春 ―二つの連作―—– 岡本かの子

(一)



 加奈子は気違いの京子に、一日に一度は散歩させなければならなかった。でも、京子は危くて独りで表へ出せない。京子は狂暴性や危険症の狂患者ではないけれど、京子の超現実的動作が全ての現代文化の歩調とは合わなかった。たまたま表の往来へ出ても、電車、自動車、自転車、現代人の歩行のスピードと京子の動作は、いつも錯誤し、傍の見る目をはらはらさせる。加奈子は久しい前から、自分がついて行くにしても京子の散歩区域は裏通りの屋敷町を安全地帯だと定めてしまっていた。去年の秋、田舎から出て来た女中のお民は年も五十近くで、母性的な性質が京子の面倒をよく見て呉《く》れた。加奈子は近頃京子の毎日の散歩にお民をつけて出すことにした。
 裏の勝手口から左へ黒板塀ばかりで挟まれた淋しい小路を一丁程行くと、丁度その屋敷町の真中辺に出る。二間幅の静かな通りで、銀行や会社の重役連の邸宅が、青葉に花の交った広い前庭や、洋風の表門を並べている。時折それらの邸宅の自家用自動車が、静かに出入りするばかりで、殆《ほとん》ど都会の中とも思われぬ程森閑としている。京子は馴れた其処《そこ》を、自分の家の庭続きのように得意にお民を連れて歩いて居たが、ここ一週間ばかり前あたりから、何故かお民の同行をうるさがった。だが、お民の母性的注意深さも、それには敗けて居ず、今日も京子の後からついて来た。京子はそれに反撥する弾条《ばね》仕掛けのような棘《と》げ棘《と》げしい早足で歩きながらお民を振り返った。
――まだ踵《つ》いて来るの。私、直ぐ帰るから、先へお帰りよ。
――はい。
 お民は此の上|逆《さから》おうとはしないで、少し引き返したところの狭い横丁へ、いつものように隠れ込んだ。これはお民が京子に散歩の途中から追い払われ始めてから二三度やった術《て》である。こんな他愛もない術を正気の者なら直《じ》き感づくであろうに、と其処の杉の生垣の葉を片手の親指と人差指とでお民は暫《しばら》くしゃりしゃり揉《も》んで居た。すると、あの気の好い中年美人の狂気者が、頻《しき》りにお民にいとしく可哀相に想われるのだった。昔、評判の美人であり、狂人になっても、こどものうちからの友達の奥様に引きとられるまで、さぞいろいろの事情もあったろうに、何という子供まる出しな性分だろう。あれがあの人の昔からの性分なのか、それとも狂人というものが凡《およ》そああいう気持のものなのか。お民は、国で養女の年端もゆかない悪智慧に悩まされた事を想い出した。やっぱり奥様のお友達だけあって生れが好いからなのかしら、それであんなに自分の養女などとは性分が違うのかしらん、などと考えた。そのうちにもお民は京子が気になり出して、そっと横丁の古い石垣から半顔出して京子の動静を窺《うかが》った。
 京子は前こごみにせっせと行く。冬でも涼しい緑色の絹絞りが好きで、奥様も、よく次から次へと作って上げる。だがその上から引掛けに黒地に赤しぼりの錦紗《きんしゃ》羽織の肩がずっこけて居る。縫い直して上げようか、と考えながらお民は京子の歩行を熱心に見て居る。と京子はぴたりと停ち止まった。お民が隠れて居る所から一丁半も向うの此の屋敷町が直角に曲る所に、赤塗りポストの円筒が、閑静な四辺に置き忘れられたように立って居る。そのポストの傍で京子は改めて気急《きぜ》わしく四方を見廻す。
 京子の眼が少し据《すわ》って凄味を帯びる。丁度あたりに人影が無い。彼女は素早く右手で懐中から手紙らしいものを取出し、ポストの口へ投げ込んだ。それから一度右手を引いたが今度は指を投函口の中へ出来るだけ深く突込んで、根気よく中を探る様子、暫くして指を引き出し、今度はまたポストの口を丹念に覗《のぞ》き込んだ。これは此頃、殆ど毎日のように京子が繰り返す同一動作なのだ。一週間ばかり以前から、珍しくもない京子の動作なのだ。でも、今迄、お民は別に気にも留めず、普通の人が手間取って手紙を出す位にしか、その京子の動作を考えて居なかった。けれど今日、お民は不審を起した。お民の散歩について行くのを拒むのも、京子のこの動作のためにだと判った。京子には手紙を出す身内も友人も無いはずだ。終身|癒《なお》らない狂患者として親兄弟にも死に別れた京子が、三度目に嫁いだフランス人と離縁すると同時に、奥様に引き取られて以来、京子は世間とすっかり断絶して居る。
 お民が奉公に来てからも、京子に訪問客一人手紙一通来ない事を、お民はよく知って居る。

(一)

――ほんとうは私も困って居るんだよ。お京さんの出す手紙って出鱈目《でたらめ》なんだもの。
 お民から京子が毎日のように何処かへ手紙を出すことを密告された加奈子は、自分の恥しいことでも発見されたように当惑したが、お民が余り真面目《まじめ》に密告する様子も加奈子には可笑《おか》しい。
――お京さんはもう、今日のと合せて五通位出して居るのよ。
――へえ、どちら様へ?
――どちらってお前、それがとてもなってないの。
 加奈子はつい夫か友達に使うような言葉をお民に言ってしまった。お民は加奈子の気難しく困ったような唇辺に、可笑そうな微笑も交るので、もっと訊《き》き質《ただ》したくもあり、黙って引き退るべきであるような曖昧《あいまい》な気持になりながら、矢張り、も少し詳《くわ》しく聞きたかった。加奈子は、京子を娘のように可愛がるお民に隠すほどの事でもなかろうと思って、あらましを話した。
 近頃、京子は、狂人によくある異性憧憬症に罹《かか》って居るらしい。狂人にならない前の彼女は、現実の男女生活をむしろ厭って居た。彼女の結婚生活の破綻《はたん》も多分はそれに起因したに違いない。その彼女は、頭脳に於て寧《むし》ろ昔から異性憧憬者であった。狂人になればそれが病的に極端になるものかも知れない。最近殊に彼女の脳裡に一人の男性の幻像が生じたものらしい。でも、それは、誰という見当もない。漠然とした一人の男性に過ぎないようだ。ただ、手紙五通の内、同じ姓は殆ど無くても、名は皆秀雄様としてある。そして彼女は自分の住所姓名だけは確実に書きながら、先の住所は簡単に巴里《パリ》とか、赤坂とか、谷中《やなか》とか、本郷と書いて置くだけだ。初めいくらか不平に見えた配達夫も、しまいには京子ののん気さをにやにや笑いながら、それでも役目で仕方なく、笑止千万な手紙を返附配達して来るのだった。五六本も出せば京子も大方|諦《あきら》めて、あとは止めるだろう、でなくとも、監督してそんな配達夫なやませは止めさせるつもりのところへ、お民から今日も京子がポストへ行ったと聞かされたのだ。
 お民特有のべそをかくような笑いを残して加奈子の京子に対する気苦労を労《ねぎら》いながら、勝手の方へ立って行ったあとで、加奈子は此の間中から幾度も繰り返したように、京子の手紙の宛名に就いて考えて見た。秀雄、秀雄、そんな名前は京子の情事関係で別れた男の中には一人も無かった。
 加奈子はいつか、或る人から人間の潜在《せんざい》意識に就いて聞いたことがあった。過去に於ける思いがけない記憶までが微細に人間の潜在意識界へは喰い入っている。時として、それは一人の人間の現在、未来に重大に働きかけ、また、一時の波浪の如くにも起って消えるということだった。加奈子は、京子の過去のまるで違った方面に秀雄という名を探し考えて見たが判らなかった。大方加奈子とは知り合わない昔の小学校時代の隣の息子か、京子がM伯と結婚時代の邸内にいたという殊勝だった書生の名ででもあったろうか。それとも全然仮想の名か。手紙は五つの封筒に七つばかり、二つかためて一つ封筒に入れたのもあった。殆ど支離滅裂な語句の連続ではあるけれど、それでも京子の悲哀や美感や、リリシズムが何処か一貫して受け取れるようで、不思議な実感と魅力に触れる。


