国枝史郎

紅白縮緬組—— 国枝史郎

        一

「元禄の政《まつりごと》は延喜に勝れり」と、北村季吟は書いているが、いかにも表面から見る時は、文物典章燦然と輝き、まさに文化の極地ではあったが、しかし一度裏へはいって見ると、案外諸所に暗黒面があって、蛆《うじ》の湧いているようなところがある。
 南町奉行配下の与力鹿間紋十郎と云う人物が、ある夜同心を二人連れて、市中をこっそり見廻っていた。
 丑満《うしみつ》時であったから、将軍お膝元の大江戸もひっそりとして物寂しく、二十日余りの晩い月が雪催いの空に懸かっているばかり往来には犬さえ歩いていない。
 本郷湯島の坂の上まで来ると、紋十郎は足を止めた。坂の下からシトシトと女乗り物が上って来る。駕籠のまわりには十人の武士がピッタリ身体を寄せ合って、無言でトットと歩いている。不思議なことには十人の武士が十人ながら白い布で、厳重に覆面していることで、そして、男とは思われないほどその足並は柔弱である。
 怪しいと見て取った紋十郎は、二人の同心へ合図をして、樹立《こだち》の蔭へ身を隠した。女乗り物の同勢はやがて坂を上り切り、ちょっと一息息を入れると、そのままズンズン行き過ぎようとする。
 つと現われたのは紋十郎である。
「あいやしばらくお待ちくだされい」
 慇懃《いんぎん》ではあるが隙のない声で、彼は背後から呼び止めた。女乗り物はピタリと止まり十人の武士は振り返った。
「深夜と申し殊には厳寒、女乗り物を担がれて方々は何処《いずれ》へ参らるかな?」
 紋十郎はまず尋ねた。
 白縮緬《しろちりめん》で覆面をした十人の武士はこう訊かれても、しばらくは返辞《いらえ》さえしなかった。無言で紋十郎を見詰めている。それがきわめて不遜の態度で嘲笑ってでもいるようである。
 思慮ある武士ではあったけれど、紋十郎は若かったので、相手の様子に血を湧かせた。
「無礼な態度! 不埒《ふらち》千万! 見逃がしては置けぬ! 身分を宣《なの》らっしゃい!」
「黙れ!」
 と、不意に、覆面の一人が、この時鋭く叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]した。
「そういう手前こそ何者じゃ! 厳寒であろうと深夜であろうと、用事あればどこへ参ろうと随意《まま》じゃ! 他人《ひと》を咎めるに先立って自ら身分を宣《なの》らっしゃい!」
「む」と紋十郎は突き込まれたので、思わず言葉を詰まらせたが、「南町奉行配下の与力鹿間紋十郎と申す者、して方々のご身分は?」
「ははあ、不浄役人か」紋十郎の問いには答えず、侮ったように呟いたが、
「不浄役人のその方達に身分を明かすような我々でない。咎め立てせずと引き下がった方がかえってその方の身のためじゃ」
「黙れ!」と紋十郎は突っ刎ねた。「身分も宣らず行く先も云わぬとは、いよいよもって怪しい奴、仕儀によっては引っ縛《くく》り縄目の恥辱|蒙《こうむ》らすがよいか!」
 しかし相手はこう云われても驚きも恐れもしなかった。
「愚か者め」と憐れむように、覆面の武士は呟いたが、スーと駕籠脇へ寄り添った。「お聞きの通り不浄役人ども、駕籠先を止めましてござりますが、いかが取り計らい致しましょうや?」
 恭《うやうや》しい言葉付きで駕籠の中の主へこう指図を仰いだが、しばらくは何んの返辞もない。と、急に美しい気高い声で軽く笑うような気勢がしたが、
「先方《さき》の越度《おちど》にならぬよう、それとなく身分を明かすがよいわい」優しくこういう声がした。
「は、畏《かしこ》まりましてござります――これこれ鹿間紋十郎とやら、それでは身分を明かせて取らせる。この乗り物においで遊ばすは、将軍家お部屋お伝の方様に、お仕え申すお局《つぼね》様じゃぞ。しかもお犬様の源氏太郎様をお膝にお載せ在《おわ》しますのじゃ。これでも止めだて致す気か? 本丸大奥に対しては閣老といえども指差しならぬ。まして町奉行の配下連がお乗り物を抑えるとは無礼千万! これを表沙汰に致す時は容易ならぬ事が出来《しゅったい》致す。なれど特別の慈悲をもって今度《このたび》に限って忘れ取らせる。以後は十分心を致せ……六尺、お乗り物を急がせるよう!」
 声と一緒に粛々と、女乗り物は動き出した。白縮緬の覆面した十人の武士はそれを囲んでタッタッと歩いて行く。振り返ろうともしないのである。
 やがて乗り物も供人も夜の闇に埋もれて見えなくなったが、尚|跫音《あしおと》は聞こえていた。間もなくそれさえ聞こえなくなって大江戸の夜は明け近くなった。
 紋十郎と同心とは、下げた頭を尚下げたまま、互いにいつまでも黙っていた。度胆を抜かれた恰好である。
「すんでにあぶないところであったぞ」紋十郎は呟きながら、闇の中へ消えた駕籠の後を、しばらくじっと眺めやったが、首を捻って腕を組んだ。
 解《げ》せないところがあるからでもあろう。

        

 こういう出来事があってから幾月か経って春となった。元禄時代の春と来ては、それこそ素晴らしいものである。「花見の宴に小袖幕を張り、酒を燗するに伽羅《キャラ》を焚き」と、その頃の文献に記されてあるが、それは全くその通りであった。分けても賑わうのは吉原で、豪華の限りを尽くしたものだ。
 遊里で取り分け持てるのはすなわち銀座の客衆で、全くこの時代の銀座と来ては三宝四宝の吹き出し最中で、十九、二十の若い手代さえ、昼夜に金銀を幾千《いくら》ともなく儲け、湯水のように使い棄てた。
 しかし豪奢なその銀座衆さえ、紀伊国屋文左衛門には及ばなかった。奈良屋茂左衛門にも勝てなかった。そしてこの両人の豪遊振りについては、大尽舞いの唄にこう記されている。
「そもそもお客の始まりは、高麗《こま》唐土《もろこし》はぞんぜねど、今日本にかくれなき、紀伊国文左に止どめたり。さてその次の大尽は、奈良茂の君に止どめたり。新町にかくれなき、加賀屋の名とりの浦里の君さまを、初めてこれを身請けする。深川にかくれなき黒江町に殿を建て、目算御殿となぞらえて、附き添う幇間《たいこ》は誰々ぞ、一蝶民部に角蝶や(下略)ハアホ、大尽舞いを見さいナ」
 で、その奈良屋茂左衛門がまだ浦里を身請けしない前の、ある春の日のことであったが、取り巻を連れて吉原の新町の揚屋《あげや》で飲んでいた。
 一蝶の作った花見の唄を、市川※[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94]校が節附けして、進藤※[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94]校の琵琶に合わせ、たった今唄ったその後を雑談に耽っているのであった。
「この泰平の世の中に、不思議のことがあるものじゃの」
 独言《ひとりごと》のようにこう云ったのは、書家の佐々木玄龍であった。やはり取り巻の一人ではあったが、さすがに身分が身分だけに、人達から先生と呼ばれていた。
「不思議の事とは何んですかな?」
 大仏師の民部がすぐ訊いた。彼はまたの名を扇遊とも云って、英《はなぶさ》一蝶とは親友であったが、人を殺した事さえある胆の太い兇悪な男である。
「なにさ、近頃評判の高い、白縮緬組の悪戯《いたずら》をフイと思い出したと云うことさ」
「ああ彼奴らでございますか。いや面白い手合いですな。さすがの北条安房守様も手が出せないということですな」
「相手が千代田の御殿女中と来ては町奉行には手は出せまいよ」
「と云って見す見す打遣《うっちゃ》って置くのも智恵がないじゃございませんか」
「全く智恵がありませんな」こう云って横から口を出したのは、商人で医者を兼ねた半兵衛であった。村田というのがその姓で、聞き香、茶の湯、鞠、※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]花、風流の道に詳しい上に、当代無類の美男であったので「色の村田の中将や」と業平《なりひら》中将に例えられて流行唄《はやりうた》にさえ唄われた男。やはり取り巻の一人であった。
「全く智恵がありませんな。それに第一不都合じゃ。悪戯をするに事を欠いて、御殿女中ともあろう者が白縮緬《しろちりめん》で顔を隠し、深夜に町家へ押し入って押し借りをするのを咎められないとは、沙汰の限りではありませんかな」
「いかにも沙汰の限りではあるが、さてそれがどうにも出来ないのじゃ」玄龍は苦笑を頬に浮かべ、「どうにもならないその訳も色々あるが迂濶《うかつ》には云えぬ。迂濶にいうと首が飛ぶ。軽くて遠島ということになる」
「へえ、遠島になりますかな? いやこいつはたまらない」半兵衛は首を縮めたが、「変な時世になったものじゃ。私《わし》には一向解らない」
 すると、座敷の隅の方で、其角《きかく》を相手に話し込んでいた英《はなぶさ》一蝶が坊主頭を、半兵衛の方へ振り向けたが、
「石町《こくちょう》、焼きが廻ったの。それが解らぬとは驚いたな」
「お前には解っているのかえ?」
「解っているとも大解りじゃ」
「一つ教えて貰いたいな」
「生類憐れみのあのお令《ふれ》な。あれに触れたら命がない。それはお前にも解っていよう?」
「それがどうしたというのだえ?」
「これはいよいよ驚いた。これまでいっても解らぬかな……今の話の白縮緬組、南都の悪僧が嗷訴《ごうそ》する時|春日《かすが》の神木を担《かつ》ぎ出すように、お伝の方の飼い犬を担ぎ出して来ると云うではないか。だから迂濶には手が出せぬ。変にうっかり手を出して犬めに傷でも付けたが最後、玄龍先生のおっしゃられたように、軽いところで遠島じゃ」
「ふうむ、なるほど、それで解った」半兵衛は初めて頷いたのである。
 五代将軍綱吉は、聡明の人ではあったけれど、愛子を喪《うしな》った悲嘆の余りにわかに迷信深くなり、売僧《まいす》の言葉を真に受けて、非常識に畜類を憐れむようになり、自身|戌年《いぬどし》というところから取り分け犬を大事に掛けた。病馬を捨てたために流罪になり犬を殺したために死罪となった、そういう人間さえ出るようになって、人々は不法のこの掟をどれほど憎んだか知れないのであった。

        

 三日見ぬ間の桜も散り、江戸は青葉の世界となった。
 奈良茂は今日も揚屋の座敷で、いつもの取り巻にとり巻かれながら、うまくもない酒に浸っていた。いよいよ身請けという段になって、にわかに浦里が冠《かぶり》を振り、彼の望みに応じようともしない。酒のまずい原因である。あれほどまでに心を許し慣れ馴染《なじ》んで来た浦里が、これという特別の理由もないのに、彼の心に従わないのが、彼には不満でならなかった。
「それだけはどうぞ堪忍して。少し望みがありますゆえ」と、いくら尋ねてもただこういって浦里は他には何もいわない。日頃女を信じ切っていたため、その女からこう出られると、裏切られたような気持ちがして、彼は心が落ち着かないのであった。
 それに近頃若い男が、彼に楯突いて浦里のもとへ、しげしげ通って来るという、厭な噂も耳にしたので彼は益※[#二の字点、1-2-22]|焦心《いらいら》した。
「仮りにも俺に楯突こうという者、紀文の他にはない筈だ」
 いったい其奴《そやつ》は何者であろう? 自尊の強い性質だけにまだ見ない恋敵《こいがたき》に対しても、激しい憤りを感じるのであった。
 奈良茂の機嫌が悪いので、半兵衛や民部は心を傷《いた》め、いろいろ道化たことなどを云って浮き立たせようとするのであったが、周囲《まわり》が陽気になればなるほど彼の心は打ち沈んだ。酒ばかり煽《あお》って苦り切っている。
 一蝶や其角《きかく》は取り巻とはいっても一見識備えた連中だけに、民部や半兵衛が周章《あわ》てるようには二人は周章てはしなかった。
「金の威力で自由にしようとしても、自由にならないものもある。女の心などはまずそれだ。自由にならないから面白いとも云える。それを怒ったでは野暮というものだ」心の中ではこんなようにさえひそかに考えているのであった。
 佐々木玄龍は所用あって今日は座席には来ていなかった。
「宗匠、何んと思われるな、紅縮緬《べにちりめん》のやり口を?」一蝶は其角に話しかけた。
「それがさ、実に面白いではないか。白縮緬《しろちりめん》に張り合って、ああいう手合いが出るところを見ると、世はまだなかなか澆季《すえ》ではないのう」
 其角は豪放に笑ったが、
「この私《わし》に点を入れさせるなら、紅縮緬の方へ入れようと思う」
「私《わし》にしてからがまずそうじゃ。紅縮緬の方が画に成りそうじゃ」一蝶はそこで首を捻ったが、
「それにしても彼奴ら何者であろうの? いつも三人で出るそうじゃが」
「いやいやいつもは二人じゃそうな。一人は若衆、一人は奴《やっこ》、紅縮緬で覆面して夜な夜な現われるということじゃ。もっとも時々若い女がそれと同じような扮装《みなり》をして仲間に加わるとは聞いているが」
「さようさよう、そうであったの……何んでもその中の若衆が素晴らしい手利きだということじゃの。暁|杜鵑之介《ほととぎすのすけ》とかいう名じゃそうな」
「いずれ変名には相違ないが、季節に合った面白い名じゃ」しばらく其角は打ち案じたが、「暁に杜鵑か、それで一句出来そうじゃの」
「お前がそれで一句出来たら、私が一筆《ひとふで》それへ描こう」
「いや面白い面白い」
 そこへこれも取り巻の二朱判吉兵衛が現われたので、にわかに座敷が騒がしくなった。
「やい、吉兵衛、よく来られたの!」
 奈良茂の癇癪《かんしゃく》は吉兵衛を見ると一時にカッと燃え上がった。
「誰か吉兵衛を引っ捉えろ!」奈良茂は自分で立ち上がった。
「早く剃刀《かみそり》を持って来い! 彼奴を坊主に剥《む》いてやる!」
 吉兵衛は大形に頭を抱え座敷をゴロゴロ転がりながら、さも悲しそうに叫ぶのであった。
「お助けお助け! どうぞお助け! 髪を剃られてなるものか! ハテ皆様も見ておらずとお執成《とりな》しくだされてもよかりそうなものじゃ!」
「やい、これ、吉兵衛の二心め! よも忘れてはいまいがな! 今年の一月京町の揚屋で俺が雪見をしていたら、紀文の指図で雪の上へ小判をバラバラばら蒔いて争い拾う人達の下駄でせっかくの雪を泥にしたのは、吉兵衛貴様の仕業《しわざ》でないか。その日から今日まで気が射《さ》すかして、一度も顔を見せなかったので、怨みを晴らす折りもなかったが、今日捉えたからは百年目、どうでも坊主にせにゃならぬ! さあさあ皆、吉兵衛めを動かぬように抑えてくれ。俺が自分で手を下ろしてクリクリ坊主にひん剥いてやる!」

        

 涙を流して詫びた甲斐もなく、ついに吉兵衛は髻《もとどり》を払われ、座敷から外へ追いやられた。
 こんな騒ぎに日が暮れて、間ごとに燈灯が華やかに灯り、艶《なまめ》かしい春の夜となった。
 今日は一度も浦里は座敷へ顔さえ出さなかった。奈良茂の機嫌は益※[#二の字点、1-2-22]傾き民部や半兵衛の追従口もどうすることも出来なかった。

 ちょうどこの夜の丑満時のこと、隅田川に沿った駒形の土手を、静かに歩いて行く三人連れがある。紅縮緬で覆面をし燦《きらび》やかの大小を落とし差しに佩《は》き、悠然と足を運ぶ様子に、腕に自信のあることが知れる。
 真っ先に進むは若衆と見えて匂うばかりの振り袖に紅の肌着の袖口長く、茶宇の袴の裾を曳き、気高い態に歩いて行く。その次に行くのは女であった。時鳥《ほととぎす》啼くや五尺の菖蒲《あやめ》草を一杯に刺繍《ぬいと》った振り袖に夜目にも著《しる》き錦の帯をふっくりと結んだその姿は、気高く美しく※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]《ろう》たけて見える。最後に進むは奴姿《やっこすがた》の雲突くばかりの大男でニョッキリ脛《はぎ》を剥き出しているのもそれらしくて勇ましい。
 空には上弦の初夏の月が、朧《おぼ》ろに霞んだ光を零《こぼ》し、川面を渡る深夜の風は並木の桜の若葉に戦《そよ》いで清々《すがすが》しい香いを吹き散らす。
 三人の者は話さえせずただ黙々と歩いて行く。厩橋《うまやばし》を南に渡りやがて本所へ差しかかった。
 と、先頭の若衆が、ピタリと足を止めたものである。三人は顔を見合わせた。それから蝙蝠《こうもり》の飛んだかのように、人家の一つの表戸へ三人ながら身を寄せた。月光を軒が遮《さえぎ》るのか、三人の潜んだその辺は、烏羽玉《うばたま》の闇に閉ざされている。
 その時、往来の遙かあなたから、一団の人影が現われたが、女乗り物を真ん中にしてタッタッタッと進んで来る。近寄るままよく見れば白縮緬で顔を隠した十人の武士の群れであった。
 白縮緬の一群は、四方に眼《まなこ》を配りながら、人家の前を悠々と今まさに通り過ぎようとした。
 つとその行く手を遮ったのは紅縮緬の若衆である。
「その駕籠止めい!」
 と、絹を裂くような声。
 乗り物はタタと後へ引いた。十人の武士はその周囲《まわり》をグルリと囲んで立ち止まった。いずれも刀へ手を掛けている。
「やあ汝《おのれ》は紅縮緬組の杜鵑之介《ほととぎすのすけ》とかいう奴よな。しつこくまたもや現われて、止めだてするとは無礼の痴人《しれもの》! とくそこを退け! 退きおろう!」
「痴人《しれもの》というのはそち達がことじゃ。先夜上野の山下で初めて汝らに巡り合い滾々《こんこん》不心得を訓《さと》したにも拘《かか》わらず、今夜再び現われ出で、押し借りの悪行を働くとは天を恐れぬ業人ばら。今宵こそ容赦致さぬぞよ」
 若衆の声は凛々と響き、鬼をも挫《ひし》ぐ勢いがある。
 白縮緬の一群は、気を呑まれて一刹那《ひとしきり》静まったが、権を笠に着て盛り返した。
「この御乗り物に在《おわ》すお方を、何んと心得て雑言するぞ!」
「女郎《めろう》一人に犬一匹を、大丈夫たる者が恐れようや。馬鹿な事を!」と、朗らかに、若衆は笑って肩を聳やかす。
「やあ源氏太郎様を犬といったな!」
「犬といったが悪いと申すか。では畜生と申そうかの」
「お犬様を畜生とは吠《ほざ》いたりな!」
「畜生で悪くば獣といおうぞ」
「問答無用、やあ方々、お令《ふれ》を恐れぬ叛逆人を、討ち取り召されい討ち取り召されい!」
「おっ!」と叫《おめ》いた声の下から、十本の白刃月光を浴びて氷のように閃めいた。
 若衆は一歩進み出たが、
「汝ら武士に扮《よそお》ってはおれど、大奥に仕うる女ばらと見たれば、先夜はわざと峰打ちにして生命ばかりは助けたれど、今宵は一人も遁がさぬぞよ」
 刀の束に手を掛けたままじりじりと詰め寄った。若衆一人に詰め寄せられて白縮緬組の十人の者は次第次第に後退《あとじ》さり、既に駕籠から離れようとしたが、いい甲斐なしと思ったか、颯《さっ》と一人が切り込んで来た。
「天罰!」
 と鋭い若衆の声。流星地上に落ちるかと見えたのは抜き打ちに払った刀の閃めきで、「あっ!」と叫んだのは切り込んで行った武士。悉くそれが同時であった。生死は知らず地上には一人俯向きに仆れている。
「朋輩の仇!」
 と、声もろともに、左右から二人切り込んだ。
「やっ!」「やっ!」とただ二声。それで勝負は着いたのである。地上には二人の白縮緬組が刀を握ったまま仆れている。
 後に残った七人は、一度に刀を手もとに引いて、身体を守るばかりであった。
 その時、ヒラリと駕籠の垂れが、風もないのに飜《ひるが》えったかと思うと、電光《いなずま》のように飛び出して来たのは白毛を冠った犬であった。
「やあ、お犬様だ!」
 と、白縮緬組は、驚きの声を筒抜かせた。

        

 さすがは名犬、源氏太郎は、早速には飛びかかっても行かなかった。鼻面を低く地に着けて、上眼で敵を睨みながら、陰々たる唸りの声を上げ、若衆の周囲を廻り出した。相手を疲れさせるためでもあろう。
 若衆は刀を下段に構え、廻る犬に連れて廻り出した。時々「やっ」と声を掛けて犬に怒りを起こさせようとする。誘いの隙を見せた時、犬は虚空に五尺余りも蹴鞠《けまり》のように飛び上がったが、パッと咽喉もとへ飛びかかる。
 掛け声も掛けずただ一閃、刀を横に払ったかと思うと「ギャッ」と一声声を揚げたまま、源氏太郎は胴を割られ二つになって地に落ちた。
「切ったわ切ったわお犬様を!」
 驚き恐れた叫び声が、白縮緬組七人の口から、同時にワッと湧き起こった。
 忽然その時駕籠の戸が内から音もなく開けられた。プンと火縄の匂いがして、スーッと立ち出でた一人の手弱女《たおやめ》。手に持った種ヶ島を宙に振り、やがて狙いを定めたのは若衆の胸の真ん中であった。
 人々は一度に声を呑んだ。
 天地寂廖として音もない。
 と、手弱女《たおやめ》は嘲けるように、
「下郎推参!」
 と呼び掛けたが、ニタリと笑ったその艶顔には、凄愴たる鬼気さえ籠もっている。若衆はブルッと身顫《みぶる》いをした。飛び道具に恐れての戦慄《みぶるい》か? それとも手弱女の類を絶した、この世ならぬ美に胸|衝《う》たれ恍惚から来た身の顫えか? 下段に構えた刀を引き入身正眼に付けたまま、いつまでもじっと動かない。
 こうして瞬間の時が経った。
 ハッと種ヶ島の火花が散りあわや一発打ち放されようとした時、「えい!」と掛けた掛け声が、夜の闇の中から聞こえたかと思うと、カチリと打ち合う音がして手弱女《たおやめ》の持っていた種ヶ島は手から放れて地に落ちた。
 奴姿《やっこすがた》の大男が人家の軒から投げた飛礫《つぶて》が若衆の危難を救ったのである。若衆は刀を投げ捨てると、飛燕のように飛び込んで行った。手弱女を膝下に抑えたのである。
 奴姿の大男も大刀を抜いて現われ出たが、白縮緬組七人の中へ面もふらず切って行った。
 若衆は手弱女の頤の辺へ片手を掛けて顔を持ち上げ月の光につくづくと見た。丹花の唇、芙蓉の眉、まことに古い形容ではあるが、この手弱女には似つかわしい。下髪にした黒髪が頬に項《うなじ》に乱れているのも憐れを誘って艶《なまめ》かしく、蜀江錦の裲襠《うちかけ》の下、藤紫の衣裳を洩れてろうがましく見ゆる脛《はぎ》の肌は玉のようにも滑らかである。観念の眼を堅く閉じ微動さえしない覚悟の中にはある気高ささえ含まれている。
 柳営に仕える局としても余りに美しく高貴である。
 若衆の口から洩れたのは焔のような溜息であった。彼は静かに膝を退け、そっと手弱女を引き起こした。それから彼は立ち上がり腕を組んで黙然と眺めていた。実《げ》にやこの世の物ならぬ妖艶たる手弱女のその姿を。
 七人の相手を追い散らし、馳せ返って来た奴姿は、それと見るよりつと進み寄り血刀をグイと突き付けた。
「これ」
 と制したのは若衆である。投げ捨てた刀を拾い上げ、パチリ鞘に収めてから袴の塵《ちり》をハタハタと払い、
「千代はどうした。見て参れ」
「おおそうじゃ。お嬢様……」
 行きかかる時、人家の軒から、粛々と進み出た三人の武士。その三人に囲まれながら、頸垂《うなだ》れて歩むのは女であった。
「千代か?」と若衆は声をかけた。
「あいや暁杜鵑之介殿。お妹ごまさしくお引き渡す間、その女人こちらへお譲りくだされい」
 三人の武士のその一人が、ツカツカと前に進み出ながら、慇懃の言葉でこういった。
「何人でござるぞ? そう仰せらるるは?」
 若衆も前へ進み出た。ぴったり二人は顔を合わせたのである。
 武士は言葉を潜めたが、
「北条安房守配下の与力、鹿間紋十郎と申す者でござる」
「む。ご貴殿が鹿間殿か――してあの女人は何人でござるな?」
「あれこそ、お伝の方でござる」
「…………」
 若衆は無言で頷いた。そうして改めて女人を見た。
「いかにもお譲り致しましょう」
「お譲りくださるか。忝《かたじ》けない。いざお妹ごをお渡し申す」
「千代、袖平、参ろうかの」
 悠然と若衆は歩を運んだ。

        

「由井殿!」
 と、不意に、紋十郎は、若衆の後から声を掛けた。ハッとして若衆は立ち縮《すく》んだ。
「寸志でござる。お受け取りくだされい」
 一葉の紙を突き付けた。
 若衆は無言で受け取って月の光で透かして見たが、
「や、これは某《それがし》が人相書き!」
「今夜のお礼に差し上げ申す――貴殿の今宵の働きに懲《こ》りて、白縮緬組の悪行も自然根絶やしになろうと存ずる。管轄違いの我らの手では取り締まりかねたこの輩を天に代わってのご制裁、お礼申さねば心が済まぬ。寸志でござればお収めくだされい」
 若衆は深く感動したが、言葉もなくて首垂《うなだ》れた。
「ご芳志有難くお受け申す」感情を籠めていうのであった。

 その同じ夜の暁であったが、其角《きかく》は揚屋の二階座敷の蒲団の上に端座して、じっと考えに更けっていた。
 先刻一蝶と約束した、読み込みの句が出来ないからで、禿《かむろ》の置いてあった酔い醒めの水を立て続けに三杯まで呑んで見たが、酔いも醒めなければ名案も出ない。
 仄《ほの》かな暁の蒼褪めた光が戸の隙間から射し込んで来て、早出の花売りの触れ声が聞こえる時分になっていたが、彼の苦吟は止まなかった。
「余人ならともかく一蝶と来たら、あれでなかなかの文章家だからな。変な下手な句は見せられぬ」
 こんなことを心で思ったりして益※[#二の字点、1-2-22]彼は考え込んだ。
 その時にわかに隣りの室へ、人がはいって来たらしく、ひそひそ話し合う気勢がする。
「こいつはどうも面白くない。隣りの室で騒がれたひにはいよいよもって句は出来ぬな」
 彼は渋面を作りながら、何気なく隣室の人声へ所在ない耳を傾けた。
 誰か苦しんででもいると見えて、呻吟の声が聞こえて来る。
 と、おろおろした女の声で、
「お兄様!」と呼ぶ声がする。それに続いて男の声で、
「若旦那様! しっかりなさりませ!」
 と、力を付けるような声もする。
「むう。むう」
 と苦しそうな呻吟の声は尚続いた、どうやら物でも嘔吐《はく》らしい。
 暁の光は次第に蒼く次第に明るく射し込んで来る。
 と、また女のおろおろ声。
「お兄様! お兄様!」
「若旦那様! 杜鵑之介《ほととぎすのすけ》様! 心をしっかりお持ちなさりませ!」男の声がそれに続く。
「何?」
 と其角は眼を見張った。
「杜鵑之介といったようじゃな? 杜鵑之介! 杜鵑! そうして今は暁だ! 隣室《となり》では嘔吐《へど》を吐いている。よし! 出来た!」
 と、思わず叫び、側の短冊を取り上げた。
 スラスラと書いたその一句は……
[#ここから2字下げ]
あかつきの
 嘔吐は隣りか
  ほととぎす
[#ここで字下げ終わり]
 狭斜の巷の情と景とを併わせ備えた名句として、其角の無数の秀句の中で嶄然頭角を現わしているこの「ほととぎす」の一句こそはこういう事情の下に出来上がったのである。
 翌日隣室に若い侍が、毒を飲んで一人死んでいた。前髪立ての美男であって、浦里のもとへ通って来た嫖客の一人だということであったが、それかあらぬか浦里は、自分親しく施主に立って立派な葬式を営んだため、噂がパッと拡がった。しかし間もなくその浦里も奈良茂のために根引きされて、吉原から姿を隠したので、廓《さと》の名物を失ったといって、嘆息しない者はなかったが、名物といえば江戸名物の紅白縮緬組もそれ以来パッタリ市中へ出ないようになって、次第に噂も消えて行った。
 それにしても暁杜鵑之介と宣《なの》った、美しい若衆は何者であろう? 何んのために自害したのであろう?
 古い当時の記録を見ると、次のようなことが記されてある。
「慶安の巨魁由井正雪の孫、幕府に怨恨《うらみ》を含む所あり、市中に出でて婦女子を害す。追窮されて遊里に忍び、遂げられざるを知って自殺す云々」と。しかし、自害した真の原因は、お伝の方の美貌に魅せられ、大丈夫の魂の鈍ったことを悲しんだからに相違ない。
 浦里のお千代は、兄と共々、深夜に廓を抜け出して、市中を横行した当時の覇気を、兄の死と一緒に封じ込み、ただ貞節の妻として奈良茂に仕えたということであった。

底本:「銅銭会事変 短編」国枝史郎伝奇文庫27、講談社
   1976(昭和51)年10月28日第1刷発行
初出:「サンデー毎日 夏季増刊号」
   1924(大正13)年7月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年2月21日作成
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国枝史郎

甲州鎮撫隊—— 国枝史郎

   滝と池

「綺麗《きれい》な水ですねえ」
 と、つい数日前に、この植甚《うえじん》の家へ住込みになった、わたり[#「わたり」に傍点]の留吉《とめきち》は、池の水を見ながら、親方の植甚へ云った。
「これが俺《おれ》んとこの金箱さ」
 と、石に腰をかけ、煙管《きせる》をくわえながら、矢張り池の水を見ていた植甚は、会心の笑いという、あの笑いかたをしたが、
「この水のために、俺んとこの植木は精がよくなるのさ」
「まるで珠《たま》でも融かしたようですねえ。明礬水《みょうばんすい》といっていいか黄金水《おうごんすい》といっていいか」
「まあ黄金水だなア」
「滝も立派ですねえ。第一、幅が広いや」
「箱根の白糸滝になぞらえて作ったやつよ」
 可成り広い池の対岸《むこうがわ》に、自然石《じねんせき》を畳んで、幅二間、高さ四間ほどの岩組とし、そこへ、幅さだけの滝を落としているのであって、滝壺《たきつぼ》からは、霧のような飛沫《しぶき》が立っていたが、池の水は平坦《たいら》に澄返り、濃い紫陽花《あじさい》のような色に澱《よど》んでいた。留吉は、詮索《せんさく》好きらしい眼付で、滝を見たが、
「でもねえ、親方、この庭の作りからすれば、あの滝、少し幅が広過ぎやアしませんかね」
「無駄事云うな」
 と、植甚は、厭《いや》な顔をし、
「俺、ほんとは、手前の眼付、気に入らねえんだぜ」
「何故《なぜ》ね」
「女も欲しけりゃア金も欲しいっていうような眼付していやがるからよ」
「ほいほい。……あたり[#「あたり」に傍点]やした。……だがねえ親方、こんなご時世に、金なんか持っていたって仕方ありませんね」
「何故よ」
「脱走武士なんかがやって来て、軍用金だといって、引攫《ひっさら》って行ってしまうじゃアありませんか。……親方ア金持だというからそこんところを余程うまくやらねえと。……」
「うるせえ。仕事に精出しな」

 劇《はげ》しく詈合《ののしりあ》う声が聞え、太刀音が聞え、続いて女の悲鳴が聞えたのは、この日の夜であった。
 沖田総司《おきたそうじ》は、枕元の刀を掴み、夜具を刎退《はねの》け、病《やまい》で衰弱しきっている体を立上らせ、縁へ出、雨戸を窃《そっ》と開けて見た。とりこにしてある沢山の植木――朴《ほう》や楓《かえで》が、林のように茂っている庭の向うが、往来《みち》になっていて、そこで、数人の者が斬合っていた。あッという間に一人が斬仆《きりたお》され、斬った身長《せい》の高い、肩幅の広い男が、次の瞬間に、右手の方へ逃げ、それを追って数人の者が、走るのが見えた。静かになった。
「浪人どもの斬合いだな」
 と総司は呟き、雨戸を閉じようとした。すると足下から
「もしえ」
 という女の声が聞えて来た。さすがに驚いて、総司は足下を見た。縁に寄添い、一人の女が、うずくまっていた。
「誰だ」
「は、はい、通りがかりの者でございますが……不意の斬合《きりあい》で……ここへ逃込みましたが……お願いでございます……どうぞ暫くお隠匿《かくまい》……」
「うむ。……しかし、もう斬合いは終えたらしいが……」
「いえ……まだ彼方《むこう》で……恐ろしくて恐ろしくて……」
「そうか。……では……」
 と云って、総司は体を開くようにした。
 二人は部屋へ這入った。夜具が敷かれてあり、枕元に、粉薬だの煎薬《せんじぐすり》などが置いてあるのを見ると、女は、ちょっと眉をひそめたが、総司が、その夜具の上へ崩れるように坐り、はげしく咳《せき》入ると、すぐ背後《うしろ》へ廻《まわ》り、背を撫《な》でた。
「忝《かたじ》けない」
「いえ」
 行燈《あんどん》の光で見える総司の顔色は、蒼《あお》いというより土気色であった。でも、新選組の中で、土方歳三《ひじかたとしぞう》と共に、美貌《びぼう》を謳《うた》われただけあって、窶《やつ》れ果ててはいたが、それが却《かえ》って「病める花弁《はなびら》」のような魅力となってはいた。それに、年がまだ二十六歳だったので、初々《ういうい》しくさえあり、池田屋斬込みの際、咯血《かっけつ》しいしい、時には昏倒《こんとう》しながら、十数人を斬ったという、精悍《せいかん》なところなどは見られなかった。
 女は、背を撫でながら、肩ごしに、総司の横顔を見詰めていた。眉《まゆ》は円く優しかったが、眼も鼻も口も大ぶりの、パッと人眼につく、美しい女であった。でも、その限が、剃刀《かみそり》のように鋭く光っているのは何《ど》うしたのであろう。やがて総司は、女に介抱されながら、床の上へ寝かされた。女は、夜具の襟を、総司の頤《あご》の辺まで掛けてやり、襟から、人形の首かのように覗《のぞ》いている総司の顔を見ながら、枕元に坐っていた。慶応《けいおう》四年二月の夜風が、ここ千駄ヶ谷《せんだがや》の植木屋、植甚の庭の植木にあたって、春の音信《おとずれ》を告げているのを、窓ごしに耳にしながら、坐っていた。

   夢の中の人々

「お千代!」
 と不意に、眠った筈の総司が叫んだ。女は驚いたように、細い襟足を延ばし、男の顔を覗込《のぞきこ》んだ。
「お千代、たっしゃかえ! たっしゃでいておくれ!」
 と又総司は叫んだ。でも、その後から、苦しそうな寝息が洩れた。眠りながらの言葉だったのである。女はニッと笑った。遠くの方から、半鐘の音が聞えて来た。脱走の浪人などが、放火したのかもしれない。女はソロソロと、神経質に、部屋の中を見廻してから、懐中《ふところ》へ手を入れた。短刀の柄頭《つかがしら》らしい物が、水色の半襟の間から覗いた。
「済まん、細木永之丞君!」
 と又、眠っている総司は叫んだ。
「命令だったからじゃ、済まん」
 女は眼を据え、肩を縮め、放心したように口を開け、総司を見詰めた。
「済まんと云っているよ。……それじゃア何か理由《わけ》が……然《そ》うでなくても、この子供っぽい、可愛らしい顔を見ては。……」
 尚、総司の寝顔を見守るのであった。

 幾日か経った。お力――それは、沖田総司に、隠匿《かくま》われた女であるが、植甚の職人、留吉を相手に、植甚の庭で、話していた。
「苅込ってむずかしいものね」
「そりゃア貴女……」
「鋏《はさみ》づかい随分器用ね」
「これで生活《くって》て[#「生活《くって》て」はママ]いるんでさア」
「ずいぶん年季入れたの」
「へい」
 木蘭は、その大輪の花を、空に向かって捧《ささ》げているし、海棠《かいどう》の花は、悩める美女に譬《たと》えられている、なまめかしい色を、木蓮《もくれん》の、白い花の間に鏤《ちりば》めているし、花木の間には、苔《こけ》のむした奇石《いし》が、無造作に置かれてあるし、いつの間に潜込んで来たのか、鷦鳥《みそさざえ》が、こそこそ木の根元や、石の裾を彷徨《さまよ》っていた。そうして木間越しには、例の池と滝とが、大量の水を湛《たた》えたり、落としたりしていた。
 鳥羽、伏見で敗れた将軍家が、江戸城で謹慎していることだの、上野山内に、彰義隊《しょうぎたい》が立籠っていることだの、薩長の兵が、有栖川宮様《ありすがわのみやさま》を征東大総督に奉仰《あおぎたてまつ》り、西郷|吉之助《きちのすけ》を大参謀とし、東海道から、江戸へ征込《せめこ》んで来ることだのという、血腥《ちなまぐさ》い事件も、ここ植甚の庭にいれば、他事《よそごと》のようにしか感じられないほど、閑寂であった。
「姐《ねえ》さん、よくご精が出ますね」
 と、印袢纏《しるしばんてん》に、向鉢巻《むこうはちまき》をした留吉は、松の枝へ、一鋏《ひとはさ》みパチリと入れながら云った。
 お力は、簪《かんざし》で、髪の根元をゴシゴシ引掻《ひっか》いていたが、
「何よ」
「沖田さんのご介抱によく毎日……」
「生命《いのち》の恩人だものね」
「そりゃアまあ」
「あの晩かくまっていただかなかったら、斬合いの側杖《そばづえ》から、妾《あたし》ア殺されていたかもしれないんだものね」
「そりゃアまあ……」
「それに沖田さんて人、可愛らしい人さ」
「へッ、へッ、そっちの方が本音だ」
「かも知れないわね」
「あっしなんか何《ど》んなもので」
「木の端《はし》くれ[#「くれ」に傍点]ぐらいのものさ」
 パチリ! と留吉は、切らずともよい、可成り大事な枝を、自棄《やけ》で、つい切って了《しま》い、
「ほいほい、木の端くれか、……と、うっかり木の端くれ[#「くれ」に傍点]を切ったが、こいつ親方に叱られそうだぞ。……と、いうようなことはお預けとしておいて、木の端くれ[#「くれ」に傍点]だなんて云わずに、どうですい、この留吉へも、……」
 お力は返事もしないで、木間を隙《すか》して、離座敷の方を眺めた。
 その離座敷では、沖田総司と、近藤勇とが話していた。
 勇が来訪《たずねてき》たので、お力は、座を外したのであった。

   勇の説得

 この離座敷へも、午後の春陽《ひ》は射して来ていて、柱の影を、畳へ長く引いていた。
「板垣退助が参謀となり、岩倉具定を総督とし、土州、因州《いんしゅう》、薩州《さっしゅう》の兵三千、大砲二十門を引いて、東山道軍と称し、木曾路から諏訪へ這入り、甲府を襲い、甲府城代佐藤駿河守殿を征《おさ》め、甲府城を乗取ろうとしているのじゃ。そこで我々新選組が、甲州鎮撫隊と名を改め、正式に幕府から任命され、駿河守殿を援《たす》け、甲府城を守る事になり、不日《ふじつ》出発する事になったのじゃが……」
 と、色浅黒く、眼小さく鋭く、口一倍大きく、少い髪を総髪に結んでいる勇は、部屋の半分以上も射込んでいる陽に、白袴、黒紋付羽織の姿を焙《あぶ》らせながら、一息に云って来たが、俄に口を噤《つぐ》んで、当惑したように総司を見た。
 総司は、背後《うしろ》に積重ねてある夜具へ体をもたせかけ、焦心《あせ》っている眼で、お力が持って来て、まだ瓶にも挿《さ》さず、縁側に置いてある椿《つばき》の花を見たり、舞込んで来た蝶《ちょう》が、欄間の扁額の縁へ止まったのを見たりしていたが、
「先生、勿論《もちろん》、私も従軍するのでしょうな。何時《いつ》出発なさるのです」
「君も行きたいだろうが、その体ではのう。……それで今度は辛抱して貰うことになっていて、それでわし[#「わし」に傍点]が説得に来たという次第なのだが……ナニ、戦《いくさ》は今度ばかりでなく、これからもいくら[#「いくら」に傍点]もあるのだし、まして今度は戦は、味方が勝つにきまっておることではあり、だから君のような素晴らしい、剣道の天才の力を藉《か》りずとも……尤《もっとも》、我々の力で、甲府城を守り通すことが出来たら、莫大《ばくだい》な恩賞にあずかるという、有難い将軍家《うえさま》のご内意はあった。私や土方は、大名に取立てられることになっている。だから君も従軍したいだろうがいや……従軍しなくとも、従来《これまで》の君の功績からすれば、矢張り一万石や二万石の大名には確になれるし、私からも推薦して、決して功を没するようなことはしない。
 ……だから今度だけは断念してくれ。……それに、従軍しなくとも、君の名は、鎮撫隊の中へ加えておくのだから」
「いえ、先生、私は体は大丈夫なのです。……いえ、私は、決して、大名になりたいの、恩賞にあずかりたいのというのではありません。……私は、ただ、腕を揮《ふる》ってみたいのです。……ですから何うぞ是非従軍を。……それに今度の相手は、随分手答えのある連中だと思いますので。……それに新選組の人数は尠《すくな》し……そうです、先生、新選組は小人数の筈です。京都にいた頃は二百人以上もありました。それが鳥羽伏見二日の戦で、四十五人となり、江戸へ帰って来た現在では、僅か十九人……」
「いやいや」
 と勇は忙しく手を振った。
「それがの、今度、松本先生のお骨折りで、隊土を募ったところ、二百人も集まって来た。いずれも誠忠な、剣道の達人ばかりだ。……それに、勝《かつ》安房守《あわのかみ》様より下渡《さげわた》された五千両の軍用金で、銃器商大島屋善十郎から、鉄砲、大砲を買取り、鎮撫隊の隊士一同、一人のこらず所持しておる、大丈夫じゃ。……そればかりでなく、駿河守殿は、生粋の佐幕派、それに、城兵も多数居る。……人数にも兵器にも事欠かぬ。……だから君は充分ここで静養して……」
「先生、私の病気など何んでもないのです」
「それが然《そ》うでない。松本先生も仰せられた……」
「良順先生が……」
「そうだ、松本良順先生が仰せられたのだ。沖田だけは、従軍させては不可《いけ》ないと」
「…………」
「松本先生には、君は、一方《ひとかた》ならないお世話になった筈だ」
「現在《ただいま》もお世話になっております」
「柳営の御殿医として、一代の名医であるばかりでなく、豪傑で、大親分の資を備えられた松本先生が、然う仰せられるのだ。君も、これには反対することは出来まい」
「はい」
 総司は黙って俯向《うつむ》いて了った。

   思出の人

 総司は、良順の介抱によって、今日|生存《いきながら》えているといってもよいのであった。はじめ総司は、他の新選組の、負傷した隊士と一緒に、横浜の、ドイツ人経営の病院に入れられて、治療させられたのであったが、良順は
「沖田は、怪我ではなくて病気なのだから」
 と云って、浅草今戸の、自分の邸へ連れて来て療治したが
「この病気(肺病)は、こんな空気の悪い、陽のあたらない下町の病室などで療治していたでは治らない」
 と云い、この千駄ヶ谷の植甚の離れへ移し、薬は、自分の所から持たせてやり、時には、良順自身診察に来たりして、親切に手を尽くしているのであった。この良順に
「甲府への従軍は不可《いけな》い」
 と云われては、総司としては、義理としても人情としても、それに反《そむ》くことは出来なかった。
 総司が、従軍を断念したのを見ると、勇は流石《さすが》に気毒そうに云った。
「その代り、わしが君の分まで、この刀で、土州の奴等や薩州の奴等を叩斬るよ」
 と云い、刀屋から、虎徹《こてつ》だと云って買わせられた、その実、宗貞の刀の柄を叩いてみせた。すると総司は却って不安そうに云った。
「しかし先生、これからの戦いは、刀では駄目でございます。火器、飛道具でなければ。……先生は、負傷しておられて、鳥羽、伏見の戦いにお出にならなかったから、お解りにならないことと思いますが、官軍の……いいえ、薩長の奴等の精鋭な大砲や小銃に撃捲《うちまく》られ、募兵は……新選組の私たちは散々な目に……」

 この夜、燈火《ともしび》の下で、総司とお力とは、しめやかに話していた。従軍を断念したからか、総司の態度は却って沈着《おちつ》き、容貌《かお》なども穏やかになっていた。
「妾《わたくし》、あなた様から、お隠匿《かくまい》していただきました晩、あなた様、眠りながら、お千代、たっしゃかえ、たっしゃでいておくれと仰有《おっしゃ》いましたが、お千代様とおっしゃるお方は?」
 と、お力は何気無さそうに訊いた。
「そんな寝言、云いましたかな」
 と総司は俄に赧《あか》い顔をしたが、
「京都にいた頃、懇意にした娘だが……町医者の娘で……」
「ただご懇意に?」
 とお力は、揶揄《やゆ》するような口調でいい、その癖、色気を含んだ眼で、怨ずるように総司を見た。
 総司は当惑したような、狼狽《ろうばい》したような表情をしたが、
「ただ懇意にとは?……勿論……いや、併《しか》し、どう云ったらよいか……どっちみち、私は、これ迄に、一人の女しか知らないので」
 お力は思わず吹出して了った。
「まあまあそのお若さで、一人しか女を。……でもお噂によれば、新選組の方々は、壬生《みぶ》におられた頃は、ずいぶんその方でも……」
「いや、それは、他の諸君は……わけても隊長の近藤殿などは……土方殿などになると、近藤殿以上で。……ただ私だけが、臆病《おくびょう》だったので……」
「これ迄に、二百人もお斬りになったというお噂のある貴郎《あなた》様が臆病……」
「いや、女にかけてはじゃ。人を斬る段になると私は強い!」
 と、総司は、グッと肩を聳《そびや》かした。痩《や》せている肩ではあったが、聳かすと、さすがに殺気が迸《ほとばし》った。
 お力はヒヤリとしたようであったが、
「お千代さんという娘さんが、その一人の女の方なのでしょうね」
「左様」
 と迂闊《うっか》り云ったが、総司は、周章てて
「いや……」
「いや?」
「矢っ張り左様じゃ」
「よっぽど可《よ》い娘さんだったんでございましょうね」
「うん」
 と、ここでも迂闊り正直に云い、又、周章てて取消そうとしたが、自棄のように大胆になり、
「初心《うぶ》で、情が濃《こま》やかで……」
「神様のようで……」
「うん。……いや……それ程でもないが……親切で……」
「そのお方、只今は?」
「切れて了った!」
 こう云った総司の声は、本当に咽《むせ》んでいた。
「切れて……まあ……でも……」
「近藤殿の命《めい》でのう」
「何時《いつ》?」
「江戸への帰途。……紀州沖で……富士山艦で、書面《ふみ》に認《したた》め……」
「左様ならって……」
「うん」
「可哀そうに」
「大丈夫たる者が、一婦人の色香に迷ったでは、将来、大事を誤ると、近藤殿に云われたので」
「お千代様、さぞ泣いたでございましょうねえ。……いずれ、返書《かえし》で、怨言《うらみごと》を……」
「返書《へんしょ》は無い」
「まあ、……何んとも?……それでは、女の方では、あなた様が想っている程には……」
「莫迦《ばか》申せ!」
 と、総司は、眼を怒らせて呶鳴《どな》った。
「お千代はそんな女ではない! お千代は、失望して、恋いこがれて、病気になっているのじゃ!……と、わし[#「わし」に傍点]は思う。……病気になってのう」
 総司は膝へ眼を落とし、しばらくは顔を上げなかった。部屋の中は静かで、何時の間に舞込んで来たものか、母指《おやゆび》ほどの蛾《が》が行燈の周囲《まわり》を飛巡り、時々紙へあたる音が、音といえば音であった。総司は、まだ顔を上げなかった。お力は、その様子を見守りながら、(何んて初心《うぶ》な、何んて生一本な、それにしても、こんな人に、そう迄想われているお千代という娘は、どんな女であろう?……幸福《しあわせ》な!)と思った。と共に、自分の心の奥へ、嫉妬《ねたましさ》の情の起こるのを、何うすることも出来なかった。

   親友は討ったが

「あのう」
 と、ややあってからお力は、探るような声で云った。
「細木永之丞というお方は、どういうお方なのでございますの?」
「ナニ、細木永之丞※[#感嘆符疑問符、1-8-78] どうしてそのような名をご存知か」
 と、総司は、さも驚いたように云った。
「矢張りお眠《よ》ったままで『済まん、細木永之丞君、命令だったからじゃ、済まん』と、仰有《おっしゃ》ったじゃアありませんか」
「ふうん」
 と総司は、いよいよ驚いたように、
「さようなこと申しましたかな。ふうん。……いや、心に蟠《わだかまり》となっていることは、つい眠った時などに出るものと見えますのう。……細木永之丞というのは、わし[#「わし」に傍点]の親友でな、同じ新選組の隊士なのじゃが、故あって、わしが討取った男じゃ」
「まア、どうして?……ご親友の上に、同じ新選組の同士を?」
「近藤殿の命令だったので……」
「近藤様にしてからが、同士の方を……」
「いや、規律に反《そむ》けば、同士であろうと隊士であろうと、斬って捨てねば……細木ばかりでなく、同じ隊士でも、幾人となく斬られたものじゃ。……近藤殿の以前の隊長、芹沢鴨殿でさえ――尤もこれは、何者に殺されたか不明ということにはなっているが、真実《まこと》は、土方殿が、近藤先生の命令によって、壬生の営所で、深夜寝首を掻《か》かれたくらいで。……だがわしは細木を斬るのは厭だったよ。永之丞は可《よ》い男でのう、気象もさっぱりしていたし、美男だったし……尤も夫れだから女に愛されて、その為め再々規律に反き、池田屋斬込みの大事の際にも、とうとう参加しなかった。これが斬られる原因なのだが、その上に彼が溺《おぼ》れていた女が、どうやら敵方――つまり、長州の隠密らしいというので……」
「まあ、隠密?」
「うむ。それで、味方の動静が敵方に筒抜けになっては堪らぬと、近藤殿が涙を呑んで、わし[#「わし」に傍点]に斬ってくれというのだ。しかし私は『細木を斬ることばかりは出来ません。あれは私の親友ですから。……もし何うしても斬ると仰せられるなら、余人にお申付け下さい』と拒絶《ことわっ》たのじゃ。すると近藤殿は『親友に斬られて死んでこそ、細木も成仏出来るであろうから』と仰せられるのじゃ。そこで私も観念し、一夜、彼を、加茂河原へ連出し、先ず事情を話し『その女と別れろ、別れさえしたら、私が何んとか近藤殿にとりなし[#「とりなし」に傍点]て……』と云ったところ……」
 ここで総司は眼をしばたたいた。
 お力は唾《つば》を飲んだが、
「何と仰有いました?」
「別れられないと云うのだ」
「…………」
「そこで私《わし》は、では逃げてくれ、逃げて江戸へなり何処へなり行って、姿をかくしてくれと云うと、俺を卑怯者《ひきょうもの》にするのかと云うのだ。……もう為方《しかた》がないから、では此処で腹を切ってくれ、私が介錯《かいしゃく》するからと云うと、それでは、近藤殿から、斬れと云われたお前の役目が立つまいと云うのだ。私は当惑して、では何うしたらよいのかというと、お前と斬合ったでは、私に勝目は無いし、斬合おうとも思わない、私は向うを向いて歩いて行くから、背後《うしろ》から斬ってくれと云い、ズンズン歩いて行くのだ。月の光で、白く見える河原をなア。背後《うしろ》から何んと声をかけても、もう返辞をしないのだ。……そこで私は、……背後から只一刀で……首を!……綺麗に討《う》たれてくれたよ」
 息を詰めて聞いていたお力は(それじゃア永之丞さんは、話合いの上でお討たれなされたのか。……では総司さんを怨《うら》むことはないわねえ)と思いながらも、矢張り涙は流れた。その涙を隠そうとして、窓の方を向いた。すると、その窓へ、小石のあたる音がした。お力はハッとしたようであったが、
「蒸し蒸しするのね」
 と独言のように云い、立って窓際へ行き、窓を開けた。暈《かさ》をかむった月に照らされて、身長《せい》の高い肩幅の広い男が、窓の外に立っていた。
 お力は窃《そ》っと首を振ってみせ、すぐに窓を閉め、元の座へ帰って来た。
 総司は俯向いていた。自分が斬った、不幸な友のことを追想しているらしい。
「沖田様」
 とお力は、総司のそういう様子を見詰めながら、
「妾《わたし》を何う覚召して?」
「何うとは?」
「嫌いだとか、好きだとか?」
「怖い」
「怖い? まあ」
「親切な人とは思うが……何んとなく怖い!……それにわし[#「わし」に傍点]にはお千代というものがあるのだから……」
「お切れなされたくせに」
「強いられたからじゃ。……心では……」
「心では?」
「女房と思っておる。……それでもうお力殿には今後……」
「来ないように」
「済まぬが……」
「妾は参ります。……貴郎《あなた》様はお嫌いなさいましても、妾は、あなた様が好きでございますから。……それがお力という女の性《しょう》でございます」
(おや?)とお力は聞耳を立てた。
 池へ落ちている滝の音が、その音色を変えたからであった。
(誰かが滝に打たれているようだよ)
 然《そ》う、単調に聞えていた水音が、時々滞って聞えるのであった。
(可笑しいねえ)

   良人《おっと》を慕って

 お力が、総司の為の薬を貰って、浅草今戸の、松本良順の邸《やしき》を出たのは、それから数日後の、午後のことであった。門の外に、八重桜の老木があって、ふっくりとした総《ふさ》のような花を揉付《もみつ》けるようにつけていた。お力がその下まで来た時、
「松本良順先生のお邸はこちらでございましょうか」
 という、女の声が聞えた。見れば、自分の前に、旅姿の娘が立っていた。
「左様で」
 とお力は答えた。
「新選組の方々が、こちらさまに、お居でと承りましたが……」
「はい、近藤様や土方様や、新選組の方々が、最近までこちらで療治をお受けになっておられましたが、先日、皆様打揃って甲府の方へ――甲州鎮撫隊となられて、ご出立なさいました」
「まア、甲府の方へ! それでは、沖田様も! 沖田総司様も※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
 悲痛といってもよいような、然ういう娘の声を聞いて、お力は改めて、相手をつくづくと見た、娘は十八九で、面長の富士額の初々しい顔の持主で、長旅でもつづけて来たのか、甲斐絹《かいき》の脚袢には、塵埃《ほこり》が滲《にじ》んでいた。
「失礼ですが」
 とお力は云った。
「あのう、お前様は?」
「はい、千代と申す者でございますが、京都から沖田様を訪ねて……」
「まあ、お前様がお千代さん……」
「ご存知で?」
「いえ」
 と、あわてて打消したが、お力は(これが、総司さんが、眠った間も忘れないお千代という女なのか。……総司さんは、お千代は、恋患いで寝込んでいるだろうと仰有ったが、寝込んでいるどころか、東海道の長の道中を、清姫より執念深く追って来たよ。……どっちもどっちだねえ)と思うと同時に、ムラムラと嫉妬《しっと》の情が湧いて来た。それで、
「はい、沖田様も新選組の隊士、それも助勤というご身分、近藤様などとご一緒に、甲府へご出発なさいましたとも」
 と云い切ると、お千代を掻遣《かいや》るようにして歩き出した。しかし五六間歩いた時、気になるので、振返って見た。お千代が、放心したような姿で、尚、松本家の門前に佇んでいるのが見えた。(態《ざま》ア見やがれ)と呟きながら、お力は歩き出した。でも矢張り気になるので、又振返って見た。一時に痩せたように見えるお千代が、松本家から離れて、向うへトボトボと歩いて行く姿が見えた。(京都へ帰るなり、甲府へ追って行くなり、勝手にしやがれ。総司さんは妾一人の手で、介抱し通すってことさ)と呟くと、足早に歩き出した。
 浅草から千駄ヶ谷までは遠く、お力が、植甚の家付近へ迄帰って来た時には、夜になっていた。
「お力」
 と呼びながら、身長《せい》の高い肩幅の広い男が、大|榎《えのき》の裾《すそ》の、藪《やぶ》の蔭から、ノッソリと現われて来た。その声で解ったと見え、
「嘉十《かじゅう》さんかえ」
 と云ってお力は足を止めた。
「うん。……お力、何を愚図愚図しているのだ」
「あせるもんじゃアないよ」
「ゆっくり過ぎらア」
「それで窓へ石なんか投げたんだね」
「悪いか」
「物には順序ってものがあるよ」
「惚れるにもか」
「何んだって!」
「お前の身分は何なんだい」
「長州の桂小五郎様に頼まれた……」
「隠密だろう」
「あい」
「そこで細木永之丞へ取入った」
「新選組の奴等の様子さぐるためにさ」
「ところが永之丞にオッ惚れやがった」
「莫迦お云い。……彼奴《あいつ》の口から新選組の内情《うちわ》聞いたばかりさ……池田屋の斬込へも、彼奴だけは行かせなかったよ」
「手柄なものか。……彼奴の方でも手前《てめえ》にオッ惚れて、ウダウダしていて、機会を誤ったというだけさ」
「そのため永之丞さん斬られたじゃないか。……新選組の奴等を一人でも減らしたなア妾の手柄さ」
「ところが手前、今度は永之丞を斬った沖田総司を殺すんだと云い出した」
「池田屋で人一倍長州のお武士《さむらい》さんを斬った総司、こいつを討ったら百両の褒美だと……」
「懸賞の金を目宛てにして、総司を討ちにかかったというのかい。体裁のいいことを云うな。そいつア俺の云うことだ。手前は、可愛い永之丞の敵を討とうと、それで総司を討ちにかかったのさ。……そんなことは何うでもいいとして、その手前が何処がよくて惚れたのか、総司に惚れて、討つは愚《おろか》、介抱にかかっているからにゃア、埒《らち》があかねえ。……お力、総司は俺が今夜斬るぜ!」
 と、佐幕方の、目明《めあかし》文吉に対抗させるため、長州藩が利用している目明の、縄手の嘉十郎は云って、植甚の方へ歩きかけた。

   女夜叉の本性

(この男ならやりかねない)
 こう思ったお力は、嘉十郎の袂を掴んだ。
(剣技《わざ》にかけちゃア、新選組一だといわれている沖田さんだけれど、あの病気で衰弱している体で、嘉十郎に斬りかけられては敵《かな》う筈はない。……総司さんを討たれてなるものか!……いっそ妾が此奴《こいつ》を!)
 と、肚《はら》を決め、
「嘉十郎さん、まア待っておくれ、お前が然うまで云うなら妾も決心して、今夜沖田さんの息の音とめるよ。……お前さんにしてからが然うじゃアないか、あの晩、二人でここへ来てさ、通りかかった脱走武士たちへ喧嘩を売りつけ、一人を叩っ斬ったのを見て、妾は植甚の庭へ駆込み、喧嘩の側杖から避けたと云って、沖田さんに隠匿《かくま》われ、そいつを縁に沖田さんへ接近《ちかづ》いたのも、お前と最初からの相談ずく、そこ迄二人で仕組んで来たものを、今になってお前さんに沖田さんを殺され、功を奪われたんじゃア、妾にしては立瀬が無く、お前さんにしたって、後口が悪かろう。……ねえ、沖田さんを仕止めるの、妾に譲っておくれよ。そうして懸賞の金は山分けにしようじゃアないか」
 憎くない婦《おんな》からのこの仕向けであった。四十五歳の、分別のある嘉十郎ではあったが、
「そりゃアお前がその気なら……」
「委せておくれかえ。それじゃア妾は今夜沖田さんを、こんな塩梅《あんばい》に……」
 と、右の手を懐中《ふところ》へ入れ、いつも持っている匕首《あいくち》を抜き
「グッと一突きに!」
 と嘉十郎の脾腹《ひばら》へ突込み……
「わッ」
「殺すのさ!」
 と、嘉十郎を蹴仆《けたお》し、地面をノタウツのを足で抑え、止《とど》めを刺し、
「厭だよ、血だらけになったよ。これじゃア総司さんの側へ行けやアしない」
 と呟いたが、庭へ駆込むと、池の端へ行き、手足を洗出した。途端に滝の中から腕が現われ、グッとお力の腕を掴み、
「矢張りお前も然うだったのか。お力坊、眼が高いなア」
 と、水を分けて、留吉が、姿を現わした。
「只者じゃアねえと思ったが、矢っ張り滝壺の中の小判を狙っていたのかい。俺も然うさ。植甚へ住込んだのも、植甚は大金持、そればかりでなく、徳川様のお歴々にご贔屓《ひいき》を受け、松本良順なんていう御殿医にまで、お引立てを受けていて、然ういう人達の金を預って隠しているという噂《うわさ》、ようしきた、そいつを盗み出してやろうとの目算からだったが、植甚の爺《おやじ》、うまい所へ隠したものよ、滝のかかっている岩組の背後《うしろ》を洞《ほこら》にこしらえ、そこへ隠して置くんだからなア。これじゃア脱走武士が徴発に来ようと、薩長の奴等が江戸へ征込《せめこ》んで来て、焼打ちにかけようと安全だ。……と思っている植甚の鼻をあかせ、俺アこれ迄にちょいちょい此処へ潜込んで、今日までに千両近い小判を揚げたからにゃア、俺の方が上手だろう――と思っているとお前が現われた。偉《えれ》え! 眼が高《たけ》え! 小判の隠場ア此処と眼をつけたんだからなア。…よし来た、そうなりゃアお互い相棒《あいづれ》で行こう。……が相棒になるからにゃア……」
 お力は、(然うだったのかい。滝の背後に金が隠してあるのかい、妾が、体の血粘《ちのり》洗おうと来たのを、そんなように独合点しやがったのかい。……然うと聞いちゃ、まんざら慾の無い妾じゃアなし……ようし、その意《つもり》で。……)
 例の匕首でグッと!
「ウ、ウ、ウ――」
 動かなくなった留吉の体を、池の中へ転がし込んだが、
(人二人殺したからにゃア、いくら何んでも此処にはいられない。行きがけの駄賃に、……云うことを諾《き》かない総司さんを……そうして、矢っ張り懸賞の金にありつこうよ)と、
 離座敷の方へ小走って行き、雨戸を窃《そ》っと開け、座敷へ這入った。総司は、やや健康を恢復《かいふく》し、艶《つや》も出た美貌を行燈に照らし、子供のように無邪気に眠っていた。
 お力は、行燈の灯を吹消した。

   片がついた

 鎮撫隊より一日早く、甲府城まで這入った、板垣退助の率いた東山道軍は、勝沼まで来ていた近藤勇たちの、甲州鎮撫隊を、大砲や小銃で攻撃し、笹子《ささご》峠を越えて逃げる隊土たちを追撃した。三月六日のことである。
 沖田総司を尋ねて、ここまで来たお千代は、峠の道側《みちばた》の、草むらの中に立って、呆然《ぼうぜん》としていた。あちこちから、鉄砲の音や、鬨《とき》の声が聞え、谷や山の斜面や、林の中から、煙硝の煙が立昇ったり、眼前の木立の幹や葉へ、小銃の弾があたったりしていた。そうして、鎮撫隊士が、逃下る姿が見えた。隊士たちは、口々に云っていた。
「敵《かな》わん、飛道具には敵わん!――精鋭の飛道具には」と。――
 一人の隊士が肩に負傷し、よろめきよろめき逃げて来た。お千代は走寄り、取縋《とりすが》るようにして訊いた。
「沖田総司様は、……討死にしましたか?……それとも……」
「ナニ、沖田総司?」
 と、その隊士は、不審そうにお千代を見たが、
「いや、沖田総司なら……」
 しかしその時、流弾が、隊士の胸を貫いた。隊士は斃《たお》れた。お千代は仰天し、走寄って介抱したが、もう絶命《ことき》れていた。
(妾ア何処までも総司様の生死を確める)
 と、お千代は、疲労と不安とで、今にも気絶しそうな心持の中で思った。
(そうして、総司様の前で、総司様から下された、縁切りのお手紙をズタズタに裂いて、妾は云ってあげる「いいえ、妾は、総司様の女房でございます」って)
 そのお千代が、下総流山の、近藤勇たちの屯所の門前へ姿を現わしたのは、四月三日のことであった。近藤勇や土方歳三などが、脱走兵鎮撫の命を受け、幕府から、この地へ派遣されたと聞き、恋人の総司もその中にいるものと思い、訪ねて来たのであった。しばらく門前に躊躇《ちゅうちょ》していると、門内から、二人の供を従え騎馬で、近藤勇が現われた。
「近藤様!」
 と叫んで、お千代は、馬の前へ走出し、
「沖田様は※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「お千代か!」
 と勇は、さもさも驚いたように云った。
「沖田か、沖田は江戸に居る。千駄ヶ谷の植木屋植甚という者の離座敷で養生いたしておる。……詳しいことも聞きたし、話しもしたいが、わしは是から、越ヶ谷《こしがや》の、官軍の屯所へ呼ばれて出頭するので、ゆっくり話しておれぬ。……わしの帰るまで、屯所内《ここ》で休んでおるがよい。知己《しりあい》の土方が居る」
 と云いすてると、馬を進めた。

 四月十一日、江戸城が開き、官軍が続々ご府内へ入込んで来た頃、沖田総司は、臨終の床に在った。枕元には、植甚や、その家族の者が並んで、静まり返っていた。過ぐる晩、お力がやって来て切りかかったのを防いだ時、大咯血をし、それが基で、総司の病気は頓《とみ》に悪化したのであった。近藤勇が、官軍の手で、越ヶ谷から板橋に送られ、其処《そこ》で斬られたということなども、総司の死を、精神的に早めたのでもあった。不幸なお千代が、やっと植甚の家を探しあてて、訪ねて来たのは、この日であった。植甚の人達は、以前からお千代のことは聞いて知っていた。それと知ると、お千代を直ぐに総司の枕元へ進《つ》れて来た。
「沖田様!」
 とお千代は、もう眼も見えないらしい、総司に取縋り、耳に口を寄せて呼んだ。
「お千代でございます! 京都から訪ねて参った、お前の女房、お千代でございます!」
 その声が心に通ったとみえて、総司の視線がお千代の顔へ止まった。
「お千代!……わしの女房!……然うだ!」
 しかしその顔に俄に憎悪の表情が浮かび、
「おのれ、お力イ――ッ」
 と云った。それが最後の言葉であった。

 翌月の十五日に始まったのが、上野の彰義隊の戦いであった。徳川幕府二百六十年の恩誼《おんぎ》に報いようと、旗本の士が、官軍に抗しての戦いで、順逆の道には背いた行為ではあったが、義理人情から云えば、悲しい理の戦いでもあった。しかし、大勢《たいせい》は予め知れていて、彰義隊の敗れることには疑い無かった。江戸の人々は、一日も早く、世間が平和になるようにと希望《のぞ》みながら、家根へ上ったり、門口に立ったりして、上野の方を眺めていた。長州の兵は、根津と谷中《やなか》から、上野の背面を攻めていた。その戦いぶりを見ようとして、権現様側に集まっていた群集の中に、お力もいた。髪を綺麗に結び、新しい衣裳《いしょう》を着ていた。沖田総司を殺しそこなった晩、これも行きがけの駄賃に、池の沖へ潜込み、盗み出した幾十枚かの小判が、まだ身に付いているらしく、様子が長閑《のどか》そうであった。島原の太夫《たゆう》から宮川町の女郎《おやま》、それから、隠密稼ぎまでしたという、本能そのもののようなこの女は、もう今では、細木永之丞のことも沖田総司のことも念頭に無いらしく、群集の中の若い男へ、万遍なく秋波を送っていた。しかしその時、背後から
「こいつがお力だ」
 という聞覚えのある声がしたので、驚いて振返って見た。植甚が群集の中に立って睨んでいた。
 あッと思った時、一人の娘が、植甚の横手から、自分の方へ走寄って来た。
「沖田さんの敵《かたき》!……妾《わたし》の怨み!」
「お千代!」
 お力は、匕首を、自分の鳩尾《みずおち》へ刺通したお千代の手を両手で握ったが、
「ああ……お前さんに殺されるなら……妾にゃア……怨みは云えないねえ」
 と云い、ガックリとなった。
 上野山内から、伽藍《がらん》の焼落ちる黒煙が見えた。幕府という古い制度の、最後の堡塁《とりで》であった彰義隊の本営が、壊滅される印の黒煙でもあった。
「片がついた」
 と植甚は、お千代を介抱しながら、黒煙を仰ぎ、感慨深そうに云った。
(何も彼も是《これ》で片がついた)

底本:「新選組興亡録」角川文庫、角川書店
   2003(平成15)年10月25日初版発行
底本の親本:「新選組傑作コレクション・興亡の巻」河出書房新社
   1990(平成2)年5月
初出:「講談倶楽部」大日本雄弁会講談社
   1938(昭和13)年7月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:大久保ゆう
校正:noriko saito
2004年8月11日作成
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国枝史郎

五右衛門と新左—– 国枝史郎

     一

「大分世の中が静かになったな」
 こう秀吉が徳善院へ云った。
「殿下のご威光でございます」
 徳善院、ゴマを磨り出した。
「ところが俺は退屈でな」
「こまったものでございます」
「趣向は無いか、変った趣向は?」
「美人でもお集めになられては?」
「少々飽きたよ、実の所」
「それに淀殿がおわすので」顔色を見い見いニタリとした。
「うん淀か、可愛い奴さ」釣り込まれて秀吉もニタリとした。
 後庭で鶴の声がした。
 色づいた楓の病葉《わくらば》が、泉水の中へ散ったらしい。
 素晴らしい上天気の秋日和であった。
「趣向は無いかな、変った趣向は?」
 秀吉は駄々をこね出した。
「さあ」
 と云ったが徳善院、たいして可い智慧も出ないらしい。
 トホンとして坐わり込んでいる。
「ほい」
 と秀吉は手を拍った。「あるぞあるぞ珍趣向が!」
「ぜひお聞かせを。なんでございますな?」
「茶ノ湯をやろう、大茶ノ湯を」
「なんだつまらない[#「つまらない」に傍点]、そんな事か」心の中では毒吐いたが、どうして表面は大恭悦で、ポンと額まで叩いたものである。
「いかさま近来のご趣向で」
「場所は北野、百座の茶ノ湯」
「さすがは殿下、大がかりのことで」
 合槌は打ったが徳善院、腹の中では舌を出した。「へへ腹でも下さないがいい」
「ふれ[#「ふれ」に傍点]を廻わせ! ふれを廻わせ!」
 秀吉は例の性急であった。
「大供《おおども》が悪戯《わるさ》をやり出したわい。さあ忙《せわ》しいぞ忙しいぞ!」徳善院は退出した。

        ×

 石田治部少輔、益田右衛門尉、この二人が奉行となった。
「さる程に両人承て人々をえらび、茶ノ湯を心掛けたる方へぞ触れられける。大名小名是を承はり給ひてこは珍敷々々面白きご興行かな、いかにとしてか殿下様へ、お茶をば申べき、望ても叶べき事ならず、かゝる御意こそ有難けれと、右近の馬場の東西南北に、おの/\屋敷割を請取て、数奇屋を立てられける」
 こうその頃の文献にあるが、これはとんでもない[#「とんでもない」に傍点]嘘なのであった。みんなは迷惑をしたのであった。
「さて、和漢の珍器、古今の名匠の墨跡[#「墨蹟」は底本では「黒蹟」]、家々の重宝共此時にあらずばいつを期すべきと、我も/\と底を点じて出されける」
 これは何うやら本当らしい。
 秀吉の御感を蒙って、高値お買上げの栄を得ようか、お目に止まったに付け込んで、献上して知行増しを受けようかと、そういうさもしい[#「さもしい」に傍点]心から、飾り立て並べたものらしい。
「さる程に時移りて、已に明日にもなりしかば、秀吉公仰せられけるは、一日に百座の会なれば、天あけてはいかがかとて、寅の一天よりわたらせ給ふべきよし、仰出されけり。お相伴には、玄以法印、法橋紹巴をめされける」
 これも将しく其の通りであった。
「大小名のかこひの前なる蝋燭は[#「蝋燭は」は底本では「臘燭は」]、たゞ万燈に異ならず、百座の会なれば、いかにも短座に見えにけり」
 これにも相違は無かったらしい。
「かくて時刻も移りければ、やう/\百座成就し給ひて、還御をよびたまふ。秀吉公西をごらんありければ、すこし引き退きて萱の庵見えにけり」
「玄以玄以」と秀吉は呼んだ。「鳥渡風流だな。何者か?」
「一興ある茶湯者《すきしゃ》でございます。堺の住人とか申しますことで」
「おおそうか、寄って見よう」
「竹柱にして、真柴垣を外に少しかこひて、土間をいかにも/\美しく平《なら》させ、無双の蘆屋釜を自在にかけ、雲脚をばこしらへて、茶椀水差等をば、いかにも下直なる荒焼をぞもとめける。其外何にても新きを本意とせり。我身はあらき布かたびらを渋染にかへしたるをば着、ほそ繩を帯にして、云々」
 これが庵の有様であり又亭主の風貌であった。
 亭主は土に額をつけ、かしこまって謹しんでいた。

     

「作意の働き面白いな。手前を見たい。一服立てろ」
 秀吉は端座した。
 亭主、恭しく一揖し、雲脚を立てて参らせた。
「これは、よく気が付いた。百座の茶、湯で満腹だ。かるがると香煎を出したのは、言語道断云うばかりもない。……名は何んというな、其方《そち》の名は?」
「無徳道人石川五右衛門。京師の浪人にございます」
「おおそうか、見覚え置く」
 で、秀吉は帰館した。

        ×

 伏見城内奥御殿。――
 秀吉は飽気に取られていた。
 淀君は今にも泣き出しそうであった。
 小供の秀頼は這い廻わっていた。
 侍女達はウロウロまごついていた。
 一体何事が起こったのであろう?
 大閤殿下の衣裳の襟が小柄で縫われていたのであった。
 驚き恐れるのは当然であった。衣裳の襟を縫ったのである。胸を刺そうと思ったら、胸を刺すことさえ出来たろう。或は胸を刺そうとして、故意《わざ》と襟を縫ったのかも知れない。
「謀反人がいる! 謀反人がいる!」
 表も裏も騒ぎ出した。
 けっきょく石川五右衛門という、京師の浪人に疑がかかった。
「それ召捕れ」ということになった。
 秀吉の威光で探がすことであった。苦もなく五右衛門は召捕られた。
 とりあえず長束正家が、取調役を命ぜられた。
「衣裳の襟を縫いましたは、いかにも私でございます。あまり縫いよく見えましたので。……別に他意とてはございません」
 これが五右衛門の申状であった。
「あまり縫いよく見えたというか? ふん」
 と秀吉は小首をかしげた。
「その者直々俺が調べる」
 秀吉は正家にこう云った。
 そこで五右衛門は破格を以て秀吉の御前へ引き出された。
「俺の体に隙があったと、こうお前は云うのだな?」
「御意の通りにございます」五右衛門は少しも臆せなかった。
「で、どんな時、隙があった?」
「ご退座という其の瞬間、お体が斜になられました時」
「うむ、その時隙が見えたか?」
「はい、左様でございます」
 秀吉は鳥渡考えた。
「よく申した、味のある言葉だ。斜? 斜? 側面だな?……いや全く世の中には側面ばかり狙う奴がある。とりわけ徳川内府などはな。……どうだ五右衛門、俺に仕えぬか」
「これは何うも恐れ入ったことで」
「得手は何んだ? お前の得手は?」
「はい、些少《いささか》、伊賀流の忍術《しのび》を……」
「ほほう忍術か、これは面白い。細作として使ってやろう。……これ、此の者に屋敷を取らせろ」
 こんな塩梅に五右衛門は、ズルズルと秀吉の家来になった。

        ×

「居るかえ」
 と云い乍ら這入って来たのは、お伽衆の曽呂利新左衛門であった。
「やあ新左、まず這入れ」
 五右衛門はポンポンと座を払った。
 二人は非常な親友なのであった。
 その対照が面白い。
 新左衛門は好男子、水の垂れるような美男であった。
 それに反して五右衛門は、忍術家だけに矮身で、猪首の皺だらけの醜男であった。
 新左衛門は町人出、これに反して五右衛門は、北面の武士の後胤であった。
 一人は陽気なお伽衆、然るに、一方は陰険な細作係というのであった。
 が、二人には一致点もあった。
「世の中が莫迦に見えて仕方が無い」――と云うのが即ち夫れであった。
 そうして夫れが二人の者を、ひどく仲宜くさせたのであった。
「五右衛門」
 と新左はニヤニヤしながら「俺は滅法儲けたぜ」
「お前のことだ、儲けもしようさ」五右衛門は茶釜を引き寄せた。
「まあ聞くがいい、耳を嗅いだのさ」
「え、なんだって、耳を嗅いだ? なぜそんなことをしたんだい?」五右衛門も是れには驚いたらしい。
「手段《て》だよ、手段《て》だよ、金儲けのな」

     

「で、誰の耳を嗅いだんだ[#「嗅いだんだ」は底本では「嗅いたんだ」]?」
「殿下の耳を、云う迄もねえ」
「へえ、それで金儲けか?」
「加藤、黒田、浅野、生駒、そいつらの顔を睨め乍ら、殿下の耳を嗅いだやつさ。すると早速賄賂が来た。告口されたと思ったらしい。尤もそいつ[#「そいつ」に傍点]が付目なのだが」
「アッハハハ成程な。お前らしい遣口だ。人生《ひとのよ》の機微も窺われる。……それはそうとオイ新左、お前この釜に見覚えはないか?」
「どれ」
 と云って見遣ったが「アッこいつア楢柴だ!」
「殿下ご秘蔵の楢柴よ」
「どうしてお前持ってるのだ?」新左衛門は仰天した。
「どうするものか、借りて来たのさ。無断拝借というやつよ」
「それじゃお前、泥棒じゃアないか」
「なぜ悪い、可いじゃないか。どうせ無駄に遊んでいる釜だ。二、三日借りて立ててから、こっそり返えしたら、わかりっこはない」
「そんな勝手が出来るものかな」新左衛門は感心した。「つまり何んだ、忍術だな。……忍術って本当に可いものだな」
「そうさ、お前の頓智ぐらいな」
「なんだ、莫迦な、面白くもねえ」厭な顔をしたものである。
「おい五右衛門」と新左衛門は云った。「秘伝は何んだ、忍術の秘伝は? 思うに隙を狙うのだろう?」
「隙を狙うには相違無いさ。が、尋常の隙では無い。……用心から洩れる隙なのだ。固めから崩れる隙なのだ。開けっ放しの人間には、仲々忍術は応用出来ない」
「ははあ然うか、これは驚いた。頓智のコツとそっくり[#「そっくり」に傍点]だ。……頓智とは弱点を突くことさ。用心堅固の奴に限って沢山弱点を持っている。その弱点をギシと握り、チョイチョイ周囲《まわり》をつっ[#「つっ」に傍点]突くのさ。……まとも[#「まとも」に傍点]に突くと皮肉になる。皮肉になると叱られる。そこで軽くつっ[#「つっ」に傍点]突くのさ。……そうだ或る時こんなことがあった。『余の顔は猿に似ているそうだ。どうだ、ほんとかな、似ているかな?』こんなことを殿下が仰せられた。列座の面々一言も無い。こいつァ何うにも答えられない筈さ。事実猿には似ているのだが、相手が殿下だ、そうは云えない。で、いつ迄も無言の行よ。そこで俺が云ったものさ。『いえいえ然うではございません。つまり猿の顔なるものが、殿下に似ているのでございます』とな。すると大将大喜びだ。早速拝領と来たものさ。アッハハハこの呼吸だよ」
「いや面白い、そうなくてはならない」五右衛門は感心したらしい。
 釜の湯がシンシンと音を立てた。
 早咲の桜がサラサラと散った。
 どこかで鶯の声がした。
 将に閑室余暇ありであった。

        ×

「お前は飛行出来るかな?」
 或る時秀吉が五右衛門に訊いた。
「自由自在でございます」
 これが五右衛門の返辞であった。
「俺を連れて飛べるかな?」
「いと易いことでございます」
「都は祇園会で賑わっているそうだ。ひとつ其奴《そいつ》を見せてくれ」
「かしこまりましてございます」
 五右衛門はこう云うと懐中から、鳶の羽根を取り出した。
「いざお召し下さいますよう」
 それから後の光景は、こう古文書に記されてある。
「……雲の原へとぞ上りける。遙の下を見給へば、蒼海まん/\として、魂をひやせり。我にもあらぬ心地にて、なにと成りゆくやらんと覚しにける。かくて尽きぬとおもう時に、目をおきて見給へば、ほどなく大山に立りける杉の上にぞ落着ける。殿下こゝはいづくの国、いかなる所ぞと宣まへば、是こそ都の西山、愛宕山と申処にて候、祇園会もいまだ始まらず候間、いま暫|爰《ここ》におはしまして、ご休息有べし、さりながら、何にても食事の望に候はんまゝ、是にしばしまたせ給へ、とゝのへてきたり候はんとて、つゐ立ちけるとおもへば、くれに[#「くれに」に傍点]見えざりけり。とかくする中に、五右衛門はや帰りて、いざ/″\殿下まゐり候へとて、いかにもきらびやかなる器物に、好味をつくしける美膳をぞすへにける。殿下御覧じて、これは早速にとゝのふものかなとて、かたのごとく食したまひける。そのうち珍酒を振舞候はんとて、とり/″\の名酒あまたよせて、すゝめにける。とかくして時も移る程に、はや祇園会も初まる時分に候、いざ/″\御供仕らんとて、又件の鳶の羽に打乗て、虚空をさして飛けるが、刹那がうちに、祇園の廊門のうへにぞ落着ける、まこと神事の最中なれば、都鄙の貴賤上下、東西南北は充満して、人のたちこむこと家々に限りなくぞ見えにけり。五右衛門申されけるは、むかふへ来る武士どもを見給へ、身長に及ぶ大太刀をさして、張肘にて、大路せばしと多勢ありく事の面憎さよ、殿下もつれ/″\におはしまさんに、ちと喧嘩をさせて、賑にひらめかせ、見物せんとて、棟の上へ生ひたる苔を、すこしづつ摘み、ばり/″\と投ければ、御辺は卒爾を、人にしかけるものかなといふ中に、又飛礫を雨のごとくに打ければ、総見物ども入乱て、このうちに馬鹿者こそ有遁すまじとて、太刀かたな引ぬきて、爰に一村かしこひに一むすび、五人三人づつ渡しあひて、しのぎを削り、うち物よりも火焔を出す。女童是を見て、四方へばつと逃まどふ。あれ/\殿下御覧ぜよ。なによりも面白き慰にて候はぬかと云ひければ、殿下のたまひけるは、さのみは人を苦めて、罪造りて何かせん、はや/\やめ候へと宣へば、さあらば喧嘩をやむべしとて、西の方を二三度まねきければ、見物の人々も、喧嘩をいたす輩も、八方へむら/\とぞ逃たりけり。かくて時刻も移りて、祇園会の山鉾、はやしたてゝ渡しけり。五右衛門こゝは、所間遠にて、おもしろからず、よき所にて見せ参らせ候はんとて、四条の町の華麗なる家にともなひけり。さて何処よりとりて来たりけん。杉重角折、すはまの台など、あまた殿下にすゝめけり。かくて山鉾もこと/″\く通り過ければ、今は見るべきものゝ無ければ、いざ/″\故郷へ帰らんとて、また鳶の羽にうちのせて、其日の六つはじめに、伏見にぞ帰りける。帰館して後にぞ、殿下は夢のさめたる心地はしつれとぞ、宣ひけると語り給へば、五右衛門首尾を施ける」

     

 だが此の事あって以来、秀吉は五右衛門をうとうとしく[#「うとうとしく」に傍点]した。
「恐ろしい奴だ」と思ったからであった。
 自然それが五右衛門にも解り、五右衛門も秀吉を疎むようになった。
 遂々《とうとう》或る日瓢然と、伏見の城を立ち去った。
 剽盗《せっとう》に成ったのは夫れからである。
 五右衛門が伏見から去ったのを、誰にもまして失望したのは、親友の曽呂利新左衛門であった。
 彼は怏々として楽しまなかった。
「面白くないな、全く面白くない。殿下も腹が小さ過ぎる。五右衛門ぐらいを使え無いとは。……俺もお暇しようかしら。考えて見れば俺なんてものは、体のいい貴顕の※[#「封/帛」、第4水準2-8-92]間というものだ。男子生れて※[#「封/帛」、第4水準2-8-92]間となる! どうも威張れた義理じゃ無い」
 こういう考えが浮かんで以来《から》、軽妙な頓智が出なくなった。
「俺は決して幇間では無い。俺はこれでも諷刺家なのだ。世の所謂る成上者が、金力と権力を真向にかざし、我儘三昧をやらかすのを、俺は俺の舌の先で、嘲弄し揶揄するのだ。例えば或る時こんなことがあった。そうだ聚楽第の落成した時だ、饗応の砌、忌言葉として、火という言葉を云わぬよう、殿下からの命令だった。が俺は考えた。言葉を忌んで何んになる。油断から火事は起こるのだ。言葉から火事は起こりはしない。土台俺には此の聚楽が、不愉快に見えて仕方が無い。構うものか逆手を使って、あべこべに殿下をとっちめ[#「とっちめ」に傍点]てやれ、で、俺は殿下へ云った。『殿下、私には槻《けやき》細工の、見事の釜がございます』『槻の釜だと、馬鹿を云え。火に掛けたら燃えるだろうに』『殿下、罰金でございます! 忌言葉を有仰ったではございませんか』『おっ成程、火と云ったな』『それそれ二度迄申されました』――で、俺は罰金を取り、京大阪伏見の住民へ、米を施してやったものだ。……俺は断じて※[#「封/帛」、第4水準2-8-92]間では無い。俺は俺の舌三寸で、成上者の我儘を、抑え付けている警世家だ! と実は今日まで信じて来たのだが、どうも今では其の自信が土台下から崩れて来た。一体全体俺の頓智が、どの位い世の為めになってるか? これが第一疑わしい。せいぜい殿下の臍繰を攫って、施米するぐらいがオチでは無いか。そうして殿下の我儘は、そのため毫も抑えられはしない。次に俺に就いて考えて見るに、警世家で候、諷刺家で候と、よく口癖には云うけれど、態度たるや然うでは無い。軽口頓智を申上げ、それで殿下がお笑いになれば、唯無性と嬉しくなる。こういう心持は何う弁解しても、傭人の卑窟心だ。操っている操っていると思い乍ら、いつか人形に操られている、可哀そうな馬鹿な人形師! どうやら其奴が俺らしい。成程なあ、こうなって見れば、浪人した五右衛門は利口だわえ」
 彼は怏々として楽しまなかった。

     

 剽盗になってからの五右衛門は、文字通り自由の人間であった。
 本能によって振舞った。
 快不快によって振舞った。
 所謂る徹底した功利主義者として、天空海濶に振舞った。
「その結果が愉快でさえあれば、動機なんか何うだって構うものか」
 これが五右衛門の心持であった。
 だが、賊としての五右衛門の、その凶悪の事蹟に就いては、既に大分の読者諸君は、講談乃至は草双紙によって、先刻承知のことと思う。で、詳しくは語るまい。
 関白秀次に仕えたのは、秀次の執事木村常陸介と、同門の誼《よしみ》があったからであった。
「おい、仕えろ」「うん、よかろう」
 こんな塩梅に簡単に、常陸介の周旋で、五右衛門は秀次へ仕えたのであった。
 当時秀次は聚楽第にいて、日夜淫酒に耽っていた。
「天下はどうせ秀頼のものだ。俺は廃嫡されるだろう。どうも浮世が面白くない。面白くない浮世なら、面白くしたら可いじゃ無いか」
 で、淫酒に耽るのであった。
 快楽主義者の五右衛門に執っては、秀次は格好な主君であった。
 素敵に愉快な日がつづいた。
 或る時常陸がこんなことを云った。
「五右衛門、一働き働いてくれ」
「よかろう、何んでも云い付けるがいい」
「伏見の城へ忍んでくれ」
「…………」
 さすがに五右衛門も黙って了った。
 よく其の意味がわかったのであった。「ははあ常陸奴この俺を、刺客にしようというのだな」
 ややありて五右衛門は「諾《うん》」と云った。「俺はいつぞや秀吉の襟へ、小柄を縫い付けたことがある。つまり、なんだ、その小柄を、今度は深目に刺すばかりだ」

        ×

 五右衛門が秀次に仕えたと聞くと、ひどく秀吉は恐怖した。
 そこで諸国へ令を出し、名誉の忍術家を召し寄せた。
 その中から十人を選抜し、「忍術《しのび》十人衆」と命名し、大奥の警護に宛てることにした。
 一条弥平、一色鬼童、これは琢磨流の忍術家であった。
 茣座小次郎、伊賀三郎、黄楊《つげ》四郎の三人は、甲賀流忍術の達人であった。
 敷島松兵衛、運運八、この二人は八擒流であった。
 小笠原民部は民部流開祖で、十人衆の頭であった。
 連《むらじ》武彦、霧小文吾、これは霧派の忍術家であった。
 由来忍術というものは、武芸十八般のその中には、這入ることの出来ないものであった。外道を以って目されていた。何時の時代に始まったものか、それもハッキリとは解っていない。日本神代史を調べて見ると、神々はすべて忍術家であって、国土を産んだり火焔を産んだり、海を干したり山を移したり、死の国へ平気で行ったりしている。
 忍術が所謂る「術」として、日本の芸界へ現われたのは、藤原時代だということである。
 戦国時代に至っては、尤も軍陣に用いられた。特に信玄が重用した、「蜈蚣衆」と称された物見武士は、大方優秀なる忍術家であった。
 信長は夫れほど重用せず、秀吉も重用しなかった、家康に至って稍用いたが、併し次第に衰微した。
 化学、物理、変装術、早走り、度胸、小太刀使い、機械体操式軽身術、機智の七種を学ぶことによって、大体その道に達することが出来た。
 彼等の日常の携帯品といえば、鍔無柄巻の小刀一本(一尺足らずのものである。)金属製の小|喞筒《ぽんぷ》(これで硫酸や硝酸を、敵の面部へ注ぎかけた。)精巧無比の発火用具(燧石の類である。)折畳式の鉄梯子、捕繩、龕燈、各種の楽器(これで或る時は虫の音を聞かせ、又或る時には鳥の音をきかせ、その他川の音風の音、蛙の音などを聞かせたものである。)そうして些少《いささか》の催眠剤など。……
 そうして詳細の地図を持ち、目欲しい城の繩張絵図、こういうものを持っていた。
「平法術」も必要であった。(即ち平日喧嘩の場合に、特に用いる術として、伊藤伴右衛門高豊が、編み出した所の武術である。)
 立合抜打と称された「抜刀術」も必要であった。
「小具足腰の廻わり」も必要であり「捕手」「柔術《やわら》」も大切であった。「強法術」は更に大事、「手裏剣」の術も要ありとされた。
「八方分身須臾転化」これが忍術家の標語であった。「居附」ということを酷く嫌った。
「欲在前忽然而在後」これでなければならなかった。
「澄む月は一つなれども更科や田毎の月は見る人のまま」
 こうでなければならないのであった。

     

 或る夜秀吉はお伽衆を集め、天狗俳諧をやっていた。

  刀売おどろいて見し刄傷沙汰
  木魚打つ南無阿弥陀仏新左殿
  南無三宝夜はふけまさる浪士なり
  京つくし野を馬曳きて吠える犬
   天が下はるばるかかる鯨売
  蚊遣立って静かに伝ふ闇夜かな
  蚊柱の物狂ふなり伏見城
  京伏見経机ありあはれなり
  辻斬の細きもとでや念仏僧
  鬼瓦長し短し具足櫃
  忍術の袈裟かぶり行くほととぎす

 こんな名吟が続出した。
 で、みんなドッと笑い、ひどく陽気で可い気持であった。
 で、秀吉が不図見ると、細川幽斎と新左衛門との間に、見慣れない人間が坐わっていた。
 黒小袖を着、黒頭巾を冠り、伊賀袴を穿き、草鞋を[#「草鞋を」は底本では「草蛙を」]をつけた、身真黒の人間であった。いつ来たものとも解らなかった。誰一人気が付いた者がなかった。
 ギョッとして秀吉は声をかけた。
「貴様は誰だ! 何者だ!」
 すると其の男は一礼したが、
「小笠原民部でございます」
 それは「忍術十人衆」の、小笠原民部一念斎であった。
「おお民部か、これはこれは」苦笑せざるを得なかった。
「何時何処から這入って来たな? いやいやお前は忍術《しのび》の達人、これは訊くだけ野暮かもしれない。……で、何か用事かな?」
「今夜、先刻より、石川五右衛門、忍び込みましてございます」
 これを聞くと一座の者は、颯とばかりに顔色を変えた。
「うむ、そうか、縛《から》め取れ!」
 秀吉は烈しく命令した。
「只今苦戦中でございます」
「ナニ苦戦? なんのことだ?」
「我等十人十方に分れ、厳重に固めて居りますものの、五右衛門は本邦無雙の術者、ジリジリ攻め込んで参ります」
「うむ」と秀吉は渋面を作った。
「そこで御注意致し度く、参上致しましてございます。……如何様な不思議がございましても、決してお声を立てませぬよう」
「声を上げては不可ないのか?」
「決して決してなりませぬ。誰人様にも申し上げます。決してお声を立てませぬよう。おお夫れから最う一つ、是非とも何か一つの事を、熱心にお考え下さいますよう。他へお心を移しませぬよう。……では、ごめん下さいますよう」
 襖を開けると退出した。
 後は一座|寂然《しん》となった。

        ×

 併し私は忍術に就いては深い研究をしていない。で、五右衛門と十人衆とが、どんな塩梅に戦ったものか、どうも遺憾乍ら[#「遺憾乍ら」は底本では「遣憾乍ら」]記すことが出来ない。いずれ素晴らしい術比べが、闇中で行われたことだろう。
 とまれ其の結果、伏見城方では、十人の人間が殺された。そうして大閤秀吉は、曽呂利新左衛門の頓智によって、あやうく命を助かった。
 小笠原民部一人を抜かし、後の九人の忍術家達は、二時間ばかりの其の間に、五右衛門の精妙な法術のため、屈折されて了ったのであった。そこで五右衛門は城中大奥、秀吉の居る隣室まで、堂々と入り込んで来たそうである。
 忽然その時秀吉の耳へ小供の泣声が聞えて来た。火の付いたような泣声であった。しかも秀頼の声であった。
「や、若が泣いている」
 ハッと思った一刹那、秀吉の体はズルズルと、一尺ばかり前へ出た。何者かの力が引き出したのであった。「うむ、しまった!」と気が付くと共に、小供の泣声がハタと止んだ。
 陰々滅々静かであった。
 と、呼ぶ声が聞えて来た。
「殿下! 殿下! 在しませぬかな!」
「応」と我知らず答えようとした途端、
「……世に盗賊の種は尽きまじ」と、曽呂利新左衛門が大声で呼んだ。「五右衛門、上の句を付けてくれ!」
 すると隣室から笑う声がした。
「うむ、新左か、新左がいたのか! アッハハハ、そうであったか。……石川や浜の真砂は尽くるとも。……沙阿弥! 沙阿弥! 沙阿弥はいぬか!」
 お坊主沙阿弥は迂濶りと、「ヘーイ」と大きな返辞をした。と、スルスルと沙阿弥の体は、隣の部屋まで引き出されて行った。
 が、その後は何事も無かった。沙阿弥の死骸はその翌日、泉水の畔で見出された。

     

 秀吉暗殺の壮図破れ、面目を失った五右衛門は、秀次の許を浪人! ふたたび剽盗の群へ這入った。
 秀次が高野山で自尽した後、しばらくあって五右衛門も、新左衛門の手で捕えられた。
 千鳥の香爐の啼音に驚き、仙石権兵衛の足を踏み、法術破れて捕えられたのでは無い。
 瓜一つのために捕えられたのであった。
 京師警備の任にあった、徳善院前田玄以法師が、或る日数人の従者を連れ、大原野を散歩した。その中には曽呂利新左衛門もいた。
 それは中夏三伏の頃で、熱い日光がさしていた。
 と、一つの辻堂があった。縁下から二本の人間の足が、ヌッと外へ食み出していた。そうして其の側に一つの瓜が、二つに割られて置いてあった。
 一行はそのまま通り過ぎようとした。
 機智縦横の新左衛門だけが、それに不審の眼を止めた。
「徳善院様徳善院様」
 彼はそっと囁いた。「誰か人が寝て居ります」
「附近の百姓が労働に疲労《つか》れ、辻堂で昼寝をしているのさ」徳善院は事も無げに云った。
「足をごらんなさりませ」
「人間の足だ、異ったこともない」
「白くて滑らかで細うございます。百姓の足ではございません」
「そう云えば百姓の足では無いな」
「瓜が傍に置いてあります」
「さようさ、瓜が置いてあるな」
「蠅が真黒にたかっ[#「たかっ」に傍点]て居ります」
「蠅や虻がたかっ[#「たかっ」に傍点]ている」
「あれは賊でございます」新左衛門は自信を以って云った。
「夜働きに疲労れた盗賊が、瓜の二つ割で毒虫を避け、昼寝をしているのでございます」
「うん、成程、そうかも知れない。それ者共召捕って了え!」
 素晴らしい格闘が行われ、その結果賊は捕縛された。
 それが石川五右衛門であった。

底本:「蔦葛木曾棧」桃源社
   1971(昭和46)年12月20日発行
初出:「大衆文芸 第一巻第一号」
   1926(大正15)年1月号
※「※[#「封/帛」、第4水準2-8-92]」と「幇」との混在は底本通りにしました。
入力:伊藤時也
校正:伊藤時也、小林繁雄
2007年4月5日作成
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国枝史郎

犬神娘—– 国枝史郎

        一

 安政五年九月十日の、午《うま》の刻のことでございますが、老女村岡様にご案内され、新関白|近衛《このえ》様の裏門から、ご上人《しょうにん》様がご発足なされました際にも、私はお附き添いしておりました。(と、洛東清水寺|成就院《じょうじゅいん》の住職、勤王僧|月照《げっしょう》の忠実の使僕《しもべ》、大槻《おおつき》重助は物語った)さて裏門から出て見ますると、その門際《もんぎわ》に顔見知りの、西郷吉之助様(後の隆盛)が立っておられました。
「吉之助様、何分ともよろしく」
「村岡様、大丈夫でごわす」
 と、二人のお方は言葉すくなに、そのようにご挨拶なさいました。その間ご上人様にはただ無言で、雲の裏に真鍮《しんちゅう》のような厭な色をして、茫《ぼう》とかかっている月を見上げ、物思いにふけっておられました。でもいよいよお別れとなって、
「ご上人様、おすこやかに」
 と、こう村岡様がおっしゃいますと、
「お局《つぼね》様、あなたにもご無事で。……が、あるいは、これが今生の……」
 と、たいへん寂しいお言葉つきで、そうご上人様は仰せらました。
 行き過ぎてから振り返って見ましたところ、まだ村岡のお局《つぼね》様には、同じところに佇《たたず》んで、こなたを見送っておられました。
 それから私たち三人の者は、ご上人様のご懇意の檀那《だんな》で、御谷町《おたにまち》三条上ルに住居しておられる、竹原好兵衛様というお方のお家へ、落ち着きましてございます。
 すると有村|俊斎《しゅんさい》様が、間もなく訪ねて参られました。
 吉之助様と同じように、薩州様のご藩士で、勤王討幕の志士のお一人で、吉之助様の同士なのでございます。
「さて上人の扮装《みなり》だが、何んとやつしたらよかろうのう」
 と吉之助様はこうおっしゃって、人並より大きい切れ長の眼を、ご上人様へ据えられました。
 すると側《わき》にいた俊斎様が、
「竹の笠に墨染めの腰衣《こしごろも》、乞食坊主にやつしたらどうかな」
 と、眉の迫った精悍な顔へ、こともなげの微笑を浮かべながら、そう吉之助様へおっしゃいました。
「それには上人は立派すぎるよ。神々《こうごう》しいほど気高いからのう」
「なるほど、優しくて婦人のようでもあるし」
「高僧の姿そのままで、駕籠に乗って行くが無難じゃろう」
「途中で疑がわれて身分を問われたら?」
「薩摩の出家じゃと申せばよか」
「それにしては言葉がちとな」
「師の坊は幼少より京都におわし、故郷《くに》に帰らねばとこう申せばよか」
「なるほど、上人の京訛《きょうなま》りも、そう云えば疑がいなくなるじゃろう。それでもとやかく申す奴があったら、この有村たたっ切る」
「痴言《たわごと》申すな!」
 と吉之助様が、その瞬間に恐ろしいお声で、こう俊斎様を叱咤なされました。
「月照上人は近衛殿から、俺《おい》が懇篤《こんとく》に頼まれたお方じゃ! それに俺《おい》には義兄弟じゃ! 安全の場所へおかくまいするまでは、上人の身辺で荒々しい所業など、どうあろうと起こしてはならぬ! それを何んじゃ斬るの突くのと! もう汝《おはん》の力など借りぬ! 俺《おい》一人で送って行く! 帰れ帰れ、汝《おはん》帰れ!」
 力士陣幕に似ているといわれる、肥えた大きなお躰を、いつものんびりと寛《ゆる》がせて、子供に懐《なつ》かれるような優しいお顔を、たえず長閑《のどか》そうに微笑させておられる、そういう吉之助様ではありましたが、たまたまお怒りになりますると、雷《らい》が落ちたと申しましょうか、霹靂《へきれき》が轟《とどろ》いたと申しましょうか、恐ろしいありさまでございました。
(いったいどうなることだろう?)と、私は小さくなって見ていました。
 でも何んともなりませんでした。吉之助様に対しますると、弟のように柔順な俊斎様が、
「これは俺《おい》がよくなかった。軽卒な真似など決してせぬ。帰れといわれて帰られるものではなし、一緒に上人を送らせてくれ」
 と、こう穏《おだや》かに詫びましたので、吉之助様の怒りも解け、
「俺《おい》も少し云い過ぎたようじゃ」
 と、気の毒そうに云ったからでした。
 この間ご上人様は何もおっしゃらず、透きとおるほど白いお顔の色、和尚様《おしょうさま》と申そうよりも、尼君様と申しました方が、いっそう似つかわしく思われるような、端麗|柔和《にゅうわ》の上品のお顔へ、微笑をさえも含ませて、争いを聞いておられました。これは吉之助様のご性質や、俊斎様のご性質を、知りきっておられたからでございまして(争いの後には和解が来る)ことを、見抜いておられたからでございます。
 ご上人様を上等のお駕籠にのせ、私たち三人がご警護して、竹原様のお家《うち》を出ました時、東の空は白みはじめ、涼しいよりも少し肌寒い風が、かなり強く吹いておりました。

        

 駕籠の前方半町ばかりの先を、俊斎様が警戒して歩き、吉之助様が駕籠|側《わき》に附き、私がその後からお従いする――といった順序で歩いて行きました。坊主負いにした風呂敷づつみの荷物を、揺り上げ揺り上げ従《つ》いて行く私の、眠りの足らない眼にも町の辻や角に、捕吏らしい人影の立っているのが見えて、心がヒヤヒヤいたしましたが、眼にとめて駕籠を見送るばかりで、誰何《すいか》するものとてはありませんでした。平然と歩いて行ったからでしょう。
 こうしてとうとう京の町を出はずれ、竹田街道へさしかかりました。と先を歩いていた俊斎様が、足早に引っ返して参りまして、
「捕吏《いぬ》らしい奴ばらが十二、三人、向こうの茶屋に集《つど》っておるがな」
 と、吉之助様に囁《ささや》きました。
「さよか」と吉之助様はおっしゃいまして、しばらく考えておられましたが、「轎夫《かごや》、この駕籠を茶屋の前で止めろ、人数の真ん中へ舁《か》き据えてくれ」とこのようにおっしゃってでございます。
 私も驚きましてございますが、俊斎様も驚いた様子で、首を一方へ傾《かし》げましたが、でも何んともおっしゃいませんでした。(西郷どんは大相もない人物、考えがあってやることだろう)と、こう思われたからでございましょう。
 茶屋というのは立場茶屋《たてばぢゃや》のことで、町から街道へ出る棒端《ぼうはな》には、たいがいあるものでございます。
 そこへ駕籠が据えられました。
 と、不意に吉之助様が、
「あんまり早く起こされたので、わッはッはッ、この眠いことはどうじゃ。渋茶なと啜《すす》らんと眼が醒めんわい」
 と、大きな声で云われました。
 すると隙《す》かさず俊斎様が、
「俺は酒じゃ、冷酒《ひやざけ》じゃ。こいつをキューッとあおらんことには、腹の虫めがおさまらぬげに」
 と、これも大声で云われました。
 捕吏らしい様子の者が十二、三人と、早立ちの旅人らしい者が五、六人がところ、土間にも門口《かどぐち》にも門《かど》の外にも、ごちゃごちゃ入り混んでおりまして、茶屋は混雑しておりました。
 駕籠は門口へ据えられたのでした。
 往来を警戒するかのように、捕吏たちの多くはその門口に、かたまって立っていたのでしたが、その真ん中へ駕籠を据えられ、吉之助様や俊斎様に、そんなような態度に出られましたので、疑惑を起こさなかったばかりでなく、むしろ飽気《あっけ》にとられたような様子で、駕籠から離れてしまいました。
 そこで私たち三人の者は、駕籠をその場へ舁《か》き据えたまま、土間の中へはいって行き、上がり框《がまち》へ腰をかけました。
 と、この茶屋の娘らしい女が、茶をついだ湯呑みを盆にのせて、人混みの中を分けるようにして、ご上人様の駕籠の方へ歩いて行きかけました。
 その時声が聞こえましたっけ。――
「ちょいと娘さん妾《わたし》へおかしよ。……妾の方が近間だよ。……代わってお給仕してあげようじゃアないか」
 綺麗な張りのある声でした。
 門口に近い柱に倚《よ》って、甲斐絹《かいき》の手甲《てっこう》と脚絆《きゃはん》とをつけ、水色の扱《しご》きで裾をからげた、三十かそれとも二十八、九歳か、それくらいに見える美しい女が、そう云ったのでございます。痩せぎすで身丈《せい》が高く、抜けるほど色が白い、眼は切れ長で睫毛《まつげ》が濃く、気になるほど険があり、鼻も高く肉薄で鋭く、これも棘々《とげとげ》しく思われましたが、口もとなどはふっくりとして優しく、笑うと指の先が沈むほどにも、左右に靨《えくぼ》が出来るという、そういう眼に立つ女でした。
「ではおねがいいたします」
 茶屋の娘がこう云い云い、差し出した盆を片手で受け取ると、その女はそれを持って人を分けて、門口《かどぐち》の方へ行きました。
 ご上人様の駕籠に近寄ったのでした。
 何がなしに不安を感じまして、私はハッといたしましたが、吉之助様も俊斎様も、同じように不安を感じられたと見えて、顔を見合わせましてございます。
 といってどうすることも出来ませんので、私たちはじっと見詰めていました。
 駕籠へ近寄りますとその女は、何か云ったようでございます。すると駕籠の扉が細目に開いて、ご上人様の手が出ました。湯呑みを取ろうとなされたのでしょう。女の手にしても珍らしいほどの、白い細い柔かい、指の形などのいかにも上品な――とんと形容しようもないほどに、お美しいお手でございました。
 と、どうでしょうそのご上人様の手先を、甲斐絹《かいき》[#ルビの「かいき」は底本では「かひき」]の手甲の女の手が、ヒョイと握ったではございませんか。
(あッ)と私が思いましたとたんに、吉之助様が腰を上げました。手を刀の柄《つか》へかけながら。

        

 その次に起こった出来事といえば、ご上人様が手を引かれたことと、それについて女が半身を泳がせ、駕籠の扉へもたれかかり、扉の間から顔を差し入れ、ご上人様のお顔を見たらしいことと、その拍子に湯呑みが盆から落ちて、地面へ茶をこぼしたことでした。
 吉之助様は門口まで突き進んでいました。
 でももうその時にはその女は、湯呑みと盆とを両手に持って、こちらへ引っ返して来ていました。
「とんだ粗相をしたってことさ」
 土間へはいると伝法な口調で、でもいくらか恥じらった様子で、こうその女は申しましたっけ。
「妾《わたし》ア湯呑みをひっくりかえしてしまったよ……。お給仕されることには慣れているけれど、することには慣れていないんだねえ。……姐《ねえ》さんあんたから上げておくれよ」
 で、わたしはホッといたしまして、胸をなでおろしましてございますが、不意にその時わたしの横手で、
「おいどうだった?」
 という男の声が、囁《ささや》くように聞こえましたので、そっとその方へ眼をやって見ました。
 四十そこそこらしい旅姿の男が、ご上人様へお茶をあげた例の女の側《わき》に、佇《たたず》んでいるではございませんか。合羽《かっぱ》を着、道中差しを差し、両手を袖に入れている恰好《かっこう》は、博徒か道中師かといいたげで、厭な感じのする男でした。三白眼であるのも不快でした。
「駕籠の中のお方はご婦人だよ」
 これが女の返事でした。

 ご上人様を京都から抜け出させて、薩摩へ落とすよう計らいましたのは、近衛殿下なのでございます。井伊様がご大老にお成りになられるや、梅田源次郎様や池内大学様や、山本槇太郎様というような、勤王の志士の方々を、追求して捕縛なさいまして、今後も捕縛の手をゆるめそうもなく、そこで以前から勤王僧として、公卿《くげ》と武家との仲を斡旋《あっせん》したり、禁裡様から水戸藩へ下されましたところの、密勅《みっちょく》の写しを手に入れて、吉之助様のお手へお渡しになったりして、国事にご奔走なさいましたところの、ご上人様のご身辺も危険になられました。それを近衛様がご心配あそばされ、吉之助様にお頼みになり、ご上人様をどこへなと安全なところへ、お隠匿《かくま》いなさろうとなされましたので。最初はご上人様の知己《みより》の多い、奈良へでもということでございましたが、意外に捕吏の追求が烈しいので、薩摩へということになったのでございます。
 竹田街道の立場茶屋《たてばぢゃや》の変事も、何事もなく済みまして、無事わたしたちは伏見《ふしみ》に着きました。それから船で淀川を下り、夕刻大坂の八|軒屋《けんや》に着き、上仲仕《かみなかし》の幸助という男の家へ、ひとまず宿《やど》をとりました。わたしたちが大坂におりましたのは、二十四日まででありましたが、この間に鵜飼《うがい》吉左衛門様や、そのご子息の幸吉様や、鷹司《たかつかさ》家諸太夫の小林|民部輔《みんぶのすけ》様や、同家のお侍|兼田《かねだ》伊織様などという、勤王の方々が幕府の手により、続々捕縛されまして、ご上人様追捕の手も厳しくなったという、そういう情報がはいりましたので、これはうかうかしてはいられないというので、その夜のうちに薩摩へ向けて立とうと、土佐堀の薩州邸下から小倉船に乗り、漕ぎ出すことにいたしました。一行はご上人様と吉之助様と、俊斎様と私とのほかに、薩州ご藩士の北条右門様との、この五人でございまして、三人のお方が駕籠を警護し、私だけが半町ほど先に立って、あたりの様子をうかがいながら、纜《もや》ってある船の方へ行きました。おりから晴れた星月夜で、河岸の柳が川風に靡《なび》いて、女が裾でも乱しているように、乱れがわしく見えておりましたっけ。と、一|木《ぼく》の柳の木の陰から、お高祖頭巾《こそずきん》をかぶった一人の女が、不意に姿をあらわしまして、わたしの方へ歩いてまいりましたが、
「重助さん、ご苦労だねえ」と、こう云ったではありませんか。
 わたしはハッとなりドキリとして、早速には言葉も出ませんでした。
「あのお方の手、綺麗だねえ」
「…………」
「綺麗な手のお方をお送りして、重助さん遠くへ行くんでしょう」
「…………」
「だからご苦労と云っているんだよ」
「女ってもの変なものでねえ、男の何んでもないちょっと[#「ちょっと」に傍点]したことに、くたくたになってしまうものさ。たとえばその人の足の踵《かかと》が、桜貝のような色をしていたというので、旦那をすててその人と逃げたり、その人が笑うと糸切り歯の端《はし》が、真珠のように艶《つや》めくというので、許婚《いいなずけ》をすててその人と添ったり、おおよそ女ってそんなものだよ。……あの人のお手、綺麗だねえ」
「…………」
「八百八狸も名物だけれど、でも四国にはもっと凄いものが、名物となっている筈だよ。犬神《いぬがみ》だアね、犬神だアね」
「…………」
「でも犬神もこんなご時勢には、ご祈祷《きとう》ばかりしていたんでは食えないのさ……。犬の字通り隠密《いぬ》にだってなるのさ。……取っ付きとさえ云われている犬神、こいつが隠密《いぬ》になったひにゃア、どんな獲物だって逃がしっこはないよ」

        

 わたしとその女とは突っ立ったままで、話しているのではありませんでした。わたしが河岸《かし》の方へ歩いて行くので、その女が従《つ》いて来て、そう小声で話しかけるのでした。
「でもねえ」とその女は云いつづけました。「そういう女が裏返ると、かえって力になるものでねえ。……綺麗なあの手に触れてからというもの、わたしは、そうさ、犬神の娘は。……それはそうと、ねえ重助さん、向こうにどんな奴が集《たか》っていたって、船頭の奴らが何をごて[#「ごて」に傍点]ようと、心配はいらないからそう思っていておくれ。……それからねえ重助さん、わたしたちのお仲間犬神の者は、四国は愚《おろ》か九州一円に、はびこっているんだから安心しておくれ。福岡にであろうと薩摩にであろうと。……じゃア重助さんさようなら、折りがあったらわたしのことを、手の綺麗なお方へおっしゃっておくれよ。……でも重助さん解ったかしら? わたしって女誰だかわかって?」
「へい、竹田街道の立場茶屋で。……」
「ああそうさ、あの時の女さ。……では重助さんさようなら」
 こういうとその女は私からはなれて、先へ小走って行ってしまいました。
(このことは吉之助様や俊斎様へ、お話した方がよいだろうか? それとももう少し封じておこうか?)と、思案のきまらない心持ちで、私はノロノロ歩いて行きました。
 するとすぐに駕籠に追いつかれました。
 距離がはなれていたためか、私とその女とが話していたことが、吉之助様たちには解らなかったらしく、どなたも何んともおっしゃらなかったので、わたしも黙っておりました。
 わたしたちは進んで行きました。
 すると柳の老木があって、濃い影を地に敷いておりましたが、そこに十数人の人がいて、こっちをじっ[#「じっ」に傍点]と窺っていました。それがどうやら捕吏らしいのです。
「どうしよう?」と俊斎様が囁かれました。
「かまわん」と吉之助様がおっしゃいました。
「船はもう眼の先にある。面倒になったら叩っ切れ」
「斬ってはならんとおはん[#「おはん」に傍点]申したが。……」
「時と場合じゃ、今はよか。……斬り払って上人を船に乗せるのじゃ。乗せてしまえばこっちのものじゃ」
「斬りたいの。久しく斬らん」
「そういう心がけで斬ってはよくない」
「フ、フ、フ、なるほどそうか」
 捕吏らしい人影の前まで来ました。
 にわかにそいつらが動き出し、五、六人が飛び出そうといたしました。
 するとさっきの女の声でした。
「妾アお供の露払《つゆはら》いの奴に、たった今謎をかけて確かめてみたのさ。人違いだよ捨てておきな。駕籠の中にいるなア女だよ」
 地面に近い二尺ばかりの宙に、小指で朱を捺《お》したような赤い火が、ポッツリ光っておりましたっけ。例の女がしゃがみこんで、煙草《たばこ》を喫っていたんですねえ。
 とうとうわたしたちは船の纜《もや》ってある岸まで、無事に着くことが出来ました。
 そこでご上人様を駕籠から出し、真っ先に船へ乗せまして、わたしたちもつづいて乗りました。
「上人船へお寝なされ」
 そう吉之助様がおっしゃいました。
 云われるままにご上人様が、つつましく船底へ横になりますと、吉之助様は自分の羽織を脱がれ、その上へ素早くお着せになり、
「さあ船夫《かこ》いそいで船を出せ」
「駄目ですよ、出せませんねえ」
 と、不意に一人の船夫《かこ》が云って、
「なアおいお前《めえ》たちそうじゃアないか」と、仲間の方へ顔を向けました。
 するともう一人の若い船夫《かこ》が、
「こんな深夜に坊様を乗せて、船を出すとは縁起が悪い。そうともよ船は出せねえ」と、合槌を打つように云ったものです。
「黙れ」と俊斎様はお怒りになり、鋭いしかし窃《ひそ》めた声で、「ぐずぐず申すとその分には置かんぞ。これ早く船を出せ!」
 こうおっしゃって刀の柄へ、もう手をかけておられました。
 でも船夫たちはますます図太く、
「へえ、斬るとおっしゃるので。ところがあっしたち斬られませんねえ。水の上ならこっちが得手で、刀を抜いてお斬りになるのが早いか、あっしたちが水へ飛び込むのが早いか、物は験《ためし》だ、やってごらんなせえ」
「水へ飛び込んだらいよいよ得手だ、船なんかすぐにもひっくりかえして見せる」
 と、こう口々に云うのでした。
「よか、まアまアそう申すな」
 吉之助様は穏《おだや》かに云われて、小粒を三つ四つ懐中《ふところ》から出され、
「これで機嫌を直してくれ、約束の他の当座の酒手じゃ」と、なだめるように申したことです。

        

 ところがどうでしょうそうあつかっても、船夫たちは云うことを聞こうとはしないで、
「酒手が欲しくて云っているのではごわせん、深夜《よふけ》に坊さんを乗せるってことが……」
「船に坊主は禁物でしてね」
「それに深夜《よふけ》の坊主と来ては……」
「坊主は縁起が悪いんで」
 と、どうしたものかだんだん声高に、坊主坊主とそう叫んで、岸の上の方を見上げるのでした。
 さすがの吉之助様もこの様子を見られて、これはいけないと感じられたのでしょう、チラッと俊斎様へ眼くばせをされ、素早く刀の柄へ手をやられましたが、その時岸の上に女の姿があらわれ、
「船頭さん模様変えだよ、その人たちには用はないのさ。早く船を出しておあげ」
 と、綺麗な声で云うのが聞こえて来ました。申すまでもなく例の女なのです。ところがどうでしょうそう云われましても、
「姐《あね》ごのせっかくのお言葉ですが、あっしたちゃア姐ごに頼まれたんではなく……」
「藤兵衛の親分さんにご依頼受けたんですからねえ……」
「現在坊主が……」
 と口々に云って、船夫《かこ》たちは諾《き》こうとはしないのです。
「お黙り!」と女は癇にさわったような声で、「このお綱がいいと云ってるのだよ、そうさいいから船をお出しって……」
「しかし姐ご、現在坊主が……」
「餓鬼め!」
 とたんに女の片手が、髪の辺へ上がりました。
「ギャーッ」
 まるで獣《けだもの》の悲鳴でした。
 最初から頑強に反対していた船夫の、三十五、六の肥り肉《じし》の奴が、そう悲鳴して顔を抑えましたが、体を海老《えび》のように曲げたかと思うと、船縁《ふなべり》を越して水の中へ真っ逆様に落ち込みました。わたしの見誤りではありません、その男の左の眼から銀の線のようなものが、星の光にキラキラ光って、突き出されているのが見えたことです。小柄かそれとも銀脚の簪《かんざし》か? いまだにわたしには疑がわしいのですが。
「出せ船を!」
「出さねば汝《おのれ》ら!」
「同じ運命だぞ、命がないぞ!」
 見れば吉之助様と俊斎様と、そうして北条右門様とが、抜き身を差しつけ船夫たちを取り巻き、そう叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]しておられました。
 グ――ッと船は中流へ出ました。

 茅渟海《ちぬのうみ》の真ん中へ出ました時、ご上人様は一首の和歌をしたため、吉之助様へお目にかけました。
[#ここから2字下げ]
難波江《なにはえ》のあしのさはりは繁くともなほ世のために身をつくしてむ
[#ここで字下げ終わり]
 こういう和歌でございます。上《かみ》は御大老井伊直弼様の圧迫、下《しも》は捕吏だの船夫《かこ》などの迫害、ほんとにご上人様のご一生は、さわりだらけでございました。
 さてわたしたちを乗せた小倉船は、八昼夜を海上についやしまして、事《こと》なく下関《しものせき》へ着きましたので、とりあえず薩摩の定宿の、三浦屋というのへ投じました。十月一日の午後のことでございます。その翌日でありましたが、「藩の事情を探らねばならぬ」と、このように吉之助様は仰せられ、薩摩へ向かってご発足なされました。それから幾日か経ちました時に、俊斎様はご上人様を連れられ、竹崎の地へおいでになり、同志の白石正一郎様のお家《うち》に、しばらくご滞在なさいましたが、さらに博多に移りまして、藤井良節様という勤王家のお屋敷へ、お隠匿《かくま》いなさいましてございます。そうしてご自身におかれましては、吉之助様のご返辞の遅いのを案じて、薩摩へ帰って行かれました。
 どうでしょうこの頃になりますると、ご上人様追捕の幕府の手が、いよいよ厳しくなりまして、行くところに捕吏らしい者の姿が、充ち充ちておるというありさまであり、その人相書も各地に廻されていて、これを捕えて申し出る者には、恩賞は望みに任すとまでの布令《ふれ》が、発布されておるというありさまなのでございます。それでご上人様におかれましては、博多の地に滞在しておられましても、福岡ご城下の高橋屋正助という、侠商の別荘にひそんだり、斗丈翁《とじょうおう》という有名な俳人の、五|反麻《たんま》という地の庵室《あんしつ》へかくれたりして、所在をくらましておられました。

        

 さてこの頃のことでございますが、ある日私は五反麻を出、福岡ご城下へ用達しに行きました。そうして夕暮れになりました頃、斗丈様の庵室へ帰ろうと思って、その方へ足を向けまして、ご城下はずれまで参りました。歩きつかれておりましたので、道端の石へ腰を下ろして、しばらくぼんやりしておりましたっけ。この辺は人家もたいへんまばらで、その家々も小さなもので、全体がみすぼらしく眺められましたが、私の眼の前にある家ばかりが、一軒だけ立派で宏壮でした。巡らされてある土塀も厳《いか》めしく、その内側に立っている幾棟かの建物も、やはり厳めしく立派でした。でもそのうちの一棟が、とりわけ高く他の棟から抽《ぬき》んで、しかもその屋根に千木《ちぎ》を立て、社《やしろ》めいた造りに出来ているのが、不思議に思われてなりませんでした。それにその屋敷全体が、どうやら無住の空家らしく、雨戸も窓も閉ざされていることも、何か心にかかりました。この日の最後の夕陽の光が、猩々緋のように華やかに、千木の立ててある建物の雨戸にあたって、火の燃えているように見えているのへ、わたしは無心に眼をやりながら、つかれた膝の辺を撫でていました。
「おや?」
 とわたしは思わず云いましたっけ。
 その雨戸が細目に開いて、そこから手が一本あらわれて、何かを庭へ捨てたようでしたが、すぐにまた引っ込んで、雨戸もすぐにとざされたからです。
(あの屋敷、空家ではなかったのか)この意外さもありましたが、しかしそれよりも雨戸の間から出た、白い細い上品な手――肘の上までも袖がまくれて、二ノ腕の一部をさえあらわした手が、見覚えあるように思われたことが、わたしに「おや」と云わせたのです。
(ご上人様のお手に相違ないんだがなア)
 女にもなければ男にもない、何んともいえず綺麗で上品で、勿体《もったい》ないほど優美のご上人様のお手を、たとえ遠くから瞥見したにしろ、わたしとして見違えることがあるものですか。
(あれはたしかにご上人様のお手だ。……でもしかしご上人様があんなところにおられる筈はない)
 この疑惑に苦しんで、わたしはしばらく途方にくれていました。と、その時わたしの背後《うしろ》から、咳をする声が聞こえて来ました。
 ふり返って見ますると五十歳ぐらいの、墨染めの法衣《ころも》に黒の頭巾をかむった、気高いような尼僧《あま》様が数珠をつまぐりながら、しずかに歩いておるのでした。
「尼僧《あま》様」とわたしは声をかけました。「突然失礼ではございますが、あれに見えます土塀のかかったお屋敷は、どなた様のお屋敷でございましょうか?」
 すると尼僧様はわたしを見、それから屋敷の方へ眼をやりましたが、
「あああのお屋敷でございますか、あれは世間普通のお方とは、交際《つきあい》もしなければ交際《つきあ》ってもくれない、特別の人のお屋敷なのですよ」
 と、大変清らかな沈着なお声で、そうお答えくださいました。
「世間普通のお方と交際《つきあ》わない、特別のお方とおっしゃいますのは?」
「それはねえこうなのです。そのお方が何かを欲しいと思って、それを持っている人を見詰めた時、その人がそれを与えればよし、与えない時にはその人の身の上に、恐ろしい災難が落ちて来るという……」
「ああではとっつき[#「とっつき」に傍点]なのでございますね」
「そう、ある土地ではとっつき[#「とっつき」に傍点]と云い、あるところでは犬神《いぬがみ》ともいいます」
「犬神※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」とわたしは思わず叫びました。「あの女も犬神だった!」
 竹田街道の立場茶屋や、土佐堀の岸で逢った例の女のことを、忽然思い出したからでございます。
「でもあの屋敷はずっと長い間、空家になっているのですよ」
 と、そう尼僧《あま》様が云いましたので、わたしは尼僧様の方へ眼をやりました。尼僧様は歩き出しておりました。
「いえ、ところが、雨戸が開いて、たった今綺麗な手が出たのです」と、私は云い云い腰を上げました。
 でも尼僧様は何んにも云わないで、わたしのことなど忘れたかのように、少し足早に五反麻の方へ、歩いて行っておしまいになりました。
 それでもわたしはなお未練らしく、眼の前の屋敷を見ていました。すると土塀の正面の辺に、頑丈な大門がありまして、その横に定式《おきまり》の潜門《くぐり》がありましたが、その潜門《くぐり》が内側《なか》から開きまして、一人の男が出て来ました。
(やはり空家ではなかったのだな)こう思いながらわたしはその男へ近寄り、
「ちょっと物をおたずねいたします」と、こう声をかけました。
「何んですかい?」とその男は云いましたが、わたしの顔をすかすようにして眺め、変に気味悪く笑いました。

        七

 その笑った男の顔を見て、わたしはヒヤリといたしました。竹田街道の立場茶屋で、「おいどうだった?」とお綱という女に向かい、声をかけたところの男だったからです。
「何か用ですかい」とその男が云って、もう笑顔を引っ込ませ、怪訝そうに訊きかえしました。
「いいえ……ナーニ……なんでもないんですが……お見受けしましたところあのお屋敷から……」
「あの屋敷がどうかしましたかな?」
「いいえ、ナーニ、何んでもないんですが……空家だと思っておりましたところが、あなた様が潜門《くぐり》から出て来られたので。……それに綺麗な手が見えたりしましたので……」
「綺麗な手? なんですかそいつ[#「そいつ」に傍点]は?」
「千木《ちぎ》の立ててある建物から――建物の二階の雨戸から、綺麗な上品な手が出ましたので……」
「ナニ、千木のたててある建物から、綺麗な上品の手が出たんだって」と、その男はひどく驚いたように云って、その建物を振りかえって眺めましたが、「何を馬鹿らしいそんなことが。……お前さんあそこはあらたか[#「あらたか」に傍点]な所でね、ある一人の女の他は、誰だってはいれねえところなのさ。……はいったが最後天罰が……だが待てよ、そこから手が出た? とするとあの女の手なんだろうが、俺《おい》らあの女とは今しがたまで、別棟の主家《おもや》で話していたんだ」
 後の方はまるで独言《ひとりごと》のように云って、もう一度その男は振りかえって、その建物を眺めましたが、
「馬鹿な、そんなことがあるものか! ……それはそうとオイ重助さん、五反麻の生活《くらし》面白いかね」
「え?」とわたしはギョッとしましたが、「へい……何んでございますか」
「あのお方たっしゃかい」
「え? へい……あのお方とは?」
「ご上人様のことよ、しらばっくれるない」
「…………」
「アッハッハッ、まあいいや。……おっつけお眼にかかるから」
 云いすてるとその男は飛ぶような早さで、町の方へ走って行きました。
 道々考えにふけっておりましたので、斗丈様の庵室へ行きついた時には、初夜《しょや》近い時刻になっていました。小門をくぐろうといたしました。
 と、どうでしょう手近のところから、呼子《よびこ》の音が聞こえて来たではありませんか。
「おや!」と思わず云いましたっけ。
 と、生垣と植え込みとによって、こんもり囲まれている庵室を眼がけて、数十人の人影がどこからともなく現われ、殺到して行くではありませんか。
(捕吏だ!)と私は突嗟に思いました。(ご上人様を捕えに来た捕吏たちだ!)
 そう思った私を裏書きするように、
「方々捕吏だ、捕吏でござるぞ!」と叫ぶ、斗丈様の狼狽した声が聞こえて来ました。
 それに続いて聞こえて来たのは、戸や障子の仆れる音、捕吏たちの叫ぶ詈り声などで、その捕吏たちが庵室へ駈け上がり、奥の方へ乱入して行く姿なども、影のように見えました。わたしは夢中で走って行きました。
 でも庵室の縁の前まで行った時、抜き身を揮《ふる》って喚く北条右門様や、鞘のままの大刀を左手に提げ、右手で捕吏たちを制するようにしている、わたしの見知らない若いお侍さんや、顔色を変えている斗丈様、そういう方々によって警護され、しかし大勢の捕吏たちによって、奥の部屋から引き出されたらしい、ご上人様の法衣姿《ころもすがた》が、勿体なく痛々しく現われて来ました。
(ああとうとうお捕られなされた?)
 と、私は眼をクラクラさせ、地面へ膝をついてしまいました。
 そういう眩んだわたしの眼にも、ご上人様の片袖を握っている男が、竹田街道の立場茶屋で逢い、そうしてたった今しがた、怪しい屋敷の前で逢ったところの、例の男であることがわかりました。
 何んという無礼な男なのでしょう、その男は不意に手をあげて、ご上人様の冠っておられた黒の頭巾を、かなぐりすてたではありませんか。
「あっ」
 わたしも驚きましたが、捕吏たちもすっかり胆をつぶし、叫んだり喚いたり詈ったり、座敷から庭へ飛び下りたりしました。
 突然笑い声が爆発しました。
 右門様が抜き身を頭上で振りまわし、躍り上がりながら笑ったのでした。
「ワッハッハッ、思い知ったか!」
「だから拙者申したのじゃ」と、右門様の笑い声に引きつづき、総髪の大髻《おおたぶさ》に髪を結い、黒の紋附きに白縞袴を穿いた、わたしの見知らないお侍様が凛々《りり》しい重みのある澄んだ声で、そう捕吏たちに云いました。
「人違いじゃ、粗相するなと。……平野次郎|国臣《くにおみ》は嘘言は云わぬよ。……月照上人など当庵にはおられぬ。……これなるお方は野村|望東尼《ぼうとうに》殿じゃ。……福岡において誰知らぬ者とてはない、女侠にして拙僧の野村望東尼殿じゃ。……和歌の会|催《もよお》そうそのために、望東尼殿も拙者も参会したものを、月照上人召し捕るなどと申して、この狼藉は何事じゃ」
 内外森然としてしまいました。
 おおおおそれにしても何んということなのでしょう、ご上人様と思っていたそのお方は、さっき方怪しい屋敷の前で、わたしが物を訊ねましたところの、尊げな尼僧《あま》様でありましたとは。

        八

 這々《ほうほう》の態で捕吏たち一同が、斗丈庵から立ち去った後、わたしたちは奥の部屋へ集まりました。野村望東尼様や平野国臣様が、この夜斗丈庵へ参りましたのは、お二人ながら勤王の志士女丈夫なので、同じ勤王家のご上人様を訪ね、国事を論じようためだったそうです。このことはよいといたしまして、わたしたちにとりましてどうにもわからない、一大事件の起こっておりますことを、庵主斗丈様の口から承わり、わたしたちは驚いてしまいました。というのはこの日の昼頃から、ご上人様のお姿が、庵から消えてしまったことなのです。
「庵の内は申すに及ばず、庵の外の心あたりを、くまなくおさがしいたしましたが、どこにもおいでござりませぬ」
 こう斗丈様はおっしゃるのでした。
 誰もが一言も物を云わず、不安と危惧とを顔に現わし、溜息ばかり吐《つ》いておりました。
 とうとうわたしは我慢出来ずに、思っていることを云ってしまいました。
「お城下外れにある犬神の屋敷に、どうやらご上人様は監禁あそばされておると、そんなように思われるのでござります」
 ――それからわたしは出来るだけ詳しく、例の屋敷の建物の一つから、ご上人様の手だと思われる手が、雨戸の隙から出たということを、四人のお方に申しました。四人のお方は半信半疑、まさかと思われるようなお顔をして、黙って聞いておりましたが、
「ああそれだからあの時重助さんは、あんなことをわたしに訊いたのですね」と、望東尼様が仰せになり、「まさかそのような犬神の屋敷などに、ご上人様がおいでになろうとは思われませぬが、といってここに思案ばかりして、無為《むい》におりますのもいかがなものか。……せっかく重助様がああおっしゃることゆえ、ともかくもそこへ行って探ってみては?」
「それがよろしい」と平野国臣様が、すぐにご賛成なさいました。
「疑がわしきは調べた方がよろしい」
「では拙者も参るとしましょう」こう右門様もおっしゃいました。
 斗丈様ばかりを庵へ残し、わたしたち四人が五反麻を立って、犬神の屋敷へ向かったのは、それから間もなくのことであり、後夜《ごや》をすこしく過ごした頃には、屋敷の前に立っていました。
「まず拙者が」と云いながら、北条右門様が土塀を乗り越し、内側から潜《くぐ》り戸をあけましたので、わたしたちは構内へ入り込みました。
「静かに! ……いる、誰かいる。……それも大勢いるらしい」
 植え込みの間を分けながら、千木の立っている建物の方へ、わたしたちが数間歩きました時、囁くような声で国臣様は云われ、にわかに足を止められました。
「北条氏、北条氏、貴殿には望東尼様を警護されて、ゆるゆる後からおいでくだされ。……重助おいで、わしと先駆《せんく》じゃ」
 そこでわたしは国臣様とご一緒に、先へ進んで行きました。手入れをしないからでありましょう、植え込みは枝葉を林のように繁らせ、雑草は胸まで届くほどにも延び、それが夜露を持ちまして、手や足に触れる気味の悪さは、何んともいいようがありませんでした。
「重助、あぶない、伏せ、地へ伏せ!」
 国臣様が小さいお声で、でも叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]なさるかのように、振りかえってそうわたしにおっしゃいましたのは、十間ほど進んだ時でした。
 わたしはすぐに地へ寝ました。
 寝たまま見ている私の眼の前を掠めて、二人の男が木蔭から飛び出し、左右から豹のように国臣様を目がけて、組みついて行くのが見てとられました。
 つづいてわたしの眼に見えましたのは、飛鳥のように国臣様が飛び退き、瞬間片足を蹴上げたことと、それに急所を蹴られたのでしょう、一人の男が呻き声をあげて、あおのけざまに仆れたことと、しかしもう一人の男の方が、もうその時は国臣様の体へ、背後《うしろ》からしっかり組みついたことと、でもその次の瞬間に、その男は振りはなされ、振りはなされたとたんに国臣様によって、おそらくあて[#「あて」に傍点]身をくわされたのでしょう、これも呻き声をあげながら、地に仆れたことでした。
「重助来い!」
「へい」
「向こうだ!」
 木立のあなた遙かの向こうに、ぽっと火の光が射していましたが、その方へわたしたちは走って行きました。
 千木のたててある建物が立っていて、その門の戸があいていて、そこから火の光が射していて、その前に十数人の人影がいて、何やら叫んでおります姿が、わたしたちの眼に見えました。
 そうしてそれらの人々の背後に、丘のような蘇鉄《そてつ》の植え込みがあり、その蔭へわたしたちは走り込み、彼らの様子をうかがいましたが、屋内の様子に気をとられていたからか、彼らはわたしたちに気づきませんでした。

        

 彼らは捕吏の一部でした。さっきかた斗丈庵へ押しよせて来た、その捕吏の一部でした。そうしてその中に例の男――竹田街道の立場茶屋や、この屋敷の門前で逢い、斗丈庵では望東尼様の頭巾を、かなぐりすてましたところの例の男がいて、それが屋内に呼びかけていました。
「お綱、出て来い! ヤイ下りて来い!」
 でも屋内からは返辞がなく、森閑としておりました。
「来ないか、来なければ俺が行くぞ!」
 またその男は叫びました。
 しかし依然として屋内からは、何んの返辞もないらしく、森閑としておりました。
「行きな、親分、とり逃がしたら事だ」
「姐ごは心変わりしたんですぜ。……今ではあべこべに敵方で。……ですから親分踏み込んで行って……」
 集まっている捕吏の口々から、そういう声々が叫ばれました。
「うむ、そいつは知ってるが、ここは迂濶《うかつ》にはいれない、あらたかなところになっているのだからなあ」
「あらたかもクソもあるものですかい。あっしたちの手入れの先廻りをして、お尋ね者を連れ出して、かくまっている姐ごじゃアありませんか。よしんばそいつが親分の情婦《いろ》にしたところで……」
「そうともよ、見遁がせねえなあ」
「そいつを愚図愚図しているようなら、目明し文吉の兄弟分、三条の藤兵衛とはいわせませんぜ」
「うるせえヤイ!」と藤兵衛という男は、突然怒り声をひびかせましたっけ。「そうまで手前たちにいわれちゃア。……お綱、いよいよ下りて来ねえか、よーしそれじゃアこっちから行く! ……手前たちここに待っていろ、俺ひとりで踏み込んで行くから」
 藤兵衛という男の勢い込んで、門口《かどぐち》から屋内へ駆け込んで行く姿が、すぐにわたしたちの眼に映りました。と、その後しばらくの間は、ひっそりとしておりました。でも俄然「わーッ」という声が、門口に群れている藤兵衛の乾児《こぶん》――捕吏たちの間から湧き起こり、つづいて蜘蛛《くも》の子を散らすように、四方へ逃げ出したという意外な出来事が、惹起《ひきおこ》されたではありませんか。
「重助、行こう、さあこの隙に!」
 国臣様が走り出しましたので、わたしもついて走りました。
 しかし千木《ちぎ》のある建物の、その門口まで走りついた時には、わたしも国臣様も「あッ」と叫び、思わず足を止めてしまいました。
 肩から※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]《も》ぎ取られた男の片腕が、まだ血を※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]げ口から吐きながら、土間にころがっているからです。
「怯《おじ》けるな、行け!」
 と国臣様が叫び、はじめてお腰の刀を抜かれ、左の袖で蔽うようにされ、上がり框《がまち》からすぐに二階へ、ゆるい勾配につづいている広い階段を、飛ぶようにお駈け上がりなさいましたので、夢中でわたしも駈け上がりました。階段をあがりきった時でした、笑うとも嘲けるともたしなめる[#「たしなめる」に傍点]とも、どうともとれるような不思議な気味の悪い、鬼気を帯びた嗄《しわが》れた女の声で、
「まだ懲りぬか! ここへ来てはならぬ!」
 と、そういうのが聞こえて参りましたが、つづいて何かが投げつけられました。
「…………」声も出されずわたしはへたばってしまいました。肩から※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]ぎとられた片腕が、わたしの胸へあたったからです。
 へたばったままで顔を上げて、奥の部屋を見た時のわたしの恐怖は! おお何んと云ったらいいでしょうか! ともかくもわたしの一生を通じて、忘れられないものでございました。
 一匹の巨大な白犬が、人間の男を抱きすくめ、その喉笛《のどぶえ》を食い裂いているのです。
 犬神の娘のお綱という女が、巫女《みこ》の着る白い行衣を着、裾まで曳きそうな長い髪を、顔や肩へふり乱し、両腕を※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]がれて呼吸《いき》絶えているらしい藤兵衛という男を両手で抱きすくめ――後で聞いたことではございますが、この藤兵衛という目明しは、梅田源次郎様その他の志士を、あらゆる姦策をもって捕えました結果、自分も志士方に惨殺された、有名な京都の目明し文吉、この男の兄弟分でありましたそうで、そうしてお綱の情夫だったそうで、そうしてご上人様を捕えようとして、京都から浪速、九州と、つけ廻して来た男だったそうでございます。――その藤兵衛という男を抱きすくめ、その藤兵衛という男の咽喉《のど》を食い裂いた、血だらけの口、血だらけの顔を、藤兵衛という男の肩ごしに、わたしたちの方へ向けながら、怒りの眼《まなこ》を光らせている様子は、全く白犬が人間の男を、食い殺しているとそういう以外、いうべき言葉はありませんでした。古び赤茶け、ところどころ破れ、腸《わた》を出している畳の上には、蘇枋《すおう》の樽でも倒したかのように、血溜りが出来ておりました。おお血といえば行衣姿のお綱の、胸から腹から裾の下まで、血で斑紋をなしているのです。血で縞をなしているのです。この凄まじい光景には、さすがの国臣様も怯えましたものか、抜き身を頭上にふりかぶったままで、進みもなさらず退きもなさらず、小刻みに肩を刻んでおられました。でもわたしはこういう際にも、ご上人様はどこにおられるかと、座敷の四方を見廻しました。おおご上人様はおられました。遙かの奥に古び色ざめた、紫の幕が下げてあり、金襴縁《きんらんべり》の御簾《みす》がかけてあり、白木ともいえないほど古びた木口の、神棚が数段設けられてあり、そこに無数の蝋燭が、筆の穂のような焔を立てて、大きな円鏡の湖水《みずうみ》のような面《おもて》を、輝かせながら燃えていましたが、その前の辺に俯伏しになられ、凄まじい惨酷な光景を見まいと、両の袖で顔を蔽われて、月照上人様はおられました。
 でもどうしたらそのご上人様を、この恐ろしい犬神の祈祷所《きとうしょ》から、連れ出すことが出来るでしょうか? ただわたしは喘《あえ》いでばかりおりました。

        

 と、その時わたしの横を、しずかにしっかりと通って行く、人の気配を感じました。わたしたちの後から上がって来られた、野村望東尼様でございました。(あッ、あぶない!)とわたしは驚き、声をあげようとしました時には、もう望東尼様はご上人様の側《そば》まで、足を運ばれておりました。何がその次に起こったでしょう? 吠えるような声をあげながら、抱きすくめていた男の死骸を投げ出し、犬神の娘《こ》が猛然と、大切な餌のご上人様を奪い、つれ出そうとする望東尼様に向かって、躍りかかろうといたしました。でもその瞬間に二人の人が――国臣様と北条右門様とが、抜き身をさしつけて立ちふさがりました。
 と、訓すような憐れむような、しかし凛々しい望東尼様のお声が、すぐに続いて聞こえて来ました。
「女の心は女が知る、お前様のお心持ち、この望東にはよくわかります。しかし月照上人様は、お前様一人のお方ではござりませぬ。この日本《ひのもと》みんなのお方でござります!」

 犬神の娘の慟哭《どうこく》する、犬の悲鳴さながらの声を、千木のたっている建物の、二階の部屋に聞き流して、ご上人様をお守りして、その屋敷から脱け出しましたのは、それから間もなくのことでございました。

 斗丈庵《とじょうあん》へ帰られてから、ご上人様はおっしゃいました。
「今日の昼頃奥の座敷にいると、さも悲しそうな女の声で、ひっきりなしにわしを呼ぶのじゃよ。そこでわしは行ったのじゃよ。夢のような心持ちでのう。……はッと人心地のついた時には、あの祈祷所に坐っていたのじゃよ」
「あのお綱という犬神の娘は、何をご上人様になされましたので?」
「ただわしの手をしっかりと握って、撫でたりさすったりしたばかりじゃよ」
「ご上人様には一度雨戸をあけて、お手を出されたようでございますが?」
「あまり撫でられたりさすられたりしたので、手がどうかなりはしないかと思って、あの娘《こ》が階下《した》へ下りて行った隙に、陽にあてて手を見たまでじゃよ」
 ――考えてみますれば犬神の娘が、犬神の法力でご上人様を、斗丈庵から誘い出したばかりに、斗丈庵で捕吏にとらえられるところを、お助かりなされたのでございます。
 でもその後におけるご上人様の、おいたわしいお身の上というものは! 何んと申してよろしいやら、涙あるばかりでございます。
「旅衣《たびごろも》夜寒むをいとへ国のため草の枕の露をはらひて」という、望東尼様の惜別の和歌に送られ、平野国臣様に伴《とも》なわれ、もちろんわたしもお供をし、吉之助様のご消息の遅いのを案じ、薩摩をさしてご上人様が、福岡の地をご出立なさいましたのは、同じ年の十一月一日で、薩摩のお城下に着きましたのは、同月十日でございました。
 するとどうでしょう薩摩藩の情勢が、吉之助様たちのご努力にかかわらず、佐幕論に傾きまして、ご上人様を薩摩藩でかくまう[#「かくまう」に傍点]ことを、体《てい》よく拒絶《ことわ》ったばかりでなく、国境いにおいて斬殺する目的のもとに「東目送り」という陰険きわまる法を、あえて行なうことになりました。
 義に厚く情にもろい吉之助様が、なんでご上人様を見殺しにしましょう。その結果が十一月十五日の夜、ご上人様と吉之助様とが、恋人同志のように相擁され、薩摩潟にご投身され、吉之助様は蘇生なされましたが、ご上人様はそのままお逝去《なくな》りなされた、あの悲劇になったのでござります。
「大君のためには何かをしからん薩摩の瀬戸に身は沈むとも」これがご辞世でございます。
 でも、おおおお、わたしといたしましては、それもこれも犬神の娘の、狂気じみた恋にひきずられて、はいったが最後恐ろしい運命が、落ち下るという犬神の祈祷所へ、ご上人様がおはいりなされました、その結果ではあるまいか? ……いえいえ、いえそんなことが!
 でもやはり私には……。

底本:「怪しの館 短編」国枝史郎伝奇文庫28、講談社
   1976(昭和51)年11月12日第1刷発行
初出:「講談倶楽部」
   1935(昭和10)年9月増刊号
※「叱咤」と「叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]」の混在は底本通りにしました。
入力:阿和泉拓
校正:多羅尾伴内
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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国枝史郎

剣侠—— 国枝史郎

木剣試合


 文政×年の初夏のことであった。
 杉浪之助《すぎなみのすけ》は宿を出て、両国をさして歩いて行った。
 本郷の台まで来たときである。榊原式部少輔《さかきばらしきぶしょうゆう》様のお屋敷があり、お長屋が軒を並べていた。
 と、
「エーイ」
「イヤー」
 という、鋭い掛声が聞こえてきた。
(はてな?)
 と、浪之助は足を止めた。
(凄いような掛声だが?)
 で、四辺《あたり》を見廻して見た。
 掛声はお長屋の一軒の、塀の内側から来たようであった。
 幸い節穴があったので、浪之助は覗いて見た。
 六十歳前後の老武士と、三十五六歳の壮年武士とが、植込の開けた芝生の上に下り立ち、互いに木剣を構えていた。
(こりゃアいけない)
 と浪之助は思った。
(まるでこりゃア段違いだ)
 老武士の構えも立派ではあったが、しかし要するに尋常で、構えから見てその伎倆《うで》も、せいぜいのところ免許ぐらい、しかるに一方壮年武士の方の伎倆は、どっちかというと武道不鍛練の、浪之助のようなものの眼から見ても、恐ろしいように思われる程に、思い切って勝れているのであった。
 それに浪之助には何となく、この二人の試合なるものが、単なる業《わざ》の比較ではなく、打物《うちもの》こそ木剣を用いておれ、恨みを含んだ真剣の決闘、そんなように思われてならなかった。
 豊かの頬、二重にくくれた頤、本来の老武士の人相は、円満であり寛容であるのに、額《ひたい》を癇癖《かんぺき》の筋でうねらせ、眼を怒りに血ばしらせている。
 これに反して壮年武士の方は、怒りの代わりに嘲りと憎みを、切長の眼、高薄い鼻、痩せた頬、蒼白い顔色、そういう顔に漂わせながら、焦心《あせ》る老武士を充分に焦心らせ、苦しめるだけ苦しめてやろうと、そう思ってでもいるように、ジワリジワリと迫り詰めていた。
(やるな)
 と浪之助の思った途端、壮年武士の木剣が、さながら水でも引くように、左り後ろへ斜めに引かれた。
 誘いの隙に相違なかった。
 それに老武士は乗ったらしい。
 一足踏み出すと真っ向へ下ろした。
 壮年武士は身を翻えしたが、横面を払うと見せて、無類の悪剣、老武士の痩せた細い足を、打ったら折れるに相違ない、それと知っていてその足を……打とうとしたきわどい[#「きわどい」に傍点]一刹那に、
「あれ、お父《とう》様」という女の声が、息詰まるように聞こえてきた。
 正面に立っている屋敷の縁《えん》に、十八九の娘が立っていた。
 跣足《はだし》でその娘が駈け寄って来たのと、老武士が木剣を閃《ひら》めかせたのと、壮年武士が「参った」と叫び、構えていた木剣をダラリと下げ、苦笑いをして右の腕を、左の掌で揉んだのとが、その次に起こった出来事であった。
 浪之助も塀の節穴越しに、苦笑せざるを得なかった。
(若い武士が打たれるはずはない。わざと勝を譲ったんだ)
 そう思わざるを得なかった。
 浪之助は娘を見た。
 柘榴《ざくろ》の蕾を想わせるような、紅《あか》い小さな唇が、娘を初々しく気高くしていた。


「何だそのような未熟の腕でいながら、傲慢らしく振舞うとは」
 こう老武士の窘《たしな》めるような声が、浪之助の耳へ聞こえてきたので、老武士の方へ眼を移して見た。
 娘を横手へ立たせたまま、壮年武士と向かい合い、老武士は説いているのであった。
「たとえどのような伎倆《うで》があろうと、世間には名人達人がある、上越す者がどれほどでもある、増長慢になってはいけないのう」
 こう云った時には老武士の声は、穏やかになり親切そうになり、顔からも怒りがなくなっていた。
「第一わしのようなこんな老人に、もろく負けるようなそんな伎倆では、自慢しようも出来ないではないか。のう澄江《すみえ》、そうであろうがな」
「まあお父様そのようなこと……もうよろしいではござりませぬか……でも陣十郎様のお伎倆《うでまえ》は、お立派のように存ぜられますわ」
 藤と菖蒲《あやめ》をとりあわせた、長い袂の単衣《ひとえ》が似合って、※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]《ろう》たけて[#「※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]《ろう》たけて」は底本では「臈《ろう》たけて」]さえ見えるその娘は、とりなすようにそういうように云い、気の毒そうに壮年武士を見た。
 壮年武士の表情には、軽侮と傲慢とがあるばかりであった。
 しかし娘にそう云われた時、その表情を不意に消し、
「これは恐縮に存じます。……いや私の伎倆など、まだまだやくざ[#「やくざ」に傍点]でござりまして、まさしく小父様に右の籠手《こて》を、一本取られましてござります。……将来気をつけるでござりましょう」
「さようさようそれがよろしい、将来は気をつけ天狗にならず、ますます勉強するがよい。いやお前にそう出られて、わしはすっかり嬉しくなった。……では茶でものむとしようぞ。……陣十郎《じんじゅうろう》来い、澄江来い」
 好々爺の本性に帰ったらしく、こう云うと老武士は木剣を捨て、屋敷の方へ歩き出した。
「では陣十郎様、おいでなさりませ」
「は」と云ったが陣十郎様という武士は、何か心に済まないかのように、何か云い出そうとするかのように澄江の顔を凝視するばかりで、歩き出そうとはしなかった。
「澄江様。……澄江様」
「はい、何でございますか?」
「私の甲源一刀流、お父上の新影流より、劣って居るとお思い遊ばしますかな?」
「いいえ……でも……わたくしなどには……」
「お解《わか》りにならぬと仰せられる?」
「わかりませんでござります」
「わからぬものは剣道ばかりか……男の、男の、恋心なども……」
「……」澄江の眼には当惑らしい表情が出た。
「打とうと思えば小父様など、たった一打ち手間暇はいらぬ。……打たずにかえって打たれたは……澄江さま、貴方のためじゃ」
「…………」
 その時屋敷の縁の上から、
「おいで、こら、何をして居る」
 老武士が呼んで手を拍った。
「羊羹を切ったぞ。おいでおいで」
「はい」と云うと陣十郎へ背を向け、澄江はそっちへ小走った。
「ちと痛い」と右の手を揉み、
「あの老耄《おいぼれ》、フ、フ、何を……が、澄江には恩をかけた。……この手で……」
 と口の中で呟きながら、陣十郎という若い武士は、屋敷の方へそろそろと歩いた。


(どうにも変な試合だったよ)
 浪之助はそんなことを思いながら、両国の方へ歩いて行った。
(それにしてもちょっと[#「ちょっと」に傍点]美《い》い娘だった)
 こんなことをチラリと心の隅で思い、独り笑いをもらしたりした。
 年はまだ二十三歳、独身で浪人であった。
 親の代からの浪人で、その父は浪之進といい、信州|高島《たかしま》の家臣であったが、故あって浪人となり、家族ともども江戸に出た。貨殖の才がある上に、信州人特有の倹約家《しまつや》で、金貸などをひそかにやり、たいして人にも怨まれないうちに、相当に貯めて家屋敷なども買い、町内の世話をして口を利き、武士ではあったが町人同然、大分評判のよくなった頃、五年ほど前にポックリ死に、母親はその後三年ほど生きたが、総領の娘を武家は厭、町家の相当の家柄の家へ、――という希望を叶えさせ、呉服問屋へ嫁入らせ、安心したところでコロリと死に、後には長男の浪之助ばかりが残った。当然彼が家督を取り、若い主人公になり済まし、現在に及んでいるのであるが、この浪之助豚児ではないが、さりとて一躍家名を揚げるような、一代の麒麟児でもなさそうで、剣道は一刀流を学んだが、まだ免許にはやや遠く、学問の方も当時の儒家、林|信満《のぶます》に就《つ》いて学んだが、学者として立つには程遠かった。
 ところがこのごろになって浪之助は、何かドカーンと大きなことを、何かビシッと身に泌みるようなことを、是非経験したいものだと、そんなように思うようになった。なまぬるい生活がつづいたので、強い刺戟を求め出したと、そう解釈してよさそうである。
 袴無しの着流しで、蝋塗りの細身の大小を差し、白扇を胸の辺りでパチツカせ、青簾に釣忍《つりしのぶ》、そんなものが軒にチラチラ見える町通りを歩いて行った。
 浅草観世音へ参詣し、賽銭を投げて奥山を廻り、東両国の盛場へ来たときには、日が少し傾《かたむ》いていた。

娘太夫を巡って


 両国橋を本所の方へ渡ると、江戸一番の盛場となり、ことに細小路一帯には、丹波から連れて来た狐爺《きつねおやじ》とか、河童《かっぱ》の見世物とか和蘭陀眼鏡《おらんだめがね》とかそんないかがわしい見世物小屋があって、勤番武士とか、お上りさんとか、そういう低級の観客の趣味に、巧みに迎合させていた。講釈場もあれば水芸、曲独楽《きょくごま》、そんなものの定席もできていた。
 曲独楽の定席の前まで来て、浪之助はちょっと足を止めた。
 しばらく思案をしたようであったが、木戸銭を払って中へ入った。
 こんなものへ入って曲独楽を見て、口を開けて見とれるという程、悪趣味の彼ではないのであったが、以前にここの娘太夫で、美貌と業《わざ》の巧いのとで、一時両国の人気を攫った、本名お組《くみ》芸名|源女《げんじょ》そういう女と妙な縁から、彼一流の恋をした。ところが今から一年ほど前に、不意にその女が居なくなった。悪御家人の悪足と一緒に、駆落ちしたのだという噂があったり、養母に悪いのがついていて長崎の異人へ妾《めかけ》に売ったのと、そんな噂があったりしたが、とにかく姿を消してしまった。浪之助は妙にその女には、かなりの執着を持っていて、姿を消されたその当座は、ちょっと寂しく感じたりし、もうその女がいなくなった以上、そんな曲独楽なんか見るものかと、爾来《じらい》よりつきもしなかったが、今日は彼の心の中に、昔なつかしい思いが萌《も》えた。そこで、木戸をくぐったのである。
 桟敷と土間もかなりの入りであった。
 舞台には華やかな牡丹燈籠が、二基がところ立ててあり、その背後《うしろ》には季節に適《かな》わせた、八橋の景が飾ってあり、その前に若い娘太夫が、薄紫|熨斗目《のしめ》の振袖で、金糸銀糸の刺繍をした裃《かみしも》、福草履《ふくぞうり》を穿いたおきまりの姿で、巧みに縄をさばいていた。
「おや、ありゃア源女じゃアないか」
 驚いて浪之助は口の中で叫んだ。
 娘太夫は源女のお組、それに相違ないからであった。
 瓜実《うりざね》顔、富士額、薄い受口、切長の眼、源女に相違ないのであった。ただ思いなしか一年前より、痩せて衰《おとろ》えているようであった。
(舞い戻ってこの席へ出たものと見える)
 油然《ゆうぜん》と恋心が湧いて来た。
(逢って様子を聞きたいものだ)
 その時源女が昔ながらのとはいえ少し力の弱い声で、
「独楽《こま》は生独楽生きて廻る」と、口上を節づけて述べ出した。
「縄も生縄生きて動く。……小だめしは返り来の独楽、縄を離れても慕い、翻飜として飛び返る。ヤーハッ」と云ったかと思うと、右手の振袖が渦を巻き、瞬間縄が宙にほぐれ、差し渡し五寸もあるらしい、金蒔絵黒塗り銀心棒、朱色渦巻を胴に刻《ほ》った独楽が、唸《うな》りをなして舞い上り、しばらく宙に漂うように見えたが、あだかも生ける魂あって、すでに源女に手繰《たぐ》られている、絹、麻、髪を綯《な》いまぜて造った、鼠色に見える縄を目掛け追うかのように寄って来た。
 と、源女は右手を出した。
 その掌《てのひら》に独楽は止まった。
 グルリと掌を裏返した。
 逆《さか》さになったまま掌に吸いつき、独楽は森々《しんしん》と廻っている。
 どっと喝采が見物の中から起こった。
 しかしどうしたのかその一刹那、ポタリと独楽が、掌から落ち、源女は放心でもしたように、桟敷の一所を凝然と見詰めた。


 恐怖がその顔に現われている。
(どうしたんだろう?)と驚きながら、源女の見詰めている方角へ、浪之助も眼をやった。
(や)とこれも驚いた。
 そこに、桟敷に、見物にまじって、榊原|式部少輔《しきぶしょうゆう》様のお長屋の庭で、老武士を相手に試合をしていた、陣十郎という壮年武士が、舞台を睨《にら》むように見ているではないか。
 単なる浪之助の思いなしばかりでなく、陣十郎の眼と源女の眼とは、互いに睨み合っているようであり、源女が独楽を掌から落とし、放心したように茫然としたのも、陣十郎の姿を認めたからであると、そんなように思われる節があった。
(二人の間には何かあるな)
 そんなように思われてならなかった。
「弘法にも筆のあやまり、名人の手からも水が洩れる、生独楽を落としました源女太夫のあやまり、やり直しは幾重にもご用捨……」
 床から独楽を拾い上げ、顫えを帯びた含み声で、こうテレ隠しのように口上を述べ、源女が芸を続け出したのは、それから直ぐのことであった。
 これがかえって愛嬌になったか、見物は湧きもしなかった。
 その後これといって失敗もなく、昔ながらに鮮かに、源女は独楽を自由自在に使った。
 一基の燈籠に独楽が投げ込まれるや、牡丹が花弁《はなびら》を開くように、燈籠は紙壁《しへき》を四方に開き、百目|蝋燭《ろうそく》を露出させ、焔の先から水を吹き出し、つづいてもう一基の燈籠の中から、独楽が自ずと舞い上り、それを源女が手へ戻した途端、そのもう一基の燈籠も、紙壁を開き水を吹き出した。この最後の芸を終えて、悠々と源女が舞台から消えると、見物達は拍手を送った。
 浪之助は小屋を出て、裏木戸の方へ廻って行った。
「久しぶりだな、爺《とっ》つぁん」
 木戸口にいた爺《じい》さんへ、こう浪之助は声をかけた。
「へい」と木戸番の爺《おやじ》は云った。
「これは杉様で、お珍しい」
「たっしゃでいいな、一年ぶりだ」
「旦那様もおたっしゃのご様子で」
「源女が帰って出演《で》ているようだな」
「よくご存知で、ほんの昨今から」
「ちょっと源女に逢いたいのだが」
「さあさあどうぞ」と草履《ぞうり》を揃えた。
 心付を渡して草履を突っかけた。
「源女さんのお部屋は一番奥で」
「そうかい」と浪之助は歩いて行った。
 書割だの大道具だのが積み重ねてある、黴臭い薄暗い舞台裏を通り、並んでいる部屋々々の暖簾《のれん》の前を通り、一番奥の部屋の前へ立った。
 長い暖簾を掲げて入った。
 衣装|籠《つづら》に寄りかかりながら、裃をさえ取ろうともせず、源女はグッタリと坐っていた。
「お組、わしだ[#「わしだ」に傍点]」と浪之助は云った。
 と、源女は閉じていた眼を、さもだるそうに[#「だるそうに」に傍点]細目をあけたが、
「浪之助様。……存じて居りました」
 そう云ってまたも眼をとじた。
 衰弱していると云ってもよく、冷淡であると云ってもよい、極めて素気ない態度であった。
 立ったまま坐りもせず、そういう昔の恋人の、源女の様子を眺めながら、浪之助は意外さと寂しさと、多少の怒りとを心に感じた。


「知っていたとは? ……何を知って?」
「桟敷にお居でなされましたことを」
 眼をとじたまま云うのであった。
「では舞台で観ていたのか」
「ええ」と源女は眼をあけた。
「浪之助様がお居でになる。――そう思って見て居りました」
「ふむ」と浪之助は鼻で云った。
「ただそれだけか。え、お組」
「…………」
「一年ぶりで逢った二人だ。浪之助様がお居でになると、ただそう思って見ていただけか」
 少し愚痴とは思ったが、そう云わざるを得なかった。
 なるほど二人の往昔《そのかみ》の仲は、死ぬの生きるの夫婦《いっしょ》になろうのと、そういったような深い烈しい、燃え立つような仲ではなかった。とはいえ双方好き合い愛し合った。恋であったことには疑いなく、しかも争いをしたのでもなく、談合づくで別れたのでもなく、恋は続いていたのであった。そうだ、続いていたのであった。それだのに女は一言も云わず、別れましょうとも切れましょうとも、何とも云わずに姿を消し、今日迄|消息《たより》しなかったのである。さて、ところで、今逢った。と、そのような冷淡なのである。
 愚痴も厭味も浪之助としては、云い出さないではいられないではないか。
 で、そう云って睨むように見詰めた。
「それにさ、いかに心持が、わしから冷やかになっているにしても、坐れとぐらい何故云ってくれぬ」
 いかさま浪之助はまだ立っていた。
 これには源女も済まなく思ったか、
「どうぞ」と云うと水玉を散らした、友禅の坐蒲団を押しやった。
 坐ったが心が充たされず、尚浪之助は白い眼で、源女の顔をまじまじと見た。
 源女は又も眼を閉じて、衣装|籠《つづら》に身をもたせていた。
 眼の縁辺りが薄く隈取られ、小鼻の左右に溝が出来、見れば意外に憔悴もしてい、病んででもいるように疲《や》せて[#「疲《や》せて」はママ]もいた。
(ひどく苦労をしたらしい)
 そう思うと浪之助の心持が和《なご》み、女を憐れむ情愛が、胸に暖かく流れて来た。
「お組、いままでどこにいたのだ?」
「旅に……旅に……諸方の旅に」
「旅を稼いでいたというのか?」
「いいえ。……でも……ええ旅に。……」
 言葉が濁り曖昧であった。
「旅はいずこを……どの方面を?」
「どこと云って、ただあちらこちらを」
「ふむ。……一座を作って?」
「いいえ、一人で……でも時々は……一座を作っても居りました」
 やはり言葉が濁るのであった。
「なぜそれにしても旅へ出ますと、わし[#「わし」に傍点]に話してはくれなかったのだ」
「…………」
 源女は返辞《へんじ》をしなかった。
 睫毛が顫え唇の左右が、痙攣をしたばかりであった。
 窓から西陽が射し込んで来て、衣桁にかけてある着替えの衣装の、派手な模様を照らしていた。
 二三度入り口の暖簾をかかげて、一座の者らしい男や女やが、顔を差し込んで覗いたが、訳あるらしい二人の様子を見ると、入ろうともせず行ってしまった。
「陣十郎という武士を知っているかな?」
 話を転じて浪之助は云った。
 と、源女は首をもたげた。


「陣十郎! ……陣十郎! ……水品《みずしな》陣十郎! ……あなたこそどうしてあの男を!」
 そう云うと源女はのしかかる[#「のしかかる」に傍点]ように、衣装籠から身を乗り出した。
 恐怖と憎悪とがあからさまに、パッと見開いた眼にあった。
 凄じいと云ってもいいような、相手の態度に圧せられて、浪之助はかえってたじろいだ。
 「いやわし[#「わし」に傍点]はただほんの……それも偶然|先刻《さっき》方……榊原様のお長屋で……試合をしていたのを通りかかって……だがその男が桟敷にいたので……」
「ただそれだけでございますか」
 源女は安心したように、そう云うと躰をグッタリとさせ、衣装籠へまた寄りかかった。
 そうして眼を閉じ黙ってしまったが、やがて浪之助へ云うというより、自分自身へ云うように、譫言《うわごと》のように呟いた。
「陣十郎、水品陣十郎……何と云おう、悪鬼と云おうか……あの男のためにまア妾《わたし》は……これまでどんなに、まあどんなに……苦しめられ苦しめられたことか! ……騙《だま》され賺《す》かされ怯《おび》やかされ、旅でさんざん苦しめられた。……こんなにしたのはあの男だ。妾をこんなに、こんなにしたのは! ……病人に、白痴に、片輪者に! ……先生、お助け下さりませ! ……でも妾はどうあろうと、あれをどうともして思い出さなけりゃア……でもお許し下さりませ、思い出せないのでございます」
 不意に源女は節をつけて、歌うように云い出した。
[#ここから1字下げ]
「ちちぶのこおり
おがわむら
へみさまにわの
ひのきのね
むかしはあったということじゃ
いまはかわってせんのうま
ごひゃくのうまのうまかいの
、、、、
、、、、
、、、、
まぐさのやまや
そこなしの
かわのなかじのいわむろの
[#ここで字下げ終わり]
 ……さあその後は何といったかしら? ……思い出せない思い出せない。……そうしてあそこはどこだったかしら? ……山に谷に森に林に、岩屋に盆地に沼に川に、そうして滝があったかもしれない。
 大きなお屋敷もあったはずだが。……そうしてまるで酒顛童子《しゅてんどうじ》のような、恐ろしいお爺さんがいたはずだが。……思い出せない、思い出せない。……」
 顔を上向け宙へ眼をやり、額に汗をにじませて、何か思い出を辿るように、何かを思い出そうとするように、源女は譫言《うわごと》のように云うのであった。
 癲癇の発作の起こる前の、痴呆状態とでも云うべきであろうか、そういう源女の顔も姿も、いつもとは異《ちが》って別人のように見えた。
 浪之助は魘《おそ》われたようにゾッとした。
 と、不意に前のめりに、源女は畳へ突っ伏した。
 精根をすっかり疲労《つかれ》させられたらしい。
「お組」と仰天していざり寄り浪之助は抱き起こした。
「しっかりおし、心をたしかに!」
 その時背後から声がかかった。
「源女殿いつもの病気でござるか」
 驚いて浪之助は振り返って見た。
 いつ来たものか三十五六の武士が、眉をひそめながら立っていた。


 額広く眉太く、眼は鳳眼《ほうがん》といって気高く鋭く、それでいて愛嬌があり、鼻はあくまで高かったが、鼻梁が太いので険しくなく、仁中《じんちゅう》の深いのは徳のある証拠、唇は薄くなく厚くない。程よいけれど、大形であった。色が白く頬が豊かで、顎も角ばらず円味づいていた。身長は五尺五六寸もあろうか、肉付は逞《たくま》しくあったけれど贅肉なしに引きしまっている。髪は総髪の大髻《おおたぶさ》で、髻《もとどり》の紐は濃紫《こむらさき》であった。黒の紋付に同じ羽織、白博多の帯をしめ、無反《むぞり》に近い長めの大小の、柄を白糸で巻いたのを差し、わざと袴をつけていないのは、無造作で磊落で瀟洒の性質をさながらに現わしていると云ってよろしく白博多の帯と映り合って、羽織の紐が髻と同じ、濃紫であるのは高尚であった。
 そういう武士が立っていた。
 と見てとって浪之助は、思わず「あッ」と声を上げ、抱えていた源女を放したかと思うと、四五尺がところ後へ辷《すべ》り、膝へ手を置いてかしこまってしまった。
 武士の何者かを知っているからであった。
 川越の城主三十五万石、松平大和守の家臣であって、知行は堂々たる五百石、新影流の剣道指南、秋山要左衛門の子息であり、侠骨凌々たるところから、博徒赤尾の磯五郎を助け、縄張出入などに関係したあげく、わざと勘当されて浪人となり、江戸へいでて技を磨き、根岸|御行《みゆき》の松に道場を設け、新影流を教授して居り、年齢は男盛りの三十五、それでいて新影流は無双の達人、神刀無念流の戸ヶ崎熊太郎や、甲源一刀流の辺見《へんみ》多四郎や、小野派一刀流の浅利又七郎や、北辰一刀流の千葉周作等、前後して輩出した名人達と、伯仲《はくちゅう》[#ルビの「はくちゅう」は底本では「はちゅう」]の間にあったという、そういう達人の秋山要介正勝《あきやまようすけまさかつ》! 武士は実にその人なのであった。
 勿論浪之助はかつてこれ迄、秋山要介と話したこともなく、教えを受けたこともなかったのであるが、それほどの高名の剣豪であった、江戸に住居する武士という武士は、要介を知らない者はなく、そういう意味で、浪之助も、諸方で遥拝して知っていたのであった。
 そういう要介が現われたのである、かしこまったのは当然といえよう。
 かしこまった浪之助の様子を見ると、要介はかえって気の毒そうに、微笑を浮かべ会釈をしたが、さりとて別に何とも云わず、仆《たお》れている源女へ近寄って行き、片膝つくと手を延ばし、源女の背を撫でながら云った。
「源女殿、要介じゃ。いつもの発作が起こられたか」
 そう云った声が通じたと見える、源女は顔を上げて要介を見たが、
「先生!」とやにわに縋りついた。
「陣十郎が! 水品陣十郎が!」
「陣十郎が? どうなされた?」
「桟敷にいました! 妾《わたし》につき纏い!」
「…………」
 要介の顔色もにわかに変わった。
「彼、悪鬼、江戸まで来たか!」
「先生!」
「大丈夫」と要介は云った、
「ついて居る、わし[#「わし」に傍点]が、大丈夫じゃ」
「はい……先生! ……でも妾は! ……恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい!」
「自分で自分を苦しめてはいけない。……自分で自分を恐れさせてはいけない。……秋山要介が付いて居る」

剣鬼と剣聖


 俺の長くいる場所ではない、こう思って浪之助がその部屋を出たのは、それから間もなくのことであった。
 書割や大道具の積んである間を、裏木戸の方へ歩いて行った。
 と、何かなしにゾッとした。
 で四辺《あたり》を見廻して見た。
 書割が積んであるその横手の、薄暗い一所に水品陣十郎が、刺すような眼をしてこちらを見ていた。
「あ」と浪之助は自分ながら馬鹿な、と云うよりも臆病千万な、恐怖に似たような声をあげ、足を釘づけにしてしまった。
 陣十郎という男の身の周囲《まわり》を、殺気といおうか妖気といおうか、陰森としたものが取り巻いていて近寄るものを萎縮させる。
 ――そんなように一瞬思われもした。
(馬鹿な)と自分で自分を嘲けり、浪之助は足を運んだ。
 とはいえ陣十郎の前を通る時も、通り過ぎた時も恐ろしかった、不意に切り付けられはしないだろうかと、そんなように思われてならなかった[#「ならなかった」は底本では「なからなかった」]。
 その浪之助が小石川富坂町の、自分の屋敷へ戻ろうとして、お茶の水の辺りを歩いていたのは、初夜をとうに過ごしていた頃で、源女《げんじょ》の小屋を出ても気にかかることや、愉快でないことが心にあったので、その心を紛らそうとして、贔屓にしている小料理屋で、時刻を過ごしたからであった。
 お組《くみ》はどうしたというのだろう? 病気には相違なさそうだが、何という変な病気なんだろう。秋山要介というような、余りにも有名な人物と、非常に親しくしているようだが、どこでどうしてそうなったのか? 水品陣十郎という悪鬼のような男、あの男もお組や秋山要介と、深い関係があるようだが、その関係はどんなんだろう?
(どっちみち今日は変な日だった)
 浪之助はそんなことを思いながら、まだ酔っている熱い頬を、夜に入って青葉の匂いを増した、さわやかな風に吹かせながら、樹木多く人家無く、これが江戸内かと疑われるほど、寂しい凄いお茶の水の境地を、微吟しながら歩いて行った。
 遅く出た月が空にあったが、樹木が繁っているために、木洩れの月光がそこここへ、光の斑《ふち》を置いているばかりで、あたりはほとんど闇であった。
 不意に行手で閃めくものがあり、悲鳴がそれに続いて聞こえた。
 ギョッとして浪之助は足を止めた。
(切られたらしい)と直感された。
(横へ逸れて行ってしまおうか)
 ふとそんな気も起こったが、町人とは違い武士であった。
(卑怯な)と思い返して走って行った。
 香具師《やし》――それも膏薬売らしい、膏薬箱を胸へかけた男が、右の胴から血を流し、その血の中に埋もれて居り、そうした死骸を見下ろしながら、一人の武士がその前に佇み、一人の女がその横にいて、血刀を懐紙で拭っているという、凄惨無慈悲の光景が、巨大な棒のように射して来ている木洩れの月光に照らされて、浪之助の眼に映った。
 フーッと気が遠くなりそうであった。
 そう、浪之助はもう少しで、気を失って仆《たお》れそうになった。
「貴殿のおいでを待っていました」
 水品陣十郎がそう云った。


 血刀を女に拭わせている武士、それは水品陣十郎であった。
「拙者水品陣十郎と申す、浪人でござる、お見知り置き下され」
 現在人を殺して置いて、本名を宣《なの》る膽の太さ、あらためて浪之助の怯えている心を、底の方から怯やかした。
「はあ」とばかり浪之助は云った。
 それ以上は云うこともなく、そう云った声さえ顫えていた。
「……ソ、その者は? ……その死骸は?」
 さすがにそれだけは浪之助も訊いた。
「拙者ただ今討ち果したものじゃ」
「はあ。……さようで……何の咎で?」
「裏切りいたした手下ゆえ」
「はあ」
「憎むべきは裏切り者。……言行一致せざる奴。……」
「はあ」
「失礼ながら貴殿のご姓名は?」
「ス、杉浪之助。……」
「杉浪之助殿。……お住居《すまい》は?」
「小石川富坂町。……」
「源女の小屋で今日午後、お眼にかかったことご存知か?」
「サ、さよう。……存じ居ります」
「源女の部屋へ行かれましたな?」
「…………」
「貴殿と源女との関係は?」
「これと云って、何もござらぬ。……一年前に、ただちょっと[#「ちょっと」に傍点]……」
「さようか」と陣十郎は疑わしそうに、刀の切先のようにギラギラ光る、氷のように底冷たい眼を、じっと浪之助の顔へ注いだが、
「秋山要介殿源女の部屋へ、今日参って居られたが、貴殿と秋山殿との関係は?」
「何でもござらぬ、ただ今日、はじめてあそこでお逢いしたまでで。……」
「しかと左様か。偽りはござるまいな」
「何の偽り。……真実でござる」
 まるで吟味でも受けているようだ。――浪之助はにわかに不快になり、自分の如何にも生地のないことに、腹立たしさを感じはしたが、蛇に魅入られた蛙《かわず》とでも云おうか、陣十郎という男に見詰められていると、手も足も出ないような恐怖感に、身も魂も襲われるのであった。
 女に血潮《ちのり》を充分に拭わせ、やがて陣十郎は悠々と、刀を鞘に納めたが、
「拙者貴殿に悪いことは申さぬ、深い因縁がないとあれば、いよいよもって幸いでござる、源女とも秋山要介とも今後決して関係つけなさるな」
「はあ。……しかし……それは……何故に。……」
「さようさ、拙者が好まぬ故」
「…………」
 何という図太い我儘だろう。何という押強《おしつよ》い要求だろう。――そうは思ったが浪之助は、それに反抗して否と云い切るだけの、力を持つことが出来なかった。
 で、じっと黙っていた。
「わけても源女と関係なされては不可《いけ》ない。……いかがでござる、よろしゅうござるか」
「…………」
「よろしい、承知なされたそうな。……念のため貴殿にお訊《たず》ねいたすが、貴殿、源女の歌う不思議な歌を、耳にしたことござるかな?」
 こう云って探るように睨むように見た。
(あの歌のことだな)と浪之助は思った。


(ちちぶのこおり、おがわむら、へみさまにわのひのきのね)
 この歌のことだなとすぐ思った。
 しかし聞いたとそう云ったら、どんな目に逢わされるか知れたものではない、こう思ったので浪之助は、
「いや」と簡単に否定した。
「聞かない、よろしい。それは結構。……そこで貴殿に申し上げて置く、今後決して聞いてはならぬ。よしんば例え聞くことがあっても、決してその意味を解いてはならぬ。……よろしゅうござるか、浪之助殿」
「よろしゅうござる」と浪之助は云った、仕方がないから云ったのであって、その実彼はそういわれたため、かえってその歌に含まれている意味を、解いてやろうと決心したくらいであった。
 こういう問答をしているうちにも、今は血刀を拭い終えて、陣十郎の横手に佇んで、爪楊枝を噛みながら、二人の問答を上の空のように、平然と聞き流している、女の姿を観察した。
 三十がらみの年恰好で、櫛巻に髪を結んで居り、絞りの単衣に黒繻子《くろじゅす》の帯、塗りの駒下駄を穿いている。腰の辺りに得も云われない、毒々しい迄の色気があった。顔は整いすぎるほど整っていたが、鼻がひときわ高かったので、ここで一点ぶちこわしていた。毒婦型に嵌まった凄艶の女! そう云えば足りる女であった。
 パチリと女は腕《かいな》を打った。どうやら藪蚊が刺したらしい。左の腕の肩まで捲った。月光に浮いて見えたのは、ベッタリ刻られた刺青《いれずみ》であった。
(凄いな)と浪之助はヒヤリとした。
(陣十郎とはいい取り合わせだ)
「念の為に申し上げて置く」
 重々しい。ねっとりとした。威嚇的の声で、陣十郎がその時云った。
「貴殿拙者に食言いたせば、ここに斃れているこの男のような、悲惨な運命となりましょう。よろしゅうござるかな、浪之助殿」
 云い云い指で膏薬売をさした。
「…………」
 無言でゴックリと唾を飲んで、ただ浪之助は頷いて見せた。
「よろしい、では、お別れいたす。……お妻《つま》行こう」
「あい、行きましょう」
 月光の圏内から遁れ出て、二人は闇に消えてしまった。

 小間使に下女に老婆に老僕に若党の五人を召使に持ち、広い庭を持った立派な屋敷に、気儘に生活《くらし》ている浪之助の身分は、なかなか悪くないと云ってよかろう。
 翌日は昼頃までグッスリと寝、起きると物臭さそうに顔を洗い、小綺麗な小間使お里の給仕で、朝昼兼帯の食事をし、青簾《あおすだれ》を背後に縁へ出て、百合と蝦夷菊との咲いている花壇を、浪之助はぼんやり眺めながら、昨日《きのう》一日に起伏した事件を、どう統一したらよかろうかと、一つは暇、一つは興味、一つは自分の将来に、多少関係あるところから、ムッツリ思案しているところへ、
「旦那様、ご来客でございます」と、小間使が知らせて来た。
「誰だ?」と浪之助はうるさそうに云った。
「秋山要介様と仰せられました」


 泉水築山などのよく見える、風通しのよい上等の客間へ、秋山要介を慇懃に通し、茶菓を備え歓待し、これほどの高名の人物によって、訪問されたことの喜びやら、恐縮やら、光栄やらを感謝しいしい、浪之助が謹ましく応対したのは、それから間もなくのことであった。
 貴殿と源女との以前の関係を、昨日源女より承《うけたま》わった。そうして昨日水品陣十郎が、どこやらのお長屋の庭において、誰やらと試合をしていたのを、貴殿御覧になられたと、そう源女に仰せられたそうな、そのお長屋がどこにあるか、それをお知らせにあずかりたく、拙者参上いたしたのでござると磊落な調子で要介は云った。
「陣十郎の現在の住居を、是非とも承知いたしたいので」
 こう要介は附け加えた。
「本郷の榊原式部少輔《さかきばらしきぶしょうゆう》様の、お長屋の一軒でございました」と、浪之助はあの時見た一部始終を話した。
「何人のお長屋でござりましたかな?」
「さあそれは、うっかり致しまして、確かめませんでござりましたが、よろしくば私ご案内いたし」
「忝《かたじ》けのう[#「忝《かたじ》けのう」は底本では「恭《かたじ》けのう」]ござる、では遠慮なく、夕景にでもなりましたら、散策かたがたご同行を願い……」
「かしこまりましてござります。……ところで……」と浪之助は言葉を改め、昨夜お茶の水の寂しい境地で、その水品陣十郎に逢い、一種の脅迫を受けたことを話した。
 じっと聞いていた要介は、次第にその眉をひそめたが、
「彼の兇悪まだ止まぬと見える。……まことに恐るべきは彼の悪剣……」と独言のように呟いた。
「先生、悪剣と申しますは?」と、浪之助は探るように訊いた。
 要介はしばらく沈黙したまま、泉水の鯉が時々刎ねて、水面へ姿を現わして、そのつど霧のような飛沫を上げ、岸に咲いている紫陽花《あじさい》の花が、その飛沫に濡れたのか、陽に艶めいて見えるさわやかな景へ、鋭い瞳を注いでいたが、
「柳生流の『車ノ返シ』甲源一刀流の『下手ノ切』この二法を並用したらしい、彼独特の剣技でござる」
 こう云って浪之助を正面から見詰めた。
 その眼をまぶしそうに外しながら、
「しかし先生などの腕前からすれば、陣十郎の腕前など……」
「なかなか以って、そうはいかぬ。……一年前に上州|間庭《まにわ》、樋口十郎左衛門殿の道場において、偶然彼と逢いましてな、懇望されて立合いましたが……」
「勝負は?」
「相打ち」
「…………」
「見事に足を。……」
「足を?」
「さよう。払われました」
「…………」
「拙者は面を取りましたが」
 浪之助は黙ってしまった。
 当代剣豪十人を選んで、日本の代表的人物としたら、当然その中に入るべき人物、秋山要介正勝ほどの人が、相打ちになったというからは、彼水品陣十郎という男、伎倆《うで》は伍格《ごかく》と見なければならない。
(そんなに出来る男なのかなア)
 嘘のように思われてならなかった。


 用意して置いた酒肴を出した。
「はじめて参ったのにこのご歓待、要介少なからず恐縮に存ずる」
 こう云いながらも遠慮せず、悠々と盃を重ねる態度が、明朗であり闊達であり、先輩も後輩も無視していて、真に磊落であり洒落であって、しかも本来が五百石取りの、先《まず》は大身の家柄の、御曹司である品位は落とさず、浪之助には慕わしくてならなかった。
「陣十郎のその悪剣、何と申す名称でござりますか?」
 浪之助はそう訊いて見た。
「逆の車と申しておりましたよ。勿論邪道の悪剣ゆえ、正当の名称はござらぬが、彼自身勝手に附けたものと見えます。……まずこう中段に太刀を構える」
 こう云いながら要介は、白扇を取るとグッと構えた。一尺足らずの獲物ながら、名人の構えた扇であった、浪之助にはその扇が、差しつけられた白刃より凄く、要介の躰《からだ》がそれの背後に、悉皆《すっかり》隠れたかのように思われた。
「と、こうグ――と左斜に、太刀を静かに引くのでござる」
 云い云い要介は扇を引いて見せた。
「さながら水の引くが如く。……云う迄もなく誘いの隙じゃ。……誘いの隙じゃと知りながらも、百人が百人それに乗り、一歩踏み出すか打ち込むかする。……と、その機先を素早く制し……柳生の業《わざ》車ノ返シ、そいつでこう一旦返す」
 扇をクルリと下返しに返した。
「ハッと相手が動揺した途端、間髪を入れず下手ノ切、甲源一刀流の下手ノ切……」
 こう云うと要介は左膝の辺りまで、扇を引き付けて八双に構え、すぐに刎ね返して掬い切りをした。
「こいつで来るのじゃ、さようこいつで。……下れば足、上れば胴、もう一段上れば顎へ来る……必ずやられる、必ず切られる」
「しかしそのように解って居りますれば、その術を破る方法が、いくらもあるように存ぜられますが」
「それが無い、こいつが業じゃ。……分解して云えば今のようではあるが、分解も何も差し許さず、講釈も何も超越して、序破急を一時に行なうと云おうか、天地人三才を同時にやると云おうか、疾風迅雷無二無三、敵ながら天晴《あっぱ》れと褒めたくなるほどの、真に神妙な早業で、しかも充分のネバリをもって、石火の如くに行なわれては、ほとんど防ぐに術が無い」
「はあ」と浪之助は溜息をした。
「恐ろしい業でござりまするな」
「恐ろしい業じゃ、恐ろしい悪剣じゃ。……爾来拙者苦心に苦心し、あの悪剣を破ろうものと、考案工夫をいたしおるが……」
「考案おつきになりませぬか?」
「彼のあの時の太刀さばきが、いまだに眼先にチラツイていて、退きませぬよ、消えませぬよ」
「はあ」とまたも浪之助は、溜息せざるを得なかった。
 それにしても昨夜お茶の水で、陣十郎に脅迫された時、反抗しないでよいことをした、変に反抗でもしようものなら、逆ノ車でズンと一刀に、切り仆されてしまったことだろう。
 浪之助にはそう思われた。
 二人は盃を重ねて行った。
 いつか夕暮となっていて、庭の若竹の葉末辺りに、螢の光が淡く燈《とも》されていた。


 酒に意外に時を費し、二人が屋敷から立ち出でたのは、相当夜の更けた頃であった。
「あまり早く出かけて行って、その屋敷のあたりをまいまい[#「まいまい」に傍点]し、陣十郎に目付けられでもしたら、面白くないことになる、おそい方がよろしゅうござる」と、要介はそう云ってかえってよろこんだ。
 家にいる時も外へ出てからも、どういう因縁から源女のお組などと、先生にはお懇意《ちかづき》[#ルビの「ちかづき」は底本では「ちかずき」]になりましたか? お組のうたった不思議な歌の意味、あれはどうなのでござります? 何が故に水品陣十郎は、先生やお組を狙うのですかと、浪之助はいろいろ要介に対して、訊きたいことがあったけれど、一つは昨夜陣十郎によって、そういうことに触れてはならぬと、威嚇されたのが身に泌みてい、一つは要介その人も、そういうことに触れられることを、好んでいないように思われたので、つい浪之助は訊きそびれてしまった。
 こうして本郷の榊原様の、お屋敷地辺りまでやって来た。
 屋敷町は更けるに早く、ほとんど人の通りなどなく、家々の門は差し固められ、甍《いらか》が今夜も明かな月夜、その月光に照らされて、水に濡れたように見えるばかりであった。
「先生、このお屋敷でございます」と、浪之助はお長屋の一軒の前で立った。
 二百石取りか三百石取りか、相当立派な知行取りの、お長屋であることは構えで知れた。
 板塀が高くかかってい、その上に植込みの槇や朴が、葉を茂らせてかかってい、その葉がこれも月の光に燻銀《いぶしぎん》のように薄光っていた。
「表門の方へ廻って見ましょう」
 こう云って要介が先に立ち、二三間歩みを運んだ時、消魂《けたたま》しい叫声が邸内から聞こえ、突然横手の木戸が開き、人影が道へ躍り出た。
 一人の武士が白刃を下げ、空いている片手に一人の女を、横抱きにして引っ抱えてい、それを追ってもう一人の武士が、これも白刃を提《ひっさ》げて、跣足《はだし》のまま追って出て来た。
「汝《おのれ》! ……待て! ……極重悪人」
 追って出た若い武士の叫びであった。
「お兄様! ……お兄様!」
 抱えられている娘は悲鳴をあげた。
「陣十郎だ!」とその瞬間、要介は叫んで足を返した。
 娘を抱えている武士が紛う方もない、水品陣十郎であるからであった。
 陣十郎は躊躇したらしく、一瞬間立ち止まった。
 背後《うしろ》から若い武士が追って来る、行手には二人の武士がいる。何方《どこ》へ走ろうかと躊躇したらしい。
 そこへ追いついた若い武士は、
「父上の敵《かたき》、くたばれ悪漢!」
 声諸共切り込んだ。
「切れ――ッ」と差し出したのは娘の躰《からだ》!
「あッ」とばかりあやうくも、白刃を三寸の宙で止め。
「人楯とは汝《おのれ》卑怯者!」
「お兄様お兄様|妾《わたし》もろとも、陣十郎を切ってお父様の敵を!」
 叫ぶ娘の澄江《すみえ》をグッと、再び抱え込んだ陣十郎は、二人の武士に向い威嚇的に、白刃を振り廻し叱咤した。
「退け! 邪魔するな! 致さば切るぞ」
 駆け抜けようとするその前へ、両手を拡げて要介は立った。


「眼《まなこ》眩《くら》んだか水品陣十郎! 拙者が見えぬか秋山要介だ!」
「なに秋山?」とタジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]としたが、
「いかにも秋山! ウ――ム南無三!」
「事情は知らぬが日頃の悪業、邪は汝《おのれ》にあるは必定! ここは通さぬ、組み止めるぞ! ……」
 途端に背後の若い武士が叫んだ。
「我々兄妹はこの家の者、榊原家の家臣でござって、拙者は鴫澤主水《しぎさわもんど》と申し、妹儀は澄江と申す。それなる男はいささかの縁辺《しるべ》、最近我が家の寄宿者《かかりうど》となり、我等養い居りましたるところ、わずかのことよりたった今し方、われらが父庄右衛門を殺し、ご覧のとおり妹を誘拐《かどわか》し、遁れようといたし居りまする。承わりますればご貴殿には、ご高名の秋山先生との御事、助太刀お願いいたしまする」
「心得てござる」と要介は云った。
「そうなくとも水品陣十郎に対し、拙者従来確執ござる。討って取らねばならぬ奴、まして貴殿ご兄妹の敵《かたき》とありましては、いよいよもって見遁し難い。……助太刀たしかに承知いたした。……貴殿そなたより切ってかかられよ。拙者組み止めお引き渡す。……浪之助殿、貴殿も共々」
「承知しました」と浪之助も云って、本来は小胆である彼ではあったが、傍らには要介が居ることではあり、そうでなくてもこういう場に臨めば、そこは武士で義侠の血も湧き、勇気も勃然と起こるものであり、やにわに刀を引き抜いた。
 腹背敵を受けたばかりか、その中の一人は剣聖ともいうべき、秋山要介正勝であった。剣鬼のような水品陣十郎も、進退|谷《きわ》まったと知ったらしい、突立ったまま居縮んだが、抱えていた澄江を地へ下すと、肩を片足でグッと踏みつけ、大上段に刀を振り冠り、
「秋山氏か、久々に御意得た。いかにも貴殿の云われるとおり、拙者と貴殿とは敵《かたき》同志、と云うよりも競争相手、討つか討たれるか行く道は一つ、しょせんは命の遣り取りする間、ここで逢ったも因縁でござろう、勝負承知、逃げ隠れはしない。……主水、主水、鴫澤主水、汝《おのれ》に対しても云い分はない、いかにもこの方汝の父親、庄右衛門を武士の意地で、今し方切ってすてたは確かだ、親の敵に相違ない善悪正邪を論じたなら、五分の理屈はこっちにもある。が、云うまい理屈は嫌いだ! 悪人に徹底しようぞ。ワッハッハッ、拙者は悪人! 悪人なるが故に義理はいらぬ。そこで恋しい女があれば、理不尽であろうと奪って逃げる。そこで澄江を奪ったのよ。悪人であれば人情は無益、こっちの命のあぶない瀬戸際、そうなっては恋女も情婦もない、人質、人楯、生ける贄《にえ》、土足にかけてこの有様だ! かかれ秋山、かかれ主水!、一寸と動かば振り冠った刀、澄江の上に落ちかかるぞよ!」
 悪人の本性を如実に現わし、左右に向かってこう喚くや、月光にドギツク振り冠った刀を、上げつ下げつ切る真似をして、陣十郎は心よげに笑った。
 切歯はしたが澄江の命があぶない、要介も主水もかかりかね、足ずりをして躊躇《ためら》った。


 が、その時澄江が叫んだ。
「躊躇はご無用|妾《わたし》を殺して、陣十郎をお討取り下さりませ。……まずこの如く!」と繊手《せんしゅ》を揮った。
「ワッ」と陣十郎が途端に叫び、飛び退くと刀を肩に担ぎ、不覚にも一方へよろめいた。
 そこを目掛けて、
「二つになれ!」と、切り込んだは主水の刀であった。
 音!
 鏘然と一合鳴った。
 陣十郎が払ったのである。
 と見て取って翻然と、要介は無手で躍りかかった。
 剣光!
 斜に一流れした。
 陣十郎の横なぐりだ。
 が、何の要介が、切られてなろうか飛び違った。
 そこを二度目に切り込んだ主水!
 またも鏘然と音がして、陣十郎の払った刀の、切先が延びて主水の股へ!
「あッ」
 主水が地に仆れた。
「お兄様!」と簪《かんざし》を逆手に、それで陣十郎の足の甲を突き、機先を制した澄江が叫び、地を這って主水へ近寄った。
「今は憎さが!」と吼えながら、何という残虐陣十郎は、澄江の背を拝み打ち!
 切ろうとした一刹那風を切って、浪之助の投げた石|飛礫《つぶて》が、陣十郎の額へ来た。
「チェーッ」
 片手で払い落とした隙を、ドッとあて[#「あて」に傍点]た躰《たい》にあたり[#「あたり」に傍点]!
 要介の精妙の躰あたりを食らい、もんどり[#「もんどり」に傍点]打って二間の彼方《かなた》へ、毬のように飛ばされた陣十郎! とはいえ彼も鍛えた躰だ、飛燕の軽さ飛び起きるや、這い廻っている主水の傍を、矢のように駈け抜けて一散に脱兎!
「待て!」と要介は追っかけたが、
「浪之助殿、貴殿は居残り、主水殿と澄江殿を介抱なされい!」
「かしこまりました」
「頼む」と云いすて、要介は韋駄天追っかけたが、この辺りの地理に詳しい彼、陣十郎はどこへ行ったものか露路か小路へ逃げ込んだらしい、既に姿は見えなかった。
 が、この頃から物音に驚き、お長屋の窓や潜門《くぐり》が開き、人々が顔を出し、
「どうしたのだ?」
「火事か?」
「盗賊か?」
 などと、口々に罵った。
 要介はそこで、大音に叫んだ。
「悪漢、鴫澤家に禍《わざわい》いたし、この界隈に隠れ居ります。お出合い下されお探し下され」
「行け」「探せ」と人々は叫び、追っ取り刀で走り出して来た。
「向こうだ」
「いや、こっちでござろう」
 四方の露地や小路に駆け込み、あそこかここかと探し廻った。
 次から次、屋敷から屋敷へと、この騒動はすぐに伝波し、家中の武士、夜廻りの者、若党、仲間などが獲物を携え、ここの一画を包囲して、陣十郎を狩り立てた。


 向こうでも人声がし、こちらでも人声がした。疑心暗鬼から味方同志を、敵と間違え声を上げたり、「居たぞ」と叫んで追って行き、それが知り合いの同僚だったので、ドッと笑う声がした。
 いつの間にか敵は一人ではなく、大勢であるように誤伝されたらしく、あそこの露路に五人居ましたぞ、勘兵衛殿のお長屋の塀に添って、三人抜刀して居りましたぞなどと、不安そうに云い合ったりした。
 辻を人影の走って行くのが見えたり、屋敷の庭の松の木などに登って、様子を窺っている人影なども見えた。
 と一つの人影が、月光を避けて家の塀の陰を、それからそれと伝わって、この一画から遁れ出て、下谷《したや》の方へ行こうとするらしく、ぞろぞろと歩いて行くのが見えた。
 ほかならぬ水品陣十郎であった。
 髻《もとどり》が千切れてバラバラになった髪を、かき上げもせず額にかけ、庄右衛門を切った血刀を、袖の下へ隠しながら、跣足《はだし》のままで歩いていた。
 辻を左へ曲がった途端、
「出た――」
「やれ!」
 剣光! 足音!
 五人の武士が殺到して来た。
「…………」
 無言でサ――ッ。
「ギャ――ッ」
「ワッ」
 仆れた。
 生死は知らず二人の武士は仆れ、三人の武士は一散に逃げた。
 そうしてここの地点から、陣十郎の姿も消えていて、霜の下りたような月光の中に、のたうっている二人の負傷者《ておい》が、地面を延びつ縮みつしていた。
 中山右近次と伊丹佐重郎、その両家に挟まれた、黒《くろ》い細い露路の中を、この頃陣十郎は歩いていた。
 さすがの彼も疲労したらしく、時々よろめいたり立ち止まったりした。
 丁字形の辻へ出た。
 左右前後をうかがってから、右の方へ歩いて行った。
 と、一人の夜廻りらしい男が、六尺棒をひっさげて、石材の積んである暗い陰から、鷺足をして忍び出て、陣十郎の後を追った。
 足を払おうとしたのであろう、そろそろと六尺棒を横に構え、膝を折り敷くとヒュ――ッと、一揮! 瞬間にもう一つの人影が、これは材木の立てかけてある陰から、小鬼のように躍り出た。
「ワッ」
 クルクルと六尺棒が、宙に刎ね上って旋回し、夜廻りは足を空にして、丸太のようにぶっ仆れた。
 陣十郎ははじめて驚き、前へ二間ほど速《そく》に飛び、そこでヒラリと振り返って見た。
 一人の男が地に仆れてい、その傍らに一人の女が、血にぬれた匕首《あいくち》を片手に持ち、片手で衣装の裾をかかげ、月光に白々と顔を浮かせ、その顔を気味悪く微笑させ、陣十郎の方を見詰めていた。
「陣十郎さん、あぶなかったねえ」
「誰だ。……や、貴様はお妻」
「情婦《いろ》を忘れちゃ仕方がないよ」
「うむ。……しかし……どうしたんだ」
「そいつアこっちで云うことさ。……一体こいつアどうしたんだえ」
「どうしたと云って……やり損なったのよ」
「そうらしいね、そうらしいよ。……それにしてもヤキが廻ったねえ」

10
「ヤキが廻ったと、莫迦を云うな、人間時々しくじることもある。……それはそうとお前はどうして?」
「ここへ来たかというのかえ。……下谷の常磐《ときわ》で待ち合わそうと、お前と約束はしたけれど、気になったので見に来ると……」
「この騒動で驚いたか」
「それで物陰にかくれていると、この夜廻りが六尺棒でお前の足を払おうとしたので……」
「飛び出してグッサリ横ッ腹をか」
「とんだ殺生をしてしまったのさ」
「お蔭で俺は助かった」
「わたしゃアお前の命の恩人、これから粗末にしなさんな」
「と早速恩にかけか」
「かけてもよかろう礼を云いな」
「いずれゆっくりと云うとしよう」
「そのゆっくりが不可《いけ》ないねえ」
「そうだ、ゆっくりは禁物だ。……どうともして早くここを遁れ。……しかし八方取りまかれてしまった」
「いいことがある、姿を変えな」
「姿を変えろ? どうするのだ?」
「夜廻りの野郎の衣装を剥ぎ……」
「成程こいつア妙案だ」
 物陰にズルズルと夜廻りの躰を、陣十郎は引っ込んで、自分も物陰へ隠れたが、出て来た時には陣十郎の姿は、武士から夜廻りに変わっていた。大小は脇腹へ呑んだと見え、鍔の形だけふくらんで見えた。
「さてこうやって頬冠りをし、お前という女と手を取り合ったら、ドサクサまぎれの駈落者と、こう見られまいものでもないの」
「あたしゃアちょっと役不足さ」
「贅を云うな。……さあ行こう」
 歩き出したところへ四五人の武士が、警《いまし》め合いながら近寄って来た。
「待て」
「へい」
「何者だ」
「ごらんの通りで……お見遁しを」
「うふ、そうか、おっこち[#「おっこち」に傍点]同志か」
「へい」
「行け」
「ごめんなすって」
「これ、待て待て」
「何でございます」
「物騒な殺人者《ひとごろし》が立ち廻っているぞ。用心をして行くがいい」
「――へい、ご親切に、ありがたいことで。……」

 三月が経ち初秋となった。
 甲州方面から武州へ入るには、大菩薩峠を越し丹波川に添い、青梅《おうめ》から扇町谷《おおぎまちや》、高萩村《たかはぎむら》から阪戸宿《さかどじゅく》、高阪宿と辿って行くのをもって、まず順当としてよかった。
 この道筋を辿りながら、一人の若い武士と一人の娘とが、旅やつれしながら歩いていた。
 鴫澤主水《しぎさわもんど》と澄江《すみえ》とであった。
 父の敵水品陣十郎を目つけ、討ち取って復讐しようという、敵討ちの旅なのであった。
 主水と陣十郎との関係は?
 従々兄弟《またいとこ》という薄いものであって、あの時からおおよそ三カ月ほど前に、飄然と鴫澤家へ訪ねて来て話を聞いて見れば、成程そんな親戚もあったと、ようやく記憶に甦えったくらいで、世話する義理などないのであったが、寛大で慈悲深い庄右衛門は、そういうことにはこだわらず[#「こだわらず」に傍点]、陣十郎の懇願にまかせ、家へ寄食させて世話を見てやった。

敵討の旅


 これが大変悪かった。
 はじめのうちは陣十郎も、猫を冠って神妙にしていたが、次第に本性を現わして、出ては飲み、飲んでは酔って帰り、酔って帰っては武芸の自慢をし、庄右衛門や主水の剣法を、児戯に等しいと嘲ったり、不頼漢《ならずもの》らしい風儀の悪い男女をしげしげ邸へ出入させたり、そのうち娘の澄江に対して横恋慕の魔手を出しはじめた。
 澄江は庄右衛門の実の娘ではなく、一人子の主水と配妻《めあ》わす目的で、幼児から養って来た娘であり、この頃庄右衛門は隠居届けを出し、主水と澄江とを婚礼させ、主水を代わりに御前へ出そうと、心組んでいた折柄だったので、陣十郎の横恋慕は、家内一般から顰蹙された。
 自然冷遇されるようになった。
 冷遇されるに従って、いよいよ陣十郎は柄を悪くし、ますます庄右衛門や主水の剣法を、口穢く罵った。そこでとうとう腹に据えかね、あの日庄右衛門は庭へ下り立ち、陣十郎と立ち合った。立ち合って見て庄右衛門は、広言以上に陣十郎の剣法が、物凄いものであることを知り、内心胆を冷やしたが、娘の澄江が仲に入ったため、意外にも陣十郎から勝を譲られた。しかし庄右衛門は考えた。この恐るべき悪剣法者を、このまま屋敷にとめ置いては、我家のためになるまいと。そこでその日茶を飲みながら、それとなく退去を命じてしまった。
 これが陣十郎の身にこたえた。
 彼としては勝をゆずったのであるから、今後は厚遇されるであろう、そうして勝をゆずったのは、澄江が出現したからで、澄江のためにゆずったのである。だから今後はおそらく澄江も、自分に好意を持つだろうと、そんなように考えていたところ、事は全然反対となった。
 そこで小人の退怨《さかうらみ》! そういう次第ならと悪心を亢ぶらせ、翌夜不意に庄右衛門を襲い、寝所でこれを切り斃し、悲鳴に驚いて出て来た澄江を、得たりとばかりに引っ抱え、これも物音に驚いて、出て来た主水をあしらいあしらい、戸外《そと》へ走り出て遁れようとした。
 と、意外な助太刀が出た。
 秋山要介や浪之助であった。
 そこで澄江を手放したあげく、身を持て遁れ行方《ゆくえ》不明となった。
 こうなって見れば主水としては、なすべき事は一つしかなかった。
 敵討《かたきうち》!
 そう、これだけであった。
 父の葬式《そうしき》を出してしまうと、すぐに敵討のお許しを乞うた。
「よく仕《つかまつ》れ」と闊達豪放の主君、榊原式部少輔《さかきばらしきぶしょうゆう》様は早速に許し、浪人中も特別を以て、庄右衛門従来の知行高を、主水に取らせるという有難き御諚、首尾よく本望遂げた上は、家督相続知行安堵という添言葉さえ賜った。
「お兄様|妾《わたくし》も是非にお供を」
 いよいよ旅へ出るという間際になって、こう澄江が云い出した。
「お父上が陣十郎に討たれました。その原因の一半は、妾にあるのでござりますから」
 こう澄江は主張するのであった。
「女を連れての敵討の旅、それはなるまい」と主水は拒んだ。
「主君への聞こえ、藩中の思惑、柔弱らしくて心苦しい」
 こう云って主水は承知しなかった。
「宮城野《みやぎの》、しのぶ[#「しのぶ」に傍点]は女ばかり、姉妹《きょうだい》二人で父の敵を、討ち取ったではござりませぬか」


 だから私達兄妹二人で、父の敵を討ち取ったところで、不思議はないというのであった。
 そういう澄江の心の中には、自分達二人は許婚《いいなずけ》である、良人《おっと》となるべき主水が旅へ出、敵を捜索するとなれば、幾年かかるかわからない、その間寂しい家に籠って、イライラして帰りを待っているより、自分も未熟とはいいながら、田宮流小太刀の教授を受け、その方では目録を取っている、まんざら迷惑の足手まといとはなるまい、その上殺されたお父様は、義理深い養父であり、かつは舅父《しゅうと》となる人であった、実の父親へ尽くすよりも、もっと尽くさなければならないお方だ、そのお方が一半は妾のために、あのような御最期をお遂げになった、どうでも自分としては敵を討ちたい、それにお母様は数年前に死なれ、残って孝養する必要はない、かたがたどうでも主水と一緒に、旅へ出たいという考えが、濃く強くあるのであった。
 主水としても拒絶はしたものの、実は一緒に旅へ出てもよい、なろうことなら一緒に行きたいと、そう思っているのであった。行く行くは夫婦になる二人である、その一人を家へ残して置いて、帰期の知れない旅へ出る、幸い敵に巡り合っても、返り討ちにならないものでもない、そういう旅へ出て行くことは、心にかかる限りである。二人一緒に行ったなら、苦しい時にも悲しい時にも、分け合って慰め合えるではないか。足手まといになるどころか、妹は小太刀ではかなりの使い手、現にあの夜あんな場合に、簪を抜いて男の急所、陣十郎の足の甲を突いて、急難を免がれたほどである。敵陣十郎はどうかというに、甲源一刀流では剣鬼のような使い手、自分のように新影流で、ようやく仮免許を受けたような者とは、段違いの名人である。自分一人では討つに難い、せめて妹が側《そば》にあれば――だから一緒に旅に行きたい、そう願っているのであったが、一藩の者からうしろ指をさされ、あれ見よ鴫澤主水こそは、親の敵を一人では討てず、女手を借りたわと云われることが、心外なことに思われて、断行することが出来なくなったのであった。
「主君《との》の内意をお伺いして」
 よし[#「よし」に傍点]と云ったら連れて行こう。こう不図《ふと》主水は考えつき、上役を介して伺いを立てた。
 と、主君が仰せられた。
「親の敵を二人の子が討つ、しかも一人は女とのこと、健気である。仕《つかまつ》れ。聞けば澄江は小太刀を使うとのこと、足手まといなどにはならぬであろう」
 さらに奥方よりは澄江に対して、守袋と金一封をさえ、使者《つかい》を以て下された。
 上々吉の首尾であった。
 こうして二人は旅へ出た。
 先ず甲州へ出かけて行った。
 と云うのは陣十郎は寄食している間、過去に悪事でも犯しているためか、その過去について語ろうとせず、訊いても言葉を濁らせて、真相《まこと》らしいことは云わなかったが、しかし鴫澤家に寄食する直前、甲州辺りの博徒の家に、賭場防ぎ即ち用心棒として、世話になっていたということを、問わず語りに語ったことがあった。
 雲を掴むような洵《まこと》にあやふや[#「あやふや」に傍点]な、あて[#「あて」に傍点]にならないあて[#「あて」に傍点]であったが、その他には探すあて[#「あて」に傍点]が無かったので、二人――主水と澄江との二人は、ともかくも甲州へ行くことにした。
 さて甲州へ行って尋ねたところ、栗原宿の博徒の親分、紋兵衛という老人が、二人にとってはかなり為になる、耳寄の話を話してくれた。


「お妻とかいう変な女を連れて、水品先生には三月ほど前に、たしかにこの地へ参られましたが、何と思ったか武州方面へ向け、すぐに出発なさいましたよ。あの人とくると武州方面にも、贔屓にしている親分さんが、相当たくさんありますし、あの人の剣術の先生という人が、有名な小川の逸見《へんみ》多四郎様なので、旁々《かたがた》あちらへ参られたのでしょうよ」
 これが紋兵衛の言葉であった。
(甲源一刀流では宗家ともいうべき、逸見多四郎先生が、さては陣十郎の師匠だったのか)
 そう思って主水はヒヤリとした。
(ではその逸見先生の屋敷に、ひそかにかくまわれ[#「かくまわれ」に傍点]ているかもしれない)
 そこで主水と澄江の二人は、武州をさして旅をつづけ、今や上尾宿《あげおしゅく》まで来たのであった。
 江戸はほんの眼の先にあり、自分の屋敷も眼の先にあったが、敵の居場所さえ突き止めない先に、まさか屋敷へも立寄られない。こう思って二人は江戸入りさえ避けて、すぐに上尾宿へ来たのであった。
「お早いお着きで。……いらっしゃいまし」
 女中に案内されて上ったのは桔梗屋という旅籠屋《はたごや》であった。
 逸見家のある小川宿へ向け、実はすぐにも行きたいのであったが、うかうか行って陣十郎のためにもしも姿を見付けられたら、返り討ちに逢わないものでもないと、そんなように心配もされたので、まだ日は相当高かったが、この宿へ足を止めたのであった。
 往来に向いた部屋へ通された。
 旅装を解いて先ずくつろぎ、出された茶で口を濡らしている時、
「馬大尽がお通りになる」と口々に囃す声が聞こえてきた。
(馬大尽とは何だろう?)
 こう思って主水は障子を開け、――部屋は二階にあったので、欄干越しに往来を見た。
 一挺の駕籠《かご》を取り巻いて、博徒らしい五人の荒くれ男と、博労らしい四人の男とが、傍若無人に肩で風切り、往来の左右に佇んで、一種怖そうに一種好奇的に、この一団を眺めながら、噂している宿の人々の前を、東の方へ通って行くのが見られた。
 と、その中に深編笠をかむり、黒塗りの大小を閂《かんぬき》に差し、無紋の羽織を一着した、浪人らしい一人の武士が、警護するように駕籠に引添い、悠々とした足どりで歩いていた。
(はてな?)と主水は眼を見張った。
(陣十郎に似ているようだが?)
 笠をかむっているので顔は見えず、そう思った時には通り過ぎていて、背後《うしろ》姿しか見えなかったので、確めることは出来なかったが、気にかかってならなかった。
「澄江、おいで、あれをご覧」
「はい、何でございますか」
 脱ぎすてた衣装を畳んでいた澄江は、そう云い云い立って来た。
「あれをご覧、あそこへ行く武士を。……あ、いけない、曲がってしまった」
 さよう、その時その一団は、行手にあった四辻を、左の方へ曲がってしまった。
「お兄様、何なのでございますか?」
「わしの眼違いかも知れないが、陣十郎に似た浪人らしい武士が……」
「まあ」と澄江は眼を据えた。


「通って行ったとおっしゃいますので?」
「博徒と博労らしい一団が、駕籠を護って通って行ったが、その中にその武士がまじっていたのだ」
「ではちょっとわたしが行って、陣十郎かそうでないかを……」
「待て待て」と立ち上る澄江を制し、主水は思慮深く考え考え、
「陣十郎も敵待つ身、油断があろうとは思われぬ。あべこべに其方《そち》の姿を見付け、悪剣を揮わぬとも限らない。……もし彼がまこと陣十郎としても、見受けたところ博徒の輩の、賭場防ぎの用心棒として、住み付いている身の上らしく、さすれば今日や明日の中に、この地を去るものとも思われない。……馬大尽とは何者か、先刻《さっき》の一団は何者か、その辺りのことから十分に探って、その上で事に取りかかった方が、安全のように思われる」
 こう云って澄江を動かさなかった。
 夕食の膳の引かれた頃、番頭が挨拶に顔を出した。
「ちと物をたずねたいが」主水は早速話しかけた。
「へい、何でございますか」
「馬大尽とは何者かな?」
「馬大尽でございますか」
「馬大尽じゃと囃されて行った様だが、彼は一体何者かな?」
「木曽の大金持でございます」
「木曽の金持? 信州木曽のか?」
「へい左様でございます。信州木曽谷福島宿の奥所、西野郷に住居いたします。馬持大尽様にございます」
「馬持大尽? ははあ馬持の?」
「五百頭どころか一千頭にも及ぶ、たくさんの木曽駒《きそごま》をお持ちになって居られる、大金持の旦那様なので……お駕籠に乗って居られましたのが、その旦那様なのでございます」
「馬持の大尽様だから馬大尽?」
「へい、さようでございます」
「訳を聞いてみると不思議ではないな」
「へい、さようでございますとも」
「博徒風の男が五人ばかり、駕籠に附き添って行ったようだが……」
「高萩村の猪之松親分から、迎え出ました乾分《こぶん》衆で」
「高萩の猪之松? 博徒の頭か?」
「へい左様でございます。……赤尾村の林蔵親分か、高萩村の猪之松親分かと、並び称され居ります大親分で」
「それにしても木曽の馬大尽が、武州の博徒などと親しいとは?」
「それには訳がございます。……ご承知のこととは存じますが、木曽福島には毎年|半夏至《はんげし》の候、大馬市がございまして、諸国から馬持や博労が集まり、いくらとも知れないたくさんの馬の、売買や交換が行なわれ、大賑《おおにぎわ》いをいたします」
「木曽の馬市なら存じて居る。日本的に有名じゃ」
「荒っぽい大金の遣り取りが行なわれますのでございます」
「もちろんそれはそうだろうな」
「そこを目掛けて諸国の親分衆が、身内や乾児衆を大勢引連れ、千両箱や駒箱を担ぎ、景気よく乗り込んで行きまして、各自《めいめい》の持場に小屋掛けをしまして、大きな盆を敷きますので」
「つまり何だな博奕をやるのだな」
「へい左様でございます。その豪勢さ景気よさ、大相もないそうでございます」


「賭場をひらくとは怪しからんではないか」
「などと仰せられても福島の賭場、甲州|身延山御会式賭場《みのぶさんおんえしきとば》と一緒に、日本における二大賭場と申し天下御免なのでございますよ」
「ふうんそうか、豪勢なものだな」
「本名は井上嘉門様、西野郷の馬大尽様が、この馬市《うまいち》でお儲けになる金高、大変もないそうでございます」
「云わずと知れた、そうだろうな」
「そこで親分方の乾分衆が、押しかけて行って無心をなさる」
「成程な、有りそうなことだ」
「それを一々嘉門様には、お取り上げなされてご合力なさる」
「感心だな。金があるからだろうが」
「親分方といたしましても、見て見ぬふりも出来ませんので、お訪ねをしてお礼を云う」
「義理堅い手合だ、そうだろう」
「嘉門様には一々逢われて、丁寧にご会釈なさるそうで」
「金持には珍しい心掛けだな」
「そこで諸国の親分衆と、嘉門様とはそんな関係から、ずっと永らく交際して居られ、嘉門様が旅などなさいますと、その土地々々の親分衆が、争って歓待なさいますそうで」
「ははあそうか、よく解った」
「高萩村の猪之松親分とは、心が合うとでも申しましょうか、わけても親しいご交際だそうで、馬市が終えると大金を持たれ、毎年のようにこの土地へ参られ、猪之松親分をお相手にして、上尾の宿がひっくり返るほどの、多々羅遊びをなさいます」
「フーンそうか、豪勢なもんだな」
「と云いましても抜目は無く、武州には小金井の牧場があり、牧馬や、牧牛が盛んでありますから、その間に牧主や博労衆などと、来年の馬市の交渉などを、なさいますそうでございます」
「それはまあそうだろう」
「多々羅遊びをなさいまして、上尾の宿を潤しますので、馬大尽がおいでになったと聞くと、宿の人達は大喜びで、お祭のようにはしゃぎ[#「はしゃぎ」に傍点]ます」
「ところで馬大尽の同勢の中に、浪人風の武士がいたが、あれは一体何者かな?」
「用心棒でございますよ、猪之松親分の賭場防ぎの」
「で、何という姓名の者か?」
「さあ何と申しますやら、ああいう浪人衆は一人や二人でなく、猪之松親分の手許などには、五人六人と居りまして、居たかと思うと行ってしまい、行ったかと思うと新しいのが来る。いつもいつも変わりますので」
 知りたいと思った肝心のことが、これでは一向知れなかった。主水《もんど》も澄江《すみえ》も失望したが、とにかく明朝宿を立ち、高萩へ行って猪之松親分を探り、さっきの武士が陣十郎か否か、確かめて見ようと決心した。

 ちょうどこの夜のことであった。
 高萩の猪之松と張り合っている、赤尾の林蔵は乾児の藤作や、杉浪之助と連れ立って、広谷ヶ原の賭場を抜け出し、野良路をかなり不機嫌そうに、上尾宿の方へ歩いていた。
 思うように賭場に人が寄らず、自然テラの薄いのが、彼の不機嫌の原因であり、人寄りの悪いのは猪之松のためだと、そう思ってひどく不機嫌なのであった。
(これまで来てくれた客人さえ、どうやらこの頃は俺を見切って、猪之松の賭場へ行くらしい)
 これが心外でならなかった。

今牛若と小天狗


 武州入間|郡《ごおり》赤尾村に、磯五郎という目明《めあかし》があり、同時に賭場を開いていて、大勢の乾児《こぶん》を養っていた。いわゆる二足の草鞋《わらじ》であって、渡世人からは卑怯であるとして、とかく悪口を云われるものであるが磯五郎ばかりは評判がよかった。それは人間が出来ているからであった。もう五十歳をいくつか出て元気も衰えたところから、御用の方は聞いていたが、賭場や乾児の世話などは、倅《せがれ》に委かせて隠居していた。
 その倅が林蔵であった。
 この頃林蔵は二十八歳、小兵ではあったが、精悍無類、それに大胆で細心で、父に勝る器量人、剣は父の磯五郎共々、秋山要介正勝に従いて学び、免許以上に達している。今牛若と綽名され、若親分として威望隆々、武州有数の大貸元であった。
 ところが入間郡と境を接する、高麗郡の高萩村に、猪之松という貸元があり、この頃年三十一歳、小川宿の逸見《へんみ》多四郎に[#「逸見《へんみ》多四郎に」は底本では「逸身《へんみ》多四郎に」]従《つ》いて、甲源一刀流の極意を極め、小天狗という綽名を受け、中年から貸元になり、博奕にかけてはほんの素人、それでいてひどく人気があり、僅かの間に勢力を延ばし、林蔵の大切な縄張りをさえ犯し、どっちかといえば現在においては、貫祿からも人気からも、林蔵以上と称されていた。
 そこで両雄並び立たず、面と向うと何気無い顔で、時候の挨拶から世間話、尋常の交際《つきあい》はしていたが、腹の中では機会《おり》があったら、蹴込んでやろうと思っていた。
 野良路には露があり、それが冷々と足を濡らした。
「杉さん、賭場をどうお思いかね?」
 並んで歩いている浪之助へ、こう林蔵は声をかけた。
「今日はじめて見た賭博の場、いや洵に愉快だった」
 ほんとに浪之助は愉快そうに云った。
「一瞬間に勝負がつき、突嗟に金銭が授受される。……息詰まるような客人の態度。……細心な中盆の壺の振り方。……万事が真剣で緊張していて、見ていても自ずと力が入る。……」
「アッハハ大変ですねえ、お侍さんだけに渡世人と異《ちが》って、物の見方が面白いや。……まあどうかあんなものへは、決してお手を出しませんように」
「いやわし[#「わし」に傍点]はやるつもりだ。今日ははじめてのことであり、駒の張り方さえ解らなったが、一日の見学でよく解った。この次からはわし[#「わし」に傍点]も張るつもりだ」
「いけませんよ杉さん、そいつは不可《いけ》ない。あいつに手を出して味を覚えると、一生涯やめられません。……やればやるほど深みへ入り、財を失い人を悪くし、碌《ろく》なことにはなりません」
「だろうとわし[#「わし」に傍点]も思っている。だからわしはやろうというのだ」
「へー、そいつア変ですねえ」
「わし[#「わし」に傍点]には物事が退屈なのだ。そこで何かしら退屈でない、全身でぶつかって行けるような物に、ぶつかりたいものと思っていたのだ。……博奕、いや結構なものだ。……当分こいつにぶつかって行くつもりで」
「呆れましたな、とんでもない話だ。……秋山先生に知れようものなら、あっしゃアこっぴどく[#「こっぴどく」に傍点]叱られますよ。……お連れしなけりゃアよかったっけ」
「先生に知れちゃア面白くない、こいつは秘密にして置くんだね」と浪之助はこう云うとクスクスと笑った。


 秋山要介や源女などと、浪之助がこの地へやって来て、林蔵の家へ止宿したのは、半月ほど前であった。
 あんな事件から親しくなり、浪之助はその後要介方へ出入りし、武術の話を聞かして貰ったり、新影流の教えを受けたりした。
 ある日行くと要介が云った。
「源女殿を連れて秩父地方に参る。よろしかったら貴殿もご同道なされ」と。
「秩父地方に何か用でも?」
「旨《うま》くゆくと大金を掘りあて、まずく行っても変わったことを、いろいろ経験しましょうよ」
 こう云って要介は意味ありそうに笑った。
「源女をお連れなさいますのは?」
「あの婦人《おんな》が――いや、あの婦人の歌が、秩父行きの原因でな。……秩父の郡《こおり》小川村逸見様庭の桧の根、昔は在ったということじゃ。――と云うあの婦人のうたう歌が」
 いよいよ意味ありそうに要介は云った。
 もっと詳しく聞きたいものと、そう浪之助は思ったが、それ以上要介が話さなかったので、いずれ聞くとして要介達と一緒に、そうした旅へ出て行ったら、無聊に苦しんでいる自分にとっては、面白かろうとそう思い、浪之助は一緒に行くことにした。
 旅へ出ると何と要介は、すぐこの地へやって来て、林蔵方へ止宿してしまった。
 が、何か画策しているらしく、一人でブラリと家を出て、二三日帰って来ないかと思えば、源女を連れて出かけて行って、やはり二日でも三日でも、帰って来ないようなことがあった。
 林蔵の家へ来てからの浪之助は、決して退屈しなかった。博徒、侠客、貸元などと呼ばれる、この人間の社会生活が、珍らしく痛快であるからであった。義理人情を旨として、行《や》ることといえば博奕であり、それで生活を立てている。勢力争い――縄張争い、こいつがコジレルと血の雨を降らす。親分乾児の関係が、武士の君臣関係より、もっと厳重で頼母《たのも》しい。巧言令色、追従などという、そういういやらしい[#「いやらしい」に傍点]ことが行なわれず、生一本で正直だ。
 これが浪之助を喜ばせたのであった。
(俺も博奕をやってみようかな)
 そんなことを思ってそう思ったことを、こっそり乾児へ云ったことがあった。
「親分に堅く云われて居るんで、杉さんに張らせちゃアならねえって」
 こう云って乾児達は相手にしなかった。
 これだけが浪之助には心外であった。
 とうと浪之助は我慢しきれず、一度でいいから賭場を見せてくれと、今日林蔵へ押して頼んだ。
「仕方がないねえ」と云いながらも、断わりきれず浪之助を連れて、林蔵は自分の賭場の一つ、広谷ヶ原へ出かけて行き、今はそれの帰りなのであった。
 三人は野良路を歩いて行く。
「親分これからどうなさいます?」
 乾児の藤作が声をかけた。
「杉さんにもつきあって[#「つきあって」に傍点]貰って、山城屋へ行って遊ぶとしようぜ」
「そう来なくちゃアならねえところさ。第一お山《やま》さんが大喜びだ」


 上尾宿一番の遊女屋山城屋、その前までやって来たが、見れば表が閉ざされていた。
 それでいて屋内からは賑かな、男女の声が聞こえてきた。
「親分どうも変ですねえ、表を閉じて遊ぶなんて、まず余っ程の大尽でなけりゃア、当今やるこっちゃありませんぜ」
 藤作はいくらかムカッ腹で云った。
「そうさ、こいつ[#「こいつ」に傍点]アちょっと変だ」
 林蔵もいくらか怪訝そうに云った。
「戸をどやしつけてみましょうか」
「そうさな、ひとつひっ叩いてみねえ」
 そこで藤作は戸を叩いた。
「へ――い、どなたでございますかな、今晩は都合で閉めましたんで。お馴染様であろうとご一現様であろうと、お断わりすることになってますんで」
 若衆《わかいしゅう》であろう潜戸の向こうで、こう素っ気なく挨拶をした。
「親分あれをお聞きですか、お馴染様であろうとご一現様であろうと、お断わりすると云っています」
「うむ、どうも仕方がねえな。ともかくももう一度俺の名を明かして、その若衆に掛合ってみな」
「へい、よろしゅうございます。……おいおい若衆、他でもねえが、赤尾の親分を知っているだろうな。お前のところのお山さんとは、切っても切れねえ仲だってこともよ。今年の暮ごろには受出してよ、黒板塀に見越の松、囲うってことも知ってなけりゃア嘘だ。その林蔵親分がな、ここにおいでなすっているのだ。ヤイこれでも戸をあけねえか」
「へい、さようでございましたか、赤尾のお貸元さんでございましたか。……野郎とうとう来やがったな」
「え、何だって、何て云ったんだい?」
「いいえ何にも云やアしません。……ええどうも困りましたな。いつもでしたら家中総出で、お迎えするんでございますが、何しろ今晩は馬大尽様が、そのお山さんを相方にして、しかも家を総仕舞いにして、誰もあげるなと有仰《おっしゃ》って……」
 その時林蔵が声をかけた。
「それじゃア何かいお山の客は、木曽の馬大尽|井上嘉門《いのうえかもん》様か?」
「へい、さようでございます」
「それじゃアどうも仕方がねえ。そうそうそう云えば井上大尽が、今日この土地へ来られたってこと人の噂で聞いたっけ。此方俺《こちとら》も随分ご厄介になった方だ。……いやそれなら結構だ。そういうお方に可愛がられたとあっては、かえってお山に箔がつく、いやそれなら結構だ。……杉さん、藤作、じゃア行こう。……笹屋へでも行って飲み明かそうぜ」
 三人は山城屋の門《かど》から離れ、五町ほど離れたこれも遊女屋の、笹屋というのへ乗り込んだ。
 三人|各自《めいめい》寝についた。
 夜中に林蔵は眼をさまし、用を達《た》すため部屋を出た。
 内緒の前まで来た時である、
「林蔵親分はお気の毒な……」という、笹屋の主人の声が聞こえた。
(はてな?)と林蔵は足を止めた。
「林蔵親分はお気の毒な、お山さんの心の変わったのも知らず、高萩の親分の来ているのを、馬大尽だと嘘を云われても、真に受けてこんな俺らの所へなんか、穏しくおいでなさるんだからなあ」


 答える内儀《おかみ》の声が聞こえた。
「お山という女の性悪には、妾《わたし》も驚いてしまいました。馬を牛に乗り換えるもいいが、日頃お二人さんの張合っているのを、百も二百も承知の上で、林蔵親分を袖にして、猪之松親分へ血道をあげ、狎《な》れつくとは性悪の骨張だよ」
 林蔵は内緒の前を離れ、用を達すと裏梯子から、自分の部屋へ返って来た。
 お山へ義理を立てるために、女を寝かしてはいなかった。
 布団の上に胡座《あぐら》を組み、黙然として考え込んだ。
(お山はどうせ宿場女郎、売物買物で仕方ねえが、高萩の猪之松は顔役だ。四百五百の乾児共から、立てられている男じゃアねえか。俺とお山との関係を、知らねえこともねえはずだ。それでいて俺の女を取る。まあまあそれも仕方ねえとして、井上大尽だと偽って、俺の遊びの邪魔をするとは、男の風上にも置けねえ奴。……そうでなくてさえ俺と彼奴《きゃつ》とは、早晩腕づくで争わなけりゃアならねえ。そういう立場に立っている。ヨーシそれではこの機会に……)
 折柄三番鶏の啼声がし、夜がそろそろ明けかけた。
(よし)と林蔵は立ち上り、身仕度をすると階下に下りた。
 寝ずの番の若衆が土間にいたが。
「これは親分、もうお帰りで」
「うん、わしは、これから帰るが、連れの二人はまだ寝ている、起こさずにそのままにして置いてくれ」
「へい、よろしゅうございます」
 潜戸から林蔵は外へ出た。
 暁の霧が立っていて、宿の家々は薄れてい、往来を歩く人影も少なく、家々の戸はとざされていた。林蔵は朝風に鬢を吹かせ、寝臭くなっている躰の汗を一度に肌から引き込ませ、足早に往来を歩いて行った。宿を出ると街道で、野良が四方に展《ひら》けてい、林や森や耕地があった。左へ行けば赤尾村、右へ行けば高萩村、双方へ行ける分岐点、そこに六地蔵が立っていて、木立がこんもり茂っていた。そこまで行くと立ち止まり、林蔵はしばらく考えたが、やがて木立の陰へ隠れた。
 次第に時が経って行く。
 やがて空が水色に色づき、それが次第に紅味《あかみ》ざし、小鳥が八方で啼き出した。
 と、その時上尾宿の方から、七人の人影が現われて、街道をこっちへ歩いて来た。
 高萩の猪之松の一行であった。
 三十一歳の猪之松は、色白で大兵で、品の備わった立派な男で、博徒などとは見えなかった。高い太い鼻は凜々しかったが、小さい薄い唇は、子供のように初々しく、女などにはどうにも愛されそうであった。結城《ゆうき》の衣装に博多《はかた》の帯、鮫鞘《さめざや》の長脇差を差している。
 後の五人は乾児であり、もう一人は浪人らしい武士であった。
 馬大尽井上嘉門を、乾児達へ出迎えさせ、定宿明石屋へ送り届け、自分も行って挨拶をし、上尾へ出て来たついでとあって、乾児を連れて山城屋へ行き、この頃深間になったお山を揚げ、一夜遊んでの帰途であった。
 六地蔵の前までやって来た時、木陰から林蔵が現われた。


「高萩の、ちょっと待ってくれ」
 林蔵は正面から声をかけた。
「おお、これは赤尾のか、どうして今頃こんな所に?」
 猪之松はちょっと驚いたように、足を止めてそう云った。
「何さ昨夜《ゆうべ》上尾へ行って、陽気に騒ごうと思ったところ、馬大尽が山城屋に来ていて、表を閉めての多々羅遊び、そこでこっちはすっかり悄気《しょげ》、つまらねえ所へ上ってしまい、面白くもねえところから、夜の引き明けに飛び出して、野面の景色を見ていたってわけさ。……見ればお前さんも朝帰りらしいが、上尾へでも行ったのかえ」
「うむ」と猪之松は苦い顔をし、当惑らしくそう云ったが、
「実は俺らもその通り、上尾へ行って遊んだが、面白くもねえ待遇を受け、業を湧かしての帰り道さ。いやすっかり懲りてしまった」
「あんまり懲りてもいないようだが……そうしてどこへ上ったのかな?」
「楼《うち》か、楼は、ええと笹屋だ」
「へえ、こいつは面妖だな。俺らの上ったのも笹屋だが、お前さんの噂は聞かなかったぜ」
「はてな、それじゃア違ったかな」
「大違いの真ン中だろう。……まあそんなことはどうでもいい。そこで高萩の相談がある。聞けばお前さんは小川宿の、逸見《へんみ》多四郎先生の、直弟子で素晴らしい手並とのこと、以前から一度立合って、教えを受けたいと思っていた。ここで逢ったは何より幸い、あまり人通りも無さそうだから、迷惑だろうが立合ってくれ」
「ナニ立合え? ……剣術の試合か?」
「それも是非とも真剣で」
「真剣勝負?」
「命の遣り取り!」
「…………」
 猪之松は無言で眼を見張った。
 しかし心では考えた。
(お山との関係を知ったらしい。そのお山だがこっちから手を出し、横取りしたというのではない。向こうからお膳を据えたので、林蔵との関係は知っていたが、そこは売物買物だ。こだわらずに膳を食べたまでだ。とはいえ林蔵の身になってみれば、気持のいいことはあるまいよ。……そんなお山のことばかりでなく、従来縄張りの争いから、気持の悪いことばかりが、双方の間にあったはずだ。そこで林蔵はその葛藤を、今日一気に片付けようと、てい[#「てい」に傍点]のいい真剣の試合に事寄せ、俺を討取ろうとするのだな)
 ただし猪之松は昨夜山城屋が、林蔵に戸閉めをくれた上、馬大尽が来ているなどと、嘘を云ったというようなことは、夢にも知ってはいなかった。というのは山城屋の若衆の、それは勝手のあつかいだったからで。猪之松はあの晩お山の頼みで、総仕舞いをしてやったばかりなのであった。
「どっちみち何時《いつ》かは俺と林蔵とは、命の遣り取りをしなければならねえ、そこ迄の事情に逼っている。と云ったところでこんな往来で、しかもこんな朝っぱらに、試合などに事寄せられて、勝負をするのは気色が悪い、ここは一先ず避けることにしよう」
 林蔵よりは年長であり、思慮も熟している猪之松だったので、そう腹を定めると笑顔を作って云った。


「いかにも俺は逸見《へんみ》先生から、剣術を仕込まれてはいるけれど、聞けばどうしてお前さんこそ、剣道にかけては鬼神と呼ばれる、秋山要介先生から、極意を授かっているとのこと。とても俺など敵いそうもない。まあまあ試合はお預けとしようよ」
「それじゃア何かな……」と林蔵は、少し急き込み進み出た。
「勝負はしねえとこういうのか?」
「そうさ、勝負は、いずれその中、盆蓙《ぼんござ》の上でするとしよう」
「ほほうそれじゃア博奕打は、盆蓙の上で勝ちさえすりゃア真剣勝負には及ばねえと、こうお前さんは云いなさるのか」
「まあそういったところだろう。無職渡世の俺らには、何より賽コロの勝負が大事、刃物三昧は二の次さ」
 猪之松は冷やかに云い放し、口をゆがめて嘲るように笑った。
 林蔵はいよいよ急き立ったが、グッと抑えてこれも嘲笑し、
「そうかお前さんがそういうふうなら、真剣勝負は止めにしよう。がその代り今日これから、高萩の猪之松は渡世に似合わず、刃物を恐れる卑怯者、赤尾林蔵の手並に怯え真剣勝負を拒断《ことわ》ったわと、関東一円触れ廻っても、決して苦情は云うまいぞよ」
 云いすてるとペッと唾を吐き、グルリと猪之松へ背中を向け、街道を赤尾村の方へ歩き出した。
「おい赤尾の、ちょっと待ちな」
 怒った猪之松の声がした。
「用か」と振り返った林蔵の前に、猪之松の抜いた長脇差が、白く真直に突きつけられていた。
「や、とうとう、それでも抜いたか!」
「そうさ、それまでこの猪之松に、真剣勝負を望むなら、俺も男だ引きはしねえ。気持よく相手になろうじゃねえか。……やいやい手前達……」と振返り、乾児達へ声をかけた。
「赤尾のと俺との真剣勝負、手を出しちゃアならねえぞ。もし俺が殺されたら、そうさな骨だけは拾ってくれ。……それから水品先生もだ……」
 こう云うと猪之松は編笠を冠った、浪人武士の方へ顔を向け、
「貴郎《あなた》も助太刀などなされずに、最後まで見ていておくんなせえ」
「心得てござる」と云いながら、その武士はゆるゆると編笠を脱いだ。
 鴫澤庄右衛門を討って取り、甲州へ一旦落ち延びたが、主水が敵討にやって来るであろう、燈台かえって下暗し、それに武州には甲州以上に、親しくしていた博徒があり、身上の治まらぬところから、破門はされたが剣道の師匠、逸見多四郎先生も居られる、かたがた都合がよかろうと、甲州から武州へ引っ返し、以前わけても世話になった高萩村の猪之松方に、賭場防として身を寄せた。それは水品陣十郎であった。
 脱いだ編笠を手に提げて、その陣十郎は立木に背をもたせ、
「お貸元同志の一騎討ち、またと見られぬ真剣勝負、とく[#「とく」に傍点]と拝見いたしましょう。が、もし高萩の親分にもしものことがございましたら、きっと陣十郎林蔵殿を、生かしてお帰しはいたしませぬ」
 云い云い気味悪く白い眼で笑った。


 猪之松が林蔵へ声をかけた。
「さあ乾児どもへも云い聞かせた。横から手出しはさせねえつもりだ。二人だけの太刀打ち勝負、遠慮なくどこからでも切り込んで来なせえ!」
 ピタリと正眼に太刀を構えた。
「さすがは高萩の見上げた態度、それでこそ男だ気持がいいや。……行くぞ――ッ」と叫ぶと赤尾の林蔵は、脇差を抜くとこれも正眼に、ピタリとばかりに引っ構えた。
 新影流と甲源一刀流、相正眼の厳重の構え、水も洩らさぬ身の固め、しばらくの間は位取ったばかりで身動き一つしなかった。
 と、この時上尾の宿から、旅仕度をした一人の武士と、その連れらしい一人の女とが、差し出たばかりの朝日を浴びて、急ぎ足で歩いて来た。
 鴫澤主水《しぎさわもんど》と澄江《すみえ》とであった。
 昨日見かけた編笠の武士が、敵水品陣十郎か否か、それを窃《ひそか》に確かめようと、上尾宿の旅籠桔梗屋を立って、高萩村へ行こうとして、今来かかった途中なのである。
「お兄様あれは?」と澄江は云って不安そうに指を差した。
 博徒風の人間が切り合ってい、数人の者がそれを見ている、そういう光景が行手に在り、鏘然その時一太刀合い、日光に白刃が火のように輝き、直ぐに引かれて又相正眼、二人が数間飛びすさり、動かずなった姿が見られた。
「切り合いだな」と主水は云った。
「博徒同志の切り合いらしい」
「かかりあいなどになりましては、大事持つ身迷惑千万、避けて行くことにいたしましょう」
「それがよかろう」と主水は云った。
「ではその辺りから横へ逸れて……お待ち」と不意に足を止め、主水はじっと一所を見詰めた。
「立木に背《せな》をもたせかけ、切り合いを見ている武士がいる。昨日見かけた編笠の武士だ!」
「まあ」と澄江は声をはずませ、主水へ躰を寄り添わせたが、
「あのお侍さんでございますか。……おお、まさしく水品陣十郎!」
「編笠を脱いだあの横顔、いかさま陣十郎に相違ない! ……妹!」
「お兄様! 天の賜物!」
「とうとう逢えた! さあ用意!」
「あい」と云うと懐中していた、長目の懐刀の紐を解いた。
 尋ねる親の敵の姿を目前にまざまざ見かけたのであった。思慮深い主水もいくらか上気し、敵陣十郎の周囲にいる博徒が、陣十郎に、味方をして、刃向って来ないものでもない、そういうことさえ思慮に入れず、討って取ろうの一心から、妹澄江と肩を並べ、陣十郎に向かって走りかかり、正面に立つと声をかけた。
「珍らしや水品陣十郎、我等兄妹を見忘れはしまい。よくぞ我父庄右衛門を、悪逆無道にも討ち果したな。復讐の念止みがたく、汝《おのれ》を尋ねて旅に出で、日を費すことここに三月、天運叶って汝を見出でた! いざ尋常に勝負に及べ!」

復讐乱闘


 声をかけられて陣十郎は、さすがに狼狽し顔色を変え、背にしている木立から素早く離れ、その木立を前に取り、しばらくは無言で主水兄妹を、幹越しに睨み息を詰めた。
 が、思案が定まったらしい、蒼白であった顔色へ、俄かに赤味を加えたが、
「おお汝らは鴫澤《しぎさわ》兄妹、何の見忘れてよかろうぞ、汝らの父親庄右衛門のために、堪忍ならぬ恥辱を受け、武士の面目討ち果し、立ち退いて来たこの拙者だ、何の見忘れてよかろうぞ。それにもかかわらずこの拙者を、敵呼ばわり片腹痛し、怨みといえば某《それがし》こそ、かえって汝らに持つ身なるわ! ……敵討とな、笑止千万! 逆怨みとは汝らのことよ! ……が、逆怨みしてこの拙者を、討ち取るとあらば討ち取られよう。とはいえ只では討ち取られない。いかにも尋常の勝負してくれよう。その上での命の遣り取り! あべこべに汝ら討って取られるなよ。……やあ高萩の兄弟衆、お聞き及び通りご覧の如く、こやつら二人逆怨みして、拙者を敵と云いがかり、理不尽にも討ち取ろうといたします。拙者は一人相手は二人、日頃の誼《よし》み兄弟分の情、何卒お助太刀下されい」
 卑怯にも黒白を逆に云い做らし[#「云い做らし」は底本では「云ひ做らし」]、思慮の浅い博徒を唆《そそ》り[#「唆《そそ》り」は底本では「唆《そそ》そり」]、主水兄妹を討ち取らせようと、そう陣十郎は誠しやかに叫んだ。
「合点だ、やれ!」と応じたのは猪之松の乾兒《こぶん》の角太郎であった。
「水品先生を敵と狙う! とんでもねえ奴らだ料ッてしまえ!」
「合点だ、やれ!」
「やれやれやれ!」
 八五郎、権六、〆松、峯吉、無法者の四人の乾兒達も、そう叫ぶと脇差を一斉に抜いた。
 親分猪之松と林蔵とが、二人ばかりの果し合いに、今も白刃を構えている[#「構えている」は底本では「構えるている」]、親分の命で手出しが出来ない、謂う所の脾肉の嘆! それを喞っていた折柄であった。切り合う相手が現われた。理非曲直《りひきょくちょく》は二の次である、血を見ることが出来、切り合うことが出来る、これだけでもう満足であった。
「やれやれ!」と喚きをあげながら、主水と澄江とを引っ包み、無二無三に切りかかった。
 主水は驚き怒ったが、妹澄江を背後に囲うと、
「やあ方々理不尽めさるな、我等は主君よりお許しを受け、免状までも頂戴致し、公に復讐に参ったものでござる! 怨敵は水品陣十郎、その陣十郎をお助けなさるとは、伊達衆にも似合わざる無道の振舞、お退き下され、ご見物下され!」
 必死の声でそう叫んだ。
 と、姦物陣十郎は、鷺を烏と云いくるめる侫弁、
「あいや方々|偽《いつわり》でござるぞ、彼らの言葉をお信じ下さるな。免状を持った公の復讐何の何の偽りでござる。こやつら二人父の不覚が、身の破滅となり知行召し上げ、屋敷を放逐されたはず、人の噂で聞き及び居ります。所詮は浪人の窮餘の索、拙者を討ち取ってそれを功に、帰参願おうの手段でござる!」


「そうとさそうとさ!」
「それに相違ねえ」
「何でもいいから料ッてしまえ!」
 角太郎はじめ五人の博徒は、主水兄妹に切りかかった。
 こうなっては問答は無益、切り払って危難をまぬがれ、陣十郎に近寄って、討ち取るより他に策はなかった。
「理非を弁えぬ汝ら博徒、その儀なれば用捨はならぬ、切って切って切りまくり、五ツ屍を積んで見せる……妹よ、澄江よ、背を合わせて……」
「あい」と云うと妹澄江も、血相変えて一所懸命、懐刀逆手に真向に構え、背中を主水の背中に附けた。
「くたばれ、野郎!」とその瞬間、主水目掛けて躍りかかったは、剣法は知らぬが喧嘩には巧みの、切り合いには手練の角太郎であった。
 音! 鏘然、つづいて悲鳴!
 捲き落とされた脇差が、土煙立つ街道に落ち、肩を割られた角太郎が、足を空ざまに宙に上げ、
「切られた――ッ、畜生! ……畜生! 畜生! 畜生!」
 倒れてノタウチ這い廻り、はだけた胸を血で濡らした姿が、悲惨に醜く眺められた。
「ワ――ッ」と博徒どもは一度に退いた。
「妹、つづけ!」とその隙を狙い、開けた人垣から突き進み、陣十郎目掛けて主水は走った。
「陣十郎! 汝《おのれ》! ……尋常に勝負!」
 真向に刀を振り冠り、走り寄られて陣十郎は、既にこの時抜いていた刀を、これは中段に構えながら、主水の凄じい気勢に壓せられ、剣技はほとんど段違いの程度に、自身《おのれ》勝っては居りながら、ジタジタと後へ引き、しばらく姿勢を保ったが、敵わぬと知ったか何たる卑怯! 街道を逸れて耕地の方へ主水へ背を向け走り出した。
「逃がしてなろうか、汝《おのれ》陣十郎! 穢き振舞い、返せ、勝負!」
 主水は罵って後を追った。
 二十間あまりも追ったであろうか、
(妹は?)と気が付き振り返った。
 四人の博徒に取り囲まれ、切りかかる脇差を左右に反《か》わし、脱けつ潜りつしている澄江の姿が、街道の塵埃《ほこり》を通して見られた。
(南無三、妹を死なしてなろうか!)
「澄江ヨ――ッ」と呼ばわり引っ返したが、
「主水勝負!」と陣十郎の声が、刹那背後から聞こえてきた。
「心得たり!」と振り返った主水の、眼前を閃めく白刃の光!
「音!」
 鏘然!
 陣十郎と、はじめて主水は一合した。
 が、次の瞬間には、互いに飛び違い構えたが、敵《かな》わぬと知ったか復《また》も卑怯、陣十郎は走り出した。
「待て、汝、卑怯未練! 逃げようとて逃がそうや!」
 追っかけたが妹が気にかかり。
「澄江ヨ――ッ」と呼ばわり振り返った。


「お兄イ様ア――ッ」と答える澄江の声が聞こえ、つづいてワ――ッという悲鳴が聞こえ、その澄江に突かれたのであろう、一人の博徒が横腹を抑え、街道から耕地へ転がり落ちる姿と、散った博徒の間を突破し、こっちへ走って来る澄江の姿とが見えた。
「妹、見事! ……兄はここじゃ!」
 呼ばわった主水の背後から、
「勝負! 主水! 参るゾッ」という、陣十郎の声が聞こえた。
「参れッ」と叫んで振り返り、途端に日の光を叩き割り、切り込んで来た陣十郎の刀を、鍔際で受けて頭上に捧げ、皮を切らせて敵の肉を切る、入身捨身仏魔《いりみしゃしんぶつま》の剱! それで切り込んだ主水の刀を、何と無雑作に陣十郎は、受けもせず横に払い捨て、刀を引くと身を翻えし、またも一散に走り出した。
 策有って逃げると感付かぬ主水、
「またも逃げるか、未練の陣十郎! 遁さぬ、返せ、父の敵!」
 叫んで追い、追いつつ振り返り、
「妹ヨーッ、ここじゃ、兄はここじゃ! ……待て陣十郎、逃げるとは卑怯……妹ヨーッ」と十間二十間! 既に二町を街道から離れた。
 行手に巨大な薮があり、丘の如くに盛り上っていたが、その裾を巡って走って行く、陣十郎の後を追い、これも薮を向こうへ廻り、振り返っても街道は見えず、妹の姿も見えなくなった時、
「主水」と叫んで陣十郎が、自身《おのれ》と後へ引っ返して来、
「フ、フ、フ、不愍の痴者《しれもの》、ここまで誘き寄せられたか。……誘き寄せようため逃げた拙者、感付かぬとは扨々《さてさて》笑止、が、そこがこっちの付目、人目あっては嬲殺しは出来ぬ、今は二人だ、二人ばかりだ、逃がそうとて拙者は逃げぬ、逃げようとて汝《おのれ》逃がさぬ、薮を盾に人目を遮り、久しく血を吸わぬこの業物《わざもの》に、汝の血を吸わせてやる。……ゆるゆると殺す、次々に切る。……まず最初に右の手、つづいて左の手を切り落とす。つづいて足じゃ、最後に首じゃ! ……前代未聞の返り討ちに、汝逢ったと閻魔の庁で、威張って宣《なの》り[#「宣《なの》り」は底本では「宜《なの》り」]通れるよう、むごたらしく[#「むごたらしく」に傍点]きっと殺してやる! ……さあこの構え、破らば破れッ」
 極悪非道の吸血鬼、変質性の惨虐の本性、今ぞ現わして陣十郎は、甲源一刀流上段の構え、左足を踏み出し太刀を振り冠り、左手の拳、柄頭の下から、憎々しく主水を横平に睨み、鍔際を握った右の手で、からかう[#「からかう」に傍点]ように太刀を揺すぶった。
 勝れた業の恐ろしさよ! 振り冠られた刀身は、凍った電光のそれのように、中段に太刀を付けた主水の全身を、威嚇し圧して動かさなかった。
 八方へ心を配ったあげく、博徒一人をともかく切った。人一人切った心身の疲労《つかれ》、尋常一様のものではない。のみならず敵を追い二町の耕地を、刀を振り振り走って来た。その疲労とて一通りではない。主水は疲労に疲労ていた。そのあげくに向けられた悪剣!
 眩む眼! 勢《はず》む呼吸《いき》!


 博徒|〆松《しめまつ》の横腹を、懐剣で一突き突いて倒し、散った博徒の間を突破し、陣十郎の後を追う、兄主水に追い付こうと、澄江は疲労に疲労た足で、耕地を一散に走ったが、懲りずに追い縋る博徒三人に、又も囲まれ切り込まれた。
「まだ来る気か!」と女ながらも、田宮流の小太刀を使っては、男勝りの手練の女丈夫、しかし獲物は懐剣であった、相手の脇差は受けられない、そこで飛び違い遣り違わせ、機を見て突きつ切りつして、
「お兄イ様ア――ッ」と呼ばわり呼ばわり、主水の後を追おうとした。
 と、気づいて主水の方を見た。
 主水の姿が見えなくなっていた。
 驚き、落胆し、放心しようとした。
 クラクラと眼が廻り、全身の力が一時に脱け、腕が烈しく動悸打ち、眼の先が暗くなった。
 たった先刻《さっき》まで陣十郎を追い追い、自分の名を呼んで力づけてくれた兄! その兄はどこへ行った? 陣十郎のために殺されたか? 広い耕地、飛々にある林……丘、大薮、畦、小川……遥か彼方には秩父連山! ……朝の日が野面にいっぱいに充ち、小鳥が四方に翔けている。……兄の姿も陣十郎の姿も、その野面のどこにも見えない。
「お兄イ様ア――ッ」と呼ばわった。
 木精《こだま》さえ返って来なかった。
 クラクラと眼眩み倒れようとした。
 そうでなくてさえ荒くれ男、数人を相手に闘ったあげく、一人を突いて倒していた。疲労困憊その極にあった。しかも今も切りかかって来ている。そこへ兄であり恋人であり、許婚《いいなずけ》でもある主水の姿が見えなくなってしまったのである。
 恐怖、不安、焦燥、落胆!
 フラフラと倒れかかった。
「くたばれ――ッ」とばかりそこを目掛け、博徒権六が切り込んだ。
 あやうく反わしたが躓《つまず》いて、澄江はドッと地に倒れた。
「しめた」と峯吉が切り下ろした。
 パ――ッ! 倒れた姿のままで、早速の気転土を掬い、澄江は峯吉の顔へ掛けた。
「ワッ」
 よろめき眼を抑え、引いたのに代って八五郎が、
「洒落臭え女郎!」と突いて来た。
 ゴロリ! 逆に八五郎の方へ、寝返りを打って片手を延ばし、八五郎の足の爪先を掴み、柔術の寝業、外へ捻った。
「痛え!」
 悲鳴して倒れた途端に、澄江は飛び起きフラフラと走り、
「お兄イ様ア――ッ」と悲しそうに呼んだ。
 が、これがほとんど最後の、彼女の懸命の努力であった。
 二間あまりも走ったが、不意に立ち止まるとブルブルと顫え、持っていた懐刀をポタリと落とし、あたかも腐木が倒れるように、澄江は地上へ俯向けに倒れた。
 意識が次第に失われて行く。
 その消えて行く意識の中へ、入って来る[#「入って来る」は底本では「入って來る」]博徒達の声といえば、
「殺すのは惜しい、担いで行け」


 澄江を担いで三人の博徒が、高萩村の方へ走り出した時、街道へ二つの人影が現われ、指差ししながら話し合った。
 杉浪之助と藤作であった。
 今朝笹屋で眼をさまして聞くと、親分林蔵は少し前に、一人で帰ったということであった。そこで二人は少なからずテレて、急いで仕度《したく》をし出て来たところで、みれば博徒風の三人の男が、若い一人の女を担ぎ、耕地を走って行くところであった。
「この朝まだきに街道端で、女を誘拐《かどわか》すとは不埒千万、藤作殿嚇して取り返しましょうぞ」
「ようがす、やりましょう、途方もねえ奴らだ」
 二人は素早く追いついた。
「やい待て待て、こいつらア――ッ」
 まず藤作が声を上げた。
「女を誘拐《かどわか》すとは何事だ! ……ヨ――、汝《うぬ》らア高萩の、猪之松身内の八五郎、峯吉!」
「何だ何だ藤作か! チェッ、赤尾の百姓か!」
 峯吉が憎さげにそう叫んだ、
「百姓とは何だ、溝鼠。……杉さん、こいつらア猪之松の乾兒《こぶん》で……」
 それ以前から[#「それ以前から」は底本では「それ以然から」]杉浪之助は、担がれている女へ眼をつけたが、姿こそ旅装で変わってはいたが、いつぞやの夜、本郷の屋敷町で、危難を秋山要介と共に、救ってやった鴫澤《しぎさわ》家の娘、澄江であることに気がついた。
「やあ汝《おのれ》ら!」と浪之助は叫んだ。
「その女は拙者の知人、汝らに担がれ行くような、不束《ふつつか》のある身分の者ではない。……放せ! 置け! 汝等消えろ!」
「何を三ピン」と八五郎は怒鳴った。
「どこの二本差か知らねえが、俺らの獲物を横から来て、持って行こうとは気が強えや! ……問答は無益だ叩きのめせ!」
「よかろう、やれ!」と命知らず共、担いでいた澄江を抛り出すと、脇差を抜き無二無三に、浪之助と藤作とに切ってかかった。
「殺生ではあるがその儀なれば」
 刀を引き抜き浪之助は、ムーッとばかりに中段につけた。
 性来堕弱の彼ではあり、剣技にも勝れていない彼ではあったが、三カ月というもの秋山要介に従い義侠の精神を吹き込まれ、かつは新影流《しんかげりゅう》の教えを受けた。名人から受けた三カ月の教えは、やくざ[#「やくざ」に傍点]の師匠の三年に渡る、なまくら[#「なまくら」に傍点]の教えより功果がある。今の浪之助というものは、昔の浪之助とは事変わり、気魄横逸勇気凜々、真に大丈夫の俤《おもかげ》があった。
 その浪之助に構えられたのである。
 博徒共は怖気を揮った。
 三人顔を見合わせたが、誰云うともなく、
「いけねえ」
「逃げろ!」
 三方に別れて逃げてしまった。
 と見て取った浪之助は、刀を鞘へ納めるのも忙しく、澄江の側へ走り寄り、地に膝突き抱き介《かか》え、
「澄江殿! 澄江殿!」と呼ばわった。が気が付き、
「これは不可《いけ》ない。気絶して居られる、では、よし」と、急所を抑え「やッ」と活だ!


「あッ」と澄江は声を上げ、息吹き返し眼を見開らき、茫然と空を眺めたが、
「お兄イ様ア――ッ」と恋しい人を、苦しい息で血を吐くように呼んだ。
「拙者でござるぞ、杉浪之助で! 気が付かれたか、拙者でござるぞ!」
 そう呼ぶ浪之助の顔を見詰め、しばらく澄江は不思議そうに、ただハッハッと荒い息をしたが、
「お、お――、貴郎《あなた》様は……いつぞやの晩……あやうい所を……」
「お助けいたした杉浪之助! 再度お助けいたしたは、よくよくの縁、ご安心なされ! それに致してもこの有様は?」
「は、はい、有難う存じます。ご恩は海山! ご恩は海山! ……お兄イ様ア――ッ」とまたも呼んだ。
「お兄イ様とな? 主水殿か? ……その主水殿、如何《いかが》なされた?」
「敵《かたき》……父上の……父上の敵……陣十郎に巡り逢い……切り合う間に兄上には、陣十郎に誘き出され! ……向こうへ、向こうへ、向こうへ行き……そのまま姿が見えずなり……お兄イ様ア――ッ」とまたも呼び、再び気絶したらしく、ぐったりとなりもたれ[#「もたれ」に傍点]かかった。
「おおそうか、さてはお二人、兄妹お二人敵討ちの旅に、お出でなされたと伝聞したが、その敵の水品陣十郎に、おおそうか、さてはここで、お出逢いなされて切り合ったのか。……それにしても無双の悪剣の使手、陣十郎と太刀打ちしては、主水殿に勝目はない。……その陣十郎に誘き出された? ……一大事! 捨てては置けぬ! ……とは云えどこへ? どこへ主水殿は?」
 向こうへ向こうへと云ったばかりで、どの方角へ行ったとも云わず、再度澄江は気絶してしまった。
「どこへ? どっちへ? 主水殿は?」
「杉さん……てっきり……高萩村だア!」
 それまで側《そば》に佇んで、気を揉んでいた藤作が叫んだ。
「このお女中を引っ担ぎ、連れて行こうとしたからにゃア、先刻《さっき》の奴らァ陣十郎とかいう、悪侍の一味でごわしょう。その先刻の奴らといえば、高萩村の猪之の乾兒で。ですから恐らく陣十郎って奴も猪之の家にいるのでござんしょう。ということであってみれば陣十郎とかいう悪侍、主水様とかいうお侍さんを、高萩村の方角へ……」
「いい考え、そうだろう。……では拙者はその方角へ……藤作殿頼む、澄江殿の介抱! ……」
「合点、ようがす、貴郎は早く……」
「うむ」と云うと股立取り上げ、大小の鍔際束に掴み、大薮のある方角とは、筋違いの方角高萩村の方へ、浪之助は耕地の土を蹴り、走った、走った一散に走った。
 この時上尾宿の方角から、馬大尽を迎えに出、慰労とあって猪之松により、乾兒共々上尾宿の、山城屋で猪之松に振舞われ、少し遅れてその山城屋を出た、高萩村に属している、四人の博労が酔いの覚めない足で、機嫌よくフラフラと歩いて来た。


 それへぶつかっ[#「ぶつかっ」に傍点]たのは八五郎であった。
 浪之助のために威嚇され、盲目滅法に逃げて来た、猪之松の乾兒の八五郎であった。
「いい所

下手切り! こいつだけは受けられない、ダーッとドップリ胴へ入るだろう! と、完全の胴輪切り!
 その序の業が行なわれた。
 釣られた釣られた主水は釣られた! あッ、踏み出して切り込んだ。
 一閃!
 返った!
 陣十郎の刀が、軽く宙で車に返った!
 ハ――ッと主水! きわどく反わせたが……
 駄目だ!
 見よ!
 次の瞬間!
 さながら怒濤の寄せるが如く、刀を返しての大下手切りだ――ッ!
「ワッ」
 悲鳴!
 血煙!
 血煙!
 いやその間に、一髪の間に――大下手切りの行なわれる、前一髪の際どい間に……
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秩父の郡《こおり》、小川村、
逸見《へんみ》様庭の桧の根
[#ここで字下げ終わり]
 そういう女の歌声が、手近かの所から聞こえてきた。
「あッ」と陣十郎は刀を引き、タジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]と数歩背後へ下った。


 無心に歌をうたいながら、源女は大薮の中にいた。
 いつも時々起こる発作が、昨夜源女の身に起こった。そこでほとんど夢遊病患者のように、赤尾村の林蔵の家を脱け出し、どこをどう歩いたか自分でも知らず、この辺りまで彷徨《さまよ》って来、この大薮で一夜を明かし、たった今眼醒めたところであった。
 まだ彼女の精神は、朦朧としていて正気ではなかった。
 島田の髷が崩れ傾《かしが》り、細い白い頸《うなじ》にかかってい、友禅模様の派手な衣裳が、紫地の博多の帯ともども、着崩れて痛々しい。素足に赤い鼻緒の草履を、片っぽだけ突っかけている。夜露に濡れたため衣裳はしおたれ[#「しおたれ」に傍点]、茨や木の枝にところどころ裂かれ、手足も胸元も薮蚊に刺され、あちこち血さえ出していた。
 そういう源女は身を横倒しにし、草の上に延びていた。秋草の花――桔梗や女郎花や、葛の花などが寝ている源女の、枕元や足下に咲いていた。栗色の兎がずっと離れた、萩の根元に一匹いて、源女の方を窺っていた。
 彼女の頭上にあるものといえば、樺や、柏や、櫟《くぬぎ》や、櫨《はぜ》などの、灌木や喬木の枝や葉であり、それらに取り縋り巻いている、山葡萄や蔦や葛であり、そうしてそれらの緑を貫き、わずかに幽かに隙《す》けて見える、朝の晴れた空であった。
 薮を透して日の光が、深い黄味を帯びて射し込んで来ていて、地上の草や周囲《まわり》の木々へ、明暗の斑《ふち》を織っていた。
 無心――というよりいつもいつも、心に執拗にこびりついている歌、例の歌を唄ってしまうと、彼女は恍惚《うっとり》と考え出した。こういう場合に彼女の脳裡へ、幻影のように浮かんで来るのは、大森林、大渓谷、大きな屋敷、大傾斜面、五百頭千頭もの放馬の群、それを乗り廻し追い廻し、飼養している無数の人、そうしてあたかも酒顛童子のような、長髪赧顔の怪異の老人――等々々のそれであった。
 しかし彼女はそういう所が、どこにあるかは知らなかった。そうしてどうしてそういう光景が、浮き出して来るかも知らなかった。とはいえ彼女はそういう光景の場所の、どこであるかを確かめなければならない、そうして是非ともその光景の場所へ、どうしても自身行かなければならないと、そんなように熱心に思うのであった。がそれとて自分自身のために、その場所を知ろうとするのでもなく、又行こうとするのでもなく、自分の難儀を救ってくれた人秋山要介という人のために、知りたい行きたいと思うのであった。
 浮かんで来る幻影を追いながら、今も彼女は思っていた。
(行かなければならない、さあ行こう!)
 で、彼女は立ち上った。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]昔はあったということじゃ
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 又彼女は口ずさんだ。
 そうして大薮を分けながら、大薮の外へ出ようとした。
 その大薮の外側には、以前から彼女を狙っている吸血鬼水品陣十郎が、抜身を提げて立っているはずである。

10
 後《あと》へ下った陣十郎は、刀を下段にダラリと下げ、それでも眼では油断なく、主水の眼を睨みつけ、歌主の在所《ありか》がどこであるかと、瞬間それについて考えた。
 周囲《あたり》には大薮があるばかりで、その他は展開《ひら》けた耕地であり、耕地には人影は見えなかった。
 声から云っても歌の性質《たち》から云っても、歌ったのは源女に相違ない。
 が、源女などはどこにもいない。
(さては自分の空耳かな?)
 それにしても余りに明かに、歌声は聞こえてきたではないか。
 源女だ源女だ歌ったのは源女だ!
 かつて一旦手に入れて、薬籠の物にしはしたが、その持っている一大秘密を、まだ発見しないうちに秋山要介に横取りされた女! お組の源女に相違ない!
 探して探して探し廻ったあげく、江戸は両国の曲独楽の席で、ゆくりなくも発見した。が、その直後に起こった事件――鴫澤庄右衛門を討ち果したことから、江戸にいられず旅に出たため、源女のその後の消息については、確かめることが出来なかった。
 その源女の歌声が、こんな所で聞こえたのであった。
(どうしたことだ? どうしたことだ?)
 不思議なことと云わなければならない。
(あの女を再び手に入れることが出来て、あの歌の意味を解くことが出来たら!)
 その時こそ運命が――解いた人の運命が、俄然とばかり一変し、栄耀栄華を尽くすことが出来、至極の歓楽を享けることが出来る!
(どうでもあの女を手に入れなければ!)
 だが彼女はどこにいるのだ?
 分を秒に割った短い間だ! 時間にして短いそういう間に、陣十郎の脳裡に起伏したのは、実にそういう考えであった。
 その間彼は放心状態にあった。
 何で主水が見逃がそうぞ!
 一気に盛り返した勇を揮い、奮然として切り込んだ。
 またも鏘然太刀音がした。
 放心状態にあったとはいえ、剣鬼さながらの陣十郎であった。何のムザムザ切られようぞ!
 受けて一合!
 つづいて飛び退いた、飛び退いた時にはもう正気だ! 正気以上に冴え切っていた。
(こやつを一気に片付けて、源女の在所《ありか》を突き止めなければならない!)
「ヤ――ッ!」と掛けた物凄い掛声!
 つづけて「ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ!」
 先々の先の手一杯! さながら有段者が初心者を相手に、稽古をつけるそれの如く、主水が撃とう切ろう突こうと、心組む心を未前[#「未前」はママ]に察し、その先その先その先と出て、追い立て切り立て突き立て進んだ。
 またもや主水は薮際まで詰められ、眼眩みながら薮の裾を、右手へわずか廻り込もうとした時、天運尽きたか木の根に躓《つまず》き、横倒れにドッと倒れた。
「くたばれ!」
 シ――ンと切り下した!

