ガルスワーシーの家———- 岡本かの子

 ロンドン市の北郊ハムステットの丘には春も秋もよく太陽が照り渡った。此《こ》の殆《ほと》んど何里四方小丘の起伏する自然公園は青く椀状にくねってロンドン市の北端を抱き取って居る。丘の表面には萱《かや》、えにしだ、野|薔薇《ばら》などが豊かに生い茂り、緻密《ちみつ》な色彩を交ぜ奇矯な枝振りを這《は》わせて丘の隅々までも丹念な絵と素朴な詩とを織り込んで居る。景子のロンドンに於ける仮寓は此の丘の中に在った。
 中秋の或る快晴の日の午後、景子は友人の某大学英文科の助教授宮坂を案内して彼がしきりに逢いたがって居た此の国の文学者ジョン・ガルスワーシー邸を訪ねて行った。
 友人の宮坂は多年の念願が成就する喜びに顔を輝かし丘の小径《こみち》を靴で強く踏みしめながら稚純な勇んだ足どりで先に立って歩いた。ロンドンで曾《か》つて有名だった老女優の隠退後の邸宅が先《ま》ず行手に在る。其の黒く塗られた板塀について曲るとだらだら坂になり、丘の上のメリー皇后の慈善産院の門前へ出た。此処で景子達は一寸《ちょっと》立止まって足を休めた。それから鬱蒼《うっそう》として茂る常磐樹《ときわぎ》の並木を抜けると眼前が急に明るく開けてロンドン市の端《は》ずれを感ぜしめるコンクリートの広い道路が現われる。道路の向う側には市の公園課の設けた細長い瀟洒《しょうしゃ》とした花園が瞳をみはらせる。此の花園は春から夏にかけて、陽に光る逞《たく》ましいにわとこ[#「にわとこ」に傍点]や、細《こ》まかく鋭いおうち[#「おうち」に傍点]の若葉が茂る間にライラックの薄紫の花が漾《ただよ》い、金鎖草の花房が丈高い樹枝に溢れて隣接地帯の白石池から吹き上げる微風にまばゆいばかり金色が揺らめいて居た。今は秋なので紅白、黄紫のダリヤが星のように咲き静まって居る。低い石柱に鉄の鎖を張った外廓に添って其の花園のはずれまで歩くと市街建築の取り付きである二階造りの石灰を塗った古ぼけて小さな乾物屋が在る。其の角を二人は右に切って静かに落ち付いたヴィクトリヤ女王朝前に建てられたという三階建ての家々が立ち並ぶ横丁を歩いて行った。二ツ目の辻の右の角は赤煉瓦の塀で取り囲まれた一劃となって、其の塀越しにすっきりと眼もさめるような白堊《はくあ》の軍艦が浮んで見える。軍艦と見えたのは実は軍艦風に建てられた家屋だ。以前景子は家主と連れ立って此処《ここ》へ初めて来た時、此の軍艦形の建物を発見して子供のように喜んだものだった。其の時家主は景子に話して聞かせた。此の家は、暫らく前に死んだ或る海軍大将の家で、アドミラルハウスと呼ばれて居る。其の大将《アドミラル》は退役後此の軍艦形の家を造って毎日屋上の司令塔に昇り昔の海上生活を偲《しの》んだという話だった。景子は此の話を宮坂にしながら塀に沿って進むと道は頑固な丈の高い鉄柵に突き当り左へ屈曲する。其処《そこ》で景子は其の鉄柵の中の別荘風の建物を指して之《こ》れがガルスワーシーの家だと宮坂に告げた。彼は少しうろたえ気味に停《た》ち止まって暫く門内を眺めて居たが其の家の何んとなく取り付き難い気配いに幾分当惑の色を浮べた。
 此の家は道路に面して鉄柵を張った前庭を置き暗褐色のどっしりした玄関が冷淡に控えて居るが、一寸横へ廻って見ると、この邸内は斜めに奥へ拡がり、四季咲きの紅白の蔓《つる》薔薇に取り囲まれた二百坪ばかりの緑の芝生の裏庭に向う室は軽快なサンルームとなって、通りすがりの男女にちょっと盗見したい気持を起させる。非常に繊細な工夫によって建てられた快適な住居であることがわかる。そしてガルスワーシーがロンドンの汚れた霧|瓦斯《ガス》を遁《のが》れて健康の丘と呼ばれるハムステットに日常人事の受付所として設けた此の邸の表玄関に較べて、ひそやかで而《し》かも華やかな裏庭一帯の感じは、彼が平常多くの時間を過しに行って居る遠く離れた田舎《いなか》の本宅の情景の一部を移し採って来たもののように見える。
 此の邸宅が現わす感じのように典型的の英国人であるガルスワーシーは一見|気難《きむずか》しやのようで実は如才ない苦労人だということがつき合って行くうちに判って来る。景子が英国ペンクラプの会員となって其の主宰者の彼から招待を受けて彼を此の家に訪問して以来、彼は打ち融けて時折り裏庭の亭《あずまや》でお茶の会をして呉れたりした。
 景子は玄関のベルを押した。平素留守番|許《ばか》りさせられて居て、余り動く必要のない為めに肥ったとも思われるような脂肪過多の老女中は玄関の扉を開けて顔を出した。彼女は度々景子を見知って居るのに英国風に改まって景子と同伴者の名前を聴いて引きこんで行く。直ぐ入れ違いにガルスワーシー夫人が現われる。予《あらかじ》め電話で打ち合せがしてあったので待ち受けて居たのであろうにこにこと出迎えた。彼女は日本で言うとそれ者上りのように垢抜《あかぬ》けのした、白ちゃけた感じのする面長の美人で白髪交りの褐色の頭髪を後で手際よくまるめて居る。服装も目立たない黒地がかった普段着のドレスを着て居る。有名な芸術家の妻としての何か特異な姿を待ち望んで居たらしい宮坂は此処でまた一寸不可解な顔をする。夫人の案内で景子達は英国産の樫の木材で内部を組立てた純英国式の応接間へ通った。
