2019-05

岡本綺堂

鳥辺山心中—– 岡本綺堂

一  裏の溝川《どぶがわ》で秋の蛙《かわず》が枯れがれに鳴いているのを、お染《そめ》は寂しい心持ちで聴いていた。ことし十七の彼女《かれ》は今夜が勤めの第一夜であった。店出しの宵――それは誰でも悲しい経験に相違なかったが、自体が内気な生まれつ...
岡本綺堂

人狼 ―Were-Wolf―— 岡本綺堂

登場人物 田原弥三郎 弥三郎の妻おいよ 弥三郎の妹お妙 猟師 源五郎 ホルトガルの宣教師 モウロ モウロの弟子 正吉 村の男 善助 小坊主 昭全 村の娘 おあさ、おつぎ 第一幕           一  桃山時代の末期、慶長初年の頃。秋も暮...
岡本綺堂

半七捕物帳 新カチカチ山 ——岡本綺堂

一  明治二十六年の十一月なかばの宵である。わたしは例によって半七老人を訪問すると、老人はきのう歌舞伎座を見物したと云った。 「木挽町《こびきちょう》はなかなか景気がようござんしたよ。御承知でしょうが、中幕は光秀の馬盥《ばだらい》から愛宕《...
岡本綺堂

半七捕物帳 唐人飴—– 岡本綺堂

一  こんにちでも全く跡を絶ったというのではないが、東京市中に飴売りのすがたを見ることが少なくなった。明治時代までは鉦《かね》をたたいて売りに来る飴売りがすこぶる多く、そこらの辻に屋台の荷をおろして、子どもを相手にいろいろの飴細工を売る。こ...
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半七捕物帳 かむろ蛇—— 岡本綺堂

一  ある年の夏、わたしが房州の旅から帰って、形《かた》ばかりの土産物《みやげもの》をたずさえて半七老人を訪問すると、若いときから避暑旅行などをしたことの無いという老人は、喜んで海水浴場の話などを聴いた。  そのうちに、わたしが鋸山《のこぎ...
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半七捕物帳 二人女房—– 岡本綺堂

一  四月なかばの土曜日の宵である。 「どうです。あしたのお天気は……」と、半七老人は訊《き》いた。 「ちっと曇っているようです」と、わたしは答えた。 「花どきはどうも困ります」と、老人は眉をよせた。「それでもあなた方はお花見にお出かけでし...
岡本綺堂

世界怪談名作集 上床 クラウフォード Francis Marion Crawford—— 岡本綺堂訳

一  誰かが葉巻《シガー》を注文した時分には、もう長いあいだ私たちは話し合っていたので、おたがいに倦《あ》きかかっていた。煙草のけむりは厚い窓掛けに喰い入って、重くなった頭にはアルコールが廻っていた。もし誰かが睡気をさまさせるようなことをし...
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世界怪談名作集 貸家 リットン Edward George Earle Bulwer-Lytton—– 岡本綺堂訳

一  わたしの友達――著述家で哲学者である男が、ある日、冗談と真面目と半分まじりな調子で、わたしに話した。 「われわれは最近思いもつかないことに出逢ったよ。ロンドンのまんなかに化《ば》け物《もの》屋敷を見つけたぜ」 「ほんとうか。何が出る。...
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寄席と芝居と—– 岡本綺堂

一 高坐の牡丹燈籠  明治時代の落語家《はなしか》と一と口に云っても、その真打《しんうち》株の中で、いわゆる落とし話を得意とする人と、人情話を得意とする人との二種がある。前者は三遊亭円遊、三遊亭遊三、禽語楼小さんのたぐいで、後者は三遊亭円朝...
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半七捕物帳 正雪の絵馬—— 岡本綺堂

一  これも明治三十年の秋と記憶している。十月はじめの日曜日の朝、わたしが例によって半七老人を訪問すると、老人は六畳の座敷の縁側に近いところに坐って、東京日日新聞を読んでいた。老人は歴史小説が好きで、先月から連載中の塚原|渋柿園《じゅうしえ...
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半七捕物帳 大阪屋花鳥—– 岡本綺堂

