世界怪談名作集 ラッパチーニの娘 アウペパンの作から ホーソーンNathaniel Hawthorne ——岡本綺堂訳

      

 遠い以前のことである。ジョヴァンニ・グァスコンティという一人の青年が、パドゥアの大学で学問の研究をつづけようとして、イタリーのずっと南部の地方から遙《はる》ばると出て来た。
 財嚢のはなはだ乏しいジョヴァンニは、ある古い屋敷の上の方の陰気な部屋に下宿を取ることにした。これはあるパドゥアの貴族の邸宅ででもあったらしく、その入り口の上には今はすっかり古ぼけてしまったある一家の紋章が表われているのが見られた。自国イタリーの有名な偉大な詩を知っていた旅の青年は、この屋敷の家族の祖先の一人、おそらくその所有者たる人は、ダンテの筆によって、かのインフェルノの煉獄の永劫《えいごう》呵責《かしゃく》の相伴者として描き出されたものであることを、想いおこされるのであった。これらの回想や連想が、はじめて故郷を去った若者にはきわめてありがちの断腸の思いと結び付いて、ジョヴァンニは思わず溜め息をついた。そうして、物さびしい粗末な部屋の中をあちらこちらと見まわした。
「おや、あなた」と、リザベッタ老婦人は、この青年の人柄のひどく立派なのに打たれて、この部屋を住み心地のよいように見せようと努めながら声をかけた。
「お若いかたの胸から溜め息などが出るとは、これはどうしたことでございましょう。あなたはこの古い屋敷を陰気だとでも思っていらっしゃるのですか。では、どうぞその窓から首を出してご覧下さい。ナポリと同じようにきらきらした日の光りが拝《おが》まれますよ」
 ジョヴァンニは、老婦人の言うがままにただ機械的に窓から首を突き出して見たが、パドゥアの日光が南イタリーの日光のように陽気だとは思われなかった。とはいえ、日光は窓の下の庭を照らして、さまざまの植物に恵みある光りを浴びせていた。その植物はまたひとかたならぬ注意をもって育てられたもののように見えた。
「この庭は、お家《うち》のものですか」と、ジョヴァンニは訊《き》いた。
「ほんとうに、あなた。あんな植物なぞはどうか出来ないで、それよりももっとよい野菜でも出来ましたらば……」と、老いたるリザベッタ婦人は答えた。「いいえ、そうではございません。あの庭はジャコモ・ラッパチーニさまが、ご自身の手で作っておいでになります。あの先生は名高いお医者さんで、きっと遠いナポリのほうまでもお名前がひびいていることと思います。先生はあの植物をたいそうつよい魅力を持った薬に蒸溜なさるとかいう噂で、折りおりに先生が働いていらっしゃるのが見えます。またどうかすると、お嬢さままでが庭に生えている珍らしい花を集めているのが見えますよ」
 老婦人は、この部屋の様子について、もう何もかも言い尽くしてしまったので、青年の幸福を祈りながら出て行った。
 ジョヴァンニはなんの所在もないので、窓の下の庭園をいつまでも見おろしていた。その庭の様子で、このパドゥアの植物園は、イタリーはおろか、世界のいずこよりも早く作られたものの一つであると判断した。もしそうでないとすると、もっとも、これはあまり当てにはならないが、かつて富豪の一族の娯楽場か何かであったかもしれない。
 庭園の中央には稀に見るほどの巧みな彫刻を施した大理石の噴水の跡がある。それも今はめちゃくちゃにこわれてしまって、その残骸はほとんど原形をとどめぬほどになっているが、その水だけは今も相変わらず噴き出して、日光にきらきらと輝いていた。その水のさらさらと流れ落ちる小さいひびきは、上にいる青年の部屋の窓までも聞こえてくる。この噴水が永遠不滅の霊魂であって、その周囲の有為転変《ういてんぺん》にはいささかも気をとめずに絶えず歌っているもののように思われるのであった。すなわち、ある時代には大理石をもって泉を造り、またある時はそれを毀《こぼ》って地上に投げ出してしまうような、有為転変の姿も知らぬように――。
 水の落ちてゆく池《プール》の周囲に、いろいろな植物が生い繁っているのを見ると、大きい木の葉や、美しい花の営養には、十分なる水分の供給が大切であるように思われた。池の中央にある大理石の花瓶のうちに、特にきわだって眼につく一本の灌木《かんぼく》があった。その木には無数の紫の花が咲いて、花はみな宝石のような光沢と華麗とをそなえていた。こういう花が一団となって目ざましい壮観を現出し、たとい日光がここに至らずとも、十分に庭を明かるく照らすにたるかのようであった。
 土のあるところには、すべて草木が植えられてある。それらはその豊麗なることにおいて、かの灌木にやや劣っているとしても、なおひとかたならざる丹精の跡がありありと見られた。また、それらの草木は皆それぞれに特徴を有《ゆう》していて、それがその培養者たる科学者にはよく知られているらしく、あるものは多くの古風な彫刻を施した壺のうちに置かれ、また、あるものは普通の植木鉢のうちに植えられていた。それらのあるものは蛇のように地上を這いまわり、あるいは心のままに高く這いあがっていた。また、あるものはバータムナスの像のまわりを花環のように取り巻いて、布《きれ》のように垂れさがった枝はその像をすっかり掩《おお》っていた。それらはまこと立派に配列されていて、彫刻家にとってはこの上もないよい研究材料であろうと思われた。
 ジョヴァンニが窓の側に立っていると、木の葉の茂みのうしろから物の摺れるような音が聞こえたので、彼は誰か庭のうちで働いているのに気がついた。間もなくその姿が現われたが、それは普通の労働者ではなく、黒の学者服を身にまとった、脊丈《せい》の高い、痩せた、土気色をした、弱よわしそうに見える男であった。彼は中年を過ぎていて、髪は半白で、やはり半白の薄い髯《ひげ》を生やしていたが、その顔には知識と教養のあとがいちじるしく目立っていた。但《ただ》し、その青春時代にも、温かな人情味などはけっして表わさなかったであろうと思われるような人物であった。
 なにものも及ばぬほどの熱心をもって、この科学者的の庭造り師は、順じゅんにすべての灌木を試験していった。彼はそれらの植物のうちにひそんでいる性質を検《しら》べ、その創造的原素の観察をおこない、何ゆえにこの葉はこういう形をしているか、かの葉はああいう形をしているか、また、そのためにそれらの花がたがいに色彩や香気を異にしているのである、というようなことを発見しようとしているらしい。しかも彼自身は、植物についてこれほどの深い造詣《ぞうけい》があるにもかかわらず、彼とその植物との間には、少しの親しみもないらしく、むしろ反対に、彼は植物に触れることも、その匂いを吸うことも、まったく避けるように注意を払っていた。それがジョヴァンニに甚《はなは》だ不快な印象を与えたのであった。
 科学者的庭造り師の態度は、たとえば猛獣とか、毒蛇とか、悪魔とかいうもののような、少しでも気を許したらば恐ろしい災害を与えるような、有害な影響を及ぼすもののうちを歩いている人のようであった。庭造りというようなものは、人間の労働のうちでも最も単純な無邪気なものであり、また人類のまだ純潔であった時代の祖先らの労働と喜悦《きえつ》とであったのであるから、今この庭を造る人のいかにも不安らしい様子を見ていると、青年はなんとはなしに一種の怪しい恐怖をおぼえた。それでも、この庭園を現世のエデンの園であるというのであろうか。その害毒を知りながら自ら培養しているこの人は、果たしてアダムであろうか。
 この疑うべき庭造り師は灌木《かんぼく》の枯葉を除き、生い繁れる葉の手入れをするのに、厚い手袋をはめて両手を保護していた。彼の装身具は、単に手袋ばかりではなかった。庭を歩いて、大理石の噴水のほとりに紫の色を垂れているあの目ざましい灌木のそばに来ると、彼は一種のマスクでその口や鼻を掩った。この木のあらゆる美しさは、ただその恐ろしい害毒を隠しているかのように――。それでもなお危険であるのを知ってか、彼は後ずさりしてマスクをはずし、声をあげて呼んだ。もっとも、その声は弱よわしく、身のうちに何か病気をもっている人のようであった。
「ベアトリーチェ、ベアトリーチェ!」
「はい、お父さん、なにかご用……」と、向うの家の窓から声量のゆたかな若やいだ声がきこえた。
 その声は熱帯地方の日没のごとくに豊かで、ジョヴァンニは何とは知らず、紫とか真紅の色とか、または非常に愉快なある香気をも、ふと心に思い浮かべた。
「お父さん、お庭ですか」
「おお、そうだよ、ベアトリーチェ」と、父は答えた。「おまえ、ちょっと手をかしてくれ」
 彫刻の模様のついている入り口から、この庭園のうちへ最も美しい花にもけっして劣らない豊かな風趣をそなえた、太陽のように美しい一人の娘の姿があらわれた。その手には眼も醒めるばかりの、もうこれ以上の強い色彩はとても見るにたえないと思われるような、非常に濃厚な色彩の花を持っていた。彼女は生命の力と健康の力と精力とが充満しているように見えた。これらの特質はその多量を彼女の処女地帯の内に制限せられ、圧縮せられ、なおかつ強く引きしめられているのである。
 しかし庭を見おろしているうちに、ジョヴァンニの考えは確かに一種の病的になったであろう。この美しい未知の人が彼にあたえた印象は、さらに一つの花が咲き出したかのようであった。そうして、この人間の花はそれらの植物の花と姉妹《きょうだい》で、同じように美しく、さらにそれよりも遙かに美しく、しかもなお手袋をはめてのみ触れ得べく、またマスクなしには近づくべからざる花のようであった。ベアトリーチェが庭の小径に降りて来た時、彼女はその父がきわめて用意周到に避けてきたいくつかの植物の匂いを平気で吸い、また平気でそれに手も触れているのが見えた。
