一
「むかし者のお話はとかく前置きが長いので、今の若い方たちには小焦《こじ》れったいかも知れませんが、話す方の身になると、やはり詳しく説明してかからないと何だか自分の気が済まないというわけですから、何も因果、まあ我慢してお聴きください」
半七老人は例の調子で笑いながら話し出した。それは明治三十一年の十月、秋の雨が昼間からさびしく降りつづいて、かつてこの老人から聴かされた「津の国屋」の怪談が思い出されるような宵のことであった。今夜のような晩には又なにか怪談を聴かしてくれませんかと、私がいつもの通りに無遠慮に強請《ねだ》りはじめると、老人はすこしく首をひねって考えた後に、面白いか面白くないか知りませんけれども、まあ、こんな話はどうでしょうね、とおもむろに口を切った。
その前置きが初めの通りである。
「いや、焦れったいどころじゃあありません。なるたけ詳しく説明を加えていただきたいのです」と、わたしは答えた。「それでないと、まったく私たちにはよく判らないことがありますから」
「お世辞にもそう云ってくだされば、わたくしの方でも話が仕よいというものです。まったく今と昔とは万事が違いますから、そこらの事情を先ず呑み込んで置いて下さらないと、お話が出来ませんよ」と、老人は云った。「そこで、このお話の舞台は江戸川です。遠い葛飾《かつしか》の江戸川じゃあない、江戸の小石川と牛込のあいだを流れている江戸川で……。このごろは堤《どて》に桜を植え付けて、行灯をかけたり、雪洞《ぼんぼり》をつけたりして、新小金井などという一つの名所になってしまいました。わたくしも今年の春はじめて、その夜桜を見物に行きましたが、川には船が出る、岸には大勢の人が押し合って歩いている。なるほど賑やかいので驚きました。しかし江戸時代には、あの辺はみな武家屋敷で、夜桜どころの話じゃあない、日が落ちると女一人などでは通れないくらいに寂しい所でした。それに昔はあの川が今よりもずっと深かった。というのは、船河原橋の下で堰《せ》き止めてあったからです。なぜ堰き止めたかというと、むかしは御留川《おとめがわ》となっていて、ここでは殺生《せっしょう》禁断、網を入れることも釣りをすることもできないので、鯉のたぐいがたくさんに棲んでいる。その魚類を保護するために水をたくわえてあったのです。勿論、すっかり堰いてしまっては、上から落ちて来る水が両方の岸へ溢れ出しますから、堰《せき》は低く出来ていて、水はそれを越して神田川へ落ち込むようになっているが、なにしろあれだけの長い川が一旦ここで堰かれて落ちるのですから、水の音は夜も昼もはげしいので、あの辺を俗にどんどん[#「どんどん」に傍点]と云っていました。水の音がどんどんと響くからどんどんというので、江戸の絵図には船河原橋と書かずにどんど橋と書いてあるのもある位です。今でもそうですが、むかしは猶さら流れが急で、どんどん[#「どんどん」に傍点]のあたりを蚊帳《かや》ヶ淵《ふち》とも云いました。いつの頃か知りませんが、ある家の嫁さんが堤を降りて蚊帳を洗っていると、急流にその蚊帳を攫《さら》って行かれるはずみに、嫁も一緒にころげ落ちて、蚊帳にまき込まれて死んでしまったというので、そのあたりを蚊帳ヶ淵と云って恐れていたんです」
「そんなことは知りませんが、わたし達が子どもの時分にもまだあの辺をどんどんと云っていて、山の手の者はよく釣りに行ったものです。しかし滅多《めった》に鯉なんぞは釣れませんでした」
「そりゃあ失礼ながら、あなたが下手だからでしょう」と、老人はまた笑った。「近年まではなかなか大きいのが釣れましたよ。まして江戸時代は前にも申したような次第で、殺生禁断の御留川になっていたんですから、魚《さかな》は大きいのがたくさんいる。殊にこの川に棲んでいる鯉は紫鯉というので、頭から尾鰭までが濃い紫の色をしているというのが評判でした。わたくしも通りがかりにその泳いでいるのを二、三度見たことがありますが、普通の鯉のように黒くありませんでした。そういう鯉のたくさん泳いでいるのを見ていながら、御留川だから誰もどうすることも出来ない。しかしいつの代にも横着者は絶えないもので、その禁断を承知しながら時々に阿漕《あこぎ》の平次をきめる奴がある。この話もそれから起ったのです」
文久三年の五月なかばである。毎日降りつづく五月雨《さみだれ》もきょうは夕方からめずらしく小歇《こや》みになったが、星ひとつ見えない暗い夜に、牛込無量寺門前の小さい草履屋の門《かど》をたたく者があった。無量寺門前というのは今日の築土八幡町である。このごろは雨つづきで草履屋《ぞうりや》の商売も休みも同様であるばかりか、亭主の藤吉は宵から出ているので、女房のお徳は店を早く閉めて、奥の長火鉢の前で浴衣《ゆかた》の縫い直しをしている時、表の戸をそっと叩く音がきこえたので、お徳は針の手をやめて顔をあげた。今夜ももう四ツ(午後十時)に近い。この夜ふけに買物でもあるまい。おそらく道をきく人ででもあろうかと思ったので、かれは坐ったままで声をかけた。
「はい。なんでございます」
外では又そっと叩いた。
「どなたですえ。お買物ですか」と、お徳はまた訊《き》いた。
「ごめん下さい」と、外では低い声で云った。