11
 シ――ンと切り下ろした陣十郎の刀が、仆れている主水を拝み打ちに、眉間から鼻柱まで割りつけようとした途端、日の光を貫いて小柄が一本、陣十郎の咽喉へ飛んで来た。
「あッ」と思わず声を上げ、胸を反らせた陣十郎は、あやうく難を免れたが、小柄の投げられた方角を見た。
 十数間のかなたから、一人の武士が走って来る。
「む!……秋山! ……秋山要介!」
 いかにも走って来るその武士は、今朝になって眼醒めて見れば、昨夜から発作を起こしていた源女が、どこへ行ったものか姿が見えず、それを案じて探すために、林蔵の家を立ち出で、ここまでやって来た秋山要介であり、見れば宿意ある水品陣十郎が、これも因縁《ゆかり》ある鴫澤主水を、まさに討って取ろうとしていた。間隔は遠い、間に合わない。そこで小柄を投げたのであった。
 小柄を投げて陣十郎の兇刃を、制して置いて秋山要介、飛燕の如く飛び込んで来た。
 が、陣十郎もただ者ではない、主水を相手に戦って、既に躰は疲労《つかれ》ていた。そこへ剣豪秋山要介に新規の力で出られては、百に一つの勝目はない。――と見て取るや刀を引き、鞘にも納めず下げたままで、耕地を一散に走って逃げた。
 と、瞬間飛び起きたは、無念残念返り討ちだと、一刹那覚悟して仆れていた主水で、
「秋山先生、お礼は後刻! ……汝、待て――ッ、水品陣十郎! ……遁してなろうか、父の敵!」と、身体綿の如く疲労して居り、剣技も陣十郎と比較しては、数段も劣って居り、追っかけ追い詰め戦ったところで、あるいは返り討ちになろうもしれないと、そういう不安もありながら、みすみす父の敵に逢い、巡り合って刀を交したのに、そうしてその敵が逃げて行くのに、そうして一旦逃がしてしまったなら、いつふたたび巡り逢えるやら不明と思えば追わずにいられなかった。
 で、主水は刀を振り振り、陣十郎を追いかけた。
「待たれい! 主水殿、鴫澤氏!」
 追いついてよしんば戦ったところで、陣十郎に主水が勝つはずはない、返り討ちは見たようなものだ――と知っている秋山要介は、驚いて大音に呼び止めた。
「長追いなさるな! お引き返しなされ! またの機会をお待ちなされ」
 しかし何のそれを聞こう! 主水はよろめきよろめきながら、走り走り走って行く。
(尋常の敵を討つのではなく、親の敵《かたき》を討つのであった。子とあってみれば返り討ちも承知で、追いかけ戦うのが本当であろう)
 気がついた秋山要介は、孝子《こうし》に犬死させたくない、ヨーシ、追いついて後見《うしろみ》してやろう! 助太刀してやろうと決心し、袴の股立取り上げた途端、
「セ、先生、秋山先生!」と、背後から息せき呼ぶ声がし、やにわに袖を掴まれた。
「誰だ!」と怒鳴って顔を見た。
 林蔵の乾兒の藤作であった。

12
「おお藤作、どうしたのだ?」
「タ、大変で……オ、親分が!」
「なに親分が? 林蔵がか?」
「へい、林蔵親分が、カ、街道で、あそこの街道で……タ、高萩の猪之松と……」
「うむ、高萩の猪之松と[#「猪之松と」は底本では「猪の松と」]?」
「ハ、果し合いだい、果し合いだい!」
「む――」と呻くと振り返り、要介は街道の方角を見た。
 旅人や百姓の群であろう、遠巻にして街道に屯し、じっと一所を見ている光景が、要介の眼に鮮かに見えた。彼等の見ている一所で、林蔵は怨ある猪之松と、果し合いをしているのであろう。要介も以前から林蔵と猪之松とが、勢力争い激甚であり、一度は雌雄を決するてい[#「てい」に傍点]の、真剣の切り合いをやるべきことを、いろいろの事情から知っていた。
(これはうっちゃって置かれない。林蔵を見殺しにすることは出来ない。聞けば高萩の猪之松は、逸見《へんみ》多四郎から教えを受け、甲源一刀流では使い手とのこと、林蔵といえどもこの拙者が、新影流は十分仕込んで置いた。負ける気遣いもあるまいが、もしも負れば師匠たる拙者の、恥にならないものでもない。林蔵と猪之松との果し合い、考えようによれば逸見多四郎と、この秋山要介との、果し合いと云うことにもなる。これはうっちゃっては置かれない)
「行こう、藤作!」と叫んだが、
(主水氏は?)とこれも気になり、走って行った方へ眼をやった。
 広い耕地をよろめきよろめき、陣十郎の後を追い、なお主水は走っていた。
(一人で行ったら返り討ち、陣十郎に討たれるであろう。……惜しい武士! 気の毒な武士! ……どうでも助太刀してやらねば……)
 ――が、そっちへ身を挺したら、林蔵はどういう運命になるか?
(どうしたら可《よ》いか? どうしたものだ?)
 知らぬ藤作は急き立てた。
「先生、早く、行っておくんなせえ! ……云いたいことはたくさんあるんで……第一女が誘拐《かどわか》されたんで……若い女が、綺麗な女が……誘拐した野郎は猪之松の乾兒と、その相棒の馬方なんで……最初《はな》は俺らと杉さんとで……へい、そうで浪之助さんとで、その女を助けたんですが……逃げた八五郎め馬方を連れて、盛り返して来てその女を……その時浪之助さんは留守だったんで……いやいやそんなこと! ……行っておくんなせえ、さあ先生! 親分が大変なんだ猪之松の野郎と! ……」
(行かなければならない!)と要介も思った。
(鴫澤氏は赤の他人、少くも縁は極めて薄い。林蔵の方は俺の弟子、しかも現在この俺は、林蔵の家に世話になっている。深い縁がある、他人ではない。……その林蔵を見殺しには出来ない! 行こう! しかし、そうだしかし、主水殿もお気の毒な! では、せめて言葉の助太刀!)
 そこで要介は主水の方に向かい、大音をもって呼びかけた。

13
「鴫澤《しぎさわ》氏、主水殿! 敵水品陣十郎を追い詰め、見事に復讐をお遂げなされ! 拙者、要介、秋山要介、貴殿の身辺に引き添って、貴殿あやうしと見て取るや、出でて、必ずお助太刀いたす! ……心丈夫にお持ちなされい! ……これで可《よ》い、さあ行こう!」
 街道目掛けて走り出した時、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]今は変わって千の馬
五百の馬の馬飼の
[#ここで字下げ終わり]
 と、聞き覚えある源女の声で、手近で歌うのが聞こえてきた。
「や、……歌声! ……源女の歌声!」
 要介は足を釘づけにした。
 探していた源女の歌声が、手近の所から聞こえてきたのであった。足を止めたのは当然といえよう。
「源女殿! お組殿!」
 思わず大声で呼ばわって、要介は四辺《あたり》を忙《せわ》しく見た。
 丘、小山とでも云いたいほどに、うず高く聳えている薮以外には、打ち開けた耕地ばかりで、眼を遮る何物もなかった。
(不思議だな、どうしたことだ。……歌声は空耳であったのか?)
 陣十郎の感じたようなことを、要介も感ぜざるを得なかった。
「先生、どうしたんですい、行っておくんなせえ」
 要介に足を止められて、胆を潰した藤作が怒鳴った。
「第一先生がこんな方角へ、トッ走って来たのが間違いだ。俺ら向こうで見ていたんで。すると先生の姿が見えた。しめた、先生がやって来た、林蔵親分に味方して、猪之松を叩っ切って下さるだろう。――と思ったら勘違いで、こんな薮陰へ来てしまった。そこで俺ら迎えに来たんだが、その俺らと来たひ[#「ひ」に傍点]には、ミジメさったら[#「ミジメさったら」は底本では「ミヂメさったら」]ありゃアしない。馬方に土をぶっかけられたんで。と云うのも杉さんがいなかったんで。その杉さんはどうしたかというに、誘拐《かどわか》された女の兄さんて奴が――そうそう主水とか云ったっけ、そいつが陣十郎とかいう悪侍に、オビキ出されて高萩村の方へ行った。とその女が云ったんで、こいつ大変と杉さんがね、高萩村の方へ追って行ったんで。――が、まあ可《い》いやそんな事ア。よくねえなア親分の身の上だ、まごまごしていると猪之松の野郎に……あッどうしたんだ見物の奴らア……」
 いかさま街道や耕地に屯し、果し合いを見ていた百姓や旅人が、この時にわかに動揺したのが、要介の眼にもよく見えた。が、すぐに動揺は止んで、また人達は静かになった。緊張し固くなって見ているらしい。
 突嗟に要介は思案を定めた。
(ここら辺りに源女がいるなら、薮の中にでもいるのであろう。正気でないと云ったところで、直ぐに死ぬような気遣いはない。……林蔵と猪之松との果し合い、これは一刻を争わなければならない。よしそっちへ行くことにしよう。……が、しかし念のために……)
 そこで要介はまたも大音に、薮に向かって声をかけた。
「源女殿、要介お迎えに参った。どこへもおいでなさるなよ! ……」

14
 街道では林蔵と猪之松とが、遠巻きに見物の群を置き、どちらも負けられない侠客《おとこ》と侠客との試合それも真剣の果し合いの、白刃を互いに構えていた。
 かなり時間は経過していたが、わずか二太刀合わせたばかりで、おおよそ二間を距てた距離で、相正眼に脇差をつけ、睨み合っているばかりであった。
 猪之松には乾兒や水品陣十郎の間に、何か事件が起こったらしく、耕地で右往左往したり、逃げる奴倒れる奴、そういう行動が感ぜられたが、訊ねることも見ることもできず、あつかう[#「あつかう」に傍点]こともできなかった。傍目一つしようものなら、その間に林蔵に切り込まれるからであった。
 林蔵といえどもそうであった、乾兒の藤作の声がしたり、杉浪之助の声がして、何か騒動を起こしているようであったが、どうすることも出来なかった。相手の猪之松の剣の技、己と伯仲の間にあり寸分の油断さえ出来ないからであった。
 が、そういう周囲の騒ぎも、今は全く静まっていた。数間を離れて百姓や旅人、そういう人々の見物の群が、円陣を作って見守っているばかりで、気味悪いばかりに寂静《ひっそり》としていた。
 二本の刀が山形をなし、朝の黄味深い日の光の中で、微動しながら浮いている。
 二人ながら感じていた。――
(ただ目茶々々に刀を振り廻して、相手を切って斃せばよいという、そういう果し合いは演ぜられない。男と男だ、人も見ている。後日の取沙汰も恐ろしい。討つものなら立派に討とう! 討たれるものなら立派に討たれよう!)
 二人ながら心身疲労していた。
 気|疲労《つかれ》! 気疲労! 恐ろしい気疲労!
 技が勝れているだけに、伎倆《うで》が伯仲であるだけに、その気疲労も甚だしいのであった。
 向かい合っていた二本の刀の、その切先がやがて徐々に、双方から寄って来た。
 見よ二人ながら踏み出している右足の爪先が蝮を作り、地を刻んで一寸二寸と、相手に向かって進むではないか。
 ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]!
 音は立たなかった。
 が、ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]と音立つように、互いの切先が触れ合った。
 しかしそのまま二本の刀身は、一度に水のように後へ引き、その間隔が六歩ほどとなった。
 そうしてそのまま静止した。
 静止したまま山形をなし、山形をなしたまま微動した。
 薄くポ――ッと刀と刀の間に、立ち昇っているのは塵埃《ほこり》であった。
 二人の刻んだ足のためにポ――ッと立った塵埃であった。
 間、
 長い間。
 天地寂寥。
 が、俄然二本の刀が、宙で烈しくもつれ合った。
 閃光! 太刀音! 鏘然! 鍔鳴り!
 で、Xの形となって、二本の刀は交叉され、わずかに左右に又前後に、揺れつ縒れつ押し押されつ、粘ったままで放れなかった。

15
 鍔競り合い!
 眼と眼との食い合い!
 そうだ、林蔵と猪之松との眼が、交叉された刀の間を通し、互いに食い合い睨み合っている。
 鍔競り合いの恐ろしさは、競り合いから離れる一刹那にあった。胴を輪切るか真っ向を割り付けるか、伎倆《うで》の如何《いかん》、躰形《たいけい》の如何、呼吸の緩急によって変化縦横! が、どっちみち恐ろしい。
 林蔵も猪之松も一所懸命、相手の呼吸を計っていた。
 と、交叉された刀の間へ、黒く塗られた刀の鞘が、忍びやかに差し込まれた。
「?」
「?」
 鞘がゆるゆると上へ上った。二本の白刃を持ち上げるのである。と、威厳ある声がした。
「勝負待て! 刀を引け! 仲裁役は秋山要介!」
 声と同時に刀の鞘が、二本の刀身を左右に分けた。
 二間の距離を保ちながら、尚、残心、刀を構え、睨み合っている林蔵と猪之松、その間に鞘ぐるみ抜いた太刀を提げて、ノビノビと立ったのは秋山要介で、まず穏かに林蔵へ云った。
「刀を鞘へ納めるがよい」
 それから猪之松の方へ顔を向け、
「以前一二度お見かけいたした。高萩村の猪之松殿か、拙者秋山要介でござる。刀を納め下されい」
 しばらくの間寂然としていた。
 やがて刀の鞘に収まる、鍔鳴りの音が二つ聞こえた。

 この頃源女は大薮を出て、唐黍《とうもろこし》畑の向こうを歩いていた。
(行かなければ不可《いけ》ない、さあ行こう)
 こう思いながら歩いていた。
 何者《だれ》か向こうで呼んでいる。そんなように彼女には思われるのであった。
 畦を越し桑畑を越した。そうして丘を向こうへ越した。もう背後を振り返って見ても、街道も大薮も見えないだろう。
 大渓谷、大傾斜、大森林、五百頭千頭の馬、無数の馬飼、宏大な屋敷――そういうものの存在している所へ、行かなければならない行かなければならない! ……そう思って彼女は歩いて行く。
 崩れた髪、乱れた衣裳、彼女の姿は狂女そっくりであった。発作の止まない間中は、狂女と云ってもいいのであった。
 長い小高い堤があった。
 よじ上って歩いて行った。
 向こう側の斜面には茅や蘆が、生い茂り風に靡いている、三間巾ぐらいの川があり、水がゆるゆると流れていた。
「あッ」
 源女は足を踏み辷らせ、ズルズルと斜面を川の方へ落ちた。パッと葦切が数羽飛び立ち、烈しい声で啼いて去った。と、蘆を不意に分けて、古船が一隻辷り出た。源女がその中に倒れている。
 纜綱《もやいづな》を切らした古船は、源女を乗せたまま流れて行く。
 源女は微動さえしなかった。

各自の運命


 高萩村に近い森の中まで、陣十郎を追って来た鴫澤主水《しぎさわもんど》は、心身全く疲労し尽くし、ほとんど人心地を覚えなかった。
 抜身を地に突き体を支えたが、それにも堪えられずクタクタ倒れた。
 とうに陣十郎は見失っていた。
 その失望も手伝っていた。
(残念、逸した、敵を逸した!)
(が、飽くまでも探し出して、……)
 立ち上ろうと努力した。
 が、躰はいうことをきかず、のみならず精神さえ朦朧となった。
 こうして杉や桧や槇や、楢などの喬木に蔽われて、その奥に朱の褪せた鳥居を持ち、その奥に稲荷の祠を持ち、日の光も通して来ず、で薄暗い風景の中に、雀や鶸《ひわ》や山雀《やまがら》や山鳩の、啼声ばかりが繁く聞こえる、鎮守の森に包まれて、気絶して倒れた主水の姿が、みじめに痛々しく眺められた。
 色づいた[#「色づいた」は底本では「色ずいた」]病葉《わくらば》が微風にあおられ体の上へ落ちて来たりした。
 かなり長い間しずかであった。
 と、その時人声がし、間もなく十数人の男女の者が、森の中へ現われた。
 変わった風俗の連中であった。
 赤い頭巾に赤い袖無、そんなものを着けている若い男もあれば、亀甲模様のたっつけ[#「たっつけ」に傍点]を穿き、胸に大形の人形箱をかけた、そういう中年の男もあり、紫の手甲に紫の脚絆、三味線を抱えた女もあり、浅黄の股引、茶無地の筒袖、そういう姿の肩の上へ、猿をとまらせた老人などもあった。
 それらはいずれも旅装であった。
 秩父|香具師《やし》の一団なのである。
 平素は自分の家にいて、百姓もやれば杣夫《そま》もやり、猟師もやれば川狩もやるが、どこかに大きな祭礼があって、市《たかまち》が立って盛んだと聞くと、早速香具師に早変りして、出かけて行って儲けて来、家へ帰れば以前通り、百姓や杣夫として生活するという――普通の十三香具師とは別派の、秩父香具師の一団であった。
 この日もどこかの市を目掛け親しい者だけで組をつくり、出かけて行くところらしい。
 その中に一人旅装ではなく、髪は櫛巻きに銀簪一本、茜の小弁慶の単衣《ひとえ》を着た、若い女がまじっていた。
 陣十郎の情婦のお妻であった。
「姐御、お前さんも行くといいんだがな」
 一人の男がこう云って、そそのかすようにお妻を見た。
「そうさねえそうやって、お前さんたちが揃って出かけて行くのを見ると、一緒に行きたいような気持がするよ」
 まんざらお世辞でもなさそうに、お妻はそう云って薄笑いをした。
「陣十郎さんばかりが男じゃアなし、他に男だってあろうじゃアないか。そうそういつもへばり付いてばかりいずに、俺らと旅へ出るのもいいぜ」
 こうもう一人の男が云った。
「あたしを旅へしょびいて行くほどの、好い男がどこかにいるかしら、お前さん達のお仲間の中にさ」
 云い云い、お妻は又薄笑いをして、香具師達を見廻した。
「俺じゃア駄目かな、え、俺じゃア」と、猿廻しが顔を出した。


「十年若けりゃア物になるが」
 お妻はむしろ朗かに笑った。
 お妻は秩父の産れであり、秩父香具師の一人であった。が、ずっと若い頃に、草深い故郷に見切りをつけ、広い世界へ出て行って、香具師などというケチなものよりもっと烈しい、もっと罪の深い、そうしてもっと度胸の入る、凄い商売へ入り込んでしまった。
 女邯鄲師《おんなかんたんし》[#ルビの「おんなかんたんし」は底本では「おんんなかんたんし」]――それになってしまった。
 道中や温泉場などで親しくなり、同じ旅籠《はたご》へ一緒に泊り、情を通じてたらす[#「たらす」に傍点]もあり、好きな男で無い場合には、すかし[#「すかし」に傍点]、あやなし[#「あやなし」に傍点]、たぶらかし[#「たぶらかし」に傍点]て、油断を窺って有金から持物、それらを持って逃げてしまう、平ったく云えば枕探し、女賊になってしまったのである。
 陣十郎の情婦になったのも、平塚の宿で泊まり合わせ、枕探しをしようとしたところ、陣十郎のために取って抑えられた、それが因縁になったのであった。
 その女邯鄲師のお妻であるが、今度陣十郎と連立って、産れ故郷へ帰って来た。と、今朝高萩の村道を、懐かしい昔の仲間達が――すなわち秩父香具師達が、旅|装束《よそおい》で通って行った。知った顔も幾個かあった。で、あまりの懐かしさに、冗談云い云いこんな森まで、連立って一緒に来たのであった。
「おや」と不意にお妻は云って、急に足を一所で止めた。
「こんなところに人間が死んでいるよ」
 行手の杉の木の根下の草に、抜身を持った武士が倒れている。
「ほんに、可哀そうに、死んでらあ。……しかも若いお侍さんだ」
 香具師達は云って近寄って行った。
 お妻はその前にしゃがみ[#「しゃがみ」に傍点]込み、その武士の額へ手をやったが、
「冷えちゃアいない、暖《あった》かいよ」
 いそいで脉所《みゃくどころ》を握ったが、
「大丈夫、生きてるよ」
「じゃア気絶というやつだな」
 一人の香具師が心得顔に云った。
「そうさ、気絶をしているのさ。抜身を持っているところを見ると、きっと誰かと切り合ったんだねえ。……どこも切られちゃアいない。……気負け気疲労《きつかれ》[#「気疲労《きつかれ》」は底本では「気疲労《きつかれ》れ」]で倒れたんだよ」
 云い云いお妻は覗き込んだが、
「ご覧よ随分|好男子《いいおとこ》じゃアないか」
「チェーッ」と誰かが舌打ちをした。
「姐御いい加減にしてくんな。どこの馬の骨か知れねえ奴に、それも死に損ない殺され損ないに。気をくばるなんて嬉しくなさ過ぎらあ」
「まあそういったものでもないよ。……第一随分可愛そうじゃアないか。……それにさ、ご覧よ、この蒼白い顔を……唇の色だけが赤くてねえ。……ゾッとするほど綺麗だよ。……」
「色狂人! ……行こう行こう!」
「行きゃアがれ、碌で無し! ……妾アこの人を介抱するよ」
 お妻は主水の枕元へ、ペタペタと坐ってなお覗き込んだ。


 その同じ日のことであった。
 絹川という里川の岸で、一人の武士が魚を釣っていた。
 四十五六の年齢で、広い額、秀でた鼻、鋭いけれど暖かい眼、そういう顔の武士であった。立派な身分であると見え、衣裳などは寧ろ質素であったが、體に威があり品があった。
 傍らに籃《びく》が置いてあったが、魚は一匹もいなかった。
 川の水は濁りよごれ[#「よごれ」に傍点]てい、藻草や水錆が水面に浮かび、夕日がそれへ色彩をつけ、その中で浮子《うき》が動揺してい、それを武士は眺めていた。
「東馬《とうま》もう何刻《なんどき》であろう?」
 少し離れた草の中に、お供と見えて若侍が退屈らしい顔付をして、四辺《あたり》の風景を見廻していたがそれへ向かって話しかけた。
「巳刻《よつどき》でもありましょうか」
 若侍はそう答え、
「今日は不漁《しけ》でございますな」
 笑止らしく云い足した。
「わしの魚釣、いつも不漁じゃ」
「御意で、全くいつも不漁で。……それにもかかわらず先生には、毎日ご熱心でございますな」
「それでいいのだ、それが本意なのだ。……と云うのはわしの魚釣は、太公望と同じなのだからな」
「太公望? はは左様で」
「魚釣り以外に目的がある。……ということを云っているつもりだが」
「どのような目的でございますか?」
「そう安くは明かされないよ」
「これはどうも恐れ入りました……が、そのように仰せられますと、魚の釣れない口惜《くちお》しまぎれの、負けおしみなどと思われましても……」
「どうも其方《そち》、小人で不可《いけ》ない」
「お手厳しいことで、恐縮いたします」
「こう糸を垂れて水面を見ている」
「はい、魚釣りでございますからな」
「水が流れて来て浮子にあたる」
「で、浮き沈みいたします」
「いかにも自然で無理がない……芥《あくた》などが引っかかると……」
「浮子めひどくブン廻ります」
「魚がかかると深く沈む」
「合憎[#「合憎」はママ]、今日はかかりませんでした」
「相手によって順応する……浮子の動作、洵《まこと》にいい」
「浮子を釣るのでもござりますまいに」
「で、わしはその中に、何かを得ると思うのだよ」
「鮒一匹、そのくらいのもので」
「魚のことを云っているのではない」
「ははあ左様で。……では何を?」
「つまりあの業《わざ》を破る術じゃ」
「は? あの業と仰せられまするは?」
「水品陣十郎の『逆ノ車』……」
「ははあ」
「お、あれは何だ」
 その時上流から女を乗せた、死んだように動かない若い女を乗せた、古船が一隻流れて来た。
「東馬、寄せろ、船を岸へ」
「飛んでもないものが釣れましたようで」
 若侍は云い云い袴を脱ぎかけた[#「脱ぎかけた」は底本では「股ぎかけた」]。
 が、古船は自分の方から、ゆるゆると岸の方へ流れ寄って来た。
 武士は釣棹の柄の方を差し出し、船縁へかけて引き寄せるようにしたが、
「女を上げて介抱せい」
 そう若侍へ厳しく云った。

鳳凰と麒麟


 それから幾日か経った。
 秋山要介は杉浪之助を連れて、秩父郡小川村《ちちぶのこおりおがわむら》の外れに、あたかも嵎《ぐう》を負う虎の如くに蟠居し、四方の剣客に畏敬されている、甲源一刀流の宗家|逸見《へんみ》多四郎義利の、道場構えの広大な屋敷へ、威儀を作って訪れた。
「頼む」
「応」と返事があって、正面の襖が一方へひらくと、小袴をつけた若侍が、恭しく現われた。
「これはこれは秋山先生、ようこそご光来下されました」
「逸見先生に御意得たい。この段お取次下されい」
「は、先生には江戸表へ参り、未だご帰宅ござりませねば……」
「ははあ、いまだにお帰りない」
「帰りませんでござります」
「先生と一手お手合わせ致し、一本ご教授にあずかりたく、拙者当地へ参ってより三日、毎日お訪ねいたしても、そのつどお留守お留守とのご挨拶、かりにも小川の鳳凰《ほうおう》と呼ばれ、上州間庭の樋口十郎左衛門殿と、並び称されている逸見殿でござれば、よもや秋山要介の名に、聞き臆じして居留守を使われるような、そのようなこともござるまいが、ちと受取れぬ仕儀でござるな」
 洒脱であり豪放ではあるが、他人に対してはいつも丁寧な、要介としてはこの言葉は、かなり角立ったものであった。
 傍に引き添っていた浪之助も、これはおかしいと思った程である。
 面喰ったらしい取次の武士は、
「は、ご尤《もっと》もには存じますが、主人こと事実江戸へ参り、今に帰宅いたしませねば……」
「さようか、よろしい、事実不在、――ということでござるなら、又参るより仕方ござらぬ。……なれどこのまま帰っては、三度も参った拙者の腹の虫、ちと納まりかねるにより、少し無礼とは存じ申すが、表にかけられた門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、お預かりして持ちかえる。逸見殿江戸よりご帰宅なさらば、この旨しかとお伝え下され。宿の小紅屋に滞在まかりある。ご免」というと踵《きびす》を返し、門を出ると門の柱に「甲源一刀流指南」と書いた、二寸厚さの桧板、六尺長い門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]外し、小脇に抱えて歩き出した。
 呆れ返ったのは浪之助で、黙々として物も云わず、要介の後から従《つ》いて行った。
 村とはいっても小川村は、宿場以上の賑いを持った、珍らしく豊かな土地であって、道の両側には商店多く、人の往来も繁かった。そういう所を立派な武士が、大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]引っ抱え、若い武士を供のように連れて、ノッシノッシと歩いて行くのであった。店の人達は審かしそうに覗き、往来の人達も不思議そうに眺めた。
 が、要介は意にも介さず、逸見家とは反対の方角の、これは小川村の入口にある、この村一番の旅籠屋の、小紅屋まで歩いて来た。
「お帰り」と番頭や婢達《おんなたち》が、これも怪訝そうな顔をして、大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]抱えた要介達を迎え、玄関へ頭を並べたのを、鷹揚に見て奥へ通った。


 中庭を前にした離座敷――この宿一番の座敷らしい――そこの床の間へ大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]立てかけ、それを背にして寛《ゆるや》かに坐わり、婢の持って来た茶を喫しながら、要介は愉快そうに笑っていた。
 その前に浪之助はかしこまっていたが、これは随分不安そうであった。
「先生」ととうとう浪之助は云った。
「これは一体どうしたことで?」
「…………」
 愉快そうに笑っている。
「武芸指南所の門札は[#「門札は」は底本では「門礼は」]、商家の看板と等しなみに、その家にとりましては大切なもの、これを外されては大恥辱……」
「ということは存じて居るよ」
「はい」と浪之助はキョトンとし、
「それをご承知でその門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「さよう、わしは外して来た」
「はい」と又もキョトンとし、
「それも高名の逸見先生の……」
「鳳凰と云われる逸見氏のな」
「はい」ともう一度キョトンとし、
「それほど逸見様は高名なお方……」
「わしも麒麟《きりん》と呼ばれて居るよ」
「御意で」と今度は頭を下げ、
「関東の麒麟と称されて居ります」
「鳳凰と麒麟……似合うではないか」
「まさにお似合いではございますが、似合うと申して門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「ナニわしだから外して来てもよろしい」
「麒麟だから鳳凰の門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「さようさよう外して来てもよろしい」
「ははあ左様でございますかな」
「他の奴ならよろしくない」
「…………」
「ということは存じて居る。さよう逸見氏も存じて居る」
「…………」
「人物は人物を見抜くからの」
「はい、もう私などは小人で」
「そのうちだんだん人物になる」
「はい、ありがたく存じます」
 とは云ったものの浪之助は、
(うっかり物を云うとこんな目に逢う。訓された上に嚇されてしまう)
 こう思わざるを得なかった。
「それに致しましても先生には、何と思われて小川村などへ参り、何と思われて逸見先生のお宅などへ……」
「武術試合をするためにさ……」
「それだけの目的でございますかな?」
「真の目的は他にある」
「どのような目的でございますかな?」
「赤尾の林蔵を関東一の貸元、そいつに押し立ててやりたいのだ」
「そのため逸見先生と試合をなさる?」
「その通り。変に思うかな?」
「どういう関係がございますやら」
「今に解る。じきに解る」
「ははあ左様でございますか」
「わしは金蔓をなくしてしまった――源女殿を見失ってしまったので、秩父にいる必要がなくなってしまった。そこで江戸へ帰ろうと思う。……江戸へ帰って行く置土産に、林蔵を立派な男にしてやりたい。それで逸見氏と試合をするのだ。……高萩の猪之松の剣道の師匠、逸見多四郎殿と試合をするのだ」


(なるほどな)と浪之助は思った。
(林蔵の師匠たる秋山先生と、猪之松の師匠たる逸見先生とが、武術の試合をした上で、林蔵を関東一の貸元にする。なるほどな、意味がありそうだ)
 確実のことは解らなかったが、意味はありそうに思われた。
 やがて解るということであった。押して訊こうとはしなかったが、
「それに致しましてもお組の源女と、その源女のうたう歌と、先生とのご関係を承《うけたま》わりたいもので」
 以前から疑問に思っていたことを、浪之助は熱心に訊いた。
 その浪之助は以前においては、まさしく源女の愛人であった。がその源女が今度逢ってみれば、変わった性格となって居り、不思議な病気を持って居り、妙な歌を口吟《くちずさ》むばかりか、要介などという人物が、保護する人間となっていたので、浮いた恋、稀薄の愛、そのようなものは注がないこととし、ほんの友人のように交際《つきあ》って来たところ、その源女は上尾街道で、過ぐる日行なわれた林蔵と猪之松との果し合いの際|行方《ゆくえ》不明となり、爾来姿を見せなくなっていた。
 浪之助も勿論心にかけたが、要介のかけ方は一層で、
「あの日たしかに大薮の陰で、源女殿の歌声を耳にした。が、果し合いを引き分けおいて、急いで行って探した時には、もう源女殿はいなかった。どこにどうしていることやら」と、今日までも云いつづけて来たことであった。
「源女殿とわしとの関係か。さようさな、もう話してもよかろう」
 要介はいつになくこだわら[#「こだわら」に傍点]なかった。しかししばらく沈思していた。久しく聞きたいと希望していた、秘密の話が聞かれるのである。浪之助は思わず居住いを正し、緊張せざるを得なかった。
 中庭に小広い泉水があり、鯉が幾尾か泳いでいたが、時々水面へ飛び上った。それが田舎の古い旅籠屋の、昼の静かさを破壊するところの、たった一つの音であった。
 と、要介は話し出した。
「武蔵という国は承知でもあろうが、源氏にとっては由縁《ゆかり》の深い土地だ。源氏の発祥地ともいうべき土地だ。ここから源氏の諸豪族が起こった。秩父庄司《ちちぶしょうじ》、畠山重忠《はたけやましげただ》、熊谷次郎直実《くまがいじろうなおざね》等、いずれも武蔵から蹶起した武将だ。……がわしにかかわる[#「かかわる」に傍点]事件は、もっと昔に遡らなければならない。……これは誰もが承知していることだが、後冷泉天皇の御宇《ぎょう》にあって、奥州の酋長|阿部《あべ》の頼時《よりとき》が、貞任《さだとう》、宗任《むねとう》の二子と共に、朝廷に背いて不逞を逞ましゅうした、それを征したのが源|頼義《よりよし》、そうしてその子の八幡太郎義家――さてこの二人だが奥州征めの往来に、武蔵の国にとどまった。今日の国分寺村の国分寺、さよう、その頃には立派な寺院で、堂塔伽藍聳えていたそうじゃが、その国分寺へとどまった……ところが止まったばかりでなく、前九年の役が終了した際、奥州産の莫大な黄金、それを携えて帰って来、それを国分寺の境内に、ひそかに埋めたということじゃ。それには深い訳がある」
 こう話して来て要介は、またしばらく沈思した。


 要介はポツポツ話し出した。
「源氏は東国を根拠とすべし。根拠とするには金が必要だ。これをもってここへ金を埋めて置く。この金を利用して根を張るべし。――といったような考えから、金を埋めたということだ。……その後この地武蔵において、いろいろさまざまの合戦が起こったが、埋めてあるその金を利用したものが、いつも勝ったということじゃ。ところがそのつど利用したものは、他の者に利用されまいとして、残った金を別の所へ、いつも埋め代えたということじゃ。……治承《じしょう》四年十月の候、源頼朝が府中の南、分倍河原《ぶばいがわら》に関八州の兵を、雲霞の如くに集めたが、その時の費用もその金であり、ずっと下って南北朝時代となり、元弘《げんこう》三年新田義貞卿が、北條高時を滅ぼすべく、鎌倉に兵を進めようとし、分倍河原に屯して、北條泰家と合戦したが、その時も義貞は源氏というところから、その金を利用したという事じゃ。正平《しょうへい》七年十二月十九日、新田|義宗《よしむね》南軍を率い、足利尊氏を狩野河《こうのかわ》に討つべく、武蔵の国に入ったところ、尊氏すでに狩野河を発し、谷口から府中に入り、人見原《ひとみはら》にて激戦したが、義宗破れて入間川《いるまがわ》に退き、二十八日|小手差原《こてさしはら》にて戦い、ふたたび破れて退いたが、この時は足利尊氏が、これも源氏というところから、その金を利用したということじゃ。更に下って足利時代に入り、鎌倉の公方足利成氏、管領上杉|憲忠《のりただ》を殺した。憲忠の家臣長尾|景晴《かげはる》、これを怒って手兵を率い、立川原で成氏と戦い、大いに成氏を破ったが、この時はその金を景晴が利用し、その後その金を用いた者で、史上有名の人物といえば、布衣《ふい》から起こって関八州を領した、彼の小田原《おだわら》の北條|早雲《そううん》、武蔵七党の随一と云われた、立川宗恒《たてかわむねつね》、同恒成、足利学校の創立者、武人《ぶじん》で学者の上杉|憲実《のりざね》。……ところがそれが時代が移って、豊臣氏となり当代となり――即ち徳川氏となってからは、その金を利用した誰もなく、金の埋没地も不明となり、わずかにこの地方秩父地方において『秩父の郡小川村、逸見様庭の桧の根、昔はあったということじゃ……』という、手毬唄に名残をとどめているばかりじゃ。……」
 ここまで云って来て要介は、不意に沈黙をしてしまった。
 じっと聞いていた浪之助の、緊張の度が加わった。
 源女のうたう不可解の歌が、金に関係あるということは、朧気ながらも感じていたが、そんな歴史上の合戦や人物に、深い関係があろうなどとは、夢にも想像しなかったからである。
(これは問題が大きいぞ)
 それだけに興味も加わって、固唾を呑むという心持! それでじっと待っていた。
 要介は語りついだ。
「あの歌の意味は簡単じゃ。今話した例の金が、武蔵秩父郡小川村の逸見《へんみ》家の庭にある桧の木の根元に、昔は埋めてあったそうさな。――という意味に他ならない。逸見家というのは云う迄もなく、逸見多四郎殿の家の事じゃ。……その逸見家は何者かというに、甲斐源氏《かいげんじ》の流を汲んだ、武州無双の名家で旧家、甲源一刀流の宗家だが、甲源の文字もそこから来ている。即ち甲斐源氏という意味なのじゃ」


 要介は語りつづけた。
「歌もそこ迄なら何でもないのじゃ。というのは普通の手毬歌として、秩父地方の人々は、昔から知っているのだからな。ところがどうだろう源女殿だけが、その後の文句を知っている『今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の……それから少し間が切れて――秣の山や底無しの、川の中地の岩窟の……という文句を知っている。そこへわし[#「わし」に傍点]は眼をつけたのじゃ。頼義《よりよし》、義家が埋めたという金は、その後の歌にうたわれている境地に、今は埋めてあるのだろう。それにしても源女殿はどこでどうしてその後の歌を覚えたかとな。で源女殿へ訊いて見た。その返辞が洵《まこと》に妙じゃ。大森林や大渓谷や、大きな屋敷や大斜面や、そういう物のある山の奥の、たくさんの馬や馬飼のいる所へ、いつぞや妾《わたし》は行ったような気がする。そこでその歌を覚えたような気がする。でもハッキリとは覚えていない。勿論そこがどこであるかも知らない。――という曖昧の返辞なのだ。その上|其方《そち》も知っている通り、源女殿は時々発作を起こす。……で、わしはいろいろの医者へ、源女殿の様態を診て貰ったところ、一人柳営お抱えの洋医、平賀|杏里《きょうり》殿がこういうことを云われた。――非常に恐ろしい境地へ行き、非常に烈しい刺激を受け、精神的に大打撃を受け、その結果大熱を体に発し、一月とか二月とかの長い間、人事不省になっていた者は、その間のことはいうまでもなく、それ以前の事もある程度まで、全然忘却してしまうということが往々にあるが、源女殿の場合がそうらしい。が、源女殿をその境地へ、もう一度連れて行けば思い出すし、事実その境地へ行かずとも、その境地と酷似している境地へ、源女殿を置くことが出来たなら、忘却していた過去のことを、卒然と記憶に返すであろうと。……しかし源女殿をその境地へ、連れて行くということは出来難い。その境地が不明なのだから。同じような境地へ源女殿を置く。ということもむずかしい。どんな境地かということを、わし[#「わし」に傍点]は確実に知らないのだから。……しかしわし[#「わし」に傍点]はこう思った。あの歌の前半の歌われている、秩父地方へ出かけて行って、気長く源女殿をそこに住ませて、源女殿の様子を見守っていたら、何か暗示を得ようもしれないとな。そこでお連れして来たのだが。……しかるに源女殿のそういう秘密を、わし[#「わし」に傍点]の外にもう一人、同じように知っている者がある。他でもない水品陣十郎じゃ」
 こう云って来て要介は、眉をひそめて沈黙した。
 剣鬼のような吸血鬼のような、陣十郎という男のことを、思い出すことの不愉快さ、それを露骨に現わさしたところの、それは気|不味《まず》い[#「不味《まず》い」は底本では「不味《まずい》い」]沈黙であった。
 浪之助も陣十郎は嫌いであり、嫌い以上に恐ろしくもあり、口に出すことさえ厭であったが、しかし源女や要介が、どういう関係からあの吸血鬼と、知り合いになったかということについては、窺い知りたく思っていた。
 それがどうやら知れそうであった。
 そこで更に固唾を呑む気持で、要介の語るのを待ち構えた。


「今から十月ほど前であったよ」と、要介は話をつづけ出した。
「信濃方面へ旅をした。武術の修行というのではなく、例によっての風来坊、漫然と旅をしたまでだが沓掛《くつかけ》の宿で一夜泊まった。明月の夜であったので、わしは宿《やど》を出て宿《しゅく》を歩き、つい宿外れまでさまよって行った。と、歌声が聞こえてきた。云うまでも[#「云うまでも」は底本では「云までも」]なく例の歌さ。はてなと思って足を止めると、狂乱じみた若い女が、その歌をうたって歩いて来る。と、その後から一人の武士が、急ぎ足で追いついたが、やにわに女を蹴倒すと、踏む撲るの乱暴狼藉『汝《おのれ》逃げようとて逃がそうや』こう言っての乱暴狼藉! その瞬間女は正気づいたらしく、刎ね起きると拙者を認め、走り寄って縋りつき、お助け下されと申すのじゃ。心得たりと進み出て、月明で武士を見れば、以前樋口十郎左衛門殿方で、立合ったことのある水品陣十郎! 先方も拙者を認めたと見え、しかも形勢非なりと知ったか、『秋山殿でござったか、その女は源女と申し、発狂の女芸人、拙者故あって今日まで、保護を加えて参りましたが、お望みならば貴殿に譲る』と、このようなヘラズ口をきいたあげく、匆慌《そうこう》として立ち去ったので、源女殿を宿へ連れて参り、事情を詳しく訊いたところ、江戸両国の曲独楽の太夫、養母というものに悪婆あって長崎の異人に妾《めかけ》に出そうという。それを避けて旅へ出で、ある山国へ巡業したところ、大森林、大傾斜、百千頭も馬のいるところ、そういう所の大きな屋敷へ、どういう訳でか連れて行かれた。そうしてそこで恐ろしい目に逢い、妾《わたし》は正気を失ったらしい。正気づいて見れば陣十郎という男が、妾の側に附いていて、それ以来ずっとその男が、あらゆる圧迫と虐待とを加え、妾にその土地へ連れて行け、お前の謡う歌にある土地へ、連れて行けと云って強いに強い、爾来その男に諸々方々を、連れ歩かれたとこう云うのじゃ。……それからわし[#「わし」に傍点]は源女殿を連れて、江戸へ帰って屋敷へ置いたが、そこは女芸人のことで、もう一度舞台に出たいという。そこで元の座へ出したところ、陣十郎に見付けられ、貴殿などとも知り合うようになった。……」
「よく解《わか》りましてござります」
 要介の長い話を聞き、浪之助はこれまでの疑問を融かした。
「と致しますと陣十郎も、例の黄金の伝説的秘密を、承知いたして居りまして、それを探り出そうと心掛け、源女を抑えて居りましたので……」
「さよう」と要介は頷いて云った「逸見多四郎殿の門弟として、秩父地方に永らく居た彼、黄金の秘密は知悉しているはずじゃ」
 この時部屋の外の廊下に、つつましい人の足音がし、
「ご免下され」という男の声がし、襖が開いて小紅屋の主人が、恭しくかしこまった顔を出し、
「逸見の殿様お越しにござります。へい」と云って頭を下げた。
 見れば主人の背後にあたって、威厳のある初老の立派な武士が、気軽にニコヤカに微笑しながら、部屋を覗くようにして立っていた。
「逸見多四郎参上いたしました」


「や、これは!」とさすがの要介も、郷士ながらも所の領主、松平|大和守《やまとのかみ》には客分にあつかわれ、新羅《しんら》三郎|義光《よしみつ》の後胤甲斐源氏の名門であり、剣を取らせては海内の名人、しかも家計は豊かであって、倉入り千俵と云われて居り、門弟の数|大略《おおよそ》二千、そういう人物の逸見多四郎が、気軽にこのような旅籠屋などへ、それも留守の間に道場の看板、門の大札[#「大札」は底本では「大礼」]を外して行ったところの、要介を訪ねて来ようなどとは、要介本人思いもしなかったところへ、そのように気軽に訪ねて来られたので、さすがに驚いて立ち上った。
「これはこれは逸見先生、わざわざご来訪下されましたか。いざまずこれへ! これへ!」
「しからばご免」と仙台平の袴に、黒羽二重の衣裳羽織、威厳を保った多四郎は、静かに部屋の中へ入って来た。
 座が定《き》まってさて挨拶! という時に要介の機転、床の間に立ててあった例の門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、恭しく抱えて持って来るや、前へ差し出しその前に坐り、
「実は其《それがし》先生お屋敷へ、本日参上いたしましたところ、江戸へ参ってご不在との御事。と、いつもの悪い癖が――酔興とでも申しましょうか、悪い癖がムラムラと起こりまして、少しく無礼とは存じましたが、門弟の方へ一応断わり、この大門札[#「門札」は底本では「門礼」]ひき外し、旅舎まで持参いたしました、がしかし決して粗末にはいたさず、床の間へ立てかけ見事の筆蹟を、打ち眺め居りましてござります。が、それにしてもこの門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、ひき外し持参いたしましたればこそ、かかる旅舎などへ先生ほどのお方を、お招きすること出来ました次第、その術策|的中《あた》りましてござるよ。ハッハッハッ」と笑ったが、それは爽かな笑いでもあった。
 と、多四郎もそれに合わせ、こだわらぬ爽かな笑い声を立てたが、
「その儀でござる、実は其《それがし》所用あって江戸へ参り、三日不在いたしまして、先刻帰宅いたしましたところ、ご高名の秋山先生が、不在中三回もお訪ね下され、三回目の本日門の札を[#「札を」は底本では「礼を」]、ひき外しお持ちかえりなされたとのこと、門弟の一人より承《うけたま》わり、三回のご来訪に恐縮いたし、留守を申し訳なく存じますと共に、その門弟へ申したような次第――、門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]外して持ち去った仁、秋山要介先生でよかった。他の仁ならこの多四郎、決して生かして置きませぬ。秋山要介先生でよかった。その秋山先生は、奇嬌洒脱の面白い方じゃ、いまだ一度もお目にかからぬが、勇ましいお噂は承って居る。五百石といえば堂々たる知行、その知行取りの剣道指南役の、嫡男の身に産れながら、家督を取らず浪人し、遊侠の徒と交際《まじわ》られ、権威に屈せず武威に恐れず、富に阿《おも》ねらず貧に恥じず、天空海濶に振舞われる当代での英傑であろう。門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]持って行かれたも、単なる風狂に相違ない。宿の小紅屋に居られるなら、早速参ってお目にかかろうとな。――そこで参上いたしたような次第、お目にかかれて幸甚でござった」
「杉氏どうじゃな」と要介は、浪之助の方へ声をかけた。


「人物は人物を見抜くと云ったが、どうじゃ杉氏、その通りであろう」
 こう云ったがさらに要介は、多四郎の方へ顔を向け、
「ここに居られるは杉浪之助殿|某《それがし》の知己友人でござる。門札[#「門札」は底本では「門礼」]外して持ち参ったことを、ひどく心配いたしましたについて、いや拙者だからそれはよい、余人ならばよろしくないと云うことは逸見先生もご存知、人物は人物を見抜くものじゃと、今し方申して居りました所で、……杉氏何と思われるな?」
「ぼんやり致しましてござります」
 浪之助はこう云うと、恰も夢から醒めたように、眼を大きくして溜息を吐いた。
「鳳凰《ほうおう》と麒麟《きりん》! 鳳凰と麒麟! 名優同志の芝居のようで。見事のご対談でございますなあ」
 逸見多四郎がやって来た! さあ大変! 凄いことが起こるぞ! 激論! 無礼咎め! 切合い! 切合い! と、その瞬間思ったところ、事は全く反対となり、秋山先生で先ずよかった! ……ということになってしまい、十年の知己ででもあるかのように、笑い合い和み合い尊敬し合っている。で浪之助は恍惚《うっとり》として、両雄の対談を聞いていたのであった。
「酒だ」と要介は朗かに云った。
「頼みある兵《つわもの》の交際に、酒がなくては物足りぬ。酒だ! 飲もう! 浪之助殿、手を拍って女中をお呼び下され!」
「いや」と多四郎は手を振って止めた。
「酒も飲みましょう。がしかし、酒は場所を変えて飲みましょう」
「場所を変えて? はてどこへ?」
「拙者の屋敷で。……云うまでもござらぬ」
「要介のまかり在るこの屋敷、さてはお気に入らぬそうな」
「いやいや決して、そういう訳ではござらぬ。……が、最初にご貴殿において、お訪ね下されたのが拙者の屋敷、言って見れば先口で。……ではその方で飲むのが至当。……」
「ははあなるほど、それもそうじゃ」
「ということと存じましたれば、駕籠を釣らせてお宿の前まで、既に参って居りますので」
「それはそれはお手廻しのよいこと。……がしかし拙者といたしましては、ご貴殿のお屋敷におきましては、酒いただくより木刀をもって、剣道のご指南こそ望ましいのでござる」
「云うまでもござらぬ剣道の試合も、いたしますでござりましょう」
「その試合じゃが逸見先生、尋常の試合ではござらぬぞ」
「と申してまさかに真剣の……」
「なんのなんの真剣など。……実は賭試合がいたしたいので」
「ナニ賭試合? これは面妖! 市井の無頼の剣術使いどもが、生活《くらし》のために致すような、そのような下等の賭試合など……」
「賭る物が異《ちが》ってござる」
「なるほど。で、賭物は?」
「拙者においては赤尾の林蔵!」
「赤尾の林蔵を? 赤尾の林蔵を? ふうん!」と云ったが多四郎は、じっと要介の顔を見詰めた。


「博徒ながらも林蔵は、拙者の剣道の弟子でござる」
 要介はそう云って意味ありそうに、多四郎の顔を熟視した。
「その林蔵をお賭になる。……では拙者は何者を?」
 いささか不安そうに多四郎は云って、これも要介を意味ありそうに見詰めた。
「高萩村の猪之松を、お賭下さらば本望でござる」
「彼は拙者の剣道の弟子……」
「で、彼をお賭け下され」
「賭けて勝負をして?」
「拙者が勝てば赤尾の林蔵を、関東一の貸元になすべく、高萩村の猪之松を、林蔵に臣事いたさせ下され」
「拙者が勝たば赤尾の林蔵を、高萩の猪之松に従わせ、猪之松をして関東一の……」
「大貸元にさせましょう」
「ははあそのための賭試合?」
「弟子は可愛いものでござる」
「なるほどな」と多四郎は云ったが、そのまま沈黙して考え込んでしまった。
 林蔵と猪之松とが常日頃から、勢力争いをしていることは、多四郎といえども知っていた。その争いが激甚となり、早晩力と力とをもって、正面衝突しなければなるまい――という所まで競り詰めて来ている。ということも伝聞していた。とはいえそのため秋山要介という、一大剣豪が現われて、師弟のつながりを縁にして、自分に試合を申し込み、その勝敗で二人の博徒の、勢力争いを解決しようなどと、そのような事件が起ころうなどとは、夢にも思いはしなかった。
(何ということだ!)と先ず思った。
(さてどうしたものだろう?)
 とは云え自分も弟子は可愛い、成ろうことなら林蔵を挫いて、猪之松を大貸元にしてやりたい。
(では)と思わざるを得なかった。
(では要介の申し込みに応じ、賭試合を行ない打ち勝ってやろう)
 腹が決まると堂々たるもので、逸見多四郎は毅然として云った。
「賭試合承知いたしてござる。しからば直ちに拙者屋敷に参り、道場においてお手合わせ、試合いたすでござりましょう」
「欣快」
 要介は立ち上った。
「杉氏、貴殿もおいでなされ」
 三人揃って部屋を出た。

 逸見多四郎家のここは道場。――
 竹刀《しない》ではない木刀であった。
 要介と多四郎とは構えていた。
 一本勝負!
 そう定められていた。
 二人ながら中段の構え!
 今、シ――ンと静かである。
 かかる試合に見物は無用と、通いの門弟も内門弟も、一切退けてのただ二人だけ! いや他に杉浪之助と、要介の訪問に応待に出た、先刻の若侍とが道場の隅に、つつましく控えて見守っていた。

10
 見霞むばかりの大道場、高く造られある正面は、師範の控える席であり、それに向かって左の板壁には、竹刀《しない》、木刀、槍、薙刀《なぎなた》、面、胴、籠手の道具類が、棚に整然と置かれてあり、左の板壁には段位を分けた、漆塗りの名札がかけてあった。
 塵もとどめぬ板敷は、から[#「から」に傍点]拭きされて鏡のように光り、おりから羽目板の隙間から、横射しに射して来た日の光りが、そこへ琥珀色の棒縞を織り、その空間の光の圏内に、ポッと立っている幽かな塵埃《ほこり》は、薄い煙か紗のようであった。
 互いに中段に位取って動かぬ、要介と多四郎は広い道場の、中央に居るところから、道場の端に腰板を背にして、端座している浪之助から見ると、人形のように小さく見えた。
 おおよそ六尺の間隔を保ち、互いに切先を相手の眉間へ、ピタリと差し付けて構えたまま、容易に動こうとはしなかった。
 道具を着けず木刀にての試合に、まさに真剣の立合いと、何の異なるところもなく、赤樫蛤刃《あかがしはまぐりは》の木刀は、そのまま真《まこと》の剣であり、名人の打った一打ちが、急所へ入らば致命傷、命を落とすか不具《ふぐ》になるか、二者一つに定《き》まっていた。
 とはいえ互いに怨みあっての、遺恨の試合というのではなく、互いの門弟を引っ立てようための義理と人情とにからまった、名人と名人との試合であった。自然態度に品位があり、無理に勝とうの邪心がなく、闘志の中に礼譲を持った、すがすがしい理想的の試合であった。
 今の時間にして二十分、構えたままで動かなかった。
 掛声一つかけようとしない。
 掛声にも三通りある。
 追い込んだ場合に掛ける声。相手が撃って出ようとする、その機を挫《くじ》いて掛ける声、一打ち打って勝利を得、しかも相手がその後に出でて、撃って来ようとする機を制し、打たせぬために掛ける声。
 この三通りの掛声がある。
 しかるに二人のこの試合、追い込み得べき機会などなく、撃って出ようとするような、隙を互いに見せ合わず、まして一打ち打ち勝つという、そういうことなどは絶対になかった。
 で、二人ながら掛声もかけず、同じ位置で同じ構えで、とはいえ決して居附きはせず、腹と腹との業比べ、眼と眼との睨み合い、呼吸と呼吸との抑え合い、一方が切先を泳がせれば、他の一方がグッと挫き、一方が業をかけようとすれば、他の一方が先々ノ先で、しかも気をもって刎ね返す、……それが自ずと木刀に伝わり、二本の木刀は命ある如く、絶えず幽かにしかし鋭く、上下に動き左右に揺れていた。
 更に長い時が経った。
 と、要介の右の足が、さながら磐石をも蹴破るてい[#「てい」に傍点]の、烈しさと強さと力とをもって、しかもゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]と充分に粘り、ソロリとばかり前へ出て、左足がそれに続いた。
 瞬間多四郎の左足が、ソロリとばかり後へ下り、右足がそれに続いた。
 で 間だ! 静止した。
 長い間! ……しかし……次の瞬間……ドドドドッという足音が響いた。

11
 奔流のように突き進む要介!
 追われて後へ退く多四郎!
 ドドドドッという二人の足音!
 見よ、その速さ、その鋭さ!
 あッ、多四郎は道場の端、板壁へまで追い詰められ、背中を板壁へあてたまま、もう退けない立ち縮んだ。
 その正面へ宛然《さながら》巨岩、立ちふさがったは要介であった。
 勝負あった!
 勝ちは要介!
 非ず、見よ、次の瞬間、多四郎の胸大きく波打ち、双肩渦高く盛り上ると見るや、ヌッと一足前へ出た。
 と、一足要介は下った。
 多四郎は二足ヌッと出た。
 要介は退いた。
 全く同じだ!
 ドドドドッという足音!
 突き進むは多四郎、退くは要介、たちまちにして形勢は一変し、今は要介押し返され、道場の破目板を背に負った。
 で、静止!
 しばらくの間!
 二本の剣が――木刀が、空を細かく細かく細かく、細かく細かく刻んでいる。
 多四郎勝ちか?
 追い詰め了《りょう》したか?
 否!
 ソロリと一足下った。
 追って要介が一足出た。
 粘りつ、ゆっくりと、鷺足さながら、ソロリ、ソロリ、ソロリ、ソロリと、二人は道場の中央まで出て来た。
 何ぞ変らざる姿勢と形勢と!
 全く以前と同じように、二人中段に構えたまま、見霞むばかりの大道場の、真中の辺りに人形のように小さく、寂然と立ち向かっているではないか。
 さすがに二人の面上には、流るる汗顎までしたたり、血上って顔色朱の如く、呼吸は荒くはずんでいた。
 窒息的なこの光景!
 なおつづく勝負であった。
 試合はつづけられて行かなければならない。
 が、忽然そのおりから、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秩父の郡《こおり》
小川村
逸見様庭の
桧の根
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 と、女の歌声が道場の外、庭の方から聞こえてきた。
「しばらく!」と途端に叫んだ要介、二間あまりスルスルと下ると、木刀を下げ耳を澄ました。
「…………」
 審かしそうに体を斜めに、しかし獲物は残心に、油断なく構えた逸見多四郎、
「いかがなされた、秋山氏?」
「あの歌声は? ……歌声の主は?」
「ここに控え居る東馬共々、数日前に、絹川において、某《それがし》釣魚《ちょうぎょ》いたせし際、古船に乗って正体失い、流れ来たった女がござった[#「ござった」は底本では「ごさった」]。……助けて屋敷へ連れ参ったが、ただ今の歌の主でござる」

12
「名は? 源女! お組の源女! ……と申しはいたしませぬか?」
「よくご存知、その通りじゃ」
「やっぱりそうか! そうでござったか! ……有難し、まさしく天の賜物! ……その女こそこの要介仔細ござって久しい前より、保護を加え養い居る者、過日上尾の街道附近で、見失い失望いたし居りましたが、貴殿お助け下されたか。……源女拙者にお渡し下され」
「ならぬ!」と多四郎ニベもなく云った。
「源女決して渡すことならぬ!」
「理由は? 理由は? 逸見氏?」
「理由は歌じゃ、源女の歌う歌じゃ!」
「…………」
「今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の……後にも数句ござったが、この歌を歌う源女という女子、拙者必要、必要でござる!」
「なるほど」と要介は頷いて云った。
「貴殿のお家に、逸見家に、因縁最も深き歌、その歌をうたう源女という女、なるほど必要ござろうのう……伝説にある埋もれたる黄金、それを掘り出すには屈竟の手蔓……」
「では貴殿におかれても?」
「御意、さればこそ源女をこれ迄……」
「と知ってはいよいよ源女という女子《おなご》、お渡しいたすことなりませぬ」
「さりながら本来拙者が保護して……」
「過ぐる日まではな。がその後、見失いましたは縁無き證拠。……助けて拙者手に入れたからは、今は拙者のものでござる」
「源女を手蔓に埋もれし黄金を、では貴殿にはお探しなさるお気か?」
「その通り、云うまでもござらぬ」
「では拙者の競争相手!」
「止むを得ませぬ、因縁でござろう」
「二重に怨みを結びましたな!」
「ナニ怨みを? 二重に怨みを?」
「今は怨みと申してよかろう! ……一つは門弟に関する怨み、その二は源女に関する怨み!」
「それとても止むを得ぬ儀」
「用心なされ逸見氏、拙者必ず源女を手に入れ、埋もれし黄金も手に入れましょう」
「出来ましたなら、おやりなされい!」
「用心なされ逸見氏、源女を手に入れ埋もれし黄金を、探し出だそうと企て居る者、二人以外にもござる程に!」
「二人以外に? 誰じゃそ奴?」
「貴殿の門弟、水品陣十郎!」
「おお陣十郎! おお彼奴《きゃつ》か! ……弟子ながらも稀代の使い手、しかも悪剣『逆ノ車』の、創始者にして恐ろしい奴。……彼奴の悪剣を破る業、見出だそうとこの日頃苦心していたが、彼奴が彼奴が源女と黄金を……」
「逸見氏、お暇申す」
「勝負は? 秋山氏、今日の勝負は?」
「アッハハ、後日真剣で!」

因果な恋


 高萩村の村外れに、秩父|香具師《やし》の部落があり、「|刃ノ郷《やいばのごう》」と称していた。三十軒ほどの人家があり、女や子供や老人などを入れ、百五十人ほどの半農半香具師が、一致団結して住んでいた。
 郷に一朝事が起こり、合図《しらせ》の竹法螺がボーッと鳴ると、一切の仕事を差し置いて、集まるということになっていた。
 弁三爺さんという香具師の家は、この郷の片隅にあった。
 茅葺の屋根、槇の生垣、小広い前庭と裏の庭、主屋、物置、納屋等々、一般の農家と変わりのない家作、――ただし床ノ間に鳥銃一挺、そうして壁に半弓一張、そういう武器が懸けてあるのは、本来が野士といって武士の名残――わけても秩父香具師は源氏の正統、悪源太義平から来ていると、自他共に信じているそれだけあって、普通の農家と異《ちが》っていた。
 秋山要介と逸見多四郎とが、多四郎の道場で、木刀を交した、その日から数日経過したある日の、こころよく晴れた綺麗な午後、ここの庭に柿の葉が散っていた。
 その葉の散るのをうるさ[#「うるさ」に傍点]そうに払って、お妻が庭へ入って来た。
「いい天気ね、弁三爺さん」
 母屋の縁側に円座を敷き、その上に坐って憂鬱の顔をし、膏薬を練っていた弁三爺さんは、そう云われてお妻の顔を見た。
「よいお天気でございますとも……へい、さようで、よいお天気で」
 ――そこで又ムッツリと家伝の膏薬を、節立った手で練り出した。
 お妻は眉をひそめて見せたが、
「日和が続いていい気持だのに、爺つぁんはいつも不機嫌そうね」
「へい、不機嫌でございますとも、倅が江戸へ出て行ったまま、帰って来ないのでございますからな」
「またそれをお云いなのかえ。ナーニそのうち帰って来るよ」とは云ったものの殺された倅、弁太郎が何で帰るものかと、心の中で思っているのであった。
(あの人を殺したのは陣十郎だし、殺すように進めたのは妾だったっけ)
 こう思えばさすがに厭な気がした。
 まだお妻がそんな邯鄲師《かんたんし》などにならず、この郷に平凡にくらしていた頃から、弁太郎はひどくお妻を恋し、つけつ[#「つけつ」に傍点]廻しつして口説いたものであった。その後お妻は故郷を出て、今のような身の上になってしまった。と、ヒョッコリ[#「ヒョッコリ」は底本では「ヒョッコり」]弁太郎が、膏薬売となって江戸へ出て来、バッタリお妻と顔を合わせた。爾来弁太郎は附き纏い、長い間の恋を遂げようとし、お妻の現在の身分も探ぐり、恋遂げさせねば官に訴え、女邯鄲師として縄目の恥を、与えようなどと脅迫さえした。お妻は内心セセラ笑ったが、うるさいから眠らせてしまおうよ、こう思って情夫の陣十郎へケシカケ、一夜お茶ノ水へ引っ張り出し、一刀に切らせてしまったのであった。
 杉浪之助が源女の小屋から、自宅へ帰る途中《みちすが》らに見た、香具師の死骸は弁太郎なのであった。
「爺つぁん、主水さんのご機嫌はどう?」お妻は話を横へそらせた。


「あのお方もご下手切り! こいつだけは受けられない、ダーッとドップリ胴へ入るだろう! と、完全の胴輪切り!
 その序の業が行なわれた。
 釣られた釣られた主水は釣られた! あッ、踏み出して切り込んだ。
 一閃!
 返った!
 陣十郎の刀が、軽く宙で車に返った!
 ハ――ッと主水! きわどく反わせたが……
 駄目だ!
 見よ!
 次の瞬間!
 さながら怒濤の寄せるが如く、刀を返しての大下手切りだ――ッ!
「ワッ」
 悲鳴!
 血煙!
 血煙!
 いやその間に、一髪の間に――大下手切りの行なわれる、前一髪の際どい間に……
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秩父の郡《こおり》、小川村、
逸見《へんみ》様庭の桧の根
[#ここで字下げ終わり]
 そういう女の歌声が、手近かの所から聞こえてきた。
「あッ」と陣十郎は刀を引き、タジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]と数歩背後へ下った。


 無心に歌をうたいながら、源女は大薮の中にいた。
 いつも時々起こる発作が、昨夜源女の身に起こった。そこでほとんど夢遊病患者のように、赤尾村の林蔵の家を脱け出し、どこをどう歩いたか自分でも知らず、この辺りまで彷徨《さまよ》って来、この大薮で一夜を明かし、たった今眼醒めたところであった。
 まだ彼女の精神は、朦朧としていて正気ではなかった。
 島田の髷が崩れ傾《かしが》り、細い白い頸《うなじ》にかかってい、友禅模様の派手な衣裳が、紫地の博多の帯ともども、着崩れて痛々しい。素足に赤い鼻緒の草履を、片っぽだけ突っかけている。夜露に濡れたため衣裳はしおたれ[#「しおたれ」に傍点]、茨や木の枝にところどころ裂かれ、手足も胸元も薮蚊に刺され、あちこち血さえ出していた。
 そういう源女は身を横倒しにし、草の上に延びていた。秋草の花――桔梗や女郎花や、葛の花などが寝ている源女の、枕元や足下に咲いていた。栗色の兎がずっと離れた、萩の根元に一匹いて、源女の方を窺っていた。
 彼女の頭上にあるものといえば、樺や、柏や、櫟《くぬぎ》や、櫨《はぜ》などの、灌木や喬木の枝や葉であり、それらに取り縋り巻いている、山葡萄や蔦や葛であり、そうしてそれらの緑を貫き、わずかに幽かに隙《す》けて見える、朝の晴れた空であった。
 薮を透して日の光が、深い黄味を帯びて射し込んで来ていて、地上の草や周囲《まわり》の木々へ、明暗の斑《ふち》を織っていた。
 無心――というよりいつもいつも、心に執拗にこびりついている歌、例の歌を唄ってしまうと、彼女は恍惚《うっとり》と考え出した。こういう場合に彼女の脳裡へ、幻影のように浮かんで来るのは、大森林、大渓谷、大きな屋敷、大傾斜面、五百頭千頭もの放馬の群、それを乗り廻し追い廻し、飼養している無数の人、そうしてあたかも酒顛童子のような、長髪赧顔の怪異の老人――等々々のそれであった。
 しかし彼女はそういう所が、どこにあるかは知らなかった。そうしてどうしてそういう光景が、浮き出して来るかも知らなかった。とはいえ彼女はそういう光景の場所の、どこであるかを確かめなければならない、そうして是非ともその光景の場所へ、どうしても自身行かなければならないと、そんなように熱心に思うのであった。がそれとて自分自身のために、その場所を知ろうとするのでもなく、又行こうとするのでもなく、自分の難儀を救ってくれた人秋山要介という人のために、知りたい行きたいと思うのであった。
 浮かんで来る幻影を追いながら、今も彼女は思っていた。
(行かなければならない、さあ行こう!)
 で、彼女は立ち上った。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]昔はあったということじゃ
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 又彼女は口ずさんだ。
 そうして大薮を分けながら、大薮の外へ出ようとした。
 その大薮の外側には、以前から彼女を狙っている吸血鬼水品陣十郎が、抜身を提げて立っているはずである。

10
 後《あと》へ下った陣十郎は、刀を下段にダラリと下げ、それでも眼では油断なく、主水の眼を睨みつけ、歌主の在所《ありか》がどこであるかと、瞬間それについて考えた。
 周囲《あたり》には大薮があるばかりで、その他は展開《ひら》けた耕地であり、耕地には人影は見えなかった。
 声から云っても歌の性質《たち》から云っても、歌ったのは源女に相違ない。
 が、源女などはどこにもいない。
(さては自分の空耳かな?)
 それにしても余りに明かに、歌声は聞こえてきたではないか。
 源女だ源女だ歌ったのは源女だ!
 かつて一旦手に入れて、薬籠の物にしはしたが、その持っている一大秘密を、まだ発見しないうちに秋山要介に横取りされた女! お組の源女に相違ない!
 探して探して探し廻ったあげく、江戸は両国の曲独楽の席で、ゆくりなくも発見した。が、その直後に起こった事件――鴫澤庄右衛門を討ち果したことから、江戸にいられず旅に出たため、源女のその後の消息については、確かめることが出来なかった。
 その源女の歌声が、こんな所で聞こえたのであった。
(どうしたことだ? どうしたことだ?)
 不思議なことと云わなければならない。
(あの女を再び手に入れることが出来て、あの歌の意味を解くことが出来たら!)
 その時こそ運命が――解いた人の運命が、俄然とばかり一変し、栄耀栄華を尽くすことが出来、至極の歓楽を享けることが出来る!
(どうでもあの女を手に入れなければ!)
 だが彼女はどこにいるのだ?
 分を秒に割った短い間だ! 時間にして短いそういう間に、陣十郎の脳裡に起伏したのは、実にそういう考えであった。
 その間彼は放心状態にあった。
 何で主水が見逃がそうぞ!
 一気に盛り返した勇を揮い、奮然として切り込んだ。
 またも鏘然太刀音がした。
 放心状態にあったとはいえ、剣鬼さながらの陣十郎であった。何のムザムザ切られようぞ!
 受けて一合!
 つづいて飛び退いた、飛び退いた時にはもう正気だ! 正気以上に冴え切っていた。
(こやつを一気に片付けて、源女の在所《ありか》を突き止めなければならない!)
「ヤ――ッ!」と掛けた物凄い掛声!
 つづけて「ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ!」
 先々の先の手一杯! さながら有段者が初心者を相手に、稽古をつけるそれの如く、主水が撃とう切ろう突こうと、心組む心を未前[#「未前」はママ]に察し、その先その先その先と出て、追い立て切り立て突き立て進んだ。
 またもや主水は薮際まで詰められ、眼眩みながら薮の裾を、右手へわずか廻り込もうとした時、天運尽きたか木の根に躓《つまず》き、横倒れにドッと倒れた。
「くたばれ!」
 シ――ンと切り下した!

11
 シ――ンと切り下ろした陣十郎の刀が、仆れている主水を拝み打ちに、眉間から鼻柱まで割りつけようとした途端、日の光を貫いて小柄が一本、陣十郎の咽喉へ飛んで来た。
「あッ」と思わず声を上げ、胸を反らせた陣十郎は、あやうく難を免れたが、小柄の投げられた方角を見た。
 十数間のかなたから、一人の武士が走って来る。
「む!……秋山! ……秋山要介!」
 いかにも走って来るその武士は、今朝になって眼醒めて見れば、昨夜から発作を起こしていた源女が、どこへ行ったものか姿が見えず、それを案じて探すために、林蔵の家を立ち出で、ここまでやって来た秋山要介であり、見れば宿意ある水品陣十郎が、これも因縁《ゆかり》ある鴫澤主水を、まさに討って取ろうとしていた。間隔は遠い、間に合わない。そこで小柄を投げたのであった。
 小柄を投げて陣十郎の兇刃を、制して置いて秋山要介、飛燕の如く飛び込んで来た。
 が、陣十郎もただ者ではない、主水を相手に戦って、既に躰は疲労《つかれ》ていた。そこへ剣豪秋山要介に新規の力で出られては、百に一つの勝目はない。――と見て取るや刀を引き、鞘にも納めず下げたままで、耕地を一散に走って逃げた。
 と、瞬間飛び起きたは、無念残念返り討ちだと、一刹那覚悟して仆れていた主水で、
「秋山先生、お礼は後刻! ……汝、待て――ッ、水品陣十郎! ……遁してなろうか、父の敵!」と、身体綿の如く疲労して居り、剣技も陣十郎と比較しては、数段も劣って居り、追っかけ追い詰め戦ったところで、あるいは返り討ちになろうもしれないと、そういう不安もありながら、みすみす父の敵に逢い、巡り合って刀を交したのに、そうしてその敵が逃げて行くのに、そうして一旦逃がしてしまったなら、いつふたたび巡り逢えるやら不明と思えば追わずにいられなかった。
 で、主水は刀を振り振り、陣十郎を追いかけた。
「待たれい! 主水殿、鴫澤氏!」
 追いついてよしんば戦ったところで、陣十郎に主水が勝つはずはない、返り討ちは見たようなものだ――と知っている秋山要介は、驚いて大音に呼び止めた。
「長追いなさるな! お引き返しなされ! またの機会をお待ちなされ」
 しかし何のそれを聞こう! 主水はよろめきよろめきながら、走り走り走って行く。
(尋常の敵を討つのではなく、親の敵《かたき》を討つのであった。子とあってみれば返り討ちも承知で、追いかけ戦うのが本当であろう)
 気がついた秋山要介は、孝子《こうし》に犬死させたくない、ヨーシ、追いついて後見《うしろみ》してやろう! 助太刀してやろうと決心し、袴の股立取り上げた途端、
「セ、先生、秋山先生!」と、背後から息せき呼ぶ声がし、やにわに袖を掴まれた。
「誰だ!」と怒鳴って顔を見た。
 林蔵の乾兒の藤作であった。

12
「おお藤作、どうしたのだ?」
「タ、大変で……オ、親分が!」
「なに親分が? 林蔵がか?」
「へい、林蔵親分が、カ、街道で、あそこの街道で……タ、高萩の猪之松と……」
「うむ、高萩の猪之松と[#「猪之松と」は底本では「猪の松と」]?」
「ハ、果し合いだい、果し合いだい!」
「む――」と呻くと振り返り、要介は街道の方角を見た。
 旅人や百姓の群であろう、遠巻にして街道に屯し、じっと一所を見ている光景が、要介の眼に鮮かに見えた。彼等の見ている一所で、林蔵は怨ある猪之松と、果し合いをしているのであろう。要介も以前から林蔵と猪之松とが、勢力争い激甚であり、一度は雌雄を決するてい[#「てい」に傍点]の、真剣の切り合いをやるべきことを、いろいろの事情から知っていた。
(これはうっちゃって置かれない。林蔵を見殺しにすることは出来ない。聞けば高萩の猪之松は、逸見《へんみ》多四郎から教えを受け、甲源一刀流では使い手とのこと、林蔵といえどもこの拙者が、新影流は十分仕込んで置いた。負ける気遣いもあるまいが、もしも負れば師匠たる拙者の、恥にならないものでもない。林蔵と猪之松との果し合い、考えようによれば逸見多四郎と、この秋山要介との、果し合いと云うことにもなる。これはうっちゃっては置かれない)
「行こう、藤作!」と叫んだが、
(主水氏は?)とこれも気になり、走って行った方へ眼をやった。
 広い耕地をよろめきよろめき、陣十郎の後を追い、なお主水は走っていた。
(一人で行ったら返り討ち、陣十郎に討たれるであろう。……惜しい武士! 気の毒な武士! ……どうでも助太刀してやらねば……)
 ――が、そっちへ身を挺したら、林蔵はどういう運命になるか?
(どうしたら可《よ》いか? どうしたものだ?)
 知らぬ藤作は急き立てた。
「先生、早く、行っておくんなせえ! ……云いたいことはたくさんあるんで……第一女が誘拐《かどわか》されたんで……若い女が、綺麗な女が……誘拐した野郎は猪之松の乾兒と、その相棒の馬方なんで……最初《はな》は俺らと杉さんとで……へい、そうで浪之助さんとで、その女を助けたんですが……逃げた八五郎め馬方を連れて、盛り返して来てその女を……その時浪之助さんは留守だったんで……いやいやそんなこと! ……行っておくんなせえ、さあ先生! 親分が大変なんだ猪之松の野郎と! ……」
(行かなければならない!)と要介も思った。
(鴫澤氏は赤の他人、少くも縁は極めて薄い。林蔵の方は俺の弟子、しかも現在この俺は、林蔵の家に世話になっている。深い縁がある、他人ではない。……その林蔵を見殺しには出来ない! 行こう! しかし、そうだしかし、主水殿もお気の毒な! では、せめて言葉の助太刀!)
 そこで要介は主水の方に向かい、大音をもって呼びかけた。

13
「鴫澤《しぎさわ》氏、主水殿! 敵水品陣十郎を追い詰め、見事に復讐をお遂げなされ! 拙者、要介、秋山要介、貴殿の身辺に引き添って、貴殿あやうしと見て取るや、出でて、必ずお助太刀いたす! ……心丈夫にお持ちなされい! ……これで可《よ》い、さあ行こう!」
 街道目掛けて走り出した時、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]今は変わって千の馬
五百の馬の馬飼の
[#ここで字下げ終わり]
 と、聞き覚えある源女の声で、手近で歌うのが聞こえてきた。
「や、……歌声! ……源女の歌声!」
 要介は足を釘づけにした。
 探していた源女の歌声が、手近の所から聞こえてきたのであった。足を止めたのは当然といえよう。
「源女殿! お組殿!」
 思わず大声で呼ばわって、要介は四辺《あたり》を忙《せわ》しく見た。
 丘、小山とでも云いたいほどに、うず高く聳えている薮以外には、打ち開けた耕地ばかりで、眼を遮る何物もなかった。
(不思議だな、どうしたことだ。……歌声は空耳であったのか?)
 陣十郎の感じたようなことを、要介も感ぜざるを得なかった。
「先生、どうしたんですい、行っておくんなせえ」
 要介に足を止められて、胆を潰した藤作が怒鳴った。
「第一先生がこんな方角へ、トッ走って来たのが間違いだ。俺ら向こうで見ていたんで。すると先生の姿が見えた。しめた、先生がやって来た、林蔵親分に味方して、猪之松を叩っ切って下さるだろう。――と思ったら勘違いで、こんな薮陰へ来てしまった。そこで俺ら迎えに来たんだが、その俺らと来たひ[#「ひ」に傍点]には、ミジメさったら[#「ミジメさったら」は底本では「ミヂメさったら」]ありゃアしない。馬方に土をぶっかけられたんで。と云うのも杉さんがいなかったんで。その杉さんはどうしたかというに、誘拐《かどわか》された女の兄さんて奴が――そうそう主水とか云ったっけ、そいつが陣十郎とかいう悪侍に、オビキ出されて高萩村の方へ行った。とその女が云ったんで、こいつ大変と杉さんがね、高萩村の方へ追って行ったんで。――が、まあ可《い》いやそんな事ア。よくねえなア親分の身の上だ、まごまごしていると猪之松の野郎に……あッどうしたんだ見物の奴らア……」
 いかさま街道や耕地に屯し、果し合いを見ていた百姓や旅人が、この時にわかに動揺したのが、要介の眼にもよく見えた。が、すぐに動揺は止んで、また人達は静かになった。緊張し固くなって見ているらしい。
 突嗟に要介は思案を定めた。
(ここら辺りに源女がいるなら、薮の中にでもいるのであろう。正気でないと云ったところで、直ぐに死ぬような気遣いはない。……林蔵と猪之松との果し合い、これは一刻を争わなければならない。よしそっちへ行くことにしよう。……が、しかし念のために……)
 そこで要介はまたも大音に、薮に向かって声をかけた。
「源女殿、要介お迎えに参った。どこへもおいでなさるなよ! ……」

14
 街道では林蔵と猪之松とが、遠巻きに見物の群を置き、どちらも負けられない侠客《おとこ》と侠客との試合それも真剣の果し合いの、白刃を互いに構えていた。
 かなり時間は経過していたが、わずか二太刀合わせたばかりで、おおよそ二間を距てた距離で、相正眼に脇差をつけ、睨み合っているばかりであった。
 猪之松には乾兒や水品陣十郎の間に、何か事件が起こったらしく、耕地で右往左往したり、逃げる奴倒れる奴、そういう行動が感ぜられたが、訊ねることも見ることもできず、あつかう[#「あつかう」に傍点]こともできなかった。傍目一つしようものなら、その間に林蔵に切り込まれるからであった。
 林蔵といえどもそうであった、乾兒の藤作の声がしたり、杉浪之助の声がして、何か騒動を起こしているようであったが、どうすることも出来なかった。相手の猪之松の剣の技、己と伯仲の間にあり寸分の油断さえ出来ないからであった。
 が、そういう周囲の騒ぎも、今は全く静まっていた。数間を離れて百姓や旅人、そういう人々の見物の群が、円陣を作って見守っているばかりで、気味悪いばかりに寂静《ひっそり》としていた。
 二本の刀が山形をなし、朝の黄味深い日の光の中で、微動しながら浮いている。
 二人ながら感じていた。――
(ただ目茶々々に刀を振り廻して、相手を切って斃せばよいという、そういう果し合いは演ぜられない。男と男だ、人も見ている。後日の取沙汰も恐ろしい。討つものなら立派に討とう! 討たれるものなら立派に討たれよう!)
 二人ながら心身疲労していた。
 気|疲労《つかれ》! 気疲労! 恐ろしい気疲労!
 技が勝れているだけに、伎倆《うで》が伯仲であるだけに、その気疲労も甚だしいのであった。
 向かい合っていた二本の刀の、その切先がやがて徐々に、双方から寄って来た。
 見よ二人ながら踏み出している右足の爪先が蝮を作り、地を刻んで一寸二寸と、相手に向かって進むではないか。
 ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]!
 音は立たなかった。
 が、ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]と音立つように、互いの切先が触れ合った。
 しかしそのまま二本の刀身は、一度に水のように後へ引き、その間隔が六歩ほどとなった。
 そうしてそのまま静止した。
 静止したまま山形をなし、山形をなしたまま微動した。
 薄くポ――ッと刀と刀の間に、立ち昇っているのは塵埃《ほこり》であった。
 二人の刻んだ足のためにポ――ッと立った塵埃であった。
 間、
 長い間。
 天地寂寥。
 が、俄然二本の刀が、宙で烈しくもつれ合った。
 閃光! 太刀音! 鏘然! 鍔鳴り!
 で、Xの形となって、二本の刀は交叉され、わずかに左右に又前後に、揺れつ縒れつ押し押されつ、粘ったままで放れなかった。

15
 鍔競り合い!
 眼と眼との食い合い!
 そうだ、林蔵と猪之松との眼が、交叉された刀の間を通し、互いに食い合い睨み合っている。
 鍔競り合いの恐ろしさは、競り合いから離れる一刹那にあった。胴を輪切るか真っ向を割り付けるか、伎倆《うで》の如何《いかん》、躰形《たいけい》の如何、呼吸の緩急によって変化縦横! が、どっちみち恐ろしい。
 林蔵も猪之松も一所懸命、相手の呼吸を計っていた。
 と、交叉された刀の間へ、黒く塗られた刀の鞘が、忍びやかに差し込まれた。
「?」
「?」
 鞘がゆるゆると上へ上った。二本の白刃を持ち上げるのである。と、威厳ある声がした。
「勝負待て! 刀を引け! 仲裁役は秋山要介!」
 声と同時に刀の鞘が、二本の刀身を左右に分けた。
 二間の距離を保ちながら、尚、残心、刀を構え、睨み合っている林蔵と猪之松、その間に鞘ぐるみ抜いた太刀を提げて、ノビノビと立ったのは秋山要介で、まず穏かに林蔵へ云った。
「刀を鞘へ納めるがよい」
 それから猪之松の方へ顔を向け、
「以前一二度お見かけいたした。高萩村の猪之松殿か、拙者秋山要介でござる。刀を納め下されい」
 しばらくの間寂然としていた。
 やがて刀の鞘に収まる、鍔鳴りの音が二つ聞こえた。

 この頃源女は大薮を出て、唐黍《とうもろこし》畑の向こうを歩いていた。
(行かなければ不可《いけ》ない、さあ行こう)
 こう思いながら歩いていた。
 何者《だれ》か向こうで呼んでいる。そんなように彼女には思われるのであった。
 畦を越し桑畑を越した。そうして丘を向こうへ越した。もう背後を振り返って見ても、街道も大薮も見えないだろう。
 大渓谷、大傾斜、大森林、五百頭千頭の馬、無数の馬飼、宏大な屋敷――そういうものの存在している所へ、行かなければならない行かなければならない! ……そう思って彼女は歩いて行く。
 崩れた髪、乱れた衣裳、彼女の姿は狂女そっくりであった。発作の止まない間中は、狂女と云ってもいいのであった。
 長い小高い堤があった。
 よじ上って歩いて行った。
 向こう側の斜面には茅や蘆が、生い茂り風に靡いている、三間巾ぐらいの川があり、水がゆるゆると流れていた。
「あッ」
 源女は足を踏み辷らせ、ズルズルと斜面を川の方へ落ちた。パッと葦切が数羽飛び立ち、烈しい声で啼いて去った。と、蘆を不意に分けて、古船が一隻辷り出た。源女がその中に倒れている。
 纜綱《もやいづな》を切らした古船は、源女を乗せたまま流れて行く。
 源女は微動さえしなかった。

各自の運命


 高萩村に近い森の中まで、陣十郎を追って来た鴫澤主水《しぎさわもんど》は、心身全く疲労し尽くし、ほとんど人心地を覚えなかった。
 抜身を地に突き体を支えたが、それにも堪えられずクタクタ倒れた。
 とうに陣十郎は見失っていた。
 その失望も手伝っていた。
(残念、逸した、敵を逸した!)
(が、飽くまでも探し出して、……)
 立ち上ろうと努力した。
 が、躰はいうことをきかず、のみならず精神さえ朦朧となった。
 こうして杉や桧や槇や、楢などの喬木に蔽われて、その奥に朱の褪せた鳥居を持ち、その奥に稲荷の祠を持ち、日の光も通して来ず、で薄暗い風景の中に、雀や鶸《ひわ》や山雀《やまがら》や山鳩の、啼声ばかりが繁く聞こえる、鎮守の森に包まれて、気絶して倒れた主水の姿が、みじめに痛々しく眺められた。
 色づいた[#「色づいた」は底本では「色ずいた」]病葉《わくらば》が微風にあおられ体の上へ落ちて来たりした。
 かなり長い間しずかであった。
 と、その時人声がし、間もなく十数人の男女の者が、森の中へ現われた。
 変わった風俗の連中であった。
 赤い頭巾に赤い袖無、そんなものを着けている若い男もあれば、亀甲模様のたっつけ[#「たっつけ」に傍点]を穿き、胸に大形の人形箱をかけた、そういう中年の男もあり、紫の手甲に紫の脚絆、三味線を抱えた女もあり、浅黄の股引、茶無地の筒袖、そういう姿の肩の上へ、猿をとまらせた老人などもあった。
 それらはいずれも旅装であった。
 秩父|香具師《やし》の一団なのである。
 平素は自分の家にいて、百姓もやれば杣夫《そま》もやり、猟師もやれば川狩もやるが、どこかに大きな祭礼があって、市《たかまち》が立って盛んだと聞くと、早速香具師に早変りして、出かけて行って儲けて来、家へ帰れば以前通り、百姓や杣夫として生活するという――普通の十三香具師とは別派の、秩父香具師の一団であった。
 この日もどこかの市を目掛け親しい者だけで組をつくり、出かけて行くところらしい。
 その中に一人旅装ではなく、髪は櫛巻きに銀簪一本、茜の小弁慶の単衣《ひとえ》を着た、若い女がまじっていた。
 陣十郎の情婦のお妻であった。
「姐御、お前さんも行くといいんだがな」
 一人の男がこう云って、そそのかすようにお妻を見た。
「そうさねえそうやって、お前さんたちが揃って出かけて行くのを見ると、一緒に行きたいような気持がするよ」
 まんざらお世辞でもなさそうに、お妻はそう云って薄笑いをした。
「陣十郎さんばかりが男じゃアなし、他に男だってあろうじゃアないか。そうそういつもへばり付いてばかりいずに、俺らと旅へ出るのもいいぜ」
 こうもう一人の男が云った。
「あたしを旅へしょびいて行くほどの、好い男がどこかにいるかしら、お前さん達のお仲間の中にさ」
 云い云い、お妻は又薄笑いをして、香具師達を見廻した。
「俺じゃア駄目かな、え、俺じゃア」と、猿廻しが顔を出した。


「十年若けりゃア物になるが」
 お妻はむしろ朗かに笑った。
 お妻は秩父の産れであり、秩父香具師の一人であった。が、ずっと若い頃に、草深い故郷に見切りをつけ、広い世界へ出て行って、香具師などというケチなものよりもっと烈しい、もっと罪の深い、そうしてもっと度胸の入る、凄い商売へ入り込んでしまった。
 女邯鄲師《おんなかんたんし》[#ルビの「おんなかんたんし」は底本では「おんんなかんたんし」]――それになってしまった。
 道中や温泉場などで親しくなり、同じ旅籠《はたご》へ一緒に泊り、情を通じてたらす[#「たらす」に傍点]もあり、好きな男で無い場合には、すかし[#「すかし」に傍点]、あやなし[#「あやなし」に傍点]、たぶらかし[#「たぶらかし」に傍点]て、油断を窺って有金から持物、それらを持って逃げてしまう、平ったく云えば枕探し、女賊になってしまったのである。
 陣十郎の情婦になったのも、平塚の宿で泊まり合わせ、枕探しをしようとしたところ、陣十郎のために取って抑えられた、それが因縁になったのであった。
 その女邯鄲師のお妻であるが、今度陣十郎と連立って、産れ故郷へ帰って来た。と、今朝高萩の村道を、懐かしい昔の仲間達が――すなわち秩父香具師達が、旅|装束《よそおい》で通って行った。知った顔も幾個かあった。で、あまりの懐かしさに、冗談云い云いこんな森まで、連立って一緒に来たのであった。
「おや」と不意にお妻は云って、急に足を一所で止めた。
「こんなところに人間が死んでいるよ」
 行手の杉の木の根下の草に、抜身を持った武士が倒れている。
「ほんに、可哀そうに、死んでらあ。……しかも若いお侍さんだ」
 香具師達は云って近寄って行った。
 お妻はその前にしゃがみ[#「しゃがみ」に傍点]込み、その武士の額へ手をやったが、
「冷えちゃアいない、暖《あった》かいよ」
 いそいで脉所《みゃくどころ》を握ったが、
「大丈夫、生きてるよ」
「じゃア気絶というやつだな」
 一人の香具師が心得顔に云った。
「そうさ、気絶をしているのさ。抜身を持っているところを見ると、きっと誰かと切り合ったんだねえ。……どこも切られちゃアいない。……気負け気疲労《きつかれ》[#「気疲労《きつかれ》」は底本では「気疲労《きつかれ》れ」]で倒れたんだよ」
 云い云いお妻は覗き込んだが、
「ご覧よ随分|好男子《いいおとこ》じゃアないか」
「チェーッ」と誰かが舌打ちをした。
「姐御いい加減にしてくんな。どこの馬の骨か知れねえ奴に、それも死に損ない殺され損ないに。気をくばるなんて嬉しくなさ過ぎらあ」
「まあそういったものでもないよ。……第一随分可愛そうじゃアないか。……それにさ、ご覧よ、この蒼白い顔を……唇の色だけが赤くてねえ。……ゾッとするほど綺麗だよ。……」
「色狂人! ……行こう行こう!」
「行きゃアがれ、碌で無し! ……妾アこの人を介抱するよ」
 お妻は主水の枕元へ、ペタペタと坐ってなお覗き込んだ。


 その同じ日のことであった。
 絹川という里川の岸で、一人の武士が魚を釣っていた。
 四十五六の年齢で、広い額、秀でた鼻、鋭いけれど暖かい眼、そういう顔の武士であった。立派な身分であると見え、衣裳などは寧ろ質素であったが、體に威があり品があった。
 傍らに籃《びく》が置いてあったが、魚は一匹もいなかった。
 川の水は濁りよごれ[#「よごれ」に傍点]てい、藻草や水錆が水面に浮かび、夕日がそれへ色彩をつけ、その中で浮子《うき》が動揺してい、それを武士は眺めていた。
「東馬《とうま》もう何刻《なんどき》であろう?」
 少し離れた草の中に、お供と見えて若侍が退屈らしい顔付をして、四辺《あたり》の風景を見廻していたがそれへ向かって話しかけた。
「巳刻《よつどき》でもありましょうか」
 若侍はそう答え、
「今日は不漁《しけ》でございますな」
 笑止らしく云い足した。
「わしの魚釣、いつも不漁じゃ」
「御意で、全くいつも不漁で。……それにもかかわらず先生には、毎日ご熱心でございますな」
「それでいいのだ、それが本意なのだ。……と云うのはわしの魚釣は、太公望と同じなのだからな」
「太公望? はは左様で」
「魚釣り以外に目的がある。……ということを云っているつもりだが」
「どのような目的でございますか?」
「そう安くは明かされないよ」
「これはどうも恐れ入りました……が、そのように仰せられますと、魚の釣れない口惜《くちお》しまぎれの、負けおしみなどと思われましても……」
「どうも其方《そち》、小人で不可《いけ》ない」
「お手厳しいことで、恐縮いたします」
「こう糸を垂れて水面を見ている」
「はい、魚釣りでございますからな」
「水が流れて来て浮子にあたる」
「で、浮き沈みいたします」
「いかにも自然で無理がない……芥《あくた》などが引っかかると……」
「浮子めひどくブン廻ります」
「魚がかかると深く沈む」
「合憎[#「合憎」はママ]、今日はかかりませんでした」
「相手によって順応する……浮子の動作、洵《まこと》にいい」
「浮子を釣るのでもござりますまいに」
「で、わしはその中に、何かを得ると思うのだよ」
「鮒一匹、そのくらいのもので」
「魚のことを云っているのではない」
「ははあ左様で。……では何を?」
「つまりあの業《わざ》を破る術じゃ」
「は? あの業と仰せられまするは?」
「水品陣十郎の『逆ノ車』……」
「ははあ」
「お、あれは何だ」
 その時上流から女を乗せた、死んだように動かない若い女を乗せた、古船が一隻流れて来た。
「東馬、寄せろ、船を岸へ」
「飛んでもないものが釣れましたようで」
 若侍は云い云い袴を脱ぎかけた[#「脱ぎかけた」は底本では「股ぎかけた」]。
 が、古船は自分の方から、ゆるゆると岸の方へ流れ寄って来た。
 武士は釣棹の柄の方を差し出し、船縁へかけて引き寄せるようにしたが、
「女を上げて介抱せい」
 そう若侍へ厳しく云った。

鳳凰と麒麟


 それから幾日か経った。
 秋山要介は杉浪之助を連れて、秩父郡小川村《ちちぶのこおりおがわむら》の外れに、あたかも嵎《ぐう》を負う虎の如くに蟠居し、四方の剣客に畏敬されている、甲源一刀流の宗家|逸見《へんみ》多四郎義利の、道場構えの広大な屋敷へ、威儀を作って訪れた。
「頼む」
「応」と返事があって、正面の襖が一方へひらくと、小袴をつけた若侍が、恭しく現われた。
「これはこれは秋山先生、ようこそご光来下されました」
「逸見先生に御意得たい。この段お取次下されい」
「は、先生には江戸表へ参り、未だご帰宅ござりませねば……」
「ははあ、いまだにお帰りない」
「帰りませんでござります」
「先生と一手お手合わせ致し、一本ご教授にあずかりたく、拙者当地へ参ってより三日、毎日お訪ねいたしても、そのつどお留守お留守とのご挨拶、かりにも小川の鳳凰《ほうおう》と呼ばれ、上州間庭の樋口十郎左衛門殿と、並び称されている逸見殿でござれば、よもや秋山要介の名に、聞き臆じして居留守を使われるような、そのようなこともござるまいが、ちと受取れぬ仕儀でござるな」
 洒脱であり豪放ではあるが、他人に対してはいつも丁寧な、要介としてはこの言葉は、かなり角立ったものであった。
 傍に引き添っていた浪之助も、これはおかしいと思った程である。
 面喰ったらしい取次の武士は、
「は、ご尤《もっと》もには存じますが、主人こと事実江戸へ参り、今に帰宅いたしませねば……」
「さようか、よろしい、事実不在、――ということでござるなら、又参るより仕方ござらぬ。……なれどこのまま帰っては、三度も参った拙者の腹の虫、ちと納まりかねるにより、少し無礼とは存じ申すが、表にかけられた門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、お預かりして持ちかえる。逸見殿江戸よりご帰宅なさらば、この旨しかとお伝え下され。宿の小紅屋に滞在まかりある。ご免」というと踵《きびす》を返し、門を出ると門の柱に「甲源一刀流指南」と書いた、二寸厚さの桧板、六尺長い門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]外し、小脇に抱えて歩き出した。
 呆れ返ったのは浪之助で、黙々として物も云わず、要介の後から従《つ》いて行った。
 村とはいっても小川村は、宿場以上の賑いを持った、珍らしく豊かな土地であって、道の両側には商店多く、人の往来も繁かった。そういう所を立派な武士が、大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]引っ抱え、若い武士を供のように連れて、ノッシノッシと歩いて行くのであった。店の人達は審かしそうに覗き、往来の人達も不思議そうに眺めた。
 が、要介は意にも介さず、逸見家とは反対の方角の、これは小川村の入口にある、この村一番の旅籠屋の、小紅屋まで歩いて来た。
「お帰り」と番頭や婢達《おんなたち》が、これも怪訝そうな顔をして、大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]抱えた要介達を迎え、玄関へ頭を並べたのを、鷹揚に見て奥へ通った。


 中庭を前にした離座敷――この宿一番の座敷らしい――そこの床の間へ大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]立てかけ、それを背にして寛《ゆるや》かに坐わり、婢の持って来た茶を喫しながら、要介は愉快そうに笑っていた。
 その前に浪之助はかしこまっていたが、これは随分不安そうであった。
「先生」ととうとう浪之助は云った。
「これは一体どうしたことで?」
「…………」
 愉快そうに笑っている。
「武芸指南所の門札は[#「門札は」は底本では「門礼は」]、商家の看板と等しなみに、その家にとりましては大切なもの、これを外されては大恥辱……」
「ということは存じて居るよ」
「はい」と浪之助はキョトンとし、
「それをご承知でその門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「さよう、わしは外して来た」
「はい」と又もキョトンとし、
「それも高名の逸見先生の……」
「鳳凰と云われる逸見氏のな」
「はい」ともう一度キョトンとし、
「それほど逸見様は高名なお方……」
「わしも麒麟《きりん》と呼ばれて居るよ」
「御意で」と今度は頭を下げ、
「関東の麒麟と称されて居ります」
「鳳凰と麒麟……似合うではないか」
「まさにお似合いではございますが、似合うと申して門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「ナニわしだから外して来てもよろしい」
「麒麟だから鳳凰の門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「さようさよう外して来てもよろしい」
「ははあ左様でございますかな」
「他の奴ならよろしくない」
「…………」
「ということは存じて居る。さよう逸見氏も存じて居る」
「…………」
「人物は人物を見抜くからの」
「はい、もう私などは小人で」
「そのうちだんだん人物になる」
「はい、ありがたく存じます」
 とは云ったものの浪之助は、
(うっかり物を云うとこんな目に逢う。訓された上に嚇されてしまう)
 こう思わざるを得なかった。
「それに致しましても先生には、何と思われて小川村などへ参り、何と思われて逸見先生のお宅などへ……」
「武術試合をするためにさ……」
「それだけの目的でございますかな?」
「真の目的は他にある」
「どのような目的でございますかな?」
「赤尾の林蔵を関東一の貸元、そいつに押し立ててやりたいのだ」
「そのため逸見先生と試合をなさる?」
「その通り。変に思うかな?」
「どういう関係がございますやら」
「今に解る。じきに解る」
「ははあ左様でございますか」
「わしは金蔓をなくしてしまった――源女殿を見失ってしまったので、秩父にいる必要がなくなってしまった。そこで江戸へ帰ろうと思う。……江戸へ帰って行く置土産に、林蔵を立派な男にしてやりたい。それで逸見氏と試合をするのだ。……高萩の猪之松の剣道の師匠、逸見多四郎殿と試合をするのだ」


(なるほどな)と浪之助は思った。
(林蔵の師匠たる秋山先生と、猪之松の師匠たる逸見先生とが、武術の試合をした上で、林蔵を関東一の貸元にする。なるほどな、意味がありそうだ)
 確実のことは解らなかったが、意味はありそうに思われた。
 やがて解るということであった。押して訊こうとはしなかったが、
「それに致しましてもお組の源女と、その源女のうたう歌と、先生とのご関係を承《うけたま》わりたいもので」
 以前から疑問に思っていたことを、浪之助は熱心に訊いた。
 その浪之助は以前においては、まさしく源女の愛人であった。がその源女が今度逢ってみれば、変わった性格となって居り、不思議な病気を持って居り、妙な歌を口吟《くちずさ》むばかりか、要介などという人物が、保護する人間となっていたので、浮いた恋、稀薄の愛、そのようなものは注がないこととし、ほんの友人のように交際《つきあ》って来たところ、その源女は上尾街道で、過ぐる日行なわれた林蔵と猪之松との果し合いの際|行方《ゆくえ》不明となり、爾来姿を見せなくなっていた。
 浪之助も勿論心にかけたが、要介のかけ方は一層で、
「あの日たしかに大薮の陰で、源女殿の歌声を耳にした。が、果し合いを引き分けおいて、急いで行って探した時には、もう源女殿はいなかった。どこにどうしていることやら」と、今日までも云いつづけて来たことであった。
「源女殿とわしとの関係か。さようさな、もう話してもよかろう」
 要介はいつになくこだわら[#「こだわら」に傍点]なかった。しかししばらく沈思していた。久しく聞きたいと希望していた、秘密の話が聞かれるのである。浪之助は思わず居住いを正し、緊張せざるを得なかった。
 中庭に小広い泉水があり、鯉が幾尾か泳いでいたが、時々水面へ飛び上った。それが田舎の古い旅籠屋の、昼の静かさを破壊するところの、たった一つの音であった。
 と、要介は話し出した。
「武蔵という国は承知でもあろうが、源氏にとっては由縁《ゆかり》の深い土地だ。源氏の発祥地ともいうべき土地だ。ここから源氏の諸豪族が起こった。秩父庄司《ちちぶしょうじ》、畠山重忠《はたけやましげただ》、熊谷次郎直実《くまがいじろうなおざね》等、いずれも武蔵から蹶起した武将だ。……がわしにかかわる[#「かかわる」に傍点]事件は、もっと昔に遡らなければならない。……これは誰もが承知していることだが、後冷泉天皇の御宇《ぎょう》にあって、奥州の酋長|阿部《あべ》の頼時《よりとき》が、貞任《さだとう》、宗任《むねとう》の二子と共に、朝廷に背いて不逞を逞ましゅうした、それを征したのが源|頼義《よりよし》、そうしてその子の八幡太郎義家――さてこの二人だが奥州征めの往来に、武蔵の国にとどまった。今日の国分寺村の国分寺、さよう、その頃には立派な寺院で、堂塔伽藍聳えていたそうじゃが、その国分寺へとどまった……ところが止まったばかりでなく、前九年の役が終了した際、奥州産の莫大な黄金、それを携えて帰って来、それを国分寺の境内に、ひそかに埋めたということじゃ。それには深い訳がある」
 こう話して来て要介は、またしばらく沈思した。


 要介はポツポツ話し出した。
「源氏は東国を根拠とすべし。根拠とするには金が必要だ。これをもってここへ金を埋めて置く。この金を利用して根を張るべし。――といったような考えから、金を埋めたということだ。……その後この地武蔵において、いろいろさまざまの合戦が起こったが、埋めてあるその金を利用したものが、いつも勝ったということじゃ。ところがそのつど利用したものは、他の者に利用されまいとして、残った金を別の所へ、いつも埋め代えたということじゃ。……治承《じしょう》四年十月の候、源頼朝が府中の南、分倍河原《ぶばいがわら》に関八州の兵を、雲霞の如くに集めたが、その時の費用もその金であり、ずっと下って南北朝時代となり、元弘《げんこう》三年新田義貞卿が、北條高時を滅ぼすべく、鎌倉に兵を進めようとし、分倍河原に屯して、北條泰家と合戦したが、その時も義貞は源氏というところから、その金を利用したという事じゃ。正平《しょうへい》七年十二月十九日、新田|義宗《よしむね》南軍を率い、足利尊氏を狩野河《こうのかわ》に討つべく、武蔵の国に入ったところ、尊氏すでに狩野河を発し、谷口から府中に入り、人見原《ひとみはら》にて激戦したが、義宗破れて入間川《いるまがわ》に退き、二十八日|小手差原《こてさしはら》にて戦い、ふたたび破れて退いたが、この時は足利尊氏が、これも源氏というところから、その金を利用したということじゃ。更に下って足利時代に入り、鎌倉の公方足利成氏、管領上杉|憲忠《のりただ》を殺した。憲忠の家臣長尾|景晴《かげはる》、これを怒って手兵を率い、立川原で成氏と戦い、大いに成氏を破ったが、この時はその金を景晴が利用し、その後その金を用いた者で、史上有名の人物といえば、布衣《ふい》から起こって関八州を領した、彼の小田原《おだわら》の北條|早雲《そううん》、武蔵七党の随一と云われた、立川宗恒《たてかわむねつね》、同恒成、足利学校の創立者、武人《ぶじん》で学者の上杉|憲実《のりざね》。……ところがそれが時代が移って、豊臣氏となり当代となり――即ち徳川氏となってからは、その金を利用した誰もなく、金の埋没地も不明となり、わずかにこの地方秩父地方において『秩父の郡小川村、逸見様庭の桧の根、昔はあったということじゃ……』という、手毬唄に名残をとどめているばかりじゃ。……」
 ここまで云って来て要介は、不意に沈黙をしてしまった。
 じっと聞いていた浪之助の、緊張の度が加わった。
 源女のうたう不可解の歌が、金に関係あるということは、朧気ながらも感じていたが、そんな歴史上の合戦や人物に、深い関係があろうなどとは、夢にも想像しなかったからである。
(これは問題が大きいぞ)
 それだけに興味も加わって、固唾を呑むという心持! それでじっと待っていた。
 要介は語りついだ。
「あの歌の意味は簡単じゃ。今話した例の金が、武蔵秩父郡小川村の逸見《へんみ》家の庭にある桧の木の根元に、昔は埋めてあったそうさな。――という意味に他ならない。逸見家というのは云う迄もなく、逸見多四郎殿の家の事じゃ。……その逸見家は何者かというに、甲斐源氏《かいげんじ》の流を汲んだ、武州無双の名家で旧家、甲源一刀流の宗家だが、甲源の文字もそこから来ている。即ち甲斐源氏という意味なのじゃ」


 要介は語りつづけた。
「歌もそこ迄なら何でもないのじゃ。というのは普通の手毬歌として、秩父地方の人々は、昔から知っているのだからな。ところがどうだろう源女殿だけが、その後の文句を知っている『今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の……それから少し間が切れて――秣の山や底無しの、川の中地の岩窟の……という文句を知っている。そこへわし[#「わし」に傍点]は眼をつけたのじゃ。頼義《よりよし》、義家が埋めたという金は、その後の歌にうたわれている境地に、今は埋めてあるのだろう。それにしても源女殿はどこでどうしてその後の歌を覚えたかとな。で源女殿へ訊いて見た。その返辞が洵《まこと》に妙じゃ。大森林や大渓谷や、大きな屋敷や大斜面や、そういう物のある山の奥の、たくさんの馬や馬飼のいる所へ、いつぞや妾《わたし》は行ったような気がする。そこでその歌を覚えたような気がする。でもハッキリとは覚えていない。勿論そこがどこであるかも知らない。――という曖昧の返辞なのだ。その上|其方《そち》も知っている通り、源女殿は時々発作を起こす。……で、わしはいろいろの医者へ、源女殿の様態を診て貰ったところ、一人柳営お抱えの洋医、平賀|杏里《きょうり》殿がこういうことを云われた。――非常に恐ろしい境地へ行き、非常に烈しい刺激を受け、精神的に大打撃を受け、その結果大熱を体に発し、一月とか二月とかの長い間、人事不省になっていた者は、その間のことはいうまでもなく、それ以前の事もある程度まで、全然忘却してしまうということが往々にあるが、源女殿の場合がそうらしい。が、源女殿をその境地へ、もう一度連れて行けば思い出すし、事実その境地へ行かずとも、その境地と酷似している境地へ、源女殿を置くことが出来たなら、忘却していた過去のことを、卒然と記憶に返すであろうと。……しかし源女殿をその境地へ、連れて行くということは出来難い。その境地が不明なのだから。同じような境地へ源女殿を置く。ということもむずかしい。どんな境地かということを、わし[#「わし」に傍点]は確実に知らないのだから。……しかしわし[#「わし」に傍点]はこう思った。あの歌の前半の歌われている、秩父地方へ出かけて行って、気長く源女殿をそこに住ませて、源女殿の様子を見守っていたら、何か暗示を得ようもしれないとな。そこでお連れして来たのだが。……しかるに源女殿のそういう秘密を、わし[#「わし」に傍点]の外にもう一人、同じように知っている者がある。他でもない水品陣十郎じゃ」
 こう云って来て要介は、眉をひそめて沈黙した。
 剣鬼のような吸血鬼のような、陣十郎という男のことを、思い出すことの不愉快さ、それを露骨に現わさしたところの、それは気|不味《まず》い[#「不味《まず》い」は底本では「不味《まずい》い」]沈黙であった。
 浪之助も陣十郎は嫌いであり、嫌い以上に恐ろしくもあり、口に出すことさえ厭であったが、しかし源女や要介が、どういう関係からあの吸血鬼と、知り合いになったかということについては、窺い知りたく思っていた。
 それがどうやら知れそうであった。
 そこで更に固唾を呑む気持で、要介の語るのを待ち構えた。


「今から十月ほど前であったよ」と、要介は話をつづけ出した。
「信濃方面へ旅をした。武術の修行というのではなく、例によっての風来坊、漫然と旅をしたまでだが沓掛《くつかけ》の宿で一夜泊まった。明月の夜であったので、わしは宿《やど》を出て宿《しゅく》を歩き、つい宿外れまでさまよって行った。と、歌声が聞こえてきた。云うまでも[#「云うまでも」は底本では「云までも」]なく例の歌さ。はてなと思って足を止めると、狂乱じみた若い女が、その歌をうたって歩いて来る。と、その後から一人の武士が、急ぎ足で追いついたが、やにわに女を蹴倒すと、踏む撲るの乱暴狼藉『汝《おのれ》逃げようとて逃がそうや』こう言っての乱暴狼藉! その瞬間女は正気づいたらしく、刎ね起きると拙者を認め、走り寄って縋りつき、お助け下されと申すのじゃ。心得たりと進み出て、月明で武士を見れば、以前樋口十郎左衛門殿方で、立合ったことのある水品陣十郎! 先方も拙者を認めたと見え、しかも形勢非なりと知ったか、『秋山殿でござったか、その女は源女と申し、発狂の女芸人、拙者故あって今日まで、保護を加えて参りましたが、お望みならば貴殿に譲る』と、このようなヘラズ口をきいたあげく、匆慌《そうこう》として立ち去ったので、源女殿を宿へ連れて参り、事情を詳しく訊いたところ、江戸両国の曲独楽の太夫、養母というものに悪婆あって長崎の異人に妾《めかけ》に出そうという。それを避けて旅へ出で、ある山国へ巡業したところ、大森林、大傾斜、百千頭も馬のいるところ、そういう所の大きな屋敷へ、どういう訳でか連れて行かれた。そうしてそこで恐ろしい目に逢い、妾《わたし》は正気を失ったらしい。正気づいて見れば陣十郎という男が、妾の側に附いていて、それ以来ずっとその男が、あらゆる圧迫と虐待とを加え、妾にその土地へ連れて行け、お前の謡う歌にある土地へ、連れて行けと云って強いに強い、爾来その男に諸々方々を、連れ歩かれたとこう云うのじゃ。……それからわし[#「わし」に傍点]は源女殿を連れて、江戸へ帰って屋敷へ置いたが、そこは女芸人のことで、もう一度舞台に出たいという。そこで元の座へ出したところ、陣十郎に見付けられ、貴殿などとも知り合うようになった。……」
「よく解《わか》りましてござります」
 要介の長い話を聞き、浪之助はこれまでの疑問を融かした。
「と致しますと陣十郎も、例の黄金の伝説的秘密を、承知いたして居りまして、それを探り出そうと心掛け、源女を抑えて居りましたので……」
「さよう」と要介は頷いて云った「逸見多四郎殿の門弟として、秩父地方に永らく居た彼、黄金の秘密は知悉しているはずじゃ」
 この時部屋の外の廊下に、つつましい人の足音がし、
「ご免下され」という男の声がし、襖が開いて小紅屋の主人が、恭しくかしこまった顔を出し、
「逸見の殿様お越しにござります。へい」と云って頭を下げた。
 見れば主人の背後にあたって、威厳のある初老の立派な武士が、気軽にニコヤカに微笑しながら、部屋を覗くようにして立っていた。
「逸見多四郎参上いたしました」


「や、これは!」とさすがの要介も、郷士ながらも所の領主、松平|大和守《やまとのかみ》には客分にあつかわれ、新羅《しんら》三郎|義光《よしみつ》の後胤甲斐源氏の名門であり、剣を取らせては海内の名人、しかも家計は豊かであって、倉入り千俵と云われて居り、門弟の数|大略《おおよそ》二千、そういう人物の逸見多四郎が、気軽にこのような旅籠屋などへ、それも留守の間に道場の看板、門の大札[#「大札」は底本では「大礼」]を外して行ったところの、要介を訪ねて来ようなどとは、要介本人思いもしなかったところへ、そのように気軽に訪ねて来られたので、さすがに驚いて立ち上った。
「これはこれは逸見先生、わざわざご来訪下されましたか。いざまずこれへ! これへ!」
「しからばご免」と仙台平の袴に、黒羽二重の衣裳羽織、威厳を保った多四郎は、静かに部屋の中へ入って来た。
 座が定《き》まってさて挨拶! という時に要介の機転、床の間に立ててあった例の門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、恭しく抱えて持って来るや、前へ差し出しその前に坐り、
「実は其《それがし》先生お屋敷へ、本日参上いたしましたところ、江戸へ参ってご不在との御事。と、いつもの悪い癖が――酔興とでも申しましょうか、悪い癖がムラムラと起こりまして、少しく無礼とは存じましたが、門弟の方へ一応断わり、この大門札[#「門札」は底本では「門礼」]ひき外し、旅舎まで持参いたしました、がしかし決して粗末にはいたさず、床の間へ立てかけ見事の筆蹟を、打ち眺め居りましてござります。が、それにしてもこの門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、ひき外し持参いたしましたればこそ、かかる旅舎などへ先生ほどのお方を、お招きすること出来ました次第、その術策|的中《あた》りましてござるよ。ハッハッハッ」と笑ったが、それは爽かな笑いでもあった。
 と、多四郎もそれに合わせ、こだわらぬ爽かな笑い声を立てたが、
「その儀でござる、実は其《それがし》所用あって江戸へ参り、三日不在いたしまして、先刻帰宅いたしましたところ、ご高名の秋山先生が、不在中三回もお訪ね下され、三回目の本日門の札を[#「札を」は底本では「礼を」]、ひき外しお持ちかえりなされたとのこと、門弟の一人より承《うけたま》わり、三回のご来訪に恐縮いたし、留守を申し訳なく存じますと共に、その門弟へ申したような次第――、門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]外して持ち去った仁、秋山要介先生でよかった。他の仁ならこの多四郎、決して生かして置きませぬ。秋山要介先生でよかった。その秋山先生は、奇嬌洒脱の面白い方じゃ、いまだ一度もお目にかからぬが、勇ましいお噂は承って居る。五百石といえば堂々たる知行、その知行取りの剣道指南役の、嫡男の身に産れながら、家督を取らず浪人し、遊侠の徒と交際《まじわ》られ、権威に屈せず武威に恐れず、富に阿《おも》ねらず貧に恥じず、天空海濶に振舞われる当代での英傑であろう。門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]持って行かれたも、単なる風狂に相違ない。宿の小紅屋に居られるなら、早速参ってお目にかかろうとな。――そこで参上いたしたような次第、お目にかかれて幸甚でござった」
「杉氏どうじゃな」と要介は、浪之助の方へ声をかけた。


「人物は人物を見抜くと云ったが、どうじゃ杉氏、その通りであろう」
 こう云ったがさらに要介は、多四郎の方へ顔を向け、
「ここに居られるは杉浪之助殿|某《それがし》の知己友人でござる。門札[#「門札」は底本では「門礼」]外して持ち参ったことを、ひどく心配いたしましたについて、いや拙者だからそれはよい、余人ならばよろしくないと云うことは逸見先生もご存知、人物は人物を見抜くものじゃと、今し方申して居りました所で、……杉氏何と思われるな?」
「ぼんやり致しましてござります」
 浪之助はこう云うと、恰も夢から醒めたように、眼を大きくして溜息を吐いた。
「鳳凰《ほうおう》と麒麟《きりん》! 鳳凰と麒麟! 名優同志の芝居のようで。見事のご対談でございますなあ」
 逸見多四郎がやって来た! さあ大変! 凄いことが起こるぞ! 激論! 無礼咎め! 切合い! 切合い! と、その瞬間思ったところ、事は全く反対となり、秋山先生で先ずよかった! ……ということになってしまい、十年の知己ででもあるかのように、笑い合い和み合い尊敬し合っている。で浪之助は恍惚《うっとり》として、両雄の対談を聞いていたのであった。
「酒だ」と要介は朗かに云った。
「頼みある兵《つわもの》の交際に、酒がなくては物足りぬ。酒だ! 飲もう! 浪之助殿、手を拍って女中をお呼び下され!」
「いや」と多四郎は手を振って止めた。
「酒も飲みましょう。がしかし、酒は場所を変えて飲みましょう」
「場所を変えて? はてどこへ?」
「拙者の屋敷で。……云うまでもござらぬ」
「要介のまかり在るこの屋敷、さてはお気に入らぬそうな」
「いやいや決して、そういう訳ではござらぬ。……が、最初にご貴殿において、お訪ね下されたのが拙者の屋敷、言って見れば先口で。……ではその方で飲むのが至当。……」
「ははあなるほど、それもそうじゃ」
「ということと存じましたれば、駕籠を釣らせてお宿の前まで、既に参って居りますので」
「それはそれはお手廻しのよいこと。……がしかし拙者といたしましては、ご貴殿のお屋敷におきましては、酒いただくより木刀をもって、剣道のご指南こそ望ましいのでござる」
「云うまでもござらぬ剣道の試合も、いたしますでござりましょう」
「その試合じゃが逸見先生、尋常の試合ではござらぬぞ」
「と申してまさかに真剣の……」
「なんのなんの真剣など。……実は賭試合がいたしたいので」
「ナニ賭試合? これは面妖! 市井の無頼の剣術使いどもが、生活《くらし》のために致すような、そのような下等の賭試合など……」
「賭る物が異《ちが》ってござる」
「なるほど。で、賭物は?」
「拙者においては赤尾の林蔵!」
「赤尾の林蔵を? 赤尾の林蔵を? ふうん!」と云ったが多四郎は、じっと要介の顔を見詰めた。


「博徒ながらも林蔵は、拙者の剣道の弟子でござる」
 要介はそう云って意味ありそうに、多四郎の顔を熟視した。
「その林蔵をお賭になる。……では拙者は何者を?」
 いささか不安そうに多四郎は云って、これも要介を意味ありそうに見詰めた。
「高萩村の猪之松を、お賭下さらば本望でござる」
「彼は拙者の剣道の弟子……」
「で、彼をお賭け下され」
「賭けて勝負をして?」
「拙者が勝てば赤尾の林蔵を、関東一の貸元になすべく、高萩村の猪之松を、林蔵に臣事いたさせ下され」
「拙者が勝たば赤尾の林蔵を、高萩の猪之松に従わせ、猪之松をして関東一の……」
「大貸元にさせましょう」
「ははあそのための賭試合?」
「弟子は可愛いものでござる」
「なるほどな」と多四郎は云ったが、そのまま沈黙して考え込んでしまった。
 林蔵と猪之松とが常日頃から、勢力争いをしていることは、多四郎といえども知っていた。その争いが激甚となり、早晩力と力とをもって、正面衝突しなければなるまい――という所まで競り詰めて来ている。ということも伝聞していた。とはいえそのため秋山要介という、一大剣豪が現われて、師弟のつながりを縁にして、自分に試合を申し込み、その勝敗で二人の博徒の、勢力争いを解決しようなどと、そのような事件が起ころうなどとは、夢にも思いはしなかった。
(何ということだ!)と先ず思った。
(さてどうしたものだろう?)
 とは云え自分も弟子は可愛い、成ろうことなら林蔵を挫いて、猪之松を大貸元にしてやりたい。
(では)と思わざるを得なかった。
(では要介の申し込みに応じ、賭試合を行ない打ち勝ってやろう)
 腹が決まると堂々たるもので、逸見多四郎は毅然として云った。
「賭試合承知いたしてござる。しからば直ちに拙者屋敷に参り、道場においてお手合わせ、試合いたすでござりましょう」
「欣快」
 要介は立ち上った。
「杉氏、貴殿もおいでなされ」
 三人揃って部屋を出た。

 逸見多四郎家のここは道場。――  竹刀

下手切り! こいつだけは受けられない、ダーッとドップリ胴へ入るだろう! と、完全の胴輪切り!
 その序の業が行なわれた。
 釣られた釣られた主水は釣られた! あッ、踏み出して切り込んだ。
 一閃!
 返った!
 陣十郎の刀が、軽く宙で車に返った!
 ハ――ッと主水! きわどく反わせたが……
 駄目だ!
 見よ!
 次の瞬間!
 さながら怒濤の寄せるが如く、刀を返しての大下手切りだ――ッ!
「ワッ」
 悲鳴!
 血煙!
 血煙!
 いやその間に、一髪の間に――大下手切りの行なわれる、前一髪の際どい間に……
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秩父の郡《こおり》、小川村、
逸見《へんみ》様庭の桧の根
[#ここで字下げ終わり]
 そういう女の歌声が、手近かの所から聞こえてきた。
「あッ」と陣十郎は刀を引き、タジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]と数歩背後へ下った。


 無心に歌をうたいながら、源女は大薮の中にいた。
 いつも時々起こる発作が、昨夜源女の身に起こった。そこでほとんど夢遊病患者のように、赤尾村の林蔵の家を脱け出し、どこをどう歩いたか自分でも知らず、この辺りまで彷徨《さまよ》って来、この大薮で一夜を明かし、たった今眼醒めたところであった。
 まだ彼女の精神は、朦朧としていて正気ではなかった。
 島田の髷が崩れ傾《かしが》り、細い白い頸《うなじ》にかかってい、友禅模様の派手な衣裳が、紫地の博多の帯ともども、着崩れて痛々しい。素足に赤い鼻緒の草履を、片っぽだけ突っかけている。夜露に濡れたため衣裳はしおたれ[#「しおたれ」に傍点]、茨や木の枝にところどころ裂かれ、手足も胸元も薮蚊に刺され、あちこち血さえ出していた。
 そういう源女は身を横倒しにし、草の上に延びていた。秋草の花――桔梗や女郎花や、葛の花などが寝ている源女の、枕元や足下に咲いていた。栗色の兎がずっと離れた、萩の根元に一匹いて、源女の方を窺っていた。
 彼女の頭上にあるものといえば、樺や、柏や、櫟《くぬぎ》や、櫨《はぜ》などの、灌木や喬木の枝や葉であり、それらに取り縋り巻いている、山葡萄や蔦や葛であり、そうしてそれらの緑を貫き、わずかに幽かに隙《す》けて見える、朝の晴れた空であった。
 薮を透して日の光が、深い黄味を帯びて射し込んで来ていて、地上の草や周囲《まわり》の木々へ、明暗の斑《ふち》を織っていた。
 無心――というよりいつもいつも、心に執拗にこびりついている歌、例の歌を唄ってしまうと、彼女は恍惚《うっとり》と考え出した。こういう場合に彼女の脳裡へ、幻影のように浮かんで来るのは、大森林、大渓谷、大きな屋敷、大傾斜面、五百頭千頭もの放馬の群、それを乗り廻し追い廻し、飼養している無数の人、そうしてあたかも酒顛童子のような、長髪赧顔の怪異の老人――等々々のそれであった。
 しかし彼女はそういう所が、どこにあるかは知らなかった。そうしてどうしてそういう光景が、浮き出して来るかも知らなかった。とはいえ彼女はそういう光景の場所の、どこであるかを確かめなければならない、そうして是非ともその光景の場所へ、どうしても自身行かなければならないと、そんなように熱心に思うのであった。がそれとて自分自身のために、その場所を知ろうとするのでもなく、又行こうとするのでもなく、自分の難儀を救ってくれた人秋山要介という人のために、知りたい行きたいと思うのであった。
 浮かんで来る幻影を追いながら、今も彼女は思っていた。
(行かなければならない、さあ行こう!)
 で、彼女は立ち上った。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]昔はあったということじゃ
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 又彼女は口ずさんだ。
 そうして大薮を分けながら、大薮の外へ出ようとした。
 その大薮の外側には、以前から彼女を狙っている吸血鬼水品陣十郎が、抜身を提げて立っているはずである。

10
 後《あと》へ下った陣十郎は、刀を下段にダラリと下げ、それでも眼では油断なく、主水の眼を睨みつけ、歌主の在所《ありか》がどこであるかと、瞬間それについて考えた。
 周囲《あたり》には大薮があるばかりで、その他は展開《ひら》けた耕地であり、耕地には人影は見えなかった。
 声から云っても歌の性質《たち》から云っても、歌ったのは源女に相違ない。
 が、源女などはどこにもいない。
(さては自分の空耳かな?)
 それにしても余りに明かに、歌声は聞こえてきたではないか。
 源女だ源女だ歌ったのは源女だ!
 かつて一旦手に入れて、薬籠の物にしはしたが、その持っている一大秘密を、まだ発見しないうちに秋山要介に横取りされた女! お組の源女に相違ない!
 探して探して探し廻ったあげく、江戸は両国の曲独楽の席で、ゆくりなくも発見した。が、その直後に起こった事件――鴫澤庄右衛門を討ち果したことから、江戸にいられず旅に出たため、源女のその後の消息については、確かめることが出来なかった。
 その源女の歌声が、こんな所で聞こえたのであった。
(どうしたことだ? どうしたことだ?)
 不思議なことと云わなければならない。
(あの女を再び手に入れることが出来て、あの歌の意味を解くことが出来たら!)
 その時こそ運命が――解いた人の運命が、俄然とばかり一変し、栄耀栄華を尽くすことが出来、至極の歓楽を享けることが出来る!
(どうでもあの女を手に入れなければ!)
 だが彼女はどこにいるのだ?
 分を秒に割った短い間だ! 時間にして短いそういう間に、陣十郎の脳裡に起伏したのは、実にそういう考えであった。
 その間彼は放心状態にあった。
 何で主水が見逃がそうぞ!
 一気に盛り返した勇を揮い、奮然として切り込んだ。
 またも鏘然太刀音がした。
 放心状態にあったとはいえ、剣鬼さながらの陣十郎であった。何のムザムザ切られようぞ!
 受けて一合!
 つづいて飛び退いた、飛び退いた時にはもう正気だ! 正気以上に冴え切っていた。
(こやつを一気に片付けて、源女の在所《ありか》を突き止めなければならない!)
「ヤ――ッ!」と掛けた物凄い掛声!
 つづけて「ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ!」
 先々の先の手一杯! さながら有段者が初心者を相手に、稽古をつけるそれの如く、主水が撃とう切ろう突こうと、心組む心を未前[#「未前」はママ]に察し、その先その先その先と出て、追い立て切り立て突き立て進んだ。
 またもや主水は薮際まで詰められ、眼眩みながら薮の裾を、右手へわずか廻り込もうとした時、天運尽きたか木の根に躓《つまず》き、横倒れにドッと倒れた。
「くたばれ!」
 シ――ンと切り下した!

11
 シ――ンと切り下ろした陣十郎の刀が、仆れている主水を拝み打ちに、眉間から鼻柱まで割りつけようとした途端、日の光を貫いて小柄が一本、陣十郎の咽喉へ飛んで来た。
「あッ」と思わず声を上げ、胸を反らせた陣十郎は、あやうく難を免れたが、小柄の投げられた方角を見た。
 十数間のかなたから、一人の武士が走って来る。
「む!……秋山! ……秋山要介!」
 いかにも走って来るその武士は、今朝になって眼醒めて見れば、昨夜から発作を起こしていた源女が、どこへ行ったものか姿が見えず、それを案じて探すために、林蔵の家を立ち出で、ここまでやって来た秋山要介であり、見れば宿意ある水品陣十郎が、これも因縁《ゆかり》ある鴫澤主水を、まさに討って取ろうとしていた。間隔は遠い、間に合わない。そこで小柄を投げたのであった。
 小柄を投げて陣十郎の兇刃を、制して置いて秋山要介、飛燕の如く飛び込んで来た。
 が、陣十郎もただ者ではない、主水を相手に戦って、既に躰は疲労《つかれ》ていた。そこへ剣豪秋山要介に新規の力で出られては、百に一つの勝目はない。――と見て取るや刀を引き、鞘にも納めず下げたままで、耕地を一散に走って逃げた。
 と、瞬間飛び起きたは、無念残念返り討ちだと、一刹那覚悟して仆れていた主水で、
「秋山先生、お礼は後刻! ……汝、待て――ッ、水品陣十郎! ……遁してなろうか、父の敵!」と、身体綿の如く疲労して居り、剣技も陣十郎と比較しては、数段も劣って居り、追っかけ追い詰め戦ったところで、あるいは返り討ちになろうもしれないと、そういう不安もありながら、みすみす父の敵に逢い、巡り合って刀を交したのに、そうしてその敵が逃げて行くのに、そうして一旦逃がしてしまったなら、いつふたたび巡り逢えるやら不明と思えば追わずにいられなかった。
 で、主水は刀を振り振り、陣十郎を追いかけた。
「待たれい! 主水殿、鴫澤氏!」
 追いついてよしんば戦ったところで、陣十郎に主水が勝つはずはない、返り討ちは見たようなものだ――と知っている秋山要介は、驚いて大音に呼び止めた。
「長追いなさるな! お引き返しなされ! またの機会をお待ちなされ」
 しかし何のそれを聞こう! 主水はよろめきよろめきながら、走り走り走って行く。
(尋常の敵を討つのではなく、親の敵《かたき》を討つのであった。子とあってみれば返り討ちも承知で、追いかけ戦うのが本当であろう)
 気がついた秋山要介は、孝子《こうし》に犬死させたくない、ヨーシ、追いついて後見《うしろみ》してやろう! 助太刀してやろうと決心し、袴の股立取り上げた途端、
「セ、先生、秋山先生!」と、背後から息せき呼ぶ声がし、やにわに袖を掴まれた。
「誰だ!」と怒鳴って顔を見た。
 林蔵の乾兒の藤作であった。

12
「おお藤作、どうしたのだ?」
「タ、大変で……オ、親分が!」
「なに親分が? 林蔵がか?」
「へい、林蔵親分が、カ、街道で、あそこの街道で……タ、高萩の猪之松と……」
「うむ、高萩の猪之松と[#「猪之松と」は底本では「猪の松と」]?」
「ハ、果し合いだい、果し合いだい!」
「む――」と呻くと振り返り、要介は街道の方角を見た。
 旅人や百姓の群であろう、遠巻にして街道に屯し、じっと一所を見ている光景が、要介の眼に鮮かに見えた。彼等の見ている一所で、林蔵は怨ある猪之松と、果し合いをしているのであろう。要介も以前から林蔵と猪之松とが、勢力争い激甚であり、一度は雌雄を決するてい[#「てい」に傍点]の、真剣の切り合いをやるべきことを、いろいろの事情から知っていた。
(これはうっちゃって置かれない。林蔵を見殺しにすることは出来ない。聞けば高萩の猪之松は、逸見《へんみ》多四郎から教えを受け、甲源一刀流では使い手とのこと、林蔵といえどもこの拙者が、新影流は十分仕込んで置いた。負ける気遣いもあるまいが、もしも負れば師匠たる拙者の、恥にならないものでもない。林蔵と猪之松との果し合い、考えようによれば逸見多四郎と、この秋山要介との、果し合いと云うことにもなる。これはうっちゃっては置かれない)
「行こう、藤作!」と叫んだが、
(主水氏は?)とこれも気になり、走って行った方へ眼をやった。
 広い耕地をよろめきよろめき、陣十郎の後を追い、なお主水は走っていた。
(一人で行ったら返り討ち、陣十郎に討たれるであろう。……惜しい武士! 気の毒な武士! ……どうでも助太刀してやらねば……)
 ――が、そっちへ身を挺したら、林蔵はどういう運命になるか?
(どうしたら可《よ》いか? どうしたものだ?)
 知らぬ藤作は急き立てた。
「先生、早く、行っておくんなせえ! ……云いたいことはたくさんあるんで……第一女が誘拐《かどわか》されたんで……若い女が、綺麗な女が……誘拐した野郎は猪之松の乾兒と、その相棒の馬方なんで……最初《はな》は俺らと杉さんとで……へい、そうで浪之助さんとで、その女を助けたんですが……逃げた八五郎め馬方を連れて、盛り返して来てその女を……その時浪之助さんは留守だったんで……いやいやそんなこと! ……行っておくんなせえ、さあ先生! 親分が大変なんだ猪之松の野郎と! ……」
(行かなければならない!)と要介も思った。
(鴫澤氏は赤の他人、少くも縁は極めて薄い。林蔵の方は俺の弟子、しかも現在この俺は、林蔵の家に世話になっている。深い縁がある、他人ではない。……その林蔵を見殺しには出来ない! 行こう! しかし、そうだしかし、主水殿もお気の毒な! では、せめて言葉の助太刀!)
 そこで要介は主水の方に向かい、大音をもって呼びかけた。

13
「鴫澤《しぎさわ》氏、主水殿! 敵水品陣十郎を追い詰め、見事に復讐をお遂げなされ! 拙者、要介、秋山要介、貴殿の身辺に引き添って、貴殿あやうしと見て取るや、出でて、必ずお助太刀いたす! ……心丈夫にお持ちなされい! ……これで可《よ》い、さあ行こう!」
 街道目掛けて走り出した時、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]今は変わって千の馬
五百の馬の馬飼の
[#ここで字下げ終わり]
 と、聞き覚えある源女の声で、手近で歌うのが聞こえてきた。
「や、……歌声! ……源女の歌声!」
 要介は足を釘づけにした。
 探していた源女の歌声が、手近の所から聞こえてきたのであった。足を止めたのは当然といえよう。
「源女殿! お組殿!」
 思わず大声で呼ばわって、要介は四辺《あたり》を忙《せわ》しく見た。
 丘、小山とでも云いたいほどに、うず高く聳えている薮以外には、打ち開けた耕地ばかりで、眼を遮る何物もなかった。
(不思議だな、どうしたことだ。……歌声は空耳であったのか?)
 陣十郎の感じたようなことを、要介も感ぜざるを得なかった。
「先生、どうしたんですい、行っておくんなせえ」
 要介に足を止められて、胆を潰した藤作が怒鳴った。
「第一先生がこんな方角へ、トッ走って来たのが間違いだ。俺ら向こうで見ていたんで。すると先生の姿が見えた。しめた、先生がやって来た、林蔵親分に味方して、猪之松を叩っ切って下さるだろう。――と思ったら勘違いで、こんな薮陰へ来てしまった。そこで俺ら迎えに来たんだが、その俺らと来たひ[#「ひ」に傍点]には、ミジメさったら[#「ミジメさったら」は底本では「ミヂメさったら」]ありゃアしない。馬方に土をぶっかけられたんで。と云うのも杉さんがいなかったんで。その杉さんはどうしたかというに、誘拐《かどわか》された女の兄さんて奴が――そうそう主水とか云ったっけ、そいつが陣十郎とかいう悪侍に、オビキ出されて高萩村の方へ行った。とその女が云ったんで、こいつ大変と杉さんがね、高萩村の方へ追って行ったんで。――が、まあ可《い》いやそんな事ア。よくねえなア親分の身の上だ、まごまごしていると猪之松の野郎に……あッどうしたんだ見物の奴らア……」
 いかさま街道や耕地に屯し、果し合いを見ていた百姓や旅人が、この時にわかに動揺したのが、要介の眼にもよく見えた。が、すぐに動揺は止んで、また人達は静かになった。緊張し固くなって見ているらしい。
 突嗟に要介は思案を定めた。
(ここら辺りに源女がいるなら、薮の中にでもいるのであろう。正気でないと云ったところで、直ぐに死ぬような気遣いはない。……林蔵と猪之松との果し合い、これは一刻を争わなければならない。よしそっちへ行くことにしよう。……が、しかし念のために……)
 そこで要介はまたも大音に、薮に向かって声をかけた。
「源女殿、要介お迎えに参った。どこへもおいでなさるなよ! ……」

14
 街道では林蔵と猪之松とが、遠巻きに見物の群を置き、どちらも負けられない侠客《おとこ》と侠客との試合それも真剣の果し合いの、白刃を互いに構えていた。
 かなり時間は経過していたが、わずか二太刀合わせたばかりで、おおよそ二間を距てた距離で、相正眼に脇差をつけ、睨み合っているばかりであった。
 猪之松には乾兒や水品陣十郎の間に、何か事件が起こったらしく、耕地で右往左往したり、逃げる奴倒れる奴、そういう行動が感ぜられたが、訊ねることも見ることもできず、あつかう[#「あつかう」に傍点]こともできなかった。傍目一つしようものなら、その間に林蔵に切り込まれるからであった。
 林蔵といえどもそうであった、乾兒の藤作の声がしたり、杉浪之助の声がして、何か騒動を起こしているようであったが、どうすることも出来なかった。相手の猪之松の剣の技、己と伯仲の間にあり寸分の油断さえ出来ないからであった。
 が、そういう周囲の騒ぎも、今は全く静まっていた。数間を離れて百姓や旅人、そういう人々の見物の群が、円陣を作って見守っているばかりで、気味悪いばかりに寂静《ひっそり》としていた。
 二本の刀が山形をなし、朝の黄味深い日の光の中で、微動しながら浮いている。
 二人ながら感じていた。――
(ただ目茶々々に刀を振り廻して、相手を切って斃せばよいという、そういう果し合いは演ぜられない。男と男だ、人も見ている。後日の取沙汰も恐ろしい。討つものなら立派に討とう! 討たれるものなら立派に討たれよう!)
 二人ながら心身疲労していた。
 気|疲労《つかれ》! 気疲労! 恐ろしい気疲労!
 技が勝れているだけに、伎倆《うで》が伯仲であるだけに、その気疲労も甚だしいのであった。
 向かい合っていた二本の刀の、その切先がやがて徐々に、双方から寄って来た。
 見よ二人ながら踏み出している右足の爪先が蝮を作り、地を刻んで一寸二寸と、相手に向かって進むではないか。
 ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]!
 音は立たなかった。
 が、ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]と音立つように、互いの切先が触れ合った。
 しかしそのまま二本の刀身は、一度に水のように後へ引き、その間隔が六歩ほどとなった。
 そうしてそのまま静止した。
 静止したまま山形をなし、山形をなしたまま微動した。
 薄くポ――ッと刀と刀の間に、立ち昇っているのは塵埃《ほこり》であった。
 二人の刻んだ足のためにポ――ッと立った塵埃であった。
 間、
 長い間。
 天地寂寥。
 が、俄然二本の刀が、宙で烈しくもつれ合った。
 閃光! 太刀音! 鏘然! 鍔鳴り!
 で、Xの形となって、二本の刀は交叉され、わずかに左右に又前後に、揺れつ縒れつ押し押されつ、粘ったままで放れなかった。

15
 鍔競り合い!
 眼と眼との食い合い!
 そうだ、林蔵と猪之松との眼が、交叉された刀の間を通し、互いに食い合い睨み合っている。
 鍔競り合いの恐ろしさは、競り合いから離れる一刹那にあった。胴を輪切るか真っ向を割り付けるか、伎倆《うで》の如何《いかん》、躰形《たいけい》の如何、呼吸の緩急によって変化縦横! が、どっちみち恐ろしい。
 林蔵も猪之松も一所懸命、相手の呼吸を計っていた。
 と、交叉された刀の間へ、黒く塗られた刀の鞘が、忍びやかに差し込まれた。
「?」
「?」
 鞘がゆるゆると上へ上った。二本の白刃を持ち上げるのである。と、威厳ある声がした。
「勝負待て! 刀を引け! 仲裁役は秋山要介!」
 声と同時に刀の鞘が、二本の刀身を左右に分けた。
 二間の距離を保ちながら、尚、残心、刀を構え、睨み合っている林蔵と猪之松、その間に鞘ぐるみ抜いた太刀を提げて、ノビノビと立ったのは秋山要介で、まず穏かに林蔵へ云った。
「刀を鞘へ納めるがよい」
 それから猪之松の方へ顔を向け、
「以前一二度お見かけいたした。高萩村の猪之松殿か、拙者秋山要介でござる。刀を納め下されい」
 しばらくの間寂然としていた。
 やがて刀の鞘に収まる、鍔鳴りの音が二つ聞こえた。

 この頃源女は大薮を出て、唐黍《とうもろこし》畑の向こうを歩いていた。
(行かなければ不可《いけ》ない、さあ行こう)
 こう思いながら歩いていた。
 何者《だれ》か向こうで呼んでいる。そんなように彼女には思われるのであった。
 畦を越し桑畑を越した。そうして丘を向こうへ越した。もう背後を振り返って見ても、街道も大薮も見えないだろう。
 大渓谷、大傾斜、大森林、五百頭千頭の馬、無数の馬飼、宏大な屋敷――そういうものの存在している所へ、行かなければならない行かなければならない! ……そう思って彼女は歩いて行く。
 崩れた髪、乱れた衣裳、彼女の姿は狂女そっくりであった。発作の止まない間中は、狂女と云ってもいいのであった。
 長い小高い堤があった。
 よじ上って歩いて行った。
 向こう側の斜面には茅や蘆が、生い茂り風に靡いている、三間巾ぐらいの川があり、水がゆるゆると流れていた。
「あッ」
 源女は足を踏み辷らせ、ズルズルと斜面を川の方へ落ちた。パッと葦切が数羽飛び立ち、烈しい声で啼いて去った。と、蘆を不意に分けて、古船が一隻辷り出た。源女がその中に倒れている。
 纜綱《もやいづな》を切らした古船は、源女を乗せたまま流れて行く。
 源女は微動さえしなかった。

各自の運命


 高萩村に近い森の中まで、陣十郎を追って来た鴫澤主水《しぎさわもんど》は、心身全く疲労し尽くし、ほとんど人心地を覚えなかった。
 抜身を地に突き体を支えたが、それにも堪えられずクタクタ倒れた。
 とうに陣十郎は見失っていた。
 その失望も手伝っていた。
(残念、逸した、敵を逸した!)
(が、飽くまでも探し出して、……)
 立ち上ろうと努力した。
 が、躰はいうことをきかず、のみならず精神さえ朦朧となった。
 こうして杉や桧や槇や、楢などの喬木に蔽われて、その奥に朱の褪せた鳥居を持ち、その奥に稲荷の祠を持ち、日の光も通して来ず、で薄暗い風景の中に、雀や鶸《ひわ》や山雀《やまがら》や山鳩の、啼声ばかりが繁く聞こえる、鎮守の森に包まれて、気絶して倒れた主水の姿が、みじめに痛々しく眺められた。
 色づいた[#「色づいた」は底本では「色ずいた」]病葉《わくらば》が微風にあおられ体の上へ落ちて来たりした。
 かなり長い間しずかであった。
 と、その時人声がし、間もなく十数人の男女の者が、森の中へ現われた。
 変わった風俗の連中であった。
 赤い頭巾に赤い袖無、そんなものを着けている若い男もあれば、亀甲模様のたっつけ[#「たっつけ」に傍点]を穿き、胸に大形の人形箱をかけた、そういう中年の男もあり、紫の手甲に紫の脚絆、三味線を抱えた女もあり、浅黄の股引、茶無地の筒袖、そういう姿の肩の上へ、猿をとまらせた老人などもあった。
 それらはいずれも旅装であった。
 秩父|香具師《やし》の一団なのである。
 平素は自分の家にいて、百姓もやれば杣夫《そま》もやり、猟師もやれば川狩もやるが、どこかに大きな祭礼があって、市《たかまち》が立って盛んだと聞くと、早速香具師に早変りして、出かけて行って儲けて来、家へ帰れば以前通り、百姓や杣夫として生活するという――普通の十三香具師とは別派の、秩父香具師の一団であった。
 この日もどこかの市を目掛け親しい者だけで組をつくり、出かけて行くところらしい。
 その中に一人旅装ではなく、髪は櫛巻きに銀簪一本、茜の小弁慶の単衣《ひとえ》を着た、若い女がまじっていた。
 陣十郎の情婦のお妻であった。
「姐御、お前さんも行くといいんだがな」
 一人の男がこう云って、そそのかすようにお妻を見た。
「そうさねえそうやって、お前さんたちが揃って出かけて行くのを見ると、一緒に行きたいような気持がするよ」
 まんざらお世辞でもなさそうに、お妻はそう云って薄笑いをした。
「陣十郎さんばかりが男じゃアなし、他に男だってあろうじゃアないか。そうそういつもへばり付いてばかりいずに、俺らと旅へ出るのもいいぜ」
 こうもう一人の男が云った。
「あたしを旅へしょびいて行くほどの、好い男がどこかにいるかしら、お前さん達のお仲間の中にさ」
 云い云い、お妻は又薄笑いをして、香具師達を見廻した。
「俺じゃア駄目かな、え、俺じゃア」と、猿廻しが顔を出した。


「十年若けりゃア物になるが」
 お妻はむしろ朗かに笑った。
 お妻は秩父の産れであり、秩父香具師の一人であった。が、ずっと若い頃に、草深い故郷に見切りをつけ、広い世界へ出て行って、香具師などというケチなものよりもっと烈しい、もっと罪の深い、そうしてもっと度胸の入る、凄い商売へ入り込んでしまった。
 女邯鄲師《おんなかんたんし》[#ルビの「おんなかんたんし」は底本では「おんんなかんたんし」]――それになってしまった。
 道中や温泉場などで親しくなり、同じ旅籠《はたご》へ一緒に泊り、情を通じてたらす[#「たらす」に傍点]もあり、好きな男で無い場合には、すかし[#「すかし」に傍点]、あやなし[#「あやなし」に傍点]、たぶらかし[#「たぶらかし」に傍点]て、油断を窺って有金から持物、それらを持って逃げてしまう、平ったく云えば枕探し、女賊になってしまったのである。
 陣十郎の情婦になったのも、平塚の宿で泊まり合わせ、枕探しをしようとしたところ、陣十郎のために取って抑えられた、それが因縁になったのであった。
 その女邯鄲師のお妻であるが、今度陣十郎と連立って、産れ故郷へ帰って来た。と、今朝高萩の村道を、懐かしい昔の仲間達が――すなわち秩父香具師達が、旅|装束《よそおい》で通って行った。知った顔も幾個かあった。で、あまりの懐かしさに、冗談云い云いこんな森まで、連立って一緒に来たのであった。
「おや」と不意にお妻は云って、急に足を一所で止めた。
「こんなところに人間が死んでいるよ」
 行手の杉の木の根下の草に、抜身を持った武士が倒れている。
「ほんに、可哀そうに、死んでらあ。……しかも若いお侍さんだ」
 香具師達は云って近寄って行った。
 お妻はその前にしゃがみ[#「しゃがみ」に傍点]込み、その武士の額へ手をやったが、
「冷えちゃアいない、暖《あった》かいよ」
 いそいで脉所《みゃくどころ》を握ったが、
「大丈夫、生きてるよ」
「じゃア気絶というやつだな」
 一人の香具師が心得顔に云った。
「そうさ、気絶をしているのさ。抜身を持っているところを見ると、きっと誰かと切り合ったんだねえ。……どこも切られちゃアいない。……気負け気疲労《きつかれ》[#「気疲労《きつかれ》」は底本では「気疲労《きつかれ》れ」]で倒れたんだよ」
 云い云いお妻は覗き込んだが、
「ご覧よ随分|好男子《いいおとこ》じゃアないか」
「チェーッ」と誰かが舌打ちをした。
「姐御いい加減にしてくんな。どこの馬の骨か知れねえ奴に、それも死に損ない殺され損ないに。気をくばるなんて嬉しくなさ過ぎらあ」
「まあそういったものでもないよ。……第一随分可愛そうじゃアないか。……それにさ、ご覧よ、この蒼白い顔を……唇の色だけが赤くてねえ。……ゾッとするほど綺麗だよ。……」
「色狂人! ……行こう行こう!」
「行きゃアがれ、碌で無し! ……妾アこの人を介抱するよ」
 お妻は主水の枕元へ、ペタペタと坐ってなお覗き込んだ。


 その同じ日のことであった。
 絹川という里川の岸で、一人の武士が魚を釣っていた。
 四十五六の年齢で、広い額、秀でた鼻、鋭いけれど暖かい眼、そういう顔の武士であった。立派な身分であると見え、衣裳などは寧ろ質素であったが、體に威があり品があった。
 傍らに籃《びく》が置いてあったが、魚は一匹もいなかった。
 川の水は濁りよごれ[#「よごれ」に傍点]てい、藻草や水錆が水面に浮かび、夕日がそれへ色彩をつけ、その中で浮子《うき》が動揺してい、それを武士は眺めていた。
「東馬《とうま》もう何刻《なんどき》であろう?」
 少し離れた草の中に、お供と見えて若侍が退屈らしい顔付をして、四辺《あたり》の風景を見廻していたがそれへ向かって話しかけた。
「巳刻《よつどき》でもありましょうか」
 若侍はそう答え、
「今日は不漁《しけ》でございますな」
 笑止らしく云い足した。
「わしの魚釣、いつも不漁じゃ」
「御意で、全くいつも不漁で。……それにもかかわらず先生には、毎日ご熱心でございますな」
「それでいいのだ、それが本意なのだ。……と云うのはわしの魚釣は、太公望と同じなのだからな」
「太公望? はは左様で」
「魚釣り以外に目的がある。……ということを云っているつもりだが」
「どのような目的でございますか?」
「そう安くは明かされないよ」
「これはどうも恐れ入りました……が、そのように仰せられますと、魚の釣れない口惜《くちお》しまぎれの、負けおしみなどと思われましても……」
「どうも其方《そち》、小人で不可《いけ》ない」
「お手厳しいことで、恐縮いたします」
「こう糸を垂れて水面を見ている」
「はい、魚釣りでございますからな」
「水が流れて来て浮子にあたる」
「で、浮き沈みいたします」
「いかにも自然で無理がない……芥《あくた》などが引っかかると……」
「浮子めひどくブン廻ります」
「魚がかかると深く沈む」
「合憎[#「合憎」はママ]、今日はかかりませんでした」
「相手によって順応する……浮子の動作、洵《まこと》にいい」
「浮子を釣るのでもござりますまいに」
「で、わしはその中に、何かを得ると思うのだよ」
「鮒一匹、そのくらいのもので」
「魚のことを云っているのではない」
「ははあ左様で。……では何を?」
「つまりあの業《わざ》を破る術じゃ」
「は? あの業と仰せられまするは?」
「水品陣十郎の『逆ノ車』……」
「ははあ」
「お、あれは何だ」
 その時上流から女を乗せた、死んだように動かない若い女を乗せた、古船が一隻流れて来た。
「東馬、寄せろ、船を岸へ」
「飛んでもないものが釣れましたようで」
 若侍は云い云い袴を脱ぎかけた[#「脱ぎかけた」は底本では「股ぎかけた」]。
 が、古船は自分の方から、ゆるゆると岸の方へ流れ寄って来た。
 武士は釣棹の柄の方を差し出し、船縁へかけて引き寄せるようにしたが、
「女を上げて介抱せい」
 そう若侍へ厳しく云った。

鳳凰と麒麟


 それから幾日か経った。
 秋山要介は杉浪之助を連れて、秩父郡小川村《ちちぶのこおりおがわむら》の外れに、あたかも嵎《ぐう》を負う虎の如くに蟠居し、四方の剣客に畏敬されている、甲源一刀流の宗家|逸見《へんみ》多四郎義利の、道場構えの広大な屋敷へ、威儀を作って訪れた。
「頼む」
「応」と返事があって、正面の襖が一方へひらくと、小袴をつけた若侍が、恭しく現われた。
「これはこれは秋山先生、ようこそご光来下されました」
「逸見先生に御意得たい。この段お取次下されい」
「は、先生には江戸表へ参り、未だご帰宅ござりませねば……」
「ははあ、いまだにお帰りない」
「帰りませんでござります」
「先生と一手お手合わせ致し、一本ご教授にあずかりたく、拙者当地へ参ってより三日、毎日お訪ねいたしても、そのつどお留守お留守とのご挨拶、かりにも小川の鳳凰《ほうおう》と呼ばれ、上州間庭の樋口十郎左衛門殿と、並び称されている逸見殿でござれば、よもや秋山要介の名に、聞き臆じして居留守を使われるような、そのようなこともござるまいが、ちと受取れぬ仕儀でござるな」
 洒脱であり豪放ではあるが、他人に対してはいつも丁寧な、要介としてはこの言葉は、かなり角立ったものであった。
 傍に引き添っていた浪之助も、これはおかしいと思った程である。
 面喰ったらしい取次の武士は、
「は、ご尤《もっと》もには存じますが、主人こと事実江戸へ参り、今に帰宅いたしませねば……」
「さようか、よろしい、事実不在、――ということでござるなら、又参るより仕方ござらぬ。……なれどこのまま帰っては、三度も参った拙者の腹の虫、ちと納まりかねるにより、少し無礼とは存じ申すが、表にかけられた門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、お預かりして持ちかえる。逸見殿江戸よりご帰宅なさらば、この旨しかとお伝え下され。宿の小紅屋に滞在まかりある。ご免」というと踵《きびす》を返し、門を出ると門の柱に「甲源一刀流指南」と書いた、二寸厚さの桧板、六尺長い門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]外し、小脇に抱えて歩き出した。
 呆れ返ったのは浪之助で、黙々として物も云わず、要介の後から従《つ》いて行った。
 村とはいっても小川村は、宿場以上の賑いを持った、珍らしく豊かな土地であって、道の両側には商店多く、人の往来も繁かった。そういう所を立派な武士が、大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]引っ抱え、若い武士を供のように連れて、ノッシノッシと歩いて行くのであった。店の人達は審かしそうに覗き、往来の人達も不思議そうに眺めた。
 が、要介は意にも介さず、逸見家とは反対の方角の、これは小川村の入口にある、この村一番の旅籠屋の、小紅屋まで歩いて来た。
「お帰り」と番頭や婢達《おんなたち》が、これも怪訝そうな顔をして、大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]抱えた要介達を迎え、玄関へ頭を並べたのを、鷹揚に見て奥へ通った。


 中庭を前にした離座敷――この宿一番の座敷らしい――そこの床の間へ大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]立てかけ、それを背にして寛《ゆるや》かに坐わり、婢の持って来た茶を喫しながら、要介は愉快そうに笑っていた。
 その前に浪之助はかしこまっていたが、これは随分不安そうであった。
「先生」ととうとう浪之助は云った。
「これは一体どうしたことで?」
「…………」
 愉快そうに笑っている。
「武芸指南所の門札は[#「門札は」は底本では「門礼は」]、商家の看板と等しなみに、その家にとりましては大切なもの、これを外されては大恥辱……」
「ということは存じて居るよ」
「はい」と浪之助はキョトンとし、
「それをご承知でその門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「さよう、わしは外して来た」
「はい」と又もキョトンとし、
「それも高名の逸見先生の……」
「鳳凰と云われる逸見氏のな」
「はい」ともう一度キョトンとし、
「それほど逸見様は高名なお方……」
「わしも麒麟《きりん》と呼ばれて居るよ」
「御意で」と今度は頭を下げ、
「関東の麒麟と称されて居ります」
「鳳凰と麒麟……似合うではないか」
「まさにお似合いではございますが、似合うと申して門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「ナニわしだから外して来てもよろしい」
「麒麟だから鳳凰の門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「さようさよう外して来てもよろしい」
「ははあ左様でございますかな」
「他の奴ならよろしくない」
「…………」
「ということは存じて居る。さよう逸見氏も存じて居る」
「…………」
「人物は人物を見抜くからの」
「はい、もう私などは小人で」
「そのうちだんだん人物になる」
「はい、ありがたく存じます」
 とは云ったものの浪之助は、
(うっかり物を云うとこんな目に逢う。訓された上に嚇されてしまう)
 こう思わざるを得なかった。
「それに致しましても先生には、何と思われて小川村などへ参り、何と思われて逸見先生のお宅などへ……」
「武術試合をするためにさ……」
「それだけの目的でございますかな?」
「真の目的は他にある」
「どのような目的でございますかな?」
「赤尾の林蔵を関東一の貸元、そいつに押し立ててやりたいのだ」
「そのため逸見先生と試合をなさる?」
「その通り。変に思うかな?」
「どういう関係がございますやら」
「今に解る。じきに解る」
「ははあ左様でございますか」
「わしは金蔓をなくしてしまった――源女殿を見失ってしまったので、秩父にいる必要がなくなってしまった。そこで江戸へ帰ろうと思う。……江戸へ帰って行く置土産に、林蔵を立派な男にしてやりたい。それで逸見氏と試合をするのだ。……高萩の猪之松の剣道の師匠、逸見多四郎殿と試合をするのだ」


(なるほどな)と浪之助は思った。
(林蔵の師匠たる秋山先生と、猪之松の師匠たる逸見先生とが、武術の試合をした上で、林蔵を関東一の貸元にする。なるほどな、意味がありそうだ)
 確実のことは解らなかったが、意味はありそうに思われた。
 やがて解るということであった。押して訊こうとはしなかったが、
「それに致しましてもお組の源女と、その源女のうたう歌と、先生とのご関係を承《うけたま》わりたいもので」
 以前から疑問に思っていたことを、浪之助は熱心に訊いた。
 その浪之助は以前においては、まさしく源女の愛人であった。がその源女が今度逢ってみれば、変わった性格となって居り、不思議な病気を持って居り、妙な歌を口吟《くちずさ》むばかりか、要介などという人物が、保護する人間となっていたので、浮いた恋、稀薄の愛、そのようなものは注がないこととし、ほんの友人のように交際《つきあ》って来たところ、その源女は上尾街道で、過ぐる日行なわれた林蔵と猪之松との果し合いの際|行方《ゆくえ》不明となり、爾来姿を見せなくなっていた。
 浪之助も勿論心にかけたが、要介のかけ方は一層で、
「あの日たしかに大薮の陰で、源女殿の歌声を耳にした。が、果し合いを引き分けおいて、急いで行って探した時には、もう源女殿はいなかった。どこにどうしていることやら」と、今日までも云いつづけて来たことであった。
「源女殿とわしとの関係か。さようさな、もう話してもよかろう」
 要介はいつになくこだわら[#「こだわら」に傍点]なかった。しかししばらく沈思していた。久しく聞きたいと希望していた、秘密の話が聞かれるのである。浪之助は思わず居住いを正し、緊張せざるを得なかった。
 中庭に小広い泉水があり、鯉が幾尾か泳いでいたが、時々水面へ飛び上った。それが田舎の古い旅籠屋の、昼の静かさを破壊するところの、たった一つの音であった。
 と、要介は話し出した。
「武蔵という国は承知でもあろうが、源氏にとっては由縁《ゆかり》の深い土地だ。源氏の発祥地ともいうべき土地だ。ここから源氏の諸豪族が起こった。秩父庄司《ちちぶしょうじ》、畠山重忠《はたけやましげただ》、熊谷次郎直実《くまがいじろうなおざね》等、いずれも武蔵から蹶起した武将だ。……がわしにかかわる[#「かかわる」に傍点]事件は、もっと昔に遡らなければならない。……これは誰もが承知していることだが、後冷泉天皇の御宇《ぎょう》にあって、奥州の酋長|阿部《あべ》の頼時《よりとき》が、貞任《さだとう》、宗任《むねとう》の二子と共に、朝廷に背いて不逞を逞ましゅうした、それを征したのが源|頼義《よりよし》、そうしてその子の八幡太郎義家――さてこの二人だが奥州征めの往来に、武蔵の国にとどまった。今日の国分寺村の国分寺、さよう、その頃には立派な寺院で、堂塔伽藍聳えていたそうじゃが、その国分寺へとどまった……ところが止まったばかりでなく、前九年の役が終了した際、奥州産の莫大な黄金、それを携えて帰って来、それを国分寺の境内に、ひそかに埋めたということじゃ。それには深い訳がある」
 こう話して来て要介は、またしばらく沈思した。


 要介はポツポツ話し出した。
「源氏は東国を根拠とすべし。根拠とするには金が必要だ。これをもってここへ金を埋めて置く。この金を利用して根を張るべし。――といったような考えから、金を埋めたということだ。……その後この地武蔵において、いろいろさまざまの合戦が起こったが、埋めてあるその金を利用したものが、いつも勝ったということじゃ。ところがそのつど利用したものは、他の者に利用されまいとして、残った金を別の所へ、いつも埋め代えたということじゃ。……治承《じしょう》四年十月の候、源頼朝が府中の南、分倍河原《ぶばいがわら》に関八州の兵を、雲霞の如くに集めたが、その時の費用もその金であり、ずっと下って南北朝時代となり、元弘《げんこう》三年新田義貞卿が、北條高時を滅ぼすべく、鎌倉に兵を進めようとし、分倍河原に屯して、北條泰家と合戦したが、その時も義貞は源氏というところから、その金を利用したという事じゃ。正平《しょうへい》七年十二月十九日、新田|義宗《よしむね》南軍を率い、足利尊氏を狩野河《こうのかわ》に討つべく、武蔵の国に入ったところ、尊氏すでに狩野河を発し、谷口から府中に入り、人見原《ひとみはら》にて激戦したが、義宗破れて入間川《いるまがわ》に退き、二十八日|小手差原《こてさしはら》にて戦い、ふたたび破れて退いたが、この時は足利尊氏が、これも源氏というところから、その金を利用したということじゃ。更に下って足利時代に入り、鎌倉の公方足利成氏、管領上杉|憲忠《のりただ》を殺した。憲忠の家臣長尾|景晴《かげはる》、これを怒って手兵を率い、立川原で成氏と戦い、大いに成氏を破ったが、この時はその金を景晴が利用し、その後その金を用いた者で、史上有名の人物といえば、布衣《ふい》から起こって関八州を領した、彼の小田原《おだわら》の北條|早雲《そううん》、武蔵七党の随一と云われた、立川宗恒《たてかわむねつね》、同恒成、足利学校の創立者、武人《ぶじん》で学者の上杉|憲実《のりざね》。……ところがそれが時代が移って、豊臣氏となり当代となり――即ち徳川氏となってからは、その金を利用した誰もなく、金の埋没地も不明となり、わずかにこの地方秩父地方において『秩父の郡小川村、逸見様庭の桧の根、昔はあったということじゃ……』という、手毬唄に名残をとどめているばかりじゃ。……」
 ここまで云って来て要介は、不意に沈黙をしてしまった。
 じっと聞いていた浪之助の、緊張の度が加わった。
 源女のうたう不可解の歌が、金に関係あるということは、朧気ながらも感じていたが、そんな歴史上の合戦や人物に、深い関係があろうなどとは、夢にも想像しなかったからである。
(これは問題が大きいぞ)
 それだけに興味も加わって、固唾を呑むという心持! それでじっと待っていた。
 要介は語りついだ。
「あの歌の意味は簡単じゃ。今話した例の金が、武蔵秩父郡小川村の逸見《へんみ》家の庭にある桧の木の根元に、昔は埋めてあったそうさな。――という意味に他ならない。逸見家というのは云う迄もなく、逸見多四郎殿の家の事じゃ。……その逸見家は何者かというに、甲斐源氏《かいげんじ》の流を汲んだ、武州無双の名家で旧家、甲源一刀流の宗家だが、甲源の文字もそこから来ている。即ち甲斐源氏という意味なのじゃ」


 要介は語りつづけた。
「歌もそこ迄なら何でもないのじゃ。というのは普通の手毬歌として、秩父地方の人々は、昔から知っているのだからな。ところがどうだろう源女殿だけが、その後の文句を知っている『今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の……それから少し間が切れて――秣の山や底無しの、川の中地の岩窟の……という文句を知っている。そこへわし[#「わし」に傍点]は眼をつけたのじゃ。頼義《よりよし》、義家が埋めたという金は、その後の歌にうたわれている境地に、今は埋めてあるのだろう。それにしても源女殿はどこでどうしてその後の歌を覚えたかとな。で源女殿へ訊いて見た。その返辞が洵《まこと》に妙じゃ。大森林や大渓谷や、大きな屋敷や大斜面や、そういう物のある山の奥の、たくさんの馬や馬飼のいる所へ、いつぞや妾《わたし》は行ったような気がする。そこでその歌を覚えたような気がする。でもハッキリとは覚えていない。勿論そこがどこであるかも知らない。――という曖昧の返辞なのだ。その上|其方《そち》も知っている通り、源女殿は時々発作を起こす。……で、わしはいろいろの医者へ、源女殿の様態を診て貰ったところ、一人柳営お抱えの洋医、平賀|杏里《きょうり》殿がこういうことを云われた。――非常に恐ろしい境地へ行き、非常に烈しい刺激を受け、精神的に大打撃を受け、その結果大熱を体に発し、一月とか二月とかの長い間、人事不省になっていた者は、その間のことはいうまでもなく、それ以前の事もある程度まで、全然忘却してしまうということが往々にあるが、源女殿の場合がそうらしい。が、源女殿をその境地へ、もう一度連れて行けば思い出すし、事実その境地へ行かずとも、その境地と酷似している境地へ、源女殿を置くことが出来たなら、忘却していた過去のことを、卒然と記憶に返すであろうと。……しかし源女殿をその境地へ、連れて行くということは出来難い。その境地が不明なのだから。同じような境地へ源女殿を置く。ということもむずかしい。どんな境地かということを、わし[#「わし」に傍点]は確実に知らないのだから。……しかしわし[#「わし」に傍点]はこう思った。あの歌の前半の歌われている、秩父地方へ出かけて行って、気長く源女殿をそこに住ませて、源女殿の様子を見守っていたら、何か暗示を得ようもしれないとな。そこでお連れして来たのだが。……しかるに源女殿のそういう秘密を、わし[#「わし」に傍点]の外にもう一人、同じように知っている者がある。他でもない水品陣十郎じゃ」
 こう云って来て要介は、眉をひそめて沈黙した。
 剣鬼のような吸血鬼のような、陣十郎という男のことを、思い出すことの不愉快さ、それを露骨に現わさしたところの、それは気|不味《まず》い[#「不味《まず》い」は底本では「不味《まずい》い」]沈黙であった。
 浪之助も陣十郎は嫌いであり、嫌い以上に恐ろしくもあり、口に出すことさえ厭であったが、しかし源女や要介が、どういう関係からあの吸血鬼と、知り合いになったかということについては、窺い知りたく思っていた。
 それがどうやら知れそうであった。
 そこで更に固唾を呑む気持で、要介の語るのを待ち構えた。


「今から十月ほど前であったよ」と、要介は話をつづけ出した。
「信濃方面へ旅をした。武術の修行というのではなく、例によっての風来坊、漫然と旅をしたまでだが沓掛《くつかけ》の宿で一夜泊まった。明月の夜であったので、わしは宿《やど》を出て宿《しゅく》を歩き、つい宿外れまでさまよって行った。と、歌声が聞こえてきた。云うまでも[#「云うまでも」は底本では「云までも」]なく例の歌さ。はてなと思って足を止めると、狂乱じみた若い女が、その歌をうたって歩いて来る。と、その後から一人の武士が、急ぎ足で追いついたが、やにわに女を蹴倒すと、踏む撲るの乱暴狼藉『汝《おのれ》逃げようとて逃がそうや』こう言っての乱暴狼藉! その瞬間女は正気づいたらしく、刎ね起きると拙者を認め、走り寄って縋りつき、お助け下されと申すのじゃ。心得たりと進み出て、月明で武士を見れば、以前樋口十郎左衛門殿方で、立合ったことのある水品陣十郎! 先方も拙者を認めたと見え、しかも形勢非なりと知ったか、『秋山殿でござったか、その女は源女と申し、発狂の女芸人、拙者故あって今日まで、保護を加えて参りましたが、お望みならば貴殿に譲る』と、このようなヘラズ口をきいたあげく、匆慌《そうこう》として立ち去ったので、源女殿を宿へ連れて参り、事情を詳しく訊いたところ、江戸両国の曲独楽の太夫、養母というものに悪婆あって長崎の異人に妾《めかけ》に出そうという。それを避けて旅へ出で、ある山国へ巡業したところ、大森林、大傾斜、百千頭も馬のいるところ、そういう所の大きな屋敷へ、どういう訳でか連れて行かれた。そうしてそこで恐ろしい目に逢い、妾《わたし》は正気を失ったらしい。正気づいて見れば陣十郎という男が、妾の側に附いていて、それ以来ずっとその男が、あらゆる圧迫と虐待とを加え、妾にその土地へ連れて行け、お前の謡う歌にある土地へ、連れて行けと云って強いに強い、爾来その男に諸々方々を、連れ歩かれたとこう云うのじゃ。……それからわし[#「わし」に傍点]は源女殿を連れて、江戸へ帰って屋敷へ置いたが、そこは女芸人のことで、もう一度舞台に出たいという。そこで元の座へ出したところ、陣十郎に見付けられ、貴殿などとも知り合うようになった。……」
「よく解《わか》りましてござります」
 要介の長い話を聞き、浪之助はこれまでの疑問を融かした。
「と致しますと陣十郎も、例の黄金の伝説的秘密を、承知いたして居りまして、それを探り出そうと心掛け、源女を抑えて居りましたので……」
「さよう」と要介は頷いて云った「逸見多四郎殿の門弟として、秩父地方に永らく居た彼、黄金の秘密は知悉しているはずじゃ」
 この時部屋の外の廊下に、つつましい人の足音がし、
「ご免下され」という男の声がし、襖が開いて小紅屋の主人が、恭しくかしこまった顔を出し、
「逸見の殿様お越しにござります。へい」と云って頭を下げた。
 見れば主人の背後にあたって、威厳のある初老の立派な武士が、気軽にニコヤカに微笑しながら、部屋を覗くようにして立っていた。
「逸見多四郎参上いたしました」


「や、これは!」とさすがの要介も、郷士ながらも所の領主、松平|大和守《やまとのかみ》には客分にあつかわれ、新羅《しんら》三郎|義光《よしみつ》の後胤甲斐源氏の名門であり、剣を取らせては海内の名人、しかも家計は豊かであって、倉入り千俵と云われて居り、門弟の数|大略《おおよそ》二千、そういう人物の逸見多四郎が、気軽にこのような旅籠屋などへ、それも留守の間に道場の看板、門の大札[#「大札」は底本では「大礼」]を外して行ったところの、要介を訪ねて来ようなどとは、要介本人思いもしなかったところへ、そのように気軽に訪ねて来られたので、さすがに驚いて立ち上った。
「これはこれは逸見先生、わざわざご来訪下されましたか。いざまずこれへ! これへ!」
「しからばご免」と仙台平の袴に、黒羽二重の衣裳羽織、威厳を保った多四郎は、静かに部屋の中へ入って来た。
 座が定《き》まってさて挨拶! という時に要介の機転、床の間に立ててあった例の門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、恭しく抱えて持って来るや、前へ差し出しその前に坐り、
「実は其《それがし》先生お屋敷へ、本日参上いたしましたところ、江戸へ参ってご不在との御事。と、いつもの悪い癖が――酔興とでも申しましょうか、悪い癖がムラムラと起こりまして、少しく無礼とは存じましたが、門弟の方へ一応断わり、この大門札[#「門札」は底本では「門礼」]ひき外し、旅舎まで持参いたしました、がしかし決して粗末にはいたさず、床の間へ立てかけ見事の筆蹟を、打ち眺め居りましてござります。が、それにしてもこの門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、ひき外し持参いたしましたればこそ、かかる旅舎などへ先生ほどのお方を、お招きすること出来ました次第、その術策|的中《あた》りましてござるよ。ハッハッハッ」と笑ったが、それは爽かな笑いでもあった。
 と、多四郎もそれに合わせ、こだわらぬ爽かな笑い声を立てたが、
「その儀でござる、実は其《それがし》所用あって江戸へ参り、三日不在いたしまして、先刻帰宅いたしましたところ、ご高名の秋山先生が、不在中三回もお訪ね下され、三回目の本日門の札を[#「札を」は底本では「礼を」]、ひき外しお持ちかえりなされたとのこと、門弟の一人より承《うけたま》わり、三回のご来訪に恐縮いたし、留守を申し訳なく存じますと共に、その門弟へ申したような次第――、門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]外して持ち去った仁、秋山要介先生でよかった。他の仁ならこの多四郎、決して生かして置きませぬ。秋山要介先生でよかった。その秋山先生は、奇嬌洒脱の面白い方じゃ、いまだ一度もお目にかからぬが、勇ましいお噂は承って居る。五百石といえば堂々たる知行、その知行取りの剣道指南役の、嫡男の身に産れながら、家督を取らず浪人し、遊侠の徒と交際《まじわ》られ、権威に屈せず武威に恐れず、富に阿《おも》ねらず貧に恥じず、天空海濶に振舞われる当代での英傑であろう。門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]持って行かれたも、単なる風狂に相違ない。宿の小紅屋に居られるなら、早速参ってお目にかかろうとな。――そこで参上いたしたような次第、お目にかかれて幸甚でござった」
「杉氏どうじゃな」と要介は、浪之助の方へ声をかけた。


「人物は人物を見抜くと云ったが、どうじゃ杉氏、その通りであろう」
 こう云ったがさらに要介は、多四郎の方へ顔を向け、
「ここに居られるは杉浪之助殿|某《それがし》の知己友人でござる。門札[#「門札」は底本では「門礼」]外して持ち参ったことを、ひどく心配いたしましたについて、いや拙者だからそれはよい、余人ならばよろしくないと云うことは逸見先生もご存知、人物は人物を見抜くものじゃと、今し方申して居りました所で、……杉氏何と思われるな?」
「ぼんやり致しましてござります」
 浪之助はこう云うと、恰も夢から醒めたように、眼を大きくして溜息を吐いた。
「鳳凰《ほうおう》と麒麟《きりん》! 鳳凰と麒麟! 名優同志の芝居のようで。見事のご対談でございますなあ」
 逸見多四郎がやって来た! さあ大変! 凄いことが起こるぞ! 激論! 無礼咎め! 切合い! 切合い! と、その瞬間思ったところ、事は全く反対となり、秋山先生で先ずよかった! ……ということになってしまい、十年の知己ででもあるかのように、笑い合い和み合い尊敬し合っている。で浪之助は恍惚《うっとり》として、両雄の対談を聞いていたのであった。
「酒だ」と要介は朗かに云った。
「頼みある兵《つわもの》の交際に、酒がなくては物足りぬ。酒だ! 飲もう! 浪之助殿、手を拍って女中をお呼び下され!」
「いや」と多四郎は手を振って止めた。
「酒も飲みましょう。がしかし、酒は場所を変えて飲みましょう」
「場所を変えて? はてどこへ?」
「拙者の屋敷で。……云うまでもござらぬ」
「要介のまかり在るこの屋敷、さてはお気に入らぬそうな」
「いやいや決して、そういう訳ではござらぬ。……が、最初にご貴殿において、お訪ね下されたのが拙者の屋敷、言って見れば先口で。……ではその方で飲むのが至当。……」
「ははあなるほど、それもそうじゃ」
「ということと存じましたれば、駕籠を釣らせてお宿の前まで、既に参って居りますので」
「それはそれはお手廻しのよいこと。……がしかし拙者といたしましては、ご貴殿のお屋敷におきましては、酒いただくより木刀をもって、剣道のご指南こそ望ましいのでござる」
「云うまでもござらぬ剣道の試合も、いたしますでござりましょう」
「その試合じゃが逸見先生、尋常の試合ではござらぬぞ」
「と申してまさかに真剣の……」
「なんのなんの真剣など。……実は賭試合がいたしたいので」
「ナニ賭試合? これは面妖! 市井の無頼の剣術使いどもが、生活《くらし》のために致すような、そのような下等の賭試合など……」
「賭る物が異《ちが》ってござる」
「なるほど。で、賭物は?」
「拙者においては赤尾の林蔵!」
「赤尾の林蔵を? 赤尾の林蔵を? ふうん!」と云ったが多四郎は、じっと要介の顔を見詰めた。


「博徒ながらも林蔵は、拙者の剣道の弟子でござる」
 要介はそう云って意味ありそうに、多四郎の顔を熟視した。
「その林蔵をお賭になる。……では拙者は何者を?」
 いささか不安そうに多四郎は云って、これも要介を意味ありそうに見詰めた。
「高萩村の猪之松を、お賭下さらば本望でござる」
「彼は拙者の剣道の弟子……」
「で、彼をお賭け下され」
「賭けて勝負をして?」
「拙者が勝てば赤尾の林蔵を、関東一の貸元になすべく、高萩村の猪之松を、林蔵に臣事いたさせ下され」
「拙者が勝たば赤尾の林蔵を、高萩の猪之松に従わせ、猪之松をして関東一の……」
「大貸元にさせましょう」
「ははあそのための賭試合?」
「弟子は可愛いものでござる」
「なるほどな」と多四郎は云ったが、そのまま沈黙して考え込んでしまった。
 林蔵と猪之松とが常日頃から、勢力争いをしていることは、多四郎といえども知っていた。その争いが激甚となり、早晩力と力とをもって、正面衝突しなければなるまい――という所まで競り詰めて来ている。ということも伝聞していた。とはいえそのため秋山要介という、一大剣豪が現われて、師弟のつながりを縁にして、自分に試合を申し込み、その勝敗で二人の博徒の、勢力争いを解決しようなどと、そのような事件が起ころうなどとは、夢にも思いはしなかった。
(何ということだ!)と先ず思った。
(さてどうしたものだろう?)
 とは云え自分も弟子は可愛い、成ろうことなら林蔵を挫いて、猪之松を大貸元にしてやりたい。
(では)と思わざるを得なかった。
(では要介の申し込みに応じ、賭試合を行ない打ち勝ってやろう)
 腹が決まると堂々たるもので、逸見多四郎は毅然として云った。
「賭試合承知いたしてござる。しからば直ちに拙者屋敷に参り、道場においてお手合わせ、試合いたすでござりましょう」
「欣快」
 要介は立ち上った。
「杉氏、貴殿もおいでなされ」
 三人揃って部屋を出た。

 逸見多四郎家のここは道場。――
 竹刀《しない》ではない木刀であった。
 要介と多四郎とは構えていた。
 一本勝負!
 そう定められていた。
 二人ながら中段の構え!
 今、シ――ンと静かである。
 かかる試合に見物は無用と、通いの門弟も内門弟も、一切退けてのただ二人だけ! いや他に杉浪之助と、要介の訪問に応待に出た、先刻の若侍とが道場の隅に、つつましく控えて見守っていた。

10[#「10」は縦中横]
 見霞むばかりの大道場、高く造られある正面は、師範の控える席であり、それに向かって左の板壁には、竹刀《しない》、木刀、槍、薙刀《なぎなた》、面、胴、籠手の道具類が、棚に整然と置かれてあり、左の板壁には段位を分けた、漆塗りの名札がかけてあった。
 塵もとどめぬ板敷は、から[#「から」に傍点]拭きされて鏡のように光り、おりから羽目板の隙間から、横射しに射して来た日の光りが、そこへ琥珀色の棒縞を織り、その空間の光の圏内に、ポッと立っている幽かな塵埃《ほこり》は、薄い煙か紗のようであった。
 互いに中段に位取って動かぬ、要介と多四郎は広い道場の、中央に居るところから、道場の端に腰板を背にして、端座している浪之助から見ると、人形のように小さく見えた。
 おおよそ六尺の間隔を保ち、互いに切先を相手の眉間へ、ピタリと差し付けて構えたまま、容易に動こうとはしなかった。
 道具を着けず木刀にての試合に、まさに真剣の立合いと、何の異なるところもなく、赤樫蛤刃《あかがしはまぐりは》の木刀は、そのまま真《まこと》の剣であり、名人の打った一打ちが、急所へ入らば致命傷、命を落とすか不具《ふぐ》になるか、二者一つに定《き》まっていた。
 とはいえ互いに怨みあっての、遺恨の試合というのではなく、互いの門弟を引っ立てようための義理と人情とにからまった、名人と名人との試合であった。自然態度に品位があり、無理に勝とうの邪心がなく、闘志の中に礼譲を持った、すがすがしい理想的の試合であった。
 今の時間にして二十分、構えたままで動かなかった。
 掛声一つかけようとしない。
 掛声にも三通りある。
 追い込んだ場合に掛ける声。相手が撃って出ようとする、その機を挫《くじ》いて掛ける声、一打ち打って勝利を得、しかも相手がその後に出でて、撃って来ようとする機を制し、打たせぬために掛ける声。
 この三通りの掛声がある。
 しかるに二人のこの試合、追い込み得べき機会などなく、撃って出ようとするような、隙を互いに見せ合わず、まして一打ち打ち勝つという、そういうことなどは絶対になかった。
 で、二人ながら掛声もかけず、同じ位置で同じ構えで、とはいえ決して居附きはせず、腹と腹との業比べ、眼と眼との睨み合い、呼吸と呼吸との抑え合い、一方が切先を泳がせれば、他の一方がグッと挫き、一方が業をかけようとすれば、他の一方が先々ノ先で、しかも気をもって刎ね返す、……それが自ずと木刀に伝わり、二本の木刀は命ある如く、絶えず幽かにしかし鋭く、上下に動き左右に揺れていた。
 更に長い時が経った。
 と、要介の右の足が、さながら磐石をも蹴破るてい[#「てい」に傍点]の、烈しさと強さと力とをもって、しかもゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]と充分に粘り、ソロリとばかり前へ出て、左足がそれに続いた。
 瞬間多四郎の左足が、ソロリとばかり後へ下り、右足がそれに続いた。
 で 間だ! 静止した。
 長い間! ……しかし……次の瞬間……ドドドドッという足音が響いた。

11
 奔流のように突き進む要介!
 追われて後へ退く多四郎!
 ドドドドッという二人の足音!
 見よ、その速さ、その鋭さ!
 あッ、多四郎は道場の端、板壁へまで追い詰められ、背中を板壁へあてたまま、もう退けない立ち縮んだ。
 その正面へ宛然《さながら》巨岩、立ちふさがったは要介であった。
 勝負あった!
 勝ちは要介!
 非ず、見よ、次の瞬間、多四郎の胸大きく波打ち、双肩渦高く盛り上ると見るや、ヌッと一足前へ出た。
 と、一足要介は下った。
 多四郎は二足ヌッと出た。
 要介は退いた。
 全く同じだ!
 ドドドドッという足音!
 突き進むは多四郎、退くは要介、たちまちにして形勢は一変し、今は要介押し返され、道場の破目板を背に負った。
 で、静止!
 しばらくの間!
 二本の剣が――木刀が、空を細かく細かく細かく、細かく細かく刻んでいる。
 多四郎勝ちか?
 追い詰め了《りょう》したか?
 否!
 ソロリと一足下った。
 追って要介が一足出た。
 粘りつ、ゆっくりと、鷺足さながら、ソロリ、ソロリ、ソロリ、ソロリと、二人は道場の中央まで出て来た。
 何ぞ変らざる姿勢と形勢と!
 全く以前と同じように、二人中段に構えたまま、見霞むばかりの大道場の、真中の辺りに人形のように小さく、寂然と立ち向かっているではないか。
 さすがに二人の面上には、流るる汗顎までしたたり、血上って顔色朱の如く、呼吸は荒くはずんでいた。
 窒息的なこの光景!
 なおつづく勝負であった。
 試合はつづけられて行かなければならない。
 が、忽然そのおりから、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秩父の郡《こおり》
小川村
逸見様庭の
桧の根
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 と、女の歌声が道場の外、庭の方から聞こえてきた。
「しばらく!」と途端に叫んだ要介、二間あまりスルスルと下ると、木刀を下げ耳を澄ました。
「…………」
 審かしそうに体を斜めに、しかし獲物は残心に、油断なく構えた逸見多四郎、
「いかがなされた、秋山氏?」
「あの歌声は? ……歌声の主は?」
「ここに控え居る東馬共々、数日前に、絹川において、某《それがし》釣魚《ちょうぎょ》いたせし際、古船に乗って正体失い、流れ来たった女がござった[#「ござった」は底本では「ごさった」]。……助けて屋敷へ連れ参ったが、ただ今の歌の主でござる」

12
「名は? 源女! お組の源女! ……と申しはいたしませぬか?」
「よくご存知、その通りじゃ」
「やっぱりそうか! そうでござったか! ……有難し、まさしく天の賜物! ……その女こそこの要介仔細ござって久しい前より、保護を加え養い居る者、過日上尾の街道附近で、見失い失望いたし居りましたが、貴殿お助け下されたか。……源女拙者にお渡し下され」
「ならぬ!」と多四郎ニベもなく云った。
「源女決して渡すことならぬ!」
「理由は? 理由は? 逸見氏?」
「理由は歌じゃ、源女の歌う歌じゃ!」
「…………」
「今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の……後にも数句ござったが、この歌を歌う源女という女子、拙者必要、必要でござる!」
「なるほど」と要介は頷いて云った。
「貴殿のお家に、逸見家に、因縁最も深き歌、その歌をうたう源女という女、なるほど必要ござろうのう……伝説にある埋もれたる黄金、それを掘り出すには屈竟の手蔓……」
「では貴殿におかれても?」
「御意、さればこそ源女をこれ迄……」
「と知ってはいよいよ源女という女子《おなご》、お渡しいたすことなりませぬ」
「さりながら本来拙者が保護して……」
「過ぐる日まではな。がその後、見失いましたは縁無き證拠。……助けて拙者手に入れたからは、今は拙者のものでござる」
「源女を手蔓に埋もれし黄金を、では貴殿にはお探しなさるお気か?」
「その通り、云うまでもござらぬ」
「では拙者の競争相手!」
「止むを得ませぬ、因縁でござろう」
「二重に怨みを結びましたな!」
「ナニ怨みを? 二重に怨みを?」
「今は怨みと申してよかろう! ……一つは門弟に関する怨み、その二は源女に関する怨み!」
「それとても止むを得ぬ儀」
「用心なされ逸見氏、拙者必ず源女を手に入れ、埋もれし黄金も手に入れましょう」
「出来ましたなら、おやりなされい!」
「用心なされ逸見氏、源女を手に入れ埋もれし黄金を、探し出だそうと企て居る者、二人以外にもござる程に!」
「二人以外に? 誰じゃそ奴?」
「貴殿の門弟、水品陣十郎!」
「おお陣十郎! おお彼奴《きゃつ》か! ……弟子ながらも稀代の使い手、しかも悪剣『逆ノ車』の、創始者にして恐ろしい奴。……彼奴の悪剣を破る業、見出だそうとこの日頃苦心していたが、彼奴が彼奴が源女と黄金を……」
「逸見氏、お暇申す」
「勝負は? 秋山氏、今日の勝負は?」
「アッハハ、後日真剣で!」

因果な恋


 高萩村の村外れに、秩父|香具師《やし》の部落があり、「|刃ノ郷《やいばのごう》」と称していた。三十軒ほどの人家があり、女や子供や老人などを入れ、百五十人ほどの半農半香具師が、一致団結して住んでいた。
 郷に一朝事が起こり、合図《しらせ》の竹法螺がボーッと鳴ると、一切の仕事を差し置いて、集まるということになっていた。
 弁三爺さんという香具師の家は、この郷の片隅にあった。
 茅葺の屋根、槇の生垣、小広い前庭と裏の庭、主屋、物置、納屋等々、一般の農家と変わりのない家作、――ただし床ノ間に鳥銃一挺、そうして壁に半弓一張、そういう武器が懸けてあるのは、本来が野士といって武士の名残――わけても秩父香具師は源氏の正統、悪源太義平から来ていると、自他共に信じているそれだけあって、普通の農家と異《ちが》っていた。
 秋山要介と逸見多四郎とが、多四郎の道場で、木刀を交した、その日から数日経過したある日の、こころよく晴れた綺麗な午後、ここの庭に柿の葉が散っていた。
 その葉の散るのをうるさ[#「うるさ」に傍点]そうに払って、お妻が庭へ入って来た。
「いい天気ね、弁三爺さん」
 母屋の縁側に円座を敷き、その上に坐って憂鬱の顔をし、膏薬を練っていた弁三爺さんは、そう云われてお妻の顔を見た。
「よいお天気でございますとも……へい、さようで、よいお天気で」
 ――そこで又ムッツリと家伝の膏薬を、節立った手で練り出した。
 お妻は眉をひそめて見せたが、
「日和が続いていい気持だのに、爺つぁんはいつも不機嫌そうね」
「へい、不機嫌でございますとも、倅が江戸へ出て行ったまま、帰って来ないのでございますからな」
「またそれをお云いなのかえ。ナーニそのうち帰って来るよ」とは云ったものの殺された倅、弁太郎が何で帰るものかと、心の中で思っているのであった。
(あの人を殺したのは陣十郎だし、殺すように進めたのは妾だったっけ)
 こう思えばさすがに厭な気がした。
 まだお妻がそんな邯鄲師《かんたんし》などにならず、この郷に平凡にくらしていた頃から、弁太郎はひどくお妻を恋し、つけつ[#「つけつ」に傍点]廻しつして口説いたものであった。その後お妻は故郷を出て、今のような身の上になってしまった。と、ヒョッコリ[#「ヒョッコリ」は底本では「ヒョッコり」]弁太郎が、膏薬売となって江戸へ出て来、バッタリお妻と顔を合わせた。爾来弁太郎は附き纏い、長い間の恋を遂げようとし、お妻の現在の身分も探ぐり、恋遂げさせねば官に訴え、女邯鄲師として縄目の恥を、与えようなどと脅迫さえした。お妻は内心セセラ笑ったが、うるさいから眠らせてしまおうよ、こう思って情夫の陣十郎へケシカケ、一夜お茶ノ水へ引っ張り出し、一刀に切らせてしまったのであった。
 杉浪之助が源女の小屋から、自宅へ帰る途中《みちすが》らに見た、香具師の死骸は弁太郎なのであった。
「爺つぁん、主水さんのご機嫌はどう?」お妻は話を横へそらせた。


「あのお方もご機嫌が悪そうで」
 弁三はそう云って俯向いて、物憂そうに膏薬を練った。
「出て行きたそうなご様子はないかえ?」
「出て行きたそうでございますなあ」
「出て行かしちゃアいけないよ」
「というお前さんの云いつけだから、せいぜい用心しては居りますがね」
「行かせたらあたしゃア承知しないよ」
 剃刀《かみそり》のような眼でジロリと見た。
「手に合わなけりゃア仕方がねえ、ボーッと竹法螺吹くばかりだ」
「と、村中の出口々々が、固められるから大丈夫だねえ。でもそういった大袈裟なこと、あたしゃアしたくはないのだよ」
「ご尤《もっと》もさまでございます」
「どれご機嫌を見て来よう」
 腰かけていた縁から立って、お妻は裏の方へ廻って行った。
(凄い女になったものさな)
 お妻の後を見送りながら、そう弁三爺さんは思った。
 以前この郷に居た時分は、度胸こそあったが可愛いい無邪気な綺麗な娘っ子に過ぎなくて、この家などへもノベツに来て、お爺さんお爺さんと懐かしがってくれたお妻、それがどうだろう陣十郎とかいう浪人者と手をたずさえて、今度やって来た彼女を見れば、縹緻も上ったがそれより何より、人間がすっかり異《ちが》ってしまっていて、腕には刺青眼には殺気、心には毒を貯えていて、人殺しぐらいしかねまじい姐御、だいそれた[#「だいそれた」に傍点]女になっているではないか。
(陣十郎とかいうお侍さん、随分怖そうなお侍さんだが、あんな人の眼をこっそり盗んで、鴫澤主水《しぎさわもんど》とかいうお侍さんを、こんな所へ隠匿《かくま》うなんて……血腥さい[#「血腥さい」は底本では「血醒さい」]事件でも起こらなけりゃアいいが)
 これを思うと弁三爺さんは、不安で恐ろしくてならなかった。
 数日前のことであった、そのお侍さんを駕籠に乗せて、宵にこっそりやって来て、
「このお侍さんを隠匿っておくれ、村の者へも陣十郎さんへも、誰にも秘密《ないしょ》で隠匿っておくれ、昔馴染みのお前さんのとこより、他には隠し場所がないんだからねえ」
 こうお妻が余儀なげに云った。
 見ればどうやらお侍さんは、半分死んででもいるように、気息奄々憔衰していた。
「へい、それではともかくも……」
 こう云って弁三は引き受けた。
 と、翌日から毎日のように、お妻はやって来て介抱した。
(どういう素性のお侍さんなのかな?)
(お妻さんとの関係はどうなんだろう?)
 解《わか》らなかったが不安であった。
 婆さんには死に別れ、たった一人の倅の弁太郎は江戸に出たまま帰って来ない。ただでさえ不安で小寂しいところへ、そんなお侍さんをあずかったのである。
 弁三爺さんは憂鬱であった。
 黙々と膏薬を練って行く。
 ヒョイと生垣の向こうを見た。
「あッ」と思わず声をあげた。
 陣十郎が蒼白い顔を、気味悪く歪めて生垣越しに、じっとこっちを見ているではないか。
(さあ大変! さあ事だ!)


「おい」と陣十郎は小声で呼んだ。
「おい爺《とっ》つぁん、ちょっと来てくんな」
 生垣越しに小手招きした。
 裏の座敷にはお妻がいるはずだ。
「へい」とも返辞が出来なかった。
 顫えの起こった痩せた体を、で弁三はヒョロヒョロと立たせ、庭下駄を穿くのもやっとこさで、陣十郎の方へ小走って行った。
 生垣を出ると村道である。
 と、陣十郎がしゃがみ[#「しゃがみ」に傍点]込んだので、向かい合って弁三もしゃがみ込み、
「へ、へい、これは水品様……」
「爺つぁん、お妻が来たようだね」
「オ、お妻さんが……へい……いいえ」
「へい、いいえとはおかしいな。へい[#「へい」に傍点]なのか、いいえ[#「いいえ」に傍点]なのか?」
「へい……いいえ……いいえなので」
「とすると俺の眼違いかな」
「………」
「恰好がお妻に似ていたが……」
「…………」
「ナーニの、俺ら家を出てよ、親分の家へ行こうとすると、鼻っ先を女が行くじゃアないか。滅法粋な後ろ姿さ。悪くねえなア誰だろうと、よくよく見ると俺の女房さ。アッ、ハッハッそうだったか、女房とあっては珍しくねえ、と思ったがうち[#「うち」に傍点]の女房ども、どちらへお出かけかとつけて[#「つけて」に傍点]来ると、お前の家へ入ったというものさ」
「へ、へい、さようで、それはそれは……」
「それはそれはでなくて、これはこれはさ。これはこれはとばかり驚いて、しばらく立って見ていたが、裏の方へ廻って行ったので、爺つぁんお前をよんだわけさ」
「へ、へい、さようでございますかな」
「裏にゃア何があるんだい?」
「へい、庭と生垣と……」
「それから雪隠と座敷とだろう」
「へい、裏座敷はございます」
「その座敷にだが居る奴はだれだ!」
「ワーッ! ……いいえ、どなた様も……」
「居ねえ所へ行ったのかよ」
「ナ、何でございますかな?」
「誰もいねえ裏座敷へ、俺の女房は入って行ったのか?」
「…………」
「犬か!」
「へ?」
「雄の犬か!」
「滅相もない」
「じゃア何だ!」
「…………」
「云わねえな、利いていると見える、お妻のくらわせた鼻薬が……」
「水品様、まあそんな……そんな卑しい弁三では……」
「ないというのか、こりゃア面白い、媾曳宿《あいびきやど》に座敷を貸して、鼻薬を貰わねえ上品な爺《おやじ》――あるというならこりゃア面白い! 貰った貰った鼻薬は貰った。そこでひし[#「ひし」に傍点]隠しに隠しているのだ! ……ヨーシそれならこっちの鼻薬、うんと利くやつを飲ませてやる」
 トンと刀の柄を叩いた。
「鍛えは関、銘は孫六、随分人を切ったから、二所ばかり刃こぼれがある、抜いて口からズーッと腹まで! ……」
 ヌッと陣十郎は立ち上り、グッと鯉口を指で切った。


 古びた畳、煤けた天井、雨もりの跡のある茶色の襖。裏座敷は薄暗く貧しそうであった。
 江戸土産の錦絵を張った、枕屏風を横に立てて、褥《しとね》の上に坐っているのは、蒼い頬、削けた顎、こればかりは熱を持って光っている眼、そういう姿の主水であった。
「心身とも恢復いたしました。もう大丈夫でございます」
 そんな姿でありながら、そうして声など力がないくせに、そう主水は元気ありそうに云った。
「そろそろ発足いたしませねば……」
「さあご恢復なさいましたかしら」
 高過ぎる程高い鼻、これだけが欠点といえば欠点と云え、その他は仇っぽくて美しい顔へ、意味ありそうな微笑を浮かべ、流眄《ながしめ》に主水を眺めながら、前に坐っているお妻は云った。
「ご恢復とあってはお父様の敵《かたき》、お討ちにならねばなりませんのねえ」
「はいそれに誘拐《かどわか》されました妹の、行方を尋ね取り戻さねば……」
「そうそう、そうでございましたわねえ」
 お妻はまたも微笑したが、
「そのお妹御の澄江《すみえ》様、まことは実のお妹御ではなく、お許婚《いいなずけ》の方でございましたのね」
 そう云った時お妻の眼へ、嫉妬《ねた》ましさを雑えた冷笑のようなものが、影のようにチラリと射した。
「はい」と主水は素直に云った。
「とはいえ永らく兄妹として、同じ家に育って参りましたから、やはり実の妹のように……」
「さあどんなものでございましょうか」
 云い云い髪へ手をやって、簪《かんざし》で鬢の横を掻いた。
「お許婚の方をお連れになり、敵討の旅枕、ホ、ホ、ホ、お芝居のようで、いっそお羨《うらやま》しゅうございますこと……」
 主水は不快な顔をしたが、グッと抑えてさりげなく[#「さりげなく」に傍点]、
「その妹儀あれ以来、どこへ連れられ行かれましたか……思えば不愍……どうでも探して……」
「不愍は妾もでございますよ」
 お妻の口調が邪見になり、疳を亢ぶらせた調子となった。
「人の心もご存知なく……妾の前でお許婚の、お噂ばかり不愍とやら、探そうとやら何とやら、お気の強いことでございます」
 グッと手を延ばすと膝の前にあった、冷えた渋茶の茶碗を取り、一口に飲んでカチリと置いた。
「妾の心もご存知なく!」
 西陽が障子に射していて、時々そこへ鳥影がさした。
 生垣の向こう、手近の野良で、耕しながらの娘であろう、野良歌うたうのが聞こえてきた。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]|背戸《せと》を出たればナー
よいお月夜で
様《さま》の頬冠《ほおかむ》ナー
白々と
[#ここで字下げ終わり]
 二人はしばらく黙っていた。
 と、不意に怨ずるように、お妻が熱のある声で云った。
「ただに酔興で貴郎様を、何であの時お助けしましょうぞ。……その後もここにお隠匿《かくま》いし、何の酔興でご介抱しましょう。……心に想いがあるからでござんす」


 主水は当惑と多少の不快、そういう感情をチラリと見せた。
 が、お妻はそんなようにされても、手を引くような女ではなく、
「あの際お助けしなかろうものなら、陣十郎が立ち戻り、正気を失っている貴郎様を、討ち取ったことでござりましょうよ。……恩にかけるではござりませぬが、かけてもよいはずの妾《わたし》の手柄、没義道《もぎどう》になされずにねえ主水様……」
「あなた様のお心持、よう解っては居りまするが、……そうしてお助け下されました、ご恩の程も身にしみじみと有難く存じては居りまするが……」
 そう、主水はお妻の云う通り、あの日陣十郎を追って行き、疲労困憊極まって、鎮守の森で気絶した時、お妻の助けを得なかったなら、後にて聞けば陣十郎が、森へ立ち戻って来たとはいうし、その陣十郎のために刃の錆とされ、今に命は無かったろう。だからお妻は命の恩人と、心から感謝はしているのであり、そのお妻が来る度毎に、それとなく、いやいや、時には露骨に、自分に対して恋慕の情を、暗示したり告げたり訴えたりした。でお妻が自分を助けた意味も、とうに解ってはいるのであった。
 さりとてそのため何でお妻と、不義であり不倫であり背徳である関係、それに入ることが出来ようぞ!
「主水様」とお妻は云った。
「あなた様にはまだこの妾《わたし》が陣十郎の寵女《おもいもの》、陣十郎の情婦《いろおんな》、それゆえ心許されぬと、お思い遊ばして居られますのね」
 下から顔を覗かせて、主水の顔色を窺った。
「いかにも」と主水は苦しそうに云った。
「それを思わずに居られましょうか。……討ち取らねばならぬ父の敵《かたき》! 陣十郎の寵女、お妻殿がそれだと知りましては、心許されぬはともかくも、何で貴女《あなた》様のお志に……」
「従うことなりませぬか」
「不倶戴天の[#「不倶戴天の」は底本では「不具戴天の」]敵の情婦に……」
「では何でおめおめ助けられました」
「助けられたは知らぬ間のこと……」
「では何で介抱されました……」
 答えることが出来なかった。思われるはただ機を失した! 機を失したということであった。
 助けられたその翌日、訊ねられるままにお妻に対し、主水は姓名から素性から、その日の出来事から敵討のことから、敵の名さえ打ち明けた。
 と、お妻は驚いたように、主水の顔を見詰めたが、やがて自分が陣十郎の情婦、お妻であることを打ち明けた。
 これを聞いた時の主水の驚き!
 同時に思ったことといえば、
(助けられなければよかったものを!)
 ――というそういうことであり、直ぐにも立ち退こうということであった。


(直ぐに立ち退いたらよかったものを)
 今も主水《もんど》はこう思っている。
 立ち退こうとその時云いはした。
 と、お妻が止めて云った。
「ここは高麗郡《こまごおり》の高萩村、博徒の縄張は猪之松という男、陣十郎の親分でござんす。十町とは歩けなさるまい、そのように弱っているお体で、うかうか外へ出ようものなら、手近に陣十郎は居りまするし、猪之松親分の乾兒《こぶん》も居り、貴郎《あなた》様にはすぐに露見、捕らえられて嬲り殺し! ……ご発足など出来ますものか」
 しかし主水としては敵の情婦に、介抱なんどされること、一分立たずと思われたので、無理にも立とうと云い張った。
 と、お妻は嘲笑うように云った。
「ここは『|刃ノ郷《やいばのごう》』と申し、高萩村でも別趣の土地、秩父香具師の里でござんす。住民一致して居りまして、事ある時には竹法螺を吹く。と、人々出で合って、村の入口出口を固め、入る者を拒み出る人を遮る。妾《わたし》もこの郷の女香具師の一人、いいえ貴郎様は発足《た》たせませぬ! 無理にお発足ちと有仰《おっしゃ》るなら、竹法螺吹いて止めるでござんしょう」
 もう発足つことは出来なかった。
 こうして今日まで心ならずも、介抱を受けて来たのであって、無理に受けさせられた介抱ではあるが、敵の情婦と知りながら、介抱を受けたには相違なく、で、それを口にされては、返す言葉がないのであった。
(直ぐに立ち退けばよかったのだ! 機を失した! 機を失した!)
 このことばかりが口惜まれるのであった。
 二人はしばらく黙ったままで――主水は俯向いて膝を見詰め、お妻はそういう主水の横顔を、むさぼるように見守っていた。
「それにいたしましても何と云ってよいか、あなたにとりましてはこの主水。敵の片割ともいうべきを、そのようにお慕い下さるとは……」
 途切れ途切れの言葉つきで、やがて主水はそんなように云った。
「さよう、敵の片割でござる。あなたの愛人水品陣十郎を、敵と狙う拙者故……」
「悪縁なのでござりましょうよ」
 そうお妻も言葉を詰らせ、ともすると途切れそうな言葉つきで云った。
「因果な恋なのでござりましょうよ……あの日、あの時、鎮守の森で、死んだかのように可哀そうに、憐れなご様子で草を褥《しとね》に、倒れておいでなさいましたお姿、それを見ました時どうしたものか、妾はそれこそ産れてはじめての、――本当の恋なのでございましょうねえ……そういう思いにとらえられ……まあ恥かしい同じ仲間の、たくさんの郷の人達が、側にいたのに臆面もなく、あたしゃアこのお方をご介抱するよと、ここへお連れして参りましたが……因果の恋なのでござりましょうねえ。……それにもう一つには妾にとりまして、あの水品陣十郎という男、本当の恋しい男でなく、愛する男でもありませぬ故と……そうも思われるのでござります」


「お妻殿!」とやや鋭く、やや怒った言葉つきで、咎めるように主水は云った。
「いかに拙者に恋慕の情をお運びになるあなたとはいえ、現在の恋人をあからさまに、恋せぬなどと仰せらるるは……そういうお心持でござるなら、拙者に飽きた暁には、又他の情夫に同じように、拙者の悪口を仰せられましょう……頼み甲斐なき薄情! ……」
「いいえ、何の、主水様、それには訳が、たくさん訳が……」
 あわてて云ったもののそれ以上、お妻は云うことは出来なかった。
 自分が女賊で、女邯鄲師《おんなかんたんし》で、平塚の宿の一夜泊り、その明け方に同宿の武士、陣十郎の胴巻を探り、奪おうとして陣十郎のため、かえって取って押えられ、それを悪縁に爾来ずっと、情夫情婦の仲となり今日まで続いて居るなどとは、さすが悪女の彼女としても、口へ出すことが出来なくて、自分はこの郷の香具師の娘、陣十郎に誘惑され、情婦となって江戸や甲州を、連れ廻されたとそんなように、主水には話して置いたのであった。
 女邯鄲師としての悪事の手證を、押えられたための情夫情婦、それゆえ本当の恋ではないと、こう云い訳出来ぬ以上は、そう主水に咎められても、どう弁解しようもなく、お妻は口籠ってしまったのであった。
 が、お妻はニッと笑い、もっともらしくやがて云った。
「妾の前に陣十郎には、情婦《おんな》があったのでござります。江戸両国の女芸人、独楽廻しの源女という女、これが情婦でござりまして、諸所方々を連れ歩いたと、現在の情婦の妾の前で、手柄かのように物語るばかりか、貴郎《あなた》様のお許婚《いいなずけ》の澄江様にも……」
「澄江にも! うむ、陣十郎め!」

「横恋慕の手をのばし……」
「いかにも……悪虐! ……陣十郎……」
「あの夜澄江様を誘拐《かどわか》し、しかも妾という人間を、下谷の料亭常磐などに[#「常磐などに」は底本では「常盤などに」]待たせ……さて首尾よく澄江様を、連れ出すことが出来ましたら、妾を秋の扇と捨て、澄江様を妾の代わりに……」
「何の彼如き鬼畜の痴者に、妹を、妹を渡してなろうか?」
「そういう男でござります。そういう男の陣十郎を、何で妾ひとりだけが……先が先ならこっちもこっち……主水様! 今は貴郎様へ!」
「それにいたしても、妹澄江は……」
「お許婚の澄江様は……」
「上尾街道のあの修羅場で、馬方博徒数名の者に、担がれ行かれたと人の噂……」
「人の噂で聞きましたなア……さあそのお許婚の澄江様……澄江様のお噂さえ出れば、眼の色変えてお騒ぎになられる」
「妹であれば当然至極!」
「可愛い可愛いお許婚なりゃ、脳乱[#「脳乱」はママ]遊ばすもごもっとも? ホ、ホ、ホ、その澄江様、どうで担いだ人間が、馬方博徒のあぶれ者なら? ……」
 しかしその時表の庭の、方角にあたって云い争う、男の声が聞こえてきた。
「や、あの声は?」
「おおあの声は」
 二人ながら森《しん》と耳を澄ました。

 陣十郎は弁三を突きのけ、村道から境の生垣を越え、表の庭へ入って行った。
「云い古されたセリフだが、俺の遣る金鼻薬は、小判じゃアねえドスだ延金だアッハハ、驚いたか望みならば――ズバッと抜いて、先刻も云った口から腹まで、差し込んでやろうどうだ、どうだ?」
 なお止める弁三を突きまくり、陣十郎はグングン歩いた。


「ままにしやアがれ!」
 不意に弁三は、年は取っても秩父香具師――兇暴の香具師の本性を現わし、猛然と吼え競い立った。
「裏座敷にゃア誰もいねえ! とこう一旦云ったからにゃア、俺も秩父香具師の弁三だ、あくまでも居ねえで通して見せる! 汝《うぬ》は何だ、え汝は? 馬の骨か牛の骨か、どこの者とも素性の知れねえ、痩せ浪人の身分をもって『刃ノ郷』の俺らの仲間、お妻ッ娘と馴れ合ったのさえ、胸糞悪く思っているのにここら辺りを立ち廻り、博徒の用心棒、自慢にもならねえヤクザの身を、変にひけらかせ[#「ひけらかせ」に傍点]て大口を叩き、先祖代々素性正しく、定住している俺達へ、主人かのように振る舞い居る! ナニ刀だ! 抜いて切るって! おお面白い切られよう、が手前が切る前に、こっちもこっちで手前の体へ」
 喚くと陣十郎へ背中を向け、庭を突っ切り縁へ駈け上り、座敷へ飛び込むと床の間にある、鳥銃を抱えて走り出で、縁に突っ立ち狙いを定めた。
「秩父の山にゃア熊や狼が、ソロソロ冬も近付いて来た、餌がねえと吼えながら、ウロウロ歩いているだろう。狙い撃ちにして撃ち殺し、熊なら胸を裂き肝を取り、皮を剥いで足に敷く、秩父香具師の役得だア。手練れた鉄砲にゃア狂いはねえ! 野郎来やがれ、切り込んで来い! 定九郎じゃアねえが二ツ弾、胸にくらって血へど[#「へど」に傍点]を吐き、汝それ前にくたばるぞよ! 来やアがれ――ッ」とまくし[#「まくし」に傍点]立て、まくし立てながらも手に入った早業、いつか火縄に火を付けていた。
「待て待て爺《おやじ》」と周章狼狽、陣十郎は胆を冷し、生垣の際まで後退った。
「気が短いぞ、コレ待て待て! ……鉄砲か、ウーン、こいつ敵《かな》わぬ……」
 まさか撃つまい嚇しであろう、そうは思っても気味が悪く、見ればいやいや嚇しばかりでなく、こっちを睨んでいる弁三の眼に、憎悪と憤怒と敵愾心とが、火のように燃えていた。
 ゾッと感ずるものがあった。
(いつぞやお妻に聞いたことがあった、いつぞやお茶ノ水の森の中で、お妻に頼まれて殺生ながら、叩っ切って殺した弁太郎という男、秩父香具師の膏薬売、弁三という老人の、失った一人の倅であると! おおそうだったこの弁三が、殺した弁太郎の父親だった。……下手人が俺だということなど、まさかに知っては居るまいが、親子の血がさせる不思議の業、この世には数々ある、何となく弁三爺の心に、俺を憎しむ心持が、深く涌いていないものでもない。もしそうなら撃つぞ本当に!)
 ゾッと感ずるものがあった。
 そこでいよいよ後退りし、小門の方へ後ざまに辿り、
「解った、よし裏座敷には、誰もいない、犬さえ居ない! よし解った、そうともそうとも! ……誰がいるものか、居ない居ない! ……居れば! 居れば悪いが……それもよろしい、居ない居ない! ……そこで帰る、撃つな撃つな! ええ何だ鉄砲なんど……恐ろしいものか、ちと怖いが……馬鹿!」と一喝! がその時には、既に村道へ遁れ出ていた。

生贄の女


 同じその日のことである。――
 高萩村の博徒の親分、猪之松の家は賑わっていた。
 馬大尽事井上嘉門様を、ご招待して大盤振舞いをする――というので賑わっているのであった。
 博徒とはいっても大親分、猪之松の家は堂々たるもので、先はお屋敷と云ってよく、土蔵二棟に離座敷、裏庭などは数奇《すき》を凝らした一流の料亭のそれのようであり、屋敷の周囲には土塀さえ巡らし、所の名主甚兵衛様より、屋敷は立派だと云われていた。内緒も裕福で有名であったが、これは金方が附いているからで、その金方が井上嘉門様だと、多くの人々は噂して居、噂は単なる噂ばかりでなく、事実それに相違なかった。
 猪之松という人間が、博徒のようになく人品高尚で、態度も上品で悠然としてい、お殿様めいたところがあり――だからどこか物々しく、厭味の所はあったけれど、起居動作はおちついている、行儀作法も法に叶っている、貴人の前へ出したところで、見劣りがしないところから、自然上流との交際が出来、そこで井上嘉門などという、大金持の大旦那に、愛顧され贔屓にされるのであった。
 金方の井上嘉門様を、ご招待するというのであるから、その物々しさも一通りでなく、上尾宿からは茶屋女の、気の利いたところを幾人か呼び、酒肴給仕に従わせ、村からも渋皮の剥けた娘――村嬢《そんじょう》の美《よ》いところを幾人か連れて来、酒宴の席へ侍らせたり、これも上尾の宿から呼んだ、常磐津《ときわず》の[#「常磐津《ときわず》の」は底本では「常盤津《ときわず》の」]女師匠や、折から同じ宿にかかっていた、江戸の芝居の役者の中、綺麗な女形の色若衆を、無理に頼んで三人ほど来させ、舞など舞わせる寸法にしてあった。
 田舎の料理は食われない――と云ったところで上尾も田舎、とは云え勿論高萩村より、いくらか都会というところから、料理は上尾からことごとく取った。
 兄弟分はいうまでもなく、主立った乾児幾十人となく、入れ代わり立ち代わり伺候して[#「伺候して」は底本では「仕候して」]、嘉門様からお流れ頂戴、お盃をいただいたりした。
 嘉門は午後《ひる》からやって来て、今は夜、夜になっても、仲々去らず、去らせようともせず、奥の座敷の酒宴の席は、涌き立つように賑わってい、高張を二張り門に立てて、砂を敷き盛砂さえした、玄関――さよう猪之松の家は、格子づくりというような、町家づくりのそれでなく、大門構え玄関附、そういった武家風の屋敷であったが、その玄関を夜になった今も、間断なく客が出入りして、ここも随分賑かであり、裏へ廻ると料理場、お勝手、ここは一層の賑かさで、その上素晴らしい好景気で、四斗樽が二つも抜いてあり、酒好きの手合いは遠慮会釈なく、冷をあおっては大口を叩き、立働きの女衆へ、洒落冗談を並べていた。
 陽気で派手でお祭り気分で、ワーッといったような雰囲気であった。
 その勝手元へ姿を現わしたのは、浮かない顔をした陣十郎であった。
「これはいらっしゃい水品先生、こんなに遅くどうしたんですい?」
 こう云って声をかけたのは、猪之松にとっては一の乾分――上尾街道で浪之助などに追われ、逃げ廻る弱者の峯吉ではなく――角力上り閂《かんぬき》峰吉であった。
「遅いか早いかそんなことは知らぬ。陽気だな、これは結構」どこかで飲んで来たらしく、陣十郎は酔っていたが、凄い据わった血走った眼で、ジロジロ四辺《あたり》を見廻わしながら、上ろうともせず随分邪魔な、上框《あがりかまち》へデンと腰かけ、片足を膝の上へヒョイとのっけ、楊子で前歯をせせり出した。


(ご機嫌が悪いぞ、あぶないあぶない)
 酒癖の悪いのを承知の一同、あぶないあぶないと警戒するように、互いに顔を見合わせたが、こんな時にはご自慢の情婦《おんな》――お妻を褒めるに越したことはないと、唐子の音吉というお先ッ走りの乾児が、
「姐御、どっこい、奥様だったっけ、奥様お見えになりませんが、一体全体どうしたんで、こんな時にこそご出張を願って、あの綺麗で粋なご様子で、お座敷の方を手伝っていただき、愛嬌を振り蒔いていただけば、嘉門様だって大喜び、親分だって大恭悦、ということになるんですがねえ。それが昼から夜にかけて、一度もお見えにならねえなんて……一体全体奥様は……」
「奥様? ふん、誰のことだ!」
 ギラリと陣十郎は音吉を睨み、
「奥様、ふふん、どいつのことだ!」
「どいつッて、そりゃ、お妻さんのこと……」
「枕探し! ……あいつのことか!」
「え? 何ですって、こいつアひでえや」
 ヒヤリとして音吉は首を縮めた。
 勿論音吉をはじめとして、乾児一同お妻のことを、どうせ只者じゃアありゃアしない。枕探し、女|邯鄲師《かんたんし》、そんなようには薄々のところ、実は推していたようなものの、亭主――情夫――陣十郎の口から、今のようにあからさまに云われては、ヒヤリとせざるを得なかった。
「何を云うんですい、水品先生」
「何とは何だ、これ何とは! ……枕探しだから枕探し、こう云ったに何が悪い。いずれは亭主の寝首を掻く奴! ……そんな女でも奥様か!」
「ワ――ッ、不可《いけ》ねえ、何を仰有るんで、……奥様で悪かったら奥方様……」
「出ろ! 貴様! 前へ出ろ!」
 勝手元一杯に漲っていた、明るい燈火《ひ》がカッと一瞬間、一所へ集まり閃めいた。
 見れば陣十郎の右の手に、抜かれた白刃が持たれていた。
 バタバタと女達は奥の方へ逃げた。
「アッハハハ」と陣十郎は、不意に気味悪く笑い出した。
「ある時には関の孫六、ある時には三条小鍛冶、ある時には波の平! 時と場合でこの刀、素晴らしい銘をつけられるが、ナーニ本性は越前|直安《ただやす》、二流どころの刀なのさ。……が、切れるぞ、俺が切れば! ……千里の駒も乗手がヤクザで、手綱さばきが悪かろうものなら、駄馬ほどにも役立たぬ。……名刀であろうとナマクラが持てば、刀までがナマクラになる。……それに反して名人が持てば、切れるぞ切れるぞ――ズンと切れる! ……嘘と思わば切って見せる! ……どいつでもいい前へ出ろ!」
 云い云い四方を睨み廻した。
 山毛戸《やまかいど》の源太郎、中新田の源七、玉川の権太郎、閂峰吉、錚々《そうそう》たる猪之松の乾児達が、首を揃えて集まってはいたが、狂人《きちがい》に刃物のそれよりも悪く、酒乱の陣十郎に抜身を持たれ、振り廻されようとしているのであった。首を縮め帆立尻《ほたてじり》をし、ジリジリと[#「ジリジリと」は底本では「ヂリヂリと」]後へ退《さが》りながら、息を呑み眼を見張り、素破《すわ》と云わば飛んで逃げようと、用心をして構えていた。


「アッハハハ」
 と陣十郎は、また気味の悪い笑声を立てた。
「切る奴は他にある、汝《おのれ》らは切らぬ、安心せい……鴫澤主水《しぎさわもんど》を探し出し、ただ一刀に返り討ち! 婦《おんな》、お妻を引きずり出し、主水ともども二太刀で為止《しと》める。……久しく血を吸わぬ越前直安、間もなく存分に血を吸わせてやるぞ!」
 燈火《ともしび》に反射してテラテラ光る、ネットリとした刀身を、じっと睨んで呟くように云ったが、
「汝ら解るか男の心が? 己を殺そうとして付け廻している、敵《かたき》を持っている男の心が」
 乾児達の方を振り返った。
「へい」と云ったのは閂峰吉で、
「さぞまア気味の悪いことで、いやアなものでございましょうなあ」
「討たれまいとして逃げ廻る。いやなものだぞ、いやなものだぞ」
「いやアなものでござりましょうなあ」
「が、一面快い」
「…………」
「討て、小童《こわっぱ》、探し出して討て! が俺は逃げて逃げて、決して汝には討たれてやらぬ。……こう決心して逃げ廻る心、快いぞ快いぞ」
「そんなものでございますかなあ」
「とはいえ厭アな気持のものだ。討つ方の心は一所懸命、命を捨ててかかっている。討たれる方は討たれまいとして、命を惜しんで逃げ廻る。心組みが全く別だ。討つ方には用心はいらぬ。討とう討とうと一向だ。討たれる方は用心ばかりだ。……用心をしても用心をしてもいずれは人間油断も隙もあろう、そこを狙われて討たれるかもしれぬ! この恐怖心、厭アなものだぞ」
「へい、さようでございましょうなあ」
 突然立ち上ると陣十郎は、刀をグ――ッと中段につけ、両肘を縮め肩を低めたが、
「今迄の俺がそうだった! 討たれる者、逃げ廻る者、今迄の俺はそうだった! 剣法で云えばこの構えだ! ……が俺は一変した!」
 こう沈痛に声を絞ると、俄然刀を大上段に冠った。
「大上段、積極的の構え! 俺は今日からこっちで向かう! 俺の方から敵を探し、返り討ちにかけてやる! それにしても汝ら卑屈だぞ! 俺が鴫澤主水という敵に、付け廻されているということを、心の中では知っていながら、おくびにも出そうとしないではないか! そうであろうがな! そうであろうがな!」
 刀を大上段に振り冠ったまま、陣十郎は憎さげに叫んだ。
 乾児達は顔を見合わせた。
 それに相違ないからであった。
 過ぐる日上尾の街道で、赤尾の林蔵にいどまれ[#「いどまれ」に傍点]て、こっちの親分が引きもならず、真剣勝負をした際に、鴫澤主水とその妹の、澄江とかいう娘とが、親の敵を討つと宣《なの》って、水品陣十郎を襲ったが、討ちもせず、討たれもせず、主水という武士は行方不明、澄江という娘は博労達に、どこかへ担がれて行ってしまったと、その時こっちの親分に従《つ》いて、その修羅場にいた八五郎の口から、乾児達は詳しく話されて、そういう事情は知っていた。そればかりでなくその日以来、それ迄はほとんど毎日のように、ここの家へやって来て、乾分達へ剣術を教えたり、ゴロゴロしていた陣十郎が、姿をあまり見せなくなり、なお噂による時は、これ迄ずっと住んでいた家――この村の外れにあるお妻の実家へも、住まないばかりか余り立ち寄らず、ひたすら主水兄妹によって、探し出されることを恐れていると、そういうことも聞き知っていた。


 そうして知って居りながら、知って居るとも知らないとも、事実おくび[#「おくび」に傍点]にも出さなかった。というのは事が事であるからで、それにそういう次第なら、あっし[#「あっし」に傍点]達が味方をいたしますから、主水兄妹を探し出し、返り討ちにしておしまいなせえと、こんなことを云うには陣十郎の剣技が、余りにも勝れて居る、といって主水兄妹に、器用に討たれておやりなせえとは、なおさら云えた義理でなく、それで黙っていたのであった。
 で、乾児達は顔を見合わせた。
 と不意に陣十郎は、振り冠っていた燈《ひ》に光る刀を、ダラリと力なく下げたかと思うと、にわかに疑わしそうに寂しそうに、むしろ恐怖に堪えられないかのように、ウロウロとした眼付をして、勝手元に、乾児達の中に、主水が居りはしないだろうかと、それを疑ってでもいるかのように、一人々々の顔を見たが、
「疑心! こいつが不可《いけ》ないのだ! こいつから起こるのだ、弱気がよ! ……と、守勢、こいつになる!」再び中段に刀を構えた。「こいつが守勢、守勢になると、かえって命は守られぬ。……それよりも、守勢の弱気になると、ヒッヒッヒッ、情婦《おんな》にさえ、嘗められ裏切られてしまうのさ! ……そこでこいつだ積極的攻勢!」また上段に振り冠った。
「攻勢をとってやっとこさ[#「やっとこさ」に傍点]、身が守られるというものだ! ……酒だ! くれ! 冷で一杯!」
 ソロリと刀を鞘に納め、片手をヌッと差し出したが、ヒョイとその手を引っこませると、フラリとばかりに框《かまち》を上った。
「飲むならいっそ奥で飲もう。馬大尽様の御前でよ。陽気で明るい座敷でよ。親分にもしばらくご無沙汰した。お目にかかって申訳……退け、邪魔だ!」
 ヒョロリヒョロリと、乾分達の間を分け、奥の方へ歩いて行った。
 後を見送って乾児達は、しばらくの間は黙っていた。
 と不意に閂峰吉が、
「八五郎の奴どうしたかなあ」と、あらぬ方へ話を持って行った。
 陣十郎の影口をうっかり利いて、立聞きでもされたら一大事、又抜身を振り廻されるかもしれない。障《さ》わるな障わるなという心持から、話をあらぬ方へ反らせたのであった。
 一同《みんな》はホッと息を吐いた。
「先刻《さっき》ヒョッコリ面を出して、馬大尽様にもうち[#「うち」に傍点]の親分にも、お気に入るような素晴らしい、献上物を持って来るんだと、大変もねえ自慢を云って、はしゃいで[#「はしゃいで」に傍点]素っ飛んで行きゃアがったが、それっきりいまだ面ア出さねえ。何を持って来るつもりかしら」
 こう云ったのは源七であった。
「上尾街道の一件以来、あいつ親分に不首尾だものだから、気を腐らせて生地なかったが、そいつを挽回しようてんで、何か彼かたくらんで[#「たくらんで」に傍点]はいるらしい」
 こう云ったのは権太郎であった。
「あいつが一番の兄貴だったんだから、たとえ親分が何と云おうと――手出しするなと云ったところで、そんなことには頓着なく、林蔵の野郎を背後の方から、バッサリ一太刀あびせかけ、あの時息の音止めてしまったら、とんだ手柄になったものを、主水とかいう侍の妹とかいう女を、馬方なんかと一緒になって、どこかへ担いで行ったということだが、頓馬の遣口ってありゃアしねえ」
 苦々しく閂峰吉が云った。
 がその時玄関の方で、五六人の声で景気よく、
「献上々々、献上でえ!」と囃し喚く声が聞こえてきたので、一同《みんな》は黙って聞耳を立てた。
 この囃し声を耳にしたのは、お勝手元の乾児ばかりでなく、奥の座敷で酒宴をしている、馬大尽歓迎の人々もひとしく耳を引っ立てた。


 五十畳敷の広さを持った座敷に、無数の燭台が燈し連らねてあり、隅々に立ててある金屏風に、その燈火《ひ》が映り栄えて輝いている様は、きらびやかで美しく、そういう座敷の正面に、嵯峨野を描いた極彩色の、土佐の双幅のかけてある床の間、それを背にして年は六十、半白の髪を切下げにし、肩の辺りで渦巻かせた、巨大な人間が坐っていたが、馬大尽事井上嘉門であった。日焼けて赧い顔色が、酒のために色を増し、熟柿《じゅくし》を想わせる迄になって居り、そういう顔にある道具といえば、ペロリと下った太い眉、これもペロリと下ってはいるが、そうしてドロンと濁ってはいるが、油断なく四方へ視線を配る、二重眼瞼の大きい眼、太くて偏平で段のある鼻、厚くて大きくて紫色をしていて、閉ざしても左の犬歯だけを、覗かせている髭なしの唇に、ぼったりと二重にくくれている顎、その顎にまでも届きそうな、厚い大きな下った耳であった。身長《せい》も人並より勝れていたが、肥満の方は一層で、二十四五貫もありそうであり、黒羽二重の紋付に、仙台平の袴をつけ、風采は尋常で平凡であったが腹の辺りが太鼓のように膨れ、ムッと前方に差し出されているので、格好がつかず奇形に見えた。曲※[#「碌のつくり」、第3水準1-84-27]《きょくろく》に片肘を突いて居り、その手の腕から指にかけて、熊のように毛が生えていた。
 蝦蟇のようだと形容してもよく、絵に描かれている酒顛童子、あれに似ていると云ってもよかった。
 嘉門の左右に居流れているのは、招待《よ》ばれて来た猪之松の兄弟分の、領家の酒造造《みきぞう》、松岸の権右衛門、白須の小十郎、秩父の七九郎等々十数人の貸元で、それらと向かい合って亭主役の、高萩の猪之松が端座したまま、何くれとなく指図をし、その背後に主だった身内が、五六人がところかしこまってい、それに雑って水品陣十郎が、今は神妙に控えていた。
 常磐津の[#「常磐津の」は底本では「常盤津の」]師匠の三味線も済み、若衆役者の踊も済み、馳走も食い飽き酒も飲み飽き、一座駘然、陶然とした中を、なお酒を強いるべく、接待《とりもち》の村嬢や酌婦《おんな》などが、銚子を持って右往左往し、拒絶《ことわ》る声、進める声、からかう[#「からかう」に傍点]声、笑う声、景気よさは何時《いつ》までも続いた。
 どうで今夜は飲み明かし、嘉門様はお泊まりということであった。
「納めの馬市も十日先、眼の前に迫って参りました、いずれその時は木曽の福島で、又皆様にお眼にかかれますが、何しろ福島は山の中、碌なご馳走も出来ませず、まして女と参りましては、木曽美人などと云いますものの、猪首で脛太で肌は荒し、いやはや[#「いやはや」に傍点]ものでございまして、とてもとてもここに居られる別嬪衆に比べましては、月に鼈《すっぽん》でございますよ。が、そいつは我慢をしていただき、その際には私が亭主役、飲んで飲んで飲みまくりましょう。いや全く今夜という今夜は、一方ならぬお接待《とりもち》、何とお礼申してよいやら、嘉門大満足の大恭悦、猪之松殿ほんに嬉しいことで」
 猪之松は片頬で微笑したが、
「いや関東の女こそ、肌も荒ければ気性も荒く、申して見ますれば癖の多い刎馬――そこへ行きますと木曽美人、これは昔から有名で、巴御前、山吹御前、ああいう美姫《びき》も出て居ります。納めの馬市に参りました際には、嘉門様胆入りでそういう美人の、お接待に是非とも預かりたいもので。……」
 ここで猪之松は微笑した。


 微笑をつづけながら猪之松は、
「そこで

下手切り! こいつだけは受けられない、ダーッとドップリ胴へ入るだろう! と、完全の胴輪切り!
 その序の業が行なわれた。
 釣られた釣られた主水は釣られた! あッ、踏み出して切り込んだ。
 一閃!
 返った!
 陣十郎の刀が、軽く宙で車に返った!
 ハ――ッと主水! きわどく反わせたが……
 駄目だ!
 見よ!
 次の瞬間!
 さながら怒濤の寄せるが如く、刀を返しての大下手切りだ――ッ!
「ワッ」
 悲鳴!
 血煙!
 血煙!
 いやその間に、一髪の間に――大下手切りの行なわれる、前一髪の際どい間に……
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秩父の郡《こおり》、小川村、
逸見《へんみ》様庭の桧の根
[#ここで字下げ終わり]
 そういう女の歌声が、手近かの所から聞こえてきた。
「あッ」と陣十郎は刀を引き、タジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]と数歩背後へ下った。


 無心に歌をうたいながら、源女は大薮の中にいた。
 いつも時々起こる発作が、昨夜源女の身に起こった。そこでほとんど夢遊病患者のように、赤尾村の林蔵の家を脱け出し、どこをどう歩いたか自分でも知らず、この辺りまで彷徨《さまよ》って来、この大薮で一夜を明かし、たった今眼醒めたところであった。
 まだ彼女の精神は、朦朧としていて正気ではなかった。
 島田の髷が崩れ傾《かしが》り、細い白い頸《うなじ》にかかってい、友禅模様の派手な衣裳が、紫地の博多の帯ともども、着崩れて痛々しい。素足に赤い鼻緒の草履を、片っぽだけ突っかけている。夜露に濡れたため衣裳はしおたれ[#「しおたれ」に傍点]、茨や木の枝にところどころ裂かれ、手足も胸元も薮蚊に刺され、あちこち血さえ出していた。
 そういう源女は身を横倒しにし、草の上に延びていた。秋草の花――桔梗や女郎花や、葛の花などが寝ている源女の、枕元や足下に咲いていた。栗色の兎がずっと離れた、萩の根元に一匹いて、源女の方を窺っていた。
 彼女の頭上にあるものといえば、樺や、柏や、櫟《くぬぎ》や、櫨《はぜ》などの、灌木や喬木の枝や葉であり、それらに取り縋り巻いている、山葡萄や蔦や葛であり、そうしてそれらの緑を貫き、わずかに幽かに隙《す》けて見える、朝の晴れた空であった。
 薮を透して日の光が、深い黄味を帯びて射し込んで来ていて、地上の草や周囲《まわり》の木々へ、明暗の斑《ふち》を織っていた。
 無心――というよりいつもいつも、心に執拗にこびりついている歌、例の歌を唄ってしまうと、彼女は恍惚《うっとり》と考え出した。こういう場合に彼女の脳裡へ、幻影のように浮かんで来るのは、大森林、大渓谷、大きな屋敷、大傾斜面、五百頭千頭もの放馬の群、それを乗り廻し追い廻し、飼養している無数の人、そうしてあたかも酒顛童子のような、長髪赧顔の怪異の老人――等々々のそれであった。
 しかし彼女はそういう所が、どこにあるかは知らなかった。そうしてどうしてそういう光景が、浮き出して来るかも知らなかった。とはいえ彼女はそういう光景の場所の、どこであるかを確かめなければならない、そうして是非ともその光景の場所へ、どうしても自身行かなければならないと、そんなように熱心に思うのであった。がそれとて自分自身のために、その場所を知ろうとするのでもなく、又行こうとするのでもなく、自分の難儀を救ってくれた人秋山要介という人のために、知りたい行きたいと思うのであった。
 浮かんで来る幻影を追いながら、今も彼女は思っていた。
(行かなければならない、さあ行こう!)
 で、彼女は立ち上った。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]昔はあったということじゃ
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 又彼女は口ずさんだ。
 そうして大薮を分けながら、大薮の外へ出ようとした。
 その大薮の外側には、以前から彼女を狙っている吸血鬼水品陣十郎が、抜身を提げて立っているはずである。

10
 後《あと》へ下った陣十郎は、刀を下段にダラリと下げ、それでも眼では油断なく、主水の眼を睨みつけ、歌主の在所《ありか》がどこであるかと、瞬間それについて考えた。
 周囲《あたり》には大薮があるばかりで、その他は展開《ひら》けた耕地であり、耕地には人影は見えなかった。
 声から云っても歌の性質《たち》から云っても、歌ったのは源女に相違ない。
 が、源女などはどこにもいない。
(さては自分の空耳かな?)
 それにしても余りに明かに、歌声は聞こえてきたではないか。
 源女だ源女だ歌ったのは源女だ!
 かつて一旦手に入れて、薬籠の物にしはしたが、その持っている一大秘密を、まだ発見しないうちに秋山要介に横取りされた女! お組の源女に相違ない!
 探して探して探し廻ったあげく、江戸は両国の曲独楽の席で、ゆくりなくも発見した。が、その直後に起こった事件――鴫澤庄右衛門を討ち果したことから、江戸にいられず旅に出たため、源女のその後の消息については、確かめることが出来なかった。
 その源女の歌声が、こんな所で聞こえたのであった。
(どうしたことだ? どうしたことだ?)
 不思議なことと云わなければならない。
(あの女を再び手に入れることが出来て、あの歌の意味を解くことが出来たら!)
 その時こそ運命が――解いた人の運命が、俄然とばかり一変し、栄耀栄華を尽くすことが出来、至極の歓楽を享けることが出来る!
(どうでもあの女を手に入れなければ!)
 だが彼女はどこにいるのだ?
 分を秒に割った短い間だ! 時間にして短いそういう間に、陣十郎の脳裡に起伏したのは、実にそういう考えであった。
 その間彼は放心状態にあった。
 何で主水が見逃がそうぞ!
 一気に盛り返した勇を揮い、奮然として切り込んだ。
 またも鏘然太刀音がした。
 放心状態にあったとはいえ、剣鬼さながらの陣十郎であった。何のムザムザ切られようぞ!
 受けて一合!
 つづいて飛び退いた、飛び退いた時にはもう正気だ! 正気以上に冴え切っていた。
(こやつを一気に片付けて、源女の在所《ありか》を突き止めなければならない!)
「ヤ――ッ!」と掛けた物凄い掛声!
 つづけて「ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ!」
 先々の先の手一杯! さながら有段者が初心者を相手に、稽古をつけるそれの如く、主水が撃とう切ろう突こうと、心組む心を未前[#「未前」はママ]に察し、その先その先その先と出て、追い立て切り立て突き立て進んだ。
 またもや主水は薮際まで詰められ、眼眩みながら薮の裾を、右手へわずか廻り込もうとした時、天運尽きたか木の根に躓《つまず》き、横倒れにドッと倒れた。
「くたばれ!」
 シ――ンと切り下した!

11
 シ――ンと切り下ろした陣十郎の刀が、仆れている主水を拝み打ちに、眉間から鼻柱まで割りつけようとした途端、日の光を貫いて小柄が一本、陣十郎の咽喉へ飛んで来た。
「あッ」と思わず声を上げ、胸を反らせた陣十郎は、あやうく難を免れたが、小柄の投げられた方角を見た。
 十数間のかなたから、一人の武士が走って来る。
「む!……秋山! ……秋山要介!」
 いかにも走って来るその武士は、今朝になって眼醒めて見れば、昨夜から発作を起こしていた源女が、どこへ行ったものか姿が見えず、それを案じて探すために、林蔵の家を立ち出で、ここまでやって来た秋山要介であり、見れば宿意ある水品陣十郎が、これも因縁《ゆかり》ある鴫澤主水を、まさに討って取ろうとしていた。間隔は遠い、間に合わない。そこで小柄を投げたのであった。
 小柄を投げて陣十郎の兇刃を、制して置いて秋山要介、飛燕の如く飛び込んで来た。
 が、陣十郎もただ者ではない、主水を相手に戦って、既に躰は疲労《つかれ》ていた。そこへ剣豪秋山要介に新規の力で出られては、百に一つの勝目はない。――と見て取るや刀を引き、鞘にも納めず下げたままで、耕地を一散に走って逃げた。
 と、瞬間飛び起きたは、無念残念返り討ちだと、一刹那覚悟して仆れていた主水で、
「秋山先生、お礼は後刻! ……汝、待て――ッ、水品陣十郎! ……遁してなろうか、父の敵!」と、身体綿の如く疲労して居り、剣技も陣十郎と比較しては、数段も劣って居り、追っかけ追い詰め戦ったところで、あるいは返り討ちになろうもしれないと、そういう不安もありながら、みすみす父の敵に逢い、巡り合って刀を交したのに、そうしてその敵が逃げて行くのに、そうして一旦逃がしてしまったなら、いつふたたび巡り逢えるやら不明と思えば追わずにいられなかった。
 で、主水は刀を振り振り、陣十郎を追いかけた。
「待たれい! 主水殿、鴫澤氏!」
 追いついてよしんば戦ったところで、陣十郎に主水が勝つはずはない、返り討ちは見たようなものだ――と知っている秋山要介は、驚いて大音に呼び止めた。
「長追いなさるな! お引き返しなされ! またの機会をお待ちなされ」
 しかし何のそれを聞こう! 主水はよろめきよろめきながら、走り走り走って行く。
(尋常の敵を討つのではなく、親の敵《かたき》を討つのであった。子とあってみれば返り討ちも承知で、追いかけ戦うのが本当であろう)
 気がついた秋山要介は、孝子《こうし》に犬死させたくない、ヨーシ、追いついて後見《うしろみ》してやろう! 助太刀してやろうと決心し、袴の股立取り上げた途端、
「セ、先生、秋山先生!」と、背後から息せき呼ぶ声がし、やにわに袖を掴まれた。
「誰だ!」と怒鳴って顔を見た。
 林蔵の乾兒の藤作であった。

12
「おお藤作、どうしたのだ?」
「タ、大変で……オ、親分が!」
「なに親分が? 林蔵がか?」
「へい、林蔵親分が、カ、街道で、あそこの街道で……タ、高萩の猪之松と……」
「うむ、高萩の猪之松と[#「猪之松と」は底本では「猪の松と」]?」
「ハ、果し合いだい、果し合いだい!」
「む――」と呻くと振り返り、要介は街道の方角を見た。
 旅人や百姓の群であろう、遠巻にして街道に屯し、じっと一所を見ている光景が、要介の眼に鮮かに見えた。彼等の見ている一所で、林蔵は怨ある猪之松と、果し合いをしているのであろう。要介も以前から林蔵と猪之松とが、勢力争い激甚であり、一度は雌雄を決するてい[#「てい」に傍点]の、真剣の切り合いをやるべきことを、いろいろの事情から知っていた。
(これはうっちゃって置かれない。林蔵を見殺しにすることは出来ない。聞けば高萩の猪之松は、逸見《へんみ》多四郎から教えを受け、甲源一刀流では使い手とのこと、林蔵といえどもこの拙者が、新影流は十分仕込んで置いた。負ける気遣いもあるまいが、もしも負れば師匠たる拙者の、恥にならないものでもない。林蔵と猪之松との果し合い、考えようによれば逸見多四郎と、この秋山要介との、果し合いと云うことにもなる。これはうっちゃっては置かれない)
「行こう、藤作!」と叫んだが、
(主水氏は?)とこれも気になり、走って行った方へ眼をやった。
 広い耕地をよろめきよろめき、陣十郎の後を追い、なお主水は走っていた。
(一人で行ったら返り討ち、陣十郎に討たれるであろう。……惜しい武士! 気の毒な武士! ……どうでも助太刀してやらねば……)
 ――が、そっちへ身を挺したら、林蔵はどういう運命になるか?
(どうしたら可《よ》いか? どうしたものだ?)
 知らぬ藤作は急き立てた。
「先生、早く、行っておくんなせえ! ……云いたいことはたくさんあるんで……第一女が誘拐《かどわか》されたんで……若い女が、綺麗な女が……誘拐した野郎は猪之松の乾兒と、その相棒の馬方なんで……最初《はな》は俺らと杉さんとで……へい、そうで浪之助さんとで、その女を助けたんですが……逃げた八五郎め馬方を連れて、盛り返して来てその女を……その時浪之助さんは留守だったんで……いやいやそんなこと! ……行っておくんなせえ、さあ先生! 親分が大変なんだ猪之松の野郎と! ……」
(行かなければならない!)と要介も思った。
(鴫澤氏は赤の他人、少くも縁は極めて薄い。林蔵の方は俺の弟子、しかも現在この俺は、林蔵の家に世話になっている。深い縁がある、他人ではない。……その林蔵を見殺しには出来ない! 行こう! しかし、そうだしかし、主水殿もお気の毒な! では、せめて言葉の助太刀!)
 そこで要介は主水の方に向かい、大音をもって呼びかけた。

13
「鴫澤《しぎさわ》氏、主水殿! 敵水品陣十郎を追い詰め、見事に復讐をお遂げなされ! 拙者、要介、秋山要介、貴殿の身辺に引き添って、貴殿あやうしと見て取るや、出でて、必ずお助太刀いたす! ……心丈夫にお持ちなされい! ……これで可《よ》い、さあ行こう!」
 街道目掛けて走り出した時、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]今は変わって千の馬
五百の馬の馬飼の
[#ここで字下げ終わり]
 と、聞き覚えある源女の声で、手近で歌うのが聞こえてきた。
「や、……歌声! ……源女の歌声!」
 要介は足を釘づけにした。
 探していた源女の歌声が、手近の所から聞こえてきたのであった。足を止めたのは当然といえよう。
「源女殿! お組殿!」
 思わず大声で呼ばわって、要介は四辺《あたり》を忙《せわ》しく見た。
 丘、小山とでも云いたいほどに、うず高く聳えている薮以外には、打ち開けた耕地ばかりで、眼を遮る何物もなかった。
(不思議だな、どうしたことだ。……歌声は空耳であったのか?)
 陣十郎の感じたようなことを、要介も感ぜざるを得なかった。
「先生、どうしたんですい、行っておくんなせえ」
 要介に足を止められて、胆を潰した藤作が怒鳴った。
「第一先生がこんな方角へ、トッ走って来たのが間違いだ。俺ら向こうで見ていたんで。すると先生の姿が見えた。しめた、先生がやって来た、林蔵親分に味方して、猪之松を叩っ切って下さるだろう。――と思ったら勘違いで、こんな薮陰へ来てしまった。そこで俺ら迎えに来たんだが、その俺らと来たひ[#「ひ」に傍点]には、ミジメさったら[#「ミジメさったら」は底本では「ミヂメさったら」]ありゃアしない。馬方に土をぶっかけられたんで。と云うのも杉さんがいなかったんで。その杉さんはどうしたかというに、誘拐《かどわか》された女の兄さんて奴が――そうそう主水とか云ったっけ、そいつが陣十郎とかいう悪侍に、オビキ出されて高萩村の方へ行った。とその女が云ったんで、こいつ大変と杉さんがね、高萩村の方へ追って行ったんで。――が、まあ可《い》いやそんな事ア。よくねえなア親分の身の上だ、まごまごしていると猪之松の野郎に……あッどうしたんだ見物の奴らア……」
 いかさま街道や耕地に屯し、果し合いを見ていた百姓や旅人が、この時にわかに動揺したのが、要介の眼にもよく見えた。が、すぐに動揺は止んで、また人達は静かになった。緊張し固くなって見ているらしい。
 突嗟に要介は思案を定めた。
(ここら辺りに源女がいるなら、薮の中にでもいるのであろう。正気でないと云ったところで、直ぐに死ぬような気遣いはない。……林蔵と猪之松との果し合い、これは一刻を争わなければならない。よしそっちへ行くことにしよう。……が、しかし念のために……)
 そこで要介はまたも大音に、薮に向かって声をかけた。
「源女殿、要介お迎えに参った。どこへもおいでなさるなよ! ……」

14
 街道では林蔵と猪之松とが、遠巻きに見物の群を置き、どちらも負けられない侠客《おとこ》と侠客との試合それも真剣の果し合いの、白刃を互いに構えていた。
 かなり時間は経過していたが、わずか二太刀合わせたばかりで、おおよそ二間を距てた距離で、相正眼に脇差をつけ、睨み合っているばかりであった。
 猪之松には乾兒や水品陣十郎の間に、何か事件が起こったらしく、耕地で右往左往したり、逃げる奴倒れる奴、そういう行動が感ぜられたが、訊ねることも見ることもできず、あつかう[#「あつかう」に傍点]こともできなかった。傍目一つしようものなら、その間に林蔵に切り込まれるからであった。
 林蔵といえどもそうであった、乾兒の藤作の声がしたり、杉浪之助の声がして、何か騒動を起こしているようであったが、どうすることも出来なかった。相手の猪之松の剣の技、己と伯仲の間にあり寸分の油断さえ出来ないからであった。
 が、そういう周囲の騒ぎも、今は全く静まっていた。数間を離れて百姓や旅人、そういう人々の見物の群が、円陣を作って見守っているばかりで、気味悪いばかりに寂静《ひっそり》としていた。
 二本の刀が山形をなし、朝の黄味深い日の光の中で、微動しながら浮いている。
 二人ながら感じていた。――
(ただ目茶々々に刀を振り廻して、相手を切って斃せばよいという、そういう果し合いは演ぜられない。男と男だ、人も見ている。後日の取沙汰も恐ろしい。討つものなら立派に討とう! 討たれるものなら立派に討たれよう!)
 二人ながら心身疲労していた。
 気|疲労《つかれ》! 気疲労! 恐ろしい気疲労!
 技が勝れているだけに、伎倆《うで》が伯仲であるだけに、その気疲労も甚だしいのであった。
 向かい合っていた二本の刀の、その切先がやがて徐々に、双方から寄って来た。
 見よ二人ながら踏み出している右足の爪先が蝮を作り、地を刻んで一寸二寸と、相手に向かって進むではないか。
 ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]!
 音は立たなかった。
 が、ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]と音立つように、互いの切先が触れ合った。
 しかしそのまま二本の刀身は、一度に水のように後へ引き、その間隔が六歩ほどとなった。
 そうしてそのまま静止した。
 静止したまま山形をなし、山形をなしたまま微動した。
 薄くポ――ッと刀と刀の間に、立ち昇っているのは塵埃《ほこり》であった。
 二人の刻んだ足のためにポ――ッと立った塵埃であった。
 間、
 長い間。
 天地寂寥。
 が、俄然二本の刀が、宙で烈しくもつれ合った。
 閃光! 太刀音! 鏘然! 鍔鳴り!
 で、Xの形となって、二本の刀は交叉され、わずかに左右に又前後に、揺れつ縒れつ押し押されつ、粘ったままで放れなかった。

15
 鍔競り合い!
 眼と眼との食い合い!
 そうだ、林蔵と猪之松との眼が、交叉された刀の間を通し、互いに食い合い睨み合っている。
 鍔競り合いの恐ろしさは、競り合いから離れる一刹那にあった。胴を輪切るか真っ向を割り付けるか、伎倆《うで》の如何《いかん》、躰形《たいけい》の如何、呼吸の緩急によって変化縦横! が、どっちみち恐ろしい。
 林蔵も猪之松も一所懸命、相手の呼吸を計っていた。
 と、交叉された刀の間へ、黒く塗られた刀の鞘が、忍びやかに差し込まれた。
「?」
「?」
 鞘がゆるゆると上へ上った。二本の白刃を持ち上げるのである。と、威厳ある声がした。
「勝負待て! 刀を引け! 仲裁役は秋山要介!」
 声と同時に刀の鞘が、二本の刀身を左右に分けた。
 二間の距離を保ちながら、尚、残心、刀を構え、睨み合っている林蔵と猪之松、その間に鞘ぐるみ抜いた太刀を提げて、ノビノビと立ったのは秋山要介で、まず穏かに林蔵へ云った。
「刀を鞘へ納めるがよい」
 それから猪之松の方へ顔を向け、
「以前一二度お見かけいたした。高萩村の猪之松殿か、拙者秋山要介でござる。刀を納め下されい」
 しばらくの間寂然としていた。
 やがて刀の鞘に収まる、鍔鳴りの音が二つ聞こえた。

 この頃源女は大薮を出て、唐黍《とうもろこし》畑の向こうを歩いていた。
(行かなければ不可《いけ》ない、さあ行こう)
 こう思いながら歩いていた。
 何者《だれ》か向こうで呼んでいる。そんなように彼女には思われるのであった。
 畦を越し桑畑を越した。そうして丘を向こうへ越した。もう背後を振り返って見ても、街道も大薮も見えないだろう。
 大渓谷、大傾斜、大森林、五百頭千頭の馬、無数の馬飼、宏大な屋敷――そういうものの存在している所へ、行かなければならない行かなければならない! ……そう思って彼女は歩いて行く。
 崩れた髪、乱れた衣裳、彼女の姿は狂女そっくりであった。発作の止まない間中は、狂女と云ってもいいのであった。
 長い小高い堤があった。
 よじ上って歩いて行った。
 向こう側の斜面には茅や蘆が、生い茂り風に靡いている、三間巾ぐらいの川があり、水がゆるゆると流れていた。
「あッ」
 源女は足を踏み辷らせ、ズルズルと斜面を川の方へ落ちた。パッと葦切が数羽飛び立ち、烈しい声で啼いて去った。と、蘆を不意に分けて、古船が一隻辷り出た。源女がその中に倒れている。
 纜綱《もやいづな》を切らした古船は、源女を乗せたまま流れて行く。
 源女は微動さえしなかった。

各自の運命


 高萩村に近い森の中まで、陣十郎を追って来た鴫澤主水《しぎさわもんど》は、心身全く疲労し尽くし、ほとんど人心地を覚えなかった。
 抜身を地に突き体を支えたが、それにも堪えられずクタクタ倒れた。
 とうに陣十郎は見失っていた。
 その失望も手伝っていた。
(残念、逸した、敵を逸した!)
(が、飽くまでも探し出して、……)
 立ち上ろうと努力した。
 が、躰はいうことをきかず、のみならず精神さえ朦朧となった。
 こうして杉や桧や槇や、楢などの喬木に蔽われて、その奥に朱の褪せた鳥居を持ち、その奥に稲荷の祠を持ち、日の光も通して来ず、で薄暗い風景の中に、雀や鶸《ひわ》や山雀《やまがら》や山鳩の、啼声ばかりが繁く聞こえる、鎮守の森に包まれて、気絶して倒れた主水の姿が、みじめに痛々しく眺められた。
 色づいた[#「色づいた」は底本では「色ずいた」]病葉《わくらば》が微風にあおられ体の上へ落ちて来たりした。
 かなり長い間しずかであった。
 と、その時人声がし、間もなく十数人の男女の者が、森の中へ現われた。
 変わった風俗の連中であった。
 赤い頭巾に赤い袖無、そんなものを着けている若い男もあれば、亀甲模様のたっつけ[#「たっつけ」に傍点]を穿き、胸に大形の人形箱をかけた、そういう中年の男もあり、紫の手甲に紫の脚絆、三味線を抱えた女もあり、浅黄の股引、茶無地の筒袖、そういう姿の肩の上へ、猿をとまらせた老人などもあった。
 それらはいずれも旅装であった。
 秩父|香具師《やし》の一団なのである。
 平素は自分の家にいて、百姓もやれば杣夫《そま》もやり、猟師もやれば川狩もやるが、どこかに大きな祭礼があって、市《たかまち》が立って盛んだと聞くと、早速香具師に早変りして、出かけて行って儲けて来、家へ帰れば以前通り、百姓や杣夫として生活するという――普通の十三香具師とは別派の、秩父香具師の一団であった。
 この日もどこかの市を目掛け親しい者だけで組をつくり、出かけて行くところらしい。
 その中に一人旅装ではなく、髪は櫛巻きに銀簪一本、茜の小弁慶の単衣《ひとえ》を着た、若い女がまじっていた。
 陣十郎の情婦のお妻であった。
「姐御、お前さんも行くといいんだがな」
 一人の男がこう云って、そそのかすようにお妻を見た。
「そうさねえそうやって、お前さんたちが揃って出かけて行くのを見ると、一緒に行きたいような気持がするよ」
 まんざらお世辞でもなさそうに、お妻はそう云って薄笑いをした。
「陣十郎さんばかりが男じゃアなし、他に男だってあろうじゃアないか。そうそういつもへばり付いてばかりいずに、俺らと旅へ出るのもいいぜ」
 こうもう一人の男が云った。
「あたしを旅へしょびいて行くほどの、好い男がどこかにいるかしら、お前さん達のお仲間の中にさ」
 云い云い、お妻は又薄笑いをして、香具師達を見廻した。
「俺じゃア駄目かな、え、俺じゃア」と、猿廻しが顔を出した。


「十年若けりゃア物になるが」
 お妻はむしろ朗かに笑った。
 お妻は秩父の産れであり、秩父香具師の一人であった。が、ずっと若い頃に、草深い故郷に見切りをつけ、広い世界へ出て行って、香具師などというケチなものよりもっと烈しい、もっと罪の深い、そうしてもっと度胸の入る、凄い商売へ入り込んでしまった。
 女邯鄲師《おんなかんたんし》[#ルビの「おんなかんたんし」は底本では「おんんなかんたんし」]――それになってしまった。
 道中や温泉場などで親しくなり、同じ旅籠《はたご》へ一緒に泊り、情を通じてたらす[#「たらす」に傍点]もあり、好きな男で無い場合には、すかし[#「すかし」に傍点]、あやなし[#「あやなし」に傍点]、たぶらかし[#「たぶらかし」に傍点]て、油断を窺って有金から持物、それらを持って逃げてしまう、平ったく云えば枕探し、女賊になってしまったのである。
 陣十郎の情婦になったのも、平塚の宿で泊まり合わせ、枕探しをしようとしたところ、陣十郎のために取って抑えられた、それが因縁になったのであった。
 その女邯鄲師のお妻であるが、今度陣十郎と連立って、産れ故郷へ帰って来た。と、今朝高萩の村道を、懐かしい昔の仲間達が――すなわち秩父香具師達が、旅|装束《よそおい》で通って行った。知った顔も幾個かあった。で、あまりの懐かしさに、冗談云い云いこんな森まで、連立って一緒に来たのであった。
「おや」と不意にお妻は云って、急に足を一所で止めた。
「こんなところに人間が死んでいるよ」
 行手の杉の木の根下の草に、抜身を持った武士が倒れている。
「ほんに、可哀そうに、死んでらあ。……しかも若いお侍さんだ」
 香具師達は云って近寄って行った。
 お妻はその前にしゃがみ[#「しゃがみ」に傍点]込み、その武士の額へ手をやったが、
「冷えちゃアいない、暖《あった》かいよ」
 いそいで脉所《みゃくどころ》を握ったが、
「大丈夫、生きてるよ」
「じゃア気絶というやつだな」
 一人の香具師が心得顔に云った。
「そうさ、気絶をしているのさ。抜身を持っているところを見ると、きっと誰かと切り合ったんだねえ。……どこも切られちゃアいない。……気負け気疲労《きつかれ》[#「気疲労《きつかれ》」は底本では「気疲労《きつかれ》れ」]で倒れたんだよ」
 云い云いお妻は覗き込んだが、
「ご覧よ随分|好男子《いいおとこ》じゃアないか」
「チェーッ」と誰かが舌打ちをした。
「姐御いい加減にしてくんな。どこの馬の骨か知れねえ奴に、それも死に損ない殺され損ないに。気をくばるなんて嬉しくなさ過ぎらあ」
「まあそういったものでもないよ。……第一随分可愛そうじゃアないか。……それにさ、ご覧よ、この蒼白い顔を……唇の色だけが赤くてねえ。……ゾッとするほど綺麗だよ。……」
「色狂人! ……行こう行こう!」
「行きゃアがれ、碌で無し! ……妾アこの人を介抱するよ」
 お妻は主水の枕元へ、ペタペタと坐ってなお覗き込んだ。


 そ

下手切り! こいつだけは受けられない、ダーッとドップリ胴へ入るだろう! と、完全の胴輪切り!
 その序の業が行なわれた。
 釣られた釣られた主水は釣られた! あッ、踏み出して切り込んだ。
 一閃!
 返った!
 陣十郎の刀が、軽く宙で車に返った!
 ハ――ッと主水! きわどく反わせたが……
 駄目だ!
 見よ!
 次の瞬間!
 さながら怒濤の寄せるが如く、刀を返しての大下手切りだ――ッ!
「ワッ」
 悲鳴!
 血煙!
 血煙!
 いやその間に、一髪の間に――大下手切りの行なわれる、前一髪の際どい間に……
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秩父の郡《こおり》、小川村、
逸見《へんみ》様庭の桧の根
[#ここで字下げ終わり]
 そういう女の歌声が、手近かの所から聞こえてきた。
「あッ」と陣十郎は刀を引き、タジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]と数歩背後へ下った。


 無心に歌をうたいながら、源女は大薮の中にいた。
 いつも時々起こる発作が、昨夜源女の身に起こった。そこでほとんど夢遊病患者のように、赤尾村の林蔵の家を脱け出し、どこをどう歩いたか自分でも知らず、この辺りまで彷徨《さまよ》って来、この大薮で一夜を明かし、たった今眼醒めたところであった。
 まだ彼女の精神は、朦朧としていて正気ではなかった。
 島田の髷が崩れ傾《かしが》り、細い白い頸《うなじ》にかかってい、友禅模様の派手な衣裳が、紫地の博多の帯ともども、着崩れて痛々しい。素足に赤い鼻緒の草履を、片っぽだけ突っかけている。夜露に濡れたため衣裳はしおたれ[#「しおたれ」に傍点]、茨や木の枝にところどころ裂かれ、手足も胸元も薮蚊に刺され、あちこち血さえ出していた。
 そういう源女は身を横倒しにし、草の上に延びていた。秋草の花――桔梗や女郎花や、葛の花などが寝ている源女の、枕元や足下に咲いていた。栗色の兎がずっと離れた、萩の根元に一匹いて、源女の方を窺っていた。
 彼女の頭上にあるものといえば、樺や、柏や、櫟《くぬぎ》や、櫨《はぜ》などの、灌木や喬木の枝や葉であり、それらに取り縋り巻いている、山葡萄や蔦や葛であり、そうしてそれらの緑を貫き、わずかに幽かに隙《す》けて見える、朝の晴れた空であった。
 薮を透して日の光が、深い黄味を帯びて射し込んで来ていて、地上の草や周囲《まわり》の木々へ、明暗の斑《ふち》を織っていた。
 無心――というよりいつもいつも、心に執拗にこびりついている歌、例の歌を唄ってしまうと、彼女は恍惚《うっとり》と考え出した。こういう場合に彼女の脳裡へ、幻影のように浮かんで来るのは、大森林、大渓谷、大きな屋敷、大傾斜面、五百頭千頭もの放馬の群、それを乗り廻し追い廻し、飼養している無数の人、そうしてあたかも酒顛童子のような、長髪赧顔の怪異の老人――等々々のそれであった。
 しかし彼女はそういう所が、どこにあるかは知らなかった。そうしてどうしてそういう光景が、浮き出して来るかも知らなかった。とはいえ彼女はそういう光景の場所の、どこであるかを確かめなければならない、そうして是非ともその光景の場所へ、どうしても自身行かなければならないと、そんなように熱心に思うのであった。がそれとて自分自身のために、その場所を知ろうとするのでもなく、又行こうとするのでもなく、自分の難儀を救ってくれた人秋山要介という人のために、知りたい行きたいと思うのであった。
 浮かんで来る幻影を追いながら、今も彼女は思っていた。
(行かなければならない、さあ行こう!)
 で、彼女は立ち上った。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]昔はあったということじゃ
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 又彼女は口ずさんだ。
 そうして大薮を分けながら、大薮の外へ出ようとした。
 その大薮の外側には、以前から彼女を狙っている吸血鬼水品陣十郎が、抜身を提げて立っているはずである。

10
 後《あと》へ下った陣十郎は、刀を下段にダラリと下げ、それでも眼では油断なく、主水の眼を睨みつけ、歌主の在所《ありか》がどこであるかと、瞬間それについて考えた。
 周囲《あたり》には大薮があるばかりで、その他は展開《ひら》けた耕地であり、耕地には人影は見えなかった。
 声から云っても歌の性質《たち》から云っても、歌ったのは源女に相違ない。
 が、源女などはどこにもいない。
(さては自分の空耳かな?)
 それにしても余りに明かに、歌声は聞こえてきたではないか。
 源女だ源女だ歌ったのは源女だ!
 かつて一旦手に入れて、薬籠の物にしはしたが、その持っている一大秘密を、まだ発見しないうちに秋山要介に横取りされた女! お組の源女に相違ない!
 探して探して探し廻ったあげく、江戸は両国の曲独楽の席で、ゆくりなくも発見した。が、その直後に起こった事件――鴫澤庄右衛門を討ち果したことから、江戸にいられず旅に出たため、源女のその後の消息については、確かめることが出来なかった。
 その源女の歌声が、こんな所で聞こえたのであった。
(どうしたことだ? どうしたことだ?)
 不思議なことと云わなければならない。
(あの女を再び手に入れることが出来て、あの歌の意味を解くことが出来たら!)
 その時こそ運命が――解いた人の運命が、俄然とばかり一変し、栄耀栄華を尽くすことが出来、至極の歓楽を享けることが出来る!
(どうでもあの女を手に入れなければ!)
 だが彼女はどこにいるのだ?
 分を秒に割った短い間だ! 時間にして短いそういう間に、陣十郎の脳裡に起伏したのは、実にそういう考えであった。
 その間彼は放心状態にあった。
 何で主水が見逃がそうぞ!
 一気に盛り返した勇を揮い、奮然として切り込んだ。
 またも鏘然太刀音がした。
 放心状態にあったとはいえ、剣鬼さながらの陣十郎であった。何のムザムザ切られようぞ!
 受けて一合!
 つづいて飛び退いた、飛び退いた時にはもう正気だ! 正気以上に冴え切っていた。
(こやつを一気に片付けて、源女の在所《ありか》を突き止めなければならない!)
「ヤ――ッ!」と掛けた物凄い掛声!
 つづけて「ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ!」
 先々の先の手一杯! さながら有段者が初心者を相手に、稽古をつけるそれの如く、主水が撃とう切ろう突こうと、心組む心を未前[#「未前」はママ]に察し、その先その先その先と出て、追い立て切り立て突き立て進んだ。
 またもや主水は薮際まで詰められ、眼眩みながら薮の裾を、右手へわずか廻り込もうとした時、天運尽きたか木の根に躓《つまず》き、横倒れにドッと倒れた。
「くたばれ!」
 シ――ンと切り下した!

11
 シ――ンと切り下ろした陣十郎の刀が、仆れている主水を拝み打ちに、眉間から鼻柱まで割りつけようとした途端、日の光を貫いて小柄が一本、陣十郎の咽喉へ飛んで来た。
「あッ」と思わず声を上げ、胸を反らせた陣十郎は、あやうく難を免れたが、小柄の投げられた方角を見た。
 十数間のかなたから、一人の武士が走って来る。
「む!……秋山! ……秋山要介!」
 いかにも走って来るその武士は、今朝になって眼醒めて見れば、昨夜から発作を起こしていた源女が、どこへ行ったものか姿が見えず、それを案じて探すために、林蔵の家を立ち出で、ここまでやって来た秋山要介であり、見れば宿意ある水品陣十郎が、これも因縁《ゆかり》ある鴫澤主水を、まさに討って取ろうとしていた。間隔は遠い、間に合わない。そこで小柄を投げたのであった。
 小柄を投げて陣十郎の兇刃を、制して置いて秋山要介、飛燕の如く飛び込んで来た。
 が、陣十郎もただ者ではない、主水を相手に戦って、既に躰は疲労《つかれ》ていた。そこへ剣豪秋山要介に新規の力で出られては、百に一つの勝目はない。――と見て取るや刀を引き、鞘にも納めず下げたままで、耕地を一散に走って逃げた。
 と、瞬間飛び起きたは、無念残念返り討ちだと、一刹那覚悟して仆れていた主水で、
「秋山先生、お礼は後刻! ……汝、待て――ッ、水品陣十郎! ……遁してなろうか、父の敵!」と、身体綿の如く疲労して居り、剣技も陣十郎と比較しては、数段も劣って居り、追っかけ追い詰め戦ったところで、あるいは返り討ちになろうもしれないと、そういう不安もありながら、みすみす父の敵に逢い、巡り合って刀を交したのに、そうしてその敵が逃げて行くのに、そうして一旦逃がしてしまったなら、いつふたたび巡り逢えるやら不明と思えば追わずにいられなかった。
 で、主水は刀を振り振り、陣十郎を追いかけた。
「待たれい! 主水殿、鴫澤氏!」
 追いついてよしんば戦ったところで、陣十郎に主水が勝つはずはない、返り討ちは見たようなものだ――と知っている秋山要介は、驚いて大音に呼び止めた。
「長追いなさるな! お引き返しなされ! またの機会をお待ちなされ」
 しかし何のそれを聞こう! 主水はよろめきよろめきながら、走り走り走って行く。
(尋常の敵を討つのではなく、親の敵《かたき》を討つのであった。子とあってみれば返り討ちも承知で、追いかけ戦うのが本当であろう)
 気がついた秋山要介は、孝子《こうし》に犬死させたくない、ヨーシ、追いついて後見《うしろみ》してやろう! 助太刀してやろうと決心し、袴の股立取り上げた途端、
「セ、先生、秋山先生!」と、背後から息せき呼ぶ声がし、やにわに袖を掴まれた。
「誰だ!」と怒鳴って顔を見た。
 林蔵の乾兒の藤作であった。

12
「おお藤作、どうしたのだ?」
「タ、大変で……オ、親分が!」
「なに親分が? 林蔵がか?」
「へい、林蔵親分が、カ、街道で、あそこの街道で……タ、高萩の猪之松と……」
「うむ、高萩の猪之松と[#「猪之松と」は底本では「猪の松と」]?」
「ハ、果し合いだい、果し合いだい!」
「む――」と呻くと振り返り、要介は街道の方角を見た。
 旅人や百姓の群であろう、遠巻にして街道に屯し、じっと一所を見ている光景が、要介の眼に鮮かに見えた。彼等の見ている一所で、林蔵は怨ある猪之松と、果し合いをしているのであろう。要介も以前から林蔵と猪之松とが、勢力争い激甚であり、一度は雌雄を決するてい[#「てい」に傍点]の、真剣の切り合いをやるべきことを、いろいろの事情から知っていた。
(これはうっちゃって置かれない。林蔵を見殺しにすることは出来ない。聞けば高萩の猪之松は、逸見《へんみ》多四郎から教えを受け、甲源一刀流では使い手とのこと、林蔵といえどもこの拙者が、新影流は十分仕込んで置いた。負ける気遣いもあるまいが、もしも負れば師匠たる拙者の、恥にならないものでもない。林蔵と猪之松との果し合い、考えようによれば逸見多四郎と、この秋山要介との、果し合いと云うことにもなる。これはうっちゃっては置かれない)
「行こう、藤作!」と叫んだが、
(主水氏は?)とこれも気になり、走って行った方へ眼をやった。
 広い耕地をよろめきよろめき、陣十郎の後を追い、なお主水は走っていた。
(一人で行ったら返り討ち、陣十郎に討たれるであろう。……惜しい武士! 気の毒な武士! ……どうでも助太刀してやらねば……)
 ――が、そっちへ身を挺したら、林蔵はどういう運命になるか?
(どうしたら可《よ》いか? どうしたものだ?)
 知らぬ藤作は急き立てた。
「先生、早く、行っておくんなせえ! ……云いたいことはたくさんあるんで……第一女が誘拐《かどわか》されたんで……若い女が、綺麗な女が……誘拐した野郎は猪之松の乾兒と、その相棒の馬方なんで……最初《はな》は俺らと杉さんとで……へい、そうで浪之助さんとで、その女を助けたんですが……逃げた八五郎め馬方を連れて、盛り返して来てその女を……その時浪之助さんは留守だったんで……いやいやそんなこと! ……行っておくんなせえ、さあ先生! 親分が大変なんだ猪之松の野郎と! ……」
(行かなければならない!)と要介も思った。
(鴫澤氏は赤の他人、少くも縁は極めて薄い。林蔵の方は俺の弟子、しかも現在この俺は、林蔵の家に世話になっている。深い縁がある、他人ではない。……その林蔵を見殺しには出来ない! 行こう! しかし、そうだしかし、主水殿もお気の毒な! では、せめて言葉の助太刀!)
 そこで要介は主水の方に向かい、大音をもって呼びかけた。

13
「鴫澤《しぎさわ》氏、主水殿! 敵水品陣十郎を追い詰め、見事に復讐をお遂げなされ! 拙者、要介、秋山要介、貴殿の身辺に引き添って、貴殿あやうしと見て取るや、出でて、必ずお助太刀いたす! ……心丈夫にお持ちなされい! ……これで可《よ》い、さあ行こう!」
 街道目掛けて走り出した時、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]今は変わって千の馬
五百の馬の馬飼の
[#ここで字下げ終わり]
 と、聞き覚えある源女の声で、手近で歌うのが聞こえてきた。
「や、……歌声! ……源女の歌声!」
 要介は足を釘づけにした。
 探していた源女の歌声が、手近の所から聞こえてきたのであった。足を止めたのは当然といえよう。
「源女殿! お組殿!」
 思わず大声で呼ばわって、要介は四辺《あたり》を忙《せわ》しく見た。
 丘、小山とでも云いたいほどに、うず高く聳えている薮以外には、打ち開けた耕地ばかりで、眼を遮る何物もなかった。
(不思議だな、どうしたことだ。……歌声は空耳であったのか?)
 陣十郎の感じたようなことを、要介も感ぜざるを得なかった。
「先生、どうしたんですい、行っておくんなせえ」
 要介に足を止められて、胆を潰した藤作が怒鳴った。
「第一先生がこんな方角へ、トッ走って来たのが間違いだ。俺ら向こうで見ていたんで。すると先生の姿が見えた。しめた、先生がやって来た、林蔵親分に味方して、猪之松を叩っ切って下さるだろう。――と思ったら勘違いで、こんな薮陰へ来てしまった。そこで俺ら迎えに来たんだが、その俺らと来たひ[#「ひ」に傍点]には、ミジメさったら[#「ミジメさったら」は底本では「ミヂメさったら」]ありゃアしない。馬方に土をぶっかけられたんで。と云うのも杉さんがいなかったんで。その杉さんはどうしたかというに、誘拐《かどわか》された女の兄さんて奴が――そうそう主水とか云ったっけ、そいつが陣十郎とかいう悪侍に、オビキ出されて高萩村の方へ行った。とその女が云ったんで、こいつ大変と杉さんがね、高萩村の方へ追って行ったんで。――が、まあ可《い》いやそんな事ア。よくねえなア親分の身の上だ、まごまごしていると猪之松の野郎に……あッどうしたんだ見物の奴らア……」
 いかさま街道や耕地に屯し、果し合いを見ていた百姓や旅人が、この時にわかに動揺したのが、要介の眼にもよく見えた。が、すぐに動揺は止んで、また人達は静かになった。緊張し固くなって見ているらしい。
 突嗟に要介は思案を定めた。
(ここら辺りに源女がいるなら、薮の中にでもいるのであろう。正気でないと云ったところで、直ぐに死ぬような気遣いはない。……林蔵と猪之松との果し合い、これは一刻を争わなければならない。よしそっちへ行くことにしよう。……が、しかし念のために……)
 そこで要介はまたも大音に、薮に向かって声をかけた。
「源女殿、要介お迎えに参った。どこへもおいでなさるなよ! ……」

14[#「14」は縦中横]
 街道では林蔵と猪之松とが、遠巻きに見物の群を置き、どちらも負けられない侠客《おとこ》と侠客との試合それも真剣の果し合いの、白刃を互いに構えていた。
 かなり時間は経過していたが、わずか二太刀合わせたばかりで、おおよそ二間を距てた距離で、相正眼に脇差をつけ、睨み合っているばかりであった。
 猪之松には乾兒や水品陣十郎の間に、何か事件が起こったらしく、耕地で右往左往したり、逃げる奴倒れる奴、そういう行動が感ぜられたが、訊ねることも見ることもできず、あつかう[#「あつかう」に傍点]こともできなかった。傍目一つしようものなら、その間に林蔵に切り込まれるからであった。
 林蔵といえどもそ

下手切り! こいつだけは受けられない、ダーッとドップリ胴へ入るだろう! と、完全の胴輪切り!
 その序の業が行なわれた。
 釣られた釣られた主水は釣られた! あッ、踏み出して切り込んだ。
 一閃!
 返った!
 陣十郎の刀が、軽く宙で車に返った!
 ハ――ッと主水! きわどく反わせたが……
 駄目だ!
 見よ!
 次の瞬間!
 さながら怒濤の寄せるが如く、刀を返しての大下手切りだ――ッ!
「ワッ」
 悲鳴!
 血煙!
 血煙!
 いやその間に、一髪の間に――大下手切りの行なわれる、前一髪の際どい間に……
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秩父の郡《こおり》、小川村、
逸見《へんみ》様庭の桧の根
[#ここで字下げ終わり]
 そういう女の歌声が、手近かの所から聞こえてきた。
「あッ」と陣十郎は刀を引き、タジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]と数歩背後へ下った。


 無心に歌をうたいながら、源女は大薮の中にいた。
 いつも時々起こる発作が、昨夜源女の身に起こった。そこでほとんど夢遊病患者のように、赤尾村の林蔵の家を脱け出し、どこをどう歩いたか自分でも知らず、この辺りまで彷徨《さまよ》って来、この大薮で一夜を明かし、たった今眼醒めたところであった。
 まだ彼女の精神は、朦朧としていて正気ではなかった。
 島田の髷が崩れ傾《かしが》り、細い白い頸《うなじ》にかかってい、友禅模様の派手な衣裳が、紫地の博多の帯ともども、着崩れて痛々しい。素足に赤い鼻緒の草履を、片っぽだけ突っかけている。夜露に濡れたため衣裳はしおたれ[#「しおたれ」に傍点]、茨や木の枝にところどころ裂かれ、手足も胸元も薮蚊に刺され、あちこち血さえ出していた。
 そういう源女は身を横倒しにし、草の上に延びていた。秋草の花――桔梗や女郎花や、葛の花などが寝ている源女の、枕元や足下に咲いていた。栗色の兎がずっと離れた、萩の根元に一匹いて、源女の方を窺っていた。
 彼女の頭上にあるものといえば、樺や、柏や、櫟《くぬぎ》や、櫨《はぜ》などの、灌木や喬木の枝や葉であり、それらに取り縋り巻いている、山葡萄や蔦や葛であり、そうしてそれらの緑を貫き、わずかに幽かに隙《す》けて見える、朝の晴れた空であった。
 薮を透して日の光が、深い黄味を帯びて射し込んで来ていて、地上の草や周囲《まわり》の木々へ、明暗の斑《ふち》を織っていた。
 無心――というよりいつもいつも、心に執拗にこびりついている歌、例の歌を唄ってしまうと、彼女は恍惚《うっとり》と考え出した。こういう場合に彼女の脳裡へ、幻影のように浮かんで来るのは、大森林、大渓谷、大きな屋敷、大傾斜面、五百頭千頭もの放馬の群、それを乗り廻し追い廻し、飼養している無数の人、そうしてあたかも酒顛童子のような、長髪赧顔の怪異の老人――等々々のそれであった。
 しかし彼女はそういう所が、どこにあるかは知らなかった。そうしてどうしてそういう光景が、浮き出して来るかも知らなかった。とはいえ彼女はそういう光景の場所の、どこであるかを確かめなければならない、そうして是非ともその光景の場所へ、どうしても自身行かなければならないと、そんなように熱心に思うのであった。がそれとて自分自身のために、その場所を知ろうとするのでもなく、又行こうとするのでもなく、自分の難儀を救ってくれた人秋山要介という人のために、知りたい行きたいと思うのであった。
 浮かんで来る幻影を追いながら、今も彼女は思っていた。
(行かなければならない、さあ行こう!)
 で、彼女は立ち上った。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]昔はあったということじゃ
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 又彼女は口ずさんだ。
 そうして大薮を分けながら、大薮の外へ出ようとした。
 その大薮の外側には、以前から彼女を狙っている吸血鬼水品陣十郎が、抜身を提げて立っているはずである。

10[#「10」は縦中横]
 後《あと》へ下った陣十郎は、刀を下段にダラリと下げ、それでも眼では油断なく、主水の眼を睨みつけ、歌主の在所《ありか》がどこであるかと、瞬間それについて考えた。
 周囲《あたり》には大薮があるばかりで、その他は展開《ひら》けた耕地であり、耕地には人影は見えなかった。
 声から云っても歌の性質《たち》から云っても、歌ったのは源女に相違ない。
 が、源女などはどこにもいない。
(さては自分の空耳かな?)
 それにしても余りに明かに、歌声は聞こえてきたではないか。
 源女だ源女だ歌ったのは源女だ!
 かつて一旦手に入れて、薬籠の物にしはしたが、その持っている一大秘密を、まだ発見しないうちに秋山要介に横取りされた女! お組の源女に相違ない!
 探して探して探し廻ったあげく、江戸は両国の曲独楽の席で、ゆくりなくも発見した。が、その直後に起こった事件――鴫澤庄右衛門を討ち果したことから、江戸にいられず旅に出たため、源女のその後の消息については、確かめることが出来なかった。
 その源女の歌声が、こんな所で聞こえたのであった。
(どうしたことだ? どうしたことだ?)
 不思議なことと云わなければならない。
(あの女を再び手に入れることが出来て、あの歌の意味を解くことが出来たら!)
 その時こそ運命が――解いた人の運命が、俄然とばかり一変し、栄耀栄華を尽くすことが出来、至極の歓楽を享けることが出来る!
(どうでもあの女を手に入れなければ!)
 だが彼女はどこにいるのだ?
 分を秒に割った短い間だ! 時間にして短いそういう間に、陣十郎の脳裡に起伏したのは、実にそういう考えであった。
 その間彼は放心状態にあった。
 何で主水が見逃がそうぞ!
 一気に盛り返した勇を揮い、奮然として切り込んだ。
 またも鏘然太刀音がした。
 放心状態にあったとはいえ、剣鬼さながらの陣十郎であった。何のムザムザ切られようぞ!
 受けて一合!
 つづいて飛び退いた、飛び退いた時にはもう正気だ! 正気以上に冴え切っていた。
(こやつを一気に片付けて、源女の在所《ありか》を突き止めなければならない!)
「ヤ――ッ!」と掛けた物凄い掛声!
 つづけて「ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ!」
 先々の先の手一杯! さながら有段者が初心者を相手に、稽古をつけるそれの如く、主水が撃とう切ろう突こうと、心組む心を未前[#「未前」はママ]に察し、その先その先その先と出て、追い立て切り立て突き立て進んだ。
 またもや主水は薮際まで詰められ、眼眩みながら薮の裾を、右手へわずか廻り込もうとした時、天運尽きたか木の根に躓《つまず》き、横倒れにドッと倒れた。
「くたばれ!」
 シ――ンと切り下した!

11[#「11」は縦中横]
 シ――ンと切り下ろした陣十郎の刀が、仆れている主水を拝み打ちに、眉間から鼻柱まで割りつけようとした途端、日の光を貫いて小柄が一本、陣十郎の咽喉へ飛んで来た。
「あッ」と思わず声を上げ、胸を反らせた陣十郎は、あやうく難を免れたが、小柄の投げられた方角を見た。
 十数間のかなたから、一人の武士が走って来る。
「む!……秋山! ……秋山要介!」
 いかにも走って来るその武士は、今朝になって眼醒めて見れば、昨夜から発作を起こしていた源女が、どこへ行ったものか姿が見えず、それを案じて探すために、林蔵の家を立ち出で、ここまでやって来た秋山要介であり、見れば宿意ある水品陣十郎が、これも因縁《ゆかり》ある鴫澤主水を、まさに討って取ろうとしていた。間隔は遠い、間に合わない。そこで小柄を投げたのであった。
 小柄を投げて陣十郎の兇刃を、制して置いて秋山要介、飛燕の如く飛び込んで来た。
 が、陣十郎もただ者ではない、主水を相手に戦って、既に躰は疲労《つかれ》ていた。そこへ剣豪秋山要介に新規の力で出られては、百に一つの勝目はない。――と見て取るや刀を引き、鞘にも納めず下げたままで、耕地を一散に走って逃げた。
 と、瞬間飛び起きたは、無念残念返り討ちだと、一刹那覚悟して仆れていた主水で、
「秋山先生、お礼は後刻! ……汝、待て――ッ、水品陣十郎! ……遁してなろうか、父の敵!」と、身体綿の如く疲労して居り、剣技も陣十郎と比較しては、数段も劣って居り、追っかけ追い詰め戦ったところで、あるいは返り討ちになろうもしれないと、そういう不安もありながら、みすみす父の敵に逢い、巡り合って刀を交したのに、そうしてその敵が逃げて行くのに、そうして一旦逃がしてしまったなら、いつふたたび巡り逢えるやら不明と思えば追わずにいられなかった。
 で、主水は刀を振り振り、陣十郎を追いかけた。
「待たれい! 主水殿、鴫澤氏!」
 追いついてよしんば戦ったところで、陣十郎に主水が勝つはずはない、返り討ちは見たようなものだ――と知っている秋山要介は、驚いて大音に呼び止めた。
「長追いなさるな! お引き返しなされ! またの機会をお待ちなされ」
 しかし何のそれを聞こう! 主水はよろめきよろめきながら、走り走り走って行く。
(尋常の敵を討つのではなく、親の敵《かたき》を討つのであった。子とあってみれば返り討ちも承知で、追いかけ戦うのが本当であろう)
 気がついた秋山要介は、孝子《こうし》に犬死させたくない、ヨーシ、追いついて後見《うしろみ》してやろう! 助太刀してやろうと決心し、袴の股立取り上げた途端、
「セ、先生、秋山先生!」と、背後から息せき呼ぶ声がし、やにわに袖を掴まれた。
「誰だ!」と怒鳴って顔を見た。
 林蔵の乾兒の藤作であった。

12
「おお藤作、どうしたのだ?」
「タ、大変で……オ、親分が!」
「なに親分が? 林蔵がか?」
「へい

下手切り! こいつだけは受けられない、ダーッとドップリ胴へ入るだろう! と、完全の胴輪切り!
 その序の業が行なわれた。
 釣られた釣られた主水は釣られた! あッ、踏み出して切り込んだ。
 一閃!
 返った!
 陣十郎の刀が、軽く宙で車に返った!
 ハ――ッと主水! きわどく反わせたが……
 駄目だ!
 見よ!
 次の瞬間!
 さながら怒濤の寄せるが如く、刀を返しての大下手切りだ――ッ!
「ワッ」
 悲鳴!
 血煙!
 血煙!
 いやその間に、一髪の間に――大下手切りの行なわれる、前一髪の際どい間に……
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秩父の郡《こおり》、小川村、
逸見《へんみ》様庭の桧の根
[#ここで字下げ終わり]
 そういう女の歌声が、手近かの所から聞こえてきた。
「あッ」と陣十郎は刀を引き、タジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]と数歩背後へ下った。


 無心に歌をうたいながら、源女は大薮の中にいた。
 いつも時々起こる発作が、昨夜源女の身に起こった。そこでほとんど夢遊病患者のように、赤尾村の林蔵の家を脱け出し、どこをどう歩いたか自分でも知らず、この辺りまで彷徨《さまよ》って来、この大薮で一夜を明かし、たった今眼醒めたところであった。
 まだ彼女の精神は、朦朧としていて正気ではなかった。
 島田の髷が崩れ傾《かしが》り、細い白い頸《うなじ》にかかってい、友禅模様の派手な衣裳が、紫地の博多の帯ともども、着崩れて痛々しい。素足に赤い鼻緒の草履を、片っぽだけ突っかけている。夜露に濡れたため衣裳はしおたれ[#「しおたれ」に傍点]、茨や木の枝にところどころ裂かれ、手足も胸元も薮蚊に刺され、あちこち血さえ出していた。
 そういう源女は身を横倒しにし、草の上に延びていた。秋草の花――桔梗や女郎花や、葛の花などが寝ている源女の、枕元や足下に咲いていた。栗色の兎がずっと離れた、萩の根元に一匹いて、源女の方を窺っていた。
 彼女の頭上にあるものといえば、樺や、柏や、櫟《くぬぎ》や、櫨《はぜ》などの、灌木や喬木の枝や葉であり、それらに取り縋り巻いている、山葡萄や蔦や葛であり、そうしてそれらの緑を貫き、わずかに幽かに隙《す》けて見える、朝の晴れた空であった。
 薮を透して日の光が、深い黄味を帯びて射し込んで来ていて、地上の草や周囲《まわり》の木々へ、明暗の斑《ふち》を織っていた。
 無心――というよりいつもいつも、心に執拗にこびりついている歌、例の歌を唄ってしまうと、彼女は恍惚《うっとり》と考え出した。こういう場合に彼女の脳裡へ、幻影のように浮かんで来るのは、大森林、大渓谷、大きな屋敷、大傾斜面、五百頭千頭もの放馬の群、それを乗り廻し追い廻し、飼養している無数の人、そうしてあたかも酒顛童子のような、長髪赧顔の怪異の老人――等々々のそれであった。
 しかし彼女はそういう所が、どこにあるかは知らなかった。そうしてどうしてそういう光景が、浮き出して来るかも知らなかった。とはいえ彼女はそういう光景の場所の、どこであるかを確かめなければならない、そうして是非ともその光景の場所へ、どうしても自身行かなければならないと、そんなように熱心に思うのであった。がそれとて自分自身のために、その場所を知ろうとするのでもなく、又行こうとするのでもなく、自分の難儀を救ってくれた人秋山要介という人のために、知りたい行きたいと思うのであった。
 浮かんで来る幻影を追いながら、今も彼女は思っていた。
(行かなければならない、さあ行こう!)
 で、彼女は立ち上った。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]昔はあったということじゃ
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 又彼女は口ずさんだ。
 そうして大薮を分けながら、大薮の外へ出ようとした。
 その大薮の外側には、以前から彼女を狙っている吸血鬼水品陣十郎が、抜身を提げて立っているはずである。

10
 後《あと》へ下った陣十郎は、刀を下段にダラリと下げ、それでも眼では油断なく、主水の眼を睨みつけ、歌主の在所《ありか》がどこであるかと、瞬間それについて考えた。
 周囲《あたり》には大薮があるばかりで、その他は展開《ひら》けた耕地であり、耕地には人影は見えなかった。
 声から云っても歌の性質《たち》から云っても、歌ったのは源女に相違ない。
 が、源女などはどこにもいない。
(さては自分の空耳かな?)
 それにしても余りに明かに、歌声は聞こえてきたではないか。
 源女だ源女だ歌ったのは源女だ!
 かつて一旦手に入れて、薬籠の物にしはしたが、その持っている一大秘密を、まだ発見しないうちに秋山要介に横取りされた女! お組の源女に相違ない!
 探して探して探し廻ったあげく、江戸は両国の曲独楽の席で、ゆくりなくも発見した。が、その直後に起こった事件――鴫澤庄右衛門を討ち果したことから、江戸にいられず旅に出たため、源女のその後の消息については、確かめることが出来なかった。
 その源女の歌声が、こんな所で聞こえたのであった。
(どうしたことだ? どうしたことだ?)
 不思議なことと云わなければならない。
(あの女を再び手に入れることが出来て、あの歌の意味を解くことが出来たら!)
 その時こそ運命が――解いた人の運命が、俄然とばかり一変し、栄耀栄華を尽くすことが出来、至極の歓楽を享けることが出来る!
(どうでもあの女を手に入れなければ!)
 だが彼女はどこにいるのだ?
 分を秒に割った短い間だ! 時間にして短いそういう間に、陣十郎の脳裡に起伏したのは、実にそういう考えであった。
 その間彼は放心状態にあった。
 何で主水が見逃がそうぞ!
 一気に盛り返した勇を揮い、奮然として切り込んだ。
 またも鏘然太刀音がした。
 放心状態にあったとはいえ、剣鬼さながらの陣十郎であった。何のムザムザ切られようぞ!
 受けて一合!
 つづいて飛び退いた、飛び退いた時にはもう正気だ! 正気以上に冴え切っていた。
(こやつを一気に片付けて、源女の在所《ありか》を突き止めなければならない!)
「ヤ――ッ!」と掛けた物凄い掛声!
 つづけて「ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ!」
 先々の先の手一杯! さながら有段者が初心者を相手に、稽古をつけるそれの如く、主水が撃とう切ろう突こうと、心組む心を未前[#「未前」はママ]に察し、その先その先その先と出て、追い立て切り立て突き立て進んだ。
 またもや主水は薮際まで詰められ、眼眩みながら薮の裾を、右手へわずか廻り込もうとした時、天運尽きたか木の根に躓《つまず》き、横倒れにドッと倒れた。
「くたばれ!」
 シ――ンと切り下した!