「さあ、ベアトリーチェ」と、父は言った。「ご覧、私たちのいちばん大切な宝のために、しなければならない仕事がたくさんある。私は弱っているから、あまりむやみにそれに近づくと、命を失うおそれがある。それで、この木はおまえひとりに任せなければならないと思うが……」
「そんなら、わたしは喜んで引き受けます」と、再び美しい声で叫びながら、彼女はかの目ざましい灌木にむかって腰をかがめ、それを抱くように両腕をひろげた。
「ええ、そうですよ。ねえ、わたしの立派な妹さん、あなたを育ててゆくのは、このベアトリーチェの役目なのです。それですから、あなたの接吻《キッス》と……それから私の命のその芳《かん》ばしい呼吸《いき》とを、わたしに下さらなければならないのですよ」
 その言葉にあらわれたような優しさを、その態度の上にもあらわして、彼女はその植物に必要と思われるだけの十分の注意をもって忙しく働きはじめた。
 ジョヴァンニは高い窓にもたれかかりながら、自分の眼をこすった。娘がその愛する花の世話をしているのか、または花の姉妹がたがいに愛情を示しあっているのか、まったくわからなかった。しかも、この光景はすぐに終わった。ドクトル・ラッパチーニがその庭造りの仕事を終わったのか、あるいはその慧眼がジョヴァンニのあることを見てとったのか。そのいずれかは知れないが、父は娘の手をとって庭を立ち去ってしまった。
 夜はすでに近づいていた。息づまるような臭気が庭の植物から発散して、あけてある窓から忍び込むようであった。ジョヴァンニは窓をしめて寝床にはいって、美しい花と娘のことを夢想した。花と娘とは別べつのものであって、しかも同じものである。そうして、その両者には何か不思議な危険が含まれていた。
 しかし朝の光りは、太陽が没している間に、または夜の影のあいだに、あるいは曇りがちな月光のうちに生じたところの、どんな間違った想像をも、あるいは判断さえも、まったく改めるものである。眠りから醒めて、ジョヴァンニがまっさきの仕事は、窓をあけてかの庭園をよく見ることであった。それは昨夜の夢によって、大いに神秘的に感じられてきたのであった。早い朝日の光りは花や葉に置く露をきらめかし、それらの稀に見る花にも皆それぞれに輝かしい美しさをあたえながら、あらゆるものをなんの不思議もない普通日常の事として見せている。その光りのうちにあって、この庭も現実の明らかな事実としてあらわれたとき、ジョヴァンニは驚いて、またいささか恥じた。この殺風景な都会のまんなかで、こんな美しい贅沢《ぜいたく》な植物を自由に見おろすことの出来る特権を得たのを、青年は喜んだのである。彼はこの花を通じて自然に接することが出来ると、心ひそかに思った。
 見るからに病弱の、考え疲れたような、ドクトル・ジャコモ・ラッパチーニも、またその美しい娘も、今はそこには見えなかったので、ジョヴァンニは自分がこの二人に対して感じた不思議を、どの程度までかれらの人格に負わすべきものか、また、どの程度までを自分自身の奇蹟的想像に負わすべきものかを、容易に決定することが出来なかった。しかし彼はこの事件全体について、最も合理的の見解をくだそうと考えた。
 その日、彼はピエトロ・バグリオーニ氏を訪問した。氏は大学の医科教授で、有名な医者であった。ジョヴァンニはこの教授に宛てた紹介状を貰っていたのである。教授は相当の年配で、ほとんど陽気といってもいいような、一見快活の性行を有していた。彼はジョヴァンニに食事を馳走し、殊《こと》にタスカン酒の一、二罎をかたむけて、少しく酔いがまわってくると、彼は自由な楽しい会話でジョヴァンニを愉快にさせた。ジョヴァンニは双方が同じ科学者であり、同じ都市の住民である以上、かならず互いに親交があるはずだと思って、よい機《おり》を見てドクトル・ラッパチーニの名を言い出すと、教授は彼が想像していたほどには、こころよく答えなかった。
「神聖なるべき仁術の教授が……」と、ピエトロ・バグリオーニ教授は、ジョヴァンニの問いに答えた。「ラッパチーニのごとき非常に優れた医者の、適当と思われる賞讃に対して、それを貶《けな》すようなことを言うのは悪いことであろう。しかし一方において、ジョヴァンニ君。君は旧友の子息である。君のような有望の青年が、この後《のち》あるいは君の生死を掌握するかもしれないような人間を尊敬するような、誤まった考えをいだくのを黙許してもいいかわるいかという僕は自己の良心に対して、少しばかりそれに答えなければならない。実際わが尊敬すべきドクトル・ラッパチーニは、ただ一つの例外はあるが、おそらくこのパドゥアばかりでなく、イタリー全国におけるいかなる有能の士にも劣らぬ立派な学者であろう。しかし、医者としてのその人格には、大いなる故障があるのだ」
「どんな故障ですか」と、青年は訊《き》いた。
「医者のことをそんなに詮索《せんさく》するのは、君は心身いずれかに病気があるのではないかな」と、教授は笑いながら言った。「だが、ラッパチーニに関しては――僕は、彼をよく知っているので、実際だと言い得るが――彼は人類などということよりも全然、科学の事ばかりを心にかけているといわれている。彼におもむく患者は、彼には新しい実験の材料として興味があるのみだ。彼の偉大な蘊蓄《うんちく》に、けしつぶぐらいの知識を加えるためにも、彼は人間の生命――なかんずく、彼自身の生命、あるいはそのほか彼にとって最も親しい者の生命でも、犠牲に供するのを常としているのだ」
「わたしの考えでは、彼は実際|畏《おそ》るべき人だと思います」と、心のうちにラッパチーニの冷静なひたむきな智的態度を思い出しながら、ジョヴァンニは言った。「しかし、崇拝すべき教授であり、また、まことに崇高な精神ではありませんか。それほどに科学に対して、精神的な愛好をかたむけ得る人が他にどれほどあるでしょうか」
「少なくとも、ラッパチーニの執《と》った見解よりは、治療術というもっと健全な見解を執るのでなかったら……。ああ、神よ禁じたまえ」と、教授はやや急《せ》き立って答えた。「あらゆる医学的効力は、われわれが植物毒剤と呼ぶものの内に含蓄されているというのが、彼の理論である。彼は自分の手ずから植物を培養して、自然に生ずるよりは遙かに有害な種じゅの恐ろしい新毒薬を作ったとさえいわれている。それらのものは彼が直接に手をくださずとも、永遠にこの世に禍《わざわ》いするものである。医者たる者がかくのごとき危険物を用いて、予想よりも害毒の少ないことのあるのは、否定し得ないことである。時どきに彼の治療が驚くべき偉効を奏し、あるいは奏したように見えたのは、われわれも認めてやらなければなるまい。しかしジョヴァンニ君。打ち明けて言えば、もし彼が……まさに自分が行なったと思われる失敗に対して、厳格に責任を負うならば、彼はわずかの成功の例に対しても、ほとんど信用を受けるにたらないのである。まして、その成功とてもおそらく偶然の結果に過ぎなかったのであろう」
 もしこの青年が、バグリオーニとラッパチーニの間に専門的の争いが長くつづいていて、その争いは一般にラッパチーニのほうが有利と考えられていたことを知っていたならば、バグリオーニの意見を大いに斟酌《しんしゃく》したであろう。もしまた、読者諸君がみずから判断をくだしてみたいならば、パドゥア大学の医科に蔵されている両科学者の論文を見るがよい。
 ラッパチーニの極端な科学研究熱に関して語られたところを、よく考えてみた後に、ジョヴァンニは答えた。
「よく分かりませんが、先生。あの人はどれほど医術を愛しているか、私には分かりませんが、確かにあの人にとって、もっと愛するものがあるはずです。あの人には、ひとりの娘があります」
「ははあ」と、教授は笑いながら叫んだ。「それで初めて君の秘密がわかった。君はその娘のことを聞いたのだね。あの娘についてはパドゥアの若い者はみな大騒ぎをしているのだが、運よくその顔を見たという者は、まだほんの幾人《いくにん》もない。ベアトリーチェ嬢については、わたしはあまりよく知らない。ラッパチーニが自分の学問を彼女に十分に教え込んだということと、彼女は若くて美しいという噂だが、すでに教授の椅子に着くべき資格があるということと、ただそれだけを聞いている。おそらく彼女の父は、将来わたしの椅子を彼女のものにしようと決めているのだろう。ほかにまだつまらない噂は二、三あるが、言う価値もなく、聞く価値もないことだ。では、ジョヴァンニ君。赤葡萄酒の盃をほしたまえ」

       

 ジョヴァンニは飲んだ酒《ワイン》にやや熱くなって、自分の下宿へもどった。酒のために、彼の頭はラッパチーニと美しいベアトリーチェについて、いろいろの空想をたくましゅうした。帰る途中で偶然に花屋のまえを通ったので、彼は新しい花束を一つ買って来た。
 彼は自分の部屋にのぼって、窓のそばに腰をおろしたが、自分の影が窓の壁の高さを超えないようにした。それで、彼はほとんど発見される危険もなしに庭を見おろすことができた。眼の下に人の影はなかったが、かの不思議な植物は日光にぬくまりながら、時どきにあたかも同情と親しみとを表わすかのように、静かにうなずき合っていた。庭園の中央のこわれた噴水のほとりには、それを覆《おお》うように群がる紫色の花をつけて、めざましい灌木が生えていた。花は空中に輝き、それが池水《プール》の底に映じて再びきらきらと照り返すと、池の水はその強い反射で、色のついた光りを帯びて溢れ出るようにも見えた。
