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蒲原有明

泣菫氏が近業一篇を読みて —–蒲原有明

穉態を免れず、進める蹤を認めずと言はるる新詩壇も、ここに歳華改りて、おしなべてが浴する新光を共にせむとするか、くさぐさの篇什一々に数へあげむは煩はしけれど、めづらしき歌ごゑ殊に妙《たへ》なるは、秀才泣菫氏が近作、「公孫樹下にたちて」と題せる...
蒲原有明

機縁 (友なる画家の画稿に題す) —–蒲原有明

その一 大海《おほうみ》かたち定めぬ劫初《はじめ》の代《よ》に 水泡《みなわ》の嵐たゆたふ千尋《ちひろ》の底。 折しも焔《ほのほ》はゆるき『時』の鎖《くさり》、 まひろく永き刻みに囚《とらは》れつつ、 群鳥《むらどり》翔《かけ》る翼のその噪...
蒲原有明

鴎外を語る—– 蒲原有明

鴎外を語るといつても、個人的接触のごとき事実は殆ど無く、これを回想してみるよすがもない。をかしなことである。錯戻であらう。さうも思はれるぐらゐ、自分ながら信じられぬことである。  それにはちがひないが、鴎外としいへば、その影は、これまでとて...
蒲原有明

ジヨオジ・ムウア—– 蒲原有明

わたくしはこのごろジヨオジ・ムウアの書いたものを讀んでゐる。それについての話を少しして見よう。別にムウアの書物が珍らしいといふのではない。今まであまり人の口にかゝらなかつたと云ふまでゝあるが、むかふでも多少評判になつてきてゐるやうである。な...
蒲原有明

『聊斎志異』より—– 蒲原有明

香玉  労山の下清宮といふは名だゝる仙境なり。ここに耐冬あり、その高さ二丈、大さ数十囲。牡丹あり、その高さ丈余。花さくときぞ美はしう※[#「王+粲」、第3水準1-88-31]《きらゝ》かなるや。  そが中に舎《しや》を築きて居れるは膠州の黄...
蒲原有明

『二十五絃』を読む—–蒲原有明

詩はこれを譬ふれば山野の明暗、海波の起伏なり。新しき歌の巻を読むは、また更にわが身に近くして、さながら胸の鼓動を聴くここちす。今『二十五絃』を繙いて、泣菫子が和魂の帰依[#「和魂の帰依」に傍点]に想ひ到れば、この荒びし世をつつむは黄金の靄、...
蒲原有明

『行く春』を読む—— 蒲原有明

薄田泣菫氏の才華はすでに第一の詩集『暮笛集』に於て、わが新詩壇上いちじるしき誉れとなりしを、こたびの集『ゆく春』の出づるに及びて、また新たに、詩人繍腸の清婉は日ごろ塵に染みたる俗心の底にもひびきぬ。ことしもうら寂しく暮れゆかむとする詩天のか...
蒲原有明

「有明集」前後—– 蒲原有明

明治三十八年に「春鳥集」を出したときには、多少の自信もあり自負もあつた。わたくしのやうな氣弱なものも詩作上思ひきつて因襲に反撥を試みたのである。あの稚拙な自序を卷頭に置いたのもその爲で、少しきおつたところが見えて落ちつかぬが、それも致しかた...
蒲原有明

「あひびき」に就て—–蒲原有明

わたくしが長谷川二葉亭氏の名を知りはじめたのは「國民之友」に出た「あひびき」からである。明治二十一年の夏のころであつたが、わたくしは未だ中學の初年級であり、文學に對する鑑賞力も頗る幼稚で、その頃世間にもてはやされてゐた「佳人の奇遇」などを高...
蒲 松齢

翩翩–蒲松齢—-田中貢太郎訳

羅子浮《らしふ》は汾《ふん》の人であった。両親が早く亡くなったので、八、九歳のころから叔父《おじ》の大業《たいぎょう》の許へ身を寄せていた。大業は国子左廂《こくしさしょう》の官にいたが、金があって子がなかったので、羅をほんとうの子供のように...
蒲 松齢