11
 シ――ンと切り下ろした陣十郎の刀が、仆れている主水を拝み打ちに、眉間から鼻柱まで割りつけようとした途端、日の光を貫いて小柄が一本、陣十郎の咽喉へ飛んで来た。
「あッ」と思わず声を上げ、胸を反らせた陣十郎は、あやうく難を免れたが、小柄の投げられた方角を見た。
 十数間のかなたから、一人の武士が走って来る。
「む!……秋山! ……秋山要介!」
 いかにも走って来るその武士は、今朝になって眼醒めて見れば、昨夜から発作を起こしていた源女が、どこへ行ったものか姿が見えず、それを案じて探すために、林蔵の家を立ち出で、ここまでやって来た秋山要介であり、見れば宿意ある水品陣十郎が、これも因縁《ゆかり》ある鴫澤主水を、まさに討って取ろうとしていた。間隔は遠い、間に合わない。そこで小柄を投げたのであった。
 小柄を投げて陣十郎の兇刃を、制して置いて秋山要介、飛燕の如く飛び込んで来た。
 が、陣十郎もただ者ではない、主水を相手に戦って、既に躰は疲労《つかれ》ていた。そこへ剣豪秋山要介に新規の力で出られては、百に一つの勝目はない。――と見て取るや刀を引き、鞘にも納めず下げたままで、耕地を一散に走って逃げた。
 と、瞬間飛び起きたは、無念残念返り討ちだと、一刹那覚悟して仆れていた主水で、
「秋山先生、お礼は後刻! ……汝、待て――ッ、水品陣十郎! ……遁してなろうか、父の敵!」と、身体綿の如く疲労して居り、剣技も陣十郎と比較しては、数段も劣って居り、追っかけ追い詰め戦ったところで、あるいは返り討ちになろうもしれないと、そういう不安もありながら、みすみす父の敵に逢い、巡り合って刀を交したのに、そうしてその敵が逃げて行くのに、そうして一旦逃がしてしまったなら、いつふたたび巡り逢えるやら不明と思えば追わずにいられなかった。
 で、主水は刀を振り振り、陣十郎を追いかけた。
「待たれい! 主水殿、鴫澤氏!」
 追いついてよしんば戦ったところで、陣十郎に主水が勝つはずはない、返り討ちは見たようなものだ――と知っている秋山要介は、驚いて大音に呼び止めた。
「長追いなさるな! お引き返しなされ! またの機会をお待ちなされ」
 しかし何のそれを聞こう! 主水はよろめきよろめきながら、走り走り走って行く。
(尋常の敵を討つのではなく、親の敵《かたき》を討つのであった。子とあってみれば返り討ちも承知で、追いかけ戦うのが本当であろう)
 気がついた秋山要介は、孝子《こうし》に犬死させたくない、ヨーシ、追いついて後見《うしろみ》してやろう! 助太刀してやろうと決心し、袴の股立取り上げた途端、
「セ、先生、秋山先生!」と、背後から息せき呼ぶ声がし、やにわに袖を掴まれた。
「誰だ!」と怒鳴って顔を見た。
 林蔵の乾兒の藤作であった。

12
「おお藤作、どうしたのだ?」
「タ、大変で……オ、親分が!」
「なに親分が? 林蔵がか?」
「へい、林蔵親分が、カ、街道で、あそこの街道で……タ、高萩の猪之松と……」
「うむ、高萩の猪之松と[#「猪之松と」は底本では「猪の松と」]?」
「ハ、果し合いだい、果し合いだい!」
「む――」と呻くと振り返り、要介は街道の方角を見た。
 旅人や百姓の群であろう、遠巻にして街道に屯し、じっと一所を見ている光景が、要介の眼に鮮かに見えた。彼等の見ている一所で、林蔵は怨ある猪之松と、果し合いをしているのであろう。要介も以前から林蔵と猪之松とが、勢力争い激甚であり、一度は雌雄を決するてい[#「てい」に傍点]の、真剣の切り合いをやるべきことを、いろいろの事情から知っていた。
(これはうっちゃって置かれない。林蔵を見殺しにすることは出来ない。聞けば高萩の猪之松は、逸見《へんみ》多四郎から教えを受け、甲源一刀流では使い手とのこと、林蔵といえどもこの拙者が、新影流は十分仕込んで置いた。負ける気遣いもあるまいが、もしも負れば師匠たる拙者の、恥にならないものでもない。林蔵と猪之松との果し合い、考えようによれば逸見多四郎と、この秋山要介との、果し合いと云うことにもなる。これはうっちゃっては置かれない)
「行こう、藤作!」と叫んだが、
(主水氏は?)とこれも気になり、走って行った方へ眼をやった。
 広い耕地をよろめきよろめき、陣十郎の後を追い、なお主水は走っていた。
(一人で行ったら返り討ち、陣十郎に討たれるであろう。……惜しい武士! 気の毒な武士! ……どうでも助太刀してやらねば……)
 ――が、そっちへ身を挺したら、林蔵はどういう運命になるか?
(どうしたら可《よ》いか? どうしたものだ?)
 知らぬ藤作は急き立てた。
「先生、早く、行っておくんなせえ! ……云いたいことはたくさんあるんで……第一女が誘拐《かどわか》されたんで……若い女が、綺麗な女が……誘拐した野郎は猪之松の乾兒と、その相棒の馬方なんで……最初《はな》は俺らと杉さんとで……へい、そうで浪之助さんとで、その女を助けたんですが……逃げた八五郎め馬方を連れて、盛り返して来てその女を……その時浪之助さんは留守だったんで……いやいやそんなこと! ……行っておくんなせえ、さあ先生! 親分が大変なんだ猪之松の野郎と! ……」
(行かなければならない!)と要介も思った。
(鴫澤氏は赤の他人、少くも縁は極めて薄い。林蔵の方は俺の弟子、しかも現在この俺は、林蔵の家に世話になっている。深い縁がある、他人ではない。……その林蔵を見殺しには出来ない! 行こう! しかし、そうだしかし、主水殿もお気の毒な! では、せめて言葉の助太刀!)
 そこで要介は主水の方に向かい、大音をもって呼びかけた。

13
「鴫澤《しぎさわ》氏、主水殿! 敵水品陣十郎を追い詰め、見事に復讐をお遂げなされ! 拙者、要介、秋山要介、貴殿の身辺に引き添って、貴殿あやうしと見て取るや、出でて、必ずお助太刀いたす! ……心丈夫にお持ちなされい! ……これで可《よ》い、さあ行こう!」
 街道目掛けて走り出した時、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]今は変わって千の馬
五百の馬の馬飼の
[#ここで字下げ終わり]
 と、聞き覚えある源女の声で、手近で歌うのが聞こえてきた。
「や、……歌声! ……源女の歌声!」
 要介は足を釘づけにした。
 探していた源女の歌声が、手近の所から聞こえてきたのであった。足を止めたのは当然といえよう。
「源女殿! お組殿!」
 思わず大声で呼ばわって、要介は四辺《あたり》を忙《せわ》しく見た。
 丘、小山とでも云いたいほどに、うず高く聳えている薮以外には、打ち開けた耕地ばかりで、眼を遮る何物もなかった。
(不思議だな、どうしたことだ。……歌声は空耳であったのか?)
 陣十郎の感じたようなことを、要介も感ぜざるを得なかった。
「先生、どうしたんですい、行っておくんなせえ」
 要介に足を止められて、胆を潰した藤作が怒鳴った。
「第一先生がこんな方角へ、トッ走って来たのが間違いだ。俺ら向こうで見ていたんで。すると先生の姿が見えた。しめた、先生がやって来た、林蔵親分に味方して、猪之松を叩っ切って下さるだろう。――と思ったら勘違いで、こんな薮陰へ来てしまった。そこで俺ら迎えに来たんだが、その俺らと来たひ[#「ひ」に傍点]には、ミジメさったら[#「ミジメさったら」は底本では「ミヂメさったら」]ありゃアしない。馬方に土をぶっかけられたんで。と云うのも杉さんがいなかったんで。その杉さんはどうしたかというに、誘拐《かどわか》された女の兄さんて奴が――そうそう主水とか云ったっけ、そいつが陣十郎とかいう悪侍に、オビキ出されて高萩村の方へ行った。とその女が云ったんで、こいつ大変と杉さんがね、高萩村の方へ追って行ったんで。――が、まあ可《い》いやそんな事ア。よくねえなア親分の身の上だ、まごまごしていると猪之松の野郎に……あッどうしたんだ見物の奴らア……」
 いかさま街道や耕地に屯し、果し合いを見ていた百姓や旅人が、この時にわかに動揺したのが、要介の眼にもよく見えた。が、すぐに動揺は止んで、また人達は静かになった。緊張し固くなって見ているらしい。
 突嗟に要介は思案を定めた。
(ここら辺りに源女がいるなら、薮の中にでもいるのであろう。正気でないと云ったところで、直ぐに死ぬような気遣いはない。……林蔵と猪之松との果し合い、これは一刻を争わなければならない。よしそっちへ行くことにしよう。……が、しかし念のために……)
 そこで要介はまたも大音に、薮に向かって声をかけた。
「源女殿、要介お迎えに参った。どこへもおいでなさるなよ! ……」

14
 街道では林蔵と猪之松とが、遠巻きに見物の群を置き、どちらも負けられない侠客《おとこ》と侠客との試合それも真剣の果し合いの、白刃を互いに構えていた。
 かなり時間は経過していたが、わずか二太刀合わせたばかりで、おおよそ二間を距てた距離で、相正眼に脇差をつけ、睨み合っているばかりであった。
 猪之松には乾兒や水品陣十郎の間に、何か事件が起こったらしく、耕地で右往左往したり、逃げる奴倒れる奴、そういう行動が感ぜられたが、訊ねることも見ることもできず、あつかう[#「あつかう」に傍点]こともできなかった。傍目一つしようものなら、その間に林蔵に切り込まれるからであった。
 林蔵といえどもそうであった、乾兒の藤作の声がしたり、杉浪之助の声がして、何か騒動を起こしているようであったが、どうすることも出来なかった。相手の猪之松の剣の技、己と伯仲の間にあり寸分の油断さえ出来ないからであった。
 が、そういう周囲の騒ぎも、今は全く静まっていた。数間を離れて百姓や旅人、そういう人々の見物の群が、円陣を作って見守っているばかりで、気味悪いばかりに寂静《ひっそり》としていた。
 二本の刀が山形をなし、朝の黄味深い日の光の中で、微動しながら浮いている。
 二人ながら感じていた。――
(ただ目茶々々に刀を振り廻して、相手を切って斃せばよいという、そういう果し合いは演ぜられない。男と男だ、人も見ている。後日の取沙汰も恐ろしい。討つものなら立派に討とう! 討たれるものなら立派に討たれよう!)
 二人ながら心身疲労していた。
 気|疲労《つかれ》! 気疲労! 恐ろしい気疲労!
 技が勝れているだけに、伎倆《うで》が伯仲であるだけに、その気疲労も甚だしいのであった。
 向かい合っていた二本の刀の、その切先がやがて徐々に、双方から寄って来た。
 見よ二人ながら踏み出している右足の爪先が蝮を作り、地を刻んで一寸二寸と、相手に向かって進むではないか。
 ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]!
 音は立たなかった。
 が、ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]と音立つように、互いの切先が触れ合った。
 しかしそのまま二本の刀身は、一度に水のように後へ引き、その間隔が六歩ほどとなった。
 そうしてそのまま静止した。
 静止したまま山形をなし、山形をなしたまま微動した。
 薄くポ――ッと刀と刀の間に、立ち昇っているのは塵埃《ほこり》であった。
 二人の刻んだ足のためにポ――ッと立った塵埃であった。
 間、
 長い間。
 天地寂寥。
 が、俄然二本の刀が、宙で烈しくもつれ合った。
 閃光! 太刀音! 鏘然! 鍔鳴り!
 で、Xの形となって、二本の刀は交叉され、わずかに左右に又前後に、揺れつ縒れつ押し押されつ、粘ったままで放れなかった。

15]
 鍔競り合い!
 眼と眼との食い合い!
 そうだ、林蔵と猪之松との眼が、交叉された刀の間を通し、互いに食い合い睨み合っている。
 鍔競り合いの恐ろしさは、競り合いから離れる一刹那にあった。胴を輪切るか真っ向を割り付けるか、伎倆《うで》の如何《いかん》、躰形《たいけい》の如何、呼吸の緩急によって変化縦横! が、どっちみち恐ろしい。
 林蔵も猪之松も一所懸命、相手の呼吸を計っていた。
 と、交叉された刀の間へ、黒く塗られた刀の鞘が、忍びやかに差し込まれた。
「?」
「?」
 鞘がゆるゆると上へ上った。二本の白刃を持ち上げるのである。と、威厳ある声がした。
「勝負待て! 刀を引け! 仲裁役は秋山要介!」
 声と同時に刀の鞘が、二本の刀身を左右に分けた。
 二間の距離を保ちながら、尚、残心、刀を構え、睨み合っている林蔵と猪之松、その間に鞘ぐるみ抜いた太刀を提げて、ノビノビと立ったのは秋山要介で、まず穏かに林蔵へ云った。
「刀を鞘へ納めるがよい」
 それから猪之松の方へ顔を向け、
「以前一二度お見かけいたした。高萩村の猪之松殿か、拙者秋山要介でござる。刀を納め下されい」
 しばらくの間寂然としていた。
 やがて刀の鞘に収まる、鍔鳴りの音が二つ聞こえた。

 この頃源女は大薮を出て、唐黍《とうもろこし》畑の向こうを歩いていた。
(行かなければ不可《いけ》ない、さあ行こう)
 こう思いながら歩いていた。
 何者《だれ》か向こうで呼んでいる。そんなように彼女には思われるのであった。
 畦を越し桑畑を越した。そうして丘を向こうへ越した。もう背後を振り返って見ても、街道も大薮も見えないだろう。
 大渓谷、大傾斜、大森林、五百頭千頭の馬、無数の馬飼、宏大な屋敷――そういうものの存在している所へ、行かなければならない行かなければならない! ……そう思って彼女は歩いて行く。
 崩れた髪、乱れた衣裳、彼女の姿は狂女そっくりであった。発作の止まない間中は、狂女と云ってもいいのであった。
 長い小高い堤があった。
 よじ上って歩いて行った。
 向こう側の斜面には茅や蘆が、生い茂り風に靡いている、三間巾ぐらいの川があり、水がゆるゆると流れていた。
「あッ」
 源女は足を踏み辷らせ、ズルズルと斜面を川の方へ落ちた。パッと葦切が数羽飛び立ち、烈しい声で啼いて去った。と、蘆を不意に分けて、古船が一隻辷り出た。源女がその中に倒れている。
 纜綱《もやいづな》を切らした古船は、源女を乗せたまま流れて行く。
 源女は微動さえしなかった。

各自の運命


 高萩村に近い森の中まで、陣十郎を追って来た鴫澤主水《しぎさわもんど》は、心身全く疲労し尽くし、ほとんど人心地を覚えなかった。
 抜身を地に突き体を支えたが、それにも堪えられずクタクタ倒れた。
 とうに陣十郎は見失っていた。
 その失望も手伝っていた。
(残念、逸した、敵を逸した!)
(が、飽くまでも探し出して、……)
 立ち上ろうと努力した。
 が、躰はいうことをきかず、のみならず精神さえ朦朧となった。
 こうして杉や桧や槇や、楢などの喬木に蔽われて、その奥に朱の褪せた鳥居を持ち、その奥に稲荷の祠を持ち、日の光も通して来ず、で薄暗い風景の中に、雀や鶸《ひわ》や山雀《やまがら》や山鳩の、啼声ばかりが繁く聞こえる、鎮守の森に包まれて、気絶して倒れた主水の姿が、みじめに痛々しく眺められた。
 色づいた[#「色づいた」は底本では「色ずいた」]病葉《わくらば》が微風にあおられ体の上へ落ちて来たりした。
 かなり長い間しずかであった。
 と、その時人声がし、間もなく十数人の男女の者が、森の中へ現われた。
 変わった風俗の連中であった。
 赤い頭巾に赤い袖無、そんなものを着けている若い男もあれば、亀甲模様のたっつけ[#「たっつけ」に傍点]を穿き、胸に大形の人形箱をかけた、そういう中年の男もあり、紫の手甲に紫の脚絆、三味線を抱えた女もあり、浅黄の股引、茶無地の筒袖、そういう姿の肩の上へ、猿をとまらせた老人などもあった。
 それらはいずれも旅装であった。
 秩父|香具師《やし》の一団なのである。
 平素は自分の家にいて、百姓もやれば杣夫《そま》もやり、猟師もやれば川狩もやるが、どこかに大きな祭礼があって、市《たかまち》が立って盛んだと聞くと、早速香具師に早変りして、出かけて行って儲けて来、家へ帰れば以前通り、百姓や杣夫として生活するという――普通の十三香具師とは別派の、秩父香具師の一団であった。
 この日もどこかの市を目掛け親しい者だけで組をつくり、出かけて行くところらしい。
 その中に一人旅装ではなく、髪は櫛巻きに銀簪一本、茜の小弁慶の単衣《ひとえ》を着た、若い女がまじっていた。
 陣十郎の情婦のお妻であった。
「姐御、お前さんも行くといいんだがな」
 一人の男がこう云って、そそのかすようにお妻を見た。
「そうさねえそうやって、お前さんたちが揃って出かけて行くのを見ると、一緒に行きたいような気持がするよ」
 まんざらお世辞でもなさそうに、お妻はそう云って薄笑いをした。
「陣十郎さんばかりが男じゃアなし、他に男だってあろうじゃアないか。そうそういつもへばり付いてばかりいずに、俺らと旅へ出るのもいいぜ」
 こうもう一人の男が云った。
「あたしを旅へしょびいて行くほどの、好い男がどこかにいるかしら、お前さん達のお仲間の中にさ」
 云い云い、お妻は又薄笑いをして、香具師達を見廻した。
「俺じゃア駄目かな、え、俺じゃア」と、猿廻しが顔を出した。


「十年若けりゃア物になるが」
 お妻はむしろ朗かに笑った。
 お妻は秩父の産れであり、秩父香具師の一人であった。が、ずっと若い頃に、草深い故郷に見切りをつけ、広い世界へ出て行って、香具師などというケチなものよりもっと烈しい、もっと罪の深い、そうしてもっと度胸の入る、凄い商売へ入り込んでしまった。
 女邯鄲師《おんなかんたんし》[#ルビの「おんなかんたんし」は底本では「おんんなかんたんし」]――それになってしまった。
 道中や温泉場などで親しくなり、同じ旅籠《はたご》へ一緒に泊り、情を通じてたらす[#「たらす」に傍点]もあり、好きな男で無い場合には、すかし[#「すかし」に傍点]、あやなし[#「あやなし」に傍点]、たぶらかし[#「たぶらかし」に傍点]て、油断を窺って有金から持物、それらを持って逃げてしまう、平ったく云えば枕探し、女賊になってしまったのである。
 陣十郎の情婦になったのも、平塚の宿で泊まり合わせ、枕探しをしようとしたところ、陣十郎のために取って抑えられた、それが因縁になったのであった。
 その女邯鄲師のお妻であるが、今度陣十郎と連立って、産れ故郷へ帰って来た。と、今朝高萩の村道を、懐かしい昔の仲間達が――すなわち秩父香具師達が、旅|装束《よそおい》で通って行った。知った顔も幾個かあった。で、あまりの懐かしさに、冗談云い云いこんな森まで、連立って一緒に来たのであった。
「おや」と不意にお妻は云って、急に足を一所で止めた。
「こんなところに人間が死んでいるよ」
 行手の杉の木の根下の草に、抜身を持った武士が倒れている。
「ほんに、可哀そうに、死んでらあ。……しかも若いお侍さんだ」
 香具師達は云って近寄って行った。
 お妻はその前にしゃがみ[#「しゃがみ」に傍点]込み、その武士の額へ手をやったが、
「冷えちゃアいない、暖《あった》かいよ」
 いそいで脉所《みゃくどころ》を握ったが、
「大丈夫、生きてるよ」
「じゃア気絶というやつだな」
 一人の香具師が心得顔に云った。
「そうさ、気絶をしているのさ。抜身を持っているところを見ると、きっと誰かと切り合ったんだねえ。……どこも切られちゃアいない。……気負け気疲労《きつかれ》[#「気疲労《きつかれ》」は底本では「気疲労《きつかれ》れ」]で倒れたんだよ」
 云い云いお妻は覗き込んだが、
「ご覧よ随分|好男子《いいおとこ》じゃアないか」
「チェーッ」と誰かが舌打ちをした。
「姐御いい加減にしてくんな。どこの馬の骨か知れねえ奴に、それも死に損ない殺され損ないに。気をくばるなんて嬉しくなさ過ぎらあ」
「まあそういったものでもないよ。……第一随分可愛そうじゃアないか。……それにさ、ご覧よ、この蒼白い顔を……唇の色だけが赤くてねえ。……ゾッとするほど綺麗だよ。……」
「色狂人! ……行こう行こう!」
「行きゃアがれ、碌で無し! ……妾アこの人を介抱するよ」
 お妻は主水の枕元へ、ペタペタと坐ってなお覗き込んだ。


 その同じ日のことであった。
 絹川という里川の岸で、一人の武士が魚を釣っていた。
 四十五六の年齢で、広い額、秀でた鼻、鋭いけれど暖かい眼、そういう顔の武士であった。立派な身分であると見え、衣裳などは寧ろ質素であったが、體に威があり品があった。
 傍らに籃《びく》が置いてあったが、魚は一匹もいなかった。
 川の水は濁りよごれ[#「よごれ」に傍点]てい、藻草や水錆が水面に浮かび、夕日がそれへ色彩をつけ、その中で浮子《うき》が動揺してい、それを武士は眺めていた。
「東馬《とうま》もう何刻《なんどき》であろう?」
 少し離れた草の中に、お供と見えて若侍が退屈らしい顔付をして、四辺《あたり》の風景を見廻していたがそれへ向かって話しかけた。
「巳刻《よつどき》でもありましょうか」
 若侍はそう答え、
「今日は不漁《しけ》でございますな」
 笑止らしく云い足した。
「わしの魚釣、いつも不漁じゃ」
「御意で、全くいつも不漁で。……それにもかかわらず先生には、毎日ご熱心でございますな」
「それでいいのだ、それが本意なのだ。……と云うのはわしの魚釣は、太公望と同じなのだからな」
「太公望? はは左様で」
「魚釣り以外に目的がある。……ということを云っているつもりだが」
「どのような目的でございますか?」
「そう安くは明かされないよ」
「これはどうも恐れ入りました……が、そのように仰せられますと、魚の釣れない口惜《くちお》しまぎれの、負けおしみなどと思われましても……」
「どうも其方《そち》、小人で不可《いけ》ない」
「お手厳しいことで、恐縮いたします」
「こう糸を垂れて水面を見ている」
「はい、魚釣りでございますからな」
「水が流れて来て浮子にあたる」
「で、浮き沈みいたします」
「いかにも自然で無理がない……芥《あくた》などが引っかかると……」
「浮子めひどくブン廻ります」
「魚がかかると深く沈む」
「合憎[#「合憎」はママ]、今日はかかりませんでした」
「相手によって順応する……浮子の動作、洵《まこと》にいい」
「浮子を釣るのでもござりますまいに」
「で、わしはその中に、何かを得ると思うのだよ」
「鮒一匹、そのくらいのもので」
「魚のことを云っているのではない」
「ははあ左様で。……では何を?」
「つまりあの業《わざ》を破る術じゃ」
「は? あの業と仰せられまするは?」
「水品陣十郎の『逆ノ車』……」
「ははあ」
「お、あれは何だ」
 その時上流から女を乗せた、死んだように動かない若い女を乗せた、古船が一隻流れて来た。
「東馬、寄せろ、船を岸へ」
「飛んでもないものが釣れましたようで」
 若侍は云い云い袴を脱ぎかけた[#「脱ぎかけた」は底本では「股ぎかけた」]。
 が、古船は自分の方から、ゆるゆると岸の方へ流れ寄って来た。
 武士は釣棹の柄の方を差し出し、船縁へかけて引き寄せるようにしたが、
「女を上げて介抱せい」
 そう若侍へ厳しく云った。

鳳凰と麒麟


 それから幾日か経った。
 秋山要介は杉浪之助を連れて、秩父郡小川村《ちちぶのこおりおがわむら》の外れに、あたかも嵎《ぐう》を負う虎の如くに蟠居し、四方の剣客に畏敬されている、甲源一刀流の宗家|逸見《へんみ》多四郎義利の、道場構えの広大な屋敷へ、威儀を作って訪れた。
「頼む」
「応」と返事があって、正面の襖が一方へひらくと、小袴をつけた若侍が、恭しく現われた。
「これはこれは秋山先生、ようこそご光来下されました」
「逸見先生に御意得たい。この段お取次下されい」
「は、先生には江戸表へ参り、未だご帰宅ござりませねば……」
「ははあ、いまだにお帰りない」
「帰りませんでござります」
「先生と一手お手合わせ致し、一本ご教授にあずかりたく、拙者当地へ参ってより三日、毎日お訪ねいたしても、そのつどお留守お留守とのご挨拶、かりにも小川の鳳凰《ほうおう》と呼ばれ、上州間庭の樋口十郎左衛門殿と、並び称されている逸見殿でござれば、よもや秋山要介の名に、聞き臆じして居留守を使われるような、そのようなこともござるまいが、ちと受取れぬ仕儀でござるな」
 洒脱であり豪放ではあるが、他人に対してはいつも丁寧な、要介としてはこの言葉は、かなり角立ったものであった。
 傍に引き添っていた浪之助も、これはおかしいと思った程である。
 面喰ったらしい取次の武士は、
「は、ご尤《もっと》もには存じますが、主人こと事実江戸へ参り、今に帰宅いたしませねば……」
「さようか、よろしい、事実不在、――ということでござるなら、又参るより仕方ござらぬ。……なれどこのまま帰っては、三度も参った拙者の腹の虫、ちと納まりかねるにより、少し無礼とは存じ申すが、表にかけられた門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、お預かりして持ちかえる。逸見殿江戸よりご帰宅なさらば、この旨しかとお伝え下され。宿の小紅屋に滞在まかりある。ご免」というと踵《きびす》を返し、門を出ると門の柱に「甲源一刀流指南」と書いた、二寸厚さの桧板、六尺長い門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]外し、小脇に抱えて歩き出した。
 呆れ返ったのは浪之助で、黙々として物も云わず、要介の後から従《つ》いて行った。
 村とはいっても小川村は、宿場以上の賑いを持った、珍らしく豊かな土地であって、道の両側には商店多く、人の往来も繁かった。そういう所を立派な武士が、大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]引っ抱え、若い武士を供のように連れて、ノッシノッシと歩いて行くのであった。店の人達は審かしそうに覗き、往来の人達も不思議そうに眺めた。
 が、要介は意にも介さず、逸見家とは反対の方角の、これは小川村の入口にある、この村一番の旅籠屋の、小紅屋まで歩いて来た。
「お帰り」と番頭や婢達《おんなたち》が、これも怪訝そうな顔をして、大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]抱えた要介達を迎え、玄関へ頭を並べたのを、鷹揚に見て奥へ通った。


 中庭を前にした離座敷――この宿一番の座敷らしい――そこの床の間へ大門札を立てかけ、それを背にして寛《ゆるや》かに坐わり、婢の持って来た茶を喫しながら、要介は愉快そうに笑っていた。
 その前に浪之助はかしこまっていたが、これは随分不安そうであった。
「先生」ととうとう浪之助は云った。
「これは一体どうしたことで?」
「…………」
 愉快そうに笑っている。
「武芸指南所の門札は[#「門札は」は底本では「門礼は」]、商家の看板と等しなみに、その家にとりましては大切なもの、これを外されては大恥辱……」
「ということは存じて居るよ」
「はい」と浪之助はキョトンとし、
「それをご承知でその門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「さよう、わしは外して来た」
「はい」と又もキョトンとし、
「それも高名の逸見先生の……」
「鳳凰と云われる逸見氏のな」
「はい」ともう一度キョトンとし、
「それほど逸見様は高名なお方……」
「わしも麒麟《きりん》と呼ばれて居るよ」
「御意で」と今度は頭を下げ、
「関東の麒麟と称されて居ります」
「鳳凰と麒麟……似合うではないか」
「まさにお似合いではございますが、似合うと申して門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「ナニわしだから外して来てもよろしい」
「麒麟だから鳳凰の門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「さようさよう外して来てもよろしい」
「ははあ左様でございますかな」
「他の奴ならよろしくない」
「…………」
「ということは存じて居る。さよう逸見氏も存じて居る」
「…………」
「人物は人物を見抜くからの」
「はい、もう私などは小人で」
「そのうちだんだん人物になる」
「はい、ありがたく存じます」
 とは云ったものの浪之助は、
(うっかり物を云うとこんな目に逢う。訓された上に嚇されてしまう)
 こう思わざるを得なかった。
「それに致しましても先生には、何と思われて小川村などへ参り、何と思われて逸見先生のお宅などへ……」
「武術試合をするためにさ……」
「それだけの目的でございますかな?」
「真の目的は他にある」
「どのような目的でございますかな?」
「赤尾の林蔵を関東一の貸元、そいつに押し立ててやりたいのだ」
「そのため逸見先生と試合をなさる?」
「その通り。変に思うかな?」
「どういう関係がございますやら」
「今に解る。じきに解る」
「ははあ左様でございますか」
「わしは金蔓をなくしてしまった――源女殿を見失ってしまったので、秩父にいる必要がなくなってしまった。そこで江戸へ帰ろうと思う。……江戸へ帰って行く置土産に、林蔵を立派な男にしてやりたい。それで逸見氏と試合をするのだ。……高萩の猪之松の剣道の師匠、逸見多四郎殿と試合をするのだ」


(なるほどな)と浪之助は思った。
(林蔵の師匠たる秋山先生と、猪之松の師匠たる逸見先生とが、武術の試合をした上で、林蔵を関東一の貸元にする。なるほどな、意味がありそうだ)
 確実のことは解らなかったが、意味はありそうに思われた。
 やがて解るということであった。押して訊こうとはしなかったが、
「それに致しましてもお組の源女と、その源女のうたう歌と、先生とのご関係を承《うけたま》わりたいもので」
 以前から疑問に思っていたことを、浪之助は熱心に訊いた。
 その浪之助は以前においては、まさしく源女の愛人であった。がその源女が今度逢ってみれば、変わった性格となって居り、不思議な病気を持って居り、妙な歌を口吟《くちずさ》むばかりか、要介などという人物が、保護する人間となっていたので、浮いた恋、稀薄の愛、そのようなものは注がないこととし、ほんの友人のように交際《つきあ》って来たところ、その源女は上尾街道で、過ぐる日行なわれた林蔵と猪之松との果し合いの際|行方《ゆくえ》不明となり、爾来姿を見せなくなっていた。
 浪之助も勿論心にかけたが、要介のかけ方は一層で、
「あの日たしかに大薮の陰で、源女殿の歌声を耳にした。が、果し合いを引き分けおいて、急いで行って探した時には、もう源女殿はいなかった。どこにどうしていることやら」と、今日までも云いつづけて来たことであった。
「源女殿とわしとの関係か。さようさな、もう話してもよかろう」
 要介はいつになくこだわら[#「こだわら」に傍点]なかった。しかししばらく沈思していた。久しく聞きたいと希望していた、秘密の話が聞かれるのである。浪之助は思わず居住いを正し、緊張せざるを得なかった。
 中庭に小広い泉水があり、鯉が幾尾か泳いでいたが、時々水面へ飛び上った。それが田舎の古い旅籠屋の、昼の静かさを破壊するところの、たった一つの音であった。
 と、要介は話し出した。
「武蔵という国は承知でもあろうが、源氏にとっては由縁《ゆかり》の深い土地だ。源氏の発祥地ともいうべき土地だ。ここから源氏の諸豪族が起こった。秩父庄司《ちちぶしょうじ》、畠山重忠《はたけやましげただ》、熊谷次郎直実《くまがいじろうなおざね》等、いずれも武蔵から蹶起した武将だ。……がわしにかかわる[#「かかわる」に傍点]事件は、もっと昔に遡らなければならない。……これは誰もが承知していることだが、後冷泉天皇の御宇《ぎょう》にあって、奥州の酋長|阿部《あべ》の頼時《よりとき》が、貞任《さだとう》、宗任《むねとう》の二子と共に、朝廷に背いて不逞を逞ましゅうした、それを征したのが源|頼義《よりよし》、そうしてその子の八幡太郎義家――さてこの二人だが奥州征めの往来に、武蔵の国にとどまった。今日の国分寺村の国分寺、さよう、その頃には立派な寺院で、堂塔伽藍聳えていたそうじゃが、その国分寺へとどまった……ところが止まったばかりでなく、前九年の役が終了した際、奥州産の莫大な黄金、それを携えて帰って来、それを国分寺の境内に、ひそかに埋めたということじゃ。それには深い訳がある」
 こう話して来て要介は、またしばらく沈思した。


 要介はポツポツ話し出した。
「源氏は東国を根拠とすべし。根拠とするには金が必要だ。これをもってここへ金を埋めて置く。この金を利用して根を張るべし。――といったような考えから、金を埋めたということだ。……その後この地武蔵において、いろいろさまざまの合戦が起こったが、埋めてあるその金を利用したものが、いつも勝ったということじゃ。ところがそのつど利用したものは、他の者に利用されまいとして、残った金を別の所へ、いつも埋め代えたということじゃ。……治承《じしょう》四年十月の候、源頼朝が府中の南、分倍河原《ぶばいがわら》に関八州の兵を、雲霞の如くに集めたが、その時の費用もその金であり、ずっと下って南北朝時代となり、元弘《げんこう》三年新田義貞卿が、北條高時を滅ぼすべく、鎌倉に兵を進めようとし、分倍河原に屯して、北條泰家と合戦したが、その時も義貞は源氏というところから、その金を利用したという事じゃ。正平《しょうへい》七年十二月十九日、新田|義宗《よしむね》南軍を率い、足利尊氏を狩野河《こうのかわ》に討つべく、武蔵の国に入ったところ、尊氏すでに狩野河を発し、谷口から府中に入り、人見原《ひとみはら》にて激戦したが、義宗破れて入間川《いるまがわ》に退き、二十八日|小手差原《こてさしはら》にて戦い、ふたたび破れて退いたが、この時は足利尊氏が、これも源氏というところから、その金を利用したということじゃ。更に下って足利時代に入り、鎌倉の公方足利成氏、管領上杉|憲忠《のりただ》を殺した。憲忠の家臣長尾|景晴《かげはる》、これを怒って手兵を率い、立川原で成氏と戦い、大いに成氏を破ったが、この時はその金を景晴が利用し、その後その金を用いた者で、史上有名の人物といえば、布衣《ふい》から起こって関八州を領した、彼の小田原《おだわら》の北條|早雲《そううん》、武蔵七党の随一と云われた、立川宗恒《たてかわむねつね》、同恒成、足利学校の創立者、武人《ぶじん》で学者の上杉|憲実《のりざね》。……ところがそれが時代が移って、豊臣氏となり当代となり――即ち徳川氏となってからは、その金を利用した誰もなく、金の埋没地も不明となり、わずかにこの地方秩父地方において『秩父の郡小川村、逸見様庭の桧の根、昔はあったということじゃ……』という、手毬唄に名残をとどめているばかりじゃ。……」
 ここまで云って来て要介は、不意に沈黙をしてしまった。
 じっと聞いていた浪之助の、緊張の度が加わった。
 源女のうたう不可解の歌が、金に関係あるということは、朧気ながらも感じていたが、そんな歴史上の合戦や人物に、深い関係があろうなどとは、夢にも想像しなかったからである。
(これは問題が大きいぞ)
 それだけに興味も加わって、固唾を呑むという心持! それでじっと待っていた。
 要介は語りついだ。
「あの歌の意味は簡単じゃ。今話した例の金が、武蔵秩父郡小川村の逸見《へんみ》家の庭にある桧の木の根元に、昔は埋めてあったそうさな。――という意味に他ならない。逸見家というのは云う迄もなく、逸見多四郎殿の家の事じゃ。……その逸見家は何者かというに、甲斐源氏《かいげんじ》の流を汲んだ、武州無双の名家で旧家、甲源一刀流の宗家だが、甲源の文字もそこから来ている。即ち甲斐源氏という意味なのじゃ」


 要介は語りつづけた。
「歌もそこ迄なら何でもないのじゃ。というのは普通の手毬歌として、秩父地方の人々は、昔から知っているのだからな。ところがどうだろう源女殿だけが、その後の文句を知っている『今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の……それから少し間が切れて――秣の山や底無しの、川の中地の岩窟の……という文句を知っている。そこへわし[#「わし」に傍点]は眼をつけたのじゃ。頼義《よりよし》、義家が埋めたという金は、その後の歌にうたわれている境地に、今は埋めてあるのだろう。それにしても源女殿はどこでどうしてその後の歌を覚えたかとな。で源女殿へ訊いて見た。その返辞が洵《まこと》に妙じゃ。大森林や大渓谷や、大きな屋敷や大斜面や、そういう物のある山の奥の、たくさんの馬や馬飼のいる所へ、いつぞや妾《わたし》は行ったような気がする。そこでその歌を覚えたような気がする。でもハッキリとは覚えていない。勿論そこがどこであるかも知らない。――という曖昧の返辞なのだ。その上|其方《そち》も知っている通り、源女殿は時々発作を起こす。……で、わしはいろいろの医者へ、源女殿の様態を診て貰ったところ、一人柳営お抱えの洋医、平賀|杏里《きょうり》殿がこういうことを云われた。――非常に恐ろしい境地へ行き、非常に烈しい刺激を受け、精神的に大打撃を受け、その結果大熱を体に発し、一月とか二月とかの長い間、人事不省になっていた者は、その間のことはいうまでもなく、それ以前の事もある程度まで、全然忘却してしまうということが往々にあるが、源女殿の場合がそうらしい。が、源女殿をその境地へ、もう一度連れて行けば思い出すし、事実その境地へ行かずとも、その境地と酷似している境地へ、源女殿を置くことが出来たなら、忘却していた過去のことを、卒然と記憶に返すであろうと。……しかし源女殿をその境地へ、連れて行くということは出来難い。その境地が不明なのだから。同じような境地へ源女殿を置く。ということもむずかしい。どんな境地かということを、わし[#「わし」に傍点]は確実に知らないのだから。……しかしわし[#「わし」に傍点]はこう思った。あの歌の前半の歌われている、秩父地方へ出かけて行って、気長く源女殿をそこに住ませて、源女殿の様子を見守っていたら、何か暗示を得ようもしれないとな。そこでお連れして来たのだが。……しかるに源女殿のそういう秘密を、わし[#「わし」に傍点]の外にもう一人、同じように知っている者がある。他でもない水品陣十郎じゃ」
 こう云って来て要介は、眉をひそめて沈黙した。
 剣鬼のような吸血鬼のような、陣十郎という男のことを、思い出すことの不愉快さ、それを露骨に現わさしたところの、それは気|不味《まず》い[#「不味《まず》い」は底本では「不味《まずい》い」]沈黙であった。
 浪之助も陣十郎は嫌いであり、嫌い以上に恐ろしくもあり、口に出すことさえ厭であったが、しかし源女や要介が、どういう関係からあの吸血鬼と、知り合いになったかということについては、窺い知りたく思っていた。
 それがどうやら知れそうであった。
 そこで更に固唾を呑む気持で、要介の語るのを待ち構えた。


「今から十月ほど前であったよ」と、要介は話をつづけ出した。
「信濃方面へ旅をした。武術の修行というのではなく、例によっての風来坊、漫然と旅をしたまでだが沓掛《くつかけ》の宿で一夜泊まった。明月の夜であったので、わしは宿《やど》を出て宿《しゅく》を歩き、つい宿外れまでさまよって行った。と、歌声が聞こえてきた。云うまでも[#「云うまでも」は底本では「云までも」]なく例の歌さ。はてなと思って足を止めると、狂乱じみた若い女が、その歌をうたって歩いて来る。と、その後から一人の武士が、急ぎ足で追いついたが、やにわに女を蹴倒すと、踏む撲るの乱暴狼藉『汝《おのれ》逃げようとて逃がそうや』こう言っての乱暴狼藉! その瞬間女は正気づいたらしく、刎ね起きると拙者を認め、走り寄って縋りつき、お助け下されと申すのじゃ。心得たりと進み出て、月明で武士を見れば、以前樋口十郎左衛門殿方で、立合ったことのある水品陣十郎! 先方も拙者を認めたと見え、しかも形勢非なりと知ったか、『秋山殿でござったか、その女は源女と申し、発狂の女芸人、拙者故あって今日まで、保護を加えて参りましたが、お望みならば貴殿に譲る』と、このようなヘラズ口をきいたあげく、匆慌《そうこう》として立ち去ったので、源女殿を宿へ連れて参り、事情を詳しく訊いたところ、江戸両国の曲独楽の太夫、養母というものに悪婆あって長崎の異人に妾《めかけ》に出そうという。それを避けて旅へ出で、ある山国へ巡業したところ、大森林、大傾斜、百千頭も馬のいるところ、そういう所の大きな屋敷へ、どういう訳でか連れて行かれた。そうしてそこで恐ろしい目に逢い、妾《わたし》は正気を失ったらしい。正気づいて見れば陣十郎という男が、妾の側に附いていて、それ以来ずっとその男が、あらゆる圧迫と虐待とを加え、妾にその土地へ連れて行け、お前の謡う歌にある土地へ、連れて行けと云って強いに強い、爾来その男に諸々方々を、連れ歩かれたとこう云うのじゃ。……それからわし[#「わし」に傍点]は源女殿を連れて、江戸へ帰って屋敷へ置いたが、そこは女芸人のことで、もう一度舞台に出たいという。そこで元の座へ出したところ、陣十郎に見付けられ、貴殿などとも知り合うようになった。……」
「よく解《わか》りましてござります」
 要介の長い話を聞き、浪之助はこれまでの疑問を融かした。
「と致しますと陣十郎も、例の黄金の伝説的秘密を、承知いたして居りまして、それを探り出そうと心掛け、源女を抑えて居りましたので……」
「さよう」と要介は頷いて云った「逸見多四郎殿の門弟として、秩父地方に永らく居た彼、黄金の秘密は知悉しているはずじゃ」
 この時部屋の外の廊下に、つつましい人の足音がし、
「ご免下され」という男の声がし、襖が開いて小紅屋の主人が、恭しくかしこまった顔を出し、
「逸見の殿様お越しにござります。へい」と云って頭を下げた。
 見れば主人の背後にあたって、威厳のある初老の立派な武士が、気軽にニコヤカに微笑しながら、部屋を覗くようにして立っていた。
「逸見多四郎参上いたしました」


「や、これは!」とさすがの要介も、郷士ながらも所の領主、松平|大和守《やまとのかみ》には客分にあつかわれ、新羅《しんら》三郎|義光《よしみつ》の後胤甲斐源氏の名門であり、剣を取らせては海内の名人、しかも家計は豊かであって、倉入り千俵と云われて居り、門弟の数|大略《おおよそ》二千、そういう人物の逸見多四郎が、気軽にこのような旅籠屋などへ、それも留守の間に道場の看板、門の大札[#「大札」は底本では「大礼」]を外して行ったところの、要介を訪ねて来ようなどとは、要介本人思いもしなかったところへ、そのように気軽に訪ねて来られたので、さすがに驚いて立ち上った。
「これはこれは逸見先生、わざわざご来訪下されましたか。いざまずこれへ! これへ!」
「しからばご免」と仙台平の袴に、黒羽二重の衣裳羽織、威厳を保った多四郎は、静かに部屋の中へ入って来た。
 座が定《き》まってさて挨拶! という時に要介の機転、床の間に立ててあった例の門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、恭しく抱えて持って来るや、前へ差し出しその前に坐り、
「実は其《それがし》先生お屋敷へ、本日参上いたしましたところ、江戸へ参ってご不在との御事。と、いつもの悪い癖が――酔興とでも申しましょうか、悪い癖がムラムラと起こりまして、少しく無礼とは存じましたが、門弟の方へ一応断わり、この大門札[#「門札」は底本では「門礼」]ひき外し、旅舎まで持参いたしました、がしかし決して粗末にはいたさず、床の間へ立てかけ見事の筆蹟を、打ち眺め居りましてござります。が、それにしてもこの門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、ひき外し持参いたしましたればこそ、かかる旅舎などへ先生ほどのお方を、お招きすること出来ました次第、その術策|的中《あた》りましてござるよ。ハッハッハッ」と笑ったが、それは爽かな笑いでもあった。
 と、多四郎もそれに合わせ、こだわらぬ爽かな笑い声を立てたが、
「その儀でござる、実は其《それがし》所用あって江戸へ参り、三日不在いたしまして、先刻帰宅いたしましたところ、ご高名の秋山先生が、不在中三回もお訪ね下され、三回目の本日門の札を[#「札を」は底本では「礼を」]、ひき外しお持ちかえりなされたとのこと、門弟の一人より承《うけたま》わり、三回のご来訪に恐縮いたし、留守を申し訳なく存じますと共に、その門弟へ申したような次第――、門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]外して持ち去った仁、秋山要介先生でよかった。他の仁ならこの多四郎、決して生かして置きませぬ。秋山要介先生でよかった。その秋山先生は、奇嬌洒脱の面白い方じゃ、いまだ一度もお目にかからぬが、勇ましいお噂は承って居る。五百石といえば堂々たる知行、その知行取りの剣道指南役の、嫡男の身に産れながら、家督を取らず浪人し、遊侠の徒と交際《まじわ》られ、権威に屈せず武威に恐れず、富に阿《おも》ねらず貧に恥じず、天空海濶に振舞われる当代での英傑であろう。門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]持って行かれたも、単なる風狂に相違ない。宿の小紅屋に居られるなら、早速参ってお目にかかろうとな。――そこで参上いたしたような次第、お目にかかれて幸甚でござった」
「杉氏どうじゃな」と要介は、浪之助の方へ声をかけた。


「人物は人物を見抜くと云ったが、どうじゃ杉氏、その通りであろう」
 こう云ったがさらに要介は、多四郎の方へ顔を向け、
「ここに居られるは杉浪之助殿|某《それがし》の知己友人でござる。門札[#「門札」は底本では「門礼」]外して持ち参ったことを、ひどく心配いたしましたについて、いや拙者だからそれはよい、余人ならばよろしくないと云うことは逸見先生もご存知、人物は人物を見抜くものじゃと、今し方申して居りました所で、……杉氏何と思われるな?」
「ぼんやり致しましてござります」
 浪之助はこう云うと、恰も夢から醒めたように、眼を大きくして溜息を吐いた。
「鳳凰《ほうおう》と麒麟《きりん》! 鳳凰と麒麟! 名優同志の芝居のようで。見事のご対談でございますなあ」
 逸見多四郎がやって来た! さあ大変! 凄いことが起こるぞ! 激論! 無礼咎め! 切合い! 切合い! と、その瞬間思ったところ、事は全く反対となり、秋山先生で先ずよかった! ……ということになってしまい、十年の知己ででもあるかのように、笑い合い和み合い尊敬し合っている。で浪之助は恍惚《うっとり》として、両雄の対談を聞いていたのであった。
「酒だ」と要介は朗かに云った。
「頼みある兵《つわもの》の交際に、酒がなくては物足りぬ。酒だ! 飲もう! 浪之助殿、手を拍って女中をお呼び下され!」
「いや」と多四郎は手を振って止めた。
「酒も飲みましょう。がしかし、酒は場所を変えて飲みましょう」
「場所を変えて? はてどこへ?」
「拙者の屋敷で。……云うまでもござらぬ」
「要介のまかり在るこの屋敷、さてはお気に入らぬそうな」
「いやいや決して、そういう訳ではござらぬ。……が、最初にご貴殿において、お訪ね下されたのが拙者の屋敷、言って見れば先口で。……ではその方で飲むのが至当。……」
「ははあなるほど、それもそうじゃ」
「ということと存じましたれば、駕籠を釣らせてお宿の前まで、既に参って居りますので」
「それはそれはお手廻しのよいこと。……がしかし拙者といたしましては、ご貴殿のお屋敷におきましては、酒いただくより木刀をもって、剣道のご指南こそ望ましいのでござる」
「云うまでもござらぬ剣道の試合も、いたしますでござりましょう」
「その試合じゃが逸見先生、尋常の試合ではござらぬぞ」
「と申してまさかに真剣の……」
「なんのなんの真剣など。……実は賭試合がいたしたいので」
「ナニ賭試合? これは面妖! 市井の無頼の剣術使いどもが、生活《くらし》のために致すような、そのような下等の賭試合など……」
「賭る物が異《ちが》ってござる」
「なるほど。で、賭物は?」
「拙者においては赤尾の林蔵!」
「赤尾の林蔵を? 赤尾の林蔵を? ふうん!」と云ったが多四郎は、じっと要介の顔を見詰めた。


「博徒ながらも林蔵は、拙者の剣道の弟子でござる」
 要介はそう云って意味ありそうに、多四郎の顔を熟視した。
「その林蔵をお賭になる。……では拙者は何者を?」
 いささか不安そうに多四郎は云って、これも要介を意味ありそうに見詰めた。
「高萩村の猪之松を、お賭下さらば本望でござる」
「彼は拙者の剣道の弟子……」
「で、彼をお賭け下され」
「賭けて勝負をして?」
「拙者が勝てば赤尾の林蔵を、関東一の貸元になすべく、高萩村の猪之松を、林蔵に臣事いたさせ下され」
「拙者が勝たば赤尾の林蔵を、高萩の猪之松に従わせ、猪之松をして関東一の……」
「大貸元にさせましょう」
「ははあそのための賭試合?」
「弟子は可愛いものでござる」
「なるほどな」と多四郎は云ったが、そのまま沈黙して考え込んでしまった。
 林蔵と猪之松とが常日頃から、勢力争いをしていることは、多四郎といえども知っていた。その争いが激甚となり、早晩力と力とをもって、正面衝突しなければなるまい――という所まで競り詰めて来ている。ということも伝聞していた。とはいえそのため秋山要介という、一大剣豪が現われて、師弟のつながりを縁にして、自分に試合を申し込み、その勝敗で二人の博徒の、勢力争いを解決しようなどと、そのような事件が起ころうなどとは、夢にも思いはしなかった。
(何ということだ!)と先ず思った。
(さてどうしたものだろう?)
 とは云え自分も弟子は可愛い、成ろうことなら林蔵を挫いて、猪之松を大貸元にしてやりたい。
(では)と思わざるを得なかった。
(では要介の申し込みに応じ、賭試合を行ない打ち勝ってやろう)
 腹が決まると堂々たるもので、逸見多四郎は毅然として云った。
「賭試合承知いたしてござる。しからば直ちに拙者屋敷に参り、道場においてお手合わせ、試合いたすでござりましょう」
「欣快」
 要介は立ち上った。
「杉氏、貴殿もおいでなされ」
 三人揃って部屋を出た。

 逸見多四郎家のここは道場。――
 竹刀《しない》ではない木刀であった。
 要介と多四郎とは構えていた。
 一本勝負!
 そう定められていた。
 二人ながら中段の構え!
 今、シ――ンと静かである。
 かかる試合に見物は無用と、通いの門弟も内門弟も、一切退けてのただ二人だけ! いや他に杉浪之助と、要介の訪問に応待に出た、先刻の若侍とが道場の隅に、つつましく控えて見守っていた。

10
 見霞むばかりの大道場、高く造られある正面は、師範の控える席であり、それに向かって左の板壁には、竹刀《しない》、木刀、槍、薙刀《なぎなた》、面、胴、籠手の道具類が、棚に整然と置かれてあり、左の板壁には段位を分けた、漆塗りの名札がかけてあった。
 塵もとどめぬ板敷は、から[#「から」に傍点]拭きされて鏡のように光り、おりから羽目板の隙間から、横射しに射して来た日の光りが、そこへ琥珀色の棒縞を織り、その空間の光の圏内に、ポッと立っている幽かな塵埃《ほこり》は、薄い煙か紗のようであった。
 互いに中段に位取って動かぬ、要介と多四郎は広い道場の、中央に居るところから、道場の端に腰板を背にして、端座している浪之助から見ると、人形のように小さく見えた。
 おおよそ六尺の間隔を保ち、互いに切先を相手の眉間へ、ピタリと差し付けて構えたまま、容易に動こうとはしなかった。
 道具を着けず木刀にての試合に、まさに真剣の立合いと、何の異なるところもなく、赤樫蛤刃《あかがしはまぐりは》の木刀は、そのまま真《まこと》の剣であり、名人の打った一打ちが、急所へ入らば致命傷、命を落とすか不具《ふぐ》になるか、二者一つに定《き》まっていた。
 とはいえ互いに怨みあっての、遺恨の試合というのではなく、互いの門弟を引っ立てようための義理と人情とにからまった、名人と名人との試合であった。自然態度に品位があり、無理に勝とうの邪心がなく、闘志の中に礼譲を持った、すがすがしい理想的の試合であった。
 今の時間にして二十分、構えたままで動かなかった。
 掛声一つかけようとしない。
 掛声にも三通りある。
 追い込んだ場合に掛ける声。相手が撃って出ようとする、その機を挫《くじ》いて掛ける声、一打ち打って勝利を得、しかも相手がその後に出でて、撃って来ようとする機を制し、打たせぬために掛ける声。
 この三通りの掛声がある。
 しかるに二人のこの試合、追い込み得べき機会などなく、撃って出ようとするような、隙を互いに見せ合わず、まして一打ち打ち勝つという、そういうことなどは絶対になかった。
 で、二人ながら掛声もかけず、同じ位置で同じ構えで、とはいえ決して居附きはせず、腹と腹との業比べ、眼と眼との睨み合い、呼吸と呼吸との抑え合い、一方が切先を泳がせれば、他の一方がグッと挫き、一方が業をかけようとすれば、他の一方が先々ノ先で、しかも気をもって刎ね返す、……それが自ずと木刀に伝わり、二本の木刀は命ある如く、絶えず幽かにしかし鋭く、上下に動き左右に揺れていた。
 更に長い時が経った。
 と、要介の右の足が、さながら磐石をも蹴破るてい[#「てい」に傍点]の、烈しさと強さと力とをもって、しかもゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]と充分に粘り、ソロリとばかり前へ出て、左足がそれに続いた。
 瞬間多四郎の左足が、ソロリとばかり後へ下り、右足がそれに続いた。
 で 間だ! 静止した。
 長い間! ……しかし……次の瞬間……ドドドドッという足音が響いた。

11
 奔流のように突き進む要介!
 追われて後へ退く多四郎!
 ドドドドッという二人の足音!
 見よ、その速さ、その鋭さ!
 あッ、多四郎は道場の端、板壁へまで追い詰められ、背中を板壁へあてたまま、もう退けない立ち縮んだ。
 その正面へ宛然《さながら》巨岩、立ちふさがったは要介であった。
 勝負あった!
 勝ちは要介!
 非ず、見よ、次の瞬間、多四郎の胸大きく波打ち、双肩渦高く盛り上ると見るや、ヌッと一足前へ出た。
 と、一足要介は下った。
 多四郎は二足ヌッと出た。
 要介は退いた。
 全く同じだ!
 ドドドドッという足音!
 突き進むは多四郎、退くは要介、たちまちにして形勢は一変し、今は要介押し返され、道場の破目板を背に負った。
 で、静止!
 しばらくの間!
 二本の剣が――木刀が、空を細かく細かく細かく、細かく細かく刻んでいる。
 多四郎勝ちか?
 追い詰め了《りょう》したか?
 否!
 ソロリと一足下った。
 追って要介が一足出た。
 粘りつ、ゆっくりと、鷺足さながら、ソロリ、ソロリ、ソロリ、ソロリと、二人は道場の中央まで出て来た。
 何ぞ変らざる姿勢と形勢と!
 全く以前と同じように、二人中段に構えたまま、見霞むばかりの大道場の、真中の辺りに人形のように小さく、寂然と立ち向かっているではないか。
 さすがに二人の面上には、流るる汗顎までしたたり、血上って顔色朱の如く、呼吸は荒くはずんでいた。
 窒息的なこの光景!
 なおつづく勝負であった。
 試合はつづけられて行かなければならない。
 が、忽然そのおりから、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秩父の郡《こおり》
小川村
逸見様庭の
桧の根
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 と、女の歌声が道場の外、庭の方から聞こえてきた。
「しばらく!」と途端に叫んだ要介、二間あまりスルスルと下ると、木刀を下げ耳を澄ました。
「…………」
 審かしそうに体を斜めに、しかし獲物は残心に、油断なく構えた逸見多四郎、
「いかがなされた、秋山氏?」
「あの歌声は? ……歌声の主は?」
「ここに控え居る東馬共々、数日前に、絹川において、某《それがし》釣魚《ちょうぎょ》いたせし際、古船に乗って正体失い、流れ来たった女がござった[#「ござった」は底本では「ごさった」]。……助けて屋敷へ連れ参ったが、ただ今の歌の主でござる」

12
「名は? 源女! お組の源女! ……と申しはいたしませぬか?」
「よくご存知、その通りじゃ」
「やっぱりそうか! そうでござったか! ……有難し、まさしく天の賜物! ……その女こそこの要介仔細ござって久しい前より、保護を加え養い居る者、過日上尾の街道附近で、見失い失望いたし居りましたが、貴殿お助け下されたか。……源女拙者にお渡し下され」
「ならぬ!」と多四郎ニベもなく云った。
「源女決して渡すことならぬ!」
「理由は? 理由は? 逸見氏?」
「理由は歌じゃ、源女の歌う歌じゃ!」
「…………」
「今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の……後にも数句ござったが、この歌を歌う源女という女子、拙者必要、必要でござる!」
「なるほど」と要介は頷いて云った。
「貴殿のお家に、逸見家に、因縁最も深き歌、その歌をうたう源女という女、なるほど必要ござろうのう……伝説にある埋もれたる黄金、それを掘り出すには屈竟の手蔓……」
「では貴殿におかれても?」
「御意、さればこそ源女をこれ迄……」
「と知ってはいよいよ源女という女子《おなご》、お渡しいたすことなりませぬ」
「さりながら本来拙者が保護して……」
「過ぐる日まではな。がその後、見失いましたは縁無き證拠。……助けて拙者手に入れたからは、今は拙者のものでござる」
「源女を手蔓に埋もれし黄金を、では貴殿にはお探しなさるお気か?」
「その通り、云うまでもござらぬ」
「では拙者の競争相手!」
「止むを得ませぬ、因縁でござろう」
「二重に怨みを結びましたな!」
「ナニ怨みを? 二重に怨みを?」
「今は怨みと申してよかろう! ……一つは門弟に関する怨み、その二は源女に関する怨み!」
「それとても止むを得ぬ儀」
「用心なされ逸見氏、拙者必ず源女を手に入れ、埋もれし黄金も手に入れましょう」
「出来ましたなら、おやりなされい!」
「用心なされ逸見氏、源女を手に入れ埋もれし黄金を、探し出だそうと企て居る者、二人以外にもござる程に!」
「二人以外に? 誰じゃそ奴?」
「貴殿の門弟、水品陣十郎!」
「おお陣十郎! おお彼奴《きゃつ》か! ……弟子ながらも稀代の使い手、しかも悪剣『逆ノ車』の、創始者にして恐ろしい奴。……彼奴の悪剣を破る業、見出だそうとこの日頃苦心していたが、彼奴が彼奴が源女と黄金を……」
「逸見氏、お暇申す」
「勝負は? 秋山氏、今日の勝負は?」
「アッハハ、後日真剣で!」

因果な恋


 高萩村の村外れに、秩父|香具師《やし》の部落があり、「|刃ノ郷《やいばのごう》」と称していた。三十軒ほどの人家があり、女や子供や老人などを入れ、百五十人ほどの半農半香具師が、一致団結して住んでいた。
 郷に一朝事が起こり、合図《しらせ》の竹法螺がボーッと鳴ると、一切の仕事を差し置いて、集まるということになっていた。
 弁三爺さんという香具師の家は、この郷の片隅にあった。
 茅葺の屋根、槇の生垣、小広い前庭と裏の庭、主屋、物置、納屋等々、一般の農家と変わりのない家作、――ただし床ノ間に鳥銃一挺、そうして壁に半弓一張、そういう武器が懸けてあるのは、本来が野士といって武士の名残――わけても秩父香具師は源氏の正統、悪源太義平から来ていると、自他共に信じているそれだけあって、普通の農家と異《ちが》っていた。
 秋山要介と逸見多四郎とが、多四郎の道場で、木刀を交した、その日から数日経過したある日の、こころよく晴れた綺麗な午後、ここの庭に柿の葉が散っていた。
 その葉の散るのをうるさ[#「うるさ」に傍点]そうに払って、お妻が庭へ入って来た。
「いい天気ね、弁三爺さん」
 母屋の縁側に円座を敷き、その上に坐って憂鬱の顔をし、膏薬を練っていた弁三爺さんは、そう云われてお妻の顔を見た。
「よいお天気でございますとも……へい、さようで、よいお天気で」
 ――そこで又ムッツリと家伝の膏薬を、節立った手で練り出した。
 お妻は眉をひそめて見せたが、
「日和が続いていい気持だのに、爺つぁんはいつも不機嫌そうね」
「へい、不機嫌でございますとも、倅が江戸へ出て行ったまま、帰って来ないのでございますからな」
「またそれをお云いなのかえ。ナーニそのうち帰って来るよ」とは云ったものの殺された倅、弁太郎が何で帰るものかと、心の中で思っているのであった。
(あの人を殺したのは陣十郎だし、殺すように進めたのは妾だったっけ)
 こう思えばさすがに厭な気がした。
 まだお妻がそんな邯鄲師《かんたんし》などにならず、この郷に平凡にくらしていた頃から、弁太郎はひどくお妻を恋し、つけつ[#「つけつ」に傍点]廻しつして口説いたものであった。その後お妻は故郷を出て、今のような身の上になってしまった。と、ヒョッコリ[#「ヒョッコリ」は底本では「ヒョッコり」]弁太郎が、膏薬売となって江戸へ出て来、バッタリお妻と顔を合わせた。爾来弁太郎は附き纏い、長い間の恋を遂げようとし、お妻の現在の身分も探ぐり、恋遂げさせねば官に訴え、女邯鄲師として縄目の恥を、与えようなどと脅迫さえした。お妻は内心セセラ笑ったが、うるさいから眠らせてしまおうよ、こう思って情夫の陣十郎へケシカケ、一夜お茶ノ水へ引っ張り出し、一刀に切らせてしまったのであった。
 杉浪之助が源女の小屋から、自宅へ帰る途中《みちすが》らに見た、香具師の死骸は弁太郎なのであった。
「爺つぁん、主水さんのご機嫌はどう?」お妻は話を横へそらせた。


「あのお方もご機嫌が悪そうで」
 弁三はそう云って俯向いて、物憂そうに膏薬を練った。
「出て行きたそうなご様子はないかえ?」
「出て行きたそうでございますなあ」
「出て行かしちゃアいけないよ」
「というお前さんの云いつけだから、せいぜい用心しては居りますがね」
「行かせたらあたしゃア承知しないよ」
 剃刀《かみそり》のような眼でジロリと見た。
「手に合わなけりゃア仕方がねえ、ボーッと竹法螺吹くばかりだ」
「と、村中の出口々々が、固められるから大丈夫だねえ。でもそういった大袈裟なこと、あたしゃアしたくはないのだよ」
「ご尤《もっと》もさまでございます」
「どれご機嫌を見て来よう」
 腰かけていた縁から立って、お妻は裏の方へ廻って行った。
(凄い女になったものさな)
 お妻の後を見送りながら、そう弁三爺さんは思った。
 以前この郷に居た時分は、度胸こそあったが可愛いい無邪気な綺麗な娘っ子に過ぎなくて、この家などへもノベツに来て、お爺さんお爺さんと懐かしがってくれたお妻、それがどうだろう陣十郎とかいう浪人者と手をたずさえて、今度やって来た彼女を見れば、縹緻も上ったがそれより何より、人間がすっかり異《ちが》ってしまっていて、腕には刺青眼には殺気、心には毒を貯えていて、人殺しぐらいしかねまじい姐御、だいそれた[#「だいそれた」に傍点]女になっているではないか。
(陣十郎とかいうお侍さん、随分怖そうなお侍さんだが、あんな人の眼をこっそり盗んで、鴫澤主水《しぎさわもんど》とかいうお侍さんを、こんな所へ隠匿《かくま》うなんて……血腥さい[#「血腥さい」は底本では「血醒さい」]事件でも起こらなけりゃアいいが)
 これを思うと弁三爺さんは、不安で恐ろしくてならなかった。
 数日前のことであった、そのお侍さんを駕籠に乗せて、宵にこっそりやって来て、
「このお侍さんを隠匿っておくれ、村の者へも陣十郎さんへも、誰にも秘密《ないしょ》で隠匿っておくれ、昔馴染みのお前さんのとこより、他には隠し場所がないんだからねえ」
 こうお妻が余儀なげに云った。
 見ればどうやらお侍さんは、半分死んででもいるように、気息奄々憔衰していた。
「へい、それではともかくも……」
 こう云って弁三は引き受けた。
 と、翌日から毎日のように、お妻はやって来て介抱した。
(どういう素性のお侍さんなのかな?)
(お妻さんとの関係はどうなんだろう?)
 解《わか》らなかったが不安であった。
 婆さんには死に別れ、たった一人の倅の弁太郎は江戸に出たまま帰って来ない。ただでさえ不安で小寂しいところへ、そんなお侍さんをあずかったのである。
 弁三爺さんは憂鬱であった。
 黙々と膏薬を練って行く。
 ヒョイと生垣の向こうを見た。
「あッ」と思わず声をあげた。
 陣十郎が蒼白い顔を、気味悪く歪めて生垣越しに、じっとこっちを見ているではないか。
(さあ大変! さあ事だ!)


「おい」と陣十郎は小声で呼んだ。
「おい爺《とっ》つぁん、ちょっと来てくんな」
 生垣越しに小手招きした。
 裏の座敷にはお妻がいるはずだ。
「へい」とも返辞が出来なかった。
 顫えの起こった痩せた体を、で弁三はヒョロヒョロと立たせ、庭下駄を穿くのもやっとこさで、陣十郎の方へ小走って行った。
 生垣を出ると村道である。
 と、陣十郎がしゃがみ[#「しゃがみ」に傍点]込んだので、向かい合って弁三もしゃがみ込み、
「へ、へい、これは水品様……」
「爺つぁん、お妻が来たようだね」
「オ、お妻さんが……へい……いいえ」
「へい、いいえとはおかしいな。へい[#「へい」に傍点]なのか、いいえ[#「いいえ」に傍点]なのか?」
「へい……いいえ……いいえなので」
「とすると俺の眼違いかな」
「………」
「恰好がお妻に似ていたが……」
「…………」
「ナーニの、俺ら家を出てよ、親分の家へ行こうとすると、鼻っ先を女が行くじゃアないか。滅法粋な後ろ姿さ。悪くねえなア誰だろうと、よくよく見ると俺の女房さ。アッ、ハッハッそうだったか、女房とあっては珍しくねえ、と思ったがうち[#「うち」に傍点]の女房ども、どちらへお出かけかとつけて[#「つけて」に傍点]来ると、お前の家へ入ったというものさ」
「へ、へい、さようで、それはそれは……」
「それはそれはでなくて、これはこれはさ。これはこれはとばかり驚いて、しばらく立って見ていたが、裏の方へ廻って行ったので、爺つぁんお前をよんだわけさ」
「へ、へい、さようでございますかな」
「裏にゃア何があるんだい?」
「へい、庭と生垣と……」
「それから雪隠と座敷とだろう」
「へい、裏座敷はございます」
「その座敷にだが居る奴はだれだ!」
「ワーッ! ……いいえ、どなた様も……」
「居ねえ所へ行ったのかよ」
「ナ、何でございますかな?」
「誰もいねえ裏座敷へ、俺の女房は入って行ったのか?」
「…………」
「犬か!」
「へ?」
「雄の犬か!」
「滅相もない」
「じゃア何だ!」
「…………」
「云わねえな、利いていると見える、お妻のくらわせた鼻薬が……」
「水品様、まあそんな……そんな卑しい弁三では……」
「ないというのか、こりゃア面白い、媾曳宿《あいびきやど》に座敷を貸して、鼻薬を貰わねえ上品な爺《おやじ》――あるというならこりゃア面白い! 貰った貰った鼻薬は貰った。そこでひし[#「ひし」に傍点]隠しに隠しているのだ! ……ヨーシそれならこっちの鼻薬、うんと利くやつを飲ませてやる」
 トンと刀の柄を叩いた。
「鍛えは関、銘は孫六、随分人を切ったから、二所ばかり刃こぼれがある、抜いて口からズーッと腹まで! ……」
 ヌッと陣十郎は立ち上り、グッと鯉口を指で切った。


 古びた畳、煤けた天井、雨もりの跡のある茶色の襖。裏座敷は薄暗く貧しそうであった。
 江戸土産の錦絵を張った、枕屏風を横に立てて、褥《しとね》の上に坐っているのは、蒼い頬、削けた顎、こればかりは熱を持って光っている眼、そういう姿の主水であった。
「心身とも恢復いたしました。もう大丈夫でございます」
 そんな姿でありながら、そうして声など力がないくせに、そう主水は元気ありそうに云った。
「そろそろ発足いたしませねば……」
「さあご恢復なさいましたかしら」
 高過ぎる程高い鼻、これだけが欠点といえば欠点と云え、その他は仇っぽくて美しい顔へ、意味ありそうな微笑を浮かべ、流眄《ながしめ》に主水を眺めながら、前に坐っているお妻は云った。
「ご恢復とあってはお父様の敵《かたき》、お討ちにならねばなりませんのねえ」
「はいそれに誘拐《かどわか》されました妹の、行方を尋ね取り戻さねば……」
「そうそう、そうでございましたわねえ」
 お妻はまたも微笑したが、
「そのお妹御の澄江《すみえ》様、まことは実のお妹御ではなく、お許婚《いいなずけ》の方でございましたのね」
 そう云った時お妻の眼へ、嫉妬《ねた》ましさを雑えた冷笑のようなものが、影のようにチラリと射した。
「はい」と主水は素直に云った。
「とはいえ永らく兄妹として、同じ家に育って参りましたから、やはり実の妹のように……」
「さあどんなものでございましょうか」
 云い云い髪へ手をやって、簪《かんざし》で鬢の横を掻いた。
「お許婚の方をお連れになり、敵討の旅枕、ホ、ホ、ホ、お芝居のようで、いっそお羨《うらやま》しゅうございますこと……」
 主水は不快な顔をしたが、グッと抑えてさりげなく[#「さりげなく」に傍点]、
「その妹儀あれ以来、どこへ連れられ行かれましたか……思えば不愍……どうでも探して……」
「不愍は妾もでございますよ」
 お妻の口調が邪見になり、疳を亢ぶらせた調子となった。
「人の心もご存知なく……妾の前でお許婚の、お噂ばかり不愍とやら、探そうとやら何とやら、お気の強いことでございます」
 グッと手を延ばすと膝の前にあった、冷えた渋茶の茶碗を取り、一口に飲んでカチリと置いた。
「妾の心もご存知なく!」
 西陽が障子に射していて、時々そこへ鳥影がさした。
 生垣の向こう、手近の野良で、耕しながらの娘であろう、野良歌うたうのが聞こえてきた。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]|背戸《せと》を出たればナー
よいお月夜で
様《さま》の頬冠《ほおかむ》ナー
白々と
[#ここで字下げ終わり]
 二人はしばらく黙っていた。
 と、不意に怨ずるように、お妻が熱のある声で云った。
「ただに酔興で貴郎様を、何であの時お助けしましょうぞ。……その後もここにお隠匿《かくま》いし、何の酔興でご介抱しましょう。……心に想いがあるからでござんす」


 主水は当惑と多少の不快、そういう感情をチラリと見せた。
 が、お妻はそんなようにされても、手を引くような女ではなく、
「あの際お助けしなかろうものなら、陣十郎が立ち戻り、正気を失っている貴郎様を、討ち取ったことでござりましょうよ。……恩にかけるではござりませぬが、かけてもよいはずの妾《わたし》の手柄、没義道《もぎどう》になされずにねえ主水様……」
「あなた様のお心持、よう解っては居りまするが、……そうしてお助け下されました、ご恩の程も身にしみじみと有難く存じては居りまするが……」
 そう、主水はお妻の云う通り、あの日陣十郎を追って行き、疲労困憊極まって、鎮守の森で気絶した時、お妻の助けを得なかったなら、後にて聞けば陣十郎が、森へ立ち戻って来たとはいうし、その陣十郎のために刃の錆とされ、今に命は無かったろう。だからお妻は命の恩人と、心から感謝はしているのであり、そのお妻が来る度毎に、それとなく、いやいや、時には露骨に、自分に対して恋慕の情を、暗示したり告げたり訴えたりした。でお妻が自分を助けた意味も、とうに解ってはいるのであった。
 さりとてそのため何でお妻と、不義であり不倫であり背徳である関係、それに入ることが出来ようぞ!
「主水様」とお妻は云った。
「あなた様にはまだこの妾《わたし》が陣十郎の寵女《おもいもの》、陣十郎の情婦《いろおんな》、それゆえ心許されぬと、お思い遊ばして居られますのね」
 下から顔を覗かせて、主水の顔色を窺った。
「いかにも」と主水は苦しそうに云った。
「それを思わずに居られましょうか。……討ち取らねばならぬ父の敵《かたき》! 陣十郎の寵女、お妻殿がそれだと知りましては、心許されぬはともかくも、何で貴女《あなた》様のお志に……」
「従うことなりませぬか」
「不倶戴天の[#「不倶戴天の」は底本では「不具戴天の」]敵の情婦に……」
「では何でおめおめ助けられました」
「助けられたは知らぬ間のこと……」
「では何で介抱されました……」
 答えることが出来なかった。思われるはただ機を失した! 機を失したということであった。
 助けられたその翌日、訊ねられるままにお妻に対し、主水は姓名から素性から、その日の出来事から敵討のことから、敵の名さえ打ち明けた。
 と、お妻は驚いたように、主水の顔を見詰めたが、やがて自分が陣十郎の情婦、お妻であることを打ち明けた。
 これを聞いた時の主水の驚き!
 同時に思ったことといえば、
(助けられなければよかったものを!)
 ――というそういうことであり、直ぐにも立ち退こうということであった。


(直ぐに立ち退いたらよかったものを)
 今も主水《もんど》はこう思っている。
 立ち退こうとその時云いはした。
 と、お妻が止めて云った。
「ここは高麗郡《こまごおり》の高萩村、博徒の縄張は猪之松という男、陣十郎の親分でござんす。十町とは歩けなさるまい、そのように弱っているお体で、うかうか外へ出ようものなら、手近に陣十郎は居りまするし、猪之松親分の乾兒《こぶん》も居り、貴郎《あなた》様にはすぐに露見、捕らえられて嬲り殺し! ……ご発足など出来ますものか」
 しかし主水としては敵の情婦に、介抱なんどされること、一分立たずと思われたので、無理にも立とうと云い張った。
 と、お妻は嘲笑うように云った。
「ここは『|刃ノ郷《やいばのごう》』と申し、高萩村でも別趣の土地、秩父香具師の里でござんす。住民一致して居りまして、事ある時には竹法螺を吹く。と、人々出で合って、村の入口出口を固め、入る者を拒み出る人を遮る。妾《わたし》もこの郷の女香具師の一人、いいえ貴郎様は発足《た》たせませぬ! 無理にお発足ちと有仰《おっしゃ》るなら、竹法螺吹いて止めるでござんしょう」
 もう発足つことは出来なかった。
 こうして今日まで心ならずも、介抱を受けて来たのであって、無理に受けさせられた介抱ではあるが、敵の情婦と知りながら、介抱を受けたには相違なく、で、それを口にされては、返す言葉がないのであった。
(直ぐに立ち退けばよかったのだ! 機を失した! 機を失した!)
 このことばかりが口惜まれるのであった。
 二人はしばらく黙ったままで――主水は俯向いて膝を見詰め、お妻はそういう主水の横顔を、むさぼるように見守っていた。
「それにいたしましても何と云ってよいか、あなたにとりましてはこの主水。敵の片割ともいうべきを、そのようにお慕い下さるとは……」
 途切れ途切れの言葉つきで、やがて主水はそんなように云った。
「さよう、敵の片割でござる。あなたの愛人水品陣十郎を、敵と狙う拙者故……」
「悪縁なのでござりましょうよ」
 そうお妻も言葉を詰らせ、ともすると途切れそうな言葉つきで云った。
「因果な恋なのでござりましょうよ……あの日、あの時、鎮守の森で、死んだかのように可哀そうに、憐れなご様子で草を褥《しとね》に、倒れておいでなさいましたお姿、それを見ました時どうしたものか、妾はそれこそ産れてはじめての、――本当の恋なのでございましょうねえ……そういう思いにとらえられ……まあ恥かしい同じ仲間の、たくさんの郷の人達が、側にいたのに臆面もなく、あたしゃアこのお方をご介抱するよと、ここへお連れして参りましたが……因果の恋なのでござりましょうねえ。……それにもう一つには妾にとりまして、あの水品陣十郎という男、本当の恋しい男でなく、愛する男でもありませぬ故と……そうも思われるのでござります」


「お妻殿!」とやや鋭く、やや怒った言葉つきで、咎めるように主水は云った。
「いかに拙者に恋慕の情をお運びになるあなたとはいえ、現在の恋人をあからさまに、恋せぬなどと仰せらるるは……そういうお心持でござるなら、拙者に飽きた暁には、又他の情夫に同じように、拙者の悪口を仰せられましょう……頼み甲斐なき薄情! ……」
「いいえ、何の、主水様、それには訳が、たくさん訳が……」
 あわてて云ったもののそれ以上、お妻は云うことは出来なかった。
 自分が女賊で、女邯鄲師《おんなかんたんし》で、平塚の宿の一夜泊り、その明け方に同宿の武士、陣十郎の胴巻を探り、奪おうとして陣十郎のため、かえって取って押えられ、それを悪縁に爾来ずっと、情夫情婦の仲となり今日まで続いて居るなどとは、さすが悪女の彼女としても、口へ出すことが出来なくて、自分はこの郷の香具師の娘、陣十郎に誘惑され、情婦となって江戸や甲州を、連れ廻されたとそんなように、主水には話して置いたのであった。
 女邯鄲師としての悪事の手證を、押えられたための情夫情婦、それゆえ本当の恋ではないと、こう云い訳出来ぬ以上は、そう主水に咎められても、どう弁解しようもなく、お妻は口籠ってしまったのであった。
 が、お妻はニッと笑い、もっともらしくやがて云った。
「妾の前に陣十郎には、情婦《おんな》があったのでござります。江戸両国の女芸人、独楽廻しの源女という女、これが情婦でござりまして、諸所方々を連れ歩いたと、現在の情婦の妾の前で、手柄かのように物語るばかりか、貴郎《あなた》様のお許婚《いいなずけ》の澄江様にも……」
「澄江にも! うむ、陣十郎め!」

「横恋慕の手をのばし……」
「いかにも……悪虐! ……陣十郎……」
「あの夜澄江様を誘拐《かどわか》し、しかも妾という人間を、下谷の料亭常磐などに[#「常磐などに」は底本では「常盤などに」]待たせ……さて首尾よく澄江様を、連れ出すことが出来ましたら、妾を秋の扇と捨て、澄江様を妾の代わりに……」
「何の彼如き鬼畜の痴者に、妹を、妹を渡してなろうか?」
「そういう男でござります。そういう男の陣十郎を、何で妾ひとりだけが……先が先ならこっちもこっち……主水様! 今は貴郎様へ!」
「それにいたしても、妹澄江は……」
「お許婚の澄江様は……」
「上尾街道のあの修羅場で、馬方博徒数名の者に、担がれ行かれたと人の噂……」
「人の噂で聞きましたなア……さあそのお許婚の澄江様……澄江様のお噂さえ出れば、眼の色変えてお騒ぎになられる」
「妹であれば当然至極!」
「可愛い可愛いお許婚なりゃ、脳乱[#「脳乱」はママ]遊ばすもごもっとも? ホ、ホ、ホ、その澄江様、どうで担いだ人間が、馬方博徒のあぶれ者なら? ……」
 しかしその時表の庭の、方角にあたって云い争う、男の声が聞こえてきた。
「や、あの声は?」
「おおあの声は」
 二人ながら森《しん》と耳を澄ました。

 陣十郎は弁三を突きのけ、村道から境の生垣を越え、表の庭へ入って行った。
「云い古されたセリフだが、俺の遣る金鼻薬は、小判じゃアねえドスだ延金だアッハハ、驚いたか望みならば――ズバッと抜いて、先刻も云った口から腹まで、差し込んでやろうどうだ、どうだ?」
 なお止める弁三を突きまくり、陣十郎はグングン歩いた。


「ままにしやアがれ!」
 不意に弁三は、年は取っても秩父香具師――兇暴の香具師の本性を現わし、猛然と吼え競い立った。
「裏座敷にゃア誰もいねえ! とこう一旦云ったからにゃア、俺も秩父香具師の弁三だ、あくまでも居ねえで通して見せる! 汝《うぬ》は何だ、え汝は? 馬の骨か牛の骨か、どこの者とも素性の知れねえ、痩せ浪人の身分をもって『刃ノ郷』の俺らの仲間、お妻ッ娘と馴れ合ったのさえ、胸糞悪く思っているのにここら辺りを立ち廻り、博徒の用心棒、自慢にもならねえヤクザの身を、変にひけらかせ[#「ひけらかせ」に傍点]て大口を叩き、先祖代々素性正しく、定住している俺達へ、主人かのように振る舞い居る! ナニ刀だ! 抜いて切るって! おお面白い切られよう、が手前が切る前に、こっちもこっちで手前の体へ」
 喚くと陣十郎へ背中を向け、庭を突っ切り縁へ駈け上り、座敷へ飛び込むと床の間にある、鳥銃を抱えて走り出で、縁に突っ立ち狙いを定めた。
「秩父の山にゃア熊や狼が、ソロソロ冬も近付いて来た、餌がねえと吼えながら、ウロウロ歩いているだろう。狙い撃ちにして撃ち殺し、熊なら胸を裂き肝を取り、皮を剥いで足に敷く、秩父香具師の役得だア。手練れた鉄砲にゃア狂いはねえ! 野郎来やがれ、切り込んで来い! 定九郎じゃアねえが二ツ弾、胸にくらって血へど[#「へど」に傍点]を吐き、汝それ前にくたばるぞよ! 来やアがれ――ッ」とまくし[#「まくし」に傍点]立て、まくし立てながらも手に入った早業、いつか火縄に火を付けていた。
「待て待て爺《おやじ》」と周章狼狽、陣十郎は胆を冷し、生垣の際まで後退った。
「気が短いぞ、コレ待て待て! ……鉄砲か、ウーン、こいつ敵《かな》わぬ……」
 まさか撃つまい嚇しであろう、そうは思っても気味が悪く、見ればいやいや嚇しばかりでなく、こっちを睨んでいる弁三の眼に、憎悪と憤怒と敵愾心とが、火のように燃えていた。
 ゾッと感ずるものがあった。
(いつぞやお妻に聞いたことがあった、いつぞやお茶ノ水の森の中で、お妻に頼まれて殺生ながら、叩っ切って殺した弁太郎という男、秩父香具師の膏薬売、弁三という老人の、失った一人の倅であると! おおそうだったこの弁三が、殺した弁太郎の父親だった。……下手人が俺だということなど、まさかに知っては居るまいが、親子の血がさせる不思議の業、この世には数々ある、何となく弁三爺の心に、俺を憎しむ心持が、深く涌いていないものでもない。もしそうなら撃つぞ本当に!)
 ゾッと感ずるものがあった。
 そこでいよいよ後退りし、小門の方へ後ざまに辿り、
「解った、よし裏座敷には、誰もいない、犬さえ居ない! よし解った、そうともそうとも! ……誰がいるものか、居ない居ない! ……居れば! 居れば悪いが……それもよろしい、居ない居ない! ……そこで帰る、撃つな撃つな! ええ何だ鉄砲なんど……恐ろしいものか、ちと怖いが……馬鹿!」と一喝! がその時には、既に村道へ遁れ出ていた。

生贄の女


 同じその日のことである。――
 高萩村の博徒の親分、猪之松の家は賑わっていた。
 馬大尽事井上嘉門様を、ご招待して大盤振舞いをする――というので賑わっているのであった。
 博徒とはいっても大親分、猪之松の家は堂々たるもので、先はお屋敷と云ってよく、土蔵二棟に離座敷、裏庭などは数奇《すき》を凝らした一流の料亭のそれのようであり、屋敷の周囲には土塀さえ巡らし、所の名主甚兵衛様より、屋敷は立派だと云われていた。内緒も裕福で有名であったが、これは金方が附いているからで、その金方が井上嘉門様だと、多くの人々は噂して居、噂は単なる噂ばかりでなく、事実それに相違なかった。
 猪之松という人間が、博徒のようになく人品高尚で、態度も上品で悠然としてい、お殿様めいたところがあり――だからどこか物々しく、厭味の所はあったけれど、起居動作はおちついている、行儀作法も法に叶っている、貴人の前へ出したところで、見劣りがしないところから、自然上流との交際が出来、そこで井上嘉門などという、大金持の大旦那に、愛顧され贔屓にされるのであった。
 金方の井上嘉門様を、ご招待するというのであるから、その物々しさも一通りでなく、上尾宿からは茶屋女の、気の利いたところを幾人か呼び、酒肴給仕に従わせ、村からも渋皮の剥けた娘――村嬢《そんじょう》の美《よ》いところを幾人か連れて来、酒宴の席へ侍らせたり、これも上尾の宿から呼んだ、常磐津《ときわず》の[#「常磐津《ときわず》の」は底本では「常盤津《ときわず》の」]女師匠や、折から同じ宿にかかっていた、江戸の芝居の役者の中、綺麗な女形の色若衆を、無理に頼んで三人ほど来させ、舞など舞わせる寸法にしてあった。
 田舎の料理は食われない――と云ったところで上尾も田舎、とは云え勿論高萩村より、いくらか都会というところから、料理は上尾からことごとく取った。
 兄弟分はいうまでもなく、主立った乾児幾十人となく、入れ代わり立ち代わり伺候して[#「伺候して」は底本では「仕候して」]、嘉門様からお流れ頂戴、お盃をいただいたりした。
 嘉門は午後《ひる》からやって来て、今は夜、夜になっても、仲々去らず、去らせようともせず、奥の座敷の酒宴の席は、涌き立つように賑わってい、高張を二張り門に立てて、砂を敷き盛砂さえした、玄関――さよう猪之松の家は、格子づくりというような、町家づくりのそれでなく、大門構え玄関附、そういった武家風の屋敷であったが、その玄関を夜になった今も、間断なく客が出入りして、ここも随分賑かであり、裏へ廻ると料理場、お勝手、ここは一層の賑かさで、その上素晴らしい好景気で、四斗樽が二つも抜いてあり、酒好きの手合いは遠慮会釈なく、冷をあおっては大口を叩き、立働きの女衆へ、洒落冗談を並べていた。
 陽気で派手でお祭り気分で、ワーッといったような雰囲気であった。
 その勝手元へ姿を現わしたのは、浮かない顔をした陣十郎であった。
「これはいらっしゃい水品先生、こんなに遅くどうしたんですい?」
 こう云って声をかけたのは、猪之松にとっては一の乾分――上尾街道で浪之助などに追われ、逃げ廻る弱者の峯吉ではなく――角力上り閂《かんぬき》峰吉であった。
「遅いか早いかそんなことは知らぬ。陽気だな、これは結構」どこかで飲んで来たらしく、陣十郎は酔っていたが、凄い据わった血走った眼で、ジロジロ四辺《あたり》を見廻わしながら、上ろうともせず随分邪魔な、上框《あがりかまち》へデンと腰かけ、片足を膝の上へヒョイとのっけ、楊子で前歯をせせり出した。


(ご機嫌が悪いぞ、あぶないあぶない)
 酒癖の悪いのを承知の一同、あぶないあぶないと警戒するように、互いに顔を見合わせたが、こんな時にはご自慢の情婦《おんな》――お妻を褒めるに越したことはないと、唐子の音吉というお先ッ走りの乾児が、
「姐御、どっこい、奥様だったっけ、奥様お見えになりませんが、一体全体どうしたんで、こんな時にこそご出張を願って、あの綺麗で粋なご様子で、お座敷の方を手伝っていただき、愛嬌を振り蒔いていただけば、嘉門様だって大喜び、親分だって大恭悦、ということになるんですがねえ。それが昼から夜にかけて、一度もお見えにならねえなんて……一体全体奥様は……」
「奥様? ふん、誰のことだ!」
 ギラリと陣十郎は音吉を睨み、
「奥様、ふふん、どいつのことだ!」
「どいつッて、そりゃ、お妻さんのこと……」
「枕探し! ……あいつのことか!」
「え? 何ですって、こいつアひでえや」
 ヒヤリとして音吉は首を縮めた。
 勿論音吉をはじめとして、乾児一同お妻のことを、どうせ只者じゃアありゃアしない。枕探し、女|邯鄲師《かんたんし》、そんなようには薄々のところ、実は推していたようなものの、亭主――情夫――陣十郎の口から、今のようにあからさまに云われては、ヒヤリとせざるを得なかった。
「何を云うんですい、水品先生」
「何とは何だ、これ何とは! ……枕探しだから枕探し、こう云ったに何が悪い。いずれは亭主の寝首を掻く奴! ……そんな女でも奥様か!」
「ワ――ッ、不可《いけ》ねえ、何を仰有るんで、……奥様で悪かったら奥方様……」
「出ろ! 貴様! 前へ出ろ!」
 勝手元一杯に漲っていた、明るい燈火《ひ》がカッと一瞬間、一所へ集まり閃めいた。
 見れば陣十郎の右の手に、抜かれた白刃が持たれていた。
 バタバタと女達は奥の方へ逃げた。
「アッハハハ」と陣十郎は、不意に気味悪く笑い出した。
「ある時には関の孫六、ある時には三条小鍛冶、ある時には波の平! 時と場合でこの刀、素晴らしい銘をつけられるが、ナーニ本性は越前|直安《ただやす》、二流どころの刀なのさ。……が、切れるぞ、俺が切れば! ……千里の駒も乗手がヤクザで、手綱さばきが悪かろうものなら、駄馬ほどにも役立たぬ。……名刀であろうとナマクラが持てば、刀までがナマクラになる。……それに反して名人が持てば、切れるぞ切れるぞ――ズンと切れる! ……嘘と思わば切って見せる! ……どいつでもいい前へ出ろ!」
 云い云い四方を睨み廻した。
 山毛戸《やまかいど》の源太郎、中新田の源七、玉川の権太郎、閂峰吉、錚々《そうそう》たる猪之松の乾児達が、首を揃えて集まってはいたが、狂人《きちがい》に刃物のそれよりも悪く、酒乱の陣十郎に抜身を持たれ、振り廻されようとしているのであった。首を縮め帆立尻《ほたてじり》をし、ジリジリと[#「ジリジリと」は底本では「ヂリヂリと」]後へ退《さが》りながら、息を呑み眼を見張り、素破《すわ》と云わば飛んで逃げようと、用心をして構えていた。


「アッハハハ」
 と陣十郎は、また気味の悪い笑声を立てた。
「切る奴は他にある、汝《おのれ》らは切らぬ、安心せい……鴫澤主水《しぎさわもんど》を探し出し、ただ一刀に返り討ち! 婦《おんな》、お妻を引きずり出し、主水ともども二太刀で為止《しと》める。……久しく血を吸わぬ越前直安、間もなく存分に血を吸わせてやるぞ!」
 燈火《ともしび》に反射してテラテラ光る、ネットリとした刀身を、じっと睨んで呟くように云ったが、
「汝ら解るか男の心が? 己を殺そうとして付け廻している、敵《かたき》を持っている男の心が」
 乾児達の方を振り返った。
「へい」と云ったのは閂峰吉で、
「さぞまア気味の悪いことで、いやアなものでございましょうなあ」
「討たれまいとして逃げ廻る。いやなものだぞ、いやなものだぞ」
「いやアなものでござりましょうなあ」
「が、一面快い」
「…………」
「討て、小童《こわっぱ》、探し出して討て! が俺は逃げて逃げて、決して汝には討たれてやらぬ。……こう決心して逃げ廻る心、快いぞ快いぞ」
「そんなものでございますかなあ」
「とはいえ厭アな気持のものだ。討つ方の心は一所懸命、命を捨ててかかっている。討たれる方は討たれまいとして、命を惜しんで逃げ廻る。心組みが全く別だ。討つ方には用心はいらぬ。討とう討とうと一向だ。討たれる方は用心ばかりだ。……用心をしても用心をしてもいずれは人間油断も隙もあろう、そこを狙われて討たれるかもしれぬ! この恐怖心、厭アなものだぞ」
「へい、さようでございましょうなあ」
 突然立ち上ると陣十郎は、刀をグ――ッと中段につけ、両肘を縮め肩を低めたが、
「今迄の俺がそうだった! 討たれる者、逃げ廻る者、今迄の俺はそうだった! 剣法で云えばこの構えだ! ……が俺は一変した!」
 こう沈痛に声を絞ると、俄然刀を大上段に冠った。
「大上段、積極的の構え! 俺は今日からこっちで向かう! 俺の方から敵を探し、返り討ちにかけてやる! それにしても汝ら卑屈だぞ! 俺が鴫澤主水という敵に、付け廻されているということを、心の中では知っていながら、おくびにも出そうとしないではないか! そうであろうがな! そうであろうがな!」
 刀を大上段に振り冠ったまま、陣十郎は憎さげに叫んだ。
 乾児達は顔を見合わせた。
 それに相違ないからであった。
 過ぐる日上尾の街道で、赤尾の林蔵にいどまれ[#「いどまれ」に傍点]て、こっちの親分が引きもならず、真剣勝負をした際に、鴫澤主水とその妹の、澄江とかいう娘とが、親の敵を討つと宣《なの》って、水品陣十郎を襲ったが、討ちもせず、討たれもせず、主水という武士は行方不明、澄江という娘は博労達に、どこかへ担がれて行ってしまったと、その時こっちの親分に従《つ》いて、その修羅場にいた八五郎の口から、乾児達は詳しく話されて、そういう事情は知っていた。そればかりでなくその日以来、それ迄はほとんど毎日のように、ここの家へやって来て、乾分達へ剣術を教えたり、ゴロゴロしていた陣十郎が、姿をあまり見せなくなり、なお噂による時は、これ迄ずっと住んでいた家――この村の外れにあるお妻の実家へも、住まないばかりか余り立ち寄らず、ひたすら主水兄妹によって、探し出されることを恐れていると、そういうことも聞き知っていた。


 そうして知って居りながら、知って居るとも知らないとも、事実おくび[#「おくび」に傍点]にも出さなかった。というのは事が事であるからで、それにそういう次第なら、あっし[#「あっし」に傍点]達が味方をいたしますから、主水兄妹を探し出し、返り討ちにしておしまいなせえと、こんなことを云うには陣十郎の剣技が、余りにも勝れて居る、といって主水兄妹に、器用に討たれておやりなせえとは、なおさら云えた義理でなく、それで黙っていたのであった。
 で、乾児達は顔を見合わせた。
 と不意に陣十郎は、振り冠っていた燈《ひ》に光る刀を、ダラリと力なく下げたかと思うと、にわかに疑わしそうに寂しそうに、むしろ恐怖に堪えられないかのように、ウロウロとした眼付をして、勝手元に、乾児達の中に、主水が居りはしないだろうかと、それを疑ってでもいるかのように、一人々々の顔を見たが、
「疑心! こいつが不可《いけ》ないのだ! こいつから起こるのだ、弱気がよ! ……と、守勢、こいつになる!」再び中段に刀を構えた。「こいつが守勢、守勢になると、かえって命は守られぬ。……それよりも、守勢の弱気になると、ヒッヒッヒッ、情婦《おんな》にさえ、嘗められ裏切られてしまうのさ! ……そこでこいつだ積極的攻勢!」また上段に振り冠った。
「攻勢をとってやっとこさ[#「やっとこさ」に傍点]、身が守られるというものだ! ……酒だ! くれ! 冷で一杯!」
 ソロリと刀を鞘に納め、片手をヌッと差し出したが、ヒョイとその手を引っこませると、フラリとばかりに框《かまち》を上った。
「飲むならいっそ奥で飲もう。馬大尽様の御前でよ。陽気で明るい座敷でよ。親分にもしばらくご無沙汰した。お目にかかって申訳……退け、邪魔だ!」
 ヒョロリヒョロリと、乾分達の間を分け、奥の方へ歩いて行った。
 後を見送って乾児達は、しばらくの間は黙っていた。
 と不意に閂峰吉が、
「八五郎の奴どうしたかなあ」と、あらぬ方へ話を持って行った。
 陣十郎の影口をうっかり利いて、立聞きでもされたら一大事、又抜身を振り廻されるかもしれない。障《さ》わるな障わるなという心持から、話をあらぬ方へ反らせたのであった。
 一同《みんな》はホッと息を吐いた。
「先刻《さっき》ヒョッコリ面を出して、馬大尽様にもうち[#「うち」に傍点]の親分にも、お気に入るような素晴らしい、献上物を持って来るんだと、大変もねえ自慢を云って、はしゃいで[#「はしゃいで」に傍点]素っ飛んで行きゃアがったが、それっきりいまだ面ア出さねえ。何を持って来るつもりかしら」
 こう云ったのは源七であった。
「上尾街道の一件以来、あいつ親分に不首尾だものだから、気を腐らせて生地なかったが、そいつを挽回しようてんで、何か彼かたくらんで[#「たくらんで」に傍点]はいるらしい」
 こう云ったのは権太郎であった。
「あいつが一番の兄貴だったんだから、たとえ親分が何と云おうと――手出しするなと云ったところで、そんなことには頓着なく、林蔵の野郎を背後の方から、バッサリ一太刀あびせかけ、あの時息の音止めてしまったら、とんだ手柄になったものを、主水とかいう侍の妹とかいう女を、馬方なんかと一緒になって、どこかへ担いで行ったということだが、頓馬の遣口ってありゃアしねえ」
 苦々しく閂峰吉が云った。
 がその時玄関の方で、五六人の声で景気よく、
「献上々々、献上でえ!」と囃し喚く声が聞こえてきたので、一同《みんな》は黙って聞耳を立てた。
 この囃し声を耳にしたのは、お勝手元の乾児ばかりでなく、奥の座敷で酒宴をしている、馬大尽歓迎の人々もひとしく耳を引っ立てた。


 五十畳敷の広さを持った座敷に、無数の燭台が燈し連らねてあり、隅々に立ててある金屏風に、その燈火《ひ》が映り栄えて輝いている様は、きらびやかで美しく、そういう座敷の正面に、嵯峨野を描いた極彩色の、土佐の双幅のかけてある床の間、それを背にして年は六十、半白の髪を切下げにし、肩の辺りで渦巻かせた、巨大な人間が坐っていたが、馬大尽事井上嘉門であった。日焼けて赧い顔色が、酒のために色を増し、熟柿《じゅくし》を想わせる迄になって居り、そういう顔にある道具といえば、ペロリと下った太い眉、これもペロリと下ってはいるが、そうしてドロンと濁ってはいるが、油断なく四方へ視線を配る、二重眼瞼の大きい眼、太くて偏平で段のある鼻、厚くて大きくて紫色をしていて、閉ざしても左の犬歯だけを、覗かせている髭なしの唇に、ぼったりと二重にくくれている顎、その顎にまでも届きそうな、厚い大きな下った耳であった。身長《せい》も人並より勝れていたが、肥満の方は一層で、二十四五貫もありそうであり、黒羽二重の紋付に、仙台平の袴をつけ、風采は尋常で平凡であったが腹の辺りが太鼓のように膨れ、ムッと前方に差し出されているので、格好がつかず奇形に見えた。曲※[#「碌のつくり」、第3水準1-84-27]《きょくろく》に片肘を突いて居り、その手の腕から指にかけて、熊のように毛が生えていた。
 蝦蟇のようだと形容してもよく、絵に描かれている酒顛童子、あれに似ていると云ってもよかった。
 嘉門の左右に居流れているのは、招待《よ》ばれて来た猪之松の兄弟分の、領家の酒造造《みきぞう》、松岸の権右衛門、白須の小十郎、秩父の七九郎等々十数人の貸元で、それらと向かい合って亭主役の、高萩の猪之松が端座したまま、何くれとなく指図をし、その背後に主だった身内が、五六人がところかしこまってい、それに雑って水品陣十郎が、今は神妙に控えていた。
 常磐津の[#「常磐津の」は底本では「常盤津の」]師匠の三味線も済み、若衆役者の踊も済み、馳走も食い飽き酒も飲み飽き、一座駘然、陶然とした中を、なお酒を強いるべく、接待《とりもち》の村嬢や酌婦《おんな》などが、銚子を持って右往左往し、拒絶《ことわ》る声、進める声、からかう[#「からかう」に傍点]声、笑う声、景気よさは何時《いつ》までも続いた。
 どうで今夜は飲み明かし、嘉門様はお泊まりということであった。
「納めの馬市も十日先、眼の前に迫って参りました、いずれその時は木曽の福島で、又皆様にお眼にかかれますが、何しろ福島は山の中、碌なご馳走も出来ませず、まして女と参りましては、木曽美人などと云いますものの、猪首で脛太で肌は荒し、いやはや[#「いやはや」に傍点]ものでございまして、とてもとてもここに居られる別嬪衆に比べましては、月に鼈《すっぽん》でございますよ。が、そいつは我慢をしていただき、その際には私が亭主役、飲んで飲んで飲みまくりましょう。いや全く今夜という今夜は、一方ならぬお接待《とりもち》、何とお礼申してよいやら、嘉門大満足の大恭悦、猪之松殿ほんに嬉しいことで」
 猪之松は片頬で微笑したが、
「いや関東の女こそ、肌も荒ければ気性も荒く、申して見ますれば癖の多い刎馬――そこへ行きますと木曽美人、これは昔から有名で、巴御前、山吹御前、ああいう美姫《びき》も出て居ります。納めの馬市に参りました際には、嘉門様胆入りでそういう美人の、お接待に是非とも預かりたいもので。……」
 ここで猪之松は微笑した。


 微笑をつづけながら猪之松は、
「そこで今夜は私が胆入り、ここに居りますどの女子でも、お気に入りの者ござりましたら、アッハハハ、取り持ちましょう」
「アッハハ、それはそれは、重ね重ねのご好意で、そういうお許しのある以上、嘉門今夜は若返りまして、……」
 すると、その時聞こえてきたのが「献上々々、献上でえ!」という、玄関の方からの声であった。
(何だろう?)
 と猪之松をはじめとし、座にいる一同怪訝そうに、玄関の方へ首を捻じ向けた時、八五郎を先頭に四人の博労が――、それは以前《まえかた》馬大尽事、井上嘉門を迎えに出た、高萩村の博労達であったが、その連中が縦六尺、横三尺もあるらしい、長方形の白木の箱に、献上と大きく書き、熨斗まで附けた物を肩に担ぎ、大変な景気で入って来た。
「八五郎じゃアないか、この馬鹿者、嘉門様おいでが眼につかぬか! 何だ何だその変な箱は!」
 猪之松は驚いて叱るように怒鳴った。
 八五郎はそれには眼もくれず、博労を指揮してその大箱を、猪之松と嘉門との間に置いたが、自分もその傍らへピタリと坐ると、
「ええこれは木曽の馬大尽様事、井上嘉門様に申し上げます。私事は八五郎と申し、猪之松身内にござります。ふつつか者ではござりまするが、なにとぞお見知り置き下さりましょう。……さて今回嘉門様には、木曽よりわざわざの武州入り高萩村へお越し下され、我々如き者をもご引見、光栄至極に存じます。そこであっしも何かお土産《みやげ》をと、いろいろ考案|仕《つかまつ》りましたが、何せ草深いこのような田舎、これと申して珍しい物も、粋な物もござりませぬ。それに食い物や食べ物じゃア、いよいよもって珍しくねえと、とつおいつ思案を致しました結果、噂によりますると安永《あんえい》年間、田沼主殿頭《たぬまとのものかみ》様の御代の頃、大変流行いたしまして、いまだに江戸じゃア流行《はや》っているそうな、献上箱の故智に慣い、八五郎細工の献上箱、持参いたしてござります。なにとぞご受納下さりませ。……ええ所で親分え、貴郎《あなた》だってこいつの蓋を取り、中の代物をご覧になったら、八五郎貴様素晴らしいことをやった、手柄々々と横手を拍って、褒めて下さるに違えねえと、こうあっしは思うんで……と、能書はこのくらいにしておき、いよいよ開帳はじまりはじまり……さあさあお前達手伝ってくれ」と、その時まで喋舌《しゃべ》る八五郎の背後《うしろ》に、窮屈そうに膝ッ小僧を揃え、かしこまっていた博労達を見返り、ヒョイとばかりに立ち上った。
「開帳々々」とこれも景気よく、四人の博労達も立ち上ったが、水引の形に作ってあった縄を、先ず箱から解きほぐした。
「ようござんすか、蓋取りますでござんす。ヨイショ!」と八五郎は声をかけた。
「ヨイショ」と博労達はそれに応じた。
 と、パッと蓋が取られた。


 京人形が入れてあった。
 髪は文庫、衣裳は振袖、等身大の若い女の、生けるような人形が入れてあった。
 と、眼瞼を痙攣させ、その人形は眼をあけて、天井をじいいっと見上げたが、又しずかに眼をとじた。
 人形ではなく生ける人間で、しかもそれは澄江《すみえ》であった。
 富士額、地蔵眉、墨を塗ったのではあるまいかと、疑われるほどに濃い睫毛で、下眼瞼を色づけたまま、閉ざされている切長の眼、延々とした高い鼻、蒼褪め窶れてはいたけれど、なお処女としての美しさを持った、そういう顔が猿轡で、口を蔽われているのであった。
 明るい華やかな燭台の燈が、四方から箱の中のそういう顔を照らして浮き出させているだけに、美しさは無類であった。
 一座何となく鬼気に襲われ、誰も物云わず顔を見合せ、しばらくの間は寂然としていた。
 がさつ[#「がさつ」に傍点]者の八五郎は喋舌り立てた。
「いつぞやの日に上尾街道で、親分と赤尾の林蔵とが、真剣の果し合いなさんとした時、水品先生に対し――いやアこれは水品先生、そこにお居でなさんしたか、こいつア幸い可《い》い証人だ――その水品先生に対し、親の敵《かたき》とか何とか云って、若エ武士とこの娘とが、切ってかかったはずでごぜえます。その時あっしとここに居なさる、博労衆とが隙を狙い、この娘だけを引っ担ぎ、あっしの家へ連れて来たんで。さてどうしようか考えましたが、見りゃアどうしてこの娘っ子、江戸者だけに素晴らしく、美しくもありゃア品もあって……そこで考えたんでごぜえますよ、嘉門様へご献上申し上げようとね……」
 身を乗り出し首を差し出し、箱の中の女を覗き込んでいた嘉門は、この時象のような眼を細め、厚い唇をパックリ開け、大きい黄色い歯の間から、満足と喜悦の笑声を洩らした。
「フ、フ、フ、八五郎どんとやら、嘉門満足大満足でござんす……フ、フ、フ、大満足! こりゃア全く、とても素晴らしい、何より結構な贈品《おくりもの》、嘉門大喜びで受けますでござんす。……」


 夜はすっかり更けていた。
 裏庭に別棟に建てられてある、猪之松の屋敷の離座敷、植込にこんもり囲まれて、黒くひっそりと立っていた。屋根の瓦が水のように、薄白く淡く光っているのは、空に遅い月があるからであった。
 その建物を巡りながら、幾人かの人影が動いていた。
 寝所へ入った馬大尽嘉門に、もしものことがあったら大変――というので猪之松の乾児達が、それとなく警護しているのであった。
 池では家鴨《あひる》が時々羽搏き、植込の葉影で寝とぼけた夜鳥が、びっくりしたように時々啼いた。
 が、静かでしん[#「しん」に傍点]としていた。
 主屋でも客はおおよそ帰り、居残った人々も酔仆れたまま、眠ったかして静かであった。
 離座敷の内部《うち》の一室《ひとま》。――そこには屏風が立て廻してあった。
 一基の燭台が置いてあり、燈心を引いて細めた燈火《ひかり》が、部屋を朦朧と照らしていた。
 屏風の内側には箱から出された生贄の女澄江の姿が、掛布団を抜いて首から上ばかりを、その燈火の光に照し出していた。
 そうしてそれの傍には、嘉門が坐っているのであった。
 澄江の心はどうであろう?
 義兄《あに》であり恋人であり許婚《いいなずけ》である、主水とゆくゆくは婚礼し、身も心も捧げなければならぬ身! それまでは穢さず清浄に、保たねばならぬ処女の体! それを山国の木曽あたりの、大尽とはいえ馬飼の長、嘉門如きに、嘉門如きに!
 処女を失ってはもう最後、主水と顔は合わされない。永久夫婦になどなれないであろう。
 復讐という快挙なども、その瞬間に飛んで消えよう。
 澄江の気持はどんなであろう?
 時が刻々に経ってゆく。
 と、不意に屏風の上から、白刃がヌッと差し出された。
 嘉門はギョッとはしたものの、大胆に眼を上げて上を見た。
 屏風の上に覆面をした顔が、じっとこちらを睨んで居た。
「曲者!」
 ガラガラ!
 屏風が仆された。


 枕刀の置いてある、床の間の方へ走って行く嘉門の姿へは眼もくれず、着流しの衣裳の裾をからげ、脛をあらわし襷がけして、腕をまくり上げた覆面武士は、やにわに澄江を小脇に抱えた。
「曲者でござるぞ、お身内衆! 出合え!」と喚き切り込んだ嘉門!
 その刀を無造作に叩き落とし、
「うふ」
 どうやら笑ったらしかったが、
 ビシリ!
 もう一揮! 振った白刃!
「ワッ」
 へたばった[#「へたばった」に傍点]は峯打ちながら、凄い手並の覆面に、急所の頸を打たれたからで、嘉門はのめって[#「のめって」に傍点]這い廻った。
 それを見捨てて襖蹴開き、既に隣室へ躍り出で、隣室も抜けて雨戸引っ外し、庭へ飛び下りた覆面を目掛け、
「野郎!」
「怪しい!」
 と左右から、猪之松の乾児で警護の二人が、切りつけて来た長脇差を、征矢《そや》だ! 駈け抜け、振り返り、追い縋ったところを、
 グーッ!
 突だ!
「ギャーッ」
 獣だ! 殺される獣! それかのように悲鳴して仆れ、それに胆を消して逃げかけた奴の、もう一人を肩から大袈裟がけ[#「がけ」に傍点]!
「ギャーッ」
 こいつも獣となってくたばり[#「くたばり」に傍点]、夜で血煙見えなかったが、プ――ッと立った腥《なまぐさ》い匂い! が、もうこの時には覆面武士は、植込の中に駈け込んでい、その植込にも警護の乾児、五人がところ塊ってい、
「泥棒!」
「遁すな!」
 と、竹槍、長ドス!
 しかし見る間に槍も刀も、叩き落とされ刎ね落とされ、つづいて悲鳴、仆れる音! そこを突破して覆面武士が、土塀の方へ走るのが見られ、土塀の裾へ行きついた時、そこにも警護の乾児達がいる。ムラムラと四方から襲いかかったばかりか、これらの物音や叫声に、主屋の人々も気づいたかして、雨戸を開け五人十人、二十人となく駈け出し走り出し、提燈、松明を振り照らし、その火の光に獲物々々を、――槍、鉄砲、半弓までひっさげ、しごき、振り廻し狙っている、――そういう姿をさえ照らしていた。
 しかしこの頃覆面武士は、とうに土塀を乗り越えて、高萩村を野良の方へ外れ、淡い月光を肩に受け、野を巻いている霧を分け、足にまつわる露草を蹴り、小脇に澄江をいとし[#「いとし」に傍点]そうに抱え、刀も既に鞘に納め、ただひたすらに走っていた。
 その武士は水品陣十郎であった。

 それから十日ほど日が経った。
 陣十郎と澄江との二人が、旅姿に身をよそおい、外見からすれば仲のよい夫婦、それでなかったら仲のよい兄妹、それかのような様子をして、木曽街道を辿っていた。
 初秋の木曽街道の美しさ、萩が乱れ咲き柿の実が色づき、渡鳥が群れ来て飛びつれて啼き、晴れた碧空を千切れた雲が、折々日を掠めて漂う影が、在郷馬や駕籠かきによって、軽い塵埃を揚げられる街道へ、時々|陰影《かげ》を落としたりした。
「澄江殿、お疲労《つかれ》かな?」
 優しい声でいたわるように、こう陣十郎は声をかけた。
「いいえ」と澄江は編笠の中から、これも優しい声で答えた。

心々の旅の人々


「お疲労でござらば駕籠雇いましょう」
 陣十郎も編笠の中から、念を押すようにもう一度云った。いかにも優しい声であった。
「何の遠慮などいたしましょう、疲労ましたら妾の方から、駕籠なと馬なとお雇い下されと、押してお頼みいたします……どうやらそう仰言《おっしゃ》る貴郎様こそ、お疲労のご様子でございますのね。ご遠慮なく馬になと駕籠になと、ホ、ホ、ホ、お召しなさりませ」
 からかう[#「からかう」に傍点]ように澄江は云った。
「ア、ハ、ハ、とんでもない話で、拙者と来ては十里二十里、韋駄天のように走りましたところでビクともする足ではござりませぬ。……貴女は女無理して歩いて、さて旅籠《はたご》へ着いてから、ソレ按摩じゃ、ヤレ灸《やいと》じゃと、泣顔をして騒がれても、拙者決して取り合いませぬぞ」
「貴郎様こそ旅籠に着かれてから、くるぶし[#「くるぶし」に傍点]が痛めるの肩が凝るのと、苦情めいたこと仰せられましても、妾取り合わぬでござりましょうよ。ホ、ホ、ホ」と朗かに笑った。
 陣十郎も朗かに笑った。
 これは何たることであろう! 敵同志であるこの二人が、こう親しくこう朗かで、浮々と旅をつづけて行くとは?
 それには深い事情があった。
 澄江はあの夜猪之松の屋敷で、すんでに井上嘉門によって、操を穢されるところであった。それを陣十郎が身を挺し、養われかくまわれ[#「かくまわれ」に傍点]た恩をも不顧《かえりみず》、猪之松の乾児《こぶん》を幾人となく切り捨て、自分を助けて遠く走り、農家に隠匿《かくま》い今日まで、安穏に生活《くらし》をさせてくれた。その間一度も陣十郎は、自分に対していやらしい言葉や、いやらしい所業《しわざ》に及ばなかった。勿論陣十郎は義父《ちち》の敵《かたき》、討って取らねばならぬ男、とはいえ義父を討ったのも、その一半は自分に対し、恋慕したのを自分が退け、義父や主水が退けたことに、原因があることではあり、性来悪人ではあろうけれど、従来一度も自分に対しては、悪事を働いたことはなかった。その上今は女の生命の、操を保護してくれた人――とあって見ればこの身の操は、云うまでもなく許婚《いいなずけ》の、主水一人に捧げる外、誰にも他の男へは、捧げてはならず自分としても、断じて捧げぬ決心であり、このことばかりは陣十郎にも、ハッキリ言動で示しはしたが、それ以外には陣十郎に対して、優しく忠実にまめまめしく、尽くさねばならぬ境遇となり、義父《ちち》上の敵を討つことは、武士道の義理には相違ないが、生命――操の恩人には、人情としてそれと等なみに、尽くさなければならぬ義理があるはず、そこで澄江はそれ以来、今のような行為を執っているのであり、主水様と陣十郎殿とが巡り合い、敵討の太刀が交わされても、どうも妾には陣十郎殿に対し敵対することも出来そうもないと、心では思ってさえいるのであった。
 陣十郎の心持といえば
「この清浄無垢の白珠を、俺は誰にも穢させない!」
 この一点にとどまっていた。
 鴫澤《しぎさわ》庄右衛門を殺したのも、一つは澄江への恋心を、遮られたがためであった。敵持つ身となった原因、それが澄江であるほどの、澄江は陣十郎の恋女であった。だからその澄江を馬飼の長、嘉門如きが穢そうとする、何のむざむざ黙視出来ようぞ! そこで奪って逃げたのであり、遁れて知己《しりあい》の農家に隠匿い、今日まで二人で生活《くらし》て来る間、彼は今更に澄江という女が、女らしい優しい性質の中に、毅然として動かぬ女丈夫の気節を、堅く蔵していることを知り、愛慕の情を加えると同時に、尊敬をさえ持つようになり、暴力をもって自己の欲望などを、どうして遂げることが出来ようぞと、そう思うようになりさえした。


(澄江にとっては俺という人間、何と云っても義父の敵だ、それについてどう思っているだろう?)
 これが一番陣十郎にとっては、関心の事であらねばならず、で、絶えず心を配り、澄江の心を知ろうとした。
 と、澄江はその一事へは、決して触れようとはしなかった。
 陣十郎も触れなかった。
 さよう、互いにその一事へは、決して触れようとはしなかったが、陣十郎は自分の油断に澄江が早晩つけ[#「つけ」に傍点]込んで、寝首を掻くというような、卑劣な態度に出るということなど、澄江その人の性質から、有り得べからざることであると知り、それだけは安心することが出来、同時に澄江が義父の敵の自分に助けられたということから、義理と人情の板ばさみとなり、苦しい心的境遇に在る、そういうことを思いやり、憐愍同情の心持に、とらわれざるを得なかった。
(主水に対して澄江の心は?)
 これも実に陣十郎にとっては、重大な関心の一事であった。
(勿論澄江は心に深く、主水を恋していることだろう!)
 こう思うと陣十郎はムラムラと、嫉妬の思いに狩り立てられ、
(澄江が俺の意に従わぬのも、主水があるからだ!)と、主水に対する憎悪の念が、彼をほとんど狂気状態にまで、導き亢《たかぶら》せ追いやるのであった。
 時々彼は澄江に向かい、主水のことを云い出して見た。
 と澄江はきっとそのつど、あらぬ方へ話を反らせてしまって、何とも返辞をしなかった。
 それが陣十郎には物足らず、心をイライラさせはしたが、しかしまだまだその方がよくて、もしもハッキリ澄江の口から、ないしは起居や動作から、主水恋しと告げられたら、その瞬間に陣十郎の兇暴性が爆発し、乱暴狼藉するかもしれなかった。
 どっちみち陣十郎はこう思っていた。
(自己一身の生命の、永久の安全を計るためにも、主水は是非とも討って取らねばならぬ)
 こっちから主水を探し出して、討って取ろうと少し前から、心に定《き》めた陣十郎が、今や一層にその心を深く強く定めたのであった。
 その主水はどこにいるか?
 それは全く解らなかった。
 が、気がついたことがあった。
 間もなく行なわれる木曽の馬市、納めの馬市へは武州甲州の、博徒がこぞって行くはずである。高萩の猪之松も行くはずである。ところで主水は俺という人間が、その猪之松の賭場防ぎとして、食客となっているということを、知っているということであるから、猪之松が福島へ行く以上、俺も行くものとそう睨んで、俺を討つため福島さして、主水も行くに相違ない。ヨ――シそいつを利用して、俺も出て行き機を狙い、彼を返り討ちにしてやろう。
 で、ある日澄江へ云った。
「猪之松乾児の幾人かが、拙者と其方《そなた》とがこの農家に、ひそみ居ること知りましたと見え、この頃あたり[#「あたり」に傍点]を立ち廻ります。他所《よそ》へ参ろうではござりませぬか」


 こうして旅へ出た二人であった。
 旅へ出てはじめて木曽へ行くのだと、澄江は陣十郎によって明かされた。とはいえ鴫澤主水を討つべく、木曽へ行くのだとは明かされなかった。
「木曽へであろうと伊那へであろうと、妾《わたし》はどこへでも参ります」
 そう澄江はおだやかに応えた。
 成るようにしか成りはしない。神のまにまに、流るるままに。……そう澄江は思っているからであった。
 又、そう思ってそうするより他に、仕方のない彼女でもあるのであった。
(しかし澄江がこの俺が、主水を討つために木曽へ行くのだと、そう知ったら安穏では居るまいなあ)
 陣十郎はそう思い、そうとは明かさずただ漫然と、木曽への旅に澄江を引き出した。自分の邪の心持が、自分ながら厭になることがあり、
(俺は悪人だ悪人だ!)と、自己嫌忌の感情から、口の中で罵ることさえあった。
 それに反して澄江に対しては、そうとは知らずに云われるままに、義兄であり、恋人であり許婚である主水を、返り討ちにする残虐な旅へ、引き出されたことを惻々と、不愍に思わざるを得なかった。
 複雑極まる二人の旅心!
 しかし表面は二人ながら、朗かに笑い朗かに語り、宿りを重ねて行くのであった。
 さて、追分の宿へ着いた。
 四時煙を噴く浅間山の、山脈の裾に横たわっている宿場、参覲交代の大名衆が――北陸、西国、九州方の諸侯が、必ず通ることに定まっている宿、その追分は繁華な土地で、旅籠《はたご》には油屋角屋などという、なかば遊女屋を兼ねたような、堂々としたものがあり、名所には枡形があり、旧蹟には、石の風車ややらず[#「やらず」に傍点]の石碑や、そういうものがありもした。街道を一方へ辿って行けば、俚謡《うた》に詠まれている関所があり、更に一方へ辿って行けば、沓掛《くつかけ》の古風の駅《うまやじ》があった。
 旅籠には飯盛、青樓《ちゃや》にはさぼし[#「さぼし」に傍点]、そういう名称の遊女がいて、
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後供《あとども》は霞ひくなり加賀守《かがのかみ》
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 加賀金沢百万石の大名、前田侯などお通りの節には、行列蜿蜒数里に渡り、その後供など霞むほどであったが、この追分には必ず泊まり、泊まれば宿中の遊女という遊女は召されて纏頭《はな》をいただいた。
 そういう追分の鍵屋という旅籠へ、陣十郎と澄江が泊まったのは、
「お泊まりなんし、お泊まりなんし、銭が安うて飯《おまんま》が旨うて、夜具《やぐ》が可《よ》うてお給仕が別嬪、某屋《なにや》はここじゃお泊まりなんし」と、旅人を呼び立て袖を引く、留女《とめおんな》の声のかまびすしい、雀色の黄昏《たそがれ》であった。表へ向いた二階へ通された。
 旅装を解き少しくつろぎ、それから障子を細目に開けて、澄江は往来の様子を眺めた。駕籠が行き駄賃馬が通り、旅人の群が後から後から、陸続として通って行き、鈴の音、馬子唄の声、その間にまじって虚無僧の吹く、尺八の音などが聞こえてきた。
 と、旅人の群に雑り、旅仕度に深編笠の、若い武士が通って行った。
「あッ」と澄江は思わず云い、あわただしく障子をあけ、身を乗り出してその武士を見た。
 肩の格好や歩き方が、恋人|主水《もんど》に似ているからであった。
 なおよくよく見定《みきわ》めようとした時、一人の留女が走り出て、その武士の袖を引いた。と、その武士と肩を並べて、これも旅姿に編笠を冠った、年増女が歩いていたが、つと[#「つと」に傍点]その間へ分けて入り、留女を押しやって、その若い武士の片手を取り、いたわる[#「いたわる」に傍点]ような格好に、ズンズン先へ歩いて行った。
 が、その拍子に若い武士が、振り返って何気なく、澄江の立っている二階の方を見た。


 黄昏ではあり笠の中は暗く、武士の顔は不明であった。
(あんな女が附いている。主水様であるはずがない)
 そう澄江には思われた。
 主水様ともあるお方が、妾以外の女を連れて、こんな所へ暢気らしく、旅するはずがあるものか――そう思われたからである。
 とはいえどうにもその武士の姿が、主水に似ていたということが、絶える暇なく主水のことを、心の奥深く思い詰めている澄江の、烈しい恋心を刺激したことは、争われない事実であって、なおうっとり[#「うっとり」に傍点]と佇んで、いつまでもいつまでも見送った。
 しかしその武士とその女との組は、旅人の群にまぎれ込み、やがて、間もなく見えなくなった。
 婢女《こおんな》の持って来た茶を飲みながら、旅日記をつけていた陣十郎が、この時澄江へ声をかけた。
「澄江殿、茶をめしあがれ」
「はい」と云ったがぼんやりしていた。
「宿場の人通り、珍らしゅうござるか」
「はい」と云ったがぼんやりしていた。
「どうなされた? 元気がござらぬな」
「…………」
「やはりお疲労《つかれ》なされたからであろう」
「…………」
「返辞もなさらぬ。アッハハ。……それゆえ拙者馬か駕籠かに、お乗りなされと申したのじゃ」
「…………」
「按摩なりと呼びましょうかな」
「いいえ。……それにしても……主水様は……」
 思わず言葉に出してしまった。
「何! 主水!」と陣十郎は、それまでは優しくいたわるように、穏やかな顔と言葉とで、機嫌よく澄江に話しかけていたが、俄然血の気を頬に漂わせ、敵の体臭を鼻にした獣が、敵愾心と攻撃的猛気、それを両眼に集めた時の、兇暴惨忍の眼のように、三白眼を怒らせたが、
「ふふん、主水! ……ふふん主水! ……澄江殿には主水のことを、このような旅の宿場の泊りにも、心に思うて居られたのか! ……ふふん、そうか、そうでござったか!」
 ジロリと床の間の方へ眼をやった。
 そこにあるものは大小であった。
 既に幾人かの血を吸って、なお吸い足らぬ大小であった。


 鍵屋から数町離れた地点に、岩屋という旅籠があり、その裏座敷の一室に、主水とお妻とが宿を取っていた。
 主水は先刻《さっき》一軒の旅籠の、二階の欄干に佇んでいた、澄江に似ていた女のことを、心ひそかに思っていた。
 もう夜はかなり更けていて、夕暮方の騒がしかった、宿の泊客の戯声や、婢女《おんな》や番頭や男衆などの声も、今は聞こえず静かとなり、泉水に落ちている小滝の音が、しのびやかに聞こえるばかりであり、時々峠を越して行く馬子の、
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※[#歌記号、1-3-28]追分油屋掛行燈に、浮気御免と書いちゃない
[#ここで字下げ終わり]
 などと、唄って行く声が聞こえるばかりであった。
 間隔《まあい》を離して部屋の隅に、二流《ふたながれ》敷《し》いてある夜具の中に、二人ながら既に寝ているのであった。
(もうお妻は眠ったかしら?)
 顔を向けてそっちを見た。
 夜具の襟に頤を埋めるようにして、お妻は眼を閉じ静まっていた。高い鼻がいよいよ高くなり、頬がこけて[#「こけて」に傍点]肉が薄くなり、窶れて凄艶の度を加えていた。
(俺のために随分苦労をしてくれた)
 二人が夫婦ならぬ夫婦のようになり、弁三の家にかくまわれ[#「かくまわれ」に傍点]てから、木曽への旅へ出た今日が日まで、日数にしては僅かであったが、陣十郎のために探し出されまい、猪之松一家の身内や乾分共に、発見されまいと主水に対し、お妻が配慮し用心したことは、全く尋常一様でなかった。
 あの日――お妻が主水に対し、はじめてうってつけ[#「うってつけ」に傍点]た恋心を、露骨に告げた日陣十郎によって、後をつけ[#「つけ」に傍点]られ家を見付けられ、あやうく奥へ踏み込まれようとしたが、弁三の鉄砲に嚇されて、陣十郎は逃げて行ったものの、危険はいよいよ迫ったと知り、爾来お妻は家へも帰らず、陣十郎とも勿論逢わず、猪之松の家へも寄りつかず、主水の傍らに弁三の家に、身を忍ばせて動かなかった。
 だからお妻も主水も共々、あの夜高萩の猪之松方で、澄江があやうく馬大尽によって、処女の操をけがされようとしたことや、陣十郎が澄江を助け、猪之松の乾児達を幾人か切って、逃げたということなどは知らなかった。
 しかしその中《うち》に弁三の口から、木曽の納めの馬市を目指して、馬大尽を送りかたがた、猪之松が大勢の乾児を引き連れ、木曽福島へ行くそうなと、そういうことだけは聞くことが出来た。
 それをお妻は主水に話した。
「陣十郎は賭場防ぎ、猪之松方の賭場防ぎ。で、猪之松が木曽へ行くからは、陣十郎も行くでござんしょう」
 こうお妻は附け足して云った。
「では拙者も木曽へ参って……」
 主水は意気込み発足しようと云った。
「妾もお供いたします」
 こうして旅へ出た二人であった。
(いわば敵の片割のような女、……それにもかかわらず縁は不思議、よく自分に尽くしてくれたなあ)
 お妻の寝顔を見守りながら、そう思わざるを得なかった。
(露骨に恋心を告げた日以来、自分の心が決して動かず、お妻の要求は断じて入れない、――ということを知ったものと見え、その後はお妻も自分に対して、挑発的の言動を慎み、ただ甲斐々々しく親切に、年上だけに姉かのように、尽くしてくれるばかりだったが、思えば気の毒、おろそかには思われぬ。……)
 そう主水には思われるのであった。
(それにしても先刻見かけた女、澄江に似ていたが、澄江に似ていたが……)


 とはいえ澄江がこんな土地の、あんな旅籠に一人でションボリ、佇んでいるというようなことが、有り得ようとは想像されなかった。
(あの時お妻が、留女を、突きやり、俺の手を強く引っ張って、急いで歩いて来なかったら、あの女を仔細に見ることが出来、あの女が澄江かそうでないか、ハッキリ知ることが出来たものを)
 それを妨げられて出来なかったことが、主水には残念でならなかった。
(やはり澄江であろうも知れない!)
 不意に主水にはそう思われて来た。
(上尾街道での乱闘の際、聞けば澄江は猪之松方に属した、馬方によって担がれて行き、行方知れずになったとのこと、馬方などにはずかしめ[#「はずかしめ」に傍点]られたら、烈しい彼女の気象である、それ前に舌噛んで死んだであろう、もし今日も生きて居るとすれば、処女であるに相違なく、そうしてあの時から今日まで、そう日数は経っていない、わし[#「わし」に傍点]の消息を知ろうとして、あの土地に居附いていたと云える。とすると木曽の福島へ、納めの市へ馬大尽ともども、猪之松が行くということや、その猪之松の賭場防ぎの、陣十郎も行くということや、陣十郎が行く以上それを追って、わし[#「わし」に傍点]が行くだろうということを、澄江は想像することが出来る。ではそのわし[#「わし」に傍点]に逢おうとして、単身でこのような土地へ来ること、あり得べからざることではない)
 こんなように思われるからであった。
(あの旅籠は鍵屋とかいったはずだ。距離も大して離れてはいない。行って様子を見て来よう)
 矢も楯もたまらないという心持に、主水は襲われずにいられなかった。
(が、お妻に悟られては?)
 それこそ大変と案じられた。
(爾来《あれから》二人が夫婦ならぬ夫婦、妻ならぬ妻のような境遇に――そのような不満足の境遇に、お妻ほどの女が我慢しているのも、あの時以来澄江のことを、自分が口へ出そうとはせず、あの時以来澄江のことを、思っているというような様子を、行動の上にも出そうとはせず、ただひたすらにお妻の介抱を、素直に自分が受けているからで。そうでなくて迂闊にもし自分が、今も澄江を心に深く、思い恋し愛していると、口や行動に出したならば、それこそお妻は毒婦の本性を、俄然とばかり現わして、自分に害を加えようし、澄江がこの土地にいるなどと、そういうことを知ったなら、それこそお妻は情容赦なく、澄江を探し出して嬲り殺し! ――そのくらいのことはやるだろう)と、そう思われるからであった。
(澄江を確かめに行く前に、お妻が真実眠っているかどうか、それを確かめて置かなければならない)
 主水は静かに床から出、お妻の方へ膝で進み、手を延ばして鼻へやった。
 規則ただしいお妻の呼吸が、主水の掌《てのひら》に感じられた。
(眠っている、有難い)
 で立ち上って衣裳のある方へ行った。
 途端に、
「どちらへ?」と云う声がした。
 ギョッとして主水は振り返った。
 眼をあいたお妻が訝しそうに、主水の顔を見詰めながら、半身夜具から出していた。
「……いや……どこへも……厠へ……厠へ……」
「…………」
 お妻は頷いて眼を閉じた。
 で、主水は部屋から出た。


 部屋から出て廊下へ立ったものの、寝巻姿の主水であった、旅籠を抜け出して道を歩き、鍵屋などへは行けなかった。
 行けたにしても時が経ち、用達しの時間よりも遅れたならば、そうでなくてさえ常始終から、逃げはしないかと警戒しているお妻が、不安に思って探しに来、居ないと知ったら騒ぎ立て、一悶着起こそうもしれない。そうなっては大変である。
 そこで主水は厠へ入り、やがて出て来て部屋へ帰り、穏しく又夜具の中へ入った。
 見ればお妻は同じ姿勢で、安らかに眠っているようであった。
 やはり主水には澄江のことが、どうにも気になってならなかった。
(よし、もう一度試みてみよう)
 で、お妻の方へ眼をやったまま、又ソヨリと夜具から出た。
 お妻はやはり眠っていた。
 衣裳や両刀の置いてある方へ行った。
 幸いにお妻は眼をさまさなかった。
(有難い)と心で呟き、手早く衣裳を着換えようとした時、
「主水様どちらへ?」とお妻が云った。
 眼をさましていたのであった。
 怒ったような、嘲るような、――妾を出し抜いて行こうとなされても、出し抜かれるものではござんせん――こう云ってでもいるような眼付で、お妻は主水をじっと見詰めた。
「いや……ナニ、ちょっと……それにしても寒い――信州の秋の夜の寒いことは……そこで重ね着しようとして……」
 もずもず[#「もずもず」に傍点]と口の中で云いながら、テレて、失望して、断念して、主水は又も夜具の中へ入った。
(もう不可《いけ》ない、諦めよう)
 主水はすっかり断念した。
 眼端の利くお妻が眠った様子をして、こう自分を監視している以上、こっそり抜け出して行くことなど、とうてい出来ないと思ったからであった。
(よしよし明日の朝早く起き、そぞろ歩きにかこつけて、鍵屋へ行って見ることにしよう)
 こう考えをつけてしまうと、一時に眠りが襲って来た。
 主水は間もなく深い眠りに落ちた。
 あべこべにお妻は眼をさましてしまい、腹這いになって考え込んだ。
 好きで寝る間も枕元に置く莨《たばこ》、その煙管《きせる》を口にくわえ、ほの明るい行燈《あんどん》の光の中へ、漂って行く煙の行方を、上眼を使って見送りながら、お妻は考えに沈み込んだ。
 これ迄は観念をしたかのように、決して自分を出し抜いて、逃げようなどとしたことのない主水が、今夜に限って何としたことか、二度まで抜けて出ようとした! これはどうしたことだろう?
 どうにも合点がいかないのであった。
(何か曰くがなけりゃアならない)
 それにしても自分というこの女が、女賊、枕探し、邯鄲師《かんたんし》、だから他人の寝息をうかがい、抜け出ることも物を盗むことも、殺すことさえ出来るのに、知らぬとはいえそういう自分を出し抜き、抜け出ようとした主水の態度が、どうにも可笑《おか》しくてならなかった。
(いっそ可愛い位だよ)
 煙管をくわえたままお妻は笑い、主水の方をそっと見遣った。主水は安らかに天井の方を向いて、規則正しい呼吸をしていた。深い眠りに入っているらしい。
 もう時刻は丑の刻でもあろうか、家の内外寂しく静かで、二間ほど離れた座敷の方から、鼾の声が聞こえてき、初秋の夜風に吹かれて落ちる、中庭あたりの桐の葉でもあろうか、バサリ、バサリと閑寂の音を、時々立てるのが耳につくばかりで、山国の駅路《えきろ》の旅籠の深夜は、芭翁《ばしょう》好みの寂寥に入っていた。
(今日まで我慢をして来たんだよ。……やっぱり順当の手段《て》で行こうよ)
 お妻はとうとう思い返した。
 で、煙管を抛り出し、男の方へ顔を向け、横に寝返って眠ろうとした。
 途端に、
「澄江!」と眠ったままで、主水がハッキリ声を立てて云った。
「澄江よ! 澄江よ! お前はどこに! ……」
 お妻はグラグラと眼が廻った。
(畜生!)
 ムックリと起き上った。
(やっぱり思っていやがるんだ! あの女のことを! 澄江のことを!)
 眼を据えて主水の寝顔を睨んだ。
 主水は長閑《のどか》に眠っている。
 が、愛する女のことを、夢にでも見ているのであろうか、閉じた眼を優しく痙攣させ、閉じた唇に微笑を湛えている。


 それからしばらく経った時、追分の宿の宿外れを、野の方へ行く女があった。
 星はあるが月のない夜で、それに嵐さえ吹いていて、その嵐に雲が乱れ、星をさえ隠す暗澹さ!
 そういう夜道を物に狂ったかのように、何か口の中で呟きながら、走ったかと思うと立ち止まり、立ち止まったかと思うと又走る。
 それは他ならぬお妻であった。
 眠っている間も恋しい女、澄江のことを忘れかね、うわ言に出して云った主水――そういう主水の心持を知り、怒りと失望と嫉望《しっと》とに、お妻はほとんど狂わんばかりとなり、汝《おのれ》どうしてくれようかと、殺伐の気さえ起こしたのであったが、それは年増であり世間知りであり、世なれている彼女であったので、まずまずと心をおちつかせ、燃えるように上気《のぼ》って痛む頭を、夜の風にでも吹かせてやろうと、そこは女|邯鄲師《かんたんし》で、宿をこっそり抜け出すことなど、雑作なく問題なく出来るので、宿をこっそり抜け出して、今こうやって歩いているのであった。
 さて冷え冷えとした高原の、秋の夜の風に吹かれながら、お妻は歩いているのであるが、問題が問題であるだけに、心は穏かにはならなかった。
(宿へ放火《ひつけ》でもしてやろうか!)
(人殺《ひとごろし》でもしてやろうか!)
 そんなことさえ思うのであった。
 街道から反れて草の露を散らし、お妻は野の方へ歩いて行く。
 と、街道を背後《うしろ》の方から、木曽の納めの馬市へ出る、馬の群が博労に宰領されて、陸続と無数にやって来た。徹夜をして先へ進むのであった。それらのともして[#「ともして」に傍点]行く提燈の火が、点々とあたかも星のように、道を明るめ動いていたが、珍らしい美しい眺めであった。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秋が来たとて鹿さえ鳴くに、なぜに紅葉《もみじ》は色に出ぬ
※[#歌記号、1-3-28]余り米とはそりゃ情ない、美濃や尾張の涙米
[#ここで字下げ終わり]
 などと唄う馬子唄の声が、ノンビリとして聞こえてきた。
 しかしお妻にはそういう光景も、珍らしくもなければ美しくもなかった。でただ夢中で歩いていた。

 陣十郎が同じような心境の下に、旅籠を出て野の方へやって来たのは、ちょうどこの頃のことであった。
 主水のことを思っている澄江! それを口へ出して云った澄江! そういう澄江を夕方見た。汝々どうしてくれよう! すんでにその時陣十郎は、澄江を一刀に切ろうとした。
 が、それは辛うじて抑えた。
 さて夜になって二人は寝た。
 部屋の片隅に澄江が寝、別の片隅に陣十郎が寝。――これまでやって来たように、その夜もそうやって二人は寝た。
 が、陣十郎は眠られなかった。
 怒り、失望、嫉妬の感情が、心を亢《たか》ぶらせ頭を燃やし、安眠させようとしないのである。
 見れば澄江も眠られないと見えて、そうして恐怖に襲われていると見えて、こっちへ細い頸足《うなじ》を見せ深々と夜具にくるまったまま、溜息を吐いたり顫えたりして、夜具の中で蠢いていた。
(一思いに……)
 この考えが又浮かんだが、あさましくも憐れにも思われて、断行することが出来なかった。
(夜の風にでも吹かれて来よう)
 で、こっそりと宿を抜け出したのである。


 足にまつわる露の草を、踏分け踏分け陣十郎は歩いた。
 街道を馬の列が通って行く。
 それを避けて草野を歩いて行くのである。
(ガーッとどいつかを叩っ切ったら、この心も少しはおちつくかもしれない)
 そんなこともふと思われた。
(ウロウロ女でも通って見ろ)
 そんな兇暴の考えも、チラチラ彼の心の中に燃えた。
 と、そういう彼の希望に、応じようがために出て来たかのように、行手から女が星の光で知れる、小粋の姿を取り乱し、走ったり止まったりよろけ[#「よろけ」に傍点]たりして、こっちへ歩いて来るのが見られた。
(しめた!)と一刹那陣十郎は思った。
(宿の女か、旅の者か、そんなことはどうでもいい、来かかったのが女の不運! ……)
 で、素早く木陰に隠れた。
 その女はそれとも知らぬか、よろめくような足どりで、その前を通って行き過ぎようとした。
 不意に躍り出た陣十郎、物をも云わず背後《うしろ》の方から……
「あッ」
 不意の事だったので、女は驚きの声をあげたが、……
 しかし次の瞬間に、二人はパーッと左右へ別れた。
「貴様はお妻!」
「陣十郎様か!」
 サーッとお妻は逃げだした。
「待て!」
 刀を抜いて追っかけた。
 澄江と夫婦ならぬ夫婦となり、共住居《ともずまい》から旅に出た。そうなってからはお妻のことは、ほとんど陣十郎の心になかった。
 ところが意外にもこんな事情の下に、あさましいお妻とぶつかった。

高原狂乱


 仆れて、
「人殺シ――ッ」
 だが飛び起き、
「どなたか助けて――ッ」と走り出した。
 そのお妻をなお追いかけ、周章《あわて》たために不覚至極にも、切り損った自分を恥じ恥じ、
「逃げようとて逃がそうや! くたばれ、汝《おのれ》、毒婦、毒婦!」
 陣十郎は執念《しうね》く追った。
 仆れつ、飛び起きつ、刀を避け、お妻は走り走ったが、ようやく街道へ出ることが出来た。
 馬、博労、提灯、松明――馬市へ向かう行列が、街道を埋めて通っていた。
 そこへ駈け込んだ女|邯鄲師《かんたんし》のお妻、
「助けて――ッ、皆様、助けて!」
「どうしたどうした?」
「若い女だ!」
 博労達は騒ぎ立った。
「狂人《きちがい》が妾《わたし》を手籠めにし……殺そうとしてアレアレそこへ!」
 瞬間躍り込んで来た陣十郎、
「逃げるな、毒婦、逃がしてなろうか!」
 切り付けようとするやつを、
「女を助けろ!」
「狂人を殺せ!」
「ソレ抜身を叩き落とせ!」
 ムラムラと四方からおっとり[#「おっとり」に傍点]囲み、棒や鞭を閃めかし、博労達は陣十郎へ打ってかかった。
「汝ら馬方何を知って、邪魔立ていたすか、命知らずめ!」
 揮った刀!
 首が飛んだ!
「ワ――ッ」
「切ったぞ!」
「仲間の敵!」
「逃がすな!」
「たたんでしまえ!」
「狂人め、泥棒め!」
 十、二十、三十人! ムラムラと寄せ、犇いた。
 狂奔する馬! 地に落ちて燃える、提燈《ちょうちん》、松明《たいまつ》、バ――ッと立つ火焔!
 悲鳴に続く叫喚怒号! 仆れる音、叱咤する声!
 百頭に余る馬の群が、音に驚き光に恐れ、野の方へ宿《しゅく》の方へ駈け出した。
「馬が放れたぞ――ッ」
「逃がすな、追え!」
「捕らえろ!」
「大変だ――ッ」
「人殺し――ッ」
 ほとんど狂気した陣十郎、剣鬼の本性を現わして、馬と馬方の渦巻く中を、
「お妻! どこに! 逃がそうや!」と、右往し左往し走り廻り、邪魔になる博労、馬の群を、見境いもなく切りつ薙ぎつ、追分宿の方へ走る! 走る!
 と、この時一挺の駕籠を、菅の笠に旅合羽、長脇差を揃って差し、厳重に足のかためをした、三十人あまりの博労が守り、茣蓙に包んだ金箱や駒箱、それを担いで粛々と、宿の方からやって来たが、そこへ駈け込んだ馬の群に驚き、街道を反れて野に立った。
 上尾宿に長く逗留し、夜道をかけて帰らないことには、木曽福島の納めの馬市に、間に逢わないと焦慮して、帰りを急ぐ馬大尽を守護して、高萩の猪之松とその乾児とが、同じく夜道をかけて来た。――同勢は実にそれなのであった。


「馬を放したな、馬鹿な奴だ」
 こう云ったのは猪之松で、駕籠の脇に立っていた。
「商売物を逃がすなどとは、冥利に尽きた連中で」
 駕籠の戸をあけて騒動を見ていた、井上嘉門が嘲笑うように云った。
「だから一生馬方商売、それ以上にはなれませんので。ハッハッハッ」と附け加えた。
 そこへ陣十郎が駈けて来た。
 眼が眩んでいて見境いがなかった。
 数人を切った血刀を提げ、乱れた髪、乱れた衣裳、返り血を浴びたムキ出しの脛。――そういう姿で駈けて来た。
「陣十郎だ! 陣十郎だ!」
 閂峰吉が眼ざとく[#「ざとく」に傍点]目付け、ギョッとしたように声をあげた。
「おおそうだ陣十郎だ!」
 こう猪之松も叫んだが、いつぞやの晩自分の屋敷で、養ってやった恩を忘れ、乾児を切ったばかりでなく、井上嘉門に捧げた女――澄江とか云った武家の娘を、奪い去ったことを思い出した。
「畜生、恩知らず、たたんでしまえ!」
「やれ!」
 ダ、ダ、ダ、ダ! ――
 乾児達だ!
 一斉にひっこ[#「ひっこ」に傍点]抜いて切ってかかった。
「…………」
 無言で横なぐり!
 陣十郎であった!
 ブ――ッと血吹雪《ちふぶき》!
 闇ながら立った。
 匂いで知れる! 生臭さ!
「切ったぞ畜生!」
「用心しろ!」
 開いて散じたが又合した。
 見境いのない陣十郎、躍り上ってズ――ンと真っ向!
「キャ――ッ」
 仆れて、ノタウチ廻る。また乾児が一人やられた。
 見すてて一散宿の方へ!
「汝《おのれ》お妻ア――ッ! 逃がしてなろうか!」
「追え!」と猪之松は地団太を踏んだ。
「仕止めろ、汝ら、仕止めろ仕止めろ!」
 一同ド――ッと追っかけた。
 この頃|宿《しゅく》は狂乱していた。
 馬! 馬! 馬!
 博労! 博労! 博労!
 戸を蹴破り、露路に駈け込み、騒ぎに驚いて戸を開けた隙から、駈け入る馬! 捕らえようとして、無二無三に踏み入る博労!
 ボ――ッと一軒から火の手が揚がった。
 火事だ!
 とうとう火を出したのだ!
 おりから吹きつのった夜風に煽られ、飛火したらしいもう一軒から、カ――ッと火の手が空へあがった。
「起きろ!」
「火事だ!」
「焼き討ちだ!」
 家々はおおよそ雨戸を開け、人々は争って外へ出た。
 岩屋では主水が眼を覚まし、鍵屋では澄江が起き上った。
 番頭が階上階下《うえした》を怒鳴り廻っている。
「お客様方大変でございます。焼き討ちがはじまりましてござります! どうぞお仕度下さりませ! ご用心なすって下さりませ!」

 本陣油屋の奥の座敷では、逸見《へんみ》多四郎義利が、眼をさまして起き上った。


 多四郎は聞き耳を澄ましたが、
「源女殿! 東馬々々!」と呼んだ。
 と、左の隣部屋から、
「はい」という源女の声が聞こえ、
「眼覚め居りますでござります」という、門弟東馬の応える声が、右の隣部屋から聞こえてきた。
「宿《しゅく》に騒動が起こったようじゃ。……ともかくも身仕度してこの部屋へ!」
 間もなく厳重に身拵《みごしら》えした、東馬と源女とが入って来た。
 その間に多四郎も身拵えし、三人様子をうかがっていた。
 そこへ番頭が顔を出し、
「木曽福島の馬市へ参る、百頭に余る馬の群が、放れて宿へなだれ込み、出火などもいたしましたし、切り合いなどもいたし居ります様子、大騒動起こして居りますれば、ご用心あそばして下されますよう」
 こう云ってあわただしく走って行った。
「何はあれ宿の様子を見よう」
 多四郎は源女と東馬とを連れて、油屋の玄関から門口へ出た。
 多四郎がこの地へやって来た理由は?
 源女の歌う歌の中に、今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の、云々という文句があった。そこで多四郎は考えた。そういう馬飼の居る所に、黄金は埋められているのであろう、そうしてそういう馬飼の居る地は、木曽以外にはありそうもない。木曽山中には井上嘉門という、日本的に有名な馬飼があって、馬大尽とさえ呼ばれている。そやつが蔵しているのではあるまいか? おおそうそう馬大尽といえば、門弟高萩の猪之松方に、逗留しているということじゃ、源女殿と引き合わせ、二人の様子を見てやろうと、源女を連れて高萩村の、猪之松方へ行ったところ、本日井上嘉門ともども、木曽へ向かって行ったとのこと、それではこちらも木曽へ行こうと、東馬をも連れて旅立ったので、途中で馬大尽や猪之松の群と、遭遇《あ》わなければならないはずなのであるが、急いで多四郎が間道などを歩き、かえって早くこの地へ着き、日のある中《うち》に宿を取ったため、少し遅れてこの地へ着き、先を急いで泊まろうとせず、夜をかけて木曽の福島へ向かう、猪之松と馬大尽との一行と、一瞬掛け違ってしまったのであった。
 さて門口に立って見れば、宿の混乱言語に絶し、収拾すべくもなく思われた。
 群集が渦を巻いて街道を流れ、その間を馬の群が駈け巡り、その上を火の子が梨地《なしじ》のように飛んだ。
「これは危険だ、ここにいては不可《いけ》ない、野の方へ! 耕地の方へ!」
 こう云って多四郎は群集を分け、その野の方へ目差して進んだ。
 その後から二人は従《つ》いて行ったが、いつか混乱の波に呑まれ、全く姿が見えなくなってしまった。

 鍵屋で眼を覚まして起き上った澄江は、傍らを見たが陣十郎が居ない。
(どうしたことか?)と思ったものの、居ないのがかえって天の与え、今日の彼の様子から推せば、今後どんな目に逢わされるかも知れない。
(宿を出てともかくも外へ行こう)
 仕度をして外へ出た。
(主水様は?)
 こんな場合にも思った。


 昼間見かけた例のお侍さんが、もし恋しい主水様なら、この宿のどこかに泊まっていよう、お逢いしたいものだお逢いしたいものだ!
 思い詰めて歩く彼女の姿も、いつか混乱に捲かれてしまった。
 岩屋で眼覚めた主水その人も、ほとんど澄江と同じであった。
 傍らを見るとお妻が居ない。天の与えと喜んだ。義理あればこそ今日まで、一緒に起居をして来たのではあるが、希望《のぞみ》は別れることにあった。
 そのお妻の姿が見えない。
(よしこの隙に立ち去ろう)
 で、身仕度して外へ出た。
(鍵屋の二階で見かけた女、義妹澄江であろうも知れない。ともかくも行って探して見よう)
 で、その方へ歩を運んだが、人と馬と火との混乱! その混乱に包まれて、全く姿が見えなくなった。
 喚声、悲鳴、馬のいななき!
 破壊する音、逃げまどう足音?
 唸る嵐に渦巻き渦巻き、火の子を散らす火事の焔!
 宿は人の波、馬の流れ、水の洗礼、死の饗宴、声と音との、交響楽!
 その間を縫って全くの狂乱――血を見て狂った悪鬼の本性、陣十郎が走っては切り、切っては走り、隠見出没、宿の八方を荒れ廻っていた。
 今はお妻を探し出して切る! ――そういう境地からは抜け出していて、自分のために追分の宿が、恐怖の巷に落ち入っている、それが変質的彼の悪魔性を、恍惚感に導いていた。で男を切り女を切り馬を切り子供を切り、切れば切るほど宿が恐怖し、宿が混乱するその事が、面白くて面白くてならないのであった。
 返り血を浴び顔も手足も、紅斑々《こうはんはん》[#「紅斑々」は底本では「紅班々」]として凄まじく、髻《もとどり》千切れて髪はザンバラ、そういう陣十郎が老人の一人を、群集の中で切り仆し、悲鳴を聞き捨て突き進み、向こうから群集を掻き分け掻き分け、こっちへ向かって来る若い女を見た。
「澄江エ――ッ」と思わず声をあげた。
 それが澄江であるからであった。
「陣十様[#「陣十様」はママ]か!」と澄江は云ったが、あまりにも恐ろしい陣十郎の姿! それに自身陣十郎から遁れ、立ち去ろうとしている時だったので、陣十郎の横を反れ、群集の中へまぎれ込もうとした。
「汝逃げるか! 忘恩の女郎《めろう》!」
 そういう澄江の態度によって、心中をも見抜いた陣十郎は、可愛さ余って憎さが百倍! この心理に勃然として襲われ、いっそ未練の緒を断ってしまえ! 殺してしまえと悪鬼の本性、今ぞ現わして何たる惨虐!
「くたばり居ろう!」と大上段に、刀を振り冠り追いかけたが、その間をへだてる群集の波! が、そいつを押し分け突っ切り、近寄るや横から、
「思い知れ――ッ」と切った。
 が、幸いその途端に、一頭の馬が走って来、二三の人を蹴り仆し、二人の間へ飛び込んだ。
「ワ――っ」という人々の叫び! 又二三人蹴り仆され、澄江も仆れる人のあおりで、ドッと地上に伏し転んだ。
 と「お女中あぶないあぶない!」と、云い云い抱いて起こしてくれたは、旅|装束《よそおい》をした武士であった。
「あ、あ、あなたは主水様ア――ッ」
「や、や、や、や、澄江であったか――ッ」


 抱き起こしてくれたその武士こそ、恋しい恋しい主水であった。
「主水様ア――ッ」と恥も見得もなく、群集に揉まれ揉まれながら、澄江は縋りつき抱きしめた。
「澄江! 澄江! おおおお澄江!」
 思わず流れる涙であった。
 涙を流し締め返し、主水はほとんど夢中の態で、
「澄江であったか、おおおお澄江で! ……昼間鍵屋の二階の欄で。……それにいたしてもよくぞ無事で! ……別れて、知らず、生死を知らず、案じていたに、よくぞ無事で……」
 しかしその時群集の叫喚、巷の雑音を貫いて
「やあ汝《おのれ》は鴫澤主水《しぎさわもんど》! この陣十郎を見忘れはしまい! ……本来は汝に討たれる身! 逃げ隠れいたすこの身なれど、今はあべこべに汝を探して、返り討ちいたさんと心掛け居るわ! ……見付けて本望逃げるな主水!」と叫ぶ声が聞こえてきた。
「ナニ陣十郎? 陣十郎とな?」
 かかる場合にも鴫澤主水、親の敵《かたき》の陣十郎とあっては、おろそかにならずそれどころか、討たでは置けない不倶戴天の敵!
(どこに?)と声の来た方角を見た。
 馬や群集に駈けへだてられ、十数間あなたに離れてはいたが、まさしく陣十郎の姿が見えた。
 が、おお何とその姿、凄く、すさまじく、鬼気陰々、悪鬼さながらであることか! ザンバラ髪! 血にまみれた全身!
 ゾッとはしたが何の主水、驚こうぞ、恐れようぞ、
「妹よ、澄江よ、天の賜物、敵陣十郎を見出したるぞ! 討って父上の修羅の妄執、いで晴そうぞ続け続け――ッ」と刀引き抜き群集を分け、無二無三に走り寄った。
「ア、あにうえ! お兄イ様ア――ッ」
 叫んだが澄江の心は顛倒! 勿論親の敵である! 討たねばならぬ敵であるが、破られべかりし女の命の、操を救い助けてくれた恩人! ……陣十郎を陣十郎を!
(妾《わたし》には討てぬ! 妾には討てぬ!)
「オ、お兄イ様ア――ッ、オ、お兄イ様ア――ッ」
 その間もガガ――ッ! ド、ド――ッ! ド、ド――ッ! 響き轟き寄せては返す、荒波のような人馬の狂い!
 宿《しゅく》は狂乱! 宿は狂乱
「陣十郎オ――ッ! 尋常に勝負!」
「参れ主水オ――ッ! 返り討ち!」
 一間に逼った討ち手討たれ手!
 音!
 太刀音!
 合ったは一合オ――ッ!
「わ、わ、わ、わ――ッ」と悲鳴! 悲鳴!
 いや、いや、いや、主水ではなく、陣十郎でもなく群集群集!
 群集が二人の切り結ぶ中を、見よ恐れず意にもかけず、馳せ通り駈け抜け走る走る!
 その人々に駈けへだてられ、寄ろうとしても再び寄れず、焦心《あせっ》ても無駄に互いに押され、右へ左へ、前と後とへ、次第次第に、遠退く、遠退く!
「陣十郎オ――ッ! 汝逃げるな!」
「何の逃げよう――ッ! 主水参れ――ッ!」
「お兄イ様ア――ッ」
「妹ヨ――ッ」
「澄江殿! 澄江殿! 澄江殿オ――ッ」


 追分宿の狂乱の様を、望み見ながらその追分宿へ、入り込んで来る一団があった。
 旅合羽に草鞋脚絆、長脇差を落として差し、菅笠を冠った一団で、駒箱、金箱を茣蓙に包み、それを担いでいる者もあり、博徒の一団とは知れていたが、中に二人の武士がいた。
 秋山要介と杉浪之助と、赤尾の林蔵とそれの乾児の、三十余人の同勢であり、云わずと知れた木曽福島の、納めの馬市に開かれる、賭場に出るべく来た者であった。
 納めの馬市には日限がある。それに間に合わねば効果がない。で猪之松や林蔵ばかりが[#「ばかりが」は底本では「ばかりか」]、この日この宿を通るのではなく、武州甲州の貸元で、その馬市へ出ようとする者は、おおよそ今日を前後に挿んで、この宿を通らなければならないのであった。
 要介達は何故来たか?
 源女を逸見多四郎に取られた。
 爾来要介は多四郎の動静、源女の動静に留意した。
 と、二人が連立って、木曽へ向かったと人伝てに聞いた。
(では我々も追って行こう)
 おりから林蔵も行くという。
 では同行ということになり、さてこそ連れ立って来たのであった。
 粛々と一団は歩いて来たが、見れば行手の追分宿は、火事と見えて火の手立ち上り、叫喚の声いちじるしかった。
 と、陸続として逃げて来る男女! 口々に罵る声を聞けば、
「焼き討ちだ――ッ!」
「馬が逃げた――ッ!」
「百頭、二百頭、三百頭オ――ッ!」
「切り合っているぞ――ッ!」
「焼き討ちだ――ッ」
 耳にして要介は足を止めた。
「林蔵々々、少し待て!」
「へい、先生、大変ですなア」
「どうも大変だ、迂闊には行けぬ」
「そうですとも先生迂闊には行けない」
「宿を避けて野を行こう」
「そうしましょう、さあ野郎共、その意《つもり》で行け、街道から反れろ」
「へい」と一同街道を外し、露じめっている草を踏み、野へ出て先へ粛々と進んだ。
 進み進んで林蔵の一団、生地獄の宿を横に睨み、宿の郊外まで辿りついた。
 と、この辺りも避難の人々で、相当混雑を呈してい、放れ馬も時々走って来た。火事の光は勿論届きほとんど昼のように明るかった。
 その光で行手を見れば、博徒の一団が屯《たむろ》していて、宿の様子を眺めていた。
(おおどこかのお貸元が、避難してあそこにいるらしい。ちょっとご挨拶せずばなるまい)
 渡世人の仁義である。
「藤作々々」と林蔵は呼んだ。
「へい、親分、何でござんす」
「向こうに一団見えるだろう。どこのお貸元だか知らねえが、ちょっと挨拶に行って来ねえ」
「ようがす」と藤作は走って行ったが、すぐ一散に走り帰って来た。
「親分、大変で、猪之松の野郎で」
「ナニ猪之松? ううん、そうか!」
 見る見る額に青筋を立てた。
「先生々々、秋山先生!」
「何だ?」と要介は振り返った。
「向こうに見えるあの同勢、高萩の猪之だっていうことで」
「猪之松? ふうん、おおそうか」
 要介も向こうを睨むように見た。


「林蔵!」としかし要介は云った。
「猪之松には其方《そち》怨みはあろうが、ここでは手出ししてはならぬぞ」
「何故です先生、何故いけません?」
「何故と申してそうではないか。宿は火事と放れ馬とで、あの通りに混乱し、人々いずれも苦しんで居られる。そういう他人の苦難の際に、男を売物の渡世人が、私怨の私闘は謹むべきだ」
「そうですねえ、そう云われて見れば、こいつ一言もありませんや。が、相手がなぐり込んで来たら?」
「おおその時には売られた喧嘩、降りかかる火の子だ、断乎として払え!」
「ようがす、それじゃアその準備だ。……やいやい野郎共聞いていたか、猪之の方から手出ししたら幸い、遠慮はいらねえ叩き潰してしまえ! ……それまではこっちは居待懸け! おちついていろおちついていろ!」
「合点でえ」と赤尾の一党、鳴を静めて陣を立てた。
 と、早くも猪之松方でも、彼方に見える博徒の群が、赤尾の一党と感付いた。
「親分」と云ったのは一の乾児の、例の閂峰吉であった。
「林蔵の乾児の藤作の野郎が、やって来て引っ返して行きましたねえ」
「うん」と云ったのは猪之松で、先刻すでに駕籠から出、牀几を据えさせてそれへ腰かけ、火事を見ていた馬大尽、井上嘉門の側に立って、これも火勢を眺めていたが、
「うん、藤作が見えたっけ」
「向こうにいるなあ林蔵ですぜ。林蔵と林蔵の乾児共ですぜ」
「俺もそうだと睨んでいる」
「さて、そこで、どうしましょう?」
「どうと云って何をどうだ。先方が手出しをしやアがったら、相手になって叩き潰すがいい。それまではこっちは静まっているばかりさ」
「上尾街道では林蔵の方から、親分に決闘《はたしあい》を申し込んだはず。今度はこっちから申し込んだ方が」
「嘉門様がお居でなさらあ。……素人の客人を護衛《まも》って行く俺らだ、喧嘩は不可《いけ》ねえ、解ったろうな」
「なるほどなア、こいつア理屈だ。……じゃア静まって居りやしょう」
 この時二人の旅姿の武士と、同じく一人の旅姿の女、三人連れが火事の光に、あざやかに姿を照らしながら、宿の方から野へ現われ、猪之松方へ歩いて来た。
 眼ざとく認めたのが要介であった。
「杉氏」と要介は声をかけた。
「あの武家をよくご覧」
 浪之助は見やったが、
「先生ありゃア逸見先生で」
「であろうな、わしもそう見た」
「先生、女は源女さんですよ」
「そうらしい、わしもそうと見た。……よし」と云うと秋山要介[#「要介」は底本では「要助」]、つかつか進み出て声をかけた。
「あいやそこへまいられたは、逸見多四郎先生と存ずる。しばらくお待ち下されい」
 さようその武士は本陣油屋から、人波を分け放馬を避け、源女と東馬とを従えて、野へ遁れ出た多四郎であったが、呼ばれて足を止め振り返った。


「これはこれは秋山先生か」
 こう云ったが逸見多四郎、当惑の眉をひそかにひそめた。
「不思議な所でお逢い申した」
「いや」と要介は苦笑いをし、
「拙者におきましてはこの邂逅、不思議ではのうて期する処でござった」
「期する処? はてさてそれは?」
「と申すはこの要介、貴殿を追っかけ参りましたので」
「拙者を追っかけ? ……何故でござるな?」
「源女殿を当方へいただくために」
「…………」
「過ぐる日貴殿お屋敷において、木刀立合いいたしました際、拙者貴殿へ申し上げましたはずで。源女殿を取り返すでござりましょうと。……なお、その際申し上げましたはずで、後日真剣で試合ましょうと。……」
「…………」
「いざ、今こそ真剣試合! 拙者勝たば有無ござらぬ、源女殿を頂戴いたす!」
「…………」
「なお、この際再度申す、拙者が勝たば赤尾の林蔵を――その林蔵は拙者と同伴、乾児と共にそこへ参ってござる。――関東一の貸元として、猪之松を隷属おさせ下さい!」
「拙者が勝たば高萩の猪之松を――その猪之松儀これより見れば、同じく乾児を引卒して、そこに屯して居るようでござるが、その猪之松を関東一の、貸元として林蔵を乾児に……」
「致させましょう、確かでござる!」
「しからば真剣!」
「白刃の立合い!」
「いざ!」
「いざ!」
 サ――ッと三間あまり、二大剣豪は飛び退ったが、一度に刀を鞘走らせると、火事の光りに今はこの辺り、白昼《ひるま》よりも明るくて、黄金の色を加えて赤色、赤金色の火焔地獄! さながらの中にギラギラと輝く、二本の剣をシ――ンと静め、相青眼に引っ構えた。
 これを遥かに見聞して、驚いたのは林蔵と猪之松で、
(俺らのために先生――師匠が、――師匠同志が切り合ったでは、此方《こちとら》の男がすたって[#「すたって」に傍点]しまう! もうこうなっては遠慮は出来ねえ! 控えていることは出来なくなった!)
 両人ながら同じ心で、同じ心が言葉になり、
「さあ手前達かもう事アねえ、猪之の同勢へ切り込んで、猪之の首をあげっちめえ!」
「さあ野郎共赤尾へ切り込め! 林蔵を仕止めろ仕止めろ!」
 ド――ッとあがった鬨の声!
 ムラムラと両軍走りかかった。
 白刃! 閃き! 悲鳴! 怒声! 仆れる音! 逃げつ追いつ、追いつ逃げつする姿!
 混乱混戦の場となったが、この時|宿《しゅく》もいよいよ混乱! 混乱以上に阿鼻叫喚の焦熱地獄となりまさり火事の焔の熱気に堪えかね、空地へ耕地へ……耕地へ耕地へと、さながら怒濤の崩れる如く、百、二百、三百、四百! 老幼男女家畜までが、この耕地へ逃げ出して来た。
 その人波に揉まれ揉まれて、澄江とお妻とが泳いで来た。
 と、陰惨とした幽鬼の声で、
「澄江殿オ――、お待ちなされ! ……汝お妻ア――遁そうや!」と叫ぶ、陣十郎の声がした。


 澄江もお妻も振り返って見た。
 愛欲の鬼、妄執の餓鬼、殺人鬼、――鬼となった陣十郎が人波を分けて、二人の方へ走って来た。
 血刀が群集の波の上に、火光《ひかり》を受けて輝いている。
(陣十郎に捕らえられたら、妾《わたし》の命は助からない)
 お妻は夢中で悲鳴を上げて走り、
(陣十郎殿に捕らえられたら、妾の躰も貞操も……)
 こう思って澄江も無我夢中で、前へ前へとヒタ走った。
「どうぞお助け下さりませ!」
 無我夢中で走って来た澄江、一挺の駕籠のあるのを見かけて、そこへ駈け付けこう叫んだ。
「お助けいたす! 駕籠の中へ!」
 誰とも知らず叫んだ者があった。
「お礼は後に、事情も後に!」
 こう云って澄江は駕籠の中へ、窮鳥のように身を忍ばせた。
「駕籠やれ!」と又も誰とも知れず叫んだ。
 駕籠がユラユラと宙に上り、街道の方へ舁がれて走り、その後から赧顔長髪の、酒顛童子[#「酒顛童子」は底本では「酒天童子」]さながらの人物が、ニタニタ笑いながら従《つ》いて走った。
 猪之松の屋敷で澄江の躰を、自分の物にしようとして、陣十郎に邪魔をされて、望みを遂げることに失敗した、馬大尽の井上嘉門であった。
「駕籠待て――ッ、遣らぬ! 待て待て待て――ッ!」
 陣十郎は追っかけたが、
「や、こいつ陣十郎! 又現われたか、今度こそ仕止めろ!」と、猪之松の乾児達一斉に、陣十郎を引っ包んだ。
 一方、お妻はその隙を狙い、ひた走りひた走ったが、息切れがして地に仆れた。
 と、そこに刀を下げて、寄せ来る群集に当惑し、左右に避けていた武士がいた。
「お侍さまと見申して、お助けお願いいたします!」
 云い云いお妻は武士の袖に縋った。
「誰じゃ? よし、誰でもよし! 見込まれて助けを乞われた以上、誰であろうと助けつかわす! 参れ!」と云ったがこの武士こそ、秋山要介と太刀を交わし、命の遣り取りをしようとした瞬間、群集の崩れに中をへだてられ、相手の姿を見失ったところの、逸見多四郎その人であった。
「東馬々々、東馬参れ!」
「はい先生! 私はここに!」
「源女殿は? 源女殿は?」
「源女殿は人波にさらわれて……どことも知れずどことも知れず……」
「残念! ……とはいえ止むを得ぬ儀、東馬参れ――ッ!」と刀を振り上げ、遮る群集に大音声!
「道を開け! 開かねば切るぞ!」
 刀の光に驚いて、道を開いた群集の間を、あて[#「あて」に傍点]もなく一方へ一方へ、三人は走った走った走った。
 が、それでも未練あって、
「源女殿オ――、源女殿オ――ッ」と呼ばわった。
 そういう声は聞きながら、永らく世話になってなつかしい、要介の姿を見かけた源女は――逸見多四郎に対しても、丁寧な待遇を受けたので、決して悪感は持っていなかったが、要介に対してはそれに輪をかけた、愛慕の情さえ持っていたので、その方角へ人を掻き分け、この時無二無三に走っていた。
「秋山先生!」とやっと[#「やっと」に傍点]近付き、地へひざまずくと足を抱いた。

10
「源女殿か――ッ!」と秋山要介、これも地面へ思わず膝つき
「逢えた! よくぞ! 参られた! ……杉氏々々!」と嬉しさの声、顫わせて呼んで源女を抱き、
「もう逃がさぬ! どこへもやらぬ! 杉氏々々源女殿を、林蔵の手へ! ……そこで介抱!」
「おお源女殿オ――ッ! よくぞ来られた!」
 駈け寄って来た浪之助、これもなつかしさ[#「なつかしさ」に傍点]に声を亢《たか》ぶらせ、
「いざ源女殿、向こうへ向こうへ! ……先生にもご同道……」
「いやいや俺は逸見多四郎を! ……」
「この混乱、この騒動、見失いました上からは……」
「目つからぬかな。……では行こう」
 この混乱の人渦の中を、阿修羅のように荒れ廻っているのは、澄江を奪われお妻を見失い、猪之松の乾児達に取り巻かれ、切り立てられている陣十郎であった。
 十数人を殺傷し、己も幾度か薄手を受け、さすがの陣十郎も今は疲労! その極にあって眼はクラクラ、足元定まらずよろめくのを、得たりと猪之松の乾児の大勢、四方八方より切ってかかった。
 それをあしらい[#「あしらい」に傍点]、避けつ払いつ――こいつらに討たれては無念残念、どこへなりと一旦遁れようと退く、退く、今は退く!
 ようやく人波の渦より出、追い縋る猪之松の乾児からも遁れ、薮の裾の露じめった草野へ、跚蹣《さんまん》として辿りついた時には、神気全く消耗し尽くした。
(仆れてなろうか! 仆れぬ! 仆れぬ!)
 が、ドッタリ草の上に仆れ、気絶! ――陣十郎は気絶してしまった。
 火事の遠照りはここまでも届いて、死人かのように蒼い顔を、陰影づけて明るめていた。
 修羅の巷は向こうにあったが、ここは寂しく人気なく、秋の季節は争われず、虫の音がしげく聞こえていた。
 と、この境地へ修羅場を遁れ、これも同じく疲労困憊、クタクタになった武士が一人、刀を杖のように突きながら、ヒョロリヒョロリと辿って来た。
「や、死人か、可哀そうに」と呟き、陣十郎の側《そば》へ立った。
 が、俄然躍り上り――躍り上り躍り上り声をあげた。
「陣十郎オ――ッ! 汝《おのれ》であったか! 鴫澤主水が参ったるぞ! 天の与え、今度こそ遁さぬ! 立ち上って勝負! 勝負いたせッ!」
 武士は鴫澤主水であった。
「起きろ起きろ水品陣十郎! 重なる怨み今ぞ晴す! ……起きろ! 立ち上れ! 水品陣十郎!」
 刀を真っ向に振り冠り、起き上ったらただ一討ち! ……討って取ろうと構えたが、陣十郎は動かなかった。
(死んでいるのか?)と疑惑が湧いた。
 手を延ばして額へ触った。
 気絶しているのだ、暖味がある。
(よ――し、しからばこの間に!)
 振り冠った刀を取り直し、胸へ引きつけ突こうとしたが、心の奥で止めるものがあった。
(あなたが高萩の森の中で、気絶しているのを陣十郎の情婦、お妻が助けたではありませんか。……正体もない人間を、敵《かたき》であろうと討つは卑怯、まず蘇生させてその上で)と。
(そうだ)と主水は草に坐り、印籠から薬を取り出した。

恩讐同居


木曽福島の納めの馬市。――
 これは勿論現代にはない。
 現代の木曽の馬市は、九月行なわれる中見《なかみ》の市と、半夏至を中にして行なわれる、おけつげ[#「おけつげ」に傍点]という二つしかない。
 納めの馬市の行なわれたのは、天保末年の頃までであり、それも前二回の馬市に比べて、かなり劣ったものであった。もうこの頃は山国の木曽は、はなはだ寒くて冬めいてさえ居り、人の出もあまりなかったからである。
 とは云え天下の福島の馬市! そうそう貧弱なものではなく、馬も五百頭それくらいは集まり、縁日小屋も掛けられれば、香具師《やし》の群も集まって来、そうして諸国の貸元衆が、乾児をつれて出張っても来、小屋がけをして賭場をひらいた。
 この時集まって来た貸元衆といえば――
 白子の琴次《ことじ》、一柳の源右衛門、廣澤の兵右衛門、江尻の和助、妙義の雷蔵、小金井の半助、御輿の三右衛門、鰍澤《かじかざわ》の藤兵衛、三保松源蔵、藤岡の慶助――等々の人々であり、そこへ高萩の猪之松と、赤尾の林蔵とが加わっていた。
 左右が山で中央が木曽川、こういう地勢の木曽福島は、帯のように細い宿であったが、三家の筆頭たる尾張様の家臣で、五千八百余石のご大身、山村甚兵衛が関の関守、代官としてまかり居り、上り下りの旅人を調べる。で、どうしてもこの福島へは、旅人は一泊かあるいは二三泊、長い時には七日十日と、逗留しなければならなかったので、宿は繁盛を極めていた。尾張屋という旅籠《はたご》があった。
 そこへ何と堂々と、こういう立看板が立てられたではないか!
「秋山要介在宿」と。
 これが要介のやり口であった。
 どこへ行っても居場所を銘記し、諸人に自己の所在を示し、敵あらば切り込んで来い、慕う者あらば訪ねて来いという、そういう態度を知らせたのであった。
 その尾張屋から二町ほど離れた、三河屋という旅籠には、逸見《へんみ》多四郎が泊っていたが、この人は地味で温厚だったので、名札も立てさせずひっそりとしていた。
 さて馬市の当日となった。
 博労、市人、見物の群、馬を買う人、馬を売る人、香具師《やし》の男女、貸元衆や乾児、非常を警める宿役人、関所の武士達、旅の男女――人、人、人で宿《しゅく》は埋もれ、家々の門や往来には、売られる馬が無数に繋がれ、嘶《いなな》き、地を蹴り、噛み合い刎ね合い、それを見て犬が吠え――、声、声、声で騒がしくおりから好天気で日射し明るく、見世物小屋も入りが多く、賭場も盛って賑やかであった。
 そういう福島の繁盛を外に、かなり距たった奈良井の宿の、山形屋という旅籠屋へ、辿りついた二人の武士があった。
 陣十郎と主水であった。
 奥の小広い部屋を二つ、隣同志に取って泊まった。
 二人ながら駕籠で来たのであったが、駕籠から現われた陣十郎を見て、
「こいつは飛んだお客様だ」と、宿の者がヒヤリとした程に、陣十郎は憔悴してい、手足に幾所か繃帯さえし、病人であり、怪我人であることを、むごたらしく鮮やかに示していた。
 夕食の膳を引かしてから、主水は陣十郎の部屋へ行った。
「どうだ陣十郎、気分はどうだ?」
「悪い、駄目だ、起きられぬ」
 床を敷かせ、枕に就き、幽かに唸っていた陣十郎は、そう云って残念そうに歯を噛んだ。
「これではお前と立ち合い出来ぬよ」


「まあ可《い》い、ゆっくり養生するさ」
 主水はそう云って気の毒そうに見た。
「快癒してから立ち合おう」
「それよりどうだな」と陣十郎は云った。
「こういう俺を討って取らぬか」
「そういうお前を討つ程なら、あの時とうに討って居るよ」
「あの時討てばよかったものを」
「死人を切ると同じだったからな」
「それでも討てば敵討《かたきうち》にはなった」
「誉にならぬ敵討か」
「ナーニ見事に立ち合いまして、討って取りましたと云ったところで、誰一人疑う者はなく、誉ある復讐ということになり、立身出世疑いなしじゃ」
「心が許さぬよ、俺の良心が」
「なるほどな、それはそうだろう。……そういう良心的のお前だからな」
「お前という人間も一緒に住んで見ると、意外に良心的の人間なので、俺は少し驚いている」
「ナーニ俺は悪人だよ」
「悪人には相違ないさ。が、悪人の心の底に、一点強い善心がある。――とそんなように思われるのさ」
「そうかなア、そうかもしれぬ。いやそうお前に思われるなら、俺は実に本望なのだ。……俺は一つだけ可《い》いことをしたよ。……いずれゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]話すつもりだが」
「話したらよかろう、どんなことだ?」
「いやまだまだ話されぬ。もう少しお前の気心を知り、そうして俺の性質を、もう少しお前に知って貰ってからそうだ知って貰ってからでないと、話しても信じて貰われまいよ」
「実はな」と主水も真面目の声で、
「実はな俺もお前に対し、その中《うち》是非とも聞いて貰いたいこと、話したいことがあるのだよ。が、こいつも俺という人間を、もっとお前に知って貰ってからでないと……」
「ふうん、変だな、似たような話だ。……が、俺はお前という人間を、かつて疑ったことはないよ。俺のような人間とはまるで[#「まるで」に傍点]違う。お世辞ではない、立派な人間だ」
「お前だってそうだ、可《い》いところがある」
 二人はしばらく黙っていた。
 木曽街道の旅籠の部屋だ、襖も古び障子も古び、畳も古び、天井も古び、諸所に雨漏りの跡などがあって、暗い行燈でそれらの物象が、陰惨とした姿に見えていた。
 乱れた髷、蒼白の顔、――陣十郎のそういう顔が、夜具の襟から抽《ぬきん》でている。
 それは化物絵を思わせるに足りた。
「おい」と陣十郎は感傷的の声で、
「俺とお前は血縁だったなア」
「…………」
 主水は無言で頷いた。
「俺とお前は従々兄弟《またいとこ》だったんだなア」
「…………」
「だから互いに敵同志になっても、……」
「…………」
「こんな具合に住んでいられるのだなア」
「そうだよ」と主水も感傷的に云った。
「そうだよ俺達は薄くはあるが、縁つづきには相違ないのだ」
 ここで又二人は黙ってしまった。
 行燈の光が暗くなった。
 燈心に丁字でも立ったのであろう。
「寒い」と陣十郎は呟いた。
「木曽の秋の夜……寒いのう。……風邪でも引いては大変だ。わしの夜具を掛けてやろう」
 主水は云って自分の部屋へ立った。


 追分宿の大乱闘、その時仆れた陣十郎を目つけ、主水は討って取ろうとしたが、気絶している人間は討てぬ。で蘇生させたところ、陣十郎は無数の負傷、立ち上る気力もなくなっていた。
 しかし彼は観念し、草に坐って首差し延べ、神妙に討って取られようとした。
 これがかえって主水の心を、同情と惻隠とに導いて、討って取ることを出来なくした。
 で、介抱さえしてやることにした。
 旅籠へ連れて来て医師にかけた。
 それにしてもどうしてそんな負傷者を連れて、福島などへ行くのであろう?
 こう陣十郎が云ったからである。
「井上嘉門という馬大尽が、博徒猪之松の群にまじり、あの夜乱闘の中にいた。そこへ澄江殿が逃げ込まれた。と、嘉門が駕籠に乗せ、福島の方へ走らせて行った。その以前からあの嘉門め、澄江殿に執着していた。急いで行って取り返さずば、悔いても及ばぬことになろう。……これにはいろいろ複雑の訳と、云うに云われぬ事情とがある。そうして俺はある理由によって、その訳を知っている。が今は云いにくい。ただ俺を信じてくれ。俺の言葉を信じてくれ。そうして一緒に木曽へ行って、澄江殿を取り返そう」
 ――で、二人は旅立ったのであった。
 主水にしてからが澄江の姿を、追分の宿で見かけたことを、不思議なことに思っていた。馬大尽井上嘉門のことは、上尾宿の旅籠の番頭から聞いた。
 しかし、澄江と嘉門との関係――何故嘉門が駕籠に乗せて、澄江をさらって行ったかについては、窺い知ることが出来なかった。
 陣十郎は知っているらしい。
 詳しい事情を知っているらしい。
 が、その陣十郎はどうしたものか、詳しく話そうとはしないので、強いて訊くことも出来なかった。
 とはいえ澄江がそんな事情で、嘉門に連れられて行ったとすれば、急いで木曽へ出張って行って、澄江を奪い返さなければならない。
 ――で、旅立って来たのである。
 二人は翌日山形屋を立って、旅駕籠に身を乗せて、福島さして歩ませた。
 鳥居峠へ差しかかった。
 ここは有名な古戦場で、かつ風景絶佳の地で、芭蕉翁なども句に詠んでいる。
[#ここから3字下げ]
雲雀《ひばり》より上に休らう峠かな
[#ここで字下げ終わり]
 木曽の五木と称されている、杜松《ねず》や扁柏《ひのき》や金松《かさやまき》[#ルビの「かさやまき」はママ]や、花柏《さわら》や、そうして羅漢松《おすとのろう》[#ルビの「おすとのろう」はママ]などが、鬱々蒼々と繁ってい、昼なお暗いところもあれば、カラッと開けて急に眼の下へ、耕地が見えるというような、そういう明るいところもあった。
 随分急の上りなので、雲助はしきりに汗を拭いた。
 主水は陣十郎の容態を案じた。
(窮屈の駕籠でこんな所を越して、にわかに悪くならなければよいが)
 で、時々駕籠を止めて、客をも駕籠舁《かごかき》をも休ませた。
 峠の中腹へ来た時である、
「駕籠屋ちょっと駕籠をとめろ」
 突然陣十郎はそう云った。
「おい主水、景色を見ようぜ」
「よかろう」と主水も駕籠から下りた。
「歩けるのか、陣十郎」
「大丈夫だ。ボツボツ歩ける」
 陣十郎は先に立って、森の方へ歩いて行った。


 明応《めいおう》年間に木曽義元、小笠原氏と戦って、戦い勝利を得たるをもって、華表《とりい》を建てて鳥居峠と呼ぶ。
 その鳥居の立っている森。――森の中は薄暗く、ところどころに日漏れがして、草に斑紋《まだら》を作ってはいたが、夕暮のように薄暗かった。
 そこを二人は歩いて行った。
 紅葉した楓《かえで》が漆《うるし》の木と共に、杉の木の間に火のように燃え、眩惑的に美しかったが、その前までやって来た時、
「エ――イ――ッ」と裂帛の声がかかり、木漏れ陽を割って白刃一閃!
「あッ」
 主水だ!
 叫声を上げ、あやうく飛び退き抜き合わせた!
 悪人の本性に返ったらしい! 見よ、陣十郎は負傷の身ながら、刀を大上段に振り冠り、繃帯の足を前後に踏み開き、大眼カッと見開いて、上瞼へ瞳をなかば隠し、三白眼を如実に現わし、主水の眼をヒタと睨み、ジリリ、ジリリと詰め寄せて来た。
 殺気!
 磅磚《ぼうばく》!
 宛《えん》として魔だ!
 気合に圧せられ殺気に挫かれ、主水はほとんど心とりのぼせ、声もかけられずジリリジリリと[#「ジリリジリリと」は底本では「ヂリリヂリリと」]、これは押されて一歩一歩後へ後へと引き下った。
 間!
 静かにして物凄い、生死の境の間が経った。
 と、陣十郎の唇へ酸味のある笑いが浮かんで来た。
「駄目だなア主水、問題にならぬぞ。それでは到底俺は討てぬ」
「…………」
「人物は立派で可《い》い人間だが、剣道はからきし[#「からきし」に傍点]物になっていない」
「…………」
「刀をひけよ、俺も引くから」
 陣十郎は数歩下り、刀を鞘に納めてしまった。
 二人は草を敷いて並んで坐った。
 小鳥が木から木へ渡り、囀りの声を立てていた。
「主水、もっと修行せい」
「うん」と主水は恥かしそうに笑い、
「うん、修行するとしよう」
「俺が時々教えてやろう」
「うん、お前、教えてくれ」
「俺の創始した『逆ノ車』――こいつを破る法を発明しないことには、俺を討つことは出来ないのだがなア」
「とても俺には出来そうもないよ。『逆ノ車』を破るなんてことは」
「それでは俺を討たぬつもりか」
「きっと討つ! 必ず討つ!」
 主水は烈しい声で云い、鋭い眼で陣十郎を睨んだ。
 それを陣十郎は見返しながら、
「討てよ、な、必ず討て! 俺もお前に討たれるつもりだ。……が、それには『逆ノ車』を……」
 主水は俯向いて溜息をした。
 二人はしばらく黙っていた。
 森の外の明るい峠道を、二三人の旅人が通って行き、駄賃馬の附けた鈴の音が、幽かながらも聞こえてきた。
「『逆ノ車』使って見せてやろうか」
 ややあって陣十郎はこう云った。
「うむ、兎も角も使って見せてくれ」
「立ちな。そうして刀を構えな」
 云い云い陣十郎は立ち上った。
 そこで主水も立ち上り、云われるままに刀を構えた。
 と、陣十郎も納めた刀を、又もソロリと引き抜いたが、やがて静かに中段につけた。


「よいか」と陣十郎が云った途端、陣十郎の刀が左斜に、さながら水でも引くように、静かに、流暢に、しかし粘って、惑わすかのようにスーッと引かれた。
 何たる誘惑それを見ると、引かれまい、出まいと思いながら、その切先に磁気でもあって、己が鉄片ででもあるかのように、主水は思わず一歩出た。
 陣十郎の刀が返った。
 ハ――ッと主水は息を呑んだ。
 瞬間怒濤が寄せるように、大下手切り! 逆に返った刀!
 見事に胴へダップリと這入った。
「ワッ」
「ナーニ切りゃアしないよ」
 もう陣十郎は二間の彼方へ、飛び返っていて笑って云った。
「どうだな主水、もう一度やろうか」
「いや、もういい。……やられたと思った」
 主水は額の冷汗を拭いた。
 また二人は並んで坐った。
「どうだ主水、破れるか?」
「破るはさておいて防ぐことさえ……」
「防げたら破ったと同じことだ」
「うん、それはそうだろうな」
「どこがお前には恐ろしい?」
「最初にスーッと左斜へ……」
「釣手の引のあの一手か?」
「あれにはどうしても引っ込まれるよ」
「次の一手、柳生流にある、車ノ返シ、あれはどうだ?」
「あれをやられるとドキンとする」
「最後の一手、大下手切り! これが本当の逆ノ車なのだが、これをお前はどう思う?」
「ただ恐ろしく、ただ凄じく、されるままになっていなければならぬよ」
「これで一切分解して話した、……そこで何か考案はないか?」
「…………」
 無言で主水は考えていた。
 と、陣十郎が独言のように云った。
「すべての術は単独ではない。すべての法は独立してはいない。……『逆ノ車』もその通りだ。『逆ノ車』そればかりを単独に取り上げて研究したでは、とうてい破ることは出来ないだろう。……その前後だ、肝心なのは! ……どういう機会に遭遇した時『逆ノ車』を使用するか? ……『逆ノ車』を使う前に、どうそこまで持って来るか? ……こいつを研究するがいい。……こいつの研究が必要なのだ」
 ここで陣十郎は沈黙した。
 主水は熱心に聞き澄ましていた。
 そう陣十郎に云われても、主水には意味が解らなかった。いやそう云われた言葉の意味は、解らないことはなかったが、それが具体的になった時、どうなるものかどうすべきものか、それがほとんど解らなかった。
 で、いつ迄も黙っていた。
「澄江殿はどうして居られるかのう」
 こう如何にも憧憬《あこが》れるように、陣十郎が云いだしたのは、かなり間を経た後のことであった。
 異様な声音に驚いて、主水は思わず陣十郎を見詰めた。
 と、陣十郎の頬の辺りへ、ポッと血の気が射して燃えた。
(どうしたことだ?)と主水は思った。
 が、直ぐに思い出されたことは、陣十郎が以前から、澄江を恋していたことであった。
(いまだに恋しているのかな)
 こう思うと不快な気持がした。
 それと同時に陣十郎の情婦? お妻のことが思い出された。
 卒然として口へ出してしまった。
「お妻殿はどうして居られることやら」
「ナニお妻?」と驚いたように、陣十郎は主水を見詰めた。


「お妻! ふふん、悪婆毒婦! あんな女も少ないよ」
 やがて陣十郎は吐き出すように云った。
 追分宿の夜の草原で、後口の悪い邂逅をした。――そのことを思い出したためであった。
「そうかなア」と主水は云ったが主水にはそう思われなかった。
 彼女の執拗なネバネバした恋慕、どこまでも自分に尽くしてくれた好意――一緒にいる中は迷惑にも、あさましいものにも思われたが、さてこうして離れて見れば、なつかしく恋しく思われるのであった。
(が、そのお妻とこの俺とが、夫婦ならぬ夫婦ぐらし、一緒に住んでいたと知ったら、陣十郎は何と思うであろう?)
 夫婦のまじわり[#「まじわり」に傍点]をしなかったといかに弁解したところで、若い女と若い男とが、一緒に住んでいたのである。清浄の生活など何で出来よう、肉体的の関係があったと、陣十郎は思うであろう――主水にはそんなように思われた。
 それが厭さに今日まで、主水は陣十郎へ明かさないのであった。
 とはいえいずれは明かさなければならない――そこで奈良井の旅籠屋でも、聞いて貰いたいことがある、云わなければならないことがあると、そういう意味のことを云ったのであった。
 似たような思いにとらえられているのが水品陣十郎その人であった。
 澄江と夫婦ならぬ夫婦ぐらし、それをして旅をさえつづけて来た。が、そう打ちあけて話したところで、肉体のまじわり[#「まじわり」に傍点]なかったと、何で主水が信じよう。暴力で思いを遂げたぐらいに、まず思うと思ってよい。
 打ち明けられぬ! 打ち明けられぬ!
 で、今だに打ち明けないのであったが、早晩は話してしまわねば、自分として心苦しい。そこでこれも奈良井の宿で、聞いて貰いたいことがある、話さねばならぬことがあると、主水に向かって云ったのであった。
 二人はしばらく黙っていた。
 互いに一句云ったばかりで、澄江について、お妻に関して、もう云おうとはしなかった。
 触れることを互いに避けているからである。

 木曽福島へやって来たものの、逸見多四郎は馬市そのものに、何の関心も執着もなく、執着するところは埋ずもれた巨宝、それを手に入れることであった。
「お妻殿」と旅籠の座敷で多四郎は優しく微笑して云った。
「木曽の奥地西野郷へ、行って見ようではござらぬか」
「はいはいお供いたしますとも」
 お妻は嬉しそうにそう云った。
「其方《そなた》は健気で話が面白い。同行すると愉快でござろうよ」
「まあ殿様、お世辞のよいこと」
「東馬、其方《そち》も行くのだぞ」
「は、お供いたします」
 こんな塩梅《あんばい》に二人を連れて、多四郎は福島の宿を立った。
 奥地の木曽の風景を探る。こう二人には云ったものの、その実は奥地の西野郷に、馬大尽事井上嘉門がいる。そこに巨宝があるかもしれない。有ったらそれを手に入れてと、それを目的に行くのであった。
 木曽川を渡ると渡った裾から、もう険しい山路であった。
 急ぐ必要の無い旅だったので、三人は悠々と辿って行った。

馬大尽の屋敷


 その同じ日のことであった、旅籠《はたご》尾張屋の奥の部屋で、秋山要介が源女と浪之助とへ、
「さあ出立だ。いそいで用意! 西野郷へ行くのだ、西野郷へ行くのだ!」
 急き立てるようにこう云った。
 要介は源女を取り返して以来、そうして源女と福島へ来て以来、源女の口からこういう事を聞いた、
「妾《わたくし》だんだん思い出しました。大森林、大渓谷、大きな屋敷、無数の馬、酒顛童子のような老人のいた所、そこはどうやら福島の、奥地のように思われます」と。
 それに福島へ来て以来、林蔵の[#「林蔵の」は底本では「林臓の」]乾児《こぶん》をして逸見《へんみ》多四郎の起居を、絶えず監視させていたが、それから今しがた通知があった。逸見多四郎が供二人を連れて、西野郷さして発足したと。
 そこでこんなように急き立てたのであった。
 三人は旅籠を出た。
(西野郷には馬大尽事、井上嘉門という大金持が、千頭ほどの馬を持って、蟠踞《ばんきょ》[#ルビの「ばんきょ」は底本では「はんきょ」]しているということだ。それが源女のいう所の、酒顛童子のような老人かも知れない)
 要介はそんなことを思った。
 さて三人は歩いて行く。
 西野郷は今日の三岳村と、開田村とに跨がっており、木曽川へ流れ込む黒川の流域、貝坪、古屋敷、馬橋、ヒゲ沢渡、等々の小部落を点綴《てんてつ》したところの、一大地域の総称であって、その中には大森林や大渓谷や瀧や沼があり、そのずっと奥地に井上嘉門の、城砦のような大屋敷が、厳然として建っているのであった。
 今日の歩みをもってすれば、福島から西野郷へは一日で行けるが、文政年間の時代においては、二日の日数を要するのであった。
 分け上る道は険しかったが、名に負う木曽の奥地の秋、その美しさは類少なく、木々は紅葉し草は黄ばみ、木の実は赤らみ小鳥は啼きしきり、空は澄み切って碧玉を思わせ、驚嘆に足るものがあり、そういう境地を放牧されている馬が、あるいは五頭あるいは十頭、群をなし人を見ると懐かしがって、走って来ては鼻面を擦りつけた。
「妾《わたし》、だんだん思い出します」
 源女は嬉しそうに云い出した。
「たしかに妾こういう所を、山駕籠に乗せられ揺られながら、以前に通ったように思います」
「そうでござるか、それは何より……源女殿には昔の記憶を、だんだん恢復なされると見える」
 そう云って要介も喜んだ。
 歩きにくい道を歩きながら、三人は奥へ進んで行った。
 その日も暮れて夜となった。
 その頃要介の一行は、一軒の杣夫《そま》の家に泊まっていた。
 このような土地には旅籠屋などはなく、旅する人は杣夫や農夫に頼み、その家へ泊まることになっていた。
 大きな囲炉裏を囲みながら、要介は杣夫の家族と話した。
「西野郷の馬大尽、井上嘉門殿のお屋敷は、大したものでござろうの?」
「へえ、そりゃア大したもので、ご門をお入りになってから、主屋の玄関へ行きつくまでに、十町はあるということで」
「それはどうも大したものだな」
「嘉門様お屋敷へ参られますので?」
「さよう、明日《あした》行くつもりじゃ」
「あそこではお客様を喜ばれましてな、十日でも二十日でも置いてくれます」


「大家のことだからそうであろう」
「幾日おいでになろうとも、ご主人のお顔を一度も見ない、……見ないままで帰ってしまう……そういうことなどザラにあるそうで」
「ほほう大したものだのう」
 翌日一行は杣夫の家を立ち、その日の夜には要介達は、井上嘉門家の客になっていた。
 客を入れるために造ってある、幾軒かある別棟の家の、その一軒に客となっていた。
 想像以上噂以上に、嘉門の屋敷が豪壮であり、その生活が雄大なので、さすがの要介も胆を潰した。
 いうところの大家族主義の典型《てんけい》のようなものであった。
 西野郷の井上嘉門と、こう一概に人は云っていたが、行って見れば井上嘉門の屋敷は、西野郷からは更に数里、飛騨の国に寄っている、ほとんど別個の土地にあり、その土地から西野郷へまで、領地が延びているのだと、こう云った方がよいのであった。
 山の大名!
 まさにそうだ。
 周囲三里はあるであろうか、そういう広大な地域を巡って、石垣と土牆《どしょう》と巨木とで、自然の城壁をなしている(さよう将に城壁なのである)その中に無数の家々があり田畑があり丘があり、林があり、森があり、川があり、沼があり、農家もあれば杣夫の家もあり、空地では香具師《やし》が天幕《テント》[#ルビの「テント」は底本では「テン」]を張って見世物を興行してさえいた。
 しかもそれでいてその一廓は、厳然として嘉門の屋敷なのであった。
 つまり嘉門の屋敷であると共に、そこは一つの村であり、城廓都市であるとも云えた。
 馬や鹿や兎や狐や、牛や猿などが、林や森や、丘や野原に住んでいた。
 到る所に厩舎《うまや》があった。
 乞食までが住居していた。
 嘉門の住んでいる主屋なるものは、一体どこにあるのだろう?
 ほとんど見当がつかない程であった。
 が、その屋敷はこの一劃の奥、北詰の地点にあるのであって、その屋敷にはその屋敷に属する、石垣があり門があった。
 要介に杣夫が話した話、「ご門をお入りになってから、主屋の玄関へ行きつくまでに、十町はあるということで」と。
 これはこの門からのことなのであった。
 が、総体の嘉門の屋敷、周囲三里あるというこの屋敷の、雄大極まる構えと組織は、何も珍しいことではなく、昭和十七年の今日にあっても、飛騨の奥地や信州の奥地の、ある地方へ行って見れば、相当数多くあるのである。新家《しんや》とか分家《ぶんけ》とかそういう家を、一つ所へ八九軒建て、それだけで一郷を作り、その家々だけで団結し、共同の収穫所《とりいれしょ》や風呂などを作り、祭葬冠婚の場合には、その中での宗家へ集まり、酒を飲み飯を食う。
 白川郷など今もそうである。
 で、嘉門家もそれなのであるが、いかにも結構が雄大なので、驚かされるばかりなのであった。
 宗家の当主嘉門を頭に、その分家、その新家、分家の分家、新家の新家、その分家、その新家――即ち近親と遠縁と、そうしてそういう人々の従僕――そういう人々と家々によって、この一劃は形成され、自給自足しているのであった。
 要介達の泊まっている家は、宗家嘉門の門の中の平屋建ての一軒であった。
 さてその夜は月夜であった。
 その月光に照らされて、二梃の旅駕籠が入って来た。


 二梃の駕籠の着けられた家も、客を泊めるための家であったが、要介達の泊まっている家とは、十町ほども距たっていた。
 主水と陣十郎とが駕籠から出た。
 そうして家の中へ消えて行った。
 こういう大家族主義の大屋敷へ来れば、主人の客、夫婦の客、支配人の客、従僕の客、分家の客、新家の客と、あらゆる客がやって来るし、ただお屋敷拝見とか、一宿一飯の恩恵にとか、そんな名義で来る客もあり、客の種類や人品により、主人の客でも主人は逢わず、代わりの者が逢うことがあり、従僕の客でも気が向きさえすれば、主人が不意に逢ったりして、洵《まこと》に自由であり複雑であったが、感心のことには井上嘉門は、どんな粗末な客であっても、追い返すということはしなかったそうな。有り余る金があるからであろうが、食客を好む性質が、そういうことをさせるのであった。
 要介は心に思うところあって、
「有名なお屋敷拝見いたしたく、かつは某《それがし》事武術修行の、浪人の身にござりますれば、数日の間滞在いたし、お家来衆にお稽古つけたく……」
 とこういう名目で泊まり込み、陣十郎と主水とは、
「旅の武士にござりまするが、同伴の者この付近にて、暴漢数名に襲われて負傷、願わくば数日滞在し、手あて[#「あて」に傍点]致したく存じます」
 と、こういう口実の下に泊まったのであった。
 陣十郎は猪之松の屋敷で、嘉門を充分知って居り、知って居るばかりか嘉門を襲った。――そういう事情があるによって、絶対に嘉門には逢えなかった。
 顔を見られてさえ一大事である。
 で、顔は怪我したように、繃帯で一面に包んでいた。
 逸見多四郎が堂々と、
「拙者は武州小川の郷士、逸見多四郎と申す者、ご高名を知りお目にかかりたく、参上致しましてござります」
 と、正面から宣《なの》って玄関へかかり、丁寧に主屋へ招じ入れられたのも、同じ日のことであり、お妻も東馬も招じ入れられた。
 さて月のよい晩であった。
 要介は源女と浪之助を連れてブラリと部屋から戸外へ出た。
 この広大の嘉門の屋敷の、大体の様子を見て置こうと、こう思って出て来たのであった。
 林のような植込みの中に、ポツリポツリと幾軒とない、立派な屋敷が立っていて、もう夜も相当更けていたからか、いずれも戸締り厳重にし、火影など漏らしてはいなかった。
 と、三人の歩いて行く行手を、二人の武士が歩いていた。
 この家へ泊まっている客であろう。
 そう思って要介は気にも止めなかった。
 が、そこは人情で、自分もこの家の客であり、先方の二人も客であるなら、話して見たいとこんなように思い、その後をソロソロとつけ[#「つけ」に傍点]て行った。
 植込を抜け幾軒かの屋敷の、前を通ったり横を通ったりして、大略《おおよそ》五六町も歩いたであろうか、その時月夜の空を摩して、一際目立つ大屋敷が、その屋敷だけの土塀を巡らし、その屋敷だけの大門を持って、行手に堂々と聳えていた。
(これが嘉門の住居だな。いわば本丸というやつだ。いやどうも広大なものだ)
 要介はほとほと感に堪えた。


 先へ行く二人の客らしい武士も、その屋敷の広大なのに、感嘆をしているのであろう、しばし佇んで眺めていたが、土塀に添って右の方へ廻った。
 要介たちも右の方へ廻った。
 と、二人のその武士達は、土塀の前の一所へ立って、しばらく何やら囁いていたが、やがて土塀へ手をかけると、ヒラリと内へ躍り込んだ。
「おや」
「はてな」
 と云い要介も、浪之助も声をあげた。
「先生、あいつら変ですねえ」
「客ではなくて泥棒かな」
 二人は顔を見合わせた。
 と、先刻から物も云わず、熱心に四辺《あたり》を見廻したり、深く物思いに沈んだりして、様子を変えていたお組の源女が、この時物にでも憑かれたような声で、
「おお妾《わたし》は思い出した。この屋敷に相違ない! 妾が以前《まえかた》送られて来て、酒顛童子のようなお爺さんに、恐ろしい目に逢わされた屋敷! それはここだ、この屋敷だ! ……この屋敷だとするとあの[#「あの」に傍点]地獄は――地獄のように恐ろしく、地獄のようにむごたら[#「むごたら」に傍点]しく、……※[#歌記号、1-3-28]まぐさの山や底無しの、川の中地の岩窟《いわむろ》の……その地獄、その地獄は、どちらの方角だったかしら? ……もう解《わか》る! 直ぐ解る! ……でもまだ解らない、解らない! ……そこへ妾はやられたんだ! そこで妾は気絶したんだ! ……」
 云い云い源女は右を指さしたり、左を指さしたりした。

 土塀を乗り越えた二人の武士、それは主水と陣十郎とであった。鳥居峠から駕籠に乗り、薮原から山へかかり、この日この屋敷へ来た二人であった。
 彼等二人の主たる目的は、井上嘉門に攫《さら》われた澄江を、至急に取り返すことにあった。
 遅れてもしも澄江の躰に――その貞操に傷でもついたら、取り返しのつかぬことになる。
 そこでこの屋敷へ着くや否や、負傷の躰も意に介せず、陣十郎は陣十郎で、その奪還の策を講じ、主水は主水で策を講じたが、これと云って妙案も浮かんで来ず、こうなっては仕方がない、嘉門の主屋へ忍び込み、力に訴えて取り返そうと、さてこそ揃って忍び込んだのであった。
 忍び込んで見てこの主屋だけでも洵《まこと》に広大であることに、驚かざるを得なかった。
 百年二百年経っているであろうと、そう思われるような巨木が矗々《すくすく》と、主屋の周囲に聳えていて、月の光を全く遮り、四辺《あたり》を真の闇にしてい、ほんの僅かの光の縞を、木間からこぼしているばかりであった。ところどころに石燈籠が道標《みちしるべ》のように立っていて、それがそれのある四辺だけをぽっと明るくしているばかりであった。
 主屋の建物はそういう構えの、遥か向こうの中央にあったが、勿論雨戸で鎧われているので、燈火など一筋も漏れて来なかった。
 と、拍子木の音がした。
 夜廻りが廻って来たらしい。
 二人は木立の陰へ隠れた。
 拍子木の音は近付いて来た。
 と、不意に足を止めたが、
「これ、誰じゃ、そこにいるのは?」
 一踴!
「わッ」
 一揮!
 寂寥!
「おい、陣十郎切ったのか?」
「いや峯打ちだ。殺してはうるさい」


 なお二人は先へ進んで行った。
 と、行手から男女らしいものが、話しながら来る気勢《けはい》がした。
 そこで二人は木陰へかくれた。
 男女の声は近寄って来たが、数間へだてた地点まで来ると、
「其方《そなた》あちらへ……静かにしておいで。……ちと変だ……何者かが……」
 こういう男の声がして、しばらくそれからヒッソリしていたが、やがておちついた歩き方で、歩み寄って来る気勢がし、
「これ誰じゃ、そこに居るのは?」と咎める威厳のある声がした。
 主水も陣十郎も物云わず、息を殺してじっと[#「じっと」に傍点]していた。
「賊か、それとも……賊であろう。……身遁してやる、早く立ち去れ」
 声の様子でその人物が、武士であることには疑いなかった。
 主水の耳へ口を寄せ、陣十郎は囁いた。
「俺がやる。お前は見て居れ……ちと彼奴《あいつ》手強いらしい」
「うむ」と主水は頷いた。
 陣十郎はソロッと出た。
 既に刀は抜き持っている。
 それを暗中で上段に構え、一刀に討ち取ろうと刻み足して進んだ。
「来る気か」と先方の男が云った。
「可哀そうに……あったら命を……失わぬ先に逃げたがよかろう」
 あくまでも悠然とおちついていた。
 陣十郎はなお進んだ。
 勿論返辞などしなかった。
「そうか」と先方の武士が云った。
「どうでも来る気か、止むを得ぬの。……では来い!」と云って沈黙した。
 疾風《はやて》! 宛然《さながら》! 水品陣十郎! 二つになれと切り込んだ。
 が、春風に靡く柳條! フワリと身を反わした一瞬間、引き抜いた刀で横へ払った武士!
 陣十郎はあやうく飛び退き、大息を吐き身を固くした。
 何たる武士の剣技ぞや!
 品位があってふくらみ[#「ふくらみ」に傍点]があって、真に大家の業であった。
(ふ――ん)と陣十郎は感に堪え、また恐ろしくも思ったが、
(ナーニ、こうなりゃこっちも必死、必勝の術で「逆ノ車」で……)
 見やがれとばかり中段に構え、闇の大地をジリジリと[#「ジリジリと」は底本では「ヂリヂリと」]刻み、除々にせり[#「せり」に傍点]詰め進んで行ったが、例の如くに水の引くように、スーッと刀を左斜めに引き、すぐに柳生の車ノ返シ、瞬間を入れず大下手切り!
 が、
 鏘然!
 太刀音があって……
 美事に払われ引っ外され、続いて叫ぶ武士の声がした。
「『逆ノ車』! さては汝《おのれ》、陣十郎であったか、水品《みずしな》陣十郎! ……拙者は逸見多四郎じゃ! ……師に刃向こうか、汝悪逆!」
「あッ! ……しまった! ……主水逃げろ!」
 木間をくぐって盲目滅法に、逃げ出した陣十郎の後につづき、主水も逃げて闇に没した。
「まあ陣十郎さんに主水さん!」
 すぐに女の驚きの声が、逸見多四郎の背後《うしろ》から聞こえた。
「お妻殿ご存じか?」
「はい。……いいえ。……それにしても……」
「それにしても、うむ、それにしても、あの恐ろしい悪剣を……『逆ノ車』をどうして破ったか?」
 呟き多四郎は考え込んだ。
(それにしても)とお妻も考えた。(どうして陣十郎と主水さんが、一緒になんかいたのだろう?)


 敵同士の主水と陣十郎が、一緒にいるということが、お妻には不思議でならなかった。
(主水さん、それでは人違いであろうか?)
 そうとすれば何でもなかった。
 世には同名の異人がある。
 人違いであろう、人違いであろう!
 そう思うとお妻にはかえって寂しく、やはり今の主水さんが、恋しい主水さんであってくれて、自分の身近にいてくれる――そうあって欲しいように思われるのであった。
 恐ろしいは陣十郎の居ることであった。
(逢ったら妾ア殺されるだろう)
 追分宿の乱闘で、殺されようとして追い廻されたことが、悪寒となって思われて来た。
 ポンと多四郎は手を拍った。
「解った! 闇だからよかったのだ。……それで『逆ノ車』が破れたのだ。……では昼なら? 昼破るとすると?」
 じっと考えに打ち沈んだ。
「ナ――ンだ」とややあって多四郎は云った。「ナ――ンだ、そうか、こんなことか! ……こんな見易い理屈《こと》だったのか! ……よし、解った、これで破った、陣十郎の『逆ノ車』俺においては見事に破った!」
 主屋に招じ入れられたが、嘉門とは未だ逢わなかった。退屈なので夜の庭の、様子でも見ようとしてお妻をつれて、ブラリと出て来た多四郎であった。
 それが偶然こんなことから、日頃破ろうと苦心していた、「逆ノ車」の悪剣を易々と破ることが出来たのである。
 そのコツ法を知ったのである。
(よい事をした、儲け物だった)
 そう思わざるを得なかった。

 嘉門が奥の豪奢な部屋で、澄江を前にしネチネチした口調で、この夜この時話していた。
「不思議なご縁と申そうか、変わったご見と申そうか、高萩でお逢いしたお前さまと、追分宿でまたお逢いし、とうとう私の部屋まで参られ、こうゆっくりとお話が出来る、妙なものでござりますな」
 ネチリネチリと云うのであった。
 古法眼《こほうがん》の描いた虎溪三笑、その素晴らしい六枚折りの屏風が無造作に部屋の片隅に、立てられてある一事をもってしても、部屋の豪奢が知れようではないか。
 座には熊の皮が敷きつめられてあり、襖の取手の象嵌などは黄金と青貝とで出来ていた。
「それにいたしましても高萩では、とんだ無礼いたしましたのう。ハッ、ハッ、とんだ無礼を! ……が、あいつは正直のところ、私の本意ではなかったので。いかに私が田夫野人でも、何で本気で婦人に対し、あのような所業に及びましょうぞ。あれは高萩の猪之松どんの乾児衆のやった仕事なので。ただ私はゆきがかりで、そいつをご馳走にあずかろうと、心掛けたばかりでございますよ。が、それさえ不所存至極! そこで平にあやまります。何卒ご用捨下さりませ……さてこれで以前《むかし》のことは、勘定済みとなりました。次は将来《これから》のご相談で。……ところでちょっとご相談の前に、申さねばならぬことがありますのでな。……」


 ここで嘉門は莨《たばこ》を喫《の》んだ。
 持ち重りするような太い長い、銀の煙管《きせる》を厚い大きい、唇へくわえてパクリと喫《す》い、厚い大きい唇の間から、モクリモクリと煙を吐いた。
 どうしても蝦蟇が空に向かって、濛気を吐くとしか思われない。
「何かと云いますに私という人間、一旦やろうと思い立った事は、必ずやり通すということで!」
 うまそうに莨を一喫みすると、そう嘉門はネットリと云った。
 さよう、嘉門はネットリと云った。
 が、そのネットリとした云いぶりは、尋常一様の云いぶりではなく、馬飼の長、半野蛮人の、獰猛敢為の性質を見せた、ゾッとするような云いぶりなのであった。
「では私今日只今、どんなことをやろうと思っているかというに、澄江様とやらいうお前さまを、よう納得させた上で、私の心に従わせる! ……ということでござりますじゃ」
 云って嘉門は肩にかかっている、その長髪をユサリと振り、ベロリと垂れている象のような眼を、カッと見開いて澄江を見詰めた。
 澄江はハ――ッと息を飲んだ。
 その澄江はもう先刻《さっき》から、観念と覚悟とをしているのであった。
 思えば数奇の自分ではある! ……そう思われてならなかった。
 上尾街道で親の敵《かたき》と逢った。討って取ろうとしたところ、博労や博徒に誘拐《かどわか》された。そのあげく[#「あげく」に傍点]に馬飼の長の、人身御供に上げられようとした。と敵に助けられた。親の敵の陣十郎に! ……これだけでも何という、数奇的の事件であろう。しかもその上その親の敵に、親切丁寧にあつかわれ、同棲し旅へまで出た。夫婦ならぬ夫婦ぐらし! 数奇でなくて何であろう。
 追分宿のあの騒動!
 義兄《あに》であり恋人であり、許婚《いいなずけ》である主水様に、瞬間逢い瞬間別れた!
 数奇でなくて何であろう!
 と、嘉門にとらえられた。
 そうして今はこの有様だ!
 いよいよ数奇と云わざるを得ない。
(どうなとなれ、どうなろうとまま[#「まま」に傍点]よ)
 観念せざるを得ないではないか。
(が、この厭らしい馬飼の長に躰を穢される時節が来たら、舌噛み切って妾は死ぬ!)
 こう決心をしているのであった。
 そうしっかり決心している彼女は、外見《よそめ》には蝦蟇に狙われている、胡蝶さながらに憐れに不憫に、むごたらしくさえ見えるけれど、心境は澄み切り安心立命、すがすがしくさえあるのであった。
 短い沈黙が二人の間にあった。
「いかがでござりますな。澄江様」
 嘉門はネットリとやり出した。
「この老人の可哀そうな望み、かなえさせては下さりませぬかな。……いやもうこういう老人になると若い奇麗なご婦人などには、金輪際モテませぬ。そこで下等ではござりまするが、金の力で自由《まま》にします。……お見受けしたところ貴女《あなた》様は、武家の立派なお嬢様で、なかなかもちまして私などの、妾《めかけ》てかけ[#「てかけ」に傍点]になるような、そんなお方では決してない、ということは解《わか》っていますじゃ。……それだけに私の身になってみれば、自分のものに致したいので。……で、お願いいたしますじゃ。……可哀そうな老耄《おいぼ》れた老人を、功徳と思って喜ばせて下されとな。……その代わりお前さまが何を望もうと、金ずくのことでありましたら、ヘイヘイ何でも差し上げまする」
 またパクリと莨を喫った。


「なりませぬ」と澄江は云った。
 先刻からじっと辛棒して、黙って、聞いていた澄江であったが、この時はじめてハッキリと云った。
「貴郎《あなた》様のお心に従うこと、決して決してなりませぬ!」
 言葉数は少なかったが、毅然とした態度冷然とした容貌に、動かぬ心を現わして、相手を圧してそう云った。
「ふうむ」と嘉門は唸り声を上げた。
 勿論この女、烈女型で、尋常に口説いて落ちるような、そんな女ではあるまいと、そういうことは推《すい》していたが、今の返事とその態度とで、それがこっちの想像以上に、しっかり[#「しっかり」に傍点]しているということを瞬間看取したからであった。
 がぜん嘉門の様子が変わった。
 薄気味の悪い、惨忍な、しかも陰険執拗な、魔物めいた様子に一変した。
 それでいて言葉はいよいよ柔かく、
「それでは大変お気の毒ですが、貴女様には変わった所へ、一時おいでを願わねばならず……是非ともおいでを願わねばならず……一度まアそこへ行って来られてから、改めてゆるゆるご相談――ということに致しましょうのう」
 で、また莨をパクリと喫い、濛々と煙を吐き出した。
「何と申してよろしいか、貴女様がこれからおいでになる所、何と申してよろしいか。……どっちみち厭アなところでござる……どんな強情のジャジャ馬でも、一どそこへ叩っ込まれると、生れ変わったように穏しくなります……気の弱いお方は発狂したり、もっと気の弱いお方になると、さっさと自殺するようで。……さようさよう以前のことではあるが、お組の源女とかいう女芸人が、やはり強情で[#「強情で」は底本では「情強で」]そこへやられたところ、発狂――まあまあそれに似たような状態になりましたっけ……さて、そこで貴女様も、そこへおいでにならなければ……ならないことになりましたようで」
「どこへなと参るでござりましょう」
 澄江は冷然とそう云った。
 死を覚悟している身であった。
 何も恐れるものはない。
 苦痛! それとて息ある間だ! 死んでしまえば苦痛はない。
 澄江は冷然とし寂然としていた。
 嘉門はポンポンと手を拍った。
 と、次の間に控えていた、侍女が襖をソロリと開けた。
「権九郎に云っておくれ、送りの女が一人出来た。赤い提燈の用意をしなと」
 侍女は頷いて襖をしめた。

「あれ――ッ」という源女の声が、要介と浪之助とを驚かせたのは、それから間もなくのことであった。
 三人はこの時嘉門の主屋の、構えの外を巡りながら、なお逍遥《さまよ》っていたのであった。
「行きます、おお赤い提燈が!」
 指さしながら源女が叫んだ。
 極度の恐怖がその声にあった。
「あそこへあそこへ人を送る火が! 地獄へ、ねえ、生地獄へ! ……妾《わたし》のやられた生地獄へ! ……おおおお誰か今夜もやられる! ……可哀そうに可哀そうに! ……そうです妾も赤い提燈に、あんなように道を照らされ、馬へ、裸馬へくくりつけられ、そこへやられたのでございます!」


「追おう!」
 要介が断乎として云った。
「送られる人間を取り返そう!」
「やりましょう!」と浪之助も云った。
 夜の暗さをクッキリ抜いて、木立の繁みに隠見して、特に血のような赤い色の、小田原提燈が果実のように揺れて、山の手の方へ行くのが見えた。
 三人は後を追った。
 が、その一行に近寄って見て、これは迂闊に力で襲っても、勝目すくなく危険だと思った。
 というのは一頭の裸馬に、男か女かわからなかったが、一人の人間をくくりつけ、それへ油単《ゆたん》を上から冠せた、そういう人と馬とを囲繞《いじょう》し、十数人の荒くれ男が、鉄砲、弓、槍などを担いで、護衛して歩いているからであった。
(飛道具には適わない)
 三人ながらそう思った。
 で、要介は浪之助に、
「どこまでもこっそり後を尾けて、その行方を確かめよう。そうしていい機会が到来したら、切り散らして犠牲者を奪い取ってやろう」
 こう耳元で囁いた。
「それがよろしゅうございます」
 浪之助も[#「浪之助も」は底本では「浪人之助も」]そう云った。

 澄江を生地獄へ送り出した後の、嘉門の豪奢な主家の部屋には、逸見多四郎が端座していた。
 想う女を生地獄へ送った。――そんな気振など微塵もなく、嘉門は機嫌よく愛想笑いをして、多四郎との閑談にふけっていた。
 処士とはいっても所の領主、松平|大和守《やまとのかみ》には客分として、丁寧にあつかわれる立派な身分、ことには自分が贔屓にしている、高萩の猪之松の剣道の師匠――そういう逸見多四郎であった。傲岸な嘉門も慇懃丁寧に、応待しなければならなかった。
 牧馬の話から名所旧蹟の話、諸国の風俗人情の話、そんな話が一渡り済んで、ちょっと話が途絶えた時、何気ない口調で多四郎は云った。
「秩父の郡小川村、逸見様庭の桧の根、むかしはあったということじゃ……云々と云う昔からの歌が秩父地方でうたわれ居ります。この歌の意味は伝説によれば、源|頼義《よりよし》[#「頼義《よりよし》」は底本では「義頼《よしより》」]、その子|義家《よしいえ》、奥州攻めの帰るさにおいて、秩父地方に埋めました黄金、それにまつわる歌とのこと、しかるにこの歌の末段にあたり※[#歌記号、1-3-28]今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の――云々という、そういう文句がござります由、思うにこれはその黄金が、その素晴らしい馬飼のお手に、保存され居るということであろうと……」
「しばらく」と不意に嘉門は云った。
 それから皮肉の笑い方をしたが、
「ははあそれで逸見様には、その黄金を手に入れるべく、当屋敷をお訪ね下されたので?」
「率直に申せばその通り、千、五百の大馬飼は、貴殿以外にはござらぬからな」
「御意で。……が、そうとありますれば、いささかお気の毒に存ぜられまする」
「何故でござるな。それは何故で?」
「なぜと申してそうではござらぬか、そのような莫大な黄金を、私保存いたし居りますれば、決して決して何人にも、お渡しすることではござりませぬ」
「それはもうもう云うまでもない儀、が、拙者といたしましては、そこに少しく別の考えが……」

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「別の考え? 何でござるかな?」
「貴殿がたしかにその黄金を、現実に保存され居るなら、何で拙者その貴殿より、その黄金取りましょうや。……が、もしも貴殿においても、黄金の在り場所的確に知らず、ひそかに探し居らるるようなら……」
「なるほど、これはごもっとも。そうあるならば貴郎《あなた》様と私、力を集めて探し出そうと覚し召し、参られたので?」
「さよう、ざっとその通りでござる」
「これは事件が面白くなった。……が、さて何と申し上げてよいやら」
 嘉門はここで沈黙してしまった。
 妙に息詰まる真剣の気が、二人の間に漂っている。
 やがて嘉門がポツリポツリと云った。
「歌にありまするその馬飼は、たしかに私にござります。そうして歌にありますように、私の屋敷に領地内に、ある時代にはその黄金、ありましたそうでござります。……その黄金ありましたればこそ、馬鹿らしいほどの繁栄を来たし、今このように広い領地を、持つことが出来て居りますので。そうでなくては馬飼風情、いかにあくせく[#「あくせく」に傍点]働きましたところで、とてもとても今日のような。……で私はその黄金を、巧みに利用し財《たから》を積んだところの、祖先に対して有難やと、お礼申して居りまする次第で」
「とそう云われるお言葉から推せば、今日においてはその黄金、すでにお手にはないご様子……」
「さあそれとてそうとも否とも、ちと私としては申しかねますので……」
「これは奇怪、はなはだ曖昧!」
「へいへい曖昧でござりますとも」
「方角を変えてお尋ねいたす。例の歌の末段に※[#歌記号、1-3-28]|秣《まぐさ》の山や底無しの、川の中地の岩窟《いわむろ》にと、こういう文句がござりまするが、そこに大方その黄金、埋没されて居りたるものと、この拙者には思われまするが、そのような境地が領内に……?」
「へいへいたしかにござります」
「しからばそこへご案内を……」
「駄目で!」
「なぜ?」
「命が無い!」
「命が無いとな?」
「生地獄ゆえ!」
「…………」
「アッハッハッ、地獄々々! そこは恐ろしい生地獄! そこへ行ったら命が無い! 有っても人間発狂する! アッハッハッ発狂する! ……が、今夜も可哀そうに、女が一人送られましたよ。さようさようその生地獄へ!」
 こう云うと嘉門は惨忍酷薄、洵《まこと》女の生血を飲み、肉を喰らったといわれている、伝説の大江山の酒顛童子、それさながらの表情をして、ぐっと多四郎を睨むように見た。
 さすがの多四郎も妖怪さながらの、嘉門の表情態度に搏たれ、言語ふさがり沈黙した。
 で、またも息詰まるような気が、部屋を圧し人を圧した。
 が、ややあって井上嘉門は、謎のような言葉でこう云った。
「あの黄金はそれ以前に、あの歌にうたわれて居りますように、秩父の郡小川村の、逸見《へんみ》様のお庭の桧の根方に、――即ち貴郎様のお庭の中に、埋没されて居りましたはず。……ひょっとかするとその黄金また逸見様のお庭へ帰り……」

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「何を馬鹿な」と多四郎は笑った。
「拙者の屋敷にその黄金、今に埋もれて居りますなら、何のわざわざこのようなところへ……」
「いやいや」と嘉門は云った。
「逸見様は幾軒もござります」
「…………」
「高名で比較的近い所では、尾張にあります逸見三家……」
「おおなるほど逸見三家!」
 名古屋に一軒、犬山に一軒、知多に一軒、都合三軒、いずれも親戚関係で、逸見姓を宣《となう》る大大尽があり、総称して尾張の逸見三家と云い、特殊の尊称と疑惑とを、世間の人から持たれていた。
 金持ちであるから尊敬される! これは当然の事として、疑惑というのは何だろう?
 尾張の大商人大金持といえば、花井勘右衛門をはじめとして、九十八軒の清洲越衆《きよすこえしゅう》、その他尾州家からお扶持をいただく、小坂新左衛門他十二家あって、それらの人々はいずれも親しく、往来をし交際《つきあ》っていたが、逸見三家だけは交際せず、三家ばかりで往来し、他の金持は尾張家に対し、何等かの交渉を持っていて、御用達、三家衆、除地衆、御勝手ご用達、十人衆、等々という、名称家格を持っていたが、逸見三家ばかりは尾張家と、何等の交渉も持っていなかった。
 これが疑惑される点なのである。
「おおなるほど逸見三家」と、多四郎は云って眼を見張り、
「逸見三家の家風については、拙者も遥かに承わり居り、不思議な大尽があるものと、疑惑を感じて居りましたが、その逸見三家と埋もれた黄金と、関係ありと仰せられまするかな?」
「あるやらないやら確かのところは、私にも即座には申し上げられませぬが、……さよう即座には申し上げられぬとし、貴郎様におかれてもせっかくのご来訪、何卒長くご逗留下され、ゆるゆるそのことにつきまして、お話しすることにいたしましょう」
 嘉門はここでも曖昧に云った。
 奥歯に物の挿まった態度、多四郎には少なからず不愉快であったが、押して尋ねても云いそうもないと、そう思ったので後日を期することにした。

 赤い提燈で道を照らし、澄江を裸馬にくくり付け、それを護った権九郎達は、無言で山道を進んで行った。
 その後を慕って要介達が行った。
 二里あまりも来たであろうか。その時突然行手にあたって、同じ赤い色の提燈の火が、点々といくつか見えて来た。
(おや?)と要介たちは不審を打った。
 が、権九郎たちの一行は、それが予定されたことかのように、少しも驚かず又動ぜず、その火に向かってこちらの提燈を、宙にかざして振って見せた。と向こうでも答えて振った。
 こうして向こうの火にこちらの火が、十数間足らず接近した時、夜ながら要介たちに行手の光景が、ぼんやりながらも見えて来た。
 行手に谷があるらしい。谷には川が流れているらしい。
 谷を隔てて岩で出来た、屏風のような絶壁が、垂直に高く聳えていた。
 絶壁の頂に月があって、それの光でその絶壁が、肩を銀色に輝かしているのが見えた。

生地獄


 と、その時まで黙々として、要介たちに従いて来ていた源女が、恐ろしそうな声で魘《うなさ》れるように云った。
「生地獄はそこだ、谷の底だ! そこへ行っては大変だ! 自殺するか発狂する! ……可哀そうに可哀そうに馬に乗っているお方! ……おおおおあの人をお助けしなければ!」
「やろう!」と要介が忍び音ではあるが、烈しい声でそう云った。
「切り散らして犠牲者を助けよう!」
「先生やりましょう!」と浪之助が応じた。
 が、その瞬間犠牲者を守護し、裸馬を囲繞して歩いて来た人々――権九郎輩下の者共が、一斉に足を止め振り返り、鉄砲の筒口をこっちへ向けた。
 要介たちの方へ差し向けた。
「しまった! 目つけられた! もう不可《いけ》ない!」
 ――要介がそう叫んだ途端、
 ド、ド、ド、ド、ド、ド――ッと鉄砲の音が、夜の山谷にこだま[#「こだま」に傍点]して鳴り、バ、バ、バ、バ、バ――ッと筒口から出る、火花が夜の暗さを裂いた。
 と、
 馬の恐怖した嘶《いななき》!
 見よ、犠牲者をくくりつけたまま、例の裸馬が谷口を目がけ、まっしぐら[#「まっしぐら」に傍点]に馳せて行くではないか!
「あッ、あッ、あッ、もう不可ない! あの人も生地獄へ追いやられた! 妾《わたし》のように! 昔の妾のように!」
 源女は叫んで地団太を踏んだ。
 果敢! 馬は谷底さして、なだれ[#「なだれ」に傍点]のように落ちて行った。
 鉄砲は決して要介たちを認め、要介たちを撃ち取ろうとして、発射されたものではないのであった。
 馬を驚かせて犠牲者諸共、谷底へやるために撃ったものなのであった。
 それは空砲に過ぎなかったのである。
 後は寂然!
 シ――ンとしていた。
 と、権九郎達の一団が、今は馬もなく犠牲者も持たず、手ぶらの姿で赤い提燈を、ただブラブラと宙に振って、もと来た方へ引っ返す姿が、要介たちの眼に見えた。
 木陰にかくれて見送っている、その要介たちの横を通って、その一団の去った後は、四辺《あたり》寂々寥々としてしまった。
 と、要介は浪之助へ云った。
「とうとう犠牲者を助け損なったが、これも運命仕方がない。……が、それは仕方ないとして、生地獄の光景を見ようではないか」
「それがよろしゅうございます」
「源女殿もおいでなされ」
「妾は厭でござります」
 恐ろしかった過去のことを、その場へ臨むことによって、ふたたび強く思い出すことを、恐れるという心持から、そう源女は震えながら云った。
「さようか、では源女殿には、そこにてお待ちなさるがよろしい」
 云いすてて要介は浪之助ともども、谷の下口へ足を向けた。
 と、先刻現われて、権九郎達の赤提燈に対し、応えるように振られたところの、例の幾個かの赤提燈が、見れば谷の下口の辺りに、建てられてある番小屋らしいものの、その中から又現われて来た。
「誰だ、これ、近寄ってはならぬ! 近寄ると用捨なく撃ち取るぞ!」
 赤提燈の中から声が来た。
 鉄砲を向けている姿が見えた。


 馬が斜面を駈け下る間に、くくられていた綱が[#「綱が」は底本では「網が」]切れ、澄江は地上へ振り落とされた。
 馬と前後して谷の斜面を、底へ向かって転落した。
 何と奇怪にも谷の斜面が、柔らかくて滑らかで、ほとんど土とは思われないではないか!
 こうして澄江は微傷《びしょう》さえ負わず、谷の底へ落ちついた。
 と、眼の前を落ちて来る馬の、気の毒な姿が通って行ったが、底へ着くと立ち上り、立ち上ったが恐怖のためであろう、高い嘶をあげながら、前方へ向かって走りつづけた。
 月光をうけて銀箔のように輝いて見える川があった。
 そう、前方に川があった。
 と、その川まで駈けて行った。
 馬は川へ飛び込んだ。(泳ぐかな?)
 と澄江は思った。
 浅いと見えて五歩十歩、二十歩あまり歩いて行った。
 と、どうだろう歩くに従い、馬は次第に小さくなって行った。
 そうしてやがて歩かなくなった。
 身長《せい》が大変低くなって見えた。
 と、馬は首を長く延ばし、悲劇を無言で眺めている月に向かって顔を向けたが、悲しそうに幾度か嘶いた。
 だんだん身長が低くなって行く。
 やがてとうとう馬の姿が川の面から消えてしまい、漣《さざなみ》も立てずにどんより[#「どんより」に傍点]と、流れるともなく流れている、そういう水面《みずも》には月光ばかりが銀の延板のそれかのように、平らに輝いているばかりであった。
 川巾は随分広かった。
 そうして対岸には屏風のような、切り立った高い断崖が、険しく長く立っていた。
 澄江はゾッと悪寒を感じた。
(どうして馬は沈んだろう?)
 もしその川が深かったら、馬は泳いで行くはずである。
 もしその川が浅かったら、馬は歩いて渡るはずである。
 それだのに沈んでしまった。
(おお川は底無しなのだ!)
 そう、それに相違ない。
 水そのものは浅いのであるが、底は泥の堆積で、幾丈となく深いのだ。で、そこへ踏み入ったものは、その泥に吸い込まれ、永久沈んでしまうのだ。
 ゾッと澄江は悪寒を感じた。
(川を越しては逃れられない)
 澄江はフラフラと立ち上った。
 それから自分が転がり落ちて来た、山の斜面を振り仰いで見た。
 斜面は洵《まこと》になだらかで、一本の木立も、一つの丘も、一つの岩も、何もなかった。
 下口《おりくち》までは高く遠く、容易に達しがたく思われたが、上るには難なく思われた。
 澄江は斜面を上り出した。
 すぐツルリと足が辷《すべ》り、たちまち谷底まで追い返された。
(おや)と思いながら又上った。
 一間あまり上ったかと思うと、非常に気持よく非常に滑らかに、スルスル谷底へ辷り落ちた。
(まあどうしたというのだろう?)
 澄江には不思議でならなかった。
 で、土を取り上げて見た。
 それは土ではないようであった。カラカラと乾いて脆くなってはいたが植物の茎や葉のようであった。
 植物の茎や葉が永い年月、風雨霜雪に曝された結果、こまかいこまかい砂のようになったもの! それのように思われた。
 そういう物が斜面を厚く、そうして高く蔽うているのだ。――
 で、その上へ人が乗れば、重さに連れてそれが崩れ、どこまでも無限に崩れ崩れて、人を下へ辷り落とす!
(では上って行くことはできない!)
 又ゾッと澄江は悪寒を感じた。


(ではもう一度|験《ため》して見よう)
 こう思って澄江はまた上り出した。
 と、背後から笑う声がした。
 驚いて澄江は振り返って見た。
 いつの間にどこから来たものか、五六人の人間が、数間《すうけん》離《はな》れた一所に、一緒に塊まって立っていた。
 月光の中で見るのであるから、ハッキリしたところは解《わか》らなかったが、その中には女もい、老人も若者もいるようであった。
 何より澄江を驚かせたのは、その人達が痩せていることで、それはほとんど枯木のようであり、枯木が人間の形をしてい、それが襤褸屑《ぼろくず》を纏っている。――そう云ったように痩せていることであった。
 そう、衣裳は纏っていた。が、その衣裳は形のないまでに、千切れ破れているのである。
 物の書《ほん》で見た鬼界ヶ島の俊寛《しゅんかん》! それさながらの人間が、そこに群れているのである。
「駄目だよ、娘っ子、上れやアしねえ。いくら上っても上れやしねえ」と、その中の一人がカサカサに乾いた、小さな、力の弱い、しめ殺されるような、不快な声でそう云った。
「秣《まぐさ》の山だ、なア娘っ子、お前が一所懸命上ろうとしているそいつ、そいつア秣の山なんだ。秣の山の斜面なんだ。……乗れば辷る、足をかければ辷る。二間と上った者アねえ。無駄だから止めにしな」
「アッハッハッ」
「ヒッヒッヒッ」
「フッフッフッ」
「ヘッヘッヘッ」
 みんなが揃って笑い出した。
 嘲ったような、絶望したような、陰険そうな、気の毒がったような、気味の悪い厭アな笑声であった。
 澄江は地獄の亡者に逢った! ――とそんなような思いに等しい、恐怖と不気味とを感じながらも、この境地には自分一人だけしか、居ないものと今まで思っていたのに、他にも人のいることを知り、この点何と云っても心嬉しく、急いでそっちへ小走って行った。
「どういうお方々かは存じませぬが、妾は井上嘉門という……」
「解っているよ解っているよ」と、その中の一人の老人が――片眼つぶれている老人が、澄江にみんな話させようともせず、
「俺らもそうなんだ。恐ろしい主人に、井上嘉門殿に、いやいやいや、殿じゃアねえ、鬼だ魔物だ、その魔物の嘉門めに、この生地獄へ放り込まれた、生き返る望みのねえ亡者なのさ。お前さんだってそうだろうとも、嘉門めにここへ落とされたんだろうとも。……見りゃア奇麗な娘っ子だ、どうしてここへ落とされたか、その理由《わけ》も大概わかる。……嘉門の云うことを聞かなかったんだろうよ。……以前《まえ》にもそんな女があった。……源女とかいう女だった。……」
「お爺さん」と澄江は云って、縋るような気持で訊ねて見た。
「ここはどこなのでございます? どういう所なのでございます?」
「処刑場《おしおきば》だ、人捨場だ! 嘉門の云い付けに背いた者や、廃人になって役に立たなくなった者を、生きながら葬る墓場でもある」
「恐ろしい所なのでございますねえ」
「一緒においで、従《つ》いておいで、ここがどんなに恐ろしい所だかを、例をあげて知らせてあげよう」
 片眼の老人は歩き出した。
 と、その余の亡者餓鬼――亡者餓鬼のような人間たちも、だるそう[#「だるそう」に傍点]に、仆れそうに、あえぎあえぎ、その後から従いて来た。
 蒼澄んで見える月光の中に、そういう人達が歩いて行く姿は、全く地獄変相図であった。
 と、一本の木の下に来た。
 一人の若者がブラ下っていた。


 首をくくって死んでいるのであった。
 片眼の老人は説明した。
「二十日ほど前に来たお客さんなのさ。嘉門の可愛がっているお小間使いと、ちちくり合ったのが逆鱗に[#「逆鱗に」は底本では「逆燐に」]ふれて、ここへぶちこまれた若造なのだ。女が恋しいの逃げ出したいのと、狂人のように騒いでいたが、とうてい逃げられないと見当をつけると、野郎にわかにおとなしくなってしまった。と、今朝がた首を釣ってしまった。……首を釣る奴、川へ沈む奴、五日に一人十日に一人、ちっとも不思議なく出来るってわけさ。……だから底無しの川の中には、幾百人とない男や女が、沈んでいるというわけだ。……そこを見な、その岩の裾を! 白骨が積んであるじゃアねえか。首を釣った奴や舌を噛んで死んだそういう奴らの骨の束だ」
 見ればなるほど向こうに見えている、大岩の裾に月光に照らされ、ほの白い物の堆積があった。
「お爺さん」と澄江は震えながら云った。
「何を食べて生きているのです?」
「馬の肉だ、死んだ馬の。……時々そいつを投げてくれるのだ。谷の下口から上の番人が」
「死んだ馬の肉を? ……それが食物?」
「米もなけりゃア麦もねえ。野菜もなけりゃア香の物もねえ。……水といえばドロンと濁った、泥のようなその川の水だ。……だから長く生きられねえ。一月か二月で死んでしまう。……もっとも中にゃアそいつに慣れて、三年五年と生きてる奴がある。……俺なんかはその一人だよ。……」
「皆様どこにいるのです? どこに住んでいるのです?」
「岩窟《いわむろ》の中だ岩窟のな。……向こうにある、行ってみよう」
 その老人が先に立ち、澄江たちは先へ進んだ。
 人間の骨や馬の骨や――それらしいものが木の根や岩の裾に、灰白く散乱しているのが見えた。
 と、行手に月光に照らされ、丘のような物形が見えた。
 やはりそれは丘であった。
 岩と土と苔と權木、そんなもので出来ている小丘であって、人間の身長《たけ》の二倍ほどの間口と、長い奥行とを持っていた。
 そこの前まで辿りついた時、丘の正面の入口から――つまりその丘が岩窟なのであり、正面に入口が出来ているのであったが、その入口から骸骨の群が――骸骨のような痩せた男や女、老人や老婆、男の子や女の子が、ムクムクと泡のように現われ出た。
 そうして口々に喚き出した。
「また客が来た」
「俺らの仲間か」
「何か食物を持って来たかしら?」
「着物を剥げ! ひっぺがしてしまえ!」
「若い女だ」
「奇麗な女だ」
「すぐ汚くなるだろう」
「ナーニ半月は経たねえうちに首をくくってくたばるだろう」
 すると片眼の老人が、叱るように大声をあげた。
「うるせえ、野郎共、しずかにしろ! ……今度のお客さんはこれ迄のとは、どうやら少オし違うようだ。身体へさわっちゃア不可《いけ》ねえぞ!」


 片眼の老人は権威者と見える。彼らの仲間の権威者と見える。そう一言云っただけで、彼らの騒動は静まった。
「さあさあ入って見るがいい。家の中へ入って見るがいい」
 こう云って老人は澄江を連れて、岩窟の中へ入って行った。
 入って真っ先に驚いたのは、何とも云われない悪臭であった。
 不浄の匂い、獣皮の匂い、腐肉の匂い、襤褸《ぼろ》の匂い――、いろいろの悪臭が集まって、一つになった得もいわれない悪臭、それがムッと鼻へ来て、澄江は嘔吐を催そうとした。
 岩窟の中は寒かった。
 凍《こご》えそうなほどにも寒かった。
 暗く、低く、狭くもあった。
 ところどころに火が燃えていた。
 住人が焚火をしているのであった。その周囲に集まったり、岩壁の裾に寝たりして、意外にたくさんの人間がいた。
 この時二三人の者が嗄《しわが》れた声で、鼻歌をうたうのが聞こえてきた。
[#ここから3字下げ]
秩父の郡小川村
逸見様庭の桧の根
むかしはあったということじゃ
いまは変わって千の馬
五百の馬の馬飼の
木曾の馬主山主の
山の奥所も遥かなる
秣の山や底なしの
川の中地の岩窟の
御厨子《おずし》[#ルビの「おずし」は底本では「おづし」]に籠りあるという
移り変わるがならわしじゃ
命はあれど形はなく
形は本来地水火じゃ
三所に移り元に帰し
命はあれど形はない
[#ここで字下げ終わり]
 それはこういう歌であった。
「お爺さん」と澄江は云った。
「あの歌、何でございますの?」
「誰も彼もうたう歌なのじゃ、……この辺りではちっとも珍らしくない。……所在ないからうたうのさ……ずっと昔からある歌で、意味もなんにもないのだろうよ」
「この岩窟深いのでしょうか?」
「深いそうだ、深いそうだ。が誰もが行ったものはない。行ったものがないということだ。……わしだけは相当奥まで行った。だが中途で引っ返してしまった。……恐ろしいと云おうか凄いと云おうか、あらたかと云おうか何と云おうか、どうにも変な気持がして、とうとう引返してしまったのさ。……人柱が立っているんだからなア……骸骨なんだ、本当の骸骨! ……そっくり原形を保っている奴だ。そいつが岸壁の右にも左にも、ズラリと並んでいやがるじゃアないか」

悪人還元


 陣十郎は黙々として、山路に向かって歩いていた。
 後から主水が従《つ》いて行ったが、これも黙々として物を云わなかった。
 嘉門の大屋敷の構内から出、あて[#「あて」に傍点]なしに歩いて行くのであった。
 どっちへ向かって歩いているのか、陣十郎には解《わか》らなかった。
 師匠の逸見《へんみ》多四郎によって「逆ノ車」が破られたことそのことばかりを考えていた。
 月はあったが山路には巨木、……大木老木權木類が、空を被い四辺《あたり》を暗め、月光を遮っているがために、二人の姿は外方《よそ》から見ては、ほとんど見ることが出来なかった。
 時もかなり経っていた。
(逸見先生があのような所に、どうしてお居でなされたのだろう?)
 このことも気にはかかっていたが、それより必勝不敗の術と、自信していた自己の創始の「逆ノ車」を破られた――このことばかりが不安にも恐ろしくも、情無くも思われるのであった。
 まだ破門をされない前に、多四郎の道場で多四郎を相手に、数回「逆ノ車」をもって、立合ったことがあったのであり、そのつど陣十郎が勝ちを取るか、でなかったら相打ちとなった!
 それだのに今夜という今夜に限り、物の見事にひっ外されてしまった。
(あの時先生に打つ気さえあって、一歩踏み込んで切られたら、俺は真ッ二つにされたはずだ)
(「逆ノ車」を破られては、俺に勝目はほとんどない。破った先生がそれからそれと、その手を人々に伝えたら、俺は手も足も出なくなる)
 これが彼には恐ろしいのであった。
(それともあの時俺の腕が、いつもより鈍っていたがために「逆ノ車」は使ったが、使い方が精妙でなく、それで一時的に外されたのだろうか? もしそうならまだ安心だ)
(では……)と陣十郎は惨忍に思った。
(誰かを、どいつかを、「逆ノ車」で、充分練って用意して、切って切れたら! 切って切れたら!)
 自信がつく!
 そう思った。
(よ――し、どいつかを切ってやろう?)
(誰を?)と思った時主水のことが、瞬間脳裏に閃いた。
(うむ、こいつを切ってやろう!)
 悪人の本性が甦ったのであった。
(思ってみれば主水という奴、危険至極の道連れだった。俺を敵《かたき》と狙う奴だった。そうしていつかはこいつのために、俺は討たれるはずだった。……討たれてなろうか、何を馬鹿な! ……俺も何という男だったろう、いずれこの男に討たれてやろう――などとそんなことを思っていたとは。……それに人心は変わるものだ。俺の心が変わるように。……で、主水め心が変わり、俺の寝息をうかがって、寝首掻かないものでもない。……よ――し、この場で討ち果し、災の根を断ってやろう)
 グルリと陣十郎は振り返った。
「主水《もんど》、おい、鴫澤《しぎさわ》主水!」
「何だ?」と主水が足を止めた。
「この暗中でもう一度『逆ノ車』を使って見せてやろう」


「それには及ばぬよ」と主水は云った。
 心に計画ある時には自ずと五音に現われるもので、陣十郎の言葉の中に、平時《いつも》とは異《ちが》う不吉の響きが、籠っているがためであった。
 それが恐ろしく感じられたためで。……
 陣十郎はくどく[#「くどく」に傍点]云った。
「昼と夜とは自ずと異う。暗中での『逆ノ車』……使って見せるから刀を抜け」
(使って見せる、教えてやると偽って充分用意をさせ、「逆ノ車」にひっかけ、後腹病まぬよう殺してしまおう)
 これが陣十郎の本心であった。
「なるほど」と主水は思わず云った。
「昼と夜とは自ずと異う。暗中での『逆ノ車』……なるほど、こいつ教わった方がいいな」
「いいともさあ、刀を抜きな」
 云って陣十郎は先に抜いた。
「よし。……抜いた。……さあ構えた」
 主水もそう云ってその通りにした。
 二人ながら抜身を構え、暗中に相手と向かい合った。
「主水、充分用心しろよ。……試合などとは思うなよ。……俺を父親の敵《かたき》と思い――事実それに相違ないし……その敵を今討つのだと、こう思って真剣にかかって来い」
「うむ。よし。そのつもりで行こう」
「俺もお前を返り討ちにすると――こう思ってかかって行くつもりだ」
「うむ、そのつもりでかかって来てくれ」
「暗中での『逆ノ車』……ダ――ッとお前の左胴へ、事実入るかもしれないぞよ」
「…………」
「暗中だからな。……どうなるかわからぬ……」
「…………」
「本当にお前を切るかもわからぬ」
「…………」
「暗中だからな……よく見えぬからな」
「…………」
「とすると返り討ちだ。……返り討ちになっても怨むなよ。参るぞ――ッ」と忍音ではあったが、殺す気でかけた鋭い声! それが主水の耳を打った。
(あぶない!)と瞬間主水は思った。
(おかしいぞ! いつもとは違う! ……本当に切る気ではないだろうか?)
 主水は自ずと一所懸命になった。
 刀を中段にピッタリと構え、闇を通して相手を睨んだ。
 暗中ながら相手の姿が、黒く凄まじく立っているのが見え、これも中段に構えている刀が、ボ――ッと薄白く感じられた。
 その薄白い刀身ばかりに、主水の眼はひきつけられた。
 間!
 例によって息詰まるような、命の縮まる間が経った。
 と、刀身が水の引くように、左斜めにス――ッと引かれた。
 フラ――ッと主水は前へ出た。
 瞬間、刀が小さく返った。
「ハッ」
 途端に……
「カ――ッ!」という、雷霆さながらの掛声が――渾身の力を集めた声が、どこからともなく聞こえてきた。
「あッ」と主水は膝を曲げ、グタ――ッとばかりに地に坐わり、
「うむ」と陣十郎はよろめいて、二三歩タジタジと[#「タジタジと」は底本では「タヂタヂと」]後へ下った。
 そうして次の瞬間には、闇の木立を潜り抜け、一散に麓の方へ走っていた。


 声をかけたのは要介であった。
 生地獄の光景を見ようとして、谷の下口まで行きかけると、番人によって遮られ、しかも鉄砲を向けられた。
 飛道具には敵《かな》わない。
 そこで避けて引っ返した。
 一里あまり来た時であった。何とも云われない殺気刀気、そういうものが感じられた。
(何者かが何者かを殺そうとしている)
 名人には別の感覚がある。
 賭博に才のあるその道の名人――そういう名人には伏せた壺を通して、中の賽コロの目がわかる。
 剣道の名人には自己に迫る殺気、そういうものなど当然わかり、あえて自己一身に迫るでなくとも、付近で行なわれる殺戮、殺傷、そういうものも感じられる。
 それを要介は感じたのであった。
「切る奴を挫き、切られる奴を救おう」
 こう要介は瞬間に思った。
 思ったと同時に反射運動的に、
「カ――ッ!」と声をかけたのであった。
 と、十数間のかなたから、木を潜って逃げて行く、葉擦れの音が聞こえてきた。
(逃げたな)と要介は直ぐに思った。
「セ、先生エ――ッ、ド、どうなされましたア――ッ」
 主水が掛声に腰を挫かれ、地へベタベタと坐ったと同じく、これも掛声に腰を挫かれ、要介の背後の地へ坐った、杉浪之助が悲鳴をあげた。
「杉氏か、何という態《ざま》だ!」
「ナ、何という、ザ、態だと、セ、先生には、オ、仰せられても……」
「アッハハハハ、立ちな立ちな」
「恐ろしい目に逢いました」
 云い云い浪之助は立ち上った。
「一体どうしたのでございます?」
「ナ――ニ、邪気を払ったまでさ」
「ははあ邪気を? ……が、邪気とは?」
「まあよろしい、いずれ話そう……ともかくも邪気は払ってやった。……しばらくじっと[#「じっと」に傍点]しているがいい」
 ――で、立ったままじっと[#「じっと」に傍点]していた。
 間もなく麓の方へ走り下る、人の足音が聞こえてきた。
「ははあもう一人も逃げて行ったな」
「先生何です、逃げて行ったとは?」
「一人が一人を殺そうとしていたのだ。……それをわしが挫いてやったのだ。……殺そうとした奴が先に逃げ、殺されかけていた人間が、つづいて今逃げて行ったのさ」
「こんな暗中でそんなことが、先生におわかりになりますので?」
「活眼活耳さえ持って居れば、暗中であろうと、睡眠中であろうと、そういうことはわかるものだ」

 主水は夢中で走っていた。
 恐怖と不安と一種の怒りとで、彼の心はうわずって[#「うわずって」に傍点]いた。
 彼にもう一段沈着があって、自分の危難を救ってくれたところの、恐ろしい掛声の主を尋ね、逢うことが出来たら自分と縁ある、侠剣の主人《あるじ》秋山要介と邂逅することが出来たのに!


 が、しかし主水にとっては、そんな余裕はなかったのであった。
(陣十郎め、心が変わった。たしかに悪人に還元した。俺を殺そうとしたらしい。でなかったらあの呼吸――あの殺伐の気は出ぬはずじゃ! ……それにしてもカ――ッと鋭い気合が、あの時かかって俺の命を、瞬間の間に救ってくれたが、一体誰が掛けたのであろう?)
 走りながらもそう思った。
(どっちみち俺は陣十郎とは、もう一緒には住みがたい。……では馬大尽井上嘉門の、賓客部屋へも帰れない。……どうしたらよかろう? どうしたらよかろう?)
 ひた[#「ひた」に傍点]走りながらそう思った。
(カ――ッと掛かったあの気合! ……尋常の人間の掛けた気合と、全然別の恐ろしい気合だ! ……俺は命が縮まるかと思った)
 こう思いながら無二無三に、麓をさして陣十郎も、走り走り走っていた。
(が俺は「逆ノ車」を、これで再度やり損なった訳だ! 再度の失敗! 再度の失敗! ……う――む再度の「逆ノ車」の失敗!)
 これは洵《まこと》に彼にとっては、致命的の打撃と云わざるを得なく、そうして、事実彼にとって、再度の致命的の打撃なのであった。こうなってはヤブレカブレ、どいつであろうと誰であろうと、かもう[#「かもう」に傍点]ものか切って切って、……この鬱忿を晴らしてやろう)[#「)」はママ]
 ひた[#「ひた」に傍点]走り、ひた[#「ひた」に傍点]走った。

 偽善の巣窟であるところの、井上嘉門の領地内が、攪乱されたのはこの夜であった。
 乳飲児を抱いた若い女が、放蕩の良人《おっと》を探し出そうとして、深夜に領地内を彷徨《さまよ》っている。
 横を魔のように通る者があった。
「わ――ッ」と女は悲鳴をあげた。
 もう女は斃れていた。
 飼犬がどこかへ行ってしまった。それを目付けようと老いた農夫が、杖をつきながら通っていた。
「クロよ、クロよ、おいで、おいで」
 こう云いながら通っていた。
 その横をスルスルと通る者があった。
 一閃!
 刀光!
「わ、わ、わ、わ、わ――ッ」
 老農夫は斃れ動かなくなった。
 向こうでも切られこっちでも切られた。
 人々は戸外へ飛び出した。

賭場荒れ


 嘉門は決して人格者ではなく、又勝れた施政家でもなく、ただ家長という位置にあり、伝統的にその位置を利用し、圧制し専政し、威圧ばかりしていた人物であった。
 で、隷属していた人々は、永い間心に不平と不満を、ひそかに蔵していたのであった。そういう人々が侵入者によって、この境地が攪乱された、その機に乗じ爆発した。向こうに一団、こっちに一団、露路に一団、空地に一団、林の中に一組、森の中に一組、到る所に集まって、議論し撲り合いし取っ組み合いした。
 どうして、誰が、何のために、どういう騒動を起こしたのか、そういう真相を確かめようともせず、漠然とした恐怖、漠然とした憤怒、漠然とした焦燥に狩り立てられ、同派は組んで異端を襲い、同党は一致して異党を攻め、罵り、要求し、喧騒し合った。
「生地獄の人達を救い出せ!」
「ワ――ッ」と数十人が鬨の声をあげて、山の手の方へ押して行った。
「嘉門様にこの地から出て貰おう!」
「ワ――ッ」と数十人が屋敷を目掛け、無二無三に走って行った。
「人使いが荒すぎる」
「役にも立たないお客さんなどを、泊めて置くのが間違っている!」
「客人たちを追っ払え!」
「ワ――ッ」と大勢が一つに集まり、その客人の泊まっている家々へ、押し寄せて行って騒ぎ立てた。
 悲鳴! 呻き声! 泣き声! 怒声!
 客人達も狼狽して、家々を出て群集にまじった。
 秋山要介も浪之助も、源女も主水もその中にいた。
 嘉門も狼狽し恐怖したらしい。
 玄関に立って途方にくれていた。
 そこへ多四郎が現われた。
「逸見《へんみ》様何といたしましょう?」
「とり静める方法ござりますかな?」
「さあこう人心が亢《たかぶ》っていましては……」
「一時避けたがようござろう?」
 お妻や東馬も怯えたように、その側《そば》に立って震えていた。
 竹法螺が鳴り陣鐘が鳴り、やがて鉄砲の音さえした。
 閉ざされた大門が破られそうになった。

 嘉門と多四郎とお妻と東馬、四人を乗せた駕籠を守り、十数人の嘉門の家の子郎党が、騒乱の領内から裏山づたいに、福島の方へ走り出したのは、それから間もなくのことであった。

 その翌日の午後となった。
 林蔵の乾兒《こぶん》藤作は、フラリと自分の賭場を出て、猪之松の賭場の方へ足を向けた。
 猪之松の賭場は上ノ段にあって、この夜客人で一杯であった。


 藤作は酔っていた。
 そうして彼は上尾街道で、澄江を危難から救おうとした時、猪之松の乾兒の八五郎たちのために、叩きのめされたことを忘れなかった。
 いつか怨みを返してやろう――こういうことを考えていた。
 さて福島へやって来た。
 猪之松一家が上ノ段で、盛大に賭場をひらいていた。
「諸国の立派なお貸元衆が、ここには集まっているのだから、猪之松の方から手を出したら別だが、こっちから手を出しちゃアならねえぞ」
 親分林蔵から戒められてはいたが、猪之松の賭場には八五郎もいる、こいつどうしたってトッチメなけりゃアと、酔いも手伝って乾兒の藤作、猪之松の賭場へ出かけたのであった。
 内へ入って懐手をし、客人達の背後に突立ち、藤作は四辺《あたり》を睨み廻した。
 板敷の上へ長蓙を敷き――これを中にして客人達がズラリと並んで控えていた。猪之松の姿は見えなかったが、代貸元として一の乾兒、閂峰吉が駒箱を控え、銀ごしらえの[#「銀ごしらえの」は底本では「銀ごしらへの」]長脇差を引きつけ、正面の位置に坐っていた。
 中盆――即ち壺皿を振る奴、それが目差す八五郎であったが、晒の下帯一筋だけの、素晴しく元気のいい恰好で、盆の世話を焼いていた。
 勝ちつづけた客人の膝の前には、駒が山のように積まれてあり、こいつはニコニコ笑っている。
 馬持、山持、土地の大尽、どれを見ても客は立派なもので、いかがわしい手合などは一人もいなかった。
 藤作は自分で張ろうとはせず、何か因縁をつけてやろうと、いつまでも突立って眺めていた。
 その藤作が入って来た時から(厭な野郎が舞い込みやアがった)
 と、峰吉も八五郎も思ったが、まさか帰れとも云いかねて(障るな触れるな、そっと[#「そっと」に傍点]して置け)
 こう考えて眼まぜ[#「まぜ」に傍点]で知らせ合い、声もかけず勝負をつづけて行った。
 と、不意に藤作は怒鳴った。
「勝負待った、イカサマあ不可《いけ》ねえ!」
 同時に飛び出し盆蓙を掴むと、パーッとばかりにひっぺがした。
「野郎!」と飛び上ったは八五郎。
「賭場荒らしだ――ッ」と客人たちは、総立ちになって右往左往した。


「イカサマとは何だ、この野郎!」
 やにわに八五郎は飛びかかった。
 その横ッ面をポカリと一つ、藤作は見事にくらわせたが、
「イカサマだ――ッ、イカサマだ――ッ! ……高萩の猪之の賭場の壺振、八五郎はイカサマをして居りやす! ……お客人衆、イカサマだ――ッ」と叫んだ。
「藤作!」と腹に据えかねたように、怒声をあげると、閂峰吉、長脇差をひっ掴み、立ち上るとツカツカと前へ出た。
「見りゃア手前は赤尾の藤作、まんざら知らねえ顔でもねえ。事を決して荒立てたくはねえが、高萩一家が盆割の場所で、イカサマと云われちゃア、どうにも我慢が出来にくい。さあ云え云えどこがイカサマだ!」
「何を云やがる、イカサマだ――ッ、賽もイカサマなら盆もイカサマ、高萩一家は、イカサマだ――ッ」
 こう藤作は叫んだものの、実はイカサマを発見して、それであばれ出したというのではなく、ただ何かしらあばれてやろう、あばれて八五郎をとっちめてやろうと、そう思って仕掛けた賭場荒らしだったので、そう峰吉に突っ込まれては、イカサマの証拠をあげることなど、勿論することは出来ないのであった。
 イカサマだ――、イカサマだ――、とただ怒鳴った。
「野郎」と峰吉はいよいよ怒り、
「さては野郎賭場を荒らし、賭場銭さらいに来やがったな!」
 ここで嘲笑い毒吐いた。
「赤尾の林蔵は若いに似合わず、万事に行届きいい親分だと、仲間内で評判がいいと聞いたが、乾兒へロクロク小使さえくれず、懐中《ふところ》さみしくしていると見える。乾兒が場銭をさらいに来たわ! ……汝《うぬ》らに賭場を荒らされるような、高萩一家と思っているか! ……さあみんなこの野郎を、袋叩きにして追い返せ!」
 声に応じて八五郎はじめ、高萩身内の乾兒五六人、ムラムラと寄り藤作を囲み、撲り蹴り引きずり廻した。
「殺せ殺せさあ殺せ! 骨は親分が拾ってくれる! 殺せ殺せさあ殺せ!」
 藤作は大の字に仆れたまま、多勢に一人力では敵《かな》わず、ただ声ばかりで威張っていた。
 そいつを高萩の乾兒達は、戸外《おもて》へ引き出し抛り出した。

「ナニ藤作が猪之の賭場で、間違いを起こして袋叩きにされたと」
 料理屋の奥で酒を飲んでいた、赤尾の林蔵はこれを聞くと、――乾兒の注進でこれを聞くと、長脇差をひっ[#「ひっ」に傍点]掴み、
「こうしちゃいられねえ、みんな来い!」
 取巻いていた乾兒を連れ、自分の賭場の方へ走って行った。


 高萩の猪之松も料理屋の座敷で、四五人の乾兒たちと酒を飲んでいたが、乾兒の注進でこの事件を知ると、顔の色を変えてしまった。
「云うことに事を欠いて、イカサマがあると云われちゃア、袋叩きにもしただろうさ。……が、相手が悪かった。日頃から怨みの重なっている、赤尾の林蔵の身内だからなア。……こいつアただではおさまるまい。……ともかくも旅籠《やど》へ引き上げろ」
 そこで旅籠《はたご》へ帰って来た。
 林蔵も一旦賭場へ行き、負傷をしている藤作へ、すぐに応急の手あて[#「あて」に傍点]を加え、板で吊らせて旅籠へ運び、自分も旅籠へ帰って来た。
「藤作のやり方が悪かったにしても、場銭をさらいに来やがったと、こう云われては腹に据えかねる……そうでなくてさえ[#「さえ」は底本では「さへ」]怨みの重なる、高萩一家の奴原《やつばら》だ、この際一気に片づけてしまえ!」
 なぐり込みの準備をやり出した。
 という知らせが猪之松方へ行った。
「もうこうなっては仕方がない、こっちからもなぐり[#「なぐり」に傍点]込みをかけてやれ」
 竹槍、長脇差、鉄砲まで集め、高萩一家も準備をはじめた。
 驚いたのは他の貸元連で、小金井の半助、江尻の和助、鰍沢《かじかざわ》の藤兵衛、三保ノ松の源蔵、その他の貸元ほとんど一同、一つ旅籠へ集まって、仲裁《なかなおり》の策を相談した。
 その結果小金井の半助が、猪之松方へ出かけて行き、そうして鰍沢の藤兵衛が、林蔵の方へ出かけて行き、事を分けて話すことになった。
「赤尾の身内の藤作どんとやらが、酒に酔っての悪てんごう[#「てんごう」に傍点]、あんたの賭場にイカサマがあると、そう云われちゃア高萩のにしても、さぞ腹が立つではありましょうが、日和《ひより》も続き馬市は繁昌、おかげでわしらの賭場も盛り、芽出度い芽出度いと云って居る際に、赤尾と出入りが起きようものなら、馬市もメチャメチャ諸人方は、どれほど迷惑するかしれねえ。その馬市も明日一日だけ。……そこで出来ねえ我慢をして、ここはわし等の顔を立て、穏便に済まして貰いたいが」と、こう半助が猪之松に話すと、又藤兵衛は林蔵に対し、
「藤作どんが酔ったまぎれの、賭場荒しめいたてんごう[#「てんごう」に傍点]も、景気に連れての振舞いでしょうよ、そいつを高萩の身内衆に、場銭さらいにやって来たかと、悪態されたでは赤尾のとしては、黙っていることは出来ますめえが、馬市も明日一日、どうか穏便に済ましたいもので。出入りとなると諸商人はじめ宿の者一統が難渋するので」
 こう云って納めようとした。
 林蔵も猪之松も頑迷ではなかった。こう云われるとそれを押し切って、私闘をすることは出来なかった。
「ではお任かせいたしましょう」と云った。
 しかし林蔵は考えた。
(いずれ俺と猪之松とは、将来|交際《つきあ》える関係《なか》ではない。そのうち必ず命を賭しての、出入り果し合いをすることとなろう。一日延ばせば一日延ばしただけ、双方嫌な目をするばかりだ。……この機会に勝負をつけてしまおう。……諸人に迷惑さえかけなかったら、何をやってもいいわけだ)
 そこで彼は果し状を認め、こっそり猪之松へ持たせてやった。
 ――諸人はかかわりなく二人だけで、今夜宿外れの黒川渡《くろかわど》の野原で、勝負しようという果し状であった。
「承知した」という返事が来た。


 黒川渡は宿から半里ほど距てた、樹木の茂った箇所であり、人家などはほとんどなく、ただ川の岸に渡し守の小屋が、一軒立っているばかりであり、そこを渡って向こう岸へ行き、そこから西野郷へは行くのであった。
 林蔵は渡し守の小屋まで来た。
「爺《とっ》つあん船を出してくんな」
「おや、これは親分さんで、夜分渡し船を出しますのは、堅い法度でございますが……」
「と云うことは知っているが……」
「実はたった今もお渡ししましたんで。法度は法度、抜道は抜道、ハイハイお渡しいたしますとも」
 爺《じい》さんは船を出し、林蔵を乗せて向こう岸へついた。
「もう一人俺のような人間が、渡りてえと云って来るだろうから、そうしたら文句無く渡してやってくれ」
「高萩の親分さんじゃアございませんかな」
「こりゃア驚いた、どうして知ってる?」
「たった今お渡りになりまして、同じようなことを仰有《おっしゃ》いましたので」
「さすがは猪之松、先へ渡ったか、こいつはどうも恐れ入った。……じゃア爺《とっ》つあんこうしてくんな。俺か猪之松かどっちか一人、間もなく宿の方へ帰るから、向こう岸へ帰らずに船をとめて、ここの岸で待っていてくんな」
「へい、よろしゅうございます……が、お一人だけお帰りになるので?」
「そうさ、一人だけ帰るのよ。もう一人は遠い旅へ出るんだ。……行って帰らぬ旅ってやつへな」
 云いすてて林蔵は先へ進んだ。
 と、雑木の林の中から、
「赤尾のか、待っていた」という、猪之松の声が聞こえてきた。
「高萩のか、遅れて悪かった」
「俺もいまし方来たばかりよ」
 木洩れの月光の明るい所で、二人は顔を向かい合わせた。
「さて高萩の」と林蔵は云った。
「三度目の決闘だ、今度こそかた[#「かた」に傍点]をつけようぜ」
「うん、俺もそのつもりだ。……最初は上尾の街道で、二度目は追分の宿外れの野原で、三度目はこの黒川渡で……」
「今度こそかた[#「かた」に傍点]がつきそうだ」
「三度目の定《じょう》の目でなあ」
「俺が死んだらオイ高萩の、俺の縄張俺の乾兒、お前|悉皆《みんな》世話を見てくれ」
「心得た、きっと見る。その代わり俺が死んだ時には……」
「俺が悉皆みてやろう」
「心残りはねえと云うものだ」
「もつれ[#「もつれ」に傍点]にもつれ[#「もつれ」に傍点]た二人の仲が、今夜こそスッパリとかた[#「かた」に傍点]がつく、こう思うと気持がいいや」
「これまでは四辺《あたり》に人がいて、勝負するにもこだわり[#「こだわり」に傍点]があったが、今夜こそ本当に二人だけだ、思う存分切り合おうぜ」
「じゃアそろそろはじめようか」
「やろう、行くぜ、高萩猪之松!」
「さあ抜いた、林蔵来い!」
 甲源一刀流と新影流! 勢力伯仲の二人の博徒!
 構えは同じ中段に中段!
 逸見多四郎と秋山要介と、当代一流の剣豪を、師匠に取って剣道を、正規に学んだ二人であった。
 位い取りから呼吸《いき》づかいから、正しく鋭く隙がない。
 が、若いだけに赤尾の林蔵、やや気をいらち一気に勝負と、相手の刀磨り上げ気味に、ジリジリと[#「ジリジリと」は底本では「ヂリヂリと」]進み躍り込もうとした途端、
「む――」と呻く人間の声が、どこからともなく聞こえてきた。

恩讐集合


(はてな?)と林蔵は不審を打った。
(二人の他に人はいないと思ったのに、人の呻き声が聞こえるとは)
 こう注意が外れたので、躰の構えも自ずと崩れた。
 そこを狙って猪之松が、疾風迅雷、胴へ斬り込んだ。
「どっこい!」と喚くと林蔵は、一髪の間に飛退いて、姿勢を整え構えを正した。
 もう寸分の隙もない。
 二人は互いに呼吸を計り、その間隔《あいだ》を一間とへだて、睨み合って動かなかった。
 と、又も呻き声が聞こえた。
(おや?)と不審を打ったのは、今度は高萩の猪之松で、これも注意が外れたために、自ずと構えに隙が出来た。
(得たり!)とばかり得意の諸手突で、林蔵は征矢《そや》のように突進した。
 はじめて鏘然と太刀音がしたが、これは猪之松が林蔵の刀を、左に払って右へ反《かわ》したからで、太刀音のした次の瞬間には、二人の位置が少し移ったばかりで、構えは依然として中段と中段、もう静まり返っていた。
 それにしても呻き声はどこから来るのであろう?
 二人から数間離れた位置に、薮と灌木とに覆われて、一個の大岩がころがっていたが、その陰に一人の武士が仆れてい、その武士から呻き声は来るのであった。
 蒼い月光に照らされて、乱れた髪、はだかった衣裳、傷付いた手足のその武士が、水品《みずしな》陣十郎だということが見てとられた。
 嘉門の領地の動乱から、命からがら遁れ出て、ようやくここまで歩いて来たところ、手足の負傷、心の疲労から、昏倒してしまった彼であった。
 岩のむこうで林蔵と猪之松とが、刀を交し戦っているので、目つかっては一大事、声を立てては不可《いけ》ないと思いながら、つい呻き声を上げる彼でもあった。
 嘉門の領地から遁れ出たものは、相当|夥《おびただ》しい数と見え、この一角から遥か離れた、巣山《すやま》や明山《あきやま》の中腹を、福島の方へ行くらしい、たいまつ[#「たいまつ」に傍点]の火が点々と見えた。
(どうして林蔵と猪之松とが、こんな所で斬り合っているのか?)
 勿論陣十郎には合点いかなかったが、そういうことを突詰めて考え込むほど、彼の気持は冷静でなく、彼の躰は健康でなかった。
(それにしても井上嘉門の領地での、不思議な怪奇な事件の起伏! 何と云ったらいいだろう?)
 悪党の彼ではあったけれど、このことを思えば身が震えるのであったが、悩乱状態の陣十郎には、やはりこの事も冷静な気持で、回想することなど出来なかった。
(こんな所で死んではたまらない! 早く人里へ! 早く福島へ!)
 このことばかりを思い詰め、ノタウチながら呻き声を、先刻《さっき》から上げているのであった。
 もう林蔵にとっても猪之松にとっても、呻き声など問題ではなくなっていた。
 次第に迫る呼吸《いき》をととのえ、一気に雌雄を決しようと、刻足《きざみあし》をしてジリジリと[#「ジリジリと」は底本では「ヂリヂリと」]進んだ。
 しかし又もこの折柄、意外の障害が湧き起こった。
 雑木林の間から、数本のたいまつ[#「たいまつ」に傍点]の光が射し、四挺の駕籠を取巻いて、十数人の人々が、忽然現われて来たことであった。


 井上嘉門の一団であったが、四梃の駕籠に乗っている者は、嘉門と逸見《へんみ》多四郎と、お妻とそうして東馬とであった。
「や、これは逸見先生で」
 猪之松は思わず叫ぶように云って、岩を廻って数間走った。逃げたというのでは決してなく、自分の剣道の師匠であり、日頃から無用の腕立てや、殺生を厳しく戒《いまし》められている、その逸見多四郎にこんな姿を――抜身をひっさげているこんな姿を、こんなところで見られるということが、面伏せに思われたからであった。
 しかし直ぐに思い返し、苦笑いをして足を止めた。
「そこに居るのは猪之松ではないか」
 いち早くその姿を見かけたらしく、駕籠の中から多四郎は叫んだ。
「駕籠しばらく止めるがよい」
 止まった駕籠から多四郎は出て、猪之松の方へ寄って行った。
「抜身をひっさげ何をしているのじゃ」
 云い云いこれも猪之松の横に、これも抜き身を引っさげて、これも苦笑をして佇んでいる赤尾の林蔵をジロリと見、
「そなたは赤尾村の林蔵殿じゃな」
 猪之松が数間走ったので、それに連れて自分も数間走り、猪之松が足を止めたので、自分も足を止めた林蔵は、こう云われて頭を下げ、
「逸見の殿様でございまするか、意外のところでお目にかかり、恐縮至極に存じまする」
 顔見知りの逸見多四郎だったので、こう林蔵は憮然として云った。
 多四郎の方でも林蔵の顔は、以前に見かけて知っていた。それに自分の剣道の弟子たる高萩の猪之松の競争相手――そう云うことも知っていた。で、この場の光景から、心に響くものが少なからずあった。
「猪之松」と鋭い声で云った。
「決闘《はたしあい》か? そうであろう!」
「…………」
 猪之松は頭を下げた。
「猪之松!」と又も多四郎は云った。
「決闘! それもよかろう! ……が決闘したその後において、一体どのような良いことが残るのか?」
「…………」
「決闘! 決闘……さてその結果は一人が死ぬ! ……そうだ一人は殺されるのだ! よくよくのことがなければのう、決闘などするものではない」
「…………」
「理由は何か、云ってみい」
「はい」と猪之松は神妙に云った。
「ここに居りまする林蔵の子分に、藤作と申するものがござりまするが、その者が、わたくしの賭場へ参り、乱暴狼藉いたしましたゆえ、私子分ども腹を控えかね、みんなして袋叩きにいたしましたところ……」
「賭場荒しが原因だな」
「はい、さようでござります」
「みんなして藤作を叩いたといえば、争いは五分々々というものだな」
「まあ左様でございますが……」
「では、どうしてお前たち二人、あらためてここで決闘などするのだ?」
「子分の怨みは上に立つ者の……」
「親分の怨みになるという訳か」
「そればかりでなく、ずっと以前から、林蔵と私とは犬猿もただならず……」


「そのような噂も聞いて居る、がその不和の原因も、要するに縄張りの取り合いとか、勢力争いだということではないか」
「はい左様にござります、が私共渡世人にとっては縄張りと申すもの大切でありまして……」
「一体誰から許されて、縄張りというようなものをこしらえたのじゃ?」
「…………」
「土地はお上、ご領主の物、それをなんぞや博徒風情が、自分の勢力範囲じゃの縄張りじゃのと申し居る」
「…………」
「一体お前たちは、何商売なのじゃ?」
「…………」
「無職渡世などと申しているが、お上で許さぬ博奕をし、法網をくぐって日陰において生くる、やくざもの[#「やくざもの」に傍点]、不頼漢ではないか!」
「…………」
「そういう身分のその方なら、行動など万事穏便にし、刃傷沙汰など決していたさず、謹しんでくらすのが当然じゃ! それをなんぞや決闘とは! ……猪之松、其方《そのほう》はわし[#「わし」に傍点]について剣道を学んだ者だった喃《のう》」
「お稽古いただきましてござります」
「では其方はわし[#「わし」に傍点]の弟子じゃ」
「申すまでもございません」
「直れ!」と多四郎は凄じく云った。
「不肖な弟子を手討ちにいたす!」
 するとこの時まで多四郎の言葉を黙々として聞いていた林蔵が、抜身をソロリと鞘におさめ、つかつかと多四郎の前へ出て云った。
「逸見先生に申し上げまする、私をもお手討ちにして下さいませ」
 首をすっと差しのべた。
「?」
 多四郎はただ林蔵を見詰めた。
「先生の秘蔵弟子の猪之松殿を、不肖におとしましたは、この林蔵にござりまする」
「…………」
「林蔵さえ争いを仕掛けませねば、穏和な高萩の猪之松殿には決闘などいたしはしませぬ」
「…………」
「私をもお手討ち下さりませ」
 そういう林蔵の真面目な顔を、多四郎はつくづく眺めていたが、
「さすがは男、立派なお心! 多四郎ことごとく感心いたしてござる……そこで多四郎よりお願いすることがござる。……林蔵殿、猪之松と和解下さい……」
「…………」
「一つ秩父《ちちぶ》の同じ地方で、それほどの立派な男が二人、両立して争うとはいかにも残念! 戦えば両虎とも傷つきましょう。和解して力を一つにすべきじゃ」
「殿様……」と林蔵は頭を下げた。
「まことにごもっとものお言葉、林蔵身にしみてござります――高萩のに否《いな》やありませねば、私よろこんで和解いたしたく――」
「おお赤尾の俺とて承知だ!」と猪之松も嬉しそうに決然と云った。
「これまでのもつれ[#「もつれ」に傍点]水に流して、二人和解し親しくなろうぜ」
 この時木陰から声がかかった。
「この要介も大賛成じゃ」
 秋山要介が木陰から出て来た。


 そうして、その後からついて来たのは浪之助とそうして源女であった。
 いずれも井上嘉門の領地の一大混乱の渦から遁れ、ここまで下って来たのであった。
 そうして要介は木陰に佇み多四郎の扱いを見ていたのであった。
「猪之松と林蔵との和解は賛成、重ねて逸見殿と拙者との争いも、和解ということになりましょうな」
 磊落な要介はこう云って笑った。
「おおこれは秋山氏が、意外のところでお目にかかりました。林蔵殿と猪之松との和解、貴殿と拙者との武芸争いの和解! いずれをもご賛成下されて逸見多四郎満足でござる」
 多四郎もいかにも嬉しそうに云った。
「それに致しても秋山殿には何用あって、このような所に?」
「それは拙者よりお訊きしたい位で、何用あって逸見殿にはこのような所においでなさるるな?」
「実は井上嘉門殿の屋敷に、滞在いたして居りましたところ……」
「これはこれは不思議なことで、拙者も井上嘉門殿の屋敷に滞在いたして居りましたので……」
「や、さようで、一向存ぜず、彼の地にて御面会いたすこと出来ず、残念至極に存じ申す」
「しかるに今回の騒動! そこで引揚げて参りましたので」
「実は拙者も同様でござる」
 この時嘉門は駕籠から出て、改めて要介へ挨拶をした。
「ここに居りましても致し方ござらぬ、ともかくも福島まで引揚げましょう」
 こう多四郎が云ったので、一同それに同意した。

 一同がこの地から立ち去った後は、またこの地はひとしきり、深い林と月光との、無人の静かな境地となっていた。
 しかし岩陰には陣十郎が負傷に苦しんで呻いていた。
 大岩の陰にいたために、多四郎にも要介にも見あらわされず、そのことは幸福に感じられたが、お妻や源女を見かけながら、どうにもすることが出来なかったことは、彼には残念に思われた。
「ここに居ても仕方がない」
 こう思って彼は立ち上った。
「痛い! 痛い! 痛い!」と声をあげ、陣十郎はすぐに仆れ、右の足の膝の辺りを抑えた。
「あッ……膝の骨が砕けて居るわ」

 やがて秋が訪れて来た。
 御三家の筆頭尾張家の城下、名古屋の町にも桜の葉などが風に誘われて散るようになった。
 この頃知行一万石、石河原《いしかわら》東市正のお屋敷において月見の宴が催され、家中の重臣や若侍が、そのお屋敷に招かれていた。
 竹腰但馬、渡辺半左衛門、平岩|図書《ずしょ》、成瀬|監物《けんもつ》、等々の高禄の武士たちは、主人東市正と同席し、まことに上品におとなしく昔話などに興じていたが、若侍たちは若侍たちで、少し離れた別の座敷であたかも無礼講の有様で、高笑、放談、自慢話――女の話、妖怪変化の話、勝負事の話などに興じていた。
 と佐伯勘六という二十八九歳の侍が、
「辻斬の噂をお聞きかな」と、一座を見廻して云い出した。

月見の宴で


「辻斬の噂、どんな辻斬で?」と前田主膳という武士が訊いた。
「撞木杖をついた跛者《びっこ》の武士が辻斬りをするということで厶《ござ》るが」
「その噂なら存じて居ります」
「不思議な太刀使いをするそうで」
「こうヒョイと車に返し、すぐにドッと胴輪切りにかける――ということでありますそうで」
 この話はこれで終ってしまった。
 盃が廻り銚子が運ばれ、お酌の美しい若衆武士が、華やかに座を斡旋して廻った。
「拙者数日前備前屋の店頭で、長船《おさふね》の新刀をもとめましたが、泰平のご時世試し斬りも出来ず、その切れ味いまに不明、ちと心外でございますよ」
 と、川上|嘉次郎《かじろう》という武士が云って、酔った眼であたりを見廻した。
「貴殿も新刀をおもとめか、実は拙者ももとめましてな……相州物だということで厶るが、やはり切れ味は不明で厶る」
 こう云ったのは二十五六才の、古巣右内という武士であった。
「ナーニ切れ味を知りたいとなら、近くの大曾根の田圃へ行き、乞食でも斬れば知れ申すよ」と柱に背中をもたせかけて、赧顔を燈火に照し、少し悪酔をしたらしい、金田一新助という武士が云い、
「近来お城下に性のよくない、乞食が殖えたようで、機会あるごとにたたっ斬った方がよろしい」
「なるほどこれは妙案で厶るな」
「乞食なら斬ってもよろしかろう」と二三人の武士が雷同した。しかしこの話もこれで終り、女の話へ移って行った。
「拙者ひどい目に逢いましたよ」
 瀬戸金彌という二十二三の武士が、苦笑いしながら話し出した。
「数日前の夜で厶るが、大須の境内を歩いて居りますと、若い女が来かかりました。あの辺りのことで厶るによって、夜鷹でもあろうと推察し、近寄ってヒョイと手を取りましたところ、その手を逆に返されまして、途端に拙者ころびましたが、どうやら女に投げられたようで」
「アッハッハッ」と一同は笑った。
「女をころばすのは判っているが、女にころばされるとはサカサマじゃ」
「そこが色男の本性かな」
「その女|柔術《やわら》でも出来るのかな?」
「さようで」と金彌という武士は云った。
「零落をした武家の娘――と云ったような様子でござった。身装は穢くありましたが、顔や姿は美しく上品でありましたよ」
 この時川上嘉次郎と、古巣右内とが囁き合い、金田一新助へ耳うち[#「うち」に傍点]をした。すると新助はニヤリと笑い、二三度頷いて立ち上り、つづいて嘉次郎と右内とが立ち、こっそり部屋を出て行った。
 雑談に余念[#「余念」は底本では「余年」]のない一座の者は、誰もそれに気がつかなかったが、床柱に背をもたせかけコクリコクリと居眠りをしていた、秋山要介一人だけが、この時ヒョイと眼をあげて、三人の姿を見送って、審しそうに眉をひそめた。
 しかし眉をひそめただけで、声もかけず立っても行かず、また直ぐに眼を閉じて、長閑《のどか》そうに居眠りをつづけ出した。


 何故要介がこんな所にいるのか? 福島の馬市が首尾よく終えるや、赤尾の林蔵と高萩の猪之松とは、和解したので親しくなり、打ち連れ立って故郷へ帰った。
 そこで要介は門弟の浪之助へ、源女を附けて江戸へ帰し、自分一人だけが名古屋へ来た。
 尾張家の重臣|諌早《いさはや》勘兵衛が、要介の知己であるからであり、せっかく福島まで来たのであるから、久々で名古屋へ出かけて行き、諌早殿にお目にかかり、お城下見物をすることにしようと、そこで出かけて来たのであった。
 秋山要介の高い武名は、尾張藩にも知られていたので、今夜の宴にも勘兵衛と一緒に、要介は石河原家へ招かれた。
 最初要介は重臣たちとまじり、別の部屋で談笑していたのであったが、磊落の彼にはそういう座の空気がどうにも窮屈でならなかった。
 そこでそっと辷り出て、若侍たちのいるこの部屋へ来て、若侍たちの話を聞いているうちにトロトロと居眠りをやり出したのである。
 夜は次第に更けて来たが、酒宴は容易に終りそうもなく、人々の気焔はいよいよあがった。
 と、その部屋を出て行った、古巣右内という若侍が、蒼白《まっさお》な顔をして帰って来た。
「どうしたどうした」
「顔色が悪いぞ」
「今までどこへ行っていたのだ」
 と若侍たちは口々に訊いた。
「面目次第もないことを仕出来《しでか》しまして」
 右内は震える口で云った。
「新刀の試し切りいたそうと存じて、川上氏と金田一氏共々、大曾根の乞食小屋まで参りましたところ、一つの小屋の菰垂れの裾より、白刃ひらめきいでまして、あの豪勇の金田一氏が、片足を斬り落とされまして厶《ござ》りまする」
「なに乞食に金田一氏が……」
 若侍たちは森然としてしまった。
 それというのは金田一新助は、尾張藩の中でもかなりの使い手として、尊敬されている武芸者だからであった。
「そこで拙者と川上氏とで、金田一氏お屋敷まで、金田一氏をお送りいたし、川上氏はそのまま止まり、拙者一人だけ帰って参ったので厶るが……」と古巣右内は面目なさそうに云った。
 一同は何とも云わなかった。
 同僚が斬られたというのであるから、本来なれば出かけて行って、復讐すべきが当然なのであるが、相手が武士《ぶし》であろうことか、乞食小屋の乞食だというのであるから、討ち果したところで自慢にもならず、もし反対に討たれでもしたら――相手は随分強そうであるから、――討たれでもしたら恥辱の恥辱である。
 で黙っているのであった。
 この時要介はヒョイと立った。
 そうして部屋を出て行った。

 満月の光を浴びながら、秋山要介は大曾根の方へ、静かな足どりで歩いて行った。
 まだこの辺りは屋敷町で、昼もひっそりとしたところなのであるが、更けた夜の今はいよいよ寂しく歩く人の足音もなく、歩く人の姿もなかった。

疑い合う兄妹


 この夜大曾根の農家の一間に、兄妹の者が話していた。
 主水《もんど》とそうして澄江《すみえ》とであった。
 馬大尽井上嘉門の領地の、あの生地獄へ落された澄江が、どうしてこんな所に来ているかというに、あの夜暴民たちはその生地獄の上の、断崖へ押しよせて行き、生地獄にいる人々を助けようとして、幾筋となく綱を下ろした。
 それへ縋って地獄の人々は、あの谷から引き揚げられた。
 その中に澄江もいたのであった。
 そうして暴動の人渦に雑って、嘉門の領地をさまよっているうちに、幸運にも義兄の主水と逢った。
 その時の二人の喜びは!
 互いの過去を物語り、巡り逢えた幸運を感謝しながら、井上嘉門の領地を遁れ、まず福島の宿《しゅく》へ来た。
 そこで陣十郎の消息を尋ねた。
 名古屋の城下へ行ったらしかった。
 で、兄妹は連れ立って、名古屋へ来たのであって、この地へ来ると主水と澄江とは、とりあえず旅籠《はたご》に逗留して、陣十郎の行方《ゆくえ》を尋ねた。
 が、城下はなかなかに広く、行方を知ることが出来なかった。
 それにこれまでの艱難辛苦で、主水の躰も澄江の躰も、疲労困憊を尽くしていた。
 静養しなければならなかった。
 それに旅用の金子なども、追々少なくなって来たので、城下の旅籠を引払い、農家の離家を借り受けて、そこへ移って自炊をし、敵《かたき》の行方を尋ねると共に、身体をいたわることにした。
 鳴きしきる虫の音に時々まじって、木葉の落ちるしめやかな音が、燈火の暗い古びた部屋へ、秋の寂しさを伝えて来た。
「お兄様ご気分はいかがですか?」
 心配そうに澄江は訊いた。
「うむ、どうもよくないよ」
 主水はこの頃病気なのであった。
 と云ってもこれといって、心臓とか肺臓とか、そういうものの病気ではなく、気鬱の病気にかかっているのであった。
(澄江が水品陣十郎と、寝泊りをして旅をして来たとは!)
 このことが気鬱の原因であった。
 互いに過去の話をした時、このことを澄江は主水に話し、寝泊りして旅こそして来たが、躰に――貞操には欠けるところがないと、このことについては力説した。そこで主水もお妻と一緒に、寝泊りをして旅をして来たことを、きわめて率直に打ちあけて、そうしてやはり肉体的には、なんら欠点のないということを、澄江が安心するように話した。
 艱難辛苦をしたあげく、久しぶりで逢った主水と澄江とは、その邂逅に歓喜して、疑わしい過去のそういう生活をも、疑うことなく許し合った。
 が、その歓喜がやがて消えて、平静の生活に返って来ると、相互にこのことが疑われ出した。
 二人は兄妹とはいうものの、行く行くは夫婦になるべきところの、義兄妹であり許婚《いいなずけ》であった。
 そうして水品陣十郎が、父庄右衛門を殺害《さつがい》したのは、澄江に横恋慕した結果からのはずだ。
 その陣十郎と二人だけで、寝泊りして旅をして来たという!
 主水は苦悶せざるを得なかった。


 主水が苦悶すると同じように、澄江も苦悶せざるを得なかった。
(あの好色のお妻という女と、一つ宿に寝泊りして、旅をして幾日か来たからには、ただではすむべきはずがない。情交があるものと思わなければならない)
 苦悶せざるを得ないのであった。
 そういう二人の心持を――その苦しい心持を、カラリと晴らす方法はといえば、陣十郎とお妻とが現われて来て、その二人が自分の口から、そういう関係のなかったということを、証明するより外はなかった。
 ところが二人は二人ながら、主水たちの敵であり、その行衛《ゆくえ》は未だに知れない。従って二人の苦しい心持の、解け消える機会はないのであった。
「澄江殿」と他人行儀の、冷い口調で主水は云った。
「長の月日お父上の敵、陣十郎めを討とう討とうと、千辛万苦いたしても、今に討つことならぬとは、われわれ二人神や仏に、見放された結果かもしれませぬ……将来どのように探そうとも、陣十郎の行衛結局知れず……知れず終《じま》いになろうもしれませぬ……わしにとっては無念至極ではござるが、澄江殿にとってはその方が、かえってよいかもしれませぬのう……アッハッハッよいともよいとも!」
「…………」
 澄江は返事をもせず首垂れていた。
(また皮肉を仰有《おっしゃ》ると見える。……わたしはもう何にも云うまい)
 こう思って黙っているのであった。
「のう澄江殿」と又主水は、意地の悪い調子で云いつづけた。
「わしには不思議でなりませぬよ……お父上の敵の陣十郎と、一緒に旅をして居りながら、その敵を討って取ろうと、一太刀なりと加えなかったとは」
「…………」
「弱い女の身にしてからが、同じ部屋に寝泊りして来た以上、相手の眠りをうかがって、討ちとる機会はありましたはずじゃ……それを見遁して討たなかったからには、討てない理由があったものと……」
「…………」
「わしは不幸だ!」と不意に主水は、昂奮して血走った声で叫んだ。
「敵に肌身を穢された女を、妻にしなければならないとは!」
「あなた!」と澄江は顔色を変え、躰をワナワナ顫わせて、腹に据えかねたように叫び返した。
「以前にも再々申しましたとおり、陣十郎と連立って、道中旅をして参りましたは、秩父の高萩の猪之松の家で、馬大尽の井上嘉門に、すんでに肌身穢されようとしたのを、陣十郎に助けられましたからで……恩は恩、仇は仇、なんのお父上の敵などに、この肌身を穢させましょうや……道中陣十郎を見遁しましたは、助けられた恩からでございます……それにいたしましても貴方《あなた》様に――未来の良人のあなた様に、そのようなことを疑われましては、生きて居る望みござりませぬ! 死にます死にます妾は死にます!」
 いきなり刀を取って抜いた。


 主水は仰天して腕を伸ばし、その抜身をもぎ取った。
 澄江は畳へ額をつけ、ひた泣きに泣くばかりであった。
 抜身を鞘へそっと納め、手の届かない遠くへ押しやり、主水も腕を組んで考え込んだ。
(地獄の苦しみだ)とそう思った。
(こういう苦しみをするというのも、みな水品陣十郎のためだ)
 またここへ考えが落ちて行った。
(どうともして早くあいつの居場所を、探り知って討ち取りたいものだ)
(旅用の金も残り少なになった)
 このことも随分辛いのであった。
 胸は苦しく頭痛さえして来た。
 不意に主水は立ち上り、障子をあけ、雨戸をあけ、縁に立って戸外を見た。
 一跨ぎにも足りない竹垣をへだて、向かいはずっと田畑であり、月の光が農作物の上に、水銀のように照っていた。
 でも一方右手の方には、逸見《へんみ》三家中の名古屋逸見家の、大旗本の下屋敷のような、宏大な屋敷の一部が、黒く厳めしく立っていて、それが月光を遮っているので、その辺り一体が暗く見えていた。
(ああいう所には有り余る金が、腐るほど死蔵されているのだろうなあ)
 ふとこんなことが思われて、主水はその方を眺めやった。

 秋山要介は屋敷町を抜けて、大曾根の方へ歩いていた。
 尾張家の相当の使い手の武士を、乞食風情で小屋の裾から、一刀に足を斬ったという――このことが要介には不思議でならず、いずれその乞食は武士あがりの、名ある人間に相違ない、人物を見素性を知りたいものだ、それに自分が武芸者だけに、研究心と好奇心とから、その乞食と逢おうために、酒宴の席から抜け出して、こうして歩いて来たのであった。
 そして大曾根に辿りついた。
 飛々に農


「や、これは!」とさすがの要介も、郷士ながらも所の領主、松平|大和守《やまとのかみ》には客分にあつかわれ、新羅《しんら》三郎|義光《よしみつ》の後胤甲斐源氏の名門であり、剣を取らせては海内の名人、しかも家計は豊かであって、倉入り千俵と云われて居り、門弟の数|大略《おおよそ》二千、そういう人物の逸見多四郎が、気軽にこのような旅籠屋などへ、それも留守の間に道場の看板、門の大札[#「大札」は底本では「大礼」]を外して行ったところの、要介を訪ねて来ようなどとは、要介本人思いもしなかったところへ、そのように気軽に訪ねて来られたので、さすがに驚いて立ち上った。
「これはこれは逸見先生、わざわざご来訪下されましたか。いざまずこれへ! これへ!」
「しからばご免」と仙台平の袴に、黒羽二重の衣裳羽織、威厳を保った多四郎は、静かに部屋の中へ入って来た。
 座が定《き》まってさて挨拶! という時に要介の機転、床の間に立ててあった例の門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、恭しく抱えて持って来るや、前へ差し出しその前に坐り、
「実は其《それがし》先生お屋敷へ、本日参上いたしましたところ、江戸へ参ってご不在との御事。と、いつもの悪い癖が――酔興とでも申しましょうか、悪い癖がムラムラと起こりまして、少しく無礼とは存じましたが、門弟の方へ一応断わり、この大門札[#「門札」は底本では「門礼」]ひき外し、旅舎まで持参いたしました、がしかし決して粗末にはいたさず、床の間へ立てかけ見事の筆蹟を、打ち眺め居りましてござります。が、それにしてもこの門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、ひき外し持参いたしましたればこそ、かかる旅舎などへ先生ほどのお方を、お招きすること出来ました次第、その術策|的中《あた》りましてござるよ。ハッハッハッ」と笑ったが、それは爽かな笑いでもあった。
 と、多四郎もそれに合わせ、こだわらぬ爽かな笑い声を立てたが、
「その儀でござる、実は其《それがし》所用あって江戸へ参り、三日不在いたしまして、先刻帰宅いたしましたところ、ご高名の秋山先生が、不在中三回もお訪ね下され、三回目の本日門の札を[#「札を」は底本では「礼を」]、ひき外しお持ちかえりなされたとのこと、門弟の一人より承《うけたま》わり、三回のご来訪に恐縮いたし、留守を申し訳なく存じますと共に、その門弟へ申したような次第――、門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]外して持ち去った仁、秋山要介先生でよかった。他の仁ならこの多四郎、決して生かして置きませぬ。秋山要介先生でよかった。その秋山先生は、奇嬌洒脱の面白い方じゃ、いまだ一度もお目にかからぬが、勇ましいお噂は承って居る。五百石といえば堂々たる知行、その知行取りの剣道指南役の、嫡男の身に産れながら、家督を取らず浪人し、遊侠の徒と交際《まじわ》られ、権威に屈せず武威に恐れず、富に阿《おも》ねらず貧に恥じず、天空海濶に振舞われる当代での英傑であろう。門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]持って行かれたも、単なる風狂に相違ない。宿の小紅屋に居られるなら、早速参ってお目にかかろうとな。――そこで参上いたしたような次第、お目にかかれて幸甚でござった」
「杉氏どうじゃな」と要介は、浪之助の方へ声をかけた。


「人物は人物を見抜くと云ったが、どうじゃ杉氏、その通りであろう」
 こう云ったがさらに要介は、多四郎の方へ顔を向け、
「ここに居られるは杉浪之助殿|某《それがし》の知己友人でござる。門札[#「門札」は底本では「門礼」]外して持ち参ったことを、ひどく心配いたしましたについて、いや拙者だからそれはよい、余人ならばよろしくないと云うことは逸見先生もご存知、人物は人物を見抜くものじゃと、今し方申して居りました所で、……杉氏何と思われるな?」
「ぼんやり致しましてござります」
 浪之助はこう云うと、恰も夢から醒めたように、眼を大きくして溜息を吐いた。
「鳳凰《ほうおう》と麒麟《きりん》! 鳳凰と麒麟! 名優同志の芝居のようで。見事のご対談でございますなあ」
 逸見多四郎がやって来た! さあ大変! 凄いことが起こるぞ! 激論! 無礼咎め! 切合い! 切合い! と、その瞬間思ったところ、事は全く反対となり、秋山先生で先ずよかった! ……ということになってしまい、十年の知己ででもあるかのように、笑い合い和み合い尊敬し合っている。で浪之助は恍惚《うっとり》として、両雄の対談を聞いていたのであった。
「酒だ」と要介は朗かに云った。
「頼みある兵《つわもの》の交際に、酒がなくては物足りぬ。酒だ! 飲もう! 浪之助殿、手を拍って女中をお呼び下され!」
「いや」と多四郎は手を振って止めた。
「酒も飲みましょう。がしかし、酒は場所を変えて飲みましょう」
「場所を変えて? はてどこへ?」
「拙者の屋敷で。……云うまでもござらぬ」
「要介のまかり在るこの屋敷、さてはお気に入らぬそうな」
「いやいや決して、そういう訳ではござらぬ。……が、最初にご貴殿において、お訪ね下されたのが拙者の屋敷、言って見れば先口で。……ではその方で飲むのが至当。……」
「ははあなるほど、それもそうじゃ」
「ということと存じましたれば、駕籠を釣らせてお宿の前まで、既に参って居りますので」
「それはそれはお手廻しのよいこと。……がしかし拙者といたしましては、ご貴殿のお屋敷におきましては、酒いただくより木刀をもって、剣道のご指南こそ望ましいのでござる」
「云うまでもござらぬ剣道の試合も、いたしますでござりましょう」
「その試合じゃが逸見先生、尋常の試合ではござらぬぞ」
「と申してまさかに真剣の……」
「なんのなんの真剣など。……実は賭試合がいたしたいので」
「ナニ賭試合? これは面妖! 市井の無頼の剣術使いどもが、生活《くらし》のために致すような、そのような下等の賭試合など……」
「賭る物が異《ちが》ってござる」
「なるほど。で、賭物は?」
「拙者においては赤尾の林蔵!」
「赤尾の林蔵を? 赤尾の林蔵を? ふうん!」と云ったが多四郎は、じっと要介の顔を見詰めた。


「博徒ながらも林蔵は、拙者の剣道の弟子でござる」
 要介はそう云って意味ありそうに、多四郎の顔を熟視した。
「その林蔵をお賭になる。……では拙者は何者を?」
 いささか不安そうに多四郎は云って、これも要介を意味ありそうに見詰めた。
「高萩村の猪之松を、お賭下さらば本望でござる」
「彼は拙者の剣道の弟子……」
「で、彼をお賭け下され」
「賭けて勝負をして?」
「拙者が勝てば赤尾の林蔵を、関東一の貸元になすべく、高萩村の猪之松を、林蔵に臣事いたさせ下され」
「拙者が勝たば赤尾の林蔵を、高萩の猪之松に従わせ、猪之松をして関東一の……」
「大貸元にさせましょう」
「ははあそのための賭試合?」
「弟子は可愛いものでござる」
「なるほどな」と多四郎は云ったが、そのまま沈黙して考え込んでしまった。
 林蔵と猪之松とが常日頃から、勢力争いをしていることは、多四郎といえども知っていた。その争いが激甚となり、早晩力と力とをもって、正面衝突しなければなるまい――という所まで競り詰めて来ている。ということも伝聞していた。とはいえそのため秋山要介という、一大剣豪が現われて、師弟のつながりを縁にして、自分に試合を申し込み、その勝敗で二人の博徒の、勢力争いを解決しようなどと、そのような事件が起ころうなどとは、夢にも思いはしなかった。
(何ということだ!)と先ず思った。
(さてどうしたものだろう?)
 とは云え自分も弟子は可愛い、成ろうことなら林蔵を挫いて、猪之松を大貸元にしてやりたい。
(では)と思わざるを得なかった。
(では要介の申し込みに応じ、賭試合を行ない打ち勝ってやろう)
 腹が決まると堂々たるもので、逸見多四郎は毅然として云った。
「賭試合承知いたしてござる。しからば直ちに拙者屋敷に参り、道場においてお手合わせ、試合いたすでござりましょう」
「欣快」
 要介は立ち上った。
「杉氏、貴殿もおいでなされ」
 三人揃って部屋を出た。

 逸見多四郎家のここは道場。――
 竹刀《しない》ではない木刀であった。
 要介と多四郎とは構えていた。
 一本勝負!
 そう定められていた。
 二人ながら中段の構え!
 今、シ――ンと静かである。
 かかる試合に見物は無用と、通いの門弟も内門弟も、一切退けてのただ二人だけ! いや他に杉浪之助と、要介の訪問に応待に出た、先刻の若侍とが道場の隅に、つつましく控えて見守っていた。

10
 見霞むばかりの大道場、高く造られある正面は、師範の控える席であり、それに向かって左の板壁には、竹刀《しない》、木刀、槍、薙刀《なぎなた》、面、胴、籠手の道具類が、棚に整然と置かれてあり、左の板壁には段位を分けた、漆塗りの名札がかけてあった。
 塵もとどめぬ板敷は、から[#「から」に傍点]拭きされて鏡のように光り、おりから羽目板の隙間から、横射しに射して来た日の光りが、そこへ琥珀色の棒縞を織り、その空間の光の圏内に、ポッと立っている幽かな塵埃《ほこり》は、薄い煙か紗のようであった。
 互いに中段に位取って動かぬ、要介と多四郎は広い道場の、中央に居るところから、道場の端に腰板を背にして、端座している浪之助から見ると、人形のように小さく見えた。
 おおよそ六尺の間隔を保ち、互いに切先を相手の眉間へ、ピタリと差し付けて構えたまま、容易に動こうとはしなかった。
 道具を着けず木刀にての試合に、まさに真剣の立合いと、何の異なるところもなく、赤樫蛤刃《あかがしはまぐりは》の木刀は、そのまま真《まこと》の剣であり、名人の打った一打ちが、急所へ入らば致命傷、命を落とすか不具《ふぐ》になるか、二者一つに定《き》まっていた。
 とはいえ互いに怨みあっての、遺恨の試合というのではなく、互いの門弟を引っ立てようための義理と人情とにからまった、名人と名人との試合であった。自然態度に品位があり、無理に勝とうの邪心がなく、闘志の中に礼譲を持った、すがすがしい理想的の試合であった。
 今の時間にして二十分、構えたままで動かなかった。
 掛声一つかけようとしない。
 掛声にも三通りある。
 追い込んだ場合に掛ける声。相手が撃って出ようとする、その機を挫《くじ》いて掛ける声、一打ち打って勝利を得、しかも相手がその後に出でて、撃って来ようとする機を制し、打たせぬために掛ける声。
 この三通りの掛声がある。
 しかるに二人のこの試合、追い込み得べき機会などなく、撃って出ようとするような、隙を互いに見せ合わず、まして一打ち打ち勝つという、そういうことなどは絶対になかった。
 で、二人ながら掛声もかけず、同じ位置で同じ構えで、とはいえ決して居附きはせず、腹と腹との業比べ、眼と眼との睨み合い、呼吸と呼吸との抑え合い、一方が切先を泳がせれば、他の一方がグッと挫き、一方が業をかけようとすれば、他の一方が先々ノ先で、しかも気をもって刎ね返す、……それが自ずと木刀に伝わり、二本の木刀は命ある如く、絶えず幽かにしかし鋭く、上下に動き左右に揺れていた。
 更に長い時が経った。
 と、要介の右の足が、さながら磐石をも蹴破るてい[#「てい」に傍点]の、烈しさと強さと力とをもって、しかもゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]と充分に粘り、ソロリとばかり前へ出て、左足がそれに続いた。
 瞬間多四郎の左足が、ソロリとばかり後へ下り、右足がそれに続いた。
 で 間だ! 静止した。
 長い間! ……しかし……次の瞬間……ドドドドッという足音が響いた。

11
 奔流のように突き進む要介!
 追われて後へ退く多四郎!
 ドドドドッという二人の足音!
 見よ、その速さ、その鋭さ!
 あッ、多四郎は道場の端、板壁へまで追い詰められ、背中を板壁へあてたまま、もう退けない立ち縮んだ。
 その正面へ宛然《さながら》巨岩、立ちふさがったは要介であった。
 勝負あった!
 勝ちは要介!
 非ず、見よ、次の瞬間、多四郎の胸大きく波打ち、双肩渦高く盛り上ると見るや、ヌッと一足前へ出た。
 と、一足要介は下った。
 多四郎は二足ヌッと出た。
 要介は退いた。
 全く同じだ!
 ドドドドッという足音!
 突き進むは多四郎、退くは要介、たちまちにして形勢は一変し、今は要介押し返され、道場の破目板を背に負った。
 で、静止!
 しばらくの間!
 二本の剣が――木刀が、空を細かく細かく細かく、細かく細かく刻んでいる。
 多四郎勝ちか?
 追い詰め了《りょう》したか?
 否!
 ソロリと一足下った。
 追って要介が一足出た。
 粘りつ、ゆっくりと、鷺足さながら、ソロリ、ソロリ、ソロリ、ソロリと、二人は道場の中央まで出て来た。
 何ぞ変らざる姿勢と形勢と!
 全く以前と同じように、二人中段に構えたまま、見霞むばかりの大道場の、真中の辺りに人形のように小さく、寂然と立ち向かっているではないか。
 さすがに二人の面上には、流るる汗顎までしたたり、血上って顔色朱の如く、呼吸は荒くはずんでいた。
 窒息的なこの光景!
 なおつづく勝負であった。
 試合はつづけられて行かなければならない。
 が、忽然そのおりから、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秩父の郡《こおり》
小川村
逸見様庭の
桧の根
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 と、女の歌声が道場の外、庭の方から聞こえてきた。
「しばらく!」と途端に叫んだ要介、二間あまりスルスルと下ると、木刀を下げ耳を澄ました。
「…………」
 審かしそうに体を斜めに、しかし獲物は残心に、油断なく構えた逸見多四郎、
「いかがなされた、秋山氏?」
「あの歌声は? ……歌声の主は?」
「ここに控え居る東馬共々、数日前に、絹川において、某《それがし》釣魚《ちょうぎょ》いたせし際、古船に乗って正体失い、流れ来たった女がござった[#「ござった」は底本では「ごさった」]。……助けて屋敷へ連れ参ったが、ただ今の歌の主でござる」

12
「名は? 源女! お組の源女! ……と申しはいたしませぬか?」
「よくご存知、その通りじゃ」
「やっぱりそうか! そうでござったか! ……有難し、まさしく天の賜物! ……その女こそこの要介仔細ござって久しい前より、保護を加え養い居る者、過日上尾の街道附近で、見失い失望いたし居りましたが、貴殿お助け下されたか。……源女拙者にお渡し下され」
「ならぬ!」と多四郎ニベもなく云った。
「源女決して渡すことならぬ!」
「理由は? 理由は? 逸見氏?」
「理由は歌じゃ、源女の歌う歌じゃ!」
「…………」
「今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の……後にも数句ござったが、この歌を歌う源女という女子、拙者必要、必要でござる!」
「なるほど」と要介は頷いて云った。
「貴殿のお家に、逸見家に、因縁最も深き歌、その歌をうたう源女という女、なるほど必要ござろうのう……伝説にある埋もれたる黄金、それを掘り出すには屈竟の手蔓……」
「では貴殿におかれても?」
「御意、さればこそ源女をこれ迄……」
「と知ってはいよいよ源女という女子《おなご》、お渡しいたすことなりませぬ」
「さりながら本来拙者が保護して……」
「過ぐる日まではな。がその後、見失いましたは縁無き證拠。……助けて拙者手に入れたからは、今は拙者のものでござる」
「源女を手蔓に埋もれし黄金を、では貴殿にはお探しなさるお気か?」
「その通り、云うまでもござらぬ」
「では拙者の競争相手!」
「止むを得ませぬ、因縁でござろう」
「二重に怨みを結びましたな!」
「ナニ怨みを? 二重に怨みを?」
「今は怨みと申してよかろう! ……一つは門弟に関する怨み、その二は源女に関する怨み!」
「それとても止むを得ぬ儀」
「用心なされ逸見氏、拙者必ず源女を手に入れ、埋もれし黄金も手に入れましょう」
「出来ましたなら、おやりなされい!」
「用心なされ逸見氏、源女を手に入れ埋もれし黄金を、探し出だそうと企て居る者、二人以外にもござる程に!」
「二人以外に? 誰じゃそ奴?」
「貴殿の門弟、水品陣十郎!」
「おお陣十郎! おお彼奴《きゃつ》か! ……弟子ながらも稀代の使い手、しかも悪剣『逆ノ車』の、創始者にして恐ろしい奴。……彼奴の悪剣を破る業、見出だそうとこの日頃苦心していたが、彼奴が彼奴が源女と黄金を……」
「逸見氏、お暇申す」
「勝負は? 秋山氏、今日の勝負は?」
「アッハハ、後日真剣で!」

因果な恋


 高萩村の村外れに、秩父|香具師《やし》の部落があり、「|刃ノ郷《やいばのごう》」と称していた。三十軒ほどの人家があり、女や子供や老人などを入れ、百五十人ほどの半農半香具師が、一致団結して住んでいた。
 郷に一朝事が起こり、合図《しらせ》の竹法螺がボーッと鳴ると、一切の仕事を差し置いて、集まるということになっていた。
 弁三爺さんという香具師の家は、この郷の片隅にあった。
 茅葺の屋根、槇の生垣、小広い前庭と裏の庭、主屋、物置、納屋等々、一般の農家と変わりのない家作、――ただし床ノ間に鳥銃一挺、そうして壁に半弓一張、そういう武器が懸けてあるのは、本来が野士といって武士の名残――わけても秩父香具師は源氏の正統、悪源太義平から来ていると、自他共に信じているそれだけあって、普通の農家と異《ちが》っていた。
 秋山要介と逸見多四郎とが、多四郎の道場で、木刀を交した、その日から数日経過したある日の、こころよく晴れた綺麗な午後、ここの庭に柿の葉が散っていた。
 その葉の散るのをうるさ[#「うるさ」に傍点]そうに払って、お妻が庭へ入って来た。
「いい天気ね、弁三爺さん」
 母屋の縁側に円座を敷き、その上に坐って憂鬱の顔をし、膏薬を練っていた弁三爺さんは、そう云われてお妻の顔を見た。
「よいお天気でございますとも……へい、さようで、よいお天気で」
 ――そこで又ムッツリと家伝の膏薬を、節立った手で練り出した。
 お妻は眉をひそめて見せたが、
「日和が続いていい気持だのに、爺つぁんはいつも不機嫌そうね」
「へい、不機嫌でございますとも、倅が江戸へ出て行ったまま、帰って来ないのでございますからな」
「またそれをお云いなのかえ。ナーニそのうち帰って来るよ」とは云ったものの殺された倅、弁太郎が何で帰るものかと、心の中で思っているのであった。
(あの人を殺したのは陣十郎だし、殺すように進めたのは妾だったっけ)
 こう思えばさすがに厭な気がした。
 まだお妻がそんな邯鄲師《かんたんし》などにならず、この郷に平凡にくらしていた頃から、弁太郎はひどくお妻を恋し、つけつ[#「つけつ」に傍点]廻しつして口説いたものであった。その後お妻は故郷を出て、今のような身の上になってしまった。と、ヒョッコリ[#「ヒョッコリ」は底本では「ヒョッコり」]弁太郎が、膏薬売となって江戸へ出て来、バッタリお妻と顔を合わせた。爾来弁太郎は附き纏い、長い間の恋を遂げようとし、お妻の現在の身分も探ぐり、恋遂げさせねば官に訴え、女邯鄲師として縄目の恥を、与えようなどと脅迫さえした。お妻は内心セセラ笑ったが、うるさいから眠らせてしまおうよ、こう思って情夫の陣十郎へケシカケ、一夜お茶ノ水へ引っ張り出し、一刀に切らせてしまったのであった。
 杉浪之助が源女の小屋から、自宅へ帰る途中《みちすが》らに見た、香具師の死骸は弁太郎なのであった。
「爺つぁん、主水さんのご機嫌はどう?」お妻は話を横へそらせた。


「あのお方もご機嫌が悪そうで」
 弁三はそう云って俯向いて、物憂そうに膏薬を練った。
「出て行きたそうなご様子はないかえ?」
「出て行きたそうでございますなあ」
「出て行かしちゃアいけないよ」
「というお前さんの云いつけだから、せいぜい用心しては居りますがね」
「行かせたらあたしゃア承知しないよ」
 剃刀《かみそり》のような眼でジロリと見た。
「手に合わなけりゃア仕方がねえ、ボーッと竹法螺吹くばかりだ」
「と、村中の出口々々が、固められるから大丈夫だねえ。でもそういった大袈裟なこと、あたしゃアしたくはないのだよ」
「ご尤《もっと》もさまでございます」
「どれご機嫌を見て来よう」
 腰かけていた縁から立って、お妻は裏の方へ廻って行った。
(凄い女になったものさな)
 お妻の後を見送りながら、そう弁三爺さんは思った。
 以前この郷に居た時分は、度胸こそあったが可愛いい無邪気な綺麗な娘っ子に過ぎなくて、この家などへもノベツに来て、お爺さんお爺さんと懐かしがってくれたお妻、それがどうだろう陣十郎とかいう浪人者と手をたずさえて、今度やって来た彼女を見れば、縹緻も上ったがそれより何より、人間がすっかり異《ちが》ってしまっていて、腕には刺青眼には殺気、心には毒を貯えていて、人殺しぐらいしかねまじい姐御、だいそれた[#「だいそれた」に傍点]女になっているではないか。
(陣十郎とかいうお侍さん、随分怖そうなお侍さんだが、あんな人の眼をこっそり盗んで、鴫澤主水《しぎさわもんど》とかいうお侍さんを、こんな所へ隠匿《かくま》うなんて……血腥さい[#「血腥さい」は底本では「血醒さい」]事件でも起こらなけりゃアいいが)
 これを思うと弁三爺さんは、不安で恐ろしくてならなかった。
 数日前のことであった、そのお侍さんを駕籠に乗せて、宵にこっそりやって来て、
「このお侍さんを隠匿っておくれ、村の者へも陣十郎さんへも、誰にも秘密《ないしょ》で隠匿っておくれ、昔馴染みのお前さんのとこより、他には隠し場所がないんだからねえ」
 こうお妻が余儀なげに云った。
 見ればどうやらお侍さんは、半分死んででもいるように、気息奄々憔衰していた。
「へい、それではともかくも……」
 こう云って弁三は引き受けた。
 と、翌日から毎日のように、お妻はやって来て介抱した。
(どういう素性のお侍さんなのかな?)
(お妻さんとの関係はどうなんだろう?)
 解《わか》らなかったが不安であった。
 婆さんには死に別れ、たった一人の倅の弁太郎は江戸に出たまま帰って来ない。ただでさえ不安で小寂しいところへ、そんなお侍さんをあずかったのである。
 弁三爺さんは憂鬱であった。
 黙々と膏薬を練って行く。
 ヒョイと生垣の向こうを見た。
「あッ」と思わず声をあげた。
 陣十郎が蒼白い顔を、気味悪く歪めて生垣越しに、じっとこっちを見ているではないか。
(さあ大変! さあ事だ!)


