しばらく芝生の堤が眼の高さでつづいた。波のように高低を描いていく平原のその堤の上にいちめん真紅のひな罌粟《げし》が連続している。正午にウイーンを立ってから、三時間あまりにもなる初夏のハンガリヤの野は、見わたす限りこのような野生のひな罌粟の紅《くれない》に染まり、真昼の車窓に映り合うどの顔も、ほの明るく匂《にお》いさざめくように見えた。堤のすぐ向うにダニューブ河が流れていて、その低まるたびに、罌粟の波頭の間から碧《あお》い水面が断続して顕《あらわ》れる。初めは疎《まば》らに点点としていた罌粟も、それが肥え太ったり痩《や》せたりしながら、およそ一時間もつづいたと思うころ、次第に密集して襲い来た、果しない真紅のこの大群団であった。梶《かじ》はやがて着くブダペストのことを、人人がダニューブの女王といってきたことをふと思い出した。多分、ウイーンの方からこうしてきた旅人らは、このあたりの紅の波により添って流れるこの河水を眺《なが》め、自然に口からのぼった言葉だろう。こんな風景は欧洲のどこにも見なれなかった眺望《ちょうぼう》だった。自分を乗せた車の下の、レールの中までこの罌粟は生《お》い茂っているかもしれないと彼は思った。そして、暫《しばら》くはひとりぼんやりと見るには惜しくなって知人の誰彼の顔も浮んで消えたりするのだった。
彼はまた幼いころ日本でよく歌ったことのある、ダニューブの漣《さざなみ》という唱歌を思い出しもした。そのころは、自分がハーモニカを吹き、姉がヴァイオリンを弾《ひ》いて伴《とも》に愉《たのし》んだある夏の夕暮だったが、いま姉も一緒につれてここをこうして旅したなら、どんなことを姉は云い出すだろうと空想したりした。この空想は梶には非常に愉しかった。汽車の音を聞いていても、車輪の廻転していく音響がいつか少年のころのその歌に変って来たりして、河水の碧く白く日を浴びてどこまでも連っていくあたりの野の中が、
「タアン、タ、タタタン、タアンタ、タアン」
と、このような調子の歌となり、梶はしばらくそのメロディを胸中ひとり弄《もてあそ》んでみているうち、実地にそこを走っている自分のことをもう忘れた。それはちょうど、遠い流れの向うから聞えて来る草笛の音のような、甘酸っぱい感傷の情のおもむきで、ひたひたと身に迫って来る水に似た愁《うれ》いさえ伴うのだった。またこのような幼い歌の蘇《よみがえ》って来たのは、欧洲では、やはりここだけだったと思った。一つは彼は、このハンガリヤについてはそれ以外の狂躁曲《きょうそうきょく》より何も知らぬ白紙の状態で、却《かえ》ってそれが彼の曇りを拭《ふ》き払っていたのかもしれぬ。もし行くさきの野の中に、ひな罌粟と河の他《ほか》何もなくとも、これで来てみただけのことはあったと思った。
ブダペストへ着いたときは四時すぎであった。罌粟の他は山一つ見えなかった原野の中に、百数十万の近代都市がただ一つ結晶している外貌《がいぼう》の印象は、ホテルの自分の部屋へ着いてからも、まだ梶の頭から離れなかった。駅からすぐホテルへ来るまでの道に、太い街路樹の多く見えたのが先《ま》ず彼を歓《よろこ》ばしたが、それより案内された自分の部屋が何より彼の気に入った。三十畳敷もある大きな部屋で、真赤な絨氈《じゅうたん》の上に、大きな二人寝の彫刻のある麗しい寝台が二台も置いてあって、それとはまた別に休息用の寝椅子もあり、浴室も附いていた。それは特別高価な部屋でもないに拘《かかわ》らず、一瞥《いちべつ》しても、先ず梶には贅沢《ぜいたく》にすぎた豪華なものだった。高さも彼の所は適当な三階で、窓からすぐ真下の道路を傍《そば》のダニューブ河が流れていた。
しかし、残念なことに梶はこのとき、続いた汽車旅で疲労が激しかった。それに来てみたものの、一人の知人さえいるわけではなく、どこに何があるかも分らず、言葉も知らなければこの地の歴史さえ不案内だった。蒙古《もうこ》のことをモンゴロワといい、モンゴロワをフォンゴロワと読み、フォンゴロワをファンガラワ、それをまた転じてハンガリヤと化して来ている唇《くちびる》の作用から考えると、あるいはここもまた、十二世紀以来東洋の草原の英雄が、黄旗を押し立てて流れ襲って来たところかもしれなかったが、見たところ、通って来た街のここかしこの人人の様子も、どこも西洋と変らなかった。
彼は旅装を解くとすぐ寝台に横になり、疲労の恢復《かいふく》に努めることにした。そうしているときも、彼が東京を発《た》つとき、パリからここへ来たことのある医者の友人が、
「とにかく、あなたはハンガリヤへだけは、ぜひ行って来なさいよ。あそこは良い」
とそう云ったことを思い出したりして、疲れの溜《たま》った背中の痛みの容易に去りそうもないのがまどろかしく感じた。
「良いというと?」
