岡本かの子 健康三題—– 岡本かの子 はつ湯 男の方は、今いう必要も無いから別問題として、一体私は女に好かれる素質を持って居た。 それも妙な意味の好かれ方でなく、ただ何となく好感が持てるという極めてあっさりしたものらしかった。だから、離れ座敷の娘が私に親しみ度《た》い素振りを... 2019.05.01 岡本かの子
岡本かの子 決闘場—– 岡本かの子 ロンドンの北隅ケンウッドの森には墨色で十数丈のシナの樹や、銀色の楡《にれ》の大樹が逞《たく》ましい幹から複雑な枝葉を大空に向けて爆裂させ、押し拡げして、澄み渡った中天の空気へ鮮やかな濃緑色を浮游させて居る。立ち並ぶそれらの大樹の根本を塞《ふ... 2019.05.01 岡本かの子
岡本かの子 兄妹—– 岡本かの子 ――二十余年前の春 兄は第一高等学校の制帽をかぶっていた。上質の久留米絣《くるめがすり》の羽織と着物がきちんと揃っていた。妹は紫矢絣の着物に、藤紫の被布《ひふ》を着ていた。 三月の末、雲雀《ひばり》が野の彼処に声を落し、太陽が赫《あか》く... 2019.05.01 岡本かの子
岡本かの子 愚なる(?!)母の散文詩—— 岡本かの子 わたしは今、お化粧をせつせとして居ます。 けふは恋人のためにではありません。 あたしの息子太郎のためにです。 わたしの太郎は十四になりました。 そして、自分の女性に対する美の認識についてそろそろ云々するやうになりました。 太郎の為... 2019.05.01 岡本かの子
岡本かの子 愚かな男の話—– 岡本かの子 「或る田舎に二人の農夫があった。両方共農作自慢の男であった。或る時、二人は自慢の鼻突き合せて喋《しゃ》べり争った末、それでは実際の成績の上で証拠を見せ合おうという事になった。それには互に甘蔗《かんしょ》を栽培して、どっちが甘いのが出来るか、... 2019.05.01 岡本かの子
岡本かの子 金魚撩乱—– 岡本かの子 今日も復一はようやく変色し始めた仔魚《しぎょ》を一|匹《ぴき》二|匹《ひき》と皿《さら》に掬《すく》い上げ、熱心に拡大鏡で眺《なが》めていたが、今年もまた失敗か――今年もまた望み通りの金魚はついに出来そうもない。そう呟《つぶや》いて復一は皿... 2019.05.01 岡本かの子
岡本かの子 気の毒な奥様—— 岡本かの子 或る大きな都会の娯楽街《アミューズメントセンター》に屹立《きつりつ》している映画殿堂では、夜の部がもうとっくに始まって、満員の観客の前に華やかなラヴ・シーンが映し出されていました。正面玄関の上り口では、やっと閑散の身になった案内係の少女達が... 2019.05.01 岡本かの子
岡本かの子 汗 ——岡本かの子 ――お金が汗をかいたわ。」 河内屋の娘の浦子はさういつて松崎の前に掌《てのひら》を開いて見せた。ローマを取巻く丘のやうに程のよい高さで盛り上る肉付きのまん中に一円銀貨の片面が少し曇つて濡《ぬ》れてゐた。 浦子はこどものときにひどい脳膜炎... 2019.05.01 岡本かの子
岡本かの子 褐色の求道—– 岡本かの子 独逸《ドイツ》に在る唯一の仏教の寺だという仏陀寺《ブッダハウス》へ私は伯林《ベルリン》遊学中三度訪ねた。一九三一年の事である。 寺は伯林から汽車で一時間ほどで行けるフロウナウという町に在った。噂ほどにもない小さな建物で、町|外《はず》れの... 2019.05.01 岡本かの子
岡本かの子 街頭 (巴里のある夕)——- 岡本かの子 二列に並んで百貨店ギャラレ・ラファイエットのある町の一席を群集は取巻いた。中には雨傘の用意までして来た郊外の人もある。人形が人間らしく動く飾物を見ようとするのだ。 百貨店の大きな出庇《でびさし》の亀甲形《きっこうがた》の裏から金色の光線が... 2019.05.01 岡本かの子