なんだか判らないので、お徳もよんどころなしに起ちあがった。狭い店さきへ出て、再び何の用かと訊くと、外では女の細い声で、御亭主にちょっとお目にかかりたいという。内の人は唯今留守ですと答えると、それではおかみさんに逢わせてくれというので、お徳はともかくも表の戸をあけると、ひとりの痩形の女が夜目にも白い顔をそむけて、物思わしげに悄然とたたずんでいるのが薄暗い行灯《あんどう》の火にぼんやりと照らし出された。
「なにか御用でございますか」
「はい。あの、失礼でございますが、お店へあがりましてもよろしゅうございましょうか」と、女は忍びやかに云った。
見ず識らずの女が夜ちゅうに人の店へあがり込もうというのは、なんだか胡散《うさん》らしいとも思ったが、お徳はもう三十を越している。相手は弱々しい女ひとり、別に恐れるほどのこともあるまいと多寡をくくって、そのまま店へあがらせると、女はうしろを見かえりながらそっと表の戸を閉め切ってはいった。そうして、なにを云い出すかと、お徳は相手の俯向き勝ちの顔をのぞくように見ていると、女はやがて低い声で云い出した。
「夜ふけに伺いまして、だしぬけにこんなことを申し上げるのも異《い》なものでございますが、わたくしはこの御近所に居りますもので、昨晩不思議な夢を見ましたのでございます」
「はあ」と、お徳も不思議そうに相手をいよいよ見つめた。思いも付かないことを云い出されて、かれは少しく煙《けむ》にまかれたのであった。
「ひとりの男……むらさきの着物を被《き》て、冠《かんむり》をかぶった上品な人でございました。それがわたくしの枕もとへ参りまして、自分の命はきょう翌日《あす》に迫っている。どうぞあなたの力で救っていただきたいと、こう申すのでございます。そこで、一体あなたは何処のお方ですかと訊きますと、わたくしは無量寺門前の草履屋《ぞうりや》の藤吉という人の家《うち》にいる。そこへお出でになれば自然にわかると、云うかと思うと夢が醒めました。なにぶんにも夢のことでございますから、そのままにして置きましたのですが、夜になって考えますと、なんだか気にもなりますので、とうとう思い切って今時分に伺いましたようなわけでございますが……」
いよいよ判らないことを云い出すので、お徳はただ黙って聴いていると、女はひと息ついて又語り出した。
「それも夢だけのことでございましたら、わたくしもそれほどには気にかけないのでございますが、実はけさになってみますと、枕もとに魚の鱗《こけ》のようなものが一枚落ちていましたので……。それは紫がかった金色《こんじき》に光っているのでございます」
お徳の顔色は俄かに動いて、おもわず台所の方をみかえると、そこでは大きい魚の跳ねるような音がきこえた。女客も俄かに耳を引っ立てた。
「あ、奥で何か跳ねるような……」
お徳はやはり黙っていた。
「唯今申し上げたことで、何かお心あたりのようなことはございますまいか」と、女はしずかに云った。
「別にどうも……」と、お徳はあいまいに答えたが、その声は少しふるえていた。
「まったくお心あたりはないでしょうか」
台所ではまた魚の眺ねる音がきこえた。女はその物音のする方を伸びあがるようにして覗《のぞ》きながら、また云い出した。かれの声も少しふるえていた。
「お願いでございます。お心あたりがございますならば、どうぞ教えていただきたいのでございますが……」
その訴えるような声音《こわね》が一種の恨みを含んでいるらしくも聞えたので、お徳はまた俄かにぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。さっきからの話を聴いて、お徳も内々は思いあたることが無いでもなかったのである。実を云うと、夫の藤吉はこのあいだから彼《か》の江戸川のどんど[#「どんど」に傍点]橋のあたりへ忍んで行って、禁断のむらさき鯉の夜釣りをして、現にゆうべも一|尾《ぴき》の大きい鯉を釣りあげて来た。それに味を占めて、かれは今夜も宵から釣道具を持ち出して行ったのである。ゆうべの鯉は盥《たらい》に入れたままで台所の揚げ板の下に隠してある。それを知っているらしい彼の女は、いったい何者であろうかと、お徳は不安に思った。
女の話がほんとうであるとすれば、鯉がその夢に入って救いを求めたものであろう。もし又それが嘘であるとすれば、夫が殺生禁断を犯しているのを知って、ひそかにその様子を探りに来たのかも知れない。どちらにしても薄気味のわるい女客を、お徳はどうあしらってよいか判らなかったが、この女が入り込むと同時に、今までおとなしかった台所の鯉が俄かにたびたび跳ねあがるのも不思議であるばかりか、女の顔に愁いを帯び、女の声に恨みを含んでいるらしいのが、お徳をいよいよ恐れさせた。あるいはその夢ばなしは作り事で、この女はかのむらさき鯉に何かの因縁のあるものではあるまいかという疑いも湧き出して、かれは更に薄暗い行灯の灯《ひ》かげで女の姿をよく視ると、女の髪は水を出て来たように湿《ぬ》れていた。今は雨も止んでいるのに、かれはどうして湿れて来たのかと、お徳のうたがいは一層強くなった。この女は水から出て来たのではあるまいかと思うと、気の強い女房も俄かにぞっとしたのである。
「あの、奥の方で何か跳ねているのは、なんでございましょう」と、女は訊《き》いた。
「そんな音がきこえましたか」と、お徳は白らばっくれてこたえた。「雨だれの音じゃありませんかしら」