 初めは前に言ったように、庭には人影がなかった。しかし間もなく――この場合、ジョヴァンニが半ば望み、半ば恐れたごとく――人の姿が古風の模様のある入り口の下にあらわれた。そうして、植物の列をなしている間を歩み来ながら、甘い香りを食べて生きていたという古い物語のなかの人物のように、植物のいろいろの香気を彼女は吸っていた。ふたたびベアトリーチェをみるに及んで、青年がいっそうおどろいたのは、彼女がその記憶よりも遙かに美しいことであった。彼女は太陽の光りのうちに輝き、また、ジョヴァンニがひそかに思っていた通り、庭の小径《こみち》の影の多いところを明かるく照らすほどに、その人は光り輝いているのであった。
 彼女の顔は前のときよりも、いっそうはっきりと現われた。そうして、彼は天真爛漫な柔和な娘の表情に、いたく心を打たれた。こんな性質を彼女が持っていようとは、彼の考えおよばないところであったので、彼女がいったいどんな質《たち》の人であろうかと、彼は新たに想像してみるようになった。彼は忘れもせずに、この美しい娘と、噴水の下に宝石のような綺麗な花を咲かせている灌木と、この両者の類似点を再び観察し、想像するのであった。――この類似は、彼女の衣服の飾りつけと、その色合いの選択とによって、ベアトリーチェが弥《いや》が上にも空想的気分を高めたからであった。
 灌木に近づくと、彼女はあたかも熱烈な愛情を有しているかのように、その両腕を大きくひらいて、その枝をひき寄せて、いかにも親しそうに抱えた。その親しさは、彼女の顔をその葉のうちに隠し、きらめく縮れ毛は皆その花にまじって埋められてしまうほどであった。
「|私の姉妹《マイ・シスター》! あなたの息をわたしに下さい」と、ベアトリーチェは叫んだ。「わたしはもう、普通の空気がいやになったのですから。――そうして、あなたのこのお花を下さいな。わたしはきっと大事に枝を折って、わたしの胸《ハート》の側にちゃんとつけて置きます」
 こう言って、ラッパチーニの美しい娘は灌木の最も美しい花の一輪をとって、自分の胸につけようとした。しかしこの時、あるいは酒のためにジョヴァンニの意識が混乱していたのかもしれないが、もしそうでないとすれば、実に不思議なことが起こった。小さいオレンジ色の蜥蜴《とかげ》かカメレオンのような動物が小径を這って、偶然にベアトリーチェの足もとへ近寄って来たのである。
 ジョヴァンニが見ている所は遠く離れていて、そんなに小さなものは到底《とうてい》見えなかったであろうと思われるが、しかし彼の眼には、花の切り口から、一、二滴の液体が蜥蜴の頭に落ちたと見えたのである。すると、その動物はたちまち荒あらしく体をゆがめて、日光のもとに動かなくなってしまった。ベアトリーチェはこの驚くべき現象をみて、悲しそうであったが格別におどろきもせず、しずかに十字を切った。それから彼女はためらいもせずに、その恐ろしい花を取って自分の胸につけると、花はまたたちまちに紅《くれない》となって、ほとんど宝石も同様にきらきらと輝いて、この世の何物もあたえられないような独特の魅力を、その衣服や容貌にあたえるのであった。ジョヴァンニはびっくりして、窓のかげから差し出していた首を急に引っ込めて、慄《ふる》えながら独りごとを言った。
「おれは眼が覚めているのだろうか。意識を持っているのだろうか。いったい、あれはなんだろう。美しいと言っていいのか、それとも大変に怖ろしいというのか」
 ベアトリーチェはなんの気もつかないように、庭をさまよい歩きながらジョヴァンニの窓の下へ近づいて来たので、彼女に刺戟された痛烈の好奇心を満足させるためには、彼はそこから首を突き出さなければならなかった。あたかもそのときに庭の垣根を越えて、一匹の美しい虫が飛んで来た。おそらく市中を迷い暮らして、ラッパチーニの庭の灌木の強い香気に遠くから誘惑されるまでは、どこにも新鮮な花を見いだすことが出来なかったのであろう。
 この輝く虫は花には降りずに、ベアトリーチェに心を惹《ひ》かれてか、やはり空中をさまよって彼女の頭のまわりを飛びまわった。これはどうしてもジョヴァンニの見あやまりに相違なかったのであるが、ともかくも彼はこう想像したのである。ベアトリーチェが子供らしい楽しみをもって虫をながめていると、その昆虫はだんだんに弱って来て、その足もとに落ちた。そうして、その光っている羽《はね》をふるわしているかと見るうちに、とうとう死んでしまった。それがどういうわけであるのか、彼には分からなかったが、おそらく彼女の息に触れたがためであろう。ベアトリーチェはふたたび十字を切って、虫の死骸の上にかがんで深い溜め息をついた。
 ジョヴァンニはいよいよ驚いて、思わず身動きをすると、それに気がついて彼女は窓を見あげた。彼女は青年の美しい頭――イタリー式よりはむしろギリシャ型で、美しく整った容貌と、かがやく金髪の捲毛《まきげ》とを持っていた――その頭が中空にさまよっていた、かの虫のように彼女を一心に見詰めているのを知った。ジョヴァンニは今まで手に持っていた花束をほとんど無意識に投げおろした。
「お嬢さん」と、彼は言った。「ここに清い健全な花があります。どうぞジョヴァンニ・グァスコンティのために、その花をおつけ下さい」
「ありがとうございます」と、あたかも一種の音楽のあふれ出るような豊かな声をして、半分は子供らしく、半分は女らしい、嬉しそうな表情でベアトリーチェは答えた。「あなたの贈り物を頂戴《ちょうだい》いたします。そのお礼に、この美しい紫の花を差し上げたいのですが、わたしが投げてもあなたのところまでは届きません。グァスコンティさま、お礼を申し上げるだけで、どうぞおゆるし下さい」
 彼女は地上から花束を取り上げた。未知の人の挨拶にこたえるなど、娘らしい慎しみを忘れたのを内心恥ずるかのように、彼女は庭を過ぎて足早に家の中へはいってしまった。それはわずかに数秒間のことであったが、彼女の姿が入り口の下に見えなくなろうとしている時、かの美しい花束がすでに彼女の手のうちで凋《しお》れかかっているように見えた。しかし、それは愚かな想像で、それほど離れたところにあって、新鮮な花の凋《しぼ》んでゆくことなどがどうして認められるであろう。
 このことがあってのち、しばらくの間、青年はラッパチーニの庭園に面している窓口に行くことを避けた。もしその庭を見たらば、何かいやな醜怪な事件が、かさねて彼の眼に映るであろうと思ったようであった。彼はベアトリーチェと知り合いになったがために、何か解《げ》し難いようなある力の影響をうけていることを、自分ながら幾分《いくぶん》か気がついた。もし彼の心に本当の危険を感じているならば、最も賢明なる策はこのパドゥアを一度離れることであろう。第二の良策は、日中に見たところのベアトリーチェの親しげな様子に出来るだけ慣れてしまって、彼女をきわめて普通の女性と思うようになることであろう。殊《こと》に彼女を避けているあいだ、ジョヴァンニはこの異常なる女性に断然接近してはならない。彼女と親しい交際が出来そうにでもなったらば、絶えず想像をたくましゅうしている彼の気まぐれが、いつか真実性を帯びて来る虞《おそ》れがあるからである。
 ジョヴァンニは、深い心を持たずして――今それを測《はか》ってみたのではないが――敏速な想像力と、南部地方の熱烈な気性とを持っていた。この性質はいつでも熱病のごとくに昂《たか》まるのである。ベアトリーチェが恐るべき特質――彼が目撃したところによれば、その恐ろしい呼吸とか、美しい有毒の花に似ているとかいうこと――それらの特質を持っていると否《いな》とにかかわらず、彼女はすくなくとも、非常に猛烈な不可解の毒薬をそのからだのうちに沁み込ませてしまったのである。彼女の濃艶は彼の心を狂わせるが、それは愛ではない。彼はまた、彼女の肉体にみなぎるように見えるごとく、彼女の精神にも同じ有毒の原素が沁み込んでいると想像しているが、それは恐怖でもない。それは愛と恐怖との二つが生んだもので、しかもその二つの性質をそなえているものである。すなわち愛のごとくに燃え、恐怖のごとくに顫《ふる》えるところのものである。
 ジョヴァンニは何を恐るべきかを知らず、また、それにも増して何を望むべきかをも知らなかった。しかも希望と恐怖とは絶えずその胸のうちで争っていた。交るがわるに、他の感情を征服するかと思えば、また起《た》って戦いを新たにするのである。暗いと明かるいとを問わず、いずれにしても単純なる感情は幸福である。赫《かく》かくたる地獄の火焔《ほのお》をふくものは、二つの感情の物凄いもつれである。
 時どきに彼はパドゥアの街や郊外をむやみに歩き廻って、熱病のような精神を鎮めようと努めた。その歩みは頭の動悸と歩調を合わせたので、さながら競争でもしているように、だんだんに速くなっていくのであった。ある日、彼は途中である人にさえぎられた。ひとりの人品卑しからぬ男が彼を認めて引き返し、息を切りながら彼に追いついて、その腕を取ったのである。
「ジョヴァンニ君。おい、君。ちょっと待ちたまえ。君は、僕を忘れたのか。僕が君のように若返ったとでもいうのなら、忘れられても仕方がないが……」と、その人は呼びかけた。
 それはバグリオーニ教授であった。この教授は悧口《りこう》な人物で、あまりに深く他人の秘密を見透し過ぎるように思われたので、彼は初対面以来、この人をそれとなく避けていたのである。彼は自己の内心の世界から外部の世界をじっと眺めて、自己の妄想から眼覚めようと努めながら、夢みる人のように言った。
「はい、私はジョヴァンニ・グァスコンティです。そうしてあなたは、ピエトロ・バグリオーニ教授。では、さようなら」