京子の手紙一
  秀雄様、お久し振りね。春でもお寒いわねえ。でも、いいわ、私のうちの庭の梅が先日咲いたばかりですもの。梅は春咲くに定《きま》ってますね。その梅、水晶の花を咲かせましたの。私がそれを水晶と言いますと加奈子はそんな馬鹿なことがって笑ってます。私は実に不平です。しかし、あくまでも水晶と言い通せない恩があります。加奈子は私の神様仏様ですから、でも、恩は恩。私は飽く迄あなたにだけは水晶と言い張って見せ度いのです。御同意下さいよ。しかし恩は恩です、私はこの家を困らせないように倹約します。お粥《かゆ》を喰べて暮そうとします。すると加奈子は体が弱ると言って喰べさせません。加奈子は優しいけれどしっかりして居て、とても同性の○なんか出来ません。恋しいのはあなたばかり。

京子の手紙二
  あなたをいくら探しても世界中には居ない気がします。それに探そうにも私、この家を離れられませんもの。加奈子は何でも私に呉れますもの。こんな好い人置いて行けないわ。緑色の絹絞りの着物、加奈子いつでも私に作って呉れるのよ。そして自分では古い洋服ばかり着てるの。加奈子は巴里で観たスペインの歌姫、ラケレメレエが銀猫の感じの美人だって憧れてんのよ。あなたスペインからラケレメレエ探して来て加奈子にやって頂戴《ちょうだい》。それにしてもあなたが恋しい。

京子の手紙三
  あなたちっとも返事呉れないのね。それにしても凶作地帯の事私気にかかるわ。私の持ってるもの何もかも遣《や》りに行こうか。でもダイヤなんか凶作地の畑へ持ってったらジャガイモ見たいに変質しやしないの。加奈子が、水晶の観音様しきりに拝んでんのよ。また私の病気が癒《なお》りますようにって拝んでんのでしょうよ。加奈子が私を病人扱いにする時、一番私加奈子が憎らしい。私加奈子の水晶の仏みたいに、あなたを小さく水晶にしよう。でもあなた何処に居らっしゃるの。世界の何処によ。明日はいらっしゃるのね。
 淋しいの。まるでハムレットか八重垣姫のように淋しいの。アンドレ・ジイド爺さんによろしく。爺さんの癖に文学なんか止めなさいってね。私淋しいわ。ああ地の中へ潜《もぐ》り度《た》い。

京子の手紙四
  加奈子の旦那さんは好い人よ。だけど若いうち好男子ぶって加奈子を嫌がらせたってから、私あんまり好かないわ。加奈子は若いうち私に済まない事したから私をこんなに大切にするんですって、何を済まないことしたんでしょう。あなた聞いて見て下さい。昨夜私変な夢を見たわ。私の体のまわりに紫色の花が一ぱい咲いてるの。其処へ猫が来て片っぱしから花を舐《な》めたの。花がみんなはげて古ぼけちゃったわ。私変な夢よく見るの。自分の歯がみんな星になったまま、口ん中で光ったりする夢など。ああ空には飛行機が飛んで居るのに、私は小さい馬車に乗って凶作地へ行きたい。直ぐ向うの凶作地にあなたが働いて居るように思えるの。
 加奈子が私に瓦斯《ガス》ストーヴを焚《た》いて呉れたの。紫のような火がぼやぼや一日燃えてるの。私、一日だまって火を見てたら、火の舌に地獄だの極楽《ごくらく》だの代り代りに出ちゃ消えるの。地獄のなかにはキューピー見たいな鬼が沢山居たわ。その周りに私をお嫁に貰って置きながら、すっぽかした男がうようよ居たわ。極楽って処、案外つまらないのね。のっぺらぼーの仏様が一つせっせと地面掘ってんのよ。でもそのあとが好いの。金と銀との噴水が噴き出してさ。おしまいに飛び出したの何だと思って? 秀雄さんあんたなのよ。初め加藤清正見たいだったのよ。あとでクレオパトラに逢いに行くアントニオになったの。それからナポレオンになり、芥川龍之介になり……ああ面倒くさい。早くあっちへ行きなさい。

京子の手紙五
  秀雄様、恋しく逢い度く思いますわ。でも恋しいと思う時、あなたは少しも来たらず、昨夜はなんですか、あんな大勢家来を連れて来て私の寝間の扉をとんとん叩いて……私、とうとう起きて上げませんでしたとも。あんなに遅く人を大勢連れて来て(足音でちゃんと判ったのよ)若《も》し私が戸を開けてご覧なさい。お民が直ぐに(お民は中将姫の生れ代りらしいの、おとなしくって親切だけど、いやに加奈子に言い付け口するの。やっぱり前の世にママ母に苛《いじ》められたからでしょう)起きてって加奈子に言い付けます。加奈子は今、劇作をしてますから。その中の主人公が、どんな武装をしてあなたを追いかけるか知れません。私それを思うと、あなたが可哀相で、じっと床の中に潜んで居ました。どんなに逢い度かったでしょう。私、泣いて泣き明しました。ああ、私とあなたは永遠に逢えない運命なのでしょうか。

京子の手紙六
  加奈子のダンナサンが今夜、加奈子に優星学(作者註、優生学[#「優生学」に傍点]の間違いならん)の話をしてました。私は何だかあてつけ[#「あてつけ」に傍点]られるような気がしました。私の父と母はイトコ同志で、みんなに結婚の反対されたんですけれど、父にして見れば母より好きな女、世界に無かったんですもの、イトコ同志なんて問題じゃなかったのよ。でも母はメクラだったんですって、そのくせ私の知ってる母はメアキよ。加奈子のダンナサンは私を馬鹿だと思ってるんでしょうか。イトコ同志の親に生れた馬鹿者やいと言うところを、優星学の談でうまくあてつけるのでしょうか。ああ、あなたが恋しい。植木屋にでもなってうちの庭に来てよ。でなければ活動の大学生になってこの近所へロケーションに来てよ。
 ああ、私は何のために生れたのでしょう。私は生れてから一度もあなたに逢いもしないのに、こんなに恋しくて仕方がない。私は……。

京子の手紙七
  恋し。
  恋す。
  恋せ。
  この文法むずかしい、「恋」という字、四段活用かしら。ああ、文法なんかみんな忘れた。
 もう書きません。私ラヴレターなんか書く資格ありません。わたしは廃《すた》れもの。池の金魚を見て暮そう。庭の花をむしって喰べましょう。今夜はうち、支那料理の御馳走《ごちそう》よ。
 ああ、加奈子の手を把《と》って泣きましょうか。そしたらあんた出ていらっしゃる? あんたどこの方、支那人? ユダヤ人? アングロサクソン? ラテン? 昔は日本人だったでしょう。ハンチング冠ってる? 無帽? ひょっとかしてあなた私の子供じゃないの。鼻ばかり大きな人だったらがっかりだわ。
 哲学勉強してんのも好いけど、文学、詩が一番好いわ。
 加奈子のダンナサン何故へんな画ばかりかくんでしょう。でも加奈子を大切にするからまあ好い人の部類よ。私は淋しいのよ。私のソバには四角な人も三角な人も居ないのよ。中将姫の生れ代りのお民ばかりよ。
 ああ、レオナルド・ダ・ヴィンチよ来れ。
 何卒《なにとぞ》々々お出で下され度《たく》、太陽と月を同時に仰ぎつつ待ち居ります。
 夜は寝室に一人居ります。夜がいいわよ。この間のように大勢家来なんかつれないで一人で、たった一人で、おしのび下されたく……。

