鶴は病みき—– 岡本かの子

 白梅の咲く頃となると、葉子はどうも麻川荘之介氏を想《おも》い出していけない。いけないというのは嫌という意味ではない。むしろ懐しまれるものを当面に見られなくなった愛惜のこころが催されてこまるという意味である。わが国大正期の文壇に輝いた文学者麻川荘之介氏が自殺してからもはや八ヶ年は過ぎた。
 白梅と麻川荘之介氏が、何故葉子の心のなかで相関聯《あいかんれん》しているのか、麻川氏と葉子の最後の邂逅《かいこう》が、葉子が熱海へ梅を観《み》に行った途上であった為めか、あるいは、麻川氏の秀麗な痩躯《そうく》長身を白梅が聯想《れんそう》させるのか、または麻川氏の心性の或る部分が清澄で白梅に似ているとでもいうためか――だが、葉子が麻川氏を想い出すいとぐちは白梅の頃であり乍《なが》ら結局葉子がふかく麻川氏を想うとき場所は鎌倉で季節は夏の最中となる。葉子達一家は、麻川荘之介氏の自殺する五年前のひと夏、鎌倉雪の下のホテルH屋に麻川氏と同宿して避暑して居た。
 大正十二年七月中旬の或日、好晴の炎天下に鎌倉雪の下、長谷《はせ》、扇《おうぎ》ヶ谷《やつ》辺を葉子は良人《おっと》と良人の友と一緒に朝から歩き廻《まわ》って居た。七月下旬から八月へかけて一家が避暑する貸家を探す為めであった。光る鉄道線路を越えたり、群る向日葵《ひまわり》を処々の別荘の庭先に眺めたり、小松林や海岸の一端に出逢《であ》ったりして尋ね廻ったが、思い通りの家が見つからなかった。結局葉子の良人の友人は葉子達をH屋の一棟へ案内した。H屋は京都を本店にし、東京を支店にし、そのまた支店で別荘のような料亭を鎌倉に建てたのであったが商売不振の為め今年は母屋を交ぜた三棟四棟を避暑客の貸間に当て、京都風の手軽料理で、若主人夫婦がその賄に当ろうと云うのであった。
 母屋に近い藤棚のついた二間打ち抜きの部屋と一番|端《はず》れの神楽堂《かぐらどう》のような建て前の棟はもう借手がついていた。真中の極《ごく》普通な割り合いに上品な一棟が、まだあいていたのを葉子達は借りることに極《き》めた。どの棟の部屋もみな一側面は同じ芝生の広庭に面し、一側面は凡《すべ》て廊下で連絡していた。
 決めて帰りがけに葉子達は神楽堂の方の借主をどんな人達かと聞いて見た。五六人取り交ぜたブルジョアの坊ちゃんで、若いサラリーマンや大学生達だとの事、それから藤棚の方はと聞いた時、
「麻川荘之介さん、あの文士の。」
 H屋の若主人は(好いお連れ様で)と云わんばかりにやや同業者の葉子達の方を見た。
「ほう。」
 葉子の良人は無心のように云ったが、葉子はいくらか胸にこたえ[#「こたえ」に傍点]てはっとした。
 麻川荘之介と云えば、その頃、葉子より年こそ二つ三つ上でしか無かったが、葉子にはかなり眩《まぶ》しい様な小説道の大家であった。葉子のはっとしたのは、葉子の稚純な小説崇拝性が、その時すでに麻川氏に直面したような即感をうけた為めでもあったろうが、ほかにいくらか内在している根拠もあった。
 葉子の良人戯画家坂本は、元来、政治家や一般社会性の戯画ばかり描いて居たが、その前年文学世界という純文芸雑誌から頼まれて、文壇戯画を描き始めて居た。文壇の事に晦《くら》い坂本はその雑誌記者で新進作家川田氏に材料を貰い、それを坂本一流の瓢逸《ひょういつ》また鋭犀《えいさい》に戯画化して一年近くも連載した。これは文壇の現象としてはかなり唐突だったので、文人諸家は驚異に近く瞠目《どうもく》したし、読者側ではどよめき[#「どよめき」に傍点]立って好奇心を動かし続けた。なかで麻川氏の戯画化に使われた材料は麻川氏近来の秘事に近いもの――それももちろん川田氏から提供された材料だった。文壇に晦かった坂本が、さして秘事とも思わず取扱った材料は、麻川氏にとっての痛事だったとあとで坂本に云う人がかなりあった。
「そりゃあ気の毒だったな。川田君も一寸《ちょっと》つむじ曲りだから先輩に対する自分のうっぷん散しでもあったかな、いくらか。」
 とその材料を持って来た川田氏への心理批判も交って坂本は苦笑した。
 その後短歌から転じて小説をつくり始めた葉子がその処女作を麻川氏の友人喜久井氏に始めて見て貰うことを頼んだ。だが喜久井氏はその時、文壇的な或る事業|劃策中《かくさくちゅう》だったので、友人麻川荘之介に見てお貰いなさいと葉子に勧めた。
 葉子は早速麻川氏に手紙を書いたが、その返事がいつまでたっても来なかった。葉子は今迄ひと[#「ひと」に傍点]に返事の必要の手紙を出して返事を貰わなかった覚えが無かったので、いくらか消気《しょげ》てすこし怨みがましい心持になって居た処へ、ある人がそれに就《つ》いて、
「あの人は、坂本さんの戯画の材料をあなたから出てるとでも思ってるか知れませんよ。そして用心深いから身辺を用心する為めにあなたを敬遠しちまったのかも知れませんよ。」
 と葉子に云った。そう云われれば葉子は坂本より文壇に近いわけである。けれど文壇的社交家でない葉子は文学雑誌記者であり新進小説家としての川田氏が提供する程の尖鋭的《せんえいてき》な材料など持ち合わし得べくもなかったのだ。葉子はますます味気ない気持ちになったが麻川氏がもしそういう用心をするならそれも当然な気がしたし、それやこれやで小説をひとに見て貰う気などはいつか無くなって居た。
 葉子という女性は、時によっては非常に執念深く私情に駆られるが、時によってはまるで別人のように公平で淡白な性質も持って居る。麻川氏とのいきさつも理解がつくといつかさっぱりと、葉子の心に打ち切られて仕舞った。ところがそのすこしあと、葉子は全然別な角度から麻川氏を見かけた。それは或夜、大変混雑な文学者会が、某洋食店楼上で催され麻川氏もその一端に居た。淡い色金紗《いろきんしゃ》の羽織がきちんと身に合い、手首のしまったきびきびした才人めいた風采《ふうさい》が聡明《そうめい》そうに秀でた額にかかる黒髪と共にその辺の空気を高貴に緊密にして居た。がさつな、だらしない風をした沢山の文人のなかに、そういう麻川氏を見て葉子はこころにすがすがしく思い乍《なが》ら、ふと、麻川氏の傍に嬌然《きょうぜん》として居るX夫人を見出した。そして麻川氏がX夫人に対する態度を何気なく見て居ると、葉子はだんだん不愉快になって来た。麻川氏はX夫人に向って、お客が芸者に対するような態度をとり始めた。葉子はそこで倫理的に一人の妻帯男が一人のマダムに対する不真面目《ふまじめ》な態度を批判して不愉快になったのでは無い。(ましてX夫人は兼《かね》てから文人達の会合等に一種の遊興的気分を撒《ま》いて歩く有閑婦人だった。善良な婦人で葉子はむしろ好感を持っては居るがからかわれて惜しい婦人とは思って居なかった。)麻川氏を惜しむこころ、麻川氏の佳麗な文章や優秀な風采、したたるような新進の気鋭をもって美の観賞を誤って居るようなもどかしさを葉子は感じたからである。しかし、現在見るところのX夫人は葉子の眼にも全く美しかった。デリケートな顔立ちのつくりに似合う浅い頭髪のウェーブ、しなやかな肩に質のこまかな縮緬《ちりめん》の着物と羽織を調和させ、細く長めに曳《ひ》いた眉をやや昂《あ》げて嬌然として居るX夫人――だが、葉子はX夫人のつい先日迄を知って居た。黄色い皮膚、薄い下り眉毛《まゆげ》、今はもとの眉毛を剃《そ》ったあとに墨で美しく曳いた眉毛の下のすこし腫《はれ》ぽったい瞼《まぶた》のなかにうるみを見せて似合って居ても、もとの眉毛に対応して居た時はただありきたりの垂れ眼であった。今こそウェーブの額髪で隠れているが、ほんとうはこの間までまるだしの抜け上ったおかみさん[#「おかみさん」に傍点]額がその下にかくれている筈《はず》だ――葉子はその、先日までのX夫人を長年見て来たので、今日同じ夫人が、がらりと変った化粧法で作り上げた美容を見せられても、重ね絵のようについ先日までのX夫人の本当の容貌《ようぼう》が出て来て、現在のX夫人に見る美感の邪魔をする。それにもかかわらず麻川氏が変貌《へんぼう》以後のX夫人に、葉子より先に葉子の欠席した前回のこの会で遇《あ》い、それが麻川氏とX夫人との初対面であった為めか、ひどくこの夫人の美貌《びぼう》を激賞したということが、文壇の或方面で喧《やかま》しく、今日も麻川氏はこの夫人を観《み》る為めに、この会へ来たとさえ、葉子の耳のあたりの誰彼が囁《ささや》き合って居る。葉子の女性の幼稚な英雄崇拝観念が、自分の肯《がえ》んじ切れない対照に自分の尊敬する芸術家が、その審美眼を誤まって居る、というもどかしさで不愉快になったのだ。と云って、幾度見返しても現在のX夫人はまったく美しい。変なもどかしさだ。葉子は麻川氏と一緒に、X夫人の美を讃嘆《さんたん》して居ながら、何かにせもの[#「にせもの」に傍点]を随喜して居るような、自分を、麻川氏を、馬鹿にしてやり度《た》いような、と云って馬鹿に出来ないような、あいまいな不愉快に妙に心持ちをはぐらかされた。
