膠州《こうしゅう》の竇旭《とうきょく》は幼な名を暁暉《ぎょうき》といっていた。ある日昼寝をしていると、一人の褐色《かっしょく》の衣を着た男が榻《ねだい》の前に来たが、おずおずしてこっちを見たり後を見たりして、何かいいたいことでもあるようであった。竇《とう》は訊いた。
「何か御用ですか。」
褐衣《かつい》の人はいった。
「殿様から御招待にあがりました。」
竇は訊いた。
「殿様とはどんな方です。」
褐衣の人はいった。
「すぐ近くにおられます。」
竇はそれについていった。褐衣の人はぐるりと路を変えて、牆《へい》をめぐらした家の旁を通って案内していった。楼閣の建ち並んでいる処があった。褐衣の人はそこを折れ曲っていった。そこにはたくさんの人家が軒を並べていたが、どうしてもこの世の中のものではなかった。そこにはまた宮廷に事《つか》えている官吏や女官などがたくさん往来していたが、皆、褐衣の人に向って訊いた。
「竇さんは見えましたか。」
褐衣の人は一いち頷《うなず》いた。不意に一人の貴い官にいる人が出て来て、竇を迎えたがひどく恭《うやうや》しかった。そして堂にあがって竇はいった。
「もともとお目みえしたことがないから、拝謁しておりませんのに、どうした間違いかお迎えを受けましたが、私にはその故《わけ》が解りかねます」
貴い官にいる人はいった。
「王様が先生が清族で、そのうえ代代徳望のあるのをなつかしく思われて、一度お目にかかってお話したいと申しますから、御足労を煩わしたしだいです。」
竇はますます駭《おどろ》いて訊いた。
「王はどうした方です。」
貴い官にいる人はいった。
「暫くすると自然にお解りになります。」
間もなく二人の女官が来て、二つの旌《はた》を持って竇を案内していった。立派な門を入っていくと殿上に王がいた。王は竇の入って来るのを見ると階段をおりて出迎えて、賓主《ひんしゅ》の礼を行った。礼がおわると席についた。そこには饗宴の筵《せき》が設けてあった。殿上の扁額《へんがく》を見ると桂府《けいふ》としてあった。竇は恐縮してしまって何もいうことができなかった。王はいった。
「お隣になっておるから御縁が深い。どうかゆっくりうちくつろいでくださるように。」
竇は王のいうなりになって酒を飲んだ。酒が三、四まわると笙歌《しょうか》が下から聞えて来たが、鉦《かね》や鼓《つづみ》は鳴らさなかった。その笙歌の声も小さくかすかであった。やや暫くして王は左右を顧みて、
「朕《ちん》が一言いうから、その方達に対句《ついく》をしてもらおう。」
といって一聯の句を口にした。
「才人桂府に登る、四座|方《まさ》に思う。」
竇がそこでそれに応じていった。
「君子蓮花を愛す。」
すると王がいった。
「蓮花はすなわち公主の幼な名だ。どうしてこんなに適合したであろう。これはどうしても夙縁《しゅくえん》だ。公主にそう伝えてくれ、どうしても出て来て君子にお目にかからなければならないと。」
暫くたってから珮環《おびだま》の音がちりちりと近くに聞えて、蘭麝《らんじゃ》の香をむんむんとさしながら公主が出て来た。それは十六、七の美しい女であった。王は公主に命じて竇を展拝さしていった。
「これが蓮花です。」
公主はすぐいってしまった。竇は公主を見て心を動かした。彼は黙りこんでじっと考えていた。王は觴《さかずき》をあげて竇に酒を勧めたが、竇の目はその方にいかなかった。王はかすかに竇の気持ちを察したようであった。そこで王がいった。
「子供はもう婚礼させなくてはならないが、ただ世界が違っているのを慚《は》じるのだ。どう思う。」
竇は癡《ばか》のように考えこんでいたので、そこでまたその言葉が聞えなかった。竇の近くにいた侍臣の一人が竇の足をそっと踏んでいった。
「王が觴をあげたが君はまだ見ないですか。王がいわれたが君はまだ聞かないですか。」
竇はぼんやりしていて物を忘れたようであった。そこで気がついてひどく慚じた。席を離れていった。
「臣は優渥《ねんごろ》なお言葉を賜りながら、覚えず酔いすごして、礼儀を失いました。どうかおゆるしくださいますように。」
