一
実業家深見家の夫人多代子が一月下旬のある夜に、熱海の海岸から投身自殺を遂げたという新聞記事が世間を騒がした。
多代子はことし三十七歳であるが、実際の年よりも余ほど若くみえるといわれるほどの美しい婦人で、種々の婦人事業や貧民救済事業にもほとんど献身的に働いていることは何人《なんぴと》も知っている。その主人公の深見氏もまた実業界において稀に見るの人格者として知られていて、財産もあり、男女二人の子供もあり、家庭もきわめて円満である。彼女になんの不足があって、あるいは又なんの事情があって、突然にかかる横死《おうし》を遂げたのか、それが一種不可解の謎として世間をおどろかしたのであった。したがって、それに就いて種々の臆説が伝えられたが、いずれも文字通りの臆説であって、ほとんど信をおくに足るようなものはなかった。自殺と見せかけて、実は他殺ではないかという疑いもあったが、前後の状況に因《よ》って、それが他殺でないことだけは確かめられた。
その新聞記事があらわれてから半月あまりの後に、わたしは某所で西島君に逢った。彼は若いときから某物産会社の門司支店や大連支店に勤めていて、震災以後東京へ帰って来たのである。その西島君が今度の深見夫人の一件について、こんな怪談めいたことを話した。
あれは日露戦争の前年と覚えている。その頃わたしは門司支店に勤めていて、八月下旬の暑い日の午前に、神戸行きの上り列車に乗っていた。社用でゆうべは広島に一泊して、きょうは早朝に広島駅を出発したのである。ことわって置くが、その頃のわたしはまだ学校を出たばかりの新参者で、二等のお客さまとして堂々と旅行する程の資格をあたえられず、三等列車に乗込んでいたのであった。
鉄道がまだ国有にならない時代で、神戸―下関間は山陽鉄道会社の経営に属していた。この鉄道は乗客の待遇に最も注意を払っているというのをもって知られていたので、三等室でも決して乗り心《ごころ》は悪くない。殊に三十五銭の上等弁当のごときは、我れわれのような学生あがりの安月給取りには贅沢《ぜいたく》過ぎるほどの副食物をもって満たされているので、わたしはこの鉄道に乗って往来するごとに、上等弁当を買って食うのを一つの楽しみにしている位であった。そういうわけであるから、三等のお客さまたるをもって満足して、やがて旨《うま》い弁当が食えることを期待しながら揺られてゆくと、ゆうべ遅く寝たのと今日の暑さとで、なんだか薄ら眠くなって来た。
わたしは我れ知らずに小《こ》一時間も眠ったらしい。なにか騒がしいような人声におどろかされて眼をさますと、わたしの車内には一つの事件が出来《しゅったい》していた。車掌が一人の乗客を捉えて何か談判しているのである。他の乗客もみな其の方に眼をあつめていた。中には起《た》ちあがって覗《のぞ》いているのもあった。女客などは蒼い顔をして身をすくめていた。
唯ならぬ車内の様子にいよいよ驚かされて、だんだんその子細《しさい》を聞きただすと、列車はもうFの駅に近づいたので、三、四人の乗客はそろそろと下車の支度をはじめて、その一人が頭の上の網棚から自分の荷物をおろそうとする時に、汽車にゆられて手をはずして、半分おろしかけていた風呂敷包みをほうり出してしまった。幸いに他の乗客にはあたらなかったが、その風呂敷包みが床にどさりと投げ落されたはずみに、結び目がゆるんだとみえて、中の品物がころげ出した。それは何かの缶詰が三つ四つと、大きい唐蜀黍《とうもろこし》五、六本であった。単にそれだけならば別に子細もないのであるが、その唐蜀黍のあいだから一匹の青い蛇が鎌首《かまくび》をもたげたので、他の乗客はおどろいて飛びあがった。女たちは悲鳴をあげて騒いだ。
その騒ぎに車掌もかけ付けて、汽車中へ生き物――殊に蛇などを持ち込んで来た、かの乗客に対して詮議《せんぎ》をはじめたのである。その乗客が農家の人であることは其の服装をみて大抵想像された。彼は四十五、六歳の、いかにも質朴らしい男で、日に焼けている頬をいよいよ赧《あか》らめながら、この不慮の出来事に就いて自分はまったくなんにも知らないと吶《ども》りながらに釈明した。
「乗車券をみせて下さい。」と、車掌は奪うように彼の手から切符を受取って見た。「Kの駅から乗ったのですね。」
「はい。」と、男はひどく恐縮したような態度で答えた。
彼はKの町の近在に住む者で、Fの町から一里ほど距《はな》れたところに親戚があるので、自分の畑から唐蜀黍を取り、Kの町へ出て来て蟹《かに》の缶詰を買い、それらを土産にしてこれから親戚をたずねようとするのであった。勿論、蛇などを持って来る筈《はず》がない。こんな小さな蛇は親戚の村にもたくさんに棲んでいると、彼は言った。
農村の者が農村の親戚を訪問するのに、こんな蛇などをわざわざ手みやげに持って行く筈がない。一尺ぐらいに過ぎない蛇であるから、おそらくその唐蜀黍と一緒にまぎれ込んで来たものであろうとは、誰にも想像されるところである。殊に飛んでもない人騒がせをしたことを、非常に恐縮しているらしい彼のおとなしい態度が諸人の感情をやわらげた。
「そうすると、畑からまぎれ込んだのを、あなたも知らなかったのですね。では、まあ、仕方がない。早く外へ捨てて下さい。」
「はい、はい。」と、男はあやまるように頭を下げた。
「早くして下さい。もう直ぐに停車場へ着きますから。」と、車掌は催促した。
男は農家の人だけに、こんな蛇をなんとも思っていないらしく、無雑作《むぞうさ》にその尾をつかんで窓の外へ投げ出すと、車内の人々は安心したように息をついた。
「どうもまことに相済みません。」と、男は人々にむかって又もや頭を下げた。「どうしてあんな物が這《は》い込んだのか、実に不思議でございます。これからは気をつけます。どうかまあ御勘弁を願います。」
言ううちに、列車はもうFの駅に着いたので、男は又くり返して詫びながら早々に降りてゆくと、それと入れちがいに、この車内へ乗込んで来たのは学生らしい若い男と娘の二人連れで、わたしの向うの空席に腰をおろした。わたしはここで例の弁当を買おうかと思ったが、岡山駅まで待つことにしていると、列車はやがてゆるぎ出した。
「いや、どうも飛んだお茶番でしたね。」と、東京の商人らしい乗客の一人が笑いながら言った。
「蛇となると、小さいのでも気味の好くないもんですよ。」と、隣りにいる一人が答えた。
「まったくあの風呂敷包みがころげ落ちて、唐蜀黍のあいだから蛇の出た時にはぞっ[#「ぞっ」に傍点]としました。」と、その前にいる女も言った。
蛇の噂《うわさ》が一としきり車内を賑わした。あの男は実際なんにも知らないらしい。あの男があんまり恐れ入ってあやまるので、しまいには気の毒になって来たなどという者もあった。新しく乗込んで来た男と娘は、熱心にその話に耳をかたむけているらしかったが、やがて男は小声でわたしに訊《き》いた。
「蛇がどうしたのですか。」
ここでこの男と娘に就いて、すこしく説明して置く必要がある。男は十九か二十歳《はたち》ぐらいで、高等学校の制帽と制服をつけていた。娘は十五、六の女学生らしい風俗で蝦《えび》色の袴《はかま》を穿《は》いていた。その服装と持ち物とを見れば、彼らは暑中休暇で郷里に帰省していて、さらに再び上京するものであることは一と目に覚《さと》られた。かれらが兄妹《きょうだい》であるらしいことも、その顔立ちをみて直ぐに知られたが、取分けて妹は色の白い、眉《まゆ》の優しい、歯並の揃った美しい娘であるのが私の注意をひいた。
問われるままに、わたしはかの青い蛇の一件を物語ると、兄も妹も顔の色を動かした。
「そうして、その蛇はどうしました。」
「駅へ着く前に窓から捨てました。」
「駅へ着く前……。よほど前でしたか。」と、兄はかさねて訊いた。
「いや、捨てると直ぐに駅へ着きました。」
兄は黙って聴いていた。妹の顔色はいよいよ蒼ざめた。若い娘の前で蛇の話などを詳しくしゃべって聞かせたのは、わたしの不注意であったかも知れないと気がついて、もういい加減にその話を打切ろうとすると、兄は執拗《しつこ》く又訊いた。
「その蛇は青いのでしたね。よほど大きいのでしたか。」
「いや、一尺ぐらいでしたろう。」と、わたしは軽く答えた。そうして、その話を避けるように窓の外へ眼をそらした。