 こんな気持ちを葉子はその当時、或る雑誌からもとめられた「近時随感」のなかに書いた。もちろん当事者の名まえなど決して書かずただ一種変った自分の心理を叙述する材料としてかなり経緯《けいい》をはっきり書いた。(それを麻川氏が読んだか読まないか葉子は当時気にもとめなかったが、矢張り読んで居たことを一ヶ月間H屋に同宿して居るうちの麻川氏との交際で判《わか》った。)
 とにかく、こんな前提は、いよいよとなると葉子の心から一掃されて、葉子にはただ崇拝する文学者麻川荘之介氏と同宿するという突然な事実ばかりが歴然と現前して来るのであった。その後の事を語る順序として葉子の鎌倉日記のうち多く麻川氏を書いて居る部分を摘出する。

 某日。――麻川氏は私達より三四日後れ昨夜東京から越して来た。今朝早くから支那更紗《しなさらさ》(そんなものがあるかないか、だが麻川氏が前々年支那へ遊んだことからの聯想《れんそう》である。)のような藍色模様《あいいろもよう》の広袖浴衣《ひろそでゆかた》を着た麻川氏が、部屋を出たり入ったりして居る。着物も帯も氏の痩躯長身にぴったり合っている。氏が東京から越して来ると共に隣の部屋の床の間に、くすんで青味がかった小さな壺《つぼ》が、置かれたよう(私の錯覚かしら)な気がする。宿の主人が置いたのか、氏が持って来たのか、花は挿して無いし今後も挿さないような気がする。
 某日。――麻川氏の太いバスの声が度々笑う。隣の棟に居て氏のノドボトケの慄《ふる》えるのを感じる。太いが、バスだが、尖鋭な神経線を束ねて筏《いかだ》にしそれをぶん流す河のような声だ。
 某日。――主人が東京から来たので、麻川氏はこちらの部屋へ挨拶《あいさつ》に来た。庭続きの芝生の上を、草履で一歩一歩いんぎんに踏み坊ちゃんのような番頭さんのような一人の男を連れて居た。浅いぬれ縁に麻川氏は両手をばさりと置いて叮嚀《ていねい》にお辞儀をした。仕つけの好い子供のようなお辞儀だ。お辞儀のリズムにつれて長髪が颯《さっ》と額にかかるのを氏は一々|掻《か》き上げる。一芸に達した男同志――それにいくらか気持のふくみもあるような――初対面を私は名優の舞台の顔合せを見るように黙って見て居た。
 某日。――朝、洗面所で麻川氏に逢《あ》う。「僕、昨夜、向日葵《ひまわり》の夢を見ました。暁方《あけがた》までずっと見つづけましたよ。」と冷水につけた手で顔をごしごし擦《こす》り乍《なが》ら氏は私に云う。「それで今朝、頭が痛くありませんか。」私は何故だか氏に、こんなことを聞いて仕舞った。「ほおう。まるでゴッホの問答みたいですな。」麻川氏はこう云って、タオルで顔を拭《ふ》き終えて私の顔を正面から見た。眼が少し血走って居る。氏は「は、」と一つ声を句切って、「ではまた午後、………昼前は原稿を書きます。」と云って叮嚀《ていねい》にお辞儀をして部屋に入って行った。
 午後わあわあと大声を立てる若い女が麻川氏の部屋へ来たようだ。夕方、恰好《かっこう》の好い中背の若い女の洋装姿が麻川氏の部屋から出て庭芝を踏んで帰るのを見かけた。横顔が少し下品だが西洋の活動女優のような線を見せた。「大川宗三郎君(作者註、大川氏は麻川氏の先輩で、その頃有名な耽美派《たんびは》作家とも悪徳派作家とも呼ばれて居た。)の妻君の妹ですよ。赫子ってお転婆さんですよ。」と藤棚の下で麻川氏が云った。番頭さんのような若い男が縁側で私の顔をうかがって居る。掃除した煙草盆《たばこぼん》を座敷に持って来たH屋譜代の婆やお駒さんは開けっぱなしの声で「へへえ、あれが大川さん御自慢の妹さんですか。」麻川氏は苦っぽく微笑して云った「別に自慢でも無いだろうが、細君より気軽に何処へでも連れて行ける女だからな。」「奥さんは日本風の顔立ちのおとなしい美人でしょう、妹さんは違いますね。」と私。麻川氏の番頭さんは云う「奥さんのような美人も好きだし、赫子さんのようなのも好きだし。」麻川氏「つまり、釈迦《しゃか》に拝し、キリストに拝し……。」「マホメットには誰がなる……ですかな。」と麻川氏の番頭さん。麻川氏「莫迦《ばか》。彼自身は飽《あく》まで厳粛なんだぞ。」
 某日。――二三日前、画家のK氏が東京から来て麻川氏の部屋のメンバーになった。噂《うわさ》によれば夏目漱石先生が津田青楓氏を師友として居た以上K氏と麻川氏は親愛して居るのだそうだ。K氏は、頭を丸刈にしたこっくりした壮年期に入ったばかりの人、吃々《きつきつ》として多く語らず、東洋的なロマンチストらしい眼を伏せ勝ちにして居る。隻脚《せっきゃく》――だがその不自由さも今はK氏の詩情や憂愁を自らいたわる生活形態と一致させたやや自己満足の諦念《ていねん》にまで落ちつけたかに見うけられる。けれども、矢張り逃避の世界が、K氏をめぐって漠然と感じられる。それで麻川氏の性格や好みがますますK氏に傾倒して行くことも察せられる。それからすこしつき合って居るうちに、部厚なこっくりしたK氏の体格のどこかに落ちつきくさったそして非常にデリケートな神経が根を保っている。麻川氏は自分の屹々《きつきつ》した神経の尖端《せんたん》を傷めないK氏の外廓形態の感触に安心してK氏のなか味のデリカな神経に触接し得る適宜さでK氏をますます愛好して居るのではあるまいか。
 某日。――大川赫子が兄さんの大川氏と暫《しばら》く別れ、近所に宿を極《き》めてしばらく鎌倉に落ちつくのだそうだ、で、今日からK氏のモデルになり始めた。昼前から、麻川氏の部屋では大騒ぎだ。ああいう娘の存在は単調な避暑地の空気を溌剌《はつらつ》とさせて呉《く》れる。「荘ちゃん。」と娘に呼ばれて麻川氏も大はしゃぎだ。婆やのお駒が私の部屋へ来て、芝生越の樹立ちの中の小亭を指して云う「大川さんが来る前は書き物をするからあすこへ閉じこもると仰《おっしゃ》るので、ほかのお客を断わってお貸ししてありますのに、赫子さんが来ると何も放り出してあの通り……。」と私達に遠慮し乍らなお麻川氏のことを「口が旨《うま》い」とか、「男にしては如才なさすぎる。」とかこの婆さんかなりあら[#「あら」に傍点]探しで感じが好く無いが、麻川氏にも多少云われる根拠がある。
 赫子が麻川氏と相撲でもとり始めたらしいどたんばたん[#「どたんばたん」に傍点]の音、東京から来た二三人の麻川氏訪問者も交ってわっわ[#「わっわ」に傍点]の騒ぎだ。それをこっちの部屋でじっと聞いて居た私には、やがて、麻川氏のはしゃぎ[#「はしゃぎ」に傍点]ばかりが別ものとなって耳の底にひびいて来た。陰性を帯びたはしゃぎ方だ。上へ上へとはしゃぎ出そうとする氏の都会的な陽性を、どうしても底へ引き込む陰性なものがある。私の眼には一本の太い針金の幻覚が現われた……どたり、地面に投げ出され乍ら、金属の表面ばかりが太陽にきらきら光っている……。
 某日。――麻川氏と始めて少し文学論のような話をした。私が「どうも日本の自然主義がモーパッサンやフローベルから派生したものとすれば、私には異議があります。日本の自然主義は外国の自然主義作家の一部分しか真似《まね》てない気がします。モーパッサンにしろフローベルにしろ何も肉体的な自然主義ばかりを主張してませんね。私はむしろ精神的な詩的香気の方を外国の自然主義作家から感じるのですが。」麻川氏「そうですとも、何しろ日本の作家達は西洋を真似るのに非常に性急です。それから、体力や精神力に全幅的な大きさが無い。従って一部分を概念的に真似るに過ぎないんですね。」氏は斯《こ》う云い終ると少し疲れたようにひるすぎの太陽のきらきらあたる庭芝を眺めた。向うの垣根の外に下駄の音がして長谷《はせ》あたりへ来て居る麻川氏の知人達の声が聞えた。私は氏の部屋を辞して自分の部屋で暫くやすむ――幽《しず》けさや、昼寝|枕《まくら》にまつわる蚊――こんな「句」のようなものを詠んで麻川氏の寂し相な眼つきを想《おも》った。
 某日。――麻川氏と私とは、体格、容貌《ようぼう》、性質の或部分等は、全く反対だが、神経の密度や趣味、好尚等随分よく似た部分もある。氏も、それを感じて居るのか、いわゆるなかよし[#「なかよし」に傍点]になり、しんみり語り合う機会が日増に多くなった。そして氏の良き一面はますます私に感じられて来るにも拘《かかわ》らず、何とも云えない不可解な氏が、追々私に現前して来る。それは良き一面の氏とは似てもつかない、そして或場合には両面全く聯絡《れんらく》を持たないもののようにさえ感じられる。幼稚とも意地悪とも、病的、盲者的、時としてはまた許しがたい無礼の徒とも云い切れない一面に逢う。
