岡本かの子

小学生のとき与へられた教訓—– 岡本かの子

 或る晴れた秋の日、尋常科の三年生であつた私は学校の運動場に高く立つてゐる校旗棒を両手で握つて身をそらし、頭を後へ下げて、丁度逆立したやうになつて空を眺めてみた。すると青空が自分の眼の下に在るやうに見え、まるで、海を覗いてゐる気がした。ところどころに浮んでゐる白雲を海上の泡とも思ふのであつた。面白い事は鳥が逆さになつて飛んで行く、二羽も三羽も白い腹を見せて、ゆつくり飛んで行く。私は飽かずに眺め入つた。
 突然、「そんな事をしてゐてはいけません。第一体に毒ですし、又、そばを駈け廻つてゐるものがぶつつかつたら、両方共に怪我をしますよ。どうしてそんな事をするのです。」と先生に叱られた。私はまごついて遂、「何子さんも誰さんも、みんな、斯うやると面白いから、あんたもやつて見なさいと、言はれましたので……」と言ひ訳をしたのであつた。すると先生は「誰にすゝめられても悪い事をすればいけません。他人のせいにして自分のいけない事を言ひ訳しやうとするのは、大変卑怯な事です」と更にたしなめ[#「たしなめ」に傍点]られた。
 私は子供心にも先生から卑怯だと言はれた事を非常に恥かしく感じ、以後、他人の悪い事を見ても告げ口する事が出来ず、まして自分の事を他人のせい[#「せい」に傍点]にしたりする事が出来なくなつた。それは、初めのうちは、告げ口し度い気持が起つても愈々口に出さうとすると、嘗て先生に卑怯だとたしなめられた事が頭に浮んで私の口を引き締めてしまふのであつたが、それが段々進んで精神学的に意志制止症と言はれる程までになると、もう先生に卑怯だと言はれた事を思ひ出さずとも自然と口をつむんでしまふといふ極端な癖が付いてしまつた。
 少女時代、他人の非難とか自分の事に就ての言ひ訳などを除いて、どんな話題があるであらうか。これ等の事を絶対にしやべれないとしたら少女の話は仲々スムーズに進むものではない。従つて私は無口で鬱屈した、他人から見て幾分重苦しい少女になつてしまつた。丸い眼をぱち/\させながら無口でゐる私に「蛙」と言ふ仇名をさへ付けた友がゐた。
 小学校から女学校へかけて、私は友人に対する蔭口とか非難が出来ず、自分のする事には絶対の責任を持たねばならぬといふ立場に追ひ込まれて随分と口惜しい悲惨な思ひをした。或る時など小学校随一の悪戯者が校門近くの道路に陥穽《おとしあな》を掘つて友達をいぢめやうとしたのを学校の垣根の蔭で眺めた私はそれをさへ先生や友達に知らせる気持になれない。だが刻々に友達が陥穽に落ちる危険が近づく、私はもう気が狂ひさうで我慢出来なかつた。そつと悪戯者の背後に駈け寄つて陥穽の上を板片で覆つて土をかぶせてカモフラージしてゐる彼を力一杯押した。彼は頭ぐるみ自分の作つた陥穽へ落ち込んで泥だらけになつて泣き出した。不断臆病であつた私がそんな大胆な手出しをしたのはよく/\の事であつた。告げ口が出来ない自分の習癖がどんなにもどかしく感じた事であらう。口で友達を救ふ事が出来ないから、せめて手で救はうとしたのであらう、その夜亢奮で眠れず微熱まで出した程であつた。
 だが、かういふ内心的の苦しみは幼時から私に物事を深く考へさせるやう習慣づけた。何事でもぱつと[#「ぱつと」に傍点]口に出してあけすけ[#「あけすけ」に傍点]に話してしまつたのでは物事を充分に観察し、味はふ暇がない私は自己反省に於ても人一倍強いやうになつた。自分のする事は一つ一つに考慮と全責任を持つた。今に至るも私の其の癖は残つてゐて、他人から随分重苦しいやうに見られてゐるが、私は私で、「少くとも確つかり落付いて生活してゐる意識が、私に充分あるのだから、これで良いのだ」と思つてゐる。
 私の此の打ち明け話に依つても判るやうに、幼時の感じ易い頭脳に与へる小学校教師の訓戒が、子供の将来にまで力強く支配力を及ぼし、性格運命までも決定するやうな事がある。これを思ふと小学生に対する訓戒は誠に注意を要するもので、殊に廉恥心をゆすぶるやうな訓戒が一番強く子供の頭脳に響き子供の将来に及ぶのであるから、特に注意して、良心的に関聯して廉恥心を洗練するやうな訓戒は最も効果があるが、之れと反対に精神を汚辱的に打ちのめすやうな訓戒は良き性格の穂を打ちひしぐもので、大いに慎まねばならぬものである。

底本:「日本の名随筆 別巻67 子供」作品社
   1996(平成8)年9月25日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第十二巻」冬樹社
   1976(昭和51)年9月第1刷発行
入力:門田裕志
校正:林 幸雄
2002年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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岡本かの子

勝ずば —–岡本かの子

 夜明けであった。隅田川以東に散在する材木堀の間に挟まれた小さな町々の家並みは、やがて孵化《ふか》する雛《ひな》を待つ牝鶏《ひんけい》のように一夜の憩いから目醒めようとする人々を抱いて、じっと静まり返っていた。だが、政枝の家だけは混雑していた。それも隣近所に気付かれないように息を殺しての騒ぎだった。政枝が左手首を剃刀《かみそり》で切って自殺を計ったという騒ぎである。
 姉の静子は医者を呼んだその足で隣町の若い叔母の多可子を呼びに廻った。かかりつけの医者が人力車に乗って駈けつけた。父親の寛三は血を吹く政枝の左手首を手拭いの上から握りしめていた。
「政枝、先生に手当をして貰《もら》え、な、判ったか」
 父親は涙にうるんだ両眼を娘のそむけた横顔に近づけながら、おろおろ声で頼むように言い続けた。だが政枝は寝床の上に坐ったまま、歯を喰いしばり、身をかがめ、頻《しき》りに父親の手を振り離そうと争っている。若い医師は政枝が必死になって手当を拒み続けるので困り果てて、車夫に看護婦をつれて来るよう言いつけた。
「まあ、政枝さん、どうしたというの。しっかりしなくちゃ駄目じゃないの」
 隣町の婚家先から駈けつけて来た多可子は二階に昇るなり政枝の右肩を掴《つか》み、優しくゆすって叱った。不断優しい多可子が突然の驚きと、政枝を救いたい一心とで絞り出した癇高な鋭い声が、逆上した政枝の耳にも強く響いた。政枝は自分で自由にならないほど硬直した頸をやっと捻《ね》じ向けて、叔母の顔を恨めしそうに見上げた。それを見ると多可子は更に勢づいて、
「さあ、早く先生のお手当を受けるんです」
 とせき立てた。
 政枝の舌はもつれて硬ばっていた。
「どうせ癒《なお》らない病気――死なせて――邪魔しないで……」
 政枝はやっとこれだけ云うとまたしても父親の手から自分の左手首を引き離そうともがき始めた。多可子は政枝が自分の病気を死病だと思い決めている以上、それに逆らって説き伏せることは無理だと覚った。そして別な言葉でするどく叱った。
「たとえ癒らない病気に罹《かか》っても、生きられる限りは生きなければならないのですよ」
 不断、無口でおとなしかった政枝は却《かえ》ってこの叱咤《しった》に対して別人のように反撥した。
「何故、生きなければならないの。そのわけ[#「わけ」に傍点]を云って――。それが判るまで手当受けません」
 多可子はぐっと言葉に詰まった。でも、ぐずぐずしているうちに政枝の手首から多量の血が流れ出て仕舞《しま》う。多可子は焦《あせ》った。
「ええ、理由がありますとも。でも、今はあんたが亢奮し過ぎてるから、あとで落ち着いたとき、ゆっくり話す、ね。だから手当だけを受けなさい」
 政枝はまだ不承知らしい顔をしていたが、「きっとですか」と多可子を瞠《にら》んで念を押した。そして間もなくぐったりして父親や医師のするままになり、やがて素直に体を横にされた。
 看護婦がゴム管で政枝の腕を緊《し》めて血止めをすると、医師は急いで傷口の縫い合せにとりかかった。流石《さすが》に痛いとみえて政枝は一針毎に体をびくっ[#「びくっ」に傍点]と痙攣《けいれん》させたが、みんなの手前、意地を張ってか声一つ出さなかった。多可子は声も立てないで痙攣する政枝の悲惨な姿を見ていられなかった。少し離れた畳の上にうずくまると、隣町から駈け続けて来た自分の息切れを、やっとこの時急に感じ出して喘《あえ》いだ。
 喘ぎながら多可子は、僅《わず》か十四の政枝が思いつめた死の決意を考えてみ、それを飜《ひるが》えさせるだけの立派な理由を見出そうと努めた。しかし、病が癒らないものだという仮定の下に於ては却々《なかなか》簡単に少女を納得させる「人間がどうしても生きなければならぬ」理由なぞ、考え出せなかった。そうなると多可子は咄嗟《とっさ》の場合だから仕方がなかったとは云え、さっき政枝に云った余りにも自信ありげな自分の極言を顧みて途方にくれてしまった。
 医師の手当は進んで行った。朝はいつの間にか明け切って白銀色の光が家並みを一時に浮き出させると、人々は周章《あわ》てて家々の戸を開け展《ひろ》げた。材木堀を満たした朝の潮の香いが家々の中に滲み込んで来る。だが政枝の家ではまだ雨戸を締めている。医師は人力車に乗って帰って行った。看護婦もその後からついて行った。
 父の寛三は医師を送ってから急いで台所へ行って手や着物の汚れを洗い、洗面器を持って二階へ上って来た。そして雨戸を繰って風を入れながら畳の上の血を拭き始めた。不遇ななかから漸《ようや》く育ったわが子の血が結核などに汚されて、それがまたわが子の手に截《き》れたむごたらしい傷口から現在わが家の畳の上へこぼされたのが悲しくもいまいましい。この時妻のさい[#「さい」に傍点]が梯子《はしご》段の上り口でようやく安心した後の気の緩《ゆる》みで堪《こら》え性もなく泣き出したので、寛三はそれを叱って政枝の着換えと敷布を階下に取りにやった。
 着物を父親に着換えさせられてからも政枝は軽く眼を閉じて、いつまでも放心状態を続けた。その側に多可子は浴衣《ゆかた》の上に伊達巻《だてまき》をまいたばかりで隣町の自家へ朝飯前の夫を婆やにあずけて、周章てて駈けつけたままの姿で坐っていた。いつまでも政枝の側に坐っていると段々「生きなければならない理由」を政枝に云って聞かす約束が迫って来るようないらだたしい気がして居辛《いづら》かった。それに自分のはしたない[#「はしたない」に傍点]身なりが気になったので、寛三にそっと目まぜして帰って行こうとした。
 そのとき政枝は澄んで淋しげな眼を開いて、じっと多可子の顔を見た。
「出直して来るからね。じっとしていらっしゃい」
 多可子は一時逃れを云った。家へ帰って落ち着いた上、政枝のことや、彼女に対する自分の態度というようなことに就いて充分考えてみたかった。どうせ神経質で老成している政枝が自分にこの上追及して来ないとは思えなかった。
「おばさん生きなければならない理由を話して下さい」
 父親は呆れた顔で政枝の傍へ寄って来た。
「お前は死にはしないんだから。直《す》ぐ癒るよ」
 多可子も寛三の言葉について云った。
「本当よ。あんたのような若いひとが死ぬんなら、それより前に私なんかが死んでしまうわ」
 多可子は捨身の説明をした。
「そいじゃ、私が死ぬようなときは叔母さんも死ぬんですか」
「ええ、あんた死なせるもんですか。でもね、きっと癒りますから、安心して元気になりなさい」
 政枝は生きなくちゃならない理由といって別に深い理論を訊き出そうとするのではなかった。二度も続いて起った喀血で、死の恐怖に縮み上ってしまった政枝はどうせ死ぬことに決った自分なら、肺患者として長く病床に居て誰にも彼にも嫌われて惨めな最後に死んで行くよりいっそ今直ぐに自分から死のうと決心したのであった。自分の脈打つ手首の動脈を切って、そっと死んでしまおうといよいよ政枝が決心したのは二三日前からである。その自殺も失敗に終ってしまうと、急にまた誰かに取り縋《すが》って一時の痛みや苦しみから遁《のが》れて息がつきたかった。叔母が「お前一人死なさない」と云った言葉が今まで愛し続けて呉れたいろいろの場面を一度に政枝の意識や感覚全部に蘇らせた。「うちには子供が無さそうだから、あんたをうちの子にして来年から女学校へ上げてあげますよ」そう云って優しく背中を撫でて呉れた叔母の手。受験準備の参考書をわざわざ一緒に神田まで買いに行って呉れたり、活動に芝居に誘って呉れた叔母の心遣いなど政枝は一度に思い出した。すると政枝は急にしゃくり上げて仕舞った。「生きたい、たとえいっときでも今一度丈夫になりたい」そうして陰性な母よりも、貧乏で利己主義な父よりも、無性格のように弱い姉よりもずっと頼母《たのも》しく自分を愛して呉れる叔母の愛撫《あいぶ》のなかで今一度少女の幸福を味わってから死んで行き度い。こういう気持ちが政枝の心に強く蘇った。
 政枝は日当りの良い八畳の二階に寝ていた。顔は高熱に上気して桃色に燃えていたが、眼の縁、口の周り、頬の辺りなど、いつのまにか淡墨色のくまどりが現われて、大人の女の古びやつれたような表情に見えていた。用を失って萎《な》えた政枝の手足は、多可子がそっと触ってみると小猫の手足のように軽くてこたえがなかった。多可子はこの病には若くて瑞々《みずみず》しい者ほど抵抗力がないと云った医師の言葉を思い出して暗然とした。
 政枝にはいろんな事が気になった。今日も裏の材木堀の向うに在る製板所の丸鋸《まるのこ》が木材を切り裂き始めた。その鋭い音が身体に突き刺すように響いた。すると今までうとうと眼を閉じていた政枝は「ああ」とうめいて両手で耳を塞《ふさ》いだ。そして、
「早く戸や障子を締めて下さい」
 と叫ぶので多可子は急いで戸と障子をしめてから政枝の傍へ戻って来て坐ると、政枝はまだ耳を圧《おさ》えたまま、多可子の方へ振り向いて調子のとれない変な声で訴えた。
「あの音を聞くと私の胸の中の悪いところがきまって痛み出すんです。こんな家にいることは堪りませんわ。何処かへ移して貰えないでしょうか」
 政枝は情なくて堪らぬという感じを顰《しか》めた顔附きで現わした。
 父親の寛三が医師を案内して二階へ上って来た。
「さあ、政枝、お待ち兼ねの華岡先生がいらっしたよ」
 寛三は娘の顔と華岡医師の顔とを等分に見た。寛三はこの頃政枝がしきりに若い医師に無理にまつわりつくような様子が見え出したのに、今日も気兼ねをしていた。
「だって、先生は直《す》ぐ帰ってしまうもの、来ないと同じだわ」
 と呟《つぶや》いて、政枝は頸をひねって一寸髪に手をやり、掛け毛布の下で細い体を妙にくねらせた。その嬌羞《きょうしゅう》めいた仕草が多可子を不意に不快にした。見れば耳の附根や頸すじに薄ら垢《あか》が目に附く病少女のくせに、今まで丸鋸の音があんなにも堪えられないとかん[#「かん」に傍点]をたてていた病少女が、けろりとして男の前で無意識にも女らしさを見せる恰好《かっこう》が、無意識であるだけ余計に強く早熟な動物的本能のようなものを感じさせて多可子を不快にした。多可子は結核の子供は結核菌の毒素の刺戟で早熟になるということは何かで読んだことがあった。それを眼のあたり見ることは嫌なものだと思った。
 そして政枝の態度に対する華岡の応待が妙に多可子は気になった。
「いや、今日は少し長くいるよ」
 華岡はすねた政枝の肩に手をかけて自分の方へ振り向かせ、笑いながら体温を計り始めた。政枝はちらっと華岡の顔を覗いた後、直ぐ眼を伏せて云った。
「ゆうべ先生の夢を見たわ」
「どんな夢だった」
 華岡は診察も忘れて相手になっている。
「とてもいい先生だったわ。一日中私のそばにいて呉れましたもの」
 本当とも皮肉とも判らぬ政枝の話に華岡は返事の仕様もなく、多可子や寛三の方を見た。多可子はまさに死んで行こうとする少女が、漸く兆《きざ》し初めた性の本能をわずかに自分の身辺に来る一人の男性である華岡医師に寄せ掛けているのを考えると不憫であった。けれどもそれが多可子の見る眼の前の光景であるのは堪らなく多可子には我慢出来ないような光景であった。その相手になっている華岡医師をまともに見るのも不愉快だった。自分だけはこんな少女の醸《かも》し出すセンチメンタルな甘えた雰囲気の中に捲き込まれるのはまっぴらだと思った。多可子は下膨れのした白い丸顔を幾分引き締めて、前窓の敷居を見詰めていた。だがやっぱり心の中ではまさに萎縮しようとする生命の営みの急しさ――政枝が自分に甘えかかるのも頼み切るのも、死んで行く前の現実から少しでも多くこの世の慈味を摂取して行こうとする政枝の生命の欲望のあがきであるのを思って、あわれなのであった。
 華岡はやっと診察に取りかかった。そして診察を済ますと、そこにいる誰にとはなく、「もう少しでよくなるだろう」と告げながら、さっと立ち上ってしまった。そうだったのか――先刻からのこの医師の政枝に対するあしらいも矢張り死病の患者への気安めのあしらいだったのか。流石《さすが》患者のあしらいに馴れた医師の態度だと、多可子は華岡を見直した。
「先生、やっぱり直ぐ帰ってしまうのね。私が訊くことにお返事が出来ないからでしょう」
 政枝は今度は今までとは違った意味で華岡医師に帰られるのを辛がった。彼女の病気に就いての詰問も日毎に執拗《しつこ》くなって来た。それは此頃政枝が死の恐怖に襲われるからである。一度死を図って死に損《ぞこな》った政枝は反動的に極度に死を怖れ、死から出来るだけ遠退きたいと心中もがき続けた。だが、死を思うまいとすれば却《かえ》って死の考えが泛《うか》び、夢にも度々《たびたび》死ぬ夢を見た。永久に脱出の叶わぬ、暗い、息もつけない洞窟の中に転落して行く――そういうような夢を度々見た。政枝が一方に係ってる華岡医師への乙女の嬌羞を突然脱ぎ捨てて、病気快方の福音を医師から聞き取ろうとするのも一つにこの死の恐怖をまぎらすためであった。それも同じ言葉の繰り返しだけでは不充分だった、彼女は華岡医師に色々な質問をして全《あら》ゆる方面から入り込もうとする死の予感を防ごうとした。そういう必死な心情が、漸く周りの空気を緊《ひ》き締めて行った。多可子は甘えたセンチメンタルと思った感情の底に、またこうした根もあることを知って、政枝を今更ながらいじらしく思った。政枝の眼は涙に満たされ、唇は震えて言葉がつげない様子だった。多可子は華岡に云った。
「先生、もう少しお話してやって下さい。段々よくなってますね」
「ええ、もう二三ヶ月じっとしておれば、起きられるようになりましょう」
 政枝は眼をしばたたきながら、顫《ふる》え声で口を挟んだ。
「でもちっとも今だってこの間じゅうにくらべて快《よ》くならないじゃありませんか」
 多可子は政枝のそういう言葉の底には、華岡医師から、「もうこの位快くなっている」と詳しく説明して呉れるのを期待する魂胆があるのを知っている。多可子はこの政枝の言葉の裏を華岡が了解して、成るべく沢山の気休めを云って呉れればよいと思った。だが華岡の口を切る前に傍にいた寛三が割り込んでしまった。
「政や、この先生はね、大学で新らしい学問をしていらっした方だからね。この先生に診《み》て貰っておれば、きっと治して下さるんだよ」
 お座なりの見当違いの説明に、必死の望みを外された政枝は、見る見る顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》に青筋を立てて父親を瞠んだ。娘がそんな気持ちでいるのも感じないで、この場の妙に白らけたのを取り做《な》すように、寛三は更に娘に向って云い聞かせるのであった。
「さあ、もう先生をお帰し申すのだよ。先生は他にまだ沢山苦しんでいるご病人をお持ちだからね」
「他の病人なんか華岡先生じゃなくて、他のお医者様を頼めばいいわ」
 政枝はヒステリー女のように憎々しげな口調で云い放った。
「おばさん一緒に死んで呉れると云ったわね」
 と夫のある自分をいくら少女でも十四にもなった政枝が思いやりもなく責めるのも、可愛相より時には怖しく聞く多可子は、その病的な利己心にそら怖ろしい気がするのであった。
 華岡は当惑して暫らく傍観していたが、「明日来て、よく話すからね」と云い残して、素早く立ち上って階下に下りて行った。多可子はその後を追って玄関まで見送ると、華岡は振り返って、先程の寛三の言葉に対する弁明とも思われるようなことを云った。
「いろいろ薬も変えてみていますが、どうもよくならないのです。年が若いだけいけないですね」

 政枝の手首の傷が殆ど癒着して、しかし胸の病の熱の方は、日増しに度を増して来た時分、戦争が始まった。日に二三度も号外がけたたましい鈴の音を表戸にうち当てて配達された。
 その頃から不思議に政枝の気分は健康になり、時には明るい興奮さえ頬に登るようになった。
 町の人は町角で――政枝は床に起き直って家の女手に向って頼みに来る千人針を二針三針縫った。
 政枝はラジオ戦勝ニュースを聴くのを楽しみにした。
 戦況はどんどん進んで行った。
 夏から秋になった。
 病少女はもはや瀕死《ひんし》の床に横わっていた。

「万歳! 万歳!」という勇ましい出征兵士を送る町の声々が病少女の凍って行く胸に響いた。すぐ近くのものと川向うらしいのと強弱のペーソスが混った。
 政枝の薄板のようになった下腹に、ひとりでに少し力が入った。
 政枝は自分でも知らずに「くすん」と微笑んだ。思いがけない表情に両親と姉の静子はこれを見て患者が最期に頭がどうかなるのだと思った。母親は慄えて念仏を唱えている。みな思わずにじり寄って政枝の顔を見詰めた。多可子は絶体絶命の気持ちで袖を掻き合わせ、眼を瞑《つむ》っていた。すぐ表通りをハッキリと、
「歓呼の声に送られて
 今ぞ出《い》で立つ父母の国
 勝たずば生きて還らじと」
 若く太い合唱の声が空気を揺がせて過ぎる。その時政枝の暗く消え散る意識の中に一筋鋭く残った知覚が、こんなことを感じていた――みんな勇ましく行く、そしてそれは勝つためにだ。自分も――
 刹那《せつな》だがもうその後は政枝の魂は生死を越えて冴えた明月の海に滑らかに乗っていた。
 政枝の唇が青紫に色あせつつぴたぴた唾《つば》の玉を挟んで開け閉している。微《かす》かに声を出しているようだ。だが、それは多可子がひそかに怖れていた「おばさん一緒に死んで」という政枝の言葉ではなかった。多可子はありたけの気力を集中して耳を近くへ寄せた。政枝の声は
「――――
 今ぞ出で立つ父母の国
 勝たずば」――――微かに唄っているようだ……。
 多可子の胸へ渾身《こんしん》の熱い血がこみ上げて来た。多可子は政枝の亡骸《なきがら》に取りすがって涙と共に叫んだ。
「政ちゃん、安心して行って下さい。――あたしあんたと二人分生きる苦るしみと戦い――戦い――戦い――」
 あとは泣き声で言葉にまとまりがなかった。

底本:「岡本かの子全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1993(平成5)年7月22日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
   1974(昭和49)年3月~1978(昭和53)年3月
初出:「新女苑」
   1937(昭和12)年12月号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2010年3月2日作成
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岡本かの子

女性崇拝—– 岡本かの子

西洋人は一体《いったい》に女性尊重と見做《みな》されているが、一概《いちがい》にそうも言い切れない。欧州人の中でも一番女性尊重者は十指《じっし》の指すところ英国人であるが、英国人の女性尊重は客間《きゃくま》だけの女性尊重で、居間へ入ると正反対だという説がある。
 事実、英国人ぐらい文筆上で女性に対し諷刺《ふうし》や皮肉を弄《ろう》し、反感を示している国民は少い。バーナード・ショウの如《ごと》きも「人と超人」で、女性は魅力に依《よ》って男から種の胚子《はいし》を奪い取り、次の時代の超人を造ろうとする自然の意図《いと》を無意識で執行《しっこう》する盲目の使途であるというように書いている。
 英国の倶楽部《クラブ》の発達というものが、家庭における主婦の形式的|女権《じょけん》の窮屈《きゅうくつ》から逃《のが》れようとする男性の自由の欲望から発達したものだという話もある。
 そうかと思うと、それほどけばけばしく女性尊重を放送しないフランス人が、家庭は全く主婦の女王の傘下《さんか》に従順《じゅうじゅん》に温《あたた》まって易々諾々《いいだくだく》である。フランス人に言わせるとこの方が生活にも人生にも利口《りこう》なやり方だと言う。
 武士道《ぶしどう》と言えば、女は眼中《がんちゅう》にないような風に言われながら、正妻《せいさい》となるとなかなか格式を与えて十分な権利を主張せしめている。淀君《よどぎみ》にうつつ[#「うつつ」に傍点]を抜かした秀吉が、北の政所《まんどころ》に対する態度などにみても相当彼女を立てているところがある。
 フェミニストにもいろいろある。全然女性なるものを知らない理想主義風に尊敬するものもあれば、変態的の性格から女性にへりくだるものもある。また「英雄が女性の胸に額をつけるとき、遠き星の囁《ささや》きを聴く」事業上の霊感の交媒者《こうばいしゃ》として女性に神秘を感じ、フェミニストたるものもある。ジョセフィンに対するナポレオンはそれであった。
 兎《と》に角《かく》真のフェミニストは質的のものだ。女性から言えば、弱々《よわよわ》しくフェミニストたらざるを得ない男性より昂然《こうぜん》としていても、女性に理解力ある男性の方が見込みがある。

底本:「愛よ、愛」メタローグ
   1999(平成11)年5月8日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
   1976(昭和51)年発行
※「易々諾々《いいだくだく》」の表記について、底本は、原文を尊重したとしています。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2004年3月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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岡本かの子