その苦しい云い訳を打ち消すように、台所の鯉はまた跳ねた。
「おかみさん、どうぞお隠しなさらないでください」と、女はいよいよ恨めしそうに云った。「唯今も申す通り、わたくしの枕もとに紫の鱗が落ちていました。奥で今跳ねているのは確かに魚でございます。魚の跳ねる音でございます。一生のおねがいでございますから、どうぞその魚を一度みせてください。その魚はきっとむらさきに相違ございません」
お徳ももう返事に困って、唯おどおどしていると、女の様子がだんだんと物凄く変って来た。
「ごめんください。ちょっと奥へ行って拝見してまいります」
女は起って奥へゆきかけるのを、お徳はさえぎる力もなかった。女の起ったあとを見ると、そこの畳の上は陰《くも》ったように湿《ぬ》れているので、かれは又ぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。
二
むらさきの鯉は怪しい女の手によって、台所のあげ板の下から持ち出された。鯉はかれの両袖にかかえられて、おとなしく運び去られるのを、女房は唯うっかりと眺めていると、女は帰るときにお徳に云った。
「どうもありがとうございました。今のわたくしとしては別にお礼の致しようもございませんが、これからは蔭ながらおまえさん方夫婦の身の上を守ります」
かれは足音もしないように表へ出て、その姿は五月《さつき》の闇に隠されてしまった。それを見送って、お徳はほっ[#「ほっ」に傍点]とした。かれは夢をみているのではないかとも疑ったが、だんだんに落ち着いてかんがえると、怪しい女はどうも江戸川の水の底から抜け出して来たらしく思われてならなかった。それが普通の人間ならば、いかに夢の告げがあったからといって、人の家の魚をただ取ってゆくという法はない。それに対して相当の償《つぐな》いをしてゆくべき筈であるのに、今のわたくしとしては別にお礼のしようもないと彼女は云った。その代りに、蔭ながらお前たち夫婦の身の上を守るとも云った。そんなことは普通の人間の云うべき詞《ことば》ではない。かれはおそらく一種の霊あるものであろうと、お徳は想像した。そうして、かれが再び引っ返して来るのを恐れるように、お徳は表の戸に栓をおろした。
「それでもすなおに鯉をわたしてやってよかった。うっかり逆《さか》らったらどんな祟りを受けたかも知れない」
禁断の魚を捕るということがすでに逃がれがたい罪である。その不安に絶えずおびやかされている矢さきへ、測《はか》らずも今夜のような怪しい女に襲われて、お徳はいよいよその魂をおののかせた。夫が帰ったならばすぐにこの話をして聞かせて、今夜かぎりに夜釣りを止めさせなければならないと思いながら、再び長火鉢の前に坐りかけると、檐《のき》の雨だれの音がときどきに聞え始めた。又ふり出したのかと耳をかたむけると、雨の音はだんだんに強くなるらしい。それが今夜のお徳に取り分けて侘《わび》しくきこえて、洗いざらしの単衣《ひとえ》の襟がなんだか薄ら寒く感じられた。かぜでも引いたのかと、肩をすくめて身ぶるいする時、表の戸を軽くたたく音がきこえた。亭主が帰って来たのだろうと思いながら、さっきの女客におびえているお徳はすぐに起つのを躊躇していると、外では焦《じ》れるように小声で呼んだ。
「おい。もう寝たのか」
それが夫の声であると知って、お徳は先ず安心した。
「おまえさんかえ」
「むむ、おれだ、おれだ。早くあけてくれ」と、外では小声で口早に云った。
お徳は急いで表の戸をあけると、竹の子笠をかぶった藤吉がずぶ濡れになってはいって来た。かれは手になんにも持っていなかった。
「釣り道具は……」と、お徳は訊いた。
「それどころか、飛んだことになってしまった」
手足の泥を洗って、湿《ぬ》れた着物を着かえて、藤吉はさも疲れ果てたように長火鉢の前にぐったりと坐った。かれは好きな煙草ものまないで、まず火鉢のひきだしから大きい湯呑みを取り出して、冷《さ》めかかっている薬罐《やかん》の湯をひと息に三杯ほども続けて飲んだ。ふだんから蒼白い彼の顔が更に蒼ざめているのを見て、女房の胸には又もや動悸が高くなった。
「おまえさん。どうしたのよ」
気づかわしそうにのぞき込む女房の眼のひかりを避けるように、藤吉はうつむきながら溜息をついた。
「悪いことは出来ねえ。どうも飛んだことになった」
「だからさ、その飛んだ事というのは……。焦れったい人だねえ。早く、はっきりとお云いなさいよ」
「実は……。為さんが川へ引き込まれた」
為さんというのは、町内のちいさい紙屋の亭主で、草履屋とはまったく縁のない商売でありながら、藤吉とは子供のときの手習い朋輩といい、両方がおなじ釣り道楽の仲間であるので、ふだんから親しく往きかいして、岡釣りに沖釣りに誘いあわせて行くことも珍らしくなかった。その道楽が遂に二人を禁断の釣り場所へ導くようにもなったので、お徳は自分の亭主の罪を棚にあげて、その相棒の為さんを悪い友達としてひそかに怨んでいた。しかも、その為さんが川へ引き込まれたと聞いては、かれも驚かずにはいられなかった。
「為さんが引き込まれた……。河童《かっぱ》にかえ」