 某日。――今日、麻川氏は終日|椎《しい》の間の小亭で書いて居る様子だった。私達も一寸《ちょっと》海岸へ行って帰って来ると主人は昼寝、従妹《いとこ》は縫物私は読書ばかりして暮らした。夕方、先日海岸で紹介されたT氏の弟が私の部屋へ遊びに来た。プロレタリア文学雑誌「種|蒔《ま》く人」の同人で二十五歳、病弱な為めW大学中途退学の青年だが病身で小柄でも声が妙にかん高で元気に話す男だ。殆《ほとん》どわめく様にマルクスだとかレーニンだとか談論風発を続け、はては刻下の文壇をプチブル的、半死蛇等と罵《ののし》り立てる。十時近い頃青年は病的なりに生々した顔付きで兄の家へ帰って行った。帰り際に青年は少しおどけた顔付きで「あ、しまった、お隣にゃあアサ、ソウ(麻川荘之介の略称)が居たんだな。」と苦笑した。寝ようとして居る処へ母屋へ遊びに行って居た従妹が帰って来た。お駒婆さんも一緒だ。「あのね、麻川さんが、晩のお食事後、こっちにお客さんの居るうちじゅうお部屋の壁の外に椅子《いす》を運んでじっとして腰のかけづめでしたよ。こちらのこと、何か立ち聞でもしてたんじゃありませんか。」と告げ口する。主人は、「そうかい。」と云ったきりだった。私は告げ口した婆さんにも麻川氏にも何だか嫌な気持ちがしたが「あのお客さんあんまり大声で話したててたからね」と云ったあと、いくらか麻川氏に気の毒な感じもした。
 某日。――朝早く主人は社用で大阪に発《た》って行った。麻川氏の部屋の前を通ると、氏は例の非常に叮嚀《ていねい》なお辞儀をした。そしてH屋の表門まで私と一緒に主人を送って出てまた叮嚀な送別の辞を述べた。いつも乍ら好感の持てる氏の都会児らしい行儀の好い態度、そして朝風に黒上布《くろじょうふ》の単衣《ひとえ》の裾《すそ》が揺れる氏の長身を、怜悧《れいり》に振りかざした鞭《むち》のように私はうしろから見た。画家K氏は二三日前一たん東京へ帰り、早朝まだ一人の来客も麻川氏の部屋には無い。氏は私に寄って行けと云う。氏の部屋の浅縁に腰かける。藤棚の藤が莢《さや》になって朝風にゆらめくのを少し寝不足の眼で私がうっとりと眺めて入って居ると麻川氏は私のずっと後の薄暗い床脇《とこわき》に蹲居《そんきょ》の恰好《かっこう》で坐《すわ》り込んだ。そして暫《しばら》く黙って居た。私も黙っていた。真白い犬が私の眼の前を通った。犬は私の方を振り返り振り返り垣根の穴から出ていった。麻川氏は唸《うな》るように太い声で後から私に云った。「僕あですな。理智主義と云われる程、上昇しても居ません。また技巧派と片づけられる程堕落もして居ないつもりです……。」「あ、ゆんべの『種|蒔《ま》く人』の云ったことですか。」私は直覚を言葉に出して仕舞った。「種蒔く人。がどうだって構わないんです。僕だって、マルクスやレーニンに関心を持つことは敢《あえ》て人後に落ちないつもりですからな。僕あ、趣味としてはことごとく在来の日本人だけれど精神力のたくましさに於て、マルクスや、レーニンにむしろ同じるな。」「そうでしょうとも、あなたには、何処か精悍《せいかん》な歯があるわ。」「で、あなたは『種蒔く人』に何を話しましたか。」「私は大方|聴《き》いて居ただけですわ。大体まだ資本論さえ読んで居ないんですもの何とも云えません。ただね、実につまらないかもしれないことを一寸《ちょっと》云ったのよ。いくら物質の平均が行われても人間の持って生れた智能や、容貌《ようぼう》の美醜の平均までは人為的制度でどうにもならないでしょう。かりに茲《ここ》に二人の人間があり、一人は智能や美貌《びぼう》を持って生れて来て居るが他の一人より物資を持たない。その時、他の一人は、前者のように智能や美貌は持たないが、物資に恵まれて居る為めにその不平はともかくも補われて居る。その時、その物資を後者から奪って前者との均等を行ったら、後者には智能や美貌は前者より持ち合わせない不公平ばかりが歴然と残る。ね。これをどうします。こんな意味の事を私『種蒔くさん』に聞きました。でも、返事がはっきり判《わか》りませんでしたわ。」「はは……ちょっと子供じみた質問だがそりゃあ真理ですな、たしかに、僕等にしても、やたらに物質の平等よばわりは同じ難いけれど、然《しか》し、茲に一つの新らしい主義や人類の愛慾が発見され、それに向って人心や時代が推移傾倒して行くことは、それが絶対真理であろうと、無かろうと、推移そのものに立派な理由があるのですから仕方が無いですな。たとえば、硯友社《けんゆうしゃ》に反抗して起った自然主義が、いくら平面的文学であり、その後に起った耽美派《たんびは》文学がまた、単なる言葉の織物であるにしても、其処には推移そのものの真理が厳存するのだから仕方がない。」そう云って氏は、いくらか体をのり出して来た。唇がすこし慄《ふる》えて不安らしい眼つきになった。「だが、今度の、マルクス文学|擡頭《たいとう》の気勢は前例のものより、かなり風勢が強いらしいですよ。」氏がだんだんいらだって来るので何とか云わなければならない気配に私は迫られた。「あのね。ダンテは天国篇より地獄篇を好く書いてますね。」私は何という突然なことを云い出したのか、自分でも呆《あき》れたが、麻川氏は意外にも素直に返事をした。「そうですな。由来、人類は極楽を理想とし乍《なが》ら実際に於てむしろ地獄に懐き親しんで居る。ダンテといえども……。」氏は斯《こ》う云い乍ら床の間の奥から今まで私の眼に見えない処へ転がしてあったメロンを取出して来て、器用に皿へ載せナイフで割った。そして歯を出して笑い乍ら、「われわれなんざ、宜《よろ》しく新時代に斯の如くぶち割らるべきです。ははは……。だが、」とまた云って氏はメロンのなかからはみ出して来た種をナイフの尖《さき》でつっ突き乍ら「だがねえ、われわれのなかにだってこんな種がうじゃうじゃしてますよ。こいつがまた、地の底へもぐって、いつの時代にか、もくもくと芽を出すでしょうから、厄介なもんでさあ。」
 白い犬が、何処からか帰って来た。またのっそりと私の眼の先に立って、私や麻川氏を見上げて居る。私はもう、だまってメロンを喰《た》べて居た。
 某日。――裏木戸の外へ西瓜《すいか》の皮を捨てに行くと、木戸の内側の砂利道に、無帽の麻川氏がうずくまり、向うむきで地べたをじっと見つめて居る。「何してらっしゃるのですか。」と足音をひそめて私が近寄ると、氏は極々《ごくごく》あたりまえの顔をして「炎天の地下層にですな、小人がうじゃうじゃ湧《わ》こうとしてるんじゃ無いですかな。」「え?」私はたらたら汗を流して居る氏を、不思議に見詰めた。「あはは……誰でもこんな錯覚が時々ありそうですな。」「…………。」立ち上った氏の足下には大粒の黒蟻が沢山殺されて居た。汗で長髪を額にねばり付かせ、けらけら笑って立って居る氏に私は白昼の鬼気を感じた。私は気味悪くなった。「西瓜がまだ半分ありますから、あとで召上りにいらっしゃい。」私はそう云って見たが、氏は返事もせずに井戸端をめぐって、廊下へ昇って行って仕舞った。夕方私の処へ来たP社の記者が私の部屋の一族と、麻川氏を交ぜて写真を撮った。撮られて仕舞てから氏は、近頃の自分がいかに写真面に陰惨に撮れる例が多いかということを非常に気にし出した。で、もし麻川氏が陰惨にとれて居たら雑誌なんかに出すのはやめて欲しいと私もP社にたのんだ。P社の記者がそれを納得して東京へ帰ってから従妹《いとこ》に昼の西瓜の半分を切らして私の部屋の縁で麻川氏をもてなす。「いやあ、よく御馳走《ごちそう》になりますな、お陰で露命をつないでるようなもんですな。」わははと従妹がむき出しに笑い出した。氏「おかしいですか。」私「あなたのイットが面白いといつも云ってますの、このひとは。」けれど私はさっきまであんなに写真の事なんかで神経質だった氏が、打って替っておどけなんかを云うので従妹とは違った変なおかしさをおなかのなかで感じて居た。そこへ遠くの薄暮のなかから口笛が聞えて来た。T氏の弟がH屋の門を入って来たのだ。すると麻川氏は「や、種蒔くが来た」と突然顔面を硬直させて立ち上った。
