細く覚ゆる沖中に、夜は丑三つともおもはるゝ頃、艙上に独り立つて海風の面を吹くがまゝ衣袂《いべい》湿りて重きをも問はず、寝られぬ旅の情を遣らんと詩など吟ずる時、いなづま忽として起りて、水天一斉に凄じき色に明るくなり、千畳万畳の濤の頭は白銀の簪《かざし》したる如く輝き立つかと見れば、怪しき岩の如く獣の如く山の如く鬼の如く空に峙《そばだ》ち蟠《わだか》まり居し雲の、皆黄金色の笹縁《さゝべり》つけて、いとおごそかに、人の眼を驚かしたる、云はんかたなく美し。

雨後の雲

 雨後の雲の美しさは山にてこそ見るべけれ。低き山に居たらんには猶甲斐なかるべし。名ある山々をも眼の前脚の下に見るほどの山に在りて、夏の日の夕など、風少しある時、谿に望みて遠近《をちこち》の雲の往来《ゆきき》を観る、いと興あり。前山の色の翠ひとしほ増して裾野の風情も見どころ多く、一郭《ひとくるわ》なせる山村の寺などそれかとも見ゆるに、濃く白き雲の、足疾く風に乗りて空に翔くるが、自己《おのれ》の形をも且つ龍の如く且つ虎の如く、飜《ひるがへ》りたる布の如く、張りたる傘の如くさま/″\に変へつゝ、山を蝕《むしば》み、裾野を被《おほ》ひ、山村を呑みつ吐きつして、前なるは這ふやうに去るかと見れば、後なるは飛ぶ如くに来りなんどする状《さま》、観て飽くといふことを覚えず。小山の峰通《みねどほ》り立てる松の並木の遠見には馬の鬣のやうなるが現はれつ隠れつする、金字形したる山の嶺の、心あてに見しあたりならぬところに突として面出す、ことにおもしろし。

坂東太郎

 丹波太郎は西鶴の文に出でたりと覚えたり、坂東太郎は未だ古人の文に其風情をしるされざるにや、雲にも人に知らるゝ知られざるのあるもをかし。坂東太郎は東京にて夏の日など見ゆる恐ろしげなる雲なり。夕立雨の今や来たらんといふやうなる時、天の半《なかば》を一面に蔽ひて、十万の大兵野を占めたる如く動かすべくもあらぬさまに黒みわたり、しかも其中に風を含みたりと覚しく、今や動《ゆる》ぎ出さんとする風情、まことに一敗の後の将卒必死を期してこと/″\く静まりかへつたるが中に勃々として抑ふべからざる殺気を含めるが如し。此雲天に瀰《はびこ》るとやがて、風ざわ/\と吹き下し、雨どつと落ちかゝり来るならひにて、あらしめきたる空合に此雲の出でたる、また無く物すさまじく、をかしき形などある雲とは異りて、秋水の千里を浸し犯す如く出で来れる宏壮の趣きありて、心弱き児女の愛する能はざるものなり。東京の市中《まちなか》にて眼にするものの中、此雲の風情など除きては、壮快なるものいと少かるべし。

蝶々雲

 風吹く時、はなれ/″\になりたる大きからぬ雲の色白き、あるは薄黒きが、蝶などの如くひら/\と風下へ舞ひつ飛びつして行くあり。これを蝶々雲とは、面白くも名づけたるものかな。

ゐのこ雲

 蝶々雲は古き歌に見えたりや否や知らず、ゐのこ雲といへるは仲正の歌に見えたり。夏の夜秋の夜など、雨もたぬ空の晴れたるに、ひとかたまりの雲のゐのこの如く丸く肥えて見ゆるが、月のあたり走り行くは人々の知るところなるが、これもまた風情ある雲なり。「空払ふ月の光におひにけり走りちりぬるゐのこ雲かな」とよめる歌は、おもしろしとも思へねど、ゐのこ雲といふ名を伝へたる功は此歌にあるべきにや。

みづまさ雲

 慈鎭和尚の歌に、「まだ晴れぬ水まさ雲にもる月を空しく雨の夜はやおもはん」といへるがあり。水まさ雲は如何なる雲をさすにやと久しく思ひ疑ひ居けるに、全流の兵書に、雨雲の一種にて、はなればなれに魚の鱗のならべるやうに空に布くものなり、とありたるにて、さては水増雲の義なるべしなど思ひぬ。古《いにしへ》の歌人はあなどり難し。なか/\に今の人などより森羅万象に心をつくることまめやかにて、我等が思ひも寄らぬあたりのものをも歌の材として用ゐ居るなり。

望雲楼

 東坡が望雲楼の詩に、陰晴朝暮幾回新、已向虚空付此身、出本無心帰亦好、白雲還似望雲人、といへる、さすがにをかしからぬにはあらねど、なほ下の心のあるやうにて、白雲点頭すべきや否や覚束無し。

寂蓮の雲の歌

「風にちるありなし雲の大空にたゞよふほどや此世なるらん」といへる寂蓮法師の歌こそおもしろけれ。雲のはかなき、此世のたのみなきは知れわたりたる事なれど、かく美しく歌ひ出されたるを二度三度吟じかへせば、また今さらに、雲のはかなさ、此世のたのみなさを身にしみて覚ゆるなり。風に散ると云ひ起したる既にいとあはれなるに、ありなし雲のと、めづらしくておだやかなる、しかも人の心を幽玄なる境にひきこむやうなる言葉を用ゐて、さて其後に、大空にと、広大なるものを拈出し、たゞよふほどや此世なるらんと、あはれに悲しき長歎のおもひの上に結びとゞめたる、誰か感無しと此歌に対ひて云ひ罵り得ん。心しづかに三たびも唱ふれば、紛々たる名利の境を捨てゝ寂静の土に往かんと願ふ厭欣《をんぐ》の念、油然として湧き出づるを覚ゆるなり。

いわしぐも

 鰯雲といふは、鰯などの群るゝ如く点々|相連《あひつらな》りて空に瀰るものを云ふなり。晴れたる日の夕暮など多く見ゆるなるが、雨気を含むものにや。さては水まさ雲と同じかるべし。「芝浦の漁人も網を打忘れ月には厭ふいわし雲かな」といへる狂歌、天明頃の人の咏にあり。青き空の半ほど此雲白くつらなりて瀰《わた》れる、風情ありて美はし。童児などは、此雲を指さして、鰯の取るゝ兆なりといふもまたをかし。

とよはた雲

 とよはた雲とは、しかと雲の名にはあらぬなるべし。信實の歌にては、夕立する頃の例のいかめしき雲を云へるが如く、後鳥羽院の御歌にては、たゞ美しき夕の雲をさし玉へるが如し。「わだつみのとよはた雲に入日さしこよひの月夜あきらけくこそ」といへる天智天皇の御歌に見えたるがはじめなるに、御歌にては、旗の形なせるやうの夕の雲を云ひたまへるのみなり。雲の旗の如く見ゆることは多し、旗雲といふ語は今無きやうなり。

ほそまひ雲

 布を引きたるやうに白くおだやかに空にわたる雲あり。大抵此雲見ゆる時は、空青く澄みて色美しく凪ぎわたりたるに、刷毛にてひきたる如く淡く白く天に横たはるなり。これを何といふ名の雲ぞと折ふし老人などに問ひたれど教へ呉るゝ人も無く、彼《か》の雲出づるは天気よき兆なりと云ひしを聞きたるのみなりしに、海賊衆の一なる能島家の兵書によりて、ほそまひ雲といふものなりと知りぬ。名もゆかし、歌などにも用ゐ得べきか。

翻雲覆雨

 翻手為雲覆手雨とは人も知りたる貧交行の中の句にして、句意はたゞ反覆常ならぬことを云ひたるまでなるに、支那の悪小説などには怪しからぬことを形容する套語として用ゐられたるが多し。もとの意義人の美を形容したるにはあらざるべき沈魚落雁などいふ語の、美を形容する套語となれる如く、いとをかしき誤謬《あやまり》なり。

雲の行くかた

 雲東に行けば車馬通じ、雲西に行けば馬泥を濺ぎ、雲南に行けば水潭に漲り、雲北に行けば麦を晒すに好し、と支那にては云ひならはしたるに、雲北に行けば雨ふるもののやう歌へる和歌のあるもをかし。「雨ふれば北にたなびく天雲を君によそへてながめつるかな」、「北へ行く夕の雲の大空にかさなるみれば雨はふりつゝ」などいへる、地異なり時異なれば、たがひあるべき道理ながら、思ひくらぶれば、如何にも那方《いづれ》かいつはりなるべきやう浅まなる心には思はるゝを免れず。雲南に向へば雨漂漂、雲北に向へば老鸛河を尋ねて哭し、雲西に向へば雨犁を没し、雲東へ向へば塵埃老翁を没す、といへる俗諺もある由なれば、彼もいつはらず、これもいつはらざるなるべし。我が邦の俗書に、朝に西北の方に黒雲見ゆるは雨なり、といひ、青き雲北斗を蔽へば大雨なり、などいへるあるを見れば、おしなべて我が邦にては、麦を晒すに好しといひ、老鸛河を尋ねて哭すというやうなる事は、云ひ得ざるにや。語を訳すことの易くして意を伝ふる事の難きは、かゝる事の多ければなり。前にあげたる光俊の歌を訳して支那の村老野人に示さんには、恐らくは嘲《あざ》み笑はれん。

南へ行く雲

 東京にては雲の南へ行く時火災多し。明暦三年より明治十四年までの間に大火九十三度ありて、中二十二三度のほかは、雲南の方へ走り、若くは南東南東西の方へ走りたる時なり。冬は多く北風吹き、火のあやまちは冬多きものなれば、怪むべくもあらぬ事ながら、東京の大火を叙せんとて、心も無く、北へ行く雲に火の色うつりて天は紅霞のわたれるが如し、など別の故も無きに筆を舞はして記さば、如何に見苦しきものに老いたる人などの見なさん。心せでは叶ふまじきことなり。

たぢろぐ雲

 風の力おとろへ、雲の行くこと少し遅くなりて、天の猶黒きが中より星などきら/\と見ゆること、雨の後などにはあるものなり。さる折の雲の得行きもせず、遏《とゞ》まるといふにもあらで、たゆたふやうなるが、月星などの光あるに気圧《けお》さるゝかとも見ゆるさまなるを、たゞ、いざよふ雲と云はんもをかしからず、たゞよふ雲、たちまよふ雲、行きまよふ雲など云はんも興無し。「はれぬるかたぢろぐ雲の絶間より星見えそむる村雲の空」といへる歌に、たぢろぐ雲といへるはいとおもしろし。ゑせ歌人《うたびと》は、かゝる言葉のはたらきあるはたらきよりは、猶ふるき言葉のあたひ無きあたひを尊むべきものと思へるなるべし。言葉のやすらかなるは極めてよし、言葉の確《しか》と実際に協《かな》ひたるは、ひときはよきなり。

雲を駆る

 支那の言葉づかひには、また我が邦のと異りたるおもしろみあるにや。灼然として雲を駆って白日を見る如し、といふ語の駆雲の二字の如きは、我が邦の歌の中には見がたきものなるべし。はらふといふにては駆るといふより弱くしておもしろからぬなり。

あだ雲

「月の前に時雨過ぎたるあだ雲をはらふならひは秋の山風」といへる歌、慈鎭和尚の詠としては、つたなし。されどあだ雲といへる言葉をかし。あだは、あだ人あだ花などのあだなるべし。用ゐざまによりては、をかしき節ある歌をもなすに足るべき言葉なり。

雲のわざ

 雲のするわざも多きが中に、いとおもしろきは、冬の日の朝早く、平らかにわたれる雲の、谷を籠め麓を蓋《おほ》ひて、世の何物をも山の上の人には見せぬことなり。日輪いまだ出でたまはず、月落ち星の光り薄れながら、天《そら》猶ひとしきり暗き頃、山高きところに宿りたる身のよろづ物珍らしきに、例に無く夙《はや》く起き出でゝ、戸などをも自ら繰り、心しまるやうなる寒さを忍びて眼を放つて見わたせば、昨日は脚の下に麓路の村も画の如く小さく見え、川の流れの白きが糸ほどに細くそれと知られ、深き谿を隔てゝかれこれと名ある山々の数多く連なり立ちたるが眼に入りしに、今は我が立てるところを去る幾干《いくばく》もあらぬ下より遙に向ふの方|際涯《はて》知らぬあたりまで、平らかにして大江の水の如くなる白雲たなびき渡り、村もかくし川もかくし山々谿々も匿《かく》しはてゝ、下界を海の底に沈め尽したるが如くに見せたる、雲のわざとは知りながら流石に馴れぬ眼には驚かるゝものなり。開門忽怪山為海、万畳雲濤露一峰と詩にいへるも、まことによく云ひ得たりといふべし。

雲中の夢

 上にあげたる如き白雲の中に眠りても人の夢は猶塵境に迷ひて、おろかなる事のみ見るものなり。「白雲の中に寐《いね》ても山をいでゝ塵のちまたに通ふ夢かな」とは我がある時の実際をよみたる吟なりき。

雲のさま

 韓雲は布の如く、趙雲は牛の如く、楚雲は日の如く、宋雲は車の如く、衛雲は犬の如く、周雲は輪の如く、秦雲は行人の如く、魏雲は鼠の如く、斉雲は絳衣の如く、越雲は龍の如く、蜀雲は※[#「菌-くさかんむり」、第4水準2-4-56]《きん》の如し、と云へるはいとをかし。地に定まりたる雲あり、雲に定まりたる形あるべきにや。おほよそは定まりもあるべし、詳しくはいかゞ。江戸の坂東太郎、浪花の丹波太郎、九州の比古太郎、近江あたりの信濃太郎、これらは雲の出づる方により負はせたる名なれば、けしうもあらず。加賀の鼬雲、安房の岸雲、播磨の岩雲などは、其土の人々の雲の形を然《しか》思ひ做して然呼び做したるなるべければ、魏雲鼠の如く斉雲絳衣の如しなどいへるも、魏斉の俗に鼠雲絳衣雲等の称ありて後云ひ出せることにや。単に一人の口よりほしいまゝに、いづくの雲はそれのものの形に似たりなど云はんは、余りに烏滸《おこ》にしれたるわざなるべし。

かさほこ雲

 南の方の天にさしがさを開きたるやうに立つ雲を、かさほこ雲といふとぞ。其雲やがて破れて、その破れたる方より風吹くと聞きたれど、市中にのみ住める身の、未だよく見知るべき時にあはざるこそ口惜けれ。

かなとこ雲

 東の方に築地をつきたる如く立つ白雲を、かなとこ雲といふよしなり。かなとこは鉄砧にて、其形鉄砧にも似たればなるべし。其雲先しりぞけば西風強く吹き、たちあがれば足をおろして雨となると伝ふ。東に白雲の築地の如く見えたるは眼にしたれど、猶かなとこ雲の風情といふを知らず。

卿雲

 景雲といひ、卿雲といひ、慶雲といへる、しかと指し定められたる雲にはあらざるべし。卿雲爛たり糺縵々たり、といへる、煙にあらず雲にあらず紫を曳き光を流す、といへる、大人作矣、五色|氤※[#「气<慍のつくり」、第3水準1-86-48]《いんうん》、といへる、金柯初めて繞繚、玉葉漸く氤※[#「气<慍のつくり」、第3水準1-86-48]、といへる、還つて九霄に入りて※[#「さんずい+亢」、第3水準1-86-55]※[#「さんずい+粲」の「米」に代えて「韭」、第4水準2-79-44]《かうがい》を成し、夕嵐生ずる処鶴松に帰る、といへる詩の句などによりて見れば、帰するところは美しき雲といふまでなり。一年の中に幾度か爛たる雲の見えざらん。若しまた余りに美しき眼なれぬ雲などの出でたらんは、気中のさまの常ならぬよりなるべければ、却つて悦ぶべからざるに似たり。五色の雲など何にせん、天は青きがめでたく、雲は白きこそ優しけれ。八雲立つの神の御歌を解きて、その時立ちし雲は天地のみたまの顕《あら》はせりし吉瑞にて、いともくしびなる雲なりけむなど橘の守部が云へるは、当れりや否や、知らず。くしびなる雲とは如何なる雲ぞや、問はまほし。八雲立ちといひたまはで、八雲立つと言い切り玉へるも彼の奇しき瑞雲に驚かせ給へる語勢なりなどいへる、ことに奇しき言なり。崇神紀の歌に、八雲立つ出雲梟師が云々と歌へるも、八雲たちとは云はで八雲立つといひたるなれば、驚きたる語勢なりといふべきか、いと奇しき言なり。

底本:「露伴全集 第二十九卷」岩波書店
   1954(昭和29)年12月4日第1刷発行
初出:「反省雜誌」
   1897(明治30)年8月号夏期付録
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記を次の通りあらためました。
二の字点を、「々」にあらためました。
入力:地田尚
校正:今井忠夫
2001年6月18日公開
2012年5月6日修正
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幸田露伴

運命は切り開くもの 幸田露伴

 此処に赤[#(ン)]坊が生れたと仮定します。其の赤[#(ン)]坊が華族の家の何不足無いところに生れたとします。然《さ》する時は此の赤[#(ン)]坊は自然に比較的幸福であります。又食ふや食はずの貧乏の家で、父たる者は何処かへ漂浪して終《しま》つて居るやうな場合の時、たゞ一人の淋しい生活をして居る婦人から生れたと致します。然る時はこの赤[#(ン)]坊は自然に比較的不幸福であります。善事をした訳でも悪事をしたわけでも無くて、貴家に生れると窮乏の家に生れるとで其の赤[#(ン)]坊の運命は大なる差があります。この大なる差を赤[#(ン)]坊のせゐにするのは不道理でして、これは前定的運命を其赤[#(ン)]坊が負うて居るのです。また同じ赤[#(ン)]坊でも器量良く生れるのも、器量悪く生れるのもあります。誰も美しく生れたいと思つて生れたものも無く、醜く生れたいと思つたものも無い、天然自然に親にあやかり、又は先祖にあやかり、他の者にあやかつて生れるだけの事ですが、美しく生れたものは其の美しく生れたために、醜く生れたものとは自然に異つた運命を有する訳になります。ですから是は運命前定にちがひ有りません。
 鄭伯のやうに生れ方が普通で無かつたために、奇妙な運命に絡まれた人もあります。鄭伯は寤生と云つて、(母の眠つてゐた間に生れた、即ち眠り産であつたといふ説と、逆さ子で難産であつたといふ説と二説ありますが)兎に角に母の気持を悪くした生れ方をした人ですが、其は勿論其の嬰児が特《わざ》と然様した訳でも何でも有りません。ところが母は其の気持の悪かつたために、嫡子で有るに関らずこれに対して愛が薄くなるのを免れませんでした。そして其為に後から生れた弟の方を愛して、弟の方へ国を譲りたいやうな意《こゝろ》が母に起りました。そこで大変な騒動が起り、干戈を動かすやうな事が出来た事が古い歴史にあります。此等は実に奇妙な運命を其子が生れる時に荷つて生れたもので、運命前定論を支へる一ツの稀なる事件です。稀有な事は議論の力強い材料にはなりませぬが、是の如き稀有なる事を申出さずとも、誰でも彼でも自分が時を撰び、処を撰び、家を撰び、自分の体質相貌等を撰んで生れたので無いといふことに思ひ当つたならば、自然に運命前定が少くとも一半は真理であるといふことを思ふでせう。運命が無いなぞといふことは何程自惚の強い人でも云ひ得ない事でせう。
 けれども運命前定は一半だけ真実の事実でして、全部運命は前定して居るものだなぞと思つては確にそれは間違です。随つて運命前定説から生れる運命測知術、即ちいろ/\の占卜の術などを神聖のもののやうに思つては、人間たるものの本然の希望、即ち向上心といふ高いものを蹂躪する卑屈の思想に墜ちて終ひまして甚だ宜しく無い、即ちそれは現在相違といふ過失に陥ります。人は生きて居る間は向上進歩の望を捨てることは出来ぬものであります。これは即ち端的の現在事実です。此の現在事実に背くことを考へるのは、現在相違といふ下らないことです。
 前に申しました占星術の如きは仮令幾多の事例が有りましたとて、何で今の人がこれを念頭に上せませうか。諸葛孔明が死んだ時に大きな星が墜ちた、それを観て敵の司馬懿が孔明の死を悟つて攻寄せたなどといふ談は、軍談では面白いことですが、それは勿論たゞお話です。そんな事が真実ならば、人は一※[#二の字点、1-2-22]天の星の一※[#二の字点、1-2-22]に相応して居る訳で、星の数と人の数と同じで無ければならぬことになります。英雄豪傑は赤い星、美人才女は美しい星、兇悪の人は箒星、平凡の人は糠星や見えないやうな星、をかしな人は夜這星なんて、そんな馬鹿気た事が何処にありませう。生れた年月日時によつて人の運命が定められては堪《たま》りません。御亭主が暦を披いて十干十二支を調べながら産婦に対つて、「丁度好い日だぞ上※[#二の字点、1-2-22]吉の日だぞ、かの子や、今日の三時に男の子を生め、はやくイキンで生め」なぞと云つたり、「今日は悪日だ、辛抱して明日の朝まで産むな」なぞと云ふことになつたら堪るものではありません。古い人でも流石に道理の分つた人がありまして、漢の王充といふ人が申して居りますが、秦と趙と戦つた時、秦の白起といふ猛将が趙の降参の兵卒四十万人を殺して終つた事がある。其の四十万人が皆同じ年月の生れであつたか、何様だ、そんな事は思へまい、してみれば生れ年月で運命が何様の彼様のといふのは当になるまい、と論じて居ります。ルシタニヤ号の沈没、先年の大地震、一時に大勢死んで居ります。それが一※[#二の字点、1-2-22]何で生れ年月の如何に因りませう。二十八宿や七曜や九星や、いづれも当にする人には当になるか知りませぬが、当にならないと思つた日には何で当になりませう。まるで夢見たやうな事ではありますまいか。方位によつて従来行動の吉凶祝福を申しまするのも、二千年も前の慰繚子といふ兵法家が既に嘲笑つて居りまして、方角の好否で戦の勝敗が定まつて堪るものかと申して居ります位です。支那の古い人でさへ其通りです、今の人が何で理を観ること古の人に及ばぬやうな下らぬ考を持つて居られませうや。
 人の相貌骨格も其当人が自分で定めたものでありませぬから、先づ運命前定説が一半だけは是認せられる訳でして、何様も不美人に生れついては男子に愛されぬ勝で、醜夫に生れついては婦人の悦ぶところとならぬ勝ですから、鏡に対して憮然たる人も世に多い訳ですが、幸にして人間は牛や馬ではありません。自分で自分を向上させることの出来るものですから、無理に隆鼻術の施行や美容法研究をせずとも、「此に欠くるところも彼に増すこともあれば又以て自ら善くするに足る」道理で、然《さ》のみ苦にするには当りません。例を申せば、無塩君は醜婦でありましたが破格の出世を致しました。小町は美人であつたが卒塔婆小町の悲境に落ちました。支那の大哲老子の母は非常に醜婦であつたと伝へられて居ます。希臘の賢人に醜貌の人のあつたは誰も知つてゐる事です。諸葛孔明は実に立派な人ですが、其の妻を娶るに当つては特と醜婦を択びましたので、当時小歌を作つて其事を囃したものがあります。日本でも毛利の麒麟児と云はれた一英雄はわざと孔明の所為を学びました。孔明の妻となり老子の母となつては、醜婦の鼻も亦甚だ高い訳ではありませんか。アルシビアデスは非常の美男子で雄材の人ですが、其終を令《よ》くしては居りませぬ。澹台子羽は容貌の揚らないので孔子様にさへ軽く視られましたが、徳を修め道に進んだので、後に至つて孔子様も吾が失敗であつたと歎ぜられたとあります。美しい醜いといふことは確に其人に利益不利益を与へますが、それでさへ必ずしも利不利を与へるとは限りません。美人薄命といふ語さへあつて、美しい為に不利を亨けた例は歴史にも伝説にも余るほどあります。人相家の方では、世俗の美しいといふのには却て宜しく無く、世俗が醜いといふのに却て宜しいとするのが甚だ多いのでありますが、美醜の論だけに於てさへ前に申しました通り、必ずしも何様の彼様のといふことは定められぬのであります。それで二千年の遠い古の荀子といふ学者さへ非相論を著はして、相貌によつて運命が定められているといふ思想を粉砕して居るのであります。単に相貌から申しますれば、孔子様は陽虎といふ詰らぬ人に酷《よく》肖《に》て居られたので人違をされた位ですが、陽虎の人となりや運命が孔子様とは大変な相違であつたことに誰しも異論はありません。
 人相家の説に反対した人は遠い古から俊秀の人に何程有つたか知れません。よし一歩も二歩も譲つて、相貌骨格を以て人の運命が定まつて居るものとしましたところで、人相といふものは変るもので有りますから、人相が既に変る以上は運命もまた変る訳でして、して見れば心掛や所行や境遇によつて運命もどし/\変ると考へて正当であります。こゝに極※[#二の字点、1-2-22]長寿の相の有る人が居ますとしましても、其人が河豚を無暗に食べたり、大酒をしたり荒淫を敢てしたりすると致しますれば、甚だ其の高寿であり得るといふことは危いので有りまして、日※[#二の字点、1-2-22]に其の長寿の相は変ずるで有りませう。太い蝋燭でも風吹きの場処に置けば疾く竭きて終ひ、細い蝋燭でも風陰に置けば長く保つ道理で、世間には丈夫な人が早死し、病弱な人が長寿する例は何程もあります。易に、つねに病み、つねに死せず、といふ文句がありますが、実に然様いふ事も世に多い例です。心掛次第で人相が悪く生れて居ても美《よ》くなりますところが、実に人相に取つて或程度までは人相の信ぜられる理由です。
 これは実に人相の面白いところで、勝れた人相家が適中した判断を為し得るのも、其の変るところを知つて居るからでして、若し人相が生れた儘に全然変化せぬものでしたならば、人相論も現在相違になりますから、成立たぬものになりますが、相貌は変るものですから、そこで人相論は現在相違になりませんで、そして運命前定説を一半だけ是認し、又後一半は運命は其人の心掛次第で善くも悪くもなるといふ運命非前定説を伴ふことが出来るのです。手早く例を申しませうならば、同じ人でも酒に酔へば、其酔はぬ時とは人相は相違致します。酔うても骨格は変らぬが、一時間か二時間の事で気色は変つて終ひます。酔うて宜しい相になる人も有りますが、十の九までは酔うた相は宜しくありません。即ち悪変するのです。心が其舎を守らないで浮動泛濫する相になりますから、其相は過失に近づき易い相になるのであります。此道理で悪企《わるだくみ》を始めれば悪い相になります、善行善意を心掛けると善い相になります。されば仏経には、布施は美の原《もと》であるといふやうに説いてあります。仁心が即ち布施の根本でありますが、仁心を始終抱いて居ますれば、自然に其の香が露はれて来まして美しくなる道理で有ります。斉の賢人の管仲の書に、悪女怨気を盛るといふ語が有りまするが、醜婦が怨みの心を抱いた人相などは有り難くない者の頂上で、愈※[#二の字点、1-2-22]悪い相になりませうが、いくら悪女でも仁心を抱いて居れば必ず見づらいものでは有りませぬ。是故《このゆゑ》に相は心を追うて変ずるもので有りまして、心掛次第行為次第で相貌は変じ、従つて運命も変ずるものであります。
 かやうな訳で、運命は全く前定して居るものとすることは虚言《うそ》であります、又全く前定して居ないと申すのも虚言であります。一半は前定して居ると申して宜しい、然し一半は心掛次第行為次第で善くもなり悪くもなると申して宜しい。天然自然に定まつて居るものを先天的運命と申しますならば、当人の心掛や行為より生ずるのを後天的運命と申しませう。自己の修治によつて後天的運命を開拓して、或は先天的運命を善きが上にも善くし、或は先天的運命の悪いのをも善くして行くのが、真の立派な人と申しますので、歴史の上に光輝を残して居る人の如きは、大抵後天的運命を開拓した人なのであります。徒に運命を論ずるが如きは聖賢と雖も御遠慮なさることであります。まして不学凡才の身を以て運命を論じたり、運命を測知しようとするが如きは、蜉蝣といふ虫が大きな樹を撼《うご》かさうとするに類したもので、甚だ詰らぬことであります。されば「如何にあるべきか」を考へるより「如何に為すべきか」を考へる方が、吾人に取つて賢くも有り正しくも有ることであるといふ言は、真実に吾人に忠実な教であります。

底本:「日本の名随筆96 運」作品社
   1990(平成2)年10月25日第1刷発行
底本の親本:「露伴全集 第三〇巻(二刷)」岩波書店
   1979(昭和54)年7月
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2007年4月10日作成
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幸田露伴

運命—— 幸田露伴

 世おのずから数《すう》というもの有りや。有りといえば有るが如《ごと》く、無しと為《な》せば無きにも似たり。洪水《こうずい》天に滔《はびこ》るも、禹《う》の功これを治め、大旱《たいかん》地を焦《こが》せども、湯《とう》の徳これを済《すく》えば、数有るが如くにして、而《しか》も数無きが如し。秦《しん》の始皇帝、天下を一にして尊号《そんごう》を称す。威※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《いえん》まことに当る可《べ》からず。然《しか》れども水神ありて華陰《かいん》の夜に現われ、璧《たま》を使者に托して、今年|祖龍《そりゅう》死せんと曰《い》えば、果《はた》して始皇やがて沙丘《しゃきゅう》に崩ぜり。唐《とう》の玄宗《げんそう》、開元は三十年の太平を享《う》け、天宝《てんぽう》は十四年の華奢《かしゃ》をほしいまゝにせり。然れども開元の盛時に当りて、一行阿闍梨《いちぎょうあじゃり》、陛下万里に行幸して、聖祚《せいそ》疆《かぎり》無《な》からんと奏したりしかば、心得がたきことを白《もう》すよとおぼされしが、安禄山《あんろくざん》の乱起りて、天宝十五年|蜀《しょく》に入りたもうに及び、万里橋《ばんりきょう》にさしかゝりて瞿然《くぜん》として悟り玉《たま》えりとなり。此等《これら》を思えば、数無きに似たれども、而も数有るに似たり。定命録《ていめいろく》、続定命録《ぞくていめいろく》、前定録《ぜんていろく》、感定録《かんていろく》等、小説|野乗《やじょう》の記するところを見れば、吉凶禍福は、皆定数ありて飲啄笑哭《いんたくしょうこく》も、悉《ことごと》く天意に因《よ》るかと疑わる。されど紛々たる雑書、何ぞ信ずるに足らん。仮令《たとえ》数ありとするも、測り難きは数なり。測り難きの数を畏《おそ》れて、巫覡卜相《ふげきぼくそう》の徒の前に首《こうべ》を俯《ふ》せんよりは、知る可きの道に従いて、古聖前賢の教《おしえ》の下《もと》に心を安くせんには如《し》かじ。かつや人の常情、敗れたる者は天の命《めい》を称して歎《たん》じ、成れる者は己の力を説きて誇る。二者共に陋《ろう》とすべし。事敗れて之《これ》を吾《わ》が徳の足らざるに帰し、功成って之を数の定まる有るに委《ゆだ》ねなば、其《その》人《ひと》偽らずして真《しん》、其|器《き》小ならずして偉なりというべし。先哲|曰《いわ》く、知る者は言わず、言う者は知らずと。数を言う者は数を知らずして、数を言わざる者|或《あるい》は能《よ》く数を知らん。
 古《いにしえ》より今に至るまで、成敗《せいばい》の跡、禍福の運、人をして思《おもい》を潜《ひそ》めしめ歎《たん》を発せしむるに足《た》るもの固《もと》より多し。されども人の奇を好むや、猶《なお》以《もっ》て足れりとせず。是《ここ》に於《おい》て才子は才を馳《は》せ、妄人《もうじん》は妄《もう》を恣《ほしいいまま》にして、空中に楼閣を築き、夢裏《むり》に悲喜を画《えが》き、意設筆綴《いせつひってつ》して、烏有《うゆう》の談を為《つく》る。或は微《すこ》しく本《もと》づくところあり、或は全く拠《よ》るところ無し。小説といい、稗史《はいし》といい、戯曲といい、寓言《ぐうげん》というもの即《すなわ》ち是《これ》なり。作者の心おもえらく、奇を極め妙を極むと。豈《あに》図《はか》らんや造物の脚色は、綺語《きご》の奇より奇にして、狂言の妙より妙に、才子の才も敵する能《あた》わざるの巧緻《こうち》あり、妄人の妄も及ぶ可からざるの警抜あらんとは。吾が言をば信ぜざる者は、試《こころみ》に看《み》よ建文《けんぶん》永楽《えいらく》の事を。

 我が古《こ》小説家の雄《ゆう》を曲亭主人馬琴《きょくていしゅじんばきん》と為《な》す。馬琴の作るところ、長篇四五種、八犬伝《はっけんでん》の雄大、弓張月《ゆみはりづき》の壮快、皆|江湖《こうこ》の嘖々《さくさく》として称するところなるが、八犬伝弓張月に比して優《まさ》るあるも劣らざるものを侠客伝《きょうかくでん》と為《な》す。憾《うら》むらくは其の叙するところ、蓋《けだ》し未《いま》だ十の三四を卒《おわ》るに及ばずして、筆硯《ひっけん》空しく曲亭の浄几《じょうき》に遺《のこ》りて、主人既に逝《ゆ》きて白玉楼《はくぎょくろう》の史《し》となり、鹿鳴草舎《はぎのや》の翁《おきな》これを続《つ》げるも、亦《また》功を遂げずして死せるを以《もっ》て、世|其《そ》の結構の偉《い》、輪奐《りんかん》の美を観《み》るに至らずして已《や》みたり。然《しか》れども其の意を立て材を排する所以《ゆえん》を考うるに、楠氏《なんし》の孤女《こじょ》を仮《か》りて、南朝の為《ため》に気を吐かんとする、おのずから是《こ》れ一大文章たらずんば已《や》まざるものあるをば推知するに足るあり。惜《おし》い哉《かな》其の成らざるや。
 侠客伝は女仙外史《じょせんがいし》より換骨脱胎《かんこつだったい》し来《きた》る。其の一部は好逑伝《こうきゅうでん》に藉《よ》るありと雖《いえど》も、全体の女仙外史を化《か》し来《きた》れるは掩《おお》う可《べ》からず。此《これ》の姑摩媛《こまひめ》は即《すなわ》ち是《こ》れ彼《かれ》の月君《げっくん》なり。月君が建文帝《けんぶんてい》の為に兵を挙ぐるの事は、姑摩媛が南朝の為に力を致さんとするの藍本《らんぽん》たらずんばあらず。此《こ》は是《こ》れ馬琴が腔子裏《こうしり》の事なりと雖《いえど》も、仮《かり》に馬琴をして在らしむるも、吾《わ》が言を聴かば、含笑《がんしょう》して点頭《てんとう》せん。

 女仙外史一百回は、清《しん》の逸田叟《いつでんそう》、呂熊《りょゆう》、字《あざな》は文兆《ぶんちょう》の著《あらわ》すところ、康熙《こうき》四十年に意を起して、四十三年秋に至りて業を卒《おわ》る。其《そ》の書の体《たい》たるや、水滸伝《すいこでん》平妖伝《へいようでん》等に同じと雖《いえど》も、立言《りつげん》の旨《し》は、綱常《こうじょう》を扶植《ふしょく》し、忠烈を顕揚するに在りというを以《もっ》て、南安《なんあん》の郡守|陳香泉《ちんこうせん》の序、江西《こうせい》の廉使《れんし》劉在園《りゅうざいえん》の評、江西の学使|楊念亭《ようねんてい》の論、広州《こうしゅう》の太守|葉南田《しょうなんでん》の跋《ばつ》を得て世に行わる。幻詭猥雑《げんきわいざつ》の談に、干戈《かんか》弓馬の事を挿《はさ》み、慷慨《こうがい》節義の譚《だん》に、神仙縹緲《しんせんひょうびょう》の趣《しゅ》を交《まじ》ゆ。西遊記《さいゆうき》に似て、而《しか》も其の誇誕《こたん》は少しく遜《ゆず》り、水滸伝に近くして、而も其《そ》の豪快は及ばず、三国志の如《ごと》くして、而も其の殺伐はやゝ少《すくな》し。たゞ其の三者の佳致《かち》を併有して、一編の奇話を構成するところは、女仙外史の西遊水滸三国諸書に勝《まさ》る所以《ゆえん》にして、其の大体の風度《ふうど》は平妖伝に似たりというべし。憾《うら》むらくは、通篇《つうへん》儒生《じゅせい》の口吻《こうふん》多くして、説話は硬固勃率《こうこぼっそつ》、談笑に流暢尖新《りゅうちょうせんしん》のところ少《すくな》きのみ。
 女仙外史の名は其の実《じつ》を語る。主人公|月君《げっくん》、これを輔《たす》くるの鮑師《ほうし》、曼尼《まんに》、公孫大娘《こうそんたいじょう》、聶隠娘《しょういんじょう》等皆女仙なり。鮑聶《ほうしょう》等の女仙は、もと古伝雑説より取り来《きた》って彩色となすに過ぎず、而《しこう》して月君は即《すなわ》ち山東蒲台《さんとうほだい》の妖婦《ようふ》唐賽児《とうさいじ》なり。賽児の乱をなせるは明《みん》の永楽《えいらく》十八年二月にして、燕《えん》王の簒奪《さんだつ》、建文《けんぶん》の遜位《そんい》と相関するあるにあらず、建文|猶《なお》死せずと雖《いえども》、簒奪の事成って既に十八春秋を経《へ》たり。賽児何ぞ実に建文の為《ため》に兵を挙げんや。たゞ一婦人の身を以て兵を起し城を屠《ほふ》り、安遠侯《あんえんこう》柳升《りゅうしょう》をして征戦に労し、都指揮《としき》衛青《えいせい》をして撃攘《げきじょう》に力《つと》めしめ、都指揮|劉忠《りゅうちゅう》をして戦歿《せんぼつ》せしめ、山東の地をして一時|騒擾《そうじょう》せしむるに至りたるもの、真に是《こ》れ稗史《はいし》の好題目たり。之《これ》に加うるに賽児が洞見《どうけん》預察の明《めい》を有し、幻怪|詭秘《きひ》の術を能《よ》くし、天書宝剣を得て、恵民《けいみん》布教の事を為《な》せるも、亦《また》真に是れ稗史の絶好資料たらずんばあらず。賽児の実蹟《じっせき》既に是《かく》の如《ごと》し。此《これ》を仮《か》り来《きた》りて以《もっ》て建文の位を遜《ゆず》れるに涙を堕《おと》し、燕棣《えんてい》の国を奪えるに歯を切《くいしば》り、慷慨《こうがい》悲憤して以て回天の業を為《な》さんとするの女英雄《じょえいゆう》となす。女仙外史の人の愛読|耽翫《たんがん》を惹《ひ》く所以《ゆえん》のもの、決して尠少《せんしょう》にあらずして、而して又実に一|篇《ぺん》の淋漓《りんり》たる筆墨《ひつぼく》、巍峨《ぎが》たる結構を得る所以のもの、決して偶然にあらざるを見る。
 賽児《さいじ》は蒲台府《ほだいふ》の民《たみ》林三《りんさん》の妻、少《わか》きより仏を好み経を誦《しょう》せるのみ、別に異ありしにあらず。林三死して之《これ》を郊外に葬《ほうむ》る。賽児墓に祭りて、回《かえ》るさの路《みち》、一山の麓《ふもと》を経たりしに、たま/\豪雨の後にして土崩れ石|露《あら》われたり。これを視《み》るに石匣《せきこう》なりければ、就《つ》いて窺《うかが》いて遂《つい》に異書と宝剣とを得たり。賽児これより妖術に通じ、紙を剪《き》って人馬となし、剣《けん》を揮《ふる》って咒祝《じゅしゅく》を為《な》し、髪を削って尼となり、教《おしえ》を里閭《りりょ》に布《し》く。祷《いのり》には効あり、言《ことば》には験《げん》ありければ、民|翕然《きゅうぜん》として之に従いけるに、賽児また饑者《きしゃ》には食《し》を与え、凍者には衣を給し、賑済《しんさい》すること多かりしより、終《つい》に追随する者数万に及び、尊《とうと》びて仏母と称し、其《その》勢《いきおい》甚《はなは》だ洪大《こうだい》となれり。官|之《これ》を悪《にく》みて賽児を捕えんとするに及び、賽児を奉ずる者|董彦杲《とうげんこう》、劉俊《りゅうしゅん》、賓鴻《ひんこう》等、敢然として起《た》って戦い、益都《えきと》、安州《あんしゅう》、※[#「くさかんむり/呂」、第3水準1-90-87]州《きょしゅう》、即墨《そくぼく》、寿光《じゅこう》等、山東諸州|鼎沸《ていふつ》し、官と賊と交々《こもごも》勝敗あり。官兵|漸《ようや》く多く、賊勢日に蹙《しじ》まるに至って賽児を捕え得、将《まさ》に刑に処せんとす。賽児|怡然《いぜん》として懼《おそ》れず。衣を剥《は》いで之を縛《ばく》し、刀《とう》を挙げて之を※[#「石+欠」、第4水準2-82-33]《き》るに、刀刃《とうじん》入る能《あた》わざりければ、已《や》むを得ずして復《また》獄に下し、械枷《かいか》を体《たい》に被《こうむ》らせ、鉄鈕《てっちゅう》もて足を繋《つな》ぎ置きけるに、俄《にわか》にして皆おのずから解脱《げだつ》し、竟《つい》に遯《のが》れ去って終るところを知らず。三司郡県将校《さんしぐんけんしょうこう》等《ら》、皆|寇《あだ》を失うを以て誅《ちゅう》せられぬ。賽児は如何《いかが》しけん其後|踪跡《そうせき》杳《よう》として知るべからず。永楽帝怒って、およそ北京《ほくけい》山東《さんとう》の尼姑《にこ》は尽《ことごと》く逮捕して京に上せ、厳重に勘問《かんもん》し、終《つい》に天下の尼姑という尼姑を逮《とら》うるに至りしが、得る能《あた》わずして止《や》み、遂に後の史家をして、妖耶《ようか》人耶《ひとか》、吾《われ》之《これ》を知らず、と云《い》わしむるに至れり。
 世の伝うるところの賽児の事既に甚《はなは》だ奇、修飾を仮《か》らずして、一部|稗史《はいし》たり。女仙外史の作者の藉《か》りて以《もっ》て筆墨を鼓《こ》するも亦《また》宜《むべ》なり。然《しか》れども賽児の徒、初《はじめ》より大志ありしにはあらず、官吏の苛虐《かぎゃく》するところとなって而《しこう》して後爆裂|迸発《へいはつ》して※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《ほのお》を揚げしのみ。其の永楽帝の賽児を索《もと》むる甚だ急なりしに考うれば、賽児の徒|窘窮《きんきゅう》して戈《ほこ》を執《と》って立つに及び、或《あるい》は建文を称して永楽に抗するありしも亦知るべからず。永楽の時、史に曲筆多し、今いずくにか其《その》実《じつ》を知るを得ん。永楽|簒奪《さんだつ》して功を成す、而《しか》も聡明《そうめい》剛毅《ごうき》、政《まつりごと》を為《な》す甚だ精、補佐《ほさ》また賢良多し。こゝを以て賽児の徒|忽《たちまち》にして跡を潜むと雖《いえど》も、若《も》し秦末《しんまつ》漢季《かんき》の如《ごと》きの世に出《い》でしめば、陳渉《ちんしょう》張角《ちょうかく》、終《つい》に天下を動かすの事を為《な》すに至りたるやも知る可《べ》からず。嗚呼《ああ》賽児も亦|奇女子《きじょし》なるかな。而して此《この》奇女子を藉《か》りて建文に与《くみ》し永楽と争わしむ。女仙外史の奇、其《そ》の奇を求めずして而しておのずから然《しか》るあらんのみ。然りと雖も予《よ》猶《なお》謂《おも》えらく、逸田叟《いつでんそう》の脚色は仮《か》にして後|纔《わずか》に奇なり、造物|爺々《やや》の施為《しい》は真にして且《かつ》更に奇なり。

