小学生のとき与へられた教訓—– 岡本かの子

 或る晴れた秋の日、尋常科の三年生であつた私は学校の運動場に高く立つてゐる校旗棒を両手で握つて身をそらし、頭を後へ下げて、丁度逆立したやうになつて空を眺めてみた。すると青空が自分の眼の下に在るやうに見え、まるで、海を覗いてゐる気がした。ところどころに浮んでゐる白雲を海上の泡とも思ふのであつた。面白い事は鳥が逆さになつて飛んで行く、二羽も三羽も白い腹を見せて、ゆつくり飛んで行く。私は飽かずに眺め入つた。
 突然、「そんな事をしてゐてはいけません。第一体に毒ですし、又、そばを駈け廻つてゐるものがぶつつかつたら、両方共に怪我をしますよ。どうしてそんな事をするのです。」と先生に叱られた。私はまごついて遂、「何子さんも誰さんも、みんな、斯うやると面白いから、あんたもやつて見なさいと、言はれましたので……」と言ひ訳をしたのであつた。すると先生は「誰にすゝめられても悪い事をすればいけません。他人のせいにして自分のいけない事を言ひ訳しやうとするのは、大変卑怯な事です」と更にたしなめ[#「たしなめ」に傍点]られた。
 私は子供心にも先生から卑怯だと言はれた事を非常に恥かしく感じ、以後、他人の悪い事を見ても告げ口する事が出来ず、まして自分の事を他人のせい[#「せい」に傍点]にしたりする事が出来なくなつた。それは、初めのうちは、告げ口し度い気持が起つても愈々口に出さうとすると、嘗て先生に卑怯だとたしなめられた事が頭に浮んで私の口を引き締めてしまふのであつたが、それが段々進んで精神学的に意志制止症と言はれる程までになると、もう先生に卑怯だと言はれた事を思ひ出さずとも自然と口をつむんでしまふといふ極端な癖が付いてしまつた。
 少女時代、他人の非難とか自分の事に就ての言ひ訳などを除いて、どんな話題があるであらうか。これ等の事を絶対にしやべれないとしたら少女の話は仲々スムーズに進むものではない。従つて私は無口で鬱屈した、他人から見て幾分重苦しい少女になつてしまつた。丸い眼をぱち/\させながら無口でゐる私に「蛙」と言ふ仇名をさへ付けた友がゐた。
 小学校から女学校へかけて、私は友人に対する蔭口とか非難が出来ず、自分のする事には絶対の責任を持たねばならぬといふ立場に追ひ込まれて随分と口惜しい悲惨な思ひをした。或る時など小学校随一の悪戯者が校門近くの道路に陥穽《おとしあな》を掘つて友達をいぢめやうとしたのを学校の垣根の蔭で眺めた私はそれをさへ先生や友達に知らせる気持になれない。だが刻々に友達が陥穽に落ちる危険が近づく、私はもう気が狂ひさうで我慢出来なかつた。そつと悪戯者の背後に駈け寄つて陥穽の上を板片で覆つて土をかぶせてカモフラージしてゐる彼を力一杯押した。彼は頭ぐるみ自分の作つた陥穽へ落ち込んで泥だらけになつて泣き出した。不断臆病であつた私がそんな大胆な手出しをしたのはよく/\の事であつた。告げ口が出来ない自分の習癖がどんなにもどかしく感じた事であらう。口で友達を救ふ事が出来ないから、せめて手で救はうとしたのであらう、その夜亢奮で眠れず微熱まで出した程であつた。
 だが、かういふ内心的の苦しみは幼時から私に物事を深く考へさせるやう習慣づけた。何事でもぱつと[#「ぱつと」に傍点]口に出してあけすけ[#「あけすけ」に傍点]に話してしまつたのでは物事を充分に観察し、味はふ暇がない私は自己反省に於ても人一倍強いやうになつた。自分のする事は一つ一つに考慮と全責任を持つた。今に至るも私の其の癖は残つてゐて、他人から随分重苦しいやうに見られてゐるが、私は私で、「少くとも確つかり落付いて生活してゐる意識が、私に充分あるのだから、これで良いのだ」と思つてゐる。
 私の此の打ち明け話に依つても判るやうに、幼時の感じ易い頭脳に与へる小学校教師の訓戒が、子供の将来にまで力強く支配力を及ぼし、性格運命までも決定するやうな事がある。これを思ふと小学生に対する訓戒は誠に注意を要するもので、殊に廉恥心をゆすぶるやうな訓戒が一番強く子供の頭脳に響き子供の将来に及ぶのであるから、特に注意して、良心的に関聯して廉恥心を洗練するやうな訓戒は最も効果があるが、之れと反対に精神を汚辱的に打ちのめすやうな訓戒は良き性格の穂を打ちひしぐもので、大いに慎まねばならぬものである。

底本:「日本の名随筆 別巻67 子供」作品社
   1996(平成8)年9月25日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第十二巻」冬樹社
   1976(昭和51)年9月第1刷発行
入力:門田裕志
校正:林 幸雄
2002年12月4日作成
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