女性の不平とよろこび—— 岡本かの子

女が、男より行儀をよくしなければならないということ。
 人前で足を出してはいけない、欠伸《あくび》をしてはいけない、思うことを云《い》ってはいけない。
 そんな不公平なことはありません。女だって男と同じように疲れもする、欠伸もしたい、云い度《た》いと思うことは沢山《たくさん》ある。疲れやすいこと欠伸をしたいことなどは、むしろ男より女の方がよけいかもしれない。それだのに、なぜ、昔から男は、食後でも人前でも勝手《かって》に足を出し欠伸をし、云い度いことも云えるのに、女にそれが許されないのだろう。
 外側をためて[#「ためて」に傍点]ばかりいると、内側の生命が萎縮《いしゅく》してしまう。
 男が伸々《のびのび》と拘束《こうそく》なしに内側の生命を伸《のば》す間に、女は有史以来|圧《おさ》えためられてそれを萎縮《いしゅく》されてしまった。
 生理的から観《み》ても、女の肉体は男より支持力に堪《た》えがたい、乳房の重み、腰部《ようぶ》の豊満《ほうまん》、腹部も男より複雑であります。
 殊《こと》にこの特長の発達している私には食後の大儀《たいぎ》なこと、客人《きゃくじん》の前の長時間などは、つくづくこの女子にのみ課せられた窮屈《きゅうくつ》な風習《ふうしゅう》に懲《こ》りて居《い》ます。
 この頃ではこの議を随分《ずいぶん》自分から提唱《ていしょう》して、乱れぬ程度でこの女のみに強《し》いられた苛酷《かこく》な起居《ききょ》から解放されて居るには居ます。思い出しました。四五年前の与謝野《よさの》家の歌会《うたかい》の時、その座のクインであった晶子《あきこ》夫人が、着座《ちゃくざ》しばらくにして、上躯《じょうたい》を左方に退《ひ》き膝《ひざ》を曲げてその下から一脚《ひとあし》を曲げて右方へ出されました。夫人特有の真白い素足《すあし》が、夫人の濃紫《こむらさき》の裾《すそ》から悠々《ゆうゆう》と現われました。
 夫人は、これだけのムードを事もなげな経過ぶりで満座《まんざ》のなかに行われたのであります。そして石井柏亭《いしいはくてい》と平気で談笑して居《お》られました。
 達手《だて》で自由で宜《よ》い、と私は傍《そば》で思いました。いかにも文明国の、そして自由な新時代の女性としての公平なポーズ(姿態《したい》)だと思いました。
 ただ、女は何と云《い》っても、男より、外観美を保たなくてはいけない、これは理屈《りくつ》より審美《しんび》的立場から云《い》うのです。で、如何《いか》に、挙措《きょそ》を解放するにしても、常に或《ある》程度の収攬《しゅうらん》を、おのずから自分の上に忘れてはいけません。
 美的な放恣《ほうし》、つつましやかな自由、それはどうあるべきかと追求されてもこまるけれど、とにかく以上の字義どおり何《いず》れの女性も心術《しんじゅつ》として欲《ほ》しい、結果はおのずから達成せられるでありましょう。
 女も男と同じように働き、学び、考える時代となり、尚《なお》上述の条件を男子側より否定されるならば、永遠に、女性の生命は内面の不平を堪《こら》えて男子を羨《うらや》み続けるでありましょう。
 女性のよろこびを考えるうちに「化粧」が思い浮べられた。
 男でも化粧する人はある。しかしそれに凝《こ》ったにしても到底《とうてい》女の範囲《はんい》にまで進んで来ることは出来《でき》なかろう。
 女でも化粧しない人がある。化粧しないでも美しい人がある。しかし、そういう人はまれである。そして、そういう人も化粧すればなお美しくなる。そして、そういう人も年が三十にかかればどうしても化粧の手を借りなければいくらか醜《みにく》くなる。
 化粧するのが面倒《めんどう》でしないのは仕方《しかた》がない。化粧しないでも美くしいと自信をもって、しかもしないことを平気で居《い》て、他人のすることをまた他人の仕業《しわざ》として平気に眺めて居るのはいいが化粧しないのを自慢にしたり、他の女がするのを軽蔑《けいべつ》したりするのは愚《ぐ》である、傲慢《ごうまん》である。女性の何人《なんぴと》も化粧をするのは好《よ》い、可憐《かれん》である。美女は美女なりに、醜女《しこめ》は醜女なりに、いかにも女性の心の弱さ、お洒落《しゃれ》さ、見栄坊《みえぼう》であることを象徴して好い。
 美女が化粧《よそお》えば一層《いっそう》の匂《にお》いを増《ま》し醜女がとりつくろえば、女性らしい苦労が見えて、その醜なのが許される。
 ともあれ、女と生れた大方《おおかた》の女性にあって、着物の柄、帯の色、おしろい眉《まゆ》ずみ、口紅を揃えてしばらく鏡の前のよろこび(それにいらだたしさもどかしさは交《まじ》るとも)女にのみ許されたそのよろこびを経験せぬものは少ないでしょう。

底本:「愛よ、愛」メタローグ
   1999(平成11)年5月8日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
   1976(昭和51)年発行
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2004年3月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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岡本かの子

女性と庭—– 岡本かの子

出入りの植木屋さんが廻つて来て、手が明いてますから仕事をさして欲しいと言ふ。頼む。自分の方の手都合によつて随時仕事が需められる。職業ではのん気な方の職業でもあり、また、エキスパートの強味でもある。手入れ時と見え、まづ松の梢の葉が整理される。
 松の花の出の用意でもある。松の花といふもの花らしくもなく、さればとて芽の軸ばかりでもない。そこに日本独特のしぶい[#「しぶい」に傍点]「詑《わ》び」の美がある。イタリー名物の傘松は実を採られ防風林に使はれる。何の求むるところなく愛される東洋の庭の松は幸福である。手入れが済んで、どうやら形がつく。
 江戸の都会詩人、其角《きかく》の句に
   この松にかへす風あり庭すずみ
 その季節もあとひと月後か。

 池の水が浸洩《しも》るやうですから繕《なほ》しながら少し模様を更へて見ませうと植木屋さんは言ふ。頼む。家庭に属するもの塵一つ見飽きるといつては済まないが、沈滞の空気にところ[#「ところ」に傍点]を得させぬためにときどき時宜の模様更へは必要である。近頃の世情の如きか。
 植木屋さんなかなかよく働く。「もとは植木屋といつたら、隠居の遊び相手に煙草をふかしてりやよかつたんですが、どうして此頃はお客さんの要求からして実質本位です」。そして年期奉公の外に園芸学校へも入らなければならないし京都へも留学するといふ。生活文化の激甚この有閑といはれる職業にまで及んだのか。
 午前、午後、二度のお茶うけ、昼どきの箸合せ、なにかと気を配らねばならない雇傭の習慣は面倒旧式と言へばそれまでだが「してあげる」「して貰ふ」といふ何か彼此の間にスムーズなものを生む。

 池に使ふ不動石、礼拝石、平浜――それは小柄のものに過ぎないが、植木屋さんは「学校の教養」と「留学」の造詣をかたむけて新古典風に造つて呉れた。日本の造庭術は、元来が理想の天地の模型である。籠り勝ちな家庭の女性の気宇を闊《ひろ》くしよう。

底本:「日本の名随筆 別巻14・園芸」作品社
   1992(平成4)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第十二巻」冬樹社
   1976(昭和51)年9月
入力:渡邉 つよし
校正:門田 裕志
2001年9月27日公開
青空文庫作成ファイル:
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岡本かの子

初夏に座す—– 岡本かの子

人生の甘酸を味はひ分けて来るほど、季節の有難味が判つて来る。それは「咲く花時を違へず」といつた――季節は人間より当てになるといふ意味の警醒的観念からでもあらう。季節の触れ方は多種多様で一概には律しられないが、触れ方が単純素朴なほど、季節は味はふ人の身に染めるやうである。

 この頃の季節の長所は明るく、瑞々しく、爽かなことである。たいがい憂愁も、しばし忘れさせて呉れる、常緑樹の重厚な緑のバツクに対して鬱金色の粉を吹いたやうな灌木の新芽、あらゆる形の「点」と、あらゆる形の「塊」とで清新な希望の国を構成する若葉の茂り、見れど見飽かず、眺むれど眺め尽せぬ心持ちがする。

 野には晩春を咲越へて、なほ衰へを見せない花、すでに盛夏を導いて魅力ある花、それ等に交り、当期の花は鮮妍《せんけん》を競つて盛上つてゐる。碧青や、浅黄をまぜて、大空は仰ぐ眼をうつとりさせる。寛いだ白雲は悠々と歩を運ばしてゐる、そこにはなほ光と匂と微風の饗宴がある。

 食物には、筍は孟宗のシユンは過ぎて淡竹|真《ま》竹の歯切れのよい品種が私たちを迎へる。魚類はそろそろ渓川の※[#「さんずい+肅」、第4水準2-79-21]洒な細鱗が嗜味の夢に入る、夕顔の苗に支柱を添へ、金魚の鉢に藻を沈めてやる、いづれも、季節よりの親しみである。

 この際、忙中寸暇を割いて、座つて落ち付いて見る、場所はあまり物を置かない庭向きの座敷がいい、新茶の一椀を啜つて見るのもいい、これは決して贅沢でも閑人でもない。そこに、何ものか洗ひ浄められ慰められ、その下からひしひしと心に湧き上つて来るものがある筈である。生活行進曲の新譜である。人は季節の黙示に対して詩人であるところの素質と権利を持つてゐる。真の詩人とは万物に即して生活力の源泉を見出す人をいふ。

底本:「日本の名随筆 別巻14 園芸」作品社
   1992(平成4)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第十二巻」冬樹社
   1976(昭和51)年9月
入力:渡邉 つよし
校正:門田 裕志
2001年9月27日公開
2007年5月17日修正
青空文庫作成ファイル:
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岡本かの子

処女時代の追憶 断片三種 —–岡本かの子

     ○
 処女時代の私は、兄と非常に密接して居ました。兄に就いていろいろの思ひ出があります。十六七の時でした、何でも秋の末だと思ひます。子供のうちから歌や文章を好んで居た私を、やはり文学者として立つつもりで高等学校に居た兄が、新詩社の與謝野晶子夫人の処へつれて行つて呉れました。その頃新詩社からは今の明星の前身のやはり明星といふ大な詩歌雑誌が出て居ました。兄は私をつれて行くよりずつと前に新詩社に入り、歌や詩を明星に出して居りました。よく晴れた日でした、高く澄み上つた空の下に、枯草の道がながく続いて居ました。千駄ヶ谷の鉄道線路を挟んだ低い堤だつたと覚えて居ます。イナゴがしきりにとんでところどころに、枯れのこつた露草の花が、小さくかぢかんで咲いて居ました。これから連れて行く新詩社がその何丁くらひ先きにあるのか與謝野夫人がどんな方であるか、私はその想像で胸が一ぱいでした。が、無口な兄は、何にも云つて聞かせませんでした。唯カスリの袷にキチンと袴を穿いて、少しよごれた一高の制帽の白線が色の黒い兄の丸顔と可愛らしく対照して居ました。新詩社は新宿よりの千駄ヶ谷の畑中の極々質素な平家でありました。兄のうしろに肩揚をしてお下げに髪を結つた私は、かくれるやうに座りました。私達は家の真中の広間――今強いて云へば応接間でしようか――に晶子夫人をお待ちして居りました。
 離れの障子の開く音がして、ひたひた板廊下をふむ柔かい足音がしました――丈の高い色の真白な晶子夫人が、私達の前へ現はれました。髪を無造作に巻いて、青つぽい絣の袷にあつさりした秋草模様のメリンスの帯。広い額が貝のやうになめらかでちいさい、しかし熱情的なそして理智に光る眼――前歯がかけて居るせいか口を利きにくさうに、でもはきはきと何か云はれるところが、優しいうちにも凛として居られました。その全体からうける清楚とした感じは、とても後年の濃艶な扮装の夫人から想像することはむづかしい。
 狭い明るい庭に霜にいたんだ黄菊白菊が乱雑に咲いて居るのがかへつて趣ある風情だつたと覚えて居ます。
     ○
 平生無口な兄が時々おそろしく能弁になりました。何か一つの問題に捉へられるとそれからなかなか解放されない性質でした。感情家だつたからでせう。そんな時、相手の立場はあまり兄には考へられない一種の愛すべき利己主義と兄はなるのでありました。
「ねえ、君、そふだらう、神が全能の力を持つならば、何故、その力をはたらかしてこの世の悪を立ちどころに一掃しないんだ。この疑問が解決されないうちは僕はやつぱり神の存在なるものを全々信じ切ることは出来ないんだ。」
 斯ふ云ひ終つて苦しげに兄は溜息をつきました。兄はその頃、詩歌小説にふけりすぎて神経衰弱になつた結果、或友人の深切に誘はれて、キリスト教信者となりかけて居ました。内気な兄は、教会の牧師に面と向つて、思ふままに質問が出来ないのでおのづとそれが内に鬱没とし、やがて私の方へ発して来るのでした。
「たとえ全身をもつて信仰し得られたとしても、僕は寂しいよ。芸術の美と宗教の善と到底一致しないだらうからね。芸術家たらうとする僕にはこれが大問題だ。」
 聞き手の私が確答し得なかつたのは勿論でした。私はまだ女学校五年の生徒たるに過ぎませんでした。しかし兄は、返事などはどふでもよかつたらしい、何れの場合にも兄を敬愛するセンチメンタルな妹が、おとなしく傍に居て熱心に自分の云ふことを聞いて呉れゝばそれで宜かつた。それは或る日曜日の午後の散歩の途次でありました。行手には王子辺の工場の太い煙突がはるかに薄ぐもつた空にそびえて立ちその下にぼかした様な町の遠景が横長に見える。道の四つ辻には必ず一かたまりの塵埃が積み捨られてある三河島たんぼを兄と妹は歩いて居たやうに覚えます――。今過ぎて来た田舎町の店々に熟れ切つて赤黒く光つて居た柿の実の色が眼に残つて居る。刈つたあとの稲株が泥田の面にほちほちと列をなし、ところどころに刈らない稲が、不精たらしい乱髪の様に見える。小川の橋の袂には大根菜の葉を洗ふ老若の男女。それもやがて杜絶えて、一筋の往還がまつたく蕭々たる初冬の象徴の様に茫漠とした田甫[#「甫」にママの注記]なかに来しかたはるかに、行く手果てなく続くのでありました。灰色の空はいよいよ低く重く、今にも一しぐれ来さうな心細さに思はず向後をふり返つても人影らしいものはほとんど見えず、烏がところどころにどんよりと黒い翼をやすめて居るばかりです。
「淋しいですね、兄さんツルゲネーフの散文詩集のなかにこんなのがありませんでした?ある晩秋だか初冬の夕だかに斯んな田圃から町の方へ、黄ろい大きな前歯をむき出したお婆さんが一人白髪頭をふりさばいて黙つて歩いて行く――こんなことが凄いやうに描いてありはしませんでした?」
 私は云ひ終ると、身内がぞつとしました。そしてそんな妖婆が後からてつきり随いて来る様な恐迫観に急に襲はれ初めました。肩をすぼめて急ぎ足になりますと兄も淋しそうに笑ひ乍ら私とならんで歩き出しました。
     ○
 軒先から、広い奥屋のあちこちの小径に幾条となく敷き分けられた庭石のあひだあひだに、白、赤、黄、淡紅、の松葉ぼたんの花が可憐な、しかし犯しがたい強い気稟をこめて、赫灼たる夏の真昼の太陽の光にあらがひ乍ら咲いて居ました。東京近郊或る勝景地の旧家である私の家の奥座敷はその日家来を大勢ものものしく率ゐた或る高貴の人の遊行の途次の休憩所でした。数名の下婢は居てもそういふ高貴の身辺へは、家の秘嬢を侍らすのが、その家の主人の忠勤を象徴するといふならはしが、殆どうごかすべからざる田舎の旧家の何代も続いた掟なのでした。丁度女学校を卒業して家へ帰つて居た私が、さしづめその役を勤なければなりませんでした。家事を嫌つて文学の書類など読みふけつて居た気位の高い私が、それを高貴から加へられる一種の屈辱的な役目と考へ素直に引きうけてやらふとするはづはありませんでした。が、気の弱い父の強ての懇願にしぶしぶ承知したのでした。私はお嫁にでも行く様な盛装をさせられました。下婢が次ぎの間まで茶や菓子を運ぶ。それを私がうけとつて、形式的にその高貴の前へ供へればよかつたのでした――私の動作は、恐らく随分ぎごちなくて不愛想であつたにちがひありません。が、その五十近くの高貴の人は何故か非常に機嫌がよくて、あたりを顧みては快談哄笑をしつづけて居ました。
 やがてその人は何かふと思ひついた様でした。と、にはかに私に後を向けて浴衣着の上半身を裸体にしました。そして、家来に命じて縁先きに水の汲んであつた洗面器のなかからタオルをしぼつて持つて来させました。私はその人の咄嗟の間の動作に注目しました。丸い鉢開きの半白の頭を載せた短い首が、大酒の為か赤く皮膚を焦して居ました。隆鼻に引きしめられた端麗な前面には似もつかないいくらかの野卑な感じをうけて、私は思はず眼を逸らしました。そふとも知らずその人は、家来から受け取つたしぼりタオルをねぢつて私の方へさし出しました。
「あんた、済まんが、わしの背中を拭いて呉れんか。」
 私は咄嗟の間にむつとしました。そしてそのタオルをうけとらふともしませんでした。
「嬢さん、是非たのみます。あんたで無いと涼しふならん。」
 その人は「私が致しませふ。」と傍から言つた家来の手を斯ふ云つてしりぞけて、私の顔を見かへつて笑つた――その笑ひは、今までその人の顔に一度も私が見たことのない下卑た笑ひであつた。私はかつとした。次の瞬間、私はその人の手から奪ふ様に、タオルを取ると、その人の背の真中のたつた一つの大きなほくろをめがけて、矢庭にそれを打ち付けた――私は、あつけにとられて居る一同をあとにして火の様に顔をほてらせ乍ら、遥か隔つた自分の居間へさつさと這入つて行つて仕舞つた。其処に思ひがけなく兄が居ました。兄は私の行為を聞いて会心の笑みをもらしました。母が間もなく跡を追つて来ました。そして私がその事を話すと男の児の様な快活な母は大きな口を開いて笑ひこけるのでした。が、気の弱い父は奥座敷へ伺候しました。その人は、さすがに悠々と家来に汗をふかせ乍ら、
「はは、はは、仲々気概のある嬢さんじや、貴公は面白い嬢さんを持たれたぞ。はは、はは。」と哄笑にまぎらしてあとに少しの不機嫌な様子も残さなかつたといふ。でも父は、二三日は、父の不逞な娘である私には決して口をききかけて呉れませんでした。日頃から私が親しみ得なかつた田舎の人達が私になげて居た非難ざんぼふが彼の人達には神様であるこの高貴な人への私の反逆的行為によつてますます、彼人達の間に拡大され確実にされました。

底本:「日本の名随筆 別巻86 少女」作品社
   1998(平成10)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第十四巻」冬樹社
   1977(昭和52)年5月第1刷発行
入力:門田裕志
校正:林 幸雄
2002年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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岡本かの子

春 ―二つの連作―—– 岡本かの子

(一)



 加奈子は気違いの京子に、一日に一度は散歩させなければならなかった。でも、京子は危くて独りで表へ出せない。京子は狂暴性や危険症の狂患者ではないけれど、京子の超現実的動作が全ての現代文化の歩調とは合わなかった。たまたま表の往来へ出ても、電車、自動車、自転車、現代人の歩行のスピードと京子の動作は、いつも錯誤し、傍の見る目をはらはらさせる。加奈子は久しい前から、自分がついて行くにしても京子の散歩区域は裏通りの屋敷町を安全地帯だと定めてしまっていた。去年の秋、田舎から出て来た女中のお民は年も五十近くで、母性的な性質が京子の面倒をよく見て呉《く》れた。加奈子は近頃京子の毎日の散歩にお民をつけて出すことにした。
 裏の勝手口から左へ黒板塀ばかりで挟まれた淋しい小路を一丁程行くと、丁度その屋敷町の真中辺に出る。二間幅の静かな通りで、銀行や会社の重役連の邸宅が、青葉に花の交った広い前庭や、洋風の表門を並べている。時折それらの邸宅の自家用自動車が、静かに出入りするばかりで、殆《ほとん》ど都会の中とも思われぬ程森閑としている。京子は馴れた其処《そこ》を、自分の家の庭続きのように得意にお民を連れて歩いて居たが、ここ一週間ばかり前あたりから、何故かお民の同行をうるさがった。だが、お民の母性的注意深さも、それには敗けて居ず、今日も京子の後からついて来た。京子はそれに反撥する弾条《ばね》仕掛けのような棘《と》げ棘《と》げしい早足で歩きながらお民を振り返った。
――まだ踵《つ》いて来るの。私、直ぐ帰るから、先へお帰りよ。
――はい。
 お民は此の上|逆《さから》おうとはしないで、少し引き返したところの狭い横丁へ、いつものように隠れ込んだ。これはお民が京子に散歩の途中から追い払われ始めてから二三度やった術《て》である。こんな他愛もない術を正気の者なら直《じ》き感づくであろうに、と其処の杉の生垣の葉を片手の親指と人差指とでお民は暫《しばら》くしゃりしゃり揉《も》んで居た。すると、あの気の好い中年美人の狂気者が、頻《しき》りにお民にいとしく可哀相に想われるのだった。昔、評判の美人であり、狂人になっても、こどものうちからの友達の奥様に引きとられるまで、さぞいろいろの事情もあったろうに、何という子供まる出しな性分だろう。あれがあの人の昔からの性分なのか、それとも狂人というものが凡《およ》そああいう気持のものなのか。お民は、国で養女の年端もゆかない悪智慧に悩まされた事を想い出した。やっぱり奥様のお友達だけあって生れが好いからなのかしら、それであんなに自分の養女などとは性分が違うのかしらん、などと考えた。そのうちにもお民は京子が気になり出して、そっと横丁の古い石垣から半顔出して京子の動静を窺《うかが》った。
 京子は前こごみにせっせと行く。冬でも涼しい緑色の絹絞りが好きで、奥様も、よく次から次へと作って上げる。だがその上から引掛けに黒地に赤しぼりの錦紗《きんしゃ》羽織の肩がずっこけて居る。縫い直して上げようか、と考えながらお民は京子の歩行を熱心に見て居る。と京子はぴたりと停ち止まった。お民が隠れて居る所から一丁半も向うの此の屋敷町が直角に曲る所に、赤塗りポストの円筒が、閑静な四辺に置き忘れられたように立って居る。そのポストの傍で京子は改めて気急《きぜ》わしく四方を見廻す。
 京子の眼が少し据《すわ》って凄味を帯びる。丁度あたりに人影が無い。彼女は素早く右手で懐中から手紙らしいものを取出し、ポストの口へ投げ込んだ。それから一度右手を引いたが今度は指を投函口の中へ出来るだけ深く突込んで、根気よく中を探る様子、暫くして指を引き出し、今度はまたポストの口を丹念に覗《のぞ》き込んだ。これは此頃、殆ど毎日のように京子が繰り返す同一動作なのだ。一週間ばかり以前から、珍しくもない京子の動作なのだ。でも、今迄、お民は別に気にも留めず、普通の人が手間取って手紙を出す位にしか、その京子の動作を考えて居なかった。けれど今日、お民は不審を起した。お民の散歩について行くのを拒むのも、京子のこの動作のためにだと判った。京子には手紙を出す身内も友人も無いはずだ。終身|癒《なお》らない狂患者として親兄弟にも死に別れた京子が、三度目に嫁いだフランス人と離縁すると同時に、奥様に引き取られて以来、京子は世間とすっかり断絶して居る。
 お民が奉公に来てからも、京子に訪問客一人手紙一通来ない事を、お民はよく知って居る。

(一)

――ほんとうは私も困って居るんだよ。お京さんの出す手紙って出鱈目《でたらめ》なんだもの。
 お民から京子が毎日のように何処かへ手紙を出すことを密告された加奈子は、自分の恥しいことでも発見されたように当惑したが、お民が余り真面目《まじめ》に密告する様子も加奈子には可笑《おか》しい。
――お京さんはもう、今日のと合せて五通位出して居るのよ。
――へえ、どちら様へ?
――どちらってお前、それがとてもなってないの。
 加奈子はつい夫か友達に使うような言葉をお民に言ってしまった。お民は加奈子の気難しく困ったような唇辺に、可笑そうな微笑も交るので、もっと訊《き》き質《ただ》したくもあり、黙って引き退るべきであるような曖昧《あいまい》な気持になりながら、矢張り、も少し詳《くわ》しく聞きたかった。加奈子は、京子を娘のように可愛がるお民に隠すほどの事でもなかろうと思って、あらましを話した。
 近頃、京子は、狂人によくある異性憧憬症に罹《かか》って居るらしい。狂人にならない前の彼女は、現実の男女生活をむしろ厭って居た。彼女の結婚生活の破綻《はたん》も多分はそれに起因したに違いない。その彼女は、頭脳に於て寧《むし》ろ昔から異性憧憬者であった。狂人になればそれが病的に極端になるものかも知れない。最近殊に彼女の脳裡に一人の男性の幻像が生じたものらしい。でも、それは、誰という見当もない。漠然とした一人の男性に過ぎないようだ。ただ、手紙五通の内、同じ姓は殆ど無くても、名は皆秀雄様としてある。そして彼女は自分の住所姓名だけは確実に書きながら、先の住所は簡単に巴里《パリ》とか、赤坂とか、谷中《やなか》とか、本郷と書いて置くだけだ。初めいくらか不平に見えた配達夫も、しまいには京子ののん気さをにやにや笑いながら、それでも役目で仕方なく、笑止千万な手紙を返附配達して来るのだった。五六本も出せば京子も大方|諦《あきら》めて、あとは止めるだろう、でなくとも、監督してそんな配達夫なやませは止めさせるつもりのところへ、お民から今日も京子がポストへ行ったと聞かされたのだ。
 お民特有のべそをかくような笑いを残して加奈子の京子に対する気苦労を労《ねぎら》いながら、勝手の方へ立って行ったあとで、加奈子は此の間中から幾度も繰り返したように、京子の手紙の宛名に就いて考えて見た。秀雄、秀雄、そんな名前は京子の情事関係で別れた男の中には一人も無かった。
 加奈子はいつか、或る人から人間の潜在《せんざい》意識に就いて聞いたことがあった。過去に於ける思いがけない記憶までが微細に人間の潜在意識界へは喰い入っている。時として、それは一人の人間の現在、未来に重大に働きかけ、また、一時の波浪の如くにも起って消えるということだった。加奈子は、京子の過去のまるで違った方面に秀雄という名を探し考えて見たが判らなかった。大方加奈子とは知り合わない昔の小学校時代の隣の息子か、京子がM伯と結婚時代の邸内にいたという殊勝だった書生の名ででもあったろうか。それとも全然仮想の名か。手紙は五つの封筒に七つばかり、二つかためて一つ封筒に入れたのもあった。殆ど支離滅裂な語句の連続ではあるけれど、それでも京子の悲哀や美感や、リリシズムが何処か一貫して受け取れるようで、不思議な実感と魅力に触れる。


京子の手紙一
  秀雄様、お久し振りね。春でもお寒いわねえ。でも、いいわ、私のうちの庭の梅が先日咲いたばかりですもの。梅は春咲くに定《きま》ってますね。その梅、水晶の花を咲かせましたの。私がそれを水晶と言いますと加奈子はそんな馬鹿なことがって笑ってます。私は実に不平です。しかし、あくまでも水晶と言い通せない恩があります。加奈子は私の神様仏様ですから、でも、恩は恩。私は飽く迄あなたにだけは水晶と言い張って見せ度いのです。御同意下さいよ。しかし恩は恩です、私はこの家を困らせないように倹約します。お粥《かゆ》を喰べて暮そうとします。すると加奈子は体が弱ると言って喰べさせません。加奈子は優しいけれどしっかりして居て、とても同性の○なんか出来ません。恋しいのはあなたばかり。

京子の手紙二
  あなたをいくら探しても世界中には居ない気がします。それに探そうにも私、この家を離れられませんもの。加奈子は何でも私に呉れますもの。こんな好い人置いて行けないわ。緑色の絹絞りの着物、加奈子いつでも私に作って呉れるのよ。そして自分では古い洋服ばかり着てるの。加奈子は巴里で観たスペインの歌姫、ラケレメレエが銀猫の感じの美人だって憧れてんのよ。あなたスペインからラケレメレエ探して来て加奈子にやって頂戴《ちょうだい》。それにしてもあなたが恋しい。

