2019-05

岡本綺堂

籠釣瓶—–岡本綺堂

一  次郎左衛門《じろざえもん》が野州《やしゅう》佐野の宿《しゅく》を出る朝は一面に白い霜が降《お》りていた。彼に伴うものは彼自身のさびしい影と、忠実な下男《げなん》の治六《じろく》だけであった。彼はそのほかに千両の金と村正《むらまさ》の刀...
岡本綺堂

半七捕物帳 白蝶怪—–岡本綺堂

一  文化九年――申《さる》年の正月十八日の夜である。その夜も四ツ半(午後十一時)を過ぎた頃に、ふたりの娘が江戸小石川の目白不動堂を右に見て、目白坂から関口駒井|町《ちょう》の方角へ足早にさしかかった。  駒井町をゆき抜ければ、音羽《おとわ...
岡本綺堂

小坂部姫—–岡本綺堂

双《ならび》ヶ|岡《おか》 一 「物|申《も》う、案内《あない》申う。あるじの御坊おわすか。」  うす物の被衣《かつぎ》の上に檜木笠を深くした上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]ふうの若い女が草ぶかい庵《いおり》の...
岡本綺堂

三浦老人昔話—– 岡本綺堂

桐畑の太夫        一  今から二十年あまりの昔である。なんでも正月の七草すぎの日曜日と記憶している。わたしは午後から半七老人の家をたずねた。老人は彼の半七捕物帳の材料を幾たびかわたしに話して聞かせてくれるので、きょうも年始の礼を兼ね...
岡本綺堂

青蛙堂鬼談 —–岡本綺堂

青蛙神《せいあじん》      一 「速達!」  三月三日の午《ひる》ごろに、一通の速達郵便がわたしの家の玄関に投げ込まれた。  拝啓。春雪|霏々《ひひ》、このゆうべに一会なかるべけんやと存じ候。万障を排して、本日午後五時頃より御参会くださ...
岡本綺堂

玉藻の前—– 岡本綺堂

清水詣《きよみずもう》で 一 「ほう、よい月じゃ。まるで白銀《しろがね》の鏡を磨《と》ぎすましたような」  あらん限りの感嘆のことばを、昔から言いふるしたこの一句に言い尽くしたというように、男は晴れやかな眉をあげて、あしたは十三夜という九月...
岡本綺堂

探偵夜話—— 岡本綺堂

火薬庫《かやくこ》  例の青蛙堂主人から再度の案内状が来た。それは四月の末で、わたしの庭の遅桜も散りはじめた頃である。定刻の午後六時までに小石川の青蛙堂へ着到《ちゃくとう》すると、今夜の顔ぶれはこの間の怪談会とはよほど変わっていた。例によっ...
岡本かの子

鮨—– 岡本かの子

東京の下町と山の手の境い目といったような、ひどく坂や崖《がけ》の多い街がある。  表通りの繁華から折れ曲って来たものには、別天地の感じを与える。  つまり表通りや新道路の繁華な刺戟《しげき》に疲れた人々が、時々、刺戟を外《は》ずして気分を転...
岡本かの子

蝙蝠—— 岡本かの子

それはまだ、東京の町々に井戸のある時分のことであつた。  これらの井戸は多摩川から上水を木樋でひいたもので、その理由から釣瓶《つるべ》で鮎《あゆ》を汲《く》むなどと都会の俳人の詩的な表現も生れたのであるが、鮎はゐなかつたが小鯉《こごい》や鮒...
岡本かの子

渾沌未分—– 岡本かの子

小初は、跳《は》ね込《こ》み台の櫓《やぐら》の上板に立ち上った。腕《うで》を額に翳《かざ》して、空の雲気を見廻《みまわ》した。軽く矩形《くけい》に擡《もた》げた右の上側はココア色に日焦《ひや》けしている。腕の裏側から脇《わき》の下へかけては...
岡本かの子

朧 —–岡本かの子

早春を脱け切らない寒さが、思ひの外にまだ肩や肘を掠める。しかし、宵の小座敷で燈に向つてゐると、夜のけはひは既に朧である。うるめる物音、物影。 「日本的なるもの」の一つに「朧」がある。よし、それが淨土教の影響によるにもせよ、老莊道學の示唆を得...
岡本かの子

老主の一時期—– 岡本かの子

「お旦那《だんな》の眼の色が、このごろめつきり鈍つて来たぞ。」  店の小僧や番頭が、主人宗右衛門のこんな陰口を囁《ささや》き合ふやうになつた。宗右衛門の広大な屋敷内に、いろは番号で幾十戸前の商品倉が建て連ねてある。そのひとつひとつを数人|宛...
岡本かの子

老妓抄—– 岡本かの子

平出園子というのが老妓の本名だが、これは歌舞伎俳優の戸籍名のように当人の感じになずまないところがある。そうかといって職業上の名の小そのとだけでは、だんだん素人《しろうと》の素朴な気持ちに還ろうとしている今日の彼女の気品にそぐわない。  ここ...
岡本かの子

恋愛といふもの—– 岡本かの子

恋愛は詩、ロマンチツクな詩、しかも決して非現実的な詩ではないのであります。恋愛にも種々あります、幼時の初恋、青年期中年期の恋、その何れもが大部分自分の意識する処は、詩的感激、ロマンチツクな精神慾ではありますが、意識無意識にかゝはらず、その底...
岡本かの子

明暗—– 岡本かの子

智子が、盲目の青年北田三木雄に嫁いだことは、親戚や友人たちを驚かした。 「ああいう能力に自信のある女はえて[#「えて」に傍点]物好きなことをするものだ」 「男女の親和力というものは別ですわ。夫婦になるのは美学のためじゃあるまいし」  批評ま...
岡本かの子

娘—– 岡本かの子

パンを焼く匂いで室子《むろこ》は眼が醒めた。室子はそれほど一晩のうちに空腹になっていた。  腹部の頼りなさが擽《くすぐ》られるようである。くく、くく、という笑いが、鳩尾《みずおち》から頸を上って鼻へ来る。それが逆に空腹に響くとまたおかしい。...
岡本かの子

宝永噴火—– 岡本かの子

今の世の中に、こういうことに異様な心響を覚え、飽かずその意識の何物たるかに探り入り、呆然自失のような生涯を送りつつあるのは、私一人であろうか。たぶん私一人であろう。確《しか》とそうならば、これは是非書き遺《のこ》して置き度い。書くことによっ...
岡本かの子

母子叙情—– 岡本かの子

かの女は、一足さきに玄関まえの庭に出て、主人逸作の出て来るのを待ち受けていた。  夕食ごろから静まりかけていた春のならいの激しい風は、もうぴったり納まって、ところどころ屑《くず》や葉を吹き溜《た》めた箇所だけに、狼藉《ろうぜき》の痕《あと》...
岡本かの子

母と娘 —–岡本かの子

ロンドンの北郊ハムステット丘の公園の中に小綺麗な別荘風の家が立ち並んで居る。それ等の家の内で No.1 の奥さんはスルイヤと言って赤毛で赭《あか》ら顔で、小肥りの勝気な女。彼女に二年前に女学校を卒業したアグネスと言う十九歳の一人娘がある。ア...
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風と裾 ―何人か良案はないか?——-岡本かの子

春の雷が鳴つてから俄に暖気を増し、さくら一盛り迎へ送りして、今や風光る清明の季に入らうとしてゐる。  ところで、この季節の風であるが、春先からかけて関東は随分吹く。その激しいときは吹きあげる砂ほこりで空は麦粉色になり、太陽は卵の黄身をその中...