 加奈子の家の矩形の前庭の真中に、表門から玄関へかけて四角な敷石が敷きつめてある。その一方には芝笹の所々に、つつじ[#「つつじ」に傍点]や榊《さかき》を這《は》わせた植込みがあり、他方は少し高くなり、庭隅の一本の頑丈な巨松の周りに嵩《かさ》ばった八ツ手の株が蟠踞《ばんきょ》している。それにいくらか押し出されて深紅《しんく》の花にまみれた椿《つばき》が、敷石の通路へ重たく枝を傾けている。
 京子は玄関の硝子戸《ガラスど》を開《あ》けて顔を出した。敷石をことこと駒下駄で踏んで椿の傍に来た。三月末頃から咲き出した紅椿の上枝の花は、少し萎《しお》れかかって花弁の縁が褐色に褪《あ》せているが、中部の枝には満開の生き生きした花が群がり、四月下旬の午後になったばかりの精悍な太陽の光線が、斜めにその花の群りの一部を截ち切っている。
 京子は椿の枝の突端に出ている一つの花を睨《にら》んだ。右の人差指で突いて放した。花は枝もろ共に上下に揺れる。揺れる花は気違いの眼の感覚に弾動を与える。それがだんだん小動物のように京子の眼に見えて来る……。突然、表門の傍戸のくぐりが、がらっと開いた。勢いよく靴音を響かせて、制服の学生が投げ込まれたように入って来た。京子はぎょっとして学生を見たが、突発的な衝動めいた羞恥《しゅうち》心が、一種の苦悶症となって京子を襲った。倉皇《そうこう》としてそむけた京子の横顔から血の気が退いて、顔面筋の痙攣《けいれん》が微《かす》かに現われた。椿を突いた京子の右の手は其《そ》の儘《まま》前方に差し出たなり、左手はぶらんと下って、どちらも小刻みに顫《ふる》え出した。そして両足は不意に判断力を失った脳の無支配下で、顫える京子の体躯を今迄通りにやっと支え、遁《に》げ込んで来た血の処置に困って無軌道にあがく心臓は、殆ど京子を卒倒させるばかりにした。どんな雑沓の中でも平気で京子は歩くかと思えば、たまにたった一人に逢って斯《こ》んな大げさな驚きをすることもある。
 誰が居るとも思わなかった門内に異常な女の姿を見て学生はちょっとたじろいだが、足は惰性で無遠慮に女の近くまで行ってしまった。そして女の妙なたたずまいから発散する一種の陰性な気配に打たれた。だが学生は直ぐに単純な明朗らしい気持に帰って、京子をこの家の者か親戚の者かと解釈して、
――御免下さい。奥様はいらっしゃいますか。
 学生の丁寧《ていねい》に落着いた言葉が、初め鼓膜まで硬直した京子の耳底に微かに聞えて、だんだんはっきりと聞えて来た。それにつれて京子の張り切った神経もゆるんで来た。京子は正気に返って、「はい」と返事をする代りに、はっ、と息を吐いたが、そのはずみに足が動いて、開け放しになっていた玄関の中へするすると動物的なすばしこさで遁げ込んでしまった。
 女中部屋へ駆け込んだ京子は、針仕事をして居たお民に、
――人、人が来た、お民。
 京子が、せかせか言う「人」という発音が、お民には何か怪物めいて聞えた。
――人? 何処へ。
 お民は縫物を下へ置いて京子の方へ向き直った。
――玄関へ、さ。
――へえ、どんな人が。
――金ボタンの制服。大学生だわ。
――何ですかお京様。その方さっき電話でお約束の方。奥様に講演を頼みにいらっしゃるとか仰言《おっしゃ》った方ですよ、きっと。
 お民は、さっさと立って玄関の方へ行ってしまった。
 京子はお民に愚弄《ぐろう》されたような不服な気持で其処へべたりと坐ってしまった。が、暫く膝に落して居た顔を上げた時、京子の瞳は活き活きと輝やき出した。
 加奈子に取次いだ客がじき帰って、お民は女中部屋へ戻って来た。すると京子はさも待ち構えたようにお民を抱く手つきで訊いた。
――あの方、私の事、何て仰言った?
――何とも別に仰言いませんでしたが……。
――だって……
――もうお帰りになりましたよ。
――まあ。
 京子は眼をきらきらさせてお民に問い寄った。
――あの方、私の事、何とも仰言らないで帰った? そんな筈《はず》ない。あの方、本当は私の処へ来た方なのよ。恥しいから奥様なんてかこつけたのよ。
――じゃお京様、遁げ込んでなんかいらっしゃらなければよござんしたのに。
――でも私恥しかったのよ。
 お民は、取り合って居てもきりがないと思った。で、また縫いかけの仕事を始めた。京子も黙ってしまった。黙って横坐りのまま障子《しょうじ》を見つめて居た。息は昂奮を詰めて居た。やがて京子は何かを見つけた。珍しく暖かい日の、春早く出た一匹の小さな蠅《はえ》だった。蠅は孤独の児のように障子の桟を臆病らしくのろのろ這って居た。京子はお民の針差から細い一本の絹針を抜いた。蠅の背中へ京子は針をしゅっと刺した。小さな蠅は花粉のような頭をしばらく振って死んでしまった。京子はしげしげそれを見つめて居た。そしてまた一方の手にそれを持ち代えて見つめて居たが、涙をほろほろとこぼして独言《ひとりごと》に言った。
――可哀そうに――死んで、親のところへ行くがいいのよ。

 京子はその後、毎日午後になると玄関傍の格子戸をそっと開けては誰かの来るのを待った。――先日来た制服の大学生の来るのを待つのだった。昨日も、一昨日も、今日も明日も来よう筈がなかった。それでも京子は来るものと定めて居た。とうとう来なかった。一週間目の夕方から京子はひどく不機嫌に憂鬱になった。脇目にもはっきりとそれが判った。加奈子はお民と一緒に京子の部屋へ詰め切りで、何かと京子の気に向く事をしてやった。が、京子は蓄音機も加奈子の三味線《しゃみせん》も、カルタ遊びも、本を読んで貰《もら》うことも気に入らなかった。京子はむっつりとして菓子も果物も食べなかった。
――早く寝たい。
 それがいっそ好かろうと、京子の言うなりに寝床へ入れてやることにした。加奈子は昼着よりも尚好い着物を京子の寝巻きに着せてやるのが好きだった。京子もそれが好きだった。今夜はお民が縫い上げたばかりの緑絞りの錦紗の袷《あわせ》を京子に着せた。京子は黙ってそれを着は着たが、今夜は嬉しそうな顔もしない。
――うるさい。早くみんな、あっちへ行って。京子は一旦は眠りについたが、遣り場のない不満な焦慮怨恨の衝撃にせき立てられて直きに眼が醒めた。睡眠中、疲労の恢復につれて再びそれらの雑多な感情が蘇って来た。それらは周囲の静寂につれて京子の脳裡に劇《はげ》しく擦れ合うのであった。
 静かな夜である。近隣の家々は、よどんだ空気の中に靄《もや》に包まれてぼやけて居た。二三丁|距《へだ》てた表の電車通りからも些《いささか》の響も聞えて来なかった。ぼやけて底光りのする月光が地上のものを抑え和《なご》めていた。
 京子の頭上の電燈は、先刻加奈子が部屋を出る時かぶせて行った暗紫色の覆いを透して、ほの暗い光をにじみ出している。
 京子は突然起き上った。蒲団の上に坐ってじっと何かに聴き入った。戸外からか、若《も》しくは自分の内心からか、高くなり低くなる口笛が聞えて来る。一心を口笛の音に集中した京子の外界に向く眼は、空洞のように表庭に面した窓に直面した。するとその眼の底の網膜には、外界との境の壁や窓ガラスを除外して直接表庭の敷石の上に此方を向いて佇立《ちょりつ》する大学生服の男の姿がはっきり映った。が、詰襟《つめえり》と帽子との間に挟まれる学生の容貌は、殆ど省略されたようにぼやけて居る。
――とうとう来たのね。今行く、待って居て。力を籠めて言った京子の声が竹筒を吹いた息のようにしゃがれて一本調子に口から筒抜けて出た。京子は葡萄葉形の絹絞りの寝巻の上に茶博多の伊達巻《だてまき》を素早く捲き、座敷のうちを三足四足歩くと窓縁の壁に劇しく顔を打ちつけた。
――あ、痛っ。
と京子は叫んだが、其の痛みは彼女の意慾を更に鞭《むち》打った。京子は直ぐさま窓に襲いかかり矢鱈《やたら》にそこらを手探りした。盲目のように窓を撫《な》で廻した。気はあせり、瞳は男の影像を見逃すまいと空を見つめて居るので、中々錠のありかが判らない。漸く二枚の硝子戸の中央で重なる梓の真中のねじ[#「ねじ」に傍点]を探し当てた。それからひどくがたがた言わせながら、玄関に近い一方の戸を開けた。庭の表面にただよう月光の照り返えしが、不意に室内に銀扇を展《ひろ》げた形に反映した。窓の閾《しきい》に左足をかけた京子は、急に寒けを催すような月光の反射を受けて足蹠《あしうら》が麻痺したように無力に浮いた。京子は一たん飛躍を見合せ、思い返して障子窓を開け放したまま玄関へ履物を取りに行った。京子は黒塗りの駒下駄を持って座敷へ引き返して来た。そして畳の上でそれを履き、今度は思い切って窓の閾へ下駄の歯を当てると、体の重味に反比例した軽い反動で訳もなく表庭の芝笹の上へ降り立った。
 京子は月光を浴びると乱れた髪の毛が銀髪に変色し忽《たちま》ち奇怪な老婆のように変形した。京子はその奇怪な無表情の顔を前へ突き出し、両手を延して探ろうとしたが、先刻の影像らしい黒い靄のたたずまいが、以前の位置からすっと動いて表の潜戸《くぐりど》の方へ消えて行った。京子は走って潜戸まで行く。幻影はまた逃げる。潜戸を出て左へ走り、鉤《かぎ》の手に右に曲った。京子は口惜しさに立ち止まった。自分を迎えに来て呉れたと思った男が、誰に気兼ねの要らない真夜中に何故あちらこちらへ遁げ歩くのか。それとも男に別な考えがあるのか。京子はもう猶予して居られなかった。勢いを倍加して一散に当所《あてど》もなく走り出した。