わたしが傍《わき》を向いていたのは、せいぜい二分か三分に過ぎなかったが、そのあいだ兄と妹はどう相談をしたのか、網棚の上にあげてある行李《こうり》をおろし始めた。なんだか下車の支度でもするらしいので、私はすこしく不思議に思っていると、やがて列車は次の駅に着いた。その前から二人は席を起って、停車を待ちかねているような風であったが、停まると直ぐに兄はわたしに会釈《えしゃく》した。
「どうも失礼をいたしました。」
妹も無言で会釈して、二人は忙がしそうに下車した。その余りに慌てたような態度が又もやわたしの注意をひいて、窓からかれらの行くえを見送ると、ここは小さい駅であるから乗降りの客も少なく、兄妹《きょうだい》がほとんど駈足で改札口を出てゆく後ろ姿がはっきりと見えた。勿論、なにかの都合で途中下車をしないとも限らないのであるが、くどくも言う通り、余りにもあわただしい二人の様子が何か子細ありげにも思われた。そうして、それがあの蛇の話に何かの関係があるのではないかとも疑われた。それは私ばかりでなく他の乗客にも怪しまれたと見えて、東京の商人は笑いながら私に言った。
「あの娘さんはよっぽど蛇が嫌いらしい。あなたに蛇の話を聞かされて、真っ蒼になってしまいましたね。なんでも兄さんを無理に勧めて、急に降りることになったようです。」
「それで降りたんでしょうか。」
「この箱には蛇が乗っていたというので、急に忌《いや》になったのでしょう。嫌いな人はそんなものですよ。」
それならば他の車室へ引移れば済むことで、わざわざ下車するにも及ぶまいと思いながら、わたしは再び車外へ眼をやると、若い兄妹の姿はもうそこらに見えないで、駅の前の大きい桜に油蝉《あぶらぜみ》が暑そうに啼き続けているばかりであった。
列車がまた進行をはじめると、さっきの車掌がふたたび廻って来た。かの商人は話し好きとみえて車掌の顔をみると直ぐに又話しかけた。
「どうもさっきは驚かされたね、汽車のなかでにょろにょろ這い出されちゃ堪まらないよ。」
「まったく困ります。しかし考えると、少し不思議でもありますよ。」
「なにが不思議で……。」
残暑の強い時節であるのと、帰省の学生らが再び上京するには小一週間ほど早いのとで、列車のなかはさのみ混雑していなかった。現にあの兄妹の起ったあとは空席になっていたので、車掌はそこへ腰をおろした。
「なにが不思議といって……。わたしは一昨年《おととし》の春からこの鉄道にあしかけ三年勤めていますがね、毎年夏になると、蛇の騒ぎが二、三回、多いときには四、五回もあるのです。」
「ここらには蛇が多いのかね。」と、商人は訊いた。
「特に多いという話も聞かないのですが……。」と、車掌はすこし首をかしげながら言った。「それが又不思議で……。その蛇の騒ぎはいつでも広島とFの駅とのあいだに起るのです。そうして、きょうと同じように、乗客自身はなんにも気がつかないでいると、蛇がいつの間にかその荷物のなかに這入り込んでいるのです。ことしももうこれで五回目になるでしょう。わたしも職務ですから、一応はあの人を詮議しましたけれど、肚《はら》の中では又かと思っていました。」
「ふぅむ。そりゃあ不思議だ、まったく不思議だ。」と、商人は仰山《ぎょうさん》らしく顔をしかめて、その首を大きく振った。「そうすると、何か子細がありそうだな。広島とFの町とのあいだに限っているのは不思議だ。」
「まだ不思議なことは、それがいつでも上り列車に限っているのです。」
「いよいよ不思議だ。ねえ、そうじゃありませんか。」と、商人はわたしを見返った。
「不思議ですね。上り列車に限るとは……。」と、私もうなずいた。
「いや、まだあります。」と、車掌も調子に乗ったように説明した。「その蛇を持って来る人は、いつでもKの駅から乗込むのです。そうして、Fの駅へ近づいた時に発見されるのです。きょうもきっとそうだろうと思いながら、その乗車券をあらためて見ると、果たしてKの駅から乗った人でした。」
商人とわたしとは黙って顔を見合せていると、車掌は又言った。
「きょうのように偶然の事故から発見されることもありますが、多くのなかには発見されないで済むこともあるだろうと思われます。そうすると、たくさんの蛇がKの町から来る乗客に付きまとって、Fの町へ乗込むことになるわけです。」
「そう、そう。」と、商人はやや気味悪そうにうなずいた。「どうも判らない。なにか因縁があるのかな。」
「どうも変ですよ。」と、車掌も子細ありげに言った。「なにしろ蛇の騒ぎを起すのは、Kの町から来る人に限るのですからな。」
「その蛇はどこへ行くつもりかな。」と、商人はかんがえた。
「そりゃ判りませんね。」
「判らないのが本当だろうが、なにかFの町の方へ行って祟《たた》るつもりらしい。」と、商人は何もかも見透しているように言った。「きっとFの町の誰かに恨みがあって、ぞろぞろ繋《つな》がって乗込むに相違ない。怪談、怪談、どうも気味がよくないな。」
さっきの兄妹の顔がわたしの眼に浮かんだ。
商人もそれに気がついたように又言い出した。
「そうすると、あの兄妹が蛇の話を聞いて顔の色を変えたのが少しおかしいぞ、あの二人はFの駅から乗ったんだから……。」
「どんな人たちでした。」と、車掌は訊いた。
商人は二人の人相や風俗を説明して、彼らが途中から俄《にわ》かに下車したことを話すと、車掌も耳をすまして聴いていたが、さてそれが何者であるかを覚《さと》り得ないらしく、やがて私たちに会釈して立去った。
二
予定の通りに、わたしは岡山で弁当を買って食った。そうして、その日の夕方に神戸に着いた。そこで社用を済ませて、その晩は一泊して、あくる日の午前の汽車に乗込んで広島まで引っ返した。商売上のことはここで説明する必要もないが、私はその商売の都合で再び神戸へ行かなければならない事になったので、広島に暑苦しい一夜をすごして、その明くる日の午前には又もや神戸行きの列車に乗込んだ。残暑のきびしい折柄、同じところを往ったり来たりするのは可なりに難儀であったが、どうも致し方がない。しかもこの上り列車に乗ることに就いて、わたしは一種の興味を持たないでもなかった。
それは今度の列車にも、Kの町から乗り込む人があって、その人が又もや蛇を伴っているかも知れないということであったが、その期待はまったく外《はず》れてしまった。Kの町から乗った人もあり、Fの町で降りた人もあったが、いずれも平穏無事で、なんの人騒がせをも仕出来《しでか》さずに終ったので、わたしはひそかに失望しながら車外をぼんやり眺めていると、Fの駅の改札口をぬけて、十四、五人の乗客がつづいて出て来た。そのなかにあの学生の兄妹《きょうだい》の顔を見いだした時に、わたしは俄かに胸のおどるのをおぼえた。そうして、かれらがきょうも私の車室へ乗込むことを願っていると、二人はあたかも絲《いと》にひかれるように、わたしの車室へ入り込んで来たので、占めたと思って見ていると、あいにく車内には空席が多かったので、かれらはわたしよりも遠く離れた隅の方の席に腰をおろした。
それでも二人はわたしを見付けて、遠方から黙礼した。わたしも黙礼した。さりとて馴《な》れなれしく其の近所へ席を移すわけにも行かないので、わたしは残念ながら遠目に眺めているほかはなかった。
かれらが今日もここから乗込んだのを見ると、おとといは次の駅でいったん下車して、さらに下り列車に乗りかえてFの町へ引っ返し、きのう一日は自宅にとどまって、きょうの午前に再び出て来たものらしく思われた。かれらの服装も行李もすべて先日の通りであった。私はなお注意して窺うと、兄も妹もその顔色が先日よりも更によくない。殊に妹の顔は著るしく蒼ざめているように見えた。
かれらはKの町から続々乗込んで来る蛇の群れに悩まされているのではないかなどと、私はいろいろの空想をめぐらしながらひそかにその行動を監視していたが、かれらの上に怪しいような点も見いだされなかった。妹は黙って俯向《うつむ》いていた。兄も黙って車外をながめていた。
岡山でわたしは例のごとくに弁当を買った。かの兄妹も買った。その以外に、かれらの行動について私の記憶に残っているようなことはなかった。私はきょうも神戸で降りた。兄妹も下車した。かれらはおそらく新橋行きの列車に乗換えたのであろう。その後のことは勿論わたしに判ろう筈もなかった。
