沖野岩三郎

馬鹿七—— 沖野岩三郎

    一
 紀州《きしう》の山奥に、狸山《たぬきやま》といふ高い山がありました。其所《そこ》には、大きな樫《かし》だの、樟《くす》だのが生え繁《しげ》つてゐる、昼でも薄暗い、気味の悪い森がありました。森の中には百|穴《あな》といふのがありました。其《そ》の穴の中から、お腹《なか》の膨れた古狸が、夕方になると、百|疋《ぴき》も二百疋も、ノソノソと這《は》ひ出して来て、ポンポコ/\/\と腹鼓を打つて踊つたり跳ねたりするといふので、村の人達《ひとたち》は皆な気味悪く思つて、昼でもその森の中へ入つて行くものはありませんでした。
 この村に、七|郎兵衛《らうべゑ》といふ五十あまりの男がありました。七郎兵衛は少し馬鹿《ばか》な男でしたから、村の人達は、馬鹿《ばか》七、馬鹿七と呼んでゐました。七郎兵衛自身も、馬鹿七といはれて平気でゐました。
 この馬鹿七は平生《へいぜい》から、狸山へ行つて一度その狸の腹鼓を聞いて見たいものだ、狸の踊る様子を見てやりたいものだと言つてゐましたが、或《あ》る日の夕暮に、たうとう思ひ切つてたゞ一人その森の中へ入つて行きました。
 馬鹿七は腰に山刀をさして、手には竹の杖《つゑ》を一本提げてゐました。そして段々、山を奥へ奥へと登つて行つて、大きな暗い/\森の中へ入つてしまひました。
「何と大きな樟の樹《き》だなア、何と大きな樫の樹だなア。」と呆《あき》れながら、馬鹿七は真暗《まつくら》い森の中で木の根に腰をかけて、腹鼓の鳴るのを、今か/\と待つてゐました。けれども一時間待つても、二時間待つても、ちつとも狸は出て来ませんでした。で、馬鹿七はたうとう待草臥《まちくたび》れて、ウト/\と其所へ寝てしまひました。
 暫《しばら》くして、ふと、眼《め》を覚して見ると、これはまア何といふ不思議なことでせう。馬鹿七の前には、可愛い/\小い狸の仔《こ》が、百疋も二百疋も、きちんと座つてゐました。しかもそれが皆《みん》なお行儀よく並んで、馬鹿七の方を一生懸命に見詰めてゐるじやアありませんか。馬鹿七は吃驚《びつくり》しましたから、腰の山刀をスラリと引抜いて、振廻しました。すると、その可愛い狸の仔の姿は掻消《かきけ》すやうに消えてしまひました。そして、森はまた元の真闇《まつくら》になりました。
 すると、馬鹿七は又、ぐう/\と鼾《いびき》をかいて、寝てしまひました。暫《しばら》くして眼を覚して見ますと、今度は大きな親狸が、まん円い膨《ふく》れたお腹《なか》を、ずらりと並べて、百も二百も並んでゐるのです。そして皆《みん》な、小い棒切れを両手に持つて、今にもその太鼓を打ち出さうとしてゐるじやありませんか。それを見た馬鹿七は、躍り上つて、
「しめたぞ! 狸さん、早くその太鼓を打《たた》いて、聞かせてお呉《く》れ!」と云つて、ニコニコ笑ひながら、竹の杖に縋《すが》つて伸び上つて見ますと、森の中一面に、大きな古狸が、何百何千となく座つてゐるのです。
「大変な狸だなア、今度は山刀を抜いて脅かしはしない。さア一つその腹鼓を打《たた》いて呉れ!」といつて、また木の根に腰を掛けると、古狸が一斉にポンポコ/\と腹鼓を打《たた》き始めました。すると最前|何所《どこ》かへ逃げた小い可愛い仔狸が、何所からかヒヨコヒヨコと出て来て、面白|可笑《おか》しい手付腰付をして、踊り出して来たのです。
 馬鹿七は余り面白かつたものですから、いつの間にか、自分もその仔狸の群へ交つて、平生から好んでゐた歌を唄《うた》ひながら夢中になつて踊りました。そして踊り疲れて、バツタリ森の中に倒れて眠つてしまひました。
 翌《あく》る朝眼を覚して見ますと、狸らしいものは、其所らあたりに一疋も居りません。自分が仔狸と一緒に、踊つたらしい跡形もありませんでした。
 馬鹿七は首を傾《かし》げながら、森を出て山を降りて、村へ帰りました。そして村の人たちにこの話を致しましたが、皆《みん》な、
「嘘《うそ》だ/\、そんな馬鹿な事があるものか。」といつて、信じませんでした。
「嘘だと思ふなら、皆さんも森の中へ行つてごらんなさい。」と馬鹿七はいひました。
「だつて、昔から誰《たれ》も行かない森だもの、入つて行くのは気味が悪いから……」といつて、矢張《やつぱ》り誰一人、森へ入つて行かなかつたのです。けれども馬鹿七は、大抵月に三度づゝは、この森の中へ入つて行きました。そして、いつもその面白い腹鼓をきいたり、踊りを見て喜んだりして、一夜を山の中で過して帰つて来ました。

    二
 村の庄屋《しやうや》の息子に、智慧蔵《ちゑざう》といふ、長い間江戸へ出て、勉強して来た村一番の学者がありました。或時《あるとき》その馬鹿《ばか》七の話を聞いて、
「そんな馬鹿な話があるものか。それは迷信といふものだ。」と申しました。しかし馬鹿七は頭《かしら》を横に振つて、
「いゝえ、迷信でも何でもありません。私《わたし》は確かに太鼓の音を聞いたのです。踊りを見たのです。これより確かなことがあるものですか。」と言ひました。
 そこで、智慧蔵は村の若者十人をつれて、狸山《たぬきやま》へ探検に出かける事になりました。智慧蔵は長い槍《やり》を提げ、若者は各々《めいめい》刀を一本づゝ腰に差してゐました。馬鹿七は元気よく先に立つて、十一人を案内して、山へ登つて行きました。
「森が見えました。狸の腹鼓はあの森の中で聞くのです。」と言つて、馬鹿七が森の方を指しました時、もう若者の顔は大分蒼くなつて、中にはぶる/\と慄《ふる》へてゐる者もありました。
「狸が出て見ろ、片ツ端から刺し殺してしまふから……」
 智慧蔵は元気らしく言ひました。そして其所《そこ》で松明《たいまつ》へ火をつけさせて、若者を励しながら、森の中へ入つて行きました。けれども森の中には、狸らしいものは愚か、鼠の仔《こ》一|疋《ぴき》も見えませんでした。
「それ見ろ、馬鹿七の嘘吐《うそつ》き! 何も出やしないぢやないか。」といつて智慧蔵が大声で呶鳴りました時、向ふの大きな樟《くす》の木の蔭《かげ》から、ポン/\ポンポコ/\/\と面白い太鼓の響が聞えて来ました。
「やア、来た/\、そうれ、あの大きな狸を御覧! 三百、四百、五百、あれ/\彼《あ》の小い可愛い仔狸を御覧、あれ/\……」
 馬鹿七は、もう面白くて堪《たま》らないやうに叫びました。智慧蔵は槍を身構へました。若者は皆《みん》な、刀へ手を掛けました。しかし太鼓の音がするだけで、狸の影も形も見えませんでした。
「そうれ、来た/\、そうれ、その足許へ来たぢやないか。やア/\今晩のは滅法大きい狸ぢや……」といつて馬鹿七が踊り出したので、若者は急に気味悪くなつて、松明をそこへ投げ棄てたまゝ、一目散に森を駈《か》け出しました。
「待て! 逃げるのぢやない。狸も何もゐやアしないぢやないか。」かういつて智慧蔵は声を限りに叫びましたが、若者はそんな声は耳にも留めないで、我一《われいち》にと押合ひへし合ひ山を下の方へ走りました。かうなると最う智慧蔵も堪らなくなつて、一生懸命に森を逃げ出して、無茶苦茶に下の方へ転びながら走つて来て、十五六町も来たと思ふ時分に、振返つて見ますと、これは先《ま》ア、何といふ事でせう。不思議にも、森は一面の猛火に包まれて、焔々《えんえん》と燃えてゐました。それは、若者|達《たち》の投げ棄てた松明の火が、落積つた木の葉に燃え移つて、それが枝から枝に、段々と燃え広がつたのでありました。

    三
 火事だ、火事だ、山火事だ! といつて、村の人達《ひとたち》は、皆《みん》な麓《ふもと》まで駈《か》けつけて来ましたが、何様何千年も斧《おの》を入れた事のない大きな森の大木が燃え出したのですから、見る/\うちに、山一面が火の海になりました。
 山火事は七日の間続きました。そして高い高い狸山《たぬきやま》は、一本の生木もないやうに焼かれてしまひました。火事のあとで、村の人達が上つて行つて見ますと、百穴の中から、這《は》ひ出して来た古狸も仔狸《こだぬき》も、皆な焼け死んでゐました。それを見た智慧蔵《ちゑざう》は、
「これでいゝ、もう狸も出ないし下らない迷信もなくなつた。」といつて喜びました。しかし村の人達は、馬鹿《ばか》七がどうなつたのだらうかと思つて、心配しながら焼跡をすつかり調べて見ましたが、人間らしい者の屍骸《しがい》は何所《どこ》にも見つかりませんでした。
「あんな馬鹿な男は、どうなつたつていゝぢやないか。」と智慧蔵は言ひました。しかし村人は、馬鹿七のために心配してゐました。
 ところが其《その》翌年《よくねん》から、此《この》村に雨が一滴も降らなくなりました。もう川も谷も、水が涸《か》れてしまつて、飲む水にも困るやうになりました。田や畑の作物はすつかり萎《しな》びて、枯れてしまひました。で、多勢はお宮の境内で、太鼓を打《たた》いて歌ひながら、雨乞踊《あまごひをどり》をいたしました。智慧蔵は馬鹿な踊をする奴《やつ》らだと言ひながら、その雨乞踊を見に行きました。
 三百人も四百人も集つて、声を嗄《か》らして歌ひながら、雨乞踊を踊つてゐますと、そこへ向ふの方から、青い物を荷《にな》つた男が、一人やつて来ました。よく/\見ると、それは馬鹿七でありました。
「馬鹿七さん、あなたは焼け死んだのぢやア無かつたのですか。」
と智慧蔵は問ひました。
「いゝえ、この通り生きてゐます。私《わたし》は山火事が起つたので、直《す》ぐ隣りの国へ杉苗を買ひに参りました。御覧なさい。この通り杉苗を三千本買つて参りました。」
「まア、小い杉苗ですね。これを何《ど》うするつもりですか。」
「これをあの狸山へ植ゑて、元の通りの森にするのです。」
「こんな小い苗を植ゑて、元の森にする? 何年後に大きな森になると思ふ?」
「さうさなア、三百年も経《た》てば……。」
「はゝゝゝは、」と智慧蔵は笑ひました。皆なも一度に笑ひました。そして又太鼓を打《たた》いて踊り始めたのです。けれども馬鹿七は、さつさと山へ上つて行きました。そして土を掘つて叮嚀《ていねい》に、其《その》杉苗を植ゑました。それから二十日もたつて馬鹿七が、山を下りて来た時、村の人達は、矢張り雨乞踊りを踊つてゐました。
 馬鹿七は小高い所から、ぢつとその踊りを眺《なが》めてゐましたが、不思議にも村の人達が、皆《みん》な狸に見えるのです。
「あすこで狸が踊つてゐる? 狸が腹鼓を打つてゐる? いゝや、あれは人間ぢや、村の馬鹿な人達ぢやらう? いゝや狸だらう? はてな……」と頻《しき》りに頭を傾《かし》げて考へてゐました。そこで段々と近寄つて見ましたがどうしても、智慧蔵を始め皆なが、毛むくぢやらな、腹の大きい狸に見えるのです。
「おうい/\、お前達は皆《みん》な狸なのか、此村で本当の人間は俺《おれ》一人なのか……」と云つて馬鹿七は、おい/\と大声をあげて泣いたさうです。

 それから何百年もたつて、狸山は又元の通りの、大きな森になりました。馬鹿七の植ゑた杉苗が、もう幾抱《いくかか》えもある大きなものになつて、高く聳《そび》えてゐます。そして此村は、五日目に風が吹き、十日目に雨が降り、田畑の作物が大変よく実ります。毎年秋の末に村の人達が木の刀を腰にさして、狸山へ上つて、其所《そこ》で太鼓を打いて、狸の仮面《めん》を被つて踊ります。森の中にはお宮があつて、そのお宮を「馬鹿七|権現《ごんげん》」と申します。そして村人の被る狸の仮面《めん》を「智慧蔵|仮面《めん》」と申します。しかし村人の誰《た》れもその由来を知つたものはありません。

底本:「日本児童文学大系 第一一巻」ほるぷ出版
   1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「赤い猫」金の星社
   1923(大正12)年3月
初出:「金の船」キンノツク社
   1919(大正8)年11月
入力:tatsuki
校正:田中敬三
2007年2月21日作成
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沖野岩三郎

山さち川さち—– 沖野岩三郎

    一
 昔、紀州《きしう》の山奥に、与兵衛《よへゑ》といふ正直な猟夫《かりうど》がありました。或日《あるひ》の事いつものやうに鉄砲|肩《かた》げて山を奥へ奥へと入つて行きましたがどうしたものか、其日《そのひ》に限つて兎《うさぎ》一|疋《ぴき》にも出会ひませんでした。で、仕様事なしに山の頂から、ズツと東の方を眺《なが》めて居ますと、遙《はる》か向ふから蜒々《うねうね》とした細い川を筏《いかだ》の流れて来るのが見えました。
「あの筏が丁度《ちやうど》この山の麓《ふもと》まで流れて来る間に俺《おれ》はこゝから川端まで降りて行かれる。そして俺はあの筏に乗つて家《うち》へ帰らう。さうぢや、それが宜《い》い。」
 与兵衛はさう考へながら、山の頂から真直《まつすぐ》に川の方へ、樹《き》の枝に攫《つかま》りながら、蔓《つる》に縋《すが》りながら、大急ぎに急いで降りて行きました。そして川岸から三十間ばかり上の方まで来た時、右手の岩の上の大きな樫《かし》の枝が、ザワ/\と動くのが逸早《いちはや》く与兵衛の眼《め》に映りました。
 与兵衛は鉄砲を取直して、そつと木の枝の間から覗《のぞ》いて見ますとその樫の木の上に大きな猿《さる》が二疋、頻《しき》りに枝を揺《ゆす》ぶりながら樫の実を取つて居るのでした。
 それを見た与兵衛は筏の事も何も打忘れてしまつて、忍び足にその樫の木に近寄つて行きました。所が樫の木の枝には二疋の大猿の外に小い可愛い猿が、五疋七疋十疋、ピヨン/\と枝から枝へ、跳びあるいて遊んで居るのです。で、与兵衛は其中の一番大きい親猿を射《う》つてやらうと思つて、狙《ねら》ひを定めて、ドーン! と一発射ちました。
「しめた!」と与兵衛は叫びました。それは与兵衛の長い間の経験から、鉄砲の音でその弾丸《たま》があたつたか、あたらなかつたかが、すぐに知られたからでありました。
 与兵衛はすぐ新しく弾丸《たま》を込めて樹《き》の上を見ました。もう其時は皆な五疋十疋の猿が幹を伝つて一生懸命に跳び降りて、いづくとも知れず逃げてしまつた後でした。
「はてな、今の弾丸《たま》は確かにあたつた筈《はず》だが……」と独語《ひとりごと》を言ひながら与兵衛は樫の大木に近づきました。すると大きな猿が一疋、右の手で技を掴《つか》んで、ぶらりとぶら下つてゐました。与兵衛はすぐ鉄砲に弾丸《たま》を込めてその猿の右の手をうつたのでした。所が猿は、ばたりと下へ落ちて来ましたが、今度は左の手でまた別の枝を握つて、ぶらりとぶら下りました。
 与兵衛は少し気味悪く思ひましたが、勇気を出して三発目に頭の後《うしろ》の方を射ち抜いたので、ドスン! と音がして、与兵衛の立つてゐた二間ばかり上の方へ、大きな親猿が血に塗《まみ》れて落ちて来たのでした。
 与兵衛は早速|駈《か》け上《あが》つて行つてその親猿の手をソツと掴んで下へ三尺ばかり引摺《ひきず》りますと、山の上の方から土瓶《どびん》のまはり程の大きな石が、ゴロ/\と転つて来ました。
 与兵衛は驚いて飛び退《の》きながら見ますと、鉄砲の音に驚いて山の中へ逃げ込んで居た親猿小猿が出て来て、与兵衛に其《そ》の射殺《うちころ》された猿の死骸《しがい》を渡すまいと思つて、石を転がしたのでした。それと知るや与兵衛は、腰に結んで居た細引で、射取《うちと》つた猿を確《しか》と縛つて川岸の方へ引摺り下しました。
 すると山の中から五疋も十疋も、親猿小猿が、キヤーツ! キヤーツ! と叫びながらその死骸を奪ひ返さうとして、追かけて来るのでした。
 与兵衛は顔色を変へて一生懸命に川岸へ走り降りましたが、その猿を縛つた繩《なは》は、堅く右の手に握つてゐました。
 与兵衛が転びながら川岸へ辷《すべ》り降りた時、丁度《ちやうど》川上から筏が流れて来ましたので、早速|其《その》筏に飛乗りました。そして親猿の死骸も、筏の上に載せたのです。
 筏を流して来た筏師は驚き呆《あき》れてこの有様を見てゐましたが、早い流れでしたから瞬く間に筏は五六十間も下の方へ流れてしまひました。川岸の岩の上で、親猿小猿はギヤアギヤア言つて下の方を眺めて居ました。
 与兵衛は筏の上にドツカと坐《すわ》つて、まづ川の水を一口がぶりと両手に掬《すく》つて飲みました。それから気を落つけて射取《うちと》つた大猿を能《よ》く能く見ますと、大猿の懐には可愛い/\小い猿の赤ちやんがピツタリと頭を母猿の乳頸《ちくび》の所に押付けて四つの手で、確《しか》と母の腹にシガミついて居るのでした。
「おや! 一疋だと思つたら二疋だ!」
 与兵衛は眼を円くして驚きました。筏師も
「それは思ひも設けぬ事だ!」と言つて笑ひ興じました。
 所が与兵衛はその子猿を母猿から引離さうとしましたが、どうしても離れません。カツチリと四つの手で母の腹に取縋《とりすが》つて、その小い五本の指を堅く/\握つてゐるのです。
 与兵衛は仕方なしに、親猿と一緒に其の子猿を家《うち》に担ぎ込みました。そして家内中でその子猿を引張つて見たり、煙草の煙で燻《くす》べて見たりしましたが、どうしても離れないのです。で、たうとう母猿を水の中へヅツプリと浸《つ》けますと、やつと小猿は母の腹から離れました。
「なア、畜生でも可哀さうなものぢや。」と与兵衛が言ひますと、
「本当にネ、死んだ親ぢやと知らずに、その乳首に縋つてゐたのがイヂらしい……」とお熊《くま》といふ娘は、涙ぐみながら言ひました。
「なア可哀さうに、お前の母《か》アさんは死んだのぢや、もう乳は出ないんぢやよ、なア可哀さうに。」と言つて、今年六つになる信次《しんじ》といふ与兵衛の孫は、その子猿の頭を撫《な》でながら泣きました。
 母猿を最前からぢつと見詰めてゐた与兵衛の眼からは、玉のやうな涙がポトリ/\と落ちました。そして言ひました。
「俺《おれ》は、今日限り、猟夫《かりうど》は止める。もう一生鉄砲は射《う》たない。信次、お前はその子猿を大事に飼つてやれ、俺はこの母猿を裏の墓場へ叮嚀《ていねい》にお葬式をしてやる!」