 真夜中、半死人のようにぐったりと疲れた京子が、中年の巡査に抱えられて戻って来た。加奈子は驚き呆《あき》れるお民を叱るようになだめて、京子を床に入れた。そして足がひどく冷えているので小さな湯たんぽを入れて温めると、京子は何も言わずに眼をつむって居た。巡査の言うところでは、この真夜中|裾《すそ》も髪も振り乱して、電車通りまで何者かを追って走って行った京子が、巡回の巡査に捕えられたのだ。初めは強硬に反抗した京子が、とうとう疲れて連れて来られた。都合よく京子の精神病者であることも、加奈子の家に居る者だということも巡査は知って居た。
 すっかり疲れ切って寝床に横わる京子を頻《しき》りにいたわろうとするお民を、加奈子は無理に引きさがらしたあと、京子の開け放して出た窓の戸をしめて、また京子の枕元に一人坐った。平常、少し赫味を帯びて柔く額に振りかかっている京子の髪の毛が、今夜の電燈の下では薄青く幽なものに見える。
 京子に対する不憫《ふびん》と困惑が加奈子の胸に一時にこみ上げる。巡査が帰りがけにそれとなく厳しく注意していった通り、京子はもっと今後厳重に保護しなければならない。お民と加奈子が交代して、夜、京子の寝室に居なければなるまい。今夜のような京子の行為も、いつぞや京子の医者が言ったように、狂者の一種の変態性慾の現われではあるまいか。この症状が執拗《しつよう》に進展して行ったら、京子はしまいにはどんな行為をするようになるだろう。
――ははあ、親戚の方でもなし、ただ、昔の友達さんというだけの縁で、此の病人を引き取って居られるんですね。
と巡査は帰りがけに加奈子に、それは如何《いか》にも酔興《すいきょう》だと言うような、また如何にも感服したというようにもとれる口の利《き》き方をして行った。加奈子は、巡査の言葉をその時おせっかいな無駄口のようにも聞いたけれど、落着いて考えると、他人から冷静に見れば、自分が京子を引き取っていろいろな難儀を生活に纏《まと》わされるのが、不思議なのも無理はない。京子を引き取った理由が今更、加奈子に顧《かえり》みられる。
 京子は加奈子の若き日の美貌の友だった。加奈子は京子にとってこころ[#「こころ」に傍点]の友であった。加奈子は京子の上品な超現実的な性質も好きではあったが、結局、京子は加奈子の美貌だけの友だちだと断定出来る。京子は自分のどんな心境や身辺の変遷《へんせん》でも隠すところなく打ち明けて、加奈子のこころをたよって来たのに、加奈子は自分自身の運命や、こころを京子に談《はな》した事はなかった。何も意地悪や、薄情や、トリックでそうしたわけではなかった。京子よりしっかりした自分のこころなんか、デリケートな京子に打ちつける気もしなかった。加奈子は京子の美貌や好みの宜《よ》さなどを美術的に鑑賞して居るだけで、京子との交際から十分なものを貰《もら》って居ると想って満足して居たのだった。京子の若い日の癖の無い長身、ミルク色にくくれた頤《おとがい》。白百合《しらゆり》のような頬、額。星ばかり映して居る深山の湖のような眼。夏など茶絣《ちゃがすり》の白上布に、クリーム地に麻の葉の単衣帯《ひとえおび》。それへプラチナ鎖に七宝《しっぽう》が菊を刻んだメタルのかかった首飾りをして紫水晶の小粒の耳飾りを京子はして居た。その京子は内気で何か言おうとしても中々声が出ないのだ。(気違いになってから京子は却《かえ》ってよく話し出した)出る声は慄《ふる》え勝ちで、よくぱっと顔が赫くなった。めったに人と口を利かない割合に気位が高かった癖に、よくも三度も結婚する程、男ばかりには乗ぜられたものだ。加奈子は黙ってそれを看過して居たのだ。「美しい花は動き易い」と、つまりは観賞一方だった。京子が親も財産も男も失くして気違いになってから、俄《にわ》かに加奈子の心がむき出しに京子に向った。寒い、喰べもののまずい病院から引き取って世話をしたと言ったまででは、極々《ごくごく》当りまえの世話人根性のようだけれど、その実、気違いの京子と暮す事は何という気遣いな心の痛む事業だろう。それに此頃のように、恥も外聞もなく異性憧憬症にかかった京子にかかわることは、自分の恥しさに触れられるようで、たとえばお民とか、良人とか、今の巡査とかの限られた人達でなく、おおげさに言えば、何か天地の間の非常な恥しいことに触れて居る自分を、天地の間の誰にでも見られて居るようで、非常に辛《つら》くて堪らない。
 斯《こ》うして京子を庇《かば》って暮すことは物質的にも精神的にも、加奈子の負担は容易ではない。それにも拘《かかわ》らず加奈子の心のどん底では、これが当然自分の負うべき責任だと考えて居る。
 自然な負担だという処に考えが落着いて居る。
 義務とか、道徳とか名付けられない心の方向が、確かに此の世の中の人達の行為を支配して居る。加奈子はそれを疑うまいと結局の考えに落着くのであった。
 加奈子は立ち上って、跳ね飛ばされていた電燈のカヴァーを掛けた。空寝か、本寝か、京子は眼を瞑《つむ》って動かない。京子は気違いになってから、いたずら小僧かとぼけ婆さんのように、ばつの悪い時、よく空寝をやるようになった。

(二)