「いや、まだ、まだ、ジョヴァンニ・グァスコンティ君」と、教授は微笑とともに青年の様子を熱心に見つめながら言った。「どうしたことだ。僕は君のお父さんとは仲よく育ったのに、その息子はこのパドゥアの街で僕に逢っても、知らぬ振りをして行き過ぎてもいいのかね。ジョヴァンニ君。別れる前にひとこと話したいから、まあ、待ちたまえ」
「では、早く……。先生、どうぞお早く……」と、ジョヴァンニは、非常にもどかしそうに言った。「先生、私が急いでいるのがお見えになりませんか」
 彼がこう言っているところへ、黒い着物をきた男が、健康のすぐれぬ人のように前かがみになって弱よわしい形でたどって来た。その顔は全体に、はなはだ病的で土色を帯びていたが、鋭い積極的な理智のひらめきがみなぎっていて、見る者はその単なる肉体的の虚労《きょろう》を忘れて、ただ驚くべき精力を認めたであろう。彼は通りがかりに、バグリオーニと遠くの方から冷《ひや》やかな挨拶を取り交したが、彼はこの青年の内面に何か注意に値《あた》いすべきものあらば、何物でも身透さずにはおかぬといったような鋭い眼をもって、ジョヴァンニの上にきっとそそがれた。それにもかかわらず、その容貌には独特の落ち着きがあって、この青年に対しても人間的ではなく、単に思索的興味を感じているように見られた。
「あれが、ドクトル・ラッパチーニだ」と、彼が行ってしまった時に教授はささやいた。「彼は君の顔を知っているのかね」
「私は知っているというわけではありません」と、ジョヴァンニはその名を聞いて驚きながら答えた。
「彼のほうでは確かに君を知っているよ。彼は君を見たことがあるに違いない」と、バグリオーニは急《せ》き込んで言った。「何かの目的で、あの男は君を研究している。僕はあの様子で分かったのだ。彼がある実験のために、ある花の匂いで殺した鳥や鼠や蝶などに臨むとき、彼の顔に冷たくあらわれるものとまったく同じ感じだ。その容貌は自然そのもののごとくに深味をもっているが、自然の持つ愛の暖か味はない。ジョヴァンニ君。君はきっとラッパチーニの実験の一材料であるのだ」
「先生。あなたは僕を馬鹿になさるのですか。そんな不運な実験だなどと……」と、ジョヴァンニは怒気を含んで叫んだ。
「まあ、君、待ちたまえ」と、執拗《しつよう》な教授は繰りかえして言った。「それはね、ジョヴァンニ君。ラッパチーニが君に学術的興味を感じたのだよ。君は恐ろしい魔手に捉《とら》われているのだ。そうして、ベアトリーチェは……彼女はこの秘密についてどういう役割を勤めるのかな」
 しかしジョヴァンニはバグリオーニ教授の執拗にたえきれないで、逃げ出して、教授がその腕を再び捉えようとしたときには、もうそこにはいなかった。教授は青年のうしろ姿をまばたきもせずに見つめて、頭を振りながらひとりごとを言った。
「こんなはずではないが……。あの青年は、おれの旧友の息子だから、おれは医術によって保護し得る限りは、いかなる危害をも彼に加えさせないつもりだ。それにまた、おれに言わせると、ラッパチーニがあの青年をおれの手から奪って、かの憎むべき実験の材料にするなどとは、あまりにひどい仕方だ。彼の娘も監視すべきだ。最も博学なるラッパチーニよ。おれはたぶんおまえを夢にも思わないようなところへ追いやってしまうであろう」
 ジョヴァンニは廻り道をして、ついにいつの間にか自分の宿の入り口に来ていた。彼が入り口の閾《しきい》をまたいだときに、老婦人のリザベッタに出逢った。
 彼女はわざと作り笑いをして、彼の注意をひこうと思ったが、彼の沸き立った感情はすぐに冷静になって、やがて茫然《ぼうぜん》と消えてしまったので、その目的は達せられなかった。彼は、微笑をたたえた皺だらけの顔の方へ真正面に眼を向けてはいたが、その顔を見ているようには思われなかった。そこで、老婦人は彼の外套《がいとう》をつかんだ。
「もし、あなた、あなた」と、彼女はささやいた。その顔にはまだ一面に微笑をたたえていたので、彼女の顔は幾世紀を経て薄ぎたなくなった怪異な木彫りのように見えた。
「まあお聴きなさい。庭へはいるのには、秘密の入り口があるのでございますよ」
「なんだって……」と、ジョヴァンニは無生物が生命を吹き込まれて飛び上がるように、急に振り返って叫んだ。「ラッパチーニの庭へはいる秘密の入り口……」
「しっ、しっ。そんなに大きな声をお出しになってはいけません」と、リザベッタはその手で、彼の口を蔽《おお》いながら言った。「さようでございます。あの偉い博士さまのお庭にはいる秘密の入り口でございます。そのお庭では、立派な灌木の林がすっかり見られます。パドゥアの若いかたたちは、みんなその花の中に入れてもらおうと思って、お金を下さるのでございます」
 ジョヴァンニは金貨一個を彼女の手に握らせた。
「その道を教えてくれたまえ」と、彼は言った。
 たぶんバグリオーニとの会話の結果であろうが、このリザベッタ婦人の橋渡しは、ラッパチーニが彼をまき込もうとしていると教授が想像しているらしい陰謀――それがいかなる性質のものであっても――と、何か関連しているのではないかという疑いが、彼の心をかすめた。しかし、こうした疑いは、ジョヴァンニの心を一旦《いったん》かきみだしたものの、彼を抑制するには不十分であった。ベアトリーチェに接近することが出来るということを知った刹那《せつな》、そうすることが彼の生活には絶対に必要なことのように思われた。
 彼女が天使であろうと、悪魔であろうと、そんなことはもう問題ではなかった。彼は絶対に彼女の掌中《しょうちゅう》にあった。そうして、彼は永久に小さくなりゆく圏内に追い込まれて、ついには、彼が予想さえもしなかった結果を招くような法則に、従わなければならなかった。
 しかも不思議なことには、彼はにわかにある疑いを起こした。自分のこの強い興味は、幻想ではあるまいか。こういう不安定の位置にまで突進しても差し支えないと思われるほどに、それが深い確実な性質のものであろうか。それは単なる青年の頭脳の妄想で、彼の心とはほんのわずかな関係があるに過ぎないか、またはまるで無関係なのではあるまいか。彼は疑って、躊躇《ちゅうちょ》してあと戻りをしかけたが、ふたたび思い切って進んで行った。
 皺だらけの案内人は幾多のわかりにくい小径を通らせて、ついにあるドアをひらくと、木の葉がちらちらと風にゆらいで、日光が葉がくれにちらちらと輝いているのが見えた。ジョヴァンニは更に進んで、隠れた入り口の上を蔽っている灌木の蔓《つる》がからみつくのを押しのけて、ラッパチーニ博士の庭の広場にある自分の窓の下に立った。
 われわれはしばしば経験することであるが、不可能と思うようなことが起こったり、今まで夢のように思っていたことが実際にあらわれたりすると、歓楽または苦痛を予想してほとんど夢中になるような場合でも、かえって落ち着きが出て、冷やかなるまでに大胆になり得るものである。運命はかくのごとくわれわれにさからうことを喜ぶ。こういう場合には、情熱が時を得顔《えがお》にのさばり出て、それがちょうどいい工合《ぐあい》に事件と調和するときには、いつまでもその事件の蔭にとどこおっているものである。
 今のジョヴァンニは、あたかもそういう状態に置かれてあった。彼の脈搏《みゃくはく》は毎日熱い血潮で波打っていた。彼はベアトリーチェに逢って、彼女を美しく照らす東洋的な日光を浴びながら、この庭で彼女と向かい合って立ち、彼女の顔をあくまでも眺めることによって、彼女の生活の謎になっている秘密をつかもうと、出来そうもないことを考えていた。しかも今や彼の胸には、不思議な、時ならぬ平静が湧いていた。彼はベアトリーチェか、またはその父がそこらにいるかと思って、庭のあたりを見まわしたが、まったく自分ひとりであるのを知ると、さらに植物の批評的観察をはじめた。
 ある植物――否《いな》、すべての植物の姿態が彼には不満であった。その絢爛《けんらん》なることもあまりに強烈で、情熱的で、ほとんど不自然と思われるほどであった。たとえば、ひとりで森の中をさまよっている人が、あたかもその茂みの中からこの世のものとも思われぬ顔が現われて、じろりと睨《にら》まれた時のように、その不気味な姿に驚かされない灌木はほとんどなかった。また、あるものはいろいろの科に属する植物を混合して作り出したかと思われるような、人工的の形状で、感じやすい本能を刺戟した。それはもはや神の創造したものではなく、単に人間がその美を下手に模倣して、堕落した考えによって作りあげたものに過ぎなかった。これらはおそらく一、二の実験の結果、個個《ここ》の植物を混合して、この庭の全植物と異った、不思議な性質をそなえたものに作り上げることにおいて成功したのであろう。ジョヴァンニはただ二、三の植物を集めてみたが、それは彼が有毒植物ということを、かねて熟知している種類のものであった。
 こんな考察にふけっているとき、彼はふと衣《きぬ》ずれの音を聞いた。ふりかえって見ると、それはベアトリーチェが、彫刻した入り口の下から現われ出たのであった。

       

 ジョヴァンニはこの際いかなる態度をとるべきものか。庭園に闖入《ちんにゅう》した申しわけをすべきものかどうか。また、みずから望んだことではなくても、少なくともラッパチーニとその娘には無断でここへ立ち入ったことを自認すべきものかどうか。そんなことは別に考えていなかったので、その瞬間すこしくあわてたが、ベアトリーチェの態度を見るにつけて、彼の心はやや落ち着いた。もっとも、誰の案内でここにはいることを許されたかということになれば、なおそこに一種の不安がないでもなかった。彼女は小径《こみち》を軽く歩んで来て、こわれた噴水のほとりで彼に出逢って、さすがに驚いたような顔をしていたが、また、その顔は親切な愉快な表情に輝いていた。