「河童や河獺《かわうそ》じゃあねえ。魚《さかな》にやられたんだ。おれも驚いたよ」と、藤吉は顔をしかめてささやいた。「いつもの通りに堤《どて》を降りて、ふたりが列《なら》んで釣っていると、やがて為さんが小声で占めたと云ったが、なかなか引き寄せられねえ。よっぽど大きいらしいから跳ねられねえように気をつけねえよと、おれも傍から声をかけたが、なにしろ真っ暗だから見当が付かねえ。それでもどうにかこうにか綾なして、だんだんに手元へひき寄せたらしく、為さんは手網《たも》を持って掬いあげようとする。その途端に、今まで暗かった水の上が急に明るくなって、なんだか知らねえが金のようにぴかぴかと光ったものがあるかと思うと、大きい魚が跳ねかえる音がして、為さんはあっ[#「あっ」に傍点]という間もなしにすべり込んでしまったので、おれもびっくりして押えようとしたが、もういけねえ。暗さは暗し、このごろの雨つづきで水嵩は増している。しょせん手の着けようもねえので、おれも途方に暮れてしまったが、それでも川下《かわしも》の方へ流されて行くうちには、どこかの岸へ泳ぎ付くことがあるかも知れねえと、暗い堤下を探るようにして、どんどん[#「どんどん」に傍点]の堰《せき》の落ち口まで行ってみたが、真っ暗な中で水の音がどんどときこえるばかりで、為さんの上がって来る様子はねえ。為さんもひと通りは泳げるんだが、なにしろ馬鹿に瀬が早いからどうにもならなかったらしい」
「おまえさん、呼んでみればいいのに……」と、お徳は喙《くち》を容れた。
「それが出来ねえ」と、藤吉は首をふってみせた。「これがほかの所なら、為さんを呼ぶばかりじゃあねえ。大きい声で近所の人を呼んで、なんとか又、工夫《くふう》のしようもあるんだが、なにをいうにも場所が悪い、うっかり大きな声を出してみろ、こっちの身の上にもかかわることだ。もうこうなったら仕方がねえ、これもまあ為さんの運の悪いのだと諦めて、おれもそのまま帰って来たが、どうも心持がよくねえ。ああ、忌《いや》だ、忌《いや》だ」
「ほんとうに忌だねえ」と、お徳も溜息をついた。「だから、あたしがお止しと云うのに、お前さん達が肯《き》かないで出て行くからさ。為さんのことばかりじゃあない、内にも忌なことがあったんだよ」
「どんな事があったんだ」と、藤吉は不安らしく慌てて訊いた。「まさか為さんが来た訳じゃあるめえ」
「為さんが来るものかね。ほかに何だかおかしい女が来たんだよ」
怪しい女に鯉を抱え出された一件を女房の口から聴かされて、藤吉はいよいよ顔の色を変えた。
「そりゃあどうもおかしいな。その女はいってえ何者だろう」
「ねえ、もしや川から出て来たんじゃ無いかしら」と、お徳は摺り寄ってささやいた。
「むむ。おれも何だかそんな気がする。ゆうべ釣って来たのは雄《おす》の鯉で、その雌《めす》が取り返しに来たんじゃあるめえかな」
「返してやったからいいようなものだが、なんだか気味が悪いね」
「どうも変だな」
と、藤吉は今更のように表をみかえった。
「外では為さんがあんなことになる。内ではそんな女が押し掛けて来る。どう考えても、むらさきが俺たちに祟っているらしい。まったく悪いことは出来ねえ。もう、もう、これに懲《こ》りて釣りは止めだ」
「それにしても、越前屋の方はどうするの。まさかに知らん顔をしてもいられまいじゃないか」
「それをおれも考えているんだ。おれと一緒に行くことは、おかみさんも知っているんだからな」
「それだから知らん顔はしていられないと云うのさ。おまえさん、これから行って早く知らしておいでなさいよ」
「これから行くのか」と、藤吉は再び顔をしかめた。
「だって、打っちゃっては置かれまいじゃないか。夜が更《ふ》けても直ぐそこだから、早く行っておいでなさいよ」
追い出すように急《せ》き立てられて、藤吉は渋々ながら出て行った。
三
「あの人はなにをしているんだろう」
それから二刻《ふたとき》あまりを過ぎても亭主の藤吉は帰らないので、お徳はまた新らしい不安を感じ出した。そのころの二刻といえば今の四時間である。藤吉が出て行ったのは四ツを少し過ぎたころで、市ヶ谷八幡の鐘が夜《よる》の八ツ(午前二時)を撞《つ》いてからもう小半刻も経ったかと思うのに、かれはまだ帰って来なかった。あるいは越前屋の女房にたのまれて、為さんの死骸を探しにでも行ったのかとも思ったが、何分にもいろいろの奇怪な事件がそれからそれへと続出するのにおびやかされている彼女は、どうも落ち着いてはいられないような気がするので、更けてますます降りしきる雨の中を越前屋へたずねて行った。
越前屋は小半町しか距《はな》れていないので、すぐに行き着くと、紙屋の店は表の戸をおろしてひっそりしている。常の時ならばそれが当然であるが、今夜こんなに寝鎮まっているのをお徳はすこし不思議に思いながら、ともかくもそっと戸を叩くと、内では容易に返事がなかった。焦《じ》れて幾たびか強く叩くと、小僧の寅次が寝ぼけ眼《まなこ》をこすりながら起きて来た。
「あの、内の人は来ていますかえ」と、お徳は待ちかねて訊《き》いた。
「いいえ」
「来ていませんか」
「今時分藤さんが来ているものか」と、寅次は腹立たしそうに云った。
「おかみさんは……」と、お徳はまた訊《き》いた。
「奥に寝ていますよ」
「旦那は……」
「旦那も寝ていますよ」
