2019-05

岡本かの子

富士 —–岡本かの子

人間も四つ五つのこどもの時分には草木のたたずまいを眺めて、あれがおのれに盾突くものと思い、小さい拳《こぶし》を振り上げて争う様子をみせることがある。ときとしては眺めているうちこどもはむこうの草木に気持を移らせ、風に揺ぐ枝葉と一つに、われを忘...
岡本かの子

病房にたわむ花—– 岡本かの子

春は私がともすれば神経衰弱になる季節であります。何となくいらいらと落付《おちつ》かなかったり、黒くだまり込んで、半日も一日も考えこんだりします。桜が、その上へ、薄明の花の帳《とばり》をめぐらします。優雅な和《なご》やかな、しかし、やはりうち...
岡本かの子

扉の彼方へ——- 岡本かの子

結婚式の夜、茶の間で良人《おっと》は私が堅くなってやっと焙《い》れてあげた番茶をおいしそうに一口飲んでから、茶碗を膝に置いて云いました。 「これから、あなたとは永らく一つ家の棟《むね》の下に住んで貰わなければならん。遠慮はなるべく早く切り上...
岡本かの子

晩春—– 岡本かの子

鈴子は、ひとり、帳場に坐って、ぼんやり表通りを眺めていた。晩春の午後の温かさが、まるで湯の中にでも浸っているように体の存在意識を忘却させて魂だけが宙に浮いているように頼り無く感じさせた。その頼り無さの感じが段々強くなると鈴子の胸を気持ち悪く...
岡本かの子

伯林の落葉—– 岡本かの子

彼が公園内に一歩をいれた時、彼はまだ正気だった。  伯林にちらほら街路樹の菩提樹の葉が散り初めたのは十日程前だった。三四日前からはそれが実におびただしい速度と量を増して来た。公園は尚更、黄褐色の大渦巻きだった。彼は、始め街をしばらく歩いて居...
岡本かの子

伯林の降誕祭—– 岡本かの子

独逸でのクリスマスを思い出します。  雪が絶間もなく、チラチラチラチラと降って居るのが、ベルリンで見て居た冬景色です。街路樹の菩提樹の葉が、黄色の吹雪を絶えずサラサラサラ撒きちらして居た。それが終ると立樹の真黒な枝を突張った林立となる。雪が...
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売春婦リゼット—– 岡本かの子

売春婦のリゼットは新手《あらて》を考えた。彼女はベッドから起き上《あが》りざま大声でわめいた。 「誰かあたしのパパとママンになる人は無《な》いかい。」  夕暮は迫っていた。腹は減っていた。窓向《まどむこ》うの壁がかぶりつきたいほどうまそうな...
岡本かの子

巴里の秋—– 岡本かの子

セーヌの河波《かわなみ》の上かわが、白《しら》ちゃけて来る。風が、うすら冷たくそのうえを上走り始める。中の島の岸杭がちょっと虫《むし》ばんだように腐《くさ》ったところへ渡り鳥のふん[#「ふん」に傍点]らしい斑《まだら》がぽっつり光る。柳《や...
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巴里の唄うたい—– 岡本かの子

彼等の決議  市会議員のムッシュウ・ドュフランははやり唄は嫌いだ。聴いていると馬鹿らしくなる。あんな無意味なものを唄い歩いてよくも生活が出来るものだ。本当に生活が出来るのかしら――こう疑い始めたのが縁で却ってだんだん唄うたいの仲間と馴染が出...
岡本かの子

巴里のむす子へ—– 岡本かの子

巴里の北の停車場でおまえと訣《わか》れてから、もう六年目になる。人は久しい歳月という。だが、私には永いのだか短いのだか判《わか》らない。あまりに日夜《にちや》思い続ける私とおまえとの間には最早《もは》や直通の心の橋が出来《でき》ていて、歳月...
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巴里のキャフェ ―朝と昼― —–岡本かの子

旅人のカクテール  旅人《エトランゼ》は先ず大通《グランブールヴァル》のオペラの角のキャフェ・ド・ラ・ペーイで巴里《パリ》の椅子の腰の落付き加減を試みる。歩道へ半分ほどもテーブルを並べ出して、角隅を硝子屏風で囲ってあるテラスのまん中に置いた...
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桃のある風景—– 岡本かの子

食欲でもないし、情欲でもない。肉体的とも精神的とも分野をつき止めにくいあこがれ[#「あこがれ」に傍点]が、低気圧の渦《うず》のように、自分の喉頭《のど》のうしろの辺《あたり》に鬱《うっ》して来て、しっきりなしに自分に渇《かわ》きを覚《おぼ》...
岡本かの子

東海道五十三次—– 岡本かの子

風俗史専攻の主人が、殊《こと》に昔の旅行の風俗や習慣に興味を向けて、東海道に探査の足を踏み出したのはまだ大正も初めの一高の生徒時代だったという。私はその時分のことは知らないが大学時代の主人が屡々《しばしば》そこへ行くことは確《たしか》に見て...
岡本かの子

鶴は病みき—– 岡本かの子

白梅の咲く頃となると、葉子はどうも麻川荘之介氏を想《おも》い出していけない。いけないというのは嫌という意味ではない。むしろ懐しまれるものを当面に見られなくなった愛惜のこころが催されてこまるという意味である。わが国大正期の文壇に輝いた文学者麻...
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蔦の門—– 岡本かの子

私の住む家の門には不思議に蔦《つた》がある。今の家もさうであるし、越して来る前の芝、白金《しろがね》の家もさうであつた。もつともその前の芝、今里の家と、青山南町の家とには無かつたが、その前にゐた青山|隠田《おんでん》の家には矢張り蔦があつた...
岡本かの子

茶屋知らず物語—– 岡本かの子

元禄|享保《きょうほう》の頃、関西に法眼、円通という二禅僧がありました。いずれも黄檗《おうばく》宗の名僧|独湛《どくたん》の嗣法の弟子で、性格も世離れしているところから互いは親友でありました。  法眼は学問があって律義の方、しかし其《そ》の...
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男心とはかうしたもの 女のえらさと違う偉さ—– 岡本かの子

尊敬したい気持  結婚前は、男子に対する観察などいつても、甚だ漠然としたもので、寧ろこの時代には、男とも、女とも意識しなかつた位です。  それが結婚して、やうやく男子に対する自覚が出来、初めて男といふものが解つた時、私の感じたのは、男子とい...
岡本かの子

荘子—– 岡本かの子

紀元前三世紀のころ、支那では史家が戦国時代と名づけて居る時代のある年の秋、魏の都の郊外|櫟社《れきしゃ》の附近に一人の壮年=荘子が、木の葉を敷いて休んでいた。  彼はがっちりした体に大ぶ古くなった袍《ほう》を着て、樺の皮の冠を無雑作《むぞう...
岡本かの子

雪の日—– 岡本かの子

伯林《ベルリン》カイザー街の古い大アパートに棲んで居た冬のことです。外には雪が降りに降っていました。内では天井に大煙突の抜けているストーヴでどんどん薪をくべていました。電車の地響と自動車の笛の音ばかりで、街には犬も声を立てて居ない、積雪に静...
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雪—– 岡本かの子

遅い朝日が白み初めた。  木琴入りの時計が午前七時を打つ。ヴァルコンの扉《ドア》が開く。 「フランスの貴族でアメリカ女の金持と政策結婚をした始めての人間はわしだつたのさ。」  さう云ひながらボニ侯爵は軽騎兵の服を型取つた古い部屋着のまま中庭...