汪士秀–蒲松齢—田中貢太郎訳

汪士秀《おうししゅう》は盧州《ろしゅう》の人であった。豪傑で力が強く、石舂《いしうす》を持ちあげることができた。親子で蹴鞠《しゅうきく》がうまかったが、父親は四十あまりの時|銭塘江《せんとうこう》を渡っていて、舟が沈んで溺れてしまった。  ...
蒲 松齢

偸桃–蒲松齢—-田中貢太郎訳

少年の時郡へいったが、ちょうど立春の節であった。昔からの習慣によるとその立春の前日には、同種類の商買をしている者が山車《だし》をこしらえ、笛をふき鼓《つづみ》をならして、郡の役所へいった。それを演春《えんしゅん》というのであった。  私も友...
蒲 松齢

連城–蒲松齢—-田中貢太郎訳

喬《きょう》は晋寧《しんねい》の人で、少年の時から才子だといわれていた。年が二十あまりのころ、心の底を見せてあっていた友人があった。それは顧《こ》という友人であったが、その顧が没《な》くなった時、妻子の面倒を見てやったので、邑宰《むらやくに...
蒲 松齢

蓮花公主-蒲松齢–田中貢太郎訳

膠州《こうしゅう》の竇旭《とうきょく》は幼な名を暁暉《ぎょうき》といっていた。ある日昼寝をしていると、一人の褐色《かっしょく》の衣を着た男が榻《ねだい》の前に来たが、おずおずしてこっちを見たり後を見たりして、何かいいたいことでもあるようであ...
蒲 松齢

封三娘-蒲松齢—-田中貢太郎訳

范《はん》十一娘は※[#「田+鹿」、330-1]城《ろくじょう》の祭酒《さいしゅ》の女《むすめ》であった。小さな時からきれいで、雅致《がち》のある姿をしていた。両親はそれをひどく可愛がって、結婚を申しこんで来る者があると、自分で選択さしたが...
蒲 松齢

田七郎-蒲松齢—-田中貢太郎訳

武承休《ぶしょうきゅう》は遼陽《りょうよう》の人であった。交際が好きでともに交際をしている者は皆知名の士であった。ある夜、夢に人が来ていった。 「おまえは交游天下に遍《あまね》しというありさまだが、皆|濫交《らんこう》だ。ただ一人|患難《か...
蒲 松齢

促織- 蒲松齢—- 田中貢太郎訳

明《みん》の宣宗《せんそう》の宣徳年間には、宮中で促織《こおろぎ》あわせの遊戯を盛んにやったので、毎年民間から献上さしたが、この促繊は故《もと》は西の方の国にはいないものであった。  華陰《かいん》の令をしている者があって、それが上官に媚《...
蒲 松齢

成仙- 蒲松齢—- 田中貢太郎訳

文登《ぶんとう》の周生《しゅうせい》は成《せい》生と少い時から学問を共にしたので、ちょうど後漢の公沙穆《こうさぼく》と呉祐《ごゆう》とが米を搗《つ》く所で知己《ちき》になって、後世から杵臼《ききゅう》の交《こう》といわれたような親しい仲であ...
蒲 松齢

織成- 蒲松齢—- 田中貢太郎訳

洞庭湖《どうていこ》の中には時とすると水神があらわれて、舟を借りて遊ぶことがあった。それは空船《あきぶね》でもあると纜《ともづな》がみるみるうちにひとりでに解けて、飄然《ひょうぜん》として遊びにゆくのであった。その時には空中に音楽の音が聞え...
蒲 松齢

小翠- 蒲松齢—–田中貢太郎訳

王太常《おうたいじょう》は越人であった。少年の時、昼、榻《ねだい》の上で寝ていると、空が不意に曇って暗くなり、人きな雷がにわかに鳴りだした。一疋《いっぴき》の猫のようで猫よりはすこし大きな獣が入って来て、榻の下に隠れるように入って体を延べた...