 明《みん》の建文《けんぶん》皇帝は実に太祖《たいそ》高《こう》皇帝に継《つ》いで位に即《つ》きたまえり。時に洪武《こうぶ》三十一年|閏《うるう》五月なり。すなわち詔《みことのり》して明年を建文元年としたまいぬ。御代《みよ》しろしめすことは正《まさ》しく五歳にわたりたもう。然《しか》るに廟諡《びょうし》を得たもうこと無く、正徳《しょうとく》、万暦《ばんれき》、崇禎《すうてい》の間、事しば/\議せられて、而《しか》も遂《つい》に行われず、明《みん》亡び、清《しん》起りて、乾隆《けんりゅう》元年に至って、はじめて恭憫恵《きょうびんけい》皇帝という諡《おくりな》を得たまえり。其《その》国の徳衰え沢《たく》竭《つ》きて、内憂外患こも/″\逼《せま》り、滅亡に垂《なりなん》とする世には、崩じて諡《おく》られざる帝《みかど》のおわす例《ためし》もあれど、明の祚《そ》は其《そ》の後|猶《なお》二百五十年も続きて、此《この》時太祖の盛徳偉業、炎々《えんえん》の威を揚げ、赫々《かくかく》の光を放ちて、天下万民を悦服せしめしばかりの後《のち》なれば、かゝる不祥の事は起るべくもあらぬ時代なり。さるを其《そ》[#ルビの「そ」は底本では「その」]の是《かく》の如《ごと》くなるに至りし所以《ゆえん》は、天意か人為かはいざ知らず、一|波《ぱ》動いて万波動き、不可思議の事の重畳《ちょうじょう》連続して、其の狂濤《きょうとう》は四年の間の天地を震撼《しんかん》し、其の余瀾《よらん》は万里の外の邦国に漸浸《ぜんしん》するに及べるありしが為《ため》ならずばあらず。
 建文皇帝|諱《いみな》は允※[#「火+文」、第4水準2-79-61]《いんぶん》、太祖高皇帝の嫡孫なり。御父《おんちち》懿文《いぶん》太子、太祖に紹《つ》ぎたもうべかりしが、不幸にして世を早うしたまいぬ。太祖時に御齢《おんとし》六十五にわたらせ給《たま》いければ、流石《さすが》に淮西《わいせい》の一布衣《いっぷい》より起《おこ》って、腰間《ようかん》の剣《けん》、馬上の鞭《むち》、四百余州を十五年に斬《き》り靡《なび》けて、遂に帝業を成せる大豪傑も、薄暮に燭《しょく》を失って荒野の旅に疲れたる心地やしけん、堪えかねて泣き萎《しお》れたもう。翰林学士《かんりんがくし》の劉三吾《りゅうさんご》、御歎《おんなげき》はさることながら、既に皇孫のましませば何事か候うべき、儲君《ちょくん》と仰せ出されんには、四海心を繋《か》け奉らんに、然《さ》のみは御過憂あるべからず、と白《もう》したりければ、実《げ》にもと点頭《うなず》かせられて、其《その》歳《とし》の九月、立てゝ皇太孫と定められたるが、即《すなわ》ち後に建文の帝《みかど》と申す。谷氏《こくし》の史に、建文帝、生れて十年にして懿文《いぶん》卒《しゅっ》すとあるは、蓋《けだ》し脱字《だつじ》にして、父君に別れ、儲位《ちょい》に立ちたまえる時は、正《まさ》しく十六歳におわしける。資性|穎慧《えいけい》温和、孝心深くましまして、父君の病みたまえる間、三歳に亘《わた》りて昼夜|膝下《しっか》を離れたまわず、薨《かく》れさせたもうに及びては、思慕の情、悲哀の涙、絶ゆる間もなくて、身も細々と瘠《や》せ細りたまいぬ。太祖これを見たまいて、爾《なんじ》まことに純孝なり、たゞ子を亡《うしな》いて孫を頼む老いたる我をも念《おも》わぬことあらじ、と宣《のたま》いて、過哀に身を毀《やぶ》らぬよう愛撫《あいぶ》せられたりという。其の性質の美、推して知るべし。
 はじめ太祖、太子に命じたまいて、章奏《しょうそう》を決せしめられけるに、太子仁慈厚くおわしければ、刑獄に於《おい》て宥《なだ》め軽めらるゝこと多かりき。太子|亡《う》せたまいければ、太孫をして事に当らしめたまいけるが、太孫もまた寛厚の性、おのずから徳を植えたもうこと多く、又太祖に請いて、遍《あまね》く礼経《れいけい》を考え、歴代の刑法を参酌《さんしゃく》し、刑律は教《おしえ》を弼《たす》くる所以《ゆえん》なれば、凡《およ》そ五倫《ごりん》と相《あい》渉《わた》る者は、宜《よろ》しく皆法を屈して以《もっ》て情《じょう》を伸ぶべしとの意により、太祖の准許《じゅんきょ》を得て、律の重きもの七十三条を改定しければ、天下|大《おおい》に喜びて徳を頌《しょう》せざる無し。太祖の言《ことば》に、吾《われ》は乱世を治めたれば、刑重からざるを得ざりき、汝《なんじ》は平世を治むるなれば、刑おのずから当《まさ》に軽《かろ》うすべし、とありしも当時の事なり。明の律は太祖の武昌《ぶしょう》を平らげたる呉《ご》の元年に、李善長《りぜんちょう》等《ら》の考え設けたるを初《はじめ》とし、洪武六年より七年に亙《わた》りて劉惟謙《りゅういけん》等《ら》の議定するに及びて、所謂《いわゆる》大明律《たいみんりつ》成り、同じ九年|胡惟庸《こいよう》等《ら》命を受けて釐正《りせい》するところあり、又同じ十六年、二十二年の編撰《へんせん》を経て、終《つい》に洪武の末に至り、更定大明律《こうていたいみんりつ》三十巻大成し、天下に頒《わか》ち示されたるなり。呉の元年より茲《ここ》に至るまで、日を積むこと久しく、慮を致すこと精《くわ》しくして、一代の法始めて定まり、朱氏《しゅし》の世を終るまで、獄を決し刑を擬するの準拠となりしかば、後人をして唐に視《くら》ぶれば簡覈《かんかく》、而《しか》して寛厚は宗《そう》に如《し》かざるも、其の惻隠《そくいん》の意に至っては、各条に散見せりと評せしめ、余威は遠く我邦《わがくに》に及び、徳川期の識者をして此《これ》を研究せしめ、明治初期の新律綱領をして此《これ》に採るところあらしむるに至れり。太祖の英明にして意を民人に致せしことの深遠なるは言うまでも無し、太子の仁、太孫の慈、亦《また》人君の度ありて、明律|因《よ》りて以《もっ》て成るというべし。既にして太祖崩じて太孫の位に即《つ》きたもうや、刑官に諭《さと》したまわく、大明律は皇祖の親しく定めさせたまえるところにして、朕《ちん》に命じて細閲せしめたまえり。前代に較《くら》ぶるに往々重きを加う。蓋《けだ》し乱国を刑するの典にして、百世通行の道にあらざる也。朕が前《さき》に改定せるところは、皇祖|已《すで》に命じて施行せしめたまえり。然《しか》れども罪の矜疑《きょうぎ》すべき者は、尚《なお》此《これ》に止《とど》まらず。それ律は大法を設け、礼は人情に順《したが》う。民を斉《ととの》うるに刑を以てするは礼を以てするに若《し》かず。それ天下有司に諭し、務めて礼教を崇《たっと》び、疑獄を赦《ゆる》し、朕が万方《ばんぽう》と与《とも》にするを嘉《よろこ》ぶの意に称《かな》わしめよと。嗚呼《ああ》、既に父に孝にして、又民に慈なり。帝の性の善良なる、誰《たれ》がこれを然らずとせんや。
 是《かく》の如きの人にして、帝《みかど》となりて位を保つを得ず、天に帰して諡《おくりな》を得《う》る能《あた》わず、廟《びょう》無く陵無く、西山《せいざん》の一抔土《いっぽうど》、封《ほう》せず樹《じゅ》せずして終るに至る。嗚呼《ああ》又奇なるかな。しかも其の因縁《いんえん》の糾纏錯雑《きゅうてんさくざつ》して、果報の惨苦悲酸なる、而して其の影響の、或《あるい》は刻毒《こくどく》なる、或は杳渺《ようびょう》たる、奇も亦《また》太甚《はなはだ》しというべし。

 建文帝の国を遜《ゆず》らざるを得ざるに至れる最初の因は、太祖の諸子を封ずること過当にして、地を与うること広く、権を附すること多きに基づく。太祖の天下を定むるや、前代の宋《そう》元《げん》傾覆の所以《ゆえん》を考えて、宗室の孤立は、無力不競の弊源たるを思い、諸子を衆《おお》く四方に封じて、兵馬の権を有せしめ、以《もっ》て帝室に藩屏《はんべい》たらしめ、京師《けいし》を拱衛《きょうえい》せしめんと欲せり。是《こ》れ亦《また》故無きにあらず。兵馬の権、他人の手に落ち、金穀の利、一家の有たらずして、将帥《しょうすい》外に傲《おご》り、奸邪《かんじゃ》間《あいだ》に私すれば、一朝事有るに際しては、都城守る能《あた》わず、宗廟《そうびょう》祀《まつ》られざるに至るべし。若《も》し夫《そ》れ衆《おお》く諸侯を建て、分ちて子弟を王とすれば、皇族天下に満ちて栄え、人臣|勢《いきおい》を得るの隙《すき》無し。こゝに於《おい》て、第二子|※[#「木+爽」、UCS-6A09、252-3]《そう》を秦《しん》王に封《ほう》じ、藩に西安《せいあん》に就《つ》かしめ、第三子|棡《こう》を晋《しん》王に封じ、太原府《たいげんふ》に居《お》らしめ、第四子|棣《てい》を封じて燕《えん》王となし、北平府《ほくへいふ》即《すなわ》ち今の北京《ぺきん》に居らしめ、第五子|※[#「木+肅」、UCS-6A5A、252-5]《しゅく》を封じて周《しゅう》王となし、開封府《かいほうふ》に居らしめ、第六子|※[#「木+貞」、第3水準1-85-88]《てい》を楚《そ》王とし、武昌《ぶしょう》に居らしめ、第七子|榑《ふ》を斉《せい》王とし、青州府《せいしゅうふ》に居らしめ、第八子|梓《し》を封じて潭《たん》王とし、長沙《ちょうさ》に居《お》き、第九子|※[#「木+巳」、252-7]《き》を趙《ちょう》王とせしが、此《こ》は三歳にして殤《しょう》し、藩に就くに及ばず、第十子|檀《たん》を生れて二月にして魯《ろ》王とし、十六歳にして藩に※[#「亠/兌」、第3水準1-14-50]州府《えんしゅうふ》に就かしめ、第十一子|椿《ちん》を封じて蜀《しょく》王とし、成都《せいと》に居《お》き、第十二子|柏《はく》を湘《しょう》王とし、荊州府《けいしゅうふ》に居き、第十三子|桂《けい》を代《だい》王とし、大同府《だいどうふ》に居き、第十四子|※[#「木+英」、UCS-6967、252-11]《えい》を粛《しゅく》王とし、藩に甘州府《かんしゅうふ》に就かしめ、第十五子|植《しょく》を封じて遼《りょう》王とし、広寧府《こうねいふ》に居き、第十六子|※[#「木+「旃」の「丹」に代えて「冉」、252-12]《せん》を慶《けい》王として寧夏《ねいか》に居き、第十七子|権《けん》を寧《ねい》王に封じ、大寧《たいねい》に居らしめ、第十八子|※[#「木+便」、第4水準2-15-14]《べん》を封じて岷《びん》王となし、第十九子|※[#「木+惠」、UCS-6A5E、253-2]《けい》を封じて谷《こく》王となす、谷王というは其《そ》の居《お》るところ宣府《せんふ》の上谷《じょうこく》の地たるを以てなり、第二十子|松《しょう》を封じて韓《かん》王となし、開源《かいげん》に居らしむ。第二十一子|模《ぼ》を瀋《しん》王とし、第二十二子|楹《えい》を安《あん》王とし、第二十三子|※[#「木+經のつくり」、UCS-6871、253-4]《けい》を唐《とう》王とし、第二十四子|棟《とう》を郢《えい》王とし、第二十五子|※[#「木+(ヨ/粉/廾)」、253-5]《い》を伊《い》王としたり。藩《しん》王以下は、永楽《えいらく》に及んで藩に就きたるなれば、姑《しば》らく措《お》きて論ぜざるも、太祖の諸子を封《ほう》じて王となせるも亦《また》多しというべく、而《しこう》して枝柯《しか》甚《はなは》だ盛んにして本幹《ほんかん》却《かえ》って弱きの勢《いきおい》を致せるに近しというべし。明の制、親王は金冊金宝《きんさつきんほう》を授けられ、歳禄《さいろく》は万石《まんせき》、府には官属を置き、護衛の甲士《こうし》、少《すくな》き者は三千人、多き者は一万九千人に至り、冕服《べんぷく》車旗《しゃき》邸第《ていだい》は、天子に下《くだ》ること一等、公侯大臣も伏して而して拝謁す。皇族を尊くし臣下を抑うるも、亦《また》至れりというべし。且つ元《げん》の裔《えい》の猶《なお》存して、時に塞下《さいか》に出没するを以て、辺に接せる諸王をして、国中《こくちゅう》に専制し、三護衛の重兵《ちょうへい》を擁するを得せしめ、将を遣《や》りて諸路の兵を徴《め》すにも、必ず親王に関白して乃《すなわ》ち発することゝせり。諸王をして権を得せしむるも、亦《また》大なりというべし。太祖の意に謂《おも》えらく、是《かく》の如《ごと》くなれば、本支《ほんし》相《あい》幇《たす》けて、朱氏《しゅし》永く昌《さか》え、威権|下《しも》に移る無く、傾覆の患《うれい》も生ずるに地無からんと。太祖の深智《しんち》達識《たっしき》は、まことに能《よ》く前代の覆轍《ふくてつ》に鑑《かんが》みて、後世に長計を貽《のこ》さんとせり。されども人智は限《かぎり》有り、天意は測り難し、豈《あに》図《はか》らんや、太祖が熟慮遠謀して施為《しい》せるところの者は、即《すなわ》ち是れ孝陵《こうりょう》の土|未《いま》だ乾かずして、北平《ほくへい》の塵《ちり》既に起り、矢石《しせき》京城《けいじょう》に雨注《うちゅう》して、皇帝|遐陬《かすう》に雲遊するの因とならんとは。
 太祖が諸子を封ずることの過ぎたるは、夙《つと》に之《これ》を論じて、然《しか》る可《べ》からずとなせる者あり。洪武九年といえば建文帝未だ生れざるほどの時なりき。其《その》歳《とし》閏《うるう》九月、たま/\天文《てんもん》の変ありて、詔《みことのり》を下し直言《ちょくげん》を求められにければ、山西《さんせい》の葉居升《しょうきょしょう》というもの、上書して第一には分封の太《はなは》だ侈《おご》れること、第二には刑を用いる太《はなは》だ繁《しげ》きこと、第三には治《ち》を求むる太《はなは》だ速やかなることの三条を言えり。其の分封|太侈《たいし》を論ずるに曰《いわ》く、都城|百雉《ひゃくち》を過ぐるは国の害なりとは、伝《でん》の文にも見えたるを、国家今や秦《しん》晋《しん》燕《えん》斉《せい》梁《りょう》楚《そ》呉《ご》※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]《びん》の諸国、各|其《その》地《ち》を尽して之《これ》を封じたまい、諸王の都城宮室の制、広狭大小、天子の都に亜《つ》ぎ、之に賜《たま》うに甲兵衛士の盛《さかん》なるを以てしたまえり。臣ひそかに恐る、数世《すうせい》の後は尾大《びだい》掉《ふる》わず、然《しか》して後に之が地を削りて之が権を奪わば、則《すなわ》ち其の怨《うらみ》を起すこと、漢の七国、晋の諸王の如くならん。然らざれば則《すなわ》ち険《けん》を恃《たの》みて衡《こう》を争い、然らざれば則ち衆を擁して入朝し、甚《はなはだ》しければ則ち間《かん》に縁《よ》りて而して起《た》たんに、之を防ぐも及ぶ無からん。孝景《こうけい》皇帝は漢の高帝の孫也、七国の王は皆景帝の同宗《どうそう》父兄弟《ふけいてい》子孫《しそん》なり。然るに当時一たび其地を削れば則ち兵を構えて西に向えり。晋の諸王は、皆武帝の親子孫《しんしそん》なり。然るに世を易《か》うるの後は迭《たがい》に兵を擁して、以て皇帝を危《あやう》くせり。昔は賈誼《かぎ》漢の文帝に勧めて、禍を未萌《みぼう》に防ぐの道を白《もう》せり。願わくば今|先《ま》ず諸王の都邑《とゆう》の制を節し、其の衛兵を減じ、其の彊里《きょうり》を限りたまえと。居升《きょしょう》の言はおのずから理あり、しかも太祖は太祖の慮あり。其の説くところ、正《まさ》に太祖の思えるところに反すれば、太祖甚だ喜びずして、居升を獄中《ごくちゅう》に終るに至らしめ給いぬ。居升の上書の後二十余年、太祖崩じて建文帝立ちたもうに及び、居升の言、不幸にして験《しるし》ありて、漢の七国の喩《たとえ》、眼《ま》のあたりの事となれるぞ是非無き。
 七国の事、七国の事、嗚呼《ああ》是れ何ぞ明室《みんしつ》と因縁の深きや。葉居升《しょうきょしょう》の上書の出《い》ずるに先だつこと九年、洪武元年十一月の事なりき、太祖宮中に大本堂《たいほんどう》というを建てたまい、古今《ここん》の図書を充《み》て、儒臣をして太子および諸王に教授せしめらる。起居注《ききょちゅう》の魏観《ぎかん》字《あざな》は※[#「木+巳」、256-9]山《きざん》というもの、太子に侍して書を説きけるが、一日太祖太子に問いて、近ごろ儒臣経史の何事を講ぜるかとありけるに、太子、昨日は漢書《かんじょ》の七図漢に叛《そむ》ける事を講じ聞《きか》せたりと答え白《もう》す。それより談は其事の上にわたりて、太祖、その曲直は孰《いずれ》に在りやと問う。太子、曲は七国に在りと承りぬと対《こた》う。時に太祖|肯《がえん》ぜずして、否《あらず》、其《そ》は講官の偏説なり。景帝《けいてい》太子たりし時、博局《はくきょく》を投じて呉王《ごおう》の世子《せいし》を殺したることあり、帝となるに及びて、晁錯《ちょうさく》の説を聴きて、諸侯の封《ほう》を削りたり、七国の変は実に此《これ》に由る。諸子の為《ため》に此《この》事を講ぜんには、藩王たるものは、上は天子を尊み、下は百姓《ひゃくせい》を撫《ぶ》し、国家の藩輔《はんぽ》となりて、天下の公法を撓《みだ》す無かれと言うべきなり、此《かく》の如くなれば則ち太子たるものは、九族を敦睦《とんぼく》し、親しきを親しむの恩を隆《さか》んにすることを知り、諸子たるものは、王室を夾翼《きょうよく》し、君臣の義を尽すことを知らん、と評論したりとなり。此《こ》の太祖の言は、正《まさ》に是れ太祖が胸中の秘を発せるにて、夙《はや》くより此《この》意ありたればこそ、其《それ》より二年ほどにして、洪武三年に、※[#「木+爽」、UCS-6A09、257-9]《そう》、棡《こう》、棣《てい》、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、257-9]《しゅく》、※[#「木+貞」、第3水準1-85-88]《てい》、榑《ふ》、梓《しん》、檀《たん》、※[#「木+巳」、257-10]《き》の九子を封じて、秦《しん》晋《しん》燕《えん》周《しゅう》等に王とし、其《その》甚《はなはだ》しきは、生れて甫《はじ》めて二歳、或《あるい》は生れて僅《わずか》に二ヶ月のものをすら藩王とし、次《つ》いで洪武十一年、同二十四年の二回に、幼弱の諸子をも封じたるなれ、而《しこう》して又|夙《はや》くより此意ありたればこそ、葉居升《しょうきょしょう》が上言に深怒して、これを獄死せしむるまでには至りたるなれ。しかも太祖が懿文《いぶん》太子に、七国反漢の事を喩《さと》したりし時は、建文帝未だ生れず。明の国号はじめて立ちしのみ。然るに何ぞ図らん此の俊徳成功の太祖が熟慮遠謀して、斯《か》ばかり思いしことの、其《その》身《み》死すると共に直《ただち》に禍端乱階《かたんらんかい》となりて、懿文《いぶん》の子の允※[#「火+文」、第4水準2-79-61]《いんぶん》、七国反漢の古《いにしえ》を今にして窘《くるし》まんとは。不世出の英雄|朱元璋《しゅげんしょう》も、命《めい》といい数《すう》というものゝ前には、たゞ是《これ》一片の落葉秋風に舞うが如きのみ。
 七国の事、七国の事、嗚呼何ぞ明室と因縁の深きや。洪武二十五年九月、懿文太子の後を承《う》けて其《その》御子《おんこ》允※[#「火+文」、第4水準2-79-61]皇太孫の位に即《つ》かせたもう。継紹《けいしょう》の運まさに是《かく》の如くなるべきが上に、下《しも》は四海の心を繋《か》くるところなり。上《かみ》は一|人《にん》の命《めい》を宣したもうところなり、天下皆喜びて、皇室万福と慶賀したり。太孫既に立ちて皇太孫となり、明らかに皇儲《こうちょ》となりたまえる上は、齢《よわい》猶《なお》弱くとも、やがて天下の君たるべく、諸王|或《あるい》は功あり或は徳ありと雖《いえど》も、遠からず俯首《ふしゅ》して命《めい》を奉ずべきなれば、理に於《おい》ては当《まさ》に之《これ》を敬すべきなり。されども諸王は積年の威を挟《はさ》み、大封の勢《いきおい》に藉《よ》り、且《かつ》は叔父《しゅくふ》の尊きを以《もっ》て、不遜《ふそん》の事の多かりければ、皇太孫は如何《いか》ばかり心苦しく厭《いと》わしく思いしみたりけむ。一日《いちじつ》東角門《とうかくもん》に坐して、侍読《じどく》の太常卿《たいじょうけい》黄子澄《こうしちょう》というものに、諸王|驕慢《きょうまん》の状を告げ、諸《しょ》叔父《しゅくふ》各大封|重兵《ちょうへい》を擁し、叔父の尊きを負《たの》みて傲然《ごうぜん》として予に臨む、行末《ゆくすえ》の事も如何《いかが》あるべきや、これに処し、これを制するの道を問わんと曰《のたま》いたもう。子澄名は※[#「さんずい+是」、第3水準1-86-90]《てい》、分宜《ぶんぎ》の人、洪武十八年の試に第一を以て及第したりしより累進してこゝに至れるにて、経史に通暁せるはこれ有りと雖《いえど》も、世故《せいこ》に練達することは未《いま》だ足らず、侍読の身として日夕奉侍すれば、一意たゞ太孫に忠ならんと欲して、かゝる例は其《その》昔にも見えたり、但し諸王の兵多しとは申せ、もと護衛の兵にして纔《わずか》に身ずから守るに足るのみなり、何程の事かあらん、漢の七国を削るや、七国|叛《そむ》きたれども、間も無く平定したり、六師一たび臨まば、誰《たれ》か能《よ》く之を支えん、もとより大小の勢、順逆の理、おのずから然るもの有るなり、御心《みこころ》安く思召《おぼしめ》せ、と七国の古《いにしえ》を引きて対《こた》うれば、太孫は子澄が答を、げに道理《もっとも》なりと信じたまいぬ。太孫|猶《なお》齢《とし》若く、子澄未だ世に老いず、片時《へんじ》の談、七国の論、何ぞ図《はか》らん他日山崩れ海|湧《わ》くの大事を生ぜんとは。
 太祖の病は洪武三十一年五月に起りて、同《どう》閏《うるう》五月|西宮《せいきゅう》に崩ず。其《その》遺詔こそは感ずべく考うべきこと多けれ。山戦野戦又は水戦、幾度《いくたび》と無く畏《おそ》るべき危険の境を冒して、無産無官又|無家《むか》、何等《なんら》の恃《たの》むべきをも有《も》たぬ孤独の身を振い、終《つい》に天下を一統し、四海に君臨し、心を尽して世を治め、慮《おも》[#ルビの「おも」は底本では「おもい」]い竭《つく》して民を済《すく》い、而《しこう》して礼を尚《たっと》び学を重んじ、百|忙《ぼう》の中《うち》、手に書を輟《や》めず、孔子の教《おしえ》を篤信し、子《し》は誠に万世の師なりと称して、衷心より之を尊び仰ぎ、施政の大綱、必ず此《これ》に依拠し、又|蚤歳《そうさい》にして仏理に通じ、内典を知るも、梁《りょう》の武帝の如く淫溺《いんでき》せず、又|老子《ろうし》を愛し、恬静《てんせい》を喜び、自《みず》から道徳経註《どうとくけいちゅう》二巻を撰《せん》し、解縉《かいしん》をして、上疏《じょうそ》の中に、学の純ならざるを譏《そし》らしむるに至りたるも、漢の武帝の如く神仙を好尚《こうしょう》せず、嘗《かつ》て宗濂《そうれん》に謂《い》って、人君|能《よ》く心を清くし欲を寡《すくな》くし、民をして田里に安んじ、衣食に足り、熈々※[#「白+皐」、第4水準2-81-80]々《ききこうこう》として自《みずか》ら知らざらしめば、是れ即ち神仙なりと曰《い》い、詩文を善《よ》くして、文集五十巻、詩集五巻を著《あらわ》せるも、※[#「澹のつくり」、第3水準1-92-8]同《せんどう》と文章を論じては、文はたゞ誠意|溢出《いっしゅつ》するを尚《たっと》ぶと為し、又洪武六年九月には、詔《みことのり》して公文に対偶文辞《たいぐうぶんじ》を用いるを禁じ、無益の彫刻|藻絵《そうかい》を事とするを遏《とど》めたるが如き、まことに通ずること博《ひろ》くして拘《とら》えらるゝこと少《すくな》く、文武を兼《か》ねて有し、智有を併《あわ》せて備え、体験心証皆富みて深き一大偉人たる此の明の太祖、開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高《かいてんこうどうちょうきりつきょくたいせいししんじんぶんぎぶしゅんとくせいこうこう》皇帝の諡号《しごう》に負《そむ》かざる朱元璋《しゅげんしょう》、字《あざな》は国瑞《こくずい》の世《よ》を辞《じ》して、其《その》身は地に入り、其|神《しん》は空《くう》に帰せんとするに臨みて、言うところ如何《いかん》。一鳥の微《び》なるだに、死せんとするや其声人を動かすと云わずや。太祖の遺詔感ず可《べ》く考う可《べ》きもの無からんや。遺詔に曰く、朕《ちん》皇天の命を受けて、大任に世に膺《あた》ること、三十有一年なり、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき。奈何《いかん》せん寒微《かんび》より起りて、古人の博智無く、善を好《よみ》し悪を悪《にく》むこと及ばざること多し。今年七十有一、筋力衰微し、朝夕|危懼《きく》す、慮《はか》るに終らざることを恐るのみ。今万物自然の理を得《う》、其《そ》れ奚《いずく》んぞ哀念かこれ有らん。皇太孫|允※[#「火+文」、第4水準2-79-61]《いんぶん》、仁明孝友にして、天下心を帰す、宜《よろ》しく大位に登るべし。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐《ほゆう》し、以《もっ》て吾《わ》が民を福《さいわい》せよ。葬祭の儀は、一に漢の文帝の如くにして異《こと》にする勿《なか》れ。天下に布告して、朕が意を知らしめよ。孝陵の山川《さんせん》は、其の故《ふるき》に因りて改むる勿《なか》れ、天下の臣民は、哭臨《こくりん》する三日にして、皆服を釈《と》き、嫁娶《かしゅ》を妨ぐるなかれ。諸王は国中に臨《なげ》きて、京師に至る母《なか》れ。諸《もろもろ》の令の中《うち》に在らざる者は、此令を推して事に従えと。
 嗚呼《ああ》、何ぞ其言の人を感ぜしむること多きや。大任に膺《あた》ること、三十一年、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき、と云えるは、真に是《こ》れ帝王の言にして、堂々正大の気象、靄々仁恕《あいあいじんじょ》の情景、百歳の下《しも》、人をして欽仰《きんごう》せしむるに足るものあり。奈何《いかん》せん寒微より起りて、智浅く徳|寡《すくな》し、といえるは、謙遜《けんそん》の態度を取り、反求《はんきゅう》の工夫に切に、諱《い》まず飾らざる、誠に美とすべし。今年七十有一、死|旦夕《たんせき》に在り、といえるは、英雄も亦《また》大限《たいげん》の漸《ようや》く逼《せま》るを如何《いかん》ともする無き者。而して、今万物自然の理を得、其れ奚《いずく》にぞ哀念かこれ有らん、と云《い》える、流石《さすが》に孔孟仏老《こうもうぶつろう》の教《おしえ》に於《おい》て得るところあるの言なり。酒後に英雄多く、死前に豪傑|少《すくな》きは、世間の常態なるが、太祖は是れ真《しん》豪傑、生きて長春不老の癡想《ちそう》を懐《いだ》かず、死して万物自然の数理に安んぜんとす。従容《しょうよう》として逼《せま》らず、晏如《あんじょ》として※[#「りっしんべん+易」、第3水準1-84-53]《おそ》れず、偉なる哉《かな》、偉なる哉。皇太孫|允※[#「火+文」、第4水準2-79-61]《いんぶん》、宜しく大位に登るべし、と云えるは、一|言《げん》や鉄の鋳られたるが如《ごと》し。衆論の糸の紛《もつ》るゝを防ぐ。これより前《さき》、太孫の儲位《ちょい》に即《つ》くや、太祖太孫を愛せざるにあらずと雖《いえど》も、太孫の人となり仁孝|聡頴《そうえい》にして、学を好み書を読むことはこれ有り、然も勇壮果決の意気は甚《はなは》だ欠く。此《これ》を以て太祖の詩を賦せしむるごとに、其《その》詩|婉美柔弱《えんびじゅうじゃく》、豪壮|瑰偉《かいい》の処《ところ》無く、太祖多く喜ばず。一日太孫をして詞句《しく》の属対《ぞくたい》をなさしめしに、大《おおい》に旨《し》に称《かな》わず、復《ふたた》び以て燕王《えんおう》棣《てい》に命ぜられけるに、燕王の語は乃《すなわ》ち佳なりけり。燕王は太祖の第四子、容貌《ようぼう》偉《い》にして髭髯《しぜん》美《うる》わしく、智勇あり、大略あり、誠を推して人に任じ、太祖[#「太祖」は底本では「大祖」]に肖《に》たること多かりしかば、太祖も此《これ》を悦《よろこ》び、人も或《あるい》は意《こころ》を寄するものありたり。此《ここ》に於《おい》て太祖|密《ひそか》に儲位《ちょい》を易《か》えんとするに意《い》有りしが、劉三吾《りゅうさんご》之《これ》を阻《はば》みたり。三吾は名は如孫《じょそん》、元《げん》の遺臣なりしが、博学にして、文を善《よ》くしたりければ、洪武十八年召されて出《い》でゝ仕えぬ。時に年七十三。当時|汪叡《おうえい》、朱善《しゅぜん》と与《とも》に、世《よ》称して三|老《ろう》と為《な》す。人となり慷慨《こうがい》にして城府を設けず、自ら号して坦坦翁《たんたんおう》といえるにも、其の風格は推知すべし。坦坦翁、生平《せいへい》実に坦坦、文章学術を以て太祖に仕え、礼儀の制、選挙の法を定むるの議に与《あずか》りて定むる所多く、帝の洪範《こうはん》の注成るや、命を承《う》けて序を為《つく》り、勅修《ちょくしゅう》の書、省躬録《せいきゅうろく》、書伝会要《しょでんかいよう》、礼制集要《れいせいしゅうよう》等の編撰《へんせん》総裁となり、居然《きょぜん》たる一宿儒を以て、朝野の重んずるところたり。而して大節《たいせつ》に臨むに至りては、屹《きつ》として奪う可《べ》からず。懿文《いぶん》太子の薨《こう》ずるや、身を挺《ぬき》んでゝ、皇孫は世嫡《せいちゃく》なり、大統を承《う》けたまわんこと、礼|也《なり》、と云いて、内外の疑懼《ぎく》を定め、太孫を立てゝ儲君《ちょくん》となせし者は、実に此の劉三吾たりしなり。三吾太祖の意を知るや、何ぞ言《げん》無からん、乃《すなわ》ち曰《いわ》く、若《も》し燕王を立て給《たま》わば秦王《しんおう》晋王《しんおう》を何の地に置き給わんと。秦王|※[#「木+爽」、UCS-6A09、265-7]《そう》、晋王|棡《こう》は、皆燕王の兄たり。孫《そん》を廃して子《し》を立つるだに、定まりたるを覆《かえ》すなり、まして兄を越して弟を君とするは序を乱るなり、世《よ》豈《あに》事無くして已《や》まんや、との意は言外に明らかなりければ、太祖も英明絶倫の主なり、言下に非を悟りて、其《その》事|止《や》みけるなり。是《かく》の如き事もありしなれば、太祖みずから崩後の動揺を防ぎ、暗中の飛躍を遏《とど》めて、特《こと》に厳しく皇太孫允※[#「火+文」、第4水準2-79-61]|宜《よろ》しく大位に登るべしとは詔を遺《のこ》されたるなるべし。太祖の治《ち》を思うの慮《りょ》も遠く、皇孫を愛するの情も篤《あつ》しという可し。葬祭の儀は、漢の文帝の如《ごと》くせよ、と云える、天下の臣民は哭臨《こくりん》三日にして服を釈《と》き、嫁娶《かしゅ》を妨ぐる勿《なか》れ、と云える、何ぞ倹素《けんそ》にして仁恕《じんじょ》なる。文帝の如くせよとは、金玉《きんぎょく》を用いる勿れとなり。孝陵の山川は其の故《もと》に因れとは、土木を起す勿れとなり。嫁娶を妨ぐる勿れとは、民をして福《さいわい》あらしめんとなり。諸王は国中に臨《なげ》きて、京に至るを得る無かれ、と云えるは、蓋《けだ》し其《その》意《い》諸王其の封を去りて京に至らば、前代の遺※[#「薛/子」、第3水準1-47-55]《いげつ》、辺土の黠豪《かつごう》等、或《あるい》は虚に乗じて事を挙ぐるあらば、星火も延焼して、燎原《りょうげん》の勢を成すに至らんことを虞《おそ》るるに似たり。此《こ》も亦《また》愛民憂世の念、おのずから此《ここ》に至るというべし。太祖の遺詔、嗚呼《ああ》、何ぞ人を感ぜしむるの多きや。

 然《しか》りと雖《いえど》も、太祖の遺詔、考う可《べ》きも亦《また》多し。皇太孫|允※[#「火+文」、第4水準2-79-61]《いんぶん》、天下心を帰す、宜《よろ》しく大位に登るべし、と云《い》えるは、何ぞや。既に立って皇太孫となる。遺詔無しと雖も、当《まさ》に大位に登るべきのみ。特に大位に登るべしというは、朝野の間、或《あるい》は皇太孫の大位に登らざらんことを欲する者あり、太孫の年|少《わか》く勇《ゆう》乏しき、自ら謙譲して諸王の中《うち》の材雄に略大なる者に位を遜《ゆず》らんことを欲する者ありしが如《ごと》きをも猜《すい》せしむ。仁明孝友、天下心を帰す、と云えるは、何ぞや。明《みん》の世を治むる、纔《わずか》に三十一年、元《げん》の裔《えい》猶《なお》未《いま》だ滅びず、中国に在るもの無しと雖《いえど》も、漠北《ばくほく》に、塞西《さいせい》に、辺南《へんなん》に、元の同種の広大の地域を有して※[#「足へん+番」、第4水準2-89-49]踞《ばんきょ》するもの存し、太祖崩じて後二十余年にして猶大に興和《こうわ》に寇《あだ》するあり。国外の情《じょう》是《かく》の如し。而《しこう》して域内の事、また英主の世を御せんことを幸《さいわい》とせずんばあらず。仁明孝友は固《もと》より尚《たっと》ぶべしと雖も、時勢の要するところ、実は雄材大略なり。仁明孝友、天下心を帰するというと雖も、或《あるい》は恐る、天下を十にして其の心を帰する者七八に過ぎざらんことを。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐《ほゆう》し、以《もっ》て吾《わ》が民を福《さいわい》せよ、といえるは、文武臣僚の中、心を同じゅうせざる者あるを懼《おそ》るゝに似たり。太祖の心、それ安んぜざる有る耶《か》、非《ひ》耶《か》。諸王は国中に臨《なげ》きて京《けい》に至るを得る無かれ、と云えるは、何ぞや。諸王の其《その》封国《ほうこく》を空《むな》しゅうして奸※[#「敖/馬」、UCS-9A41、268-4]《かんごう》の乗ずるところとならんことを虞《おそ》るというも、諸王の臣、豈《あに》一時を托《たく》するに足る者無からんや。子の父の葬《そう》に趨《はし》るは、おのずから是《こ》れ情なり、是れ理なり、礼にあらず道にあらずと為《な》さんや。諸王をして葬に会せざらしむる詔《みことのり》は、果して是れ太祖の言に出《い》づるか。太祖にして此《この》詔を遺《のこ》すとせば、太祖ひそかに其《そ》の斥《しりぞ》けて聴かざりし葉居升《しょうきょしょう》の言の、諸王衆を擁して入朝し、甚《はなはだ》しければ則《すなわ》ち間《かん》に縁《よ》りて起《た》たんに、之《これ》を防ぐも及ぶ無き也《なり》、と云えるを思えるにあらざる無きを得んや。嗚呼《ああ》子にして父の葬に会するを得ず、父の意《い》なりと謂《い》うと雖も、子よりして論ずれば、父の子を待つも亦《また》疎《そ》にして薄きの憾《うらみ》無くんばあらざらんとす。詔或は時勢に中《あた》らん、而《しか》も実に人情に遠いかな。凡《およ》そ施為《しい》命令謀図言義を論ぜず、其の人情に遠きこと甚《はなはだ》しきものは、意は善なるも、理は正しきも、計《けい》は中《あた》るも、見《けん》は徹するも、必らず弊に坐《ざ》し凶を招くものなり。太祖の詔、可なることは則《すなわ》ち可なり、人情には遠し、これより先に洪武十五年|高《こう》皇后の崩ずるや、奏《しん》王|晋《しん》王|燕《えん》王等皆国に在り、然《しか》れども諸王|喪《も》に奔《はし》りて京《けい》に至り、礼を卒《お》えて還れり。太祖の崩ぜると、其|后《きさき》の崩ぜると、天下の情勢に関すること異なりと雖も、母の喪には奔りて従うを得て、父の葬には入りて会するを得ざらしむ。此《これ》も亦人を強いて人情に遠きを為《な》さしむるものなり。太祖の詔、まことに人情に遠し。豈《あに》弊を生じ凶を致す無からんや。果して事端《じたん》は先《ま》ずこゝに発したり。崩を聞いて諸王は京に入らんとし、燕王は将《まさ》に淮安《わいあん》に至らんとせるに当りて、斉泰《せいたい》は帝に言《もう》し、人をして※[#「來+力」、第4水準2-3-41]《ちょく》を賚《もた》らして国に還《かえ》らしめぬ。燕王を首《はじめ》として諸王は皆|悦《よろこ》ばず。これ尚書《しょうしょ》斉泰《せいたい》の疎間《そかん》するなりと謂《い》いぬ。建文帝は位に即《つ》きて劈頭《へきとう》第一に諸王をして悦ばざらしめぬ。諸王は帝の叔父《しゅくふ》なり、尊族なり、封土《ほうど》を有し、兵馬民財を有せる也。諸王にして悦ばざるときは、宗家の枝柯《しか》、皇室の藩屏《はんぺい》たるも何かあらん。嗚呼《ああ》、これ罪斉泰にあるか、建文帝にあるか、抑《そも》又遺詔にあるか、諸王にあるか、之《これ》を知らざる也。又|飜《ひるがえ》って思うに、太祖の遺詔に、果して諸王の入臨を止《とど》むるの語ありしや否や。或《あるい》は疑う、太祖の人情に通じ、世故《せいこ》に熟せる、まさに是《かく》の如きの詔を遺《のこ》さゞるべし。若《も》し太祖に果して登遐《とうか》の日に際して諸王の葬に会するを欲せざらば、平生無事従容の日、又は諸王の京を退きて封に就《つ》くの時に於《おい》て、親しく諸王に意を諭すべきなり。然らば諸王も亦《また》発駕奔喪《はつがほんそう》の際に於て、半途にして擁遏《ようかつ》せらるゝの不快事に会う無く、各※[#二の字点、1-2-22]《おのおの》其《その》封に於て哭臨《こくりん》して、他を責むるが如きこと無かるべきのみ。太祖の智にして事|此《ここ》に出《い》でず、詔を遺して諸王の情を屈するは解す可《べ》からず。人の情屈すれば則《すなわ》ち悦ばず、悦ばざれば則ち怨《うらみ》を懐《いだ》き他を責むるに至る。怨を懐き他を責むるに至れば、事無きを欲するも得べからず。太祖の人情に通ぜる何ぞ之《これ》を知るの明《めい》無からん。故に曰《いわ》く、太祖の遺詔に、諸王の入臨を止《とど》むる者は、太祖の為すところにあらず、疑うらくは斉泰|黄子澄《こうしちょう》の輩の仮託するところならんと。斉泰の輩、もとより諸王の帝に利あらざらんことを恐る、詔を矯《た》むるの事も、世其例に乏しからず、是《かく》の如きの事、未だ必ずしも無きを保《ほ》せず。然れども是《こ》れ推測の言のみ。真《しん》耶《か》、偽《ぎ》耶《か》、太祖の失か、失にあらざるか、斉泰の為《い》か、為にあらざる耶《か》、将又《はたまた》斉泰、遺詔に托して諸王の入京会葬を遏《とど》めざる能《あた》わざるの勢の存せしか、非|耶《か》。建文永楽の間《かん》、史に曲筆多し、今|新《あらた》に史徴を得るあるにあらざれば、疑《うたがい》を存せんのみ、確《たしか》に知る能《あた》わざる也。