京子の手紙三
  あなたちっとも返事呉れないのね。それにしても凶作地帯の事私気にかかるわ。私の持ってるもの何もかも遣《や》りに行こうか。でもダイヤなんか凶作地の畑へ持ってったらジャガイモ見たいに変質しやしないの。加奈子が、水晶の観音様しきりに拝んでんのよ。また私の病気が癒《なお》りますようにって拝んでんのでしょうよ。加奈子が私を病人扱いにする時、一番私加奈子が憎らしい。私加奈子の水晶の仏みたいに、あなたを小さく水晶にしよう。でもあなた何処に居らっしゃるの。世界の何処によ。明日はいらっしゃるのね。
 淋しいの。まるでハムレットか八重垣姫のように淋しいの。アンドレ・ジイド爺さんによろしく。爺さんの癖に文学なんか止めなさいってね。私淋しいわ。ああ地の中へ潜《もぐ》り度《た》い。

京子の手紙四
  加奈子の旦那さんは好い人よ。だけど若いうち好男子ぶって加奈子を嫌がらせたってから、私あんまり好かないわ。加奈子は若いうち私に済まない事したから私をこんなに大切にするんですって、何を済まないことしたんでしょう。あなた聞いて見て下さい。昨夜私変な夢を見たわ。私の体のまわりに紫色の花が一ぱい咲いてるの。其処へ猫が来て片っぱしから花を舐《な》めたの。花がみんなはげて古ぼけちゃったわ。私変な夢よく見るの。自分の歯がみんな星になったまま、口ん中で光ったりする夢など。ああ空には飛行機が飛んで居るのに、私は小さい馬車に乗って凶作地へ行きたい。直ぐ向うの凶作地にあなたが働いて居るように思えるの。
 加奈子が私に瓦斯《ガス》ストーヴを焚《た》いて呉れたの。紫のような火がぼやぼや一日燃えてるの。私、一日だまって火を見てたら、火の舌に地獄だの極楽《ごくらく》だの代り代りに出ちゃ消えるの。地獄のなかにはキューピー見たいな鬼が沢山居たわ。その周りに私をお嫁に貰って置きながら、すっぽかした男がうようよ居たわ。極楽って処、案外つまらないのね。のっぺらぼーの仏様が一つせっせと地面掘ってんのよ。でもそのあとが好いの。金と銀との噴水が噴き出してさ。おしまいに飛び出したの何だと思って? 秀雄さんあんたなのよ。初め加藤清正見たいだったのよ。あとでクレオパトラに逢いに行くアントニオになったの。それからナポレオンになり、芥川龍之介になり……ああ面倒くさい。早くあっちへ行きなさい。

京子の手紙五
  秀雄様、恋しく逢い度く思いますわ。でも恋しいと思う時、あなたは少しも来たらず、昨夜はなんですか、あんな大勢家来を連れて来て私の寝間の扉をとんとん叩いて……私、とうとう起きて上げませんでしたとも。あんなに遅く人を大勢連れて来て(足音でちゃんと判ったのよ)若《も》し私が戸を開けてご覧なさい。お民が直ぐに(お民は中将姫の生れ代りらしいの、おとなしくって親切だけど、いやに加奈子に言い付け口するの。やっぱり前の世にママ母に苛《いじ》められたからでしょう)起きてって加奈子に言い付けます。加奈子は今、劇作をしてますから。その中の主人公が、どんな武装をしてあなたを追いかけるか知れません。私それを思うと、あなたが可哀相で、じっと床の中に潜んで居ました。どんなに逢い度かったでしょう。私、泣いて泣き明しました。ああ、私とあなたは永遠に逢えない運命なのでしょうか。

京子の手紙六
  加奈子のダンナサンが今夜、加奈子に優星学(作者註、優生学[#「優生学」に傍点]の間違いならん)の話をしてました。私は何だかあてつけ[#「あてつけ」に傍点]られるような気がしました。私の父と母はイトコ同志で、みんなに結婚の反対されたんですけれど、父にして見れば母より好きな女、世界に無かったんですもの、イトコ同志なんて問題じゃなかったのよ。でも母はメクラだったんですって、そのくせ私の知ってる母はメアキよ。加奈子のダンナサンは私を馬鹿だと思ってるんでしょうか。イトコ同志の親に生れた馬鹿者やいと言うところを、優星学の談でうまくあてつけるのでしょうか。ああ、あなたが恋しい。植木屋にでもなってうちの庭に来てよ。でなければ活動の大学生になってこの近所へロケーションに来てよ。
 ああ、私は何のために生れたのでしょう。私は生れてから一度もあなたに逢いもしないのに、こんなに恋しくて仕方がない。私は……。

京子の手紙七
  恋し。
  恋す。
  恋せ。
  この文法むずかしい、「恋」という字、四段活用かしら。ああ、文法なんかみんな忘れた。
 もう書きません。私ラヴレターなんか書く資格ありません。わたしは廃《すた》れもの。池の金魚を見て暮そう。庭の花をむしって喰べましょう。今夜はうち、支那料理の御馳走《ごちそう》よ。
 ああ、加奈子の手を把《と》って泣きましょうか。そしたらあんた出ていらっしゃる? あんたどこの方、支那人? ユダヤ人? アングロサクソン? ラテン? 昔は日本人だったでしょう。ハンチング冠ってる? 無帽? ひょっとかしてあなた私の子供じゃないの。鼻ばかり大きな人だったらがっかりだわ。
 哲学勉強してんのも好いけど、文学、詩が一番好いわ。
 加奈子のダンナサン何故へんな画ばかりかくんでしょう。でも加奈子を大切にするからまあ好い人の部類よ。私は淋しいのよ。私のソバには四角な人も三角な人も居ないのよ。中将姫の生れ代りのお民ばかりよ。
 ああ、レオナルド・ダ・ヴィンチよ来れ。
 何卒《なにとぞ》々々お出で下され度《たく》、太陽と月を同時に仰ぎつつ待ち居ります。
 夜は寝室に一人居ります。夜がいいわよ。この間のように大勢家来なんかつれないで一人で、たった一人で、おしのび下されたく……。

 加奈子の家の矩形の前庭の真中に、表門から玄関へかけて四角な敷石が敷きつめてある。その一方には芝笹の所々に、つつじ[#「つつじ」に傍点]や榊《さかき》を這《は》わせた植込みがあり、他方は少し高くなり、庭隅の一本の頑丈な巨松の周りに嵩《かさ》ばった八ツ手の株が蟠踞《ばんきょ》している。それにいくらか押し出されて深紅《しんく》の花にまみれた椿《つばき》が、敷石の通路へ重たく枝を傾けている。
 京子は玄関の硝子戸《ガラスど》を開《あ》けて顔を出した。敷石をことこと駒下駄で踏んで椿の傍に来た。三月末頃から咲き出した紅椿の上枝の花は、少し萎《しお》れかかって花弁の縁が褐色に褪《あ》せているが、中部の枝には満開の生き生きした花が群がり、四月下旬の午後になったばかりの精悍な太陽の光線が、斜めにその花の群りの一部を截ち切っている。
 京子は椿の枝の突端に出ている一つの花を睨《にら》んだ。右の人差指で突いて放した。花は枝もろ共に上下に揺れる。揺れる花は気違いの眼の感覚に弾動を与える。それがだんだん小動物のように京子の眼に見えて来る……。突然、表門の傍戸のくぐりが、がらっと開いた。勢いよく靴音を響かせて、制服の学生が投げ込まれたように入って来た。京子はぎょっとして学生を見たが、突発的な衝動めいた羞恥《しゅうち》心が、一種の苦悶症となって京子を襲った。倉皇《そうこう》としてそむけた京子の横顔から血の気が退いて、顔面筋の痙攣《けいれん》が微《かす》かに現われた。椿を突いた京子の右の手は其《そ》の儘《まま》前方に差し出たなり、左手はぶらんと下って、どちらも小刻みに顫《ふる》え出した。そして両足は不意に判断力を失った脳の無支配下で、顫える京子の体躯を今迄通りにやっと支え、遁《に》げ込んで来た血の処置に困って無軌道にあがく心臓は、殆ど京子を卒倒させるばかりにした。どんな雑沓の中でも平気で京子は歩くかと思えば、たまにたった一人に逢って斯《こ》んな大げさな驚きをすることもある。
 誰が居るとも思わなかった門内に異常な女の姿を見て学生はちょっとたじろいだが、足は惰性で無遠慮に女の近くまで行ってしまった。そして女の妙なたたずまいから発散する一種の陰性な気配に打たれた。だが学生は直ぐに単純な明朗らしい気持に帰って、京子をこの家の者か親戚の者かと解釈して、
――御免下さい。奥様はいらっしゃいますか。
 学生の丁寧《ていねい》に落着いた言葉が、初め鼓膜まで硬直した京子の耳底に微かに聞えて、だんだんはっきりと聞えて来た。それにつれて京子の張り切った神経もゆるんで来た。京子は正気に返って、「はい」と返事をする代りに、はっ、と息を吐いたが、そのはずみに足が動いて、開け放しになっていた玄関の中へするすると動物的なすばしこさで遁げ込んでしまった。
 女中部屋へ駆け込んだ京子は、針仕事をして居たお民に、
――人、人が来た、お民。
 京子が、せかせか言う「人」という発音が、お民には何か怪物めいて聞えた。
――人? 何処へ。
 お民は縫物を下へ置いて京子の方へ向き直った。
――玄関へ、さ。
――へえ、どんな人が。
――金ボタンの制服。大学生だわ。
――何ですかお京様。その方さっき電話でお約束の方。奥様に講演を頼みにいらっしゃるとか仰言《おっしゃ》った方ですよ、きっと。
 お民は、さっさと立って玄関の方へ行ってしまった。
 京子はお民に愚弄《ぐろう》されたような不服な気持で其処へべたりと坐ってしまった。が、暫く膝に落して居た顔を上げた時、京子の瞳は活き活きと輝やき出した。
 加奈子に取次いだ客がじき帰って、お民は女中部屋へ戻って来た。すると京子はさも待ち構えたようにお民を抱く手つきで訊いた。
――あの方、私の事、何て仰言った?
――何とも別に仰言いませんでしたが……。
――だって……
――もうお帰りになりましたよ。
――まあ。
 京子は眼をきらきらさせてお民に問い寄った。
――あの方、私の事、何とも仰言らないで帰った? そんな筈《はず》ない。あの方、本当は私の処へ来た方なのよ。恥しいから奥様なんてかこつけたのよ。
――じゃお京様、遁げ込んでなんかいらっしゃらなければよござんしたのに。
――でも私恥しかったのよ。
 お民は、取り合って居てもきりがないと思った。で、また縫いかけの仕事を始めた。京子も黙ってしまった。黙って横坐りのまま障子《しょうじ》を見つめて居た。息は昂奮を詰めて居た。やがて京子は何かを見つけた。珍しく暖かい日の、春早く出た一匹の小さな蠅《はえ》だった。蠅は孤独の児のように障子の桟を臆病らしくのろのろ這って居た。京子はお民の針差から細い一本の絹針を抜いた。蠅の背中へ京子は針をしゅっと刺した。小さな蠅は花粉のような頭をしばらく振って死んでしまった。京子はしげしげそれを見つめて居た。そしてまた一方の手にそれを持ち代えて見つめて居たが、涙をほろほろとこぼして独言《ひとりごと》に言った。
――可哀そうに――死んで、親のところへ行くがいいのよ。

 京子はその後、毎日午後になると玄関傍の格子戸をそっと開けては誰かの来るのを待った。――先日来た制服の大学生の来るのを待つのだった。昨日も、一昨日も、今日も明日も来よう筈がなかった。それでも京子は来るものと定めて居た。とうとう来なかった。一週間目の夕方から京子はひどく不機嫌に憂鬱になった。脇目にもはっきりとそれが判った。加奈子はお民と一緒に京子の部屋へ詰め切りで、何かと京子の気に向く事をしてやった。が、京子は蓄音機も加奈子の三味線《しゃみせん》も、カルタ遊びも、本を読んで貰《もら》うことも気に入らなかった。京子はむっつりとして菓子も果物も食べなかった。
――早く寝たい。
 それがいっそ好かろうと、京子の言うなりに寝床へ入れてやることにした。加奈子は昼着よりも尚好い着物を京子の寝巻きに着せてやるのが好きだった。京子もそれが好きだった。今夜はお民が縫い上げたばかりの緑絞りの錦紗の袷《あわせ》を京子に着せた。京子は黙ってそれを着は着たが、今夜は嬉しそうな顔もしない。
――うるさい。早くみんな、あっちへ行って。京子は一旦は眠りについたが、遣り場のない不満な焦慮怨恨の衝撃にせき立てられて直きに眼が醒めた。睡眠中、疲労の恢復につれて再びそれらの雑多な感情が蘇って来た。それらは周囲の静寂につれて京子の脳裡に劇《はげ》しく擦れ合うのであった。
 静かな夜である。近隣の家々は、よどんだ空気の中に靄《もや》に包まれてぼやけて居た。二三丁|距《へだ》てた表の電車通りからも些《いささか》の響も聞えて来なかった。ぼやけて底光りのする月光が地上のものを抑え和《なご》めていた。
 京子の頭上の電燈は、先刻加奈子が部屋を出る時かぶせて行った暗紫色の覆いを透して、ほの暗い光をにじみ出している。
 京子は突然起き上った。蒲団の上に坐ってじっと何かに聴き入った。戸外からか、若《も》しくは自分の内心からか、高くなり低くなる口笛が聞えて来る。一心を口笛の音に集中した京子の外界に向く眼は、空洞のように表庭に面した窓に直面した。するとその眼の底の網膜には、外界との境の壁や窓ガラスを除外して直接表庭の敷石の上に此方を向いて佇立《ちょりつ》する大学生服の男の姿がはっきり映った。が、詰襟《つめえり》と帽子との間に挟まれる学生の容貌は、殆ど省略されたようにぼやけて居る。
――とうとう来たのね。今行く、待って居て。力を籠めて言った京子の声が竹筒を吹いた息のようにしゃがれて一本調子に口から筒抜けて出た。京子は葡萄葉形の絹絞りの寝巻の上に茶博多の伊達巻《だてまき》を素早く捲き、座敷のうちを三足四足歩くと窓縁の壁に劇しく顔を打ちつけた。
――あ、痛っ。
と京子は叫んだが、其の痛みは彼女の意慾を更に鞭《むち》打った。京子は直ぐさま窓に襲いかかり矢鱈《やたら》にそこらを手探りした。盲目のように窓を撫《な》で廻した。気はあせり、瞳は男の影像を見逃すまいと空を見つめて居るので、中々錠のありかが判らない。漸く二枚の硝子戸の中央で重なる梓の真中のねじ[#「ねじ」に傍点]を探し当てた。それからひどくがたがた言わせながら、玄関に近い一方の戸を開けた。庭の表面にただよう月光の照り返えしが、不意に室内に銀扇を展《ひろ》げた形に反映した。窓の閾《しきい》に左足をかけた京子は、急に寒けを催すような月光の反射を受けて足蹠《あしうら》が麻痺したように無力に浮いた。京子は一たん飛躍を見合せ、思い返して障子窓を開け放したまま玄関へ履物を取りに行った。京子は黒塗りの駒下駄を持って座敷へ引き返して来た。そして畳の上でそれを履き、今度は思い切って窓の閾へ下駄の歯を当てると、体の重味に反比例した軽い反動で訳もなく表庭の芝笹の上へ降り立った。
 京子は月光を浴びると乱れた髪の毛が銀髪に変色し忽《たちま》ち奇怪な老婆のように変形した。京子はその奇怪な無表情の顔を前へ突き出し、両手を延して探ろうとしたが、先刻の影像らしい黒い靄のたたずまいが、以前の位置からすっと動いて表の潜戸《くぐりど》の方へ消えて行った。京子は走って潜戸まで行く。幻影はまた逃げる。潜戸を出て左へ走り、鉤《かぎ》の手に右に曲った。京子は口惜しさに立ち止まった。自分を迎えに来て呉れたと思った男が、誰に気兼ねの要らない真夜中に何故あちらこちらへ遁げ歩くのか。それとも男に別な考えがあるのか。京子はもう猶予して居られなかった。勢いを倍加して一散に当所《あてど》もなく走り出した。

 真夜中、半死人のようにぐったりと疲れた京子が、中年の巡査に抱えられて戻って来た。加奈子は驚き呆《あき》れるお民を叱るようになだめて、京子を床に入れた。そして足がひどく冷えているので小さな湯たんぽを入れて温めると、京子は何も言わずに眼をつむって居た。巡査の言うところでは、この真夜中|裾《すそ》も髪も振り乱して、電車通りまで何者かを追って走って行った京子が、巡回の巡査に捕えられたのだ。初めは強硬に反抗した京子が、とうとう疲れて連れて来られた。都合よく京子の精神病者であることも、加奈子の家に居る者だということも巡査は知って居た。
 すっかり疲れ切って寝床に横わる京子を頻《しき》りにいたわろうとするお民を、加奈子は無理に引きさがらしたあと、京子の開け放して出た窓の戸をしめて、また京子の枕元に一人坐った。平常、少し赫味を帯びて柔く額に振りかかっている京子の髪の毛が、今夜の電燈の下では薄青く幽なものに見える。
 京子に対する不憫《ふびん》と困惑が加奈子の胸に一時にこみ上げる。巡査が帰りがけにそれとなく厳しく注意していった通り、京子はもっと今後厳重に保護しなければならない。お民と加奈子が交代して、夜、京子の寝室に居なければなるまい。今夜のような京子の行為も、いつぞや京子の医者が言ったように、狂者の一種の変態性慾の現われではあるまいか。この症状が執拗《しつよう》に進展して行ったら、京子はしまいにはどんな行為をするようになるだろう。
――ははあ、親戚の方でもなし、ただ、昔の友達さんというだけの縁で、此の病人を引き取って居られるんですね。
と巡査は帰りがけに加奈子に、それは如何《いか》にも酔興《すいきょう》だと言うような、また如何にも感服したというようにもとれる口の利《き》き方をして行った。加奈子は、巡査の言葉をその時おせっかいな無駄口のようにも聞いたけれど、落着いて考えると、他人から冷静に見れば、自分が京子を引き取っていろいろな難儀を生活に纏《まと》わされるのが、不思議なのも無理はない。京子を引き取った理由が今更、加奈子に顧《かえり》みられる。
 京子は加奈子の若き日の美貌の友だった。加奈子は京子にとってこころ[#「こころ」に傍点]の友であった。加奈子は京子の上品な超現実的な性質も好きではあったが、結局、京子は加奈子の美貌だけの友だちだと断定出来る。京子は自分のどんな心境や身辺の変遷《へんせん》でも隠すところなく打ち明けて、加奈子のこころをたよって来たのに、加奈子は自分自身の運命や、こころを京子に談《はな》した事はなかった。何も意地悪や、薄情や、トリックでそうしたわけではなかった。京子よりしっかりした自分のこころなんか、デリケートな京子に打ちつける気もしなかった。加奈子は京子の美貌や好みの宜《よ》さなどを美術的に鑑賞して居るだけで、京子との交際から十分なものを貰《もら》って居ると想って満足して居たのだった。京子の若い日の癖の無い長身、ミルク色にくくれた頤《おとがい》。白百合《しらゆり》のような頬、額。星ばかり映して居る深山の湖のような眼。夏など茶絣《ちゃがすり》の白上布に、クリーム地に麻の葉の単衣帯《ひとえおび》。それへプラチナ鎖に七宝《しっぽう》が菊を刻んだメタルのかかった首飾りをして紫水晶の小粒の耳飾りを京子はして居た。その京子は内気で何か言おうとしても中々声が出ないのだ。(気違いになってから京子は却《かえ》ってよく話し出した)出る声は慄《ふる》え勝ちで、よくぱっと顔が赫くなった。めったに人と口を利かない割合に気位が高かった癖に、よくも三度も結婚する程、男ばかりには乗ぜられたものだ。加奈子は黙ってそれを看過して居たのだ。「美しい花は動き易い」と、つまりは観賞一方だった。京子が親も財産も男も失くして気違いになってから、俄《にわ》かに加奈子の心がむき出しに京子に向った。寒い、喰べもののまずい病院から引き取って世話をしたと言ったまででは、極々《ごくごく》当りまえの世話人根性のようだけれど、その実、気違いの京子と暮す事は何という気遣いな心の痛む事業だろう。それに此頃のように、恥も外聞もなく異性憧憬症にかかった京子にかかわることは、自分の恥しさに触れられるようで、たとえばお民とか、良人とか、今の巡査とかの限られた人達でなく、おおげさに言えば、何か天地の間の非常な恥しいことに触れて居る自分を、天地の間の誰にでも見られて居るようで、非常に辛《つら》くて堪らない。
 斯《こ》うして京子を庇《かば》って暮すことは物質的にも精神的にも、加奈子の負担は容易ではない。それにも拘《かかわ》らず加奈子の心のどん底では、これが当然自分の負うべき責任だと考えて居る。
 自然な負担だという処に考えが落着いて居る。
 義務とか、道徳とか名付けられない心の方向が、確かに此の世の中の人達の行為を支配して居る。加奈子はそれを疑うまいと結局の考えに落着くのであった。
 加奈子は立ち上って、跳ね飛ばされていた電燈のカヴァーを掛けた。空寝か、本寝か、京子は眼を瞑《つむ》って動かない。京子は気違いになってから、いたずら小僧かとぼけ婆さんのように、ばつの悪い時、よく空寝をやるようになった。

(二)

 気の違っている京子の頭が、四五日前からまた少し好くないようだ。眼のなかに大きな星が出来たと騒ぎ始めた。朝起きると直ぐから、家の者に行き当り次第、眼を持って行く。
――私の眼に、大きな白い星が出てるでしょう。私、どうしても出てると思うよ。
 そんなことはない、あなたの眼は、いつもの通り、はっきりと開いている。眸《ひとみ》が却っていつもより綺麗だ。覗《のぞ》いて視ると、庭の木の芽が本当の木の芽よりずっと光って冴《さ》え冴《ざ》えと映っている。と言っても京子は納得し切らない。
――そうかしら。
 京子は一応おとなしく聴き入る。で却って不憫《ふびん》になり、あとから捉まってまた訊かれる者も、素気なく振り切れない。
 鏡を持って行って見せてやる。丸い手鏡の縁に嵌《は》まって、よく研ぎ澄ました鏡面が、京子の淋しいきちがい[#「きちがい」に傍点]の美貌へ近づく。春の早朝の匂いのような空気が、明けたばかりの硝子戸から沁み込む。細い手で受け取った鏡を、京子は朝日にかざしてきらり[#「きらり」に傍点]と光らせ、傍の者を眩《まぶ》しがらせてから、も一度、朝陽の在所《ありか》を見極める。鏡と朝陽の照り合いを検《しら》べる。そして、自分も鏡のなかへ映る自分の眸に星があるか無いか検べるから、傍からもよく鏡の中の自分の眸と本当の自分の眸を見較べて欲しいと言うのである。
――無いね。星なんか無いね。
 京子は涼しい歯を出して、傍の者を振り返って嬉しそうに笑う。笑ったかと思うと、今度は態《わざ》とのように暗い障子の方を向き、最も不利な光線を、鏡の背後に廻して、苦々しく眼のなかを覗き込む。
――星。有るわよ。有るわよ。
 京子は、頓狂《とんきょう》に言って鏡を持たないあいている方の手の指で、眼瞼《まぶた》を弾く。自分の手で自分の瞼を弾くのだから、いくらか加減して居るに違いないと思って見ても、可なり痛かろうとはらはらさせられる程きつく弾く。
 洗顔を済ませて口紅をさしただけの加奈子が其処へ現われると、京子は鏡をばたりと縁側へ落して鼻をすんすん鳴らすのである。
――今朝も眼に星が出たの。
――嘘《うそ》。
 加奈子は優しく京子を叱《しか》った。加奈子より一つ年上で、加奈子よりずっと背の高い京子が気違いのためか、心も体も年齢の推移を忘れ、病的な若さを保って居る。京子は、長く一緒に棲むうち、いつか加奈子を姉のように慕い馴れた。気の違って居る者に人生の順序や常道を言った処で始まらない。加奈子は二年程前から子の無い善良な夫との二人暮しへ、女学校時代からの美貌の友、足立京子の生きた屍《しかばね》を引き取って、ちぐはぐな、労苦の多い生活を送って居るのである。ただ、時々この生活を都合よく考える時、京子が気違い乍《なが》ら昔の俤《おもかげ》をとどめてまだ美貌であることと、加奈子の詩人気質が、何か非常にロマンチックな幻想を自分の哀れな生活に仮想すること。それに依って加奈子の病人を背負った惨めな生活の現実的労苦が、いくらか救われる。
――嘘。
 加奈子は、今一度京子を叱って自分の態度へバウンドを付けた。京子が、目星を執拗に気にする偏執性を退散させるには、加奈子はやや強い態度が必要だった。
――あなたはあんまり此頃わからずや[#「わからずや」に傍点]よ。出もしない目星ばっかり気にし続けて……。
 強く張ろうとした加奈子の語尾は、しん底弱って落ちて行った。
――あら、御免《ごめん》よ。じゃ、もう星の事なんか言いませんよ。ねえ、御免よ。御免よってば。
 これが、四十近くの女のしな[#「しな」に傍点]であろうか。気違いなればこそ京子が、少女のようなしな[#「しな」に傍点]をしても、それが少しも不自然ではない。
 昨夜、早く寝た京子の顔は、青白い狂女の顔ながら、健康らしく薄く脂《あぶら》が浮いている。だが、この三四日、目星ばかり気にし続けて居た京子の偏執が、今朝もまだ、眉や顎に痛々しい隈を曳《ひ》いている。加奈子は、京子の青い絹絞り寝巻の肩に手を置いて言った。
――お京さん、今日は好いお天気ね。何処かお花の沢山咲いている方へ散歩に行こうね。序《ついで》にお医者様へも。
――ううん。お医者へなんかもう行かないよ。もう何処も悪くないもの。
――だけど、ちょっと行って見ない。散歩の序に。
――………。
 京子は発病当時暫く居た脳病院の記憶が非常に嫌なものであるらしい。でも、加奈子に引きとられてから、加奈子が京子を絶対に病院に入れることはしないと信じて居る。で、時々、加奈子が連れて行く病院へ、診察だけに行くには行った。ただ、いつも気が進まない様子をまざまざ見せる。
 京子は、病気の好くない時はいつも喰べものを喰べない癖がある。この三四日また京子の喰べない日が続いた。
――今日は喰べるのよ。ね、お京さん。オムレツとトーストパン、ね、バナナも焼いて上げるわ。喰べるのよ。
――いや。
 京子は解けかかる寝巻帯をかぼそい指で締め直しながら首を振った。
――何故、じゃ、お豆腐《とうふ》のおみおつけ[#「おみおつけ」に傍点]に、青|海苔《のり》。
――いや。だって喰べると、またもっと星が眼に出るもの。
――まだ、あんな事言ってる。
 加奈子はそっと涙ぐんだ。京子はこうなると消化不良になり、食慾をまるで無くしながら、目星だの、まだ時々途方もない架空の妄想《もうそう》を追いかけて一週間も十日間も、殆ど呑《の》まず喰ずだ。それでも割合に痩《や》せも窶《やつ》れもしないのが矢張り気違いの生理状態なのかと呆《あき》れる。呆れながら加奈子は却ってそれが余計不憫になる。
 京子がひょっとして或る病的妄想に捉《とら》われ出すと、加奈子の生活はまるで憑《つ》きものにでも纏《まと》われたように暗い陰を曳き始める。京子は幻覚や妄想に付き纏われる脅迫《きょうはく》観念のために、加奈子の身辺を離れようとしない。加奈子は、悲しみ、恐れ、甘え纏わる京子と一緒に、自分も亦《また》引き入れられるような不安と憂鬱に陥る。でも、長い月日のうちに、加奈子はいつかそれにも馴らされて行った。そして、その時々の局面を打開して行く術さえ覚えた。加奈子は、飽き安いこの病症の者に新しい感触を与えるように、京子を時々違った医者や病院へ連れて行った。京子の病症が不治のものにしても、この上重らない用心のため、時々変った医者にも診て貰って置き度《た》かった。