「おい」と陣十郎は小声で呼んだ。
「おい爺《とっ》つぁん、ちょっと来てくんな」
 生垣越しに小手招きした。
 裏の座敷にはお妻がいるはずだ。
「へい」とも返辞が出来なかった。
 顫えの起こった痩せた体を、で弁三はヒョロヒョロと立たせ、庭下駄を穿くのもやっとこさで、陣十郎の方へ小走って行った。
 生垣を出ると村道である。
 と、陣十郎がしゃがみ[#「しゃがみ」に傍点]込んだので、向かい合って弁三もしゃがみ込み、
「へ、へい、これは水品様……」
「爺つぁん、お妻が来たようだね」
「オ、お妻さんが……へい……いいえ」
「へい、いいえとはおかしいな。へい[#「へい」に傍点]なのか、いいえ[#「いいえ」に傍点]なのか?」
「へい……いいえ……いいえなので」
「とすると俺の眼違いかな」
「………」
「恰好がお妻に似ていたが……」
「…………」
「ナーニの、俺ら家を出てよ、親分の家へ行こうとすると、鼻っ先を女が行くじゃアないか。滅法粋な後ろ姿さ。悪くねえなア誰だろうと、よくよく見ると俺の女房さ。アッ、ハッハッそうだったか、女房とあっては珍しくねえ、と思ったがうち[#「うち」に傍点]の女房ども、どちらへお出かけかとつけて[#「つけて」に傍点]来ると、お前の家へ入ったというものさ」
「へ、へい、さようで、それはそれは……」
「それはそれはでなくて、これはこれはさ。これはこれはとばかり驚いて、しばらく立って見ていたが、裏の方へ廻って行ったので、爺つぁんお前をよんだわけさ」
「へ、へい、さようでございますかな」
「裏にゃア何があるんだい?」
「へい、庭と生垣と……」
「それから雪隠と座敷とだろう」
「へい、裏座敷はございます」
「その座敷にだが居る奴はだれだ!」
「ワーッ! ……いいえ、どなた様も……」
「居ねえ所へ行ったのかよ」
「ナ、何でございますかな?」
「誰もいねえ裏座敷へ、俺の女房は入って行ったのか?」
「…………」
「犬か!」
「へ?」
「雄の犬か!」
「滅相もない」
「じゃア何だ!」
「…………」
「云わねえな、利いていると見える、お妻のくらわせた鼻薬が……」
「水品様、まあそんな……そんな卑しい弁三では……」
「ないというのか、こりゃア面白い、媾曳宿《あいびきやど》に座敷を貸して、鼻薬を貰わねえ上品な爺《おやじ》――あるというならこりゃア面白い! 貰った貰った鼻薬は貰った。そこでひし[#「ひし」に傍点]隠しに隠しているのだ! ……ヨーシそれならこっちの鼻薬、うんと利くやつを飲ませてやる」
 トンと刀の柄を叩いた。
「鍛えは関、銘は孫六、随分人を切ったから、二所ばかり刃こぼれがある、抜いて口からズーッと腹まで! ……」
 ヌッと陣十郎は立ち上り、グッと鯉口を指で切った。


 古びた畳、煤けた天井、雨もりの跡のある茶色の襖。裏座敷は薄暗く貧しそうであった。
 江戸土産の錦絵を張った、枕屏風を横に立てて、褥《しとね》の上に坐っているのは、蒼い頬、削けた顎、こればかりは熱を持って光っている眼、そういう姿の主水であった。
「心身とも恢復いたしました。もう大丈夫でございます」
 そんな姿でありながら、そうして声など力がないくせに、そう主水は元気ありそうに云った。
「そろそろ発足いたしませねば……」
「さあご恢復なさいましたかしら」
 高過ぎる程高い鼻、これだけが欠点といえば欠点と云え、その他は仇っぽくて美しい顔へ、意味ありそうな微笑を浮かべ、流眄《ながしめ》に主水を眺めながら、前に坐っているお妻は云った。
「ご恢復とあってはお父様の敵《かたき》、お討ちにならねばなりませんのねえ」
「はいそれに誘拐《かどわか》されました妹の、行方を尋ね取り戻さねば……」
「そうそう、そうでございましたわねえ」
 お妻はまたも微笑したが、
「そのお妹御の澄江《すみえ》様、まことは実のお妹御ではなく、お許婚《いいなずけ》の方でございましたのね」
 そう云った時お妻の眼へ、嫉妬《ねた》ましさを雑えた冷笑のようなものが、影のようにチラリと射した。
「はい」と主水は素直に云った。
「とはいえ永らく兄妹として、同じ家に育って参りましたから、やはり実の妹のように……」
「さあどんなものでございましょうか」
 云い云い髪へ手をやって、簪《かんざし》で鬢の横を掻いた。
「お許婚の方をお連れになり、敵討の旅枕、ホ、ホ、ホ、お芝居のようで、いっそお羨《うらやま》しゅうございますこと……」
 主水は不快な顔をしたが、グッと抑えてさりげなく[#「さりげなく」に傍点]、
「その妹儀あれ以来、どこへ連れられ行かれましたか……思えば不愍……どうでも探して……」
「不愍は妾もでございますよ」
 お妻の口調が邪見になり、疳を亢ぶらせた調子となった。
「人の心もご存知なく……妾の前でお許婚の、お噂ばかり不愍とやら、探そうとやら何とやら、お気の強いことでございます」
 グッと手を延ばすと膝の前にあった、冷えた渋茶の茶碗を取り、一口に飲んでカチリと置いた。
「妾の心もご存知なく!」
 西陽が障子に射していて、時々そこへ鳥影がさした。
 生垣の向こう、手近の野良で、耕しながらの娘であろう、野良歌うたうのが聞こえてきた。
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※[#歌記号、1-3-28]|背戸《せと》を出たればナー
よいお月夜で
様《さま》の頬冠《ほおかむ》ナー
白々と
[#ここで字下げ終わり]
 二人はしばらく黙っていた。
 と、不意に怨ずるように、お妻が熱のある声で云った。
「ただに酔興で貴郎様を、何であの時お助けしましょうぞ。……その後もここにお隠匿《かくま》いし、何の酔興でご介抱しましょう。……心に想いがあるからでござんす」


 主水は当惑と多少の不快、そういう感情をチラリと見せた。
 が、お妻はそんなようにされても、手を引くような女ではなく、
「あの際お助けしなかろうものなら、陣十郎が立ち戻り、正気を失っている貴郎様を、討ち取ったことでござりましょうよ。……恩にかけるではござりませぬが、かけてもよいはずの妾《わたし》の手柄、没義道《もぎどう》になされずにねえ主水様……」
「あなた様のお心持、よう解っては居りまするが、……そうしてお助け下されました、ご恩の程も身にしみじみと有難く存じては居りまするが……」
 そう、主水はお妻の云う通り、あの日陣十郎を追って行き、疲労困憊極まって、鎮守の森で気絶した時、お妻の助けを得なかったなら、後にて聞けば陣十郎が、森へ立ち戻って来たとはいうし、その陣十郎のために刃の錆とされ、今に命は無かったろう。だからお妻は命の恩人と、心から感謝はしているのであり、そのお妻が来る度毎に、それとなく、いやいや、時には露骨に、自分に対して恋慕の情を、暗示したり告げたり訴えたりした。でお妻が自分を助けた意味も、とうに解ってはいるのであった。
 さりとてそのため何でお妻と、不義であり不倫であり背徳である関係、それに入ることが出来ようぞ!
「主水様」とお妻は云った。
「あなた様にはまだこの妾《わたし》が陣十郎の寵女《おもいもの》、陣十郎の情婦《いろおんな》、それゆえ心許されぬと、お思い遊ばして居られますのね」
 下から顔を覗かせて、主水の顔色を窺った。
「いかにも」と主水は苦しそうに云った。
「それを思わずに居られましょうか。……討ち取らねばならぬ父の敵《かたき》! 陣十郎の寵女、お妻殿がそれだと知りましては、心許されぬはともかくも、何で貴女《あなた》様のお志に……」
「従うことなりませぬか」
「不倶戴天の[#「不倶戴天の」は底本では「不具戴天の」]敵の情婦に……」
「では何でおめおめ助けられました」
「助けられたは知らぬ間のこと……」
「では何で介抱されました……」
 答えることが出来なかった。思われるはただ機を失した! 機を失したということであった。
 助けられたその翌日、訊ねられるままにお妻に対し、主水は姓名から素性から、その日の出来事から敵討のことから、敵の名さえ打ち明けた。
 と、お妻は驚いたように、主水の顔を見詰めたが、やがて自分が陣十郎の情婦、お妻であることを打ち明けた。
 これを聞いた時の主水の驚き!
 同時に思ったことといえば、
(助けられなければよかったものを!)
 ――というそういうことであり、直ぐにも立ち退こうということであった。


(直ぐに立ち退いたらよかったものを)
 今も主水《もんど》はこう思っている。
 立ち退こうとその時云いはした。
 と、お妻が止めて云った。
「ここは高麗郡《こまごおり》の高萩村、博徒の縄張は猪之松という男、陣十郎の親分でござんす。十町とは歩けなさるまい、そのように弱っているお体で、うかうか外へ出ようものなら、手近に陣十郎は居りまするし、猪之松親分の乾兒《こぶん》も居り、貴郎《あなた》様にはすぐに露見、捕らえられて嬲り殺し! ……ご発足など出来ますものか」
 しかし主水としては敵の情婦に、介抱なんどされること、一分立たずと思われたので、無理にも立とうと云い張った。
 と、お妻は嘲笑うように云った。
「ここは『|刃ノ郷《やいばのごう》』と申し、高萩村でも別趣の土地、秩父香具師の里でござんす。住民一致して居りまして、事ある時には竹法螺を吹く。と、人々出で合って、村の入口出口を固め、入る者を拒み出る人を遮る。妾《わたし》もこの郷の女香具師の一人、いいえ貴郎様は発足《た》たせませぬ! 無理にお発足ちと有仰《おっしゃ》るなら、竹法螺吹いて止めるでござんしょう」
 もう発足つことは出来なかった。
 こうして今日まで心ならずも、介抱を受けて来たのであって、無理に受けさせられた介抱ではあるが、敵の情婦と知りながら、介抱を受けたには相違なく、で、それを口にされては、返す言葉がないのであった。
(直ぐに立ち退けばよかったのだ! 機を失した! 機を失した!)
 このことばかりが口惜まれるのであった。
 二人はしばらく黙ったままで――主水は俯向いて膝を見詰め、お妻はそういう主水の横顔を、むさぼるように見守っていた。
「それにいたしましても何と云ってよいか、あなたにとりましてはこの主水。敵の片割ともいうべきを、そのようにお慕い下さるとは……」
 途切れ途切れの言葉つきで、やがて主水はそんなように云った。
「さよう、敵の片割でござる。あなたの愛人水品陣十郎を、敵と狙う拙者故……」
「悪縁なのでござりましょうよ」
 そうお妻も言葉を詰らせ、ともすると途切れそうな言葉つきで云った。
「因果な恋なのでござりましょうよ……あの日、あの時、鎮守の森で、死んだかのように可哀そうに、憐れなご様子で草を褥《しとね》に、倒れておいでなさいましたお姿、それを見ました時どうしたものか、妾はそれこそ産れてはじめての、――本当の恋なのでございましょうねえ……そういう思いにとらえられ……まあ恥かしい同じ仲間の、たくさんの郷の人達が、側にいたのに臆面もなく、あたしゃアこのお方をご介抱するよと、ここへお連れして参りましたが……因果の恋なのでござりましょうねえ。……それにもう一つには妾にとりまして、あの水品陣十郎という男、本当の恋しい男でなく、愛する男でもありませぬ故と……そうも思われるのでござります」


「お妻殿!」とやや鋭く、やや怒った言葉つきで、咎めるように主水は云った。
「いかに拙者に恋慕の情をお運びになるあなたとはいえ、現在の恋人をあからさまに、恋せぬなどと仰せらるるは……そういうお心持でござるなら、拙者に飽きた暁には、又他の情夫に同じように、拙者の悪口を仰せられましょう……頼み甲斐なき薄情! ……」
「いいえ、何の、主水様、それには訳が、たくさん訳が……」
 あわてて云ったもののそれ以上、お妻は云うことは出来なかった。
 自分が女賊で、女邯鄲師《おんなかんたんし》で、平塚の宿の一夜泊り、その明け方に同宿の武士、陣十郎の胴巻を探り、奪おうとして陣十郎のため、かえって取って押えられ、それを悪縁に爾来ずっと、情夫情婦の仲となり今日まで続いて居るなどとは、さすが悪女の彼女としても、口へ出すことが出来なくて、自分はこの郷の香具師の娘、陣十郎に誘惑され、情婦となって江戸や甲州を、連れ廻されたとそんなように、主水には話して置いたのであった。
 女邯鄲師としての悪事の手證を、押えられたための情夫情婦、それゆえ本当の恋ではないと、こう云い訳出来ぬ以上は、そう主水に咎められても、どう弁解しようもなく、お妻は口籠ってしまったのであった。
 が、お妻はニッと笑い、もっともらしくやがて云った。
「妾の前に陣十郎には、情婦《おんな》があったのでござります。江戸両国の女芸人、独楽廻しの源女という女、これが情婦でござりまして、諸所方々を連れ歩いたと、現在の情婦の妾の前で、手柄かのように物語るばかりか、貴郎《あなた》様のお許婚《いいなずけ》の澄江様にも……」
「澄江にも! うむ、陣十郎め!」

「横恋慕の手をのばし……」
「いかにも……悪虐! ……陣十郎……」
「あの夜澄江様を誘拐《かどわか》し、しかも妾という人間を、下谷の料亭常磐などに[#「常磐などに」は底本では「常盤などに」]待たせ……さて首尾よく澄江様を、連れ出すことが出来ましたら、妾を秋の扇と捨て、澄江様を妾の代わりに……」
「何の彼如き鬼畜の痴者に、妹を、妹を渡してなろうか?」
「そういう男でござります。そういう男の陣十郎を、何で妾ひとりだけが……先が先ならこっちもこっち……主水様! 今は貴郎様へ!」
「それにいたしても、妹澄江は……」
「お許婚の澄江様は……」
「上尾街道のあの修羅場で、馬方博徒数名の者に、担がれ行かれたと人の噂……」
「人の噂で聞きましたなア……さあそのお許婚の澄江様……澄江様のお噂さえ出れば、眼の色変えてお騒ぎになられる」
「妹であれば当然至極!」
「可愛い可愛いお許婚なりゃ、脳乱[#「脳乱」はママ]遊ばすもごもっとも? ホ、ホ、ホ、その澄江様、どうで担いだ人間が、馬方博徒のあぶれ者なら? ……」
 しかしその時表の庭の、方角にあたって云い争う、男の声が聞こえてきた。
「や、あの声は?」
「おおあの声は」
 二人ながら森《しん》と耳を澄ました。

 陣十郎は弁三を突きのけ、村道から境の生垣を越え、表の庭へ入って行った。
「云い古されたセリフだが、俺の遣る金鼻薬は、小判じゃアねえドスだ延金だアッハハ、驚いたか望みならば――ズバッと抜いて、先刻も云った口から腹まで、差し込んでやろうどうだ、どうだ?」
 なお止める弁三を突きまくり、陣十郎はグングン歩いた。


「ままにしやアがれ!」
 不意に弁三は、年は取っても秩父香具師――兇暴の香具師の本性を現わし、猛然と吼え競い立った。
「裏座敷にゃア誰もいねえ! とこう一旦云ったからにゃア、俺も秩父香具師の弁三だ、あくまでも居ねえで通して見せる! 汝《うぬ》は何だ、え汝は? 馬の骨か牛の骨か、どこの者とも素性の知れねえ、痩せ浪人の身分をもって『刃ノ郷』の俺らの仲間、お妻ッ娘と馴れ合ったのさえ、胸糞悪く思っているのにここら辺りを立ち廻り、博徒の用心棒、自慢にもならねえヤクザの身を、変にひけらかせ[#「ひけらかせ」に傍点]て大口を叩き、先祖代々素性正しく、定住している俺達へ、主人かのように振る舞い居る! ナニ刀だ! 抜いて切るって! おお面白い切られよう、が手前が切る前に、こっちもこっちで手前の体へ」
 喚くと陣十郎へ背中を向け、庭を突っ切り縁へ駈け上り、座敷へ飛び込むと床の間にある、鳥銃を抱えて走り出で、縁に突っ立ち狙いを定めた。
「秩父の山にゃア熊や狼が、ソロソロ冬も近付いて来た、餌がねえと吼えながら、ウロウロ歩いているだろう。狙い撃ちにして撃ち殺し、熊なら胸を裂き肝を取り、皮を剥いで足に敷く、秩父香具師の役得だア。手練れた鉄砲にゃア狂いはねえ! 野郎来やがれ、切り込んで来い! 定九郎じゃアねえが二ツ弾、胸にくらって血へど[#「へど」に傍点]を吐き、汝それ前にくたばるぞよ! 来やアがれ――ッ」とまくし[#「まくし」に傍点]立て、まくし立てながらも手に入った早業、いつか火縄に火を付けていた。
「待て待て爺《おやじ》」と周章狼狽、陣十郎は胆を冷し、生垣の際まで後退った。
「気が短いぞ、コレ待て待て! ……鉄砲か、ウーン、こいつ敵《かな》わぬ……」
 まさか撃つまい嚇しであろう、そうは思っても気味が悪く、見ればいやいや嚇しばかりでなく、こっちを睨んでいる弁三の眼に、憎悪と憤怒と敵愾心とが、火のように燃えていた。
 ゾッと感ずるものがあった。
(いつぞやお妻に聞いたことがあった、いつぞやお茶ノ水の森の中で、お妻に頼まれて殺生ながら、叩っ切って殺した弁太郎という男、秩父香具師の膏薬売、弁三という老人の、失った一人の倅であると! おおそうだったこの弁三が、殺した弁太郎の父親だった。……下手人が俺だということなど、まさかに知っては居るまいが、親子の血がさせる不思議の業、この世には数々ある、何となく弁三爺の心に、俺を憎しむ心持が、深く涌いていないものでもない。もしそうなら撃つぞ本当に!)
 ゾッと感ずるものがあった。
 そこでいよいよ後退りし、小門の方へ後ざまに辿り、
「解った、よし裏座敷には、誰もいない、犬さえ居ない! よし解った、そうともそうとも! ……誰がいるものか、居ない居ない! ……居れば! 居れば悪いが……それもよろしい、居ない居ない! ……そこで帰る、撃つな撃つな! ええ何だ鉄砲なんど……恐ろしいものか、ちと怖いが……馬鹿!」と一喝! がその時には、既に村道へ遁れ出ていた。

生贄の女


 同じその日のことである。――
 高萩村の博徒の親分、猪之松の家は賑わっていた。
 馬大尽事井上嘉門様を、ご招待して大盤振舞いをする――というので賑わっているのであった。
 博徒とはいっても大親分、猪之松の家は堂々たるもので、先はお屋敷と云ってよく、土蔵二棟に離座敷、裏庭などは数奇《すき》を凝らした一流の料亭のそれのようであり、屋敷の周囲には土塀さえ巡らし、所の名主甚兵衛様より、屋敷は立派だと云われていた。内緒も裕福で有名であったが、これは金方が附いているからで、その金方が井上嘉門様だと、多くの人々は噂して居、噂は単なる噂ばかりでなく、事実それに相違なかった。
 猪之松という人間が、博徒のようになく人品高尚で、態度も上品で悠然としてい、お殿様めいたところがあり――だからどこか物々しく、厭味の所はあったけれど、起居動作はおちついている、行儀作法も法に叶っている、貴人の前へ出したところで、見劣りがしないところから、自然上流との交際が出来、そこで井上嘉門などという、大金持の大旦那に、愛顧され贔屓にされるのであった。
 金方の井上嘉門様を、ご招待するというのであるから、その物々しさも一通りでなく、上尾宿からは茶屋女の、気の利いたところを幾人か呼び、酒肴給仕に従わせ、村からも渋皮の剥けた娘――村嬢《そんじょう》の美《よ》いところを幾人か連れて来、酒宴の席へ侍らせたり、これも上尾の宿から呼んだ、常磐津《ときわず》の[#「常磐津《ときわず》の」は底本では「常盤津《ときわず》の」]女師匠や、折から同じ宿にかかっていた、江戸の芝居の役者の中、綺麗な女形の色若衆を、無理に頼んで三人ほど来させ、舞など舞わせる寸法にしてあった。
 田舎の料理は食われない――と云ったところで上尾も田舎、とは云え勿論高萩村より、いくらか都会というところから、料理は上尾からことごとく取った。
 兄弟分はいうまでもなく、主立った乾児幾十人となく、入れ代わり立ち代わり伺候して[#「伺候して」は底本では「仕候して」]、嘉門様からお流れ頂戴、お盃をいただいたりした。
 嘉門は午後《ひる》からやって来て、今は夜、夜になっても、仲々去らず、去らせようともせず、奥の座敷の酒宴の席は、涌き立つように賑わってい、高張を二張り門に立てて、砂を敷き盛砂さえした、玄関――さよう猪之松の家は、格子づくりというような、町家づくりのそれでなく、大門構え玄関附、そういった武家風の屋敷であったが、その玄関を夜になった今も、間断なく客が出入りして、ここも随分賑かであり、裏へ廻ると料理場、お勝手、ここは一層の賑かさで、その上素晴らしい好景気で、四斗樽が二つも抜いてあり、酒好きの手合いは遠慮会釈なく、冷をあおっては大口を叩き、立働きの女衆へ、洒落冗談を並べていた。
 陽気で派手でお祭り気分で、ワーッといったような雰囲気であった。
 その勝手元へ姿を現わしたのは、浮かない顔をした陣十郎であった。
「これはいらっしゃい水品先生、こんなに遅くどうしたんですい?」
 こう云って声をかけたのは、猪之松にとっては一の乾分――上尾街道で浪之助などに追われ、逃げ廻る弱者の峯吉ではなく――角力上り閂《かんぬき》峰吉であった。
「遅いか早いかそんなことは知らぬ。陽気だな、これは結構」どこかで飲んで来たらしく、陣十郎は酔っていたが、凄い据わった血走った眼で、ジロジロ四辺《あたり》を見廻わしながら、上ろうともせず随分邪魔な、上框《あがりかまち》へデンと腰かけ、片足を膝の上へヒョイとのっけ、楊子で前歯をせせり出した。


(ご機嫌が悪いぞ、あぶないあぶない)
 酒癖の悪いのを承知の一同、あぶないあぶないと警戒するように、互いに顔を見合わせたが、こんな時にはご自慢の情婦《おんな》――お妻を褒めるに越したことはないと、唐子の音吉というお先ッ走りの乾児が、
「姐御、どっこい、奥様だったっけ、奥様お見えになりませんが、一体全体どうしたんで、こんな時にこそご出張を願って、あの綺麗で粋なご様子で、お座敷の方を手伝っていただき、愛嬌を振り蒔いていただけば、嘉門様だって大喜び、親分だって大恭悦、ということになるんですがねえ。それが昼から夜にかけて、一度もお見えにならねえなんて……一体全体奥様は……」
「奥様? ふん、誰のことだ!」
 ギラリと陣十郎は音吉を睨み、
「奥様、ふふん、どいつのことだ!」
「どいつッて、そりゃ、お妻さんのこと……」
「枕探し! ……あいつのことか!」
「え? 何ですって、こいつアひでえや」
 ヒヤリとして音吉は首を縮めた。
 勿論音吉をはじめとして、乾児一同お妻のことを、どうせ只者じゃアありゃアしない。枕探し、女|邯鄲師《かんたんし》、そんなようには薄々のところ、実は推していたようなものの、亭主――情夫――陣十郎の口から、今のようにあからさまに云われては、ヒヤリとせざるを得なかった。
「何を云うんですい、水品先生」
「何とは何だ、これ何とは! ……枕探しだから枕探し、こう云ったに何が悪い。いずれは亭主の寝首を掻く奴! ……そんな女でも奥様か!」
「ワ――ッ、不可《いけ》ねえ、何を仰有るんで、……奥様で悪かったら奥方様……」
「出ろ! 貴様! 前へ出ろ!」
 勝手元一杯に漲っていた、明るい燈火《ひ》がカッと一瞬間、一所へ集まり閃めいた。
 見れば陣十郎の右の手に、抜かれた白刃が持たれていた。
 バタバタと女達は奥の方へ逃げた。
「アッハハハ」と陣十郎は、不意に気味悪く笑い出した。
「ある時には関の孫六、ある時には三条小鍛冶、ある時には波の平! 時と場合でこの刀、素晴らしい銘をつけられるが、ナーニ本性は越前|直安《ただやす》、二流どころの刀なのさ。……が、切れるぞ、俺が切れば! ……千里の駒も乗手がヤクザで、手綱さばきが悪かろうものなら、駄馬ほどにも役立たぬ。……名刀であろうとナマクラが持てば、刀までがナマクラになる。……それに反して名人が持てば、切れるぞ切れるぞ――ズンと切れる! ……嘘と思わば切って見せる! ……どいつでもいい前へ出ろ!」
 云い云い四方を睨み廻した。
 山毛戸《やまかいど》の源太郎、中新田の源七、玉川の権太郎、閂峰吉、錚々《そうそう》たる猪之松の乾児達が、首を揃えて集まってはいたが、狂人《きちがい》に刃物のそれよりも悪く、酒乱の陣十郎に抜身を持たれ、振り廻されようとしているのであった。首を縮め帆立尻《ほたてじり》をし、ジリジリと[#「ジリジリと」は底本では「ヂリヂリと」]後へ退《さが》りながら、息を呑み眼を見張り、素破《すわ》と云わば飛んで逃げようと、用心をして構えていた。


「アッハハハ」
 と陣十郎は、また気味の悪い笑声を立てた。
「切る奴は他にある、汝《おのれ》らは切らぬ、安心せい……鴫澤主水《しぎさわもんど》を探し出し、ただ一刀に返り討ち! 婦《おんな》、お妻を引きずり出し、主水ともども二太刀で為止《しと》める。……久しく血を吸わぬ越前直安、間もなく存分に血を吸わせてやるぞ!」
 燈火《ともしび》に反射してテラテラ光る、ネットリとした刀身を、じっと睨んで呟くように云ったが、
「汝ら解るか男の心が? 己を殺そうとして付け廻している、敵《かたき》を持っている男の心が」
 乾児達の方を振り返った。
「へい」と云ったのは閂峰吉で、
「さぞまア気味の悪いことで、いやアなものでございましょうなあ」
「討たれまいとして逃げ廻る。いやなものだぞ、いやなものだぞ」
「いやアなものでござりましょうなあ」
「が、一面快い」
「…………」
「討て、小童《こわっぱ》、探し出して討て! が俺は逃げて逃げて、決して汝には討たれてやらぬ。……こう決心して逃げ廻る心、快いぞ快いぞ」
「そんなものでございますかなあ」
「とはいえ厭アな気持のものだ。討つ方の心は一所懸命、命を捨ててかかっている。討たれる方は討たれまいとして、命を惜しんで逃げ廻る。心組みが全く別だ。討つ方には用心はいらぬ。討とう討とうと一向だ。討たれる方は用心ばかりだ。……用心をしても用心をしてもいずれは人間油断も隙もあろう、そこを狙われて討たれるかもしれぬ! この恐怖心、厭アなものだぞ」
「へい、さようでございましょうなあ」
 突然立ち上ると陣十郎は、刀をグ――ッと中段につけ、両肘を縮め肩を低めたが、
「今迄の俺がそうだった! 討たれる者、逃げ廻る者、今迄の俺はそうだった! 剣法で云えばこの構えだ! ……が俺は一変した!」
 こう沈痛に声を絞ると、俄然刀を大上段に冠った。
「大上段、積極的の構え! 俺は今日からこっちで向かう! 俺の方から敵を探し、返り討ちにかけてやる! それにしても汝ら卑屈だぞ! 俺が鴫澤主水という敵に、付け廻されているということを、心の中では知っていながら、おくびにも出そうとしないではないか! そうであろうがな! そうであろうがな!」
 刀を大上段に振り冠ったまま、陣十郎は憎さげに叫んだ。
 乾児達は顔を見合わせた。
 それに相違ないからであった。
 過ぐる日上尾の街道で、赤尾の林蔵にいどまれ[#「いどまれ」に傍点]て、こっちの親分が引きもならず、真剣勝負をした際に、鴫澤主水とその妹の、澄江とかいう娘とが、親の敵を討つと宣《なの》って、水品陣十郎を襲ったが、討ちもせず、討たれもせず、主水という武士は行方不明、澄江という娘は博労達に、どこかへ担がれて行ってしまったと、その時こっちの親分に従《つ》いて、その修羅場にいた八五郎の口から、乾児達は詳しく話されて、そういう事情は知っていた。そればかりでなくその日以来、それ迄はほとんど毎日のように、ここの家へやって来て、乾分達へ剣術を教えたり、ゴロゴロしていた陣十郎が、姿をあまり見せなくなり、なお噂による時は、これ迄ずっと住んでいた家――この村の外れにあるお妻の実家へも、住まないばかりか余り立ち寄らず、ひたすら主水兄妹によって、探し出されることを恐れていると、そういうことも聞き知っていた。


 そうして知って居りながら、知って居るとも知らないとも、事実おくび[#「おくび」に傍点]にも出さなかった。というのは事が事であるからで、それにそういう次第なら、あっし[#「あっし」に傍点]達が味方をいたしますから、主水兄妹を探し出し、返り討ちにしておしまいなせえと、こんなことを云うには陣十郎の剣技が、余りにも勝れて居る、といって主水兄妹に、器用に討たれておやりなせえとは、なおさら云えた義理でなく、それで黙っていたのであった。
 で、乾児達は顔を見合わせた。
 と不意に陣十郎は、振り冠っていた燈《ひ》に光る刀を、ダラリと力なく下げたかと思うと、にわかに疑わしそうに寂しそうに、むしろ恐怖に堪えられないかのように、ウロウロとした眼付をして、勝手元に、乾児達の中に、主水が居りはしないだろうかと、それを疑ってでもいるかのように、一人々々の顔を見たが、
「疑心! こいつが不可《いけ》ないのだ! こいつから起こるのだ、弱気がよ! ……と、守勢、こいつになる!」再び中段に刀を構えた。「こいつが守勢、守勢になると、かえって命は守られぬ。……それよりも、守勢の弱気になると、ヒッヒッヒッ、情婦《おんな》にさえ、嘗められ裏切られてしまうのさ! ……そこでこいつだ積極的攻勢!」また上段に振り冠った。
「攻勢をとってやっとこさ[#「やっとこさ」に傍点]、身が守られるというものだ! ……酒だ! くれ! 冷で一杯!」
 ソロリと刀を鞘に納め、片手をヌッと差し出したが、ヒョイとその手を引っこませると、フラリとばかりに框《かまち》を上った。
「飲むならいっそ奥で飲もう。馬大尽様の御前でよ。陽気で明るい座敷でよ。親分にもしばらくご無沙汰した。お目にかかって申訳……退け、邪魔だ!」
 ヒョロリヒョロリと、乾分達の間を分け、奥の方へ歩いて行った。
 後を見送って乾児達は、しばらくの間は黙っていた。
 と不意に閂峰吉が、
「八五郎の奴どうしたかなあ」と、あらぬ方へ話を持って行った。
 陣十郎の影口をうっかり利いて、立聞きでもされたら一大事、又抜身を振り廻されるかもしれない。障《さ》わるな障わるなという心持から、話をあらぬ方へ反らせたのであった。
 一同《みんな》はホッと息を吐いた。
「先刻《さっき》ヒョッコリ面を出して、馬大尽様にもうち[#「うち」に傍点]の親分にも、お気に入るような素晴らしい、献上物を持って来るんだと、大変もねえ自慢を云って、はしゃいで[#「はしゃいで」に傍点]素っ飛んで行きゃアがったが、それっきりいまだ面ア出さねえ。何を持って来るつもりかしら」
 こう云ったのは源七であった。
「上尾街道の一件以来、あいつ親分に不首尾だものだから、気を腐らせて生地なかったが、そいつを挽回しようてんで、何か彼かたくらんで[#「たくらんで」に傍点]はいるらしい」
 こう云ったのは権太郎であった。
「あいつが一番の兄貴だったんだから、たとえ親分が何と云おうと――手出しするなと云ったところで、そんなことには頓着なく、林蔵の野郎を背後の方から、バッサリ一太刀あびせかけ、あの時息の音止めてしまったら、とんだ手柄になったものを、主水とかいう侍の妹とかいう女を、馬方なんかと一緒になって、どこかへ担いで行ったということだが、頓馬の遣口ってありゃアしねえ」
 苦々しく閂峰吉が云った。
 がその時玄関の方で、五六人の声で景気よく、
「献上々々、献上でえ!」と囃し喚く声が聞こえてきたので、一同《みんな》は黙って聞耳を立てた。
 この囃し声を耳にしたのは、お勝手元の乾児ばかりでなく、奥の座敷で酒宴をしている、馬大尽歓迎の人々もひとしく耳を引っ立てた。


 五十畳敷の広さを持った座敷に、無数の燭台が燈し連らねてあり、隅々に立ててある金屏風に、その燈火《ひ》が映り栄えて輝いている様は、きらびやかで美しく、そういう座敷の正面に、嵯峨野を描いた極彩色の、土佐の双幅のかけてある床の間、それを背にして年は六十、半白の髪を切下げにし、肩の辺りで渦巻かせた、巨大な人間が坐っていたが、馬大尽事井上嘉門であった。日焼けて赧い顔色が、酒のために色を増し、熟柿《じゅくし》を想わせる迄になって居り、そういう顔にある道具といえば、ペロリと下った太い眉、これもペロリと下ってはいるが、そうしてドロンと濁ってはいるが、油断なく四方へ視線を配る、二重眼瞼の大きい眼、太くて偏平で段のある鼻、厚くて大きくて紫色をしていて、閉ざしても左の犬歯だけを、覗かせている髭なしの唇に、ぼったりと二重にくくれている顎、その顎にまでも届きそうな、厚い大きな下った耳であった。身長《せい》も人並より勝れていたが、肥満の方は一層で、二十四五貫もありそうであり、黒羽二重の紋付に、仙台平の袴をつけ、風采は尋常で平凡であったが腹の辺りが太鼓のように膨れ、ムッと前方に差し出されているので、格好がつかず奇形に見えた。曲※[#「碌のつくり」、第3水準1-84-27]《きょくろく》に片肘を突いて居り、その手の腕から指にかけて、熊のように毛が生えていた。
 蝦蟇のようだと形容してもよく、絵に描かれている酒顛童子、あれに似ていると云ってもよかった。
 嘉門の左右に居流れているのは、招待《よ》ばれて来た猪之松の兄弟分の、領家の酒造造《みきぞう》、松岸の権右衛門、白須の小十郎、秩父の七九郎等々十数人の貸元で、それらと向かい合って亭主役の、高萩の猪之松が端座したまま、何くれとなく指図をし、その背後に主だった身内が、五六人がところかしこまってい、それに雑って水品陣十郎が、今は神妙に控えていた。
 常磐津の[#「常磐津の」は底本では「常盤津の」]師匠の三味線も済み、若衆役者の踊も済み、馳走も食い飽き酒も飲み飽き、一座駘然、陶然とした中を、なお酒を強いるべく、接待《とりもち》の村嬢や酌婦《おんな》などが、銚子を持って右往左往し、拒絶《ことわ》る声、進める声、からかう[#「からかう」に傍点]声、笑う声、景気よさは何時《いつ》までも続いた。
 どうで今夜は飲み明かし、嘉門様はお泊まりということであった。
「納めの馬市も十日先、眼の前に迫って参りました、いずれその時は木曽の福島で、又皆様にお眼にかかれますが、何しろ福島は山の中、碌なご馳走も出来ませず、まして女と参りましては、木曽美人などと云いますものの、猪首で脛太で肌は荒し、いやはや[#「いやはや」に傍点]ものでございまして、とてもとてもここに居られる別嬪衆に比べましては、月に鼈《すっぽん》でございますよ。が、そいつは我慢をしていただき、その際には私が亭主役、飲んで飲んで飲みまくりましょう。いや全く今夜という今夜は、一方ならぬお接待《とりもち》、何とお礼申してよいやら、嘉門大満足の大恭悦、猪之松殿ほんに嬉しいことで」
 猪之松は片頬で微笑したが、
「いや関東の女こそ、肌も荒ければ気性も荒く、申して見ますれば癖の多い刎馬――そこへ行きますと木曽美人、これは昔から有名で、巴御前、山吹御前、ああいう美姫《びき》も出て居ります。納めの馬市に参りました際には、嘉門様胆入りでそういう美人の、お接待に是非とも預かりたいもので。……」
 ここで猪之松は微笑した。


 微笑をつづけながら猪之松は、
「そこで今夜は私が胆入り、ここに居りますどの女子でも、お気に入りの者ござりましたら、アッハハハ、取り持ちましょう」
「アッハハ、それはそれは、重ね重ねのご好意で、そういうお許しのある以上、嘉門今夜は若返りまして、……」
 すると、その時聞こえてきたのが「献上々々、献上でえ!」という、玄関の方からの声であった。
(何だろう?)
 と猪之松をはじめとし、座にいる一同怪訝そうに、玄関の方へ首を捻じ向けた時、八五郎を先頭に四人の博労が――、それは以前《まえかた》馬大尽事、井上嘉門を迎えに出た、高萩村の博労達であったが、その連中が縦六尺、横三尺もあるらしい、長方形の白木の箱に、献上と大きく書き、熨斗まで附けた物を肩に担ぎ、大変な景気で入って来た。
「八五郎じゃアないか、この馬鹿者、嘉門様おいでが眼につかぬか! 何だ何だその変な箱は!」
 猪之松は驚いて叱るように怒鳴った。
 八五郎はそれには眼もくれず、博労を指揮してその大箱を、猪之松と嘉門との間に置いたが、自分もその傍らへピタリと坐ると、
「ええこれは木曽の馬大尽様事、井上嘉門様に申し上げます。私事は八五郎と申し、猪之松身内にござります。ふつつか者ではござりまするが、なにとぞお見知り置き下さりましょう。……さて今回嘉門様には、木曽よりわざわざの武州入り高萩村へお越し下され、我々如き者をもご引見、光栄至極に存じます。そこであっしも何かお土産《みやげ》をと、いろいろ考案|仕《つかまつ》りましたが、何せ草深いこのような田舎、これと申して珍しい物も、粋な物もござりませぬ。それに食い物や食べ物じゃア、いよいよもって珍しくねえと、とつおいつ思案を致しました結果、噂によりますると安永《あんえい》年間、田沼主殿頭《たぬまとのものかみ》様の御代の頃、大変流行いたしまして、いまだに江戸じゃア流行《はや》っているそうな、献上箱の故智に慣い、八五郎細工の献上箱、持参いたしてござります。なにとぞご受納下さりませ。……ええ所で親分え、貴郎《あなた》だってこいつの蓋を取り、中の代物をご覧になったら、八五郎貴様素晴らしいことをやった、手柄々々と横手を拍って、褒めて下さるに違えねえと、こうあっしは思うんで……と、能書はこのくらいにしておき、いよいよ開帳はじまりはじまり……さあさあお前達手伝ってくれ」と、その時まで喋舌《しゃべ》る八五郎の背後《うしろ》に、窮屈そうに膝ッ小僧を揃え、かしこまっていた博労達を見返り、ヒョイとばかりに立ち上った。
「開帳々々」とこれも景気よく、四人の博労達も立ち上ったが、水引の形に作ってあった縄を、先ず箱から解きほぐした。
「ようござんすか、蓋取りますでござんす。ヨイショ!」と八五郎は声をかけた。
「ヨイショ」と博労達はそれに応じた。
 と、パッと蓋が取られた。


 京人形が入れてあった。
 髪は文庫、衣裳は振袖、等身大の若い女の、生けるような人形が入れてあった。
 と、眼瞼を痙攣させ、その人形は眼をあけて、天井をじいいっと見上げたが、又しずかに眼をとじた。
 人形ではなく生ける人間で、しかもそれは澄江《すみえ》であった。
 富士額、地蔵眉、墨を塗ったのではあるまいかと、疑われるほどに濃い睫毛で、下眼瞼を色づけたまま、閉ざされている切長の眼、延々とした高い鼻、蒼褪め窶れてはいたけれど、なお処女としての美しさを持った、そういう顔が猿轡で、口を蔽われているのであった。
 明るい華やかな燭台の燈が、四方から箱の中のそういう顔を照らして浮き出させているだけに、美しさは無類であった。
 一座何となく鬼気に襲われ、誰も物云わず顔を見合せ、しばらくの間は寂然としていた。
 がさつ[#「がさつ」に傍点]者の八五郎は喋舌り立てた。
「いつぞやの日に上尾街道で、親分と赤尾の林蔵とが、真剣の果し合いなさんとした時、水品先生に対し――いやアこれは水品先生、そこにお居でなさんしたか、こいつア幸い可《い》い証人だ――その水品先生に対し、親の敵《かたき》とか何とか云って、若エ武士とこの娘とが、切ってかかったはずでごぜえます。その時あっしとここに居なさる、博労衆とが隙を狙い、この娘だけを引っ担ぎ、あっしの家へ連れて来たんで。さてどうしようか考えましたが、見りゃアどうしてこの娘っ子、江戸者だけに素晴らしく、美しくもありゃア品もあって……そこで考えたんでごぜえますよ、嘉門様へご献上申し上げようとね……」
 身を乗り出し首を差し出し、箱の中の女を覗き込んでいた嘉門は、この時象のような眼を細め、厚い唇をパックリ開け、大きい黄色い歯の間から、満足と喜悦の笑声を洩らした。
「フ、フ、フ、八五郎どんとやら、嘉門満足大満足でござんす……フ、フ、フ、大満足! こりゃア全く、とても素晴らしい、何より結構な贈品《おくりもの》、嘉門大喜びで受けますでござんす。……」


 夜はすっかり更けていた。
 裏庭に別棟に建てられてある、猪之松の屋敷の離座敷、植込にこんもり囲まれて、黒くひっそりと立っていた。屋根の瓦が水のように、薄白く淡く光っているのは、空に遅い月があるからであった。
 その建物を巡りながら、幾人かの人影が動いていた。
 寝所へ入った馬大尽嘉門に、もしものことがあったら大変――というので猪之松の乾児達が、それとなく警護しているのであった。
 池では家鴨《あひる》が時々羽搏き、植込の葉影で寝とぼけた夜鳥が、びっくりしたように時々啼いた。
 が、静かでしん[#「しん」に傍点]としていた。
 主屋でも客はおおよそ帰り、居残った人々も酔仆れたまま、眠ったかして静かであった。
 離座敷の内部《うち》の一室《ひとま》。――そこには屏風が立て廻してあった。
 一基の燭台が置いてあり、燈心を引いて細めた燈火《ひかり》が、部屋を朦朧と照らしていた。
 屏風の内側には箱から出された生贄の女澄江の姿が、掛布団を抜いて首から上ばかりを、その燈火の光に照し出していた。
 そうしてそれの傍には、嘉門が坐っているのであった。
 澄江の心はどうであろう?
 義兄《あに》であり恋人であり許婚《いいなずけ》である、主水とゆくゆくは婚礼し、身も心も捧げなければならぬ身! それまでは穢さず清浄に、保たねばならぬ処女の体! それを山国の木曽あたりの、大尽とはいえ馬飼の長、嘉門如きに、嘉門如きに!
 処女を失ってはもう最後、主水と顔は合わされない。永久夫婦になどなれないであろう。
 復讐という快挙なども、その瞬間に飛んで消えよう。
 澄江の気持はどんなであろう?
 時が刻々に経ってゆく。
 と、不意に屏風の上から、白刃がヌッと差し出された。
 嘉門はギョッとはしたものの、大胆に眼を上げて上を見た。
 屏風の上に覆面をした顔が、じっとこちらを睨んで居た。
「曲者!」
 ガラガラ!
 屏風が仆された。


 枕刀の置いてある、床の間の方へ走って行く嘉門の姿へは眼もくれず、着流しの衣裳の裾をからげ、脛をあらわし襷がけして、腕をまくり上げた覆面武士は、やにわに澄江を小脇に抱えた。
「曲者でござるぞ、お身内衆! 出合え!」と喚き切り込んだ嘉門!
 その刀を無造作に叩き落とし、
「うふ」
 どうやら笑ったらしかったが、
 ビシリ!
 もう一揮! 振った白刃!
「ワッ」
 へたばった[#「へたばった」に傍点]は峯打ちながら、凄い手並の覆面に、急所の頸を打たれたからで、嘉門はのめって[#「のめって」に傍点]這い廻った。
 それを見捨てて襖蹴開き、既に隣室へ躍り出で、隣室も抜けて雨戸引っ外し、庭へ飛び下りた覆面を目掛け、
「野郎!」
「怪しい!」
 と左右から、猪之松の乾児で警護の二人が、切りつけて来た長脇差を、征矢《そや》だ! 駈け抜け、振り返り、追い縋ったところを、
 グーッ!
 突だ!
「ギャーッ」
 獣だ! 殺される獣! それかのように悲鳴して仆れ、それに胆を消して逃げかけた奴の、もう一人を肩から大袈裟がけ[#「がけ」に傍点]!
「ギャーッ」
 こいつも獣となってくたばり[#「くたばり」に傍点]、夜で血煙見えなかったが、プ――ッと立った腥《なまぐさ》い匂い! が、もうこの時には覆面武士は、植込の中に駈け込んでい、その植込にも警護の乾児、五人がところ塊ってい、
「泥棒!」
「遁すな!」
 と、竹槍、長ドス!
 しかし見る間に槍も刀も、叩き落とされ刎ね落とされ、つづいて悲鳴、仆れる音! そこを突破して覆面武士が、土塀の方へ走るのが見られ、土塀の裾へ行きついた時、そこにも警護の乾児達がいる。ムラムラと四方から襲いかかったばかりか、これらの物音や叫声に、主屋の人々も気づいたかして、雨戸を開け五人十人、二十人となく駈け出し走り出し、提燈、松明を振り照らし、その火の光に獲物々々を、――槍、鉄砲、半弓までひっさげ、しごき、振り廻し狙っている、――そういう姿をさえ照らしていた。
 しかしこの頃覆面武士は、とうに土塀を乗り越えて、高萩村を野良の方へ外れ、淡い月光を肩に受け、野を巻いている霧を分け、足にまつわる露草を蹴り、小脇に澄江をいとし[#「いとし」に傍点]そうに抱え、刀も既に鞘に納め、ただひたすらに走っていた。
 その武士は水品陣十郎であった。

 それから十日ほど日が経った。
 陣十郎と澄江との二人が、旅姿に身をよそおい、外見からすれば仲のよい夫婦、それでなかったら仲のよい兄妹、それかのような様子をして、木曽街道を辿っていた。
 初秋の木曽街道の美しさ、萩が乱れ咲き柿の実が色づき、渡鳥が群れ来て飛びつれて啼き、晴れた碧空を千切れた雲が、折々日を掠めて漂う影が、在郷馬や駕籠かきによって、軽い塵埃を揚げられる街道へ、時々|陰影《かげ》を落としたりした。
「澄江殿、お疲労《つかれ》かな?」
 優しい声でいたわるように、こう陣十郎は声をかけた。
「いいえ」と澄江は編笠の中から、これも優しい声で答えた。

心々の旅の人々


「お疲労でござらば駕籠雇いましょう」
 陣十郎も編笠の中から、念を押すようにもう一度云った。いかにも優しい声であった。
「何の遠慮などいたしましょう、疲労ましたら妾の方から、駕籠なと馬なとお雇い下されと、押してお頼みいたします……どうやらそう仰言《おっしゃ》る貴郎様こそ、お疲労のご様子でございますのね。ご遠慮なく馬になと駕籠になと、ホ、ホ、ホ、お召しなさりませ」
 からかう[#「からかう」に傍点]ように澄江は云った。
「ア、ハ、ハ、とんでもない話で、拙者と来ては十里二十里、韋駄天のように走りましたところでビクともする足ではござりませぬ。……貴女は女無理して歩いて、さて旅籠《はたご》へ着いてから、ソレ按摩じゃ、ヤレ灸《やいと》じゃと、泣顔をして騒がれても、拙者決して取り合いませぬぞ」
「貴郎様こそ旅籠に着かれてから、くるぶし[#「くるぶし」に傍点]が痛めるの肩が凝るのと、苦情めいたこと仰せられましても、妾取り合わぬでござりましょうよ。ホ、ホ、ホ」と朗かに笑った。
 陣十郎も朗かに笑った。
 これは何たることであろう! 敵同志であるこの二人が、こう親しくこう朗かで、浮々と旅をつづけて行くとは?
 それには深い事情があった。
 澄江はあの夜猪之松の屋敷で、すんでに井上嘉門によって、操を穢されるところであった。それを陣十郎が身を挺し、養われかくまわれ[#「かくまわれ」に傍点]た恩をも不顧《かえりみず》、猪之松の乾児《こぶん》を幾人となく切り捨て、自分を助けて遠く走り、農家に隠匿《かくま》い今日まで、安穏に生活《くらし》をさせてくれた。その間一度も陣十郎は、自分に対していやらしい言葉や、いやらしい所業《しわざ》に及ばなかった。勿論陣十郎は義父《ちち》の敵《かたき》、討って取らねばならぬ男、とはいえ義父を討ったのも、その一半は自分に対し、恋慕したのを自分が退け、義父や主水が退けたことに、原因があることではあり、性来悪人ではあろうけれど、従来一度も自分に対しては、悪事を働いたことはなかった。その上今は女の生命の、操を保護してくれた人――とあって見ればこの身の操は、云うまでもなく許婚《いいなずけ》の、主水一人に捧げる外、誰にも他の男へは、捧げてはならず自分としても、断じて捧げぬ決心であり、このことばかりは陣十郎にも、ハッキリ言動で示しはしたが、それ以外には陣十郎に対して、優しく忠実にまめまめしく、尽くさねばならぬ境遇となり、義父《ちち》上の敵を討つことは、武士道の義理には相違ないが、生命――操の恩人には、人情としてそれと等なみに、尽くさなければならぬ義理があるはず、そこで澄江はそれ以来、今のような行為を執っているのであり、主水様と陣十郎殿とが巡り合い、敵討の太刀が交わされても、どうも妾には陣十郎殿に対し敵対することも出来そうもないと、心では思ってさえいるのであった。
 陣十郎の心持といえば
「この清浄無垢の白珠を、俺は誰にも穢させない!」
 この一点にとどまっていた。
 鴫澤《しぎさわ》庄右衛門を殺したのも、一つは澄江への恋心を、遮られたがためであった。敵持つ身となった原因、それが澄江であるほどの、澄江は陣十郎の恋女であった。だからその澄江を馬飼の長、嘉門如きが穢そうとする、何のむざむざ黙視出来ようぞ! そこで奪って逃げたのであり、遁れて知己《しりあい》の農家に隠匿い、今日まで二人で生活《くらし》て来る間、彼は今更に澄江という女が、女らしい優しい性質の中に、毅然として動かぬ女丈夫の気節を、堅く蔵していることを知り、愛慕の情を加えると同時に、尊敬をさえ持つようになり、暴力をもって自己の欲望などを、どうして遂げることが出来ようぞと、そう思うようになりさえした。


(澄江にとっては俺という人間、何と云っても義父の敵だ、それについてどう思っているだろう?)
 これが一番陣十郎にとっては、関心の事であらねばならず、で、絶えず心を配り、澄江の心を知ろうとした。
 と、澄江はその一事へは、決して触れようとはしなかった。
 陣十郎も触れなかった。
 さよう、互いにその一事へは、決して触れようとはしなかったが、陣十郎は自分の油断に澄江が早晩つけ[#「つけ」に傍点]込んで、寝首を掻くというような、卑劣な態度に出るということなど、澄江その人の性質から、有り得べからざることであると知り、それだけは安心することが出来、同時に澄江が義父の敵の自分に助けられたということから、義理と人情の板ばさみとなり、苦しい心的境遇に在る、そういうことを思いやり、憐愍同情の心持に、とらわれざるを得なかった。
(主水に対して澄江の心は?)
 これも実に陣十郎にとっては、重大な関心の一事であった。
(勿論澄江は心に深く、主水を恋していることだろう!)
 こう思うと陣十郎はムラムラと、嫉妬の思いに狩り立てられ、
(澄江が俺の意に従わぬのも、主水があるからだ!)と、主水に対する憎悪の念が、彼をほとんど狂気状態にまで、導き亢《たかぶら》せ追いやるのであった。
 時々彼は澄江に向かい、主水のことを云い出して見た。
 と澄江はきっとそのつど、あらぬ方へ話を反らせてしまって、何とも返辞をしなかった。
 それが陣十郎には物足らず、心をイライラさせはしたが、しかしまだまだその方がよくて、もしもハッキリ澄江の口から、ないしは起居や動作から、主水恋しと告げられたら、その瞬間に陣十郎の兇暴性が爆発し、乱暴狼藉するかもしれなかった。
 どっちみち陣十郎はこう思っていた。
(自己一身の生命の、永久の安全を計るためにも、主水は是非とも討って取らねばならぬ)
 こっちから主水を探し出して、討って取ろうと少し前から、心に定《き》めた陣十郎が、今や一層にその心を深く強く定めたのであった。
 その主水はどこにいるか?
 それは全く解らなかった。
 が、気がついたことがあった。
 間もなく行なわれる木曽の馬市、納めの馬市へは武州甲州の、博徒がこぞって行くはずである。高萩の猪之松も行くはずである。ところで主水は俺という人間が、その猪之松の賭場防ぎとして、食客となっているということを、知っているということであるから、猪之松が福島へ行く以上、俺も行くものとそう睨んで、俺を討つため福島さして、主水も行くに相違ない。ヨ――シそいつを利用して、俺も出て行き機を狙い、彼を返り討ちにしてやろう。
 で、ある日澄江へ云った。
「猪之松乾児の幾人かが、拙者と其方《そなた》とがこの農家に、ひそみ居ること知りましたと見え、この頃あたり[#「あたり」に傍点]を立ち廻ります。他所《よそ》へ参ろうではござりませぬか」


 こうして旅へ出た二人であった。
 旅へ出てはじめて木曽へ行くのだと、澄江は陣十郎によって明かされた。とはいえ鴫澤主水を討つべく、木曽へ行くのだとは明かされなかった。
「木曽へであろうと伊那へであろうと、妾《わたし》はどこへでも参ります」
 そう澄江はおだやかに応えた。
 成るようにしか成りはしない。神のまにまに、流るるままに。……そう澄江は思っているからであった。
 又、そう思ってそうするより他に、仕方のない彼女でもあるのであった。
(しかし澄江がこの俺が、主水を討つために木曽へ行くのだと、そう知ったら安穏では居るまいなあ)
 陣十郎はそう思い、そうとは明かさずただ漫然と、木曽への旅に澄江を引き出した。自分の邪の心持が、自分ながら厭になることがあり、
(俺は悪人だ悪人だ!)と、自己嫌忌の感情から、口の中で罵ることさえあった。
 それに反して澄江に対しては、そうとは知らずに云われるままに、義兄であり、恋人であり許婚である主水を、返り討ちにする残虐な旅へ、引き出されたことを惻々と、不愍に思わざるを得なかった。
 複雑極まる二人の旅心!
 しかし表面は二人ながら、朗かに笑い朗かに語り、宿りを重ねて行くのであった。
 さて、追分の宿へ着いた。
 四時煙を噴く浅間山の、山脈の裾に横たわっている宿場、参覲交代の大名衆が――北陸、西国、九州方の諸侯が、必ず通ることに定まっている宿、その追分は繁華な土地で、旅籠《はたご》には油屋角屋などという、なかば遊女屋を兼ねたような、堂々としたものがあり、名所には枡形があり、旧蹟には、石の風車ややらず[#「やらず」に傍点]の石碑や、そういうものがありもした。街道を一方へ辿って行けば、俚謡《うた》に詠まれている関所があり、更に一方へ辿って行けば、沓掛《くつかけ》の古風の駅《うまやじ》があった。
 旅籠には飯盛、青樓《ちゃや》にはさぼし[#「さぼし」に傍点]、そういう名称の遊女がいて、
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後供《あとども》は霞ひくなり加賀守《かがのかみ》
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 加賀金沢百万石の大名、前田侯などお通りの節には、行列蜿蜒数里に渡り、その後供など霞むほどであったが、この追分には必ず泊まり、泊まれば宿中の遊女という遊女は召されて纏頭《はな》をいただいた。
 そういう追分の鍵屋という旅籠へ、陣十郎と澄江が泊まったのは、
「お泊まりなんし、お泊まりなんし、銭が安うて飯《おまんま》が旨うて、夜具《やぐ》が可《よ》うてお給仕が別嬪、某屋《なにや》はここじゃお泊まりなんし」と、旅人を呼び立て袖を引く、留女《とめおんな》の声のかまびすしい、雀色の黄昏《たそがれ》であった。表へ向いた二階へ通された。
 旅装を解き少しくつろぎ、それから障子を細目に開けて、澄江は往来の様子を眺めた。駕籠が行き駄賃馬が通り、旅人の群が後から後から、陸続として通って行き、鈴の音、馬子唄の声、その間にまじって虚無僧の吹く、尺八の音などが聞こえてきた。
 と、旅人の群に雑り、旅仕度に深編笠の、若い武士が通って行った。
「あッ」と澄江は思わず云い、あわただしく障子をあけ、身を乗り出してその武士を見た。
 肩の格好や歩き方が、恋人|主水《もんど》に似ているからであった。
 なおよくよく見定《みきわ》めようとした時、一人の留女が走り出て、その武士の袖を引いた。と、その武士と肩を並べて、これも旅姿に編笠を冠った、年増女が歩いていたが、つと[#「つと」に傍点]その間へ分けて入り、留女を押しやって、その若い武士の片手を取り、いたわる[#「いたわる」に傍点]ような格好に、ズンズン先へ歩いて行った。
 が、その拍子に若い武士が、振り返って何気なく、澄江の立っている二階の方を見た。


 黄昏ではあり笠の中は暗く、武士の顔は不明であった。
(あんな女が附いている。主水様であるはずがない)
 そう澄江には思われた。
 主水様ともあるお方が、妾以外の女を連れて、こんな所へ暢気らしく、旅するはずがあるものか――そう思われたからである。
 とはいえどうにもその武士の姿が、主水に似ていたということが、絶える暇なく主水のことを、心の奥深く思い詰めている澄江の、烈しい恋心を刺激したことは、争われない事実であって、なおうっとり[#「うっとり」に傍点]と佇んで、いつまでもいつまでも見送った。
 しかしその武士とその女との組は、旅人の群にまぎれ込み、やがて、間もなく見えなくなった。
 婢女《こおんな》の持って来た茶を飲みながら、旅日記をつけていた陣十郎が、この時澄江へ声をかけた。
「澄江殿、茶をめしあがれ」
「はい」と云ったがぼんやりしていた。
「宿場の人通り、珍らしゅうござるか」
「はい」と云ったがぼんやりしていた。
「どうなされた? 元気がござらぬな」
「…………」
「やはりお疲労《つかれ》なされたからであろう」
「…………」
「返辞もなさらぬ。アッハハ。……それゆえ拙者馬か駕籠かに、お乗りなされと申したのじゃ」
「…………」
「按摩なりと呼びましょうかな」
「いいえ。……それにしても……主水様は……」
 思わず言葉に出してしまった。
「何! 主水!」と陣十郎は、それまでは優しくいたわるように、穏やかな顔と言葉とで、機嫌よく澄江に話しかけていたが、俄然血の気を頬に漂わせ、敵の体臭を鼻にした獣が、敵愾心と攻撃的猛気、それを両眼に集めた時の、兇暴惨忍の眼のように、三白眼を怒らせたが、
「ふふん、主水! ……ふふん主水! ……澄江殿には主水のことを、このような旅の宿場の泊りにも、心に思うて居られたのか! ……ふふん、そうか、そうでござったか!」
 ジロリと床の間の方へ眼をやった。
 そこにあるものは大小であった。
 既に幾人かの血を吸って、なお吸い足らぬ大小であった。


 鍵屋から数町離れた地点に、岩屋という旅籠があり、その裏座敷の一室に、主水とお妻とが宿を取っていた。
 主水は先刻《さっき》一軒の旅籠の、二階の欄干に佇んでいた、澄江に似ていた女のことを、心ひそかに思っていた。
 もう夜はかなり更けていて、夕暮方の騒がしかった、宿の泊客の戯声や、婢女《おんな》や番頭や男衆などの声も、今は聞こえず静かとなり、泉水に落ちている小滝の音が、しのびやかに聞こえるばかりであり、時々峠を越して行く馬子の、
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※[#歌記号、1-3-28]追分油屋掛行燈に、浮気御免と書いちゃない
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 などと、唄って行く声が聞こえるばかりであった。
 間隔《まあい》を離して部屋の隅に、二流《ふたながれ》敷《し》いてある夜具の中に、二人ながら既に寝ているのであった。
(もうお妻は眠ったかしら?)
 顔を向けてそっちを見た。
 夜具の襟に頤を埋めるようにして、お妻は眼を閉じ静まっていた。高い鼻がいよいよ高くなり、頬がこけて[#「こけて」に傍点]肉が薄くなり、窶れて凄艶の度を加えていた。
(俺のために随分苦労をしてくれた)
 二人が夫婦ならぬ夫婦のようになり、弁三の家にかくまわれ[#「かくまわれ」に傍点]てから、木曽への旅へ出た今日が日まで、日数にしては僅かであったが、陣十郎のために探し出されまい、猪之松一家の身内や乾分共に、発見されまいと主水に対し、お妻が配慮し用心したことは、全く尋常一様でなかった。
 あの日――お妻が主水に対し、はじめてうってつけ[#「うってつけ」に傍点]た恋心を、露骨に告げた日陣十郎によって、後をつけ[#「つけ」に傍点]られ家を見付けられ、あやうく奥へ踏み込まれようとしたが、弁三の鉄砲に嚇されて、陣十郎は逃げて行ったものの、危険はいよいよ迫ったと知り、爾来お妻は家へも帰らず、陣十郎とも勿論逢わず、猪之松の家へも寄りつかず、主水の傍らに弁三の家に、身を忍ばせて動かなかった。
 だからお妻も主水も共々、あの夜高萩の猪之松方で、澄江があやうく馬大尽によって、処女の操をけがされようとしたことや、陣十郎が澄江を助け、猪之松の乾児達を幾人か切って、逃げたということなどは知らなかった。
 しかしその中《うち》に弁三の口から、木曽の納めの馬市を目指して、馬大尽を送りかたがた、猪之松が大勢の乾児を引き連れ、木曽福島へ行くそうなと、そういうことだけは聞くことが出来た。
 それをお妻は主水に話した。
「陣十郎は賭場防ぎ、猪之松方の賭場防ぎ。で、猪之松が木曽へ行くからは、陣十郎も行くでござんしょう」
 こうお妻は附け足して云った。
「では拙者も木曽へ参って……」
 主水は意気込み発足しようと云った。
「妾もお供いたします」
 こうして旅へ出た二人であった。
(いわば敵の片割のような女、……それにもかかわらず縁は不思議、よく自分に尽くしてくれたなあ)
 お妻の寝顔を見守りながら、そう思わざるを得なかった。
(露骨に恋心を告げた日以来、自分の心が決して動かず、お妻の要求は断じて入れない、――ということを知ったものと見え、その後はお妻も自分に対して、挑発的の言動を慎み、ただ甲斐々々しく親切に、年上だけに姉かのように、尽くしてくれるばかりだったが、思えば気の毒、おろそかには思われぬ。……)
 そう主水には思われるのであった。
(それにしても先刻見かけた女、澄江に似ていたが、澄江に似ていたが……)


 とはいえ澄江がこんな土地の、あんな旅籠に一人でションボリ、佇んでいるというようなことが、有り得ようとは想像されなかった。
(あの時お妻が、留女を、突きやり、俺の手を強く引っ張って、急いで歩いて来なかったら、あの女を仔細に見ることが出来、あの女が澄江かそうでないか、ハッキリ知ることが出来たものを)
 それを妨げられて出来なかったことが、主水には残念でならなかった。
(やはり澄江であろうも知れない!)
 不意に主水にはそう思われて来た。
(上尾街道での乱闘の際、聞けば澄江は猪之松方に属した、馬方によって担がれて行き、行方知れずになったとのこと、馬方などにはずかしめ[#「はずかしめ」に傍点]られたら、烈しい彼女の気象である、それ前に舌噛んで死んだであろう、もし今日も生きて居るとすれば、処女であるに相違なく、そうしてあの時から今日まで、そう日数は経っていない、わし[#「わし」に傍点]の消息を知ろうとして、あの土地に居附いていたと云える。とすると木曽の福島へ、納めの市へ馬大尽ともども、猪之松が行くということや、その猪之松の賭場防ぎの、陣十郎も行くということや、陣十郎が行く以上それを追って、わし[#「わし」に傍点]が行くだろうということを、澄江は想像することが出来る。ではそのわし[#「わし」に傍点]に逢おうとして、単身でこのような土地へ来ること、あり得べからざることではない)
 こんなように思われるからであった。
(あの旅籠は鍵屋とかいったはずだ。距離も大して離れてはいない。行って様子を見て来よう)
 矢も楯もたまらないという心持に、主水は襲われずにいられなかった。
(が、お妻に悟られては?)
 それこそ大変と案じられた。
(爾来《あれから》二人が夫婦ならぬ夫婦、妻ならぬ妻のような境遇に――そのような不満足の境遇に、お妻ほどの女が我慢しているのも、あの時以来澄江のことを、自分が口へ出そうとはせず、あの時以来澄江のことを、思っているというような様子を、行動の上にも出そうとはせず、ただひたすらにお妻の介抱を、素直に自分が受けているからで。そうでなくて迂闊にもし自分が、今も澄江を心に深く、思い恋し愛していると、口や行動に出したならば、それこそお妻は毒婦の本性を、俄然とばかり現わして、自分に害を加えようし、澄江がこの土地にいるなどと、そういうことを知ったなら、それこそお妻は情容赦なく、澄江を探し出して嬲り殺し! ――そのくらいのことはやるだろう)と、そう思われるからであった。
(澄江を確かめに行く前に、お妻が真実眠っているかどうか、それを確かめて置かなければならない)
 主水は静かに床から出、お妻の方へ膝で進み、手を延ばして鼻へやった。
 規則ただしいお妻の呼吸が、主水の掌《てのひら》に感じられた。
(眠っている、有難い)
 で立ち上って衣裳のある方へ行った。
 途端に、
「どちらへ?」と云う声がした。
 ギョッとして主水は振り返った。
 眼をあいたお妻が訝しそうに、主水の顔を見詰めながら、半身夜具から出していた。
「……いや……どこへも……厠へ……厠へ……」
「…………」
 お妻は頷いて眼を閉じた。
 で、主水は部屋から出た。


 部屋から出て廊下へ立ったものの、寝巻姿の主水であった、旅籠を抜け出して道を歩き、鍵屋などへは行けなかった。
 行けたにしても時が経ち、用達しの時間よりも遅れたならば、そうでなくてさえ常始終から、逃げはしないかと警戒しているお妻が、不安に思って探しに来、居ないと知ったら騒ぎ立て、一悶着起こそうもしれない。そうなっては大変である。
 そこで主水は厠へ入り、やがて出て来て部屋へ帰り、穏しく又夜具の中へ入った。
 見ればお妻は同じ姿勢で、安らかに眠っているようであった。
 やはり主水には澄江のことが、どうにも気になってならなかった。
(よし、もう一度試みてみよう)
 で、お妻の方へ眼をやったまま、又ソヨリと夜具から出た。
 お妻はやはり眠っていた。
 衣裳や両刀の置いてある方へ行った。
 幸いにお妻は眼をさまさなかった。
(有難い)と心で呟き、手早く衣裳を着換えようとした時、
「主水様どちらへ?」とお妻が云った。
 眼をさましていたのであった。
 怒ったような、嘲るような、――妾を出し抜いて行こうとなされても、出し抜かれるものではござんせん――こう云ってでもいるような眼付で、お妻は主水をじっと見詰めた。
「いや……ナニ、ちょっと……それにしても寒い――信州の秋の夜の寒いことは……そこで重ね着しようとして……」
 もずもず[#「もずもず」に傍点]と口の中で云いながら、テレて、失望して、断念して、主水は又も夜具の中へ入った。
(もう不可《いけ》ない、諦めよう)
 主水はすっかり断念した。
 眼端の利くお妻が眠った様子をして、こう自分を監視している以上、こっそり抜け出して行くことなど、とうてい出来ないと思ったからであった。
(よしよし明日の朝早く起き、そぞろ歩きにかこつけて、鍵屋へ行って見ることにしよう)
 こう考えをつけてしまうと、一時に眠りが襲って来た。
 主水は間もなく深い眠りに落ちた。
 あべこべにお妻は眼をさましてしまい、腹這いになって考え込んだ。
 好きで寝る間も枕元に置く莨《たばこ》、その煙管《きせる》を口にくわえ、ほの明るい行燈《あんどん》の光の中へ、漂って行く煙の行方を、上眼を使って見送りながら、お妻は考えに沈み込んだ。
 これ迄は観念をしたかのように、決して自分を出し抜いて、逃げようなどとしたことのない主水が、今夜に限って何としたことか、二度まで抜けて出ようとした! これはどうしたことだろう?
 どうにも合点がいかないのであった。
(何か曰くがなけりゃアならない)
 それにしても自分というこの女が、女賊、枕探し、邯鄲師《かんたんし》、だから他人の寝息をうかがい、抜け出ることも物を盗むことも、殺すことさえ出来るのに、知らぬとはいえそういう自分を出し抜き、抜け出ようとした主水の態度が、どうにも可笑《おか》しくてならなかった。
(いっそ可愛い位だよ)
 煙管をくわえたままお妻は笑い、主水の方をそっと見遣った。主水は安らかに天井の方を向いて、規則正しい呼吸をしていた。深い眠りに入っているらしい。
 もう時刻は丑の刻でもあろうか、家の内外寂しく静かで、二間ほど離れた座敷の方から、鼾の声が聞こえてき、初秋の夜風に吹かれて落ちる、中庭あたりの桐の葉でもあろうか、バサリ、バサリと閑寂の音を、時々立てるのが耳につくばかりで、山国の駅路《えきろ》の旅籠の深夜は、芭翁《ばしょう》好みの寂寥に入っていた。
(今日まで我慢をして来たんだよ。……やっぱり順当の手段《て》で行こうよ)
 お妻はとうとう思い返した。
 で、煙管を抛り出し、男の方へ顔を向け、横に寝返って眠ろうとした。
 途端に、
「澄江!」と眠ったままで、主水がハッキリ声を立てて云った。
「澄江よ! 澄江よ! お前はどこに! ……」
 お妻はグラグラと眼が廻った。
(畜生!)
 ムックリと起き上った。
(やっぱり思っていやがるんだ! あの女のことを! 澄江のことを!)
 眼を据えて主水の寝顔を睨んだ。
 主水は長閑《のどか》に眠っている。
 が、愛する女のことを、夢にでも見ているのであろうか、閉じた眼を優しく痙攣させ、閉じた唇に微笑を湛えている。


 それからしばらく経った時、追分の宿の宿外れを、野の方へ行く女があった。
 星はあるが月のない夜で、それに嵐さえ吹いていて、その嵐に雲が乱れ、星をさえ隠す暗澹さ!
 そういう夜道を物に狂ったかのように、何か口の中で呟きながら、走ったかと思うと立ち止まり、立ち止まったかと思うと又走る。
 それは他ならぬお妻であった。
 眠っている間も恋しい女、澄江のことを忘れかね、うわ言に出して云った主水――そういう主水の心持を知り、怒りと失望と嫉望《しっと》とに、お妻はほとんど狂わんばかりとなり、汝《おのれ》どうしてくれようかと、殺伐の気さえ起こしたのであったが、それは年増であり世間知りであり、世なれている彼女であったので、まずまずと心をおちつかせ、燃えるように上気《のぼ》って痛む頭を、夜の風にでも吹かせてやろうと、そこは女|邯鄲師《かんたんし》で、宿をこっそり抜け出すことなど、雑作なく問題なく出来るので、宿をこっそり抜け出して、今こうやって歩いているのであった。
 さて冷え冷えとした高原の、秋の夜の風に吹かれながら、お妻は歩いているのであるが、問題が問題であるだけに、心は穏かにはならなかった。
(宿へ放火《ひつけ》でもしてやろうか!)
(人殺《ひとごろし》でもしてやろうか!)
 そんなことさえ思うのであった。
 街道から反れて草の露を散らし、お妻は野の方へ歩いて行く。
 と、街道を背後《うしろ》の方から、木曽の納めの馬市へ出る、馬の群が博労に宰領されて、陸続と無数にやって来た。徹夜をして先へ進むのであった。それらのともして[#「ともして」に傍点]行く提燈の火が、点々とあたかも星のように、道を明るめ動いていたが、珍らしい美しい眺めであった。
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※[#歌記号、1-3-28]秋が来たとて鹿さえ鳴くに、なぜに紅葉《もみじ》は色に出ぬ
※[#歌記号、1-3-28]余り米とはそりゃ情ない、美濃や尾張の涙米
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 などと唄う馬子唄の声が、ノンビリとして聞こえてきた。
 しかしお妻にはそういう光景も、珍らしくもなければ美しくもなかった。でただ夢中で歩いていた。

 陣十郎が同じような心境の下に、旅籠を出て野の方へやって来たのは、ちょうどこの頃のことであった。
 主水のことを思っている澄江! それを口へ出して云った澄江! そういう澄江を夕方見た。汝々どうしてくれよう! すんでにその時陣十郎は、澄江を一刀に切ろうとした。
 が、それは辛うじて抑えた。
 さて夜になって二人は寝た。
 部屋の片隅に澄江が寝、別の片隅に陣十郎が寝。――これまでやって来たように、その夜もそうやって二人は寝た。
 が、陣十郎は眠られなかった。
 怒り、失望、嫉妬の感情が、心を亢《たか》ぶらせ頭を燃やし、安眠させようとしないのである。
 見れば澄江も眠られないと見えて、そうして恐怖に襲われていると見えて、こっちへ細い頸足《うなじ》を見せ深々と夜具にくるまったまま、溜息を吐いたり顫えたりして、夜具の中で蠢いていた。
(一思いに……)
 この考えが又浮かんだが、あさましくも憐れにも思われて、断行することが出来なかった。
(夜の風にでも吹かれて来よう)
 で、こっそりと宿を抜け出したのである。


 足にまつわる露の草を、踏分け踏分け陣十郎は歩いた。
 街道を馬の列が通って行く。
 それを避けて草野を歩いて行くのである。
(ガーッとどいつかを叩っ切ったら、この心も少しはおちつくかもしれない)
 そんなこともふと思われた。
(ウロウロ女でも通って見ろ)
 そんな兇暴の考えも、チラチラ彼の心の中に燃えた。
 と、そういう彼の希望に、応じようがために出て来たかのように、行手から女が星の光で知れる、小粋の姿を取り乱し、走ったり止まったりよろけ[#「よろけ」に傍点]たりして、こっちへ歩いて来るのが見られた。
(しめた!)と一刹那陣十郎は思った。
(宿の女か、旅の者か、そんなことはどうでもいい、来かかったのが女の不運! ……)
 で、素早く木陰に隠れた。
 その女はそれとも知らぬか、よろめくような足どりで、その前を通って行き過ぎようとした。
 不意に躍り出た陣十郎、物をも云わず背後《うしろ》の方から……
「あッ」
 不意の事だったので、女は驚きの声をあげたが、……
 しかし次の瞬間に、二人はパーッと左右へ別れた。
「貴様はお妻!」
「陣十郎様か!」
 サーッとお妻は逃げだした。
「待て!」
 刀を抜いて追っかけた。
 澄江と夫婦ならぬ夫婦となり、共住居《ともずまい》から旅に出た。そうなってからはお妻のことは、ほとんど陣十郎の心になかった。
 ところが意外にもこんな事情の下に、あさましいお妻とぶつかった。

高原狂乱


 仆れて、
「人殺シ――ッ」
 だが飛び起き、
「どなたか助けて――ッ」と走り出した。
 そのお妻をなお追いかけ、周章《あわて》たために不覚至極にも、切り損った自分を恥じ恥じ、
「逃げようとて逃がそうや! くたばれ、汝《おのれ》、毒婦、毒婦!」
 陣十郎は執念《しうね》く追った。
 仆れつ、飛び起きつ、刀を避け、お妻は走り走ったが、ようやく街道へ出ることが出来た。
 馬、博労、提灯、松明――馬市へ向かう行列が、街道を埋めて通っていた。
 そこへ駈け込んだ女|邯鄲師《かんたんし》のお妻、
「助けて――ッ、皆様、助けて!」
「どうしたどうした?」
「若い女だ!」
 博労達は騒ぎ立った。
「狂人《きちがい》が妾《わたし》を手籠めにし……殺そうとしてアレアレそこへ!」
 瞬間躍り込んで来た陣十郎、
「逃げるな、毒婦、逃がしてなろうか!」
 切り付けようとするやつを、
「女を助けろ!」
「狂人を殺せ!」
「ソレ抜身を叩き落とせ!」
 ムラムラと四方からおっとり[#「おっとり」に傍点]囲み、棒や鞭を閃めかし、博労達は陣十郎へ打ってかかった。
「汝ら馬方何を知って、邪魔立ていたすか、命知らずめ!」
 揮った刀!
 首が飛んだ!
「ワ――ッ」
「切ったぞ!」
「仲間の敵!」
「逃がすな!」
「たたんでしまえ!」
「狂人め、泥棒め!」
 十、二十、三十人! ムラムラと寄せ、犇いた。
 狂奔する馬! 地に落ちて燃える、提燈《ちょうちん》、松明《たいまつ》、バ――ッと立つ火焔!
 悲鳴に続く叫喚怒号! 仆れる音、叱咤する声!
 百頭に余る馬の群が、音に驚き光に恐れ、野の方へ宿《しゅく》の方へ駈け出した。
「馬が放れたぞ――ッ」
「逃がすな、追え!」
「捕らえろ!」
「大変だ――ッ」
「人殺し――ッ」
 ほとんど狂気した陣十郎、剣鬼の本性を現わして、馬と馬方の渦巻く中を、
「お妻! どこに! 逃がそうや!」と、右往し左往し走り廻り、邪魔になる博労、馬の群を、見境いもなく切りつ薙ぎつ、追分宿の方へ走る! 走る!
 と、この時一挺の駕籠を、菅の笠に旅合羽、長脇差を揃って差し、厳重に足のかためをした、三十人あまりの博労が守り、茣蓙に包んだ金箱や駒箱、それを担いで粛々と、宿の方からやって来たが、そこへ駈け込んだ馬の群に驚き、街道を反れて野に立った。
 上尾宿に長く逗留し、夜道をかけて帰らないことには、木曽福島の納めの馬市に、間に逢わないと焦慮して、帰りを急ぐ馬大尽を守護して、高萩の猪之松とその乾児とが、同じく夜道をかけて来た。――同勢は実にそれなのであった。


「馬を放したな、馬鹿な奴だ」
 こう云ったのは猪之松で、駕籠の脇に立っていた。
「商売物を逃がすなどとは、冥利に尽きた連中で」
 駕籠の戸をあけて騒動を見ていた、井上嘉門が嘲笑うように云った。
「だから一生馬方商売、それ以上にはなれませんので。ハッハッハッ」と附け加えた。
 そこへ陣十郎が駈けて来た。
 眼が眩んでいて見境いがなかった。
 数人を切った血刀を提げ、乱れた髪、乱れた衣裳、返り血を浴びたムキ出しの脛。――そういう姿で駈けて来た。
「陣十郎だ! 陣十郎だ!」
 閂峰吉が眼ざとく[#「ざとく」に傍点]目付け、ギョッとしたように声をあげた。
「おおそうだ陣十郎だ!」
 こう猪之松も叫んだが、いつぞやの晩自分の屋敷で、養ってやった恩を忘れ、乾児を切ったばかりでなく、井上嘉門に捧げた女――澄江とか云った武家の娘を、奪い去ったことを思い出した。
「畜生、恩知らず、たたんでしまえ!」
「やれ!」
 ダ、ダ、ダ、ダ! ――
 乾児達だ!
 一斉にひっこ[#「ひっこ」に傍点]抜いて切ってかかった。
「…………」
 無言で横なぐり!
 陣十郎であった!
 ブ――ッと血吹雪《ちふぶき》!
 闇ながら立った。
 匂いで知れる! 生臭さ!
「切ったぞ畜生!」
「用心しろ!」
 開いて散じたが又合した。
 見境いのない陣十郎、躍り上ってズ――ンと真っ向!
「キャ――ッ」
 仆れて、ノタウチ廻る。また乾児が一人やられた。
 見すてて一散宿の方へ!
「汝《おのれ》お妻ア――ッ! 逃がしてなろうか!」
「追え!」と猪之松は地団太を踏んだ。
「仕止めろ、汝ら、仕止めろ仕止めろ!」
 一同ド――ッと追っかけた。
 この頃|宿《しゅく》は狂乱していた。
 馬! 馬! 馬!
 博労! 博労! 博労!
 戸を蹴破り、露路に駈け込み、騒ぎに驚いて戸を開けた隙から、駈け入る馬! 捕らえようとして、無二無三に踏み入る博労!
 ボ――ッと一軒から火の手が揚がった。
 火事だ!
 とうとう火を出したのだ!
 おりから吹きつのった夜風に煽られ、飛火したらしいもう一軒から、カ――ッと火の手が空へあがった。
「起きろ!」
「火事だ!」
「焼き討ちだ!」
 家々はおおよそ雨戸を開け、人々は争って外へ出た。
 岩屋では主水が眼を覚まし、鍵屋では澄江が起き上った。
 番頭が階上階下《うえした》を怒鳴り廻っている。
「お客様方大変でございます。焼き討ちがはじまりましてござります! どうぞお仕度下さりませ! ご用心なすって下さりませ!」

 本陣油屋の奥の座敷では、逸見《へんみ》多四郎義利が、眼をさまして起き上った。


 多四郎は聞き耳を澄ましたが、
「源女殿! 東馬々々!」と呼んだ。
 と、左の隣部屋から、
「はい」という源女の声が聞こえ、
「眼覚め居りますでござります」という、門弟東馬の応える声が、右の隣部屋から聞こえてきた。
「宿《しゅく》に騒動が起こったようじゃ。……ともかくも身仕度してこの部屋へ!」
 間もなく厳重に身拵《みごしら》えした、東馬と源女とが入って来た。
 その間に多四郎も身拵えし、三人様子をうかがっていた。
 そこへ番頭が顔を出し、
「木曽福島の馬市へ参る、百頭に余る馬の群が、放れて宿へなだれ込み、出火などもいたしましたし、切り合いなどもいたし居ります様子、大騒動起こして居りますれば、ご用心あそばして下されますよう」
 こう云ってあわただしく走って行った。
「何はあれ宿の様子を見よう」
 多四郎は源女と東馬とを連れて、油屋の玄関から門口へ出た。
 多四郎がこの地へやって来た理由は?
 源女の歌う歌の中に、今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の、云々という文句があった。そこで多四郎は考えた。そういう馬飼の居る所に、黄金は埋められているのであろう、そうしてそういう馬飼の居る地は、木曽以外にはありそうもない。木曽山中には井上嘉門という、日本的に有名な馬飼があって、馬大尽とさえ呼ばれている。そやつが蔵しているのではあるまいか? おおそうそう馬大尽といえば、門弟高萩の猪之松方に、逗留しているということじゃ、源女殿と引き合わせ、二人の様子を見てやろうと、源女を連れて高萩村の、猪之松方へ行ったところ、本日井上嘉門ともども、木曽へ向かって行ったとのこと、それではこちらも木曽へ行こうと、東馬をも連れて旅立ったので、途中で馬大尽や猪之松の群と、遭遇《あ》わなければならないはずなのであるが、急いで多四郎が間道などを歩き、かえって早くこの地へ着き、日のある中《うち》に宿を取ったため、少し遅れてこの地へ着き、先を急いで泊まろうとせず、夜をかけて木曽の福島へ向かう、猪之松と馬大尽との一行と、一瞬掛け違ってしまったのであった。
 さて門口に立って見れば、宿の混乱言語に絶し、収拾すべくもなく思われた。
 群集が渦を巻いて街道を流れ、その間を馬の群が駈け巡り、その上を火の子が梨地《なしじ》のように飛んだ。
「これは危険だ、ここにいては不可《いけ》ない、野の方へ! 耕地の方へ!」
 こう云って多四郎は群集を分け、その野の方へ目差して進んだ。
 その後から二人は従《つ》いて行ったが、いつか混乱の波に呑まれ、全く姿が見えなくなってしまった。

 鍵屋で眼を覚まして起き上った澄江は、傍らを見たが陣十郎が居ない。
(どうしたことか?)と思ったものの、居ないのがかえって天の与え、今日の彼の様子から推せば、今後どんな目に逢わされるかも知れない。
(宿を出てともかくも外へ行こう)
 仕度をして外へ出た。
(主水様は?)
 こんな場合にも思った。


 昼間見かけた例のお侍さんが、もし恋しい主水様なら、この宿のどこかに泊まっていよう、お逢いしたいものだお逢いしたいものだ!
 思い詰めて歩く彼女の姿も、いつか混乱に捲かれてしまった。
 岩屋で眼覚めた主水その人も、ほとんど澄江と同じであった。
 傍らを見るとお妻が居ない。天の与えと喜んだ。義理あればこそ今日まで、一緒に起居をして来たのではあるが、希望《のぞみ》は別れることにあった。
 そのお妻の姿が見えない。
(よしこの隙に立ち去ろう)
 で、身仕度して外へ出た。
(鍵屋の二階で見かけた女、義妹澄江であろうも知れない。ともかくも行って探して見よう)
 で、その方へ歩を運んだが、人と馬と火との混乱! その混乱に包まれて、全く姿が見えなくなった。
 喚声、悲鳴、馬のいななき!
 破壊する音、逃げまどう足音?
 唸る嵐に渦巻き渦巻き、火の子を散らす火事の焔!
 宿は人の波、馬の流れ、水の洗礼、死の饗宴、声と音との、交響楽!
 その間を縫って全くの狂乱――血を見て狂った悪鬼の本性、陣十郎が走っては切り、切っては走り、隠見出没、宿の八方を荒れ廻っていた。
 今はお妻を探し出して切る! ――そういう境地からは抜け出していて、自分のために追分の宿が、恐怖の巷に落ち入っている、それが変質的彼の悪魔性を、恍惚感に導いていた。で男を切り女を切り馬を切り子供を切り、切れば切るほど宿が恐怖し、宿が混乱するその事が、面白くて面白くてならないのであった。
 返り血を浴び顔も手足も、紅斑々《こうはんはん》[#「紅斑々」は底本では「紅班々」]として凄まじく、髻《もとどり》千切れて髪はザンバラ、そういう陣十郎が老人の一人を、群集の中で切り仆し、悲鳴を聞き捨て突き進み、向こうから群集を掻き分け掻き分け、こっちへ向かって来る若い女を見た。
「澄江エ――ッ」と思わず声をあげた。
 それが澄江であるからであった。
「陣十様[#「陣十様」はママ]か!」と澄江は云ったが、あまりにも恐ろしい陣十郎の姿! それに自身陣十郎から遁れ、立ち去ろうとしている時だったので、陣十郎の横を反れ、群集の中へまぎれ込もうとした。
「汝逃げるか! 忘恩の女郎《めろう》!」
 そういう澄江の態度によって、心中をも見抜いた陣十郎は、可愛さ余って憎さが百倍! この心理に勃然として襲われ、いっそ未練の緒を断ってしまえ! 殺してしまえと悪鬼の本性、今ぞ現わして何たる惨虐!
「くたばり居ろう!」と大上段に、刀を振り冠り追いかけたが、その間をへだてる群集の波! が、そいつを押し分け突っ切り、近寄るや横から、
「思い知れ――ッ」と切った。
 が、幸いその途端に、一頭の馬が走って来、二三の人を蹴り仆し、二人の間へ飛び込んだ。
「ワ――っ」という人々の叫び! 又二三人蹴り仆され、澄江も仆れる人のあおりで、ドッと地上に伏し転んだ。
 と「お女中あぶないあぶない!」と、云い云い抱いて起こしてくれたは、旅|装束《よそおい》をした武士であった。
「あ、あ、あなたは主水様ア――ッ」
「や、や、や、や、澄江であったか――ッ」


 抱き起こしてくれたその武士こそ、恋しい恋しい主水であった。
「主水様ア――ッ」と恥も見得もなく、群集に揉まれ揉まれながら、澄江は縋りつき抱きしめた。
「澄江! 澄江! おおおお澄江!」
 思わず流れる涙であった。
 涙を流し締め返し、主水はほとんど夢中の態で、
「澄江であったか、おおおお澄江で! ……昼間鍵屋の二階の欄で。……それにいたしてもよくぞ無事で! ……別れて、知らず、生死を知らず、案じていたに、よくぞ無事で……」
 しかしその時群集の叫喚、巷の雑音を貫いて
「やあ汝《おのれ》は鴫澤主水《しぎさわもんど》! この陣十郎を見忘れはしまい! ……本来は汝に討たれる身! 逃げ隠れいたすこの身なれど、今はあべこべに汝を探して、返り討ちいたさんと心掛け居るわ! ……見付けて本望逃げるな主水!」と叫ぶ声が聞こえてきた。
「ナニ陣十郎? 陣十郎とな?」
 かかる場合にも鴫澤主水、親の敵《かたき》の陣十郎とあっては、おろそかにならずそれどころか、討たでは置けない不倶戴天の敵!
(どこに?)と声の来た方角を見た。
 馬や群集に駈けへだてられ、十数間あなたに離れてはいたが、まさしく陣十郎の姿が見えた。
 が、おお何とその姿、凄く、すさまじく、鬼気陰々、悪鬼さながらであることか! ザンバラ髪! 血にまみれた全身!
 ゾッとはしたが何の主水、驚こうぞ、恐れようぞ、
「妹よ、澄江よ、天の賜物、敵陣十郎を見出したるぞ! 討って父上の修羅の妄執、いで晴そうぞ続け続け――ッ」と刀引き抜き群集を分け、無二無三に走り寄った。
「ア、あにうえ! お兄イ様ア――ッ」
 叫んだが澄江の心は顛倒! 勿論親の敵である! 討たねばならぬ敵であるが、破られべかりし女の命の、操を救い助けてくれた恩人! ……陣十郎を陣十郎を!
(妾《わたし》には討てぬ! 妾には討てぬ!)
「オ、お兄イ様ア――ッ、オ、お兄イ様ア――ッ」
 その間もガガ――ッ! ド、ド――ッ! ド、ド――ッ! 響き轟き寄せては返す、荒波のような人馬の狂い!
 宿《しゅく》は狂乱! 宿は狂乱
「陣十郎オ――ッ! 尋常に勝負!」
「参れ主水オ――ッ! 返り討ち!」
 一間に逼った討ち手討たれ手!
 音!
 太刀音!
 合ったは一合オ――ッ!
「わ、わ、わ、わ――ッ」と悲鳴! 悲鳴!
 いや、いや、いや、主水ではなく、陣十郎でもなく群集群集!
 群集が二人の切り結ぶ中を、見よ恐れず意にもかけず、馳せ通り駈け抜け走る走る!
 その人々に駈けへだてられ、寄ろうとしても再び寄れず、焦心《あせっ》ても無駄に互いに押され、右へ左へ、前と後とへ、次第次第に、遠退く、遠退く!
「陣十郎オ――ッ! 汝逃げるな!」
「何の逃げよう――ッ! 主水参れ――ッ!」
「お兄イ様ア――ッ」
「妹ヨ――ッ」
「澄江殿! 澄江殿! 澄江殿オ――ッ」


 追分宿の狂乱の様を、望み見ながらその追分宿へ、入り込んで来る一団があった。
 旅合羽に草鞋脚絆、長脇差を落として差し、菅笠を冠った一団で、駒箱、金箱を茣蓙に包み、それを担いでいる者もあり、博徒の一団とは知れていたが、中に二人の武士がいた。
 秋山要介と杉浪之助と、赤尾の林蔵とそれの乾児の、三十余人の同勢であり、云わずと知れた木曽福島の、納めの馬市に開かれる、賭場に出るべく来た者であった。
 納めの馬市には日限がある。それに間に合わねば効果がない。で猪之松や林蔵ばかりが[#「ばかりが」は底本では「ばかりか」]、この日この宿を通るのではなく、武州甲州の貸元で、その馬市へ出ようとする者は、おおよそ今日を前後に挿んで、この宿を通らなければならないのであった。
 要介達は何故来たか?
 源女を逸見多四郎に取られた。
 爾来要介は多四郎の動静、源女の動静に留意した。
 と、二人が連立って、木曽へ向かったと人伝てに聞いた。
(では我々も追って行こう)
 おりから林蔵も行くという。
 では同行ということになり、さてこそ連れ立って来たのであった。
 粛々と一団は歩いて来たが、見れば行手の追分宿は、火事と見えて火の手立ち上り、叫喚の声いちじるしかった。
 と、陸続として逃げて来る男女! 口々に罵る声を聞けば、
「焼き討ちだ――ッ!」
「馬が逃げた――ッ!」
「百頭、二百頭、三百頭オ――ッ!」
「切り合っているぞ――ッ!」
「焼き討ちだ――ッ」
 耳にして要介は足を止めた。
「林蔵々々、少し待て!」
「へい、先生、大変ですなア」
「どうも大変だ、迂闊には行けぬ」
「そうですとも先生迂闊には行けない」
「宿を避けて野を行こう」
「そうしましょう、さあ野郎共、その意《つもり》で行け、街道から反れろ」
「へい」と一同街道を外し、露じめっている草を踏み、野へ出て先へ粛々と進んだ。
 進み進んで林蔵の一団、生地獄の宿を横に睨み、宿の郊外まで辿りついた。
 と、この辺りも避難の人々で、相当混雑を呈してい、放れ馬も時々走って来た。火事の光は勿論届きほとんど昼のように明るかった。
 その光で行手を見れば、博徒の一団が屯《たむろ》していて、宿の様子を眺めていた。
(おおどこかのお貸元が、避難してあそこにいるらしい。ちょっとご挨拶せずばなるまい)
 渡世人の仁義である。
「藤作々々」と林蔵は呼んだ。
「へい、親分、何でござんす」
「向こうに一団見えるだろう。どこのお貸元だか知らねえが、ちょっと挨拶に行って来ねえ」
「ようがす」と藤作は走って行ったが、すぐ一散に走り帰って来た。
「親分、大変で、猪之松の野郎で」
「ナニ猪之松? ううん、そうか!」
 見る見る額に青筋を立てた。
「先生々々、秋山先生!」
「何だ?」と要介は振り返った。
「向こうに見えるあの同勢、高萩の猪之だっていうことで」
「猪之松? ふうん、おおそうか」
 要介も向こうを睨むように見た。


「林蔵!」としかし要介は云った。
「猪之松には其方《そち》怨みはあろうが、ここでは手出ししてはならぬぞ」
「何故です先生、何故いけません?」
「何故と申してそうではないか。宿は火事と放れ馬とで、あの通りに混乱し、人々いずれも苦しんで居られる。そういう他人の苦難の際に、男を売物の渡世人が、私怨の私闘は謹むべきだ」
「そうですねえ、そう云われて見れば、こいつ一言もありませんや。が、相手がなぐり込んで来たら?」
「おおその時には売られた喧嘩、降りかかる火の子だ、断乎として払え!」
「ようがす、それじゃアその準備だ。……やいやい野郎共聞いていたか、猪之の方から手出ししたら幸い、遠慮はいらねえ叩き潰してしまえ! ……それまではこっちは居待懸け! おちついていろおちついていろ!」
「合点でえ」と赤尾の一党、鳴を静めて陣を立てた。
 と、早くも猪之松方でも、彼方に見える博徒の群が、赤尾の一党と感付いた。
「親分」と云ったのは一の乾児の、例の閂峰吉であった。
「林蔵の乾児の藤作の野郎が、やって来て引っ返して行きましたねえ」
「うん」と云ったのは猪之松で、先刻すでに駕籠から出、牀几を据えさせてそれへ腰かけ、火事を見ていた馬大尽、井上嘉門の側に立って、これも火勢を眺めていたが、
「うん、藤作が見えたっけ」
「向こうにいるなあ林蔵ですぜ。林蔵と林蔵の乾児共ですぜ」
「俺もそうだと睨んでいる」
「さて、そこで、どうしましょう?」
「どうと云って何をどうだ。先方が手出しをしやアがったら、相手になって叩き潰すがいい。それまではこっちは静まっているばかりさ」
「上尾街道では林蔵の方から、親分に決闘《はたしあい》を申し込んだはず。今度はこっちから申し込んだ方が」
「嘉門様がお居でなさらあ。……素人の客人を護衛《まも》って行く俺らだ、喧嘩は不可《いけ》ねえ、解ったろうな」
「なるほどなア、こいつア理屈だ。……じゃア静まって居りやしょう」
 この時二人の旅姿の武士と、同じく一人の旅姿の女、三人連れが火事の光に、あざやかに姿を照らしながら、宿の方から野へ現われ、猪之松方へ歩いて来た。
 眼ざとく認めたのが要介であった。
「杉氏」と要介は声をかけた。
「あの武家をよくご覧」
 浪之助は見やったが、
「先生ありゃア逸見先生で」
「であろうな、わしもそう見た」
「先生、女は源女さんですよ」
「そうらしい、わしもそうと見た。……よし」と云うと秋山要介[#「要介」は底本では「要助」]、つかつか進み出て声をかけた。
「あいやそこへまいられたは、逸見多四郎先生と存ずる。しばらくお待ち下されい」
 さようその武士は本陣油屋から、人波を分け放馬を避け、源女と東馬とを従えて、野へ遁れ出た多四郎であったが、呼ばれて足を止め振り返った。


「これはこれは秋山先生か」
 こう云ったが逸見多四郎、当惑の眉をひそかにひそめた。
「不思議な所でお逢い申した」
「いや」と要介は苦笑いをし、
「拙者におきましてはこの邂逅、不思議ではのうて期する処でござった」
「期する処? はてさてそれは?」
「と申すはこの要介、貴殿を追っかけ参りましたので」
「拙者を追っかけ? ……何故でござるな?」
「源女殿を当方へいただくために」
「…………」
「過ぐる日貴殿お屋敷において、木刀立合いいたしました際、拙者貴殿へ申し上げましたはずで。源女殿を取り返すでござりましょうと。……なお、その際申し上げましたはずで、後日真剣で試合ましょうと。……」
「…………」
「いざ、今こそ真剣試合! 拙者勝たば有無ござらぬ、源女殿を頂戴いたす!」
「…………」
「なお、この際再度申す、拙者が勝たば赤尾の林蔵を――その林蔵は拙者と同伴、乾児と共にそこへ参ってござる。――関東一の貸元として、猪之松を隷属おさせ下さい!」
「拙者が勝たば高萩の猪之松を――その猪之松儀これより見れば、同じく乾児を引卒して、そこに屯して居るようでござるが、その猪之松を関東一の、貸元として林蔵を乾児に……」
「致させましょう、確かでござる!」
「しからば真剣!」
「白刃の立合い!」
「いざ!」
「いざ!」
 サ――ッと三間あまり、二大剣豪は飛び退ったが、一度に刀を鞘走らせると、火事の光りに今はこの辺り、白昼《ひるま》よりも明るくて、黄金の色を加えて赤色、赤金色の火焔地獄! さながらの中にギラギラと輝く、二本の剣をシ――ンと静め、相青眼に引っ構えた。
 これを遥かに見聞して、驚いたのは林蔵と猪之松で、
(俺らのために先生――師匠が、――師匠同志が切り合ったでは、此方《こちとら》の男がすたって[#「すたって」に傍点]しまう! もうこうなっては遠慮は出来ねえ! 控えていることは出来なくなった!)
 両人ながら同じ心で、同じ心が言葉になり、
「さあ手前達かもう事アねえ、猪之の同勢へ切り込んで、猪之の首をあげっちめえ!」
「さあ野郎共赤尾へ切り込め! 林蔵を仕止めろ仕止めろ!」
 ド――ッとあがった鬨の声!
 ムラムラと両軍走りかかった。
 白刃! 閃き! 悲鳴! 怒声! 仆れる音! 逃げつ追いつ、追いつ逃げつする姿!
 混乱混戦の場となったが、この時|宿《しゅく》もいよいよ混乱! 混乱以上に阿鼻叫喚の焦熱地獄となりまさり火事の焔の熱気に堪えかね、空地へ耕地へ……耕地へ耕地へと、さながら怒濤の崩れる如く、百、二百、三百、四百! 老幼男女家畜までが、この耕地へ逃げ出して来た。
 その人波に揉まれ揉まれて、澄江とお妻とが泳いで来た。
 と、陰惨とした幽鬼の声で、
「澄江殿オ――、お待ちなされ! ……汝お妻ア――遁そうや!」と叫ぶ、陣十郎の声がした。

 逸見多四郎家のここは道場。――
 竹刀《しない》ではない木刀であった。
 要介と多四郎とは構えていた。
 一本勝負!
 そう定められていた。
 二人ながら中段の構え!
 今、シ――ンと静かである。
 かかる試合に見物は無用と、通いの門弟も内門弟も、一切退けてのただ二人だけ! いや他に杉浪之助と、要介の訪問に応待に出た、先刻の若侍とが道場の隅に、つつましく控えて見守っていた。


 澄江もお妻も振り返って見た。
 愛欲の鬼、妄執の餓鬼、殺人鬼、――鬼となった陣十郎が人波を分けて、二人の方へ走って来た。
 血刀が群集の波の上に、火光《ひかり》を受けて輝いている。
(陣十郎に捕らえられたら、妾《わたし》の命は助からない)
 お妻は夢中で悲鳴を上げて走り、
(陣十郎殿に捕らえられたら、妾の躰も貞操も……)
 こう思って澄江も無我夢中で、前へ前へとヒタ走った。
「どうぞお助け下さりませ!」
 無我夢中で走って来た澄江、一挺の駕籠のあるのを見かけて、そこへ駈け付けこう叫んだ。
「お助けいたす! 駕籠の中へ!」
 誰とも知らず叫んだ者があった。
「お礼は後に、事情も後に!」
 こう云って澄江は駕籠の中へ、窮鳥のように身を忍ばせた。
「駕籠やれ!」と又も誰とも知れず叫んだ。
 駕籠がユラユラと宙に上り、街道の方へ舁がれて走り、その後から赧顔長髪の、酒顛童子[#「酒顛童子」は底本では「酒天童子」]さながらの人物が、ニタニタ笑いながら従《つ》いて走った。
 猪之松の屋敷で澄江の躰を、自分の物にしようとして、陣十郎に邪魔をされて、望みを遂げることに失敗した、馬大尽の井上嘉門であった。
「駕籠待て――ッ、遣らぬ! 待て待て待て――ッ!」
 陣十郎は追っかけたが、
「や、こいつ陣十郎! 又現われたか、今度こそ仕止めろ!」と、猪之松の乾児達一斉に、陣十郎を引っ包んだ。
 一方、お妻はその隙を狙い、ひた走りひた走ったが、息切れがして地に仆れた。
 と、そこに刀を下げて、寄せ来る群集に当惑し、左右に避けていた武士がいた。
「お侍さまと見申して、お助けお願いいたします!」
 云い云いお妻は武士の袖に縋った。
「誰じゃ? よし、誰でもよし! 見込まれて助けを乞われた以上、誰であろうと助けつかわす! 参れ!」と云ったがこの武士こそ、秋山要介と太刀を交わし、命の遣り取りをしようとした瞬間、群集の崩れに中をへだてられ、相手の姿を見失ったところの、逸見多四郎その人であった。
「東馬々々、東馬参れ!」
「はい先生! 私はここに!」
「源女殿は? 源女殿は?」
「源女殿は人波にさらわれて……どことも知れずどことも知れず……」
「残念! ……とはいえ止むを得ぬ儀、東馬参れ――ッ!」と刀を振り上げ、遮る群集に大音声!
「道を開け! 開かねば切るぞ!」
 刀の光に驚いて、道を開いた群集の間を、あて[#「あて」に傍点]もなく一方へ一方へ、三人は走った走った走った。
 が、それでも未練あって、
「源女殿オ――、源女殿オ――ッ」と呼ばわった。
 そういう声は聞きながら、永らく世話になってなつかしい、要介の姿を見かけた源女は――逸見多四郎に対しても、丁寧な待遇を受けたので、決して悪感は持っていなかったが、要介に対してはそれに輪をかけた、愛慕の情さえ持っていたので、その方角へ人を掻き分け、この時無二無三に走っていた。
「秋山先生!」とやっと[#「やっと」に傍点]近付き、地へひざまずくと足を抱いた。

10
「源女殿か――ッ!」と秋山要介、これも地面へ思わず膝つき
「逢えた! よくぞ! 参られた! ……杉氏々々!」と嬉しさの声、顫わせて呼んで源女を抱き、
「もう逃がさぬ! どこへもやらぬ! 杉氏々々源女殿を、林蔵の手へ! ……そこで介抱!」
「おお源女殿オ――ッ! よくぞ来られた!」
 駈け寄って来た浪之助、これもなつかしさ[#「なつかしさ」に傍点]に声を亢《たか》ぶらせ、
「いざ源女殿、向こうへ向こうへ! ……先生にもご同道……」
「いやいや俺は逸見多四郎を! ……」
「この混乱、この騒動、見失いました上からは……」
「目つからぬかな。……では行こう」
 この混乱の人渦の中を、阿修羅のように荒れ廻っているのは、澄江を奪われお妻を見失い、猪之松の乾児達に取り巻かれ、切り立てられている陣十郎であった。
 十数人を殺傷し、己も幾度か薄手を受け、さすがの陣十郎も今は疲労! その極にあって眼はクラクラ、足元定まらずよろめくのを、得たりと猪之松の乾児の大勢、四方八方より切ってかかった。
 それをあしらい[#「あしらい」に傍点]、避けつ払いつ――こいつらに討たれては無念残念、どこへなりと一旦遁れようと退く、退く、今は退く!
 ようやく人波の渦より出、追い縋る猪之松の乾児からも遁れ、薮の裾の露じめった草野へ、跚蹣《さんまん》として辿りついた時には、神気全く消耗し尽くした。
(仆れてなろうか! 仆れぬ! 仆れぬ!)
 が、ドッタリ草の上に仆れ、気絶! ――陣十郎は気絶してしまった。
 火事の遠照りはここまでも届いて、死人かのように蒼い顔を、陰影づけて明るめていた。
 修羅の巷は向こうにあったが、ここは寂しく人気なく、秋の季節は争われず、虫の音がしげく聞こえていた。
 と、この境地へ修羅場を遁れ、これも同じく疲労困憊、クタクタになった武士が一人、刀を杖のように突きながら、ヒョロリヒョロリと辿って来た。
「や、死人か、可哀そうに」と呟き、陣十郎の側《そば》へ立った。
 が、俄然躍り上り――躍り上り躍り上り声をあげた。
「陣十郎オ――ッ! 汝《おのれ》であったか! 鴫澤主水が参ったるぞ! 天の与え、今度こそ遁さぬ! 立ち上って勝負! 勝負いたせッ!」
 武士は鴫澤主水であった。
「起きろ起きろ水品陣十郎! 重なる怨み今ぞ晴す! ……起きろ! 立ち上れ! 水品陣十郎!」
 刀を真っ向に振り冠り、起き上ったらただ一討ち! ……討って取ろうと構えたが、陣十郎は動かなかった。
(死んでいるのか?)と疑惑が湧いた。
 手を延ばして額へ触った。
 気絶しているのだ、暖味がある。
(よ――し、しからばこの間に!)
 振り冠った刀を取り直し、胸へ引きつけ突こうとしたが、心の奥で止めるものがあった。
(あなたが高萩の森の中で、気絶しているのを陣十郎の情婦、お妻が助けたではありませんか。……正体もない人間を、敵《かたき》であろうと討つは卑怯、まず蘇生させてその上で)と。
(そうだ)と主水は草に坐り、印籠から薬を取り出した。

恩讐同居


木曽福島の納めの馬市。――
 これは勿論現代にはない。
 現代の木曽の馬市は、九月行なわれる中見《なかみ》の市と、半夏至を中にして行なわれる、おけつげ[#「おけつげ」に傍点]という二つしかない。
 納めの馬市の行なわれたのは、天保末年の頃までであり、それも前二回の馬市に比べて、かなり劣ったものであった。もうこの頃は山国の木曽は、はなはだ寒くて冬めいてさえ居り、人の出もあまりなかったからである。
 とは云え天下の福島の馬市! そうそう貧弱なものではなく、馬も五百頭それくらいは集まり、縁日小屋も掛けられれば、香具師《やし》の群も集まって来、そうして諸国の貸元衆が、乾児をつれて出張っても来、小屋がけをして賭場をひらいた。
 この時集まって来た貸元衆といえば――
 白子の琴次《ことじ》、一柳の源右衛門、廣澤の兵右衛門、江尻の和助、妙義の雷蔵、小金井の半助、御輿の三右衛門、鰍澤《かじかざわ》の藤兵衛、三保松源蔵、藤岡の慶助――等々の人々であり、そこへ高萩の猪之松と、赤尾の林蔵とが加わっていた。
 左右が山で中央が木曽川、こういう地勢の木曽福島は、帯のように細い宿であったが、三家の筆頭たる尾張様の家臣で、五千八百余石のご大身、山村甚兵衛が関の関守、代官としてまかり居り、上り下りの旅人を調べる。で、どうしてもこの福島へは、旅人は一泊かあるいは二三泊、長い時には七日十日と、逗留しなければならなかったので、宿は繁盛を極めていた。尾張屋という旅籠《はたご》があった。
 そこへ何と堂々と、こういう立看板が立てられたではないか!
「秋山要介在宿」と。
 これが要介のやり口であった。
 どこへ行っても居場所を銘記し、諸人に自己の所在を示し、敵あらば切り込んで来い、慕う者あらば訪ねて来いという、そういう態度を知らせたのであった。
 その尾張屋から二町ほど離れた、三河屋という旅籠には、逸見《へんみ》多四郎が泊っていたが、この人は地味で温厚だったので、名札も立てさせずひっそりとしていた。
 さて馬市の当日となった。
 博労、市人、見物の群、馬を買う人、馬を売る人、香具師《やし》の男女、貸元衆や乾児、非常を警める宿役人、関所の武士達、旅の男女――人、人、人で宿《しゅく》は埋もれ、家々の門や往来には、売られる馬が無数に繋がれ、嘶《いなな》き、地を蹴り、噛み合い刎ね合い、それを見て犬が吠え――、声、声、声で騒がしくおりから好天気で日射し明るく、見世物小屋も入りが多く、賭場も盛って賑やかであった。
 そういう福島の繁盛を外に、かなり距たった奈良井の宿の、山形屋という旅籠屋へ、辿りついた二人の武士があった。
 陣十郎と主水であった。
 奥の小広い部屋を二つ、隣同志に取って泊まった。
 二人ながら駕籠で来たのであったが、駕籠から現われた陣十郎を見て、
「こいつは飛んだお客様だ」と、宿の者がヒヤリとした程に、陣十郎は憔悴してい、手足に幾所か繃帯さえし、病人であり、怪我人であることを、むごたらしく鮮やかに示していた。
 夕食の膳を引かしてから、主水は陣十郎の部屋へ行った。
「どうだ陣十郎、気分はどうだ?」
「悪い、駄目だ、起きられぬ」
 床を敷かせ、枕に就き、幽かに唸っていた陣十郎は、そう云って残念そうに歯を噛んだ。
「これではお前と立ち合い出来ぬよ」


「まあ可《い》い、ゆっくり養生するさ」
 主水はそう云って気の毒そうに見た。
「快癒してから立ち合おう」
「それよりどうだな」と陣十郎は云った。
「こういう俺を討って取らぬか」
「そういうお前を討つ程なら、あの時とうに討って居るよ」
「あの時討てばよかったものを」
「死人を切ると同じだったからな」
「それでも討てば敵討《かたきうち》にはなった」
「誉にならぬ敵討か」
「ナーニ見事に立ち合いまして、討って取りましたと云ったところで、誰一人疑う者はなく、誉ある復讐ということになり、立身出世疑いなしじゃ」
「心が許さぬよ、俺の良心が」
「なるほどな、それはそうだろう。……そういう良心的のお前だからな」
「お前という人間も一緒に住んで見ると、意外に良心的の人間なので、俺は少し驚いている」
「ナーニ俺は悪人だよ」
「悪人には相違ないさ。が、悪人の心の底に、一点強い善心がある。――とそんなように思われるのさ」
「そうかなア、そうかもしれぬ。いやそうお前に思われるなら、俺は実に本望なのだ。……俺は一つだけ可《い》いことをしたよ。……いずれゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]話すつもりだが」
「話したらよかろう、どんなことだ?」
「いやまだまだ話されぬ。もう少しお前の気心を知り、そうして俺の性質を、もう少しお前に知って貰ってからそうだ知って貰ってからでないと、話しても信じて貰われまいよ」
「実はな」と主水も真面目の声で、
「実はな俺もお前に対し、その中《うち》是非とも聞いて貰いたいこと、話したいことがあるのだよ。が、こいつも俺という人間を、もっとお前に知って貰ってからでないと……」
「ふうん、変だな、似たような話だ。……が、俺はお前という人間を、かつて疑ったことはないよ。俺のような人間とはまるで[#「まるで」に傍点]違う。お世辞ではない、立派な人間だ」
「お前だってそうだ、可《い》いところがある」
 二人はしばらく黙っていた。
 木曽街道の旅籠の部屋だ、襖も古び障子も古び、畳も古び、天井も古び、諸所に雨漏りの跡などがあって、暗い行燈でそれらの物象が、陰惨とした姿に見えていた。
 乱れた髷、蒼白の顔、――陣十郎のそういう顔が、夜具の襟から抽《ぬきん》でている。
 それは化物絵を思わせるに足りた。
「おい」と陣十郎は感傷的の声で、
「俺とお前は血縁だったなア」
「…………」
 主水は無言で頷いた。
「俺とお前は従々兄弟《またいとこ》だったんだなア」
「…………」
「だから互いに敵同志になっても、……」
「…………」
「こんな具合に住んでいられるのだなア」
「そうだよ」と主水も感傷的に云った。
「そうだよ俺達は薄くはあるが、縁つづきには相違ないのだ」
 ここで又二人は黙ってしまった。
 行燈の光が暗くなった。
 燈心に丁字でも立ったのであろう。
「寒い」と陣十郎は呟いた。
「木曽の秋の夜……寒いのう。……風邪でも引いては大変だ。わしの夜具を掛けてやろう」
 主水は云って自分の部屋へ立った。


 追分宿の大乱闘、その時仆れた陣十郎を目つけ、主水は討って取ろうとしたが、気絶している人間は討てぬ。で蘇生させたところ、陣十郎は無数の負傷、立ち上る気力もなくなっていた。
 しかし彼は観念し、草に坐って首差し延べ、神妙に討って取られようとした。
 これがかえって主水の心を、同情と惻隠とに導いて、討って取ることを出来なくした。
 で、介抱さえしてやることにした。
 旅籠へ連れて来て医師にかけた。
 それにしてもどうしてそんな負傷者を連れて、福島などへ行くのであろう?
 こう陣十郎が云ったからである。
「井上嘉門という馬大尽が、博徒猪之松の群にまじり、あの夜乱闘の中にいた。そこへ澄江殿が逃げ込まれた。と、嘉門が駕籠に乗せ、福島の方へ走らせて行った。その以前からあの嘉門め、澄江殿に執着していた。急いで行って取り返さずば、悔いても及ばぬことになろう。……これにはいろいろ複雑の訳と、云うに云われぬ事情とがある。そうして俺はある理由によって、その訳を知っている。が今は云いにくい。ただ俺を信じてくれ。俺の言葉を信じてくれ。そうして一緒に木曽へ行って、澄江殿を取り返そう」
 ――で、二人は旅立ったのであった。
 主水にしてからが澄江の姿を、追分の宿で見かけたことを、不思議なことに思っていた。馬大尽井上嘉門のことは、上尾宿の旅籠の番頭から聞いた。
 しかし、澄江と嘉門との関係――何故嘉門が駕籠に乗せて、澄江をさらって行ったかについては、窺い知ることが出来なかった。
 陣十郎は知っているらしい。
 詳しい事情を知っているらしい。
 が、その陣十郎はどうしたものか、詳しく話そうとはしないので、強いて訊くことも出来なかった。
 とはいえ澄江がそんな事情で、嘉門に連れられて行ったとすれば、急いで木曽へ出張って行って、澄江を奪い返さなければならない。
 ――で、旅立って来たのである。
 二人は翌日山形屋を立って、旅駕籠に身を乗せて、福島さして歩ませた。
 鳥居峠へ差しかかった。
 ここは有名な古戦場で、かつ風景絶佳の地で、芭蕉翁なども句に詠んでいる。
[#ここから3字下げ]
雲雀《ひばり》より上に休らう峠かな
[#ここで字下げ終わり]
 木曽の五木と称されている、杜松《ねず》や扁柏《ひのき》や金松《かさやまき》[#ルビの「かさやまき」はママ]や、花柏《さわら》や、そうして羅漢松《おすとのろう》[#ルビの「おすとのろう」はママ]などが、鬱々蒼々と繁ってい、昼なお暗いところもあれば、カラッと開けて急に眼の下へ、耕地が見えるというような、そういう明るいところもあった。
 随分急の上りなので、雲助はしきりに汗を拭いた。
 主水は陣十郎の容態を案じた。
(窮屈の駕籠でこんな所を越して、にわかに悪くならなければよいが)
 で、時々駕籠を止めて、客をも駕籠舁《かごかき》をも休ませた。
 峠の中腹へ来た時である、
「駕籠屋ちょっと駕籠をとめろ」
 突然陣十郎はそう云った。
「おい主水、景色を見ようぜ」
「よかろう」と主水も駕籠から下りた。
「歩けるのか、陣十郎」
「大丈夫だ。ボツボツ歩ける」
 陣十郎は先に立って、森の方へ歩いて行った。


 明応《めいおう》年間に木曽義元、小笠原氏と戦って、戦い勝利を得たるをもって、華表《とりい》を建てて鳥居峠と呼ぶ。
 その鳥居の立っている森。――森の中は薄暗く、ところどころに日漏れがして、草に斑紋《まだら》を作ってはいたが、夕暮のように薄暗かった。
 そこを二人は歩いて行った。
 紅葉した楓《かえで》が漆《うるし》の木と共に、杉の木の間に火のように燃え、眩惑的に美しかったが、その前までやって来た時、
「エ――イ――ッ」と裂帛の声がかかり、木漏れ陽を割って白刃一閃!
「あッ」
 主水だ!
 叫声を上げ、あやうく飛び退き抜き合わせた!
 悪人の本性に返ったらしい! 見よ、陣十郎は負傷の身ながら、刀を大上段に振り冠り、繃帯の足を前後に踏み開き、大眼カッと見開いて、上瞼へ瞳をなかば隠し、三白眼を如実に現わし、主水の眼をヒタと睨み、ジリリ、ジリリと詰め寄せて来た。
 殺気!
 磅磚《ぼうばく》!
 宛《えん》として魔だ!
 気合に圧せられ殺気に挫かれ、主水はほとんど心とりのぼせ、声もかけられずジリリジリリと[#「ジリリジリリと」は底本では「ヂリリヂリリと」]、これは押されて一歩一歩後へ後へと引き下った。
 間!
 静かにして物凄い、生死の境の間が経った。
 と、陣十郎の唇へ酸味のある笑いが浮かんで来た。
「駄目だなア主水、問題にならぬぞ。それでは到底俺は討てぬ」
「…………」
「人物は立派で可《い》い人間だが、剣道はからきし[#「からきし」に傍点]物になっていない」
「…………」
「刀をひけよ、俺も引くから」
 陣十郎は数歩下り、刀を鞘に納めてしまった。
 二人は草を敷いて並んで坐った。
 小鳥が木から木へ渡り、囀りの声を立てていた。
「主水、もっと修行せい」
「うん」と主水は恥かしそうに笑い、
「うん、修行するとしよう」
「俺が時々教えてやろう」
「うん、お前、教えてくれ」
「俺の創始した『逆ノ車』――こいつを破る法を発明しないことには、俺を討つことは出来ないのだがなア」
「とても俺には出来そうもないよ。『逆ノ車』を破るなんてことは」
「それでは俺を討たぬつもりか」
「きっと討つ! 必ず討つ!」
 主水は烈しい声で云い、鋭い眼で陣十郎を睨んだ。
 それを陣十郎は見返しながら、
「討てよ、な、必ず討て! 俺もお前に討たれるつもりだ。……が、それには『逆ノ車』を……」
 主水は俯向いて溜息をした。
 二人はしばらく黙っていた。
 森の外の明るい峠道を、二三人の旅人が通って行き、駄賃馬の附けた鈴の音が、幽かながらも聞こえてきた。
「『逆ノ車』使って見せてやろうか」
 ややあって陣十郎はこう云った。
「うむ、兎も角も使って見せてくれ」
「立ちな。そうして刀を構えな」
 云い云い陣十郎は立ち上った。
 そこで主水も立ち上り、云われるままに刀を構えた。
 と、陣十郎も納めた刀を、又もソロリと引き抜いたが、やがて静かに中段につけた。


「よいか」と陣十郎が云った途端、陣十郎の刀が左斜に、さながら水でも引くように、静かに、流暢に、しかし粘って、惑わすかのようにスーッと引かれた。
 何たる誘惑それを見ると、引かれまい、出まいと思いながら、その切先に磁気でもあって、己が鉄片ででもあるかのように、主水は思わず一歩出た。
 陣十郎の刀が返った。
 ハ――ッと主水は息を呑んだ。
 瞬間怒濤が寄せるように、大下手切り! 逆に返った刀!
 見事に胴へダップリと這入った。
「ワッ」
「ナーニ切りゃアしないよ」
 もう陣十郎は二間の彼方へ、飛び返っていて笑って云った。
「どうだな主水、もう一度やろうか」
「いや、もういい。……やられたと思った」
 主水は額の冷汗を拭いた。
 また二人は並んで坐った。
「どうだ主水、破れるか?」
「破るはさておいて防ぐことさえ……」
「防げたら破ったと同じことだ」
「うん、それはそうだろうな」
「どこがお前には恐ろしい?」
「最初にスーッと左斜へ……」
「釣手の引のあの一手か?」
「あれにはどうしても引っ込まれるよ」
「次の一手、柳生流にある、車ノ返シ、あれはどうだ?」
「あれをやられるとドキンとする」
「最後の一手、大下手切り! これが本当の逆ノ車なのだが、これをお前はどう思う?」
「ただ恐ろしく、ただ凄じく、されるままになっていなければならぬよ」
「これで一切分解して話した、……そこで何か考案はないか?」
「…………」
 無言で主水は考えていた。
 と、陣十郎が独言のように云った。
「すべての術は単独ではない。すべての法は独立してはいない。……『逆ノ車』もその通りだ。『逆ノ車』そればかりを単独に取り上げて研究したでは、とうてい破ることは出来ないだろう。……その前後だ、肝心なのは! ……どういう機会に遭遇した時『逆ノ車』を使用するか? ……『逆ノ車』を使う前に、どうそこまで持って来るか? ……こいつを研究するがいい。……こいつの研究が必要なのだ」
 ここで陣十郎は沈黙した。
 主水は熱心に聞き澄ましていた。
 そう陣十郎に云われても、主水には意味が解らなかった。いやそう云われた言葉の意味は、解らないことはなかったが、それが具体的になった時、どうなるものかどうすべきものか、それがほとんど解らなかった。
 で、いつ迄も黙っていた。
「澄江殿はどうして居られるかのう」
 こう如何にも憧憬《あこが》れるように、陣十郎が云いだしたのは、かなり間を経た後のことであった。
 異様な声音に驚いて、主水は思わず陣十郎を見詰めた。
 と、陣十郎の頬の辺りへ、ポッと血の気が射して燃えた。
(どうしたことだ?)と主水は思った。
 が、直ぐに思い出されたことは、陣十郎が以前から、澄江を恋していたことであった。
(いまだに恋しているのかな)
 こう思うと不快な気持がした。
 それと同時に陣十郎の情婦? お妻のことが思い出された。
 卒然として口へ出してしまった。
「お妻殿はどうして居られることやら」
「ナニお妻?」と驚いたように、陣十郎は主水を見詰めた。


「お妻! ふふん、悪婆毒婦! あんな女も少ないよ」
 やがて陣十郎は吐き出すように云った。
 追分宿の夜の草原で、後口の悪い邂逅をした。――そのことを思い出したためであった。
「そうかなア」と主水は云ったが主水にはそう思われなかった。
 彼女の執拗なネバネバした恋慕、どこまでも自分に尽くしてくれた好意――一緒にいる中は迷惑にも、あさましいものにも思われたが、さてこうして離れて見れば、なつかしく恋しく思われるのであった。
(が、そのお妻とこの俺とが、夫婦ならぬ夫婦ぐらし、一緒に住んでいたと知ったら、陣十郎は何と思うであろう?)
 夫婦のまじわり[#「まじわり」に傍点]をしなかったといかに弁解したところで、若い女と若い男とが、一緒に住んでいたのである。清浄の生活など何で出来よう、肉体的の関係があったと、陣十郎は思うであろう――主水にはそんなように思われた。
 それが厭さに今日まで、主水は陣十郎へ明かさないのであった。
 とはいえいずれは明かさなければならない――そこで奈良井の旅籠屋でも、聞いて貰いたいことがある、云わなければならないことがあると、そういう意味のことを云ったのであった。
 似たような思いにとらえられているのが水品陣十郎その人であった。
 澄江と夫婦ならぬ夫婦ぐらし、それをして旅をさえつづけて来た。が、そう打ちあけて話したところで、肉体のまじわり[#「まじわり」に傍点]なかったと、何で主水が信じよう。暴力で思いを遂げたぐらいに、まず思うと思ってよい。
 打ち明けられぬ! 打ち明けられぬ!
 で、今だに打ち明けないのであったが、早晩は話してしまわねば、自分として心苦しい。そこでこれも奈良井の宿で、聞いて貰いたいことがある、話さねばならぬことがあると、主水に向かって云ったのであった。
 二人はしばらく黙っていた。
 互いに一句云ったばかりで、澄江について、お妻に関して、もう云おうとはしなかった。
 触れることを互いに避けているからである。

 木曽福島へやって来たものの、逸見多四郎は馬市そのものに、何の関心も執着もなく、執着するところは埋ずもれた巨宝、それを手に入れることであった。
「お妻殿」と旅籠の座敷で多四郎は優しく微笑して云った。
「木曽の奥地西野郷へ、行って見ようではござらぬか」
「はいはいお供いたしますとも」
 お妻は嬉しそうにそう云った。
「其方《そなた》は健気で話が面白い。同行すると愉快でござろうよ」
「まあ殿様、お世辞のよいこと」
「東馬、其方《そち》も行くのだぞ」
「は、お供いたします」
 こんな塩梅《あんばい》に二人を連れて、多四郎は福島の宿を立った。
 奥地の木曽の風景を探る。こう二人には云ったものの、その実は奥地の西野郷に、馬大尽事井上嘉門がいる。そこに巨宝があるかもしれない。有ったらそれを手に入れてと、それを目的に行くのであった。
 木曽川を渡ると渡った裾から、もう険しい山路であった。
 急ぐ必要の無い旅だったので、三人は悠々と辿って行った。

馬大尽の屋敷


 その同じ日のことであった、旅籠《はたご》尾張屋の奥の部屋で、秋山要介が源女と浪之助とへ、
「さあ出立だ。いそいで用意! 西野郷へ行くのだ、西野郷へ行くのだ!」
 急き立てるようにこう云った。
 要介は源女を取り返して以来、そうして源女と福島へ来て以来、源女の口からこういう事を聞いた、
「妾《わたくし》だんだん思い出しました。大森林、大渓谷、大きな屋敷、無数の馬、酒顛童子のような老人のいた所、そこはどうやら福島の、奥地のように思われます」と。
 それに福島へ来て以来、林蔵の[#「林蔵の」は底本では「林臓の」]乾児《こぶん》をして逸見《へんみ》多四郎の起居を、絶えず監視させていたが、それから今しがた通知があった。逸見多四郎が供二人を連れて、西野郷さして発足したと。
 そこでこんなように急き立てたのであった。
 三人は旅籠を出た。
(西野郷には馬大尽事、井上嘉門という大金持が、千頭ほどの馬を持って、蟠踞《ばんきょ》[#ルビの「ばんきょ」は底本では「はんきょ」]しているということだ。それが源女のいう所の、酒顛童子のような老人かも知れない)
 要介はそんなことを思った。
 さて三人は歩いて行く。
 西野郷は今日の三岳村と、開田村とに跨がっており、木曽川へ流れ込む黒川の流域、貝坪、古屋敷、馬橋、ヒゲ沢渡、等々の小部落を点綴《てんてつ》したところの、一大地域の総称であって、その中には大森林や大渓谷や瀧や沼があり、そのずっと奥地に井上嘉門の、城砦のような大屋敷が、厳然として建っているのであった。
 今日の歩みをもってすれば、福島から西野郷へは一日で行けるが、文政年間の時代においては、二日の日数を要するのであった。
 分け上る道は険しかったが、名に負う木曽の奥地の秋、その美しさは類少なく、木々は紅葉し草は黄ばみ、木の実は赤らみ小鳥は啼きしきり、空は澄み切って碧玉を思わせ、驚嘆に足るものがあり、そういう境地を放牧されている馬が、あるいは五頭あるいは十頭、群をなし人を見ると懐かしがって、走って来ては鼻面を擦りつけた。
「妾《わたし》、だんだん思い出します」
 源女は嬉しそうに云い出した。
「たしかに妾こういう所を、山駕籠に乗せられ揺られながら、以前に通ったように思います」
「そうでござるか、それは何より……源女殿には昔の記憶を、だんだん恢復なされると見える」
 そう云って要介も喜んだ。
 歩きにくい道を歩きながら、三人は奥へ進んで行った。
 その日も暮れて夜となった。
 その頃要介の一行は、一軒の杣夫《そま》の家に泊まっていた。
 このような土地には旅籠屋などはなく、旅する人は杣夫や農夫に頼み、その家へ泊まることになっていた。
 大きな囲炉裏を囲みながら、要介は杣夫の家族と話した。
「西野郷の馬大尽、井上嘉門殿のお屋敷は、大したものでござろうの?」
「へえ、そりゃア大したもので、ご門をお入りになってから、主屋の玄関へ行きつくまでに、十町はあるということで」
「それはどうも大したものだな」
「嘉門様お屋敷へ参られますので?」
「さよう、明日《あした》行くつもりじゃ」
「あそこではお客様を喜ばれましてな、十日でも二十日でも置いてくれます」


「大家のことだからそうであろう」
「幾日おいでになろうとも、ご主人のお顔を一度も見ない、……見ないままで帰ってしまう……そういうことなどザラにあるそうで」
「ほほう大したものだのう」
 翌日一行は杣夫の家を立ち、その日の夜には要介達は、井上嘉門家の客になっていた。
 客を入れるために造ってある、幾軒かある別棟の家の、その一軒に客となっていた。
 想像以上噂以上に、嘉門の屋敷が豪壮であり、その生活が雄大なので、さすがの要介も胆を潰した。
 いうところの大家族主義の典型《てんけい》のようなものであった。
 西野郷の井上嘉門と、こう一概に人は云っていたが、行って見れば井上嘉門の屋敷は、西野郷からは更に数里、飛騨の国に寄っている、ほとんど別個の土地にあり、その土地から西野郷へまで、領地が延びているのだと、こう云った方がよいのであった。
 山の大名!
 まさにそうだ。
 周囲三里はあるであろうか、そういう広大な地域を巡って、石垣と土牆《どしょう》と巨木とで、自然の城壁をなしている(さよう将に城壁なのである)その中に無数の家々があり田畑があり丘があり、林があり、森があり、川があり、沼があり、農家もあれば杣夫の家もあり、空地では香具師《やし》が天幕《テント》[#ルビの「テント」は底本では「テン」]を張って見世物を興行してさえいた。
 しかもそれでいてその一廓は、厳然として嘉門の屋敷なのであった。
 つまり嘉門の屋敷であると共に、そこは一つの村であり、城廓都市であるとも云えた。
 馬や鹿や兎や狐や、牛や猿などが、林や森や、丘や野原に住んでいた。
 到る所に厩舎《うまや》があった。
 乞食までが住居していた。
 嘉門の住んでいる主屋なるものは、一体どこにあるのだろう?
 ほとんど見当がつかない程であった。
 が、その屋敷はこの一劃の奥、北詰の地点にあるのであって、その屋敷にはその屋敷に属する、石垣があり門があった。
 要介に杣夫が話した話、「ご門をお入りになってから、主屋の玄関へ行きつくまでに、十町はあるということで」と。
 これはこの門からのことなのであった。
 が、総体の嘉門の屋敷、周囲三里あるというこの屋敷の、雄大極まる構えと組織は、何も珍しいことではなく、昭和十七年の今日にあっても、飛騨の奥地や信州の奥地の、ある地方へ行って見れば、相当数多くあるのである。新家《しんや》とか分家《ぶんけ》とかそういう家を、一つ所へ八九軒建て、それだけで一郷を作り、その家々だけで団結し、共同の収穫所《とりいれしょ》や風呂などを作り、祭葬冠婚の場合には、その中での宗家へ集まり、酒を飲み飯を食う。
 白川郷など今もそうである。
 で、嘉門家もそれなのであるが、いかにも結構が雄大なので、驚かされるばかりなのであった。
 宗家の当主嘉門を頭に、その分家、その新家、分家の分家、新家の新家、その分家、その新家――即ち近親と遠縁と、そうしてそういう人々の従僕――そういう人々と家々によって、この一劃は形成され、自給自足しているのであった。
 要介達の泊まっている家は、宗家嘉門の門の中の平屋建ての一軒であった。
 さてその夜は月夜であった。
 その月光に照らされて、二梃の旅駕籠が入って来た。


 二梃の駕籠の着けられた家も、客を泊めるための家であったが、要介達の泊まっている家とは、十町ほども距たっていた。
 主水と陣十郎とが駕籠から出た。
 そうして家の中へ消えて行った。
 こういう大家族主義の大屋敷へ来れば、主人の客、夫婦の客、支配人の客、従僕の客、分家の客、新家の客と、あらゆる客がやって来るし、ただお屋敷拝見とか、一宿一飯の恩恵にとか、そんな名義で来る客もあり、客の種類や人品により、主人の客でも主人は逢わず、代わりの者が逢うことがあり、従僕の客でも気が向きさえすれば、主人が不意に逢ったりして、洵《まこと》に自由であり複雑であったが、感心のことには井上嘉門は、どんな粗末な客であっても、追い返すということはしなかったそうな。有り余る金があるからであろうが、食客を好む性質が、そういうことをさせるのであった。
 要介は心に思うところあって、
「有名なお屋敷拝見いたしたく、かつは某《それがし》事武術修行の、浪人の身にござりますれば、数日の間滞在いたし、お家来衆にお稽古つけたく……」
 とこういう名目で泊まり込み、陣十郎と主水とは、
「旅の武士にござりまするが、同伴の者この付近にて、暴漢数名に襲われて負傷、願わくば数日滞在し、手あて[#「あて」に傍点]致したく存じます」
 と、こういう口実の下に泊まったのであった。
 陣十郎は猪之松の屋敷で、嘉門を充分知って居り、知って居るばかりか嘉門を襲った。――そういう事情があるによって、絶対に嘉門には逢えなかった。
 顔を見られてさえ一大事である。
 で、顔は怪我したように、繃帯で一面に包んでいた。
 逸見多四郎が堂々と、
「拙者は武州小川の郷士、逸見多四郎と申す者、ご高名を知りお目にかかりたく、参上致しましてござります」
 と、正面から宣《なの》って玄関へかかり、丁寧に主屋へ招じ入れられたのも、同じ日のことであり、お妻も東馬も招じ入れられた。
 さて月のよい晩であった。
 要介は源女と浪之助を連れてブラリと部屋から戸外へ出た。
 この広大の嘉門の屋敷の、大体の様子を見て置こうと、こう思って出て来たのであった。
 林のような植込みの中に、ポツリポツリと幾軒とない、立派な屋敷が立っていて、もう夜も相当更けていたからか、いずれも戸締り厳重にし、火影など漏らしてはいなかった。
 と、三人の歩いて行く行手を、二人の武士が歩いていた。
 この家へ泊まっている客であろう。
 そう思って要介は気にも止めなかった。
 が、そこは人情で、自分もこの家の客であり、先方の二人も客であるなら、話して見たいとこんなように思い、その後をソロソロとつけ[#「つけ」に傍点]て行った。
 植込を抜け幾軒かの屋敷の、前を通ったり横を通ったりして、大略《おおよそ》五六町も歩いたであろうか、その時月夜の空を摩して、一際目立つ大屋敷が、その屋敷だけの土塀を巡らし、その屋敷だけの大門を持って、行手に堂々と聳えていた。
(これが嘉門の住居だな。いわば本丸というやつだ。いやどうも広大なものだ)
 要介はほとほと感に堪えた。


 先へ行く二人の客らしい武士も、その屋敷の広大なのに、感嘆をしているのであろう、しばし佇んで眺めていたが、土塀に添って右の方へ廻った。
 要介たちも右の方へ廻った。
 と、二人のその武士達は、土塀の前の一所へ立って、しばらく何やら囁いていたが、やがて土塀へ手をかけると、ヒラリと内へ躍り込んだ。
「おや」
「はてな」
 と云い要介も、浪之助も声をあげた。
「先生、あいつら変ですねえ」
「客ではなくて泥棒かな」
 二人は顔を見合わせた。
 と、先刻から物も云わず、熱心に四辺《あたり》を見廻したり、深く物思いに沈んだりして、様子を変えていたお組の源女が、この時物にでも憑かれたような声で、
「おお妾《わたし》は思い出した。この屋敷に相違ない! 妾が以前《まえかた》送られて来て、酒顛童子のようなお爺さんに、恐ろしい目に逢わされた屋敷! それはここだ、この屋敷だ! ……この屋敷だとするとあの[#「あの」に傍点]地獄は――地獄のように恐ろしく、地獄のようにむごたら[#「むごたら」に傍点]しく、……※[#歌記号、1-3-28]まぐさの山や底無しの、川の中地の岩窟《いわむろ》の……その地獄、その地獄は、どちらの方角だったかしら? ……もう解《わか》る! 直ぐ解る! ……でもまだ解らない、解らない! ……そこへ妾はやられたんだ! そこで妾は気絶したんだ! ……」
 云い云い源女は右を指さしたり、左を指さしたりした。

 土塀を乗り越えた二人の武士、それは主水と陣十郎とであった。鳥居峠から駕籠に乗り、薮原から山へかかり、この日この屋敷へ来た二人であった。
 彼等二人の主たる目的は、井上嘉門に攫《さら》われた澄江を、至急に取り返すことにあった。
 遅れてもしも澄江の躰に――その貞操に傷でもついたら、取り返しのつかぬことになる。
 そこでこの屋敷へ着くや否や、負傷の躰も意に介せず、陣十郎は陣十郎で、その奪還の策を講じ、主水は主水で策を講じたが、これと云って妙案も浮かんで来ず、こうなっては仕方がない、嘉門の主屋へ忍び込み、力に訴えて取り返そうと、さてこそ揃って忍び込んだのであった。
 忍び込んで見てこの主屋だけでも洵《まこと》に広大であることに、驚かざるを得なかった。
 百年二百年経っているであろうと、そう思われるような巨木が矗々《すくすく》と、主屋の周囲に聳えていて、月の光を全く遮り、四辺《あたり》を真の闇にしてい、ほんの僅かの光の縞を、木間からこぼしているばかりであった。ところどころに石燈籠が道標《みちしるべ》のように立っていて、それがそれのある四辺だけをぽっと明るくしているばかりであった。
 主屋の建物はそういう構えの、遥か向こうの中央にあったが、勿論雨戸で鎧われているので、燈火など一筋も漏れて来なかった。
 と、拍子木の音がした。
 夜廻りが廻って来たらしい。
 二人は木立の陰へ隠れた。
 拍子木の音は近付いて来た。
 と、不意に足を止めたが、
「これ、誰じゃ、そこにいるのは?」
 一踴!
「わッ」
 一揮!
 寂寥!
「おい、陣十郎切ったのか?」
「いや峯打ちだ。殺してはうるさい」


 なお二人は先へ進んで行った。
 と、行手から男女らしいものが、話しながら来る気勢《けはい》がした。
 そこで二人は木陰へかくれた。
 男女の声は近寄って来たが、数間へだてた地点まで来ると、
「其方《そなた》あちらへ……静かにしておいで。……ちと変だ……何者かが……」
 こういう男の声がして、しばらくそれからヒッソリしていたが、やがておちついた歩き方で、歩み寄って来る気勢がし、
「これ誰じゃ、そこに居るのは?」と咎める威厳のある声がした。
 主水も陣十郎も物云わず、息を殺してじっと[#「じっと」に傍点]していた。
「賊か、それとも……賊であろう。……身遁してやる、早く立ち去れ」
 声の様子でその人物が、武士であることには疑いなかった。
 主水の耳へ口を寄せ、陣十郎は囁いた。
「俺がやる。お前は見て居れ……ちと彼奴《あいつ》手強いらしい」
「うむ」と主水は頷いた。
 陣十郎はソロッと出た。
 既に刀は抜き持っている。
 それを暗中で上段に構え、一刀に討ち取ろうと刻み足して進んだ。
「来る気か」と先方の男が云った。
「可哀そうに……あったら命を……失わぬ先に逃げたがよかろう」
 あくまでも悠然とおちついていた。
 陣十郎はなお進んだ。
 勿論返辞などしなかった。
「そうか」と先方の武士が云った。
「どうでも来る気か、止むを得ぬの。……では来い!」と云って沈黙した。
 疾風《はやて》! 宛然《さながら》! 水品陣十郎! 二つになれと切り込んだ。
 が、春風に靡く柳條! フワリと身を反わした一瞬間、引き抜いた刀で横へ払った武士!
 陣十郎はあやうく飛び退き、大息を吐き身を固くした。
 何たる武士の剣技ぞや!
 品位があってふくらみ[#「ふくらみ」に傍点]があって、真に大家の業であった。
(ふ――ん)と陣十郎は感に堪え、また恐ろしくも思ったが、
(ナーニ、こうなりゃこっちも必死、必勝の術で「逆ノ車」で……)
 見やがれとばかり中段に構え、闇の大地をジリジリと[#「ジリジリと」は底本では「ヂリヂリと」]刻み、除々にせり[#「せり」に傍点]詰め進んで行ったが、例の如くに水の引くように、スーッと刀を左斜めに引き、すぐに柳生の車ノ返シ、瞬間を入れず大下手切り!
 が、
 鏘然!
 太刀音があって……
 美事に払われ引っ外され、続いて叫ぶ武士の声がした。
「『逆ノ車』! さては汝《おのれ》、陣十郎であったか、水品《みずしな》陣十郎! ……拙者は逸見多四郎じゃ! ……師に刃向こうか、汝悪逆!」
「あッ! ……しまった! ……主水逃げろ!」
 木間をくぐって盲目滅法に、逃げ出した陣十郎の後につづき、主水も逃げて闇に没した。
「まあ陣十郎さんに主水さん!」
 すぐに女の驚きの声が、逸見多四郎の背後《うしろ》から聞こえた。
「お妻殿ご存じか?」
「はい。……いいえ。……それにしても……」
「それにしても、うむ、それにしても、あの恐ろしい悪剣を……『逆ノ車』をどうして破ったか?」
 呟き多四郎は考え込んだ。
(それにしても)とお妻も考えた。(どうして陣十郎と主水さんが、一緒になんかいたのだろう?)


 敵同士の主水と陣十郎が、一緒にいるということが、お妻には不思議でならなかった。
(主水さん、それでは人違いであろうか?)
 そうとすれば何でもなかった。
 世には同名の異人がある。
 人違いであろう、人違いであろう!
 そう思うとお妻にはかえって寂しく、やはり今の主水さんが、恋しい主水さんであってくれて、自分の身近にいてくれる――そうあって欲しいように思われるのであった。
 恐ろしいは陣十郎の居ることであった。
(逢ったら妾ア殺されるだろう)
 追分宿の乱闘で、殺されようとして追い廻されたことが、悪寒となって思われて来た。
 ポンと多四郎は手を拍った。
「解った! 闇だからよかったのだ。……それで『逆ノ車』が破れたのだ。……では昼なら? 昼破るとすると?」
 じっと考えに打ち沈んだ。
「ナ――ンだ」とややあって多四郎は云った。「ナ――ンだ、そうか、こんなことか! ……こんな見易い理屈《こと》だったのか! ……よし、解った、これで破った、陣十郎の『逆ノ車』俺においては見事に破った!」
 主屋に招じ入れられたが、嘉門とは未だ逢わなかった。退屈なので夜の庭の、様子でも見ようとしてお妻をつれて、ブラリと出て来た多四郎であった。
 それが偶然こんなことから、日頃破ろうと苦心していた、「逆ノ車」の悪剣を易々と破ることが出来たのである。
 そのコツ法を知ったのである。
(よい事をした、儲け物だった)
 そう思わざるを得なかった。

 嘉門が奥の豪奢な部屋で、澄江を前にしネチネチした口調で、この夜この時話していた。
「不思議なご縁と申そうか、変わったご見と申そうか、高萩でお逢いしたお前さまと、追分宿でまたお逢いし、とうとう私の部屋まで参られ、こうゆっくりとお話が出来る、妙なものでござりますな」
 ネチリネチリと云うのであった。
 古法眼《こほうがん》の描いた虎溪三笑、その素晴らしい六枚折りの屏風が無造作に部屋の片隅に、立てられてある一事をもってしても、部屋の豪奢が知れようではないか。
 座には熊の皮が敷きつめられてあり、襖の取手の象嵌などは黄金と青貝とで出来ていた。
「それにいたしましても高萩では、とんだ無礼いたしましたのう。ハッ、ハッ、とんだ無礼を! ……が、あいつは正直のところ、私の本意ではなかったので。いかに私が田夫野人でも、何で本気で婦人に対し、あのような所業に及びましょうぞ。あれは高萩の猪之松どんの乾児衆のやった仕事なので。ただ私はゆきがかりで、そいつをご馳走にあずかろうと、心掛けたばかりでございますよ。が、それさえ不所存至極! そこで平にあやまります。何卒ご用捨下さりませ……さてこれで以前《むかし》のことは、勘定済みとなりました。次は将来《これから》のご相談で。……ところでちょっとご相談の前に、申さねばならぬことがありますのでな。……」


 ここで嘉門は莨《たばこ》を喫《の》んだ。
 持ち重りするような太い長い、銀の煙管《きせる》を厚い大きい、唇へくわえてパクリと喫《す》い、厚い大きい唇の間から、モクリモクリと煙を吐いた。
 どうしても蝦蟇が空に向かって、濛気を吐くとしか思われない。
「何かと云いますに私という人間、一旦やろうと思い立った事は、必ずやり通すということで!」
 うまそうに莨を一喫みすると、そう嘉門はネットリと云った。
 さよう、嘉門はネットリと云った。
 が、そのネットリとした云いぶりは、尋常一様の云いぶりではなく、馬飼の長、半野蛮人の、獰猛敢為の性質を見せた、ゾッとするような云いぶりなのであった。
「では私今日只今、どんなことをやろうと思っているかというに、澄江様とやらいうお前さまを、よう納得させた上で、私の心に従わせる! ……ということでござりますじゃ」
 云って嘉門は肩にかかっている、その長髪をユサリと振り、ベロリと垂れている象のような眼を、カッと見開いて澄江を見詰めた。
 澄江はハ――ッと息を飲んだ。
 その澄江はもう先刻《さっき》から、観念と覚悟とをしているのであった。
 思えば数奇の自分ではある! ……そう思われてならなかった。
 上尾街道で親の敵《かたき》と逢った。討って取ろうとしたところ、博労や博徒に誘拐《かどわか》された。そのあげく[#「あげく」に傍点]に馬飼の長の、人身御供に上げられようとした。と敵に助けられた。親の敵の陣十郎に! ……これだけでも何という、数奇的の事件であろう。しかもその上その親の敵に、親切丁寧にあつかわれ、同棲し旅へまで出た。夫婦ならぬ夫婦ぐらし! 数奇でなくて何であろう。
 追分宿のあの騒動!
 義兄《あに》であり恋人であり、許婚《いいなずけ》である主水様に、瞬間逢い瞬間別れた!
 数奇でなくて何であろう!
 と、嘉門にとらえられた。
 そうして今はこの有様だ!
 いよいよ数奇と云わざるを得ない。
(どうなとなれ、どうなろうとまま[#「まま」に傍点]よ)
 観念せざるを得ないではないか。
(が、この厭らしい馬飼の長に躰を穢される時節が来たら、舌噛み切って妾は死ぬ!)
 こう決心をしているのであった。
 そうしっかり決心している彼女は、外見《よそめ》には蝦蟇に狙われている、胡蝶さながらに憐れに不憫に、むごたらしくさえ見えるけれど、心境は澄み切り安心立命、すがすがしくさえあるのであった。
 短い沈黙が二人の間にあった。
「いかがでござりますな。澄江様」
 嘉門はネットリとやり出した。
「この老人の可哀そうな望み、かなえさせては下さりませぬかな。……いやもうこういう老人になると若い奇麗なご婦人などには、金輪際モテませぬ。そこで下等ではござりまするが、金の力で自由《まま》にします。……お見受けしたところ貴女《あなた》様は、武家の立派なお嬢様で、なかなかもちまして私などの、妾《めかけ》てかけ[#「てかけ」に傍点]になるような、そんなお方では決してない、ということは解《わか》っていますじゃ。……それだけに私の身になってみれば、自分のものに致したいので。……で、お願いいたしますじゃ。……可哀そうな老耄《おいぼ》れた老人を、功徳と思って喜ばせて下されとな。……その代わりお前さまが何を望もうと、金ずくのことでありましたら、ヘイヘイ何でも差し上げまする」
 またパクリと莨を喫った。


「なりませぬ」と澄江は云った。
 先刻からじっと辛棒して、黙って、聞いていた澄江であったが、この時はじめてハッキリと云った。
「貴郎《あなた》様のお心に従うこと、決して決してなりませぬ!」
 言葉数は少なかったが、毅然とした態度冷然とした容貌に、動かぬ心を現わして、相手を圧してそう云った。
「ふうむ」と嘉門は唸り声を上げた。
 勿論この女、烈女型で、尋常に口説いて落ちるような、そんな女ではあるまいと、そういうことは推《すい》していたが、今の返事とその態度とで、それがこっちの想像以上に、しっかり[#「しっかり」に傍点]しているということを瞬間看取したからであった。
 がぜん嘉門の様子が変わった。
 薄気味の悪い、惨忍な、しかも陰険執拗な、魔物めいた様子に一変した。
 それでいて言葉はいよいよ柔かく、
「それでは大変お気の毒ですが、貴女様には変わった所へ、一時おいでを願わねばならず……是非ともおいでを願わねばならず……一度まアそこへ行って来られてから、改めてゆるゆるご相談――ということに致しましょうのう」
 で、また莨をパクリと喫い、濛々と煙を吐き出した。
「何と申してよろしいか、貴女様がこれからおいでになる所、何と申してよろしいか。……どっちみち厭アなところでござる……どんな強情のジャジャ馬でも、一どそこへ叩っ込まれると、生れ変わったように穏しくなります……気の弱いお方は発狂したり、もっと気の弱いお方になると、さっさと自殺するようで。……さようさよう以前のことではあるが、お組の源女とかいう女芸人が、やはり強情で[#「強情で」は底本では「情強で」]そこへやられたところ、発狂――まあまあそれに似たような状態になりましたっけ……さて、そこで貴女様も、そこへおいでにならなければ……ならないことになりましたようで」
「どこへなと参るでござりましょう」
 澄江は冷然とそう云った。
 死を覚悟している身であった。
 何も恐れるものはない。
 苦痛! それとて息ある間だ! 死んでしまえば苦痛はない。
 澄江は冷然とし寂然としていた。
 嘉門はポンポンと手を拍った。
 と、次の間に控えていた、侍女が襖をソロリと開けた。
「権九郎に云っておくれ、送りの女が一人出来た。赤い提燈の用意をしなと」
 侍女は頷いて襖をしめた。

「あれ――ッ」という源女の声が、要介と浪之助とを驚かせたのは、それから間もなくのことであった。
 三人はこの時嘉門の主屋の、構えの外を巡りながら、なお逍遥《さまよ》っていたのであった。
「行きます、おお赤い提燈が!」
 指さしながら源女が叫んだ。
 極度の恐怖がその声にあった。
「あそこへあそこへ人を送る火が! 地獄へ、ねえ、生地獄へ! ……妾《わたし》のやられた生地獄へ! ……おおおお誰か今夜もやられる! ……可哀そうに可哀そうに! ……そうです妾も赤い提燈に、あんなように道を照らされ、馬へ、裸馬へくくりつけられ、そこへやられたのでございます!」


「追おう!」
 要介が断乎として云った。
「送られる人間を取り返そう!」
「やりましょう!」と浪之助も云った。
 夜の暗さをクッキリ抜いて、木立の繁みに隠見して、特に血のような赤い色の、小田原提燈が果実のように揺れて、山の手の方へ行くのが見えた。
 三人は後を追った。
 が、その一行に近寄って見て、これは迂闊に力で襲っても、勝目すくなく危険だと思った。
 というのは一頭の裸馬に、男か女かわからなかったが、一人の人間をくくりつけ、それへ油単《ゆたん》を上から冠せた、そういう人と馬とを囲繞《いじょう》し、十数人の荒くれ男が、鉄砲、弓、槍などを担いで、護衛して歩いているからであった。
(飛道具には適わない)
 三人ながらそう思った。
 で、要介は浪之助に、
「どこまでもこっそり後を尾けて、その行方を確かめよう。そうしていい機会が到来したら、切り散らして犠牲者を奪い取ってやろう」
 こう耳元で囁いた。
「それがよろしゅうございます」
 浪之助も[#「浪之助も」は底本では「浪人之助も」]そう云った。

 澄江を生地獄へ送り出した後の、嘉門の豪奢な主家の部屋には、逸見多四郎が端座していた。
 想う女を生地獄へ送った。――そんな気振など微塵もなく、嘉門は機嫌よく愛想笑いをして、多四郎との閑談にふけっていた。
 処士とはいっても所の領主、松平|大和守《やまとのかみ》には客分として、丁寧にあつかわれる立派な身分、ことには自分が贔屓にしている、高萩の猪之松の剣道の師匠――そういう逸見多四郎であった。傲岸な嘉門も慇懃丁寧に、応待しなければならなかった。
 牧馬の話から名所旧蹟の話、諸国の風俗人情の話、そんな話が一渡り済んで、ちょっと話が途絶えた時、何気ない口調で多四郎は云った。
「秩父の郡小川村、逸見様庭の桧の根、むかしはあったということじゃ……云々と云う昔からの歌が秩父地方でうたわれ居ります。この歌の意味は伝説によれば、源|頼義《よりよし》[#「頼義《よりよし》」は底本では「義頼《よしより》」]、その子|義家《よしいえ》、奥州攻めの帰るさにおいて、秩父地方に埋めました黄金、それにまつわる歌とのこと、しかるにこの歌の末段にあたり※[#歌記号、1-3-28]今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の――云々という、そういう文句がござります由、思うにこれはその黄金が、その素晴らしい馬飼のお手に、保存され居るということであろうと……」
「しばらく」と不意に嘉門は云った。
 それから皮肉の笑い方をしたが、
「ははあそれで逸見様には、その黄金を手に入れるべく、当屋敷をお訪ね下されたので?」
「率直に申せばその通り、千、五百の大馬飼は、貴殿以外にはござらぬからな」
「御意で。……が、そうとありますれば、いささかお気の毒に存ぜられまする」
「何故でござるな。それは何故で?」
「なぜと申してそうではござらぬか、そのような莫大な黄金を、私保存いたし居りますれば、決して決して何人にも、お渡しすることではござりませぬ」
「それはもうもう云うまでもない儀、が、拙者といたしましては、そこに少しく別の考えが……」

10
「別の考え? 何でござるかな?」
「貴殿がたしかにその黄金を、現実に保存され居るなら、何で拙者その貴殿より、その黄金取りましょうや。……が、もしも貴殿においても、黄金の在り場所的確に知らず、ひそかに探し居らるるようなら……」
「なるほど、これはごもっとも。そうあるならば貴郎《あなた》様と私、力を集めて探し出そうと覚し召し、参られたので?」
「さよう、ざっとその通りでござる」
「これは事件が面白くなった。……が、さて何と申し上げてよいやら」
 嘉門はここで沈黙してしまった。
 妙に息詰まる真剣の気が、二人の間に漂っている。
 やがて嘉門がポツリポツリと云った。
「歌にありまするその馬飼は、たしかに私にござります。そうして歌にありますように、私の屋敷に領地内に、ある時代にはその黄金、ありましたそうでござります。……その黄金ありましたればこそ、馬鹿らしいほどの繁栄を来たし、今このように広い領地を、持つことが出来て居りますので。そうでなくては馬飼風情、いかにあくせく[#「あくせく」に傍点]働きましたところで、とてもとても今日のような。……で私はその黄金を、巧みに利用し財《たから》を積んだところの、祖先に対して有難やと、お礼申して居りまする次第で」
「とそう云われるお言葉から推せば、今日においてはその黄金、すでにお手にはないご様子……」
「さあそれとてそうとも否とも、ちと私としては申しかねますので……」
「これは奇怪、はなはだ曖昧!」
「へいへい曖昧でござりますとも」
「方角を変えてお尋ねいたす。例の歌の末段に※[#歌記号、1-3-28]|秣《まぐさ》の山や底無しの、川の中地の岩窟《いわむろ》にと、こういう文句がござりまするが、そこに大方その黄金、埋没されて居りたるものと、この拙者には思われまするが、そのような境地が領内に……?」
「へいへいたしかにござります」
「しからばそこへご案内を……」
「駄目で!」
「なぜ?」
「命が無い!」
「命が無いとな?」
「生地獄ゆえ!」
「…………」
「アッハッハッ、地獄々々! そこは恐ろしい生地獄! そこへ行ったら命が無い! 有っても人間発狂する! アッハッハッ発狂する! ……が、今夜も可哀そうに、女が一人送られましたよ。さようさようその生地獄へ!」
 こう云うと嘉門は惨忍酷薄、洵《まこと》女の生血を飲み、肉を喰らったといわれている、伝説の大江山の酒顛童子、それさながらの表情をして、ぐっと多四郎を睨むように見た。
 さすがの多四郎も妖怪さながらの、嘉門の表情態度に搏たれ、言語ふさがり沈黙した。
 で、またも息詰まるような気が、部屋を圧し人を圧した。
 が、ややあって井上嘉門は、謎のような言葉でこう云った。
「あの黄金はそれ以前に、あの歌にうたわれて居りますように、秩父の郡小川村の、逸見《へんみ》様のお庭の桧の根方に、――即ち貴郎様のお庭の中に、埋没されて居りましたはず。……ひょっとかするとその黄金また逸見様のお庭へ帰り……」

11
「何を馬鹿な」と多四郎は笑った。
「拙者の屋敷にその黄金、今に埋もれて居りますなら、何のわざわざこのようなところへ……」
「いやいや」と嘉門は云った。
「逸見様は幾軒もござります」
「…………」
「高名で比較的近い所では、尾張にあります逸見三家……」
「おおなるほど逸見三家!」
 名古屋に一軒、犬山に一軒、知多に一軒、都合三軒、いずれも親戚関係で、逸見姓を宣《となう》る大大尽があり、総称して尾張の逸見三家と云い、特殊の尊称と疑惑とを、世間の人から持たれていた。
 金持ちであるから尊敬される! これは当然の事として、疑惑というのは何だろう?
 尾張の大商人大金持といえば、花井勘右衛門をはじめとして、九十八軒の清洲越衆《きよすこえしゅう》、その他尾州家からお扶持をいただく、小坂新左衛門他十二家あって、それらの人々はいずれも親しく、往来をし交際《つきあ》っていたが、逸見三家だけは交際せず、三家ばかりで往来し、他の金持は尾張家に対し、何等かの交渉を持っていて、御用達、三家衆、除地衆、御勝手ご用達、十人衆、等々という、名称家格を持っていたが、逸見三家ばかりは尾張家と、何等の交渉も持っていなかった。
 これが疑惑される点なのである。
「おおなるほど逸見三家」と、多四郎は云って眼を見張り、
「逸見三家の家風については、拙者も遥かに承わり居り、不思議な大尽があるものと、疑惑を感じて居りましたが、その逸見三家と埋もれた黄金と、関係ありと仰せられまするかな?」
「あるやらないやら確かのところは、私にも即座には申し上げられませぬが、……さよう即座には申し上げられぬとし、貴郎様におかれてもせっかくのご来訪、何卒長くご逗留下され、ゆるゆるそのことにつきまして、お話しすることにいたしましょう」
 嘉門はここでも曖昧に云った。
 奥歯に物の挿まった態度、多四郎には少なからず不愉快であったが、押して尋ねても云いそうもないと、そう思ったので後日を期することにした。

 赤い提燈で道を照らし、澄江を裸馬にくくり付け、それを護った権九郎達は、無言で山道を進んで行った。
 その後を慕って要介達が行った。
 二里あまりも来たであろうか。その時突然行手にあたって、同じ赤い色の提燈の火が、点々といくつか見えて来た。
(おや?)と要介たちは不審を打った。
 が、権九郎たちの一行は、それが予定されたことかのように、少しも驚かず又動ぜず、その火に向かってこちらの提燈を、宙にかざして振って見せた。と向こうでも答えて振った。
 こうして向こうの火にこちらの火が、十数間足らず接近した時、夜ながら要介たちに行手の光景が、ぼんやりながらも見えて来た。
 行手に谷があるらしい。谷には川が流れているらしい。
 谷を隔てて岩で出来た、屏風のような絶壁が、垂直に高く聳えていた。
 絶壁の頂に月があって、それの光でその絶壁が、肩を銀色に輝かしているのが見えた。

生地獄


 と、その時まで黙々として、要介たちに従いて来ていた源女が、恐ろしそうな声で魘《うなさ》れるように云った。
「生地獄はそこだ、谷の底だ! そこへ行っては大変だ! 自殺するか発狂する! ……可哀そうに可哀そうに馬に乗っているお方! ……おおおおあの人をお助けしなければ!」
「やろう!」と要介が忍び音ではあるが、烈しい声でそう云った。
「切り散らして犠牲者を助けよう!」
「先生やりましょう!」と浪之助が応じた。
 が、その瞬間犠牲者を守護し、裸馬を囲繞して歩いて来た人々――権九郎輩下の者共が、一斉に足を止め振り返り、鉄砲の筒口をこっちへ向けた。
 要介たちの方へ差し向けた。
「しまった! 目つけられた! もう不可《いけ》ない!」
 ――要介がそう叫んだ途端、
 ド、ド、ド、ド、ド、ド――ッと鉄砲の音が、夜の山谷にこだま[#「こだま」に傍点]して鳴り、バ、バ、バ、バ、バ――ッと筒口から出る、火花が夜の暗さを裂いた。
 と、
 馬の恐怖した嘶《いななき》!
 見よ、犠牲者をくくりつけたまま、例の裸馬が谷口を目がけ、まっしぐら[#「まっしぐら」に傍点]に馳せて行くではないか!
「あッ、あッ、あッ、もう不可ない! あの人も生地獄へ追いやられた! 妾《わたし》のように! 昔の妾のように!」
 源女は叫んで地団太を踏んだ。
 果敢! 馬は谷底さして、なだれ[#「なだれ」に傍点]のように落ちて行った。
 鉄砲は決して要介たちを認め、要介たちを撃ち取ろうとして、発射されたものではないのであった。
 馬を驚かせて犠牲者諸共、谷底へやるために撃ったものなのであった。
 それは空砲に過ぎなかったのである。
 後は寂然!
 シ――ンとしていた。
 と、権九郎達の一団が、今は馬もなく犠牲者も持たず、手ぶらの姿で赤い提燈を、ただブラブラと宙に振って、もと来た方へ引っ返す姿が、要介たちの眼に見えた。
 木陰にかくれて見送っている、その要介たちの横を通って、その一団の去った後は、四辺《あたり》寂々寥々としてしまった。
 と、要介は浪之助へ云った。
「とうとう犠牲者を助け損なったが、これも運命仕方がない。……が、それは仕方ないとして、生地獄の光景を見ようではないか」
「それがよろしゅうございます」
「源女殿もおいでなされ」
「妾は厭でござります」
 恐ろしかった過去のことを、その場へ臨むことによって、ふたたび強く思い出すことを、恐れるという心持から、そう源女は震えながら云った。
「さようか、では源女殿には、そこにてお待ちなさるがよろしい」
 云いすてて要介は浪之助ともども、谷の下口へ足を向けた。
 と、先刻現われて、権九郎達の赤提燈に対し、応えるように振られたところの、例の幾個かの赤提燈が、見れば谷の下口の辺りに、建てられてある番小屋らしいものの、その中から又現われて来た。
「誰だ、これ、近寄ってはならぬ! 近寄ると用捨なく撃ち取るぞ!」
 赤提燈の中から声が来た。
 鉄砲を向けている姿が見えた。


 馬が斜面を駈け下る間に、くくられていた綱が[#「綱が」は底本では「網が」]切れ、澄江は地上へ振り落とされた。
 馬と前後して谷の斜面を、底へ向かって転落した。
 何と奇怪にも谷の斜面が、柔らかくて滑らかで、ほとんど土とは思われないではないか!
 こうして澄江は微傷《びしょう》さえ負わず、谷の底へ落ちついた。
 と、眼の前を落ちて来る馬の、気の毒な姿が通って行ったが、底へ着くと立ち上り、立ち上ったが恐怖のためであろう、高い嘶をあげながら、前方へ向かって走りつづけた。
 月光をうけて銀箔のように輝いて見える川があった。
 そう、前方に川があった。
 と、その川まで駈けて行った。
 馬は川へ飛び込んだ。(泳ぐかな?)
 と澄江は思った。
 浅いと見えて五歩十歩、二十歩あまり歩いて行った。
 と、どうだろう歩くに従い、馬は次第に小さくなって行った。
 そうしてやがて歩かなくなった。
 身長《せい》が大変低くなって見えた。
 と、馬は首を長く延ばし、悲劇を無言で眺めている月に向かって顔を向けたが、悲しそうに幾度か嘶いた。
 だんだん身長が低くなって行く。
 やがてとうとう馬の姿が川の面から消えてしまい、漣《さざなみ》も立てずにどんより[#「どんより」に傍点]と、流れるともなく流れている、そういう水面《みずも》には月光ばかりが銀の延板のそれかのように、平らに輝いているばかりであった。
 川巾は随分広かった。
 そうして対岸には屏風のような、切り立った高い断崖が、険しく長く立っていた。
 澄江はゾッと悪寒を感じた。
(どうして馬は沈んだろう?)
 もしその川が深かったら、馬は泳いで行くはずである。
 もしその川が浅かったら、馬は歩いて渡るはずである。
 それだのに沈んでしまった。
(おお川は底無しなのだ!)
 そう、それに相違ない。
 水そのものは浅いのであるが、底は泥の堆積で、幾丈となく深いのだ。で、そこへ踏み入ったものは、その泥に吸い込まれ、永久沈んでしまうのだ。
 ゾッと澄江は悪寒を感じた。
(川を越しては逃れられない)
 澄江はフラフラと立ち上った。
 それから自分が転がり落ちて来た、山の斜面を振り仰いで見た。
 斜面は洵《まこと》になだらかで、一本の木立も、一つの丘も、一つの岩も、何もなかった。
 下口《おりくち》までは高く遠く、容易に達しがたく思われたが、上るには難なく思われた。
 澄江は斜面を上り出した。
 すぐツルリと足が辷《すべ》り、たちまち谷底まで追い返された。
(おや)と思いながら又上った。
 一間あまり上ったかと思うと、非常に気持よく非常に滑らかに、スルスル谷底へ辷り落ちた。
(まあどうしたというのだろう?)
 澄江には不思議でならなかった。
 で、土を取り上げて見た。
 それは土ではないようであった。カラカラと乾いて脆くなってはいたが植物の茎や葉のようであった。
 植物の茎や葉が永い年月、風雨霜雪に曝された結果、こまかいこまかい砂のようになったもの! それのように思われた。
 そういう物が斜面を厚く、そうして高く蔽うているのだ。――
 で、その上へ人が乗れば、重さに連れてそれが崩れ、どこまでも無限に崩れ崩れて、人を下へ辷り落とす!
(では上って行くことはできない!)
 又ゾッと澄江は悪寒を感じた。


(ではもう一度|験《ため》して見よう)
 こう思って澄江はまた上り出した。
 と、背後から笑う声がした。
 驚いて澄江は振り返って見た。
 いつの間にどこから来たものか、五六人の人間が、数間《すうけん》離《はな》れた一所に、一緒に塊まって立っていた。
 月光の中で見るのであるから、ハッキリしたところは解《わか》らなかったが、その中には女もい、老人も若者もいるようであった。
 何より澄江を驚かせたのは、その人達が痩せていることで、それはほとんど枯木のようであり、枯木が人間の形をしてい、それが襤褸屑《ぼろくず》を纏っている。――そう云ったように痩せていることであった。
 そう、衣裳は纏っていた。が、その衣裳は形のないまでに、千切れ破れているのである。
 物の書《ほん》で見た鬼界ヶ島の俊寛《しゅんかん》! それさながらの人間が、そこに群れているのである。
「駄目だよ、娘っ子、上れやアしねえ。いくら上っても上れやしねえ」と、その中の一人がカサカサに乾いた、小さな、力の弱い、しめ殺されるような、不快な声でそう云った。
「秣《まぐさ》の山だ、なア娘っ子、お前が一所懸命上ろうとしているそいつ、そいつア秣の山なんだ。秣の山の斜面なんだ。……乗れば辷る、足をかければ辷る。二間と上った者アねえ。無駄だから止めにしな」
「アッハッハッ」
「ヒッヒッヒッ」
「フッフッフッ」
「ヘッヘッヘッ」
 みんなが揃って笑い出した。
 嘲ったような、絶望したような、陰険そうな、気の毒がったような、気味の悪い厭アな笑声であった。
 澄江は地獄の亡者に逢った! ――とそんなような思いに等しい、恐怖と不気味とを感じながらも、この境地には自分一人だけしか、居ないものと今まで思っていたのに、他にも人のいることを知り、この点何と云っても心嬉しく、急いでそっちへ小走って行った。
「どういうお方々かは存じませぬが、妾は井上嘉門という……」
「解っているよ解っているよ」と、その中の一人の老人が――片眼つぶれている老人が、澄江にみんな話させようともせず、
「俺らもそうなんだ。恐ろしい主人に、井上嘉門殿に、いやいやいや、殿じゃアねえ、鬼だ魔物だ、その魔物の嘉門めに、この生地獄へ放り込まれた、生き返る望みのねえ亡者なのさ。お前さんだってそうだろうとも、嘉門めにここへ落とされたんだろうとも。……見りゃア奇麗な娘っ子だ、どうしてここへ落とされたか、その理由《わけ》も大概わかる。……嘉門の云うことを聞かなかったんだろうよ。……以前《まえ》にもそんな女があった。……源女とかいう女だった。……」
「お爺さん」と澄江は云って、縋るような気持で訊ねて見た。
「ここはどこなのでございます? どういう所なのでございます?」
「処刑場《おしおきば》だ、人捨場だ! 嘉門の云い付けに背いた者や、廃人になって役に立たなくなった者を、生きながら葬る墓場でもある」
「恐ろしい所なのでございますねえ」
「一緒においで、従《つ》いておいで、ここがどんなに恐ろしい所だかを、例をあげて知らせてあげよう」
 片眼の老人は歩き出した。
 と、その余の亡者餓鬼――亡者餓鬼のような人間たちも、だるそう[#「だるそう」に傍点]に、仆れそうに、あえぎあえぎ、その後から従いて来た。
 蒼澄んで見える月光の中に、そういう人達が歩いて行く姿は、全く地獄変相図であった。
 と、一本の木の下に来た。
 一人の若者がブラ下っていた。


 首をくくって死んでいるのであった。
 片眼の老人は説明した。
「二十日ほど前に来たお客さんなのさ。嘉門の可愛がっているお小間使いと、ちちくり合ったのが逆鱗に[#「逆鱗に」は底本では「逆燐に」]ふれて、ここへぶちこまれた若造なのだ。女が恋しいの逃げ出したいのと、狂人のように騒いでいたが、とうてい逃げられないと見当をつけると、野郎にわかにおとなしくなってしまった。と、今朝がた首を釣ってしまった。……首を釣る奴、川へ沈む奴、五日に一人十日に一人、ちっとも不思議なく出来るってわけさ。……だから底無しの川の中には、幾百人とない男や女が、沈んでいるというわけだ。……そこを見な、その岩の裾を! 白骨が積んであるじゃアねえか。首を釣った奴や舌を噛んで死んだそういう奴らの骨の束だ」
 見ればなるほど向こうに見えている、大岩の裾に月光に照らされ、ほの白い物の堆積があった。
「お爺さん」と澄江は震えながら云った。
「何を食べて生きているのです?」
「馬の肉だ、死んだ馬の。……時々そいつを投げてくれるのだ。谷の下口から上の番人が」
「死んだ馬の肉を? ……それが食物?」
「米もなけりゃア麦もねえ。野菜もなけりゃア香の物もねえ。……水といえばドロンと濁った、泥のようなその川の水だ。……だから長く生きられねえ。一月か二月で死んでしまう。……もっとも中にゃアそいつに慣れて、三年五年と生きてる奴がある。……俺なんかはその一人だよ。……」
「皆様どこにいるのです? どこに住んでいるのです?」
「岩窟《いわむろ》の中だ岩窟のな。……向こうにある、行ってみよう」
 その老人が先に立ち、澄江たちは先へ進んだ。
 人間の骨や馬の骨や――それらしいものが木の根や岩の裾に、灰白く散乱しているのが見えた。
 と、行手に月光に照らされ、丘のような物形が見えた。
 やはりそれは丘であった。
 岩と土と苔と權木、そんなもので出来ている小丘であって、人間の身長《たけ》の二倍ほどの間口と、長い奥行とを持っていた。
 そこの前まで辿りついた時、丘の正面の入口から――つまりその丘が岩窟なのであり、正面に入口が出来ているのであったが、その入口から骸骨の群が――骸骨のような痩せた男や女、老人や老婆、男の子や女の子が、ムクムクと泡のように現われ出た。
 そうして口々に喚き出した。
「また客が来た」
「俺らの仲間か」
「何か食物を持って来たかしら?」
「着物を剥げ! ひっぺがしてしまえ!」
「若い女だ」
「奇麗な女だ」
「すぐ汚くなるだろう」
「ナーニ半月は経たねえうちに首をくくってくたばるだろう」
 すると片眼の老人が、叱るように大声をあげた。
「うるせえ、野郎共、しずかにしろ! ……今度のお客さんはこれ迄のとは、どうやら少オし違うようだ。身体へさわっちゃア不可《いけ》ねえぞ!」


 片眼の老人は権威者と見える。彼らの仲間の権威者と見える。そう一言云っただけで、彼らの騒動は静まった。
「さあさあ入って見るがいい。家の中へ入って見るがいい」
 こう云って老人は澄江を連れて、岩窟の中へ入って行った。
 入って真っ先に驚いたのは、何とも云われない悪臭であった。
 不浄の匂い、獣皮の匂い、腐肉の匂い、襤褸《ぼろ》の匂い――、いろいろの悪臭が集まって、一つになった得もいわれない悪臭、それがムッと鼻へ来て、澄江は嘔吐を催そうとした。
 岩窟の中は寒かった。
 凍《こご》えそうなほどにも寒かった。
 暗く、低く、狭くもあった。
 ところどころに火が燃えていた。
 住人が焚火をしているのであった。その周囲に集まったり、岩壁の裾に寝たりして、意外にたくさんの人間がいた。
 この時二三人の者が嗄《しわが》れた声で、鼻歌をうたうのが聞こえてきた。
[#ここから3字下げ]
秩父の郡小川村
逸見様庭の桧の根
むかしはあったということじゃ
いまは変わって千の馬
五百の馬の馬飼の
木曾の馬主山主の
山の奥所も遥かなる
秣の山や底なしの
川の中地の岩窟の
御厨子《おずし》[#ルビの「おずし」は底本では「おづし」]に籠りあるという
移り変わるがならわしじゃ
命はあれど形はなく
形は本来地水火じゃ
三所に移り元に帰し
命はあれど形はない
[#ここで字下げ終わり]
 それはこういう歌であった。
「お爺さん」と澄江は云った。
「あの歌、何でございますの?」
「誰も彼もうたう歌なのじゃ、……この辺りではちっとも珍らしくない。……所在ないからうたうのさ……ずっと昔からある歌で、意味もなんにもないのだろうよ」
「この岩窟深いのでしょうか?」
「深いそうだ、深いそうだ。が誰もが行ったものはない。行ったものがないということだ。……わしだけは相当奥まで行った。だが中途で引っ返してしまった。……恐ろしいと云おうか凄いと云おうか、あらたかと云おうか何と云おうか、どうにも変な気持がして、とうとう引返してしまったのさ。……人柱が立っているんだからなア……骸骨なんだ、本当の骸骨! ……そっくり原形を保っている奴だ。そいつが岸壁の右にも左にも、ズラリと並んでいやがるじゃアないか」

悪人還元


 陣十郎は黙々として、山路に向かって歩いていた。
 後から主水が従《つ》いて行ったが、これも黙々として物を云わなかった。
 嘉門の大屋敷の構内から出、あて[#「あて」に傍点]なしに歩いて行くのであった。
 どっちへ向かって歩いているのか、陣十郎には解《わか》らなかった。
 師匠の逸見《へんみ》多四郎によって「逆ノ車」が破られたことそのことばかりを考えていた。
 月はあったが山路には巨木、……大木老木權木類が、空を被い四辺《あたり》を暗め、月光を遮っているがために、二人の姿は外方《よそ》から見ては、ほとんど見ることが出来なかった。
 時もかなり経っていた。
(逸見先生があのような所に、どうしてお居でなされたのだろう?)
 このことも気にはかかっていたが、それより必勝不敗の術と、自信していた自己の創始の「逆ノ車」を破られた――このことばかりが不安にも恐ろしくも、情無くも思われるのであった。
 まだ破門をされない前に、多四郎の道場で多四郎を相手に、数回「逆ノ車」をもって、立合ったことがあったのであり、そのつど陣十郎が勝ちを取るか、でなかったら相打ちとなった!
 それだのに今夜という今夜に限り、物の見事にひっ外されてしまった。
(あの時先生に打つ気さえあって、一歩踏み込んで切られたら、俺は真ッ二つにされたはずだ)
(「逆ノ車」を破られては、俺に勝目はほとんどない。破った先生がそれからそれと、その手を人々に伝えたら、俺は手も足も出なくなる)
 これが彼には恐ろしいのであった。
(それともあの時俺の腕が、いつもより鈍っていたがために「逆ノ車」は使ったが、使い方が精妙でなく、それで一時的に外されたのだろうか? もしそうならまだ安心だ)
(では……)と陣十郎は惨忍に思った。
(誰かを、どいつかを、「逆ノ車」で、充分練って用意して、切って切れたら! 切って切れたら!)
 自信がつく!
 そう思った。
(よ――し、どいつかを切ってやろう?)
(誰を?)と思った時主水のことが、瞬間脳裏に閃いた。
(うむ、こいつを切ってやろう!)
 悪人の本性が甦ったのであった。
(思ってみれば主水という奴、危険至極の道連れだった。俺を敵《かたき》と狙う奴だった。そうしていつかはこいつのために、俺は討たれるはずだった。……討たれてなろうか、何を馬鹿な! ……俺も何という男だったろう、いずれこの男に討たれてやろう――などとそんなことを思っていたとは。……それに人心は変わるものだ。俺の心が変わるように。……で、主水め心が変わり、俺の寝息をうかがって、寝首掻かないものでもない。……よ――し、この場で討ち果し、災の根を断ってやろう)
 グルリと陣十郎は振り返った。
「主水《もんど》、おい、鴫澤《しぎさわ》主水!」
「何だ?」と主水が足を止めた。
「この暗中でもう一度『逆ノ車』を使って見せてやろう」


「それには及ばぬよ」と主水は云った。
 心に計画ある時には自ずと五音に現われるもので、陣十郎の言葉の中に、平時《いつも》とは異《ちが》う不吉の響きが、籠っているがためであった。
 それが恐ろしく感じられたためで。……
 陣十郎はくどく[#「くどく」に傍点]云った。
「昼と夜とは自ずと異う。暗中での『逆ノ車』……使って見せるから刀を抜け」
(使って見せる、教えてやると偽って充分用意をさせ、「逆ノ車」にひっかけ、後腹病まぬよう殺してしまおう)
 これが陣十郎の本心であった。
「なるほど」と主水は思わず云った。
「昼と夜とは自ずと異う。暗中での『逆ノ車』……なるほど、こいつ教わった方がいいな」
「いいともさあ、刀を抜きな」
 云って陣十郎は先に抜いた。
「よし。……抜いた。……さあ構えた」
 主水もそう云ってその通りにした。
 二人ながら抜身を構え、暗中に相手と向かい合った。
「主水、充分用心しろよ。……試合などとは思うなよ。……俺を父親の敵《かたき》と思い――事実それに相違ないし……その敵を今討つのだと、こう思って真剣にかかって来い」
「うむ。よし。そのつもりで行こう」
「俺もお前を返り討ちにすると――こう思ってかかって行くつもりだ」
「うむ、そのつもりでかかって来てくれ」
「暗中での『逆ノ車』……ダ――ッとお前の左胴へ、事実入るかもしれないぞよ」
「…………」
「暗中だからな。……どうなるかわからぬ……」
「…………」
「本当にお前を切るかもわからぬ」
「…………」
「暗中だからな……よく見えぬからな」
「…………」
「とすると返り討ちだ。……返り討ちになっても怨むなよ。参るぞ――ッ」と忍音ではあったが、殺す気でかけた鋭い声! それが主水の耳を打った。
(あぶない!)と瞬間主水は思った。
(おかしいぞ! いつもとは違う! ……本当に切る気ではないだろうか?)
 主水は自ずと一所懸命になった。
 刀を中段にピッタリと構え、闇を通して相手を睨んだ。
 暗中ながら相手の姿が、黒く凄まじく立っているのが見え、これも中段に構えている刀が、ボ――ッと薄白く感じられた。
 その薄白い刀身ばかりに、主水の眼はひきつけられた。
 間!
 例によって息詰まるような、命の縮まる間が経った。
 と、刀身が水の引くように、左斜めにス――ッと引かれた。
 フラ――ッと主水は前へ出た。
 瞬間、刀が小さく返った。
「ハッ」
 途端に……
「カ――ッ!」という、雷霆さながらの掛声が――渾身の力を集めた声が、どこからともなく聞こえてきた。
「あッ」と主水は膝を曲げ、グタ――ッとばかりに地に坐わり、
「うむ」と陣十郎はよろめいて、二三歩タジタジと[#「タジタジと」は底本では「タヂタヂと」]後へ下った。
 そうして次の瞬間には、闇の木立を潜り抜け、一散に麓の方へ走っていた。


 声をかけたのは要介であった。
 生地獄の光景を見ようとして、谷の下口まで行きかけると、番人によって遮られ、しかも鉄砲を向けられた。
 飛道具には敵《かな》わない。
 そこで避けて引っ返した。
 一里あまり来た時であった。何とも云われない殺気刀気、そういうものが感じられた。
(何者かが何者かを殺そうとしている)
 名人には別の感覚がある。
 賭博に才のあるその道の名人――そういう名人には伏せた壺を通して、中の賽コロの目がわかる。
 剣道の名人には自己に迫る殺気、そういうものなど当然わかり、あえて自己一身に迫るでなくとも、付近で行なわれる殺戮、殺傷、そういうものも感じられる。
 それを要介は感じたのであった。
「切る奴を挫き、切られる奴を救おう」
 こう要介は瞬間に思った。
 思ったと同時に反射運動的に、
「カ――ッ!」と声をかけたのであった。
 と、十数間のかなたから、木を潜って逃げて行く、葉擦れの音が聞こえてきた。
(逃げたな)と要介は直ぐに思った。
「セ、先生エ――ッ、ド、どうなされましたア――ッ」
 主水が掛声に腰を挫かれ、地へベタベタと坐ったと同じく、これも掛声に腰を挫かれ、要介の背後の地へ坐った、杉浪之助が悲鳴をあげた。
「杉氏か、何という態《ざま》だ!」
「ナ、何という、ザ、態だと、セ、先生には、オ、仰せられても……」
「アッハハハハ、立ちな立ちな」
「恐ろしい目に逢いました」
 云い云い浪之助は立ち上った。
「一体どうしたのでございます?」
「ナ――ニ、邪気を払ったまでさ」
「ははあ邪気を? ……が、邪気とは?」
「まあよろしい、いずれ話そう……ともかくも邪気は払ってやった。……しばらくじっと[#「じっと」に傍点]しているがいい」
 ――で、立ったままじっと[#「じっと」に傍点]していた。
 間もなく麓の方へ走り下る、人の足音が聞こえてきた。
「ははあもう一人も逃げて行ったな」
「先生何です、逃げて行ったとは?」
「一人が一人を殺そうとしていたのだ。……それをわしが挫いてやったのだ。……殺そうとした奴が先に逃げ、殺されかけていた人間が、つづいて今逃げて行ったのさ」
「こんな暗中でそんなことが、先生におわかりになりますので?」
「活眼活耳さえ持って居れば、暗中であろうと、睡眠中であろうと、そういうことはわかるものだ」

 主水は夢中で走っていた。
 恐怖と不安と一種の怒りとで、彼の心はうわずって[#「うわずって」に傍点]いた。
 彼にもう一段沈着があって、自分の危難を救ってくれたところの、恐ろしい掛声の主を尋ね、逢うことが出来たら自分と縁ある、侠剣の主人《あるじ》秋山要介と邂逅することが出来たのに!


 が、しかし主水にとっては、そんな余裕はなかったのであった。
(陣十郎め、心が変わった。たしかに悪人に還元した。俺を殺そうとしたらしい。でなかったらあの呼吸――あの殺伐の気は出ぬはずじゃ! ……それにしてもカ――ッと鋭い気合が、あの時かかって俺の命を、瞬間の間に救ってくれたが、一体誰が掛けたのであろう?)
 走りながらもそう思った。
(どっちみち俺は陣十郎とは、もう一緒には住みがたい。……では馬大尽井上嘉門の、賓客部屋へも帰れない。……どうしたらよかろう? どうしたらよかろう?)
 ひた[#「ひた」に傍点]走りながらそう思った。
(カ――ッと掛かったあの気合! ……尋常の人間の掛けた気合と、全然別の恐ろしい気合だ! ……俺は命が縮まるかと思った)
 こう思いながら無二無三に、麓をさして陣十郎も、走り走り走っていた。
(が俺は「逆ノ車」を、これで再度やり損なった訳だ! 再度の失敗! 再度の失敗! ……う――む再度の「逆ノ車」の失敗!)
 これは洵《まこと》に彼にとっては、致命的の打撃と云わざるを得なく、そうして、事実彼にとって、再度の致命的の打撃なのであった。こうなってはヤブレカブレ、どいつであろうと誰であろうと、かもう[#「かもう」に傍点]ものか切って切って、……この鬱忿を晴らしてやろう)[#「)」はママ]
 ひた[#「ひた」に傍点]走り、ひた[#「ひた」に傍点]走った。

 偽善の巣窟であるところの、井上嘉門の領地内が、攪乱されたのはこの夜であった。
 乳飲児を抱いた若い女が、放蕩の良人《おっと》を探し出そうとして、深夜に領地内を彷徨《さまよ》っている。
 横を魔のように通る者があった。
「わ――ッ」と女は悲鳴をあげた。
 もう女は斃れていた。
 飼犬がどこかへ行ってしまった。それを目付けようと老いた農夫が、杖をつきながら通っていた。
「クロよ、クロよ、おいで、おいで」
 こう云いながら通っていた。
 その横をスルスルと通る者があった。
 一閃!
 刀光!
「わ、わ、わ、わ、わ――ッ」
 老農夫は斃れ動かなくなった。
 向こうでも切られこっちでも切られた。
 人々は戸外へ飛び出した。

賭場荒れ


 嘉門は決して人格者ではなく、又勝れた施政家でもなく、ただ家長という位置にあり、伝統的にその位置を利用し、圧制し専政し、威圧ばかりしていた人物であった。
 で、隷属していた人々は、永い間心に不平と不満を、ひそかに蔵していたのであった。そういう人々が侵入者によって、この境地が攪乱された、その機に乗じ爆発した。向こうに一団、こっちに一団、露路に一団、空地に一団、林の中に一組、森の中に一組、到る所に集まって、議論し撲り合いし取っ組み合いした。
 どうして、誰が、何のために、どういう騒動を起こしたのか、そういう真相を確かめようともせず、漠然とした恐怖、漠然とした憤怒、漠然とした焦燥に狩り立てられ、同派は組んで異端を襲い、同党は一致して異党を攻め、罵り、要求し、喧騒し合った。
「生地獄の人達を救い出せ!」
「ワ――ッ」と数十人が鬨の声をあげて、山の手の方へ押して行った。
「嘉門様にこの地から出て貰おう!」
「ワ――ッ」と数十人が屋敷を目掛け、無二無三に走って行った。
「人使いが荒すぎる」
「役にも立たないお客さんなどを、泊めて置くのが間違っている!」
「客人たちを追っ払え!」
「ワ――ッ」と大勢が一つに集まり、その客人の泊まっている家々へ、押し寄せて行って騒ぎ立てた。
 悲鳴! 呻き声! 泣き声! 怒声!
 客人達も狼狽して、家々を出て群集にまじった。
 秋山要介も浪之助も、源女も主水もその中にいた。
 嘉門も狼狽し恐怖したらしい。
 玄関に立って途方にくれていた。
 そこへ多四郎が現われた。
「逸見《へんみ》様何といたしましょう?」
「とり静める方法ござりますかな?」
「さあこう人心が亢《たかぶ》っていましては……」
「一時避けたがようござろう?」
 お妻や東馬も怯えたように、その側《そば》に立って震えていた。
 竹法螺が鳴り陣鐘が鳴り、やがて鉄砲の音さえした。
 閉ざされた大門が破られそうになった。

 嘉門と多四郎とお妻と東馬、四人を乗せた駕籠を守り、十数人の嘉門の家の子郎党が、騒乱の領内から裏山づたいに、福島の方へ走り出したのは、それから間もなくのことであった。

 その翌日の午後となった。
 林蔵の乾兒《こぶん》藤作は、フラリと自分の賭場を出て、猪之松の賭場の方へ足を向けた。
 猪之松の賭場は上ノ段にあって、この夜客人で一杯であった。


 藤作は酔っていた。
 そうして彼は上尾街道で、澄江を危難から救おうとした時、猪之松の乾兒の八五郎たちのために、叩きのめされたことを忘れなかった。
 いつか怨みを返してやろう――こういうことを考えていた。
 さて福島へやって来た。
 猪之松一家が上ノ段で、盛大に賭場をひらいていた。
「諸国の立派なお貸元衆が、ここには集まっているのだから、猪之松の方から手を出したら別だが、こっちから手を出しちゃアならねえぞ」
 親分林蔵から戒められてはいたが、猪之松の賭場には八五郎もいる、こいつどうしたってトッチメなけりゃアと、酔いも手伝って乾兒の藤作、猪之松の賭場へ出かけたのであった。
 内へ入って懐手をし、客人達の背後に突立ち、藤作は四辺《あたり》を睨み廻した。
 板敷の上へ長蓙を敷き――これを中にして客人達がズラリと並んで控えていた。猪之松の姿は見えなかったが、代貸元として一の乾兒、閂峰吉が駒箱を控え、銀ごしらえの[#「銀ごしらえの」は底本では「銀ごしらへの」]長脇差を引きつけ、正面の位置に坐っていた。
 中盆――即ち壺皿を振る奴、それが目差す八五郎であったが、晒の下帯一筋だけの、素晴しく元気のいい恰好で、盆の世話を焼いていた。
 勝ちつづけた客人の膝の前には、駒が山のように積まれてあり、こいつはニコニコ笑っている。
 馬持、山持、土地の大尽、どれを見ても客は立派なもので、いかがわしい手合などは一人もいなかった。
 藤作は自分で張ろうとはせず、何か因縁をつけてやろうと、いつまでも突立って眺めていた。
 その藤作が入って来た時から(厭な野郎が舞い込みやアがった)
 と、峰吉も八五郎も思ったが、まさか帰れとも云いかねて(障るな触れるな、そっと[#「そっと」に傍点]して置け)
 こう考えて眼まぜ[#「まぜ」に傍点]で知らせ合い、声もかけず勝負をつづけて行った。
 と、不意に藤作は怒鳴った。
「勝負待った、イカサマあ不可《いけ》ねえ!」
 同時に飛び出し盆蓙を掴むと、パーッとばかりにひっぺがした。
「野郎!」と飛び上ったは八五郎。
「賭場荒らしだ――ッ」と客人たちは、総立ちになって右往左往した。


「イカサマとは何だ、この野郎!」
 やにわに八五郎は飛びかかった。
 その横ッ面をポカリと一つ、藤作は見事にくらわせたが、
「イカサマだ――ッ、イカサマだ――ッ! ……高萩の猪之の賭場の壺振、八五郎はイカサマをして居りやす! ……お客人衆、イカサマだ――ッ」と叫んだ。
「藤作!」と腹に据えかねたように、怒声をあげると、閂峰吉、長脇差をひっ掴み、立ち上るとツカツカと前へ出た。
「見りゃア手前は赤尾の藤作、まんざら知らねえ顔でもねえ。事を決して荒立てたくはねえが、高萩一家が盆割の場所で、イカサマと云われちゃア、どうにも我慢が出来にくい。さあ云え云えどこがイカサマだ!」
「何を云やがる、イカサマだ――ッ、賽もイカサマなら盆もイカサマ、高萩一家は、イカサマだ――ッ」
 こう藤作は叫んだものの、実はイカサマを発見して、それであばれ出したというのではなく、ただ何かしらあばれてやろう、あばれて八五郎をとっちめてやろうと、そう思って仕掛けた賭場荒らしだったので、そう峰吉に突っ込まれては、イカサマの証拠をあげることなど、勿論することは出来ないのであった。
 イカサマだ――、イカサマだ――、とただ怒鳴った。
「野郎」と峰吉はいよいよ怒り、
「さては野郎賭場を荒らし、賭場銭さらいに来やがったな!」
 ここで嘲笑い毒吐いた。
「赤尾の林蔵は若いに似合わず、万事に行届きいい親分だと、仲間内で評判がいいと聞いたが、乾兒へロクロク小使さえくれず、懐中《ふところ》さみしくしていると見える。乾兒が場銭をさらいに来たわ! ……汝《うぬ》らに賭場を荒らされるような、高萩一家と思っているか! ……さあみんなこの野郎を、袋叩きにして追い返せ!」
 声に応じて八五郎はじめ、高萩身内の乾兒五六人、ムラムラと寄り藤作を囲み、撲り蹴り引きずり廻した。
「殺せ殺せさあ殺せ! 骨は親分が拾ってくれる! 殺せ殺せさあ殺せ!」
 藤作は大の字に仆れたまま、多勢に一人力では敵《かな》わず、ただ声ばかりで威張っていた。
 そいつを高萩の乾兒達は、戸外《おもて》へ引き出し抛り出した。

「ナニ藤作が猪之の賭場で、間違いを起こして袋叩きにされたと」
 料理屋の奥で酒を飲んでいた、赤尾の林蔵はこれを聞くと、――乾兒の注進でこれを聞くと、長脇差をひっ[#「ひっ」に傍点]掴み、
「こうしちゃいられねえ、みんな来い!」
 取巻いていた乾兒を連れ、自分の賭場の方へ走って行った。


 高萩の猪之松も料理屋の座敷で、四五人の乾兒たちと酒を飲んでいたが、乾兒の注進でこの事件を知ると、顔の色を変えてしまった。
「云うことに事を欠いて、イカサマがあると云われちゃア、袋叩きにもしただろうさ。……が、相手が悪かった。日頃から怨みの重なっている、赤尾の林蔵の身内だからなア。……こいつアただではおさまるまい。……ともかくも旅籠《やど》へ引き上げろ」
 そこで旅籠《はたご》へ帰って来た。
 林蔵も一旦賭場へ行き、負傷をしている藤作へ、すぐに応急の手あて[#「あて」に傍点]を加え、板で吊らせて旅籠へ運び、自分も旅籠へ帰って来た。
「藤作のやり方が悪かったにしても、場銭をさらいに来やがったと、こう云われては腹に据えかねる……そうでなくてさえ[#「さえ」は底本では「さへ」]怨みの重なる、高萩一家の奴原《やつばら》だ、この際一気に片づけてしまえ!」
 なぐり込みの準備をやり出した。
 という知らせが猪之松方へ行った。
「もうこうなっては仕方がない、こっちからもなぐり[#「なぐり」に傍点]込みをかけてやれ」
 竹槍、長脇差、鉄砲まで集め、高萩一家も準備をはじめた。
 驚いたのは他の貸元連で、小金井の半助、江尻の和助、鰍沢《かじかざわ》の藤兵衛、三保ノ松の源蔵、その他の貸元ほとんど一同、一つ旅籠へ集まって、仲裁《なかなおり》の策を相談した。
 その結果小金井の半助が、猪之松方へ出かけて行き、そうして鰍沢の藤兵衛が、林蔵の方へ出かけて行き、事を分けて話すことになった。
「赤尾の身内の藤作どんとやらが、酒に酔っての悪てんごう[#「てんごう」に傍点]、あんたの賭場にイカサマがあると、そう云われちゃア高萩のにしても、さぞ腹が立つではありましょうが、日和《ひより》も続き馬市は繁昌、おかげでわしらの賭場も盛り、芽出度い芽出度いと云って居る際に、赤尾と出入りが起きようものなら、馬市もメチャメチャ諸人方は、どれほど迷惑するかしれねえ。その馬市も明日一日だけ。……そこで出来ねえ我慢をして、ここはわし等の顔を立て、穏便に済まして貰いたいが」と、こう半助が猪之松に話すと、又藤兵衛は林蔵に対し、
「藤作どんが酔ったまぎれの、賭場荒しめいたてんごう[#「てんごう」に傍点]も、景気に連れての振舞いでしょうよ、そいつを高萩の身内衆に、場銭さらいにやって来たかと、悪態されたでは赤尾のとしては、黙っていることは出来ますめえが、馬市も明日一日、どうか穏便に済ましたいもので。出入りとなると諸商人はじめ宿の者一統が難渋するので」
 こう云って納めようとした。
 林蔵も猪之松も頑迷ではなかった。こう云われるとそれを押し切って、私闘をすることは出来なかった。
「ではお任かせいたしましょう」と云った。
 しかし林蔵は考えた。
(いずれ俺と猪之松とは、将来|交際《つきあ》える関係《なか》ではない。そのうち必ず命を賭しての、出入り果し合いをすることとなろう。一日延ばせば一日延ばしただけ、双方嫌な目をするばかりだ。……この機会に勝負をつけてしまおう。……諸人に迷惑さえかけなかったら、何をやってもいいわけだ)
 そこで彼は果し状を認め、こっそり猪之松へ持たせてやった。
 ――諸人はかかわりなく二人だけで、今夜宿外れの黒川渡《くろかわど》の野原で、勝負しようという果し状であった。
「承知した」という返事が来た。


 黒川渡は宿から半里ほど距てた、樹木の茂った箇所であり、人家などはほとんどなく、ただ川の岸に渡し守の小屋が、一軒立っているばかりであり、そこを渡って向こう岸へ行き、そこから西野郷へは行くのであった。
 林蔵は渡し守の小屋まで来た。
「爺《とっ》つあん船を出してくんな」
「おや、これは親分さんで、夜分渡し船を出しますのは、堅い法度でございますが……」
「と云うことは知っているが……」
「実はたった今もお渡ししましたんで。法度は法度、抜道は抜道、ハイハイお渡しいたしますとも」
 爺《じい》さんは船を出し、林蔵を乗せて向こう岸へついた。
「もう一人俺のような人間が、渡りてえと云って来るだろうから、そうしたら文句無く渡してやってくれ」
「高萩の親分さんじゃアございませんかな」
「こりゃア驚いた、どうして知ってる?」
「たった今お渡りになりまして、同じようなことを仰有《おっしゃ》いましたので」
「さすがは猪之松、先へ渡ったか、こいつはどうも恐れ入った。……じゃア爺《とっ》つあんこうしてくんな。俺か猪之松かどっちか一人、間もなく宿の方へ帰るから、向こう岸へ帰らずに船をとめて、ここの岸で待っていてくんな」
「へい、よろしゅうございます……が、お一人だけお帰りになるので?」
「そうさ、一人だけ帰るのよ。もう一人は遠い旅へ出るんだ。……行って帰らぬ旅ってやつへな」
 云いすてて林蔵は先へ進んだ。
 と、雑木の林の中から、
「赤尾のか、待っていた」という、猪之松の声が聞こえてきた。
「高萩のか、遅れて悪かった」
「俺もいまし方来たばかりよ」
 木洩れの月光の明るい所で、二人は顔を向かい合わせた。
「さて高萩の」と林蔵は云った。
「三度目の決闘だ、今度こそかた[#「かた」に傍点]をつけようぜ」
「うん、俺もそのつもりだ。……最初は上尾の街道で、二度目は追分の宿外れの野原で、三度目はこの黒川渡で……」
「今度こそかた[#「かた」に傍点]がつきそうだ」
「三度目の定《じょう》の目でなあ」
「俺が死んだらオイ高萩の、俺の縄張俺の乾兒、お前|悉皆《みんな》世話を見てくれ」
「心得た、きっと見る。その代わり俺が死んだ時には……」
「俺が悉皆みてやろう」
「心残りはねえと云うものだ」
「もつれ[#「もつれ」に傍点]にもつれ[#「もつれ」に傍点]た二人の仲が、今夜こそスッパリとかた[#「かた」に傍点]がつく、こう思うと気持がいいや」
「これまでは四辺《あたり》に人がいて、勝負するにもこだわり[#「こだわり」に傍点]があったが、今夜こそ本当に二人だけだ、思う存分切り合おうぜ」
「じゃアそろそろはじめようか」
「やろう、行くぜ、高萩猪之松!」
「さあ抜いた、林蔵来い!」
 甲源一刀流と新影流! 勢力伯仲の二人の博徒!
 構えは同じ中段に中段!
 逸見多四郎と秋山要介と、当代一流の剣豪を、師匠に取って剣道を、正規に学んだ二人であった。
 位い取りから呼吸《いき》づかいから、正しく鋭く隙がない。
 が、若いだけに赤尾の林蔵、やや気をいらち一気に勝負と、相手の刀磨り上げ気味に、ジリジリと[#「ジリジリと」は底本では「ヂリヂリと」]進み躍り込もうとした途端、
「む――」と呻く人間の声が、どこからともなく聞こえてきた。

恩讐集合


(はてな?)と林蔵は不審を打った。
(二人の他に人はいないと思ったのに、人の呻き声が聞こえるとは)
 こう注意が外れたので、躰の構えも自ずと崩れた。
 そこを狙って猪之松が、疾風迅雷、胴へ斬り込んだ。
「どっこい!」と喚くと林蔵は、一髪の間に飛退いて、姿勢を整え構えを正した。
 もう寸分の隙もない。
 二人は互いに呼吸を計り、その間隔《あいだ》を一間とへだて、睨み合って動かなかった。
 と、又も呻き声が聞こえた。
(おや?)と不審を打ったのは、今度は高萩の猪之松で、これも注意が外れたために、自ずと構えに隙が出来た。
(得たり!)とばかり得意の諸手突で、林蔵は征矢《そや》のように突進した。
 はじめて鏘然と太刀音がしたが、これは猪之松が林蔵の刀を、左に払って右へ反《かわ》したからで、太刀音のした次の瞬間には、二人の位置が少し移ったばかりで、構えは依然として中段と中段、もう静まり返っていた。
 それにしても呻き声はどこから来るのであろう?
 二人から数間離れた位置に、薮と灌木とに覆われて、一個の大岩がころがっていたが、その陰に一人の武士が仆れてい、その武士から呻き声は来るのであった。
 蒼い月光に照らされて、乱れた髪、はだかった衣裳、傷付いた手足のその武士が、水品《みずしな》陣十郎だということが見てとられた。
 嘉門の領地の動乱から、命からがら遁れ出て、ようやくここまで歩いて来たところ、手足の負傷、心の疲労から、昏倒してしまった彼であった。
 岩のむこうで林蔵と猪之松とが、刀を交し戦っているので、目つかっては一大事、声を立てては不可《いけ》ないと思いながら、つい呻き声を上げる彼でもあった。
 嘉門の領地から遁れ出たものは、相当|夥《おびただ》しい数と見え、この一角から遥か離れた、巣山《すやま》や明山《あきやま》の中腹を、福島の方へ行くらしい、たいまつ[#「たいまつ」に傍点]の火が点々と見えた。
(どうして林蔵と猪之松とが、こんな所で斬り合っているのか?)
 勿論陣十郎には合点いかなかったが、そういうことを突詰めて考え込むほど、彼の気持は冷静でなく、彼の躰は健康でなかった。
(それにしても井上嘉門の領地での、不思議な怪奇な事件の起伏! 何と云ったらいいだろう?)
 悪党の彼ではあったけれど、このことを思えば身が震えるのであったが、悩乱状態の陣十郎には、やはりこの事も冷静な気持で、回想することなど出来なかった。
(こんな所で死んではたまらない! 早く人里へ! 早く福島へ!)
 このことばかりを思い詰め、ノタウチながら呻き声を、先刻《さっき》から上げているのであった。
 もう林蔵にとっても猪之松にとっても、呻き声など問題ではなくなっていた。
 次第に迫る呼吸《いき》をととのえ、一気に雌雄を決しようと、刻足《きざみあし》をしてジリジリと[#「ジリジリと」は底本では「ヂリヂリと」]進んだ。
 しかし又もこの折柄、意外の障害が湧き起こった。
 雑木林の間から、数本のたいまつ[#「たいまつ」に傍点]の光が射し、四挺の駕籠を取巻いて、十数人の人々が、忽然現われて来たことであった。


 井上嘉門の一団であったが、四梃の駕籠に乗っている者は、嘉門と逸見《へんみ》多四郎と、お妻とそうして東馬とであった。
「や、これは逸見先生で」
 猪之松は思わず叫ぶように云って、岩を廻って数間走った。逃げたというのでは決してなく、自分の剣道の師匠であり、日頃から無用の腕立てや、殺生を厳しく戒《いまし》められている、その逸見多四郎にこんな姿を――抜身をひっさげているこんな姿を、こんなところで見られるということが、面伏せに思われたからであった。
 しかし直ぐに思い返し、苦笑いをして足を止めた。
「そこに居るのは猪之松ではないか」
 いち早くその姿を見かけたらしく、駕籠の中から多四郎は叫んだ。
「駕籠しばらく止めるがよい」
 止まった駕籠から多四郎は出て、猪之松の方へ寄って行った。
「抜身をひっさげ何をしているのじゃ」
 云い云いこれも猪之松の横に、これも抜き身を引っさげて、これも苦笑をして佇んでいる赤尾の林蔵をジロリと見、
「そなたは赤尾村の林蔵殿じゃな」
 猪之松が数間走ったので、それに連れて自分も数間走り、猪之松が足を止めたので、自分も足を止めた林蔵は、こう云われて頭を下げ、
「逸見の殿様でございまするか、意外のところでお目にかかり、恐縮至極に存じまする」
 顔見知りの逸見多四郎だったので、こう林蔵は憮然として云った。
 多四郎の方でも林蔵の顔は、以前に見かけて知っていた。それに自分の剣道の弟子たる高萩の猪之松の競争相手――そう云うことも知っていた。で、この場の光景から、心に響くものが少なからずあった。
「猪之松」と鋭い声で云った。
「決闘《はたしあい》か? そうであろう!」
「…………」
 猪之松は頭を下げた。
「猪之松!」と又も多四郎は云った。
「決闘! それもよかろう! ……が決闘したその後において、一体どのような良いことが残るのか?」
「…………」
「決闘! 決闘……さてその結果は一人が死ぬ! ……そうだ一人は殺されるのだ! よくよくのことがなければのう、決闘などするものではない」
「…………」
「理由は何か、云ってみい」
「はい」と猪之松は神妙に云った。
「ここに居りまする林蔵の子分に、藤作と申するものがござりまするが、その者が、わたくしの賭場へ参り、乱暴狼藉いたしましたゆえ、私子分ども腹を控えかね、みんなして袋叩きにいたしましたところ……」
「賭場荒しが原因だな」
「はい、さようでござります」
「みんなして藤作を叩いたといえば、争いは五分々々というものだな」
「まあ左様でございますが……」
「では、どうしてお前たち二人、あらためてここで決闘などするのだ?」
「子分の怨みは上に立つ者の……」
「親分の怨みになるという訳か」
「そればかりでなく、ずっと以前から、林蔵と私とは犬猿もただならず……」


「そのような噂も聞いて居る、がその不和の原因も、要するに縄張りの取り合いとか、勢力争いだということではないか」
「はい左様にござります、が私共渡世人にとっては縄張りと申すもの大切でありまして……」
「一体誰から許されて、縄張りというようなものをこしらえたのじゃ?」
「…………」
「土地はお上、ご領主の物、それをなんぞや博徒風情が、自分の勢力範囲じゃの縄張りじゃのと申し居る」
「…………」
「一体お前たちは、何商売なのじゃ?」
「…………」
「無職渡世などと申しているが、お上で許さぬ博奕をし、法網をくぐって日陰において生くる、やくざもの[#「やくざもの」に傍点]、不頼漢ではないか!」
「…………」
「そういう身分のその方なら、行動など万事穏便にし、刃傷沙汰など決していたさず、謹しんでくらすのが当然じゃ! それをなんぞや決闘とは! ……猪之松、其方《そのほう》はわし[#「わし」に傍点]について剣道を学んだ者だった喃《のう》」
「お稽古いただきましてござります」
「では其方はわし[#「わし」に傍点]の弟子じゃ」
「申すまでもございません」
「直れ!」と多四郎は凄じく云った。
「不肖な弟子を手討ちにいたす!」
 するとこの時まで多四郎の言葉を黙々として聞いていた林蔵が、抜身をソロリと鞘におさめ、つかつかと多四郎の前へ出て云った。
「逸見先生に申し上げまする、私をもお手討ちにして下さいませ」
 首をすっと差しのべた。
「?」
 多四郎はただ林蔵を見詰めた。
「先生の秘蔵弟子の猪之松殿を、不肖におとしましたは、この林蔵にござりまする」
「…………」
「林蔵さえ争いを仕掛けませねば、穏和な高萩の猪之松殿には決闘などいたしはしませぬ」
「…………」
「私をもお手討ち下さりませ」
 そういう林蔵の真面目な顔を、多四郎はつくづく眺めていたが、
「さすがは男、立派なお心! 多四郎ことごとく感心いたしてござる……そこで多四郎よりお願いすることがござる。……林蔵殿、猪之松と和解下さい……」
「…………」
「一つ秩父《ちちぶ》の同じ地方で、それほどの立派な男が二人、両立して争うとはいかにも残念! 戦えば両虎とも傷つきましょう。和解して力を一つにすべきじゃ」
「殿様……」と林蔵は頭を下げた。
「まことにごもっとものお言葉、林蔵身にしみてござります――高萩のに否《いな》やありませねば、私よろこんで和解いたしたく――」
「おお赤尾の俺とて承知だ!」と猪之松も嬉しそうに決然と云った。
「これまでのもつれ[#「もつれ」に傍点]水に流して、二人和解し親しくなろうぜ」
 この時木陰から声がかかった。
「この要介も大賛成じゃ」
 秋山要介が木陰から出て来た。


 そうして、その後からついて来たのは浪之助とそうして源女であった。
 いずれも井上嘉門の領地の一大混乱の渦から遁れ、ここまで下って来たのであった。
 そうして要介は木陰に佇み多四郎の扱いを見ていたのであった。
「猪之松と林蔵との和解は賛成、重ねて逸見殿と拙者との争いも、和解ということになりましょうな」
 磊落な要介はこう云って笑った。
「おおこれは秋山氏が、意外のところでお目にかかりました。林蔵殿と猪之松との和解、貴殿と拙者との武芸争いの和解! いずれをもご賛成下されて逸見多四郎満足でござる」
 多四郎もいかにも嬉しそうに云った。
「それに致しても秋山殿には何用あって、このような所に?」
「それは拙者よりお訊きしたい位で、何用あって逸見殿にはこのような所においでなさるるな?」
「実は井上嘉門殿の屋敷に、滞在いたして居りましたところ……」
「これはこれは不思議なことで、拙者も井上嘉門殿の屋敷に滞在いたして居りましたので……」
「や、さようで、一向存ぜず、彼の地にて御面会いたすこと出来ず、残念至極に存じ申す」
「しかるに今回の騒動! そこで引揚げて参りましたので」
「実は拙者も同様でござる」
 この時嘉門は駕籠から出て、改めて要介へ挨拶をした。
「ここに居りましても致し方ござらぬ、ともかくも福島まで引揚げましょう」
 こう多四郎が云ったので、一同それに同意した。

 一同がこの地から立ち去った後は、またこの地はひとしきり、深い林と月光との、無人の静かな境地となっていた。
 しかし岩陰には陣十郎が負傷に苦しんで呻いていた。
 大岩の陰にいたために、多四郎にも要介にも見あらわされず、そのことは幸福に感じられたが、お妻や源女を見かけながら、どうにもすることが出来なかったことは、彼には残念に思われた。
「ここに居ても仕方がない」
 こう思って彼は立ち上った。
「痛い! 痛い! 痛い!」と声をあげ、陣十郎はすぐに仆れ、右の足の膝の辺りを抑えた。
「あッ……膝の骨が砕けて居るわ」

 やがて秋が訪れて来た。
 御三家の筆頭尾張家の城下、名古屋の町にも桜の葉などが風に誘われて散るようになった。
 この頃知行一万石、石河原《いしかわら》東市正のお屋敷において月見の宴が催され、家中の重臣や若侍が、そのお屋敷に招かれていた。
 竹腰但馬、渡辺半左衛門、平岩|図書《ずしょ》、成瀬|監物《けんもつ》、等々の高禄の武士たちは、主人東市正と同席し、まことに上品におとなしく昔話などに興じていたが、若侍たちは若侍たちで、少し離れた別の座敷であたかも無礼講の有様で、高笑、放談、自慢話――女の話、妖怪変化の話、勝負事の話などに興じていた。
 と佐伯勘六という二十八九歳の侍が、
「辻斬の噂をお聞きかな」と、一座を見廻して云い出した。

月見の宴で


「辻斬の噂、どんな辻斬で?」と前田主膳という武士が訊いた。
「撞木杖をついた跛者《びっこ》の武士が辻斬りをするということで厶《ござ》るが」
「その噂なら存じて居ります」
「不思議な太刀使いをするそうで」
「こうヒョイと車に返し、すぐにドッと胴輪切りにかける――ということでありますそうで」
 この話はこれで終ってしまった。
 盃が廻り銚子が運ばれ、お酌の美しい若衆武士が、華やかに座を斡旋して廻った。
「拙者数日前備前屋の店頭で、長船《おさふね》の新刀をもとめましたが、泰平のご時世試し斬りも出来ず、その切れ味いまに不明、ちと心外でございますよ」
 と、川上|嘉次郎《かじろう》という武士が云って、酔った眼であたりを見廻した。
「貴殿も新刀をおもとめか、実は拙者ももとめましてな……相州物だということで厶るが、やはり切れ味は不明で厶る」
 こう云ったのは二十五六才の、古巣右内という武士であった。
「ナーニ切れ味を知りたいとなら、近くの大曾根の田圃へ行き、乞食でも斬れば知れ申すよ」と柱に背中をもたせかけて、赧顔を燈火に照し、少し悪酔をしたらしい、金田一新助という武士が云い、
「近来お城下に性のよくない、乞食が殖えたようで、機会あるごとにたたっ斬った方がよろしい」
「なるほどこれは妙案で厶るな」
「乞食なら斬ってもよろしかろう」と二三人の武士が雷同した。しかしこの話もこれで終り、女の話へ移って行った。
「拙者ひどい目に逢いましたよ」
 瀬戸金彌という二十二三の武士が、苦笑いしながら話し出した。
「数日前の夜で厶るが、大須の境内を歩いて居りますと、若い女が来かかりました。あの辺りのことで厶るによって、夜鷹でもあろうと推察し、近寄ってヒョイと手を取りましたところ、その手を逆に返されまして、途端に拙者ころびましたが、どうやら女に投げられたようで」
「アッハッハッ」と一同は笑った。
「女をころばすのは判っているが、女にころばされるとはサカサマじゃ」
「そこが色男の本性かな」
「その女|柔術《やわら》でも出来るのかな?」
「さようで」と金彌という武士は云った。
「零落をした武家の娘――と云ったような様子でござった。身装は穢くありましたが、顔や姿は美しく上品でありましたよ」
 この時川上嘉次郎と、古巣右内とが囁き合い、金田一新助へ耳うち[#「うち」に傍点]をした。すると新助はニヤリと笑い、二三度頷いて立ち上り、つづいて嘉次郎と右内とが立ち、こっそり部屋を出て行った。
 雑談に余念[#「余念」は底本では「余年」]のない一座の者は、誰もそれに気がつかなかったが、床柱に背をもたせかけコクリコクリと居眠りをしていた、秋山要介一人だけが、この時ヒョイと眼をあげて、三人の姿を見送って、審しそうに眉をひそめた。
 しかし眉をひそめただけで、声もかけず立っても行かず、また直ぐに眼を閉じて、長閑《のどか》そうに居眠りをつづけ出した。


 何故要介がこんな所にいるのか? 福島の馬市が首尾よく終えるや、赤尾の林蔵と高萩の猪之松とは、和解したので親しくなり、打ち連れ立って故郷へ帰った。
 そこで要介は門弟の浪之助へ、源女を附けて江戸へ帰し、自分一人だけが名古屋へ来た。
 尾張家の重臣|諌早《いさはや》勘兵衛が、要介の知己であるからであり、せっかく福島まで来たのであるから、久々で名古屋へ出かけて行き、諌早殿にお目にかかり、お城下見物をすることにしようと、そこで出かけて来たのであった。
 秋山要介の高い武名は、尾張藩にも知られていたので、今夜の宴にも勘兵衛と一緒に、要介は石河原家へ招かれた。
 最初要介は重臣たちとまじり、別の部屋で談笑していたのであったが、磊落の彼にはそういう座の空気がどうにも窮屈でならなかった。
 そこでそっと辷り出て、若侍たちのいるこの部屋へ来て、若侍たちの話を聞いているうちにトロトロと居眠りをやり出したのである。
 夜は次第に更けて来たが、酒宴は容易に終りそうもなく、人々の気焔はいよいよあがった。
 と、その部屋を出て行った、古巣右内という若侍が、蒼白《まっさお》な顔をして帰って来た。
「どうしたどうした」
「顔色が悪いぞ」
「今までどこへ行っていたのだ」
 と若侍たちは口々に訊いた。
「面目次第もないことを仕出来《しでか》しまして」
 右内は震える口で云った。
「新刀の試し切りいたそうと存じて、川上氏と金田一氏共々、大曾根の乞食小屋まで参りましたところ、一つの小屋の菰垂れの裾より、白刃ひらめきいでまして、あの豪勇の金田一氏が、片足を斬り落とされまして厶《ござ》りまする」
「なに乞食に金田一氏が……」
 若侍たちは森然としてしまった。
 それというのは金田一新助は、尾張藩の中でもかなりの使い手として、尊敬されている武芸者だからであった。
「そこで拙者と川上氏とで、金田一氏お屋敷まで、金田一氏をお送りいたし、川上氏はそのまま止まり、拙者一人だけ帰って参ったので厶るが……」と古巣右内は面目なさそうに云った。
 一同は何とも云わなかった。
 同僚が斬られたというのであるから、本来なれば出かけて行って、復讐すべきが当然なのであるが、相手が武士《ぶし》であろうことか、乞食小屋の乞食だというのであるから、討ち果したところで自慢にもならず、もし反対に討たれでもしたら――相手は随分強そうであるから、――討たれでもしたら恥辱の恥辱である。
 で黙っているのであった。
 この時要介はヒョイと立った。
 そうして部屋を出て行った。

 満月の光を浴びながら、秋山要介は大曾根の方へ、静かな足どりで歩いて行った。
 まだこの辺りは屋敷町で、昼もひっそりとしたところなのであるが、更けた夜の今はいよいよ寂しく歩く人の足音もなく、歩く人の姿もなかった。

疑い合う兄妹


 この夜大曾根の農家の一間に、兄妹の者が話していた。
 主水《もんど》とそうして澄江《すみえ》とであった。
 馬大尽井上嘉門の領地の、あの生地獄へ落された澄江が、どうしてこんな所に来ているかというに、あの夜暴民たちはその生地獄の上の、断崖へ押しよせて行き、生地獄にいる人々を助けようとして、幾筋となく綱を下ろした。
 それへ縋って地獄の人々は、あの谷から引き揚げられた。
 その中に澄江もいたのであった。
 そうして暴動の人渦に雑って、嘉門の領地をさまよっているうちに、幸運にも義兄の主水と逢った。
 その時の二人の喜びは!
 互いの過去を物語り、巡り逢えた幸運を感謝しながら、井上嘉門の領地を遁れ、まず福島の宿《しゅく》へ来た。
 そこで陣十郎の消息を尋ねた。
 名古屋の城下へ行ったらしかった。
 で、兄妹は連れ立って、名古屋へ来たのであって、この地へ来ると主水と澄江とは、とりあえず旅籠《はたご》に逗留して、陣十郎の行方《ゆくえ》を尋ねた。
 が、城下はなかなかに広く、行方を知ることが出来なかった。
 それにこれまでの艱難辛苦で、主水の躰も澄江の躰も、疲労困憊を尽くしていた。
 静養しなければならなかった。
 それに旅用の金子なども、追々少なくなって来たので、城下の旅籠を引払い、農家の離家を借り受けて、そこへ移って自炊をし、敵《かたき》の行方を尋ねると共に、身体をいたわることにした。
 鳴きしきる虫の音に時々まじって、木葉の落ちるしめやかな音が、燈火の暗い古びた部屋へ、秋の寂しさを伝えて来た。
「お兄様ご気分はいかがですか?」
 心配そうに澄江は訊いた。
「うむ、どうもよくないよ」
 主水はこの頃病気なのであった。
 と云ってもこれといって、心臓とか肺臓とか、そういうものの病気ではなく、気鬱の病気にかかっているのであった。
(澄江が水品陣十郎と、寝泊りをして旅をして来たとは!)
 このことが気鬱の原因であった。
 互いに過去の話をした時、このことを澄江は主水に話し、寝泊りして旅こそして来たが、躰に――貞操には欠けるところがないと、このことについては力説した。そこで主水もお妻と一緒に、寝泊りをして旅をして来たことを、きわめて率直に打ちあけて、そうしてやはり肉体的には、なんら欠点のないということを、澄江が安心するように話した。
 艱難辛苦をしたあげく、久しぶりで逢った主水と澄江とは、その邂逅に歓喜して、疑わしい過去のそういう生活をも、疑うことなく許し合った。
 が、その歓喜がやがて消えて、平静の生活に返って来ると、相互にこのことが疑われ出した。
 二人は兄妹とはいうものの、行く行くは夫婦になるべきところの、義兄妹であり許婚《いいなずけ》であった。
 そうして水品陣十郎が、父庄右衛門を殺害《さつがい》したのは、澄江に横恋慕した結果からのはずだ。
 その陣十郎と二人だけで、寝泊りして旅をして来たという!
 主水は苦悶せざるを得なかった。


 主水が苦悶すると同じように、澄江も苦悶せざるを得なかった。
(あの好色のお妻という女と、一つ宿に寝泊りして、旅をして幾日か来たからには、ただではすむべきはずがない。情交があるものと思わなければならない)
 苦悶せざるを得ないのであった。
 そういう二人の心持を――その苦しい心持を、カラリと晴らす方法はといえば、陣十郎とお妻とが現われて来て、その二人が自分の口から、そういう関係のなかったということを、証明するより外はなかった。
 ところが二人は二人ながら、主水たちの敵であり、その行衛《ゆくえ》は未だに知れない。従って二人の苦しい心持の、解け消える機会はないのであった。
「澄江殿」と他人行儀の、冷い口調で主水は云った。
「長の月日お父上の敵、陣十郎めを討とう討とうと、千辛万苦いたしても、今に討つことならぬとは、われわれ二人神や仏に、見放された結果かもしれませぬ……将来どのように探そうとも、陣十郎の行衛結局知れず……知れず終《じま》いになろうもしれませぬ……わしにとっては無念至極ではござるが、澄江殿にとってはその方が、かえってよいかもしれませぬのう……アッハッハッよいともよいとも!」
「…………」
 澄江は返事をもせず首垂れていた。
(また皮肉を仰有《おっしゃ》ると見える。……わたしはもう何にも云うまい)
 こう思って黙っているのであった。
「のう澄江殿」と又主水は、意地の悪い調子で云いつづけた。
「わしには不思議でなりませぬよ……お父上の敵の陣十郎と、一緒に旅をして居りながら、その敵を討って取ろうと、一太刀なりと加えなかったとは」
「…………」
「弱い女の身にしてからが、同じ部屋に寝泊りして来た以上、相手の眠りをうかがって、討ちとる機会はありましたはずじゃ……それを見遁して討たなかったからには、討てない理由があったものと……」
「…………」
「わしは不幸だ!」と不意に主水は、昂奮して血走った声で叫んだ。
「敵に肌身を穢された女を、妻にしなければならないとは!」
「あなた!」と澄江は顔色を変え、躰をワナワナ顫わせて、腹に据えかねたように叫び返した。
「以前にも再々申しましたとおり、陣十郎と連立って、道中旅をして参りましたは、秩父の高萩の猪之松の家で、馬大尽の井上嘉門に、すんでに肌身穢されようとしたのを、陣十郎に助けられましたからで……恩は恩、仇は仇、なんのお父上の敵などに、この肌身を穢させましょうや……道中陣十郎を見遁しましたは、助けられた恩からでございます……それにいたしましても貴方《あなた》様に――未来の良人のあなた様に、そのようなことを疑われましては、生きて居る望みござりませぬ! 死にます死にます妾は死にます!」
 いきなり刀を取って抜いた。


 主水は仰天して腕を伸ばし、その抜身をもぎ取った。
 澄江は畳へ額をつけ、ひた泣きに泣くばかりであった。
 抜身を鞘へそっと納め、手の届かない遠くへ押しやり、主水も腕を組んで考え込んだ。
(地獄の苦しみだ)とそう思った。
(こういう苦しみをするというのも、みな水品陣十郎のためだ)
 またここへ考えが落ちて行った。
(どうともして早くあいつの居場所を、探り知って討ち取りたいものだ)
(旅用の金も残り少なになった)
 このことも随分辛いのであった。
 胸は苦しく頭痛さえして来た。
 不意に主水は立ち上り、障子をあけ、雨戸をあけ、縁に立って戸外を見た。
 一跨ぎにも足りない竹垣をへだて、向かいはずっと田畑であり、月の光が農作物の上に、水銀のように照っていた。
 でも一方右手の方には、逸見《へんみ》三家中の名古屋逸見家の、大旗本の下屋敷のような、宏大な屋敷の一部が、黒く厳めしく立っていて、それが月光を遮っているので、その辺り一体が暗く見えていた。
(ああいう所には有り余る金が、腐るほど死蔵されているのだろうなあ)
 ふとこんなことが思われて、主水はその方を眺めやった。

 秋山要介は屋敷町を抜けて、大曾根の方へ歩いていた。
 尾張家の相当の使い手の武士を、乞食風情で小屋の裾から、一刀に足を斬ったという――このことが要介には不思議でならず、いずれその乞食は武士あがりの、名ある人間に相違ない、人物を見素性を知りたいものだ、それに自分が武芸者だけに、研究心と好奇心とから、その乞食と逢おうために、酒宴の席から抜け出して、こうして歩いて来たのであった。
 そして大曾根に辿りついた。
 飛々に農家があるばかりで、後は一面の耕地であり、ただ一所に宏大極まる名古屋逸見家の大屋敷が、この辺り一体を支配するかのように、月光の中に黒く高く、厳しく立っているばかりであった。
 土塀を四方に厳重に巡らし、土塀の内側へ植込を茂らせ、夜鳥を宿らせているらしく、時々啼音が落ちて来た。
 その屋敷の横を通り、要介は先へ進んで行った。
 と、遥かの行手にあたって、掘っ建て小屋が点々と、みすぼらしい形に並んでいるのが見えた。
 その方へ要介は進んで行った。
 しかしにわかに足を止め、
「はてな」と呟いて凝視した。
 小屋から十数人の人影が、バッタのように飛び出して来て、それが一団にかたまって、こっちへ歩いて来るからであった。
 なんとなく異様に思われたので、積藁の陰へ身をかくし、要介はしばらく待っていた。
 編笠をかぶり、撞木杖をついた、浪人を先頭に立てながら、乞食の一団が近寄って来た。

撞木杖の武士


 乞食の一団は話し合いながら、逸見《へんみ》屋敷の方へ歩いて行った。
「試し切りに来たらしい尾張藩の武士を、菰垂の裾からただ一刀に、足をお斬りになった先生の腕前、まったく凄いものでございましたよ」と、一人の乞食が感嘆したように云うと、
「あれなどは小供だましさ」と撞木杖の武士は事も無げに、
「足が満足であった頃には、五人であろうと、十人であろうと、撫斬りにしたものだったが」と、感慨深そうにそう云った。
 要介は黙って積藁の陰で、そういう話を聞いていたが、彼らがその前を行き過ぎると、その後から付いて行った。
(撞木杖をついている片脚の武士が、尾張家の武士を菰垂の裾から、一刀に斬った奴なのだな)
 こう思ったからである。
 乞食の一団は逸見屋敷の裏門の前で足を止めた。

 逸見屋敷の巨大な内土蔵の中に、二人の人間が話していた。
 一人は馬大尽の井上嘉門であり、もう一人は逸見多四郎であった。
 二人の眼前にあるものといえば、鋲や鉄環で鎧われたところの、巨大ないくつかの唐櫃であり、その中に充ちている物といえば、黄金の延棒や銀の板や、その他貴金属の器具や武具であった。
 昭和年間の価値に換算したら、何百萬両になろうとも知れなかった。
「なるほど」と多四郎は溜息をしながら云った。
「伝説以上の莫大な財産で」
「さようで」と嘉門は頷いて云った。
「名古屋逸見家にある分だけが、これだけなのでございます……。この他に知多の逸見家にも、また犬山の逸見家にも、これほどの財宝が蔵してありますので」
「その三家を支配している者が、貴殿井上嘉門殿なので」
「はい代々井上嘉門が支配いたして居りました。……で、この秘密を保つために、逸見三家は家憲として、外界《そと》との交際を避けて居りました」
「それは聡明なやり口ではござるが、しかしこれほど莫大な財宝を、死蔵いたすということは……」
「さようさよう」と嘉門は云った。
「今後これまでのような保存のやり方では、よろしくないように存ぜられまする……それにこのように貴方《あなた》様へ財宝の在り場所お知らせした以上、今後ともお力添《ちからぞ》えをいただいて、この財宝の使用方につき、研究いたしたく存じまする」
「結構、何なりとお力になりましょう」
 それにしてもどうしてこの二人が、こんな逸見家などにいるのであろう?
 それは例の騒動から嘉門や多四郎たちは木曽福島に遁れ、そこから共に名古屋の地へ来、逸見三家の実際の主人が、井上嘉門その人だったので、まず名古屋逸見家の屋敷へ、一同入ったのにすぎないのであった。


 この時|主家《おもや》の方角から、喧騒の声が聞こえてきた。
 嘉門と多四郎とは眼を見合せたが、内蔵を出ると扉をとじ、主家の方へ走って行った。
 見れば、一大事が起こっていた。
 得物を持った多数の乞食が、撞木杖をついた浪人に指揮され、家財を奪おうとしているのを、家の者が防いでいるのであった。
 編笠を刎ねのけた撞木杖の武士は、ほかならぬ水品陣十郎であった。
 その陣十郎は右の片手で、お妻の襟がみを掴んでいた。
 井上嘉門の領地内で、一騒動を起こしたが、自分も負傷して不具となった。左の片足を傷つけたのである。
 福島へ出、名古屋へ出た。
 生活の道がなかったので、とうとう乞食にまでおちぶれてしまった。
 乞食仲間を煽動し、今宵逸見家を襲ったのは、金銭を得ようためだったのである。さて逸見家へ乱入して見れば昔の情婦で自分を裏切ったお妻が、意外にも姿を現わした。
「おのれ!」とばかり引っとらえたのである。
 と、そこへ駈け込んで来たのが、嘉門とそうして多四郎とであった。
「陣十郎オーッ」
「あッ、逸見先生!」
 陣十郎は仰天し、片手でお妻を小脇に抱くと、撞木杖を飛ばして走り出した。
「待て! 陣十郎オーッ」と追う多四郎を、乞食どもは遮った。
「邪魔するか汝《おのれ》!」と怒った多四郎が、刀を抜いた瞬間に、乞食を背後から斬り仆す者があった。
 それは秋山要介であった。
「や、貴殿は秋山氏!」
「おおこれは逸見先生で」
「秋山氏には、どうしてここへ?」
「乞食ども怪しい片輪武士と、ともどもこの屋敷へ潜入いたしましたを、つけて参って拙者見届け、押込みと推し、ご注意いたそうと、拙者も潜入いたした次第で」
「その片輪武士こそ陣十郎でござる」
「ナニ、陣十郎? さようでござったか。……してそ奴、陣十郎めは?」
「お妻と申す女を奪い、たった今しがた逃げましてござる」
「追いましょう、逃がしてはならぬ」
「御意で! 追いましょう、遠くは行くまい!」
 多四郎と要介とは走り出した。
 乞食どもはいつか逃げ散っていた。

 お妻を引っかかえた陣十郎は、この頃耕地を走っていた。
 後から追って来る足音がする。
(どこかへ隠れて……隠れなければならない)
 見れば一軒の農家があって、燈火の光が洩れて見えた。
(よしあそこへかくまって[#「かくまって」に傍点]貰おう)
 陣十郎はそっちへ走った。
 雨戸が一枚あいていて、人の姿がそこにぼんやりと見えた。
「狼藉者に襲われましたもの、しばらくおかくまい[#「おかくまい」に傍点]下されい」
「よろしゅござる」とその人は云い、一方へ躰を開いた。

本懐遂ぐ

 で、燈火が雨戸の間から、ほのかながらも庭先へ射した。
「やア、汝は水品《みずしな》陣十郎オーッ」
「誰だ? やア鴫澤主水《しぎさわもんど》かアーッ」
 縁に佇んでいた者は、鴫澤主水その人であった。
 庭へ射し出た燈火の光で、陣十郎を認めた鴫澤主水は、叫ぶと同時に刀をひっ掴み、庭へ躍り出ると積る怨み、ほとんど夢中で斬り込んだ。
「わっ」
 陣十郎は地に仆れた。
 片手にお妻を抱えていた。
 しかも片足は不具であった。
 満足な方の右の足の、股の辺りを斬られたのである。
 とその瞬間、澄江が刀を抜きそばめ、縁から庭へ飛び下りた。
「澄江殿かアーッ」と死期迫った声で、陣十郎は呼ばわった。
「其方《そなた》に懸想したばかりに……が今では二人一緒に、木曽街道の旅はしたが、躰に操に傷付けなかったことを、陣十郎の本性に、善心のあった証拠として心はればれ存じ居る……いざ主水拙者を討て! その前にこの女を!」
 お妻を放すと放した手で、刀引抜きお妻の肩を、胸にかけて割りつけた。
「ヒ――ッ」と仆れてノタウツお妻! でも断末魔の息の下で、
「主水様、この世の名残りに、お目にかかれて本望でござんす……二人一緒に旅はしましたが、とうとう最後まで赤の他人……今はやっぱり陣十郎殿の女房……良人《おっと》に討たれて死にまする」
「討て主水! いざ立派に!」
「よい覚悟! 討つぞ陣十郎!」
 主水の切り下した刀の下に、陣十郎の息は絶え、それに寄りかかってお妻も死んだ。
 間もなくそこへ駈けつけて来たのは逸見多四郎と秋山要介とであった。

 主水と澄江とが婚礼したのは、その翌年のことであって、仲のよい夫婦として榊原家では同僚たちがうらやんだ。
 多四郎と要介とは親友となり、井上嘉門の大宝財の、使用方などについて相談などをした。
 源女は本心を取りもどし、女芸人として名声を馳せ、杉浪之助はその後援者として、何くれとなく世話をしてやった。
 赤尾の林蔵と高萩の猪之松とは、一時和睦はしたものの、やはり両雄ならび立たず、その後対抗するようになったが、それは後日の出来事であった。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻四」未知谷
   1993(平成5)年5月20日初版発行
初出:「山形新聞」
   1936(昭和11)年3月~8月18日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、以下の場合には大振りにつくっています。
「戸ヶ崎熊太郎」「広谷ヶ原」
※底本は、「行方/行衛」、「提燈/提灯」、「綺麗/奇麗」、「子分/乾兒/乾児/乾分」、「仰有る/有仰る/仰言る」を混在させていますが、底本のママとしました。
※小見出しの終わりから、行末まで伸びた罫は、入力しませんでした。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年4月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

血曼陀羅紙帳武士—–国枝史郎

腰の物拝見

「お武家お待ち」
 という声が聞こえたので、伊東|頼母《たのも》は足を止めた。ここは甲州街道の府中から、一里ほど離れた野原で、天保××年三月十六日の月が、朧《おぼ》ろに照らしていた。頼母は、江戸へ行くつもりで、街道筋を辿《たど》って来たのであったが、いつどこで道を間違えたものか、こんなところへ来てしまったのであった。声は林の中から来た。頼母はそっちへ眼をやった。林の中に、白い方形の物が釣ってあった。紙帳《しちょう》らしい。暗い林の中に、仄白く、紙帳が釣ってある様子は、巨大な炭壺の中に、豆腐でも置いたようであった。声は紙帳の中から来たようであった。
 塚原卜伝が武者修行の際、山野に野宿する時、紙帳を釣って寝たということなどを、頼母は聞いていたので、林に紙帳の釣ってあることについては、驚かなかったものの、突然、横柄な声で呼び止められたのには、驚きもし腹も立てた。それで黙っていた。すると、紙帳の裾が揺れ、すぐに一人の武士が、姿を現わした。武士の身長《たけ》が高いので、紙帳を背後《うしろ》にして立った形《すがた》は「中」という字に似ていた。
「お腰の物拝見出来ますまいかな」と、その武士は、頭巾で顔を包んだままで云った。
「黙らっしゃい」と頼母は、とうとう癇癪を破裂させて叫んだ。
「突然呼び止めるさえあるに、腰の物を見せろとは何んだ! 成らぬ!」
「そう仰せられずに、お見せくだされ。相当の物をお差しでござろう」
「黙れ! 無礼な奴、ははア、貴様、追い剥ぎだな。腰の物拝見などと申し、近寄り、懐中物を奪うつもりであろう。ぶった斬るぞ!」
「賊ではござらぬ。ちと必要あって腰の物拝見したいのじゃ。何をお差しかな。まさか天国《あまくに》はお差しではござるまいが」
「ナニ、天国? あッはッはッ、何を申す、馬鹿な。天国や天座《あまのざ》など、伝説中の人物、さような刀鍛冶など、存在したことござらぬ。鍛えた刀など、何んであろうぞ」
 すると武士は、頭巾の中で、錆《さび》のある、少し嗄《しわが》れた声で笑ったが、「貴殿も、天国不存在論者か。馬鹿者の一人か。まアよい、腰の物お見せなされ」と、近寄って来た。
 頼母は、傍若無人といおうか、自信ある行動といおうか、相手の武士が、無造作に、近寄って来る態度に圧せられ、思わず二、三歩退いたが、冠っていた編笠を刎ね退《の》け、刀の柄へ手をかけた。父の敵《かたき》を討つまでは、前髪も取らぬと誓い、それを実行している頼母は、この時二十一歳であったが、前髪を立てていた。当時の若衆形、沢村あやめ[#「あやめ」に傍点]に似ていると称された美貌は、月光の中で蒼褪めて見えた。
 武士は、頼母の前、一間ばかりの所で立ち止まったが、「まだお若いの。若い貴殿を蜘蛛《くも》の餌食《えじき》にするのも不愍、斬るのは止めといたすが、云い出したからには、腰の物は拝見いたさねばならず……眠らせて!」
「黙れ!」
 鍔音《つばおと》がした!
「はーッ」と頼母は、思わず呼吸《いき》を引いた。武士によって鳴らされた鍔音が、神魂に徹《とお》ったからであった。
 猛然と頭巾が逼って来た。頭巾の主の体が、怒濤のように殺到して来た。そうして次の瞬間には、頼母は、地上へ叩き付けられていた。体当たりを喰らったのである。
 俯向けに地に倒れた頼母は、(俺はここで死ぬのか。死んでは困る。俺は父の敵五味左門を討たなければならないのだから)と思った。
 そういう彼の眼に見えたものは、彼の両刀を調べている武士の姿であった。そうして、その武士の背後の地面から、瘤《こぶ》のように盛り上がっている古塚であった。その古塚は、数本の松と、一基の碑《いしぶみ》とを、頂きに持っていた。そうして……しかし、頼母の意識は朦朧《もうろう》となってしまった。

    参詣《おまいり》に来た娘

 その頼母が、誰かに呼ばれているような気がして、正気づいた時、まず見えたのは、自分の顔へ、近々と寄せている、細い新月のような眉、初々《ういうい》しい半弓形の眼の、若い女の顔であった。円味の勝った頤《おとがい》につづいて、剥《む》き胡桃《くるみ》のような、肌理《きめ》の細かな咽喉が、鹿《か》の子《こ》の半襟から抜け出している様子は、艶《なまめ》かしくもあれば清らかでもあった。
「もし、お武家様、お気づかれましたか」と娘は云った。
 頼母は弱々しく頷いて見せ、そうして、(俺はこの娘に助けられたらしい)と思った。しかしすぐに、紙帳から出て来た武士のことが気にかかった。それで、まだ弛《ゆる》く、自由になりにくい首をやっと廻して、林の方を見た。どんぐり[#「どんぐり」に傍点]や櫟《くぬぎ》や柏によって形成《かたちづく》られている雑木林には、今は陽があたっていて、初葉さえ附けていない裸体《はだか》の幹や枝が、紫ばんだ樺《かば》色に立ち並んでいたが、紙帳は釣ってなかった。(夜の間に立ち去ったのだな。それにしてもあの武士、何者なのであろう? 突然紙帳の中から出て来て、刀を見せろと云い、見せないといったら、体当たりをくれ、俺を気絶させおった。紙帳を林の中に釣って寝ていたところから察すると、武者修行の者らしいが、着流しで、頭巾を冠っていた様子から推すと、そうでもないらしい)頼母は、頭に残っている疲労の中で、こんなことを考えた。(それにしても、彼と俺との、武技《うで》の相違はどうだったろう)これを思うと頼母は、赧くならざるを得なかった。(大人と子供といおうか。世には恐ろしい奴があればあるものだ)
 この時娘が、
「野中の道了様へお詣りに参りましたところ、あなた様が気絶をしておいでなさいましたので、ご介抱申し上げたのでございます。でも正気づかれて、ほんとうに嬉しゅうございます」
 と云った。細々としていて、優しい、それでいて寂《さび》しみの籠もっている声であった。
 頼母は娘の顔へ眼をやり、
「忝《かたじ》けのうございました。おかげをもちまして、命びろいいたしました」と云ったが、(何んだ俺はまだ寝ているではないか)と気づき、起き上がろうとした。しかし、倒れた時、体をひどく打ったらしく、節々が痛んで、なかなか起き上がれなかった。
「いえいえ、そのままでおいでなさいませ。お寝《よ》ったままで。どうせそのお体では、すぐにご出立は出来ますまい。むさくるしい所ではございますが、妾《わたし》の家で、二、三日ご逗留し、ご養生なさいませ。いえいえご遠慮には及びませぬ。よく妾の家へは、旅のお武家様がお立ち寄りでございます。父が大変喜びますので。でも、家は一里ほど離れておりますので、お徒歩《ひろ》いではお困りでございましょう。乳母《ばあや》がおりますゆえ、町へやり、駕籠をひろわせて参りましょう。……乳母!」と、娘は立ち上がりながら呼んだ。
 五十あまりの、品のよい婦《おんな》が、古塚のような小丘の裾に佇んでいたが、すぐに寄って来た。それへ娘は何やら囁いた。
「はい、お嬢様、かしこまりましてございます」乳母はそう云ったかと思うと、雑木林を巡って歩いて行った。
 娘は、しばらくそれを見送っていたが、やがて屈《かが》むと、地に置いてあった線香の束を取り上げ、「どれ、それでは妾は、ちょっと道了様へ。……」と云い、古塚のような、小丘の方へ歩いて行った。
(あれが道了様なのか)と、頼母は、それでもようやく起き上がった体を、小丘の方へ向け、つくづくと眺めた。それは、高さ二間、周囲《まわり》十間ぐらいの大岩で出来ている塚であったが、その面に、苔だの枯れ草だの枯れ葉だのがまとい付いている上に、土壌《つち》が蔽うているので、早速には、岩とは見えなかった。塚の頂きに立っている碑《いしぶみ》には、南無妙法蓮華経と、髭《ひげ》題目が刻まれていた。碑は、歳月と風雨とに損われて、諸所《ところどころ》欠けている高さ六尺ぐらいの物で、色は黝《くろ》かったが、陽に照らされ、薄光って見えた。その碑の面を、縒《よ》れたり縺《もつ》れたりしながら、蒼白い、漠とした物が立ち昇って行った。娘が供えた線香の煙りであった。煙りの裾、碑の前に、つつましく屈み、合掌しているのが娘で、その姿が、数本の小松に遮《さえぎ》られていたので、かえって趣《おもむ》き深く眺められた。
「絵だ」と、頼母は、娘の赤味の勝った帯などへ眼をやりながら、呟いた。

    古屋敷の古浪人

 乳母《ばあや》が雇って来た駕籠に乗り、頼母が、娘の家へ行ったのは、それから間もなくのことで、娘の家は、府中から一里ほど離れたところにあった。鋲打ちの門や土塀などに囲まれた、それは広大《ひろ》い屋敷であったが、いかにも古く、住人も少ないかして、森閑としていた。頼母は、古びた衝《つい》立ての置いてある玄関から、奥へ通された。
 さて、この日が暮れ、夜が更けた時、屋敷の一間から、話し声が聞こえて来た。
 畳も古く、襖も古く、広いが取り柄の客間に、一基の燭台が置いてあったが、その灯の下で、四人の武士が、酒を飲み飲み、雑談しているのであった。
「我輩は、ここへ逗留して三日になるが、主人《あるじ》薪左衛門殿の姿を見たことがない。気がかりともいえれば不都合ともいえるな」と云ったのは、頬に刀傷のある、三十五、六の、片岡という武士で、片手を枕にして、寝そべっていた。
「不都合とはどういう訳か」と、怪訝《けげん》そうに訊いたのは、それと向かい合って、片膝を立て、盃をチビチビ嘗めていた、山口という三十年輩の武士で、「只で泊めて貰い、朝酒、昼酒、晩酌まで振る舞われて、まだ不平なのか」
「そうではない。縁も由縁《ゆかり》もない我らを、このように歓待してくれながら、主人が顔を出さぬのは不都合……いや、解せぬというのじゃ」
「それは貴公、世間の噂を知らぬからじゃ」
 と云ったのは、膝の前にある皿の肴《さかな》を、なお未練らしくせせって[#「せせって」に傍点]いた、五十五、六の、頬髯を生やした、望月角右衛門という武士で、「世間の噂によれば、薪左衛門殿は、ここ数年来、誰にも逢わぬということじゃ」
 すると、二十五、六の、南京豆のような顔をした、小林紋太郎という武士が、「それは何故でございましょうかな? ご病気なので? それとも……」
「解らぬ」と、角右衛門が云った。「解らぬのじゃ。さよう、病気だとの噂もあれば、いつも不在じゃという噂もある」
「いよいよ変じゃ」と云ったのは、片岡という武士で、「そういう薪左衛門殿が、見ず知らずの浪人でも、訪《たず》ねて行きさえすれば、泊めてくれ、ご馳走をしてくれるとは……」
「よいではないか」と、角右衛門が、抑えるような手つき[#「つき」に傍点]をし、
「主人がどうあろうと、我らにとっては関《かま》わぬことじゃ。泊めてくれて、ご馳走してくれて、出立の際には草鞋《わらじ》銭までくれる。いやもう行き届いた待遇《もてなし》。それをただ我らは、受けておればよい。我らにとっては大旦那よ。主人の秘密など、剖《あば》かぬこと剖かぬこと」
「そうともそうとも」と合い槌を打ったのは、山口という武士で、「その日その日[#「その日その日」に傍点]を食いつなぐだけでも大わらわの我ら、他人の秘密事《ないしょごと》など、どうでもよかよか。いや全くこの頃の世間、世智辛くなったぞ。百姓や町人めら、なかなか我らの威嚇《おどし》や弁口に、乗らぬようになったからのう」
「以前《むかし》はよかった」と感慨深く云ったのは、例の望月角右衛門という武士で、「百姓も町人も、今ほど浪人慣れていず、威嚇などにも乗りやすく、よく金を出してくれたものよ。それに第一、浪人の気組が違っていた。今の田舎稼ぎの浪人など、自分の方からビクビクし、怖々《こわごわ》強請《ゆす》りかけているが、以前《むかし》の浪人とくると、抜き身の槍や薙刀を立て、十人十五人と塊《かた》まって、豪農だの、郷士だのの屋敷へ押しかけて行き、多額の金子《きんす》を、申し受けたものよ」

    義兄弟の噂

 しばらく話が途絶えた。春とはいっても、夜は小寒かった。各自《めいめい》に出されてある火桶に、炭火《ひ》は充分にいけ[#「いけ」に傍点]られていたが、広い部屋は、それだけでは暖まらないのであろう。
 と、横手の襖が開いて、老僕がはいって来、新しい酒を置き無言で立ち去った。浪人たちは、ちょっと居住居を直したが、老僕の姿が消えると、また横になったり、胡坐《あぐら》を掻いたりした。一番年の若い武士が、燗徳利を取ると、仲間の盃へ、次々と注いだ。燭台の皿へ、丁字《ちょうじ》が立ったらしく、燈火《ひのひかり》が暗くなった。それを一人が、箸を返して除去《と》った。明るくなった燈に照らされ、床の間に置いてある矢筒の矢羽根が、雪のように白く見えた。
「その時代には、ずば抜けた豪傑もいたものよ」と、角右衛門が、やがて回顧の想いに堪えないかのような声で、しみじみと話し出した。「もっとも、これは噂で聞いただけで、わしは逢ったことはないのだが、来栖《くるす》勘兵衛、有賀《ありが》又兵衛という二人でな、義兄弟であったそうな。この者どもとなると、十人十五人は愚か、三十人五十人と隊を組み、槍、薙刀どころか、火縄に点火した鳥銃をさえ携え、豪農富商屋敷へ、白昼推参し、二日でも三日でも居坐り、千両箱の一つぐらいを、必ず持ち去ったものだそうじゃ。ところが、不思議なことには、この二人、甲州の大尽、鴨屋方に推参し、三戸前の土蔵を破り、甲州小判大判取り雑《ま》ぜ、数万両、他に、刀剣、名画等を幾何《いくばく》ともなく強奪したのを最後に、世の中から姿を消してしまったそうじゃ」
「召し捕られたので?」
「それが解らぬのじゃ」
 この時、庭の方から、轍《わだち》でも軋《きし》るような、キリキリという音が、深夜の静寂《しじま》に皹《ひび》でも入れるかのように聞こえて来た。武士たちは顔を見合わせた。この者どもは、永の浪人で、仕官の道はなく、生活《たつき》の法に困《こう》じたあげく、田舎の百姓や博徒の間を巡り歩き、強請《ゆすり》や、賭場防ぎをして、生活《くらし》をしている輩《やから》であったが、得体の知れない、この深夜の軋り音《ね》には気味が悪いと見え、呼吸《いき》を呑んで、ひっそりとなった。軋り音は、左の方へ、徐々に移って行くようであった。不意に角右衛門が立ち上がった。つづいて三人の武士が立ち上がり、揃って廊下へ出、雨戸を開けた。四人の眼へはいったものは、月夜の庭で、まばらの植え込みと、その彼方《あなた》の土塀とが、人々の眼を遮った。しかし、軋り音の主の姿は見えず、ずっと左手奥に、はみ出して作られてある部屋の向こう側から、音ばかりが聞こえて来た。でも、それも、次第に奥の方へ移って行き、やがて消え、吹いて来た風に、植え込みに雑じって咲いている桜が、一斉に散り、横撲りに、四人の顔へ降りかかった。四人の者は、そっと吐息をし、府中の町が、一里の彼方、打ち開けた田畑の末に、黒く横仆《よこたわ》っているのを、漠然と眺めやった。町外れの丘の一所が、火事かのように赤らんでいる。
「そうそう」と角右衛門が云った。「今日から府中は火祭りだったのう。あの火がそうじゃ」
「向こう七日間は祭礼つづき、町はさぞ賑わうことであろう」――これは片岡という武士であった。
「府中の火祭り賭場は有名、関東の親分衆が、駒箱を乾児《こぶん》衆に担がせ、いくらともなく出張って来、掛け小屋で大きな勝負をやる筈。拙者、明日は早々ここを立って、府中《あそこ》へ参るつもりじゃ」これは山口という武士であった。
「わたくしも明日は府中へ参ります所存。この頃中|不漁《しけ》で、生物《なまもの》にもありつかず、やるせのうござれば、親分衆に取り持って貰って……」
 と、紋太郎が云った。生物というのは女のことらしい。

    血蜘蛛の紙帳

 それを聞くと、角右衛門は笑ったが、
「貴殿方は、どの親分のもとへ参らるる気かな。拙者は、松戸の五郎蔵殿のもとへ参るつもりじゃ。関東には鼻を突くほど、立派な親分衆がござるが、五郎蔵殿ほど、我々のような浪人者を、いたわってくださる仁はござらぬ」
「それも、五郎蔵殿が、武士あがりだからでございましょうよ」
 酔った頬を、夜風に嬲《なぶ》られる快さからか、四人の者は、雨戸の間《あい》に、目白のように押し並び、しばらくは雑談に耽ったが、やがて部屋の中へはいった。とたんに、
「やッ、腰の物が見えぬ!」と、角右衛門が、狼狽したように叫んだ。
 皿や小鉢や燗徳利の取り散らされてある座敷に突っ立ったまま、四人は、また顔を見合わせた。わずかな時間《あいだ》に、四人の刀が、四本ながら紛失しているではないか。
「盗まれたのじゃ」
「家の者を呼んで……」
「いやいやそれ前に、一応あたりを調べて……」と、年|嵩《かさ》だけに、角右衛門は云い、燭台をひっさげると、次の間へ出た。次の間にも刀はなかった。その次の間へ行った。そこにも刀はなかった。そこを出ると廊下で、鉤の手に曲がっていた。その角にあたる向こう側の襖をあけるや、角右衛門は、
「おお、これは!」と云って、突っ立った。
 続いた三人の武士も、角右衛門の肩ごしに部屋の中を覗いたが、「おお、これは!」と、突っ立った。
 その部屋は十畳ほどの広さであったが、その中央《なかほど》に、紙帳《しちょう》が釣ってあり、燈火《ともしび》が、紙帳の中に引き込まれてあるかして、紙帳は、内側から橙黄色《だいだいいろ》に明るんで見え、一個《ひとつ》の人影が、その面《おもて》に、朦朧《もうろう》と映っていた。総髪で、髷を太く結んでいるらしい。鼻は高いらしい。全身は痩せているらしい。そういう武士が、刀を鑑定《み》ているらしく、刀身が、武士の膝の辺《あた》りから、斜めに眼の辺りへまで差し出されていた。――そういう人影が映っているのであった。それだけでも、四人の武士たちにとっては、意外のことだったのに、紙帳の面《おもて》に、あるいは蜒々《えんえん》と、あるいはベットリと、あるいは斑々と、または飛沫《しぶき》のように、何物か描かれてあった。その色の気味悪さというものは! 黒に似て黒でなく、褐色に似て褐色でなく、人間の血が、月日によって古びた色! それに相違なかった。描かれてある模様は? 少なくも毛筆《ふで》で描かれた物ではなかった。もし空想を許されるなら、何者か紙帳の中で屠腹《とふく》し、腸《はらわた》を掴み出し、投げ付けたのが紙帳へ中《あた》り、それが蜒《うね》り、それが飛び、瞬時にして描出したような模様であった。一所にベットリと、大きく、楕円形に、血痕が附いている。巨大な蜘蛛《くも》の胴体《どう》と見れば見られる。まずあそこへ、腸を叩き付けたのであろう。瞬間に腸が千切れ、四方へ開いた。蜘蛛の胴体から、脚のように、八本の線が延びているのがそれだ。蜘蛛の周囲を巡って、微細《こまか》い血痕が、霧のように飛び散っている。張り渡した蜘蛛の網と見れば見られる。ところどころに、耳ほどの形の血痕が附いている。網にかかって命を取られた、蝶や蝉の屍《なきがら》と見れば見られる。血描きの女郎蜘蛛! これが紙帳に現われている模様であった。では、その蜘蛛を背の辺りに負い、網の中ほどに坐っている紙帳の中の武士は、何んといったらよいだろう? 蜘蛛の網にかかって、命を取られる、不幸な犠牲というべきであろうか? それとも、その反対に、蜘蛛を使い、生物の命を取る、貪婪《どんらん》、残忍の、吸血鬼というべきであろうか? と、紙帳に映っていた武士の姿が崩れた。斜めに映っていた刀の影が消え、やがて鍔音がした。鞘に納めたらしい。横を向いていた武士の顔が、廊下に突っ立っている、四人の浪人の方へ向いた。
「鈍刀《なまくら》じゃ、四本とも悉《ことごと》く鈍刀じゃ。お返し申す」
 四本の刀が、すぐに、紙帳の裾から四人の方へ抛《ほう》り出された。この時まで息を呑み、唾を溜めて、紙帳を見詰めていた四人の浪人は、不覚にも狼狽した声をあげながら、刀へ飛びかかり、ひっ[#「ひっ」に傍点]掴み、腰へ差した。その時はじめて怒りが込み上げて来たらしく、
「これ、そこな武士、無礼といおうか、不埓《ふらち》といおうか、無断で我らの腰の物を持ち去るとは何事じゃ! 出て来い! 出て来て謝罪いたせ!」と、角右衛門が怒鳴った。
 すると、それに続いて、南京豆のような顔をした紋太郎が、
「出て来い! 出て来て謝罪いたせ!」と鸚鵡《おうむ》返しのように叫び、「それに何んぞや鈍刀とは! 我らの刀を鈍刀とは!」
「何者じゃ! 名を宣《なの》れ! 身分を明かせ!」
 とさらに角右衛門が怒鳴った。
 すると、紙帳の中の武士は、少し嗄《しわが》れた、錆《さび》のある声で、「拙者の名は、五味左門と申す、浪人じゃ。当家が浪人を厚遇いたすと聞き、昨夜遅く訪ねて参り、一泊いたしたものじゃ。疲労《つか》れていたがゆえに、この部屋へ早く寝た。しかるにさっきから、遠くの部屋から、賑やかな、面白そうな話し声が聞こえて来た。一眠りして、疲労《つかれ》の癒えた拙者、眼が冴えて眠れそうもない。会話《はなし》の仲間へはいり、暇を潰そうと声をしるべに尋ねて行ったところ、広い部屋へ出た。酒肴が出ておる。悪くないなと思ったぞ。が、見れば、四本の刀が投げ出してあり、刀の主らしい四人の者が、廊下に立って、夜景色を見ておる。長閑《のどか》の風景だったぞ。そこでわし[#「わし」に傍点]の心が変った。貴殿方と話す代りに、貴殿方の腰の物を拝見しようとな。悪気からではない。わし[#「わし」に傍点]の趣味《このみ》からじゃ。そこでわし[#「わし」に傍点]は貴殿方の腰の物をひとまとめにして持って参り、今までかかって鑑定いたした。さあ見てくれといわぬばかりに投げ出してあった刀、四本のうち一本ぐらい、筋の通った銘刀《もの》があるかと思ったところ、なかったぞ。フ、フ、フッ、揃いも揃って、関の数打ち物ばかりであったよ」

    蜘蛛の犠牲《にえ》

「チェッ」と舌打ちをしたのは、短気らしい山口という武士で、やにわに刀を抜くと、「他人《ひと》の腰の物を無断で見るさえあるに、悪口するとは何事じゃ。出て来い! 斬ってくれる!」
「斬られに行く酔狂者はない。出て行かぬよ。用があらば、そっちから紙帳の中へはいって参れ。ただし、断わっておくが、紙帳の中へはいったが最後、男なら命を女なら……」
「黙れ!」と、山口という武士は、紙帳に映っている影を目掛け、諸手《もろて》突きに突いた。
 瞬間に、紙帳の中の燈火《ともしび》が消え、紙帳は、経帷子《きょうかたびら》のような色となり、蜘蛛の姿も――内側から描かれていたものと見え、燈火が消えると共に消えてしまった。そうして、突かれた紙帳は、穏《おとな》しく内側へ萎み、裾が、ワングリと開き、鉄漿《おはぐろ》をつけた妖怪の口のような形となり、細い白い手が出た。
「!」
 悲鳴と共に、山口という武士はのけぞり[#「のけぞり」に傍点]、片足を宙へ上げ、それで紙帳を蹴った。しかし、すぐに、武士は、足から先に、紙帳の中へ引き込まれ、忽ち、断末魔の声が起こり、バーッと、血飛沫《ちしぶき》が、紙帳へかかる音がしたが、やがて、森然《しん》と静まってしまった。角右衛門は、持っていた燭台を抛り出すと、真っ先に逃げ出し、つづいて、紋太郎が逃げ出した。
 しかし片岡という武士は、さすがに、同宿の誼《よし》みある浪人の悲運を、見殺しに出来ないと思ったか、夢中のように、紙帳へ斬り付けた。とたんに、紙帳の裾が翻《ひるがえ》り、内部《うち》から掬《すく》うように斬り上げた刀が、廊下にころがったままで燃えている、燭台の燈に一瞬間輝いた。
「わ、わ、わーッ」と、苦痛の声が、片足を股から斬り取られ、四つ這いになって、廊下を這い廻っている武士の口から迸《ほとばし》った。紙帳の中はひっそりとしていた。