 太祖の崩ぜるは閏《うるう》五月なり、諸王の入京《にゅうけい》を遏《とど》められて悦《よろこ》ばずして帰れるの後、六月に至って戸部侍郎《こぶじろう》卓敬《たくけい》というもの、密疏《みっそ》を上《たてまつ》る。卓敬|字《あざな》は惟恭《いきょう》、書を読んで十行|倶《とも》に下ると云《い》われし頴悟聡敏《えいごそうびん》の士、天文地理より律暦兵刑に至るまで究《きわ》めざること無く、後に成祖《せいそ》をして、国家|士《し》を養うこと三十年、唯《ただ》一卓敬を得たりと歎《たん》ぜしめしほどの英才なり。※[#「魚+更」、第3水準1-94-42]直慷慨《こうちょくこうがい》にして、避くるところ無し。嘗《かつ》て制度|未《いま》だ備わらずして諸王の服乗《ふくじょう》も太子に擬せるを見、太祖に直言して、嫡庶《ちゃくしょ》相《あい》乱《みだ》り、尊卑序無くんば、何を以《もっ》て天下に令せんや、と説き、太祖をして、爾《なんじ》の言《げん》是《ぜ》なり、と曰《い》わしめたり。其《そ》の人となり知る可《べ》きなり。敬の密疏は、宗藩《そうはん》を裁抑《さいよく》して、禍根を除かんとなり。されども、帝は敬の疏を受けたまいしのみにて、報じたまわず、事|竟《つい》に寝《や》みぬ。敬の言、蓋《けだ》し故無くして発せず、必らず窃《ひそか》に聞くところありしなり。二十余年前の葉居升《しょうきょしょう》が言は、是《ここ》に於《おい》て其《その》中《あた》れるを示さんとし、七国の難は今|将《まさ》に発せんとす。燕《えん》王、周《しゅう》王、斉《せい》王、湘《しょう》王、代《だい》王、岷《みん》王等、秘信相通じ、密使|互《たがい》に動き、穏やかならぬ流言ありて、朝《ちょう》に聞えたり。諸王と帝との間、帝は其《そ》の未《いま》だ位に即《つ》かざりしより諸王を忌憚《きたん》し、諸王は其の未だ位に即かざるに当って儲君《ちょくん》を侮り、叔父《しゅくふ》の尊を挟《さしば》んで不遜《ふそん》の事多かりしなり。入京会葬を止《とど》むるの事、遺詔に出《い》づと云うと雖《いえど》も、諸王、責《せめ》を讒臣《ざんしん》に托《たく》して、而《しこう》して其の奸悪《かんあく》を除《のぞ》かんと云い、香《こう》を孝陵《こうりょう》に進めて、而して吾が誠実を致さんと云うに至っては、蓋《けだ》し辞柄《じへい》無きにあらず。諸王は合同の勢あり、帝は孤立の状あり。嗚呼《ああ》、諸王も疑い、帝も疑う、相疑うや何ぞ※[#「目+癸」、第4水準2-82-11]離《かいり》せざらん。帝も戒め、諸王も戒む、相戒むるや何ぞ疎隔《そかく》せざらん。疎隔し、※[#「目+癸」、第4水準2-82-11]離す、而して帝の為《ため》に密《ひそか》に図るものあり、諸王の為に私《ひそか》に謀るものあり、況《いわ》んや藩王を以《もっ》て天子たらんとするものあり、王を以て皇となさんとするものあるに於《おい》てをや。事|遂《つい》に決裂せずんば止《や》まざるものある也。
 帝の為《ため》に密《ひそか》に図る者をば誰《たれ》となす。曰《いわ》く、黄子澄《こうしちょう》となし、斉泰《せいたい》となす。子澄は既に記しぬ。斉泰は※[#「さんずい+栗」、第4水準2-79-2]水《りっすい》の人、洪武十七年より漸《ようや》く世に出《い》づ。建文帝|位《くらい》に即きたもうに及び、子澄と与《とも》に帝の信頼するところとなりて、国政に参す。諸王の入京会葬を遏《とど》めたる時の如き、諸王は皆|謂《おも》えらく、泰皇考《たいこうこう》の詔を矯《た》めて骨肉を間《へだ》つと。泰の諸王の憎むところとなれる、知るべし。
 諸王の為に私《ひそか》に謀る者を誰となす。曰く、諸王の雄《ゆう》を燕王となす。燕王の傅《ふ》に、僧|道衍《どうえん》あり。道衍は僧たりと雖《いえど》[#ルビの「いえど」は底本では「いえども」]も、灰心滅智《かいしんめっち》の羅漢《らかん》にあらずして、却《かえ》って是《こ》れ好謀善算の人なり。洪武二十八年、初めて諸王の封国に就《つ》く時、道衍|躬《み》ずから薦《すす》めて燕王の傅《ふ》とならんとし、謂《い》って曰く、大王《だいおう》臣をして侍するを得せしめたまわば、一白帽《いちはくぼう》を奉りて大王がために戴《いただ》かしめんと。王上《おうじょう》に白《はく》を冠すれば、其《その》文《ぶん》は皇なり、儲位《ちょい》明らかに定まりて、太祖未だ崩ぜざるの時だに、是《かく》の如《ごと》きの怪僧ありて、燕王が為に白帽を奉らんとし、而《しこう》して燕王|是《かく》の如きの怪僧を延《ひ》いて帷※[#「巾+莫」、UCS-5E59、274-11]《いばく》の中に居《お》く。燕王の心胸もとより清からず、道衍の瓜甲《そうこう》も毒ありというべし。道衍|燕邸《えんてい》に至るに及んで袁※[#「王+共」、第3水準1-87-92]《えんこう》を王に薦む。袁※[#「王+共」、第3水準1-87-92]は字《あざな》は廷玉《ていぎょく》、※[#「覲」の「見」に代えて「おおざと」、第4水準2-90-26]《きん》の人にして、此《これ》亦《また》一種の異人なり。嘗《かつ》て海外に遊んで、人を相《そう》するの術を別古崖《べつこがい》というものに受く。仰いで皎日《こうじつ》を視《み》て、目|尽《ことごと》く眩《げん》して後、赤豆《せきとう》黒豆《こくとう》を暗室中に布《し》いて之を弁《べん》じ、又五色の縷《いと》を窓外に懸け、月に映じて其《その》色を別って訛《あやま》つこと無く、然《しか》して後に人を相す。其法は夜中を以て両炬《りょうきょ》を燃《もや》し、人の形状|気色《きしょく》を視《み》て、参するに生年|月日《げつじつ》を以てするに、百に一|謬《びょう》無く、元末より既に名を天下に馳《は》せたり。其の道衍《どうえん》と識《し》るに及びたるは、道衍が嵩山寺《すうざんじ》に在りし時にあり。袁※[#「王+共」、第3水準1-87-92]《えんこう》道衍が相をつく/″\と観《み》て、是《こ》れ何ぞ異僧なるや、目は三角あり、形は病虎《びょうこ》の如し。性|必《かな》らず殺を嗜《たしな》まん。劉秉忠《りゅうへいちゅう》の流《りゅう》なりと。劉秉忠は学《がく》内外を兼ね、識《しき》三才を綜《す》ぶ、釈氏《しゃくし》より起《おこ》って元主を助け、九州を混一《こんいつ》し、四海を併合す。元の天下を得る、もとより其の兵力に頼《よ》ると雖も、成功の速疾なるもの、劉の揮※[#「てへん+霍」、UCS-6509、275-10]《きかく》の宜《よろ》しきを得るに因《よ》るもの亦《また》鮮《すくな》からず。秉忠は実に奇偉卓犖《きいたくらく》の僧なり。道衍秉忠の流なりとなさる、まさに是れ癢処《ようしょ》に爬着《はちゃく》するもの。是れより二人、友とし善《よ》し。道衍の※[#「王+共」、第3水準1-87-92]《こう》を燕王に薦むるに当りてや、燕王|先《ま》ず使者をして※[#「王+共」、第3水準1-87-92]《こう》と与《とも》に酒肆《しゅし》に飲ましめ、王みずから衛士の儀表堂々たるもの九人に雑《まじ》わり、おのれ亦《また》衛士の服を服し、弓矢《きゅうし》を執《と》りて肆中《しちゅう》に飲む。※[#「王+共」、第3水準1-87-92]一見して即《すなわ》ち趨《はし》って燕王の前に拝して曰《いわ》く、殿下何ぞ身を軽んじて此《ここ》に至りたまえると。燕王等笑って曰く、吾輩《わがはい》皆護衛の士なりと。※[#「王+共」、第3水準1-87-92]|頭《こうべ》を掉《ふ》って是《ぜ》とせず。こゝに於て王|起《た》って入り、※[#「王+共」、第3水準1-87-92]を宮中に延《ひ》きて詳《つばら》に相《そう》せしむ。※[#「王+共」、第3水準1-87-92]|諦視《ていし》すること良《やや》久しゅうして曰《いわ》く、殿下は龍行虎歩《りゅうこうこほ》したまい、日角《にっかく》天を挿《さしはさ》む、まことに異日太平の天子にておわします。御年《おんとし》四十にして、御鬚《おんひげ》臍《へそ》を過《す》ぎさせたもうに及ばせたまわば、大宝位《たいほうい》に登らせたまわんこと疑《うたがい》あるべからず、と白《もう》す。又|燕府《えんふ》の将校官属を相せしめたもうに、※[#「王+共」、第3水準1-87-92]一々指点して曰く、某《ぼう》は公《こう》たるべし、某は侯《こう》たるべし、某は将軍たるべし、某は貴官たるべしと。燕王|語《ことば》の洩《も》れんことを慮《はか》り、陽《うわべ》に斥《しりぞ》けて通州《つうしゅう》に至らしめ、舟路《しゅうろ》密《ひそか》に召して邸《てい》に入る。道衍は北平《ほくへい》の慶寿寺《けいじゅじ》に在り、※[#「王+共」、第3水準1-87-92]は燕府《えんふ》に在り、燕王と三人、時々人を屏《しりぞ》けて語る。知らず其の語るところのもの何ぞや。※[#「王+共」、第3水準1-87-92]は柳荘居士《りゅうそうこじ》と号す。時に年|蓋《けだ》し七十に近し。抑《そも》亦《また》何の欲するところあって燕王に勧めて反せしめしや。其子|忠徹《ちゅうてつ》の伝うるところの柳荘相法、今に至って猶《なお》存し、風鑑《ふうかん》の津梁《しんりょう》たり。※[#「王+共」、第3水準1-87-92]と永楽帝と答問するところの永楽百問の中《うち》、帝鬚《ていしゅ》の事を記す。相法三巻、信ぜざるものは、目して陋書《ろうしょ》となすと雖も、尽《ことごと》く斥《しりぞ》く可《べ》からざるものあるに似たり。忠徹も家学を伝えて、当時に信ぜらる。其の著《あら》わすところ、今古識鑑《ここんしきかん》八巻ありて、明志《みんし》採録す。予《よ》未だ寓目《ぐうもく》せずと雖も、蓋《けだ》し藻鑑《そうかん》の道を説く也。※[#「王+共」、第3水準1-87-92]と忠徹と、偕《とも》に明史|方伎伝《ほうぎでん》に見ゆ。※[#「王+共」、第3水準1-87-92]の燕王に見《まみ》ゆるや、鬚《ひげ》長じて臍《へそ》を過《す》ぎなば宝位に登らんという。燕王笑って曰く、吾《わ》が年|将《まさ》に四旬ならんとす、鬚|豈《あに》能《よ》く復《また》長ぜんやと。道衍こゝに於て金忠《きんちゅう》というものを薦《すす》む。金忠も亦|※[#「覲」の「見」に代えて「おおざと」、第4水準2-90-26]《きん》の人なり、少《わか》くして書を読み易《えき》に通ず。卒伍《そつご》に編せらるゝに及び、卜《ぼく》を北平《ほくへい》に売る。卜多く奇中して、市人伝えて以て神《しん》となす。燕王忠をして卜せしむ。忠卜して卦《け》を得て、貴きこと言う可からずという。燕王の意|漸《ようや》くにして固《かた》し。忠|後《のち》に仕えて兵部尚書《ひょうぶしょうしょ》を以て太子《たいし》監国《かんこく》に補せらるゝに至る。明史巻百五十に伝あり。蓋し亦一異人なり。

 帝の側《かたえ》には黄子澄《こうしちょう》斉泰《せいたい》あり、諸藩を削奪《さくだつ》するの意、いかでこれ無くして已《や》まん。燕王《えんおう》の傍《かたえ》には僧|道衍《どうえん》袁※[#「王+共」、第3水準1-87-92]《えんこう》あり、秘謀を※[#「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88]醸《うんじょう》するの事、いかでこれ無くして已まん。二者の間、既に是《かく》の如《ごと》し、風声鶴唳《ふうせいかくれい》、人|相《あい》驚かんと欲し、剣光|火影《かえい》、世|漸《ようや》く将《まさ》に乱れんとす。諸王不穏の流言、朝《ちょう》に聞ゆること頻《しきり》なれば、一日帝は子澄を召したまいて、先生、疇昔《ちゅうせき》の東角門《とうかくもん》の言を憶《おぼ》えたもうや、と仰《おお》す。子澄直ちに対《こた》えて、敢《あえ》て忘れもうさずと白《もう》す。東角門の言は、即《すなわ》ち子澄|七国《しちこく》の故事を論ぜるの語なり。子澄退いて斉泰《せいたい》と議す。泰|曰《いわ》く、燕《えん》は重兵《ちょうへい》を握り、且《かつ》素《もと》より大志あり、当《まさ》に先《ま》ず之《これ》を削るべしと。子澄が曰く、然《しか》らず、燕は予《あらかじ》め備うること久しければ、卒《にわか》に図り難し。宜《よろ》しく先ず周《しゅう》を取り、燕の手足《しゅそく》を剪《き》り、而《しこう》して後燕図るべしと。乃《すなわ》ち曹国公《そうこくこう》李景隆《りけいりゅう》に命じ、兵を調して猝《にわか》に河南に至り、周王|※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-3]《しゅく》及び其《そ》の世子《せいし》妃嬪《ひひん》を執《とら》え、爵を削りて庶人《しょじん》となし、之《これ》を雲南《うんなん》に遷《うつ》しぬ。※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-3]は燕王の同母弟なるを以《もっ》て、帝もかねて之を疑い憚《はばか》り、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-3]も亦《また》異謀あり、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-4]の長史《ちょうし》王翰《おうかん》というもの、数々|諫《いさ》めたれど納《い》れず、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-5]の次子《じし》汝南《じょなん》王|有※[#「火+動」、279-5]《ゆうどう》の変を告ぐるに及び、此《この》事《こと》あり。実に洪武三十一年八月にして、太祖崩じて後、幾干月《いくばくげつ》を距《さ》らざる也。冬十一月、代王《だいおう》桂《けい》暴虐《ぼうぎゃく》民を苦《くるし》むるを以て、蜀《しょく》に入りて蜀王と共に居らしむ。
 諸藩|漸《ようや》く削奪せられんとするの明らかなるや、十二月に至りて、前軍《ぜんぐん》都督府断事《ととくふだんじ》高巍《こうぎ》書を上《たてまつ》りて政を論ず。巍は遼州《りょうしゅう》の人、気節を尚《たっと》び、文章を能《よ》くす、材器偉ならずと雖《いえど》も、性質実に惟《これ》美《び》、母の蕭氏《しょうし》に事《つか》えて孝を以て称せられ、洪武十七年|旌表《せいひょう》せらる。其《そ》の立言|正平《せいへい》なるを以て太祖の嘉納するところとなりし又《また》是《これ》一個の好人物なり。時に事に当る者、子澄、泰の輩より以下、皆諸王を削るを議す。独り巍《ぎ》と御史《ぎょし》韓郁《かんいく》とは説を異にす。巍の言に曰《いわ》く、我が高皇帝、三代の公《こう》に法《のっと》り、※[#「贏」の「貝」に代えて「女」、第4水準2-5-84]秦《えいしん》の陋《ろう》を洗い、諸王を分封《ぶんぽう》して、四裔《しえい》に藩屏《はんぺい》たらしめたまえり。然《しか》れども之《これ》を古制に比すれば封境過大にして、諸王又|率《おおむ》ね驕逸《きょういつ》不法なり。削らざれば則《すなわ》ち朝廷の紀綱立たず。之を削れば親《しん》を親《したし》むの恩を傷《やぶ》る。賈誼《かぎ》曰く、天下の治安を欲《ほっ》するは、衆《おお》く諸侯を建てゝ其《その》力を少《すくな》くするに若《し》くは無しと。臣愚《しんぐ》謂《おも》えらく、今|宜《よろ》しく其《その》意《い》を師とすべし、晁錯《ちょうさく》が削奪の策を施す勿《なか》れ、主父偃《しゅほえん》が推恩の令《れい》に効《なら》うべし。西北諸王の子弟は、東南に分封し、東南諸王の子弟は、西北に分封し、其地を小にし、其城を大にし、以て其力を分たば、藩王の権《けん》は、削らずして弱からん。臣又願わくは陛下|益々《ますます》親親《しんしん》の礼を隆《さか》んにし、歳時《さいじ》伏臘《ふくろう》、使問《しもん》絶えず、賢者は詔を下して褒賞《ほうしょう》し、不法者は初犯は之を宥《ゆる》し、再犯は之を赦《ゆる》し、三|犯《ぱん》改めざれば、則ち太廟《たいびょう》に告げて、地を削り、之を廃処せんに、豈《あに》服順せざる者あらんやと。帝|之《これ》を然《さ》なりとは聞召《きこしめ》したりけれど、勢《いきおい》既に定まりて、削奪の議を取る者のみ充満《みちみ》ちたりければ、高巍《こうぎ》の説も用いられて已《や》みぬ。
 建文元年二月、諸王に詔《みことの》りして、文武の吏士《りし》を節制し、官制を更定《こうてい》するを得ざらしむ。此《こ》も諸藩を抑うるの一なりけり。夏四月|西平侯《せいへいこう》沐晟《もくせい》、岷王《びんおう》梗《こう》の不法の事を奏す。よって其の護衛を削り、其の指揮|宗麟《そうりん》を誅《ちゅう》し、王を廃して庶人となす。又|湘王《しょうおう》柏《はく》偽《いつわ》りて鈔《しょう》を造り、及び擅《ほしいまま》に人を殺すを以て、勅《ちょく》を降《くだ》して之を責め、兵を遣《や》って執《とら》えしむ。湘王もと膂力《りょりょく》ありて気を負う。曰く、吾《われ》聞く、前代の大臣の吏に下さるゝや、多く自ら引決すと。身は高皇帝の子にして、南面して王となる、豈《あに》能《よ》く僕隷《ぼくれい》の手に辱《はずか》しめられて生活を求めんやと。遂《つい》に宮《きゅう》を闔《と》じて自ら焚死《ふんし》す。斉王《せいおう》榑《ふ》もまた人の告ぐるところとなり、廃せられて庶人となり、代王|桂《けい》もまた終《つい》に廃せられて庶人となり、大同《だいどう》に幽せらる。
 燕王は初《はじめ》より朝野の注目せるところとなり、且《かつ》は威望材力も群を抜けるなり、又|其《そ》の終《つい》に天子たるべきを期するものも有るなり、又|私《ひそか》に異人術士を養い、勇士|勁卒《けいそつ》をも蓄《たくわ》え居《お》れるなり、人も疑い、己《おのれ》も危ぶみ、朝廷と燕と竟《つい》に両立する能《あた》わざらんとするの勢あり。されば三十一年の秋、周王|※[#「木+肅」、UCS-6A5A、282-3]《しゅく》の執《とら》えらるゝを見て、燕王は遂に壮士《そうし》を簡《えら》みて護衛となし、極めて警戒を厳にしたり。されども斉泰黄子澄に在りては、もとより燕王を容《ゆる》す能わず。たま/\北辺に寇警《こうけい》ありしを機とし、防辺を名となし、燕藩の護衛の兵を調して塞《さい》を出《い》でしめ、其の羽翼《うよく》を去りて、其の咽喉《いんこう》を扼《やく》せんとし、乃《すなわ》ち工部侍郎《こうぶじろう》張※[#「日/丙」、第3水準1-85-16]《ちょうへい》をもて北平左布政使《ほくへいさふせいし》となし、謝貴《しゃき》を以《もっ》て都指揮使《としきし》となし、燕王の動静を察せしめ、巍国公《ぎこくこう》徐輝祖《じょきそ》、曹国公《そうこくそう》李景隆《りけいりゅう》をして、謀《はかりごと》を協《あわ》せて燕を図《はか》らしむ。
 建文元年正月、燕王|長史《ちょうし》葛誠《かつせい》をして入って事を奏せしむ。誠《せい》、帝の為《ため》に具《つぶさ》に燕邸《えんてい》の実を告ぐ。こゝに於《おい》て誠を遣《や》りて燕に還《かえ》らしめ、内応を為《な》さしむ。燕王|覚《さと》って之に備うるあり。二月に至り、燕王|入覲《にゅうきん》す。皇道《こうどう》を行きて入り、陛に登りて拝せざる等、不敬の事ありしかば、監察御史《かんさつぎょし》曾鳳韶《そうほうしょう》これを劾《がい》せしが、帝曰く、至親《ししん》問う勿《なか》れと。戸部侍郎《こぶじろう》卓敬《たくけい》、先に書を上《たてまつ》って藩を抑え禍《わざわい》を防がんことを言う。復《また》密奏して曰く、燕王は智慮人に過ぐ、而して其の拠る所の北平《ほくへい》は、形勝の地にして、士馬《しば》精強に、金《きん》元《げん》の由って興るところなり、今|宜《よろ》しく封《ほう》を南昌《なんしょう》に徒《うつ》したもうべし。然《しか》らば則《すなわ》ち万一の変あるも控制《こうせい》し易《やす》しと、帝|敬《けい》に対《こた》えたまわく、燕王は骨肉至親なり、何ぞ此《これ》に及ぶことあらんやと。敬曰く、隋《ずい》文揚広《ぶんようこう》は父子にあらずやと。敬の言実に然り。揚広は子を以てだに父を弑《しい》す。燕王の傲慢《ごうまん》なる、何をか為《な》さゞらん。敬の言、敦厚《とんこう》を欠き、帝の意、醇正《じゅんせい》に近しと雖《いえど》も、世相の険悪にして、人情の陰毒なる、悲《かなし》む可《べ》きかな、敬の言|却《かえ》って実に切なり。然れども帝黙然たること良《やや》久しくして曰く、卿《けい》休せよと。三月に至って燕王国に還《かえ》る。都御史《とぎょし》暴昭《ぼうしょう》、燕邸《えんてい》の事を密偵して奏するあり。北平の按察使《あんさつし》僉事《せんじ》の湯宗《とうそう》、按察使《あんさつし》陳瑛《ちんえい》が燕の金《こがね》を受けて燕の為に謀ることを劾《がい》するあり。よって瑛《えい》を逮捕し、都督|宗忠《そうちゅう》をして兵三万を率《ひき》い、及び燕王府の護衛の精鋭を忠の麾下《きか》に隷《れい》し、開平《かいへい》に屯《とん》して、名を辺に備うるに藉《か》り、都督の耿※[#「王+獻」、UCS-74DB、284-4]《こうけん》に命じて兵を山海関《さんかいかん》に練り、徐凱《じょがい》をして兵を臨清《りんせい》に練り、密《ひそか》に張※[#「日/丙」、第3水準1-85-16]《ちょうへい》謝貴《しゃき》に勅して、厳に北平《ほくへい》の動揺を監視しせしむ。燕王此の勢を視《み》、国に帰れるより疾《やまい》に托《たく》して出でず、之《これ》を久しゅうして遂に疾《やまい》篤《あつ》しと称し、以て一時の視聴を避《さ》けんとせり。されども水あるところ湿気無き能《あた》わず、火あるところは燥気《そうき》無き能わず、六月に至りて燕山の護衛百戸|倪諒《げいりょう》というもの変を上《たてまつ》り、燕の官校于《かんこうう》諒周鐸《りょうしゅうたく》等《ら》の陰事を告げゝれば、二人は逮《とら》えられて京《けい》に至り、罪明らかにして誅《ちゅう》せられぬ。こゝに於て事《こと》燕王に及ばざる能わず、詔《みことのり》ありて燕王を責む。燕王|弁疏《べんそ》する能わざるところありけん、佯《いつわ》りて狂となり、号呼疾走して、市中の民家に酒食《しゅし》を奪い、乱語妄言、人を驚かして省みず、或《あるい》は土壌に臥《ふ》して、時を経《ふ》れど覚めず、全く常を失えるものゝ如《ごと》し。張※[#「日/丙」、第3水準1-85-16]《ちょうへい》謝貴《しゃき》の二人、入りて疾《やまい》を問うに、時まさに盛夏に属するに、王は爐《ろ》を囲み、身を顫《ふる》わせて、寒きこと甚《はななだ》しと曰《い》い、宮中をさえ杖《つえ》つきて行く。されば燕王まことに狂したりと謂《おも》う者もあり、朝廷も稍《やや》これを信ぜんとするに至りけるが、葛誠《かつせい》ひそかに※[#「日/丙」、第3水準1-85-16]と貴とに告げて、燕王の狂は、一時の急を緩《ゆる》くして、後日の計《けい》に便にせんまでの詐《いつわり》に過ぎず、本《もと》より恙無《つつがな》きのみ、と知らせたり。たま/\燕王の護衛百戸の※[#「登+おおざと」、第3水準1-92-80]庸《とうよう》というもの、闕《けつ》に詣《いた》り事を奏したりけるを、斉泰|請《こ》いて執《とら》えて鞠問《きくもん》しけるに、王が将《まさ》に兵を挙げんとするの状をば逐一に白《もう》したり。
 待設《まちもう》けたる斉泰は、たゞちに符を発し使《し》を遣わし、往《ゆ》いて燕府の官属を逮捕せしめ、密《ひそか》に謝貴《しゃき》張※[#「日/丙」、第3水準1-85-16]《ちょうへい》をして、燕府に在りて内応を約せる長史《ちょうし》葛誠《かつせい》、指揮《しき》盧振《ろしん》と気脈を通ぜしめ、北平|都指揮《としき》張信《ちょうしん》というものゝ、燕王の信任するところとなるを利し、密勅を下して、急に燕王を執《とら》えしむ。信《しん》は命を受けて憂懼《ゆうく》為《な》すところを知らず、情誼《じょうぎ》を思えば燕王に負《そむ》くに忍びず、勅命を重んずれば私恩を論ずる能《あた》わず、進退両難にして、行止《こうし》ともに艱《かた》く、左思右慮《さしゆうりょ》、心|終《つい》に決する能わねば、苦悶《くもん》の色は面にもあらわれたり。信が母疑いて、何事のあればにや、汝《なんじ》の深憂太息することよ、と詰《なじ》り問う。信是非に及ばず、事の始末を告ぐれば、母|大《おおい》に驚いて曰く、不可なり、汝が父の興《こう》、毎《つね》に言えり王気《おうき》燕に在りと、それ王者は死せず、燕王は汝の能《よ》く擒《とりこ》にするところにあらざるなり、燕王に負《そむ》いて家を滅することなかれと。信|愈々《いよいよ》惑《まど》いて決せざりしに、勅使信を促すこと急なりければ、信|遂《つい》に怒って曰く、何ぞ太甚《はなはだ》しきやと。乃《すなわち》ち意を決して燕邸に造《いた》る。造ること三たびすれども、燕王疑いて而して辞し、入ることを得ず。信婦人の車に乗じ、径《ただ》ちに門に至りて見《まみ》ゆることを求め、ようやく召入《めしい》れらる。されども燕王|猶《なお》疾《やまい》を装いて言《ものい》わず。信曰く、殿下|爾《しか》したもう無かれ、まことに事あらば当《まさ》に臣に告げたもうべし、殿下もし情《じょう》を以て臣に語りたまわずば、上命あり、当《まさ》に執《とら》われに就きたもうべし、如《も》し意あらば臣に諱《い》みたもう勿《なか》れと。燕王信の誠《まこと》あるを見、席を下りて信を拝して曰く、我が一家を生かすものは子《し》なりと。信つぶさに朝廷の燕を図るの状を告ぐ。形勢は急転直下せり。事態は既に決裂せり。燕王は道衍《どうえん》を召して、将《まさ》に大事を挙《あ》げんとす。
 天|耶《か》、時《とき》耶、燕王の胸中|颶母《ばいぼ》まさに動いて、黒雲《こくうん》飛ばんと欲し、張玉《ちょうぎょく》、朱能《しゅのう》等《ら》の猛将|梟雄《きょうゆう》、眼底紫電|閃《ひらめ》いて、雷火発せんとす。燕府《えんぷ》を挙《こぞ》って殺気|陰森《いんしん》たるに際し、天も亦《また》応ぜるか、時|抑《そも》至れるか、※[#「風にょう+炎」、第4水準2-92-35]風《ひょうふう》暴雨卒然として大《おおい》に起りぬ。蓬々《ほうほう》として始まり、号々として怒り、奔騰狂転せる風は、沛然《はいぜん》として至り、澎然《ほうぜん》として瀉《そそ》ぎ、猛打乱撃するの雨と伴《とも》なって、乾坤《けんこん》を震撼《しんかん》し、樹石《じゅせき》を動盪《どうとう》しぬ。燕王の宮殿|堅牢《けんろう》ならざるにあらざるも、風雨の力大にして、高閣の簷瓦《えんが》吹かれて空《くう》に飄《ひるがえ》り、※[#「(ぼう+彡)/石」、第4水準2-82-32]然《かくぜん》として地に堕《お》ちて粉砕したり。大事を挙げんとするに臨みて、これ何の兆《ちょう》ぞ。さすがの燕王も心に之を悪《にく》みて色|懌《よろこ》ばず、風声雨声、竹折るゝ声、樹《き》裂くる声、物凄《ものすさま》じき天地を睥睨《へいげい》して、惨として隻語無く、王の左右もまた粛《しゅく》として言《ものい》わず。時に道衍《どうえん》少しも驚かず、あな喜ばしの祥兆《しょうちょう》や、と白《もう》す。本《もと》より此《こ》の異僧道衍は、死生禍福の岐《ちまた》に惑うが如き未達《みだつ》の者にはあらず、膽《きも》に毛も生《お》いたるべき不敵の逸物《いちもつ》なれば、さきに燕王を勧めて事を起さしめんとしける時、燕王、彼は天子なり、民心の彼に向うを奈何《いかん》、とありけるに、昂然《こうぜん》として答えて、臣は天道を知る、何ぞ民心を論ぜん、と云いけるほどの豪傑なり。されども風雨|簷瓦《えんが》を堕《おと》す。時に取っての祥《さが》とも覚えられぬを、あな喜ばしの祥兆といえるは、余りに強言《きょうげん》に聞えければ、燕王も堪《こら》えかねて、和尚《おしょう》何というぞや、いずくにか祥兆たるを得る、と口を突いてそゞろぎ罵《ののし》る。道衍騒がず、殿下|聞《きこ》しめさずや、飛龍天に在れば、従うに風雨を以《もっ》てすと申す、瓦《かわら》墜《お》ちて砕けぬ、これ黄屋《こうおく》に易《かわ》るべきのみ、と泰然として対《こた》えければ、王も頓《とみ》に眉《まゆ》を開いて悦《よろこ》び、衆将も皆どよめき立って勇みぬ。彼《かの》邦《くに》の制、天子の屋《おく》は、葺《ふ》くに黄瓦《こうが》を以てす、旧瓦は用無し、まさに黄なるに易《かわ》るべし、といえる道衍が一語は、時に取っての活人剣、燕王宮中の士気をして、勃然《ぼつぜん》凛然《りんぜん》、糾々然《きゅうきゅうぜん》、直《ただち》にまさに天下を呑《の》まんとするの勢《いきおい》をなさしめぬ。
 燕王は護衛指揮張玉朱能等をして壮士八百人をして入って衛《まも》らしめぬ。矢石《しせき》未《いま》だ交《まじわ》るに至らざるも、刀鎗《とうそう》既に互《たがい》に鳴る。都指揮使|謝貴《しゃき》は七衛《しちえい》の兵、并《なら》びに屯田《とんでん》の軍士を率いて王城を囲み、木柵《ぼくさく》を以て端礼門《たんれいもん》等の路《みち》を断ちぬ。朝廷よりは燕王の爵を削るの詔《みことのり》、及び王府の官属を逮《とら》うべきの詔至りぬ。秋七月|布政使《ふせいし》張※[#「日/丙」、第3水準1-85-16]《ちょうへい》、謝貴《しゃき》と与《とも》に士卒を督して皆《みな》甲せしめ、燕府を囲んで、朝命により逮捕せらるべき王府の官属を交付せんことを求む。一|言《げん》の支吾《しご》あらんには、巌石《がんせき》鶏卵《けいらん》を圧するの勢を以て臨まんとするの状を為《な》し、※[#「日/丙」、第3水準1-85-16]貴《へいき》の軍の殺気の迸《はし》るところ、箭《や》をば放って府内に達するものすら有りたり。燕王謀って曰く、吾が兵は甚だ寡《すくな》く、彼の軍は甚だ多し、奈何《いかに》せんと。朱能進んで曰く、先《ま》ず張※[#「日/丙」、第3水準1-85-16]謝貴を除かば、余《よ》は能《よ》く為す無き也と。王曰く、よし、※[#「日/丙」、第3水準1-85-16]貴《へいき》を擒《とりこ》にせんと。壬申《じんしん》の日、王、疾《やまい》癒《い》えぬと称し、東殿《とうでん》に出で、官僚の賀を受け、人をして※[#「日/丙」、第3水準1-85-16]と貴とを召さしむ。二人応ぜず。復《また》内官を遣《つかわ》して、逮《とら》わるべき者を交付するを装う。二人|乃《すなわ》ち至る。衛士甚だ衆《おお》かりしも、門者|呵《か》して之《これ》を止《とど》め、※[#「日/丙」、第3水準1-85-16]と貴とのみを入る。※[#「日/丙」、第3水準1-85-16]と貴との入るや、燕王は杖《つえ》を曳《ひ》いて坐《ざ》し、宴を賜い酒を行《や》り宝盤に瓜《うり》を盛って出《いだ》す。王曰く、たま/\新瓜《しんか》を進むる者あり、卿《けい》等《ら》と之を嘗《こころ》みんと。自ら一|瓜《か》を手にしけるが、忽《たちまち》にして色を作《な》して詈《ののし》って曰く、今世間の小民だに、兄弟宗族《けいていそうぞく》、尚《なお》相《あい》互《たがい》に恤《あわれ》ぶ、身は天子の親属たり、而《しか》も旦夕《たんせき》に其|命《めい》を安んずること無し、県官の我を待つこと此《かく》の如し、天下何事か為す可《べ》からざらんや、と奮然として瓜を地に擲《なげう》てば、護衛の軍士皆激怒して、前《すす》んで※[#「日/丙」、第3水準1-85-16]と貴とを擒《とら》え、かねて朝廷に内通せる葛誠《かつせい》盧振《ろしん》等《ら》を殿下に取って押《おさ》えたり。王こゝに於《おい》て杖を投じて起《た》って曰く、我何ぞ病まん、奸臣《かんしん》に迫らるゝ耳《のみ》、とて遂に※[#「日/丙」、第3水準1-85-16]貴等を斬《き》る。※[#「日/丙」、第3水準1-85-16]貴等の将士、二人が時を移して還《かえ》らざるを見、始《はじめ》は疑い、後《のち》は覚《さと》りて、各《おのおの》散じ去る。王城を囲める者も、首脳|已《すで》に無くなりて、手足《しゅそく》力無く、其兵おのずから潰《つい》えたり。張※[#「日/丙」、第3水準1-85-16]《ちょうへい》が部下|北平都指揮《ほくへいとしき》の彭二《ほうじ》、憤慨|已《や》む能《あた》わず、馬を躍らして大《おおい》に市中に呼《よば》わって曰く、燕王反せり、我に従って朝廷の為に力を尽すものは賞あらんと。兵千余人を得て端礼門《たんれいもん》に殺到す。燕王の勇卒|※[#「广+龍」、第3水準1-94-86]来興《ほうらいこう》、丁勝《ていしょう》の二人、彭二を殺しければ、其兵も亦《また》散じぬ。此《この》勢《いきおい》に乗ぜよやと、張玉、朱能等、いずれも塞北《さいほく》に転戦して元兵《げんぺい》と相《あい》馳駆《ちく》し、千軍万馬の間に老い来《きた》れる者なれば、兵を率いて夜に乗じて突いて出で、黎明《れいめい》に至るまでに九つの門の其八を奪い、たゞ一つ下らざりし西直門《せいちょくもん》をも、好言を以て守者を散ぜしめぬ。北平既に全く燕王の手に落ちしかば、都指揮使の余※[#「王+眞」、第4水準2-80-87]《よてん》は、走って居庸関《きょようかん》を守り、馬宣《ばせん》は東して薊州《けいしゅう》に走り、宋忠《そうちゅう》は開平《かいへい》より兵三万を率いて居庸関に至りしが、敢《あえ》て進まずして、退いて懐来《かいらい》を保ちたり。
 煙は旺《さか》んにして火は遂に熾《も》えたり、剣《けん》は抜かれて血は既に流されたり。燕王は堂々として旗を進め馬を出しぬ。天子の正朔《せいさく》を奉ぜず、敢《あえ》て建文の年号を去って、洪武三十二年と称し、道衍《どうえん》を帷幄《いあく》の謀師とし、金忠《きんちゅう》を紀善《きぜん》として機密に参ぜしめ、張玉、朱能、丘福《きゅうふく》を都指揮|僉事《せんじ》とし、張※[#「日/丙」、第3水準1-85-16]部下にして内通せる李友直《りゆうちょく》を布政司《ふせいし》参議《さんぎ》と為《な》し、乃《すなわ》ち令を下して諭して曰く、予は太祖高皇帝の子なり、今|奸臣《かんしん》の為に謀害せらる。祖訓に云《い》わく、朝《ちょう》に正臣無く、内に奸逆《かんぎゃく》あれば、必ず兵を挙げて誅討《ちゅうとう》し、以《もっ》て君側の悪を清めよと。こゝに爾《なんじ》将士を率いて之を誅せんとす。罪人既に得ば、周公の成王《せいおう》を輔《たす》くるに法《のっ》とらん。爾《なんじ》等《ら》それ予が心を体せよと。一面には是《かく》の如くに将士に宣言し、又一面には書を帝に上《たてまつ》りて曰く、皇考太祖高皇帝、百戦して天下を定め、帝業を成し、之を万世に伝えんとして、諸子を封建したまい、宗社を鞏固《きょうこ》にして、盤石の計を為《な》したまえり。然《しか》るに奸臣《かんしん》斉泰《せいたい》黄子澄《こうしちょう》、禍心を包蔵し、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、292-11]《しゅく》、榑《ふ》、栢《はく》、桂《けい》、※[#「木+便」、第4水準2-15-14]《べん》の五弟、数年ならずして、並びに削奪《さくだつ》せられぬ、栢《はく》や尤《もっとも》憫《あわれ》むべし、闔室《こうしつ》みずから焚《や》く、聖仁|上《かみ》に在り、胡《なん》ぞ寧《なん》ぞ此《これ》に忍ばん。蓋《けだし》陛下の心に非ず、実に奸臣の為《な》す所ならん。心|尚《なお》未《いま》だ足らずとし、又以て臣に加う。臣|藩《はん》を燕に守ること二十余年、寅《つつし》み畏《おそ》れて小心にし、法を奉じ分《ぶん》に循《したが》う。誠に君臣の大分《たいぶん》、骨肉の至親なるを以て、恒《つね》に思いて慎《つつしみ》を加う。而《しか》るに奸臣|跋扈《ばっこ》し、禍を無辜《むこ》に加え、臣が事を奏するの人を執《とら》えて、※[#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、293-5]楚《すいそ》[#「※[#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、293-5]楚」は底本では「※[#「竹かんむり/「垂」の「ノ」の下に「一」を加える」、293-5]楚」]刺※[#「執/糸」、UCS-7E36、293-5]《ししつ》し、備《つぶ》さに苦毒を極め、迫りて臣|不軌《ふき》を謀ると言わしめ、遂に宋忠、謝貴、張※[#「日/丙」、第3水準1-85-16]等を北平城の内外に分ち、甲馬は街衢《がいく》に馳突《ちとつ》し、鉦鼓《しょうこ》は遠邇《えんじ》に喧鞠《けんきく》し、臣が府を囲み守る。已《すで》にして護衛の人、貴※[#「日/丙」、第3水準1-85-16]《きへい》を執《とら》え、始めて奸臣|欺詐《ぎさ》の謀を知りぬ。窃《ひそか》に念《おも》うに臣の孝康《こうこう》皇帝に於《お》けるは、同父母兄弟なり、今陛下に事《つか》うるは天に事うるが如きなり。譬《たと》えば大樹を伐《き》るに、先ず附枝《ふし》を剪《き》るが如し、親藩既に滅びなば、朝廷孤立し、奸臣志を得んには、社稷《しゃしょく》危《あやう》からん。臣|伏《ふ》して祖訓を覩《み》るに云《い》えることあり、朝《ちょう》に正臣無く、内に奸悪あらば、則《すなわ》ち親王兵を訓して命を待ち、天子|密《ひそ》かに諸王に詔《みことのり》し、鎮兵を統領して之を討平せしむと。臣謹んで俯伏《ふふく》して命を俟《ま》つ、と言辞を飾り、情理を綺《いろ》えてぞ奏しける。道衍|少《わか》きより学を好み詩を工《たくみ》にし、高啓《こうけい》と友とし善《よ》く、宋濂《そうれん》にも推奨《すいしょう》され、逃虚子集《とうきょししゅう》十巻を世に留めしほどの文才あるものなれば、道衍や筆を執りけん、或《あるい》は又金忠の輩や詞《ことば》を綴《つづ》りけん、いずれにせよ、柔を外にして剛を懐《いだ》き、己《おのれ》を護《まも》りて人を責むる、いと力ある文字なり。卒然として此《この》書《しょ》のみを読めば、王に理ありて帝に理なく、帝に情《じょう》無くして王に情あるが如く、祖霊も民意も、帝を去り王に就く可《べ》きを覚ゆ。されども擅《ほしいまま》に謝張を殺し、妄《みだり》に年号を去る、何ぞ法を奉ずると云わんや。後苑《こうえん》に軍器を作り、密室に機謀を錬る、これ分《ぶん》に循《したが》うにあらず。君側の奸を掃《はら》わんとすと云うと雖《いえど》も、詔無くして兵を起し、威を恣《ほしいまま》にして地を掠《かす》む。其《その》辞《じ》は則《すなわ》ち可なるも、其実は則ち非なり。飜って思うに斉泰黄子澄の輩の、必ず諸王を削奪せんとするも、亦《また》理に於て欠け、情に於て薄し。夫《そ》れ諸王を重封せるは、太祖の意に出づ。諸王未だ必ずしも反せざるに、先ず諸王を削奪せんとするの意を懐《いだ》いて諸王に臨むは、上《かみ》は太祖の意を壊《やぶ》り、下《しも》は宗室の親《しん》を破るなり。三年父の志を改めざるは、孝というべし。太祖崩じて、抔土《ほうど》未だ乾《かわ》かず、直《ただち》に其意を破り、諸王を削奪せんとするは、是《こ》れ理に於《おい》て欠け情に於て薄きものにあらずして何ぞや。斉黄の輩の為さんとするところ是《かく》の如くなれば、燕王等手を袖にし息を屏《しりぞ》くるも亦《また》削奪罪責を免《まぬ》かれざらんとす。太祖の血を承《う》けて、英雄傑特の気象あるもの、いずくんぞ俛首《べんしゅ》して寃《えん》に服するに忍びんや。瓜《うり》を投じて怒罵《どば》するの語、其中に機関ありと雖《いえど》も、又|尽《ことごと》く偽詐《ぎさ》のみならず、本《もと》より真情の人に逼《せま》るに足るものあるなり。畢竟《ひっきょう》両者|各《おのおの》理あり、各|非理《ひり》ありて、争鬩《そうげい》則《すなわ》ち起り、各|情《じょう》なく、各真情ありて、戦闘則ち生ぜるもの、今に於て誰《たれ》か能《よ》く其の是非を判せんや。高巍《こうぎ》の説は、敦厚《とんこう》悦《よろこ》ぶ可《べ》しと雖も、時既に晩《おそ》く、卓敬《たくけい》の言は、明徹用いるに足ると雖も、勢|回《かえ》し難く、朝旨の酷責すると、燕師《えんし》の暴起すると、実に互《たがい》に已《や》む能《あた》わざるものありしなり。是れ所謂《いわゆる》数《すう》なるものか、非《ひ》耶《か》。