    二
 与兵衛《よへゑ》は子猿《こざる》にはチヨン[#「チヨン」に傍点]といふ名をつけました。家内中は皆《みん》なそのチヨン[#「チヨン」に傍点]を大変大事にして可愛がりました。殊に信次《しんじ》とは、まるで兄弟のやうにして毎日/\跳んだり撥《は》ねたりして一緒に遊びました。
 与兵衛が田圃《たんぼ》から帰つて来ますと、すぐチヨン[#「チヨン」に傍点]はその肩に駈《か》け上つて白髪《しらが》交りの髪の毛を引張りました。御飯を食べようと思つてお膳《ぜん》の前に坐《すわ》ると、すぐチヨン[#「チヨン」に傍点]は与兵衛の膝《ひざ》の上に入つて、そしてお膳の上にあるお芋の煮たのやら、お豆の煮たのを、お先へ失敬してムシヤ/\と食べるのでした。けれども与兵衛は、ちつともそれを叱《しか》らずにチヨン[#「チヨン」に傍点]よチヨン[#「チヨン」に傍点]よと言つて可愛がつてゐました。
 或日《あるひ》の事、与兵衛は川へお魚を釣《つ》りに行つたが、どうしたものかその日は不思議にもたいてい一つの淵《ふち》で大きな※[#「魚+完」、第4水準2-93-48]《あめのうを》が必ず一つづつ釣れるので、もう一つ、もう一つと思つて、つい川を上へ/\と上つて行きました。そしてふと気付いてみると、十四五間上手に大きな樫《かし》の木のあるのが眼に止りました。
「あ、あの樫の木だつたつけ、チヨン[#「チヨン」に傍点]の母猿を射つたのは?」
 与兵衛はかう言つた後で、思はずも南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》々々々々々々と言ひました。そして川原に立竦《たちすく》んだまゝ、ぢつとその樫の木を眺《なが》めて居ました。樫の枝は大きな/\傘《かさ》のやうに広がつてその片一方がずつと淵の上の所まで伸びて居ました。
「何と大きな樫の木だなア。」と呆《あき》れて見てゐると、樫の枝がザワ/\と動くぢやありませんか。与兵衛はギクリ! として釣竿《つりざを》を杖《つゑ》についたまゝ立つて居ると、猿が何疋も枝から枝へ跳びあるいてゐるのです。
「おや! また猿が居るナ?」
 与兵衛はブル/\顫《ふる》へながら見て居ると、川の方に差し出た細い枝の上に大きな親猿が一疋、何を思つたかスル/\と伝つて来て、軽業師のやうにぶら下りました。枝が弓のやうに輪を画いて円く曲つたと思ふと、其枝はポツキと折れて大きな親猿は小枝を握つたまゝ二十間もあらうと思はれる高い所から、ドブン! と淵の中へ真逆様《まつさかさま》に落ちたのでした。
「あツ!」と叫んで与兵衛は吾知らず川原を上の方へ駈《か》けて行きました。行つて見ると深い/\淵の真中に落込んだ親猿は、樫の枝を握つたまゝ首だけやつと水の上に出して浮いてゐました。木の上ではあれだけ敏捷《びんせふ》な猿でも水の中では一尺も泳ぐ事が出来ないのです、猿の一番禁物は水なのです。
「よし/\、今、俺《おれ》が助けてやる! さアこの釣竿に縋《すが》れ!」
 与兵衛はかう言つて釣竿を差出してやりましたが、猿は水底深く沈んで行く樫の枝には縋つてゐても、与兵衛の釣竿は見向きもしませんでした。
「助けてやるんだよ、おい、助けてやるツて云ふのに。」
 与兵衛はかう言ひましたが、悲しい事には猿に人間の言葉は通じませんから、親猿は却つて歯齦《はぐき》を剥《む》き出して唸《うな》るのでした。
 すると今度は山の上から小猿が五疋十疋と、ゾロ/\川岸へ出て来ました。彼等《かれら》は与兵衛が鉄砲を持つてゐないのを見《み》て安心したらしく向ふの川岸へ下りて来て、「その親猿を、そつちへは遣《や》らぬぞ!」といふやうに、キヤツ! キヤツ! 言ひながら、川端の柳の枝に掴《つか》まつて水の中へ手を伸《のば》して見たり、枯枝を差出して見たりしたが、親猿の浮いて居る所へは届きません。親猿は川の中で、顔だけ水の上に浮べて、悲しさうに時々|啼《な》きました。
 与兵衛はふと気付いて手に持つてゐた釣竿を、向岸に投げてやりました。けれども自分|達《たち》に投げつけられたのだと思つたらしく子猿どもは一時|藪影《やぶかげ》へ隠れましたが、また出て来て、今度はその釣竿を一疋の可成り大きい兄さんの猿が掴んだと思ふと、それを淵の中へ差出したので、親猿はすぐそれに取縋つて難なく岸に這上《はひあが》りました。けれどももう其時親猿は余程弱つて居たと見え、大きな岩の上にパタリと倒れたまゝ動きませんでした。子猿達は親の生命を助けたのを喜ぶやうに、また親の身の上を気遣ふやうにそのぐるりを取捲いてゐました。
 この有様を見た与兵衛は一生懸命に川原を下の方へ駈けて行きました。そして家《うち》へ走り帰つて信次と追駈《おつかけ》ゴツコをして遊んで居たチヨン[#「チヨン」に傍点]を抱きあげて、
「さア、チヨン[#「チヨン」に傍点]、お前をお父さんに返してやるぞ!」と言つて其《その》まゝまた川原を上《かみ》へ上へと走つて行きました。
 行つて見ると川向ふの岩の上には、まだ子猿が親猿を取捲《とりま》いて日向ボツコをして遊んで居ました。
 与兵衛は淵の上手の浅瀬を渡つて向岸に行つて、チヨン[#「チヨン」に傍点]を川原に座らせて、
「さア、チヨン[#「チヨン」に傍点]よ、彼所《あすこ》にお前のお父さんが居る! お前は――もう、お父さんの所へお出《い》で! さア早くあつちへお出で!」と言ひ聞せました。
 けれどもチヨン[#「チヨン」に傍点]はうつむいて川原の砂を弄《いぢ》くつて居るばかりで親猿の所へ行かうとはしないのです。与兵衛はポロ/\涙を流しながら、
「左様なら、チヨン[#「チヨン」に傍点]よ、私《わし》は最《も》う帰るから、早くお父さんの所へお出で、兄さんや姉さん達もあの岩の上に居るぢやないか、左様なら……」と云つて浅瀬の中へ入らうとしますと、チヨン[#「チヨン」に傍点]は周章《あわ》てゝ与兵衛の肩に這上つて、其《そ》の襟《えり》の所にピツタリ頭《かしら》を押しつけてゐるのです。丁度《ちやうど》母猿が射殺《うちころ》された時、其の乳房《ちぶさ》に縋つてゐた時のやうに。
「よし/\、お前は俺《おれ》を恋しいのか、では伴《つ》れて帰つてやる! 死ぬまで大事に/\飼つてやらう。そして死んだら、お前のおツ母アと一緒の墓に葬つてやるぞ!」
 与兵衛はかう言ひ乍《なが》ら川を渡りました。そして、大きな声で川向ふの猿に対つて、
「皆さん左様なら!」と云ひました。けれども猿共は不思議さうな顔でヂロ/\とチヨン[#「チヨン」に傍点]と与兵衛とを見て居るばかりでした。

底本:「日本児童文学大系 第一一巻」ほるぷ出版
   1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「赤い猫」金の星社
   1923(大正12)年3月
初出:「金の船」キンノツク社
   1920(大正9)年1~2月
入力:tatsuki
校正:田中敬三
2007年2月21日作成
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沖野岩三郎

源八栗 —–沖野岩三郎

    一
 もうりい博士は、みなとの汽船会社から、こまりきつたかほをして、かへつて来ました。それは、午後一時に、出るはずの汽船が、四時にのびたからです。
 もうりい博士は今晩の八時から、次の町でお話をする、やくそくをしてあるのです。だから、四時のおふねにのつては、十時すぎにしか、次の町へつくことが出来ないのです。
 ふねにのらないとすれば、三十きろのみちを、あるかなければなりません。しかも、そのみちといふのは、けはしい、けはしい山みちです。
 やくそくを、だいじに思ふ博士は、そのけはしい、山坂をこえて、次の町へ、あるいて行くことに、決心しました。
 博士は、自てん車をもつてゐました。で、それにのつて行きましたが、わづかばかり行きますと、もう、みちがけはしくなつて、自てん車に、のることも出来ません。そこで、自てん車を、おしながら、坂をのぼりました。
 みちは、ますます、けはしくなりました。そのけはしいみちの、りやうがはには、一かかへもあるやうな、大きな杉や、ひのきが、しげつてゐます。しかも、それが、どこまで、つづいてゐるか、知れないのです。
 博士は、少しくおそろしくなりました。えだとえだとが、しげり合つて、とんねるのやうに、うすぐらくなつてゐる、坂みちを、いきをきらせながら、のぼつてゐますと、二十めえとるばかり、前の方に、どうも、人間らしい、黒いかげが見えます。
「人だ人だ。人があるいてゐる。」
 さびしい山みちですから、博士は、人かげを見て、うれしかつたのです。で、いそいで、坂をのぼつて行きました。
 まもなく、博士は、その人におひつきました。そして、うしろから、「今日は。」と、こゑをかけますと、だまつて、うしろをふり向いたのは、色の黒い、目の玉の、ぎよろりと光る、とても、人相のわるい、大きな男でした。
「今日は。」と、いつて、男はぢろりと、博士の方を、ふり向きました。手には、太いぼうちぎれを、にぎつてゐます。
 男のかほを見た時、博士はすぐ、「これは、どろばうだな。」と思ひました。けれども、今さら、どうすることも、できませんから、「ごめんなさい。」と、いつて、男の前を、とほりぬけて、さつさと、あるきました。
 博士は、うしろをふりむかないで、ずんずん、あるきました。もうあとから、よびとめられるか、もうこゑを、かけられるかと、思ひましたが、男は何とも言ひません。
 少しく安心した博士は、十分ばかり、あるいたあとで、うしろをふりむいてみますと、男はつゑにすがつて、とぼとぼと、くるしさうに、あるいて来ます。
 博士は、その時はじめて、その男が、びやう人であることを、知りまして、ほつと安心しました。
「ああ、よかつた。どろばうで、なくてよかつた。」
 博士は、ひとりごとを言ひながら、また自てん車をおして、坂をのぼりました。
 それから一時間ほどあとでした。たうげに、のぼりついた博士は、坂の方を見かへりながら、
「たしかに、びやう人だつた。かはいさうな、びやうにんだつた。それに、わたしは、あの人を、どろばうだと思つて、おそろしく思ひました。ひよつとすると、あれは、神さまが、あんな、すがたにばけて、わたしを、おためしに、なつたのかも知れない。本たうに、わたしは、わるいことをしました。もう一ど、ひきかへして、手をひつぱつてあげようか知ら……いや、わたしは、今晩の八時までに、どうしても、次の町まで、行かなければなりません。しかし、あの人は気のどくだ。こんな、けはしい坂を、あのくるしさうな、あるきぶりで、どうして、のぼれるか知ら。」と、つぶやいてゐました。けれども、時計を見ますと、もう、ぐづぐづしては、ゐられませんから、博士はまた、自てん車をおして、坂を下りました。
 二三十分ほどあるきますと、向ふから、一人の魚屋さんがきました。平べつたいかごに、いわしだの、さばだのといふ、ひものを二三十、入れたのを、かついでゐます。
 博士は、立ちどまつて、「魚屋さん。」と、こゑをかけました。見知らぬ人から、よび止められた魚屋さんは、びつくりしました。そして、だまつて博士のかほを、ぢろぢろ、ながめてゐました。
 博士は、ぽけつとから、五十銭ぎんくわを一枚、とり出して、魚屋さんにわたしながら、
「魚屋さん、すみませんが、わたしのあとへ、一人のびやう人が、来ますから、此の五十銭を上げて下さい。わたし、少しいそぎますから……さやうなら。」と、いつて、さつさと坂を下りました。

    二
 魚屋の藤六《とうろく》さんは、びんばふでした。毎日、朝はやく、問屋《とひや》へ行つて、お魚を一円だけ買ひ出します。そして、それを売つて、五十銭づつ、まうけるのです。もとでが一円五十銭あれば、七十五銭まうかるんだが、どんなにしても、一円五十銭のお金を、のこすことはできません。のみならず、うつかりすると、もとでの一円が、八十銭九十銭になりさうです。
 藤六さんは、ひくわんしてしまひました。朝から晩まで、山をこえ谷をわたつて、山の中の一けん屋を、あちらこちらと、まはりまはつて、「ひものはいりませんか、ひものはいりませんか。」と、言つて、うりあるいて、一円五十銭の売上げを、もつてかへることは、なみ大ていの、くらうではありません。こんなしやうばいを、何十年してゐたつて、びんばふを卒業するといふ、見こみがないので、思ひ切つて、しんでやらうと、思つたことがありました。
 藤六さんは、ある日、うちの屋根うらに、ほそびきをかけて、くびをくくつて、しなうとしました。高いふみ次《つぎ》を、持つてきて、ほそびきを、やねうらの、よこ木にかけました。しかし、かんがへました。
「このひもを、首に引つかけて、ぶらさがる。ひもがきれておちる。わたしは、ひどく、こしをうつて、けがをする。けがをすれば、明日から、魚を売りに行けない。」
 そこで、首をくくることを、よしました。
 そのあくる日は、四十銭しか、まうかりませんでした。藤六さんは、また、ひくわんして、こんどは、川へ入つて、しなうとしました。
 川のそばへ行きました。川原に、ざうりをぬぎました。それから、きものをぬぎました。はだかになつて、ざぶざぶと、水の中へ入りました。目から、なみだが、ぽろぽろおちます。
 だんだん、ふかいところへ、入つて行つて、もう、水が、藤六さんの、おちちのあたりまで来た時、雨がぱらぱらと、ふつてきました。藤六さんは、川原の方を、ふりかへつてみました。そして、
「大へんだ、雨がふつてきた。たつた一枚しかない、きものがぬれる。」と、いつて、大いそぎで、川原にかけ上つて、きものをきて、お家《うち》へかへりました。
 それから、四五日たつて、またお魚を、売りのこしてきたので、こんどは山へ行つて、くびをくくつて、しなうとしました。
 山には、藤《ふぢ》かづらがありました。その藤かづらをきつて、それを、わにして木のえだに、ひつかけました。そして、そのわに、くびをひつかけて、ぶら下らうとしましたが、藤六さんは、またかんがへました。
「まてよ。こんなかづらに、くびをひつかけたなら、きつと、くびのかはが、すりむける。さうすると、くすりを、つけなければならない。くすりをつけると、くすりだいがいるから、びんばふが、いつそう、びんばふになる。」
 そこで、藤六さんは藤かづらのわを、木のえだに、ひつかけておいたまま、おうちにかへりました。
 そのあくる日でした。藤六さんは、いつものやうに、お魚をうりに行つて、もう、半分ほど売つたころでした。これから、山の向ふまで、こえて行かうと思つて、かごをかついで、坂をのぼつてゐますと、上から、一人の西洋人がおりて来ます。ごとごとと、自てん車をおして、石ころみちを、あるいてゐます。
 えいごを知らない藤六さんは、何といつていいか、わかりませんから、だまつて、みちをよけてゐますと、西洋人の方から、こゑをかけました。
「魚屋さん、すみませんが、わたしのあとへ、一人のびやう人が来ますから、この五十銭を、上げて下さい。わたし、少し急ぎますから……さやうなら。」
 西洋人は、五十銭銀貨を、藤六さんの、手のひらに、のせておいて、さつさと、坂をおりてしまつたのでした。
 藤六さんは、西洋人の見えなくなつた時、につこり笑ひました。
「うまいうまい。五十銭ぎんくわが、ふいに、天からふつてきたやうなものだ。これは、おれが毎日毎日、正ぢきにして、いつしよけんめいに、はたらいてゐるから、神さまが、あんな西洋人に、ばけてきて、おれにこの五十銭ぎんくわを下すつたんだ。ありがたい、これで、明日の朝は、一円五十銭のお魚が買へる。さうすると、七十五銭はまうかる。ありがたい、ありがたい。」
 藤六さんは、その五十銭ぎんくわを、さいふの中に入れて、坂をのぼりました。