 こういう間も、キリキリという、轍《わだち》でも軋るような音は、屋敷の周囲《まわり》を巡って、中庭の方へ移って行った。
(何んの音だろう?)と、四人の浪人が不審を打ったように、その音に不審を打ったのは、中庭に近い部屋に寝ていた、伊東|頼母《たのも》であった。
 頼母は、この屋敷へ来るや、まず朝飯のご馳走になった。給仕をしてくれた娘の口から聞いたことは、この屋敷が、飯塚薪左衛門という郷士の屋敷であることや、娘は、その薪左衛門の一人娘で、栞《しおり》という名だということや、今、この屋敷には、頼母の他に五人の浪人が泊まっているということや、父、薪左衛門は、都合があって、どなたにもお眼にかかれないが、皆様がお泊まりくだされたことを、大変喜んでいるということなどであった。
「どうぞ、幾日でもご逗留くださりませ」と栞は附け加えた。
 頼母は、忝けなく礼を云ったが、こんな不思議な厚遇を受けたことは、復讐の旅へ出て一年になるが、かつて一度もなかったと思った。
 彼は下総《しもうさ》の国、佐倉の郷士、伊東忠右衛門の忰《せがれ》であった。伊東の家柄は、足利時代に、下総、常陸《ひたち》等を領していた、管領千葉家の重臣の遺流《ながれ》だったので、現在《いま》の領主、堀田備中守《ほったびっちゅうのかみ》も粗末に出来ず、客分の扱いをしていた。しかるに、同一《おなじ》家柄の郷士に、五味左衛門という者があり、忠右衛門と不和であった。理由は、二人ながら、国学者で、尊王家であったが、忠右衛門は、本居宣長の流れを汲む者であり、左衛門は、平田|篤胤《あつたね》の門下をもって任じている者であり、二人ながら
「大日本は神国なり。天祖始めて基《もと》いを開き、日神長く統を伝え給う。我が国のみこの事あり。異朝にはその類なし。このゆえに神国というなり」という、日本の国体に関する根本思想については、全然同一意見であったが、その他の、学問上の、瑣末の解釈については、意見を異にし、互いに詈言《そしりあ》い、不和となったのであった。もちろん、性格の相違もその因をなしていた。忠右衛門は、穏和で寛宏であったが、左衛門は精悍《せいかん》で狷介《けんかい》であった。

    敵討ちの原因

 ところが、去年の春のことであったが、忠右衛門と左衛門とは、備中守殿によって、観桜の宴に招かれた。その席で二人の者は、国学の話については、遠慮し、大事を取り、云い争わなかったが、刀剣の話になった時、とうとう云い争いをはじめてしまった。忠右衛門が、天国《あまくに》という古代の刀工などは、事実は存在しなかったもので、したがって鍛えた刀などはないと云ったのに対し、左衛門は、いや天国は決して伝説中の人物ではなく、実在した人物であり、その鍛えた刀も残っておる、平家の重宝|小烏丸《こがらすまる》などはそれであり、我が家にもかつて一振り保存したことがあったと主張し、激論の果て、左衛門は「水掛け論は無用、この上は貴殿と拙者、この場において試合をし、勝った方の説を、正論と致そう」と、その精悍の気象から暴論を持ち掛けた。忠右衛門は迷惑とは思ったが、引くに引かれず承知をし、試合をしたところ、剣技《うで》は左衛門の方が上ではあったが、長年肺を患《わずら》っていて、寒気を厭《いと》い、紙帳の中で生活しているという身の上で、体力において忠右衛門の敵でなく、忠右衛門のために打ち挫《ひし》がれ、自分から仕掛けた試合に負け、これを悲憤し、自宅へ帰るや、紙帳の中で屠腹《とふく》し、腸を紙帳へ叩き付けて死んだ。しかるに左衛門には、左門という忰があって、「父上を自害させたのは忠右衛門である」と云い、遊学先の江戸から馳せ帰り、一夜、忠右衛門を往来《みち》に要して討ち取り、行衛《ゆくえ》を眩《くら》ました。こうなってみると、伊東家においても、安閑としてはいられなくなり、
「頼母、そち、左門を探し出し、討って取り、父上の妄執を晴らせ」
 ということになり、さてこそ頼母は、復讐の旅へ出たのであったが、困ったことには、彼は討って取るべき、左門という人間を知らなかった。と云うのは、この時代の風習として、家庭《いえ》にいないで、江戸へ出、学問に精進していたからである。そう、頼母も左門も、幼少の頃から江戸に遊学し、頼母は、宣長の門人伴信友の門に入り、国学を修め、左門は、平田塾に入って、同じく国学を究める傍《かたわ》ら、戸ヶ崎熊太郎の道場に通い、神道無念流を学び、二人は互いにその面影を知らないのであった。
 キリキリという、轍の軋るような音を聞き、頼母は、枕から顔を放し、耳を聳《そばだ》てた。
(何んの音だろう?)
 音は、中庭まで来たようであった。
 頼母は、夜具から脱け出し、枕もとの刀を握ると、立ち上がった。彼の眼は、すっかり覚めていた。彼は、朝飯を食べるや、すぐに床を取って貰い、ぐっすりと眠り、疲労《つかれ》を癒《なお》し、今は元気を恢復してもいるのであった。有り明けの燈に、刀の鞘を照らしながら、頼母は部屋を出、廊下を右の方へ歩き、それが、さらに右の方へ曲がっている角の雨戸を、そっと開けて見た。海の底かのように、庭は薄蒼く月光に浸っていた。庭は、まことに広く、荒廃《あ》れていた。庭の一所に、頼母の眼を疑がわせるような、物象《もののかたち》が出来ていた。古塚のような形の、巨大な岩が、碑《いしぶみ》と小松とをその頂きに持って、瘤《こぶ》のように立っているのであった。それはまったく、頼母が、紙帳から出て来た武士によって、気絶させられた地点に――そこに出来ていた、野中の道了様そっくりのものであった。酷似《そっくり》といえば、塚の左手、遙か離れた所に、植え込みが立っていて、それが雑木林に見えるのも、あの場所の景色とそっくりであった。
(紙帳が釣ってはあるまいか?)ゾッとするような気持ちで、頼母は、植え込みを見た。しかし紙帳は釣ってはなかった。あの場所の景色と異《ちが》うところは、あそこでは、塚と林との彼方《むこう》が、広々と展開《ひら》けた野原だったのに、ここでは、土塀が、灰白《はいじろ》く横に延びているだけであった。
(碑には、髭題目が刻《ほ》られてあるに相違ない)こう思って、頼母は、縁から下り、塚の方へ歩いて行き、碑を仰いで見た。碑は、鉛めいた色に仄《ほの》見えていたが、はたして、南無妙法蓮華経という、七字の名号が、鯰《なまず》の髭のような書体で、刻られてあった。(不思議だなあ)と呟きながら、頼母は、少し湿ってはいるが、枯れ草が、氈《かも》のように軟らかく敷かれている地に佇《たたず》み、(道了様の塚を、何んのために、中庭などへ作ったのであろう?)
 急に彼は地へ寝た。

    老幽鬼出現

(こうここへ俺が気絶して仆《たお》れれば、あそこでの出来事を、再現したことになる)
 彼はしばらく寝たままで動かなかった。二十一歳とはいっても、前髪は立てており、それに、氏素姓よく、坊ちゃんとして生長《おいた》って来た頼母は、顔も姿も初々《ういうい》しくて、女の子のようであり、それが、雲一片ない空から、溢れるように降り注いでいる月光に照らされ、寝ている様子は、無類の美貌と相俟《あいま》って、艶《なまめ》かしくさえ見えた。
 と、例の、キリキリという音が、植え込みの方から聞こえて来た。頼母は飛び起きて、音の来る方を睨んだ。昨夜は、雑木林の中から、剣鬼のような男が現われて来たが、今夜は、植え込みの中から、何が現われて来るのだろう? 頼母は、もう刀の柄を握りしめた。おお何んたる奇怪な物象《もののかたち》が現われて来たことであろう! 躄《いざ》り車が、耳の下まで白髪を垂らした老人を乗せ――老人が自分で漕《こ》いで、忽然と、植え込みの前へ、出て来たではないか! やがて、植え込みの陰影《かげ》から脱け、躄り車は、月光の中へ進み出た。月光《ひかり》の中へ出て、いよいよ白く見える老人の白髪は、そこへ雪が積もっているかのようであり、洋犬のように長い顔も、白く紙のようであった。顔の一所《ひとところ》に黒い斑点《しみ》が出来ていた。窪んだ眼窩であった。その奥で、炭火《おき》のように輝いているのは、熱を持った眼であった。老人の体は、これ以上痩せられないというように、痩せていた。枯れ木で人の形を作り、その上へ衣裳を着せたといったら、その姿を、形容することが出来るだろう。左右の手が、二本の棒を持ち、胸と顔との間を、上下に伸縮《のびちぢみ》し、そのつど老人の上半身が、反《そ》ったり屈《かが》んだりした。二本の棒を櫂《かい》にして、地上を、海のように漕いで、躄《いざ》り車を、進ませてくるのであった。長方形の箱の左右に附いている、四つの車は、鈍《のろ》く、月光の波を分け、キリキリという音を立てて、廻っていた。と、車は急に止まり、老人の眼が、頼母へ据えられた。
「おお来たか!」
 咽喉《のど》で押し殺したような声であった。極度の怒りと、恐怖《おそれ》とで、嗄《しわが》れ顫《ふる》えている声でもあった。そう叫んだ老人は、棒を手から放すと、片手を肩の上へ上げ、肩の上へ、背後《うしろ》からはみ出していた刀の柄へかけた。刀を背負《しょ》っていたのである。それが引き抜かれた時、月光が、一時に刀身へ吸い寄せられたかのように、どぎつく[#「どぎつく」に傍点]光った。刀は青眼に構えられた。
「来たか、来栖勘兵衛! 来るだろうと思っていた! が、この有賀又兵衛、躄者《いざり》にこそなったれ、やみやみとまだ汝《おのれ》には討たれぬぞ! それに俺の周囲《まわり》には、いつも警護の者が附いている。今夜もこの屋敷には、六人の腕利きが宿直《とのい》している筈だ。勘兵衛、これ、汝に逢ったら、云おう云おうと思っていたのだが、野中の道了での斬り合い、俺は今に怨みに思っておるぞ! 事実を誣《し》い、俺に濡れ衣《ぎぬ》を着せたあげく、俺の股へ斬り付け、躄者になる原因を作ったな。おのれ勘兵衛、もう一度野中の道了で立ち合い、雌雄を決しようと、長い長い間、機会の来るのを待っていたのだ! さあここに野中の道了がある、立ち合おう、刀を抜け!」それから屋敷の方を振り返ったが、「栞《しおり》よ、栞よ、勘兵衛が来たぞよ、用心おし、栞よ!」
 と悲痛に叫んだ。
 老人はそう叫びながら、やがて、片手で棒を握り、それで漕いで、躄者車《くるま》を前へ進め、片手で刀を頭上に振りかぶり、頼母の方へ寄せて来た。頼母は、唖然《あぜん》とした。しかし、唖然とした中にも、自分が人違いされているということは解った。それで、刀の柄へ手をかけたまま、背後《うしろ》へジリジリと下がり、
「ご老人、人違いでござる。拙者は来栖勘兵衛などという者ではござらぬ。拙者は、伊東頼母と申し、今朝より、ご当家にご厄介になりおる者でござる」と云い云い、つい刀を抜いてしまった。

    娘の悲哀

 すると、その時、屋敷の雨戸の間に、女の姿が現われ、こっちを見たが、急に、悲鳴のような声を上げると、駈け寄って来、
「お父様、何をなさいます。そのお方は、お父様を警護のため、今日、お家《うち》へお泊まりくださいました、伊東頼母様と仰せになる、旅のお武家様ではございませんか。おお、お父様お父様、正気づかれてくださいまし!」
 と叫び、老人の刀持つ手に取り縋った。栞であった。しかし老人は、
「娘か、用心おし! 来栖勘兵衛が、わし[#「わし」に傍点]を殺しに来たぞよ! そこに勘兵衛がいる!」
 と叫び、尚、車を進めようと、片手の棒で、地上を漕ごうとするのであった。
「いえいえお父様、あのお方は来栖勘兵衛ではございません。よくご覧なさいまし、お年が違います。勘兵衛より、ずっとお若うございます」
 こう云われて老人は、はじめて気づいたように、つくづくと頼母を見たが、
「なるほどのう、年が違う、前髪立ちじゃ。勘兵衛はわし[#「わし」に傍点]より一つ年上だった筈じゃ。勘兵衛ではない」
 落胆したように、また、安心したように、老人は、急に首を垂れ、振り上げていた刀を下げると、弱々しく、子供のように、栞へもたれ[#「もたれ」に傍点]かかった。赤い布のかかった艶々《つやつや》しい髪の下、栞の肩へ、老人の白髪《しらが》頭が載っている。白芙蓉のような栞の顔が、頬が、老人の頬へ附いている。秩父絹に、花模様を染め出した衣裳の袖から、細々と白い栞の手が延びて、老人の肩へかかっているのは、車の上の老人を、抱介《だきかか》えているからであった。いつか老人の手から、刀も棒も放され、刀は、車の前の、枯れ草の上に落ちた。何んと老人は眠っているではないか。刀を構え、この様子を眺めていた頼母は、危険はないと思ったか、刀を鞘に納め、二人の方へ寄って行ったが、
「栞殿、そのご老人は?」と、探るように訊いた。
「父でございます」――栞の声は泣いている。
「ご尊父? では、薪左衛門殿で?」
 栞は黙って頷いた。
「それに致しても、ご尊父には、ご自身を、有賀又兵衛じゃと仰せられたが?」
「父は乱心いたしおるのでございます」
「ははあ」頼母はやっと胸に落ちたような気がした。狂人《きちがい》ででもなければ、深夜に、躄《いざ》り車などに乗り、刀を背負い、現われ出《い》で、自分を来栖勘兵衛などと見誤り、ガムシャラに斬ってなどかかる筈はない。(俺は、狂人を相手にしていたのか)頼母は、鼻白むような思いがしたが、
「ご乱心とはお気の毒な。していつ頃から?」
「五年前の、ちょうど今日、府中の火祭りの日でございましたが、松戸の五郎蔵と申す、博徒の頭《かしら》が参り、父と、密談いたしおりましたが、突然父が、『汝《おのれ》、来栖勘兵衛、執念深くもまだ、この有賀又兵衛を、裏切り者と誣《し》いおるか!』と叫びましたが、その時以来……」
 栞は、片袖を眼にあてて泣いた。
 屋根ばかりに月光を受けて、水のような色を見せ、窓も雨戸も、一様に黒く、廃屋のように見えている屋敷は、不幸な人々を見守るかのように、庭をへだてて立っていた。
(有賀又兵衛、来栖勘兵衛?)と、頼母は、考え込んだ。頼母は、有賀又兵衛、来栖勘兵衛という、伝説的にさえなっている、二人の人物の噂を、亡き父から聞かされていた。
「浪人組の頭での、傑物であった。わし[#「わし」に傍点]の家などへも、徒党を率《ひき》いてやって来て、金などを無心したものじゃ。五味左衛門の屋敷などへも再三出かけて行って、無心したらしい。又兵衛の方は、わけても人物で、仁義なども心得ており、大義名分などにも明らかで、王道を尊び、覇道を憎む議論などを、堂々と述べて、男らしいところを見せたので、ついわしなど、進んで金を出してやったものじゃ」と、父は語った。
 しかし、その勘兵衛や又兵衛は、亡父《ちち》の話によれば、とうの昔に――二十年も以前《まえ》に、世間から姿を消してしまった筈であった。しかるに、薪左衛門殿が、その有賀又兵衛だという。(何故だろう?)しかし、頼母は、すぐ苦笑した。(相手は狂人《きちがい》なのだ、狂人の云うことなどに、何故も不思議もあるものか)
「栞殿」と、頼母は、塚の方をチラリと見たが、「お訊きいたしたいは、ここに作られてあります古塚、どうやらこれは野中の道了の……」
 云われて栞も、眼にあてていた袖の隙から、塚の方を眺めたが、
「は、はい」
「野中の道了の塚を、お屋敷の庭へ作られるとは、何か仔細が……」

    道了塚の秘密は

 栞の泣き声は高くなり、しばらくは物を云わなかった。肥《ふと》りざかりの、十七の娘にしては、痩せぎす[#「せぎす」に傍点]に過ぎる栞の肩は、泣き声につれて、小刻みに顫えるのであった。
「それもこれも……」と、栞は、やがて、途切れ途切れに云った。「父の心を……正体ない父の心を……少しなりとも慰めてやりたさに……才覚しまして……妾《わたくし》が……」
 顔から袖をとり、塚の頂きの碑を眺めた。南無妙法蓮華経という、七字だけが黒く、その周囲の碑の面は、依然、月の光で、鉛色に仄《ほの》めいて見えていた。
「父は」と、栞は、またも途切れ途切れに云った。「妾、物心つきました頃から、一里の道を、毎日のように、野中の道了様まで参りまして、塚の周囲を廻っては、物思いに耽りましたが……乱心しましてからは、それが一層烈しくなり、日に幾度となく……それですのに、父は躄者《いざり》になりましてございます」
 嗚咽《おえつ》の声はまた高くなった。娘は、父親を抱き締めたらしい。白髪の頭が、肩から外れて、栞の胸にもたれ[#「もたれ」に傍点]ている。
「父には以前から、股に刀傷がございましたが、弱り目に祟り目とでも申しましょうか、乱心しますと一緒に、悪化《わる》くなり、とうとう躄者《いざり》に……」
 草に落ちている抜き身は、氷のように光っている。庭のそちこちに咲いている桜は、微風に散っている。
「躄者になりましても、道了様へは行かねばならぬと……そこは正気でない父、子供のように申して諾《き》きませぬ。躄車《くるま》などに乗せてやりましては、世間への見場悪く、……いっそ、道了様を屋敷内へお遷座《うつ》ししたらと……庭師に云い付け、同じ形を作らせましたところ、虚妄《うつろごころ》の父、それを同じ道了様と思い、このように躄車に乗り、朝晩にその周囲《まわり》を廻り……」
 悲しそうに、また栞は、眠りこけている父親を見やるのであった。
 身につまされて聞いていた頼母は、いつか、栞の前へ腰を下ろし、腕を組んだ。
 急に栞は、怒りの声で云った。
「父を脅かす者は、松戸の五郎蔵なのでございます。父は妾《わたくし》に申しました。『五郎蔵が殺しに来る。彼奴《きゃつ》には大勢の乾児《こぶん》があるが、俺《わし》には乾児など一人もない。味方が欲しい、旅のお侍様などが訪ねて参ったら、泊め置け』と。……」
(そうだったのか)と頼母は思った。(不思議に厚遇されると思ったが、さては、いつの間にか俺は、この屋敷の主人の、警護方にされていたのか)しかし事情が事情だったので、怒りも、笑いも出来なかった。
 更けて行く夜は、次第に寒くなって来た。老人をいつまでも捨てておくことは出来なかった。二人は、躄車《くるま》を押して、屋敷の方へ行くことにし、頼母は、まず、草に捨ててある刀を拾い取り、老人の背の鞘へ差してやった。それから躄車を押しにかかった。
「勿体《もったい》のうございます」
 栞が周章《あわ》てて止めた。手が触れ合った。
「あっ」
 栞の声が情熱をもって響いた。
「ああ」
 思春期の処女《おとめ》というものは、男性《おとこ》のわずかな行動によって、衝動を受けるものであり、そうしてその処女が、愛と良識とに恵まれている者であったら、衝動を受けた瞬間、相手の男性の善悪を、直観的に識別《みわ》け、その瞬間に、将来を托すべき良人《おっと》を――恋人を、認識《みとめ》るものである。狂人の、孤独の父親に仕え、化物《ばけもの》屋敷のような廃《すた》れた屋敷に住み、荒らくれた浪人者ばかりに接していた、無垢《むく》純情の栞が、今宵はじめて、名玉のように美しく清い、若い武士と、不幸な一家のことについて語り合ったあげく、偶然手を触れ合ったのであった。その一触が、彼女の魂を、根底から揺り動かし、「叫び」となって、彼女の口から出たのは、無理だとは云えまい。頼母は、栞の叫び声に驚いて、栞を見詰めた。栞の眼に涙が溢れていた。しかしその涙は、さっき、父親や、自分の家の不幸のために泣いた涙とは違い、歓喜と希望と愛情とに充ちた涙であった。栞の頬は夜眼にも著《しる》く赤味|注《さ》していた。頼母は、何が栞をそうまで感動させたのか解らなかった。手と手と触れ合ったことなど、彼は、気がつかなかったほどである。それほど彼は無邪気なのであった。しかし、栞の感動が、自分を愛してのそれであるということは直覚された。このことが今度は彼を感動させた。
(この娘がわし[#「わし」に傍点]を!)
 その娘は、自分にとっては命の恩人と云えた。この娘の介抱がなかったら、自分は今朝死んでいたかもしれない!
(この娘がわし[#「わし」に傍点]を!)
 頼母の心へ感謝の念が、新たに強く湧き、それと一緒に、愛情がヒタヒタと寄せて来るのを覚えた。
 立ち尽くし、見詰め合っている二人の頭上には、練り絹に包まれたような朧《おぼ》ろの月がかかってい、その下辺《したべ》を、帰雁《かえるかり》の一連《ひとつら》が通っていた。花吹雪が、二人の身を巡った。
「勘兵衛!」と、不意に老人が叫んだ。「天国《あまくに》の剣を奪ったのも汝《おのれ》の筈じゃ! それをこの身に!」
(天国?)と、頼母は、ヒヤリとし、恍惚の境いから醒めた。
(この老人も、天国のことを云う!)
 父、忠右衛門が、横死をとげ、自分が復讐の旅へ出るようになったのも、元はといえば、天国の剣の有無の議論からであった。頼母は、天国の名を聞くごとに、ヒヤリとするのであった。
(紙帳から出て来て、俺に体あたり[#「あたり」に傍点]をくれた武士も、天国のことを云ったが、薪左衛門殿も、天国のことを……)
 頼母は、薪左衛門を見た。薪左衛門は眠っていた。眠ったままの言葉だったのである。

    五郎蔵の賭場

 こういうことがあってから、三日経った。
 ここ、府中の宿は、火祭りで賑わっていた。家々では篝火《かがりび》を焚き、夜になると、その火で松明《たいまつ》を燃やし、諏訪神社の境内を巡《まわ》った。それで火祭りというのであるが、諏訪神社は、宿から十数町離れた丘つづきの森の中にあり、その森の背後の野原には、板囲いの賭場《とば》が、いくらともなく、出来ていて、大きな勝負が争われていた。
 伊東頼母が、この一劃へ現われたのは、夕七ツ――午後四時頃であった。歩いて行く両側は賭場ばかりで、場内《なか》からは景気のよい人声などが聞こえて来た。夕陽を赤く顔へ受けて、賭場へはいって行く者、賭場から出て来る者、いずれも昂奮しているのは、勝負を争う人達だからであろう。総州松戸の五郎蔵持ちと書かれた板囲いを眼に入れると、頼母は、足をとめ、
「これが五郎蔵の賭場か、どれはいってみようかな」
 と呟いた。
 というのは、不幸な飯塚薪左衛門親子を苦しめる、五郎蔵という、博徒の親分の正体を見|究《きわ》めようために、やって来た彼だからである。そうして、彼としては、機会を見て、五郎蔵と話し、何故薪左衛門を脅《おど》すのか? 事実、薪左衛門は有賀又兵衛であり、五郎蔵は来栖勘兵衛なのか? 野中の道了塚で、二人は斬り合ったというが、その動機は何か? 野中の道了塚の秘密は何か? 等をも確かめようと思っているのであった。
 それにしても飯塚薪左衛門の屋敷から、この府中までは、わずか一里の道程《みちのり》だのに、なぜ三日も費やして来たのであろう?
 彼は三日前のあの夜、薪左衛門の屋敷で、ああいう事件に逢ったが、それから躄《いざ》り車を押して、栞共々、庭から屋内へ、薪左衛門を運び入れた。屋敷の中は大変であった。五人泊まっていたという浪人のうち、一人は斬り殺されてい、一人は片足を斬られてい、後の三人の姿は消えてなくなっていた。片足を斬られた浪人の語るところによれば、紙帳を釣って、その中にいた五味左門と宣《なの》る武士によって、この騒動が惹《ひ》き起こされたということであった。
 この事を聞くと、頼母は仰天し、娘の栞へ、そのような武士を泊めたかと訊いてみた。すると栞は、「五味左門と宣り、一人のお武家様が、宿を乞いましたので、早速お泊めいたしましたが、お寝《やす》みになる時、紙帳を釣りましたかどうか、その辺のところは存じませぬ」と答えた。それで頼母は、どっちみち、紙帳の中から出て来て、自分を体あたり[#「あたり」に傍点]で気絶させた、武道の達人が、自分の父の仇の、五味左門であるということを知ったが、そんな事件が起こったため、その処置を、栞と一緒に付けることになり、三日を費やし、三日目の今日、ようやく府中へ来たのであった。
「なかなか立派な小屋だな」
 と呟《つぶや》きながら、頼母は、改めて五郎蔵の賭場を眺めた。
 板囲いは、ひときわ大ぶりのもので、入り口には、二人の武士が、襷《たすき》をかけ、刀を引き付け、四斗樽に腰かけていたが、いうまでもなく賭場防ぎで、一人は、望月角右衛門であり、もう一人は、小林紋太郎であった。この二人は、あの夜、薪左衛門の屋敷で、ああいう目に逢い、恐怖のあまり、暇《いとま》も告げず、屋敷を逃げ出し、ここの五郎蔵の寄人《かかりゅうど》になったものらしい。同じ屋敷に泊まったものの、顔を合わせたことがなかったので、頼母は、二人を知らず、そこで目礼もしないで、入り口をくぐった。
 賭場は、今が勝負の最中らしく、明神へ参詣帰りの客や、土地の者が、数十人集まってい、盆を囲繞《とりま》いて、立ったり坐ったりしていた。世話をする中盆が、声を涸《か》らして整理に努めているかと思うと、素裸体《すはだか》に下帯一つ、半紙を二つ折りにしたのを腰に挾んだ壺振りが、鉢巻をして、威勢のよいところを見せていた。正面の褥《しとね》の上にドッカリと坐り、銀造りの長脇差しを引き付け、盆を見ている男があったが、これが五郎蔵で、六十五歳だというのに、五十そこそこにしか見えず、髪など、小鬢へ、少し霜を雑《ま》じえているばかりであった。段鼻の、鷲のような眼の、赧ら顔は、いかにも精力的で、それに、頤《あご》などは、二重にくくれているほど肥えているので、全体がふくよか[#「ふくよか」に傍点]であり、武士あがりというだけに、品があり、まさに親分らしい貫禄を備えていた。甲州|紬茶微塵《つむぎちゃみじん》の衣裳に、紺献上の帯を結んでいるのも、よく似合って見えた。その横に女が坐っていた。以前から五郎蔵が、自分のもの[#「もの」に傍点]にしようと苦心し、それを、柳に風と受け流し、今に五郎蔵の自由にならないところから、博徒仲間《このしゃかい》で、噂の種になっている、お浦という女であった。二業――つまり、料理屋と旅籠《はたご》屋とを兼ねた、武蔵屋というのへ、一、二年前から、流れ寄って来ている、いわゆる茶屋女なのである。年は二十七、八でもあろうか、手入れの届いた、白い、鞣《なめ》し革のような皮膚は、男の情緒《こころ》を悩ますに足り、受け口めいた唇は、女形《おやま》のように濃情《のうじょう》であった。結城の小袖に、小紋|縮緬《ちりめん》の下着を重ね、厚板《あついた》の帯を結んでいる。こんな賭場へ来ているのは、五郎蔵が、
「おいお浦、祝儀ははずむから、小屋へ来て、客人の、酒や茶の接待をしてくんな」と頼んだからであるが、その実は、五郎蔵としては、片時もこの女を、自分の側《そば》から放したくないからであった。
(賭場に神棚が祭ってあるのは変だな)
 と、盆の背後、客人の間に雑じって立っていた頼母は、五郎蔵やお浦から眼を外し、五郎蔵の背後、天井に近く設けられてある、白木造りの棚を眺めた。紫の幕が張ってあり、燈明が灯してあった。
(何かの縁起には相違あるまいが)

    ゆすり浪人

 この間にも、五百両胴のチョボ一は、勝負をつづけて行った。胴親、五郎蔵の膝の前に積まれてある、二十五両包みが、封を切られたかと思うと、ザラザラと賭け金が、胴親のもとへ掻き寄せられもした。
 一人ばからしいほど受け目に入っている客人があった。編笠を冠ったままの、みすぼらしい扮装《みなり》の浪人であったが、小判小粒とり雑《ま》ぜ、目紙《めがみ》の三へ張ったところ、それが二回まで受け、五両が百二十五両になった。それだのに賭金《かね》を引こうともせず、依然として三の目へ張り、
「壺!」と怒鳴っているのであった。
 客人たちは囁《ささや》き出した。
「お侍さんだけに度胸があるねえ」
「今度三が出たらどうなると思う」
「胴親が、四倍の、五百両を附けるまでよ」
「元金《もときん》を加えて、六百二十五両になるってわけか」
「それじゃア、五百両胴は潰れるじゃアねえか」
 染八という乾児《こぶん》が中盆をしていたが、途方にくれたように、五郎蔵の顔を見た。と、この時まで、小面憎そうに、勝ち誇っている浪人を、睨《にら》み付けていたお浦が、
「親分」と例の五郎蔵へ囁いた。
「喜代三を引っ込めなさいよ」
 喜代三というのは、壺振りの名であった。
「喜代三にゃア、三が振り切れそうもないじゃアありませんか」
「大丈夫だ」
 五郎蔵の声は自信に充ちていた。
「天国《あまくに》様が附いている」
 それから神棚の方へ頤をしゃくったが、「五郎蔵の賭場、一度の疵《きず》も附いたことのねえのは、天国様が附いているからよ。喜代三、勝負しろ」
(天国様?)
 と、五郎蔵の言葉《ことば》を小耳に挾んで、不審を打ったのは、頼母で、
(それじゃアあの神棚には、天国の剣が祭ってあるのか?)
 改めて神棚を眺めた。燈明の火が明るく輝き、紫の幕が、華やかに栄《は》え、その奥から、真鍮《しんちゅう》の鋲《びょう》を持った祠《ほこら》の、扉《とぼそ》が覗いていた。
(あの祠の中に天国があるのではあるまいか)
 彼がここへ来たもう一つの目的は、五郎蔵が来栖勘兵衛だとして、はたして、天国の剣を持っているかどうか、それを知ることであった。
 頼母はじっと神棚を見詰めた。
 と、
「わーッ」
 という声が聞こえ、
「一《ぴん》だーッ」
「お侍《さむれえ》、やられたのーッ」
 という声が聞こえた。
 頼母は、はっ[#「はっ」に傍点]として、盆の方を見た。
 骰子《さいころ》の目が、一を出して、目紙の上に、ころがっている。
(態《ざま》ア見ろ!)というように、染八が、浪人の前から、百二十五両を掻き集めようとしているのが見えた。
「待て!」
 浪人が刀を抜き、ピタリと目紙の上へ置いた。
「その金、引くことならぬ!」
「何を!」
「賭場荒らしだーッ」
 場内総立ちになった。
 瞬間に浪人は、編笠を刎《は》ね退け、蒼黒い、痩せた、頬骨の高い、五十を過ごした、兇暴の顔を現わし、落ち窪んで、眼隈《めくま》の出来ている眼で、五郎蔵を凝視《みつ》めたが、
「お頭《かしら》ア、いや親分、お久し振りでござんすねえ」と、言葉まで侍らしくなく、渡世人じみた調子で、「いつも全盛で、おめでとうございます」
 五郎蔵は、相手の顔を見、不審《いぶか》しそうに眼をひそめたが、そろりと脇差しを膝へ引き付けると、
「汝《わりゃ》ア?」
「渋江典膳《しぶえてんぜん》で。……お見忘れたア情ねえが、こう痩せ涸れてしまっちゃア、人相だって変る筈で。……それにさ、お別れしてっから、月日の経つこと二十年! ハッハッ、お解りにならねえ方が本当かもしれねえ」
「…………」
「お頭ア、いや親分、あの頃はようござんしたねえ、二十年前は。……来栖勘兵衛、有賀又兵衛といやア、泣く児《こ》も黙る浪人組の頭、あっしゃア、そのお頭の配下だったんですからねえ。……徒党を組んでの、押し借り強請《ゆす》りの薬が利きすぎ、とうとう幕府《おかみ》から、お触れ書きさえ出されましたっけねえ。あっしゃア、暗記《そら》で覚えておりやす。『近年、諸国在々、浪人多く徘徊いたし、槍鉄砲をたずさえ、頭分、師匠分などと唱え、廻り場、持ち場などと号し、めいめい私に持ち場を定め、百姓家へ参り、合力を乞い、少分の合力銭等やり候えば、悪口乱暴いたす趣き、不届き至極、目付け次第|搦《から》め捕《と》り、手に余らば、斬り捨て候うも苦しからず、差し押さえの上は、無宿、有宿にかかわらず、死罪その外重科に処すべく候云々』……勘兵衛とも又兵衛とも、姓名の儀は出ておりませんが、勘兵衛、又兵衛を目あてにしてのお触れ書きで。そうしてこのお触れ書きは、今に活《い》きている筈で。……ですから、勘兵衛、又兵衛が、今に生きていて、この辺にウロウロしていると知れたら、忽ち捕り手が繰り出され、捕らえられたら、首が十あったって足りゃアしねえ。……それほどの勢力のあった浪人組も、徒党も、二十年の間に、死んだり、殺されたり、ご処刑受けたりして、今に生きている者、はて、幾人ありますかねえ。……三人だけかもしれねえ。……一人は私で。一人は、ここから一里ほど離れている古屋敷に、躄者《いざり》になって生きている爺さんよ。……もう一人は……」
「お侍さん」と、五郎蔵が云った。「いい度胸ですねえ」
「何んだと」
「あっしゃア、どういうものか、ご浪人が好きで、これまで随分世話を見てあげましたが、ご浪人に因縁つけられたなア今日が初めてで」
「つけるだけの因縁が……」
「いい度胸だ」
「褒められて有難え」
「百二十五両お持ちなすって。……お浦、胴巻でも貸してあげな」
「親分!」と、お浦は歯切りし、「あんな乞食《こじき》浪人に……」
「いいってことよ」それからお浦の耳へ口を寄せたが、
「な! ……」
「なるほどねえ。……渋江さんとやら、それじゃアこれを……」
 お浦の投げた縞の胴巻は、典膳の膝の辺へ落ちた。それへ、金包みを入れた典膳は、ノッシリと立ち上がったが、礼も云わず、客人を掻き分けると、場外《そと》へ出て行った。
 その後を追ったのは、お浦であった。

    典膳の運命は

 この日が夜となり、火祭りの松明が、諏訪神社の周囲を、火龍のように廻り出し、府中の宿が、篝火《かがりび》の光で、昼のように明るく見え出した。
 この頃、頼母は、物思いに沈みながら諏訪神社《みや》と府中《しゅく》とを繋《つな》いでいる畷道《なわて》を、府中の方へ歩いていた。賭場で見聞したことが、彼の心を悩ましているのであった。渋江典膳という浪人が、五郎蔵を脅かした言葉から推すと、いよいよ五郎蔵は来栖勘兵衛であり、飯塚薪左衛門は、有賀又兵衛のように思われてならなかった。そうして、五郎蔵が来栖勘兵衛だとすると、神棚に祭られてあったのは、天国の剣に相違ないように思われた。このことは頼母にとっては、苦痛のことであった。
(天国の剣が、存在するということが確かめられれば、父の説は、誤りということになる。しかるに父は、その誤った説で、五味左衛門と議論したあげく、試合までして、左衛門を打ち挫き、備中守様のご前で恥をかかせた。そのために左衛門は悲憤し、屠腹して死んだのであるから、左衛門を殺したのは、父であると云われても仕方がなく、左衛門の忰左門が、父を討ったのは、敵討ちということになる。その左門を、自分が、父の敵として討つということは、ご法度《はっと》の、「又敵討ち」になろうではあるまいか)
(いっそ、天国を手に入れ、打ち砕き、この世からなくなしてしまったら)
 こんな考えさえ浮かんで来るのであった。
(天国のような名刀が、二本も三本も、現代《こんにち》に残っている筈はない。あの天国さえ打ち砕いてしまったら)
 枯れ草に溜っている露を、足に冷たく感じながら、頼母は、府中の方へ歩いて行った。
 と、行く手に竹藪があって、出たばかりの月に、葉叢《はむら》を、薄白く光らせ、微風《そよかぜ》にそよいでいたが、その藪蔭から、男女の云い争う声が聞こえて来た。頼母は、(はてな?)と思いながら、その方へ足を向けた。
 府中の方へ流れて行く、幅十間ばかりの、髪川という川が、竹藪の裾を巡って流れていて、淵も作れないほどの速い水勢《ながれ》が、月光を銀箔のように砕いていた。その岸を、男と女とが、酔っていると見え、あぶなっかしい足どりで歩き、云い争っていた。
「これお浦、どうしたものだ。どこまで行けばよいのだ。蛇の生殺しは怪しからんぞ。これいいかげんで……」
 渋江典膳であった。五郎蔵の賭場で、百二十五両の金を強請《ゆす》り、場外へ出ると、賭場で、五郎蔵の側にいたお浦という女が、追っかけて来て、親分の吩咐《いいつ》けで、一|献《こん》献じたいといった。こいつ何か奸策あってのことだろうと、典膳は、最初は相手にしなかったが、田舎に珍しいお浦の美貌と、手に入った籠絡《ろうらく》の手管《てくだ》とに誘惑《そその》かされ、つい府中《しゅく》の料理屋へ上がった。酒を飲まされた。酔った。酔ったほどに、下根《げこん》の典膳は、「お浦、俺の云うことを諾《き》け」と云い出した。
 お浦はお浦で、五郎蔵から、
「あんな三下に、大金を強請《ゆす》られたは心外、さりとて、乾児《こぶん》を使って取り返すも大人気ない。お浦、お前の腕で取り返しな。取り返したら、金はお前にくれてやる」と云われ、その気になり、出かけて来た身だったので、「ここではあんまり内密《ないしょ》の話も出来ないから……ともかくも外へ出て」と、連れ出して来たのであった。
「どこへ行くのだお浦、ひどく寂しい方へ連れて行くではないか……」
 と、典膳は、お浦の肩へ手をかけようとした。
 お浦は、それをいなし[#「いなし」に傍点]たが、
「何をお云いなのだよ。この人は……」
 そのくせ、心では、(一筋縄ではいけそうもない。……それにこんな破落戸《ならず》武士、殺したところで。……そうだ、いっそ息の根止めて……)と、思っているのであった。
 典膳がよろめいて、お浦の肩へぶつかった時、お浦は、何気なさそうに、典膳の懐中《ふところ》へ手をやった。
「これ!」
「胴巻かえ?」
「うん」
「重たそうだねえ」
「百二十五両!」
「ああ、昼間の金だね」
「うん。……五郎蔵め、よく出しおった。旧悪ある身の引け目、態《ざま》ア見ろだ。……お浦、いうことを諾いたら、金をくれるぞ。十両でも二十両でも」
「金なら、妾だって持っているよ」
「端《はし》た金だろう」
「鋼鉄《はがね》さ、斬れる金さ」
 お浦は、片手を懐中へ入れ、呑んでいた匕首《あいくち》を抜くと、「そーれ、斬れる金を!」と、典膳の脇腹へ突っ込んだ。
「ヒエーッ、お浦アーッ、さては汝《おのれ》!」
「汝も蜂の頭もありゃアしないよ」
 胴巻をグルグルと手繰《たぐ》り出し、背を抱いていた手を放すと、典膳は、弓のようにのけ反ったまま、川の中へ落ちて行った。
(止どめを刺さなかったがよかったかしら?)
 お浦は、岸から覗き込んだ。急の水は、典膳を呑んで、下流へ運んで行ったと見え、その姿は見えなかった。
「案外もろいものだねえ」
 草で匕首の血糊を拭った時、
「お浦殿、やりましたな」
 という声が聞こえて来た。さすがにお浦もギョッとして、声の来た方を見た。竹藪を背にして、編笠をかむった武士が立っていた。
「どなた?」
「旅の者じゃ」
「見ていたね」
「さよう」
「突き出す気かえ」
「役人ではない」
「話せそうね」
 と、お浦は、構えていた匕首を下ろし、
「見|遁《の》がしてくれるのね」
「殺して至当の悪漢じゃ」
「ご存知?」
「賭場で見ていた」
「まあ」

    お浦の恋情

「昼の間、五郎蔵殿の賭場へ参った者じゃ」
「あれ、それじゃア、まんざら見ず知らずの仲じゃアないのね」
「それに、同宿の誼《よし》みもある」
「同宿?」
「拙者は、府中の武蔵屋に泊まっておる」
 編笠の武士、すなわち、伊東頼母は、そう、今日、府中へ来ると、五郎蔵一家が、武蔵屋へ宿を取っていると聞き、近寄る便宜にもと、同じ旅籠《はたご》へ投じたのであった。しかるに、五郎蔵はじめその一家が、もう賭場へ出張ったと聞き、自分も賭場へ出かけて行ったのであった。
「まあ。武蔵屋に。それはそれは。妾も、武蔵屋の婢女《おんな》でござんす」
「賭場で、典膳という奴、五郎蔵殿へ因縁つけたのを見ていた。殺されても仕方ない」
「それで安心。……妾アどうなることかと。……でも、芳志《こころざし》には芳志を。……失礼ながら旅用の足《た》しに……」
 と、お浦が、胴巻の口へ手を入れたのを、頼母は制し、
「他に頼みがござる」
「他に……」お浦は、意外に思ったか、首を傾《かし》げたが、何か思いあたったと見え、やがて、月光の中で、唇をゆがめ、酸味《すみ》ある笑い方をしたかと思うと、「弱いところを握られた女へ、金の他に頼みといっては、さあ、ホッ、ホッ」
「誤解しては困る」
 と、頼母は、少し周章《あわ》てた。しかし厳粛の声で、「不躾《ぶしつ》けの依頼をするのではない」
「では……」
「賭場に神棚がありましたのう」
「ようご存知」
「ご神体は?」
「はい、天国とやらいう刀……」
「天国※[#感嘆符疑問符、1-8-78] おお、やっぱり! ……お浦殿、その天国を拝見したいのじゃが」
「天国様を? ……異《い》なお頼み。……何んで?」
「拙者は武士、武士は不断に、名刀を恋うるもの。天国は、天下の名器、至宝中の至宝、武士冥利、一度手に取って親しく」
「なるほどねえ、さようでございますか。……いえ、さようでございましょうとも、女の身の妾などにしてからが、江戸におりました頃、歌舞伎を見物《み》、水の垂れそうに美しい、吉沢あやめの、若衆姿など眼に入れますと、一生に一度は、ああいう役者衆と、一つ座敷で、盃のやり取りしたいなどと。……同じ心持ち、よう解りまする。……では何んとかして、あの天国様を。……おおちょうど幸い、五郎蔵親分には、あの天国様を、賭場へ行く時には賭場へ持って行き、宿へ帰る時には宿へ持って帰りまする。……今夜妾がこっそり持ち出し、あなた様のお部屋へ……」
「頼む」
「お部屋は?」
「中庭の離座敷《はなれ》」
「お名前は?」
「伊東頼母」
「お顔拝見しておかねば……」
 頼母は、そこで編笠を脱いだ。
 お浦はその顔を隙《す》かして見たが、「まあ」と感嘆の声を上げた。「ご縹緻《きりょう》よしな! ……お前髪立ちで! 歌舞伎若衆といおうか、お寺お小姓と云おうか! 何んとまアお美しい!」
 見とれて、恍惚《うっとり》となったが、
「女冥利、妾アどうあろうと……」
 と、よろめくように前へ出た。
 若衆形吉沢あやめに似ていると囃された、無双の美貌の頼母が、月下に立った姿は、まこと舞台から脱《ぬ》け出した芝居の人物かのようで、色ごのみの年増女などは、魂を宙に飛ばすであろうと思われた。前髪のほつれが、眉のあたりへかかり、ポッと開けた唇から、揃った前歯が、つつましく覗いている様子など、女の子よりも艶《なまめ》かしかった。
「天国様は愚か、妾ア……」
 と、寄り添おうとするのを、
「今夜、何時に?」
 と、頼母は、お浦を押しやった。
「あい、どうせ五郎蔵親分が眠ってから……子《ね》の刻頃……」
「間違いござるまいな」
「何んの間違いなど。……あなた様こそ間違いなく……」
「お待ちしましょう」
 と、云い棄て、頼母は歩き出した。お浦は、その背後《うしろ》姿を、なお恍惚とした眼付きで見送ったが、
(妾ア、生き甲斐を覚えて来たよ)

    紙帳の中

 この夜が更けて、子の刻になった時、府中の旅籠屋、武蔵屋は寝静まっていた。
 と、お浦の姿が、そこの廊下へ現われた。廊下の片側は、並べて作ってある部屋部屋で、襖によって閉ざされていたが、反対側は中庭で、月光が、霜でも敷いたかのように、地上を明るく染めていた。質朴な土地柄からか、雨戸などは立ててない。お浦は廊下を、足音を忍ばせて歩いて行った。廊下が左へ曲がった外れに、離座敷《はなれ》が立っていた。藁葺《わらぶ》き屋根の、部屋数三間ほどの、古びた建物で、静けさを好む客などのために建てたものらしかった。離座敷は、月に背中を向けていたので、中庭を距てた、こっちの廊下から眺めると、屋根も、縁側も、襖も、一様に黒かった。お浦は、そこの一間に、自分を待っている美しい若衆武士のことを思うと、胸がワクワクするのであった。(早くこの天国様をお目にかけて、その代りに……)と、濃情のこの女は、刀箱を抱えていた。
 やがて、離座敷の縁側まで来た。お浦は、年にも、茶屋女という身分にも似ず、闇の中で顔を赧らめながら、部屋の襖をあけ、人に見られまいと、いそいで閉め、
「もし。……参りましたよ」
 と虚《うつろ》のような声で云い、燈火《ともしび》のない部屋を見廻した。と、闇の中に、仄白く、方形の物が懸かっていた。
(おや?)とお浦は近寄って行った。紙帳であった。(ま、どうしよう、部屋を間違えたんだよ)
 と、あわてて出ようとした時、紙帳の裾から、白い、細い手が出て……、
「あれ!」
 しかし、お浦は、紙帳の中へ引き込まれた。
 附近《ちかく》の農家で飼っていると見え、家鶏《にわとり》の啼き声が聞こえて来た。
 部屋の中も、紙帳の中も静かであった。
 紙帳は、闇の中に、経帷子《きょうかたびら》のように、気味悪く、薄白く、じっと垂れている。
 家鶏《とり》の啼いた方角から、今度は、犬の吠え声が聞こえて来た。祭礼の夜である、夜盗などの彷徨《さまよ》う筈はない、参詣帰りの人が、遅く、その辺を通るからであろう。
 やがて、燧石《いし》を切る音が、紙帳の中から聞こえて来、すぐにボッと薄黄いろい燈火《ひのひかり》が、紙帳の内側から射して来た。
 さてここは紙帳の内部《なか》である。――
 唐草の三揃いの寝具に埋もれて、お浦が寝ていた。夜具の襟が、頤の下まで掛かってい、濃化粧をしている彼女の顔が、人形の首かのように、浮き上がって見えていた。眼は細く開いていて、瞳が上瞼《うわまぶた》に隠され、白眼ばかりが、水気を帯びた剃刀《かみそり》の刀身《み》かのように、凄く鋭く輝いて見えた。呼吸をしている証拠として、額から、高い鼻の脇を通って、頬にかかっている後《おく》れ毛が、揺れていた。しかし尋常の睡眠《ねむり》とは思われなかった。気を失っているのらしい。
 そのお浦の横に、夜具から離れ、畳の上に、膝を揃え、端然と、五味左門が坐っていた。
 ふと手を上げて鬢《びん》の毛を撫でたが、その手を下ろすと、ゆるやかに胸へ組み、
「蜘蛛《くも》はただ網を張っているだけだ」と、呟いた。
「その網へかかる蝶や蜂は……蝶や蜂が不注意《わるい》からだ」
 と、また、彼は呟いた。
 独言《ひとりごと》を云うその口は、残忍と酷薄とを現わしているかのように薄く、色も、赤味などなく、薄墨のように黒かった。
 それにしても、紙帳に近寄る男は斬り、紙帳に近寄る女は虐遇《さいな》むという、この左門の残忍性は、何から来ているのであろう?
 紙帳生活から来ているのであった。
 彼の父左衛門は、生前、春、秋、冬を、その中に住み、夏は紙帳《きれ》を畳んで蒲団の上に敷き、寝茣蓙代りにしたが、左門も、春、秋、冬をその中に住み、夏は寝茣蓙代りに、その上へ寝た。そういうことをすることによって、亡父《ちち》の悩みや悶えを体得したかったのである。そう、彼の父左衛門は、紙帳に起き伏ししながら、天国の剣を奪われて以来衰えた家運について、悩み悶えたのであった。……しかるに左門は、紙帳の中で起き伏しするようになってから、だんだん一本気《いっこく》となり、狭量となり、残忍殺伐となった。何故だろう? 狭い紙帳を天地とし、外界《そと》と絶ち、他を排し、自分一人だけで生活《くら》すようになったからである。そういう生活は孤独生活であり、孤独生活が極まれば、憂欝となり絶望的となる。その果ては、気の弱い者なら自殺に走り、気の強いものなら、欝積している気持ちを、突発的に爆発させて、兇暴の行為をするようになる。左門の場合はその後者で、無意味といいたいほどにも人を斬り、残忍性を発揮するのであった。
「突然はいって来たこの女は? ……」
 呟き呟き彼は、女の寝顔を見た。その眼は、※[#「足」の「口」に代えて「彡」、第3水準1-92-51]《しんにゅう》の最後の一画を、眉の下へ置いたかのように、長く、細く、尻刎ねしていた。
「これは何んだ?」と、女の枕もとに転がっている、白い風呂敷包みの、長方形の物へ眼を移した時、彼は呟いた。やがて彼は手を延ばし、風呂敷包みを引き寄せ、包みを解いた。白木の刀箱が現われた。箱の表には、天国と書いてある。
「天国?」
 彼は、魘《うな》されたような声で呟いた。瞬間に、額こそ秀でているが、顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》の低い、頬の削《こ》けた、鼻が鳥の嘴《くちばし》のように鋭く高い、蒼白の顔色の、長目の彼の顔が、注した血で、燃えるように赧くなった。烈しい感動を受けたからである。
「天国?」
 彼の肩がまず顫《ふる》え、その顫えが、だんだんに全身へ伝わって行った。
「天国? ……まさか!」
 にわかに、彼は口を歪め、眼尻へ皺を寄せた。嘲笑ったのである。
「まさか、こんな所に天国が!」
 しかも彼の眼は、刀箱の箱書きの文字に食い付いているのであった。
 彼が天国の剣に焦《こ》がれているのは、親譲りであった。彼の父、左衛門は、生前彼へこう云った。「我が家には、先祖から伝わった天国の剣があったのじゃ。それを今から二十年前、来栖勘兵衛、有賀又兵衛という、浪人の一党に襲われ、奪われた。……どうともして探し出して、取り返したいものだ」と。――その左衛門が、自殺の直後、忰《せがれ》左門へ宛てて認《したた》めた遺書には、万難を排して天国を探し出し、伊東忠右衛門一族に示せよとあった。父の敵《かたき》として忠右衛門を討ち取り、父の形見として紙帳を乞い受け、故郷を出た左門が、日本の津々浦々を巡っているのも、天国を探し出そうためであった。その天国がここにあるのである。
「信じられない!」
 彼はまた魘されたような声で云った。そうであろう、蜘蛛の網にかかった蝶のように、紙帳の中へはいって来た、名さえ、素姓さえ知らぬ女が、天下の至宝、剣の王たる、天国を持っていたのであるから。
「……しかし、もしや、これが本当に天国なら……」
 それでいて彼は、早速には、刀箱の蓋《ふた》を開けようとはしなかった。開けて、中身を取り出してみて、それが贋物《にせもの》であると証明された時の失望! それを思うと、手が出せないのであった。まさか! と思いながら、もし天国であったなら、どんなに嬉しかろう! この一|縷《る》の希望を持って、左門は、尚も刀箱を見据えているのであった。
「これが天国なら、この天国で、伊東頼母めを返り討ちに!」
 また、呻《うめ》くように云った。

    恩讐壁一重

 彼は、故郷《くに》からの音信《たより》で、忠右衛門の忰の頼母が、自分を父の敵だと云い、復讐の旅へ出たということを知った。彼は冷笑し、(討ちに来るがよい、返り討ちにしてやるばかりだ)とその時思った。そうして現在《いま》では、天国を求める旅のついでに、こっちから頼母を探し出し、討ち取ろうと心掛けているのであった。
 正気に甦《かえ》ると見えて、お浦が動き出した。肉附きのよい、ムッチリとした腕を、二本ながら、夜具から脱き、敷き布団の外へ抛り出した。
 と、左門は、刀箱を掴んだが、素早く、自分の背後へ隠し、その手で、膝脇の自分の刀を取り上げた。女が正気に返り、騒ぎ出したら、一討ちにするつもりらしい。武道で鍛えあげた彼の体は、脂肪《あぶら》も贅肉《ぜいにく》も取れて、痩せすぎるほどに痩せていた。それでいて硬くはなく、撓《しな》いそうなほどにも軟らかく見えた。そういう彼が、左の手に刀を持ち、それを畳の上へ突き及び腰をし、長く頸を延ばし、上からお浦を覗き込んでいる姿は、昆虫――蜘蛛が、それを見守っているようであった。紙帳の中へ引き入れられてある行燈《あんどん》の、薄黄いろい光は、そういう男女を照らしていたが、男女を蔽うている紙帳をも照らしていた。内部《うち》から見たこの紙帳の気味悪さ! 血蜘蛛の胴体《どう》は、厚味を持って、紙帳の面に張り付いていた。左衛門が投げ付けた腸《はらわた》の、皮や肉が、張り付いたままで凝結《こご》ったからであった。それにしても、蜘蛛の網が、何んとその領分を拡大《ひろ》めたことであろう! 紙帳の天井にさえ張り渡されてあるではないか。血飛沫《ちしぶき》によって作られた網が! 思うにそれは、先夜、飯塚薪左衛門の屋敷で、左門によって討たれた浪人の血と、片足を斬り取られた浪人の血とによって、新規《あらた》に編まれた網らしく、血の色は、赤味を失わないで、今にも、糸のように細い滴《しずく》を、二人の男女《もの》へ、したたらせはしまいかと思われた。
 お浦は、夜具からはみ出した腕を、宙へ上げ、何かを探すような素振りをしたが、
「頼母様! 天国様を持って参りました!」
 と叫んだ。もちろん、夢中で叫んだのである。

 その頼母は、ずっと以前《まえ》から、壁一重へだてた隣りの部屋《へや》に、お浦を待ちながら、粛然と坐り、「一刀斎先生剣法書」を、膝の上へ載せ、行燈の光で、読んでいた。
 下婢《おんな》の敷いて行った寝具《よるのもの》は、彼の手で畳まれ、部屋の片隅に置かれてあった。女を待つに寝ていてはと、彼の潔癖性が、そうさせたものらしい。前髪を立てた、艶々しい髪に包まれた、美玉のような彼の顔は、淡く燈火の光を受けて、刻《ほ》りを深くし、彫刻のような端麗さを見せていた。
「事ノ利ト云フハ、我一ヲ以《モツ》テ敵ノ二ニ応ズル所也。譬《タトヘ》バ、撃チテ請《ウ》ケ、外シテ斬ル。是レ一ヲ以テ二ニ応ズル事也。請ケテ打チ、外シテ斬ルハ、一ハ一、二ハ二ニ応ズル事也。一ヲ以テ二ニ応ズル時ハ必ズ勝ツ」
 彼は口の中で読んで行った。
(すなわち、積極的に出れば必ず勝つということなのだな)
 彼は、本来が学究的の性格だったので、剣道を修めるにも、道場へ通って、竹刀《しない》や木刀で打ち合うことだけでは満足しないで、沢庵禅師の「不動智」とか、宮本武蔵の「五輪の書」とか、そういう聖賢や名人の著書を繙《ひもと》くことによって、研究を進めた。今、「一刀斎先生剣法書」を読んでいるのもそのためであった。
(積極的に出れば必ず勝つということだな……少なくも、五味左門と出合った時には、この法で、この意気で、立ち合わなければならない)
(お浦はどうしたものであろう?)
 頼母は、「一刀斎先生剣法書」から眼を放し、考えた。
 さっき、縁側で人の気配がしたので、それかと思ったところ、隣りの部屋の襖が開き、そこへはいって行ったらしく、音沙汰なくなった。その後は、人の来る様子もなかった。
(浮気者らしかったお浦、俺のことなど忘れてしまったのかも知れない)
 時が経って行った。寝静まっている旅籠《はたご》からは、何んの物音も聞こえて来なかった。

    立ち向かった左門と頼母

 突然、隣りの部屋から、女の叫び声の聞こえて来たのは、さらにそれからしばらく経った後のことであった。(はてな?)と頼母は耳を澄ました。(変だ!)……というのは、その女の叫び声が「頼母様!」と聞こえ、「天国様を」と聞こえたからであった。しかしそれだけで、後は聞こえて来なかった。
(空耳だったかな)
 そのくせ頼母は、傍《かたわ》らの刀を掴み、立ち上がった。襖をあけて縁側へ出た。すぐ眼にはいったのは、月光で、霜でも降ったように見える広い中庭と、中庭を距《へだ》てて立っている母屋《おもや》とであった。縁側を左の方へ数歩あゆめば隣り部屋の前へ行けた。そこで頼母は足音を忍ばせ、隣り部屋の前まで行き、また、耳を澄ました。たしかに人のいる気配はあったが、声は聞こえなかった。
(これからどうしたものだろう?)
 不躾《ぶしつ》けに襖をあけることは出来なかった。とはいえ、女の声で、自分の名を呼び、天国様をと云ったからには、――空耳でないとして――声の主を確かめたかった。
(まさかお浦が、こんな部屋《ところ》へ来ていようとは思われないが……)
 しかし……いや、しかしも何もない、声の主を確かめさえすればよいのだ! ……しかし、それをするには、やっぱり襖をあけなければ……。
(咎《とが》められたら、部屋を間違えたと云えばよい)
 頼母は、わざと無造作に襖をあけた。
「あッ」
 声と一緒に、ほとんど夢中で、頼母は、庭へ飛び下り、これも夢中で抜いた刀を、中段に構え、切っ先越しに、部屋の中を睨《にら》んだ。
 見誤りではなかった。帳内《なか》で灯っている燈の光で、橙黄色《だいだいいろ》に見える紙帳が、武士の姿を朦朧《もうろう》と、その紙面《おもて》へ映し、暗い部屋の中に懸かっている。
(林の中に釣ってあった紙帳だ。では、あの中にいる武士は、五味左門に相違ない。……先夜は、知らぬこととはいえ、同じ飯塚薪左衛門殿の屋敷へ泊まり合わせ、今夜は、同じこの旅籠の、しかも壁一重へだてた部屋に泊まり合わせようとは)
 運命の不思議さ気味悪さに、頼母は、一瞬間茫然としたが、
(左門は親の敵、あくまで討ち取らなければならないのであるが、あの凄い腕前では……)
 体の顫えを覚えるのであった。
 しかし彼にとって、一抹の疑惑があった。紙帳は、左門ばかりが釣っているとは限らない。紙帳の中の武士は、左門ではないかもしれない……。
(何んといって声をかけたらよかろうか?)
 彼はしばらく紙帳を睨んで躊躇《ためら》った。
 紙帳は、そういう彼を、嘲笑うかのように、そよぎ[#「そよぎ」に傍点]もしないで垂れている。
「卒爾ながら、紙帳の中のお方にお訊ね致す」
 と、とうとう頼母は、少し強《こわ》ばった声で云った。
「貴殿、先夜、飯塚薪左衛門殿の屋敷へ、お泊まりではなかったかな」
 こう云ってから、これはいいことを訊いたと思った。泊まったといえば、紙帳の中の武士は、五味左門に相違ないからであった。何故というに、左門は、先夜、自分の本名を宣《なの》って、薪左衛門の屋敷へ泊まったということであるから。
 しかし紙帳の中からは、返辞がなく、紙帳に映っている人影も、動かなかった。
 頼母は焦心《あせり》を感じて来た。それで、ジリジリと、縁側の方へ歩み寄りながら、
「貴殿はもしや、五味左門と仰せられるお方ではござらぬかな?」と訊いた。
 すると、ようやく、紙帳に映っている人影が動き、嗄《しわが》れた声で、
「そう云われる貴殿は、どなたでござるかな?」
 と訊き返した。
「拙者は……」
 と、頼母は云ったが、当惑した。本名を宣るものだろうか、それとも、偽名を使ったものだろうか?
(相手が五味左門なら、当然宣りかけて討ち取らなければならないし、もしまた人違いなら、無断に襖をあけ、抜き身をさえ構えて誰何《すいか》した無礼を、これまた、本名を宣って詫びなければならないのだから……)
 頼母は、本名を宣ることにした。
「拙者ことは、伊東頼母と申し、隣りの部屋へ泊まり合わせたものでござる」
 俄然騒動が起こった。
「おお頼母様でございますか! 妾《わたし》はお浦でございます! ……部屋を取り違えて……」
 という声が、紙帳の中から起こり、すぐに、女の立ち上がる影法師が、紙帳の面へ映った。が、それは一瞬間で、たちまち悲鳴が起こり、女の姿が仆《たお》れるのが見え、つづいて燈火が消え、部屋の闇の中に、ぼんやりと白く紙帳ばかりが残った。
 しかし、やがて、紙帳の裾が、鉄漿《おはぐろ》をつけた口のようにワングリと開き、そこから、穴から出る爬虫類《ながむし》かのように、痩せた身長《せい》の高い武士が出て来た。刀をひっさげた左門であった。左門は、縁先まで一気に出、その気勢に圧せられ、後へ退り、抜き身を構えている頼母を睨《にら》んだが、
「貴殿が伊東頼母殿か、拙者は五味左門、巡り逢いたく思いながら、これまでは縁なくて逢いませなんだが、天運|拙《つたな》からず今宵《こよい》逢い申したな。本懐! ……貴殿にとっては拙者は、父の敵でござろうが、拙者にとっても貴殿は、父の敵の嫡宗《ちゃくそう》、恨《うら》みがござる! 果たし合いましょうぞ!」
 と、例の、嗄れた、陰湿とした声で云った。

    難剣「逆ノ脇」

 左門は急に驚いたように、
「貴殿とは、今宵が初対面と思いましたが、そうではござらぬな。過ぐる夜拙者、道了塚のほとりの、林の中で野宿をいたし、通りかかりのお武家を呼び止め、腰の物拝見を乞いましたところ、拒絶《ことわ》られ、やむを得ず、一当てあてて[#「あてて」に傍点]……フッフッ、若衆武士殿を気絶させましたが、どうやらそれが貴殿らしい。……頼母殿、さようでござろう」
 痛いところへさわられた頼母は、赤面し、切歯し、黙っていた。しかし彼には左門が気味悪く思われてならなかった。黒く大きく立っている離座敷《はなれ》、――壁と襖とは灰白《はいじろ》かったが、その襖の開いている左門の部屋は、洞窟《ほら》の口のように黒く、そこに釣ってある紙帳は、これまた灰白く、寝棺のように見え、それらの物像《もの》を背後《うしろ》にして、痩せた、身長《せい》の高い左門が、左手に刀を持ち、その拳を腰の上へあて、右手の拳も腰の上へあて、昆虫《むし》が飛び足を張ったような形で、落ち着きはらって立っている姿は、全く気味悪いものであった。
 左門は云いつづけた。
「ところで、先刻《さきほど》、一人の女子が、拙者の巣へ――寝所へ、迷い込んでござる。美しい女子ではあり、先方から参ったものではありして、拙者、遠慮なく、労《いたわ》り、介抱いたし……女子も満足いたしたかして眠ってござる。……しかるにその女子、貴殿が姓名を宣られるや、眼覚め、叫びましたのう。『頼母様でございますか、妾はお浦でございます。……部屋を取り違えてこんな目に』と。……さては、お浦という女子、貴殿の恋人そうな。……気の毒や、拙者、貴殿の恋人を……」
 ここで左門は例の含み笑いをしたが、
「それにいたしても、不思議のことがござったよ。……そのお浦という女子、天国の剣を所持し参ったことじゃ。……おお、そうそう、そういえば、そのお浦儀、夢の中で『頼母様、天国様を持って参りました』と叫びましたっけ。……さては、貴殿へお渡ししようため、天国を持参したものと見える。……今もお浦儀、その天国を、大事そうに抱いて寝てござる」
 こう云って来て左門は、お浦がああ叫んで立ち上がったところを、一当てあてて[#「あてて」に傍点]気絶させ、気絶したお浦が、刀箱の上へ仆れた姿を、脳裡へ描き出した。
「天国の剣を欲しがるは拙者で、貴殿ではない筈。その理由は申すまでもござるまい。……拙者といたしては、天国の剣をもって、貴殿はじめ、伊東家の一族を、族滅《ぞくめつ》いたしたいのでござる。……とはいえ、ああまで大切そうに、お浦殿が抱きしめている天国を、もぎ取るも気の毒。では、この関ノ孫六で、貴殿の息の根を止めることと致そう。行くぞーッ」
 と叫んだ時には、左門は庭へ飛び下りてい、関ノ孫六は引き抜かれていた。
 ハーッとばかりに呼吸《いき》を呑み、思わず数歩飛び退いた頼母は、相手の構えを睨んだ。何んと、左門の刀身が見えないではないか! 見えているものは、肩から、左の胴まで湾曲している右の腕と、踏み出している右足とであった。そう、そういう姿勢で、ノビノビと立っている左門の体であった。
(何んという構えだ! おお何んという構えだ!)
 頼母は、怯《おび》えた心でこう思った。(あれが反対《ぎゃく》なら、脇構えなのだが)
 そう、刀を自分の右脇に取り、切っ先を背後にし、斜め下にし、刀身を相手に見えないようにし、左足を一歩踏み出したならば、五法の構えの一つ、脇構えになるのであるが、左門の構えは、反対なのであった。
(では反対の脇構え――「逆ノ脇」なのであろうか?)
 それにしても、あの構えは、どう変化することであろう? こっちが、彼奴《きゃつ》の真っ向へ斬り込んだならば、それより先に、彼奴は、背後に隠している刀で、こっちの胴を払うかもしれない。こっちから相手の胴へ斬り込んだならば? それより先に、相手は、こっちの頸へ、刀を飛ばせるかもしれない。突いて出たならば? 払い上げて、胸を突くだろう! どう変化するか解らない隠された刀の恐ろしさ!

    紙帳を巡って

 左門に逢ったなら「我の一を以《も》って敵の二に応じ」よう。すなわち、攻撃的に出て、機先を制しようなどと考えていた頼母は、相手の構えを見ただけで、萎縮してしまった。しかし、心中の怒りは、その反対に昂《たか》まった。恋人などではないお浦が、どう左門に扱われようと、意に介するところではなかったが、しかし、左門が、お浦をこの身の恋人と解し、その恋人を……そうしてこの身を嘲笑していることが、怒りに堪えなかった。天国を左門に取られたことも、欝忿《うっぷん》であった。自分の手へ渡ったなら、打ち砕くべき天国なので、刀そのものに執着があるのではなかったが、左門の手へ渡ったとあっては、自分の父忠右衛門の、天国不存在説が、あまりにもハッキリと破壊されたことになる。欝忿を感ぜざるを得なかった。
(父の敵、自分の怨み、汝《おのれ》左門、討たいで置こうか!)
 怒りは頼母を狂気させた。
 しかし左門の凄さ!
(どうしよう?)
 この時、忽然と思い出されたは、やはり伊藤一刀斎の、剣道の極意を詠った和歌であった。
(切り結ぶ太刀《たち》の下こそ地獄なれ身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。……そうだ、身を捨ててこそ!)
 頼母は猛然と斬り込んだ。
 と、その瞬間、左門は、水の引くように、滑《なめ》らかに後へ退いた。
(逃げるぞ!)
 頼母は驚喜した。自分の気勢に恐れて、左門が逃げたと思ったからであった。頼母は追った。
 何んたる軽捷《けいしょう》! 左門は、背後《うしろ》ざまに縁の上へ躍り上がった。構えは? 依然として逆ノ脇! そこへ柳が生えたかのように、嫋《しなや》かに、少し傾き、縁先まで追って来た頼母を見下ろしている。危ないかな頼母! 左門の、例の、肩から左胴まで柔らかに湾曲している腕が延び、その手に握られて、背後ざまに隠されている刀が、電光のように閃めき出た時、お前の脳天は、鼻から頤まで、切り割られるのを知らないのか!
 それにしても左門は、何んのために縁まで退いたのであろう? 暗い部屋の中の、灰白い紙帳を背後にして立っている左門が、心の中で叫んでいる声を聞いたなら、その理由を知ることが出来よう。
「父上よ父上よ、あなたを辱《はず》かしめ、あなたを憤死させました、忠右衛門の忰頼母めを、今こそ討ち取りまして、父上の怨みの残りおります紙帳へ、その血を注ぐでございましょう。止どめは、天国の剣で致しまする」
 つまり左門は、頼母の血を、亡父の怨恨《うらみ》の残っている紙帳へ注いでやろうと、紙帳間近まで、頼母を誘《おび》き寄せて来たのであった。
 そうと知らない頼母は不幸であった。自分の気勢に圧せられて逃げる左門、たかが知れている! もう一息だ! こう思った頼母は不幸であった。
 微塵《みじん》になれ! と、頼母は、縁へ躍り上がり、斬り付けた。
「あッ」
 左門の姿が消え、眼前に紙帳が、風に煽《あお》られたかのように、戦《そよ》いでいた。
(部屋の中へ逃げ込んだのだな)
 頼母は突嗟《とっさ》に思った。
(紙帳の中へはいった筈はない。……では、背後に?)
 さすがに用心をし、頼母はソロソロと部屋の中へはいって行った。敷居を跨《また》ぎ左右を見た。正面三、四尺の間隔《へだたり》を置いて、紙帳が釣ってあり、その左右は闇であり、闇の彼方《あなた》には、部屋の壁が立っている筈であった。……左門の姿はどこにも見えなかった。
(紙帳の背後に隠れているのか、それとも、左右どっちかの、紙帳の横手に、身をひそめているのか?)
 頼母は、紙帳を巡って、敵を討とうと決心しながらも、右へ行こうか、左へ行こうかと迷った。しかしとうとう、左手へ心を配りながら、右の方へ進んだ。紙帳の角がすぐ前にあった。角の向こう側に、左門が隠れているかもしれない。頼母は、やにわに刀を突き出して見た。闇を突いたばかりであった。額に、冷たい汗を覚えながら、頼母はホッと息を洩らし、紙帳の角まで進んだ。前方《むこう》を睨んだ。部屋の壁と、紙帳の側面とで出来ている空間が、ただ、暗く細長く見えるばかりで、敵の姿は見えなかった。頼母は、ソロソロと進んだ。すぐに、紙帳の二つ目の角まで来た。
 頼母の足は動かなくなった。(あの角の向こう側にこそ)こう思うと、居縮《いすく》むのであった。ほんのさっきまで、左門など何者ぞと、気負い込んでいた彼の自信も勇気も、今は消えてしまった。技倆《うで》の相違がそうさせるのであり、十畳敷きほどの狭いこの部屋の中に、恐ろしい相手が確かにおりながら、その姿が見えないということが、そうさせるのであった。
(どうしたものか?)
 この時、霊感のようなものが心に閃めいた。
 頼母はやにわに刀を空に揮《ふる》った。紙帳の釣り手を切ったのである。紙帳の一角が、すぐに崩れ出した。やわやわと撓《たわ》み、つづいて沈み、方形であった紙帳が、三角の形となって、暗い中に懸かって見えた。しかし、左門の姿は見えなかった。三つ目の紙帳の角へ来て、その釣り手を切った時にも、左門の姿は見えなかった。紙帳は今や、二つの釣り手を切られ、庭に面した残りの二筋の釣り手によって、掲げられているばかりとなり、開けられてある襖を通し、中庭が見えていた。
(左門の隠れ場所が解った。紙帳の四つ目の角の蔭だ)頼母はこう思った。

    左門はたして何処《いずこ》

 それに相違なかろうではないか。頼母は、部屋へはいるや、右手へ進み、第一、第二、第三、と、三つまで、紙帳の角を通ったのであった。しかも、左門はいなかった。では、残った、最後の紙帳の四つ目の角の向こう側に、おそらく膝を折り敷き、刀を例の逆ノ脇に構え、豹のような眼をして、狙っているに相違ないではないか。
 こう思うと頼母は、また新たに恐怖を感じたが、刀を中段にヒタとつけ、その角を睨《にら》み、様子をうかがった。
 ところが、これより少し以前《まえ》から、母屋に近い中庭に、二つの人影があって、こっちを眺め、囁《ささや》いていた。
 角右衛門と紋太郎とであった。
 さっきから中庭で、人の云い争うような声が聞こえた。そこは五郎蔵一家の用心棒である二人であった。身内同士間違いを起こしたのではあるまいかと、二人して寝所から脱け出し、様子を見に来たところ、向こう側の離座敷《はなれ》の襖が開いてい、紙帳の釣ってあるのが見えた。
「紙帳だーッ」
「うむ、紙帳が!」
 二人ながら呻くように云った。
 先夜、飯塚薪左衛門の屋敷で、紙帳の中の武士に、同僚二人を討たれたことを思い出したからである。
 と、紙帳の釣り手が、次々に二ヵ所まで切られたのが見えた。
(何か事件が起こっている)と、二人ながら思った。
「小林|氏《うじ》」と、角右衛門は、汗を額へ産みながら、「これは、あの時の武士らしゅうござるぞ」
「さよう」と、紋太郎は、若年だけに、一層|怯《おび》え、地に敷かれている影法師が揺れるほどに顫えながら、「其奴《そやつ》がまた誰かを……どっちみち、あの部屋で切り合いが……」
「彼奴《きゃつ》とすれば同僚の敵、……討ち取らいでは……と云って、あの凄い剣技《うで》では……こりゃア親分にお話しして……」
「乾児《こぶん》衆にも……」
「うむ。……では貴殿……」
「心得てござる……」
 と、紋太郎は、母屋の縁へ駈け上がり、五郎蔵一家の寝ている、奥座敷の方へ走って行った。
 それを見送ろうともせず、怯えた眼で、角右衛門は、紙帳ばかりを見ていた。
 と、また、釣り手が一筋切られた。
 切ったのは頼母であった。
 頼母は、あるいは左門が、最初の位置から身を移し、紙帳の、第一の角の背後に隠れていようもしれぬと思い、ソロソロと紙帳の裾を巡り、引き返し、真っ先に自分が曲がった紙帳の角まで近付き、釣り手を切って落としたのであった。
「出ろ! 左門!」
 と頼母は叫んだ。しかし、叫んだものの、飛びかかって行こうとはせず、反対に、飛び退くと、部屋の背後の壁へ背をもたせ、刀を、例の中段に構え、眼前を睨んだ。
 釣り手を切られた紙帳の角は、やわやわと撓み、やがて崩れ、今は一筋の釣り手に掲げられている紙帳は、凋《しぼ》んだ朝顔の花を、逆《さか》さに懸けたような形に、斜面をなして懸かっていた。
 左門の姿は見えなかった。
 いよいよ左門の居場所は確実に解った。やはり、最後に残った釣り手の背後――釣り手の角の背後にいるのであった。
 その方へグッと切っ先を差し付け、頼母は大息を吐いた。
 さよう、左門はその位置に、片膝を敷き、片膝を立て、刀を逆ノ脇に構え、最初《はじめ》から現在《いま》まで、寂然《せきぜん》と潜んでいたのであった。一方は、隣り部屋と境いをなしている壁であり、一方は、閉めのこされてある襖であり、正面は紙帳である。――この三つのもの[#「もの」に傍点]によって、濃い闇を作っているこの場所は、何んと身を隠すに屈竟[#「屈竟」はママ]な所であろう。
 彼は、頼母が、自分の方へは来ないで、反対の方へ進み、紙帳の釣り手を、次々に切っておとすのを見ていた。走りかかり、背後から、一刀に斬り斃《たお》すことは、彼にとっては何んでもないことであった。しかし、彼はそれをしなかった。何故だろう? 蜘蛛が、自分の張った網へ、蝶が引っかかろうとするのを、網の片隅に蹲居《うずくま》りながら、ムズムズするような残忍な喜悦《よろこび》をもって、じっと眺めている。――それと同じ心理《こころ》を、左門が持っているからであった。
 まだ彼は動かなかった。
 しかし彼には、紙帳の彼方《むこう》に、刀を構え、斬り込もう斬り込もうとしながらも、こっちの無言の気合いに圧せられ、金縛りのようになっている、頼母の姿が、心眼に映じていた。
 彼は、姿を見せずに、気合いだけで、ジリジリと、相手の精神《こころ》を疲労《つか》れさせているのであった。

    斬り下ろした左門

 神気《こころ》の疲労《つかれ》が極点に達した時、相手は自然《ひとりで》に仆れるか、自暴自棄に斬りかかって来るか、二つに一つに出ることは解っていた。そこを目掛け、ただ一刀に仕止めてやろう。――これが左門の狙いどころなのであった。
 彼の観察は狂わなかった。頼母は、凋《しぼ》んだ朝顔を逆さに懸けたような形の紙帳の、その萼《がく》にあたる辺を睨み、依然として刀を構えていたが、次第に神気《こころ》が衰え、刀持つ手にしこり[#「しこり」に傍点]が来、全身に汗が流れ、五体《からだ》に顫えが起こり、眼が眩みだして来た。……と、不意に一足ヒョロリと前へ出た。蝦蟇《がま》が大きく引く呼吸《いき》をするや、空を舞っている蠅が、弾丸《たま》のようにその口の中へ飛び込んで行くであろう。ちょうどそのように、頼母は、眼に見えない左門の気合いに誘引《おびきよ》せられたのであった。ハッと気付いた頼母は、背後へ引いた。が、次の瞬間には、ヒョロヒョロと、もう二足前へ誘《おび》きだされていた。
 猛然と頼母は決心した。
(身を捨ててこそ!)
 畳の上に敷かれてある紙帳を踏み、例の萼にあたる一点を目ざし、真一文字に突っ込んだ。
 グンニャリとした軟らかい物を蹠《あしうら》に感じた。萼が崩れ落ちた。一筋の釣り手が、切って落とされたのである。その背後へ、巨大な丸太がノシ上がった。自分で釣り手を切って落とし、その刀を上段に振り冠り、左門が突っ立ったのであった。闇の夜空を縦に突ん裂く電光の凄さを見よ! 左門は斬り下ろした! 悲鳴が上がって頼母の体が紙帳の上へ仆れた。しかし悲鳴は女の声であった。斬り損じた刀を取り直し、再度頭上へ振り冠った左門の足もとを、坂を転がり落ちる丸太のように、頼母の体が転がり、縁側の方へ移って行った。紙帳の中の、気絶しているお浦の体を踏んだのは、頼母にとっては天祐であった。それで彼は足を掬われて仆れ、左門の太刀を遁がれることが出来たのである。左門は、転がって逃げる頼母を追った。しかし縁まで走り出た時には、既に頼母は起き上がり、庭を走っていた。
「逃げるか、卑怯者、待て!」
 左門は追い縋った。
 喊声《ときのこえ》が起こった。
 十数人の人影が、抜き身を芒《すすき》の穂のように揃え、一団となり、庭を、こっちへ殺到して来ようとしていた。
 五郎蔵の乾児《こぶん》達であった。
 その中から角右衛門の声が響いた。
「彼奴《きゃつ》こそ、先夜、飯塚殿の屋敷で、我々の同僚二人を、いわれなく討ち果たしました悪侍でござる!」
 つづいて、紋太郎の声が響いた。
「我々同僚の敵《かたき》、お討ち取りくだされ!」
 その人数の中へ、駈け込んで行く頼母の姿が見えた。
 頼母の声が響いた。
「彼は五味左門と申し、拙者の実父忠右衛門を討ち取りましたる者、本日巡り逢いましたを幸い、復讐いたしたき所存……」
 群の中には、松戸の五郎蔵もいた。寝巻姿ではあるが、長脇差しを引っ下げ、抜け上がっている額を月光に曝《さ》らし、左門の方を睨んでいた。
 彼は、紋太郎によって呼び立てられ、眼覚めるや、乾児たちと一緒に、庭へ出て来たのであった。彼は、来る間に、紋太郎から、紙帳武士のどういう素姓の者であるかを聞かされた。飯塚薪左衛門の屋敷で、角右衛門や紋太郎の同僚を、二人まで、いわれもないのに討ち果たした悪侍とのことであった。しかし彼としては、その言葉を、どの程度まで信じてよいか解らなかった。が、庭へ出て来て、前髪立ちの武士から、その武士が、親の敵だと叫ばれ、その武士が、前髪立ちの武士を追って走って来、自分たちの姿を見るや、刀を背後《うしろ》へ隠して下げ、右腕を左胴まで曲げて柄を握り、右足を踏み出した異様な構えで、全身から殺気を迸《ほとばし》らせながら、しかも寂然と静まり返って立った姿を見ると、容易ならない相手だと思い、いかさま、人など、平気で幾人でも殺す奴だろうと思った。
「野郎ども」と五郎蔵は、乾児たちに向かって怒鳴った。「あの三ピンを、引っ包《くる》んで膾《なます》に刻んでしまえ! しかし殺しちゃアいけねえ。止どめはお若衆に刺させろ! やれ!」
 声に応じて乾児たちは、一本の杭を目差して、黒い潮が、四方から押し寄せて行くように、左門を目掛け、殺到した。
 黒い潮が、渦巻き、沸《わ》き立つように見えた。飛沫《しぶき》が、水銀のように四方へ散った。――白刃が前後左右に閃めくのであった。数声悲鳴が起こった。渦潮は崩れ、一勢に引いた。杭は、わずかにその位置を変えたばかりで、同じ姿勢で立ってい、その前の地面に、三個《みっつ》の死骸が――波の引いた海上に、小さい黒い岩が残ったかのように、転がっていた。左門に斬られた五郎蔵の乾児たちであった。

    子供を産む妖怪蜘蛛

 五郎蔵は地団駄を踏み、いつか抜いた長脇差しを振り冠り、左門へ走りかかったが、にわかに足を止め、離座敷《はなれ》の方を眺めると、
「蜘蛛《くも》が! 大蜘蛛が!」
 と喚き、脇差しをダラリと下げてしまった。
 畳数枚にもあたる巨大な白蜘蛛が、暗い洞窟の中から這い出すように、今、離座敷《はなれ》の、左門の部屋から、縁側の方へ這い出しつつあった。背を高く円く持ち上げ、四本の足を引き摺るように動かし、やや角ばって見える胴体を、縦に横に動かし――だから、太い、深い皺を全身に作り、それをウネウネと動かし、妖怪《ばけもの》蜘蛛は、やがて縁から庭へ下りた。と、離座敷が作っている地上の陰影《かげ》から、蜘蛛は、月の光の中へ出た。蜘蛛の白い体に、無数に附着《つ》いてる斑点《まだら》は、五味左衛門の腸《はらわた》によって印《つ》けられた血の痕であり、その後、左門によって、幾人かの人間が斬られ、その血が飛び散って出来た斑点でもあった。そうして、この巨大な妖怪蜘蛛は、紙帳なのであった。では、四筋の釣り手を切られ、さっきまで、部屋の中に、ベッタリと伏し沈んでいた紙帳が、生命《いのち》を得、自然と動き出し、歩き出して来たのであろうか? 幾人かの男女が、その内外で、斬られ、殺されて、はずかしめられ、怨みの籠っている紙帳である、それくらいの怪異は現わすかもしれない。
 庭を歩いて行く紙帳蜘蛛は、やがて疲労《つか》れたかのように、背を低めて地へ伏した。しかしすぐに立ち上がった。背が高く盛り上がった。と、それに引き絞られて、紙帳の四側面が内側へ窪み、切られ残りの釣り手の紐《ひも》を持った四つの角が、そのためかえって細まり、さながら四本の足かのようになった。窪んだ箇所は黒い陰影を作り、隆起している角は骨のように白く見えた。紙帳蜘蛛は歩いて行く。と、蜘蛛は、地面へ、子供を産み落とした。彼が地面へ伏し沈み、やがて立って歩き出したその後へ、長い、巾の小広い、爬虫類を――蛇《くちなわ》を産み落としたのである。しかしそれは、黒繻子《くろじゅす》と、紫縮緬とを腹合わせにした、女帯であった。女帯は、地上に、とぐろ[#「とぐろ」に傍点]を巻き尻尾《しっぽ》にあたる辺を裏返し、その紫の縮緬の腹を見せていた。蜘蛛は、自分の影法師を地に敷きながら、庭を宛《あて》なく彷徨《さまよ》って行った。と、また子供を産み落とした。紅裏をつけた、藍の小弁慶の、女物の小袖であった。蜘蛛は、庭の左手の方へ、這って行った。
 やがて、母屋と離座敷《はなれ》との間の通路《みち》から、この旅籠《はたご》、武蔵屋の構外《そと》へ出ようとした。そうしてまたそこで、地上へ、血溜りのような物を――胴抜きの緋の長襦袢を産み落とした。
 三個の死骸を間に挾み、左門と向かい合い、隙があったら斬り込もうと、刀を構えていた頼母も、その背後に、後見でもするように、引き添っていた五郎蔵も、刀を逆ノ脇に構え、頼母と向かい合っていた左門も、その左門を遠巻きにしていた五郎蔵の乾児たちも、そうして、この中庭の騒動に眼を覚まし、母屋の縁や、庭の隅などに集まっていた、無数の泊まり客や、旅籠の婢《おんな》や番頭たちは、この、紙帳蜘蛛の怪異に胆を奪われ、咳一つ立てず、手足を強張《こわば》らせ、呼吸《いき》を呑んでいた。不意に、左門の口から、呻くような声が迸ったかと思うと、紙帳を追って走り出した。
「遁《の》がすな!」という、五郎蔵の、烈しい声が響いた。瞬間に、乾児たちが、再度、四方から、左門へ斬りかかって行く姿が見えた。しかし左門が振り返りざま、宙へ刀を揮うや、真っ先に進んでいた乾児の一人が、左右へ手を開き、持っていた刀を、氷柱《つらら》のように落とし、反《の》けざまに斃れた。
 蜘蛛の姿は消えていた。

 その蜘蛛が、しばらく経って姿をあらわしたのは、武蔵屋から数町離れた、瀬の速い川の岸であった。その岸を紙帳蜘蛛は、よろめきよろめき、喘ぎ喘ぎ、這っていた。でも、とうとう疲労《つか》れきったのであろう、四足を縮め、胴体に深い皺《しわ》を作り、ベタベタと地へ腹這った。円く高く盛り上がっていた背も撓《たわ》み、全体の相が角張り、蜘蛛というより、やはり、一張りの紙帳が、地面へ捨てられたような姿となった。川面を渡って、烈しく風が吹くからであったが、紙帳は、痙攣《けいれん》を起こしたかのように、顫《ふる》えつづけた。と、不意に紙帳は寝返りを打った。風が、その内部《なか》へ吹き込んだため、紙帳が一方へ傾き、ワングリと口を開けたのである。忽然、紙帳は、一間ほど舞い上がった。もうそれは蜘蛛ではなく、紙鳶《たこ》であった。巨大な、白地に斑点を持った紙鳶は、蒼々と月の光の漲《みなぎ》っている空を飛んで、三間ほどの彼方《むこう》へ落ちた。でも、また、すぐに、川風に煽られ、舞い上がり、藪や、小丘や、森や、林の点綴《つづ》られている、そうして、麦畑や野菜畑が打ち続いている平野の方へ、飛んで行った。

    怨恨上と下

 最初、紙帳の舞い上がった地面に、一人の女が仆れていた。お浦であった。水色の布《きぬ》を腰に纒っているばかりの彼女は、水から上がった人魚のようであった。
 彼女は疲労《つか》れ果てていた。左門によって気絶させられたところ、頼母に踏まれて正気づいた、そこで彼女は夢中で遁がれようとした。が、彼女を蔽うている紙帳が、彼女にまつわり、中から出ることが出来なかった。冷静に考えて、行動したならば、紙帳から脱出《のがれだ》すことなど、何んでもなかったのであろうが、次から次と――部屋の間違い、気絶、斬り合いの叫喚《さけび》、次から次と起こって来た事件のため、さすがの彼女も心を顛倒《てんとう》させていた。そのため、紙帳を冠ったまま、無二無三に逃げ廻ったのである。体をもがくにつれて、帯や衣裳は脱げて落ちた。
 藻屑《もくず》のように振り乱した髪を背に懸け、長い頸《うなじ》を延びるだけ延ばし、円い肩から、豊かな背の肉を、弓形にくねらせ、片頬を地面へくっ付けたまま、今にも呼吸が切れそうなほどにも、烈しく喘いでいるのであった。
(咽喉《のど》が乾く! 水が飲みたい!)
 彼女はこればかりを思っていた。
(川があるらしい、水の音がする)
 この時までも、小脇に抱いていた天国の刀箱を、依然小脇に抱いたままで、彼女は川縁の方へ這って行った。
 一方は宿の家並みで、雨戸をとざした暗い家々が、数町の彼方《あなた》に立ち並んでおり、反対側は髪川で、速い瀬が、月の光を砕いて、銀箔を敷いたように駛《はし》ってい、その対岸に、今を盛りの桜の老樹が、並木をなして立ち並んでい、烈しい風に、吹雪のように花を散らし、花は、川を渡り、お浦の肉体の上へまで降って来た。そうして、その桜並木の遙か彼方《むこう》の、斜面をなしている丘の上の、諏訪神社の辺りでは、火祭りの松明《たいまつ》の火が、数百も列をなし、蜒《うね》り、渦巻き、揉みに揉んでいるのが、火龍が荒れまわっているかのように見えた。
 お浦は、やっと川縁まで這い寄った。彼女は、崖の縁を越して、前の方へ腕を延ばした。すぐそこに川が流れているものと思ったかららしい。
(水が飲みたい、水を!)
 しかし川は、彼女のいる川縁から、一丈ばかり下の方を流れていた。そうして、川縁から川までの崖は、中窪みに窪んでい、その真下は岩組であった。
 その岩組の間に挾まり、腰から下を水に浸し、両手で岩に取り縋り、半死半生になっている男があった。渋江典膳であった。
 彼は、この髪川の上流、竹藪の側で、お浦のため短刀で刺された上、川の中へ落とされた。女の力で刺したのと、衣裳の上からだったのとで、傷は浅かった。しかし、川へ落ちた時、後脳を打ち、気絶した。でも、気絶したのは、典膳にとっては幸運だった。水を飲まなかった。その典膳は、ここまで流されて来、ここの岩組の間に挾まり、長い間浮いているうちに蘇生した。蘇生はしたが、衰弱しきっている彼は、川から這い上がることさえ出来なかった。助けを呼ぶにも、声さえ出なかった。彼はただ、岩に取り縋っているだけで精一杯であった。
 彼の心は、五郎蔵とお浦とに対する、怒りと怨みとで一杯であった。
(彼奴《きゃつ》ら二人に復讐するためばかりにも、生き抜いてやらなけりゃア)
 こう思っているのであった。
(昔の同志、同じ浪人組の仲間を、頭分たる彼奴が、女を使って殺そうとしたとは! 卑怯な奴、義理も人情も知らない奴! ……そっちがその気なら、こっちもこっち、彼奴の素姓を発《あば》き、その筋へ訴え出てやろう。即座に縛り首だ! 五郎蔵め、思い知るがいい! ……お浦もお浦だ、女の分際で、色仕掛けで俺を騙《たばか》り、殺そうとは! どうともして引っ捕らえ、嬲《なぶ》り殺しにしてやらなけりゃア!)
 川から上がりたい、水から出たいと、彼は縋っている手に力をこめ、岩を這い上がろうとした。しかし、腰から下を浸している水の、何んと粘っこく、黐《もち》かのように感じられることか! どうにも水切りすることが出来ないのであった。
 と、その時、頭上から、土塊《つちくれ》と一緒に、何物か崖を辷《すべ》って落ちて来、岩に当たり、幽《かす》かな音を立て、水へ落ちた。
 典膳は、水面を見た。細い長い木箱《はこ》が、月光で銀箔のように光っている水に浮いて、二、三度漂い廻ったが、やがて下流の方へ流れて行った。
 典膳は、崖の上を振り仰いだ。
 生々《なまなま》と白く、肥えて円い、女の腕が、長く延びて差し出されてい、指が、何かを求めるように、閉じたり開いたりしていた。
「あ」
 と、典膳は、思わず声を上げた。意外だったからである。しかし、次の瞬間には、誰か、女が、この身を助けよう、引き上げようとして、手を差し出してくれたのだと思った。
「お助けくださいまするか、忝《かたじ》けのうござる。生々世々《しょうじょうよよ》、ご恩に着まするぞ」
 と、典膳は、咽喉《のど》にこびり[#「こびり」に傍点]ついて容易に出ない声を絞って云い、一気に勇気を出し、川から岩の上へ這い上がった。

    栞の恋心

 腕の主はいうまでもなくお浦で、お浦は、この期《ご》になっても、恋しい男の頼母へ渡そうと、抱えていた天国の刀箱を、不覚にも川の中へ落としたので驚き、延ばしている腕を一層延ばし、思わず指を蠢《うごめ》かしたのであった。その時彼女は、崖下から、人声らしいものの、聞こえて来るのを聞いた。彼女は狂喜し、地を摺って進み、肩と胸とを、崖縁からはみ出させ、崩れた髪で、額縁のように包んだ顔を覗かせ、崖下を見下ろし、
「もし、どなたかおいででございますか。刀箱を落としましてございます。その辺にありはしますまいか? ……あ、水が飲みたい! 水を汲んでくださいまし」
 典膳は、この時、もう岩の上に坐りこんでいたが、女の声を聞いても、耳に入れようとはせず、ただ、女の腕に縋り、それを手頼《たよ》りに、崖の上へあがろうと、ひしと女の手を握った。
「お願いでございます。この手を、グッとお引きくださいまし。それを力に、私、崖を上がるでございましょう。ご女中、さ、グッとこの手を……」
 お浦は、突然手を握られて、ハッとしたが、咽喉の渇きがいよいよ烈しくなって来たので、握られた手を振り放そうとはせず、
「水を! まず、水を! ……その後にお力になりましょう。手をお引きいたすでございましょう。……おお、水を!」
 この二人を照らしているものは、練絹《ねりぎぬ》で包んだような、朧《おぼ》ろの月であった。
 典膳は、やっと、ヒョロヒョロと立ち上がった。お浦の体は、いよいよ崖の方へはみ出した。
 二人の顔はヒタと会った。
「…‥……」
「…………」
 鵜烏《うがらす》が、川面を斜《はす》に翔けながら、啼き声を零《こぼ》した。

 こういう事件があってから三日の日が経った。
 その三日目の朝、飯塚薪左衛門の娘の栞《しおり》は、屋敷を出て、郊外を彷徨《さまよ》った。さまよいながらも彼女の眼は、府中の方ばかりを眺めていた。連翹《れんぎょう》と李《すもも》の花で囲まれた農家や、その裾を丈低い桃の花木で飾った丘や、朝陽を受けて薄瑪瑙色《うすめのういろ》に輝いている野川や、鶯菜《うぐいすな》や大根の葉に緑濃く彩色《いろど》られている畑などの彼方《あなた》に、一里の距離《へだたり》を置いて、府中の宿が、その黒っぽい家並みを浮き出させていた。
(今日あたり頼母様にはお帰りあそばすかもしれない)
(いいえ、頼母様、是非お帰りあそばしてくださいまし)
 山水のように澄んでいる眼には、愛情の熱が燃え、柘榴《ざくろ》の蕾《つぼみ》のように、謹ましく紅い唇には、思慕の艶が光り、肌理《きめ》細かに、蒼いまでに白い皮膚には、憧憬《あこがれ》の光沢《つや》さえ付き、恋を知った処女《おとめ》栞の、おお何んとこの三日の間に、美しさを増し、なまめかしさを加えたことだろう! 彼女は過ぐる夜、屋敷の中庭で、頼母と会って以来、それまで、春をしらずに堅く閉ざしていた花の蕾が、一時に花弁《はなびら》を開き、色や馨《かお》りを悩ましいまでに発散《はな》すように、栞も、恋心を解放《はな》し、にわかに美しさを加えたのであった。
(妾《わたし》の良人《おっと》は頼母様の他にはない)
 処女の一本気が、恋となった時、行きつくところはここであった。まして栞のように、発狂している父親を看病し、老いたる僕《しもべ》や乳母《うば》や、荒々しい旅廻りの寄食浪人などばかりに囲繞《とりま》かれ、陰欝な屋敷に育って来た者は、型の変った箱入り娘というべきであり、箱入り娘は、最初にぶつかって来た異性に、全生涯を委《ま》かそうとするものであるにおいてをや。殊に相手が、若く、凜々しく、頼り甲斐のある、無双の美丈夫であるにおいてをや。
(頼母様、早くお帰りなされてくださりませ)
 その頼母は、自分たち飯塚家に、わけても父薪左衛門に仇《あだ》をする、松戸の五郎蔵という博徒の親分が、何故父親に仇をするのか、五郎蔵の本当の素姓は何か? それを、自分たちのために探り知るべく、出かけて行ってくれたのであった。
(頼母様、お会いしとうございます。早くお帰りなされてくださいまし)
 五郎蔵の素姓も、五郎蔵が、何故父親に仇をするのかをも、頼母の口から聞きたくはあったが、しかしそれよりも、狂わしいまでに恋している処女《おとめ》は、ただひたむきに、恋人の顔が見たいのであった。
 髪川から、灌漑用に引かれている堰《せき》の縁《へり》には、菫《すみれ》や、紫雲英《げんげ》や、碇草《いかりそう》やが、精巧な織り物を展《の》べたように咲いてい、水面には、水馬《みずすまし》が、小皺のような波紋を作って泳いでい、底の泥には、泥鰌《どじょう》の這った痕が、柔らかい紐のように付いていた。ことごとく春《はる》酣《たけなわ》の景色であった。
「おや」と呟いて、栞は、堰の縁へ、赤緒の草履の足を止めた。水面に、水藻をまとい、目高の群に囲まれながら、天国と箱書きのある刀箱が、浮いていたからである。

    名刀天国

(天国といえば、気を狂わせておられるお父様が、狂気の中でも、何彼と仰せられておられた名剣の筈だが……)
 それが、こんな堰に浮いているとは不思議だと、栞は、しばらく刀箱を見ていたが、やがて蹲《しゃが》むと、刀箱《それ》を引き上げた。箱からしたたるビードロのような滴《しずく》を切り、彼女は、両手で刀箱を支え、じっと見入った。ゆかしい古代紫の絹の打ち紐で、箱は結《ゆわ》えられていた。箱は、柾《まさ》の細かい、桐の老木で作ったものであり、天国と書かれた書体も、墨色も、古く雅《みやび》ていた。
(ともかくもお父様へお目にかけて……)
 その裾の辺りへ去年の枯れ草を茂らせ、ところどころ壁土を落とした築地《ついじ》。鋲は錆び、瓦は破損《いた》み、久しく開けないために、扉に干割《ひわ》れの見える大門。――こういうものに囲まれた彼女の屋敷は、廃屋の見本のようなものであったが、栞は、その大門の横の潜門《くぐり》をくぐって屋敷の中へはいって行った。
 その栞が、しばらく経った時には屋敷の奥の、古びた十畳ばかりの部屋に、父、薪左衛門と向かいあって坐っていた。
 栞は、膝の上の刀箱を、父の方へ差し出したが、
「ただ今お話し申し上げました、堰の水に浮いておりました刀箱は、これでございます。ご覧なさりませ、天国と、箱書きしてございます」
 と云い、緞子《どんす》の厚い座布団の上へ坐り、蒔絵《まきえ》の脇息へ倚っている、父親の顔を見た。
 薪左衛門は、その卯の花のように白い総髪を、肩の上でユサリと揺り、おちつきなく、キョトキョト動く眼を、グッと据えたが、やっと咽喉から押し出したような嗄れ声で、
「ナニ、天国※[#感嘆符疑問符、1-8-78] ……まことか! ……まことなりやお手柄、我ら助かる! 身の面目になる!」
 と云ったが、突然、棚から陶器《すえもの》が転げ落ちるような声で笑い出し、
「贋物《にせもの》であろう、贋物であろう、贋物の天国、鑑定してやろうぞ!」
 と、鉤のように曲がっている左右の指で、ムズと箱を掴んだ。紐が解かれ、蓋が開けられた。箱の底に沈んでいたのは、古錦襴の袋に入れられた白鞘の剣であった。やがて鞘は払われ、刀身があらわれた。
 薪左衛門は、狂人ながら、さすがは武士、白木の柄を両手に持ち、柄頭を丹田《たんでん》へ付け、鉾子《ぼうし》先を、斜《はす》に、両眼の間、ずっと彼方《むこう》に立て、ジッと刀身を見詰めた。立派であった。
 それにしても、この奥まった部屋の暗いことは! 年中陽の光が射さないからであった。それで、この部屋にあって、鮮明《あざやか》に見えているものといえば、例の、卯の花のように白い薪左衛門の頭髪《かみ》と、化粧を施さないでも、天性雪のように白い、栞の顔ばかりであった。
 いや、もう一つあった。薪左衛門によって保持《たも》たれている天国の剣であった。
 おお、この「持つ人の善悪に関わらず、持つ人に福徳を与う」とまで、云い伝えられている、日本最古の刀匠――大宝年中、大和《やまと》に住していた天国の作の、二尺三寸の刀身の、何んと、部屋の暗さの中に、煌々《こうこう》たる光を放していることか! その刀身の姿は細く、肌は板目で、女性を連想《おも》わせるほどに優美であり、錵《にえ》多く、小乱れのだれ[#「だれ」に傍点]刃も見えていた。そうして、切っ先から、四寸ほど下がった辺《あた》りから、両刃《もろは》になっていた。何より心を搏たれることは、それが兇器の剣でありながら、微塵《みじん》も殺伐の気のないことで、剣というよりも、名玉を剣の形に延べた、気品の高い、匂うばかりに美しい、一つの物像《もののかたち》といわなければならないことであった。
「まあ」と、栞は、思わず感嘆の声を上げ、水仙の茎のような、白い細い頸《うなじ》を差し延べ、眼を見張り、刀身を見詰めた。
 それにも増して、刀身へ穴でも穿《あ》けるかのように、その刀身を見詰めているのは、燠《おき》のように熱を持った薪左衛門の眼であった。
 薪左衛門も栞も、時の経つのを忘れているようであった。どこにいるのかも忘れているようであった。
 人は往々にして、真の驚異や、真の感激や、真の美意識に遭遇《ぶつか》った時、時間《とき》と空間《ところ》とを忘却《わす》れるものであるが、この時の二人がまさにそれであった。

    名刀の威徳

「栞や」と、不意に、薪左衛門は、優しい穏《おだや》かな声で云った。
「これは、天国の剣に相違ないよ。私には見覚えがある。遠い昔に――二十年もの昔でもあろうか、五味左衛門という者の屋敷から、天国の剣を強奪……いやナニ、頂戴したことがあるが、それがこの剣なのだよ。……ゆえあってその天国の剣は、今まで行衛不明となり、同志、来栖勘兵衛からは……いやナニ、誰でもよい、同志の一人からは、わしがその剣を隠匿したように誣《し》いられたが……それにしても、栞や、よくそなた、この剣を目付け出してくれたのう」
 その云い方は、全然、正気の人間の云い方であり、その声音《こわね》は、これも正気の人間の、五音の調った、清々《すがすが》しい声音であった。
「まあお父様!」と、栞は叫ぶように云い、父親が、正気に返ったらしいのに狂喜し、のめるように膝で進み、薪左衛門の膝へ取り縋った。
「そのお顔は! そのお声は! ……おおおお、お父様、すっかり正気の人間に! ……」
 いかさま、ほんのさっきまでは、薪左衛門の顔は、狂人特有の、顰《ひそ》んだ眉、上擦った眼、食いしばった口、蒼白の顔色、そういう顔だったのに、何んと現在《いま》の顔は、のびのびとした眉の、沈着《おちつ》いた眼の、穏かに軽く結んだ口の、尋常の人の容貌に返っているではないか。これはどうしたことなのであろう? 奇蹟的事件にぶつかった時、人は往々、濁った気持ちや、狂った精神《こころ》を、本来の正気に戻すことがあるものであるが、薪左衛門にとっては、天国の剣の出現は、その奇蹟的事件といっていいらしく、そのため、烈しい感動を受け、日頃の狂疾が、一時的に恢復したのかもしれない。
「ナニ正気の人間に?」
 と、薪左衛門は、栞の言葉を、不審《いぶか》しそうに聞き咎めた。
「栞や、正気の人間とは?」
「おお、お父様お父様、あなた様は、長らくの間、ご乱心あそばしておいでなされたのでございます」
「乱心?」
「はい、過ぐる年、松戸の五郎蔵という、博徒の親分が参りまして、お父様と、お話しいたしましてございますが、その時、突然お父様には、『汝《おのれ》、来栖勘兵衛、まだこの俺を苦しめるのか!』と叫ばれまして、その時以来、ずっとご乱心……」
「…………」
「そればかりか、お父様には、以前からお持ちの、腰の刀傷が元で、躄者《いざり》に……」
「ナニ、躄者に?」と、叫んだかと思うと、薪左衛門は、腰を延ばし、ノッと立ち上がった。立てなかった。
「おおおお栞や、わしは躄者じゃ! ……躄者じゃ躄者じゃ、わしは躄者じゃ! ……ワ、わしは、イ、躄者じゃーッ」
 時が沈黙のまま経って行った。天井裏で烈しい音がし、悲しそうな鼠の啼き声が聞こえた。こういう古屋敷の天井裏などには、大きな蛇が住んでいるものである。それが梁《はり》から落ちて、鼠を呑んだらしい。
 時が経って行った。
 薪左衛門の顔には、恐怖、悲哀、絶望、苦悶の表情が、深刻に刻まれていた。当然といえよう。乱心していたということだけでさえ、恥ずかしいことだのに、躄者にさえなったという。生まれもつかぬ躄者に。
 薪左衛門は眼を閉じた。その瞼が痙攣を起こしているのは、感情を抑えているからであろう。栞の肩を抱いている手が、烈しく顫えているのも、感情を抑えているからであろう。
 父の苦悶の顔を、下から見上げている栞の顔にも、恐怖と不安と悲哀とがあった。
(烈しいお父様の苦悶が、お父様を駆って、また乱心に……)
 これが栞には恐ろしく悲しいのであった。
 やがて薪左衛門は弱々しく眼を開けた。その眼についたのは、右手に捧げている天国の剣であった。剣は、依然として、珠を延べたかのように、気高い、穏かな光を放し、宙に保たれていた。この剣の威徳には、煙りさえも近寄れないのであろうか? と云うのは、少しでもお父様の狂ったお心を静めてあげようと、優しい娘心から、栞は、毎日この部屋で香を焚くのであって、今も床の間に置いてある唐金の香炉から、蒼白い煙りが立ち昇ってい、その一片が、刀の切っ先をクルクルと捲いた。しかし何かに驚いたかのように、煙りの輪は、急に散り、消え、後には、暗い空間に、刀身ばかりが、孤独に厳《おごそ》かに輝いているではないか。
 それを見詰めている薪左衛門の眼は、次第に平和になり、顔からも、悲哀や苦悶や絶望の色が消えた。

    返らぬ記憶

「栞や」
 と、ややあってから、薪左衛門は、おちつき[#「おちつき」に傍点]のある、しみじみとした声で云った。
「わしが乱心中に、どんなことを云ったか、どんな事をしたか、話しておくれ」
 栞は、お父様が沈着な態度に返ったので、ホッと安心し、
「それはそれはお父様、ご乱心中には、何んと申したらよいやら、いろいろ変ったことをなさいました。また、おっしゃいもなさいました。……何から申し上げてよいやら。……おおそうそう、来栖勘兵衛という男が、お父様を討ちに来るなどと……」
「来栖勘兵衛がわしを討ちに? ……うむ、栞や、それは正気になった今のわしでも云うよ。……そういうことがあるような気がするよ」
「そうしてお父様には、ご自分を、有賀又兵衛じゃとおっしゃいました」
「…………」
「それからお父様は、来栖勘兵衛がわし[#「わし」に傍点]を討ちに来るから、旅の浪人などが訪ねて来たら、逗留させて、加担人《かとうど》にしろと。……それで妾《わたし》は、訪ねて参られた浪人衆を、お泊めいたしましてございます」
「そうかえ、それはいいことをしておくれだったねえ。……来栖勘兵衛は強い男なのだから、わしには、どうしても加担人《かとうど》が入用《い》るのだよ」
「それからお父様は、そのようにお御足《みあし》が不自由になられてからも、毎日のように、野中の道了様へ、お参詣《まいり》に行かねばならぬとおっしゃいますので、いっそ道了様を屋敷内に勧請《かんじょう》いたしたらと存じ、道了様そっくりの塚を、お庭へ築きましたところ……」
「おおおお、そんな苦労まで、栞や、お前にかけたのかねえ。……野中の道了※[#感嘆符疑問符、1-8-78] うむ、道了塚!」
 と、薪左衛門は、グッと眼を据えた。
「するとお父様には、それを真の道了様と思われ、毎晩のように、躄り車に乗られ、塚の周囲《まわり》をお廻りなさいましてございます」
「あさましいことだったのう」
「ところが、数日前の晩のことでございますが、加担人として、お泊まりくださいました、伊東頼母様と仰せられるお方が、その塚のあたりを逍遙《さまよ》っておられますと、お父様が、来栖勘兵衛と勘違いされ、『勘兵衛、これ、汝《おのれ》に逢ったら、云おう云おうと思っていたのだが、野中の道了での決闘、俺は今に怨恨《うらみ》に思っているぞ。……事実を誣《し》い、俺に濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せたあげく、股へ一太刀! ……おのれ勘兵衛、もう一度野中の道了で決闘し、雌雄を決しようと、長い長い間、機会の来るのを待っていたのだ』とおっしゃったそうでございます」
「野中の道了での決闘? フーム……」
 と、薪左衛門は考え込んだ。
(野中の道了で、来栖勘兵衛と、俺は、決闘した覚えはある。……だが何んの理由で、決闘したのだろう?)
 彼には、肝心のことが解らなかった。
(わしの頭脳《あたま》は、まだ本当に快癒《なお》りきっていないのかもしれない)
 大病をして、大熱を発し、人事不省に落ち入ったものや、乱心して恢復した者のある者が、過去の記憶を、一切忘却してしまうことがある。一切忘却しないまでも、その幾個《いくつ》かを、忘れてしまうことがある。薪左衛門の場合はその後者らしかった。
(何んの理由で、俺は、勘兵衛と、野中の道了で決闘したのだろう?)
 思い出そう、思い出そうと、薪左衛門は焦心《あせ》った。
「栞や」と、薪左衛門は、傷《いた》ましい声で云った。
「わしを野中の道了へ連れて行っておくれ。……あそこへ行ったら、わしの記憶が蘇生《よみがえ》るかもしれないから」
 躄《いざ》り車に乗った薪左衛門と、それを引いた栞とが、野中の道了塚へ着いたのは、正午《まひる》であった。春陽に浸っている道了塚は、その岩にも、南無妙法蓮華経と刻《ほ》ってある碑《いしぶみ》にも、岩の間にこめてある土壌《つち》にも、花弁や花粉やらがちりばめられていた。この高さ二間周囲十間の道了塚は、いわば広々とした平野の中に出来ている瘤《こぶ》のようなものであった。しかし、この一見平凡の道了塚も、過去に多くの秘密を持っている薪左衛門にとっては、重大な記念物らしく、栞に助けられて、それを躄りのぼる彼の顔には、複雑な深刻な表情があった。やがて彼は碑を正面《まえ》にして坐った。彼の手には、鞘に納められた天国が、握られていた。
「栞や、わしはここで一人で考えごとをしていたいのだよ。一人にしておいてくれ」
 薪左衛門は、握っている白鞘の剣の周囲を、黄色い蝶が、謎めいた飛びかたをしているのを、無心で眺めながら、何んとなく放心したような声で云った。

    塚の中からの声

「はい」
 と栞は、素直に答えて、衣裳の赤い裾裏と、草履の赤緒との間に、白珊瑚《しろさんご》のように挾まっている可愛らしい素足を運ばせ、塚を下りた。そうして、塚の裾に、萠黄色《もえぎいろ》の座布団を敷いた躄り車が、もうその座布団の上へ、落花を受けて、玩具《おもちゃ》かのように置いてある横に立って、父親の方を振り返って見たが、やがて所在なさそうに、道了塚の背後に、壁のように立っている雑木林――かつて、五味左門が、紙帳を釣って野宿した、その雑木林の中へはいって行った。
 一人となった薪左衛門は、碑を見上げて、じっとしていた。裾に坐って、見上げているためでもあろう、六尺の碑が、二丈にも高く思われ、今にも、自分の上へ、落ちかかって来はしまいかと案ぜられた。陽に照らされて、その碑の面は、軟らかく艶めいてさえ見えたが、精悍に刎ねて刻《ほ》ってある七字の題目は、何かを怒《いか》って、叱咤しているかのように思われた。
 薪左衛門の記憶は徐々に返って来た。自分が有賀又兵衛と宣り、兄弟分の来栖勘兵衛と一緒に、浪人組の頭として、多勢の無頼の浪人を率い、関東一帯を荒らし廻った頃の、いろいろさまざまの出来事が、次から次と思い出されて来た。
(幾万両の財宝を強奪したことやら)
 奪った財宝の八割までを、自分と勘兵衛とが取り、後の二割を、配下の浪人どもへ分配してやった悪辣《あくらつ》の所業《しわざ》なども思い出された。そうして、大仕事をすると、官《おかみ》の探索の眼をくらますため、一時組を解散し、自分は今の屋敷へ帰って来、真面目な郷士、飯塚薪左衛門として、穏しく生活したことなども思い出されて来た。
(下総《しもうさ》の五味左衛門方を襲い、天国の剣と財宝とを奪い、さらに甲州の鴨屋を襲って、巨額の財宝を手に入れたのを最後として、全然《まったく》組を解散したっけ)
(その後、来栖勘兵衛は、故郷の松戸へ帰り、博徒の頭になった筈だ)
 こんなことも思い出された。
(だが、何んの理由で、俺と勘兵衛とは、この道了塚で決闘したのだろう?)
 決闘の現場の道了塚へ来て考えても、その理由ばかりは思い出されないのであった。
(わしの頭脳《あたま》はまだ快癒《なお》りきらないのかもしれない)
 淋しくこう思った。
 と、その時、何んたる怪異であろう! 坐っている道了塚の下から、大岩を貫き、銀の一本の線のような、恐怖と悲哀とを綯《な》い雑《ま》ぜにした男の声が、
「秘密は剖《あば》かない! 裏切りはしない! 助けてくれーッ」
 と、聞こえて来たではないか。
「う、う、う!」
 と薪左衛門は、呻き声をあげたが、やにわに天国の剣を引き抜き、春の白昼《まひる》に現われた、「声の妖怪《もののけ》」を切り払うかのように、頭上に振り、
「あの声! 聞き覚えがある! ……二十年前に聞いた声だ! ここで、この道了塚で! ……秘密はあの声にあるのだ! 決闘の秘密は! ……おおおお、それにしても、二十年前に聞いたあの声が、二十年後の今日聞こえて来るとは?」
 一つの影が、碑を掠め、薪左衛門の肩へ斑《ふ》を置き、すぐ消えた。鳶が、地上にある鼠の死骸を目付け、それをくわえて、翔び上がったのであった。道了塚を巡って、酣《たけなわ》の春は、華麗な宴《うたげ》を展開《ひら》いていた。耕地には菜の花が、黄金の筵《むしろ》を敷き、灌漑用の水路には、水の銀箔が延べられてい、地平線を劃《かぎ》って点々と立っている村落からは、犬の吠え声と鶏の啼き声とが聞こえ、藁家の垣や庭には、木蓮や沈丁花《じんちょうげ》や海棠《かいどう》や李が咲いていたが、紗を張ったような霞の中では、ただ白く、ただ薄赤く、ただ薄黄色く見えるばかりであった。でも、それは、この季節らしい柔らかみを帯びた風景として、かえって美しく、万物を受胎に誘う春風の中に、もろもろの香気《におい》の籠っているのと共に、人の心を恍惚とさせた。それにも関わらず、薪左衛門ばかりは、ふたたび乱心に落ち入るかのように思われた。振り廻していた天国の剣を、今は額に押し当て、沈痛に肩を縮め、全身をガタガタ顫《ふる》わせた。
(声の秘密を解かなければならない! どうあろうと解かなければならない!)
 その声はまたも岩の下から、いや、岩の下の地の底から、一本の銀の線かのように、土壌《つち》を貫き、岩を貫いて聞こえて来た。
「秘密は剖かない! 裏切りはしない! 助けてくれーッ」
(あの声は、渋江典膳の声ではない! しかし典膳と一緒に働いていた男の声だ!)
 薪左衛門は呻いた。

    栞の発見した物

 この頃栞は、林の中を逍遙《さまよ》っていた。
 父親の乱心が癒ったことと、恋人の頼母が、今日あたり帰って来るだろうという期待とで、彼女の心は喜悦《よろこび》と希望《のぞみ》とに燃えているのであった。
(頼母様といえば、あのお方とはじめてお逢いしたのは、道了様の塚の裾辺りだったっけ)
 栞は、過ぐる日、気絶していた頼母を、この手で介抱して、蘇生させたことを思い出した。
(妾、あの方の命の恩人なのよ。……頼母様、妾を粗末にしてはいけないわ)
 つい心の中で甘えたりした。
 林の中は、光と影との織り物をなしていた。木々の隙を通って、射し込んでいる陽光《ひかり》は、地上へ、大小の、円や方形の、黄金色《こがねいろ》の光の斑を付け、そこへ萠え出ている、菫《すみれ》や土筆《つくし》や薺《なずな》の花を、細かい宝石のように輝かせ、その木洩《こも》れ陽《び》の通《かよ》い路《じ》の空間に、蟆子《ぶよ》や蜉蝣《かげろう》や蜂が飛んでいたが、それらの昆虫の翅や脚などをも輝かせて、いかにも楽しく躍動している「春の魂」のように見せた。
 心に喜悦を持っている栞は、何を見ても楽しかった。
 栗や柏や楢などが、その幹や枝に陽光を溜め、陽光の溜っている所だけが、生き生きと呼吸しているように見えるのも、蕾を沢山持った山吹が、卯木《うつぎ》と一緒に、小丘のように盛り上がってい、その裾に、栗色の兎が、長い耳を捻るように動かしながら、蹲居《うずくま》ってい、桜実《さくらんぼ》のような赤い眼で、栞の方を見ていたが、それも栞には嬉しくてならなかった。
 栞は木々を縫って目的《あて》なく彷徨《さまよ》って行った。
 一つの林が尽き、別の林へはいろうとする処に、木立ちのない小さい空地があり、そこまで来た時、
「あれ」と云って、栞は足を停めた。
 その空地に、巨大な白蝶の死骸かのように、一張の紙帳が、ベッタリと地に、張り付いていたからである。
「紙帳だよ、……まあ紙帳!」
 どうしてこんな林の中などに紙帳が落ちているのか、不思議でならなかったが、それと同時に、数日前、自分の屋敷へ泊まった五味左門と云う武士が、部屋へ紙帳を釣って寝、その中で、同宿の武士を殺傷したことを思い出した。
(その紙帳ではあるまいか?)
(まさか!)
 と思い返したものの、気味が悪かったので、栞は立ち去ろうとした。しかし、紙帳とか蚊帳《かや》とかを見れば釣りたくなり、布団を見れば敷いてみたくなるのが女心で、栞も、その心に捉《とら》えられ、立ち去るどころか、怖々《こわごわ》ではあったが、あべこべに紙帳へ近寄った。紙帳には、泥や藁屑が附いていた。そうして血痕らしいものが附いていた。
(気味が悪いわ)と栞は、またも逃げ腰になったが、でも、やっぱり逃げられなかった。
 短く切られてはいたが、紙帳には、四筋の釣り手がついていた。
 いつか栞は、その釣り手を、木立ちにむすびつけていた。
 間もなく紙帳は、栞の手によって、空地へ釣られ、ところどころ裂《さ》け目を持ったその紙帳は、一杯に春陽を受け、少し弛《だ》るそうに、裾を地に敷き、宙に浮いた。
(この中で寝たら、どんな気持ちするものかしら?)
 この好奇心も、女心の一つであろう。
 栞は、紙帳の中へはいろうとして、身をかがめ、その裾へ手をかけた。
 しかし栞よ、その紙帳こそは、やはり、五味左門の紙帳なのであり、三日前の夜、風に飛ばされて、ここまで来たものであり、そうして、その中へはいったものは、男なら殺され、女なら、生命《いのち》より大切の……そういう紙帳だのに、栞よ、お前は、その中へはいろうとするのか?
 そんなことを知る筈のない栞は、とうとう紙帳の中へはいった。
 処女の体を呑んだ紙帳は、ほんのちょっとの間、サワサワと揺れたが、すぐに何事もなかったように静まり、その上を、眼白や頬白が、枝移りしようとして翔《か》けり、その影を、刹那刹那《せつなせつな》映した。

    戸板の一団

 ちょうどこの頃のことであるが、この林から一里ほど離れた地点《ところ》に、だだっ広い前庭を持った一構えの農家が立ってい、家鶏《にわとり》の雛《ひな》が十羽ばかり、親鶏の足の周囲を、欝金色《うこんいろ》の綿の珠が転がるかのように、めまぐるしく転がり廻っていた。と、筵をかけた戸板を担《にな》い、それを取り巻いた十人の男が、街道の方から走って来、庭の中へはいって来た。戸板から滴《しずく》が落ちて、日和《ひより》つづきで白く乾いている庭の礫《こいし》の上へ滴《したた》り、潰れた苺《いちご》のような色を作《な》した。
 血だ!
「咽喉が渇いてたまらねえ。水だ水だ」
 と喚いて、一人の男が、一団から離れ、母屋《おもや》と隠居家との間にある井戸の方へ走って行った。すると、母屋の縁側近くに集まって、餌をあさりはじめていた、例の家鶏の一群は、これに驚いたか、けたたましく啼き出し、この一団が侵入して来た時から、生け垣の隅で臆病らしく吠えつづけていた犬は、今は憤怒したように猛りたった。
「俺《おい》らも水だ」
 と、云って、もう一人の男が、井戸の方へ走った。
 そういう二人にはお構いなく、戸板を担った一団は、庭の外れ、街道に添って建ててある、大きな納屋の方へ走って行った。
 農事がそろそろ忙しくなる季節であった。この家の人々は、おおかた野良へ出て行ったとみえて、子守娘《こもり》と、老婆とが、母屋の入り口に茣蓙を敷き、穀物の種を選《よ》り分けていたが、その一団を見ると、呆気にとられたように、眼を見合わせた。
 咽喉が渇いてたまらねえ、水だ水だと喚いた最初の男が、井戸端まで行った時、井戸の背後の方に、藁葺きの屋根を持った、古い小さい隠居家が、破れ煤《ふす》ぶれた[#「煤《ふす》ぶれた」はママ]障子を陽に焙《あぶ》らせて立っていたが、その障子が、内側から細目に開き、一人の武士が、身を斜めに半身を現わし、蒼味がかった、幽鬼じみた顔を覗かせた。けたたましく啼きたてた家畜の声に、不審を打ったかららしい。
「わッ、わりゃア、五味左門!」
 と、井戸端まで辿りついた男は喚いた。松戸の五郎蔵の乾児の、中盆の染八であった。
「野郎!」
 と染八は脇差しへ手をかけた。遅かった。
 この時、もう左門は、その独活《うど》の皮を剥いたように白い足で、縁板《えん》を踏み、地へ下り、染八の面前へまで殺到して来ていた。
「わッ」
 染八の肩から、こう蹴鞠《けまり》の※[#「毬」の「求」に代えて「鞠のつくり」、第4水準2-78-13]《まり》のような物体《もの》が、宙へ飛びあがり、それを追って、深紅の布が一筋、ノシ上がった。切り口から吹き上がった血であった。染八の首級《くび》は、碇綱《いかりづな》のように下がっている撥《は》ね釣瓶《つるべ》の縄に添い、落ちて来たが、地面へ届かない以前《まえ》に消えてしまった。年月と腐蝕《むしくい》とのためにボロボロになっている井桁を通し、井戸の中へ落ちたのであった。
「タ、誰《たれ》か、来てくれーッ」
 染八の後を追って、これも水を飲みに来た壺振りの喜代三は、染八の死骸が、片手を脇差しの柄へかけたまま、自分の前へ転がって来たのに躓《つまず》き、夢中で両手を上げて、そう叫んだ。しかし誰も来ない以前《まえ》に、左門の刀が、胴から反対側の脇下まで斬っていた。死骸となって斃れた喜代三の傷口から、大量の血が流れ出、地に溜り、その中で蟻が右往左往した。啓蟄《あなをで》て間のない小蛇が、井戸端の湿地《しめじ》に、灰白い紐のように延びていたが、草履を飛ばせ、跣足《はだし》となり、白い蹠《あしうら》をあらわしている死骸の染八の、その蹠の方へ這い寄って行った。そうしてその、小蛇が、染八の足首へ搦み付いた頃には、五味左門は、道了塚の方へ続いている林の一つへ、その長身を没していた。
 彼は道了塚の方へ歩いて行くのであった。

    悩みの殺人鬼

 懐手《ふところで》をし、少し俯向《うつむ》き、ゆるゆると歩いて行く左門の姿は、たった今、人を殺した男などとは思われないほど、冷静であったが、思いなしか、淋しそうではあった。顔色もいくらか蒼味を帯びていた。林の中はひっそりとしていて、小鳥の啼き声ばかりが、頭上から、左右から聞こえて来た。山鳩が幾羽か、野の方から林の中へ翔《か》け込んで来たが、人間の姿を見て驚いたように、一斉に棹のように舞い立ち、木々の枝へ停まった。
 木々を巡り、藪を避《よ》け、左門は、道了塚の方へ歩いて行く。
 それにしても、どうして彼は、農家の隠居家などにいたのであろう? 何んでもなかった、三日前の夜、府中の武蔵屋で、ああいう騒動を惹《ひ》き起こしたが、切り抜けて遁がれた。遁がれたものの、伊東頼母を、返り討ちにすることが出来なかったことが残念であった。
(いずれは彼奴《きゃつ》も、この左門を討とうと、この界隈を探し廻っていることであろう、そこを狙って討ち取ってやろう)
 こう思い、あの農家に頼み込み、しばらく身を隠して貰っていたのであった。出かけて行って、頼母の居場所を探りたくはあったが、松戸の五郎蔵一味が、まだ府中にいて、この身の現われるのを待ち、討ち取ろうとしているらしかったので、今日までは外出しなかったのである。
 左門には、あの夜以来、心にかかることがあった。紙帳を失ったことである。何物にも換えがたい大切の紙帳を!
 そう、紙帳は、左門にとっては、ちょうど、蝸牛《かたつむり》における殻のようなものであった。肉体の半分のようなものであった。その中で住み、眠り、考え、罪悪さえも犯した紙帳なのだから! 恋人のような離れ難いものと云ってもよかった。それに紙帳は、彼にとっては、一つの大きな目的の対象でもあった。頼母を殺し、その血を注ぎ、憤死された父上の妄執を晴らしてあげたい! その血を注ぐ対象が紙帳なのであるから。
 その紙帳を紛失した彼であった。淋しそうに、気抜けしたように歩いて行くのは、当然といってよかろう。
(あの夜紙帳が、独《ひと》りで歩いたのは、中にお浦がいて、紙帳から出ようとしたが出られず、もがきながら走ったからだ。それは、あの女の着ていた物が、次々に脱げて、地へ落ちたことで知れる)
 しかし、その後、紙帳やお浦はどうなったことか?
 それが解らないからこそ、左門は憂欝なのであった。
 林を縫って流れている小川があり、水が清らかだったので、底の礫《こいし》さえ透けて見えた。それを左門が跨いで越した時、水に映った自分の姿を見た。顔に精彩がなかった。
(家を喪った犬は、みすぼらしいものの代表のように云われているが、俺にとっては紙帳は家だ。それを失ったのだからなア)
 顔に精彩のないのも無理がないと思った。
(どうぞして紙帳を探し出したいものだ)
 彼は黙々と歩いて行った。
 それにしても、何故彼は、道了塚の方へ行くのであろう? たいした理由があるのではなく、数日前ここの林へ紙帳を釣って野宿したことがあり、それが懐かしかったのと、五郎蔵の乾児二人を斬り、身をかくしたところが林で、その林が道了塚の方へつづいていたので、それで道了塚の方へ足を運ぶまでであった。
 彼は、どうして五郎蔵の乾児二人が、自分の隠れている農家などへやって来たのか、解らなかった。
(やはり五郎蔵一味め、俺の行衛を探しているのだな)
 こう思うより仕方なかった。彼には五郎蔵の乾児たちが、筵《むしろ》をかけた戸板を担って、あの農家の納屋《なや》の方へ行ったことを知らなかった。それは、その一団の姿が、母屋の蔭になっていて、見えなかったからである。
(どっちみち油断はならない)
 こう思った。
 やがて彼は、記憶に残っている、かつての夜、紙帳を釣って寝た、道了塚近くの林へ来た。
 突然彼は足を止め、茫然として前方を見据えた。無数の血痕を附けた、紛れもない自分の紙帳が、林の中の空地に釣られてあるではないか。紙帳は、主人に邂逅《めぐりあ》ったのを喜ぶかのように、落葉樹や常磐木《ときわぎ》に包まれながら、左門の方へ、長方形の、長い方の面を向け、微風に、その面へ小皺を作り、笑った。
 左門は、紙帳が、どうしてこんなところへ来ているのか、誰が紙帳を釣ったのか? と、一瞬間不思議に思ったが、それよりも、恋していると云ってもよいほどに、探し求めていた巣を――紙帳を、発見したことの喜びに、肌に汗がにじむほどであった。
 彼は、何をおいても、紙帳の中へはいり、この平和を失った、イライラしている心持ちを鎮めたいと思った。
 彼は、声をさえ発し、紙帳へ走り寄った。それが生物《いきもの》であったならば、彼は紙帳を抱き締めたであろう。彼はやにわに紙帳の裾をかかげた。
「あッ」
 彼は驚きで胸を反らせた。

    新鮮な果実《このみ

 紙帳の中に、彼の眼前に、彼以外の紙帳の主がいるではないか。そう、紙帳を箱とすれば、箱へ納まった京人形のように、一人の美しい娘が、謹ましくはあったが、充分|寛《くつろ》いだ姿で、安らかに、長々と寝て、眠っているではないか。
(無断で俺の巣へ入り込んだ女め!)
 憤怒《いかり》が勃然《ぼつぜん》と左門の胸へ燃え上がった。
(だが、女だ、綺麗な娘だ!)
 左門の、少し黒ずんで見えていた唇へ、赤味が注《さ》し、眼へ光が射した。
 左門は紙帳の中へはいった。彼は娘の顔をつくづくと見た。
(見覚えがある。飯塚薪左衛門の娘、栞だ!)
 事の意外に左門はまたも驚いた。
 過ぐる夜、飯塚家へ泊まった時、挨拶に出た栞という娘が、この紙帳の中に眠っていようとは!
(不思議だなア)
 左門は両眉の間へ皺を畳んだ。
(しかし、栞であろうと誰であろうと……)
 左門は、やがて地に腹這い、蛇が鎌首を持ち上げるように、首を上げ、頤の下へ両手を支《か》い、栞の姿をながめていた。栞は、そんなこととも知らず、片腕を枕にして、眠りつづけていた。友禅の襦袢の袖から、白い滑かな腕が覗いていたが、曲げた肘の附け根などは、円く軟らかく、薄桃色をなし、珠のようであった。
 この頃、五味左門が身を隠していた、例の農家の、街道に添った納屋には、陽がなんどり[#「なんどり」に傍点]と、長閑《のどか》にあたっていた。
 この辺の農家の誇りの一つとすることに、大きな納屋を持つということがあった。それは、鋤や鍬などの農具を、沢山に持っているということの証拠になるからであった。それでこの納屋も、土蔵ほどの大きさを持ってい、屋根に近い位置に、四角の窓を一つ穿《うが》っていた。その屋根に雀が停まっていて、羽づくろいし、その裾を、鼬《いたち》が、チョロチョロと徘徊していたが、これは赤黄色い土壌《つち》と、灰色の板とで作られているこの納屋を、大変詩的な存在にしていた。
 と、一人の武士が、刀の鞘を陽に照らし、自分の影を街道に落としながら、納屋の方へ歩いて来た。伊東頼母であった。頼母はあの夜、敵五味左門を取り逃がしたので、それを探し出し、敵《かな》わぬまでも勝負しようと、武蔵屋を出《い》で、府中をはじめ、近所のそちこちを、今日まで三日間さがし廻った。だが左門の行衛《ゆくえ》は知れなかった。そこで一旦、飯塚薪左衛門の屋敷へ帰ろうと、今この街道を歩いて来たのであった。飯塚家へ帰るということは、彼にとっては喜びであった。恋人の栞と逢うことであるから。過ぐる夜、あの屋敷の庭で、純情の処女、栞と、手を取り交わして以来、栞が、何んと烈しく、一本気に、頼母を愛し出したことか。その愛の烈しさに誘われて、頼母も、今は、燃えるように、栞を愛しているのであった。その栞と逢えるのだ! 頼母は幸福で胸が一杯であった。武蔵屋での苦闘と、三日間左門を探し廻った辛労とで、頼母は少し痩せて見えた。頤など細まり、張っていた肩など、心持ち落ちたように見えた。
「や、これは!」
 と、頼母は、納屋の前へさしかかり、何気なく窓を見上げた時、驚きの声をあげて足を止めた。窓にも陽があたっていて、明るかったが、納屋の内部は暗いと見え、窓の向こう側は闇であった。その闇を背後にして、明るい窓外に向き、一つの男の首級《なまくび》が、頼母の方へ顔を向けているではないか。陽のあたっている窓の枠を、黄金色《きんいろ》の額縁とすれば、窓の内部の闇は、黒一色に塗りつぶされた背景であり、そういう額の面に、男の首級《くび》一個《ひとつ》が、生白く描かれているといってよかった。首級《くび》は、乱れた髪を額へ懸け、眼を閉じ、無念そうに食いしばった口から幾筋も血を引いていた。
「首級だーッ」
 と、頼母は、思わず叫んだ。と、首級はユルユルと動き、一方へ廻り、すぐに頼母の方へ、ぼんのくぼ[#「ぼんのくぼ」に傍点]を見せたが、やがて窓枠からだんだんに遠退き、間もなく闇に融けて消えてしまった。しかし、すぐに続いて、今度は女の首級《なまくび》が一個、ユルユルと闇から浮き出して来、窓へ近寄り、頼母の方へ正面を向けた。やはり眼を閉じ、口を食いしばり、額へ乱れた髪をかけていた。しかし、その首級《くび》もユルユルと廻り、頼母へぼんのくぼを見せ、やがて闇の中へ消えた。頼母は全身を強《こわ》ばらせ、両手を握りしめた。と、またも、窓へ、以前の男の首級があらわれた。
「典膳の首級だーッ」
 と、頼母は夢中で喚いた。そう、その首級は見覚えのある渋江典膳の首級であった。
(しかし典膳は、三日前の晩に、お浦のために殺されて、川の中へ落とされたではないか! 何んということだ! 何んという! ……)
 典膳の首級は、頼母にそう叫ばれると、閉じていた眼を開けた。血が白眼の部分を櫨《はぜ》の実のように赤く染めていた。だが、その典膳の首級は、例のようにユルユルと廻って、闇に消え、それに代わって、以前の女の首級が現われた。
「お浦だーッ」
 そう、その首級はお浦の首級であった。

    恩讐|卍巴《まんじどもえ》

 お浦の首級は、頼母の叫び声を聞くと、眼を開けようとして、瞼《まぶた》を痙攣させたが、開く間もなく、一方へ廻り、窓から遠退き、闇へ消えた。とたんに、軟らかい生物の体を、木刀などで打つような音がし、それに続いて悲鳴が聞こえたが、見よ! 窓を! 典膳の首級とお浦の首級とが、ぶつかり合い、噛み合いながら、キリキリ、キリキリと、眉間尺のように廻り出したではないか。
 頼母は、夢中で納屋の扉へ飛び付いた。
 刹那、納屋の中から、
「丁だ!」という声が聞こえ、それに応じるように、「半だ!」という声が響いた。
 頼母は納屋の扉を引き開け、内へ飛び込んだ。開けられた戸口から、外光が射し込み、闇であった納屋の内部を昼間に変えたが、頼母に見えた光景は、地獄絵であった。渋江典膳とお浦とが背後手《うしろで》に縛《くく》られ、高く梁《はり》に釣り下げられてい、その下に立った五郎蔵一家の用心棒の、望月角右衛門が、木刀で、男女《ふたり》を撲っているではないか。撲られる苦痛で、典膳とお浦とは身悶えし、身悶えするごとに、二人の体は、宙で、縒《よ》じれたり捻《ね》じれたりし、額や頤をぶっつけ合わせた。そういう二人の顔は、窓の高さに存在《あ》った。だから窓の外から見れば、二個《ふたつ》の首級が、噛み合い食い合いしているように見えるのであった。納屋の壁には、鋤だの鍬だの鎌だのの農具が立てかけてあり、地面には、馬盥《ばだらい》だの※[#「韋+鞴のつくり」、第3水準1-93-84]《ふいご》だの稲扱《いねこ》きだのが置いてあったが、そのずっと奥の方に、裸体《はだか》蝋燭が燃えており、それを囲繞《かこ》んで、六人の男が丁半《しょうぶ》を争っていた。五郎蔵の乾児どもであった。その横に立って、腕組みをし、勝負を見ているのは、これも用心棒の小林紋太郎で、その南京豆のような顔は、蝋燭の光で黄疸|病《やみ》のように見えていた。
 これらの輩《やから》は、戸のあく音を聞くと、一斉にそっちを見たが、
「染八か」「何をしていたんだ」「喜代三はどうした」「いい勝負がはじまっている」「仲間にはいりな」
 などと声をかけた。
 井戸の方へ水を飲みに行った二人の身内の一人が、帰って来たものと思ったらしい。しかし明るい戸口の外光《ひかり》を背負《しょ》って立っている男が、染八でもなく喜代三でもなく、武士だったので、乾児たちは一度に口を噤《つぐ》んでしまった。
 頼母に一番近く接していた角右衛門が、真っ先に侵入者の何者であるかを見てとった。
「わ、わりゃア伊東頼母!」
 と叫ぶと、持っていた樫の木刀を、真剣かのように構えた。しかしこの老獪な用心棒は、打ち込んで行く代わりに背後へ退き、粗壁《あらかべ》へ守宮《やもり》のように背中を張り付け、正面に、梁から、ダラリと人形芝居の人形のように下がり、尚グルグルと廻っている、典膳とお浦との体の横手から、恐《こわ》そうに頼母を見詰めた。
 乾児たちは角右衛門の声を聞くと、一斉に立ち上がった。蝋燭が仆れて消えた。
「いかにも伊東頼母!」
「探しているところだ!」
「いいところへ来やがった」
「たたんで[#「たたんで」に傍点]しまえ!」
「誘拐《かどわかし》め!」
「盗賊《ぬすっと》め!」
 乾児たちは口々に喚《わめ》きだした。
「親分にお知らせして……さよう親分にお知らせした方がよろしい。……拙者一走りして……」と、臆病者の紋太郎は、侵入者が頼母だと知った瞬間、一躍《ひととび》して、乾児たちの背後へ隠れたが、今度はいち早く、納屋から逃げ出そうとして、そう叫びながら、乾児たちを掻き分けて前へ出、頼母の体によって半分以上|塞《ふさ》がってはいるが、しかし尚明るく見えている戸口を狙った。
 頼母は、この意外なありさまに度胆を抜かれたが、そのうち自分が、何か誤解されているらしいことに感付いた。
「方々――いや五郎蔵殿のお身内、拙者はいかにも伊東頼母、先夜、父の敵五味左門に邂逅《めぐりあ》いました際には、ご助力にあずかり、千万忝けのうござった。お礼申す。その夜お断わりもいたさず武蔵屋を立ち退きましたは、とり逃がしました左門を探し出そうためで。……しかし挨拶なしにお暇《いとま》いたしましたは拙者の不調法、お詫《わ》びつかまつる。……いやナニここへ参りましたのもほんの偶然からで。……さよう、窓から、お浦殿の顔と典膳めの顔とが……どっちみち偶然からで。……それにいたしましても、只今のお言葉、ちと不穏当! 合点ゆきませぬ! ……誘拐者とは? 盗賊とは?」
 と云い云い、頼母は、油断なく四方《あたり》へ眼を配った。

    納屋の血煙り

「吐《ぬ》かすな!」と、首根っ子に瘤《こぶ》のある乾児《こぶん》が叫んだ。「白々しい三ピン! 何を云うか! ……親分の恋女《おんな》、お浦を誘惑《そそのか》し、五郎蔵一家の守護神、天国の剣を持ち出させながら、白々しい! ……」
「他人の恋女をそそのかしゃア誘拐者《かどわかし》よ!」
「刀を持ち出させりゃ盗賊だ!」
 乾児たちは口々にまた喚きだした。
 頼母は(さてはそれでか)と思った。お浦と関係など附けたことはなく、附けようと思ったことさえなかったが、お浦の方では、そういう関係になるべく希望《のぞ》んでいたことは争われなかったし、天国の剣をお浦に持ち出してくるよう依頼《たの》んだのは、確かに自分なのであるから、乾児たちにそう云われてみれば、言下に反駁することは出来なかった。
 頼母は黙ってしまった。
 頼母が困《こう》じて黙っている様子を見てとった乾児たちは、
「そこで親分には手前をさがしだし、叩っ斬ろうとしているところなのよ」
「いいところへ来た」
「とっ捕《つか》まえろ」
「手に余ったら叩っ斬れ」
 と喚き出し、
「それを[#「それを」に傍点]見ろそれを!」
 と、頬に守宮《やもり》の刺青《いれずみ》をしている一人の乾児が、梁から釣り下げられている|典膳お浦《ふたり》を指さした。
「俺ら仲間の処刑《しおき》、凄かろうがな。……手前を捉えて、こうしようというのが親分の念願なのさ」
「やっつけろ!」
 脇差しを引き抜くものもあった。
 頼母も刀の柄へ手をかけ、先方《さき》が斬り込んで来たら、斬り払おうと構えたが、それにしてもお浦と典膳との境遇が、あまりに悲惨に、あまりに意外に思われてならなかった。
(いずれお浦は、あの後、五郎蔵の手に捕えられたものらしい)
 あの後というのは、お浦が左門の紙帳を冠ったまま、武蔵屋の庭から消えた後のことであって、あの時、紙帳が自然《ひとりで》のように動きだしたのは、その実、その中にお浦がいたのだということは、お浦の衣裳が、次々に紙帳の中から地に落ちたことによって、頼母にも悟れたのであった。
(その後どうして五郎蔵の手に捕えられたのであろう?)
(そうして、殺された筈の典膳が、生きていたとは? ……そうして五郎蔵の手に捕えられたとは? ……どこでどうして捕えられたのであろう?)
 彼にはこれらのことがどうにも合点いかなかったが、事実は、あの夜お浦と典膳とは、髪川の上と下とで逢った。岸の上の女が怨みあるお浦だと知ると、典膳は猛然と勇気を揮い起こし、岸へよじ上り、お浦へ掴みかかった。お浦は相手が典膳だと知るや、悲鳴を上げて遁がれようとした。二人は組み合い捻《ね》じ合った。そこへ駈け付けて来たのが、血路をひらいて逃げた左門を、捕えようとして追って来た五郎蔵達で、二人は五郎蔵たちの手によって捕えられ、武蔵屋へしょびい[#「しょびい」に傍点]て行かれ、そこで糾明された。お浦は容易に実を吐こうとはしなかったが、いわば痛目《いため》吟味に逢わされ、とうとう自分が伊東頼母を恋したこと、頼母の依頼によって天国の剣を持ち出し、頼母に渡そうとし、部屋を間違えて、五味左門の部屋へ行き、紙帳の中へ引き入れられたことなどを白状した。五郎蔵は怒った。自分が想いを懸けていた女が、頼母に心を寄せたことに対する怒りと、「持つ人の善悪にかかわらず、持つ人に福徳を与う」とまで云われている天国の剣を、頼母へ渡そうとしたことが、五郎蔵をして嚇怒《かくど》させた。彼はお浦を嬲《なぶ》り殺しにしようとした。
 典膳に至っては、五郎蔵の過去の行状を知っていて、強請《ゆす》りに来たほどの男だったので、生きているからには殺さなければならず、これも嬲り殺しにすることにした。
 こうして惨酷の所業が今日まで行われて来たのであったが、府中《しゅく》で殺しては人目につき、後々がうるさいというところから、この農家の納屋で、乾児たちに吩咐《いいつ》け、その嬲り殺しの最後の仕上げに取りかからせたのであった。
 突然風を切って木刀が、頼母の眉間へ飛んで来たので、頼母は瞬間身を反《か》わした。
「面倒くさい! 方々、たたんでおしまいなされ!」
 叫んで刀を抜いたのは、木刀を投げつけた角右衛門であった。
「そうだ、やれ!」
「膾《なます》に刻め!」
 怒号する声が一斉に湧き起こり、納屋が鳴釜《なりかま》のように反響した。無数の氷柱《つらら》が散乱するように見えたのは、乾児たちが脇差しを引っこ抜いたからであった。
 やにわに一人の乾児が横撲りに斬り込んで来た。頼母は、右手の壁の方へ身をかわしたが、抜き打ちざまに、眉間から鼻柱まで割り付けた。
「やりゃアがったな!」
 と喚くと、もう一人の乾児が、むこうみずにも、脇差しを水平にし、体もろとも、突っ込んで来た。それを頼母は左へ反わし、乾児が、脇差しを壁へ突っ込んだところを、背後から、肩を背筋まで斬り下げた。

    二人を助けて

 と、間髪を入れず、三人目の乾児が、
「野郎!」と叫んで、足を薙ぎに飛び込んで来た。
「命知らずめ!」
 と頼母が叫んだ時には、もうその乾児の脳天を、鼻柱まで斬り下げ、その隙を狙って紋太郎が、脱兎のように戸口を目がけて逃げだしたのを、追おうともしないで見捨て、昏迷《あが》った四人目の乾児が、
「チ、畜生オーッ」
 と悲鳴のような声をあげて、滅茶滅茶に脇差しを振り廻し、ヒョロヒョロと接近《ちかよ》って来るやつを、真正面から、肩を胸まで斬り割り、望月角右衛門が、
「拙者、頼母めを背後より……各※[#二の字点、1-2-22]《おのおの》方は正面から……」
 と叫び、刀を振り冠り、背後へ廻ると見せかけ、その実は、お浦と典膳とが釣り下がっているその足の下を潜り、戸口から飛び出したのをも見捨て、生き残った二人の乾児が、これも戸口から駈け出そうとするのを、素早く前へ立って遮《さえぎ》り、
「逃げれば斬るぞ! 坐れ!」
 と大喝し、二人の乾児が、ベッタリと坐ったのを睨み、
「脇差しを捨てろ!」
 二人の乾児は脇差しを投げ出した。
 左門へ立ち向かっては子供のようにあしらわれる頼母ではあったが、本来が勝《すぐ》れた腕前、博徒や用心棒に対しては段違いに強く、瞬間《またたくま》に四人を斃し、二人を追い、二人を生擒《とりこ》にしてしまったのである。
 頼母はホッとし、大息を吐き、しばらくは茫然としていた。
(恩こそあれ、怨みのない五郎蔵殿の乾児衆を殺したとは……)
 武蔵屋で、左門と出会った時、五郎蔵たちに助けられなかったならば、自分は手もなく左門に討ち取られたことであろう! 五郎蔵殿とその乾児衆とは、自分にとっては恩人に相違ない! それを、時の機勢《はずみ》とはいえ、先方から仕掛けた刃傷沙汰とはいえ、その恩人の乾児を四人殺したとは……。
(殺生な!)その優しい心から、頼母は暗然とせざるを得なかった。
 と、その時、頭上から、
「頼母様アーッ」
 と叫ぶ、女の声が聞こえて来た。頼母はハッとし、気が附き、声の来た方を振り仰いだ。半分《なかば》死にはいり、ほとんど人心地のなかったお浦が、今の乱闘騒ぎで、正気を取り戻したらしく、藍のように蒼い顔を、薄暗い梁の下に浮き出させ、血走った眼で、思慕に堪えないように、じっと頼母を見下ろしていたが、紫ばんだ唇を動かしたかと思うと、
「頼母様アーッ……あなた様のために……あなた様に差し上げようと持ち出しました天国の御剣《みつるぎ》を、残念や、髪川へ落としましてございます。……こればかりが心残り! ……死にまする、妾《わたし》は間もなく死にまする! ……いいえ何んの怨みましょうぞ! 想いを懸けましたあなた様のために、五郎蔵親分に嬲《なぶ》り殺しにされて死ぬこそ、妾のような女には分相応! ……本望! ……喜んで死にまする! 頼母様アーッ」
 荒縄の一端で釣り下げられている彼女であった。肩も胸も露出《あらわ》に、乳房のあたり咽喉のあたり焼き鏝《ごて》でも当てられたか、赤く爛《ただ》れ、皮膚《かわ》さえ剥《む》けている。深紅の紐でも結びつけたように、血が脛《はぎ》を伝わっている。
「頼母殿と仰せられるか、一思いにお殺しくだされい! お慈悲でござるぞーッ」と叫んだのは、縄の他の端に繋がれた、お浦と並び、釣り下げられている典膳であった。
「おのれ五郎蔵、この怨み死んでも晴らすぞよ! ……汝の過去の罪悪、わけても道了塚での無慈悲の所業《しわざ》! それを俺に剖《あば》かれるかと虞《おそ》れ、瞞《だま》し討ちから嬲り殺しにかけおったな! ……可哀そうなは伊丹東十郎! あいつの悲鳴、今も道了塚へ行かば、地の下から聞こえるであろうぞ、『秘密は剖かない、裏切りはしない、助けてくれーッ』と。……天国の剣を、汝が手に入れたも、この典膳が才覚したればこそじゃ。……その俺を嬲り殺し! おのれ五郎蔵オーッ」
 ワングリと開けた暗い口から、焔《ほのお》の先のような舌を、ヒラヒラ出入りさせた。前歯が数本脱けている。引き抜かれたものらしい。爪を剥がされた足の指から、今も血がしたたってい、その指の周囲を、金蠅が飛び廻っている。
 頼母はやにわに刀を揮うと、二人を釣っている縄を切った。
「お浦殿オーッ」と頼母は、地に落ちて来たお浦を宙で抱き止めると、ベタリと坐り、お浦の体を膝へ掻き上げた。「頼母、お助けつかまつるぞオーッ」
 恩こそあれ怨みのないお浦であった。この身を恋してくれたこと、なるほど、五郎蔵からみれば、怒りに堪えない所業であったろうが、この身からすれば、尋常に恋されたまでである。憎むべき筋ではない。その恋ゆえに、天国の剣を持ち出してくれたという。感謝しなければならないではないか。その恋ゆえに、嬲り殺しにかけられたという。助けないでおられようか! 四辺を見れば、壁に戸板が立てかけられてあった。
「汝《おのれ》ら!」と頼母は、地べたに坐って顫《ふる》えている二人の乾児《こぶん》を睨みつけ、「戸板を持て! ……お浦殿とそのお武家様とを舁《か》き載せよ! ……そうして汝ら戸板を担《かつ》げ」
 一団は納屋を出た。
(角右衛門どもの注進で、五郎蔵が乾児を率い、襲って来るやも知れぬ。何を措いても身を隠さなければ! ……では附近《ちかく》の林へ!)
「走れ! 向こうの林へ駈け込め!」
 戸板の一団は、さっき、五味左門が身を没した同じ林の中へ駈け込んだ。

    処女と殺人鬼

 道了塚の林の中の紙帳の中で、栞が眼をさましたのは、これより少し以前《まえ》のことであった。彼女は、自分が蝶になって、春の野を舞いあそんでいる夢を見ていた。野の中に、一本《ひともと》の、木蓮の木があり、白絹細工のような花が、太陽《ひ》に向かって咲き揃っているのを見、(美しくて清らかで、若々しくて、まるで頼母様のようですこと)と思い、一輪の花の中へ分け入った時、木蓮の花の、倍もありそうな巨大な、そうして血のように赤い蜘蛛《くも》が、突然、頭上《うえ》から、舞い下がって来た。
「あッ、蜘蛛が!」と、蝶の栞は叫び、叫んだ自分の声に驚いて眼をさまし、起き上がった。と、狼狽して、紙帳の向こう側の隅へ、飛ぶように身を引き、そこへ、固くなって坐った若い、身長《せい》の高い、総髪の武士を認めた。
「まあ」と、栞は云って、驚きを二倍にしたが、立派なお侍さんが、女の自分の声に驚いて、ケシ飛んで行ったのがおかしく、それに気の毒でもあったので、「怖がらなくともよろしゅうございますの。……妾《わたし》、寝呆気《ねぼけ》て叫んだだけでございますもの」と云い、無邪気に、口をあけて笑った。
 武士――五味左門は、
「ナニ、怖がらなくともよいと。……ふうん」
 と、呆れて、まじまじと、栞の顔を見詰めた。
「あッ蜘蛛が」と叫ばれ、眼をさまされた。さすがの彼も、不意だったので胆をつぶし、思わず紙帳の隅へ飛び退がったまでで、相手を怖がったのでも何んでもなかった。怖がるといえば、栞こそ、怖がらなければならない筈である。はいったが最後、たいがいは殺される紙帳の中へはいり、殺人鬼のような当人の左門と向かい合っているのであるから。それだのに、その栞が、「怖がらなくともよい」と云う。「ふうん」と、左門としては呆れ返らざるを得なかった。
 しばらく顔を見詰め合っている二人を、紙帳は、昼の陽光《ひ》を浴びて、琥珀《こはく》色に、明るく、蔽うていた。時々、横腹が蠕動《ぜんどう》し、ウネウネと皺《しわ》を作ったり、フワリと膨れたりするのは、春風が、外から吹き当たるからで、そのつど、例の、血汐で描かれた巨大な蜘蛛が、数多い脚を動かした。
「まあ」と栞は、驚きの声をあげた。「あなた様は、先夜、妾の家へお泊まりくださいました、五味左門様では?」
「さよう左門でござる。……その際は、お騒がせいたしましたな」
 と、左門は、削《こ》けた、蒼白い頬へ皺を畳み煤色《すすいろ》の唇を幽《かす》かにほころばせて微笑した。
(殺人者の左門と知ったら、怖がることであろうぞ)と思ったからである。
 事実、栞は、その武士が、自分の屋敷で人を殺した、五味左門だと知ると、慄然とした。
(どうしよう?)
 しかし、次の瞬間には、
(妾は、この人に悪いことをしていないのだから、殺される気遣いはない)と、初心《うぶ》の娘らしい心から、そう思った。
 それに、自分の寝言に驚いて、紙帳の隅へケシ飛んで行った左門の様子が、いかにも笑止だったので、(この人、それほど悪い人でないに相違ない)
 と、思った。
 栞と左門とは、しばらく見詰め合っていた。
「一人のお侍様をお殺しになり、もう一人のお侍様の足を斬り落としなさいましたのね。……でも、よくよくのことがなければ、あのような惨酷《むごたらし》いことは……」
 と、ややあってから栞は考え深そうな様子で云った。
「きっとあの方達、あなた様に、よくよく悪いことを……」
「そうでもござらぬ」
「いいえ、きっとそうだと存じますわ。でも、あなた様というお方、気の弱い、臆病なお方でございますものねえ」

    馬鹿のような無邪気さ

「ナニ、気が弱くて臆病?」
 左門は、また呆れた。
「ええ、そうでございますわ。それに、謹み深い、丁寧な、善良《いい》お方でございますわ」
「…………」
「女の子の寝言に吃驚《びっく》りなすって、紙帳の隅へケシ飛んで行ったまま、お行儀よく、膝にお手を置いて、かしこまっておいでになるのですものねえ」
 云われて、左門は、自分を見廻して見た。なるほど、痩せた肩を聳《そびや》かし、両手をお行儀よく膝の上へ置き、膝をちんまりと揃えて坐っていた。叱られた子供が、姉さんの小言を、かしこまって聞いている格好であった。左門は苦笑した。しかし左門としては、何も栞に遠慮して、そんな態度をとったのではなく、突然の栞の声に驚き、飛び退がった時にそういう姿勢をとり、それをこの時まで持ち続けて来たまでであった。
(それにしてもこの娘は、何んと朗らかで、無邪気なのであろう)
 左門は、体を寛《くつろ》げた。
(いい気持ちだ)
 左門は、心が豊かになり、和《なご》やかになるのを感じた。
「第一、このお家、妾のものでなく、あなた様のものでございますわ。あなた様がご主人様で、妾はお客様でございますわ。そのご主人様が、遠慮するということございませんわ」
 と栞は云って、膝の上で、長い袖を弄《もてあそ》んだ。紅色の勝った、友禅模様の袖は、いろいろの落花の積み重ねのように見え、それを弄んでいる娘の、白い、細い、柔らかい指は、その花の積み重ねを、出たりはいったりする、蚕かのように見えた。
「家とは?」
「紙帳のことですの」
「ははあ」
 と云ったが、左門は、(いいことを云ってくれた)と思った。(紙帳こそ、俺の家であり巣なのだからなあ)
 また左門はいい気持ちになった。そこで膝を崩し、手を懐中《ふところ》へ入れ、ノンビリとした姿勢となった。
「紙帳といえば、妾がお釣りしたのでございますの」
 栞は云いつづけた。
「妾、林を散歩して、ここまで参りましたところ、紙帳が落ちていたではございませんか……最初は、本当は、気味悪かったのでございますのよ。……でも、見ているうちに、釣りたくなりましたので、釣りましたところ、今度は、はいってみたくなりました。……はいりましたところ眠くなりました。そこで妾、眠ったのでございますわ……」
「ははあ」と左門は云ったが、さては紙帳は、あの夜、お浦によって、武蔵屋の庭から外へ運び出され、それから、何かの理由で――風にでも吹かれ、ないしは、お浦自身ここまで持って来て、棄てて立ち去ったのかもしれないと思った。
(どっちみち紙帳を、ここで取り戻すことが出来たのは幸福だった)
 二人はしばらく黙っていた。
 ふと、上の方で、ひそかな物音がした。
 栞は、顔を上向けた。紙帳の天井に、楓の葉のような影が二個映ってい、それが、ひそかな音を立てて、あちこちへ移動《うつ》っていた。小鳥の脚の影らしい。また二個数が増した。もう一羽、紙帳へ停まったらしい。四個《よっつ》の小鳥の脚の影は、やがて紛合《もつれあ》った。戯れているらしい。と、二個ずつ離れ、つづいて、意外に高い、でも優しい啼き声が響いて来た。
「テッポ、シチニオイテ、イツツブ、ニシュ」
 と、その声は聞こえた。
 とたんに、四個の脚の影は消えた。飛び去ったらしい。しかしやや離れたところから、同じ啼き声が聞こえて来た。
「頬白《ほおじろ》でございますわね」
 と栞は云って、眼を細め、左門の顔を見た。
「何んといって啼いたかご存知?」
「さあ」
「『鉄砲質に置いて、五粒二朱』――と、啼いたのですわ」
「ははあ」
「猟にあぶれた[#「あぶれた」に傍点]猟師《かりゅうど》が、鉄砲をかついで、山道を帰って来る時、高い木の梢で、ああ啼かれますと、猟師は憤《おこ》れて来るそうでございます」
「ふ、ふ」
 と、左門は、思わず、含み笑いをした。
「その筈でございますわ」と栞は云いつづけた。
「そのように不景気では、今に、鉄砲を質に置いて、五粒二朱借りるようになるぞよ、などと頬白にひやかされては、猟師としては、憤れて来ますわね」
「憤れますとも」
「でも、頬白は、普通、『一筆啓上仕る』と啼くのだそうでございます」
「物の啼き声は、聞きようによって、いろいろに取れますわい」

    愛すればこそ

「蛙が何んといって啼くかご存知?」
「さあ」
「久太という小博徒《こばくちうち》が、勝負に負けて、裸体にむかれて、野良路を帰って来ると、その前を、郷方見廻りの立派なお侍さんが二人、歩いて行かれましたそうで。……すると、田圃の中から、蛙が啼きかけましたそうで。……何んといって啼いたかご存知?」
「知るわけがござらぬ」
「『あんた方お歴々、あんた方お歴々』と啼いたそうでございます」
「そうも聞こえますなあ」
「久太が通ると、また、蛙は啼きかけたそうですが、何んといって啼いたかご存知?」
「知るわけはござらぬ」
「『裸体でオホホ』と啼いたそうでございます」
「なるほど、そうも聞きとれますなあ」
「久太は怒って、蛙を捕えて、地べたへ叩きつけましたそうで。……何んといって蛙が啼いて死んだかご存知?」
「知るわけはござらぬよ」
「『久太アー』と啼いて死んだそうでございます」
「あッはッはッ」と左門は、爆笑した。「『キューター』……あッはッはッ」
 爆笑してから、ハッと気がついた。
(俺は幾年ぶりで、気持ちよく、腹の底から、何んの蟠《わだかま》りもなく、笑っただろう?)
 そうして、彼の気持ちは、快く爆笑させてくれた栞に対して、感謝しなければならないようなものになっていた。
(妾、どうして今日は、こう何んでも、気安く思うことが云えるのだろう?)
 と、栞は栞で、自分ながらその事が、不思議なような気がした。(やはり、お父様のご病気がお癒りになったからだわ。……そうして、頼母様が、今日あたり、帰っておいでになるからだわ)
 ――それに相違なかった。それだから、心が喜悦に充ちてい、何んでも云え、何んでも受け入れることが出来、何んでもよい方へ解釈することが出来るのであった。
 また二人は、しばらく沈黙して、向かい合っていた。
 左門は、いつか、肘を枕にして横になった。
 蕾を持った春蘭が、顔の前に生えていて、葉の隙から栞の姿が、簾越《すだれご》しの女のように見えていた。栞は、顔を上向け、また、何か想いにふけっているようであった。華やかな半襟の合わさり目から、白い滑かな咽喉が覗き、その上に、ふくよかな円い顔が載っていて、咽喉の形が、象牙の撥《ばち》のように見えているのも、初々《ういうい》しかった。
 栞は笑った。頼母のことを思っての、「想い出し笑い」であった。
「栞殿」と、左門は、相手の心を探るように云った。
「そなた、誰かと恋し合っておられますな」
「ま、……どうして……」
 しかし栞の耳朶は紅を注した。
「様子でわかりまする」
「…………」
「あまりに浮き浮きとしておられる。あまりに幸福そうじゃ。……若い娘ごが、そのように成られること、恋以外にはござらぬ」
「…………」
「栞殿のような、美しい、賢い、無邪気な娘ごに恋される男、何者やら、果報者でござるよ」
「…………」
「相手の殿ごも、栞殿を愛しておられますかな?」

    讐敵紙帳の内外

「それはもう……」と、栞は思わず云って、また顔を染めた。
「その殿ご、心変りせねばよいが」
「なんの……決して……そのようなこと!」
「競争者でも出来て……」
「競争者でも……」
 と、栞の顔へ、はじめて不安の影が射した。
「さよう、競争者でも出来ましたら、男の心など、変るもので」
「いいえいいえ、そんなことがありますものか! ……でも、もしや、そんなことにでもなったら……死にまする! 妾は死にまする!」
「こう云っているうちにも、阿婆擦《あばず》れた女などが、そなたの恋人――いずれ、しおらしい、初心の栞殿の恋人ゆえ、同じ初心のしおらしい殿ごでござろうが、その殿ごへ、まとい付いて……」
 栞の顔色は次第に変り、眼が、地面の一所へ据えられた。
 その様子を見ると左門は、本来なれば、性来の悪魔性が――嗜虐《しぎゃく》性が、ムクムクと胸へ込み上げて来、この純情の処女《おとめ》の心を、嫉妬と猜疑《さいぎ》とで、穢してやろうという祈願《ねがい》に駆り立てられるのであったが、今は反対で、
(気の毒な! こんな純情の処女の心を苦しめてはいけない)と思った。そこで快活に笑い、
「いやいや栞殿、心配はご無用になされ、純情の殿ごなりや、どのような性悪る女であろうと、誘惑の手延ばされぬものでござる。……それにしても、栞殿のような娘ごに、そのようにまで想われる男、果報者の代表、うらやましい次第、何んという名のお方でござるかな?」
「はい、そのお方の名は……」
 栞が云いかけた時、紙帳の外から、
「やア、ここに紙帳が釣ってあるわ! ……やア、左門めの紙帳じゃ!」
 という声が聞こえた。
 頼母の声であった。
「左門!」と、その声は叫んだ。「我は伊東頼母、先夜は府中武蔵屋で、むざむざ取り逃がしたが、再度ここで巡り合ったは天の祐《たす》け! 父親の敵、今度こそは遁《の》がしはせぬ! 出て来て勝負を致せ!」
「頼母様アーッ」
 と、その声を聞いて、まず呼ばわったのは、栞であった。
「頼母様アーッ、妾、栞でござりまする! ……今日あたりお帰りくださりましょうかと、心待ちに待っておりましたところ! おお、やっぱりお帰りくだされましたか! ……それにいたしても変った所で! 頼母様アーッ」
 と、栞は、叫び叫び、紙帳の裾をかかげ、外へ出ようとした。しかし、その栞は、背後から、左門の手によって引き戻された。
「伊東頼母氏か。……紙帳の中におる者は、いかにも五味左門、貴殿父上の敵じゃ! ……が、頼母殿、紙帳の中には、もう一人|人《ひと》がいる! 飯塚薪左衛門殿の娘栞殿じゃ! ……いや、驚き申したわ。栞殿に恋人のあること、たった今、この帳中で、栞殿より承ってござるが、その恋人が、貴殿、頼母殿であろうとは!」
 左門は、そう云い云い、刀の柄を右手で掴んだが、一振りすると鞘を飛ばせ、蒼光る刀身を、頼母のいると覚しい方へ差し付けた。
「悪縁といえば、よくよくの悪縁でござるよの」と左門は、辛辣な声で云いつづけた。
「貴殿のお父上を討ち取ったばかりか、武蔵屋では、貴殿の恋人、博徒五郎蔵の女お浦という者を、拙者この帳中で。……しかるに、同じこの紙帳の中で、貴殿第二の恋人、栞殿を。……重なる怨みとはこの事! フッフッ、これでは貴殿、拙者を見遁がすことなりますまいよ!」

    悲痛の頼母

「頼母様アーッ」
 と栞は、左門の手から遁がれよう遁がれようと身悶えしながら、必死となって叫んだ。
「左門様が、あなた様のお父様の敵などとは夢にも知らず、先刻《さきほど》から、紙帳の中で、物語りいたしましたは真実ではござりまするが、何んの貞操《みさお》を!」
「それは真実じゃ!」
 と、左門は、意外に真面目の声で云った。
「栞殿は、純潔じゃ。……それから……」と云ったが、云い止めた。
 しかし、やがて決心したように、誠実のこもった声で、
「先夜、武蔵屋で、お浦と申す女子を手に入れたよう申したが、これも嘘じゃ! ……拙者に関する限り、お浦という女は純潔じゃ! ……本来、拙者は女嫌いでな。いわば女性嫌忌性なのじゃ!」
(それにしても)
 と、左門は、自分で自分を疑った。
(どうして、こう、俺は素直な気持ちになったのであろう。……先夜は、頼母めを苦しめようために、手を触れさえしなかったお浦という女を、手に入れたなどと偽《いつ》わり云ったのに。……いまに至ってそれを取り消すとは)
 ――左門には、その理由がわからなかったが、しかし、その理由は、栞というような、本当に無邪気な、純な処女と、罪のない、子供同士のような話をし、腹の底から笑ったことが影響し、彼の心が、人間本来の「善」に帰ったからであるかもしれない。
「動くか、頼母!」
 しかし、突然、左門は一喝し、グルリと体を廻し、紙帳の、側面の方へ向き、刀を差し付けた。
「紙帳の内と外、見えぬと思うと間違うぞよ。……紙帳の中にいる左門こそ、不動智の位置にいる者じゃ。左へも右へも、前へも後へも、十方八方へ心動きながら、一所へは、瞬時も止まり居坐らぬ心の持ち主じゃ。眼光《め》は、紙背に徹するぞよ! ……嘘と思わば証拠を挙げようぞ。……汝、今、紙帳より一間の距離《へだたり》を持ち、正面より側面へ移ったであろうがな。……現在《いま》は同じく一間の距離を持ち、紙帳の側面、中央《なかば》の位置に立ち、刀を中段に構え、狙いすましておろうがな。……動くか!」
 と、またも大喝し、左門は、グッと左へ体を向け、紙帳の背面へ刀を差し付けた。
 紙帳は、二人を蔽うて、天蓋のように、深く、静かに、柔らかく垂れていた。縦縞のように、時々襞が出来るのは、風が吹きあたるからであろう。
 ここは紙帳の外である。――
 頼母は、刀を中段に構え、紙帳から一間の距離を保ち、紙帳を睨《にら》んで突っ立っていた。全身汗を掻き、顔色蒼褪め、眼は血走っていた。お浦と典膳とを戸板に載せ、五郎蔵の乾児二人に担がせ、ここまで走って来た頼母であった。見れば、林の空地に、見覚えのある、五味左門の紙帳が釣ってあった。驚き喜び、宣りかけたところ、意外も意外、恋人栞が、その中にいて、声を掛けたとは! ……それが、殺人鬼のような左門の手中にあって、身うごきが出来ずにいるとは!
 これだけでも頼母は、逆上せざるを得なかった。その上、剣技にかけては、段違いに優れた左門によって、紙帳の中から、嘲弄されたのである。頼母は文字通り逆上した。
(父の敵の左門、討たいで置こうか! 恋人の栞、助けないで置かれようか!)
 思うばかりで、体はほとんど自由を欠いていた。眼前の紙帳が、鉄壁のように彼には思われた。鉄壁を貫いて、今にも、左門の剣が、閃めき出るように思われた。腕が強《こわ》ばり、呼吸がはずみ、足の筋が釣った。それでも、彼は、隙を狙うべく、紙帳を巡った。帳中の左門によって、見抜かれてしまった。
 手も足も出ないではないか。
 常磐木と花木と落葉樹との林が立っている。鳥が翔《か》け過ぎ、兎が根もとを走り、野鼠が切り株の頂きに蹲居《うずくま》り、木洩れ陽が地面に虎斑を作っている。
 そういう世界を背後に負い、血痕斑々たる紙帳を前にして、頼母は、石像のように立っていた。差し付けた刀の切っ先を巡って、産まれたばかりらしい蛾が、飛んでいる。
 と、その時、
「頼母様アーッ」
 と呼ぶ、凄愴の声が聞こえて来た。
 頼母のいる位置から、十数間離れた、胡頽子《ぐみ》と野茨との叢《くさむら》の横に、戸板が置いてあり、そこから、お浦が、獣のように這いながら、頼母の方へ、近づきつつあった。頼母様アーッと呼んだのは、お浦であった。彼女の眼に見えているものは、紙帳であり、彼女の耳に聞こえたものは、頼母と左門との声であった。武蔵屋の紙帳の中で、二度まで気絶させられた怨みある左門が紙帳の中にいる! その左門は、自分にとっては、救世主とも思われる頼母様の親の敵だという! おのれヤレ左門、怨みを晴らさで置こうか! 懐かしい頼母様! お助けしないでおられようか! ……一人には怨みを晴らし、一人には誠心《まごころ》を捧げてと、息絶え絶えながら、彼女は、紙帳の方へ這って行くのであった。

    殺気林に充つ

 お浦は、獣のように這って進んだが、渋江典膳は、よろめいたり、膝を突いたり、立ち木に縋ったりしながらも、さすがに立って、この時、道了塚の方へ歩いていた。
 そう、彼は、ここまで運ばれて来て、ここが、道了塚附近の林であることを知るや、
(この負傷《いたで》では、どうせ命はない。では、せめて、数々の思い出と、数々の罪悪とを残している道了塚で、息を引き取ろう。……東十郎への罪滅しにもなれば、懺悔《ざんげ》にもなる)
 とこう思って、そっちへ歩きだしたのであった。
 歩くにつれて、足からも手からも血がしたたった。
 しかし彼が道了塚まで辿《たど》りついたなら、南無妙法蓮華経と刻《ほ》られた碑《いしぶみ》にもたれ、天国の剣を放心したように握り、眼を閉じ、首を傾げ、昔の記憶を蘇生《よみがえ》らせようと、じっと思いに耽っている、飯塚薪左衛門の姿を、見かけなければならないだろう。
 そう、薪左衛門は、そういう姿勢で、この頃、道了塚の頂きに坐っていた。
 彼の顔には苦悶の表情があり、彼の体は不安に戦《おのの》いていた。白髪には陽があたり、銀のように輝いていたが、その頭は、高く上がりそうもなかった。
 人間の思考の中に、盲点というものがある。その盲点の圏内にはいった記憶は、奇蹟的事件にぶつからない限り、思い出されないということである。何故薪左衛門が、来栖勘兵衛と、この道了塚で決闘したか、その理由の解らないのも、その盲点に引っかかっているからであるらしい。
 そうして、さっき聞こえて来た、塚の下からの悲しい叫び声、
「秘密は剖《あば》かない、裏切りはしない、助けてくれーッ」
 という声の主の何者であるか? 何んでそう叫ぶのか? それらのことの解らないのも、盲点の圏内に、その記憶が引っかかっているかららしい。
 ところで……広々と展開《ひら》けている耕地を海とし、立ち連なっている林を陸とすれば、道了塚は、陸に近い、小島と云ってよく、その小島にあって、陸の林の一方を眺めたなら、林の縁を、人家の方へ一散に走って行く、二人の人影を見たであろう。戸板を舁き捨て、素早く逃げ出した五郎蔵の二人の乾児《こぶん》であった。二人の走って行く様は、檻《おり》から解放された獣かのように軽快であった。
 と、その二人の走って行く方角の、十数町の彼方《あなた》から、此方《こなた》を目差し、二十人ほどの一団が、林へ駆け込んだり、耕地へ出たりして、走って来るのが見えた。
 松戸の五郎蔵と、その乾児たちであった。
 五郎蔵の左右に従《つ》いているのは、角右衛門と紋太郎とで、この二人の注進により、五郎蔵は、頼母によって、自分の乾児たちが殺されたことを知り、復讐のために乾児を率い、農家の納屋へ馳せつけた。乾児たちの死骸が転がっているばかりで、頼母の姿も、お浦、典膳の姿も見えなかった。母屋の門口で、種を選《え》り分《わ》けていた老婆に訊《き》くと、戸板を担《にな》った三人の者が、林の中へ駆け込んだと云う。
(頼母が、お浦と典膳とを戸板に載せ、生き残った俺の乾児に担《かつ》がせ、逃げたのだ)
 と、五郎蔵は察した。怒りと、嫉妬とが彼を狂気のようにした。
「どこまでも追っかけ、探し出し、頼母、典膳、お浦、三人ながら叩っ殺せ!」
 こうして一団は林へ駆け込み、こっちへ走って来るのであった。乾児の中には、竹槍を持っている者もあった。もう性急に脇差しを抜いて、担いでいる者もあった。武士あがりの、逞《たく》ましい顔の五郎蔵は、額からも頤からも汗をしたたらせ、火のような息をしながら、先頭に立って走っていた。
 殺気は次第に道了塚と、その附近の林とに迫りつつあった。
 それだのに、紙帳の中の、何んと、今は静かなことだろう! 左門の声も栞の声も聞こえず、咳《しわぶき》一つしなかった。
 頼母は、そういう気味悪い沈黙の紙帳を前にして、石像のように立ち尽くしていた。構えている刀の切っ先が顫えているのは、彼の心が焦慮している証拠であった。
(何故|沈黙《だま》っているのだろう? 何が行われているのだろう? ……栞はどうしているのだ? ……いや栞は何をされているのだろう?)
 恋人の栞が、殺人鬼のような左門と、紙帳の中にいる。二人ながら黙っている。何をされているのだ? もしや咽喉でも絞められて? ……
 これを思うと頼母の腸《はらわた》は掻き※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《むし》られるようであった。

    必死のお浦

 この時、遙かの林の奥から、喊声が聞こえて来た。五郎蔵たちの一団と、戸板を置き捨て、逃げて行った二人の乾児とが邂逅《めぐりあ》い、二人の乾児によって、頼母と、お浦と、典膳との居場所を知った五郎蔵たちの揚げた声であった。
「逃がすな!」「もう一息だ!」
 二十数人の一団は、藪を廻り、木立ちを巡り、枯れ草を蹴開き、無二無三に走った。
「いたぞーッ」
 という叫びをあげたのは、先頭切っていた五郎蔵であった。
「左門などには眼をくれるな! 頼母とお浦と典膳とを仕止めろ!」
 こう五郎蔵が叫んだ時には、長脇差しを抜いていた。
 悪罵と怒号とが林を揺すり、乾児たちの抜いた、二十数本の脇差しが、湾に寄せた怒濤が、高く上げた飛沫《しぶき》のように白光った。そう、五郎蔵たちの一団は、紙帳を背後にし、この時ようやく這い寄り、足へ縋り付いたお浦を、縋らせたまま、蒼白の顔色をし、刀を構えて立った頼母を、引っ包んで討ち取ろうと、湾のように左右に開き、立ち向かったのであった。
「頼母様アーッ」とお浦は叫んだ。「妾ゆえに、お気の毒なこの憂き目! ……想われたあなた様の因果! さぞ妾が憎いでございましょう! ……一思いにその刀で、妾をお殺しくださりませ! ……あなた様に殺されましたら、本望の本望! 頼母様アーッ」
 頼母は切歯し、
「この場に臨んで、何を繰り言! 放せ足を! ……一大事の場合、邪魔いたすな!」
 足を上げて蹴り、蹴られて、紙帳の裾に転《まろ》び寄ったお浦を、帳中から手が出て、引き入れた。
 瞬間、白刃が、十数本、頼母に降りかかった。
 それを頼母は、左右前後に、切り、防ぎ、そうして退き、ジリジリと退き、松の木の幹に背中をもたせ刀を構え、大息を吐き、八方へ眼をくばり、
(俺は、これから、どうなるのだ?)
 と思った。
 この頼母の心境《こころ》は、地獄さながらであったが、帳中へ引き入れられたお浦の心境も、地獄さながらであった。
 ――ここは紙帳の中である。
 お浦は、左門へ、むしゃぶりつこうとしていた。
「汝《おのれ》、左門ンーン」
 それは、血を吐くようなお浦の声であった。
「汝のために、武蔵屋で、紙帳の中へ引き入れられ、気絶させられ、悩乱させられたばかりに、頼母様に差し上げようと思った天国様を川へおとし、そればかりか、五郎蔵に捕えられ、『俺を裏切り、頼母へ心中立てした憎い女! 嬲り殺しにしてくれる』と、昨日まで府中で責め折檻《せっかん》、今日はいよいよ息の根とめると、百姓家の納屋へ戸板でかつぎこまれ、……そこを嬉しや、頼母様に助けられ、ここまでは連れられ遁がれては来たが……汝、左門ンーン……汝とは何んの怨みもないこの身、部屋を取り違えたが粗忽《そこつ》といえば粗忽……そのような粗忽、いましめて、放してさえくだされたら、何んの間違いもなかったものを! ……汝の悪逆の所業から、それからそれと禍いを産み、頼母様を五郎蔵に怨ませ、アレアレあのように紙帳の外では、五郎蔵めに頼母様が! ……」
 胸はあらわ、髪は崩れ、頸には、折檻された痕の青あざがある。――そういうお浦が、怨みと怒りで血走った眼を据え、食い入るように、下から、左門を睨み、地を這い、じりじりと進み、武者振りつこうとしているのであった。

    純情の二人の女

 左門は、右手に、抜いた関ノ孫六の刀を握り、それを、お浦へ差し付け、左手では、紙帳の裾をかかげ遁がれ出ようとする栞の帯を掴んでいた。
「お浦、事情を聞けばまことに気の毒、さぞ左門が憎いであろうぞ! が、今は甲斐ない繰り言! 過ぎ去った事じゃ! ……」
 と云ったが、抜き身を地へ置くと、その手を頤の下へ支《か》い、眉根へ寄せたがために、藪睨みのようになって見える瞳《め》で、つくづくとお浦の顔を見詰め、
「以前《これまで》の拙者なりゃ、その方より紙帳へ近附いたからには憂き目を見たは自業自得と、突っ放すなれど、現在《いま》の拙者の心境《こころ》ではそれは出来ぬ。気の毒に思うぞ! 詫び申すぞ! ……さりながら一切は過ぎ去ったこと、繰り返しても甲斐はない! ……今後は贖罪《とくざい》あるばかりじゃ! ……お浦、そちのその重傷《おもで》では、生命取り止むること覚束《おぼつか》ないかもしれぬ。そこで云う、今生《こんじょう》唯一の希望《のぞみ》を申せ! ……左門、身に代えて叶えてとらせる!」
「希望※[#感嘆符疑問符、1-8-78] ……唯一の、今生の希望※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
 と、お浦は、すでに天眼になりはじめた瞳、小鼻がにわかに落ちて、細く険しくなった鼻、刳《えぐ》られたように痩せ落ちた顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》や頬、そういう輪廓を、黒い焔のような乱髪で縁取《ふちど》り、さながら、般若《はんにゃ》の能面《おもて》を、黒ビロードで額縁したような顔を、ヒタと左門へ差し向けたが、
「おおそれなら、頼母様のお命を! オ、お助けくださりませ! ……五郎蔵の乾児大勢に、ああ取り囲まれましては、所詮助からぬあのお方のお命! ……お助けくださらば海山のご恩! ……あなた様への怨みも消えまする! ……左門様アーッ」
「左門様アーッ」
 と、するとこの時、もがいて、ようやく、左門の手から遁がれた栞が叫んだ。
「妾からもお願いいたしまする! ……頼母様のお命お助けくださりませ! ……、聞けば頼母様、五郎蔵一味大勢の者に取り囲まれ、ご危難とか! ……おおおお、あの物音が、頼母様討とうの物音とか! ……掛け代えのない大切の頼母様、オ、お助けくださりませーッ」
 乱れた衣裳、髻《もとどり》千切れた髪、蒼白な顔、嵐に揉まれる牡丹桜とでも云おうか、友禅の小袖の袖口からは、緋の襲着《したぎ》がこぼれ、半分《なかば》解けた帯の間からは、身悶えするごとに、鴇色《ときいろ》の帯揚げがはみ出し、髪へ掛けた鹿の子の布が、蝋細工のような耳朶のあたりで揺れている態《さま》など、傷ましく哀れではあったが、尚美しさ艶かしさを失わない女の姿であった。
「ナニ、掛け代えのない大切の頼母様?」
 と、お浦は、はじめて栞へ眼をつけたが、
「汝《わりゃ》ア何者? ……見ればまだ小娘! ……それなのに、妾の、頼母様のことを! ……」
 気も遠々に、次第に地面へ伏し沈もうとする体を、またも猛然と揺り起こし、しかし、立ち上がる気力はなく両手を地に突き、栞の方へお浦は這い寄るのであった。
「さては汝《おのれ》は、頼母様に、横恋慕をしてこのお浦から……」
 栞も今は一生懸命、胸を反らせ、膝を揃え、膝の上へ両手を重ね、毅然とした態度となったが、
「横恋慕などとは穢らわしい、そなたこそ誰じゃ? そなたこそ横恋慕! ……妾はこの土地の郷士飯塚薪左衛門の娘栞! ……頼母様とは将来《ゆくすえ》を誓約《ちか》った仲! ……邪《よこし》まの恋などではござりませぬ! ……それを横恋慕などと! ……」
「吠《ほざ》くな小娘!」
 と、お浦は、南国に住むという傘蛇《からかさへび》が、敵に襲いかかるように、ユラユラと背延びをし、両手を高く上げたが、
「命取られるまでに折檻《せっかん》され、嬲《なぶ》り殺しにかけられたお浦、それも頼母様のため! これが邪まの恋か! ……おおおお、これが邪まの恋か! ……恋? なんの! 恋なものか! おおおお、恋などという生やさしいものは、妾にとっては、遠い昔の物語! ……真実《まっとう》の人間に復活《かえ》ろうと、久しい間、男嫌いで通して来たものを! ……恋? それも邪まの恋? ……何んの何んの頼母様は、わたしにとっては恋以上のお方! ……救世主《すくいぬし》! ……おおおお、でも、この妾の心! ああやっぱり恋かしら? ……恋なら恋でままよ! その恋ひたむきにとげるまでよ! ……吠《ほざ》いたな小娘! 頼母様とは将来を誓約《ちか》った仲と! ……まことなりや、その仲裂かいで置こうか! ……汝《おのれ》を殺してエーッ」
 と、バッと蔽いかかろうとした。

    紙帳の外は修羅場

 瞬間、白光が、二人の間を裁断《たちき》った。
 地に置いてあった抜き身を取り上げ、左門が二人の間へ突き出したのであった。
「待て! ……さりながら、純情と純情! ……ハーッ」
 と、太い息をした。
 五郎蔵の贔屓《ひいき》を受けていながら、五郎蔵を裏切り天国の剣を持ち出し、頼母に渡そうとしたこと、邪まの所業《しわざ》には相違なかったが、生命をかけての頼母への執着ぶりから云えば、お浦の想い、純情といわずして何んだろう。
 左門のような人間をして、腹の底から笑わせた栞の無邪気さ! その栞の頼母への恋が、純情であることはいうまでもなかった。
 その純情と純情とが、狭い紙帳の中で、今や噛み合おうとしているのであった。
(俺には扱い兼ねる)
 左門は太い息をしたのである。
「栞殿」
 と、やがて左門は云った。
「拙者、先ほど、阿婆擦《あばず》れた女などが、そなたの恋人へ附きまとうやもしれずと申しましたな。……お浦こそその女子! ……しかし、そなたの、頼母殿を想う念力強ければ、お浦など、折伏《しゃくぶく》すること出来ましょう! ……弱ければ、折伏されるまでよ! ……お浦!」
 と、お浦を、不愍《ふびん》そうに見詰め、
「そちの頼母殿への執着、浅間しいともいえれば不愍ともいえる! ……しかし思え! そちの命は助からぬやもしれぬ。死に際を潔うせよ! ……栞殿へ恋を譲れ! ……そこまでに強い想い、譲るは辛いであろうが、譲れば、かえってそちの煩悩、まず第一に救われるであろうぞ! ……栞殿も救われ、頼母殿ものう。……栞殿は無邪気な処女《おぼこ》、頼母殿を、荒《すさ》んだ仇し女などに取られるより、まだしも栞殿に譲った方がのう。……さりながら、女の世界での出来事は、男の世界からはうかがいしること出来ぬわい! そちたち委《まか》せ! ……おさらばじゃ!」
 刀を引くと立ち上がり、紙帳の側面《かべ》へ身を寄せたが、
「二人ながら安心いたせ! 二人の希望を叶え、拙者、五郎蔵はじめ、五郎蔵の乾児どもを、斬って斬って斬りまくり、頼母殿の命はきっと救う! ……注意《こころ》いたせ!」
 と、左門は訓《いまし》めるように云った。
「二人ながら紙帳を出るな! ……紙帳こそは拙者の家、わが城砦《とりで》、この中にそちたちいる限りは、拙者身をもって護ってとらせる! 出たが最後、拙者|関係《かかわ》らぬぞ!」
 幾多の悲劇を経験した紙帳は、またも悲劇を見るのかというように、尚睨み合っている二人の女と、今や紙帳の裾に蹲居《うずくま》り、刀を例の逆ノ脇に構え、斬って出《い》ずべき機会を窺い、戸外《そと》の物音を聞きすましている左門とを蔽うていた。頼母によって斬られた五郎蔵の乾児たちの血が、新しくかかって、古い血の痕の上を、そうして左右を、新規に深紅に染め、それが、線を為《な》し、筋を為し、円を描き、方形を形成《かたちづく》り、流れ凝《こご》り、紙帳の面貌《おもて》は、いよいよ怪異を現わして来た。
 が、紙帳の外は?
 ここ紙帳の外は、修羅闘争の巷であった。
 頼母は既に紙帳の側から離れ、ふたたび立ち木の幹へ背をあて、群がり寄せ、斬りかかろう斬りかかろうとする五郎蔵の乾児たちを睨み、自分もいつか受けた数ヵ所の負傷《きず》で、――斬った敵方の返り血で、全身|朱《あけ》に染まり、次第に迫る息を調え、だんだん衰える気力を励まし励まし、……
 そういう頼母の眼に見えているのは、正面乾児たちの群の中に立ち、彼を睨んでいる松戸の五郎蔵の姿であった。
 憎悪《にくしみ》に充ちた五郎蔵の眼がグッと据わり、厚い唇が開いたと見てとれた瞬間、怒号する声が聞こえて来た。
「憎いは頼母、親の敵に邂逅《めぐりあ》ったという、義によって助太刀してやったところ、恩を仇に、お浦めをそそのかし、天国の剣を持ち出させたとは何事! 息の根止めずに置かれようか! やア乾児ら、うろうろいたさず、頼母めを討ってとれ! ……おおおお、お浦め、紙帳の中へ引き入れられたまま、いまだに出ぬぞ! ……紙帳の中には左門がいる筈、その左門め、武蔵屋でも、同じ紙帳の中へ、お浦めを引き入れて……許されぬ左門! やア乾児ら、左門めを討ってとれ! ……典膳めの姿が見えぬぞ! 典膳めはどうした? ……俺の過去などと申して、あることないことを云い触らす痩せ浪人! 生かしては置けぬ!」
 喚きちらし、地団駄を踏む五郎蔵の心境《こころ》も、苦しいものに相違なさそうであった。
「やあ汝ら手分けして典膳を探し出せ!」
 声に応じて数人の乾児が、木立ちを潜って走って行く姿が見えた。
「やア松五郎!」と怒鳴る五郎蔵の声がまた響いた。「紙帳を窺え! 紙帳の中を!」
 外光の中で見る紙帳の気味悪さ!

    左門の任侠

 今は中からは人声は聞こえず、周囲《まわり》の、叫喚《さけびごえ》、怒号《どなりごえ》、剣戟《けんげき》の響きを嘲笑うかのように、この、多量に人間の血を浴びた長方形の物像《もののかたち》は、木立ちと木立ちとの間に手を拡げ、弛んだ裾で足を隠し、静かに立っている。吸っても吸っても血に飽かないこの怪物は、これまでも随分血を吸ったが、今日こそはそれにも増して、充分に吸うぞというかのように、静かな中にも胴顫いをさせている。そう、微風につれて、ゆるやかな弛みを作ったり、幽かな襞《ひだ》を作ったりしているのであった。裾の一所に、背を光らせた蜥蜴《とかげ》がいて、這い上がろうとし、短い足で紙帳を掻いているのも、魔物めいていて不気味であった。
 と、その紙帳目掛け、松五郎なのであろう、一人の乾児が、抜き身を引っさげたまま、仲間の群から駈け抜け、走り寄るのが見えた。が、その体が紙帳へ寄り添ったと見えた瞬間、悲鳴が起こり、丸太のようなものが一間ばかり飛び、足を股から斬り取られた松五郎が、鼠|煙火《はなび》のように地上をぶん廻り、切り口から、龍吐水《りゅうどすい》から迸《ほとばし》る水のように、血が迸り、紙帳へかかるのが見えた。
 すぐに紙帳の裾がパックリと口を開け、そこから身を斜めにし、刀を袖の下にした、痩せた長身の左門が、ソロリと潜《くぐ》り出て来た。
「出たーッ」
 と、五郎蔵は、自分が襲われたかのように叫んだ。
 左門は紙帳を背後にし、頬の削《こ》けた蒼白い顔を、漲る春の真昼陽に晒らして立ち、少しまぶしそうに眼をしばたたいた。
「出た! 本当に出た! 左門が!」
 立ち木に背をもたせ、五郎蔵とその乾児たちとを睨んでいた頼母も、紙帳を出た左門を認め、声に出して叫んだ。悪寒が身内を氷のように走った。
(絶体絶命! ……俺はここで討たれるのか!)
 大勢の五郎蔵の乾児たちを相手に斬り合うだけでさえ、今は手に余っていた。そこへ、いよいよ、自分より段違いに腕の勝れた左門が現われ出たのであった。勝ち目はなかった。
(残念! 返り討ちに逢うのか! ……栞殿を眼の前に置きながら、返り討ちに!)
 眩《くら》みかかった彼の眼の、その眼界を素走って、五郎蔵の乾児数人が、左門へ襲いかかって行くのが見えた。と、その乾児たちを無視したように、左門の豹のような眼が、頼母の方へ注がれたが、
「頼母氏!」
 という声が聞こえて来た。
「紙帳の中の二人の女子――栞殿とお浦との純情に酬いるため、二人の希望《のぞみ》を入れ、拙者、貴殿へ助太刀つかまつるぞ。……ただし、拙者と貴殿とは讐敵《かたき》同士、恩に着るに及ばぬ、恩にも着せ申さぬ! ……五郎蔵!」
 と左門の眼が五郎蔵の方へ向いた。
「武蔵屋では、よくも拙者に手向かいいたしたな! 今日は返礼! 充分に斬るぞ!」
「黙れ、犬侍!」
 五郎蔵は躍り上がり躍り上がり、
「想いを懸けた俺の女を! ……それを汝《おのれ》、よくもよくも! ……汝こそ犬じゃ! ……やア野郎ども犬侍を叩っ殺せ!」
 声に応じ、竹槍を持った乾児が、左門眼がけて走り寄ったのが見えた。と、左門の姿が無造作に一方に開き、竹槍の柄を掴んだ。と思う間もなく、槍を掴まれた乾児が、よろめいて前へ出たところを、脇下から肩まで払い上げた。
「野郎ども一度にかかれ!」
 怒号する五郎蔵の声に駆り立てられ、三人の乾児が左右から斬ってかかった。
「頼母氏見られよ!」
 と、左門の声が響いた。と同時に、一人の乾児の斬り込んで来た脇差しを迎え、それより速く、その脇差しの上へ、自分の刀を重ねるように斬り付け、乾児の眉間を頤まで割り、
「これぞ我が流における『陽重の剣』でござるぞ! ……先ほども紙帳の中より申しましたとおり、貴殿の剣法いまだ未熟、なかなかもって拙者を討つことなりますまい。……されば拙者の剣法を仔細に見究め、拙者を討つ時の参考となされい!」
 と呼ばわり、もう一人の乾児が、味方が討たれたのに怯え、立ち縮《すく》んでいる所へ、真一文字に寄り、肩を胸まで斬り下げ、
「頼母氏、今の斬こそは、我が流における『青眼破り』でござるぞ! 相手、青眼に付けて、動かざる時、我より進んで相手の構えの中へ入り、斬るをもってこの名ござる!」
 と大音に呼ばわった。

    左門の侠骨

 いまだに立ち木に背をもたせ、五郎蔵の乾児たちと立ち向かっていた頼母は、眼に左門の働きを見、耳に左門の声を聞き、茫然とした気持ちにならざるを得なかった。それは悲喜|交※[#二の字点、1-2-22]《こもごも》の感情ともいえれば夢に夢見る心持ちとも云えた。左門が自分の味方として現われ出て来たことは、何んといっても頼母にとっては有難い嬉しいことであった。しかし討たねばならぬ父の敵から助けられるということは、苦痛《くるしみ》であった。とはいえ現在《いま》の場合においては、その苦痛は忍ばなければならなかった。もし五郎蔵一味に自分が殺されたならば、左門を討つことが出来なくなってしまうからである。今は、何を措いても、五郎蔵一味を殲滅《せんめつ》するか追い払うかしなければならなかった。それには左門からの助太刀は絶対に必要のことであった。
 頼母は勇気とみに加わり、今までは守勢の身であったのが、攻勢に出、疾風のように五郎蔵の乾児どもの中へ斬り込んだ。
 胆を奪われた乾児たちが狼狽し、散って逃げた時、
(栞殿は?)
 と、こういう場合にも、危険に曝《さ》らされている恋人のことが心に閃めき、頼母は、逃げた乾児どもを追おうともせず、身を翻えすと一気に、紙帳へ駆け寄り、左門の立っている位置とは反対の、紙帳の裏側に立ち、紙帳を背にし、もう追い縋って来た五郎蔵の乾児六、七人を前にし、構え込んだ。
 五郎蔵の乾児たちは、今は、二派に別れて立ち向かわなければならないことになった。
 十数人の乾児たちは、左門へ向かった。
 と、この時、左門の高く呼ぶ声が聞こえて来た。
「頼母殿、心得てお置きなされ! 敵大勢四方よりかかるとも、一方へ追い廻せば結局は一人でござるぞ! すなわち殿陣《しんがり》の一人が敵でござるわ!」
 この言葉を証拠立てるためらしく、左門は突き進むと、左端の一人を斬り斃し、戻りの太刀でもう一人を斬り斃し、狼狽した乾児たちが紙帳を巡って右手の方へ逃げるのを、隙かさず追い、逃げおくれた一人を、肩から背骨まで斜めに斬り下げ、紙帳の角を廻って尚追った。逃げた乾児どもは、頼母のいる紙帳の裏側まで来、そこに集まっていた七人の仲間とぶつかった。頼母に向かっていたその七人の乾児どもは、逃げて来た十数人の仲間の渦中に捲き込まれ、これも狼狽し後から左門が追って来るとも知らず、これは左手の方へ逃げだしたが、血刀を振り冠った左門の姿を見ると、仰天し、悲鳴を上げ、四方へ散り、紙帳から離れた。その乾児どもを追って、左の方へ走り出した頼母は、パッタリ左門と顔を合わせた。
「左門氏、ご助力、忝けのうござる!」
「黙らっしゃい!」
 と左門は喝した。
「貴殿と拙者とは讐敵同士! 恩には着せぬ、恩にも着たもうな!」
「…………」
 もう二人は別れていた。
 左門に追われて逃げた十数人の五郎蔵の乾児たちは、紙帳の角から少し離れた辺《あた》りで一団となり、左門を迎え撃つ姿勢をととのえた。しかし左門は物の数ともせず、駆け寄ると、以前《まえ》と同じく、左端にいる一人を斬り斃し、返す刀で、もう一人の乾児を斬り伏せ、これに恐怖した乾児どもが、ふたたび逃げ出したのを、紙帳に接近した位置を保ちながら追ったが、ふと、紙帳越しに、頼母の方を見た。頼母は乾児どもに包囲されてい、一人の乾児が背後から竹槍で、今や頼母の背を突こうとしていた。左門はやにわに小柄《こづか》を抜き、投げた。小柄は、紙帳の上を、飛び魚のように閃めき飛んだ。
 頼母は、背後で悲鳴が起こったので、振り返って見た。竹槍を持った男が、咽喉《のど》へ小柄を立て、地面をのたうっている。事情が悟《し》れた。
「左門氏、あぶないところを……お礼申す!」
「貴殿と拙者とは讐敵同士……」
 と左門は、逃げおくれた一人を、背後《うしろ》ざまに斬り仆し、
「恩に着るな、恩にも着せぬと申した筈じゃ!」
「…………」
 この時まで五郎蔵は、乾児たちと離れて立ち、乾児たちの働きを見ていたが、左門と頼母とに、乾児たちが見る間に、次々に斬ってとられるので、怒りと恐怖と屈辱とで躍り上がり、頼母眼掛け駈け寄ろうとしたとたん、
「オ、親分ーン」
 という声が、林の中から聞こえて来、一人の乾児が木《こ》の間《ま》をくぐって走って来た。
「テ、典膳めは、道了塚の方へーッ」
「おおそうかーッ」
 と、五郎蔵は応じたが、
「典膳だけは、俺の手で! ……そうでないと、安心が! ……」
 道了塚の方へ走り出した。

    謎解かれる道了塚

 この頃典膳は、道了塚まで辿りついていた。彼の肉体《からだ》も精神《こころ》も弱り果て、息絶え絶えであった。彼は塚の裾の岩へ縋り付いて呼吸を調えた。彼にとって道了塚は、罪悪の巣であり仕事の拠点であり悲惨惨酷の思い出の形見であった。彼は眼を上げて塚を見上げた。二十年もの年月を経ておりながら、この自然物は昔とほとんど変化《かわり》がなかった。岩は昔ながらの形に畳み上げられてあり、苔も昔ながらの色にむしており、南無妙法蓮華経と彫刻《きざ》まれてある碑も、昔ながらの位置に立っていた。その碑面《おもて》が春陽を受けて、鉛色に光っているのも昔と同じであった。
 彼は懐かしさにしばらく恍惚《うっとり》となり体の苦痛を忘れた。しかし彼は、すぐに、碑に体をもたせかけ、手に抜き身を持った老人が、放心でもしたように、茫然と、塚の頂きに坐っているのを認め、驚き、尚よく見た。
「あッ」と典膳は思わず声を上げた。
 それは、その老人が、昔の頭、――二人あった浪人組の頭の一人の、有賀又兵衛であったからである。
「オ、お頭アーッ」
 と、典膳は悲鳴に似たような声で呼びかけた。
「有賀又兵衛殿オーッ」
 ――有賀又兵衛……現在の名、飯塚薪左衛門は、昔の、浪人組の頭目だった頃の名を呼ばれ、愕然とし、毛を※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《むし》られた鶏のような首を延ばし、声の来た方を見た。
 彼の眼に見えたものは、塚の裾に、塚の岩組から、栓かのように横へはみ出している小岩、それに取り縋っている全身血だらけの武士の姿であった。
「誰じゃ?」
 と云いながら薪左衛門は、立てない足を躄《いざ》らせ、塚の縁の方へ身を進めた。
「渋江典膳にござりまする。……二十年|以前《まえ》浪人組栄えました頃、組の中におりました、渋江典膳にござりまする!」
「渋江典膳? おお渋江典膳! ……存じおる! 存じおるとも! 組中にあっても、有力の人物であった! ……来栖勘兵衛と、特に親しかった筈じゃ」
「さようにござりまする。私は来栖勘兵衛お頭の秘蔵の腹心、伊丹東十郎氏は、有賀又兵衛お頭の無二の腹心として、組中にありましても、重く使用《もち》いられましてござりまする」
「伊丹東十郎? ……おお伊丹東十郎! ……覚えておる覚えておる! わしに一番忠実の男だった。……どうして今日まで思い出さなかったのであろう? ……おおそういえば、さっき聞こえて来たあの声、『秘密は剖かない、裏切りはしない、助けてくれーッ』と云ったあの声は、まさしく伊丹東十郎の声だった。……おお、俺はすっかり思い出したぞ。……あの時、二十年前、甲州の鴨屋方を襲い、莫大もない金銀財宝を強奪し、帰途、五味左衛門方を訪れ、天国の剣を強請《ゆす》り取り、それを最後に組を解散し、持ち余るほどの財を担い、来栖勘兵衛と俺《わし》と、そちと伊丹東十郎とで、この道了塚まで辿って来、いつもの隠匿所《かくしば》へ、財宝を隠匿《かく》したが……」
「その時私は、勘兵衛お頭の依頼により、素早く天国の剣を持ち逃げして、林の中へ隠れましてございます」
「財宝を隠匿《かく》したが、その時突然勘兵衛めは、伊丹東十郎を穴の中へ突き落とし、『此奴《こやつ》さえ殺してしまえば我らの秘密を知る者はない』と申しおった」
「深い穴の底から聞こえて参りましたのが、東十郎の叫ぶ『秘密は剖かない、裏切りはしない、助けてくれーッ』という声でござりました。……林に隠れておりました私の耳へまでも、届きましてござりまする」
「おのれ不埓《ふらち》の勘兵衛、従来《これまで》、奪った財宝を、百姓ばらに担がせて運び、隠匿した際には、秘密を他《よそ》へ洩らさぬため、百姓ばらを、財宝と一緒に、穴の中へ、切り落としたことはあるが、同じ仲間を、穴へ落として生き埋めにするとは不義不仁の至り、直ちに引き上げよと拙者申したところ、突然勘兵衛め、拙者に切り付けおった」
「あなた様が刀を抜かれ、勘兵衛めと立ち合われるお姿が、林にかくれおりました私にも見えましてござります」

    昔の同志、今の讐敵

「ああようやく、私《わし》の記憶は蘇生《よみがえ》って来た。……ああ、これが、道了塚で勘兵衛と決闘した原因だったのだ。……決闘の結果は私の負けだったが」
「あなた様が股を勘兵衛に斬られて倒れられたお姿が、木の間ごしに見えましてございます」
「彼奴《きゃつ》の方が以前《まえ》から私《わし》より強かったのだからなあ。……彼奴は私の倒れるのを見て、林の中へ駈け込んで行った」
「勘兵衛お頭は私めを連れまして立ち去ったのでございます。……それから数日経ちました夜、勘兵衛お頭には私を連れて、ここ道了塚へ参り、穴倉を開き、財宝を取り出し、持ち去りましてござります」
「それだのに彼奴め、過ぐる年、私の所へ参り、財宝と天国の剣とを奪ったのは私であろうと云い懸かりを付けおった」
「それもこれも、勘兵衛めの過去の罪悪を知っておる者、今日日《きょうび》では、あなた様と私とただ二人だけというところから、難癖をつけて、あなた様を討ち取ろうとなされたのでございましょう」
「その私はどうかというに、浪人組を解散して以来、ずっと古屋敷に、隠者のように生活《くら》していた。日課とするところは、道了塚へ行って、我々の罪悪の犠牲になった人々の菩提を葬い、懺悔することだった。……私の心は日に月に陰気になって行ったものだ」
 思い出多い過去の形見を、身に近く持っているということは、多くの場合、その人を憂欝にし、衰弱に導くものである。たとえば、亡妻の黒髪を形見として肌身に附けている良人《ひと》が、いつまでも亡妻の思い出から遁がれることが出来ず、日に日に憂欝になり衰弱して行くように。……薪左衛門が、過去の罪悪の形見の道了塚を附近《ちかく》に持ち、そこへ日参したということは、彼を憂欝にし彼を衰弱させたらしい。
「衰弱している私の所へ、博徒の頭、松戸の五郎蔵と成った勘兵衛が来て、私を威嚇《おど》したのじゃ、典膳よ、恥ずかしながら私《わし》は、その時以来今日まで発狂していてのう」
「又兵衛殿オーッ、私はその勘兵衛のために、嬲り殺しにかけられ、コ、このありさまにござりまする!」
「全身血|達磨《だるま》! どうしたことかと思ったに、勘兵衛めに嬲り殺し※[#感嘆符疑問符、1-8-78] ……どこで? どうして?」
 この時嘲笑うような声が聞こえて来た。

    道了塚の縁起

「嬲り殺しには府中でかけた! 理由《わけ》か? 強請《ゆす》りに来たからよ」
 それは五郎蔵であった。林から抜けて、典膳の後を追って来た五郎蔵であった。年にも似ない逞ましい足をからげた衣裳の裾から現わし、抜き身をひっさげ、典膳の背後に立っていた。
「又兵衛!」と、五郎蔵は、典膳などには眼もくれず、はだかった襟から、胸毛の生えている肉厚の胸を覗かせ、鷲《わし》のような眼をヒタと塚の頂きの薪左衛門へ据え、呼ばわった。
「久しぶりで、妙な所で逢ったのう。……さて、くどい事は云わぬ、ここで逢ったを幸い、始末をする! 典膳と一緒に」
「…………」薪左衛門は、五郎蔵を認めた瞬間顔色を変えた。恐怖で蒼褪めた。しかし、五郎蔵の言葉の終えた頃には、口もとに、皮肉の微笑を漂わせていた。
「又兵衛」と五郎蔵は、相手を呑んでかかった、悠々とした声で云いつづけた。「俺とお主とは、昔は兄弟分、随分、仲もよかった。そうして現在《いま》でも、大して怨恨《うらみ》を持ち合っているという訳でもない。二十年前ここでお主と斬り合ったのも、東十郎を殺す助けるの意見の相違からに過ぎなかった。その後お前の屋敷へ訪ねて行ったのも、実はお主がどのような生活《くらし》をしているか知りたかったまでよ。だからよ、何もここでお主を討ち果たす必要はなさそうだが、だがやっぱり討ち果たさなければいけないなあ。というのはこの男の悪い例があるからよ」と、はじめて典膳の方へ眼をやり、抜き身の峰で、典膳の肩の辺を揶揄《やゆ》するように叩いたが、「俺アこの男へは相当の手当をし『これまでの縁だ、今後はお互いに他人になろう、顔を合わせても挨拶もするな』と云って、二十年前に別れたところ、二、三日前に、みすぼらしい風をして、俺の賭場《ところ》へやって来て、昔のことを云い出し、強請りにかかった。……そこで俺は思うのだ、いつお主が、隠者のような生活から脱け出して、俺を強請りに来はしまいかとな。この虞《おそ》れをなくすにゃア、お主をこの世から……」
「黙れ!」と、薪左衛門ははじめて吼《ほ》えた。「黙れ勘兵衛! そういう汝こそ、この剣の錆になるなよ!」
 薪左衛門は、手に捧げていた天国《あまくに》の剣の鍔《つば》の辺を額にあて、拝むような姿勢をとったが、
「これ勘兵衛、汝は今、二人の間には、命取るような深い怨恨はないと申したな、大違いじゃ! 拙者においては、この年頃、命取るか取られるか、是非にもう一度この道了塚で、汝と決闘しようものと、そればかりを念願といたしておったのじゃ。そうであろうがな、浪人組の二人頭として、苦楽を共にし、艱難《かんなん》を分け合った仲なのに、いざ組を解散するとなるや、共同の財宝を汝一人で奪い、天下の名刀を奪い取り――ええ、弁解申すな! 典膳よりたった今、事情|悉皆《しっかい》聞いたわ! ……のみならず、それらの悪行を、この薪左衛門にかずけようとした不信の行為! のみならず、辛酸を嘗め合った同志を穴埋めにした裏切り行為! 肉を喰うも飽き足りぬ怨恨憎悪が、これで醸《かも》されずにおられようか! ……持つ人の善悪にかかわらず、持つ人に福徳を与うと云われておるこの天国の剣が、我が手に入ったからには、汝と我との運命、転換《かわ》ったと思え! かかって来い勘兵衛、この天国の剣で真っ二つにいたしてくれるわ!」
 五郎蔵は、むしろ唖然とした眼付きで、春陽を受けた剣が、虹のような光茫《ひかり》を、刀身の周囲に作って、卯の花のように白い薪左衛門の頭上に、振り冠られているのを見上げたが、
「ナニ、天国の剣? ……どうして汝の手に?」
 と、前後を忘れ、ズカズカと塚の裾の方へ歩み寄った。
 と、その時まで、塚の真下に、小岩を抱いて、奄々《えんえん》とした気息で、伏し沈んでいた典膳が、最後の生命力《ちから》を揮い、胸を反らせ、腰を※[#「虫+廷」、第4水準2-87-52]《うね》らせ、のけ反った。とたんに五郎蔵の悲鳴が起こり、同時に彼の姿は地上から消え、彼の立っていた足もとの辺りに大きな穴が開いた。
 天智天皇の七年、高麗国《こまのくに》の滅亡するや、その遺民唐の粟《ぞく》を食《は》むことを潔しとせず、相率いて我が国に帰化し、その数数千に及び、武蔵その他の東国に住んだが、それらの者の長《おさ》、剽盗《ぞく》に家財を奪われるを恐れ、塚を造り、神を祭ると称し、塚の下に穴倉を設け、財宝を隠匿《かく》した。
 これが道了塚の濫觴《はじまり》なのであって、勘兵衛、又兵衛の浪人組どもは、その塚を利用し、強奪して来た財宝を、その穴倉の中へ、隠匿したに過ぎなかった。栓のように見えていた小岩は、穴倉の上置きの磐石を辷らせる、槓桿《こうかん》だったらしい。その槓桿を動かしたがために、穴倉の口が開いたのらしい。
「う、う、う!」
 という呻き声が、塚の縁から、穴倉の中を見下ろしている薪左衛門の口から起こった。

    因果応報

 その穴倉の中の光景は? 白昼の陽光《ひ》が、新しい藁束のように、穴倉の中へ射し、穴倉の中は、新酒を充たした壺のように明るかったが、頭でも打ったのか、仰向けに仆れ、手足をバタバタ動かしながらも、立ち上がることの出来ない五郎蔵の姿が、負傷した螳螂《かまきり》かのように、その底に沈んで見えていた。でもその彼の、頭の辺や足の辺や左右やに、白く散在している物像《もののかたち》は何んだろう? 人間の骸骨であった。それこそ、この穴倉の秘密を、世間へ知らせまいため、強奪した財宝を運ばせて来た百姓どもを、そのつど、浪人組の者どもは、この穴倉の中へ斬り落としたが、その百姓どもの骸骨に相違なかった。今、尚、立ち上がろうとしてもがく、五郎蔵の足に蹴られ、三尺ぐらいの白い棒が、宙へ躍り上がったが、宙で二つに折れて地へ落ちた。股の附け根からもげた骸骨の脚が、宙でさらに膝からもげたものらしい。また、すぐに、五郎蔵の手に刎ねられ、碗のような形の物体が、穴倉の口もと近くまで舞い上がって来たが、雪球《ゆきだま》のように一瞬間輝いたばかりで、穴倉の底へ落ちて行った。髑髏《どくろ》であった。一体の、完全に人の形を保っている骸骨が、穴倉の壁面《かべ》に倚りかかっていた。穴倉を出ようとして、よじ登ろうとして、力尽き、そのまま死んだものと見え両手を、壁面に添えて、上の方へ延ばしていた。仔細に眺めたなら、その骸骨の足もとに、鞘の腐《く》ちた両刀が落ちているのを認めることが出来たろう。武士の骸骨である証拠であり、最後に犠牲になった伊丹東十郎の骸骨に相違なかった。その骸骨へ、もがいている五郎蔵の手が触れた。と、骸骨はユラユラと揺れたが、すぐに、生命を取り返したかのように、グルリと方向を変え、傾き、穴ばかりの眼で五郎蔵を見下ろしたかと思うと、急に五郎蔵目掛け、仆れかかって行き、その全身をもって、五郎蔵の体を蔽い、白い歯をむき出している口で、五郎蔵の咽喉の上を蔽うた。
 恐怖の声が、道了塚の頂きから起こり、つづいて、氷柱《つらら》のようなものが、塚の縁から穴倉の中へ落ちて行った。穴倉の中の光景を見て、気を取りのぼせた薪左衛門が、天国の剣を手から取り落としたのであった。
 この時典膳の体が、小岩を抱いたまま、前方へのめり、それと同時に、穴倉の光景は消え、地上には、もう穴倉の口はなく、それのあった場所には、新しく掘り返されたような土壌《つち》と、根を出している雑草と、扁平《たいら》の磐石と、息絶えたらしい典膳の姿とがあるばかりであった。
 そうして道了塚の上では、穴倉の地獄の光景を見たためか、神霊ある天国の剣を失ったためか、ふたたび狂人となった薪左衛門が、南無妙法蓮華経と刻《ほ》ってある碑《いしぶみ》の周囲《まわり》を、蟇のように這い廻りながら、
「栞よーッ、来栖勘兵衛めが、伊丹東十郎に食い殺されたぞよーッ、栞よーッ」
 と、叫んでいた。

 その栞は、林の中で、紙帳を前にし、頼母に介抱されていた。栞を介《かか》えている頼母の姿は、数ヵ所の浅傷《あさで》と、敵の返り血とで、蘇芳《すおう》でも浴びたように見えてい、手足には、極度の疲労《つかれ》から来た戦慄《ふるえ》が起こっていた。
(敵は退けた。恋人は助けた!)
 しかし彼は、それをしたのは自分ではなくて、大半は五味左門であることを思った。
(その上私は、あやうく竹で突き殺されるところを、左門に助けられた)
 塑像《そぞう》のように縋り合っている二人の上へ降りかかっているものは、なんどりとした春陽であり、戦声が絶えたので啼きはじめた小鳥の声であり、微風に散る桜の花であった。そうして二人の周囲に散在《あ》る物といえば、五郎蔵の乾児たちの死骸であった。

    苦行者か殺人鬼か

 頼母は、ふと、眼を上げて見た。左門が、乾児たちの死骸の中に立ち、もう血粘《ちのり》をぬぐった刀を鞘に納め、衣紋《えもん》をととのえ、腕組みをし、紙帳を見ていた。その姿は、たった今しがたまで、殺戮《さつりく》をほしいままにしていた人間などとは見えなかった。顔色はいつもどおり蒼白かったが、いつも煤色の唇は赤くさえあった。目立つのはその眼で、それには何かを悲しんででもいるかのような色があった。何を悲しんでいるのであろう? 頼母は左門の視線が紙帳に食い入っているのを見、自分も紙帳を見た。
 紙帳は、血によって、天井も四方の側面《がわ》も、ことごとく彩色《いろど》られていた。そうして、古い血痕と、新らしい血痕とによって、怪奇《ふしぎ》な模様を染め出していた。すなわち、塔のような形が描かれてい、堂のような形が描かれてい、宝珠のような形が描かれてい、羅漢のような姿が描かれてい、仏のような姿が描かれてい、卍のような形が描かれているのであった。
 それは、諸法具足を象徴《あらわ》した曼陀羅の模様であった。血で描かれた曼陀羅紙帳は、諸所《ところどころ》切り裂かれ、いまだに血をしたたらせ、ノロノロとしたたる血の筋で、尚、如来の姿や伽藍の形を描いていた。
(諸法を具足すれば円満の境地であり、円満の境地は、一切無差別、平等の境地であり、この境地へ悟入《はい》った人間《ひと》には、不平も不安も不満もない。そういう境地を模様で現わしたものが曼陀羅だ。……この紙帳の内と外とで、俺は幾十人の人を殺したことか。……また、この中で、父上も俺も、どれほど考え苦しみ、怒り、悶え、憎み、喜び、泣き、笑ったことか。紙帳こそは、父上と私との、思考《かんがえ》と行動《おこない》との中心であった。……その紙帳が、曼陀羅の相を呈したとは?)
 考えに沈んでいる左門の前で、血曼陀羅の紙帳は、微風に揺れ、皺を作ったり、襞《ひだ》を拵《こしら》えたりしていた。
(少くも曼陀羅の境地へ悟入《はい》るには、思考と行動とが同伴《ともな》わなければいけないらしい。……少くも俺は、この紙帳の内と外とで、善悪共に、思考《かんが》え且つ行動《おこな》ったのは事実だ)
 さっき紙帳へ停まって啼いていた頬白ででもあろうか、一羽の頬白が、矢のように翔けて来て、紙帳へ停まろうとしたが、鮮血の赤さに驚いたのか、飛び去った。
(紙帳が曼陀羅の相を呈したのは、この中で思考え行動った俺の行為《おこない》が、曼陀羅の境地へ悟入る行為であったと教えてくれたのか? ……そんなことはない! ……では、将来曼陀羅の境地へ悟入るようにと啓示《しめ》してくれたのか?)
 左門はいつまでも佇んで考えていた。
 やがて左門は頼母の方を振り返って見た。
 頼母は、栞に縋られたままの同じ姿勢でいた。
「頼母殿」と左門は穏かな声で云った。「貴殿には拙者は討てますまい。少くとも現在《いま》のお心境《こころもち》では。……その心境拙者にはよく諒解《わか》りまする。……さて拙者お暇《いとま》つかまつる。拙者どこへ参ろうと、この血曼陀羅の紙帳を釣って、起居《おきふし》いたすでござりましょう。……それで、拙者を討つ心境となり、剣技《わざ》においても、拙者を討ち取るだけにご上達なされたら、いつでも訪ねておいでなされ。……紙帳武士とお尋ねなされたら、大概は居場所わかりましょうよ。……拙者いつでも討たれて進ぜる」
 それから、足もとに、今は肩息になっているお浦を見下ろしたが、
「不幸な女」と呟いた。「不幸にしたのは私《わし》じゃ! 償いせねば! ……死なば、わしの手で葬ろう。生き返らば……いや、わしの力できっと生きかえらせてみせる!」
 紙帳で、死骸のようなお浦の体をつつみ、それを抱いて、左門が歩み出したのは、それから間もなくのことであった。
 林の木々は、左門の左右から、左門を眺めているようであった。遙かの行く手に、明るく黄金色に輝いている箇所《ところ》があった。林が途切れて、陽が当たっている箇所らしい。その光明界を眼ざして左門は歩いて行くように見えた。しかし、その向こうには、小暗い林が続いていた。でも、その林が途切れれば、また、陽光の射した明るい箇所があるに相違ない。でも、それへは、また、暗い林がつづく筈である。光明《ひかり》と暗黒《やみ》の道程《みちすじ》! それは人生《ひとのよ》の道程でもある。光明と暗黒の道程を辿って行く左門の姿は、俯向いていて寂しそうで、人生の苦行者のように見えた。
(父上のご遺志だ。わしはどうあろうと、どこまでも、奪われた天国の剣を探して、手に入れなければならない)
 こう思って歩いて行く左門であった。
 しかしその天国の剣は、道了塚の穴倉へ落ちて、ふたたび地上へは現われない筈である。天国が地下へ埋もれたことを知っておるものは、一人もないのであるから。たった一人知っている薪左衛門もふたたび発狂して、一切意識を失ってしまったのであるから。
 絶対にとげることの出来ない希望《のぞみ》を持って、永久諸国を流浪するであろう左門の姿は、だんだん小さくなって行った。
 山査子《さんざし》の藪の中から、その左門の姿を恐ろしそうに見送っているのは二人の武士であった。片眼をつぶされた紋太郎と、片耳を落とされた角右衛門とであった。
「こう醜い不具者《かたわもの》にされましては、将来《このさき》生きて行く気もいたしませぬ」と怨めしそうに云ったのは紋太郎であった。しかし角右衛門は案外悟ったような口調で、
「いやいやこの刀傷がものを云って、今後はかえって生活《くらし》よくなろうぞ。我々は、松戸の五郎蔵親分に腕貸しいたし、刀傷を受けました者でござると、諸方の親分衆のもとへ参って申してみやれ、頼み甲斐ある用心棒として、厚遇されるでござろう」
「なるほどのう」
「左門は我らに生活の方法《みち》を立ててくれた菩薩じゃよ……こんなご時世、食えて行けさえしたら御《おん》の字じゃからのう」
 ――菩薩、苦行者、左門の姿は、遙かの彼方《かなた》で、この時、カッと輝いて見えた。光明世界へ――林が途切れて、陽光の射し溜まっている箇所《ところ》へはいったからであろう。
 やがて左門の姿は見えなくなった。
 暗い林の中へまたはいったからであろう。
 しかし、その向こうには明るい世界が!

底本:「血曼陀羅紙帳武士」国枝史郎伝奇文庫22、講談社
   1976(昭和51)年6月12日第1刷発行
初出:「冨士」講談社
   1939(昭和14)年9月~12月で中絶、1970(昭和45)年「血煙天明陣」桃源社に付載して完結公刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

血ぬられた懐刀—– 国枝史郎

別るる恋

「相手の権勢に酔わされたか! ないしは美貌に魅せられたか! よくも某《それがし》を欺むかれたな!」
 こう罵ったのは若い武士で、その名を北畠秋安《きたばたけあきやす》と云って、年は二十三であった。
 罵られているのは若い娘で、名は萩野《はぎの》、十九歳であった。
 罵られても萩野は黙っている。口を固く結んでいる。そうして足許を見詰めている。その態度には憎々しいほどの、決心の相が見えている。
「さようか、さようか、物を言わぬ気か、それ程までに某を、もう嫌って居られるのか。薄情もそこまで行き詰めれば、また潔いものがある。で、某も潔くやろう。二人の仲は今日限りに、あか[#「あか」に傍点]の他人の昔に帰ろう。が、一言云って置く、不破小四郎《ふわこしろう》は伴作《ばんさく》殿の従兄《いとこ》で、関白殿下のご愛臣で美貌と権勢と財宝とを、三つながら遺憾なく備えて居られる。で、幸福のお身の上よ。が、そういうお身の上の方は、何事につけても執着がなくて、女子などにも薄情なものだ。で、其方《そなた》に予言して置く、間もなく小四郎に捨られるであろうぞ」
 捨石から腰を上げた秋安は、萩野を尻眼に睨んだが、そのままスタスタと歩き出した。一切未練は俺にはない――と云ったような歩き方である。とは云え灌木の陰へかくれて、萩野の姿の見えなくなると一緒に、その歩き方は力なげになった。
 絶望が心に涌いたからである。
 ここは京都の郊外の、上嵯峨《かみさが》へ通う野路である。御室《おむろ》の仁和寺《にんなじ》は北に見え、妙心寺《みょうしんじ》は東に見えている。野路を西へ辿ったならば、太秦《うずまさ》の村へ行けるであろう。
 その野路をあてもなく、秋安は西の方へ彷徨《さまよ》って行く。
 季節は酣《たけなわ》の春であった。四條の西壬生《にしみぶ》の壬生寺では、壬生狂言があるというので、洛内では噂とりどりであった。そうして嵯峨の嵯峨念仏は、数日前に終わっていた。
 そういう酣の春であった。
 この野路の美しさよ。
 木瓜《ぼけ》の花が咲いている。※[#「木+(虍/且)」、第4水準2-15-45]《しどみ》の花が咲いている。※[#「米+屑」、484-下-13]花《こごめ》の花が咲いている。そうして畑には麦が延びて、巣ごもりをしている鶉《うずら》達が、いうところのヒヒ鳴きを立てている。
 農家がパラパラと蒔かれていたが、多くは花に包まれていた。白いのは木蓮か梨の花であろう。赤紫に見えるのは、蘇枋《すおう》の花に相違ない。
 と、灌木の裾を巡って、孕鹿《はらみじか》が現われた。どこから紛れ込んだ鹿なのであろう? 優しい眼をして秋安を見たが、臆病らしく走り去った。
 白味を含んだ蒼い空から、銀笛の音色を思わせるような、雲雀《ひばり》の声が降って来る。そうしてヒラヒラと野路からは、絹糸のような陽炎《かげろう》が立つ。
 万事|四辺《あたり》は明るくて、陽気で美しくて楽しそうであった。
 が、暗いものが一つあった。他ならぬ秋安の心であった。
「萩野と馴染んで一年になる。その交情は厚かったはずだ。あの女を苦しめた覚えはない。愛して愛して愛し抜いたはずだ。裏切られるような薄情なことを、俺は一度もしたことがない。にもかかわらず裏切られた。女の心というものは、ああも手の平を飜《か》えすように、ひっくりかえるものだろうか?」
 考えながら歩いて行く。
「あの花園の森の中で、去年松の花の咲く頃に、はじめて恋を語り合ったが、同じ松の花の咲く季節の、今年の春には同じ森で、気不味《きまず》い別離を告げようとは……何だか俺には夢のようだ。化かされているような気持もする」
 考えながら彷徨って行く。
 と、にわかに笑い出した。
「ハッハッハッ、何と云うことだ! 未練もいい加減にするがいい。向こうから俺を捨たのだ。何をクヨクヨ思っているのだ」
 しかしやっぱり寂しかった。
 で、あて[#「あて」に傍点]なしに歩いて行く。
 しかしそういう寂しい心を、厭でも捨なければならないような、一つの事件が勃発した。
 行く手の森陰からけたたましい、若い女の悲鳴が聞こえて、つづいて四五人の男の声が、これもけたたましく聞こえたからである。
 で、秋安は走って行った。
 廻国風の美しい娘を、五人の若い侍が、今や手籠めにしようとしている。

助けた女は?

 それと見てとって秋安が、勃然と怒りを発したのは、まさに当然ということが出来よう。
「方々!」と声をかけながら、武士の間へ割って行ったが、
「お見受けすればいずれも武士、しかも立派なご身分らしい。しかるに何ぞや若い娘を捉えて、乱暴狼藉をなされるとは! 体面にお恥じなさるがよろしい!」
 叱咤の声をひびかせた。
 凜々しい態度と鋭い声に、気を呑まれたらしい五人の武士は、捉えていた娘を手放すと、一斉に背後《うしろ》へ飛び退いたが、見れば相手は一人であった。それに年なども若いらしい。で、顔を見合わせたが、中の一人が進み出た。
「これ貴様は何者か! 我々の姿が眼に付かぬか! 銀の元結、金繍の羽織、聚楽風《じゅらくふう》だぞ、聚楽風だぞ!」
 云われて秋安は眼を止めて見た。
 いかにもそれは聚楽風であった。
 すなわち関白|秀次《ひでつぐ》に仕える、聚楽第の若い武士の、一風変わった派手やかな、豪奢を極めた風俗であった。
 そうしてその事が秋安の心を、一層の憤りに導いた。
「ははあ左様か、ご貴殿方は、関白殿下にお仕えする、聚楽第のお歴々でござるか。ではなおさらのことでござる。乱暴狼藉はおやめなされ! それ関白と申す者は、百官を總《す》べ、万機を行ない、天下を関《はか》り白《もう》する者、太政大臣《だじょうだいじん》の上に坐し、一ノ上とも、一ノ人とも、一ノ所とも申し上ぐる御身分、百|姓《せい》の模範たるべきお方であるはずだ。従ってそれにお仕えする、諸家臣方におかれても、等しく他人《ひと》の模範として、事を振舞いなさるが当然。しかるに何ぞや娘を捉え、淫がましい所業《しわざ》をなさる! いよいよお恥じなさるがよい」
 ウンとばかりに遣り込めた。
 こう云われたら[#「云われたら」は底本では「云はれたら」]一言もなく、引き下るかと思ったところ、事は案外に反対となった。五人刀を抜きつらね、秋安へ切ってかかったのである。
「関白の説明汝に聞こうか! 地下侍《じげざむらい》の分際で、痴《おこ》がましいことは云わぬがよい。ここに居られるのは殿下の寵臣[#「寵臣」は底本では「籠臣」]、不破小四郎行春様だ。廻国風のその娘に、用あればこそ手をかけたのだ! じゃま立てするからにはようしゃはしない、汝《おのれ》犬のように殺してくれよう!」
 一人が飜然と飛び込んで来た。
 身をひるがえした秋安は、太刀を抜いたが横ッ払った。殺しては後が面倒だ、そう思ったがためであろう、腰の支《つがい》を平打ちに一刀!
「ウ――ム」と呻いてぶっ仆れる。
 と、懲りずまにもう一人が、刎ねるがように切り込んで来た。
 すかさず突き出した秋安の太刀に、ガラガラガラと太刀を搦らまれ、ギョッとして引こうとしたところを、秋安太刀をグッとセメ[#「セメ」に傍点]た。ガラガラと地上で音のしたのは、敵が獲物を落としたからである。
「これ!」と叫ぶと秋安は、五人をツラツラと見渡したが、
「不破小四郎と申したな! 誰だ、どいつだ、進み出ろ! この秋安一見したい! 少しく拙者には怨みがある」
 ここで一人へ眼をつけたが、
「ははあ貴殿か! 貴殿でござろう!」
 そっちへツカツカと歩み寄る。
 歩み寄られた若侍は、いかさま不破小四郎でもあろう、一際目立つきらびやか[#「きらびやか」に傍点]の風で、そうして凄いような美男であった。
 が、案外な卑怯者らしい。太刀こそ抜いて構えてはいるが、ヂタ、ヂタ、ヂタと後へ引く。
 秋安にとっては怨敵である。萩野を奪われた怨みがある。
「こいつばかりは叩っ切ってやろう!」
 で、ツツ――ッと寄り添った。
 主人あやうしと見て取ったものか、二人の武士が左右から、挿むようにして切り込んで来た。
 と、鏘然たる太刀の音!
 つづいて森の木洩陽を縫って、宙に閃めくものがあった。払い上げられた太刀である。
 すなわちは北畠秋安が、一人の武士の太刀を払い、そうして直ぐにもう一人の太刀を、宙へ刎ね上げてしまったのである。
 と、逃げ出す足音がした。
 主人の小四郎を丸く包み、五人の武士が太刀を拾わず、森から外へ逃げ出したのである。
「待て!」と秋安は声をかけたが、苦笑いをすると突立った。
「追い詰めて殺すにも及ぶまい。祟りのほどがうるさいからなあ」
 で、抜いた太刀を鞘へ納め、パチンと鍔音を小高く立てたが、改めて娘の様子を見た。
 木洩陽を浴びて坐っている、廻国風の娘の顔の、何と美しく気高いことよ!
 そうしてこれほどの闘いにも、大して恐れはしなかったと見えて、別に体を顫わせてもいない。
 とは云え勿論顔の色は、蒼味を加えてはいるのである。
「ほう」
 秋安が声を上げたのは、その美しさと気高さとに、心を驚かせたからである。
 恋を失った秋安は、どうやら意外の出来事から、新しい恋を得るようである。

 が、それはそれとして、この日が暮れて夜になった時、花園の森の一所へ、一人の女が現われた。

闇の中の声

「秋安様の予言どおりに、妾《わたし》は小四郎様にあざむかれた」
 さも後悔に堪えないように、声に出して女は呟いたが、他ならぬ娘の萩野であった。
 今宵も忍んで来るがよいと、こういう約束があったので、萩野は恋心をたかぶらせながら、聚楽第《じゅらくだい》の付近にある、小四郎の住居《すまい》まで行ったところ、小四郎はどうしたものであろうか、けんもほろろの挨拶をして、萩野を追い返してしまったのである。
「野に在る花は野にあるがよい。其方《そなた》はやっぱり野にある花だ。しかるに私《わし》は聚楽の家臣、地下の者とは身分が違う。何もお前を嫌うのではないが、これまでの縁はこれまでとして、其方は其方の昔にかえり、私は私の昔にかえろう。で、今後は私も行かぬ。其方も私を訪ねないがよい」
 こういう露骨の言葉をさえ、萩野は小四郎から貰ったのである。
 ことの意外に驚きながらも、どうすることも出来なかった。しかしどうしてそうもにわかに、小四郎の心が変わったのか、萩野には見当が付かなかった。
 で、それだけでも聞きだそうと思って、小四郎の袖を抑えた時、潜戸《くぐりど》が内からとざされた。で、聞くことさえ出来なかった。
 で、そのまま婢女《はしため》を連れて、しおしおと家へ帰ったのであったが、悲しさと口惜しさと怒りとで、眠ることなど出来そうもない。
 で、フラフラと家を出て、近くの花園の森へまで、来るともなしに来たのであった。
 萩野は松の木へ額をあて、じっと物思いに沈んでいる。
 木洩れの月光が森の中へ、薄蒼い縞を投げている。それに照らされた萩野の肩の、寂しそうなことと云うものは!
 と、その肩が顫え出した。すすり泣いている証拠である。
「小四郎様と比較《ひきくらべ》て、秋安様の親切だったことは! そういうお方を振りすてて、小四郎様へ気を向けたのは、妾《わたし》の愚かというよりも、魔が射したものと思わなければならない。そのあげくに[#「あげくに」に傍点]妾は捨られたのだ。誰にも逢わす顔がない。ましてや今さらオメオメと、秋安様とは逢うことは出来ない。ちょっとした心の迷いから、二つの恋を失ってしまった」
 限りない絶望と悔恨とが、今や萩野をとらえたのである。
「ああこの森で秋安様と、幾度|媾曳《あいびき》をしたことやら。そのつど何と秋安様が、妾を愛撫して下すったことやら。思い出の多い花園の森! 一本の木にも一つの石にも、忘れられない思い出がある」
 フラフラと萩野は歩き出した。
「ああここに杉の木がある」
 一本の杉の木へ手を触れたが、しずかに幹を撫で廻した。
「この木の幹に背をもたせかけて、はじめて秋安様がこの妾へ、恋心をお打ち明け下されたのは、一年前の今頃であった。あの時妾はまあどんなに、嬉しくも恥しくも思ったことか。『妾は幸福でござります。妾も貴郎《あなた》様をお愛しします』と、茫《ぼっ》とした声でお答えしたはずだ」
 一本の桜の老木があった。木洩れの月光に浮き出して、満開の花が綿のように、森の天井を染めている。
 その桜の木へ障《さ》わったが、萩野は幹へ額をあてた。
「この桜の花の下で、行末のことを語り合い、あのお方の熱い唇を、はじめて額へ受けたことがある。昨日《きのう》のように思われるが、やはり一年の昔だった」
 松の巨木が聳えている、幹に月光が斑を置いていた。
 その幹へ萩野は寄りかかったが、袂で顔を蔽うようにした。にわかに体が縮《ちぢ》まったのは、根元へうずくまったからであろう。しばらくの間は身動きもしない。何かを思い詰めているらしい。ただ肩ばかりが顫えている。いぜんとして泣いているからであろう。
 やがて心を定めたかのように、萩野はゆるゆると立ち上ったが、腰の辺りを探り出した。
 と、紐がクルクルと解けた。
 仰ぐように顔を上向けて、松の下枝へ眼をやったが、片手を上げて紐を投げた。
 松の枝へかかって下った紐を、両手で握って引いたのは、縊《くび》れて死のうとするのでもあろう。
 縊れて死のうとしたのであった。
 しかし紐の端へ頤をかけた時に、背後《うしろ》から二本の腕が出て、萩野の肩を引っかかえた。
「ひとつ御相談にのりましょう。短気はおやめなさりませ。死ぬほどの事情がありましても、生きられる事情にもなりますもので。ひとつ御相談に乗りましょう。私にお任《まか》せなさりませ」
 つづいてこういう声がしたが、優しい老人の声であった。

秋安の館

 ちょうど同じ晩のことであるが、秋安の屋敷の一間の中で、廻国風の美しい娘と、北畠秋安とが話していた。
 秋安の父は秋元《あきもと》と云い、北畠|親房《ちかふさ》の後胤として、非常に勝れた家柄であった。学者風の人物であるところから、公卿にも、武家にも仕えようとはせずと、豪族の一人として閑居していた。
 聚楽第《じゅらくだい》の西の花園の地に、手広い屋敷を営んで、家の子郎党も多少貯え、近郷の者には尊敬され、太閤秀吉にも認められ、殿上人にも親しまれて、のびやかに風雅にくらしていた。しかし身分は無位無官で、地下侍には相違なかった。
「人間の栄華というようなものは、そうそう長くつづくものではない。よし又長くつづいたところで、大して嬉しいものではない。栄華には栄華の陰影《かげ》として、不安なものがあるものだ。人の本当の幸福は、小慾にあり知足にある」
 これが秋元の心持であった。従って伏見桃山の栄華や、聚楽の豪奢に対しても、全くのところ風馬牛であった。
 とは云え関白秀次の態度――すなわち兇暴と荒淫との、交響楽じみた態度については、苦々しく思っていた。
「今にあの卿は亡ぼされるであろう」と、人に向かって噂などもした。
 そういう秋元の子であった。秋安も閑雅の人物であったが、若いだけに覇気があって、飯篠長威斎《いいささちょういさい》の剣法を学び、極意にさえも達していた。
 そういう豪族の居間である。
 秋安と美しい廻国風の娘と、語り合っているその部屋には、狩野山楽《かのうさんらく》の描いたところの、雌雄孔雀の金屏風が、紙燭の燈火《ひかり》を明るく受けて、さも華やかに輝いている。
「……そういう訳でございまして、妾《わたし》の父母と申しますものは、秀次公に滅ぼされました、佐々隆行《ささたかゆき》の一族で、相当に栄華にくらしました。でも両親が宗家と共に、城中で切腹いたしまして、妾一人が乳母や下僕に、わずかに守られて城を出てからは、昔の栄華は夢となり、丹波《たんば》の奥の狩野《かの》の庄で、みすぼらしく寂しく暮らしました。その中に親切な乳母も下僕も、この世を去ってしまいましたので、いよいよ妾は一人ぼっちとなり、途方にくれたのでござります。今は天下は治まりまして、秀次公には関白職、そうして妾は女の身分、それに戦いで滅ぼされましたは、戦国時代の習慣としまして、誰も怨もうこともなく、で、妾《わたくし》といたしましては、今さら父母の仇敵と、秀次公を狙おうなどとは、決して思っては居りませぬどころが、手頼《たよ》り無い身でござりますので、いっそ両親の菩提のために、諸国の神社仏閣を、巡拝いたそうと存じまして、京都へ参ったのでございました。でもともかくも秀次公に仕える聚楽第の若いお侍に、手籠めに合いなどいたしましたら、逝き父母に対しては申訳なく、妾自身に対しましては、恥しい次第にございます。……ほんにあの時お助け下され、何とお礼を申してよいやら、有難い次第にござります。……それにこのようにご親切に、お屋敷へさえお連れ下され、手厚い介抱を受けまして、いよいよ忝《かたじ》けなく存じます」
 その娘の名はお紅《べに》と云い、北国の名家、佐々隆行、その一族の姫なのであった。その父の名は時明《ときあきら》、その母の名はお園の方、一時はときめいた[#「ときめいた」に傍点]身分なのであった。
 それであればこそお紅という娘も、貧しい貧しい廻国風の姿に、身を※[#「にんべん+肖」、第4水準2-1-52]してはいるけれど、臈たけいまでに[#「臈たけいまでに」はママ]品位があり、容貌が打ち上って見えるのであった。
 素性を聞いたために秋安が、いよいよお紅という娘に対して、いわれぬ愛着と尊敬とを、感じたことは言うまでもない。
 で、幾度も頷いたが、
「いずれ由緒《よし》あるお身の上とは、最初から存じて居りましたが、そのような名家の遺兒《わすれがたみ》とは、思い及びも致しませんでした。そういうお方をお助けしたことは、この秋安にとりましては、名誉のことにござります。で、お尋ねいたしますが、今後はいかようになされます? やはりご廻国なさいますお気で?」
「はい」と云うと娘のお紅は、寂しそうに顔を俯向けたが、
「手頼り無い身にござります。一人ぼっちの身にござります。やはり諸国を巡りまして、神社仏閣を参拝し、この一生を終わります他には、手段はないように存ぜられます。今宵一夜だけお泊め下されて。明日はお許し下さりませ。早々においとまいたしまして……」
「旅へ立たれるお意《つもり》なので?」
「そう致しとう存じます」
「が、またもや悪漢どもが、苦しめましたならどうなされます」

途絶えた鼓

 これがお紅には気がかりなのであろう。俯向いたままで黙っている。
 どうやら夜風でも出たらしい、この離座敷《はなれ》の中庭あたりで、木々のざわめく音がした。
 庭には花が咲いているはずだ。風に巻かれて諸々の花が、繚乱と散っていることであろう。
 が、この部屋は静かである。燈火《ともしび》が金屏《きんぺい》に栄えている。円窓の障子に薄蒼く、月の光が照っている。馨しい焚物の匂いがして、唐金の獅子型の香炉から、細々と煙が立っている。
 なやましい春の深夜である。
 それに似つかわしい美男、美女が、向かい合って黙って坐っている。
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花ヲ踏ンデ等シク惜シム少年ノ春
燈火ニ背ムイテ共ニ憐ム深夜ノ月
[#ここで字下げ終わり]
 そういう眺めと云わなければならない。
 と、鼓の音がした。秋元の居間から聞こえてくる。つれづれのままに取り出して、秋元が調べているのであろう。曲はまさしく敦盛《あつもり》であった。一つ一つの鼓の音が、春の夜に螺鈿《らでん》でも置くように、鮮やかに都雅に抜けて聞こえる。
 秋安とお紅とは顔をあげたが、じっとその耳を傾けた。
 と、自ずから眼が合った。
「まずお聞きなさりませ」
 眼を見合わせた一瞬間に、秋安はお紅の眼の中に、愛情の籠もっていることを、直覚的に看て取った。
「廻国をするということは、この娘の本当の願いではない。たしかにこの俺を愛している」
 そういうことも感ぜられた。
 で、秋安は勇気づいて、思う所を述べ出した。
「まずお聞きなさりませ」――秋安は云いつづけた。
「手頼り無いお身の上でござりましょう。では貴女《あなた》には何を措いても、手頼りになるような人物を、お求めにならなければなりません。一人ぼっちでござりましょう。では貴女は、何を措いても、一人ぼっちでないように、お務めなされなければなりません。天下は治まっては居りますものの、洛中にさえ乱暴者はいます。ましてや他国へ出ましたならば、魑魅魍魎《ちみもうりょう》にも劣るような、悪漢どもが居りまして、よくないことをいたしましょう。で、そのような危険な旅へ、好んでお出かけなさるよりも、ここに止まりなさりませ。私ことは土地の豪族で、先祖は北畠親房《きたばたけちかふさ》で、名家の末にござります。家の子郎党も多少はあり、家の生活《くらし》も不自由はせず、父は学究でござりまして、心も寛《ひろ》く親切でもあり、そうして私といたしましても、自分で自分を褒めますのは、ちとおかしくはござりますが、まず悪人ではござりませぬ。名家の遺児の貴方様を、ここでお世話をいたすことぐらいは、私の家といたしましては、何でもないことでござります。そうして率直に申しますれば、私の心と申しますものは、ただいま寂しいのでござります。訳はただいまは申しませぬが、ある軽率な女子のために、裏切られたからでございます。……でもし貴女がお止まり下され、朝夕お話し下されましたら、どんなに私といたしましては、有難いことでござりましょう。心の傷手も自然と癒り、ほんとうに新しく生きることが、出来ますようにも存ぜられます。……是非にお止まり下さりませ。それこそ貴女のおためでもあれば、私のためでもござります。助け合う者がありましてこそ、慰め合うものがありましてこそ、この殺伐でくらしにくい、厭な人の世もくらしよくなり、生きて行くことが出来ましょう」
 しかしお紅はそう云われても、すぐにその言葉に応じようとはせず、いぜんとして黙って俯向いていた。
 と云って秋安のそういう言葉を、決して疑っているのではなく、ましてや秋安の親切な心を、受け入れまいとしているのではなかった。
 ただお紅の心としては、秋安の好意が著しいために、かえってそれに圧倒され、そうしてそれに従うことは、その著しい秋安の好意に、つけ[#「つけ」に傍点]込むように感ぜられて、相済まないように思われるのであった。
 素性の卑しい人間ならば、相手の好意に取り縋って、すぐにも自分の苦しい境遇を、救って貰おうとするだろう、立派な素性であるがために、かえってお紅は矛盾を感じて、心を苦しめているのであった。
 で、しばらくは無言である。
 鼓の音ばかりが聞こえてくる。
 が、にわかに鼓の音が、糸でも切ったようにフッと切れた。
 これはどうしたことなのであろう? 曲は終わってもいないのに。
 しかし向かい合って沈黙して、互いに相手の心持を、探り合っている二人には、にわかに切れた鼓の音に、注意の向かうはずはなかった。そうして、いっそう人の足音が、秋元の居間から幽かに聞こえ、そうして襖が一二度開き、そうして足音が家の中から、庭上へ移ったということなぞに、感付かなかったのは当然と云えよう。

骸を前の新生の恋

 とは云え忽ち庭上から、
「何者!」という鋭い声が響き、つづいてアッという悲鳴が起こり、それに引きつづいて乱れた足音が、いくつか聞こえてきた時には、秋安とお紅も感付いた。
 素破《すわ》! と云うような意気込みで、秋安は円座から飛び上ったが、鹿角にかけてあった太刀を握《つか》むと、襖をひらいて外へ出た。出た所に縁がある。縁を飛び下りた秋安は、声のした方へ突っ走った。
 蒼白い紗布《しゃぎぬ》でも張り廻したような、月明の春の夜が広がっている。そういう春の夜の寵児かのように、のびやかな空へ顔を向けて、満開の白い木蓮が、簇々として咲いていたが、その木蓮の花の下に、抜身を引っ下げた一人の武士が、物思わしそうに佇んでいた。
 見れば足許に一人の武士が、姿の様子で大方は解《わか》る、切られて転がって斃れていた。
 秋安はそっちへ走り寄ったが、
「父上、何事でござりますか?」
 抜身を引っ下げて佇んでいたのは、秋安の父秋元であった。
「うむ、秋安か、この有様だ」
 それから太刀へ拭いをかけ、鞘へソロリと納めたが、
「実はな、音色が変わったのだ」
「は? 音色? 何でございますか?」
「調べていた鼓の音色なのだ。……それが何となく変わったのだ。……そういうことも無いことはない。おおよその楽器というものは、調べる人の心持によって、音色を変化させると共に、四辺《あたり》の著しい変化によっても、また音色を変えるものだ。……鼓の音色が変わったのだ。で、庭へ出て見たのさ。五六人の武士がいるではないか。で、誰何したというものだ。すると一人が切りかかって来た。で、一刀に切り仆したところ、後の者は一散に逃げてしまった」
 死骸へ改めて眼をやったが
「その風俗で大概は知れる。困った奴らがやって来たものだ。何の目的かは知らないが。……其方《そち》も用心をするがよい」
 花木の間だをくぐるようにして、秋元は静かに歩み去ったが、月光を浴びた背後《うしろ》姿が、ひどく心配のある人のようであった。
 と、その時人の影が、忍びやかに秋安へ近づいて来た。
 たしなみの懐刀を握りしめたところの、廻国風の娘であった。
「秋安様」と寄り添うようにした。
「ああここに切られた人が!」
「聚楽《じゅらく》の奴原《やつばら》にござりますよ」
 秋安は死骸を指さしたが、
「貴方《あなた》を手籠めにいたそうとした、彼らの一人でござりますよ」
 お紅には言葉が出なかった。俯向いて死骸を見下ろしている。
「都にあってもこの有様でござる。一度地方へ出られようものなら、もっと恐ろしい数々のことが、降りかかって来ることでござりましょう。お紅どのここへお止まりなされ。我々がご保護いたしましょう」
 無意識に秋安は手を延ばした。
 これもほとんど無意識のように、お紅も片手を上げた。
 で、死骸を前にして、二人の手と手とが握られた。
 白い木蓮が背景となって、手を取り合った男女の姿が、月下に幸福そうに立っている。
 しかしこういう二人の恋が、無事に流れて行こうとは、想像されないことであった。
 執念深くて淫蕩で、傍若無人で権勢を持った、聚楽の若い侍に、お紅は狙われているのである。
 奪い取られると見做さなければならない。
 どのように北畠一家の者が、そのお紅を保護した所で、守り切れないことともなろう。
 しかし、お紅にも秋安にも、そういう形勢は解っていた。
「もしものことがあろうものなら、潔よく自害をいたします」
 九燿の星の紋所の付いた、懐刀をお紅は秋安に示して、そういうことを云ったりした。
 が、ともかくも五日十日と、その後無事に日が流れて、二人の恋は愈々益々、その密《こまやか》さを加えて行った。

不破小四郎の邸

「浮田鴨丸《うきたかもまる》めが不足している。ちょっと寂しい気持がする」
「まさかにあの晩に鴨丸めが、切り付けようとは思わなかった」
「性来鴨丸めは周章《あわて》者なのだ」
「それに北畠秋元めが、切り返そうとは思わなかった」
「それに第一秋元めは、どうして俺達の忍び込んだことを、感付いたものか合点がいかない」
「随分上手に忍び込んだのだが」
「のっそりと秋元が現われた時には、さすがに俺もギョッとしたよ」
「秋元め随分冴えた腕だの」
「一刀に鴨丸を斃したのだからな」
「仰天して俺達は逃げ出したが、いつまでもマゴマゴしていようものなら、やっぱり秋元に切られたかも知れない」
「切られないまでも捕らえられでもしたら、それこそ本当に目もあてられない」
「何と云ったところで若い娘を、引っ攫おうとしたのだからな」
「いぜん娘は北畠の邸に、身をかくしているということだ」
「外出などもしないそうだ」
「つまりは守られているのだろう」
 不破小四郎の邸の一間で、四五人の若い武士《さむらい》達が、雑然として話している。
 宵を過ごした初夏の夜で、衣笠《きぬがさ》山の方へでも翔《か》けるのであろう、杜鵑《ほととぎす》の声が聞こえてきた。
 小四郎は秀次《ひでつぐ》の寵臣である。邸なども豪奢である。銀燭などが立ててある。
 その銀燭を左手へ置いて、上座の円座に坐っているのは、邸の主人の小四郎で、前髪も剃らない若衆であったが、不愉快そうに苦り切っている。
「俺はな」と小四郎は云い出した。
「ひどくあの娘が好きなのだ。廻国風の娘がよ。で、どうしても手に入れなければならない。そこでお主達に頼んだのさ。是非あの娘を盗み出してくれとな。ところがお主達はやりそこなった。先刻《さっき》から話を聞いていれば、どうやら今後もお主達の手では、盗み出せそうにも思われない。あきらめてしまいえばいいのだが、変に俺にはあきらめられない。一体俺にしてもお主達にしても、普通《なみ》の女には飽きている。つまり上流の娘とか、ないしは遊女とかいうようなものには、もうすっかり飽きている。漁って漁って漁りぬいたからよ。で、土民の娘とか、地下侍の娘とか、そういう種類の女共に、ついつい引っ張られるというものさ。それお主達も知っている通り、萩野という地下侍の娘があった。そうしてそいつ[#「そいつ」に傍点]を手に入れた。いや随分面白かった。その手障《てざ》わりが違っていたからな。ところがどうだろうあの女を見てから――廻国風の娘のことだが――すっかり萩野に厭気がさし、薄情ではあったがつッ放してしまった。……で、そういう訳なのだ。そんなにも劇《はげ》しく廻国風の娘に、この俺は今捉えられている。ところが手に入れる手段がない。そこで俺は考えたのだ。ご主君にお縋りしようとな。関白殿下にお願いして、関白殿下のご威光を以て、あの娘を御殿へ引き上げるのさ。そうしてそれから改めて、殿下から俺が戴くのだ。これではいかな北畠家でも、何とも苦情は云えないだろう。名案と思うがどうだろうかな?」
 侫奸《ねいかん》の徒には侫奸の徒らしい、侫奸の策略があるものである。こう云って来て不破小四郎は、得意そうに、一座を身廻した。
「いやこれは素晴らしい妙案」
「さすがは聡明の不破殿だ、よい所へお気が附かれた」
 座に集まった一同の武士は、即座に同意をしてしまった。
「しかし」とこの時一人の武士が――栃木三四郎という若武士《わかざむらい》であったが――ちょっと不安そうに首を傾げたが、
「目下伏見から幸蔵主《こうぞうす》殿が、太閤殿下のお旨を帯して、聚楽《じゅらく》にご滞在なされて居られる。この際そのような振舞いをして、よろしいものでござろうかな?」
「いや大丈夫、大丈夫」
 こう云いながら手を振ったのは、桃ノ井|紋哉《もんや》という若い武士であった。
「幸蔵主殿は私用とのことで、何も恐れるには及ばない。それに我君と幸蔵主殿とは、幼少の頃からのご懇親で、万事につけて聚楽のお為を、以前からお計らい下されて居られる。悪いようには覚し召すまい」
「いやいや一考する必要がある」
 こう意議[#「意議」はママ]をはさんだ武士があった。加嶋欽作《かしまきんさく》という若武士である。
「女ながらも幸蔵主殿は、太閤殿下の懐中《ふところ》刀で、智謀すぐれて居られるとのこと、なかなか油断は出来ますまい」
「それに」ともう一人が心配そうにした。山崎|内膳《ないぜん》という若武士である。
「ご宿老の木村|常陸介《ひたちのすけ》様が、幸蔵主殿のおいで以来、気鬱のように陰気になられた。その常陸介殿はどうかというに、智謀逞邁、誠忠無双、容易に物に動じないお方だ。そのお方が陰気になられたのだ。幸蔵主殿の聚楽参第は、単なる私用とは思われない」

聚楽第の秘密

 そもそも幸蔵主とは何者であろうか? 豊臣秀吉の大奥に仕えてそれの切り盛りをしているところの、いうところの老女であった。女ながらもずば抜けた知恵者で、一面権謀術数に富み、一面仁慈寛大であった。加藤清正や福島正則や、片桐且元《かたぎりかつもと》というような人さえ、幸蔵主には恩顧を蒙り、一目も二目も置いていた。秀吉さえも智謀を愛して、裏面の政治に関与させ、懐中刀として活用した。もう老年ではあったけれど、壮者をしのぐ、意気もあった。
 また秀次が孫七郎と宣《なの》って、三好|法印浄閑《ほういんじょうかん》なるものの、実子として家にいた頃から、幸蔵主は秀次を知っていた。三好|康長《やすなが》が秀次を養い、さらに秀吉が養子として、秀次を殊遇しはじめてから、幸蔵主は一層秀次に眼をかけ、よき注意を与えていた。で、幸蔵主は秀次にとっては、母とも乳母ともあたる人であった。
 ところで秀次は累進して、そうして秀吉の後を受けて、関白職に経上って、聚楽《じゅらく》の第《だい》の主人となって、権を揮うようになって以来、ようやく秀吉と不和になった。
 秀吉の謀将の石田三成や、増田|長盛《ながもり》というような人と、気が合わなかったのが原因の一つで、秀吉の愛妾の淀君なるものが、実子|秀頼《ひでより》を産んだところから、秀頼に家督をとらせたいと、淀君も思えば秀吉も思った。自然秀次が邪魔になる――というのが原因の第二でもあった。
 秀吉との不和は秀次にとっては、何よりも恐ろしいものであった。で、甘心を買おうとした。それを中にいて斡旋したのが他ならぬ老女の幸蔵主であった。
 その幸蔵主が忍ぶようにして、伏見の秀吉の居城からこの聚楽へ来たのであった。
 そうして何やら幸蔵主は、秀次に旨を含ませたらしい。
 どういう旨だか解《わか》らない。
 しかしどうやら秀次にとっては、快くない旨らしい。それには従おうとはしないのであった。
 そうして終日不機嫌であった。
 で、何となくここ数日、聚楽第の空気は険悪であった。
「ナーニ大丈夫だ大丈夫だ」
 不破小四郎は事もないように、さも不雑作にこう云ったが、自信がありそうに一同を見た。
「幸蔵主の姥がやって来て、殿下のご機嫌がよくなくて、終日終夜の乱痴気騒ぎで、上下が昏迷をしているのが、かえって俺には好都合なのさ。どさくさまぎれに申し上げて、殿下のお許しを受けるのさ。よろしい行《や》れ! と仰せられるであろうよ。どっちみち俺は明日か明後日、関白殿下のお使者として、北畠の邸へ出かけて行こう。承知《き》くも承知《き》かないもありはしない。関白殿下よりのご命令なのだ。娘を差し出すに相違ない。承知かない場合には攫って来る」
 間違いはないよと云うように、小四郎は額をこする[#「こする」に傍点]ようにしたが、果たして成功するであろうか?

巨人と怪人

 その日からちょうど二日経った。
 ここは聚楽の奥庭である。おりから深夜で月はあったが、植え込みが茂っているために、月の光が遮られている。
 一宇の亭《ちん》が立っていて、縁の一所が月光に濡れて、水のように蒼白く暈けていた。
 そこに腰をかけている武士がある。
 思案にあまったというように、胸の辺りへ腕を組んで、じっと足許を見詰めている。
 木の間をとおして聚楽第の、宏壮な主殿《おもや》が見えていたが、今夜も酒宴と思われて、陽気な声が聞こえてくる。間毎々々《まごとまごと》に点もされた燈《ひ》が、不夜城のようにも明るく見える。
「どうしたのだろう、遅いではないか」
 縁に腰をかけた大兵の武士は、誰かを待ってでもいると見えて、ふとこう口に出して呟いた。
 と、その呟きに呼ばれたかのように、巨大な蘇鉄の根元を巡って、小兵の武士があらわれた。
「木村殿かな? 常陸《ひたち》殿かな」
「おお五右衛門か、待ちかねていたよ」
「約束の時刻よりは早いつもりだ」
 云い云い静かに歩み寄って、縁へ腰をかけた常陸介と、押し並ぶように腰かけたのは、無徳道人《むとくどうじん》事石川五右衛門であった。
 ちょいと五右衛門は主殿《おもや》の方を見たが、
「相変わらず今夜も盛んだの」
「うん」と云ったものの常陸介の声には、憂わしい不安な響きがあった。
「あの有様だから困るのだ」
「そうさ、あれでは困るだろう」
 で、沈黙が二人へ来た。
「ところで五右衛門結果はどうだ?」
 ややあって常陸介がこう訊《たず》ねた。
「うむ、ともかくも一通りは探った」
 五右衛門の声には笑殺《しょうさつ》がある。
「ただの私用ではないのだよ」
「俺もそうだろうとは感付いていたが、幸蔵主の態度が不明なのでな」
「あれは秀吉の懐中《ふところ》刀さ」
「が、我君にも忠実のはずだ」
「しかしそれは私情だよ。大事に処せば私情などは、古沓《ふるぐつ》のように捨てしまう」
「お互いそれには相違ないさ。……で、幸蔵主が我君を連れて伏見の城へ行こうとするのは、やはり太閤の指し金かな?」
「そうだ秀吉の指し金なのだ」
「伏見へ召してどうするのだろうな?」
「まず詰腹でも切らせるだろうよ」
「詰腹。……ふうむ。……そうかも知れない。……」
 常陸介にもそういうことは、以前から心にあったものと見えて、そう云われても驚かなかった。しかし苦悶は感じたらしい。俯向いて足許を睨んでいる。五右衛門もしばらくは物を云わない。で、この境地はひそやかであった。
 それと反対の趣をなして、明るい華やかな笑い声が、主殿の方から聞こえてきた。
「五右衛門」と常陸介は呼びかけた。
「ひとつ詳しく話してくれ、伏見はどんな様子なのだ」
「詳しく話せと云ったところで、これと云って詳しく話すところもないが。だがマア探っただけを話して見よう。……お前から依頼《たのみ》を受けたので、その足で直ぐに伏見へ行って、城中へ忍んだというものさ。秀吉め天下に敵がないというので、安心しきっているのだろう。城のかため[#「かため」に傍点]なんか隙だらけだった。で、奥御殿へ行くことが出来た。それでもさすがに宿直《とのい》の部屋には、仙石《せんごく》権兵衛だの薄田隼人《すすきだはやと》だのが、肩や肘を張って詰めていたよ、しかしそいつの話と来ては、お話にも何にもならなかった。女の話ばかりしているのだからな。ところで秀吉はどうかといえば、例の淀君めを相手にして、これもやはりたわい[#「たわい」に傍点]ないことを、話していたというものさ。と、声が聞こえてきた。
『……幸蔵主に胸を[#「胸を」はママ]含ましておいた。大方うまくやるだろう。……そう心にかけないがよい。……実子は俺だって可愛いいからの……』
 秀吉が淀君へ云ったのさ。すると淀めが笑い出したっけ。――これだけ聞けば用はない。で城から抜け出したが、その時つくづく思ったものだ。ナニ秀吉の寝首などは、掻こうと思えば掻けるものだとな。……秀吉だと云ったって人間だ、油断もあれば隙もあるとな。……それから俺は念のために、石田|治部《ちぶ》めの屋敷へ忍んだ。するとどうだろう増田|長盛《ながもり》めが、ちゃんと遣って来ているではないか。
『幸蔵主殿の甘言を以て秀次君をおびき出し、城中で詰腹を切らせましょう』
『いやいや我君のお眼に入れては、血縁のある伯父姪[#「姪」はママ]でござる。いっそ途中の伏見街道で、お腹を召さすがよろしかろう』
 これが二人の話なのだ。――これだけ耳にすれば用はない。で俺は直ぐに抜け出したのだが、道々俺は考えたよ。大胆不敵の話だとな。何故というに他でもない。とにかく天下の関白職を、まるで鶏でも絞めるように、無雑作に殺すことに決めているからさ。そうしてにわかに恐ろしくなった。やはり秀吉は偉い奴だ。やろうと思えばどんなことでもやる。とても普通の人間ではない。隙だらけと思っていた伏見の城が、恐ろしいものにも思われて来た。今度忍んだら遣《や》られるだろう――そんなようにも思ったものさ」
 黙って聞いていた木村常陸介は、五右衛門の話が終えてからも、いぜんとして沈黙をつづけていた。
 で、境地はひそやかである。
 それだけに聚楽の主殿における、夜宴の賑かさが気味悪く聞こえる。
 と、卒然と常陸介は云った。
「五右衛門もう一度忍んでくれ」
「もう一度伏見城を探れと云うのか?」
「秀吉の寝首を掻いてくれ」
「…………」
 またも沈黙がやって来た。
 二人ながら黙っている。

忍び込んだ武士は?

 石川五右衛門は浪人であった。学者でもあるし茶人でもあるし、伊賀流の忍《しのび》もよくするし、侠気もあれば気概もあったが、放浪性に富んでいて、物に飽き易くて辛抱がなくて、則《のり》に附くことが出来なかった。二三の大名が才幹を愛して、召しかかえたこともあったけれど、朋輩との中が円満にゆかない。
 で、すぐに浪人をした。それを知った木村|常陸介《ひたちのすけ》は、何かの用に立つこともあろうと、莫大な捨扶持を施して、ここ二三年養って置いた。
 すると五右衛門のことである、常陸介を主人と崇《あが》むべきを、友人のように思ってしまって、対等の交際《つきあい》をやり出した。
 大概の人物なら怒ったであろう、ところが常陸介は大人物であった。そのようなことは意にもかけずに、同じように対等の交際をした。これが五右衛門には嬉しかったらしい。知己を得たような気持がした。で、非常に感激をして、この人のためなら死んでもよいと、そんなようにさえ思うようになった。
 で、今度も常陸介から、伏見城の様子を探ってくれと、こう頼まれたのに直ぐに応じて、その役目を果たしたのであった。
 ところがもう一度伏見城へ忍んで、秀吉の寝首を掻いてくれという。――これには豪快な石川五右衛門も、考え込まざるを得なかった。
 で、即答をすることが出来ない。腕を組んだまま黙っている。
 が、木村常陸介が、低くはあったが凄愴の口調で、次のようなことを云ったがために、五右衛門は困難な常陸介の頼みを、むしろ勇んで引き受けた。
 次のように常陸介は云ったのである。
「お前ばかりを死なせはしないよ。俺もおっつけ死ぬことになろう。……お前の企《くわだて》が破れたならば、捕らえられてお前は殺されるだろう。……そうしてそれが聚楽第の、没落の原因となるだろう。――太閤ほどの人物だ、聚楽からの刺客だと察するからさ。……で伏見と聚楽とは、戦いをひらくことになろう。秀次公におかれては、島津や細川へ金子を貢いで、誼《よしみ》を通じて居るとはいっても、いざ戦いとなった日には、伏見方へ従《つ》くに相違ない。勝敗の数は知れて居る。聚楽第は亡ぼされて、秀次公には自害されよう。従って俺も腹を切る。お前の後を追うことになる……がもしお前の企が、成功をした場合には、天下はそれこそ聚楽第の、秀次公のものとなる。で今度の企はのる[#「のる」に傍点]かそる[#「そる」に傍点]かの企なのだ。するとお前は云うかもしれない、そういう危険な企を、どういう理由でやるのか? と、で、俺は答えることにしよう。どうやら我君秀次公には、幸蔵主の甘言に乗せられて、太閤との不和をなだめるために、伏見の城へ出かけて行かれて、太閤のご機嫌を取られるらしい。その結果はどうなるか? お前の云った通りになる。伏見城で詰腹を切らせられるか、ないしは途中で殺されるだろう。……それが俺には残念なのだ、同じくその身を失うにしても、太閤ほどの人傑を、向こうへ廻して戦って、華々しくご最後を遂げさせたいのだ。……で、道は二つしかない。太閤を守備よく弑《しい》するか、そうでなかったら戦うかだ。で、お前に俺は頼む。もう一度伏見城へ忍んでくれ、太閤の寝首を掻いてくれ、やりそこなったら死んでくれ!」
「わかった」と云うと五右衛門は、縁からユラリと腰を上げた。
「末代までも名が残ろうよ。太閤の寝首を掻いたなら! よしんば失敗をしたところで……」
 云いすてると石川五右衛門は、木立を廻って立ち去った。
 その足音が消えた時に、木村常陸介も立ち上ったが、思案にくれながら歩き出した。
「どうともして我君秀次公を、危険きわまる伏見の城へ、参第せぬようお諌めしなければならない」
 行手に築山が聳えている。
 裾を巡って先へ進む。
 と、泉水が堪えられていた。
 廻って主殿《おもや》の方へ進んで行く。
「はてな」と呟いて佇んだのは、厳しい聚楽第の石垣の上から、武士姿の一つの人影が庭へ飛び下りたがためである。
「これは怪しい、何者であろう?」
 常陸は首を傾げたが、
「伏見方の間者ではあるまいか?」
 自分が五右衛門を刺客として、伏見城へやったおりからである。
 伏見方の間者ではあるまいかと、ふと考えたのは当然といえよう。
「よしよし後をつけ[#「つけ」に傍点]てやろう」
 で、足音を盗むようにして、常陸介は後をつけ[#「つけ」に傍点]た。
 曲者は顔を包んでいる。どうやら年は若いらしい。心が急《せ》いてでもいると見えて、走るがように歩いて行く。主殿の方へ行くのである。
「ああこれは間者ではない。ましていわんや[#「いわんや」に傍点]刺客などではない。歩き方や態度で自ずとわかる。これは決して悪者ではない。とは云え聚楽第の武士ではない。おかしいなあ何者だろう」
 心掛けの深い常陸介ではあったが、これ以上は知ることは出来なかった。

瞬間四人を討って取る

 曲者は先へ進んで行く。常陸介はつけて行く。次第に主殿へ近づいて行く。
 と、その主殿の方角から、四五人の武士が話しながら、あべこべ[#「あべこべ」に傍点]にこっちへ歩いて来た。
「不破氏、不破氏、小四郎殿、そう憤慨をなさらないがよろしい。何も主命でござるからな」
 一人の声が、なだめるように云った。
「さようさよう何も主命で」
 相槌を打つ声が直ぐにした。
「それにさ、あれくらいの女なら、この世間にはいくらでもござる。あの女はあのまま差し上げなされ。そうしてその代わりにご愛妾の一人を、頂戴なさるがよろしかろう」
「その方がいい、その方がいい」
 また相槌を打つ声がした。
「たかが廻国にやって来て、京へ止まった田舎娘でござる。そのような女に未練をもたれて、殿下のご機嫌を取り損なったら、これほどつまらないことはない。おあきらめなされ、おあきらめなされ」
「さようさようおあきらめ[#「あきらめ」に傍点]なされ」
 四人目の声も相槌を打つ。
 が、そういう取りなしに答えて、怨みと憤りに充ちたような、狂気じみた声が聞こえてきた。
「いやいやせっかくのご忠告ではあるが、某《それがし》においてはあきらめられん。……あまりと云えば[#「云えば」は底本では「云へば」]横暴でござる! 某より殿下へお願いしたところ、よかろうよかろう好きな女があるなら、余が懇望だと申して連れて来い。その上で其方《そち》にくれてやろう。――で、某は使者という格で、北畠家へ押して行き、あのお紅《べに》を引き上げて来た。……と、どうだろう殿下においては、これは以外に美しい。側室《そばめ》の一人に加えよう。こう仰せられて手放そうとはされぬ。某を前に据えて置いて、お紅に無理強いに酌などさせる。寝所へ連れて行こうとされる。誰も彼も笑って眺めている。其のためにあつかおう[#「あつかおう」に傍点]とはしない! 無体なのは殿下のやり口だ! 庶民に対してはともかくも、臣下の某に対しての、やり口としては余りにひどい[#「ひどい」に傍点]! もはや某は聚楽《じゅらく》へは仕えぬ。ご奉公も今日限り。浪人をする浪人をする!」
 不破小四郎を取り囲んで、朽木《くちき》三四郎、加島|欽哉《きんや》、山崎|内膳《ないぜん》、桃ノ井|紋哉《もんや》、四人の若|武士《ざむらい》が話しながら、こっちへ歩いて来るのであった。
 ところで彼らの話によれば、気の毒なことにはお紅という娘は、北畠家から奪い取られて、今、聚楽第にいるらしい。では主殿《おもや》での夜遊の宴の、その中にも入っていることであろう。
 不破小四郎と四人の武士とは、云いつのり[#「つのり」に傍点]ながらなだめ[#「なだめ」に傍点]ながら、次第にこっちへ近寄って来る。
 と、一所に木立があって、そこの前までやって来た時に、飜然と飛び出した人影があった。同時に月光を横に裂いて、蒼白く閃めくものがあった。と、すぐに悲鳴が起こって、朽木三四郎がぶっ[#「ぶっ」に傍点]仆れた。すなわち木立から飛び出して来た、覆面姿の侍が、先に立って歩いて来た朽木三四郎を、抜き打ちに切って斃したのである。
「曲者!」と叫んだのは加島欽哉で、太刀柄へ右手をグッと掛けたが、引き抜くことは出来なかった。三四郎を斃した覆面の武士が、間髪を入れないで閃めかした太刀に、左肩を胸まで割られたからである。
「曲者!」とまたも同音に叫んで、山崎内膳と桃ノ井紋哉とが、左右から同時に切り込んで行った。が、それとても無駄であった。片膝を敷いた覆面の武士が、横へ払った太刀につれて、まず内膳が腰車にかけられ、ノッと立ち上った覆面の武士の、鋭い突きに桃ノ井紋哉が、胸を突かれて斃れたからである。
 四人を瞬間に打って取った、覆面の武士の腕の冴えには、形容に絶した凄いものがあった。
 と、その武士がツと進んだ。
「小四郎! 不破! 極悪人め! よくもお紅殿を奪ったな! 某こそは北畠秋安! 怨みを晴らしにやって来た。お紅殿を取り返しにやって来た! 観念!」
 とばかり切り込んだ。
「出合え! 曲者!」と叫んだが、不破小四郎は見苦しくも、主殿をさして逃げ出した。
「逃げるか! 卑怯! 何で遁そう!」
 四人を切った血刀を、頭上に振り冠った秋安は、すぐに小四郎を追っかけた。
 と、その眼前へ大兵の武士が、遮るようにして現われたが、威厳のあるドッシリとした沈着の声で、
「北畠殿と仰せられるか、まずお待ちなさるよう。某事は木村常陸介、子細は見届け承わってござる。悪いようには計らいますまい」
 こう云うと手を上げて制するようにした。

廊下を渡る雪燈の火

 現われた武士は誰あろう、聚楽第《じゅらくだい》における第一の智謀で、かつは誠忠無双であって、しかも身分は宿老であって、その上性質は寛仁大度、この人一人があるがために、秀次の生命は保たれて居り、聚楽の生命も保たれて居ると、世評一般に云われて居るところの、木村常陸介と耳にするや、逸《はや》り切っていた北畠秋安も、足を止めざるを得なかった。
 で、ダラリと刀を下げて、常陸介を見守った。
「さて」と云うと常陸介は、一層物憂しい口調になったが、なだめるように説き出した。
「貴殿のお父上秋元殿は、高朗としたお人柄で、某《それがし》も平素より尊敬いたし居ります。ご子息の貴殿のお噂も、兼々承わって居りました。清廉潔白でおわすとのこと、これまた敬意を払っていました。……ただ今立ち聞きいたしましたところ、お紅殿とやら申される女子を、不破小四郎が理不尽にも、関白殿下のお旨と申して、聚楽の第へ連れて参り、それを怒られてご貴殿には、この厳重の聚楽第へ、潜入して四人を討って取り、なお小四郎を討ち取った上、更に主殿《おもや》へ切り入って、お紅殿を奪回なされようとのご様子。……小四郎の不義は申すも憎く、関白殿下のなされ方も、よろしくないことと存じます。しかし」
 とここまで云って来て、木村常陸介は叱るようにつづけた。
「聚楽第には強者《つわもの》もござる。貴殿お一人に荒らされるほどの、不用心のことは致して居らぬ! あまりに自己をお頼みなさるな! またそれほどにも聚楽第を、力弱きものとお思いなさるな!」
 しかしまたもや優しくなり、慰めるような口調となった。
「余計なことは申しますまい。某をお信じなさりませ。某必ずお紅殿を、無垢の処女《おとめ》として聚楽第から、貴殿にお返し致しましょう、安心して一先ずお引き取り下され、……四人の武士を討たれたことも、某秘密に取り行ない、貴殿にご迷惑のかからぬよう、葬むることにいたしましょう」
 こう云われてみれば秋安には、押して云うべきことはなかった。なるほど主殿へ切り入ったならば、討って取られることであろう。決死の覚悟で来たのではあったが、殺されるのを望んでいるのではない。それにお紅を処女のままで、返してくれるというのである。苦情を云うべき筋はない。しかも言葉を誓ったのは、他ならぬ木村常陸介である。充分に信頼してよかった。
 で、ひき上げることにした。
「ご芳志|忝《かたじ》けのう存じます。ではお言葉に従いまして、立ち返ることにいたしましょう。つきましてはきっとお紅殿を……」
「大丈夫でござる、お案じなさるな」
「は」と恭しく一礼して、木立をくぐって北畠秋安は、忍びやかに後へ引き返した。
 しかし十足とは歩かない中に、一つの恐ろしい事件が起こった。
 酒宴をひらいている主殿の樓の、明るい華やかな笑声を縫って、悲痛極まる女の声が、一声けたたましく聞こえたかと思うと、一所の襖が仆されて、女の姿がよろめき出たが、欄干へ体をもたせかけると、そのままグッタリと動かなくなり、つづいて何物かが女の手から、秋安の足許へ投げられた。
 秋安は驚いて小腰を屈め、投げられた物を取り上げて見た。
「九燿の紋の付いた懐刀だ! 血にぬれている、血にぬれている! ああお紅殿は自害なされた! 常陸介殿!」
 と、飛びかかるようにしたが、
「お紅殿は自害を致しましたぞ!」
「うむ」と云うと木村常陸介は、腕をしっかりと胸へ組んだが、しばらくの間は黙っている。
 と、グイと顔を上げたが、樓上の女の死骸を見た。四五人の人影が現われて、欄干に仆れている女の死骸を、屋内へ運んで行こうとしている。
 と、木村常陸介は、にわかに頭を巡らしたが、主殿と並んで立っている、一宇の奇形な建物を見た。その建物と主殿とを繋いで、長い廻廊が出来ていたが、その廻廊に青い燈火《ひ》が、一点ユラユラと揺れながら、建物の方へ進んで行く。一人の侍女《こしもと》が雪洞《ぼんぼり》をささげて、廻廊を進んで行くのであった。いやいやその女一人だけではなくて、その後につづいて四五人の侍女が、群像のように固まって、建物の方へ進んでいた。
「なるほど」と呟いたのは常陸介であった。秋安の方へ顔を向けたが、
「誓った言葉に背きはしませぬ。処女《おとめ》のままの娘として、お紅殿をお返しいたしましょう。お信じなされ、お信じなされ」
 そういう言葉には確信らしいものが、さも重々しく籠もってもいた。

酒乱の関白

 ちょうどこの頃|主殿《おもや》の樓の、華麗を極めた大広間で、関白秀次が喚いていた。
「女は死んだか、自害したか、ワッ、ハッ、ハッ、それもよかろう。死にたい奴は死ぬがよい。殺してくれなら殺してもやろう。たかが卑しい女一人だ! 切ろうと縊《くび》ろうと俺のままよ! これこれ死骸を片付けろ! 目障りだ目障りだ持って行け! ……さあさあ酒だ! 酌をせい! 今夜は徹夜で飲み明かす。お前達も飲め、俺も飲む」
 蒼白の顔色、充血した眼、釣り上った眉、歯を剥いた口、これが関白たる貴人であろうか? そんなようにも思われるほどに、すさみにすさんだ容貌である。髪を茶筌に取り上げて、練絹の小袖を纏っている。盃を握った右の手が、ブルブルと恐ろしく顫えている。癇をつのらせている証拠である。
 金泥銀泥で塗り立てられた、絢爛を極めた盃盤が、無数に立てられた銀燭に照らされ、蒔絵をクッキリと浮き出している。朱色に塗られた長柄の銚子が、次から次と運ばれて来る。床の間には黄金の香炉があって、催情的の香の煙が、太い紐のように立っている。
「お那々《なな》、謡え! 幸若《こうわか》、舞え! 伴作《ばんさく》々々鼓を調べろ!」
 またも秀次は喚き出した。
「……何を恐れる! 天下人だぞ! 何を遠慮する、関白だ! 一天四界俺の物だ! 何を怯える、石田、増田に! 巷の童《わらべ》どもが悪口を云わば、用捨はいらない、切ってすてろ! 妻妾の数三十余人! それがどうした、少ないくらいだ! まだまだ美人を集めて見せる! 俺を殺生関白だという! 殺生ならぬ人間がどこにある! 政治に暗く人心離反し衆人俺を笑うという! 伏見の爺《おやじ》が悪いからだ! 爺が政治を執っているからだ。で俺は飾り物だ! 虚器を擁しているばかりだ! 不平もあろう、淫蕩にもなろう、残忍にもなろう、酷薄にもなろう! しかも関白をやめさせようとする。淀君の子を立てようとする。で、俺を迫害する! 僻むのは当然だ当然だ! ……騒げ、はしゃげ[#「はしゃげ」に傍点]、謡え、舞え! 京都の柔弱兒を驚かせてやれ! 注げ! 酒だ! イスパニアの酒だ! ……安南《あんなん》、交趾《こうし》から献上した、紅玉《ルビー》色をした酒を注げ! バタニア胡椒を酒へ入れろ! さぞ舌ざわりがよいだろう。酔が烈しく廻るだろう。……ソレソレこぼれた酒がこぼれた! スラスの懸布で拭くがいい。……鳥銃をもて、鳥銃をもて、往来の奴を撃ってやろう。象眼入の鳥銃がいい! 暹羅《しゃむ》から献じたあいつ[#「あいつ」に傍点]がいい。……沈香で部屋をくゆらせろ、伽羅で部屋をくゆらせろ! 龍涎香で部屋をくゆらせろ!」
 金銀で飾った脇息に倚って、秀次はのべつに喚き立てる。
 座に列なっている妻妾や侍女《こしもと》や、近習役や茶道衆や、幸若太夫の面々は、顔を見合わせて黙っている。
 たった今女が死んだのである。懐刀で自害をしたのである。で、すっかり怯かされている。その上に例の酒乱が出て、秀次の態度が兇暴になった。果たしてどうなることだろう? で、黙っているのである。
 狩野永徳の唐獅子の屏風、海北友松《うみきたゆうしょう》の牡丹絵の襖、定家俊成《ていかしゅんぜい》の肉筆色紙を張り交ぜにした黒檀縁の衝立、天井は銀箔で塗られて居り、柱は珊瑚で飾られて居る。そういう華美の大広間も秀次の喚く兇暴の声で、ビリビリ顫えるばかりである。
 と、秀次は眼を据えたが、一人の侍女へ視線を止めた。
「これこれ其方《そち》は何というぞ」
「妾《わたくし》は千浪《ちなみ》と申します」
 オドオド顫えながら答えたのは、秀次の愛妾|葛葉《くずは》の方が、この頃になって召しかかえた、十七の処女《おぼこ》らしい侍女であった。
「千浪というか、よい名だよい名だ。参れ参れここへ参れ!」

愛妾の死

 淫蕩とそうして兇暴の光を、その眼の中へ漂わせながら、こう秀次に呼びかけられて、千浪はいよいよ顫え出した。
「はい」と云ったものの近寄ろうとはしない。あべこべに葛葉の背後《うしろ》へ隠れて、体を縮めるばかりであった。
「何も恐れることはない。取って食おうとは云っていない。可愛がってやろうと云っているのだ。参れ! 厭かな? 厭なことはあるまい」
 秀次はヒョロヒョロと立ち上ったが、千浪の方へ歩き出した。
 と、そういう様子を見て、血相を変えた女がある。他ならぬ愛妾葛葉の方で、かばう[#「かばう」に傍点]ように千浪を蔽うたが、
「許しておやり遊ばしませ。まだこの子はほんの[#「ほんの」に傍点]処女《おぼこ》で、可哀そうな子にござります」
 しかし葛葉の顔にあるものは、決して同情や愛憐ではなくて、むしろ自分の寵愛を、侍女《こしもと》の千浪に横取られることを、恐れて案じているところの、妾《めかけ》らしい嫉妬の情であった。
「ナニ処女、ははあそうか」
 秀次はカラカラと笑ったが、
「一層よいの、処女に限る。……其方《そち》は幾年《いくつ》だ? 二十九だったかな。年から云っても盛りは過ぎた。もう俺には興味はない。……代りに千浪をよこすがよい」
 秀次はなおもヒョロヒョロと進む。
 あれ! というように声を上げて、千浪が立って逃げ出したところを、飛びかかって秀次は小脇に抱いた。
「もがけもがけ、あばれろあばれろ、そのつどお前の軟かい肌が、俺の体へぶつかるばかりだ! 小鳥よ、捕らえた! 可愛い色鳥!」
 ズルズルと引き立てて行こうとした。
 その秀次の両の足を、しっかりと抱いた者があった。やはり葛葉の方である。
 冷やかに秀次は睨んだが、
「嫉妬か!」
「上様!」
「邪魔をするか!」
「はなしておやり遊ばしませ」
「其方《そち》こそ放せ! 手を放せ!」
「上様、お慈悲にござります」
「ふん」といかにも憎々しく、秀次は鼻を鳴らしたが
「先刻《さっき》自害をした女のように其方も自害をしたいそうな」
「いっそお手にかけて下さりませ」
「望みか!」と云うと秀次は、ドンと片足を持ち上げたが、ウンとばかりに蹴仆した。
 と、悶絶をする声がした、胸を蹴られた葛葉の方は裾を乱して伏し転んだ。
 一瞬間のざわめきの起こったのは、座に侍《はべ》っていた妻妾や近習が、一時に動揺したからであった。その動揺が静まると、反動的の静けさが、大広間一杯に拡がった。
「今夜はこれで二人死んだ。おそらくまだまだ殺されるだろう。殺せ殺せ、目茶苦茶に殺せ! 聚楽の栄華も先が知れている」
 こう呟いた者があったが、刺繍《ぬいとり》の肩衣に前髪立の、眼のさめるような美少年であった。美童は不破伴作《ふわばんさく》であった。
 狂人じみた目付きをして、秀次は大広間を見廻したが、
「目障りになる! 片付けろ! 死骸は厭だ! 井戸へでも沈めろ!」
 それから千浪を引きずったが、
「今夜の伽《とぎ》だ! 嬉しそうに笑え!」
 で、襖を開けようとした。
 と、その襖が向こうから開いて、
「孫七郎様」と云う声が聞こえてきた。優しくて穏かではあったけれど、威厳のある老女の声であった。
 つと立ちいでた人物がある。
 円頂黒衣鼠色の衣裳、手に珠数をつまぐっている。眉長く鼻秀で、額は広く頤は厳しい。澄んではいるが鋭い眼、頬に無数の皺はあるが、かえって顔を高貴にしている。
 これこそ女傑|幸蔵主《こうぞうす》であった。
「相変わらずのお悪戯《いた》でござりますか」
 あたかも子供でもあしらうように、こう秀次に云いかけたが、咎めるような調子はなくて、なだめるような調子があった。そうしてそれが大広間の殺気と、秀次の兇暴の心持とを、平和な甘いものにした。
「幸蔵主の姥か」と鼻白んだように、秀次は千浪の手を放したが、
「俺《わし》はな心が寂しいのだよ」
 云い云い元の座へ押し坐った。
 と、幸蔵主も膝を揃えて、秀次の前へ坐ったが、手を上げると大広間を撫でるようにした。立ち去れという所作なのである。
 これで助かったというように、座に並んでいた妻妾達が近習の武士達と立ち上って、一整に姿をかくした後には秀次と幸蔵主ばかりが残された。

能弁の幸蔵主

 しばらく幸蔵主は秀次の顔を、まじろぎ[#「まじろぎ」に傍点]もせずに見ていたが、いかにもいたわしさ[#「いたわしさ」に傍点]に堪えないように、いたわる[#「いたわる」に傍点]ように話しかけた。
「妾《わたし》が聚楽《じゅらく》へ参りましてこの方、繰返し繰返し申しましたが、まだご決心が付きませぬそうな。よくないことでござりますよ。早うご決心をなさりませ。伏見へおでかけなさりませ。そうしてご弁解なさりませ。太閤殿下と貴郎《あなた》様とは、血縁の伯父姪[#「姪」はママ]ではございませぬか。親しくお二人がお逢いなされて、穏かにお話をなさいましたら、疑いは自然と解けましょう。ご謀反を巧まれたというのではなし、ただ少しご身分柄として、ご醉興の程度が過ぎるという、それだけのお咎めではござりませぬか。恐ろしいことなどはござりませぬ。何の何の恐ろしいことなどが。……本来このような場合には、伏見からお呼びのない前に、貴郎様から参られて、お咎めの故以《いわれ》のないということを、お申しひらきなさるのが、本当なのでござりますよ。しかるに今回はあべこべ[#「あべこべ」に傍点]となって、伏見から参れとのご諚があっても、貴郎様には参られようともなされぬ。これではいかな太閤様でも、ご立腹なされるでござりましょう。と、……云いましても今のところでは、太閤様のご立腹とて、大したものではござりませぬ。お逢いしてお詫びをなされましたら、直ぐにも融けるでござりましょう。決してご心配には及びませぬ。が、只今の機会を逃がして、伏見へおでかけなされぬようなら、それこそ一大事になりましょう。あの治部《ちぶ》様や長盛《ながもり》様が、あの巧弁で讒言などして、太閤様のご聡明を、眩まさないものでもござりませぬ。そうして貴郎様のお嫌いの、淀様などがそこへつけ込み、姦策を巡らさないものでもなく、何やら彼やらの中傷が入って、今度こそ本当に太閤様のお心持が貴郎様から離れて、貴郎様をお憎みなされようも知れぬ。が、是非ともこの機会に、伏見へおいでなさりませ。……あるいは貴郎様におかれましては、秀頼公《ひでよりぎみ》に太閤様が、豊臣の筋目や関白職を、お譲りなさろうと覚し召して、それで貴郎様を伏見へ呼び寄せ、殺すのではあるまいかと、ご懸念遊ばすかも知れませぬが、何の何の太閤様が、そのようなお腹の小さいことを、どうしてお企てなさりましょう。そのご心配には及びませぬよ……」
 と、ここまで云って来て幸蔵主は、繊細微妙な笑い方をしたが、
「お疑いさえ晴れましたら、貴郎様には直ぐにもご帰洛、ここ聚楽第の主として、いぜんとして一ノ人関白職、どのような栄華にでも耽けられます」
 この言葉が何よりも秀次の心を、強く烈しく打ったようであった。
「幸蔵主の姥!」とじっと[#「じっと」に傍点]なったが、
「伏見へ参ってお詫びさえしたら、俺は聚楽へ帰られようかな? 現在の位置に居られようかな?」
「妾をお信じなさりませ。孫七郎様の昔から、膝へ掻き上げてご介抱をした、この幸蔵主ではござりませぬか。今はお偉い関白様でも、妾の眼から見ますれば、可愛らしい和兒《わこ》様でござります。そういう可愛らしい和兒様に何で嘘など申しましょう」
「行こう行こう、伏見へ行こう!」
 子供のように他愛なく、こう秀次は甘えるように云った。
「俺にもお前は懐かしい。母者人《ははじゃびと》のような気持がする。俺はお前の云う通りになろう」
「ようご決心なされました」
「伏見へ行こう! 明日にも行こう」
 秀次は決心をしたのである。
 と、幸蔵主の眼の中へ、憐愍の情がチラツイたが、直ぐにさり[#「さり」に傍点]気なく消してしまった。
 二人はしばらく無言であった。
 と、聚楽第の一所から、人が斬られでもしたような、悲鳴が一声聞こえてきた。
 不意に立ち上った幸蔵主は、スルスルと、欄干の側《そば》へ行った。で、悲鳴のした方を見た。
 主殿《おもや》と廻廊でつながれている奇形な建物の方角から、どうやら悲鳴は聞こえたらしい。
 で、そっちへ眼をやったが、
「今夜はこれで三人斬られた。……それにしても奇形な建物は、何を入れて置く建物なのであろう?」

この部屋は?