 ガルスワーシーは景子達が室へ入るのを待ち兼ねたように閾口《しきいぐち》まで出迎えて握手の手を差し出した。近頃氏の握手には木骨に触れる性の無い堅さを感じる。これは永年の劇《はげ》しい創作的努力と英国紳士としての対外的妥協の生涯から来た全身的疲労の一部だとも考えられる。そして少し光る眼で二人を見おろして居る長身のガルスワーシーは狡猾《こうかつ》と人の好さとを皺《しわ》の目立たぬ面長な顔に好く調和させて、頼母《たのも》しいが油断のならぬ六十歳位の白髪の老紳士だ。ガルスワーシーは東洋人の黒いひたむきな四ツの瞳の鋭い視線をいくらか気弱くそらそうとするように室の中央に在る小さな茶テーブルの向う側の低い椅子に腰かけて少しもの憂げなこごみ加減の長身を横向けにした。応接間は玄関|傍《わ》きの奥へ向って細長い室であった。肝腎の陽射しを受ける南に本棚や壁があって、僅かに奥の方に小窓が在るので其処から入って来る秋の午後の赤茶気た光線は氏の左側を照すのみで、他の部分は――顔も胸も――陰となって向い合った客の景子達だけを明るく照し出した。
 夫人は茶テーブルの上の金縁の紅茶茶碗へ紅茶を注ぐと軽く会釈《えしゃく》して夫の側へ腰を下ろした。此の如何にも物馴れた常識的な客間の状勢は日本の客を受け身にさせ、暫らくガルスワーシーの日本の風物に対する質問等に景子達はただ柔順に受け答えしなければならなかった。やがて助教授宮坂は日本人的のぎこちない真面目な顔付きでガルスワーシーを覗き込むようにしながら氏の近作「銀の匙《さじ》」と「白鳥の歌」に就いて発言しようと口を切った時、玄関へ一団の訪問客の押しかけて来たけはいを感じて言葉を切った。訪問客の一団は丁度ロンドンで開かれたインドに就いての円卓会議の出席者として態々《わざわざ》渡英して来たインド各聯邦の代表者達の秘書の妻君や娘達であることを先刻の肥った老女中の取次ぎが丁寧《ていねい》に伝えて行った。景子達の日本的律義にいくらか窮屈だったらしいガルスワーシー夫妻は急にくつろぎを見付けたように立ち上って、そそくさと玄関へ出かけて行った。二人の日本人は夫妻の其の態度に老英帝国がインド聯邦を保護国として迎える態度を聯想した。賑《にぎ》やかに入って来た客は印度《インド》婦人服独特の優雅で繚乱《りょうらん》な衣裳を頭から被《かぶ》り、裳裾《もすそ》を長く揺曳《ようえい》した一団の印度婦人だった。
 始めその婦人達は先客としての日本の男女を紹介されてちょっと気負いを挫《くじ》かれた形だったが、直き又揃えたような美貌を正面に立ててガルスワーシーに逢えた光栄を得意の英語の大げさな口調でしゃべり始めた。室の入口の両隅に寄せてあった五脚の低い椅子を夫人と女中が茶テーブルの周りに持って来る間に景子達はガルスワーシーの左側へ椅子を寄せて陽射しを自分達の顔から新来の印度女達の面上へ譲る。此の五人の印度女の内で一段|際立《きわだ》って見えるカシミヤ代表の秘書の夫人は細くすんなりとした体に桃色絹のインド服を頭や腕や腰にはめた黄金造りのバンドで締めつけ、同じ色絹のべールを頭から背へかけて居た。足には流石《さすが》に英国風の飾り靴をはいて居たが足頸にも金環をはめて居た。彼女は腰掛けて居ながら亢奮したように絶えず身を動かして体中の金飾りを鳴らした。彼女は身をくねらせて魅惑的なしな[#「しな」に傍点]をしながら大理石の彫刻のような顔の鼻柱に迫る両眼の生々しい輝きに時折り想い詰めた情慾のようなひらめきを見せてべールの間からガルスワーシー夫妻や二人の日本人達を交互に見て癇高《かんだか》い声で言った。
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――私は詩人です。私は三代続いた詩人の家の娘です。私は詩が好きですよ。英国ではイエーツが一番好きで、其の次ぎにはシェリー、キーツが好きです」
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 カシミヤ夫人は景子が期待して居たように同じ東洋人を懐かしいとも言わない。そればかりか其の度合いの取れない飛び上った話の調子に景子達の方が思わず恥かしい気持ちにさせられて黙って居るより外《ほか》仕方がなかった。
 宮坂は始め客達に目を瞠《みは》らせられた物珍らしさが過ぎると、此の不意に現われて際限もなく自分の会談を奪って居る女性達にいらいらした不満を抱き始めたらしかった。彼は印度女達の饒舌の切れ目を待って勇者のような思い切った態度でガルスワーシーに問いかけた。