 燕王《えんおう》の兵を起したる建文元年七月より、恵帝《けいてい》の国を遜《ゆず》りたる建文四年六月までは、烽烟《ほうえん》剣光《けんこう》の史《し》にして、今一々|之《これ》を記するに懶《ものう》し。其《その》詳《しょう》を知らんとするものは、明史《みんし》及び明朝紀事本末《みんちょうきじほんまつ》等《ら》に就きて考うべし。今たゞ其|概略《がいりゃく》と燕王恵帝の性格|風※[#「蚌のつくり」、第3水準1-14-6]《ふうぼう》を知る可《べ》きものとを記せん。燕王もと智勇天縦《ちゆうてんしょう》、且《かつ》夙《つと》に征戦に習う。洪武《こうぶ》二十三年、太祖《たいそ》の命を奉じ、諸王と共に元族《げんぞく》を漠北《ばくほく》に征す。秦王《しんおう》晋王《しんおう》は怯《きょ》にして敢《あえ》て進まず、王将軍|傅友徳《ふゆうとく》等を率いて北出し、※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1-92-52]都山《いとさん》に至り、其将|乃児不花《ナルプファ》を擒《とりこ》にして還《かえ》る。太祖|大《おおい》[#「大《おおい》」は底本では「大《おおい》い」]に喜び、此《これ》より後|屡《しばしば》諸将を帥《ひき》いて出征せしむるに、毎次功ありて、威名|大《おおい》に振《ふる》う。王既に兵を知り戦《たたかい》に慣《な》る。加うるに道衍《どうえん》ありて、機密に参し、張玉《ちょうぎょく》、朱能《しゅのう》、丘福《きゅうふく》ありて爪牙《そうが》と為《な》る。丘福は謀画《ぼうかく》の才張玉に及ばずと雖《いえど》も、樸直《ぼくちょく》猛勇、深く敵陣に入りて敢戦死闘し、戦《たたかい》終って功を献ずるや必ず人に後《おく》る。古《いにしえ》の大樹《たいじゅ》将軍の風あり。燕王をして、丘将軍の功は我|之《これ》を知る、と歎美《たんび》せしむるに至る。故に王の功臣を賞するに及びて、福|其《その》首《しゅ》たり、淇国公《きこくこう》に封《ほう》ぜらる。其《その》他《た》将士の鷙悍※[#「敖/馬」、UCS-9A41、297-4]雄《しかんごうゆう》の者も、亦《また》甚《はなは》だ少《すくな》からず。燕王の大事を挙ぐるも、蓋《けだ》し胸算《きょうさん》あるなり。燕王の張※[#「日/丙」、第3水準1-85-16]《ちょうへい》謝貴《しゃき》を斬《き》って反を敢《あえ》てするや、郭資《かくし》を留《とど》めて北平《ほくへい》を守らしめ、直《ただち》に師を出《いだ》して通州《つうしゅう》を取り、先《ま》ず薊州《けいしゅう》を定めずんば、後顧の患《うれい》あらんと云《い》える張玉の言を用い、玉をして之を略せしめ、次《つい》で夜襲して遵化《じゅんか》を降《くだ》す。此《これ》皆|開平《かいへい》の東北の地なり。時に余※[#「王+眞」、第4水準2-80-87]《よてん》居庸関《きょようかん》を守る。王曰く、居庸は険隘《けんあい》にして、北平の咽喉《いんこう》也、敵|此《ここ》に拠《よ》るは、是《こ》れ我が背《はい》を拊《う》つなり、急に取らざる可からずと。乃《すなわ》ち徐安《じょあん》、鐘祥《しょうしょう》等《ら》をして※[#「王+眞」、第4水準2-80-87]《てん》を撃《う》って、懐来《かいらい》に走らしむ。宗忠《そうちゅう》懐来《かいらい》に在《あ》り 兵三万と号す。諸将之を撃つを難《かた》んず。王曰く、彼|衆《おお》く、我|寡《すくな》し、然《しか》れども彼|新《あらた》に集まる、其心|未《いま》だ一ならず、之を撃たば必《かな》らず破れんと。精兵八千を率い、甲《こう》を捲《ま》き道を倍して進み、遂《つい》に戦って克《か》ち、忠と※[#「王+眞」、第4水準2-80-87]とを獲《え》て之を斬る。こゝに於《おい》て諸州燕に降《くだ》る者多く、永平《えいへい》、欒州《らんしゅう》また燕に帰す。大寧《たいねい》の都指揮《としき》卜万《ぼくばん》、松亭関《しょうていかん》を出《い》で、沙河《さが》に駐《とど》まり、遵化を攻めんとす。兵十万と号し、勢《いきおい》やゝ振う。燕王|反間《はんかん》を放ち、万の部将|陳亨《ちんこう》、劉貞《りゅうてい》をして万を縛し獄に下さしむ。
 帝黄子澄の言を用い、長興侯《ちょうこうこう》耿炳文《こうへいぶん》を大将軍とし、李堅《りけん》、寧忠《ねいちゅう》を副《そ》えて北伐せしめ、又|安陸侯《あんりくこう》呉傑《ごけつ》、江陰侯《こういんこう》呉高《ごこう》、都督《ととく》都指揮《としき》盛庸《せいよう》、潘忠《はんちゅう》、楊松《ようしょう》、顧成《こせい》、徐凱《じょがい》、李文《りぶん》、陳暉《ちんき》、平安《へいあん》等《ら》に命じ、諸道並び進みて、直《ただち》に北平を擣《つ》かしむ。時に帝諸将士を誡《いまし》めたまわく、昔《むかし》蕭繹《しょうえき》、兵を挙げて京《けい》に入らんとす、而《しか》も其《その》下《しも》に令して曰く、一門の内《うち》自ら兵威を極むるは、不祥の極なりと。今|爾《なんじ》将士、燕王と対塁するも、務めて此《この》意《い》を体して、朕《ちん》をして叔父《しゅくふ》を殺すの名あらしむるなかれと。(蕭繹《しょうえき》は梁《りょう》の孝元《こうげん》皇帝なり。今|梁書《りょうしょ》を按《あん》ずるに、此事を載せず。蓋《けだ》し元帝兵を挙げて賊を誅《ちゅう》し京《けい》に入らんことを図る。時に河東《かとう》王誉《おうよ》、帝に従わず、却《かえ》って帝の子|方《ほう》等《ら》を殺す。帝|鮑泉《ほうせん》を遣《や》りて之を討たしめ、又|王《おう》僧弁《そうべん》をして代って将たらしむ。帝は高祖|武帝《ぶてい》の第七子にして、誉《よ》は武帝の長子にして文選《もんぜん》の撰者《せんじゃ》たる昭明太子《しょうめいたいし》統《とう》の第二子なり。一門の語、誉を征するの時に当りて発するか。)建文帝の仁柔《じんじゅう》の性、宋襄《そうじょう》に近きものありというべし。それ燕王は叔父たりと雖《いえど》も、既に爵を削られて庶人たり、庶人にして兇器《きょうき》を弄《ろう》し王師に抗す、其罪|本《もと》より誅戮《ちゅうりく》に当る。然《しか》るに是《かく》の如《ごと》きの令を出征の将士に下す。これ適《たまたま》以《もっ》て軍旅の鋭《えい》を殺《そ》ぎ、貔貅《ひきゅう》の胆《たん》を小にするに過ぎざるのみ、智《ち》なりという可《べ》からず。燕王と戦うに及びて、官軍時に或《あるい》は勝つあるも、此《この》令あるを以《もっ》て、飛箭《ひせん》長槍《ちょうそう》、燕王を殪《たお》すに至らず。然りと雖も、小人の過《あやまち》や刻薄《こくはく》、長者の過《あやまち》や寛厚《かんこう》、帝の過を観《み》て帝の人となりを知るべし。
 八月|耿炳文《こうへいぶん》等《ら》兵三十万を率いて真定《しんてい》に至り、徐凱《じょがい》は兵十万を率いて河間《かかん》に駐《とど》まる。炳文は老将にして、太祖創業の功臣なり。かつて張士誠《ちょうしせい》に当りて、長興《ちょうこう》を守ること十年、大小数十戦、戦って勝たざる無く、終《つい》に士誠をして志を逞《たくま》しくする能《あた》わざらしめしを以て、太祖の功臣を榜列《ほうれつ》するや、炳文を以て大将軍|徐達《じょたつ》に付《ふ》して一等となす。後又、北は塞《さい》を出でゝ元の遺族を破り、南は雲南《うんなん》を征して蛮を平らげ、或《あるい》は陝西《せんせい》に、或は蜀《しょく》に、旗幟《きし》の向う所、毎《つね》に功を成す。特《こと》に洪武《こうぶ》の末に至っては、元勲宿将多く凋落《ちょうらく》せるを以て、炳文は朝廷の重んずるところたり。今大兵を率いて北伐す、時に年六十五。樹《き》老いて材|愈《いよいよ》堅く、将老いて軍|益々《ますます》固し。然れども不幸にして先鋒《せんぽう》楊松、燕王の為《ため》に不意を襲われて雄県《ゆうけん》に死し、潘忠《はんちゅう》到《いた》り援《すく》わんとして月漾橋《げつようきょう》の伏兵に執《とら》えられ、部将|張保《ちょうほ》敵に降りて其の利用するところとなり、遂に※[#「濾」の「思」に代えて「乎」、第4水準2-79-10]沱河《こだか》の北岸に於《おい》て、燕王及び張玉、朱能、譚淵《たんえん》、馬雲《ばうん》等《ら》の為に大《おおい》に敗れて、李堅《りけん》、※[#「宀/必/冉」、UCS-5BD7、300-11]忠《ねいちゅう》、顧成《こせい》、劉燧《りゅうすい》を失うに至れり。ただ炳文の陣に熟せる、大敗して而《しか》も潰《つい》えず、真定城《しんていじょう》に入りて門を闔《と》じて堅く守る。燕兵|勝《かち》に乗じて城を囲む三日、下す能《あた》わず。燕王も炳文が老将にして破り易《やす》からざるを知り、囲《い》を解いて還《かえ》る。
 炳文の一敗は猶《なお》復すべし、帝炳文の敗を聞いて怒りて用いず、黄子澄《こうしちょう》の言によりて、李景隆《りけいりゅう》を大将軍とし、斧鉞《ふえつ》を賜《たま》わって炳文に代らしめたもうに至って、大事ほとんど去りぬ。景隆は※[#「糸+丸」、第3水準1-89-90]袴《がんこ》の子弟、趙括《ちょうかつ》の流《りゅう》なればなり。趙括を挙げて廉頗《れんぱ》に代う。建文帝の位を保つ能わざる、兵戦上には実に此《これ》に本づく。炳文の子|※[#「王+睿」、第3水準1-88-34]《えい》[#「※[#「王+睿」、第3水準1-88-34]」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり-小」、301-7]」]は、帝の父|懿文《いぶん》太子の長女|江都公主《こうとこうしゅ》を妻とす、※[#「王+睿」、第3水準1-88-34]《えい》[#「※[#「王+睿」、第3水準1-88-34]」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり-小」、301-7]」]父の復《また》用いられざるを憤ること甚《はなはだ》しかりしという。又※[#「王+睿」、第3水準1-88-34][#「※[#「王+睿」、第3水準1-88-34]」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり-小」、301-8]」]の弟|※[#「王+獻」、UCS-74DB、301-7]《けん》、遼東《りょうとう》の鎮守《ちんじゅ》呉高《ごこう》、都指揮使《としきし》楊文《ようぶん》と与《とも》に兵を率いて永平《えいへい》を囲み、東より北平を動かさんとしたりという。二子の護国の意の誠なるも知るべし。それ勝敗は兵家の常なり。蘇東坡《そとうば》が所謂《いわゆる》善《よ》く奕《えき》する者も日に勝って日に敗《やぶ》るゝものなり。然るに一敗の故を以て、老将を退け、驕児《きょうじ》を挙ぐ。燕王手を拍《う》って笑って、李九江《りきゅうこう》は膏梁《こうりょう》の豎子《じゅし》のみ、未だ嘗《かつ》て兵に習い陣を見ず、輙《すなわ》ち予《あた》うるに五十万の衆を以てす、是《これ》自ら之《これ》を坑《あな》にする也《なり》、と云えるもの、酷語といえども当らずんばあらず。炳文を召して回《かえ》らしめたる、まことに歎《たん》ずべし。
 景隆|小字《しょうじ》は九江《きゅうこう》、勲業あるにあらずして、大将軍となれる者は何ぞや。黄子澄、斉泰の薦《すす》むるに因《よ》るも、又別に所以《ゆえ》有るなり。景隆は李文忠《りぶんちゅう》の子にして、文忠は太祖の姉の子にして且つ太祖の子となりしものなり。之に加うるに文忠は器量沈厚、学を好み経《けい》を治め、其《そ》の家居するや恂々《じゅんじゅん》として儒者の如く、而《しか》も甲を※[#「てへん+鐶のつくり」、第3水準1-85-3]《ぬ》き馬に騎《の》り槊《ほこ》を横たえて陣に臨むや、※[#「足へん+卓」、第4水準2-89-35]※[#「厂+萬」、第3水準1-14-84]《たくれい》風発、大敵に遇《あ》いて益《ますます》壮《さかん》に、年十九より軍に従いて数々《しばしば》偉功を立て、創業の元勲として太祖の愛重《あいちょう》[#「愛重」は底本では「受重」]するところとなれるのみならず、西安《せいあん》に水道を設けては人を利し、応天《おうてん》に田租を減じては民を恵《めぐ》み、誅戮《ちゅうりく》を少《すくな》くすることを勧め、宦官《かんがん》を盛《さか》[#ルビの「さか」は底本では「さかん」]んにすることを諫《いさ》め、洪武十五年、太祖日本|懐良王《かねながおう》の書に激して之を討たんとせるを止《とど》め、(懐良王、明史《みんし》に良懐に作るは蓋《けだ》し誤《あやまり》也。懐良王は、後醍醐《ごだいご》帝の皇子、延元《えんげん》三年、征西大将軍に任じ、筑紫《つくし》を鎮撫《ちんぶ》す。菊池武光《きくちたけみつ》等《ら》之《これ》に従い、興国《こうこく》より正平《しょうへい》に及び、勢威|大《おおい》に張る。明の太祖の辺海|毎《つね》に和寇《わこう》に擾《みだ》さるゝを怒りて洪武十四年、日本を征せんとするを以《もっ》て威嚇《いかく》するや、王答うるに書を以てす。其《その》略に曰く、乾坤《けんこん》は浩蕩《こうとう》たり、一主の独権にあらず、宇宙は寛洪《かんこう》なり、諸邦を作《な》して以て分守す。蓋《けだ》し天下は天下の天下にして、一人の天下にあらざる也《なり》。吾《われ》聞く、天朝|戦《たたかい》を興《おこ》すの策ありと、小邦|亦《また》敵を禦《ふせ》ぐの図《と》あり。豈《あに》肯《あえ》て途《みち》に跪《ひざまず》いて之を奉ぜんや。之に順《したが》うも未《いま》だ其|生《せい》を必せず、之に逆《さから》うも未だ其死を必せず、相《あい》逢《あ》う賀蘭山前《がらんさんぜん》、聊《いささか》以《もっ》て博戯《はくぎ》せん、吾何をか懼《おそ》れんやと。太祖書を得て慍《いか》ること甚だしく、真《しん》に兵を加えんとするの意を起したるなり。洪武十四年は我が南朝|弘和《こうわ》元年に当る。時に王既に今川了俊《いまがわりょうしゅん》の為に圧迫せられて衰勢に陥り、征西将軍の職を後村上帝《ごむらかみてい》[#「後村上帝」は底本では「御村上帝」]の皇子|良成《ながなり》王に譲り、筑後《ちくご》矢部《やべ》に閑居し、読経礼仏を事として、兵政の務《つとめ》をば執りたまわず、年代|齟齬《そご》[#「齟齬」は底本では「齬齟」]するに似たり。然れども王と明《みん》との交渉は夙《つと》に正平の末より起りしことなれば、王の裁断を以て答書ありしならん。此《この》事《こと》我が国に史料全く欠け、大日本史《だいにほんし》も亦載せずと雖も、彼の史にして彼の威を損ずるの事を記す、決して無根の浮譚《ふだん》にあらず。)一個《いっか》優秀の風格、多く得《う》可《べ》からざるの人なり。洪武十七年、疾《やまい》を得て死するや、太祖親しく文を為《つく》りて祭《まつり》を致し、岐陽王《きようおう》に追封し、武靖《ぶせい》と諡《おくりな》し、太廟《たいびょう》に配享《はいきょう》したり。景隆は是《かく》の如き人の長子にして、其父の蓋世《がいせい》の武勲と、帝室の親眷《しんけん》との関係よりして、斉黄の薦むるところ、建文の任ずるところとなりて、五十万の大軍を統《す》ぶるには至りしなり。景隆は長身にして眉目疎秀《びもくそしゅう》、雍容都雅《ようようとが》、顧盻偉然《こべんいぜん》、卒爾《そつじ》に之を望めば大人物の如くなりしかば、屡《しばしば》出《い》でゝ軍を湖広《ここう》陝西《せんせい》河南《かなん》に練り、左軍都督府事《さぐんととくふじ》となりたるほかには、為《な》すところも無く、其《その》功としては周王《しゅうおう》を執《とら》えしのみに過ぎざれど、帝をはじめ大臣等これを大器としたりならん、然れども虎皮《こひ》にして羊質《ようしつ》、所謂《いわゆる》治世の好将軍にして、戦場の真豪傑にあらず、血を※[#「足へん+諜のつくり」、UCS-8E40、305-1]《ふ》み剣を揮《ふる》いて進み、創《きず》を裹《つつ》み歯を切《くいしば》って闘《たたか》うが如き経験は、未《いま》だ曾《かつ》て積まざりしなれば、燕王の笑って評せしもの、実に其《その》真を得たりしなり。
 李景隆は大兵を率いて燕王を伐《う》たんと北上す。帝は猶《なお》北方憂うるに足らずとして意《こころ》を文治に専らにし、儒臣|方孝孺《ほうこうじゅ》等《ら》と周官の法度《ほうど》を討論して日を送る、此《この》間《かん》に於て監察御史《かんさつぎょし》韓郁《かんいく》(韓郁|或《あるい》は康郁《こういく》に作る)というもの時事を憂いて疏《そ》を上《たてまつ》りぬ。其の意、黄子澄斉泰を非として、残酷の豎儒《じゅじゅ》となし、諸王は太祖の遺体なり、孝康《こうこう》の手足《しゅそく》なりとなし、之《これ》を待つことの厚からずして、周王|湘《しょう》王|代《だい》王|斉《せい》王をして不幸ならしめたるは、朝廷の為《ため》に計る者の過《あやまち》にして、是れ則ち朝廷激して之を変ぜしめたるなりと為《な》し、諺《ことわざ》に曰《いわ》く、親者《しんしゃ》之を割《さ》けども断たず、疎者《そしゃ》之を続《つ》げども堅《かた》からずと、是《これ》殊《こと》に理有る也となし、燕の兵を挙ぐるに及びて、財を糜《び》し兵を損して而して功無きものは国に謀臣無きに近しとなし、願わくは斉王を釈《ゆる》し、湘王を封《ほう》じ、周王を京師《けいし》に還《かえ》し、諸王|世子《せいし》をして書を持し燕に勧め、干戈《かんか》を罷《や》め、親戚《しんせき》を敦《あつ》うしたまえ、然らずんば臣|愚《ぐ》おもえらく十年を待たずして必ず噬臍《ぜいせい》の悔《くい》あらん、というに在《あ》り。其の論、彝倫《いりん》を敦《あつ》くし、動乱を鎮《しず》めんというは可なり、斉泰黄子澄を非とするも可なり、たゞ時|既《すで》に去り、勢《いきおい》既に成るの後に於て、此《この》言あるも、嗚呼《ああ》亦|晩《おそ》かりしなり。帝|遂《つい》に用いたまわず。
 景隆の炳文《へいぶん》に代るや、燕王其の五十万の兵を恐れずして、其の五|敗兆《はいちょう》を具せるを指摘し、我|之《これ》を擒《とりこ》にせんのみ、と云い、諸将の言を用いずして、北平《ほくへい》を世子《せいし》に守らしめ、東に出でゝ、遼東《りょうとう》の江陰侯《こういんこう》呉高《ごこう》を永平より逐《お》い、転じて大寧《たいねい》に至りて之を抜き、寧《ねい》王を擁して関《かん》に入る。景隆は燕王の大寧を攻めたるを聞き、師を帥《ひき》いて北進し、遂に北平を囲みたり。北平の李譲《りじょう》、梁明《りょうめい》等《ら》、世子《せいし》を奉じて防守甚だ力《つと》むと雖《いえど》も、景隆が軍|衆《おお》くして、将も亦《また》雄傑なきにあらず、都督《ととく》瞿能《くのう》の如き、張掖門《ちょうえきもん》に殺入して大《おおい》に威勇を奮い、城|殆《ほとん》ど破る。而《しか》も景隆の器《き》の小なる、能の功を成すを喜ばず、大軍の至るを俟《ま》ちて倶《とも》に進めと令し、機に乗じて突至せず。是《ここ》に於て守る者|便《べん》を得、連夜水を汲《く》みて城壁に灌《そそ》げば、天寒くして忽《たちま》ち氷結し、明日に至れば復《また》登ることを得ざるが如きことありき。燕王は予《あらかじ》め景隆を吾が堅城の下に致して之を殱《つく》さんことを期せしに、景隆既に※[#「(士/冖/一/弓)+殳」、第3水準1-84-25]《やごろ》に入り来《きた》りぬ、何ぞ箭《や》を放たざらんや。大寧より還《かえ》りて会州《かいしゅう》に至り、五軍を立てゝ、張玉を中軍に、朱能を左軍に、李彬《りひん》を右軍《ゆうぐん》に、徐忠《じょちゅう》を前軍に、降将|房寛《ぼうかん》を後軍に将たらしめ、漸《ようや》く南下して京軍《けいぐん》と相対したり。十一月、京軍の先鋒《せんぽう》陳暉《ちんき》、河を渡りて東す。燕王兵を率いて至り、河水の渡り難きを見て黙祷《もくとう》して曰く、天|若《も》し予を助けんには、河水氷結せよと。夜に至って氷|果《はた》して合す。燕の師勇躍して進み、暉《き》の軍を敗る。景隆の兵動く。燕王左右軍を放って夾撃《きょうげき》し、遂に連《しき》りに其七営を破って景隆の営に逼《せま》る。張玉|等《ら》も陣を列《つら》ねて進むや、城中も亦《また》兵を出して、内外|交《こもごも》攻む。景隆支うる能《あた》わずして遁《のが》れ、諸軍も亦|粮《かて》を棄《す》てゝ奔《はし》る。燕の諸将|是《ここ》に於て頓首《とんしゅ》して王の神算及ぶ可《べ》からずと賀す。王|曰《いわ》く、偶中《ぐうちゅう》のみ、諸君の言えるところは皆万全の策なりしなりと。前には断じて後には謙《けん》す。燕王が英雄の心を攬《と》るも巧《たくみ》なりというべし。
 景隆が大軍功無くして、退いて徳州《とくしゅう》に屯す。黄子澄|其《その》敗《はい》を奏せざるを以《もっ》て、十二月に至って却《かえ》って景隆に太子《たいし》太師《たいし》を加う。燕王は南軍をして苦寒に際して奔命に疲れしめんが為に、師を出して広昌《こうしょう》を攻めて之を降す。
 前に疏《そ》を上《たてまつり》りて、諸藩を削るを諫《いさ》めたる高巍《こうぎ》は、言用いられず、事|遂《つい》に発して天下動乱に至りたるを慨《なげ》き、書を上《たてまつり》りて、臣願わくは燕に使《つかい》して言うところあらんと請い、許されて燕に至り、書を燕王に上《たてまつり》りたり。其《その》略に曰く、太祖《たいそ》[#「太祖」は底本では「大祖」]升遐《しょうか》したまいて意《おも》わざりき大王と朝廷と隙《げき》あらんとは。臣おもえらく干戈《かんか》を動かすは和解に若《し》かずと。願わくは死を度外に置きて、親しく大王に見《まみ》えん。昔周公流言を聞きては、即《すなわ》ち位を避けて東に居《い》たまいき。若《も》し大王|能《よ》く首計《しゅけい》の者を斬《き》りたまい、護衛の兵を解き、子孫を質《しち》にし、骨肉|猜忌《さいき》の疑《うたがい》を釈《と》き、残賊離間の口を塞《ふさ》ぎたまわば、周公と隆《さか》んなることを比すべきにあらずや。然《しか》るを慮《おもんばかり》こゝに及ばせたまわで、甲兵を興し彊宇《きょうう》を襲いたもう。されば事に任ずる者、口に藉《し》くことを得て、殿下文臣を誅《ちゅう》することを仮りて実は漢の呉《ご》王の七国に倡《とな》えて晁錯《ちょうさく》を誅せんとしゝに効《なら》わんと欲したもうと申す。今大王北平に拠《よ》りて数群を取りたもうと雖《いえど》も、数月《すうげつ》以来にして、尚《なお》※[#「くさかんむり/最」、第4水準2-86-82]爾《さつじ》たる一隅の地を出《い》づる能わず、較《くら》ぶるに天下を以てすれば、十五にして未だ其《その》一《いつ》をも有したまわず。大王の将士も、亦疲れずといわんや。それ大王の統《す》べたもう将士も、大約三十万には過ぎざらん。大王と天子と、義は則《すなわ》ち君臣たり、親《しん》は則ち骨肉たるも、尚《なお》離れ間《へだ》たりたもう、三十万の異姓の士、など必ずしも終身困迫して殿下の為に死し申すべきや。巍《ぎ》が念《おもい》こゝに至るごとに大王の為に流涕《りゅうてい》せずんばあらざる也。願わくは大王臣が言《ことば》を信じ、上表《じょうひょう》謝罪し、甲を按《お》き兵を休めたまわば、朝廷も必ず寛宥《かんゆう》あり、天人共に悦《よろこ》びて、太祖在天の霊も亦《また》安んじたまわん。※[#「にんべん+淌のつくり」、第3水準1-14-30]《もし》迷《まよい》を執りて回《かえ》らず、小勝を恃《たの》み、大義を忘れ、寡を以て衆に抗し、為《な》す可からざるの悖事《はいじ》を僥倖《ぎょうこう》するを敢《あえ》てしたまわば、臣大王の為に言《もう》すべきところを知らざる也《なり》。況《いわ》んや、大喪の期未だ終らざるに、無辜《むこ》の民驚きを受く。仁を求め国を護《まも》るの義と、逕庭《けいてい》あるも亦《また》甚《はなはだ》し。大王に朝廷を粛清するの誠意おわすとも、天下に嫡統を簒奪《さんだつ》するの批議無きにあらじ。もし幸《さいわい》にして大王敗れたまわずして功成りたまわば、後世の公論、大王を如何《いかん》の人と謂《い》い申すべきや。巍は白髪の書生、蜉蝣《ふゆう》の微命《びめい》、もとより死を畏《おそ》れず。洪武十七年、太祖高皇帝の御恩《ぎょおん》を蒙《こうむ》りて、臣が孝行を旌《あらわ》したもうを辱《かたじけな》くす。巍|既《すで》に孝子たる、当《まさ》に忠臣たるべし。孝に死し忠に死するは巍の至願也。巍幸にして天下の為に死し、太祖在天の霊に見《まみ》ゆるを得ば、巍も亦以て愧《はじ》無かるべし。巍至誠至心、直語して諱《い》まず、尊厳を冒涜《ぼうとく》す、死を賜うも悔《くい》無し、願わくは大王今に於て再思したまえ。と憚《はばか》るところ無く白《もう》しける。されど燕王答えたまわねば、数次《しばしば》書を上《たてまつ》りけるが、皆|効《かい》無かりけり。
 巍の書、人情の純、道理の正しきところより言を立つ。知らず燕王の此《これ》に対して如何《いかん》の感を為せるを。たゞ燕王既に兵を起し戦《たたかい》を開く、巍の言《ことば》善《よ》しと雖も、大河既に決す、一葦《いちい》の支え難きが如し。しかも巍の誠を尽し志を致す、其意と其|言《げん》と、忠孝|敦厚《とんこう》の人たるに負《そむ》かず。数百歳の後、猶《なお》読む者をして愴然《そうぜん》として感ずるあらしむ。魏と韓郁《かんいく》とは、建文の時に於て、人情の純、道理の正《まさ》に拠りて、言《げん》を為せる者也。