お徳はびっくりした。鯉を釣りあげ損じて、川流れになった筈の為さんが無事に寝ているというのは案外であった。ほんとうに寝ているのかと念を押すと、寅次は確かに寝ていると云った。ゆうべ何処へ行って、何刻《なんどき》に帰って来たかと詮議すると、旦那は五ツ(午後八時)頃に出て行って、四ツ少し過ぎに帰って来たらしい。自分は四ツを合図に店を閉めて寝てしまったから、よくは知らないと寅次は云った。それでもお徳の不審はまだ晴れないので、旦那かおかみさんを起こしてくれと又頼むと、寅次は不承不承《ふしょうぶしょう》に奥へはいったが、やがて女房のお新を連れ出して来た。
「あら、お徳さん。今時分どうしたの。藤さんが急病人にでもなったんですか」と、お新は不思議そうに云った。
「実はこちらへ来ると云って、ふた刻も前に出たんですが、まだ帰って来ないので、なにをしているのかと様子を見に来たんですよ」と、お徳は正直に答えた。
「藤さんが……」と、お新は眉をよせた。「今夜は一度も見えませんよ」
「あら、そうですか」
お徳は煙《けむ》にまかれてぼんやりと突っ立っていた。ゆうべからの事をかんがえると、かれはやはり夢でも見ているのか、それとも八幡の森の狐にでも化かされているのかと、自分で自分を疑うようにもなった。
「為さんはお内ですね」
再び念を押すと、お新は内にいるとはっきり答えた。その上に詮議のしようもないので、お徳は気が済まないながらも一旦は空《むな》しく引き揚げるのほかはなかった。
「藤さんは浮気者だから、ここの家《うち》へ来るなんて旨いことを云って、どっかへしけ込んでいるんじゃありませんかえ」と、お新は笑っていた。
年下の女にからかわれて、この場合、お徳も少しむっ[#「むっ」に傍点]としたが、そんなことを云い争っている時でもないので、かれはそれを聞き流して怱々《そうそう》に帰った。それにしても亭主はどこへ行ったのであろう、もしや留守のあいだに帰っているかも知れないと、急いで内へはいってみると、内は行灯を消したままで藤吉はまだ帰っていなかった。
死んだはずの為さんは生きていて、生きていたはずの亭主がゆくえを晦《くら》ましたのである。為さんは無事に泳ぎついて助かったのかも知れないが、亭主のゆくえ不明がどうしても判らなかった。それともお新の云うように、いい加減のこしらえ事をして何処かの色女のところに隠れ遊びをしているのかと、お徳は半信半疑のうちにその夜をあかした。
雨は暁方《あけがた》から又ひとしきり止んで、梅雨とは云っても夏の夜は早く白《しら》んだ。ゆうべは碌々に眠らなかったお徳は、早朝から店をあけて亭主の帰るのを待っていたが、藤吉はやはりその姿をみせなかった。もう一度、越前屋へ行って、亭主の為さんに逢って、くわしいことを詮議して来ようと思っているところへ、飛んでもない噂がここらまで伝わってお徳をおどろかした。藤吉の死骸が江戸川のどんど[#「どんど」に傍点]橋の下に浮かんでいたというのである。自分が追い立てるようにして越前屋へ出してやった亭主の藤吉が、どうして再び江戸川の方角へ迷って行って、そこに身を沈めるようになったのか。ゆうべ死んだというのは、為さんでなくて藤吉であったのか。ゆうべ帰って来たのは幽霊か。なにが何やら、お徳にはちっとも判らなくなってしまった。
なにしろ其の儘にしては置かれないので、お徳はとりあえずその実否《じっぴ》を確かめに行こうとすると、家主《いえぬし》もその噂を聴いて出て来た。家主と両隣りの人々に附き添われて、お徳はこころも空に江戸川堤へ駈けつけると、死骸はもう引き揚げられていた。あら菰《ごも》をきせて河岸の柳の下に横たえてある男の水死人はたしかに藤吉に相違ないので、附き添いの人々も今更におどろいた。お徳は声をあげて泣き出した。
死骸は検視の上でひと先ずお徳に引き渡されたが、その場所が御留川であるので、詮議は厳重になった。藤吉の死骸には少しも疵のあとが無いので、おそらく覚悟して身を投げたものであろうとは想像されたが、たとい自殺にしても一応はその仔細を吟味しなければならないというので、女房のお徳はきびしく取り調べられた。それに対して、お徳も最初は曖昧の申し立てをしていたが、しまいには包み切れなくなって、ゆうべの出来事を逐一に申し立てたので、草履屋の藤吉が越前屋の亭主と御留川へ夜釣りに行ったことや、その留守のあいだに怪しい女のたずねて来たことや、藤吉が一旦帰って来て更に越前屋へゆくと云って出たことや、それらの事実がすべて係り役人の耳にはいった。
越前屋の亭主はすぐに召し捕られて吟味を受けた。かれはその名を為次郎と云って、当年三十五歳である。女房のお新は二十七歳、小僧の寅次は十五歳で、一家はこの夫婦と小僧との三人暮らしであるが、親ゆずりの家作三軒を持っていて、店は小さいが内証は苦しくない。世間の附き合いも人並にして、近所の評判も悪くなかった。為次郎は役人の吟味に対して、自分はこれまでに草履屋の藤吉と誘いあわせて岡釣りや沖釣りに出たことはあるが、御留川の江戸川などへ夜釣りに行ったことは一度もないと申し立てた。それではお徳の申し口とまったく相違するので、役人はいろいろに吟味したが、かれはどうしても覚えがないと云い張った。ゆうべは神田の上州屋という同商売の店に不幸があったので、その悔みに行って四ツ過ぎに帰って来たのであると彼は云った。念のために神田の上州屋を調べると、果たして為次郎は宵から悔みに来て、四ツ少し前に帰ったということが確かめられた。