「あなたは花の鑑識家でございますね」と、ベアトリーチェは彼が窓から投げてやった花束を指して微笑《ほほえ》みながら言った。「それですから、父の集めた珍しい花に誘惑されて、もっと近寄って見たいとお思いになるのも不思議はありません。もし父がここにおりましたら、自然こういう灌木の性質や習慣などについて、いろいろな不思議なおもしろいことをお話し申し上げることが出来ましょうに……。父はそういう研究に一生涯をついやしました。そうして、この庭が父の世界なのでございます」
「あなたもそうでしょう」と、ジョヴァンニは言った。「世間の評判によると、あなたもたくさんの花やいい匂いについて、ずいぶんご造詣《ぞうけい》が深いそうではありませんか。いかがです、わたしの先生になって下さいませんか。そうすると、わたしはラッパチーニ先生の教えを受けるよりも、もっと熱心な学生になるのですが……」
「そんないい加減な噂があるのでしょうか」と、ベアトリーチェは音楽的な愉快な笑い方をして訊《き》いた。「わたくしが父に似て植物学に通じているなどと、世間では言っておりますか。まあ、冗談でしょう。わたくしはこの花のなかに育ちましたけれど、色と匂いのほかには、なんにも存じませんのです。その貧弱な知識さえも時どきに失《な》くなってしまうように思うことがあります。ここにはたくさんの花があって、あまりにけばけばしいので、それを見るとわたくしはなんだか忌《いま》いましくなって来ます。しかしあなた、こうした学術に関するわたくしの話は、どうぞ信用して下さらないように……。あなたのご自分の眼でご覧になることのほかは、わたくしの言うことなどはなんにもご信用なさらないで下さい」
「わたしは自分の眼で見たものをすべて信じなければならないのですか」と、ジョヴァンニは以前の光景を思い出して逡巡《しりごみ》しながら、声をとがらして訊いた。「いいえ、あなたはわたくしに求めなさ過ぎます。どうぞ、あなたの口唇《くちびる》からもれること以外は信じるなと言って下さい」
 ベアトリーチェは彼の言うことを理解したように見えた。彼女の頬は真紅《まっか》になった。しかも彼女はジョヴァンニの顔をじっと眺めて、彼が不安らしい疑惑の眼をもって見ているのに対して、さながら女王のような傲慢《ごうまん》をもって見返した。
「では、そう申しましょう。あなたがわたくしのことをどうお考えになっていたとしても、それは忘れて下さい。たとい外部の感覚は本当であっても、その本質において相違しているところがあるかもしれません。けれども、ベアトリーチェ・ラッパチーニのくちびるから出る言葉は、心の奥底から出る真実の言葉ですから、あなたはそれを信じて下すってもよろしいのです」
 彼女の容貌には熱誠が輝いていた。その熱誠は真実そのものの光りのようにジョヴァンニの意識の上にも輝いた。しかし、彼女がそれを語っている間、その周囲の空気のうちには、消えやすくはあるが豊かないい匂いがただよっていたので、この青年はなんとも知れぬ反感から、努めてその空気を吸わないようにしていた。
 その匂いは花の香りであろう。しかも、彼女の言葉をさながら胸の奥にたくわえてあったかのように、かくも不思議の豊富にしたのは、ベアトリーチェの呼吸であろうか。一種の臆病心は影のようにジョヴァンニの胸から飛び去ってしまった。彼は美しい娘の眼を通して、水晶のように透きとおったその魂を見たように思って、もはやなんの疑惑も恐怖も感じなかった。
 ベアトリーチェの態度にあらわれていた情熱の色は消えて、彼女は快活になった。そうして、孤島の少女が文明国から来た航海者と談話をまじえて感ずるような純な歓びが、この青年との会合によって彼女に新しく湧き出したように思われた。
 明らかに彼女の生涯の経験は、その庭園内に限られていた。彼女は日光や夏の雲のような、単純な事物について話した。また、都会のことや、ジョヴァンニの遠い家や、その友人、母親、姉妹《きょうだい》などについてたずねた。その質問はまったく浮世離れのした、流行などということはまったく掛け離れたものであったので、ジョヴァンニは赤ん坊に話して聞かせるような調子で答えた。
 彼女は今や初めて日光を仰いだ新しい小川が、その胸にうつる天地の反映に驚異を感じているような態度で、彼の前にその心を打ち明けた。また、深い水源《みなもと》からはいろいろの考えが湧き出して、あたかもダイヤモンドやルビーがその泉の泡の中からでも光り輝くように、宝石のひかりを持った空想が湧き出した。
 青年の心には折りおりに懐疑の念がひらめいた。彼は兄妹《きょうだい》のように話をまじえて、彼女を人間らしく、乙女《おとめ》らしく思わせようとするようなある者と、相並んで歩いているのではないかと思った。その人間には怖ろしい性質のあらわれるのを彼は実際に目撃しているのであって、その恐怖の色を理想化しているのではないかと思った。しかもこうした考えはほんの一時的のもので、彼女の非常に真実なる性格のほうは、容易に彼を親しませるようになったのである。
 こういう自由な交際をして、かれらは庭じゅうをさまよい歩いた。並木のあいだをいくたびも廻り歩いたのちに、こわれた噴水のほとりに来ると、そのそばにはめざましい灌木があって、美しい花が今を盛りと咲き誇っていた。その灌木からは、ベアトリーチェの呼吸《いき》から出るのと同じような一種の匂いが散っていたが、それは比較にならないほどにいっそう強烈なものであった。彼女の眼がこの灌木に落ちたとき、ジョヴァンニは彼女の心臓が急に激しい鼓動を始めたらしく、苦しそうにその胸を片手でおさえるのを見た。
「わたしは今までに初めておまえのことを忘れていたわ」と、彼女は灌木に囁《ささや》きかけた。
「わたしが大胆にあなたの足もとへ投げた花束の代りに、あなたはこの生きた宝の一つをやろうと約束なすったのを覚えています。今日お目にかかった記念に、今それを取らせて下さい」と、ジョヴァンニは言った。
 彼は灌木の方へ一歩進んで手をのばすと、ベアトリーチェは彼の心臓を刃《やいば》でつらぬくような鋭い叫び声をあげて駈け寄って来た。彼女は男の手をつかんで、かよわいからだに全力をこめて引き戻したのである。ジョヴァンニは彼女にさわられると、全身の繊維が突き刺されるように感じた。
「それにふれてはいけません。あなたの命がありません。それは恐ろしいものです」と、彼女は苦悩の声を張りあげて叫んだ。
 そう言ったかと思うと、彼女は顔をおおいながら男のそばを離れて、彫刻のある入り口の下に逃げ込んでしまった。ジョヴァンニはそのうしろ姿を見送ると、そこには、ラッパチーニ博士の痩せ衰えた姿と蒼《あお》ざめた魂とがあった。どのくらいの時間かはわからないが、彼は入り口の蔭にあってこの光景を眺めていたのであった。

 ジョヴァンニは自分の部屋にただひとりとなるやいなや、初めて彼女を見たとき以来、ついに消え失せないありたけの魅力と、それに今ではまた、女性らしい優しい温情に包まれたベアトリーチェの姿が、彼の情熱的な瞑想のうちによみがえってきた。彼女は人間的であった。彼女はすべての優しさと、女らしい性質とを賦与《ふよ》されていた。彼女は最も崇拝にあたいする女性であった。彼女は確かに高尚な勇壮な愛を持つことができた。彼がこれまで彼女の身体および人格のいちじるしい特徴と考えていたいろいろの特性は、今や忘れられてしまったのか。あるいは巧妙なる情熱的詭弁によって魔術の金冠のうちに移されてしまったのか。彼はベアトリーチェをますます賞讃すべきものとし、ますます比類なきものとした。これまで醜《みにく》く見えていたすべてのものが、今はことごとく美しく見えた。もしまた、かかる変化があり得ないとしても、醜いものはひそかに忍び出て、昼間は完全に意識することの出来ないような薄暗い場所にむらがる漠然とした考えのうちに影をひそめてしまった。
 こうして、ジョヴァンニはその一夜を過ごしたのである。彼はラッパチーニの庭を夢みて、あかつきがその庭に眠っている花をよび醒ますまでは、安らかに眠ることができなかった。
 時が来ると日は昇って、青年のまぶたにその光りを投げた。彼は苦しそうに眼をさました。まったく醒めたとき、彼は右の手に火傷《やけど》をしたような、ちくちくした痛みを感じた。それは彼が宝石のような花を一つ取ろうとした刹那に、ベアトリーチェに握られたその手であった。手の裏には、四本の指の痕《あと》のような紫の痕があって、拳《こぶし》の上には細い拇指《おやゆび》の痕らしいものもあった。
 愛はいかに強きことよ。――たといそれが想像のうちにのみ栄えて、心の奥底までは揺り動かさないような、うわべばかりの贋《まが》いものであったとしても――薄い霞のように消えてゆく最後の瞬間までも、いかに強くその信念を持続することよ。ジョヴァンニは自分の手にハンカチーフを巻いて、どんな禍《わざわ》いが起こって来るかと憂いたが、ベアトリーチェのことを思うと、彼はすぐにその痛みを忘れてしまったのである。
 第一の会合の後、第二の会合は実に運命ともいうべき避けがたいものであった。それが第三回、第四回とたびかさなるにつれて、庭園におけるベアトリーチェとの会合は、もはやジョヴァンニの日常生活における偶然の出来事ではなくなって、その生活の全部であった。彼がひとりでいる時は、嬉しい逢う瀬の予想と回想とにふけっていた。
 ラッパチーニの娘もやはりそれと同じことであった。彼女は青年の姿のあらわれるのを待ちかねて、そのそばへ飛んで行った。彼女は彼が赤ん坊時代からの親しい友達で、今でもそうであるかのように、なんの遠慮もなしに大胆に振舞った。もし何かの場合で、まれに約束の時間までに彼が来ないときは、彼女は窓の下に立って、室内にいる彼の心に反響するような甘い調子で呼びかけた。