と梶はそのときまた医者に訊《たず》ね返したのも、彼のそう云う表情には、歓喜の情ともいうべき思わず閃《ひら》めく美しいものが発したからだった。
「いや、あそこほど美人の多いところはない。それに日本人のもてること、もてること、もう滅茶苦茶にもてる」
医者はこう特別に強い表現で云ってまだ何か足らぬらしく、深く顎《あご》を胸へつけ、なお思い出の深い感動を顕《あらわ》そうとしかけたところへ、突然他の知人が傍へよって来て、まったく別の話をし始めたので、梶と医者とのハンガリヤに関する話は、そのままに立ち消えになってしまったことがある。
梶は寝ながらも今こそ医者の、顎を胸へ埋めようとした刹那《せつな》の表情を思うと、途中の車窓から見えた群がる真紅のひな罌粟が眼に浮び、あの花の中から何が出て来るのかと、多少の好奇心もまた覚えた。またこの友人の医者とは別の人人たちにも、梶はパリでハンガリヤのことについて尋ねてもみたが、みな同様に、
「あそこは良いということだが」
とただそう云うだけで、行ってみたという日本人は一人もなかった。しかし、日本人がひどくそこでは好かれるということについては誰もが異口同音で、自分も行きたいと洩したことに違いのなかったことも確かだった。それも、梶はいつの間にか今そこに自分がいるのだった。梶は西洋を廻ってみて、世界の内容はどこも変らず損得の理念に左右されていることをますます明瞭《めいりょう》に感じていたときしも、ここだけは不思議と好き嫌《きら》いで動いている部面が表情にも顕れていて、寝ているときのこうした背中の痛みさえ、そんな気の弛《ゆる》みも手伝っているのかもしれないと思ったりした。しかし、ここは通って来た道すじを考えただけでもあまりに遠ざかった感じだった。実にはるかな遠くに日本が見えて寂しかった。
夕食まで彼はひと眠りしたいと思っているとき、ノックの音がした。梶はホテルの者だろうと思って黙っていると、肥満した赧顔《あからがお》の男が一人勝手に這入《はい》って来た。片手に自分の帽子を持ってにこにこしながら傍まで来てから、男はサーカスの使い手のように両手を大きく翼形に開き、片膝《かたひざ》をつく姿勢で最敬礼を一度した。見たところ、大学の教授のような品威のある堂堂とした紳士である。梶も怪しみを感じなかったが、疲労の折のこととて半身を起すのも物うく、見ているままの容子《ようす》であった。
「旅のお疲《つかれ》のところを、お伺いいたします御無礼をお赦《ゆる》し下さい」
と、この紳士は、少し飜訳《ほんやく》口調の嫌《きら》いあるとはいえ、先ずそんなに間違いのない日本語で梶に詫《わ》びてから、ヨハンというハンガリヤ名の名刺を出した。
「私はこのホテルのものではございません、日本語の勉強のため通訳といたしまして、あなたさま御滞在中の御便宜をお取りはからいいたす考えのものであります。何卒《なにとぞ》、御用お命じ下さいますなら、私ども幸いと存じるものでございます。当ホテルを本日訪問いたしますれば、あなたさまの御来訪を教えられましたにつきまして、出張いたしました。お宜《よろ》しければ、本日の午後五時半に再びここへまかり出ますから、それまで御用意下さいますなら、私の光栄でございます」
紳士は手紙の文句を読むような調子ですらすらと述べ終ってから、暫く直立不動の姿勢で彼を見ていた。敬語の使用が少し怪しく響き、舌の廻りかねたふしぶしもあったが、久しぶりに聞く日本語のこととて梶も異様な興味をもって、すぐヨハンの案内をこちらからも申し込んだ。ヨハンは梶の疲れを察したものか、また這入って来たときのような敬礼の仕方で、廻れ右をすると、そのまますぐ外へ出ていった。梶はどこの国の街へ降りてもまだ案内人を自分から依頼したことがなかった。そして、万事ただ一人で行動していたため、この度《たび》のヨハンの不意の出現は却って不自由ささえ覚えたが、そこにハンガリヤらしい愛情のひそみあるものも感じ、不審を起さず一切彼のいうままに随《したが》って見ようと決めてから、再び寝台に身を倒した。しかし、考えてみると、まだ案内の値も訊《き》き質《ただ》さなかった落度が自分にあった。そこに多少の不安さも感じられたが、とにかく、相手はハンガリヤ人である上に、珍しく日本語を解している人物だという点でも、疑ってはならぬ貴重な人だと梶は思った。
この夜ヨハンの案内してくれた場所は料亭で、食事をしてから後に、最少は五歳、最年長は二十歳の二十数人からなるジプシイ楽団のヴァイオリンを聴《き》いた。この楽団はみな暗譜で自由な絃《げん》の動きが感じられた。生れたときからの生活そのものがヴァイオリンの弓から始まるとの事で、韻律も流れのままに荒野を生活してゆく、奔放幻怪なおもむきは強烈なものだった。案内はそれで終ったが、それはむしろ、ヨハンの好意ある案内だったといって良かった。梶はその日の早い帰りで翌日疲労を恢復した。そして、予定の五日間の滞在中は、自分からヨハンの案内料を訊ねないことにしようといよいよ決めた。