 気の違っている京子の頭が、四五日前からまた少し好くないようだ。眼のなかに大きな星が出来たと騒ぎ始めた。朝起きると直ぐから、家の者に行き当り次第、眼を持って行く。
――私の眼に、大きな白い星が出てるでしょう。私、どうしても出てると思うよ。
 そんなことはない、あなたの眼は、いつもの通り、はっきりと開いている。眸《ひとみ》が却っていつもより綺麗だ。覗《のぞ》いて視ると、庭の木の芽が本当の木の芽よりずっと光って冴《さ》え冴《ざ》えと映っている。と言っても京子は納得し切らない。
――そうかしら。
 京子は一応おとなしく聴き入る。で却って不憫《ふびん》になり、あとから捉まってまた訊かれる者も、素気なく振り切れない。
 鏡を持って行って見せてやる。丸い手鏡の縁に嵌《は》まって、よく研ぎ澄ました鏡面が、京子の淋しいきちがい[#「きちがい」に傍点]の美貌へ近づく。春の早朝の匂いのような空気が、明けたばかりの硝子戸から沁み込む。細い手で受け取った鏡を、京子は朝日にかざしてきらり[#「きらり」に傍点]と光らせ、傍の者を眩《まぶ》しがらせてから、も一度、朝陽の在所《ありか》を見極める。鏡と朝陽の照り合いを検《しら》べる。そして、自分も鏡のなかへ映る自分の眸に星があるか無いか検べるから、傍からもよく鏡の中の自分の眸と本当の自分の眸を見較べて欲しいと言うのである。
――無いね。星なんか無いね。
 京子は涼しい歯を出して、傍の者を振り返って嬉しそうに笑う。笑ったかと思うと、今度は態《わざ》とのように暗い障子の方を向き、最も不利な光線を、鏡の背後に廻して、苦々しく眼のなかを覗き込む。
――星。有るわよ。有るわよ。
 京子は、頓狂《とんきょう》に言って鏡を持たないあいている方の手の指で、眼瞼《まぶた》を弾く。自分の手で自分の瞼を弾くのだから、いくらか加減して居るに違いないと思って見ても、可なり痛かろうとはらはらさせられる程きつく弾く。
 洗顔を済ませて口紅をさしただけの加奈子が其処へ現われると、京子は鏡をばたりと縁側へ落して鼻をすんすん鳴らすのである。
――今朝も眼に星が出たの。
――嘘《うそ》。
 加奈子は優しく京子を叱《しか》った。加奈子より一つ年上で、加奈子よりずっと背の高い京子が気違いのためか、心も体も年齢の推移を忘れ、病的な若さを保って居る。京子は、長く一緒に棲むうち、いつか加奈子を姉のように慕い馴れた。気の違って居る者に人生の順序や常道を言った処で始まらない。加奈子は二年程前から子の無い善良な夫との二人暮しへ、女学校時代からの美貌の友、足立京子の生きた屍《しかばね》を引き取って、ちぐはぐな、労苦の多い生活を送って居るのである。ただ、時々この生活を都合よく考える時、京子が気違い乍《なが》ら昔の俤《おもかげ》をとどめてまだ美貌であることと、加奈子の詩人気質が、何か非常にロマンチックな幻想を自分の哀れな生活に仮想すること。それに依って加奈子の病人を背負った惨めな生活の現実的労苦が、いくらか救われる。
――嘘。
 加奈子は、今一度京子を叱って自分の態度へバウンドを付けた。京子が、目星を執拗に気にする偏執性を退散させるには、加奈子はやや強い態度が必要だった。
――あなたはあんまり此頃わからずや[#「わからずや」に傍点]よ。出もしない目星ばっかり気にし続けて……。
 強く張ろうとした加奈子の語尾は、しん底弱って落ちて行った。
――あら、御免《ごめん》よ。じゃ、もう星の事なんか言いませんよ。ねえ、御免よ。御免よってば。
 これが、四十近くの女のしな[#「しな」に傍点]であろうか。気違いなればこそ京子が、少女のようなしな[#「しな」に傍点]をしても、それが少しも不自然ではない。
 昨夜、早く寝た京子の顔は、青白い狂女の顔ながら、健康らしく薄く脂《あぶら》が浮いている。だが、この三四日、目星ばかり気にし続けて居た京子の偏執が、今朝もまだ、眉や顎に痛々しい隈を曳《ひ》いている。加奈子は、京子の青い絹絞り寝巻の肩に手を置いて言った。
――お京さん、今日は好いお天気ね。何処かお花の沢山咲いている方へ散歩に行こうね。序《ついで》にお医者様へも。
――ううん。お医者へなんかもう行かないよ。もう何処も悪くないもの。
――だけど、ちょっと行って見ない。散歩の序に。
――………。
 京子は発病当時暫く居た脳病院の記憶が非常に嫌なものであるらしい。でも、加奈子に引きとられてから、加奈子が京子を絶対に病院に入れることはしないと信じて居る。で、時々、加奈子が連れて行く病院へ、診察だけに行くには行った。ただ、いつも気が進まない様子をまざまざ見せる。
 京子は、病気の好くない時はいつも喰べものを喰べない癖がある。この三四日また京子の喰べない日が続いた。
――今日は喰べるのよ。ね、お京さん。オムレツとトーストパン、ね、バナナも焼いて上げるわ。喰べるのよ。
――いや。
 京子は解けかかる寝巻帯をかぼそい指で締め直しながら首を振った。
――何故、じゃ、お豆腐《とうふ》のおみおつけ[#「おみおつけ」に傍点]に、青|海苔《のり》。
――いや。だって喰べると、またもっと星が眼に出るもの。
――まだ、あんな事言ってる。
 加奈子はそっと涙ぐんだ。京子はこうなると消化不良になり、食慾をまるで無くしながら、目星だの、まだ時々途方もない架空の妄想《もうそう》を追いかけて一週間も十日間も、殆ど呑《の》まず喰ずだ。それでも割合に痩《や》せも窶《やつ》れもしないのが矢張り気違いの生理状態なのかと呆《あき》れる。呆れながら加奈子は却ってそれが余計不憫になる。
 京子がひょっとして或る病的妄想に捉《とら》われ出すと、加奈子の生活はまるで憑《つ》きものにでも纏《まと》われたように暗い陰を曳き始める。京子は幻覚や妄想に付き纏われる脅迫《きょうはく》観念のために、加奈子の身辺を離れようとしない。加奈子は、悲しみ、恐れ、甘え纏わる京子と一緒に、自分も亦《また》引き入れられるような不安と憂鬱に陥る。でも、長い月日のうちに、加奈子はいつかそれにも馴らされて行った。そして、その時々の局面を打開して行く術さえ覚えた。加奈子は、飽き安いこの病症の者に新しい感触を与えるように、京子を時々違った医者や病院へ連れて行った。京子の病症が不治のものにしても、この上重らない用心のため、時々変った医者にも診て貰って置き度《た》かった。

 加奈子は近頃或人から聞いた、東京での名精神病院へ京子を連れて行くため家を出た。山の手電車を降りると自動車を雇《やと》ったが、京子は絶えず眼を気にして往来を視ない。外光を厭って黒眼鏡を掛け、眼を伏せて膝の上の手ばかり見つめて居る。京子の片手は何かに怖《おび》え慄《ふる》えて加奈子の膝の上に置かれた。加奈子はその手を見詰めて居るうちに、二十年前の二人の少女時代の或る場面を想い出した。京子が此の手の指で、薄ら埃《ほこり》の掛っている黒塗りのピアノの蓋《ふた》を明けたことを想い出した。
――ベートーベンの曲は、私、自分で弾《ひ》いて居ても圧迫を感じるのよ。
 京子には、より情緒的なショパンの曲が適していた。鋭いリストの曲も、京子は時々は好んで弾いた。京子のピアノは余り達者ではないが、非常に魅力があった。その時、加奈子は、何故か疲れて京子のピアノを聴いて居た。ピアノの上の花瓶《かびん》に、真紅の小|薔薇《ばら》が一束挿してあった。時折この薔薇が真黒な薔薇に見えると京子は怖えた様子で話した。あの頃から、京子の心身には、今日の病源が潜んでいたものらしい。それから或る年の暮、青山墓地通りの満開の桜の下を二人は歩いて居た。すると前方から一列の兵士が進んで来た。近づいて来ると兵士達は、靴音をざくざくさせながら、二人にからかい[#「からかい」に傍点]始めた。二少女は慌《あわ》てて道を避けようとした。その時、列の中の一人の兵士が、かちゃりと剣を鳴らして二人にわざとらしい挙手の礼をした。と、京子は狂奔する女鹿のように矢庭《やにわ》に墓地を目掛けて馳け込んだ。その時、京子の手が鞭《むち》のように弾んで、加奈子の片手を引き攫《さら》った。一丁ばかり墓地の奥まった処に少し開けた空地があった。腰かけられる石台が三つ四つ、青|楓《かえで》の大樹が地に届くまで繁った枝を振り冠っていた。京子は茲《ここ》へ来て佇《た》ち止ると、片手で息せく加奈子の手を持ち、片手で繁る楓の枝を掴《つか》んだ。道の兵士達はタンクのように固り乍ら行き過ぎようとして居た。京子は楓の枝の間からぎらぎら光る眼で兵士達を見据えた。その時の京子の上気した頬と光る眼、真青な楓の葉ごと枝を握った真白な細い指が、今、加奈子の膝に置かれた京子の指の聯想《れんそう》から、加奈子の眼に浮ぶ。あのようにも怖え、興奮した京子には、後年気違いになる前兆《ぜんちょう》が、まだまだいくらもあった筈だ。