    三
 源八《げんぱち》さんは、くわんづめ会社の、しよく工でした。手早くつて、よくはたらくので、毎日、三円から四円の、お金をもらひます。けれども、源八さんには、二つのわるいくせがあります。それはさけをのむことと、さけをのむと、よつぱらつて、けんくわを、することとです。
 町の会社で、三年ほど、はたらいてゐましたが、まうけたお金は、すつかりおさけを買つて、のんでしまひました。その上、時時、けんくわをするので、みんなから、にくまれてゐました。
 そのうちに、源八さんは、ひどい病気にかかりまして、どうしても、はたらけないので、国へかへらなければなりません。けれども、お船にのるだけの、お金がありませんから、はれた足を、ひきずりながら、山みちを、あるいて来たのでした。
 みなとのやどにとまつて、やどちんを、はらひますと、もう、さいふの中に二銭どうくわ一つしかありませんでした。けれども、しかたがないので、つゑにすがつて、上り下り三十二きろの、けはしい、たうげを、こしにかかりました。
 さびしい山みちですから、朝からひるすぎまで、たれ一人にも、あひません、もうおなかがすいて、足がひけなくなつた時、うしろから、人のくる、足音がしますので、ふりかへつてみますと、一人の、せの高い、西洋人が自てん車をおして、上つてくるのです。
 源八さんは、町の工場にゐる時、酒によつぱらつて、停車場のひろばで、西洋人を、なぐりつけたことが、ありました。その西洋人は、外国からきた、くぢらとりの、れふしで、めつぱふ力のつよい、けんくわずきの男でした。源八さんは、それと知らずに、なぐりつけたのですから、今少しのことで、なぐりころされるところを、おまはりさんに、助けてもらつたのでした。
「きつと、あのくぢらとりの男だ。おれが工場をやめて、国へかへるときいて、自てん車で、おつかけて来たに、ちがひない。今となつては、もう、しかたがない。なぐられて、木のみきに、しばりつけられるか、それとも、ぴすとるで、うたれるか。」
 そんなことを、思つてゐるうちに、西洋人は、ちかよつてきました。源八さんは、つゑをかたくにぎつて、立ちとまりました。
「今日は。」と、西洋人は、いひました。源八さんも、「今日は。」といつて、西洋人の方を、ぢろりと見ました。
 そのうちに、西洋人は、さつさと、源八さんの、前をとほつて、坂をのぼりました。
「あの男では、なかつたか。」
 源八さんは、安心しました。そして、しばらく、あるいてゐると、向ふから、一人の魚屋さんが、来ました。
 魚屋さんは、源八さんの、すがたを見て、ぴたりと、立ちとまりました。
「あなたは、ごびやうきですか。」
 魚屋さんは、問ひました。
「はい、わたしは、かつけで、困つてゐます。」
「さうですか、それは、お気のどくですなあ。」
 言ひながら、魚屋さんは、かついでゐたかごを、みちの上に、おろしました。そして、さいふから、五十銭ぎんくわを、とり出して、
「これをなあ、西洋人が、あなたに上げておくれつて、おれに、たのんで行つたよ。あなたが、なんぎして、あるいてゐるのを見て、気のどくに、なつたのだらう。さあ、五十銭、もらつておきなさるがよい。」と、いひました。
 源八さんは、びつくりしました。なぐられるか、ころされるか、どつちかだと思つてゐた、西洋人から、五十銭ぎんくわを、もらつたのですから、びつくりするのも、たうぜんです。のみならず、それをあづかつた、魚屋さんが、それを、だまつて、自分のものにしたつて、たれも知らないはずだのに、正直に、自分にそれを、わたしてくれたことが、どうも、ふしぎでたまりませんでした。
 もう二銭どうくわ一つしか、もつてゐないんですから、その五十銭ぎんくわを、おしいただいて、さいふに入れました。そして、魚屋さんに、別れた時、源八さんは、思ひました。
「あれは、人間ぢやあない。神さまだ。おれが、いつも、さけをのんだり、けんくわをしたりしたあげく、こんな、びやうきにかかつて、困つてゐるので、これから、心をあらためるやうにといつて、神さまが、魚屋さんに、ばけて来て、おれに、このぎんくわを、下すつたんだ。さうにちがひない。」
 源八さんは、そんなことを思ひながら、夕方の七時すぎに、山のふもとの、小い木ちんやどに、つきました。
 そのやどには、さるまはしと、小間もの屋さんとが、とまつてゐました。二人とも、おさけを、のんでゐました。
 源八さんは、おさけを、のみたくつて、しやうが、なかつたのですが、神さまから、いただいたお金で、おさけをのんで、またけんくわをしたなら、どんなことに、なるかも知れないと思つて、たうとう、がまんして、おさけは、のみませんでした。

    四
 源八さんは、国へかへりました。国の人たちは、のんだくれの、源八さんが、かへつてきたといつて、たれも、あひてにする人が、ありませんでした。ところが、源八さんは、びやうきがなほつて、たつしやになつても、さけは、一口ものみません。むろん、けんくわなど、いたしません。
 どうして、あんなに、かはつたのだらう、といつて、みんなが、おどろきました。そして、そのわけを、ききますと、源八さんは、
「おれは、さけをのんで、けんくわばかり、してゐたんだが、おれの困つてゐる時、二人の神さまが、おれを助けて下すつたんだ。おれは、もう、死ぬまで、さけはのみません。」と、いひました。
 それから源八さんは、自分の家を、工場にしました。工場で、くわんづめを作りはじめました。
 源八さんの国は、栗のたくさん、できるところで、毎年たくさんの栗を、日本中におくり出します。源八さんは、その栗を、くわんづめにしたのです。
 源八さんの、くわんづめの、れつてるには、五十銭ぎんくわの上に、西洋人のかほと、魚かごとが、かいてあります。

    五
 魚屋の藤六《とうろく》さんの村に、大きな百くわ店ができました。気のきいた、そして正直な男を、はんばいがかりに、したいといつて、たづねてゐましたが、藤六さんが、一番よいだらうといつて、そこのはんばいがかりに、たのまれました。
 藤六さんは、時時町へ行つて、いろんなものを、仕入れてきます。その品物の中で、一番よく売れる物は、「源八栗《げんぱちぐり》」といふ、栗のくわんづめでした。しかし藤六さんは、そのくわんづめを、どこで、つくつてゐるのだか、ちつとも、知りませんでした。

    六
 もうりい博士は、そのご、間もなく、西洋へかへりました。長く日本にゐた博士は、日本りうに、町の左がはを、あるいてゐました。ところが、その国は、右がは通行の、きそくでしたから、町のまがりかどで、自動車にぶつかつて、大けがをいたしました。
 もうりい博士は、びやうゐんで一月あまり、やうじやうをしてゐるうちに、きふに、日本がこひしくなりました。で、かんごふに、日本せいの食物を、何でもいいから、買つてきて下さいといつて、たのみました。すると一時間ばかりたつて、かんごふは日本せいの、くりのくわんづめを、一つ、買つてかへりました。
 博士はよろこんで、そのくわんづめの、れつてるを見ました。れつてるには「Gempachi《ゲンパチ》-|Kuri《クリ》」と書いてあります。日本に長くゐた博士は、くりといふ、わけはわかりましたが、げんぱち[#「げんぱち」に傍点]といふ、わけがわかりませんでした。
 博士は、日本ごの、じびきをひらいて、みましたが、「たんば栗」「いが栗」「あま栗」などの、ことばは、ありましたが、「げんばちぐり」と、いふことばは、ありませんでした。
 博士は、そこにかいてある、五十銭ぎんくわと、西洋人のかほと、さかなかごとの、ゑを見ましたが、なんのことやら、さつぱり、わかりませんでした。
 博士は、そのくわんづめを、かんごふさんに、あけてもらつて、食べて見ましたが、じつに、うまい栗でしたから、もつと、買つてきて下さいと、たのみました。
 間もなく、博士のへやには、源八栗の、くわんづめが、三十も四十も、あつまりました。それは、博士が、このくわんづめが、すきだといふので、みんなが、おみまひに、もつてきて、下すつたからです。
 ある時、二人づれの、見まひきやくが、びやうゐんへ来た時、源八栗のしるしを、見てゐた一人が、
「このゑに、かいてある、人のかほは、もうりい博士そつくりですね。」と、いつたので、博士も、かんごふも、こゑをそろへて、一どに笑ひました。しかし、博士は、それいらい、その、れつてるに、かいてあるかほが、自分のかほであるやうに、思はれてなりませんでした。で、博士は、びやうゐんを、たいゐんしたあとで、あふ人ごとに、
「あのね、わたしのかほを、かいてある、日本の栗は、本たうに、おいしいですよ。あれをお買ひなさい。」と、申しましたので、いつの間にか、その国では、源八栗のことを、博士栗《はかせぐり》といふやうになりました。

    七
 日本では、源八さんの工場が、だんだん、さかんになりました。
 藤六さんは、もうひくわんなど、けつしていたしません。うらの山では、木のえだに、ひつかかつた藤かづらが、まだそのままに、風に吹かれて、ぶらぶらしてゐます。山がらや、ほほじろが、そのかづらのわに、とまつて、面白い歌を、うたつてゐます。

底本:「日本児童文学大系 第一一巻」ほるぷ出版
   1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「童話読本 四年生」金の星社
   1938(昭和13)年12月
初出:「金の星」金の星社
   1928(昭和3)年1月
入力:tatsuki
校正:田中敬三
2007年2月21日作成
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沖野岩三郎

硯箱と時計—– 沖野岩三郎

 石之助《いしのすけ》が机にむかつて、算術をかんがへてゐますと、となりの金《きん》さんが来て、
「佐太《さだ》さん。石さんはよく勉強するね。きつと硯箱《すずりばこ》になりますよ。」と、言ひました。すると佐太夫は、
「いいえ。石之助はとても硯箱にはなれませんよ。硯箱になるのは、あんたの所の茂丸《しげまる》さんですよ。」と、申しました。
 ふすまのこちらで、お父さまと金さんの話をきいてゐた石之助は、へんなことをいふものだなあと思ひました。
 しばらくして、金さんが帰つたので、石之助はすぐ、お父さまの所へ行つて、
「僕《ぼく》が、硯箱になれないつて、何の事ですか。」と、きいてみました。
 石之助が、あまり不思議さうな顔をしてゐるので、お父さまは、ひざをたたいて笑ひながら、
「狸《たぬき》が茶釜《ちやがま》になつた話はあるが、人間が硯箱になつた話は、きいたことがない。こりやあ、私たちの言葉のつかひ方が悪かつた。硯箱になるのは、茂丸さんか、お前か、どつちだらうと言つたのは、かういふわけだ。」と、云つて、お父さまは、硯箱になるといふ話を説明しました。
「石之助、お前は殿様のお名前を、知つてゐるだらう。」
「知つてゐます。山野《やまの》紀伊《きい》の守《かみ》です。」
「さうだ。元は三万八千石の殿様で、今は子爵様だ。東京にゐらつしやる。」
「馬に乗るのが上手でせう。」
「その殿様は、もう、お亡くなりになつて、今は若殿様が子爵さまになつてゐられる。山野紀伊の守様が、東京へお引越になられてから、もう五十七年になる。その間に一度もこの町へお帰りにならないので、この町の人たちは、だんだんと、殿様の事を忘れてしまひさうだ。昨年若殿様が御病気なされた時、ひとりも、お見舞ひの手紙をさし上げたものがなかつた。それは町の人もわるいが、五十七年間、一度もこの町へおいでにならなかつた殿様も悪い。そこで、殿様とこの町の人たちが、もつと仲よくなるために、今年からこの町の学校を卒業する優等生に、殿様から御褒美《ごはうび》を下さることになつたのだ。中学校の優等生には鉄側時計、女学校の優等生には銀側時計、小学校の優等生には硯箱を下さるんだ。御定紋のついた硯箱だよ。」
 お父さまが、それだけ言つた時、石之助は、
「わかつた、わかつた。僕その硯箱をほしいなあ。」と、云ひました。
「うん、ほしからう。私もお前が、その硯箱をもらつてくれればよいがと思つてゐる。ところで今、六年生の一番は茂丸さんだといふぢやないか。茂丸さんは、あれは士族ぢやないんだ。出来ることなら、昔の家来であつた士族がもらひたいもんだ。ここは代代足軽といふ役をしてゐた士族だから、お前がその硯箱をもらつてくれたなら、殿様も、さぞお喜び下さるだらう。」
 お父さまの佐太夫は、さういつて涙ぐんでゐました。
「お父さま大丈夫だ。僕、きつとその硯箱をもらつてみせる。」
 石之助は元気に、にぎりこぶしで、ひざをたたきながら言ひました。
「さうか。そのかくごはよい。お前は茂丸さんに勝つ見こみがあるか。」
 お父さまは、心配さうに問ひました。
「あります。僕きつと、一番になつてみせます。」
 石之助は、自信のあるやうに言ひました。
 そのあくる日から、石之助は、どうしても殿様から、硯箱をもらはなければならないと思つて、必死に勉強しはじめました。
 一月二月がすぎ、三月が来ました。卒業試験が近づいてきたのです。けれども正直に言ふなら、算術は茂丸の方がよく出来ます。習字も茂丸の方が上手です。どうも茂丸の方が一番になりさうです。だから何とかして、茂丸を二番にする方法はないものかと、考へてばかりゐました。
 茂丸は石之助よりも、からだが弱いので、あまり勉強はいたしません。お父さまの金太夫《きんだいふ》さんが、いろいろと硯箱のことを言ひますが、茂丸は唯《ただ》にこにこ笑つてゐて、そんなものをほしいとも何とも言ひません。金太夫さんは、茂丸には勇気がなくていけない、やつぱり平民の子はだめだと、言つてゐました。
 いよいよ卒業試験が始まりました。ところが、二日目の算術と綴方の試験の日、茂丸はひどく熱を出したので、学校を休みました。
 石之助は試験がすむと、おうちへとんで帰りました。そして、
「お父さま、大丈夫硯箱はもらはれますよ。」と、申しました。
「大丈夫か。」と、佐太夫《さだいふ》は申しました。
「大丈夫です。今日は茂丸さんが、熱を出して休んだから、きつと僕が一番になるよ。」
 石之助は手をたたいて、ざしき中をはねまはりました。お父さんの佐太夫も喜びました。
 お隣の金太夫さんは、たうとう硯箱は石之助さんのものだと言つて、ほろほろ涙をこぼしてゐました。けれども茂丸は、
「なあに、落第しつこはないよ。」と、言つて、おふとん[#「ふとん」に傍点]の上で童話の雑誌を読んでゐました。

 卒業式の日が来ました。いろいろの式があつたあとで、山野《やまの》紀伊《きい》の守《かみ》の家老を務めてゐたといふ髯《ひげ》の白い老人が、殿様の代理で、
「本年から優等生に、旧藩公山野子爵閣下より、御定紋付の硯箱を下さることになりました。」と、申しました。そしで、校長さまから、
「粉白石之助《こしろいしのすけ》……」と、呼ばれた時の石之助の喜びは、口にも筆にも現はせないほど大きなものでした。
 式が終つて、おうちへ帰りますと、佐太夫は、早速|其《そ》の硯箱を仏壇の前にそなへて、
「お父さま。お母さま。おぢいさま。おばあさま。喜んで下さい。今度せがれの石之助は、殿様から御定紋付の硯箱を頂きました。どうぞ石之助をほめてやつて下さい。」と、申しました。おつ母さんも、仏壇の前でほろほろと、うれしなみだを流してゐました。

 三月の終に、石之助も茂丸も中学校の入学試験を受けました。石之助が一番、茂丸が三番で入学しました。それを見た金太夫さんは、中学校の鉄側時計も、石之助さんのものだと、思ひました。
 中学の一年から二年になる時、石之助が一番で、茂丸が五番でした。三年になつた時、石之助が一番で、茂丸が七番でした。四年になつた時、石之助が一番で、茂丸が九番でした。
 いよいよ卒業の時が来ました。卒業式には県知事さんが来ました。髯の白い家老さんも来ました。そして殿様の定紋を刻みつけた鉄側時計は、石之助に下さいました。
 町の小い新聞には、大きな活字で、石之助のことを、ほめてほめて書いてありました。
 茂丸は十番で卒業しました。身体《からだ》が弱くて時時休んだからでした。けれども、東京へ出て、高等学校の入学試験を受けますと、石之助も茂丸も入学は出来ましたが、どうしたものか、今度は石之助が五番で、茂丸が一番でした。
 石之助は何だか、殿様に申しわけがないやうに思ひましたが、国を出る時お父さまの佐太夫から、
「試験がすんだなら、すぐ殿様の所へ、お礼に行くんだぞ。」と、言はれてゐたので、田端《たばた》の丘の上にある、山野《やまの》子爵家に、たづねて行きました。
 表げんくわんから取次を頼みますと、ひとりの老人が出て来て、住所姓名を尋ねた上、
「旧藩時代の御身分は。」と、むつかしいことを問ひました。そこで、石之助は、
「おぢいさまの時まで、足軽といふ役を勤めてゐたさうでございます。」と、答へますと、
「さうですか。では表げんくわんから、入つてはいけません。あちらの小玄関からお入り下さい。」と、申しました。
 石之助は、へんだなあと思ひながら、小玄関へ行つてみますと、短い袴《はかま》をはいた書生さんが出て来て、
「こちらの応接室へお入り下さい。」と、言ひました。
 石之助は、ほこりまみれになつた靴《くつ》をぬいで、げんくわんへ上りました。書生さんが、どあをあけてくれました。見れば応接室の奥に、色の白い青年が椅子にかけてゐました。その青年が、殿様の山野子爵だつたのです。
 石之助は顔をまつかにして、応接室へ入つて行きました。そして、硯箱と時計とのお礼を申しますと、殿様は、
「不思議だね、僕《ぼく》はそんなものを、君にあげた覚えはありませんよ。第一僕と君とは、今はじめて会つたのではないか。」と、申しました。
 石之助は、小学校卒業の時に、硯箱をいただいたこと。中学校卒業の時に、時計をいただいたことを、申し上げますと、殿様は腹をかかへて、笑ひました。
「僕は知らないよ。僕はそんなものを、君達《きみたち》にあげた覚えはないよ。多分山野家が、だんだんと、昔の家来たちに、忘れられて行くのを苦しく思つて、家令どもが、そんな事をはじめたのだらう。へえん、さうかなあ。僕の名前で硯箱だの時計だのを、君に上げたのかい。実はね、僕は身体《からだ》がよわくて、学習院の中学部で、二度も落第したんだぜ。だから、たうとう高等部に入学できないで、かうして毎日、ぶらぶら遊んでばかりゐるんだよ。世間には、僕のやうな落第生から、賞品をもらつて喜んでゐるやつがあるのかい。」
 殿様はそんな事を言つて、また大きな声で笑ひました。
 石之助はびつくりして、ぼんやりしてゐました。すると殿様は、
「粉白石之助君。君は今まで僕を君よりえらい人間だと思つてゐたんだらうね。昔は殿様がえらくて、足軽は、ひくい役人だつたが、今は中学の落第生よりも、高等学校の学生さんの方がえらいんだよ。だから、君の方が僕より二倍も三倍もえらいんだよ。」と、申しました。
 石之助は、ますます、びつくりするばかりでした。殿様はまた申しました。
「君、硯箱だの時計だのを、もらひたさに、勉強するやうではだめだぜ。学問を勉強しなくてはならないよ。本当の学問を……」
 そのとき石之助は、この落第生の殿様を、何だかえらい人のやうに思ひました。
 それから石之助は、勉強の目的をかへました。今までのやうに、褒美をもらつたり、一番になつたりするための勉強ではなく、自分の志したお医者になるための学問を、必死に勉強しました。
 大学を出る時、茂丸は理科の一番でした。石之助も医科の一番でした。
 落第生の殿様は、その頃《ころ》すつかり、からだが達者になつて、北海道で牧畜をして大成功してゐました。
「殿様の牛乳配達」といふ記事が、日本中の新聞にのつたのは、二人が大学を卒業した年の夏でした。