 某日。――夜ふけて母家へ時計を見に行くと、麻川氏が一人、応接間の籐椅子《とういす》に倚《よ》って新聞を読んで居た。私は、先刻東京から来たばかりの叔母さんと一緒なので、麻川氏に一礼して直《す》ぐ部屋へ引返そうとすると麻川氏は無理に引とめて一つの椅子に私を坐らせた。叔母さんは小柄なので、ずっと離れて窓際のちっちゃな椅子へ掛けて窓の外を見て居る。麻川氏「種蒔くはこの頃来ませんな。」私「ええ、東北の方へ行っちまったんだそうです。」麻川氏「ははあ、だが、今日も昨日も随分あなたん所でお客が多かったんですな。」私「東京から距離が近いのに土地が珍らしいから用事がなくっても遊びに来るんでしょう、東京生活よりお客が多いくらいです。」麻川氏「お客の種類は大別してどんな人達ですか。」私「………………。」麻川氏「いやあ、僕にひと様のお客を調べる権利はありませんが……。」私「重《おも》だった客は先達《せんだっ》てのX図案家や、詩人のX氏や、哲学科のX氏あたりでしょう。」麻川氏「図案家X氏も行きづまりの恰好ですな。」私「そう、今までのメカニズムが近頃擡頭して来た新古典主義に押され勝ちのようですね。そういう欧洲の情勢が日本にも影響して来ましたのね。」麻川氏「詩人X氏は相変らず若くてカラリストだ。だが、時々馬鹿に饒舌《じょうぜつ》すぎますな……そして哲学科は……。」私「あれは私の論敵!」叔母さんが窓の方から、くるりとこっちを向いた。「煙草《たばこ》いかがです。」と麻川氏は叔母さんにケースを出したが叔母さんは喫《の》まないのでお辞儀だけした。私「あなたの処も随分お客が多いんですね。」麻川氏「□奴も△奴もうるさい奴等ですよ。」私「でも随分あなた崇拝家ですわ。」「ははん。」と麻川氏はやや得意そうに電灯の笠を見た。真上から電灯の直射をうけて痩《や》せた麻川氏の両頬《りょうほお》へ一筋ずつ河のように太い隈《くま》が現われた。麻川氏「ああいう狂拝家に逢《あ》ってはこっちから見てあぶなっかしくて困りますよ。□はさしものN市の大家産を傾け尽そうとして居るのですよ。好い奴ですが、どうも幼稚な野心家でね。文学だ、美術だ、でさらんぱらんになりそうですよ。」私「△さんの店の最中《もなか》おいしいんですね。」麻川氏「あの△氏も最中ばかりつくってりゃ好いのに、われわれどもを崇拝始めたら商売道は危うしですな。」私「×さん、×××さん達、先刻まで居られましたね。」麻川氏「×は小説家志望ですがダンスがうまいですよ。鎌倉ホテルのダンス場で×にダンス習ったらどうですか。年がいかないからまだ彼は無邪気ですよ。」叔母さんが口を出した。「いやですよ。この人は波乗りがやっとって処ですからね、そんな身軽なこと出来やしませんよ。」おばさんはだから発声運動をさせようと、三味線《しゃみせん》を持って来て、明日から私に鶴亀の復習をさせようとして居ることを話して二人は応接室から出ようとすると麻川氏は改めて私を呼び留めた。そして大真面目《おおまじめ》に「あなたんとこへまだ随分沢山の人が東京から来るんでしょうな。およそ何人位まだ来る予定ですか。」私「それは判りません。」麻川氏「それらの人達がですな、一々僕を頭に置いて帰るんじゃあ、やり切れない……。」
 暗い廊下を通り乍《なが》ら叔母さんは云った。「変な人ね、あの麻川さんて人は。」私「……。」叔母さん「何だって人の処へ来るお客の数を調べ上げたり気にしたりするんだろうね。」
 部屋へ帰って来て床を敷き乍らも叔母さんは独言《ひとりごと》のように云っている。「どうも変だよ、あの人はまるで、うしろ暗い事でも持っているようだ。」などと。叔母さんは五十近くでなりふり[#「なりふり」に傍点]など古風で常識的だが、なまなかの若者より敏感なのだ。やがて叔母さんは襖《ふすま》をしめて従妹《いとこ》と向うの部屋で寝て仕舞った。私は昼寝をかなりしたし、叔母さんの言葉や、麻川氏の今さっきの言葉や態度も気になって寝られ無い。仕方なしに起きて机の上に両手を組み頭をのせ叔母さんの云った麻川さんのうしろ暗い事について考え込んだ。うしろ暗い事なんか誰でも持って居るのだ、それをあんなにも人に見せまい感づかれまいとする麻川氏の焦燥は、見て居てもこっちが辛《つら》い。お客はお互いの部屋のお互いっこなのだ。も一つの部屋のブルジョア息子達の部屋のお客こそ大したものだ。朝から晩まで誰かしら外部のものが詰めかけ、ハモニカ、合唱、角力《すもう》、哄笑《こうしょう》。それらは麻川氏の神経に触らなくて「種|蒔《ま》く氏」の外は殆《ほとん》ど皆おとなしく話し込んだり遊んだりして帰って行く私の客達に麻川氏は一種の恐怖観念のようなものを抱くのらしい。麻川氏の方にしても若い無邪気な×氏や温厚な洗錬された作家×××氏や画家K氏を除く外はあんまり愉快な客ばかりでは無い。或る一人の男などはたまたま廊下で私に逢《あ》い私を呼び留めて「僕あ身分をかくして居るんですが。」などと思わせぶりな前提で麻川氏を誇張的に讃美《さんび》し自分も麻川氏の客であるからには、天下の存在であるかのような口吻《こうふん》を洩《も》らして私に堪《たま》らなく気障《きざ》な思いをさせ、また相当|曰《いわ》くつきらしい女客達が麻川氏を囲んで大柄に坐《すわ》りこみ、麻川氏の座敷から廊下や庭を往き来する人達を睥睨《へいげい》するのも愉快では無い。私などそんな女達や陰口の上手な麻川氏等に何を云われて居るのかと時々たまらなく神経に触る。なるたけ麻川氏の部屋に客の居るとき、私は自分の存在を隠して遠慮して居る。客の居ないときの麻川氏と談す時は、麻川氏の客のことなど殆ど忘れて仕舞って居るのに、麻川氏は、氏と何の関係も無い私の客達に、ああも神経質になるのは、叔母さんのいわゆる「何かうしろ暗さ。」を私に感じて居、それを私が客達に或いは幾分でも談すと思っているのかしら。それにしても麻川氏が私に「うしろ暗さ。」を懸念するような事は差し当り何だろう。強て想《おも》い出そうとすれば一週間ばかり前の「美人問答。」の折の氏の執拗《しつよう》さだ。氏が自分から私に押したあの時の執拗さに反発され、それが氏に創痍《きず》を残していることが想像される。
 一週間ばかり前のひるすぎ、麻川氏と私の話は「女性美。」というような方へ触れて行った。麻川氏「女の本当の美人なんてものは、男と同じように仲々|尠《すくな》いですね。しかし、男が、ふと或る女を想いつめ、その女にいろいろな空想や希望を積み重ねて行くとその女が絶世の美人に見えるようになって来ますね。そして、その陶酔を醒《さま》したくないと思いますね。その方が男にとって幸福ですからね。女から紅や、白粉《おしろい》を拭《ぬぐ》い取って、素顔を見るなんか私にはとても出来ない事です。だが、それだって好いじゃないですか。それだって。」氏の言葉の調子は、いくらかずつ私をきめつけてかかる。私は「そうですとも。」と相槌《あいづち》を打った。すると麻川氏は「ほんとうにそう、思うんですか。」とますます私を極《き》め付ける。私「ええ。」麻川氏「本当に……じゃあ何故あなたは……何故……。」「何ですか」と私。
 麻川氏は、それきり口をつぐんで仕舞った。眼が薄ぐもりの河の底のように光り、口辺に皮肉な微笑が浮んだ。やがて氏は眼を斜視にして藤棚の一方を見詰めて居たが突然立ち上り手を延ばして藤の葉を二三枚むしり取り、元の処へ坐った。が、いらいらとしていくらか気息を呑《の》み、「僕が、そういう意味でですね、僕がある女を美人と認めるとしても異議無しの筈《はず》ですがねあなたは。」私「ある女って誰ですか。」私も咄嗟《とっさ》の場合、詰《きっ》となった。麻川氏は必死な狡《ずる》さで「ふふふふ。」と笑った。ふと、私はX夫人の事を思いついた。そして、巧《たくみ》な化粧で変貌《へんぼう》したX夫人を先年某料亭で見て変貌以前を知って居る私が眼前のX夫人の美に見惚《みほ》れ乍ら麻川氏と一緒に単純に讃嘆《さんたん》出来なかった事、その気持ちでその時の麻川氏を批判した随筆を或る雑誌に絶対に氏やX夫人の名前を明記しないで書いたのが、矢張り麻川氏は読んで感付き気持ちに含んで居たのだと判った。「私は、自分の美人観はかなりはっきり持って居ますけれどひと様の好悪はどうでも好いんです。」私は斯《こ》う云って何故か悲しくなってうつ向いて仕舞った。何というしつこい氏の神経だ。正午前から、あんなに女中に言伝《ことづ》て、お駒婆さんに菓子を持たせ、部屋へ話しに来るように私を呼び立てたのは、この事を云う為だったのか、もうこのくらいつき合えば、この事を云い出しても好いと、見はからっての氏の招待だったか……その二三日前もこんな事があった。私が海岸から扇《おうぎ》ヶ谷《やつ》へ向う道で非常な馬上美人に遇《あ》ったと帰って来て氏に話した。すると氏は妙な冷笑を浮べて「非常な美人? ははあ、あなたに美人の定見がありますか。」私「でも、私は美人と思ったのですもの、定見とか何とか問題無しに。」麻川氏「その女が馬上に居たんで美人に見えたんでしょう。」私にもぐっと来る気持ちが起きたが表面は素直に「馬上だからなおスタイルが颯爽《さっそう》としてたんでもありましょうがね、私の云うのは顔なんですの、素晴しく均整のとれてる顔が、馬上でほっと赧《あか》らんでいましたの。」「ははあ。」と麻川氏はどうも遺憾で堪《たま》らない様子だ。「由来均整のとれてる顔には莫迦《ばか》が多いですな。」