 病院の門内に敷き詰めた多摩川砂利が、不揃いな粒と粒との間に、桜の花片をいっぱい噛《か》んでいる。
――何処かに、とても大きな桜の樹があるのよ。ね。
 加奈子は、俯向《うつむ》き加減に加奈子の肩に手を掛けて居る京子を元気づかせようとして言った。
――うむ。
 京子は黒眼鏡を金輪のように振って四方を見た。桜は病院のうしろの方に在るらしい。四方一帯、春昼の埃臭《ほこりくさ》さのなかに、季節に後れた沈丁花《じんちょうげ》がどんよりと槙《まき》の樹の根に咲き匂っている。
 古ぼけた玄関。老い呆けた下足爺。履《は》き更えさせられた摺《す》り切れ草履《ぞうり》。薄暗い応接間。この古ぼけた埃臭さが、精神病患者と何の関係を持つべきものなのかと、加奈子は誰かに訊き度いくらいに不愉快だった。疲れ切った椅子テーブル、破れた衛生雑誌が卓上に散ばっており、精神修養の古本が一冊、白昼の儚《はかな》い夢のように、しらじらしく載っている。
――いやな病院!
 京子が遂々《とうとう》言ってしまった。京子の声は低くて透る。加奈子は、あとを言わせまいとしたが、傍の患者に附き添って居た四十男が聞いてしまった。男は、加奈子の気兼ねを受け取るように愛想よく言った。
――院長さんが、まったく体裁をかまわないんでしてな。その代り此処《ここ》の博士の診察は確なもんですよ。は、は、は、は。
 この元気な附添人とは反対に、固くなって黙りこくって居る患者の若い男は、盲人のように黒くうずくまって居る。
 廊下に面した応接間の扉は、開《あ》け放してある。廊下を絶えず往来する看護手たちの姿が見える。年齢は大方四十前後位。屈強な男子達で、狂暴な男性狂者の監禁《かんきん》室の看守ででもあるらしい。白い上被も着た人相骨格の嶮岨《けんそ》に見える者ばかりだ。無制限な狂暴患者に対する不断の用心や、間断無しの警戒、そしてあらゆる異端のなかで、時には圧迫的にも洞察的にも彼等の眼は光り続けていなければならないためか、自然底冷く意地悪そうに落ち窪《くぼ》んでしまうのであろう。一人、二人ずつ彼等はときどき応接室へ何かの用事で出入する。それを京子はちらちら視て、如何にもうんざりしたように加奈子の肩へ首を載せ、眼を避《そ》らしてしまった。京子はもう疲れ切り、眼星の幻像にこだわるのも倦《あ》いて、すっかり無気力に成り果てたようだ。黒眼鏡もいつか外《はず》して居る。
 一組の男女が応接間へ入って来た。まだ席も定めないのに、そのなかの粋な内儀風の女がせき込み、涙ぐみながら言い出した。
――何しろ当人は、自分の間違って居ることが判らないんだからね。何故俺を斯《こ》んな処へ入れたんだ。他に男でもこしらえ…………。
 女は傍目を憚《はばか》ってあとは言えない。
――それが病人のあたりまえの言い分なんだから仕方がねいわさ。
――でも、あんまりだわ。おじさん。
――だから、あんまり酷《ひど》けりゃ院長先生に納得させて貰うんだな。
 おじさんは五十前後の商家の主人らしい温厚そうな男。
――あれっ。
 京子が頓狂《とんきょう》な声を挙げた。
――火の玉! あれっ。
 それは応接間の窓際の紅椿だ。
――駄目。驚いちゃあ。花。椿の花。
 加奈子が少しきつくなだめると、京子は、ぽかんとして椿の花を見直して居た。すこし経つと、恐怖の引いたあとの青ざめた顔を妙に皺《しわ》ませ、てれ[#「てれ」に傍点]隠しに室内の人々の顔をおどけたような眼で見廻した。が、京子は皆が自分を注目して居たと知ると、極度の羞恥心で機嫌が悪くなり、加奈子の手を荒々しく把って室から出ようとした。其処へ看護婦が京子の名札を持って呼びに来た。