その翌年には日露戦争が始まって、わたしの勤めている門司支店は非常に忙がしかった。それが済むと、すばらしい好景気の時代が来た。明治四十年の四月、わたしは社用を帯びて上京して、約三ヵ月ばかりは東京の本社の方に詰めていることになった。
なにしろ久し振りで東京へ帰って来たのである。時は四月の花盛りで、上野には内国勧業博覧会が開かれている。地方からも見物の団体が続々上京する。天下の春はほとんど東京にあつまっているかと思われるような賑わいのなかに、わたしも愉快な日を送っていた。
しかし遊んでばかりはいられない。わたしは毎日一度はかならず出社する以外に、東京にある親戚や先輩や友人をたずねて、平素の無沙汰ほどきをしなければならないので、働くと遊ぶの暇をみて諸方へ顔出しをすることも怠らなかった。そのあいだに、わたしは江波先生をしばしば訪ねた。
先生は法学博士で、わたしが大学に在学中はいろいろのお世話になったことがある。その住宅は本郷の根津権現に近いところに在って、門を掩《おお》うている桜の大樹が昔ながらに白く咲き乱れているのも嬉しかった。第一回の訪問は四月の第一日曜日であったと記憶しているが、先生も奥さんもみな壮健で、二階の十畳の応接室へ通された。そこは日本の畳の上に絨緞《じゅうたん》を敷いて、椅子やテーブルを列《なら》べてあるのであった。
やがて若い女が茶を運んで来た。奥さんが自身に菓子鉢を持って来た。若い女はすぐに立去ったが、奥さんは先生とわたしに茶をついでくれた。
「あの方はお家《うち》のお嬢さんじゃありませんな。」と、わたしは訊いた。
「娘じゃありません。」と、奥さんは笑いながら答えた。「娘は少し風邪を引いて二、三日前から寝ています。あの人は多代子さんといって、よそから預かっているのです。」
「多代子さん……。もしやあの方は広島県の人じゃありませんか。Fの町の……。」
「ええ。」と、奥さんは先生と顔を見合せた。「よく御存じですね。」
「じゃあ、やっぱりそうでしたか。どうも見たことがあるように思っていました。」
「どこかでお逢いなすったことがあるのですか。」と、奥さんは再び笑いながら訊いた。
「はあ。山陽線の汽車のなかで……。そのときは兄さんらしい人と一緒でした。」
わたしは先年のことを簡単に話した。しかしどんな当り障りがあるかも知れないと思ったので、蛇の一件だけは遠慮してなんにも言わなかった。
「むむ、多代子さんは兄さんと一緒に相違あるまいが……。」と、先生は重い口で私にからかった。「君は誰と一緒に乗っていたかな。多代子さんに賄賂《わいろ》でも使って置かないと、飛んでもないことを素っ破抜かれるぜ。」
奥さんも私も笑い出した。
多代子はFの町の近在の三好という豪農のむすめで、兄の透《とおる》という青年と一緒に上京して、ある女学校に通っている。先生は三好の家と特別の関係があるわけでもないが、ある知人から頼まれて、多代子だけを預かって監督している。先生の家にも多代子と同年の娘があって、おなじ女学校に通っているので、旁々《かたがた》その世話をしてやることになったのである。兄の透はこの近所の植木屋の座敷を借りて、そこから通学している。これだけのことは奥さんの説明によって会得《えとく》することが出来た。多代子はことし十九で、容貌《きりょう》は見る通りに美しく、性質も温順で、学業の成績もよいので、まことに世話甲斐があると先生夫婦も楽しんでいるらしい口ぶりであった。
奥さんが降りて行った後に、先生とわたしは差向いで二時間ほども話した。先生は午飯《ひるめし》を食ってゆけと言われたが、わたしは他に廻るところがあるので、又お邪魔に出ますと言って二階を降りると、奥さんは多代子を連れて出て来た。
「もうお帰りですか。では、ここで改めて多代子さんを御紹介しましょう。」
彼女は果たしてわたしの顔を記憶していたかどうか知らないが、ともかくも型のごとくに挨拶《あいさつ》して別れた。先年はまだ少女といってもよかった多代子が、今は年ごろの娘に成長して、さらにその美を増したように見えた。その白い艶《あで》やかな顔には、先年見たような暗い蒼ざめた色を染め出していなかった。春風の吹く往来へ出て、わたしもなんだか一種の愉快を感じながら歩いた。
二回目に先生を訪問したのは四月の末で、その日は平日《へいじつ》であったので通学中の多代子さんは見えなかった。先生のお嬢さんも病気が全快して一緒に学校へ出て行ったとの事であった。
第三回の訪問は五月のなかばの日曜日で、わたしは午後七時ごろに上野行きの電車を降りると、博覧会は夜間開場をおこなっているので、広小路付近はイルミネーションや花瓦斯《はなガス》で昼のように明るかった。そこらは自由に往来が出来ないように混雑していた。
わたしはその賑わいを後ろにして池《いけ》の端《はた》から根津の方角へ急いだ。その頃はまだ動坂《どうざか》行きの電車が開通していなかったので、根津の通りも暗い寂しい町であった。路ばたには広い空地などもあって、家々のまばらな灯のかげは本郷台の裾に低く沈んでいた。わずかの距離で、上野と此処《ここ》とはこんなにも違うものかと思いながら、わたしは宵闇の路をたどってゆくと、やがて団子坂の下へ曲ろうとする路ばたの暗いなかで、突然にきゃっ[#「きゃっ」に傍点]という女の悲鳴が聞えたので、わたしは持っているステッキを把《と》り直して、その声をしるべに駈け出すと、出逢いがしらに駈けて来る一人の男があった。あぶなく突き当ろうとするのを摺りぬけて、彼はどこへか姿を隠してしまった。月はないが、星は明るい。少しく距《はな》れたところには煙草屋の軒ランプがぼんやりと点《とも》っている。その光りをたよりに透かしてみると、草原つづきの空地を横にした路ばたに、二人の女の影が見いだされた。
「どうかなすったんですか。」と、わたしは声をかけたが、女たちはすぐに答えなかった。
かれらの悲鳴を聞いて駈け付けたらしい、わたしに続いて巡査の角燈《かくとう》の光りがここへ近寄った。女は先生のお嬢さんと多代子の二人で、多代子はぐったりと倒れかかるのを、お嬢さんがしっかりと抱えているのである。それを見てわたしは又驚いた。
巡査の取調べに対して、お嬢さんは答えた。二人は根津の通りへ買物に出て、帰り路にここまで来かかると、空地の暗いなかから一人の男があらわれて、多代子の頸《くび》へ何かを投げつけたというのである。巡査は更に訊いた。
「なにを投げ付けたのですか。」
「蛇です。」と、多代子は低い声で答えた。
蛇と聞いて、巡査もお嬢さんも顔をしかめたが、わたしは更に強い衝動を感じた。多代子と蛇と――先年の汽車中の光景が忽《たちま》ちわたしの眼の先に浮かび出したのである。巡査は角燈を照らしてあたりを見廻すと、草のなかに果たして一匹の青い蛇が白っぽい腹を出して横たわっていた。
「むむ、蛇だ。」
巡査は子細にあらためて、また俄かに笑い出した。
「はは、これは玩具《おもちゃ》だ。拵《こしら》え物だ。」
「ほんとうの蛇じゃありませんか。」
のぞき込む私の眼の前へ、巡査は笑いながらかの蛇をとって突き出した。なるほど精巧には出来てはいるが、それは確かに拵え物の青大将であるので、わたしも思わず笑い出した。
「はは、玩具だ。多代子さん、驚くことはありません。こりゃ玩具の蛇ですよ。」
このごろは博覧会の夜間開場が始まったので、夜ふけて帰る女たちを暗いところに待ち受けて、悪いたずらをする奴がしばしばある。これもそのたぐいであろうと巡査は言った。そう判ってみれば、さしたる問題でもないので、わたし達は挨拶して巡査に別れた。わたしはどうせ先生の家へゆく途中であるから、女ふたりを送りながら一緒に付いて行ったが、先生の門をくぐるまでの間、多代子は一言も口をきかなかった。
「近所ではあり、まだ宵だからと油断して、若い者ばかりを出してやったのが間違いでした。」
と、奥さんは悔んでいた。
たとい玩具にもしろ、何者かのいたずらにもしろ、二人ならんでいる女のうちで、多代子を目ざして蛇を投げ付けたのは、故意か偶然かと私はかんがえた。二人のうちで、多代子の方が一段美しいためであったかとも考えられた。その形のみえない暗いなかで、多代子が十分にそれを蛇と直覚したのは少しく変だとも言えないことはない。しかもその晩は何事もなく、わたしは先生と一時間あまり話して帰った。