一  明治三十年三月十五日の暁方《あけがた》に、吉原|仲《なか》の町《ちょう》の引手茶屋桐半の裏手から出火して、廓内《かくない》百六十戸ほどを焼いたことがある。無論に引手茶屋ばかりでなく、貸座敷も大半は煙りとなって、吉原近来の大火と云われた...
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深見夫人の死—– 岡本綺堂

一  実業家深見家の夫人多代子が一月下旬のある夜に、熱海の海岸から投身自殺を遂げたという新聞記事が世間を騒がした。  多代子はことし三十七歳であるが、実際の年よりも余ほど若くみえるといわれるほどの美しい婦人で、種々の婦人事業や貧民救済事業に...
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世界怪談名作集 北極星号の船長 医学生ジョン・マリスターレーの奇異なる日記よりの抜萃 ドイ Arthur Conan Doyle—– 岡本綺堂訳

一  九月十一日、北緯八十一度四十分、東経二度。依然、われわれは壮大な氷原の真っただ中に停船す。われわれの北方に拡がっている一氷原に、われわれは氷錨《アイス・アンカー》をおろしているのであるが、この氷原たるや、実にわが英国の一郡にも相当する...
岡本綺堂

世界怪談名作集 スペードの女王 プーシキンAlexander S Pushkin ——岡本綺堂訳

一  近衛騎兵のナルモヴの部屋で骨牌《かるた》の会があった。長い冬の夜はいつか過ぎて、一同が夜食《ツッペ》の食卓に着いた時はもう朝の五時であった。勝負に勝った組はうまそうに食べ、負けた連中は気がなさそうに喰い荒らされた皿を見つめていた。しか...
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半七捕物帳– 柳原堤の女——- 岡本綺堂

一  なにかの話から、神田の柳原の噂が出たときに、老人はこう語った。 「やなぎ原の堤《どて》が切りくずされたのは明治七、八年の頃だと思います。今でも柳原河岸の名は残っていて、神田川の岸には型ばかりの柳が植えてあるようですが、江戸時代には筋違...
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世界怪談名作集 ラッパチーニの娘 アウペパンの作から ホーソーンNathaniel Hawthorne ——岡本綺堂訳

一  遠い以前のことである。ジョヴァンニ・グァスコンティという一人の青年が、パドゥアの大学で学問の研究をつづけようとして、イタリーのずっと南部の地方から遙《はる》ばると出て来た。  財嚢のはなはだ乏しいジョヴァンニは、ある古い屋敷の上の方の...
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青蛙神—– 岡本綺堂

第一幕の登場人物 李中行 その妻 柳 その忰 中二 その娘 阿香 高田圭吉 旅の男           第一幕  時は現代。陰暦八月十五日のゆうぐれ。  満州、大連市外の村はずれにある李中行の家。すべて農家の作りにて、家内の大部分は土間。正...
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半七捕物帳–津の国屋—— 岡本綺堂

一  秋の宵であった。どこかで題目太鼓の音《ね》がきこえる。この場合、月並の鳴物だとは思いながらも、じっと耳をすまして聴いていると、やはり一種のさびしさを誘い出された。 「七偏人が百物語をしたのは、こんな晩でしょうね」と、わたしは云い出した...
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箕輪心中—– 岡本綺堂

一  お米《よね》と十吉《じゅうきち》とは南向きの縁に仲よく肩をならべて、なんにも言わずに碧《あお》い空をうっとりと見あげていた。  天明《てんめい》五年正月の門松《かどまつ》ももう取られて、武家では具足びらき、町家では蔵《くら》びらきとい...
岡本綺堂

両国の秋—–岡本綺堂

一 「ことしの残暑は随分ひどいね」  お絹《きぬ》は楽屋へはいって水色の《かみしも》をぬいだ。八月なかばの夕日は孤城を囲んだ大軍のように筵張《むしろば》りの小屋のうしろまでひた寄せに押し寄せて、すこしの隙《すき》もあらば攻め入ろうと狙ってい...