そして竇が退出しようとすると起っていった。
「君に逢ってから、ひどく好きになった。なぜそんなにあわてて帰られる。君がもういることができないなら、強《し》いはしないが、もし君が心にかけていてくれるなら、更に改めてお迎えをしよう。」
とうとう彼の褐衣の内官に命じて、竇を送って帰らした。その途中で内官は竇にいった。
「さっき王が婚礼をさすといったのは、あなたを※[#「馬+付」、第4水準2-92-84]馬《ふば》にして結婚させようとしていたようですよ。なぜ黙っていたのです。」
竇は足ずりして悔んだがおっつかなかった。そこでとうとう家に帰った。帰ったかと思うと忽ち夢が醒めた。簷《のき》には夕陽が残っていた。竇は起きて目をつむってじっと考えた。王宮へいったことがありありと目に見えて来た。晩になって竇は、斎《へや》の燭《あかり》を消して、また彼の夢のことを思ったが、夢の国の路は遠くていくことができなかった。竇はただ悔み歎くのみであった。
ある晩、竇は友人と榻《ねだい》を一つにして寝ていた。と、忽ち前の褐衣の内官が来て、王の命を伝えて竇を召した。竇は喜んでついていった。
竇は王の前へいって拝謁した。王は起って竇の手を曳《ひ》いて殿上にあげ、すこし引きさがって坐っていった。
「君がその後、子供のことを思ってくれたことを知っておる。子供と婚礼してもらいたいが、君は疑わないだろうか。」
竇はそこで礼をいった。王は学士や大臣に命じて宴席に陪侍《ばいじ》さした。酒が闌《たけなわ》になった時、宮女が進み出ていった。
「公主のお仕度がととのいました。」
供に三、四十人の宮女が公主を奉じて出て来た。公主は紅《あか》い錦《にしき》で顔をくるんでしっとりと歩いて来た。二人は毛氈《もうせん》の上へあがって、たがいに拝しあって結婚の式をあげた。
式がおわると公主は竇を送って館舎に帰った。夫婦のいる室《へや》は温かで清らかであった。竇は公主にいった。
「あなたを見ると、ほんとに楽しくって、死ぬることも忘れるが、ただこれが夢でないかと心配するのです。」
公主は口に袖をやっていった。
「私とあなたと確かにこうしているではありませんか。どうしてこれが夢なものですか。」
朝になって起きると、竇はたわむれに公主の顔に白粉をつけてやった。竇はまたその後で帯で公主の腰のまわりをはかり、それから指で足のまわりをはかった。公主は笑って訊いた。
「あなたは気が違ったのではありませんか。」
竇はいった。
「わたしは時どき夢のためにあやまられるから、精しくしらべておくのです。こうしておけば、もし、これが夢であっても、想いだすことができるのですから。」
竇の戯れ笑う声がまだおわらないうちに、一人の宮女があたふたと走って来ていった。
「妖怪《ばけもの》が宮門に入りましたから、王は偏殿《へんでん》に避けられました、おそろしい禍《わざわい》がすぐ起ります。」
竇は大いに驚いて王の所へかけつけた。王は竇の手を執《と》って泣いていった。
「どうか棄てないで、国の安泰をはかってくれ。天が、※[#「((山/(追-しんにゅう)+辛)/子」、第4水準2-5-90]《わざわい》を降して、国祚《こくそ》が覆《くつがえ》ろうとしておる。どうしたらいいだろう。」
竇は驚いて訊いた。
「それはどんなことでございます。」
王は案《つくえ》の上の上奏文を取って竇の前に投げた。竇は啓《あ》けて読んだ。それは含香殿《がんこうでん》大学士|黒翼《こくよく》の上奏文であった。
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含香殿大学士、臣黒翼、非常の妖異を為す、早く郡を遷《うつ》し、以て国脈を存することを祈る。黄門《こうもん》の報称に拠るに、五月初六日より、一千丈の巨蟒《きょもう》来り、宮外に盤踞《ばんきょ》し、内外臣民を呑食《どんしょく》する一万三千八百余口、過ぐる所の宮殿、尽《ことごと》く邱墟《きゅうきょ》と成りて等し。因《よっ》て臣勇を奮い前《すす》み窺いて、確かに妖蟒《ようもう》を見る。頭、山岳の如く、目、江海に等し。首を昂《あ》ぐれば即《すなわ》ち殿閣|斉《ひと》しく呑み、腰を伸ばせば則ち楼垣尽く覆《くつがえ》る。真に千古末だ見ざるの凶、万代遭わざるの禍、社稜宗廟《しゃしょくそうびょう》、危、旦夕《たんせき》に在り。乞う皇上早く宮眷《きゅうけん》を率《ひき》いて、速やかに楽土に遷《うつ》れよ云云。