「ジョヴァンニ……。ジョヴァンニ……。何をぐずぐずしているの。降りていらっしゃいよ」
 それを聞くと、彼は急いで飛び出して、毒のあるエデンの花園に降りて来るのであった。
 これほどの親しい間柄であるにもかかわらず、ベアトリーチェの態度には、なお打ち解けがたい点があった。彼女はいつも行儀のいい態度をとっているので、それを破ろうという考えが男の想像のうちには起きないほどであった。すべての外面上の事柄から観察すると、かれらは確かに相愛の仲であった。かれらは路《みち》ばたでささやくには、あまりに神聖であるかのように、たがいの秘密を心から心へと眼で運んだ。かれらの心が永く秘められていた火焔《ほのお》の舌のように、言葉となってあらわれ出るときには、情熱の燃ゆるがままに恋を語ることさえもあった。それでも接吻や握手や、または恋愛が要求し神聖視するところの軽い抱擁さえも試みたことはなかった。彼は彼女の輝いたちぢれ毛のひと筋にも、手をふれたことはなかった。彼の前で彼女の着物は微風に動かされることさえもなかった。それほどにかれらの間には、肉体的の障壁がいちじるしかった。
 まれに男がこの限界を超えるような誘惑を受けるように思われた時には、ベアトリーチェは非常に悲しそうな、また非常に厳格な態度になって、身を顫《ふる》わせて遠く離れるような様子を見せた。そうして、彼を近づけないために、なんにも口をきかないほどであった。こんな時には、彼は心の底から湧き出て来て、じっと彼の顔を眺めている、不気味な恐ろしい疑惑の念におどろかされるので、その恋愛は朝の靄《もや》のように薄れていって、その疑惑のみがあとに残った。しかも瞬間の暗い影のあとに、ベアトリーチェの顔がふたたび輝いた時には、彼がそれほどの恐怖をもって眺めた不思議な人物とはすっかり変わっていた。彼が知っている限りでは、彼女は確かに美しい初心《うぶ》な乙女《おとめ》であった。
 ジョヴァンニが曩《さき》にバグリオーニ教授に逢ってからは、かなりに時日が過ぎた。ある朝、彼は思いがけなく、この教授の訪問を受けて不快に思った。彼はこの数週間、教授のことなどを思い出してもみなかったのみならず、いっそいつまでも忘れていたかった。彼は長く打ちつづく刺戟に疲れてはいたが、自分の現在の感激状態に心から同情してくれる人でなければ逢いたくなかった。しかしこんな同情は、バグリオーニ教授に期待することは出来なかった。教授はしばらくの間、市中のことや大学のことなどについて噂ばなしをしたのちに、ほかの話題に移って行った。
「僕は、この頃、ある古典《クラシック》的な著者のものを読んでいるが、その中で非常に興味のある物語を見つけたのだ」と、彼は言った。「君もあるいは思い出すかもしれないが、それはあるインドの皇子の話だ。彼はアレキサンダー大帝に一人の美女を贈った。彼女はあかつきのように愛らしく、夕暮れのように美しかったが、非常に他人と異っているのは、その息がペルシャの薔薇の花園よりもなお芳《かぐわ》しい、一種の馥郁《ふくいく》たる香気を帯びていることであった。アレキサンダーは、若い征服者によくありがちなことであるが、この美しい異国の女をひと目見るとたちまちに恋におちてしまった。しかも偶然その場に居合わせたある賢い医者が彼女に関する恐ろしい秘密を見破ったのだ」
「それはどういうことだったのですか」と、ジョヴァンニは教授の眼を避けるように、伏目《ふしめ》がちに訊いた。
 バグリオーニは言葉を強めて語りつづけた。
「この美しい女は、生まれ落ちるときから毒薬で育てられて来たのだ。そこで、彼女の本質には毒が沁み込んで、そのからだは最もはなはだしい有毒物となった。つまり、毒薬が彼女の生命の要素になってしまったのだ。その毒素の匂いを彼女は空中に吹き出すのであるから、彼女の愛は毒薬であった――彼女の抱擁は死であった。まあこういうことだが、なんと君、実に不思議なおどろくべき物語ではないか」
「子供だましのような話ではありませんか」と、ジョヴァンニはいらいらしたように椅子から起《た》ちあがって言った。「尊敬すべきあなたが、もっとまじめな研究もありましょうに、そんなばかばかしい物語をお望みになるひまがあるとは、おどろきましたね」
「時に君、この部屋には何か不思議な匂いがするね」と、教授は不安そうにあたりを見まわしながら言った。「君の手套《てぶくろ》の匂いかね。幽《かす》かながらもいい匂いだ。しかし、けっして心持ちのいい匂いではないね。こんな匂いに長くひたっていると、僕などは気分が悪くなる。花の匂いのようでもあるが、この部屋には花はないね」
 教授の話を聴きながら、ジョヴァンニは蒼《あお》くなって答えた。
「いいえ、そんな匂いなどはしません。それはあなたの心の迷いです。匂いというものは、感覚的なものと精神的なものとを一緒にした一種の要素ですから、時どき、こういうふうにわれわれは欺《だま》されやすいのです。ある匂いのことを思い出すと、まったくそこにないものでも実際あるように思い誤まりやすいものですからね」
 バグリオーニは言った。
「そうだ。しかし僕の想像は確実だから、そんな悪戯《いたずら》をすることはめったにない。もし僕が何かの匂いを思いうかべるとしても、僕の指にしみ込んでいる売薬の悪い匂いだろうよ。噂によると畏友ラッパチーニは、アラビヤの薬よりも更にいい匂いをもって、薬に味をつけるそうだ。美しい博学のベアトリーチェも、きっと父と同様に、乙女《おとめ》の息のようないい匂いのする薬を、患者にあたえることだろう。それを飲む者こそ災難だ」
 ジョヴァンニの顔には、いろいろな感情の争いをかくすことが出来なかった。教授が、清く優しいラッパチーニの娘を指して言った言葉の調子が、彼の心に忌《いや》な感じをあたえた。しかも自分とはまるで反対の見方をしている教授の暗示が、あたかも百千の鬼が歯をむき出して彼を笑っているような、暗い疑惑を誘い出したのである。彼は努めてその疑いをおさえながら、ほんとうに恋人を信ずるの心をもって、バグリオーニに答えた。
「教授。あなたは父の友人でした。それですから、たぶんその息子にも友情をもって接しようというおつもりなのでしょう。わたしはあなたに対して心から敬服しているのです。しかしわれわれには、口にしてはならない話題があるということを、どうか考えていただきたいのです。あなたはベアトリーチェをご存じではありません。それがために間違ったご推測をなすっては困ります。彼女の性格に対して、軽慮な失礼な言葉をお用いになるのは、彼女を冒涜《ぼうとく》するというものです」
「ジョヴァンニ。憐れむべきジョヴァンニ」と、教授は冷静な憐愍《れんびん》の表情を浮かべながら答えた。「僕はこの可憐《かれん》な娘のことについて、君よりも、ずっとよく知っている。これから君にむかって、毒殺者ラッパチーニと、その有毒の娘とに関する事実を話して聞かせよう。そうだ、有毒者ではあるが、彼女は美しいには美しいね。まあ、聴きたまえ。たとい君が腹を立てて、僕の白髪《しらが》を乱暴にかきむしっても、僕はけっして黙らない。そのインドの女に関する昔の物語は、ラッパチーニの深い恐ろしい学術によって、美しいベアトリーチェのからだに真実となってあらわれたのだ」
 ジョヴァンニはうめき声を立てて彼の顔をおおうと、バグリオーニは続けて言った。
「彼女の父はこの学術に対して、狂的というほどに熱心のあまり、わが子をその犠牲とするに躊躇しなかったのだ。公平にいえば、彼は蒸溜器をもって彼自身の心を蒸発してしまったかと思われるほど、学術には忠実な人間であるのだ。そこで、君の運命はどうなるかという問題であるが……疑いもなく、君はある新しい実験の材料として選ばれたのだ。おそらくその結果は死であろう。いや、もっと恐ろしい運命かもしれない。ラッパチーニは自分の眼の前に、学術上の興味を惹《ひ》くものがあれば、いかなるものでもちっとも躊躇しないのだ」
「それは夢だ。たしかに夢だ」と、ジョヴァンニは小さい声でつぶやいた。
 教授は続けて言った。
「けれども、君、楽観したまえ。まだ今のうちならば助かるのだ。たぶんわれわれは彼女が父の狂熱によって失われている普通の性質を、悲惨なる娘のために取り戻してやれると思うのだ。この小さな銀の花瓶を見たまえ。これは有名なベンヴェニュート・チェリーニの手に成ったもので、イタリーで最も美しい婦人に愛の贈り物としても恥かしくないものだ。殊《こと》にこの中にはいっているのはまたとない尊いもので、この解毒剤を一滴でも飲めば、どんな劇薬でも無害になるのだ。ラッパチーニの毒薬に対しても、十分の効力あることは疑いない。この尊い薬を入れた花瓶を、君のベアトリーチェに贈りたまえ。そうして、確実の希望をもってその結果を待ちたまえ」
 バグリオーニは精巧な細工《さいく》をほどこした小さい銀の花瓶を、テーブルの上に置いて出て行った。彼は自分の言ったことが青年の心の上にいい効果をあたえることを望んだ。
「まだ今のうちならば、ラッパチーニをさえぎることが出来るだろう」と、彼は階段を降りながら、独りでほくそえんだ。「彼について本当のことを白状すれば、彼はおどろくべき男だ――実に不思議な男だ。しかしその実行の方法を見ると、つまらない藪《やぶ》医者だ。古来の医者のよい法則を尊ぶわれわれには我慢のならないことだ」

       

 ジョヴァンニがベアトリーチェと交際している間、前にも言ったように、彼はときどきに彼女の性格について暗い疑いの影がさした。それでも彼はどこまでも彼女を純な自然な、最も愛情に富んだ、偽りのない女性であると思っていたので、今かのバグリオーニ教授の主張するがごときものの姿は、彼自身の本来の考えとは一致せず、はなはだ不思議な、信じ難いもののように思われた。