第四回の訪問は六月はじめの午前で、先生の門をくぐると、大きい桜の葉から毛虫が二、三匹落ちて来た。例のごとく二階へ通されたが、奥さんの話によると、お嬢さんは学校へ出て行ったが、多代子は病気で寝ている、それに就いて、先生は警察へ行っているとの事であった。
「なにしに警察へ行かれたのですか。」
「こういうわけなのです。」と、奥さんは顔を曇らせながら説明した。「御存じの通り、先月なかばに多代子さんと娘が根津へ買物に出て、その帰りに多代子さんが蛇をほうり付けられたことがあるでしょう。それは玩具《おもちゃ》の蛇でしたが、今度はほんとうの蛇をほうり込んだ奴があるのです。先月の末に、下の八畳で多代子さんと娘が机にむかって勉強していると、肱《ひじ》かけ窓から一匹の青大将を多代子さんの顔へ……きゃっ[#「きゃっ」に傍点]という騒ぎのうちに、相手は逃げてしまったのですが、なんでも横手の生垣《いけがき》を破って忍び込んだらしいのです。娘の話では、そのうしろ姿が若い学生らしかったということです。まだそれだけなら好いのですけれど、その後にたびたび多代子さんのところへ脅迫状をよこして、午後八時ごろまでに根津権現の表門前まで来てくれ、さもなければ、いつまでも蛇をもってお前を苦しめるからそう思え、というようなことが書いてあるのです。一度や二度は打っちゃって置きましたけれど余りたびたび重なるので、一応は警察へ届けて置く方がよかろうといって、良人《うち》はさっきから警察へ行っているのです。いずれ不良青年の仕業《しわざ》でしょうけれど、困ってしまいますよ。」
「けしからんことですな。それで多代子さんは寝ているんですか。」
「なんだか気分が悪いといって、二、三日前から学校を休んでいるのです。」
勿論、不良青年の仕業であろうが、その青年がもしや広島県のKの町の人間ではないかと、わたしは考えた。そうして、思わず口をすべらせた。
「多代子さんには蛇が祟《たた》っているようですな。」
「なぜです。」
奥さんにだんだん問い詰められて、私はとうとうあの汽車の一件を打明けると、奥さんはいよいよ顔の色を暗くした。
「まあ、そんな事があったのですか。なにかの心得になるかも知れませんから、良人《うち》にも一と通り話して置いて下さいよ。」
「いや、先生に話すと笑われます。」
そこへあたかも先生が帰って来て、その不良青年については警察でも、たいてい心当りがあるとの事であった。奥さんが頻《しき》りに催促するので、しょせん無駄だとは思いながら、わたしは再び先生の前で汽車中の一件を報告すると、果たして先生はただ冷やかに笑っていた。
「それは僕に話してもしようがない。小説家のところへでも行って話して聞かせる方が、よさそうだね。」
奥さんもわたしも、重ねていう術《すべ》がなかった。
三
それから五、六日経つと、多代子さんにいたずらをした不良青年が捕われたという新聞記事が見えたので、わたしはその晩すぐに先生の家を訪問すると、先生は誰かの洋行送別会に出席したといって留守であった。奥さんに会って、わたしは新聞記事の詳細を聞きただすと、奥さんはまず第一にこんなことを言い出した。
「どうもわたしは驚きましたよ。多代子さんを付け狙った不良青年は、やっぱり広島県のKの町の生れだったそうです。」
「そうですか。」と、わたしも眼をかがやかした。「じゃあ、多代子さんの身許《みもと》を知っていたんでしょうか。」
「それは知らないのだそうですがね。そんな事を常習的にやっているので、警察からも眼をつけられている不良青年で、多代子さんがFの町の人だか、三好という家の娘だか、そんなことはなんにも知らないで、ただその容貌《きりょう》の好いのを見て付け狙ったというだけの事らしいのです。しかし、それがちょうどにKの町の人間だというのが不思議じゃありませんか。」と、奥さんは眉をよせた。
「不思議ですね。」と、私もなんだか不思議のように思われてならなかった。
「ねえ、そうでしょう。」と、奥さんは重ねて言った。「良人《うち》はあんな人ですから、何を言っても取合ってはくれませんけれど、わたしはなんだか気になるので、多代子さんにいろいろ訊いてみましたが、本人はなんにも心当りがないと言うのです。けれども、あなたのお話によると、多代子さんの兄妹は汽車のなかで蛇の話を聞いて、途中で急に下車して家に引っ返したらしいというじゃありませんか。してみると、やっぱり何か思い当ることがあるに相違ないと思われるのですが……。」
当人が隠しているものを無理に詮議するのも好くないから、まず其のままにして置いたが、その以来、自分の家に多代子さんを預かっているのが何だか不安になって来たと、奥さんは小声で話した。奥さんの鑑定通り、多代子は何かの秘密を知っていながら、あくまでも知らないと言い張っているらしく思われたが、さてそれがどんな秘密であるかは、所詮《しょせん》われわれの想像の及ばないことであった。
「多代子さんの兄さんが来たときに訊いてみようかとも思うのですが、それもなんだか変ですからねえ。」と、奥さんは考えていた。
「それはお止《よ》しになった方がいいでしょう。」と、わたしは注意した。「そのうちには自然に判ることがあるかも知れません。」
「そうですねえ。多代子さんと違って、透さんにうっかりそんなことを訊いて、それが良人《うち》の耳にでもはいると、わたしが又叱られますから。」
多代子の話はそれで打切りになった。先生の帰りは遅くなりそうだというので、わたしは奥さんと三十分ほど話して帰った。社の用件も片付いて、わたしも七月の初めには再び門司の支店へ帰ることになったので、先生のところへ暇乞いにゆくと、あいにくに今夜も先生は留守であった。梅雨《つゆ》のまだ明け切らない曇った宵である。こんな晩に先生はどこへ行かれたかと訊《たず》ねると、奥さんは小声で答えた。
「桐沢さんのところへ呼ばれて行ったのです。」
「桐沢さん……。」
「あなたも御存じでしょう。」
「お名前だけは承知しています。」と、わたしは言った。桐沢氏は知名の実業家で、その次男は大学の文科に籍を置いている。それが将来は先生のお嬢さんの婿になるという内約のあるらしいことは、わたしも薄々知っていた。そういう事情から、桐沢氏は多代子のような若い娘を自分の家にあずかって置くのは、先生夫婦の思惑もいかがという遠慮から、わざと自宅に寄宿させることを避けて、反対に彼女を先生のところへ預けることになったらしい。それは私も薄々察していたが、その桐沢という人にも、又その次男という人にも、これまで懸け違って一度も出逢ったことはなかったのである。
そういう訳であるから、外出嫌いの先生が今夜のような晩に桐沢氏を訪問したのも、別に怪しむにも足らないのであった。しかし、それを話す奥さんの顔色は余り晴れやかでなかった。
「なんだか変なことですね。」
「どういう事です。何か事件が出来《しゅったい》したんですか。」
「ええ。」と、奥さんはうなずいた。「また例の多代子さんのことで……。」
「また蛇でもぶつけられたんですか。」
「いいえ、そうじゃないのですが……。学校もやがて夏休みになるので、兄さんの透さんも帰省する。多代子さんも毎年一緒に帰るのですが、この夏に限って帰らないと言い出して、熱海か房州か、どこかの海岸へ行きたいと言うのです。郷里でも両親が待っているから、まあ帰れと兄さんが勧めるのですけれど、本人はどうしても忌《いや》だと言うのです。」
「なぜでしょう。」
「それはよく判りません。」と、奥さんは言った。「いくら本人が行きたいと言ったところで、若い娘たちをむやみに海岸の避暑地なぞへ出してやられるものではありません。誰か相当の者が付いて行かなければならないでしょう。兄さんでも一緒に行ってくれれば格別ですが、兄さんはどうしても帰省するという。妹は忌だという。といって、わたし達が付いて行くというわけにも行かず、まことに困ってしまうので、良人《うち》はその相談ながらに、今夜桐沢さんのところへ出かけて行ったのですが、どういうことに決まりますかねえ。」