 加奈子は近頃或人から聞いた、東京での名精神病院へ京子を連れて行くため家を出た。山の手電車を降りると自動車を雇《やと》ったが、京子は絶えず眼を気にして往来を視ない。外光を厭って黒眼鏡を掛け、眼を伏せて膝の上の手ばかり見つめて居る。京子の片手は何かに怖《おび》え慄《ふる》えて加奈子の膝の上に置かれた。加奈子はその手を見詰めて居るうちに、二十年前の二人の少女時代の或る場面を想い出した。京子が此の手の指で、薄ら埃《ほこり》の掛っている黒塗りのピアノの蓋《ふた》を明けたことを想い出した。
――ベートーベンの曲は、私、自分で弾《ひ》いて居ても圧迫を感じるのよ。
 京子には、より情緒的なショパンの曲が適していた。鋭いリストの曲も、京子は時々は好んで弾いた。京子のピアノは余り達者ではないが、非常に魅力があった。その時、加奈子は、何故か疲れて京子のピアノを聴いて居た。ピアノの上の花瓶《かびん》に、真紅の小|薔薇《ばら》が一束挿してあった。時折この薔薇が真黒な薔薇に見えると京子は怖えた様子で話した。あの頃から、京子の心身には、今日の病源が潜んでいたものらしい。それから或る年の暮、青山墓地通りの満開の桜の下を二人は歩いて居た。すると前方から一列の兵士が進んで来た。近づいて来ると兵士達は、靴音をざくざくさせながら、二人にからかい[#「からかい」に傍点]始めた。二少女は慌《あわ》てて道を避けようとした。その時、列の中の一人の兵士が、かちゃりと剣を鳴らして二人にわざとらしい挙手の礼をした。と、京子は狂奔する女鹿のように矢庭《やにわ》に墓地を目掛けて馳け込んだ。その時、京子の手が鞭《むち》のように弾んで、加奈子の片手を引き攫《さら》った。一丁ばかり墓地の奥まった処に少し開けた空地があった。腰かけられる石台が三つ四つ、青|楓《かえで》の大樹が地に届くまで繁った枝を振り冠っていた。京子は茲《ここ》へ来て佇《た》ち止ると、片手で息せく加奈子の手を持ち、片手で繁る楓の枝を掴《つか》んだ。道の兵士達はタンクのように固り乍ら行き過ぎようとして居た。京子は楓の枝の間からぎらぎら光る眼で兵士達を見据えた。その時の京子の上気した頬と光る眼、真青な楓の葉ごと枝を握った真白な細い指が、今、加奈子の膝に置かれた京子の指の聯想《れんそう》から、加奈子の眼に浮ぶ。あのようにも怖え、興奮した京子には、後年気違いになる前兆《ぜんちょう》が、まだまだいくらもあった筈だ。

 病院の門内に敷き詰めた多摩川砂利が、不揃いな粒と粒との間に、桜の花片をいっぱい噛《か》んでいる。
――何処かに、とても大きな桜の樹があるのよ。ね。
 加奈子は、俯向《うつむ》き加減に加奈子の肩に手を掛けて居る京子を元気づかせようとして言った。
――うむ。
 京子は黒眼鏡を金輪のように振って四方を見た。桜は病院のうしろの方に在るらしい。四方一帯、春昼の埃臭《ほこりくさ》さのなかに、季節に後れた沈丁花《じんちょうげ》がどんよりと槙《まき》の樹の根に咲き匂っている。
 古ぼけた玄関。老い呆けた下足爺。履《は》き更えさせられた摺《す》り切れ草履《ぞうり》。薄暗い応接間。この古ぼけた埃臭さが、精神病患者と何の関係を持つべきものなのかと、加奈子は誰かに訊き度いくらいに不愉快だった。疲れ切った椅子テーブル、破れた衛生雑誌が卓上に散ばっており、精神修養の古本が一冊、白昼の儚《はかな》い夢のように、しらじらしく載っている。
――いやな病院!
 京子が遂々《とうとう》言ってしまった。京子の声は低くて透る。加奈子は、あとを言わせまいとしたが、傍の患者に附き添って居た四十男が聞いてしまった。男は、加奈子の気兼ねを受け取るように愛想よく言った。
――院長さんが、まったく体裁をかまわないんでしてな。その代り此処《ここ》の博士の診察は確なもんですよ。は、は、は、は。
 この元気な附添人とは反対に、固くなって黙りこくって居る患者の若い男は、盲人のように黒くうずくまって居る。
 廊下に面した応接間の扉は、開《あ》け放してある。廊下を絶えず往来する看護手たちの姿が見える。年齢は大方四十前後位。屈強な男子達で、狂暴な男性狂者の監禁《かんきん》室の看守ででもあるらしい。白い上被も着た人相骨格の嶮岨《けんそ》に見える者ばかりだ。無制限な狂暴患者に対する不断の用心や、間断無しの警戒、そしてあらゆる異端のなかで、時には圧迫的にも洞察的にも彼等の眼は光り続けていなければならないためか、自然底冷く意地悪そうに落ち窪《くぼ》んでしまうのであろう。一人、二人ずつ彼等はときどき応接室へ何かの用事で出入する。それを京子はちらちら視て、如何にもうんざりしたように加奈子の肩へ首を載せ、眼を避《そ》らしてしまった。京子はもう疲れ切り、眼星の幻像にこだわるのも倦《あ》いて、すっかり無気力に成り果てたようだ。黒眼鏡もいつか外《はず》して居る。
 一組の男女が応接間へ入って来た。まだ席も定めないのに、そのなかの粋な内儀風の女がせき込み、涙ぐみながら言い出した。
――何しろ当人は、自分の間違って居ることが判らないんだからね。何故俺を斯《こ》んな処へ入れたんだ。他に男でもこしらえ…………。
 女は傍目を憚《はばか》ってあとは言えない。
――それが病人のあたりまえの言い分なんだから仕方がねいわさ。
――でも、あんまりだわ。おじさん。
――だから、あんまり酷《ひど》けりゃ院長先生に納得させて貰うんだな。
 おじさんは五十前後の商家の主人らしい温厚そうな男。
――あれっ。
 京子が頓狂《とんきょう》な声を挙げた。
――火の玉! あれっ。
 それは応接間の窓際の紅椿だ。
――駄目。驚いちゃあ。花。椿の花。
 加奈子が少しきつくなだめると、京子は、ぽかんとして椿の花を見直して居た。すこし経つと、恐怖の引いたあとの青ざめた顔を妙に皺《しわ》ませ、てれ[#「てれ」に傍点]隠しに室内の人々の顔をおどけたような眼で見廻した。が、京子は皆が自分を注目して居たと知ると、極度の羞恥心で機嫌が悪くなり、加奈子の手を荒々しく把って室から出ようとした。其処へ看護婦が京子の名札を持って呼びに来た。

 一つ一つ黒い陰を潜めているような陰気な幾つもの扉を開け閉めして、二人は診察室の次の控室へ連れて行かれた。
 茲《ここ》にも古い疲れた椅子《いす》、長椅子、そして五六人の患者や附添が、坐ったり佇ったりして居た。加奈子は、新しい人達の群に来てまた新しい刺戟《しげき》を京子に与えることを恐れた。それで、京子の肩を抱くようにして自分の隣に京子の椅子を押しつけ、京子の首を自分の懐《ふところ》に掻き込むようにした。
――疲れてるわね。あんた、斯うして、少しおねむり。
――うむ。
 京子の声が素直に、加奈子の懐に落ちて行った。いくらか赤味を帯びた京子の柔い髮の毛が、乳呑児《ちのみご》のようにかぼそいうなじ[#「うなじ」に傍点]に冠り、抱えて見て可憐《かれん》そうな体重の軽さ。背中を撫でると、かすかに寝息のような息づかい。
 見栄《みえ》も外聞《がいぶん》もなく加奈子に委《まか》せ切った様子が不憫で、また深々と抱き寄せる加奈子の鼻に、少し青くさいような、そして羊毛のような、かすかな京子の体臭が匂う。
 室内の患者の一人は三十歳ばかりで色白のふくよかな美貌の女。その女はその美貌を水も滴《したた》るような丸髷《まるまげ》と一緒に左右へ静かに振って居る。一しきり振り続け、ちょっと休む間には何かぶつぶつ口籠《くちごも》りながら呟く。涙を流す。丁寧《ていねい》に涙をハンケチで拭い取り、何かまたすこし口籠りながら呟くと元のように、首を左右に振り続ける。附き添う老婢のものごし、服装の工合。何処か中流以上の家庭の若夫人ででもあるらしい。
 その隣席には手足の頑丈な赫ら顔の五十男が手織縞の着物に木綿の兵古帯。艶のよいその赫ら顔を傾けて独り笑いに笑い呆けて居る。声を立てない、顔だけの笑い。嬉しいのか楽しいのか判然せぬ笑い。これは一体何狂というのか、と加奈子は危く笑いに曳き入れられそうな馬鹿々々しい自分の気持を引き締めながらその男をつくづく眺めた。この男は農夫に違いなかった。附添は丁度、その男をそっくり女にしたような百姓女だ。妻であろう。
 やや離れて中年の教員ででもあるらしい男。独りぽっちで隅の方から眼ばかり光らせて居る。痩せ抜いた体が椅子の背と一枚になっている。上品な老爺の附いた学生が絶対無言という様子で鬱《ふさ》ぎ込んで居る。蓄膿《ちくのう》症でもあるのか鼻をくんくん鳴らして居る。
 年増看護婦が診察室から出て来た。番に当る患者を見廻して名札を読んだ。
――吉村さん。
――はあい。
 少女の口調で返事をしたのは意外にも赫ら顔の百姓男だった。男は先刻からの阿呆笑いをちょっと片付け椅子から立ち上って看護婦に近づくと、今度は前とは違った得意な笑顔になり幾つも立て続けに看護婦にお辞儀《じぎ》をするのであった。それは何か、人が非常に厚意に預《あずか》る前の態度だった。妻女は慌てて患者のあとから立ち上って、これはまた何か非常に恥しい出来事でも到来する前のような恥らいを四方の人に見せておどおどした。
 診察室の入口の一角を衝立《ついたて》で仕切って、病歴ノートを控えた若い医員が椅子に坐って居た。看護婦は男患者を其処へ連れて行った。妻女もあとから随《したが》って行った。
――吉村さん、吉村さんですね、あなたは。
 若い医員は、得意そうににやにや笑いながら入って来た男患者を真向いの椅子に坐らせて訊いた。
――はあい…………。
 狂患者に馴れた若い医員も少し面喰らった形で眼をしばたたいた。
――あなたのお名前は。
――はあい(ちょっと間があって)お春…………。
――あれ、そりゃあ、わたしの名でねいか、お前さん。
 妻女はやっきとなってそれを遮《さえぎ》っても男は悠々と真直ぐに医員の顔を見遣って、次の質問を得意そうに待って居る。医員は気の毒そうに妻女を見たが、また患者に向って訊き始めた。
――吉村さん。あなたのお年はお幾つですか。
――年でえすかねえ………年は………はあと………幾つでしたかね………はあと……たしか十九……へえ、十九で………。
 妻女は益々躍気となって体を揺った。
――なに言うだね、この人は。先生、そりゃ娘の年でございますよ。
――まあ、よろしい。
 だが、妻女を制しながらも医員もとうとう笑ってしまった。控室の人たちも笑ってしまった。みんな堪えて居た笑いが一時に出た。なかでも一番高声に笑ったのは当の患者だった。加奈子も京子を抱いた胸をふくらまして笑ったが、その笑いが途中で怯《おび》えてひしゃげてしまった。加奈子の真正面の患者の笑いが余り陰惨なのに加奈子の笑いが怯えたのだった。その教員風の男の笑いは、底深く冷く光った眼を正面に据え、睨《にら》みを少しもゆるめずに、顎と頬の間で異様に引き吊った笑いの筋肉の作用が、黒紫色の薄い唇ばかりをひりひりと歪《ゆが》めた。その気味悪い笑いのうしろで立てたしゃくりのような笑い声が、加奈子を怯えさせたのであった。
――うるさい。何笑ってんの。
 京子が眼を覚まして首を持ち上げた。まだ眠くて堪らない小犬のように眼はつむったまま加奈子の笑い声をうるさがった。京子は不眠症にかかり十日も夜昼眠れない。すると、あとは嗜眠《しみん》症患者のように眠り続ける。京子は昨夜あたりから、またそうなりかかって居る。眠くて眠くて堪らないのだ。
――ハンケチ。
 京子は子供が木登りする時のような手つきで、延び上って加奈子の耳へ片手で垣を作り、あたりを憚《はばか》ってハンケチをねだった。眠ってよだれ[#「よだれ」に傍点]を出すのは京子の癖だ。
 加奈子は片手で袂《たもと》のハンケチを出しながら、京子が成るだけ陰惨な周囲を見ないように、また自分の胸へ京子の顔を押しつけようとした。
――患者さん御気分でもお悪いのですか。
 若い親切らしい看護婦が加奈子の傍に佇って居て訊いた。
――いいえ、眠いんですの。今朝早く起したものですから。
 看護婦は、加奈子が自分よりも背の高い京子を持てあまして居るのを見兼ねて、
――では寝台ですこしお休せ致しましょう。御診察の番は少しあと廻しにして。
――有難う、でも私|斯《こ》んなにしてること馴れてますの。
――けど、患者さん転寝《うたたね》してお風邪でも召すといけませんから。
――ねむい、寝台へ寝る。
 京子は決定的に看護婦の親切にはまってしまった。
 寝台のある部屋――加奈子はこの病院へ来て、初めてここで新しいものを見た。この病院の人間の誰が斯んな装飾をしたものか。花瓶、油絵、額。温和な脚を立てている木製の寝台に純白と紫|繻子《しゅす》を縫い交ぜた羽根蒲団が、窓から射し込む外光を程よくうけて落着いて掛っている。
――帯といて寝る。
 京子は緑色塩瀬の丸帯へ桜や藤の春花を刺繍《ししゅう》した帯を解くと、加奈子に預けて体を投げ込むように寝台へ埋めた。
――蒲団|被《かぶ》って居れば眼から星なんか出やしない。
 まだ、そんな事を言って居る京子の声は、被っている蒲団のなかに籠《こも》って猫のようだ。京子は被った蒲団からちょっと眼を出して加奈子を見た。
――番してんの。
――ああ。
 だが、この可憐なエゴイストは直《じ》きに寝息を立て始めた。そして眠りが蒲団を引被っていた手をゆるめると、京子の顔は蒲団から露《あら》わに出た。
 デス・マスクのようだ。何という冷い静かな気違いの昼の寝顔。短くて聳《そび》えた鼻柱を中心にして削り取ったような両頬、低まった眼窩、その上部の広い額は、昼の光の反映が波の退いた砂浜のように淋しく角度をつけている。眉毛は柔く曳いていても、人間の婦人の毛としての性はなく、もろい小鳥の胸毛のように憐れな狂女の運命を黙祷している。不自然に結んだ唇からは、殆ど生きた人間の呼吸は通わないもののようだ。
 これが、むかし――城東切っての美少女だった足立京子のなれの果てか――だが、あの美貌が、今日の京子の運命を招致したものと言えば言える。
 京子の美貌をめぐったあの数多くの男性女性。加奈子も亦そのなかの一人であった。そして、ほかのそれらの男性や女性と同じように、京子の美貌ばかりに見惚《みと》れて居て、京子のこころ[#「こころ」に傍点]にまで入って行かなかったのも、加奈子は皆と同様だった。京子が、その美貌ばかりを望まれて、Y伯、M武官、そしてそれ等の男性に飽かれてフランス人のHさんにまで嫁いで行き、またちぐはぐになった揚句、とうとう気違いになるまで、加奈子は美しい花が、あやうい風に吹き廻されるような美観で、うかうか京子の運命を眺めて居た。
 どちらかと言えば甘くて気位の高い世間智の乏しい京子が、京子の運命を黙って視て居た加奈子の性質をむしろ頼み甲斐に思って頼み続けて二十年近くの交友が続いた。然《しか》し、加奈子にして見れば、京子が加奈子をこころ[#「こころ」に傍点]で頼って居て呉れたとは較べにならないほど、京子を、美貌ばかりの友として居た。加奈子が自分の恋愛や、研究等に就いては一向京子に打ち明けなかったのも、その証拠だ。京子は加奈子に就いて、そんな性格解剖もしなかったのか、出来ないのが京子の性質であったのか、京子は殆ど加奈子との迂濶《うかつ》な友情を疑ったことはない様子だった。兎《と》に角《かく》、加奈子は京子にもっと批判的な親切で向って居たなら、加奈子の親身な友情だけでも、京子はもっと、或る時期から運命の立てまえをほかに転じて居て、まさか、気違いになり果てるまで、運命に窮し果てはしなかったように考えられる。そう気づいたからこそ、加奈子は京子を今更引き取った。今度は本当に、こころ[#「こころ」に傍点]ばかりで京子に尽そうと決心した。もう治らない病人として或る精神病院へ終身患者として入れられていた京子を――京子は士族で中産階級の肉親とも死別し、財産もなくして居た――加奈子は自分の家へ引き取って来た。
 京子はもう、その時は加奈子の立て直った友情を有難いとも嬉しいとも感じないような気違いの顔をしていた。それがごく、当り前のような気違いの顔をして引き取られて来た。そして可成りな我儘と厄介な病症を発揮した。だがまだまだ仕合せな事に、もともと悪どくない京子の生れ立ちのためか、加奈子は気違いの京子から、他の気違いのする穢《きた》ならしさや極道に陰惨な所業は受けなかった。京子は狂っても矢張り狂った花であった。美しさは褪《あ》せても一種幽美な気違いの憐さがあった。加奈子は京子の憂鬱や偏執に困らされても、悪どい悲惨極まる生活には陥されるようなことはなかった。見当違いや、煩わしさや、憂鬱や偏執に、「我《が》」も「根《こん》」も尽き果てようとする時、加奈子は、不意に、京子のその半面の気違いのロマンチックに出遇う。――今年うち[#「うち」に傍点]の梅に水晶の花が咲くと言い暮して居た京子が、本当の梅の花が咲いても、水晶の梅だと言い切って、花のこぼれるのを惜しがり、緑色絹絞りの着物の上に、黒地絹に赤絞りの羽織を着、その袂で落ちて来る花を受けて、まだ寒い早春の戸外で半日でも飽きずに遊んでいる。毎日々々それが続いた。「美しいな」と見惚れて加奈子は、なんだ、気違いになった京子までを享楽してはならないぞと、自分で自分の心を叱る声を聞いたことがあった。京子は気違いのくせに色の鑑識などもよく判った。京子のねだる着物を加奈子が買って遣れば、それは本当に京子によく似合った。加奈子が夜の外出に、黒いソアレを着れば、緋のフランスチリメンで早速《さっそく》花のようなものを造って呉れた。玄人の造った造花でないので、却ってふさふさとして加奈子の胸のあたりに垂れ下り効果があった。京子はまた、妙につまし[#「つまし」に傍点]かった。女中達にはおいしい肉のおかずをして遣って呉れと加奈子にねだりながら、自分は幾日でも白粥《しらがゆ》を喰べ続ける。白粥に青菜を細かく刻んでかけて喰べるのであるが、加奈子もそれにつき合わされる。体が弱るようで幾日も幾日もそれでは困ると言いながら、加奈子の美感は寧《むし》ろ京子の喰べるそのたべもの[#「たべもの」に傍点]の色彩なり、恬淡《てんたん》さを好んでも居る。そして加奈子はそっと京子の陰へ廻って肉や肴《さかな》を喰べた。

――患者さんまだおやすみですか。ちと代りましょう。裏庭の方でも御覧になっていらっしゃいまし。
 先刻ここへ京子と加奈子を連れて来て呉れた若い看護婦が入って来て言うのである。
――ええ、ありがとう。好いお天気ですね。
――ちっと気晴らしに庭でも御覧になっていらっしゃいませ。桜が咲いて居りますから。
 加奈子は、表庭に一ぱい散って居た桜の花片を想い出した。
――では、ちょっとね。お願いしますわ。眼が醒めたら直ぐ知らして下さい、ね。
――はあ、かしこまりました。
 京子を覗いて、よく寝入って居らっしゃいますこと、と看護婦が言って居る言葉をうしろに聞きながら加奈子は廊下へ出た。今まで居た室内とは同じ建物のうちかと怪しまれる古ぼけた廊下だ。だが先方の何処かに非常に明るい処があるのを想わせる廊下だ。加奈子が、ふらふら歩いていると、前方から青ざめた女が来た。狂女(?)、加奈子は、ぎくりとして廊下の端へ身を寄せて少し足早に歩き出した。加奈子は、素知らぬ顔で行き過ぎようとして女をそっと視た。渋い古大島の袷《あわせ》に萎えた博多の伊達巻。髪は梳《す》き上げて頭の頂天に形容のつき兼ねる恰好《かっこう》にまるめてある。後れ毛が垂れないうちに途中で蓬々《ぼうぼう》と揉《も》み切れてかたまり合っている。三十前後の品の好いその狂女は、おとなしく加奈子に頭を下げて行き過ぎた。
 重く入り乱れた足音がした。加奈子はもうこの廊下から引き返そうと足を反対の方へ向けかけた。と、いきなり横の扉が開いて肥満した女が二人出て来た。一人は看護婦服の五十女。一人は患者、生気を抜いた野菜のように徒《いたず》らにぶくぶく太った二十五六の年頃の女で、ぼけた芒《すすき》の[#「芒《すすき》の」は底本では「茫《すすき》の」]穂のような光のにぶい腫《は》れぼったい眼で微かに加奈子を見た薄気味悪さ。その時、また羽目を距てた近くで、どんと物のぶっ倒れるような音がした。うお――と男患者の唸り声。やや離れた処で、ひい、ひいと女気違いの奇声を挙げるのが聞えて来た。
 加奈子はうろたえた。そして、あの若い看護婦が自分を怖えさせるため、京子の眠るあの部屋から斯んな処へ追い出したのではないかと突然の憤りと困惑に陥った。
――あなたは、何処へお出でですか。
と、一たん太っちょの患者と一緒に行き過ぎた老看護婦が戻って来て、加奈子をうろん[#「うろん」に傍点]な眼で見ながら訊ねた。
――私、お庭へ行くんですの。
――違います。ここは病室側の廊下です。

 広い円形の庭は、眼も醒める程、眩《まぶ》しく明るい。狂暴性でない監禁不用患者の散歩場だ。広い芝生に草木が単純な列を樹てて植えつけてある。今は桜ばかりが真盛りだ。
 庭の真中を横断する散歩道の両端には、殊にも巨大な桜が枝を張り、それに準じて中背の桜が何十本か整列している。淡紅満開の花の盛り上る梢《こずえ》は、一斉に連なり合って一樹の区切りがつき難い。長く立て廻した花の層だ、層が厚い部分は自然と幽な陰をつくり、薄い部分からは余計に落花が微風につれて散っているのが眼についた。散る花びらは、直ぐ近くへも、何処とも知れぬ遠い処へも、飛び散って行くように見える。
 調子はずれの軍歌を唄いながら、桜の下から顎鬚《あごひげ》の濃い五十男が、加奈子の佇って居る庭に面した廊下の窓の方へ現われた。だぶだぶの帆布のようなカーキ色の服を着て居る。ぐっしょり落花を被った頭の白髪が春陽の光にきらきら光る。
――こんにちはあ。
 善良そうな笑いと一緒に挙手をした。
――はあ、こんにちはあ。
 加奈子がびっくりする程大声で挨拶《あいさつ》を返したのは、加奈子の近くの窓に佇って先刻から同じように庭を見て居た中年の男だった。男は加奈子の直ぐ傍に来た。
――ありゃあ、この病院でも古い患者です。
 男が加奈子に言って聞せ始めた時、軍歌の患者は、もと来た方へ、またも軍歌を繰り返しながら歩いて行った。
――一日ああして気楽に戸外散歩してますから、体は丈夫ですよ。長生きするでしょうな。
 男は兜《かぶと》町で激しく働くので時々軽い脳病になり、この病院へ来るのも二十年程前からなので、院内の古い患者とは知り合いが多いと言う。
――あの男は日露戦争の勇士です。第一回|旅順《りょじゅん》攻撃の時負傷して、命は助ったんですが気が違ったんです。
――おとなしいんですね。
――実におとなしい。その代り治る見込がないんですな。生涯の患者ですよ。然《しか》しあの通りですから、病院でもみんなに可愛がられてます。なまじっかしゃば[#「しゃば」に傍点]で正気の苦労するよりゃ、ずっと増しでしょうよ。
 庭の処々に青塗りのベンチが置いてあって、日光浴や散歩に疲れた患者達が黙って腰かけて居る。調子はずれの軍歌を唄って居る男よりほか、口を動かして居るものは一人も無い。檻《おり》のなかの患者の狂暴性とは反対に、あまりおとなし過ぎる静的な患者達なのであろう。
 一人の老人が、自分の古羽織を、脱いだり、着たり畳んだりしては、芝生の上にかしこまり、一方の空を仰いでお辞儀をして居る。
――あれは若いうち、誰かの着物を盗んだそうです。気が小さくってそれが苦になり気違いになったんだそうです。
 加奈子に訊かれて、傍の男はまた説明した。糸屑をしこたま[#「しこたま」に傍点]膝に置いて、それを繋いでばかり居る女、遠くに一人兎の形を真似て両手で耳を高く立て、一つ場所にうずくまって居る男。
 加奈子はじき近くのベンチに眼を戻すと、其処に若い男の二人連れを発見した。顔も恰好もよく似た二人連れだ。一人は稍々《やや》年長で正気の健康者なのはよく判るが、年下の方は、一眼みただけでも直ぐ気違いと判る。
――あれは兄弟なんですよ。
 また加奈子の傍の男は口を出した。
――鍛冶《かじ》屋の兄弟だったんですよ。親も妻子も無しで二人|稼《かせ》ぎに稼いで居たんですよ。だが弟の腕がどうも鈍い。兄の方が或る時|癇癪《かんしゃく》を起して金槌《かなづち》を弟に振り上げたんですね。まさか撲《ぶ》ちゃあしませんでしたけど、弟は吃驚《びっくり》して気が違っちまったんです。五六年前ですよ。あの弟がここへ入院したのは。兄は月三度は屹度《きっと》ここへやって来る。そして弟と一緒に遊んでやるんですよ。優しい心掛けでさあ、みんな見ちゃあ憐れがるんですよ。兄はここへ来ちゃあ弟の言うことを何でも聞くんです。罪ほろぼしの気持なんですね。弟は変な真似をさせるんですよ。自分の手まね足まね、みんな兄貴にやれって言うんです。兄貴はやるんです何でも。舌を出せ、手を挙げろ、四つん這いになれ、寝ころんで見ろ――いまに始めますぜ、また。
 加奈子は、もう男の説明は沢山だという気がして来た。みんな誰でも、一度|貰《もら》ったものは返さねばならず、自分のしたことには結局責任を負わなければならないのだと思った。いまいましいような悲しい人生だと思った。しかしまた惚《ほ》れ惚《ぼ》れとするような因果応報《いんがおうほう》の世の中でもあると思った。
 だが、加奈子は、もう、この気違いの散歩場を見ているのも沢山になった。気違い達の頭の上で過度に誇らしく咲き盛っている桜の花も、ねばる[#「ねばる」に傍点]執拗なものに見えて来た。この説明好きの男にも訣《わか》れたくなった。加奈子はこれ以上、ここに居ると何か嫌悪以上の惑溺《わくでき》に心も体も引き入れられるような危い気がした。
 加奈子が、くるりと体の向きを変えて硝子窓から離れた時、丁度京子の番をしていた若い看護婦が急いで来た。
――患者さん、お目が醒めました。
 看護婦は急いで来たのに落着いて言った。
――桜が満開でございましょう。
 それよりも加奈子の眼は、この看護婦の肩越しの廊下の奥に、京子の顔の幻影を見た。それは加奈子に一生射し添う淋しく美しい白燈の光のような京子の顔の幻影だった。