こうなると、役人の方でも何が何やら判らなくなって来た。お徳は自分の亭主の云うことを一途《いちず》に信じて、為さんも夜釣りの仲間であると申し立てているものの、実はふたりが連れ立って出るところを一度も見たことはないのであった。禁断を犯す仕事であるから、二人は忍び忍びに家を出て、どんど[#「どんど」に傍点]橋のわきで落ち合うことになっていたように聴いていると彼女は云った。してみると、藤吉は何かの都合で女房をあざむいて、自分ひとりで夜釣りに出ていたものかとも思われる。それにしても越前屋の亭主が鯉を釣り損じて川に落ちたなどという出たらめをなぜ云ったのか。そうして、自分がなぜ入水《じゅすい》したのか。又かの怪しい女は何者か、その女と藤吉とのあいだに何かの関係があるのか無いのか、役人たちもその判断に苦しんだ。
「どうだ、半七。あらましの本読みはこの通りだが、これだけじゃあ芝居も幕にならねえ。なんとか工夫して、めでたく打ち出しまで漕ぎ付けてくれ」と、八丁堀同心の村田良助が半七を呼んで云った。
「かしこまりました。まあ、なんとかこじつけてみましょう。しかし御寺社《おじしゃ》の方はよろしいのでございましょうな」
寺の門前地は寺社奉行の支配で、町方《まちかた》の係りではない。そこへみだりに踏み込むことは出来ないので、半七が一応の念を押すと、良助はうなずいた。
「それは寺社の方から云って来たのだから、仔細はねえ。どこまでも踏み込んで片付けてくれ」
四
「さあ、これからの筋道を順々に講釈していては長くなる。いつまでも聴き手を焦らしているのが能《のう》でもありませんから、ちっと尻切り蜻蛉《とんぼ》のようですが、おしまいの方は手っ取り早くお話し申しましょう」と、半七老人は云った。「それから五日ばかりののちに、この一件もみんな埒があきましたよ」
「はあ、どういうふうに解決がつきました」と、わたしは熱心に訊《き》いた。「一体その怪談がかった女は何者ですか」
「いま時の方はまさか鯉の雌が女に化けて、自分の雄を取り返しに来たとも思わないでしょうが、昔の人間はみんなそう思ったんですよ」と、老人はまた笑った。「そこで、その怪談の主人公の女というのは、以前は西川|伊登次《いとじ》という看板をかけていた踊りの師匠で、今では高山という銀座役人の囲いものになって、牛込の赤城下《あかぎした》にしゃれた家を持って贅沢に暮らしている。銀座役人は申すまでもなく、銀座に勤める役人ですが、天下通用の銀を吹く役所にいるだけに何か旨いことがあるとみえて、こういう勤め向きの者はみんな素晴らしい贅沢をしていました。そのお気に入りの囲い者ですから、伊登次も今は本名のお糸になって、表がまえはともかくも、内へはいってみると実にびっくりするような立派な家に住んでいるという訳で、旦那の高山は三日にあげずに通って来る。ときどきには同役や御用達《ごようたし》町人なども連れて来る。そこで、かの事件のあった晩にも、高山は五人の同役をつれて来て、宵からお糸の家の奥座敷で飲んでいるうちに、いろいろの食道楽の話が出て、おれは江戸川のむらさき鯉を一度食ってみたいと云い出した者がある。いやなに、普通の真《ま》鯉でも紫鯉でも別段に変りはあるまいという者もある。それが昂じて高山も、物はためしだ、おれも一度は是非その鯉を食いたいと云うと、酌をしていたお糸はなんと思ったか、旦那がそれほどに喫《た》べたいと仰しゃるなら、わたくしがすぐに取ってまいりますと云う。これにはみんなも驚いて、さすがは高山の奥方だ。ほんとうにその鯉を取って来て下さるなら、我々もその御相伴《おしょうばん》にあずかりたいものだと冗談半分にがやがや云うと、お糸はどうぞ暫くお待ちくださいと云って座を起った。こっちは酔っているので別段気にも留めないで飲んでいると、お糸はいつまでも座敷へ戻って来ない。どうしたのだと女中に訊《き》くと、さっき表へ出たぎりで帰らないという。それではほんとうに取りに行ったのかとは云ったが、よもやと思って笑っていると、やがてお糸がお待ち遠さまでございましたと持ち出して来た皿の上には、眼の下一尺あまりもあろうという大きな鯉が生きていて、しかもその鱗《こけ》が燭台の灯《ひ》にも紫に映ったので、みんなもあっ[#「あっ」に傍点]と驚く。高山は上機嫌で、なるほどお糸でなければ出来ない芸だ。方々《かたがた》も褒めておやりなされ、この高山も褒めてやるぞと、飛んだ陣屋の盛綱を気取って、扇をあげて褒めそやすと、ほかの連中も偉い偉いと扇をひらいて煽ぎ立てる。いや、実にばかばかしい話ですが、昔はこんな連中がいくらもあったものです。天下の役人がこの始末、まったく江戸も末でしたよ」
「すると、そのお糸という女が草履屋の店へ化け込んだのですね。それにしても、どうしてその鯉のあることを知っていたのでしょうね」
これは私でなくとも当然に起るべき疑問であろう。半七老人はご尤もとうなずいて、又しずかに語り出した。