 実際この美しい娘を初めて見たときには、忌《いま》わしい思い出があった。彼女がさわるとたちまちに凋《しお》れた花束のことや、彼女の息の匂いのほかにはなんら明らかな媒介物もなしに、日光のかがやく空気のうちで死んでいった昆虫のことや、それらは今でもまったく忘れることは出来なかったが、こういう出来事は彼女の性格の清らかな光りのうちに溶《と》けこんで、もはや、事実としての効力を失い、いかなる感情が事実を証明しようとしても、かえってそれを誤まれる妄想と認めるようになっていた。
 世の中にはわれわれが眼で見、指でふれるものよりも、さらに真実で、さらに実際的なものがある。そういう都合のいい論拠のもとに、ジョヴァンニはベアトリーチェを信頼した。それは彼の深い莫大な信念からというよりも、むしろ彼女の高潔なる特性による必然的の力に由来しているのであったが、今や彼の精神は、これまで情熱に心酔して登りつめていた高所に踏みとどまることを許さなくなった。彼はひざまずいて世俗的な疑惑の前に降伏[#「伏」は底本では「状」]し、それがためにベアトリーチェに対する純潔な心象をけがした。彼女を見限ったというのではないが、彼は信じられなくなったのである。
 彼は一度それを試みれば、すべてにおいて彼を満足させるような、ある断乎たる試験を始めようと決心した。それは、ある怪異な魂なくしてはほとんど存在するとは思われないような恐ろしい特性が、はたして彼女の体質のうちにひそんでいるかどうかということを試験することであった。遠方から眺めているのならば、蜥蜴《とかげ》や、昆虫や、花について、彼の眼は彼をあざむいたかも知れない。しかも、もしベアトリーチェがわずか二、三歩を離れたところに、新しい生きいきとした花を手にして現われたのを見たとすれば、もはやその上に疑いをいれる余地《よち》はなくなるであろう。こう考えたので、彼は急いで花屋へ行って、まだ朝露のかがやいている花束を一つ買った。
 今は彼が毎日ベアトリーチェに逢う定刻であった。庭に降りてゆく前に、彼は自分の姿を鏡にうつして見ることを忘れなかった。――それは美しい青年にありがちな虚栄心からでもあり、かつは情熱の燃ゆる瞬間にあらわれる一種の浅薄な感情と、虚偽な性格との表象とも言うべきであった。彼は鏡をじっと眺めた。彼の容貌に、こんなにも豊かな美しさは、今までにけっして見られなかった。その眼にも今までこんな快活の光りはなかった。その頬にも今までこんな旺盛な生命の色が燃えていなかった。
「少なくとも彼女の毒は、まだおれの身体には流れ込んでいないのだ。おれは花ではないのだから、彼女に握られても死ぬようなことはないのだ」と、彼は思った。
 彼はさっきから手に持っていた花束に眼をそそいだ。そうして、その露にぬれた花がもう萎《しお》れかかっているのを見たとき、なんとも言われない恐怖の戦慄が彼の全身をめぐった。その花は、ついきのうまでは生きいきとして美しい姿を見せていたのである。
 ジョヴァンニは色を失って、大理石のように白くなった。かれは鏡の前に突っ立って、何か怖ろしいものの姿でも見るように、彼自身の影をながめた。彼は部屋じゅうにみなぎっているように思われる匂いについて、バグリオーニ教授の言ったことを思い出した。自分の呼吸には、毒気が含まれているに違いない。彼は身を慄《ふる》わした。――自分のからだを見て顫《ふる》えた。
 やがて我れにかえって、彼は物珍らしそうに一匹の蜘蛛《くも》を眺め始めた。蜘蛛はその部屋の古風な蛇腹《じゃばら》から行きつ戻りつして、巧みに糸を織りまぜながら、いそがしそうに巣を作っていた。それは古い天井からいつもぶらりと下がるほどに強い活溌な蜘蛛であった。
 ジョヴァンニはその昆虫に近寄って、深い長い息を吹きかけると、蜘蛛は急にその仕事をやめた。その巣は、この小さい職人のからだに起こっている戦慄のためにふるえた。ジョヴァンニは更にいっそう深く、いっそう長い息を吹きかけた。彼は心から湧いて来る毒どくしい感情に満たされた。彼は悪意でそんなことをしているのか、単に自棄《やけ》でそんなことをしているのか、自分にも分からなかった。蜘蛛はその脚を苦しそうに痙攣させた後、窓の先に死んでぶら下がった。
「呪われたか。おまえの息ひとつでこの昆虫が死ぬほどに、おまえは有毒になったのか」と、ジョヴァンニは小声で自分に言った。
 その瞬間に、庭の方から豊かな優しい声がきこえてきた。
「ジョヴァンニ……。ジョヴァンニ……。もう約束の時間が過ぎているではありませんか。何をぐずぐずしているのです。早く降りていらっしゃい」
 ジョヴァンニは再びつぶやいた。
「そうだ。おれの息で殺されない生き物はあの女だけだ。いっそ殺すことが出来ればいいのに……」
 彼は駈け降りて、直ぐにベアトリーチェの輝かしい優しい眼の前に立った。
 彼は憤怒《ふんぬ》と失望に熱狂して、ひと睨みで彼女を萎縮させてやろうと思いつめていたのであるが、さて彼女の実際の姿に接すると、すぐに振り切ってしまうにはあまりに強い魅力があった。彼はしばしば彼を宗教的冷静に導いたところの、彼女の美妙な慈悲ぶかい力を思い出した。純粋な清い泉がその底から透明の姿を、彼の心眼に明らかにうつし出したとき、彼女の胸から神聖な熱情のほとばしり出たことを思い出した。彼はすべてのこの醜《みにく》い秘密は、世俗的の錯覚に過ぎないことを考えた。いかなる悪霧が彼女の周囲に立ちこめているように思われても、実際のベアトリーチェは神聖な天使《エンジェル》であることを考えた。彼はもちろん、それほどまでに信じ切ることは出来なかったが、それでも彼女の姿は彼に対して、まるでその魅力を失うことはなかった。
 ジョヴァンニの憤怒はやや鎮まったが、不機嫌な冷淡な態度はおおわれなかった。ベアトリーチェは敏速な霊感で、彼と自分との間には越えることの出来ない暗い溝《みぞ》が横たわっていることを早くも覚《さと》った。二人は悲しそうに黙って、一緒に歩いた。大理石の噴水のほとりまで来ると、その中央には宝石のような花をつけた灌木が生えていた。ジョヴァンニはあたかも食欲をそそられるように、一生懸命にその花の匂いを吸って喜んで、自分ながらそれに気がついて驚いた。
「ベアトリーチェ。この灌木はどこから持って来たのですか」と、彼は突然に訊いた。
「父が初めて作りました」と、彼女は簡単に答えた。
「初めて作った……。作り出したのですか……」と、ジョヴァンニは繰りかえして言った。「ベアトリーチェ。それはいったいどういうことですか」
 ベアトリーチェは答えた。
「父は恐ろしいほどに自然の秘密に通じた人でした。わたくしが初めてこの世界に生まれ出たと同じ時間に、この木が土の中から芽を出して来たのです。わたくしはただ世間並の子供ですが、この木は父の学問、父の知識の子供です。その木にお近づきになってはいけません」
 ジョヴァンニがその灌木にだんだん近づいて行くのを見て、彼女ははらはらするように言いつづけた。
「その木は、あなたがほとんど夢にも考えていないような、性質を持っています。わたくしはその木と一緒に育って、その呼吸《いき》で養われて来たのです。その木とわたくしとは、姉妹《きょうだい》であったのです。わたくしは人間を愛すると同じように、その木を愛して来ました。……まあ、あなたは、それをお疑いになりませんでしたか。……そこには恐ろしい運命があったのです」
 このとき、ジョヴァンニは彼女を見て、非常に暗い渋面《じゅうめん》を作ったので、ベアトリーチェは吐息をついてふるえたが、男の優しい心を信じているので、彼女は更に気を取り直した。そうして、たとい一瞬間でも彼を疑ったことを恥かしく思った。
「そこには恐ろしい運命があったのです」と、彼女はまた言った。「父が、恐ろしいほどに学問を愛した結果、人間のあらゆる運命からわたくしを引き離してしまったのです。それでも神様はとうとうあなたをよこして下さいました。わたくしの大事の大事のジョヴァンニ……。あわれなベアトリーチェは、それまでどんなに寂しかったでしょう」
「それが苦しい運命だったのですか」と、ジョヴァンニは彼女を凝視《みつ》めながら訊いた。
「ほんの近ごろになって、どんなに苦しい運命であるかを知りました。ええ、今までわたくしの心は感覚を失っていましたので、別になんとも思わなかったのです」
「ちくしょう!」と、彼は毒どくしい侮蔑と憤怒とに燃えながら叫んだ。「おまえは、自分の孤独にたえかねて、僕も同じようにすべての温かい人生から引き離して、口でも言えないような怖ろしい世界に引き込もうとしたのだな」
「ジョヴァンニ……」
 ベアトリーチェはその大きい輝いた眼を男の顔に向けて言った。彼の言葉の力は相手の心に達するまでにはいたらないで、彼女はただ雷《らい》にでも撃たれたように感じたばかりであった。
 ジョヴァンニは、もう我れを忘れて、怒りに任せて罵《ののし》った。
「そうだ、そうだ。毒婦! おまえが、それをしたのだ。おまえはおれを呪い倒したのだ。おれの血管を毒薬で満たしたのも、おまえの仕業《しわざ》だ。おまえはおれを自分と同じような、憎むべき厭うべき死人同然な醜《みにく》い人間にしてしまったのだ。世にも不思議な、いまわしい怪物にしてしまったのだ。さあ、幸いにわれわれの呼吸が他のものに対すると同じように、われわれの命にも関《かか》わるものならば、限りない憎悪の接吻を一度こころみて、たがいに死んでしまおうではないか」
「何がわたくしの身にふりかかって来たというのでしょう、聖《セント》マリア! どうぞわたくしをあわれとおぼしめしてください。……この哀れな失恋の子を……」