岡本かの子 快走—– 岡本かの子 中の間で道子は弟の準二の正月着物を縫《ぬ》い終って、今度は兄の陸郎の分を縫いかけていた。 「それおやじのかい」 離れから廊下を歩いて来た陸郎は、通りすがりにちらと横目に見て訊《き》いた。 「兄さんのよ。これから兄さんも会社以外はなるべく和... 2019.05.01 岡本かの子
岡本かの子 過去世—– 岡本かの子 池は雨中の夕陽の加減で、水銀のやうに縁だけ盛り上つて光つた。池の胴を挟んでゐる杉木立と青|蘆《あし》の洲《す》とは、両脇から錆《さ》び込む腐蝕《ふしょく》のやうに黝《くろず》んで来た。 窓外のかういふ風景を背景にして、室内の食卓の世話をし... 2019.05.01 岡本かの子
岡本かの子 花は勁し—– 岡本かの子 青みどろを溜めた大硝子箱の澱んだ水が、鉛色に曇つて来た。いままで絢爛に泳いでゐた二つのキヤリコの金魚が、気圧の重さのけはひ[#「けはひ」に傍点]をうけて、並んで沈むと、態と揃へたやうに二つの顔をこちらへ向けた。うしろは青みどろの混沌に暈けて... 2019.05.01 岡本かの子
岡本かの子 河明り—– 岡本かの子 私が、いま書き続けている物語の中の主要人物の娘の性格に、何か物足りないものがあるので、これはいっそのこと環境を移して、雰囲気でも変えたらと思いつくと、大川の満《み》ち干《ひ》の潮がひたひたと窓近く感じられる河沿いの家を、私の心は頻《しき》り... 2019.05.01 岡本かの子
岡本かの子 家霊—– 岡本かの子 山の手の高台で電車の交叉点になっている十字路がある。十字路の間からまた一筋細く岐《わか》れ出て下町への谷に向く坂道がある。坂道の途中に八幡宮の境内《けいだい》と向い合って名物のどじょう[#「どじょう」に傍点]店がある。拭き磨いた千本格子の真... 2019.05.01 岡本かの子
岡本かの子 家庭愛増進術 ―型でなしに—– 岡本かの子 わたくしは自分|達《たち》を夫とか妻とか考えません。 同棲《どうせい》する親愛なそして相憐《あいあわ》れむべき人間同志と思って居《い》ます。そして元来《がんらい》が飽《あ》き安い人間の本能を征服|出来《でき》て同棲を続ける者同志の因縁《い... 2019.05.01 岡本かの子
岡本かの子 夏の夜の夢—– 岡本かの子 月の出の間もない夜更けである。暗さが弛《ゆる》んで、また宵が来たやうなうら懐かしい気持ちをさせる。歳子は落付いてはゐられない愉《たの》しい不安に誘はれて内玄関から外へ出た。 「また出かけるのかね、今夜も。――もう気持をうち切つたらどうだい。... 2019.05.01 岡本かの子
岡本かの子 岡本一平論 ―親の前で祈祷—- 岡本かの子 「あなたのお宅の御主人は、面白い画《え》をお描《か》きになりますね。嘸《さぞ》おうちのなかも、いつもおにぎやかで面白くいらっしゃいましょう。」 この様《よう》なことを私に向《むか》って云《い》う人が時々あります。 そんな時私は、 「ええ... 2019.05.01 岡本かの子
岡本かの子 越年—– 岡本かの子 年末のボーナスを受取って加奈江が社から帰ろうとしたときであった。気分の弾《はず》んだ男の社員達がいつもより騒々しくビルディングの四階にある社から駆け降りて行った後、加奈江は同僚の女事務員二人と服を着かえて廊下に出た。すると廊下に男の社員が一... 2019.05.01 岡本かの子
岡本かの子 英国メーデーの記—– 岡本かの子 倫敦に於ける五月一日は新聞の所謂「赤」一党のみが辛うじてメーデーを維持する。 それさへ華やかに趣向を凝らし警戒の巡査と諧謔を交しながらの祝賀気分だ。われわれが世界共通のものとしてメーデーを概念してゐるところの合成人間の危険性を内包した黙圧... 2019.05.01 岡本かの子