「それは自然にわかります。まあ、おちついてお聴きください。この探索をはじめる時に、わたくしはきっとこの事件には魚屋《さかなや》が係り合っていると睨みました。草履屋の亭主はどんなに鯉が好きか知りませんけれども、自分が食うばかりでなく、どこへか売り込むに相違ない。それには魚屋の味方があると思いましたから、女房のお徳をだんだんに詮議すると、案のじょう、近所の川春《かわはる》という仕出し屋の手でどこへか持ち込むことが判りました。川春はなかなか大きい店で、旗本屋敷や大町人の得意場を持っている。前に云ったような人間の多い時代ですから、旗本の隠居や大町人の贅沢な奴らが川春の宇三郎にたのんで、御留川のむらさき鯉を食うのがある。魚の味は格別に変りはないのですが、そこが贅沢で、食えないものを食うという一種の道楽です。宇三郎はそこを附け込んで、うまい儲けをする。しかし自分たちが迂濶に釣ったり、網を入れたりすると、商売柄だけにすぐに眼につくという懸念《けねん》から、ふだんから心安い藤吉を抱き込んで、こいつにそっと釣らせていたんです。
お徳の白伏でこれだけのことは判りましたが、鯉を取りに来たという女の正体がまだわからない。そこで更に手をまわして探索すると、この仕出し屋の料理番をしている富蔵という小粋な若い奴が、高山の囲い者のお糸と出来合っていることを探り出しました。富蔵はお糸が師匠をしている時からの馴染《なじみ》で、今も内所で逢い曳きをしている。それがわかったので、わたくしは子分の松吉に云いつけて、富蔵が近所の朝湯に行って帰る途中を引き挙げさせてしまいました。お徳の白状もあるのですから、すぐに宇三郎を召し捕ってもいいんですが、宇三郎という奴はなかなか食えない老爺《おやじ》らしいので、下手に当人を引き挙げて強情にシラを切っていられると面倒ですから、まず料理番の富蔵をおさえて、こいつの口から動かない証拠を挙げてしまおうと思ったんです。富蔵は案外に意気地のない奴で、ちょっと嚇かしたらすぐに何もかもしゃべってしまったばかりか、ほかに案外のことまで吐き出しました。それが即ちお糸の一件です。
草履屋に鯉のあることをお糸がどうして知っていたかと云うと、この富蔵の口から聴いたんです。その前の晩、近所の女髪結の家《うち》の二階でお糸と富蔵とが逢った時、富蔵はいろいろの話のうちに、草履屋の藤吉が江戸川のむらさき鯉を内証で持ち込んで来ることを話しました。まだそればかりでなく、藤吉がだんだんに増長して、なにしろ御法度《ごはっと》破りの仕事だから、今までのように一|尾《ぴき》二分では売られない、これからは一尾一両ずつに買ってくれと云い出したが、宇三郎は承知しない。現にきょうもその捫著《もんちゃく》で、藤吉は一尾を売らずに帰ったという話をしたので、草履屋の家に一尾の鯉のあることをお糸は知っていたのです。お糸もその時は何の気無しに聴いていたんですが、その明くる晩に旦那の高山が同役を連れて来て、前に云ったようなわけで紫鯉の話が出ると、お糸は不図《ふと》ゆうべの富蔵の話をおもい出した。ここで一番自分の腕を見せてやろうという料簡になって、その鯉をすぐに取って来ようと安請け合いに受け合った。当人の腹では、色男の富蔵にたのんで、藤吉から売って貰うつもりであったんですが、あいにくに富蔵はどこへか出て行った留守で、川春の店にいない。と云って、立派に受け合って来た以上、今さら素手《すで》では帰れない。見ず識らずの草履屋へ行って、だしぬけに鯉を売ってくれと云ったところで相手が取りあう筈もない。思案に暮れた挙げ句の果てに、思いついたのが怪談がかりの狂言で、そこらの井戸の水か何かで髪をぬらしたり着物を湿《ぬ》らしたりして、草履屋の店へたずねてゆくと、丁度に亭主は留守で女房ひとりのところ。こっちは踊りの師匠ですから、身振りや仮声《こわいろ》も巧かったんでしょう、なんだか仔細らしく物すごく持ち掛けて、まんまと首尾よくその鯉をまきあげて行ったのには、芝居ならばこのところ大出来大出来というところかも知れません」
「いや、わかりました。なるほどお糸という女はなかなかの芝居師ですね。そこで、藤吉の方はどうしたのです」と、わたくしは追いかけて訊《き》いた。
「ここまでお話をすれば、あなた方にも大抵鑑定が付くでしょう。こうなれば、もう訳はありませんよ」と、老人はまだ判らないかと云うようにわたしの顔を眺めながら、息つぎの煙草を一服吸った。
「わたくしは富蔵の顔を睨んで、やい、てめえの頸のまわりや手の甲に引っかき疵のあるのはどうしたんだ。まさかに囲い者と痴話喧嘩をしたわけでもあるめえ。てめえ達はあの藤吉をどうしたと、頭から呶鳴り付けると、野郎め、蒼くなって縮み上がってしまいました。
川春の亭主の宇三郎という奴は、ぼてえ[#「ぼてえ」に傍点]振りの魚屋から一代でそれだけの店に仕上げたくらいの人間ですから、年はもう六十に近いのですが、からだも頑丈で気も強い。藤吉が足もとを見てねだり掛けても、相手はびくともする奴じゃありません。藤吉はあべこべに云いまくられて、そのくやしまぎれに、お前が禁断のむらさき鯉を売り込んで、荒っぽい銭儲けをしているということを俺が一と言しゃべったら、ここの家《うち》にぺんぺん草が生えるだろうとか何とか嚇し文句をならべて立ち去っても、宇三郎はおどろかない。そんなことを迂濶に口外すれば宇三郎ばかりでなく、第一にわが身の上が危ういから、藤吉は忌々《いまいま》しいながらも我慢するよりほかはない。それで泣き寝入りにしていれば何事も無かったんですが、藤吉にも金の要ることがある。その訳はあとで話しますが、その晩も夜釣りに行くと云って家を出て、実は宇三郎の家へ行って、もう一遍かけ合ってみる積りで、川春の店さきまで行きかかると、丁度に料理番の富蔵が表に立っていたので、それを物蔭へよび出して、きのうの喧嘩はわたしが悪かったからおまえから親方によく話して、一尾一両の相談をきめてくれと頼んだが、富蔵は取りあわない。おれはほかに行くところがあるからと振り切って行こうとするのを、藤吉がひき留める。それがまた喧嘩のはじまりで、気の早い富蔵は相手の横っ面をぽかり[#「ぽかり」に傍点]となぐりつけると、藤吉はかっ[#「かっ」に傍点]となって富蔵の胸倉を引っ掴むと、そのはずみに喉を強く絞めたとみえて、富蔵はそのままぱったり倒れてしまったので、藤吉はびっくりして逃げ出した。