 私はむっとして傍を向いた。何故私が扇ヶ谷の道路で観《み》た馬上の女性を麻川氏の前で美人と云ったのは悪いのか。そのくせ、麻川氏自身は殆ど絶えず色々な女性の美醜を評価し続けて居ると云っても好いくらいだのに何故私がたまたま扇ヶ谷の馬上美人を氏の前で褒めては悪いのか。事実私としては白日の下で近来あれ程高貴で美麗な顔立ちを見たことが無いのだ。
 麻川氏は私のむっとした顔色を観てとった。するとたちまち臆病《おくびょう》らしくおどおどして茶を汲《く》んで私の前に置いてとっつけたように云った。「多分素晴らしく美人だったのでしょうな。その美人は。」私はおとなしく笑っちまった。「ええ、有がとう。」私は何が為に有がとうと云ったのだろう。そのくせ胸は口惜しさで一ぱいなのに……。
 私はそれから、精々麻川氏にもてなされて氏はやっぱり気の弱い好人物なのだ、と心の一部分では思い乍《なが》ら部屋へ帰った。だが、口惜しさは止らない。従妹達《いとこたち》には昼寝の振して背中を向け横になった。そしてひそかに出て来る涙を抑えた。私も頑愚で人に自分の思うことを曲げられないあつかい難い女かも知れない。しかし、麻川氏の神経はあんまりうるさい。これではまるで、鎌倉へ麻川氏の意地張りの対手に来て居るようなものじゃないか……。
 従妹がうしろで云った。「お姉様。麻川さんと何か喧嘩《けんか》していらしったのでしょう。」あとは従妹の独語的に「ほんとにさ、多田さん(嘗《かつ》て私を変態的に小説に書いて死んで行った病詩人)麻川さんと云い、文士なんて、なんてうざうざと面倒くさい人達なんだろう。」この実際家で、しっかり者の従妹の云い草が、あんまりユーモリスチックなんで、私は、くるっと体を向き変え声を立てて笑って云った。「そして、このお姉様も、およそ面倒くさい、うざうざじゃないかねえ。」「ふふん、仕方が無い、さ。」従妹はぱたん、と棕梠《しゅろ》バタキで蠅《はえ》を叩《たた》いた。
 一しきり昼寝して起きて従妹に羊羹《ようかん》を切らせ、おやつにして居ると、障子の外で、ことん、ことん、廊下を踏む足音がする。「どなた?」と従妹が立って行く先に障子を細目に開けたのは麻川氏だった。「やあ、お茶ですか、また来ましょう。」私は先刻の事などひと寝入りして忘れて仕舞ったあとなので「いいえおはいり下さい。藤村の羊羹が東京から届きましたの。」愛想よく麻川氏に座蒲団《ざぶとん》をすすめた。氏は片手に紙挟《かみばさ》みのようなものを持ってはいって来た。私達のすすめる羊羹を、「うまいですな。」と一切|喰《た》べた。そして何か落ちつかない様子で、まじまじ襖《ふすま》や床の間を見て居たが、やがて紙挟みを私の前へ出して、「これ御覧になりませんか。」私「何ですか。」麻川氏「ブックの間から偶然出て来たんですよ。」
 私は何気なく氏の手から受け取って見ればそれは一枚のオフセット版でチントレットの裸婦像だった。艶消《つやけ》しの珠玉のような、なまめかしい崇高美に、私は一眼で魅了されて仕舞った。従妹も伸び上って私の手許《てもと》の画面に見入った。そして、「まあ。」と嘆声をもらした。「ははあ、讃嘆《さんたん》して居られますな。」と麻川氏はめったに談しかけない従妹へ言葉をかけなかなか画面から眼を離さない私達を満足気に見守って居たが、私が画を氏に返すと、氏は待ち受けたように云い出した。「然《しか》しですな、僕等がこの大正時代に於て斯《こ》うまで讃嘆するこの裸婦の美をですな、我国古代の紳士淑女達――たとえば素盞嗚尊《すさのおのみこと》、藤原鎌足《ふじわらのかまたり》、平将門《たいらのまさかど》、清少納言、達が果して同等に驚嘆するかですな、或いはナポレオンが、ヘンリー八世が、コロンブスが、クレオパトラが、南洋の土人達がですな、果して、今の我々と同価に評価するかどうかですな……。」
 氏の言葉を茲《ここ》まで聞いて私は、氏がチントレットの画像を私の部屋に見せに来た意味がほぼ判った。氏は、先刻私と云い合った美人の評価の結論を氏の思わく通りに片付け度《た》くってチントレットの裸婦像をその材料に使う為め、私の部屋まで出かけて来て、殆《ほとん》どその効果を収め得たのだ。私は胸にぐっとつかえるものが出来て氏の言葉を聞き乍ら氏の手へ返ったオフセット版をじっと見詰めて居た眼を動かさなかった。氏の敏感はすぐその私に気がついたらしく流石《さすが》に黙って立ち上った氏の顔を私が視《み》たとき私はたしかに氏の顔に「自己満足の創痍《そうい》。」を見た。私はあの時の氏の「自己満足の創痍。」に氏の性格の悲劇性をまざまざ感じたのを今もはっきり覚えて居る。
 叔母さんのいわゆる「うしろ暗さ」をさしあたり麻川氏に探せば以上のような先日中からのいきさつのいろいろが想《おも》い出される。だが、氏が「自己満足の創痍。」のためにやや蹌踉《そうろう》として居る始末までをなお私が氏からこの上負わされるのはやり切れない。
 某日。――氏の部屋には大勢の氏の崇拝客が殆ど終日居並んでいた。氏は客達の環中に悠然と坐《すわ》って居ると殆ど大人君子のような立ち優《まさ》った風格に見える。あれを個人と対談してひどく神経的になる時の女々しく執拗《しつよう》な氏に較《くら》べると実に格段の相違がある。それにしても或る人が或る人を云うのに、「自分はあの人に何年つき合って居る。」などとその人を知悉《ちしつ》して居るように云うのを聞くが、私には首肯出来ない。一昼夜のうちに或る一定時間に主客として逢《あ》ったとて要するにそれはその人にとって置きの対人的時間を選んで逢ったものに過ぎない。どんなに砕けて応対してもそれはその人のとって置きの時間内での知己である。麻川氏のような見栄坊《みえぼう》な性格の人はなおさら、どんな親しい友人間としても全部の武装を解除しては逢って居まい。たとえ短時日でも隣人として朝夕の不用意のうちにその人の多方面を見ることは、主客、友人として特定時間内に何年逢って居るよりも何程か多くその人の表裏全幅を知悉し得ると云えよう。私はもはや二十日以上も、麻川氏と壁一重を隔てたばかりの生活を過した。私は、通常の客や友人同志の知らない「不用意の氏」を随分|観《み》た。或る朝、氏が帯の端を垂らしてだらしなく廊下を歩いて便所に行く後姿。誰も居ない洗面所の鏡の前へ停って舌を出したり額を撫《な》でたり、はては、にやにや笑い、べっかっこ[#「べっかっこ」に傍点]をした顔を写し、それを誰も知らないつもりで済まし返って部屋へ引っ込んで行った氏。またある日の午後、盥《たらい》の金魚をたった一人でそっと覗《のぞ》いて居た氏。ひっそりと独りの部屋で爪《つめ》を切って居た氏。黙って壁に向って膝《ひざ》を抱いて居た氏。夜陰窓下の庭で上半身の着衣を脱いでしきりに体操をして居た氏。ふと、創作の机から上げた氏の顔が平生の美貌《びぼう》と違った長いよれよれの顔で、気味悪いグロテスクな表情を呈して居た。これらは、他人に向って一種のポーズをつくり、文学だの美術だのを談って居る氏よりも、どれほど無邪気で懐しく、人間的な憂愁や寂寞《せきばく》のニュアンスを氏から分泌しているかも知れないのだ。私が氏の為めに、随分腹立たしい不愉快な思いをし乍ら、いつかまた好感を持ち返すのは、ふとした折に以上のような氏の人知れない表情に触れるともなく触れるからかも知れないのだ。