 一つ一つ黒い陰を潜めているような陰気な幾つもの扉を開け閉めして、二人は診察室の次の控室へ連れて行かれた。
 茲《ここ》にも古い疲れた椅子《いす》、長椅子、そして五六人の患者や附添が、坐ったり佇ったりして居た。加奈子は、新しい人達の群に来てまた新しい刺戟《しげき》を京子に与えることを恐れた。それで、京子の肩を抱くようにして自分の隣に京子の椅子を押しつけ、京子の首を自分の懐《ふところ》に掻き込むようにした。
――疲れてるわね。あんた、斯うして、少しおねむり。
――うむ。
 京子の声が素直に、加奈子の懐に落ちて行った。いくらか赤味を帯びた京子の柔い髮の毛が、乳呑児《ちのみご》のようにかぼそいうなじ[#「うなじ」に傍点]に冠り、抱えて見て可憐《かれん》そうな体重の軽さ。背中を撫でると、かすかに寝息のような息づかい。
 見栄《みえ》も外聞《がいぶん》もなく加奈子に委《まか》せ切った様子が不憫で、また深々と抱き寄せる加奈子の鼻に、少し青くさいような、そして羊毛のような、かすかな京子の体臭が匂う。
 室内の患者の一人は三十歳ばかりで色白のふくよかな美貌の女。その女はその美貌を水も滴《したた》るような丸髷《まるまげ》と一緒に左右へ静かに振って居る。一しきり振り続け、ちょっと休む間には何かぶつぶつ口籠《くちごも》りながら呟く。涙を流す。丁寧《ていねい》に涙をハンケチで拭い取り、何かまたすこし口籠りながら呟くと元のように、首を左右に振り続ける。附き添う老婢のものごし、服装の工合。何処か中流以上の家庭の若夫人ででもあるらしい。
 その隣席には手足の頑丈な赫ら顔の五十男が手織縞の着物に木綿の兵古帯。艶のよいその赫ら顔を傾けて独り笑いに笑い呆けて居る。声を立てない、顔だけの笑い。嬉しいのか楽しいのか判然せぬ笑い。これは一体何狂というのか、と加奈子は危く笑いに曳き入れられそうな馬鹿々々しい自分の気持を引き締めながらその男をつくづく眺めた。この男は農夫に違いなかった。附添は丁度、その男をそっくり女にしたような百姓女だ。妻であろう。
 やや離れて中年の教員ででもあるらしい男。独りぽっちで隅の方から眼ばかり光らせて居る。痩せ抜いた体が椅子の背と一枚になっている。上品な老爺の附いた学生が絶対無言という様子で鬱《ふさ》ぎ込んで居る。蓄膿《ちくのう》症でもあるのか鼻をくんくん鳴らして居る。
 年増看護婦が診察室から出て来た。番に当る患者を見廻して名札を読んだ。
――吉村さん。
――はあい。
 少女の口調で返事をしたのは意外にも赫ら顔の百姓男だった。男は先刻からの阿呆笑いをちょっと片付け椅子から立ち上って看護婦に近づくと、今度は前とは違った得意な笑顔になり幾つも立て続けに看護婦にお辞儀《じぎ》をするのであった。それは何か、人が非常に厚意に預《あずか》る前の態度だった。妻女は慌てて患者のあとから立ち上って、これはまた何か非常に恥しい出来事でも到来する前のような恥らいを四方の人に見せておどおどした。
 診察室の入口の一角を衝立《ついたて》で仕切って、病歴ノートを控えた若い医員が椅子に坐って居た。看護婦は男患者を其処へ連れて行った。妻女もあとから随《したが》って行った。
――吉村さん、吉村さんですね、あなたは。
 若い医員は、得意そうににやにや笑いながら入って来た男患者を真向いの椅子に坐らせて訊いた。
――はあい…………。
 狂患者に馴れた若い医員も少し面喰らった形で眼をしばたたいた。
――あなたのお名前は。
――はあい(ちょっと間があって)お春…………。
――あれ、そりゃあ、わたしの名でねいか、お前さん。
 妻女はやっきとなってそれを遮《さえぎ》っても男は悠々と真直ぐに医員の顔を見遣って、次の質問を得意そうに待って居る。医員は気の毒そうに妻女を見たが、また患者に向って訊き始めた。
――吉村さん。あなたのお年はお幾つですか。
――年でえすかねえ………年は………はあと………幾つでしたかね………はあと……たしか十九……へえ、十九で………。
 妻女は益々躍気となって体を揺った。
――なに言うだね、この人は。先生、そりゃ娘の年でございますよ。
――まあ、よろしい。
 だが、妻女を制しながらも医員もとうとう笑ってしまった。控室の人たちも笑ってしまった。みんな堪えて居た笑いが一時に出た。なかでも一番高声に笑ったのは当の患者だった。加奈子も京子を抱いた胸をふくらまして笑ったが、その笑いが途中で怯《おび》えてひしゃげてしまった。加奈子の真正面の患者の笑いが余り陰惨なのに加奈子の笑いが怯えたのだった。その教員風の男の笑いは、底深く冷く光った眼を正面に据え、睨《にら》みを少しもゆるめずに、顎と頬の間で異様に引き吊った笑いの筋肉の作用が、黒紫色の薄い唇ばかりをひりひりと歪《ゆが》めた。その気味悪い笑いのうしろで立てたしゃくりのような笑い声が、加奈子を怯えさせたのであった。
――うるさい。何笑ってんの。
 京子が眼を覚まして首を持ち上げた。まだ眠くて堪らない小犬のように眼はつむったまま加奈子の笑い声をうるさがった。京子は不眠症にかかり十日も夜昼眠れない。すると、あとは嗜眠《しみん》症患者のように眠り続ける。京子は昨夜あたりから、またそうなりかかって居る。眠くて眠くて堪らないのだ。
――ハンケチ。
 京子は子供が木登りする時のような手つきで、延び上って加奈子の耳へ片手で垣を作り、あたりを憚《はばか》ってハンケチをねだった。眠ってよだれ[#「よだれ」に傍点]を出すのは京子の癖だ。
 加奈子は片手で袂《たもと》のハンケチを出しながら、京子が成るだけ陰惨な周囲を見ないように、また自分の胸へ京子の顔を押しつけようとした。
――患者さん御気分でもお悪いのですか。
 若い親切らしい看護婦が加奈子の傍に佇って居て訊いた。
――いいえ、眠いんですの。今朝早く起したものですから。
 看護婦は、加奈子が自分よりも背の高い京子を持てあまして居るのを見兼ねて、
――では寝台ですこしお休せ致しましょう。御診察の番は少しあと廻しにして。
――有難う、でも私|斯《こ》んなにしてること馴れてますの。
――けど、患者さん転寝《うたたね》してお風邪でも召すといけませんから。
――ねむい、寝台へ寝る。
 京子は決定的に看護婦の親切にはまってしまった。
 寝台のある部屋――加奈子はこの病院へ来て、初めてここで新しいものを見た。この病院の人間の誰が斯んな装飾をしたものか。花瓶、油絵、額。温和な脚を立てている木製の寝台に純白と紫|繻子《しゅす》を縫い交ぜた羽根蒲団が、窓から射し込む外光を程よくうけて落着いて掛っている。
――帯といて寝る。
 京子は緑色塩瀬の丸帯へ桜や藤の春花を刺繍《ししゅう》した帯を解くと、加奈子に預けて体を投げ込むように寝台へ埋めた。
――蒲団|被《かぶ》って居れば眼から星なんか出やしない。
 まだ、そんな事を言って居る京子の声は、被っている蒲団のなかに籠《こも》って猫のようだ。京子は被った蒲団からちょっと眼を出して加奈子を見た。
――番してんの。
――ああ。
 だが、この可憐なエゴイストは直《じ》きに寝息を立て始めた。そして眠りが蒲団を引被っていた手をゆるめると、京子の顔は蒲団から露《あら》わに出た。
 デス・マスクのようだ。何という冷い静かな気違いの昼の寝顔。短くて聳《そび》えた鼻柱を中心にして削り取ったような両頬、低まった眼窩、その上部の広い額は、昼の光の反映が波の退いた砂浜のように淋しく角度をつけている。眉毛は柔く曳いていても、人間の婦人の毛としての性はなく、もろい小鳥の胸毛のように憐れな狂女の運命を黙祷している。不自然に結んだ唇からは、殆ど生きた人間の呼吸は通わないもののようだ。
 これが、むかし――城東切っての美少女だった足立京子のなれの果てか――だが、あの美貌が、今日の京子の運命を招致したものと言えば言える。
 京子の美貌をめぐったあの数多くの男性女性。加奈子も亦そのなかの一人であった。そして、ほかのそれらの男性や女性と同じように、京子の美貌ばかりに見惚《みと》れて居て、京子のこころ[#「こころ」に傍点]にまで入って行かなかったのも、加奈子は皆と同様だった。京子が、その美貌ばかりを望まれて、Y伯、M武官、そしてそれ等の男性に飽かれてフランス人のHさんにまで嫁いで行き、またちぐはぐになった揚句、とうとう気違いになるまで、加奈子は美しい花が、あやうい風に吹き廻されるような美観で、うかうか京子の運命を眺めて居た。
 どちらかと言えば甘くて気位の高い世間智の乏しい京子が、京子の運命を黙って視て居た加奈子の性質をむしろ頼み甲斐に思って頼み続けて二十年近くの交友が続いた。然《しか》し、加奈子にして見れば、京子が加奈子をこころ[#「こころ」に傍点]で頼って居て呉れたとは較べにならないほど、京子を、美貌ばかりの友として居た。加奈子が自分の恋愛や、研究等に就いては一向京子に打ち明けなかったのも、その証拠だ。京子は加奈子に就いて、そんな性格解剖もしなかったのか、出来ないのが京子の性質であったのか、京子は殆ど加奈子との迂濶《うかつ》な友情を疑ったことはない様子だった。兎《と》に角《かく》、加奈子は京子にもっと批判的な親切で向って居たなら、加奈子の親身な友情だけでも、京子はもっと、或る時期から運命の立てまえをほかに転じて居て、まさか、気違いになり果てるまで、運命に窮し果てはしなかったように考えられる。そう気づいたからこそ、加奈子は京子を今更引き取った。今度は本当に、こころ[#「こころ」に傍点]ばかりで京子に尽そうと決心した。もう治らない病人として或る精神病院へ終身患者として入れられていた京子を――京子は士族で中産階級の肉親とも死別し、財産もなくして居た――加奈子は自分の家へ引き取って来た。
 京子はもう、その時は加奈子の立て直った友情を有難いとも嬉しいとも感じないような気違いの顔をしていた。それがごく、当り前のような気違いの顔をして引き取られて来た。そして可成りな我儘と厄介な病症を発揮した。だがまだまだ仕合せな事に、もともと悪どくない京子の生れ立ちのためか、加奈子は気違いの京子から、他の気違いのする穢《きた》ならしさや極道に陰惨な所業は受けなかった。京子は狂っても矢張り狂った花であった。美しさは褪《あ》せても一種幽美な気違いの憐さがあった。加奈子は京子の憂鬱や偏執に困らされても、悪どい悲惨極まる生活には陥されるようなことはなかった。見当違いや、煩わしさや、憂鬱や偏執に、「我《が》」も「根《こん》」も尽き果てようとする時、加奈子は、不意に、京子のその半面の気違いのロマンチックに出遇う。――今年うち[#「うち」に傍点]の梅に水晶の花が咲くと言い暮して居た京子が、本当の梅の花が咲いても、水晶の梅だと言い切って、花のこぼれるのを惜しがり、緑色絹絞りの着物の上に、黒地絹に赤絞りの羽織を着、その袂で落ちて来る花を受けて、まだ寒い早春の戸外で半日でも飽きずに遊んでいる。毎日々々それが続いた。「美しいな」と見惚れて加奈子は、なんだ、気違いになった京子までを享楽してはならないぞと、自分で自分の心を叱る声を聞いたことがあった。京子は気違いのくせに色の鑑識などもよく判った。京子のねだる着物を加奈子が買って遣れば、それは本当に京子によく似合った。加奈子が夜の外出に、黒いソアレを着れば、緋のフランスチリメンで早速《さっそく》花のようなものを造って呉れた。玄人の造った造花でないので、却ってふさふさとして加奈子の胸のあたりに垂れ下り効果があった。京子はまた、妙につまし[#「つまし」に傍点]かった。女中達にはおいしい肉のおかずをして遣って呉れと加奈子にねだりながら、自分は幾日でも白粥《しらがゆ》を喰べ続ける。白粥に青菜を細かく刻んでかけて喰べるのであるが、加奈子もそれにつき合わされる。体が弱るようで幾日も幾日もそれでは困ると言いながら、加奈子の美感は寧《むし》ろ京子の喰べるそのたべもの[#「たべもの」に傍点]の色彩なり、恬淡《てんたん》さを好んでも居る。そして加奈子はそっと京子の陰へ廻って肉や肴《さかな》を喰べた。