藤吉だって悪い人間じゃあない、根は正直者なんですから、たとい粗相とは云いながら相手を殺した以上は、自分も下手人に取られなければならない。それが恐ろしさに、半分は夢中でそれからそれへと逃げ廻って、夜ふけを待って自分の家《うち》へこっそりと帰って来たらしい。しかしなんだか気が咎めるので、女房にむかって越前屋の為さんが川へ落ちて流されたなどと出たらめを云った。なぜそんな嘘ばなしをしたかというと、今も申す通り、なんだか気が咎めてならないからでしょう。犯罪人というものは妙なもので、自分の悪事を他人事《ひとごと》のように話して、それで幾らか自分の胸が軽くなるというような場合がある。藤吉もやはり其の例で、その時に何かそんなことを云わなければ気が済まなかったらしいんです。女房はそれを真《ま》に受けて、早く越前屋へ知らしてやれ、と云う。今更それは嘘だとも云えない破目《はめ》になって、よんどころなしに表へ出たが、もとより越前屋へ行くわけには行かない。そこでその後の様子を窺うために、川春の店さきへ忍んで行って戸の隙間から覗いていた。勿論、死人に口無しで確かなことは判りませんが、前後の事情から推して行くと、そう判断するよりほかはないんです。
富蔵は一旦気絶したが、川春の店の者が見つけて内へ連れ込んで、水や薬を飲ませると、すぐに息をふき返して、何事もなく済んでしまったのです。そうと知ったら藤吉も安心したんでしょうが、間違いの起るときは仕方がないもので、一生懸命に内の様子をうかがっていると、そこへまた丁度に帰って来たのが亭主の宇三郎です。近所の二階に花合わせや小博奕の寄り合いがあって、いい旦那衆も集まって来る。これを内会《ないかい》と云います。宇三郎もその内会に顔を出して、夜なかに家へ帰ってくると、表には変な奴が覗いている。提灯の灯《ひ》で透かしてみるとかの藤吉なので、この野郎、今度はおれを殺しにでも来たのかと、襟首をつかんで内へ引き摺り込む。藤吉はうろたえて逃げ出そうとする。宇三郎は追いまわす。御承知の通り、仕出し屋のことですから店には洗い場があって、そこには大きい内井戸がある。普通の井戸とは違いますから、井戸側が低く出来ている。藤吉は逃げ廻るはずみに井戸端で足をすべらせて、井戸側へよろけかかったかと思うと、さかさまに転げ込んでしまった。その騒ぎに店の者も起きて来て、すぐと引き揚げたが藤吉はもう息が絶えている。富蔵と違って生き返りそうもない。といって、迂濶に医者を呼んでは、あとが面倒です。宇三郎は家内のものに口止めをして、夜ふけを幸いに藤吉の死骸をおもてへ運んで、そっと江戸川へ捨てさせました。死骸は大きい御膳籠《ごぜんかご》に入れて、富蔵と出前持ちふたりが持ち出して行ったのです」
「では、紙屋の亭主はなんにも係り合わなかったのですか」
「まったくなんにも知らないんです。ふだんから藤吉と釣り仲間ではありましたが、鯉の一件には係り合いの無いことが判りました。御承知かも知れませんが、赤城下はその以前に隠し売女《ばいた》のあったところで、今もその名残《なごり》で一種の曖昧茶屋のようなものがある。そこの白首《しろくび》に藤吉は馴染が出来て、余計な金が要る。御留川の夜釣りも畢竟《ひっきょう》はそういう金の要《い》り途《みち》があるからで、女房の手前は毎晩夜釣りに行くように見せかけて、三度に二度はその女のところへ飛んだ夜釣りに出かけていたんです。そういう時には今夜はあぶれたと誤魔化していたんですが、それでも自分ひとりでは何だか疑われそうに思われるので、釣り仲間の為さんも一緒だなどといい加減なことを云っていたらしい。紙屋の亭主こそ実に迷惑で、それがために思いもよらない災難をうけて、一旦は召し捕られたり、その後もたびたび番所へ呼び出されたり、どうもひどい目に逢いましたが、右の事情が判って無事に済みました。川春の宇三郎は死罪、富蔵は吟味中に牢死、出前持ちふたりは追放だとおぼえています。宇三郎の白状で、鯉を食った者はみんな判っているんですが、身分のある人は迂濶に詮議も出来ず、大町人は金を使って内々に運動したのでしょう、その方の詮議はすべて有耶無耶《うやむや》になってしまいました。高山もお糸も無事でしたが、この一件から富蔵との秘密がばれたらしく、お糸は旦那の手が切れて何処へか立ち去ったようでした」
底本:「時代推理小説 半七捕物帳(四)」光文社文庫、光文社
1986(昭和61)年8月20日初版1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:おのしげひこ
1999年12月27日公開
2004年3月1日修正
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