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竇は読み畢《おわ》って顔の色が土のようになった。その時宮女が奔《はし》って来て奏聞《そうもん》した。
「妖物《ばけもの》がまいりました。」
宮殿の中は哀しそうに泣く泣き声で満たされた。それは天日もなくなったような惨澹《さんたん》たるものであった。王はあわてふためいて何をすることもできなかった。ただ泣いて竇の方を向いていった。
「子供はもう先生に願います。」
竇は息をきって帰った。公主は侍女と首を抱きあって哀しそうに泣いていた。竇が入ってゆくのを見ると公主は衿にとりついていった。
「あなたは、なぜ私をすてておくのです。」
竇は公主がいたましくてたまらなかった。そこで腕に手をかけて抱きかかえるようにしていった。
「わたしは貧しいから、立派な邸宅のないのを慚《は》じます。ただ茅廬《あばらや》があります。しばらく一緒に匿《かく》れようではありませんか。」
公主は目に涙をためていった。
「こんな場合です。そんなことをいってる時ではありません。どうか早く伴《つ》れてってください。」
竇はそこで公主を扶けて宮殿を逃げだしたが、間もなく家へ着いた。公主はいった。
「これなら安心です。私の国に勝っております。私はこうしてあなたについてまいりましたが、お父様とお母様はどこにおりましょう。どうか別にも一つ家をたててください。国の者も皆まいりますから。」
竇は貧しいので急に家を新築することはできなかった。竇は困った。公主は泣き叫んでいった。
「妻の家の急を救ってくだされないで、夫がどこに必要です。」
竇はそれをなぐさめて自分の室へ入った。公主は牀《とこ》につッぷしたなりに啼《な》き悲しんでよさなかった。竇は心を苦しめたが他に手段がなかった。と、急に目があいた。竇は始めて夢であったということを知った。そして、気がつくと耳もとで物の啼く声が聞えていたが、じっと聞くと人の声ではなかった。それは二、三疋の蜂が枕もとを飛びながら鳴く声であった。竇は叫んだ。
「不思議なことがあるぞ。」
一緒に寝ていた友人がその故《わけ》を訊いた。竇はそこで夢の話を友人に告げた。友人も不思議がって一緒に起きて蜂を見た。蜂は竇の袂《たもと》と裳《もすそ》の間にまつわりついて払っても去らなかった。
友人はそこで竇に蜂の巣を造ってやれと勧めた。竇は友人の言葉に従ってそれを造り、両方の堵《かき》を堅くした。すると蜂の群が牆の外から来はじめたが、それは絡繹《らくえき》として織るようであった。蜂はまだ巣の頂上ができあがらないのに、一斗ほども集まって来た。竇はその蜂がどこから来たかと思って、来た所をしらべてみるとそれは隣の圃《はたけ》からであった。その隣の圃には蜂の巣が二つあって、三十年あまりも蜂が棲んでいた。竇はそれを隣の老人に話した。老人は圃にいってその巣を覗いた。巣の中はひっそりとして蜂はもう一疋もいなかった。壁をあばいてみるとその中に蛇がいた。蛇の長さは一丈ばかりもあった。老人はそれを殺してしまった。そこで夢の中の蟒《うわばみ》は、すなわちその蛇であったということが解った。蜂は竇の家へ移ってますます蕃息《はんそく》した。
底本:「聊斎志異」明徳出版社
1997(平成9)年4月30日初版発行
底本の親本:「支那文学大観 第十二巻(聊斎志異)」支那文学大観刊行会
1926(大正15)年3月発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2007年8月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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