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――あなたは宗教に就いてどう考えますか?」
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 ガルスワーシーは此のだしぬけの質問に周章《あわ》てて今まで正面の印度女達を見て居た顔を左へ振り向け、もう一度質問を聴き返えしたが少し困ったような顔で言った。
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――宗教ですか? それは大問題ですね。」
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 そして正面の饒舌家の女性群と眼を見合わすと、止むを得ぬはずみのように言った。
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――あなた方はどう御考えですか?」
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 インドの女詩人は順番がやっと来たので勇んで演壇に飛び上ってしゃべり出す弁士のように両眼を輝やかし鞣皮《なめしがわ》細工のような形の宜《よ》い首を前へつき出した。
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――私達はマホメットの宗教を信じ剣を以《も》って邪を払い、詩を以って心を養います」
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 宮坂はまたしても此の高飛車なまぜっかえしのような返答に逢ってちょっと吹き出しそうにしたが、直ぐまたむっとして怒ったような顔をそむけて沈黙した。
 其の時ガルスワーシーは北側の壁の中央に在るマントルピースの上に立てかけてあった小さい額を取り卸《おろ》して来て日本人達に見せた。彼に取っては迷惑千万な宗教問題を得たり賢しと自分に引取って面白くもない自己吹聴を並べたてる回々《マホメット》教徒の女の誇張した恍惚感の説明や排他的な語気は、たとえ相客が表面無礼を感ぜぬように装って居るにしても主人側から見て英国人のサロンの空気をにがにがしくするように思った。ガルスワーシーが突如此の額を卸ろして来て景子達に差出した仕打ちは一つは宗教問題打ち切りの宣告でもあり、一つは印度女への無言の叱責でもあった。其の額にはガルスワーシーが畏敬と如才ない愛想の筆致でもって戯画化されて居た。
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――ミスター・ロウが描いて呉れたんですよ。あのイヴニング・スタンダード紙の。似て居ますか?」
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 流石《さすが》に印度女達は黙ってしまった。そして今までの突飛な高調した態度とは打って変って極めて常識的な地味な女達になってお互いにこそこそ用事の話を始めた。
 此の有名な漫画家の描いた文豪の似顔画はあまり出来のいいものではなかった。臆した堅苦しい写生の上に無理に戯画的のものをつけ加えたちぐはぐの部分が景子達にも判った。
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――すこし老《ふ》けて描いてはございませんか」
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 ガルスワーシーは額を自分の手に引取り見直したのち、
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――左様。そう言えば、そうですね。多分私の苦労した方面をロウ君が捉えたのでしょう」
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 そう言って笑った。
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――此のロウ君はですね、濠洲生れの男でしてね。線と簡単化ということでは沢山東洋的のものを持ってるように思うんですが日本のお方にはどう見えますか。それに此の人の漫画のユニークなところも欧洲人の持前のものと違って消極的な苦《にが》いものがあるのですが、之れも東洋的のものとはお思いになりませんか。ロウ君の仕事なぞから感じさせられますが濠洲に行って居る欧洲人の移民が三代、四代も経つと段々東洋化されて行くようです」