 年は新《あらた》になりて建文二年となりぬ。燕《えん》は洪武《こうぶ》三十三年と称す。燕王は正月の酷寒に乗じて、蔚州《いしゅう》を下し、大同《だいどう》を攻む。景隆《けいりゅう》師を出して之《これ》を救わんとすれば、燕王は速く居庸関《きょようかん》より入りて北平《ほくへい》に還《かえ》り、景隆の軍、寒苦に悩み、奔命に疲れて、戦わずして自ら敗る。二月、韃靼《だったん》の兵|来《きた》りて燕を助く。蓋《けだ》し春暖に至れば景隆の来り戦わんことを慮《はか》りて、燕王の請えるなり。春|闌《たけなわ》にして、南軍|勢《いきおい》を生じぬ。四月|朔《さく》、景隆兵を徳州《とくしゅう》に会す、郭英《かくえい》、呉傑《ごけつ》は真定《しんてい》に進みぬ。帝は巍国公《ぎこくこう》徐輝祖《じょきそ》をして、京軍《けいぐん》三万を帥《ひき》いて疾馳《しっし》して軍に会せしむ。景隆、郭英、呉傑|等《ら》、軍六十万を合《がっ》し、百万と号して白溝河《はくこうが》に次《じ》す。南軍の将|平安《へいあん》驍勇《ぎょうゆう》にして、嘗《かつ》て燕王に従いて塞北《さいほく》に戦い、王の兵を用いるの虚実を識《し》る。先鋒《せんぽう》となりて燕に当り、矛《ほこ》を揮《ふる》いて前《すす》む。瞿能《くのう》父子も亦《また》踴躍して戦う。二将の向《むか》う所、燕兵|披靡《ひび》す。夜、燕王、張玉《ちょうぎょく》を中軍に、朱能《しゅのう》を左軍に、陳亨《ちんこう》を右《ゆう》軍に、丘福《きゅうふく》を騎兵に将とし、馬歩《ばほ》十余万、黎明《れいめい》に畢《ことごと》く河を渡る。南軍の瞿能父子、平安等、房寛《ぼうかん》の陣を擣《つ》いて之を破る。張玉等|之《これ》を見て懼色《くしょく》あり。王曰く、勝負《しょうはい》は常事のみ、日中を過ぎずして必ず諸君の為《ため》に敵を破らんと。既《すなわ》ち精鋭数千を麾《さしまね》いて敵の左翼に突入す。王の子|高煦《こうこう》、張玉等の軍を率いて斉《ひと》しく進む。両軍相争い、一進一退す、喊声《かんせい》天に震い 飛矢《ひし》雨の如し。王の馬、三たび創《きず》を被《こうむ》り、三たび之を易《か》う。王|善《よ》く射る。射るところの箭《や》、三|箙《ふく》皆尽く。乃《すなわ》ち剣を提《ひっさ》げて、衆に先だちて敵に入り、左右奮撃す。剣鋒《けんぽう》折れ欠けて、撃《う》つに堪《た》えざるに至る。瞿能《くのう》と相《あい》遇《あ》う。幾《ほと》んど能の為に及ばる。王急に走りて※[#「こざとへん+是」、第3水準1-93-60]《つつみ》に登り、佯《いつわ》って鞭《むち》を麾《さしまね》いで、後継者を招くが如くして纔《わずか》に免《まぬか》れ、而して復《また》衆を率いて馳《は》せて入る。平安|善《よ》く鎗刀《そうとう》を用い、向う所敵無し。燕将|陳亨《ちんこう》、安の為に斬られ、徐忠亦|創《きず》を被《こうむ》る。高煦《こうこう》急を見、精騎数千を帥《ひき》い、前《すす》んで王と合《がっ》せんとす。瞿能《くのう》また猛襲し、大呼して曰く、燕を滅せんと。たま/\旋風突発して、南軍の大将の大旗を折る。南軍の将卒|相《あい》視《み》て驚き動く。王これに乗じ、勁騎《けいき》を以て繞《めぐ》って其《その》後《うしろ》に出で、突入|馳撃《しげき》し、高煦の騎兵と合し、瞿能父子を乱軍の裏《うち》に殺す。平安は朱能と戦って亦敗る。南将|兪通淵《ゆつうえん》、勝聚《しょうしゅう》等《ら》皆死す。燕兵勢に乗じて営に逼《せま》り火を縦《はな》つ。急風火を扇《あお》る。是《ここ》に於《おい》て南軍|大《おおい》に潰《つい》え、郭英《かくえい》等《ら》は西に奔《はし》り、景隆は南に奔る。器械|輜重《しちょう》、皆燕の獲《う》るところとなり、南兵の横尸《おうし》百余里に及ぶ。所在の南師、聞く者皆解体す。此《この》戦《たたかい》、軍を全くして退く者、徐輝祖《じょきそ》あるのみ。瞿能、平安等、驍将《ぎょうしょう》無きにあらずと雖《いえど》も、景隆凡器にして将材にあらず。燕王父子、天縦《てんしょう》の豪雄に加うるに、張玉、朱能、丘福等の勇烈を以《もっ》てす。北軍の克《か》ち、南軍の潰《つい》ゆる、まことに所以《ゆえ》ある也。
 山東参政《さんとうさんせい》鉄鉉《てつげん》は儒生より身を起し、嘗《かつ》て疑獄を断じて太祖の知を受け、鼎石《ていせき》という字《あざな》を賜わりたる者なり。北征の師の出《い》づるや、餉《しょう》を督して景隆の軍に赴かんとしけるに、景隆の師|潰《つい》えて、諸州の城堡《じょうほ》皆|風《ふう》を望みて燕に下るに会い、臨邑《りんゆう》に次《やど》りたるに、参軍|高巍《こうぎ》の南帰するに遇《あ》いたり。偕《とも》に是《こ》れ文臣なりと雖《いえど》も、今武事の日に当り、目前に官軍の大《おおい》に敗れて、賊威の熾《さか》んに張るを見る、感憤何ぞ極まらん。巍は燕王に書を上《たてまつ》りしも効《かい》無かりしを歎《たん》ずれば、鉉は忠臣の節に死する少《すくな》きを憤る。慨世の哭《なげき》、憂国の涙、二人|相《あい》持《じ》して、※[#「さんずい+玄」、第3水準1-86-62]然《げんぜん》として泣きしが、乃《すなわ》ち酒を酌《く》みて同《とも》に盟《ちか》い、死を以て自ら誓い、済南《せいなん》に趨《はし》りてこれを守りぬ。景隆は奔《はし》りて済南に依《よ》りぬ。燕王は勝《かち》に乗じて諸将を進ましめぬ。燕兵の済南に至るに及びて、景隆|尚《なお》十余万の兵を有せしが、一戦に復《また》敗られて、単騎走り去りぬ。燕師の勢|愈《いよいよ》旺《さか》んにして城を屠《ほふ》らんとす。鉄鉉、左都督《さととく》盛庸《せいよう》、右都督《ゆうととく》陳暉《ちんき》等《ら》と力を尽して捍《ふせ》ぎ、志を堅うして守り、日を経《ふ》れど屈せず。事聞えて、鉉を山東布政司使《さんとうふせいしし》と為《な》し、盛庸を大将軍と為《な》し、陳暉を副将軍に陞《のぼ》す。景隆は召還《めしかえ》されしが、黄子澄《こうしちょう》、練子寧《れんしねい》は之を誅《ちゅう》せずんば何を以《もっ》て宗社《そうしゃ》に謝し将士を励まさんと云《い》いしも、帝|卒《つい》に問いたまわず。燕王は済南を囲むこと三月に至り、遂《つい》に下《くだ》すこと能《あた》わず。乃《すなわ》ち城外の諸渓《しょけい》の水を堰《せ》きて灌《そそ》ぎ、一城の士《し》を魚とせんとす。城中|是《ここ》に於て大《おおい》に安んぜず。鉉曰く、懼《おそ》るゝ勿《なか》れ、吾《われ》に計ありと。千人を遣《や》りて詐《いつわ》りて降《くだ》らしめ、燕王を迎えて城に入らしめ、予《かね》て壮士を城上に伏せて、王の入るを侯《うかが》いて大鉄板を墜《おと》して之《これ》を撃ち、又別に伏《ふく》を設けて橋を断たしめんとす。燕王|計《はかりごと》に陥り、馬に乗じ蓋《がい》を張り、橋を渡り城に入る。大鉄板|驟《にわか》に下る。たゞ少しく早きに失して、王の馬首を傷つく。王驚きて馬を易《か》えて馳《は》せて出《い》づ。橋を断たんとす。橋|甚《はなは》だ堅《かた》し。未《いま》だ断つに及ばずして、王|竟《つい》に逸し去る。燕王|幾《ほと》んど死して幸《さいわい》に逃る。天助あるものゝ如し。王|大《おおい》に怒り、巨※[#「石+駁」、UCS-791F、316-5]《きょほう》を以て城を撃たしむ 城壁破れんとす。鉉|愈《いよいよ》屈せず、太祖高皇帝の神牌《しんぱい》を書して城上に懸けしむ。燕王|敢《あえ》て撃たしむる能《あた》わず。鉉又|数々《しばしば》不意に出でゝ壮士をして燕兵を脅《おびや》かさしむ。燕王|憤《いか》ること甚《はなはだ》しけれども、計の出づるところ無し。道衍《どうえん》書を馳《は》せて曰く、師老いたり、請う暫《しば》らく北平に還《かえ》りて後挙を図りたまえと。王|囲《かこみ》を撤して還る。鉉と盛庸|等《ら》と勢に乗じて之を追い、遂に徳州を回復し、官軍|大《おおい》に振う。鉉|是《ここ》に於て擢《ぬきん》でられて兵部尚書《へいぶしょうしょ》となり、盛庸は歴城侯《れきじょうこう》となりたり。
 盛庸は初め耿炳文《こうへいぶん》に従い、次《つい》で李景隆《りけいりゅう》に従いしが、洪武中より武官たりしを以て、兵馬の事に習う。済南の防禦《ぼうぎょ》、徳州の回復に、其の材を認められて、平燕《へいえん》将軍となり、陳暉《ちんき》、平安《へいあん》、馬溥《ばふ》、徐真《じょしん》等の上に立ち、呉傑《ごけつ》、徐凱《じょがい》等と与《とも》に燕を伐《う》つの任に当りぬ。庸|乃《すなわ》ち呉傑、平安をして西の方|定州《ていしゅう》を守らしめ、徐凱をして東の方|滄州《そうしゅう》に屯《たむろ》せしめ、自ら徳州に駐《とど》まり、猗角《きかく》の勢を為《な》して漸《ようや》く燕を蹙《しじ》めんとす。燕王、徳州の城の、修築|已《すで》に完《まった》く、防備も亦厳にして破り難く、滄州の城の潰《つい》え※[#「土へん+己」、UCS-572E、317-6]《くず》るゝ[#「※[#「土へん+己」、UCS-572E、317-6]《くず》るゝ」は底本では「※[#「土へん+已」、317-6]《くず》るゝ」]こと久しくして破り易《やす》きを思い、之《これ》を下して庸の勢を殺《そ》がんと欲す。乃《すなわ》ち陽《よう》に遼東《りょうとう》を征するを令して、徐凱をして備えざらしめ、天津《てんしん》より直沽《ちょくこ》に至り、俄《にわか》に河《か》に沿いて南下するを令す。軍士|猶《なお》知らず、其《そ》の東を征せんとして而して南するを疑う。王厳命して疾行すること三百里、途《みち》に偵騎《ていき》に遇《あ》えば、尽《ことごと》く之《これ》を殺し、一昼夜にして暁《あかつき》に比《およ》びて滄州に至る。凱の燕師の到《いた》れるを覚《さと》りし時には、北卒四面より急攻す。滄州の衆皆驚きて防ぐ能《あた》わず。張玉の肉薄して登るに及び、城|遂《つい》に抜かれ、凱と程暹《ていせん》、兪※[#「王+其」、第3水準1-88-8]《ゆき》、趙滸《ちょうこ》等皆|獲《え》らる。これ実に此《この》年《とし》十月なり。
 十二月、燕王河に循《したが》いて南す。盛庸兵を出して後を襲いしが及ばざりき。王遂に臨清《りんせい》に至り、館陶《かんとう》に屯《たむろ》し、次《つい》で大名府《たいめいふ》を掠《かす》め、転じて※[#「さんずい+文」、第3水準1-86-53]上《ぶんじょう》に至り、済寧《せいねい》を掠《かす》めぬ。盛庸と鉄鉉とは兵を率いて其《その》後《のち》を躡《ふ》み、東昌《とうしょう》に営したり。此《この》時《とき》北軍|却《かえ》って南に在《あ》り南軍却って北に在り。北軍南軍相戦わざるを得ざるの勢《いきおい》成りて東昌の激戦は遂に開かれぬ。初《はじめ》は官軍の先鋒《せんぽう》孫霖《そんりん》、燕将《えんしょう》朱栄《しゅえい》、劉江《りゅうこう》の為《ため》に敗れて走りしが、両軍|持重《じちょう》して、主力動かざること十日を越ゆ。燕師いよ/\東昌に至るに及んで、盛庸、鉄鉉|牛《うし》を宰して将士を犒《ねぎら》い、義を唱《とな》え衆を励まし、東昌の府城を背にして陣し、密《ひそか》に火器|毒弩《どくど》を列《つら》ねて、粛《しゅく》として敵を待ったり。燕兵もと勇にして毎戦毎勝す。庸の軍を見るや鼓譟《こそう》して薄《せま》る。火器|電《でん》の如《ごと》くに発し、毒弩雨の如く注げば、虎狼鴟梟《ころうしきょう》、皆傷ついて倒る。又|平安《へいあん》の兵の至るに会う。庸|是《ここ》に於て兵を麾《さしまね》いて大《おおい》に戦う。燕王精騎を率いて左翼を衝《つ》く。左翼動かずして入る能わず。転じて中堅を衝《つ》く。庸陣を開いて王の入るに縦《まか》せ、急に閉じて厚く之を囲む。燕王衝撃|甚《はなは》だ力《つと》むれども出《い》づることを得ず、殆《ほと》んど其の獲《う》るところとならんとす。朱能《しゅのう》、周長《しゅうちょう》等、王の急を見、韃靼《だったん》騎兵を縦《はな》って庸の軍の東北角を撃つ。庸|之《これ》を禦《ふせ》がしめ、囲《かこみ》やゝ緩《ゆる》む。能《のう》衝いて入って死戦して王を翼《たす》けて出づ。張玉《ちょうぎょく》も亦《また》王を救わんとし、王の已《すで》に出でたるを知らず、庸の陣に突入し、縦横奮撃し、遂に悪闘して死す。官軍|勝《かち》に乗じ、残獲万余人、燕軍|大《おおい》に敗れて奔《はし》る。庸兵を縦《はな》って之を追い、殺傷甚だ多し。此《この》役《えき》や、燕王|数々《しばしば》危《あやう》し、諸将帝の詔《みことのり》を奉ずるを以て、刃《じん》を加えず。燕王も亦|之《これ》を知る。王騎射|尤《もっと》も精《くわ》し、追う者王を斬《き》るを敢《あえ》てせずして、王の射て殺すところとなる多し。適々《たまたま》高煦《こうこう》、華衆《かしゅう》等を率いて至り、追兵を撃退して去る。
 燕王張玉の死を聞きて痛哭《つうこく》し、諸将と語るごとに、東昌《とうしょう》の事に及べば、曰く、張玉を失うより、吾《われ》今に至って寝食安からずと。涕《なみだ》下りて已《や》まず。諸将も皆泣く。後《のち》功臣を賞するに及びて、張玉を第一とし、河間《かかん》王を追封《ついほう》す。

 初め燕王《えんおう》の師の出《い》づるや、道衍《どうえん》曰《いわ》く、師は行《ゆ》いて必ず克《か》たん、たゞ両日を費《ついや》すのみと。東昌《とうしょう》より還《かえ》るに及びて、王多く精鋭を失い、張玉《ちょうぎょく》を亡《うしな》うを以《もっ》て、意|稍《やや》休まんことを欲す。道衍曰く、両日は昌|也《なり》、東昌の事|了《おわ》る、此《これ》より全勝ならんのみと。益々《ますます》士を募り勢《いきおい》を鼓《こ》す。建文三年二月、燕王自ら文を撰《せん》し、流涕《りゅうてい》して陣亡の将士張玉等を祭り、服するところの袍《ほう》を脱して之《これ》を焚《や》き、以て亡者《ぼうしゃ》に衣《き》するの意をあらわし、曰く、其《そ》れ一|糸《し》と雖《いえど》もや、以て余が心を識《し》れと。将士の父兄子弟|之《これ》を見て、皆感泣して、王の為《ため》に死せんと欲す。
 燕王|遂《つい》に復《また》師を帥《ひき》いて出《い》づ。諸将士を諭《さと》して曰く、戦《たたかい》の道、死を懼《おそ》るゝ者は必ず死し、生《せい》を捐《す》つる者は必ず生く、爾《なんじ》等《ら》努力せよと。三月、盛庸《せいよう》と來河《きょうが》に遇《あ》う。燕将|譚淵《たんえん》、董中峰《とうちゅうほう》等《ら》、南将|荘得《そうとく》と戦って死し、南軍|亦《また》荘得《そうとく》、楚知《そち》、張皀旗《ちょうそうき》等を失う。日暮れ、各《おのおの》兵を斂《おさ》めて営に入る。燕王十余騎を以て庸の営に逼《せま》って野宿《やしゅく》す。天|明《あ》く、四面皆敵なり。王|従容《しょうよう》として去る。庸の諸将|相《あい》顧《かえり》みて愕《おどろ》き※[#「目+台」、第3水準1-88-79]《み》るも、天子の詔、朕をして叔父《しゅくふ》を殺すの名を負わしむる勿《なか》れの語あるを以て、矢を発《はな》つを敢《あえ》てせず。此《この》日《ひ》復《また》戦う。辰《たつ》より未《ひつじ》に至って、両軍|互《たがい》に勝ち互に負く。忽《たちまち》にして東北風|大《おおい》に起り、砂礫《されき》面《おもて》を撃つ。南軍は風に逆《さから》い、北軍は風に乗ず。燕軍|吶喊《とっかん》鉦鼓《しょうこ》の声地を振《ふる》い、庸の軍当る能《あた》わずして大《おおい》に敗れ走る。燕王戦|罷《や》んで営に還《かえ》るに、塵土《じんど》満面、諸将も識《し》る能わず、語声を聞いて王なるを覚《さと》りしという。王の黄埃《こうあい》天に漲《みなぎ》るの中に在《あ》って馳駆奔突《ちくほんとつ》して叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]《しった》号令せしの状、察す可《べ》きなり。
 呉傑《ごけつ》、平安《へいあん》は、盛庸《せいよう》の軍を援《たす》けんとして、真定《しんてい》より兵を率いて出《い》でしが、及ばざること八十里にして庸の敗れしことを聞きて還りぬ。燕王、真定の攻め難きを以て、燕軍は回出して糧《かて》を取り、営中|備《そなえ》無しと言わしめ、傑等を誘《いざな》う。傑等之を信じて、遂に※[#「濾」の「思」に代えて「乎」、第4水準2-79-10]沱河《こだか》に出づ。王|河《かわ》を渡り流《ながれ》に沿いて行くこと二十里、傑の軍と藁城《ごうじょう》に遇う。実に閏《うるう》三月|己亥《きがい》なり。翌日|大《おおい》に戦う。燕将|薛禄《せつろく》[#「薛禄」は底本では「薜禄」]、奮闘|甚《はなは》だ力《つと》む。王|驍騎《ぎょうき》を率いて、傑の軍に突入し、大呼猛撃す。南軍|箭《や》を飛ばす雨の如《ごと》く、王の建つるところの旗、集矢《しゅうし》蝟毛《いもう》の如く、燕軍多く傷つく。而《しか》も王|猶《なお》屈せず、衝撃|愈《いよいよ》急なり。会《たまたま》また暴※[#「風にょう+(犬/(犬+犬))、第4水準2-92-41]《ぼうひょう》起り、樹《き》を抜《ぬ》き屋《おく》を飜《ひるがえ》す。燕軍之に乗じ、傑等|大《おおい》に潰《つい》ゆ。燕兵追いて真定城下に至り、驍将《ぎょうしょう》※[#「登+おおざと」、第3水準1-92-80]※[#「晉+戈」、第4水準2-12-85]《とうしん》、陳※[#「周+鳥」、第3水準1-94-62]《ちんちゅう》等を擒《とりこ》にし、斬首《ざんしゅ》六万余級、尽《ことごと》く軍資器械を得たり。王|其《そ》の旗を北平《ほくへい》に送り、世子《せいし》に諭《さと》して曰く、善《よ》く之《これ》を蔵し、後世をして忘る勿《なか》らしめよと。旗世子の許《もと》に至る。時に降将《こうしょう》顧成《こせい》、坐《ざ》に在《あ》りて之を見る。成は操舟《そうしゅう》を業とする者より出づ。魁岸《かいがん》勇偉、膂力《りょりょく》絶倫、満身の花文《かぶん》、人を驚かして自ら異にす。太祖に従って、出入離れず。嘗《かつ》て太祖に随《したが》って出でし時、巨舟《きょしゅう》沙《すな》に膠《こう》して動かず。成|即《すなわち》便舟を負いて行きしことあり。鎮江《ちんこう》の戦《たたかい》に、執《とら》えられて縛《ばく》せらるゝや、勇躍して縛を断ち、刀《とう》を持てる者を殺して脱帰し、直《ただち》に衆を導いて城を陥《おと》しゝことあり。勇力察す可《べ》し。後《のち》戦功を以《も》って累進して将となり、蜀《しょく》を征し、雲南《うんなん》を征し、諸蛮《しょばん》を平らげ、雄名世に布《し》く。建文元年|耿炳文《こうへいぶん》に従いて燕と戦う。炳文敗れて、成|執《とら》えらる。燕王自ら其《その》縛を解いて曰く、皇考の霊、汝《なんじ》を以《もっ》て我に授くるなりと。因《よ》って兵を挙ぐるの故を語る。成感激して心を帰《き》し、遂《つい》に世子を輔《たす》けて北平を守る。然《しか》れども多く謀画《ぼうかく》を致すのみにして、終《つい》に兵に将として戦うを肯《がえ》んぜす、兵器を賜《たま》うも亦《また》受けず。蓋《けだ》し中年以後、書を読んで得るあるに因《よ》る。又一種の人なり。後《のち》、太子|高熾《こうし》の羣小《ぐんしょう》の為《ため》に苦《くるし》めらるるや、告げて曰く、殿下は但《ただ》当《まさ》に誠を竭《つく》して孝敬《こうけい》に、孳々《しし》として民を恤《めぐ》みたもうべきのみ、万事は天に在り、小人は意を措《お》くに足らずと。識見亦高しというべし。成は是《かく》の如き人なり。旗を見るや、愴然《そうぜん》として之を壮《そう》とし、涙下りて曰く、臣|少《わか》きより軍に従いて今老いたり、戦陣を歴《へ》たること多きも、未《いま》だ嘗《かつ》て此《かく》の如きを見ざるなりと。水滸伝《すいこでん》中の人の如き成をして此《この》言を為《な》さしむ、燕王も亦悪戦したりというべし。而して燕王の豪傑の心を攬《と》る所以《ゆえん》のもの、実に王の此《こ》の勇往|邁進《まいしん》、艱危《かんき》を冒して肯《あえ》て避けざるの雄風《ゆうふう》にあらずんばあらざる也。
 四月、燕兵|大名《だいみょう》に次《じ》す。王、斉泰《せいたい》と黄子澄《こうしちょう》との斥《しりぞ》けらるゝを聞き、書を上《たてまつ》りて、呉傑《ごけつ》、盛庸《せいよう》、平安《へいあん》の衆を召還せられんことを乞《こ》い、然《しか》らずんば兵を釈《と》く能《あた》わざるを言う。帝|大理少卿《たいりしょうけい》薛※[#「山/品」、第3水準1-47-85]《せつがん》[#「薛※[#「山/品」、第3水準1-47-85]」は底本では「薜※[#「山/品」、第3水準1-47-85]」]を遣《や》りて、燕王及び諸将士の罪を赦《ゆる》して、本国に帰らしむることを詔《みことのり》し、燕軍を散ぜしめて、而して大軍を以《もっ》て其《その》後《あと》に躡《つ》かしめんとす。※[#「山/品」、第3水準1-47-85]《がん》到りて却《かえ》って燕王の機略威武の服するところとなり、帰って燕王の語|直《ちょく》にして意|誠《まこと》なるを奏し、皇上|権奸《けんかん》を誅《ちゅう》し、天下の兵を散じたまわば、臣|単騎《たんき》闕下《けっか》に至らんと、云える燕王の語を奏す。帝|方孝孺《ほうこうじゅ》に語りたまわく、誠に※[#「山/品」、第3水準1-47-85]の言の如くならば、斉黄《せいこう》我を誤るなりと。孝孺|悪《にく》みて曰く、※[#「山/品」、第3水準1-47-85]の言、燕の為《ため》に游説《ゆうぜい》するなりと。五月、呉傑、平安、兵を発して北平の糧道を断つ。燕王、指揮《しき》武勝《ぶしょう》を遣《や》りて、朝廷兵を罷《や》むるを許したまいて、而して糧を絶ち北を攻めしめたもうは、前詔《ぜんしょう》と背馳《はいち》すと奏す。帝書を得て兵を罷《や》むるの意あり。方孝孺に語りたまわく、燕王は孝康《こうこう》皇帝|同産《どうさん》の弟なり、朕《ちん》の叔父《しゅくふ》なり、吾《われ》他日|宗廟《そうびょう》神霊に見《まみ》えざらんやと。孝孺曰く、兵一たび散すれば、急に聚《あつ》む可からず。彼長駆して闕《けつ》を犯さば、何を以て之《これ》を禦《ふせ》がん、陛下惑いたもうなかれと。勝《しょう》を錦衣獄《きんいごく》に下す。燕王|聞《きい》て大《おおい》に怒る。孝孺の言、真《まこと》に然《しか》り、而して建文帝の情《じょう》、亦|敦《あつ》しというべし。畢竟《ひっきょう》南北相戦う、調停の事、復《また》為《な》す能わざるの勢《いきおい》に在《あ》り、今に於《おい》て兵戈《へいか》の惨《さん》を除かんとするも、五|色《しき》の石、聖手にあらざるよりは、之を錬《ね》ること難きなり。
 此《この》月《つき》燕王|指揮《しき》李遠《りえん》をして軽騎六千を率いて徐沛《じょはい》に詣《いた》り、南軍の資糧を焚《や》かしむ。李遠、丘福《きゅうふく》、薛禄《せつろく》[#「薛禄」は底本では「薜緑」]と策応して、能《よ》く功を収《おさ》め、糧船数万|艘《そう》、糧数百万を焚《や》く。軍資器械、倶《とも》に※[#「火+畏」、第3水準1-87-57]燼《かいじん》となり、河水|尽《ことごと》く熱きに至る。京師これを聞きて大に震駭《しんがい》す。
 七月、平安《へいあん》兵を率いて真定より北平に到り、平村《へいそん》に営す。平村は城を距《さ》る五十里のみ。燕王の世子《せいし》、危《あやう》きを告ぐ。王|劉江《りゅうこう》を召して策を問う。江|乃《すなわ》ち兵を率いて※[#「濾」の「思」に代えて「乎」、第4水準2-79-10]沱《こだ》を渡り、旗幟《きし》を張り、火炬《かきょ》を挙げ、大《おおい》に軍容を壮《さかん》にして安と戦う。安の軍敗れ、安|還《かえ》って真定に走る。
 方孝孺の門人|林嘉猷《りんかゆう》、計《はかりごと》をもって燕王父子をして相《あい》疑わしめんとす。計《けい》行われずして已《や》む。
 盛庸等、大同《だいどう》の守将|房昭《ぼうしょう》に檄《げき》し、兵を引いて紫荊関《しけいかん》に入り、保定《ほてい》の諸県を略し、兵を易州《えきしゅう》の西水寨《せいすいさい》に駐《とど》め、険《けん》に拠《よ》りて持久の計を為《な》し、北平を窺《うかが》わしめんとす。燕王これを聞きて、保定失われんには北平|危《あやう》しとて、遂《つい》に令を下して師を班《かえ》す。八月より九月に至り、燕兵西水寨を攻め、十月真定の援兵を破り、併《あわ》せて寨を破る。房昭走りて免《のが》る。
 十一月、※[#「馬+付」、第4水準2-92-84]馬都尉《ふばとい》梅殷《ばいいん》をして淮安《わいあん》を鎮守《ちんしゅ》せしむ。殷は太祖の女《じょ》の寧国《ねいこく》公主《こうしゅ》に尚《しょう》す。太祖の崩ぜんとするや、其の側《かたえ》に侍して顧命を受けたる者は、実に帝と殷となり。太祖顧みて殷に語りたまわく、汝《なんじ》老成忠信、幼主を託すべしと。誓書および遺詔を出して授けたまい、敢《あえ》て天に違《たが》う者あらば、朕が為《ため》に之《これ》を伐《う》て、と言い訖《おわ》りて崩《かく》れたまえるなり。燕の勢《いきおい》漸《ようや》く大なるに及びて、諸将観望するもの多し。乃《すなわ》ち淮南《わいなん》の民を募り、軍士を合《がっ》して四十万と号し、殷に命じて之を統《す》べて、淮上《わいじょう》に駐《とど》まり、燕師を扼《やく》せしむ。燕王これを聞き、殷に書を遣《おく》り、香《こう》を金陵《きんりょう》に進むるを以て辞と為《な》す。殷答えて曰く、進香は皇考《こうこう》禁あり、遵《したが》う者は孝たり、遵《したが》わざる者は不孝たり、とて使者の耳鼻《じび》を割《さ》き、峻厳《しゅんげん》の語をもて斥《しりぞ》く。燕王怒ること甚《はなはだ》し。
 燕王兵を起してより既に三年、戦《たたかい》勝つと雖《いえど》も、得るところは永平《えいへい》・大寧《たいねい》・保定《ほてい》にして、南軍出没して已《や》まず、得るもまた棄《す》つるに至ること多く、死傷|少《すくな》からず。燕王こゝに於《おい》て、太息《たいそく》して曰く、頻年《ひんねん》兵を用い、何の時か已《や》む可《べ》けん、まさに江に臨みて一決し、復《また》返顧せざらんと。時に京師《けいし》の内臣等、帝の厳《げん》なるを怨《うら》みて、燕王を戴《いただ》くに意ある者あり。燕に告ぐるに金陵の空虚を以てし、間《かん》に乗じて疾進すべしと勧む。燕王遂に意を決して十二月に至りて北平を出づ。
 四年正月、燕の先鋒《せんぽう》李遠、徳州《とくしゅう》の裨将《ひしょう》葛進《かっしん》を※[#「濾」の「思」に代えて「乎」、第4水準2-79-10]沱河《こだか》に破り、朱能《しゅのう》もまた平安の将|賈栄《かえい》等《ら》を衡水《こうすい》に破りて之《これ》を擒《とりこ》にす。燕王乃ち館陶《かんとう》より渡りて、東阿《とうあ》を攻め、※[#「さんずい+文」、第3水準1-86-53]上《ぶんじょう》を攻め、沛県《はいけん》を攻めて之を略し、遂に徐州《じょしゅう》に進み、城兵を威《おど》して敢《あえ》て出でざらしめて南行し、三月|宿州《しゅくしゅう》に至り、平安が馬歩兵《ばほへい》四万を率いて追躡《ついせつ》せるを※[#「さんずい+肥」、第3水準1-86-85]河《ひが》に破り、平安の麾下《きか》の番将|火耳灰《ホルフイ》を得たり。此《この》戦《たたかい》や火耳灰《ホルフイ》※[#「矛+肖」、第4水準2-82-20]《ほこ》を執《と》って燕王に逼《せま》る、相《あい》距《さ》るたゞ十歩ばかり、童信《どうしん》射って、其《その》馬に中《あ》つ。馬倒れて王|免《のが》れ、火耳灰《ホルフイ》獲《え》らる。王|即便《すなわち》火耳灰《ホルフイ》を釈《ゆる》し、当夜に入って宿衛《しゅくえい》せしむ。諸将これを危《あやぶ》みて言《ものい》えども、王|聴《き》かず。次《つ》いで蕭県《しょうけん》を略し、淮河《わいか》の守兵を破る。四月平安|小河《しょうか》に営し、燕兵|河北《かほく》に拠《よ》る。総兵《そうへい》何福《かふく》奮撃して、燕将|陳文《ちんぶん》を斬《き》り、平安勇戦して燕将|王真《おうしん》を囲む。真《しん》身に十余|創《そう》を被《こうむ》り、自ら馬上に刎《くびは》ぬ。安《あん》いよいよ逼《せま》りて、燕王に北坂《ほくはん》に遇《あ》う。安の槊《ほこ》ほとんど王に及ぶ。燕の番騎指揮《ばんきしき》王騏《おうき》、馬を躍らせて突入し、王わずかに脱するを得たり。燕将|張武《ちょうぶ》悪戦して敵を却《しりぞ》くと雖《いえど》も、燕軍遂に克《か》たず。是《ここ》に於て南軍は橋南《きょうなん》に駐《とど》まり、北軍は橋北に駐まり、相《あい》持《じ》するもの数日、南軍|糧《かて》尽きて、蕪《ぶ》を採って食う。燕王曰く、南軍|飢《う》えたり、更に一二日にして糧《かて》やゝ集まらば破り易からずと。乃《すなわ》ち兵千余を留《とど》めて橋を守らしめ、潜《ひそか》に軍を移し、夜半に兵を渡らしめて繞《めぐ》って敵の後《うしろ》に出づ。時に徐輝祖《じょきそ》の軍至る。甲戌《こうじゅつ》大《おおい》に斉眉山《せいびざん》に戦う。午《うま》より酉《とり》に至りて、勝負《しょうはい》相《あい》当《あた》り、燕の驍将《ぎょうしょう》李斌《りひん》死す。燕|復《また》遂に克《か》つ能《あた》わず。南軍|再捷《さいしょう》して振《ふる》い、燕は陳文《ちんぶん》、王真《おうしん》、韓貴《かんき》、李斌等を失い、諸将皆|懼《おそ》る。燕王に説いて曰く、軍深く入りたり、暑雨連綿として、淮土《わいど》湿蒸に、疾疫《しつえき》漸《ようや》く冒さんとす。小河の東は、平野にして牛羊多く、二|麦《ばく》まさに熟せんとす。河を渡り地を択《えら》み、士馬を休息せしめ、隙《げき》を観《み》て動くべきなりと。燕王曰く、兵の事は進《しん》ありて退《たい》無し。勝形成りて而して復《また》北に渡らば、将士解体せざらんや、公等の見る所は、拘攣《こうれん》するのみと。乃《すなわ》ち令を下して曰く、北せんとする者は左せよ、北せざらんとする者は右せよと。諸将多く左に趨《はし》る。王|大《おおい》に怒って曰く、公等みずから之を為《な》せと。此《この》時《とき》や燕の軍の勢《いきおい》、実に岌々乎《きゅうきゅうこ》として将《まさ》に崩れんとするの危《き》に居《お》れり。孤軍長駆して深く敵地に入り、腹背左右、皆我が友たらざる也、北平は遼遠《りょうえん》にして、而《しか》も本拠の四囲|亦《また》皆敵たる也。燕の軍戦って克《か》てば則《すなわ》ち可、克たずんば自ら支うる無き也。而《しこう》して当面の敵たる何福《かふく》は兵多くして力戦し、徐輝祖《じょきそ》は堅実にして隙《ひま》無く、平安《へいあん》は驍勇《ぎょうゆう》にして奇を出《いだ》す。我軍《わがぐん》は再戦して再挫《さいざ》し、猛将多く亡びて、衆心|疑懼《ぎく》す。戦わんと欲すれば力足らず、帰らんとすれば前功|尽《ことごと》く廃《すた》りて、不振の形勢|新《あらた》に見《あら》われんとす。将卒を強いて戦わしめんとすれば人心の乖離《かいり》、不測の変を生ずる無きを保《ほ》せず。諸将争って左するを見て王の怒るも亦《また》宜《むべ》なりというべし。然《しか》れども此《この》時《とき》の勢《いきおい》、ただ退かざるあるのみ、燕王の衆意を容《い》れずして、敢然として奮戦せんと欲するもの、機を看《み》る明確、事を断ずる勇決、実に是《こ》れ豪傑の気象、鉄石の心膓《しんちょう》を見《あら》わせるものならずして何ぞや。時に坐《ざ》に朱能《しゅのう》あり、能は張玉《ちょうぎょく》と共に初《はじめ》より王の左右の手たり。諸将の中《うち》に於て年最も少《わか》しと雖《いえど》も、善戦有功、もとより人の敬服するところとなれるもの、身の長《たけ》八尺、年三十五、雄毅開豁《ゆうきかいかつ》、孝友|敦厚《とんこう》の人たり。慨然として席を立ち、剣を按《あん》じて右に趨《おもむ》きて曰く、諸君|乞《こ》うらくは勉《つと》めよ、昔|漢高《かんこう》は十たび戦って九たび敗れぬれど終《つい》に天下を有したり、今事を挙げてより連《しきり》に勝《かち》を得たるに、小挫《しょうざ》して輙《すなわ》ち帰らば、更《さら》に能《よ》く北面して人に事《つか》えんや。諸君雄豪誠実、豈《あに》退心あるべけんや、と云いければ、諸将|相《あい》見《み》て敢《あえ》て言《ものい》うものあらず、全軍の心機《しんき》一転して、生死共に王に従わんとぞ決しける。朱能|後《のち》に龍州《りゅうしゅう》に死して、東平王《とうへいおう》に追封《ついほう》せらるゝに至りしもの、豈《あに》偶然ならんや。
 燕軍の勢《いきおい》非にして、王の甲《よろい》を解かざるもの数日なりと雖《いえど》も、将士の心は一にして兵気は善変せるに反し、南軍は再捷《さいしょう》すと雖も、兵気は悪変せり。天意とや云わん、時運とや云わん。燕軍の再敗せること京師に聞えければ、廷臣の中《うち》に、燕今は且《まさ》に北に還《かえ》るべし、京師空虚なり、良将無かるべからず、と曰う者ありて、朝議|徐輝祖《じょきそ》を召還《めしかえ》したもう。輝祖《きそ》已《や》むを得ずして京《けい》に帰りければ、何福《かふく》の軍の勢《いきおい》殺《そ》げて、単糸《たんし》の※[#「糸+刃」、第4水準2-84-10]《しない》少《すくな》く、孤掌《こしょう》の鳴り難き状を現わしぬ。加うるに南軍は北軍の騎兵の馳突《ちとつ》に備うる為に塹濠《ざんごう》を掘り、塁壁を作りて営と為《な》すを常としければ、軍兵休息の暇《いとま》少《すくな》く、往々|虚《むな》しく人力を耗《つく》すの憾《うらみ》ありて、士卒|困罷《こんひ》退屈の情あり。燕王の軍は塹塁《ざんるい》を為《つく》らず、たゞ隊伍《たいご》を分布し、陣を列して門と為《な》す。故に将士は営に至れば、即《すなわ》ち休息するを得、暇《いとま》あれば王|射猟《しゃりょう》して地勢を周覧し、禽《きん》を得《う》れば将士に頒《わか》ち、塁を抜くごとに悉《ことごと》く獲《う》るところの財物を賚《たま》う。南軍と北軍と、軍情おのずから異なること是《かく》の如し。一は人|役《えき》に就《つ》くを苦《くるし》み、一は人|用《よう》を為《な》すを楽《たのし》む。彼此《ひし》の差、勝敗に影響せずんばあらず。
 かくて対塁《たいるい》日を累《かさ》ぬる中《うち》、南軍に糧餉《りょうしょう》大《おおい》に至るの報あり。燕王|悦《よろこ》んで曰《いわ》く、敵必ず兵を分ちて之を護《まも》らん、其の兵分れて勢弱きに乗じなば、如何《いか》で能《よ》く支えんや、と朱栄《しゅえい》、劉江《りゅうこう》等《ら》を遣《や》りて、軽騎を率いて、餉道《しょうどう》を截《き》らしめ、又|游騎《ゆうき》をして樵採《しょうさい》を妨げ擾《みだ》さしむ。何福《かふく》乃《すなわ》ち営を霊壁《れいへき》に移す。南軍の糧五方、平安《へいあん》馬歩《ばほ》六万を帥《ひき》いて之を護《まも》り、糧を負うものをして中《うち》に居《お》らしむ。燕王壮士万人を分ちて敵の援兵を遮《さえぎ》らしめ、子|高煦《こうこう》をして兵を林間に伏せ、敵戦いて疲れなば出《い》でゝ撃つべしと命じ、躬《み》ずから師を率いて逆《むか》え戦い、騎兵を両翼と為《な》す。平安軍を引いて突至し、燕兵千余を殺しゝも、王|歩軍《ほぐん》を麾《さしまね》いて縦撃《しょうげき》し、其《その》陣を横貫し、断って二となしゝかば、南軍|遂《つい》に乱れたり。何福等|此《これ》を見て安と合撃し、燕兵数千を殺して之《これ》を却《しりぞ》けしが、高煦は南軍の罷《つか》れたるを見、林間より突出し、新鋭の勢をもて打撃を加え、王は兵を還《かえ》して掩《おお》い撃ちたり。是《ここ》に於《おい》て南軍|大《おおい》に敗れ、殺傷万余人、馬三千余匹を喪《うしな》い、糧餉《りょうしょう》尽《ことごと》く燕の師に獲《え》らる。福等は余衆を率いて営に入り、塁門を塞《ふさ》ぎて堅守しけるが、福|此《この》夜《よ》令を下して、明旦《めいたん》砲声三たびするを聞かば、囲《かこみ》を突いて出で、糧に淮河《わいか》に就くべし、と示したり。然《しか》るに此《これ》も亦《また》天か命《めい》か、其《その》翌日燕軍|霊壁《れいへき》の営を攻むるに当って、燕兵偶然三たび砲を放ったり。南軍誤って此《これ》を我《わが》砲となし、争って急に門に趨《おもむ》きしが、元より我が号砲ならざれば、門は塞《ふさ》がりたり。前者は出づることを得ず、後者は急に出でんとす。営中|紛擾《ふんじょう》し、人馬|滾転《こんてん》す。燕兵急に之を撃って、遂に営を破り、衝撃と包囲と共に敏捷《びんしょう》を極む。南軍こゝに至って大敗収む可《べ》からず。宗垣《そうえん》、陳性善《ちんせいぜん》、彭与明《ほうよめい》は死し、何福は遁《のが》れ走り、陳暉《ちんき》、平安《へいあん》、馬溥《ばふ》、徐真《じょしん》、孫晟《そんせい》、王貴《おうき》等、皆|執《とら》えらる。平安の俘《とりこ》となるや、燕の軍中歓呼して地を動かす。曰く、吾等《われら》此《これ》より安きを獲《え》んと。争って安《あん》を殺さんことを請う。安が数々《しばしば》燕兵を破り、驍将《ぎょうしょう》を斬《き》る数人なりしを以《もっ》てなり。燕王其の材勇を惜みて許さず。安に問いて曰く、※[#「さんずい+肥」、第3水準1-86-85]河《ひか》の戦《たたかい》、公の馬|躓《つまず》かずんば、何以《いか》に我を遇せしぞと。安の曰く、殿下を刺すこと、朽《くちき》を拉《とりひし》ぐが如くならんのみと。王太息して曰く、高皇帝、好《よ》く壮士を養いたまえりと。勇卒を選みて、安を北平に送り、世子をして善《よ》く之を視《み》せしむ。安|後《のち》永楽七年に至りて自殺す。安等を喪《うしな》いてより、南軍|大《おおい》に衰う。黄子澄《こうしちょう》、霊壁《れいへき》の敗を聞き、胸を撫《ぶ》して大慟《たいどう》して曰く、大事去る、吾輩《わがはい》万死、国を誤るの罪を贖《つぐな》うに足らずと。
 五月、燕兵|泗州《ししゅう》に至る。守将|周景初《しゅうけいしょ》降《くだ》る。燕の師進んで淮《わい》に至る。盛庸《せいよう》防ぐ能《あた》わず、戦艦皆燕の獲《う》るところとなり、※[#「目+干」、第3水準1-88-76]※[#「目+台」、第3水準1-88-79]《くい》陥《おとしい》れらる。燕王諸将の策を排して、直《ただち》に揚州《ようしゅう》に趨《おもむ》く。揚州の守将|王礼《おうれい》と弟|宗《そう》と、監察御史《かんさつぎょし》王彬《おうひん》を縛して門を開いて降《くだ》る。高郵《こうゆう》、通泰《つうたい》、儀真《ぎしん》の諸城、亦《また》皆降り、北軍の艦船江上に往来し、旗鼓《きこ》天を蔽《おお》うに至る。朝廷大臣、自ら全うするの計を為《な》して、復《また》立って争わんとする者無し。方孝孺《ほうこうじゅ》、地を割《さ》きて燕に与え、敵の師を緩《ゆる》うして、東南の募兵の至るを俟《ま》たんとす。乃《すなわ》ち慶城《けいじょう》郡主《ぐんしゅ》を遣《や》りて和を議せしむ。郡主は燕王の従姉《じゅうし》なり。燕王|聴《き》かずして曰く、皇考の分ちたまえる吾《わが》地《ち》も且《かつ》保つ能《あた》わざらんとせり、何ぞ更に地を割《さ》くを望まん、たゞ奸臣《かんしん》を得るの後、孝陵《こうりょう》に謁《えっ》せんと。六月、燕師|浦子口《ほしこう》に至る。盛庸等之を破る。帝|都督《ととく》僉事《せんじ》陳※[#「王+宣」、第3水準1-88-14]《ちんせん》を遣りて舟師《しゅうし》を率いて庸を援《たす》けしむるに、※[#「王+宣」、第3水準1-88-14]却《かえ》って燕に降《くだ》り、舟を具《そな》えて迎う。燕王乃ち江神《こうじん》を祭り、師を誓わしめて江を渡る。舳艫《じくろ》相《あい》銜《ふく》みて、金鼓《きんこ》大《おおい》に震《ふる》う。盛庸等|海舟《かいしゅう》に兵を列せるも、皆|大《おおい》に驚き愕《おどろ》く。燕王諸将を麾《さしまね》き、鼓譟《こそう》して先登《せんとう》す。庸の師|潰《つい》え、海舟皆其の得るところとなる。鎮江《ちんこう》の守将|童俊《どうしゅん》、為《な》す能わざるを覚りて燕に降る。帝、江上の海舟も敵の用を為《な》し、鎮江等諸城皆降るを聞きて、憂鬱《ゆううつ》して計《はかりごと》を方孝孺に問う。孝孺民を駆《か》りて城に入れ、諸王をして門を守らしむ。李景隆《りけいりゅう》等《ら》燕王に見《まみ》えて割地の事を説くも、王応ぜず。勢《いきおい》いよ/\逼《せま》る。群臣|或《あるい》は帝に勧むるに淅《せつ》に幸《こう》するを以てするあり、或《あるい》は湖湘《こしょう》に幸するに若《し》かずとするあり。方孝孺堅く京《けい》を守りて勤王《きんのう》の師の来《きた》り援《たす》くるを待ち、事|若《も》し急ならば、車駕《しゃが》蜀《しょく》に幸《みゆき》して、後挙を為さんことを請う。時に斉泰《せいたい》は広徳《こうとく》に奔《はし》り、黄子澄は蘇州《そしゅう》に奔り、徴兵を促《うなが》す。蓋《けだ》し二人皆実務の才にあらず、兵を得る無し。子澄は海に航して兵を外洋に徴《め》さんとして果《はた》さず。燕将|劉保《りゅうほ》、華聚《かしゅう》等《ら》、終《つい》に朝陽門《ちょうようもん》に至り、備《そなえ》無きを覘《うかが》いて還りて報ず。燕王|大《おおい》に喜び、兵を整えて進む。金川門《きんせんもん》に至る。谷王《こくおう》※[#「木+惠」、UCS-6A5E、337-8]《けい》と李景隆《りけいりゅう》と、金川門を守る。燕兵至るに及んで、遂《つい》に門を開いて降る。魏国公《ぎこくこう》徐輝祖《じょきそ》屈せず、師を率いて迎え戦う。克《か》つ能《あた》わず。朝廷文武皆|倶《とも》に降って燕王を迎う。