 奇形な建物の内部の一間で、老婆が喋舌《しゃべ》りながら歩いている。
「最初は誰も彼もがんばり[#「がんばり」に傍点]ますよ。でもこの部屋へ押し入れられて、ものの五日と経たないうちに、大概は往生をしますよ。そうして今度は自分の方から、懇願をするようになりますよ。お側へ行かせて下さいましと。……だからお前様におかせられましても、もうもうそれこそ間違いなく、この部屋をお出し下さいまし、関白様のご寝所へ、お連れなすって下さいまし、男の肌、男の匂い、男の力、男の意志《こころ》、それが欲しゅうござりますと、有仰《おっしゃ》ることでござりましょうよ。まあまあ出来るだけご随意に、強情をお張りなさりませ。強情が強ければ強いほど、要求も強くなりましょう。……そうしてお前様の要求が、強まれば強まるほど、関白様は喜ばれますので。……お前様は飛び付いて行きましょう。関白様は引っ抱えましょう。……それから幸福になりますので。はいはい、関白様もお前様も! ……これまで一度の間違いもなく、そうなったのでございますよ。ほんとにこれまで幾十人の娘が、この部屋の中へ入れられて、そうして愛慾の餓鬼となって、飛び出して行ったことでござりましょう。……でもお気の毒でござります。この部屋へ入って出て行って、愛慾を遂げた娘たちは、愛慾を遂げたその後では、九分九厘狂人になりました。一時に遂げた歓楽の力が、その人達を疲労させて、そうさせたのでござりましょう。……たしかお紅《べに》殿と有仰いましたな、お紅殿遠慮はいりませぬ。ご馳走をお食べなさりませ。風呂へお入りなさりませ、香水をお浴びなさりませ。床へお伏せりなさりませ。そうしてお眠りなさりませ。今夜が過ぎて明日にでもなったら、効験が現われるでござりましょう。……それでは妾《わたし》は他のお部屋の、他の女の人達を、見廻って来ることにいたしましょう」
 六十あまりの老婆である、脂肪肥りに肥っている。胡麻塩の髪の毛、刺のような鼻、おち窪んだ眼、皮肉な口、それが老婆の風采である。
 部屋の朦朧とした光に照らされ、妖怪じみて立っている。
 その部屋の様の艶妖なことよ! そうして異国じみていることよ!
 部屋の一所に浴槽があって、淡黄色の清らかな湯が、滑石の浴槽の縁をあふれて、床へダブダブとこぼれている。その傍らの壁の高所《たかみ》に、銀製の漏斗《じょうご》型の管があって、そこから香水の霧|水沫《しぶき》が、絶間なく部屋へ吹き出している。が、浴槽は呂宋《ルソン》織りらしい、男女痴遊の浮模様のある、垂布《タピー》の向う側にあるところから、ハッキリ見ることは出来なかった。更に部屋の一所に、一人寝の寝台が置いてあった。張られてあるのは天鵞※[#「糸+戊」、510-下-23]《びろうど》であって、深紅の色をなしていた。が、尋常の寝台ではなく、一度その中へ寝ようものなら、リズムをもって上下へ動き、寝ている人の愛慾を、自然にそそるように出来ていた。寝部屋の天井に描かれてあるのは、曲線ばかりの模様であった。
 …………
 そういう連想を見る人の心へ、起こさせるように出来ていた。
 が、その部屋もバタビヤ織りらしい、これも深紅の垂布によって、入口を蔽われているがために、ハッキリと見ることは出来なかった。
 お紅の坐っている部屋のつくりには、これといって特異なものはなかった。
 ただ天井から下っている、珊瑚と鋼玉と爐眼石とで、要所要所を鏤められた、朝顔型のアレジヤ龕が、朝顔型に琥珀色の光を、床の上へ一ぱいに投げていた、それの光に照らされて、幾個《いくつ》かの異国的の食器の類が、各自《めいめい》の持っている色と形とを、いよいよ美しく見せて居るのが、いちじるしい特色ということが出来る。
 尖形のギアマンの水注がある。そうしてその色は紫である。盛られているのは水だろうか? 喇嘛僧《らまそう》形の薬壺がある。そうしてその色は漆黒である。どのような薬が入っているのであろう? 錫製の椀には獣肉が盛られ、南京産らしい陶器の皿には、野菜と魚肉とが盛られてある。
 そういう器類を前にして、坐っているお紅の姿というものは、むごたらしい[#「むごたらしい」に傍点]までに取り乱していた。髪はほどけて顔へかかり、裾は乱れて脛《はぎ》を現わし、襟はひらけて乳房を見せ、一方の袖が引き千切れて、二の腕があらわに現われている。その腕を烈しく握られたからであろう、一所黒痣が出来ている。

さながら人魚

 お紅の心は乱れていた。思い乱れているのである。今日一日の出来事が、夢かのように思われてならない。
 ――秀次公の使者として、不破小四郎がやって来たこと、聚楽第《じゅらくだい》へやるまいと北畠一家が、最初はげしく争ったこと、とうとう聚楽第へ連れて来られて、眼を奪うような華やかさと、胆を冷すに足るような、荒淫な夜遊にぶつかったこと、秀次が自分を抱えたこと、それに対して抗ったこと、でもズルズルと引きずられたこと、その時懐刀の落ちたこと……最後に気絶をしたことなど……
「ここはどういう部屋なのであろう?」
 お紅は四辺《あたり》を見廻して見た。
 いつか老婆は立ち去ったと見えて部屋には誰もいなかった。
「まるで異国へでも来たようだよ」
 見る物が驚きの種であった。
「正気づいた時にはこの部屋にいた。変なお婆さんが何か云った。一言も妾《わたし》には解《わか》らなかった」
 お紅は空腹を感じて来た。人が気絶から醒めた時には、空腹を感じるものである。
「妾に下された食物なのであろう。では妾は遠慮なく食べよう」
 で、お紅は手を延ばして、順々に食物を食べて行った。
「ああ妾は咽喉《のど》が乾いた。水注の水を飲むことにしよう」
 で、咽喉を潤《うる》おした。
 しかしお紅は知らなかった。それらの食物や水の中に、愛慾をそそる××質が――麝香《じゃこう》とか、芫花《けんか》とか、禹余糧《うよりょう》とか陽起石《ようきせき》とか、狗背《くはい》とか、馬兜鈴《ばとれい》とか、漏蘆《ろろ》などというそういう××質が、雑ぜられてあるということを。
 ただお紅は飲食をしたため、にわかに体が活々となり、元気づいて来たということと、恍惚《うっとり》とした甘い気持が、心に湧いたということを、感ずることが出来たまでであった。
「体が汗にぬれている。妾は風呂へ入ることにしよう」
 で、お紅は立ち上ったが、念のために部屋の中を見廻してみた。
 が、誰も見ていない。
 で、そろそろと帯を解いて。一枚々々衣装を脱ぐ、花の蕾が萼から花弁と、――一枚々々、一枚々々と――だんだんほぐれて行くようである。
 と、雌蕊が現われた。処女の肉体が一糸も纏わず、白く艶々とむき出されたのである。
 余りに清浄であるがために、たとえ誰かが見ていたとしても、何らの邪心さえ起こさなかったであろう。そんなにもお紅の裸体の姿は、清らかで美しいものであった。そうしてお紅のその裸身が、呂宋《ルソン》織りの垂布《タピー》を左右にひらいて、浴槽の部屋へ消えた後には、脱ぎ捨られた紅紫の衣装が、散った花のように残されていた。
 そうしてその頃にはお紅の裸身は、浴槽の中に埋もれていた。例えることが許されるなら、浴槽の中の緑色の湯は、紺碧をなした潮であり、それに埋もれている裸体のお紅は、若い美しい人魚でもあろうか?
 まさしく人魚に相違なかった。乳房から上を、潮から乗り出し、肩の上へ黒髪を懸けいている。快く閉ざした眼の瞼の、上気して薄紅く艶めかしいことは! ポッカリと唇を無心にあけて、前歯の一部分を現わしている。それがやはり艶かしい。
 と、お紅は立ち上ったが、浴槽を出ると蹣跚《よろめ》くように、香水管の下まで行って、起立したまま静まった。裸体から滴がしたたり落ちる。裸体を香水の霧が蔽う。斑《ふ》のない大理石の彫像を、繭から出たばかりの生絹が、眼にも入らない細さをもって、十重に二十重に引っ包み、暈しているのではあるまいかと、そんなようにも見え做される。
 だがお紅は知らなかった。浴槽の緑の湯の中に、熏陸《くんりく》、烏薬《うやく》、水銀郎《すいぎんろう》等の、××質が入れてあったことを。
 そうしてさらに知らなかった。管から吹き出している香水の中に、馬牙硝《ばがしょう》、大腹子《たいふくし》、杜仲《とちゅう》などの、同じく××的香料が、まぜられてあったということを。
 いつまでもお紅は陶然として、香水の霧に巻かれている。
 しかしそれから体を拭って、垂布をくぐって前房へ出て、そうしていぜんとして一糸も纏わず、バタビヤ織りの垂布をひらいて、寝部屋の中へよろめき込み、寝台へ体を横仆えて、桃色の薄布を一枚だけ懸けて、ウトウトと眠りに入った頃から、身内の血潮が騒ぎ立ち、…………、…………、追っかけ追っかけ上ぼって行くのを、堪えることが出来なかった。

漁色の動物

「ああ妾《わたし》はどうしたんだろう? こんな気持になったことは、それこそ産れて初めてだよ」
 薄衣《うすぎぬ》の下で身もだえをした。桃色の薄衣が裸休に準じて、蠱惑的の襞を作っている。胸の辺りが果物のように、両個ムッチリ盛り上っていたが、乳房がその下にあるからであった。下腹部の辺りが円錐形に円《まる》く、その上を蔽うている薄衣の面が、ピンと張り切って弛みのないのは、食物を充分に食べたがために、事実お腹が弾力をもって、張り切っているがためであろう。延ばされた左右の脚の間が、少し開らけていると見える。そこへ掛けられた薄衣の面が、深い窪味をこしらえている。薄衣は咽喉までかかっていたが、その薄衣から抽《ぬきで》たところの、顔の表情というものは、形容しがたく艶麗であった。と、その顔を抑えようとしてか、薄衣の縁から両腕を延ばし、肘から湾のように丸く曲げたが、直ぐに掌《てのひら》で顔を抑えた。と、脇下の可愛らしい窪味が、きわだって[#「きわだって」に傍点]黒く見て取れた。
 烈しく喘いでいるらしい。胸から胴から下腹部から、延ばされた二本の脚の方へ、蜒《うねり》のようなものが伝わって行く。のた[#「のた」に傍点]打っている爬虫類さながらである。
 そういうお紅を載せているところの、天鵞※[#「糸+戊」、513-下-12]《びろうど》張りの異国風の寝椅子は、先刻《さっき》から絶間のないリズムをもって、上へ下へと揺れている。
 お紅の心へ萌したものは、異性恋しさの心持であった。
 その異性の対象は、最初は北畠秋安であった。
「妾《わたし》…………! 妾を…………!」
 で、若々しい健康らしい、秋安の肉体を描いてみた。
「妾はあのお方と約束をした。行末|夫婦《めおと》になりましょうと。……おいで下され! おいで下され! そうして妾を愛撫して下され!」
 次第に心が恍惚として来る。全身が鞣めされ麻痺されて来る。処女《おとめ》心が失われようとする。
「ああ妾には誰でもいい」
 不健全で好色で惨忍な、秀次の顔が浮かんで来た。
 と、秀次に…………甦って来た。ちっとも穢わしく思われない。ちっとも厭らしく思われない。今は全く反対であった。…………希《ねが》っていた。
 だがその次に浮かんで来たのは、不破小四郎の姿であった。
「今直ぐ妾へ来て下さるなら、……………!」
 美しくはあったが上品ではなかった。――そういう不破小四郎の顔が、お紅には上品に見えさえした。
「ああ妾はあの人にだって…………!」
 寝台がリズミカルに揺れている。
 お紅の全身は汗ばんで来た。呼吸が…………。薄衣の下の肉体が…………。
 で、この寝部屋の寝台の上に、…………裸形の女は、決してお紅ではないのであった。単なる漁色的の動物であった。つつましい清浄なお紅という処女は、ほんの少し前に消えたのである。
 しかし漁色の動物は、お紅一人ではないのであった。
 あの近東の回教国の、密房に則って作ったところの、この奇形な建物の内には、同じような部屋が幾個《いくつ》かあって、その部屋々々には漁色狂の女が、無数に籠められて居るらしい。その証拠には四方八方から、極めて遠々しくはあったけれど、…………を柱へでも投げつけるらしい、物の音などが聞こえてきた。
 みだらな唄声なども聞こえてくる。
 だがお紅には聞こえなかった。
 掻きむしられるような…………が、身心をメラメラと焼き立てる。その…………を消し止めようと、お紅は夢中で争っている。
 しかし絶対に勝ち難かった。次第々々に負けて来た。とうとうお紅は打ちのめされた。
「妾は…………! 最初に来た人へ!」
 桃色の薄衣を退《の》けようとする。そうしてお紅は立ち上ろうとした。そうしてお紅は叫ぼうとした。
「お婆さんお婆さん出して下さい! そうでなかったら連れて来て下さい!」
 で、お紅は泣き出した。
 で、もし誰か異性の一人が、ここの寝部屋へ入り込んだならば、お紅は…………。…………を失うであろう。
 そうして今やそういう異性が、奇形な建物の出入口の前へ、ひそかに姿を現わした。
 他ならぬ不破小四郎であった。
 出入口の前に扉がある。内部が厳重にとざされている。その前に立った小四郎は、四辺《あたり》を憚ったひそやかな声で、
「姥はいるか、四塚の姥は!」
 こう呼びかけて聞き耳を立てた。

光消えぬ矣簒奪星

 と、扉の向こう側から、老婆の声が聞こえてきた。
「四塚の姥はこの妾《わたし》で。……何かご用でもござりますかな?」
 嘲笑っているような声である。
「俺《わし》はな、小四郎だ、不破小四郎だ」
「お声で大概|判《わか》りますよ。小四郎様でござりましょうとも」
 嘲笑っているような声である。
「姥か、お願いだ、扉をあけてくれ」
 するといよいよ嘲笑いの声を、四塚の姥は扉の中で立てたが、
「これはこれは何を有仰《おっしゃ》るやら、聚楽第《じゅらくだい》のお侍でありながら、聚楽第の掟をご存知ないそうな。この密房は男禁制、開けることではござりませぬよ」
「何を、莫迦な、そんなことぐらい、この小四郎が知らないものか。知っていればこそ頼むのだ。是非この扉をあけてくれ。そうしてお紅に逢わせてくれ。……お紅という娘はいるだろうな?」
「ハイハイおいででござりますよ。今頃はねんね[#「ねんね」に傍点]でござりましょう。いいご機嫌でな。夢中でな」
「お紅は俺の女なのだよ。それを殿下が横取ったのだよ。いやいや横取ろうとしているのだよ。で、この密房へ入れたのさ。……だがお紅は俺のものだ。渡してくれ、渡してくれ!」
 懇願的の声となった。
「あの娘は本当に美《い》い女だ。聚楽中にもないくらいだ。で、ご愛妾の一人が死んだ。お前も知って居る京極のお方だ。今日まで殿下のご寵愛を、一人占めにして占めていられた方だ、そのお方が懐刀で自害された。お紅の懐中《ふところ》から転び出た刀で、まるでお紅が殺したようなものだ。いや事実殺したのだ。お紅を嫉妬して死んだのだからな。お紅がご愛妾になろうものなら、寵愛を失うと思ったからさ。……そんなにも綺麗なお紅なのだ。俺だって恋しく思うではないか。頼む、あけてくれ、扉をあけてくれ!」
 更にそれから誘惑するように。
「が、勿論頼むには、頼むだけのことはするつもりだ……殿下から拝領の生絹をやろう、殿下から拝領の羅紗布をやろう、殿下から拝領の紋唐革をやろう。もしお前が欲しいというなら、刺繍した黒|天鵞※[#「糸+戊」、515-下-18]《ビロード》をくれてやる。黄金をやろう、背負いきれないほどの黄金を!」
 どうやら最後のこの言葉は、四塚の姥をまどわした[#「まどわした」に傍点]らしい。
 しばらくの間は黙っていたが、諂うように声をかけた。
「黄金を下さると有仰るので?」
「やるよやるよ、背負いきれないほどやるよ」
「まあまあ左様でござりますか、考えることにいたしましょう。妾はすっかり老い枯ちて居ります。この女部屋の宰領役さえ、わずらわしいものになりました。どうぞ閑静な土地へ参って、安楽なくらし[#「くらし」に傍点]をいたしたいもので。それにはお宝が入用《い》りますので。……貴郎《あなた》様がそれを下さるという。有難いことでござりますよ。ではこの扉をあけましょう。ご自身にお入りなさりませ。ご自身に寝部屋へ参られませ」
 すぐにカチカチと音がした。どうやら錠でもあけるらしい。
「有難い有難い礼を云うぞ。そうしたら俺はお紅を連れ出し、遠く他国へ行くことにしよう。そうしてそこで一緒に住む」
 やがてギーという音がした。
 と、扉が一方へあいて、先刻《さっき》方お紅の部屋に在って、お紅に因果を含めていた、老婆が顔をつき出した。すなわち四塚の姥である。
「お入りなされ」
「もう占《し》めたぞ!」
 だがその時どうしたのであろうか、四塚の姥は、
「あッ」と云ったが、ビ――ンと扉をとじてしまった。
 主殿《おもや》とつながれている廻廊を、一つの人影が辷るように、こっちに近寄って来たからである。
「小四郎!」
「おッ、ご宿老様!」
「不忠者!」
 か――ッと一太刀!
 悲鳴が起こって骸が斃れた。
 幸蔵主《こうぞうす》が樓上で耳にしたのは、この小四郎の悲鳴なのであった。
「四塚の姥! 扉をあけろ。……うむ、開けたか、顔を出せ。……お紅という娘が居るはずだ。丁寧にあつかって連れて参れ」
「かしこまりましてござります」
 密房の扉があけられている。
 砂金色の燈火《ともしび》が隙から射して、廊下を明るく照らしている。
 血刀を下げて突っ立っているのは、宿老の木村常陸介であった。
 足許に死骸が転がっている。一刀で仕止められた小四郎の死骸で、肩から胸まで割られている。
 切口から流れた血が溜まって、廊下へ深紅の敷物でも、一枚厚く敷いたようであった。
「聚楽の乱脈はこの有様だ。とうてい長い生命《いのち》ではあるまい。……頼むは五右衛門ばかりだが……」
 懐紙で血刀をゆるゆるとぬぐい、鞘へ納めた木村常陸介は、廻廊の欄干へ体をもたせ、奥庭の木立の頂き越しに、伏見の方の空を見た。
「これは不可《いけ》ない、仕損じたらしい」
 公孫樹《いちょう》の大木の真上にあたって、五帝星座がかかっていて、玄中星が輝いていたが、一ツの簒奪星が流星となって、玄中星を横切ろうとした。
 が、そこまで届かないうちに、消えてなくなってしまったからである。
「可哀そうに五右衛門は捕らえられたらしい」

一年後の花園の森

 こうして一年の日が経った。
 その間に起こった事件といえば、聚楽第の主人の秀次が、高野山で自害をしたことであろう。
 木村常陸介をはじめとして、家臣妻妾が死んだことであろう。
 石川五右衛門が四條河原で、釜茄にされたことであろう。
 で、春が巡って来た。花園の森には松の花が咲き、桜の花が散り出した。そうして、麦の畑では、鶉《うずら》[#「鶉」は底本では「鵜」]がヒヒ啼きを立てはじめた。
 そういう花園の森の中に、三人の男女が坐っていた。香具師《こうぐし》姿の男女である。一人はその名を梶右衛門と云って、六十を過ごした老人であり、一人はその名を梶太郎と云って、その老人の子であった。二十三歳の若者である。そうしてもう一人は萩野であった。香具師姿の萩野であった。
「若い者同志は若い者同志、話をするのが面白かろう。どれどれ俺は見廻って来よう。……奴らあんまり騒ぎ過ぎるて」
 森の奥に大勢の仲間がいて、陽気にはしゃいで[#「はしゃいで」に傍点]いると見えて賑かな喋舌《しゃべ》り声が聞こえていたが、梶右衛門親方は腰をあげると、元気よくそっちへ歩いて行った。
 で、軟かい草を敷いて、ここの境地へ残ったのは、梶太郎と萩野と二人だけであった。
 昼の日が森へ差し込んでいる。その日に照らされた梶太郎の顔は、流浪の人種の若者などとは、どんなことをしても思われないほどに、上品でもあれば純情でもあった。しかし種族は争われないで、情熱的なところがあった。
 じっと萩野を見守っている。烈しい恋の感情が、眼にも口にも漂っている。
 梶太郎は事実燃えるがようにも、萩野を恋しているのであった。そうして幾度か打ち明けもした。しかし萩野はそれに対して、ハッキリした返事をしなかった。と云って萩野は衷心において、梶太郎を嫌っていないばかりか、仄かながらも愛していた。とは云えそれよりも一層烈しく、萩野は秋安に恋していた。未練を残していたのである。そうして過ぐる日その本心を、とうとう梶太郎の耳へ入れた。どんなに梶太郎の失望したことか! これが普通の香具師の、兇暴な若者であったならば、自暴自棄の感情の下に、萩野に対して暴力を揮うか、ないしは秋安を殺そうとして、付け狙って姦策を巡らしたであろう。しかし梶太郎は、反対であった。自分の恋を抑え付けて、萩野を故郷へ送り届けて、秋安の手へ渡そうとした。ちょうどその頃香具師の群は、丹波の亀山に居たところから、そこを引き払って一年ぶりに、この京の地へ来たのである。
 この花園の森の近くに、秋安の邸はあるのだという。そうして日が暮れて夜が来た時、萩野は香具師の群から別れて、秋安の邸へ行くのだという。――では二人での話し合いは、今が最後と見做さなければならない。
 どんなに梶太郎の心持が、暗くて寂しくて悲しいか、云い現わすことさえ出来なかった。
 しかし萩野の心持も、同じように寂しく悲しかった。一年前の月の夜に、この森で首をくくろうとして、野宿をしていた梶右衛門のために、あぶないところを助けられて以来《このかた》、香具師の群の中へ投じて、諸々方々を流浪したが、その間にどれほど梶太郎のために、愛されいたわられ[#「いたわられ」に傍点]大事がられたことか。云い尽くせないものがあった。その人と別れなければならないのである。同じように寂しく悲しかった。
 二人はいつ迄も動かない。
 ところで萩野の心の中には、さらに別の不安があった。
「秋安様には薄情な妾《わたし》を、お許しなすって下さるかしら?――そうしていまだにこの妾を、昔どおりに愛して下さるかしら?」――と云うのが萩野の不安なのであった。
 しかるに萩野のそういう不安は、全然別途の趣の下に、以外に解決が付けられることになった。

ああ二組の幸福の夫婦

 数人の男女の話し声が、森の一方から聞こえてきたが、次第にこっちへ近寄って来て、間もなく姿を現わした。一人は北畠秋安で引き添うようにして美しい婦人が、――それは他ならぬお紅であったが、侍女を従えて歩いて来た。二人はどう見ても夫婦であった。そうして事実夫婦なのであった。その証拠さえそこにある、侍女が嬰兒《うぶこ》を大切そうに、胸の辺りに抱いている。
 話しながらゆるゆると歩いて来る。
「今年も松の花が咲くようになった。思い出の多い松の花だ。この森にも思い出が多い。……あれからあの女はどうしたことやら」
 感慨にたえないというように、秋安はしめやかに呟いたが、
「どこぞで幸福にくらして居ればよいが」
「萩野様のことでございますか?」
 こうお紅は訊き返したが、
「もうどうやら貴郎《あなた》様には、怨みも憎しみもなくなられたようで」
「今では幸福をいのるばかりだ。……これもお前のお蔭なのだよ」
「まあまあ何故でござりましょう?」
「お前が俺と一緒になって、俺を幸福にしてくれたからだ」
「もう愛しても居りませぬので?」
「愛するものはお前ばかりだ」
「いいえ、そうしてこの秋秀も」
 こう云ってお紅は笑《え》ましそうに、嬰兒の方へ顔を向けた。
「可愛い坊や、可愛い坊や……妾は幸福でござりますよ」
「自分で幸福でいる時には、他人の幸福も願うものだよ。……萩野が幸福であるように」
「可愛らしい香具師さんが居りますのね」
 こう云ってお紅が足を止めたので、秋安もふと足を止めた。
 そうして萩野へ眼をやったが、萩野はその前から、深く俯向いていたがために、秋安には顔が見られなかった。そうして姿は香具師風である。萩野であることが何で判《わか》ろう。で、ゆるゆると行き過ぎた。
 が、お紅は気安そうに、二人の香具師の前まで行った。
「お怒りなすっては困ります。私達は幸福なのでございます。どうぞ貴郎《あなた》方ご夫婦にも、祝っていただきたいと存じます。粗末な物ではござりますが、私達の志でござります。お受け取りなすって下さいまし」
 云い云いお紅は簪を抜いたが、萩野の前へそっ[#「そっ」に傍点]と出した。
「はい、有難う存じます」
 顔を上げた萩野の眼の中に、あふれる涙が光っていた。
「お美しい貴郎様のお志、いつ迄も忘れはいたしませぬ。……幸福におくらし遊ばすよう、おいのり致すでござりましょう」
「貴郎方ご夫婦もお幸福に……」
 施しを快く受けられたので、お紅は喜悦を感じたらしい。ちょっと会釈すると身をひるがえして、行き過ぎた秋安の後を追って灌木の裾を向こうへ廻った。
 と、じいいっとその後を、萩野は涙の眼で見送ったが、突然梶太郎の膝の上へ、しっかりと、顔を押しあてた。
「ねえ行きましょうよ、遠い他国へ、流浪しましょうよ、二人で一緒に!」
 そうして烈しく咽び泣いた。
「…………」
 茫然とした若者の梶太郎には、何故そうもにわかに萩野の心が、一変したかが解《わか》らなかった。それは実際解らなかったが、一緒に流浪をしようという、萩野の心は嬉しかった。嬉しい以上に有難かった。
「萩野さん、私はお礼を云うよ。ああ行こう、一緒に行こう。……そうしてお前さんは私のものだ」
「貴郎のものでございますとも! ただ今の若い美しいお方も、祝福をして下さいました。……私達二人を! 夫婦と見做して!」
「私の妻だ!」と抱きかかえた。その梶太郎に抱かれたままで、萩野はうっとり[#「うっとり」に傍点]と呟いた。
「あの人達は京都《みやこ》に住む! 賑やかな明るい派手やかな京都に! そうしてそこでお暮らしになる。幸福に、幸福に、幸福に! ……でも私達は林や野や、小さい駅《うまやじ》や宿《しゅく》で住む! でもちっとも違いはない。幸福にさえ暮らそうとしたら……きっと幸福にくらすことが出来る!」
「わし[#「わし」に傍点]は今でも幸福だよ、たった今|私《わし》は幸福になった。……しかし、お前には、秋安というお方が……」
「何にも有仰《おっしゃ》って下さいますな。……もう逢ったのでございます。……逢ったも同じなのでございます……」
 拭くに由無い満眼の涙! 萩野の眼頭から流れ出たが、頬を伝わって頤まで来た。昔の恋を思い断って、新しい恋に生きようとする、悲しみと喜びの涙なのである。
 花園の森は昼の日に明るく、草木と人とを照らしている。その中で桜花が蒸されている。
 が、間もなく森の中から、十数人の香具師達が、流浪の人に特有の、軽快な自由な足どりで、笑いさざめきながら現われた。
 近江をさして行くらしい。
 その先頭に歩いて行くのは、新婿新妻を想わせるところの、梶太郎とそうして萩野であった。
 肩と肩とを寄せ合って、つつましやかに歩いて行く。
 野には陽炎、小鳥の声々! そうして行手にあるものは、新しい恋と生活とである。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻五」未知谷
   1993(平成5)年7月20日初版
初出:「講談倶楽部」
   1928(昭和3)年8月
※小見出しの終わりから、行末まで伸びた罫は、入力しませんでした。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年6月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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国枝史郎

銀三十枚—– 国枝史郎

「おいおいマリア、どうしたものだ。そう嫌うにもあたるまい。まんざら[#「まんざら」に傍点]の男振りでもない意《つもり》だ。いう事を聞きな、いう事を聞きな」
 ユダはこう云って抱き介《かか》えようとした。
 猶太《ユダヤ》第一美貌の娼婦、マグダラのマリアは鼻で笑った。
「ふん、なんだい、金もない癖に。持っておいでよ、銀三十枚……」
「え、なんだって? 三十枚だって? そんなにお前は高いのか」
「胸をご覧、妾《あたし》の胸を」
 マリアはグイと襟を開けた。盛り上った二顆の乳が見えた。ユダはくらくら[#「くらくら」に傍点]と目が廻った。
「持っておいでよ、銀三十枚。……そのくらいの値打はあろうってものさ」
「マリア、忘れるなよ、その言葉を。……銀三十枚! よく解《わか》った」
 ユダは部屋を飛び出した。引き違いにセカセカ入って来たのは、革|商人《あきゅうど》のヤコブであった。
「さあさあマリア、銀三十枚だ。受け取ってくれ、お前の物だ。……その代わりお前は俺のものだ」
 革財布をチャラチャラ揺すぶった。
「どれお見せ!」と引っ攫ったが、チラリと財布の底を見ると、
「ほんとにあるのね、銀三十枚。……じゃアいいわ、さあおいで」
 寝室の戸をギーと開けた。
 充分満足した革商人が、彼女の寝室から辷り出たのは、春の月が枝頭へ昇る頃であった。
 マリアは深紅の寝巻を着、両股の間へ襞をつくり、寝台の縁へ腰かけていた。
 銀三十枚が股の上にあった。
「畜生!」と突然彼女は叫んだ。
「一杯食った! ヤコブ面に!」
 三十枚の銀をぶちまけ[#「ぶちまけ」に傍点]た。
「マリア!」とその時呼ぶ声がした。
「誰《だアれ》!」と彼女は娼婦声で云った。
「解らないのかい。驚いたなあ」
「あら解ってよ。お入んなさい」
 彼女の情夫、祭司の長、カヤパが寝室へ入って来た。
「これはこれは」と彼は云った。
「銀《しろがね》の洪水と見えますわい」
「よかったらお前さん持っておいでな」
「気前がいいな。そいつアほんとか?」
 カヤパは勿怪《もっけ》な顔をした。

 イエスと十二人の使徒の上に、春の夜が深く垂れ下っていた。ニサン十三夜の朧月は、棕樹《そうじゅ》、橄欖《かんらん》、無花果《いちじく》の木々を、銀鼠色に燻らせていた。
 肉柱《にくけい》の香、沈丁《ちんちょう》の香、空気は匂いに充たされていた。
 十三人は歩いて行った。
 小鳥が塒《ねぐら》で騒ぎ出した。その跫音《あしおと》に驚いたのであろう。
 と、夜風が吹いて来た。暖かい咽るような夜風であった。ケロデンの渓流《ながれ》、ゲッセマネの園、そっちの方へ流れて行った。エルサレムの方へ流れて行った。
 月光は黎明を想わせた。
 十三人の顔は白かった。そうして蒼味を帯びていた。練絹のような春の靄! それが行く手に立ち迷っていた。
 イスカリオテのユダばかりが、一人遅れて歩いていた。
 ユダがイエスを売ったのは、マグダラのマリアの美貌ばかりに、誘惑されたのではないのであった。
 彼にはイエスが疑わしく見えた。
 イエスに疑念を挟《さしはさ》んだのは、かなり以前《まえ》からのことであった。ユダにはイエスが傲慢に見えた。それが不愉快でならなかった。
 女の産んだ最大の偉人、バプテズマのヨハネが礼を尽くし、二人の使者をよこした時、イエスはこういう返辞をした。
「瞽《めし》いた者は見ることが出来、跛《あしな》えた者は歩くことが出来、癩病《やめ》る者は潔まることが出来、聾《し》いた者は聞くことが出来、死んだ者は復活《よみが》えることが出来、貧者は福音を聞かされる。俺《わし》に来たる者は幸福《さいわい》である」と。
 その時ユダはこう思った。
「これは途方もない傲慢な言葉だ。仮りにも預言者と称する者が、何ということを云うのだろう」
 しかしユダはこんなことぐらいで、決してイエスを裏切ったのではなかった。
 浅薄《あさはか》な感情のためではなく、もっと深刻な思想のために、彼はイエスを裏切ったのであった。
「神とは一体何だろう?」
 ユダはここから発足した。
「宇宙の生物と無生物とを、創造し支配する唯一の物! 猶太教《ユダヤきょう》ではこう説いている。そうしてイエスもこう説いている。だが果たしてそうだろうか?」

 ユダはその説とは反対であった。
「宇宙は決して支配されてはいない。万象は勝手に動き廻っている。勝手に生れ死んでいる。神! そんな物は存在しない」
 イエスの行なう様々の奇蹟も、アラビヤ人の手品としか、ユダの眼には映らなかった。
 そうしてそういう幼稚な奇蹟に、惑い呆れ驚嘆し、「イスラエルの救い」だと立ち騒ぐ、愚にもつかない狂信者や、そのイエスの奇蹟に手頼《たよ》り「神の国」を建てようとする愛国狂が、ユダの眼には滑稽に見えた。
 ガリラヤの湖水が眼の下に見える美しい小さい丘の上で、またぞろイエスが手品を使い、五千人の信者を熱狂させ、その喝采の鳴り止まぬ中に、一人姿を眩ました時も、ユダは冷やかに笑っていた。
 そのイエスがカペナウムの村で、こう信者達に説いた時には、ユダは本当に怒ってしまった。
「お前達が俺《わし》を尋ねるのは、パンを貰ったためだろう? だがお前達よそれは可《よ》くない。朽ちる糧のために働かずに、永生の糧のために働くがいい。……神は今やお前達へ、真のパンをお与えなされた。この俺こそそのパンだ。俺に来る者は飢えないだろう、俺を信ずる者は渇かないだろう」
「莫迦な話だ」とユダは思った。
「預言者どころの騒ぎではない。彼奴《あいつ》はひどい[#「ひどい」に傍点]利己主義者だ。途方もない妄想狂だ。『朽ちる糧のために働かずに、永生の糧のために働け』という。これこそ妄想狂の白昼夢だ。永生とは一体何だろう? 生命《いのち》ある物はきっと死ぬ。永存する物は無生物だけだ。『俺に来る者は飢えないだろう。俺を信ずる者は渇かないだろう』ではお前へ行かない者は飢えるということになるのだな。ではお前を信じない者は、渇くということになるのだな。彼奴は要するに大山師だ!」
 ユダがイエスを裏切ったのは、こういう考えの相違からであった。

 十三人は歩いて行った。
 次第に夜が更けてきた。月光は少しずつ冴えて来た。十三人は痩せて見えた。木乃伊《ミイラ》のように痩せて見えた。
 ユダ奴が俺を売ったらしい。パリサイ人の追手達が、身近に逼っているらしい。
 ――イエスはすでに察していた。彼の動作は狂わしかった。いつものような平和《おだやか》さがなく、木の根や岩に躓《つまず》いた。そうして幾度も休息した。それでもそのつど説教した。
 楊《やなぎ》の茂みを潜りぬけ、ケロデンの渓流《ながれ》を徒歩《かち》渡りし、やがてゲッセマネの廃園へ来た。
 イエスの体は顫えていた。ひどく恐れているらしかった。
「さあお前達は監視《みまも》っていろ。……ヨハネ、ペテロ、ヤコブは来い。俺と一緒に来るがいい」
 こう云ってイエスは奥へ進んだ。
「俺は一人で祈りたい。お前達も帰って監視しろ」
 ついに三人をさえ追い払った。
 イエスはよろめき躓きながら、一人奥へ入って行った。
 と、林が立っていた。楊、橄欖《かんらん》の林であった。イエスはその中へ入って行った。そこへは月光は射さなかった。禁慾行者の禅定のような、沈黙ばかりが巣食っていた。
 突然イエスは自分の体を、大木の根元へ投げ出した。
「もし出来ることでございましたら、どうぞ私をお助け下さい! 父よ、あなたは万能です」
 白痴《ばか》か、子供か、臆病者か、そんなような憐れな声を上げて、こうイエスはお祈りをした。

 ユダは後を尾行《つけ》て来た。菩提樹の陰へ身を隠し、そこから様子をうかがった。
 彼はすっかり満足した。彼は行なった自分の行為の、疾《やまし》くなかった事を知ることが出来た。
「彼奴《あいつ》はイエスだ、ただイエスだ。なんの彼奴が預言者《キリスト》なものか! 預言者《よげんしゃ》なら助けを乞うはずはない。例の得意の奇蹟というので、さっさと難を遁れるはずだ。しかし」と彼は考え込んだ。
「いざ捕縛という間際になり、素晴らしい奇蹟を現わしたら? そうして難を遁れたら?」
 彼は心に痛みを感じた。
「絶対にそんな事があるものか。だがもし万一あったとしたら、あるいは彼奴は預言者かも知れない。そうして彼奴が預言者なら、俺は潔く降伏しよう。とまれ預言者か大山師か、それを確かめる方便としても、俺が彼奴を売ったのは、決して悪い思い付きではない」
 梢から露が落ちて来た。楊の花が散って来た。イエスの祈る咽ぶような声が、いつ迄もいつ迄も聞こえていた。
 やがてイエスは立ち上り、使徒達の方へ帰って来た。
 不安と疲労《つかれ》とで使徒達は、木の根や岩角を枕とし、昏々《こんこん》として眠っていた。
 イエスは一人々々呼び起こした。
「眠っては不可《いけ》ない。お祈りをしよう」
 ユダを抜かした十二人の者は、そこで改めて祈りを上げた。
 しかしどうにも眠いと見えて、使徒達はまたも眠り出した。[#「眠り出した。」は底本では「眠り出した、」]麻痺的に病的に眠いらしい。
「また眠るのか、何ということだ! 惑《まど》いに[#「惑《まど》いに」は底本では「惑《まどい》いに」]入らぬよう祈るがいい」
 イエスは如何《いか》にも寂しそうに云った。
 と、にわかに叫び声を上げた。
「時は近づいた! 遣って来た!」
 麓の方を指さした。
 山葡萄の茂みに身をひそめ、ユダは様子をうかがっていたが、この時麓を隙かして見た。
 打ち重なった木の葉を透し、チラチラ松火の火が見えた。兵士達の持っている松火であった。時々兵士達の兜が見えた。松火の火で輝いていた。剣戟の触れ合う音もした。
「うん、来たな」とユダは云った。
 それからその方へ小走って行った。
 ユダを認めると兵士達は、足を止めて敬礼した。その先頭にマルコがいた。祭司長カヤパの家来であった。
「マルコ」とユダは近寄って行った。
「接吻が合図だ。間違うなよ」
「大丈夫だ。大丈夫だ」
 そこで一隊は歩き出した。傍路《わきみち》からユダは先へ廻った。
「山師なら悲しみ恐れるだろう、預言者なら奇蹟を行なうだろう。……二つに一つだ。面白い芝居だ」
 ユダは走りながらワクワクした。
 マルコと兵士の一隊は、イエスと使徒との前まで来た。
 使徒達はイエスを囲繞《とりま》いた。
 イエスはマルコを凝視したが、その眼は火のように輝いていた。だがその態度はおちついて[#「おちついて」に傍点]いた。もう顫えてはいなかった。死海の水! そんなように見えた。
 その時|無花果《いちじく》の茂みを分け、つと[#「つと」に傍点]ユダが進み出た。
「ラビ、安きか!」とユダは云った。
 そうしてイエスを抱擁した。それから突然接吻した。
 イエスの顔はひん[#「ひん」に傍点]曲がった。琥珀のように青褪めた。唇と瞼とが痙攣した。
 が、その次の瞬間には、以前《まえ》の態度に返っていた。
 兵士の方へ寄って行き、それからイエスはこう訊いた。
「お前達は誰を訊《たず》ねるのだ?」
「ナザレのイエスを」とマルコが云った。
「ナザレのイエスを? では俺だ」
 マルコと兵士とは後退りした。
「お前達は誰を訊ねるのだ?」
 またイエスはこう訊いた。
「ナザレのイエスを」とマルコが云った。
「それは俺だと云っているではないか。……お前達は俺を発見《みつけだ》した。……この者達には罪はない。この者達を行かせてくれ」
 こう云ってキリストは使徒達を眺め、行けと云うように手を上げた。使徒達は地上へ跪《ひざまず》いた。幾度も土へ接吻した。それから祈祷の声を上げた。
 ユダだけは一人立っていた。

 それは劇的の光景であった。
 だが何物にも変化はなかった。
 沈むべくして月が沈んだ。その代わり十字星が輝いた。遥かに湛えられた地中海では、波がその背を蜒らしていた。ガリラヤの湖、ヨルダン川では、飛魚が水面を飛んでいた。ピリピの分封地、ベタニヤの町、エリコ、サマリアの小村では、人々が安らかに眠っていた。
 ひとりの祭司長の庭園では、赤々と焚き火が燃えていた。パリサイの学者、サンヒドリンの議員、それらの人々が焚火の側《そば》で、曳かれて来るキリストを待っていた。
 それは劇的の光景であった。
 使徒の一人、シモン・ペテロが、突然叫んで飛び上った。腰の刀を引き抜いた。マルコの耳がその途端、木の葉のように斬り落とされた。
「ペテロ!」とキリストは手で制し、斬られた敵を気の毒そうに見た。
「父から贈《くだ》された盃だ」
 彼は両手を差し出した。
 彼は、従容《しょうよう》と縄を受けた。

 誰も彼もみんな立ち去った。橄欖山《かんらんざん》は静かになった。
 ユダ一人が残っていた。
「悲しみもせず、また奇蹟も行なわず、死を希望《のぞ》んでいた人の様に、従容と縛に就《つ》こうとは? 一体|彼奴《あいつ》は何者だろう?」
 ユダはすっかり驚いてしまった。悉皆目算が外れてしまった。
 楊《やなぎ》の木に体をもたせかけ、暁近い空を見た。
 どうにも不安でならなかった。

 イエスに対する審判は、その夜のうちに行なわれた。
 祭司長カヤパはこう訊いた。
「お前は本当に神の子か?」
「そうだ」とイエスは威厳をもって云った。
「人の子|大権《たいけん》の右に坐し、天の雲の中に現われるだろう。お前達はそれを見るだろう」
 カヤパの司どる猶太教《ユダヤきょう》からすれば、神の子だと自ら称することは、この上もない冒涜であった。その罪は将《まさ》に死に当たった。
 人を死罪に行なうには、羅馬《ローマ》政府の方伯《ほうはく》たるピラトに聞かなければならなかった。
 サンヒドリンの議員やパリサイ人や、祭司長カヤパは夜の明ける迄、愉快そうにイエスを嬲り物にした。
 やがて夜が明けて朝となった。羅馬公庁ピラトの邸へ、カヤパ達はイエスをしょびいて[#「しょびいて」に傍点]行った。
 それは金曜日にあたっていた。おりから逾越《すぎこし》の祝日《いわいび》で、往来には群集が漲っていた。家内では男女がはしゃいで[#「はしゃいで」に傍点]いた。
 ピラトは思慮のある官吏であった。しかし心が弱かった。
 イエス一人を庁内へ呼び、
「お前は猶太の王なのか?」
 彼は先ずこう訊いた。
「我国はこの世の国ではない」
 これがイエスの返辞であった。
「とにかくお前は王なのか?」
「そうだ」とイエスは威厳をもって云った。
「俺はそのために生れたのだ。……すなわち真理を説くために」
 イエスの謂う所の王の意味と、キリストの謂う所の国の意味とを、ピラトはそこで直覚した。
 玄関へ出て彼は云った。
「この男には罪はない」
 しかし群集は喜ばなかった。イエスを戸外《そと》へ引き出した。棘《いばら》の冕《かんむり》を頭に冠せ、紫の袍を肩へ着せ、そうして一整に[#「一整に」はママ]声を上げた。
「十字架に附けろ! 十字架に附けろ!」
 エルサレム城外カルヴリの丘、そこへキリストを猟り立てて行った。
 草の芽が満地を蔽っていた。樹立が丘を巡っていた。祭壇から煙りが立ち昇り、犠牲の小山羊が焚かれていた。殿堂では鐘が鳴らされていた。
 イエスは十字架へ附けられた。
 彼の苦しみは三時間つづいた。
「事は終った」と彼は云った。
 彼の生命《いのち》が絶えた時、殿堂の幕が二つに裂け、大地が顫え墓が開らけた。

 この頃ユダは橄欖山《かんらんざん》を、狂人《きちがい》のように歩いていた。
「彼は恐れず悲しまず、従容《しょうよう》として死んで行った。とにもかくにも凡人ではない。……では彼奴《あいつ》は預言者か?」
 ユダにはそうは思われなかった。
「彼奴は帰する所妄信者なのだ。ただ預言者だと妄信しただけだ」
 ユダはある歌を想い出した。それはイエスが幼《ちいさい》時から、愛誦したという歌であった。
[#ここから3字下げ]
至誠《まこと》をもて彼道を示さん
彼は衰《おとろ》えず落胆《きおち》せざるべし
道を地に立て終るまでは
彼は侮どられて人に捨られ
悲哀《かなしみ》の人にして悩みを知れり
[#ここで字下げ終わり]
「なるほど」とユダは呟いた。
「彼奴の如何《いか》にも好きそうな歌だ。そっくり彼奴にあてはまる[#「あてはまる」に傍点]からな」
「侮どられて人に捨られぬ」
「ほんとに侮どられて捨られた」
「彼は衰えず落胆せざるべし」
「これも全くその通りだ。最後まで落胆しなかった。……はてな、それではあの男は、そういう事を予期しながら、なおかつ道を立てようとして、ああ迄精進したのだろうか?」
 ユダはにわかに行き詰まった。
「よし預言者でないにしても、妄信者以上の何者か、偉大な人間ではなかったろうか?」
 彼の胸は痛くなった。
「いけないいけないこういう考えは! 世の中に偉人なんかありはしない。あると思うのは偏見だ。生きている物と死んでいる物、要するにただそれだけだ。そうして生物の世界では、雄と雌とがあるばかりだ。雌だ! 女だ! あっ、マリア!」
 ユダは周章《あわて》て懐中《ふところ》を探った。銀三十枚が入っていた。

 マグダラのマリアは唄っていた。

   キリスト様が死んだとさ

「ふん、いい気味だ、思い知ったか。……妾《わたし》は最初《はじめ》あの人が好きで、香油《においあぶら》で足を洗い、精々ご機嫌を取ったのに、見返ろうとさえしなかったんだからね。そこでカヤパを情夫《いろ》にして、進めてあの人を殺させたのさ」
「マリア!」とユダが飛び込んで来た。
「銀三十枚! さあどうだ!」
 ユダはマリアを抱き縮《すく》めた。
「まあお待ちよ、どれお見せ」
 革財布をひったくり[#「ひったくり」に傍点]、一眼中を覗いたが、
「お気の毒さま、贋金だよ! 一度は妾も瞞《だま》されたが、へん、二度とは喰うものか! お前、カヤパに貰ったね。妾がカヤパに遣ったのさ」

 ここ迄話して来た佐伯《さえき》氏は、椅子からヒョイと立ち上ると、ひどく異国的の革財布を、蒐集棚から取り出した。
「まあご覧なさい、これですよ、いまの伝説《はなし》の銀貨はね」
 ドサリと投げるように卓《テーブル》の上へ置いた。
「私がエルサレムへ行った時、ある古道具屋で買ったもので勿論本物ではありません。あっちにもこっちにもあるやつでね。漫遊者相手のイカ物ですよ。……だが面白いじゃアありませんか、今も猶太《ユダヤ》の人間は、私がお話ししたように、キリストとユダとマリアとをそう解釈しているのですよ。そうして銀貨まで拵えて、理《もっとも》らしく売り付けるのです。猶太人に逢っちゃ敵《かな》わない。一番馬鹿なのがキリストで、その次に馬鹿なのがイスカリオテのユダ、そうしてその次がマリア嬢で、一番利口なのが革商人ということになるのですからね」
 私は銀貨を手に取った。厚さ五分に幅一寸、長さ二寸という大きな貨幣《もの》で、持ち重りするほど重かった。そうして昨日《きのう》鋳たかのように、ひどくいい色に輝いていた。
「恐ろしく重いじゃアありませんか」
 私は吃驚《びっくり》して佐伯氏に云った。
「ほんとに猶太の古代貨幣は、こんなに恐ろしく重かったのでしょうか?」
「さあ、そいつは解《わか》りません。だが日本の天保銭なども、随分大きくて重かったですよ。……紋章が面白いじゃアありませんか」
 いかにも面白い紋章であった。
「どうです私の今の話、小説の材料にはなりませんかね」
「ええなりますとも大なりです」
 こうは云ったが私としては、そう云われるのは厭であった。大概の人は小説家だと見ると、定《き》まって一つの話をして、そうして書けというからであった。もう鼻に付いていた。
 とは云え確かにこの話は、書くだけの値打はあるらしい。偶像破壊、価値転倒、そうして無神論、虚無思想が、色濃く現われているからであった。勿論書くならイスカリオテのユダを、当然主人公にしなければなるまい。

「是非お書きなさい、お進めします」
 旅行家でもあり蒐集家でもある、佐伯準一郎氏はこう云った。
「ついては貨幣をお貸ししましょう。その紋章を調べるだけでも、趣味があるじゃアありませんか。一枚と云わず三十枚、みんな持っておいでなさい。実は私は明日か明後日、またちょっと旅行に出かけますので、当分それは不用なのです。紛失《なく》されてはいささか困りますが、紛失なるような物ではなし、お貸しするとは云うものの、その実保管が願いたいので、ナーニご遠慮にゃア及びません。……それはそうと随分重い、とても持っては帰れますまい。ひとつ貸自動車《タクシ》を呼びましょう」
 事実私はその貨幣にも、貨幣の紋章にも興味があった。そうして物語に綴るとしても、何かそういう貨幣のような、物的参考があるということは、確実性を現わす上に、非常に便利に思われた。
 私は遠慮なく借りることにした。
 その中タクシがやって来た。
 佐伯氏は貨幣を革財布へ入れ、そうしてタクシへ運び込んでくれた。
「いずれ旅行から帰りましたら、お手紙を上げることにいたしましょう。いや私がお訪ねしましょう。文士の家庭を見るということも、ちょっと私には興味があるので、しかしこんなことを申し上げては、はなはだ失礼かもしれませんな」
 佐伯氏は玄関でこんなことを云った。タクシがやがて動き出した。
「左様なら」と私は帽子を取った。
「左様なら」と佐伯氏は微笑した。
 だが私にはその微笑[#「微笑」は底本では「微少」]が、ひどく気味悪く思われた。
 名古屋の夜景は美しかった。鶴舞公園動物園の横を、私のタクシは駛《はし》って行った。

 私のタクシは駛って行った。
 公園は冬霧に埋もれていた。
 公園を出ると町であった。町の燈も冬霧に埋もれていた。
 名古屋市西区児玉町、二百二十三番地、二階建ての二軒長屋、新築の格子造り、それが私の住居《すまい》であった。
 そこへタクシの着いたのは、二十五分ばかりの後であった。
 妻の粂子《くめこ》は起きていた。
「遅かったのね」と咎めるように云った。私をしっかりと抱き介《かか》えた。それから頬をおっ[#「おっ」に傍点]付けた。これが彼女の習慣であった。子供のように扱うのであった。
 二階の書斎へ入って行った。
「おい好い物を見せてあげよう。これはね、猶太《ユダヤ》の銀貨なのさ」
 財布から銀貨を取り出した。
「まあやけ[#「やけ」に傍点]に大きいのね」
 彼女は愉快そうに笑い出した。彼女の歯並は悪かった。上の前歯は二本を抜かし、後は全部|義歯《いれば》であった。笑うと義歯が露出した。それが私には好もしくなかった。だがその眼は可愛かった。眼尻の方から眼頭の方へ、一分ほど寄った一所の、下瞼が垂れていた。といって眼尻が下っているのではなかった。眼尻は普通の眼尻なのであった。ただそこだけが垂れていた。それがひどく[#「ひどく」に傍点]彼女の眼を、現代式に愛くるしくした。それは子供の眼であった。どこもかしこも発育したが、そこばっかりは子供のままに、ちっとも発育しなかったような、そういう愛くるしい眼なのであった。その眼がその眼である限りは、彼女の純潔は信頼してよかった。
 その眼で愉快そうに笑った。
 私はそこで説明した。
「これはね、途方もない贋金なのさ。銀のようにピカピカ光っているだろう。だが銀じゃアないんだよ。鉛かなにかが詰めてあるのさ。借りて来たんだよお友達からね。こいつで物語を作ろうってのさ。まあご覧よ紋章を」
 紋章はみんな異《ちが》っていた。三十枚が三十枚ながら、別々の紋章を持っていた。貨幣の縁を囲繞《とりまい》ているのは、浮彫にされたローレルの葉で、その中に肖像が打ち出されてあった。肖像が異っているのであった。私は一つを取り上げて見た。長髪を肩までダラリと下げた、悲しそうではあるが高朗とした、間違いない基督《キリスト》の肖像が、その貨幣には打ち出されてあった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。頭の禿げた眼の落ち込んだ、薄い唇を噛みしめた、意志の権化とでも云いたげな、老人の姿が打ち出されてあった。使徒ペテロに相違なかった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。火のように髪を渦巻かせ、瞑想的の眼を空へ向け、感覚的の唇を幽かに開けた、詩人のような人物が、ローレルの葉に囲繞かれていた。黙示録の著者に相違なかった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。丸顔で無髯で眼の細い、平和的の使徒の肖像が、その貨幣には打ち出されてあった。最初にサマリヤへ布教した、ピリポの肖像に相違なかった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。無気力ではないかと思われる程、痩せた皺だらけの貧相な顔が、その貨幣には打ち出されてあった。ヘロデ王の兇刃によって、無慚に殺された使徒ヤコブ、その肖像に相違なかった。
 もう一つの貨幣を取り上げて見た。それにも肖像が打ち出されてあった。
「うん、こいつはイスカリオテのユダだ」
 私は直《す》ぐに知ることが出来た。そんなにもそれは特色的であった。一見醜悪の容貌であった。だが仔細に見る時は、恐ろしく勝れた容貌であった。先づ顱頂部が禿げていた。しかし左右の両耳から、項へかけて髪があった。つまり頭の後半を、髪が輪取っているのであった。これが一見不愉快に見えた。しかしこれは一方から云えば、学者などに見る叡智の相で、決して笑うことの出来ないものであった。額が不自然に狭かった。これも一見不愉快であった。先天的犯罪人の相でもあった。が、これとて一方から云えばソクラテスの額に似ていると云った、一種病的な天才等に、往々見受けられる額であった。両眼がひどく[#「ひどく」に傍点]飛び出していた。枝の端などで突かれなければよいが、こんな事を思わせる程飛び出していた。だがやっぱりこの眼付きも、ソクラテスの眼付きに似ているのであった。非常に智的な眼付きなのであった。鼻は所謂《いわゆ》る獅子鼻であった。唇がムックリ膨れ上っていた。二つながら強い意志の力の、表現だと云ってもよさそうであった。反逆性のあることを、さながらに示した高い頬骨、精神的苦悶の著しさを、そっくり現わした満面の皺、断じて俺は妥協しない! こう言いたげな根張った顎、そうして頸は戦闘的に、牡牛のように太かった。
 顔全体を蔽うているのは、懐疑的の憂鬱であった。
「いかなる物をも信じないよ」
 こう云っているような顔であった。

「なるほど」と私は心の中で云った。
「従来の美学から云う時は、これは将《まさ》しく非審美的の顔だ。女や子供には喜ばれまい。だがしかしこの顔こそ、本当の人間の顔ではないか」
 基督《キリスト》の肖像と並べて見た。洵《まこと》に面白い対照であった。信仰、柔和、愛、忍従、これが基督の肖像に、充ち溢れている特徴であった。全体が細身で美しく、古典的に調っていた。力が非常に弱かった。虚無、憤怒、憎悪、反抗、これがユダの肖像に、行き渡っている特色であった。全体が野太く荒削りで、近代的に畸形であった。力が恐ろしく強かった。
「これは極端と極端だ、両立すべきものではない。師弟となるべきものではない。相克するのは当然だ。基督といえどもユダの上へ、君臨することは出来ないだろう。ユダといえども基督の上へ、君臨することは出来ないだろう。互いに領分をもっている。で、基督へ行きたい人は、行って安心をするがいい。で、ユダへ行きたい人は、行って何かを掴むがいい。[#「掴むがいい。」は底本では「掴むがいい、」]だが基督へ行った人は、去勢されるに相違ない。奴隷根性になるだろう。その代わり安心は出来るだろう。しかしユダへ行った人は、革命的精神を動《そそ》られるだろう。そうして世間から迫害されるだろう。一生平和は得られないだろう」
 基督とユダとを比べることによって、私はちょっと瞑想的になった。
 一つ一つ紋章を調べて行った。その結果私は十二使徒と、耶蘇《エス》基督との肖像を、三十枚の貨幣のその中から、苦心して選択をすることが出来た。まだ後十七枚残っていた。どれにも肖像が打ち出されてあった。それも間もなく知ることが出来た。
 モーゼ、アブラハム、ヨブ、ソロモン、ダビデ、サムソン、ヨシュヤ、サムエル、エリヤ、その他の人々で、いずれも旧約聖書中の、大立者の肖像であった。肖像の下に有るか無い程の小さい小さい横文字で、署名書きがしてあったからで。
「猶太《ユダヤ》の古代貨幣なら、猶太文字で署名がしてあるはずだ。ところが英語で署名してある。これ一つでもこの銀貨の、贋物ということが証明できる」
 私は思わず呟いた。
「いいえ」とその時妻が云った。
「え?」と私は顔を上げた。
 紋章の研究に心を奪われ、彼女の事を忘れていた。
「お前何とか云ったかい」
 彼女は返事をしなかった。彼女の表情には変なものがあった。眼が銀貨に食い付いていた。燃えるような熱のある眼であった。頬が病的に充血していた。ふっ[#「ふっ」に傍点]と彼女は私を見た。疑惑に充ちた眼であった。
「貴郎《あなた》」と彼女は叱るように云った。
「何人《どなた》からお借りしていらしったの? こんな妙な気味の悪いものを」
「気味が悪いって? どうしてだい?」
 いわゆる唖然とした心持で、聞き返さざるを得なかった。
「贋金なんだよ、古代猶太のね」
「ねえ貴郎」と彼女は云った。
「何人からお借りしていらしったの? 聞かせて下さいよ。さあ直ぐに」
 厳粛《げんしゅく》と云いたいような声であった。彼女にそぐわない[#「そぐわない」に傍点]声であった。
「佐伯って人だ。佐伯準一郎」
 何だか私は不安になった。
「立派な紳士だよ、蒐集家なんだ」
「佐伯準一郎? 聞かない名ね。だって貴郎のお友達の中には、そんな名の方はなかったじゃアないの?」
 私は急に厭になった。
「また何かを嗅ぎ付けやがったな、ほんとに仕方のない目っ早小僧だ! だが今度はお生憎様さ、ちょっとも引け目なんかないんだからな」
 こんなように考えた。
 で、私はやっつける[#「やっつける」に傍点]ように云った。
「これから俺の人名簿へ、新しく記《つ》けようっていう友人なのさ」
「ねえ貴郎」と彼女は云った。
「どうしてどこでお友達になって?」
「公園でだよ。鶴舞公園でね」
「いつ?」と彼女は追っかけて訊いた。叱るような声であった。
 危うく反感を持とうとした。しかし私は差し控えた。不安どころか悲しみをさえ、彼女の顔に見たからであった。
「今日の昼さ。病院の帰りにね。……何だかひどく心配そうだなあ。その可愛い凸ちゃんを、心配させちゃア可哀そうだ。よし来た詳しく話してやろう」
 ――私はバセドー氏病の患者であった。毎週一回病院へ通って、かなり強いレントゲンの、放射を受けなければならなかった。その往復に公園を通った。鶴舞公園はいい公園で、日比谷以上に調っていた。一つのロハ台へ腰を掛け、好きなラ・ラビアを喫《ふ》かすのが、夏以来の習慣であった。
 冬も冬、一月中旬、冷たい風が吹き迷っていたのに、この習慣は止められず、その日も私はロハ台に倚《よ》って、ラ・ラビアを喫かしていた。

10

 その時毛皮の外套を着た、四十五六の立派な紳士が、私の横へ腰を掛け、ゆるやかに葉巻を喫かし出した。
「あの大変失礼ですが、貴郎《あなた》は美術家ではいらっしゃいませんか?」
 紳士が卒然話しかけた。
「いえ」と私は素っ気なく云った。
 私は私の趣味として、商売のことを訊かれるのと、年齢のことを訊かれるのとを、好まないばかりか嫌っていた。そうして私はそんなように、見知らない人から話しかけられるのを、これまた趣味として好まなかった。
 紳士は外套の内|衣兜《かくし》から、ゆっくり名刺入れを取り出した。一揖すると名刺を出した。
「私、佐伯と申します。最近|欧羅巴《ヨーロッパ》から帰りましたもので」
 これは益々私にとっては、好ましくない態度であった。洋行帰りがどうしたんだ! あぶなく心で毒吐こうとした。しかしそいつ[#「そいつ」に傍点]をしなかったのは、その佐伯という紳士の態度が、よい意味における慇懃で、こしらえた[#「こしらえた」に傍点]所がなかったからであった。
 私も名刺を手渡した。
「おやそれでは一條さんで。よくお名前は存じて居ります。たしかお作も見たはずです。いや私は最初から、芸術家でいらっしゃると思っていました。それでお言葉を掛けましたので。全く芸術家の方々には、一つの型がございますのでね」
 この言葉は中《あた》っていた。芸術家には型があった。たいして愉快な型ではないが。
「はなはだ突然で不作法ですが、ご迷惑でなかったら拙宅へ、これからおいで下さるまいか。お見せしたい物がありますので、恐らくお気にも入りましょう。実は私は好事家でしてな、その方面ではかなり広く、海外へも参って居りますので。相当珍品も集まって居ります。宅は公園の直ぐ裏で。ええそうです××町です。ナーニご遠慮にゃア及びません。私の方から見て頂きたいので。訳の解らない骨董屋などより、芸術家のお方に見て頂いた方が、どんなに有難いか知れません。物を集めるということは、自分の趣味性を充たすと同時に、やはり具眼者に見て頂いて、その批評を承わるのが、目的の一つでございますからね」
 佐伯準一郎氏はこんなことを云った。
 慇懃で如才なくて魅力的で、断わりかねるような云い方であった。そこで私は行くことにした。こうして私の見せられたのは、伝説の銀三十枚であった。

11

 私の話を聞いてしまうと、妻は一層不安そうにした。
「それでお借りしていらっしゃったのね。まあ本当に仕方のない方!」
 バタバタと階下《した》へ下りて行った。
 箪笥《たんす》を引き出す音がした。
 彼女は書斎へ帰って来た。
「さあ比べてご覧なさい」
 彼女は指環を投げ出した。
「ね、白金《プラチナ》じゃアありませんか」
 指環は白金に相違なかった。それが白金であるがために、彼女はそれを虎の子のように、奥深く秘蔵していたものである。私は二つを比べてみた。銀三十枚と指環とを。
 私は変に寒気立った。二つは全く同じであった。
「おい、こいつア同《おんな》じだ」
「贋金でなくて白金よ」
「この大きさでこの重さ……」
「数にして三十枚よ。さあお金《あし》に意《つも》もったら[#「意《つも》もったら」はママ]? ああ妾にゃア見当がつかない」
「おい、自動車を呼んで来い!」

 一人で行くのは怖かった。と云うよりも妻の方で、うっそり[#「うっそり」に傍点]者のこの私を、一人でやるのが不安だったらしい。
 で、自動車へは二人で乗った。
 私の両手と彼女の両手とが、革財布を抑えていた。
 考え込まざるを得なかった。
「これは何かの間違いなのだ。でなかったら陰謀だ。どうぞ陰謀でないように。俺は問題にならないとしても、聡明らしい佐伯氏が、贋金と白金とを見分けぬはずはない。知っていて俺に借したのだ。しかしあんな猪牙がかりに、借せるような物じゃアないはずだが。金銭《かね》に直して幾万円? 箆棒めえ借せられるものか! だが借したのは事実なのだ。……曰くがなけりゃアならないぞ……」
 私達のタクシは駛《はし》っていた。彼女は物を云わなかった。夜は十二時を過ごしていた。何という町の冬霧だ。とうとうタクシは公園へ来た。その公園を突っ切った。××町まで遣って来た。こんな飛んでもない贋金は、早く早く返さなければならない!
「停《と》めろ!」と私は呶鳴るように云った。
 徐行し、そうして停車した。
「どのお家! 佐伯さんのお家は?」
 妻が私に呟いた。私は窓から覗いて見た。
「ご覧」と私は唾を飲んだ。
「赤い警察の提燈《ちょうちん》が、チラツイているあの屋敷だ」
 妻も唾を飲んだらしい。運転手が扉《ドア》を開けようとした。
「待て」と私は嗄声《かれごえ》で制した。窓のカーテンを掻い遣った。妻の鬢の毛が頬に触れた。
 佐伯家の厳めしい表門が、一杯に左右に押し開けられていた。赤筋の入った提燈が、二つ三つ走り廻っていた。遠巻きにした見物が、静まり返って眺めていた。門の家根《やね》から空の方へ、松の木がニョッキリ突き出していた。遥かの町の四つ角を、終電車が通って行った。
 刺すような静寂が漲っていた。
「おい、運転手君、引っ返しておくれ」
 ――で、タクシは引っ返した。
 彼女は何とも云わなかった。彼女の肩が腕の辺りで、生暖かく震えていた。
 何か捨白《すてぜりふ》が言いたくなった。
「捕り物の静けさっていうやつさね。旅行しますと云ったっけ。ははあ刑務所のことだったのか。佐伯君、警句だぞ」
 勿論腹の中で云ったのであった。

12

 その翌日の新聞は、刺戟的の記事で充たされていた。大標題《おおみだし》だけを上げることにしよう。

    国際的大詐欺師
    佐伯準一郎捕縛さる

 勿論特号活字であった。
 欧米、南洋、支那、近東、こういう方面を舞台とし、十数年間組織的詐欺を、働いていたということや、日本知名の富豪紳士にも、被害者があるということや、数ヶ月前名古屋に入り込み、ために司法部の活動となり、捜索をしていたということや、昨夜何者か密告者があって、始めて所在を知ったということや、家宅捜索をした所、贋物の骨董があったばかりで金目の物のなかったということや、書生や女中は新米で、様子を知らなかったということや、××町の屋敷へは、ほんの最近に移って来たので、まだ近所への交際《つきあい》さえ、はじめていなかったということや、最後に至って別標題を附け、国際的陰謀の秘密結社に、関係あるらしいということなどが、三段に渡って記されてあった。
 私と妻とは眼を見合わせた。どうしていいか解《わか》らなかった。白金《プラチナ》に違いないと思われる、銀三十枚を携えて、警察へ訴え出ることが、とるべき至当の手段ではあったが、そのため同類と疑われ、種々《いろいろ》うるさい取り調べを受け、新聞などへ書かれることが、どうにも不愉快でならなかった。と云って保存して置いたなら、いわゆる贓物隠匿として、露見した場合には必然的に、刑事問題を惹き起こすだろう。
「おい、どうしたものだろう?」
「さあ、ねえ」と彼女は考え込んだ。
「訴えて出るのが至当でしょうね」
「うん」と私は考え込んだ。
「変にえこじに調べられると、カッと逆上する性質《たち》だからなあ」
「それに貴郎《あなた》はお忙しいんでしょう」
「うん、目茶々々に忙しいんだ。動揺させられるのが一番困る。今が大事な時なんだからな。せっかくの空想が塞がれてしまう」
「それが一番困りますわね」
 彼女は熱心に考え込んだ。
 大方の芸術家がそうであるように、一面私は神経質で、他面私は放胆であった。又一面|洒落《しゃれ》者で他面著しく物臭であった。宿命的病気に取っ付かれて以来、その程度が烈しくなった。この病気の特徴として、いつも精神が興奮した。
 だが私は私の病気を、祝福したいような時もあった。「空想」が奔馳して来るからであった。本来私という人間は、空想的の人間であった。空想には不自由しなかった。それが病気になって以来、その量が一層増したらしい。空で行なわれているエーテルの建築! それを破壊する電子の群れ! そんなものが私には、「見える」のであった。だがまだ私は霊媒《ミジャム》ではなかった。しかし早晩なるだろう。他界の消息、黄泉の通信、幽霊達の訴言《うったえごと》、そういうものだって知ることが出来よう。
 物を書きながら苦しむことがあった。後から後からと空想が、駈け足で追っかけて来るからであった。文字にして原稿紙へ書き取る暇さえ、ゆっくり与えてはくれないからであった。そんな時私はゴロリと寝た。動悸の烈しい心臓を抑え、空想の駈け抜けるのを待つのであった。
 町を歩きながら立ち止まり、電信柱へ倚りかかり、湧き上って来る空想を、鼻紙の上へ書いたりした。
 ある夜空想が湧き上って来た。折悪しく鼻紙を持っていなかった。一軒の商店の板壁へ、万年筆で書き付けた。そうして翌朝出かけて行き、写し取って来たような事さえあった。
 今に私は往来の人の、背中へ紙をおっ付けて、そこで書くようになるかもしれない。
 創作力に充満《みちみち》ていた。それをこんなつまらない[#「つまらない」に傍点]ことで、破壊されるのは厭だった。
 急に妻は変に笑った。ゾッとするような笑い方であった。それから私をからかい[#「からかい」に傍点]出した。
「無理はないわね、貴郎としては。そうら出入りの呉服屋さん、ちょっと相場で儲けたと云って、白金《プラチナ》の腕時計を巻いて来たらニッケルにしちゃアいい艶だって、こんな事を云ったじゃアありませんか、そうかと思うと妾の時計、そりゃあニッケルとしては類なしで、金時計より高価《たかい》んですけれど、こいつア素晴らしい白金だって、大騒ぎをしたじゃアありませんか。白金だか銀だか解《わか》らないのは[#「解《わか》らないのは」は底本では「解《わか》からないのは」]、ちっとも不思議じゃアありませんわね」

13

「何だ莫迦め!」と呶鳴り付けた。
「そんな事を云い出して何になるんだ」
 だが彼女はますます笑い、ますます私をからかった[#「からかった」に傍点]。
「貴郎《あなた》、ペテンに掛かったのよ。ええそうとしか思われないわ。でもどうしてこんなペテンに? いいえさ佐伯とかいう大詐欺師が、どうしてこんな変なペテンに、引っかけなければならなかったんでしょう? 儲かることでもないのにね。かえって大変な損をするのに。これには奥底があるんだわ。そうとしきゃア思われないわ。恐いわねえ、どうしましょう。返していらっしゃいよ、さあ直ぐに」
「莫迦め!」と私はまた呶鳴った。
「牢屋へ持ってって返せってのか」
「では貴郎には手が着かないのね?」
 にわかに彼女は冷静になった。
「妾《わたし》にお委せなさいまし」
「で、お前はどうするつもりだい?」
「貴郎それをお聞きになりたいの? では自分でなさるがいいわ」
 彼女は再び揶揄的になった。
「だってそうじゃアありませんか、一切妾に委されないなら」
「だが俺には手が出ないよ」
「お書きなさいまし、原稿をね」
 それは歌うような調子であった。
「そうして何にも思わないがいいわ。食い付きなさいまし、お仕事にね。貴郎は可愛いお馬鹿ちゃんよ。組織立ったことをさせるのは、それは無理と云うものよ。お信じなさいまし、妾をね」
 私は彼女へ委せてしまった。何にも考えないことにした。さあ仕事だ! さあ創作だ! 空想よ駈り立ててくれ!

 年が改たまって新年《はる》となった。
 妻の様子が変わって来た。
 彼女と私とは恋愛によって、一緒になった夫婦であった。彼女は私を愛していた。ところがこの頃愛さなくなった。
「ねえ、お馬鹿ちゃん」
「ねえ、凸坊」
 これが私への愛称であった。この頃ではそれを封じてしまった。彼女はひどく剽軽であった。途方もない警句を頻発しては、私を素晴らしく喜ばせてくれた。
「ね、ご覧なさいよ、ベッキイちゃんを、てまつく[#「てまつく」に傍点]しているじゃアありませんか」
 よく彼女はこんなことを云った。ベッキイというのは飼い犬であった。活動俳優の天才少女、ベビー・ベッキイの名を取って、彼女が命名《なづ》けた犬の名であった。てまつく[#「てまつく」に傍点]というのは手枕のことで、その飼い犬が寝ている様子を、そう形容して云ったのであった。
 これは何でもない云い方かもしれない。しかし彼女が云う時は、光景が躍如とするのであった。犬ではなくて人間の、可愛い可愛いベッキイという少女が、さも愛くるしく手枕をして、眠っているように思われるのであった。
 しかし彼女はこの頃では、もうそんなことも云わなくなった。私が散歩でもしようとすると、彼女はきっと呼び止めた。立ったまま私を抱き介《かか》え、少しおデコの彼女の額を、私の額へピッタリと食っ付け、梟のように眼を見張り、嚇かすように頬を膨らせ、
「いい事よ、行っていらっしゃい」
 こう云ってようやく放してくれた。が、それも遣らなくなった。
 泣くことの好きな女であった。ある朝私は顔を洗い、冷たい手をして居間へ行った。と、彼女が化粧をしていた。胸が蒼白くて綺麗だった。冷たい手先をおっ附けてやった。それが悲しいといって泣き出した。大変美しい泣き方であった。勿論拵えた媚態であった。それが彼女には似つかわしかった。が、それもやらなくなった。
 笑うことの上手な女であった。「無智の笑い方」が上手であった。利口な彼女が笑い出すと、無智な無邪気な女に見えた。それこそ実際男にとっては、有難い笑いと云わなければならない。瞬間に苦労が癒えるからであった。が、それもやらなくなった。
 彼女は不思議な女であった。千里眼的の所があった。ウイスキイの二三杯もひっかけて――私は元は非常な豪酒で、一升の酒は苦しまずに飲んだ――門《かど》の格子を静かにあけると、きっと彼女は云ったものである。
「ご機嫌ね、柄にないわ」
 ……時々|交際《つきあい》で旗亭《ちゃや》へ行き、さり気なく家へ帰って来ると、三間も離れて居りながら、
「厭な凸坊、キスしたのね。若い綺麗な芸子さんと。襟に白粉が着いてるわ」
 ……だが彼女はこの頃では、もうそんな事も云わなくなった。
 私が戸外《そと》で何をしようと、気に掛けようとはしなかった。
 これは一体どうしたのだろう? 何が彼女を変えたのだろう?
 彼女は丸髷が好きであった。いつかそれを王女《クイン》髷に変えた。
 家に居たがる女であった。ところがこの頃では用もないのに、戸外へばかり出たがった。
 驚くべきことが発見された。彼女は実に僅かな間に、奇蹟的に美しくなり、奇蹟的に気高くなった。
「美粧倶楽部へでも行くのだな。恋人でも出来たのではあるまいか? 恋人が出来ると女という者は、急に美しくなるものだ」
 私の心は痛くなった。憂鬱にならざるを得なかった。

14

 仰天するようなことが発見された。ある夜私は戸外から帰って来た。彼女は私の書斎にいた。細巻|煙草《たばこ》を喫《ふ》かしていた。煙草を支えた左手の指に、大きなダイヤが輝いていた。
「その指環は?」と私は云った。
 私の知らない指環であった。
 彼女は無言で指を延ばした。そうしてじっと[#「じっと」に傍点]ダイヤに見入った。その燦然たる鯖色の光輝を、味わっているような眼付きであった。二本の指で支えられ、ピンと上向いた煙草からは、紫の煙りが上っていた。一筋ダイヤへ搦まった。光りと煙り! 微妙な調和! 何と貴族的の趣味ではないか! 彫刻のような彼女の顔! 今にも唇が綻びそうであった。モナリザの笑い? そうではない! 娼婦マリヤ・マグダレナの笑い!
 私は瞬間に退治られた。

 数日経って松坂屋から、一揃いの衣裳が届けられた。それは高価な衣裳であった。帯! 金具! 高価であった。誂えたはずのない衣裳であった。私の知らない衣裳であった。
 そこで私は懇願した。
「話しておくれ、どうしたのだ?」
 ただ彼女は微笑した。例のマリヤの微笑をもって。
「おい!」と私は威猛高になった。
「処分したな、贓物を!」
「貴郎《あなた》」と彼女は水のように云った。
「贓物ですって? 下等な言葉ね」
「売ったのだろう! 白金《プラチナ》を!」
「貴郎」と彼女は繰り返した。
「約束でしたわね、訊かないと云う」
 彼女は私を下目に見た。彼女は貴婦人そのものであった。

 大詰の前の一齣が来た。
 円頓寺街路《えんとんじどおり》を歩いていた。霧の深い夜であった。背後《うしろ》から自動車が駛《はし》って来た。
「馬鹿野郎!」と運転手が一喝した。
 危く轢かれようとしたのであった。憤怒をもって振り返った。窓のカーテンが開いていた。紳士と淑女とが乗っていた。私は淑女に見覚えがあった。それは私の妻であった。彼女も私を認めたらしい。唇の間から義歯《いれば》を見せた。紳士にも私は見覚えがあった。当市一流の紳商であった。新聞雑誌で知っていた。六十を過ごした老人で精力絶倫と好色とで、世間に有名な老紳士であった。
 私はクラクラと眼が廻った。が、飛びかかっては行かなかった。肩を曲《こご》め背を丸め、顔を低く地に垂れた。そうして撲《う》たれた犬のように、ヨロヨロと横へ蹣跚《よろめ》いた、私は何かへ縋り付こうとした。
 冷たい物が手に触れた。それは入口の扉《ドア》であった。私は内へ吸い込まれた。
 真正面に人がいた。狭い額、飛び出した眼、牛のような喉、突き出した頬骨、イスカリオテのユダであった。
 珈琲店《カフェ》であった。鏡であった。私は写っていたのであった。

 イエス・キリストがそれを呪った。マグダラのマリヤがそれを呪った。イスカリオテのユダがそれを呪った。みんな別々の意味において。そうして今や私が呪う。憎むべき銀三十枚を!

 人は信仰を奪われた時、一朝にして無神論者となる。
 人は愛情を裏切られた時、一朝にして虚無思想家となる。
 ユダの運命がそれであった。
 私は私の思想として、ユダの無神論と虚無思想とを、自分の心に所有《も》っていた。
 今や私は感情として、それを持たなければならなかった。
 今、私はユダであった。
「助けて下さい! 助けて下さい!」
 私は救いを求めるようになった。
 しかし救いはどこにもなかった。
 一つある!
 基督《キリスト》だ!

 キリストを売ったイスカリオテのユダは、売った後でキリストを求めただろう!

15

 これがいよいよ大詰かもしれない。
 その夜私は公園にいた。彷徨《さまよ》ってそこ迄行ったのであった。詐欺師と邂逅《あ》ったロハ台へ、私は一人で腰をかけていた。生暖かい夜風、咽るような花の香、春蘭の咲く季節であった。噴水はすでに眠っていた。音楽堂には燈《ひ》がなかった。日曜の晩でないからであった。公園には誰もいなかった。ひっそりとして寂しかった。夜は随分深かった。月が空にひっ[#「ひっ」に傍点]懸かっていた。靄が木間に立ち迷っていた。物の陰が淡く見えた。
 私の精神も肉体も、磨り減らされるだけ磨り減っていた。長い間物を書かなかった。空想がすっかり消えてしまった。病気はひどく[#「ひどく」に傍点]進んでいた。心臓の動悸、指頭《ゆびさき》の顫え、私は全然《まるで》中風のようであった。視力が恐ろしく衰えてしまった。そうして強度の乱視となった。五分と物が見詰められなかった。絶えずパチパチと瞬きをした。瞼の裏が荒れてしまった。
 誰も介抱してくれなかった。
 お母様! お母様!
 実家とは音信不通であった。それも彼女との結婚からであった。高原信濃! そこの実家! 誰とも逢わずに死ななければなるまい。
「もう一|呼吸《いき》だ。指先でいい。ちょっと背後《うしろ》から突いてくれ。死の深淵へ落ちることが出来る」
 私は私の両膝を、ロハ台の上へ抱き上げた。膝頭へ額を押っ付けた。小さく固く塊まった。
「もう一呼吸だ。指先でいい」
 その時自動車の音がした。
 私は反射的に飛び上った。
 病院の方角から自動車が、こっちへ向かって駛《はし》って来た。私の眼前《めのまえ》を横切った。紳士と淑女とが乗っていた。淑女は私の妻であった。紳士は例の紳士ではなかった。もっと評判の悪い紳士であった。デパートメントの主人であった。外妾を持っているということで新聞へ書かれた紳士であった。車内は桃色に明るかった。柔かいクッション、馨《かんば》しい香水、二人はきっと幸福なんだろう。顔を突き合わせて話していた。一瞬の間に過ぎ去った。月光が車葢《おおい》に滴っていた。タラタラと露が垂れそうだった。都会の空は赤かった。その方から警笛が聞こえてきた。
「もういい」と私は自分へ云った。
 最後の一突きが来たからであった。花壇を越して林があった。目掛けて置いた林であった。私はその中へ分け入った。
「ユダも縊《くび》れて死んだはずだ」
 木を選ばなければならなかった。木はみんな若かった。一本の木へ手を掛けた。幹へ額を押し付けた。ひやひやとして冷たかった。そうして大変滑らかだった。シーンと心が静まった。平和が心へ返って来た。
「脆そうな木だ。折れるかもしれない」
 もう一本の木へ手を触れた。
 その時私へ障るものがあった。誰かが肩を抑えたのであった。
 私は静かに振り返った。
 一人の男が立っていた。
 鳥打を頭に載っけていた。足に雪駄《せった》をつっ[#「つっ」に傍点]かけていた。
 私はもっと壮健の頃、新聞記者をしたことがあった。
 この男は刑事だな。私は直覚することが出来た。
「どうしたね?」とその男が云った。
「…………」
「黙っていては解《わか》らない」
 刑事声には相違ないが、威嚇的の調子は見られなかった。
「不心得をしてはいけないよ」
 むしろ訓すような声であった。
「無教育の人間とも見えないが」
 刑事は私の足許を見た。
「君、どこに住んでるね」
「市内西区児玉町」
「何だね、一体、商売は?」
 私は返事をしなかった。
「ナニ、厭なら云わなくてもいい。君もう家へ帰りたまえ」
 刑事は背中を向けようとした。
「僕に家なんかあるものか」
「何イ!」と刑事は振り返った。
「児玉町に住んでいるって云ったじゃアないか!」
「家はあるよ。……だがないんだ」
 刑事はしばらく睨んでいた。
「ははあ貴様酔ってるな。……妻君が家に待ってるだろう。……馬鹿を云わずに早く帰れ」
「妻君」と私は肩を上げた。
「妻君は自動車に乗ってったよ」

16

 刑事はちょっと考えた。
「ふふん、こいつ狂人《きちがい》だな。……死にたければ勝手に死ぬがいい。だがここは俺の管轄だ。……他へ行ってぶら[#「ぶら」に傍点]下るがいい」
「妻君は自動車へ乗ってったよ。たった今だ。紳士とな」
「これは可笑《おか》しい」と刑事は云った。
「それじゃアあの女を知ってるのか。俺の狙《つ》けてる淫売だが」
「あれが僕の妻君さ」
 私は何かに駈り立てられた。畜生! こいつを吃驚《びっくり》させてやれ!
「君、あいつは詐欺師なんだ。あいつは白金《プラチナ》を詐欺したんだ。……勿論君も知ってるだろう、大詐欺師の佐伯準一郎ね、ありゃアあいつの片割れなんだ」
 刑事はじっ[#「じっ」に傍点]と聞き澄ましていた。
「捕縛したまえ。手柄になるぜ」
 刑事は急に緊張した。だがすぐに揶揄的になった。
「君のような狂人の妻君に、あんな別嬪がなるものか。まあまあいいから帰りたまえ」
 たくましい手をグイと延ばし、私の腕をひっ[#「ひっ」に傍点]掴んだ。
「お前、金は持ってるのか?」
「うん」と私は頷いて見せた。
「いくら[#「いくら」に傍点]あるね、云って見給え」
「袂《たもと》にあるんだ、蟇口がな。いくらあるか知るものか」
 刑事は腕から手を放した。
「調べてやろう、出したまえ」
 私は袂から蟇口を出した。
「それ五円だ。それ赤銭だ。それ十銭だ。それ五円だ。まだあるぜ、それ十円だ」
「よしよし」と刑事は頷いた。
「それだけありゃア結構じゃアないか。歩いた歩いた送ってやろう。どうも手数のかかる奴だ」
 また腕をひっ[#「ひっ」に傍点]掴んだ。町の方へ引っ張って行った。私は変に愉快になった。で、のべつ[#「のべつ」に傍点]にまくし立てた。
「莫迦だなあ刑事君、あの女は詐欺師なんだ。白金三十枚を隠しているんだ、一枚や二枚は使ったろう。とても大きな白金なんだ。五十|匁《もんめ》ぐらいはあるだろう。たった一枚で三千円だ。それがみんな[#「みんな」に傍点]で三十枚あるんだ。佐伯の物だ、大詐欺師のな。最初に俺が借りたんだ。そいつをあいつが取っちゃったんだ。あっ痛え! そう引っ張るな! 嘘じゃアねえ、本当のことだ。大馬鹿野郎め、ふん掴まえてしまえ! 引っかかったんだよ、ペテンにな。捕縛されるのが解《わか》ってたんだ。俺は文士だ、小説書きだ。そこをきゃつが狙ったんだ。でたらめの話をしやがって、俺の好奇心をそそりゃアがって、そいつを俺に預けやがったんだ。古いペテンだ、古いとも。牢から出ると取りに来るやつよ。いい隠し所を目つけたって訳さ。本当の事だ、信用しろ。家捜ししなよ、俺の家を、きっとどこかにあるだろう。……そこは女のあさましさだ。眼がクラクラと眩んだんだ。うん、白金を手に入れるとな。すっかり変わってしまやアがった。……」
 刑事はニヤニヤ笑っていた。公園を出ると町であった。右角に貸自動車《タクシ》の待合があった。
「おい、自動車《タクシ》」と刑事は呼んだ。
「へい」と運転手が走って来た。
「この男を載っけてくれ」
 すぐ自動車が引き出された。私はその中へ押し込まれた。
「金は持ってる、大丈夫だ。中村へでも送り込んでやれ。遊廓で一晩遊ばせてやれ」
 こう云うと刑事は愉快そうに笑った。ひどく人のいい笑い方であった。
 ゴーッと自動車は動き出した。

 彼女は彼女の生活をした。私は私の生活をした。家庭生活は破壊された。だが一緒には住んでいた。彼女はますます美しくなった。近付きがたいまでに美しくなった。そうして素晴らしく高貴になった。
「貴女様は一体|何人《どなた》様で?」
 こう云いたいような女になった。
 行くべき所へ行き着いてしまった。私は放蕩に耽るようになった。酒だ! 女だ! 寝泊りだ!
 ある時ある所で三日泊まった。四日目の夕方帰って来た。
 と、貸家札が張られてあった。
「鳥は逃げた!」と私は云った。
「オフェリヤ殿、オフェリヤ殿、尼寺へでもお行きやれ」
 シェイクスピアの白《せりふ》が浮かんできた。
「尼寺なものか、極楽だ! マリア・マグダレナは極楽へ飛んだ」
 私は大声で笑おうとした。が反対に胴顫いがした。
「だが、予定の行動を」
 私は踵を返そうとした。
「お神さんえ、どうぞ一文、よし、俺は乞食になろう!」
「もし」とその時呼ぶ声がした。
 側《そば》に小男が立っていた。
「へえへえ」と私は手を揉んだ。
「旦那様え、何かご用で?」
 乞食の稽古をやり出した。

17

「貴郎はここのご主人で?」
 その洋服の紳士は云った。
「へえへえ左様で、昔はね。今は立ん棒でございますよ」
 その紳士は微笑した。
「奥様からのお伝言《ことづけ》で。あるよい家が目つかりましたので、昨日《きのう》お移りなさいましたそうで。それで、お迎えに参りました」
「一体貴郎様はどういうお方で?」
「へい、タクシの運転手で」
「すぐ載っけろ! 馬鹿野郎!」
[#ここから3字下げ]
街《ちまた》に落つる物の音
雨にはあらで落葉なる
明るき蒼き瓦斯《ガス》の燈《ひ》に
さまよう物は残れる蛾
[#ここで字下げ終わり]
 廃頽詩人ヴェルレイヌ、卿《おんみ》だけだ! 知っている者は! 秋の呼吸《いぶき》を、落葉の心を、ひとり死に残った蛾の魂を。
 私のタクシは駛《はし》っていた。
 街路樹がその葉をこぼしていた。人々は外套を鎧っていた。寒そうに首をすっ込めていた。冬がそこまで歩いて来ていた。白無垢姿の冬であった。
「俺も長い間苦しんだなあ」
 クッションへ蹲《うずくま》って考えた。
「もう堪忍してくれないかなあ」
 私はじっと瞑目した。
「でなかったら葬ってくれ。落葉がいいよ、朴《ほう》の落葉が」
 私のタクシは駛っていた。
「泣けたらどんなにいいだろう」
 おずおず眼をあけて車外《そと》を覗いた。
 そこは賑かな広小路であった。冬物が飾り窓に並べられてあった。それを覗いている女があった。寒そうに髱《たぼ》[#ルビの「たぼ」は底本では「たば」]がそそけ[#「そそけ」に傍点]立っていた。巨大な建物の前を過ぎた。明治銀行に相違なかった。地下室へ下りて行く夫婦連があった。食堂で珈琲《コーヒー》を啜るのだろう。また巨大な建物があった。旧伊藤呉服店であった。タクシはそこから右へ曲った。少し町が寂しくなった。タクシは大津町を駛って行った。私はまたも瞑目した。
 立派な屋敷の前へ来た。自動車から下りなければならなかった。厳めしい門が立っていた。黒板壁がかかっていた。
 運転手は一揖した。
「はい、お屋敷へ参りました」
 私は無言で表札を見上げた。一條寓と記されてあった。
 潜戸《くぐり》を開けて入って行った。玄関まで八間はあったろう。スベスベの石畳が敷き詰めてあった。しっとりと露が下りていた。高い松の植込みがあった。
「家賃にして三百円!」
 譫言《うわごと》のように呟いた。
 私は玄関の前に立った。
 と、障子がスーと開いた。
 妻か? いやいや知らない婦人が、恭しく手をついてかしこまっていた。
「旦那様お帰り遊ばしませ」
 女は島田に結っていた。
「……で、貴女は?」と私は訊いた。
 自動車の帰って行く音がした。
「はい、妾《わたくし》、小間使で」
 私はヌッと玄関を上った。
「うん。ところで山神《やまのかみ》は?」
 直ぐ左手に応接間があった。その扉《ドア》が開いていた。それは洋風の応接間であった。
「あの、お寝みでございます」
「伯爵夫人はお寝みか」
 私は応接間へ入って行った。
 一つの力に引き入れられたのであった。
 その応接間には見覚えがあった。
 佐伯準一郎氏の応接間であった。

18

 爾来私達はその家に住んだ。

 彼女は依然として出歩いた。あたかもそれが日課のように。
 彼女は入念にお化粧をした。あたかもそれが日課のように。
 毎朝牛乳で顔を洗った。
 とりわけ爪の手入れをした。これにはもっともの理由《わけ》があった。他がどんなに綺麗でも、爪に一点の斑点《しみ》があったら、貴族の婦人とは見えないからであった。
 彼女は耳髱《みみたぶ》に注意した。耳髱はいつもピンク色であった。それが彼女を若々しく見せた。
 彼女は踵に注意した。いつも円さと滑らかさと、花弁《はなびら》の色とを保っていた。
 耳の穴、鼻の穴に注意した。
 だが顔色は蒼白かった。それも彼女の好嗜からであった。血色のよい赦ら顔は、田舎者に間違えられる恐れがあった。都会の貴婦人というものは、蒼い顔でなければ面白くない。どうやら彼女は仏蘭西《フランス》あたりの、青色の白粉《おしろい》を使うらしい。
 臀部が目立って小さくなった。そうして腰が細くなった。彼女の姿勢は立ち勝って来た。
 肌が真珠色に艶めいて来た。それは冷たそうな艶であった。
 肌理《きめ》が絹のように細かくなった。
 きっと滑らかなことだろう。
 だが触れることは出来なかった。彼女がそれを断わるからであった。
 遥拝しなければならなかった。
 又その方がある意味から云って、私にとっても幸せであった。うっかり障《さわ》って手が辷って、転びでもしたら困るからであった。
「ああ彼女には洋装が似合う」
 ある時私はつくづく云った。決して揶揄的の讃辞ではなかった。
 その心配は無用であった。
 翌日洋装が届けられた。肌色と同じ真珠色であった。
 それを着て彼女は出かけようとした。
 チラリと私の顔を見た。瞼を二度ばかり叩いて見せた。
 命ずるような眼付きであった。
 私は周章《あわて》て腰《こし》をかがめた。
 裳裾《もすそ》を捧げようとしたのであった。ひどく気の利く小姓のように。
 その配慮は無用であった。
 今日|流行《はやり》の洋装は、長い裳裾などはないからであった。股の見えるほど短かいはずだ。
 時々彼女は私へ云った。
「高尚《ノーブル》にね。高尚にね。貴郎《あなた》もどうぞ高尚にね」
 で私は腹の中で云った。
「まだこの女は成り切れない。そうさ貴族の夫人にはな! 『高尚《ノーブル》にね、高尚にね、どうぞ御前様貴郎様もね、高尚にお成り遊ばしませ!』こう云わなけりゃアイタに付かねえ」
 この心配も無用であった。彼女はほんとに[#「ほんとに」に傍点]翌日から、遊ばせ言葉を使うようになった。
 もう贋物には見えなかった。
 生れながらのおデコさえ、どうしたものか目立たなくなった。
 下手に嵌め込まれた義歯《いれば》さえ、どうしたものか目立たなくなった。
 歯並の立派な誰かの歯と、きっと換えっこしたのだろう。
 彼女の身長《せい》は高かった。それが一層高く見えた。爪立ち歩く様子もないが。――姿勢のよくなったためだろう。
 彼女は毎日美食をした。洋食! 洋食! 油っこい物!
 勿論私へも美食を進めた。私はあまり食べなかった。
 一日に幾度も衣裳を変えた。しかも正式に変えたのであった。これも貴婦人の習慣であった。
 そうして私へもそれを進めた。
 私は心でこう叫んだ。
「謀叛人の女が良人《おっと》を進め、同じ謀叛人にしようとしている! マクベス夫人の心持だ!」
 そうして私には感ぜられた、悲痛なマクベスの心持が。
 彼女は定《き》まって一人で外出《で》た。どんな事があってもこの私と、連れ立って歩こうとはしなかった。
 良人のあるということを、隠したがっているらしかった。
 家財道具が新調された。黒壇細工! 埋木《うもれぎ》細工!
 植木屋が庭の手入れに来た。鋏の音が庭に充ちた。
 大工が部屋の手入れに来た。鉋の音が部屋に充ちた。
 屋敷が次第に立派になった。
「そうさ、伽藍《がらん》がよくなければ、仏像に価値《ねうち》がつかないからな」
 ある夕方自動車が着いた。
 彼女は洋装で出かけて行った。
 私は玄関まで従《つ》いて行った。それ、例の小姓のように。
 自動車は自家用の大型物であった。
 自動車の中に紳士がいた。顎鬚を撫して笑っていた。この市の有名な市長であった。
「ははあ誘いに来たのだな。大方ホテルへでも行くのだろう。夜会だな、結構なことだ。……俺は書生部屋で豚でもつつ[#「つつ」に傍点]こう」
 だが一体どうしたことだ? 一晩も泊まっては来ないではないか。
 どんなに遅くとも帰って来た。
「遠慮はいらない。泊まっておいでよ」
 私は心で云ったものである。
「大方の貴婦人というものは、時々紳士と泊まるものだ。それも鍛練の一つじゃないか。何の私が怒るものか。また怒り切れるものでもない。第一お前はいつの間にか、絶対に私を怒らせないように、上手に仕込んでしまったではないか」

19

 それは初冬のある日であった。私は書斎の長椅子にころがり[#「ころがり」に傍点]、氈《かも》にふかふか[#「ふかふか」に傍点]と包まれながら、とりとめのないことを考えていた。彼女はその日も留守であった。本当に「彼女」というこの言葉は、彼女にうってつけ[#「うってつけ」に傍点]の言葉であった。彼女と私とは他人であった。……三人称で呼ぶべきであった。
「物質的には食傷している。精神的には空腹だ。これが現在の生活だ。変に跛者《びっこ》の生活だなア」
 私は氈を撫で廻した。
「この毛並の軟らかさ、朝鮮産の虎の皮、決して安くはなさそうだ。児玉町に住んでいた頃には、空想する事さえ許されなかった品だ。そいつにふかふかと包まれている。さて私よ。幸福かね?」
 そこで私は私へ答えた。
「悲しいことには幸福ではないよ」
 私は正面の壁を見た。勿論小品ではあったけれど、模写《コピイ》ではないマチスの本物が、似合の額縁に嵌められて、ちょうどいい位置に掛けられてあった。
「彼女が買って来た絵だろうか? それとも色眼の報酬として、某紳商《なにがししんしょう》の美術館から、かっぱらって[#「かっぱらって」に傍点]来た絵だろうか? 本物のマチス、銀灰色の縁、狂いのない掲げ振り、よく調子が取れている。将しく彼女には審美眼がある。だが以前《むかし》の彼女には、すくなくともマチスに憧憬《あこが》れるような、そんな繊細な審美眼は、なかったように思われる。長足の進歩をしたものさなあ。もっとも驚くにはあたらない。彼女は伯爵夫人だからな」
 私はまたもや私へ云った。
「よろしい彼女は伯爵夫人だ。それはどうしても認めなければならない。ところでここに困ったことには、彼女が伯爵夫人なら、ともかくも良人たるこの私は、自然伯爵でなければならない。私よ、伯爵を引き受けるかね?」
 私は私へ云い返した。
「いいや私には荷が勝っているよ。けっきょく[#「けっきょく」に傍点]私は引き受けないよ。何故だと君は訊くのかい? 説明しよう。こういう訳だ。虹と宝石と香水と、こういう物に蔽われている、深い泥沼があったとしたら、誰だって住むのは厭じゃアないか。孑孑《ぼうふら》でない限りはね。ところで伯爵で居たかったら、そこに住まなければならないのだよ。と云うのは現在の生活が、その泥沼の生活だからさ」
 大して気の利いた譬喩でもなかった。
「まあさ、それはそれとして、彼女は伯爵夫人だのに、どうして料理人を雇わないのだろう?」
 私はこんな事を考え出した。
「二人の女中、一人の書生、五人ぐらしとは貧弱だなあ。夫人よ是非ともお雇いなさい。そうしたら私は献立を命ずる『安眠』という献立をね」
 私は安眠さえ得られなかった。

「助けて下さい! 助けて下さい!」
 依然として救いを求めていた。
 救ってくれるものがあるだろうか?
 あれば彼だ! 基督《キリスト》だ! だが現代の基督は、どんな姿で現われるだろう?
 私は漸時《だんだん》皮肉になった。私は漸時忍従的になった。だがいつも脅かされていた。
「きゃつは詐欺師だ、殺人犯ではない。五年か十年、刑期さえ終えたら、出獄するに相違ない。取りに来るぞ、銀三十枚! どうしたらいいのだ。返すことは出来ない! 彼女はその間に使ってしまうだろう」

 だが人間というものは、そのドン底まで追い詰められると、反動的勇気に駈られるものであった。ある日私は自分へ云った。
「基督を求めるには及ばない。他力本願は卑怯者の手段だ。自分のことは自分でするがいい」
 で私はすることにした。
 そこで私は「左様なら」と云った。
 直接彼女へ云ったのではなかった。泥沼の生活へ云ったのであった。
 そうして「左様なら」を実行した。大した勇気もいらなかった。ほんの簡単に実行された。
 何にも持たずに家出をし、お城近くの安下宿へ、私は下宿をしたのであった。
 お城の堀と石垣と、松との見える小さな部屋へ、私は体を落ちつけた。
 霧深い厳冬のことであった。
「彼女が驚こうが驚くまいが、私の知ったことではない。彼女が探そうが探すまいが。私の知ったことではない。とにかく私は彼女を捨た。私にとっては一飛躍だ」
 不思議と私の心の中は、ある平和が返って来た。ひどく苦しんだ人間だけが、感ずる事の出来る平和であった。
「ひょっと[#「ひょっと」に傍点]すると創作が出来るかもしれない」
 で私はペンを執って見た。楽にスラスラと書くことが出来た。思想と感情とが統一された。バラバラなものが纏まった。空想さえも湧いて来た。
「少しの努力をしさえしたら、昔の私になれるかもしれない。……書けさえすれば私はいいのだ」
 生活の上の不安はあった。しかし原稿が売れさえしたら、下宿代ぐらいは払えそうであった。
「贅沢な生活には懲りている。だからそれへの欲望はない。これは大変有難いことだ一つ一つ欲望を抑えて行って、うんと単純の生活をしよう」

20

 性慾の方も抑えることが出来た。
 私は長い間彼女のために「性のお預け」を食わされていた。いつの間にかそれが慣い性になった。それにもう一つ率直に云えば、私は異性に懲々《こりごり》していた。
「彼女のことを忘れなければならない!」
 これも困難ではなさそうであった。しかし努力と月日との、助けを借りなければならなかった。
 まずまず平和と云ってよかった。
 一人ぼっちの生活は、こうして静かに流れて行って、体も徐々に恢復した。神経も次第に強くなった。事件以前の私よりもかえって健康になれそうであった。
 規則正しい生活をした。早く起きて早く寝た。慣れるとそれにさえ興味が持てた。貧弱な下宿の食膳をさえ、三度々々食べることにした。慣れるとそれにさえ美味を覚えた。
 こっそり町を散歩した。精々|珈琲店《カフェ》へ寄るぐらいであった。酒も煙草《たばこ》も廃《や》めてしまった。で、珈琲店では曹達《ソウダ》水を飲んだ。
「文字通りの清教徒さ」
 私は聖書を読むようになった。昔とは全然《まるで》異って見えた。こんな言葉が身に滲みた。
「貧しき者は福《さいわい》なり」「哀《かなし》む者は福なり」「柔和なる者は福なり」「矜恤《あわれみ》する者は福なり」「平和《やわらぎ》を求むる者は福なり」
「不思議だなあ」と私は云った。
「事件以前の私だったら、卑屈な去勢的言葉として、一笑に付してしまっただろうに、今の私にはそうは取れない」
「不思議ではない」と私は云った。
「苦しみ悩んだ基督の思想は、苦しんだ者でなければ解《わか》らない」
 そうして尚も私は云った。
「これは平凡な解釈だ。だが平凡でもいいではないか」
 私は一種の法悦を感じた。
「容易に私は動揺されまい」
 こんなようにさえ思うようになった。
 そうしてそれは本当であった。
 ある朝私は自分の部屋で、紅茶を淹《い》れて飲んでいた。
 私の前に新聞があった。一つの記事が眼を引いた。
「佐伯準一郎放免さる。理由は証拠不充分」
 私は動揺されなかった。しかし、
「さぞ彼女は驚いたろうなあ」と、彼女を愍《あわ》れむ心持は動いた。
 で私は呟いた。
「彼女よ。うまく切り抜けてくれ」
 決して皮肉でも何でもなかった。私は心から願ったのであった。彼女を憎む感情などは、いつの間にか私からなくなっていた。それとは反対に愍れみの情が、私の心に芽生えていた。
 翌日《あくるひ》私は散歩した。二月上旬の曇った日で、町には人出が少なかった。公園の方へ歩いて行った。公園にも人はいなかった。花壇にも花は咲いていなかった。ただ冬薔薇が二三輪、寒そうに花弁を顫わせていた。
 私はロハ台に腰を下ろした。佐伯氏と逢ったロハ台であった。音楽堂が正面にあり、裸体《はだか》の柱が灰色に見えた。
 と、誰か私の横へ、こっそり腰かける気勢《けはい》がした。プンと葉巻の匂いがした。私はぼんやりと考えていた。
「少しお痩せになりましたね」
 こう云う声が聞こえてきた。私はそっちへ顔を向けた。一人の紳士が微笑していた。毛皮の外套を纏っていた。それは佐伯準一郎氏であった。
「これはしばらく」と私は云った。
 私は動揺されなかった。ただまじまじと相手を見た。佐伯氏は変わってはいなかった。脂肪質の赧ら顔は、昔ながらに健康《たっしゃ》そうであった。永い未決の生活などを、経て来た人とは見えなかった。
「ただ今奥様とお逢いして来ました」
 相変わらず慇懃の態度で云った。
「今はちょうどその帰りで」
「ああ左様でございますか」
「貴郎《あなた》この頃お留守だそうで」
「ええ」と私は微笑した。
 急に佐伯氏は黙り込んだ。林の方をじっ[#「じっ」に傍点]と見た。そっちから人影が現われた。それは逞《たくま》しい外人であった。
 不意に佐伯氏は立ち上った。それからひどく早口に云った。

21

「私は大変急いで居ります。くだくだしい事は申しますまい。いずれ奥様がお話ししましょう。……さて例の銀三十枚、あれを頂戴に上ったのでした。しかし奥様にお目にかかり、私の考えは変わりました。……進呈することに致しました。いえ貴郎にではありません。貴郎の奥様へ差し上げたので。……奥様は大変お美しい。そうして大変大胆です。何と申したらよろしいか。とにかく私は退治られました。色々の婦人にも接しましたが、奥様のようなご婦人には、お目にかかったことはございません。……で、私は申し上げます。ちっとも[#「ちっとも」に傍点]ご心配はいりませんとね。銀三十枚と私とは、今日限り縁が切れました。あれは貴郎方お二人の物です。もしもこれ迄あの金のために、ご苦労なされたと致しましても、今後はご無用に願います。……全く立派なご婦人ですなア。……今度こそ私は間違いなく、日本の国を立ち去ります。ご機嫌よろしゅう。ご機嫌よろしゅう」
 ロハ台を離れて大股に、町の方へ歩いて行った。
 と、二人の外人が、その後を追うように歩いて行った。
 噴水の向こうに隠れてしまった。
 私はロハ台から離れなかった。だが私は呟いた。
「ひとつ彼女を祝福しに行こう」
 それでもロハ台から離れなかった。
「大金が彼女の懐中《ふところ》へ入った。そのため私は行くのではない。……だが確かめて見たいものだ」
 私は公園を横切った。町へ姿を現わした。それから電車道を突っ切った。
 こうして彼女の家の前へ立った。門を入り玄関へかかった。
「案内を乞うにも及ぶまい」――で私は上って行った。
 書斎の扉《ドア》が開いていた。
 大きく茫然と眼を見開き、――白昼に夢を見ているような、特殊な顔を窓の方へ向け、彼女が寝椅子に腰かけていた。
 私は書斎へ入って行った。彼女の横へ腰を掛けた。しばらくの間黙っていた。
 沈黙が部屋を占領した。
 黙っていることは出来なかった。私は厳粛に彼女へ訊いた。
「話しておくれ。ねどうぞ。信じていいのかね、あの人の言葉を? 私はあの人に逢ったのだよ」
 だが彼女は黙っていた。ただ弛そうに身を動かした。非常に疲労《つかれ》ているらしかった。
 私は厳粛にもう一度訊いた。
「あの高価な白金《プラチナ》は、お前の物になったんだね。それを信じていいのだね?」
 すると彼女は頷いた。それから私の手を取った。彼女の両手は熱かった。そうして劇しく顫えていた。彼女の咽喉が音を立てた。どうやら固唾を飲んだらしい。
 私はその手を静かに放し、書斎を抜けて玄関へ出た。
「やっぱりいけない。この家は」
 私は門から外へ出た。
「彼女は一層悪くなった。……嬉しさに心を取り乱している。そいつが[#「そいつが」に傍点]移ってはたまらない」

 依然として下宿で暮らすことにした。
 その翌日のことであった。
 何気なく私は夕刊を見た。
「佐伯準一郎惨殺さる。自動車の中にて。……原因不明」
 こういう記事が書いてあった。
「少し事件は悪化したな」
 さすがに私は竦然とした。
「彼女の仕業《しわざ》ではあるまいか?」
 ふと[#「ふと」に傍点]私はこう思った。
「昨日の佐伯氏のあの言葉は、どうも私には疑わしい。あれだけ高価の白金を、ああ早速にくれるはずがない。一度はくれると云ったものの、考え直して惜しくなり、取り返しに行ったのではあるまいか?」
 私は理詰めに考えて見た。
「銀三十枚を取り返すため、佐伯氏が彼女を訪問する。彼女はそれを返すまいとする。必然的に衝突が起こる。それが嵩ずれば兇行となる。彼女の性質なら遣りかねない」
 翌日の新聞が心待たれた。
 だが翌日の新聞には、下手人のことは書いてなかった。
「では彼女ではないのかしら?」
 私は幾分ホッとした。
「彼女に平和があるように」
 それでも私は気になった。二三日新聞を注意して読んだ。原因も下手人も不明らしかった。それについては書いてなかった。間もなく新聞から記事が消えた。
「これを流行語で云う時は、事件は迷宮に入りにけりさ。……だが大変結構だ」
 これも決して皮肉ではなかった。もしも彼女が下手人なら、一緒に住んでいたこの私も、必然的に渦中に入れられ、現在の穏かな生活を、破壊されるに相違ない。それは私の望みでなかった。それにもう一つ何と云っても、彼女は私の妻であった。その女の身に不幸のあるのは、私としては苦しかった。
 事件は迷宮に入った方がよかった。
 穏かな日が流れて行った。
 だが十日とは続かなかった。次のような広告が新聞へ出た。
「銀三十枚の持主へ告げる。△△新聞社迄郵送せよ。報酬として一万円を与う」

22

「これはおかしい」と私は云った。
「銀三十枚の持主といえば、彼女以外にはありそうもない。そいつを請求出来る者は、佐伯準一郎氏の他にはない。だが佐伯氏は殺されている。誰が請求しているのだろう?」
 新聞の来るのが待たれるようになった。数日経った新聞に、同じような広告が掲げられてあった。
「銀三十枚の持主に告げる。銀三十枚を郵送せよ。報酬として二万円を与う」
「報酬金が倍になった」
 私の興味は加わった。
 数日経った新聞に、同じような広告が載っていた。
「銀三十枚の持主に告げる。十二使徒だけを郵送せよ。報酬として三万円を与う」
「十二使徒だけを送れという。深い意味があるらしい。だが私には解《わか》らない」
 数日経った新聞に、同じような記事が載せてあった。
「銀三十枚の持主に告げる。十二使徒だけを郵送せよ。報酬として五万円を与う」
「報酬金が五万円になった」
 私の興味は膨張した。
 と、また新聞へ広告が出た。
「銀三十枚の持主に告げる。貴女の住居を突き止めた。貴女は東区に住んで居る。十二使徒だけを郵送せよ。もはや報酬は与えない」
「これは不可《いけ》ない」と私は云った。
「この言葉には脅迫がある。さあ彼女はどうするだろう?」
 と、また新聞へ広告が出た。
「銀三十枚の持主に告げる。銀三十枚を郵送せよ。詐欺師の運命となるなかれ」
「これは恐ろしい脅迫だ!」
 私はじっ[#「じっ」に傍点]と考え込んだ。
「だが真相はこれで解った。広告主が持主なのだ。貨幣の本《もと》の持主なのだ。それを盗んだのが佐伯氏だ。それで佐伯氏の放免を待ち受け、殺して貨幣を取ろうとしたのだ。殺すことには成功したが、取り返すことには失敗した。それは当然と云わなければならない。持っている人間が佐伯氏でなくて、全然別の彼女だったからな。そこでその人は賞を懸けて、貨幣すなわち銀三十枚を、取り返そうと試みたのだ。そうして一方手を尽くして、貨幣の持主を探したのだ。そうして彼女を目つけ出したのだ。……浮雲《あぶな》い浮雲い彼女は浮雲い!」
 私の心は動揺した。
「国際的詐欺師の佐伯氏でさえ、容易に殺した人間だ。彼女を殺すぐらい何でもなかろう」
 ポッと私の眼の前に、彼女の死骸が浮かんで来た。
「これはうっちゃっては[#「うっちゃっては」に傍点]置かれない」
 私は急いで下宿を出た。俥《くるま》に乗って駈け付けた。公園を横切り町へ出た。
 彼女の家へ駈け込んだ。
 彼女は書斎に腰かけていた。彼女の顔は蒼白であった。銀三十枚が卓《テーブル》の上にあった。
 私はツカツカと入って行った。
 フッと彼女は眼を上げた。ゾッとするような眼付きであった。
「もう不可《いけ》ない」と私は云った。
「返しておしまい! 返しておしまい!」
「売りましょう! 売りましょう! 白金《プラチナ》を!」
 ひっ[#「ひっ」に傍点]叩くように彼女は云った。
「持っていなければいいのだわ」
 彼女はフラフラと書斎を出た。電話を掛ける声がした。
 貴金属商へでも掛けるのだろう。
 彼女は書斎へ帰って来た。私と向かって腰を掛けた。だが一言も云わなかった。時々ギリギリと歯軋りをした。
 貴金属商の遣《や》って来たのは、それから一時間の後であった。
 一枚の貨幣を投げ出した。ソロモンのマークの貨幣であった。
 商人は貨幣を一見した。
「これは贋金でございますよ」
「莫迦をお云い!」と彼女は呶鳴った。
「以前一枚売ったんですよ。二つと世界にない質のいい白金! こう云って大金で買ってくれたのに!」
「本物だったのでございましょう。貴女のお売りになった白金は。これは白金ではございません」
 商人の言葉は冷淡であった。
「いいのよいいのよそうかもしれない。たくさんあるのよ。白金はね。一枚ぐらいは贋金かもしれない。これはどう? この貨幣は?」
 彼女はもう一枚投げ出した。ダビデのマークの貨幣であった。
「これも贋金でございます」
 商人の答えは冷淡であった。
 私と彼女とは眼を見合わせた。
「ふん、そうかい。贋金かい、白金はたくさんあるんだよ。二枚ぐらいは贋もあろうさ」
 彼女は努めて冷静に云った。
「これはどうだろう! この貨幣は?」
 また一枚を投げ出した。使徒ポーロのマークの付いた、ぴかぴか光る貨幣であった。
「これは贋金じゃアあるまいね?」
 商人は手にさえ取らなかった。
「やはり贋金でございますよ」
「いいわ」と彼女は呻くように云った。
 革財布を逆さにした。全部の白金を吐き出した。
「幾枚あるの? 本物は?」

23

 商人は一渡り眼を通した。上唇を綻ばせた。
「みんな贋金でございますよ」
「お帰り!」と彼女は呶鳴り付けた。
 商人は冷笑して帰って行った。
「いえあいつは廻し者よ! 例の悪党の広告主、ええ、そいつの廻し者よ! 贋金だ贋金だと嘘を吐き、かっさらって[#「かっさらって」に傍点]行こうとしたんだわ! そんな古手に乗るものか! 電話ではいけない、行って来ましょう。行って店員を引っ張って来ましょう。信用のある金属商の、鑑定に達した店員をね」
 彼女は書斎を飛び出した。電話をかける声がした。タクシを呼んでいるらしい。
 間もなくタクシがやって来た。
 彼女は乗って出て行った。
 私は黙然と腰掛けていた。
「彼女はひょっと[#「ひょっと」に傍点]すると狂人《きちがい》になるぞ」
 私はしばらく待っていた。
「この家には用はないはずだ。一応の忠告! それだけでいいのだ。聞くか聞かないかは彼女にある。……贋金であろうと本物であろうと、私には大して関係はない」
 で、私は下宿へ帰った。

 数日経った新聞に、次のような広告が掲げてあった。
「銀二十九枚の送主に告げる。貴女は非常に聡明であった。イスカリオテのユダを残し、後を郵送してよこしたことは、我等をして首肯せしめ微笑せしめた。安心せよ。危害を加えず」
「ついに彼女は郵送したと見える。イスカリオテのユダの付いた、一枚の貨幣を送らなかったのは、以前売ったからに相違ない」
 とにかく私はホッとした。
「だが彼女は貧乏になった。もうあの家には住めないかもしれない」
 ある日私はこっそり[#「こっそり」に傍点]と、彼女の家の方へ行って見た。家には貸家札が張ってあった。
「予想通りだ」と私は云った。
「流浪の旅へでも出たのだろう」
 私は安心と寂しさを感じた。彼女とは永遠に逢えないだろう。こう思われたからであった。
 間もなく春が訪れて来た。
 やがて晩春初夏となった。
 彼女に目つかる心配はなかった。自由に散歩をすることが出来た。事の過ぎ去った後において、その事のあった遺跡を尋ね、思い出に耽るということは、作家には好もしいことであった。で私は公園へ行き、首を釣りかけた木へ触れたり、佐伯氏と逢ったロハ台に、腰を掛けて考えたりした。
 菖蒲《あやめ》の花の咲く季節、苺が八百屋へ出る季節、この季節を私は愛する。
 だんだん私は健康になった。

 ある日久しぶりでK博士を訊ねた。
 博士は有名な法医学者で、そうして探偵小説家であった。
 その日も書斎で物を書いていた。
 私はそこで話し込んだ。
 と、博士が不意に云った。
「汎猶太《はんユダヤ》主義の秘密結社、フリーメーソンリイの会員達が、大分日本へ入り込みましたね」
「ああ左様でございますか」
「倫敦《ロンドン》タイムスで見たのですが、彼等の大切な秘密文書を、ある日本人に盗まれたので、それを取り返しに来たのだそうです」
 私はちょっと興味を持った。

24

「それが大変探偵的なのです」
 博士はいくらか小声になった。
「少し詳しく話しましょう。実は私は趣味として、フリーメーソンリイの内情を、調べたことがありましたのでね。今お話しした秘密文書ですが、紙に書かれてはいないのだそうです。三十枚の白金《プラチナ》貨幣、その紋章のどの辺りかに、巧妙な図案式文字をもって彫み込んであるのだということです。ところで貨幣の紋章ですが、旧約聖書と新約聖書、その中に出て来る人物を、三十人だけ選択し、打ち出してあるということです。基督《キリスト》はじめ十二使徒などは、勿論入っているのですね。その中とりわけ[#「とりわけ」に傍点]大事なのは、ユダを抜かした十一人の使徒を、打ち出した所の貨幣だそうです。だがまあ[#「まあ」に傍点]これはいいとして、面白いのはその貨幣が、一枚を抜かして二十九枚は、白金ではなくて贋金なのだそうです。つまり勿体を付けるために、白金のようには作ってあるものの、中味は鉛か何かなのですね。ところが盗んだ日本人ですが、そんなこととは夢にも知らず、本物の素晴らしい白金だと、こう思って盗んで来たらしいのです」
「ははあ」と私は微笑して云った。
「本物の白金の貨幣というのは、ユダを紋章に打ち出した、その貨幣ではないでしょうか」
「おや、どうしてご存知です」
 博士はさもさも[#「さもさも」に傍点]驚いたように、
「仰せの通りそうなのですよ」
「だがどうしてその貨幣だけを、本物の白金で作ったのでしょう?」
「つまりフリーメーソンリイは、虚無思想家の集りなんです。で彼等の守護《まもり》本尊は、イスカリオテのユダなんですね。本尊を贋金で作っては、どうもちょっと勿体ない、こういう意味からそれだけを、非常に高価な白金で、作ったのだということです。だが真偽は知りませんよ、伝説的の話ですから」
 私はそこで考えた。私の経験した物語を、博士の耳に入れようかしらと。……だが私は止めることにした。自慢の出来る物語ではなし、又その物語を語ることによって、消え去った不幸な私の妻を、辱しめる事を欲しなかったから。
 それからしばらく世間話をして、私は博士の邸を辞した。
 私には一つの疑問があった。
「すくなくも彼女はユダだけは、本物の白金だということを、心得ていて売ったのかしら? それとも偶然その貨幣を……」
「そんな事はどうでもいい」と私はすぐに打ち消した。
「一切過ぎ去ったことではないか。どうあろうと関係《かかわり》はない」

 下宿生活が不便になった。
「郊外へ小さな家でも借り、自炊生活でもやることにしよう」

 私は借家を探し出した。
 児玉町の方へ行って見て、旧居の前へ差しかかった。もう人が入っていた。これは当然なことであった。私には何となく懐しかった。しばらく佇んで見廻した。
「おや」と私は思わず云った。
 表札に私の名が書かれてあった。私の文字で一條弘と。
「おかしいなあ、どうしたんだろう?」
 格子の内側に障子があり、障子には硝子《ガラス》が嵌め込んであった。ちょっと不作法とは思ったが、家の中を覗いて見た。
「おや」と私はまた云った。
 見覚えのある長火鉢の横に、見覚えのある一人の女が、寂しそうにちんまり[#「ちんまり」に傍点]とかしこまり、縫物をしているではないか。人の気勢《けはい》を感じたのであろう、女はフッと顔を上げた。
「粂子!」と私は声を上げた。
 と、女はスッと立った。私は無意識に表戸を開けた。
 彼女は土間に立っていた。
 私は胸に重さを感じた。彼女の顔がそこにあった。私は両肩を締め付けられた。彼女の腕が締め付けたのであった。
 彼女の口から啜り泣きが洩れた。
「妾《わたし》は信じて居りましたのよ。きっときっといらっしゃるとね。ええ帰っていらっしゃるとね。……待っていたのでございますわ。……信じて下さいよ。ねえ妾を! 妾は純潔でございますの」
 彼女は眼を上げて私を見た。で、私も彼女を見た。
「その眼がその眼である限りは、彼女の純潔は信じてよい」
 そういう眼を彼女は持っていた。昔ながらに、依然として。

 彼女の態度が一変し、バンプ型の女になったのには、大した意味はなかったのであった。そういう振舞いをすることによって、彼女は精神を大胆にし、そうして容貌を妖艶にし、そうして動作を高尚にし、それを武器として大詐欺師に対向《あた》り、大詐欺師をして屈伏せしめ、白金《プラチナ》三十枚を詐欺師の手から、巻き上げようとしたのであった。
 そうとも知らずに煩悶した私は、要するに馬鹿者に過ぎなかったのであった。
 で、結果はどうだったかというに、彼女の勝利に帰したのであった。
 これは当然と云わなければならない。敵を瞞ますには味方を計れ、こういう考えからしたことではあろうが、ともかくも良人《おっと》の私をして、一度は死をさえ覚悟させたほど、深刻な放縦な行動をとって、心身を鍛えた彼女であった、たかが詐欺師なんかに負けるはずはなかった。
 佐伯準一郎氏は恭しく、銀三十枚を彼女に献じた。
 そうしてその帰路不幸にも、フリーメーソンリイの会員に、暗殺されてしまったのであった。――佐伯氏を追って行った二人の外人、あれが下手人に相違あるまい。

25

 私達は一緒に住むことになった。
 最初のうちは変なものであった。何となくチグハグの心持であった。だがそのうちに慣れて来た。
 次第に二人は幸福になった。
 彼女は昔の彼女になった。相変わらず私をあやし[#「あやし」に傍点]たりした。剽軽なことを云ったりした。
「今日は風が吹きますのよ。冬のように寒い風がね。まきまき[#「まきまき」に傍点]するのよ、まきまき[#「まきまき」に傍点]をね」
 襟巻を巻けというのであった。
「たあた[#「たあた」に傍点]を穿くのよ。ね、たあた[#「たあた」に傍点]を」
 足袋を穿けというのであった。
 ある時私はこう云って訊いた。
「誰かと公園で媾曳をしたね。刑事が淫売婦だと云っていたよ」
「え、したのよ。県知事さんと」
 大変サッパリした返辞であった。――それだから私には安心であった。
「お前は知っていて売ったのかい? ユダの紋章のある貨幣だけは、すくなくも本物の白金《プラチナ》だと」
「いいえ」と彼女は笑いながら云った。
「あのユダという人間が、一番厭らしい顔付きでしょう、それで妾売ったのよ」
「なるほど」と私は胸に落ちた。
「そうだすくなくもイスカリオテのユダは、女や小供には喜ばれない、そういう顔の持主だ」
 私達二人は平和であった。
 しかし私は時々思った。
「キッスぐらいは許したかもしれない」
 だが直ぐ私は思い返した。
「いいではないかキッスぐらいは、私だってこれまでいろいろの女に、随分唇を触れたではないか」
 穏かに時が流れて行った。
 ここに一つ残念なことには――だが良人たる私にとっては、かえってひどく[#「ひどく」に傍点]安心な事には、――彼女の容色がにわかに落ちた。
 それは苦労をしたからであった。
 いつも重荷を担いでいる、田舎の百姓の女達が、早くその美を失うように、彼女も重荷[#「重荷」は底本では「荷重」]を担いだため、俄然|縹緻《きりょう》を落としてしまった。
 精神的にしろ肉体的にしろ、あんまり重荷を担ぐことは、不為《ふため》のように思われる。
 私も随分苦労をした。
 年より白髪の多いのは、重荷を担いだ為であった。
 彼女のおデコが目立って来た。下手な義歯が目立って来た。身長《せい》も高くはなくなった。
 だがそれも結構ではないか。
 美しい妻を持っていることは、胆汁質でない良人にとっては、決して幸福ではないのだから。
 だが勿論将来といえども、いろいろ彼女は失敗を演じて、私を苦しめるに相違ない。
 だが恐らく「伯爵ゴッコ」をして、苦しめるようなことはないだろう。
 真夏が来、真夏が去った。[#底本ではここで改段]
 二人の生活には変わりがなかった。

 何でもないことだが云い落とした。
 佐伯準一郎氏の旧宅へ、何のために彼女は越したのだろう?
 やはりそれも佐伯氏を、威嚇するための策だったそうな。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
   1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「新青年」
   1926(大正15)年3月~5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本では「貸す」を一部「借す」としていますが、近世までは多く見られる表記法であり、両者の混在は底本通りにしました。
※小見出しの終わりから、行末まで伸びた罫は、入力しませんでした。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年5月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

「おいおいマリア、どうしたものだ。そう嫌うにもあたるまい。まんざら[#「まんざら」に傍点]の男振りでもない意《つもり》だ。いう事を聞きな、いう事を聞きな」
 ユダはこう云って抱き介《かか》えようとした。
 猶太《ユダヤ》第一美貌の娼婦、マグダラのマリアは鼻で笑った。
「ふん、なんだい、金もない癖に。持っておいでよ、銀三十枚……」
「え、なんだって? 三十枚だって? そんなにお前は高いのか」
「胸をご覧、妾《あたし》の胸を」
 マリアはグイと襟を開けた。盛り上った二顆の乳が見えた。ユダはくらくら[#「くらくら」に傍点]と目が廻った。
「持っておいでよ、銀三十枚。……そのくらいの値打はあろうってものさ」
「マリア、忘れるなよ、その言葉を。……銀三十枚! よく解《わか》った」
 ユダは部屋を飛び出した。引き違いにセカセカ入って来たのは、革|商人《あきゅうど》のヤコブであった。
「さあさあマリア、銀三十枚だ。受け取ってくれ、お前の物だ。……その代わりお前は俺のものだ」
 革財布をチャラチャラ揺すぶった。
「どれお見せ!」と引っ攫ったが、チラリと財布の底を見ると、
「ほんとにあるのね、銀三十枚。……じゃアいいわ、さあおいで」
 寝室の戸をギーと開けた。
 充分満足した革商人が、彼女の寝室から辷り出たのは、春の月が枝頭へ昇る頃であった。
 マリアは深紅の寝巻を着、両股の間へ襞をつくり、寝台の縁へ腰かけていた。
 銀三十枚が股の上にあった。
「畜生!」と突然彼女は叫んだ。
「一杯食った! ヤコブ面に!」
 三十枚の銀をぶちまけ[#「ぶちまけ」に傍点]た。
「マリア!」とその時呼ぶ声がした。
「誰《だアれ》!」と彼女は娼婦声で云った。
「解らないのかい。驚いたなあ」
「あら解ってよ。お入んなさい」
 彼女の情夫、祭司の長、カヤパが寝室へ入って来た。
「これはこれは」と彼は云った。
「銀《しろがね》の洪水と見えますわい」
「よかったらお前さん持っておいでな」
「気前がいいな。そいつアほんとか?」
 カヤパは勿怪《もっけ》な顔をした。

 イエスと十二人の使徒の上に、春の夜が深く垂れ下っていた。ニサン十三夜の朧月は、棕樹《そうじゅ》、橄欖《かんらん》、無花果《いちじく》の木々を、銀鼠色に燻らせていた。
 肉柱《にくけい》の香、沈丁《ちんちょう》の香、空気は匂いに充たされていた。
 十三人は歩いて行った。
 小鳥が塒《ねぐら》で騒ぎ出した。その跫音《あしおと》に驚いたのであろう。
 と、夜風が吹いて来た。暖かい咽るような夜風であった。ケロデンの渓流《ながれ》、ゲッセマネの園、そっちの方へ流れて行った。エルサレムの方へ流れて行った。
 月光は黎明を想わせた。
 十三人の顔は白かった。そうして蒼味を帯びていた。練絹のような春の靄! それが行く手に立ち迷っていた。
 イスカリオテのユダばかりが、一人遅れて歩いていた。
 ユダがイエスを売ったのは、マグダラのマリアの美貌ばかりに、誘惑されたのではないのであった。
 彼にはイエスが疑わしく見えた。
 イエスに疑念を挟《さしはさ》んだのは、かなり以前《まえ》からのことであった。ユダにはイエスが傲慢に見えた。それが不愉快でならなかった。
 女の産んだ最大の偉人、バプテズマのヨハネが礼を尽くし、二人の使者をよこした時、イエスはこういう返辞をした。
「瞽《めし》いた者は見ることが出来、跛《あしな》えた者は歩くことが出来、癩病《やめ》る者は潔まることが出来、聾《し》いた者は聞くことが出来、死んだ者は復活《よみが》えることが出来、貧者は福音を聞かされる。俺《わし》に来たる者は幸福《さいわい》である」と。
 その時ユダはこう思った。
「これは途方もない傲慢な言葉だ。仮りにも預言者と称する者が、何ということを云うのだろう」
 しかしユダはこんなことぐらいで、決してイエスを裏切ったのではなかった。
 浅薄《あさはか》な感情のためではなく、もっと深刻な思想のために、彼はイエスを裏切ったのであった。
「神とは一体何だろう?」
 ユダはここから発足した。
「宇宙の生物と無生物とを、創造し支配する唯一の物! 猶太教《ユダヤきょう》ではこう説いている。そうしてイエスもこう説いている。だが果たしてそうだろうか?」

 ユダはその説とは反対であった。
「宇宙は[#「「宇宙は」は底本では「 宇宙は」]決して支配されてはいない。万象は勝手に動き廻っている。勝手に生れ死んでいる。神! そんな物は存在しない」
 イエスの行なう様々の奇蹟も、アラビヤ人の手品としか、ユダの眼には映らなかった。
 そうしてそういう幼稚な奇蹟に、惑い呆れ驚嘆し、「イスラエルの救い」だと立ち騒ぐ、愚にもつかない狂信者や、そのイエスの奇蹟に手頼《たよ》り「神の国」を建てようとする愛国狂が、ユダの眼には滑稽に見えた。
 ガリラヤの湖水が眼の下に見える美しい小さい丘の上で、またぞろイエスが手品を使い、五千人の信者を熱狂させ、その喝采の鳴り止まぬ中に、一人姿を眩ました時も、ユダは冷やかに笑っていた。
 そのイエスがカペナウムの村で、こう信者達に説いた時には、ユダは本当に怒ってしまった。
「お前達が俺《わし》を尋ねるのは、パンを貰ったためだろう? だがお前達よそれは可《よ》くない。朽ちる糧のために働かずに、永生の糧のために働くがいい。……神は今やお前達へ、真のパンをお与えなされた。この俺こそそのパンだ。俺に来る者は飢えないだろう、俺を信ずる者は渇かないだろう」
「莫迦な話だ」とユダは思った。
「預言者どころの騒ぎではない。彼奴《あいつ》はひどい[#「ひどい」に傍点]利己主義者だ。途方もない妄想狂だ。『朽ちる糧のために働かずに、永生の糧のために働け』という。これこそ妄想狂の白昼夢だ。永生とは一体何だろう? 生命《いのち》ある物はきっと死ぬ。永存する物は無生物だけだ。『俺に来る者は飢えないだろう。俺を信ずる者は渇かないだろう』ではお前へ行かない者は飢えるということになるのだな。ではお前を信じない者は、渇くということになるのだな。彼奴は要するに大山師だ!」
 ユダがイエスを裏切ったのは、こういう考えの相違からであった。

 十三人は歩いて行った。
 次第に夜が更けてきた。月光は少しずつ冴えて来た。十三人は痩せて見えた。木乃伊《ミイラ》のように痩せて見えた。
 ユダ奴が俺を売ったらしい。パリサイ人の追手達が、身近に逼っているらしい。
 ――イエスはすでに察していた。彼の動作は狂わしかった。いつものような平和《おだやか》さがなく、木の根や岩に躓《つまず》いた。そうして幾度も休息した。それでもそのつど説教した。
 楊《やなぎ》の茂みを潜りぬけ、ケロデンの渓流《ながれ》を徒歩《かち》渡りし、やがてゲッセマネの廃園へ来た。
 イエスの体は顫えていた。ひどく恐れているらしかった。
「さあお前達は監視《みまも》っていろ。……ヨハネ、ペテロ、ヤコブは来い。俺と一緒に来るがいい」
 こう云ってイエスは奥へ進んだ。
「俺は一人で祈りたい。お前達も帰って監視しろ」
 ついに三人をさえ追い払った。
 イエスはよろめき躓きながら、一人奥へ入って行った。
 と、林が立っていた。楊、橄欖《かんらん》の林であった。イエスはその中へ入って行った。そこへは月光は射さなかった。禁慾行者の禅定のような、沈黙ばかりが巣食っていた。
 突然イエスは自分の体を、大木の根元へ投げ出した。
「もし出来ることでございましたら、どうぞ私をお助け下さい! 父よ、あなたは万能です」
 白痴《ばか》か、子供か、臆病者か、そんなような憐れな声を上げて、こうイエスはお祈りをした。

 ユダは後を尾行《つけ》て来た。菩提樹の陰へ身を隠し、そこから様子をうかがった。
 彼はすっかり満足した。彼は行なった自分の行為の、疾《やまし》くなかった事を知ることが出来た。
「彼奴《あいつ》はイエスだ、ただイエスだ。なんの彼奴が預言者《キリスト》なものか! 預言者《よげんしゃ》なら助けを乞うはずはない。例の得意の奇蹟というので、さっさと難を遁れるはずだ。しかし」と彼は考え込んだ。
「いざ捕縛という間際になり、素晴らしい奇蹟を現わしたら? そうして難を遁れたら?」
 彼は心に痛みを感じた。
「絶対にそんな事があるものか。だがもし万一あったとしたら、あるいは彼奴は預言者かも知れない。そうして彼奴が預言者なら、俺は潔く降伏しよう。とまれ預言者か大山師か、それを確かめる方便としても、俺が彼奴を売ったのは、決して悪い思い付きではない」
 梢から露が落ちて来た。楊の花が散って来た。イエスの祈る咽ぶような声が、いつ迄もいつ迄も聞こえていた。
 やがてイエスは立ち上り、使徒達の方へ帰って来た。
 不安と疲労《つかれ》とで使徒達は、木の根や岩角を枕とし、昏々《こんこん》として眠っていた。
 イエスは一人々々呼び起こした。
「眠っては不可《いけ》ない。お祈りをしよう」
 ユダを抜かした十二人の者は、そこで改めて祈りを上げた。
 しかしどうにも眠いと見えて、使徒達はまたも眠り出した。[#「眠り出した。」は底本では「眠り出した、」]麻痺的に病的に眠いらしい。
「また眠るのか、何ということだ! 惑《まど》いに[#「惑《まど》いに」は底本では「惑《まどい》いに」]入らぬよう祈るがいい」
 イエスは如何《いか》にも寂しそうに云った。
 と、にわかに叫び声を上げた。
「時は近づいた! 遣って来た!」
 麓の方を指さした。
 山葡萄の茂みに身をひそめ、ユダは様子をうかがっていたが、この時麓を隙かして見た。
 打ち重なった木の葉を透し、チラチラ松火の火が見えた。兵士達の持っている松火であった。時々兵士達の兜が見えた。松火の火で輝いていた。剣戟の触れ合う音もした。
「うん、来たな」とユダは云った。
 それからその方へ小走って行った。
 ユダを認めると兵士達は、足を止めて敬礼した。その先頭にマルコがいた。祭司長カヤパの家来であった。
「マルコ」とユダは近寄って行った。
「接吻が合図だ。間違うなよ」
「大丈夫だ。大丈夫だ」
 そこで一隊は歩き出した。傍路《わきみち》からユダは先へ廻った。
「山師なら悲しみ恐れるだろう、預言者なら奇蹟を行なうだろう。……二つに一つだ。面白い芝居だ」
 ユダは走りながらワクワクした。
 マルコと兵士の一隊は、イエスと使徒との前まで来た。
 使徒達はイエスを囲繞《とりま》いた。
 イエスはマルコを凝視したが、その眼は火のように輝いていた。だがその態度はおちついて[#「おちついて」に傍点]いた。もう顫えてはいなかった。死海の水! そんなように見えた。
 その時|無花果《いちじく》の茂みを分け、つと[#「つと」に傍点]ユダが進み出た。
「ラビ、安きか!」とユダは云った。
 そうしてイエスを抱擁した。それから突然接吻した。
 イエスの顔はひん[#「ひん」に傍点]曲がった。琥珀のように青褪めた。唇と瞼とが痙攣した。
 が、その次の瞬間には、以前《まえ》の態度に返っていた。
 兵士の方へ寄って行き、それからイエスはこう訊いた。
「お前達は誰を訊《たず》ねるのだ?」
「ナザレのイエスを」とマルコが云った。
「ナザレのイエスを? では俺だ」
 マルコと兵士とは後退りした。
「お前達は誰を訊ねるのだ?」
 またイエスはこう訊いた。
「ナザレのイエスを」とマルコが云った。
「それは俺だと云っているではないか。……お前達は俺を発見《みつけだ》した。……この者達には罪はない。この者達を行かせてくれ」
 こう云ってキリストは使徒達を眺め、行けと云うように手を上げた。使徒達は地上へ跪《ひざまず》いた。幾度も土へ接吻した。それから祈祷の声を上げた。
 ユダだけは一人立っていた。

 それは劇的の光景であった。
 だが何物にも変化はなかった。
 沈むべくして月が沈んだ。その代わり十字星が輝いた。遥かに湛えられた地中海では、波がその背を蜒らしていた。ガリラヤの湖、ヨルダン川では、飛魚が水面を飛んでいた。ピリピの分封地、ベタニヤの町、エリコ、サマリアの小村では、人々が安らかに眠っていた。
 ひとりの祭司長の庭園では、赤々と焚き火が燃えていた。パリサイの学者、サンヒドリンの議員、それらの人々が焚火の側《そば》で、曳かれて来るキリストを待っていた。
 それは劇的の光景であった。
 使徒の一人、シモン・ペテロが、突然叫んで飛び上った。腰の刀を引き抜いた。マルコの耳がその途端、木の葉のように斬り落とされた。
「ペテロ!」とキリストは手で制し、斬られた敵を気の毒そうに見た。
「父から贈《くだ》された盃だ」
 彼は両手を差し出した。
 彼は、従容《しょうよう》と縄を受けた。

 誰も彼もみんな立ち去った。橄欖山《かんらんざん》は静かになった。
 ユダ一人が残っていた。
「悲しみもせず、また奇蹟も行なわず、死を希望《のぞ》んでいた人の様に、従容と縛に就《つ》こうとは? 一体|彼奴《あいつ》は何者だろう?」
 ユダはすっかり驚いてしまった。悉皆目算が外れてしまった。
 楊《やなぎ》の木に体をもたせかけ、暁近い空を見た。
 どうにも不安でならなかった。

 イエスに対する審判は、その夜のうちに行なわれた。
 祭司長カヤパはこう訊いた。
「お前は本当に神の子か?」
「そうだ」とイエスは威厳をもって云った。
「人の子|大権《たいけん》の右に坐し、天の雲の中に現われるだろう。お前達はそれを見るだろう」
 カヤパの司どる猶太教《ユダヤきょう》からすれば、神の子だと自ら称することは、この上もない冒涜であった。その罪は将《まさ》に死に当たった。
 人を死罪に行なうには、羅馬《ローマ》政府の方伯《ほうはく》たるピラトに聞かなければならなかった。
 サンヒドリンの議員やパリサイ人や、祭司長カヤパは夜の明ける迄、愉快そうにイエスを嬲り物にした。
 やがて夜が明けて朝となった。羅馬公庁ピラトの邸へ、カヤパ達はイエスをしょびいて[#「しょびいて」に傍点]行った。
 それは金曜日にあたっていた。おりから逾越《すぎこし》の祝日《いわいび》で、往来には群集が漲っていた。家内では男女がはしゃいで[#「はしゃいで」に傍点]いた。
 ピラトは思慮のある官吏であった。しかし心が弱かった。
 イエス一人を庁内へ呼び、
「お前は猶太の王なのか?」
 彼は先ずこう訊いた。
「我国はこの世の国ではない」
 これがイエスの返辞であった。
「とにかくお前は王なのか?」
「そうだ」とイエスは威厳をもって云った。
「俺はそのために生れたのだ。……すなわち真理を説くために」
 イエスの謂う所の王の意味と、キリストの謂う所の国の意味とを、ピラトはそこで直覚した。
 玄関へ出て彼は云った。
「この男には罪はない」
 しかし群集は喜ばなかった。イエスを戸外《そと》へ引き出した。棘《いばら》の冕《かんむり》を頭に冠せ、紫の袍を肩へ着せ、そうして一整に[#「一整に」はママ]声を上げた。
「十字架に附けろ! 十字架に附けろ!」
 エルサレム城外カルヴリの丘、そこへキリストを猟り立てて行った。
 草の芽が満地を蔽っていた。樹立が丘を巡っていた。祭壇から煙りが立ち昇り、犠牲の小山羊が焚かれていた。殿堂では鐘が鳴らされていた。
 イエスは十字架へ附けられた。
 彼の苦しみは三時間つづいた。
「事は終った」と彼は云った。
 彼の生命《いのち》が絶えた時、殿堂の幕が二つに裂け、大地が顫え墓が開らけた。

 この頃ユダは橄欖山《かんらんざん》を、狂人《きちがい》のように歩いていた。
「彼は恐れず悲しまず、従容《しょうよう》として死んで行った。とにもかくにも凡人ではない。……では彼奴《あいつ》は預言者か?」
 ユダにはそうは思われなかった。
「彼奴は帰する所妄信者なのだ。ただ預言者だと妄信しただけだ」
 ユダはある歌を想い出した。それはイエスが幼《ちいさい》時から、愛誦したという歌であった。
[#ここから3字下げ]
至誠《まこと》をもて彼道を示さん
彼は衰《おとろ》えず落胆《きおち》せざるべし
道を地に立て終るまでは
彼は侮どられて人に捨られ
悲哀《かなしみ》の人にして悩みを知れり
[#ここで字下げ終わり]
「なるほど」とユダは呟いた。
「彼奴の如何《いか》にも好きそうな歌だ。そっくり彼奴にあてはまる[#「あてはまる」に傍点]からな」
「侮どられて人に捨られぬ」
「ほんとに侮どられて捨られた」
「彼は衰えず落胆せざるべし」
「これも全くその通りだ。最後まで落胆しなかった。……はてな、それではあの男は、そういう事を予期しながら、なおかつ道を立てようとして、ああ迄精進したのだろうか?」
 ユダはにわかに行き詰まった。
「よし預言者でないにしても、妄信者以上の何者か、偉大な人間ではなかったろうか?」
 彼の胸は痛くなった。
「いけないいけないこういう考えは! 世の中に偉人なんかありはしない。あると思うのは偏見だ。生きている物と死んでいる物、要するにただそれだけだ。そうして生物の世界では、雄と雌とがあるばかりだ。雌だ! 女だ! あっ、マリア!」
 ユダは周章《あわて》て懐中《ふところ》を探った。銀三十枚が入っていた。

 マグダラのマリアは唄っていた。
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キリスト様が死んだとさ
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「ふん、いい気味だ、思い知ったか。……妾《わたし》は最初《はじめ》あの人が好きで、香油《においあぶら》で足を洗い、精々ご機嫌を取ったのに、見返ろうとさえしなかったんだからね。そこでカヤパを情夫《いろ》にして、進めてあの人を殺させたのさ」
「マリア!」とユダが飛び込んで来た。
「銀三十枚! さあどうだ!」
 ユダはマリアを抱き縮《すく》めた。
「まあお待ちよ、どれお見せ」
 革財布をひったくり[#「ひったくり」に傍点]、一眼中を覗いたが、
「お気の毒さま、贋金だよ! 一度は妾も瞞《だま》されたが、へん、二度とは喰うものか! お前、カヤパに貰ったね。妾がカヤパに遣ったのさ」

 ここ迄話して来た佐伯《さえき》氏は、椅子からヒョイと立ち上ると、ひどく異国的の革財布を、蒐集棚から取り出した。
「まあご覧なさい、これですよ、いまの伝説《はなし》の銀貨はね」
 ドサリと投げるように卓《テーブル》の上へ置いた。
「私がエルサレムへ行った時、ある古道具屋で買ったもので勿論本物ではありません。あっちにもこっちにもあるやつでね。漫遊者相手のイカ物ですよ。……だが面白いじゃアありませんか、今も猶太《ユダヤ》の人間は、私がお話ししたように、キリストとユダとマリアとをそう解釈しているのですよ。そうして銀貨まで拵えて、理《もっとも》らしく売り付けるのです。猶太人に逢っちゃ敵《かな》わない。一番馬鹿なのがキリストで、その次に馬鹿なのがイスカリオテのユダ、そうしてその次がマリア嬢で、一番利口なのが革商人ということになるのですからね」
 私は銀貨を手に取った。厚さ五分に幅一寸、長さ二寸という大きな貨幣《もの》で、持ち重りするほど重かった。そうして昨日《きのう》鋳たかのように、ひどくいい色に輝いていた。
「恐ろしく重いじゃアありませんか」
 私は吃驚《びっくり》して佐伯氏に云った。
「ほんとに猶太の古代貨幣は、こんなに恐ろしく重かったのでしょうか?」
「さあ、そいつは解《わか》りません。だが日本の天保銭なども、随分大きくて重かったですよ。……紋章が面白いじゃアありませんか」
 いかにも面白い紋章であった。
「どうです私の今の話、小説の材料にはなりませんかね」
「ええなりますとも大なりです」
 こうは云ったが私としては、そう云われるのは厭であった。大概の人は小説家だと見ると、定《き》まって一つの話をして、そうして書けというからであった。もう鼻に付いていた。
 とは云え確かにこの話は、書くだけの値打はあるらしい。偶像破壊、価値転倒、そうして無神論、虚無思想が、色濃く現われているからであった。勿論書くならイスカリオテのユダを、当然主人公にしなければなるまい。

「是非お書きなさい、お進めします」
 旅行家でもあり蒐集家でもある、佐伯準一郎氏はこう云った。
「ついては貨幣をお貸ししましょう。その紋章を調べるだけでも、趣味があるじゃアありませんか。一枚と云わず三十枚、みんな持っておいでなさい。実は私は明日か明後日、またちょっと旅行に出かけますので、当分それは不用なのです。紛失《なく》されてはいささか困りますが、紛失なるような物ではなし、お貸しするとは云うものの、その実保管が願いたいので、ナーニご遠慮にゃア及びません。……それはそうと随分重い、とても持っては帰れますまい。ひとつ貸自動車《タクシ》を呼びましょう」
 事実私はその貨幣にも、貨幣の紋章にも興味があった。そうして物語に綴るとしても、何かそういう貨幣のような、物的参考があるということは、確実性を現わす上に、非常に便利に思われた。
 私は遠慮なく借りることにした。
 その中タクシがやって来た。
 佐伯氏は貨幣を革財布へ入れ、そうしてタクシへ運び込んでくれた。
「いずれ旅行から帰りましたら、お手紙を上げることにいたしましょう。いや私がお訪ねしましょう。文士の家庭を見るということも、ちょっと私には興味があるので、しかしこんなことを申し上げては、はなはだ失礼かもしれませんな」
 佐伯氏は玄関でこんなことを云った。タクシがやがて動き出した。
「左様なら」と私は帽子を取った。
「左様なら」と佐伯氏は微笑した。
 だが私にはその微笑[#「微笑」は底本では「微少」]が、ひどく気味悪く思われた。
 名古屋の夜景は美しかった。鶴舞公園動物園の横を、私のタクシは駛《はし》って行った。

 私のタクシは駛って行った。
 公園は冬霧に埋もれていた。
 公園を出ると町であった。町の燈も冬霧に埋もれていた。
 名古屋市西区児玉町、二百二十三番地、二階建ての二軒長屋、新築の格子造り、それが私の住居《すまい》であった。
 そこへタクシの着いたのは、二十五分ばかりの後であった。
 妻の粂子《くめこ》は起きていた。
「遅かったのね」と咎めるように云った。私をしっかりと抱き介《かか》えた。それから頬をおっ[#「おっ」に傍点]付けた。これが彼女の習慣であった。子供のように扱うのであった。
 二階の書斎へ入って行った。
「おい好い物を見せてあげよう。これはね、猶太《ユダヤ》の銀貨なのさ」
 財布から銀貨を取り出した。
「まあやけ[#「やけ」に傍点]に大きいのね」
 彼女は愉快そうに笑い出した。彼女の歯並は悪かった。上の前歯は二本を抜かし、後は全部|義歯《いれば》であった。笑うと義歯が露出した。それが私には好もしくなかった。だがその眼は可愛かった。眼尻の方から眼頭の方へ、一分ほど寄った一所の、下瞼が垂れていた。といって眼尻が下っているのではなかった。眼尻は普通の眼尻なのであった。ただそこだけが垂れていた。それがひどく[#「ひどく」に傍点]彼女の眼を、現代式に愛くるしくした。それは子供の眼であった。どこもかしこも発育したが、そこばっかりは子供のままに、ちっとも発育しなかったような、そういう愛くるしい眼なのであった。その眼がその眼である限りは、彼女の純潔は信頼してよかった。
 その眼で愉快そうに笑った。
 私はそこで説明した。
「これはね、途方もない贋金なのさ。銀のようにピカピカ光っているだろう。だが銀じゃアないんだよ。鉛かなにかが詰めてあるのさ。借りて来たんだよお友達からね。こいつで物語を作ろうってのさ。まあご覧よ紋章を」
 紋章はみんな異《ちが》っていた。三十枚が三十枚ながら、別々の紋章を持っていた。貨幣の縁を囲繞《とりまい》ているのは、浮彫にされたローレルの葉で、その中に肖像が打ち出されてあった。肖像が異っているのであった。私は一つを取り上げて見た。長髪を肩までダラリと下げた、悲しそうではあるが高朗とした、間違いない基督《キリスト》の肖像が、その貨幣には打ち出されてあった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。頭の禿げた眼の落ち込んだ、薄い唇を噛みしめた、意志の権化とでも云いたげな、老人の姿が打ち出されてあった。使徒ペテロに相違なかった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。火のように髪を渦巻かせ、瞑想的の眼を空へ向け、感覚的の唇を幽かに開けた、詩人のような人物が、ローレルの葉に囲繞かれていた。黙示録の著者に相違なかった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。丸顔で無髯で眼の細い、平和的の使徒の肖像が、その貨幣には打ち出されてあった。最初にサマリヤへ布教した、ピリポの肖像に相違なかった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。無気力ではないかと思われる程、痩せた皺だらけの貧相な顔が、その貨幣には打ち出されてあった。ヘロデ王の兇刃によって、無慚に殺された使徒ヤコブ、その肖像に相違なかった。
 もう一つの貨幣を取り上げて見た。それにも肖像が打ち出されてあった。
「うん、こいつはイスカリオテのユダだ」
 私は直《す》ぐに知ることが出来た。そんなにもそれは特色的であった。一見醜悪の容貌であった。だが仔細に見る時は、恐ろしく勝れた容貌であった。先づ顱頂部が禿げていた。しかし左右の両耳から、項へかけて髪があった。つまり頭の後半を、髪が輪取っているのであった。これが一見不愉快に見えた。しかしこれは一方から云えば、学者などに見る叡智の相で、決して笑うことの出来ないものであった。額が不自然に狭かった。これも一見不愉快であった。先天的犯罪人の相でもあった。が、これとて一方から云えばソクラテスの額に似ていると云った、一種病的な天才等に、往々見受けられる額であった。両眼がひどく[#「ひどく」に傍点]飛び出していた。枝の端などで突かれなければよいが、こんな事を思わせる程飛び出していた。だがやっぱりこの眼付きも、ソクラテスの眼付きに似ているのであった。非常に智的な眼付きなのであった。鼻は所謂《いわゆ》る獅子鼻であった。唇がムックリ膨れ上っていた。二つながら強い意志の力の、表現だと云ってもよさそうであった。反逆性のあることを、さながらに示した高い頬骨、精神的苦悶の著しさを、そっくり現わした満面の皺、断じて俺は妥協しない! こう言いたげな根張った顎、そうして頸は戦闘的に、牡牛のように太かった。
 顔全体を蔽うているのは、懐疑的の憂鬱であった。
「いかなる物をも信じないよ」
 こう云っているような顔であった。

「なるほど」と私は心の中で云った。
「従来の美学から云う時は、これは将《まさ》しく非審美的の顔だ。女や子供には喜ばれまい。だがしかしこの顔こそ、本当の人間の顔ではないか」
 基督《キリスト》の肖像と並べて見た。洵《まこと》に面白い対照であった。信仰、柔和、愛、忍従、これが基督の肖像に、充ち溢れている特徴であった。全体が細身で美しく、古典的に調っていた。力が非常に弱かった。虚無、憤怒、憎悪、反抗、これがユダの肖像に、行き渡っている特色であった。全体が野太く荒削りで、近代的に畸形であった。力が恐ろしく強かった。
「これは極端と極端だ、両立すべきものではない。師弟となるべきものではない。相克するのは当然だ。基督といえどもユダの上へ、君臨することは出来ないだろう。ユダといえども基督の上へ、君臨することは出来ないだろう。互いに領分をもっている。で、基督へ行きたい人は、行って安心をするがいい。で、ユダへ行きたい人は、行って何かを掴むがいい。[#「掴むがいい。」は底本では「掴むがいい、」]だが基督へ行った人は、去勢されるに相違ない。奴隷根性になるだろう。その代わり安心は出来るだろう。しかしユダへ行った人は、革命的精神を動《そそ》られるだろう。そうして世間から迫害されるだろう。一生平和は得られないだろう」
 基督とユダとを比べることによって、私はちょっと瞑想的になった。
 一つ一つ紋章を調べて行った。その結果私は十二使徒と、耶蘇《エス》基督との肖像を、三十枚の貨幣のその中から、苦心して選択をすることが出来た。まだ後十七枚残っていた。どれにも肖像が打ち出されてあった。それも間もなく知ることが出来た。
 モーゼ、アブラハム、ヨブ、ソロモン、ダビデ、サムソン、ヨシュヤ、サムエル、エリヤ、その他の人々で、いずれも旧約聖書中の、大立者の肖像であった。肖像の下に有るか無い程の小さい小さい横文字で、署名書きがしてあったからで。
「猶太《ユダヤ》の古代貨幣なら、猶太文字で署名がしてあるはずだ。ところが英語で署名してある。これ一つでもこの銀貨の、贋物ということが証明できる」
 私は思わず呟いた。
「いいえ」とその時妻が云った。
「え?」と私は顔を上げた。
 紋章の研究に心を奪われ、彼女の事を忘れていた。
「お前何とか云ったかい」
 彼女は返事をしなかった。彼女の表情には変なものがあった。眼が銀貨に食い付いていた。燃えるような熱のある眼であった。頬が病的に充血していた。ふっ[#「ふっ」に傍点]と彼女は私を見た。疑惑に充ちた眼であった。
「貴郎《あなた》」と彼女は叱るように云った。
「何人《どなた》からお借りしていらしったの? こんな妙な気味の悪いものを」
「気味が悪いって? どうしてだい?」
 いわゆる唖然とした心持で、聞き返さざるを得なかった。
「贋金なんだよ、古代猶太のね」
「ねえ貴郎」と彼女は云った。
「何人からお借りしていらしったの? 聞かせて下さいよ。さあ直ぐに」
 厳粛《げんしゅく》と云いたいような声であった。彼女にそぐわない[#「そぐわない」に傍点]声であった。
「佐伯って人だ。佐伯準一郎」
 何だか私は不安になった。
「立派な紳士だよ、蒐集家なんだ」
「佐伯準一郎? 聞かない名ね。だって貴郎のお友達の中には、そんな名の方はなかったじゃアないの?」
 私は急に厭になった。
「また何かを嗅ぎ付けやがったな、ほんとに仕方のない目っ早小僧だ! だが今度はお生憎様さ、ちょっとも引け目なんかないんだからな」
 こんなように考えた。
 で、私はやっつける[#「やっつける」に傍点]ように云った。
「これから俺の人名簿へ、新しく記《つ》けようっていう友人なのさ」
「ねえ貴郎」と彼女は云った。
「どうしてどこでお友達になって?」
「公園でだよ。鶴舞公園でね」
「いつ?」と彼女は追っかけて訊いた。叱るような声であった。
 危うく反感を持とうとした。しかし私は差し控えた。不安どころか悲しみをさえ、彼女の顔に見たからであった。
「今日の昼さ。病院の帰りにね。……何だかひどく心配そうだなあ。その可愛い凸ちゃんを、心配させちゃア可哀そうだ。よし来た詳しく話してやろう」
 ――私はバセドー氏病の患者であった。毎週一回病院へ通って、かなり強いレントゲンの、放射を受けなければならなかった。その往復に公園を通った。鶴舞公園はいい公園で、日比谷以上に調っていた。一つのロハ台へ腰を掛け、好きなラ・ラビアを喫《ふ》かすのが、夏以来の習慣であった。
 冬も冬、一月中旬、冷たい風が吹き迷っていたのに、この習慣は止められず、その日も私はロハ台に倚《よ》って、ラ・ラビアを喫かしていた。

10[#「10」は縦中横]

 その時毛皮の外套を着た、四十五六の立派な紳士が、私の横へ腰を掛け、ゆるやかに葉巻を喫かし出した。
「あの大変失礼ですが、貴郎《あなた》は美術家ではいらっしゃいませんか?」
 紳士が卒然話しかけた。
「いえ」と私は素っ気なく云った。
 私は私の趣味として、商売のことを訊かれるのと、年齢のことを訊かれるのとを、好まないばかりか嫌っていた。そうして私はそんなように、見知らない人から話しかけられるのを、これまた趣味として好まなかった。
 紳士は外套の内|衣兜《かくし》から、ゆっくり名刺入れを取り出した。一揖すると名刺を出した。
「私、佐伯と申します。最近|欧羅巴《ヨーロッパ》から帰りましたもので」
 これは益々私にとっては、好ましくない態度であった。洋行帰りがどうしたんだ! あぶなく心で毒吐こうとした。しかしそいつ[#「そいつ」に傍点]をしなかったのは、その佐伯という紳士の態度が、よい意味における慇懃で、こしらえた[#「こしらえた」に傍点]所がなかったからであった。
 私も名刺を手渡した。
「おやそれでは一條さんで。よくお名前は存じて居ります。たしかお作も見たはずです。いや私は最初から、芸術家でいらっしゃると思っていました。それでお言葉を掛けましたので。全く芸術家の方々には、一つの型がございますのでね」
 この言葉は中《あた》っていた。芸術家には型があった。たいして愉快な型ではないが。
「はなはだ突然で不作法ですが、ご迷惑でなかったら拙宅へ、これからおいで下さるまいか。お見せしたい物がありますので、恐らくお気にも入りましょう。実は私は好事家でしてな、その方面ではかなり広く、海外へも参って居りますので。相当珍品も集まって居ります。宅は公園の直ぐ裏で。ええそうです××町です。ナーニご遠慮にゃア及びません。私の方から見て頂きたいので。訳の解らない骨董屋などより、芸術家のお方に見て頂いた方が、どんなに有難いか知れません。物を集めるということは、自分の趣味性を充たすと同時に、やはり具眼者に見て頂いて、その批評を承わるのが、目的の一つでございますからね」
 佐伯準一郎氏はこんなことを云った。
 慇懃で如才なくて魅力的で、断わりかねるような云い方であった。そこで私は行くことにした。こうして私の見せられたのは、伝説の銀三十枚であった。

11[#「11」は縦中横]

 私の話を聞いてしまうと、妻は一層不安そうにした。
「それでお借りしていらっしゃったのね。まあ本当に仕方のない方!」
 バタバタと階下《した》へ下りて行った。
 箪笥《たんす》を引き出す音がした。
 彼女は書斎へ帰って来た。
「さあ比べてご覧なさい」
 彼女は指環を投げ出した。
「ね、白金《プラチナ》じゃアありませんか」
 指環は白金に相違なかった。それが白金であるがために、彼女はそれを虎の子のように、奥深く秘蔵していたものである。私は二つを比べてみた。銀三十枚と指環とを。
 私は変に寒気立った。二つは全く同じであった。
「おい、こいつア同《おんな》じだ」
「贋金でなくて白金よ」
「この大きさでこの重さ……」
「数にして三十枚よ。さあお金《あし》に意《つも》もったら[#「意《つも》もったら」はママ]? ああ妾にゃア見当がつかない」
「おい、自動車を呼んで来い!」

 一人で行くのは怖かった。と云うよりも妻の方で、うっそり[#「うっそり」に傍点]者のこの私を、一人でやるのが不安だったらしい。
 で、自動車へは二人で乗った。
 私の両手と彼女の両手とが、革財布を抑えていた。
 考え込まざるを得なかった。
「これは何かの間違いなのだ。でなかったら陰謀だ。どうぞ陰謀でないように。俺は問題にならないとしても、聡明らしい佐伯氏が、贋金と白金とを見分けぬはずはない。知っていて俺に借したのだ。しかしあんな猪牙がかりに、借せるような物じゃアないはずだが。金銭《かね》に直して幾万円? 箆棒めえ借せられるものか! だが借したのは事実なのだ。……曰くがなけりゃアならないぞ……」
 私達のタクシは駛《はし》っていた。彼女は物を云わなかった。夜は十二時を過ごしていた。何という町の冬霧だ。とうとうタクシは公園へ来た。その公園を突っ切った。××町まで遣って来た。こんな飛んでもない贋金は、早く早く返さなければならない!
「停《と》めろ!」と私は呶鳴るように云った。
 徐行し、そうして停車した。
「どのお家! 佐伯さんのお家は?」
 妻が私に呟いた。私は窓から覗いて見た。
「ご覧」と私は唾を飲んだ。
「赤い警察の提燈《ちょうちん》が、チラツイているあの屋敷だ」
 妻も唾を飲んだらしい。運転手が扉《ドア》を開けようとした。
「待て」と私は嗄声《かれごえ》で制した。窓のカーテンを掻い遣った。妻の鬢の毛が頬に触れた。
 佐伯家の厳めしい表門が、一杯に左右に押し開けられていた。赤筋の入った提燈が、二つ三つ走り廻っていた。遠巻きにした見物が、静まり返って眺めていた。門の家根《やね》から空の方へ、松の木がニョッキリ突き出していた。遥かの町の四つ角を、終電車が通って行った。
 刺すような静寂が漲っていた。
「おい、運転手君、引っ返しておくれ」
 ――で、タクシは引っ返した。
 彼女は何とも云わなかった。彼女の肩が腕の辺りで、生暖かく震えていた。
 何か捨白《すてぜりふ》が言いたくなった。
「捕り物の静けさっていうやつさね。旅行しますと云ったっけ。ははあ刑務所のことだったのか。佐伯君、警句だぞ」
 勿論腹の中で云ったのであった。

12[#「12」は縦中横]

 その翌日の新聞は、刺戟的の記事で充たされていた。大標題《おおみだし》だけを上げることにしよう。
[#ここから3字下げ]
国際的大詐欺師
佐伯準一郎捕縛さる
[#ここで字下げ終わり]
 勿論特号活字であった。
 欧米、南洋、支那、近東、こういう方面を舞台とし、十数年間組織的詐欺を、働いていたということや、日本知名の富豪紳士にも、被害者があるということや、数ヶ月前名古屋に入り込み、ために司法部の活動となり、捜索をしていたということや、昨夜何者か密告者があって、始めて所在を知ったということや、家宅捜索をした所、贋物の骨董があったばかりで金目の物のなかったということや、書生や女中は新米で、様子を知らなかったということや、××町の屋敷へは、ほんの最近に移って来たので、まだ近所への交際《つきあい》さえ、はじめていなかったということや、最後に至って別標題を附け、国際的陰謀の秘密結社に、関係あるらしいということなどが、三段に渡って記されてあった。
 私と妻とは眼を見合わせた。どうしていいか解《わか》らなかった。白金《プラチナ》に違いないと思われる、銀三十枚を携えて、警察へ訴え出ることが、とるべき至当の手段ではあったが、そのため同類と疑われ、種々《いろいろ》うるさい取り調べを受け、新聞などへ書かれることが、どうにも不愉快でならなかった。と云って保存して置いたなら、いわゆる贓物隠匿として、露見した場合には必然的に、刑事問題を惹き起こすだろう。
「おい、どうしたものだろう?」
「さあ、ねえ」と彼女は考え込んだ。
「訴えて出るのが至当でしょうね」
「うん」と私は考え込んだ。
「変にえこじ[#「えこじ」に傍点]に調べられると、カッと逆上する性質《たち》だからなあ」
「それに貴郎《あなた》はお忙しいんでしょう」
「うん、目茶々々に忙しいんだ。動揺させられるのが一番困る。今が大事な時なんだからな。せっかくの空想が塞がれてしまう」
「それが一番困りますわね」
 彼女は熱心に考え込んだ。
 大方の芸術家がそうであるように、一面私は神経質で、他面私は放胆であった。又一面|洒落《しゃれ》者で他面著しく物臭であった。宿命的病気に取っ付かれて以来、その程度が烈しくなった。この病気の特徴として、いつも精神が興奮した。
 だが私は私の病気を、祝福したいような時もあった。「空想」が奔馳して来るからであった。本来私という人間は、空想的の人間であった。空想には不自由しなかった。それが病気になって以来、その量が一層増したらしい。空で行なわれているエーテルの建築! それを破壊する電子の群れ! そんなものが私には、「見える」のであった。だがまだ私は霊媒《ミジャム》ではなかった。しかし早晩なるだろう。他界の消息、黄泉の通信、幽霊達の訴言《うったえごと》、そういうものだって知ることが出来よう。
 物を書きながら苦しむことがあった。後から後からと空想が、駈け足で追っかけて来るからであった。文字にして原稿紙へ書き取る暇さえ、ゆっくり与えてはくれないからであった。そんな時私はゴロリと寝た。動悸の烈しい心臓を抑え、空想の駈け抜けるのを待つのであった。
 町を歩きながら立ち止まり、電信柱へ倚りかかり、湧き上って来る空想を、鼻紙の上へ書いたりした。
 ある夜空想が湧き上って来た。折悪しく鼻紙を持っていなかった。一軒の商店の板壁へ、万年筆で書き付けた。そうして翌朝出かけて行き、写し取って来たような事さえあった。
 今に私は往来の人の、背中へ紙をおっ付けて、そこで書くようになるかもしれない。
 創作力に充満《みちみち》ていた。それをこんなつまらない[#「つまらない」に傍点]ことで、破壊されるのは厭だった。
 急に妻は変に笑った。ゾッとするような笑い方であった。それから私をからかい[#「からかい」に傍点]出した。
「無理はないわね、貴郎としては。そうら出入りの呉服屋さん、ちょっと相場で儲けたと云って、白金《プラチナ》の腕時計を巻いて来たらニッケルにしちゃアいい艶だって、こんな事を云ったじゃアありませんか、そうかと思うと妾の時計、そりゃあニッケルとしては類なしで、金時計より高価《たかい》んですけれど、こいつア素晴らしい白金だって、大騒ぎをしたじゃアありませんか。白金だか銀だか解《わか》らないのは[#「解《わか》らないのは」は底本では「解《わか》からないのは」]、ちっとも不思議じゃアありませんわね」

13[#「13」は縦中横]

「何だ莫迦め!」と呶鳴り付けた。
「そんな事を云い出して何になるんだ」
 だが彼女はますます笑い、ますます私をからかった[#「からかった」に傍点]。
「貴郎《あなた》、ペテンに掛かったのよ。ええそうとしか思われないわ。でもどうしてこんなペテンに? いいえさ佐伯とかいう大詐欺師が、どうしてこんな変なペテンに、引っかけなければならなかったんでしょう? 儲かることでもないのにね。かえって大変な損をするのに。これには奥底があるんだわ。そうとしきゃア思われないわ。恐いわねえ、どうしましょう。返していらっしゃいよ、さあ直ぐに」
「莫迦め!」と私はまた呶鳴った。
「牢屋へ持ってって返せってのか」
「では貴郎には手が着かないのね?」
 にわかに彼女は冷静になった。
「妾《わたし》にお委せなさいまし」
「で、お前はどうするつもりだい?」
「貴郎それをお聞きになりたいの? では自分でなさるがいいわ」
 彼女は再び揶揄的になった。
「だってそうじゃアありませんか、一切妾に委されないなら」
「だが俺には手が出ないよ」
「お書きなさいまし、原稿をね」
 それは歌うような調子であった。
「そうして何にも思わないがいいわ。食い付きなさいまし、お仕事にね。貴郎は可愛いお馬鹿ちゃんよ。組織立ったことをさせるのは、それは無理と云うものよ。お信じなさいまし、妾をね」
 私は彼女へ委せてしまった。何にも考えないことにした。さあ仕事だ! さあ創作だ! 空想よ駈り立ててくれ!

 年が改たまって新年《はる》となった。
 妻の様子が変わって来た。
 彼女と私とは恋愛によって、一緒になった夫婦であった。彼女は私を愛していた。ところがこの頃愛さなくなった。
「ねえ、お馬鹿ちゃん」
「ねえ、凸坊」
 これが私への愛称であった。この頃ではそれを封じてしまった。彼女はひどく剽軽であった。途方もない警句を頻発しては、私を素晴らしく喜ばせてくれた。
「ね、ご覧なさいよ、ベッキイちゃんを、てまつく[#「てまつく」に傍点]しているじゃアありませんか」
 よく彼女はこんなことを云った。ベッキイというのは飼い犬であった。活動俳優の天才少女、ベビー・ベッキイの名を取って、彼女が命名《なづ》けた犬の名であった。てまつく[#「てまつく」に傍点]というのは手枕のことで、その飼い犬が寝ている様子を、そう形容して云ったのであった。
 これは何でもない云い方かもしれない。しかし彼女が云う時は、光景が躍如とするのであった。犬ではなくて人間の、可愛い可愛いベッキイという少女が、さも愛くるしく手枕をして、眠っているように思われるのであった。
 しかし彼女はこの頃では、もうそんなことも云わなくなった。私が散歩でもしようとすると、彼女はきっと呼び止めた。立ったまま私を抱き介《かか》え、少しおデコの彼女の額を、私の額へピッタリと食っ付け、梟のように眼を見張り、嚇かすように頬を膨らせ、
「いい事よ、行っていらっしゃい」
 こう云ってようやく放してくれた。が、それも遣らなくなった。
 泣くことの好きな女であった。ある朝私は顔を洗い、冷たい手をして居間へ行った。と、彼女が化粧をしていた。胸が蒼白くて綺麗だった。冷たい手先をおっ附けてやった。それが悲しいといって泣き出した。大変美しい泣き方であった。勿論拵えた媚態であった。それが彼女には似つかわしかった。が、それもやらなくなった。
 笑うことの上手な女であった。「無智の笑い方」が上手であった。利口な彼女が笑い出すと、無智な無邪気な女に見えた。それこそ実際男にとっては、有難い笑いと云わなければならない。瞬間に苦労が癒えるからであった。が、それもやらなくなった。
 彼女は不思議な女であった。千里眼的の所があった。ウイスキイの二三杯もひっかけて――私は元は非常な豪酒で、一升の酒は苦しまずに飲んだ――門《かど》の格子を静かにあけると、きっと彼女は云ったものである。
「ご機嫌ね、柄にないわ」
 ……時々|交際《つきあい》で旗亭《ちゃや》へ行き、さり気なく家へ帰って来ると、三間も離れて居りながら、
「厭な凸坊、キスしたのね。若い綺麗な芸子さんと。襟に白粉が着いてるわ」
 ……だが彼女はこの頃では、もうそんな事も云わなくなった。
 私が戸外《そと》で何をしようと、気に掛けようとはしなかった。
 これは一体どうしたのだろう? 何が彼女を変えたのだろう?
 彼女は丸髷が好きであった。いつかそれを王女《クイン》髷に変えた。
 家に居たがる女であった。ところがこの頃では用もないのに、戸外へばかり出たがった。
 驚くべきことが発見された。彼女は実に僅かな間に、奇蹟的に美しくなり、奇蹟的に気高くなった。
「美粧倶楽部へでも行くのだな。恋人でも出来たのではあるまいか? 恋人が出来ると女という者は、急に美しくなるものだ」
 私の心は痛くなった。憂鬱にならざるを得なかった。

14[#「14」は縦中横]

 仰天するようなことが発見された。ある夜私は戸外から帰って来た。彼女は私の書斎にいた。細巻|煙草《たばこ》を喫《ふ》かしていた。煙草を支えた左手の指に、大きなダイヤが輝いていた。
「その指環は?」と私は云った。
 私の知らない指環であった。
 彼女は無言で指を延ばした。そうしてじっと[#「じっと」に傍点]ダイヤに見入った。その燦然たる鯖色の光輝を、味わっているような眼付きであった。二本の指で支えられ、ピンと上向いた煙草からは、紫の煙りが上っていた。一筋ダイヤへ搦まった。光りと煙り! 微妙な調和! 何と貴族的の趣味ではないか! 彫刻のような彼女の顔! 今にも唇が綻びそうであった。モナリザの笑い? そうではない! 娼婦マリヤ・マグダレナの笑い!
 私は瞬間に退治られた。

 数日経って松坂屋から、一揃いの衣裳が届けられた。それは高価な衣裳であった。帯! 金具! 高価であった。誂えたはずのない衣裳であった。私の知らない衣裳であった。
 そこで私は懇願した。
「話しておくれ、どうしたのだ?」
 ただ彼女は微笑した。例のマリヤの微笑をもって。
「おい!」と私は威猛高になった。
「処分したな、贓物を!」
「貴郎《あなた》」と彼女は水のように云った。
「贓物ですって? 下等な言葉ね」
「売ったのだろう! 白金《プラチナ》を!」
「貴郎」と彼女は繰り返した。
「約束でしたわね、訊かないと云う」
 彼女は私を下目に見た。彼女は貴婦人そのものであった。

 大詰の前の一齣が来た。
 円頓寺街路《えんとんじどおり》を歩いていた。霧の深い夜であった。背後《うしろ》から自動車が駛《はし》って来た。
「馬鹿野郎!」と運転手が一喝した。
 危く轢かれようとしたのであった。憤怒をもって振り返った。窓のカーテンが開いていた。紳士と淑女とが乗っていた。私は淑女に見覚えがあった。それは私の妻であった。彼女も私を認めたらしい。唇の間から義歯《いれば》を見せた。紳士にも私は見覚えがあった。当市一流の紳商であった。新聞雑誌で知っていた。六十を過ごした老人で精力絶倫と好色とで、世間に有名な老紳士であった。
 私はクラクラと眼が廻った。が、飛びかかっては行かなかった。肩を曲《こご》め背を丸め、顔を低く地に垂れた。そうして撲《う》たれた犬のように、ヨロヨロと横へ蹣跚《よろめ》いた、私は何かへ縋り付こうとした。
 冷たい物が手に触れた。それは入口の扉《ドア》であった。私は内へ吸い込まれた。
 真正面に人がいた。狭い額、飛び出した眼、牛のような喉、突き出した頬骨、イスカリオテのユダであった。
 珈琲店《カフェ》であった。鏡であった。私は写っていたのであった。

 イエス・キリストがそれを呪った。マグダラのマリヤがそれを呪った。イスカリオテのユダがそれを呪った。みんな別々の意味において。そうして今や私が呪う。憎むべき銀三十枚を!

 人は信仰を奪われた時、一朝にして無神論者となる。
 人は愛情を裏切られた時、一朝にして虚無思想家となる。
 ユダの運命がそれであった。
 私は私の思想として、ユダの無神論と虚無思想とを、自分の心に所有《も》っていた。
 今や私は感情として、それを持たなければならなかった。
 今、私はユダであった。
「助けて下さい! 助けて下さい!」
 私は救いを求めるようになった。
 しかし救いはどこにもなかった。
 一つある!
 基督《キリスト》だ!

 キリストを売ったイスカリオテのユダは、売った後でキリストを求めただろう!

15[#「15」は縦中横]

 これがいよいよ大詰かもしれない。
 その夜私は公園にいた。彷徨《さまよ》ってそこ迄行ったのであった。詐欺師と邂逅《あ》ったロハ台へ、私は一人で腰をかけていた。生暖かい夜風、咽るような花の香、春蘭の咲く季節であった。噴水はすでに眠っていた。音楽堂には燈《ひ》がなかった。日曜の晩でないからであった。公園には誰もいなかった。ひっそりとして寂しかった。夜は随分深かった。月が空にひっ[#「ひっ」に傍点]懸かっていた。靄が木間に立ち迷っていた。物の陰が淡く見えた。
 私の精神も肉体も、磨り減らされるだけ磨り減っていた。長い間物を書かなかった。空想がすっかり消えてしまった。病気はひどく[#「ひどく」に傍点]進んでいた。心臓の動悸、指頭《ゆびさき》の顫え、私は全然《まるで》中風のようであった。視力が恐ろしく衰えてしまった。そうして強度の乱視となった。五分と物が見詰められなかった。絶えずパチパチと瞬きをした。瞼の裏が荒れてしまった。
 誰も介抱してくれなかった。
 お母様! お母様!
 実家とは音信不通であった。それも彼女との結婚からであった。高原信濃! そこの実家! 誰とも逢わずに死ななければなるまい。
「もう一|呼吸《いき》だ。指先でいい。ちょっと背後《うしろ》から突いてくれ。死の深淵へ落ちることが出来る」
 私は私の両膝を、ロハ台の上へ抱き上げた。膝頭へ額を押っ付けた。小さく固く塊まった。
「もう一呼吸だ。指先でいい」
 その時自動車の音がした。
 私は反射的に飛び上った。
 病院の方角から自動車が、こっちへ向かって駛《はし》って来た。私の眼前《めのまえ》を横切った。紳士と淑女とが乗っていた。淑女は私の妻であった。紳士は例の紳士ではなかった。もっと評判の悪い紳士であった。デパートメントの主人であった。外妾を持っているということで新聞へ書かれた紳士であった。車内は桃色に明るかった。柔かいクッション、馨《かんば》しい香水、二人はきっと幸福なんだろう。顔を突き合わせて話していた。一瞬の間に過ぎ去った。月光が車葢《おおい》に滴っていた。タラタラと露が垂れそうだった。都会の空は赤かった。その方から警笛が聞こえてきた。
「もういい」と私は自分へ云った。
 最後の一突きが来たからであった。花壇を越して林があった。目掛けて置いた林であった。私はその中へ分け入った。
「ユダも縊《くび》れて死んだはずだ」
 木を選ばなければならなかった。木はみんな若かった。一本の木へ手を掛けた。幹へ額を押し付けた。ひやひやとして冷たかった。そうして大変滑らかだった。シーンと心が静まった。平和が心へ返って来た。
「脆そうな木だ。折れるかもしれない」
 もう一本の木へ手を触れた。
 その時私へ障るものがあった。誰かが肩を抑えたのであった。
 私は静かに振り返った。
 一人の男が立っていた。
 鳥打を頭に載っけていた。足に雪駄《せった》をつっ[#「つっ」に傍点]かけていた。
 私はもっと壮健の頃、新聞記者をしたことがあった。
 この男は刑事だな。私は直覚することが出来た。
「どうしたね?」とその男が云った。
「…………」
「黙っていては解《わか》らない」
 刑事声には相違ないが、威嚇的の調子は見られなかった。
「不心得をしてはいけないよ」
 むしろ訓すような声であった。
「無教育の人間とも見えないが」
 刑事は私の足許を見た。
「君、どこに住んでるね」
「市内西区児玉町」
「何だね、一体、商売は?」
 私は返事をしなかった。
「ナニ、厭なら云わなくてもいい。君もう家へ帰りたまえ」
 刑事は背中を向けようとした。
「僕に家なんかあるものか」
「何イ!」と刑事は振り返った。
「児玉町に住んでいるって云ったじゃアないか!」
「家はあるよ。……だがないんだ」
 刑事はしばらく睨んでいた。
「ははあ貴様酔ってるな。……妻君が家に待ってるだろう。……馬鹿を云わずに早く帰れ」
「妻君」と私は肩を上げた。
「妻君は自動車に乗ってったよ」

16[#「16」は縦中横]

 刑事はちょっと考えた。
「ふふん、こいつ狂人《きちがい》だな。……死にたければ勝手に死ぬがいい。だがここは俺の管轄だ。……他へ行ってぶら[#「ぶら」に傍点]下るがいい」
「妻君は自動車へ乗ってったよ。たった今だ。紳士とな」
「これは可笑《おか》しい」と刑事は云った。
「それじゃアあの[#「あの」に傍点]女を知ってるのか。俺の狙《つ》けてる淫売だが」
「あれが僕の妻君さ」
 私は何かに駈り立てられた。畜生! こいつを吃驚《びっくり》させてやれ!
「君、あいつは詐欺師なんだ。あいつは白金《プラチナ》を詐欺したんだ。……勿論君も知ってるだろう、大詐欺師の佐伯準一郎ね、ありゃアあいつの片割れなんだ」
 刑事はじっ[#「じっ」に傍点]と聞き澄ましていた。
「捕縛したまえ。手柄になるぜ」
 刑事は急に緊張した。だがすぐに揶揄的になった。
「君のような狂人の妻君に、あんな別嬪がなるものか。まあまあいいから帰りたまえ」
 たくましい手をグイと延ばし、私の腕をひっ[#「ひっ」に傍点]掴んだ。
「お前、金は持ってるのか?」
「うん」と私は頷いて見せた。
「いくら[#「いくら」に傍点]あるね、云って見給え」
「袂《たもと》にあるんだ、蟇口がな。いくらあるか知るものか」
 刑事は腕から手を放した。
「調べてやろう、出したまえ」
 私は袂から蟇口を出した。
「それ五円だ。それ赤銭だ。それ十銭だ。それ五円だ。まだあるぜ、それ十円だ」
「よしよし」と刑事は頷いた。
「それだけありゃア結構じゃアないか。歩いた歩いた送ってやろう。どうも手数のかかる奴だ」
 また腕をひっ[#「ひっ」に傍点]掴んだ。町の方へ引っ張って行った。私は変に愉快になった。で、のべつ[#「のべつ」に傍点]にまくし立てた。
「莫迦だなあ刑事君、あの女は詐欺師なんだ。白金三十枚を隠しているんだ、一枚や二枚は使ったろう。とても大きな白金なんだ。五十|匁《もんめ》ぐらいはあるだろう。たった一枚で三千円だ。それがみんな[#「みんな」に傍点]で三十枚あるんだ。佐伯の物だ、大詐欺師のな。最初に俺が借りたんだ。そいつをあいつが取っちゃったんだ。あっ痛え! そう引っ張るな! 嘘じゃアねえ、本当のことだ。大馬鹿野郎め、ふん掴まえてしまえ! 引っかかったんだよ、ペテンにな。捕縛されるのが解《わか》ってたんだ。俺は文士だ、小説書きだ。そこをきゃつが狙ったんだ。でたらめの話をしやがって、俺の好奇心をそそりゃアがって、そいつを俺に預けやがったんだ。古いペテンだ、古いとも。牢から出ると取りに来るやつよ。いい隠し所を目つけたって訳さ。本当の事だ、信用しろ。家捜ししなよ、俺の家を、きっとどこかにあるだろう。……そこは女のあさましさだ。眼がクラクラと眩んだんだ。うん、白金を手に入れるとな。すっかり変わってしまやアがった。……」
 刑事はニヤニヤ笑っていた。公園を出ると町であった。右角に貸自動車《タクシ》の待合があった。
「おい、自動車《タクシ》」と刑事は呼んだ。
「へい」と運転手が走って来た。
「この男を載っけてくれ」
 すぐ自動車が引き出された。私はその中へ押し込まれた。
「金は持ってる、大丈夫だ。中村へでも送り込んでやれ。遊廓で一晩遊ばせてやれ」
 こう云うと刑事は愉快そうに笑った。ひどく人のいい笑い方であった。
 ゴーッと自動車は動き出した。

 彼女は彼女の生活をした。私は私の生活をした。家庭生活は破壊された。だが一緒には住んでいた。彼女はますます美しくなった。近付きがたいまでに美しくなった。そうして素晴らしく高貴になった。
「貴女様は一体|何人《どなた》様で?」
 こう云いたいような女になった。
 行くべき所へ行き着いてしまった。私は放蕩に耽るようになった。酒だ! 女だ! 寝泊りだ!
 ある時ある所で三日泊まった。四日目の夕方帰って来た。
 と、貸家札が張られてあった。
「鳥は逃げた!」と私は云った。
「オフェリヤ殿、オフェリヤ殿、尼寺へでもお行きやれ」
 シェイクスピアの白《せりふ》が浮かんできた。
「尼寺なものか、極楽だ! マリア・マグダレナは極楽へ飛んだ」
 私は大声で笑おうとした。が反対に胴顫いがした。
「だが、予定の行動を」
 私は踵を返そうとした。
「お神さんえ、どうぞ一文、よし、俺は乞食になろう!」
「もし」とその時呼ぶ声がした。
 側《そば》に小男が立っていた。
「へえへえ」と私は手を揉んだ。
「旦那様え、何かご用で?」
 乞食の稽古をやり出した。

17[#「17」は縦中横]

「貴郎はここのご主人で?」
 その洋服の紳士は云った。
「へえへえ左様で、昔はね。今は立ん棒でございますよ」
 その紳士は微笑した。
「奥様からのお伝言《ことづけ》で。あるよい家が目つかりましたので、昨日《きのう》お移りなさいましたそうで。それで、お迎えに参りました」
「一体貴郎様はどういうお方で?」
「へい、タクシの運転手で」
「すぐ載っけろ! 馬鹿野郎!」
[#ここから3字下げ]
街《ちまた》に落つる物の音
雨にはあらで落葉なる
明るき蒼き瓦斯《ガス》の燈《ひ》に
さまよう物は残れる蛾
[#ここで字下げ終わり]
 廃頽詩人ヴェルレイヌ、卿《おんみ》だけだ! 知っている者は! 秋の呼吸《いぶき》を、落葉の心を、ひとり死に残った蛾の魂を。
 私のタクシは駛《はし》っていた。
 街路樹がその葉をこぼしていた。人々は外套を鎧っていた。寒そうに首をすっ込めていた。冬がそこまで歩いて来ていた。白無垢姿の冬であった。
「俺も長い間苦しんだなあ」
 クッションへ蹲《うずくま》って考えた。
「もう堪忍してくれないかなあ」
 私はじっと瞑目した。
「でなかったら葬ってくれ。落葉がいいよ、朴《ほう》の落葉が」
 私のタクシは駛っていた。
「泣けたらどんなにいいだろう」
 おずおず眼をあけて車外《そと》を覗いた。
 そこは賑かな広小路であった。冬物が飾り窓に並べられてあった。それを覗いている女があった。寒そうに髱《たぼ》[#ルビの「たぼ」は底本では「たば」]がそそけ[#「そそけ」に傍点]立っていた。巨大な建物の前を過ぎた。明治銀行に相違なかった。地下室へ下りて行く夫婦連があった。食堂で珈琲《コーヒー》を啜るのだろう。また巨大な建物があった。旧伊藤呉服店であった。タクシはそこから右へ曲った。少し町が寂しくなった。タクシは大津町を駛って行った。私はまたも瞑目した。
 立派な屋敷の前へ来た。自動車から下りなければならなかった。厳めしい門が立っていた。黒板壁がかかっていた。
 運転手は一揖した。
「はい、お屋敷へ参りました」
 私は無言で表札を見上げた。一條寓と記されてあった。
 潜戸《くぐり》を開けて入って行った。玄関まで八間はあったろう。スベスベの石畳が敷き詰めてあった。しっとりと露が下りていた。高い松の植込みがあった。
「家賃にして三百円!」
 譫言《うわごと》のように呟いた。
 私は玄関の前に立った。
 と、障子がスーと開いた。
 妻か? いやいや知らない婦人が、恭しく手をついてかしこまっていた。
「旦那様お帰り遊ばしませ」
 女は島田に結っていた。
「……で、貴女は?」と私は訊いた。
 自動車の帰って行く音がした。
「はい、妾《わたくし》、小間使で」
 私はヌッと玄関を上った。
「うん。ところで山神《やまのかみ》は?」
 直ぐ左手に応接間があった。その扉《ドア》が開いていた。それは洋風の応接間であった。
「あの、お寝みでございます」
「伯爵夫人はお寝みか」
 私は応接間へ入って行った。
 一つの力に引き入れられたのであった。
 その応接間には見覚えがあった。
 佐伯準一郎氏の応接間であった。

18[#「18」は縦中横]

 爾来私達はその家に住んだ。

 彼女は依然として出歩いた。あたかもそれが日課のように。
 彼女は入念にお化粧をした。あたかもそれが日課のように。
 毎朝牛乳で顔を洗った。
 とりわけ爪の手入れをした。これにはもっともの理由《わけ》があった。他がどんなに綺麗でも、爪に一点の斑点《しみ》があったら、貴族の婦人とは見えないからであった。
 彼女は耳髱《みみたぶ》に注意した。耳髱はいつもピンク色であった。それが彼女を若々しく見せた。
 彼女は踵に注意した。いつも円さと滑らかさと、花弁《はなびら》の色とを保っていた。
 耳の穴、鼻の穴に注意した。
 だが顔色は蒼白かった。それも彼女の好嗜からであった。血色のよい赦ら顔は、田舎者に間違えられる恐れがあった。都会の貴婦人というものは、蒼い顔でなければ面白くない。どうやら彼女は仏蘭西《フランス》あたりの、青色の白粉《おしろい》を使うらしい。
 臀部が目立って小さくなった。そうして腰が細くなった。彼女の姿勢は立ち勝って来た。
 肌が真珠色に艶めいて来た。それは冷たそうな艶であった。
 肌理《きめ》が絹のように細かくなった。
 きっと滑らかなことだろう。
 だが触れることは出来なかった。彼女がそれを断わるからであった。
 遥拝しなければならなかった。
 又その方がある意味から云って、私にとっても幸せであった。うっかり障《さわ》って手が辷って、転びでもしたら困るからであった。
「ああ彼女には洋装が似合う」
 ある時私はつくづく云った。決して揶揄的の讃辞ではなかった。
 その心配は無用であった。
 翌日洋装が届けられた。肌色と同じ真珠色であった。
 それを着て彼女は出かけようとした。
 チラリと私の顔を見た。瞼を二度ばかり叩いて見せた。
 命ずるような眼付きであった。
 私は周章《あわて》て腰《こし》をかがめた。
 裳裾《もすそ》を捧げようとしたのであった。ひどく気の利く小姓のように。
 その配慮は無用であった。
 今日|流行《はやり》の洋装は、長い裳裾などはないからであった。股の見えるほど短かいはずだ。
 時々彼女は私へ云った。
「高尚《ノーブル》にね。高尚にね。貴郎《あなた》もどうぞ高尚にね」
 で私は腹の中で云った。
「まだこの女は成り切れない。そうさ貴族の夫人にはな! 『高尚《ノーブル》にね、高尚にね、どうぞ御前様貴郎様もね、高尚にお成り遊ばしませ!』こう云わなけりゃアイタに付かねえ」
 この心配も無用であった。彼女はほんとに[#「ほんとに」に傍点]翌日から、遊ばせ言葉を使うようになった。
 もう贋物には見えなかった。
 生れながらのおデコさえ、どうしたものか目立たなくなった。
 下手に嵌め込まれた義歯《いれば》さえ、どうしたものか目立たなくなった。
 歯並の立派な誰かの歯と、きっと換えっこしたのだろう。
 彼女の身長《せい》は高かった。それが一層高く見えた。爪立ち歩く様子もないが。――姿勢のよくなったためだろう。
 彼女は毎日美食をした。洋食! 洋食! 油っこい物!
 勿論私へも美食を進めた。私はあまり食べなかった。
 一日に幾度も衣裳を変えた。しかも正式に変えたのであった。これも貴婦人の習慣であった。
 そうして私へもそれを進めた。
 私は心でこう叫んだ。
「謀叛人の女が良人《おっと》を進め、同じ謀叛人にしようとしている! マクベス夫人の心持だ!」
 そうして私には感ぜられた、悲痛なマクベスの心持が。
 彼女は定《き》まって一人で外出《で》た。どんな事があってもこの私と、連れ立って歩こうとはしなかった。
 良人のあるということを、隠したがっているらしかった。
 家財道具が新調された。黒壇細工! 埋木《うもれぎ》細工!
 植木屋が庭の手入れに来た。鋏の音が庭に充ちた。
 大工が部屋の手入れに来た。鉋の音が部屋に充ちた。
 屋敷が次第に立派になった。
「そうさ、伽藍《がらん》がよくなければ、仏像に価値《ねうち》がつかないからな」
 ある夕方自動車が着いた。
 彼女は洋装で出かけて行った。
 私は玄関まで従《つ》いて行った。それ、例の小姓のように。
 自動車は自家用の大型物であった。
 自動車の中に紳士がいた。顎鬚を撫して笑っていた。この市の有名な市長であった。
「ははあ誘いに来たのだな。大方ホテルへでも行くのだろう。夜会だな、結構なことだ。……俺は書生部屋で豚でもつつ[#「つつ」に傍点]こう」
 だが一体どうしたことだ? 一晩も泊まっては来ないではないか。
 どんなに遅くとも帰って来た。
「遠慮はいらない。泊まっておいでよ」
 私は心で云ったものである。
「大方の貴婦人というものは、時々紳士と泊まるものだ。それも鍛練の一つじゃないか。何の私が怒るものか。また怒り切れるものでもない。第一お前はいつの間にか、絶対に私を怒らせないように、上手に仕込んでしまったではないか」

19[#「19」は縦中横]

 それは初冬のある日であった。私は書斎の長椅子にころがり[#「ころがり」に傍点]、氈《かも》にふかふか[#「ふかふか」に傍点]と包まれながら、とりとめのないことを考えていた。彼女はその日も留守であった。本当に「彼女」というこの言葉は、彼女にうってつけ[#「うってつけ」に傍点]の言葉であった。彼女と私とは他人であった。……三人称で呼ぶべきであった。
「物質的には食傷している。精神的には空腹だ。これが現在の生活だ。変に跛者《びっこ》の生活だなア」
 私は氈を撫で廻した。
「この毛並の軟らかさ、朝鮮産の虎の皮、決して安くはなさそうだ。児玉町に住んでいた頃には、空想する事さえ許されなかった品だ。そいつにふかふかと包まれている。さて私よ。幸福かね?」
 そこで私は私へ答えた。
「悲しいことには幸福ではないよ」
 私は正面の壁を見た。勿論小品ではあったけれど、模写《コピイ》ではないマチスの本物が、似合の額縁に嵌められて、ちょうどいい位置に掛けられてあった。
「彼女が買って来た絵だろうか? それとも色眼の報酬として、某紳商《なにがししんしょう》の美術館から、かっぱらって[#「かっぱらって」に傍点]来た絵だろうか? 本物のマチス、銀灰色の縁、狂いのない掲げ振り、よく調子が取れている。将しく彼女には審美眼がある。だが以前《むかし》の彼女には、すくなくともマチスに憧憬《あこが》れるような、そんな繊細な審美眼は、なかったように思われる。長足の進歩をしたものさなあ。もっとも驚くにはあたらない。彼女は伯爵夫人だからな」
 私はまたもや私へ云った。
「よろしい彼女は伯爵夫人だ。それはどうしても認めなければならない。ところでここに困ったことには、彼女が伯爵夫人なら、ともかくも良人たるこの私は、自然伯爵でなければならない。私よ、伯爵を引き受けるかね?」
 私は私へ云い返した。
「いいや私には荷が勝っているよ。けっきょく[#「けっきょく」に傍点]私は引き受けないよ。何故だと君は訊くのかい? 説明しよう。こういう訳だ。虹と宝石と香水と、こういう物に蔽われている、深い泥沼があったとしたら、誰だって住むのは厭じゃアないか。孑孑《ぼうふら》でない限りはね。ところで伯爵で居たかったら、そこに住まなければならないのだよ。と云うのは現在の生活が、その泥沼の生活だからさ」
 大して気の利いた譬喩でもなかった。
「まあさ、それはそれとして、彼女は伯爵夫人だのに、どうして料理人を雇わないのだろう?」
 私はこんな事を考え出した。
「二人の女中、一人の書生、五人ぐらしとは貧弱だなあ。夫人よ是非ともお雇いなさい。そうしたら私は献立を命ずる『安眠』という献立をね」
 私は安眠さえ得られなかった。

「助けて下さい! 助けて下さい!」
 依然として救いを求めていた。
 救ってくれるものがあるだろうか?
 あれば彼だ! 基督《キリスト》だ! だが現代の基督は、どんな姿で現われるだろう?
 私は漸時《だんだん》皮肉になった。私は漸時忍従的になった。だがいつも脅かされていた。
「きゃつは詐欺師だ、殺人犯ではない。五年か十年、刑期さえ終えたら、出獄するに相違ない。取りに来るぞ、銀三十枚! どうしたらいいのだ。返すことは出来ない! 彼女はその間に使ってしまうだろう」

 だが人間というものは、そのドン底まで追い詰められると、反動的勇気に駈られるものであった。ある日私は自分へ云った。
「基督を求めるには及ばない。他力本願は卑怯者の手段だ。自分のことは自分でするがいい」
 で私はすることにした。
 そこで私は「左様なら」と云った。
 直接彼女へ云ったのではなかった。泥沼の生活へ云ったのであった。
 そうして「左様なら」を実行した。大した勇気もいらなかった。ほんの簡単に実行された。
 何にも持たずに家出をし、お城近くの安下宿へ、私は下宿をしたのであった。
 お城の堀と石垣と、松との見える小さな部屋へ、私は体を落ちつけた。
 霧深い厳冬のことであった。
「彼女が驚こうが驚くまいが、私の知ったことではない。彼女が探そうが探すまいが。私の知ったことではない。とにかく私は彼女を捨た。私にとっては一飛躍だ」
 不思議と私の心の中は、ある平和が返って来た。ひどく苦しんだ人間だけが、感ずる事の出来る平和であった。
「ひょっと[#「ひょっと」に傍点]すると創作が出来るかもしれない」
 で私はペンを執って見た。楽にスラスラと書くことが出来た。思想と感情とが統一された。バラバラなものが纏まった。空想さえも湧いて来た。
「少しの努力をしさえしたら、昔の私になれるかもしれない。……書けさえすれば私はいいのだ」
 生活の上の不安はあった。しかし原稿が売れさえしたら、下宿代ぐらいは払えそうであった。
「贅沢な生活には懲りている。だからそれへの欲望はない。これは大変有難いことだ一つ一つ欲望を抑えて行って、うんと単純の生活をしよう」

20[#「20」は縦中横]

 性慾の方も抑えることが出来た。
 私は長い間彼女のために「性のお預け」を食わされていた。いつの間にかそれが慣い性になった。それにもう一つ率直に云えば、私は異性に懲々《こりごり》していた。
「彼女のことを忘れなければならない!」
 これも困難ではなさそうであった。しかし努力と月日との、助けを借りなければならなかった。
 まずまず平和と云ってよかった。
 一人ぼっち[#「ぼっち」に傍点]の生活は、こうして静かに流れて行って、体も徐々に恢復した。神経も次第に強くなった。事件以前の私よりもかえって健康になれそうであった。
 規則正しい生活をした。早く起きて早く寝た。慣れるとそれにさえ興味が持てた。貧弱な下宿の食膳をさえ、三度々々食べることにした。慣れるとそれにさえ美味を覚えた。
 こっそり町を散歩した。精々|珈琲店《カフェ》へ寄るぐらいであった。酒も煙草《たばこ》も廃《や》めてしまった。で、珈琲店では曹達《ソウダ》水を飲んだ。
「文字通りの清教徒さ」
 私は聖書を読むようになった。昔とは全然《まるで》異って見えた。こんな言葉が身に滲みた。
「貧しき者は福《さいわい》なり」「哀《かなし》む者は福なり」「柔和なる者は福なり」「矜恤《あわれみ》する者は福なり」「平和《やわらぎ》を求むる者は福なり」
「不思議だなあ」と私は云った。
「事件以前の私だったら、卑屈な去勢的言葉として、一笑に付してしまっただろうに、今の私にはそうは取れない」
「不思議ではない」と私は云った。
「苦しみ悩んだ基督の思想は、苦しんだ者でなければ解《わか》らない」
 そうして尚も私は云った。
「これは平凡な解釈だ。だが平凡でもいいではないか」
 私は一種の法悦を感じた。
「容易に私は動揺されまい」
 こんなようにさえ思うようになった。
 そうしてそれは本当であった。
 ある朝私は自分の部屋で、紅茶を淹《い》れて飲んでいた。
 私の前に新聞があった。一つの記事が眼を引いた。
「佐伯準一郎放免さる。理由は証拠不充分」
 私は動揺されなかった。しかし、
「さぞ彼女は驚いたろうなあ」と、彼女を愍《あわ》れむ心持は動いた。
 で私は呟いた。
「彼女よ。うまく切り抜けてくれ」
 決して皮肉でも何でもなかった。私は心から願ったのであった。彼女を憎む感情などは、いつの間にか私からなくなっていた。それとは反対に愍れみの情が、私の心に芽生えていた。
 翌日《あくるひ》私は散歩した。二月上旬の曇った日で、町には人出が少なかった。公園の方へ歩いて行った。公園にも人はいなかった。花壇にも花は咲いていなかった。ただ冬薔薇が二三輪、寒そうに花弁を顫わせていた。
 私はロハ台に腰を下ろした。佐伯氏と逢ったロハ台であった。音楽堂が正面にあり、裸体《はだか》の柱が灰色に見えた。
 と、誰か私の横へ、こっそり腰かける気勢《けはい》がした。プンと葉巻の匂いがした。私はぼんやりと考えていた。
「少しお痩せになりましたね」
 こう云う声が聞こえてきた。私はそっちへ顔を向けた。一人の紳士が微笑していた。毛皮の外套を纏っていた。それは佐伯準一郎氏であった。
「これはしばらく」と私は云った。
 私は動揺されなかった。ただまじまじと相手を見た。佐伯氏は変わってはいなかった。脂肪質の赧ら顔は、昔ながらに健康《たっしゃ》そうであった。永い未決の生活などを、経て来た人とは見えなかった。
「ただ今奥様とお逢いして来ました」
 相変わらず慇懃の態度で云った。
「今はちょうどその帰りで」
「ああ左様でございますか」
「貴郎《あなた》この頃お留守だそうで」
「ええ」と私は微笑した。
 急に佐伯氏は黙り込んだ。林の方をじっ[#「じっ」に傍点]と見た。そっちから人影が現われた。それは逞《たくま》しい外人であった。
 不意に佐伯氏は立ち上った。それからひどく早口に云った。

21[#「21」は縦中横]

「私は大変急いで居ります。くだくだしい事は申しますまい。いずれ奥様がお話ししましょう。……さて例の銀三十枚、あれを頂戴に上ったのでした。しかし奥様にお目にかかり、私の考えは変わりました。……進呈することに致しました。いえ貴郎にではありません。貴郎の奥様へ差し上げたので。……奥様は大変お美しい。そうして大変大胆です。何と申したらよろしいか。とにかく私は退治られました。色々の婦人にも接しましたが、奥様のようなご婦人には、お目にかかったことはございません。……で、私は申し上げます。ちっとも[#「ちっとも」に傍点]ご心配はいりませんとね。銀三十枚と私とは、今日限り縁が切れました。あれは貴郎方お二人の物です。もしもこれ迄あの金のために、ご苦労なされたと致しましても、今後はご無用に願います。……全く立派なご婦人ですなア。……今度こそ私は間違いなく、日本の国を立ち去ります。ご機嫌よろしゅう。ご機嫌よろしゅう」
 ロハ台を離れて大股に、町の方へ歩いて行った。
 と、二人の外人が、その後を追うように歩いて行った。
 噴水の向こうに隠れてしまった。
 私はロハ台から離れなかった。だが私は呟いた。
「ひとつ彼女を祝福しに行こう」
 それでもロハ台から離れなかった。
「大金が彼女の懐中《ふところ》へ入った。そのため私は行くのではない。……だが確かめて見たいものだ」
 私は公園を横切った。町へ姿を現わした。それから電車道を突っ切った。
 こうして彼女の家の前へ立った。門を入り玄関へかかった。
「案内を乞うにも及ぶまい」――で私は上って行った。
 書斎の扉《ドア》が開いていた。
 大きく茫然と眼を見開き、――白昼に夢を見ているような、特殊な顔を窓の方へ向け、彼女が寝椅子に腰かけていた。
 私は書斎へ入って行った。彼女の横へ腰を掛けた。しばらくの間黙っていた。
 沈黙が部屋を占領した。
 黙っていることは出来なかった。私は厳粛に彼女へ訊いた。
「話しておくれ。ねどうぞ。信じていいのかね、あの人の言葉を? 私はあの人に逢ったのだよ」
 だが彼女は黙っていた。ただ弛そうに身を動かした。非常に疲労《つかれ》ているらしかった。
 私は厳粛にもう一度訊いた。
「あの高価な白金《プラチナ》は、お前の物になったんだね。それを信じていいのだね?」
 すると彼女は頷いた。それから私の手を取った。彼女の両手は熱かった。そうして劇しく顫えていた。彼女の咽喉が音を立てた。どうやら固唾を飲んだらしい。
 私はその手を静かに放し、書斎を抜けて玄関へ出た。
「やっぱりいけない。この家は」
 私は門から外へ出た。
「彼女は一層悪くなった。……嬉しさに心を取り乱している。そいつが[#「そいつが」に傍点]移ってはたまらない」

 依然として下宿で暮らすことにした。
 その翌日のことであった。
 何気なく私は夕刊を見た。
「佐伯準一郎惨殺さる。自動車の中にて。……原因不明」
 こういう記事が書いてあった。
「少し事件は悪化したな」
 さすがに私は竦然とした。
「彼女の仕業《しわざ》ではあるまいか?」
 ふと[#「ふと」に傍点]私はこう思った。
「昨日の佐伯氏のあの言葉は、どうも私には疑わしい。あれだけ高価の白金を、ああ早速にくれるはずがない。一度はくれると云ったものの、考え直して惜しくなり、取り返しに行ったのではあるまいか?」
 私は理詰めに考えて見た。
「銀三十枚を取り返すため、佐伯氏が彼女を訪問する。彼女はそれを返すまいとする。必然的に衝突が起こる。それが嵩ずれば兇行となる。彼女の性質なら遣りかねない」
 翌日の新聞が心待たれた。
 だが翌日の新聞には、下手人のことは書いてなかった。
「では彼女ではないのかしら?」
 私は幾分ホッとした。
「彼女に平和があるように」
 それでも私は気になった。二三日新聞を注意して読んだ。原因も下手人も不明らしかった。それについては書いてなかった。間もなく新聞から記事が消えた。
「これを流行語で云う時は、事件は迷宮に入りにけりさ。……だが大変結構だ」
 これも決して皮肉ではなかった。もしも彼女が下手人なら、一緒に住んでいたこの私も、必然的に渦中に入れられ、現在の穏かな生活を、破壊されるに相違ない。それは私の望みでなかった。それにもう一つ何と云っても、彼女は私の妻であった。その女の身に不幸のあるのは、私としては苦しかった。
 事件は迷宮に入った方がよかった。
 穏かな日が流れて行った。
 だが十日とは続かなかった。次のような広告が新聞へ出た。
「銀三十枚の持主へ告げる。△△新聞社迄郵送せよ。報酬として一万円を与う」

22[#「22」は縦中横]

「これはおかしい」と私は云った。
「銀三十枚の持主といえば、彼女以外にはありそうもない。そいつを請求出来る者は、佐伯準一郎氏の他にはない。だが佐伯氏は殺されている。誰が請求しているのだろう?」
 新聞の来るのが待たれるようになった。数日経った新聞に、同じような広告が掲げられてあった。
「銀三十枚の持主に告げる。銀三十枚を郵送せよ。報酬として二万円を与う」
「報酬金が倍になった」
 私の興味は加わった。
 数日経った新聞に、同じような広告が載っていた。
「銀三十枚の持主に告げる。十二使徒だけを郵送せよ。報酬として三万円を与う」
「十二使徒だけを送れという。深い意味があるらしい。だが私には解《わか》らない」
 数日経った新聞に、同じような記事が載せてあった。
「銀三十枚の持主に告げる。十二使徒だけを郵送せよ。報酬として五万円を与う」
「報酬金が五万円になった」
 私の興味は膨張した。
 と、また新聞へ広告が出た。
「銀三十枚の持主に告げる。貴女の住居を突き止めた。貴女は東区に住んで居る。十二使徒だけを郵送せよ。もはや報酬は与えない」
「これは不可《いけ》ない」と私は云った。
「この言葉には脅迫がある。さあ彼女はどうするだろう?」
 と、また新聞へ広告が出た。
「銀三十枚の持主に告げる。銀三十枚を郵送せよ。詐欺師の運命となるなかれ」
「これは恐ろしい脅迫だ!」
 私はじっ[#「じっ」に傍点]と考え込んだ。
「だが真相はこれで解った。広告主が持主なのだ。貨幣の本《もと》の持主なのだ。それを盗んだのが佐伯氏だ。それで佐伯氏の放免を待ち受け、殺して貨幣を取ろうとしたのだ。殺すことには成功したが、取り返すことには失敗した。それは当然と云わなければならない。持っている人間が佐伯氏でなくて、全然別の彼女だったからな。そこでその人は賞を懸けて、貨幣すなわち銀三十枚を、取り返そうと試みたのだ。そうして一方手を尽くして、貨幣の持主を探したのだ。そうして彼女を目つけ出したのだ。……浮雲《あぶな》い浮雲い彼女は浮雲い!」
 私の心は動揺した。
「国際的詐欺師の佐伯氏でさえ、容易に殺した人間だ。彼女を殺すぐらい何でもなかろう」
 ポッと私の眼の前に、彼女の死骸が浮かんで来た。
「これはうっちゃっては[#「うっちゃっては」に傍点]置かれない」
 私は急いで下宿を出た。俥《くるま》に乗って駈け付けた。公園を横切り町へ出た。
 彼女の家へ駈け込んだ。
 彼女は書斎に腰かけていた。彼女の顔は蒼白であった。銀三十枚が卓《テーブル》の上にあった。
 私はツカツカと入って行った。
 フッと彼女は眼を上げた。ゾッとするような眼付きであった。
「もう不可《いけ》ない」と私は云った。
「返しておしまい! 返しておしまい!」
「売りましょう! 売りましょう! 白金《プラチナ》を!」
 ひっ[#「ひっ」に傍点]叩くように彼女は云った。
「持っていなければいいのだわ」
 彼女はフラフラと書斎を出た。電話を掛ける声がした。
 貴金属商へでも掛けるのだろう。
 彼女は書斎へ帰って来た。私と向かって腰を掛けた。だが一言も云わなかった。時々ギリギリと歯軋りをした。
 貴金属商の遣《や》って来たのは、それから一時間の後であった。
 一枚の貨幣を投げ出した。ソロモンのマークの貨幣であった。
 商人は貨幣を一見した。
「これは贋金でございますよ」
「莫迦をお云い!」と彼女は呶鳴った。
「以前一枚売ったんですよ。二つと世界にない質のいい白金! こう云って大金で買ってくれたのに!」
「本物だったのでございましょう。貴女のお売りになった白金は。これは白金ではございません」
 商人の言葉は冷淡であった。
「いいのよいいのよそうかもしれない。たくさんあるのよ。白金はね。一枚ぐらいは贋金かもしれない。これはどう? この貨幣は?」
 彼女はもう一枚投げ出した。ダビデのマークの貨幣であった。
「これも贋金でございます」
 商人の答えは冷淡であった。
 私と彼女とは眼を見合わせた。
「ふん、そうかい。贋金かい、白金はたくさんあるんだよ。二枚ぐらいは贋もあろうさ」
 彼女は努めて冷静に云った。
「これはどうだろう! この貨幣は?」
 また一枚を投げ出した。使徒ポーロのマークの付いた、ぴかぴか光る貨幣であった。
「これは贋金じゃアあるまいね?」
 商人は手にさえ取らなかった。
「やはり贋金でございますよ」
「いいわ」と彼女は呻くように云った。
 革財布を逆さにした。全部の白金を吐き出した。
「幾枚あるの? 本物は?」

23[#「23」は縦中横]

 商人は一渡り眼を通した。上唇を綻ばせた。
「みんな贋金でございますよ」
「お帰り!」と彼女は呶鳴り付けた。
 商人は冷笑して帰って行った。
「いえあいつは廻し者よ! 例の悪党の広告主、ええ、そいつの廻し者よ! 贋金だ贋金だと嘘を吐き、かっさらって[#「かっさらって」に傍点]行こうとしたんだわ! そんな古手に乗るものか! 電話ではいけない、行って来ましょう。行って店員を引っ張って来ましょう。信用のある金属商の、鑑定に達した店員をね」
 彼女は書斎を飛び出した。電話をかける声がした。タクシを呼んでいるらしい。
 間もなくタクシがやって来た。
 彼女は乗って出て行った。
 私は黙然と腰掛けていた。
「彼女はひょっと[#「ひょっと」に傍点]すると狂人《きちがい》になるぞ」
 私はしばらく待っていた。
「この家には用はないはずだ。一応の忠告! それだけでいいのだ。聞くか聞かないかは彼女にある。……贋金であろうと本物であろうと、私には大して関係はない」
 で、私は下宿へ帰った。

 数日経った新聞に、次のような広告が掲げてあった。
「銀二十九枚の送主に告げる。貴女は非常に聡明であった。イスカリオテのユダを残し、後を郵送してよこしたことは、我等をして首肯せしめ微笑せしめた。安心せよ。危害を加えず」
「ついに彼女は郵送したと見える。イスカリオテのユダの付いた、一枚の貨幣を送らなかったのは、以前売ったからに相違ない」
 とにかく私はホッとした。
「だが彼女は貧乏になった。もうあの家には住めないかもしれない」
 ある日私はこっそり[#「こっそり」に傍点]と、彼女の家の方へ行って見た。家には貸家札が張ってあった。
「予想通りだ」と私は云った。
「流浪の旅へでも出たのだろう」
 私は安心と寂しさを感じた。彼女とは永遠に逢えないだろう。こう思われたからであった。
 間もなく春が訪れて来た。
 やがて晩春初夏となった。
 彼女に目つかる心配はなかった。自由に散歩をすることが出来た。事の過ぎ去った後において、その事のあった遺跡を尋ね、思い出に耽るということは、作家には好もしいことであった。で私は公園へ行き、首を釣りかけた木へ触れたり、佐伯氏と逢ったロハ台に、腰を掛けて考えたりした。
 菖蒲《あやめ》の花の咲く季節、苺が八百屋へ出る季節、この季節を私は愛する。
 だんだん私は健康になった。

 ある日久しぶりでK博士を訊ねた。
 博士は有名な法医学者で、そうして探偵小説家であった。
 その日も書斎で物を書いていた。
 私はそこで話し込んだ。
 と、博士が不意に云った。
「汎猶太《はんユダヤ》主義の秘密結社、フリーメーソンリイの会員達が、大分日本へ入り込みましたね」
「ああ左様でございますか」
「倫敦《ロンドン》タイムスで見たのですが、彼等の大切な秘密文書を、ある日本人に盗まれたので、それを取り返しに来たのだそうです」
 私はちょっと興味を持った。

24[#「24」は縦中横]

「それが大変探偵的なのです」
 博士はいくらか小声になった。
「少し詳しく話しましょう。実は私は趣味として、フリーメーソンリイの内情を、調べたことがありましたのでね。今お話しした秘密文書ですが、紙に書かれてはいないのだそうです。三十枚の白金《プラチナ》貨幣、その紋章のどの辺りかに、巧妙な図案式文字をもって彫み込んであるのだということです。ところで貨幣の紋章ですが、旧約聖書と新約聖書、その中に出て来る人物を、三十人だけ選択し、打ち出してあるということです。基督《キリスト》はじめ十二使徒などは、勿論入っているのですね。その中とりわけ[#「とりわけ」に傍点]大事なのは、ユダを抜かした十一人の使徒を、打ち出した所の貨幣だそうです。だがまあ[#「まあ」に傍点]これはいいとして、面白いのはその貨幣が、一枚を抜かして二十九枚は、白金ではなくて贋金なのだそうです。つまり勿体を付けるために、白金のようには作ってあるものの、中味は鉛か何かなのですね。ところが盗んだ日本人ですが、そんなこととは夢にも知らず、本物の素晴らしい白金だと、こう思って盗んで来たらしいのです」
「ははあ」と私は微笑して云った。
「本物の白金の貨幣というのは、ユダを紋章に打ち出した、その貨幣ではないでしょうか」
「おや、どうしてご存知です」
 博士はさもさも[#「さもさも」に傍点]驚いたように、
「仰せの通りそうなのですよ」
「だがどうしてその貨幣だけを、本物の白金で作ったのでしょう?」
「つまりフリーメーソンリイは、虚無思想家の集りなんです。で彼等の守護《まもり》本尊は、イスカリオテのユダなんですね。本尊を贋金で作っては、どうもちょっと勿体ない、こういう意味からそれだけを、非常に高価な白金で、作ったのだということです。だが真偽は知りませんよ、伝説的の話ですから」
 私はそこで考えた。私の経験した物語を、博士の耳に入れようかしらと。……だが私は止めることにした。自慢の出来る物語ではなし、又その物語を語ることによって、消え去った不幸な私の妻を、辱しめる事を欲しなかったから。
 それからしばらく世間話をして、私は博士の邸を辞した。
 私には一つの疑問があった。
「すくなくも彼女はユダだけは、本物の白金だということを、心得ていて売ったのかしら? それとも偶然その貨幣を……」
「そんな事はどうでもいい」と私はすぐに打ち消した。
「一切過ぎ去ったことではないか。どうあろうと関係《かかわり》はない」

 下宿生活が不便になった。
「郊外へ小さな家でも借り、自炊生活でもやることにしよう」
 私は借家を探し出した。
 児玉町の方へ行って見て、旧居の前へ差しかかった。もう人が入っていた。これは当然なことであった。私には何となく懐しかった。しばらく佇んで見廻した。
「おや」と私は思わず云った。
 表札に私の名が書かれてあった。私の文字で一條弘と。
「おかしいなあ、どうしたんだろう?」
 格子の内側に障子があり、障子には硝子《ガラス》が嵌め込んであった。ちょっと不作法とは思ったが、家の中を覗いて見た。
「おや」と私はまた云った。
 見覚えのある長火鉢の横に、見覚えのある一人の女が、寂しそうにちんまり[#「ちんまり」に傍点]とかしこまり、縫物をしているではないか。人の気勢《けはい》を感じたのであろう、女はフッと顔を上げた。
「粂子!」と私は声を上げた。
 と、女はスッと立った。私は無意識に表戸を開けた。
 彼女は土間に立っていた。
 私は胸に重さを感じた。彼女の顔がそこにあった。私は両肩を締め付けられた。彼女の腕が締め付けたのであった。
 彼女の口から啜り泣きが洩れた。
「妾《わたし》は信じて居りましたのよ。きっときっといらっしゃるとね。ええ帰っていらっしゃるとね。……待っていたのでございますわ。……信じて下さいよ。ねえ妾を! 妾は純潔でございますの」
 彼女は眼を上げて私を見た。で、私も彼女を見た。
「その眼がその眼である限りは、彼女の純潔は信じてよい」
 そういう眼を彼女は持っていた。昔ながらに、依然として。

 彼女の態度が一変し、バンプ型の女になったのには、大した意味はなかったのであった。そういう振舞いをすることによって、彼女は精神を大胆にし、そうして容貌を妖艶にし、そうして動作を高尚にし、それを武器として大詐欺師に対向《あた》り、大詐欺師をして屈伏せしめ、白金《プラチナ》三十枚を詐欺師の手から、巻き上げようとしたのであった。
 そうとも知らずに煩悶した私は、要するに馬鹿者に過ぎなかったのであった。
 で、結果はどうだったかというに、彼女の勝利に帰したのであった。
 これは当然と云わなければならない。敵を瞞ますには味方を計れ、こういう考えからしたことではあろうが、ともかくも良人《おっと》の私をして、一度は死をさえ覚悟させたほど、深刻な放縦な行動をとって、心身を鍛えた彼女であった、たかが詐欺師なんかに負けるはずはなかった。
 佐伯準一郎氏は恭しく、銀三十枚を彼女に献じた。
 そうしてその帰路不幸にも、フリーメーソンリイの会員に、暗殺されてしまったのであった。――佐伯氏を追って行った二人の外人、あれが下手人に相違あるまい。

25[#「25」は縦中横]

 私達は一緒に住むことになった。
 最初のうちは変なものであった。何となくチグハグの心持であった。だがそのうちに慣れて来た。
 次第に二人は幸福になった。
 彼女は昔の彼女になった。相変わらず私をあやし[#「あやし」に傍点]たりした。剽軽なことを云ったりした。
「今日は風が吹きますのよ。冬のように寒い風がね。まきまき[#「まきまき」に傍点]するのよ、まきまき[#「まきまき」に傍点]をね」
 襟巻を巻けというのであった。
「たあた[#「たあた」に傍点]を穿くのよ。ね、たあた[#「たあた」に傍点]を」
 足袋を穿けというのであった。
 ある時私はこう云って訊いた。
「誰かと公園で媾曳をしたね。刑事が淫売婦だと云っていたよ」
「え、したのよ。県知事さんと」
 大変サッパリした返辞であった。――それだから私には安心であった。
「お前は知っていて売ったのかい? ユダの紋章のある貨幣だけは、すくなくも本物の白金《プラチナ》だと」
「いいえ」と彼女は笑いながら云った。
「あのユダという人間が、一番厭らしい顔付きでしょう、それで妾売ったのよ」
「なるほど」と私は胸に落ちた。
「そうだすくなくもイスカリオテのユダは、女や小供には喜ばれない、そういう顔の持主だ」
 私達二人は平和であった。
 しかし私は時々思った。
「キッスぐらいは許したかもしれない」
 だが直ぐ私は思い返した。
「いいではないかキッスぐらいは、私だってこれまでいろいろの女に、随分唇を触れたではないか」
 穏かに時が流れて行った。
 ここに一つ残念なことには――だが良人たる私にとっては、かえってひどく[#「ひどく」に傍点]安心な事には、――彼女の容色がにわかに落ちた。
 それは苦労をしたからであった。
 いつも重荷を担いでいる、田舎の百姓の女達が、早くその美を失うように、彼女も重荷[#「重荷」は底本では「荷重」]を担いだため、俄然|縹緻《きりょう》を落としてしまった。
 精神的にしろ肉体的にしろ、あんまり重荷を担ぐことは、不為《ふため》のように思われる。
 私も随分苦労をした。
 年より白髪の多いのは、重荷を担いだ為であった。
 彼女のおデコが目立って来た。下手な義歯が目立って来た。身長《せい》も高くはなくなった。
 だがそれも結構ではないか。
 美しい妻を持っていることは、胆汁質でない良人にとっては、決して幸福ではないのだから。
 だが勿論将来といえども、いろいろ彼女は失敗を演じて、私を苦しめるに相違ない。
 だが恐らく「伯爵ゴッコ」をして、苦しめるようなことはないだろう。
 真夏が来、真夏が去った。[#底本ではここで改段]
 二人の生活には変わりがなかった。

 何でもないことだが云い落とした。
 佐伯準一郎氏の旧宅へ、何のために彼女は越したのだろう?
 やはりそれも佐伯氏を、威嚇するための策だったそうな。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
   1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「新青年」
   1926(大正15)年3月~5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本では「貸す」を一部「借す」としていますが、近世までは多く見られる表記法であり、両者の混在は底本通りにしました。
※小見出しの終わりから、行末まで伸びた罫は、入力しませんでした。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年5月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

探し出した。
 児玉町の方へ行って見て、旧居の前へ差しかかった。もう人が入っていた。これは当然なことであった。私には何となく懐しかった。しばらく佇んで見廻した。
「おや」と私は思わず云った。
 表札に私の名が書かれてあった。私の文字で一條弘と。
「おかしいなあ、どうしたんだろう?」
 格子の内側に障子があり、障子には硝子《ガラス》が嵌め込んであった。ちょっと不作法とは思ったが、家の中を覗いて見た。
「おや」と私はまた云った。
 見覚えのある長火鉢の横に、見覚えのある一人の女が、寂しそうにちんまり[#「ちんまり」に傍点]とかしこまり、縫物をしているではないか。人の気勢《けはい》を感じたのであろう、女はフッと顔を上げた。
「粂子!」と私は声を上げた。
 と、女はスッと立った。私は無意識に表戸を開けた。
 彼女は土間に立っていた。
 私は胸に重さを感じた。彼女の顔がそこにあった。私は両肩を締め付けられた。彼女の腕が締め付けたのであった。
 彼女の口から啜り泣きが洩れた。
「妾《わたし》は信じて居りましたのよ。きっときっといらっしゃるとね。ええ帰っていらっしゃるとね。……待っていたのでございますわ。……信じて下さいよ。ねえ妾を! 妾は純潔でございますの」
 彼女は眼を上げて私を見た。で、私も彼女を見た。
「その眼がその眼である限りは、彼女の純潔は信じてよい」
 そういう眼を彼女は持っていた。昔ながらに、依然として。

 彼女の態度が一変し、バンプ型の女になったのには、大した意味はなかったのであった。そういう振舞いをすることによって、彼女は精神を大胆にし、そうして容貌を妖艶にし、そうして動作を高尚にし、それを武器として大詐欺師に対向《あた》り、大詐欺師をして屈伏せしめ、白金《プラチナ》三十枚を詐欺師の手から、巻き上げようとしたのであった。
 そうとも知らずに煩悶した私は、要するに馬鹿者に過ぎなかったのであった。
 で、結果はどうだったかというに、彼女の勝利に帰したのであった。
 これは当然と云わなければならない。敵を瞞ますには味方を計れ、こういう考えからしたことではあろうが、ともかくも良人《おっと》の私をして、一度は死をさえ覚悟させたほど、深刻な放縦な行動をとって、心身を鍛えた彼女であった、たかが詐欺師なんかに負けるはずはなかった。
 佐伯準一郎氏は恭しく、銀三十枚を彼女に献じた。
 そうしてその帰路不幸にも、フリーメーソンリイの会員に、暗殺されてしまったのであった。――佐伯氏を追って行った二人の外人、あれが下手人に相違あるまい。

25[#「25」は縦中横]

 私達は一緒に住むことになった。
 最初のうちは変なものであった。何となくチグハグの心持であった。だがそのうちに慣れて来た。
 次第に二人は幸福になった。
 彼女は昔の彼女になった。相変わらず私をあやし[#「あやし」に傍点]たりした。剽軽なことを云ったりした。
「今日は風が吹きますのよ。冬のように寒い風がね。まきまき[#「まきまき」に傍点]するのよ、まきまき[#「まきまき」に傍点]をね」
 襟巻を巻けというのであった。
「たあた[#「たあた」に傍点]を穿くのよ。ね、たあた[#「たあた」に傍点]を」
 足袋を穿けというのであった。
 ある時私はこう云って訊いた。
「誰かと公園で媾曳をしたね。刑事が淫売婦だと云っていたよ」
「え、したのよ。県知事さんと」
 大変サッパリした返辞であった。――それだから私には安心であった。
「お前は知っていて売ったのかい? ユダの紋章のある貨幣だけは、すくなくも本物の白金《プラチナ》だと」
「いいえ」と彼女は笑いながら云った。
「あのユダという人間が、一番厭らしい顔付きでしょう、それで妾売ったのよ」
「なるほど」と私は胸に落ちた。
「そうだすくなくもイスカリオテのユダは、女や小供には喜ばれない、そういう顔の持主だ」
 私達二人は平和であった。
 しかし私は時々思った。
「キッスぐらいは許したかもしれない」
 だが直ぐ私は思い返した。
「いいではないかキッスぐらいは、私だってこれまでいろいろの女に、随分唇を触れたではないか」
 穏かに時が流れて行った。
 ここに一つ残念なことには――だが良人たる私にとっては、かえってひどく[#「ひどく」に傍点]安心な事には、――彼女の容色がにわかに落ちた。
 それは苦労をしたからであった。
 いつも重荷を担いでいる、田舎の百姓の女達が、早くその美を失うように、彼女も重荷[#「重荷」は底本では「荷重」]を担いだため、俄然|縹緻《きりょう》を落としてしまった。
 精神的にしろ肉体的にしろ、あんまり重荷を担ぐことは、不為《ふため》のように思われる。
 私も随分苦労をした。
 年より白髪の多いのは、重荷を担いだ為であった。
 彼女のおデコが目立って来た。下手な義歯が目立って来た。身長《せい》も高くはなくなった。
 だがそれも結構ではないか。
 美しい妻を持っていることは、胆汁質でない良人にとっては、決して幸福ではないのだから。
 だが勿論将来といえども、いろいろ彼女は失敗を演じて、私を苦しめるに相違ない。
 だが恐らく「伯爵ゴッコ」をして、苦しめるようなことはないだろう。
 真夏が来、真夏が去った。[#底本ではここで改段]
 二人の生活には変わりがなかった。

 何でもないことだが云い落とした。
 佐伯準一郎氏の旧宅へ、何のために彼女は越したのだろう?
 やはりそれも佐伯氏を、威嚇するための策だったそうな。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
   1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「新青年」
   1926(大正15)年3月~5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本では「貸す」を一部「借す」としていますが、近世までは多く見られる表記法であり、両者の混在は底本通りにしました。
※小見出しの終わりから、行末まで伸びた罫は、入力しませんでした。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年5月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

郷介法師——- 国枝史郎


 初夏の夜は静かに明け放れた。
 堺の豪商|魚屋《ととや》利右衛門家では、先ず小僧が眼を覚ました。眠い眼を渋々こすりながら店へ行って門《かど》の戸を明けた。朝靄蒼く立ちこめていて戸外《そと》は仄々と薄暗かったが、見れば一本の磔《はりつけ》柱が気味の悪い十文字の形をして門の前に立っていた。
「あっ」と云うと小僧平吉は胴顫いをして立ち縮んだが、やがてバタバタと飛び返ると、
「磔柱だア! 磔柱だア!」と大きな声で喚き出した。
 これに驚いた家内の者は挙《こぞ》って表へ飛びだしたが、いずれも気味悪い磔柱を見ると颯《さっ》と顔色を蒼くした。
 注進を聞くと主人利右衛門はノッソリ寝所から起きて来たが、磔柱を一|眄《べつ》すると苦い笑いを頬に浮かべた。
「いよいよ俺の所へ廻って来たそうな。ところでなんぼ[#「なんぼ」に傍点]と書いてあるな?」
「五万両と書いてございます」
 支配の勘介が恐々《こわごわ》云う。
「うん、五万両か、安いものだ。一家|鏖殺《おうさつ》[#「鏖殺」は底本では「鑿殺」]されるより器用に五万両出すことだな」
 こう云い捨ると利右衛門はその儘寝所へ戻って行ったが、海外貿易で鍛えた胆、そんな事にはビクともせず夜具を冠ると眼を閉じた。間もなく鼾の聞こえたのは眠りに入った証拠である。
 五万両と大書した白い紙を胸の辺りへ付けた磔柱は小僧や手代の手によって直ぐに門口から外《と》り去られたが、不安と恐怖は夕方まで取り去ることが出来なかった。
 その夕方のことであるが、艶かしい十八九の乙女《おとめ》が一人、洵《まこと》に上品な扮装《みなり》をして、魚屋方へ訪れて来た。
「ご主人にお目にかかりとう存じます」
「ええ何人《どなた》でございますな?」
「五万両頂戴に参りました」
「わっ」と云うと小僧手代は奥の方へ走り込んだが、それと引き違いに出て来たのは主人の魚屋利右衛門であった。
「お使いご苦労に存じます」
 利右衛門は莞爾と笑ったが、
「先ずお寄りなさりませ」
「いえ少し急ぎます故……」
 乙女は軽く否むのである。
「五万両の黄金は重うござるに、どうしてお持ちなされるな?」
「魚屋様は商人でのご名家、嘘偽りないお方、それゆえ現金は戴かずとも、必要の際にはいつなりとも用立て致すとお認《しめ》し下されば、それでよろしゅうございます」
「それはそれはいと易いこと、では手形を差し上げましょう」
 サラサラと一筆書き記すと、それを乙女へ手渡した。
「それでよろしゅうござるかな?」
「はい結構でございます。ではご免下さりませ」
「もうお帰りでございますかな?」
「はい失礼致します」
 乙女は淑やか[#「淑やか」は底本では「叔やか」]に腰をかがめると静かに店から戸外《そと》へ出たが、黄昏《たそがれ》の往来を海の方へ急かず周章《あわて》ず歩いて行く。

 それから間もないある日のこと。千利休に招かれて利右衛門は茶席に連なった。日頃から親しい仲だったので、客の立去ったその後を夜に入るまで雑談した。
 ふと思い出した利右衛門は盗難の話をしたものである。
「それはそれは」と千利休は驚きの眼を見張ったが、
「磔柱の郷介と宣《なの》る凄じい強盗のあることは私《わし》も以前《まえ》から聞いては居たが、貴郎《あなた》までを襲おうとは思い設けぬことでござった。打ち捨て置くことは出来ませぬ。早速殿下に申し上げ詮議することに致しましょう」
「いやいや打ち捨てお置きなされ、障《さわ》らぬ神に祟りなし。なまじ騒いだその為に貴郎にもしもお怪我でもあってはお気の毒でございます」
 すると利休は哄然と豪傑笑いを響かせたが、
「茶人でこそあれこの利休には一分の隙もございませぬ。なんで賊などに襲われましょう」
 それを聞くと魚屋利右衛門はちょっと気不味そうな顔をしたが、
「いや左様ばかりは云われませぬ。天王寺屋宗休、綿屋一閑、みな襲われたではござらぬかな。お大名衆では益田長盛様、石田様さえ襲われたという噂、ことに高津屋勘三郎は、賊の要求を入れなかった為、一家鏖殺[#「鏖殺」は底本では「鑿殺」]の悲運に逢い、あれほどの大家が潰れたはず、尋常な賊ではござりませぬ。まずそっとしてお置きなされ、それに貴郎の所には殿下よりお預かりの名器もあり、さような物でも望まれましたら、それこそ一大事ではござりませぬか」
 すると利休はますます笑い、
「いやいやそれは人にこそよれ、利休に限っては左様な賊に襲われる気遣いはございませぬ。アッハハハ、大丈夫でござる」
 ――とたんに奥庭の茂みから、
「そうばかりは云われまいぞ!」と、嗄《しわが》れた声で叫ぶ者があった。
 ギョッとして二人がそっちを見ると、数奇を凝らした庭園の中、幽かに燈《とも》っている石燈籠の横に、「木隠の茶碗」と大書した紙を、ダラリと胸の辺りへ張り付けた例の気味の悪い磔柱が一本ニョキリと立っていた。


 あまりのことに千利休は全然《すっかり》顔色を失ったが、心配の余り明日《あす》とも云わずその夜の中に御殿へ伺候し強いて秀吉に謁を乞い事の始終を言上した。
 関白秀吉はそれを聞くとしばらく無言で考えて居たが、
「利休、茶碗はくれてやれ」
 余儀なさそうにやがて云った。
「は、遣わすのでござりますか?」
「うん、そうだ、くれてやれ」
「木隠は名器にござります」
「千金の子は盗賊に死せず。こういう格言があるではないか。茶碗一つを惜んだ為、俺《わし》や其方《そち》に怪我があってはそれこそ天下の物笑いだ」
「とは云え殿下のご威光までがそのため損《きず》つきはしますまいか?」
「馬鹿を云え」と秀吉は云った。
「そんな事ぐらいで損つく威光なら、それは本当の威光ではない」
「いよいよ遣わすのでござりますか?」
 まだ利休には未練がある。
「賊に茶碗を望まれて、そいつを俺がくれてやったと知れたら、俺の方が大きく見られる。……それに俺にはその泥棒がちょっと恐くも思われるのだ」
「殿下が賊をお恐れになる?」
 利休はますます吃驚《びっくり》する。
「世間で何が恐ろしいかと云って、我無洒羅《がむしゃら》な奴ほど恐ろしいものはない」
「ははあ、ごもっともに存じます」
 利休は始めて胸に落ちたのである。

 大阪市外阿倍野の夜は陰森として寂しかった。と、数点の松火《たいまつ》の火が、南から北へ通って行く。同勢百人足らずである。それは晩秋深夜のことで寒い嵐がヒュー、ヒューと吹く。斧を担《かつ》ぎ掛矢を荷い、槍薙刀を提《ひっさ》げた様子は将しく強盗の群である。
 行手にあたって十八九の娘がにわかに胸でも苦しくなったのか、枯草の上に倒れていた。夜眼にも美しい娘である。
「や、綺麗な娘ではないか」
「こいつはとんだ好《い》い獲物だ」
「それ誰か引担いで行け」
 盗賊共は大恭悦で娘を手籠めにしようとした。頭目と見えて四十年輩の容貌魁偉の武士がいたが、ニヤニヤ笑って眺めている。娘はヒーッと悲鳴を上げ、逃げようとして※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]《もが》いたが、これは逃げられるものではない。とうとう捉えられて担がれた。
「もうよかろう、さあ行くがいい」
 頭目は笑いながらこう云った。その時、傍の藪陰から一人の老法師が現われた。
「これ少し待て! 何をするか!」
 その法師は声を掛けた。落着き払った態度である。賊共はちょっと驚いて一|瞬間《しきり》にわかに静まった。
「俺の娘をどうする意《つもり》だ」
 法師はまたも声を掛けた。嘲笑うような声である。
「これはお前の娘なのか」
 賊の頭目は笑いながら、
「それは気の毒な事をしたな、野郎共娘を返してやれ」
 そこで娘は肩から下され枯草の上へそっと置かれた。
 賊共はガヤガヤ行き過ぎようとする。
「これ少し待て! 礼を知らぬ奴だ!」
 法師は背後《うしろ》から声を掛けた。
「他人《ひと》の娘を手籠めにして置いて謝罪せぬとは何事だ!」
「なるほど、これはもっともだ」
 賊の頭目は苦笑いしたが、
「ご坊、どうしたらよかろうな?」
「仕事の首尾はどうなのかな?」
 あべこべに法師は訊き返した。
「それを訊いてどうするつもりか?」
「金に積ってなんぼ[#「なんぼ」に傍点]稼いだな?」
「たんともない、五千両ばかりよ」
「それだけの人数で五千両か」
「大きな事を云う坊主だ」
「それだけ皆置いて行け」
「何を!」と始めて頭目はその眼にキラキラと殺気を見せたが、
「ははあこいつ狂人《きちがい》だな」
「五千両みんな置いて行け」
 法師は平然と云った。自信に充ちた態度である。嘲笑うような声音である。


「こいついよいよ狂人だ。俺達を何者と思っているか!」
「俺は知らぬ。知る必要もない」
「一体貴様は何者だ?」
「見られる通りの乞食坊主さ」
「そうではあるまい。そんなはずはない」
 賊の頭目は相手の様子に少なからず興味を感じたらしく、
「名を宣《なの》れ。身分を宣れ」
「俺はな」と法師は物憂そうに、
「幸と云おうか不幸と云おうか、忘れ物をして来たよ」
「忘れ物をした? それは何だ?」
「磔《はりつけ》柱だ。磔柱だよ」
 賊共はにわかにざわめいた[#「ざわめいた」に傍点]。それから森然《しん》と静まった。
 賊の頭目は眼を見張ったが、やがてポンと手を拍った。
「ははあ左様か。そうであったか。磔柱の郷介《ごうすけ》法師か」
「ところでお主《ぬし》何者かな?」
「私《わし》は五右衛門だ。石川五右衛門だ」
 すると今度は法師の方でポンとばかりに手を拍った。
「うん、そうか、無徳《むとく》道人だったか」
「郷介法師、奇遇だな」
「いや、全く奇遇だわえ」
「私はお主に逢いたかった」
「私もお主に逢いたかったものさ」
「で、五千両入用かな?」
「五右衛門と聞いては取られもしまい」
「せっかくのことだ、半金上げよう」
「金には不自由しているよ」
「私の所へ来てはどうか?」
「今どこに住んでいるな?」
「洛外嵯峨野だ。いい所だぞ。……ところでお主はどこにいるな?」
「私は雲水だ。宿はない」
「私の所へ来てはどうか?」
「まあやめよう。恐いからな」
「ナニ恐い? 何が恐い?」
「恐いというのは秀吉の事さ」
「成り上り者の猿面冠者か」
「私はあいつから茶碗を貰った」
「それが一体どうした事だ」
「そこで恐くなったのさ」
「何の事だか解《わか》らないな」
「彼奴《きゃつ》、殿下にもなれるはずだ。底の知れない大腹中だ。で私は立ち退く意《つもり》だ。そうだよ近畿地方をな」
「なんだ、馬鹿な、郷介程の者が、あんな者を恐れるとは恥かしいではないか!」
「その中お主にも思い当たろう」
「私は彼奴《あいつ》をやっつける意だ」
「悪いことは云わぬ、それだけは止めろ」
「私はある方に頼まれているのだ」
「はて誰かな? 家康かな?」
「いいや違う。狸爺ではない」
「およそ解《わか》った、秀次だろう?」
「誰でもいい。云うことは出来ぬ」
「止めるがいい。失敗するぞよ。彼奴用心深いからな」
 五右衛門は娘をチラリと見たが、
「好い娘だな。別嬪だな。月姫殿の遺児《わすれがたみ》かな?」
「うん」と云うと郷介法師は始めて悲しそうな顔をした。
「この娘も本当に可哀そうだ」
「ではどうでも立ち退くつもりか?」
「うん、どうでも立ち退くよ」
「旅費はどうかな? 少し進ぜよう」
「私には五万両の貸がある」
「え、五万両? 誰に貸したのか?」
「堺の魚屋利右衛門へな」
「それではこれでお別れか」
「行雲流水、どれ行こうか」
 そこで二人は別れたのである。

 関白秀吉を恐れさせ一世の強盗五右衛門をして、兄事させた所の郷介法師とは、いかなる身分の大盗であろうか?
 歴史にもなく伝説にもないこの不思議の大盗賊について、書き記してある書物と云えば、「緑林黒白《りょくりんこくびゃく》」一冊しかない。
 で作者《わたし》はその書に憑據し、この大盗の生い立ちを左に一通り述べることにしよう。


「兄弟もなければ親もない。……俺は本当に孤児《みなしご》だ」
 ――岡郷介《おかごうすけ》はこう思って来ると、いつも心が寂しくなった。
「昨日《きのう》も戦争、今日も戦争、そうして明日も又戦争。……足利の武威衰えて以来、世はいわゆる戦国となり、仁義道徳は地に堕ちてしまった。親が子を殺し子が親を害する。恐ろしいは世の中の態《さま》だ。……親などはない方が気楽かもしれない」
 ――こう思うようなこともあった。
「しかし、それでは寂しいな。やはり親はあった方がいい。ああ両親《ふたおや》に逢いたいものだ」
 親に対する思慕の情は捨ようとしても捨られないのであった。
「だが、それにしても俺の親は、どうして俺を振り捨て行方知れずになったのであろう? 俺は両親の顔をさえ知らぬ」
 彼の心はこれを思うといよいよ寂しくなるのであった。

「最所治部めが叛《そむ》いたそうな。毛利|元就《もとなり》へ款《かん》を通じ俺に鋒先を向けるそうな」
 備前国矢津の城主浮田|直家《なおいえ》はこう云って癇癪筋を額に浮かべた。
「不都合千万でございますな」
 お気に入りの近習岡郷介はこれも無念そうに相槌を打ったが、
「余人はともかく治部殿は殿のご縁者ではございませぬか」
「だから一層残念だ」
「これは許しては置けませぬな」
「許しては置けない! 許しては置けない!」
 直家の声は物狂わしい。
「謀叛の原因は何でございましょう?」
 郷介はじっと眼を据えた。
「ああ原因か。原因は女だ!」
「ははあ女子でございますか」
「俺の娘月姫だ」
「月姫様?」と鸚鵡《おうむ》返したが、郷介の声は顫えていた。
「言語道断でございますな。……たしか治部殿は五十歳、月姫様はお十八、どうする意《つもり》でございましょう?」
「治部は昨年妻を失《なく》した」
「ははあそれでは後妾《のちぞえ》などに?」
「うん」と直家は奥歯を噛み締め、
「主筋にあたるこの俺へ姫をくれえと申して参った」
「すぐにお断りなさいましたか」
「するとたちまち今度の謀叛だ」
「憎い男でございますな」
 二人はちょっと黙り込んだ。春の夜嵐が吹いている。庭の花木にあたると見えて、サラサラサラサラと落花でもあろう、地を払う物の気勢《けはい》がする。
「郷介」と直家は意味あり気に、
「其方は今年二十二歳、姫とはちょうど年恰好だ」
「殿、何を仰せられます」
 郷介は眼瞼を紅くした。
「治部さえなくば月姫は、其方に嫁わせないものでもない」
「私《わたくし》は臣下《けらい》でございます」
「秘蔵の臣下だ。疎《おろそ》かには思わぬ」
「忝けのう存じます」
「治部はどうしても生かして置けぬ」
「殿」と郷介は膝行《いざ》り寄った。
「私、治部めを討ち取りましょう」
「娘月姫は其方のものだ」
「忝けのう存じます」

 春昼の陽は暖かく光善寺の樓門《さんもん》を照らしていた。
 六十余り七十にもなろうか、どこか気高い容貌をした老年《としより》の乞食《ものごい》が樓門の前で、さも長閑《のどか》そうに居眠っていた。
 そこへ通りかかった岡郷介は、何と思ったかツカツカと近寄り、
「お父様!」と呼びかけた。そうして地上へ跪座《ひざまず》いた。
 驚いたのは乞食であった。
「私は乞食でござります。お父様などとはとんでもない。何かのお間違いでござりましょう」
「いえいえ貴郎《あなた》はお父様です。夢のお告げがござりました。……昨夜《ゆうべ》のことでございますが、神々しい老人が現われ出で、『汝明日光善寺へ参れ、そこに老年の乞食がいよう、それこそ汝が年頃尋ねる実の生の親であろうぞ』と、お告げ下されましてござります。……何と仰せられても貴郎は父上。どうでも邸へお迎え致し孝養を尽くさねばなりませぬ」
 郷介はこう云うと飽迄真面目に乞食の手を取るのであった。
「どうも不思議だ。解《げ》せぬことだ」
 乞食は苦々しく笑ったが、
「ところで貴郎のお姓名《なまえ》は?」
「岡郷介と申します」
「なに?」と乞食はそれを聞くと颯《さっ》と顔色を変えたものである。
「岡郷介? しかと左様かな?」
「何しに偽りを申しましょう」
「……ああもう遁れぬ運命じゃ。……さあどこへでもお連れ下され。……」
 老いたる乞食はヒョロヒョロと敷いていた筵《むしろ》から立ち上ったが、その表情にもその態度にも、一種異様なものがあった。恐れに恐れていた幽霊に、避けに避けていた悪運に、突然ぶつかった[#「ぶつかった」に傍点]人かのような、絶体絶命[#「絶体絶命」は底本では「絶対絶命」]の恐怖の情がまざまざと現われていたのであった。


 当時、すなわち永禄《えいろく》の頃には、備前の国は三人の大名が各自《おのおの》三方に割居して、互いに勢いを揮っていた。谷津の城には浮田|直家《なおいえ》、龍の口城には最所治部《さいしょじぶ》、船山城には須々木豊前《すずきぶぜん》。――そうして勢力は互格であった。
 最所治部の龍の口城へ、ある日一人の若侍が、父だと云う老人を連れて、さも周章《あわただ》しく駈け込んで来た。手足から鮮血《なまち》を流している。
「私事は浮田の家臣岡郷介と申す者、寃罪《むじつのつみ》によりまして、主人のためかくの如きの折檻、あまりと云えば非義非道、ことには重代の主従ではなし、絶縁致すはこの時と存じ、一人の父を引き連れまして、谷津の城を抜け出し、ここまで参りましてござります。承わりますれば最所殿には士を愛する名君との事、願わくば随身仕り、犬馬の労を尽くしたく、そのため参上致しましてござるが、貴意いかがにござりましょうや?」
 これが若侍の口上であった。
「浮田の家来とあるからは、ちょうど幸い扶持して取らせ、其奴《そやつ》の口から敵状を聞こう」
 最所治部はこう云った。で、郷介はその時から最所家の家来となったのである。
 才気縦横の郷介は間もなく治部の寵臣となったが武道は精妙、弁舌は爽か、それに浮田家の内情は裏の裏まで知っていて、治部が尋ねれば声に応じて、城の要害、武具兵糧、兵の強弱、謀将の可否、どんな事でも物語るので、治部は遺憾なく相格を崩し、郷介を寵愛するのであった。
 こうしていつか春も去り、やがて蒸し熱い夏となったが、その夏も去《い》って秋となった。郷介が治部に随身してから六月の月日が経ったのである。
 或日治部は家来を率いて、馬場で馬術の調練をした。
「郷介」と治部は声を掛けた。
「其方《そち》馬術は鍛練かな?」
「は、いささか仕ります」
 岡郷介は微笑して云う。
「では、一鞍せめ[#「せめ」に傍点]て見ろ」
「は」と云ったが気乗りせず、
「適当の逸物ござりましょうか?」
「馬か? 馬ならいくらもある」
「私、駻馬を好みます」
「荒馬がよいか。それは面白い。では月山に乗って見ろ」
「失礼ながら月山などは、私の眼から見ますると、弱気の病馬に過ぎません」
「ほほう左様か。玄海はどうだ?」
「やはり弱気に過ぎまする」
「其方随意に選ぶがよい」
「殿のご愛馬将門栗毛を、拝借致しとう存じます」
「何、将門? ううむ将門か?」
 最所治部は眼を顰めた。将門栗毛は治部にとっては生命《いのち》に次いでの秘蔵の名馬で、誰にもこれ迄借したことはない。――随意に選べと云った手前、今さらしかし貸さないとは云えない。
「おおよかろう、将門をせめろ[#「せめろ」に傍点]」
 そこで将門は引き出された。丈高く肥え太り、鬣荒く尾筒長く、生月《いけづき》、磨墨《するすみ》、漢の赤兎目《せきとめ》もこれまでであろうと思われるような、威風堂々たる逸物であったが、岡郷介は驚きもせずひらりとばかり跨《またが》るとタッタッタッタッと馬場を廻る。
「見事々々」と最所治部は思わず感嘆して声を掛けたが、途端に郷介一鞭くれると馬場の木柵を飛び越した。
「ワッハハハハ」と哄笑の声が郷介の口から迸《ほとばし》ったが、
「最所殿、治部殿、最所治部め! 大馬鹿殿の迂濶者め、郷介これでお暇申す! 将門栗毛は引出物、拙者この儘頂戴致す。さりとてお礼は申さぬ意《つもり》、口惜しく思わば取り返しめされ! これ迄明かせば浮田家の内情、あれは悉皆出鱈目じゃ。さて拙者はここを立ち退き船山城へ伺候致し須々木豊前殿へ仕官する所存、苦情があらば遠慮なく船山城の方へ申し越されい。永居は惶《おそ》れハイ左様なら!」
 云い捨てクルリと馬の首を東南へ向けて立て直すと、颯《さっ》とばかりに走らせた。人馬諸共一瞬の後には木陰へ隠れて見えなくなった。

 戦国時代の武将達は一芸に秀でた武士と見ると善悪を問わず抱えたものである。で、郷介は何の苦もなく須々木豊前守に抱えられたが、これを怒ったのは最所治部で、治部は直ちに使者を遣わし、岡郷介を取り戻そうとした。しかし須々木家では相手にしない。
「岡郷介と宣《なの》る武士、当城内には決して居らぬ」
 これが須々木家の返事であった。
 治部たる者ますます怒らざるを得ない。
「郷介の父の郷左衛門を船山城の大手へ連れ行き、磔《はりつけ》柱へ付けてしまえ!」
 踴り上り踴り上り最所治部は狂人のように叫んだものである。


 郷介が最所家を逐転[#「逐転」はママ]して以来、父郷左衛門は観念して死の近付くのを待っていた。いよいよその日が遣って来ると、彼は下僕の杢介《もくすけ》というのへ、封じた書面を手渡した。そうして何事か囁いた。それから斎戒[#「斎戒」は底本では「斉戒」]沐浴し、討手の来るのを待ち受けた。討手の大将は椎名《しいな》金之丞と云って、情を知らぬ武士であったが、手向いもしない郷左衛門を高手小手に縛めると磔柱へ縛り付けた。
 磔柱は車に積まれ、船山城の大手口まで、大勢の手で引き込まれた。
「船山城中へ物申す。岡郷介を戻せばよし、飽迄知らぬ存ぜぬとあらば、郷介の父郷左衝門をこの場において鎗玉に上げる」
 椎名金之丞は大音にこう城内へ申し入れたが、城内からの返答は以前《まえ》と替わりがないのであった。
「岡郷介と申す者、当城中には決して居らぬ」
 これが須々木家の返答であった。
「是非に及ばぬ。今はこれ迄」
 金之丞は合図をした。
 たちまち左右から突き出す鎗に郷左衛門は肋を刺されガックリ首を垂れたのである。
 この日郷介は矢倉の窓からじっ[#「じっ」に傍点]と様子を眺めていたが、心の中では嘲笑っていた。
「素性も知れぬ乞食爺を俺の実父と思い込み磔刑沙汰とは笑止千万、お陰で計略図に当たり、ますます俺は須々木豊前に信用を得ると云うものだ。そこを目掛けの第二の計略! うまいぞうまいぞ」と北叟笑《ほくそえ》む。

 こういうことがあって以来、最所家と須々木家とは不和になった。そこを狙って岡郷介は、実父の仇と偽わり怒り、最所治部の悪事を数えて須々木豊前へ焚き付ける。とうとう戦端は開かれた。僅か六月ではあったけれど岡郷介は最所家に仕え、城の要害、兵の強弱、武器の利鈍、兵糧の多寡、そういう事迄探り知っていたので、続々名案を考え出す。須々木豊前がそれを用いる。で、須々木方は戦う毎に勝ち、半年余り寄せ合った果、最所治部は戦没し、龍の口城は陥落《おちい》った。
 須々木豊前は大いに喜び、凱旋するや盛宴を張って、部下の将士を慰ったが、功第一と記されたのは他でもない郷介であった。
 歓喜の中にその日は暮れ、やがて夜となりその夜も明けた。たちまち大事件が持ち上った。城の大将須々木豊前が寝所で殺されているではないか。そうして郷介の姿が見えない。

 数日経ったある夜のこと、矢津の城の奥深い部屋で、浮田直家と郷介とは、愉快そうに話していた。
「郷介、お前は恐ろしい奴だ。ただ弁口の才だけで、最所、須々木の二大名を、物の見事に滅ぼしてしまった。俺は一人の兵も傷めず、龍の口城と船山城とをそっくりと手中へ収めることが出来た。張良の知謀もこれ迄であろう」
「殿」と郷介は笑《えま》しげに、
「それも恋からでござります」
「おお左様々々、そうであったな。もう月姫はお前の物だ」
「はい、忝《かたじ》けのう存じます」
「今日は愉快だ。実に愉快だ」
「はい愉快でございます。しかしたった[#「たった」に傍点]一つだけ。……」
「心がかりの事でもあるか?」
「罪もない乞食《ものごい》の老人を、鎗玉の犠牲にしましたこと、決してよい気持は致しませぬ」
「戦国の常だ。構うものか」
「それは左様でございますとも。しかし、この頃何となく、鎗玉に上げられたあの老人が、私の実の父かのように思われてならないのでございさます[#「ございさます」はママ]」
「アッハハハハ馬鹿なことを申せ。それはお前の心の迷いだ」
「……私は捨児でございましたそうで?」
「うん、そうだ、当歳の頃、光善寺の門前に捨られていたよ」
 やがて郷介はご前を退り自分の邸へ帰って来た。
 と、意外な来客があった。
「おおお前は杢介ではないか?」
「はい」と云って杢介は懐中から書面を取り出した。
「私にとってはご主人様、貴郎《あなた》様にとりましてはお父上様が、磔柱へ付けられる前に、そっと私めに手渡した大事な書面でござります。是非とも貴郎様へ差し上げるようにと、仰せられましてござります」
「どれ」と云って郷介は書面を取って開いて見た。読んで行くうちに彼の顔は次第に血の色を失った。読んでしまうと眼を閉じた。そうして口の中で呟いた。
「案じた通りだ。……俺は親殺しだ。……恐ろしい運命。……坊主になろう。……」


 しかし郷介が実父だと思った郷左衛門という侍は、実父ではなくて養父なのであった。そうして郷介の実父なるものはついに何者だか解《わか》らないのである。
 郷介の養父は九州に名高い、龍造寺家の長臣であったが、養子郷介を貰い受けた時、ある有名な人相見が、親殺しの相があると喝破した。それを恐れて郷介の義父ははるばる備前まで遣って来て、光善寺へ郷介を捨たものである。
 子を捨るような無慈悲な親が、立身出世するはずがない。先ず妻に先立たれ、つづいて主家を浪人した。どこへ行っても志を得ず、乞食《ものごい》とまで零落したが、捨た子のことが気にかかり、はるばる光善寺まで辿って来た時、今度の運命に遭遇したのである。

 郷介の出家を耳にすると、浮田直家は莞爾とした。
「利口な奴だ。命冥加な奴だ。……余りに鋭い彼奴《きゃつ》の知恵、うかうかすると主人の俺が今度は寝首を掻かれようも知れぬ。で、月姫を結婚《めあ》わせて置いて、油断を窺い取って抑え首捻じ切ろうと思っているに、早くも様子を察したと見える。……利口な奴だ。命冥加な奴だ」
 しかし直家のこの考えは一ヶ月経たずに裏切られた。彼の愛女月姫が行方不明になったのである。その盗手は郷介であった。子を捨る親、養父を殺す子、君を殺す家来、家来を計る君、昨日の味方は今日の敵、悲風惨憺たる戦国時代では、なまじ出家などするよりも賊になった方が気が利いていると、更に心機を再転させ、その手始めに恋する女を浮田の奥殿から奪ったのである。爾来彼は月姫共々大盗賊として世を渡ったが、月姫がはかなくなってからは、二人の間に設けた所の照姫というのを囮として、いぜんとして盗賊を働いた。
 そうしていつも磔柱をその威嚇の道具としたが、間違いからとは云いながら、磔柱へ養父を懸けて、敵の手――いやいや自分の手をもって殺したというその事に対し、良心を苦しめていたからで、自己譴責の心持から、絶えず十字架を背負っていたとも云える。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
   1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「ポケット」
   1925(大正14)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

弓道中祖伝—— 国枝史郎


「宿をお求めではござらぬかな、もし宿をお求めなら、よい宿をお世話《せわ》いたしましょう」
 こう云って声をかけたのは、六十歳ぐらいの老人で、眼の鋭い唇の薄い、頬のこけた顔を持っていた。それでいて不思議に品位があった。
「さよう宿を求めて居ります。よい宿がござらばお世話下され」
 こう云って足を止めたのは、三十二三の若い武士で、旅装いに身をかためていた。くくり袴、武者|草鞋《わらじ》、右の肩から左の脇へ、包を斜《ななめ》に背負《しょ》っていた。手には鉄扇をたずさえている。深く編笠をかむっているので、その容貌は解《わか》らなかったが、体に品もあれば威もあった。武術か兵法かそういうものを、諸国を巡って達人に従《つ》き、極めようとしている遊歴武士、――といったような姿であった。
「よろしいそれではお世話しましょう。ここは京の室町《むろまち》で、これを南へ執《と》って行けば、今出《いまで》川の通りへ出る。そこを今度は東へ参る。すると北|小路《こうじ》の通りへ出る。それを出はずれると管領《かんりょう》ヶ原で、その原の一所に館がござる。その館へ参ってお泊りなされ。和田の翁より承《うけたま》わったと、このように申せば喜んで泊めよう。さあさあおいで、行ってお泊り」
 云いすてると老人は腰を延ばし、突いていた寒竹《かんちく》の鞭のような杖を、振るようにして歩み去った。
 若い武士は唖然としたようであった。
 時は文明《ぶんめい》五年であり、応仁の大乱が始まって以来、七年を経た時であり、京都の町々は兵火にかかり、その大半は烏有《うゆう》に帰し、残った家々も大破し、没落し、旅舎というようなものもなく、有ってもみすぼらしいものであった。若武士が京の町へ足を入れたのは、たった今しがたのことであり、時刻はすでに夕暮であり、事実さっきからよい宿はないかと、それとなく探していたところであった。で、老人に呼び止められ、今のように宿を世話されたことは、有難いことには相違なかったが、それにしても老人の世話のしかたが、あまりにも唐突であったので、そこで唖然としたのであった。唖然としたが、それがために、老人の好意を無にしたり、老人の言葉を疑うような、そんな卑屈な量見を、その若武士は持っていないと見えて、云われたままの道を辿り、云われたままの館の前に立った。
 さてここは館の前である。
 もうこの時は初夜であって、遅い月はまだ出ていなかった。
 で、細かい館の様子は、ほとんど見ることが出来なかったが、桧皮葺《ひはだぶき》の門は傾き、門内に植えられた樹木の枝葉が、森のように繁っていた。取り廻された築地《ついじ》も崩れ、犬など自由に出入り出来そうであった。旅宿といったような造りではなかった。
(これは変だな)と思ったものの、そのことがかえって若い武士の、好奇の心をそそったらしく、立ち去らせる代わりに門を叩かせた。
 と、叩いた手に連れて、門が自ずと少し開いた。
(不用心のことだ)と思いながら、若武士は門内へ入って行った。鬱々と繁っている庭木の奥に、いかめしい書院造りの館が立っていた。桁行《けたゆき》二十間、梁間《はりま》十五間、切妻造り、柿葺《こけらぶき》の、格に嵌まった堂々たる館で、まさしく貴族の住居であるべく、誰の眼にも見て取れた。しかし凄じいまでに荒れていて、階段まで雑草が延びていた。
 森閑《しん》として人気もない。勿論|燈火《ともしび》も洩れて来ない。何となく鬼気さえ催すのであった。しかし応仁の大乱は、京都の市街を戦場とした、市街戦であったので、この種の荒れ果てた館などは、どこへ行っても数多くあり、珍しいものではなかったので、若武士は躊躇しなかった。
「ご免下され、お取次頼む」
 こう高声で呼《よば》わった。が、返辞は来なかった。そこで若武士はさらに呼んだ。三度四度呼んで見た。が、依然として返辞はなかった。
「やれやれ」と若武士は呟《つぶや》いた。
「これはどうやら無住の館らしい。とするとどうしてあの老人は、こんな所を世話したのであろう?」
 これからどうしようかと考えた。足も疲労《つかれ》ていたし気も疲労ていた。で、無住の館なら、誰にも遠慮することもない。ともかくもしばらく休息して行こう。こう考えて玄関を上った。二ノ間一ノ間を打ち通り、奥の間へ来て佇んだ。燈火のない屋内は、ひたすらに暗く何も見えなかった。
 そこで若武士は膝を揃えて坐った。疲労た足を癒すには、端坐するのがよいからであった。


 こうしてしばらく時が経った。と、その時裏庭の方から、清らかな若い女の声で、今様めいた歌をうたう、歌の声が聞こえてきた。
(はてな?)と若武士は耳を澄ました。
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※[#歌記号、1-3-28]荒れし都の古館、見れば昔ぞ忍ばるる、蓬《よもぎ》が原に露しげく、啼くは鶉《うずら》か憐れなり
[#ここで字下げ終わり]
 それはこういう歌であった。若武士は当然意外に感じた。
(このような荒れ果てた館の庭で、歌をうたう女があろうとは? さては無住ではなかったのか?)
 で若武士は立ち上り、部屋を出て縁へ立った。星明りの下に見えたのは、荒れた館にふさわしく、これも荒れ果てた裏庭で、雑草は延びて丈《じょう》にも達し、庭木は形もしどろ[#「しどろ」に傍点]に繁って、自然の姿を呈して居り、昔は数奇を谷《きわ》めたらしい、築山、泉水、石橋、亭、そういうものは布置においてこそ、造庭術の蘊奥《うんおう》を谷めて、在る所に厳として存在していたが、しかしいずれも壊れ損じ、いたましい態《ざま》を見せていた。
 と、白衣《びゃくえ》の丈の高い女が、水のない泉水の岸のほとりを、築山の方へ歩いていた。
(あれだな)と若武士は突嗟に思い、少しはしたなく[#「はしたなく」に傍点]は思ったが、そこに穿物《はきもの》がなかったので、跣足《はだし》のままで庭へ下り、驚かせたら逃げるかもしれない、こう何となく思われたので、物の陰から物の陰を伝い、女の方へ近寄って行った。しかし泉水の岸のほとりまで、その若武士が行った時には、女の姿は見えなかった。
(築山《つきやま》の向こうへでも行ったのであろうか)と思って若武士は先へ進んだ。
 と、突然老人の声が、築山の方から聞こえてきた。
「参るぞーッ」という声であった。
 途端に烈しい弦音《つるおと》がした。
「うん!」
 気合だ! 気合をかけて、若武士は持っていた鉄扇で、空をパッと一揮した。足下《あしもと》に落ちたものがある。平題《いたつき》の箭《や》であった。
「お見事!」と女の声が聞こえた。築山の方から聞こえたのである。
 と、又老人の声がした。
「もう一條《ひとすじ》参る、受けて見られい」
 ふたたび烈しい弦音がした。
「うん」と全く同じ気合だ。気合をかけて若武士は、またも鉄扇を一揮した。連れて箭が足下へ叩き落とされた。
「お見事」と又も女の声がし、すぐに続いて問いかけた。
「弓箭《きゅうぜん》の根元ご存知でござるか?」
「弓箭の根元は神代にござる」
 言下に若武士はそう答えた。
「根《ね》の国に赴きたまわんとして素盞嗚尊《すさのおのみこと》[#「素盞嗚尊」は底本では「素盞鳴尊」]、まず天照大神《あまてらすおおみかみ》に、お別れ告げんと高天原《たかまがはら》に参る。大神、尊を疑わせられ、千入《ちいり》の靱《うつぼ》を負い、五百入《いおいり》の靱を附け、また臂に伊都之竹鞆《いつのたかとも》を取り佩《は》き、弓の腹を握り、振り立て振り立て立ち出で給うと、古事記に謹記まかりある。これ弓箭の根元でござる」
「さらに問い申す重籐《しげとう》の弓は?」
「誓って将帥の用うべき品」
「うむ、しからば塗籠籐《ぬりごめどう》は?」
「すなわち士卒の使う物」
「蒔絵《まきえ》弓は?」
「儀仗《ぎじょう》に用い」
「白木糸裏は?」
「軍陣に使用す」
「天晴《あっぱ》れ!」と女の清らかな声が、築山の方からまた聞こえてきた。
「お若いに似合わず技巧《わざ》ばかりでなく、学にも通じて居られますご様子、姓名をお聞かせ下されよ」
「伊賀の国の住人|日置正次《へきまさつぐ》、弓道の奥義極めようものと、諸国遍歴いたし居るもの。……ご息女のお名前お聞かせ下され」
 すると代わって老人の声が、遮るように聞こえてきた。
「あいや、ご無用、まだ早うござる。……なるほど防身《うけみ》は確かでござる。が果たして射術の方は? ……両様の態《たい》定った暁、何も彼もお明しなさるがよろしい」
 ここでにわかに手を拍つ音が、田楽の節を帯びて聞こえてきた。
「天王寺《てんおうじ》の妖霊星《ようれいぼし》! 天王寺の妖霊星!」
「見たか見たか妖霊星!」
 女がそれに合わせて歌った。これも同じく手を拍っている。
「千早《ちはや》は落ちたか、あら悲しや」
「悲しや落ちた、情なや」
「天王寺の妖霊星!」
「妖霊星、妖霊星!」
 足拍子の音が聞こえてきた。
 しかし次第に遠退いた。踊りながら築山の奥の方へ、二人揃って行ったようであった。


 書院へ帰って来た日置正次は、あッとばかりに驚かされた。蒔絵の燭台に燈火がともり、食机《おしき》の上に盆鉢《わんばち》が並び、そこに馳走の数々が盛られ、首長の瓶子《へいし》には酒が充たされ、大|盞《さかづき》が添えられてあり、それらの前に刺繍を施した茵《しとね》が、重々《あつあつ》と敷かれてあったからである。
「ほう」と正次は声を洩らした。
「これは一体どうしたことだ?」
 しかし直ぐに感づいた。
(さっきの女性《にょしょう》と老人とが、この館に住む人々で、その人々がこの身に対し、心尽くしをしたのであろう)
「忝《かたじ》けのう[#「忝けのう」は底本では「恭けのう」]ござる、頂戴|仕《つかまつ》る」
 どこにも人影は見えなかったが、いずれどこかでこっちの進退を、仔細に観察しているだろうと、こんなように考えられたところから、こうつつましく礼を云い、それから瓶子を取り上げて、酒を注ぎ盞を取った。で、悠々と酒を飲み、数々の料理に箸をつけた。その間も館内は寂然としていて、全く人の気勢《けはい》はなく、人家に離れているところから、他に物音も聞こえなかった。充分に腹を養ったため、とみに正次は精気づき、心ものびのびと展《ひろ》がって来た。で、のんびりと部屋を見廻した。
「ほう」とまたも正次は、思わず声を洩らしてしまった。
 見れば背後《うしろ》の床ノ間に、倍実《のぶさね》筆の山水の軸が、大きくいっぱいに掛けられてあり、脇床の棚の上には帙《ちつ》に入れられた、数巻の書が置かれてあり、万事正式の布置であって、驚くことはなかったが、ただ一つだけ床ノ間に、陰陽二張の大弓と、二十四條の箭《や》を納めたところの、調度掛が置いてあったことが、正次の眼を驚かせた。しかも定紋は菊水《きくすい》であった。
「ム――」と何がなしに正次は唸って、調度掛の前へいざり寄った。

 その同じ夜のことであった。異装の武士の大衆が、京の町を小走っていた。人数は三十五人もあったが、いずれも一様に裸体であり、髪は散らして太い縄で、結び目を額に鉢巻し、同じく荒縄を腰に纏い、それへ赤鞏《あかざや》の刀を差し、脚には黒の脛巾《はばき》を穿き、しかも足は跣足《はだし》であった。が、その中のは脛《すね》へばかり、脛当をあてた者があり、又腕へばかり鉄と鎖の、籠手《こて》を嵌めたものがあり、そうかと思うと腰へばかり、草摺《くさずり》を纏った者があった。手に手に持っている獲物といえば、鉞《まさかり》、斧、長柄《ながえ》、弓、熊手、槍、棒などであった。先へ立った数人が松明《たいまつ》を持ち、中央にいる二人の小男が、蛇味線《じゃみせん》を撥《ばち》で弾いていた。
 頭領と見える四十五六の男は、さすがに黒革の鎧を着、鹿角《かづの》[#ルビの「かづの」は底本では「かずの」]を打った冑《かぶと》を冠り、槍を小脇にかい込んでいた。
 この一党は何物なのであろう? いわば野武士と浪人者と、南朝の遺臣の団体《あつまり》なのであった。応仁の大乱はじまって以来、近畿地方は云う迄もなく、諸国の大名小名の間に、栄枯盛衰が行なわれ、国を失った者、城を奪われた者が、枚挙に暇ないほど輩出した。その結果禄に離れた者が夥《おびただ》しいまでに現われた。すなわち野武士浪人が、日本の国中に充ちたのである。それ以前から足利幕府に、伝統的に反抗し、機会さえあったら足利幕府に、一泡吹かせようと潜行的に、策動している南朝方の、多くの武士が諸方にあった。すなわち新田《にった》の残党や、又、北畠《きたばたけ》の残党や、楠氏《なんし》の残党その者達である。で、そういう武士達は、時勢がだんだん逼塞し、生活苦が蔓延するに従い、個人で単独に行動していたのでは、強請《ごうせい》、押借《おしがり》というようなことが、思うように効果があがらなくなったのと、いうところの下剋上《げこくじょう》――下級《した》の者すなわち貧民達が、上流《うえ》の者を凌ぎ侵しても、昔のようには非難されず、かえって正当と見られるような、そういう時勢となったので、そこで多数が団結し、何々党、何々組などと、そういう党名や組名をつけて、※[#「てへん+晉」、第3水準1-84-87]紳《しんしん》の館や富豪の屋敷へ、押借りや強請に出かけて行くことを、生活の方便とするようになった。
 ここへ行く一団もそれであって、「あばら組」という組であり、頭目は自分で南朝の遺臣、しかも楠氏の一族の、恩地左近《おんじさこん》の後統である、恩地雉四郎であると称していたが、その点ばかりは疑わしかったが、剽悍の武士であることは、何らの疑いもないのであった。
 この一団が傍若無人に、それほど夜も更けていないのに、京都の町をざわめきながら、小走りに走って行くのであった。


 調度掛にかけてある弓箭《きゅうぜん》を眺め、しばらく小首を傾けている、日置正次《へきまさつぐ》の耳へ大勢の人声が、裏庭の方から聞こえてきたのは、それから間もなくのことであった。
(はてな?)と正次は耳を澄ました。大勢の人間が裏門を押し開け、庭内へ入って来たようであった。
 不意に呼びかける声が聞こえてきた。
「お約束の日限と刻限とがただ今到来いたしてござる。恩地雉四郎お迎えに参った。いざ姫君お越し下され。お厭とあらば判官殿手写の『養由基《ようゆうき》』をお譲り下されよ!」
 濁みた兇暴の声であった。
 すると書院の次の間から、――すなわち一ノ間から老人の声が、嘲笑うようにそれに答えた。
「雉四郎殿か、お迎えご苦労! が、姫君には申して居られる、迎えにも応ぜず『養由基』もやらぬと。……雉四郎殿お立帰りなされ」
「黙れ!」と、雉四郎の怒声が聞こえた。
「それでは約束に背くというものだ」
「元々貴殿より姫君に対して、強請された難題でござる。背いたとて何の不義になろう」
「よろしい背け、がしかしだ、一旦思い込んだこの雉四郎、姫も奪うぞ『養由基』も取る! それだけの覚悟、ついて居ろうな!」
 すると老人の声が書院の方へ――正次の方へ呼びかけた。
「あいや客人、日置正次殿、我等必死のお願いでござる、貴殿の弓勢《ゆんぜい》お示し下され! 寄せて参ったは、不頼の輩《ともがら》、あばら組と申す奴原《やつばら》、討ち取って仔細無き奴原でござる!」
「応」と云うと日置正次は、調度掛にかけてある陽の弓、七尺五寸、叢重籐《むらしげどう》、その真中《まんなか》をムズと握り、白磨箆鳴鏑《しろみがきべらなりかぶら》の箭《や》を掴むと、襖をあけて縁へ出た。
「寄せて来られた方々に申す。拙者は旅の武士でござって、今宵この館に宿を求めた者、従って貴殿方に恩怨はござらぬ。又この館の人々とも、たいして恩も誼《よしみ》もござらぬ。がしかしながら見受けましたところ、貴殿方は大勢、しかのみならず、武器をたずさえて乱入された様子、しかるに館には婦人と老人、たった二人しかまかりあらぬ。しかも二人に頼まれてござる。味方するよう頼まれてござる。拙者も武士頼まれた以上、不甲斐なく後へは引けませぬ。……そこで箭一本参らせる。引かれればよし引かれぬとなら、次々に箭を参らせる」
 云い終わると箭筈《やはず》を弦に宛て、グーッとばかり引き絞った。狙いは衆人の先頭に立ち、槍を突き立て足を踏みひらき、鹿角打った冑をいただいている、その一党の頭目らしい――すなわち恩地雉四郎の、その冑の前立であった。弦ヲ控《ヒ》クニ二法アリ、無名指ト中指ニテ大指ヲ圧シ、指頭ヲ弦ノ直堅《チヨクケン》に当ツ! 之《コレ》ヲ中国ノ射法ト謂《イ》フ! 正次の射法はこれであった。満を持してしばらくもたせたが「曳《えい》!」という矢声! さながら裂帛! 同時に鷲鳥の嘯くような、鏑の鳴音響き渡ったが、源三位頼政《げんざんみよりまさ》鵺《ぬえ》を射つや、鳴笛《めいてき》紫宸殿《ししんでん》に充つとある、それにも劣らぬ凄まじい鳴音が、数町に響いて空を切った箭! 見よおりから空にかかった、遅い月に照らされて、見えていた恩地雉四郎の、鹿角の前立を中程から射切り、しかも箭勢《せんぜい》弱らずに、遥かあなたに巡らされている、築土の塀に突き刺さった。
 ド、ド、ド、ド――ッという足音がして、この弓勢《ゆんぜい》に胆を冷やした、あばら組三十五人は、一度に後へ退いた。が、さすがに雉四郎ばかりは、一党の頭目であったので、逃げもせず立ったまま大音を上げた。
「やあ汝出過者め、無縁とあらば事を好まず、穏しく控えて居ればよいに、このあばら組に楯衝いて、箭を射かけるとは命知らずめ、問答無益、出た杭は打ち、遮る雑草は刈取らねばならぬ! さあ方々おかえりなされ! 弓勢は確かに凄じくはござるが、狙いは未熟で恐るるところはござらぬ。冑の前立をかつかつ[#「かつかつ」に傍点]射落とし、眉間を外した技倆《うで》で知れる!」
 すると正次は嘲るように云った。
「雉四郎とやら愚千万、昔|保元《ほうげん》の合戦において、鎮西《ちんぜい》八郎|為朝《ためとも》公、兄なる義朝《よしとも》に弓は引いたが、兄なるが故に急所を避け、冑の星を射削りたる故事を、さてはご存知無いと見える。拙者先刻も申した通り、我と貴殿と恩怨ござらぬ、それゆえ故意《わざ》と眉間を外し、前立の鹿角を射落としたのでござるぞ。それとも察せずに只今の過言、狙いは未熟とは片腹痛し、おお可々《よしよし》ご所望ならば、二ノ箭にてお命いただこう。……参るゾーッ」と背後《うしろ》を振り返り、床の間にある調度掛の箭を、抜き取ろうとして手を延ばした。


 途端に箭が一條眼の前へ出された。
「いざ、これで、遊ばしませ」
「うむ」と思わず声を上げ、その箭を取ったが眼を据えて見た。その正次の眼の前に、――だから正次の背後横に、髪は垂髪、衣裳は緋綸子、白に菊水の模様を染めた、裲襠《うちかけ》を羽織った二十一二の、臈《ろう》たけた美女が端坐していた。
「貴女《きじょ》は?」と正次は驚きながら訊ねた。訊ねながらも油断無く、弦《ゆみ》に矢筈《やはず》をパッチリと嵌め、脇構えに徐《おもむろ》に弦《つる》を引いた。
「この家の主人《あるじ》にござります。……」
「では先刻の……今様《いまよう》の歌主?」
 云い云い八分通り弦を引き、
「ご姓名は? ……ご身分は?」
「楠氏の直統、光虎《みつとら》の妹、篠《しの》と申すが妾《わらわ》にござります」
「おお楠氏の? ……さては名家……その由緒ある篠姫様が……」
 ヒューッとその時数條の箭が、敵方よりこなたへ射かけられた。と、瞬間に正次の眼前、数尺の空で月光を刎ねて、宙に渦巻き光る物があった。
「おッ」――キリキリと弦を引き、さながら満月の形にしたが「おッ」とばかりに声を洩らし、正次は光り物の主を見た。一人の老人が小薙刀を、宙に渦巻かせて箭を払い落とし、今や八双に構えていた。
「や、貴殿は? ……」
「昼の程は失礼」
「うーむ、和田の翁でござるか」
「すなわち楠氏の一族にあたる和田|新発意《しんぼち》の正しい後胤、和田|兵庫《ひょうご》と申す者。……」
「しかも先刻築山の方より、拙者を目掛けて箭を射かけたる……」
「それとて貴殿の力倆|如何《いか》にと、失礼ながら試みました次第……」
「…………」
 矢声は掛けなかった! それだけに懸命! 切って放した正次の箭! 悲鳴! 中《あた》った! 足を空に、もんどり[#「もんどり」に傍点]討って倒れたのは、雉四郎の前に立ちふさがった、敵ながらも健気《けなげ》の武士であった。
 ワーッとどよめき崩れ引く敵! しかも遥かに逃げのびながら、またもハラハラと箭を射かけた。と薙刀を渦巻かせ、和田兵庫は正次の前方、書院の縁の端に坐り、片膝をムックリと立てていた。
「いざ、三ノ箭! 遊ばしませ」
 姫が差し出した三本目の箭を、素早く受けると日置正次、矢筈に弦を又もつがえ、グーッと引いて満を持した。
「その楠氏の姫君が、何故このような古館に?」
「洞院左衛門督信隆《とういんさえもんのすけのぶたか》卿、妾の境遇をお憐れみ下され、長年の間この館に、かくまいお育て下されました。しかるに大乱はじまりまして、都は大半烏有に帰し、公卿方|堂上人《どうじょうびと》上達部《かんだちめ》、いずれその日の生活《たつき》にも困り、縁をたよって九州方面の、大名豪族の領地へ参り、生活《くらし》するようになりまして、わが洞院信隆卿にも、過ぐる年|周防《すおう》の大内家へ、下向されましてござります。その際妾にも参るようにと、懇《ねんごろ》におすすめ下されましたが……」
「…………」
 矢声は掛けなかった、充分に狙い、切って放した正次の箭! 中《あた》って悲鳴、又も宙に、もんどり打って仆れた敵! ワーッとどよめいて敵は引いたが、懲りずまた箭をハラハラと射かけた。
 渦巻かせた兵庫の薙刀のために、箭は数條縁へ落ちた。
「四本目の箭、いざ遊ばせ!」
「うむ」と受け取り、そのままつがえ
「何故ご下向なされませなんだ」
「先祖|正成《まさしげ》より伝わりました、弓道の奥義書『養由基《ようゆうき》』九州あたりへ参りましたら、伝える者はよもあるまい、都にて名ある武士に伝え、伝え終らば九州へと……」
「養由基? ふうむ、名のみ聞いて、いまだ見たこともござらぬ兵書! ははあそれをお持ちでござるか」
 云い云い正次は、キリ、キリ、キリ、と弦をおもむろに引きしぼった。
「養由基一巻拙者の手に入らば、日頃念願の本朝弓道の、中興の事業も完成いたそうに。欲しゅうござるな! 欲しゅうござるな。……さてこの度は何奴を!」
 満月に引いてグッと睨んだ。


 自分の部下を目前において、二人まで射倒された雉四郎は、怒りで思慮を失ってしまった。箭に対して刀を構えようとはせず、持っていた槍を引きそばめ、衆の先頭へ走り出た。
「やあ汝《おのれ》よくもよくも、我等の味方を箭先にかけ、二人までも射て取ったな。もはや許さぬ、槍を喰らって、この世をおさらば、往生遂げろ!」
 叫びながら驀進《まっしぐら》に、正次目掛けて走りかかった。
(いよいよ此奴《こやつ》を!)と日置正次、引きしぼり保った十三|束三伏《ぞくみつぶせ》、柳葉《やなぎは》の箭先に胸板を狙い、やや間近過ぎると思いながらも、兵《ひょう》ふっ[#「ふっ」に傍点]とばかり切って放した。
 狙いあやまたず胸板を射抜き、本矧《もとはぎ》までも貫いた。
 末期の悲鳴、凄く残し、槍を落とすとドッと背後へ、雉四郎は仆れて死んだ。頭目を討たれたあばら組の余衆、競ってかかる勇気はなく、雉四郎の死骸さえ打ち捨て、ドーッと裏門からなだれ出た。

 半刻《はんとき》あまりも経った頃、正次と篠姫と和田兵庫とが、書院でつつましく話していた。正次の前には三宝に載せた「養由基」の一巻があった。姫から正次へ譲られたものである。「養由基」を譲るに足るような武士を、この館へ幾人となく誘い、弓道をこれまで試みたが、今日までふさわしい人物に逢わず、失望を重ねていたところ、今日になって貴殿とお逢いすることが出来た。「養由基」をお譲りする人物に、うってつけ[#「うってつけ」に傍点]に似つかわしい立派な貴殿に。――こういう意味の事を和田兵庫は云った。
「恩地雉四郎と申す男、決して妾《わらわ》の一族では是無《これな》く、赤松家の不頼の浪人であり、以前から妾に想いを懸け、『養由基』ともども奪い取ろうと、無礼にも心掛けて居りました悪漢、それをお討ち取り下されましたこと、有難きしあわせにござります。今日まで彼の要望《のぞみ》を延ばし、切刃詰まった今日になって、貴郎《あなた》様に討っていただきましたことも、ご縁があったからでござりましょう」
 こういう意味のことを篠姫も云って、助けられたことを喜んだ。
「今後のご起居いかがなされます?」
 こう正次は心配そうに訊いた。
「実は明日大内家より、迎いの人数参りますことに、とり定めある儀にござります。その人数に連れられまして、九州へ妾下向いたします。雉四郎の難題を今日まで、引き延ばして居りましたのもそれがためで、さらに今日一日を引き延ばし、明日になった時難を避け、立ち去る所存でござりました」
 こう篠姫は微笑しながら云った。
「きわどい所でござりましたな、私も日中和田兵庫殿に、お目にかかる事出来ませなんだならば『養由基』のお譲りを受けるという、またとある可《べ》くもない幸運に、外れるところでござりました」
「ご縁があったからでござります」
 鶏《とり》が啼いて明星が消え、朝がすがすがしく訪れて来た時、美々《びび》しく着飾った武士達が多勢、立派な輿を二挺舁ぎ、この館を訪れた。大内家からの迎えであった。
「おさらば」「ご無事で」と別離の挨拶!
 挨拶を交わせて名残惜しそうに篠姫とそうして和田兵庫とは、日置正次と立ち別れた。楠氏の正統篠姫は、翠華漾々平和の国、周防大内家へ行ったのである。

 准南子《えなんじ》ニ曰ク「養由基《ヨウユウキ》楊葉《ヨウヨウ》ヲ射ル、百発百中、楚《ソ》ノ恭王《キョウオウ》猟シテ白猿ヲ見ル、樹ヲ遶《メグ》ッテ箭《ヤ》ヲ避ク、王、由基ニ命ジ之ヲ射シム、由基始メ弓ヲ調ベ矢ヲ矯《タ》ム、猿|乃《スナワ》チ樹ヲ抱イテ号《サケ》ブ」
 それ程までに秀でた漢土弓道の大家、その養由基の射法の極意を、完全に記した『養由基』一巻、手写した人は大楠公であった。その養由基を譲り受けて以来、日置弾正正次《へきだんじょうまさつぐ》は、故郷に帰って研鑽百練、日置流の一派を編み出した。これを本朝弓道の中祖、斯界の人々仰がぬ者なく、日置流より出て吉田《よしだ》流あり、竹林《ちくりん》派、雪荷《せっか》派、出雲《いづも》派あり、下って左近右衛門《さこんえもん》派あり、大蔵《おおくら》派、印西《いんざい》派、ことごとく日置流より出て居るという。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻五」未知谷
   1993(平成5)年7月20日初版発行
初出:「キング」
   1932(昭和7)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年5月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

仇討姉妹笠—— 国枝史郎

袖の中には?

