岡本かの子

一平氏に—– 岡本かの子

そちらのお座敷にはもうそろそろ西陽が射す頃で御座いませう? 鋭い斜光線の直射があなたのお机のわきの磨りガラスの窓障子へ光の閃端をうちあてると万遍なくお部屋の内部がオレンヂ色にあかるくなりますのね、そしてにわかに蒸暑くなるのでせう、あなたは急...
岡本かの子

異性に対する感覚を洗練せよ—– 岡本かの子

現代の女性の感覚は色調とか形式美とか音とかに就《つ》いて著《いちじ》るしく発達して来た。全《あら》ゆる新流行に対して、その深い原理性を丹念に研究しなくとも直截《ちょくせつ》に感覚からして其《そ》の適応性優秀性を意識|出来《でき》る敏感《びん...
岡本かの子

異国食餌抄—– 岡本かの子

夕食前の小半時《こはんとき》、巴里《パリ》のキャフェのテラスは特別に混雑する。一日の仕事が一段落《いちだんらく》ついて、今少しすれば食欲|三昧《ざんまい》の時が来る。それまでに心身の緊張をほぐし、徐《おもむ》ろに食欲に呼びかける時間なのだ。...
岡本かの子

愛よ愛—– 岡本かの子

この人のうえをおもうときにおもわず力が入る。この人とのくらしに必要なわずらわしき日常生活もいやな交際も覚束《おぼつか》なきままにやってのけようとおもう。この人のためにはすこしの恥は涙を隠しても忍ぼうとおもう。  朝夕見なれしこの人、朝夕なに...
岡本かの子

愛—– 岡本かの子

その人にまた逢《あ》ふまでは、とても重苦しくて気骨《きぼね》の折れる人、もう滅多《めった》には逢ふまいと思ひます。さう思へばさば/\して別の事もなく普通の月日に戻り、毎日三時のお茶うけも待遠しいくらゐ待兼《まちか》ねて頂きます。人間の寿命に...
岡本かの子

みちのく—– 岡本かの子

桐《きり》の花の咲《さ》く時分であった。私は東北のSという城下町の表通りから二側目《ふたかわめ》の町並《まちなみ》を歩いていた。案内する人は土地の有志三四名と宿屋の番頭であった。一行はいま私が講演した会場の寺院の山門を出て、町の名所となって...
岡本かの子

バットクラス—– 岡本かの子

スワンソン夫人は公園小路《パークレーン》の自邸で目が覚めた。彼女は社交季節が来ると、倫敦《ロンドン》の邸宅に帰って来る。彼女は昨日まで蘇格蘭《スコットランド》の領地で狐を狩って居た。その前はフランスのニースのお祭に招かれて行って居た。  室...
岡本かの子

とと屋禅譚—— 岡本かの子

一 明治も改元して左程《さほど》しばらく経たぬ頃、魚河岸《うおがし》に白魚と鮎《あゆ》を専門に商う小笹屋という店があった。店と言っても家構えがあるわけでなく鮪《まぐろ》や鮫《さめ》を売る問屋の端の板羽目の前を借りて庇《ひさし》を差出し、其《...
岡本かの子

ドーヴィル物語—– 岡本かの子

一 日本留学生小田島春作は女友イベットに呼び寄せられ、前夜|晩《おそ》く巴里《パリ》を発《た》ち、未明にドーヴィル、ノルマンジーホテルに着いた。此処《ここ》は巴里から自動車で二時間余で着く賭博中心の世界的遊楽地だ。  壮麗な石造りの間の処ど...
岡本かの子

ガルスワーシーの家———- 岡本かの子

ロンドン市の北郊ハムステットの丘には春も秋もよく太陽が照り渡った。此《こ》の殆《ほと》んど何里四方小丘の起伏する自然公園は青く椀状にくねってロンドン市の北端を抱き取って居る。丘の表面には萱《かや》、えにしだ、野|薔薇《ばら》などが豊かに生い...
岡本かの子

かの女の朝—– 岡本かの子

K雑誌先月号に載ったあなたの小説を見ました。ママの処女作というのです ね、これが。ママの意図《いと》としては、フランス人の性情《せいじょう》が、利に鋭いと同時に洗練された情感と怜悧《れいり》さで、敵国の女探偵を可愛《かわ》ゆく優美に待遇する...
岡本かの子

おせっかい夫人—– 岡本かの子

午前十一時半から十二時ちょっと過ぎまでの出来事です。うらうらと晴れた春の日の暖気に誘われて花子夫人は三時間も前に主人を送り出した門前へまたも出て見ました。糸目の艶をはっきりたてた手際《てぎわ》の好い刺繍《ししゅう》です。そこに隣家国枝さんと...
岡本かの子

ある男の死—– 岡本かの子

A! 女学校では、当時有名な話でありました。それは 『二時間目事件。』  といふのでした。  新学期がはじまつてから二ヶ月程後のある日、朝から二時間目の歴史の時間に起つたこと。と書きたてるほど大げさなことでもないのに、それをそれほど有名にし...
横光利一

蠅——横光利一

一  真夏の宿場は空虚であった。ただ眼の大きな一疋《いっぴき》の蠅だけは、薄暗い厩《うまや》の隅《すみ》の蜘蛛《くも》の巣にひっかかると、後肢《あとあし》で網を跳ねつつ暫《しばら》くぶらぶらと揺れていた。と、豆のようにぼたりと落ちた。そうし...
横光利一

罌粟《けし》の中——横光利一

しばらく芝生の堤が眼の高さでつづいた。波のように高低を描いていく平原のその堤の上にいちめん真紅のひな罌粟《げし》が連続している。正午にウイーンを立ってから、三時間あまりにもなる初夏のハンガリヤの野は、見わたす限りこのような野生のひな罌粟の紅...
横光利一

旅愁—–横光利一

家を取り壊した庭の中に、白い花をつけた杏の樹がただ一本立っている。復活祭の近づいた春寒い風が河岸から吹く度びに枝枝が慄えつつ弁を落していく。パッシイからセーヌ河を登って来た蒸気船が、芽を吹き立てたプラターンの幹の間から物憂げな汽缶の音を響か...
横光利一

洋灯—–横光利一

このごろ停電する夜の暗さをかこっている私に知人がランプを持って来てくれた。高さ一尺あまりの小さな置きランプである。私はそれを手にとって眺めていると、冷え凍っている私の胸の底から、ほとほとと音立てて燃えてくるものがあった。久しくそれは聞いたこ...
横光利一

――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)—–横光利一

八月――日  駈けて来る足駄《あしだ》の音が庭石に躓《つまず》いて一度よろけた。すると、柿の木の下へ顕れた義弟が真っ赤な顔で、「休戦休戦。」という。借り物らしい足駄でまたそこで躓いた。躓きながら、「ポツダム宣言全部承認。」という。 「ほんと...
横光利一

黙示のページ—–横光利一

終始末期を連続しつつ、愚な時計の振り子の如く反動するものは文化である。かの聖典黙示の頁に埋れたまま、なお黙々とせる四騎手はいずこにいるか。貧、富、男、女、層々とした世紀の頁の上で、その前奏に於て号々し、その急速に於て驀激し、その伴奏に於てな...
横光利一

盲腸—–横光利一

Fは口から血を吐いた。Mは盲腸炎で腹を切つた。Hは鼻毛を抜いた痕から丹毒に浸入された。此の三つの報告を、彼は同時に耳に入れると、痔が突発して血を流した。彼は三つの不幸の輪の中で血を流しながら頭を上げると、さてどつちへ行かうかとうろうろした。...