底本:「岡本かの子全集3」ちくま文庫、筑摩書房
   1993(平成5)年6月24日第1刷発行
底本の親本:「母子叙情」創元社
   1937(昭和12)年12月15日発行
初出:「文学界」
   1936(昭和11)年12月号
入力:門田裕志
校正:岩澤秀紀
2012年8月22日作成
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岡本かの子

縮緬のこころ—– 岡本かの子

 おめしちりめんといふ名で覚えてゐる――それでつくられてゐた明治三十年代、私の幼年時代のねんねこ[#「ねんねこ」に傍点]。それも母のきものをなほしたねんねこ[#「ねんねこ」に傍点]だつたからそれよりずつとむかし、明治二十年前後の織物だつたかもしれない。そのねんねこで若いきれいな守女におぶさるのがうれしかつた。柄は紫の矢はづだつたと思ふ。きめが細かくて、そのくせ、しぼが、さらつとして柔かく、しんにぴんとした感じがあつた。何といふ古風な紫の上品な色調、それがやや鼠がゝつた白と中柄の矢はづ絣を組み合せてゐる柄。上品なうへに粋だつた。黒繻子のゑりがかゝつたそのねんねこがすらつとした色の白い若い守女と眼の大きな髪の毛の黒々とした茫漠としたやうな女の児をつつんでゐたその頃の――明治三十年代のやや古びたおめしちりめんを想像して下さい。今の錦紗のやや軽薄めいた技巧的感触や西陣お召の厳粛性のやうな感じとは全然ちがふもつと、ち、り、め、ん、といふなまめかしさ、いとしさ、やるせなさ、優しさの含んだ純粋絹をねり[#「ねり」に傍点]にねつてしな[#「しな」に傍点]とこく[#「こく」に傍点]とをつけた布地でした。
 かんこ[#「かんこ」に傍点]ちりめんといふ、これは苦労して働いた家刀自の愛のやうな感じのちりめんで、やはりその頃母の古着のなかにあつたやうに覚えてます。しぼ[#「しぼ」に傍点]がやたらに荒くつて、もめんのやうな感じの素朴なちりめん。はんてんか上つぱりにし度いやうな細い縞が藍色がゝつたサラサ模様であつたやうです。
 私の三歳、五歳の祝ひ着は今の芝居のうちかけで見るやうな花蝶総縫ひのちりめんに下着を赤のゑぼしちりめんといふので重ねてありました。しぼ[#「しぼ」に傍点]がゑぼしの折りのやうに高く立つてゐるからゑぼしちりめんなのださうです。
 あついたちりめんといふのは私の女学校時代の学期の合間に着せられる着物についた帯地のちりめんでした。しぼは普通で赤地に白で松竹梅などの柄が出てゐました。ヒワ色、褪紅色の無地ちりめん兵古帯など小学校から女学校時代袴下にしめました。
 娘時代のある時、歌舞伎の舞台で見た若い芸妓のちりめん浴衣にすつかり魅せられました。白ちりめんへ桐の葉を写生風に染め抜いてあるのを殆ど素肌に着てゐました。うらやましくて、私のこしらへたのはしかし、さすがに墨色では粋すぎるので薄紫で菱形を大きく出して見ました。純粋なちりめん[#「ちりめん」に傍点]を素肌に着た気持ち――一応は薄情なやうな感触であり乍らしつとりと肌に落ちついたとなると、何となつかしく濃情に抱きいたはられる感じでせう。その味の深さ、やるせなさは忘れられるものではありません。
 風にあたつても、雨にふられても、うちへうちへと、しつとりくぼめ[#「くぼめ」に傍点]の抑へをひきしめて、一緒に泣いてでも呉れるやうな、なさけ[#「なさけ」に傍点]はちりめんの着物よりほか持つてゐません。
 今のちりめんでは、綿紗とか西陣とか小浜とか立派な名を持つてゐるのより、むしろ名もないたゞの地になつて、やたらに友染の染め下地になつてるやうな普通のちりめん[#「ちりめん」に傍点]といふだけで通るあのちりめん[#「ちりめん」に傍点]がなつかしくて好きです。でなければ、優しい静な心の地へ、ところ/″\熱情のしこり[#「しこり」に傍点]を持つたやうな紋ちりめんが好きです。

底本:「日本の名随筆38・装」作品社
   1985(昭和60)年12月25日第1刷発行
   1991(平成3)年9月1日第8刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第十三巻」冬樹社
   1976(昭和51)年11月
入力:渡邉つよし
校正:菅野朋子
2000年7月11日公開
2003年8月31日修正
青空文庫作成ファイル:
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岡本かの子

酋長—– 岡本かの子

 朝子が原稿を書く為に暮れから新春へかけて、友達から貸りた別荘は、東京の北|端《はず》れに在った。別荘そのものはたいしたことはないが、別荘のある庭はたいしたものだった。東京でも屈指の中であろう。そして、都会のこういう名園がだんだんそうなるように、公開的の性質を帯び、春から秋までは、いろいろな設備をして入場者を遊ばせるのである。しかし、冬は手入れかたがた閉場しているので、まるで山中の静けさだった。
 朝子が別荘に移ると、直《す》ぐ庭守の忰《せがれ》の十三になる島吉が朝子を見に来た。
「この奥さん、気に入った。ふ ふ ふ、これから一緒に遊ぼう、奥さん」
 朝子はあっけ[#「あっけ」に傍点]にとられて此《こ》の少年を見た。朝子にはこの少年が馬鹿か利口か判らなかった。少年は不思議な子で、父親の庭守も無口だったが、子の島吉は一層無口だった。だが口を開くと、ずばずば物を言った。朝子は、変化のない庭守を三四代も続けていると、一種の変質者が生れるのではないかと思った。
 雪もよいの空ではあるが、日差しに張りのある初春の或る朝であった。
「奥さん、長靴を穿《は》こう。孔雀《くじゃく》に餌《えさ》をやりに行くんだ」
 島吉は、男用のゴムの長靴を椽先の沓脱《くつぬ》ぎの上に並べた。「裾《すそ》をうんとめくりよ。霜が深くて汚れるよ」なるほど径は霜柱が七八寸も立っていて、ざくりざくりと足が滅込《めりこ》むので長靴でなければ歩けないのだ。
 ほのかな錆《さ》びた庭隅に池と断崖とが幾曲りにも続いて、眺めのよい小高見には桟敷《さじき》や茶座敷があった。朝子は、何十年か、何百年か以前、人間が意慾を何かによって押えられた時代に、人間の力が自然を創造する方面へ注がれた息づきが、この庭に切々感じられた。
「ここに鼬《いたち》の係蹄《けいてい》が仕掛けてあるよ」「あれが鵯《ひよどり》を捉える羽子《はご》だ」そして、「茸《きのこ》を生やす木」などと島吉が指さすのを見ながら、これが東京とは思えなかった。月日のない山中の生活のようだ。
「島吉つぁん、学校に行ってるの」
「尋常《じんじょう》のしまいだけで止《や》めた」
「何に、なり度《た》いの」
 すると、この少年は功利と享楽に就《つい》て打算が速かな現代人の眼色の動きをちょっと見せたが、すぐ霊明で而《しか》も動物的な澄んだ眼に立直って言った。
「飛行機乗りになりたいんだがおやじが許さないんだ」
「それで」
「だから、もう何にもなり度くないんだ。やっぱりこの庭の番人になるんだ」
「だけど、お友達なんかなくって淋しかないの」
「うん、あるよ、時々外から来るよ。ここへ来りゃ、みんな僕のけらい[#「けらい」に傍点]さ」
 朝子は、ふと、こういう少年の気持を探り出すのに具合のよさそうな問いを思いついた。
「島吉つぁん、どんなお嫁さん貰うの」
 すると、思いの外《ほか》少年は意気込んで来て、
「嫁かい、ふ ふ ふ ふ、今に見せてやるよ」
「まあ、もう、あるの」
「ふ ふ ふ ふ」
 朝子は二三日、その事は忘れていた。七草過ぎの朝、島吉は七つ八つの女の子を連れて書きものをしている朝子の椽先に立った。そして、何とも言わずに朝子と女の子とを見較べて、うふふふふふと笑った。片眼が少し爛《ただ》れているが、愛くるしい女の子だ。朝子は、ふと思い出して言った。「この女の子、この間言ったあんたのお嫁さんじゃないの」
 島吉は矢張り、うふふふふふと笑って、「奥さんにおじぎしないかよ」と、女の子に命令するように言った。女の子は朝子に、ぴょこんと頭を下げてから、島吉を見て、
「あ は は は は」
 と笑った。すると、島吉は矢庭《やにわ》に鋭い眼をして女の子を睨《にら》み込んだ。その眼は孤独で専制的な酋長《しゅうちょう》の眼のように淋しく光っていた。

底本:「岡本かの子全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1993(平成5)年7月22日第1刷発行
底本の親本:「丸の内草話」青年書房
   1939(昭和14)年5月発行
初出:「旅」
   1938(昭和13)年2月号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2010年3月2日作成
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岡本かの子

秋雨の追憶—– 岡本かの子

 十月初めの小雨の日茸狩りに行つた。山に這入ると松茸の香がしめつた山氣に混つて鼻に泌みる。秋雨の山の靜けさ、松の葉から落ちる雨滴が雜木の葉を打つ幽かな音は、却つて山の靜寂を増す。水氣を一ぱいに含んだ青苔を草履で踏む毎に、くすぐつたい[#「くすぐつたい」に傍点]感觸が足の甲をつゝむ。咲きおくれた桔梗の紫が殊更鮮かだ。濕つた羊齒をかき分けると可愛らしい松茸が雀の子のやうにうづくまつてゐた。
        ○
 夏の初から――六月の半頃から三月以上もかけ[#「かけ」に傍点]續けてやうやく古びた竹の簾。今日は今日はと思ひながらはづしそびれてゐた。
 初秋の薄ら冷たさも身に泌みなれた九月下旬の或日の夕方、いよ/\それを取はづさうとして手をかけた。
 裏庭に面した西向の窓である。窓は高いので私は背のびをした。水色絹の簾の縁がしつとりと濡れて居り、簾の生地の竹の手觸りの冷え/″\しさに、目をとめて見れば、いつの程よりか外には時雨のやうに冷い細雨がしとしとと降つて居たのである。
        ○
 今迄かつと[#「かつと」に傍点]照り渡つてゐた初秋の空に僅か飛行船程の暗雲が浮んだ。と見る間に箒ではきかけるやうなあわただしい雨、私があわてゝ逃げ込んだのは、山の手のと[#「と」に傍点]ある崖際の家の歌舞伎門であつた。ほつと[#「ほつと」に傍点]してその柱にとりすがると心がしん[#「しん」に傍点]とする程門の柱は落ちついて居た。前の道を通る人もないので、私は安心してその柱によりかゝつた。駈けこんだ時のはづんだ息が靜まると、門のさゝやかな板葺屋根に尚ぱら/\とあたる雨の音が聞える。――立騷いだ後の和やかに沈んだ官能(耳)が一層澄んでそのさわやかな雨滴の音が頭の底まで泌みるやうな冷快な感じがして來た。それを享樂しつゝ、しばらくつぶつてゐた眼を開くと、門内の前庭に焔を洗つたやうなカンナの花瓣が思ふさまその幅廣の舌を吐いてゐた。餘り突然目の前に現れたので、そのカンナの群は私の方へ生きて歩いて來るかと思つた。あまつさへ、粒太の雨滴をさんらんと冠つてその生彩が私の息をひかしめた。
 カンナ[#「カンナ」に傍点]から七歩も離れてゐる窓が開いた。ひつそりとした小さな紙障子の窓である。開いた紙障子の方から現はれた顏はチヨコレート色の目鼻立の正しい印度《インド》人の男の顏であつた。私は自然その顏と直面した、私はあわててその顏へ一つお辭儀をした。そして後をも見ずに門を離れて道へ出た。雨はやんで、晴れ上つた青空の奧に、私は今窓に現はれた印度人が正しく前へ向けて開いてゐたかんらん[#「かんらん」に傍点]色の瞳の色が光つて居るのを見つゝ歩いた。
        ○
 黄色い小菊の花が一つ路上に棄てゝある――。否、小雨にぬれた山まゆの繭。
        ○
 震災の年の秋には雨が多かつたやうに覺えてゐる。衣類を失つた人々が秋が更けても白地の單衣の重ね着の袖を雨にしめらせながら街を歩いてゐた。わびしいあはれな光景であつた。

底本:「日本の名随筆19 秋」作品社
   1984(昭和59)年5月25日第1刷発行
   1991(平成3)年9月1日第12刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第十四巻」冬樹社
   1977(昭和52)年5月
入力:渡邉つよし
校正:菅野朋子
2000年7月11日公開
2005年1月26日修正
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岡本かの子

秋の夜がたり—— 岡本かの子

 中年のおとうさんと、おかあさんと、二十歳前後のむすこと、むすめの旅でありました。
 旅が、旅程の丁度半分程の処で宿をとつたのですがその国の都と、都から百五十里も離れた田舎《いなか》との中間の或る湖畔の街の静《しずか》なホテルです。
 その国と云ひましたが、さあ、日本か、外国か、今か、昔かと、それを作者はどう極《き》めませう。実は、日本でも外国でも、今でも昔でも関《かま》はないのです。この物語の真実や、真味は、さういふことに一向かまはないで作者の意図に登り、そして読者に語られようとしてゐます。だが挿画《さしえ》画家さんにお気の毒ですね。黒眼を描かうか碧眼《へきがん》を現はさうか縮毛《ちぢれげ》か延髪か描き分けよう術《すべ》もありませんでせうから。ですから具体的な人物でなくとも、草か木か鳥獣か花かで、この物語の読後の気持を現はして下さつても宜《よ》いのです。といつて私がこれ以上くどく画家さんに指図をしなくてもそれはその道の技量敏感で、どうしてでも筋や真実真味のけはひ[#「けはひ」に傍点]を現はして下さるでせうから、私は私の物語に遠慮なくは入《い》らして頂きませう。
 季節は秋です。夕方すこし烈《はげ》しかつた風もすつかり落ちて、草木のけはひが風にもまれなかつた前の静《しずか》なたゝずまひに返り、月が、余り明る過ぎない程の明るさで宵の山の端にかかりました。ホテルの窓からはほんの湖水の一端しか見えませんが、その一端の澄み上つた爽《さわや》かさが広い全面の玲朗《れいろう》さを充分に想はせる効果をもつて四人の健康な清麗な親子の瞳に沁《し》み入りました。そして、今、給仕人が引下げて行つたばかりの晩餐《ばんさん》の幾つもの皿には、その湖水でとれた新らしい香の高い魚類が料理されてあつたのです。それらの皿と入れ違ひに、附近の山でとれたといふ採りたての無花果《いちじく》の実が、はじけ相《そう》な熟した果肉を漸《ようや》く圧《おさ》へた皮のいろも艶《つや》やかに、大きな鉢に入れられて濃いこうばしいお茶と一緒に運ばれました。

  ――おとうさん。今夜こそ、わたし達は私達の真実のことを、この子供達にお話しいたしませうね。
  ――ああ、それが好い。

 これがおとうさんの返事です。

 ――さうよ、おかあさん。もう四五年前からのお約束ですもの。
 ――僕たちが二十位になつたら話してあげるつて仰《おっしゃ》つたことがありましたつけ。

 歳も二十と十九の一つ違ひのむすこと、むすめが言ひました。

  ――まあ無花果をたくさん喰べてな、お茶もこうば[#「こうば」に傍点]しいぞ、月が半分も、あの山の端に傾いた頃から話し出さうよ。

 おとうさんが、きつぱりと云ひますと、先に云ひ出したおかあさんがいそいそとしたなかにもすこし恥《はずか》し相な赫《あか》らめた顔色を見せました。わが母|乍《なが》ら美くしい愛らしいと、むすめはそれを眺めました。

 おとうさんもおかあさんも、今度一族が出発して来た田舎《いなか》の人ではありませんでした。実は今夜一晩保養の為に優勝の地として名高い此《こ》の湖畔で楽しいくつろぎをしてから更に明日出向いて行かうとする都の生れの人達なのでありました。
 都でもと生れた人が百五十里もの遠い田舎の人となり、其処《そこ》でむすことむすめを設け、土着の住民となつたからとてそれが別に大して珍らしいことでもむづかしいわけのものでもありません。けれど、このおとうさんと、おかあさんがさうなつた径路についてはそこにほかの人並とは違つた事情があつたのであります。
 知る人ぞ知る。とでも云ひ度《た》いところですが、さすがに百五十里はなれれば、そしてこのおとうさんやおかあさんのやうに自然すぎるほど落ついて土着して仕舞《しま》へば実際、あやしむ人はおろか、当のおとうさんおかあさん自身でさへ殆《ほとん》ど自分達の前身は忘れはてたやうなものでした。おそらく田舎《いなか》暮らし何年間を他人事のやうに昔を思ひ隔てて仕舞つて居たにちがひありません。
 昔四十何年か前に、おとうさんとおかあさんは非常に仲好しの女友達同志を母親として都の一隅の街に生れました。二人の母親はまた生憎《あいにく》揃《そろ》ひも揃つて二人をお腹に持つて居た頃に未亡人になりました。丁度国の大戦の為にその国の丁年《ていねん》以上の男子が大方戦線へ出たその兵士の仲に当然|交《まじ》つて行つて仕舞ひ、その上間もなく二人の夫が二人とも戦死したからでありました。未亡人同志は、いよいよ仲好しになり、頼み合ひ、はげまし合ひ、何事も二人の合議で生活して行くやうになつたのです。
 その合議のなかの一つの事件として不思議なことが取り行はれたのでした。おとうさんを生んだ母親は男のおとうさんを女に仕立て、おかあさんを生んだ母親は女のおかあさんを男育てに育てたのでした。よくたとへには、玉のやうな赤ん坊を生んだなどと云ひますが、ほんたうは生れたばかりの赤ん坊といふものは、赤くてくしや/\で女だか男だか一寸《ちょっと》区別がつきかねるものです。前後して生んだ赤ん坊を真実の男とか女とか知つた人はいくらもないそのうちに二人の母親は都住居《みやこずまい》の人達によくあるあちらの街からこちらへと処々生活の都合で越して歩きました。
 おかみへ届けるときにはどうなつてゐたのでせうか分りませんが、二人が自分の名を自分で覚える頃には二人ともその育つ姿や生活に相応する――即《すなわ》ちおとうさんは女にふさはしく、おかあさんは男らしい呼名に都合よくなつて居ました。越して行く先から先の近所の人達も当然それを怪しみもせず、おとうさんを女の児《こ》扱ひにし、おかあさんを男の児と見做《みな》して仕舞ひました。二人の母親は、二人ともつつましく行儀よく出来てゐる女同志で、自分の子たちもさういふしつけの宜《よ》い育て方をしましたので、二人の子達も子供らしい遊びもいたづらも相当に仕《し》て居乍《いなが》らよく子供に有《あり》がちな肉体的な暴露などはありませんでした。さうして育つて行くうちにも仲好しの母親同志は越す先々の家を成《なる》たけ近所同志にえらび、お互ひの生活を接近させてゐました。が、自分達の合議の上で女を男に、男を女に、と取換へつこに育て上げつつある自分達の世間はづれた事業が苦もなく成功して行くのを不思議がりもせず、別に得意にもしなかつたせゐか、しまひにはお互ひ同志ばかりがどんなに人と離れて接近し合つて居る場合でも、それを得意がつたりして談《はな》し合ふことも無い様子でした。否々、しまひには自分の男の児が女として育つて居《お》り、自分の女の児が男として育つて居ることさへ追々《おいおい》忘れて仕舞つたかのやうでありました。
 しかし、あらそはれないもので、そのうちに男の児になつて居る女の児の方に女のしるし[#「しるし」に傍点]が現はれるやうになりました。母親は、今更のやうにあわてふためき、男の児の母親の方へ相談にまで行きました。そして、自分達が合議のうへでめい/\の子供を男は女に、女は男に育てて居たことを子供達に打ち明けました。ただし、それをさうしたといふ訳==つまり何故《なぜ》その母親達が、女を男にして育て、男を女に仕立てて居たかといふわけを母親達は子供達に別に話しはしませんでした。故意か、無雑作《むぞうさ》にか、そして子供達もまたうつかりそれを問ひただすでもなく……世にはそれ程でも無いことを執念《しゅうね》く探り立てする人々があると同時に、可成《かな》り重大な事でも極《ごく》無雑作にかたをつけるあつさりした人達があるものです。この親子達は一面から見ればその後者の方に属する人達とも云へませうが、また一つの解釈からすれば、親はそれ程の重大な事を他人事のやうに簡単に語れ、子もまたそれを他人事のやうに聞ける位、長い間の自分達の現実的過誤に慣れ切つてしまつて居たのです。
 では、その子供達はともかく作者はその母親達がそんな子供の育てかたを何故《なぜ》したかと読者はあるひは詰問なさりはしませんか。作者は実は、その解釈に苦しみます。さあ、どういふ原因が其処《そこ》にあつたものか、ともかく女同志の親密な気持ちには時々はかり知れない神秘的なものが介在してゐるかと思へば極々《ごくごく》つまらない迷信にも一大権威となつて働きかけられる場合もないではないぢやありませんか。
 それはともかく、長い習慣といふものは妙なもので、親が子に明した事実は、ほんの其場《そのば》の親子の間だけの現実に過ぎないものであつて、その後また何の不思議もなく前からの習慣である女の男育ち、男の女仕立てが続きました。当人達でさへそれですもの、世間がその子供達をどちらもほんたうの見かけどほりの男女だと思ふのは無理もありませんでした。


  ――おとうさんが女になつていらしつた時、どんな女でいらしつたでせう。

 少し控へめではありましたが、むつつりと意味深さうに今までのいきさつを聞いてゐた兄より先に妹娘がおとうさんに問ひかけました。すると、おとうさんより先きにおかあさんがその問ひを取つて云ひました。

 ――それは美しい、そしてしとやかであでやかな娘さんでおありでした。

 おかあさんが口を切つたのをしほ[#「しほ」に傍点]におとうさんはおかあさんに頼みました。

 ――おまへ、みんな私の事を知つて居る。私に代つて子供達に話してやつてお呉《く》れ。

 さういふおとうさんの顔をつい二人の子供はちらと見やつてしまひました。おとうさんは顎鬚《あごひげ》のそりあとを艶《つや》やかに灯《ほ》かげに照らして煙草《たばこ》のけむりを静《しずか》に吐いてゐました。

  ――おとうさんが十六七歳になりなさつた頃、おとうさんの母親はある都の或る街に住みついて其処《そこ》で小間物を商《あきな》つて居《お》られました。わづかな資本で始めた店でしたけれど非常に器用なその母親が飾り付けるとお店の商品は生々して造花なんぞまるで生花のやうに上手な照明で見えるのでした。それにお店に炊きこめてある何か大変好いかをりの匂ひものが人達をひきつけて思ひがけないやうな品の好いお客様も時々は見えるやうになりました。
 ――ははあ、それからあのS家のお姫様のおはなしになる段どりですな。

 おとうさんが一寸《ちょっと》なつかしさうなへうきんな調子の横槍《よこやり》をいれましたが却《かえ》つておかあさんの息つぎにそれがなりました。

  ――おとうさんはお店を手伝はなければならなかつたので学校は十六七の歳でやめておしまひになりましたが、やはり本性は男で、どうしても建築学を研究する志《こころざし》でお店を手伝ひ乍《なが》らも独学で一生懸命店裏で本を読んだり暇を見ては方々の街の有名な建築を見て歩いたりしていらしつた。でもよくしたもので、世間の人達はおとうさんのさういつた独学の建築学研究なんか眼に這入《はい》らず、おとうさんが娘姿でお店を手伝ふあでやかな姿ばかりに気をとめて評判をするやうになりました。
 ――S家のお嬢さまがいらしつたといふのはいつでしたの。
  ――まあお待ちなさいよ。それはおとうさんのあでやかな娘姿がお店へ出てから半年もたつた頃、ある日そのお方がおしのびで侍女二三人程連れて街へ買物がてら散歩にお出になつたのですよ。その時、ふとお店におはひりになつたのが始まりで……さあお嬢さまは何がお気にいりで店へさうさいさい[#「さいさい」に傍点]お出《い》でになるやうになつたのでせう。それは小さい非常に感じの好い、まるで月のかくれ家のやうなお店がお気にいりになり大変匂ひの好い炊きものの香もおこのみに合つたのかも知れませんが結局はその店に居るしとやかな娘姿のおとうさんがお好きだつたからだとあとで仰《おっしゃ》つたさうな。
  ――お嬢様はおとうさんが男で娘になつて居ることをもちろん知らなかつたんでせうな。

 と兄がませた口調で聞きました。

  ――ええ、もちろんですとも、そんなこと少しも御存じなくておとうさんをお好きになつたのだから、それは純粋なごひいき様におなりになつたわけなのだよ。
  ――そのお嬢様はお美しかつたの、おかあさん。

 おかあさんは少し困つたやうに娘の問ひに答へました。

 ――お美しかつたとも、ねえおとうさん。お美しいお嬢様でしたともねえ。
  ――ああ、美しいお嬢様でした。

 おとうさんの頬《ほお》は何故《なぜ》か少し赫《あか》らみました。

 ――まあ、それはともかく、おとうさんはたうとうお嬢様に好かれ切つておしまひになり、S家へ来て欲しいとお嬢様から懇望されなさつた。始めはお嬢様のお相手などして折角の建築学の研究を止《や》めなければならないのは厭《いや》だとお思ひになつた相《そう》だけれど、よくお考へなさるとそのS家といふのは都でも名だたる富豪で、本邸は云ふに及ばず広い屋敷内に実に珍らしい建築の亭《ちん》や別荘をお持ちになつていらつしやることに気付き、とてもただではさういふ建築の内部など拝見出来ない、当分お嬢様のお相手がてらさういふ処の見学をなさるおつもりで承知なさつた。ただし、親一人子一人の淋《さび》しい母親を置いて行くのだからお風呂の日だけは実家へ戻して母親と会はせて呉《く》れろといふ条件も直ぐ近所のお邸《やしき》なので聞きとゞけられたのさ。やはり自然と他所《よそ》で風呂になど男の女がは入《い》り度《た》くない気もちがおとうさんに働いたんですね。それから半年、一年と月日が流れおとうさんが十八の春にもなつた頃、おとうさんのお気持ちはとてもとても、苦しいものになつて居ました……。