 舞台には季節にふさわしい、夜桜の景がかざられてあった。
 奥に深々と見えているのは、祗園辺りの社殿《やしろ》であろう、朱の鳥居や春日燈籠などが、書割の花の間に見え隠れしていた。
 上から下げられてある桜の釣花の、紙細工の花弁が枝からもげて、時々舞台へ散ってくるのも、なかなか風情のある眺望《ながめ》であった。
 濃化粧の顔、高島田、金糸銀糸で刺繍《ぬいとり》をした肩衣《かたぎぬ》、そうして熨斗目《のしめ》の紫の振袖――そういう姿の女太夫の、曲独楽使いの浪速《なにわ》あやめ[#「あやめ」に傍点]が、いまその舞台に佇みながら、口上を述べているのであった。
「独楽のはじまりは唐の海螺弄《はいまわし》、すなわち海の螺貝《らがい》を採り、廻しましたのがそのはじまり、本朝に渡来いたしまして、大宮人のお気に召し、木作りとなって喜遊道具、十八種の中に数えられましたが、民間にはいってはいよいよますます、製法使法発達いたし、浪速の建部四国《たてべしこく》太夫が、わけても製法使法の達人、無双の名人にござりました。これより妾《わたし》の使いまする独楽は、その四国太夫の製法にかかわる、直径《さしわたし》一尺の孕《はらみ》独楽、用うる紐は一丈と八尺、麻に絹に女の髪を、綯《な》い交ぜにしたものにござります。……サッと投げてスッと引く、紐さばきを先ずご覧《ろう》じませ。……紐を放れた孕独楽が、さながら生ける魂あって、自在に動く神妙の働き、お眼とめてご覧じ下さりませ! ……東西々々」
 こういう声に連れて、楽屋の方からも東西々々という声が、さも景気よく聞こえてきた。
 すると、あやめ[#「あやめ」に傍点]は赤毛氈を掛けた、傍《かたえ》の台から大独楽を取上げ、それへ克明に紐を捲いたが、がぜん左肩を上へ上げ、独楽を持った右手を頭上にかざすと、独楽を宙へ投げ上げた。
 次の瞬間に見えたものは、翩翻と返って来た長紐と、鳥居の一所に静止して、キリキリ廻っている独楽とであった。
 そうしてその次に起こったことは、土間に桟敷に充ち充ちていた、老若男女の見物が、拍手喝采したことであった。
 しかし壮観《みもの》はそればかりではなく、すぐに続いて見事な業が、見物の眼を眩惑《くら》ました。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]が黒地に金泥をもって、日輪を描き出した扇を開き、それをもって大独楽を受けたとたんに、その大独楽が左右に割れ、その中から幾個《いくつ》かの小独楽を産み出し、産み出された小独楽が石燈籠や鳥居や、社殿の家根《やね》などへ飛んで行き、そこで廻り出したことであった。
 また見物たちは喝采した。
 と、この時舞台に近い桟敷で、人々に交って見物していた二十五六歳の武士があったが、
「縹緻《きりょう》も佳《よ》いが芸《げい》も旨《うま》いわい」と口の中で呟いた。
 田安中納言家《たやすちゅうなごんけ》の近習役の、山岸主税《やまぎしちから》という武士であった。
 色白の細面、秀でた眉、高い鼻、いつも微笑しているような口、細味ではあるが睫毛が濃く、光こそ鋭く強かったが、でも涼しい朗かな眼――主税は稀に見る美青年であった。
 その主税の秀麗な姿が、曲独楽定席のこの小屋を出たのは、それから間もなくのことであり、小屋の前に延びている盛場の、西両国の広小路を、両国橋の方へ歩いて行くのが、群集の間に雑って見えた。
 もう夕暮ではあったけれど、ここは何という雑踏なのであろう。
 武士、町人、鳶ノ者、折助《おりすけ》、婢女《げじょ》、田舎者《おのぼりさん》、職人から医者、[#「医者、」は底本では「医者」]野幇間《のだいこ》、芸者《はおり》、茶屋女、女房子供――あらゆる社会《うきよ》の人々が、忙しそうに又|長閑《のどか》そうに、往くさ来るさしているではないか。
 無理もない! 歓楽境なのだから。
 だから往来の片側には、屋台店が並んでおり、見世物小屋が立っており、幟《のぼり》や旗がはためいており、また反対の片側には、隅田川に添って土地名物の「梅本」だの「うれし野」だのというような、水茶屋が軒を並べていた。
 主税は橋の方へ足を進めた。
 橋の上まで来た時である、
「おや」と彼は呟いて、左の袖へ手を入れた。
「あ」と思わず声をあげた。
 袖の中には小独楽が入っていたからである。
(一体これはどうしたというのだ)
 独楽を掌《てのひら》の上へ載せ、体を欄干へもたせかけ、主税はぼんやり考え込んだ。
 が、ふと彼に考えられたことは、あやめ[#「あやめ」に傍点]が舞台から彼の袖の中へ、この独楽を投げ込んだということであった。
(あれほどの芸の持主なのだから、それくらいのことは出来るだろうが、それにしても何故に特に自分へこのようなことをしたのだろう?)
 これが不思議でならなかった。

   怪しの浪人

 ふと心棒を指で摘み、何気なく一捻り捻ってみた。
「あ」と又も彼は言った。
 独楽は掌の上で廻っている。
 その独楽の心棒を中心にして、独楽の面に幾個《いくつ》かの文字が白く朦朧と現われたからである。
「淀」という字がハッキリと見えた。
 と、独楽は廻り切って倒れた。
 同時に文字も消えてしまった。
「変だ」と主税《ちから》は呟きながら、改めて独楽を取り上げて、眼に近付けて子細に見た。
 何の木で作られてある独楽なのか、作られてから幾年を経ているものか、それが上作なのか凡作なのか、何型に属する独楽なのか、そういう方面に関しては、彼は全く無知であった。が、そういう無知の彼にも、何となくこの独楽が凡作でなく、そうして制作されて以来、かなりの年月を経ていることが感じられてならなかった。
 この独楽は直径二寸ほどのもので、全身黒く塗られていて、面に無数の筋が入っていた。
 しかし、文字などは一字も書いてなかった。
「変だ」と同じことを呟きながら、なおも主税は独楽を見詰めていたが、また心棒を指で摘み、力を罩《こ》めて強く捻った。
 独楽は烈しく廻り出し、その面へ又文字を現わした。しかし不思議にも今度の文字は、さっきの文字とは違うようであった。
「淀」という文字などは見えなかった。
 その代わりかなりハッキリと「荏原《えばら》屋敷」という文字が現われて見えた。
「面の筋に細工があって、廻り方の強さ弱さによって、いろいろの文字を現わすらしい」
(そうするとこの独楽には秘密があるぞ)
 主税はにわかに興味を感じて来た。
 すると、その時背後から、
「お武家、珍しいものをお持ちだの」と錆のある声で言うものがあった。
 驚いて主税は振り返って見た。
 三十五六の浪人らしい武士が、微笑を含んで立っていた。
 髪を総髪の大束《おおたぶさ》に結び、素足に草履を穿いている。夕陽の色に照らされていながら、なお蒼白く感じられるほど、その顔色は白かった。左の眼に星の入っているのが、いよいよこの浪人を気味悪いものにしていた。
「珍らしいもの? ……何でござるな?」
 主税は独楽を掌に握り、何気なさそうに訊き返した。
「貴殿、手中に握っておられるもので」
「ははあこれで、独楽でござるか。アッハッハッ、子供騙しのようなもので」
「子供騙しと仰せられるなら、その品拙者に下さるまいか」
「…………」
「子供騙しではござるまい」
「…………」
「その品どちらで手に入れられましたかな?」
「ほんの偶然に……たった今しがた」
「ほほう偶然に……それも今しがた……それはそれはご運のよいことで……それに引き換え運の悪い者は、その品を手中に入れようとして、長の年月を旅から旅へ流浪いたしておりまするよ」
「…………」
「貴殿その品の何物であるかを、ではご存知ではござるまいな?」
「左様、とんと、がしかし、……」
「が、しかし、何でござるな?」
「不思議な独楽とは存じ申した」
「その通りで、不思議な独楽でござる」
「廻るにつれて、さまざまの文字が……」
「さようさよう現われまする。独楽の面へ現われまする。で、貴殿、それらの文字を、どの程度にまで読まれましたかな?」
「淀という文字を目つけてござる」
「淀? ははア、それだけでござるか?」
「いやその他に荏原屋敷という文字も」
「ナニ荏原屋敷? 荏原屋敷? ……ふうん左様か、荏原屋敷――いや、これは忝《かたじけ》のうござった」
 云い云い浪人は懐中へ手を入れ、古びた帳面を取り出したが、さらに腰の方へ手を廻し、そこから矢立を引き抜いて、何やら帳面へ書き入れた。

   睨み合い

「さてお武家」と浪人は言った。
「その独楽を拙者にお譲り下されい」
「なりませぬな、お断りする」
 はじめて主税はハッキリと言った。
「貴殿のお話|承《うけたま》わらぬ以前《まえ》なら、お譲りしたかは知れませぬが、承わった現在においては、お譲りすることなりませぬ」
「ははあさては拙者の話によって……」
「さよう、興味を覚えてござる」
「興味ばかりではござるまい」
「さよう、価値をも知ってござる」
「独楽についての価値と興味とをな」
「さようさよう、その通りで」
「そうすると拙者の言動は、藪蛇になったというわけでござるかな」
「お気の毒さまながらその通りで」
「そこで貴殿にお訪《たず》ねしますが、この拙者という人間こそ、その独楽を手中に入れようとして、永年尋ねておりました者と、ご推量されたでござりましょうな」
「さよう、推量いたしてござる」
「よいご推量、その通りでござる。……そこであからさまにお話しいたすが、その独楽を手中に入れようとする者、拙者一人だけではないのでござるよ。……拙者には幾人か同志がござってな、それらの者が永の年月、その独楽を手中に入れようとして、あらゆる苦労をいたしておるのでござる」
「さようでござるか、それはそれは」
「以前は大阪にありましたもので、それがほんの最近になって、江戸へ入ったとある方面よりの情報。そこで我ら同志と共々、今回江戸へ参りましたので」
「さようでござるか、それはそれは」
「八方探しましたが目つかりませなんだ」
「…………」
「しかるにその独楽の価値も知らず、秘密も知らぬご貴殿が、大した苦労もなされずに、楽々と手中へ入れられたという」
「好運とでも申しましょうよ」
「さあ、好運が好運のままで、いつまでも続けばよろしいが」
「…………」
「貴殿」と浪人は威嚇《おどか》すように言った。
「拙者か、拙者の同志かが、必ずその独楽を貴殿の手より……」
「無礼な! 奪うと仰せられるか!」
「奪いますとも、命を殺《あや》めても!」
「ナニ、命を殺めても?」
「貴殿の命を殺めても」
「威嚇《おどかし》かな。怖いのう」
「アッハッハッ、そうでもござるまい。怖いのうと仰せられながら、一向怖くはなさそうなご様子。いや貴殿もしっかりもの[#「しっかりもの」に傍点]らしい。……ご藩士かな? ご直参かな? 拙者などとは事変わり、ご浪人などではなさそうじゃ。……衣装持物もお立派であるし。……いや、そのうち、我らにおいて、貴殿のご身分もご姓名も、探り知るでござりましょうよ。……ところでお尋ねしたい一儀がござる。……曲独楽使いの女太夫、浪速《なにわ》あやめ[#「あやめ」に傍点]と申す女と、貴殿ご懇意ではござりませぬかな?」
 言われて主税《ちから》はにやりとしたが、
「存じませぬな、とんと存ぜぬ」
「ついそこの曲独楽の定席へ、最近に現われた太夫なので」
「さような女、存じませぬな」
「嘘言わっしゃい!」と忍び音ではあったが、鋭い声で浪人は言った。
「貴殿、その独楽を、浪速あやめ[#「あやめ」に傍点]より、奪い取ったに相違ない!」
「黙れ!」と主税は怒って呶鳴った。
「奪ったとは何だ、無礼千万! 拙者は武士だ、女芸人風情より……」
「奪ったでなければ貰ったか!」
「こやつ、いよいよ……汝《おのれ》、一刀に!」
「切ろうとて切られぬわい。アッハッハッ、切られぬわい。……が、騒ぐはお互いに愚、愚というよりはお互いに損、そこで穏やかにまた話じゃ。……否」というとその浪人は、しばらくじっと考えたが、
「口を酸くして説いたところで、しょせん貴殿には拙者の手などへ、みすみすその独楽お渡し下さるまいよ、……そこで、今日はこれでお別れいたす。……だが、貴殿に申し上げておくが、その独楽貴殿のお手にあるということを、拙者この眼で見た以上、拙者か拙者の同志かが、早晩必ず貴殿のお手より、その独楽を当方へ奪い取るでござろう。――ということを申し上げておく」
 言いすてると浪人は主税へ背を向け、夕陽が消えて宵が迫っているのに、なおも人通りの多い往来《とおり》を、本所の方へ歩いて行った。

   闇に降る刃

 その浪人の背後《うしろ》姿を、主税はしばらく見送ったが、
(変な男だ)と口の中で呟き、やがて自分も人波を分け、浅草の方へ歩き出した。
 歩きながら袖の中の独楽を、主税はしっかりと握りしめ、
 ――あの浪人をはじめとして、同志だという多数の人々が、永年この独楽を探していたという。ではこの独楽には尋常《ひととおり》ならない、価値と秘密があるのだろう。よし、では、急いで家へ帰って、根気よく独楽を廻すことによって、独楽の面へ現われる文字を集め、その秘密を解き価値を発見《みつ》けてやろう。――興味をもってこう思った。
(駕籠にでも乗って行こうかしら?)
(いや)と彼は思い返した。
(暗い所へでも差しかかった時、あの浪人か浪人の同志にでも、突然抜身を刺し込まれたら、駕籠では防ぎようがないからな。……先刻《さっき》の浪人の剣幕では、それくらいのことはやりかねない)
 用心しいしい歩くことに決めた。
 平川町を通り堀田町を通った。
 右手に定火消の長屋があり、左手に岡部だの小泉だの、三上だのという旗本屋敷のある、御用地近くまで歩いて来た時には、夜も多少更けていた。
 御用地を抜ければ田安御門で、それを通れば自分の屋敷へ行けた。それで、主税は安堵の思いをしながら、御用地の方へ足を向けた。
 しかし、小泉の土塀を巡って、左の方へ曲がろうとした時、
「居たぞ!」「捕らえろ!」「斬ってしまえ!」と言う、荒々しい男の声が聞こえ、瞬間数人の武士が殺到して来た。
(出たな!)と主税は刹那に感じ、真先に切り込んで来た武士を反《かわ》し、横から切り込んで来た武士の鳩尾《みぞおち》へ、拳で一つあてみ[#「あてみ」に傍点]をくれ、この勢いに驚いて、三人の武士が後へ退いた隙に、はじめて刀を引っこ抜き、正眼に構えて身を固めた。
 すると、その時一人の武士が、主税を透かして見るようにしたが、
「や、貴殿は山岸氏ではないか」と驚いたように声をかけた。
 主税も驚いて透かして見たが、
「何だ貴公、鷲見《すみ》ではないか」
「さようさよう鷲見|与四郎《よしろう》じゃ」
 それは同じ田安家の家臣で、主税とは友人の関係にある、近習役の鷲見与四郎であった。
 見ればその他の武士たちも、ことごとく同家中の同僚であった。
 主税は唖然として眉をひそめたが、
「呆れた話じゃ、どうしたというのだ」
「申し訳ない、人違いなのじゃ」
 言い言い与四郎は小鬢を掻いた。
「承知の通りのお館の盗難、そこで拙者ら相談いたし、盗人をひっ捕らえようといたしてな、今夜もお館を中心にして、四方を見廻っていたところ、猿廻しめに邂逅いたした」
「猿廻し? 猿廻しとは?」
「長屋の女小供の噂によれば、この頃若い猿廻しめが、しげしげお長屋へやって来て、猿を廻して銭を乞うそうじゃ」
「そこで、怪しいと認めたのじゃな」
「いかにも、怪しいと認めたのじゃ。……その怪しい猿廻しめに、ついそこで逢ったので、ひっ捕らえようとしたところ、逃げ出しおって行方不明よ」
「なに逃げ出した? それなら怪しい」
「……そこへ貴殿が土塀を巡って、突然姿をあらわしたので……」
「猿まわしと見誤ったというのか?」
「その通りじゃ、いやはやどうも」
「拙者猿は持っていない」
「御意で、いやはや、アッハッハッ」
「そそっかしいにも程があるな」
「程があるとも、一言もない、怪我なかったが幸いじゃ」
「すんでに貴公を斬るところだった。これから貴公たちどうするつもりじゃ」
「業腹[#「業腹」は底本では「剛腹」]じゃ。このままではのう。……そこでこの辺りをもう一度探して……」
「人違いをして叩っ切られるか」
「まさか、そうそうは、アッハッハッ。……貴殿も一緒に探さぬかな」
「厭なことじゃ。ご免蒙ろう。……今日拙者は非番なのでな、そこで両国へ行ったところ、あそこへ行くと妙なもので、田舎者《おのぼりさん》のような気持になる。それで拙者もその気になって、曲独楽の定席へ飛び込んだものよ。すると、そこに綺麗な女太夫がいて……」
「ははあ、その美形を呼び出して、船宿でか? ……こいつがこいつが!」
「何の馬鹿らしいそのようなこと。……もう女には飽きている身じゃ。……ただその美しい女太夫から、珍らしい物を貰うたので、これから緩々《ゆるゆる》屋敷へ帰って、その物を味わおうとこういうのじゃ。……ご免」と主税は歩き出した。

   猿廻し

 歩きながら考えた。
 何故この頃お館には、金子などには眼をくれず、器物ばかりを狙って盗む、ああいう盗難があるのだろう? それも一度ならずも二度三度、頻々としてあるのだろう?
(ある何物かを手に入れようとして、それに関係のありそうな器物を、狙いうちにして盗んでいるようだ。……そのある物とは何だろう?)
 これまで盗まれた器物について、彼は記憶を辿ってみた。
 蒔絵の文庫、青銅の香爐、明兆《みんちょう》の仏書、利休の茶柄杓、世阿弥筆の謠の本……等々高価の物ばかりであった。
(盗難も盗難だがこのために、お館の中が不安になり、お互い同士疑い合うようになり、憂鬱の気の漂うことが、どうにもこうにもやりきれない)
 こう主税は思うのであった。
(お互い同士疑い合うのも、理の当然ということが出来る。お館の中に内通者があって、外の盗賊と連絡取ればこそ、ああいう盗みが出来るのだからなア。……そこで内通者は誰だろうかと、お互い同士疑い合うのさ)
 主税はこんなことを考えながら、御用地の辺りまで歩いて来た。
 御用地なので空地ではあるが、木も雑草も繁っており、石材なども置いてあり、祠なども立っており、水溜や池などもある。そういう林であり藪地なのであった。
 と、その林の奥の方から、キ――ッという猿の啼声が、物悲しそうに聞こえてきた。
(おや)と主税は足を止めた。
(いかに藪地であろうとも、猿など住んでいるはずはない。……では話の猿廻しが?)
 そこで主税は堰を飛び越え、御用地の奥の方へ分け入った。草の露が足をぬらし、木の枝が顔を払ったりした。
 また猿の啼声が聞こえてきた。
 で、主税は突き進んだ。
 すると、果たして一人の猿廻しが、猿を膝の上へ抱き上げて、祠の裾の辺りへうずくまり、編笠をかむった顔を俯向けて、木洩れの月光に肩の辺りを明るめ、寂しそうにしているのが見えた。
「猿廻し!」と声をかけ、突然主税はその前へ立った。
「用がある、拙者と一緒に参れ!」
「あッ」と猿廻しは飛び上ったが、木の間をくぐって逃げようとした。
「待て!」
 主税は足を飛ばせ、素早くその前へ走って行き、左右に両手を開いて叫んだ。
「逃げようとて逃がしはせぬ、無理に逃げればぶった斬るぞ!」
「…………」
 しかし無言で猿廻しは、両手で猿を頭上に捧げたが、バッとばかりに投げつけた。
 キ――ッと猿は宙で啼き、主税の顔へ飛びついて来た。
「馬鹿者!」
 怒号して拳を固め、猿を地上へ叩き落とし、主税は猛然と躍りかかった。
 だが、何と猿廻しの素早いことか、こんもり盛り上っている山査子《さんざし》の叢《むら》の、丘のように高い裾を巡って、もう彼方《むこう》へ走っていた。
 すぐに姿が見えなくなった。
(きゃつこそ猿だ! なんという敏捷《すばしっこ》さ!)
 主税は一面感心もし、また一面怒りを感じ、憮然として佇んだが、気がついて地上へ眼をやった。
 叩き落とした猿のことが、ちょっと気がかりになったからである。
 木洩れの月光が銀箔のような斑《ふ》を、枯草ばかりで青草のない、まだ春なかばの地面のあちこちに、露を光らせて敷いていて、ぼっ[#「ぼっ」に傍点]と地面は明るかったが、猿の姿は見えなかった。
(たしかこの辺りへ叩き落としたはずだが)
 主税は地面へ顔を持って行った。
「あ」
 声に出して思わず言った。
 小独楽が一個《ひとつ》落ちているではないか。
 主税は袖を探ってみた。
 袖の中にも小独楽はあった。
(では別の独楽なのだな)
 地上の独楽を拾い上げ、主税は眼に近く持って来た。その独楽は大きさから形から、袖の中の独楽と同じであった。
「では」と呟いて左の掌の上で、主税は独楽を捻って廻し、月光の中へ掌を差し出し、廻る独楽の面をじっと見詰めた。
 しかし、独楽の面には、なんらの文字も現われなかった。
(この独楽には細工はないとみえる)
 いささか失望を感じながら、廻り止んだ独楽をつまみ上げ、なお仔細《こまか》く調べてみた。
 すると、独楽の面の手触りが何となく違うように思われた。
(はてな?)と主税は指に力を罩《こ》め、その面を強く左の方へ擦った。

   不思議な老人

「おおそうか、蓋なのか」と、擦ったに連れて独楽の面が弛み、心棒を中心にして持ち上ったので、そう主税《ちから》は呟いてすぐにその蓋を抜いてみた。
 独楽の中は空洞《うつろ》になっていて畳んだ紙が入れてあった。
 何か書いてあるようである。
 そこで、紙を延ばしてみた。
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三十三、四十八、二十九、二十四、二十二、四十五、四十八、四、三十五
[#ここで字下げ終わり]
 と書いてあった。
(何だつまらない)と主税は呟き、紙を丸めて捨ようとしたが、
(いや待てよ、隠語《かくしことば》かもしれない)
 ふとこんなように思われたので、またその紙へ眼を落とし、書かれてある数字を口の中で読んだ。
 それから指を折って数え出した。
 かなり長い間うち案じた。
「そうか!」と声に出して呟いた時には、主税の顔は硬ばっていた。
(ふうん、やはりそうだったのか、……しかし一体何者なのであろう?)
 思いあたることがあると見えて、主税はグッと眼を据えて、空の一所へ視線をやった。
 と、その視線の遥かかなたの、木立の間から一点の火光《ひかり》が、薄赤い色に輝いて見えた。
 その火はユラユラと揺れたようであったが、やがて宙にとどまって、もう揺れようとはしなかった。
(こんな夜更けに御用地などで、火を点《と》もすものがあろうとは?)
 重ね重ね起こる変わった事件に、今では主税は当惑したが、しかし好奇心は失われないばかりか、かえって一層増して来た。
(何者であるか見届けてやろう)
 新規に得た独楽を袖の中へ入れ、足を早めて火光の見える方へ、木立をくぐり藪を巡って進んだ。
 火光から数間のこなたまで来た時、その火光が龕燈の光であり、その龕燈は藪を背にした、栗の木の枝にかけられてある。――ということが見てとられた。
 だがその他には何があったか?
 その火の光に朦朧と照らされ、袖無を着、伊賀袴を穿いた、白髪白髯の老人と、筒袖を着、伊賀袴を穿いた、十五六歳の美少年とが、草の上に坐っていた。
 いやその他にも居るものがあった。
 例の猿廻しと例の猿とが同じく草の上に坐っていた。
(汝《おのれ》!)と主税は心から怒った。
(汝、猿廻しめ、人もなげな! 遠く逃げ延びて隠れればこそ、このような手近い所にいて、火まで燈して平然としているとは! 見おれ[#「見おれ」は底本では「見をれ」]、こやつ、どうしてくれるか!)
 突き進んで躍りかかろうとした。しかし足が言うことをきかなかった。
 と云って足が麻痺したのではなく、眼の前にある光景が、変に異様であり妖しくもあり、厳かでさえあることによって、彼の心が妙に臆《おく》れ、進むことが出来なくなったのである。
(しばらく様子を見てやろう)
 木の根元にうずくまり、息を詰めて窺った。
 老人は何やら云っているようであった。
 白い顎鬚が上下に動き、そのつど肩まで垂れている髪が、これは左右に揺れるのが見えた。
 どうやら老人は猿廻しに向かって、熱心に話しているらしかった。
 しかし距離が遠かったので、声は聞こえてこなかった。
 主税はそれがもどかしかったので、地を這いながら先へ進み、腐ちた大木の倒れている陰へ、体を伏せて聞耳を立てた。
「……大丈夫じゃ、心配おしでない、猿めの打撲傷《うちみ》など直ぐにも癒る」
 こういう老人の声が聞こえ、
「躄者《いざり》さえ立つことが出来るのじゃからのう。――もう打撲傷は癒っているかもしれない。……これこれ小猿よ立ってごらん」
 言葉に連れて地に倒れていた猿が、毬のように飛び上り、宙で二三度|翻筋斗《もんどり》を打ったが、やがて地に坐り手を膝へ置いた。
「ね、ごらん」と老人は云った。
「あの通りじゃ、すっかり癒った。……いや誠心《まごころ》で祈りさえしたら、一本の稲から無数の穂が出て、花を咲かせて実りさえするよ」
 その時猿廻しは編笠を脱いで、恭しく辞儀《おじぎ》をした。
 その猿廻しの顔を見て、主税は思わず、
「あッ」と叫んだ。それは女であるからであった。しかも両国の曲独楽使いの、女太夫のあやめ[#「あやめ」に傍点]であった。

   隠語を解く

 曲独楽使いの浪速《なにわ》あやめ[#「あやめ」に傍点]が、女猿廻しになっている! これは山岸|主税《ちから》にとっては、全く驚異といわざるを得なかった。
 しかも同一のその女が、自分へ二つの独楽をくれた。
 そうしてその独楽には二つながら、秘密らしいものがからまっている。
(よし)と主税は決心した。
(女猿廻しを引っとらえ、秘密の内容を問いただしてやろう)
 そこで、主税は立ち上った。
 するとその瞬間に龕燈が消えて、いままで明るかった反動として、四辺《あたり》がすっかり闇となった。
 主税の眼が闇に慣れて、木洩れの月光だけで林の中のようすが、朧気ながらも見えるようになった時には、女猿廻しの姿も、美童の姿も猿の姿も、眼前から消えてなくなっていた。

 その翌日のことである、田安家の奥家老|松浦頼母《まつうらたのも》は、中納言家のご前へ出で、
「お館様これを」とこう言上して、一葉の紙片を差し出した。
 泉水に水が落ちていて、その背後《うしろ》に築山があり、築山をめぐって桜の老樹が、花を渦高く咲かせており、その下を将軍家より頂戴したところの、丹頂の鶴が徘徊している――そういう中庭の風景を、脇息に倚って眺めていた田安中納言はその紙片を、無言で取上げ熟視された。
 一杯に数字が書いてあった。
「これは何だ?」と、中納言家は訊かれた。
「隠語とのことにござります」
「…………」
「昨夜近習の山岸主税こと、怪しき女猿廻しを、ご用地にて発見いたし、取り抑えようといたしましたところ、女猿廻しには逃げられましたが、その者独楽を落としました由にて、とりあえず独楽を調べましたところ、この紙片が籠められておりましたとか……これがその独楽にござります」
 頼母は懐中から独楽を出した。
 中納言家はそれを手にとられたが、
「これは奥の秘蔵の独楽じゃ」
「奥方様ご秘蔵の独楽?」
「うん、わしには見覚えがある、これは奥の秘蔵の独楽じゃ。……それにしても怪しい猿廻しとは?」
「近頃、ひんぴんたるお館の盗難、それにどうやら関係あるらしく……」
「隠語の意味わかっておるかな?」
「主税|儀《こと》解きましてござります」
「最初に『三十三』と記してあるが?」
「『こ』という意味の由にござります」
「『こ』という意味? どうしてそうなる?」
「いろは四十八文字の三十三番目が『こ』の字にあたるからと申しますことで」
「ははアなるほど」
「山岸主税申しますには、おおよそ簡単の隠語の種本は、いろは四十八文字にござりますそうで、それを上より数えたり、又、下より数えたりしまして、隠語としますそうにござります」
「すると二番目に『四十八』とあるが、これは『ん』の隠語だな」
「御意の通りにござります」
「三番目に『二十九』とあるが、……これは『や』の隠語だな」
「御意の通りにござります」
「その次にあるは『二十四』だから、言うまでもなく『う』の字の隠語、その次の『二十二』は『ら』の字の隠語、その次の『四十五』は『も』の字の隠語、『四十八』は『ん』の字の隠語、『四』は『に』の字の隠語、『三十五』は『て』の字の隠語。……これで全部終えたことになるが、この全部を寄せ集めれば……」
「こんやうらもんにて――となりまする」
「今夜裏門にて――いかにもそうなる」
「事件が昨夜のことにござりますれば、今夜とあるは昨夜のこと。で、昨夜館の裏門にて、何事かありましたと解釈すべきで……」
「なるほどな。……で、何事が?」
「山岸主税の申しまするには、お館の中に居る女の内通者が、外界《そと》の賊と気脈を通じ、昨夜裏門にて密会し……」
「館の中に居る女の内通者とは?」
「その数字の書体、女文字とのことで」
「うむ、そうらしい、わしもそう見た」
「それにただ今うかがいますれば、その独楽は奥方様の御秘蔵の品とか……さすれば奥方様の腰元あたりに、賊との内通者がありまして、そのような隠語を認めまして、その独楽の中へ密封し、ひそかに門外へ投げ出し、その外界の同類の手に渡し、昨夜両人裏門にて逢い……」
「なるほど」
「内通者がお館より掠めました品を、その同類の手に渡したか……あるいは今夜の悪事などにつき、ひそかに手筈を定めましたか……」
「うむ」と云うと中納言家には、眉の辺りに憂色を浮かべ、眼を半眼にして考え込まれた。

   腰元の死

「頼母」
 ややあって中納言家は口を開いた。
「これはいかにもお前の言う通り、館の中に内通者があるらしい。そうでなくてあのような品物ばかりが、次々に奪われるはずはない。……ところで頼母、盗まれた品だが、あれらの品を其方《そち》はどう思うな?」
「お大切の品物と存じまする」
「大切の由緒存じおるか?」
「…………」
「盗まれた品のことごとくは、柳営より下されたものなのじゃ」
「…………」
「我家のご先祖|宗武《むねたけ》卿が、お父上にしてその時の将軍家《うえさま》、すなわち八代の吉宗《よしむね》将軍家から、家宝にせよと賜わった利休の茶杓子をはじめとし、従来盗まれた品々といえば、その後代々の我家の主人が、代々の将軍家から賜わったものばかりじゃ」
「…………」
「それでわしはいたく心配しておるのじゃ。将軍家より賜わった品であるが故に、いつなんどき柳営からお沙汰があって、上覧の旨仰せらるるやもしれぬ。その時ないとは言われない。盗まれたなどと申したら……」
「お家の瑕瑾《きず》にござります」
「それも一品ででもあろうことか、幾品となく盗まれたなどとあっては……」
「家事不取り締りとして重いお咎め……」
「拝領の品であるが故に、他に遣わしたとは言われない」
「御意の通りにござります」
「頼母!」と沈痛の中納言家は言われた。
「この盗難の背後には、我家を呪い我家を滅ぼそうとする、[#「滅ぼそうとする、」は底本では「滅ぼそうとする。」]恐ろしい陰謀《たくらみ》があるらしいぞ!」
「お館様!」と頼母も顔色を変え、五十を過ごした白い鬢の辺りを、神経質的に震わせた。
 中納言家はこの時四十歳であったが、宗武卿以来聡明の血が伝わり、代々英主を出したが、当中納言家もその選に漏れず、聡明にして闊達であり、それが風貌にも現われていて鳳眼隆鼻高雅であった。
 でも今は高雅のその顔に、苦悶の色があらわれていた。
「とにかく、内通者を至急見現わさねばならぬ」
「御意で。しかしいかがいたしまして?」
「これは奥に取り計らわせよう」
「奥方様にでござりまするか」
「うむ」と中納言家が言われた時、庭の築山の背後から女の悲鳴らしい声が聞こえ、つづいてけたたましい叫び声が聞こえ、すぐに庭番らしい小侍が、こなたへ走って来る姿が見えた。
「ご免」と頼母は一揖してから、ツカツカと縁側へ出て行ったが、
「これ源兵衛何事じゃ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」と庭番の小侍へ声をかけた。
 小侍は走り寄るなり、地面へ坐り手をつかえたが、
「お腰元楓殿が築山の背後にて、頓死いたしましてござります」
「ナニ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
 頼母は胸を反らせ、
「楓殿が頓死※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 頓死とは?」
「奥方様のお吩咐《いいつけ》とかで、三人の腰元衆お庭へ出てまいられ、桜の花お手折り遊ばされ、お引き上げなさろうとされました際、その中の楓殿不意に苦悶され、そのまま卒倒なされましたが、もうその時には呼吸《いき》がなく……」
「お館様!」と頼母は振り返った。
「履物を出せ、行ってみよう」
 中納言家には立って来られた。
「それでは余りお軽々しく……」
「よい、行ってみよう、履物を出せ」
 庭番の揃えた履物を穿き、中納言家には庭へ出られた。
 もちろん頼母は後からつづいた。
 庭番の源兵衛に案内され、築山の背後へ行った時には、苦しさに身悶えしたからであろう、髪を乱し、胸をはだけた、美しい十九の腰元楓が、横倒しに倒れて死んでいる側《そば》に、二人の腰元が当惑し恐怖し泣きぬれて立っていた。

   第二の犠牲

 手折った桜の枝が地に落ちていて、花が屍《しがい》の辺りに散り敷いているのが、憐れさの風情を添えていた。
 中納言家は傷《いた》わしそうに、楓《かえで》の死骸を見下ろしていたが、
「玄達《げんたつ》を呼んでともかくも手当てを」
 こう頼母に囁くように云い、四辺《あたり》を仔細に見廻したが、ふと審しそうに呟かれた。
「この頃に庭を手入れしたと見えるな」
 頼母は庭番の源兵衛へ、奥医師の玄達を連れて来るように吩咐《いいつ》け、それから中納言家へ頭を下げ、
「数日前に庭師を入れまして、樹木の植込み手入れ刈込み、庭石の置き換えなどいたさせました」
「そうらしいの、様子が変わっている」
 改めて中納言家は四辺を見廻された。
 桜の老樹や若木に雑って、棕櫚だの梅だの松だの楓だの、竹だの青桐だのが、趣深く、布置整然と植込まれてい、その間に珍奇な庭石が、春の陽に面を照らしながら、暖かそうに据えられてあった。
 ずっとあなたに椿の林があって、その中に亭が立っていた。
 間もなく幾人かの侍臣と共に、奥医師玄達が小走って来た。大奥の腰元や老女たちも、その後から狼狽《あわて》て走って来た。
 玄達はすぐに死骸の側《そば》へかがみ仔細に死骸を調べ出した。
「駄目か?」と中納言家は小声で訊かれた。
「全く絶望にござります」
 玄達も小声で答えた。
「死因は何か?」
「さあその儀――いまだ不明にござりまする。……腹中の食物など調べましたなら……」
「では、外傷らしいものはないのだな」
「はい、いささかも……外傷らしいものは」
「ともかくも死骸を奥へ運んで、外科医宗沢とも相談し、是非死因を確かめるよう」
「かしこまりましてござります」
 やがて楓の死骸は侍臣たちによって、館の方へ運ばれた。
「不思議だのう」と呟きながら、なお中納言家は佇んでおられた。
 その間には侍臣や腰元たちは、楓を殺した敵らしいものが、どこかその辺りに隠れていないかと、それを探そうとでもするかのように、木立の間や岩の陰や、椿の林などへ分け入った。
 広いといっても庭であり、植込みが繁っているといっても、たかが庭の植込みであって、怪しい者など隠れていようものなら、すぐにも発見されなければならなかった。
 何者も隠れていなかったらしく、人々はポツポツと戻って来た。
 と、不意に人々の間から、絹を裂くような女の悲鳴が聞こえた。
 老女と一緒に来た腰元の中の一人、萩枝《はぎえ》という二十一の小肥りの女が、両手で空を掴みながら、クルリと体を回転し、そのまま地上へ転がったのである。
 狼狽して人々は飛び退いた。
 その人の垣に囲まれたまま、萩枝は地上を転がり廻り、胸を掻き髪を※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]り、
「苦しい! 麻痺《しびれ》る! ……助けて助けて!」と嗄《しゃが》れた声で叫んだが、見る見る顔から血の気が消え、やがて延びて動かなくなった。

 この日の宵のことであった。山岸|主税《ちから》は両国広小路の、例の曲独楽の定席小屋の、裏木戸口に佇んで、太夫元の勘兵衛という四十五六の男と、当惑しながら話していた。
「ではもうあやめ[#「あやめ」に傍点]は居ないというのか」
「へい、この小屋にはおりません」
「つまり席を退いたのだな」
「と云うことになりましょうね」
 どうにも云うことが曖昧であった。
 それに何とこの辺りは、暗くそうして寂しいことか。
 裏木戸に面した反対側は、小借長屋らしく思われたが、どうやら空店になっているらしく、ビッシリ雨戸がとざされていて、火影一筋洩れて来なかった。
 洞窟の穴かのように、長方形に空いている木戸口にも、燈《ひ》というものは点《つ》いていなかった。しかし、遥かの小屋の奥から、ぼんやり蝋燭の光が射して来ていて、眼の窪んだ、鼻の尖った、頬骨の立った悪相の持主の、勘兵衛という男を厭らしい存在として、照らし出してはいるのであった。
「昨日《きのう》まではこの小屋に出ていたはずだが、いつあやめ[#「あやめ」に傍点]は席を退いたのだ?」
 こう主税は又訊いた。
「退いたとも何とも申しちゃアいません。ただ彼女《あいつ》今日はいないので」
「一体あやめ[#「あやめ」に傍点]はどこに住んでいるのだ?」
「さあそいつ[#「そいつ」に傍点]は……そいつはどうも……それより一体|貴郎《あなた》様は、どうして何のために彼女を訪ねて、わざわざおいでなすったんで?」
 かえって怪訝そうに勘兵衛は訊いた。

   第三の犠牲

 主税《ちから》があやめ[#「あやめ」に傍点]を訪ねて来たのは、何と思って自分へ独楽をくれたのか? どうして猿廻しなどに身をやつしていたのか? その事情を訊こうと思ったからであった。
 昼の中に来るのが至当なのであったが、昼の中彼は屋敷へ籠って――お館へは病気を云い立てて休み――例の独楽を廻しに廻し、現われて来る文字を寄せ集め、秘密を知るべく努力した。
 しかし、結果は徒労《むだ》だった。
 というのは、その後に現われて来た文字は「に有りて」という四つの文字と「飛加藤の亜流」という訳のわからない、六つの文字に過ぎなかったからで……
 そこで彼は夕方駕籠を飛ばせて、ここへ訪ねて来たのであった。そうしてあやめ[#「あやめ」に傍点]に逢いたいと言った。
 すると勘兵衛という男が出て来て、極めて曖昧な言葉と態度で、あやめ[#「あやめ」に傍点]は居ないというのである。
「少し尋ねたい仔細《こと》があってな」
 主税はこっちでも曖昧味を現わし、
「それで訪ねて参ったのだが、居ないとあっては止むを得ぬの。どれ、それでは帰るとしようか」
「ま、旦那様ちょっとお待ちなすって」
 勘兵衛の方が周章《あわて》て止めた。
「実は彼女《あいつ》がいなくなったのであっし[#「あっし」に傍点]はすっかり参っていますので。何せ金箱でございますからな。へい大事な太夫なので。……それであっし[#「あっし」に傍点]も小屋の者も、大騒ぎをして探していますので」
「しかし宿所《やど》には居るのだろう?」
「それが貴郎様、居ないんで」
「宿所にもいない、ふうんそうか。一体宿所はどこなのだ?」
「へい、宿所は……さあ宿所は……神田辺りなのでございますが……それはどうでもよいとして、宿所にもいず小屋へも来ない。昨夜《ゆうべ》ポカンと消えてしまったんで」
「ふうん、昨夜消えてしまった。……猿廻しに身をやつし[#「やつし」に傍点]て消えてしまったのではあるまいかな」
「え、何だって? 猿廻しにだって?」
 勘兵衛はあっけにとられたように、
「旦那、そりゃア一体何のことで?」
(しまった)と主税は後悔した。
(云わでものことを口走ってしまった)
 主税は口を噤んで横をむいた。
「こいつア変だ! 変ですねえ旦那! ……旦那何か知ってますね!」と勘兵衛はにわかにかさ[#「かさ」に傍点]にかかり、
「あやめ[#「あやめ」に傍点]の阿魔《あま》が消えてしまった途端に、これまで縁のなかったお侍さんが、ヒョッコリ訪ねておいでなすって、根掘り葉掘りあやめ[#「あやめ」に傍点]のことをお訊きになる。その後で猿廻しに身をやつして[#「やつして」に傍点]なんて、変なことを仰せになる! ……旦那、お前さんあの阿魔を、あやめ[#「あやめ」に傍点]の阿魔をおびき[#「おびき」に傍点]出し……」
「黙れ!」と主税は一喝した。
「黙っておればこやつ無礼! 拙者を誘拐《かどわか》しか何かのように……」
「おお誘拐しだとも、誘拐しでなくて何だ! あやめの阿魔を誘拐して、彼女の持っている秘密を奪い、一儲けしようとするのだろう! ……が、そうならお気の毒だ! 彼女はそんな秘密などより、荏原《えばら》屋敷の奴原を……」
「荏原屋敷だと!? おおその荏原屋敷とは……」
「そうれ、そうれ、そうれどうだ! 荏原屋敷まで知っている汝《おのれ》、どうでも平記帳面の侍じゃアねえ! 食わせ者だア――食わせものだア――ッ……わーッ」
 と、これはどうしたことだろう。にわかに勘兵衛は悲鳴を上げ、両手で咽喉の辺りを掻き※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]ったかと思うと、前のめり[#「のめり」に傍点]にバッタリと地へ倒れた。
「どうした勘兵衛!」と主税は驚き、介抱しようとして屈み込んだ。
 その主税の眼の前の地上を、小蛇らしいものが一蜒りしたが、空店《あきだな》の雨戸の隙の方へ消えた。
 息絶えたらしい勘兵衛の体は、もう延びたまま動かなかった。
「どうしたどうした!」
「勘兵衛の声だったぞ」と小屋の中から人声がし、幾人かの人間がドヤドヤと、木戸口の方へ来るらしかった。
(巻添えを食ってはたまらない)
 こう思った主税が身を飜えして、この露路から走り出したのは、それから間もなくのことであった。

   白刃に囲まれて

 この時代《ころ》のお茶の水といえば、樹木と藪地と渓谷《たに》と川とで、形成《かたちづく》られた別天地で、都会の中の森林地帯であった。
 昼間こそ人々は往《ゆ》き来したが、夜になるとほとんどだれも通らず、ただひたすら先を急いで迂回することをいとう人ばかりが、恐々《こわごわ》ながらもこの境地《とち》を、走るようにしてとおるばかりであった。
 そのお茶の水の森林地帯へ、山岸主税が通りかかったのは、亥《い》の刻を過ごした頃であった。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]が行方不明となった、勘兵衛という太夫元が、何者かに頓死させられた、この二つの意外な事件によって、さすがの彼も心を痛め、この時まであてなく江戸の市中を、さまよい歩いていたのであった。
(荏原屋敷とは何だろう?)
 このことが彼の気になっていた。
 独楽の隠語の中にもこの字があった。勘兵衛という男もこの言葉を云った。そうしてあやめという曲独楽使いも、この屋敷に関係があるらしい。
(荏原郡《えばらごおり》の馬込の郷に、そういう屋敷があるということは、以前チラリと耳にはしたが)
 しかし、それとて非常に古い屋敷――大昔から一貫した正しい血統を伝えたところの、珍らしい旧家だということばかりを、人づてに聞いたばかりであった。
(がしかしこうなってみれば、その屋敷の何物かを調べてみよう)
 主税はそんなように考えた。
 独楽のことも勿論気にかかっていた。
 ――どれほどあの独楽を廻してみたところで、これまでに現われた隠語以外に、新しい隠語が現われそうにもない。そうしてこれまでの隠語だけでは、何の秘密をも知ることは出来ない。どうやらこれは隠語を隠した独楽は、あれ以外にも幾個《いくつ》かあるらしく、それらの独楽を悉皆《みんな》集めて全部《すっかり》の隠語を知った時、はじめて秘密が解けるものらしい。
(とすると大変な仕事だわい)
 そう思わざるを得なかった。
 しかし何より主税の心を、憂鬱に抑えているものは、頻々とあるお館の盗難と、猿廻しに変装したあやめ[#「あやめ」に傍点]とが、密接の関係にあることで、今日あやめを小屋へ訪ねたのも、その真相を探ろうためなのであった。
(猿廻しから得た独楽と隠語と、お館の中に内通者ありという、自分の意見とを松浦殿へ、今朝方早く差し上げたが、その結果女の内通者が、お館の中で見付かったかしら?)
 考えながら主税は歩いて行った。
 腐ちた大木が倒れていたり、水溜りに月光が映っていたり、藪の陰から狐らしい獣が、突然走り出て道を遮ったりした。
 不意に女の声が聞こえた。
「あぶない! 気をおつけ! 背後《うしろ》から!」
 瞬間に主税は地へ仆れた。
「あッ」
 その主税の体へ躓《つまず》[#「《つまず》」は底本では「《つまづ》」]き、背後から切り込んで来た一人の武士が、こう叫んで主税のからだ越しにドッとばかりに向こうへ仆れた。
 疾風迅雷も物かわと、二人目の武士が左横から、なお仆れている主税を目掛け、拝み討ちに切り付けた。
「わ、わ、わ、わ――ッ」とその武士は喚いた。脇腹から血を吹き出しているのが、木洩れの月光に黒く見えた。
 その武士が足を空ざまにして、丸太ん棒のように仆れた時には、とうに飛び起き、飛び起きざまに引き抜き、引き抜いた瞬間には敵を斬っていた、小野派一刀流では無双の使い手の、山岸主税は返り血を浴びずに、そこに聳えていた大楠木の幹を、背負うようにして立っていた。
 が、それにしても何と大勢の武士に、主税は取巻かれていることか!
 数間を距てて十数人の人影が、抜身をギラギラ光らせながら、静まり返っているではないか。
(何物だろう?)と主税は思った。
 しかし、問さえ発っせられなかった。
 前から二人、左右から一人ずつ、四人の武士が殺到して来た。
(死中活!)
 主税は躍り出で、前の一人の真向を割り、返す刀で右から来た一人の、肩を胸まで斬り下げた。
 とは云え、その次の瞬間には、主税は二本の白刃の下に、身をさらさざるを得なかった。
 しかし、辛うじてひとりの武士の、真向へ来た刀を巻き落とした。
 でも、もう一人の武士の刀を、左肩に受けなければならなかった。
(やられた!)
 しかし何たる奇跡か! その武士は刀をポタリと落とし、その手が首の辺りを掻きむしり、前のめりにドッと地上へ倒れた。
 勘兵衛の死に態と同じであった。
 その時であった側《そば》の大藪の陰から、女の声が聞こえてきた。
「助太刀してあげてよ、ね、助太刀して!」
「参るぞーッ」という怒りの大音が、その時女の声を蔽うたが、一人の武士が大鷲さながらに、主税を目掛けて襲いかかった。
 悄然たる太刀音がし、二本の刀が鍔迫り合いとなり、交叉された二本の白刃が、粘りをもって右に左に前に後ろに捻じ合った。
 主税は刀の間から、相手の顔を凝視した。
 両国橋で逢った浪人武士であった。

   解けた独楽の秘密

「やあ汝《おのれ》は!」と主税は叫んだ。
「両国橋で逢った浪人者!」
「そうよ」と浪人も即座に答えた。
「貴殿が手に入れた淀屋の独楽を、譲り受けようと掛け合った者よ。……隠すにもあたらぬ宣《なの》ってやろう、浪速《なにわ》の浪人|飛田林覚兵衛《とんだばやしかくべえ》! ……さてその時拙者は申した、貴殿の命を殺《あや》めても、淀屋の独楽を拙者が取ると! ……その期が今こそめぐって来たのじゃ!」
「淀屋の独楽とは? 淀屋の独楽とは?」
「どうせ汝《おのれ》は死んで行く奴、秘密を教えても大事あるまい、そこで秘密を教えてやる。……浪速の豪商淀屋辰五郎、百万にも余る巨富を積み、栄耀栄華を極めたが、元禄年間|官《かみ》のお咎めを受け、家財一切を没収されたこと、汝といえども伝え聞いていよう。……しかるに辰五郎、事の起こる前、ひそかに家財の大半を分け、絶対秘密の場所へ隠し、その隠し場所を三個《みっつ》の独楽へ……とここまで申したら、万事推量出来るであろう。……汝が手に入れたあの独楽こそ、淀屋の独楽の一つなのじゃ。……今後汝によって三つの独楽を、それからそれと手に入れられ、独楽に記されてある隠語を解かれ、淀屋の巨財の隠し場所を知られ、巨財を汝に探し出されては、長年その独楽の行方を尋ね、淀屋の巨財を手に入れようと、苦心いたしおる我らにとっては、一大事とも一大事! そこで汝をこの場において殺し、汝の屋敷に潜入し、独楽をこっちへ奪い取るのだ!」
 二本の刀を交叉させ、鍔と鍔とを迫り合わせ、顔と顔とをひた[#「ひた」に傍点]と付けながら、覚兵衛はそう云うとグーッと押した。
 それをやんわり[#「やんわり」に傍点]と受けながら、主税は二歩ばかり後へ下った。
 すると今度は山岸主税が、押手に出でてジリジリ[#「ジリジリ」は底本では「ヂリヂリ」]と進んだ。
 二人の眼と眼とは暗い中で、さながら燠のように燃えている。
 鍔迫り合いの危険さは、体の放れる一刹那にあった。遅れれば斬られ、逸《はや》まれば突かれる。さりとて焦躁《あせ》れば息切れを起こして、結局斃されてしまうのであった。
 いぜんとして二人は迫り合っている。
 そういう二人を中へ囲んで、飛田林覚兵衛の一味の者は、抜身を構え位い取りをし、隙があったら躍り込み、主税を討って取ろうものと、気息を呑んで機を待っていた。
 と、あらかじめの計画だったらしい、
「やれ」と大音に叫ぶと共に、覚兵衛は烈しい体あたり[#「あたり」に傍点]をくれ、くれると同時に引く水のように、サーッと自身後へ引き、すぐに飜然と横へ飛んだ。
 主税は体あたりをあてられて、思わずタジタジと後へ下ったが、踏み止まろうとした一瞬間に、相手に後へ引かれたため、体が延び足が進み、あたかも覚兵衛を追うかのように、覚兵衛の一味の屯している中へ、一文字に突き入った。
「しめた!」
「斬れ!」
「火に入る夏の虫!」
「わッはッはッ、斬れ、斬れ、斬れ!」
 嘲笑《あざけり》、罵声《ののしり》、憎悪《にくしみ》の声の中に、縦横に上下に走る稲妻! それかのように十数本の白刃が、主税の周囲《まわり》で閃いた。
 二声ばかり悲鳴が起こった。
 バラバラと囲みが解けて散った。
 乱れた髪、乱れた衣裳、敵の返り血を浴びて紅斑々! そういう姿の山岸主税は、血刀高々と頭上に捧げ、樫の木かのように立っている。
 が、彼の足許には、死骸が二つころがっていた。
 一人を取り囲んで十数人が、斬ろう突こうとしたところで、味方同士が邪魔となって、斬ることも突くことも出来ないものである。
 そこを狙って敵二人まで、主税は討って取ったらしい。
 地団太踏んで口惜しがったのは、飛田林覚兵衛であった。
「云い甲斐ない方々!」と杉の老木が、桶ほどの太さに立っている、その根元に突立ちながら、
「相手は一人、鬼神であろうと、討って取るに何の手間暇! ……もう一度引っつつんで斬り立てなされ! ……見られい彼奴《きゃつ》め心身疲れ、人心地とてない有様! 今が機会じゃ、ソレ斬り立てられい!」
 覚兵衛の言葉は事実であった。
 先刻《さっき》よりの乱闘に肉体《からだ》も精神《こころ》も疲労《つかれ》果てたらしい山岸主税は、立ってはいたが右へ左へ、ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロとよろめいて、今にも仆れそうに見受けられた。

   愛する人を

「そうだ!」「やれ!」と覚兵衛の一味が、さながら逆浪の寄せるように、主税《ちから》を目掛けて寄せた時、遥かあなたの木間から、薄赤い一点の火の光が、鬼火のように不意に現われて、こなたへユラユラと寄って来た。
「南無三宝! 方々待たれい! 火の光が見える、何者か来る! 目つけられては一大事! 残念ながら一まず引こう! 味方の死人|負傷者《ておい》を片付け、退散々々方々退散」と杉の根元にいる覚兵衛が、狼狽した声でそう叫んだ。
 いかにも訓練が行き届いていた。その声に応じて十数人の、飛田林覚兵衛の一味達は、仆れている死人や負傷者を抱え、林を分け藪を巡り、いずこへともなく走り去った。
 で、その後には気味の悪いような、静寂《しずけさ》ばかりがこの境地に残った。
 常磐木《ときわぎ》――杉や松や柏や、榎、桧などの間に立ち雑って、仄白い花を咲かせていた桜の花がひとしきり、花弁《はなびら》を瀧のように零したのは、逃げて行く際に覚兵衛の一味が、それらの木々にぶつかっ[#「ぶつかっ」に傍点]たからであろう。
 と、俄然主税の体が、刀をしっかりと握ったまま腐木《くちき》のように地に仆れた。斬られて死んで斃れたのではなかった。
 心身まったく疲労《つかれ》果て、気絶をして仆れたのである。
 そういう主税の仆れている体へ、降りかかっているのは落花であり、そういう主税の方へ寄って来るのは薄赤い燈の光であった。
 そうして薄赤いその燈の光は、昨夜御用地の林の中で、老人と少年と女猿廻しとが、かかげていたところの龕燈の火と、全く同じ光であった。その龕燈の燈が近づいて来る。ではあの老人と少年と、女猿廻しとがその燈と共に、近付いて来るものと解さなければならない。
 でもにわかにその龕燈の燈は、大藪の辺りから横に逸れ、やがて大藪の陰へかくれ、ふたたび姿を現わさなかった。
 そこで又この境地はひっそりとなり、鋭い切先の一所を、ギラギラ月光に光らせた抜身を、いまだにしっかり握っている主税が、干鱈のように仆れているばかりであった。
 時がだんだんに経って行った。
 やがて、主税は気絶から覚めた。
 誰か自分を呼んでいるようである。
 そうして、自分の後脳の下に、暖かい柔らかい枕があった。
 主税はぼんやり眼を開けて見た。
 自分の顔のすぐの真上に、自分の顔へ蔽いかぶさるように、星のような眼と、高い鼻と、薄くはあるが大型の口と、そういう道具の女の顔が、周囲《まわり》を黒の楕円形で仕切って、浮いているのが見て取られた。
 お高祖頭巾で顔を包んだ、浪速《なにわ》あやめ[#「あやめ」に傍点]の顔であった。
(あやめ[#「あやめ」に傍点]がどうしてこんな所に?)
 気力は恢復してはいなかったが、意識は返っていた主税はこう思って、口に出してそれを云おうとした。
 でも言葉は出せなかった。それ程に衰弱しているのであった。眼を開けていることも出来なくなった。そこで彼は眼を閉じた。
 そう、主税に膝枕をさせ、介抱している女はあやめ[#「あやめ」に傍点]であった。鼠小紋の小袖に小柳繻子の帯、紫の半襟というその風俗は、女太夫というよりも、町家の若女房という風であり、お高祖頭巾で顔を包んでいるので、謎を持った秘密の女めいても見えた。
「山岸様、山岸主税様! お気が付かれたそうな、まア嬉しい! 山岸様々々々!」とあやめはいかにも嬉しそうに、自分の顔を主税の顔へ近づけ、情熱的の声で云った。
「それに致しましても何て妾《わたし》は、申し訳のないこといたしましたことか! どうぞお許しなすって下さいまし。……ほんの妾の悪戯《いたずら》[#「《いたずら》」は底本では「《いたづら》」]心から、差しあげた独楽が原因となって、こんな恐ろしいことになるなんて。……それはあの独楽には何か秘密が、――深い秘密のあるということは、妾にも感づいてはおりましたが、でもそのためにあなた様へ、あの独楽を上げたのではごさいません。……ほんの妾の出来心から。……それもあなた様がお可愛らしかったから。……まあ厭な、なんて妾は……」
 これがもし昼間であろうものなら、彼女の頬に赤味が注し、恥らいでその眼が潤んだことを、見てとることが出来たであろう。

   勘兵衛や武士を殺した者は?

 あやめがあの独楽を手に入れたのは、浪速高津《なにわこうず》の古物商からであった。それも孕独楽《はらみごま》一揃いとして、普通に買入れたのに過ぎなかった。その親独楽も十個の子独楽も、名工四国太夫の製作にかかわる、名品であるということは、彼女にもよく解《わか》っていた。そうして子独楽の中の一個《ひとつ》だけが、廻すとその面へ文字を現わすことをも彼女はよく解っていた。
 すると、或日一人の武士が、飛田林覚兵衛《とんだばやしかくべえ》と宣《なの》りながら、彼女の許へ訪ねて来て、孕独楽を譲ってくれるようにと云った。しかしあやめは商売道具だから、独楽は譲れないと断った。すると覚兵衛は子独楽の一つ、文字を現わす子独楽を譲ってくれるようにと云い、莫大な金高を切り出した。それであやめ[#「あやめ」に傍点]はその子独楽が、尋常の品でないことを知った。それにその子独楽一つだけを譲れば、孕独楽は後家独楽になってしまう。そこであやめ[#「あやめ」に傍点]は断った。
 しかし、覚兵衛は断念しないで、その後もあやめを付け廻し、或いは嚇し或いは透かして、その子独楽を手中に入れようとした。それがあやめの疳に障り、感情的にその子独楽を、覚兵衛には譲るまいと決心した。と同時にその子独楽が、あやめ[#「あやめ」に傍点]には荷厄介の物に思われて来た。その中あやめ[#「あやめ」に傍点]は縁があって、江戸の両国へ出ることになった。
 そこで浪速から江戸へ来た。するとどうだろう飛田林覚兵衛も、江戸へ追っかけて来たではないか。
 こうして昨日《きのう》の昼席となった。
 舞台で孕独楽を使っていると、間近の桟敷で美貌の若武士が――すなわち山岸主税なのであるが、熱心に芸当を見物していた。ところが同じその桟敷に、飛田林覚兵衛もいて、いかにも子独楽が欲しそうに、眼を据えて見物していた。
(可愛らしいお方)と主税に対しては思い、(小面憎い奴)と覚兵衛に対しては感じ、この二つの心持から、あやめ[#「あやめ」に傍点]は悪戯《いたずら》[#「《いたずら》」は底本では「《いたづら》」]をしてしまったのである。即ち舞台から例の小独楽を、見事に覚兵衛の眼を掠め、主税の袖の中へ投げ込んだのである。
(孕独楽が後家独楽になろうとままよ、妾《わたし》にはあんな子独楽用はない。……これで本当にサバサバしてしまった)
 あやめ[#「あやめ」に傍点]はそう思ったことであった。
 そうして彼女は今日の昼席から、定席へも出演《で》ないことに決心し、宿所《やど》をさえ出て行方を眩ましてしまった。それは彼女にとっては一生の大事業を、決行することに心を定め、その準備に取りかかったからであった。
 でも彼女は夕方になった時、職場が恋しくなって来た。そこでこっそり出かけて行った。ところが裏木戸の辺りまで行って見ると、太夫元の勘兵衛と山岸主税とが、自分のことについて話しているではないか。そこで、彼女は側《そば》の空店《あきだな》の中へ、素早く入って身を忍ばせ、二人の話を立聞きした。その中に勘兵衛が無礼の仕打ちを、主税に対してとろうとした。
(どうで勘兵衛は遅かれ早かれ、妾が手にかけて殺さなければ、虫の納まらない奴なのだから、いっそ此処で殺してしまおう)
 あやめは心をそう定めた。
 で、手練の独楽の紐を――麻と絹糸と女の髪の毛とで、蛇のように強い弾力性を持たせて、独特に作った独楽の紐を、雨戸の隙から繰り出して、勘兵衛の首へ巻き付けて、締めて他愛なく殺してしまった。
(これで妾の一生の大事業の、一つだけを片付けたというものさ)
 もっと苦しめて殺してやれなかったことに、心外さこそは覚えたが、殺したことには満足を感じ、彼女は紐を手繰り寄せ、懐中《ふところ》へ納めて様子をうかがった。
 すると小屋から人が出て来るらしく、主税が急いで立ち去った。
 そこであやめも空店から走り出し、主税の後を追っかけた。
 主税が自分を両国広小路の、独楽の定席へ訪ねて来たのは、自分が主税の袖へ投げ込んだ独楽の、秘密を聞きたかったに相違ないと、そうあやめ[#「あやめ」に傍点]は思ったので、主税に逢ってそれを話そうと、さてこそ主税を追っかけたのであったが、愛を感じている相手だっただけに、突然近付いて話しかけることが、彼女のような女にも面伏せであり、そこでただ彼女は主税の行く方へ、後から従いて行くばかりであった。そのあげく、お茶の水のここへ来た。その結果がこの有様となった。
「山岸様!」とあやめは呼んで、膝の上に乗っている主税の顔へ、また自分の顔を近付けて行った。
「大藪の中から紐を繰り出し、お侍さんの一人を絞め殺しましたのは、このあやめ[#「あやめ」に傍点]でございます。……わたしの差し上げた独楽のことから、このような大難にお逢いなされ、あなた様にはさぞこのあやめ[#「あやめ」に傍点]が、憎い女に思われるでございましょうが、あなた様のお為に人間一人を、締め殺しましたことにお免じ下され、どうぞお許しなすって下さいまし」

   教団の祖師

 でも主税は返辞をしなかった。
 ますます衰弱が激しくなり、又神気が朦朧となり、返辞をすることが出来ないからであった。
(このお方死ぬのではあるまいか?)
 こう思うと彼女は悲しかった。
(実家《いえ》を出て十年にもなる。流浪から流浪、艱難から艱難、いろいろのお方とも出入りを重ねたが、真底から可愛《いと》しいと思われたのは、偶然にお逢いしたこの方ばかり。……それだのにこのお方死なれるのかしら?)
 月の位置が移ったからであろう。梢から射していた月光が、円い巨大な柱のように、あやめ[#「あやめ」に傍点]と主税との二人の体の上へ、蛍草の色に降りて来ていた。その明るい光の輪の中では、産れて間もないらしい細い羽虫が、塵のように飛び交っていた。そうして明るい光の輪の底には、白芙蓉のように蒼白い、彫刻のように端正の、主税の顔が弱々しく、眼を閉じ口を閉じて沈んでいた。
(こうしてはいられない)
 にわかにあやめ[#「あやめ」に傍点]は気がついて思った。
(町へ行って駕籠を雇って、主税様をお屋敷へお送りしなければ)
 そこで、あやめ[#「あやめ」に傍点]は立ち上った。

 この時から半刻《はんとき》ばかり経った時、龕燈の光で往来《みち》を照らしながら、老人と少年と女猿廻しとが、秋山様通りの辺りを通っていた。昨夜《ゆうべ》御用地の林の中にいた、その一組に相違なかった。
 お屋敷町のこの辺りは、この時刻には人通りがなく、犬さえ歩いてはいなかった。武家屋敷の武者窓もとざされていて、戸外《そと》を覗いている人の顔など、一つとして見えてはいなかった。で、左右を海鼠《なまこ》壁によって、高く仕切られているこの往来《とおり》には、真珠色の春の夜の靄と、それを淹《こ》して射している月光とが、しめやかに充ちているばかりであった。
 伊賀袴を穿いた美少年が、手に持っている龕燈で、時々海鼠壁を照らしたりした。と、その都度壁の面へ、薄赤い光の輪が出来た。
 龕燈を持った美少年を先に立て、その後から老人と女猿廻しとが、肩を並べて歩いて行くのであった。
「ねえお爺様……」と女猿廻しは云って、編笠は取って腰へ付け、星のような眼の、高い鼻の、薄くはあるが大型の口の、そういう顔を少し上向け、老人を仰ぎながら審かしそうに続けた。
「なぜたかが一本ばかりの木を、三十年も護《まも》って育てましたの?」
「それはわしにも解《わか》らないのだよ」
 袖無を着、伊賀袴を穿き、自然木の杖を突いた老人は、卯の花のように白い長い髪を、肩の辺りでユサユサ揺りながら、威厳はあるが優しい声で云った。
「なぜたかが一本ばかりのそんな木を、三十年もの間育てたかと、そういう疑いを抱くことよりそんなたかが一本ばかりの木を、迷わず怠らず粗末にせず、三十年もの間護り育てた、そのお方の根気と誠心《まごころ》と、敬虔な心持に感心して、そのお方のお話を承わろうと、そう思った方がいいようだよ」
「ええそれはそうかもしれませんけれど。……で、その木は何の木ですの?」
「榊《さかき》の木だということだが、松であろうと杉であろうと、柳であろうと柏の木であろうと、そんなことはどうでもよいのだよ」
「それでたくさんのいろいろの人が、そのお方の所に伺って、お教えを乞うたと仰有《おっしゃ》るのね?」
「そうなのだよ、そうなのだよ。そんなに根気のよい、そんなに誠心の敬虔のお心を持ったお方なら、私達の持っている心の病気や、体の病気を癒して下されて、幸福な身の上にして下さるかもしれないと、悩みを持ったたくさんの人達が、そのお方の所へ伺って、自分たちの悩みを訴えたのだよ」
「するとそのお方がその人達の悩みを、みんな除去《とりさ》って下すったのね」
「解り易い言葉でお説きなされて、心の病気と体の病気を、みんな除去って下されたのだよ」
「それでだんだん信者が増えて、大きな教団になったと仰有る[#「仰有る」は底本では「有仰る」]のね」
「そうなのだよ。そうなのだよ」
「そのお方どんなお方ですの?」
「わしのような老人なのだよ」
「そのお方の名、何て仰有る[#「仰有る」は底本では「有仰る」]の?」
「信者は祖師《そし》様と呼んでいるよ。……でも反対派の人達は『飛加藤《とびかとう》の亜流』だと云っているよ」
「飛加藤? 飛加藤とは?」
「戦国時代に現われた、心の邪な忍術使いでな、衆人《みんな》の前で牛を呑んで見せたり、観世縒で人間や牛馬を作って、それを生かして耕作させたり、一丈の晒布《さらし》に身を変じて、大名屋敷へ忍び込んだり、上杉謙信の寝所へ忍び、大切な宝刀を盗んだりした、始末の悪い人間なのだよ」

   植木師の一隊

「どうしてお偉いお祖師様のことを、飛加藤の亜流などというのでしょう?」
「祖師様のなさるいろいろの業が、忍術使いのまやかし[#「まやかし」に傍点]の業のように、人達の眼に見えるからだよ」
「お爺さん、あなたもそのお祖師様の、信者のお一人なのでごさいますのね」
「ああそうだよ、信者の一人なのだよ」
「お爺さんのお名前、何て仰有《おっしゃ》る[#「仰有《おっしゃ》る」は底本では「有仰《おっしゃ》る」]の?」
「世間の人はわしの事を、飛加藤の亜流だと云っているよ」
「ではもしやお爺さんが、そのお偉いお祖師様では?」
 しかし老人は返辞をしないで、優しい意味の深い微笑をした。
 三人は先へ進んで行った。
 背中の猿は眠ったと見えて、重さが少し加わって来た。それを女猿廻しは揺り上げながら、
(実家《いえ》を出て十年にもなる。流浪から流浪、艱難から艱難、いろいろのお方とも出入りを重ねたが真底から偉いと思ったお方は、このご老人の他にはない。このお方がきっとお祖師様なのだよ)
(でも妾《わたし》は一生の大事業の、その小口に取りかかったのに、こんなお爺さんと連立って、こんなお話をして歩くなんて、よいことだろうか悪いことだろうか?)
 こうも彼女には思われるのであった。
 三人は先へ進んで行った。
 やがて、四辻の交叉点へ出た。
 それを左の方へ曲がりかけた時、右手の方から一隊の人数が、粛々とこっちへ歩いて来た。
 根元の辺りを菰《こも》で包んだ、松だの柏だの桜だの梅だの、柳だの桧だのの無数の植木を、十台の大八車へ舁《か》き乗せて、それを曳いたりそれを押したり、また左右に付添ったりして、四十人ほどの植木師らしい男が、こっちへ歩いて来るのであった。深夜だから音を立てまいとしてか、車の輪は布で巻かれていた。植木師の風俗も変わっていた。岡山頭巾で顔をつつみ、半纏の代わりに黒の短羽織《みじかばおり》を着、股引の代わりに裁着《たっつけ》を穿《は》き、そうして腰に一本ずつ[#「一本ずつ」は底本では「一本づつ」]、短い刀を差していた。
 車の上の植木はいずれも高価な、立派な品らしく見受けられたが、往来《みち》の左右の海鼠壁よりも高く、月夜の空の方へ葉や枝を延ばし、車の揺れるに従って、それをユサユサと揺する様子は、林が歩いてでも来るようであった。
 その一隊が三人の前まで来た時、手を左右に振りながら、警戒するように『叱《しっ》!』と云った。近寄るなとでも云っているようであった。
「叱!」「叱!」と口々に云った。
 一隊は二人の前を通り過ぎようとした。
 すると、この辺りの屋敷へ呼ばれ、療治を済ませて帰るらしい、一人の按摩が向う側の辻から、杖を突きながら現われたが、その一隊の中へうっかりと入った。
「叱《しっ》!」「叱《しっ》!」という例の声が、植木師の声などとは思われないような、威嚇的の調子をもって、一際高く響きわたり、ふいに行列が立ち止まった。
 数人の植木師が走って来て、一所へ集まって囁き合い、ひとしきりそこに混乱が起こった。
 がすぐに混乱は治まって、一隊は粛々と動き出し、林は先へ進んで行った。しかし見れば往来《みち》の一所に、黒い大きな斑点が出来ていた。
 按摩の死骸が転がっているのである。
「お爺さん!」と恐ろしさに女猿廻しは叫んで、老人の腕に縋りついた。それを老人は抱えるようにしたが、
「障《さ》わったからじゃ。……殺されたのじゃ」
「何に、お爺さん、何に障わったから?」
「木へ! そう、一本の木へ!」
 それから老人は歩き出した。三人はしばらく沈黙して歩いた。道がまた辻になっていた。
 それを右へ曲がった時、屋敷勤めの仲間らしい男が、仰向けに道に仆れているのが見えた。
 その男も死んでいた。
「お爺さん、またここにも!」
「障わったからじゃ。殺されたのじゃ」
「お爺さん、お爺さん、あなたのお力で……」
「あの木で殺された人間ばかりは、わしの力でもどうにもならない」
 悪魔の一隊は今も近くの、裏通りあたりを通っていると見え、そうして又も人を殺したと見え、
「叱!」「叱!」という混乱した声が、三人の耳へ聞こえてきた。

   美しき囚人

 同じこの夜のことであった。
 田安家の大奥の一室に、座敷牢が出来ていて、腰元風の若い女と、奥家老の松浦頼母とが、向かい合って坐っていた。
「八重《やえ》、其方《そち》は強情だのう」
 眼袋の出来ている尻下りの眼へ、野獣的の光を湛え、酷薄らしい薄い唇を、なめずるように舌で濡らしながら、頼母はネットリとお八重へ云った。
「将軍家《うえさま》より頂戴した器類を、館より次々に盗み出したことは、潔よく其方も白状したではないか。では何者に頼まれて、そのようなだいそれ[#「だいそれ」に傍点]た悪事をしたか、これもついで[#「ついで」に傍点]に云ってしまうがよい。……其方がどのようにシラを切ったところで、其方一人の考えから、そのような悪事を企てたものとは、誰一人として思うものはないのだからのう」
 云うことは田安家の奥家老として、もっとも千万のことであり、問い方も厳しくはあったけれど、しかし頼母の声や態度の中には、不純な夾雑物《まじりもの》が入っていて、ひどく厭らしさを感じさせるのであった。
「ご家老様」とお八重は云って、白百合のように垂れていた頸を、物憂そうに重々しく上げた。
「ご家老様へお尋ねいたしまするが、貴郎《あなた》様がもしもお館様より、これこれのことを致して参れと、ご命令をお受け遊ばされて、ご使命を執り行ない居られます途中で、相手の方に見現わされました際、貴郎様にはお館様のお名を、口にお出しなさるでございましょうか?」
「なにを馬鹿な、そのようなこと、わしは云わぬの、決して云わぬ」
「八重も申しはいたしませぬ」
「…………」
 頼母は無言で眉をひそめたが、やがてその眉をのんびりさせると、大胆な美しいお八重の姿を、寧ろ感心したように眺めやった。
 まことお八重は美しかった。年は二十二三でもあろうか、細々とした長目の頸は、象牙のように白く滑かであり、重く崩れて落ちそうな程にも、たくさんの髪の島田髷は、鬘かのように艶やかであった。張の強い涼しい眼、三ヶ月形の優しい眉、高くはあるがふっくりとした鼻、それが純粋の処女の気を帯びて、瓜実形の輪郭の顔に、綺麗に調和よく蒔かれている。
 小造りの体に纏っている衣裳は、紫の矢飛白《やがすり》の振袖で、帯は立矢の字に結ばれていた。
 そういう彼女が牢格子の中の、薄縁を敷いた上に膝を揃えて、端然として坐っている姿は「美しい悲惨」そのものであった。牢の中は薄明るかった。というのは格子の外側に、頼母が提げて来たらしい、網行燈が置いてあって、それから射している幽かな光が、格子の間々から射し入って、明暗を作っているからであった。
「見上げたの、見上げたものじゃ」
 ややあってから松浦頼母は、感心したような声で云った。
「武家に仕える女の身として、そういう覚悟は感心なものじゃ。……使命を仕損じた暁には、たとえ殺されても主人の名は云わぬ! なるほどな、感心なものじゃ」
 しかし、何となくその云い方には、おだてる[#「おだてる」に傍点]ような所があった。そうしてやはり不純なものが、声の中に含まれていた。
「天晴《あっぱ》れ女丈夫と云ってもよい。……処刑するには惜しい烈婦じゃ。……とはいえ、お館の掟としてはのう」
 網行燈の光に照らされ、猪首からかけて右反面が、薄|瑪瑙《めのう》色にパッと明るく、左反面は暗かったが、明るい方の眼をギラリと光らせ、頼母はにわかに怯かすように云った。
「いよいよ白状いたさぬとあれば、明日|其方《そち》を打ち首にせよとの、お館様よりのお沙汰なのだぞよ!」

   お八重と女猿廻し

 しかしお八重は「覚悟の前です」と、そういってでもいるかのように、髪の毛一筋動かさなかった。ただ柘榴《ざくろ》の蕾のような唇を、心持噛んだばかりであった。
(どうしてこんなことになったのだろう?)と彼女は心ひそかに思った。
 お八重は今から二年ほど前に、奥方様附の腰元として、雇い入れられた女なのであるが、今日の昼間奥方様に呼ばれ、奥方様のお部屋へ行った。すると奥方様は彼女に向かい、百までの数字を書いてごらんと云われた。不思議なことと思いながら、云われるままに彼女は書いた。彼女は部屋へ戻ってから、そのようにして数字を書かされた者が、自分一人ではなくて大奥全体の女が、同じように書かされたということを聞いて、少しばかり不安に思った。
 すると、間もなく奥方様のお部屋へ、また彼女は呼び出された。行ってみると何とその部屋には、奥家老の松浦頼母がいて、一葉の紙片を突き出した。昨夜女猿廻しのお葉《よう》へ、独楽のなかへ封じ入れて投げて与えた、自分からの隠語の紙片であった。ハ――ッとお八重は溜息を吐いた。
 頼母の訊問は烈しかった。
「隠語の文字と其方《そち》の文字、同一のものと思われる、其方この隠語を書いたであろう?」
「書きましてござります」
「お館の外の何者かと謀《はか》り、お館の器類を、数々盗んで持ち出したであろう?」
「お言葉通りにござります」
「これほどの大事を女の身一つで、行なったものとは思われぬ、何者に頼まれてこのようなことをしたか?」
「わたくしの利慾からにござります。決して誰人《どなた》にも頼まれましたのではなく……」
「黙れ、浅はかな、隠し立ていたすか! 尋常な品物であろうことか、代々の将軍家より賜わった、当家にとっては至極の宝物ばかりを、選りに選って盗んだは、単なる女の利慾からではない。頼んだ者があるはずじゃ、何者が頼んだか名を明かせ!」
 しかしお八重は口を噤《つぐ》んで、それについては一言も答えなかった。すると頼母は訊問を転じ、
「お館の外の共謀者、何者であるか素性を申せ!」
「申し上げることなりませぬ」
 この訊問に対しても、お八重は答えを拒んだのであった。
 そこで、お八重は座敷牢へ入れられた。
 すると、このような深夜になってから、頼母一人がやって来て、また訊問にとりかかったのであった。
(どうしてこんなことになったのだろう?)
(どうして秘密の隠語の紙が、ご家老様の手へなど渡ったのだろう?)
 これが不思議でならなかった。
(女猿廻しのあのお葉が、では頼母様の手に捕らえられたのでは?)
 お葉と宣《なの》っている女猿廻しは、お八重にとってはよい加担者であった。でもお葉を加担者に引き入れたのは、全く偶然のことからであった。――ある日お八重はお長屋の方へ、用を達すために何気なく行った。すると女の猿廻しが、お長屋で猿を廻していた。あんまりその様子が可愛かったので、多分の鳥目を猿廻しにくれた。これが縁の始まりで、その後しばしば女猿廻しとお八重は、あちこちのお長屋で逢って話した。その間にお八重はその女猿廻しが、聡明で大胆だということと、再々田安家のお長屋へ来て、猿を廻して稼ぐのは、単なる生活《くらし》のためではなく、何らか田安家そのものに対して、企らむところがあってのことらしいと、そういうことを見て取った。そこでお八重は女猿廻しを呼んで、自分の大事を打ち明けた。
「妾《わたし》は田安家の奥方様附の、腰元には相違ないけれど、その実は田安家に秘蔵されている、ある大切な器物を、盗み出すためにあるお方より、入り込ませられた者なのです。もっともその品を盗み出す以前《まえ》に、その他のいろいろの器物を、盗み出すのではありますけれど。……ついては其方《そなた》妾の加担者となって、盗んだ器物を機会を見て、妾から其方へ渡しますゆえ、其方その品を何処へなりと、秘密に隠しては下さるまいか。……是非にお頼みいたします。事成就の暁には、褒美は何なりと差し上げます」
 こう大事を打ち明けた。すると女猿廻しは考えこんだが、
「田安様の品物が盗まれました際、その責任は田安様の、誰人《どなた》に行くのでございましょうか?」と訊いた。
「それはまァ奥家老の松浦様へ」
「松浦へ! おお松浦頼母へ! ……では妾《わたし》あなた様の、加担者になるでございましょう! ……そうしてあの松浦頼母めを、切腹になと召し放しになと!」と女猿廻しは力を籠めて云った。
 それでお八重は女猿廻しのお葉が、何かの理由で松浦頼母に、深い怨みを抱いていることを、いち早く見て取ったが、しかしお葉がどういう理由《わけ》から、松浦頼母に怨みを抱くかを、押して訊こうとはしなかった。

   二つ目の独楽

 とにかくこうして二人の女は、それ以来一味となり、お八重から渡す隠語を手蔓《つて》に、時と場所とを示し合わせ、お八重の盗み出す田安家の器物を、女猿廻しのお葉は受け取り、秘密の場所へ人知れず隠し、今日に及んで来たのであった。
(隠語の紙片が頼母様の手へ入った! ではお葉も頼母様のお手に、引っとらえられたのではあるまいか?)
 これがお八重の現在の不安であった。
(いやいや決してそんなことはない!)
 お八重はやがて打ち消した。
(でも隠語を認めた紙片が、頼母様のお手へ入った以上、それを封じ込めてやったあの独楽が、頼母様のお手へ入ったことは、確かなことといわなければならない!)
 これを思うとお八重の胸は、無念と口惜しさに煮えるのであった。
(淀屋の独楽を奪い取れ! これがあの方のご命令だった。……淀屋の独楽を奪い取ろうとして、妾は二年間このお屋敷で、腰元奉公をしていたのだ。そうしてようやく目的を達し、淀屋の独楽を奪い取ったら、すぐに他人に奪い返されてしまった。何と云ったらいいだろう!)
 代々の将軍家から田安家へ賜わった、数々の器類を奪ったのも、目的の一つには相違なかったが、真の目的はそれではなくて、淀屋の独楽を奪うことであった。
 彼女は田安家へ入り込むや否や、淀屋の独楽の在場所を探した。と、教えられてきた淀屋の独楽と、そっくりの型の独楽を奥方妙子様が、ご秘蔵なされていることを知った。しかし一つだけ不思議なことには、その独楽は淀屋の独楽と違って、いくら廻しても独楽の面へ、一つとして文字を現わさなかった。
「では淀屋の独楽ではないのだろう」と思って、お八重は奪うことを躊躇した。ところが此頃になって老女の一人が「あの独楽は以前には廻す毎に、文字を現わしたものでございますが、いつの間にやらその事がなくなって、この頃ではどのように廻したところで、文字など一字も現われません」と話した。
「ではやはり奥方様お持ちの独楽は、淀屋の独楽に相違ない」とそうお八重は見極めをつけ、とうとうその独楽を昨日奪って、折柄塀外へ来たお葉の手へ、投げて素早く渡したのであった。今夜裏門にて――と隠語に書いたのは、望みの品物を奪い取ったのだから、もうこの屋敷にいる必要はない。でお葉に裏門まで来て貰って、一緒にこの屋敷から逃げ出そうと思い、さてこそそのように書いたのであった。
「ご家老様」とお八重は云って、今までじっと俯向いて、膝頭を見詰めていた眼を上げて、頼母の顔を正視した。
「隠語を記しましたあの紙片を、ご家老様には何者より?」
「あれか」
 すると松浦頼母は複雑の顔へ一瞬間、冷笑らしいものを漂わせたが、
「其方《そち》の恋人山岸主税が、わしの手にまで渡してくれたのよ!」
「え――ッ、まア! いえいえそんな!」
 物に動じなかったお八重の顔が、見る見る蒼褪め眼が血走った。

   お八重の受難

 そういうお八重を松浦頼母は、嘲笑いの眼で見詰めたが、
「去年の秋御殿で催された、観楓の酒宴以来|其方《そち》と主税《ちから》とが、恋仲になったということは、わしにおいては存じて居った。が、お八重其方も存じおるはずだが、其方を恋して其方という者を、主税より先に我物にしようと、懇望したものは誰だったかのう?」
 頼母はお八重を嘗めるように見たが、
「わしであったはずじゃ、頼母であったはずじゃ」
 云い云い頼母は老いても衰えない、盛り上っている肉太の膝を、お八重の方へニジリ[#「ニジリ」は底本では「ニヂリ」]寄せた。
 お八重は背後《うしろ》へ体を退《ず》らせたが、しかしその瞬間去年の秋の、観楓の酒宴での出来事を、幻のように思い出した。
 その日、夜になって座が乱れた。お八重は酒に酔わされたので、醒まそうと思って庭へ出た。と、突然背後から、彼女に触れようとする者があった。お八重は驚いて振り返ってみると、意外にも奥家老の松浦頼母で、
「其方《そち》がお館へ上った日以来、わしは其方に執心だったのじゃ」と云った。
 すると、そこへちょうど折よく、これも酒の酔いを醒まそうとして、通り掛かった山岸主税が、
「や、これはご家老様にはお八重殿にご酔興なそうな。アッ、ハッ、ハッ、お気の毒千万、そのお八重殿とわたくしめとは、夫婦約束いたした仲でござる。わたくしめの許婚《いいなずけ》をお取りなさるは殺生、まずまずお許し下されませ」と冗談にまぎらせて仲を距て、お八重の危難を救ってくれた。
 ところがこれが縁となって、お八重と主税とは恋仲となり、肉体《からだ》こそ未だに純潔ではあれ、末は必ず夫婦になろうと約束を結んだのであった。しかるに一方松浦頼母も、お八重への恋慕を捨ようとはしないで、絶えずお八重を口説いたことであった。そうして今お八重にとって、命の瀬戸際というこの時になって、……
「お八重」と頼母は唆かすように云った。
「今日の昼主税めわしの所へ参り、『私こと昨夜お館附近を、見廻り警戒いたしおりましたところ、怪しい女猿廻しめが、ご用地附近におりましたので、引っとらえようといたしましたところその猿廻しめは逃げましたが、独楽を落としましてござります。調べましたところ独楽に細工あって、隠語を認めましたこのような紙片が、封じ込めありましてございます。隠語を解けば――コンヤウラモンニテ、と。……思うにこれはお館の中に、女猿廻しの一味が居りまして、それと連絡をとりまして、お館の大切な器類を、盗み出したに相違なく、しかも女猿廻し一味のものは、女に相違ござりませぬ。何故と申せば隠語の文字、女文字ゆえでござりまする。左様、女にござりまする! 奥方様付のお腰元、お八重殿にごさりまする! わたくしお八重殿の文字の癖をよく存じておりまする』とな。……」
「嘘だ嘘だ! 嘘でごさりまする! 主税殿が何でそのようなことを!」
 手を握りしめ歯切りをし、お八重はほとんど狂乱の様で、思わず声高に叫ぶように云った。
「妾《わたし》の、妾の、主税様が!」
「フッフッフッ、ハッハッハッ、可哀そうや可哀そうやのう[#「のう」に傍点]お八重、其方《そち》としては信じていた恋男が、そのようなことをするものかと、そう思うのは無理もないが、それこそ恋に眼の眩んだ、浅はかな女の思惑というもの、まことは主税というあの若造、軽薄で出世好みで、それくらいの所業など平気でやらかす、始末の悪い男なのじゃ。つまるところ恋女の其方を売って、自分の出世の種にしたのよ」
 ここで頼母はお八重の顔を、上眼使いに盗むように見たが、
「だが、座敷牢へは入れたものの、其方の考え一つによって命助ける術もある。お八重、強情は張らぬがよい、この頼母の云うことを聞け! 頼母|其方《そなた》の命を助ける!」と又肉太の膝をムズリと、お八重の方へ進めて行った。

   陥穽から男が

 すると、お八重の蒼白の顔へ、サッと血の気の注すのが見えたが、
「えい穢らわしい、何のおのれに!」
 次の瞬間にお八重の口から、絹でも裂くように叫ばれたのは、憎悪に充ちたこの声であった。
「たとえ打ち首になろうとも、逆磔刑にされようとも、汝《おのれ》ごときにこの体を、女の操を許そうや! 穢らわしい穢らわしい! ……山岸主税様が隠語の執筆家《かきて》を、この八重と承知の上で、汝の許へ申し出たとか! 嘘だ、嘘です、何の何の、主税様がそのようなことをなされますものか! ……なるほど、あるいは主税様は、なにかの拍子に女猿廻しから、独楽に封じた隠語の紙を、お手に入れられたかもしれませぬが、わたくしの筆癖と隠語の文字とが、似ているなどと申しますものか! もし又それにお気附きになったら、わたしの為に計られて、かえってそれを秘密にして、葬ってしまったでございましょう! わたしに対する主税様の、熱い烈しい愛情からすれば……」
「黙れ!」と忍び音ではあったけれど、怒りと憎悪との鋭い声で、突然頼母は一喝したが、ヌッとばかりに立ち上った。
「何かと言えば主税様! そうか、それほど山岸主税が、其方《そち》には大切で恋しいか! ……よーしそれではその主税めを! ……が、まアよい、まアその中に、その主税様を忘れてしまって、頼母様、頼母様と可憐《いとし》らしく、わしを呼ぶようになるであろう。またそのように呼ばせてもみせる。……とはいえ今の其方の様子ではのう。……第一正気でいられては……、眠れ!」と云うと壁の一所を、不意に頼母は指で押した。
 と、その瞬間「あッ」という悲鳴が、お八重の口から迸り、忽然としてそのお八重の姿が、座敷牢から消えてなくなり、その代わりにお八重の坐って居た箇所へ、畳一畳ばかりの長方形の穴が、黒くわんぐりと口を開けた。陥穽《おとしあな》にお八重は落ちたのであった。頼母は壁際に佇んだまま、陥穽の口を見詰めていた。すると、その口から男の半身が、妖怪《もののけ》のように抽け出して来たが、
「お殿様、上首尾です」――こうその男は北叟《ほくそ》笑みながら云った。
「そうか。そこで、気絶でもしたか?」
「ノンビリとお眠りでございます。……やんわりとした積藁の上に、お八重様にはお眠ねで」
「強情を張る女には、どうやらこの手がよいようだのう」
「死んだようになっている女の子を、ご介抱なさるのは別の味で……ところでお殿様お下りなさいますか? ……すこし梯子《はしご》は急でござんすが」
「まさか穴倉の底などへは。……命じて置いた場所へ運んで行け」
「かしこまりましてございます」
 奥眼と云われる窪んだ眼、鉤鼻と云われる険しい鼻、そういう顔をした四十五六歳の、陥穽から抽け出て来た男は、また陥穽の中へ隠れようとした。
 と、頼母は声をかけた。
「八重めが途中で正気に返ったら、猿轡など噛ませて声立てさせるな。よいか勘兵衛、わかったろうな」
「わかりましてござります」
 その男――勘兵衛は頷いて云った。
 勘兵衛? いかにもその男は、両国広小路の曲独楽の定席《こや》の、太夫元をしていた勘兵衛であった。でもその勘兵衛は今日の夕方、その定席の裏木戸口で、浪速あやめ[#「あやめ」に傍点]のために独楽の紐で、締め殺されたはずである。それだのに生きてピンシャンしているとは? しかも田安家の奥家老、松浦頼母というような、大身の武士とこのように親しく、主従かのように振舞っているとは?
 しかしそういうさまざまの疑問を、座敷牢の中へ残したまま、勘兵衛は陥穽の中へ消えてしまった。と、下っていた陥穽の蓋が、自ずと上へ刎ね上り、陥穽の口を閉ざしてしまった。
 頼母が網行燈をひっさげて、座敷牢から立去った後は、闇と静寂《さびしさ》ばかりが座敷牢を包み、人気は全く絶えて[#「絶えて」は底本では「耐えて」]しまった。

 それから少時《しばらく》の時が経った。
 同じ廓内の一所に、奥家老松浦頼母の屋敷が、月夜に厳めしく立っていた。その屋敷の北の隅に、こんもりとした植込に囲まれ、主屋と別に建物が立っていた。
 土蔵造りにされているのが、この建物を陰気にしている。
 と、この建物の一つの部屋に、山岸主税が高手籠手に縛られ、柱の傍に引き据えられてい、その周囲に五人の覆面の武士が、刀を引き付けて警戒してい、その前に淀屋の独楽の一つを、膝の上へ載せた松浦頼母が、主税を睨みながら坐ってい、そうしてその横に浪人組の頭の、飛田林覚兵衛が眼を嘲笑わせ、これも大刀[#「大刀」はママ]を膝の前へ引き付け、主税を眺めている光景を、薄暗い燭台の黄色い光が朦朧として照していた。
 それにしてもどうして山岸主税が、こんな所に縛られているのだろう?
 そうして何故に飛田林覚兵衛が、こんな所へ現われて、松浦頼母の家来かのように、悠然と控えているのだろう?

   悪家老の全貌

 お茶の水で飛田林覚兵衛《とんだばやしかくべえ》に襲われ、浪速《なにわ》あやめに助けられ、そのあやめが雇ってくれた駕籠で山岸主税《やまぎしちから》は屋敷へかえって来た。
 すると、屋敷の門前で、五人の覆面武士に襲撃された。まだ主税は身心衰弱していたので、他愛もなく捕らえられ、目隠しをされて運ばれた。
 その目隠しを取られたところが、今居るこの部屋であり、自分の前には意外も意外、主家の奥家老である松浦頼母と、自分を襲った浪人の頭、飛田林覚兵衛がいるではないか!
 夢に夢見るという心持、これが主税の心持であった。
「主税」と頼母は威嚇するように云った。
「淀屋の独楽を所持しおること、飛田林覚兵衛より耳にした。その独楽を当方へ渡せ!」
 それから頼母は自分の膝の上の独楽を、掌《てのひら》にのせて見せびらかすようにしたが、
「これが二つ目の淀屋の独楽じゃ。以前は田安殿奥方様が、ご秘蔵あそばされていたものじゃ。が、拙者代わりの品物を作り、本物とすり換えて本物の独楽は、疾《とく》より拙者所持しておる。――と、このように秘密のたくらみ[#「たくらみ」に傍点]まで、自分の口から云う以上、是が非であろうと其方《そち》の所持しておる独楽を、当方へ取るという拙者の決心を、其方といえども感ずるであろうな。隠し立てせずと独楽を渡せ! ……おおそれからもう一つ、其方に明かせて驚かすことがある。其方を襲った飛田林覚兵衛、此処におる覚兵衛じゃが、これは実はわしの家来なのじゃ」
「左様で」と初めて飛田林覚兵衛は、星の入っている薄気味悪い眼を、ほの暗い燭台の燈に光らせながら、
「拙者、松浦様の家来なのだ。淀屋の独楽を探そうため、浪速くんだりまで参ったのじゃ。浪速あやめが独楽を持っていた。で、取ろうといたしたところ、あの女め強情に渡しおらぬ。そのうち江戸へ来てしまった。そこで拙者も江戸へ帰って、どうかして取ろうと苦心しているうちに、チョロリと貴殿に横取りされてしまった。と知った時松浦様へ、すぐご報告すればよかったのだが、独楽を探そうために長の年月、隠れ扶持をいただいておる拙者としては、自分の力で独楽を手に入れねばと、そこで貴殿を襲ったのじゃが、ご存知の通り失敗してしもうた。そこでとうとう我を折って、今夜松浦様へ小鬢を掻き掻き、つぶさに事情をお話しすると、では主税めを捕らえてしまえとな。……で、こういう有様となったので」
「主税」と今度は松浦頼母が、宥めすかすように猫撫声で云った。
「淀屋の財宝が目つかった際には、幾割かの分はくれてやる。その点は充分安心してよろしい。だから云え、どこにあるか。淀屋の独楽がどこにあるか。……それさえお前が云ってくれたなら、人を遣わして独楽を持って来させる。そうしてそれが事実淀屋の独楽であったら、即座に其方《そち》の縄目を解き、我々の同士の一人として、わしの持っている独楽へ現われて来る隠語を、早速見せても進《しん》ぜるし、二つの独楽をつき合わせ、互いの隠語をつなぎ合わせ、淀屋の財宝の在場所を調べるその謀議にもあずからせよう」
「黙れ!」と主税は怒声を上げた。
「逆臣! いや悪党!」
 乱れた鬢髪、血走った眼、蒼白の顔色、土気色の口、そういう形相を燭台の燈の、薄暗い中で強ばらせ、肋骨《あばら》の見えるまではだかった[#「はだかった」に傍点]胸を、怒りのために小顫いさせ、主税は怒声を上げ続けた。
「お館様の寛大仁慈に、汝《おのれ》つけ込んで年久しく、田安家内外に暴威を揮い、専横の振舞い致すということ、我ばかりでなく家中の誰彼、志ある人々によって、日頃取沙汰されていたが、よもや奥方様ご秘蔵の、淀屋の独楽を奪い取り、贋物をお側《そば》に置いたとは、――そこまでの悪事を致しおるとは、何たる逆賊! 悪臣! ……いかにも拙者浪速あやめ[#「あやめ」に傍点]より、淀屋の独楽を貰い受けた。それも偶然貰い受けたばかりで、それには大して執着はない。長年その独楽を得ようとして、探し求めていたというからには、進んで呉れてやらないものでもない。……が、何の汝《おのれ》ごときに――主君の家を乱脈に導き、奥方様のお大切の什器を、盗んだという汝如きに与えようや、呉れてやろうか! それを何ぞや一味にしてくれるの、財宝の分け前与うるのと! わッはッはッ、何を戯言! 一味になるは愚かのこと、縄引き千切り此処を脱け出し、直々お館にお眼通りいたし、汝の悪行を言上し、汝ら一味を狩りとる所存じゃ! 財宝の分け前与えると※[#感嘆符疑問符、1-8-78] わッはッはッ、片腹痛いわい! 逆に汝の独楽を奪い、隠語の文字ことごとく探り、淀屋の財宝は一切合財、この主税が手に入れて見せる! 解け、頼母、この縄を解け!」
 主税は満身の力を罩《こ》め、かけられている縄を千切ろうとした。土気色の顔にパッと朱が注し、額から膏汗《あぶらあせ》が流れ出した。

   生きている勘兵衛

「馬鹿者、騒ぐな、静かに致せ!」
 主税《ちから》のそういう悲惨《みじめ》な努力を、皮肉と嘲りとの眼をもって、憎々しく見ていた頼母《たのも》は云った。
「縄は解けぬ、切れもしないわい! ……お前がこの場で執るべき道は、お前の持っておる独楽をわしに渡し、わしの一味配下となるか、それともあくまで強情を張って、淀屋の独楽をひし隠しに隠し、わしの配下に殺されるか、さあこの二つの道しかない! ……生きるつもりか、死ぬつもりか※[#感嘆符疑問符、1-8-78] どうだ主税、どっちに致す!」
 頼母は改めてまた主税を見詰めた。
 しかし主税は返事さえしないで、憎しみと怒りとの籠った眼で、刺すように頼母を睨むばかりであった。
 そういう主税を取り囲んで、まだ覆面を取らない五人の浪人は、すわといわば主税を切り伏せようと、刀の柄へ手をかけている。飛田林覚兵衛は例の気味の悪い、星の入っている眼を天眼に据えて、これも刀の柄へ手をかけながら、松浦頼母の横手から、主税の挙動を窺っていた。
 部屋の気勢《けはい》は殺気を帯び、血腥い事件の起こる前の、息詰るような静寂《しずけさ》にあった。
「そうか」と頼母はやがて云った。
「物を云わぬな、黙っているな、ようし、そうか、では憂目を!」
 覚兵衛の方へ顔を向け、
「こやつにあれ[#「あれ」に傍点]を見せてやれ!」
 覚兵衛は無言で立ち上り、隣室への襖《ふすま》をあけた。
 何がそこに有ったろう?
 猿轡をはめられ腕を縛られ、髪をふり乱した腰元のお八重が、桔梗の花の折れたような姿に、畳の上に横倒しになってい、それの横手に蟇《ひき》かのような姿に、勘兵衛が胡座《あぐら》を掻いているのであった。
「お八重!」と思わず声を筒抜かせ、主税は猛然と飛び立とうとした。
「動くな!」と瞬間、覆面武士の一人が、主税の肩を抑えつけた。
「お八重、どうして、どうしてここへは※[#感嘆符疑問符、1-8-78] おおそうしてその有様は※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
 お八重は顔をわずかに上げた。起きられないほど弱っているらしい。こっちの部屋から襖の間《あい》を通して、射し込んで行く幽かな燈の光に、蛾のように白いお八重の顔が、鬢を顫わせているのが見えた。猿轡をはめられている口であった。物云うことは出来なかった。
「お八重さんばっかりに眼をとられて、あっしを見ねえとは阿漕《あこぎ》ですねえ」
 胡座から立て膝に直ったかと思うと、こう勘兵衛が冷嘲《ひやか》すように云った。
「見忘れたんでもござんすまいに」
「わりゃア勘兵衛!」と主税は叫んだ。
「死んだはずの勘兵衛が!」
「いかにも殺されたはずの勘兵衛で、へへへ!」と白い歯を見せ、
「あの時あっしア確かにみっしり、締め殺されたようでござんすねえ。……殺そうとした奴ア解《わか》っていまさア。‥…あやめ[#「あやめ」に傍点]の阿魔《あま》に相違ねえんで。……あの阿魔以前からあっしの命を、取ろう取ろうとしていたんですからねえ。……取られる理由《わけ》もあるんですから、まあまあそいつア仕方ねえとしても、どうやらあっしというこの人間、あんなちょろっか[#「ちょろっか」に傍点]の締め方じゃア、殺されそうもねえ罪業者と見え、次の瞬間にゃア生き返って、もうこの通りピンピンしていまさあ。……そこでこの屋敷へ飛んで来て、淀屋の独楽を取らねえ先に、あやめ[#「あやめ」に傍点]の阿魔に逃げられたってこと、松浦様にご報告すると……」
「それでは汝《おのれ》も松浦頼母の……」
 重ね重ねの意外の事件に、主税は心を顛倒させながら、嗄《しゃが》れた声で思わず叫んだ。

   恋人が盗賊とは

「あたぼうよ、ご家来でさあ……もっとも最初《はな》は松浦様のご舎弟、主馬之進《しゅめのしん》様のご家来として、馬込の里の荏原《えばら》屋敷で……」
「喋舌《しゃべ》るな!」と叱るように一喝したのは、刀を杖のように突きながら、ノッソリと立ち上った頼母であった。
「お喋舌り坊主めが、何だベラベラと」
 それから主税の側《そば》へ行った。
「主税」と頼母は横柄の態度で、主税を上から見下ろしたが、
「其方《そち》の恋女腰元八重、縛《いまし》められてこの屋敷に居ること、さぞ其方には不思議であろうな。……その理由明かしてとらせる! お館にての頻々たる盗難、……その盗人こそ八重であったからじゃ!」
「…………」
 主税は無言で頼母を見上げた。余り意外のことを云われたので、その言葉の意味が受け取れず、で、呆然としたのであった。
「代々の将軍家より当田安家に対し下し賜わった名器什宝を、盗み出した盗人こそ、そこに居る腰元八重なのじゃ!」
 驚かない主税をもどかしがるように、頼母は言葉に力を罩《こ》めて云った。
「…………」
 しかし、依然として主税は無言のまま、頼母の顔を見上げていた。
 と、静かに主税の顔へ、ヒヤリとするような凄い笑いが浮かんだ。
(この姦物め、何を云うか! そのような出鱈目を云うことによって、こっちの心を惑わすのであろう。フフン、その手に乗るものか)
 こう思ったからである。
「主税!」と頼母は吼えるように喚いた。しかし、今度は反対《あべこべ》に、訓すような諄々とした口調で云った。
「女猿廻しより得たと申して、今朝|其方《そち》隠語の紙片と独楽とを、わしの許まで持って参り、お館の中に女の内通者あって、女猿廻しと連絡をとり、隠語の紙を伝《つて》として、お館内の名器什宝を、盗み出すに相違ござりませぬ。隠語の文字女文字にござりますと、確かこのように申したのう。そこでわしはこの旨お館に申し、更に奥方様のお手を借り、大奥の腰元全部の手蹟を、残るところなく調べたのだ。するとどうじゃ、八重めの文字が、隠語の文字と同じではないか。そこで八重めを窮命したところ、盗人に相違ござりませぬと、素直に白状いたしおったわ」
「嘘だ!」と悲痛の主税の声が、腹の底から絞るように出た。
「八重が、八重殿が、盗人などと! 嘘だ! 信じぬ! 嘘だ嘘だ!」
 しかし見る見る主税の顔から、血の気が消えて鉛色となった。
(もしや!)という疑惑からのことであろう。
 そうして彼の眼――主税の眼は、頼母から離れて隣の部屋の、お八重の方へ移って行った。
「あッはッはッ、そう思うであろう。……恋女の八重が館の盗人! これは信じたくはあるまいよ。……が、事実は事実なのでのう、信じまいとしても駄目なのじゃ。……念のため八重自身の口から、盗人の事実を語らせてやろう」
 勘兵衛の方へ顔を向けると、
「その猿轡はずしてやれ」と頼母は冷然とした声で云った。
 つと勘兵衛の手が伸びた時には、お八重の口は自由になっていた。
「八重殿!」と、それを見るや山岸主税は、ジリジリ[#「ジリジリ」は底本では「ヂリヂリ」]とそっちへ膝を進め、
「よもや、八重殿! 八重殿が!?
「山岸様!」とお八重は叫んだ。倒れていた体を起き返らせ、主税の方へ胸を差し出し、髪のふりかかった蒼白の顔を、苦痛に歪めて主税の方へ向け、歯ぎしるような声でお八重は叫んだ。
「深い事情はござりまするが、お館の数々の器類を、盗み出しましたはこの妾《わたくし》、この八重めにござります!」
 その次の瞬間には彼女の体は、前のめりに倒れていた。そこから烈しい泣き声が起こった。畳へ食いついて泣き出したのである。
 主税の全身に顫えが起こった。そうして彼の体も前のめりに倒れた。背の肉が波のように蜒っている。恋人八重が盗人とは! これが彼を男泣きに泣かせたのらしい。
 そういう二人を左見右見《とみこうみ》しながら、頼母は酸味ある微笑をしたが、やがて提げていた刀の鐺《こじり》で主税の肩をコツコツと突き、
「八重が盗人であるということ、これで其方《そち》にも解《わか》ったであろうな。……八重めはお館の命により、明朝打ち首に致すはずじゃ。……が、主税、よく聞くがよい、其方の持っておる淀屋の独楽を、わしの手へ渡すということであれば、八重の命はわしが助けてやる。そうして此処から逃がしてやる。勿論、その後は二人して夫婦になろうとそれは自由じゃ」
 ここで頼母は言葉を切り、また二人をじろり見て、
「それともあくまで強情を張って、淀屋の独楽を渡さぬとなら、この場において其方《そのほう》を殺し、明朝八重を打ち首にする。……主税、強情は張らぬがよいぞ。独楽の在り場所を云うがよい」

   極重悪木の由来

 この頃|戸外《そと》の往来を、植木師の一隊が通っていた。そうして老人と美少年と、女猿廻しのお葉とが、その後を尾行《つけ》て歩いていた。
 と、静かに三人は足を止めた。
 行手に大名屋敷の土塀が見え、裏門らしい大門が見え、その前へ植木師の一隊が、植木を積んだ車を囲み、月光の中に黒く固まり、動かずに佇んだからであった。
 大名屋敷は田安家であった。
 と、白い髪を肩の辺りで揺るがせ、白い髯を胸の辺りで顫わせ、深い感情を抑え切れないような声で「飛加藤《とびかとう》の亜流」という老人は云った。
「数日前に『極重悪木』を、彼ら田安家へ植え込んで、腰元を数人殺したそうだが、今夜も田安家へ植え込もうとしておる。……彼、東海林自得斎《しょうじじとくさい》め、よくよく田安家に怨みがあると見える!」
「お爺さん」とお葉は恐ろしそうに訊いた。
「極重悪木と仰有《おっしゃ》るのは? 東海林自得斎と仰有るのは?」
「私《わし》たちの祖師様とはいつの場合でも、反対の立場に立っている、世にも恐ろしい恐ろしい男、それが東海林自得斎なのだよ。その男も私達の祖師様のように、三十年もの間一本の木を、苦心惨憺して育てたのだよ。それが極重悪木なのだ。触った生物を殺す木なのだ。来る道々按摩を殺し、仲間を殺したその木なのだ。あそこにいる植木師たちの植木の中に、その木が一本雑っているのだよ」
「その東海林自得斎という男、何をしてどこに居りますの?」
「日本一大きな植木師として、秩父山中に住んでいるのだよ。幾個《いくつ》かの山、幾個かの谷、沢や平野を買い占めてのう。幾万本、いや幾十万本の木を、とりこ[#「とりこ」に傍点]にして置いて育てているのだよ。そうして大名衆や旗本衆や、大金持の人々から、大口の注文を承わっては、即座に数十本であろうと数百本であろうと、どのような珍木異木であろうと、注文通り納めているのだよ」
「そういう大きな植木師をしながら、人を殺す恐ろしい毒の木を、東海林自得斎は育てて居りますのね」
「いいや、今では数を殖やしているのさ。三十年もの間研究して極重悪木を作り上げたのだから、今ではその数を殖やしているのだよ。……憎いと思う人々の屋敷へ植え込んで、そこの人を根絶しにするためにな」
「その恐ろしい木が、極重悪木が、田安家へ植えこまれたと仰有るのね! 今夜も植えこまれると仰有るのね! まあ、こうしてはいられない! お八重様があぶない、お八重様のお命が!」
 お葉は夢中のように歩き出した。

 田安家の横手の土塀の前へ、女猿廻しのお葉が現われたのは、それから間もなくのことであった。
 土塀の上を蔽うようにして、植込の松や楓や桜が、林のように枝葉を繁らせ、その上に月がかかっていて、その光が枝葉の間を通して、お葉の体へ光の飛白《かすり》や、光の縞を織っている。そのお葉は背中に藤八《とうはち》と名付ける、可愛らしい小猿の眠ったのを背負い、顔を上向けて土塀の上を、思案しいしい眺めていた。
「飛加藤の亜流」という老人と別れて、一人此処へ来たお葉なのであった。でも何のために此処へ来て、何をしようとするのであろう。

   意外な邂合

「藤八よ」とお葉は云って、背中の小猿を揺り起こした。
「さあこれを持って木へ登って、木の枝へしっかり巻きつけておくれ」
 腰に挟んでいた一丈八尺の紐を、お葉は取って小猿へ渡した。と直ぐに小猿が土塀を駆け上り、植込の松の木へ飛び付いた姿が、黒く軽快に月光に見えた。でも直ぐに小猿は飛び返って来た。紐が松の枝から土塀を越して、お葉の手にまで延びている。間もなくその紐を手頼りにし、藤八猿を肩にしたまま、塀を乗り越えるお葉の姿が、これも軽快に月光に見えた。
 紐を手繰《たぐ》って腰へ挿み、藤八猿を肩にしたまま、お葉は田安家の土塀の内側の、植込の根元に身をかがめ、じっと四辺《あたり》を見廻した。それにしてもお葉は何と思って、田安家のお庭へなど潜入したのであろう? 自分の加担者の腰元お八重へ、極重悪木という恐ろしい木の、植え込まれたことを告げ知らせ、その木へ決して触わらぬようにと、注意をしたいためからであった。
(お八重様の居り場所どこかしら?)
 お葉は眼を四方へ配った。
 三卿の筆頭であるところの、田安中納言家のお屋敷であった。客殿、本殿、脇本殿、離亭《はなれ》、厩舎、望楼《ものみ》台、そういう建物が厳しく、あるいは高くあるいは低く、木立の上に聳え木立の中に沈み、月光に光ったり陰影《かげ》に暗まされたりして、宏大な地域を占領している。
(奥方様付きのお腰元ゆえ、大奥にお在《い》でとは思うけれど、その大奥がどこにあるやら?)
 といっていつ迄も植込の中などに、身を隠していることも出来なかったので、
(建物の方へ忍んで行ってみよう)
 で、彼女は植込を出て、本殿らしい建物の方へ、物の陰を辿って歩いて行った。
 この構内の一画に、泉水や築山や石橋などで、形成《かたちづく》られている庭園があったが、その庭園の石橋の袂へ、忽然と一人の女が現われたのは、それから間もなくのことであった。女は? 浪速《なにわ》あやめ[#「あやめ」に傍点]であった。鼠小紋の小袖に小柳襦子の帯、お高祖頭巾をかむったあやめ[#「あやめ」に傍点]であった。
 それにしてもあやめはほんの先刻《さっき》まで、女猿廻しお葉として、老人主従と連れ立ってい、そうしてつい[#「つい」に傍点]今しがた同じ姿で、土塀を乗り越えてこの構内へ、潜入をしたはずだのに、今見れば町家の女房風の、浪速あやめ[#「あやめ」に傍点]としてここにいるとは?
 短かい短かい時間の間に、あるいは女猿廻しお葉となり、あるいは曲独楽使いのあやめ[#「あやめ」に傍点]となる! この女の本性は何なのであろう?
 正体不可解の浪速あやめ[#「あやめ」に傍点]は、石橋の袂[#「袂」は底本では「袖」]に佇みながら、頭巾と肩とをわけても鮮かに、月の光に曝しながら、正面に見えている建物の方を、まじろぎもせず眺めていたが、やがてその方へ歩き出した。
 と、築山の裾を巡った。
 とたんに彼女は「あッ」と叫んで、居縮んだように佇んだ。同時に彼女の正面からも、同じような「あッ」という声が聞こえた。見ればそこにも女がいて、あやめ[#「あやめ」に傍点]の顔を見詰めながら、居縮んだように立っている。それは女猿廻しのお葉であった。
 おお、では二人のこの女は、別々の女であるのだろうか! そうとしか思われない。
 それにしても何と二人の女は、その顔立から肉付から、年恰好から同一《おんなじ》なのであろう! そうして何とこの二人は、経歴から目的から同一なのであろう! 二人の女の関係はどうなのであろう?
 お茶の水で主税を助けたあやめ[#「あやめ」に傍点]は、辻駕籠を雇って主税を乗せて彼の屋敷へまで送ってやった。
 でも彼女は心配だったので、見え隠れに駕籠の後をつけて、彼の屋敷の前まで来た。と五人の覆面武士が現われ、主税を手籠めにして担いで逃げた。
(一大事!)と彼女は思い、その一団の後を追った。が、この構内へ入り込んだ時には、その一団はどこへ行ったものか、姿がみえなくなっていた。
(どうあろうと主税様をお助けしなければ)
 そこで、あやめは主税を探しにかかった。
 その結果がこうなったのである。

   双生児の姉妹

「まあお前は妹!」
「お姉様《あねえさま》か!」
 あやめ[#「あやめ」に傍点]とそうしてお葉の口から、こういう声のほとばしったのは、それから間もなくのことであり、その次の瞬間には二人の女は、抱き合ったままで地に坐っていた。
 お高祖頭巾をかむった町女房風のあやめ[#「あやめ」に傍点]と、猿廻し姿のお葉とが、搦み合うようにして抱き合って、頬と頬とをピッタリ付けて、烈しい感情の昂奮から、忍び泣きの音を洩らしている姿は、美しくもあれば妖しくもあった。
 築山の裾に茂っているのは、満開の花をつけた連翹《れんぎょう》の叢《くさむら》で、黄色いその花は月光に化かされ、卯の花のように白く見えていたが、それが二人の女を蔽うように、背後《うしろ》の方から冠さっていた。
「お葉や! おおおおその姿は! ……猿廻しのその姿は! ……別れてから経った日数は十年! ……その間中わたしは雨につけ風につけ、一日としてお前のことを、思い出さなかったことはなかったのに! ……高麗郡《こまごおり》の高麗家と並び称され、関東での旧家と尊ばれている、荏原《えばら》郡の荏原屋敷の娘が、猿廻しにおちぶれたとは! ……話しておくれ、その後のことを! 話しておくれ、お前の身の上を!」
 妹お葉の背へ両手を廻し、それで抱きしめ抱きしめながら、喘ぐようにあやめ[#「あやめ」に傍点]は云うのであった。
「お姉様、あやめ[#「あやめ」に傍点]お姉様!」と、姉の胸の上へ顔を埋め、しゃくりあげながらお葉は云った。
「十年前に……お姉様が……不意に家出をなされてからというもの……わたしは、毎日、まアどんなに、お帰りなさる日をお待ちしたことか! ……いつまでお待ちしてもお帰りにならない。……そのうちだんだんわたしにしましても、お家にいることが苦痛になり……それでとうとう同じ年の、十二月の雪の日に、お姉様と同じように家出をし……」
「おお、まアそれではお前も家出を……」
「それからの憂艱難と申しましたら……世間知らずの身の上が祟って……誘拐《かどわか》されたり売られたり……そのあげくがこんな身分に……」
「お葉や、わたしも、そうだった。今のわたしの身分といったら、曲独楽使いの太夫なのだよ! ……荏原屋敷の娘、双生児《ふたご》のお嬢様と、自分から云ってはなんだけれど、可愛らしいのと幸福なのとで、人に羨まれたわたしたち二人が、揃いも揃って街の芸人に!」
 泉水で鯉が跳ねたのであろう、鞭で打ったような水音がした。
 高く抽《ぬきんで》て白蓮の花が、――夜だから花弁をふくよかに閉じて、宝珠かのように咲いていたが、そこから甘い惑わすような匂いが、双生児の姉妹《きょうだい》の悲しい思いを、慰めるように香って来ていた。
「お葉や」とやがてあやめ[#「あやめ」に傍点]は云った。
「わたし決心をしたのだよ。一生の大事を遂げようとねえ」
「お姉様」とお葉も云った。
「わたしも、わたしも、そうなのです! 一生の大事を遂げようと、決心したのでございます!」
「わたし、主馬之進《しゅめのしん》を殺す意《つもり》なのだよ! お父様を殺し、お母様を誑《たぶらか》し、荏原屋敷を乗っ取って、わたしたち二人を家出させた、極悪人の主馬之進をねえ」
「お姉様」とお葉は云って、ヒタとあやめ[#「あやめ」に傍点]の顔を見詰め、
「わたしは、主馬之進をそそのかして、そういう悪事を行なわせた、主馬之進の兄にあたる、田安家の奥家老、松浦頼母《まつうらたのも》を殺そうと、心掛けておるのでございます!」
「え※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は仰天したように、
「お葉や、一体、それは一体! ……」
「おお、お姉様お姉様、あなたはご存知ないのです。……お姉様よりも六七ヶ月後に、家出をいたしたこのお葉ばかりが、知っていることなのでございます。……その六七ヶ月の間中、わたしは主馬之進という人間の素性を、懸命に探ったのでございます。その間幾度となく立派な武士《さむらい》が、微行して屋敷へ参りまして、主馬之進と密談いたしましたり、主馬之進と一緒に屋敷内を、そここことなく探したりしました。探った結果その武士こそ、主馬之進の実の兄の、田安家の奥家老、松浦頼母だと知りました」
「知らなかった、わたしは! まるで知らなかった! ……でもどうしてそんな立派な、田安中納言様の奥家老が、実の弟を荏原屋敷へ入れたり、自身微行して訪ねて行ったり?」
「慾からですお姉様、慾からです! ……それも大きな慾から! ……」

   荏原屋敷の秘密

 どこから話したらよかろうかと、思案するかのようにお葉は黙って、あやめの顔を見守った。
 姉妹《きょうだい》二人が抱き合った時、お葉の肩から飛び下りた小猿は――藤八猿は築山の頂きに、赤いちゃんちゃんこ[#「ちゃんちゃんこ」に傍点]を着て置物のように坐り、姉妹の姿を見下ろしている。
「高麗郡の高麗家と同じように、荏原郡の荏原屋敷が、天智天皇様のご治世に、高麗の国から移住して来た人々の、その首領《おかしら》を先祖にして、今日まで連綿と続いて来た、そういう屋敷だということは、お姉様《あねえさま》もご存知でございますわねえ」とやがてお葉はしんみり[#「しんみり」に傍点]と、囁くような声で語り出した。
「その移住して来た人々が、高麗の国から持って来た宝を、荏原屋敷で保管して、代々伝えたということも、お姉様にはご存知ですわねえ。……でも、その宝物は長い年月の間に、持ち出されて使い果たされ、尋常の人間の智慧ぐらいでは、絶対に発見することの出来ない、宝物の隠匿《かくし》場所ばかりが、今も荏原屋敷のどこかにあるという、そういうこともお姉様には、伝説として聞いて知っていますわねえ。……ところが……」と云って来てあやめ[#「あやめ」に傍点]の両手を、お葉はひし[#「ひし」に傍点]と握りしめ、一層声を落として云った。
「ところが今から百五十年前、元禄年間に大財産が、その隠匿所へこっそりと、仕舞い込まれたということですの」
「まあ」とあやめ[#「あやめ」に傍点]も唾を呑み、握られている手を握り返したが、
「どういう財産? どういう素性の?」
「浪速《なにわ》の豪商淀屋辰五郎が、闕所《けっしょ》になる前に家財の大半を、こっそり隠したということですが、その財産だということですの」
「まあ淀屋の? 淀辰のねえ」
「それをどうして知ったものか、松浦頼母が知りまして、美貌の弟の主馬之進《しゅめのしん》を進め、わたし達のご両親に接近させ、そのあげくにお父様を、あのような手段で非業に死なせ、お母様を誑《たぶら》かし、わたし達の家へ入婿になり……」
「おおなるほどそうなのかえ、そうして財産の隠匿場所を……」
「そうなのですそうなのです、時々やって来る頼母と一緒に、主馬之進めはその隠匿場所を……」
「発見《みつけだ》そうとしているのだねえ。……そう聞いてみれば松浦頼母めが、お父様の敵《かたき》の元兇なのだねえ。……ああそれでやっとわたしには解《わか》った。何でお前がこのような所へ、こんな田安様のお屋敷内へ、忍び込んで来たのかと不思議だったが、では頼母を殺そうとして……」
「いいえお姉様わたしはそれ前に、ここのお腰元のお八重様のお命を……それよりお姉様こそどうしてここへ?」
「ここのご家臣の山岸主税様の、お命をお助けいたそうとねえ……」
 こうして姉妹《きょうだい》は各自《めいめい》の目的を――この夜この屋敷内へ忍び込んだ、その目的を話し出したが、この頃主税とお八重とは、どんな有様であるのであろう?

   崩折れる美女

 主税《ちから》とお八重《やえ》とは依然として、松浦|頼母《たのも》の屋敷の部屋に、縄目の恥辱を受けながら、二人だけで向かい合っていた。
「独楽を渡して配下になるか、それとも拒んで殺されるか? 即答することも困難であろう。しばらく二人だけで考えるがよい」
 こう云って頼母が配下を引き連れ、主屋の方へ立ち去ったので、二人だけとなってしまったのである。
 一基の燭台には今にも消えそうに、蝋燭の火がともってい、その光の穂を巡りながら、小さい蛾が二つ飛んでいる。
 顔に乱れた髪をかけ、その顔色を蒼白にし、衣紋を崩した主税の体は、その燭台の背後《うしろ》にあった。そうして彼の空洞《うつろ》のような眼は、飛んでいる蛾に向けられていた。
(もともと偶然手に入った独楽だ。頼母にくれてやってもよい。莫大な金高であろうとも、淀屋の財産など欲しいとは思わぬ。……しかしこのように武士たる自分を、恥かしめ、虐み、威嚇した頼母の、配下などには断じてなれない。と云って独楽を渡した上、頼母の配下にならなければ、自分ばかりかお八重の命をさえ、頼母は取ると云っている。残忍酷薄の彼のことだ、取ると云ったら取るだろう。……命を取られてたまるものか?)
 無心に蛾の方へ眼を向けたまま、こう主税は思っていた。
 一つの蛾が朱筆の穂のような火先《ほさき》に、素早く嘗められて畳の上へ落ちた。死んだと見えて動かなかった。
(ではやっぱり頼母の意志に従い、淀屋の独楽を渡した上、彼の配下になる以外には、他に手段はないではないか)
 逆流する血の気を顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》の辺りへ感じた。しかし努力して冷静になった。
(そうだ独楽を渡した上、あなた様の配下になりますると、偽りの誓言を先ず立てて、ともかくも命を助かろう。その余のことはそれからで出来る)
 何よりも命を保たなければと、主税はそれを思うのであった。
(それにしてもお八重が盗人とは! お館の宝物の数々を盗んだ、その盗人がお八重だとは!)
 これを思うと彼は発狂しそうであった。
(恋人が盗人とは! それも尋常の盗人ではない、お館を破滅に導こうとする、獅子身中の虫のような盗人なのだ!)
 見るに忍びないというような眼付をして、主税は隣室の方へ眼をやった。
 そこにお八重が突っ伏していた。
 こっちの部屋から流れこんで行く燈光《ひかり》で、その部屋は茫《ぼっ》と明るかったが、その底に濃紫《こむらさき》の斑點《しみ》かのように、お八重は突っ伏して泣いていた。
 泣き声は聞こえてはこなかったが、畳の上へ両袖を重ね、その袖の上へ額を押しつけ、片頬を主税の方へわずかに見せ、その白いふっくり[#「ふっくり」に傍点]した艶かしい片頬を、かすかではあるが規則正しく、上下に揺すって動かしているので、しゃくりあげていることが窺われた。
 それは可憐で痛々しくて、叱られて泣いている子供のような、あどけなさをさえ感じさせる姿であった。
(あの子が、お八重が、何で盗人であろう!)
 そういう姿を眼に入れるや、主税は猛然とそう思った。
(これは何かの間違いなのだ!)
「お八重殿」と嗄《しわが》れた声で、主税は嘆願でもするように云った。
「真実を……どうぞ、本当のことを……お話し下され、お話し下され! ……盗人などと……嘘でござろうのう」
 狂わしい心持で返事を待った。
 と、お八重は顔を上げた。
 宵闇の中へ夕顔の花が、不意に一輪だけ咲いたように、上げたお八重の顔は蒼白かった。
「山岸様!」と、その顔は云った。
「八重は死にます! ……殺して下さりませ! ……八重は盗人でござります! ……深い事情がありまして……あるお方に頼まれまして……お館の数々のお宝物を、盗んだに相違ござりませぬ。……貴郎《あなた》様のお手にかかりまして、もし死ねましたら八重は本望! ……悲しいは愛想を尽かされますこと! ……死にたい! 殺して下さりませ!」
 花が不意に散ったように、お八重の顔は沈んで袖の上へ消えた。
 泣き声が細い糸のように引かれた。
(そうか、やっぱり盗人なのか)
 主税は首を膝へ垂れた。
(深い事情があるといった。そうだろう! その事情は?)
 泣き声はなおも断続して聞こえた。
(事情によっては許されもするが……)
(あるお方に頼まれたという。何者だろう、頼んだものは?)
「ここを出たい!」と声に出して、主税は思わずそう叫んだ。
 縄を千切って、お八重を助け出して、ここを出たい! ここを出たい!
 無効《むだ》と知りながら又主税は、満身に力を籠めて体を揺すった。
 しかし、縄は切れようともしない。
 時がだんだん経って行く。
 廊下に向いて立てられてある襖が、向う側から開いたのは、それから間もなくのことであった。
(来たな、頼母め!)と主税は睨んだ。
 しかるに、部屋の中へ入って来たのは、赤いちゃんちゃんこ[#「ちゃんちゃんこ」に傍点]を着た小猿であった。
「猿!」と主税は思わず叫んだ。
 途端に、小猿は飛びかかって来た。
「こやつ!」
 しかし藤八猿は、主税の体にかかっている縄を、その鋭い歯で食い切り出した。
 どこからともなく口笛の音が、猿の所業を鼓舞するかのように、幽かに幽かに聞こえてきた。

   第二の独楽の文字

 この頃主屋の一室では、覚兵衛や勘兵衛を相手にして、松浦|頼母《たのも》が話していた。四辺《あたり》には杯盤が置き並べてあり、酒肴などがとり散らされていた。
「これに現われて来る文字というものが、まことにもって訳の解《わか》らないものでな、ざっとまアこんな具合なのだ」
 云い云い頼母は握っていた独楽を、畳の上で捻って廻した。幾台か立ててある燭台から、華やかな燈光《ひのひかり》が射し出ていて、この部屋は美しく明るかったが、その燈光《ひかり》に照らされながら、森々と廻っている独楽の面へ、白く文字が現われた。
「屋の財宝は」という五つの文字であった。
「屋の字の上へ淀という字を入れれば、淀屋の財宝はという意味になって、これはまアまア解るにしても、その後に出る文字が解らないのだ」
 頼母はまた手を延ばし独楽を捻った。烈しく廻る独楽の面へは、「代々」という二つの文字と「守護す」という三つの文字と「見る日は南うしろ北」という、九つの文字とが現われた。
「この意味はまったく解らないのう?」
 頼母の声は当惑していた。
「が、主税めの持っている独楽を奪い、それへ現われ出る文字と合わせたら、これらの文字の意味は解るものと思う。どっちみち淀屋の財宝についての、在場所を示したものに相違ないのだからのう」
「その主税めもうそろそろ、決心した頃かと存ぜられます」と飛田林覚兵衛《とんだばやしかくべえ》が追従笑いをしながら云った。
「誰もが命は惜しいもので。独楽は渡さぬ、配下にもならぬなどと、彼とてよもや申しますまい」
「そりゃアもう云うまでもないことで」とつづいて勘兵衛が合槌を打った。
「ましてや独楽を献上し、お殿様の配下になりさえすれば、お八重様という美しいお腰元と、夫婦になれるというのですからねえ。……が、そうなるとお殿様の方は?」と頼母の方へ厭な眼を向け、
「そうなりまするとお殿様の方は、お八重様をご断念なされるので?」
「またお喋舌《しゃべ》りか」と苦笑いをし、頼母はジロリ[#「ジロリ」は底本では「ヂロリ」]と勘兵衛を睨んだ。
「性懲りもなく又ベラベラと」
「これは、えへ、えッヘッヘッ」
 勘兵衛は亀のように首を縮めた。
 覆面をしていた五人の浪人も、今は頭巾を脱ぎすてて、遥か末座に居並んで、つつましく酒を飲んでいる。
(八重! くれるには惜しい女さ)
 ふと頼母はこう思った。
(が、独楽には換えられぬ。……それに主税というような、敵ながら立派な若い武士を、味方にすることが出来るのなら、女一人ぐらい何の惜しむものか)
 その主税が主謀者となり、鷲見与四郎《すみよしろう》といったような、血の気の多い正義派の武士たちが、どうやら一致団結して、以前から頼母の遣り口に対し――田安お館への施政に対し、反対しようとしていることを、頼母は薄々感付いていた。その主謀者の主税に恩を売り、八重を女房に持たせることによって、味方につけることが出来るのなら、こんな好都合なことはないと、そう頼母は思うのであった。
「誰か参って主税と八重の様子を、それとなく見て参れ」
 浪人たちの方へ頼母は云った。
 二人の浪人が立ち上り、襖《ふすま》をあけて部屋から出た。
「覚兵衛《かくべえ》も勘兵衛《かんべえ》も飲むがよい」
「は」
「頂戴」
「さあさあ飲め」
 賑かに盃が廻り出した。
 たちまち烈しい足音が、廊下の方から聞こえてきたが、出て行った二人の浪人の中、坂本というのが走り帰って来た。
「一大事! 一大事でござりまする……主税め縄を切り八重を助け……部屋を脱け出し庭の方へ! ……本庄殿は主税に斬られ! ……拙者も一太刀、左の肩を!」
 見ればなるほどその浪人の肩から、胸の方へ血が流れ出ていた。
「行け!」と頼母は吼えるように叫び、猛然として躍り上った。
「主税を捕らえろ! 八重を捕らえろ! ……手に余らば斬って捨ろ!」
 一同一斉に部屋を走り出た。

   独楽を奪われる

 八重を小脇に引っ抱え、血に濡れた刀をひっさげて、山岸主税《やまぎしちから》は庭へ出た。
 猿によって縛めの縄を切られ、勇躍してお八重へ走り寄り、その縛めの縄を解いた。すると、そこへ二人の武士が来た。やにわに一人を斬り伏せて、お八重を抱え廊下

 ふと心棒を指で摘み、何気なく一捻り捻ってみた。
「あ」と又も彼は言った。
 独楽は掌の上で廻っている。
 その独楽の心棒を中心にして、独楽の面に幾個《いくつ》かの文字が白く朦朧と現われたからである。
「淀」という字がハッキリと見えた。
 と、独楽は廻り切って倒れた。
 同時に文字も消えてしまった。
「変だ」と主税《ちから》は呟きながら、改めて独楽を取り上げて、眼に近付けて子細に見た。
 何の木で作られてある独楽なのか、作られてから幾年を経ているものか、それが上作なのか凡作なのか、何型に属する独楽なのか、そういう方面に関しては、彼は全く無知であった。が、そういう無知の彼にも、何となくこの独楽が凡作でなく、そうして制作されて以来、かなりの年月を経ていることが感じられてならなかった。
 この独楽は直径二寸ほどのもので、全身黒く塗られていて、面に無数の筋が入っていた。
 しかし、文字などは一字も書いてなかった。
「変だ」と同じことを呟きながら、なおも主税は独楽を見詰めていたが、また心棒を指で摘み、力を罩《こ》めて強く捻った。
 独楽は烈しく廻り出し、その面へ又文字を現わした。しかし不思議にも今度の文字は、さっきの文字とは違うようであった。
「淀」という文字などは見えなかった。
 その代わりかなりハッキリと「荏原《えばら》屋敷」という文字が現われて見えた。
「面の筋に細工があって、廻り方の強さ弱さによって、いろいろの文字を現わすらしい」
(そうするとこの独楽には秘密があるぞ)
 主税はにわかに興味を感じて来た。
 すると、その時背後から、
「お武家、珍しいものをお持ちだの」と錆のある声で言うものがあった。
 驚いて主税は振り返って見た。
 三十五六の浪人らしい武士が、微笑を含んで立っていた。
 髪を総髪の大束《おおたぶさ》に結び、素足に草履を穿いている。夕陽の色に照らされていながら、なお蒼白く感じられるほど、その顔色は白かった。左の眼に星の入っているのが、いよいよこの浪人を気味悪いものにしていた。
「珍らしいもの? ……何でござるな?」
 主税は独楽を掌に握り、何気なさそうに訊き返した。
「貴殿、手中に握っておられるもので」
「ははあこれで、独楽でござるか。アッハッハッ、子供騙しのようなもので」
「子供騙しと仰せられるなら、その品拙者に下さるまいか」
「…………」
「子供騙しではござるまい」
「…………」
「その品どちらで手に入れられましたかな?」
「ほんの偶然に……たった今しがた」
「ほほう偶然に……それも今しがた……それはそれはご運のよいことで……それに引き換え運の悪い者は、その品を手中に入れようとして、長の年月を旅から旅へ流浪いたしておりまするよ」
「…………」
「貴殿その品の何物であるかを、ではご存知ではござるまいな?」
「左様、とんと、がしかし、……」
「が、しかし、何でござるな?」
「不思議な独楽とは存じ申した」
「その通りで、不思議な独楽でござる」
「廻るにつれて、さまざまの文字が……」
「さようさよう現われまする。独楽の面へ現われまする。で、貴殿、それらの文字を、どの程度にまで読まれましたかな?」
「淀という文字を目つけてござる」
「淀? ははア、それだけでござるか?」
「いやその他に荏原屋敷という文字も」
「ナニ荏原屋敷? 荏原屋敷? ……ふうん左様か、荏原屋敷――いや、これは忝《かたじけ》のうござった」
 云い云い浪人は懐中へ手を入れ、古びた帳面を取り出したが、さらに腰の方へ手を廻し、そこから矢立を引き抜いて、何やら帳面へ書き入れた。

   睨み合い

「さてお武家」と浪人は言った。
「その独楽を拙者にお譲り下されい」
「なりませぬな、お断りする」
 はじめて主税はハッキリと言った。
「貴殿のお話|承《うけたま》わらぬ以前《まえ》なら、お譲りしたかは知れませぬが、承わった現在においては、お譲りすることなりませぬ」
「ははあさては拙者の話によって……」
「さよう、興味を覚えてござる」
「興味ばかりではござるまい」
「さよう、価値をも知ってござる」
「独楽についての価値と興味とをな」
「さようさよう、その通りで」
「そうすると拙者の言動は、藪蛇になったというわけでござるかな」
「お気の毒さまながらその通りで」
「そこで貴殿にお訪《たず》ねしますが、この拙者という人間こそ、その独楽を手中に入れようとして、永年尋ねておりました者と、ご推量されたでござりましょうな」
「さよう、推量いたしてござる」
「よいご推量、その通りでござる。……そこであからさまにお話しいたすが、その独楽を手中に入れようとする者、拙者一人だけではないのでござるよ。……拙者には幾人か同志がござってな、それらの者が永の年月、その独楽を手中に入れようとして、あらゆる苦労をいたしておるのでござる」
「さようでござるか、それはそれは」
「以前は大阪にありましたもので、それがほんの最近になって、江戸へ入ったとある方面よりの情報。そこで我ら同志と共々、今回江戸へ参りましたので」
「さようでござるか、それはそれは」
「八方探しましたが目つかりませなんだ」
「…………」
「しかるにその独楽の価値も知らず、秘密も知らぬご貴殿が、大した苦労もなされずに、楽々と手中へ入れられたという」
「好運とでも申しましょうよ」
「さあ、好運が好運のままで、いつまでも続けばよろしいが」
「…………」
「貴殿」と浪人は威嚇《おどか》すように言った。
「拙者か、拙者の同志かが、必ずその独楽を貴殿の手より……」
「無礼な! 奪うと仰せられるか!」
「奪いますとも、命を殺《あや》めても!」
「ナニ、命を殺めても?」
「貴殿の命を殺めても」
「威嚇《おどかし》かな。怖いのう」
「アッハッハッ、そうでもござるまい。怖いのうと仰せられながら、一向怖くはなさそうなご様子。いや貴殿もしっかりもの[#「しっかりもの」に傍点]らしい。……ご藩士かな? ご直参かな? 拙者などとは事変わり、ご浪人などではなさそうじゃ。……衣装持物もお立派であるし。……いや、そのうち、我らにおいて、貴殿のご身分もご姓名も、探り知るでござりましょうよ。……ところでお尋ねしたい一儀がござる。……曲独楽使いの女太夫、浪速《なにわ》あやめ[#「あやめ」に傍点]と申す女と、貴殿ご懇意ではござりませぬかな?」
 言われて主税《ちから》はにやりとしたが、
「存じませぬな、とんと存ぜぬ」
「ついそこの曲独楽の定席へ、最近に現われた太夫なので」
「さような女、存じませぬな」
「嘘言わっしゃい!」と忍び音ではあったが、鋭い声で浪人は言った。
「貴殿、その独楽を、浪速あやめ[#「あやめ」に傍点]より、奪い取ったに相違ない!」
「黙れ!」と主税は怒って呶鳴った。
「奪ったとは何だ、無礼千万! 拙者は武士だ、女芸人風情より……」
「奪ったでなければ貰ったか!」
「こやつ、いよいよ……汝《おのれ》、一刀に!」
「切ろうとて切られぬわい。アッハッハッ、切られぬわい。……が、騒ぐはお互いに愚、愚というよりはお互いに損、そこで穏やかにまた話じゃ。……否」というとその浪人は、しばらくじっと考えたが、
「口を酸くして説いたところで、しょせん貴殿には拙者の手などへ、みすみすその独楽お渡し下さるまいよ、……そこで、今日はこれでお別れいたす。……だが、貴殿に申し上げておくが、その独楽貴殿のお手にあるということを、拙者この眼で見た以上、拙者か拙者の同志かが、早晩必ず貴殿のお手より、その独楽を当方へ奪い取るでござろう。――ということを申し上げておく」
 言いすてると浪人は主税へ背を向け、夕陽が消えて宵が迫っているのに、なおも人通りの多い往来《とおり》を、本所の方へ歩いて行った。

   闇に降る刃

 その浪人の背後《うしろ》姿を、主税はしばらく見送ったが、
(変な男だ)と口の中で呟き、やがて自分も人波を分け、浅草の方へ歩き出した。
 歩きながら袖の中の独楽を、主税はしっかりと握りしめ、
 ――あの浪人をはじめとして、同志だという多数の人々が、永年この独楽を探していたという。ではこの独楽には尋常《ひととおり》ならない、価値と秘密があるのだろう。よし、では、急いで家へ帰って、根気よく独楽を廻すことによって、独楽の面へ現われる文字を集め、その秘密を解き価値を発見《みつ》けてやろう。――興味をもってこう思った。
(駕籠にでも乗って行こうかしら?)
(いや)と彼は思い返した。
(暗い所へでも差しかかった時、あの浪人か浪人の同志にでも、突然抜身を刺し込まれたら、駕籠では防ぎようがないからな。……先刻《さっき》の浪人の剣幕では、それくらいのことはやりかねない)
 用心しいしい歩くことに決めた。
 平川町を通り堀田町を通った。
 右手に定火消の長屋があり、左手に岡部だの小泉だの、三上だのという旗本屋敷のある、御用地近くまで歩いて来た時には、夜も多少更けていた。
 御用地を抜ければ田安御門で、それを通れば自分の屋敷へ行けた。それで、主税は安堵の思いをしながら、御用地の方へ足を向けた。
 しかし、小泉の土塀を巡って、左の方へ曲がろうとした時、
「居たぞ!」「捕らえろ!」「斬ってしまえ!」と言う、荒々しい男の声が聞こえ、瞬間数人の武士が殺到して来た。
(出たな!)と主税は刹那に感じ、真先に切り込んで来た武士を反《かわ》し、横から切り込んで来た武士の鳩尾《みぞおち》へ、拳で一つあてみ[#「あてみ」に傍点]をくれ、この勢いに驚いて、三人の武士が後へ退いた隙に、はじめて刀を引っこ抜き、正眼に構えて身を固めた。
 すると、その時一人の武士が、主税を透かして見るようにしたが、
「や、貴殿は山岸氏ではないか」と驚いたように声をかけた。
 主税も驚いて透かして見たが、
「何だ貴公、鷲見《すみ》ではないか」
「さようさよう鷲見|与四郎《よしろう》じゃ」
 それは同じ田安家の家臣で、主税とは友人の関係にある、近習役の鷲見与四郎であった。
 見ればその他の武士たちも、ことごとく同家中の同僚であった。
 主税は唖然として眉をひそめたが、
「呆れた話じゃ、どうしたというのだ」
「申し訳ない、人違いなのじゃ」
 言い言い与四郎は小鬢を掻いた。
「承知の通りのお館の盗難、そこで拙者ら相談いたし、盗人をひっ捕らえようといたしてな、今夜もお館を中心にして、四方を見廻っていたところ、猿廻しめに邂逅いたした」
「猿廻し? 猿廻しとは?」
「長屋の女小供の噂によれば、この頃若い猿廻しめが、しげしげお長屋へやって来て、猿を廻して銭を乞うそうじゃ」
「そこで、怪しいと認めたのじゃな」
「いかにも、怪しいと認めたのじゃ。……その怪しい猿廻しめに、ついそこで逢ったので、ひっ捕らえようとしたところ、逃げ出しおって行方不明よ」
「なに逃げ出した? それなら怪しい」
「……そこへ貴殿が土塀を巡って、突然姿をあらわしたので……」
「猿まわしと見誤ったというのか?」
「その通りじゃ、いやはやどうも」
「拙者猿は持っていない」
「御意で、いやはや、アッハッハッ」
「そそっかしいにも程があるな」
「程があるとも、一言もない、怪我なかったが幸いじゃ」
「すんでに貴公を斬るところだった。これから貴公たちどうするつもりじゃ」
「業腹[#「業腹」は底本では「剛腹」]じゃ。このままではのう。……そこでこの辺りをもう一度探して……」
「人違いをして叩っ切られるか」
「まさか、そうそうは、アッハッハッ。……貴殿も一緒に探さぬかな」
「厭なことじゃ。ご免蒙ろう。……今日拙者は非番なのでな、そこで両国へ行ったところ、あそこへ行くと妙なもので、田舎者《おのぼりさん》のような気持になる。それで拙者もその気になって、曲独楽の定席へ飛び込んだものよ。すると、そこに綺麗な女太夫がいて……」
「ははあ、その美形を呼び出して、船宿でか? ……こいつがこいつが!」
「何の馬鹿らしいそのようなこと。……もう女には飽きている身じゃ。……ただその美しい女太夫から、珍らしい物を貰うたので、これから緩々《ゆるゆる》屋敷へ帰って、その物を味わおうとこういうのじゃ。……ご免」と主税は歩き出した。

   猿廻し

 歩きながら考えた。
 何故この頃お館には、金子などには眼をくれず、器物ばかりを狙って盗む、ああいう盗難があるのだろう? それも一度ならずも二度三度、頻々としてあるのだろう?
(ある何物かを手に入れようとして、それに関係のありそうな器物を、狙いうちにして盗んでいるようだ。……そのある物とは何だろう?)
 これまで盗まれた器物について、彼は記憶を辿ってみた。
 蒔絵の文庫、青銅の香爐、明兆《みんちょう》の仏書、利休の茶柄杓、世阿弥筆の謠の本……等々高価の物ばかりであった。
(盗難も盗難だがこのために、お館の中が不安になり、お互い同士疑い合うようになり、憂鬱の気の漂うことが、どうにもこうにもやりきれない)
 こう主税は思うのであった。
(お互い同士疑い合うのも、理の当然ということが出来る。お館の中に内通者があって、外の盗賊と連絡取ればこそ、ああいう盗みが出来るのだからなア。……そこで内通者は誰だろうかと、お互い同士疑い合うのさ)
 主税はこんなことを考えながら、御用地の辺りまで歩いて来た。
 御用地なので空地ではあるが、木も雑草も繁っており、石材なども置いてあり、祠なども立っており、水溜や池などもある。そういう林であり藪地なのであった。
 と、その林の奥の方から、キ――ッという猿の啼声が、物悲しそうに聞こえてきた。
(おや)と主税は足を止めた。
(いかに藪地であろうとも、猿など住んでいるはずはない。……では話の猿廻しが?)
 そこで主税は堰を飛び越え、御用地の奥の方へ分け入った。草の露が足をぬらし、木の枝が顔を払ったりした。
 また猿の啼声が聞こえてきた。
 で、主税は突き進んだ。
 すると、果たして一人の猿廻しが、猿を膝の上へ抱き上げて、祠の裾の辺りへうずくまり、編笠をかむった顔を俯向けて、木洩れの月光に肩の辺りを明るめ、寂しそうにしているのが見えた。
「猿廻し!」と声をかけ、突然主税はその前へ立った。
「用がある、拙者と一緒に参れ!」
「あッ」と猿廻しは飛び上ったが、木の間をくぐって逃げようとした。
「待て!」
 主税は足を飛ばせ、素早くその前へ走って行き、左右に両手を開いて叫んだ。
「逃げようとて逃がしはせぬ、無理に逃げればぶった斬るぞ!」
「…………」
 しかし無言で猿廻しは、両手で猿を頭上に捧げたが、バッとばかりに投げつけた。
 キ――ッと猿は宙で啼き、主税の顔へ飛びついて来た。
「馬鹿者!」
 怒号して拳を固め、猿を地上へ叩き落とし、主税は猛然と躍りかかった。
 だが、何と猿廻しの素早いことか、こんもり盛り上っている山査子《さんざし》の叢《むら》の、丘のように高い裾を巡って、もう彼方《むこう》へ走っていた。
 すぐに姿が見えなくなった。
(きゃつこそ猿だ! なんという敏捷《すばしっこ》さ!)
 主税は一面感心もし、また一面怒りを感じ、憮然として佇んだが、気がついて地上へ眼をやった。
 叩き落とした猿のことが、ちょっと気がかりになったからである。
 木洩れの月光が銀箔のような斑《ふ》を、枯草ばかりで青草のない、まだ春なかばの地面のあちこちに、露を光らせて敷いていて、ぼっ[#「ぼっ」に傍点]と地面は明るかったが、猿の姿は見えなかった。
(たしかこの辺りへ叩き落としたはずだが)
 主税は地面へ顔を持って行った。
「あ」
 声に出して思わず言った。
 小独楽が一個《ひとつ》落ちているではないか。
 主税は袖を探ってみた。
 袖の中にも小独楽はあった。
(では別の独楽なのだな)
 地上の独楽を拾い上げ、主税は眼に近く持って来た。その独楽は大きさから形から、袖の中の独楽と同じであった。
「では」と呟いて左の掌の上で、主税は独楽を捻って廻し、月光の中へ掌を差し出し、廻る独楽の面をじっと見詰めた。
 しかし、独楽の面には、なんらの文字も現われなかった。
(この独楽には細工はないとみえる)
 いささか失望を感じながら、廻り止んだ独楽をつまみ上げ、なお仔細《こまか》く調べてみた。
 すると、独楽の面の手触りが何となく違うように思われた。
(はてな?)と主税は指に力を罩《こ》め、その面を強く左の方へ擦った。

   不思議な老人

「おおそうか、蓋なのか」と、擦ったに連れて独楽の面が弛み、心棒を中心にして持ち上ったので、そう主税《ちから》は呟いてすぐにその蓋を抜いてみた。
 独楽の中は空洞《うつろ》になっていて畳んだ紙が入れてあった。
 何か書いてあるようである。
 そこで、紙を延ばしてみた。

   三十三、四十八、二十九、二十四、二十二、四十五、四十八、四、三十五
 と書いてあった。
(何だつまらない)と主税は呟き、紙を丸めて捨ようとしたが、
(いや待てよ、隠語《かくしことば》かもしれない)
 ふとこんなように思われたので、またその紙へ眼を落とし、書かれてある数字を口の中で読んだ。
 それから指を折って数え出した。
 かなり長い間うち案じた。
「そうか!」と声に出して呟いた時には、主税の顔は硬ばっていた。
(ふうん、やはりそうだったのか、……しかし一体何者なのであろう?)
 思いあたることがあると見えて、主税はグッと眼を据えて、空の一所へ視線をやった。
 と、その視線の遥かかなたの、木立の間から一点の火光《ひかり》が、薄赤い色に輝いて見えた。
 その火はユラユラと揺れたようであったが、やがて宙にとどまって、もう揺れようとはしなかった。
(こんな夜更けに御用地などで、火を点《と》もすものがあろうとは?)
 重ね重ね起こる変わった事件に、今では主税は当惑したが、しかし好奇心は失われないばかりか、かえって一層増して来た。
(何者であるか見届けてやろう)
 新規に得た独楽を袖の中へ入れ、足を早めて火光の見える方へ、木立をくぐり藪を巡って進んだ。
 火光から数間のこなたまで来た時、その火光が龕燈の光であり、その龕燈は藪を背にした、栗の木の枝にかけられてある。――ということが見てとられた。
 だがその他には何があったか?
 その火の光に朦朧と照らされ、袖無を着、伊賀袴を穿いた、白髪白髯の老人と、筒袖を着、伊賀袴を穿いた、十五六歳の美少年とが、草の上に坐っていた。
 いやその他にも居るものがあった。
 例の猿廻しと例の猿とが同じく草の上に坐っていた。
(汝《おのれ》!)と主税は心から怒った。
(汝、猿廻しめ、人もなげな! 遠く逃げ延びて隠れればこそ、このような手近い所にいて、火まで燈して平然としているとは! 見おれ[#「見おれ」は底本では「見をれ」]、こやつ、どうしてくれるか!)
 突き進んで躍りかかろうとした。しかし足が言うことをきかなかった。
 と云って足が麻痺したのではなく、眼の前にある光景が、変に異様であり妖しくもあり、厳かでさえあることによって、彼の心が妙に臆《おく》れ、進むことが出来なくなったのである。
(しばらく様子を見てやろう)
 木の根元にうずくまり、息を詰めて窺った。
 老人は何やら云っているようであった。
 白い顎鬚が上下に動き、そのつど肩まで垂れている髪が、これは左右に揺れるのが見えた。
 どうやら老人は猿廻しに向かって、熱心に話しているらしかった。
 しかし距離が遠かったので、声は聞こえてこなかった。
 主税はそれがもどかしかったので、地を這いながら先へ進み、腐ちた大木の倒れている陰へ、体を伏せて聞耳を立てた。
「……大丈夫じゃ、心配おしでない、猿めの打撲傷《うちみ》など直ぐにも癒る」
 こういう老人の声が聞こえ、
「躄者《いざり》さえ立つことが出来るのじゃからのう。――もう打撲傷は癒っているかもしれない。……これこれ小猿よ立ってごらん」
 言葉に連れて地に倒れていた猿が、毬のように飛び上り、宙で二三度|翻筋斗《もんどり》を打ったが、やがて地に坐り手を膝へ置いた。
「ね、ごらん」と老人は云った。
「あの通りじゃ、すっかり癒った。……いや誠心《まごころ》で祈りさえしたら、一本の稲から無数の穂が出て、花を咲かせて実りさえするよ」
 その時猿廻しは編笠を脱いで、恭しく辞儀《おじぎ》をした。
 その猿廻しの顔を見て、主税は思わず、
「あッ」と叫んだ。それは女であるからであった。しかも両国の曲独楽使いの、女太夫のあやめ[#「あやめ」に傍点]であった。

   隠語を解く

 曲独楽使いの浪速《なにわ》あやめ[#「あやめ」に傍点]が、女猿廻しになっている! これは山岸|主税《ちから》にとっては、全く驚異といわざるを得なかった。
 しかも同一のその女が、自分へ二つの独楽をくれた。
 そうしてその独楽には二つながら、秘密らしいものがからまっている。
(よし)と主税は決心した。
(女猿廻しを引っとらえ、秘密の内容を問いただしてやろう)
 そこで、主税は立ち上った。
 するとその瞬間に龕燈が消えて、いままで明るかった反動として、四辺《あたり》がすっかり闇となった。
 主税の眼が闇に慣れて、木洩れの月光だけで林の中のようすが、朧気ながらも見えるようになった時には、女猿廻しの姿も、美童の姿も猿の姿も、眼前から消えてなくなっていた。

 その翌日のことである、田安家の奥家老|松浦頼母《まつうらたのも》は、中納言家のご前へ出で、
「お館様これを」とこう言上して、一葉の紙片を差し出した。
 泉水に水が落ちていて、その背後《うしろ》に築山があり、築山をめぐって桜の老樹が、花を渦高く咲かせており、その下を将軍家より頂戴したところの、丹頂の鶴が徘徊している――そういう中庭の風景を、脇息に倚って眺めていた田安中納言はその紙片を、無言で取上げ熟視された。
 一杯に数字が書いてあった。
「これは何だ?」と、中納言家は訊かれた。
「隠語とのことにござります」
「…………」
「昨夜近習の山岸主税こと、怪しき女猿廻しを、ご用地にて発見いたし、取り抑えようといたしましたところ、女猿廻しには逃げられましたが、その者独楽を落としました由にて、とりあえず独楽を調べましたところ、この紙片が籠められておりましたとか……これがその独楽にござります」
 頼母は懐中から独楽を出した。
 中納言家はそれを手にとられたが、
「これは奥の秘蔵の独楽じゃ」
「奥方様ご秘蔵の独楽?」
「うん、わしには見覚えがある、これは奥の秘蔵の独楽じゃ。……それにしても怪しい猿廻しとは?」
「近頃、ひんぴんたるお館の盗難、それにどうやら関係あるらしく……」
「隠語の意味わかっておるかな?」
「主税|儀《こと》解きましてござります」
「最初に『三十三』と記してあるが?」
「『こ』という意味の由にござります」
「『こ』という意味? どうしてそうなる?」
「いろは四十八文字の三十三番目が『こ』の字にあたるからと申しますことで」
「ははアなるほど」
「山岸主税申しますには、おおよそ簡単の隠語の種本は、いろは四十八文字にござりますそうで、それを上より数えたり、又、下より数えたりしまして、隠語としますそうにござります」
「すると二番目に『四十八』とあるが、これは『ん』の隠語だな」
「御意の通りにござります」
「三番目に『二十九』とあるが、……これは『や』の隠語だな」
「御意の通りにござります」
「その次にあるは『二十四』だから、言うまでもなく『う』の字の隠語、その次の『二十二』は『ら』の字の隠語、その次の『四十五』は『も』の字の隠語、『四十八』は『ん』の字の隠語、『四』は『に』の字の隠語、『三十五』は『て』の字の隠語。……これで全部終えたことになるが、この全部を寄せ集めれば……」
「こんやうらもんにて――となりまする」
「今夜裏門にて――いかにもそうなる」
「事件が昨夜のことにござりますれば、今夜とあるは昨夜のこと。で、昨夜館の裏門にて、何事かありましたと解釈すべきで……」
「なるほどな。……で、何事が?」
「山岸主税の申しまするには、お館の中に居る女の内通者が、外界《そと》の賊と気脈を通じ、昨夜裏門にて密会し……」
「館の中に居る女の内通者とは?」
「その数字の書体、女文字とのことで」
「うむ、そうらしい、わしもそう見た」
「それにただ今うかがいますれば、その独楽は奥方様の御秘蔵の品とか……さすれば奥方様の腰元あたりに、賊との内通者がありまして、そのような隠語を認めまして、その独楽の中へ密封し、ひそかに門外へ投げ出し、その外界の同類の手に渡し、昨夜両人裏門にて逢い……」
「なるほど」
「内通者がお館より掠めました品を、その同類の手に渡したか……あるいは今夜の悪事などにつき、ひそかに手筈を定めましたか……」
「うむ」と云うと中納言家には、眉の辺りに憂色を浮かべ、眼を半眼にして考え込まれた。

   腰元の死

「頼母」
 ややあって中納言家は口を開いた。
「これはいかにもお前の言う通り、館の中に内通者があるらしい。そうでなくてあのような品物ばかりが、次々に奪われるはずはない。……ところで頼母、盗まれた品だが、あれらの品を其方《そち》はどう思うな?」
「お大切の品物と存じまする」
「大切の由緒存じおるか?」
「…………」
「盗まれた品のことごとくは、柳営より下されたものなのじゃ」
「…………」
「我家のご先祖|宗武《むねたけ》卿が、お父上にしてその時の将軍家《うえさま》、すなわち八代の吉宗《よしむね》将軍家から、家宝にせよと賜わった利休の茶杓子をはじめとし、従来盗まれた品々といえば、その後代々の我家の主人が、代々の将軍家から賜わったものばかりじゃ」
「…………」
「それでわしはいたく心配しておるのじゃ。将軍家より賜わった品であるが故に、いつなんどき柳営からお沙汰があって、上覧の旨仰せらるるやもしれぬ。その時ないとは言われない。盗まれたなどと申したら……」
「お家の瑕瑾《きず》にござります」
「それも一品ででもあろうことか、幾品となく盗まれたなどとあっては……」
「家事不取り締りとして重いお咎め……」
「拝領の品であるが故に、他に遣わしたとは言われない」
「御意の通りにござります」
「頼母!」と沈痛の中納言家は言われた。
「この盗難の背後には、我家を呪い我家を滅ぼそうとする、[#「滅ぼそうとする、」は底本では「滅ぼそうとする。」]恐ろしい陰謀《たくらみ》があるらしいぞ!」
「お館様!」と頼母も顔色を変え、五十を過ごした白い鬢の辺りを、神経質的に震わせた。
 中納言家はこの時四十歳であったが、宗武卿以来聡明の血が伝わり、代々英主を出したが、当中納言家もその選に漏れず、聡明にして闊達であり、それが風貌にも現われていて鳳眼隆鼻高雅であった。
 でも今は高雅のその顔に、苦悶の色があらわれていた。
「とにかく、内通者を至急見現わさねばならぬ」
「御意で。しかしいかがいたしまして?」
「これは奥に取り計らわせよう」
「奥方様にでござりまするか」
「うむ」と中納言家が言われた時、庭の築山の背後から女の悲鳴らしい声が聞こえ、つづいてけたたましい叫び声が聞こえ、すぐに庭番らしい小侍が、こなたへ走って来る姿が見えた。
「ご免」と頼母は一揖してから、ツカツカと縁側へ出て行ったが、
「これ源兵衛何事じゃ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」と庭番の小侍へ声をかけた。
 小侍は走り寄るなり、地面へ坐り手をつかえたが、
「お腰元楓殿が築山の背後にて、頓死いたしましてござります」
「ナニ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
 頼母は胸を反らせ、
「楓殿が頓死※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 頓死とは?」
「奥方様のお吩咐《いいつけ》とかで、三人の腰元衆お庭へ出てまいられ、桜の花お手折り遊ばされ、お引き上げなさろうとされました際、その中の楓殿不意に苦悶され、そのまま卒倒なされましたが、もうその時には呼吸《いき》がなく……」
「お館様!」と頼母は振り返った。
「履物を出せ、行ってみよう」
 中納言家には立って来られた。
「それでは余りお軽々しく……」
「よい、行ってみよう、履物を出せ」
 庭番の揃えた履物を穿き、中納言家には庭へ出られた。
 もちろん頼母は後からつづいた。
 庭番の源兵衛に案内され、築山の背後へ行った時には、苦しさに身悶えしたからであろう、髪を乱し、胸をはだけた、美しい十九の腰元楓が、横倒しに倒れて死んでいる側《そば》に、二人の腰元が当惑し恐怖し泣きぬれて立っていた。

   第二の犠牲

 手折った桜の枝が地に落ちていて、花が屍《しがい》の辺りに散り敷いているのが、憐れさの風情を添えていた。
 中納言家は傷《いた》わしそうに、楓《かえで》の死骸を見下ろしていたが、
「玄達《げんたつ》を呼んでともかくも手当てを」
 こう頼母に囁くように云い、四辺《あたり》を仔細に見廻したが、ふと審しそうに呟かれた。
「この頃に庭を手入れしたと見えるな」
 頼母は庭番の源兵衛へ、奥医師の玄達を連れて来るように吩咐《いいつ》け、それから中納言家へ頭を下げ、
「数日前に庭師を入れまして、樹木の植込み手入れ刈込み、庭石の置き換えなどいたさせました」
「そうらしいの、様子が変わっている」
 改めて中納言家は四辺を見廻された。
 桜の老樹や若木に雑って、棕櫚だの梅だの松だの楓だの、竹だの青桐だのが、趣深く、布置整然と植込まれてい、その間に珍奇な庭石が、春の陽に面を照らしながら、暖かそうに据えられてあった。
 ずっとあなたに椿の林があって、その中に亭が立っていた。
 間もなく幾人かの侍臣と共に、奥医師玄達が小走って来た。大奥の腰元や老女たちも、その後から狼狽《あわて》て走って来た。
 玄達はすぐに死骸の側《そば》へかがみ仔細に死骸を調べ出した。
「駄目か?」と中納言家は小声で訊かれた。
「全く絶望にござります」
 玄達も小声で答えた。
「死因は何か?」
「さあその儀――いまだ不明にござりまする。……腹中の食物など調べましたなら……」
「では、外傷らしいものはないのだな」
「はい、いささかも……外傷らしいものは」
「ともかくも死骸を奥へ運んで、外科医宗沢とも相談し、是非死因を確かめるよう」
「かしこまりましてござります」
 やがて楓の死骸は侍臣たちによって、館の方へ運ばれた。
「不思議だのう」と呟きながら、なお中納言家は佇んでおられた。
 その間には侍臣や腰元たちは、楓を殺した敵らしいものが、どこかその辺りに隠れていないかと、それを探そうとでもするかのように、木立の間や岩の陰や、椿の林などへ分け入った。
 広いといっても庭であり、植込みが繁っているといっても、たかが庭の植込みであって、怪しい者など隠れていようものなら、すぐにも発見されなければならなかった。
 何者も隠れていなかったらしく、人々はポツポツと戻って来た。
 と、不意に人々の間から、絹を裂くような女の悲鳴が聞こえた。
 老女と一緒に来た腰元の中の一人、萩枝《はぎえ》という二十一の小肥りの女が、両手で空を掴みながら、クルリと体を回転し、そのまま地上へ転がったのである。
 狼狽して人々は飛び退いた。
 その人の垣に囲まれたまま、萩枝は地上を転がり廻り、胸を掻き髪を※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]り、
「苦しい! 麻痺《しびれ》る! ……助けて助けて!」と嗄《しゃが》れた声で叫んだが、見る見る顔から血の気が消え、やがて延びて動かなくなった。

 この日の宵のことであった。山岸|主税《ちから》は両国広小路の、例の曲独楽の定席小屋の、裏木戸口に佇んで、太夫元の勘兵衛という四十五六の男と、当惑しながら話していた。
「ではもうあやめ[#「あやめ」に傍点]は居ないというのか」
「へい、この小屋にはおりません」
「つまり席を退いたのだな」
「と云うことになりましょうね」
 どうにも云うことが曖昧であった。
 それに何とこの辺りは、暗くそうして寂しいことか。
 裏木戸に面した反対側は、小借長屋らしく思われたが、どうやら空店になっているらしく、ビッシリ雨戸がとざされていて、火影一筋洩れて来なかった。
 洞窟の穴かのように、長方形に空いている木戸口にも、燈《ひ》というものは点《つ》いていなかった。しかし、遥かの小屋の奥から、ぼんやり蝋燭の光が射して来ていて、眼の窪んだ、鼻の尖った、頬骨の立った悪相の持主の、勘兵衛という男を厭らしい存在として、照らし出してはいるのであった。
「昨日《きのう》まではこの小屋に出ていたはずだが、いつあやめ[#「あやめ」に傍点]は席を退いたのだ?」
 こう主税は又訊いた。
「退いたとも何とも申しちゃアいません。ただ彼女《あいつ》今日はいないので」
「一体あやめ[#「あやめ」に傍点]はどこに住んでいるのだ?」
「さあそいつ[#「そいつ」に傍点]は……そいつはどうも……それより一体|貴郎《あなた》様は、どうして何のために彼女を訪ねて、わざわざおいでなすったんで?」
 かえって怪訝そうに勘兵衛は訊いた。

   第三の犠牲

 主税《ちから》があやめ[#「あやめ」に傍点]を訪ねて来たのは、何と思って自分へ独楽をくれたのか? どうして猿廻しなどに身をやつしていたのか? その事情を訊こうと思ったからであった。
 昼の中に来るのが至当なのであったが、昼の中彼は屋敷へ籠って――お館へは病気を云い立てて休み――例の独楽を廻しに廻し、現われて来る文字を寄せ集め、秘密を知るべく努力した。
 しかし、結果は徒労《むだ》だった。
 というのは、その後に現われて来た文字は「に有りて」という四つの文字と「飛加藤の亜流」という訳のわからない、六つの文字に過ぎなかったからで……
 そこで彼は夕方駕籠を飛ばせて、ここへ訪ねて来たのであった。そうしてあやめ[#「あやめ」に傍点]に逢いたいと言った。
 すると勘兵衛という男が出て来て、極めて曖昧な言葉と態度で、あやめ[#「あやめ」に傍点]は居ないというのである。
「少し尋ねたい仔細《こと》があってな」
 主税はこっちでも曖昧味を現わし、
「それで訪ねて参ったのだが、居ないとあっては止むを得ぬの。どれ、それでは帰るとしようか」
「ま、旦那様ちょっとお待ちなすって」
 勘兵衛の方が周章《あわて》て止めた。
「実は彼女《あいつ》がいなくなったのであっし[#「あっし」に傍点]はすっかり参っていますので。何せ金箱でございますからな。へい大事な太夫なので。……それであっしも小屋の者も、大騒ぎをして探していますので」
「しかし宿所《やど》には居るのだろう?」
「それが貴郎様、居ないんで」
「宿所にもいない、ふうんそうか。一体宿所はどこなのだ?」
「へい、宿所は……さあ宿所は……神田辺りなのでございますが……それはどうでもよいとして、宿所にもいず小屋へも来ない。昨夜《ゆうべ》ポカンと消えてしまったんで」
「ふうん、昨夜消えてしまった。……猿廻しに身をやつし[#「やつし」に傍点]て消えてしまったのではあるまいかな」
「え、何だって? 猿廻しにだって?」
 勘兵衛はあっけにとられたように、
「旦那、そりゃア一体何のことで?」
(しまった)と主税は後悔した。
(云わでものことを口走ってしまった)
 主税は口を噤んで横をむいた。
「こいつア変だ! 変ですねえ旦那! ……旦那何か知ってますね!」と勘兵衛はにわかにかさにかかり、
「あやめの阿魔《あま》が消えてしまった途端に、これまで縁のなかったお侍さんが、ヒョッコリ訪ねておいでなすって、根掘り葉掘りあやめのことをお訊きになる。その後で猿廻しに身をやつしてなんて、変なことを仰せになる! ……旦那、お前さんあの阿魔を、あやめの阿魔をおびき出し……」
「黙れ!」と主税は一喝した。
「黙っておればこやつ無礼! 拙者を誘拐《かどわか》しか何かのように……」
「おお誘拐しだとも、誘拐しでなくて何だ! あやめ[#「あやめ」に傍点]の阿魔を誘拐して、彼女の持っている秘密を奪い、一儲けしようとするのだろう! ……が、そうならお気の毒だ! 彼女はそんな秘密などより、荏原《えばら》屋敷の奴原を……」
「荏原屋敷だと!? おおその荏原屋敷とは……」
「そうれ、そうれ、そうれどうだ! 荏原屋敷まで知っている汝《おのれ》、どうでも平記帳面の侍じゃアねえ! 食わせ者だア――食わせものだア――ッ……わーッ」
 と、これはどうしたことだろう。にわかに勘兵衛は悲鳴を上げ、両手で咽喉の辺りを掻き毟るったかと思うと、前のめりにバッタリと地へ倒れた。
「どうした勘兵衛!」と主税は驚き、介抱しようとして屈み込んだ。
 その主税の眼の前の地上を、小蛇らしいものが一蜒りしたが、空店《あきだな》の雨戸の隙の方へ消えた。
 息絶えたらしい勘兵衛の体は、もう延びたまま動かなかった。
「どうしたどうした!」
「勘兵衛の声だったぞ」と小屋の中から人声がし、幾人かの人間がドヤドヤと、木戸口の方へ来るらしかった。
(巻添えを食ってはたまらない)
 こう思った主税が身を飜えして、この露路から走り出したのは、それから間もなくのことであった。

   白刃に囲まれて

 この時代《ころ》のお茶の水といえば、樹木と藪地と渓谷《たに》と川とで、形成《かたちづく》られた別天地で、都会の中の森林地帯であった。
 昼間こそ人々は往《ゆ》き来したが、夜になるとほとんどだれも通らず、ただひたすら先を急いで迂回することをいとう人ばかりが、恐々《こわごわ》ながらもこの境地《とち》を、走るようにしてとおるばかりであった。
 そのお茶の水の森林地帯へ、山岸主税が通りかかったのは、亥《い》の刻を過ごした頃であった。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]が行方不明となった、勘兵衛という太夫元が、何者かに頓死させられた、この二つの意外な事件によって、さすがの彼も心を痛め、この時まであてなく江戸の市中を、さまよい歩いていたのであった。
(荏原屋敷とは何だろう?)
 このことが彼の気になっていた。
 独楽の隠語の中にもこの字があった。勘兵衛という男もこの言葉を云った。そうしてあやめという曲独楽使いも、この屋敷に関係があるらしい。
(荏原郡《えばらごおり》の馬込の郷に、そういう屋敷があるということは、以前チラリと耳にはしたが)
 しかし、それとて非常に古い屋敷――大昔から一貫した正しい血統を伝えたところの、珍らしい旧家だということばかりを、人づてに聞いたばかりであった。
(がしかしこうなってみれば、その屋敷の何物かを調べてみよう)
 主税はそんなように考えた。
 独楽のことも勿論気にかかっていた。
 ――どれほどあの独楽を廻してみたところで、これまでに現われた隠語以外に、新しい隠語が現われそうにもない。そうしてこれまでの隠語だけでは、何の秘密をも知ることは出来ない。どうやらこれは隠語を隠した独楽は、あれ以外にも幾個《いくつ》かあるらしく、それらの独楽を悉皆《みんな》集めて全部《すっかり》の隠語を知った時、はじめて秘密が解けるものらしい。
(とすると大変な仕事だわい)
 そう思わざるを得なかった。
 しかし何より主税の心を、憂鬱に抑えているものは、頻々とあるお館の盗難と、猿廻しに変装したあやめ[#「あやめ」に傍点]とが、密接の関係にあることで、今日あやめを小屋へ訪ねたのも、その真相を探ろうためなのであった。
(猿廻しから得た独楽と隠語と、お館の中に内通者ありという、自分の意見とを松浦殿へ、今朝方早く差し上げたが、その結果女の内通者が、お館の中で見付かったかしら?)
 考えながら主税は歩いて行った。
 腐ちた大木が倒れていたり、水溜りに月光が映っていたり、藪の陰から狐らしい獣が、突然走り出て道を遮ったりした。
 不意に女の声が聞こえた。
「あぶない! 気をおつけ! 背後《うしろ》から!」
 瞬間に主税は地へ仆れた。
「あッ」
 その主税の体へ躓《つまず》[#「《つまず》」は底本では「《つまづ》」]き、背後から切り込んで来た一人の武士が、こう叫んで主税のからだ越しにドッとばかりに向こうへ仆れた。
 疾風迅雷も物かわと、二人目の武士が左横から、なお仆れている主税を目掛け、拝み討ちに切り付けた。
「わ、わ、わ、わ――ッ」とその武士は喚いた。脇腹から血を吹き出しているのが、木洩れの月光に黒く見えた。
 その武士が足を空ざまにして、丸太ん棒のように仆れた時には、とうに飛び起き、飛び起きざまに引き抜き、引き抜いた瞬間には敵を斬っていた、小野派一刀流では無双の使い手の、山岸主税は返り血を浴びずに、そこに聳えていた大楠木の幹を、背負うようにして立っていた。
 が、それにしても何と大勢の武士に、主税は取巻かれていることか!
 数間を距てて十数人の人影が、抜身をギラギラ光らせながら、静まり返っているではないか。
(何物だろう?)と主税は思った。
 しかし、問さえ発っせられなかった。
 前から二人、左右から一人ずつ、四人の武士が殺到して来た。
(死中活!)
 主税は躍り出で、前の一人の真向を割り、返す刀で右から来た一人の、肩を胸まで斬り下げた。
 とは云え、その次の瞬間には、主税は二本の白刃の下に、身をさらさざるを得なかった。
 しかし、辛うじてひとりの武士の、真向へ来た刀を巻き落とした。
 でも、もう一人の武士の刀を、左肩に受けなければならなかった。
(やられた!)
 しかし何たる奇跡か! その武士は刀をポタリと落とし、その手が首の辺りを掻きむしり、前のめりにドッと地上へ倒れた。
 勘兵衛の死に態と同じであった。
 その時であった側《そば》の大藪の陰から、女の声が聞こえてきた。
「助太刀してあげてよ、ね、助太刀して!」
「参るぞーッ」という怒りの大音が、その時女の声を蔽うたが、一人の武士が大鷲さながらに、主税を目掛けて襲いかかった。
 悄然たる太刀音がし、二本の刀が鍔迫り合いとなり、交叉された二本の白刃が、粘りをもって右に左に前に後ろに捻じ合った。
 主税は刀の間から、相手の顔を凝視した。
 両国橋で逢った浪人武士であった。

   解けた独楽の秘密

「やあ汝《おのれ》は!」と主税は叫んだ。
「両国橋で逢った浪人者!」
「そうよ」と浪人も即座に答えた。
「貴殿が手に入れた淀屋の独楽を、譲り受けようと掛け合った者よ。……隠すにもあたらぬ宣《なの》ってやろう、浪速《なにわ》の浪人|飛田林覚兵衛《とんだばやしかくべえ》! ……さてその時拙者は申した、貴殿の命を殺《あや》めても、淀屋の独楽を拙者が取ると! ……その期が今こそめぐって来たのじゃ!」
「淀屋の独楽とは? 淀屋の独楽とは?」
「どうせ汝《おのれ》は死んで行く奴、秘密を教えても大事あるまい、そこで秘密を教えてやる。……浪速の豪商淀屋辰五郎、百万にも余る巨富を積み、栄耀栄華を極めたが、元禄年間|官《かみ》のお咎めを受け、家財一切を没収されたこと、汝といえども伝え聞いていよう。……しかるに辰五郎、事の起こる前、ひそかに家財の大半を分け、絶対秘密の場所へ隠し、その隠し場所を三個《みっつ》の独楽へ……とここまで申したら、万事推量出来るであろう。……汝が手に入れたあの独楽こそ、淀屋の独楽の一つなのじゃ。……今後汝によって三つの独楽を、それからそれと手に入れられ、独楽に記されてある隠語を解かれ、淀屋の巨財の隠し場所を知られ、巨財を汝に探し出されては、長年その独楽の行方を尋ね、淀屋の巨財を手に入れようと、苦心いたしおる我らにとっては、一大事とも一大事! そこで汝をこの場において殺し、汝の屋敷に潜入し、独楽をこっちへ奪い取るのだ!」
 二本の刀を交叉させ、鍔と鍔とを迫り合わせ、顔と顔とをひた[#「ひた」に傍点]と付けながら、覚兵衛はそう云うとグーッと押した。
 それをやんわり[#「やんわり」に傍点]と受けながら、主税は二歩ばかり後へ下った。
 すると今度は山岸主税が、押手に出でてジリジリ[#「ジリジリ」は底本では「ヂリヂリ」]と進んだ。
 二人の眼と眼とは暗い中で、さながら燠のように燃えている。
 鍔迫り合いの危険さは、体の放れる一刹那にあった。遅れれば斬られ、逸《はや》まれば突かれる。さりとて焦躁《あせ》れば息切れを起こして、結局斃されてしまうのであった。
 いぜんとして二人は迫り合っている。
 そういう二人を中へ囲んで、飛田林覚兵衛の一味の者は、抜身を構え位い取りをし、隙があったら躍り込み、主税を討って取ろうものと、気息を呑んで機を待っていた。
 と、あらかじめの計画だったらしい、
「やれ」と大音に叫ぶと共に、覚兵衛は烈しい体あたり[#「あたり」に傍点]をくれ、くれると同時に引く水のように、サーッと自身後へ引き、すぐに飜然と横へ飛んだ。
 主税は体あたりをあてられて、思わずタジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]と後へ下ったが、踏み止まろうとした一瞬間に、相手に後へ引かれたため、体が延び足が進み、あたかも覚兵衛を追うかのように、覚兵衛の一味の屯している中へ、一文字に突き入った。
「しめた!」
「斬れ!」
「火に入る夏の虫!」
「わッはッはッ、斬れ、斬れ、斬れ!」
 嘲笑《あざけり》、罵声《ののしり》、憎悪《にくしみ》の声の中に、縦横に上下に走る稲妻! それかのように十数本の白刃が、主税の周囲《まわり》で閃いた。
 二声ばかり悲鳴が起こった。
 バラバラと囲みが解けて散った。
 乱れた髪、乱れた衣裳、敵の返り血を浴びて紅斑々! そういう姿の山岸主税は、血刀高々と頭上に捧げ、樫の木かのように立っている。
 が、彼の足許には、死骸が二つころがっていた。
 一人を取り囲んで十数人が、斬ろう突こうとしたところで、味方同士が邪魔となって、斬ることも突くことも出来ないものである。
 そこを狙って敵二人まで、主税は討って取ったらしい。
 地団太踏んで口惜しがったのは、飛田林覚兵衛であった。
「云い甲斐ない方々!」と杉の老木が、桶ほどの太さに立っている、その根元に突立ちながら、
「相手は一人、鬼神であろうと、討って取るに何の手間暇! ……もう一度引っつつんで斬り立てなされ! ……見られい彼奴《きゃつ》め心身疲れ、人心地とてない有様! 今が機会じゃ、ソレ斬り立てられい!」
 覚兵衛の言葉は事実であった。
 先刻《さっき》よりの乱闘に肉体《からだ》も精神《こころ》も疲労《つかれ》果てたらしい山岸主税は、立ってはいたが右へ左へ、ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロとよろめいて、今にも仆れそうに見受けられた。

   愛する人を

「そうだ!」「やれ!」と覚兵衛の一味が、さながら逆浪の寄せるように、主税《ちから》を目掛けて寄せた時、遥かあなたの木間から、薄赤い一点の火の光が、鬼火のように不意に現われて、こなたへユラユラと寄って来た。
「南無三宝! 方々待たれい! 火の光が見える、何者か来る! 目つけられては一大事! 残念ながら一まず引こう! 味方の死人|負傷者《ておい》を片付け、退散々々方々退散」と杉の根元にいる覚兵衛が、狼狽した声でそう叫んだ。
 いかにも訓練が行き届いていた。その声に応じて十数人の、飛田林覚兵衛の一味達は、仆れている死人や負傷者を抱え、林を分け藪を巡り、いずこへともなく走り去った。
 で、その後には気味の悪いような、静寂《しずけさ》ばかりがこの境地に残った。
 常磐木《ときわぎ》――杉や松や柏や、榎、桧などの間に立ち雑って、仄白い花を咲かせていた桜の花がひとしきり、花弁《はなびら》を瀧のように零したのは、逃げて行く際に覚兵衛の一味が、それらの木々にぶつかっ[#「ぶつかっ」に傍点]たからであろう。
 と、俄然主税の体が、刀をしっかりと握ったまま腐木《くちき》のように地に仆れた。斬られて死んで斃れたのではなかった。
 心身まったく疲労《つかれ》果て、気絶をして仆れたのである。
 そういう主税の仆れている体へ、降りかかっているのは落花であり、そういう主税の方へ寄って来るのは薄赤い燈の光であった。
 そうして薄赤いその燈の光は、昨夜御用地の林の中で、老人と少年と女猿廻しとが、かかげていたところの龕燈の火と、全く同じ光であった。その龕燈の燈が近づいて来る。ではあの老人と少年と、女猿廻しとがその燈と共に、近付いて来るものと解さなければならない。
 でもにわかにその龕燈の燈は、大藪の辺りから横に逸れ、やがて大藪の陰へかくれ、ふたたび姿を現わさなかった。
 そこで又この境地はひっそりとなり、鋭い切先の一所を、ギラギラ月光に光らせた抜身を、いまだにしっかり握っている主税が、干鱈のように仆れているばかりであった。
 時がだんだんに経って行った。
 やがて、主税は気絶から覚めた。
 誰か自分を呼んでいるようである。
 そうして、自分の後脳の下に、暖かい柔らかい枕があった。
 主税はぼんやり眼を開けて見た。
 自分の顔のすぐの真上に、自分の顔へ蔽いかぶさるように、星のような眼と、高い鼻と、薄くはあるが大型の口と、そういう道具の女の顔が、周囲《まわり》を黒の楕円形で仕切って、浮いているのが見て取られた。
 お高祖頭巾で顔を包んだ、浪速《なにわ》あやめ[#「あやめ」に傍点]の顔であった。
(あやめ[#「あやめ」に傍点]がどうしてこんな所に?)
 気力は恢復してはいなかったが、意識は返っていた主税はこう思って、口に出してそれを云おうとした。
 でも言葉は出せなかった。それ程に衰弱しているのであった。眼を開けていることも出来なくなった。そこで彼は眼を閉じた。
 そう、主税に膝枕をさせ、介抱している女はあやめ[#「あやめ」に傍点]であった。鼠小紋の小袖に小柳繻子の帯、紫の半襟というその風俗は、女太夫というよりも、町家の若女房という風であり、お高祖頭巾で顔を包んでいるので、謎を持った秘密の女めいても見えた。
「山岸様、山岸主税様! お気が付かれたそうな、まア嬉しい! 山岸様々々々!」とあやめ[#「あやめ」に傍点]はいかにも嬉しそうに、自分の顔を主税の顔へ近づけ、情熱的の声で云った。
「それに致しましても何て妾《わたし》は、申し訳のないこといたしましたことか! どうぞお許しなすって下さいまし。……ほんの妾の悪戯《いたずら》[#「《いたずら》」は底本では「《いたづら》」]心から、差しあげた独楽が原因となって、こんな恐ろしいことになるなんて。……それはあの独楽には何か秘密が、――深い秘密のあるということは、妾にも感づいてはおりましたが、でもそのためにあなた様へ、あの独楽を上げたのではごさいません。……ほんの妾の出来心から。……それもあなた様がお可愛らしかったから。……まあ厭な、なんて妾は……」
 これがもし昼間であろうものなら、彼女の頬に赤味が注し、恥らいでその眼が潤んだことを、見てとることが出来たであろう。

   勘兵衛や武士を殺した者は?

 あやめ[#「あやめ」に傍点]があの独楽を手に入れたのは、浪速高津《なにわこうず》の古物商からであった。それも孕独楽《はらみごま》一揃いとして、普通に買入れたのに過ぎなかった。その親独楽も十個の子独楽も、名工四国太夫の製作にかかわる、名品であるということは、彼女にもよく解《わか》っていた。そうして子独楽の中の一個《ひとつ》だけが、廻すとその面へ文字を現わすことをも彼女はよく解っていた。
 すると、或日一人の武士が、飛田林覚兵衛《とんだばやしかくべえ》と宣《なの》りながら、彼女の許へ訪ねて来て、孕独楽を譲ってくれるようにと云った。しかしあやめ[#「あやめ」に傍点]は商売道具だから、独楽は譲れないと断った。すると覚兵衛は子独楽の一つ、文字を現わす子独楽を譲ってくれるようにと云い、莫大な金高を切り出した。それであやめ[#「あやめ」に傍点]はその子独楽が、尋常の品でないことを知った。それにその子独楽一つだけを譲れば、孕独楽は後家独楽になってしまう。そこであやめ[#「あやめ」に傍点]は断った。
 しかし、覚兵衛は断念しないで、その後もあやめを付け廻し、或いは嚇し或いは透かし[#「透かし」はママ]て、その子独楽を手中に入れようとした。それがあやめ[#「あやめ」に傍点]の疳に障り、感情的にその子独楽を、覚兵衛には譲るまいと決心した。と同時にその子独楽が、あやめ[#「あやめ」に傍点]には荷厄介の物に思われて来た。その中あやめ[#「あやめ」に傍点]は縁があって、江戸の両国へ出ることになった。
 そこで浪速から江戸へ来た。するとどうだろう飛田林覚兵衛も、江戸へ追っかけて来たではないか。
 こうして昨日《きのう》の昼席となった。
 舞台で孕独楽を使っていると、間近の桟敷で美貌の若武士が――すなわち山岸主税なのであるが、熱心に芸当を見物していた。ところが同じその桟敷に、飛田林覚兵衛もいて、いかにも子独楽が欲しそうに、眼を据えて見物していた。
(可愛らしいお方)と主税に対しては思い、(小面憎い奴)と覚兵衛に対しては感じ、この二つの心持から、あやめ[#「あやめ」に傍点]は悪戯《いたずら》[#「《いたずら》」は底本では「《いたづら》」]をしてしまったのである。即ち舞台から例の小独楽を、見事に覚兵衛の眼を掠め、主税の袖の中へ投げ込んだのである。
(孕独楽が後家独楽になろうとままよ、妾《わたし》にはあんな子独楽用はない。……これで本当にサバサバしてしまった)
 あやめ[#「あやめ」に傍点]はそう思ったことであった。
 そうして彼女は今日の昼席から、定席へも出演《で》ないことに決心し、宿所《やど》をさえ出て行方を眩ましてしまった。それは彼女にとっては一生の大事業を、決行することに心を定め、その準備に取りかかったからであった。
 でも彼女は夕方になった時、職場が恋しくなって来た。そこでこっそり出かけて行った。ところが裏木戸の辺りまで行って見ると、太夫元の勘兵衛と山岸主税とが、自分のことについて話しているではないか。そこで、彼女は側《そば》の空店《あきだな》の中へ、素早く入って身を忍ばせ、二人の話を立聞きした。その中に勘兵衛が無礼の仕打ちを、主税に対してとろうとした。
(どうで勘兵衛は遅かれ早かれ、妾が手にかけて殺さなければ、虫の納まらない奴なのだから、いっそ此処で殺してしまおう)
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は心をそう定めた。
 で、手練の独楽の紐を――麻と絹糸と女の髪の毛とで、蛇のように強い弾力性を持たせて、独特に作った独楽の紐を、雨戸の隙から繰り出して、勘兵衛の首へ巻き付けて、締めて他愛なく殺してしまった。
(これで妾の一生の大事業の、一つだけを片付けたというものさ)
 もっと苦しめて殺してやれなかったことに、心外さこそは覚えたが、殺したことには満足を感じ、彼女は紐を手繰り寄せ、懐中《ふところ》へ納めて様子をうかがった。
 すると小屋から人が出て来るらしく、主税が急いで立ち去った。
 そこであやめ[#「あやめ」に傍点]も空店から走り出し、主税の後を追っかけた。
 主税が自分を両国広小路の、独楽の定席へ訪ねて来たのは、自分が主税の袖へ投げ込んだ独楽の、秘密を聞きたかったに相違ないと、そうあやめ[#「あやめ」に傍点]は思ったので、主税に逢ってそれを話そうと、さてこそ主税を追っかけたのであったが、愛を感じている相手だっただけに、突然近付いて話しかけることが、彼女のような女にも面伏せであり、そこでただ彼女は主税の行く方へ、後から従いて行くばかりであった。そのあげく、お茶の水のここへ来た。その結果がこの有様となった。
「山岸様!」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は呼んで、膝の上に乗っている主税の顔へ、また自分の顔を近付けて行った。
「大藪の中から紐を繰り出し、お侍さんの一人を絞め殺しましたのは、このあやめ[#「あやめ」に傍点]でございます。……わたしの差し上げた独楽のことから、このような大難にお逢いなされ、あなた様にはさぞこのあやめ[#「あやめ」に傍点]が、憎い女に思われるでございましょうが、あなた様のお為に人間一人を、締め殺しましたことにお免じ下され、どうぞお許しなすって下さいまし」

   教団の祖師

 でも主税は返辞をしなかった。
 ますます衰弱が激しくなり、又神気が朦朧となり、返辞をすることが出来ないからであった。
(このお方死ぬのではあるまいか?)
 こう思うと彼女は悲しかった。
(実家《いえ》を出て十年にもなる。流浪から流浪、艱難から艱難、いろいろのお方とも出入りを重ねたが、真底から可愛《いと》しいと思われたのは、偶然にお逢いしたこの方ばかり。……それだのにこのお方死なれるのかしら?)
 月の位置が移ったからであろう。梢から射していた月光が、円い巨大な柱のように、あやめと主税との二人の体の上へ、蛍草の色に降りて来ていた。その明るい光の輪の中では、産れて間もないらしい細い羽虫が、塵のように飛び交っていた。そうして明るい光の輪の底には、白芙蓉のように蒼白い、彫刻のように端正の、主税の顔が弱々しく、眼を閉じ口を閉じて沈んでいた。
(こうしてはいられない)
 にわかにあやめは気がついて思った。
(町へ行って駕籠を雇って、主税様をお屋敷へお送りしなければ)
 そこで、あやめは立ち上った。

 この時から半刻《はんとき》ばかり経った時、龕燈の光で往来《みち》を照らしながら、老人と少年と女猿廻しとが、秋山様通りの辺りを通っていた。昨夜《ゆうべ》御用地の林の中にいた、その一組に相違なかった。
 お屋敷町のこの辺りは、この時刻には人通りがなく、犬さえ歩いてはいなかった。武家屋敷の武者窓もとざされていて、戸外《そと》を覗いている人の顔など、一つとして見えてはいなかった。で、左右を海鼠《なまこ》壁によって、高く仕切られているこの往来《とおり》には、真珠色の春の夜の靄と、それを淹《こ》して射している月光とが、しめやかに充ちているばかりであった。
 伊賀袴を穿いた美少年が、手に持っている龕燈で、時々海鼠壁を照らしたりした。と、その都度壁の面へ、薄赤い光の輪が出来た。
 龕燈を持った美少年を先に立て、その後から老人と女猿廻しとが、肩を並べて歩いて行くのであった。
「ねえお爺様……」と女猿廻しは云って、編笠は取って腰へ付け、星のような眼の、高い鼻の、薄くはあるが大型の口の、そういう顔を少し上向け、老人を仰ぎながら審かしそうに続けた。
「なぜたかが一本ばかりの木を、三十年も護《まも》って育てましたの?」
「それはわしにも解《わか》らないのだよ」
 袖無を着、伊賀袴を穿き、自然木の杖を突いた老人は、卯の花のように白い長い髪を、肩の辺りでユサユサ揺りながら、威厳はあるが優しい声で云った。
「なぜたかがに傍点]一本ばかりのそんな木を、三十年もの間育てたかと、そういう疑いを抱くことよりそんなたかが一本ばかりの木を、迷わず怠らず粗末にせず、三十年もの間護り育てた、そのお方の根気と誠心《まごころ》と、敬虔な心持に感心して、そのお方のお話を承わろうと、そう思った方がいいようだよ」
「ええそれはそうかもしれませんけれど。……で、その木は何の木ですの?」
「榊《さかき》の木だということだが、松であろうと杉であろうと、柳であろうと柏の木であろうと、そんなことはどうでもよいのだよ」
「それでたくさんのいろいろの人が、そのお方の所に伺って、お教えを乞うたと仰有《おっしゃ》るのね?」
「そうなのだよ、そうなのだよ。そんなに根気のよい、そんなに誠心の敬虔のお心を持ったお方なら、私達の持っている心の病気や、体の病気を癒して下されて、幸福な身の上にして下さるかもしれないと、悩みを持ったたくさんの人達が、そのお方の所へ伺って、自分たちの悩みを訴えたのだよ」
「するとそのお方がその人達の悩みを、みんな除去《とりさ》って下すったのね」
「解り易い言葉でお説きなされて、心の病気と体の病気を、みんな除去って下されたのだよ」
「それでだんだん信者が増えて、大きな教団になったと仰有る[#「仰有る」は底本では「有仰る」]のね」
「そうなのだよ。そうなのだよ」
「そのお方どんなお方ですの?」
「わしのような老人なのだよ」
「そのお方の名、何て仰有る[#「仰有る」は底本では「有仰る」]の?」
「信者は祖師《そし》様と呼んでいるよ。……でも反対派の人達は『飛加藤《とびかとう》の亜流』だと云っているよ」
「飛加藤? 飛加藤とは?」
「戦国時代に現われた、心の邪な忍術使いでな、衆人《みんな》の前で牛を呑んで見せたり、観世縒で人間や牛馬を作って、それを生かして耕作させたり、一丈の晒布《さらし》に身を変じて、大名屋敷へ忍び込んだり、上杉謙信の寝所へ忍び、大切な宝刀を盗んだりした、始末の悪い人間なのだよ」

   植木師の一隊

「どうしてお偉いお祖師様のことを、飛加藤の亜流などというのでしょう?」
「祖師様のなさるいろいろの業が、忍術使いのまやかし[#「まやかし」に傍点]の業のように、人達の眼に見えるからだよ」
「お爺さん、あなたもそのお祖師様の、信者のお一人なのでごさいますのね」
「ああそうだよ、信者の一人なのだよ」
「お爺さんのお名前、何て仰有《おっしゃ》る[#「仰有《おっしゃ》る」は底本では「有仰《おっしゃ》る」]の?」
「世間の人はわしの事を、飛加藤の亜流だと云っているよ」
「ではもしやお爺さんが、そのお偉いお祖師様では?」
 しかし老人は返辞をしないで、優しい意味の深い微笑をした。
 三人は先へ進んで行った。
 背中の猿は眠ったと見えて、重さが少し加わって来た。それを女猿廻しは揺り上げながら、
(実家《いえ》を出て十年にもなる。流浪から流浪、艱難から艱難、いろいろのお方とも出入りを重ねたが真底から偉いと思ったお方は、このご老人の他にはない。このお方がきっとお祖師様なのだよ)
(でも妾《わたし》は一生の大事業の、その小口に取りかかったのに、こんなお爺さんと連立って、こんなお話をして歩くなんて、よいことだろうか悪いことだろうか?)
 こうも彼女には思われるのであった。
 三人は先へ進んで行った。
 やがて、四辻の交叉点へ出た。
 それを左の方へ曲がりかけた時、右手の方から一隊の人数が、粛々とこっちへ歩いて来た。
 根元の辺りを菰《こも》で包んだ、松だの柏だの桜だの梅だの、柳だの桧だのの無数の植木を、十台の大八車へ舁《か》き乗せて、それを曳いたりそれを押したり、また左右に付添ったりして、四十人ほどの植木師らしい男が、こっちへ歩いて来るのであった。深夜だから音を立てまいとしてか、車の輪は布で巻かれていた。植木師の風俗も変わっていた。岡山頭巾で顔をつつみ、半纏の代わりに黒の短羽織《みじかばおり》を着、股引の代わりに裁着《たっつけ》を穿《は》き、そうして腰に一本ずつ[#「一本ずつ」は底本では「一本づつ」]、短い刀を差していた。
 車の上の植木はいずれも高価な、立派な品らしく見受けられたが、往来《みち》の左右の海鼠壁よりも高く、月夜の空の方へ葉や枝を延ばし、車の揺れるに従って、それをユサユサと揺する様子は、林が歩いてでも来るようであった。
 その一隊が三人の前まで来た時、手を左右に振りながら、警戒するように『叱《しっ》!』と云った。近寄るなとでも云っているようであった。
「叱!」「叱!」と口々に云った。
 一隊は二人の前を通り過ぎようとした。
 すると、この辺りの屋敷へ呼ばれ、療治を済ませて帰るらしい、一人の按摩が向う側の辻から、杖を突きながら現われたが、その一隊の中へうっかりと入った。
「叱《しっ》!」「叱《しっ》!」という例の声が、植木師の声などとは思われないような、威嚇的の調子をもって、一際高く響きわたり、ふいに行列が立ち止まった。
 数人の植木師が走って来て、一所へ集まって囁き合い、ひとしきりそこに混乱が起こった。
 がすぐに混乱は治まって、一隊は粛々と動き出し、林は先へ進んで行った。しかし見れば往来《みち》の一所に、黒い大きな斑点が出来ていた。
 按摩の死骸が転がっているのである。
「お爺さん!」と恐ろしさに女猿廻しは叫んで、老人の腕に縋りついた。それを老人は抱えるようにしたが、
「障《さ》わったからじゃ。……殺されたのじゃ」
「何に、お爺さん、何に障わったから?」
「木へ! そう、一本の木へ!」
 それから老人は歩き出した。三人はしばらく沈黙して歩いた。道がまた辻になっていた。
 それを右へ曲がった時、屋敷勤めの仲間らしい男が、仰向けに道に仆れているのが見えた。
 その男も死んでいた。
「お爺さん、またここにも!」
「障わったからじゃ。殺されたのじゃ」
「お爺さん、お爺さん、あなたのお力で……」
「あの木で殺された人間ばかりは、わしの力でもどうにもならない」
 悪魔の一隊は今も近くの、裏通りあたりを通っていると見え、そうして又も人を殺したと見え、
「叱!」「叱!」という混乱した声が、三人の耳へ聞こえてきた。

   美しき囚人

 同じこの夜のことであった。
 田安家の大奥の一室に、座敷牢が出来ていて、腰元風の若い女と、奥家老の松浦頼母とが、向かい合って坐っていた。
「八重《やえ》、其方《そち》は強情だのう」
 眼袋の出来ている尻下りの眼へ、野獣的の光を湛え、酷薄らしい薄い唇を、なめずるように舌で濡らしながら、頼母はネットリとお八重へ云った。
「将軍家《うえさま》より頂戴した器類を、館より次々に盗み出したことは、潔よく其方も白状したではないか。では何者に頼まれて、そのようなだいそれ[#「だいそれ」に傍点]た悪事をしたか、これもついで[#「ついで」に傍点]に云ってしまうがよい。……其方がどのようにシラを切ったところで、其方一人の考えから、そのような悪事を企てたものとは、誰一人として思うものはないのだからのう」
 云うことは田安家の奥家老として、もっとも千万のことであり、問い方も厳しくはあったけれど、しかし頼母の声や態度の中には、不純な夾雑物《まじりもの》が入っていて、ひどく厭らしさを感じさせるのであった。
「ご家老様」とお八重は云って、白百合のように垂れていた頸を、物憂そうに重々しく上げた。
「ご家老様へお尋ねいたしまするが、貴郎《あなた》様がもしもお館様より、これこれのことを致して参れと、ご命令をお受け遊ばされて、ご使命を執り行ない居られます途中で、相手の方に見現わされました際、貴郎様にはお館様のお名を、口にお出しなさるでございましょうか?」
「なにを馬鹿な、そのようなこと、わしは云わぬの、決して云わぬ」
「八重も申しはいたしませぬ」
「…………」
 頼母は無言で眉をひそめたが、やがてその眉をのんびりさせると、大胆な美しいお八重の姿を、寧ろ感心したように眺めやった。
 まことお八重は美しかった。年は二十二三でもあろうか、細々とした長目の頸は、象牙のように白く滑かであり、重く崩れて落ちそうな程にも、たくさんの髪の島田髷は、鬘かのように艶やかであった。張の強い涼しい眼、三ヶ月形の優しい眉、高くはあるがふっくりとした鼻、それが純粋の処女の気を帯びて、瓜実形の輪郭の顔に、綺麗に調和よく蒔かれている。
 小造りの体に纏っている衣裳は、紫の矢飛白《やがすり》の振袖で、帯は立矢の字に結ばれていた。
 そういう彼女が牢格子の中の、薄縁を敷いた上に膝を揃えて、端然として坐っている姿は「美しい悲惨」そのものであった。牢の中は薄明るかった。というのは格子の外側に、頼母が提げて来たらしい、網行燈が置いてあって、それから射している幽かな光が、格子の間々から射し入って、明暗を作っているからであった。
「見上げたの、見上げたものじゃ」
 ややあってから松浦頼母は、感心したような声で云った。
「武家に仕える女の身として、そういう覚悟は感心なものじゃ。……使命を仕損じた暁には、たとえ殺されても主人の名は云わぬ! なるほどな、感心なものじゃ」
 しかし、何となくその云い方には、おだてる[#「おだてる」に傍点]ような所があった。そうしてやはり不純なものが、声の中に含まれていた。
「天晴《あっぱ》れ女丈夫と云ってもよい。……処刑するには惜しい烈婦じゃ。……とはいえ、お館の掟としてはのう」
 網行燈の光に照らされ、猪首からかけて右反面が、薄|瑪瑙《めのう》色にパッと明るく、左反面は暗かったが、明るい方の眼をギラリと光らせ、頼母はにわかに怯かすように云った。
「いよいよ白状いたさぬとあれば、明日|其方《そち》を打ち首にせよとの、お館様よりのお沙汰なのだぞよ!」

   お八重と女猿廻し

 しかしお八重は「覚悟の前です」と、そういってでもいるかのように、髪の毛一筋動かさなかった。ただ柘榴《ざくろ》の蕾のような唇を、心持噛んだばかりであった。
(どうしてこんなことになったのだろう?)と彼女は心ひそかに思った。
 お八重は今から二年ほど前に、奥方様附の腰元として、雇い入れられた女なのであるが、今日の昼間奥方様に呼ばれ、奥方様のお部屋へ行った。すると奥方様は彼女に向かい、百までの数字を書いてごらんと云われた。不思議なことと思いながら、云われるままに彼女は書いた。彼女は部屋へ戻ってから、そのようにして数字を書かされた者が、自分一人ではなくて大奥全体の女が、同じように書かされたということを聞いて、少しばかり不安に思った。
 すると、間もなく奥方様のお部屋へ、また彼女は呼び出された。行ってみると何とその部屋には、奥家老の松浦頼母がいて、一葉の紙片を突き出した。昨夜女猿廻しのお葉《よう》へ、独楽のなかへ封じ入れて投げて与えた、自分からの隠語の紙片であった。ハ――ッとお八重は溜息を吐いた。
 頼母の訊問は烈しかった。
「隠語の文字と其方《そち》の文字、同一のものと思われる、其方この隠語を書いたであろう?」
「書きましてござります」
「お館の外の何者かと謀《はか》り、お館の器類を、数々盗んで持ち出したであろう?」
「お言葉通りにござります」
「これほどの大事を女の身一つで、行なったものとは思われぬ、何者に頼まれてこのようなことをしたか?」
「わたくしの利慾からにござります。決して誰人《どなた》にも頼まれましたのではなく……」
「黙れ、浅はかな、隠し立ていたすか! 尋常な品物であろうことか、代々の将軍家より賜わった、当家にとっては至極の宝物ばかりを、選りに選って盗んだは、単なる女の利慾からではない。頼んだ者があるはずじゃ、何者が頼んだか名を明かせ!」
 しかしお八重は口を噤《つぐ》んで、それについては一言も答えなかった。すると頼母は訊問を転じ、
「お館の外の共謀者、何者であるか素性を申せ!」
「申し上げることなりませぬ」
 この訊問に対しても、お八重は答えを拒んだのであった。
 そこで、お八重は座敷牢へ入れられた。
 すると、このような深夜になってから、頼母一人がやって来て、また訊問にとりかかったのであった。
(どうしてこんなことになったのだろう?)
(どうして秘密の隠語の紙が、ご家老様の手へなど渡ったのだろう?)
 これが不思議でならなかった。
(女猿廻しのあのお葉が、では頼母様の手に捕らえられたのでは?)
 お葉と宣《なの》っている女猿廻しは、お八重にとってはよい加担者であった。でもお葉を加担者に引き入れたのは、全く偶然のことからであった。――ある日お八重はお長屋の方へ、用を達すために何気なく行った。すると女の猿廻しが、お長屋で猿を廻していた。あんまりその様子が可愛かったので、多分の鳥目を猿廻しにくれた。これが縁の始まりで、その後しばしば女猿廻しとお八重は、あちこちのお長屋で逢って話した。その間にお八重はその女猿廻しが、聡明で大胆だということと、再々田安家のお長屋へ来て、猿を廻して稼ぐのは、単なる生活《くらし》のためではなく、何らか田安家そのものに対して、企らむところがあってのことらしいと、そういうことを見て取った。そこでお八重は女猿廻しを呼んで、自分の大事を打ち明けた。
「妾《わたし》は田安家の奥方様附の、腰元には相違ないけれど、その実は田安家に秘蔵されている、ある大切な器物を、盗み出すためにあるお方より、入り込ませられた者なのです。もっともその品を盗み出す以前《まえ》に、その他のいろいろの器物を、盗み出すのではありますけれど。……ついては其方《そなた》妾の加担者となって、盗んだ器物を機会を見て、妾から其方へ渡しますゆえ、其方その品を何処へなりと、秘密に隠しては下さるまいか。……是非にお頼みいたします。事成就の暁には、褒美は何なりと差し上げます」
 こう大事を打ち明けた。すると女猿廻しは考えこんだが、
「田安様の品物が盗まれました際、その責任は田安様の、誰人《どなた》に行くのでございましょうか?」と訊いた。
「それはまァ奥家老の松浦様へ」
「松浦へ! おお松浦頼母へ! ……では妾《わたし》あなた様の、加担者になるでございましょう! ……そうしてあの松浦頼母めを、切腹になと召し放しになと!」と女猿廻しは力を籠めて云った。
 それでお八重は女猿廻しのお葉が、何かの理由で松浦頼母に、深い怨みを抱いていることを、いち早く見て取ったが、しかしお葉がどういう理由《わけ》から、松浦頼母に怨みを抱くかを、押して訊こうとはしなかった。

   二つ目の独楽

 とにかくこうして二人の女は、それ以来一味となり、お八重から渡す隠語を手蔓《つて》に、時と場所とを示し合わせ、お八重の盗み出す田安家の器物を、女猿廻しのお葉は受け取り、秘密の場所へ人知れず隠し、今日に及んで来たのであった。
(隠語の紙片が頼母様の手へ入った! ではお葉も頼母様のお手に、引っとらえられたのではあるまいか?)
 これがお八重の現在の不安であった。
(いやいや決してそんなことはない!)
 お八重はやがて打ち消した。
(でも隠語を認めた紙片が、頼母様のお手へ入った以上、それを封じ込めてやったあの独楽が、頼母様のお手へ入ったことは、確かなことといわなければならない!)
 これを思うとお八重の胸は、無念と口惜しさに煮えるのであった。
(淀屋の独楽を奪い取れ! これがあの方のご命令だった。……淀屋の独楽を奪い取ろうとして、妾は二年間このお屋敷で、腰元奉公をしていたのだ。そうしてようやく目的を達し、淀屋の独楽を奪い取ったら、すぐに他人に奪い返されてしまった。何と云ったらいいだろう!)
 代々の将軍家から田安家へ賜わった、数々の器類を奪ったのも、目的の一つには相違なかったが、真の目的はそれではなくて、淀屋の独楽を奪うことであった。
 彼女は田安家へ入り込むや否や、淀屋の独楽の在場所を探した。と、教えられてきた淀屋の独楽と、そっくりの型の独楽を奥方妙子様が、ご秘蔵なされていることを知った。しかし一つだけ不思議なことには、その独楽は淀屋の独楽と違って、いくら廻しても独楽の面へ、一つとして文字を現わさなかった。
「では淀屋の独楽ではないのだろう」と思って、お八重は奪うことを躊躇した。ところが此頃になって老女の一人が「あの独楽は以前には廻す毎に、文字を現わしたものでございますが、いつの間にやらその事がなくなって、この頃ではどのように廻したところで、文字など一字も現われません」と話した。
「ではやはり奥方様お持ちの独楽は、淀屋の独楽に相違ない」とそうお八重は見極めをつけ、とうとうその独楽を昨日奪って、折柄塀外へ来たお葉の手へ、投げて素早く渡したのであった。今夜裏門にて――と隠語に書いたのは、望みの品物を奪い取ったのだから、もうこの屋敷にいる必要はない。でお葉に裏門まで来て貰って、一緒にこの屋敷から逃げ出そうと思い、さてこそそのように書いたのであった。
「ご家老様」とお八重は云って、今までじっと俯向いて、膝頭を見詰めていた眼を上げて、頼母の顔を正視した。
「隠語を記しましたあの紙片を、ご家老様には何者より?」
「あれか」
 すると松浦頼母は複雑の顔へ一瞬間、冷笑らしいものを漂わせたが、
「其方《そち》の恋人山岸主税が、わしの手にまで渡してくれたのよ!」
「え――ッ、まア! いえいえそんな!」
 物に動じなかったお八重の顔が、見る見る蒼褪め眼が血走った。

   お八重の受難

 そういうお八重を松浦頼母は、嘲笑いの眼で見詰めたが、
「去年の秋御殿で催された、観楓の酒宴以来|其方《そち》と主税《ちから》とが、恋仲になったということは、わしにおいては存じて居った。が、お八重其方も存じおるはずだが、其方を恋して其方という者を、主税より先に我物にしようと、懇望したものは誰だったかのう?」
 頼母はお八重を嘗めるように見たが、
「わしであったはずじゃ、頼母であったはずじゃ」
 云い云い頼母は老いても衰えない、盛り上っている肉太の膝を、お八重の方へニジリ[#「ニジリ」は底本では「ニヂリ」]寄せた。
 お八重は背後《うしろ》へ体を退《ず》らせたが、しかしその瞬間去年の秋の、観楓の酒宴での出来事を、幻のように思い出した。
 その日、夜になって座が乱れた。お八重は酒に酔わされたので、醒まそうと思って庭へ出た。と、突然背後から、彼女に触れようとする者があった。お八重は驚いて振り返ってみると、意外にも奥家老の松浦頼母で、
「其方《そち》がお館へ上った日以来、わしは其方に執心だったのじゃ」と云った。
 すると、そこへちょうど折よく、これも酒の酔いを醒まそうとして、通り掛かった山岸主税が、
「や、これはご家老様にはお八重殿にご酔興なそうな。アッ、ハッ、ハッ、お気の毒千万、そのお八重殿とわたくしめとは、夫婦約束いたした仲でござる。わたくしめの許婚《いいなずけ》をお取りなさるは殺生、まずまずお許し下されませ」と冗談にまぎらせて仲を距て、お八重の危難を救ってくれた。
 ところがこれが縁となって、お八重と主税とは恋仲となり、肉体《からだ》こそ未だに純潔ではあれ、末は必ず夫婦になろうと約束を結んだのであった。しかるに一方松浦頼母も、お八重への恋慕を捨ようとはしないで、絶えずお八重を口説いたことであった。そうして今お八重にとって、命の瀬戸際というこの時になって、……
「お八重」と頼母は唆かすように云った。
「今日の昼主税めわしの所へ参り、『私こと昨夜お館附近を、見廻り警戒いたしおりましたところ、怪しい女猿廻しめが、ご用地附近におりましたので、引っとらえようといたしましたところその猿廻しめは逃げましたが、独楽を落としましてござります。調べましたところ独楽に細工あって、隠語を認めましたこのような紙片が、封じ込めありましてございます。隠語を解けば――コンヤウラモンニテ、と。……思うにこれはお館の中に、女猿廻しの一味が居りまして、それと連絡をとりまして、お館の大切な器類を、盗み出したに相違なく、しかも女猿廻し一味のものは、女に相違ござりませぬ。何故と申せば隠語の文字、女文字ゆえでござりまする。左様、女にござりまする! 奥方様付のお腰元、お八重殿にごさりまする! わたくしお八重殿の文字の癖をよく存じておりまする』とな。……」
「嘘だ嘘だ! 嘘でごさりまする! 主税殿が何でそのようなことを!」
 手を握りしめ歯切りをし、お八重はほとんど狂乱の様で、思わず声高に叫ぶように云った。
「妾《わたし》の、妾の、主税様が!」
「フッフッフッ、ハッハッハッ、可哀そうや可哀そうやのう[#「のう」に傍点]お八重、其方《そち》としては信じていた恋男が、そのようなことをするものかと、そう思うのは無理もないが、それこそ恋に眼の眩んだ、浅はかな女の思惑というもの、まことは主税というあの若造、軽薄で出世好みで、それくらいの所業など平気でやらかす、始末の悪い男なのじゃ。つまるところ恋女の其方を売って、自分の出世の種にしたのよ」
 ここで頼母はお八重の顔を、上眼使いに盗むように見たが、
「だが、座敷牢へは入れたものの、其方の考え一つによって命助ける術もある。お八重、強情は張らぬがよい、この頼母の云うことを聞け! 頼母|其方《そなた》の命を助ける!」と又肉太の膝をムズリと、お八重の方へ進めて行った。

   陥穽から男が

 すると、お八重の蒼白の顔へ、サッと血の気の注すのが見えたが、
「えい穢らわしい、何のおのれに!」
 次の瞬間にお八重の口から、絹でも裂くように叫ばれたのは、憎悪に充ちたこの声であった。
「たとえ打ち首になろうとも、逆磔刑にされようとも、汝《おのれ》ごときにこの体を、女の操を許そうや! 穢らわしい穢らわしい! ……山岸主税様が隠語の執筆家《かきて》を、この八重と承知の上で、汝の許へ申し出たとか! 嘘だ、嘘です、何の何の、主税様がそのようなことをなされますものか! ……なるほど、あるいは主税様は、なにかの拍子に女猿廻しから、独楽に封じた隠語の紙を、お手に入れられたかもしれませぬが、わたくしの筆癖と隠語の文字とが、似ているなどと申しますものか! もし又それにお気附きになったら、わたしの為に計られて、かえってそれを秘密にして、葬ってしまったでございましょう! わたしに対する主税様の、熱い烈しい愛情からすれば……」
「黙れ!」と忍び音ではあったけれど、怒りと憎悪との鋭い声で、突然頼母は一喝したが、ヌッとばかりに立ち上った。
「何かと言えば主税様! そうか、それほど山岸主税が、其方《そち》には大切で恋しいか! ……よーしそれではその主税めを! ……が、まアよい、まアその中に、その主税様を忘れてしまって、頼母様、頼母様と可憐《いとし》らしく、わしを呼ぶようになるであろう。またそのように呼ばせてもみせる。……とはいえ今の其方の様子ではのう。……第一正気でいられては……、眠れ!」と云うと壁の一所を、不意に頼母は指で押した。
 と、その瞬間「あッ」という悲鳴が、お八重の口から迸り、忽然としてそのお八重の姿が、座敷牢から消えてなくなり、その代わりにお八重の坐って居た箇所へ、畳一畳ばかりの長方形の穴が、黒くわんぐりと口を開けた。陥穽《おとしあな》にお八重は落ちたのであった。頼母は壁際に佇んだまま、陥穽の口を見詰めていた。すると、その口から男の半身が、妖怪《もののけ》のように抽け出して来たが、
「お殿様、上首尾です」――こうその男は北叟《ほくそ》笑みながら云った。
「そうか。そこで、気絶でもしたか?」
「ノンビリとお眠りでございます。……やんわりとした積藁の上に、お八重様にはお眠ねで」
「強情を張る女には、どうやらこの手がよいようだのう」
「死んだようになっている女の子を、ご介抱なさるのは別の味で……ところでお殿様お下りなさいますか? ……すこし梯子《はしご》は急でござんすが」
「まさか穴倉の底などへは。……命じて置いた場所へ運んで行け」
「かしこまりましてございます」
 奥眼と云われる窪んだ眼、鉤鼻と云われる険しい鼻、そういう顔をした四十五六歳の、陥穽から抽け出て来た男は、また陥穽の中へ隠れようとした。
 と、頼母は声をかけた。
「八重めが途中で正気に返ったら、猿轡など噛ませて声立てさせるな。よいか勘兵衛、わかったろうな」
「わかりましてござります」
 その男――勘兵衛は頷いて云った。
 勘兵衛? いかにもその男は、両国広小路の曲独楽の定席《こや》の、太夫元をしていた勘兵衛であった。でもその勘兵衛は今日の夕方、その定席の裏木戸口で、浪速あやめのために独楽の紐で、締め殺されたはずである。それだのに生きてピンシャンしているとは? しかも田安家の奥家老、松浦頼母というような、大身の武士とこのように親しく、主従かのように振舞っているとは?
 しかしそういうさまざまの疑問を、座敷牢の中へ残したまま、勘兵衛は陥穽の中へ消えてしまった。と、下っていた陥穽の蓋が、自ずと上へ刎ね上り、陥穽の口を閉ざしてしまった。
 頼母が網行燈をひっさげて、座敷牢から立去った後は、闇と静寂《さびしさ》ばかりが座敷牢を包み、人気は全く絶えて[#「絶えて」は底本では「耐えて」]しまった。

 それから少時《しばらく》の時が経った。
 同じ廓内の一所に、奥家老松浦頼母の屋敷が、月夜に厳めしく立っていた。その屋敷の北の隅に、こんもりとした植込に囲まれ、主屋と別に建物が立っていた。
 土蔵造りにされているのが、この建物を陰気にしている。
 と、この建物の一つの部屋に、山岸主税が高手籠手に縛られ、柱の傍に引き据えられてい、その周囲に五人の覆面の武士が、刀を引き付けて警戒してい、その前に淀屋の独楽の一つを、膝の上へ載せた松浦頼母が、主税を睨みながら坐ってい、そうしてその横に浪人組の頭の、飛田林覚兵衛が眼を嘲笑わせ、これも大刀[#「大刀」はママ]を膝の前へ引き付け、主税を眺めている光景を、薄暗い燭台の黄色い光が朦朧として照していた。
 それにしてもどうして山岸主税が、こんな所に縛られているのだろう?
 そうして何故に飛田林覚兵衛が、こんな所へ現われて、松浦頼母の家来かのように、悠然と控えているのだろう?

   悪家老の全貌

 お茶の水で飛田林覚兵衛《とんだばやしかくべえ》に襲われ、浪速《なにわ》あやめに助けられ、そのあやめが雇ってくれた駕籠で山岸主税《やまぎしちから》は屋敷へかえって来た。
 すると、屋敷の門前で、五人の覆面武士に襲撃された。まだ主税は身心衰弱していたので、他愛もなく捕らえられ、目隠しをされて運ばれた。
 その目隠しを取られたところが、今居るこの部屋であり、自分の前には意外も意外、主家の奥家老である松浦頼母と、自分を襲った浪人の頭、飛田林覚兵衛がいるではないか!
 夢に夢見るという心持、これが主税の心持であった。
「主税」と頼母は威嚇するように云った。
「淀屋の独楽を所持しおること、飛田林覚兵衛より耳にした。その独楽を当方へ渡せ!」
 それから頼母は自分の膝の上の独楽を、掌《てのひら》にのせて見せびらかすようにしたが、
「これが二つ目の淀屋の独楽じゃ。以前は田安殿奥方様が、ご秘蔵あそばされていたものじゃ。が、拙者代わりの品物を作り、本物とすり換えて本物の独楽は、疾《とく》より拙者所持しておる。――と、このように秘密のたくらみ[#「たくらみ」に傍点]まで、自分の口から云う以上、是が非であろうと其方《そち》の所持しておる独楽を、当方へ取るという拙者の決心を、其方といえども感ずるであろうな。隠し立てせずと独楽を渡せ! ……おおそれからもう一つ、其方に明かせて驚かすことがある。其方を襲った飛田林覚兵衛、此処におる覚兵衛じゃが、これは実はわしの家来なのじゃ」
「左様で」と初めて飛田林覚兵衛は、星の入っている薄気味悪い眼を、ほの暗い燭台の燈に光らせながら、
「拙者、松浦様の家来なのだ。淀屋の独楽を探そうため、浪速くんだりまで参ったのじゃ。浪速あやめが独楽を持っていた。で、取ろうといたしたところ、あの女め強情に渡しおらぬ。そのうち江戸へ来てしまった。そこで拙者も江戸へ帰って、どうかして取ろうと苦心しているうちに、チョロリと貴殿に横取りされてしまった。と知った時松浦様へ、すぐご報告すればよかったのだが、独楽を探そうために長の年月、隠れ扶持をいただいておる拙者としては、自分の力で独楽を手に入れねばと、そこで貴殿を襲ったのじゃが、ご存知の通り失敗してしもうた。そこでとうとう我を折って、今夜松浦様へ小鬢を掻き掻き、つぶさに事情をお話しすると、では主税めを捕らえてしまえとな。……で、こういう有様となったので」
「主税」と今度は松浦頼母が、宥めすかすように猫撫声で云った。
「淀屋の財宝が目つかった際には、幾割かの分はくれてやる。その点は充分安心してよろしい。だから云え、どこにあるか。淀屋の独楽がどこにあるか。……それさえお前が云ってくれたなら、人を遣わして独楽を持って来させる。そうしてそれが事実淀屋の独楽であったら、即座に其方《そち》の縄目を解き、我々の同士の一人として、わしの持っている独楽へ現われて来る隠語を、早速見せても進《しん》ぜるし、二つの独楽をつき合わせ、互いの隠語をつなぎ合わせ、淀屋の財宝の在場所を調べるその謀議にもあずからせよう」
「黙れ!」と主税は怒声を上げた。
「逆臣! いや悪党!」
 乱れた鬢髪、血走った眼、蒼白の顔色、土気色の口、そういう形相を燭台の燈の、薄暗い中で強ばらせ、肋骨《あばら》の見えるまではだかった[#「はだかった」に傍点]胸を、怒りのために小顫いさせ、主税は怒声を上げ続けた。
「お館様の寛大仁慈に、汝《おのれ》つけ込んで年久しく、田安家内外に暴威を揮い、専横の振舞い致すということ、我ばかりでなく家中の誰彼、志ある人々によって、日頃取沙汰されていたが、よもや奥方様ご秘蔵の、淀屋の独楽を奪い取り、贋物をお側《そば》に置いたとは、――そこまでの悪事を致しおるとは、何たる逆賊! 悪臣! ……いかにも拙者浪速あやめ[#「あやめ」に傍点]より、淀屋の独楽を貰い受けた。それも偶然貰い受けたばかりで、それには大して執着はない。長年その独楽を得ようとして、探し求めていたというからには、進んで呉れてやらないものでもない。……が、何の汝《おのれ》ごときに――主君の家を乱脈に導き、奥方様のお大切の什器を、盗んだという汝如きに与えようや、呉れてやろうか! それを何ぞや一味にしてくれるの、財宝の分け前与うるのと! わッはッはッ、何を戯言! 一味になるは愚かのこと、縄引き千切り此処を脱け出し、直々お館にお眼通りいたし、汝の悪行を言上し、汝ら一味を狩りとる所存じゃ! 財宝の分け前与えると※[#感嘆符疑問符、1-8-78] わッはッはッ、片腹痛いわい! 逆に汝の独楽を奪い、隠語の文字ことごとく探り、淀屋の財宝は一切合財、この主税が手に入れて見せる! 解け、頼母、この縄を解け!」
 主税は満身の力を罩《こ》め、かけられている縄を千切ろうとした。土気色の顔にパッと朱が注し、額から膏汗《あぶらあせ》が流れ出した。

   生きている勘兵衛

「馬鹿者、騒ぐな、静かに致せ!」
 主税《ちから》のそういう悲惨《みじめ》な努力を、皮肉と嘲りとの眼をもって、憎々しく見ていた頼母《たのも》は云った。
「縄は解けぬ、切れもしないわい! ……お前がこの場で執るべき道は、お前の持っておる独楽をわしに渡し、わしの一味配下となるか、それともあくまで強情を張って、淀屋の独楽をひし[#「ひし」に傍点]隠しに隠し、わしの配下に殺されるか、さあこの二つの道しかない! ……生きるつもりか、死ぬつもりか※[#感嘆符疑問符、1-8-78] どうだ主税、どっちに致す!」
 頼母は改めてまた主税を見詰めた。
 しかし主税は返事さえしないで、憎しみと怒りとの籠った眼で、刺すように頼母を睨むばかりであった。
 そういう主税を取り囲んで、まだ覆面を取らない五人の浪人は、すわといわば主税を切り伏せようと、刀の柄へ手をかけている。飛田林覚兵衛は例の気味の悪い、星の入っている眼を天眼に据えて、これも刀の柄へ手をかけながら、松浦頼母の横手から、主税の挙動を窺っていた。
 部屋の気勢《けはい》は殺気を帯び、血腥い事件の起こる前の、息詰るような静寂《しずけさ》にあった。
「そうか」と頼母はやがて云った。
「物を云わぬな、黙っているな、ようし、そうか、では憂目を!」
 覚兵衛の方へ顔を向け、
「こやつにあれ[#「あれ」に傍点]を見せてやれ!」
 覚兵衛は無言で立ち上り、隣室への襖《ふすま》をあけた。
 何がそこに有ったろう?
 猿轡をはめられ腕を縛られ、髪をふり乱した腰元のお八重が、桔梗の花の折れたような姿に、畳の上に横倒しになってい、それの横手に蟇《ひき》かのような姿に、勘兵衛が胡座《あぐら》を掻いているのであった。
「お八重!」と思わず声を筒抜かせ、主税は猛然と飛び立とうとした。
「動くな!」と瞬間、覆面武士の一人が、主税の肩を抑えつけた。
「お八重、どうして、どうしてここへは※[#感嘆符疑問符、1-8-78] おおそうしてその有様は※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
 お八重は顔をわずかに上げた。起きられないほど弱っているらしい。こっちの部屋から襖の間《あい》を通して、射し込んで行く幽かな燈の光に、蛾のように白いお八重の顔が、鬢を顫わせているのが見えた。猿轡をはめられている口であった。物云うことは出来なかった。
「お八重さんばっかりに眼をとられて、あっしを見ねえとは阿漕《あこぎ》ですねえ」
 胡座から立て膝に直ったかと思うと、こう勘兵衛が冷嘲《ひやか》すように云った。
「見忘れたんでもござんすまいに」
「わりゃア勘兵衛!」と主税は叫んだ。
「死んだはずの勘兵衛が!」
「いかにも殺されたはずの勘兵衛で、へへへ!」と白い歯を見せ、
「あの時あっしア確かにみっしり[#「みっしり」に傍点]、締め殺されたようでござんすねえ。……殺そうとした奴ア解《わか》っていまさア。‥…あやめ[#「あやめ」に傍点]の阿魔《あま》に相違ねえんで。……あの阿魔以前からあっしの命を、取ろう取ろうとしていたんですからねえ。……取られる理由《わけ》もあるんですから、まあまあそいつア仕方ねえとしても、どうやらあっしというこの人間、あんなちょろっか[#「ちょろっか」に傍点]の締め方じゃア、殺されそうもねえ罪業者と見え、次の瞬間にゃア生き返って、もうこの通りピンピンしていまさあ。……そこでこの屋敷へ飛んで来て、淀屋の独楽を取らねえ先に、あやめ[#「あやめ」に傍点]の阿魔に逃げられたってこと、松浦様にご報告すると……」
「それでは汝《おのれ》も松浦頼母の……」
 重ね重ねの意外の事件に、主税は心を顛倒させながら、嗄《しゃが》れた声で思わず叫んだ。

   恋人が盗賊とは

「あたぼうよ、ご家来でさあ……もっとも最初《はな》は松浦様のご舎弟、主馬之進《しゅめのしん》様のご家来として、馬込の里の荏原《えばら》屋敷で……」
「喋舌《しゃべ》るな!」と叱るように一喝したのは、刀を杖のように突きながら、ノッソリと立ち上った頼母であった。
「お喋舌り坊主めが、何だベラベラと」
 それから主税の側《そば》へ行った。
「主税」と頼母は横柄の態度で、主税を上から見下ろしたが、
「其方《そち》の恋女腰元八重、縛《いまし》められてこの屋敷に居ること、さぞ其方には不思議であろうな。……その理由明かしてとらせる! お館にての頻々たる盗難、……その盗人こそ八重であったからじゃ!」
「…………」
 主税は無言で頼母を見上げた。余り意外のことを云われたので、その言葉の意味が受け取れず、で、呆然としたのであった。
「代々の将軍家より当田安家に対し下し賜わった名器什宝を、盗み出した盗人こそ、そこに居る腰元八重なのじゃ!」
 驚かない主税をもどかしがるように、頼母は言葉に力を罩《こ》めて云った。
「…………」
 しかし、依然として主税は無言のまま、頼母の顔を見上げていた。
 と、静かに主税の顔へ、ヒヤリとするような凄い笑いが浮かんだ。
(この姦物め、何を云うか! そのような出鱈目を云うことによって、こっちの心を惑わすのであろう。フフン、その手に乗るものか)
 こう思ったからである。
「主税!」と頼母は吼えるように喚いた。しかし、今度は反対《あべこべ》に、訓すような諄々とした口調で云った。
「女猿廻しより得たと申して、今朝|其方《そち》隠語の紙片と独楽とを、わしの許まで持って参り、お館の中に女の内通者あって、女猿廻しと連絡をとり、隠語の紙を伝《つて》として、お館内の名器什宝を、盗み出すに相違ござりませぬ。隠語の文字女文字にござりますと、確かこのように申したのう。そこでわしはこの旨お館に申し、更に奥方様のお手を借り、大奥の腰元全部の手蹟を、残るところなく調べたのだ。するとどうじゃ、八重めの文字が、隠語の文字と同じではないか。そこで八重めを窮命したところ、盗人に相違ござりませぬと、素直に白状いたしおったわ」
「嘘だ!」と悲痛の主税の声が、腹の底から絞るように出た。
「八重が、八重殿が、盗人などと! 嘘だ! 信じぬ! 嘘だ嘘だ!」
 しかし見る見る主税の顔から、血の気が消えて鉛色となった。
(もしや!)という疑惑からのことであろう。
 そうして彼の眼――主税の眼は、頼母から離れて隣の部屋の、お八重の方へ移って行った。
「あッはッはッ、そう思うであろう。……恋女の八重が館の盗人! これは信じたくはあるまいよ。……が、事実は事実なのでのう、信じまいとしても駄目なのじゃ。……念のため八重自身の口から、盗人の事実を語らせてやろう」
 勘兵衛の方へ顔を向けると、
「その猿轡はずしてやれ」と頼母は冷然とした声で云った。
 つと勘兵衛の手が伸びた時には、お八重の口は自由になっていた。
「八重殿!」と、それを見るや山岸主税は、ジリジリ[#「ジリジリ」は底本では「ヂリヂリ」]とそっちへ膝を進め、
「よもや、八重殿! 八重殿が※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「山岸様!」とお八重は叫んだ。倒れていた体を起き返らせ、主税の方へ胸を差し出し、髪のふりかかった蒼白の顔を、苦痛に歪めて主税の方へ向け、歯ぎしるような声でお八重は叫んだ。
「深い事情はござりまするが、お館の数々の器類を、盗み出しましたはこの妾《わたくし》、この八重めにござります!」
 その次の瞬間には彼女の体は、前のめりに倒れていた。そこから烈しい泣き声が起こった。畳へ食いついて泣き出したのである。
 主税の全身に顫えが起こった。そうして彼の体も前のめりに倒れた。背の肉が波のように蜒っている。恋人八重が盗人とは! これが彼を男泣きに泣かせたのらしい。
 そういう二人を左見右見《とみこうみ》しながら、頼母は酸味ある微笑をしたが、やがて提げていた刀の鐺《こじり》で主税の肩をコツコツと突き、
「八重が盗人であるということ、これで其方《そち》にも解《わか》ったであろうな。……八重めはお館の命により、明朝打ち首に致すはずじゃ。……が、主税、よく聞くがよい、其方の持っておる淀屋の独楽を、わしの手へ渡すということであれば、八重の命はわしが助けてやる。そうして此処から逃がしてやる。勿論、その後は二人して夫婦になろうとそれは自由じゃ」
 ここで頼母は言葉を切り、また二人をじろり見て、
「それともあくまで強情を張って、淀屋の独楽を渡さぬとなら、この場において其方《そのほう》を殺し、明朝八重を打ち首にする。……主税、強情は張らぬがよいぞ。独楽の在り場所を云うがよい」

   極重悪木の由来

 この頃|戸外《そと》の往来を、植木師の一隊が通っていた。そうして老人と美少年と、女猿廻しのお葉とが、その後を尾行《つけ》て歩いていた。
 と、静かに三人は足を止めた。
 行手に大名屋敷の土塀が見え、裏門らしい大門が見え、その前へ植木師の一隊が、植木を積んだ車を囲み、月光の中に黒く固まり、動かずに佇んだからであった。
 大名屋敷は田安家であった。
 と、白い髪を肩の辺りで揺るがせ、白い髯を胸の辺りで顫わせ、深い感情を抑え切れないような声で「飛加藤《とびかとう》の亜流」という老人は云った。
「数日前に『極重悪木』を、彼ら田安家へ植え込んで、腰元を数人殺したそうだが、今夜も田安家へ植え込もうとしておる。……彼、東海林自得斎《しょうじじとくさい》め、よくよく田安家に怨みがあると見える!」
「お爺さん」とお葉は恐ろしそうに訊いた。
「極重悪木と仰有《おっしゃ》るのは? 東海林自得斎と仰有るのは?」
「私《わし》たちの祖師様とはいつの場合でも、反対の立場に立っている、世にも恐ろしい恐ろしい男、それが東海林自得斎なのだよ。その男も私達の祖師様のように、三十年もの間一本の木を、苦心惨憺して育てたのだよ。それが極重悪木なのだ。触った生物を殺す木なのだ。来る道々按摩を殺し、仲間を殺したその木なのだ。あそこにいる植木師たちの植木の中に、その木が一本雑っているのだよ」
「その東海林自得斎という男、何をしてどこに居りますの?」
「日本一大きな植木師として、秩父山中に住んでいるのだよ。幾個《いくつ》かの山、幾個かの谷、沢や平野を買い占めてのう。幾万本、いや幾十万本の木を、とりこにして置いて育てているのだよ。そうして大名衆や旗本衆や、大金持の人々から、大口の注文を承わっては、即座に数十本であろうと数百本であろうと、どのような珍木異木であろうと、注文通り納めているのだよ」
「そういう大きな植木師をしながら、人を殺す恐ろしい毒の木を、東海林自得斎は育てて居りますのね」
「いいや、今では数を殖やしているのさ。三十年もの間研究して極重悪木を作り上げたのだから、今ではその数を殖やしているのだよ。……憎いと思う人々の屋敷へ植え込んで、そこの人を根絶しにするためにな」
「その恐ろしい木が、極重悪木が、田安家へ植えこまれたと仰有るのね! 今夜も植えこまれると仰有るのね! まあ、こうしてはいられない! お八重様があぶない、お八重様のお命が!」
 お葉は夢中のように歩き出した。

 田安家の横手の土塀の前へ、女猿廻しのお葉が現われたのは、それから間もなくのことであった。
 土塀の上を蔽うようにして、植込の松や楓や桜が、林のように枝葉を繁らせ、その上に月がかかっていて、その光が枝葉の間を通して、お葉の体へ光の飛白《かすり》や、光の縞を織っている。そのお葉は背中に藤八《とうはち》と名付ける、可愛らしい小猿の眠ったのを背負い、顔を上向けて土塀の上を、思案しいしい眺めていた。
「飛加藤の亜流」という老人と別れて、一人此処へ来たお葉なのであった。でも何のために此処へ来て、何をしようとするのであろう。

   意外な邂合

「藤八よ」とお葉は云って、背中の小猿を揺り起こした。
「さあこれを持って木へ登って、木の枝へしっかり巻きつけておくれ」
 腰に挟んでいた一丈八尺の紐を、お葉は取って小猿へ渡した。と直ぐに小猿が土塀を駆け上り、植込の松の木へ飛び付いた姿が、黒く軽快に月光に見えた。でも直ぐに小猿は飛び返って来た。紐が松の枝から土塀を越して、お葉の手にまで延びている。間もなくその紐を手頼りにし、藤八猿を肩にしたまま、塀を乗り越えるお葉の姿が、これも軽快に月光に見えた。
 紐を手繰《たぐ》って腰へ挿み、藤八猿を肩にしたまま、お葉は田安家の土塀の内側の、植込の根元に身をかがめ、じっと四辺《あたり》を見廻した。それにしてもお葉は何と思って、田安家のお庭へなど潜入したのであろう? 自分の加担者の腰元お八重へ、極重悪木という恐ろしい木の、植え込まれたことを告げ知らせ、その木へ決して触わらぬようにと、注意をしたいためからであった。
(お八重様の居り場所どこかしら?)
 お葉は眼を四方へ配った。
 三卿の筆頭であるところの、田安中納言家のお屋敷であった。客殿、本殿、脇本殿、離亭《はなれ》、厩舎、望楼《ものみ》台、そういう建物が厳しく、あるいは高くあるいは低く、木立の上に聳え木立の中に沈み、月光に光ったり陰影《かげ》に暗まされたりして、宏大な地域を占領している。
(奥方様付きのお腰元ゆえ、大奥にお在《い》でとは思うけれど、その大奥がどこにあるやら?)
 といっていつ迄も植込の中などに、身を隠していることも出来なかったので、
(建物の方へ忍んで行ってみよう)
 で、彼女は植込を出て、本殿らしい建物の方へ、物の陰を辿って歩いて行った。
 この構内の一画に、泉水や築山や石橋などで、形成《かたちづく》られている庭園があったが、その庭園の石橋の袂へ、忽然と一人の女が現われたのは、それから間もなくのことであった。女は? 浪速《なにわ》あやめ[#「あやめ」に傍点]であった。鼠小紋の小袖に小柳襦子の帯、お高祖頭巾をかむったあやめ[#「あやめ」に傍点]であった。
 それにしてもあやめ[#「あやめ」に傍点]はほんの先刻《さっき》まで、女猿廻しお葉として、老人主従と連れ立ってい、そうしてつい[#「つい」に傍点]今しがた同じ姿で、土塀を乗り越えてこの構内へ、潜入をしたはずだのに、今見れば町家の女房風の、浪速あやめ[#「あやめ」に傍点]としてここにいるとは?
 短かい短かい時間の間に、あるいは女猿廻しお葉となり、あるいは曲独楽使いのあやめ[#「あやめ」に傍点]となる! この女の本性は何なのであろう?
 正体不可解の浪速あやめ[#「あやめ」に傍点]は、石橋の袂[#「袂」は底本では「袖」]に佇みながら、頭巾と肩とをわけても鮮かに、月の光に曝しながら、正面に見えている建物の方を、まじろぎもせず眺めていたが、やがてその方へ歩き出した。
 と、築山の裾を巡った。
 とたんに彼女は「あッ」と叫んで、居縮んだように佇んだ。同時に彼女の正面からも、同じような「あッ」という声が聞こえた。見ればそこにも女がいて、あやめ[#「あやめ」に傍点]の顔を見詰めながら、居縮んだように立っている。それは女猿廻しのお葉であった。
 おお、では二人のこの女は、別々の女であるのだろうか! そうとしか思われない。
 それにしても何と二人の女は、その顔立から肉付から、年恰好から同一《おんなじ》なのであろう! そうして何とこの二人は、経歴から目的から同一なのであろう! 二人の女の関係はどうなのであろう?
 お茶の水で主税を助けたあやめ[#「あやめ」に傍点]は、辻駕籠を雇って主税を乗せて彼の屋敷へまで送ってやった。
 でも彼女は心配だったので、見え隠れに駕籠の後をつけて、彼の屋敷の前まで来た。と五人の覆面武士が現われ、主税を手籠めにして担いで逃げた。
(一大事!)と彼女は思い、その一団の後を追った。が、この構内へ入り込んだ時には、その一団はどこへ行ったものか、姿がみえなくなっていた。
(どうあろうと主税様をお助けしなければ)
 そこで、あやめ[#「あやめ」に傍点]は主税を探しにかかった。
 その結果がこうなったのである。

   双生児の姉妹

「まあお前は妹!」
「お姉様《あねえさま》か!」
 あやめとそうしてお葉の口から、こういう声のほとばしったのは、それから間もなくのことであり、その次の瞬間には二人の女は、抱き合ったままで地に坐っていた。
 お高祖頭巾をかむった町女房風のあやめ[#「あやめ」に傍点]と、猿廻し姿のお葉とが、搦み合うようにして抱き合って、頬と頬とをピッタリ付けて、烈しい感情の昂奮から、忍び泣きの音を洩らしている姿は、美しくもあれば妖しくもあった。
 築山の裾に茂っているのは、満開の花をつけた連翹《れんぎょう》の叢《くさむら》で、黄色いその花は月光に化かされ、卯の花のように白く見えていたが、それが二人の女を蔽うように、背後《うしろ》の方から冠さっていた。
「お葉や! おおおおその姿は! ……猿廻しのその姿は! ……別れてから経った日数は十年! ……その間中わたしは雨につけ風につけ、一日としてお前のことを、思い出さなかったことはなかったのに! ……高麗郡《こまごおり》の高麗家と並び称され、関東での旧家と尊ばれている、荏原《えばら》郡の荏原屋敷の娘が、猿廻しにおちぶれたとは! ……話しておくれ、その後のことを! 話しておくれ、お前の身の上を!」
 妹お葉の背へ両手を廻し、それで抱きしめ抱きしめながら、喘ぐようにあやめ[#「あやめ」に傍点]は云うのであった。
「お姉様、あやめ[#「あやめ」に傍点]お姉様!」と、姉の胸の上へ顔を埋め、しゃくりあげながらお葉は云った。
「十年前に……お姉様が……不意に家出をなされてからというもの……わたしは、毎日、まアどんなに、お帰りなさる日をお待ちしたことか! ……いつまでお待ちしてもお帰りにならない。……そのうちだんだんわたしにしましても、お家にいることが苦痛になり……それでとうとう同じ年の、十二月の雪の日に、お姉様と同じように家出をし……」
「おお、まアそれではお前も家出を……」
「それからの憂艱難と申しましたら……世間知らずの身の上が祟って……誘拐《かどわか》されたり売られたり……そのあげくがこんな身分に……」
「お葉や、わたしも、そうだった。今のわたしの身分といったら、曲独楽使いの太夫なのだよ! ……荏原屋敷の娘、双生児《ふたご》のお嬢様と、自分から云ってはなんだけれど、可愛らしいのと幸福なのとで、人に羨まれたわたしたち二人が、揃いも揃って街の芸人に!」
 泉水で鯉が跳ねたのであろう、鞭で打ったような水音がした。
 高く抽《ぬきんで》て白蓮の花が、――夜だから花弁をふくよかに閉じて、宝珠かのように咲いていたが、そこから甘い惑わすような匂いが、双生児の姉妹《きょうだい》の悲しい思いを、慰めるように香って来ていた。
「お葉や」とやがてあやめ[#「あやめ」に傍点]は云った。
「わたし決心をしたのだよ。一生の大事を遂げようとねえ」
「お姉様」とお葉も云った。
「わたしも、わたしも、そうなのです! 一生の大事を遂げようと、決心したのでございます!」
「わたし、主馬之進《しゅめのしん》を殺す意《つもり》なのだよ! お父様を殺し、お母様を誑《たぶらか》し、荏原屋敷を乗っ取って、わたしたち二人を家出させた、極悪人の主馬之進をねえ」
「お姉様」とお葉は云って、ヒタとあやめ[#「あやめ」に傍点]の顔を見詰め、
「わたしは、主馬之進をそそのかして、そういう悪事を行なわせた、主馬之進の兄にあたる、田安家の奥家老、松浦頼母《まつうらたのも》を殺そうと、心掛けておるのでございます!」
「え※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は仰天したように、
「お葉や、一体、それは一体! ……」
「おお、お姉様お姉様、あなたはご存知ないのです。……お姉様よりも六七ヶ月後に、家出をいたしたこのお葉ばかりが、知っていることなのでございます。……その六七ヶ月の間中、わたしは主馬之進という人間の素性を、懸命に探ったのでございます。その間幾度となく立派な武士《さむらい》が、微行して屋敷へ参りまして、主馬之進と密談いたしましたり、主馬之進と一緒に屋敷内を、そここことなく探したりしました。探った結果その武士こそ、主馬之進の実の兄の、田安家の奥家老、松浦頼母だと知りました」
「知らなかった、わたしは! まるで知らなかった! ……でもどうしてそんな立派な、田安中納言様の奥家老が、実の弟を荏原屋敷へ入れたり、自身微行して訪ねて行ったり?」
「慾からですお姉様、慾からです! ……それも大きな慾から! ……」

   荏原屋敷の秘密

 どこから話したらよかろうかと、思案するかのようにお葉は黙って、あやめの顔を見守った。
 姉妹《きょうだい》二人が抱き合った時、お葉の肩から飛び下りた小猿は――藤八猿は築山の頂きに、赤いちゃんちゃんこ[#「ちゃんちゃんこ」に傍点]を着て置物のように坐り、姉妹の姿を見下ろしている。
「高麗郡の高麗家と同じように、荏原郡の荏原屋敷が、天智天皇様のご治世に、高麗の国から移住して来た人々の、その首領《おかしら》を先祖にして、今日まで連綿と続いて来た、そういう屋敷だということは、お姉様《あねえさま》もご存知でございますわねえ」とやがてお葉はしんみり[#「しんみり」に傍点]と、囁くような声で語り出した。
「その移住して来た人々が、高麗の国から持って来た宝を、荏原屋敷で保管して、代々伝えたということも、お姉様にはご存知ですわねえ。……でも、その宝物は長い年月の間に、持ち出されて使い果たされ、尋常の人間の智慧ぐらいでは、絶対に発見することの出来ない、宝物の隠匿《かくし》場所ばかりが、今も荏原屋敷のどこかにあるという、そういうこともお姉様には、伝説として聞いて知っていますわねえ。……ところが……」と云って来てあやめ[#「あやめ」に傍点]の両手を、お葉はひし[#「ひし」に傍点]と握りしめ、一層声を落として云った。
「ところが今から百五十年前、元禄年間に大財産が、その隠匿所へこっそりと、仕舞い込まれたということですの」
「まあ」とあやめ[#「あやめ」に傍点]も唾を呑み、握られている手を握り返したが、
「どういう財産? どういう素性の?」
「浪速《なにわ》の豪商淀屋辰五郎が、闕所《けっしょ》になる前に家財の大半を、こっそり隠したということですが、その財産だということですの」
「まあ淀屋の? 淀辰のねえ」
「それをどうして知ったものか、松浦頼母が知りまして、美貌の弟の主馬之進《しゅめのしん》を進め、わたし達のご両親に接近させ、そのあげくにお父様を、あのような手段で非業に死なせ、お母様を誑《たぶら》かし、わたし達の家へ入婿になり……」
「おおなるほどそうなのかえ、そうして財産の隠匿場所を……」
「そうなのですそうなのです、時々やって来る頼母と一緒に、主馬之進めはその隠匿場所を……」
「発見《みつけだ》そうとしているのだねえ。……そう聞いてみれば松浦頼母めが、お父様の敵《かたき》の元兇なのだねえ。……ああそれでやっとわたしには解《わか》った。何でお前がこのような所へ、こんな田安様のお屋敷内へ、忍び込んで来たのかと不思議だったが、では頼母を殺そうとして……」
「いいえお姉様わたしはそれ前に、ここのお腰元のお八重様のお命を……それよりお姉様こそどうしてここへ?」
「ここのご家臣の山岸主税様の、お命をお助けいたそうとねえ……」
 こうして姉妹《きょうだい》は各自《めいめい》の目的を――この夜この屋敷内へ忍び込んだ、その目的を話し出したが、この頃主税とお八重とは、どんな有様であるのであろう?