底本:「日本児童文学大系 第一一巻」ほるぷ出版
   1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「特選童話 三年生」金の星社
   1938(昭和13)年7月
初出:「金の星」金の星社
   1926(大正15)年1月
入力:tatsuki
校正:田中敬三
2007年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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沖野岩三郎

熊と猪—— 沖野岩三郎

    一
 紀州《きしう》の山奥に、佐次兵衛《さじべゑ》といふ炭焼がありました。五十の時、妻《かみ》さんに死なれたので、たつた一人子の京内《きやうない》を伴《つ》れて、山の奥の奥に行つて、毎日々々木を伐《き》つて、それを炭に焼いてゐました。或日《あるひ》の事京内は此《こ》んな事を言ひ出したのです。
「お父さん、俺《おれ》アもう此《こ》んな山奥に居るのは嫌《いや》だ。今日から里へ帰る。」
「そんな馬鹿《ばか》を言ふものぢやあ無い。お前が里へ出て行つたなら、俺は一人ぼつちになるぢやないか。」と言つて佐次兵衛は京内を叱《しか》りました。
「お父さんは一人でも宜《い》いや、大人だもの。俺ア子供だから、里へ行つて皆《みん》なと鬼ごつこをして遊びたい。」
「そんな気儘《きまま》を言ふものぢや無い。さ、私《わし》と一緒に木を伐りに行かう。」
 佐次兵衛は京内の手を取つて、引張つて行かうとしました。
「嫌《や》だ、やだ! お父さんは一人で行け。俺は里へ遊びに行く!」と言つて京内はドン/\と、山路《やまみち》を麓《ふもと》の方へ駈《か》けて行きました。
「おい、こりや、それは親不幸といふものだぞ!」
「不孝でもコーコーでも宜いや、里へ行つて遊ぶんだ。」
 京内は一生懸命に駈け出したので、佐次兵衛も捨てゝ置けず、お弁当を背負つたまゝ、パタ/\と其の後を追かけました。

    二
 山の上には、大きな熊《くま》が木の枝に臥床《ねどこ》を作つて、其所《そこ》で可愛い可愛い黒ちやん=人間なら赤ちやん=を育てゝ居ました。
「さ、オツパイ! オツパイお食《あが》り、賢いね黒ちやん。」
 熊のおツ母《か》さんは黒ちやんの頭を舐《な》めてやりました。
「オツパイ嫌《いや》よ。もつと/\旨《おい》しいもの頂戴《ちやうだい》な。」
「オツパイが一番|旨《おい》しいのよ、ね、駄々《だだ》を捏《こ》ねないで、さ、お食《あが》り……」
「嫌だつて云ふのに、オツパイなんか飲ませたら、おツ母さんの乳頸《ちくび》を噛《か》み切つてやるぞ。」
 熊は黒ちやんでも、なか/\悪口は達者と見えます。
「アイタタ、まあひどいのネ此《こ》の児《こ》は。母ちやんのお乳から、こんなに血が出るぢやないの。」
 お母《つか》さんは、ちよいと睨《にら》む真似をしました。
「お乳は嫌、もつと/\旨《おい》しいもの頂戴。」
「そんな無理を、お言ひで無い。それは親不幸といふものです。」
「不幸でもコーコーでも宜《い》いワ。もつと旨《おい》しいもの食べさしてお呉《く》れ、え、おツ母《か》さん。」
「仕様が無いね。此の子は、」とおツ母さんは暫《しばら》く考へてゐましたが、
「坊やは何が好き? 蟻《あり》? 栗《くり》?」とたづねました。
「嫌だ/\、そんなもの皆《みん》な嫌だ、もつともつと甘くつて旨《おい》しいものが欲しい……」と、黒ちやんはいひました。
「困つた事を言ふのネ、あ、さう/\蟹《かに》……、蟹を食べた事があつて? あの赤アい爪《つめ》のある、そうれ横に、ちよこ/\と這《は》ふ……」と、お母さんは、また優しくいひました。
「食べた事無いワ、蟹なんて……そんな物|旨《おい》しい? え、本当に旨しい?」
「えゝ/\、夫れは本当に旨《おい》しいのよ。これから谷川へ行つて、うんと捕つて来てあげるから、此所《ここ》で温順《おとな》しく待つておいで。」
「イヤ、イヤ、坊やも一緒に行く。」と足摺《あしず》りをしながら、黒ちやんは強請《ねだ》りました。
「此所に温順《おとな》しくしておいで、ね、賢い児だから……」と言つて、お母さんは黒ちやんの背《せなか》を優しく叩《たた》いてやりました。
「嫌だ/\、一緒に行く。伴《つ》れてつて呉れなければ耳を噛み切つてやる!」と、黒ちやんは泣きながら無理を言ひました。
「アイタタ、何といふ乱暴な子だらう、此の子は。よし/\仕方がない。では伴れてツてあげやう。さ、そうツと降りるんだよ。おつこちて怪我《けが》をしないやうにネ。」
 熊のおツ母《か》さんは、たうとう黒ちやんの強情に負けてしまひました。

    三
 丘の所に大きな猪《ゐのしし》が一疋《いつぴき》の可愛い坊やと一緒に臥《ね》てゐました。おツ母さんは、坊やの背《せなか》を叩《たた》きながら、
「坊や、もう段々お昼になつて来るから、寝んねするんだよ。昨晩《ゆふべ》は能《よ》く遊んだネ。狸《たぬき》を脅かしてやつたツて、夫《そ》りやア偉かつたネ、坊やは小さくても猪だから、狸位何でも無いネ。」
 猪のおツ母さんは、頻《しき》りに坊やを褒《ほ》めてゐましたが、いつの間にか、うと/\と眠つてしまひました。悪戯《いたづら》ツ児《こ》の坊やは、おツ母さんの眠つてゐる間に、そうつと、山を下の方へ降りて行きました。
「坊や! 坊や!」と眼《め》を覚したおツ母さんは、きよろ/\其所《そこ》らを見廻《みまは》しましたが坊やは何所《どこ》にも居ませんでした。で、屹度《きつと》谷へ水遊びに行つたに違ひないと思つて、矢のやうに、山を下へ下へと駈《か》け下りました。けれども、坊やは谷へは行かないで、大きな樫《かし》の木の所で、
「やあい、おツ母《か》さんは僕《ぼく》を知らないのかツ。」と云《い》つて独りで嘲笑《あざわら》つてゐました。

    四
 熊《くま》の親子は谷川へ下りて来ました。
「此《この》石の下には、屹度《きつと》蟹《かに》が居るよ、さ、おツ母《か》さんがかうして、石を引起して居るから坊やは自分で蟹を掴《つか》んでお捕り……」
 熊のおツ母さんは、ウント力を入れて、平たい五六十貫もあるやうな石を引起しました。すると其《そ》の石の下から、爪《つめ》の赤い小さい蟹が六ツも七ツも、ちよこ/\と逃げ出しました。
「あ、居る/\、沢山居る。」と黒ちやんは夢中になつて、蟹を捕つてゐました。
 所へ山の上から大きな猪《ゐのしし》のおツ母さんが、どん/\走つて来ました。そして谷の中でビチヤ/\水音がするのを聞いた時、屹度《きつと》坊やが水遊びをして居るのだと思つたので、藪《やぶ》の中から大声で、
「おうい、お前は何うしてこんな所へ独りで来た?」と呶鳴《どな》りながら、岩の所からぬつと顔を出しました。
 熊のおツ母さんは、不意に猪に呶鳴られたので、吃驚《びつくり》して思はず、力一杯引起して居た石から手を離しました。と、同時に足の所で、
「きやあ!」と言ふ声がしたのに気付いて見れば、可哀さうに黒ちやんは、大きな石の下になつて死んでゐました。
 さあ大変です。熊のおツ母さんは気狂《きちがひ》の様になつて、
「大事の/\黒ちやんを殺したのは貴様だぞ! 覚ぼえてゐろ!」といひながら猪に向つて爪を剥《む》き出しました。
 猪は又た自分の子が、石に抑《おさ》へられて死んだのだと考へ違ひをして、
「貴様は大事の/\私《わし》の坊やを、其の石で圧《おさ》へ殺したんだな。今に敵《かたき》を討《うつ》てやるぞ!」と、叫びながら、鋭い牙《きば》を剥き出しました。
 熊と猪は、かみ合ひました。そして、日の暮れまでもお互に争つてゐました。

    五
 京内《きやうない》が里の茶店でお菓子を買つて貰《もら》つて、佐次兵衛《さじべゑ》に伴れられて山小屋へ帰つて来たのは、其《そ》の翌日でありました。
「さ、もう駄々《だだ》をこねるんぢやアないよ、お前のお蔭《かげ》で昨日今日は二人とも遊んで了《しま》つた。」と云《い》ひながら、佐次兵衛は京内をつれて谷川へ水を汲《く》みに行つて見ると、これはまあ何といふ事です。大きな猪《ゐのしし》と大きな熊《くま》が、二|疋共《ひきとも》引掻《ひつか》かれて、噛切《かみき》られて、大怪我《おほけが》をして死んで居るぢやありませんか。しかも二疋とも大きな石を腹の下に抑へて、頭を並べて死んで居るのです。能《よ》く/\見ると、石の下から小い黒い獣《けだもの》の足が二寸ばかり外へ出てゐました。
 佐次兵衛が猪と熊とを引除《ひきの》けて石を引起した時、京内は可愛い可愛い熊の子が、赤い舌を出して死んでゐるのを見まして、ポロポロ涙を流しました。
「なア、畜生でも……これは屹度《きつと》この小い熊の子の為《ため》に親同志が喧嘩《けんくわ》をして死んだのだらう……」と云つてゐる時、藪《やぶ》の蔭《かげ》からコソ/\と小い猪の子が出て来て、直《す》ぐ逃げてしまひました。
 佐次兵衛は、此《こ》の三疋の獣の為めに叮嚀《ていねい》にお葬式をしてやりました。
 それから京内は大変孝行な子供になつて、一生懸命にお父さんと一緒に働いて名高い炭焼になりました。今に木炭は紀州の名高い産物の一つであります。

底本:「日本児童文学大系 第一一巻」ほるぷ出版
   1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「赤い猫」金の星社
   1923(大正12)年3月
初出:「金の船」キンノツク社
   1919(大正8)年12月
※「不幸」と「不孝」の混在は、底本通りです。
入力:tatsuki
校正:田中敬三
2007年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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沖野岩三郎

愚助大和尚—– 沖野岩三郎

 愚助《ぐすけ》は忘れん坊でありました。何を教へましても、直《す》ぐ忘れてしまふので、お父様は愚助を馬鹿《ばか》だと思ひ込んで、お寺の和尚《をしやう》さまに相談にまゐりました。すると和尚さまは、
「其《そ》の子は御飯を食べますか。」と、ききました。お父様は、
「はいはい、御飯は二人前ぐらゐ平気で食べます。」と、答へました。和尚様は、又、
「其の子は打《ぶ》てば泣きますか。」と、問ひました。お父様は笑ひながら、
「それは和尚様、なんぼ馬鹿だつて、打《ぶ》てば泣きますさ。鐘だつてたたけば鳴るぢやありませんか。」と、申しました。そこで和尚様は、
「宜《よろ》しい、御飯を食べるのは生きてゐる証拠、打《ぶ》てば泣くのは、神経のある証拠。或《あるひ》は大和尚になるかも知れない。ここへ伴《つ》れていらつしやい。私《わたし》の弟子にしてあげる。」と、申しました。
 お父様は大変喜んで、早速お家《うち》へとんで帰つて、
「愚助、御飯をお食べ。」と、申しました。其の時はまだ午後の一時頃でしたが、愚助は少うしお腹《なか》がすいてゐましたので、早速大きなお茶碗《ちやわん》に山盛り三杯食べました。それを見て、お父様は、
「うん、大丈夫だ。」と、いひましたが、今度は少し怒つたやうな声で、
「愚助、ここへお出《い》で。」と、申しました。
 愚助は不思議に思ひながら、お父さまの傍《そば》へ近よりますと、お父様は、いきなり愚助の頬《ほほ》つぺたを、ぴしやりと殴《なぐ》りつけました。
 木の皮みたいな、がさがさした手の平で、ひどく殴られたので、愚助はひいひいと泣きました。愚助が泣くのを見て、お父様は、
「うん、大丈夫だ。和尚様のお弟子になれるぞ。」と、申しました。
 それからお父様は、着換《きがへ》だの足袋だの、学校道具だのを風呂敷《ふろしき》に包んで、愚助に脊負《しよ》はせて、お寺へつれて行きました。それを見た和尚様は、にこにこ笑ひながら、
「あ、愚助か。よく来た、よく来た。」と、言つて、直ぐお弟子にして下さいました。

 愚助《ぐすけ》はお寺から学校へ通ひました。和尚様は、愚助が帰つて来ると直ぐ今日習つた所を復習《おさらひ》してみました。ところが、一つだつて覚えてゐません。
「どうしたんだい。なんと見事に忘れてしまつたものだなあ。」と、言つて、和尚様は腹をかかへて笑ひました。
 愚助は和尚様に打《ぶ》たれるとばかり思つてゐましたのに、打たれなかつたばかりか、さも可笑《をか》しさうに笑はれたので、自分も何だか可笑しくなりました。
 其の晩でした。愚助は蒲団《ふとん》の中で眼《め》を閉ぢてゐますと、どこかで、「気をつけ。右向け右、前へおい。」と、いふ号令の声が聞えました。
「おや、あれは先生の声だな。」と、思つて、ぢつと、其のまま眼を閉ぢてゐますと、学校の庭が眼の前にありありと見えて来ました。
 庭には生徒が並んでゐます。生徒の中には自分の愚助も並んでゐます。
「おやおや、あそこにゐるのはおれだぞ。」と、言つて愚助はぢつと見てゐますと、受持の先生は生徒をつれて教場へ入りました。
 それから先生は算術を教へました。
「あ、あそこでおれが算術を習つてゐる。あ、手をあげた。答は百二十五。おれはなかなかえらいぞ……今度は読方だ。あ、おれが立つた。うん、すらすらと行詰《ゆきつま》らずに読んだ。おれはなかなかえらいぞ……今度は綴方《つづりかた》だ。あ、出来た。先生が感心してゐる。今度は習字だ。うまいうまい、おれが一番上手だ……今度は体操だ。あのおれが一番|活溌《くわつぱつ》だ。おれはなにしても一番だぞ……」
 いつの間にか、あたりは、ひつそりして、先生も生徒も愚助のおれも見えませんでした。
 愚助はすやすやと眠つてしまひました。そして翌《あく》る朝眼を覚しますと、和尚様は、
「愚助、早く起きて顔を洗つていらつしやい。御飯前に昨日習つたところを、復習《おさらひ》してあげます。」と、言ひました。
 愚助は顔を洗つて来て、算術の本と読本とをもつて、和尚様の前に出ました。所が不思議にも、昨日出来なかつた算術が、今朝《けさ》はみんな、ずんずんと出来ます。読本をあけますと、昨日一字も読めなかつた所が、今朝《けさ》はすらすらと読めます。和尚様も驚きましたが、愚助は尚更《なほさら》驚きました。
 それから御飯を戴《いただ》いて、学校へ参りました。帰つて来ますと、和尚様は復習《おさらひ》をして下さいました。愚助は今日習つた事を、一つだつて覚えてゐません。和尚様はまた腹を抱へて笑ひました。愚助も可笑しくなつて笑ひました。
 けれども、晩になつて、お蒲団の中に入つてゐますと、先生の声が聞えます。生徒が見えて来ます。そして生徒の中の愚助は、せつせと勉強してゐます。
 翌る朝、和尚様が復習《おさらひ》をしますと、愚助はすらすらと、みんな答へができます。
 和尚様は考へてゐましたが、
「愚助、おまへの頭は一日|後《おく》れの頭だよ。昨日習つた事を今日覚えるんだ。他の子供は昨日習つた事を昨日覚えて、今日は忘れてゐるんだ。所が、おまへは昨日習つた事を今日覚えて、いつまでも忘れないんだ。おまへは決して馬鹿でも何でもない。成長したなち、きつと、えらい人間になるぞ。」と、言ひました。けれども愚助は、
「おれの頭は写真頭らしい。昼間習つた事を、其の晩現像して、翌る朝焼きつけるのではないか知ら。」といふやうな事を考へてゐました。
 それから、毎晩毎晩愚助は、お蒲団の中に入るのが楽みになりました。

 お寺は軒が傾いて、柱が朽《く》ちてゐます。和尚様は村の人達《ひとたち》に、お寺を改築するやうにと、何度も何度も、お話いたしましたが、村の人達は、お金のいる事は御免だと言つて、和尚様の言ふ事を聞入れませんでした。そこで、和尚様はお寺の書院の床の間に懸《かか》つてゐる、大きな掛軸を外して、それを京都へ売りに行きました。和尚様は其の掛軸を売つたお金で、お寺を改築しようと思つたらしい。
 ところが、和尚様は京都へ行つたまま、待つても待つても帰つて来ません。村の人達は心配して、京都まで和尚様を尋ねに行きましたが、京都は広い広い町ですから、和尚様はどこに居らつしやるか、さつぱりわかりません。

 村の人達《ひとたち》は、もう和尚様は、京都の町で電車か自動車かに轢《ひ》かれて、死んでしまつたものだと思ひました。
「死んだ和尚様は帰つて来ないだらうが、せめて、あの大きな掛軸だけは取返したいものだ。」
 村の人達は、時時そんな事を申しました。けれども其の掛軸は、どこの誰《たれ》がもつてゐるか知れないのです。
 さうしてゐる所へ、一人の画家《ゑかき》さんが参りました。この画家さんは妙な画家で、何一つ自分で考へ出しては描《か》けないのです。その代り、猫《ねこ》を描けとか虎《とら》を描けとか、こちらから命令すれば、実に立派なものを描きます。
 村の人達は相談しました。
「あの画家さんに頼んで、和尚様が、どこかへ持つて行つた掛軸を、描いて貰《もら》はうではないか。」
「それはいい。では描いてもらひませう。」
 そこで、画家さんに相談しますと、画家さんは、
「承知いたしました。どんな画でしたか、仰しやつて下さい。其の通りに描きます。」と、申しました。
 さて、さう言はれてみますと、此《こ》の村中に、其の掛軸の絵を、はつきり覚えてゐる人は一人だつてありません。
「妙な人間が、円いものの向ふに立つてゐたつけ。」
「何人居たつけね。」
「六七人だつたらう。」
「いや、五人だらう。」
 誰《だれ》一人、はつきり覚えてゐません。そこで村の人達は愚助の所へ来て、
「愚助さん、あなたは、あの書院に掛つてゐた大きな掛軸の絵を覚えてゐますか。覚えてゐますなら、画家さんに話してあげて下さい。」と、頼みました。
 愚助は眼を閉ぢて考へました。何とか、かんとか、和尚様が詳しく教へてくれた事だけは知つてゐますが、みんな忘れてしまつてゐるのです。けれども愚助は、
「宜《よろ》しい、其の画家さんを、ここへよこして下さい。きつと考へ出して、元の通りの絵を描いて貰ひます。」と、申しました。
「愚助さん、大丈夫ですか。」と、村の人達は念を押してききました。すると愚助は、
「大丈夫です。僕《ぼく》の頭は、一日後れの写真頭ですから。」と、申しました。