――患者さんまだおやすみですか。ちと代りましょう。裏庭の方でも御覧になっていらっしゃいまし。
 先刻ここへ京子と加奈子を連れて来て呉れた若い看護婦が入って来て言うのである。
――ええ、ありがとう。好いお天気ですね。
――ちっと気晴らしに庭でも御覧になっていらっしゃいませ。桜が咲いて居りますから。
 加奈子は、表庭に一ぱい散って居た桜の花片を想い出した。
――では、ちょっとね。お願いしますわ。眼が醒めたら直ぐ知らして下さい、ね。
――はあ、かしこまりました。
 京子を覗いて、よく寝入って居らっしゃいますこと、と看護婦が言って居る言葉をうしろに聞きながら加奈子は廊下へ出た。今まで居た室内とは同じ建物のうちかと怪しまれる古ぼけた廊下だ。だが先方の何処かに非常に明るい処があるのを想わせる廊下だ。加奈子が、ふらふら歩いていると、前方から青ざめた女が来た。狂女(?)、加奈子は、ぎくりとして廊下の端へ身を寄せて少し足早に歩き出した。加奈子は、素知らぬ顔で行き過ぎようとして女をそっと視た。渋い古大島の袷《あわせ》に萎えた博多の伊達巻。髪は梳《す》き上げて頭の頂天に形容のつき兼ねる恰好《かっこう》にまるめてある。後れ毛が垂れないうちに途中で蓬々《ぼうぼう》と揉《も》み切れてかたまり合っている。三十前後の品の好いその狂女は、おとなしく加奈子に頭を下げて行き過ぎた。
 重く入り乱れた足音がした。加奈子はもうこの廊下から引き返そうと足を反対の方へ向けかけた。と、いきなり横の扉が開いて肥満した女が二人出て来た。一人は看護婦服の五十女。一人は患者、生気を抜いた野菜のように徒《いたず》らにぶくぶく太った二十五六の年頃の女で、ぼけた芒《すすき》の[#「芒《すすき》の」は底本では「茫《すすき》の」]穂のような光のにぶい腫《は》れぼったい眼で微かに加奈子を見た薄気味悪さ。その時、また羽目を距てた近くで、どんと物のぶっ倒れるような音がした。うお――と男患者の唸り声。やや離れた処で、ひい、ひいと女気違いの奇声を挙げるのが聞えて来た。
 加奈子はうろたえた。そして、あの若い看護婦が自分を怖えさせるため、京子の眠るあの部屋から斯んな処へ追い出したのではないかと突然の憤りと困惑に陥った。
――あなたは、何処へお出でですか。
と、一たん太っちょの患者と一緒に行き過ぎた老看護婦が戻って来て、加奈子をうろん[#「うろん」に傍点]な眼で見ながら訊ねた。
――私、お庭へ行くんですの。
――違います。ここは病室側の廊下です。

 広い円形の庭は、眼も醒める程、眩《まぶ》しく明るい。狂暴性でない監禁不用患者の散歩場だ。広い芝生に草木が単純な列を樹てて植えつけてある。今は桜ばかりが真盛りだ。
 庭の真中を横断する散歩道の両端には、殊にも巨大な桜が枝を張り、それに準じて中背の桜が何十本か整列している。淡紅満開の花の盛り上る梢《こずえ》は、一斉に連なり合って一樹の区切りがつき難い。長く立て廻した花の層だ、層が厚い部分は自然と幽な陰をつくり、薄い部分からは余計に落花が微風につれて散っているのが眼についた。散る花びらは、直ぐ近くへも、何処とも知れぬ遠い処へも、飛び散って行くように見える。
 調子はずれの軍歌を唄いながら、桜の下から顎鬚《あごひげ》の濃い五十男が、加奈子の佇って居る庭に面した廊下の窓の方へ現われた。だぶだぶの帆布のようなカーキ色の服を着て居る。ぐっしょり落花を被った頭の白髪が春陽の光にきらきら光る。
――こんにちはあ。
 善良そうな笑いと一緒に挙手をした。
――はあ、こんにちはあ。
 加奈子がびっくりする程大声で挨拶《あいさつ》を返したのは、加奈子の近くの窓に佇って先刻から同じように庭を見て居た中年の男だった。男は加奈子の直ぐ傍に来た。
――ありゃあ、この病院でも古い患者です。
 男が加奈子に言って聞せ始めた時、軍歌の患者は、もと来た方へ、またも軍歌を繰り返しながら歩いて行った。
――一日ああして気楽に戸外散歩してますから、体は丈夫ですよ。長生きするでしょうな。
 男は兜《かぶと》町で激しく働くので時々軽い脳病になり、この病院へ来るのも二十年程前からなので、院内の古い患者とは知り合いが多いと言う。
――あの男は日露戦争の勇士です。第一回|旅順《りょじゅん》攻撃の時負傷して、命は助ったんですが気が違ったんです。
――おとなしいんですね。
――実におとなしい。その代り治る見込がないんですな。生涯の患者ですよ。然《しか》しあの通りですから、病院でもみんなに可愛がられてます。なまじっかしゃば[#「しゃば」に傍点]で正気の苦労するよりゃ、ずっと増しでしょうよ。
 庭の処々に青塗りのベンチが置いてあって、日光浴や散歩に疲れた患者達が黙って腰かけて居る。調子はずれの軍歌を唄って居る男よりほか、口を動かして居るものは一人も無い。檻《おり》のなかの患者の狂暴性とは反対に、あまりおとなし過ぎる静的な患者達なのであろう。
 一人の老人が、自分の古羽織を、脱いだり、着たり畳んだりしては、芝生の上にかしこまり、一方の空を仰いでお辞儀をして居る。
――あれは若いうち、誰かの着物を盗んだそうです。気が小さくってそれが苦になり気違いになったんだそうです。
 加奈子に訊かれて、傍の男はまた説明した。糸屑をしこたま[#「しこたま」に傍点]膝に置いて、それを繋いでばかり居る女、遠くに一人兎の形を真似て両手で耳を高く立て、一つ場所にうずくまって居る男。
 加奈子はじき近くのベンチに眼を戻すと、其処に若い男の二人連れを発見した。顔も恰好もよく似た二人連れだ。一人は稍々《やや》年長で正気の健康者なのはよく判るが、年下の方は、一眼みただけでも直ぐ気違いと判る。
――あれは兄弟なんですよ。
 また加奈子の傍の男は口を出した。
――鍛冶《かじ》屋の兄弟だったんですよ。親も妻子も無しで二人|稼《かせ》ぎに稼いで居たんですよ。だが弟の腕がどうも鈍い。兄の方が或る時|癇癪《かんしゃく》を起して金槌《かなづち》を弟に振り上げたんですね。まさか撲《ぶ》ちゃあしませんでしたけど、弟は吃驚《びっくり》して気が違っちまったんです。五六年前ですよ。あの弟がここへ入院したのは。兄は月三度は屹度《きっと》ここへやって来る。そして弟と一緒に遊んでやるんですよ。優しい心掛けでさあ、みんな見ちゃあ憐れがるんですよ。兄はここへ来ちゃあ弟の言うことを何でも聞くんです。罪ほろぼしの気持なんですね。弟は変な真似をさせるんですよ。自分の手まね足まね、みんな兄貴にやれって言うんです。兄貴はやるんです何でも。舌を出せ、手を挙げろ、四つん這いになれ、寝ころんで見ろ――いまに始めますぜ、また。
 加奈子は、もう男の説明は沢山だという気がして来た。みんな誰でも、一度|貰《もら》ったものは返さねばならず、自分のしたことには結局責任を負わなければならないのだと思った。いまいましいような悲しい人生だと思った。しかしまた惚《ほ》れ惚《ぼ》れとするような因果応報《いんがおうほう》の世の中でもあると思った。
 だが、加奈子は、もう、この気違いの散歩場を見ているのも沢山になった。気違い達の頭の上で過度に誇らしく咲き盛っている桜の花も、ねばる[#「ねばる」に傍点]執拗なものに見えて来た。この説明好きの男にも訣《わか》れたくなった。加奈子はこれ以上、ここに居ると何か嫌悪以上の惑溺《わくでき》に心も体も引き入れられるような危い気がした。
 加奈子が、くるりと体の向きを変えて硝子窓から離れた時、丁度京子の番をしていた若い看護婦が急いで来た。
――患者さん、お目が醒めました。
 看護婦は急いで来たのに落着いて言った。
――桜が満開でございましょう。
 それよりも加奈子の眼は、この看護婦の肩越しの廊下の奥に、京子の顔の幻影を見た。それは加奈子に一生射し添う淋しく美しい白燈の光のような京子の顔の幻影だった。

底本:「岡本かの子全集3」ちくま文庫、筑摩書房
   1993(平成5)年6月24日第1刷発行
底本の親本:「母子叙情」創元社
   1937(昭和12)年12月15日発行
初出:「文学界」
   1936(昭和11)年12月号
入力:門田裕志
校正:岩澤秀紀
2012年8月22日作成
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