次ぎの日の午後三時にヨハンが来た。梶はこのときはもう、二人で観に行く先のことに興味を感じるよりも、自分を引き廻して行くこのヨハンの方に興味を覚え始めたといって良い。二人はダニューブ河中にある島の料亭で夕食をすることにした。これもヨハンの考えであった。料亭は緑樹に包まれた公園の中で食事は野天である。葵《あおい》の一種のゲラニヤが真紅の花をもり咲かせた夕暮の美しさは、河波の上に迫って来る薄明の思いにもさし映り、梶はふと過ぎて来た空が慕わしく、胸に溢《あふ》れて来るのを感じた。花の紅さが空と水とに沁《し》みにじみ、水面に眼をつけてはるか遠くを仰ぐような哀愁だった。
食事をすませると、ヨハンは行く先の註文《ちゅうもん》をしない梶に困惑したものか、またホテルへ連れて帰った。彼の部屋の下の道から、ヴァイオリンの音締《ねじ》めの音がときどき洩《も》れて来た。梶はヨハンと二人でソファに凭《よ》って話をしているとき、ダニューブの真向いの岸に月が出て来た。波が白く部屋に対《むか》って線を引き細かい網目の綾《あや》をひろげているのが、長く月を忘れていた彼には思いもうけぬ慰みとなった。
「もう始まりますよ」
とヨハンがその時云った。
「何がです」と梶は訊ね返した。
ヨハンは音楽だと答えた。なるほど、部屋の下の道から、月の出るのを待ち構えていたのであろう。ダニューブの漣《さざなみ》の曲の合奏が始まった。彼はヴァイオリンの音を聞きながら、ヨハンの案内の仕方も手の込んだ劇を見せる変化に苦心を払っているのだと呑み込めた。漣の曲は対岸にある王宮の上から、月の高くのぼってゆくのに随って、次第に高潮し麗しさを加えていった。
「あれを弾《ひ》いているのはジプシイたちですが、あの中でも一番の名手らです」
とヨハンは説明した。音色に滴《したた》るような弾力があり脹《ふく》らみがあった。譜も見ず、ゆらめき出て来た月の真下で、彼等は露天にそれを仰ぎさざめく波に合せつつ弾くのだった。ヨハンは又ジプシイのこの仲間らが季節のまにまに、ヨーロッパの各地を流れ廻ってゆく生涯のことを話し、他の一切のことを考えず、ヴァイオリンのみを抱きかかえて死んで行く、彼等の宿命の愁《うれ》いや歓《よろこ》びを話したりした。
「あれらは音楽そのものですよ。本格のものもやれるのですが、やはり譜にあまり捉《とら》われてはおりません。そんなもの面白くないのでありましょう」
「ここの市民権もないのですね」
「ありません。日本語では何といいますか。渡り鳥、そう、あれです」
ヨハンの云うことは、ここしばらく渡り鳥の生活をしている彼には、特につよく胸に滲《し》みとおる語感でさみしく迫った。ダニューブの漣が終ると次ぎに、彼のまだ聞いたこともない悲調な楽器の音が流れて来た。
ヨハンはすぐ、
「あれはタローガッタといって、ハンガリヤ独特の木の楽器です。やっているものもこの国第一等の人です」と説明した。
窓から彼は下を覗《のぞ》いて見ると、真黒な尺八の形で裾《すそ》の方がやや開き加減の、クラリネットに似たものだった。
そのタローガッタの音は、初めは荒野をさまよう生活の音のようだったが、それが漸次《ぜんじ》に地にひれ伏す呻《うめ》きのように陰に籠《こも》り、太い遠吠《とおぼ》えの底おもくうねる波となり、草叢《くさむら》を震わせる絶え絶えな哀音に変ったかと思うと、押し襲ってくる雲霞《うんか》の大群のふくれ雪崩《なだ》れるような壮大な音になった。そうして断《き》れることもなく続く間にも、波うつ地表の果てもない変化が彼の頭に泛《うか》んで来るのだった。
「それでは、明日の午後、二時にまた参ります」とヨハンは急に云って音楽の途中で帰っていった。
部屋で彼ひとりにこのダニューブの月出の情緒を味《あじわ》いさせたいヨハンの、心の籠った引き上げ方だった。ひとりになってからも梶は、広すぎる二人寝台の、それも二台も連ったその一つの片隅《かたすみ》にこっそりと寝た。そして、また窓の下の音楽を聴いていたが、タローガッタはなお熄《やす》む様子もなく河の上に射す月の光に応じた。それは千里に連る原野の秘めた歴史のようであった。高鳴りひびく音が旗を巻き、崩《くず》れ散り、怨《うら》みこもる低音部の苦しみ悵快《ちょうおう》とした身もだえになると、その音は寝ている梶の腸《はらわた》にしみわたった。