 某日。――蒸暑い風が、海の方から吹き続けてきて、部屋には居たたまれない夜だ。叔母さんは、お駒婆さんと親しくなって、町へ一緒に買物に行った。私は、たまった手紙を書き終え九時頃従妹と庭の涼み台に出た。其処にたった一人麻川氏が居た。星の多い夜だ。私達は話し乍ら星を仰ぎ勝ちだった。「僕、さっき、一寸おもい付いたんだが、あなたにこんな歌がありませんでしたか……大都市東京の憂愁を集めて流す為めか灰色に流れる隅田川は……とかいうの。」私「ええ。ずっと子供のうち下町の生活を暫《しばら》くしてましたの。その時期にあの辺の都会的憂愁が身にしみたんですの。」麻川氏「あなたは大たい憂愁家ですね。つき合って僕は気がひきしまる。それに坂本さんもあんなに好い人だし、僕鎌倉へ来て好かったかな。」私「けむたがられたことも私達ありましたのね。」麻川氏「あははは……。」私「でもよく私達の隣へ越していらっしゃいましたわ。」麻川氏「でも、僕の方が先へ借りてたんだもの……それに僕は気が変り易いから。」従妹が突然太い声を出して「私ね東京って云えば直《す》ぐに青山御所を思い出すっきりよ。」と云ったので話はまたあとへ戻った。麻川氏「あはは……それも単純で好いな……僕なんか本所育ちで、本所の大どぶに浮いた泡のようなもんですよ。」従妹「あらいやだ。」麻川氏「そうですよ、ああそうですとも(私に向いて)どうもね、直きぶくぶくと消えて行きそうですよ。」私「星を見乍らそんなことを考えていらっしったんですか。」麻川氏「要するに、こんないいかげんな世の中に、儚《はか》ない生死の約束なんかに支配されて、人間なんか下らないみじめな生物なんだ。物質の分配がどうだの、理想がどうだの、何イズムだのと陰に陽にお祭り騒ぎして居るけれど、人間なんて、本当の処は桶《おけ》の底のウジのようにうごめき暮らして居る惨《みじめ》な生物に過ぎないんですな。」私「そうですね。でも、そういう風に思い詰めるどんづまりに、また反撥心《はんぱつしん》も起って、お祭騒ぎや、主義や理想も立て度《た》くなるんじゃないのですか。どっちも人間の本当のところじゃありませんか。」氏「生死の問題に就《つ》いてあなたは何う思いますか。」私「死は生の或る時期からの変態で、生は死の或る時期以前の変態というようにも考えるし、また、まるまる別個のようにも考えますわ。」氏「というと、生死一如でもあり、また全々生死は聯絡《れんらく》のないものとも考えるんですな。」私「ええ。」氏「願くばどっちかに片づけ度いもんですね。」私「仕方が無いからさしあたりどちらか私達をより以上に強く支配する観念の方へ就くんですね。」氏「僕は生死一如とは考えない。死はどこまでも生の壊滅後に来る暗黒世界だと、観念の眼を閉じて居るけれど、たった一つ残す自分の仕事によって、死後の自分と、現在との聯絡はとれるものだと思ってますな。」私「私もそう考えたことがありました。しかし、今は、かなり違って来ました。私達の肉体に籠《こも》るエネルギーは死によって物質的に変化し宇宙間の実在要素としてこの宇宙以外一歩も去らずに残るかもしれませんが、それ以上の個性とか、精神とか、つまり現象的な存在は全々消失して仕舞うから生存中の自己の現象的な産物の仕事なんかは、死後に全々消失する個性的な自己というものに、何の関係もありはしない……あると思うのは、あとのこの世に残った人達の観察に過ぎないんでしょう……。」氏「一寸《ちょっと》待って下さい、あなたはそんな風に考えて淋しいとは思いませんか。少くとも、あなたのような感情家が。」私「淋しいと思い、そして私が感情家だから、なおそんな処まで考え抜いちまったんですよ。」氏「判りました。あなたが怒りんぼうのくせに、じき優しくなるのも、そんな思考の曲折や、性格の変化があなたにあるからですな。」私「そうでしょうか。私なんか煩悩《ぼんのう》だらけで、とても、ものごとを単純に考えて、晏如《あんじょ》として居られないんです。そのくせ性格の半面は、とても単純でのん気千万のくせに。」すると従妹《いとこ》が突然「それが好いわよ。」と妙なしめくくりをつけたので、私はちぐはぐな気持ちになって黙って仕舞った。麻川氏は私達の側から立って今一つあいている長方形の涼み台の上に仰向《あおむ》けになった。八月下旬に近く、虫がしんとした遠近の草むらで啼《な》いている。麻川氏の端正な顔が星明りのなかでデスマスクの様に寂然と見える。ひょっとしたら、尖《とが》った鼻先から氏の体が、見る見る白骨に化して行くのでは無いかと思われてぞっとした。そして、私のそのかすかな身ぶるいのなかを氏の作品の「羅生門」の凄惨《せいさん》や「地獄変」の怪美や「奉教人の死」の幻想が逸早《いちはや》く横切った。私はそれ等諸作の追憶から湧《わ》き上る氏への崇拝の心を籠《こ》めて、「とにかくお体を大切になさいまし。」と平常ならば恥かしいような改まった口調で云った。先年主人が戯画に描いて氏を不愉快にしたのも其処から文学世界の記者川田氏が材料を持って来たのであるが、その後も氏が支那旅行から持ち越した病気が氏をなやませ続けている噂《うわさ》もまんざら嘘《うそ》では無いらしい。氏は時々自分の長髪を掻《か》きむしる。そして一二本の毛を指に摘んで自分の眼に寄せて見る癖が出来て居るらしい。私もたしか一二度その癖を見たような覚えがあり、今夜のように氏に対する崇拝心から愛惜の心が昂《たか》ぶって来ると、しみじみ氏の健康について云って見度い気になるのであった。
 某日。――まだみんなが寝て居るうち、H屋の門を抜け出て、一人で朝の散歩に出た。自分|乍《なが》ら、こんなことは珍らしいと思い乍ら、唐黍畑《とうきびばたけ》の傍を歩いて居ると停車場の方から、麻川氏がこっちへ歩いて来る。黒っぽい絽《ろ》の羽織の着流し姿で小さいケースを携げて居る。真新らしい夏帽子も他所行《よそいき》らしく光っている。私に近づいた氏は、「やあ。」と咽喉《のど》に引き込んだような声で笑って、「僕、東京へ行って来ました。昨夜、おそく思い立ったんで御挨拶《ごあいさつ》もしないで出かけましたが。」私「そして、こんなに早くお宅を出ていらしったんですか。」氏は一寸まごついたような様子だったが「いや、家へ帰りませんでした。Xステーションホテルに泊りました。」私「そして、直《す》ぐ引返していらしったんですか。」氏「あんまり遅く家の者共を、驚かしてはいけないと思って、昨夜はホテルへ泊り、今日あっちこっちの本屋へ行って金でも集めて、一たん家へ帰ってからまたこっちへ来ようと思ったんですけど、今朝起きたら面倒になっちまって万事|放擲《ほうてき》して来ちまいました。」私「お宅では、皆さん待っていらっしゃるんでしょう。」氏「家なんて面倒くさいもんです。」私「でも、好い奥様や、お子様がいらっしゃるのに。」私は、われ乍ら、月並な事を云ったものだと思った。氏「あなたは結婚だとか、家庭を、どう思いますか。僕は少なくとも結婚なんて、悪遺伝の継続機関だと思って居る。仮りにですな。僕が祖父母或いは父母の悪遺伝を継続して居る者とする……云うまでもなくそれは僕の子に孫に、或いはその孫に……。」氏はここまで云って口をつぐんで仕舞った。私は氏の実母が発狂者であることを、ひそかに知って居たので、粛然として氏の言葉を聞いた。だが、それを口に出すのは気の毒なのでさあらぬ体に言った。「そんなに考え過ぎても奥様やお子さんがお可哀想《かわいそう》ね。」氏「そりゃ、そうです。だから僕は、こんな事考え乍ら出来るだけ妻に対しては好い夫、子にも好い父であろうとして居ます。でもそういう責任や羈絆《きはん》を感ずれば感ずる程また一方に家庭への反逆心も起ろうというもんです。はははは……人間なんて、殊に男なんて勝手なもんですな。」
 氏の笑い声が、はたはたと、八月の海岸地の繁茂する野菜畑に響き渡った。氏が妙に空虚に張った声の内容には、何か韜晦《とうかい》する感情が、潜んでいるようにも感ぜられた。ことによったら氏は家庭へ帰る代りに誰かに昨夜ひそかに逢《あ》って来たのでは無いかしら……誰かに……或いは彼女……X夫人に……。
 某日。――昨夜、おばさん三味線《しゃみせん》を持って東京へ帰り(私に唄《うた》をうたわせ発声運動の目的で来たが私が避暑地の人達に聞かれるのを嫌がるので、)主人今朝大阪より此処へ戻る。夜汽車の疲れを見せてH屋の表門を主人がはいるや、麻川氏はいそいそ出迎えて呉《く》れる。私達の部屋より表門に近い氏の部屋へ氏は主人をまず招じて座布団《ざぶとん》をすすめ、洗面器へ冷水を汲み、新らしいタオルを添えるなど、この気の利かない私よりもずっと行き届いた款待振《かんたいぶ》りである。そういう場合氏の亙《わた》りの長い手足は、中年の良妻のような自由性と洗錬を見せて働く。こういう折々、いつも私は思うのであるが、これは氏の天資か、幼時からの都会の良家的「お仕込み」で、習性となって居る氏の動作が、このほか松葉杖つく画家K氏を、まめまめしく面倒見る氏の様子を、何事の美挙ぞと、私は眺めたことも度々あった。主人も好もしそうに微笑して氏にもてなされて居る。両優ふくんだような初対面の挨拶に代って、今や私達は真に打ち融け合った一家族の如き団欒《だんらん》をなす。