 ベアトリーチェは、その心から湧き出る低いうめき声で言った。
「おまえは……。おまえは祈っているのだね」と、ジョヴァンニはまだ同じような悪魔的の侮蔑をもって叫んだ。「おまえのくちびるから出て来るその祈りは、空気を〈死〉でけがしてしまうのだ。そうだ、そうだ、一緒に祈ろう。一緒に教会へ行って、入り口の聖水に指をひたそう。おれたちのあとから来た者は、みんなその毒のために死んでしまうだろう。空中に十字を切る真似をしよう。そうすると、神聖なシンボルの真似をして、外部に呪詛《じゅそ》をまき散らすことになるだろうよ」
「ジョヴァンニ……」
 ベアトリーチェは静かに言った。彼女は悲しみのあまりに、怒ることさえも出来なかったのである。
「あなたはなぜそんな恐ろしい言葉のうちに、わたくしと一緒に自分自身までも引き入れようとなさるのです。なるほど、わたくしはあなたのおっしゃる通りの恐ろしい人間です。しかし、あなたは何でもないではありませんか。この花園から出て、あなたと同じような人間に立ちまじわるのを見て、ほかの人たちが身ぶるいする、わたくしのような者は問題になさいますな。あわれなベアトリーチェのような怪物《モンスター》が、かつては地の上に這っていたということを、どうぞ忘れてしまって下さい」
「おまえは、なんにも知らない振りをしようとするのか」と、ジョヴァンニは眉をひそめながら彼女を見た。「これを見ろ。この力はまぎれもないラッパチーニの娘から得たのだぞ」
 そこには夏虫のひと群れが、命にかかわる花園の花の香にひきつけられて、食物を求めながら、空中を飛びまわって、ジョヴァンニの頭のまわりに集まった。しばらくのあいだ幾株の灌木の林に惹《ひ》き付けられていたのと同じ力によって、彼の方へ惹きつけられていることが、明らかであった。彼はかれらの間へ息を吹きかけた。そうして、少なくとも二十匹の昆虫が、地上に倒れて死んだときに、彼はベアトリーチェを見かえって、苦《にが》にがしげにほほえんだ。
 ベアトリーチェは叫んだ。
「分かりました、分かりました。それは父の恐ろしい学問です。いいえ、いいえ、ジョヴァンニ……。それはわたくしではなかったのです。けっして、わたくしではありません。わたくしはあなたを愛するあまり、ほんのちっとのあいだ、あなたと一緒にいたいと思っただけです。そうして、ただあなたのお姿を、わたくしの心に残してお別れ申そうと思っていたのです。ジョヴァンニ……。どうぞわたくしを信じてください。たといわたくしのからだは、毒薬で養われていても、心は神様に作られたもので、日にちの糧《かて》として愛を熱望していたのです。けれども、わたくしの父は……父は、学問に対する同情、その恐ろしい同情で、わたくしたちを結びつけてしまったのです。ええもう、どうぞわたくしを蹴とばして下さい、踏みにじって下さい、殺してください。あなたにそんなことを言われては、死ぬことくらいはなんでもありません。けれども……けれども、そんなことをしたのはわたくしではなかったのです。幸福な世界のために、わたくしがそんなことをするものですか」
 ジョヴァンニはその憤怒をくちびるから爆発するがままに任せておいたので、今はもう疲れて鎮まっていた。彼の心のうちには、ベアトリーチェと彼自身とのあいだの密接な、かつ特殊な関係について、悲しい柔らかい感情が湧いてきた。いわば、かれらはまったく孤独の状態に置かれたようなもので、人間がたくさん集まれば集まるほど、ますます孤独となるであろう。もしそうならば、かれらの周囲の人間の沙漠は、この孤立の二人を更にいっそう密接に結合すべきではなかろうか。自分が普通の性質に立ちかえって、ベアトリーチェの手を引いて導くだけの望みがまだ残ってはいないだろうかと、ジョヴァンニは考えるようになった。
 しかもベアトリーチェの深刻なる恋が、ジョヴァンニの激しい悪口によってこれほどに悲しくそこなわれたのちに、この世の結合、この世の幸福があり得るように考えるのは、なんという強《こわ》い、また我儘《わがまま》な卑しい心であろう。いや、こんな望みは、しょせん考えられないことである。彼女は恋に破れたる心をいだいて、現世の境いを苦しく越えなければならない。彼女はその心の痛手を楽園の泉にひたし、または不滅の光りに照らさせて、その悲しみを忘れなければならないのである。
 しかし、ジョヴァンニはそれに気がつかなかった。
「愛するベアトリーチェ……」
 彼女がいつものように近づくことを恐れたにもかかわらず、彼は今や異常なる衝動をもって、彼女に近づいた。
「わたしが最愛のベアトリーチェ。われわれの運命はまだそんなに絶望的なものではありません。ごらんなさい。これは偉い医者から証明された妙薬です。その効能の顕著なことは、実に神《しん》のようだということです。これはあなたの恐ろしいお父さんが、あなたとわたしの身の上にこの禍《わざわ》いをもたらしたものとは、まったく反対の要素から出来ているのです。それは神聖な草から蒸溜して取ったものです。どうです、一緒にこの薬をぐっと嚥《の》んで、おたがいに禍いを浄《きよ》めようではありませんか」
「それをわたしに下さい」
 ベアトリーチェは男が胸から取り出した小さい銀の花瓶を受け取ろうとして、手を伸ばしながら言った。それから、特に力を入れて付け加えた。
 「わたくしが嚥《の》みましょう。けれども、あなたはその結果を待って下さい」
 彼女はバグリオーニの解毒剤をその唇《くち》にあてると、その瞬間にラッパチーニの姿が入り口から現われて、大理石の噴水の方へそろそろと歩いて来た。近づくにしたがって、この蒼ざめた科学者はいかにも勝ち誇ったような態度で、美しい青年と処女《おとめ》とを眺めているように思われた。それはあたかも一つの絵画、または一群の彫像を仕上げるために、全生涯を捧げた芸術家がついに成功して、大いに満足したというような姿であった。
 彼はちょっと立ち停まって、かがんだからだを態《わざ》とぐっと伸ばした。彼はその子供らのために、幸福を祈っている父親のような態度で、かれらの上に両手をひろげたが、それはかれらの生命の流れに毒薬をそそいだ、その手であった。ジョヴァンニはふるえた。ベアトリーチェは神経的に身をふるわした。彼女は片手で胸をおさえた。
 ラッパチーニは言った。
「ベアトリーチェ。おまえはもうこの世の中に、独りぽっちでいなくともいいのだ。おまえの妹分のその灌木から貴い宝の花を一つ取って、おまえの花婿の胸につけるように言ってやれ。それはもう彼にも有害にはならないのだ。わたしの学問の力と、おまえたちふたりへの同情とによって、わたしの誇りと勝利の娘であるおまえと同じように、あの男のからだの組織を変えて、今ではほかの男とは違ったものにしてしまったのだ。それであるから、ほかのすべての者には恐れられても、おたがい同士は安全だ。これから仲よくして世界じゅうを通るがいい」
「お父さま。なぜあなたはこんな悲惨な運命をわたくしたちにお与えになったのですか」
 ベアトリーチェは弱よわしい声で言った。――彼女は静かに話したが、その手はまだその胸をおさえていた。
「悲惨だと……」と、父は叫んだ。「いったいおまえはどういうつもりなのだ。馬鹿な娘だな。おまえは自分に反対すれば、いかなる力も敵を利することが出来ないような、天賦の能力をあたえられたのを、悲惨だと思うのか。最も力の強い者をも、ひと息で打ち破ることが出来るのを、悲惨だというのか。おまえは美しいと同様に、怖ろしいものであることを悲惨だというのか。それならば、おまえはすべての悪事を暴露されても、どうすることも出来えないような、弱い女の境遇のほうが、むしろ優《ま》しだと思うのか」
 娘は地上にひざまずいて、小声で言った。
「わたくしは恐れられるよりも、愛されとうございました。しかし今となっては、そんなことはもうどうでもようございます。お父さま。わたくしはもう……。あなたがわたくしのからだに織り込もうとなすった禍いが夢のように、……この毒のある花の匂いのように、失《な》くなってしまうところへ参ります。エデンの園の花のなかには、わたくしの呼吸《いき》に毒を沁みさせるような花はないでしょう。では、さようなら、ジョヴァンニ……。あなたの憎しみの言葉は、鉛のようにわたくしの心のうちに残っています。それもわたくしが天国へ昇ってしまえば、みんな忘れられるでしょう。おお、あなたの体質には、わたくしの体質のうちにあったよりも、もっとたくさんの毒が最初から含まれていたのではありますまいか」
 彼女の現世の姿は、ラッパチーニの優れた手腕によって、非常に合理的に作られていたので、毒薬が彼女の生命であったと同じように、効能のいちじるしい解毒剤は彼女にとって「死」であった。
 こうして、人間の発明と、それにさからう性質の犠牲となり、かくのごとく誤用された知識の努力に伴う運命の犠牲となって、あわれなるベアトリーチェは、父とジョヴァンニの足もとに仆《たお》れた。
 あたかもそのとき、ピエトロ・バグリオーニ教授は窓から覗いて、勝利と恐怖とを混《こん》じたような調子で叫んだ。彼は雷に撃たれたように驚いている科学者にむかって、大きい声で呼びかけたのである。
「ラッパチーニ……。ラッパチーニ……。これが君の実験の終局か」

底本:「世界怪談名作集 上」河出文庫、河出書房新社
   1987(昭和62)年8月4日初版発行
入力:清十郎
校正:もりみつじゅんじ
2001年10月8日公開
2005年12月2日修正
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