翌日はまたヨハンは約束の時間に顕れた。この日は昼の間街の名所や旧跡を廻った。案内しながら話すヨハンは驚くべき記憶力と彼の博学さを少しずつ謙遜《けんそん》に示し始めて来るのだった。また彼は大学で日本語を教えていること、日本へは一度も行ったことはないが、好きなため一人で日本語の勉強を始めたことなどを梶の尋ねるままに話した。街中で出会う知人たちもヨハンに示す挨拶《あいさつ》は、尊敬をふかく顕しているのを梶はしばしば目撃した。このヨハンに重ねて梶があなたはどの国の言語に一番熟達しているのかと尋ねてみると、自分は英語だと答えた。そして、
「わたくしはイギリス人の案内役もときどき頼まれますが、これは拒《こと》わっております」
と、どうしたものか、ここだけ顔を赧《あか》くし、幾らか憤然とした語調をこめて云った。またダニューブの橋を渡るとき、ここではこの河を何と呼ぶのかと梶が質問したのに対して、ドユナと短く呼ぶとも教えた。
「この河はダニューブ、ドノウ、ドナウレスク、ドユナ、それぞれ読み方がありますが、むかしからドユナでもこの地が一番好かれますために、各民族から取り合いが激しかったところです。温泉もここだけで百二十もあります」
こう云ってからヨハンは、橋の袂《たもと》に蹲《うずくま》っている大きな獅子《しし》の彫刻を指差し、この口を開けた獅子に舌のないことを云ってから、橋の開通式に見物が押しかけたとき、
「みなのものはこの獅子には舌がないと云って、笑いました。そうしますと、その彫刻家は自殺しました」
と話した。ヨハンの口調は童話じみた明るい単純な響きをもっていたので、梶も思わず笑い出した。が、その明るさの下に抱いた底知れぬ話の淵《ふち》を覗《のぞ》くと、何かあるぞっとした恐怖を覚え、
「どうして自殺したのです」
と愚かな質問をしてしまった。
「どうしてでありましょうか」
とヨハンはでっぷりした腹部を揺《ゆす》りつつ、赧顔《あからがお》をなおからからと笑わせて一人先に橋を渡っていくのだった。
そのヨハンの謎《なぞ》めく豪快な笑い声と、舌を落した間のぬけた感じの獅子との対象が、何となく梶には痛快な人間|諷刺《ふうし》の絵を見ている思いで、幾度も振り向き獅子の傍から去りがたかった。
その日は王宮や古代建築を見て廻ってから、梶は不足になった金を補いたく銀行へより路《みち》した。そして、この地で入用なだけをヨハンの云うまま預金の中から出して貰うとき、不覚なことにも、日本を出発に際して銀行員の記入した紀元年数に、一年の間違いあることを指摘された。預金帳を見ると、なるほど明らかに誤記してあった。ヨハンは何事かこの地の銀行員と暫く話していてから梶に対《むか》い、
「この期日の間違いには、銀行として応じるわけには不可《いか》ないそうでありますが、あなたは日本の方ですから、特にこの度《た》びは、規則を破ってお払いすると、云いました」
とそう云って、所用のハンガリヤ紙幣を梶にわたしてくれた。梶はふかくその銀行員の好意に感謝し銀行を出た。しかし、彼は歩きながらも、日本の銀行員の落度と、それに気附かずハンガリヤで指摘された自分の二つの落度が、忽《たちま》ち諷刺の爪《つめ》をむき立てた獅子に追われるようで暫く不愉快になるのだった。
「みなのものは、この獅子には舌がないと云って、笑いました。そうしますと、その彫刻家は自殺しました」
自分がその獅子か彫刻家か、しかし、どちらにしても、実に梶には恐るべき童話になるのだった。特に自分の国に好意をよせ、出すべき舌を隠していてくれる場所であるだけになお彼にはこの罌粟《けし》の中の都会が恐るべきものに見えて来た。
その夜、ヨハンは食事のとき、また昨夕とは違った料亭へ梶をつれて行って、そして云った。
「この家の料理はこの国で一等です。ハンガリヤ料理です」
三日目に、ようやく彼はこの国の最上の料理を梶に食べさせてくれるわけだった。ここでも島の中の料亭と同じく庭の中の野天の食事だったが、別れた客席のそれぞれが、花や蕾《つぼみ》をつけた自然の蔓薔薇《つるばら》の垣根《かきね》からなる部屋で、隣席が葉に遮《さえぎ》られて見えず、どの客も中央の楽団から演奏されて来る音楽だけを愉《たの》しむ風になっていた。
「いかがですか、ここの料理は?」
ヨハンは梶からここだけ答えを聞きたいらしかった。料理はダニューブの魚と野菜に独特な美味なものがあったが、味はどれも味噌《みそ》に似たマヨネーズで統一をつけてあるためか、梶には少し単調にすぎて塩辛《しおから》かった。原野の強烈な色彩の中で育った調味法は、塩を利《き》かす工夫に向けられるのも、自然な生理であろうと梶はのべたが、実は、料亭そのものの方がはるかに美しく、音楽もウイーン風の庭に似合わしいのが、爽爽《すがすが》しい気持ちだった。
「今夜はひとつ、踊場を御案内いたしましょう」とヨハンは、料亭を出たとき珍らしく梶に云った。