[#ここで字下げ終わり]
 その観察は確かにガルスワーシーが不断から抱懐して居るものに違いない様子だが、それを此の場合に述べる口振りには此の英国文豪が客によって自分の意見の真実を曲げずに而《し》かも客への愛想となる好話題を選み出せる如才ない一面が覗《うかが》われる。
 景子は主人の好意を認めるようにただ「そうです、そうです」と返事した。
 印度女達は咽喉をつめられて声の出せないような重苦しい状態の下に長くは我慢して居なかった。持参したインド土産らしい布地などをガルスワーシー夫人に手渡しながら不平の交った荒っぽい賑やかさを残して客間を引き上げて行った。
 送って玄関まで行ったガルスワーシー夫人が応接間へ帰って来た時、何んとなく取り散らかされたような室内の気配のなかに少し不興気な先客を置くのを恐縮しながら夫妻は裏庭のサンルームの方へ更《あらた》めて二人を案内した。途中夫人の居間らしい褐色に塗られた北側の室と、カーテンを引いた白ペンキ塗りの枠を持つ今|一《ひとつ》の部屋の窓からは内部の模様がわからなかったが食堂らしい南側の室との間の細長い廊下を引き切って、先頭に立ったガルスワーシーが其のいくらか前屈《まえかが》みの長身を横にそらすと景子達は庭の芝生の緑の強い反射に眩《くら》まされて眼をまたたきながらサンルームに出た。勧められた安楽椅子にちょっと手をかけた景子は急に此庭の秋色が見たくなって窓際へ近寄って行った。
 中央の亭の柱にからんで、円錐形の萱葺《かやぶ》き屋根の上へ這い上って居る蔓薔薇は夏から秋に移ると直ぐに寒くなる英国の気候にめげてまばらに紅白の花を残して居たが、其の亭の周りのシンメトリカルに造られた四ツ弧形の花床には紅白黄紫の大輪菊がダリヤかと見えるようなはっきりした花弁をはねて鮮やかに咲き停《とどめ》て居る。景子は思わず嘆声を洩した。
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――日本の菊!」
――日本の菊じゃありませんよ。いくら花の形や色がそっくりでも、英国に咲いてるのは矢張り英国の菊ですよ。香も日本の菊程無いし、葉にもむく毛が無い。全体に日本の菊のようにおっとりした品が無くって徒《いたずら》にパッと開いて居ますね」
[#ここで字下げ終わり]
 宮坂は景子の直ぐ傍へ来て今までの鬱屈を晴らすような明快な声で言い放った。空気と共に花の匂いを一ぱい胸に吸い込むような大きな息もした。その時一たん椅子に坐ったガルスワーシーが二人の話題へはいりに立って来ようとするので二人はあわてて席へ戻った。やっと落ち付いて主客話し合おうとして見たが、応接間で印度の女達から受けたちぐはぐな気持がお互いの頭に、しこって居たのですぐにも打ち融けかねた。窓から入る気まぐれな風が灰皿や花瓶や英国製の純白の磁器を冷たく撫でて、そこらを二三度|匍《は》い廻った。
 ガルスワーシーは立ち上って窓を閉めリョウマチスらしい左の肘《ひじ》を右の手で揉みながらしっかりと座に即《つ》いて最後に取って置きのお愛想をするのだと言わんばかりに自分の言葉に貴重さを響かしてこう言った。
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――失礼ですが私共からあなた方を見ると皆育ち盛りの児《こ》どものように見えますよ。あなたのお国の方には前にも五六人以上お会いして相当年配の方も居られたようですが然《しか》し、やっぱり児どものようなところがあるのです。育ち盛りの………。何でも訊き度がりなさるところなぞも」
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 老文豪が此の言葉を言った時にちらりと皮肉な様子を口元に見せたがすぐその影は消えて再び親切に努める態度に立戻った。
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――それに引きかえ私達の国の人間を御覧なさい。児どもでも老人のようには見えませんか、青いうちに皺の入った瘠地の杏《あんず》のように。別《わ》けて中産階級の児どもは。犬でも鶏でも、どうも私達の国のものは年寄り染みてるらしいのです。困りましたね」
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 いつか新らしく茶を運んで来てまた、夫の傍に坐って居た夫人は此の時ちらりと夫の顔を見た其の瞳にはそれほどまでの話をしなくともと夫を窘《たしな》める様子に見えた。けれども老文豪は信ずるところあるものらしく逆に言葉を強めて言った。