 画家《ゑかき》さんが参りました。そして問ひました。
「愚助さん、どんな絵を描くのですか。」
「明日《あした》の朝まで待つて下さい。今晩見て置きますから。」
 愚助は答へました。そして其の晩蒲団の中で、眼を閉ぢて考へ出してみた通り、翌朝画家さんに話しました。
「掛物の真中に、大きな壺《つぼ》があるんですよ。壺の正面には、こんな風に白い雲の飛んでゐる絵があるんです。」
 愚助は指尖《ゆびさき》で、雲の恰好《かつかう》を教へて置いて学校へ行きました。そして一日何にも覚えないで帰つて来ますと、画家さんは大きな紙に、立派な壺の絵を描いてありました。飛んでゐる雲も、愚助の言つた通りの雲です。
「愚助さん、この壺の側《そば》に何があるのですか。」と、画家さんはききました。
「待つて下さい、今晩見て置きます。」と、愚助は申しました。画家さんは、愚助が画手本でも内証で見るのか知らと思ひました。
 翌《あく》る朝になると、愚助は、
「画家さん、壺の右の端にね、孔子《こうし》様が立つてゐるんですよ。支那《しな》の山東省《さんとうしやう》の鄒邑《すういふ》といふ所で産れた孔子様、この人は偉い人だよ。或時《あるとき》にね、カンタイといふ人が、孔子様を憎んで、斧《をの》で斬殺《きりころ》さうとしたのさ。所が孔子様は、(天、徳を吾《われ》に為《な》せり、カンタイ夫《そ》れ吾《われ》を奈何《いかん》。)と仰《おつ》しやつて、泰然自若として坐《すわ》つていらしたんだ。するとカンタイは孔子様を殺しどころか色を変へて逃げたのださうな。それからずつと後に、ワウモウといふ人があつたのだよ。或時に黄巾《くわうきん》の賊といふ馬賊が攻めて来た。するとワウモウは孔子様の真似をして、(天、徳を吾に為せり、黄巾の賊夫れ吾を奈何。)と言つたが、其の言葉の終らないうちに、ワウモウの首は、すぽりと前に落ちてゐたさうだ。」と、立て続けに申しました。
「では壺の向ふに、孔子様とカンタイと、ワウモウと黄巾の賊を描くのですか。」と、画家さんはききました。
「いいえ、孔子様だけ。孔子様が右の手をこんな風に握つて、小指をこんなに撥《は》ねてゐます。」と、言つて、学校へ行きました。そして何にも覚えずに帰つて来てみますと、本当に賢さうな孔子様の絵が出来てゐました。
 翌《あく》る朝、画家さんは尋ねました。
「孔子様の傍《そば》に何を描くのですか。」
 すると愚助は答へました。
「孔子様の隣りに、老子《らうし》様を描くのです。老子さまは、おつ母《か》さんのお腹《なか》に、七十年居たのださうな。だから産れた時、もう髪が真白《まつしろ》で、歯が抜けてゐたのだつて。」
「誰《だれ》だつて産れた時は、歯が無いんですよ。」
 画家さんは笑ひました。
「何でもいいから、其の老子様を描くのです。老子様は孔子様も感心したほど、偉い人ですよ。」
 愚助は学校へ行きました。そして教はつた事をみんな忘れて帰つて来ますと、立派な老子様の絵が出来てゐました。やつぱり右の手を握つて、小指だけ撥ねてゐました。
 翌る朝、愚助は申しました。
「今日はね、老子様の傍へ、悉達太子《しつたたいし》を描くんですよ。悉達太子といふのは、中天竺《ちゆうてんぢく》マカダ国、浄飯王《じやうばんわう》のお子様で、カビラ城にゐなすつたのだが、或時《あるとき》城の外を通る老人を見て、人間はなぜあんなに、年をとつて、病気になつて、そして死ぬのかといふ事を考へたのです。(生れて老人になつて病気になつて死ぬ)どうしても其のわけが解《わか》らない、人間が老人《としより》にもならず、病人にもならず、死なない方法はないかと考へたが、わからないので、たうとう太子様はお城をぬけ出して、雪山《せつさん》といふ所へ行つて、アララ、カララといふ仙人について、何年も何年も修行した末、やつと、わけが解つたのです。」
「どんなに解つたのですか。」
 画家さんは眼を円くしてききました。自分も年をとらないで、病気をしないで、千年も万年も生きてゐようと思つたのでせう。
「生れなかつたら……生れなかつたらいいんですよ。」
「生れなかつたら。」
「生れなかつたら、年もとらず、病気にもかからない。死にもしない。」
「何だい、そんな事……」
「だつて、それだけの事が、人間にはなかなか、わからないんだよ。それが本当に解つたので、悉達太子様は、今にお釈迦《しやか》様と云《い》つて尊敬されるのです。」
「ええ、それがお釈迦様ですか。」
「うん、さうだよ。其のお釈迦様が、かうして小指をはねてゐらつしやるんだよ。」
 愚助はそれだけ言ひ置いて学校へ行きました。今日は先生から呶鳴《どな》られた上、鞭《むち》で頭をひつぱたかれて、細長い瘤《こぶ》をこしらへて帰つて来ました。

 絵は立派に出来てゐました。
 翌《あく》る朝、愚助《ぐすけ》が学校へ行く前に、また画家《ゑかき》さんに話しました。
「今日はね、お釈迦様の隣りに、イエス・キリスト様を描《か》くんです。此の人もお釈迦様と同じやうに、ダビデ大王といふ偉い王様の子孫でしたが、ユダヤ国の王様にならないで、貧乏人や病人のお友達になつて、親切を尽したので、何にも悪い事をしないのに、悪い人に嫉《そね》まれて殺されたのです。其のイエス・キリスト様が右の手を高くあげて、壺の中を覗《のぞ》いてゐる絵をお描きなさい。終り。」
 画家はびつくりしました。
「それで終りですか。」
「さうです。それで此の掛軸は元の通りに出来るのです。」
 画家は、これでおしまひだといふので、一所懸命にキリスト様の絵を描きました。
 五日間で、立派な絵が出来上りました。そこで村の人達は町から表具屋を傭つてきて、それを掛物にしました。
 二十日目に出来上つた、掛軸は、高さ三メエトル、幅二メエトルでした。書院の床の間に掛けますと、実に立派なものでした。
 村の人達は、此の掛軸の説明を愚助に願ひますと、愚助は、
「宜しい、明日の朝までに見て置くから、明日の朝、お寺の鐘が鳴つたら、村の人達は、男も女も子供も、一人残らず集つていらつしやい。」と、申しました。
 村の人達は、愚助が、此の掛軸の説明をした書物を見るのだと思ひました。しかし愚助は、蒲団の中で眼を閉ぢて、和尚に教へられた説明を考へて見たのでした。
 鐘が鳴りました。村中の人は、一人のこらず集つて来て、本堂の縁側まで、ぎつしり一杯に坐りました。
 愚助は石油箱を持つて来て、其の上に登りました。そして先《ま》づ孔子と老子と釈迦とキリストの履歴を詳しく話しました。
 それは和尚に教はつた通り、一言も間違はないで話したのです。
 村の人達はみんな驚きました。
 それから愚助は、一段と声を張り上げて、
「皆さん、この絵は、四|聖吸醋之図《せいきふさくのづ》と申しまして、四人の聖人が、お醋《す》を嘗《な》めてゐるのです。」と、言つた時、多勢は一度にどつと笑ひました。
「お待ちなさい。笑ひ話ではありません。右の端の孔子様は、此の壺の中のお醋を嘗めてみて、これは酸つぱいと申しました。すると其の隣りの老子様は、酸つぱいものを酸つぱいといふのは夫れは常識である。しかし能《よ》く味《あぢは》つて見ると、此のお醋は少しく淡《あは》い。水つぽい味がすると申しました。それを聞いたお釈迦様は、醋を酸つぱいといふのは道理だ。酸つぱいが少し淡いと云ふのも最もだ。しかし、よくよく味つてごらん、此のお醋には甘い所があると申しました。そこで最後にキリスト様は、醋は酸つぱいものだ。それに此の醋は淡い。水つぽい。のみならず少し甘い。これは腐敗しかけてゐるのだ。これは打《ぶ》ちまけて、新しく醸《つく》り直すがよい。と、申しました。諸君、抑《そもそ》も此の四聖の言葉は……」
 愚助は二時間あまり詳しく説明しました。さあ、それを聴いた村の人達は、大変感心しまして、俄《には》かに愚助を「愚助大和尚」と崇《あが》め奉つて、こんな大和尚様を、こんな古寺に置くのは恐れ多いと云つて、早速お寺の改築に取かかりました。
 三年|経《た》つて、お寺が立派に改築出来ました時、和尚様は、ひよつこり帰つて来ました。
 和尚様は持つて出た大きな掛物を、やつぱり肩げてゐました。
 それは何処へ持つて行つても、大き過ぎると言つて買つてくれる人がなかつたからです。
 和尚様は、お寺が立派になつたわけと、愚助が大和尚様と崇《あが》められてゐるわけとを聞いて、腹を抱へて笑ひました。
 愚助は和尚様が帰つて来たので、又た元の小僧さんになつて、小学校へ通ひました。そして毎日忘れて、毎晩思ひ出して、はつきり覚えるのでした。
 村の人達は、また愚助が、馬鹿だか賢いのだか、解らなくなりました。

底本:「日本児童文学大系 第一一巻」ほるぷ出版
   1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「童話読本 六年生」金の星社
   1939(昭和14)年2月
初出:「金の星」金の星社
   1925(大正14)年4月
入力:tatsuki
校正:田中敬三
2007年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

沖野岩三郎

岩を小くする—– 沖野岩三郎

 後村上《ごむらかみ》天皇さまの皇子さまに、寛成《ひろなり》さまと申すお方がございました。
 まだ、ごく御幼少の時、皇子さまは、多勢の家来たちと、御一しよに、吉野川の上流、なつみの川岸へ、鷹狩《たかがり》を御覧においでになりました。
 川岸には、大きな岩があつて、その上に、松の木が一本、枝ぶり美しく、生えてゐました。
 寛成の皇子さまは、それが大へん、お気に入つたとみえ、おそばにゐた、中将《ちゆうじやう》河野実為《かうのさねため》に、
「帰るとき、あの岩と松とを、御所のお庭へ、持つて行つて下さい。陛下に献上したいから。」と、仰せになりました。
 岩といつても、大きな岩で、どれだけの重さだか、わかりません。けれども、まだお小い、皇子さまのことですから、鷹狩を、御覧になつてゐるうちに、その岩のことは、お忘れになられるだらう、と、思ひましたので、中将は、
「よろしうございます、帰りには、きつと、持つてまゐりませう。」と、善《い》い加減なお返事をいたしておきました。
 やがて、鷹狩もすんで、みんな、御所の方へ、お帰りになりました。
 途中で寛成の皇子さまは、
「あ、あの岩を、忘れて来たではないか。」と、申されました。すると、そばに居た、忠行《ただゆき》の侍従は、
「あの岩は、なかなか、重うございますから、私《わたし》ひとりの力では、とても、持つてまゐる事は出来ませんが、民部大輔《みんぶたいふ》は、大変な、力もちでございますから、あとから、持つてまゐりませう。」と、申し上げました。そして、岩と松の事は、お忘れになるやうに、いろいろ、面白いお話をいたしましたが、皇子さまは、御所へお帰りになると直ぐ、河野中将を、およびになつて、
「まだ。あの岩と松は、持つて来ないのか。」との、お尋ねでございました。中将も、困りましたので、
「岩のことは、忠行の侍従に、よく言ひつけて置きましたから、おきき下さいまし。」と、申し上げますと、皇子さまは、
「では、すぐ忠行に、ここへ来いと言つて下さい。」と、申されました。で、致方なしに、忠行を呼んでまゐりますと、
「あの岩は、どうした。早く持つて来ないか。岩には、松が生えてゐた筈《はず》だ。」と、仰《おほ》せになりましたので、忠行の侍従も、困つてしまひ、
「あの岩は、民部大輔が、あとから、持つてまゐつた筈でございます。只今《ただいま》大輔を、これへ呼び出しませう。」と、いい加減な事を、申し上げましたが、皇子さまは、なかなか、御承知なさらないで、
「あれだけ中将に、よくよく言ひつけて置いたのに、どうして、早く持つてまゐらぬのか。」と、申されて、悲しさうに、うなだれてゐられますので、中将から、此《こ》の事を、天皇さまに申し上げますと、天皇さまは、お手を拍《う》つてお笑ひになり、
「それは面白い、その岩を、是非見たいものだ。民部大輔は、日本一の力もちだから、きつと、持つてきたに相違ない。早く此所《ここ》へ、もつて来るやうに、言ひつけるがよい。」と、申されました。そこで、中将は、室《へや》の外に出て行つて、民部大輔に、
「皇子さまが、是非、あの岩と松とを、ほしいと仰せられるが、どうしたらば、よいだらうか。」と、相談いたしました。
 民部大輔も、よわつてしまつて、しばらく、考へ込んでゐましたが、
「よろしい、よいことを、考へつきました。かういたしませう。」と、言つて、御所のお庭にあつた、小い小い岩に、松の小枝をしばりつけて、中将と二人で、さも重さうに、よいしよ、よいしよと、掛声をして、それを、皇子さまの前に持つて来て、据《す》ゑました。が、それを御らんになつた皇子さまは、
「川にあつたのは、もつと大きな岩だつた。こんな、ちつぽけな岩ではなかつた。」と、申されました。すると、民部大輔は、
「あの大きな岩が、こんなに小く、なつてしまつたのでございます。」と、真面目《まじめ》な顔付で申し上げますと、
「どうして、そんなに、小さくなつたのか。そのわけを、おはなし。」と、皇子さまは、小いお膝《ひざ》を、お進めになりました。
「あの川岸にありました、大きな岩を、私が両手に力をこめて、うんと担ぎ上げ、山路《やまみち》を登つてまゐりましたが、途中で、右と左から、山と山との、さし出た所で、岩が両方の岸に、がつちり、挟《はさ》まつてしまひましたのでございます。」
「うん、あの山と山との間は、狭いから、岩が引つかかつたかも知れない。それからどうしたのだ。」
「はい。此の民部大輔、非常に困つてゐますと、後《うしろ》から大きな声で、何だつて、こんな所へ、大きな岩なんか、担ぎ込んだのだ。途《みち》が塞《ふさ》がつて、誰《たれ》も通ることが出来ないぢやないか。と、呶鳴《どな》る者がありました。」
「その、大輔を叱《しか》つた者は、何者であつたか。」
「それは、あの、法螺貝《ほらがひ》を吹いて、御祈祷《ごきたう》をいたします、山伏《やまぶし》の一人でございました。」
「山伏は、どんなことをしたか。」
 皇子さまは、だんだん、お話が面白くなつて来ましたので、御機嫌《ごきげん》が、直つてまゐりました。
「私《わたし》は、その山伏に、そんなに、人を呶鳴りつけるものではない。この岩は、恐れ多くも寛成の皇子さまから、天皇さまに御献上なさる大事のお土産でございますから、どうしてもこれは、御所までもつてまゐらねばならない、岩でございます。と、申しました。すると、山伏は急に、言葉を和げて、ああ、皇子さまの、お土産でございますか。それならば、私が其の岩を、少し小くしてあげませう。と、云つて、手にもつてゐた、数珠をもみながら、あじやら、もじやら、うじやら、もじやらと、呪文《じゆもん》を、唱へはじめました。」
 皇子さまは、にこにこお笑ひになつて、
「岩は小くなつたか。」と、申されました。
「はい、岩はだんだん、小くなりまして、たうとう、こんなになつてしまひました。そこで、私《わたし》は、こんなに小くなつては困りますから、どうぞ元元通り、大きくして下さい。と、申しましたが、山伏は、頭をふつて、これから、御所までの途中には、もつと道幅の狭いところが、何箇所もありますから、元の通り大きくすれば、どうしても、御所まで、持つてまゐることは、出来ません。と、申しました。なるほど、それもさうだ。と、思ひましたので、この通り、小くなつたまま、持つてまゐりましたので、ございます。」
 民部大輔の話を、黙つてお聞きになつてゐました、天皇さまも、忠行侍従も、河野中将も、みんな感心してしまひました。ところが皇子さまは、可愛いお目目を見はつて、
「では、しかたがない。しかし、そんな偉い山伏に、会つてみたいものだ。早く行つて、呼び返して来て下さい。」と、申されました。それを聞いた大輔は、さも残念さうな、顔つきをして、
「仰《おほ》せではございますが、その山伏と申しまするは、とても、足の早い男で、ございましたから、もう、何十里先へ行つたか、知れません。今から誰《たれ》が追つかけたところで、追ひつくことは、思ひもよらぬことでごぎいます。」と、申し上げました。すると、皇子さまも、残念さうな、お顔をなされて、
「残念なことをした。其《そ》の山伏をよんで来たなら、民部大輔の、今言つた其の嘘《うそ》を、もつと、小くしてやるやうに、祈らせる筈だつたが。」と、申されました。
 まだ五歳か六歳の、御幼少なころでしたが、お賢い寛成の皇子さまは、何もかも、よく御承知だつたのです。そして、こんな奇抜なことを、おつしやつたのでございました。
 この寛成の皇子さまが、御成長の後に、御即位なされて、長慶天皇さまに、おなりになつたのでございます。

底本:「日本児童文学大系 第一一巻」ほるぷ出版
   1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「童話読本 六年生」金の星社
   1939(昭和14)年2月
初出:「金の星」金の星社
   1927(昭和2)年1月
入力:tatsuki
校正:田中敬三
2007年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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沖野岩三郎

蚊帳の釣手—– 沖野岩三郎

    