その踊場もこの国では一等のところだとまた彼は話し、一度ホテルへ戻ってから時間を待って、二人はある家の門をくぐっていった。中は奥深い劇場に似ていた。中央のホールを囲む客席のボックスも、全面が真赤な天鵞絨《びろうど》で張り廻《めぐら》された、一国の首都には適当な設備の完備した豪華なものだった。
集っている踊子らもここのは数多く揃《そろ》ってみな美しかった。中でも一人|際立《きわだ》った若さで、眼の異様に大きく光る子が、もう相当に見えていた各国の旅客たちの的らしかった。梶はかち合う客らが尾を曳《ひ》いてその子の後を追う露骨さが面白かった。踊りの合い間には、どこの国でも同様の流しの芸人たちが、時間を決めて廻って来ると、ボーカル、手品と退屈の暇もなく時間はたつのだった。バンドもここのは緩急の調子も良かった。その中に、伯爵の放蕩《ほうとう》息子だという若者が一人混っていて、おどけた表情でバンド一座の采配《さいはい》を振っており、その様子がいかにも粋人のなれの果てと云いたい枯れた手腕を発揮していた。ホールの客の興奮が次第に昂《たか》まりのぼって熱して来たとき、突如として外から一団の娘たちが繰り込んで来た。そして、ホールの人人のサッと裂け開いた中へ流れ込むと、時を移さず急調子に鳴りひびいたバンドに合せ、踊り撥《は》ねる小鹿の群れのような新鮮な姿態で踊りつづけた。みな揃いの空色に、黄色な肋骨《ろっこつ》をつけた騎兵の服装で、真赤なズボンに黒い長靴を穿《は》いていた。顔にかかる滴りの飛び散るような鮮かさだった。
「この子らは市の踊子で一番権威を持っているのです。ハンガリヤの踊りです」
と、ヨハンは云った。この十人ほどの踊りはいろいろに変化したが、間を保たせず、閃《ひら》めき変り、飜《ひるがえ》ってゆく調子の連続に訓練のこもった妙味があった。踊子らも選《え》りぬきと見えそれぞれに優劣の差のない、揃った清潔な感じがした。手穢《てあか》の染まぬ若い騎兵の襟首《えりくび》の白さにちらりとほの見える茎色の艶《つや》があった。実に眼醒《めざ》めるばかりの美しさだった。
「なかなか面白い踊りですね」
と梶は見飽きずに云った。ヨハンもそう云われたことが嬉しいらしく、この踊りだけは観賞し直すという風に、
「日本の方が御覧になると、どの子が美しいと思われますか」
と梶に訊ねた。
「そうだなア」
すぐには批評しがたく笑いながら梶はまた眺めた。
「前列の右から三番目の子かな」
揃った肋骨の迅《はや》い動きの中から一人を選ぶのは、難《むずか》しかった。殊《こと》に日本人の観賞の眼も共に選ばれていることも、この博学なヨハンの太った笑いの底にひそんでいた。
ハンガリヤの踊りは溌剌《はつらつ》とした空色の屈曲の連続で終ると、また踊子らは、さっと未練げもなく馳《か》け足で退場した。そうして、一団が梶らの傍を擦り崩《くず》れて走り去ろうとしたとき、ヨハンは急に手を延ばし例の右から三番目の子を呼びとめて手招きした。しかし、何の答えもなくそのまま一団は去ってしまった。ホールは再び客たちの踊りで満たされた。
場中のどの席からも、市づきの踊子を呼ぶもののないときに、梶ひとりの席が呼びとめたその異例に、彼は顔の赧らむ思いもつよく不満だった。それも招きに応じて来たものならまだしも、振り向きもせぬ寂しさを味《あじわ》うのは、沁み入る異境の果ての心細さに変るのだった。梶は今日はたびたびの不覚だったと思い、ヨハンの立ち上るのを待ちかねながら、所在もなく、今度は眼の大きな踊子の後を追いつづける旅客たちの、乱れる様を眺めているばかりだった。
「さっきの子らは、客席へはどこへも来ないのですよ」
とヨハンは、梶のさみしむ心を嗅《か》いだと見え、暫くしてからそう彼に説明した。
「来ないのに呼んだのですか」と彼は笑って訊ねた。
「この席へなら来ます」
「しかし、呼んだのは僕らだけじゃありませんか」と彼は少し不服も出た。
「もう来ることでしょう」
と、ヨハンはそこが外人のこととて、日本語の遣《や》り取りの機微も分らぬらしく、至極のどかなものだった。梶には、このヨハンの大きな顔は舌のないハンガリヤの獅子に似て見えた。そしてこの席へなら踊子の来るという意味は、このホールに限り来るという意味か、それとも、日本人専門の客を扱うヨハンの席へは必ず来るという意味か、そこが梶には分らなかったが、自信をもってそう云う落ちつき払ったヨハンの態度には、明るさが増して来た。もしこのホールに限り日本人以外の所へも来るものなら、他の客たちも呼びとめぬ筈はない、市づきの踊子らの揃った美しさだった。――しかし、梶には、この街に於《お》いてのヨハンの特殊な地位を考えぬ以上は、まだそこに呑み込めぬものが残って来た。ヨハンの人品、彼の学殖、そして、彼の通るときに知人の彼へ示す挨拶の仕方などを察するとき、梶には、ヨハンがただ者でない名を秘めた人物だということだけは早くから感じられた。また、舌のない獅子の諷刺を橋畔で示したさいにも、彼のあげたあの豪快な謎めく笑いには、際立った智量の人物が覗いていて、凡人の案内人に出来る芸当ではなかったと彼は思った。実際、この遠くへだたったハンガリヤの地で、独学で難事な日本語の勉強にいそしむためには、彼のように、こうして来る日本の旅客を捉《つかま》え、案内役を引き受ける以外に方法はないであろうと察せられる。