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――一番いけないことは私共英国人の趣味に消極を楽しむという傾向の入って来たことです。それも東洋人の持つような積極的に通ずる徹底した消極趣味というのではたく、五分縮められ、三分縮められて行くことに反抗しながらしかも押し流されて行く、其処に人生の味があるのだと思うようになってしまったことです。退嬰《たいえい》を悲しむうちはまだ脈があります。退嬰を詩に味わうようになったらおしまいです」
[#ここで字下げ終わり]
 景子は此の文豪の著作の「銀の匙」の趣意を想い出した。「銀の匙」を使い切れぬようになっても銀の匙を思い切って投げ捨てられない未練な英国人を頭に浮べた。宮坂はと見ると、思いがけなく、自国を率直に語る文豪の言葉の真実性に内心驚喜し、彼の味到癖《みとうへき》を傾けつくして其の一句一句を蜜のように貪《むさぼ》り吸っている様子だ。
 老夫人はと見るとさぞ渋面作っているであろうと、思いの外、もう峠を越したというふうに晴やかで退屈な顔に戻った。流石に老夫人は夫の習性をよく知っていたのだ。ここまで究極すれば必ず話の筋を救い上げる文豪の心の抑揚をよく知っていたのだ。果してガルスワーシーは言った。
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――だが………」
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 ガルスワーシーはまた立上った。そしてズボンの隠しに両手を入れて思案深い、やや老獪《ろうかい》な態度で室内を漫歩しながら続けた。
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――だが、私共はいくつでもブレーキを持って居るのです。自分でもうるさいくらいの。で、その沢山のプレーキの歯止めを噛ませるうちには、どれかの歯止めが役に立つのです。我々英国民はそうやすやすとは押し流されはしないでしょう」
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 さて此の首尾を全《まっと》うした愛想話が客にどういう効果を与えたか老獪にちょっと此方《こちら》を窃《ぬす》み視た。其の態度はずるいと言えばそれまでだが衰えながら、やっぱり年長の位を保って相手に大様《おおよう》さを見せ度がって居る老人の負けず嫌いが深く籠《こも》っていた。
 老夫人は特に客に此の結論に注意せよといったふうに、「その通り」と相槌《あいづち》をうった。
 話が余りにまとまりよく、そして鮮かに引き結ばれたので、その後に残った却って興味索然とした空白が四ツの顔をただまじまじさせた。
 景子は切上げ時だと思って催促の眼ざしを宮坂の横顔に向けた。宮坂は度の強い近視眼鏡の奥で睫毛《まつげ》の疎い眼を学徒らしく瞑目していた。それが景子には老文豪の話を頭で反芻《はんすう》して居るらしく見えた。暫らくそうさしといて、やがて景子が口に出して声をかけようとする時、宮坂は眼をポックリ開いて、さも決心したらしい顔付きで言った。
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――恐れ入りますが、先生の手の筋を拝見さして頂き度いのですが………記念の為めに」
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 余り宮坂の唐突な言葉に景子もやや呆れた。ガルスワーシーはなお受取り兼ね二三度反問したが結局どうやら宮坂の希望の目的が判ったので笑いながら大きな手を宮坂の前に差出した。
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――さあ、よく見て頂きましょう。多分神秘な運命が筋に現れている筈です」
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 そう言って彼は笑った。夫人も浮腰になり今更のように長年苦労を共にして来た夫の老いた掌を覗いた。そして此の尊敬すべきか、軽蔑すべきかを決しかねた日本人に対する態度を仔細に視まもった。
 宮坂は彼が熱心になるときの子供のように顧慮しない性癖を丸出しにして老文豪の八ツ手の葉のような扁平な開いた手をつまんで地図を見るように覗き込んだ。宮坂のそのあまり熱心な様子が夫人に却って気軽な興味を覚えさせたらしく、夫人は一層乗出して来て夫の手の筋の説明を求めた。
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――少し、こまかいですが、常識が円満に発達しています」