万作《まんさく》は十二歳になりました。けれども馬鹿《ばか》だから字を書く事も本を読む事も出来ません。数の勘定もやつと一から十二までしか知らないのでした。
「おい万作! お前は幾歳《いくつ》になつた。」と問ひますと「十二です!」と元気よく答へますが、其時「来年は何歳《いくつ》になる?」と問ひますと、もう黙つてしまひます。それは、十二の次が十三だといふ事を知らないからであります。だから毎日々々お友達から、「馬鹿万」と云はれて、からかはれました。
 夏の初め頃《ころ》でした。万作は朝早く起きて顔を洗つて「お父さんお早うございます。おつ母さんお早うございます。」と何時になく叮嚀《ていねい》にお辞儀を致しました。
 お父さんもおつ母《か》さんも吃驚《びつくり》して「まア、万作! お前は大変賢くなつたものだネ。」と云《い》つて喜びました。
 万作は嬉《うれ》しさうな顔をして、こんな事を云ふのでした。
「お父さん! おつ母さん! 私は今日から暫《しばら》くの間お暇を頂戴《ちやうだい》したうございます。私は今日から遠い遠い国へ行つて、うんとお金を儲《まう》けて帰ります。」
「え? お前が遠い国へ行くつて?」お父さんは驚きました。
「お前がお金を儲けて来る?」おつ母さんは眼《め》を円くしました。
 万作は平気な顔で、
「えゝ、きつと儲けて来ます。私がお金を儲けて来たなら何を買つて上げませう。」と云ふのです。おつ母さんは、
「では万作、お前がお金を儲けて来たなら蚊帳《かや》を一つ買つて下さい。もう十二年前に丁度万作の生れた年、たつた一枚の蚊帳を泥棒《どろぼう》に盗まれて今だに蚊帳を買ふ事が出来ないんだから。」と云ひました。
 万作の家《うち》には蚊帳がありませんでしたから、夏になると宵の口から火鉢《ひばち》の中で杉つ葉を燻《くす》べて蚊を追出してそれから、ぴつしやり障子を閉め切つて寝たのでした。
 だから、万作は夏といふものは煙くつて暑いものだ、夜になるとどんなに涼しい風が吹いても障子を開けてはならないものだ、とばかり思つてゐました。

    二
「左様なら、お父さん! おつ母《か》さん!」と云つて万作《まんさく》は家《うち》を出て行きました。両親《ふたおや》は村境の橋の所まで送つて行つて、万作の姿の見えなくなるまで見てゐましたが、おつ母さんはたうとう泣き出しました。
「あんな馬鹿《ばか》な子供が、遠い所へ行つて皆《みん》なに馬鹿にされて酷《ひど》い目に逢ふことは無いでせうか。」おつ母さんがかう言つた時、
「なあに大丈夫だ、あの子は十二までの数を知つてゐる。それからお金を儲《まう》けやうといふ考へがある。遠い所へ独りで行かうといふ勇気がある。帰つて来たなら蚊帳を買つて呉れようといふ情深い心がある。あれは馬鹿でも何でもない。きつとあの子は偉い人になつて帰つて来るから安心して待つてゐるがよい。」と云つてお父さんはおつ母さんを慰めてゐました。
 さて万作は家《うち》を出てどこへ行くといふ的《あて》もなく、ずん/\と東の方へ行きましたが、そこに大きな山がありました。万作はこの山を越えて隣の国へ行かうと思つて三里ばかり山路《やまみち》を登つたと思ふと、お昼飯《ひるはん》を食べなかつたものですから、お腹《なか》が空《す》いてもう一歩もあるけなくなりました。で、仕方がありませんから、大きな木の株に腰を掛けて休んでゐました。すると万作は睡《ねむ》くなつて来て、いつのまにか、うと/\と眠つてしまひました。
「おい! 万作さん!」と大きな声で呼んだものがあるので万作は吃驚《びつくり》して眼《め》を開けてみると、そこに白い髯《ひげ》を長く伸《のば》した老爺《ぢい》さんが真白《まつしろ》い着物を着て立つてゐました。
「あなたはどなたでございます? 私は万作ですが……」
「私《わし》は仙人《せんにん》ぢや。お前に用事があつて来たのぢや。」
「どんな御用でございます。」
「私《わし》はこの隣国の殿様になる人を一人見付けたいと思つて今まで尋ねてゐたのぢや。」
「では爺《ぢい》さん、私をその国の殿様にして呉《く》れるのですか。」
「うん、さうぢや。今から私《わし》は万作さんを隣の国の殿様にするから、さあそこへきちんとお坐《すわ》り。」
「はい、畏《かしこま》りました。」
 万作が土の上へ坐つた時、爺さんは懐から小い袋を取出しました。

    三
 老爺《ぢい》さんは小い袋を万作《まんさく》に渡して、こんな事を言ひました。
「この中には大事の大事の宝が入つてゐる。これを万作さんにあげます。あなたは今日から十二年間隣の国の殿様になるのだが、その間決して袋の中を見てはいけない。十二年|経《た》つて殿様を廃《よ》して家《うち》へ帰つた時、お父さんと、おつ母さんとにこれを御土産になさい。」と云《い》ひました。
 万作はその袋を押頂いて、
「有難うございます。では私が今から隣の国の殿様になるのでございますか。」と云ひましたが、ふと顔を上げてみますと、もうそこには最前の爺《じい》さんはゐませんでした。不思議だナと思つてゐる中に、俄《にはか》に麓《ふもと》の方で人声が喧《やかま》しく聞えました。万作は立上つて何事だらうと思つて覗《のぞ》いてみると、何百人か何千人か知らないが、百姓や商人《あきんど》や職人|達《たち》が多勢てんでに紅《あか》い旗を打振つて山をこちらへ登つて来るのでした。
「はて何だらう?」
 万作は木の株の上に立つたまゝ凝《じつ》と見てゐると多勢はだん/\と近寄つて来て、万作の姿を見るや否や一斉に、
「殿様がゐる! 殿様がゐる! 万歳!」と叫びました。万作は呆然《ばうぜん》として黙つてゐると、一人の賢さうな男が出て来てかう申しました。
「恐れながら、殿様には四つの玉を容《い》れた錦《にしき》の袋をお持ちでございますか。」
 万作は何と言つて宜《よ》いか知れないので黙つて最前爺さんに貰《もら》つた袋を見せました。
「はゝあ、そのお宝を持つてお出でならば、あなたは私共の国の殿様に相違ございません。では一寸《ちよつと》御尋《おたづ》ね致したい事がございます。私共の国の先の殿様は大層悪い殿様で無茶苦茶に高い税金を取られまして、もう国中は貧乏になつてしまひました。これから百姓は毎月何程の税金をお納め申す事に致しませうか。」
「十二銭!」と万作は元気よく言ひました。
「武士《さむらひ》や職人や商人《あきんど》は何程|宛《づつ》で宜《よろ》しうございますか。」
「十二銭!」と又元気よく言ひました。

    四
 一同は手を拍《う》つて喜びました。
「皆《みん》なが十二銭|宛《づつ》だとさ、税金を安くして高低《たかひく》なしにして下すつた。本当に公平な賢い殿様だ。」
 かう云つて多勢の人々は旗を振つて万歳万歳と言ひました。
 万作はすぐ立派な着物を着せられて、美しい美しい御殿の中へ伴《つ》れて行かれました。
 それから毎日々々いろ/\なむづかしい事件が起つてそれを申上げても、万作には何の事やら判《わか》らないのでいつも黙つてゐました。だから人民たちは、
「何を申上げても黙つてゐらつしやる。我々の申上る事は皆《みん》な馬鹿《ばか》らしくて御返事が出来ないのだらうから、もう我々も黙つて働かうぢやないか。」と言ひました。
 それからといふものは、この国には喧嘩《けんくわ》もなければ裁判もなく、人の悪口を言ふものも無ければ、それはそれは皆《みん》ながおとなしいおとなしい唯《ただ》黙《だま》つて一生懸命に働く人達《ひとたち》ばかりになつたので国中がだん/\金持になりました。
 月日の経《た》つのは早いもので、万作がこの国の殿様になつてからもうお正月を十二度迎へました。さア明日は十三度目のお正月だと云《い》ふ時、万作は急に、
「私《わし》は今日から国へ帰る!」と云ひ出しました。
 人民たちは皆《みん》な集つて来て、
「何卒《どうぞ》いつまでも/\殿様になつてゐて下さい。」と申しましたが、万作は頭を横に振つて、さつさと御殿を出て行きました。
 そこで大蔵大臣が人民共と相談して、万作に十二年間の御礼として幾らかのお金を差上げる事になりました。
「恐れながら殿様には餞別《せんべつ》としてこの国の庫《くら》に積んであるお金を何程でも御礼として差上げたうございますから御入用だけ仰《おほ》せ付け下さりますやう。」と大蔵大臣は地べたへ頭を擦《す》りつけて伺ひました。
 万作は黙つて聞いてゐましたが、ふと十二年前に国を出る時、おつ母さんに蚊帳《かや》の約束をした事を想ひ出しましたから、
「では少々|貰《もら》はう。」と申しました。大臣は、
「では何百万円お入用でございますか。」と問ひましたが万作は、
「十二円!」と元気よく言ひました。

    五
 十二年も殿様の役目を勤めて下すつたに拘《かかは》らず、お礼の金をたつた十二円だけ貰《もら》はうと仰《おつ》しやつたので大臣は余り金高が少いのにびつくりして暫《しばら》くの間は物が言へませんでしたが、
「たつたそれつぱかりで宜《よろ》しうございますか。」と聞直しました。
「うん宜しい。その十二円で蚊帳《かや》を一つ買つて来て下さいよ。」
「蚊帳? あの夏になつてつる蚊帳をですか。」
「さうです。」万作は元気よく言ひました。で、大臣は早速町へ行つて蚊帳を一つ買つて来てそれを殿様に差上げました。
 万作は多勢に見送られて、十二年前に越えて来た山坂を越えて自分の国へ帰つて見ますと、いつの間にか、お父さんはお爺《ぢい》さんになり、おつ母さんはお婆《ば》アさんになつてゐました。
「おや! 万作ぢやないか、まあ大人になつたネ。もう幾つになつたのかい。」
 おつ母さんは嬉《うれ》しさうな顔をして聞きました。
「十二と十二とです。」万作は元気よく返事をしました。
「十二と十二?」お父さんは笑ひながら万作の抱へてゐるものを見て、「それは何ぢや。」と問ひました。
 万作は、につこり笑つて、
「蚊帳です! もうこの蚊帳があれば今年の夏は煙い辛抱《しんばう》をしなくとも宜《い》いです。障子を閉めきらないでも宜いです。これを十二円で買つて貰つて来たのです。喜んで下さい。」と元気よく言ひました。爺さんも婆アさんも大層喜んで今年は早く夏が来れば宜《よ》いがと思つて、蚊の出る頃《ころ》を待つてゐましたが、ブーン、ブーンと唸《うな》つて一|疋《ぴき》二疋蚊が出て来ると、
「蚊帳だ! 蚊帳だ!」と大騒ぎをして、それをつらうとしたが四|隅《すみ》に吊《つる》す釣手《つりて》がありませんでした。どうせう、かうせうと評定してゐる中、万作は仙人に貰つた袋の事を想ひ出してそれを開けてみると、中に四つの栃《とち》の実が入つてゐました。そして、それに穴をあけて青い紐《ひも》を通してありました。
「これが宜《い》い、これが宜い!」大喜びでそれを四隅の釣手にして早速三人は其中に入つて寝ました。爺さんも婆アさんも、有難い有難いと云つて喜びました。

底本:「日本児童文学大系 第一一巻」ほるぷ出版
   1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「赤い猫」金の星社
   1923(大正12)年3月
入力:tatsuki
校正:田中敬三
2007年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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沖野岩三郎

ばべるの塔—– 沖野岩三郎

 まだ、電話も電信も、なんにもない、五六千年も、まへのおはなしです。
 ひろいひろい、のはらを、みつけた男がありました。あまり、けしきがよいので、そのまんなかに、一けんの家を、たてました。すると、いつのまにか、われもわれもと、そこへ、何十万の人が、あつまつて来て、五六年めには、たいへん大きな、町になつて、しまひました。
 ところが、ここへ、あつまつてきた、人たちは、男も女も、みんな、正直ものばかりで、まいにち、よくはたらいて、
「おい、正直にしろよ。かげで、なまけちや、いけねえぞ。おてんたうさまが、見てゐらつしやるから。」と、いつてゐました。だから、この町の人たちは、だれ一人、うそをつくものもなく、それはそれは、かんしんに、仲よく、はたらいてゐました。
 ある年の春、この町へ、二人の、りつぱな、みなりをした、男がきました。そして、この二人は、町の役所に行つて、こんなことを、まうしました。
「私《わたし》どもは、世界で一ばんえらい、かしこい男です。私どもは、れんぐわと、せめんとを、つくることを、しつてゐます。この町の人は、おてんたうさまを、おそろしがつて、正直に、よくはたらくさうですが、私どもの、はつめいした、れんぐわと、せめんとで、天へとどく、高い高い、塔をたてて、そこから、天へのぼつて、天にゐる、おてんたうさまを、おひ出してしまつては、いかがでございますか。さうすると、すこしは、うそもいへるし、なまけてもいいし、わるいことをしても、おてんたうさまに、しかられる、しんぱいは、ないのですから。」
 これをきいた市長さんは、すぐ町の人たちに、このことを、さうだんしますと、みんなが、たいへん、よろこんで、
「それはよい人がきてくれた。では、さつそく、そのたかい塔を、たてることに、してもらはう。そして、おてんたうさまを、天から、おひ出して、気らくに、くらさうではないか。」と、いひました。
 市長さまはじめ、みんなが、なまけてみたいものですから、町の人たちは、みんな、あつまつてきて、その高い塔を、たてはじめました。
 れんぐわを、つくるもの、せめんとを、つくるもの、それをつみかさねて、塔をたてるもの、まい日まい日、大へんな、さわぎでした。
 そんなにして、町の人たちは、三年かかつて、塔を十三がいまで、きづきあげました。
「なん百年、かかつてもよいから、天へとどくまで、高くつみ上げろ。」と、いふので、たうとう、十五年の後には、百五十かいまで、できました。
 けれども、そのころは、電話も、えれべえたあも、なんにもないのですから、いちいち、一かいから、百五十かいまで、しごとのだうぐも、おべんたうも、みんな、もつて上らなければ、ならないのです。大工も、左官も、朝はやく、一かいから、どんどんと、百五十かいまで、のぼつて、行くので、上まで、あがつたころは、もう、おひるです。これでは、しごとが、はかどらないからといふので、みんなが、入用のものを、上から下へ、しらせるとき、五かいめごとに、用じをきいて、下へ下へと、いひつぐのでした。
 百五十かいの上で、さしづをしてゐました、かんとくさんが、おひるごろに、おなかが、すいたものですから、おすしでも、たべたいとおもつて、
「おうい、すしを一人まへ。」と、いひました。ところが、八十かいの男が、それを、ききちがへて、
「おうい、槌《つち》ひとつ。」と、下へいひました。
 六十かいでは「土を一《いつ》か。」と、いひました。
 四十かいでは「乳を一《いつ》しよう。」と、いひました。
 二十かいでは「ちりとり、ひとつ。」と、いひました。
 十かいでは、どうまちがへたのか「つつそで一まい。」と、いひました。
 しばらくして、かんとくさんが、おなかを、ぺこぺこにして、おすしを、まつてゐるところへ、もつてきたものは、つつそでの、きもの、一まいでした。
 かんとくさんは、すつかり、はらをたてて、
「ばか。すしの、べんたうだ。」と、どなりました。けれども、それがまた、だんだん、下へ下へと、まちがつていつて、
 八十かいの男は「百面さう。」
 六十かいの男は「ふくじゆさう。」
 四十かいの男は「ふろしき。」
 二十かいの男は「くるしい。」
 十かいの男は、あわてて「しんだ。」
 一かいの男は「さうしきぢやあ。」
 さあ、町ぢゆうが、大さわぎになつて、かんとくさんが、しんで、おさうしきだといふので、市長さまが、百五十かいまで、かけ上つて行つたのは、三日目の朝でしたが、そのとき、かんとくさんは、ほんたうに、おなかがすいて、しんでゐました。
 こんなさわぎで、たうとう、町の人たちは、おてんたうさまを、おひ出すための、たかい塔を、たてることをやめて、また、もとのとほり、はたらかうとしましたが、町の人たちは、いつのまにか、すつかり、びんばふになつたから、まもなくそこは、もとの、のはらになつてしまひました。
 その塔の、なまへは、ばべるの塔と、つけるはずであつたと、いふことです。

底本:「日本児童文学大系 第一一巻」ほるぷ出版
   1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「小学生童話 三年生」金の星社
   1936(昭和11)年10月
入力:tatsuki
校正:田中敬三
2007年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