 某日。――大阪から主人が戻って五六日たった今日の午前十時頃、H屋の門前に一台の古馬車が止った。これは鎌倉でも海岸に遠い場所から海岸へ出る人の為めに備えられている雇い馬車であるらしい。私は確実には知らないが、何処かの貨馬車置場にでも納まっているものらしい。鎌倉の街を歩いて居て曾《かつ》てこんな馬車に逢わなかったのを見ると、余程特種な計画的な場合の人にのみこれは雇われるものらしい。それを麻川氏の部屋で頼んだものだ。私が、麻川氏の部屋と敢《あ》えて書くのは、この頃の麻川氏の部屋は、大川赫子によって殆《ほとん》ど領されて居る形であって最もよく混成された麻川氏と赫子の意志が、麻川氏の部屋の意志と呼んで好いような気さえする。私は平常、他の客の時は避けて、出来るだけ麻川氏の室に行かなかったが、赫子は夜自分の宿に帰って行くほかは、殆ど麻川氏の部屋に居続けなので自然、避けてばかりも居られないので、私が赫子に接触する機会が此頃多くなったわけである。それに馴《な》れると赫子は庭続きに私の部屋の前縁にも時々遊びにきた。
 赫子と麻川氏は馬車で海岸に行くことを、何故か性急に私達の部屋へ来て勧めて止まない。私はやや唐突に感じ、少し迷惑にも思った。それに昨夜来徹夜の仕事に疲れてこれから寝に就《つ》こうとする主人をも急《せ》き立てて連れ出そうとするのでなおさら迷惑の度を増したが、とにかく隣人の交際として行くことにした。道々も漠然として居る私達側に引き換え、何か非常に海岸に目指すもののある期待に赫子も麻川氏も弾んで居るらしく見える。長谷《はせ》の海岸に着いた。一しきり人出の減った海は何処か空の一隅の薄曇りの影さえ濃やかな波の一つ一つの陰に畳んでしっとりと穏かだった。だが、私は何かその静穏な海の状態に陰険な打ち潜んだ気配を感じて、やや憎みさえ覚えた。今日は海へはいり度《た》く無いな、と思った。(はいったとて私はどうせろくに泳げないのだけれど)徹夜の仕事を続け睡眠不足に疲労した主人はなお入れ度くないと思った。
 赫子は私のそんな思わくなどに頓着《とんちゃく》なく、ずんずん私を促し立てて私を婦人更衣場へ連れ込んだ。同様に男子更衣場へは麻川氏が主人を連れて行った。私は赫子の裸を始めて見た――真白だ。馬鈴薯の皮を剥《む》いた白さだ。何という簡単な白さ。魅力の無い白さ。私は茲《ここ》でも赫子に一つ失望した。茲でもというのは、私は大分以前から赫子に失望し始めて居たからであった。何故、一々、失望するほど、赫子に注意を私は払うのか。赫子の義兄大川宗三郎氏の陰影の深い耽美的《たんびてき》作品に傾倒して居た私が大川氏の愛玩《あいがん》すると評判高い赫子に多くの価値を置こうとするからだった。始め私は磨きの好い靴の先や洋装の裾《すそ》のひらめきや、ずばずばしたもの云いに赫子を快活なフラッパーな文化的モダンガールだと思って好奇心を持った。だが、それらの表面的なものに馴れて、珍らしさを感じなくなった中頃から、私は赫子を、平凡で常識的な世帯持ちの好い街のおかみさんのようなたち[#「たち」に傍点]の女であることが判った。彼女の人前でする一見奇抜相ないろいろな言動の中に実は何もかも、打算して振舞って居る分別がまざまざ見えすいて来た。この女は大川氏の猟奇癖に知ってか或いは知らずにかいつの間にか乗って仕舞って、その表皮がいつか奇矯に偽造され、文壇の見せ物になって居るに過ぎない。赫子は好い旦那《だんな》さんを早く見付けて好いおかみさんになりなさい。と私の好奇心は失望し乍《なが》らも私の女性としての実質が好意をもって心ひそかに赫子にそう云って居た。処がまた追々日がたつに従って私は赫子がやはりありきたりの女性の誰でもと同じように一寸《ちょっと》した言葉の間の負けず気や周囲の同性の身なりのほんのつまらない動静にまで皮肉や陰口で意地悪くこせこせするのを見聞するようになり、もはや赫子という女に全然興味を無くして仕舞って居た。だが、着物にかくれていた赫子の肉体的魅力に私はまださほどの不信を持って居なかったのだけれど……。
 海水着一つになった赫子は、例の虚勢を声に張り上げて、海へ飛び込んだ。水泳もひどく得意のように話して居たが、これもまた甚だ平凡な泳ぎ方だ。それでもかなり達者に一丁程麻川氏と並んで岸を離れて行った。私は二人の遠ざかったのを見て主人の傍へ行った。「半月程まえ茲の海で心臓麻痺《しんぞうまひ》を起して死んだ人があるんですって。」私がこういう真意を主人は知って居た。若いうちの深酒で主人は心臓を弱くして居る。水泳は、ずっと前から自分でも禁じて居る。今日にかぎって泳ぐわけも無いのだが赫子も麻川氏も先刻からむしろ主人を先頭に泳がせ度い気配《けは》いが見える。それにもかかわらず、主人は岸近くで私と一緒にわずかに波乗り位して居るだけだった。「おーうい」と赫子はかなりの高波の間から手招ぎをした。少し離れた処で麻川氏も「泳ぎませんか坂本さん。」赫子「駄目、泳がなくっては、坂本さん。」赫子は当然自分達に続いて泳いで来るべき筈《はず》の坂本が岸に居るのが不本意だとでもいうような様子である。「僕あ駄目。」と主人が手を振ると「駄目ってこと無いわよ。」と赫子。「泳ぎましょう、行きましょうよ、沖へ。」と麻川氏。「いらっしゃい。」「いらっしゃいったら。」といよいよ異常な熱心で主人を誘致しようとする二人。それでも主人は笑って居て岸から離れようとはしない。誘い疲れて断念した赫子と麻川氏は誘うのを止めて、ほんの一廻《ひとまわ》りその辺を泳いだだけで直《す》ぐ岸へ帰って来た。「どうしても泳ぎませんかね、坂本さん。」と二人はまだ執拗《しつよう》に主人に云うので「ああ、今日は嫌だ。」と主人も少しむっとしたように云った。麻川氏はさも失望したように、「駄目だなあ、折角誘って来たのに。」赫子はもうすっかり不機嫌を顔に出して「ふん。」と横向いたなり、さっさと更衣場の方へ足を向けた。「君達、僕に構わずにゆっくり泳いだら好いじゃ無いか。」主人が云うと麻川氏は「つまんないからもう帰りましょう。」と矢張り麻川氏もさっさと更衣場の方へ行って仕舞った。従妹《いとこ》一人は無頓着に独りで、あちこち波を掻《か》き廻して居たが、あんまり早い一行の帰り支度に吃驚《びっく》りして波から上ってきた。馬車が待たせてあった。長谷からH屋まで電車もある。平生は誰でも電車へ乗る。それを帰りの馬車まで待たせてある。私は、いよいよ何事かの計劃《けいかく》のもとに今日の「海水浴場行」が企てられたものと直覚した。丁度、主人は更衣場の傍でA社のK部長に逢《あ》い、K氏の別荘へ来て居るT氏に逢う為め同行したので私は従妹と一緒にすすま無い馬車の同乗をして赫子や麻川氏と帰途に就いた。果して一丁程馬車が動くと赫子が口を歪《ゆが》め、私には顔の側方を向け、而も一番私に云う強い語気で「ふん、あれでも神伝流の免許皆伝か。」麻川氏「くどく云うなよ。」赫子「だってとうとう瞞《だま》されちゃった。」私は判った。昨日の午後、水泳の話が麻川氏の部屋で出たその時、私と赫子との説が何かで一寸行き違った。思い上っていつも座中の最得位を占めて居なければならない赫子が面白く無さそうな顔付きだった。そのあとの話の都合で私は主人が少年時代隅田川の河童党《かっぱとう》で神伝流の免許を受けて居ることを云った。だが、それをまた何のために馬車まで雇って実験する必要があるのだろう。たとえば今日泳がなくても主人の免許を受けたことは飽迄《あくまで》も事実であるのに、浅はかな人達よ。何とでも思うが好い。と私はぐっと、息を詰めて堪えて居た。赫子は、云うだけは云ったが、折角の計劃が無になったいまいましさを紛らす為めか傍若無人にたてつづけの鼻唄《はなうた》。麻川氏は私と同じ無言で、しかし、何かしきりに考えめぐらして居る様子だったが、突然、私の絽縮緬《ろちりめん》の単衣《ひとえ》の袖《そで》を撮《つま》んで「X女史にこんな模様は似合うな。」(X女史はX夫人だ、氏は自分とX夫人と世間が噂《うわさ》をして居るのを知らないらしい。)と決定的に云った。私は話題が変ったので先刻からの不愉快な気持ちが一寸くつろいで「あの方には無地でこの色(小豆色)だけなのが好いでしょうね。」と云った。すると麻川氏の顔に見る見る冷笑が湧《わ》いた。「あなたの主張はそうですかなあ――あなた、あの人の衣裳《いしょう》持ちにヤキモチ焼いて居ませんか。」終りの一句(これは普通の目鼻を持って居る同志が面と向って云い合う言葉では無い。氏は気違いじゃないかな。と私は咄嗟《とっさ》の場合思った)は、私、従妹、をむしろ吃驚させて氏の顔に眼を集めさせた。処が、以外にも氏の顔には、今が今、自分の口から出た言葉に吃驚《びっくり》し狼狽《ろうばい》して居る色が私達の吃驚以上に認められた。