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 妻が此の宮坂の唐突の説明にあっけにとられて居るのをガルスワーシーは引きとった。
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――妻に世話を焼かす運命が手筋に出てはいませんか」
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 ガルスワーシーの座興的なうけ答えのように一見其の場の光景はやはりちょっとした座興的なもののようには違いないが然し景子には笑えなかった。彼女は此の文豪の手筋を熱心に、と見こう見する宮坂の意図がどんなに切実なものであるかを知っていた。
 宮坂は中学時代から創作家志望で、某大学の文科へ入ったのも其の為めであった。彼が創作の為めとして勉強する資料は創作の糧《かて》にはならずに学問の蓄積になった。創作はいくら書いても文壇には受け容れられなくて傍稼《わきかせ》ぎに書く文学講座の方がうけがよかった。彼を引立てている教授は言った。
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――君は学問の筋だよ。創作はあきらめ給え」
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 そうして彼を無理に研究室に入れ、次いで助教授にした。然し彼はどうしても創作は思い切れなかった。学校の方が忙しくなってもう創作の筆は取れなくなったが、然し今に今にといって友人に会えば其の話に熱中した。彼が創作の話をするときには、まるで恋人の話をするような響を持った。
 結婚して子供が二人も出来るようになっても彼は創作に対する恋を捨てなかった。しかも其の恋は愈々《いよいよ》外れて行くだけだった。彼はいつか運命ということを考え詰めるようになった。彼はしきりに手相に凝《こ》り出した。彼の幼な友達の景子の夫なぞもよく宮坂の手相見の稽古台にされてうるさがった。
 彼が欧洲留学を命ぜられて大陸を歩いて居るうちにも歴訪した有名な文人達には一々手相を見せてもらって来たのであった。そして自分の手相と比較した。宮坂があのほろ苦い理智の匂う独逸の作家の名を挙げて「僕のはトーマス・マンのに一番似ているね」そういうときは如何にも嬉しそうだった。
 宮坂は自分の手筋に少しの類似も見出せない、自分の運命にかかわりの無い此の文豪の手筋は、そう執拗に見る興味もなく、じきに礼を言って、つまんでいたガルスワーシーの手を器物のように丁寧に持主へ返した。宮坂にそんな功利的な意図を以って見られたとも知らず、飽《あく》まで単に東洋の神秘的の座興相手に擬せられたと信じて居るガルスワーシーは冷たくなった手を上衣《うわぎ》のポケットへちょっと挟み込んで、其処で自国の神秘主義に就いての挿話を述べた。
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――此の国ではコナンドイルがスピリチュアリズムに凝っていましたが。彼は私の妻の前身は土耳古《トルコ》のサルタンだって言って居ました」
――ほ ほ ほ ほ」
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 今度は此方が呆れて返事も出来ずに居る二人の日本人の前で、夫人は軽い座興の復讐のような笑い声を立てた。いつか白茶地に銀朱の色のはいった上着を羽織って居た夫人は今までよりもずっと上品に見えた。
 二人は訣《わか》れを告げてガルスワーシー家の門を出た。宮坂は黙って来た時の道を歩いて居たが景子の家に近いだらだら坂の途中まで来た時急に足を止めて言った。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――ジョン・ガルスワーシー…………あんな普通の手を持っていても文豪になれるんだなあ。彼は確かに金は溜まっているね」
[#ここで字下げ終わり]
 そして斜に丘へ射し渡る秋の夕陽の寂光にすかして彼はあらためて自分の掌を見入るのであった。

底本:「岡本かの子全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1994(平成6)年2月24日第1刷発行
底本の親本:「鶴は病みき」信正社
   1936(昭和11)年10月20日発行
初出:「行動」
   1934(昭和9)年7月号
入力:門田裕志
校正:オサムラヒロ
2008年10月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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