 お母さんは云ひ淀《よど》みました。むすことむすめも少し堅くなつておとうさんとおかあさんを見較べました。

 ――つまりね。まあ少し云ひ憎《にく》いが、おとうさんがそのお嬢様を大変お慕ひ申すやうにおなりになつてしまつた。お嬢様はお美しい上に、傍に居れば居る程、お利口で優しくなつかしい御性質なのでそれは無理もないことでしたらうよ――しかし、たとへおとうさんが男そのままでお慕ひ申した処が御身分も違ひまして女であり切つてゐるおとうさんが、そんなところをお嬢様にお知らせ申せるわけのものではなし、とかうして苦しんでおいでの処へ、またも一つおとうさんに苦しい事情が出て来ました。ほかでもないそのS家のお嬢様にお兄様がおいでになつた。お歳は二十位。そのお方がいつか娘姿のおとうさんをすつかり女と思つてお慕ひになるやうにおなりなさつた。しかもそのお兄様はS家の大切な一番御子息、そして御病気になる程思ひ慕つてお仕舞《しま》ひなされたのだから困ると云つても一通りの困り方では無く、或《ある》日、お嬢様を通してそのおこころもちをおとうさんにお打ち明けなさつた。おとうさんは御自分の悲しい恋に引くらべ、到底悲恋であるべきお兄様のお心を思ひくらべ乍《なが》ら何にも御存じなくそれを仰《おっしゃ》るお嬢様の御顔をぢつと見詰めて涙を流されたと云ふことですよ。
  ――で、結局どうなりました。

 もうさうした人情を正当に解し得る年齢のむすことむすめでありました。正面切つて真面目《まじめ》に追及したのも無理はありません。

  ――結局おとうさんはS家からお退《ひ》きになつた……お嬢様といふ悲恋の対象から御自分を退かせる為と御子息の悲恋の対象である自分をお邸《やしき》から消す為にね……。
  ――そしておとうさんは直ぐお家へ帰られましたの。

 むすめの聞きさうな事です。

  ――いいえ。このわたし==おかあさんの処へ来られたの。
 ――今度は、わしが話さう。

 とおとうさんが二十年来むすことむすめが聞きなれたおとうさんの声で云ひました。ですが、今まで長いおかあさんのおはなしの内で娘姿にばかり想像して居たおとうさんが突然、男の声を出したので、ほんの一瞬間ではありましたが、むすめも、むすこも何か、あでやかな変怪の姿のなかから忽然《こつぜん》、おとうさんが男姿で抜け出したやうな不思議な感じがいたしました。

  ――お前たち、その頃、おかあさんが、どんな男でゐたか想像がつくか。
 ――いいや、とても、それは難かしい。

 むすこは全く、このはなしの中心に身を入れ切つて其処《そこ》から途方もなく開展して行き相《そう》な事件に対する好奇心の眼を瞠《みは》つて居るのでした。

  ――おかあさんは美青年だつたぞ。だが、まだ恋愛事件になぞ身を縛られてゐなかつた。と云つても、やつぱり外《ほか》の事情で身を縛られてゐたから、厄介な境遇だつたことに変りは無かつた。おかあさんは気性が女の内気であり乍《なが》ら乗馬や、ほかの武芸に実に優れて居た[#「優れて居た」は底本では「優れた居た」]。お前達の知る通り田舎《いなか》でもおかあさんの耕作達者には村の人達も息を引いて居るのと思ひ合せて御覧、美しい優しい顔して居るおかあさんの今でもこんなに立派な体格をご覧。
  ――ほほほほ……。

 おかあさんの張《はり》のある綺麗《きれい》な笑ひ声……むすこも、むすめも、勇ましいおかあさんの男姿に引き入《いれ》られようとした想像からまた引戻されました。

  ――笑つたりしてはいけないおかあさん……かういふ話は一歩それると飛《とん》でも無い不面目なものになる。
 ――はい。

 おかあさんも真面目《まじめ》な聴きてになりました。

 ――おかあさんの母親はおとうさんの母親よりやま[#「やま」に傍点]気があつてしつかり者だつただけに仕事も小さい乍《なが》ら機業工場なんか始めた。大分具合ひは宜《よ》かつたがもともと資本はひと[#「ひと」に傍点]から借りた。貸した人があとでおかあさんを義理で縛つた爺《じい》さんよ。と云つても爺さんは決して悪人では無い。ただ昔武人だつた丈《だけ》に冒険|癖《へき》があつたが本性はむしろ善良だつた位だ。それで却《かえ》つてこちらから義理を迎へて縛られてしまつたやうなわけだ。義理も強《し》ひられたのはまだそこから逃げ宜《よ》いよ。なんと云つたつて迎へた義理は自分で造つた罠《わな》へ自分で罹《かか》つたも同じだよ。つまり罠の仕組みを知れば知る程、知らない仕組みにかゝつたやうに無茶に逃げ出す力が出ないからな。ところでその爺《じい》さんがおかあさんの武者振《むしゃぶ》りには他には類の無い裏にデリケートな処がある。つまり一遍の武辺《ぶへん》では無いと見て取つたとでも云はうかな。はははは……(しまつた今度はわしが笑つた)でも本性が女だからな、云はばまあ、その方が当り前の事だ。デリケートな裏の方が本当で、表の武威がむしろ借り物なのだ。しかし、わしがあでやかな娘姿であつたと同じやうにおかあさんにしても、どうせ女として生れ乍《なが》ら男で世間を押さねばならぬ様な運命に生れた者には、やはりそれ相当の保護色が備はつて裏も表も調和よく発達したものなんだな。爺さんが其処《そこ》を目付けどころにしたんだ。爺さんが毎年その都に行はれる荒馬《あらうま》馴《な》らしの競技場へおかあさんの美丈夫《びじょうふ》を出し度《た》くなつたんだ。今一二年馬術を猛烈に勉強すれば、屹度《きっと》優賞者になれる見込みのある好乗馬青年だ。就《つい》ては、是非《ぜひ》自分の愛婿《まなむこ》として出て貰《もら》ひ度《た》いといふ希望だ。この種の人に有り勝ちな極《ごく》、無邪気な虚栄家なのだ。尤《もっと》も愛婿とするにしても、何も自分の家へ引き入れて只《ただ》一人の母親を放擲《ほうてき》して来させようなんて業慾なことは云はない。爺さんに小さな可愛《かわ》ゆい娘があつた。その娘をゆくゆく貰ふ約束を極《き》めて外戚の婿に定まつて呉《く》れといふのだつた。
  ――さうありさうな尤な話ですね。
  ――さうか、お前たちもさう思ふか。さうだとも其処《そこ》にその話を断る何の理由も存在しない以上、それをよろこんで承諾するよりおかあさん親子のとる道はなかつたらうぢやないか。しかも、それはどこまでも表面のおかあさんに適当な条件であつて裏面の女性を何《どう》しやうも無い。いくら武術を好み乗馬に巧みだからと云つて、国全体を震憾《しんかん》させるやうな荒競技に……それにまた達するやうな猛練習など第一生理的耐持力もありやう筈《はず》は無い。おかあさん親子ははた[#「はた」に傍点]と返答に行き詰まつたが、爺さんの頼みがごういん[#「ごういん」に傍点]でなくまた恩を笠《かさ》の命令的でもなくまるで年寄りが余生の願望の只一つのやうな哀願的な態度で頼み入るので先刻云つたやうにそれ、義理を迎へ入れるやうにして却《かえ》つてこちらからはまつて行つてしまつた。絶体絶命の承諾といふ境地には入《い》つた形になつて居たんだな。
 ――そこへS家から逃げ出したおとうさんが行き合せたんですね。
  ――さうだ。聴き手のお前達が、この物語の構成者になつちまつたな。有難いよ、さう熱心に聴いて呉《く》れれば、はは……(しまつたまた、笑つちまつた。)それでと、今まで別に自分達の運命を不思議にも思つて居なかつた二人が、始めて因果同志のかこち[#「かこち」に傍点]合ひをしたのだな。一たん嘆き始めると、何もかもあべこべな二人の運命に気がついて、果てしもなしに悲しくなつた。と云つて、今さら、二人が二人の母親に抗議を申込む気にもなれず、さうだ、わし達は逆な運命を痛感すると同時に、母親と面と向へば、どうも、さういふ運命のつくり主である母親を責めさうで、却《かえ》つて足が母親の方に向かなかつた。気が弱いと云はうか、それよりも、まあ、優しい気だてだつたと云つて置かう、わしがS家から逃げておかあさんの処へ向つたのも、自然、親を責めさうな機運を意識して、却つてそこから廻逃したのだな。そして親より以外に本当の自分の運命を知るものは自分と同じに性を取違へてゐるおかあさんより外《ほか》にない、どうも、其《そ》のおかあさんの処へ行つて見るよりほかに思案も無かつたのだ。

 これから先は作者がまた話すことにしませう。おとうさんも大分語り疲れたやうですから。おとうさんとおかあさんはとど都から姿をかくすことに相談を極《き》めました。二人とも母親を残して行くことは実に悲しいことでありましたが、止《や》むを得ない当面の仕儀、そしてこのまま、不自然な二人が都に苦しみ乍《なが》らうろたへて居ることは、却つて追々人目にも怪しまれる、随《したが》つて母親達を辛《つら》い立場に立たせるやうにならうもはかられぬ。で、二人は母親達に極々安心の行くやう言葉の順序をつくした書き置きをしたため、都をあとにあてもなく落ちて行つたのです。むろんおとうさんとおかあさんが住みつく田舎《いなか》へ着く迄にはいくばくかの月日も経《へ》、その間に完全な男女に二人の性を還元させる外貌《がいぼう》姿態に二人が自分達自身を、変らせて居たのは云ふまでもありません。そしてこの二人が、いつごろ何処《どこ》で夫婦の約《ちぎり》を云ひ交したか……それも水の低きにつくごとく極めて自然な落着として今さらせんぎ[#「せんぎ」に傍点]の必要もありませんでせう。二人が都を出る時は、別に二人の間に男女の感情が動いてゐたわけではなかつたのですが。
 さて、此度《このたび》、都へと、一家|揃《そろ》つての旅ですが、これは或ひは一家にとつて単なる旅では無くなるかもしれません。おとうさんもおかあさんも再生の喜びが力となつて、村では勤勉な良民の模範となりお金ももう贅沢《ぜいたく》せずなら都でも暮らして行ける位ゐな貯へになりました。子供達もなるべくなら都で仕込んでやり度《た》く思ふのです。もう都へ行つてから本当にその気分になり切つたら或ひは田舎の生活を切り上げて都の人達になるかも知れません。しかし、そのまへにおとうさんとおかあさんには成すべき或る事がありますのです。それは昔の大方の知己《ちき》を見て廻ることです。もちろん一番先きにS家、またおかあさんを婿にしようとしたお爺《じい》さん(お爺さんは多分死んで届るでせうから娘)の家へも立寄つて見るつもりです。そして、実は斯《か》く/\と遠い二十幾年も前の真実を打ち明けて、たとへ一時はけしきを損じようともそれを過ぎれば恐らくお互ひのわだかまりがとけて朗《ほがらか》にならう。そして或ひは寛《くつろ》いだ都暮らしの気分も其処《そこ》から自然に湧《わ》いて来ようとのおとうさんとおかあさんの意図なのですが、その結果がどうならうかは作者も今ここに明言出来ません。人は、或る年齢に達すると、どうも故郷を顧みずには居られないのが通例のやうです。
 それから云ひ遅れましたがおとうさんとおかあさんの母親達は二人の出発後大いに悟るところでもあつたやうに双方とも今までよりより以上頼み合ひ終《つい》に同棲《どうせい》迄して一方が一方の死までを見送り、あとまた間もなく一方も別に不自由なしの一生を終つて死に就《つ》いたとの事がおとうさんおかあさんに自然知れましたが、その頃はまだ二人とも田舎《いなか》で世をしのんで居た最中ですから、二人心に嘆き弔《とむら》ひ乍《なが》らそのまゝ年月を経て、その悲しみも消えて行きました。もはや顧慮する母親達も無いので二人は故郷に帰つて本性を明すの冒険をも試みようとするのかもしれません。

 月も落ちた。夜も更けた。作者も語りくたびれました。
 親子四人もいつしか各々の寝所に入り、安らかな眠りの息を呼吸してゐます。

底本:「日本幻想文学集成10 岡本かの子」国書刊行会
   1992(平成4)年1月23日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
   1974(昭和49)年発行
初出:「婦女界」
   1933(昭和8)年11月
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:湯地光弘
2004年4月29日作成
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岡本かの子

秋の七草に添へて—- 岡本かの子

萩、刈萱、葛、撫子、女郎花、藤袴、朝顔。
 これ等の七種の草花が秋の七草と呼ばれてゐる。この七草の種類は万葉集の山上憶良の次の歌二首からいひ倣されて来たと伝へる。

  秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花
  萩の花尾花葛花なでしこの女郎花また藤袴朝顔の花

 朝顔が秋草の中に数へられると言へば、私達にとつて一寸意外な気がする。早いのは七月の声を聞くと同時に花屋の店頭に清艶な姿を並べ、七月の末ともなれば素人作りのものでも花をつける朝顔を、私達は夏の花と許《ばか》り考へ勝ちである。尤《もつと》も朝顔は立秋を過ぎて九月の中頃まで咲き続けるのだから、秋草の中に数へられるのもよいであらうが、特に真夏の夕暮時、朝顔棚に並ぶ鉢々に水を遣りながら、大きくふくらんだ蕾《つぼみ》を数へ、明日の朝はいくつ花が咲くと楽しい期待を持ち、翌朝になつて先づ朝顔棚に眼をやり、濃淡色とりどりの大輪が朝露を一ぱいに含んで咲き揃つてゐる清々しさに私達は一入《ひとしお》早暁の涼味を覚える。ある貧しい母のない娘が背戸に朝顔を造り、夕に灯をつけてその蕾を数へ、あしたは絞りの着物が三つ、紺のが一つ仕立つと微笑んだのをいぢらしく見たことがある。だが、秋の七草に含まれる朝顔は夏の朝咲くいはゆる朝顔――これを古字にすれば牽牛子又は蕣花と書く――ばかりではなく、木槿《むくげ》と桔梗をも総称してのものである。さういへば木槿も桔梗も牽牛子と同じやうに花の形が漏斗《じようご》の形をしてゐる。
 七草は野生の植物で、花の色は女郎花の黄を除いてみな紫か紫系統である。秋の野花のいろは総じて紫か黄、白で、精々華やかなものでは淡紅色がある。いづれも夏草に見る情熱の奔騰する激しさはなく、近寄つて見なければその存在さへもはつきりしないほどに慎ましく控え目である。秋は森羅万象が静寂の中に沈潜してゐる。空は底深く澄み、太陽は冷めて黄ばみ、木の葉は薄く色づく、野末を渉る風さへも足音を秘めて忍び寄る。かゝる自然の環境の中に咲く秋草もまた自ら周囲に同化するのであらう。かすかに伝ひよる衣ずれの音。そこはかとなく心に染むそら薫《だき》もの。たゆたひ勝ちにあはれを語る初更のさゝやき。深くも恥らひつゝ秘むる情熱――これらの秋は日本古典の物語に感ずる風趣である。秋それ自身は無口である。風と草の花によつて僅にうち出づる風趣である。だが、かそけきもの、か弱きもの必ずしも力なしとはいへない。しなやかさと真率なることに於て人生の一節を表現し巌《いわお》の如き丈夫心をも即々と動かす。上代純朴なる時代に男女の詠めりし秋草に寄する心を聞けば

     日置《へぎの》長枝《ながえの》娘子《をとめ》
  秋づけば尾花が上に置く露の消ぬべくもわが念《おも》ほゆるかも
     大伴家持
  吾が屋戸《やど》の一枝萩を念《おも》ふ児《こ》に見せずほと/\散らしつるかも

 萩、桔梗、女郎花は私に山を想はせ、刈萱は河原を、そして撫子と藤袴は野原を想はせる。これ等はその生えてゐる場所にかうはつきりした区別が勿論あるわけではないが、私はかういふ連想を持つのである。それは幼い頃野山を歩いて得た印象からかも知れない。
 私は秋の七草の中で萩が一番好きだ。すんなりと伸びた枝先にこんもりと盛り上る薄紅紫の花の房、幹の両方に平均に拡がる小さい小判形の葉。朝露にしつとりと濡れた花房を枝もたわゝに辛ふじて支へてゐる慎ましく上品な萩。地軸を揺がす高原の雷雨の中に葉裏を逆立て、今にも千切り飛ばされさうな花房をしつかりと抱き締めつゝ、吹かるゝまゝに右に左に無抵抗に枝幹をなびかせてゐる運命に従順な萩。穏やかな秋の陽射しの中に伸び伸びと枝葉を拡げてゐる萩。
 萩は田舎乙女の素朴と都会婦人の洗練とを調和して居るかと思へば、小娘のロマン性と中年女のメランコリーを二つながら持つてゐる。その装ひは地味づくりではあるが、秘かな心遣ひが行き届いてゐる。
 幼い頃、多摩川原近くの武蔵野に住んでゐた私は、刈萱に人一倍の愛着を感ずる。野原一面に叢生する刈萱は雑草の中に一頭地を抜いて蟠簇《はんそう》してゐる。強靭な葉茎と鋭く尖つた葉端は何ものも寄せつけまいとするやうな冷酷さを示してゐる。その灰白色の穂はニヒリストのやうな白々しさしか感じさせない。据傲《きよごう》な刈萱を見れば、いつしか敵意を感じて、穂といふ穂を打つて見たくなる。近寄つて手を差延べれば、その鋭利な葉は直ちに皮膚を切りつけて攻勢をとる。幾条もの傷を手の甲に拵《こしら》へながら、口惜しさに夢中で薄《すすき》の穂をもぎ折つた幼い頃の記憶を私は秋になるとなつかしく想ひ出す。そのなつかしい気持ちの底には強くて鋭いものに対する稚純な敵意よりもなほさら私のこゝろにふかく沁みついてゐる刈萱の穂の銀灰色の虚無的な寂しい風趣なのである。

                       (昭和一二年一〇月)

底本:「花の名随筆9 九月の花」作品社
   1999(平成11)年8月10日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第十三巻」冬樹社
   1976(昭和51)年11月第1刷発行
入力:門田裕志
校正:林 幸雄
2002年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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岡本かの子

取返し—–物語 岡本かの子

   前がき

 いつぞやだいぶ前に、比叡の山登りして阪本へ下り、琵琶湖の岸を彼方《あちら》此方《こちら》見めぐるうち、両願寺と言ったか長等寺と言ったか、一つの寺に『源兵衛の髑髏』なるものがあって、説明者が殉教の因縁を語った。話そのものが既に戯曲的であったので劇にしたらと思い付いて、其《その》後調べの序《ついで》に気を付けていると、伝説として所々に出ている。此のたび機会があったのでまとめてみた。伝説には三井寺はもっと敵役《かたきやく》になっているが、さまではと和げて置いた。
 一たい歌舞伎劇の手法は、筋の運び方と台詞《せりふ》のリズムに、原理性の表現主義を持っていて、ものに依っては非常に便利なものである。
 滅ぼしてしまうのは惜しい。此の戯曲には可《か》なりそれを活用してみた。
  時
  文明十一年十一月(室町時代末期)
  処
  近江《おうみ》国琵琶湖東南岸
  人
   蓮如《れんにょ》上人  浄土真宗の開祖親鸞聖人より八代目の法主にして、宗門中興の偉僧。世に言う「御文章」の筆者。六十九歳。
   竹原の幸子坊  上人常随の侍僧。
   堅田の源右衛門  堅田ノ浦の漁師頭。六十二歳。多少武士の血をひいて居る。
  同源兵衛  源右衛門の息子。二十三歳。
  おさき  源右衛門妻。五十四歳。
  おくみ  孤児の女中、もと良家の娘、源兵衛の許嫁。十八歳。
  円命阿闍梨  三井寺の長老。
  三井寺の法師稚児大勢。
  その他、村の門徒男女大勢。

     第一場


  (山科《やましな》街道追分近くの裏道。冬も近くで畑には何も無い。ところどころ大根の葉の青みが色彩を点じている。畦《あぜ》の雑木も葉が落ち尽し梢は竹藪と共に風に鳴っている。下手《しもて》の背景は松並木と稲村の点綴 《てんてい》でふち取られた山科街道。上手《かみて》には新らしく掘られた空堀、築きがけの土塀、それを越して檜皮葺《ひわだぶ》きの御影堂の棟が見える。新築の生々しい木肌は周りの景色から浮き出ている感じ。柱五十余木を費し、乱国にしては相当な構えの建築物の棟である。花道から舞台を通って御影堂の塀横に行きつく道は造営の材料を運ぶ為めに新しく造ったもので、里道よりはやや広く、路面に人々の踏み乱らした足跡、車の轍《わだち》の跡が狼藉《ろうぜき》としている。使い残りの小材木や根太石《ねだいし》も其《そ》の辺に積み重ねられている。遠景、渋谷越の山峰は日暮れの逆光線に黝《くろず》んでいる。)
   開幕。土地の信徒で工事手伝いの男女の一群上手よりどやどやと出て来て舞台の下手へ入る。中の三四人、序に運んで来た材木切れをそこに置き、身体の埃を打ち叩き、着物をかい繕《つく》ろいなどしつつ作業を仕舞ったしこなし。


  信徒一『や、これでまあ御影堂の仕事もすっかり終った。明日からは土塀の方の手が足らんちゅうから、あちらの手伝いに廻ったろかい』
  信徒二『そやそや。何でも手の足らん箇所を見付け次第、そこへかぶりついて是が非でも此《こ》の月末の親鸞さま御正忌会のお※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53]夜《たいや》までには美んごと拵《こしら》え上げにゃ、わてらの男が立たん』
  信徒三『わてらの男なぞどうでもええ。御門徒衆、一統の男さえ立てばええわい』
  信徒二『そりゃまあそうや。御門徒衆一統の男さえ立てばええ。わしもその中の一人やからな。だが、なんしい十年まえ大谷の御廟所を比叡山の大衆に焼き払われてから、大将株のお上人さまは加賀、越前と辺海の御苦労。悪う言えば田舎廻りや。それがようよう時節がめぐって来て、都近くの此の山科にお堂の再建。こりゃ門徒一同のずんと男が立つわけじゃ』
  信徒四『お堂が斯《こ》う立派に出来てみると、早く中身の親鸞さまの御影像もお迎え申し、据わるところに据わって頂かんことにゃ、何となく落付きが悪い。仏造って魂入れずと言うこともあるからなあ』
  信徒一『そりゃわいどもより、御先祖孝行のお上人さまの方がどのくらいそれを望んで居らりょうか知れん。それで十年前に北国へお立退きの際、お預けなされた三井寺の方へ此の間じゅうからさいさい掛合われなされたけれど、一向取戻しは埒《らち》明かんと言うことじゃ』
 信徒二『そりゃ初耳じゃ。どうして返さんのじゃろ。どだい、こっちゃのもんやないか。利息でも呉れと言うのか』
 信徒一『こまかいことは知らんが、何でもややこしい難題やそうな。それで御上人さまも亦《また》、おひと苦労じゃそうな。然しそんなことをおれ達がかれこれ気を揉《も》んでも始まらんこっちゃ。ものは分け持ちや、おれ達は持分の御普請《ごふしん》に精出すのが何より阿弥陀《あみだ》さまへの御奉公じゃ。おっとそう言うてる間に日が暮れて来た。さあ、もう往《い》のう往のう、明日はまた朝早いぜ』
 信徒二『御影像を返さんとはけしからん三井寺のやつじゃ。どないして返さんのや。あれはもともと……』
 信徒みなみな『まあええ、われが心配することは無い。往のう往のう』

  (一同下手へ入る。花道よりおくみ、風呂敷包を抱え宿入り姿で出て来る。屈托《くったく》の様子。)


  おくみ『ああ、焦《じ》れる、焦れる。これではわたしの年に一度の奉公休みも台無しだ。お上人さまにお目にかかりに行けば、お上人さまはおいでなされず。源兵衛さまも同じこと。一日じゅう、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。なんと言う験《げん》の悪い日だろう。わたしゃもう草臥《くたび》れてしまった』

  (材木のところへ来て、その一つに腰かけ、膝へ頬杖突いて吐息つきながら思わず御影堂の棟を顧る。はっとして合掌。)


 おくみ『「忘れまいぞえあのことを」「忘れまいぞえあのことを」(此の言葉を言うとき念仏の句調、以後同じ)ああ、わたしとしたことが、また瞋恚《しんい》の焔炎《ほむら》に心を焼かれ勿体《もったい》ないお上人さまをお恨み申そうとしかけていた。「忘れまいぞえあのことを」「忘れまいぞえあのことを」お上人さまとて折角《せっかく》出来た此の御堂に、そりゃ常住おいでなさり度《た》いのではあろうけれど、聴けばいろいろ御公事に就《つ》いての御奔走、それを欠いてまでわたし一人の為めにお待ちなさりょう筈もなし。こりゃお留守なのが当り前だ。だが源兵衛さんはどうしても腹が癒えぬ。わたしが今日こそ年一日の暇を取って、訪にょうとは兼々《かねがね》知らしてあるのに。家へ行けば母御ばかりがぼんやり。奉公前によう逢うたあの追分けの松の根方に佇《たたず》んで待って見ても、それかと思うはまぼろしばかり。ほんの姿は遂に来もせず、――それとも若《も》しや源兵衛さんに心変りでも、――ひょっとして若しそんなことにでもなっていたら、わたしゃどうしたらよかろうかしらん。おや、またしてもわたしの取越苦労。「忘れまいぞえあのことを」「忘れまいぞえあのことを」何も時節因縁と諦めてしまえば、それで済むのだが。と言う口の下から、もう此の逢い度い心は、……ええ、も、いっそ、今日は、お上人さまにお目にかかるのはやめてしもうて、源兵衛さんに逢う一筋に骨を折ってみましょう。お上人さまはお師匠さんでも根は他人、源兵衛さんはわたしの夫。源兵衛さんに逢わずに往んでは、それこそ此の胸が焼け尽してしまうわ』

  (おくみ、決心してすっくと立上る。いつの間にか蓮如上人弟子の竹原の幸子坊一人供につれ、上手奥より出て来て様子を見て居たが、おくみが立上る途端に上人は進み出て)


 蓮如『おくみ、そりゃわしより源兵衛に逢うて行くがよい。わしは汚ない年寄りじゃものなあ』

   (おくみ、びっくりして、それが蓮如上人だと判ると、がばと突き伏す)


 おくみ『まあ、お上人さま。わたくしは恥しゅうて顔もあげられませぬ。お人の悪いお上人さま。立聴きなぞなされて』
蓮如『は、は、は、は、まあ、そう恥しがらんでもよい。恋も因縁ずく。勧めもせられん代りに障《さまた》げもせられん。ただ忘れてならぬのは六字の名号《みょうごう》じゃぞよ』

   (おくみ、起上って合掌)