多代子が帰省を嫌うのは、山陽線の列車の中で又もや何かの蛇さわぎに出逢うのを恐れているのではないかと、私はふと思い浮かんだので、それを奥さんにささやくと、奥さんも同感であるらしかった。
「実はわたしも、もしやと思って、それとなく多代子さんに訊いて見たのですが、本人は一向にそんなことを言わないのです。もっとも隠しているのかも知れませんが……。あなたもそういうお考えならば、もう一度、良人に話してみましょうか。」
「およしなさい。」と、わたしは遮《さえぎ》った。「そんなことを言っても駄目ですよ。先生はとても受付ける筈はありませんよ。現にこのあいだもあの通りでしたから。」
「それもそうですが……。」と、奥さんも思い煩うように見えた。「なにしろ本人がどうしても忌だというものを、無理に帰してやるわけにも行きますまいからねえ。」
「多代子さんはどうしているんです。」
「やはり下の八畳に……。娘と一緒に机を列《なら》べているのです。」
「別に変った様子も見えませんか。」
「ほかには別に変ったことも……。」
奥さんがこう言いかけた時に、階子《はしご》をあがって来る足音がひびいた。と思う間もなく、、襖《ふすま》の外から若い男の声がきこえた。
「奥さん、御来客中をまことに失礼ですが……。」
「あ、透さん。いつお出でなすったの。」と、奥さんは見返った。「構いません。おはいりなさい。」
襖をあけて、電燈の下に蒼白い顔をあらわしたのは、学生風の青年であった。私はその青年をひと目見て、彼が多代子の兄の三好透であることを直ぐに覚ったが、相手の方ではもう私を見忘れているらしかった。殊に今夜の彼はひどく亢奮《こうふん》しているらしく、私に向ってはなんの会釈もせずに、突っ立ったままで奥さんに話しかけた。
「奥さん。妹はあしたの朝の汽車で連れて帰ります。」
「あしたの朝……。多代子さんも承知したのですか。」
「承知しても、しないでも、直ぐに連れて帰ります。」と、彼は奥さんに食ってかかるように声をとがらせた。
「まあ、おかけなさい。」と、奥さんは逆らわずに椅子をすすめた。「どうしてそんなに急に帰ることになったのです。実はそのことで、良人《うち》は今夜桐沢さんのところへ行っているのですが……。」
「先生がなんと仰しゃっても、桐沢さんがなんと言っても、多代子は連れて帰ります。」と、彼はきっぱりと言い切った。その顔色のいよいよ蒼ざめて来たのが、わたしの注意をひいた。
「それにしても、まあ少しお待ちなさい。もうやがて良人も帰って来ましょうから。」と、奥さんはなだめるように言った。そうして、その話題を転ずるように、改めて私を彼に紹介したが、彼はやはり私を記憶していないらしかった。
わたしは笑いながら言い出した。
「あなたにはお目にかかった事がありますよ。山陽線の汽車の中で……。」
「山陽線の汽車の中で……。」
「蛇の騒ぎがあった時に……。」
こう言って、わたしはその顔色を窺うと、彼も睨《にら》むように私の顔をじっと見つめていたが、やがて漸く思い出したように、少しくその顔色をやわらげた。
「いや判りました。その節はどうも失礼をいたしました。あなたもここの先生の家へお出入りをなさる方とはちっとも知りませんでした。いや、今夜も少し気が急《せ》いていましたので、どうも失礼をいたしました。」
彼は繰返して失礼を謝していた。わたしも若いが、彼はさらに若い。一時の亢奮から、なんとなく穏やかならぬ気色《けしき》をみせているが、しょせんは愛すべき一個の青年であることを、私は認めた。彼もわたしには遠慮したのか、あるいはだんだんに神経も鎮まって来たのか、やや落着いたような態度で椅子に腰をおろした。
奥さんが茶を入れかえに立った後で、私はしずかに彼に訊いた。
「唯今伺ったところでは、妹さんを連れてお帰りになるのですか。」
「まあ、そうです。」と、彼はハンカチーフで額の汗を軽く拭きながら答えた。「どうも困りました。」
彼はその以上に何事をも語らないので、なじみの薄いわたしが更に踏み込んで其の秘密を探り出すわけにも行かなかった。それと同時に、私がここに長居することは、彼と奥さんとの用談を妨げる虞《おそ》れがあるらしいので、彼ひとりをそこに残して、わたしは二階を降りて来ると、階段の下で奥さんに逢った。
「今晩はこれでお暇《いとま》します。」
「そうですか。」と、奥さんは気の毒そうな顔をしていた。
「いえ、まだ二、三日はこっちに居りますから、また出直して伺います。」
「では、是非もう一度……。」
奥さんに送られて、わたしが玄関で靴を穿いているときにお嬢さんも出て来たが、多代子は姿を見せなかった。門《かど》を出ると、細かい雨が又しとしとと降っていた。前にもいう通り、そのころの根津権現付近は静かであった。殊に梅雨の暗い夜にはほとんど人通りも絶えている位で、権現の池のあたりで蛙の鳴く声がさびしく聞えた。
その暗い寂しいなかを五、六間ばかり歩き出すと、塀の蔭から一人の男が現われて私のそばへ近寄って来た。
「あなたは今、江波さんの家から出て来ましたね。」
暗いので、その人相も風体も判らなかったが、今頃こんな所に忍んでいるのは例の不良青年ではないかという懸念があるので、わたしも油断せずに答えた。
「そうです。なにか御用ですか。」
「もう少し前に、若い男が一人はいって行きましたろう。」
それは透のことであろうと私は察したので、いかにも其の通りだと答えると、男はわたしを路ばたの或る家の軒《のき》ランプの下へ連れて行って、一枚の名刺をとり出して見せた。彼は××警察署の刑事巡査であった。
「あの若い男は三好透という学生でしょう。」と、刑事は小声で言った。
「そうです。」
「江波博士とどういう関係があるのでしょう。」
相手が警察の人間であるので、わたしは自分の知っているだけの事を正直に話して聞かせると、刑事は少しく考えていた。
「そうすると、透という学生は三好多代子の実の兄ですね。それはおかしい。実はあの学生は不良性を帯びているので、今夜も尾行《びこう》して来たのですが……。このあいだ江波さんの窓から蛇を投込んだのは、どうもあの男の仕業らしいのです……。」
「それは違います。」と、わたしは思わず声をあげた。「あの時には多代子さんの顔へ蛇を投げ付けたというじゃありませんか。いくら不良性を帯びているといっても、現在の妹に対してそんな悪戯《いたずら》をする筈はないでしょう。現にその犯人は、もう警察へ挙げられたと聞いていますが……。」
「いや、それがね。」と、刑事はしずかに言った。「さきごろ、警察へ挙げられた犯人――それは佐倉という者で、この五月に根津の往来で多代子さんに玩具《おもちゃ》の蛇を投げたことがある。それだけは本人も自白したのですが、江波さんの窓から生きた蛇を投げ込んだ者は確かに判っていないのです。前の一件があるので、警察の方でも一時は彼の仕業と認定してしまったのですが、本人はどうしても後《あと》の一件を自白しない。だんだん調べてみると、まったく彼の仕業ではなく、そのほかにも同じような悪戯《いたずら》者があるらしいのです。その証拠には、佐倉の拘留中にも往来の婦人にむかって、やはり蛇を投げ付けた者があるのですから……。」
「それが三好透だと言われるのですね。」
「どうもそうらしいのですが……。しかし、あなたの言われた通り、他人は格別、実の妹にもそんな悪戯をするのは……。ちっとおかしいように思われますね。」
刑事は考えていた。わたしも考えさせられた。二人は暫く黙って雨のなかに立っていた。
四
そのうちに、私はふと思い出したことがあった。
「しかし、あなたも御承知でしょうが、多代子さんの所へしばしば手紙をよこして、根津権現の門前まで出て来い、さもなければ、いつまでも蛇をもっておまえを苦しめると脅迫した者があるそうです。それもやはり兄の仕業でしょうか。三好透という男は、なんの必要があって自分の妹をそんなに脅迫するのでしょうか。また、自分の兄の筆蹟ならば、多代子さんは無論見知っているでしょうし、江波博士の家の人たちも、大抵は知っている筈でしょうに……。」
「それはね。」と、刑事は打消した。「三好透がなんのために妹を脅迫するのか判りませんけれど、手紙ぐらいは誰かに代筆を頼んだかも知れませんよ。若い友達などの中には、面白半分にそんなことを引き受ける者も随分ありますからね。ただ、肝腎の問題は、三好透がなぜ妹をそんなに脅迫するかということです。あなたにはなんにもお心当りはありませんか。」