暫くしたときヨハンの自信は当った。そして、三番目が騎兵の服を常服に着替えて一人表の方から来ると、彼の傍へやって来た。
「この子でしょう。あなたの仰言《おっしゃ》ったのは」
とヨハンは踊子を彼の傍に坐らせて訊《たず》ねた。そうだと梶は答えるにも、跳《は》ねる騎兵の服のときとは違って静な常服の姿のためか、一見、それがそうだったのかどうか、箱の中では判明しがたい娘の変り方である。しかし、梶は何か話そうにも話がまるで通じなかった。先ずこの娘の好きな食物と飲物を取りよせてみたものの、日本の娘とよく似た淑《しと》やかな羞恥《しゅうち》を浮べ、ヨハンが何か訊ねても短い答えを云うだけだった。料理にも口をつけず、斜め対《むか》いに梶と坐っているだけで、ホールに舞い立って来ている情熱的な興奮のさ中では、彼女はむしろ、舞い落ちて来た一輪の静寂な故郷の花の色かと見え、一層深く梶は郷愁を覚えて来るのだった。
「何という名?」
梶の訊ねたのに対してヨハンが代りに、
「イレーネ」と答えた。
イレーネはヨハンにまた何か囁《ささや》くと、ヨハンはそれをまた梶に通じて、
「この子はあなたのネクタイを、いいネクタイだと賞めていますよ」と云った。
それでは君が結婚するとき、その愛人にやるネクタイを、もしこれと同じにする気があるならパリから一つ送ろうと梶は冗談を云ってみた。
ヨハンはそれをまたイレーネに告げてから、再び笑いながら、あなたに接吻をしなさいと今云ったのですよ、と梶に云った。イレーネは云われたごとくおそるおそる、梶の方へ身をよせかけて来て、そして、彼の右の頬《ほお》に唇《くちびる》を軽くつけ、ぽっと赧《あか》くなったと思うと、両手で顔を蔽《おお》って俯向《うつむ》いてしまった。
「この人は日本の娘そっくりだなあ」
と梶は笑った。そのとき、渦巻いているホールの賑やかさの中から、バンドの喇叭手《らっぱしゅ》がただ一人、濡《ぬ》れた唇に輪形をつけしきりと梶の方を向き向き、喇叭を吹いたり止めたりした。
「あっ、あの喇叭はこの子を愛しているな」
と梶は頬杖《ほおづえ》つきながら思わず洩《もら》した。すると、ヨハンはまたすぐその喇叭手を手招ぎした。喇叭は楽器を椅子の上へ置き残したまま席へ来ると、ヨハンは彼にまた梶の洩したことを話してみたらしく、
「やはりあなたの云われたようでした」
そう云って笑った。ホールはますます高潮して来た。いつの間にか踊る客らの数も増して来ていて、いっぱいにさざめき廻る渦は乱舞に近く、梶はハンガリヤ狂躁曲《きょうそうきょく》もこうした興奮の旅情から描かれたものかもしれないと思ったりした。そのうち、餅《もち》の殻が各席に配られると、客らはそれを手ん手に掴《つか》みあたり介意《かま》わず投げつけ合った。それまで静にしていたヨハンも大きな体を乗り出させて、ホールの渦を目がけて手あたり次第に投げつけては笑った。その彼の様子には、大学校教授の少年の日の腕白さがふと丸出しに顔を出し、梶も愉快で餅殻をヨハンと一緒に投げつけるのだった。
「もっとやりなさい。もっと」
と、ヨハンは餅殻をかき集めては彼にすすめて立ち上った。遠くで殻を巧みに受けとめた客は、それをまた投げ返したり、爆《はじ》け散り飛ぶ中で身を竦《すく》めたりした。
このような喧騒《けんそう》を極《きわ》めた中でも、彼の箱の一隅で、喇叭はイレーネの肩に手をかけ、何事か一心不乱のさまで彼女の耳にかき口説《くど》いてやまなかった。喇叭の腕に巻きつかれた中で、じっと竦んだまま首垂《うなだ》れてゆくイレーネの首の白さを眼にしながら、彼は寂しさを感じた。そして今度は眼の大きな踊子に狙《ねら》いをつけ餅殻を投げてみるのだった。その子の体は、周囲から飛び来る弾の集中射撃を浴びていて、身を飜す暇もなく、絶えず肩に胴に餅殻は爆けつづけていた。ぴしゃっと頬にあたったときは悲鳴をあげたが、すぐまた反対の側から同様のを続けて喰《くら》うと出かかった悲鳴も声にはならず、もう不貞不貞《ふてぶて》しい覚悟でさらに飛び散る弾の中を踊り潜《くぐ》ってゆくのだった。
「あの子|可哀想《かわいそう》に、やられてばかりだなア」
梶は投げつけようとしていた餅もやめにして云った。
「どの子です」
「あの子」