 史を按《あん》じて兵馬の事を記す、筆墨も亦《また》倦《う》みたり。燕王《えんおう》事を挙げてより四年、遂《つい》に其《その》志を得たり。天意か、人望か、数《すう》か、勢《いきおい》か、将又《はたまた》理の応《まさ》に然《しか》るべきものあるか。鄒公《すうこう》瑾《きん》等《ら》十八人、殿前に於《おい》て李景隆《りけいりゅう》を殴《う》って幾《ほとん》ど死せしむるに至りしも、亦《また》益無きのみ。帝、金川門《きんせんもん》の守《まもり》を失いしを知りて、天を仰いで長吁《ちょうく》し、東西に走り迷《まど》いて、自殺せんとしたもう。明史《みんし》、恭閔恵《きょうびんけい》皇帝紀に記す、宮中火起り、帝終る所を知らずと。皇后|馬氏《ばし》は火に赴いて死したもう。丙寅《へいいん》、諸王及び文武の臣、燕王に位に即《つ》かんことを請う。燕王辞すること再三、諸王|羣臣《ぐんしん》、頓首《とんしゅ》して固く請う。王|遂《つい》に奉天殿《ほうてんでん》に詣《いた》りて、皇帝の位に即く。
 是《これ》より先|建文《けんぶん》中、道士ありて、途《みち》に歌って曰《いわ》く、

   燕《えん》を逐《お》ふ莫《なか》れ、
   燕を逐ふ莫れ。
   燕を逐へば、日に高く飛び、
   高く飛びで、帝畿《ていき》に上《のぼ》らん。

 是《ここ》に至りて人|其《その》言の応を知りぬ。燕王今は帝《てい》たり、宮人|内侍《ないじ》を詰《なじ》りて、建文帝の所在を問いたもうに、皆|馬《ば》皇后の死したまえるところを指して応《こた》う。乃《すなわ》ち屍《かばね》を※[#「火+畏」、第3水準1-87-57]燼中《かいじんちゅう》より出して、之《これ》を哭《こく》し、翰林侍読《かんりんじどく》王景《おうけい》を召して、葬礼まさに如何《いかん》すべき、と問いたもう。景|対《こた》えて曰く、天子の礼を以てしたもうべしと。之に従う。
 建文帝の皇考《おんちち》興宗孝康《こうそうこうこう》皇帝の廟号《びょうごう》を去り、旧《もと》の諡《おくりな》に仍《よ》りて、懿文《いぶん》皇太子と号し、建文帝の弟|呉王《ごおう》允※[#「火+通」、UCS-71A5、339-9]《いんとう》を降《くだ》して広沢王《こうたくおう》とし、衛王《えいおう》允※[#「火+堅」、UCS-719E、339-9]《いんけん》を懐恩王《かいおんおう》となし、除王《じょおう》允※[#「熈」の「ノ」に代えて「冫」、第3水準1-87-58]《いんき》を敷恵王《ふけいおう》となし、尋《つい》で復《また》庶人《しょじん》と為《な》ししが、諸王|後《のち》皆|其《その》死《し》を得ず。建文帝の少子《しょうし》は中都《ちゅうと》広安宮《こうあんきゅう》に幽せられしが、後《のち》終るところを知らず。

 魏国公《ぎこくこう》徐輝祖《じょきそ》、獄に下さるれども屈せず、諸武臣皆帰附すれども、輝祖|始終《しじゅう》帝を戴《いただ》くの意無し。帝|大《おおい》に怒れども、元勲|国舅《こくきゅう》たるを以て誅《ちゅう》する能《あた》わず、爵を削って之を私第《してい》に幽するのみ。輝祖は開国の大功臣たる中山王《ちゅうさんおう》徐達《じょたつ》の子にして、雄毅《ゆうき》誠実、父|達《たつ》の風骨あり。斉眉山《せいびざん》の戦《たたかい》、大《おおい》に燕兵を破り、前後数戦、毎《つね》に良将の名を辱《はずかし》めず。其《その》姉は即《すなわ》ち燕王の妃《ひ》にして、其弟|増寿《ぞうじゅ》は京師《けいし》に在りて常に燕の為《ため》に国情を輸《いた》せるも、輝祖独り毅然《きぜん》として正しきに拠《よ》る。端厳の性格、敬虔《けいけん》の行為、良将とのみ云《い》わんや、有道の君子というべきなり。
 兵部尚書《へいぶしょうしょ》鉄鉉《てつげん》、執《とら》えられて京《けい》に至る。廷中に背立して、帝に対《むか》わず、正言して屈せず、遂に寸磔《すんたく》せらる。死に至りて猶《なお》罵《ののし》るを以《もっ》て、大※[#「金+護のつくり」、第3水準1-93-41]《たいかく》に油熬《ゆうごう》せらるゝに至る。参軍断事《さんぐんだんじ》高巍《こうぎ》、かつて曰く、忠に死し孝に死するは、臣の願《ねがい》なりと。京城《けいじょう》破れて、駅舎に縊死《いし》す。礼部尚書《れいぶしょうしょ》陳廸《ちんてき》、刑部《けいぶ》尚書|暴昭《ぼうしょう》、礼部侍郎《れいぶじろう》黄観《こうかん》、蘇州《そしゅう》知府《ちふ》姚善《ようぜん》、翰林《かんりん》修譚《しゅうたん》、王叔英《おうしゅくえい》、翰林《かんりん》王艮《おうごん》、淅江《せっこう》按察使《あんさつし》王良《おうりょう》、兵部郎中《へいぶろうちゅう》譚冀《たんき》、御史《ぎょし》曾鳳韶《そうほうしょう》、谷府長史《こくふちょうし》劉※[#「王+景」、第3水準1-88-27]《りゅうけい》、其他数十百人、或《あるい》は屈せずして殺され、或は自死《じし》して義を全くす。斉泰《せいたい》、黄子澄《こうしちょう》、皆|執《とら》えられ、屈せずして死す。右副都御史《ゆうふくとぎょし》練子寧《れんしねい》、縛《ばく》されて闕《けつ》に至る。語|不遜《ふそん》なり。帝|大《おおい》に怒って、命じて其《その》舌を断《き》らしめ、曰く、吾《われ》周公《しゅうこう》の成王《せいおう》を輔《たす》くるに傚《なら》わんと欲するのみと。子寧《しねい》手をもて舌血《ぜっけつ》を探り、地上に、成王《せいおう》安在《いずくにある》の四字を大書《たいしょ》す。帝|益《ますます》怒りて之を磔殺《たくさつ》し、宗族《そうぞく》棄市《きし》せらるゝ者、一百五十一人なり。左僉都御史《させんとぎょし》景清《けいせい》、詭《いつわ》りて帰附し、恒《つね》に利剣を衣中に伏せて、帝に報いんとす。八月望日、清|緋衣《ひい》して入る。是《これ》より先に霊台《れいだい》奏す、文曲星《ぶんきょくせい》帝座を犯す急にして色赤しと。是《ここ》に於《おい》て清の独り緋を衣《き》るを見て之を疑う。朝《ちょう》畢《おわ》る。清《せい》奮躍して駕《が》を犯さんとす。帝左右に命じて之を収めしむ。剣を得たり。清《せい》志の遂《と》ぐべからざるを知り、植立《しょくりつ》して大に罵《ののし》る。衆|其《その》歯を抉《けっ》す。且《かつ》抉せられて且《かつ》罵り、血を含んで直《ただち》に御袍《ぎょほう》に※[#「口+饌のつくり」、第4水準2-4-37]《ふ》く。乃《すなわ》ち命じて其《その》皮を剥《は》ぎ、長安門《ちょうあんもん》に繋《つな》ぎ、骨肉を砕磔《さいたく》す。清帝の夢に入って剣を執って追いて御座を繞《めぐ》る。帝|覚《さ》めて、清の族を赤《せき》し郷《きょう》を籍《せき》す。村里も墟《きょ》となるに至る。
 戸部侍郎《こぶじろう》卓敬《たくけい》執《とら》えらる。帝曰く、爾《なんじ》前日諸王を裁抑《さいよく》す、今|復《また》我に臣たらざらんかと。敬曰く、先帝|若《も》し敬が言に依《よ》りたまわば、殿下|豈《あに》此《ここ》に至るを得たまわんやと。帝怒りて之を殺さんと欲す。而《しか》も其《その》才を憐《あわれ》みて獄に繋《つな》ぎ、諷《ふう》するに管仲《かんちゅう》・魏徴《ぎちょう》の事を以《もっ》てす。帝の意《こころ》、敬を用いんとする也《なり》。敬たゞ涕泣《ていきゅう》して可《き》かず。帝|猶《なお》殺すに忍びず。道衍《どうえん》白《もう》す、虎《とら》を養うは患《うれい》を遺《のこ》すのみと。帝の意|遂《つい》に決す。敬刑せらるゝに臨みて、従容《しょうよう》として嘆じて曰く、変|宗親《そうしん》に起り、略|経画《けいかく》無し、敬死して余罪ありと。神色|自若《じじゃく》たり。死して経宿《けいしゅく》して、面《おもて》猶《なお》生けるが如《ごと》し。三族を誅《ちゅう》し、其《その》家を没するに、家たゞ図書数巻のみ。卓敬と道衍と、故《もと》より隙《げき》ありしと雖《いえど》も、帝をして方孝孺《ほうこうじゅ》を殺さゞらしめんとしたりし道衍にして、帝をして敬を殺さしめんとす。敬の実用の才ありて浮文《ふぶん》の人にあらざるを看《み》るべし。建文の初《はじめ》に当りて、燕を憂うるの諸臣、各《おのおの》意見を立て奏疏《そうそ》を上《たてまつ》る。中に就《つい》て敬の言最も実に切なり。敬の言にして用いらるれば、燕王|蓋《けだ》し志を得ざるのみ。万暦《ばんれき》に至りて、御史《ぎょし》屠叔方《としゅくほう》奏して敬の墓を表し祠《し》を立つ。敬の著すところ、卓氏《たくし》遺書五十巻、予|未《いま》だ目を寓《ぐう》せずと雖《いえど》も、管仲《かんちゅう》魏徴《ぎちょう》の事を以て諷《ふう》せられしの人、其の書必ず観《み》る可《べ》きあらん。

 卓敬《たくけい》を容《い》るゝ能《あた》わざりしも、方孝孺《ほうこうじゅ》を殺す勿《なか》れと云《い》いし道衍《どうえん》は如何《いかん》の人ぞや。眇《びょう》たる一山僧の身を以《もっ》て、燕王《えんおう》を勧めて簒奪《さんだつ》を敢《あえ》てせしめ、定策決機《ていさくけっき》、皆みずから当り、臣《しん》天命を知る、何《なん》ぞ民意を問わん、というの豪懐《ごうかい》を以《もっ》て、天下を鼓動し簸盪《ひとう》し、億兆を鳥飛《ちょうひ》し獣奔《じゅうほん》せしめて憚《はばか》らず、功成って少師《しょうし》と呼ばれて名いわれざるに及んで、而《しか》も蓄髪を命ぜらるれども肯《がえ》んぜず、邸第《ていだい》を賜い、宮人《きゅうじん》を賜われども、辞して皆受けず、冠帯して朝《ちょう》すれども、退けば即《すなわ》ち緇衣《しい》、香烟茶味《こうえんちゃみ》、淡然として生を終り、栄国公《えいこくこう》を贈《おく》られ、葬《そう》を賜わり、天子をして親《み》ずから神道碑《しんどうひ》を製するに至らしむ。又一|箇《こ》の異人《いじん》というべし。魔王の如《ごと》く、道人《どうじん》の如く、策士の如く、詩客《しかく》の如く、実に袁※[#「王+共」、第3水準1-87-92]《えんこう》[#「袁※[#「王+共」、第3水準1-87-92]」は底本では「袁洪」]の所謂《いわゆる》異僧なり。其《そ》の詠ずるところの雑詩の一に曰《いわ》く、

   志士は 苦節を守る、
   達人は 玄言《げんげん》に滞《とどこお》らんや。
   苦節は 貞《かた》くす可《べ》からず、
  玄言 豈《あに》其《そ》れ然《しか》らんや。
  出《いづ》ると処《お》ると 固《もと》より定《さだまり》有り、
   語るも黙するも 縁無きにあらず。
  伯夷《はくい》 量《りょう》 何《なん》ぞ隘《せま》き、

  宣尼《せんじ》 智 何ぞ円《えん》なる。
  所以《ゆえ》に 古《いにしえ》 の君子、
   命《めい》に安んずるを 乃《すなわ》ち賢と為《な》す。

 苦節は貞《かた》くす可《べ》からずの一句、易《えき》の爻辞《こうじ》の節の上六《しょうりく》に、苦節、貞《かた》くすれば凶なり、とあるに本《もと》づくと雖《いえど》も、口気おのずから是《これ》道衍の一家言なり。況《いわ》んや易の貞凶《ていきょう》の貞は、貞固《ていこ》の貞にあらずして、貞※[#「毎+卜」、345-6]《ていかい》の貞とするの説無きにあらざるをや。伯夷量何ぞ隘《せま》きというに至っては、古賢の言に拠《よ》ると雖も、聖《せい》の清《せい》なる者に対して、忌憚《きたん》無きも亦《また》甚《はなはだ》しというべし。其《そ》の擬古《ぎこ》の詩の一に曰く


   良辰《りょうしん》 遇《あ》ひ難きを念《おも》ひて、
  筵《えん》を開き 綺戸《きこ》に当る。
  会す 我が 同門の友、
  言笑 一に何ぞ※[#「月+無」、UCS-81B4、346-2]《あじわい》ある。
  素絃《そげん》 清《きよき》商《しらべ》を発《おこ》し、
  余響《よきょう》 樽爼《そんそ》を繞《めぐ》る。
  緩舞《かんぶ》 呉姫《ごき》 出《い》で、
  軽謳《けいおう》 越女《えつじょ》 来《きた》る。
  但《ただ》欲《ねが》ふ 客《かく》の※[#「てへん+弃」、346-7]酔《へんすい》せんことを、
  ※[#「角+光」、第3水準1-91-91]籌《さかずきのかず》 何《なん》ぞ肯《あえ》て数へむ。
  流年 ※[#「犬/(犬+犬)」、UCS-730B、346-9]《はやく》馳《はしる》を嘆く、
  力有るも誰《たれ》か得て阻《とど》めむ。
  人生 須《すべか》らく歓楽すべし、
  長《とこしえ》に辛苦せしむる勿《なか》れ。

 擬古の詩、もとより直《ただち》に抒情《じょじょう》の作とす可《べ》からずと雖《いえど》も、此《これ》是《こ》れ緇《くろき》を披《き》て香を焚《た》く仏門の人の吟ならんや。其《そ》の北固山《ほっこざん》を経て賦《ふ》せる懐古の詩というもの、今存するの詩集に見えずと雖も、僧|宗※[#「さんずい+こざとへん+力」、第4水準2-78-33]《そうろく》一読して、此《これ》豈《あに》釈子《しゃくし》の語ならんや、と曰《い》いしという。北固山は宋《そう》の韓世忠《かんせいちゅう》兵を伏せて、大《おおい》に金《きん》の兀朮《ごつじゅつ》を破るの処《ところ》たり。其詩また想《おも》う可き也《なり》。劉文《りゅうぶん》貞公《ていこう》の墓を詠ずるの詩は、直《ただち》に自己の胸臆《きょうおく》を※[#「てへん+慮」、第4水準2-13-58]《の》ぶ。文貞は即《すなわ》ち秉忠《へいちゅう》にして、袁※[#「王+共」、第3水準1-87-92]《えんこう》[#「袁※[#「王+共」、第3水準1-87-92]」は底本では「袁洪」]の評せしが如く、道衍の燕《えん》に於《お》けるは、秉忠の元《げん》に於けるが如く、其の初《はじめ》の僧たる、其の世に立って功を成せる、皆|相《あい》肖《に》たり。蓋《けだ》し道衍の秉忠に於けるは、岳飛《がくひ》が関張《かんちょう》と比《ひと》しからんとし、諸葛亮《しょかつりょう》が管楽に擬したるが如く、思慕して而《しこう》して倣模《ほうも》せるところありしなるべし。詩に曰く、


  良驥《りょうき》 色 羣《ぐん》に同じく、
   至人 迹《あと》 俗に混ず。
  知己《ちき》 苟《いやしく》も遇《あ》はざれば、
  終世 怨《うら》み※[#「讀+言」、UCS-8B9F、348-2]《うら》まず。
  偉なる哉《かな》 蔵春公《ぞうしゅんこう》や、
  箪瓢《たんぴょう》 巌谷《がんこく》に楽《たのし》む。
  一朝 風雲 会す。
  君臣 おのづから心腹《しんぷく》なり。
  大業 計《はかりごと》 已《すで》に成りて、
   勲名 簡牘《かんとく》に照る。
  身|退《しりぞ》いて 即《すなわ》ち長往し、
  川流れて 去つて復《かえ》ること無し。
   住城《じゅうじょう》 百年の後《のち》、
   鬱々《うつうつ》たり 盧溝《ろこう》の北。
  松《まつ》楸《ひさぎ》 烟靄《えんあい》 青く、
  翁仲《いしのまもりびと》 ※[#「くさかんむり/靡」、第4水準2-87-21]蕪《かおりぐさ》 緑なり。
  強梁《あばれもの》も 敢《あえ》て犯さず、
  何人《なんぴと》か 敢て樵《きこり》牧《うまかい》せん。
  王侯の 墓|累々《るいるい》たるも、
  廃《はい》すること 草宿《わずかのま》をも待たず。
  惟《ただ》公《こう》 民望《みんぼう》に在《あ》り、
  天地と 傾覆《けいふく》を同じうす。

  斯《この》人《ひと》 作《おこ》す可《べ》からず、
  再拝して 還《また》一|哭《こく》す。

 蔵春は秉忠《へいちゅう》の号なり。盧溝は燕の城南に在り。此《この》詩《し》劉文貞に傾倒すること甚《はなは》だ明らかに、其の高風大業を挙げ、而《しこう》して再拝|一哭《いっこく》すというに至る。性情|行径《こうけい》相《あい》近《ちか》し、俳徊《はいかい》感慨、まことに止《や》む能《あた》わざるものありしならん。又別に、春日《しゅんじつ》劉太保《りゅうたいほ》の墓に謁するの七律《しちりつ》あり。まことに思慕の切なるを証すというべし。東游《とうゆう》せんとして郷中《きょうちゅう》諸友《しょゆう》に別るゝの長詩に、


  我|生《うま》れて 四方《しほう》の志あり、
  楽《たのし》まず 郷井《きょうせい》の中《うち》を。
   茫乎《ぼうこ》たる 宇宙の内、
   飄転《ひょうてん》して 秋蓬《しゅうほう》の如し。
  孰《たれ》か云ふ 挾《さしはさ》む所無しと、
   耿々《こうこう》たるもの 吾《わが》胸に存す。
  魚《うお》の※[#「さんずい+樂」、第4水準2-79-40]《いけ》に止《とど》まるを為《な》すに忍びんや、
  禽《とり》の籠《かご》に囚《とら》はるゝを作《な》すを肯《がえん》ぜんや。
  三たび登ると 九たび到《いた》ると、
   古徳《ことく》と与《とも》に同じうせんと欲す。
   去年は 淮楚《わいそ》に客《かく》たりき、
   今は往《ゆ》かんとす 浙水《せっすい》の東。

  身を竦《そばだ》てゝ 雲衢《くものちまた》に入る、
  一錫《ひとつのつえ》 游龍《うごけるりゅう》の如し。
  笠《かさ》は衝《つ》く 霏々《ひひ》の霧、
   衣《い》は払ふ ※[#「風にょう+叟」、第4水準2-92-38]々《そうそう》の風。

の句あり。身を竦《そばだ》てゝの句、颯爽《さっそう》悦《よろこ》ぶ可《べ》し。其《その》末《すえ》に、


  江天《こうてん》 正に秋清く、
  山水 亦《また》容《すがた》を改む。
   沙鳥《はまじのとり》は 烟《けむり》の際《きわ》に白く、
   嶼葉《しまのこのは》は 霜の前に紅《くれない》なり。

といえる如《ごと》き、常套《じょうとう》の語なれども、また愛す可《べ》し。古徳と同じゅうせんと欲するは、是《こ》れ仮《か》にして、淮楚《わいそ》浙東《せっとう》に往来せるも、修行の為《ため》なりしや游覧《ゆうらん》の為なりしや知る可からず。然《しか》れども詩情も亦《また》饒《おお》き人たりしは疑う可からず。詩に於《おい》ては陶淵明《とうえんめい》を推《お》し、笠沢《りゅうたく》の舟中《しゅうちゅう》に陶詩《とうし》を読むの作あり、中《うち》に淵明を学べる者を評して、


  応物《おうぶつ》は趣《おもむき》 頗《すこぶる》合《がっ》し、
  子瞻《しせん》は 才 当るに足る。

と韋《い》、蘇《そ》の二士を挙げ、其《その》他《た》の模倣者《もほうしゃ》を、


  里婦《りふ》 西《せい》が顰《ひそみ》に効《なら》ふ、
  咲《わら》ふ可し 醜《しゅう》愈《いよいよ》張る。


と冷笑し、又|公暇《こうか》に王維《おうい》、孟浩然《もうこうぜん》、韋応物《いおうぶつ》、柳子厚《りゅうしこう》の詩を読みて、四|子《し》を賛する詩を為《な》せる如き、其の好む所の主とするところありて泛濫《へんらん》ならざるを示せり。当時の詩人に於ては、高啓《こうけい》を重んじ、交情また親しきものありしは、|奉[#レ]答[#二]高季迪[#一]《こうきてきにこたえたてまつる》、|寄[#二]高編脩[#一]《こうへんしゅうによす》、|賀[#二]高啓生[#一レ]子《こうけいのこをうめるをがす》、|訪[#二]高啓鍾山寓舎[#一]辱[#二]詩見[#一レ]貽《こうけいをしょうざんぐうしゃにといしをおくらるるをかたじけなくす》、|雪夜読[#二]高啓詩[#一]《せつやこうけいのしをよむ》等の詩に徴して知るべく、此《この》老の詩眼暗からざるを見る。逃虚集《とうきょしゅう》十巻、続集一巻、詩精妙というにあらずと雖《いえど》も、時に逸気あり。今其集に就《つい》て交友を考うるに、袁※[#「王+共」、第3水準1-87-92]《えんこう》[#「袁※[#「王+共」、第3水準1-87-92]」は底本では「韋※[#「王+共」、第3水準1-87-92]」]と張天師《ちょうてんし》とは、最も親熟《しんじゅく》するところなるが如く、贈遺《ぞうい》の什《じゅう》甚《はなは》だ少《すくな》からず。※[#「王+共」、第3水準1-87-92]《こう》と道衍とは本《もと》より互《たがい》に知己たり。道衍又|嘗《かつ》て道士|席応真《せきおうしん》を師として陰陽術数《いんようじゅっすう》の学を受く。因《よ》って道家の旨《し》を知り、仙趣の微に通ず。詩集|巻七《まきのしち》に、|挽[#二]席道士[#一]《せきどうしをべんす》とあるもの、疑うらくは応真、若《も》[#ルビの「も」は底本では「もし」]しくは応真の族を悼《いた》めるならん。張天師は道家の棟梁《とうりょう》たり、道衍の張を重んぜるも怪《あやし》むに足る無きなり。故友に於ては最も王達善《おうたつぜん》を親《したし》む。故に其の|寄[#二]王助教達善[#一]《おうじょきょうたつぜんによす》の長詩の前半、自己の感慨|行蔵《こうぞう》を叙《じょ》して忌《い》まず、道衍自伝として看《み》る可し。詩に曰く、


  乾坤《けんこん》 果して何物ぞ、
  開闔《かいこう》 古《いにしえ》より有り。
  世を挙《こぞ》って 孰《たれ》か客《かく》に非《あら》ざらん、
  離会 豈《あに》偶《たまたま》なりと云《い》はんや。
  嗟《ああ》予《われ》 蓬蒿《ほうこう》の人、
  鄙猥《ひわい》 林籔《りんそう》に匿《かく》る。
  自《みず》から慚《は》づ 駑蹇《どけん》の姿、
  寧《なん》ぞ学ばん 牛馬の走るを。
  呉山《ござん》 窈《ふか》くして而《しこう》して深し、
   性を養ひて 老朽を甘んず。
   且《かつ》 木石と共に居《お》りて、
  氷檗《ひょうばく》と 志《こころざし》 堅く守りぬ。
   人は云ふ 鳳《ほう》 枳《からたち》に栖《す》むと、
   豈《あに》同じからんや 魚の※[#「网/卯」、354-11]《やな》に在《あ》るに。
  藜※[#「くさかんむり/霍」、第3水準1-91-37]《れいかく》 我《わが》腸《はらわた》を充《みた》し、
  衣《い》蔽《やぶ》れて 両肘《りょうちゅう》露《あら》はる。
  ※[#「くさかんむり/(止+頁+巳)/夂」、第3水準1-15-72]龍《きりゅう》 高位に在り、
  誰《たれ》か来《きた》りて 可否を問はん。
   盤旋《ばんせん》す 草※[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、356-4]《そうもう》の間《あいだ》に、
   樵牧《しょうぼく》 日に相《あい》叩《たた》く。
  嘯詠《しょうえい》 寒山《かんざん》に擬し、
  惟《ただ》 道を以て自負す。
   忍びざりき 強ひて塗抹《とまつ》して、
   乞《こい》媚《こ》びて 里婦《さとのおんな》に効《なら》ふに。
   山霊 蔵《かく》るゝことを容《ゆる》さず、
   辟歴《はたたがみ》 岡阜《こうふ》を破りぬ。
   門を出《い》でゝ 天日を睹《み》る、
   行也《こうや》 焉《いずく》にぞ 肯《あえ》て苟《いやしく》もせん。
   一挙して 即ち北に上《のぼ》れば、
  親藩 待つこと惟《これ》久しかりき。
  天地 忽《たちま》ち 大変して、
  神龍 氷湫《ひょうしゅう》より起る。
  万方 共に忻《よろこ》び躍《おど》りて、
   率土《そっと》 元后《げんこう》を戴《いただ》く。
  吾《われ》を召して 南京《なんけい》に来らしめ、
  爵賞加恩 厚し。
  常時 天眷《てんけん》を荷《にな》ふ、
  愛に因《よ》って 醜《しゅう》を知らず。(下略)

 嘯詠寒山《しょうえいかんざん》に擬すの句は、此《この》老《ろう》の行為に照《てら》せば、矯飾《きょうしょく》の言に近きを覚ゆれども、若《もし》夫《そ》れ知己に遇《あ》わずんば、強項《きょうこう》の人、或《あるい》は呉山《ござん》に老朽を甘《あま》んじて、一生|世外《せいがい》の衲子《とっし》たりしも、また知るべからず、未《いま》だ遽《にわか》に虚高《きょこう》の辞を為《な》すものと断ず可《べ》からず。たゞ道衍の性の豪雄なる、嘯詠吟哦《しょうえいぎんが》、或《あるい》は獅子《しし》の繍毬《しゅうきゅう》を弄《ろう》して日を消するが如《ごと》くに、其《その》身を終ることは之《これ》有るべし、寒山子《かんざんし》の如くに、蕭散閑曠《しょうさんかんこう》、塵表《じんぴょう》に逍遙《しょうよう》して、其身を遺《わす》るゝを得《う》可きや否《あらず》や、疑う可き也。※[#「くさかんむり/(止+頁+巳)/夂」、第3水準1-15-72]龍《きりゅう》高位に在りは建文帝をいう。山霊蔵するを容《ゆる》さず以下数句、燕王《えんおう》に召出《めしいだ》されしをいう。神龍氷湫より起るの句は、燕王|崛起《くっき》の事をいう。道《い》い得て佳《か》なり。愛に因って醜を知らずの句は、知己の恩に感じて吾身《わがみ》を世に徇《とな》うるを言えるもの、亦《また》善《よ》く標置《ひょうち》すというべし。

 道衍《どうえん》の一生を考うるに、其《そ》の燕《えん》を幇《たす》けて簒《さん》を成さしめし所以《ゆえん》のもの、栄名厚利の為《ため》にあらざるが如《ごと》し。而《しか》も名利《めいり》の為にせずんば、何を苦《くるし》んでか、紅血を民人に流さしめて、白帽を藩王に戴《いただ》かしめしぞ。道衍と建文帝《けんぶんてい》と、深仇《しんきゅう》宿怨《しゅくえん》あるにあらず、道衍と、燕王と大恩至交あるにもあらず。実に解す可《べ》からざるある也《なり》。道衍|己《おのれ》の偉功によって以《もっ》て仏道の為にすと云《い》わんか、仏道|明朝《みんちょう》の為に圧逼《あっぱく》せらるゝありしに非《あらざ》る也。燕王|覬覦《きゆ》の情《じょう》無き能《あた》わざりしと雖《いえど》も、道衍の扇《せん》を鼓《こ》して火を煽《あお》るにあらざれば、燕王|未《いま》だ必ずしも毒烟《どくえん》猛[※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《もうえん》を揚げざるなり。道衍|抑《そも》又何の求むるあって、燕王をして決然として立たしめしや。王の事を挙ぐるの時、道衍の年や既に六十四五、呂尚《りょしょう》、范増《はんぞう》、皆老いて而《しこう》して後立つと雖《いえど》も、円頂黒衣の人を以て、諸行無常の教《おしえ》を奉じ、而して落日暮雲の時に際し、逆天非理の兵を起さしむ。嗚呼《ああ》又解すべからずというべし。若《も》し強《し》いて道衍の為に解さば、惟《ただ》是《こ》れ道衍が天に禀《う》くるの気と、自ら負《たの》むの材と、※[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、363-12]々《もうもう》、蕩々《とうとう》、糾々《きゅうきゅう》、昂々《こうこう》として、屈す可《べ》からず、撓《たわ》む可からず、消《しょう》す可からず、抑《おさ》う可からざる者、燕王に遇《あ》うに当って、※[#「(ぼう+彡)/石」、第4水準2-82-32]然《かくぜん》として破裂し、爆然として迸発《へいはつ》せるものというべき耶《か》、非《ひ》耶《か》。予|其《そ》の逃虚子集《とうきょししゅう》を読むに、道衍が英雄豪傑の蹟《あと》に感慨するもの多くして、仏灯《ぶっとう》梵鐘《ぼんしょう》の間に幽潜するの情の少《すくな》きを思わずんばあらざるなり。
 道衍の人となりの古怪なる、実に一|沙門《しゃもん》を以て目す可からずと雖も、而《しか》も文を好み道の為にするの情も、亦《また》偽《ぎ》なりとなす可からず。此《この》故《ゆえ》に太祖《たいそ》[#「太祖」は底本では「大祖」]実録《じつろく》を重修《ちょうしゅう》するや、衍《えん》実に其《その》監修を為《な》し、又|支那《しな》ありてより以来の大編纂《だいへんさん》たる永楽大典《えいらくだいてん》の成れるも、衍実に解縉《かいしん》等《ら》と与《とも》に之《これ》を為《な》せるにて、是《こ》れ皆文を好むの余《よ》に出で、道余録《どうよろく》を著し、浄土簡要録《じょうどかんようろく》を著し、諸上善人詠《しょじょうぜんじんえい》を著せるは、是れ皆道の為にせるに出《い》づ。史に記す。道衍|晩《ばん》に道余録を著し、頗《すこぶ》る先儒を毀《そし》る、識者これを鄙《いや》しむ。其《そ》の故郷の長州《ちょうしゅう》に至るや、同産の姉を候《こう》す、姉|納《い》れず。其《その》友|王賓《おうひん》を訪《と》う、賓も亦《また》見《まみ》えず、但《ただ》遙《はるか》に語って曰く、和尚《おしょう》誤れり、和尚誤れりと。復《また》往《ゆ》いて姉を見る、姉これを詈《ののし》る。道衍|惘然《ぼうぜん》たりと。道衍の姉、儒を奉じ仏《ぶつ》を斥《しりぞ》くるか、何ぞ婦女の見識に似ざるや。王賓は史に伝《でん》無しと雖も、おもうに道衍が詩を寄せしところの王達善《おうたつぜん》ならんか。声を揚げて遙語《ようご》す、鄙《いや》しむも亦|甚《はなはだ》し。今道余録を読むに、姉と友との道衍を薄んじて之《これ》を悪《にく》むも、亦《また》過ぎたりというべし。道余録自序に曰く、余|曩《さき》に僧たりし時、元季《げんき》の兵乱に値《あ》う。年三十に近くして、愚庵《ぐあん》の及《きゅう》和尚に径山《けいざん》に従って禅学を習う。暇《いとま》あれば内外の典籍を披閲《ひえつ》して以《もっ》て才識に資す。因って河南《かなん》の二程先生《にていせんせい》の遺書と新安《しんあん》の晦庵朱先生《かいあんしゅせんせい》の語録を観《み》る。(中略)三先生既に斯文《しぶん》の宗主《そうしゅ》、後学の師範たり、仏老《ぶつろう》を※[#「てへん+(嚢-口二つ)」、361-8]斥《じょうせき》すというと雖も、必ず当《まさ》に理に拠《よ》って至公無私なるべし、即《すなわ》ち人心服せん。三先生多く仏書を探《さぐ》らざるに因って仏《ぶつ》の底蘊《ていおん》を知らず。一に私意を以て邪※[#「言+皮」、UCS-8A56、361-10]《じゃひ》の辞《ことば》を出して、枉抑《おうよく》太《はなは》だ過ぎたり、世の人も心|亦《また》多く平らかならず、況《いわ》んや其《その》学を宗《そう》する者をやと。(下略)道余録は乃《すなわ》ち程氏《ていし》遺書《いしょ》の中の仏道を論ずるもの二十八条、朱子語録の中の同二十一条を目《もく》して、極めて謬誕《びょうたん》なりと為《な》し、条を逐《お》い理に拠って一々|剖柝《ぼうせき》せるものなり。藁《こう》成って巾笥《きんし》に蔵すること年ありて後、永楽十年十一月、自序を附して公刊す。今これを読むに、大抵《たいてい》禅子の常談にして、別に他の奇無し。蓋《けだ》し明道《めいどう》、伊川《いせん》、晦庵《かいあん》の仏《ぶつ》を排する、皆雄論博議あるにあらず、卒然の言、偶発の語多し、而して広く仏典を読まざるも、亦其の免れざるところなり。故に仏を奉ずる者の、三先生に応酬するが如《ごと》き、本《もと》是《これ》弁じ易《やす》きの事たり。膽《たん》を張り目を怒らし、手を戟《ほこ》にし気を壮《さかん》にするを要せず。道衍の峻機《しゅんき》険鋒《けんぼう》を以て、徐《しずか》に幾百年前の故紙《こし》に対す、縦説横説、甚《はなは》だ是《こ》れ容易なり。是れ其の観《み》る可き無き所以《ゆえん》なり。而して道衍の筆舌の鋭利なる、明道《めいどう》の言を罵《ののし》って、豈《あに》道学の君子の為《わざ》ならんやと云《い》い、明道の執見《しっけん》僻説《へきせつ》、委巷《いこう》の曲士の若《ごと》し、誠に咲《わら》う可き也、と云い、明道何ぞ乃《すなわ》ち自ら苦《くるし》むこと此《かく》の如くなるや、と云い、伊川《いせん》の言《げん》を評しては、此《これ》は是れ伊川《いせん》みずから此《この》説を造って禅学者を誣《し》う、伊川が良心いずくにか在《あ》る、と云い、管《かん》を以て天を窺《うかが》うが如しとは夫子《ふうし》みずから道《い》うなりと云い、程夫子《ていふうし》崛強《くっきょう》自任《じにん》す、聖人の道を伝うる者、是《かく》の如くなる可からざる也、と云い、晦庵《かいあん》の言を難《なん》しては、朱子の※[#「寐」の「未」に代えて「自/木」、第4水準2-8-10]語《げいご》、と云い、惟《ただ》私意を逞《たくま》しくして以て仏を詆《そし》る、と云い、朱子も亦《また》怪なり、と云い、晦庵|此《かく》の如くに心を用いば、市井《しせい》の間の小人の争いて販売する者の所為《しょい》と何を以てか異ならんや、と云い、先賢大儒、世の尊信崇敬するところの者を、愚弄《ぐろう》嘲笑《ちょうしょう》すること太《はなは》だ過ぎ、其の口気甚だ憎む可し。是れ蓋《けだ》し其《その》姉の納《い》れず、其《その》友の見ざるに至れる所以《ゆえん》ならずんばあらず。道衍の言を考うるに、大※[#「既/木」、第3水準1-86-3]《たいがい》禅宗《ぜんしゅう》に依り、楞伽《りょうが》、楞厳《りょうごん》、円覚《えんがく》、法華《ほっけ》、華厳《けごん》等の経に拠って、程朱《ていしゅ》の排仏の説の非理無実なるを論ずるに過ぎず。然《しか》れども程朱の学、一世の士君子の奉ずるところたるの日に於《おい》て、抗争反撃の弁を逞《たくま》しくす。書の公《おおやけ》にさるゝの時、道衍既に七十八歳、道の為にすと曰《い》うと雖も、亦|争《あらそい》を好むというべし。此《こ》も亦道衍が※[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、363-12]々蕩々《もうもうとうとう》の気の、已《や》む能わずして然るもの耶《か》、非《ひ》耶《か》。
 道衍は是《かく》の如きの人なり、而して猶《なお》卓侍郎《たくじろう》を容《い》るゝ能わず、之《これ》を赦《ゆる》さんとするの帝をして之を殺さしむるに至る。素《もと》より相《あい》善《よ》からざるの私《わたくし》ありしに因《よ》るとは云え、又実に卓の才の大にして器《き》の偉なるを忌《い》みたるにあらずんばあらず。道衍の忌むところとなる、卓惟恭《たくいきょう》もまた雄傑の士というべし。
 道衍の卓敬に対する、衍の詩句を仮《か》りて之を評すれば、道衍|量《りょう》何ぞ隘《せま》きやと云う可きなり。然《しか》るに道衍の方正学《ほうせいがく》に対するは則《すなわ》ち大《おおい》に異なり。方正学の燕王に於《お》けるは、実に相《あい》容《い》れざるものあり。燕王の師を興すや、君側の小人を掃《はら》わんとするを名として、其の目《もく》して以て事を構え親《しん》を破り、天下を誤るとなせる者は、斉黄練方《せいこうれんほう》の四人なりき。斉は斉泰《せいたい》なり、黄は黄子澄《こうしちょう》なり、練は練子寧《れんしねい》なり、而《しか》して方は即ち方正学《ほうせいがく》なり。燕王にして功の成るや、もとより此《この》四人を得て甘心《かんしん》せんとす。道衍は王の心腹《しんぷく》なり、初《はじめ》よりこれを知らざるにあらず。然《しか》るに燕王の北平《ほくへい》を発するに当り、道衍これを郊《こう》に送り、跪《ひざまず》いて密《ひそか》に啓《もう》して曰《いわ》く、臣願わくは託する所有らんと。王何ぞと問う。衍曰く、南に方孝孺《ほうこうじゅ》あり、学行《がくこう》あるを以《もっ》て聞《きこ》ゆ、王の旗城下に進むの日、彼必ず降《くだ》らざらんも、幸《さいわい》に之を殺したもう勿《なか》れ、之を殺したまわば則《すなわ》ち天下の読書の種子《しゅし》絶えんと。燕王これを首肯《しゅこう》す。道衍の卓敬に於《お》ける、私情の憎嫉《ぞうしつ》ありて、方孝孺に於ける、私情の愛好あるか、何ぞ其の二者に対するの厚薄あるや。孝孺は宗濂《そうれん》の門下の巨珠にして、道衍と宋濂とは蓋《けだ》し文字の交あり。道衍の少《わか》きや、学を好み詩を工《たくみ》にして、濂の推奨するところとなる。道衍|豈《あに》孝孺が濂の愛重《あいちょう》するところの弟子《ていし》たるを以て深く知るところありて庇護《ひご》するか、或《あるい》は又孝孺の文章学術、一世の仰慕《げいぼ》するところたるを以て、之《これ》を殺すは燕王の盛徳を傷《やぶ》り、天下の批議を惹《ひ》く所以《ゆえん》なるを慮《はか》りて憚《はばか》るか、将《はた》又真に天下読書の種子の絶えんことを懼《おそ》るゝか、抑《そもそも》亦孝孺の厳※[#「厂+萬」、第3水準1-14-84]《げんれい》の操履《そうり》、燕王の剛邁《ごうまい》の気象、二者|相《あい》遇《あ》わば、氷塊の鉄塊と相《あい》撃《う》ち、鷲王《しゅうおう》と龍王《りゅうおう》との相《あい》闘《たたか》うが如き凄惨狠毒《せいさんこんどく》の光景を生ぜんことを想察して預《あらかじ》め之を防遏《ぼうあつ》せんとせるか、今皆確知する能《あた》わざるなり。
 方孝孺は如何《いか》なる人ぞや。孝孺|字《あざな》は希直《きちょく》、一字は希古《きこ》、寧海《ねいかい》の人。父|克勤《こくきん》は済寧《せいねい》の知府《ちふ》たり。治を為すに徳を本《もと》とし、心を苦《くるし》めて民の為《ため》にす。田野《でんや》を闢《ひら》き、学校を興し、勤倹身を持し、敦厚《とんこう》人を待つ。かつて盛夏に当って済寧の守将、民を督して城を築かしむ。克勤曰く、民今|耕耘《こううん》暇《いとま》あらず、何ぞ又|畚※[#「金+插のつくり」、第3水準1-93-28]《ほんそう》に堪えんと。中書省《ちゅしょしょう》に請いて役《えき》を罷《や》むるを得たり。是より先《さ》き久しく旱《ひでり》せしが、役の罷むに及んで甘雨《かんう》大《おおい》に至りしかば、済寧の民歌って曰く。


