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葛西善蔵

奇病患者—– 葛西善藏

薪の紅く燃えてゐる大きな爐の主座《よこざ》に胡坐を掻いて、彼は手酌でちび/\盃を甞めてゐた。その傍で細君は、薄暗い吊洋燈と焚火の明りで、何かしら子供等のボロ布片《きれ》のやうな物をひろげて、針の手を動かしてゐた。そして夫の、今夜はほとんど五...
葛西善蔵

贋物 —–葛西善蔵

一  車掌に注意されて、彼は福島で下車した。朝の五時であった。それから晩の六時まで待たねばならないのだ。  耕吉は昨夜の十一時上野発の列車へ乗りこんだのだ、が、奥羽線廻りはその前の九時発のだったのである。あわてて、酔払って、二三の友人から追...
葛西善蔵

哀しき父—– 葛西善藏

一  彼はまたいつとなくだん/\と場末へ追ひ込まれてゐた。  四月の末であつた。空にはもや/\と靄《もや》のやうな雲がつまつて、日光がチカ/\桜の青葉に降りそゝいで、雀《すゞめ》の子がヂユク/\啼《な》きくさつてゐた。どこかで朝から晩まで地...
葛西善蔵

おせい—– 葛西善藏

「近所では、お腹《なか》の始末でもしに行つたんだ位に思つてゐるんでせう。さつきも柏屋のお内儀さんに會つたら、おせいちやんは東京へ行つてたいへん綺麗になつて歸つたと、ヘンなやうな顏して視てましたよ」と、ある晩もお酌をしながら、おせいは私に云つ...
梶井基次郎

筧の話—– 梶井基次郎

私は散歩に出るのに二つの路を持っていた。一つは渓《たに》に沿った街道で、もう一つは街道の傍から渓に懸った吊橋《つりばし》を渡って入ってゆく山径だった。街道は展望を持っていたがそんな道の性質として気が散り易かった。それに比べて山径の方は陰気で...
梶井基次郎

檸檬—– 梶井基次郎

えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終|圧《おさ》えつけていた。焦躁《しょうそう》と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔《ふつかよい》があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっ...
梶井基次郎

奎吉—– 梶井基次郎

「たうとう弟にまで金を借りる樣になつたかなあ。」と奎吉は、一度思ひついたら最後の後悔の幕迄行つて見なければ得心の出來なくなる、いつもの彼の盲目的な欲望がむらむらと高まつて來るのを感じながら思つた。  彼にとつてはもうこ[#「こ」に「(ママ)...
梶井基次郎

路上—– 梶井基次郎

自分がその道を見つけたのは卯《う》の花の咲く時分であった。  Eの停留所からでも帰ることができる。しかもM停留所からの距離とさして違わないという発見は大層自分を喜ばせた。変化を喜ぶ心と、も一つは友人の許《もと》へ行くのにMからだと大変大廻り...
梶井基次郎

矛盾の樣な眞實—–梶井基次郎

「お前は弟達をちつとも可愛がつてやらない。お前は愛のない男だ。」  父母は私によくそ[#「そ」に「(ママ)」の注記]う云つて戒めた。  實際私は弟達に對して隨分突慳貪であつた。彼等を泣かすのは何時でも私であつた。彼等に手を振り上げるのは兄弟...
梶井基次郎

橡の花 ――或る私信―― ——梶井基次郎

一  この頃の陰鬱な天候に弱らされていて手紙を書く気にもなれませんでした。以前京都にいた頃は毎年のようにこの季節に肋膜《ろくまく》を悪くしたのですが、此方《こちら》へ来てからはそんなことはなくなりました。一つは酒類を飲まなくなったせいかも知...
梶井基次郎

冬の蠅—– 梶井基次郎

冬の蠅《はえ》とは何か?  よぼよぼと歩いている蠅。指を近づけても逃げない蠅。そして飛べないのかと思っているとやはり飛ぶ蠅。彼らはいったいどこで夏頃の不逞《ふてい》さや憎々しいほどのすばしこさを失って来るのだろう。色は不鮮明に黝《くろず》ん...
梶井基次郎

冬の日—– 梶井基次郎

一  季節は冬至に間もなかった。堯《たかし》の窓からは、地盤の低い家々の庭や門辺に立っている木々の葉が、一日ごと剥《は》がれてゆく様《さま》が見えた。  ごんごん胡麻《ごま》は老婆の蓬髪《ほうはつ》のようになってしまい、霜に美しく灼《や》け...
梶井基次郎

泥濘 —–梶井基次郎

一  それはある日の事だった。――  待っていた為替《かわせ》が家から届いたので、それを金に替えかたがた本郷へ出ることにした。  雪の降ったあとで郊外に住んでいる自分にはその雪解けが億劫《おっくう》なのであったが、金は待っていた金なので関《...
梶井基次郎

太郎と街—– 梶井基次郎

秋は洗ひたての敷布《シーツ》の樣に快かつた。太郎は第一の街で夏服を質に入れ、第二の街で牛肉を食つた。微醉して街の上へ出ると正午のドンが鳴つた。  それを振り出しに第三第四の街を歩いた。飛行機が空を飛んでゐた。新鮮な八百屋があつた。魚屋があつ...
梶井基次郎

蒼穹—— 梶井基次郎

ある晩春の午後、私は村の街道に沿った土堤の上で日を浴びていた。空にはながらく動かないでいる巨《おお》きな雲があった。その雲はその地球に面した側に藤紫色をした陰翳《いんえい》を持っていた。そしてその尨大《ぼうだい》な容積やその藤紫色をした陰翳...
梶井基次郎

淺見淵君に就いて—梶井基次郎

私は淺見君にはまだ數へる程しか會つたことのない間柄である。隨つて淺見君に就いては知ることが非常に尠い。尤も淺見君の弟である淺見篤(舊眞晝同人)とは高等學校のとき非常に親しかつた。淺見君に會つたそもそものはじめも彼を介してである。  最初にた...
梶井基次郎

川端康成第四短篇集「心中」を主題とせるヴァリエイシヨン ———梶井基次郎

彼が妻と七才になる娘とを置き去りにして他郷へ出奔してから、二年になる。その間も、時々彼の心を雲翳のやうに暗く過るのは娘のことであつた。 「若し恙なく暮してゐるのだつたら、もう學校へあがつてゐる筈だ。あの娘等の樣に」  他郷の町の娘等は歌を歌...
梶井基次郎

雪後—– 梶井基次郎

一  行一が大学へ残るべきか、それとも就職すべきか迷っていたとき、彼に研究を続けてゆく願いと、生活の保証と、その二つが不充分ながら叶《かな》えられる位置を与えてくれたのは、彼の師事していた教授であった。その教授は自分の主裁している研究所の一...
梶井基次郎

青空同人印象記(大正十五年六月號) 『青空』記事 —–梶井基次郎

忽那に就て  忽那はクツナと讀む。奇妙な名だ。こんな話がある。高等學校では彼も教場を下駄穿きで歩く方だつた。獨逸人の教師が、 「何故下駄で教室へ入るのだ」と或日彼に云つた。 「靴がないのです」  そこでヘルフリツチユ先生が 「|道理で《ナチ...
梶井基次郎

城のある町にて—– 梶井基次郎

ある午後 「高いとこの眺めは、アアッ(と咳《せき》をして)また格段でごわすな」  片手に洋傘《こうもり》、片手に扇子と日本手拭を持っている。頭が奇麗《きれい》に禿《は》げていて、カンカン帽子を冠っているのが、まるで栓《せん》をはめたように見...