  おくみ『お慈悲は身に染みて身体が浮くようでございます。然《しか》しその御名号が唱《とな》えられぬばっかりに、一度お上人さまにお目にかかってお教えを頂こうと存じましてお探し申して居りました』
蓮如『ふむ、それは気の毒とも何ともはや、さては信心退転でもいたしたか』
おくみ『退転どころではござりませぬ。父母に死なれたたった一人の孤児。お念仏は父母の遺身《かたみ》でもあればまた、わたくしの浮世の身の守りでもござります。どうして唱えずに居られましょう。それに、わたくしが引取られました奉公先の御主人は、大の念仏嫌い、南無と言うても、もう眼くじら立て、舌打ちなされます。身を退こうにも行先は無し。御主様に育ての恩はあり、さればとてご唱名は欠かしたくなし、義理と法に板挟みの揚句《あげく》が、御念仏を唱えとうてなりませぬ時には「忘れまいぞやあのことを」「忘れまいぞやあのことを」かように申して阿弥陀さまへの申訳、自分の心への誓いにして居りまする。あのことを、と申しますのは勿論信心のことでございます。然しそう唱えながらも斯ういう空言を申さねばならぬ身の因果、女の罪障、恐ろしゅう思われてなりませぬ。もうしお上人さま。こういう空言のようなものでも、お念仏の代りになりましょうか。仏さまのお救いには洩れませぬか。どうぞそれを教えて下さりませ』

   (上人、しきりに涙を払いながら)


 蓮如『おお、念仏の代りになるとも、なるとも。おくみどの。仏は知見を以って何事も、広く知食《しろしめ》すことなれば、そなたの念仏代りの言葉をも、とくと事情をお汲み取りなされ、念仏に通用さして下さるはもとより、只今|正定聚《しょうじょうしゅ》の数に入り、極楽往生疑いなし。女人と言えども天晴《あっぱ》れな御同行の一人じゃぞ』
おくみ『それでは「忘れまいぞやあのことを」でも大事ございませぬか』
蓮如『そなたに限って大事ない。安心して唱えやれ』
おくみ『やれ有難や忝《かたじ》けなや。此の上はどんな辛《つら》い奉公も、苦しい勤めも辛抱いたします。忘れまいぞやあのことを。※[#歌記号、1-3-28]忘れまいぞやあのことを。忘れまいぞやあのことを。何遍でも唱えさして頂きます』

  (合掌して蓮如を拝む)

 蓮如(合掌して拝を受けながら)『しかしおくみどの。「忘れまいぞやあのことを、」でも差支えない。差支えないが、「忘れまいぞ、」と自分の力で自分のこころを警《いま》しむるところにまだ自力の執《しゅう》が残っておる。これは、「忘れられぬぞあのことを、」と申す方が弥陀の方より与え給う信心を現すのみか、本願を悦《よろこ》ぶ貌もあり、ずんと当流|易行《いぎょう》の道に適《かな》うことである。迚《とて》ものことにそう唱えしゃっしゃれ』
おくみ『「忘れられぬぞあのことを」でござりまするか。「忘れられぬぞあのことを」でござりまするか。なんじゃ知らぬけれど、わたくしどもには一そ尊いように感じられます。お上人さまの御証明を得たからには、もう安心いたしました。では、これを土産《みやげ》に勇んで御主家へ戻ります。では御機嫌よう。お上人さま』
蓮如『まあ待ちやれ、おくみ、そなた何ぞ、も一つ忘れたものはありはせんかの』
おくみ『はて、忘れたものとは』
蓮如『さあ忘れたものとは』
おくみ『何のことでございます』
蓮如『そなたに取ってあの世の往生は定まった。然し此の世でいっち慕わしいお人に逢わんで往んでも大事ないか』
おくみ『あれ、御慈悲の有難さに源兵衛さんのことは、いつの間にやら忘れていた。だが思い出してみると、こりゃどうしても源兵衛さんに逢わなくては……お上人さまも罪なお方でいらせられます』(再び恥かし気な様子)
蓮如『源兵衛はやがて御堂へ来る手筈《てはず》で、此の道を来ることになっている。わしは僧侶のことじゃ。恋の手引きは出来ぬ。しかし、ひとり手に此処へ通って来るものを強《し》いて知らさずに置く必要もあるまい。やがて来るわ。まあ、よいようにしなされ。わしはこれで訣《わか》れるとしよう』
おくみ『何から何まで御心くばり、有難うて涙がこぼれます』
蓮如『では、まめに暮しなさい』

  (蓮如行きかける。供の竹原の幸子坊後より続く。蓮如、幸子坊の持った松明《あかり》に目をつけ)


 蓮如『これこれ幸子坊』
幸子坊『はい』
  蓮如『今夜は月明り、松明は要るまい。その辺に捨てなさい。序に火打袋も』
 幸子坊円『滅相《めっそう》な。空も大分曇って参りました。闇に松明は離せませぬ』
 蓮如『いや、月明りじゃ。蟻《あり》の穴も数えられるばかりの月明りじゃ。松明は要らぬと申すに』
 幸子坊『でも』
 蓮如(おくみの方を目配せつつ)『幸子坊、師の命を背《そむ》かるるか。えい、松明は捨ていと申すに』
 幸子坊(漸く意味がのみ込めて)『は、は、は、成程《なるほど》月明りでござった。これは飛んだ失礼、では捨てまするでござりまする』

 幸子坊、おくみの方へ松明と火打袋を投げやる。おくみ感謝の涙に暮れる)


幸子坊『さあ、これでようございます。(空を仰ぎながら)こりゃとても明るい月明り、お上人さま足元をお気を附け遊ばしませ』
蓮如『幸子坊が何のてんごう[#「てんごう」に傍点]を申すことやら、………然し此の世の中は辛いところだ。おくみにはおくみの苦労、わしにはわしの苦労がある。三界無安、猶如火宅《ゆうにょかたく》、ただ念仏のみ超世の術じゃ。さあ行こう』(涙を押える)
幸子坊『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』
蓮如『さあ参ろう』
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(おくみ、後姿を見送り合掌、幕)
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     第二場


  (舞台正面、源右衛門の住家。牡蠣殻《かきがら》を載せた板屋根、船虫の穴だらけの柱、潮風に佗《わ》びてはいるが、此の辺の漁師の親方の家とて普通の漁師の家よりはやや大型である。庭に汐錆《しおさ》び松数本。その根方に網や魚籠《びく》が散らかっている。庭の上手の方にほんの仕切りしただけの垣があり、枯れ秋草がしどろもどろに乱れている。小さい朽木門を出た五六間先からは堅田の浦の浪打際になっている。引上げられた漁船の艫《とも》が遠近にいくつか見える。
   背景に浮見堂が見える。闇夜だが、時々雲の隙から月光が射すのでこれ等の景が見える。座敷の正面に荒家に不似合いの立派な仏壇が見え、正座に蓮如上人を据え、源右衛門と妻のおさきが少し離れて遜《へりくだ》って相対して居る。蓮如上人の弟子竹原の幸子坊は椽《えん》に腰掛けている。)


 源右衛門『夜更《よふ》けといい斯《か》かる荒家へ、お上人さま直々のお運び、源右衛門|冥加《みょうが》の至りに存じます』
蓮如『何の、何の、わしじゃとてそう勿体《もったい》振ってばかりは居らぬ。次第によっては何処《どこ》へでもいつ何どきでも出向きますわい。これがまた当流易行の御趣旨でもあるからのう』
源右衛門『恐れ入りましてございます。御用の筋は』
蓮如『源右衛門。そなたは開山聖人さまの御影像に就いて何か噂を聞き込みはせぬか』
源右衛門『そのことでございます。只今もばばと話して歯噛みをして居ったところでござりました。三井寺方の申条によれば、門徒宗の方に於《おい》て開山聖人さまの御影像を取戻し度《た》くば、生首二つ持参いたせ。それと引換えに渡してやろうと、かような返事との噂を聞きました。お上人さま、そりゃ本当でござりますか』
蓮如『すでに存じておる以上隠し立てもなるまい。三井寺方の返事は全くその通りじゃ』
源右衛門『まさかと思って聴き居りましたに、では本当でござりまするか。如何に乱れた世の中とは言いながら、引換えの料《りょう》に人の生首。こりゃ無理難題を言いかけて御影像を返さぬつもりとしか受取れませぬ』
おさき『出家ともあるものが、人の生首を所望とは、悪魔の所為としか思われませぬ』
蓮如『これには何か仔細のあることであろう。それに就いて源右衛門、そちに頼みがあるが是非聴いては呉れまいか』
源右衛門『数ならぬ御同行の端くれの私|奴《め》へ、お上人さま直々のお頼み、なんで否応を申しましょう。…………然しお情深いお上人さまのそのお口からこの御註文は、ちと仰《おっ》しゃり憎くはござりませぬか。代りにこの私奴から申上げて見ましょうか』
蓮如『ほほう。何と推察せられたか、まあ、言うて見やれ』
源右衛門(あたりを見廻し、少し乗出し、小声になって)『お上人さま、そのお頼みとは、三井寺へ引換えの料の生首二つ、この私奴に調《ととの》えて欲しいと仰しゃるのでございましょう』
蓮如(驚いて手をさし延べ)『源右衛門。必ず早合点をしてはならぬぞ。わしは生首を調達しようとするような若《も》しそういう不心得ものも此のあたりにあらば、そちに留めて呉れいと、留め役を言い付けに来たのだ。滅相もない』
源右衛門(妙な顔して)『なに。留め役でござりますると』
おさき『開山聖人さま御正忌《ごしょうき》会の たい 夜《たいや》も近々。御影堂は立派にお出来申したのに、お中身の開山聖人さまのあの御影像が無くて御報恩講が勤まりましょうか。お上人さま始め御門徒衆御一同、数ならぬ私どもまで他宗に対してどうして顔が立ちましょうか』
蓮如『名誉、不名誉は言ってはいられぬ。人の命が大事じゃ。憐れみ深い開山聖人さまが、それ程までして取戻せとも仰《おお》せあるまい。御影像取戻しに就いてはまた折れ合う時節もあろう。此の際、三井寺方の申条に対し瞋恚《しんい》を抱き、喧嘩、強訴、仕返し、その他何によらず殺伐なる振舞いを企つるものあらば、屹度《きっと》そなたから留めて貰い度いのじゃ。頼んだぞ源右衛門』
源右衛門『じゃと申してあまりな無法の言いがかり』
蓮如『年甲斐もない。そちから先に何事じゃ。この頼み聴かずばきっと破門じゃぞ』
源右衛門『ええ?……………是非もない。仰せ畏《かしこま》りましてござります』
蓮如『おさき、そなたも心添えして下され』
おさき『は、は。はい』
蓮如『いや、思わずきつい言葉を放って、さぞ聞き辛くもあったであろう。許して呉りゃれ。何事も思うに足らぬは此の世の常。お互いにお名号に慰められつつ兎《と》も角《かく》も、生きて行く手段が肝要じゃ』
源右衛門、おさき(涙を流しながら)『有難うございます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』
蓮如『とこう言ううち、夜半も過ぎた。どれもう一軒訪ぬるところがある。暇《いとま》としよう』
源右衛門『もうお帰りでござりまするか』

  (おさき、竹原の幸子坊の手に松明の無いのを見て)


  おさき『幸子坊さん、松明は?』
幸子坊(手を開いて見て)『えっ、松明? その松明は』(思わず蓮如の顔を見る)
 蓮如『何の行き慣れた西近江街道、杖、松明の助けは要らぬわ……………………それに就いて思い出した。こちの息子の源兵衛はな、門徒若衆達の寄合いの帰りに今宵は山科に来ている筈、戻りは遅うなろうも知れん。決して心配さっしゃるな』
 源右衛門『御念の入ったおことわり。御用事あらばなんぼなりと、お使いなされて下されまし』
 蓮如『では、おさらば』
 源右衛門、おさき『おしずかに、おいでなされませ』

  (蓮如上人は幸子坊を連れて出て行く。源右衛門、おさきは朽木の門の外まで送って出て、花道へかかる上人と訣れる。浪の音、雁の声。源右衛門、庭に立ったまま、暫らく腕組みして瞑目している。おさきもこごんで思案して居る。やがて)


  源右衛門『なあ、おさき』
  おさき『え、何え?』
  源右衛門『上人さまは、わざわざ留めにお出でなされたが、末世の時に叶《かな》い、潮に乗った御門徒衆の、今日此頃の勢い、御同行衆のみんな、やみやみ三井寺方の言い条を、その儘《まま》聴いて泣寝入りとは、どうしてもわしには考えられんのだ』
  おさき『わたしにも、そう思われます』
  源右衛門『すれば、誰かしらの血を見ることじゃ』
  おさき『おお、誰かしらの………』
  源右衛門『なあ、おさき』
  おさき『はい』
  源右衛門『おまえと夫婦で暮したのも三十年あまり。不仕合せなおまえでもなかったと思うが』
 おさき『よう判っておりまする。これも仏さまのお蔭、あなたのお蔭。あらためてお礼を申《もうし》ます。わたしに異存はございません。どうぞ思い立った通りにして下さいませ』
 源右衛門『すれば、このわしの首をわしの思いの儘に使ってもいいというのか』
 おさき『御報恩の為め、また人々の為め』
 源右衛門『承知して呉れて、先ずは安心。ところでもう一つの首じゃ』
  おさき(顔を押えて)『おお、どうぞ、それを口に言うては下さりますな。それをこの耳に聴いたなら、わたしは息も絶え果ててしまいます。ただ黙って何事も、御宗旨の為め、人々の為めと、わたしに諦めさせて置いて下さりませ。然し二十を過ぎてまだ間も無い若者。そして源兵衛は、あの利発な美しいおくみ坊と兼ね兼ね深く思い合うた仲。二人をどうぞ一時なりとも晴れて夫婦にしてやってから、お役に立てて下さりませ』(泣く)
源右衛門(同じく泣きながら)『辛《つら》い娑婆《しゃば》とは、容易《たやす》く口では言っては居たが、斯くまで辛いと知るは今が始めて。これにつけても期するところは弥陀の浄土。いずれ彼方で待ち合すとしよう。ぐずぐずしているうち心がにぶろうも知れぬ。では、いつとは言わずに直ぐに今から、伜《せがれ》を連れに山科へ出かけるとしようかい』

  (源右衛門行きかける。おさき留める)


  おさき『行きなさるなら門出の仕度。此の世のお礼やら、あの世のお頼みやら、仏様にお燈明《とうみょう》なとあかあかあげて、親子夫婦が訣れのお念仏唱えさせて頂きましょう』
源右衛門『よいところへ気が付いた』
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(二人で仏壇の扉を開け、礼拝の支度)
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     舞台半転


 (源右衛門宅の裏の浜辺。源右衛門の家の背戸は、葉の落ちた野茨《のいばら》、合歓木《ねむのき》、うつぎなどの枝木で殆んど覆われている。家の腰を覆うて枯蘆もぼうぼうと生えている。はね釣瓶《つるべ》の尖だけが見える。舞台の中央は枯草がまだらな浜砂。潮錆び松が程よき間隔を置いて立っている。舞台奥は琵琶湖の水が漫々と湛えている。上手に浮見堂が割合に近く見えて来ている。下手の遠景に三上山がそれかと思うほど淡く影を現している。舞台下手にちょっぽり枯田の畦《あぜ》が現れ、小さい石地蔵、施餓鬼《せがき》の塔婆など立っている。雲はだいぶ退いて行って、黎明前の落ちついたみずみずしい空の色。上手から源兵衛とおくみは肩をすり合うようにして出て来る。)


  源兵衛『男がおなごに家まで送って貰うという法があるかい。ここまで来れば家へ着いたも同様。そなたの念も届いたと言うものだ。さ、今度はわしがそなたを御主家まで送ってやりましょう』
おくみ『送って貰うはうれしいけれど。こなた、その戻りに衣川の宿場を通ってうっかり、夜明しの茶屋などに寄って往くまいものでもなし――』
源兵衛『あきれた悋気《りんき》おんなだ。そなたと言うれっきとした女房があるのに、何で今更の浮気。つまらぬ云い合いに手間取る暇に、その松明こっちへ貰おう』
 おくみ『また、うまくわたしを騙《だま》しなさろうとて、その手には乗りませぬ』
 源兵衛『またその手に乗らんとは、わしがそなたを騙したと言うのか』
 おくみ『お騙しなさんしたとも。今朝のうちから、さっきのいままで』
 源兵衛『そなたが来るのを留守にしたのは、拠所《よんどころ》ない若衆会所の相談。それも御門徒の一大事に就《つい》ての談合と、道々も口を酸《すっぱ》くして聞かしてやったではないか』
おくみ『それがほんとなら、大事ないけれど』
 源兵衛『言いがかりもいい加減にしやれ、さあ、もう夜明けも間近だ。明方《あけがた》までにそなたも御主家へ戻らずば首尾が悪るかろう。その松明をこっちへ渡しや』
 おくみ『いえいえ。わたしゃ、矢っ張り、あなたを家へ送り届けて、安心して、それから往にます』
 源兵衛『もう、いいからその松明』
  おくみ『いえいえもう少し………』
  源兵衛『出しゃれ、出しゃれ』
  おくみ『いや。いや』

  (奪い取り合ううち、松明はぱったり地に落ちる。舞台は薄闇。二人は思《おもわ》ず寄り添う。源右衛門の家より鉦《しょう》の音。)


 おくみ『源兵衛さま』
 源兵衛『おくみ』
 おくみ『ほんにたまさか逢瀬《おうせ》の一夜。その上なにか胸騒ぎがしてすこしでも長くあなたに引添うて、離れとうもござりませぬ』
  源兵衛『わしとても同じ想いだ。然しお上人さまがよう言わるる此の世のさまは、生者必滅、会者定離《えしゃじょうり》。たとえ表向き夫婦となって、共白髪まで添い遂げようとしても、無常の風に誘わるれば、たちまちあの世と此の世の距て。訣れとなるのは遅い早いの違いだけだ。そこをよう聴き分けて御念仏一筋を便りにおとなしく御主家へ帰って呉れ。今分れても首尾さえつけば、直ぐこちらから迎えに行く。若しまた拙い首尾になり果てようと、落ち付く先は極楽浄土。一つうてなで花嫁花婿』(涙にむせぶ)
 おくみ(いそがしく手探りで源兵衛の頬を探り)『や、や、源兵衛さん、こなた泣いていやしゃんすな。先程呉れたお珠数《じゅず》と言い、わたしのこの胸騒ぎ、またいまのお言葉。こりゃ迂濶《うかつ》にお傍は離れられぬ。こなた何か、わたしに隠し立てをしていなさるな』(珠数を取出す)
  源兵衛(おくみの手を払い涙を拭いて)『は、は、は、は、何の隠し立てをしてよいものか。世の譬《たと》えにも何ぞといえば夫婦は二世と言うではないか。離れぬ、往なぬとあまりそなたが云い張るゆえ今別れても末は一つの極楽浄土とわしが言ったは、ありゃほんの口のはずみじゃ』
おくみ『いえいえ弾みではございません。それに先程から折々何ぞ思い詰めて居るらしいこなたのかくし溜息。さあ、言って下され。心が急《せ》く。それともこなたが言えずば、いっそのこと、こなたの家へ馳せて行き、ととさん、かかさんに理由《わけ》を話し、のっぴきさせず押しかけ女房。瞬きする間もおまえのお傍は離れません。もともと二人は許嫁《いいなずけ》、誰に遠慮も要らぬ。わたしゃもう、御主家へは帰りますまい』
 源兵衛『こりゃまた乱暴な。時節が来ぬのに押しかけ女房とは――。わしに言い損じもあらばあやまりもしよう。頼む。御主家へ戻って呉れ』
 おくみ『わたしゃ、どうあっても嫌じゃわいなあ』
 源兵衛『すりゃこれほどに頼んでも』
  おくみ『死んでもお傍を離れませぬ』
  源兵衛『帰れ』
 おくみ『いやじゃ、いやじゃ』

  (二人、また揉み合うところに、源右衛門の家の垣の中に声あって)

 ×××『二人とも争うには及ばぬ。こちへ入れ。直ぐに夫婦にしてやろう』
  源兵衛『そういう声は、父者の声』
  おさき『親が許して夫婦の盃、御仏前でさすほどに、おくみ坊も早う、こなたへ入るがよいぞや』

  (裏の背戸開く)


  おくみ『これはまた、どうした運やら。たとえ狐狸の仕業《しわざ》とあっても、わたしゃ悦んで騙《だま》されよう。のう源兵衛さま』

  (源兵衛の手を取って背戸より入る)
   (夜はしらじらと明け、暁の鐘が鳴る)

     第三場


  (垂幕、湖水の漣《さざなみ》に配して唐崎の松の景。朝の渚鳥が鳴いている。
  源右衛門と源兵衛旅姿で花道より出で来り、程よきところにて立止まる。)


  源右衛門『これ、忰、暫らくの間の故郷の見納め、この辺で一休みするとしようかい』
 源兵衛『此の期《ご》になって、のんきらしい………。早うこの首うって三井寺へ駆けつけさっしゃれ』(片膝つき右の手で頸を叩く)
 源右衛門(深い思入れ)『それじゃ、そなたは何もかも、承知の上での旅立ちか』
  源兵衛『きのう一同会所で相談。御影像と引換えの首は、誰か一人、若衆から出さずは済むまいと聴いたときから、若者|頭《がしら》の此のわたし、心で覚悟はしておりました。それに今朝方思いがけないおくみとの盃。それを済ますと親子の旅立ち、行先を訊いてもただ遠いところとばかり。こりゃてっきり父者が自分の首とわしの首とを引換えに、三井寺から開山聖人さまの御影像を、取戻す心算《つもり》と知った。なあ父者、永く生きても五七十年、わし等のような素凡夫の首が、尊い御影像に換えられ、御門徒衆一統の難儀を救えるなら、願うても勤めたい親子がもうけ役。ただ気がかりなは、老先短い母御と、若嫁、女ばかりでどう暮して行くやら。お縋《すが》り申すは弥陀の御威徳』(合掌)
源右衛門(同じく合掌)『法の為めには不惜身命《ふしゃくしんみょう》の誡《いましめ》。やわか功徳の無いことがあろうか。生き残るも、死に往くもあなた任せ。心も軽き一葉船、風のまにまに散って行こうぞ』
 源兵衛『もうすっかり、気が落附きました。さらば父者』

   (西に向き直る。)

 源右衛門『うむ、よい覚悟。わしもあとから直きに行く』

   (刀を抜いて源兵衛の首を打落す。袖を千切って首を包む。)

  (幕、落ちる。)

 (正面、三井寺の山門。左右へ厳重な柵が立ち並んでいる。柵内柵外の木々の紅葉は大分散り果てたが、それでもまだ名残《なごり》の色を留めて居て美しい。柵の前に燃え尽きた篝《かがり》が二三箇所置いてある。赤松の陰に「山門制戒」の高札も立っている。
 法衣の上に頭巾、冑や腹巻をつけた法師が得物得物を執って固めている。武装した稚児も交っている。遠くで大勢の読経の声終る。)


  法師一『何奴《どいつ》だ、そこへ来たのは』
 源右衛門(刀を提げ立《たち》はだかったまま)『本願寺浄土真宗、本寺のものだ。山科より使いに来たと、和尚さんへ取次いで下せえ』
 法師二『言葉も知らぬ下司《げす》なおやじ奴《め》。その上に刃《やいば》なぞ抜身で携《さ》げ、そもそも此処《ここ》は何《いず》れと心得居る。智証大師伝法|灌頂《かんじょう》の道場。天下に名だたる霊域なるぞ』
 源右衛門『言葉が悪くばあやまります。何はともあれ、お預け申した開祖様御影像を、礼物持って受取りに来ました。さっと此処を通して下せえ』
  法師三『ならんならん』
 法師一『狼藉《ろうぜき》いたさば、そのままには捨て置かんぞ』
 法師二『比叡の山法師の拳固の味とはまた違った三井法師の拳固の味、その白髪頭に食って見たいか』(拳を振り上げる)
 源右衛門『事を別《わ》けて頼んでいるのに、どうしても通さぬと言うなら、腕立ては嫌いな源右衛門だが仕方もねえ。琵琶湖の浪で鍛え上げた腕節《うでっぷし》。押しても通るが、それで承知か』
 法師達『何を小癪《こしゃく》な』

  (源右衛門と法師達と睨《にら》み合って詰め寄る。朝の勤行を終え、衆僧を従えて門内を通りかかった円命阿闍梨、立出る。)


 阿闍梨『これ待て、一同』

  (源右衛門、法師等、そこへ蹲《うずくま》る。)


  阿闍梨『様子のほどは、略《ほぼ》門内より覗《うかが》い知った。源右衛門とやら、山科坊より親鸞影像を引取りに参りし由。大儀であるぞ』
  源右衛門『恐れ入りましてござりまする』
 阿闍梨『して、引換えの礼物ほ、確《し》かと持参いたしたな』
 源右衛門『はい。これでござりまする』(袖の包みより源兵衛の首を出して前に置く。)
  阿闍梨『や、や、こりゃ真正の生首』
 源右衛門『粗末の品ではござりまするが、手塩にかけて育てた忰。首の素性は確《たしか》でござりまする』
阿闍梨『よもや、それまでは得為《えな》すまじと思いしに、まことに首を持ち来りしか。(暫時深き思い入れ。また思い返して)然し源右衛門、約束は約束。首の数は二つであった筈だが』
源右衛門『あとの一つは即ちこの首。(自分の首を指して)体につけて持参しました。御手数ながら切り取って二つの生首、お揃え下され』

  (阿闍梨始め法師一同、驚き且つ厳粛な気分にうたれ、暫らく沈黙。)


  阿闍梨(嘆息)『蓮如どのは、よい信徒を持たれた。うらやましいことである。(源右衛門をみつめて小間。)これ源右衛門とやら、親鸞の影像は直ちにそちに渡して取らす。大事に護《まも》り戻って山科坊へ安置いたせ』
 源右衛門『え、え、すりゃ、私奴にお返し下さりまするか。……でも御入用の今一つのこの首は』
  阿闍梨(不憫の声音にて)『決して、いらぬ』
  源右衛門『それは、まことでござりまするか』
 阿闍梨『偽を申そうか。それ寺の衆。影像を持って来て此の者に取らせよ』
 法師五六人『はい』(門内へ入る)
 阿闍梨『今更言うても由ないことだが、首二つの引換え料とは、ありゃ此の方の切ない苦肉の親切から、出来ぬ難題を持ちかけ、今暫らく影像を、此の方に預って置くつもりじゃった』
 源右衛門『はて、親切とおっしゃりますと』
 阿闍梨『蓮如どのは永の流浪《るろう》。たとえ北国辺土は教え靡《なび》くとも、都近くは留守の間の荒土。然るに叡山の西塔慶純の末流も、まだ居ることなれば、たとえ山科坊建立あるとも、いつ如何なる折を見付けて再び乱入なさんも知れず。その理由言うて聞かして親鸞影像を、なお暫らく三井寺方へ預り置かんとすれど、勢込んだる門徒衆の執心。影像堂の新築落成と共に取り戻しに来るは必定。そのゆえ無理難題を言いかけ、此方《こちら》で影像擁護の為め、今暫らくそちらへの取戻しは、諦めさせ置こうとの、此の方の苦肉の親切。その方便を正直にうけ取って命を捨つる親子の信念。斯かる例を見るからは、最早や如何なる怨魔出で来るとも、退散させて弥陀の念仏。一宗再興疑いなし。出来《でか》したぞ堅田の源右衛門。この上は心よく、親鸞影像を戻し返してつかわすのみか、他宗ながら忰源兵衛の菩提も、こなたで弔《とむら》い追善供養。三密|瑜伽《ゆが》の加持力にて、安養成仏諸共に、即身成仏兼ね得させん。心を安めよ仏子源右衛門』
 源右衛門(額《ぬか》ずきつつ)『老先《おいさき》短いこの年寄が、忰に代って生き永らえ、悲しいやら面目ないやら、心苦しゅうござりまするが、御門徒宗が他宗の智識に、これほどまでに褒《ほ》められる手柄をしたと思えば、どうやら心が慰められます。お察しなされて下さりませ』

   (法師五六人、親鸞聖人の木像を担ぎ出して来る)


