その人にまた逢《あ》ふまでは、とても重苦しくて気骨《きぼね》の折れる人、もう滅多《めった》には逢ふまいと思ひます。さう思へばさば/\して別の事もなく普通の月日に戻り、毎日三時のお茶うけも待遠しいくらゐ待兼《まちか》ねて頂きます。人間の寿命に相応《ふさ》はしい、嫁入り、子育て、老先《おいさき》の段取りなぞ地道に考へてもそれを別に年寄り染みた老け込みやうとは自分でも覚えません。縫針の針孔《めど》に糸はたやすく通ります。畳ざはりが素足の裏にさら/\と気持よく触れます。黄菊《きぎく》などを買つて来て花器に活《い》けます。
その人にまた逢ふときには、何だか予感といふやうなものがございます。ふと、たゞこれだけの月日、たゞこれだけの自分ではといふやうな不満が覚えられて莫迦々々《ばかばか》しい気持になりかけます。けれども思へばその気持もまた莫迦らしく、かうして互ひ違ひに胸に浮ぶことを打ち消すさまは、ちやうど闇の夜空のネオンでせうか。見るうちに「赤の小粒」と出たり、見るうちに「仁丹」と出たり、せはしないことです。するうち屹度《きっと》その人に逢《あ》ふ機会が出て来るのでございます。
出がけのときは、やれ/\、また重苦しく気骨の折れることと、うんざり致します。逢つて見る眼には思ひの外《ほか》、あつさりして白いものゝ感じの人でございます。たゞそれに濡《ぬ》れ濡れした淡い青味の感じが梨《なし》の花片《はなびら》のやうに色をさしてるのが私にはきつと邪魔になるのでございませう。
その人は体格のよい身体をしやんと立てゝ椅子《いす》に腰をかけ、右|膝《ひざ》を折り曲げてゐます、いつも何だか判らない楽器をその上に乗せて、奏でてゐます。普通には殆《ほとん》ど聞えません。私は母から届けるやう頼まれた仕立ものを差出します。その人は目礼《もくれい》して受取つて傍の机の上に置きます。そして手で指図《さしず》して私をちやうどその人の真向うの椅子に掛けさせて、また楽器を奏で続けます。その人は何も言ひません。細眼にした間から穏かな瞳をしづかに私の胸の辺に投げて楽器を奏でます。私の不思議な苦しみはこれから起ります。
その人の中には確《たしか》に自分も融け込まねばならぬ川が流れてゐる。それをだん/\迫つて感じ出すのです。けれどもその人は模造の革で慥《こしら》へて、その表面にヱナメルを塗り、指で弾《はじ》くとぱか/\と味気ない音のする皮膚で以て急に鎧《よろ》はれ出した気がするのです。私の魂はどこか入口はないかとその人の身体のまはりを探し歩くやうです。苦しく切ない稲妻《いなずま》がもぬけの私の身体の中を駆け廻り、ところ/″\皮膚を徹して無理な放電をするから痛い粟粒《あわつぶ》が立ちます。戸惑《とまど》つた私の魂はとき/″\その人の唇とか額《ひたい》とかに向つても打ち当つて行くやうです。アーク燈に弾ね返される夜の蝉《せみ》のやうに私の魂は滑り落ちてはにじむ[#「にじむ」に傍点]やうな声で鳴くやうです。
私は苦しみに堪へ兼ねて必死と両手を組み合せ、わけの判らない哀願の言葉を口の中で咏《つぶや》きます。けれどもその人は相変らず身体をしやんと立て、細い眼の間から穏かな瞳を私の胸に投げたまゝ殆《ほとん》ど音の聞えぬ楽器を奏でてゐます。私の魂は最後に、その人の胸元に向つて牙《きば》を立てます。噛《か》み破ります。
ふと、気がつくと、私は首尾よくその人の中に飛び込めて、川に融け合つたやうです。川はもう見えません。私自身が川になつたのでせうか。何だか私には逞《たく》ましい力が漲《みなぎ》り、野のどこへでも好き放題に流れて行けさうです。明るくて強い匂ひが衝《つ》き上げるやうな野です。もう私の考へには嫁入り苦労も老先《おいさ》きもないのです。
いま男の誰でもが私に触つたら、ぢりゝと焼け失せて灰になりませう。そのことを誰でも男たちに知らせたいです。だのにその人は、もとの儘《まま》、しづかに楽器を奏でてゐます。ただ今度の私は、大仏の中に入つた見物人のやうに、その人を内側から眺めるだけです。楽器の音が初めて高く聞えます。それは水の瀬々らぎのやうな楽しい音です。私はそこからまた再びもとの自分に戻るのには、また一苦労です。海山の寂しさを越えねばなりません。
しかし私に取つてかういふ奇蹟《きせき》的な存在の人が、世間では私の母の廉《やす》い仕立ものゝお得意さまであつて、現在、製菓会社の下級社員で、毎日ビスケツトを市中に届けて歩き、月給金○○円の方であるとは、どうにも合点《がてん》がゆきませんです。
底本:「日本幻想文学集成10 岡本かの子」国書刊行会
1992(平成4)年1月23日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
1974(昭和49)年発行
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:湯地光弘
2004年5月11日作成
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