おいおい、と云う風にすぐまたヨハンは、眼の大きなその踊子を手招きした。この踊子も小趨《こばし》りに彼らの箱へ来ると、これはイレーネとは違い、いきなり真近く梶の傍へぴたりと擦《す》りよって来て、じっと彼の顔を正面から瞶《みつ》めた。傍で見ると、その眼はあまり大きく却って表情が分らなかった。爛爛《らんらん》と光り輝く眼で、今にも飛びかかって来そうな底知れぬ黒さだった。
梶は場中の華形ばかりをよせ集めた絢爛《けんらん》さに取り囲まれ、いつの間にか、各席の視線を吸いとっている自分が不思議だった。
「これはアンナと云う名ですが、ホテルはブリストルかと訊《き》いていますよ」
とヨハンは暫くして彼に云った。そうだと彼が答えると、アンナは何事かまたヨハンに云った。
「この子はあなたに、今夜これからホテルヘ連れて行けって云いますよ」
これには梶も即答に窮した。どうしたことか、日ごろの不粋がはたと途惑いしたようだったが、またそんなことでもない、傍にいるイレーネへの義理が、それだけは今夜は駄目だと抑えかかり彼を苦しく笑わせるのみだった。すると、アンナはヨハンを介せず、もどかしそうに梶の耳もとへ直接口をよせて来て、
「You are beautiful.」
とひと言囁いた。彼には、まことに思いもうけぬ囁きであった。このような言葉を、彼は今まで半生まだ聞いたことがかつてなかった。おそらく、アンナの知っている英語のうち、彼に与えて通じそうなただ一言の華《はな》むけであったろうが、しかし、この遠い異国の果てで、まだ誰からも貰《もら》ったことのない言葉をひと言不意に貰おうとは――、梶は、貴い滴りのようにアンナの囁きを素直に胸で受けとめて悔いなかった。イレーネは喇叭にしつこく迫りよられていながらも、ひそかに、ときどき恨みを蒼《あお》く放つ眼で梶の方を睨《にら》んだ。こちらの方はこれで良いと諦《あきら》めていた矢さきの折だっただけに、梶はまだ断ち切れぬ糸も感じて、ふと躓《つまづ》くよろめきに似た思いもするのだった。
アンナには喇叭の囁く意味も聞きとれるものであろうか、さらにイレーネには頓着《とんちゃく》せず梶を揺すぶり流す視線をつづけた。何か擦れかわり入りかわる暖寒の気苦労で、ちょうどホールも最後の湧《わ》き立ちに近づき、崩れようとしているときだった。
「それでは帰りましょう」
とヨハンは巧みな見切りのころ合いを失わず立ち上った。時計を見ると三時を少し過ぎていた。アンナは梶の手を握りながら出口まで二人を送って来たが、ついにイレーネの姿は見えなかった。街には人通りは少なかったが、夜中の三時過ぎだというときに、ここではもう太陽が赤赤と照っていた。
ホテルの前まで来たとき、ヨハンは明日は最後の日だから朝の十一時に来ると云って、二人は別れた。梶は部屋に戻り寝台に横になっても、夜か昼か分らぬ部屋の広さがうるさく眼について眠れなかった。しかし、日本を発《た》つとき、医者の友人が云ったように、日本人が誰もここではあのような眼にいつも逢って来たのであろうかと思うと、この日の自分の事実も自分個人のものとは思えぬ色どりに見えて来た。そして、ここはまだ自分の考え及ばぬ罌粟《けし》の花の中だと思う心も次第につよまって来るのだった。
次ぎの日、梶は眼を醒《さま》すともう十時を過ぎていた。ヨハンは眠むそうな顔で約束の時間に這入《はい》って来た。彼はいつもより笑顔を一層大きく拡げながら、正しいハンガリヤの礼をすませて、そして云った。
「昨夜は面白うございましたね」
「昨夜は、僕も面白かったですよ」
と梶も快活にヨハンに相槌《あいづち》を打つことが出来た。事実、昨夜のことを思うと、あれ以上に愉快なことはまたとあろうかと彼も思った。
「あのイレーネと喇叭ですね。喇叭はイレーネと小学校のときから同級で、そのときから彼女を思っていたのだが、今度初めてそれを云うことが出来て、こんな嬉しいことはないと云っておりました、どうもあの二人は結婚をするかもしれません」
梶はヨハンのそういうことにある真実を感じて嬉しかった。これで一組の縁を結び落してここを去ることは、舞い込んだ蝶《ちょう》のいとなみに自分が見えて愉快だった。
「そうでしたか。それはそれは」と梶は慶《よろこ》びを顕《あらわ》して云った。
二人はホテルを出てから昼食のためある料亭へ立ちよった。ここは梶の滞在中出入した料亭の中では、もっとも大きな料亭だった。おそらくヨーロッパの中でも屈指のものかと思える広広とした壮麗さで、朱色の大天蓋《だいてんがい》を拡げた庭園では薔薇《ばら》の周囲を巻き包み、朝から人人の踊る姿がもう見られた。ヨハンの云うには、この街の官庁はどこも一斉に夜の九時で終ってしまい、それから後はこうして皆は遊ぶのだとの事だった。二人は食事をすますと、温泉場、古跡、発掘場などと、この日の予定は急がしく一日中自動車を走らせつづけた。それに明朝早くヴェニスまで梶の飛ぶ飛行機の約束もしなければならなかったが、郊外のある景勝地帯の茶店では、二人は一番時間を長く費した。そこは眼下に拡がる平原の起伏を一望の中に見渡せる丘上の位置で、梶は軽井沢のグリーンホテルを思い出し、自然に腰もここでは落ちつくのだった。さすがのヨハンも連日の疲労を覚えたと見え、容易に動かぬ梶に応じて彼もまたステッキに身をよせかけ、ともに動こうとしなかった。