  孰《たれ》か我が役を罷《や》めしぞ、
  使君《しくん》の 力なり。
  孰《たれ》か我が黍《しょ》を活《い》かしめしぞ、
   使君の 雨なり。
   使君よ 去りたまふ勿《なか》れ、
  我が民の 父なり 母なり。

 克勤の民意を得《う》る是《かく》の如くなりしかば、事を視《み》ること三年にして、戸口増倍し、一郡|饒足《じょうそく》し、男女|怡々《いい》として生を楽《たのし》みしという。克勤|愚菴《ぐあん》と号す。宋濂《そうれん》に故《こ》愚庵先生|方公墓銘文《ほうこうぼめいぶん》あり。滔々《とうとう》数千言《すせんげん》、備《つぶさ》に其の人となりを尽す。中《うち》に記す、晩年|益《ますます》畏慎《いしん》を加え、昼の為《な》す所の事、夜は則《すなわ》ち天に白《もう》すと。愚庵はたゞに循吏《じゅんり》たるのみならざるなり。濂又曰く、古《いにしえ》に謂《い》わゆる体道《たいどう》成徳《せいとく》の人、先生誠に庶幾焉《ちかし》と。蓋《けだ》し濂が諛墓《ゆぼ》の辞にあらず。孝孺は此の愚庵先生第二子として生れたり。天賦《てんぷ》も厚く、庭訓《ていきん》も厳なりしならん。幼にして精敏、双眸《そうぼう》烱々《けいけい》として、日に書を読むこと寸に盈《み》ち、文を為《な》すに雄邁醇深《ゆうまいじゅんしん》なりしかば、郷人呼んで小韓子《しょうかんし》となせりという。其の聰慧《そうけい》なりしこと知る可し。時に宋濂一代の大儒として太祖の優待を受け、文章徳業、天下の仰望するところとなり、四方の学者、悉《ことごと》く称して太史公《たいしこう》となして、姓氏を以てせず。濂|字《あざな》は、景濂《けいれん》、其《その》先《せん》金華《きんか》の潜渓《せんけい》の人なるを以て潜渓《せんけい》と号《ごう》す。太祖|濂《れん》を廷《てい》に誉《ほ》めて曰く、宋景濂|朕《ちん》に事《つか》うること十九年、未《いま》だ嘗《かつ》て一|言《げん》の偽《いつわり》あらず、一人《いちにん》の短《たん》を誚《そし》らず、始終|二《に》無し、たゞに君子のみならず、抑《そもそも》賢と謂《い》う可しと。太祖の濂を視《み》ること是《かく》の如し。濂の人品|想《おも》う可き也《なり》。孝孺|洪武《こうぶ》の九年を以て、濂に見《まみ》えて弟子《ていし》となる。濂時に年六十八、孝孺を得て大《おおい》に之を喜ぶ。潜渓が方生の天台に還《かえ》るを送るの詩の序に記して曰く、晩に天台の方生|希直《きちょく》を得たり、其の人となりや凝重《ぎょうちょう》にして物に遷《うつ》らず、穎鋭《えいえい》にして以て諸《これ》を理に燭《しょく》す、間《まま》発《はっ》[#「間《まま》発《はっ》」は底本では「発《まま》間《はっ》」]して文を為《な》す、水の湧《わ》いて山の出《い》づるが如し、喧啾《けんしゅう》たる百鳥の中《うち》、此の孤鳳皇《こほうおう》を見る、いかんぞ喜びざらんと。凝重《ぎょうちょう》穎鋭《えいえい》の二句、老先生|眼裏《がんり》の好学生を写し出《いだ》し来《きた》って神《しん》有り。此の孤鳳皇《こほうおう》を見るというに至っては、推重《すいちょう》も亦《また》至れり。詩十四章、其二に曰く、


   念《おも》ふ 子《し》が 初めて来りし時、
  才思 繭糸《けんし》の若《ごと》し。
  之を抽《ひ》いて 已《すで》に緒《いとぐち》を見る、
  染めて就《な》せ 五色《ごしき》の衣《い》。


其九に曰く、


  須《すべか》らく知るべし 九仭《きゅうじん》の山も、
  功 或《あるい》は 一|簣《き》に少《か》くるを。
  学は 貴ぶ 日に随《したが》つて新《あらた》なるを、
  慎んで 中道に廃する勿《なか》れ。

其十に曰く、


  羣経《ぐんけい》 明訓《めいくん》 耿《こう》たり、
  白日 青天に麗《かか》る。
  苟《いやしく》も徒《ただ》に 文辞に溺《おぼ》れなば、
  蛍※[#「火+爵」、UCS-721D、370-6]《けいしゃく》 妍《けん》を争はんと欲するなり。

其十一に曰く、

   姫《き》も 孔《こう》も 亦|何人《なんぴと》ぞや、
  顔面 了《つい》に異《こと》ならじ。
  肯《あえ》て 盆※[#「央/皿」、第3水準1-88-73]《ぼんおう》の中《うち》に墮《だ》せんや、
  当《まさ》に 瑚※[#「王+連」、第3水準1-88-24]《これん》の器《き》となるべし。

其終章に曰く、


   明年 二三月、
  羅山《らざん》 花 正《まさ》に開かん。
  高きに登りて 日に盻望《べんぼう》し、
  子《し》が能《よ》く 重ねて来《きた》るを遅《ま》たむ。

 其《その》才を称《しょう》し、其学を勧め、其《そ》の流れて文辞の人とならんことを戒め、其の奮《ふる》って聖賢の域に至らんことを求め、他日|復《また》再び大道を論ぜんことを欲す。潜渓《せんけい》が孝孺に対する、称許《しょうきょ》も甚だ至り、親切も深く徹するを見るに足るものあり。嗚呼《ああ》、老先生、孰《たれ》か好学生を愛せざらん、好学生、孰《たれ》か老先生を慕わざらん。孝孺は其翌年|丁巳《ていし》、経《けい》を執って浦陽《ほよう》に潜渓に就《つ》きぬ。従学四年、業|大《おおい》に進んで、潜渓門下の知名の英俊、皆其の下《しも》に出で、先輩|胡翰《こかん》も蘇伯衡《そはくこう》も亦《また》自《みずか》ら如《し》かずと謂《い》うに至れり。洪武十三年の秋、孝孺が帰省するに及び、潜渓が之《これ》を送る五十四|韻《いん》の長詩あり。其《その》引《いん》の中《うち》に記して曰く、細《つまび》らかに其の進修の功を占《と》うに、日々に異《こと》なるありて、月々に同じからず、僅《わずか》に四春秋を越ゆるのみにして而して英発光著《えいはつこうちょ》や斯《かく》の如し、後《のち》四春秋ならしめば、則《すなわ》ち其の至るところ又|如何《いか》なるを知らず、近代を以て之を言えば、欧陽少卿《おうようしょうけい》、蘇長公《そちょうこう》の輩《はい》は、姑《しば》らく置きて論ぜず、自余の諸子、之と文芸の場《じょう》に角逐《かくちく》せば、孰《たれ》か後となり孰《いずれ》か先となるを知らざる也。今|此《この》説を為《な》す、人必ず予の過情を疑わんも、後二十余年にして当《まさ》に其の知言にして、生《せい》に許す者の過《か》に非《あら》ざるを信ずべき也。然《しか》りと雖《いえど》も予の生に許すところの者、寧《なん》ぞ独り文のみならんやと。又曰く、予深く其の去るを惜《おし》み、為《ため》に是《この》詩を賦《ふ》す、既に其の素有の善を揚げ、復《また》勗《つと》むるに遠大の業を以てすと。潜渓の孝孺を愛重し奨励すること、至れり尽せりというべし。其詩や辞《ことば》を行《や》る自在《じざい》にして、意を立つる荘重、孝孺に期するに大成を以てし、必ず経世済民の真儒とならんことを欲す。章末に句有り、曰く、


  生《せい》は乃《すなわ》ち 周《しゅう》の容刀《たまのさや》。
  生は乃ち 魯《ろ》の※[#「王+與」、第3水準1-88-33]※[#「王+ 番」、第4水準2-81-1]《よきたま》。
   道|真《しん》なれば 器《き》乃ち貴し、
  爰《なん》ぞ須《もち》ゐん 空言を用ゐるを。
   孳々《じじ》として 務めて践形《せんけい》し、
   負《そむ》く勿《なか》れ 七尺の身に。
  敬義 以《もっ》て衣《い》と為《な》し、
  忠信 以て冠《かん》と為し、
  慈仁 以て佩《はい》と為し、
  廉知《れんち》 以て※[#「般/革」、UCS-97B6、374-5]《かわおび》と為し、
  特《ひと》り立つて 千古を睨《にら》まば、
  万象 昭《あき》らかにして昏《くら》き無からむ。
  此《この》意《こころ》 竟《つい》に誰《たれ》か知らん、
   爾《なんじ》が為《ため》に 言《ことば》諄諄《じゅんじゅん》たり。
   徒《いたずら》に 強《しいて》聒《ものい》ふと謂《おも》ふ勿《なか》れ、
   一一 宜《よろ》しく紳《しん》に書《しょ》すべし。

 孝孺|後《のち》に至りて此詩を録して人に視《しめ》すの時、書して曰く、前輩《せんぱい》後学《こうがく》を勉《つと》めしむ、惓惓《けんけん》の意《こころ》、特《ひと》り文辞のみに在《あ》らず、望むらくは相《あい》与《とも》に之を勉めんと。臨海《りんかい》の林佑《りんゆう》、葉見泰《しょうけんたい》等《ら》、潜渓の詩に跋《ばつ》して、又|各《みな》宋太史《そうたいし》の期望に酬《むく》いんことを孝孺に求む。孝孺は果して潜渓に負《そむ》かざりき。

 孝孺《こうじゅ》の集《しゅう》は、其《その》人《ひと》天子の悪《にく》むところ、一世の諱《い》むところとなりしを以《もっ》て、当時絶滅に帰し、歿後《ぼつご》六十年にして臨海《りんかい》の趙洪《ちょうこう》が梓《し》に附せしより、復《また》漸《ようや》く世に伝わるを得たり。今|遜志斎集《そんしさいしゅう》を執って之《これ》を読むに、蜀王《しょくおう》が所謂《いわゆる》正学先生《せいがくせんせい》の精神面目|奕々《えきえき》として儼存《げんそん》するを覚ゆ。其《そ》の幼儀《ようぎ》雑箴《ざっしん》二十首を読めば、坐《ざ》、立《りつ》、行《こう》、寝《しん》より、言《げん》、動《どう》、飲《いん》、食《しょく》等に至る、皆道に違《たが》わざらんことを欲して、而して実践|躬行底《きゅうこうてい》より徳を成さんとするの意、看取すべし。其《その》雑銘を読めば、冠《かん》、帯《たい》、衣《い》、※[#「尸+(彳+婁)」、第4水準2-8-20]《く》より、※[#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、376-1]《すい》[#「※[#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、376-1]」は底本では「※[#「竹かんむり/「垂」の「ノ」の下に「一」を加える」、376-1]」]、鞍《あん》、轡《れん》、車《しゃ》等に至る、各物一々に湯《とう》の日新《にっしん》の銘に則《のっと》りて、語を下し文を為《な》す、反省修養の意、看取すべし。雑誡《ざっかい》三十八章、学箴《がくしん》九首、家人箴《かじんしん》十五首、宗儀《そうぎ》九首等を読めば、希直《きちょく》の学を為《な》すや空言を排し、実践を尊み、体験心証して、而して聖賢の域に躋《いた》らんとするを看取すべし。明史に称す、孝孺は文芸を末視《まっし》し、恒《つね》に王道を明らかにし太平を致すを以て己《おの》が任と為すと。(是《これ》鄭暁《ていぎょう》の方先生伝《ほうせんせいでん》に本《もと》づく)真《まこと》に然《しか》り、孝孺の志すところの遠大にして、願うところの真摯《しんし》なる、人をして感奮せしむるものあり。雑誡の第四章に曰く、学術の微《び》なるは、四蠹《しと》之《これ》を害すればなり。姦言《かんげん》を文《かざ》り、近事《きんじ》を※[#「てへん+蹠のつくり」、第3水準1-84-91]《と》り、時勢を窺伺《きし》し、便《べん》に趨《はし》り隙《げき》に投じ、冨貴《ふうき》を以て、志と為《な》す。此《これ》を利禄《りろく》の蠹《と》と謂《い》う。耳剽《じひょう》し口衒《こうげん》し、色《いろ》を詭《いつわ》り辞《ことば》を淫《いん》にし、聖賢に非《あら》ずして、而《しか》も自立し、果敢《かかん》大言して、以て人に高ぶり、而して理の是非を顧みず、是《これ》を名を務むるの蠹《と》という。鉤※[#「てへん+蹠のつくり」、第3水準1-84-91]《こうせき》して説を成し、上古に合《がっ》するを務め、先儒を毀※[#「此/言」、第4水準2-88-57]《きし》し、以謂《おもえ》らく我に及ぶ莫《な》き也《なり》と、更に異議を為して、以て学者を惑わす。是を訓詁《くんこ》の蠹《と》という。道徳の旨を知らず、雕飾《ちゅうしょく》綴緝《てっしゅう》して、以て新奇となし、歯を鉗《かん》し舌を刺《さ》して、以て簡古と為し、世に於《おい》て加益するところ無し。是を文辞《ぶんじ》の蠹《と》という。四者|交々《こもごも》作《おこ》りて、聖人の学|亡《ほろ》ぶ。必ずや諸《これ》を身に本《もと》づけ、諸を政教に見《あら》わし、以て物《もの》を成す可き者は、其《そ》れ惟《ただ》聖人の学|乎《か》、聖道を去って而《しこう》して循《したが》わず、而して惟《ただ》蠹《と》にこれ帰す。甚しい哉《かな》惑えるや、と。孝孺の此《この》言《げん》に照《てら》せば、鄭暁《ていぎょう》の伝うるところ、実に虚《むな》しからざる也。四箴《ししん》の序の中《うち》の語に曰く、天に合《がっ》して人に合せず、道に同じゅうして時に同じゅうせずと。孝孺の此言に照せば、既に其の卓然として自立し、信ずるところあり安んずるところあり、潜渓先生《せんけいせんせい》が謂《い》える所の、特《ひと》り立って千古を睨《にら》み、万象|昭《てら》して昏《くら》き無しの境《きょう》に入れるを看《み》るべし。又|其《そ》の克畏《こくい》の箴《しん》を読めば、あゝ皇《おお》いなる上帝、衷《ちゅう》を人に降《くだ》す、といえるより、其の方《まさ》に昏《くら》きに当ってや、恬《てん》として宜《よろ》しく然《しか》るべしと謂《い》うも、中夜《ちゅうや》静かに思えば夫《そ》れ豈《あに》吾が天ならんや、廼《すなわ》ち奮って而して悲《かなし》み、丞《すみ》やかに前轍《ぜんてつ》を改む、と云い、一念の微なるも、鬼神降監す、安しとする所に安んずる勿《なか》れ、嗜《たしな》む所を嗜む勿れ、といい、表裏|交々《こもごも》修めて、本末一致せんといえる如き、恰《あたか》も神を奉ぜるの者の如き思想感情の漲流《ちょうりゅう》せるを見る。父|克勤《こくきん》の、昼の為せるところ、夜は則《すなわ》ち天に白《もう》したるに合せ考うれば、孝孺が善良の父、方正の師、孔孟《こうもう》の正大純粋の教《おしえ》の徳光《とくこう》恵風《けいふう》に浸涵《しんかん》して、真に心胸《しんきょう》の深処よりして道を体し徳を成すの人たらんことを願えるの人たるを看《み》るべき也。
 孝孺既に文芸を末視《まっし》し、孔孟の学を為《な》し、伊周《いしゅう》の事に任ぜんとす。然《しか》れども其《そ》の文章|亦《また》おのずから佳、前人評して曰く、醇※[#「广+龍」、第3水準1-94-86]博朗《じゅんほうばくろう》[#「醇※[#「广+龍」、第3水準1-94-86]博朗」は底本では「醇※[#「厂+龍」、348-9]博朗」]、沛乎《はいこ》として余《あまり》有り、勃乎《ぼっこ》として禦《ふせ》ぐ莫《な》しと。又曰く、醇深雄邁《じゅんしんゆうまい》と。其の一大文豪たる、世もとより定評あり、動かす可からざるなり。詩は蓋《けだ》し其の心を用いるところにあらずと雖も、亦おのずから観《み》る可し。其の王仲縉感懐《おうちゅうしんかんかい》の韻《いん》に次《じ》する詩の末に句あり、曰く


  壮士 千載《せんざい》の心、
  豈《あに》憂へんや 食《し》と衣《い》とを。
  由来 海《かい》に浮《うか》ばんの志、
  是《こ》れ 軒冕《けんべん》の姿にあらず。
  人生 道を聞くを尚《たっと》ぶ、
  富貴 復《また》奚《なに》為《す》るものぞ。
  賢にして有り 陋巷《ろうこう》の楽《たのしみ》、
  聖にして有り 西山《せいざん》の饑《うえ》。
  頤《おとがい》を朶《た》る 失ふところ多し、
  苦節 未《いま》だ非とす可からず。

 道衍《どうえん》は豪傑なり、孝孺は君子なり。逃虚子《とうきょし》は歌って曰く、苦節|貞《かた》くすべからずと。遜志斎《そんしさい》は歌って曰く、苦節未だ非とす可からずと。逃虚子は吟じて曰く、伯夷量《はくいりょう》何ぞ隘《せま》きと。遜志斎は吟じて曰く、聖にして有り西山の饑《うえ》と。孝孺又其の※[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「糸」」、UCS-7020、380-4]陽《えいよう》[#ルビの「えいよう」は底本では「けいよう」]を過《よ》ぎるの詩の中の句に吟じて曰く、之に因《よ》って首陽《しゅよう》を念《おも》う、西顧《せいこ》すれば清風《せいふう》生ずと。又|乙丑中秋後《いっちゅうちゅうしゅうご》二日|兄《あに》に寄する詩の句に曰く、苦節|伯夷《はくい》を慕うと。人異なれば情異なり、情異なれば詩異なり。道衍は僧にして、※[#「角+光」、第3水準1-91-91]籌《こうちゅう》又何ぞ数えんといいて、快楽主義者の如く、希直《きちょく》は俗にして、飲《いん》の箴《しん》に、酒の患《うれい》たる、謹者《きんしゃ》をして荒《すさ》み、荘者をして狂し、貴者をして賤《いや》しく、存者《そんしゃ》をして亡《ほろ》ばしむ、といい、酒巵《しゅし》の銘には、親《しん》を洽《あまね》くし衆を和するも、恒《つね》に斯《ここ》に於《おい》てし、禍《わざわい》を造り敗《はい》をおこすも、恒《つね》に斯《ここ》に於てす、其|悪《あく》に懲り、以て善に趨《はし》り、其儀を慎《つつし》むを尚《たっと》ぶ、といえり。逃虚子は仏《ぶつ》を奉じて、而《しか》も順世《じゅんせい》外道《げどう》の如く、遜志斎は儒を尊んで、而《しか》も浄行者《じょうぎょうしゃ》の如し。嗚呼《ああ》、何ぞ其の奇なるや。然《しか》も遜志斎も飲を解せざるにあらず。其の上巳《じょうし》南楼《なんろう》に登るの詩に曰く、


  昔時《せきじ》 喜んで酒を飲み、
  白《さかずき》を挙げて 深きを辞せざりき。
  茲《ここ》に中歳《ちゅうさい》に及んでよりこのかた、
   已《すで》に復《また》 人の斟《く》むを畏《おそ》る。
  後生《わかきもの》 ゆるがせにする所多きも、
  豈《あに》識《し》らんや 老《おい》の会臨《かいりん》するを。
  志士は 景光を惜《おし》む、
  麓《ふもと》に登れば 已《すで》に岑《みね》を知る。
  毎《つね》に聞く 前世《ぜんせい》の事、
  頗《すこぶ》る見る 古人の心。
  逝《ゆ》く者 まことに息《やす》まず、
  将来 誰《たれ》か今に嗣《つ》がむ。
  百年 当《まさ》に成る有るべし、
  泯滅《びんめつ》 寧《なん》ぞ欽《うらや》むに足らんや。
  毎《つね》に憐《あわれ》む 伯牙《はくが》の陋《ろう》にして、
  鍾《しょう》 死して 其《その》琴《こと》を破れるを。
  自《みずか》ら得《う》るあらば 苟《まこと》に伝ふるに堪へむ、
  何ぞ必ずしも 知音《ちいん》を求めんや。
  俯《ふ》しては観《み》る 水中の※[#「條」の「木」に代えて   「魚」、UCS-9BC8、382-9]《こうお》[#「※[#「條」の「木」に代えて「魚」、UCS-9BC8、382-9]」は底本では「※[#「條」の「木」に代えて 「黒の旧字」、第3水準1-14-46]」]、
  仰いでは覩《み》る 雲際《うんさい》の禽《とり》。
  真楽《しんらく》 吾《われ》 隠さず、
  欣然《きんぜん》として 煩襟《はんきん》を豁《ひろ》うす。

 前半は巵酒《ししゅ》 歓楽、学業の荒廃を致さんことを嘆じ、後半は一転して、真楽の自得にありて外《そと》に待つ無きをいう。伯牙を陋《ろう》として破琴を憐《あわれ》み、荘子《そうじ》を引きて不隠《ふいん》を挙ぐ。それ外より入る者は、中《うち》に主《しゅ》たる無し、門より入る者は家珍《かちん》にあらず。白《さかずき》を挙げて楽《たのしみ》となす、何ぞ是《こ》れ至楽ならん。
 遜志斎の詩を逃虚子の詩に比するに、風格おのずから異にして、精神|夐《はるか》に殊《こと》なり。意気の俊邁《しゅんまい》なるに至っては、互《たがい》に相《あい》遜《ゆず》らずと雖《いえど》も、正学先生《せいがくせんせい》の詩は竟《つい》に是れ正学先生の詩にして、其の帰趣《きしゅ》を考うるに、毎《つね》に正々堂々の大道に合せんことを欲し、絶えて欹側《きそく》詭※[#「言+皮」、UCS-8A56、383-8]《きひ》の言を為《な》さず、放逸《ほういつ》曠達《こうたつ》の態《たい》無し。勉学の詩二十四章の如きは、蓋《けだ》し壮時の作と雖も、其の本色《ほんしょく》なり。談詩《だんし》五首の一に曰く、


   世《よ》を挙《こぞ》って 皆|宗《そう》とす 李杜《りと》の詩を。
  知らず 李杜の 更に誰《たれ》を宗とせるを。
  能《よ》く 風雅 無窮の意を探《さぐ》らば、
  始めて是れ 乾坤《けんこん》 絶妙の詞《し》ならん。

第二に曰く、


  道徳を 発揮して 乃《すなわ》ち文を成す、
  枝葉 何ぞ曾《かつ》て 本根《ほんこん》[#「本根」は底本では「木根」]を離れん。
  末俗《ばつぞく》 工を競ふ 繁縟《はんじょく》の体《たい》、
   千秋の精意 誰《たれ》と与《とも》に論ぜん。

 是《こ》れ正学先生の詩に於《お》けるの見《けん》なり。華《か》を斥《しりぞ》け実《じつ》を尚《たっと》び、雅を愛し淫《いん》を悪《にく》む。尋常一様|詩詞《しし》の人の、綺麗《きれい》自ら喜び、藻絵《そうかい》自ら衒《てら》い、而《しこう》して其の本旨正道を逸し邪路に趨《はし》るを忘るゝが如きは、希直《きちょく》の断じて取らざるところなり。希直の父|愚庵《ぐあん》、師|潜渓《せんけい》の見も、亦《また》大略|是《かく》の如しと雖《いえど》も、希直の性の方正端厳を好むや、おのずから是の如くならざるを得ざるものあり、希直決して自ら欺かざる也。
 孝孺《こうじゅ》の父は洪武《こうぶ》九年を以て歿《ぼっ》し、師は同十三年を以て歿す。洪武十五年|呉※[#「さんずい+冗」、第4水準2-78-26]《ごちん》の薦《すすめ》を以て太祖に見《まみ》ゆ。太祖|其《そ》の挙止端整なるを喜びて、皇孫に謂《い》って曰く、此《この》荘士、当《まさ》に其《その》才を老いしめて以て汝《なんじ》を輔《たす》けしめんと。閲《えつ》十年にして又|薦《すす》められて至る。太祖曰く、今孝孺を用いるの時に非《あら》ずと。太祖が孝孺を器重《きちょう》して、而《しか》も挙用せざりしは何ぞ。後人こゝに於《おい》て慮《りょ》を致すもの多し。然《しか》れども此《これ》は強いて解す可《べ》からず。太祖が孝孺を愛重せしは、前後召見の間《あいだ》に於《おい》て、たま/\仇家《きゅうか》の為《ため》に累《るい》せられて孝孺の闕下《けっか》に械送《かいそう》せられし時、太祖|其《その》名《な》を記し居たまいて特《こと》に釈《ゆる》されしことあるに徴しても明らかなり。孝孺の学徳|漸《ようや》く高くして、太祖の第十一子|蜀王《しょくおう》椿《ちん》、孝孺を聘《へい》して世子の傅《ふ》となし、尊ぶに殊礼《しゅれい》を以《もっ》てす。王の孝孺に賜《たま》うの書に、余一日見ざれば三秋の如き有りの語あり。又王が孝孺を送るの詩に、士を閲《けみ》す孔《はなは》だ多し、我は希直を敬すの句あり。又其一章に


  謙《けん》にして以て みづから牧《ぼく》し、
  卑《ひく》うして以て みづから持《じ》す。
  雍容《ようよう》 儒雅《じゅが》、
  鸞鳳《らんぽう》の 儀あり。

とあり。又其の賜詩《しし》三首の一に


  文章 金石を奏し、
   衿佩《きんぱい》 儀刑《ぎけい》を覩《み》る。
  応《まさ》に世々《よよ》 三|輔《ぽ》に遊ぶべし、
   焉《いずく》んぞ能《よ》く 一|経《けい》に困《こん》せん。

の句あり。王の優遇知る可くして、孝孺の恩に答うるに道を以てせるも、亦《また》知るべし。王孝孺の読書の廬《ろ》に題して正学《せいがく》という。孝孺はみずから遜志斎《そんしさい》という。人の正学先生というものは、実に蜀《しょく》王の賜題に因《よ》るなり。
 太祖崩じ、皇太孫立つに至って、廷臣|交々《こもごも》孝孺を薦《すす》む。乃《すなわ》ち召されて翰林《かんりん》に入る。徳望|素《もと》より隆《さか》んにして、一時の倚重《きちょう》するところとなり、政治より学問に及ぶまで、帝の咨詢《しじゅん》を承《う》くること殆《ほとん》ど間《ひま》無く、翌二年文学博士となる。燕王兵を挙ぐるに及び、日に召されて謀議に参し、詔檄《しょうげき》皆孝孺の手に出《い》づ。三年より四年に至り、孝孺|甚《はなは》だ煎心《せんしん》焦慮《しょうりょ》すと雖も、身武臣にあらず、皇師|数々《しばしば》屈して、燕兵|遂《つい》に城下に到《いた》る。金川門《きんせんもん》守《まもり》を失いて、帝みずから大内《たいだい》を焚《や》きたもうに当り、孝孺|伍雲《ごうん》等《ら》の為《ため》に執《とら》えられて獄に下さる。
 燕王志を得て、今既に帝たり。素《もと》より孝孺の才を知り、又|道衍《どうえん》の言を聴《き》く。乃《すなわ》ち孝孺を赦《ゆる》して之《これ》を用いんと欲し、待つに不死を以てす。孝孺屈せず。よって之を獄に繋《つな》ぎ、孝孺の弟子《ていし》廖※[#「金+庸」、第3水準1-93-36]《りょうよう》廖銘《りょうめい》をして、利害を以て説かしむ。二人は徳慶侯《とくけいこう》廖権《りょうけん》の子なり。孝孺怒って曰く、汝《なんじ》等《ら》予に従って幾年の書を読み、還《かえ》って義の何たるを知らざるやと。二人説く能《あた》わずして已《や》む。帝|猶《なお》孝孺を用いんと欲し、一日に諭《ゆ》を下すこと再三に及ぶ。然《しか》も終《つい》に従わず。帝即位の詔《みことのり》を草せんと欲す、衆臣皆孝孺を挙ぐ。乃《すなわ》ち召して獄より出《い》でしむ。孝孺|喪服《そうふく》して入り、慟哭《どうこく》して悲《かなし》み、声|殿陛《でんへい》に徹す。帝みずから榻《とう》を降《くだ》りて労《ねぎ》らいて曰く、先生労苦する勿《なか》れ。我|周公《しゅうこう》の成王《せいおう》を輔《たす》けしに法《のっと》らんと欲するのみと。孝孺曰く、成王いずくにか在《あ》ると。帝曰く、渠《かれ》みずから焚死《ふんし》すと。孝孺曰く、成王|即《もし》存せずんば、何ぞ成王の子を立てたまわざるやと。帝曰く、国は長君《ちょうくん》に頼《よ》る。孝孺曰く、何ぞ成王の弟を立てたまわざるや。帝曰く、これ朕《ちん》が家事なり、先生はなはだ労苦する勿《なか》れと。左右をして筆札《ひっさつ》を授けしめて、おもむろに詔《みことのり》して曰く、天下に詔する、先生にあらずんば不可なりと。孝孺|大《おおい》に数字を批して、筆を地に擲《なげう》って、又|大哭《たいこく》し、且《かつ》罵《ののし》り且|哭《こく》して曰く、死せんには即《すなわ》ち死せんのみ、詔《しょう》は断じて草す可からずと。帝|勃然《ぼつぜん》として声を大にして曰く、汝いずくんぞ能《よ》く遽《にわか》に死するを得んや、たとえ死するとも、独り九族を顧みざるやと。孝孺いよ/\奮って曰く、すなわち十族なるも我を奈何《いか》にせんやと、声|甚《はなは》だ※[#「厂+萬」、第3水準1-14-84]《はげ》し。帝もと雄傑剛猛なり、是《ここ》に於て大《おおい》に怒《いか》って、刀を以て孝孺の口を抉《えぐ》らしめて、復《また》之を獄に錮《こ》す。

 孝孺の宋潜渓《そうせんけい》に知らるゝや、蓋《けだ》し其《そ》の釈統《しゃくとう》三|篇《ぺん》と後正統論《こうせいとうろん》とを以《もっ》てす。四篇の文、雄大にして荘厳、其《その》大旨、義理の正に拠《よ》って、情勢の帰《き》を斥《しりぞ》け、王道を尚《たっと》び、覇略を卑み、天下を全有して、海内《かいだい》に号令する者と雖《いえど》も、其《その》道に於《おい》てせざる者は、目《もく》して、正統の君主とすべからずとするに在《あ》り。秦《しん》や隋《ずい》や王※[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、390-3]《おうもう》や、晋宋《しんそう》・斉梁《せいりょう》や、則天《そくてん》や符堅《ふけん》や、此《これ》皆これをして天下を有せしむる数百年に踰《こ》ゆと雖《いえど》も、正統とす可《べ》からずと為《な》す。孝孺の言に曰く、君たるに貴ぶ所の者は、豈《あに》其の天下を有するを謂《い》わんやと。又曰く、天下を有して而《しか》も正統に比す可からざる者三、簒臣《さんしん》也《なり》、賊后《ぞくこう》也、夷狄《いてき》也と。孝孺|篇後《へんご》に書して曰く、予が此《この》文を為《つく》りてより、未《いま》だ嘗《かつ》て出して以て人に示さず。人の此《この》言を聞く者、咸《みな》予を※[#「此/言」、第4水準2-88-57]笑《ししょう》して以て狂と為《な》し、或《あるい》は陰《いん》に之《これ》を詆詬《ていこう》す。其の然《しか》りと謂《い》う者は、独り予が師|太史公《たいしこう》と、金華《きんか》の胡公翰《ここうかん》とのみと、夫《そ》れ正統変統の論、もとより史の為《ため》にして発すと雖も、君たるに貴ぶ所の者は豈《あに》其の天下を有するを謂わんやと為《な》す。是《かく》の如きの論を為せるの後二十余年にして、一朝|簒奪《さんだつ》の君に面し、其の天下に誥《つ》ぐるの詔《みことのり》を草せんことを逼《せま》らる。嗚呼《ああ》、運命|遭逢《そうほう》も亦《また》奇なりというべし。孝孺又|嘗《かつ》て筆の銘を為《つく》る。曰く、


   妄《みだり》に動けば 悔《くい》あり、
  道は 悖《もと》る可からず。
  汝《なんじ》 才ありと謂《い》ふ勿《なか》れ、
  後に 万世あり。

又|嘗《かつ》て紙の銘を為る。曰く、


   之《これ》を以《もっ》て言を立つ、其の道を載《の》せんを欲す。
  之を以て事を記す、其の民を利せんを欲す。
  之を以て教《おしえ》を施す、其の義ならんを欲す。
  之を以て法を制す、其の仁ならんを欲す。


 此《これ》等《ら》の文、蓋《けだ》し少時の為《つく》る所なり。嗚呼、運命|遭逢《そうほう》、又何ぞ奇なるや。二十余年の後にして、筆紙前に在り。これに臨みて詔を草すれば、富貴《ふうき》我を遅《ま》つこと久し、これに臨みて命《めい》を拒まば、刀鋸《とうきょ》我に加わらんこと疾《と》し。嗚呼、正学先生《せいがくせんせい》、こゝに於《おい》て、成王《せいおう》いずくに在《あ》りやと論じ、こゝに於て筆を地に擲《なげう》って哭《こく》す。父に負《そむ》かず、師に負《そむ》かず、天に合《がっ》して人に合《がっ》せず、道に同じゅうして時に同じゅうせず、凛々烈々《りんりんれつれつ》として、屈せず撓《たゆ》まず、苦節|伯夷《はくい》を慕わんとす。壮なる哉《かな》。
 帝、孝孺の一族を収め、一人を収むる毎《ごと》に輙《すなわ》ち孝孺に示す。孝孺顧みず、乃《すなわ》ち之を殺す。孝孺の妻|鄭氏《ていし》と諸子《しょし》とは、皆|先《ま》ず経死《けいし》す。二女|逮《とら》えられて淮《わい》を過ぐる時、相《あい》与《とも》に橋より投じて死す。季弟《きてい》孝友《こうゆう》また逮《とら》えられて将《まさ》に戮《りく》せられんとす。孝孺之を目して涙《なんだ》下りければ、流石《さすが》は正学の弟なりけり、


   阿兄《あけい》 何ぞ必ずしも 涙|潜々《さんさん》たらむ、
   義を取り 仁を成す 此《この》間《かん》に在り。
   華表《かひょう》 柱頭《ちゅうとう》 千歳《せんざい》の後《のち》、
  旅魂《りょこん》 旧に依《よ》りて 家山《かざん》に到らん。

と吟じて戮《りく》せられぬ。母族|林彦清《りんげんせい》等《ら》、妻族|鄭原吉《ていげんきつ》等《ら》九族既に戮せられて、門生等まで、方氏《ほうし》の族として罪なわれ、坐死《ざし》する者およそ八百七十三人、遠謫《えんたく》配流《はいる》さるゝもの数う可からず。孝孺は終《つい》に聚宝門外《しゅうほうもんがい》に磔殺《たくさつ》せられぬ。孝孺|慨然《がいぜん》、絶命の詞《し》を為《つく》りて戮に就《つ》く。時に年四十六、詞に曰く、


   |天降[#二]乱離[#一]兮孰知[#二]其由[#一]《てんらんりを  くだしてたれかそのよしをしらん》。
  |奸臣得[#レ]計兮謀[#レ]国用[#レ]猶《かんしんはかりごとをえてくにをはかるにゆうをもちゆ》。
  |忠臣発[#レ]憤兮血涙交流《ちゅうしんいきどおりをはっしてけつるいこもごもながる》。
  |以[#レ]此殉[#レ]君兮抑又何求《ここをもってきみにじゅんずそもそもまたなにをかもとめん》。
  |嗚呼哀哉兮庶不[#二]我尤[#一]《あああわれなるかなこいねがわくはわれをとがめざれ》。

 廖※[#「金+庸」、第3水準1-93-36]《りょうよう》廖銘《りょうめい》は孝孺の遺骸《いがい》を拾いて聚宝門外《しゅうほうもんがい》の山上に葬りしが、二人も亦《また》収められて戮せられ、同じ門人|林嘉猷《りんかゆう》は、かつて燕王父子の間に反間の計《はかりごと》を為《な》したるもの、此《これ》亦戮せられぬ。
 方氏一族|是《かく》の如くにして殆《ほとん》ど絶えしが、孝孺の幼子|徳宗《とくそう》、時に甫《はじ》めて九歳、寧海県《ねいかいけん》の典史《てんし》魏公沢《ぎこうたく》の護匿《ごとく》するところとなりて死せざるを得、後《のち》孝孺の門人|兪公允《ゆこういん》の養うところとなり、遂《つい》に兪氏《ゆし》を冒《おか》して、子孫|繁衍《はんえん》し、万暦《ばんれき》三十七年には二百|余丁《よてい》となりしこと、松江府《しょうこうふ》の儒学の申文《しんぶん》に見え、復姓を許されて、方氏また栄ゆるに至れり。廖氏[#「廖氏」は底本では「※[#「やまいだれ+謬のつくり」、第4水準2-81-69]氏」]二子及び門人|王※[#「禾+余」、UCS-7A0C、395-2]《おうじょ》等《ら》拾骸《しゅうがい》の功また空《むな》しからず、万暦に至って墓碑|祠堂《しどう》成り、祭田《さいでん》及び嘯風亭《しょうふうてい》等備わり、松江《しょうこう》に求忠書院《きゅうちゅうしょいん》成るに及べり。世に在る正学先生の如くにして、豈《あに》後無く祠無くして泯然《びんぜん》として滅せんや。
 節《せつ》に死し族を夷《い》せらるゝの事、もと悲壮なり。是《ここ》を以て後の正学先生の墓を過《よ》ぎる者、愴然《そうぜん》として感じ、※[#「さんずい+玄」、第3水準1-86-62]然《げんぜん》として泣かざる能《あた》わず。乃《すなわ》ち祭弔《さいちょう》慷慨《こうがい》の詩、累篇《るいへん》積章《せきしょう》して甚だ多きを致す。衛承芳《えいしょうほう》が古風一首、中《うち》に句あり、曰く、


  古来 馬を叩《たた》く者、
  采薇《さいび》 逸民を称す。
  明《みん》の徳 ※[#「言+巨」、第3水準1-92-4]《なん》ぞ周《しゅう》に遜《ゆず》らん。
   乃《すなわ》ち其の仁を成す無からんや。

と。劉秉忠《りゅうへいちゅう》を慕うの人|道衍《どうえん》は其の功を成して秉忠の如くなるを得《え》、伯夷《はくい》を慕うの人|方希直《ほうきちょく》は其の節を成して伯夷に比せらるゝに至る。王思任《おうしじん》二律の一に句あり、曰く、