沖野岩三郎

バークレーより——- 沖野岩三郎

 サンフランシスコから渡船《フェリー》でオークランドに渡り、更にエス・ビーの電車で五哩程行くと、セミナリー・アヴェニュに出る。ここで下車して山手の方へ十町ばかり行くと、そこにユーカリプタスの森がある。その森の中には太平洋沿岸最古の女子大学ミルスカレッジがある。遠慮なくカレッジの庭を通りぬけて、三哩ばかり自動車を走らすと、ハイツに着く。
 ハイツとは詩人ウオーキン・ミラー翁の住んでいた旧邸である。ウオーキン・ミラーといえば直ぐヨネ・ノグチを想い起すのが在米日本人であり、ヨネ・ノグチといえば直ぐウオーキン・ミラーを想い出すのは日本の詩人たちであろう。
 ハイツは詩人ミラー翁を記念する為に、ミラーの死後千九百十九年に、オークランド市が買取って永久保存の公園としたミラー翁の旧邸なのである。
 長い曲りくねった路をドライヴしているうちに思うことは、こんな偏僻《へんぴ》な所に、自動車も何にもない頃どうして住んでいたろうという事である。ヨネ・ノグチ氏が、がた馬車に乗って町へ買物に出た光景が想像される。
 東海散史の佳人の奇遇に出ているというミルキン湖も、ここも同じ公園ではあるが、ミルキン湖の美しさにくらべて何とまあ田舎びた公園だろう。
 その公園の中に見すぼらしい家がしょんぼり建っている。ペンキは剥げ、羽目板は曲み、窓ガラスは破れている、近よってみると間口五間奥行三間という木造平屋だ。家の周囲にはサイプラスとユーカリプタスが、ぎっしり生えている。これがアペイという邸宅で、ウオーキン・ミラーが晩年詩作に耽った所なのだ。
『なる程……』とこの家から詩翁の心も想像される。
『シエラの詩人と呼ばれしウオーキン・ミラーの住みし所、彼の名づけて高嶺《こうれい》といいける所。妻の名にちなみてアペイと呼びしこの家は、彼が「コロムバス」その他の詩を物せし所。周囲の樹木は彼の植えにしものにて、北方の高地には荼毘《だび》塔あり。また、モーセ、ジョン・シー・フレメント将軍、ロバアト・ブラウニングに捧げし記念塔あり。この高嶺は千九百十九年オークランド市の所有となる。』
 それは青銅のタブレットにきざまれた文字であった。
 破れた窓から中をのぞいてみると、薄暗い室に素朴頑丈な椅子やテエブルが無造作におかれてある。この椅子に掛けて、このテエブルにもたれて、詩翁《しおう》は、ヨネ・ノグチの若い顔に何を話しかけたことであろうなどと思っていると、見ぬ詩翁の顔は浮んで来ないが、ヨネ・ノグチのあの顔が眼底に見えて来る。
 近づいて来た老人にきくと、ミラー翁がここに来た頃は、まだ狼が夜な夜なさまよい出て物すごくほえたそうで、夫人も娘も恐ろしがってここへは来なかったそうである。
『詩人ミラーはひとりでいたんですか。』
 当然なすべき質問であった。
『名前は知らないが、日本人がいて炊事を助けたという話しです。』と、老人は答えた。
『その日本人の名はヨネ・ノグチといいませんでしたか。』
『知りませんね。』
 老人は、とことこ歩み去った。老人の行った方を見ると、半町ほど隔った所に小さい木造の家がある。
 ユーカリプタスの落葉を踏みながら、だらだら坂を登って、その家に近づいて入口からのぞくと、裏口のドアの蔭に、つぶれそうな古い籐椅子に腰をおろした婆あさんがいる。
 婆あさんは、こちらをむいて何だかいう。耳をそばだてると
『オーキン、ウオーキン、ウオークイン。』と聞こえる。
 呼びかける老婦人こそ、詩人ウオーキン・ミラーの未亡人で、夫の名を呼ぶつもりで『おはいりなさい(Walk in)』といっているのである。
 近よると如何にもうれしそうな顔で『ウオーキン』とも一度いって、ウオーキンの意味を説明する。
 夫人は黒い僧服のようなものを着て、白い首飾りをかけている。それが何だか物すごい感じを与える。今のアメリカにもこんな女がいるかと疑われる。北欧の森林からでもぬけ出して来た婆あさんらしく、今にぶつぶつと呪文でも唱え出しそうである。けれども夫人の顔には一種独特の艶があり、その眉宇にはある物を威圧する力がある。
『あなたは日本人ですね。』
『そうです。』
 この短い会話は老婦人を俄かに興奮させた。
『ヨネ・ノグチは、あれは天才です。本当に天才です、今に達者でボーイ達を教えているそうだが、あんな詩人の教育を受けるボーイ達は幸福です。それからミスター・カンノはえらい男です。どんな苦労にでも堪え得る忍耐力があります。すべての日本人は勇敢で、そして親切です。日本人は立派な品性と力量とをもっています……私達はミラーに死なれてからアメリカ人に随分いじめられました。ミラーの遺稿から上った原稿料など、みんなまき上げられました……』
 夫人の言葉は少々乱脈になって来た。のべつ幕なしに話している処へ五十近い、しかも、まだミスらしい婦人が出て来た。ミラー翁の娘さんらしい。
 挨拶をすると、直ぐ手の筋を見てやろうといった。で、セエキスピアが気味悪そうに右の手を出すと、彼女はいった。
『私はあなたの未来の事はちっとも申しません。あなたの過去のすべてが、私の判断でわかりますから、それを語って批判します。あなたはその批判から御自分の将来を御判断なさい。あなたは由緒ある家に生まれ、生活の苦闘を続け、今は成功している。感情的で他人の世話をする。その世話はことごとく裏切られる。それでも信念は一々それを気持よく整理した。文学を好む。それが半ば熟達の道を歩んでいる。あなたは要するに善人で……』
『異存なし!』といいたい所である。そこを出て山の方へ行ってみたかったが、近頃の山火事に追われたカヨテ(狼)やライオンが出るといううわさをきいていたので、行くことは見合せた。ここらで獣の餌食になっては私は兎も角若いセエキスピアのために泣く人があるので。
 ハイツの森を出た者は、誰でも後を振り向いて考えるであろう。
『こんな所に、たったひとりいたというだけで、ウオーキン・ミラーという人は詩人でもあったろうがまた奇人でもあったろう?』
 それから一週間の後であった。私はひとりで、どこへ行くというあてどもなく、町をぶらついていると、向うから夫婦者らしい二人が歩いて来る。男は日本人で女はアメリカ人らしい。男は黒の結びネクタイで、竹久夢二氏を十年ほど老人にしたような風采である……と思っていると、
『日本人教会はどこですか。』と其の男はやさしい声できいた。
『あすこです。』
 指をあげて教えてあげた私は、別に気にもとめなかったが、あとできけば、その男こそウオーキン・ミラー未亡人が口を極めてほめたたえた詩人の菅野《かんの》衣川氏だったのだ。つれていた婦人は彫刻家で菅野[#「菅野」は底本では「管野」]氏のミセスだときいた。其のミセスの事は佐々木指月君から度々聞かされていたのである。それだったら、会って話してみたかったと思ったが、どうせ会った所で詩人でなく美術家でない、散文的な私のことだ、先方に迷惑をかけるだけと思って、訪問にも出かけなかった。
      *
 カリフォルニヤ大学のカムパスの中央に聳え立つ高塔《カンパニール》は花崗石を三百七呎の高さに積み上げたルネッサンス式の建築である。ヴェニスの聖マークの高塔よりも僅か二十一尺の低さで、大学のカムパニールとしては、凡そ全世界にこれほど高いものはないと云う話である。
 此の高塔がカリフォルニヤ大学に建てられたについては、こんな話がある。
 大学の後援者の一人にセイン・ケー・セーサーという婦人があった。彼女の考では人間教育の骨子は、健全に文学を鑑賞させることと正当に歴史を会得させることにあるというのである。そこで彼女は此の加州大学の当局者に対して、二人の教授の俸給を永久に支払い得るだけのプロフェッサーシップファンドの寄付を申し込んだ。そして一人の教授は必ず古典文学を担当し、他の一人は史学を教授することにしてほしいと云った。大学ではその申込を受入れることとした。
 彼女は満足した。けれども彼女の寄付は一万幾千の大学生の中で、単に文学と歴史を学ぶもののみに恩沢を与えるにとどまる。それでは完全なる好意と云えない。そこで考えついたのが、此のカムパニールと、大きな校門とであった。高塔は文学の象徴であり、校門は歴史の標号である。毎日毎日三百七|呎《フィート》の高塔から美しい鐘の音が音楽となって鳴り響く。夜も昼も無数の老若男女が流れ来り流れ去る此の校門は、正に歴史のペエジペエジに現われ消え去る人々の姿なのである。
 ヨネ野口の師事したウオーキン・ミラーという詩人で名高いバークレーの街を、ずんずん山手に登った所にテレグラフという大通りがある。オークランド方面から此の大学に来るには最も便利な電車通りだ。その北の終点が加州大学であり、そこの入口にある校門が、謂う所のセイサアゲエトで、花崗石の巨大な門柱が中心になって、その外に稍小さい石柱が二本ずつ並んで副門を作っている。柱上には青銅のブリッジが渡されて、セイサアゲエトという文字が浮彫りにされ、礎石には『千九百十五年』という文字が刻まれている。
 此の門を入ってアスファルトの歩道を右に折れ更に左に曲ると、カムパニールの下に出る。近づけば近づく程高く見える。それも其の筈だ。よく晴れた日には海を隔てたサンフランシスコからでも、バークレーの緑の丘を背景に、くっきりと白く見える程の高塔である。オークランドからバークレーに行く者が北に北にと進むにつれて、時々刻々に此の高塔の姿が大きくなって自分に面して来るのを誰でも気づくであろう。だから此のカムパニールは、満州の喇嘛《ラマ》塔のように迷路の標塔でもある。
 セイサア女史は校門の落成は見たらしいが、此のカムパニールの竣功を見ないで此世を去った。大学当局者達の遺憾の念いは一通りでなかったと見え、夫人の追悼会場に於て博士エドワード・ビー・クラップの演説に、

 - 我がカリフォルニヤの到る所に、此のカムパニールの姿を眼に刻みつけ、その美しい鐘の音に胸を高鳴らせた人々が、やがて多く現われることであろう。間もなく吾々の校庭にはそれが雲とそそり立つであろう。その冲天《ちゅうてん》の姿こそ、若きカリフォルニヤのシンボルである。これを無用の長物と呟かしめる事は当事者の恥である。
美しき門と高き塔とは世々に其の美と美の価値を人の心に悟らしめるであろう。その存続は此の大学と倶に永久であろう。しかも大学は文化の連鎖に切断の生じない限り人類社会に破滅の来るべき天変地異の生じない限り絶滅しないものである。―

と、あるによっても明らかである。
 斯くて、此の三百七呎の高塔から美しい音楽の音の流れ初めたのは千九百十七年十一月二日の正午だったのである。爾来《じらい》十四年間正午と夕刻の二回、時を違えずグレゴリーチャント以後今日まで世界の名曲の一部がチャイムとなって虚空遙かに流れわたるのである。
 此の塔が竣成して間もなく、専門家が長い間の研究と実験を経て完成されたチャイムの鐘が十二個イギリスから搬送されて来たのである。最大が四千一百十八斤で最小が三百四十九斤である。そして、今このチャイムをバークレーの町々に、日毎夜毎鳴り響かせている男は、全体どんな男であろう。
 一二回あの塔に昇った事のある人だったら、校内を歩いていると、後から元気な声で『ハロー!』と呼びかけられる程彼は物覚えがよい。声はやさしいが雲突くような大男だ。でっくり肥えて、顔は日に焼けて焦茶色である。爛々たる眼光は常に何物かを見つめている習性の持主だという事が誰にも知られる。どうしても年百年中荒潮の中に浪と闘う老船長である。年は五十四五でもあろう。
 私は今日も此の老船長のような男に三百七呎の上空まで伴れて行ってもらった。彼は此の塔の訪問者の案内役であり、エレベーターのコンダクターであり、正午と六時のチャイムのミュージシャンでもあるのだ。エレベーターが停ると彼は、柔和な声で説明する。
『此の塔は高さ三百七呎、此の観望台は二百尺の位置にある。バークレー全市とサンフランシスコ湾と金門海峽が見える……向うの霞の中に見えるのがタマルパイの嶺、その左に連るのがゴールデンゲートの山々、その手前がエンゼルスアイランド、左に見えるがオークランド市……』
 それから眼下の校庭を指ざしながら、あれが図書館、これが自然科学館、それが物理学教室……と、さも自分の財産ででもあるかの如く愛撫の情を含みながら云う。
 説明が終った時、つめたい鉄柵を撫でながら私は言った。
『あなたは年がら年中、このブリッジに立って果しもない大海を眺め、潮風に吹かれ、雲の変化を見ているんですね、丁度船長のように。』
『全くその通りだ。』と相恰くずして喜んだカムパニールキーパーは続けて言った。『夏でも冬でも、晴天にも曇天にも、風が吹こうが雪が降ろうが、私はいつも此の通りに立っている。或時は寒流から押しよせて来る濃霧のために、眼前|咫尺《しせき》を弁じない事もあるが、今日のように、あの美しいタマルパイの姿をくっきり見せてくれる事もある。なるほど私は船長だ。パイロットだ!』
『ところが此の船はティッピングもローリングもしなくていいですね。』
『揺れないかわりに、動きもしない、大地のような安定な船だ。』
『随分多勢の人が毎日此の船に乗りましょうね?』
『ははは乗客はどんな日でもありますね、しかも世界中から集って来る。偉い人も偉くない人もある。或人は一目見ると直ぐ、ハハア此の人は偉いぞとわかる。だが時としては皆目見当のつかない人もある。とにかく人間というものは此の世の中で一番面白いものだ。』
 話しているうちに、何とも得体の知れないものが欄干の間から見えた。
『あれは?』
『コロシアムだ、大きな丼鉢のようだがあの容量《キャパシチイ》は八万人だ。あの中央の緑の美しいのをごらんなさい。秋になるとあすこでフットボールの競技があるのだ。』
 船長は時計を出してみて『あ、時間だ!』
 エレベーターはまた私たちを運んで下界に降した。降りながら彼は言った。
『近いうちに、あなたは此の高塔から日本の歌がチャイムとなって響くのを聞くだろう!』
 私はその意味がわからなかった。けれども、それから四五日経った或日の夕方であった。三人の日本人がコロシアムの壁上に立って、タマルパイの彼方に沈む紅い夕陽を眺めていると、六時の時報が高塔から響き出した。
『お、もう六時だ!』
 一人が塔の方を見た時、こは抑《そ》も何事ぞ! 高塔の上からバークレーの町々に、オークランドの家々に静かに流れ渡るその歌は。
『みどりもぞ濃き柏葉《はくよう》の、蔭を今宵《こよい》の宿りにて……』
 一高の寮歌が、カリフォルニヤ大学のカムパニールからチャイムとなって響いているのだ。
 感慨無量の体で涙ぐみながら聞き入っているのは一高出身の向野元生氏。その傍に立っていたのが、南満鉄道の貴島氏と、明治学院教授の鷲山弟三郎氏であった。云うまでもなく、此のチャイムのミュージシャンは、チャールス・ビ・ワイカーと云う誠実な高塔守である。-

底本:「世界紀行文学全集 第十七巻 北アメリカ編」修道社
   1959(昭和34)年3月25日
底本の親本:「太平洋を越えて」四条書房
   1932(昭和7)年5月
入力:田中敬三
校正:仙酔ゑびす
2006年11月18日作成
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沖野岩三郎

にらめつくらの鬼瓦—– 沖野岩三郎

 今雄《いまを》さんは、五年級甲組の一番でした。
 京一《きやういち》さんは、五年級乙組の一番でした。

 今雄さんのお父さまは、ごん七さんといふ名で、東山《ひがしやま》の中ほどに、大きな家を建てて、瓦屋《かはらや》をしてゐました。
 京一さんのお父さまは、ごん八さんといふ名で、西山《にしやま》の中ほどに、りつぱな家を建てて、瓦屋をしてゐました。

 東山の瓦屋と、西山の瓦屋とは、いつも競争をして、おたがひに、自分のうちで焼いた瓦の、自慢を言ひ合つてゐました。
 東山へ、瓦を買ひに行きますと、ごん七さんは、じまんらしく、
「私《わたし》どもの瓦は、西山さんのやうに、寒さにめげて、こはれるやうな、そんな不出来な品ではありません。」と、言つて、こつこつと、石ころで、瓦をたたいて見せます。
 西山へ、瓦を買ひに行きますと、ごん八さんは、とくいになつて、
「手前どもの瓦は、東山さんのやうに、そまつなものでは、ありませんから、この通り、投げつけたつて、こはれるやうな事はありません。」と、言つて、瓦を庭に投げつけて見せます。
 両方の瓦屋で、毎日そんな事を言つてゐるうちに、
「たたいても、こはれない瓦。」
「投げても、こはれない瓦。」
と、いふ評判が高まつて、遠くの村や町から、東山へも、西山へも、毎日大ぜいの人が、瓦を買ひに来るやうになりました。で、二人は、もう仲よくすれば善いのに、東山のごん七さんは、いぢわるでしたから、何とかして、西山のごん八さんを、たたきおとして、自分の店だけを、はんじやうさせたいと思つてゐました。西山のごん八さんも、きかぬ気の人でしたから、東山から、いぢわるを、しかけられると、だまつては、ゐませんでした。

 その年の秋、村の小学校に、秋の運動会がありました。学校中で、一番よく走るのは、今雄さんと京一さんでした。今年の二百めえとる競走で、一番を取るのは、今雄さんだらうか、京一さんだらうかといふことが、村中の評判になりました。
 いよいよ、運動会の日になりますと、村の人たちは、東山派と西山派とに分れて、手手《てんで》に、旗を押し立てて、学校の運動場へのりこみました。東山派の、今雄さんびいきの人たちは、赤い旗を、西山派の、京一さん組の人たちは、白い旗を造りました。そして、源氏と平家のやうに東と西とに分れて、応援をする事になりました。

 運動会の競技は、段段と進んで、いよいよ最後の、二百めえとる競走になりました。
 東の方では、生徒の父兄達が、赤い旗を振つて、
「たたいても、こはれない方、しつかりしろ。」と、叫びますと、西の方では、
「投げても、こはれない方、しつかりしろ。」と、叫びつづけました。
 けれども競技の結果は、京一さんが一足程早く、決勝点へ入つたので、
「投げても、こはれない方万歳。」の、こゑが、西の方から起りました。すると東山の方から、
「今一度やり直せ。不公平だ。」
と、叫ぶこゑが起りました。そこで校長さんは、
「番外として、も一度二百めえとる競走をいたします。」
と、呼びました。
「たたいても、こはれない方、しつかりしろ。」
「投げても、こはれない方、しつかりしろ。」
 東西から起るこゑは、雷のやうでした。ところが今度は、今雄さんの方が、二足ばかり早く、決勝点に入りました。
 今度は東の方から、しきりに、
「たたいても、こはれない方万歳。」を、くりかへして叫びました。けれども、今雄さんと京一さんは、にこにこ笑ひながら、手をにぎつて別れました。

 ごん七さんは、瓦がよく売れるので、お金がうんとたまりました。で、東山の景色のいいところへ、立派な二階造りの家《うち》を建てました。
 ごん八さんは、それを見て、西山の景色のいい所へ、三階造りをたてました。
 ごん七さんは、まけてはならないと思つて、二階の上に、また一階をたてそへました。
 ごん八さんは、三階の上に、また一階をたてそへました。
 ごん七さんも、三階を四階にしました。
 ごん八さんは、とても大きな鬼瓦を作つて、四階の屋根の上にのせました。その鬼は、恐ろしいかほで、ごん七さんのおうちの方を、朝も晩も、にらみつけてゐます。
 ごん七さんも、まけぬ気になつて、もつと大きな鬼瓦を作つて、四階の上にのせました。それは世にもめづらしい、恐ろしい、かほつきの鬼瓦でした。それが、朝も晩も、西山の鬼瓦を、にらみつけてゐます。