どちらもときどき黙りがちになった。緑樹の中を流れるダニューブ河や、杜《もり》や牧場の姿は、照りかげる光の中で麗しく静だった。すると、そのとき、黙っていたヨハンはステッキの曲った把手《とって》から顔を上げて、
「しらゆきはどうしていますか」
と小声で訊ねた。
「しらゆき」梶は何ごとか意味が分らず訊ね返した。
「陛下のお馬」
「ああ」と梶は思わず発して身を伸ばした。純白な姿が何か身を浄《きよ》めるように一瞬彼を撃って来た。しかし、ここでもまた、この罌粟の花に取り包まれた遠いはるかな異国の果ての、ヨハンの口から、突然そのような姿の浮ぶ言葉が出ようとは――ただもう今は不思議な感じだった。梶は大きなヨハンの顔を瞶《みつ》めながら、
「あなたはどうして御存じです」と訊ねた。
「あのお馬は、わたくしがここの牧場でお買いしてさし上げました」
「あなたが」
梶は再びおどろいた。敬語の調子で、「お買いしてさし上げた」ことが、通訳の労をお取り申したという意であることはすぐ察せられたが、しかし、白雪がハンガリヤの産だということは今まで彼も気附かなかったことだった。彼はまたもや自分の顕した手落ちを不意に感じ、今はひそかにヨハンの舌を両手で封じたくもなる複雑な気持ちに襲われた。
「白雪はここでしたか。それは非常な失礼をしました」
すっきりと白く立った馬の鬣《たてがみ》は、しかし、梶のこうして心中|詫《わ》びる気持ちを、いつともなく吸いとり拭《ふ》き浄めて疲れも彼は忘れて来た。も早や疑うことの出来ぬこの目前の事実だった。彼は暫く遠方の空を仰ぎ見る粛然とした思いのまま、この下の牧場で産れ、ここに自分と対っているこのヨハンに通訳の労をとられた白雪だと思うと、一層その姿が親わしく尊とくも思われて来るのだった。またそれがいつか慶《よろこ》ばしい気持ちにも転じて来て、暫くは眼下に静まった牧場を見降ろしながら、さらに思いもうけぬ意味ふかまったこの眺めだと彼は思った。
その夜、梶とヨハンは前夜のように急がしく所所を見て廻った。しかし、自分の前後に絶えずいるヨハンの姿は、ともにまた絶えず白雪の姿をも泛《うか》べて離れなかった。梶はもう一度最後の別れに、アンナとイレーネに逢いたいと思ったが、それさえヨハンにはついに云い出しがたく黙っていた。そうして、二人の自動車がある大通の前まで来かかったとき、ヨハンは右側に連った石造の建物を指差して、
「これはジャパンというカフェーです。ここでは一番のカフェーです」
と梶に告げた。しかし、それをよく見る間もなく車は辷《すべ》っていったとき「これは?」と梶が右側のを訊ねると「これはまだジャパンの続きです」とヨハンは答えた。梶は車の迅《はや》さでその外観の大きさを想像することが出来なかったが、それはもう原語の日本にさえ一つもない立派なことだけは確かだった。彼はひそかに驚くというよりももう黙った。
「あそこはこの国の芸術家が一番行くところです」とまたヨハンは附け加えた。
翌朝の彼の出発は早かった。通りに朝霧のような薄靄《うすもや》がこもっていた。滞在中梶はヨハンに支払うべき案内料を一度も質《ただ》さずにしまったが、五日間の料金は意外に少額ですんだ。彼は他に謝礼を出したいと思うのに、もう残りのハンガリヤ金は少く、財布をは叩《た》いてそれを出そうとすると、ヨハンは記念に日本へこの国の金銭を所持して帰って貰いたいと梶に頼んだ。
飛行場まで送って来てくれたヨハンと別れるときは、梶はその別れが辛《つら》かった。廻り始めたプロペラの音を聞きながら、
「それでは――」
と、差し出す梶の手をしっかり握って振り振り、ヨハンも「さようなら、さようなら」と繰り返した。
ああ、何んと沢山な御馳走が出たものだろう。と梶は思った。空へ舞いのぼって行く機体の窓から下を見降ろしたとき、彼は忘れずイレーネと喇叭の一組の夫婦のことも考えて、
「仲良くしてくれ、仲良く――」
と、そう下に向って帽子を振るのも、またいつかそれはアンナにも振っている帽子に変っていった。
底本:「機械・春は馬車に乗って」新潮文庫、新潮社
1969(昭和44)年8月20日発行
1995(平成7)年4月10日34刷
入力:MAMI
校正:松永正敏
2001年2月10日公開
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