 阿闍梨『親鸞どのもいたわしゅう思召《おぼしめ》されていらるるだろう。それ、各僧、源右衛門の背に負わしてやられよ』
 法師一同『畏《かしこま》りました』

  (此の時おくみは跣足《はだし》で先に、蓮如上人は駕《かご》に乗り、取るものも取りあえぬ形で花道を駈けつけて来る)


 おくみ(源右衛門に取りついて)『もうし、ととさん、こちの人はどうしやさんした』

  (源右衛門、親鸞聖人の木像を背負いつつ、顔をそむけて、うつ向く。)


  おくみ『黙っていなさるは心がかり。早う教えて下さりませ』
  源右衛門『これ嫁女、源兵衛はな』
  おくみ『源兵衛さんは?』
 源右衛門『それ、そこじゃ』(顎にて袖の千切れに包まれし首を示し、涙をはらはらと落す。)
 おくみ(袖の首を取上げて)『やっぱり覚悟の通りにならしゃんしたか。ととさんと一緒に旅立ちの様子がおかしいと、直ぐそのあとでかかさんを攻め詰《なじ》って漸《よう》よう訊いた事の仔細。それから山科の御坊に駈けつけて、お上人さまにお訴え申し、お上人さまともども急いで駈けつけたが』(泣く)
 蓮如(駕籠《かご》より降り)『時遅れしか、残念、残念』
  源右衛門『嫁女、歎くまいぞ。そなたが抱いておるは、そりゃ源兵衛の抜け殻。魂は移って、これ、此処に在《おわ》します』(顎にて背中の影像を示す)
おくみ(袖の首を抱えたまま、影像に取りついて)『身を捨てても、人を救うとは仏のお誓い。その誓いの通りなさんした、源兵衛さんは、凡夫でいながら聖《ひじり》も同然。見れば開山聖人さまの御影像も泣いていやしゃります。源兵衛さんは本望であろうわいなあ。わたしゃもう、歎きも、哀しみもいたしますまい。(首にものいう如く)期するところは極楽浄土。一つ台《うてな》で花嫁花婿。のう、こちの人、※[#歌記号、1-3-28]忘れまいぞえあのことを。いや、※[#歌記号、1-3-28]忘れられぬぞあのことを。※[#歌記号、1-3-28]忘れられぬぞあのことを』(唱えつつ首の包みに額を押しあて泣きむせぶ。舞台一同のものも落涙)
 蓮如『時は末法、機は浅劣。聖道永く閉じ果てて、救いの術はただ信心。他力易行と教えて来たが、思いに勝《ま》さる事実の応験。愛慾泥裏の誑惑《きょうわく》の男と女がそのままに、登る仏果の安養浄土、恐ろしき法力ではあるなあ。この上は源兵衛に続いてわが身も一しお、老いの山坂|厭《いと》いなく、衆生済度《しゅじょうさいど》に馳せ向わん。有難し、忝《かたじけ》なし、源右衛門。源兵衛。(合掌しつつ和歌を口ずさむ)

    あひがたき教へを受けて渇仰《かつがう》の、
   かうべはこゝに残りこそすれ』

  (衆僧経の諷誦《ふうじゅ》の声にて、舞台一同合掌礼拝。)

          ――幕――

底本:「岡本かの子全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1994(平成6)年2月24日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第一卷」冬樹社
   1974(昭和49)年9月15日初版第1刷
初出:「大法輪」
   1934(昭和9)年11月号
入力:門田裕志
校正:オサムラヒロ
2008年10月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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岡本かの子

時代色 ―歪んだポーズ —–岡本かの子

センチメンタルな気風はセンチと呼んで唾棄《だき》軽蔑《けいべつ》されるようになったが、世上《せじょう》一般にロマンチックな気持ちには随分《ずいぶん》憧《あこが》れを持ち、この傾向は追々《おいおい》強くなりそうである。
 飛躍する気持になり度《た》い。何物かに酔《よ》うて恍惚《こうこつ》とした情熱にわれを忘れたい。大体《だいたい》こういう気風である。だが、世上一般の実状はその反対を強《しい》ている。それだけ人々は却《かえっ》てそれを欲《ほ》っするのかも知れない。
 世上一般の実状が人々に強いるものはリアリズムである。如何《いか》に苦しく醜《みにく》い現実でも青眼《せいがん》に直視せよと言うのである。然《しか》らざれば生活の足を踏み滑《すべ》らす。
 リアリズムの用心深い足取りで生活の架け橋を拾い踏み渡りながら、眼は高い蒼空《そうくう》の雲に見惚《みと》れようとする。歪《ゆが》んだポーズである。此《この》矛盾《むじゅん》が不思議な調子で時代を彩色《いろど》る。
 純情な恋の小唄《こうた》を好んで口誦《くちずさ》む青年子女に訊《き》いてみると恋愛なんか可笑《おか》しくって出来《でき》ないと言う。家庭に退屈した若い良人《おっと》が、ダンス場やカフェ這入《はい》りを定期的にして、而《しか》もそれに満足もしない。肯定と否定とが一人の人の中に同棲《どうせい》している。そして、そのような矛盾のままで性格が固定し切っているかと思えば、そうでない。気分の動きにつれて肯定と否定の両頭《りょうとう》は直《す》ぐ噛《か》み合いを始める。今日の都会の青年子女に就《つい》て、気持ちの話になって、はっきり一つの意味の言葉を言切《いいき》る者は尠《すくな》い。必ず意味に濁《にご》りを打つか取消しの準備を言内に付け加えている。これは相手に向っての用心ばかりでなく、恐らく自分自身に向っても保証し切れないからであろう。
 しかし、この矛盾に堪《た》えぬものは現代の落伍者《らくごしゃ》である。逞《たくま》しい忍耐を以《もっ》て、この歪《ゆが》んだポーズに堪え、根気よく真に魅力ある理想を探って行き度《た》い。

底本:「愛よ、愛」メタローグ
   1999(平成11)年5月8日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
   1976(昭和51)年発行
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2004年3月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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岡本かの子

慈悲—— 岡本かの子

 ひとくちに慈悲ぶかい人といえば、誰にでもものを遣る人、誰のいうことをも直ぐ聞き入れてやる人、何事も他人の為に辞せない人、こう極《き》めて仕舞うのが普通でしょう。それはそうに違いないでしょう、それが慈悲ぶかい人の他人に対する原則ですから。
 然し、原則というのは結局原則であります。ものごとが凡て、原則どおり単純に行って済むのなら世の中は案外やさしいものです。お医者でも原則通りですべて病人が都合よく処理出来るなら、どのお医者でもみな病理学研究室に閉じこもって居れば世話はありません。なにも、面倒な臨床学など習って実地研究の何年間など費《ついや》す必要は無いわけです。処が、その必要がある。ありますとも、其処《そこ》が臨機応変、仏教のいわゆる、「時《じ》、処《しょ》、位《い》」に適する方法に於いて原則を実地に応用しなければなりません。
 本当の慈悲とは、此処《ここ》に本当にものを与えるに適当な事情を持つ人がある。その時、その人に適当な程のものを与へる。それが本当の慈悲であります。ここに一人の怠け者があって、それが口を上手にして縋って来たとする。その口上手《くちじょうず》に乗ぜられ、ものをやったとする。それは慈悲に似て非なるものであります。おだてに乗った、うかつもの[#「うかつもの」に傍点]の愚な所行です。そんな時、ものを遣《や》る代りに、そのなまけ者のお上手者の頬に平手の一つも見舞ってやる。誡めになり発憤剤になるかもしれません。その方が本当の慈悲です。
 人の云うことを聞けば宜いと云って人を甘やかすばかりが慈悲ではありません。お砂糖ばかりで煮たお料理は却ってまずい。ひとつまみの塩を入れてたちまち味の調和がとれるではありませんか。時には、いつくしみのなかに味ひとつまみの小言もいれなくては完全な慈悲とはならないでしょう。
 愛情ばかりで智慧の判断の伴わない慈悲は往々にしてまた利己主義の慈悲になります。折角、自分は善良な慈悲心でして居るつもりのことが、利己主義の慈悲心になっては残念です。
 トルストイの作品のうちにあった例だと思います。何の職業をして居る人だったか忘れましたが、とにかく慈悲を心がけて暮らして居る或る男がありました。或る冬の夜、非常に天候が荒れ(或いは雪の夜だったかもしれません)ました。慈悲深い男は、家外の寒さを思い遣り乍ら室内のストーヴの火に暖を採《と》り、椅子にふかふかと身を埋めて静に読書して居りました。と、家外の吹雪の中に一人のヴァイオリン弾きの老爺の乞食が立ち、やがてそれは寒さのために縮んで主人の室の硝子扉に貼りつくように体を寄せました。主人はもとより慈悲の心で生きて居る人です。しばらくヴァイオリン弾きの乞食姿をあわれと思って見て居りましたが、やがて意を決して硝子扉を開けました。主人はそして、ひたすら恐縮するヴァイオリン弾きを室内へ招じ、暖い喰べものを与え、ストーヴの火をどんどん焚き足《た》して長時間吹雪のなかにさすらってこごえて来た乞食の老爺の体をあたためて遣りました。
 翌日、その翌日となり雪は晴れ道もよくなりました。ヴァイオリン弾きの老爺はしきりに主人の邸内から辞してまたさすらいの旅に出ようとしました。しかし、主人はきき入れませんでした。何処までも、自分の邸内にとどめて可哀想な乞食音楽師を安楽に暮らさせ様と心掛けました。それにもかかわらず老爺のヴァイオリン弾きはしきりに辞去したがる。するとなおさら主人は引きとめる。ほとんど強制的にひきとめる。
 ある夜、主人はヴァイオリン弾きの老爺が、突然無断で邸内から抜け出し、何処とも知らず、逃げ失せたのを知りました。「ああ、彼は、矢張り空飛ぶ鳥であったか。」こう気がついたのは、主人であったか、読者たる私であったか忘れましたが、とにかく利己主義な慈悲の例証にこの話は役立つものです。即ち、主人は、ヴァイオリン弾きの本質を達観し得なかった。彼の放浪的な運命をつくった性格を見透《みとお》さなかった。彼の生き方は、どんな憂き艱難をしても、野に山に、街に部落にさすらって歩くのがその性質に合う生き方なのでした。そういうものには、そうさせて置くのが好いのです。彼の幸福は、決して暖衣飽食して富家に飼われ養われて居る生活のなかには感じられなかったのです。彼は主人に引き留めれられて居るうちどんなに窮屈であり、旅が、さすらいが恋しかったか知れないのです。彼は主人の好意がむしろ迷惑だったでしょう。主人の慈悲は彼に取ってむしろ無くもがなの邪魔だったでしょう。
 それにもかかわらず、主人は自分が慈悲を行って居ることに満足を感じて居たでしょう。自分の「志」を立てることばかり考えて居た主人は、それがために相手が、どんな不自由や迷惑を感じて居るかに気がつかなかったのです。つまり自己満足、利己主義の慈悲とはこういうことなのです。
 有がた迷惑の好意についても一つ云えば、某外国に一百六十歳近い長寿者がありました。皇室ではそれをよみせられ、召し上げられて飽衣美食でもてなしました。長寿者はたちまち死にました。粗食故に長寿して居た生命が、美食に遇ってたちまち破損して仕舞ったのだそうです。
 要するに本当の慈悲とは、相手の立場や本質を考え、自分の慈善的感情本位でない施行《ほどこし》に於いて本然の達成が遂げられるのです。

底本:「日本の名随筆13・心」作品社
   1984(昭和59)年2月25日第1刷発行
   1990(平成2)年10月31日第15刷発行
入力:渡邉つよし
校正:菅野朋子
2000年6月3日公開
青空文庫作成ファイル:このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

岡本かの子

私の書に就ての追憶—— 岡本かの子

 東京の西郊に私の実家が在つた。母屋の東側の庭にある大銀杏の根方を飛石づたひに廻つて行くと私の居室である。四畳半の茶室風の間が二つ連なつて、一つには私の養育母がゐた。彼女はもう五十を越してゐたが、宮仕へをした女だけあつて挙措が折目正しく、また相当なインテリでもあつて、日本古典の書物の外に、漢詩とか、支那の歴史ものを読んでゐた。字も漢字風に固い字を書いた。当時五歳の私に彼女は源氏物語の桐壺の巻を「何れの御時にか、女御更衣数多侍ひ給ひける中に……」と読ませて、私は何の意味も判らないながら、養育母兼家庭教師である彼女の字に真似て実語経の一節や、万葉集の歌を万葉仮名で書き始めた。私は字を書くことに段※[#二の字点、1-2-22]興味を持つて行つた。
 小学校へ上ると、私は習字の先生の字を注目した。その先生の字は、上級生の間では、奇麗で上手だといふ評判だつた。だが、私の目には何の感動も与へず、つまらないものに見えたので、私は却つて不思議に先生の字を気にした。何と批評していいのか、その当時の私は幼くて言ふことを知らなかつたが、今に回顧してみて奇麗でも何だか薄つぺらな字といふ感じであつて、それまで養育母に就て二三年間も固い字ばかり書いてゐた私は、全く感じの違つた字に逢つて戸惑ひしたらしかつた。
 私はその先生から「漢字はとても立派ですが、仮名は固すぎます……字をそんなに大きく紙一ぱいに書くものではありません」と何度も注意された。私はいつも大きな字を書いてゐた。
 兄弟が無[#「無」に「ママ」の注記]かつたので、正月の書初めは母屋の胴の間の鴨居から、品評会のやうに貼り下げられた。私のものは矢張り大きな漢字であつた。習字の先生が年賀に越されて、私の書初めを眺めながら「かう漢字ばかりでは私のなほしてあげるところはありませんね」と言つて、何だか私を手に負えない者のやうに見て困つた顔をして笑はれた。私は幾分得意のやうでもあつたがそれよりも、何処か人と合はない傾向を自分自身に気付いて、それを淋しいものと思つた。
 そのやうな字の傾向は、確かに年少の私が字を習ひ始めに養育母がその緒を与へたからだと言へば言へるが、私自身の生れつきにも原因があつた。今に至るも私は不器用で、物ごとをすら/\運ぶことが出来ない性質である。世の多くの人※[#二の字点、1-2-22]は経験を積むことによつて着※[#二の字点、1-2-22]熟練上達し、同じことをなすには無意識でも反射的に手際よくすることが出来る。ところが、私は、幾度同じことを繰返しても、その都度、全く新奇なことにぶつかつたやうに思へて、全意識を傾倒しなければならない。だから私には、物ごとを経験熟練により反射的に手早く取片づけることは出来ないのである。字もまた、幾度習つても前と決して同じやうな字がすら/\書けない。私は仮名まで漢字を使つてしかつめらしい字を書いた。
 それとまた、幼女時代、はにかみ屋で、控へ目勝ちだつた私は、異常に無口であつたから、言葉によつて表現出来ない鬱屈した感情の吐け口を無意識にも、字に求めたらしいことが今の私の記憶に照し合せて判断される。されば、その鬱情を乗り移らせるのに勢ひ大きな、貫禄のありさうな漢字を好んで書いたものであつたらう。今から思へば、自分の事ながら、いぢらしい気がする。
 さやうにして、気分も違ひ、意気込みも違ふに従つてその時時の字を書いた。書かれた字は私の精魂を反映してゐて、慰めになつた。私は終日、年に似合はぬ意味も判らぬ難字――その方が感情を載せるのに収容力の余地があるやうな気がして――を書き続けるのであつた。紙をはづれて、手も机も畳までも墨で汚しながら。養育母は却つてそれを喜びながら、後で雑巾がけをして呉れた。
 私より三つ上の兄は、小学校の日曜休み毎に東京市内の渋谷に住む鳴鶴流[#「流」に「ママ」の注記]の大家近藤雪竹先生の許に出向いて書を習つてゐた。家へ帰つて来て練習する母屋の方へ出向いて、それを見付けた私は、そこでも兄に負けないで一緒に習字することを思ひ立つた。私達は競争で大文字の千字文から、しまひには手に余るやうな太い筆を持つて旗や幟の字まで書いたりした。
 女学生時代となつて、当時、小野鵞堂先生の人気素晴らしかつた。誰も彼も、その流麗な字を真似た。だが私は、それに向ふ気が起らなかつた。幼時から漢の字風の固い字を書きつけてゐた上に、拮[#「拮」に「ママ」の注記]屈な気性の私は、こゝでも、自分には縁のない字として諦めてしまつた。その代り、女学世界といふ雑誌があつて、その口絵の裏などに屡※[#二の字点、1-2-22]、多田親愛先生の書が載つてゐた。私はその書が好きで、切り抜いて置いて熱心に習つたものであつた。学校でも校長先生の跡見花蹊女史の字が漢の字であつてその影響を多分に受けた。
 女学校を卒業すると、私は京橋の岡本家へ来たが、主人の父は当時、東京で名前の知られた書家であつた。舅は私に自分の流儀を直接教へはしなかつた。非常に寛容の人で私の字筋は性格的だから自分で工夫して行かせ度いと云はれ、所蔵する書の本を沢山私に貸与して優れた字の含む風韻とか格といふものを感得させて呉れられた。(舅の友人に前田黙鳳といふ先生があつて、その古朴正厳な覇気横溢の書体にも私は深く感銘を得たことを憶えてゐる。)私は斯様に字に就いて可なり我儘であると同時に悩んだ。従つて時代/\により筆法が変はり、今に至るもまだ固定した私の字といふものはない。自分のサインさへ決まつてはゐないほどである。
 それだけ字に対する興味と意気込みは、日に/\新なものがある。今後も私は書かうとする一字/\を初めての字のやうに思ひ做して、新奇の気構えで書くことであらう。字に於ても私の将来はまだ/\沢山の努力を要するやうである。苦しく思ふ反面、生命の張りを感じて字に対する熱情が若やぐのである。

底本:「日本の名随筆64 書」作品社
   1988(昭和63)年2月20日第1刷発行
   1991(平成3)年9月1日第6刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第一四巻」冬樹社
   1977(昭和52)年5月
入力:渡邉 つよし
校正:門田 裕志
2001年9月20日公開
2005年6月28日修正
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岡本かの子

山茶花—–岡本かの子

ひとの世の男女の
 行ひを捨てて五年
 夫ならぬ夫と共《ともに》棲《す》み
 今年また庭のさざんくわ
 夫ならぬ夫とならびて
 眺め居《ゐ》る庭のさざんくわ

 夫ならぬ夫にしあれど
 ひとたびは夫にてありし
 つまなりしその昔より
 つまならぬ今の語らひ
 浄《きよ》くしてあはれはふかし
 今年また庭のさざんくわ
 ならび居て二人はながむる。

底本:「愛よ、愛」メタローグ
   1999(平成11)年5月8日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
   1976(昭和51)年発行
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2004年3月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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岡本かの子

山のコドモ—–岡本かの子

ヤマキチ ハ ヤマオク ノ キコリ ノ コ デアリマシタ。チイサイ トキカラ、ヤマ ノ ケモノ ヤ、トリタチ ト、ナカヨク アソンデ ソダチマシタ。アルヒ、ヤマキチ ノ トモダチデ、イチワ ノ オオキナ タカ ガ、ヤマキチ ヲ ヒロイ ツバサ ニ ノセ、ヒコウキ ノ ヨウニ ソラ ヲ トンデ、シバラク タカイ キ ノ ウエデ、ヤスミマシタ。ソノトキ、ハルカ トオク ノ ホウニ、ミドリ ノ ミズ ガ、カギリナク ヒロク ツヅイタ セカイ ガ ミエマシタ。ヤマキチ ハ、ウマレテ ハジメテ コンナ メズラシイ ケシキ ヲ ミマシタノデ、フシギ デ タマリマセン。タカ ニ、アレハ ドコカ ト、タズネマシタ。アレハ ウミ ト イウ ミズ ノ セカイダ ト、タカ ハ コタエマシタ。ソレカラ、アソコニハ、サカナ ト イウ キレイナ オヨグ モノ ガ イテ、ソレハ、ソレハ、オモシロイ トコロダ ト タカ ハ、ヤマキチ ヘ オシエマシタ。ヤマキチ ハ、ソノ ハナシヲ キイテ、スグニ、ウミ ト イウトコロ ヘ ユキタクテ タマラナク ナリマシタ。ソシテ、タカ ニ、ドウカ アソコヘ ツレテ イッテクレ ト、タノミマシタ。タカ モ トウトウ コトワリカネテ、ソノママ ツバサ ニ ヤマキチ ヲ ノセ、ウミ ヲ サシテ トンデ ユキマシタ。
 ウミ ノ マンナカ ニ、オオキナ イワ ガ アリマシタ。タカ ハ、ヤマキチ ヲ ソコ ヘ オロシ、シバラク ソラ ヲ トンデカラ、マタ ヨウス ヲ ミニクル ヤクソク ヲ シマシタ。 ヤマキチ ハ、ソコラニ タノシソウニ オヨイデ イル サカナ ニ イイマシタ。『ミナサン、ボク ト アソンデ クダサイ』ト。スルト サカナタチ ハ、ソレデハ ココマデ オヨイデ キナサイ、ト ヤマキチ ニ イイマス。ヤマキチ ハ コマッテ、ボク ハ ヤマニ[#「ヤマニ」はママ] ソダッテ オヨギ ハ シラナイ。ト モウシマス ト、サカナタチ ハ、サモサモ バカ ニ スルヨウニ、ワラッテ オヨギ モ シラナイデ ウミ ニ クルナンテ、キミ ハ オオバカサンダ ト イッテ アイテ ニ シテ クレマセンノデ、ヤマキチ ハ コンド ハ ナミ ニ ムカッテ、ボク ヲ オヨガセテ クダサイ ト タノミマシタ。スルト ナミ ハ、ヤマ ノ コドモ ガ ウミ ニ クルナンテ ナマイキダ ト オコッテ、ヤマキチ ヲ ヒトマキ マイテ イワ ノ ウエ ヘ タタキツケマシタ。ヤマキチ ハ イタクテ オイオイ ナイテ イマスト、タカ ガ ムカイ ニ キマシタノデ、イソイデ ヤマ ヘ ツレテ カエッテ モライマシタ。
 ヤマデハ ヤマキチ ノ ナカヨシ ノ イロイロ ノ、トリ ヤ ケモノ ガ、ヤマキチ ノ カエリ ヲ、タイソウ ヨロコビマシテ、ウタ ヲ ウタウヤラ、オドリ ヲ オドルヤラシテ カンゲイ シマシタ。ヤマキチ ハ、ウミ デ、ヒドイメ ニ アッタ ハナシ ヲ シ、ヤマ デ ソダッタ ジブン ハ イツマデモ、ヤマ デ キミタチ ノ トモダチ デ クラス、ト モウシマス ト トリ ヤ ケモノ タチハ オオヨロコビデ キョウカラ ヤマ ノ コドモ ノ ヤマキチサン ヲ、ボクタチ ノ タイショウサン ニ シマショウ ト イッテ、ヤマ ノ オハナ ヲ ツミアツメ、ヤマキチ ノ カタ ヤ ムネ ニ イッパイ カザリツケマシタ。ソレガ ヤマ ノ オヒサマ ニ カガヤイテ、チョウド クンショウ ノ ヨウニ ミエマシタ。

底本:「岡本かの子全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1994(平成6)年2月24日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第十四卷」冬樹社
   1977(昭和52)年5月15日初版第1刷
初出:「時事新報」
   1934(昭和9)年7月15日
入力:門田裕志
校正:オサムラヒロ
2008年10月15日作成
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岡本かの子

雜煮—–岡本かの子

維新前江戸、諸大名の御用商人であつた私の實家は、維新後東京近郊の地主と變つたのちまでも、まへの遺風を墨守して居る部分があつた。
 いろは順で幾十戸前が建て列ねた藏々をあづかる多くの番頭、その下の小僧、はした、また奧女中の百人近い使用人へ臨んだ主人としての態度は、今でも東京の下町の問屋あたりの老主人がかたく墨守して居るそれと變りはなかつた。正月の雜煮を當代の主人も今の召使達と一つ大釜から盛つて据えられた。主人はその膳の前に紋付の羽織の襟を正しうやうやしく座つて白木の箸を取り上げた。長坊も長孃も、次男も末娘もそれに添つて居並び主人の父親の通りにした。雜煮は中位な四角の餅の燒いたのを大根、里芋、小松菜を浮かべたすまし[#「すまし」に傍点]汁のなかへ浸したものである。あつさりとしたこの味が幼い時から舌にならされてしまつた。私達は二の膳につく鯛の吸ひものを閑却して、この雜煮を幾椀も換へた。お椀はたしか主人達だけ光琳の繪模樣のある大きな雜煮椀だつたと覺えて居る。
 後年、市中に嫁いでからも、私はこの雜煮を年毎に欲しがつた。この家の主人の生家は都會であつても關西の或藩から出た祖先からのならはしは、鴫雜煮、或ひは白味噌雜煮であつた。前者は私に生嗅かつた。後者は私にしつこかつた。強性[#「性」にママの注記]な私が勝つて主人は苦笑しながら私の欲しがるその雜煮を喰べた。やがて主人もすつかりそれに馴れた。幾年かたつた或年の暮れであつた。私達の家に山陰の名門に育てられた男の兒兄弟が預けられた。丁度學校が休みになつたので、暮れのうちから兄弟は賑かに正月の趣向を語り合つて居た。
『そんな雜煮はつまらないなあ。』
 兄弟達は私の雜煮をくさす[#「くさす」に傍点]のだつた。兄弟達は私の不服を淡白な笑ひに紛らしてしまひ、結局、山陰雜煮なるものを私達の家庭に紹介しやふと云ふのである。
 大晦の晩に、山陰道の家から、兄弟達の云つて遣つた丸餅が、蜜柑箱に一ぱい詰まつて屆いた。一つ一つ出して見ると、大きな蜜柑程にかためて浮き粉をふつたものである。練つて練り拔いて眞綿の密精の樣な粘着力と艷を持ち、味はただ燒いたくらゐで喰べるとあまりに濃やかに過ぎるのであつた。が、雜煮へは釜の湯で茹でて用ひるのであつた。質の好い鰹ぶしを濃かにかいて煮だし汁をとり、それよりもなほ一層濃やかに細い花瓣を盛つた樣にかき重ねた鰹魚ぶしをその煮だし汁に一つまんまるく落した餅の上に積む。行儀よく揃えた芹か小松菜の青味に絹糸の樣に細く打つた燒玉子の黄味としやつきりした照の好い蒲鉾の白味を添える。視た眼も舌の味ひも、あつさりと品のよい、みやびやかで、どこか鄙びた珍らしい雜煮の椀を手にとりあげた。山陰道の優雅な野趣が眼に浮んで來た。澄んで居ても重く湛えた水、山々が松のみどりを押畫のやうに厚く疊んだ素朴なしかも濃艷な風景を思ひ浮べた。
 男の兒の兄は瀟洒とした明るい寂しい風貌を備え弟はやや鈍角なる短面に温和と鋭氣をただよはす。二人とも馴れても決して狎れぬ程度の親しみがさすが名門の育ちを見せて奥床しい。その年の元日の朝陽はさはやかであつた。障子を隈なく明け放した座敷に悠々と流れ入つた朝陽の色が疊一ぱいに擴がつて床の大花瓶に插されてあつた眞赤な南天の實が冴え冴えと一粒一粒ひかつた。

底本:「日本の名随筆17 春」作品社
   1984(昭和59)年3月25日第1刷発行
   1997(平成9)年2月20日第20刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集第十四巻」冬樹社
   1977(昭和52)年5月第1刷発行
※底本に見る新字の「奥」は、ママとしました。
入力:門田裕志
校正:林 幸雄
2002年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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