 H屋の部屋へ帰っても私は、石でも喰《く》ったように黙りこくって、従妹《いとこ》にさえ口を利く気持になれなかった。主人が間もなくあとから帰って来て「麻川君があすこんとこ(私達の部屋と氏の部屋との境いの露地。)へ籐椅子《とういす》を持って来て腰かけてたよ。」と何気なく話したので従妹は急に勢い込んで帰りの馬車の情況を主人に話し「あの人、自分が大変なこと云っちゃったので私達が部屋でどんなに怒って話し合ってるか聞き耳たててたんでしょう。あの人よく立ち聞きする人ですもの。ヤキモチと云えばあの人こそ……いつかお姉様が、久野さんや喜久井さんのこと麻川さんの前で褒めたら、それはそれは不愉快な顔して喜久井さんや久野さんの悪口随分云ったじゃ無いの、あの人こそヤキモチヤキだわ。」私もそれに思い当った。が従妹があまりはきはき云って仕舞ったので、気持がいくらか晴れたせいか、不思議と心の底の方から麻川氏への理解がほのかに湧《わ》いて来た。「そのくせ、充分友達思いなんだけどね。」すると主人が例のゆっくりした調子で云った。「そうだよ。ああいう性分なんだよ。ふだん冷静に見せてるけど時々|末梢神経《まっしょうしんけい》でひねくれるのさ。君にだって悪意があるわけじゃ無いんだけど……。」従妹「そうよ。あの人お姉様ととてもお話も合うし仲よしなんだけど、赫子なんかに取り込められるとふとその気になるんだわ。」私もほぼ判っては居るのだけれど今頃になって涙が出て仕方がない。主人「とにかくあの人の神経にゃ君が噛《か》み切れないんだよ。そうかって君って人にはどうも無関心になり切れないらしいな。ああいった性分の人には……それで焦《じ》れてついいろんなことを云ったり仕たりしちまうんだな。」
 この時、途中、馬車から自分の宿へ降りて行った赫子がまた麻川氏の部屋へ来たらしい高声が聞えた。従妹が一寸《ちょっと》顔色を変えたのを主人は眼で制した。そして煙草《たばこ》に火をつけてから云った。「どうだい。一たん東京へ引き上げちゃあ。そして九月になってみんな帰っちまってからまた来るとしちゃ。」

 葉子はこの日記の終った大正十二年八月下旬以来、昭和二年春まで、足かけ五年も麻川荘之介氏に逢《あ》わなかった。昭和二年の早春、葉子は、一寸した病後の気持で、熱海の梅林が見度《みた》くなり、良人《おっと》と、新橋駅から汽車に乗った。すると真向いのシートからつと立ち上って「やあ!」と懐しげに声を掛けたのは麻川荘之介氏であった。何という変り方! 葉子の記憶にあるかぎりの鎌倉時代の麻川氏は、何処か齲《むしば》んだ黝《うずくろ》さはあってもまだまだ秀麗だった麻川氏が、今は額が細長く丸く禿《は》げ上り、老婆のように皺《しわ》んだ頬《ほお》を硬《こわ》ばらせた、奇貌《きぼう》を浮かして、それでも服装だけは昔のままの身だしなみで、竹骨の張った凧紙《たこがみ》のようにしゃんと上衣を肩に張りつけた様子は、車内の人々の注目をさえひいて居る。葉子は、麻川氏の病弱を絶えず噂《うわさ》には聞いて居たが、斯《こ》うまで氏をさいなみ果した病魔の所業に今更ふかく驚ろかされた。病気はやはり支那旅行以来のものが執拗《しつよう》に氏から離れないものらしい。だが、つくづく見れば、今の異形の氏の奥から、歴然と昔の麻川氏の俤《おもかげ》は見えて来る。葉子は、その俤を鎌倉で別れて以来、日がたつにつれどれ程懐しんで居たか知れない。葉子の鎌倉日記に書いた氏との葛藤《かっとう》、氏の病的や異常が却《かえ》って葉子に氏をなつかしく思わせるのは何と皮肉であろう。だが、人が或る勝景を旅する、その当時は難路のけわしさに旅愁ばかりが身にこたえるが、日を経ればその旅愁は却ってその勝景への追憶を深からしめる陰影となる。これが或る一時期に麻川荘之介氏という優れた文学者に葉子が真実接触した追憶の例証とも云えよう。
「私ずっと前から、お逢いし度《た》かったのです。」
 五年の歳月が、葉子を率直にはっきりしたものの云える女にして居た。
「僕も。」
 氏の声はまた何という心の傷手から滲《にじ》み出した切実な声になったことだろう。
「鎌倉時代に、私はもっと素直な気持で、あなたにおつき合いすれば好かったと思ってました。」
「僕も。」
「ゆっくりお打ち合せして、近いうちにお目にかかりましょうね。」
「是非そうして下さい。旅からお帰りなったら、お宅へいつ頃伺って好いか、お知らせ下さい。是非。」
 それから葉子の良人坂本とも氏はさも懐しげに話して居た。話のうちに氏が時々立てる昔のままの豪快笑いが変り果てた現在の氏の異形から出て来るのが一種|妖怪的《ようかいてき》な傷ましさを葉子に感じさせた。
 汽車が氏の転地先○○駅迄進んだ時、氏は誰かと一緒にシートから立ち上った。誰か直《す》ぐ忘れて仕舞った程葉子は氏にばかり心を奪われて居た。氏は立ち際に「あなたが二度目に××誌に書かれた僕の批判はまったく当って居ます有難かった。」と云った。それは鎌倉以後三四年たった時分葉子が××誌から書かされたもので「麻川氏はその本性、稀《まれ》に見る稚純の士であり乍《なが》ら、作風のみは大人君子の風格を学び備えて居る為めにその二者の間隙《かんげき》や撞着矛盾《どうちゃくむじゅん》が接触する者に誤解を与える。」こんな意味のものだった。葉子がより多く氏を理解して来たと自信を持ち出した頃のものだった。
 汽車から降りてはっきりした早春の外光の中に立った氏の姿を葉子は更に傷ましく見た。思わず眼をそむけた。頭半分も後退した髪の毛の生え際から、ふらふらと延び上った弱々しい長髪が、氏の下駄|穿《ば》きの足踏みのリズムに従い一たん空に浮いて、またへたへたと禿げ上った額の半分ばかりを撫《な》で廻《ま》わす。
「あ、オバ○!」
 不意の声をたてたのは反対側の車窓から氏を見た子供であった。葉子は暗然として息を呑《の》んだ。
「すっかり、やられたんだな。」
 葉子の良人も独言のように云ったきり黙って居た。

 その日の夕刻、熱海梅林の鶴《つる》の金網前に葉子は停って居た。前年、この渓流に添って豊に張られた金網のなかに雌雄並んで豪華な姿を見せて居たのが、今は素立ちのたった一羽、梅花を渡るうすら冷たい夕風に色褪《いろあ》せた丹頂の毛をそよがせ蒼冥《そうめい》として昏《く》れる前面の山々を淋しげに見上げて居る。私は果無《はかな》げな一羽の鶴の様子を観《み》て居るうちに途中の汽車で別れた麻川氏が、しきりに想《おも》われるのであった。「この鶴も、病んではかない運命の岸を辿《たど》るか。」こんな感傷に葉子は引き入れられて悄然《しょうぜん》とした。

 その年七月、麻川氏は自殺した。葉子は世人と一緒に驚愕《きょうがく》した。世人は氏の自殺に対して、病苦、家庭苦、芸術苦、恋愛苦或いはもっと漠然とした透徹した氏の人生観、一つ一つ別の理由をあて嵌《は》めた。葉子もまた……だが、葉子には或いはその全てが氏の自殺の原因であるようにも思えた。
 その後世間が氏の自殺に対する驚愕から遠ざかって行っても葉子の死に対する関心は時を経てますます深くなるばかりである。とりわけ氏と最後に逢った早春白梅の咲く頃ともなれば……そしてまた年毎に七八月の鎌倉を想い追懐の念を増すばかりである。
 また画家K氏のT誌に寄せた文章に依《よ》れば、麻川氏はその晩年の日記に葉子を氏の知れる婦人のなかの誰より懐しく聡明《そうめい》なる者としてさえ書いて居る。それが葉子の思いを一層切実にさせるというのは葉子は熱海への汽車中、氏に約した会見を果さなかった、氏と約した通り氏に遇《あ》い氏が仮りにも知れる婦人の中より選び信じ懐かしんで呉《く》れた自分が、鎌倉時代よりもずっと明るく寛闊《かんかつ》に健康になった心象の幾分かを氏に投じ得たなら、あるいは生前の氏の運命の左右に幾分か役立ち、あるいは氏の生死の時期や方向にも何等かの異動や変化が無かったかも期し難いと氏の死後八九年経た今でもなお深く悔い惜しみ嘆くからである。これを葉子という一女性の徒《いたず》らなる感傷の言葉とのみ読む人々よ、あながちに笑い去り給うな。

底本:「昭和文学全集 第5巻」小学館
   1986(昭和61)年12月1日初版第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
   1974(昭和49)年~1978(昭和53)年
入力:阿部良子
校正:松永正敏
2001年4月3日公開
2003年5月25日修正
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