わたしにも勿論、心当りはなかった。しかも刑事に対して何かのヒントを与える材料にもなろうかと思って、わたしは今夜の一条を話した。多代子がこの夏休みに帰省を忌《いや》がること、兄の透が無理に明朝の列車で連れて帰ろうとすること、それらを逐一聴き終って刑事はまた考えていた。
「いや、いろいろありがとうございました。では、まあ、今夜はこのままにして置いて、もう一度よく考えてみましょう。」
相手が実の妹であると知って、刑事も探偵的興味を殺《そ》がれたらしく、丁寧に挨拶して別れて行った。透と多代子とが兄妹であることを、警察が今まで知らなかったのは少しく迂濶《うかつ》ではないかと私は思った。
なにしろこうなった以上は、事件が又どんな風にもつれて来て、先生の迷惑になるようなことが無いとも限らない。わたしは翌朝、会社の方へちょっと顔出しをして、すぐに根津へ廻ろうと思っていたのであるが、会社へ出るとやはり何かの用に捉えられて、午前十一時ごろにようよう自由の身になった。きょうは何だか気が急《せ》くので、わたしは人車《くるま》に乗って根津へ駈けつけると、先生はもう学校へ出た留守であった。それは最初から予想していたので、わたしは二階へ通されて奥さんに会った。
「ゆうべはあれからどうなりました。」と、わたしはまず訊いた。
「あなたが帰ってから三十分ほどして、良人《うち》は帰って来ました。」
「透君はそれまで待っていたんですか。」
「待っていました。」と、奥さんはうなずいた。「それがおかしいのですよ。あなたも御承知の通り、透さんは大変な権幕で、あしたにも多代子さんを引摺って帰るような勢いでしたろう。ところが、良人が帰って来て、桐沢さんとこういう相談を決めて来たから、そう思いたまえ。もし不服ならば、桐沢さんのところへ行って何とでも言いたまえと言って聞かせると、透さんは急におとなしくなって、別に苦情らしいことも言わないで、そのまま無事に帰ってしまったのです。」
奥さんが更に説明するところによると、先生は桐沢氏と相談の結果、この夏休みに多代子は帰省するのを見合せて、先生のお嬢さんと一緒に、桐沢氏の鎌倉の別荘へ転地することになったというのである。それはまことに穏当《おんとう》の解決であるが、あれほどに意気込んでいた兄の透がそれに対してなんの苦情も言わず、そのまま素直に承諾したのは、わたしにも少しく不思議に思われた。
「そこで、透君はどうするんです。」
「透さんは自分ひとりで帰るそうです。」と、奥さんは言った。「多分けさの汽車に乗ったでしょうよ。」
わたしは奥さんにむかって、ゆうべの出来事を詳しく話して、多代子に生きた蛇を投げ付けたのも、多代子に脅迫状を送ったのも、兄の透の仕業であるらしいということを報告すると、奥さんは顔色を暗くした。
「ああ、そうですか。そんな事がないとも言えませんね。」
定めて驚くかと思いのほか、奥さんもその事実をやや是認《ぜにん》しているらしい口振りであるので、わたしは意外に感じながら、黙ってその顔をながめていると、奥さんは溜息まじりで言い出した。
「こうなればお話をしますがね。あの透さんという人は、人間はまじめですし、勉強家ですし、学校の成績もよし、なんにも申分のない人なのですが、どういうわけだか自分の妹をひどく憎《にく》がるのです。」
「腹ちがいですか。」と、わたしは訊いた。
「いいえ、同じ阿母《おっか》さんで、ほんとうの兄妹《きょうだい》なのですが……。その癖、ふだんは仲好しで、妹をずいぶん可愛がっているようですが、時々に――まあ、発作的とでもいうのでしょうかね、無暗に妹が憎くなって、別になんという子細もないのに、多代子さんの髪の毛をつかんで引摺り廻したり、打《ぶ》ったり蹴《け》ったりするのです。自分でもたびたび後悔するそうですが、さあ憎くなったが最後どうしても我慢が出来なくなって、半分は夢中で乱暴をするのだそうです。それですから、わたしの家でも注意して、透さんが妹をたずねて来た時には、内々警戒しているくらいです。けれども、まさかに蛇を投込むなどとは思いも付きませんし、脅迫の手紙の筆蹟もまるで違っていましたから、他人の仕業だと思って警察へも届けたような訳ですが……。刑事がそう言うくらいでは、やっぱり透さんの仕業だったかも知れません。なにしろ一緒に帰さないで好うござんした。よもやとは思いますけれど、汽車のなかで不意に乱暴を始められたりしたら、大変ですからね。透さんも初めのうちはそれほどでもなかったのですが、一年増しに悪い癖が募《つの》って来るので、今に多代子さんは兄さんに殺されやしないかと、家の娘などは心配しているのです。」
わたしにも訳が判らなくなった。わたしは医者でもなし、心理学者でもないから、三好透という青年の奇怪なる精神状態について、なんとも鑑定を下《くだ》すことは出来なかった。刑事の話によると、彼は他の婦人に対しても生きた蛇を投げ付けたことがあるらしい。勿論、確かに彼の仕業であるや否やは判らないが、もし果たしてそうであるとすれば、彼はおそらく一種の乱心《マニア》であろう。もし又、他人に対してはなんらの危害を加えず、単に妹に対してのみ乱暴や脅迫を加えるということであれば、それはやはり普通の乱心として解釈すべきものであるかどうかは、わたしにも見当が付かなかった。
「そうすると、透君がたびたび脅迫状をよこして、妹を根津権現前へよび出して、一体どうするつもりなんでしょう。」
「さあ。」と、奥さんも考えていた。「多代子さんがうっかり出て行ったら、おそらく何かの言いがかりでもして、往来なかでひどい目にでも逢わせるつもりでしたろう。今もいう通り、ふだんは仲好しの兄妹でありながら、時どきに妹が憎くなるというのはどういうわけでしょうかねえ。そんなことを言うと変ですけれど、あの人たちには何かの呪詛《のろい》が付きまとってでもいるのじゃあないでしょうか。汽車の中のお話を聞いて、わたしには何だかそう思われてならないのですよ。」
奥さんはまじめに言った。何かの呪詛、何かの祟《たた》り――それを笑うことも出来ないほどに、その当時の私は一種の暗い気分にとざされていた。二人のあいだには怖ろしいような沈黙が暫くつづいた。
「先生はそれをどうお考えになっているのでしょう?」
理性一点張りの先生がそんなことを問題にしないのは判り切っていたが、それでもこの場合、わたしは念のために訊いてみると、奥さんは寂しくほほえんだ。
「良人《うち》は御存じの通りですから……。」
先生はゆうべ桐沢氏を訪問して、両者のあいだにどんな相談があったのか、わたしはそれを窺い知りたいと思ったが、それに就いては奥さんも詳しく知らないと言った。先生は元来が寡言《むくち》の方で、ふだんでも家庭上必要の用件以外には、あまり多く奥さんやお嬢さんと談話をまじえない習慣であるので、今度の問題についても深く語らないであろうことは、わたしにも大抵想像された。
しかし、あれほどに亢奮していた透が、もし不服があるならば桐沢氏に言えという先生の一言のもとに、素直に屈服してしまったのを見ると、かれら兄妹にまつわる何かの秘密を、桐沢氏に知られているので、彼も桐沢氏に対しては頭が上がらない事情があるらしい。奥さんもそんなような意見を洩らしていた。要するに、ここに何かの秘密があって、それを知っているものは兄の透と妹の多代子と、桐沢氏――と、まだほかにもあるかも知れないが、少なくともこの三人はその秘密を知っているに相違ない。それを問題にすると否とは別として、先生もおそらく知っているのであろう。この際、先生の口から聞き出すのが一番近道であるが、前に言ったようなわけで、それは所詮むずかしい。
「それでも無事に済んで、まあ結構でした。」
わたしはさし当りそんなことを言うのほかはなかった。奥さんはうなずいた。
「ええ、そうですよ。鎌倉の別荘ならば、桐沢さんの家の人たちもみんな行くのですから、多代子さんをやって置いても心配はありません。」