   十族 魂《たま》の 暗き月に依《よ》る有り、
  九原《きゅうげん》 愧《はじ》の 青灯に付する無し。

と、李維※[#「木+貞」、第3水準1-85-88]《りいてい》五律六首の中《うち》に句あり、曰く、


  国破れて 心 仍《なお》在《あ》り、
  身|危《あやう》ふして 舌 尚《なお》存す。


又句あり、曰く、


  気は壮《さかん》なり 河山《かざん》の色、
   神《しん》は留《とど》まる 宇宙の身《み》。

 燕王《えんおう》今は燕王にあらず、儼《げん》として九五《きゅうご》の位《くらい》に在り、明年を以《もっ》て改めて永楽《えいらく》元年と為《な》さんとす。而《しこう》して建文皇帝は如何《いかん》。燕王の言に曰く、予《よ》始め難に遘《あ》う、已《や》むを得ずして兵を以て禍《わざわい》を救い、誓って奸悪《かんあく》を除き、宗社を安んじ、周公《しゅうこう》の勲を庶幾《しょき》せんとす。意《おも》わざりき少主予が心を亮《まこと》とせず、みずから天に絶てりと。建文皇帝果して崩ぜりや否や。明史《みんし》には記す、帝終る所を知らずと。又記す、或《あるい》は云《い》う帝|地道《ちどう》より出《い》で亡《に》ぐと。又記す、※[#「さんずい+眞」、第3水準1-87-1]黔《てんきん》巴蜀《ばしょく》の間《かん》、相《あい》伝《つた》う帝の僧たる時の往来の跡ありと。これ言《ことば》を二三にするものなり。帝果して火に赴《おもむ》いて死せるか、抑《そもそも》又|髪《かみ》を薙《な》いで逃れたるか。明史巻一百四十三、牛景先《ぎゅうけいせん》の伝の後に、忠賢奇秘録《ちゅうけんきひろく》および致身録《ちしんろく》等の事を記して、録は蓋《けだ》し晩出附会、信ずるに足らず、の語を以て結び、暗に建文帝|出亡《しゅつぼう》、諸臣|庇護《ひご》の事を否定するの口気あり。然《しか》れども巻三百四、鄭和伝《ていかでん》には、成祖《せいそ》、恵帝《けいてい》の海外に亡《に》げたるを疑い、之《これ》を蹤跡《しょうせき》せんと欲し、且つ兵を異域に輝かし、中国の富強を示さんことを欲すと記《しる》せり。鄭和の始めて西洋に航せしは、燕王志を得てよりの第四年、即《すなわ》ち永楽三年なり。永楽三年にして猶《なお》疑うあるは何ぞや。又|給事中《きゅうじちゅう》胡※[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、398-8]《こえい》と内侍《ないし》朱祥《しゅしょう》とが、永楽中に荒徼《こうきょう》を遍歴して数年に及びしは、巻二百九十九に見ゆ。仙人《せんにん》張三※[#「蚌のつくり」、第3水準1-14-6]《ちょうさんぼう》を索《もと》めんとすというを其《その》名《な》とすと雖《いえど》も、山谷《さんこく》に仙を索《もと》めしむるが如き、永楽帝の聰明《そうめい》勇決にして豈《あに》真に其《その》事《こと》あらんや。得んと欲するところの者の、真仙にあらずして、別に存するあること、知る可《べ》き也。蓋《けだ》し此《この》時に当って、元の余※[#「薛/子」、第3水準1-47-55]《よけつ》猶《なお》所在に存し、漠北《ばくほく》は論無く、西陲南裔《せいすいなんえい》、亦《また》尽《ことごと》くは明《みん》の化《か》に順《したが》わず、野火《やか》焼けども尽きず、春風吹いて亦生ぜんとするの勢《いきおい》あり。且つや天《てん》一豪傑を鉄門関辺の碣石《けっせき》に生じて、カザン(Kazan)弑《しい》されて後の大帝国を治めしむ。これを帖木児《チモル》(Timur)と為す。西人《せいじん》の所謂《いわゆる》タメルラン也。帖木児《チモル》サマルカンドに拠《よ》り、四方を攻略して威を振《ふる》う甚だ大《だい》に、明《みん》に対しては貢《みつぎ》を納《い》ると雖も、太祖の末年に使《つかい》したる傅安《ふあん》を留《とど》めて帰らしめず、之《これ》を要して領内諸国を歴遊すること数万里ならしめ、既に印度《いんど》を掠《かす》めて、デリヒを取り、波斯《ペルシヤ》を襲い、土耳古《トルコ》を征し、心ひそかに支那《しな》を窺《うかが》い、四百余州を席巻して、大元《たいげん》の遺業を復せんとするあり。永楽帝の燕王たるや、塞北《さいほく》に出征して、よく胡情《こじょう》を知る。部下の諸将もまた夷事《いじ》に通ずる者多し。王の南《みなみ》する、幕中《ばくちゅう》に番騎《ばんき》を蔵す。凡《およ》そ此《これ》等《ら》の事に徴して、永楽帝の塞外《さくがい》の状勢を暁《さと》れるを知るべし。若《も》し建文帝にして走って域外に出《い》で、崛強《くっきょう》にして自大なる者に依《よ》るあらば、外敵は中国を覦《うかが》うの便《べん》を得て、義兵は邦内《ほうない》に起る可《べ》く、重耳《ちょうじ》一たび逃れて却《かえ》って勢を得るが如きの事あらんとす。是《こ》れ永楽帝の懼《おそ》れ憂《うれ》うるところたらずんばあらず。鄭和《ていか》の艦《ふね》を泛《うか》めて遠航し、胡※[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、401-2]《こえい》の仙《せん》を索《もと》めて遍歴せる、密旨を啣《ふく》むところあるが如し。而《しこう》して又鄭は実に威を海外に示さんとし、胡《こ》は実に異を幽境に詢《と》えるや論無し。善《よ》く射る者は雁影《がんえい》を重ならしめて而して射、善《よ》く謀《はか》る者は機会を復ならしめて而して謀る。一|箭《せん》二|雁《がん》を獲《え》ずと雖《いえど》も、一雁を失わず、一計双功を収めずと雖も、一功を得る有り。永楽帝の智《ち》、豈《あに》敢《あえ》て建文を索《もと》むるを名として使《つかい》を発するを為《な》さんや。況《いわ》んや又鄭和は宦官《かんがん》にして、胡※[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、400-8]《こえい》と偕《とも》にせるの朱祥《しゅしょう》も内侍《ないし》たるをや。秘意察す可きあるなり。

 鄭和《ていか》は王景弘《おうけいこう》等《ら》と共に出《いで》て使《つかい》しぬ。和の出《い》づるや、帝、袁柳荘《えんりゅうそう》の子の袁忠徹《えんちゅうてつ》をして相《そう》せしむ、忠徹|曰《いわ》く可なりと。和の率いる所の将卒二万七千八百余人、舶《ふね》長さ四十四丈、広さ十八丈の者、六十二、蘇州《そしゅう》劉家河《りゅうかか》より海《かい》に泛《うか》びて福建《ふくけん》に至り、福建|五虎門《ごこもん》より帆を揚げて海に入る。閲《えつ》三年にして、五年九月|還《かえ》る。建文帝の事、得る有る無し。而《しか》れども諸番国《しょばんこく》の使者|和《か》に随《したが》って朝見し、各々《おのおの》其《その》方物《ほうぶつ》を貢《こう》す。和《か》又|三仏斉国《さんぶつせいこく》の酋長《しゅうちょう》を俘《とりこ》として献ず。帝|大《おおい》に悦《よろこ》ぶ。是《これ》より建文の事に関せず、専《もは》ら国威を揚げしめんとして、再三|和《か》を出《いだ》す。和の使《つかい》を奉ずる、前後七回、其《そ》の間、或《あるい》は錫蘭山《セイロンざん》(Ceylon)の王|阿烈苦奈児《アレクナル》と戦って之を擒《とりこ》にして献じ、或《あるい》は蘇門答剌《スモタラ》(Sumotala)の前の前の偽王《ぎおう》の子|蘇幹剌《スカンラ》と戦って、其《その》妻子を併《あわ》せて俘《とりこ》として献じ、大《おおい》に南西諸国に明《みん》の威を揚げ、遠く勿魯漠斯《ホルムス》(Holumusze ペルシヤ)麻林《マリン》(Mualin? アフリカ?)祖法児《ズファル》(Dsuhffar アラビヤ)天方《てんほう》(“Beitullah”House of God の訳、メッカ、アラビヤ)等に至れり。明史《みんし》外国伝《がいこくでん》西南方のやゝ詳《つまびらか》なるは、鄭和に随行したる鞏珍《きょうちん》の著わせる西洋番国志《せいようばんこくし》を採りたるに本《もと》づく歟《か》という。
 胡※[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、402-1]《こえい》等《ら》もまた得る無くして已《や》みぬ。然《しか》も張三※[#「蚌のつくり」、第3水準1-14-6]《ちょうさんぼう》を索《もと》めしこと、天下の知る所たり。乃《すなわ》ち三※[#「蚌のつくり」、第3水準1-14-6]の居《お》りし所の武当《ぶとう》 大和山《たいかざん》に観《かん》を営み、夫《ふ》を役《えき》する三十万、貲《し》を費《ついや》す百万、工部侍郎《こうぶじろう》郭※[#「王+追」、402-3]《かくつい》、隆平侯《りゅうへいこう》張信《ちょうしん》等《ら》、事に当りしという。三※[#「蚌のつくり」、第3水準1-14-6]|嘗《かつ》て武当の諸《しょ》巌壑《がんがく》に游《あそ》び、此《この》山《やま》異日必ず大《おおい》に興《おこ》らんといいしもの、実となってこゝに現じたる也。

 建文帝《けんぶんてい》は如何《いか》にせしぞや。伝えて曰《いわ》く、金川門《きんせんもん》の守《まもり》を失うや、帝自殺せんとす。翰林院編修《かんりんいんへんしゅう》程済《ていせい》白《もう》す、出亡《しゅつぼう》したまわんには如《し》かじと。少監《しょうかん》王鉞《おうえつ》跪《ひざまず》いて進みて白《もう》す。昔|高帝《こうてい》升遐《しょうか》したもう時、遺篋《いきょう》あり、大難に臨まば発《あば》くべしと宣《のたま》いぬ。謹んで奉先殿《ほうせんでん》の左に収め奉れりと。羣臣《ぐんしん》口々に、疾《と》く出《いだ》すべしという。宦者《かんじゃ》忽《たちまち》にして一の紅《くれない》なる篋《かたみ》を舁《か》き来《きた》りぬ。視《み》れば四囲は固《かた》むるに鉄を以てし、二|鎖《さ》も亦《また》鉄を灌《そそ》ぎありて開くべくも無し。帝これを見て大《おおい》に慟《なげ》きたまい、今はとて火を大内《たいだい》に放たせたもう。皇后は火に赴きて死したまいぬ。此《この》時《とき》程済は辛くも篋《かたみ》を砕き得て、篋中《きょうちゅう》の物を取出《とりいだ》す。出《い》でたる物は抑《そも》何ぞ。釈門《しゃくもん》の人ならで誰《たれ》かは要すべき、大内などには有るべくも無き度牒《どちょう》というもの三|張《ちょう》ありたり。度牒は人の家を出《いで》て僧となるとき官の可《ゆる》して認むる牒にて、これ無ければ僧も暗き身たるなり。三張の度牒、一には応文《おうぶん》の名の録《ろく》され、一には応能《おうのう》の名あり、一には応賢《おうけん》の名あり。袈裟《けさ》、僧帽、鞋《くつ》、剃刀《かみそり》、一々|倶《とも》に備わりて、銀十|錠《じょう》添わり居《い》ぬ。篋《かたみ》の内に朱書あり、之《これ》を読むに、応文は鬼門《きもん》より出《い》で、余《よ》は水関《すいかん》御溝《ぎょこう》よりして行き、薄暮にして神楽観《しんがくかん》の西房《せいぼう》に会せよ、とあり。衆臣驚き戦《おのの》きて面々|相《あい》看《み》るばかり、しばらくは言《ものい》う者も無し。やゝありて天子、数なり、と仰《おお》[#ルビの「おお」は底本では「おおせ」]せあり。帝の諱《いみな》は允※[#「火+文」、第4水準2-79-61]《いんぶん》、応文《おうぶん》の法号、おのずから相応ずるが如し。且つ明《みん》の基《もとい》を開きし太祖高皇帝はもと僧にましましき。後にこそ天下の主となり玉《たま》いたれ、元《げん》の順宗《じゅんそう》の至正《しせい》四年|年《とし》十七におわしける時は、疫病|大《おおい》に行われて、御父《おんちち》御母兄上幼き弟皆|亡《う》せたまえるに、家貧にして棺槨《かんかく》の供《そなえ》だに為《な》したもう能《あた》わず、藁葬《こうそう》という悲しくも悲しき事を取行《とりおこな》わせ玉わんとて、仲《なか》の兄と二人してみずから遺骸《いがい》を舁《か》きて山麓《さんろく》に至りたまえるに、※[#「糸+更」、第4水準2-84-30]《なわ》絶えて又|如何《いかん》ともする能《あた》わず、仲の兄|馳《はせ》還《かえ》って※[#「糸+更」、第4水準2-84-30]を取りしという談だに遺《のこ》りぬ。其の仲の兄も亦《また》亡せたれば、孤身|依《よ》るところなく、遂《つい》に皇覚寺《こうかくじ》に入りて僧と為《な》り、食《し》を得んが為《ため》に合※[#「さんずい+肥」、第3水準1-86-85]《ごうひ》に至り、光《こう》固《こ》汝《じょ》頴《えい》の諸州に托鉢《たくはつ》修行し、三歳の間は草鞋《そうあい》竹笠《ちくりゅう》、憂《う》き雲水の身を過したまえりという。帝は太祖の皇孫と生れさせたまいて、金殿玉楼に人となりたまいたれども、如是因《にょぜいん》、如是縁《にょぜえん》、今また袈裟《けさ》念珠《ねんじゅ》の人たらんとす。不思議というも余《あま》りあり。程済|即《すなわ》ち御意に従いて祝髪《しゅくはつ》しまいらす。万乗の君主金冠を墜《おと》し、剃刀《ていとう》の冷光|翠髪《すいはつ》を薙《な》ぐ。悲痛何ぞ能《よ》く堪《た》えんや。呉王《ごおう》の教授|揚応能《ようおうのう》は、臣が名|度牒《どちょう》に応ず、願わくは祝髪して随《したが》いまつらんと白《もう》す。監察御史《かんさつぎょし》葉希賢《しょうきけん》、臣が名は賢《けん》、応賢《おうけん》たるべきこと疑《うたがい》無しと白《もう》す。各《おのおの》髪を剃《そ》り衣《い》を易《か》えて牒《ちょう》を披《ひら》く。殿《でん》に在りしもの凡《およ》そ五六十人、痛哭《つうこく》して地に倒れ、倶《とも》に矢《ちか》って随《したが》いまつらんともうす。帝、人多ければ得失を生ずる無きを得ず、とて麾《さしまね》いて去らしめたもう。御史《ぎょし》曾鳳韶《そうほうしょう》、願わくは死を以て陛下に報いまつらん、と云いて退きつ、後《のち》果して燕王の召《めし》に応《おう》ぜずして自殺しぬ。諸臣|大《おおい》に慟《なげ》きて漸《ようや》くに去り、帝は鬼門に至らせたもう。従う者実に九人なり。至れば一舟《いっしゅう》の岸に在《あ》るあり。誰《たれ》ぞと見るに神楽観《しんがくかん》の道士|王昇《おうしょう》にして、帝を見て叩頭《こうとう》して万歳を称《とな》え、嗚呼《ああ》、来《きた》らせたまえるよ、臣昨夜の夢に高《こう》皇帝の命を蒙《こうむ》りて、此《ここ》にまいり居《い》たり、と申す。乃《すなわ》ち舟に乗じて太平門《たいへいもん》に至りたもう。昇《しょう》導きまいらせて観《かん》に至れば、恰《あたか》も已《すで》に薄暮なりけり。陸路よりして楊応能《ようおうのう》、葉希賢《しょうきけん》等《ら》十三人同じく至る。合《ごう》二十二人、兵部侍郎《へいぶじろう》廖平《りょうへい》、刑部侍郎《けいぶじろう》金焦《きんしょう》、編修《へんしゅう》趙天泰《ちょうてんたい》、検討《けんとう》程亨《ていこう》、按察使《あんさつし》王良《おうりょう》、参政《さんせい》蔡運《さいうん》、刑部郎中《けいぶろうちゅう》梁田玉《りょうでんぎょく》、中書舎人《ちゅうしょしゃじん》梁良玉《りょうりょうぎょく》、梁中節《りょうちゅうせつ》、宋和《そうか》、郭節《かくせつ》、刑部司務《けいぶしむ》馮※[#「さんずい+寉」、405-12]《ひょうかく》、鎮撫《ちんぶ》牛景先《ぎゅうけいせん》、王資《おうし》、劉仲《りゅうちゅう》、翰林侍詔《かんりんじしょう》鄭洽《ていこう》、欽天監正《きんてんかんせい》王之臣《おうししん》、太監《たいかん》周恕《しゅうじょ》、徐王府賓輔《じょおうふひんほ》史彬《しひん》と、楊応能《ようおうのう》、葉希賢《しょうきけん》、程済《ていせい》となり。帝、今後はたゞ師弟を以《もっ》て称し、必ずしも主臣の礼に拘《かかわ》らざるべしと宣《のたま》う。諸臣泣いて諾す。廖平こゝに於《おい》て人々に謂《い》って曰く、諸人の随《したが》わんことを願うは、固《もと》よりなり、但し随行の者の多きは功無くして害あり、家室の累《るい》無くして、膂力《りょりょく》の捍《ふせ》ぎ衛《まも》るに足る者、多きも五人に過ぎざるを可とせん、余《よ》は倶《とも》に遙《はるか》に応援を為《な》さば、可ならんと。帝も、然《しか》るべしと為したもう。応能、応賢の二人は比丘《びく》と称し、程済は道人《どうじん》と称して、常に左右に侍し、馮※[#「さんずい+寉」、406-8]《ひょうかく》[#「馮※[#「さんずい+寉」、406-8]」は底本では「憑※[#「さんずい+寉」、406-8]」]は馬二子《ばじし》と称し、郭節《かくせつ》は雪菴《せつあん》と称し、宋和《そうか》は雲門僧《うんもんそう》と称し、趙天泰《ちょうてんたい》は衣葛翁《いかつおう》と称し、王之臣《おうししん》は補鍋《ほか》を以《もっ》て生計を為さんとして老補鍋《ろうほか》と称し、牛景先《ぎゅうけいせん》は東湖樵夫《とうこしょうふ》と称し、各々《おのおの》姓を埋《うず》め名を変じて陰陽《いんよう》に扈従《こしょう》せんとす。帝は※[#「さんずい+眞」、第3水準1-87-1]南《てんなん》に往《ゆ》きて西平侯《せいへいこう》に依《よ》らんとしたもう。史彬《しひん》これを危ぶみて止《とど》め、臣《しん》等《ら》の中の、家いさゝか足りて、旦夕《たんせき》に備う可《べ》き者の許《もと》に錫《しゃく》を留《とど》めたまい、緩急移動したまわば不可無かるべしと白《もう》す。帝もこれを理ありとしたまいて、廖平、王良、鄭洽《ていこう》、郭節、王資、史彬《しひん》、梁良玉の七家を、かわる/″\主とせんことに定まりぬ。翌日舟を得て帝を史彬の家に奉ぜんとす。同乗するもの八人、程、葉《しょう》、楊、牛、馮《ひょう》、宋、史なり。余《よ》は皆涙を揮《ふる》って別れまいらす。帝は道を※[#「さんずい+栗」、第4水準2-79-2]陽《りつよう》に取りて、呉江《ごこう》の黄渓《こうけい》の史彬の家に至りたもうに、月の終《おわり》を以て諸臣また漸《ようや》く相《あい》聚《あつ》まりて伺候《しこう》す。帝命じて各々帰省せしめたもう。燕王|位《くらい》に即《つ》きて、諸官員の職を抛《なげう》って遯去《のがれさ》りし者の官籍を削る。呉江《ごこう》の邑丞《ゆうじょう》鞏徳《きょうとく》、蘇州府《そしゅうふ》の命を以て史彬が家に至り、官を奪い、且《かつ》曰く、聞く君が家|建文《けんぶん》皇帝をかしずくと。彬《ひん》驚いて曰く、全く其《その》事《こと》無しと。次の日、帝、楊、葉、程の三人と共に、呉江を出《い》で、舟に上《のぼ》りて京口《けいこう》に至り、六合《ろくごう》を過ぎ、陸路|襄陽《じょうよう》に至り、廖平が家に至りたもうに、其《その》後《あと》を訊《と》う者ありければ、遂《つい》に意を決して雲南《うんなん》に入りたもう。

 永楽《えいらく》元年、帝|雲南《うんなん》の永嘉寺《えいかじ》に留《とど》まりたもう。二年、雲南を出《い》で、重慶《じゅうけい》より襄陽《じょうよう》に抵《いた》り、また東して、史彬《しひん》の家に至りたもう。留まりたもうこと三日、杭州《こうしゅう》、天台《てんだい》、雁蕩《がんとう》の遊《ゆう》をなして、又雲南に帰りたもう。
 三年、重慶の大竹善慶里《たいちくぜんけいり》に至りたもう。此《この》年《とし》若《もし》くは前年の事なるべし、帝|金陵《きんりょう》の諸臣|惨死《さんし》の事を聞きたまい、※[#「さんずい+玄」、第3水準1-86-62]然《げんぜん》として泣きて曰く、我罪を神明に獲《え》たり、諸人皆我が為《ため》にする也《なり》と。
 建文帝《けんぶんてい》は今は僧|応文《おうぶん》たり。心の中《うち》はいざ知らず、袈裟《けさ》に枯木《こぼく》の身を包みて、山水に白雲の跡を逐《お》い、或《あるい》は草庵《そうあん》、或は茅店《ぼうてん》に、閑坐《かんざ》し漫遊したまえるが、燕王《えんおう》今は皇帝なり、万乗の尊に居《お》りて、一身の安き無し。永楽元年には、韃靼《だったん》の兵、遼東《りょうとう》を犯し、永平《えいへい》に寇《あだ》し、二年には韃靼《だったん》と瓦剌《わら》(Oirats, 西部蒙古)との相《あい》和せる為に、辺患無しと雖《いえど》も、三年には韃靼の塞下《さくか》を伺うあり。特《こと》に此《この》年《とし》はタメルラン大兵を起して、道を別失八里《ベシバリ》(Bisbalik)に取り、甘粛《かんしゅく》よりして乱入せんとするの事あり。甘粛は京《けい》を距《さ》る遠しと雖《いえど》も、タメルランの勇威猛勢は、太祖の時よりして知るところたり、永楽帝の憂慮察す可《べ》し。此《この》事《こと》明史《みんし》には其の外国伝に、朝廷、帖木児《チモル》の道を別失八里《ベシバリ》に仮りて兵を率いて東するを聞き、甘粛《かんしゅく》総兵官《そうへいかん》宋晟《そうせい》に勅して※[#「にんべん+敬」、第3水準1-14-42]備《けいび》せしむ、とあるに過ぎず。然《しか》れども塞外《さくがい》の事には意を用いること密にして、永楽八年以後、数々《しばしば》漠北《ばくほく》を親征せしほどの帝の、帖木児《チモル》東せんとするを聞きては、奚《いずく》んぞ能《よ》く晏然《あんぜん》たらん。太祖の洪武《こうぶ》二十八年、傅安《ふあん》等《ら》を帖木児《チモル》の許《もと》に使《つかい》せしめて、安《あん》等《ら》猶《なお》未《いま》だ還《かえ》らず、忽《たちまち》にして此《この》報を得、疑虞《ぎぐ》する無きを得んや。帖木児《チモル》、父は答剌豈《タラガイ》(Taragai)、元《げん》の至元二年を以《もっ》て生る。生れて跛《ひ》なりしかば、悪《にく》む者チムールレンク(Timurlenk)と呼ぶ。レンクは跛《ひ》の義の波斯《ペルシヤ》語なり。タメルランの称これによって起る。人となり雄毅《ゆうき》、兵を用い政《まつりごと》を為《な》すを善《よ》くす。太祖《たいそ》の明《みん》の基《もとい》を開くに前後して大《おおい》に勢《いきおい》を得、洪武五年より後、征戦三十余年、威名|亜非利加《アフリカ》、欧羅巴《ヨウロッパ》に及ぶ。帖木児《チモル》は回教を奉ず。明の初《はじめ》回教の徒の甘粛に居る者を放つ。回徒多く帖木児《チモル》の領土に帰《き》す。帖木児《チモル》の甘粛より入らんとせるも、故ある也。永楽元年(1403)より永楽三年に至るまで帖木児《チモル》の許《もと》に在《あ》りしクラウイヨ(Clavijo, Castilian Ambassador)記《しる》す、タメルラン、支那《しな》帝使を西班牙《スペイン》帝使の下《しも》に座せしめ、吾《わが》児《こ》たり友たる西帝《せいてい》の使を、賊たり無頼の徒たる支那帝の使《し》の下に坐《ざ》せしむる勿《なか》れと云《い》いしと。又同時タメルラン軍営に事《つか》えしバワリヤ人シルトベルゲル(T. Schiltberger)記す、支那帝使|進貢《しんこう》を求む、タメルラン怒って曰く、吾《われ》復《また》進貢せざらん、貢を求めば帝みずから来《きた》れと。乃《すなわ》ち使《つかい》を発して兵を徴し、百八十万を得、将《まさ》に発せんとしたりと。西暦千三百九十八年は、タメルラン西部|波斯《ペルシヤ》を征したりしが、其《その》冬《ふゆ》明の太祖及び埃及《エジプト》王の死を知りたりと也《なり》。帖木児《チモル》が意を四方に用いたる知る可し。然《しか》らば則《すなわ》ち燕王の兵を起ししより終《つい》に位《くらい》に即《つ》くに至るの事、タメルラン之《これ》を知る久し。建文二年(1400)よりタメルランはオットマン帝国を攻めしが、外に在《あ》る五年にして、永楽二年(1404)サマルカンドに還《かえ》りぬ。カスチリヤの使《し》と、支那の使とを引見したるは、即《すなわ》ち此《この》歳《とし》にして、其《そ》の翌年|直《ただち》に馬首を東にし、争乱の余《よ》の支那に乱入せんとしたる也。永楽帝の此《この》報を得るや、宋晟《そうせい》に勅《ちょく》して※[#「にんべん+敬」、第3水準1-14-42]備《けいび》せしむるのみならず、備えたるあること知りぬ可《べ》し。宋晟は好将軍なり、平羌将軍《へいきょうしょうぐん》西寧侯《せいねいこう》たり。かつて御史《ぎょし》ありて晟《せい》の自ら専《もっぱら》にすることを劾《がい》しけるに、帝|聴《き》かずして曰く、人に任ずる専《せん》ならざれば功を成す能《あた》わず、況《いわ》んや大将は一辺を統制す、いずくんぞ能《よ》く文法に拘《かかわ》らんと。又|嘗《かつ》て曰く、西北の辺務は、一に以《もっ》て卿《けい》に委《ゆだ》ぬと。其の材武称許せらるゝ是《かく》の如し。タメルランの来《きた》らんとするや、帝また別に虞《おそ》るゝところあり。蓋《けだ》し燕の兵を挙ぐるに当って、史|之《これ》を明記せずと雖《いえど》も、韃靼《だったん》の兵を借りて以《もっ》て功を成せること、蔚州《いしゅう》を囲めるの時に徴して知る可し。建文|未《いま》だ死せず、従臣の中《うち》、道衍《どうえん》金忠《きんちゅう》の輩の如き策士あって、西北の胡兵《こへい》を借るあらば、天下の事知る可からざるなり。鄭和《ていか》胡「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、411-12]《こえい》の出《い》づるある、徒爾《とじ》ならんや。建文の草庵《そうあん》の夢、永楽の金殿《きんでん》の夢、其のいずれか安くして、いずれか安からざりしや、試《こころみ》に之を問わんと欲する也。幸《さいわい》にしてタメルランは、千四百〇五年|即《すなわち》永楽三年二月の十七日、病んでオトラル(Otoral)に死し、二雄|相《あい》下らずして龍闘虎争《りゅうとうこそう》するの惨禍《さんか》を禹域《ういき》の民に被《こうむ》らしむること無くして已《や》みぬ。

 四年|応文《おうぶん》は西平侯《せいへいこう》の家に至り、止《とど》まること旬日、五月|庵《いおり》を白龍山《はくりゅうざん》に結びぬ。五年冬、建文帝、難に死せる諸人を祭り、みずから文を為《つく》りて之《これ》を哭《こく》したもう。朝廷|帝《てい》を索《もと》むること密《みつ》なれば、帝深く潜《ひそ》みて出《い》でず。此《この》歳《とし》傅安《ふあん》朝《ちょう》に帰る。安の胡地《こち》を歴游《れきゆう》する数万里、域外に留《とど》まる殆《ほとん》ど二十年、著す所|西遊勝覧詩《せいゆうしょうらんし》あり、後の好事《こうず》の者の喜び読むところとなる。タメルランの後《のち》の哈里《ハリ》(Hali)雄志《ゆうし》無し、使《つかい》を安《あん》に伴わしめ方物《ほうぶつ》を貢《こう》す。六年、白龍庵|災《さい》あり、程済《ていせい》[#ルビの「ていせい」は底本では「ていさい」]募《つの》り葺《ふ》く。七年、建文帝、善慶里《ぜんけいり》に至り、襄陽《じょうよう》に至り、※[#「さんずい+眞」、第3水準1-87-1]《てん》に還《かえ》る。朝廷|密《ひそか》に帝を雲南《うんなん》貴州《きしゅう》の間に索《もと》む。
 八年春三月、工部尚書《こうぶしょうしょ》厳震《げんしん》安南《あんなん》に使《つかい》するの途《みち》にして、忽《たちま》ち建文帝に雲南に遇《あ》う。旧臣|猶《なお》錦衣《きんい》にして、旧帝|既《すで》に布衲《ふとつ》なり。震《しん》たゞ恐懼《きょうく》して落涙|止《とど》まらざるあるのみ。帝、我を奈何《いかん》せんとするぞや、と問いたもう。震|対《こた》えて、君は御心《みこころ》のまゝにおわせ、臣はみずから処する有らんと申《もう》す。人生の悲しきに堪えずや有りけん、其《その》夜《よ》駅亭にみずから縊《くび》れて死しぬ。夏、帝白龍庵に病みたもう。史彬《しひん》、程亨《ていこう》、郭節《かくせつ》たま/\至る。三人留まる久しくして、帝これを遣《や》りたまい、今後再び来《きた》る勿《なか》れ、我|安居《あんきょ》す、心づかいすなと仰《おお》す。帝白龍庵を舎《す》てたもう。此《この》歳《とし》永楽帝は去年|丘福《きゅうふく》を漠北《ばくほく》に失えるを以て北京《ほくけい》を発して胡地《こち》に入り、本雅失里《ベンヤシリ》(Benyashili)阿魯台《アルタイ》(Altai)等《ら》と戦いて勝ち、擒狐山《きんこざん》、清流泉《せいりゅうせん》の二処に銘を勒《ろく》して還りたもう。
 九年春、白龍庵|有司《ゆうし》の毀《こぼ》つところとなる。夏建文帝|浪穹《ろうきゅう》鶴慶山《かくけいざん》に至り、大喜庵《たいきあん》を建つ。十年|楊応能《ようおうのう》卒し、葉希賢《しょうきけん》次《つ》いで卒す。帝|因《よ》って一弟子《いちていし》を納《い》れて応慧《おうえ》と名づけたもう。十一年|甸《てん》に至りて還り、十二年易数を学びたもう。此《この》歳《とし》永楽帝また塞外《さくがい》に出《い》で、瓦剌《オイラト》を征したもう。皇太孫|九龍口《きゅうりゅうこう》に於《おい》て危難に臨む。十三年建文帝|衡山《こうざん》に遊ばせたもう。十四年、帝|程済《ていせい》に命じて従亡伝《じゅうぼうでん》を録せしめ、みずから叙《じょ》を為《つく》らる。十五年|史彬《しひん》白龍庵に至る、庵《あん》を見ず、驚訝《きょうが》して帝を索《もと》め、終《つい》に大喜庵《たいきあん》に遇《あ》い奉る。十一月帝|衡山《こうざん》に至りたもう、避くるある也。十六年、黔《きん》に至りたもう。十七年始めて仏書を観《み》たもう。十八年|蛾眉《がび》に登り、十九年|粤《えつ》に入り、海南諸勝に遊び、十一月還りたもう。此《この》歳《とし》阿魯台《アルタイ》反す。二十年永楽帝、阿魯台《アルタイ》を親征す。二十一年建文帝|章台山《しょうだいさん》に登り、漢陽《かんよう》に遊び、大別山《たいべつざん》に留《とど》まりたもう。
 二十二年春、建文帝東行したまい、冬十月|史彬《しひん》と旅店に相《あい》遇《あ》う。此《この》歳《とし》阿魯台《アルタイ》大同《だいどう》[#ルビの「だいどう」は底本では「たいどう」]に寇《あだ》す。去年|阿魯台《アルタイ》を親征し、阿魯台《アルタイ》遁《のが》れて戦わず、師|空《むな》しく還る。今又|塞《さい》を犯す。永楽帝また親征す。敵に遇《あ》わずして、軍食《ぐんし》足らざるに至る。帰路|楡木川《ゆぼくせん》に次《じ》し、急に病みて崩ず。蓋《けだ》し疑う可《べ》きある也《なり》。永楽帝既に崩じ、建文帝|猶《なお》在《あ》り、帝と史彬《しひん》と客舎《かくしゃ》相《あい》遇《あ》い、老実貞良の忠臣の口より、簒国奪位《さんこくだつい》の叔父《しゅくふ》の死を聞く。世事《せいじ》測る可からずと雖《いえど》も、薙髪《ちはつ》して宮《きゅう》を脱し、堕涙《だるい》して舟に上るの時、いずくんぞ茅店《ぼうてん》の茶後に深仇《しんきゅう》の冥土《めいど》に入るを談ずるの今日あるを思わんや。あゝ亦《また》奇なりというべし。知らず応文禅師《おうぶんぜんじ》の如何《いかん》の感を為《な》せるを。即《すなわ》ち彬《ひん》とゝもに江南に下り、彬の家に至り、やがて天台山《てんだいさん》に登りたもう。
 仁宗《じんそう》の洪※[#「熈」の「ノ」に代えて「冫」、第3水準1-87-58]《こうき》元年正月、建文帝|観音大士《かんおんだいし》を潮音洞《ちょうおんどう》に拝し、五月山に還りたもう。此《この》歳《とし》仁宗また崩じて、帝を索《もと》むること、漸《ようや》くに忘れらる。宣宗《せんそう》の宣徳《せんとく》元年秋八月、従亡《じゅうぼう》諸臣を菴前《あんぜん》に祭りたもう。此《この》歳《とし》漢王《かんおう》高煦《こうこう》反す。高煦は永楽帝の子にして、仁宗の同母弟、宣徳帝《せんとくてい》の叔父《しゅくふ》なり。燕王の兵を挙ぐるや、高煦父に従《したが》って力戦す。材武みずから負《たの》み、騎射を善《よ》くし、酷《はなは》だ燕王に肖《に》たり。永楽帝の儲《ちょ》を立つるに当って、丘福《きゅうふく》、王寧《おうねい》等《ら》の武臣|意《こころ》を高煦に属するものあり。高煦|亦《また》窃《ひそか》に戦功を恃《たの》みて期するところあり。然《しか》れども永楽帝|長子《ちょうし》を立てゝ、高煦を漢王とす。高煦|怏々《おうおう》たり。仁宗立って其《その》歳《とし》崩じ、仁宗の子大位に即《つ》くに及びて、遂《つい》に反す。高煦の宣徳帝《せんとくてい》に於《お》けるは、猶《なお》燕王の建文帝に於けるが如きなり。其《その》父反して而《しか》して帝たり、高煦父の為《な》せるところを学んで、陰謀至らざる無し。然《しか》れども事発するに至って、帝親征して之を降《くだ》す。高煦|乃《すなわ》ち廃せられて庶人《しょじん》となる。後|鎖※[#「執/糸」、UCS-7E36、416-8]《さしつ》されて逍遙城《しょうようじょう》に内《い》れらるゝや、一日《いちじつ》帝の之を熟視するにあう。高煦急に立って帝の不意に出《い》で、一足《いっそく》を伸《のば》して帝を勾《こう》し地に※[#「足へん+倍のつくり」、第3水準1-92-37]《ばい》せしむ。帝|大《おおい》に怒って力士に命じ、大銅缸《だいどうこう》を以《もっ》て之を覆《おお》わしむ。高煦|多力《たりき》なりければ、缸《こう》の重き三百|斤《きん》なりしも、項《うなじ》に缸《こう》を負いて起《た》つ。帝炭を缸上に積むこと山の如くならしめて之を燃《もや》す。高煦生きながらに焦熱地獄に堕《だ》し、高煦の諸子皆死を賜う。燕王範を垂れて反を敢《あえ》てし、身|幸《さいわい》にして志を得たりと雖も、終《つい》に域外の楡木川《ゆぼくせん》に死し、愛子高煦は焦熱地獄に堕《お》つ。如是果《にょぜか》、如是報《にょぜほう》、悲《かなし》む可《べ》く悼《いた》む可く、驚く可く嘆ずべし。
 二年冬、建文帝|永慶寺《えいけいじ》に宿《しゅく》して詩を題して曰く、


  杖錫《じょうしゃく》 来《きた》り遊びて 歳月深し、
  山雲 水月 閑吟に傍《そ》ふ。
   塵心《じんしん》 消尽《しょうじん》して 些子《さし》も無し、
  受けず 人間の物色の侵すを。

 これより帝|優游自適《ゆうゆうじてき》、居然として一頭陀《いちずだ》なり。九年|史彬《しひん》死し、程済《ていせい》猶《なお》従う。帝詩を善《よ》くしたもう。嘗《かつ》て賦《ふ》したまえる詩の一に曰く、


  牢落《ろうらく》 西南 四十秋、
   蕭々《しょうしょう》たる白髪 已《すで》に頭《こうべ》に盈《み》つ。
  乾坤《けんこん》 恨《うらみ》あり 家いづくにか在《あ》る。
  江漢 情《じょう》無し 水おのづから流る。
  長楽 宮中《きゅうちゅう》 雲気散じ、
  朝元《ちょうげん》 閣上 雨声収まる。
  新蒲《しんぽ》 細柳《さいりゅう》 年々緑に、
  野老《やろう》 声を呑《の》んで 哭《こく》して未《いま》だ休  《や》まず。

 又|嘗《かつ》て貴州《きしゅう》金竺《きんちく》長官|司羅永菴《しらえいあん》の壁《へき》に題したまえる七律二章の如き、皆|誦《しょう》す可し。其二に曰く、

 女仙外史《じょせんがいし》に、忠臣等名山幽谷に帝を索《もと》むるを記《き》する、有るが如《ごと》く無きが如く、実の如く虚の如く、縹渺有趣《ひょうびょうゆうしゅ》の文を為《な》す。永楽亭《えいらくてい》楡木川《ゆぼくせん》の崩《ほう》を記する、鬼母《きぼ》の一剣を受くとなし、又|野史《やし》を引いて、永楽帝|楡木川《ゆぼくせん》に至る、野獣の突至するに遇《あ》い、之《これ》を搏《ばく》す、攫《かく》されてたゞ半躯《はんく》を剰《あま》すのみ、※[#「歹+僉」、第4水準2-78-2]《れん》して而《しか》して匠を殺す、其《その》迹《あと》を泯滅《びんめつ》する所以《ゆえん》なりと。野獣か、鬼母か、吾《われ》之《これ》を知らず。西人《せいじん》或《あるい》は帝|胡人《こじん》の殺すところとなると為す。然《しか》らば則《すなわ》ち帝|丘福《きゅうふく》を尤《とが》めて、而して福と其《その》死を同じゅうする也。帝勇武を負い、毎戦|危《あやう》きを冒《おか》す、楡木川《ゆぼくせん》の崩、蓋《けだ》し明史《みんし》諱《い》みて書せざるある也。

 数《すう》か、数か。紅篋《こうきょう》の度牒《どちょう》、袈裟《けさ》、剃刀《ていとう》、噫《ああ》又何ぞ奇なるや。道士の霊夢、御溝《ぎょこう》の片舟《へんしゅう》、噫《ああ》又何ぞ奇なるや。吾《われ》嘗《かつ》て明史《みんし》を読みて、其《その》奇に驚き、建文帝と共に所謂《いわゆる》数《すう》なりの語を発せんと欲す。後《のち》又|道衍《どうえん》の伝を読む。中《うち》に記して曰く、道衍|永楽《えいらく》十六年死す。死に臨みて、帝言わんと欲するところを問う。衍曰く、僧《そう》溥洽《ふこう》というもの繋《つな》がるゝこと久し。願わくは之を赦《ゆる》したまえと。溥洽《ふこう》は建文帝の主録僧《しゅろくそう》なり。初め帝の南京《なんきん》に入るや、建文帝僧となりて遁《のが》れ去り、溥洽|状《じょう》を知ると言うものあり、或《あるい》は溥洽の所に匿《かく》すと云《い》うあり。帝|乃《すなわ》ち他事を以て溥洽を禁《いまし》めて、而《しか》して給事中《きゅうじちゅう》胡※[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、423-8]《こえい》等《ら》に命じて※[#「彳+扁」、第3水準1-84-34]《あまね》く建文帝を物色せしむ。之《これ》を久しくして得ず。溥洽|坐《ざ》して繋《つな》がるゝこと十余年、是《ここ》に至りて帝道衍の言を以《もっ》て命じて之を出《いだ》さしむ。衍|頓首《とんしゅ》して謝し、尋《つい》で卒すと。篋中《きょうちゅう》の朱書、道士の霊夢、王鉞《おうえつ》の言、呉亮《ごりょう》の死と、道衍の請《こい》と、溥洽の黙《もく》と、嗚呼《ああ》、数たると数たらざると、道衍|蓋《けだ》し知ることあらん。而《しか》して楡木川《ゆぼくせん》の客死《かくし》、高煦《こうこう》の焦死《しょうし》、数たると数たらざるとは、道衍|袁※[#「王+共」、第3水準1-87-92]《えんこう》の輩《はい》の固《もと》より知らざるところにして、たゞ天|之《これ》を知ることあらん。

底本:「日本の文学3 五重塔・運命」ほるぷ出版
   1985(昭和60)年2月1日初版第1刷発行
底本の親本:「幽秘記」改造社
  1925(大正14)年6月発行
※JIS X 0213にもない文字の一部に、字体表現の参考資料として、「※[#「木+爽」、UCS-6A09、252-3]」のように、Unicodeを添えました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※疑問箇所の確認にあたっては、底本の親本と、「露伴全集 第六卷」岩波書店、1953(昭和28)年12月20日発行を参照しました。
※底本の「凡例」に「韻文の作品は、原表記・歴史的仮名づかいのままとした。ただし、振仮名は現代表記に改めた。」と記載されています。
※「懐来《かいらい》に在《あ》り 兵三万と」「天に震い 飛矢《ひし》雨の如し。」「城を撃たしむ 城壁破れんとす。」「前半は巵酒《ししゅ》 歓楽、」「武当《ぶとう》 大和山《たいかざん》に」の空白は底本通りにしました。
入力:kompass
校正:しだひろし
2004年11月17日作成
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