 今雄さんと京一さんとは、相かはらず、仲よく遊んでゐました。二人はおほぜいの生徒たちからはなれて、毎日小い紙の旗をもつて、学校のうら庭の、桜の木の下で、ひそひそと、さうだんごとを、してゐました。
 ある日、今雄さんが、おうちへ帰ると、ごん七さんは、大きなこゑで、
「今雄、四階の屋根にのぼつて、うちの鬼瓦に、元気をつけてやれ。そして西山の鬼瓦を、にらみつぶすやうに、いつしよけんめいに、赤旗をふつて応援してやれ。」と、申しました。で、今雄さんは、直《す》ぐ四階の屋根にのぼつて、赤旗をふりました。すると、西山の四階からも、京一さんの白い旗が、ちらちらと、動いて見えました。
 二人はまた学校で、旗のふり方を、さうだんしました。
 ごん七さんは、朝早く起きてみますと、西山の鬼瓦は、朝日を受けて、いきほひよく、こちらを、にらみつけてゐますが、自分のうちの鬼瓦は、うす白く霜をおいて、こごえながら、ふるへてゐるやうに見えました。
 ごん八さんは、夕方|為事《しごと》を終つて、東山の方を見ますと、東山の鬼瓦は、夕日にかがやいて、てかてかと、あか黒く光つて、本当に、かみつきさうに見えますが、自分のうちの鬼瓦は、打ちしをれたやうに、泣がほに見えました。
 ごん七さんも、ごん八さんも、かんがへました。
 今雄さんも、京一さんも、お父さまのする事に、気をつけました。

 ある日、京一さんが、学校からかへつて、四階の屋根にのぼりますと、今雄さんは、赤い旗をふつて、
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「ぼくのうちの おにがはらへ、
こんや 金ぱくをぬる。」
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と信号しました。そこで京一さんは、お父さまのごん八さんに、
「お父さま、ぼく、毎日いつしよけんめいに、旗をふるんだけど、どうしても、東山の方が元気がいいから、うちの鬼瓦は、東山の鬼瓦に、まけさうですよ。だから、鬼瓦へ金ぱくを塗つて下さい。さうすると、うちの鬼瓦が、強くなつて、勝つにきまつてゐますから。」と、申しました。
 ごん八さんも、うちの鬼瓦を、強くしたいと、思つてゐたところでしたから、
「それは、いいかんがへだ。では早速さうしよう。」と、いつて、にはかに大さわぎをして、一晩中に、鬼瓦の顔一面に、金ぱくをぬりつけました。そして、
「見ろ、明日の朝は、東山の鬼瓦が、おつかなびつくりで、まつぷたつに、われてるぞ。」と、申しました。
 夜が明けました。太陽が東の山から、きらきらと、かがやきました。雨戸を開けた、ごん七さんも、ごん八さんも、両方ながら、
「おやおや、どつちの瓦も金色だ。」と、同じやうに一度に叫びました。

 今雄さんと京一さんとは、学校の門のところで、出あひました。そして、だまつて、につこり笑つて、手をにぎりました。
 その夕方、今雄さんは、学校からかへつて、四階の屋根の上に、のぼりますと、京一さんから、
「ぼくのうちの おにがはらの めのたまに こんや でんきを とりつける。」
といふ信号がありました。そこで、今雄さんは、お父さまの所へ行つて、
「お父さま、うちの鬼瓦が、金ぱくをぬると、西山の鬼瓦も、金ぱくをぬるんだもの。今夜はね、鬼瓦の眼《め》に、百燭《ひやくしよく》の電球を二つ、取りつけて下さいよ。ね、大急ぎで。さうすると、きつと西山の鬼瓦は、降参してまつぷたつに、われてしまひますよ。」と、申しました。それを聞いた、ごん七さんは、
「なるほど、それはいいかんがへだ。」と、言つて、早速電燈会社へたのんで、大急ぎで、鬼瓦の眼に、百燭の電燈を取りつけました。そして五時になると、ぱつと、鬼瓦の目に、電気のつくのを、たのしんで待つてゐました。
 五時前から、ごん七さんは、四階にのぼつて、障子を開けて、西山の方をながめてゐました。同じやうに、ごん八さんも四階の窓から、東山の方を、ながめてゐました。そして、電燈のついた時、二人は一度に、
「おやおや。これはどうした事だ。」と、叫びました。

 あくる朝、学校の入口で、京一さんと、今雄さんとは、ばつたり出あひました。そして、二人は黙つて、手をにぎりながら、につこり笑ひました。

 夕方、京一さんが、四階の屋根にのぼりますと、今雄さんは、旗をふつて、相図をしました。
「ぼくのうちの おにがはらの くちへ はなびを しかけて 五じから 三十ぷんおきに ひをふくやうに します。」それを見た京一さんは、お父さまの所へ行つて、
「お父さま、こつちの鬼の眼に、電気をつけると、向ふの鬼瓦にも、電気がつくんだもの、今夜は、あの鬼瓦の口から、三十分毎に、火を吹くやうに、花火をしかけてやらうぢやありませんか。さうすれば、東山の鬼瓦も降参して、角を折つてしまひますよ。」と、申しました。
 ごん八さんは、大へん喜んで、直ぐ、花火屋さんを呼んで来て、鬼瓦の口へ、花火をしかけました。そして、家内や職人たちが、みんな庭に出て、
「見ろ。今に、こつちの鬼瓦は、火を吹くぞ。さうすると、東山の鬼瓦も、今度こそ、閉口して角を折るにきまつてる。」と、いつて、屋根の上を見てゐました。
 五時五分前になりました。ごん七さんの、家《うち》の庭には、家内も職人も、みんな出て来て、
「今に見ろ。こつちの鬼瓦は、火をふくぞ。そしたら西山の鬼瓦は閉口して、二つに破れて落ちるぞ。」と、云つてゐました。
 五時一分前になりました。もう、たまらなくなつて、東山の方では、
「今に見ろ。」と、どなりました。そのこゑを聞いた、西山の方でも、
「今に見ろ。」と、どなり返しました。
 五時になりました。両方の鬼瓦は、一度に、しゆう、しゆうと、すさまじく火を吹きはじめました。ごん七さんも、ごん八さんも、首をかしげて、かんがへました。

 京一さんと今雄さんとは、あくる日、また学校の裏庭の、桜の木の下で、ひそひそと話しては、笑つてゐました。すると、にはかに、ごう、ごう、と、地の下が、鳴りはじめました。
「京一さん、地震だよ。」と、今雄さんが言つた時、たて物が、がたがたと、動きました。二人は、ひしと、だき合つて、桜の木の下に、立つてゐますと、どこかで、どうん、がらがらと、大へんなひびきが、いたしました。
「あ、うちの鬼瓦が、屋根から、おつこちたのだ。」
 二人は同時に、叫びました。そして、門のところへ、走つて行つてみますと、おほぜいの生徒が、そこに立つてゐて、
「東山の鬼瓦…… 西山の鬼瓦……」と、言つて、さわいでゐました。

 東山の鬼瓦は、まつさかさまに、泉水の中におちたので、角が、めちやめちやに折れて、頭が八つに、われてしまひました。
 西山の鬼瓦は、庭石の上に落つこちて、顔のまん中に、ぽつこりと、大きな穴があいて、眼《め》も鼻も口も、無くなりました。
 ごん七さんは、めちやめちやにわれた、鬼瓦を拾ひあつめながら、
「下らない競争をして、かんじんのしごとを、一月も休んだ。もう、こんな下らない競争はよしませう。」と、言ひました。
 ごん八さんは、顔のまん中に大穴の開いた、鬼瓦をながめながら、
「下らない争をして、註文《ちゆうもん》の瓦をやく事を、すつかり忘れてしまつた。もう、こんな下らない競争は、よしませう。」と、言ひました。

 ごん七さんところの四階は、三階になりました。
 ごん八さんところの四階は、二階になりました。
 ごん七さんところの三階は、平家になりました。
 ごん八さんところの平家は、とりはらはれて、そこは、瓦を、かはかす場所になりました。
 ごん七さんところの平家は、取りのけられて、そのあとは、瓦をやく所になりました。

 あくる年の四月に、京一さんも今雄さんも、同じ一番で六年級になりました。
 ごん七さんの、やく瓦は、石ころでたたいても、こはれないといふ評判が、日本中へ、ひろがりました。
 ごん八さんの、やく瓦も、投げたつて、こはれないといふ評判が、高くなりました。
 そして、東山も西山も、だんだん商売が、はんじやうしました。

 東山の上から、赤い旗を振つて、
「きみのところへ どうわとくほんが つきましたか。」と、信号しますと、西山の上から、
「つきました あすのあさ がくかうへ もつていつて かして あげます。」
と、あひづをしました。

 ごん七さんは、今雄さんが、旗をふつてゐるのを見て、
「もう、鬼瓦がないんだから、旗をふらないでも、いいぢやないか。」と、叱《しか》るやうに言ひました。
 ごん八さんも、京一さんの、旗を振るのを見て、
「もう、下らない競争はよせ。」と、叱るやうに言ひました。
 あくる日、今雄さんと京一さんとは、学校の裏庭で、相談しました。そして、その日の夕方、おうちへかへつて、今までの事を、すつかり、白状することにしました。
 ごん七さんも、ごん八さんも、二人ながら、自分の子供さんの、かしこいのに、感心しました。
 それから、東山と西山とでは、毎日、赤と白との旗をふるやうになりました。それは、東山へ瓦の註文があつても、瓦の足りない時は、西山へ旗をふつて、足りないだけを、すぐ持つて来てもらふのです。そのかはり、西山へ瓦の註文が有りすぎた時は、その半分を、東山でやいてもらふやうに、旗をふつて、たのむのです。その信号手は、いつも京一さんと、今雄さんでした。
 東山と西山とが、仲《なか》よくなつた時、世間の人は、両方の瓦を、
「打つても投げても、こはれない瓦だ。」と、いつて、ほめました。

底本:「日本児童文学大系 第一一巻」ほるぷ出版
   1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「童話読本 五年生」金の星社
   1939(昭和14)年2月
初出:「金の星」金の星社
   1925(大正14)年2月
入力:tatsuki
校正:田中敬三
2007年2月21日作成
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沖野岩三郎

アラメダより——- 沖野岩三郎

アラメダの飛行場へ行った。
『飛行機に乗ろう?』
『およしなさい。落ちたら大変です。奥様に申訳がない。』
 それはミセス山田の制止であった。そこへのこのこやって来たのはプーシャイドという男。おれの飛行機は美しいから見せてやろうという。見るだけならというので、一行は柵の中に入って行った。そして飛行機エリオットを見ているうちに、つい乗りたくなってセエキスピアと二人で乗ってしまった。ミセス山田を地上に残して。
 千五百尺の上空に昇った。バークレーの町が遙か下に見える。オークランドの街上を豆のような自動車が走る。三百尺の高さだと誇る加州大学のベルタワーなんか、どこにあるやらわからない。
 飛んでるうちに思い出したは優秀船竜田丸内の会話であった。
 汽船狸丸の筆者|葉山嘉樹《はやまかじゅ》君にいわしむれば、お椀をふせたようなあごひげのある船長伊藤駿児君、それは確かに反動団の団長らしい風貌である。しかし、話してみると案外やさしい。
 伊藤船長の話によると、最初の普選に打って出て見事選挙民を泣き落した鶴見祐輔君が、いよいよと決心したのはニューヨークあたりで演説をしている頃であった。ところがサンフランシスコ出帆の竜田丸に乗り後れたならその運動に間に合わない。で、竜田丸の船長あてに是非便乗を頼むという電報を打って、郵便飛行機に乗って飛んで来た。
 所が出港の時間が来ても、飛行機は来ない。三分、五分と出渡[#「出渡」はママ]を延して、とうとう十五分も待った。船客の中には一個人のために出港を遅らせるのは不都合だというものもあったが、彼はとうとう鶴見祐輔君の来着を待って、桑港を出帆した。おかげで鶴見君は第一回の普選に見事当選の栄を得たのであった。伊藤船長が杓子定規だったら鶴見君のあの活躍はなかったのだともいえる。
『まあ当選したのがいいか悪いか、それは問題だがね。』
 船長はあごひげを撫でながらいったのであった。私がそんな事を思っている時、耳のそばで『愉快だね。』とセエキスピアが言った。否、叫んだ。叫ばなければ聞えやしない程プロペラの音が高い。
『愉快だ。しかしこれが二時間も三時間も続くのはどうかね。』
 そう言った時、機体が急にぐっと右へ傾いた。私は思わずバンドにすがりつきながら言った。
『桐村夫人はえらいね。』
『うんえらい女だ。』
 私の眼底には今年六十五歳の桐村夫人の姿が浮んで来た。
 桐村義英氏は京都医専出の陸軍何等軍医か何かだ。長い以前からハワイのカワイ島に開業しているが、自分の娘を東京の女学校に入学させる為上京したまま帰って来ない。どうしたのかと問い合わる[#「問い合わる」はママ]と『来たついでに歯科の方を研究して帰る。只今水道橋の東京歯科医専に入学している。』との返事。此の変り者の夫人もまた変り者である。『娘と競争して負けないようになさい。入学したからには必ず卒業してお帰りなさい。』と云いやった。果して桐村氏は五十になって歯科医の免状をとってハワイに帰った。
 彼女は福知山藩士の佐幕党の娘で、京都では梅田雲浜氏の未亡人や故近衛公の生母から堅い教育を受けた上、東京の女子学院に入って英語をまなんだという人。
『ここいらの日本人の英語といったら、なって居りませんですぞ。前置詞も冠詞も無茶苦茶につかいますでのう。』
 六十五のお婆あさんはこんな気焔をあげる。このお婆あさんが、ある朝堂々とした洋装で、私共の宿っていたハワイの川崎ホテルのドアをたたいたものだ。
『どこへ行らっしゃいます?』
『これから帰りますんじゃ。』
『船は夕方でしょう?』
『飛行機で帰りますじゃ。』
『飛行機は度々お乗りになりましたか。』
『今日が始めてです。死ぬ時は自動車に乗っていても船に乗っていても死にますさ。さようなら。』
 五十五歳の老夫人が人力車にでも乗るように、飛行機に乗ってホノルルからカワイ島まで飛んで行った事を思い出しているうちに、自分の飛行機は元の場所へ戻って来た。私は心の中で叫んだ。
『女房喜べ。おれは無事着陸したぞ!』
        *
 アメリカに来てうれしく思うのは日本の児童たちが、アメリカの子供たちと一緒になって嬉々として学んでいる事である。しかも、その日本児童がアメリカの子供たちに伍して、決して負けていないという事実は何という愉快な事だろう。どの学校へ行っても日本児童が大抵首席を占めている。
 オークランドのジュニアースクールの一学級に山田章子さんというのがある。両親とも、もう永く北米の地に住んでいる。
 章子さんは小学校でいつも首席を占める。学級の生徒が級長を選挙するたびに、章子さんが当選である。当選すると、学校からセーフチーコンミチーという文字をきざんだ星形の徽章をくれる。これを胸にかけている生徒の命令は、全校の生徒が必ず服従しなければならない。ただに学校内ばかりではない。この十歳の少女が街路を歩む時、子供たちが街路を横切らなければならないのを見ると、すぐ可愛い片手をあげる。すると何十台の自動車は、厳格にぴたりと停止する。子供だからといって、決して馬鹿にはしない。胸のセーフチーコンミチーが物をいうのである。即ちアメリカの警察権を彼の少女は有しているのである。この権利を得たい者は全校の生徒ことごとくであろう。しかし選挙は極めて公平であらねばならぬ事を、教師は平生から口を酸っぱくして教えている。
『アメリカの国は誰が治めるのであるか。』
『アメリカの公民が自ら治めるのであります。』
『アメリカの公民とは誰であるか。』
『アメリカに生れた者、帰化したものです。』
『国家の代表者は誰ですか。』
『大統領であります。』
『大統領は誰がきめますか。』
『アメリカの公民が選挙してきめるのであります。』
 此の問答の内容を徹底して知らしめるのが、アメリカの公民教育である。だから児童たちが校内で自分たちの代表者を選挙する時、受持教師から平生教えられている公民教育の効果をそこで現わすのであるから、決してゆがんだ選挙法はしない。だから彼らは皮膚の色だの人種だのには頓着なしに、学問がよく出来て、統御の才ある者を選挙する。つまり彼らは男の子も女の子も、みんな一致して章子さんを級中の大統領に選挙したのである。此の公民教育については、川本宇之介という大家が東京にいるから、詳しい事はそちらで聞いてほしい。
 ある小学校を参観した時『ここに日本人の子供がどの位いるか。』ときいてみると、先生けげんな顔して、
『さあ、そんな事を考えてみた事がありませんから。』という。其の教師の机から窓框の所が一杯に薔薇《ばら》の花で埋ずまっているので、どうした事かとたずねようとするうちに、先方から、
『私には一人の娘がありましたが、二十二歳で死にました。盲腸炎を手術しましたので……可愛い生徒たちが私を慰めるために、今日はこんなに沢山の花を持って来て下さいました。』という。
 一つの教室に可愛い子供が勉強している。そのうちの五六人を先生の机のぐるりに集めて、立ちながら問答している。四方の壁を黒板にして、そこへ生徒が総出になって運算を書きつけている。先生が来て直してくれるまで、自分の書いた問題の下に立っている。誰がどんなに間違っているか、いないかは全級の生徒に一目瞭然である。
 次の教場ではよく肥えた女教師が、生徒の勉強している机の上に、デッカイお尻を据えて平気で教えている。かと思えば、生徒は生徒で其のお尻のかげで、チョコレートを頬ばりながら先生の講義をきいている。神経質らしい校長のお婆あさんが巡視に来ても、先生のお尻は机の上から一分も一寸も離れない。生徒の教科書をのぞくと、アメリカンヒストリーである。丁度其日習っている所にザ・レエボアムーヴメントの見出しがあった。先生は内地人と、外国人との労働競争の事について詳しく教えている。
 小学生に対して労働運動、労働問題を教えている現象を見た私は、恐るべきものはアメリカの軍隊でなく、此の教科書だと思った。しかも、それを習っているのは、日本から、支那から、ポルトガルから、スペインから、イタリーから渡って行った労働者の子供たちである。しかし其の白、黄まぜまぜの顔が楽しそうに労働問題の話をきいている。
 この市民権をもつ子供たちが成長して選挙権をもつ頃、排日問題は自然に解決出来るであろう。気長く其の時を待つことだ。現にハワイでは日本人が数名下院議員に当選してい、副検事長も日本人で千二百円の月俸を得ている。内鮮融和問題も、先ず児童の共学から出直さなければなるまい。

底本:「世界紀行文学全集 第十七巻 北アメリカ編」修道社
   1959(昭和34)年3月25日
底本の親本:「太平洋を越えて」四条書房
   1932(昭和7)年5月
※末尾の「(昭和六年)」は、底本で二作品をまとめた際につけられたものであるので、省きました。
入力:田中敬三
校正:仙酔ゑびす
2006年11月18日作成
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