奥さんは午飯《ひるめし》を食って行けと勧めたが、わたしは出発前で忙がしいからと断わって帰った。その後、もう一度たずねたいと思いながら、いろいろの都合で私はとうとう先生に逢わずに東京を去ることになった。勿論、その事情を手紙にかいて先生宛に発送して置いたが、先生には当分逢われないかと思うと、なんだか名残り惜しくもあった。
わたしは二、三人の友達に送られて新橋駅を出発した。言うまでもなく、その頃はまだ東京駅などはなかったのである。汽車ちゅうには別に語ることもなく、わたしは神戸にいったん下車して、会社の支店に立寄った。そうして、その翌朝の七時ごろに神戸駅から山陽線に乗換えた。例によって三等の客車である。
わたしは少しく朝寝をしたので、発車まぎわに駈けつけて、転《ころ》げるように車内へ飛び込むと、乗客はかなりに混雑している。それでも隅の方に空席があるのを見つけて、私はあわててそこに腰をおろすと、隣りの乗客はふとその顔をあげて見返った。その刹那《せつな》に、わたしはなんとも言えない一種の戦慄《せんりつ》を感じたことを白状しなければならない。その乗客はかの三好透であった。
奥さんの話によれば、彼はすでに二、三日前に乗車した筈であるのに、何かの都合で遅れたのか、あるいは途中のどこかで下車したのか、いずれにしても、ここで偶然に私と席をならべることになったのである。
「やあ。あなたもお乗りでしたか。」
わたしは少しく吃《ども》りながら挨拶すると、彼も笑いながら会釈した。その顔は先夜と打って変って頗《すこぶ》る晴れやかに見えた。
「急に暑くなりました。」と、彼は馴れなれしく言った。
「そうです。俄か天気で暑くなりました。しかし梅雨《つゆ》もこれで晴れるでしょう。」と、わたしもだんだんに落着いて話し始めた。
彼はやはり二、三日前に東京を去ったのであるが、京都の親戚をたずねるために途中下車したと言って、京都見物の話などをして聞かせた。元来が温順の性質らしいが、さりとて寡言《むくち》というでもなく、陰鬱というでもなく、いかにも若々しいような調子で笑いながら話しつづけた。どう見ても、彼は一個の愛すべき青年である。これが一種の乱心であるとか、何かの祟り呪詛《のろい》を受けている人間であるとかいうような事は、どうしても私には考えられなかった。
「妹さんはどうなさいました。」と、私はなんにも知らない顔で訊いた。
「妹は東京に残って、鎌倉へ行くことになりました。」と、彼は答えた。
彼は自分のうしろに、刑事の黒い影が付いていた事などを知らないであろう。わたしは更に進んで、かれらと桐沢氏との関係などを問いきわめようと試みたが、それは不成功に終った。それらの問いに対しては、彼は努めて明快の返答をあたえることを避けているらしく見えた。それが又大いにわたしの猟奇心をそそったのでもあるが、何分にも混雑の列車内といい、かつは三時間ばかりの短時間であるので、わたしは結局その目的を達し得なかった。十時過ぎるころにFの駅に到着して、彼はわたしに別れを告げて去った。
改札口を出てゆく其のうしろ姿を見送ると、そこには農家の雇人らしい若者が待ち受けていて、彼の革包《かばん》などを受取って、一緒に連れ立って行った。勿論、そこらに蛇らしい物の姿などは見いだされなかった。
のちに思えば、三好透という青年と私とは、これが永久の別れであった。
それから七年の月日が流れた。そのあいだに、わたしは門司の支店を去って、さらに大連の支店へ転勤することになった。又そのあいだに私は結婚をする。子供が出来る。社用が忙がしい。何やかやに取りまぎれて、先生のところへもとかく御無沙汰がちになっていたが、大正三年の十一月、社用で神戸へ戻って来たので、そのついでに上京して、久しぶりで先生の家の門をくぐった。
先生の家は依然として其の形式を改めなかったが、いつの間にか根津の大通りには電車が開通して、周囲の姿はまったく変ってしまった。それだけに、先生の家の古ぼけているのがいよいよ眼に立って、むかしなじみの桜は折りからの木枯しに枯葉をふるい落していた。その落葉の雨を払いながら玄関に立つと、見識らない女中が取次ぎに出て来たが、わたしの名を聞いて奥さんが直ぐに出て来た。つづいてお嬢さんも出て来た。
「あら、まあ、おめずらしい。」
なつかしそうに迎えられて、わたしは例のごとくに二階へ通された。
桐沢氏の次男がお嬢さんの婿になって、若夫婦のあいだにはすでに男の児が儲《もう》けられていることを、わたしもかねて知っていた。遅蒔きながら其の御祝儀を述べるやら、御無沙汰のお詫びをするやら、話はなかなか尽きなかったが、なんにしても先生も無事、奥さんも無事、それを実際に確かめることが出来て、わたしもまず安心した。
もう一時間ほど経つと、先生は学校から帰って来るから、きょうは是非待っていろと奥さんは言う。わたしも勿論そのつもりであるので、そこに居据わっていろいろの話をはじめた。日露戦争後の満洲の噂も出た。そのうちに、奥さんはこんなことを言い出した。
「満洲と台湾とは、まるで土地も気候も違うでしょうけれど、知らない国へ行くと思いも付かないことに出逢うものですね。あなたも御存じでしょう、三好透さん……。あの人は飛んだことになりましてね。」
旧い記憶が俄かにわたしの胸によみがえった。
「三好透……。あの多代子さんの兄さんでしょう。あの人がどうかしたんですか。」
「大学を卒業してから、台湾へ赴任したのですが、去年の六月、急に亡くなりました。」
「マラリアにでも罹《か》かったんですか。」
「いいえ。毒蛇のハブに咬まれて……。」
「ハブに咬まれて……。」
わたしは物に魘《おそ》われたような心持で、奥さんの顔を見つめた。それを一種の不運とか奇禍《きか》とか言ってしまえばそれ迄であるが、マラリアに罹かったとか、蕃人に狙撃されたとか、水牛に襲われたとかいうのではなくして、彼が毒蛇のために生命《いのち》を奪われたということが、何かの因縁であるように私の魂をおびやかした。青い蛇の旧い記憶が又呼び起された。
「あの人は学生時代に、警察から尾行されていたようでしたが、その方はどうなったんです。」
「蛇をほうったという一件でしょう。」と、奥さんは言った。「あれは其のまま有耶無耶《うやむや》になってしまったようでした。」
「多代子さんばかりでなく、ほかの婦人にも投げ付けたというじゃありませんか。」
「それも透さんの仕業だかどうだか、確かな証拠も挙がらないので、警察でも手を着けることが出来なかったらしいのです。そんなわけで、無事に学校を出たのですけれど、台湾へ行くと直ぐにそんな事になってしまって……。まるで、台湾へ死にに行ったようなものでした。」
世のなかに驚くべき暗合がしばしばあることは、私もよく知っている。三好透が台湾で毒蛇に咬まれたのも、しょせんは偶然の出来事で、一種の暗合であるかも知れない。したがって三好の兄妹と蛇と――それを結び付けて考えるのは、わたしの迷いであるかも知れない。しかもその迷いは私ばかりでなく奥さんの胸にも巣喰っているらしく、奥さんはやがてこう言い出した。
「いつかもお話し申した通り、三好さんの家には何かの呪詛《のろい》があるらしく思われてならないのです。透さんが台湾へ行って蛇に殺されるというのは……。学校を出たときに、北海道と台湾とに奉職口があって、桐沢さんは北海道の方へ行ったら好かろうと勧めたのだそうですが、本人はどうしても台湾へ行くと言って出かけたので……。もし北海道へ行っていれば、そんな事にもならなかったのでしょうに……。どう考えても、なにかの因縁がありそうですね。」
「そう言えば、まったくそうです。」と、わたしも溜息まじりに答えた。「そうして、多代子さんの方はどうしました。」
「多代子さんは無事です。あの人は幸福でしょう。」
奥さんの話によると、多代子は学校を出ると間もなく、桐沢氏の媒妁《ばいしゃく》で、現在の夫の深見氏方へ縁付いたのである。深見氏は養子で、その実家が広島県のKの町にあることは世間でも知っているのであるから、関係者一同が知らない筈はない。Kの町の蛇がFの町へゆく――その汽車ちゅうの出来事をわたしから聞かされているので、深見氏がKの町の出身であるということに就いて、奥さんは何だか気が進まないように思ったそうであるが、先生は頭からそんなことを問題にしなかった。三好家にも異存はなかった。兄の透も反対しなかった。それでも、奥さんは多代子にむかって暗《あん》に注意をあたえた。
「ほかの事とは違いますから、あなたの気に済まないような事があるならば、遠慮なくお言いなさいよ。」
「いいえ、皆さんが好いと思召《おぼしめ》すなら、わたしも参りたいと思います。」
むしろ本人も気乗りがしているような風で、この縁談は故障なく進行したのであった。結婚後の多代子は幸福であるらしく、精神的にも物質的にも彼女は大いに恵まれているらしいので、奥さんもまず安心しているとの事であった。
その話を聞かされて、わたしの胸も又すこし明るくなった。
「そうすると、何かの呪詛――もし果たして何かの呪詛があったとすれば、それは透君ひとりにとどまっていることで、多代子さんはその傍杖《そばづえ》を食っていたのかも知れませんね。」と、わたしは笑った。
「そうかも知れません。」と、奥さんもほほえんだ。「それにしても、こんなお話があるのですよ。大正の世のなかに、こんなことを言ったらお笑いになるかも知れませんけど……。」
奥さんは又話し出した。桐沢氏と三好家とは昔からの知合いで、われわれが想像している通り、桐沢氏は三好家の秘密を薄々承知していながら、今日まで誰にも洩らさなかったのである。ところが、その次男の次郎君が大学卒業の文学士となり、さらに先生のお嬢さんの婿となり、この江波家の人となるに及んで、その秘密が次郎君の口から奥さんに洩らされた。
次郎君も勿論くわしいことは知らないのであるが、足利時代の遠い昔、三好家はその土地における豪族であって、なにかの事情からKの土地に住む豪族の森戸家へ夜討ちをかけて、その一家を攻めほろぼした。その後、森戸家の遺族とか残党とかいう者どもが手をかえ、品をかえて、徳川の初期に至るまで約五十年の間、根《こん》よく復讐を企てたが、用心のいい三好家では一々それを返り討にして、結局かれらを根絶《ねだ》やしにしてしまった。女子供までも亡ぼし尽くした。その以来、一種の怪しい呪詛が三好家に付きまとって、代々の家族が蛇に祟られるというのである。
三好家は関ヶ原の合戦以後、武士をやめ普通の農家となったが、その祟りはやはり消え去らないので、元禄時代の当主がその地所内に一つの祠《ほこら》を作って、呪詛の蛇を祀《まつ》ることにした。森戸家のほろびたのは三月二十日であるので、毎月の二十日には供物《くもつ》をささげ、家族一同がその祠に参拝するのを例としていた。そのためか、家にまつわる怪しい呪詛も久しく其の跡を断ったのであるが、明治の後はそんな迷信も打破《だは》されてしまった。古い祠も先代の主人のために取毀された。
次郎君の知っているのは、それだけの伝説に過ぎないのであって、まだ其他にも何かの事情があるのかも知れない。いずれにしても、そんな迷信じみた伝説がほとんど何人《なんぴと》にも忘れられてしまった明治時代の末期から、前に言ったような種々の不思議(?)が再び現われて来たのである。三好家では勿論かくしているが、しばしば怪しい蛇に見舞われて、何かの迷惑と恐怖とを感ずることがあるらしい。それに対して、桐沢氏も最初は一笑に付していたが、近頃では「どうも不思議だ。」などと首をかしげている事もあるという。したがって、桐沢氏がKの町出身の深見氏のところへ多代子を媒妁することになったのは、故意か偶然か判らない。次郎君は
「親父は何かの罪亡ぼしのつもりかも知れない。」と笑っているそうであるが、さてその深見氏が、かの森戸家の後裔《こうえい》であるかどうか、そんなことは勿論わからない。
以上の物語が終ったころに、先生の人車《くるま》が門前に停まったらしいので、私たちは急いで出迎えに行った。
それから又、十年の月日が夢のように過ぎた。いわゆる十年ひと昔で、そのあいだには世間の上にも、一身の上にも、種々の変遷を経て来たが、就中《なかんずく》わたしに取って最も悲しい記憶は、大正十一年の秋に江波先生を失ったことであった。酒を飲まない先生が脳溢血のために、書斎で突然|仆《たお》れたのである。わたしは大連でその電報を受取ったが、何分にも遠く懸け離れているので、単に弔電を発したにとどまって、その葬儀にもつらなることが出来なかった。
次はその翌年九月の関東大震災である。わたしの知人でその災厄に罹かった者も多かった。東京の本社も焼かれた。その際にもまず気配《きづか》われたのは、亡き先生一家の消息であったが、根津の辺はすべて無事ということを知り、さらに奥さんもお嬢さん夫婦もみな無事という便りを得て、まず安堵《あんど》の胸を撫《な》でおろしたのであった。
しかし、かの桐沢氏は、その当時あたかも鎌倉の別荘に在った為に、無残の圧死を遂げたという。わたしは桐沢氏と直接の交渉もなく、従来一面識もないのであるが、次郎君がお嬢さんと結婚しているばかりか、かの三好家の一件についてしばしばその名を聞き慣れているので、その死に対してやはり一種の衝動《ショック》を感ぜずにはいられなかった。
震災の翌年、すなわち大正十三年の夏から、わたしは東京の本社詰めとなって大連を引揚げて来た。そうして、根津とは余り遠くない本郷台に住居を定めたので、先生の旧宅へも毎月一回ぐらいは欠かさずに訪問して、奥さんの昔話の相手になることが出来るようになった。
深見夫人多代子の亡骸《なきがら》が熱海の海岸に発見されたのは、その翌年の一月である。
前にもいう通り、家庭も極めて円満で、精神的にも物質的にも大いに恵まれていたらしく思われた多代子が、突然にこうした悲劇の女主人公となってしまったのは、実に意外というのほかはない。それに就いて種々の臆説が生み出されるのは無理もなかった。
あるいは発狂ではあるまいかという噂もあったが、奥さんは私にむかってそれを否定していた。
「多代子さんは一月の十日、自動車に乗って御年始に来てくれました。その時に、この二十日ごろから熱海へ行くという話があって、今度は長く滞在することになるかも知れないから、当分はお目にかかれまいと言って帰りました。あとで考えると、よそながら暇乞いに来たらしい。それを思うと、突然の発狂などではなくて、前々から覚悟していたのでしょう。その日はあいにくに、次郎も娘も留守だったものですから、皆さんにお目にかかれないのが残念だなどとも言っていました。」
奥さんは更にこんなことを私に洩らした。
「あなただからお話を申しますけれど、多代子さんの死骸が海から引揚げられた時に、警察で検視をすると、左の二の腕に小さい蛇の刺青《ほりもの》があったので、みんなも不思議に思ったそうです。立派な実業家の奥さんの腕に刺青があったのですから、誰でも意外に思う筈です。勿論、深見さんの方から警察へ頼んだので、刺青のことなぞは一切《いっさい》発表されませんでしたから、その秘密を知っているのは私たちぐらいでしょう。新聞社でもさすがに気がつかないようでした。」
「多代子さんはいつそんな刺青をしたんでしょう。」と、わたしも意外に思いながら訊いた。
「それは判りません。」と、奥さんは答えた。「わたしの家にいるときに、そんな刺青のなかったのは確かですから、深見さんへ縁付いてからのことに相違ありませんが、それを深見さんが彫らせたのか、自分が内証で彫ったのか、それは一切秘密です。深見さんもそれに就いては何も言いません。なにしろ深見さんはK町の出身で、それと結婚した多代子さんが訳のわからない死に方をして、その腕に蛇の刺青が発見されたというのですから、いろいろのことが又思い出されます。多代子さんの郷里の実家は両親ともに死んでしまって、総領の息子さんが――台湾で死んだ透さんの兄です。――相続しているのですが、こちらから多代子さんの死んだことを電報で知らせてやると、都合があって上京できないから、万事よろしく頼むという返事をよこしました。」
底本:「鷲」光文社文庫、光文社
1990(平成2)年8月20日初版1刷発行
初出:「日曜報知」
1930(昭和5)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくってい ます。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2006年10月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
コメント