   崩折れる美女

 主税《ちから》とお八重《やえ》とは依然として、松浦|頼母《たのも》の屋敷の部屋に、縄目の恥辱を受けながら、二人だけで向かい合っていた。
「独楽を渡して配下になるか、それとも拒んで殺されるか? 即答することも困難であろう。しばらく二人だけで考えるがよい」
 こう云って頼母が配下を引き連れ、主屋の方へ立ち去ったので、二人だけとなってしまったのである。
 一基の燭台には今にも消えそうに、蝋燭の火がともってい、その光の穂を巡りながら、小さい蛾が二つ飛んでいる。
 顔に乱れた髪をかけ、その顔色を蒼白にし、衣紋を崩した主税の体は、その燭台の背後《うしろ》にあった。そうして彼の空洞《うつろ》のような眼は、飛んでいる蛾に向けられていた。
(もともと偶然手に入った独楽だ。頼母にくれてやってもよい。莫大な金高であろうとも、淀屋の財産など欲しいとは思わぬ。……しかしこのように武士たる自分を、恥かしめ、虐み、威嚇した頼母の、配下などには断じてなれない。と云って独楽を渡した上、頼母の配下にならなければ、自分ばかりかお八重の命をさえ、頼母は取ると云っている。残忍酷薄の彼のことだ、取ると云ったら取るだろう。……命を取られてたまるものか?)
 無心に蛾の方へ眼を向けたまま、こう主税は思っていた。
 一つの蛾が朱筆の穂のような火先《ほさき》に、素早く嘗められて畳の上へ落ちた。死んだと見えて動かなかった。
(ではやっぱり頼母の意志に従い、淀屋の独楽を渡した上、彼の配下になる以外には、他に手段はないではないか)
 逆流する血の気を顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》の辺りへ感じた。しかし努力して冷静になった。
(そうだ独楽を渡した上、あなた様の配下になりますると、偽りの誓言を先ず立てて、ともかくも命を助かろう。その余のことはそれからで出来る)
 何よりも命を保たなければと、主税はそれを思うのであった。
(それにしてもお八重が盗人とは! お館の宝物の数々を盗んだ、その盗人がお八重だとは!)
 これを思うと彼は発狂しそうであった。
(恋人が盗人とは! それも尋常の盗人ではない、お館を破滅に導こうとする、獅子身中の虫のような盗人なのだ!)
 見るに忍びないというような眼付をして、主税は隣室の方へ眼をやった。
 そこにお八重が突っ伏していた。
 こっちの部屋から流れこんで行く燈光《ひかり》で、その部屋は茫《ぼっ》と明るかったが、その底に濃紫《こむらさき》の斑點《しみ》かのように、お八重は突っ伏して泣いていた。
 泣き声は聞こえてはこなかったが、畳の上へ両袖を重ね、その袖の上へ額を押しつけ、片頬を主税の方へわずかに見せ、その白いふっくり[#「ふっくり」に傍点]した艶かしい片頬を、かすかではあるが規則正しく、上下に揺すって動かしているので、しゃくりあげ[#「しゃくりあげ」に傍点]ていることが窺われた。
 それは可憐で痛々しくて、叱られて泣いている子供のような、あどけなさ[#「あどけなさ」に傍点]をさえ感じさせる姿であった。
(あの子が、お八重が、何で盗人であろう!)
 そういう姿を眼に入れるや、主税は猛然とそう思った。
(これは何かの間違いなのだ!)
「お八重殿」と嗄《しわが》れた声で、主税は嘆願でもするように云った。
「真実を……どうぞ、本当のことを……お話し下され、お話し下され! ……盗人などと……嘘でござろうのう」
 狂わしい心持で返事を待った。
 と、お八重は顔を上げた。
 宵闇の中へ夕顔の花が、不意に一輪だけ咲いたように、上げたお八重の顔は蒼白かった。
「山岸様!」と、その顔は云った。
「八重は死にます! ……殺して下さりませ! ……八重は盗人でござります! ……深い事情がありまして……あるお方に頼まれまして……お館の数々のお宝物を、盗んだに相違ござりませぬ。……貴郎《あなた》様のお手にかかりまして、もし死ねましたら八重は本望! ……悲しいは愛想を尽かされますこと! ……死にたい! 殺して下さりませ!」
 花が不意に散ったように、お八重の顔は沈んで袖の上へ消えた。
 泣き声が細い糸のように引かれた。
(そうか、やっぱり盗人なのか)
 主税は首を膝へ垂れた。
(深い事情があるといった。そうだろう! その事情は?)
 泣き声はなおも断続して聞こえた。
(事情によっては許されもするが……)
(あるお方に頼まれたという。何者だろう、頼んだものは?)
「ここを出たい!」と声に出して、主税は思わずそう叫んだ。
 縄を千切って、お八重を助け出して、ここを出たい! ここを出たい!
 無効《むだ》と知りながら又主税は、満身に力を籠めて体を揺すった。
 しかし、縄は切れようともしない。
 時がだんだん経って行く。
 廊下に向いて立てられてある襖が、向う側から開いたのは、それから間もなくのことであった。
(来たな、頼母め!)と主税は睨んだ。
 しかるに、部屋の中へ入って来たのは、赤いちゃんちゃんこ[#「ちゃんちゃんこ」に傍点]を着た小猿であった。
「猿!」と主税は思わず叫んだ。
 途端に、小猿は飛びかかって来た。
「こやつ!」
 しかし藤八猿は、主税の体にかかっている縄を、その鋭い歯で食い切り出した。
 どこからともなく口笛の音が、猿の所業を鼓舞するかのように、幽かに幽かに聞こえてきた。

   第二の独楽の文字

 この頃主屋の一室では、覚兵衛や勘兵衛を相手にして、松浦|頼母《たのも》が話していた。四辺《あたり》には杯盤が置き並べてあり、酒肴などがとり散らされていた。
「これに現われて来る文字というものが、まことにもって訳の解《わか》らないものでな、ざっとまアこんな具合なのだ」
 云い云い頼母は握っていた独楽を、畳の上で捻って廻した。幾台か立ててある燭台から、華やかな燈光《ひのひかり》が射し出ていて、この部屋は美しく明るかったが、その燈光《ひかり》に照らされながら、森々と廻っている独楽の面へ、白く文字が現われた。
「屋の財宝は」という五つの文字であった。
「屋の字の上へ淀という字を入れれば、淀屋の財宝はという意味になって、これはまアまア解るにしても、その後に出る文字が解らないのだ」
 頼母はまた手を延ばし独楽を捻った。烈しく廻る独楽の面へは、「代々」という二つの文字と「守護す」という三つの文字と「見る日は南うしろ北」という、九つの文字とが現われた。
「この意味はまったく解らないのう?」
 頼母の声は当惑していた。
「が、主税めの持っている独楽を奪い、それへ現われ出る文字と合わせたら、これらの文字の意味は解るものと思う。どっちみち淀屋の財宝についての、在場所を示したものに相違ないのだからのう」
「その主税めもうそろそろ、決心した頃かと存ぜられます」と飛田林覚兵衛《とんだばやしかくべえ》が追従笑いをしながら云った。
「誰もが命は惜しいもので。独楽は渡さぬ、配下にもならぬなどと、彼とてよもや申しますまい」
「そりゃアもう云うまでもないことで」とつづいて勘兵衛が合槌を打った。
「ましてや独楽を献上し、お殿様の配下になりさえすれば、お八重様という美しいお腰元と、夫婦になれるというのですからねえ。……が、そうなるとお殿様の方は?」と頼母の方へ厭な眼を向け、
「そうなりまするとお殿様の方は、お八重様をご断念なされるので?」
「またお喋舌《しゃべ》りか」と苦笑いをし、頼母はジロリ[#「ジロリ」は底本では「ヂロリ」]と勘兵衛を睨んだ。
「性懲りもなく又ベラベラと」
「これは、えへ、えッヘッヘッ」
 勘兵衛は亀のように首を縮めた。
 覆面をしていた五人の浪人も、今は頭巾を脱ぎすてて、遥か末座に居並んで、つつましく酒を飲んでいる。
(八重! くれるには惜しい女さ)
 ふと頼母はこう思った。
(が、独楽には換えられぬ。……それに主税というような、敵ながら立派な若い武士を、味方にすることが出来るのなら、女一人ぐらい何の惜しむものか)
 その主税が主謀者となり、鷲見与四郎《すみよしろう》といったような、血の気の多い正義派の武士たちが、どうやら一致団結して、以前から頼母の遣り口に対し――田安お館への施政に対し、反対しようとしていることを、頼母は薄々感付いていた。その主謀者の主税に恩を売り、八重を女房に持たせることによって、味方につけることが出来るのなら、こんな好都合なことはないと、そう頼母は思うのであった。
「誰か参って主税と八重の様子を、それとなく見て参れ」
 浪人たちの方へ頼母は云った。
 二人の浪人が立ち上り、襖《ふすま》をあけて部屋から出た。
「覚兵衛《かくべえ》も勘兵衛《かんべえ》も飲むがよい」
「は」
「頂戴」
「さあさあ飲め」
 賑かに盃が廻り出した。
 たちまち烈しい足音が、廊下の方から聞こえてきたが、出て行った二人の浪人の中、坂本というのが走り帰って来た。
「一大事! 一大事でござりまする……主税め縄を切り八重を助け……部屋を脱け出し庭の方へ! ……本庄殿は主税に斬られ! ……拙者も一太刀、左の肩を!」
 見ればなるほどその浪人の肩から、胸の方へ血が流れ出ていた。
「行け!」と頼母は吼えるように叫び、猛然として躍り上った。
「主税を捕らえろ! 八重を捕らえろ! ……手に余らば斬って捨ろ!」
 一同一斉に部屋を走り出た。

   独楽を奪われる

 八重を小脇に引っ抱え、血に濡れた刀をひっさげて、山岸主税《やまぎしちから》は庭へ出た。
 猿によって縛めの縄を切られ、勇躍してお八重へ走り寄り、その縛めの縄を解いた。すると、そこへ二人の武士が来た。やにわに一人を斬り伏せて、お八重を抱え廊下を走り、雨戸を蹴破り庭へ出た。
 そういう山岸主税であった。
 すぐに月光が二人を照らした。その月光の蒼白いなかに、二つの女の人影があったが、
「山岸様!」
「お八重様!」
 と、同時に叫んで走り寄って来た。
「あッ、そなたはあやめ[#「あやめ」に傍点]殿!」
「まあまああなたはお葉様か!」
 主税とお八重とは驚いて叫んだ。
「事情は後から……今は遁れて! ……こっちへこっちへ!」と叫びながら、あやめ[#「あやめ」に傍点]は門の方へ先頭に立って走った。
 後につづいて一同も走った。開けられてある門を出れば、田安家お屋敷の廓内であった。
 木立をくぐり建物を巡り、廓《くるわ》の外へ出ようものと、男女四人はひた[#「ひた」に傍点]走った。するとその時|背後《うしろ》から、追い迫って来る数人の足音が聞こえた。
(一人二人叩っ斬ってやろう)
 今まで苦しめられた鬱忿と、女たちを逃がしてやる手段としても、そうしなければなるまいと主税は咄嗟に決心した。
「拙者にかまわず三人には、早く土塀を乗り越えて、屋敷より外へお出でなされ。……拙者は彼奴《きゃつ》らを一人二人! ……」
 云いすてると主税は引っ返した。
「それでは妾《わたし》も!」と強気のあやめ[#「あやめ」に傍点]が、主税の後から後を追った。
「お葉や、お前はお八重様を連れて……」
「あい。……それでは。……お八重様!」
 二人の女は先へ走った。主税の正面から浪人の一人が、命知らずにも斬り込んで来た。
「怨、晴らすぞ!」と主税は喚き、片膝折り敷くと思ったが、抜き持っていた刀を横へ払った。斬られた浪人は悲鳴と共に、手から刀を氷柱のように落とし、両手で右の脇腹を抑え、やがて仆れてノタウチ廻った。
 すると、その横をひた[#「ひた」に傍点]走って、あやめ[#「あやめ」に傍点]の方へ突き進む男があった。
「八重! 女郎《めろう》! 逃がしてたまるか!」
 あやめ[#「あやめ」に傍点]をお八重と間違えたらしく、こう叫んで大手を拡げたのは、太夫元の勘兵衛であった。
「汝《おのれ》は勘兵衛! 生きていたのか!」
 お高祖頭巾をかなぐり捨たあやめ[#「あやめ」に傍点]は、内懐中《うちぶところ》へ片手を差し入れたまま、さすがに驚いて声をかけた。
「わりゃアあやめ[#「あやめ」に傍点]!」と仰天し、勘兵衛も震えながら音をあげた。
「どうしてここへ※[#感嘆符疑問符、1-8-78] こんな夜中に!」――でもようやく元気を取り戻すと、
「生き返ったのよ、業が深いからのう。……あんな生温い締め方では……」
「そうか、それじゃアもう一度」
 あやめ[#「あやめ」に傍点]の手が素早く内懐中から抜かれて、高く頭上へ振りかぶられた。瞬間「わーッ」と勘兵衛は叫び、両手で咽喉を掻きむしった。
「これでもか! これでもか! これでもか」
 ピンと延びている紐を手繰《たぐ》り、勘兵衛を地上に引き摺り引き摺り、
「くたばれ! 殺す! 今度こそ殺す! ……お父様の敵《かたき》! 敵の片割れ!」
「山岸氏参るぞ――ッ」と、もう一人の浪人と、主税の横から迫ったのは、飛田林覚兵衛《とんだばやしかくべえ》であった。が、覚兵衛はお八重らしい女が、もう一人の女と遥か彼方を、木立をくぐって走って行くのを見るや、
「南部氏……主税は……貴殿へお任せ! ……拙者はお八重を!」と浪人へ叫び、二人の女を追っかけた。
 頼母は一旦は走り出たが、部屋へ置いて来た独楽のことが、気にかかってならなかった。
 それで屋敷へ取って返し、廊下を小走り部屋へ入った。
「あッ」
 頼母は立縮んだ。
 赤いちゃんちゃんこを着た一匹の小猿が、淀屋の独楽を両手に持ち、胸の辺りに支えて覗いているではないか。
 頼母はクラクラと眼が廻った。
「…………」
 無言で背後から躍りかかった。
 その頼母の袖の下をくぐり、藤八猿は独楽を握ったまま、素早く廊下へ飛び出した。
「はーッ」と不安の溜息を吐き、後を追って頼母も廊下へ出た。数間の先を猿は走っている。
「はーッ」
 頼母はよろめきながら追った。猿は庭へ飛び下りた。頼母も庭へ飛び下りたが、猿の姿は見えなかった。
 頼母はベタベタと地へ坐った。
「取られた! ……独楽を! ……淀屋の独楽を! ……猿に! ……はーッ……猿に! 猿に!」

   恋のわび住居

 それから一月の日が経った。桜も散り連翹《れんぎょう》も散り、四辺《あたり》は新緑の候となった。
 荏原郡《えばらごおり》馬込の里の、農家の離家《はなれ》に主税《ちから》とあやめとが、夫婦のようにして暮らしていた。
 表面《おもてむき》は夫婦と云ってはいるが、体は他人の間柄であった。
 三間ほどある部屋のその一つ、夕陽の射している西向きの部屋に、三味線を膝へ抱え上げ、あやめ[#「あやめ」に傍点]が一人で坐っていた。

   ※[#歌記号、1-3-28]逢うことのまれまれなれば恋ぞかし
    いつも逢うては何の恋ぞも

 爪びきに合わせてあやめは唄い出した。隆達節《りゅうたつぶし》の流れを汲み、天保末年に流行した、新隆達の小唄なのである。
 あやめの声には艶があった。よく慣らされている咽喉から出て、その声は細かい節となり、悩ましい初夏の午さがりを、いよいよ悩ましいものにした。
 少し汗ばんでいる額の辺りへ、ばらりとほつれた前髪をかけ、薄紫の半襟から脱いた]、白蝋のような頸を前に傾げ、潤いを持たせた切長の眼を、半眼にうっとりと見ひらいて、あやめは唄っているのであった。

   ※[#歌記号、1-3-28]やるせなや帆かけて通る船さえも
     都鳥|番《つが》いは水脈《みお》にせかれたり

 不意にあやめは溜息をし、だるそうに三味線を膝の上へ置くと、襖ごしに隣室へ声をかけた。
「主税さま、何をしておいで?」
 そとから舞い込んで来たらしい、雌雄《めお》の黄蝶がもつれ合いながら、襖へ時々羽を触れては、幽かな音を立てていた。
「例によりまして例の如くで」
 主税の声が襖のむこうから、物憂そうに聞こえてきた。
「あやめ[#「あやめ」に傍点]殿にはご機嫌そうな、三味線を弾いて小唄をうとうて」
「そう覚しめして?」と眉と眉との間へ、縦皺を二筋深く引き、
「昼日中なんの機嫌がよくて、三味線なんか弾きましょう」
「…………」
 主税からの返事は聞こえてこなかった。
「ねえ主税様」と又あやめ[#「あやめ」に傍点]は云った。
「心に悶えがあったればこそ、座頭の沢市《さわいち》は三味線を弾いて、小唄をうたったじゃアありませんか」
 隣室からは返事がなく、幽かな空咳が聞こえてきた。
 不平そうにあやめ[#「あやめ」に傍点]は立ち上ったが、開けられてある障子の間から、縁側や裏庭が見え、卯の花が雪のように咲いている、垣根を越して麦や野菜の、広々とした青い畑が、数十町も展開《ひら》けて見えた。
(何だろう? 人だかりがしているよ)
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は縁側へ出て行って、畑の中の野道の上に、十数人の男女が集まっているのへ、不思議そうに視線を投げた。
 しかし距離が大分遠かったので、野道が白地の帯のように見え、人の姿が蟻のように見えるだけであった。
 そこであやめは眼を移し、はるかあなたの野の涯に、起伏している小山や谷を背に、林のような木立に囲まれ、宏大な屋敷の立っているのを見た。
 あやめにとっては実家であり、不思議と怪奇と神秘と伝説とで、有名な荏原屋敷であった。
 あやめはしばらくその荏原屋敷を、憧憬《あこがれ》と憎悪《にくしみ》とのいりまじった眼で、まじろぎもせず眺めていたが、野道の上の人だかりが、にわかに動揺を起こしたので、慌ててその方へ眼をやった。

   怪老人の魔法

 野道の上に立っているのは、例の「飛加藤《とびかとう》の亜流」と呼ばれた、白髪自髯の老人と、昼も点っている龕燈を持った珠玉のように美しい少年とであり、百姓、子守娘、旅人、行商人、托鉢僧などがその二人を、面白そうに囲繞《とりま》いていた。
 不思議な事件が行なわれていた。
 美少年が手にした龕燈の光を、地面の一所へ投げかけていた。夕陽が強く照っている地面へ、龕燈の光など投げかけたところで、光の度に相違などないはずなのであるが、でもいくらかは違っていて、やはりそこだけが琥珀色の、微妙な色を呈していた。
 と、その光の圏内へ、棒が一本突き出された。飛加藤の亜流という老人が、自然木の杖を突き出したのである。円味を帯びたその杖の先が、地面の一所を軽く突いて、一つの小さい穴をあけると、その穴の中から薄緑色の芽が、筆の穂先のように現われ出で、見る見るうちにそれが延びて、やがて可愛らしい双葉となった。
「これは変だ」「どうしたというのだ」「こう早く草が延びるとは妙だ」と、たかって[#「たかって」に傍点]いた人々は、恐ろしさのあまり飛退いた。双葉はぐんぐんと生長を続け、蔓が生え、それが延び、蔓の左右から葉が生い出でた。二尺、三尺、一間、三間!
 蔓は三間も延びたのである。
 と、忽然蔓の頂上《てっぺん》へ、笠ほどの大きさの花が咲いた。
「わッ」
 人々は声をあげ、驚きと賞讃と不気味さをもって、夕顔のような白い花を、まぶしそうにふり仰いで眺めた。
「アッハッハッ、幻じゃ! 実在《ほんもの》ではない仮の象《すがた》じゃ!」
 夕顔の花から二間ほど離れ、夕顔の花を仰ぎ見ながら、杖に寄っていた飛加藤の亜流は、払子のような白髯を顫わせながら、皮肉に愉快そうにそう云った。
「何で夕顔がこのように早く、このように大きく育つことがあろう! みんなケレンじゃ、みんな詭計じゃ! わしは不正直が嫌いだから、ほんとうのことを云っておく、みんなこいつはケレンじゃと。……ただし、印度の婆羅門僧は、こういうことをケレンでなく、実行するということだが、わしは一度も見たことがないから、真偽のほどは云い切れない。……しかしじゃ、皆さん、生きとし生けるものは、ことごとく愛情を基としていて、愛情あれば生長するし、愛情がなければ育たない。だからあるいはわしという人間が、特に愛情を強く持って『夕顔の花よお開き』と念じ、それだけの経営をやったなら、夕顔の花はその愛に感じ、多少は早く咲くかもしれない。……いやそれにしても現在《いま》の浮世、愛情の深い真面目の人間が、めっきり少くなったのう。……そこでわしは昼も龕燈をともして、真面目の人間よどこかにいてくれと、歩きまわって探しているのさ。……ここにお立ち合いの皆様方は、みんな真面目のお方らしい。そこでわしはわしの信ずる、人間の道をお話しして……いや待てよ、一人だけ、邪悪《よこしま》の人間がいるようだ。死にかわり生きかわり執念深く、人に禍いをする悪人がいる。――こういう悪人へ道を説いても駄目だ。説かれた道を悪用して、一層人間に禍いする! こういう悪人へ制裁を加え、懲すのがわしの務めなのじゃ……」
 突然高く自然木の杖が、夕顔の花と向かい合い、夕焼の空へかざされた。そうしてその杖が横へ流れた途端、夕顔の蔓の一所が折れ、夕顔の花が人間の顔のように、グッタリと垂れて宙に下った。
 同時に獣の悲鳴のような声が、たかっている人達の間から起こり、すぐに乾いている野道から、パッと塵埃《ほこり》が立ち上った。
 見れば一人の人間が、首根ッ子を両手で抑え、野道の上を、塵埃の中を、転げ廻りノタウッている。
 意外にもそれは勘兵衛であった。二度までも浪速あやめ[#「あやめ」に傍点]によって、締め殺されたはずの勘兵衛であった。

   怨める美女

 その距離が遠かったので、縁に立って見ているあやめの眼には、こういう異変《かわ》った出来事も、人だかりが散ったり寄ったりしていると、そんなようにしか見えなかった。
 あやめは座敷へ引き返し、間《あい》の襖《ふすま》の前に立ち、そっとその襖を引き開けた。
 山岸主税《やまぎしちから》がこっちへ背を向け、首を垂れて襟足を見せ、端然として坐ってい、その彼の膝のすこし向うの、少し古びた畳の上で、淀屋の独楽が静かに廻っていた。また何か文字でも現われまいかと、今日も熱心に淀屋の独楽を、彼は廻しているのであった。
「あッ!」と主税は思わず叫んだ。
「何をなさる、これは乱暴!」
 でももうその時には主税の体は、背後《うしろ》からあやめの手によって、横倒しに倒されていた。
「悪|巫山戯《ふざけ》もいい加減になされ。人が見ましたら笑うでござろう」
 主税は寝たままで顔を上げて見た。すぐ眼の上にあるものといえば、衣裳を通して窺われる、ふっくりとしたあやめ[#「あやめ」に傍点]の胸と、紫の艶めかしい半襟と、それを抜いて延びている滑らかな咽喉と、俯向けている顔とであった。
 その顔の何と異様なことは! 眼には涙が溜まり唇は震え、頬の色は蒼褪め果て、まるで全体が怨みと悲しみとで、塗り潰されているようであった。そうしてその顔は主税の眼に近く、五寸と離れずに寄って来ていたので、普通より倍ほどの大きさに見えた。
「情無しのお方! 情知らずのお方!」
 椿の花のような唇が開いて、雌蕊のような前歯が現われたかと思うと、咽ぶような訴えるような、あやめ[#「あやめ」に傍点]の声がそう云った。
「松浦|頼母《たのも》の屋敷を遁れ、ここに共住みいたしてからも、時たま話す話といえば、お八重様とやらいうお腰元衆の噂、そうでなければ淀屋の独楽を、日がな一日お廻しなされて、文字が出るの出ないのと……お側《そば》に居る妾などへは眼もくれず、……ご一緒にこそ住んで居れ、夫婦でもなければ恋人でも……それにいたしても妾の心は、貴郎《あなた》さまにはご存知のはず……一度ぐらいは可愛そうなと。……お思いなすって下さいましても……」
 高い長い鼻筋の横を、涙の紐が伝わった。
「ねえ主税さま」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は云って、介《かか》えている手へ力を入れた。
「こう貴郎さまの身近くに寄って、貴郎さまを見下ろすのは、これで二度目でございますわねえ。一度はお茶ノ水の夜の林で、覚兵衛たちに襲われて、貴郎さまがお怪我をなさいました時。……あの時妾は心のたけ[#「たけ」に傍点]を、はじめてお打ち明けいたしましたわねえ……そうして今日は心の怨みを! ……でも、この次には、三度目には? ……いえいえ三度目こそは妾の方が、貴郎さまに介抱されて……それこそ本望! 女の本望! ……」
 涙が主税の顔へ落ちた。しかし主税は眼を閉じていた。
(無理はない)と彼は思った。
(たとえば蛇の生殺しのような、そんな境遇に置いているのだからなあ)
 一月前のことである、松浦頼母の屋敷の乱闘で、云いかわしたお八重とは別れ別れとなった。あやめ[#「あやめ」に傍点]の妹だという女猿廻しの、お葉という娘とも別れ別れとなった。殺されたか捕らえられたか、それともうまく遁れることが出来て、どこかに安全に住んでいるか? それさえいまだに不明であった。

   三下悪党

 主税《ちから》とあやめばかりは幸福《しあわせ》にも、二人連れ立って遁れることが出来た。
 しかし主税は田安家お長屋へ、帰って行くことは出来なかった。いずれ頼母《たのも》があの夜の中に、田安中納言様へ自分のことを、お八重《やえ》を奪って逃げた不所存者、お館を騒がした狼藉者として、讒誣《ざんぶ》中傷したことであろう。そんなところへうかうか帰って行って、頼母の奸悪を申し立てたところで、信じられようはずはない。切腹かそれとも打ち首にされよう。これは分かりきった話であった。
 そこで主税は自然の成り行きとして、浪人の身の上になってしまった。そうしてこれも自然の成り行きとして、あやめ[#「あやめ」に傍点]と一緒に住むようになった。
「おりを見て荏原《えばら》屋敷へ忍び入り、お実父《とう》様の敵《かたき》を討たなければ……」
 あやめとしてはこういう心持から、又、一方主税としては、「淀屋の財宝と荏原屋敷とは、深い関係があるらしいから、探ってみよう」という心持から、二人合意で荏原屋敷の見える、ここの農家の離家《はなれ》を借りて、夫婦のように住居《すまい》して来たのであった。
 しかるに二人して住んでいる間も、主税に絶えず思い出されることは、云いかわした恋人お八重のことで、従って自ずとそれが口へ出た。そうでない時には淀屋の独楽を廻し、これまでに現われ出た文字以外の文字が、なお現われはしまいかと調べることであった。
 しかしもちろん主税としては、あやめ[#「あやめ」に傍点]の寄せてくれる思慕の情を、解していないことはなく、のみならずあやめ[#「あやめ」に傍点]は自分の生命《いのち》を、二度までも救ってくれた恩人であった!
(あやめ[#「あやめ」に傍点]の心に従わなければ……)
 このように思うことさえあった。
 しかし恋人お八重の生死が、凶とも吉とも解《わか》らない先に、他の女と契りを交わすことは、彼の心が許さなかった。そこでこれまではあやめ[#「あやめ」に傍点]に対して、故意《わざ》と冷淡に振舞って来た。
 が、今になってそのあやめ[#「あやめ」に傍点]から、このように激しく訴えられては、主税としては無理なく思われ、心が動かないではいられなかった。
 堅く眼を閉じてはいたけれど、あやめ[#「あやめ」に傍点]の泣いていることが感じられる。
(決して嫌いな女ではない)
 なかば恍惚となった心の中で、ふと主税はそう思った。
(綺麗で、情熱的で、覇気があって、家格も血統も立派なあやめ[#「あやめ」に傍点]! 好きな女だ好きな女だ! ……云いかわしたお八重という女さえなければ……)
 恋人ともなり夫婦ともなり、末長く暮らして行ける女だと思った。
(しかもこのように俺を愛して!)
 カッと胸の奥の燃えるのを感じ、全身がにわかに汗ばむのを覚えた。
(いっそあやめと一緒になろうか)
 悲しみを含んだ甘い感情が、主税の心をひたひたと浸した。
 あやめは涙の眼を見張って、主税の顔を見詰めている。
 涙の面紗《ヴェール》を通して見えているものは、畳の上の主税の顔であった。男らしい端麗な顔であった。わけても誘惑的に見えているものは、潤いを持ったふくよかな口であった。
 いつか夕陽が消えてしまって、野は黄昏《たそがれ》に入りかけていた。少し開いている障子の隙から、その黄昏の微光が、部屋の中へ入り込んで来て、部屋は雀色に仄めいて見え、その中にいる若い男女を、悩ましい艶かしい塑像のように見せた。
 横倒しになっている主税の足許に、その縁を白く微光《ひか》らせながら、淀屋の独楽が転がっている。
 と、その独楽を睨みながら、障子の外の縁側の方へ、生垣の裾から這い寄って来る、蟇《ひき》のような男があった。三下悪党の勘兵衛であった。

   二つ目の独楽を持って

 田安屋敷の乱闘の際に、あやめ[#「あやめ」に傍点]によって独楽の紐で、首を締められ一旦は死んだが、再び業強く生き返り、勘兵衛はその翌日からピンシャンしていた。
 そうして今日は頼母のお供をし、頼母の弟の主馬之進《しゅめのしん》の家へ、――向こうに見える荏原屋敷へ来た。その途中で見かけたのが、野道での人だかりであった。そこで自分だけ引返して来て、群集に雑って魔法を見ていた。と、老人の小太い杖で、首根っ子をしたたか撲られた。息の止まりそうなその痛さ! 無我夢中で逃げて来ると、百姓家が立っていた。水でも貰おうと入り込んでみると、意外にも主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とが、艶な模様を描いているではないか。
 淀屋の独楽さえ置いてある。
(凄いような獲物だ)と勘兵衛は思った。
(独楽を引っ攫って荏原屋敷へ駆けつけ、頼母様へ献上してやろう)
 勘兵衛はこう心を定《き》めると、ソロリソロリと縁側の方へ、身をしずかに這い寄せて行った。
 まだ痛む首根っ子を片手で抑え、別の片手を縁のふち[#「ふち」に傍点]へかけ、開いている障子の隙間から、部屋の中を窺っている勘兵衛の姿は、迫って来る宵闇の微光《うすびかり》の中で、まこと大きな蟇のように見えた。
 頼母の屋敷で奪い取った、二つ目[#「二つ目」は底本では「二つの目」]の淀屋の独楽を、玩具《おもちゃ》のように両手に持った、藤八猿を背中に背負い、猿廻しのお葉がこの百姓家の方へ、野道を伝わって歩いて来たのも、ちょうどこの頃のことであった。
 離家《はなれや》の門口まで来た。
(この家じゃアないかしら?)と思案しながら佇んだ。
 藤八猿の着ている赤いちゃんちゃんこ[#「ちゃんちゃんこ」に傍点]と、お葉の冠っている白手拭とが、もう蚊柱の立ち初めている門の、宵闇の中で際立って見えた。
(案内を乞うて見ようかしら?)
 思い惑いながら佇んでいる。
 田安屋敷の乱闘のおり、幸いお葉も遁れることが出来た。でも姉のあやめ[#「あやめ」に傍点]とも、腰元のお八重とも、姉の恋人だという山岸主税とも、一緒になれずに一人ぼっちとなった。
(姉さんが恋しい、姉さんと逢いたい。主税様の行方が解ったら、姉さんの行方も解るかも知れない)
 ふとお葉はこう思って、今日の昼こっそり田安家のお長屋、主税の屋敷の方へ行ってみた。すると幸いにも主税の親友の、鷲見《すみ》与四郎と逢うことが出来た。
「馬込のこうこういう百姓家の離家《はなれ》に、あやめ[#「あやめ」に傍点]という女と住んで居るよ」と、そう与四郎は教えてくれた。
 主税にとって鷲見与四郎は、親友でもあり同志でもあった。――頼母の勢力を覆えそうとする、その運動の同志だったので、与四郎へだけは自分の住居を、主税はそっと明かしていたのであった。
 聞かされたお葉は躍り上って、すぐに馬込の方へ足を向け、こうして今ここへやって来たのであった。
(この家らしい)とお葉は思った。
(考えていたって仕方がない。案内を乞おう、声をかけてみよう。……いいえそれより藤八を舞わして、座敷の中へ入れてみよう)
 お葉は肩から藤八猿を下ろした。
 藤八猿は二つ目の淀屋の独楽を、大切そうに手に持ったまま、地面へヒラリと飛び下りた。
 藤八猿はこの独楽を手に入れて以来、玩具のようにひどく気に入っていると見え、容易に手放そうとはしないのである。
「今日の最後の芸当だよ、器用に飛び込んで行って舞ってごらん」
 人間にでも云い聞かせるように云って、お葉は土間へ入って行った。

   蝋燭の燈の下で

「お猿廻しましょう」と声がかかり、赤いちゃんちゃんこ[#「ちゃんちゃんこ」に傍点]を着た藤八猿が、奥の部屋へ毬のように飛び込んで来たので主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とははっとした。
「まあ藤八だよ!」と叫んだのは、襟を掻き合わせたあやめ[#「あやめ」に傍点]であり、
「独楽を持っている、淀屋の独楽を!」と、つづいて叫んだのは主税であった。
 その前で藤八猿は独楽を持ったまま、綺麗に飜斗《とんぼ》を切って見せた。
「捕らえろ! 捕らえて淀屋の独楽を!」
 二人が藤八猿を追っかけると、猿は驚いて門口の方へ逃げた。それを追って門口まで走った……
 と、土間の宵闇の中に、女猿廻しが静かに立っていた。
「ま、やっぱりあやめ[#「あやめ」に傍点]お姉様!」
「お前は妹! まアお葉かえ!」

 この頃勘兵衛は野の道を、荏原屋敷の方へ走っていた。懐中《ふところ》をしっかり抑えている。主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とが猿を追って、土間の方へ走って行った隙を狙い、奪い取った第一の淀屋の独楽が、懐中の中にあるのであった。
(こいつを頼母様へ献上してみろ、俺、どんなに褒められるかしれねえ。……それにしてもあやめ[#「あやめ」に傍点]と主税とが、あんな所に住んでいようとは。……頼母様にお勧めして、今夜にも捕らえて処刑してやらなけりゃア。……)
 飛加藤の亜流という老人も、それにたかって[#「たかって」に傍点]いた人々も、とう[#「とう」に傍点]に散って誰もいない野の道を、小鬼のように走りながら、そんなことを思っているのであった。
 空には星がちらばってい、荏原屋敷を囲んでいる森が、遥かの行手に黒く見えていた。

 やがてこの夜も更けて真夜中となった。
 と、荏原屋敷の一所に、ポッツリ蝋燭の燈が点った。
 森と、土塀と、植込と、三重の囲いにかこわれて、大旗本の下屋敷かのように、荏原屋敷の建物が立っていた。歴史と伝説《いいつたえ》と罪悪《つみ》と栄誉《ほまれ》とで、長年蔽われていたこの屋敷には、主人夫婦や寄宿人《かかりうど》や、使僕《めしつかい》や小作人の家族たちが、三十人近くも住んでいるのであった。でも今は宏大なその屋敷も、星と月との光の下に、静かな眠りに入っていた。
 その屋敷の一所に、蝋燭の燈が点っているのであった。
 四方を木々に囲まれながら、一宇の亭《ちん》が立っていて、陶器《すえもの》で造った円形の卓が、その中央に置かれてあり、その上に、太巻の蝋燭が、赤黄色く燃えているのであった。そうしてその燈に照らされながら、三つの顔が明るく浮き出していた。松浦頼母と弟の主馬之進――すなわちこの屋敷の主人公と、その主馬之進の妻の松女《まつじょ》との顔で、その三人は榻《とう》に腰かけ、卓の上の蝋燭の燈の下で、渦のように廻っている淀屋の独楽を、睨むようにして見守っていた。……
 独楽は勘兵衛が今日の宵の口に、主税とあやめとの住居から奪い、頼母に献じたその独楽で、この独楽を頼母は手に入れるや、部屋で即座に廻してみた。幾十回となく廻してみた。と、独楽の蓋にあたる箇所へ、次々に文字が現われて来た。
「淀」「荏原屋敷」「に有りて」「飛加藤の亜流」等々という文字が現われて来た。……でももうそれ以上は現われなかった。ではどうしてこんな深夜に、庭の亭の卓の上などで、改めて独楽を廻すのだろう?
 それは荏原屋敷の伝説からであった。
 伝説によるとこれらの亭は、荏原屋敷の祖先の高麗人が、高麗から持って来たものであり、それをここへ据え付ける場合にも、特にその卓の面は絶対に水平[#「水平」に傍点]に、据えられたと云い伝えられていた。そういう意味からこの亭のことを、「水平の亭」と呼んで、遥かあなたに杉の木に囲まれた「閉扉《あけず》の館」などと共に、荏原屋敷の七不思議の中の、一つの不思議として数えられているのであった……

   まだ解けぬ謎

「絶対に水平のあの卓の上で、淀屋の独楽をお廻しになったら、別の文字が現われはしますまいか」
 ふと気がついたというように、深夜になって頼母へそう云ったのは、主馬之進の妻の松女であった。
「なるほど、それではやってみよう」
 でも卓の上で廻しても、独楽の面へ現われる文字は、あれの他には何もなかった。
「駄目だのう」と頼母は云って、落胆したように顔を上げた。
「あれ以上に文字は現われないのであろうよ。……この独楽に現われたあれらの文字と、以前にわしの持っていた独楽へ現われた文字、それを一緒にして綴ってみようではないか。何らかの意味をなすかもしれない」
「それがよろしゅうございましょう」
 こう云ったのは主馬之進であった。主馬之進は頼母の弟だけに、頼母にその容貌は酷似していたが、俳優などに見られるような、厭らしいまでの色気があって、婦人《おんな》の愛情を掻き立てるだけの、強い魅力を持っていた。
「この独楽へ現われた文字といえば『淀』『荏原屋敷』『有りて』『「飛加藤の亜流』という十五文字だし、以前《まえ》にわしの持っていた独楽へ現われた文字は、『屋の財宝は』『代々』『守護す』『見る日は南』の十五文字じゃ。……で、わしは先刻《さっき》からこの三十文字を、いろいろに考えて綴り合わせてみたが、こう綴るのが正しいらしい……ともかくも意味をなすよ『淀屋の財宝は代々荏原屋敷に有りて、飛加藤の亜流守護す』と、なるのだからの」
「飛加藤の亜流とは何でしょう?」
 主馬之進の妻の松女が訊いた。
 彼女はもう四十を過ごしていた。でも美貌は失われていなかった。大旗本以上の豪族であるところの、荏原屋敷の主婦としての貫禄、それも体に備わっていた。あやめやお葉の母親だけあって、品位なども人に立ち勝っていた。が、蝋燭の燈に照らされると、さすが小鼻の左右に深い陰影《かげ》などがつき、全体に窶れが窺われ、それに眼などもおちつか[#「おちつか」に傍点]ないで、なにか良心に咎められている。――そんなようなところが感じられた。
「飛加藤の亜流と申すのはな」と、頼母は松女を見い見い云った。
「白昼に龕燈をともしなどして、奇行をして世間を歩き廻っている、隠者のような老人とのことで。……勘兵衛めがそう云いましたよ。今日も夕方この近くの野道で、怪しい行ないをいたしましたとかで……」
「その飛加藤の亜流とかいう老人が、代々財宝を守護するなどと、文字の上に現われました以上は、その老人を捕らえませねば……」
「左様、捕らえて糺明するのが、万全の策には相違ござらぬが、その飛加藤の亜流という老人、どこにいるのやらどこへ現われるのやら、とんと我らにしれませぬのでな」
「それより……」と主馬之進が口を出した。
「『見る日は南』という訳のわらぬ文句が、隠語の中にありまするが、何のことでございましょうな?」
「それがさ、わしにも解《わか》らぬのだよ」と頼母は当惑したように云った。
「この文句だけが独立して――他の文句と飛び離れて記されてあるので、何ともわしにも意味が解らぬ。……だがしかしそれだけに、この文句の意味が解けた時に、淀屋の財宝の真の在場所が、解るようにも思われる……」
「三つ目の淀屋の独楽を目つけ出し、隠語を探り知りました時、この文句の意味も自ずから解けると、そんなように思われまするが」
「そうだよそうだよわしもそう思う。が、三つ目の淀屋の独楽が、果たしてどこにあるものやら、とんとわしには解らぬのでのう」
 三人はここで黙ってしまった。
 屋敷の構内に古池でもあって、そこに鷭《ばん》でも住んでいるのだろう、その啼声と羽搏きとが聞こえた。
 と、ふいにこの時|茂《しげみ》の陰から、「誰だ!」という誰何の声が聞こえた。
 三人はハッとして顔を見合わせた。と、すぐに悲鳴が聞こえ、つづいて物の仆れる音がした。三人は思わず立ち上った。
 するとこの亭を囲繞《とりま》いている木々の向こうから、この亭の人々を警護していた、飛田林覚兵衛と勘兵衛との声が、狼狽したらしく聞こえてきた。

   母娘は逢ったが

「曲者だ!」
「追え!」
「それ向こうへ逃げたぞ!」
「斬られたのは近藤氏じゃ」
 こんな声が聞こえてきた。そうして覚兵衛と勘兵衛とが、閉扉《あけず》の館の方角をさして、走って行く足音が聞こえてきた。
「行ってみよう」と頼母は云って、榻から立ち上って歩き出した。
「それでは私も」と主馬之進も云って兄に続いて亭を出た。
 亭には一人松女だけが残った。
 松女は寂しそうに卓へ倚り、両の肘を卓の上へのせ、その上へ顔をうずめるようにし、何やら物思いに耽っていた。燃え尽きかけている蝋燭の燈が、白い細い頸《うなじ》の辺りへ、琥珀色の光を投げているのが、妙にこの女を佗しく見せた。
 といつの間に現われたものか、その松女のすぐの背後《うしろ》に、妖怪《もののけ》のような女の姿が、朦朧として佇んでいた。
 猿廻し姿のお葉であった。じっと松女を見詰めている。その様子が何となく松女を狙い、襲おうとでもしているような様子で……
 と、不意にお葉の片手が上り、松女の肩を抑えたかと思うと、
「お母様!」と忍び音に云った。
 松女はひどく驚いたらしく、顔を上げると、
「誰だえ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」と訊いた。
「お母様、わたしでございます」
「お母様だって? このわたしを! まアまアまア失礼な! 見ればみすぼらしい猿廻しらしいが、夜ふけに無断にこんな所へ来て、わたしに向かってお母様などと! ……怪しいお人だ、人を呼ぼうか!」
「お母様、お久しぶりねえ」
「…………」
「お別れしたのは十年前の、雪の積もった日でございましたが、……お母様もお変わりなさいましたこと。……でも妾《わたし》は、このお葉は、もっと変わりましてございます。……苦労したからでございましょうよ。……産みのお母様がご覽になっても、それと知れない程ですものねえ。……妾はお葉でございます……」
「お葉!?
 それは譫言《うわごと》のような、魘されているような声であった。よろめきながら立ち上り、よろめきながら前へ進み、松女は近々と顔を寄せた。
「ほんに……お前は……おお……お葉だ! お葉だ!」
 グラグラと体が傾ぎ、前のめり[#「のめり」に傍点]にのめったかと思うと、もう親娘《おやこ》は抱き合っていた。しばらくは二人のすすり泣きの声が、しずかな夜の中に震えて聞こえた。
「不孝者! お葉! だいそれた[#「だいそれた」に傍点]不孝者! 親を捨て家出をして! ……」
 やがて松女の感情の籠った、途切れ途切れの声が響いた。
「でも……それでも……とうとうお葉や、よく帰って来ておくれだったねえ。……どこへもやらない、どこへもやらない! 家に置きます。妾《わたし》の手許へ!」
「お母様!」と、お葉は烈しく云った。
「あのお部屋へ参ろうではございませんか!」
「何をお云いだ、え、お葉や! あのお部屋へとは、お葉やお葉や!」
「あのお部屋へ参ろうではございませんか。……あのお部屋へお母様をお連れして、懺悔と浄罪とをさせようため、十年ぶりにこのお葉は、帰って来たのでございます!」
「お葉、それでは、それではお前は?」
「知っておりました、知っておりました! 知っておればこそこのお葉は、この罪悪の巣におられず、家出をしたのでございます!」
「そんな……お前……いえいえそれは!」
「悪人! 姦婦! 八ツ裂きにしてやろうか! ……いえいえいえ、やっぱりお母様だ! ……わたしを、わたしを、いとしがり可愛がり、花簪《はなかんざし》を買って下されたり、抱いて寝させて下さいました、産みのお母様でございます! ……でも、おおおお、そのお母様が、あの建物で、あのお部屋で……」
「いいえ妾は……いいえこの手で……」
「存じております、何のお母様が、何の悪行をなさいましたものか! ……ただお母様はみすみす[#「みすみす」に傍点]ズルズルと、引き込まれただけでございます。……ですから妾は申しております。懺悔なされて下さりませと……」
「行けない、妾は、あの部屋へは! ……あの時以来十年もの間、雨戸を閉め切り開けたことのない、あの建物のあのお部屋なのだよ。……堪忍しておくれ、妾には行けない!」

   恋と敵のあいだ

   恋と敵のあいだ

「おお、まアそれではあのお部屋は、十年間|閉扉《あけず》の間か! ……さすが悪漢毒婦にも、罪業《つみ》を恐れる善根が、心の片隅に残っていたそうな。……ではあのお部屋にはあのお方の、いまだに浮かばれない修羅の妄執が、黴と湿気と闇とに包まれ、残っておることでございましょうよ。なにより幸い、なにより幸い、さあそのお部屋へお入りなされて、懺悔なさりませ、懺悔なさりませ! そうしてそれから妾《わたし》と共々、復讐の手段を講じましょう。……」
「復讐? お葉や、復讐とは?」
「わたしにとりましては実のお父様、お母様にとりましては最初の良人《おっと》の、先代の荏原屋敷の主人を殺した、当代の主人の主馬之進《しゅめのしん》を!」
「ヒエーッ、それでは主馬之進を!」
「お父様を殺した主馬之進を殺し、お父様の怨みを晴らすのさ。……さあお母様参りましょう!」
 お葉は、松女《まつじょ》の腕を握り、亭から外へ引き出した。
 この頃亭から少し離れた、閉扉の館の側《そば》の木立の陰に、主税《ちから》とあやめ[#「あやめ」に傍点]とが身体《からだ》をよせながら、地に腹這い呼吸《いき》を呑んでいた。
 主税が片手に握っているものは、血のしたたる抜身であった。
 それにしてもどうして主税やあやめ[#「あやめ」に傍点]や、お葉までが荏原屋敷へ、この夜忍び込んで来たのであろう?
 自分たちの持っていた淀屋の独楽は何者かに奪われてしまったけれど、藤八猿から得た独楽によって、幾行かの隠語《かくしことば》を知ることが出来た。
 そこで主税はその隠語を、以前《まえ》から知っている隠語と合わせて、何かの意味を探ろうとした。隠語はこのように綴られた。……「淀屋の財宝は代々荏原屋敷にありて飛加藤の亜流[#「亜流」は底本では「悪流」]守護す。見る日は南」と。「見る日は南」という意味は解《わか》らなかったが、その他の意味はよく解った。飛加藤の亜流[#「亜流」は底本では「悪流」]という老人のことも、お葉のくわしい説明によって解った。そうしてどっちみち[#「どっちみち」に傍点]淀屋の財宝が、荏原屋敷のどこかにあるということが、ハッキリ主税に感じられた。そこで主税は荏原屋敷へ忍び込んで、財宝の在場所を探りたいと思った。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]はあやめ[#「あやめ」に傍点]で又思った。
(姉妹《きょうだい》二人が揃ったのだから、すぐにも荏原屋敷へ乗り込んで行って、主馬之進を殺して復讐したい。お父様の怨みを晴らしたい)
 双方の祈願《ねがい》が一緒になって、あやめ[#「あやめ」に傍点]とお葉と主税とは、この夜荏原屋敷へ忍び込んだのであった。
 さて三人忍び込んでみれば、天の助けというのでもあろうか、頼母がい、勘兵衛がいた。
(よし、それでは次々に、機をみて討って取ってやろう)
 木陰に隠れて機会《おり》を待った。
 と、構え内を警護していた、頼母の家来の覆面武士の一人に、見現わされて誰何された。主税はその覆面武士を、一刀の下に斬り仆した。と、大勢がこの方面へ走って来た。主税はあやめ[#「あやめ」に傍点]を引っ抱えて、木立の陰へ隠れたのであるが、どうしたのかお葉は一人離れて、亭の方へ忍んで行った。声をかけて止めようと思ったが、声をあげたら敵の者共に、隠れ場所を知られる不安があった。そこで二人は無言のまま見過ごし、ここに忍んでいるのであった。……
 二人の眼前にみえているものは、主税に斬り仆された覆面武士を囲んで、同僚の三人の覆面武士と、頼母と主馬之進と飛田林覚兵衛と、絞殺したはずの勘兵衛とが、佇んでいる姿であった。
 飛び出していって斬ってかかることは、二人にとっては何でもなかったが、敵は大勢であり味方は二人、返り討ちに遇う心配があった。機《おり》を見て別々に一人々々、討って取らなければならなかった。
 二人は呼吸《いき》を呑み潜んでいた。

   閉扉の館

「曲者を探せ!」という烈しい怒声が、頼母の口からほとばしったのは、それから間もなくのことであった。
 俄然武士たちは四方へ散った。そして二人の覆面武士が主税たちの方へ小走って来た。
「居たーッ」と一人の覆面武士が叫んだ。
 だがもうその次の瞬間には、躍り上った主税によって、斬り仆されてノタウッていた。
「汝《おのれ》!」ともう一人の覆面武士が、主税を目掛けて斬り込んで来た。
 そこを横からあやめ[#「あやめ」に傍点]が突いた。
 その武士の仆れるのを後に見捨て、
「主税様、こっちへ」と主税の手を引き、あやめ[#「あやめ」に傍点]は木立をくぐって走った。……
 案内を知っている自分の屋敷の、木立や茂や築山などの多い――障害物の多い構内であった。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は逃げるに苦心しなかった。木立をくぐり藪を巡り、建物の陰の方へあやめ[#「あやめ」に傍点]は走った。
 とうとう建物の裏側へ出た。二階づくりの古い建物は、杉の木立を周囲に持ち、月の光にも照らされず、黒い一塊のかたまり[#「かたまり」に傍点]のように、静まり返って立っていた。
 それは閉扉《あけず》の館であった。
 と、建物の一方の角から、数人の武士が現われた。
 飛田林覚兵衛と頼母と家来の、五人ばかりの一団で、こちらへ走って来るらしかった。
 すると、つづいて背後《うしろ》の方から、大勢の喚く声が聞こえてきた。
 主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とは振り返って見た。
 十数人の姿が見えた。
 主馬之進と勘兵衛と、覆面の武士と屋敷の使僕《こもの》たちが、こっちへ走って来る姿であった。二人は腹背に敵を受け、進退まったく谷《きわ》まった。
 一方には十年間開いたことのない、閉扉の館が城壁のように、高く険しく立っている。そしてその反対側は古沼であった。
 泥の深さ底が知れず、しかも蛇《くちなわ》や蛭の類が、取りつくすことの出来ないほどに、住んでいると云われている、荏原屋敷七不思議の、その一つに数えられている、その恐ろしい古沼であった。
 逃げようにも逃げられない。
 敵を迎えて戦ったなら、大勢に無勢殺されるであろう。
(どうしよう)
(ここで死ぬのか)
(おお、みすみす返り討ちに遇うのか)
 その時何たる不思議であろう!
 閉扉の館の裏の門の扉が、内側から自ずとひらいたではないか!
 二人は夢中に駆け込んだ。
 すると、扉が内側から、又自ずと閉ざされたではないか。
 屋内は真の闇であった。

   死ぬ運命の二人

 閉扉《あけず》の館の闇の部屋で、主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とが寄り添っている時、館の外側では頼母や主馬之進や覚兵衛や勘兵衛たちが集まって、ひそやかな声で話し合っていた。
「不思議だな、消えてしまった」
 抜いた刀をダラリと下げて、さも審しいというように、頼母はこう云って主馬之進を眺めた。主馬之進も抜き身をひっさげたまま、これも審しいというように、四方《あたり》を忙しく見廻したが、
「一方は閉扉の館、また一方は底なしの古沼、前と背後《うしろ》とからは我々や覚兵衛たちが、隙なく取り詰めて参りましたのに、主税もあやめ[#「あやめ」に傍点]も消えてなくなったように、姿をくらましてしまいましたとは? ……不思議を通りこして気味のわるいことで」
「沼へ落ちたのではございますまいか?」
 覚兵衛が横から口を出した。
「沼へ落ちたのなら水音がして、あっし[#「あっし」に傍点]たちにも聞こえるはずで」と勘兵衛が側《そば》から打ち消した。
「ところが水音なんか聞こえませんでしたよ。……天に昇ったか地にくぐったか、面妖な話ったらありゃアしない」
「主馬!」と頼母は決心したように云った。
「主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]との隠れ場所は、閉扉の館以外にはないと思うよ。彼奴《きゃつ》らなんとかしてこの戸をひらき、屋内《なか》へ入ったに相違ない。戸を破り我らも屋内へ入るとしよう! ……それでなくともこの閉扉の館へ、わしは入ろうと思っていたのだ。淀屋の財宝を手に入れようとして、長の年月この荏原屋敷を、隅から隅まで探したが、この館ばかりは探さなかった。其方《そち》や松女が厭がるからじゃ! が、今夜はどうあろうと、屋内へ入って探さなければならぬ」
「兄上! しかし、そればかりは……」と主馬之進は夜眼にも知られるほどに、顔色を変え胴顫いをし、
「ご勘弁を、平に、ご勘弁を!」
「覚兵衛、勘兵衛!」と頼母は叫んだ。
「この館の戸を破れ!」
「いけねえ、殿様ア――ッ」と勘兵衛は喚いた。
「そいつア不可《いけ》ねえ! あっしゃア[#「あっしゃア」に傍点]恐い! ……先代の怨みの籠っている館だ! ……あっしも[#「あっしも」に傍点]手伝ってやったん[#「やったん」に傍点]ですからねえ!」
「臆病者揃いめ、汝《おのれ》らには頼まぬ! ……覚兵衛、館の戸を破れ!」
 飛田林覚兵衛はその声に応じ、閉扉の館の戸へ躍りかかった。
 が、戸は容易に開かなかった。
 先刻《さっき》は内側から自然と開いて、主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とを飲み込んだ戸が、今は容易に開かないのである。
「方々お手伝い下されい」
 覚兵衛はそう声をかけた。
 覆面をしている頼母の家来たちは、すぐに覚兵衛に手を貸して、館の戸を破りだした。
 この物音を耳にした時、屋内の闇に包まれていた主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とはハッとなった。
「主税様」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は云った。
「頼母や主馬之進たちが戸を破って……」
「うむ、乱入いたすそうな。……そうなってはどうせ切り死に……」
「切り死に? ……敵《かたき》と、お父様の敵と……それでは返り討ちになりますのね。……構わない構わないどうなろうと! ……本望、わたしは、わたしは本望! ……主税様と二人で死ぬのなら……」

   亡魂の招くところ

 たちまちふいに闇の部屋の中へ、一筋の薄赤い光が射した。
(あっ)と二人ながら驚いて、光の来た方へ眼をやった。
 奥の部屋を境している襖があって、その襖が細目に開いて、そっちの部屋にある燈火《ともしび》の光が、その隙間から射し込んで来たと、そう思われるような薄赤い光が、ぼっとこの部屋に射して来ていた。
「貴郎《あなた》!」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は怯えた声で云った。
「あけずの館に燈火の光が! ……では誰かがいるのです! ……恐ろしい、おおどうしよう!」
 主税も恐怖を新規《あらた》にして、燈火の光を睨んだが、
「そういえば閉扉の館の戸が、内から自ずと開きましたのも、不思議なことの一つでござる。……そこへ燈火の光が射した! ……いかにも、さては、この古館には、何者か住んで居るものと見える! ……どっちみち助からぬ二人の命! ……敵の手にかかって殺されようと、怪しいものの手にかかって殺されようと、死ぬる命はひとつでござれば、怪しいものの正体を……」と主税はヌッと立ち上った。
「では妾《わたし》も」とあやめ[#「あやめ」に傍点]も立った。
 でも二人が隣部屋へ入った時には、薄赤い光は消えてしまった。
(さては心の迷いだったか)
(わたしたちの眼違いであったのかしら)
 二人は茫然と闇の中に、手を取り合って佇んだ。この間も戸を破る烈しい音が、二人の耳へ聞こえてきた。
 と、又も同じ光が、廊下をへだてている襖の隙から、幽かに薄赤く射して来た。
(さては廊下に!)
 あやめ[#「あやめ」に傍点]と主税とは、夢中のようにそっちへ走った。
 しかし廊下へ出た時には、その光は消えていた。
 が、廊下の一方の詰の、天井の方から同じ光が、気味悪く朦朧と射して来た。
 二階へ登る階段があって、その頂上から来るらしかった。
 二人はふたたび夢中の様で、階段を駈け上って二階へ登った。しかし二階へ上った時には、その光は消えていて、闇ばかりが二人の周囲《まわり》にあった。
 悪漢毒婦の毒手によって、無残に殺された男の怨恨《うらみ》が、十年もの間籠っているところの、ここはあけず[#「あけず」に傍点]の館であった。その館に持主の知れない薄赤い燈火の光が射して、あっちへ動きこっちへ移って、二人の男女を迷わせる! さては殺された先代の亡魂が、怨恨の執念から行なう業では? ……
 こう思えば思われる。
 これが二人を怯かしたのである。
「主税様|階下《した》へ降りましょう。……もう妾《わたし》はこんな所には……こんな恐ろしい所には! ……それよりいっそ[#「いっそ」に傍点]階下へ降りて、頼母たちと斬り合って、敵《かな》わぬまでも一太刀怨み、その上で死にましょう!」
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は前歯を鳴らしながら云った。
「うむ」と主税も呻くように云った。
「亡魂などにたぶらかされ、うろついて生恥さらすより、斬り死にしましょう、斬り死にしましょう」
 階段の方へ足を向けた。
 すると、又も朦朧と、例の薄赤い燈火の光が、廊下の方から射して釆た。
「あッ」
「又も、執念深い!」
 今は主税は恐怖よりも、烈しい怒りに駆り立てられ、猛然と廊下へ突き進んだ。
 その後からあやめ[#「あやめ」に傍点]も続いた。
 しかし、廊下には燈火はなく、堅く閉ざされてあるはずの雨戸の一枚が、細目に開けられてあるばかりであった。
 二人はその隙から戸外《そと》を見た。
 三階造りの頂上よりも高く、特殊に建てられてある閉扉の館の、高い高い二階から眺められる夜景は、随分美しいものであった。主屋をはじめ諸々の建物や、おおよその庭木は眼の下にあった。土塀なども勿論眼の下にあった。月は澄みきった空に漂い、その光は物象《もののかたち》を清く蒼白く、神々しい姿に照らしていた。

   庭上の人影

 間もなく死ぬ運命の二人ではあったが、この美しい夜の景色には、うっとりとせざるを得なかった。
 ふいにあやめ[#「あやめ」に傍点]が驚喜の声をあげた。
「まア梯子が! ここに梯子が!」
 いかさま廊下の欄干ごしに、一筋の梯子が懸かっていて、それが地にまで達していた。
 それはあたかも二人の者に対して、この梯子をつたわって逃げ出すがよいと、そう教えてでもいるようであった。
「いかにも梯子が! ……天の与え! ……それにしても何者がこのようなことを!」
 主税も驚喜の声で叫んだ。
「不思議といえば不思議千万! ……いやいや不思議といえばこればかりではない! ……閉扉《あけず》の館の戸が開いたのも、燈火の光が現われて、われわれを二階へみちびいたのも、釘づけにされてある館の雨戸が、このように一枚だけ外されてあるのも、一切ことごとく不思議でござる」
「きっと誰かが……お父様の霊が、……わたしたちの運命をお憐れみ下されて、それで様々の不思議を現わし、救って下さるのでございましょうよ。……さあ主税様、この梯子をつたわり、ともかくも戸外へ! ともかくも戸外へ!」
「まず其方《そなた》から。あやめ[#「あやめ」に傍点]よ先に!」
「あい」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は褄をかかげ、梯子の桟へ足をかけた。
「あッ、しばらく、あやめ[#「あやめ」に傍点]よお待ち! ……何者かこっちへ! 何者かこっちへ!」
 見れば月光が蒼白く明るい、眼の前の庭を二つの人影が、組みつほぐれつ、追いつ追われつしながら、梯子の裾の方へ走って来ていた。
 二人は素早く雨戸の陰へかくれ、顔だけ出して窺った。
 夜眼ではあり遠眼だったので、庭上の人影の何者であるかが、主税にもあやめ[#「あやめ」に傍点]にもわからなかったが、でもそれはお葉と松女なのであった。
「さあお母様あの館で――十年戸をあけないあけず[#「あけず」に傍点]の館で、懺悔浄罪なさりませ! ……あの館のあの二階で、御寝なされていたお父様の臥所へ、古沼から捕った毒虫を追い込み、それに噛せてお父様を殺した……罪悪の巣の館の二階で、懺悔なさりませ懺悔なさりませ!」
 母の松女の両手を掴み、引きずるようにして導きながら、お葉は館の方へ走るのであった。
 行くまいともがく[#「もがく」に傍点]松女の姿は、捻れ捩れ痛々しかった。
「お葉やお葉や堪忍しておくれ、あそこへばかりは妾《わたし》は行けない! ……この年月、十年もの間、もう妾は毎日々々、心の苛責に苦しんで、後悔ばかりしていたのだよ。……それを、残酷な、娘の身で、あのような所へお母様を追い込み! ……それにあそこ[#「あそこ」に傍点]は、あの館は、扉も雨戸も鎹《かすがい》や太い釘で、厳しく隙なく止めに止めて、めったに開かないようにしてあるのだよ。……いいえいいえ女の力などでは、戸をあけることなど出来ないのだよ。……行っても無駄です! お葉やお葉や!」
 しかし二人が閉扉の館の、裾の辺りまで走りついた時、二人ながら「あッ」と声をあげた。
 二階の雨戸が開いており、梯子がかかっているからであった。
「あッあッ雨戸が開いている! ……十年このかた開けたことのない、閉扉の館の雨戸が雨戸が! それに梯子がかかっているとは!」
 松女は梯子の根元の土へ、恐怖で、ベッタリ仆れてしまった。
 その母親の側《そば》に突っ立ち、これも意外の出来事のために、一瞬間放心したお葉がいた。
 しかし直ぐお葉は躍り上って叫んだ。
「これこそお父様のお導き! お父様の霊のお導き! ……妻よここへ来て懺悔せよと、怒りながらも愛しておられる、お父様の霊魂が招いておる証拠! ……そうでなくて何でそうも厳重に、十年とざされていた閉扉の館の、雨戸が自然と開きましょうや! ……梯子までかけられてありましょうや!」
 母親の手をひっ掴み、お葉は梯子へ足をかけた。
「お母様!」と松女を引き立て、
「さあ一緒に、一緒に参って、お父様にお逢いいたしましょう! いまだに浮かばれずに迷っておられる、悲しい悲しいお父様の亡魂に!」

   月下の殺人

「お葉かえ!」とその途端に、二階から女の声がかかった。
 お葉は無言で二階を見上げた。
 欄干から半身をのり出して、あやめ[#「あやめ」に傍点]が下を見下ろしている。
「あッ、お姉様! どうしてそこには?」
 しかしあやめ[#「あやめ」に傍点]はそれには答えず、松女の姿へじっと眼をつけ、
「お葉やお葉や、そこにいるのは?」
「お母様よ! お姉様!」
「お母様だって? 良人《おっと》殺しの!」
「…………」
「良人殺しの松女という女かえ!」
「…………」
「よくノメノメとここへは来られたねえ」
「いいえお姉様」とお葉は叫んだ。
「わたしがお母様をここまで連れて……」
「お前がお母様を? 何のために?」
「お父様を殺したあのお部屋へ、お母様をお連れして懺悔させようと……」
「その悪女、懺悔するかえ?」
「あやめ[#「あやめ」に傍点]や!」とはじめて松女は叫んだ。
 連続して起こる意外の出来事に、今にも発狂しようとして、やっと正気を保っている松女が、嗄《しゃが》れた声で叫んだのである。
「あやめ[#「あやめ」に傍点]や……お前までが……この屋敷へ! ……いいえいいえ生みの家へ……おおおお帰っておいでだったのか! ……あやめ[#「あやめ」に傍点]や、あんまりな、あんまりな言葉! ……悪女とは! 懺悔するかえとは! ……わたしは、あれから、毎日々々、涙の乾く暇もないほどに、後悔して後悔して……」
「お黙り!」と絹でも引裂くような声が、――あやめ[#「あやめ」に傍点]の声が遮った。
「わたしは先刻《さっき》から雨戸の隙から、お前さんたちの様子を見ていたのだよ。……お葉がお前さんを引っ張って、この二階へ連れて来ようとするのに、お前さんは行くまいと拒んでいたじゃアないか……ほんとうに後悔しているなら、日夜二階の部屋へ来て、香でも焚いて唱名して、お父様の菩提を葬えばよいのだ! ……それを行くまいとして拒むのは、……」
「あやめ[#「あやめ」に傍点]や、それも恐ろしいからだよ。……あのお方の怨みが恐ろしく、わたしの罪業が恐ろしく、その館が恐ろしく……」
「おおそうとも、恐ろしいとも! この館は今も恐ろしいのだ! ……恐ろしいのも色々だが、今のこの館の恐ろしさは、又もやむごたらしい[#「むごたらしい」に傍点]人殺しが、行なわれようとしていることさ!」
「また人殺しが? 誰が、誰を?」
「お前さんの良人の主馬之進と、主馬之進の兄の松浦頼母とが、たくさんの眷族をかたらって、わたしとわたしの恋しい人とを、この館へとりこめて、これから殺そうとしているのさ。……お聞き、聞こえるだろう、戸をこわしている音が! ……館の裏の戸をぶちこわして、この館へ乱入し、わたしたちを殺そうとしているのさ! ……あッ、しめた! いいことがある! ……お葉やお葉やその女を捉え、ここへおよこし、引きずり上げておくれ! 人質にするのだよその女を! ……もう大丈夫だ、殺されっこはない。その女を人質に取っておいたら、いかな主馬之進や頼母でも、わたしたちを殺すことは出来ないだろうよ。……」
 松女の腕を捉《と》り引きずり引きずり、梯子を上るお葉の姿が、すぐに月光に照らされて見えた。
 松女を中へ取り籠めて、あやめ[#「あやめ」に傍点]とお葉と主税とが、刀や短刀を抜きそばめ、闇の二階の部屋の中に、息を殺して突立ったのは、それから間もなくのことであった。
 裏戸の破られた音が聞こえた。
 乱入して来る足音が聞こえた。
 間もなく階段を駈け上る、数人の足音が聞こえてきた。
「よし降り口に待ちかまえていて……」と、主税は云いすて三人を残し、階段の降り口へ突進して行った。
 頼母の家来の一人の武士が、いつの間に用意したか弓張提燈をかかげて、階段を駆け上り姿を現わした。
 その脳天を真上から、主税は一刀に斬りつけた。
 わッという悲鳴を響かせながら、武士は階段からころがり落ちた。
「居たぞ!」
「二階だ!」
「用心して進め!」
 声々が階下から聞こえてきた。

   さまよう娘

 この頃植木師の一隊が、植木車を数台囲み、荏原屋敷の土塀の外側を、山の手の方へ進んでいた。車には植木が一本もなかった。
 どこかのお屋敷へ植木を植えて、車をすっかり空にして、自分たちの本拠の秩父の山中へ、今帰って行く途中らしい。
 二十人に近い植木師たちは、例によって袖無しに伊賀袴を穿き、山岡頭巾をかむった姿で、粛々として歩いていた。
 その中に一人女がいた。意外にもそれはお八重であった。
 やはり袖無しを着、伊賀袴を穿き、山岡頭巾をかむっている。
 肩を落とし、首を垂れ、悄々《しおしお》として歩いて行く姿は、憐れに寂しく悲しそうであった。それにしてもどうして植木師などの中に、彼女、お八重はいるのであろう?
 松浦頼母の一味によって、田安様お屋敷の構内で、お八重もあのとおり迫害されたが、でも辛うじて構内から遁れた。すると、そこに屯《たむろ》していたのが、十数人の植木師たちであった。
 彼女は植木師たちに助けを乞うた。植木師たちは承知して、彼女に彼らの衣裳を着せ、追って来た頼母の家来たちの眼を、巧みにくらませて隠してくれた。
 それからというもの彼女はその姿で、植木師たちと一緒に住み、植木師たちと一緒に出歩き、恋人主税の行方を探し、今日までくらして来たのであった。
 主税もお葉もその姉のあやめ[#「あやめ」に傍点]も、無事に田安邸から遁れ出たという、そういう消息は人伝てに聞いたが、どこに主税が居ることやら、それはいまだに解らなかった。
 植木師たちの本拠は秩父にあったが、秩父から直接植木を運んで、諸家へ植え込みはしないのであった。
 まず秩父から運んで来て、本門寺つづきの丘や谷に、その植木をとりこ[#「とりこ」に傍点]にして置き――そこが秩父の出店なのであるが――そこから次々に植木を運んで、諸家へ納めるようにしているのであった。ところがとりこ[#「とりこ」に傍点]にして置いたたくさんの植木が、今日ですっかり片付いてしまった。
 そこで彼らは本拠の秩父へ、今夜帰って行くことにし、今歩いているのであった。……
(わたしには他に行くところはない。わたしも秩父へ行くことにしよう)
 お八重はこう悲しく心に決めて、彼らと一緒に歩いているのであった。
(主税様はどこにどうしておられるやら。……)
 思われるのは恋人のことであった。
 ほとんど江戸中残るところなく、主税の行方を探したのであったが、けっきょく知ることが出来なかった。
 秩父山中へ行ってしまったら、――又、江戸へでる機会はあるにしても、秩父山中にいる間は、主税を探すことは出来ないわけであって、探すことさえ出来ないのであるから、まして逢うことは絶対に出来ない。
 このことが彼女には悲しいのであった。
(いっそ江戸へ残ろうかしら?)
 でも一人江戸へ残ったところで、生活《くら》して行くことは出来そうもなかった。
 奉公をすれば奉公先の屋敷へ、体をしばられなければならないし、と云ってまさかに門付などになって、人の家の門へなどは立てそうもなかった。
(わたしには主税様は諦められない)
 月光が霜のように地面を明るめ、彼女の影や植木師たちの影を、長く細く曳いていた。
 荏原屋敷の土塀に添って、なお一行は歩いていた。
 と、土塀を抜きん出て、植込がこんもり茂っていたが、その植込の葉の陰から、何物か躍り出して宙を飛び、お八重の肩へ飛び移った。
「あれッ」とさすがに驚いて、お八重は悲鳴をあげ飛び上ったが、そのお八重の足許の地面へ、お八重の肩から飛び下りた物が、赤いちゃんちゃんこ[#「ちゃんちゃんこ」に傍点]を着た小猿だったので、お八重は驚きを繰り返して叫んだ。
「まア、お前は藤八じゃアないかえ!」
 さよう、それはお葉の飼猿、お八重もよく知っている藤八猿であった。

   奇怪な邂逅

 藤八猿が居るからには、持主のお葉がいなければならない。――とお八重はそう思った。お葉に逢って訊ねたならば、恋人主税のその後の消息《ようす》を、耳にすることが出来るかもしれない。――
(このお屋敷の土塀を越して、藤八猿は来たはずだった!)
 裾にまつわる藤八猿を、自由に裾にまつわらせながら、お八重は荏原屋敷の土塀を見上げた。土塀を高くぬきん出て、繁った植込の枝や葉が建物の姿を隠している。
(人声や物音がするようだが?)
(何か間違いでも起こったのかしら?)
(それとも妾《わたし》の空耳かしら?)
 なおもお八重は聞き澄ました。物音は間断なく聞こえてくる。
 主税の消息《ようす》を知っているお葉が、居るかもしれない屋敷の構内から、不穏な物音の聞こえるということは、お八重にとっては心配であった。
(妾、屋敷内へ入って行ってみようか?)
 でもどこから入れるだろう? 土塀を乗り越したら入れるかもしれない。
 けれどそんなことをしているうちに、植木師の一隊は彼女を見捨て秩父山中へ行ってしまうにちがいない。
 現に彼女が思案に余って、土塀を眺めて佇んでいる間に、植木師の一隊は彼女から離れて、一町も先の方を歩いているのだから。……
(どうしよう? どうしたらよかろう?)
 地団太を踏みたい心持で、彼女は同じ所に立っていた。
 でも、間もなく彼女の姿が、土塀に上って行くのが見えた。
 恋人の消息が知れるかも知れない。――この魅力が荏原屋敷へ、彼女をとうとう引き入れたのであった。
 月光に照らされたお八重の姿が、閉扉《あけず》の館の前に現われたのは、それから間もなくのことであった。
 高い二階建ての館の二階へ、地上から梯子がかかってい、閉ざされている鎧のような雨戸が、一枚だけ開いている。そうして館の裏側と、館の屋内から人声や物音が、間断なく聞こえてくるようであった。
(やはり何か事件が起こっているのだよ)
 お八重は二階を見上げながら、しばらく茫然《ぼんやり》と佇んでいた。
 すると、あけられてある雨戸の隙から、薄赤い燈火《ともしび》の光が射し、つづいて人影が現われた。龕燈を持った老人で、それは「飛加藤の亜流」であった。
 飛加藤の亜流は雨戸の隙から出て、梯子をソロソロと降り出した。
 飛加藤の亜流が地へ下り立ち、お八重と顔を合わせた時、お八重の口から迸しり出たのは、「叔父様!」という言葉であった。
「姪か、お八重か、苦労したようだのう」
 飛加藤の亜流はこう云って、空いている片手を前へ出した。
 お八重はその手へ縋りついたが、
「叔父様、どうしてこのような所に……」
「わしは飛加藤の亜流なのだよ、どのような所へでも入り込まれるよ。……お前の父親、わしの実兄の、東海林自得斎《しょうじじとくさい》が極重悪木を利用し、自由に人が殺せるようにのう。……それにしてもわし達兄弟は、何という変わった兄弟であろう。徳川によって滅ぼされた、小西摂津守の遺臣として、徳川家に怨みを抱いていることは、わしも兄上も同じなのではあるが、兄上は魔神の世界に住んで、悪木を作り人を殺し――田安中納言家をはじめとし、徳川家に縁ある人々を殺し、主家の怨を晴らそうとしているのに、わしは一念頓悟して、誠の教の庭に住み、真実《まこと》の人間を目つけ出そうとして、乞食のように歩き廻っている。……わが兄ながら惨忍な、実の娘を間者として、田安家の大奥へ住み込ませ、淀屋の独楽を奪わせようとは……」
「まあ叔父様、そのようなことまで……」
「わしは飛加藤の亜流なのだよ、どのようなことでも知っている……」
「では、叔父様には、淀屋の独楽の――三個《みっつ》あるという淀屋の独楽の、その所在《ありばしょ》もご存知なので?」
「一個《ひとつ》は頼母が持っておる。お前を苦しめた松浦頼母が。もう一つは主税が持っておる、お前が愛している山岸主税が。……が、最後の一つはのう」
「最後の一個は? 叔父様どこに?」
「それは云えぬ、今は云えぬ! ……勿論わしは知っているが」

   聞こえる歌声

「では叔父様、独楽にまつわる[#「まつわる」に傍点]、淀屋の財宝の所在も?」
「淀屋の財宝を守護する者こそ、この飛加藤の亜流なのだよ」
「…………」
「この荏原屋敷の先代の主人は、わしの教の弟子なのじゃ。そうして淀屋の財宝は、この荏原屋敷に隠されてあるのじゃ。淀屋の財宝の所在について、わしの知っているのは当然であろう」
「…………」
「おいで、お八重」と飛加藤の亜流は云って、館を巡って歩き出した。
「眼には眼をもって、歯には歯をもって……因果応報の恐ろしさを、若いお前に見せてあげよう」
 お八重は飛加藤の亜流の後から、胸を踊らせながら従《つ》いて行った。

 この頃館の裏口では、頼母と主馬之進とが不安そうに、破壊された戸口から屋内《なか》を覗きながら、聞こえてくる物音に耳を澄ましていた。
 そこへ屋内から走り出して来たのは、飛田林覚兵衛《とんだばやしかくべえ》であった。
「大変なことになりましてございます。主税《ちから》めどうして手に入れましたものか、主馬之進《しゅめのしん》殿のご内儀を捕虜《とりこ》とし、左様人質といたしまして、その人質を盾となし、二階座敷に攻勢をとり、階段を上る我らの味方を、斬り落とし斬り落としいたしまする」
 大息吐いて注進する後から、お喋舌《しゃべ》りの勘兵衛《かんべえ》が飛出して来て、
「坂本様も宇津木殿も、斬り仆されましてございます。とてもこいつア敵《かな》いませんや。向こうにゃア奥様という人質があって、こっちが無鉄砲に斬り込んで行きゃア、奥様に大怪我させるんですからねえ」とこれも大息吐いて呶鳴り立てた。
「ナニ家内が描虜にされた※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」とさすがの主馬之進も仰天したらしく、
「それは一大事うち捨ては置けない! ……方々お続き下されい!」と屋内へ夢中で駈け込んだ。
「では拙者も」と、それにつづいて覚兵衛が屋内に駈け込めば、
「それじゃアあっし[#「あっし」に傍点]ももう一度」と勘兵衛も意気込んで駈け込んだ。
(夫婦の情愛は別のものだな)と後に残った頼母は呟き、戸口から屋内を覗き込んだ。
(臆病者の主馬ではあるが、女房が敵の手に捕らえられたと聞くや、阿修羅のように飛び込んで行きおった。……ところで俺《わし》はどうしたものかな?)
 頼母にとっては松女《まつじょ》の命などより、淀屋の財宝の方が大切なのであった。主税やあやめ[#「あやめ」に傍点]などを討ってとるより、独楽の秘密を解くことの方が、遥かに遥かに大切なのであった。
 で、危険な屋内などへは、入って行く気にはなれないのであった。
 太刀音、掛け声、悲鳴などが、いよいよ烈しく聞こえてはきたが、頼母ばかりはなお門口に立っていた。
 するとその時老人の声が、どこからともなく聞こえてきた。しかもそれは歌声であった。
(はてな?)と頼母は聞き耳を立てた。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]真昼頃、見る日は南、背後《うしろ》北、左は東、右は西なり
[#ここで字下げ終わり]
 歌の文句はこうであった。
 そうしてその歌声は林の奥の、古沼の方から聞こえてくる。
「見る日は南と云ったようだな」と頼母は思わず声に出して云った。
(見る日は南というこの言葉は、独楽の隠語の中に有ったはずだ。その言葉を詠み込んだ歌を歌うからには、その歌の意味を知っていなければならない)
 頼母は歌の聞こえた方へ、足を空にして走って行った。
 歌の主を引っ捕らえ、歌の意味を質《ただ》そうと思ったからである。
 歌声は林に囲繞された大古沼の方から聞こえてきた。
 頼母は林の中へ走り込んだ。
 でも林の中には人影はなく、落葉松《からまつ》だの糸杉だの山桜だの、栗の木だの槇の木だのが繁りに繁り、月光を遮ぎり月光を澪し、萱だの芒だのいら[#「いら」に傍点]草だのの、生い茂り乱れもつれ[#「もつれ」に傍点]合っている地面へ、水銀のような光の斑を置き、長年積もり腐敗した落葉が、悪臭を発しているばかりであった。

   秘密は解けたり!

 そうして林の一方には、周囲五町もある大古沼が、葦だの萱だのに岸を茂らせ、水面に浮藻や落葉を浮かべ、曇った鏡のように月光に光り、楕円形に広がっていた。そうして沼の中央に在る、岩で出来ている小さい島の、岩の頂にある小さい祠が、鳥の形に見えていた。
 でも人影はどこにもなかった。失望して頼母は佇んだ。
 と、又もや歌声が、行手の方から聞こえてきた。
(さてはむこうか)と頼母は喜び、跫音《あしおと》を忍ばせてそっちへ走った。
 茨と灌木と蔓草とで出来た、小丘のような藪があったが、その藪の向こう側から、男女の話し声が聞こえてきた。
(さては?)と頼母は胸をドキつかせ、藪の横から向こう側を覗いた。
 一人の娘と一人の老人とが、草に坐りながら話していた。
 老人は白髪白髯の、神々しいような人物であったが、しかしそれは一向見知らない人物であった。しかし、女の方はお八重であった。田安中納言家の腰元で、そうして自分が想いを懸けた、その美しいお八重であった。
(これは一体どうしたことだ。こんな深夜にこんな所に、お八重などがいようとは?)
 夢に夢見る心持で、頼母は一刹那ぼんやりしてしまった。
 しかし、老人の膝の側《そば》に、龕燈が一個《ひとつ》置いてあり、その龕燈の光に照らされ、淀屋の独楽に相違ない独楽が、地上に廻っているのを眼に入れると、頼母は俄然正気づいた。
(独楽がある! 淀屋の独楽が! 三つ目の独楽に相違ない!)
 この時老人が話し出した。
「ね、この独楽へ現われる文字は『真昼頃』という三つの文字と『背後《うしろ》北、左は東、右は西なり』という、十一|文字《もじ》の外《ほか》にはない。……もう一つの独楽に現われて来るところの『見る日は南』という五つの文字へ、この独楽へ現われた文字を差し加えると「真昼頃、見る日は南、背後北、左は東、右は西なり」という、一首の和歌になるのだよ。……そうしてこの和歌は古歌の一つで、方角を教えた和歌なのさ。広野か海などをさまよって、不幸にも方角を失った際、それが真昼であったなら、先ず太陽を見るがよい。太陽は南にかかっているであろう。だから背後は北にあたり、左は東、右は西にあたる。――ただこういう意味なのだよ」
「でも、そんな和歌が淀屋の財宝と、どんな関係があるのでございます?」と好奇心で眼を輝かせながら、お八重は息をはずませて訊いた。
「淀屋の財宝の所在《ありばしょ》が、この和歌の中に詠まれているのだよ。……太陽を仰いでいる人間の位置は、東西南北の中央にある。その人間の位置にあたる所に、淀屋の財宝が隠されてあるのさ」
「ではどこかの中央に?」
「この屋敷の中央に?」
「この屋敷の中央とは?」
「荏原屋敷は大昔においては、沼を中央にして作られていたものさ」
「まア、では、財宝は古沼の中に?」
「沼の中央は岩の小島なのさ」
「まア、では、沼の小島の内に?」
「小島の中央は祠なのだ」
「では淀屋の財宝は祠の中に隠されてあるのね」
「そうだ」と老人は感慨深そうに云った。
「そうしてそのことを知っている者は、荏原屋敷の先代の主人と、この飛加藤の亜流だけなのさ。そうしてそのことを記してあったのは、三つの淀屋の独楽だけだったのさ。その独楽は以前には三つながら、荏原屋敷にあったのさ。ところがいつの間にか三つながら、荏原屋敷から失われてしまった。だがその中の一つだけは、ずっとわし[#「わし」に傍点]が持っていた。……それにしても淀屋の独楽を巡って、幾十人の者が長の年月、悲劇や喜劇を起こしたことか。……でも、いよいよ淀屋の独楽が、一所に集まる時期が来た。……お八重、わしに従《つ》いておいで。淀屋の財宝の莫大な額を、親しくお前の眼に見せてあげよう」
 地上の独楽を懐中に納め、龕燈を取り上げて飛加藤の亜流は、やおら草から立ち上った。
 お八重もつづいて立ち上ったが、
「でも叔父様、船もないのに、沼を渡って、どうして小島へ……」

   因果応報

「ナーニ、わしは飛加藤の亜流だよ。どんなことでも出来る人間だよ。そうしてわしに従《つ》いてさえ来れば、お前もどんなことでも出来るのだよ。……沼を渡って行くことなども……」
 二人は沼の方へ歩いて行った。
 藪の陰に佇んで、見聞きしていた頼母は太い息を吐き、
「さてはそういう事情だったのか」と声に出して呟いた。
(淀屋の独楽の隠語は解けた。淀屋の財宝の在場所も知れた)
 このことは頼母には有り難かったが、飛加藤の亜流とお八重とが揃って、財宝の所在地へ行くということが、どうにも不安でならなかった。
(財宝を二人に持ち出されては、これまでの苦心も水の泡だ)
 こう思われるからであった。
(俺も沼の中の島へ行こう)
 ――頼母は飛加藤の亜流の後を追い、沼の方へ小走った。
 頼母が沼の縁へ行きついた時、彼の眼に不思議な光景が見えた。
 月光に薄光っている沼の上を、飛加藤の亜流という老人が、植木師風のお八重を連れ、まるで平地でも歩くように、悠々と歩いて行くのであった。重なっていた浮藻が左右に別れ、水に浮いて眠っていた鴨の群が、これも左右に別れるのさえ見えた。
(水も泥も深い沼だのに、どうして歩いて行けるのだろう?)
 超自然的の行動ではなくて、水中に堤防が作られていて、陸からはそれが見えなかったが、飛加藤の亜流には解《わか》っていたので、それを渡って行ったまでである。しかし頼母には解っていなかったので、呆然佇んで見ていたが、
(そうだ、飛加藤の亜流には、出来ないことはないはずだった。水を渡ることなど何でもないのだろう。……飛加藤の亜流にさえ従《つ》いて行けば、こっちの身も沼を渡れるだろう)
 頼母は沼の中へ入って行った。
 しかし数間とは歩けなかった。水が首まで彼を呑んだ。蛭、長虫が彼を目指し、四方八方から泳ぎ寄って来た。
「助けてくれーッ」と悲鳴を上げ、頼母は岸へ帰ろうとした。
 しかし深い泥が彼の足を捉え、彼を底の方へ引き込んだ。
 突然彼の姿が見えなくなり、彼の姿の消えた辺りへ、泡と渦巻とが現われた。
 と、ふいにその水面へ、一つの独楽が浮かび上った。頼母の持っていた独楽であって、水底に沈んだ彼の懐中から、水の面へ現われたのであった。独楽にも長虫はからみ付いていた。そうしてその虫は島を指して泳いだ。飛加藤の亜流とお八重との姿が、その島の岸に立っていた。そっちへ独楽は引かれて行く。

 閉扉《あけず》の館の二階では、なお血闘が行なわれていた。頼母の家来の数名の者が、死骸となって転がっていた。
 髪を乱し襟を拡げ、返り血を浴びた主税がその間に立ち、血にぬれた刀を中段に構え、開いている雨戸から射し込んでいる月光《ひかり》に、姿を仄かに見せていた。
 その背後《うしろ》に息を呑み、あやめ[#「あやめ」に傍点]とお葉とが立っていた。二人の女の持っている刀も、ヌラヌラと血にぬれていた。そうして二人の女の裾には、ほとんど正気を失ったところの、松女が倒れて蠢いていた。
 階段の下からは罵る声や怒声が、怯かすように聞こえてくる。
 しかし登っては来なかった。
 これ迄に登って行った者一人として、帰って来る者がないからであった。決死の主税に一人のこらず、二階で討って取られたからであった。
 しかしにわかにその階下から、主馬之進の声が聞こえてきた。
「お松、お松、お松は二階か! 心配するな、俺が行く!」
 つづいて勘兵衛の声が聞こえる。
「旦那、あぶねえ、まアお待ちなすって! ……とてもあぶねえ、うかつ[#「うかつ」に傍点]には行けねえ! ……行くなら皆で、みんなで行きやしょう! ……覚兵衛殿、覚兵衛殿、あんたが真先に!」
 しかし飛田林覚兵衛の声は、それに対して何とも答えなかった。
「お松、お松!」と主馬之進の声が、また悲痛に聞こえてきた。
「すぐ行くぞよ、しっかりしてくれ!」
「勘兵衛放せ、えい馬鹿者!」
 つづいて階段を駆け上る音がし、階段口を睨んでいる主税の眼に、主馬之進の狂気じみた姿が映った。
「…………」

   人々の運命

(来たな!)と主税は雀躍《こおどり》したが、相手を身近く引寄せようとして、かえって部屋の隅へ退いた。
「あなた!」とさながら巾《きぬ》を裂くような声で、倒れている松女が叫んだのは、主馬之進が階段を上り尽くし、二階へ現われた時であった。
「お松!」と叫んで蹣跚《よろめき》々々、主馬之進はお松の方へ走り寄った。
「…………」
「…………」
 が、その瞬間あやめ[#「あやめ」に傍点]とお葉とが、左右から飛鳥のように躍りかかり、
「お父様の敵《かたき》!」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は叫び、脇差で主馬之進の胸を突くと、
「お父様の敵!」とお葉も叫び、主馬之進の脇腹を匕首《あいくち》で刺した。
 グタグタと主馬之進は仆たれが、必死の声を絞って叫んだ。
「ま、待ってくれ! 少し待ってくれ! どうせ殺されて死んでゆく俺《わし》、殺されるのは恐れないが、それ前にお松へ云いたいことがある! それも懺悔だ、お松へのお礼だ! ……おおおおお松、よくまアこれまで、貞女を保ってくらして来たなア。……俺と夫婦にはなったものの、拒んで拒んで拒みとおして、俺とは一度の枕も交わさず、よくまア貞操《みさお》を立て通したものだ! ……そのため俺はどんなに怒り、どんなに苦しみ苦しんだことか! ……しかし今になって考えてみれば、けっきょくお前が偉かったのだ! ……俺はただ名ばかりの良人《おっと》として、荏原屋敷の格と財産とを、今日まで守護して来たばかりだった。……」
「主馬之進殿オーッ」
 松女は松女で、主馬之進へ取り縋り、
「あなたが御兄上の頼母様ともども、わたくしの家へ接近なされ、先代の主人わたくしの良人と、何くれとなく懇意になされ、やがては荏原屋敷の家政へまで、立ち入るようになりましたので、苦々しく思っておりましたところ、わたくし良人の申しますには『わしはもう長の病気、余命わずかと覚悟しておる。わがなき後はこの大家族の、荏原屋敷を切り廻してゆくこと、女のお前ではとうてい出来ない。幸い主馬之進殿そなたに対し、愛情を感じておるらしく、それに主馬之進殿の兄上は、田安家の奥家老で権勢家、かたがた都合がよいによって、俺《わし》の死んだ後は主馬之進殿と、夫婦になって荏原屋敷を守れ』と……その時|妾《わたし》はどんなに悲しく『いいえ妾はあなたの妻、あなたがおなくなりなさいました後は、有髪の尼の心持で、あなた様のご冥福をお祈りし』『それでは屋敷は滅びるぞ! 先祖に対して相済まぬ!』『では妾は形ばかり主馬之進様の妻となり……』こうして妾は良人の死後……」
「その御先代の死態だが……」
 いよいよ迫る死の息の下で、主馬之進は云いついだ。
「変死、怪死、他殺の死と、人々によって噂され、それに相違なかったが、しかし決してこの主馬之進が、手をくだして殺したのでもなく、他人《ひと》にすすめて殺したのでもない! ……わしの僕《しもべ》のあの勘兵衛、わしがこの家へ住み込ませたが、性来まことにかるはずみの男、勝手にわしの心持を……わしが先代のこの屋敷の主人の、死ぬのを希望《のぞ》んでいるものと推し、古沼から毒ある長虫を捕り、先代の病床へ投げ込んで……」
 しかしこれ以上断末魔の彼には、言葉を出すことが出来なくなったらしい、両手で虚空を握む[#「握む」はママ]かと見えたが、体をのばして動かなくなった。
「あやめ[#「あやめ」に傍点]よ、お葉よ、二人の娘よ!」と、これは精神の過労から、死相を呈して来た松女は叫んだ。
「お前たちの母は、荏原屋敷の主婦は、おおおお決してお前たちの、思い込んでいたような悪女でないこと……お解《わか》りかお解りか! ……なき良人の遺言を守って、家のためにこの身を苦しめ……でも、もう妾は生きていたくない! ……可哀そうな主馬様の後を追い……」
「お母様アーッ」
「お母様アーッ」
 意外の事の真相に、心を顛動させた二人の娘は、左右から母へすがりついた。
「そうとは知らずお母様を怨み……」
「そうとは知らず主馬之進殿を殺し……」
「わたしたちこそどうしよう!」
「お母様アーッ」
「主馬之進様アーッ」
「いやいや」と、本当に最後の息で、主馬之進は言葉を発した。
「やっぱりわしは殺されていい男……荏原屋敷を横領し、隠されてある淀屋の財宝を、ウ、奪おう、ト、取ろうと……殺されていい身じゃ殺されていい身じゃ」
 まったく息が絶えてしまった。
 途端に松女もガックリとなった。
 この時階段の上り口から、勘兵衛の狼狽した喚き声が聞こえた。
「不可《いけ》ねえ、殺《やら》れた、旦那が殺れた! ……オ、奥様も死んだらしいわ――ッ」
 バタバタと階段から駈け下りる音が、けたたましく聞こえてきた。
 しかし、その音は中途で止んで、呻き声が聞こえてきた。見れば階段の中央の辺りに、勘兵衛の体が延びていた。
 紐が首に捲き付いている。
 そうしてその紐は手繰《たぐ》られて、勘兵衛の体は階段を辷って、二階の方へ上って行った。紐を手繰っているのはあやめ[#「あやめ」に傍点]であった。
「古沼から蝮を捕らえて来て、この座敷へ投げ入れて、直々お父様を殺した汝《おのれ》! 今度こそ遁さぬくたばれくたばれ[#「くたばれくたばれ」に傍点]!」
 勘兵衛の体が二階へ上るや、あやめ[#「あやめ」に傍点]は勘兵衛に引導を渡し、脇差で勘兵衛の咽喉をえぐった。
 ある時は主馬之進の若党となり、ある時は見世物の太夫元となり、ある時は荏原屋敷の僕《しもべ》となり、又ある時は松浦頼母の用心棒めいた家来となって、悪事をつくした執念深い、一面道化た勘兵衛も、今度こそ本当に殺されたのであった。

 なお階下《した》にいる敵《かたき》の輩下を、討って取ろうと主税[#「主税」は底本では「主悦」]やあやめ[#「あやめ」に傍点]達が、二階から階下へ駈け下りるや、飛田林覚兵衛が先ず逃走し、その他の者共一人残らず、屋敷から逃げ出し姿を消してしまった。
 こうして今までは修羅の巷として、叫喚と悲鳴とで充たされていた屋敷は、静寂の場と化してしまった。わけてもあけず[#「あけず」に傍点]の館の二階は、無数の死骸を抱いたまま凄じい静かさに包まれていた。
 と、その部屋へ雨戸の隙から、子供のような物が飛び込んで来た。
 それは藤八猿であった。
 乱闘の際に懐中《ふところ》から落とした、主税[#「主税」は底本では「主悦」]の持っていた淀屋の独楽が、部屋の片隅にころがっているのへ、その藤八猿は眼を付けると、それを抱いて部屋を飛び出し、雨戸の隙から庭へ下り、さらに林の中へ走り込んだ。
 でも古沼の縁まで来た時、その独楽にも飽きたと見え、沼を目掛けて投げ込んだ。
 と独楽は自ずと動いて、小島の方へ進んで行った。飛加藤の亜流が超自然の力で、独楽を島の方へ招いたのでもあろうか。いややはり長虫が巻き付いていて、島の方へ泳いで行ったからである。

 お八重よりも一層生死を共にし、苦難に苦難を重ねたところの、あやめ[#「あやめ」に傍点]と主税とは夫婦になり、一旦は辛労で気絶したものの、息吹き返した貞婦の松女や、妹娘のお葉と一緒に、荏原屋敷に住むようになったのは、それから間もなくのことであり、そういう事実をさぐり知り、主税[#「主税」は底本では「主悦」]との恋を断念したお八重は、父の許秩父の山中へも帰らず、飛加藤の亜流の弟子となり、飛加藤の亜流に従って、世人を説き廻ったということである。
 淀屋の財宝はどうなったか? 一つに集まった独楽と一緒に、いぜんとして古沼の島の中にあるか、飛加藤の亜流やお八重の手により、他の場所へ移されたか? 謎はいまだに謎として、飛加藤の亜流とお八重以外には、知る者一人もないのであった。しかし飛加藤の亜流の教義が、その後ますます隆盛になり、善人に対し善事に対し、飛加藤の亜流は惜気もなく、多額の金子を与えたというから、淀屋の財宝はその方面に、浄財としてあるいは使われたのかもしれない。
 松女がその後有髪の尼として、清浄の生活を継続し、良人や主馬之進をとむらいながら、主税[#「主税」は底本では「主悦」]夫婦やお葉によって孝養されたということや、お葉が良縁を求めながら、その優しい心持から、藤八猿を可愛がり、いつまでも手放さなかったというようなことは、あえて贅言する必要はあるまい。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
   1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「講談雑記」
   1936(昭和11)年1月~10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本は、「おっしゃる」に「仰有る」と「有仰る」を混記しています。原義が「オオセ・アル」であることから、「有仰る」を注記の上「仰有る」に改め、表記の統一を図りました。
※「袖の中には?」「怪しの浪人」などの小見出しは、底本では天付きですが、3字下げとしました。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
YYYY年MM月DD日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

「おお、まアそれではあのお部屋は、十年間|閉扉《あけず》の間か! ……さすが悪漢毒婦にも、罪業《つみ》を恐れる善根が、心の片隅に残っていたそうな。……ではあのお部屋にはあのお方の、いまだに浮かばれない修羅の妄執が、黴と湿気と闇とに包まれ、残っておることでございましょうよ。なにより幸い、なにより幸

袖の中には?

 舞台には季節にふさわしい、夜桜の景がかざられてあった。
 奥に深々と見えているのは、祗園辺りの社殿《やしろ》であろう、朱の鳥居や春日燈籠などが、書割の花の間に見え隠れしていた。
 上から下げられてある桜の釣花の、紙細工の花弁が枝からもげて、時々舞台へ散ってくるのも、なかなか風情のある眺望《ながめ》であった。
 濃化粧の顔、高島田、金糸銀糸で刺繍《ぬいとり》をした肩衣《かたぎぬ》、そうして熨斗目《のしめ》の紫の振袖――そういう姿の女太夫の、曲独楽使いの浪速《なにわ》あやめ[#「あやめ」に傍点]が、いまその舞台に佇みながら、口上を述べているのであった。
「独楽のはじまりは唐の海螺弄《はいまわし》、すなわち海の螺貝《らがい》を採り、廻しましたのがそのはじまり、本朝に渡来いたしまして、大宮人のお気に召し、木作りとなって喜遊道具、十八種の中に数えられましたが、民間にはいってはいよいよますます、製法使法発達いたし、浪速の建部四国《たてべしこく》太夫が、わけても製法使法の達人、無双の名人にござりました。これより妾《わたし》の使いまする独楽は、その四国太夫の製法にかかわる、直径《さしわたし》一尺の孕《はらみ》独楽、用うる紐は一丈と八尺、麻に絹に女の髪を、綯《な》い交ぜにしたものにござります。……サッと投げてスッと引く、紐さばきを先ずご覧《ろう》じませ。……紐を放れた孕独楽が、さながら生ける魂あって、自在に動く神妙の働き、お眼とめてご覧じ下さりませ! ……東西々々」
 こういう声に連れて、楽屋の方からも東西々々という声が、さも景気よく聞こえてきた。
 すると、あやめ[#「あやめ」に傍点]は赤毛氈を掛けた、傍《かたえ》の台から大独楽を取上げ、それへ克明に紐を捲いたが、がぜん左肩を上へ上げ、独楽を持った右手を頭上にかざすと、独楽を宙へ投げ上げた。
 次の瞬間に見えたものは、翩翻と返って来た長紐と、鳥居の一所に静止して、キリキリ廻っている独楽とであった。
 そうしてその次に起こったことは、土間に桟敷に充ち充ちていた、老若男女の見物が、拍手喝采したことであった。
 しかし壮観《みもの》はそればかりではなく、すぐに続いて見事な業が、見物の眼を眩惑《くら》ました。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]が黒地に金泥をもって、日輪を描き出した扇を開き、それをもって大独楽を受けたとたんに、その大独楽が左右に割れ、その中から幾個《いくつ》かの小独楽を産み出し、産み出された小独楽が石燈籠や鳥居や、社殿の家根《やね》などへ飛んで行き、そこで廻り出したことであった。
 また見物たちは喝采した。
 と、この時舞台に近い桟敷で、人々に交って見物していた二十五六歳の武士があったが、
「縹緻《きりょう》も佳《よ》いが芸《げい》も旨《うま》いわい」と口の中で呟いた。
 田安中納言家《たやすちゅうなごんけ》の近習役の、山岸主税《やまぎしちから》という武士であった。
 色白の細面、秀でた眉、高い鼻、いつも微笑しているような口、細味ではあるが睫毛が濃く、光こそ鋭く強かったが、でも涼しい朗かな眼――主税は稀に見る美青年であった。
 その主税の秀麗な姿が、曲独楽定席のこの小屋を出たのは、それから間もなくのことであり、小屋の前に延びている盛場の、西両国の広小路を、両国橋の方へ歩いて行くのが、群集の間に雑って見えた。
 もう夕暮ではあったけれど、ここは何という雑踏なのであろう。
 武士、町人、鳶ノ者、折助《おりすけ》、婢女《げじょ》、田舎者《おのぼりさん》、職人から医者、[#「医者、」は底本では「医者」]野幇間《のだいこ》、芸者《はおり》、茶屋女、女房子供――あらゆる社会《うきよ》の人々が、忙しそうに又|長閑《のどか》そうに、往くさ来るさしているではないか。
 無理もない! 歓楽境なのだから。
 だから往来の片側には、屋台店が並んでおり、見世物小屋が立っており、幟《のぼり》や旗がはためいており、また反対の片側には、隅田川に添って土地名物の「梅本」だの「うれし野」だのというような、水茶屋が軒を並べていた。
 主税は橋の方へ足を進めた。
 橋の上まで来た時である、
「おや」と彼は呟いて、左の袖へ手を入れた。
「あ」と思わず声をあげた。
 袖の中には小独楽が入っていたからである。
(一体これはどうしたというのだ)
 独楽を掌《てのひら》の上へ載せ、体を欄干へもたせかけ、主税はぼんやり考え込んだ。
 が、ふと彼に考えられたことは、あやめ[#「あやめ」に傍点]が舞台から彼の袖の中へ、この独楽を投げ込んだということであった。
(あれほどの芸の持主なのだから、それくらいのことは出来るだろうが、それにしても何故に特に自分へこのようなことをしたのだろう?)
 これが不思議でならなかった。

   怪しの浪人

 ふと心棒を指で摘み、何気なく一捻り捻ってみた。
「あ」と又も彼は言った。
 独楽は掌の上で廻っている。
 その独楽の心棒を中心にして、独楽の面に幾個《いくつ》かの文字が白く朦朧と現われたからである。
「淀」という字がハッキリと見えた。
 と、独楽は廻り切って倒れた。
 同時に文字も消えてしまった。
「変だ」と主税《ちから》は呟きながら、改めて独楽を取り上げて、眼に近付けて子細に見た。
 何の木で作られてある独楽なのか、作られてから幾年を経ているものか、それが上作なのか凡作なのか、何型に属する独楽なのか、そういう方面に関しては、彼は全く無知であった。が、そういう無知の彼にも、何となくこの独楽が凡作でなく、そうして制作されて以来、かなりの年月を経ていることが感じられてならなかった。
 この独楽は直径二寸ほどのもので、全身黒く塗られていて、面に無数の筋が入っていた。
 しかし、文字などは一字も書いてなかった。
「変だ」と同じことを呟きながら、なおも主税は独楽を見詰めていたが、また心棒を指で摘み、力を罩《こ》めて強く捻った。
 独楽は烈しく廻り出し、その面へ又文字を現わした。しかし不思議にも今度の文字は、さっきの文字とは違うようであった。
「淀」という文字などは見えなかった。
 その代わりかなりハッキリと「荏原《えばら》屋敷」という文字が現われて見えた。
「面の筋に細工があって、廻り方の強さ弱さによって、いろいろの文字を現わすらしい」
(そうするとこの独楽には秘密があるぞ)
 主税はにわかに興味を感じて来た。
 すると、その時背後から、
「お武家、珍しいものをお持ちだの」と錆のある声で言うものがあった。
 驚いて主税は振り返って見た。
 三十五六の浪人らしい武士が、微笑を含んで立っていた。
 髪を総髪の大束《おおたぶさ》に結び、素足に草履を穿いている。夕陽の色に照らされていながら、なお蒼白く感じられるほど、その顔色は白かった。左の眼に星の入っているのが、いよいよこの浪人を気味悪いものにしていた。
「珍らしいもの? ……何でござるな?」
 主税は独楽を掌に握り、何気なさそうに訊き返した。
「貴殿、手中に握っておられるもので」
「ははあこれで、独楽でござるか。アッハッハッ、子供騙しのようなもので」
「子供騙しと仰せられるなら、その品拙者に下さるまいか」
「…………」
「子供騙しではござるまい」
「…………」
「その品どちらで手に入れられましたかな?」
「ほんの偶然に……たった今しがた」
「ほほう偶然に……それも今しがた……それはそれはご運のよいことで……それに引き換え運の悪い者は、その品を手中に入れようとして、長の年月を旅から旅へ流浪いたしておりまするよ」
「…………」
「貴殿その品の何物であるかを、ではご存知ではござるまいな?」
「左様、とんと、がしかし、……」
「が、しかし、何でござるな?」
「不思議な独楽とは存じ申した」
「その通りで、不思議な独楽でござる」
「廻るにつれて、さまざまの文字が……」
「さようさよう現われまする。独楽の面へ現われまする。で、貴殿、それらの文字を、どの程度にまで読まれましたかな?」
「淀という文字を目つけてござる」
「淀? ははア、それだけでござるか?」
「いやその他に荏原屋敷という文字も」
「ナニ荏原屋敷? 荏原屋敷? ……ふうん左様か、荏原屋敷――いや、これは忝《かたじけ》のうござった」
 云い云い浪人は懐中へ手を入れ、古びた帳面を取り出したが、さらに腰の方へ手を廻し、そこから矢立を引き抜いて、何やら帳面へ書き入れた。

   睨み合い

「さてお武家」と浪人は言った。
「その独楽を拙者にお譲り下されい」
「なりませぬな、お断りする」
 はじめて主税はハッキリと言った。
「貴殿のお話|承《うけたま》わらぬ以前《まえ》なら、お譲りしたかは知れませぬが、承わった現在においては、お譲りすることなりませぬ」
「ははあさては拙者の話によって……」
「さよう、興味を覚えてござる」
「興味ばかりではござるまい」
「さよう、価値をも知ってござる」
「独楽についての価値と興味とをな」
「さようさよう、その通りで」
「そうすると拙者の言動は、藪蛇になったというわけでござるかな」
「お気の毒さまながらその通りで」
「そこで貴殿にお訪《たず》ねしますが、この拙者という人間こそ、その独楽を手中に入れようとして、永年尋ねておりました者と、ご推量されたでござりましょうな」
「さよう、推量いたしてござる」
「よいご推量、その通りでござる。……そこであからさまにお話しいたすが、その独楽を手中に入れようとする者、拙者一人だけではないのでござるよ。……拙者には幾人か同志がござってな、それらの者が永の年月、その独楽を手中に入れようとして、あらゆる苦労をいたしておるのでござる」
「さようでござるか、それはそれは」
「以前は大阪にありましたもので、それがほんの最近になって、江戸へ入ったとある方面よりの情報。そこで我ら同志と共々、今回江戸へ参りましたので」
「さようでござるか、それはそれは」
「八方探しましたが目つかりませなんだ」
「…………」
「しかるにその独楽の価値も知らず、秘密も知らぬご貴殿が、大した苦労もなされずに、楽々と手中へ入れられたという」
「好運とでも申しましょうよ」
「さあ、好運が好運のままで、いつまでも続けばよろしいが」
「…………」
「貴殿」と浪人は威嚇《おどか》すように言った。
「拙者か、拙者の同志かが、必ずその独楽を貴殿の手より……」
「無礼な! 奪うと仰せられるか!」
「奪いますとも、命を殺《あや》めても!」
「ナニ、命を殺めても?」
「貴殿の命を殺めても」
「威嚇《おどかし》かな。怖いのう」
「アッハッハッ、そうでもござるまい。怖いのうと仰せられながら、一向怖くはなさそうなご様子。いや貴殿もしっかりもの[#「しっかりもの」に傍点]らしい。……ご藩士かな? ご直参かな? 拙者などとは事変わり、ご浪人などではなさそうじゃ。……衣装持物もお立派であるし。……いや、そのうち、我らにおいて、貴殿のご身分もご姓名も、探り知るでござりましょうよ。……ところでお尋ねしたい一儀がござる。……曲独楽使いの女太夫、浪速《なにわ》あやめ[#「あやめ」に傍点]と申す女と、貴殿ご懇意ではござりませぬかな?」
 言われて主税《ちから》はにやりとしたが、
「存じませぬな、とんと存ぜぬ」
「ついそこの曲独楽の定席へ、最近に現われた太夫なので」
「さような女、存じませぬな」
「嘘言わっしゃい!」と忍び音ではあったが、鋭い声で浪人は言った。
「貴殿、その独楽を、浪速あやめ[#「あやめ」に傍点]より、奪い取ったに相違ない!」
「黙れ!」と主税は怒って呶鳴った。
「奪ったとは何だ、無礼千万! 拙者は武士だ、女芸人風情より……」
「奪ったでなければ貰ったか!」
「こやつ、いよいよ……汝《おのれ》、一刀に!」
「切ろうとて切られぬわい。アッハッハッ、切られぬわい。……が、騒ぐはお互いに愚、愚というよりはお互いに損、そこで穏やかにまた話じゃ。……否」というとその浪人は、しばらくじっと考えたが、
「口を酸くして説いたところで、しょせん貴殿には拙者の手などへ、みすみすその独楽お渡し下さるまいよ、……そこで、今日はこれでお別れいたす。……だが、貴殿に申し上げておくが、その独楽貴殿のお手にあるということを、拙者この眼で見た以上、拙者か拙者の同志かが、早晩必ず貴殿のお手より、その独楽を当方へ奪い取るでござろう。――ということを申し上げておく」
 言いすてると浪人は主税へ背を向け、夕陽が消えて宵が迫っているのに、なおも人通りの多い往来《とおり》を、本所の方へ歩いて行った。

   闇に降る刃

 その浪人の背後《うしろ》姿を、主税はしばらく見送ったが、
(変な男だ)と口の中で呟き、やがて自分も人波を分け、浅草の方へ歩き出した。
 歩きながら袖の中の独楽を、主税はしっかりと握りしめ、
 ――あの浪人をはじめとして、同志だという多数の人々が、永年この独楽を探していたという。ではこの独楽には尋常《ひととおり》ならない、価値と秘密があるのだろう。よし、では、急いで家へ帰って、根気よく独楽を廻すことによって、独楽の面へ現われる文字を集め、その秘密を解き価値を発見《みつ》けてやろう。――興味をもってこう思った。
(駕籠にでも乗って行こうかしら?)
(いや)と彼は思い返した。
(暗い所へでも差しかかった時、あの浪人か浪人の同志にでも、突然抜身を刺し込まれたら、駕籠では防ぎようがないからな。……先刻《さっき》の浪人の剣幕では、それくらいのことはやりかねない)
 用心しいしい歩くことに決めた。
 平川町を通り堀田町を通った。
 右手に定火消の長屋があり、左手に岡部だの小泉だの、三上だのという旗本屋敷のある、御用地近くまで歩いて来た時には、夜も多少更けていた。
 御用地を抜ければ田安御門で、それを通れば自分の屋敷へ行けた。それで、主税は安堵の思いをしながら、御用地の方へ足を向けた。
 しかし、小泉の土塀を巡って、左の方へ曲がろうとした時、
「居たぞ!」「捕らえろ!」「斬ってしまえ!」と言う、荒々しい男の声が聞こえ、瞬間数人の武士が殺到して来た。
(出たな!)と主税は刹那に感じ、真先に切り込んで来た武士を反《かわ》し、横から切り込んで来た武士の鳩尾《みぞおち》へ、拳で一つあてみ[#「あてみ」に傍点]をくれ、この勢いに驚いて、三人の武士が後へ退いた隙に、はじめて刀を引っこ抜き、正眼に構えて身を固めた。
 すると、その時一人の武士が、主税を透かして見るようにしたが、
「や、貴殿は山岸氏ではないか」と驚いたように声をかけた。
 主税も驚いて透かして見たが、
「何だ貴公、鷲見《すみ》ではないか」
「さようさよう鷲見|与四郎《よしろう》じゃ」
 それは同じ田安家の家臣で、主税とは友人の関係にある、近習役の鷲見与四郎であった。
 見ればその他の武士たちも、ことごとく同家中の同僚であった。
 主税は唖然として眉をひそめたが、
「呆れた話じゃ、どうしたというのだ」
「申し訳ない、人違いなのじゃ」
 言い言い与四郎は小鬢を掻いた。
「承知の通りのお館の盗難、そこで拙者ら相談いたし、盗人をひっ捕らえようといたしてな、今夜もお館を中心にして、四方を見廻っていたところ、猿廻しめに邂逅いたした」
「猿廻し? 猿廻しとは?」
「長屋の女小供の噂によれば、この頃若い猿廻しめが、しげしげお長屋へやって来て、猿を廻して銭を乞うそうじゃ」
「そこで、怪しいと認めたのじゃな」
「いかにも、怪しいと認めたのじゃ。……その怪しい猿廻しめに、ついそこで逢ったので、ひっ捕らえようとしたところ、逃げ出しおって行方不明よ」
「なに逃げ出した? それなら怪しい」
「……そこへ貴殿が土塀を巡って、突然姿をあらわしたので……」
「猿まわしと見誤ったというのか?」
「その通りじゃ、いやはやどうも」
「拙者猿は持っていない」
「御意で、いやはや、アッハッハッ」
「そそっかしいにも程があるな」
「程があるとも、一言もない、怪我なかったが幸いじゃ」
「すんでに貴公を斬るところだった。これから貴公たちどうするつもりじゃ」
「業腹[#「業腹」は底本では「剛腹」]じゃ。このままではのう。……そこでこの辺りをもう一度探して……」
「人違いをして叩っ切られるか」
「まさか、そうそうは、アッハッハッ。……貴殿も一緒に探さぬかな」
「厭なことじゃ。ご免蒙ろう。……今日拙者は非番なのでな、そこで両国へ行ったところ、あそこへ行くと妙なもので、田舎者《おのぼりさん》のような気持になる。それで拙者もその気になって、曲独楽の定席へ飛び込んだものよ。すると、そこに綺麗な女太夫がいて……」
「ははあ、その美形を呼び出して、船宿でか? ……こいつがこいつが!」
「何の馬鹿らしいそのようなこと。……もう女には飽きている身じゃ。……ただその美しい女太夫から、珍らしい物を貰うたので、これから緩々《ゆるゆる》屋敷へ帰って、その物を味わおうとこういうのじゃ。……ご免」と主税は歩き出した。

   猿廻し

 歩きながら考えた。
 何故この頃お館には、金子などには眼をくれず、器物ばかりを狙って盗む、ああいう盗難があるのだろう? それも一度ならずも二度三度、頻々としてあるのだろう?
(ある何物かを手に入れようとして、それに関係のありそうな器物を、狙いうちにして盗んでいるようだ。……そのある物とは何だろう?)
 これまで盗まれた器物について、彼は記憶を辿ってみた。
 蒔絵の文庫、青銅の香爐、明兆《みんちょう》の仏書、利休の茶柄杓、世阿弥筆の謠の本……等々高価の物ばかりであった。
(盗難も盗難だがこのために、お館の中が不安になり、お互い同士疑い合うようになり、憂鬱の気の漂うことが、どうにもこうにもやりきれない)
 こう主税は思うのであった。
(お互い同士疑い合うのも、理の当然ということが出来る。お館の中に内通者があって、外の盗賊と連絡取ればこそ、ああいう盗みが出来るのだからなア。……そこで内通者は誰だろうかと、お互い同士疑い合うのさ)
 主税はこんなことを考えながら、御用地の辺りまで歩いて来た。
 御用地なので空地ではあるが、木も雑草も繁っており、石材なども置いてあり、祠なども立っており、水溜や池などもある。そういう林であり藪地なのであった。
 と、その林の奥の方から、キ――ッという猿の啼声が、物悲しそうに聞こえてきた。
(おや)と主税は足を止めた。
(いかに藪地であろうとも、猿など住んでいるはずはない。……では話の猿廻しが?)
 そこで主税は堰を飛び越え、御用地の奥の方へ分け入った。草の露が足をぬらし、木の枝が顔を払ったりした。
 また猿の啼声が聞こえてきた。
 で、主税は突き進んだ。
 すると、果たして一人の猿廻しが、猿を膝の上へ抱き上げて、祠の裾の辺りへうずくまり、編笠をかむった顔を俯向けて、木洩れの月光に肩の辺りを明るめ、寂しそうにしているのが見えた。
「猿廻し!」と声をかけ、突然主税はその前へ立った。
「用がある、拙者と一緒に参れ!」
「あッ」と猿廻しは飛び上ったが、木の間をくぐって逃げようとした。
「待て!」
 主税は足を飛ばせ、素早くその前へ走って行き、左右に両手を開いて叫んだ。
「逃げようとて逃がしはせぬ、無理に逃げればぶった斬るぞ!」
「…………」
 しかし無言で猿廻しは、両手で猿を頭上に捧げたが、バッとばかりに投げつけた。
 キ――ッと猿は宙で啼き、主税の顔へ飛びついて来た。
「馬鹿者!」
 怒号して拳を固め、猿を地上へ叩き落とし、主税は猛然と躍りかかった。
 だが、何と猿廻しの素早いことか、こんもり盛り上っている山査子《さんざし》の叢《むら》の、丘のように高い裾を巡って、もう彼方《むこう》へ走っていた。
 すぐに姿が見えなくなった。
(きゃつこそ猿だ! なんという敏捷《すばしっこ》さ!)
 主税は一面感心もし、また一面怒りを感じ、憮然として佇んだが、気がついて地上へ眼をやった。
 叩き落とした猿のことが、ちょっと気がかりになったからである。
 木洩れの月光が銀箔のような斑《ふ》を、枯草ばかりで青草のない、まだ春なかばの地面のあちこちに、露を光らせて敷いていて、ぼっ[#「ぼっ」に傍点]と地面は明るかったが、猿の姿は見えなかった。
(たしかこの辺りへ叩き落としたはずだが)
 主税は地面へ顔を持って行った。
「あ」
 声に出して思わず言った。
 小独楽が一個《ひとつ》落ちているではないか。
 主税は袖を探ってみた。
 袖の中にも小独楽はあった。
(では別の独楽なのだな)
 地上の独楽を拾い上げ、主税は眼に近く持って来た。その独楽は大きさから形から、袖の中の独楽と同じであった。
「では」と呟いて左の掌の上で、主税は独楽を捻って廻し、月光の中へ掌を差し出し、廻る独楽の面をじっと見詰めた。
 しかし、独楽の面には、なんらの文字も現われなかった。
(この独楽には細工はないとみえる)
 いささか失望を感じながら、廻り止んだ独楽をつまみ上げ、なお仔細《こまか》く調べてみた。
 すると、独楽の面の手触りが何となく違うように思われた。
(はてな?)と主税は指に力を罩《こ》め、その面を強く左の方へ擦った。

   不思議な老人

「おおそうか、蓋なのか」と、擦ったに連れて独楽の面が弛み、心棒を中心にして持ち上ったので、そう主税《ちから》は呟いてすぐにその蓋を抜いてみた。
 独楽の中は空洞《うつろ》になっていて畳んだ紙が入れてあった。
 何か書いてあるようである。
 そこで、紙を延ばしてみた。
[#ここから3字下げ]
三十三、四十八、二十九、二十四、二十二、四十五、四十八、四、三十五
[#ここで字下げ終わり]
 と書いてあった。
(何だつまらない)と主税は呟き、紙を丸めて捨ようとしたが、
(いや待てよ、隠語《かくしことば》かもしれない)
 ふとこんなように思われたので、またその紙へ眼を落とし、書かれてある数字を口の中で読んだ。
 それから指を折って数え出した。
 かなり長い間うち案じた。
「そうか!」と声に出して呟いた時には、主税の顔は硬ばっていた。
(ふうん、やはりそうだったのか、……しかし一体何者なのであろう?)
 思いあたることがあると見えて、主税はグッと眼を据えて、空の一所へ視線をやった。
 と、その視線の遥かかなたの、木立の間から一点の火光《ひかり》が、薄赤い色に輝いて見えた。
 その火はユラユラと揺れたようであったが、やがて宙にとどまって、もう揺れようとはしなかった。
(こんな夜更けに御用地などで、火を点《と》もすものがあろうとは?)
 重ね重ね起こる変わった事件に、今では主税は当惑したが、しかし好奇心は失われないばかりか、かえって一層増して来た。
(何者であるか見届けてやろう)
 新規に得た独楽を袖の中へ入れ、足を早めて火光の見える方へ、木立をくぐり藪を巡って進んだ。
 火光から数間のこなたまで来た時、その火光が龕燈の光であり、その龕燈は藪を背にした、栗の木の枝にかけられてある。――ということが見てとられた。
 だがその他には何があったか?
 その火の光に朦朧と照らされ、袖無を着、伊賀袴を穿いた、白髪白髯の老人と、筒袖を着、伊賀袴を穿いた、十五六歳の美少年とが、草の上に坐っていた。
 いやその他にも居るものがあった。
 例の猿廻しと例の猿とが同じく草の上に坐っていた。
(汝《おのれ》!)と主税は心から怒った。
(汝、猿廻しめ、人もなげな! 遠く逃げ延びて隠れればこそ、このような手近い所にいて、火まで燈して平然としているとは! 見おれ[#「見おれ」は底本では「見をれ」]、こやつ、どうしてくれるか!)
 突き進んで躍りかかろうとした。しかし足が言うことをきかなかった。
 と云って足が麻痺したのではなく、眼の前にある光景が、変に異様であり妖しくもあり、厳かでさえあることによって、彼の心が妙に臆《おく》れ、進むことが出来なくなったのである。
(しばらく様子を見てやろう)
 木の根元にうずくまり、息を詰めて窺った。
 老人は何やら云っているようであった。
 白い顎鬚が上下に動き、そのつど肩まで垂れている髪が、これは左右に揺れるのが見えた。
 どうやら老人は猿廻しに向かって、熱心に話しているらしかった。
 しかし距離が遠かったので、声は聞こえてこなかった。
 主税はそれがもどかしかったので、地を這いながら先へ進み、腐ちた大木の倒れている陰へ、体を伏せて聞耳を立てた。
「……大丈夫じゃ、心配おしでない、猿めの打撲傷《うちみ》など直ぐにも癒る」
 こういう老人の声が聞こえ、
「躄者《いざり》さえ立つことが出来るのじゃからのう。――もう打撲傷は癒っているかもしれない。……これこれ小猿よ立ってごらん」
 言葉に連れて地に倒れていた猿が、毬のように飛び上り、宙で二三度|翻筋斗《もんどり》を打ったが、やがて地に坐り手を膝へ置いた。
「ね、ごらん」と老人は云った。
「あの通りじゃ、すっかり癒った。……いや誠心《まごころ》で祈りさえしたら、一本の稲から無数の穂が出て、花を咲かせて実りさえするよ」
 その時猿廻しは編笠を脱いで、恭しく辞儀《おじぎ》をした。
 その猿廻しの顔を見て、主税は思わず、
「あッ」と叫んだ。それは女であるからであった。しかも両国の曲独楽使いの、女太夫のあやめ[#「あやめ」に傍点]であった。

   隠語を解く

 曲独楽使いの浪速《なにわ》あやめ[#「あやめ」に傍点]が、女猿廻しになっている! これは山岸|主税《ちから》にとっては、全く驚異といわざるを得なかった。
 しかも同一のその女が、自分へ二つの独楽をくれた。
 そうしてその独楽には二つながら、秘密らしいものがからまっている。
(よし)と主税は決心した。
(女猿廻しを引っとらえ、秘密の内容を問いただしてやろう)
 そこで、主税は立ち上った。
 するとその瞬間に龕燈が消えて、いままで明るかった反動として、四辺《あたり》がすっかり闇となった。
 主税の眼が闇に慣れて、木洩れの月光だけで林の中のようすが、朧気ながらも見えるようになった時には、女猿廻しの姿も、美童の姿も猿の姿も、眼前から消えてなくなっていた。

 その翌日のことである、田安家の奥家老|松浦頼母《まつうらたのも》は、中納言家のご前へ出で、
「お館様これを」とこう言上して、一葉の紙片を差し出した。
 泉水に水が落ちていて、その背後《うしろ》に築山があり、築山をめぐって桜の老樹が、花を渦高く咲かせており、その下を将軍家より頂戴したところの、丹頂の鶴が徘徊している――そういう中庭の風景を、脇息に倚って眺めていた田安中納言はその紙片を、無言で取上げ熟視された。
 一杯に数字が書いてあった。
「これは何だ?」と、中納言家は訊かれた。
「隠語とのことにござります」
「…………」
「昨夜近習の山岸主税こと、怪しき女猿廻しを、ご用地にて発見いたし、取り抑えようといたしましたところ、女猿廻しには逃げられましたが、その者独楽を落としました由にて、とりあえず独楽を調べましたところ、この紙片が籠められておりましたとか……これがその独楽にござります」
 頼母は懐中から独楽を出した。
 中納言家はそれを手にとられたが、
「これは奥の秘蔵の独楽じゃ」
「奥方様ご秘蔵の独楽?」
「うん、わしには見覚えがある、これは奥の秘蔵の独楽じゃ。……それにしても怪しい猿廻しとは?」
「近頃、ひんぴんたるお館の盗難、それにどうやら関係あるらしく……」
「隠語の意味わかっておるかな?」
「主税|儀《こと》解きましてござります」
「最初に『三十三』と記してあるが?」
「『こ』という意味の由にござります」
「『こ』という意味? どうしてそうなる?」
「いろは四十八文字の三十三番目が『こ』の字にあたるからと申しますことで」
「ははアなるほど」
「山岸主税申しますには、おおよそ簡単の隠語の種本は、いろは四十八文字にござりますそうで、それを上より数えたり、又、下より数えたりしまして、隠語としますそうにござります」
「すると二番目に『四十八』とあるが、これは『ん』の隠語だな」
「御意の通りにござります」
「三番目に『二十九』とあるが、……これは『や』の隠語だな」
「御意の通りにござります」
「その次にあるは『二十四』だから、言うまでもなく『う』の字の隠語、その次の『二十二』は『ら』の字の隠語、その次の『四十五』は『も』の字の隠語、『四十八』は『ん』の字の隠語、『四』は『に』の字の隠語、『三十五』は『て』の字の隠語。……これで全部終えたことになるが、この全部を寄せ集めれば……」
「こんやうらもんにて――となりまする」
「今夜裏門にて――いかにもそうなる」
「事件が昨夜のことにござりますれば、今夜とあるは昨夜のこと。で、昨夜館の裏門にて、何事かありましたと解釈すべきで……」
「なるほどな。……で、何事が?」
「山岸主税の申しまするには、お館の中に居る女の内通者が、外界《そと》の賊と気脈を通じ、昨夜裏門にて密会し……」
「館の中に居る女の内通者とは?」
「その数字の書体、女文字とのことで」
「うむ、そうらしい、わしもそう見た」
「それにただ今うかがいますれば、その独楽は奥方様の御秘蔵の品とか……さすれば奥方様の腰元あたりに、賊との内通者がありまして、そのような隠語を認めまして、その独楽の中へ密封し、ひそかに門外へ投げ出し、その外界の同類の手に渡し、昨夜両人裏門にて逢い……」
「なるほど」
「内通者がお館より掠めました品を、その同類の手に渡したか……あるいは今夜の悪事などにつき、ひそかに手筈を定めましたか……」
「うむ」と云うと中納言家には、眉の辺りに憂色を浮かべ、眼を半眼にして考え込まれた。

   腰元の死

「頼母」
 ややあって中納言家は口を開いた。
「これはいかにもお前の言う通り、館の中に内通者があるらしい。そうでなくてあのような品物ばかりが、次々に奪われるはずはない。……ところで頼母、盗まれた品だが、あれらの品を其方《そち》はどう思うな?」
「お大切の品物と存じまする」
「大切の由緒存じおるか?」
「…………」
「盗まれた品のことごとくは、柳営より下されたものなのじゃ」
「…………」
「我家のご先祖|宗武《むねたけ》卿が、お父上にしてその時の将軍家《うえさま》、すなわち八代の吉宗《よしむね》将軍家から、家宝にせよと賜わった利休の茶杓子をはじめとし、従来盗まれた品々といえば、その後代々の我家の主人が、代々の将軍家から賜わったものばかりじゃ」
「…………」
「それでわしはいたく心配しておるのじゃ。将軍家より賜わった品であるが故に、いつなんどき柳営からお沙汰があって、上覧の旨仰せらるるやもしれぬ。その時ないとは言われない。盗まれたなどと申したら……」
「お家の瑕瑾《きず》にござります」
「それも一品ででもあろうことか、幾品となく盗まれたなどとあっては……」
「家事不取り締りとして重いお咎め……」
「拝領の品であるが故に、他に遣わしたとは言われない」
「御意の通りにござります」
「頼母!」と沈痛の中納言家は言われた。
「この盗難の背後には、我家を呪い我家を滅ぼそうとする、[#「滅ぼそうとする、」は底本では「滅ぼそうとする。」]恐ろしい陰謀《たくらみ》があるらしいぞ!」
「お館様!」と頼母も顔色を変え、五十を過ごした白い鬢の辺りを、神経質的に震わせた。
 中納言家はこの時四十歳であったが、宗武卿以来聡明の血が伝わり、代々英主を出したが、当中納言家もその選に漏れず、聡明にして闊達であり、それが風貌にも現われていて鳳眼隆鼻高雅であった。
 でも今は高雅のその顔に、苦悶の色があらわれていた。
「とにかく、内通者を至急見現わさねばならぬ」
「御意で。しかしいかがいたしまして?」
「これは奥に取り計らわせよう」
「奥方様にでござりまするか」
「うむ」と中納言家が言われた時、庭の築山の背後から女の悲鳴らしい声が聞こえ、つづいてけたたましい叫び声が聞こえ、すぐに庭番らしい小侍が、こなたへ走って来る姿が見えた。
「ご免」と頼母は一揖してから、ツカツカと縁側へ出て行ったが、
「これ源兵衛何事じゃ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」と庭番の小侍へ声をかけた。
 小侍は走り寄るなり、地面へ坐り手をつかえたが、
「お腰元楓殿が築山の背後にて、頓死いたしましてござります」
「ナニ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
 頼母は胸を反らせ、
「楓殿が頓死※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 頓死とは?」
「奥方様のお吩咐《いいつけ》とかで、三人の腰元衆お庭へ出てまいられ、桜の花お手折り遊ばされ、お引き上げなさろうとされました際、その中の楓殿不意に苦悶され、そのまま卒倒なされましたが、もうその時には呼吸《いき》がなく……」
「お館様!」と頼母は振り返った。
「履物を出せ、行ってみよう」
 中納言家には立って来られた。
「それでは余りお軽々しく……」
「よい、行ってみよう、履物を出せ」
 庭番の揃えた履物を穿き、中納言家には庭へ出られた。
 もちろん頼母は後からつづいた。
 庭番の源兵衛に案内され、築山の背後へ行った時には、苦しさに身悶えしたからであろう、髪を乱し、胸をはだけた、美しい十九の腰元楓が、横倒しに倒れて死んでいる側《そば》に、二人の腰元が当惑し恐怖し泣きぬれて立っていた。

   第二の犠牲

 手折った桜の枝が地に落ちていて、花が屍《しがい》の辺りに散り敷いているのが、憐れさの風情を添えていた。
 中納言家は傷《いた》わしそうに、楓《かえで》の死骸を見下ろしていたが、
「玄達《げんたつ》を呼んでともかくも手当てを」
 こう頼母に囁くように云い、四辺《あたり》を仔細に見廻したが、ふと審しそうに呟かれた。
「この頃に庭を手入れしたと見えるな」
 頼母は庭番の源兵衛へ、奥医師の玄達を連れて来るように吩咐《いいつ》け、それから中納言家へ頭を下げ、
「数日前に庭師を入れまして、樹木の植込み手入れ刈込み、庭石の置き換えなどいたさせました」
「そうらしいの、様子が変わっている」
 改めて中納言家は四辺を見廻された。
 桜の老樹や若木に雑って、棕櫚だの梅だの松だの楓だの、竹だの青桐だのが、趣深く、布置整然と植込まれてい、その間に珍奇な庭石が、春の陽に面を照らしながら、暖かそうに据えられてあった。
 ずっとあなたに椿の林があって、その中に亭が立っていた。
 間もなく幾人かの侍臣と共に、奥医師玄達が小走って来た。大奥の腰元や老女たちも、その後から狼狽《あわて》て走って来た。
 玄達はすぐに死骸の側《そば》へかがみ仔細に死骸を調べ出した。
「駄目か?」と中納言家は小声で訊かれた。
「全く絶望にござります」
 玄達も小声で答えた。
「死因は何か?」
「さあその儀――いまだ不明にござりまする。……腹中の食物など調べましたなら……」
「では、外傷らしいものはないのだな」
「はい、いささかも……外傷らしいものは」
「ともかくも死骸を奥へ運んで、外科医宗沢とも相談し、是非死因を確かめるよう」
「かしこまりましてござります」
 やがて楓の死骸は侍臣たちによって、館の方へ運ばれた。
「不思議だのう」と呟きながら、なお中納言家は佇んでおられた。
 その間には侍臣や腰元たちは、楓を殺した敵らしいものが、どこかその辺りに隠れていないかと、それを探そうとでもするかのように、木立の間や岩の陰や、椿の林などへ分け入った。
 広いといっても庭であり、植込みが繁っているといっても、たかが庭の植込みであって、怪しい者など隠れていようものなら、すぐにも発見されなければならなかった。
 何者も隠れていなかったらしく、人々はポツポツと戻って来た。
 と、不意に人々の間から、絹を裂くような女の悲鳴が聞こえた。
 老女と一緒に来た腰元の中の一人、萩枝《はぎえ》という二十一の小肥りの女が、両手で空を掴みながら、クルリと体を回転し、そのまま地上へ転がったのである。
 狼狽して人々は飛び退いた。
 その人の垣に囲まれたまま、萩枝は地上を転がり廻り、胸を掻き髪を※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]り、
「苦しい! 麻痺《しびれ》る! ……助けて助けて!」と嗄《しゃが》れた声で叫んだが、見る見る顔から血の気が消え、やがて延びて動かなくなった。

 この日の宵のことであった。山岸|主税《ちから》は両国広小路の、例の曲独楽の定席小屋の、裏木戸口に佇んで、太夫元の勘兵衛という四十五六の男と、当惑しながら話していた。
「ではもうあやめ[#「あやめ」に傍点]は居ないというのか」
「へい、この小屋にはおりません」
「つまり席を退いたのだな」
「と云うことになりましょうね」
 どうにも云うことが曖昧であった。
 それに何とこの辺りは、暗くそうして寂しいことか。
 裏木戸に面した反対側は、小借長屋らしく思われたが、どうやら空店になっているらしく、ビッシリ雨戸がとざされていて、火影一筋洩れて来なかった。
 洞窟の穴かのように、長方形に空いている木戸口にも、燈《ひ》というものは点《つ》いていなかった。しかし、遥かの小屋の奥から、ぼんやり蝋燭の光が射して来ていて、眼の窪んだ、鼻の尖った、頬骨の立った悪相の持主の、勘兵衛という男を厭らしい存在として、照らし出してはいるのであった。
「昨日《きのう》まではこの小屋に出ていたはずだが、いつあやめ[#「あやめ」に傍点]は席を退いたのだ?」
 こう主税は又訊いた。
「退いたとも何とも申しちゃアいません。ただ彼女《あいつ》今日はいないので」
「一体あやめ[#「あやめ」に傍点]はどこに住んでいるのだ?」
「さあそいつ[#「そいつ」に傍点]は……そいつはどうも……それより一体|貴郎《あなた》様は、どうして何のために彼女を訪ねて、わざわざおいでなすったんで?」
 かえって怪訝そうに勘兵衛は訊いた。

   第三の犠牲

 主税《ちから》があやめ[#「あやめ」に傍点]を訪ねて来たのは、何と思って自分へ独楽をくれたのか? どうして猿廻しなどに身をやつしていたのか? その事情を訊こうと思ったからであった。
 昼の中に来るのが至当なのであったが、昼の中彼は屋敷へ籠って――お館へは病気を云い立てて休み――例の独楽を廻しに廻し、現われて来る文字を寄せ集め、秘密を知るべく努力した。
 しかし、結果は徒労《むだ》だった。
 というのは、その後に現われて来た文字は「に有りて」という四つの文字と「飛加藤の亜流」という訳のわからない、六つの文字に過ぎなかったからで……
 そこで彼は夕方駕籠を飛ばせて、ここへ訪ねて来たのであった。そうしてあやめ[#「あやめ」に傍点]に逢いたいと言った。
 すると勘兵衛という男が出て来て、極めて曖昧な言葉と態度で、あやめ[#「あやめ」に傍点]は居ないというのである。
「少し尋ねたい仔細《こと》があってな」
 主税はこっちでも曖昧味を現わし、
「それで訪ねて参ったのだが、居ないとあっては止むを得ぬの。どれ、それでは帰るとしようか」
「ま、旦那様ちょっとお待ちなすって」
 勘兵衛の方が周章《あわて》て止めた。
「実は彼女《あいつ》がいなくなったのであっし[#「あっし」に傍点]はすっかり参っていますので。何せ金箱でございますからな。へい大事な太夫なので。……それであっし[#「あっし」に傍点]も小屋の者も、大騒ぎをして探していますので」
「しかし宿所《やど》には居るのだろう?」
「それが貴郎様、居ないんで」
「宿所にもいない、ふうんそうか。一体宿所はどこなのだ?」
「へい、宿所は……さあ宿所は……神田辺りなのでございますが……それはどうでもよいとして、宿所にもいず小屋へも来ない。昨夜《ゆうべ》ポカンと消えてしまったんで」
「ふうん、昨夜消えてしまった。……猿廻しに身をやつし[#「やつし」に傍点]て消えてしまったのではあるまいかな」
「え、何だって? 猿廻しにだって?」
 勘兵衛はあっけにとられたように、
「旦那、そりゃア一体何のことで?」
(しまった)と主税は後悔した。
(云わでものことを口走ってしまった)
 主税は口を噤んで横をむいた。
「こいつア変だ! 変ですねえ旦那! ……旦那何か知ってますね!」と勘兵衛はにわかにかさ[#「かさ」に傍点]にかかり、
「あやめ[#「あやめ」に傍点]の阿魔《あま》が消えてしまった途端に、これまで縁のなかったお侍さんが、ヒョッコリ訪ねておいでなすって、根掘り葉掘りあやめ[#「あやめ」に傍点]のことをお訊きになる。その後で猿廻しに身をやつして[#「やつして」に傍点]なんて、変なことを仰せになる! ……旦那、お前さんあの阿魔を、あやめ[#「あやめ」に傍点]の阿魔をおびき[#「おびき」に傍点]出し……」
「黙れ!」と主税は一喝した。
「黙っておればこやつ無礼! 拙者を誘拐《かどわか》しか何かのように……」
「おお誘拐しだとも、誘拐しでなくて何だ! あやめ[#「あやめ」に傍点]の阿魔を誘拐して、彼女の持っている秘密を奪い、一儲けしようとするのだろう! ……が、そうならお気の毒だ! 彼女はそんな秘密などより、荏原《えばら》屋敷の奴原を……」
「荏原屋敷だと※[#感嘆符疑問符、1-8-78] おおその荏原屋敷とは……」
「そうれ、そうれ、そうれどうだ! 荏原屋敷まで知っている汝《おのれ》、どうでも平記帳面の侍じゃアねえ! 食わせ者だア――食わせものだア――ッ……わーッ」
 と、これはどうしたことだろう。にわかに勘兵衛は悲鳴を上げ、両手で咽喉の辺りを掻き※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]ったかと思うと、前のめり[#「のめり」に傍点]にバッタリと地へ倒れた。
「どうした勘兵衛!」と主税は驚き、介抱しようとして屈み込んだ。
 その主税の眼の前の地上を、小蛇らしいものが一蜒りしたが、空店《あきだな》の雨戸の隙の方へ消えた。
 息絶えたらしい勘兵衛の体は、もう延びたまま動かなかった。
「どうしたどうした!」
「勘兵衛の声だったぞ」と小屋の中から人声がし、幾人かの人間がドヤドヤと、木戸口の方へ来るらしかった。
(巻添えを食ってはたまらない)
 こう思った主税が身を飜えして、この露路から走り出したのは、それから間もなくのことであった。

   白刃に囲まれて

 この時代《ころ》のお茶の水といえば、樹木と藪地と渓谷《たに》と川とで、形成《かたちづく》られた別天地で、都会の中の森林地帯であった。
 昼間こそ人々は往《ゆ》き来したが、夜になるとほとんどだれも通らず、ただひたすら先を急いで迂回することをいとう人ばかりが、恐々《こわごわ》ながらもこの境地《とち》を、走るようにしてとおるばかりであった。
 そのお茶の水の森林地帯へ、山岸主税が通りかかったのは、亥《い》の刻を過ごした頃であった。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]が行方不明となった、勘兵衛という太夫元が、何者かに頓死させられた、この二つの意外な事件によって、さすがの彼も心を痛め、この時まであてなく江戸の市中を、さまよい歩いていたのであった。
(荏原屋敷とは何だろう?)
 このことが彼の気になっていた。
 独楽の隠語の中にもこの字があった。勘兵衛という男もこの言葉を云った。そうしてあやめ[#「あやめ」に傍点]という曲独楽使いも、この屋敷に関係があるらしい。
(荏原郡《えばらごおり》の馬込の郷に、そういう屋敷があるということは、以前チラリと耳にはしたが)
 しかし、それとて非常に古い屋敷――大昔から一貫した正しい血統を伝えたところの、珍らしい旧家だということばかりを、人づてに聞いたばかりであった。
(がしかしこうなってみれば、その屋敷の何物かを調べてみよう)
 主税はそんなように考えた。
 独楽のことも勿論気にかかっていた。
 ――どれほどあの独楽を廻してみたところで、これまでに現われた隠語以外に、新しい隠語が現われそうにもない。そうしてこれまでの隠語だけでは、何の秘密をも知ることは出来ない。どうやらこれは隠語を隠した独楽は、あれ以外にも幾個《いくつ》かあるらしく、それらの独楽を悉皆《みんな》集めて全部《すっかり》の隠語を知った時、はじめて秘密が解けるものらしい。
(とすると大変な仕事だわい)
 そう思わざるを得なかった。
 しかし何より主税の心を、憂鬱に抑えているものは、頻々とあるお館の盗難と、猿廻しに変装したあやめ[#「あやめ」に傍点]とが、密接の関係にあることで、今日あやめを小屋へ訪ねたのも、その真相を探ろうためなのであった。
(猿廻しから得た独楽と隠語と、お館の中に内通者ありという、自分の意見とを松浦殿へ、今朝方早く差し上げたが、その結果女の内通者が、お館の中で見付かったかしら?)
 考えながら主税は歩いて行った。
 腐ちた大木が倒れていたり、水溜りに月光が映っていたり、藪の陰から狐らしい獣が、突然走り出て道を遮ったりした。
 不意に女の声が聞こえた。
「あぶない! 気をおつけ! 背後《うしろ》から!」
 瞬間に主税は地へ仆れた。
「あッ」
 その主税の体へ躓《つまず》[#「《つまず》」は底本では「《つまづ》」]き、背後から切り込んで来た一人の武士が、こう叫んで主税のからだ越しにドッとばかりに向こうへ仆れた。
 疾風迅雷も物かわと、二人目の武士が左横から、なお仆れている主税を目掛け、拝み討ちに切り付けた。
「わ、わ、わ、わ――ッ」とその武士は喚いた。脇腹から血を吹き出しているのが、木洩れの月光に黒く見えた。
 その武士が足を空ざまにして、丸太ん棒のように仆れた時には、とうに飛び起き、飛び起きざまに引き抜き、引き抜いた瞬間には敵を斬っていた、小野派一刀流では無双の使い手の、山岸主税は返り血を浴びずに、そこに聳えていた大楠木の幹を、背負うようにして立っていた。
 が、それにしても何と大勢の武士に、主税は取巻かれていることか!
 数間を距てて十数人の人影が、抜身をギラギラ光らせながら、静まり返っているではないか。
(何物だろう?)と主税は思った。
 しかし、問さえ発っせられなかった。
 前から二人、左右から一人ずつ、四人の武士が殺到して来た。
(死中活!)
 主税は躍り出で、前の一人の真向を割り、返す刀で右から来た一人の、肩を胸まで斬り下げた。
 とは云え、その次の瞬間には、主税は二本の白刃の下に、身をさらさざるを得なかった。
 しかし、辛うじてひとりの武士の、真向へ来た刀を巻き落とした。
 でも、もう一人の武士の刀を、左肩に受けなければならなかった。
(やられた!)
 しかし何たる奇跡か! その武士は刀をポタリと落とし、その手が首の辺りを掻きむしり、前のめりにドッと地上へ倒れた。
 勘兵衛の死に態と同じであった。
 その時であった側《そば》の大藪の陰から、女の声が聞こえてきた。
「助太刀してあげてよ、ね、助太刀して!」
「参るぞーッ」という怒りの大音が、その時女の声を蔽うたが、一人の武士が大鷲さながらに、主税を目掛けて襲いかかった。
 悄然たる太刀音がし、二本の刀が鍔迫り合いとなり、交叉された二本の白刃が、粘りをもって右に左に前に後ろに捻じ合った。
 主税は刀の間から、相手の顔を凝視した。
 両国橋で逢った浪人武士であった。

   解けた独楽の秘密

「やあ汝《おのれ》は!」と主税は叫んだ。
「両国橋で逢った浪人者!」
「そうよ」と浪人も即座に答えた。
「貴殿が手に入れた淀屋の独楽を、譲り受けようと掛け合った者よ。……隠すにもあたらぬ宣《なの》ってやろう、浪速《なにわ》の浪人|飛田林覚兵衛《とんだばやしかくべえ》! ……さてその時拙者は申した、貴殿の命を殺《あや》めても、淀屋の独楽を拙者が取ると! ……その期が今こそめぐって来たのじゃ!」
「淀屋の独楽とは? 淀屋の独楽とは?」
「どうせ汝《おのれ》は死んで行く奴、秘密を教えても大事あるまい、そこで秘密を教えてやる。……浪速の豪商淀屋辰五郎、百万にも余る巨富を積み、栄耀栄華を極めたが、元禄年間|官《かみ》のお咎めを受け、家財一切を没収されたこと、汝といえども伝え聞いていよう。……しかるに辰五郎、事の起こる前、ひそかに家財の大半を分け、絶対秘密の場所へ隠し、その隠し場所を三個《みっつ》の独楽へ……とここまで申したら、万事推量出来るであろう。……汝が手に入れたあの独楽こそ、淀屋の独楽の一つなのじゃ。……今後汝によって三つの独楽を、それからそれと手に入れられ、独楽に記されてある隠語を解かれ、淀屋の巨財の隠し場所を知られ、巨財を汝に探し出されては、長年その独楽の行方を尋ね、淀屋の巨財を手に入れようと、苦心いたしおる我らにとっては、一大事とも一大事! そこで汝をこの場において殺し、汝の屋敷に潜入し、独楽をこっちへ奪い取るのだ!」
 二本の刀を交叉させ、鍔と鍔とを迫り合わせ、顔と顔とをひた[#「ひた」に傍点]と付けながら、覚兵衛はそう云うとグーッと押した。
 それをやんわり[#「やんわり」に傍点]と受けながら、主税は二歩ばかり後へ下った。
 すると今度は山岸主税が、押手に出でてジリジリ[#「ジリジリ」は底本では「ヂリヂリ」]と進んだ。
 二人の眼と眼とは暗い中で、さながら燠のように燃えている。
 鍔迫り合いの危険さは、体の放れる一刹那にあった。遅れれば斬られ、逸《はや》まれば突かれる。さりとて焦躁《あせ》れば息切れを起こして、結局斃されてしまうのであった。
 いぜんとして二人は迫り合っている。
 そういう二人を中へ囲んで、飛田林覚兵衛の一味の者は、抜身を構え位い取りをし、隙があったら躍り込み、主税を討って取ろうものと、気息を呑んで機を待っていた。
 と、あらかじめの計画だったらしい、
「やれ」と大音に叫ぶと共に、覚兵衛は烈しい体あたり[#「あたり」に傍点]をくれ、くれると同時に引く水のように、サーッと自身後へ引き、すぐに飜然と横へ飛んだ。
 主税は体あたり[#「あたり」に傍点]をあてられ[#「あてられ」に傍点]て、思わずタジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]と後へ下ったが、踏み止まろうとした一瞬間に、相手に後へ引かれたため、体が延び足が進み、あたかも覚兵衛を追うかのように、覚兵衛の一味の屯している中へ、一文字に突き入った。
「しめた!」
「斬れ!」
「火に入る夏の虫!」
「わッはッはッ、斬れ、斬れ、斬れ!」
 嘲笑《あざけり》、罵声《ののしり》、憎悪《にくしみ》の声の中に、縦横に上下に走る稲妻! それかのように十数本の白刃が、主税の周囲《まわり》で閃いた。
 二声ばかり悲鳴が起こった。
 バラバラと囲みが解けて散った。
 乱れた髪、乱れた衣裳、敵の返り血を浴びて紅斑々! そういう姿の山岸主税は、血刀高々と頭上に捧げ、樫の木かのように立っている。
 が、彼の足許には、死骸が二つころがっていた。
 一人を取り囲んで十数人が、斬ろう突こうとしたところで、味方同士が邪魔となって、斬ることも突くことも出来ないものである。
 そこを狙って敵二人まで、主税は討って取ったらしい。
 地団太踏んで口惜しがったのは、飛田林覚兵衛であった。
「云い甲斐ない方々!」と杉の老木が、桶ほどの太さに立っている、その根元に突立ちながら、
「相手は一人、鬼神であろうと、討って取るに何の手間暇! ……もう一度引っつつんで斬り立てなされ! ……見られい彼奴《きゃつ》め心身疲れ、人心地とてない有様! 今が機会じゃ、ソレ斬り立てられい!」
 覚兵衛の言葉は事実であった。
 先刻《さっき》よりの乱闘に肉体《からだ》も精神《こころ》も疲労《つかれ》果てたらしい山岸主税は、立ってはいたが右へ左へ、ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロとよろめいて、今にも仆れそうに見受けられた。

   愛する人を

「そうだ!」「やれ!」と覚兵衛の一味が、さながら逆浪の寄せるように、主税《ちから》を目掛けて寄せた時、遥かあなたの木間から、薄赤い一点の火の光が、鬼火のように不意に現われて、こなたへユラユラと寄って来た。
「南無三宝! 方々待たれい! 火の光が見える、何者か来る! 目つけられては一大事! 残念ながら一まず引こう! 味方の死人|負傷者《ておい》を片付け、退散々々方々退散」と杉の根元にいる覚兵衛が、狼狽した声でそう叫んだ。
 いかにも訓練が行き届いていた。その声に応じて十数人の、飛田林覚兵衛の一味達は、仆れている死人や負傷者を抱え、林を分け藪を巡り、いずこへともなく走り去った。
 で、その後には気味の悪いような、静寂《しずけさ》ばかりがこの境地に残った。
 常磐木《ときわぎ》――杉や松や柏や、榎、桧などの間に立ち雑って、仄白い花を咲かせていた桜の花がひとしきり、花弁《はなびら》を瀧のように零したのは、逃げて行く際に覚兵衛の一味が、それらの木々にぶつかっ[#「ぶつかっ」に傍点]たからであろう。
 と、俄然主税の体が、刀をしっかりと握ったまま腐木《くちき》のように地に仆れた。斬られて死んで斃れたのではなかった。
 心身まったく疲労《つかれ》果て、気絶をして仆れたのである。
 そういう主税の仆れている体へ、降りかかっているのは落花であり、そういう主税の方へ寄って来るのは薄赤い燈の光であった。
 そうして薄赤いその燈の光は、昨夜御用地の林の中で、老人と少年と女猿廻しとが、かかげていたところの龕燈の火と、全く同じ光であった。その龕燈の燈が近づいて来る。ではあの老人と少年と、女猿廻しとがその燈と共に、近付いて来るものと解さなければならない。
 でもにわかにその龕燈の燈は、大藪の辺りから横に逸れ、やがて大藪の陰へかくれ、ふたたび姿を現わさなかった。
 そこで又この境地はひっそりとなり、鋭い切先の一所を、ギラギラ月光に光らせた抜身を、いまだにしっかり握っている主税が、干鱈のように仆れているばかりであった。
 時がだんだんに経って行った。
 やがて、主税は気絶から覚めた。
 誰か自分を呼んでいるようである。
 そうして、自分の後脳の下に、暖かい柔らかい枕があった。
 主税はぼんやり眼を開けて見た。
 自分の顔のすぐの真上に、自分の顔へ蔽いかぶさるように、星のような眼と、高い鼻と、薄くはあるが大型の口と、そういう道具の女の顔が、周囲《まわり》を黒の楕円形で仕切って、浮いているのが見て取られた。
 お高祖頭巾で顔を包んだ、浪速《なにわ》あやめ[#「あやめ」に傍点]の顔であった。
(あやめ[#「あやめ」に傍点]がどうしてこんな所に?)
 気力は恢復してはいなかったが、意識は返っていた主税はこう思って、口に出してそれを云おうとした。
 でも言葉は出せなかった。それ程に衰弱しているのであった。眼を開けていることも出来なくなった。そこで彼は眼を閉じた。
 そう、主税に膝枕をさせ、介抱している女はあやめ[#「あやめ」に傍点]であった。鼠小紋の小袖に小柳繻子の帯、紫の半襟というその風俗は、女太夫というよりも、町家の若女房という風であり、お高祖頭巾で顔を包んでいるので、謎を持った秘密の女めいても見えた。
「山岸様、山岸主税様! お気が付かれたそうな、まア嬉しい! 山岸様々々々!」とあやめ[#「あやめ」に傍点]はいかにも嬉しそうに、自分の顔を主税の顔へ近づけ、情熱的の声で云った。
「それに致しましても何て妾《わたし》は、申し訳のないこといたしましたことか! どうぞお許しなすって下さいまし。……ほんの妾の悪戯《いたずら》[#「《いたずら》」は底本では「《いたづら》」]心から、差しあげた独楽が原因となって、こんな恐ろしいことになるなんて。……それはあの独楽には何か秘密が、――深い秘密のあるということは、妾にも感づいてはおりましたが、でもそのためにあなた様へ、あの独楽を上げたのではごさいません。……ほんの妾の出来心から。……それもあなた様がお可愛らしかったから。……まあ厭な、なんて妾は……」
 これがもし昼間であろうものなら、彼女の頬に赤味が注し、恥らいでその眼が潤んだことを、見てとることが出来たであろう。

   勘兵衛や武士を殺した者は?

 あやめ[#「あやめ」に傍点]があの独楽を手に入れたのは、浪速高津《なにわこうず》の古物商からであった。それも孕独楽《はらみごま》一揃いとして、普通に買入れたのに過ぎなかった。その親独楽も十個の子独楽も、名工四国太夫の製作にかかわる、名品であるということは、彼女にもよく解《わか》っていた。そうして子独楽の中の一個《ひとつ》だけが、廻すとその面へ文字を現わすことをも彼女はよく解っていた。
 すると、或日一人の武士が、飛田林覚兵衛《とんだばやしかくべえ》と宣《なの》りながら、彼女の許へ訪ねて来て、孕独楽を譲ってくれるようにと云った。しかしあやめ[#「あやめ」に傍点]は商売道具だから、独楽は譲れないと断った。すると覚兵衛は子独楽の一つ、文字を現わす子独楽を譲ってくれるようにと云い、莫大な金高を切り出した。それであやめ[#「あやめ」に傍点]はその子独楽が、尋常の品でないことを知った。それにその子独楽一つだけを譲れば、孕独楽は後家独楽になってしまう。そこであやめ[#「あやめ」に傍点]は断った。
 しかし、覚兵衛は断念しないで、その後もあやめを付け廻し、或いは嚇し或いは透かし[#「透かし」はママ]て、その子独楽を手中に入れようとした。それがあやめ[#「あやめ」に傍点]の疳に障り、感情的にその子独楽を、覚兵衛には譲るまいと決心した。と同時にその子独楽が、あやめ[#「あやめ」に傍点]には荷厄介の物に思われて来た。その中あやめ[#「あやめ」に傍点]は縁があって、江戸の両国へ出ることになった。
 そこで浪速から江戸へ来た。するとどうだろう飛田林覚兵衛も、江戸へ追っかけて来たではないか。
 こうして昨日《きのう》の昼席となった。
 舞台で孕独楽を使っていると、間近の桟敷で美貌の若武士が――すなわち山岸主税なのであるが、熱心に芸当を見物していた。ところが同じその桟敷に、飛田林覚兵衛もいて、いかにも子独楽が欲しそうに、眼を据えて見物していた。
(可愛らしいお方)と主税に対しては思い、(小面憎い奴)と覚兵衛に対しては感じ、この二つの心持から、あやめ[#「あやめ」に傍点]は悪戯《いたずら》[#「《いたずら》」は底本では「《いたづら》」]をしてしまったのである。即ち舞台から例の小独楽を、見事に覚兵衛の眼を掠め、主税の袖の中へ投げ込んだのである。
(孕独楽が後家独楽になろうとままよ、妾《わたし》にはあんな子独楽用はない。……これで本当にサバサバしてしまった)
 あやめ[#「あやめ」に傍点]はそう思ったことであった。
 そうして彼女は今日の昼席から、定席へも出演《で》ないことに決心し、宿所《やど》をさえ出て行方を眩ましてしまった。それは彼女にとっては一生の大事業を、決行することに心を定め、その準備に取りかかったからであった。
 でも彼女は夕方になった時、職場が恋しくなって来た。そこでこっそり出かけて行った。ところが裏木戸の辺りまで行って見ると、太夫元の勘兵衛と山岸主税とが、自分のことについて話しているではないか。そこで、彼女は側《そば》の空店《あきだな》の中へ、素早く入って身を忍ばせ、二人の話を立聞きした。その中に勘兵衛が無礼の仕打ちを、主税に対してとろうとした。
(どうで勘兵衛は遅かれ早かれ、妾が手にかけて殺さなければ、虫の納まらない奴なのだから、いっそ此処で殺してしまおう)
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は心をそう定めた。
 で、手練の独楽の紐を――麻と絹糸と女の髪の毛とで、蛇のように強い弾力性を持たせて、独特に作った独楽の紐を、雨戸の隙から繰り出して、勘兵衛の首へ巻き付けて、締めて他愛なく殺してしまった。
(これで妾の一生の大事業の、一つだけを片付けたというものさ)
 もっと苦しめて殺してやれなかったことに、心外さこそは覚えたが、殺したことには満足を感じ、彼女は紐を手繰り寄せ、懐中《ふところ》へ納めて様子をうかがった。
 すると小屋から人が出て来るらしく、主税が急いで立ち去った。
 そこであやめ[#「あやめ」に傍点]も空店から走り出し、主税の後を追っかけた。
 主税が自分を両国広小路の、独楽の定席へ訪ねて来たのは、自分が主税の袖へ投げ込んだ独楽の、秘密を聞きたかったに相違ないと、そうあやめ[#「あやめ」に傍点]は思ったので、主税に逢ってそれを話そうと、さてこそ主税を追っかけたのであったが、愛を感じている相手だっただけに、突然近付いて話しかけることが、彼女のような女にも面伏せであり、そこでただ彼女は主税の行く方へ、後から従いて行くばかりであった。そのあげく、お茶の水のここへ来た。その結果がこの有様となった。
「山岸様!」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は呼んで、膝の上に乗っている主税の顔へ、また自分の顔を近付けて行った。
「大藪の中から紐を繰り出し、お侍さんの一人を絞め殺しましたのは、このあやめ[#「あやめ」に傍点]でございます。……わたしの差し上げた独楽のことから、このような大難にお逢いなされ、あなた様にはさぞこのあやめ[#「あやめ」に傍点]が、憎い女に思われるでございましょうが、あなた様のお為に人間一人を、締め殺しましたことにお免じ下され、どうぞお許しなすって下さいまし」

   教団の祖師

 でも主税は返辞をしなかった。
 ますます衰弱が激しくなり、又神気が朦朧となり、返辞をすることが出来ないからであった。
(このお方死ぬのではあるまいか?)
 こう思うと彼女は悲しかった。
(実家《いえ》を出て十年にもなる。流浪から流浪、艱難から艱難、いろいろのお方とも出入りを重ねたが、真底から可愛《いと》しいと思われたのは、偶然にお逢いしたこの方ばかり。……それだのにこのお方死なれるのかしら?)
 月の位置が移ったからであろう。梢から射していた月光が、円い巨大な柱のように、あやめ[#「あやめ」に傍点]と主税との二人の体の上へ、蛍草の色に降りて来ていた。その明るい光の輪の中では、産れて間もないらしい細い羽虫が、塵のように飛び交っていた。そうして明るい光の輪の底には、白芙蓉のように蒼白い、彫刻のように端正の、主税の顔が弱々しく、眼を閉じ口を閉じて沈んでいた。
(こうしてはいられない)
 にわかにあやめ[#「あやめ」に傍点]は気がついて思った。
(町へ行って駕籠を雇って、主税様をお屋敷へお送りしなければ)
 そこで、あやめ[#「あやめ」に傍点]は立ち上った。

 この時から半刻《はんとき》ばかり経った時、龕燈の光で往来《みち》を照らしながら、老人と少年と女猿廻しとが、秋山様通りの辺りを通っていた。昨夜《ゆうべ》御用地の林の中にいた、その一組に相違なかった。
 お屋敷町のこの辺りは、この時刻には人通りがなく、犬さえ歩いてはいなかった。武家屋敷の武者窓もとざされていて、戸外《そと》を覗いている人の顔など、一つとして見えてはいなかった。で、左右を海鼠《なまこ》壁によって、高く仕切られているこの往来《とおり》には、真珠色の春の夜の靄と、それを淹《こ》して射している月光とが、しめやかに充ちているばかりであった。
 伊賀袴を穿いた美少年が、手に持っている龕燈で、時々海鼠壁を照らしたりした。と、その都度壁の面へ、薄赤い光の輪が出来た。
 龕燈を持った美少年を先に立て、その後から老人と女猿廻しとが、肩を並べて歩いて行くのであった。
「ねえお爺様……」と女猿廻しは云って、編笠は取って腰へ付け、星のような眼の、高い鼻の、薄くはあるが大型の口の、そういう顔を少し上向け、老人を仰ぎながら審かしそうに続けた。
「なぜたかが[#「たかが」に傍点]一本ばかりの木を、三十年も護《まも》って育てましたの?」
「それはわしにも解《わか》らないのだよ」
 袖無を着、伊賀袴を穿き、自然木の杖を突いた老人は、卯の花のように白い長い髪を、肩の辺りでユサユサ揺りながら、威厳はあるが優しい声で云った。
「なぜたかが[#「たかが」に傍点]一本ばかりのそんな木を、三十年もの間育てたかと、そういう疑いを抱くことよりそんなたかが一本ばかりの木を、迷わず怠らず粗末にせず、三十年もの間護り育てた、そのお方の根気と誠心《まごころ》と、敬虔な心持に感心して、そのお方のお話を承わろうと、そう思った方がいいようだよ」
「ええそれはそうかもしれませんけれど。……で、その木は何の木ですの?」
「榊《さかき》の木だということだが、松であろうと杉であろうと、柳であろうと柏の木であろうと、そんなことはどうでもよいのだよ」
「それでたくさんのいろいろの人が、そのお方の所に伺って、お教えを乞うたと仰有《おっしゃ》る[#「仰有《おっしゃ》る」は底本では「有仰《おっしゃ》る」]のね?」
「そうなのだよ、そうなのだよ。そんなに根気のよい、そんなに誠心の敬虔のお心を持ったお方なら、私達の持っている心の病気や、体の病気を癒して下されて、幸福な身の上にして下さるかもしれないと、悩みを持ったたくさんの人達が、そのお方の所へ伺って、自分たちの悩みを訴えたのだよ」
「するとそのお方がその人達の悩みを、みんな除去《とりさ》って下すったのね」
「解り易い言葉でお説きなされて、心の病気と体の病気を、みんな除去って下されたのだよ」
「それでだんだん信者が増えて、大きな教団になったと仰有る[#「仰有る」は底本では「有仰る」]のね」
「そうなのだよ。そうなのだよ」
「そのお方どんなお方ですの?」
「わしのような老人なのだよ」
「そのお方の名、何て仰有る[#「仰有る」は底本では「有仰る」]の?」
「信者は祖師《そし》様と呼んでいるよ。……でも反対派の人達は『飛加藤《とびかとう》の亜流』だと云っているよ」
「飛加藤? 飛加藤とは?」
「戦国時代に現われた、心の邪な忍術使いでな、衆人《みんな》の前で牛を呑んで見せたり、観世縒で人間や牛馬を作って、それを生かして耕作させたり、一丈の晒布《さらし》に身を変じて、大名屋敷へ忍び込んだり、上杉謙信の寝所へ忍び、大切な宝刀を盗んだりした、始末の悪い人間なのだよ」

   植木師の一隊

「どうしてお偉いお祖師様のことを、飛加藤の亜流などというのでしょう?」
「祖師様のなさるいろいろの業が、忍術使いのまやかし[#「まやかし」に傍点]の業のように、人達の眼に見えるからだよ」
「お爺さん、あなたもそのお祖師様の、信者のお一人なのでごさいますのね」
「ああそうだよ、信者の一人なのだよ」
「お爺さんのお名前、何て仰有《おっしゃ》る[#「仰有《おっしゃ》る」は底本では「有仰《おっしゃ》る」]の?」
「世間の人はわしの事を、飛加藤の亜流だと云っているよ」
「ではもしやお爺さんが、そのお偉いお祖師様では?」
 しかし老人は返辞をしないで、優しい意味の深い微笑をした。
 三人は先へ進んで行った。
 背中の猿は眠ったと見えて、重さが少し加わって来た。それを女猿廻しは揺り上げながら、
(実家《いえ》を出て十年にもなる。流浪から流浪、艱難から艱難、いろいろのお方とも出入りを重ねたが真底から偉いと思ったお方は、このご老人の他にはない。このお方がきっとお祖師様なのだよ)
(でも妾《わたし》は一生の大事業の、その小口に取りかかったのに、こんなお爺さんと連立って、こんなお話をして歩くなんて、よいことだろうか悪いことだろうか?)
 こうも彼女には思われるのであった。
 三人は先へ進んで行った。
 やがて、四辻の交叉点へ出た。
 それを左の方へ曲がりかけた時、右手の方から一隊の人数が、粛々とこっちへ歩いて来た。
 根元の辺りを菰《こも》で包んだ、松だの柏だの桜だの梅だの、柳だの桧だのの無数の植木を、十台の大八車へ舁《か》き乗せて、それを曳いたりそれを押したり、また左右に付添ったりして、四十人ほどの植木師らしい男が、こっちへ歩いて来るのであった。深夜だから音を立てまいとしてか、車の輪は布で巻かれていた。植木師の風俗も変わっていた。岡山頭巾で顔をつつみ、半纏の代わりに黒の短羽織《みじかばおり》を着、股引の代わりに裁着《たっつけ》を穿《は》き、そうして腰に一本ずつ[#「一本ずつ」は底本では「一本づつ」]、短い刀を差していた。
 車の上の植木はいずれも高価な、立派な品らしく見受けられたが、往来《みち》の左右の海鼠壁よりも高く、月夜の空の方へ葉や枝を延ばし、車の揺れるに従って、それをユサユサと揺する様子は、林が歩いてでも来るようであった。
 その一隊が三人の前まで来た時、手を左右に振りながら、警戒するように『叱《しっ》!』と云った。近寄るなとでも云っているようであった。
「叱!」「叱!」と口々に云った。
 一隊は二人の前を通り過ぎようとした。
 すると、この辺りの屋敷へ呼ばれ、療治を済ませて帰るらしい、一人の按摩が向う側の辻から、杖を突きながら現われたが、その一隊の中へうっかりと入った。
「叱《しっ》!」「叱《しっ》!」という例の声が、植木師の声などとは思われないような、威嚇的の調子をもって、一際高く響きわたり、ふいに行列が立ち止まった。
 数人の植木師が走って来て、一所へ集まって囁き合い、ひとしきりそこに混乱が起こった。
 がすぐに混乱は治まって、一隊は粛々と動き出し、林は先へ進んで行った。しかし見れば往来《みち》の一所に、黒い大きな斑点が出来ていた。
 按摩の死骸が転がっているのである。
「お爺さん!」と恐ろしさに女猿廻しは叫んで、老人の腕に縋りついた。それを老人は抱えるようにしたが、
「障《さ》わったからじゃ。……殺されたのじゃ」
「何に、お爺さん、何に障わったから?」
「木へ! そう、一本の木へ!」
 それから老人は歩き出した。三人はしばらく沈黙して歩いた。道がまた辻になっていた。
 それを右へ曲がった時、屋敷勤めの仲間らしい男が、仰向けに道に仆れているのが見えた。
 その男も死んでいた。
「お爺さん、またここにも!」
「障わったからじゃ。殺されたのじゃ」
「お爺さん、お爺さん、あなたのお力で……」
「あの木で殺された人間ばかりは、わしの力でもどうにもならない」
 悪魔の一隊は今も近くの、裏通りあたりを通っていると見え、そうして又も人を殺したと見え、
「叱!」「叱!」という混乱した声が、三人の耳へ聞こえてきた。

   美しき囚人

 同じこの夜のことであった。
 田安家の大奥の一室に、座敷牢が出来ていて、腰元風の若い女と、奥家老の松浦頼母とが、向かい合って坐っていた。
「八重《やえ》、其方《そち》は強情だのう」
 眼袋の出来ている尻下りの眼へ、野獣的の光を湛え、酷薄らしい薄い唇を、なめずるように舌で濡らしながら、頼母はネットリとお八重へ云った。
「将軍家《うえさま》より頂戴した器類を、館より次々に盗み出したことは、潔よく其方も白状したではないか。では何者に頼まれて、そのようなだいそれ[#「だいそれ」に傍点]た悪事をしたか、これもついで[#「ついで」に傍点]に云ってしまうがよい。……其方がどのようにシラを切ったところで、其方一人の考えから、そのような悪事を企てたものとは、誰一人として思うものはないのだからのう」
 云うことは田安家の奥家老として、もっとも千万のことであり、問い方も厳しくはあったけれど、しかし頼母の声や態度の中には、不純な夾雑物《まじりもの》が入っていて、ひどく厭らしさを感じさせるのであった。
「ご家老様」とお八重は云って、白百合のように垂れていた頸を、物憂そうに重々しく上げた。
「ご家老様へお尋ねいたしまするが、貴郎《あなた》様がもしもお館様より、これこれのことを致して参れと、ご命令をお受け遊ばされて、ご使命を執り行ない居られます途中で、相手の方に見現わされました際、貴郎様にはお館様のお名を、口にお出しなさるでございましょうか?」
「なにを馬鹿な、そのようなこと、わしは云わぬの、決して云わぬ」
「八重も申しはいたしませぬ」
「…………」
 頼母は無言で眉をひそめたが、やがてその眉をのんびりさせると、大胆な美しいお八重の姿を、寧ろ感心したように眺めやった。
 まことお八重は美しかった。年は二十二三でもあろうか、細々とした長目の頸は、象牙のように白く滑かであり、重く崩れて落ちそうな程にも、たくさんの髪の島田髷は、鬘かのように艶やかであった。張の強い涼しい眼、三ヶ月形の優しい眉、高くはあるがふっくりとした鼻、それが純粋の処女の気を帯びて、瓜実形の輪郭の顔に、綺麗に調和よく蒔かれている。
 小造りの体に纏っている衣裳は、紫の矢飛白《やがすり》の振袖で、帯は立矢の字に結ばれていた。
 そういう彼女が牢格子の中の、薄縁を敷いた上に膝を揃えて、端然として坐っている姿は「美しい悲惨」そのものであった。牢の中は薄明るかった。というのは格子の外側に、頼母が提げて来たらしい、網行燈が置いてあって、それから射している幽かな光が、格子の間々から射し入って、明暗を作っているからであった。
「見上げたの、見上げたものじゃ」
 ややあってから松浦頼母は、感心したような声で云った。
「武家に仕える女の身として、そういう覚悟は感心なものじゃ。……使命を仕損じた暁には、たとえ殺されても主人の名は云わぬ! なるほどな、感心なものじゃ」
 しかし、何となくその云い方には、おだてる[#「おだてる」に傍点]ような所があった。そうしてやはり不純なものが、声の中に含まれていた。
「天晴《あっぱ》れ女丈夫と云ってもよい。……処刑するには惜しい烈婦じゃ。……とはいえ、お館の掟としてはのう」
 網行燈の光に照らされ、猪首からかけて右反面が、薄|瑪瑙《めのう》色にパッと明るく、左反面は暗かったが、明るい方の眼をギラリと光らせ、頼母はにわかに怯かすように云った。
「いよいよ白状いたさぬとあれば、明日|其方《そち》を打ち首にせよとの、お館様よりのお沙汰なのだぞよ!」

   お八重と女猿廻し

 しかしお八重は「覚悟の前です」と、そういってでもいるかのように、髪の毛一筋動かさなかった。ただ柘榴《ざくろ》の蕾のような唇を、心持噛んだばかりであった。
(どうしてこんなことになったのだろう?)と彼女は心ひそかに思った。
 お八重は今から二年ほど前に、奥方様附の腰元として、雇い入れられた女なのであるが、今日の昼間奥方様に呼ばれ、奥方様のお部屋へ行った。すると奥方様は彼女に向かい、百までの数字を書いてごらんと云われた。不思議なことと思いながら、云われるままに彼女は書いた。彼女は部屋へ戻ってから、そのようにして数字を書かされた者が、自分一人ではなくて大奥全体の女が、同じように書かされたということを聞いて、少しばかり不安に思った。
 すると、間もなく奥方様のお部屋へ、また彼女は呼び出された。行ってみると何とその部屋には、奥家老の松浦頼母がいて、一葉の紙片を突き出した。昨夜女猿廻しのお葉《よう》へ、独楽のなかへ封じ入れて投げて与えた、自分からの隠語の紙片であった。ハ――ッとお八重は溜息を吐いた。
 頼母の訊問は烈しかった。
「隠語の文字と其方《そち》の文字、同一のものと思われる、其方この隠語を書いたであろう?」
「書きましてござります」
「お館の外の何者かと謀《はか》り、お館の器類を、数々盗んで持ち出したであろう?」
「お言葉通りにござります」
「これほどの大事を女の身一つで、行なったものとは思われぬ、何者に頼まれてこのようなことをしたか?」
「わたくしの利慾からにござります。決して誰人《どなた》にも頼まれましたのではなく……」
「黙れ、浅はかな、隠し立ていたすか! 尋常な品物であろうことか、代々の将軍家より賜わった、当家にとっては至極の宝物ばかりを、選りに選って盗んだは、単なる女の利慾からではない。頼んだ者があるはずじゃ、何者が頼んだか名を明かせ!」
 しかしお八重は口を噤《つぐ》んで、それについては一言も答えなかった。すると頼母は訊問を転じ、
「お館の外の共謀者、何者であるか素性を申せ!」
「申し上げることなりませぬ」
 この訊問に対しても、お八重は答えを拒んだのであった。
 そこで、お八重は座敷牢へ入れられた。
 すると、このような深夜になってから、頼母一人がやって来て、また訊問にとりかかったのであった。
(どうしてこんなことになったのだろう?)
(どうして秘密の隠語の紙が、ご家老様の手へなど渡ったのだろう?)
 これが不思議でならなかった。
(女猿廻しのあのお葉が、では頼母様の手に捕らえられたのでは?)
 お葉と宣《なの》っている女猿廻しは、お八重にとってはよい加担者であった。でもお葉を加担者に引き入れたのは、全く偶然のことからであった。――ある日お八重はお長屋の方へ、用を達すために何気なく行った。すると女の猿廻しが、お長屋で猿を廻していた。あんまりその様子が可愛かったので、多分の鳥目を猿廻しにくれた。これが縁の始まりで、その後しばしば女猿廻しとお八重は、あちこちのお長屋で逢って話した。その間にお八重はその女猿廻しが、聡明で大胆だということと、再々田安家のお長屋へ来て、猿を廻して稼ぐのは、単なる生活《くらし》のためではなく、何らか田安家そのものに対して、企らむところがあってのことらしいと、そういうことを見て取った。そこでお八重は女猿廻しを呼んで、自分の大事を打ち明けた。
「妾《わたし》は田安家の奥方様附の、腰元には相違ないけれど、その実は田安家に秘蔵されている、ある大切な器物を、盗み出すためにあるお方より、入り込ませられた者なのです。もっともその品を盗み出す以前《まえ》に、その他のいろいろの器物を、盗み出すのではありますけれど。……ついては其方《そなた》妾の加担者となって、盗んだ器物を機会を見て、妾から其方へ渡しますゆえ、其方その品を何処へなりと、秘密に隠しては下さるまいか。……是非にお頼みいたします。事成就の暁には、褒美は何なりと差し上げます」
 こう大事を打ち明けた。すると女猿廻しは考えこんだが、
「田安様の品物が盗まれました際、その責任は田安様の、誰人《どなた》に行くのでございましょうか?」と訊いた。
「それはまァ奥家老の松浦様へ」
「松浦へ! おお松浦頼母へ! ……では妾《わたし》あなた様の、加担者になるでございましょう! ……そうしてあの松浦頼母めを、切腹になと召し放しになと!」と女猿廻しは力を籠めて云った。
 それでお八重は女猿廻しのお葉が、何かの理由で松浦頼母に、深い怨みを抱いていることを、いち早く見て取ったが、しかしお葉がどういう理由《わけ》から、松浦頼母に怨みを抱くかを、押して訊こうとはしなかった。

   二つ目の独楽

 とにかくこうして二人の女は、それ以来一味となり、お八重から渡す隠語を手蔓《つて》に、時と場所とを示し合わせ、お八重の盗み出す田安家の器物を、女猿廻しのお葉は受け取り、秘密の場所へ人知れず隠し、今日に及んで来たのであった。
(隠語の紙片が頼母様の手へ入った! ではお葉も頼母様のお手に、引っとらえられたのではあるまいか?)
 これがお八重の現在の不安であった。
(いやいや決してそんなことはない!)
 お八重はやがて打ち消した。
(でも隠語を認めた紙片が、頼母様のお手へ入った以上、それを封じ込めてやったあの独楽が、頼母様のお手へ入ったことは、確かなことといわなければならない!)
 これを思うとお八重の胸は、無念と口惜しさに煮えるのであった。
(淀屋の独楽を奪い取れ! これがあの方のご命令だった。……淀屋の独楽を奪い取ろうとして、妾は二年間このお屋敷で、腰元奉公をしていたのだ。そうしてようやく目的を達し、淀屋の独楽を奪い取ったら、すぐに他人に奪い返されてしまった。何と云ったらいいだろう!)
 代々の将軍家から田安家へ賜わった、数々の器類を奪ったのも、目的の一つには相違なかったが、真の目的はそれではなくて、淀屋の独楽を奪うことであった。
 彼女は田安家へ入り込むや否や、淀屋の独楽の在場所を探した。と、教えられてきた淀屋の独楽と、そっくりの型の独楽を奥方妙子様が、ご秘蔵なされていることを知った。しかし一つだけ不思議なことには、その独楽は淀屋の独楽と違って、いくら廻しても独楽の面へ、一つとして文字を現わさなかった。
「では淀屋の独楽ではないのだろう」と思って、お八重は奪うことを躊躇した。ところが此頃になって老女の一人が「あの独楽は以前には廻す毎に、文字を現わしたものでございますが、いつの間にやらその事がなくなって、この頃ではどのように廻したところで、文字など一字も現われません」と話した。
「ではやはり奥方様お持ちの独楽は、淀屋の独楽に相違ない」とそうお八重は見極めをつけ、とうとうその独楽を昨日奪って、折柄塀外へ来たお葉の手へ、投げて素早く渡したのであった。今夜裏門にて――と隠語に書いたのは、望みの品物を奪い取ったのだから、もうこの屋敷にいる必要はない。でお葉に裏門まで来て貰って、一緒にこの屋敷から逃げ出そうと思い、さてこそそのように書いたのであった。
「ご家老様」とお八重は云って、今までじっと俯向いて、膝頭を見詰めていた眼を上げて、頼母の顔を正視した。
「隠語を記しましたあの紙片を、ご家老様には何者より?」
「あれか」
 すると松浦頼母は複雑の顔へ一瞬間、冷笑らしいものを漂わせたが、
「其方《そち》の恋人山岸主税が、わしの手にまで渡してくれたのよ!」
「え――ッ、まア! いえいえそんな!」
 物に動じなかったお八重の顔が、見る見る蒼褪め眼が血走った。

   お八重の受難

 そういうお八重を松浦頼母は、嘲笑いの眼で見詰めたが、
「去年の秋御殿で催された、観楓の酒宴以来|其方《そち》と主税《ちから》とが、恋仲になったということは、わしにおいては存じて居った。が、お八重其方も存じおるはずだが、其方を恋して其方という者を、主税より先に我物にしようと、懇望したものは誰だったかのう?」
 頼母はお八重を嘗めるように見たが、
「わしであったはずじゃ、頼母であったはずじゃ」
 云い云い頼母は老いても衰えない、盛り上っている肉太の膝を、お八重の方へニジリ[#「ニジリ」は底本では「ニヂリ」]寄せた。
 お八重は背後《うしろ》へ体を退《ず》らせたが、しかしその瞬間去年の秋の、観楓の酒宴での出来事を、幻のように思い出した。
 その日、夜になって座が乱れた。お八重は酒に酔わされたので、醒まそうと思って庭へ出た。と、突然背後から、彼女に触れようとする者があった。お八重は驚いて振り返ってみると、意外にも奥家老の松浦頼母で、
「其方《そち》がお館へ上った日以来、わしは其方に執心だったのじゃ」と云った。
 すると、そこへちょうど折よく、これも酒の酔いを醒まそうとして、通り掛かった山岸主税が、
「や、これはご家老様にはお八重殿にご酔興なそうな。アッ、ハッ、ハッ、お気の毒千万、そのお八重殿とわたくしめとは、夫婦約束いたした仲でござる。わたくしめの許婚《いいなずけ》をお取りなさるは殺生、まずまずお許し下されませ」と冗談にまぎらせて仲を距て、お八重の危難を救ってくれた。
 ところがこれが縁となって、お八重と主税とは恋仲となり、肉体《からだ》こそ未だに純潔ではあれ、末は必ず夫婦になろうと約束を結んだのであった。しかるに一方松浦頼母も、お八重への恋慕を捨ようとはしないで、絶えずお八重を口説いたことであった。そうして今お八重にとって、命の瀬戸際というこの時になって、……
「お八重」と頼母は唆かすように云った。
「今日の昼主税めわしの所へ参り、『私こと昨夜お館附近を、見廻り警戒いたしおりましたところ、怪しい女猿廻しめが、ご用地附近におりましたので、引っとらえようといたしましたところその猿廻しめは逃げましたが、独楽を落としましてござります。調べましたところ独楽に細工あって、隠語を認めましたこのような紙片が、封じ込めありましてございます。隠語を解けば――コンヤウラモンニテ、と。……思うにこれはお館の中に、女猿廻しの一味が居りまして、それと連絡をとりまして、お館の大切な器類を、盗み出したに相違なく、しかも女猿廻し一味のものは、女に相違ござりませぬ。何故と申せば隠語の文字、女文字ゆえでござりまする。左様、女にござりまする! 奥方様付のお腰元、お八重殿にごさりまする! わたくしお八重殿の文字の癖をよく存じておりまする』とな。……」
「嘘だ嘘だ! 嘘でごさりまする! 主税殿が何でそのようなことを!」
 手を握りしめ歯切りをし、お八重はほとんど狂乱の様で、思わず声高に叫ぶように云った。
「妾《わたし》の、妾の、主税様が!」
「フッフッフッ、ハッハッハッ、可哀そうや可哀そうやのう[#「のう」に傍点]お八重、其方《そち》としては信じていた恋男が、そのようなことをするものかと、そう思うのは無理もないが、それこそ恋に眼の眩んだ、浅はかな女の思惑というもの、まことは主税というあの若造、軽薄で出世好みで、それくらいの所業など平気でやらかす、始末の悪い男なのじゃ。つまるところ恋女の其方を売って、自分の出世の種にしたのよ」
 ここで頼母はお八重の顔を、上眼使いに盗むように見たが、
「だが、座敷牢へは入れたものの、其方の考え一つによって命助ける術もある。お八重、強情は張らぬがよい、この頼母の云うことを聞け! 頼母|其方《そなた》の命を助ける!」と又肉太の膝をムズリと、お八重の方へ進めて行った。

   陥穽から男が

 すると、お八重の蒼白の顔へ、サッと血の気の注すのが見えたが、
「えい穢らわしい、何のおのれに!」
 次の瞬間にお八重の口から、絹でも裂くように叫ばれたのは、憎悪に充ちたこの声であった。
「たとえ打ち首になろうとも、逆磔刑にされようとも、汝《おのれ》ごときにこの体を、女の操を許そうや! 穢らわしい穢らわしい! ……山岸主税様が隠語の執筆家《かきて》を、この八重と承知の上で、汝の許へ申し出たとか! 嘘だ、嘘です、何の何の、主税様がそのようなことをなされますものか! ……なるほど、あるいは主税様は、なにかの拍子に女猿廻しから、独楽に封じた隠語の紙を、お手に入れられたかもしれませぬが、わたくしの筆癖と隠語の文字とが、似ているなどと申しますものか! もし又それにお気附きになったら、わたしの為に計られて、かえってそれを秘密にして、葬ってしまったでございましょう! わたしに対する主税様の、熱い烈しい愛情からすれば……」
「黙れ!」と忍び音ではあったけれど、怒りと憎悪との鋭い声で、突然頼母は一喝したが、ヌッとばかりに立ち上った。
「何かと言えば主税様! そうか、それほど山岸主税が、其方《そち》には大切で恋しいか! ……よーしそれではその主税めを! ……が、まアよい、まアその中に、その主税様を忘れてしまって、頼母様、頼母様と可憐《いとし》らしく、わしを呼ぶようになるであろう。またそのように呼ばせてもみせる。……とはいえ今の其方の様子ではのう。……第一正気でいられては……、眠れ!」と云うと壁の一所を、不意に頼母は指で押した。
 と、その瞬間「あッ」という悲鳴が、お八重の口から迸り、忽然としてそのお八重の姿が、座敷牢から消えてなくなり、その代わりにお八重の坐って居た箇所へ、畳一畳ばかりの長方形の穴が、黒くわんぐりと口を開けた。陥穽《おとしあな》にお八重は落ちたのであった。頼母は壁際に佇んだまま、陥穽の口を見詰めていた。すると、その口から男の半身が、妖怪《もののけ》のように抽け出して来たが、
「お殿様、上首尾です」――こうその男は北叟《ほくそ》笑みながら云った。
「そうか。そこで、気絶でもしたか?」
「ノンビリとお眠りでございます。……やんわりとした積藁の上に、お八重様にはお眠ねで」
「強情を張る女には、どうやらこの手がよいようだのう」
「死んだようになっている女の子を、ご介抱なさるのは別の味で……ところでお殿様お下りなさいますか? ……すこし梯子《はしご》は急でござんすが」
「まさか穴倉の底などへは。……命じて置いた場所へ運んで行け」
「かしこまりましてございます」
 奥眼と云われる窪んだ眼、鉤鼻と云われる険しい鼻、そういう顔をした四十五六歳の、陥穽から抽け出て来た男は、また陥穽の中へ隠れようとした。
 と、頼母は声をかけた。
「八重めが途中で正気に返ったら、猿轡など噛ませて声立てさせるな。よいか勘兵衛、わかったろうな」
「わかりましてござります」
 その男――勘兵衛は頷いて云った。
 勘兵衛? いかにもその男は、両国広小路の曲独楽の定席《こや》の、太夫元をしていた勘兵衛であった。でもその勘兵衛は今日の夕方、その定席の裏木戸口で、浪速あやめ[#「あやめ」に傍点]のために独楽の紐で、締め殺されたはずである。それだのに生きてピンシャンしているとは? しかも田安家の奥家老、松浦頼母というような、大身の武士とこのように親しく、主従かのように振舞っているとは?
 しかしそういうさまざまの疑問を、座敷牢の中へ残したまま、勘兵衛は陥穽の中へ消えてしまった。と、下っていた陥穽の蓋が、自ずと上へ刎ね上り、陥穽の口を閉ざしてしまった。
 頼母が網行燈をひっさげて、座敷牢から立去った後は、闇と静寂《さびしさ》ばかりが座敷牢を包み、人気は全く絶えて[#「絶えて」は底本では「耐えて」]しまった。

 それから少時《しばらく》の時が経った。
 同じ廓内の一所に、奥家老松浦頼母の屋敷が、月夜に厳めしく立っていた。その屋敷の北の隅に、こんもりとした植込に囲まれ、主屋と別に建物が立っていた。
 土蔵造りにされているのが、この建物を陰気にしている。
 と、この建物の一つの部屋に、山岸主税が高手籠手に縛られ、柱の傍に引き据えられてい、その周囲に五人の覆面の武士が、刀を引き付けて警戒してい、その前に淀屋の独楽の一つを、膝の上へ載せた松浦頼母が、主税を睨みながら坐ってい、そうしてその横に浪人組の頭の、飛田林覚兵衛が眼を嘲笑わせ、これも大刀[#「大刀」はママ]を膝の前へ引き付け、主税を眺めている光景を、薄暗い燭台の黄色い光が朦朧として照していた。
 それにしてもどうして山岸主税が、こんな所に縛られているのだろう?
 そうして何故に飛田林覚兵衛が、こんな所へ現われて、松浦頼母の家来かのように、悠然と控えているのだろう?

   悪家老の全貌

 お茶の水で飛田林覚兵衛《とんだばやしかくべえ》に襲われ、浪速《なにわ》あやめ[#「あやめ」に傍点]に助けられ、そのあやめが雇ってくれた駕籠で山岸主税《やまぎしちから》は屋敷へかえって来た。
 すると、屋敷の門前で、五人の覆面武士に襲撃された。まだ主税は身心衰弱していたので、他愛もなく捕らえられ、目隠しをされて運ばれた。
 その目隠しを取られたところが、今居るこの部屋であり、自分の前には意外も意外、主家の奥家老である松浦頼母と、自分を襲った浪人の頭、飛田林覚兵衛がいるではないか!
 夢に夢見るという心持、これが主税の心持であった。
「主税」と頼母は威嚇するように云った。
「淀屋の独楽を所持しおること、飛田林覚兵衛より耳にした。その独楽を当方へ渡せ!」
 それから頼母は自分の膝の上の独楽を、掌《てのひら》にのせて見せびらかすようにしたが、
「これが二つ目の淀屋の独楽じゃ。以前は田安殿奥方様が、ご秘蔵あそばされていたものじゃ。が、拙者代わりの品物を作り、本物とすり換えて本物の独楽は、疾《とく》より拙者所持しておる。――と、このように秘密のたくらみ[#「たくらみ」に傍点]まで、自分の口から云う以上、是が非であろうと其方《そち》の所持しておる独楽を、当方へ取るという拙者の決心を、其方といえども感ずるであろうな。隠し立てせずと独楽を渡せ! ……おおそれからもう一つ、其方に明かせて驚かすことがある。其方を襲った飛田林覚兵衛、此処におる覚兵衛じゃが、これは実はわし[#「わし」に傍点]の家来なのじゃ」
「左様で」と初めて飛田林覚兵衛は、星の入っている薄気味悪い眼を、ほの暗い燭台の燈に光らせながら、
「拙者、松浦様の家来なのだ。淀屋の独楽を探そうため、浪速くんだりまで参ったのじゃ。浪速あやめ[#「あやめ」に傍点]が独楽を持っていた。で、取ろうといたしたところ、あの女め強情に渡しおらぬ。そのうち江戸へ来てしまった。そこで拙者も江戸へ帰って、どうかして取ろうと苦心しているうちに、チョロリと貴殿に横取りされてしまった。と知った時松浦様へ、すぐご報告すればよかったのだが、独楽を探そうために長の年月、隠れ扶持をいただいておる拙者としては、自分の力で独楽を手に入れねばと、そこで貴殿を襲ったのじゃが、ご存知の通り失敗してしもうた。そこでとうとう我を折って、今夜松浦様へ小鬢を掻き掻き、つぶさに事情をお話しすると、では主税めを捕らえてしまえとな。……で、こういう有様となったので」
「主税」と今度は松浦頼母が、宥めすかすように猫撫声で云った。
「淀屋の財宝が目つかった際には、幾割かの分はくれてやる。その点は充分安心してよろしい。だから云え、どこにあるか。淀屋の独楽がどこにあるか。……それさえお前が云ってくれたなら、人を遣わして独楽を持って来させる。そうしてそれが事実淀屋の独楽であったら、即座に其方《そち》の縄目を解き、我々の同士の一人として、わしの持っている独楽へ現われて来る隠語を、早速見せても進《しん》ぜるし、二つの独楽をつき合わせ、互いの隠語をつなぎ合わせ、淀屋の財宝の在場所を調べるその謀議にもあずからせよう」
「黙れ!」と主税は怒声を上げた。
「逆臣! いや悪党!」
 乱れた鬢髪、血走った眼、蒼白の顔色、土気色の口、そういう形相を燭台の燈の、薄暗い中で強ばらせ、肋骨《あばら》の見えるまではだかった[#「はだかった」に傍点]胸を、怒りのために小顫いさせ、主税は怒声を上げ続けた。
「お館様の寛大仁慈に、汝《おのれ》つけ込んで年久しく、田安家内外に暴威を揮い、専横の振舞い致すということ、我ばかりでなく家中の誰彼、志ある人々によって、日頃取沙汰されていたが、よもや奥方様ご秘蔵の、淀屋の独楽を奪い取り、贋物をお側《そば》に置いたとは、――そこまでの悪事を致しおるとは、何たる逆賊! 悪臣! ……いかにも拙者浪速あやめ[#「あやめ」に傍点]より、淀屋の独楽を貰い受けた。それも偶然貰い受けたばかりで、それには大して執着はない。長年その独楽を得ようとして、探し求めていたというからには、進んで呉れてやらないものでもない。……が、何の汝《おのれ》ごときに――主君の家を乱脈に導き、奥方様のお大切の什器を、盗んだという汝如きに与えようや、呉れてやろうか! それを何ぞや一味にしてくれるの、財宝の分け前与うるのと! わッはッはッ、何を戯言! 一味になるは愚かのこと、縄引き千切り此処を脱け出し、直々お館にお眼通りいたし、汝の悪行を言上し、汝ら一味を狩りとる所存じゃ! 財宝の分け前与えると※[#感嘆符疑問符、1-8-78] わッはッはッ、片腹痛いわい! 逆に汝の独楽を奪い、隠語の文字ことごとく探り、淀屋の財宝は一切合財、この主税が手に入れて見せる! 解け、頼母、この縄を解け!」
 主税は満身の力を罩《こ》め、かけられている縄を千切ろうとした。土気色の顔にパッと朱が注し、額から膏汗《あぶらあせ》が流れ出した。

   生きている勘兵衛

「馬鹿者、騒ぐな、静かに致せ!」
 主税《ちから》のそういう悲惨《みじめ》な努力を、皮肉と嘲りとの眼をもって、憎々しく見ていた頼母《たのも》は云った。
「縄は解けぬ、切れもしないわい! ……お前がこの場で執るべき道は、お前の持っておる独楽をわしに渡し、わしの一味配下となるか、それともあくまで強情を張って、淀屋の独楽をひし[#「ひし」に傍点]隠しに隠し、わしの配下に殺されるか、さあこの二つの道しかない! ……生きるつもりか、死ぬつもりか※[#感嘆符疑問符、1-8-78] どうだ主税、どっちに致す!」
 頼母は改めてまた主税を見詰めた。
 しかし主税は返事さえしないで、憎しみと怒りとの籠った眼で、刺すように頼母を睨むばかりであった。
 そういう主税を取り囲んで、まだ覆面を取らない五人の浪人は、すわといわば主税を切り伏せようと、刀の柄へ手をかけている。飛田林覚兵衛は例の気味の悪い、星の入っている眼を天眼に据えて、これも刀の柄へ手をかけながら、松浦頼母の横手から、主税の挙動を窺っていた。
 部屋の気勢《けはい》は殺気を帯び、血腥い事件の起こる前の、息詰るような静寂《しずけさ》にあった。
「そうか」と頼母はやがて云った。
「物を云わぬな、黙っているな、ようし、そうか、では憂目を!」
 覚兵衛の方へ顔を向け、
「こやつにあれ[#「あれ」に傍点]を見せてやれ!」
 覚兵衛は無言で立ち上り、隣室への襖《ふすま》をあけた。
 何がそこに有ったろう?
 猿轡をはめられ腕を縛られ、髪をふり乱した腰元のお八重が、桔梗の花の折れたような姿に、畳の上に横倒しになってい、それの横手に蟇《ひき》かのような姿に、勘兵衛が胡座《あぐら》を掻いているのであった。
「お八重!」と思わず声を筒抜かせ、主税は猛然と飛び立とうとした。
「動くな!」と瞬間、覆面武士の一人が、主税の肩を抑えつけた。
「お八重、どうして、どうしてここへは※[#感嘆符疑問符、1-8-78] おおそうしてその有様は※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
 お八重は顔をわずかに上げた。起きられないほど弱っているらしい。こっちの部屋から襖の間《あい》を通して、射し込んで行く幽かな燈の光に、蛾のように白いお八重の顔が、鬢を顫わせているのが見えた。猿轡をはめられている口であった。物云うことは出来なかった。
「お八重さんばっかりに眼をとられて、あっしを見ねえとは阿漕《あこぎ》ですねえ」
 胡座から立て膝に直ったかと思うと、こう勘兵衛が冷嘲《ひやか》すように云った。
「見忘れたんでもござんすまいに」
「わりゃア勘兵衛!」と主税は叫んだ。
「死んだはずの勘兵衛が!」
「いかにも殺されたはずの勘兵衛で、へへへ!」と白い歯を見せ、
「あの時あっしア確かにみっしり[#「みっしり」に傍点]、締め殺されたようでござんすねえ。……殺そうとした奴ア解《わか》っていまさア。‥…あやめ[#「あやめ」に傍点]の阿魔《あま》に相違ねえんで。……あの阿魔以前からあっしの命を、取ろう取ろうとしていたんですからねえ。……取られる理由《わけ》もあるんですから、まあまあそいつア仕方ねえとしても、どうやらあっしというこの人間、あんなちょろっか[#「ちょろっか」に傍点]の締め方じゃア、殺されそうもねえ罪業者と見え、次の瞬間にゃア生き返って、もうこの通りピンピンしていまさあ。……そこでこの屋敷へ飛んで来て、淀屋の独楽を取らねえ先に、あやめ[#「あやめ」に傍点]の阿魔に逃げられたってこと、松浦様にご報告すると……」
「それでは汝《おのれ》も松浦頼母の……」
 重ね重ねの意外の事件に、主税は心を顛倒させながら、嗄《しゃが》れた声で思わず叫んだ。

   恋人が盗賊とは

「あたぼう[#「あたぼう」に傍点]よ、ご家来でさあ……もっとも最初《はな》は松浦様のご舎弟、主馬之進《しゅめのしん》様のご家来として、馬込の里の荏原《えばら》屋敷で……」
「喋舌《しゃべ》るな!」と叱るように一喝したのは、刀を杖のように突きながら、ノッソリと立ち上った頼母であった。
「お喋舌り坊主めが、何だベラベラと」
 それから主税の側《そば》へ行った。
「主税」と頼母は横柄の態度で、主税を上から見下ろしたが、
「其方《そち》の恋女腰元八重、縛《いまし》められてこの屋敷に居ること、さぞ其方には不思議であろうな。……その理由明かしてとらせる! お館にての頻々たる盗難、……その盗人こそ八重であったからじゃ!」
「…………」
 主税は無言で頼母を見上げた。余り意外のことを云われたので、その言葉の意味が受け取れず、で、呆然としたのであった。
「代々の将軍家より当田安家に対し下し賜わった名器什宝を、盗み出した盗人こそ、そこに居る腰元八重なのじゃ!」
 驚かない主税をもどかしがるように、頼母は言葉に力を罩《こ》めて云った。
「…………」
 しかし、依然として主税は無言のまま、頼母の顔を見上げていた。
 と、静かに主税の顔へ、ヒヤリとするような凄い笑いが浮かんだ。
(この姦物め、何を云うか! そのような出鱈目を云うことによって、こっちの心を惑わすのであろう。フフン、その手に乗るものか)
 こう思ったからである。
「主税!」と頼母は吼えるように喚いた。しかし、今度は反対《あべこべ》に、訓すような諄々とした口調で云った。
「女猿廻しより得たと申して、今朝|其方《そち》隠語の紙片と独楽とを、わしの許まで持って参り、お館の中に女の内通者あって、女猿廻しと連絡をとり、隠語の紙を伝《つて》として、お館内の名器什宝を、盗み出すに相違ござりませぬ。隠語の文字女文字にござりますと、確かこのように申したのう。そこでわしはこの旨お館に申し、更に奥方様のお手を借り、大奥の腰元全部の手蹟を、残るところなく調べたのだ。するとどうじゃ、八重めの文字が、隠語の文字と同じではないか。そこで八重めを窮命したところ、盗人に相違ござりませぬと、素直に白状いたしおったわ」
「嘘だ!」と悲痛の主税の声が、腹の底から絞るように出た。
「八重が、八重殿が、盗人などと! 嘘だ! 信じぬ! 嘘だ嘘だ!」
 しかし見る見る主税の顔から、血の気が消えて鉛色となった。
(もしや!)という疑惑からのことであろう。
 そうして彼の眼――主税の眼は、頼母から離れて隣の部屋の、お八重の方へ移って行った。
「あッはッはッ、そう思うであろう。……恋女の八重が館の盗人! これは信じたくはあるまいよ。……が、事実は事実なのでのう、信じまいとしても駄目なのじゃ。……念のため八重自身の口から、盗人の事実を語らせてやろう」
 勘兵衛の方へ顔を向けると、
「その猿轡はずしてやれ」と頼母は冷然とした声で云った。
 つと勘兵衛の手が伸びた時には、お八重の口は自由になっていた。
「八重殿!」と、それを見るや山岸主税は、ジリジリ[#「ジリジリ」は底本では「ヂリヂリ」]とそっちへ膝を進め、
「よもや、八重殿! 八重殿が※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「山岸様!」とお八重は叫んだ。倒れていた体を起き返らせ、主税の方へ胸を差し出し、髪のふりかかった蒼白の顔を、苦痛に歪めて主税の方へ向け、歯ぎしるような声でお八重は叫んだ。
「深い事情はござりまするが、お館の数々の器類を、盗み出しましたはこの妾《わたくし》、この八重めにござります!」
 その次の瞬間には彼女の体は、前のめりに倒れていた。そこから烈しい泣き声が起こった。畳へ食いついて泣き出したのである。
 主税の全身に顫えが起こった。そうして彼の体も前のめりに倒れた。背の肉が波のように蜒っている。恋人八重が盗人とは! これが彼を男泣きに泣かせたのらしい。
 そういう二人を左見右見《とみこうみ》しながら、頼母は酸味ある微笑をしたが、やがて提げていた刀の鐺《こじり》で主税の肩をコツコツと突き、
「八重が盗人であるということ、これで其方《そち》にも解《わか》ったであろうな。……八重めはお館の命により、明朝打ち首に致すはずじゃ。……が、主税、よく聞くがよい、其方の持っておる淀屋の独楽を、わしの手へ渡すということであれば、八重の命はわしが助けてやる。そうして此処から逃がしてやる。勿論、その後は二人して夫婦になろうとそれは自由じゃ」
 ここで頼母は言葉を切り、また二人をじろり見て、
「それともあくまで強情を張って、淀屋の独楽を渡さぬとなら、この場において其方《そのほう》を殺し、明朝八重を打ち首にする。……主税、強情は張らぬがよいぞ。独楽の在り場所を云うがよい」

   極重悪木の由来

 この頃|戸外《そと》の往来を、植木師の一隊が通っていた。そうして老人と美少年と、女猿廻しのお葉とが、その後を尾行《つけ》て歩いていた。
 と、静かに三人は足を止めた。
 行手に大名屋敷の土塀が見え、裏門らしい大門が見え、その前へ植木師の一隊が、植木を積んだ車を囲み、月光の中に黒く固まり、動かずに佇んだからであった。
 大名屋敷は田安家であった。
 と、白い髪を肩の辺りで揺るがせ、白い髯を胸の辺りで顫わせ、深い感情を抑え切れないような声で「飛加藤《とびかとう》の亜流」という老人は云った。
「数日前に『極重悪木』を、彼ら田安家へ植え込んで、腰元を数人殺したそうだが、今夜も田安家へ植え込もうとしておる。……彼、東海林自得斎《しょうじじとくさい》め、よくよく田安家に怨みがあると見える!」
「お爺さん」とお葉は恐ろしそうに訊いた。
「極重悪木と仰有《おっしゃ》るのは? 東海林自得斎と仰有るのは?」
「私《わし》たちの祖師様とはいつの場合でも、反対の立場に立っている、世にも恐ろしい恐ろしい男、それが東海林自得斎なのだよ。その男も私達の祖師様のように、三十年もの間一本の木を、苦心惨憺して育てたのだよ。それが極重悪木なのだ。触った生物を殺す木なのだ。来る道々按摩を殺し、仲間を殺したその木なのだ。あそこにいる植木師たちの植木の中に、その木が一本雑っているのだよ」
「その東海林自得斎という男、何をしてどこに居りますの?」
「日本一大きな植木師として、秩父山中に住んでいるのだよ。幾個《いくつ》かの山、幾個かの谷、沢や平野を買い占めてのう。幾万本、いや幾十万本の木を、とりこ[#「とりこ」に傍点]にして置いて育てているのだよ。そうして大名衆や旗本衆や、大金持の人々から、大口の注文を承わっては、即座に数十本であろうと数百本であろうと、どのような珍木異木であろうと、注文通り納めているのだよ」
「そういう大きな植木師をしながら、人を殺す恐ろしい毒の木を、東海林自得斎は育てて居りますのね」
「いいや、今では数を殖やしているのさ。三十年もの間研究して極重悪木を作り上げたのだから、今ではその数を殖やしているのだよ。……憎いと思う人々の屋敷へ植え込んで、そこの人を根絶しにするためにな」
「その恐ろしい木が、極重悪木が、田安家へ植えこまれたと仰有るのね! 今夜も植えこまれると仰有るのね! まあ、こうしてはいられない! お八重様があぶない、お八重様のお命が!」
 お葉は夢中のように歩き出した。

 田安家の横手の土塀の前へ、女猿廻しのお葉が現われたのは、それから間もなくのことであった。
 土塀の上を蔽うようにして、植込の松や楓や桜が、林のように枝葉を繁らせ、その上に月がかかっていて、その光が枝葉の間を通して、お葉の体へ光の飛白《かすり》や、光の縞を織っている。そのお葉は背中に藤八《とうはち》と名付ける、可愛らしい小猿の眠ったのを背負い、顔を上向けて土塀の上を、思案しいしい眺めていた。
「飛加藤の亜流」という老人と別れて、一人此処へ来たお葉なのであった。でも何のために此処へ来て、何をしようとするのであろう。

   意外な邂合

「藤八よ」とお葉は云って、背中の小猿を揺り起こした。
「さあこれを持って木へ登って、木の枝へしっかり巻きつけておくれ」
 腰に挟んでいた一丈八尺の紐を、お葉は取って小猿へ渡した。と直ぐに小猿が土塀を駆け上り、植込の松の木へ飛び付いた姿が、黒く軽快に月光に見えた。でも直ぐに小猿は飛び返って来た。紐が松の枝から土塀を越して、お葉の手にまで延びている。間もなくその紐を手頼りにし、藤八猿を肩にしたまま、塀を乗り越えるお葉の姿が、これも軽快に月光に見えた。
 紐を手繰《たぐ》って腰へ挿み、藤八猿を肩にしたまま、お葉は田安家の土塀の内側の、植込の根元に身をかがめ、じっと四辺《あたり》を見廻した。それにしてもお葉は何と思って、田安家のお庭へなど潜入したのであろう? 自分の加担者の腰元お八重へ、極重悪木という恐ろしい木の、植え込まれたことを告げ知らせ、その木へ決して触わらぬようにと、注意をしたいためからであった。
(お八重様の居り場所どこかしら?)
 お葉は眼を四方へ配った。
 三卿の筆頭であるところの、田安中納言家のお屋敷であった。客殿、本殿、脇本殿、離亭《はなれ》、厩舎、望楼《ものみ》台、そういう建物が厳しく、あるいは高くあるいは低く、木立の上に聳え木立の中に沈み、月光に光ったり陰影《かげ》に暗まされたりして、宏大な地域を占領している。
(奥方様付きのお腰元ゆえ、大奥にお在《い》でとは思うけれど、その大奥がどこにあるやら?)
 といっていつ迄も植込の中などに、身を隠していることも出来なかったので、
(建物の方へ忍んで行ってみよう)
 で、彼女は植込を出て、本殿らしい建物の方へ、物の陰を辿って歩いて行った。
 この構内の一画に、泉水や築山や石橋などで、形成《かたちづく》られている庭園があったが、その庭園の石橋の袂へ、忽然と一人の女が現われたのは、それから間もなくのことであった。女は? 浪速《なにわ》あやめ[#「あやめ」に傍点]であった。鼠小紋の小袖に小柳襦子の帯、お高祖頭巾をかむったあやめ[#「あやめ」に傍点]であった。
 それにしてもあやめ[#「あやめ」に傍点]はほんの先刻《さっき》まで、女猿廻しお葉として、老人主従と連れ立ってい、そうしてつい[#「つい」に傍点]今しがた同じ姿で、土塀を乗り越えてこの構内へ、潜入をしたはずだのに、今見れば町家の女房風の、浪速あやめ[#「あやめ」に傍点]としてここにいるとは?
 短かい短かい時間の間に、あるいは女猿廻しお葉となり、あるいは曲独楽使いのあやめ[#「あやめ」に傍点]となる! この女の本性は何なのであろう?
 正体不可解の浪速あやめ[#「あやめ」に傍点]は、石橋の袂[#「袂」は底本では「袖」]に佇みながら、頭巾と肩とをわけても鮮かに、月の光に曝しながら、正面に見えている建物の方を、まじろぎもせず眺めていたが、やがてその方へ歩き出した。
 と、築山の裾を巡った。
 とたんに彼女は「あッ」と叫んで、居縮んだように佇んだ。同時に彼女の正面からも、同じような「あッ」という声が聞こえた。見ればそこにも女がいて、あやめ[#「あやめ」に傍点]の顔を見詰めながら、居縮んだように立っている。それは女猿廻しのお葉であった。
 おお、では二人のこの女は、別々の女であるのだろうか! そうとしか思われない。
 それにしても何と二人の女は、その顔立から肉付から、年恰好から同一《おんなじ》なのであろう! そうして何とこの二人は、経歴から目的から同一なのであろう! 二人の女の関係はどうなのであろう?
 お茶の水で主税を助けたあやめ[#「あやめ」に傍点]は、辻駕籠を雇って主税を乗せて彼の屋敷へまで送ってやった。
 でも彼女は心配だったので、見え隠れに駕籠の後をつけて、彼の屋敷の前まで来た。と五人の覆面武士が現われ、主税を手籠めにして担いで逃げた。
(一大事!)と彼女は思い、その一団の後を追った。が、この構内へ入り込んだ時には、その一団はどこへ行ったものか、姿がみえなくなっていた。
(どうあろうと主税様をお助けしなければ)
 そこで、あやめ[#「あやめ」に傍点]は主税を探しにかかった。
 その結果がこうなったのである。

   双生児の姉妹

「まあお前は妹!」
「お姉様《あねえさま》か!」
 あやめ[#「あやめ」に傍点]とそうしてお葉の口から、こういう声のほとばしったのは、それから間もなくのことであり、その次の瞬間には二人の女は、抱き合ったままで地に坐っていた。
 お高祖頭巾をかむった町女房風のあやめ[#「あやめ」に傍点]と、猿廻し姿のお葉とが、搦み合うようにして抱き合って、頬と頬とをピッタリ付けて、烈しい感情の昂奮から、忍び泣きの音を洩らしている姿は、美しくもあれば妖しくもあった。
 築山の裾に茂っているのは、満開の花をつけた連翹《れんぎょう》の叢《くさむら》で、黄色いその花は月光に化かされ、卯の花のように白く見えていたが、それが二人の女を蔽うように、背後《うしろ》の方から冠さっていた。
「お葉や! おおおおその姿は! ……猿廻しのその姿は! ……別れてから経った日数は十年! ……その間中わたしは雨につけ風につけ、一日としてお前のことを、思い出さなかったことはなかったのに! ……高麗郡《こまごおり》の高麗家と並び称され、関東での旧家と尊ばれている、荏原《えばら》郡の荏原屋敷の娘が、猿廻しにおちぶれたとは! ……話しておくれ、その後のことを! 話しておくれ、お前の身の上を!」
 妹お葉の背へ両手を廻し、それで抱きしめ抱きしめながら、喘ぐようにあやめ[#「あやめ」に傍点]は云うのであった。
「お姉様、あやめ[#「あやめ」に傍点]お姉様!」と、姉の胸の上へ顔を埋め、しゃくりあげながらお葉は云った。
「十年前に……お姉様が……不意に家出をなされてからというもの……わたしは、毎日、まアどんなに、お帰りなさる日をお待ちしたことか! ……いつまでお待ちしてもお帰りにならない。……そのうちだんだんわたしにしましても、お家にいることが苦痛になり……それでとうとう同じ年の、十二月の雪の日に、お姉様と同じように家出をし……」
「おお、まアそれではお前も家出を……」
「それからの憂艱難と申しましたら……世間知らずの身の上が祟って……誘拐《かどわか》されたり売られたり……そのあげくがこんな身分に……」
「お葉や、わたしも、そうだった。今のわたしの身分といったら、曲独楽使いの太夫なのだよ! ……荏原屋敷の娘、双生児《ふたご》のお嬢様と、自分から云ってはなんだけれど、可愛らしいのと幸福なのとで、人に羨まれたわたしたち二人が、揃いも揃って街の芸人に!」
 泉水で鯉が跳ねたのであろう、鞭で打ったような水音がした。
 高く抽《ぬきんで》て白蓮の花が、――夜だから花弁をふくよかに閉じて、宝珠かのように咲いていたが、そこから甘い惑わすような匂いが、双生児の姉妹《きょうだい》の悲しい思いを、慰めるように香って来ていた。
「お葉や」とやがてあやめ[#「あやめ」に傍点]は云った。
「わたし決心をしたのだよ。一生の大事を遂げようとねえ」
「お姉様」とお葉も云った。
「わたしも、わたしも、そうなのです! 一生の大事を遂げようと、決心したのでございます!」
「わたし、主馬之進《しゅめのしん》を殺す意《つもり》なのだよ! お父様を殺し、お母様を誑《たぶらか》し、荏原屋敷を乗っ取って、わたしたち二人を家出させた、極悪人の主馬之進をねえ」
「お姉様」とお葉は云って、ヒタとあやめ[#「あやめ」に傍点]の顔を見詰め、
「わたしは、主馬之進をそそのかして、そういう悪事を行なわせた、主馬之進の兄にあたる、田安家の奥家老、松浦頼母《まつうらたのも》を殺そうと、心掛けておるのでございます!」
「え※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は仰天したように、
「お葉や、一体、それは一体! ……」
「おお、お姉様お姉様、あなたはご存知ないのです。……お姉様よりも六七ヶ月後に、家出をいたしたこのお葉ばかりが、知っていることなのでございます。……その六七ヶ月の間中、わたしは主馬之進という人間の素性を、懸命に探ったのでございます。その間幾度となく立派な武士《さむらい》が、微行して屋敷へ参りまして、主馬之進と密談いたしましたり、主馬之進と一緒に屋敷内を、そここことなく探したりしました。探った結果その武士こそ、主馬之進の実の兄の、田安家の奥家老、松浦頼母だと知りました」
「知らなかった、わたしは! まるで知らなかった! ……でもどうしてそんな立派な、田安中納言様の奥家老が、実の弟を荏原屋敷へ入れたり、自身微行して訪ねて行ったり?」
「慾からですお姉様、慾からです! ……それも大きな慾から! ……」

   荏原屋敷の秘密

 どこから話したらよかろうかと、思案するかのようにお葉は黙って、あやめ[#「あやめ」に傍点]の顔を見守った。
 姉妹《きょうだい》二人が抱き合った時、お葉の肩から飛び下りた小猿は――藤八猿は築山の頂きに、赤いちゃんちゃんこ[#「ちゃんちゃんこ」に傍点]を着て置物のように坐り、姉妹の姿を見下ろしている。
「高麗郡の高麗家と同じように、荏原郡の荏原屋敷が、天智天皇様のご治世に、高麗の国から移住して来た人々の、その首領《おかしら》を先祖にして、今日まで連綿と続いて来た、そういう屋敷だということは、お姉様《あねえさま》もご存知でございますわねえ」とやがてお葉はしんみり[#「しんみり」に傍点]と、囁くような声で語り出した。
「その移住して来た人々が、高麗の国から持って来た宝を、荏原屋敷で保管して、代々伝えたということも、お姉様にはご存知ですわねえ。……でも、その宝物は長い年月の間に、持ち出されて使い果たされ、尋常の人間の智慧ぐらいでは、絶対に発見することの出来ない、宝物の隠匿《かくし》場所ばかりが、今も荏原屋敷のどこかにあるという、そういうこともお姉様には、伝説として聞いて知っていますわねえ。……ところが……」と云って来てあやめ[#「あやめ」に傍点]の両手を、お葉はひし[#「ひし」に傍点]と握りしめ、一層声を落として云った。
「ところが今から百五十年前、元禄年間に大財産が、その隠匿所へこっそりと、仕舞い込まれたということですの」
「まあ」とあやめ[#「あやめ」に傍点]も唾を呑み、握られている手を握り返したが、
「どういう財産? どういう素性の?」
「浪速《なにわ》の豪商淀屋辰五郎が、闕所《けっしょ》になる前に家財の大半を、こっそり隠したということですが、その財産だということですの」
「まあ淀屋の? 淀辰のねえ」
「それをどうして知ったものか、松浦頼母が知りまして、美貌の弟の主馬之進《しゅめのしん》を進め、わたし達のご両親に接近させ、そのあげくにお父様を、あのような手段で非業に死なせ、お母様を誑《たぶら》かし、わたし達の家へ入婿になり……」
「おおなるほどそうなのかえ、そうして財産の隠匿場所を……」
「そうなのですそうなのです、時々やって来る頼母と一緒に、主馬之進めはその隠匿場所を……」
「発見《みつけだ》そうとしているのだねえ。……そう聞いてみれば松浦頼母めが、お父様の敵《かたき》の元兇なのだねえ。……ああそれでやっとわたしには解《わか》った。何でお前がこのような所へ、こんな田安様のお屋敷内へ、忍び込んで来たのかと不思議だったが、では頼母を殺そうとして……」
「いいえお姉様わたしはそれ前に、ここのお腰元のお八重様のお命を……それよりお姉様こそどうしてここへ?」
「ここのご家臣の山岸主税様の、お命をお助けいたそうとねえ……」
 こうして姉妹《きょうだい》は各自《めいめい》の目的を――この夜この屋敷内へ忍び込んだ、その目的を話し出したが、この頃主税とお八重とは、どんな有様であるのであろう?

   崩折れる美女

 主税《ちから》とお八重《やえ》とは依然として、松浦|頼母《たのも》の屋敷の部屋に、縄目の恥辱を受けながら、二人だけで向かい合っていた。
「独楽を渡して配下になるか、それとも拒んで殺されるか? 即答することも困難であろう。しばらく二人だけで考えるがよい」
 こう云って頼母が配下を引き連れ、主屋の方へ立ち去ったので、二人だけとなってしまったのである。
 一基の燭台には今にも消えそうに、蝋燭の火がともってい、その光の穂を巡りながら、小さい蛾が二つ飛んでいる。
 顔に乱れた髪をかけ、その顔色を蒼白にし、衣紋を崩した主税の体は、その燭台の背後《うしろ》にあった。そうして彼の空洞《うつろ》のような眼は、飛んでいる蛾に向けられていた。
(もともと偶然手に入った独楽だ。頼母にくれてやってもよい。莫大な金高であろうとも、淀屋の財産など欲しいとは思わぬ。……しかしこのように武士たる自分を、恥かしめ、虐み、威嚇した頼母の、配下などには断じてなれない。と云って独楽を渡した上、頼母の配下にならなければ、自分ばかりかお八重の命をさえ、頼母は取ると云っている。残忍酷薄の彼のことだ、取ると云ったら取るだろう。……命を取られてたまるものか?)
 無心に蛾の方へ眼を向けたまま、こう主税は思っていた。
 一つの蛾が朱筆の穂のような火先《ほさき》に、素早く嘗められて畳の上へ落ちた。死んだと見えて動かなかった。
(ではやっぱり頼母の意志に従い、淀屋の独楽を渡した上、彼の配下になる以外には、他に手段はないではないか)
 逆流する血の気を顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》の辺りへ感じた。しかし努力して冷静になった。
(そうだ独楽を渡した上、あなた様の配下になりますると、偽りの誓言を先ず立てて、ともかくも命を助かろう。その余のことはそれからで出来る)
 何よりも命を保たなければと、主税はそれを思うのであった。
(それにしてもお八重が盗人とは! お館の宝物の数々を盗んだ、その盗人がお八重だとは!)
 これを思うと彼は発狂しそうであった。
(恋人が盗人とは! それも尋常の盗人ではない、お館を破滅に導こうとする、獅子身中の虫のような盗人なのだ!)
 見るに忍びないというような眼付をして、主税は隣室の方へ眼をやった。
 そこにお八重が突っ伏していた。
 こっちの部屋から流れこんで行く燈光《ひかり》で、その部屋は茫《ぼっ》と明るかったが、その底に濃紫《こむらさき》の斑點《しみ》かのように、お八重は突っ伏して泣いていた。
 泣き声は聞こえてはこなかったが、畳の上へ両袖を重ね、その袖の上へ額を押しつけ、片頬を主税の方へわずかに見せ、その白いふっくり[#「ふっくり」に傍点]した艶かしい片頬を、かすかではあるが規則正しく、上下に揺すって動かしているので、しゃくりあげ[#「しゃくりあげ」に傍点]ていることが窺われた。
 それは可憐で痛々しくて、叱られて泣いている子供のような、あどけなさ[#「あどけなさ」に傍点]をさえ感じさせる姿であった。
(あの子が、お八重が、何で盗人であろう!)
 そういう姿を眼に入れるや、主税は猛然とそう思った。
(これは何かの間違いなのだ!)
「お八重殿」と嗄《しわが》れた声で、主税は嘆願でもするように云った。
「真実を……どうぞ、本当のことを……お話し下され、お話し下され! ……盗人などと……嘘でござろうのう」
 狂わしい心持で返事を待った。
 と、お八重は顔を上げた。
 宵闇の中へ夕顔の花が、不意に一輪だけ咲いたように、上げたお八重の顔は蒼白かった。
「山岸様!」と、その顔は云った。
「八重は死にます! ……殺して下さりませ! ……八重は盗人でござります! ……深い事情がありまして……あるお方に頼まれまして……お館の数々のお宝物を、盗んだに相違ござりませぬ。……貴郎《あなた》様のお手にかかりまして、もし死ねましたら八重は本望! ……悲しいは愛想を尽かされますこと! ……死にたい! 殺して下さりませ!」
 花が不意に散ったように、お八重の顔は沈んで袖の上へ消えた。
 泣き声が細い糸のように引かれた。
(そうか、やっぱり盗人なのか)
 主税は首を膝へ垂れた。
(深い事情があるといった。そうだろう! その事情は?)
 泣き声はなおも断続して聞こえた。
(事情によっては許されもするが……)
(あるお方に頼まれたという。何者だろう、頼んだものは?)
「ここを出たい!」と声に出して、主税は思わずそう叫んだ。
 縄を千切って、お八重を助け出して、ここを出たい! ここを出たい!
 無効《むだ》と知りながら又主税は、満身に力を籠めて体を揺すった。
 しかし、縄は切れようともしない。
 時がだんだん経って行く。
 廊下に向いて立てられてある襖が、向う側から開いたのは、それから間もなくのことであった。
(来たな、頼母め!)と主税は睨んだ。
 しかるに、部屋の中へ入って来たのは、赤いちゃんちゃんこ[#「ちゃんちゃんこ」に傍点]を着た小猿であった。
「猿!」と主税は思わず叫んだ。
 途端に、小猿は飛びかかって来た。
「こやつ!」
 しかし藤八猿は、主税の体にかかっている縄を、その鋭い歯で食い切り出した。
 どこからともなく口笛の音が、猿の所業を鼓舞するかのように、幽かに幽かに聞こえてきた。

   第二の独楽の文字

 この頃主屋の一室では、覚兵衛や勘兵衛を相手にして、松浦|頼母《たのも》が話していた。四辺《あたり》には杯盤が置き並べてあり、酒肴などがとり散らされていた。
「これに現われて来る文字というものが、まことにもって訳の解《わか》らないものでな、ざっとまアこんな具合なのだ」
 云い云い頼母は握っていた独楽を、畳の上で捻って廻した。幾台か立ててある燭台から、華やかな燈光《ひのひかり》が射し出ていて、この部屋は美しく明るかったが、その燈光《ひかり》に照らされながら、森々と廻っている独楽の面へ、白く文字が現われた。
「屋の財宝は」という五つの文字であった。
「屋の字の上へ淀という字を入れれば、淀屋の財宝はという意味になって、これはまアまア解るにしても、その後に出る文字が解らないのだ」
 頼母はまた手を延ばし独楽を捻った。烈しく廻る独楽の面へは、「代々」という二つの文字と「守護す」という三つの文字と「見る日は南うしろ北」という、九つの文字とが現われた。
「この意味はまったく解らないのう?」
 頼母の声は当惑していた。
「が、主税めの持っている独楽を奪い、それへ現われ出る文字と合わせたら、これらの文字の意味は解るものと思う。どっちみち淀屋の財宝についての、在場所を示したものに相違ないのだからのう」
「その主税めもうそろそろ、決心した頃かと存ぜられます」と飛田林覚兵衛《とんだばやしかくべえ》が追従笑いをしながら云った。
「誰もが命は惜しいもので。独楽は渡さぬ、配下にもならぬなどと、彼とてよもや申しますまい」
「そりゃアもう云うまでもないことで」とつづいて勘兵衛が合槌を打った。
「ましてや独楽を献上し、お殿様の配下になりさえすれば、お八重様という美しいお腰元と、夫婦になれるというのですからねえ。……が、そうなるとお殿様の方は?」と頼母の方へ厭な眼を向け、
「そうなりまするとお殿様の方は、お八重様をご断念なされるので?」
「またお喋舌《しゃべ》りか」と苦笑いをし、頼母はジロリ[#「ジロリ」は底本では「ヂロリ」]と勘兵衛を睨んだ。
「性懲りもなく又ベラベラと」
「これは、えへ、えッヘッヘッ」
 勘兵衛は亀のように首を縮めた。
 覆面をしていた五人の浪人も、今は頭巾を脱ぎすてて、遥か末座に居並んで、つつましく酒を飲んでいる。
(八重! くれるには惜しい女さ)
 ふと頼母はこう思った。
(が、独楽には換えられぬ。……それに主税というような、敵ながら立派な若い武士を、味方にすることが出来るのなら、女一人ぐらい何の惜しむものか)
 その主税が主謀者となり、鷲見与四郎《すみよしろう》といったような、血の気の多い正義派の武士たちが、どうやら一致団結して、以前から頼母の遣り口に対し――田安お館への施政に対し、反対しようとしていることを、頼母は薄々感付いていた。その主謀者の主税に恩を売り、八重を女房に持たせることによって、味方につけることが出来るのなら、こんな好都合なことはないと、そう頼母は思うのであった。
「誰か参って主税と八重の様子を、それとなく見て参れ」
 浪人たちの方へ頼母は云った。
 二人の浪人が立ち上り、襖《ふすま》をあけて部屋から出た。
「覚兵衛《かくべえ》も勘兵衛《かんべえ》も飲むがよい」
「は」
「頂戴」
「さあさあ飲め」
 賑かに盃が廻り出した。
 たちまち烈しい足音が、廊下の方から聞こえてきたが、出て行った二人の浪人の中、坂本というのが走り帰って来た。
「一大事! 一大事でござりまする……主税め縄を切り八重を助け……部屋を脱け出し庭の方へ! ……本庄殿は主税に斬られ! ……拙者も一太刀、左の肩を!」
 見ればなるほどその浪人の肩から、胸の方へ血が流れ出ていた。
「行け!」と頼母は吼えるように叫び、猛然として躍り上った。
「主税を捕らえろ! 八重を捕らえろ! ……手に余らば斬って捨ろ!」
 一同一斉に部屋を走り出た。

   独楽を奪われる

 八重を小脇に引っ抱え、血に濡れた刀をひっさげて、山岸主税《やまぎしちから》は庭へ出た。
 猿によって縛めの縄を切られ、勇躍してお八重へ走り寄り、その縛めの縄を解いた。すると、そこへ二人の武士が来た。やにわに一人を斬り伏せて、お八重を抱え廊下を走り、雨戸を蹴破り庭へ出た。
 そういう山岸主税であった。
 すぐに月光が二人を照らした。その月光の蒼白いなかに、二つの女の人影があったが、
「山岸様!」
「お八重様!」
 と、同時に叫んで走り寄って来た。
「あッ、そなたはあやめ[#「あやめ」に傍点]殿!」
「まあまああなたはお葉様か!」
 主税とお八重とは驚いて叫んだ。
「事情は後から……今は遁れて! ……こっちへこっちへ!」と叫びながら、あやめ[#「あやめ」に傍点]は門の方へ先頭に立って走った。
 後につづいて一同も走った。開けられてある門を出れば、田安家お屋敷の廓内であった。
 木立をくぐり建物を巡り、廓《くるわ》の外へ出ようものと、男女四人はひた[#「ひた」に傍点]走った。するとその時|背後《うしろ》から、追い迫って来る数人の足音が聞こえた。
(一人二人叩っ斬ってやろう)
 今まで苦しめられた鬱忿と、女たちを逃がしてやる手段としても、そうしなければなるまいと主税は咄嗟に決心した。
「拙者にかまわず三人には、早く土塀を乗り越えて、屋敷より外へお出でなされ。……拙者は彼奴《きゃつ》らを一人二人! ……」
 云いすてると主税は引っ返した。
「それでは妾《わたし》も!」と強気のあやめ[#「あやめ」に傍点]が、主税の後から後を追った。
「お葉や、お前はお八重様を連れて……」
「あい。……それでは。……お八重様!」
 二人の女は先へ走った。主税の正面から浪人の一人が、命知らずにも斬り込んで来た。
「怨、晴らすぞ!」と主税は喚き、片膝折り敷くと思ったが、抜き持っていた刀を横へ払った。斬られた浪人は悲鳴と共に、手から刀を氷柱のように落とし、両手で右の脇腹を抑え、やがて仆れてノタウチ廻った。
 すると、その横をひた[#「ひた」に傍点]走って、あやめ[#「あやめ」に傍点]の方へ突き進む男があった。
「八重! 女郎《めろう》! 逃がしてたまるか!」
 あやめ[#「あやめ」に傍点]をお八重と間違えたらしく、こう叫んで大手を拡げたのは、太夫元の勘兵衛であった。
「汝《おのれ》は勘兵衛! 生きていたのか!」
 お高祖頭巾をかなぐり捨たあやめ[#「あやめ」に傍点]は、内懐中《うちぶところ》へ片手を差し入れたまま、さすがに驚いて声をかけた。
「わりゃアあやめ[#「あやめ」に傍点]!」と仰天し、勘兵衛も震えながら音をあげた。
「どうしてここへ※[#感嘆符疑問符、1-8-78] こんな夜中に!」――でもようやく元気を取り戻すと、
「生き返ったのよ、業が深いからのう。……あんな生温い締め方では……」
「そうか、それじゃアもう一度」
 あやめ[#「あやめ」に傍点]の手が素早く内懐中から抜かれて、高く頭上へ振りかぶられた。瞬間「わーッ」と勘兵衛は叫び、両手で咽喉を掻きむしった。
「これでもか! これでもか! これでもか」
 ピンと延びている紐を手繰《たぐ》り、勘兵衛を地上に引き摺り引き摺り、
「くたばれ! 殺す! 今度こそ殺す! ……お父様の敵《かたき》! 敵の片割れ!」
「山岸氏参るぞ――ッ」と、もう一人の浪人と、主税の横から迫ったのは、飛田林覚兵衛《とんだばやしかくべえ》であった。が、覚兵衛はお八重らしい女が、もう一人の女と遥か彼方を、木立をくぐって走って行くのを見るや、
「南部氏……主税は……貴殿へお任せ! ……拙者はお八重を!」と浪人へ叫び、二人の女を追っかけた。
 頼母は一旦は走り出たが、部屋へ置いて来た独楽のことが、気にかかってならなかった。
 それで屋敷へ取って返し、廊下を小走り部屋へ入った。
「あッ」
 頼母は立縮んだ。
 赤いちゃんちゃんこを着た一匹の小猿が、淀屋の独楽を両手に持ち、胸の辺りに支えて覗いているではないか。
 頼母はクラクラと眼が廻った。
「…………」
 無言で背後から躍りかかった。
 その頼母の袖の下をくぐり、藤八猿は独楽を握ったまま、素早く廊下へ飛び出した。
「はーッ」と不安の溜息を吐き、後を追って頼母も廊下へ出た。数間の先を猿は走っている。
「はーッ」
 頼母はよろめきながら追った。猿は庭へ飛び下りた。頼母も庭へ飛び下りたが、猿の姿は見えなかった。
 頼母はベタベタと地へ坐った。
「取られた! ……独楽を! ……淀屋の独楽を! ……猿に! ……はーッ……猿に! 猿に!」

   恋のわび住居

 それから一月の日が経った。桜も散り連翹《れんぎょう》も散り、四辺《あたり》は新緑の候となった。
 荏原郡《えばらごおり》馬込の里の、農家の離家《はなれ》に主税《ちから》とあやめ[#「あやめ」に傍点]とが、夫婦のようにして暮らしていた。
 表面《おもてむき》は夫婦と云ってはいるが、体は他人の間柄であった。
 三間ほどある部屋のその一つ、夕陽の射している西向きの部屋に、三味線を膝へ抱え上げ、あやめ[#「あやめ」に傍点]が一人で坐っていた。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]逢うことのまれまれなれば恋ぞかし
いつも逢うては何の恋ぞも
[#ここで字下げ終わり]
 爪びきに合わせてあやめ[#「あやめ」に傍点]は唄い出した。隆達節《りゅうたつぶし》の流れを汲み、天保末年に流行した、新隆達の小唄なのである。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]の声には艶があった。よく慣らされている咽喉から出て、その声は細かい節となり、悩ましい初夏の午さがりを、いよいよ悩ましいものにした。
 少し汗ばんでいる額の辺りへ、ばらりとほつれた前髪をかけ、薄紫の半襟から脱いた[#「脱いた」はママ]、白蝋のような頸を前に傾げ、潤いを持たせた切長の眼を、半眼にうっとりと見ひらいて、あやめ[#「あやめ」に傍点]は唄っているのであった。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]やるせなや帆かけて通る船さえも
都鳥|番《つが》いは水脈《みお》にせかれたり
[#ここで字下げ終わり]
 不意にあやめ[#「あやめ」に傍点]は溜息をし、だるそうに三味線を膝の上へ置くと、襖ごしに隣室へ声をかけた。
「主税さま、何をしておいで?」
 そとから舞い込んで来たらしい、雌雄《めお》の黄蝶がもつれ合いながら、襖へ時々羽を触れては、幽かな音を立てていた。
「例によりまして例の如くで」
 主税の声が襖のむこうから、物憂そうに聞こえてきた。
「あやめ[#「あやめ」に傍点]殿にはご機嫌そうな、三味線を弾いて小唄をうとうて」
「そう覚しめして?」と眉と眉との間へ、縦皺を二筋深く引き、
「昼日中なんの機嫌がよくて、三味線なんか弾きましょう」
「…………」
 主税からの返事は聞こえてこなかった。
「ねえ主税様」と又あやめ[#「あやめ」に傍点]は云った。
「心に悶えがあったればこそ、座頭の沢市《さわいち》は三味線を弾いて、小唄をうたったじゃアありませんか」
 隣室からは返事がなく、幽かな空咳が聞こえてきた。
 不平そうにあやめ[#「あやめ」に傍点]は立ち上ったが、開けられてある障子の間から、縁側や裏庭が見え、卯の花が雪のように咲いている、垣根を越して麦や野菜の、広々とした青い畑が、数十町も展開《ひら》けて見えた。
(何だろう? 人だかりがしているよ)
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は縁側へ出て行って、畑の中の野道の上に、十数人の男女が集まっているのへ、不思議そうに視線を投げた。
 しかし距離が大分遠かったので、野道が白地の帯のように見え、人の姿が蟻のように見えるだけであった。
 そこであやめ[#「あやめ」に傍点]は眼を移し、はるかあなたの野の涯に、起伏している小山や谷を背に、林のような木立に囲まれ、宏大な屋敷の立っているのを見た。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]にとっては実家であり、不思議と怪奇と神秘と伝説とで、有名な荏原屋敷であった。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]はしばらくその荏原屋敷を、憧憬《あこがれ》と憎悪《にくしみ》とのいりまじった眼で、まじろぎもせず眺めていたが、野道の上の人だかりが、にわかに動揺を起こしたので、慌ててその方へ眼をやった。

   怪老人の魔法

 野道の上に立っているのは、例の「飛加藤《とびかとう》の亜流」と呼ばれた、白髪自髯の老人と、昼も点っている龕燈を持った珠玉のように美しい少年とであり、百姓、子守娘、旅人、行商人、托鉢僧などがその二人を、面白そうに囲繞《とりま》いていた。
 不思議な事件が行なわれていた。
 美少年が手にした龕燈の光を、地面の一所へ投げかけていた。夕陽が強く照っている地面へ、龕燈の光など投げかけたところで、光の度に相違などないはずなのであるが、でもいくらかは違っていて、やはりそこだけが琥珀色の、微妙な色を呈していた。
 と、その光の圏内へ、棒が一本突き出された。飛加藤の亜流という老人が、自然木の杖を突き出したのである。円味を帯びたその杖の先が、地面の一所を軽く突いて、一つの小さい穴をあけると、その穴の中から薄緑色の芽が、筆の穂先のように現われ出で、見る見るうちにそれが延びて、やがて可愛らしい双葉となった。
「これは変だ」「どうしたというのだ」「こう早く草が延びるとは妙だ」と、たかって[#「たかって」に傍点]いた人々は、恐ろしさのあまり飛退いた。双葉はぐんぐんと生長を続け、蔓が生え、それが延び、蔓の左右から葉が生い出でた。二尺、三尺、一間、三間!
 蔓は三間も延びたのである。
 と、忽然蔓の頂上《てっぺん》へ、笠ほどの大きさの花が咲いた。
「わッ」
 人々は声をあげ、驚きと賞讃と不気味さをもって、夕顔のような白い花を、まぶしそうにふり仰いで眺めた。
「アッハッハッ、幻じゃ! 実在《ほんもの》ではない仮の象《すがた》じゃ!」
 夕顔の花から二間ほど離れ、夕顔の花を仰ぎ見ながら、杖に寄っていた飛加藤の亜流は、払子のような白髯を顫わせながら、皮肉に愉快そうにそう云った。
「何で夕顔がこのように早く、このように大きく育つことがあろう! みんなケレンじゃ、みんな詭計じゃ! わしは不正直が嫌いだから、ほんとうのことを云っておく、みんなこいつはケレンじゃと。……ただし、印度の婆羅門僧は、こういうことをケレンでなく、実行するということだが、わしは一度も見たことがないから、真偽のほどは云い切れない。……しかしじゃ、皆さん、生きとし生けるものは、ことごとく愛情を基としていて、愛情あれば生長するし、愛情がなければ育たない。だからあるいはわしという人間が、特に愛情を強く持って『夕顔の花よお開き』と念じ、それだけの経営をやったなら、夕顔の花はその愛に感じ、多少は早く咲くかもしれない。……いやそれにしても現在《いま》の浮世、愛情の深い真面目の人間が、めっきり少くなったのう。……そこでわしは昼も龕燈をともして、真面目の人間よどこかにいてくれと、歩きまわって探しているのさ。……ここにお立ち合いの皆様方は、みんな真面目のお方らしい。そこでわしはわしの信ずる、人間の道をお話しして……いや待てよ、一人だけ、邪悪《よこしま》の人間がいるようだ。死にかわり生きかわり執念深く、人に禍いをする悪人がいる。――こういう悪人へ道を説いても駄目だ。説かれた道を悪用して、一層人間に禍いする! こういう悪人へ制裁を加え、懲すのがわしの務めなのじゃ……」
 突然高く自然木の杖が、夕顔の花と向かい合い、夕焼の空へかざされた。そうしてその杖が横へ流れた途端、夕顔の蔓の一所が折れ、夕顔の花が人間の顔のように、グッタリと垂れて宙に下った。
 同時に獣の悲鳴のような声が、たかっている人達の間から起こり、すぐに乾いている野道から、パッと塵埃《ほこり》が立ち上った。
 見れば一人の人間が、首根ッ子を両手で抑え、野道の上を、塵埃の中を、転げ廻りノタウッている。
 意外にもそれは勘兵衛であった。二度までも浪速あやめ[#「あやめ」に傍点]によって、締め殺されたはずの勘兵衛であった。

   怨める美女

 その距離が遠かったので、縁に立って見ているあやめ[#「あやめ」に傍点]の眼には、こういう異変《かわ》った出来事も、人だかりが散ったり寄ったりしていると、そんなようにしか見えなかった。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は座敷へ引き返し、間《あい》の襖《ふすま》の前に立ち、そっとその襖を引き開けた。
 山岸主税《やまぎしちから》がこっちへ背を向け、首を垂れて襟足を見せ、端然として坐ってい、その彼の膝のすこし向うの、少し古びた畳の上で、淀屋の独楽が静かに廻っていた。また何か文字でも現われまいかと、今日も熱心に淀屋の独楽を、彼は廻しているのであった。
「あッ!」と主税は思わず叫んだ。
「何をなさる、これは乱暴!」
 でももうその時には主税の体は、背後《うしろ》からあやめの手によって、横倒しに倒されていた。
「悪|巫山戯《ふざけ》もいい加減になされ。人が見ましたら笑うでござろう」
 主税は寝たままで顔を上げて見た。すぐ眼の上にあるものといえば、衣裳を通して窺われる、ふっくりとしたあやめ[#「あやめ」に傍点]の胸と、紫の艶めかしい半襟と、それを抜いて延びている滑らかな咽喉と、俯向けている顔とであった。
 その顔の何と異様なことは! 眼には涙が溜まり唇は震え、頬の色は蒼褪め果て、まるで全体が怨みと悲しみとで、塗り潰されているようであった。そうしてその顔は主税の眼に近く、五寸と離れずに寄って来ていたので、普通より倍ほどの大きさに見えた。
「情無しのお方! 情知らずのお方!」
 椿の花のような唇が開いて、雌蕊のような前歯が現われたかと思うと、咽ぶような訴えるような、あやめ[#「あやめ」に傍点]の声がそう云った。
「松浦|頼母《たのも》の屋敷を遁れ、ここに共住みいたしてからも、時たま話す話といえば、お八重様とやらいうお腰元衆の噂、そうでなければ淀屋の独楽を、日がな一日お廻しなされて、文字が出るの出ないのと……お側《そば》に居る妾などへは眼もくれず、……ご一緒にこそ住んで居れ、夫婦でもなければ恋人でも……それにいたしても妾の心は、貴郎《あなた》さまにはご存知のはず……一度ぐらいは可愛そうなと。……お思いなすって下さいましても……」
 高い長い鼻筋の横を、涙の紐が伝わった。
「ねえ主税さま」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は云って、介《かか》えている手へ力を入れた。
「こう貴郎さまの身近くに寄って、貴郎さまを見下ろすのは、これで二度目でございますわねえ。一度はお茶ノ水の夜の林で、覚兵衛たちに襲われて、貴郎さまがお怪我をなさいました時。……あの時妾は心のたけ[#「たけ」に傍点]を、はじめてお打ち明けいたしましたわねえ……そうして今日は心の怨みを! ……でも、この次には、三度目には? ……いえいえ三度目こそは妾の方が、貴郎さまに介抱されて……それこそ本望! 女の本望! ……」
 涙が主税の顔へ落ちた。しかし主税は眼を閉じていた。
(無理はない)と彼は思った。
(たとえば蛇の生殺しのような、そんな境遇に置いているのだからなあ)
 一月前のことである、松浦頼母の屋敷の乱闘で、云いかわしたお八重とは別れ別れとなった。あやめ[#「あやめ」に傍点]の妹だという女猿廻しの、お葉という娘とも別れ別れとなった。殺されたか捕らえられたか、それともうまく遁れることが出来て、どこかに安全に住んでいるか? それさえいまだに不明であった。

   三下悪党

 主税《ちから》とあやめ[#「あやめ」に傍点]ばかりは幸福《しあわせ》にも、二人連れ立って遁れることが出来た。
 しかし主税は田安家お長屋へ、帰って行くことは出来なかった。いずれ頼母《たのも》があの夜の中に、田安中納言様へ自分のことを、お八重《やえ》を奪って逃げた不所存者、お館を騒がした狼藉者として、讒誣《ざんぶ》中傷したことであろう。そんなところへうかうか帰って行って、頼母の奸悪を申し立てたところで、信じられようはずはない。切腹かそれとも打ち首にされよう。これは分かりきった話であった。
 そこで主税は自然の成り行きとして、浪人の身の上になってしまった。そうしてこれも自然の成り行きとして、あやめ[#「あやめ」に傍点]と一緒に住むようになった。
「おりを見て荏原《えばら》屋敷へ忍び入り、お実父《とう》様の敵《かたき》を討たなければ……」
 あやめ[#「あやめ」に傍点]としてはこういう心持から、又、一方主税としては、「淀屋の財宝と荏原屋敷とは、深い関係があるらしいから、探ってみよう」という心持から、二人合意で荏原屋敷の見える、ここの農家の離家《はなれ》を借りて、夫婦のように住居《すまい》して来たのであった。
 しかるに二人して住んでいる間も、主税に絶えず思い出されることは、云いかわした恋人お八重のことで、従って自ずとそれが口へ出た。そうでない時には淀屋の独楽を廻し、これまでに現われ出た文字以外の文字が、なお現われはしまいかと調べることであった。
 しかしもちろん主税としては、あやめ[#「あやめ」に傍点]の寄せてくれる思慕の情を、解していないことはなく、のみならずあやめ[#「あやめ」に傍点]は自分の生命《いのち》を、二度までも救ってくれた恩人であった!
(あやめ[#「あやめ」に傍点]の心に従わなければ……)
 このように思うことさえあった。
 しかし恋人お八重の生死が、凶とも吉とも解《わか》らない先に、他の女と契りを交わすことは、彼の心が許さなかった。そこでこれまではあやめ[#「あやめ」に傍点]に対して、故意《わざ》と冷淡に振舞って来た。
 が、今になってそのあやめ[#「あやめ」に傍点]から、このように激しく訴えられては、主税としては無理なく思われ、心が動かないではいられなかった。
 堅く眼を閉じてはいたけれど、あやめ[#「あやめ」に傍点]の泣いていることが感じられる。
(決して嫌いな女ではない)
 なかば恍惚となった心の中で、ふと主税はそう思った。
(綺麗で、情熱的で、覇気があって、家格も血統も立派なあやめ[#「あやめ」に傍点]! 好きな女だ好きな女だ! ……云いかわしたお八重という女さえなければ……)
 恋人ともなり夫婦ともなり、末長く暮らして行ける女だと思った。
(しかもこのように俺を愛して!)
 カッと[#「カッと」は底本では「カツと」]胸の奥の燃えるのを感じ、全身がにわかに汗ばむのを覚えた。
(いっそあやめ[#「あやめ」に傍点]と一緒になろうか)
 悲しみを含んだ甘い感情が、主税の心をひたひたと浸した。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は涙の眼を見張って、主税の顔を見詰めている。
 涙の面紗《ヴェール》を通して見えているものは、畳の上の主税の顔であった。男らしい端麗な顔であった。わけても誘惑的に見えているものは、潤いを持ったふくよかな口であった。
 いつか夕陽が消えてしまって、野は黄昏《たそがれ》に入りかけていた。少し開いている障子の隙から、その黄昏の微光が、部屋の中へ入り込んで来て、部屋は雀色に仄めいて見え、その中にいる若い男女を、悩ましい艶かしい塑像のように見せた。
 横倒しになっている主税の足許に、その縁を白く微光《ひか》らせながら、淀屋の独楽が転がっている。
 と、その独楽を睨みながら、障子の外の縁側の方へ、生垣の裾から這い寄って来る、蟇《ひき》のような男があった。三下悪党の勘兵衛であった。

   二つ目の独楽を持って

 田安屋敷の乱闘の際に、あやめ[#「あやめ」に傍点]によって独楽の紐で、首を締められ一旦は死んだが、再び業強く生き返り、勘兵衛はその翌日からピンシャンしていた。
 そうして今日は頼母のお供をし、頼母の弟の主馬之進《しゅめのしん》の家へ、――向こうに見える荏原屋敷へ来た。その途中で見かけたのが、野道での人だかりであった。そこで自分だけ引返して来て、群集に雑って魔法を見ていた。と、老人の小太い杖で、首根っ子をしたたか撲られた。息の止まりそうなその痛さ! 無我夢中で逃げて来ると、百姓家が立っていた。水でも貰おうと入り込んでみると、意外にも主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とが、艶な模様を描いているではないか。
 淀屋の独楽さえ置いてある。
(凄いような獲物だ)と勘兵衛は思った。
(独楽を引っ攫って荏原屋敷へ駆けつけ、頼母様へ献上してやろう)
 勘兵衛はこう心を定《き》めると、ソロリソロリと縁側の方へ、身をしずかに這い寄せて行った。
 まだ痛む首根っ子を片手で抑え、別の片手を縁のふち[#「ふち」に傍点]へかけ、開いている障子の隙間から、部屋の中を窺っている勘兵衛の姿は、迫って来る宵闇の微光《うすびかり》の中で、まこと大きな蟇のように見えた。
 頼母の屋敷で奪い取った、二つ目[#「二つ目」は底本では「二つの目」]の淀屋の独楽を、玩具《おもちゃ》のように両手に持った、藤八猿を背中に背負い、猿廻しのお葉がこの百姓家の方へ、野道を伝わって歩いて来たのも、ちょうどこの頃のことであった。
 離家《はなれや》の門口まで来た。
(この家じゃアないかしら?)と思案しながら佇んだ。
 藤八猿の着ている赤いちゃんちゃんこ[#「ちゃんちゃんこ」に傍点]と、お葉の冠っている白手拭とが、もう蚊柱の立ち初めている門の、宵闇の中で際立って見えた。
(案内を乞うて見ようかしら?)
 思い惑いながら佇んでいる。
 田安屋敷の乱闘のおり、幸いお葉も遁れることが出来た。でも姉のあやめ[#「あやめ」に傍点]とも、腰元のお八重とも、姉の恋人だという山岸主税とも、一緒になれずに一人ぼっちとなった。
(姉さんが恋しい、姉さんと逢いたい。主税様の行方が解ったら、姉さんの行方も解るかも知れない)
 ふとお葉はこう思って、今日の昼こっそり田安家のお長屋、主税の屋敷の方へ行ってみた。すると幸いにも主税の親友の、鷲見《すみ》与四郎と逢うことが出来た。
「馬込のこうこういう百姓家の離家《はなれ》に、あやめ[#「あやめ」に傍点]という女と住んで居るよ」と、そう与四郎は教えてくれた。
 主税にとって鷲見与四郎は、親友でもあり同志でもあった。――頼母の勢力を覆えそうとする、その運動の同志だったので、与四郎へだけは自分の住居を、主税はそっと明かしていたのであった。
 聞かされたお葉は躍り上って、すぐに馬込の方へ足を向け、こうして今ここへやって来たのであった。
(この家らしい)とお葉は思った。
(考えていたって仕方がない。案内を乞おう、声をかけてみよう。……いいえそれより藤八を舞わして、座敷の中へ入れてみよう)
 お葉は肩から藤八猿を下ろした。
 藤八猿は二つ目の淀屋の独楽を、大切そうに手に持ったまま、地面へヒラリと飛び下りた。
 藤八猿はこの独楽を手に入れて以来、玩具のようにひどく気に入っていると見え、容易に手放そうとはしないのである。
「今日の最後の芸当だよ、器用に飛び込んで行って舞ってごらん」
 人間にでも云い聞かせるように云って、お葉は土間へ入って行った。

   蝋燭の燈の下で

「お猿廻しましょう」と声がかかり、赤いちゃんちゃんこ[#「ちゃんちゃんこ」に傍点]を着た藤八猿が、奥の部屋へ毬のように飛び込んで来たので主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とははっとした。
「まあ藤八だよ!」と叫んだのは、襟を掻き合わせたあやめ[#「あやめ」に傍点]であり、
「独楽を持っている、淀屋の独楽を!」と、つづいて叫んだのは主税であった。
 その前で藤八猿は独楽を持ったまま、綺麗に飜斗《とんぼ》を切って見せた。
「捕らえろ! 捕らえて淀屋の独楽を!」
 二人が藤八猿を追っかけると、猿は驚いて門口の方へ逃げた。それを追って門口まで走った……
 と、土間の宵闇の中に、女猿廻しが静かに立っていた。
「ま、やっぱりあやめ[#「あやめ」に傍点]お姉様!」
「お前は妹! まアお葉かえ!」

 この頃勘兵衛は野の道を、荏原屋敷の方へ走っていた。懐中《ふところ》をしっかり抑えている。主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とが猿を追って、土間の方へ走って行った隙を狙い、奪い取った第一の淀屋の独楽が、懐中の中にあるのであった。
(こいつを頼母様へ献上してみろ、俺、どんなに褒められるかしれねえ。……それにしてもあやめ[#「あやめ」に傍点]と主税とが、あんな所に住んでいようとは。……頼母様にお勧めして、今夜にも捕らえて処刑してやらなけりゃア。……)
 飛加藤の亜流という老人も、それにたかって[#「たかって」に傍点]いた人々も、とう[#「とう」に傍点]に散って誰もいない野の道を、小鬼のように走りながら、そんなことを思っているのであった。
 空には星がちらばってい、荏原屋敷を囲んでいる森が、遥かの行手に黒く見えていた。

 やがてこの夜も更けて真夜中となった。
 と、荏原屋敷の一所に、ポッツリ蝋燭の燈が点った。
 森と、土塀と、植込と、三重の囲いにかこわれて、大旗本の下屋敷かのように、荏原屋敷の建物が立っていた。歴史と伝説《いいつたえ》と罪悪《つみ》と栄誉《ほまれ》とで、長年蔽われていたこの屋敷には、主人夫婦や寄宿人《かかりうど》や、使僕《めしつかい》や小作人の家族たちが、三十人近くも住んでいるのであった。でも今は宏大なその屋敷も、星と月との光の下に、静かな眠りに入っていた。
 その屋敷の一所に、蝋燭の燈が点っているのであった。
 四方を木々に囲まれながら、一宇の亭《ちん》が立っていて、陶器《すえもの》で造った円形の卓が、その中央に置かれてあり、その上に、太巻の蝋燭が、赤黄色く燃えているのであった。そうしてその燈に照らされながら、三つの顔が明るく浮き出していた。松浦頼母と弟の主馬之進――すなわちこの屋敷の主人公と、その主馬之進の妻の松女《まつじょ》との顔で、その三人は榻《とう》に腰かけ、卓の上の蝋燭の燈の下で、渦のように廻っている淀屋の独楽を、睨むようにして見守っていた。……
 独楽は勘兵衛が今日の宵の口に、主税とあやめとの住居から奪い、頼母に献じたその独楽で、この独楽を頼母は手に入れるや、部屋で即座に廻してみた。幾十回となく廻してみた。と、独楽の蓋にあたる箇所へ、次々に文字が現われて来た。
「淀」「荏原屋敷」「に有りて」「飛加藤の亜流」等々という文字が現われて来た。……でももうそれ以上は現われなかった。ではどうしてこんな深夜に、庭の亭の卓の上などで、改めて独楽を廻すのだろう?
 それは荏原屋敷の伝説からであった。
 伝説によるとこれらの亭は、荏原屋敷の祖先の高麗人が、高麗から持って来たものであり、それをここへ据え付ける場合にも、特にその卓の面は絶対に水平[#「水平」に傍点]に、据えられたと云い伝えられていた。そういう意味からこの亭のことを、「水平の亭」と呼んで、遥かあなたに杉の木に囲まれた「閉扉《あけず》の館」などと共に、荏原屋敷の七不思議の中の、一つの不思議として数えられているのであった……

   まだ解けぬ謎

「絶対に水平のあの卓の上で、淀屋の独楽をお廻しになったら、別の文字が現われはしますまいか」
 ふと気がついたというように、深夜になって頼母へそう云ったのは、主馬之進の妻の松女であった。
「なるほど、それではやってみよう」
 でも卓の上で廻しても、独楽の面へ現われる文字は、あれの他には何もなかった。
「駄目だのう」と頼母は云って、落胆したように顔を上げた。
「あれ以上に文字は現われないのであろうよ。……この独楽に現われたあれらの文字と、以前にわしの持っていた独楽へ現われた文字、それを一緒にして綴ってみようではないか。何らかの意味をなすかもしれない」
「それがよろしゅうございましょう」
 こう云ったのは主馬之進であった。主馬之進は頼母の弟だけに、頼母にその容貌は酷似していたが、俳優などに見られるような、厭らしいまでの色気があって、婦人《おんな》の愛情を掻き立てるだけの、強い魅力を持っていた。
「この独楽へ現われた文字といえば『淀』『荏原屋敷』『有りて』『「飛加藤の亜流』という十五文字だし、以前《まえ》にわしの持っていた独楽へ現われた文字は、『屋の財宝は』『代々』『守護す』『見る日は南』の十五文字じゃ。……で、わしは先刻《さっき》からこの三十文字を、いろいろに考えて綴り合わせてみたが、こう綴るのが正しいらしい……ともかくも意味をなすよ『淀屋の財宝は代々荏原屋敷に有りて、飛加藤の亜流守護す』と、なるのだからの」
「飛加藤の亜流とは何でしょう?」
 主馬之進の妻の松女が訊いた。
 彼女はもう四十を過ごしていた。でも美貌は失われていなかった。大旗本以上の豪族であるところの、荏原屋敷の主婦としての貫禄、それも体に備わっていた。あやめ[#「あやめ」に傍点]やお葉の母親だけあって、品位なども人に立ち勝っていた。が、蝋燭の燈に照らされると、さすが小鼻の左右に深い陰影《かげ》などがつき、全体に窶れが窺われ、それに眼などもおちつか[#「おちつか」に傍点]ないで、なにか良心に咎められている。――そんなようなところが感じられた。
「飛加藤の亜流と申すのはな」と、頼母は松女を見い見い云った。
「白昼に龕燈をともしなどして、奇行をして世間を歩き廻っている、隠者のような老人とのことで。……勘兵衛めがそう云いましたよ。今日も夕方この近くの野道で、怪しい行ないをいたしましたとかで……」
「その飛加藤の亜流とかいう老人が、代々財宝を守護するなどと、文字の上に現われました以上は、その老人を捕らえませねば……」
「左様、捕らえて糺明するのが、万全の策には相違ござらぬが、その飛加藤の亜流という老人、どこにいるのやらどこへ現われるのやら、とんと我らにしれませぬのでな」
「それより……」と主馬之進が口を出した。
「『見る日は南』という訳のわらぬ文句が、隠語の中にありまするが、何のことでございましょうな?」
「それがさ、わしにも解《わか》らぬのだよ」と頼母は当惑したように云った。
「この文句だけが独立して――他の文句と飛び離れて記されてあるので、何ともわしにも意味が解らぬ。……だがしかしそれだけに、この文句の意味が解けた時に、淀屋の財宝の真の在場所が、解るようにも思われる……」
「三つ目の淀屋の独楽を目つけ出し、隠語を探り知りました時、この文句の意味も自ずから解けると、そんなように思われまするが」
「そうだよそうだよわしもそう思う。が、三つ目の淀屋の独楽が、果たしてどこにあるものやら、とんとわしには解らぬのでのう」
 三人はここで黙ってしまった。
 屋敷の構内に古池でもあって、そこに鷭《ばん》でも住んでいるのだろう、その啼声と羽搏きとが聞こえた。
 と、ふいにこの時|茂《しげみ》の陰から、「誰だ!」という誰何の声が聞こえた。
 三人はハッとして顔を見合わせた。と、すぐに悲鳴が聞こえ、つづいて物の仆れる音がした。三人は思わず立ち上った。
 するとこの亭を囲繞《とりま》いている木々の向こうから、この亭の人々を警護していた、飛田林覚兵衛と勘兵衛との声が、狼狽したらしく聞こえてきた。

   母娘は逢ったが

「曲者だ!」
「追え!」
「それ向こうへ逃げたぞ!」
「斬られたのは近藤氏じゃ」
 こんな声が聞こえてきた。そうして覚兵衛と勘兵衛とが、閉扉《あけず》の館の方角をさして、走って行く足音が聞こえてきた。
「行ってみよう」と頼母は云って、榻から立ち上って歩き出した。
「それでは私も」と主馬之進も云って兄に続いて亭を出た。
 亭には一人松女だけが残った。
 松女は寂しそうに卓へ倚り、両の肘を卓の上へのせ、その上へ顔をうずめるようにし、何やら物思いに耽っていた。燃え尽きかけている蝋燭の燈が、白い細い頸《うなじ》の辺りへ、琥珀色の光を投げているのが、妙にこの女を佗しく見せた。
 といつの間に現われたものか、その松女のすぐの背後《うしろ》に、妖怪《もののけ》のような女の姿が、朦朧として佇んでいた。
 猿廻し姿のお葉であった。じっと松女を見詰めている。その様子が何となく松女を狙い、襲おうとでもしているような様子で……
 と、不意にお葉の片手が上り、松女の肩を抑えたかと思うと、
「お母様!」と忍び音に云った。
 松女はひどく驚いたらしく、顔を上げると、
「誰だえ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」と訊いた。
「お母様、わたしでございます」
「お母様だって? このわたしを! まアまアまア失礼な! 見ればみすぼらしい猿廻しらしいが、夜ふけに無断にこんな所へ来て、わたしに向かってお母様などと! ……怪しいお人だ、人を呼ぼうか!」
「お母様、お久しぶりねえ」
「…………」
「お別れしたのは十年前の、雪の積もった日でございましたが、……お母様もお変わりなさいましたこと。……でも妾《わたし》は、このお葉は、もっと変わりましてございます。……苦労したからでございましょうよ。……産みのお母様がご覽になっても、それと知れない程ですものねえ。……妾はお葉でございます……」
「お葉※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
 それは譫言《うわごと》のような、魘されているような声であった。よろめきながら立ち上り、よろめきながら前へ進み、松女は近々と顔を寄せた。
「ほんに……お前は……おお……お葉だ! お葉だ!」
 グラグラと体が傾ぎ、前のめり[#「のめり」に傍点]にのめったかと思うと、もう親娘《おやこ》は抱き合っていた。しばらくは二人のすすり泣きの声が、しずかな夜の中に震えて聞こえた。
「不孝者! お葉! だいそれた[#「だいそれた」に傍点]不孝者! 親を捨て家出をして! ……」
 やがて松女の感情の籠った、途切れ途切れの声が響いた。
「でも……それでも……とうとうお葉や、よく帰って来ておくれだったねえ。……どこへもやらない、どこへもやらない! 家に置きます。妾《わたし》の手許へ!」
「お母様!」と、お葉は烈しく云った。
「あのお部屋へ参ろうではございませんか!」
「何をお云いだ、え、お葉や! あのお部屋へとは、お葉やお葉や!」
「あのお部屋へ参ろうではございませんか。……あのお部屋へお母様をお連れして、懺悔と浄罪とをさせようため、十年ぶりにこのお葉は、帰って来たのでございます!」
「お葉、それでは、それではお前は?」
「知っておりました、知っておりました! 知っておればこそこのお葉は、この罪悪の巣におられず、家出をしたのでございます!」
「そんな……お前……いえいえそれは!」
「悪人! 姦婦! 八ツ裂きにしてやろうか! ……いえいえいえ、やっぱりお母様だ! ……わたしを、わたしを、いとしがり可愛がり、花簪《はなかんざし》を買って下されたり、抱いて寝させて下さいました、産みのお母様でございます! ……でも、おおおお、そのお母様が、あの建物で、あのお部屋で……」
「いいえ妾は……いいえこの手で……」
「存じております、何のお母様が、何の悪行をなさいましたものか! ……ただお母様はみすみす[#「みすみす」に傍点]ズルズルと、引き込まれただけでございます。……ですから妾は申しております。懺悔なされて下さりませと……」
「行けない、妾は、あの部屋へは! ……あの時以来十年もの間、雨戸を閉め切り開けたことのない、あの建物のあのお部屋なのだよ。……堪忍しておくれ、妾には行けない!」

   恋と敵のあいだ

「おお、まアそれではあのお部屋は、十年間|閉扉《あけず》の間か! ……さすが悪漢毒婦にも、罪業《つみ》を恐れる善根が、心の片隅に残っていたそうな。……ではあのお部屋にはあのお方の、いまだに浮かばれない修羅の妄執が、黴と湿気と闇とに包まれ、残っておることでございましょうよ。なにより幸い、なにより幸い、さあそのお部屋へお入りなされて、懺悔なさりませ、懺悔なさりませ! そうしてそれから妾《わたし》と共々、復讐の手段を講じましょう。……」
「復讐? お葉や、復讐とは?」
「わたしにとりましては実のお父様、お母様にとりましては最初の良人《おっと》の、先代の荏原屋敷の主人を殺した、当代の主人の主馬之進《しゅめのしん》を!」
「ヒエーッ、それでは主馬之進を!」
「お父様を殺した主馬之進を殺し、お父様の怨みを晴らすのさ。……さあお母様参りましょう!」
 お葉は、松女《まつじょ》の腕を握り、亭から外へ引き出した。
 この頃亭から少し離れた、閉扉の館の側《そば》の木立の陰に、主税《ちから》とあやめ[#「あやめ」に傍点]とが身体《からだ》をよせながら、地に腹這い呼吸《いき》を呑んでいた。
 主税が片手に握っているものは、血のしたたる抜身であった。
 それにしてもどうして主税やあやめ[#「あやめ」に傍点]や、お葉までが荏原屋敷へ、この夜忍び込んで来たのであろう?
 自分たちの持っていた淀屋の独楽は何者かに奪われてしまったけれど、藤八猿から得た独楽によって、幾行かの隠語《かくしことば》を知ることが出来た。
 そこで主税はその隠語を、以前《まえ》から知っている隠語と合わせて、何かの意味を探ろうとした。隠語はこのように綴られた。……「淀屋の財宝は代々荏原屋敷にありて飛加藤の亜流[#「亜流」は底本では「悪流」]守護す。見る日は南」と。「見る日は南」という意味は解《わか》らなかったが、その他の意味はよく解った。飛加藤の亜流[#「亜流」は底本では「悪流」]という老人のことも、お葉のくわしい説明によって解った。そうしてどっちみち[#「どっちみち」に傍点]淀屋の財宝が、荏原屋敷のどこかにあるということが、ハッキリ主税に感じられた。そこで主税は荏原屋敷へ忍び込んで、財宝の在場所を探りたいと思った。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]はあやめ[#「あやめ」に傍点]で又思った。
(姉妹《きょうだい》二人が揃ったのだから、すぐにも荏原屋敷へ乗り込んで行って、主馬之進を殺して復讐したい。お父様の怨みを晴らしたい)
 双方の祈願《ねがい》が一緒になって、あやめ[#「あやめ」に傍点]とお葉と主税とは、この夜荏原屋敷へ忍び込んだのであった。
 さて三人忍び込んでみれば、天の助けというのでもあろうか、頼母がい、勘兵衛がいた。
(よし、それでは次々に、機をみて討って取ってやろう)
 木陰に隠れて機会《おり》を待った。
 と、構え内を警護していた、頼母の家来の覆面武士の一人に、見現わされて誰何された。主税はその覆面武士を、一刀の下に斬り仆した。と、大勢がこの方面へ走って来た。主税はあやめ[#「あやめ」に傍点]を引っ抱えて、木立の陰へ隠れたのであるが、どうしたのかお葉は一人離れて、亭の方へ忍んで行った。声をかけて止めようと思ったが、声をあげたら敵の者共に、隠れ場所を知られる不安があった。そこで二人は無言のまま見過ごし、ここに忍んでいるのであった。……
 二人の眼前にみえているものは、主税に斬り仆された覆面武士を囲んで、同僚の三人の覆面武士と、頼母と主馬之進と飛田林覚兵衛と、絞殺したはずの勘兵衛とが、佇んでいる姿であった。
 飛び出していって斬ってかかることは、二人にとっては何でもなかったが、敵は大勢であり味方は二人、返り討ちに遇う心配があった。機《おり》を見て別々に一人々々、討って取らなければならなかった。
 二人は呼吸《いき》を呑み潜んでいた。

   閉扉の館

「曲者を探せ!」という烈しい怒声が、頼母の口からほとばしったのは、それから間もなくのことであった。
 俄然武士たちは四方へ散った。そして二人の覆面武士が主税たちの方へ小走って来た。
「居たーッ」と一人の覆面武士が叫んだ。
 だがもうその次の瞬間には、躍り上った主税によって、斬り仆されてノタウッていた。
「汝《おのれ》!」ともう一人の覆面武士が、主税を目掛けて斬り込んで来た。
 そこを横からあやめ[#「あやめ」に傍点]が突いた。
 その武士の仆れるのを後に見捨て、
「主税様、こっちへ」と主税の手を引き、あやめ[#「あやめ」に傍点]は木立をくぐって走った。……
 案内を知っている自分の屋敷の、木立や茂や築山などの多い――障害物の多い構内であった。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は逃げるに苦心しなかった。木立をくぐり藪を巡り、建物の陰の方へあやめ[#「あやめ」に傍点]は走った。
 とうとう建物の裏側へ出た。二階づくりの古い建物は、杉の木立を周囲に持ち、月の光にも照らされず、黒い一塊のかたまり[#「かたまり」に傍点]のように、静まり返って立っていた。
 それは閉扉《あけず》の館であった。
 と、建物の一方の角から、数人の武士が現われた。
 飛田林覚兵衛と頼母と家来の、五人ばかりの一団で、こちらへ走って来るらしかった。
 すると、つづいて背後《うしろ》の方から、大勢の喚く声が聞こえてきた。
 主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とは振り返って見た。
 十数人の姿が見えた。
 主馬之進と勘兵衛と、覆面の武士と屋敷の使僕《こもの》たちが、こっちへ走って来る姿であった。二人は腹背に敵を受け、進退まったく谷《きわ》まった。
 一方には十年間開いたことのない、閉扉の館が城壁のように、高く険しく立っている。そしてその反対側は古沼であった。
 泥の深さ底が知れず、しかも蛇《くちなわ》や蛭の類が、取りつくすことの出来ないほどに、住んでいると云われている、荏原屋敷七不思議の、その一つに数えられている、その恐ろしい古沼であった。
 逃げようにも逃げられない。
 敵を迎えて戦ったなら、大勢に無勢殺されるであろう。
(どうしよう)
(ここで死ぬのか)
(おお、みすみす返り討ちに遇うのか)
 その時何たる不思議であろう!
 閉扉の館の裏の門の扉が、内側から自ずとひらいたではないか!
 二人は夢中に駆け込んだ。
 すると、扉が内側から、又自ずと閉ざされたではないか。
 屋内は真の闇であった。

   死ぬ運命の二人

 閉扉《あけず》の館の闇の部屋で、主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とが寄り添っている時、館の外側では頼母や主馬之進や覚兵衛や勘兵衛たちが集まって、ひそやかな声で話し合っていた。
「不思議だな、消えてしまった」
 抜いた刀をダラリと下げて、さも審しいというように、頼母はこう云って主馬之進を眺めた。主馬之進も抜き身をひっさげたまま、これも審しいというように、四方《あたり》を忙しく見廻したが、
「一方は閉扉の館、また一方は底なしの古沼、前と背後《うしろ》とからは我々や覚兵衛たちが、隙なく取り詰めて参りましたのに、主税もあやめ[#「あやめ」に傍点]も消えてなくなったように、姿をくらましてしまいましたとは? ……不思議を通りこして気味のわるいことで」
「沼へ落ちたのではございますまいか?」
 覚兵衛が横から口を出した。
「沼へ落ちたのなら水音がして、あっし[#「あっし」に傍点]たちにも聞こえるはずで」と勘兵衛が側《そば》から打ち消した。
「ところが水音なんか聞こえませんでしたよ。……天に昇ったか地にくぐったか、面妖な話ったらありゃアしない」
「主馬!」と頼母は決心したように云った。
「主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]との隠れ場所は、閉扉の館以外にはないと思うよ。彼奴《きゃつ》らなんとかしてこの戸をひらき、屋内《なか》へ入ったに相違ない。戸を破り我らも屋内へ入るとしよう! ……それでなくともこの閉扉の館へ、わしは入ろうと思っていたのだ。淀屋の財宝を手に入れようとして、長の年月この荏原屋敷を、隅から隅まで探したが、この館ばかりは探さなかった。其方《そち》や松女が厭がるからじゃ! が、今夜はどうあろうと、屋内へ入って探さなければならぬ」
「兄上! しかし、そればかりは……」と主馬之進は夜眼にも知られるほどに、顔色を変え胴顫いをし、
「ご勘弁を、平に、ご勘弁を!」
「覚兵衛、勘兵衛!」と頼母は叫んだ。
「この館の戸を破れ!」
「いけねえ、殿様ア――ッ」と勘兵衛は喚いた。
「そいつア不可《いけ》ねえ! あっしゃア[#「あっしゃア」に傍点]恐い! ……先代の怨みの籠っている館だ! ……あっしも[#「あっしも」に傍点]手伝ってやったん[#「やったん」に傍点]ですからねえ!」
「臆病者揃いめ、汝《おのれ》らには頼まぬ! ……覚兵衛、館の戸を破れ!」
 飛田林覚兵衛はその声に応じ、閉扉の館の戸へ躍りかかった。
 が、戸は容易に開かなかった。
 先刻《さっき》は内側から自然と開いて、主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とを飲み込んだ戸が、今は容易に開かないのである。
「方々お手伝い下されい」
 覚兵衛はそう声をかけた。
 覆面をしている頼母の家来たちは、すぐに覚兵衛に手を貸して、館の戸を破りだした。
 この物音を耳にした時、屋内の闇に包まれていた主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とはハッとなった。
「主税様」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は云った。
「頼母や主馬之進たちが戸を破って……」
「うむ、乱入いたすそうな。……そうなってはどうせ切り死に……」
「切り死に? ……敵《かたき》と、お父様の敵と……それでは返り討ちになりますのね。……構わない構わないどうなろうと! ……本望、わたしは、わたしは本望! ……主税様と二人で死ぬのなら……」

   亡魂の招くところ

 たちまちふいに闇の部屋の中へ、一筋の薄赤い光が射した。
(あっ)と二人ながら驚いて、光の来た方へ眼をやった。
 奥の部屋を境している襖があって、その襖が細目に開いて、そっちの部屋にある燈火《ともしび》の光が、その隙間から射し込んで来たと、そう思われるような薄赤い光が、ぼっとこの部屋に射して来ていた。
「貴郎《あなた》!」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は怯えた声で云った。
「あけずの館に燈火の光が! ……では誰かがいるのです! ……恐ろしい、おおどうしよう!」
 主税も恐怖を新規《あらた》にして、燈火の光を睨んだが、
「そういえば閉扉の館の戸が、内から自ずと開きましたのも、不思議なことの一つでござる。……そこへ燈火の光が射した! ……いかにも、さては、この古館には、何者か住んで居るものと見える! ……どっちみち助からぬ二人の命! ……敵の手にかかって殺されようと、怪しいものの手にかかって殺されようと、死ぬる命はひとつでござれば、怪しいものの正体を……」と主税はヌッと立ち上った。
「では妾《わたし》も」とあやめ[#「あやめ」に傍点]も立った。
 でも二人が隣部屋へ入った時には、薄赤い光は消えてしまった。
(さては心の迷いだったか)
(わたしたちの眼違いであったのかしら)
 二人は茫然と闇の中に、手を取り合って佇んだ。この間も戸を破る烈しい音が、二人の耳へ聞こえてきた。
 と、又も同じ光が、廊下をへだてている襖の隙から、幽かに薄赤く射して来た。
(さては廊下に!)
 あやめ[#「あやめ」に傍点]と主税とは、夢中のようにそっちへ走った。
 しかし廊下へ出た時には、その光は消えていた。
 が、廊下の一方の詰の、天井の方から同じ光が、気味悪く朦朧と射して来た。
 二階へ登る階段があって、その頂上から来るらしかった。
 二人はふたたび夢中の様で、階段を駈け上って二階へ登った。しかし二階へ上った時には、その光は消えていて、闇ばかりが二人の周囲《まわり》にあった。
 悪漢毒婦の毒手によって、無残に殺された男の怨恨《うらみ》が、十年もの間籠っているところの、ここはあけず[#「あけず」に傍点]の館であった。その館に持主の知れない薄赤い燈火の光が射して、あっちへ動きこっちへ移って、二人の男女を迷わせる! さては殺された先代の亡魂が、怨恨の執念から行なう業では? ……
 こう思えば思われる。
 これが二人を怯かしたのである。
「主税様|階下《した》へ降りましょう。……もう妾《わたし》はこんな所には……こんな恐ろしい所には! ……それよりいっそ[#「いっそ」に傍点]階下へ降りて、頼母たちと斬り合って、敵《かな》わぬまでも一太刀怨み、その上で死にましょう!」
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は前歯を鳴らしながら云った。
「うむ」と主税も呻くように云った。
「亡魂などにたぶらかされ、うろついて生恥さらすより、斬り死にしましょう、斬り死にしましょう」
 階段の方へ足を向けた。
 すると、又も朦朧と、例の薄赤い燈火の光が、廊下の方から射して釆た。
「あッ」
「又も、執念深い!」
 今は主税は恐怖よりも、烈しい怒りに駆り立てられ、猛然と廊下へ突き進んだ。
 その後からあやめ[#「あやめ」に傍点]も続いた。
 しかし、廊下には燈火はなく、堅く閉ざされてあるはずの雨戸の一枚が、細目に開けられてあるばかりであった。
 二人はその隙から戸外《そと》を見た。
 三階造りの頂上よりも高く、特殊に建てられてある閉扉の館の、高い高い二階から眺められる夜景は、随分美しいものであった。主屋をはじめ諸々の建物や、おおよその庭木は眼の下にあった。土塀なども勿論眼の下にあった。月は澄みきった空に漂い、その光は物象《もののかたち》を清く蒼白く、神々しい姿に照らしていた。

   庭上の人影

 間もなく死ぬ運命の二人ではあったが、この美しい夜の景色には、うっとりとせざるを得なかった。
 ふいにあやめ[#「あやめ」に傍点]が驚喜の声をあげた。
「まア梯子が! ここに梯子が!」
 いかさま廊下の欄干ごしに、一筋の梯子が懸かっていて、それが地にまで達していた。
 それはあたかも二人の者に対して、この梯子をつたわって逃げ出すがよいと、そう教えてでもいるようであった。
「いかにも梯子が! ……天の与え! ……それにしても何者がこのようなことを!」
 主税も驚喜の声で叫んだ。
「不思議といえば不思議千万! ……いやいや不思議といえばこればかりではない! ……閉扉《あけず》の館の戸が開いたのも、燈火の光が現われて、われわれを二階へみちびいたのも、釘づけにされてある館の雨戸が、このように一枚だけ外されてあるのも、一切ことごとく不思議でござる」
「きっと誰かが……お父様の霊が、……わたしたちの運命をお憐れみ下されて、それで様々の不思議を現わし、救って下さるのでございましょうよ。……さあ主税様、この梯子をつたわり、ともかくも戸外へ! ともかくも戸外へ!」
「まず其方《そなた》から。あやめ[#「あやめ」に傍点]よ先に!」
「あい」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は褄をかかげ、梯子の桟へ足をかけた。
「あッ、しばらく、あやめ[#「あやめ」に傍点]よお待ち! ……何者かこっちへ! 何者かこっちへ!」
 見れば月光が蒼白く明るい、眼の前の庭を二つの人影が、組みつほぐれつ、追いつ追われつしながら、梯子の裾の方へ走って来ていた。
 二人は素早く雨戸の陰へかくれ、顔だけ出して窺った。
 夜眼ではあり遠眼だったので、庭上の人影の何者であるかが、主税にもあやめ[#「あやめ」に傍点]にもわからなかったが、でもそれはお葉と松女なのであった。
「さあお母様あの館で――十年戸をあけないあけず[#「あけず」に傍点]の館で、懺悔浄罪なさりませ! ……あの館のあの二階で、御寝なされていたお父様の臥所へ、古沼から捕った毒虫を追い込み、それに噛せてお父様を殺した……罪悪の巣の館の二階で、懺悔なさりませ懺悔なさりませ!」
 母の松女の両手を掴み、引きずるようにして導きながら、お葉は館の方へ走るのであった。
 行くまいともがく[#「もがく」に傍点]松女の姿は、捻れ捩れ痛々しかった。
「お葉やお葉や堪忍しておくれ、あそこへばかりは妾《わたし》は行けない! ……この年月、十年もの間、もう妾は毎日々々、心の苛責に苦しんで、後悔ばかりしていたのだよ。……それを、残酷な、娘の身で、あのような所へお母様を追い込み! ……それにあそこ[#「あそこ」に傍点]は、あの館は、扉も雨戸も鎹《かすがい》や太い釘で、厳しく隙なく止めに止めて、めったに開かないようにしてあるのだよ。……いいえいいえ女の力などでは、戸をあけることなど出来ないのだよ。……行っても無駄です! お葉やお葉や!」
 しかし二人が閉扉の館の、裾の辺りまで走りついた時、二人ながら「あッ」と声をあげた。
 二階の雨戸が開いており、梯子がかかっているからであった。
「あッあッ雨戸が開いている! ……十年このかた開けたことのない、閉扉の館の雨戸が雨戸が! それに梯子がかかっているとは!」
 松女は梯子の根元の土へ、恐怖で、ベッタリ仆れてしまった。
 その母親の側《そば》に突っ立ち、これも意外の出来事のために、一瞬間放心したお葉がいた。
 しかし直ぐお葉は躍り上って叫んだ。
「これこそお父様のお導き! お父様の霊のお導き! ……妻よここへ来て懺悔せよと、怒りながらも愛しておられる、お父様の霊魂が招いておる証拠! ……そうでなくて何でそうも厳重に、十年とざされていた閉扉の館の、雨戸が自然と開きましょうや! ……梯子までかけられてありましょうや!」
 母親の手をひっ掴み、お葉は梯子へ足をかけた。
「お母様!」と松女を引き立て、
「さあ一緒に、一緒に参って、お父様にお逢いいたしましょう! いまだに浮かばれずに迷っておられる、悲しい悲しいお父様の亡魂に!」

   月下の殺人

「お葉かえ!」とその途端に、二階から女の声がかかった。
 お葉は無言で二階を見上げた。
 欄干から半身をのり出して、あやめ[#「あやめ」に傍点]が下を見下ろしている。
「あッ、お姉様! どうしてそこには?」
 しかしあやめ[#「あやめ」に傍点]はそれには答えず、松女の姿へじっと眼をつけ、
「お葉やお葉や、そこにいるのは?」
「お母様よ! お姉様!」
「お母様だって? 良人《おっと》殺しの!」
「…………」
「良人殺しの松女という女かえ!」
「…………」
「よくノメノメとここへは来られたねえ」
「いいえお姉様」とお葉は叫んだ。
「わたしがお母様をここまで連れて……」
「お前がお母様を? 何のために?」
「お父様を殺したあのお部屋へ、お母様をお連れして懺悔させようと……」
「その悪女、懺悔するかえ?」
「あやめ[#「あやめ」に傍点]や!」とはじめて松女は叫んだ。
 連続して起こる意外の出来事に、今にも発狂しようとして、やっと正気を保っている松女が、嗄《しゃが》れた声で叫んだのである。
「あやめ[#「あやめ」に傍点]や……お前までが……この屋敷へ! ……いいえいいえ生みの家へ……おおおお帰っておいでだったのか! ……あやめ[#「あやめ」に傍点]や、あんまりな、あんまりな言葉! ……悪女とは! 懺悔するかえとは! ……わたしは、あれから、毎日々々、涙の乾く暇もないほどに、後悔して後悔して……」
「お黙り!」と絹でも引裂くような声が、――あやめ[#「あやめ」に傍点]の声が遮った。
「わたしは先刻《さっき》から雨戸の隙から、お前さんたちの様子を見ていたのだよ。……お葉がお前さんを引っ張って、この二階へ連れて来ようとするのに、お前さんは行くまいと拒んでいたじゃアないか……ほんとうに後悔しているなら、日夜二階の部屋へ来て、香でも焚いて唱名して、お父様の菩提を葬えばよいのだ! ……それを行くまいとして拒むのは、……」
「あやめ[#「あやめ」に傍点]や、それも恐ろしいからだよ。……あのお方の怨みが恐ろしく、わたしの罪業が恐ろしく、その館が恐ろしく……」
「おおそうとも、恐ろしいとも! この館は今も恐ろしいのだ! ……恐ろしいのも色々だが、今のこの館の恐ろしさは、又もやむごたらしい[#「むごたらしい」に傍点]人殺しが、行なわれようとしていることさ!」
「また人殺しが? 誰が、誰を?」
「お前さんの良人の主馬之進と、主馬之進の兄の松浦頼母とが、たくさんの眷族をかたらって、わたしとわたしの恋しい人とを、この館へとりこめて、これから殺そうとしているのさ。……お聞き、聞こえるだろう、戸をこわしている音が! ……館の裏の戸をぶちこわして、この館へ乱入し、わたしたちを殺そうとしているのさ! ……あッ、しめた! いいことがある! ……お葉やお葉やその女を捉え、ここへおよこし、引きずり上げておくれ! 人質にするのだよその女を! ……もう大丈夫だ、殺されっこはない。その女を人質に取っておいたら、いかな主馬之進や頼母でも、わたしたちを殺すことは出来ないだろうよ。……」
 松女の腕を捉《と》り引きずり引きずり、梯子を上るお葉の姿が、すぐに月光に照らされて見えた。
 松女を中へ取り籠めて、あやめ[#「あやめ」に傍点]とお葉と主税とが、刀や短刀を抜きそばめ、闇の二階の部屋の中に、息を殺して突立ったのは、それから間もなくのことであった。
 裏戸の破られた音が聞こえた。
 乱入して来る足音が聞こえた。
 間もなく階段を駈け上る、数人の足音が聞こえてきた。
「よし降り口に待ちかまえていて……」と、主税は云いすて三人を残し、階段の降り口へ突進して行った。
 頼母の家来の一人の武士が、いつの間に用意したか弓張提燈をかかげて、階段を駆け上り姿を現わした。
 その脳天を真上から、主税は一刀に斬りつけた。
 わッという悲鳴を響かせながら、武士は階段からころがり落ちた。
「居たぞ!」
「二階だ!」
「用心して進め!」
 声々が階下から聞こえてきた。

   さまよう娘

 この頃植木師の一隊が、植木車を数台囲み、荏原屋敷の土塀の外側を、山の手の方へ進んでいた。車には植木が一本もなかった。
 どこかのお屋敷へ植木を植えて、車をすっかり空にして、自分たちの本拠の秩父の山中へ、今帰って行く途中らしい。
 二十人に近い植木師たちは、例によって袖無しに伊賀袴を穿き、山岡頭巾をかむった姿で、粛々として歩いていた。
 その中に一人女がいた。意外にもそれはお八重であった。
 やはり袖無しを着、伊賀袴を穿き、山岡頭巾をかむっている。
 肩を落とし、首を垂れ、悄々《しおしお》として歩いて行く姿は、憐れに寂しく悲しそうであった。それにしてもどうして植木師などの中に、彼女、お八重はいるのであろう?
 松浦頼母の一味によって、田安様お屋敷の構内で、お八重もあのとおり迫害されたが、でも辛うじて構内から遁れた。すると、そこに屯《たむろ》していたのが、十数人の植木師たちであった。
 彼女は植木師たちに助けを乞うた。植木師たちは承知して、彼女に彼らの衣裳を着せ、追って来た頼母の家来たちの眼を、巧みにくらませて隠してくれた。
 それからというもの彼女はその姿で、植木師たちと一緒に住み、植木師たちと一緒に出歩き、恋人主税の行方を探し、今日までくらして来たのであった。
 主税もお葉もその姉のあやめ[#「あやめ」に傍点]も、無事に田安邸から遁れ出たという、そういう消息は人伝てに聞いたが、どこに主税が居ることやら、それはいまだに解らなかった。
 植木師たちの本拠は秩父にあったが、秩父から直接植木を運んで、諸家へ植え込みはしないのであった。
 まず秩父から運んで来て、本門寺つづきの丘や谷に、その植木をとりこ[#「とりこ」に傍点]にして置き――そこが秩父の出店なのであるが――そこから次々に植木を運んで、諸家へ納めるようにしているのであった。ところがとりこ[#「とりこ」に傍点]にして置いたたくさんの植木が、今日ですっかり片付いてしまった。
 そこで彼らは本拠の秩父へ、今夜帰って行くことにし、今歩いているのであった。……
(わたしには他に行くところはない。わたしも秩父へ行くことにしよう)
 お八重はこう悲しく心に決めて、彼らと一緒に歩いているのであった。
(主税様はどこにどうしておられるやら。……)
 思われるのは恋人のことであった。
 ほとんど江戸中残るところなく、主税の行方を探したのであったが、けっきょく知ることが出来なかった。
 秩父山中へ行ってしまったら、――又、江戸へでる機会はあるにしても、秩父山中にいる間は、主税を探すことは出来ないわけであって、探すことさえ出来ないのであるから、まして逢うことは絶対に出来ない。
 このことが彼女には悲しいのであった。
(いっそ江戸へ残ろうかしら?)
 でも一人江戸へ残ったところで、生活《くら》して行くことは出来そうもなかった。
 奉公をすれば奉公先の屋敷へ、体をしばられなければならないし、と云ってまさかに門付などになって、人の家の門へなどは立てそうもなかった。
(わたしには主税様は諦められない)
 月光が霜のように地面を明るめ、彼女の影や植木師たちの影を、長く細く曳いていた。
 荏原屋敷の土塀に添って、なお一行は歩いていた。
 と、土塀を抜きん出て、植込がこんもり茂っていたが、その植込の葉の陰から、何物か躍り出して宙を飛び、お八重の肩へ飛び移った。
「あれッ」とさすがに驚いて、お八重は悲鳴をあげ飛び上ったが、そのお八重の足許の地面へ、お八重の肩から飛び下りた物が、赤いちゃんちゃんこ[#「ちゃんちゃんこ」に傍点]を着た小猿だったので、お八重は驚きを繰り返して叫んだ。
「まア、お前は藤八じゃアないかえ!」
 さよう、それはお葉の飼猿、お八重もよく知っている藤八猿であった。

   奇怪な邂逅

 藤八猿が居るからには、持主のお葉がいなければならない。――とお八重はそう思った。お葉に逢って訊ねたならば、恋人主税のその後の消息《ようす》を、耳にすることが出来るかもしれない。――
(このお屋敷の土塀を越して、藤八猿は来たはずだった!)
 裾にまつわる藤八猿を、自由に裾にまつわらせながら、お八重は荏原屋敷の土塀を見上げた。土塀を高くぬきん出て、繁った植込の枝や葉が建物の姿を隠している。
(人声や物音がするようだが?)
(何か間違いでも起こったのかしら?)
(それとも妾《わたし》の空耳かしら?)
 なおもお八重は聞き澄ました。物音は間断なく聞こえてくる。
 主税の消息《ようす》を知っているお葉が、居るかもしれない屋敷の構内から、不穏な物音の聞こえるということは、お八重にとっては心配であった。
(妾、屋敷内へ入って行ってみようか?)
 でもどこから入れるだろう? 土塀を乗り越したら入れるかもしれない。
 けれどそんなことをしているうちに、植木師の一隊は彼女を見捨て秩父山中へ行ってしまうにちがいない。
 現に彼女が思案に余って、土塀を眺めて佇んでいる間に、植木師の一隊は彼女から離れて、一町も先の方を歩いているのだから。……
(どうしよう? どうしたらよかろう?)
 地団太を踏みたい心持で、彼女は同じ所に立っていた。
 でも、間もなく彼女の姿が、土塀に上って行くのが見えた。
 恋人の消息が知れるかも知れない。――この魅力が荏原屋敷へ、彼女をとうとう引き入れたのであった。
 月光に照らされたお八重の姿が、閉扉《あけず》の館の前に現われたのは、それから間もなくのことであった。
 高い二階建ての館の二階へ、地上から梯子がかかってい、閉ざされている鎧のような雨戸が、一枚だけ開いている。そうして館の裏側と、館の屋内から人声や物音が、間断なく聞こえてくるようであった。
(やはり何か事件が起こっているのだよ)
 お八重は二階を見上げながら、しばらく茫然《ぼんやり》と佇んでいた。
 すると、あけられてある雨戸の隙から、薄赤い燈火《ともしび》の光が射し、つづいて人影が現われた。龕燈を持った老人で、それは「飛加藤の亜流」であった。
 飛加藤の亜流は雨戸の隙から出て、梯子をソロソロと降り出した。
 飛加藤の亜流が地へ下り立ち、お八重と顔を合わせた時、お八重の口から迸しり出たのは、「叔父様!」という言葉であった。
「姪か、お八重か、苦労したようだのう」
 飛加藤の亜流はこう云って、空いている片手を前へ出した。
 お八重はその手へ縋りついたが、
「叔父様、どうしてこのような所に……」
「わしは飛加藤の亜流なのだよ、どのような所へでも入り込まれるよ。……お前の父親、わしの実兄の、東海林自得斎《しょうじじとくさい》が極重悪木を利用し、自由に人が殺せるようにのう。……それにしてもわし達兄弟は、何という変わった兄弟であろう。徳川によって滅ぼされた、小西摂津守の遺臣として、徳川家に怨みを抱いていることは、わしも兄上も同じなのではあるが、兄上は魔神の世界に住んで、悪木を作り人を殺し――田安中納言家をはじめとし、徳川家に縁ある人々を殺し、主家の怨を晴らそうとしているのに、わしは一念頓悟して、誠の教の庭に住み、真実《まこと》の人間を目つけ出そうとして、乞食のように歩き廻っている。……わが兄ながら惨忍な、実の娘を間者として、田安家の大奥へ住み込ませ、淀屋の独楽を奪わせようとは……」
「まあ叔父様、そのようなことまで……」
「わしは飛加藤の亜流なのだよ、どのようなことでも知っている……」
「では、叔父様には、淀屋の独楽の――三個《みっつ》あるという淀屋の独楽の、その所在《ありばしょ》もご存知なので?」
「一個《ひとつ》は頼母が持っておる。お前を苦しめた松浦頼母が。もう一つは主税が持っておる、お前が愛している山岸主税が。……が、最後の一つはのう」
「最後の一個は? 叔父様どこに?」
「それは云えぬ、今は云えぬ! ……勿論わしは知っているが」

   聞こえる歌声

「では叔父様、独楽にまつわる[#「まつわる」に傍点]、淀屋の財宝の所在も?」
「淀屋の財宝を守護する者こそ、この飛加藤の亜流なのだよ」
「…………」
「この荏原屋敷の先代の主人は、わしの教の弟子なのじゃ。そうして淀屋の財宝は、この荏原屋敷に隠されてあるのじゃ。淀屋の財宝の所在について、わしの知っているのは当然であろう」
「…………」
「おいで、お八重」と飛加藤の亜流は云って、館を巡って歩き出した。
「眼には眼をもって、歯には歯をもって……因果応報の恐ろしさを、若いお前に見せてあげよう」
 お八重は飛加藤の亜流の後から、胸を踊らせながら従《つ》いて行った。

 この頃館の裏口では、頼母と主馬之進とが不安そうに、破壊された戸口から屋内《なか》を覗きながら、聞こえてくる物音に耳を澄ましていた。
 そこへ屋内から走り出して来たのは、飛田林覚兵衛《とんだばやしかくべえ》であった。
「大変なことになりましてございます。主税《ちから》めどうして手に入れましたものか、主馬之進《しゅめのしん》殿のご内儀を捕虜《とりこ》とし、左様人質といたしまして、その人質を盾となし、二階座敷に攻勢をとり、階段を上る我らの味方を、斬り落とし斬り落としいたしまする」
 大息吐いて注進する後から、お喋舌《しゃべ》りの勘兵衛《かんべえ》が飛出して来て、
「坂本様も宇津木殿も、斬り仆されましてございます。とてもこいつア敵《かな》いませんや。向こうにゃア奥様という人質があって、こっちが無鉄砲に斬り込んで行きゃア、奥様に大怪我させるんですからねえ」とこれも大息吐いて呶鳴り立てた。
「ナニ家内が描虜にされた※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」とさすがの主馬之進も仰天したらしく、
「それは一大事うち捨ては置けない! ……方々お続き下されい!」と屋内へ夢中で駈け込んだ。
「では拙者も」と、それにつづいて覚兵衛が屋内に駈け込めば、
「それじゃアあっし[#「あっし」に傍点]ももう一度」と勘兵衛も意気込んで駈け込んだ。
(夫婦の情愛は別のものだな)と後に残った頼母は呟き、戸口から屋内を覗き込んだ。
(臆病者の主馬ではあるが、女房が敵の手に捕らえられたと聞くや、阿修羅のように飛び込んで行きおった。……ところで俺《わし》はどうしたものかな?)
 頼母にとっては松女《まつじょ》の命などより、淀屋の財宝の方が大切なのであった。主税やあやめ[#「あやめ」に傍点]などを討ってとるより、独楽の秘密を解くことの方が、遥かに遥かに大切なのであった。
 で、危険な屋内などへは、入って行く気にはなれないのであった。
 太刀音、掛け声、悲鳴などが、いよいよ烈しく聞こえてはきたが、頼母ばかりはなお門口に立っていた。
 するとその時老人の声が、どこからともなく聞こえてきた。しかもそれは歌声であった。
(はてな?)と頼母は聞き耳を立てた。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]真昼頃、見る日は南、背後《うしろ》北、左は東、右は西なり
[#ここで字下げ終わり]
 歌の文句はこうであった。
 そうしてその歌声は林の奥の、古沼の方から聞こえてくる。
「見る日は南と云ったようだな」と頼母は思わず声に出して云った。
(見る日は南というこの言葉は、独楽の隠語の中に有ったはずだ。その言葉を詠み込んだ歌を歌うからには、その歌の意味を知っていなければならない)
 頼母は歌の聞こえた方へ、足を空にして走って行った。
 歌の主を引っ捕らえ、歌の意味を質《ただ》そうと思ったからである。
 歌声は林に囲繞された大古沼の方から聞こえてきた。
 頼母は林の中へ走り込んだ。
 でも林の中には人影はなく、落葉松《からまつ》だの糸杉だの山桜だの、栗の木だの槇の木だのが繁りに繁り、月光を遮ぎり月光を澪し、萱だの芒だのいら[#「いら」に傍点]草だのの、生い茂り乱れもつれ[#「もつれ」に傍点]合っている地面へ、水銀のような光の斑を置き、長年積もり腐敗した落葉が、悪臭を発しているばかりであった。

   秘密は解けたり!

 そうして林の一方には、周囲五町もある大古沼が、葦だの萱だのに岸を茂らせ、水面に浮藻や落葉を浮かべ、曇った鏡のように月光に光り、楕円形に広がっていた。そうして沼の中央に在る、岩で出来ている小さい島の、岩の頂にある小さい祠が、鳥の形に見えていた。
 でも人影はどこにもなかった。失望して頼母は佇んだ。
 と、又もや歌声が、行手の方から聞こえてきた。
(さてはむこうか)と頼母は喜び、跫音《あしおと》を忍ばせてそっちへ走った。
 茨と灌木と蔓草とで出来た、小丘のような藪があったが、その藪の向こう側から、男女の話し声が聞こえてきた。
(さては?)と頼母は胸をドキつかせ、藪の横から向こう側を覗いた。
 一人の娘と一人の老人とが、草に坐りながら話していた。
 老人は白髪白髯の、神々しいような人物であったが、しかしそれは一向見知らない人物であった。しかし、女の方はお八重であった。田安中納言家の腰元で、そうして自分が想いを懸けた、その美しいお八重であった。
(これは一体どうしたことだ。こんな深夜にこんな所に、お八重などがいようとは?)
 夢に夢見る心持で、頼母は一刹那ぼんやりしてしまった。
 しかし、老人の膝の側《そば》に、龕燈が一個《ひとつ》置いてあり、その龕燈の光に照らされ、淀屋の独楽に相違ない独楽が、地上に廻っているのを眼に入れると、頼母は俄然正気づいた。
(独楽がある! 淀屋の独楽が! 三つ目の独楽に相違ない!)
 この時老人が話し出した。
「ね、この独楽へ現われる文字は『真昼頃』という三つの文字と『背後《うしろ》北、左は東、右は西なり』という、十一|文字《もじ》の外《ほか》にはない。……もう一つの独楽に現われて来るところの『見る日は南』という五つの文字へ、この独楽へ現われた文字を差し加えると「真昼頃、見る日は南、背後北、左は東、右は西なり」という、一首の和歌になるのだよ。……そうしてこの和歌は古歌の一つで、方角を教えた和歌なのさ。広野か海などをさまよって、不幸にも方角を失った際、それが真昼であったなら、先ず太陽を見るがよい。太陽は南にかかっているであろう。だから背後は北にあたり、左は東、右は西にあたる。――ただこういう意味なのだよ」
「でも、そんな和歌が淀屋の財宝と、どんな関係があるのでございます?」と好奇心で眼を輝かせながら、お八重は息をはずませて訊いた。
「淀屋の財宝の所在《ありばしょ》が、この和歌の中に詠まれているのだよ。……太陽を仰いでいる人間の位置は、東西南北の中央にある。その人間の位置にあたる所に、淀屋の財宝が隠されてあるのさ」
「ではどこかの中央に?」
「この屋敷の中央に?」
「この屋敷の中央とは?」
「荏原屋敷は大昔においては、沼を中央にして作られていたものさ」
「まア、では、財宝は古沼の中に?」
「沼の中央は岩の小島なのさ」
「まア、では、沼の小島の内に?」
「小島の中央は祠なのだ」
「では淀屋の財宝は祠の中に隠されてあるのね」
「そうだ」と老人は感慨深そうに云った。
「そうしてそのことを知っている者は、荏原屋敷の先代の主人と、この飛加藤の亜流だけなのさ。そうしてそのことを記してあったのは、三つの淀屋の独楽だけだったのさ。その独楽は以前には三つながら、荏原屋敷にあったのさ。ところがいつの間にか三つながら、荏原屋敷から失われてしまった。だがその中の一つだけは、ずっとわし[#「わし」に傍点]が持っていた。……それにしても淀屋の独楽を巡って、幾十人の者が長の年月、悲劇や喜劇を起こしたことか。……でも、いよいよ淀屋の独楽が、一所に集まる時期が来た。……お八重、わしに従《つ》いておいで。淀屋の財宝の莫大な額を、親しくお前の眼に見せてあげよう」
 地上の独楽を懐中に納め、龕燈を取り上げて飛加藤の亜流は、やおら草から立ち上った。
 お八重もつづいて立ち上ったが、
「でも叔父様、船もないのに、沼を渡って、どうして小島へ……」

   因果応報

「ナーニ、わしは飛加藤の亜流だよ。どんなことでも出来る人間だよ。そうしてわしに従《つ》いてさえ来れば、お前もどんなことでも出来るのだよ。……沼を渡って行くことなども……」
 二人は沼の方へ歩いて行った。
 藪の陰に佇んで、見聞きしていた頼母は太い息を吐き、
「さてはそういう事情だったのか」と声に出して呟いた。
(淀屋の独楽の隠語は解けた。淀屋の財宝の在場所も知れた)
 このことは頼母には有り難かったが、飛加藤の亜流とお八重とが揃って、財宝の所在地へ行くということが、どうにも不安でならなかった。
(財宝を二人に持ち出されては、これまでの苦心も水の泡だ)
 こう思われるからであった。
(俺も沼の中の島へ行こう)
 ――頼母は飛加藤の亜流の後を追い、沼の方へ小走った。
 頼母が沼の縁へ行きついた時、彼の眼に不思議な光景が見えた。
 月光に薄光っている沼の上を、飛加藤の亜流という老人が、植木師風のお八重を連れ、まるで平地でも歩くように、悠々と歩いて行くのであった。重なっていた浮藻が左右に別れ、水に浮いて眠っていた鴨の群が、これも左右に別れるのさえ見えた。
(水も泥も深い沼だのに、どうして歩いて行けるのだろう?)
 超自然的の行動ではなくて、水中に堤防が作られていて、陸からはそれが見えなかったが、飛加藤の亜流には解《わか》っていたので、それを渡って行ったまでである。しかし頼母には解っていなかったので、呆然佇んで見ていたが、
(そうだ、飛加藤の亜流には、出来ないことはないはずだった。水を渡ることなど何でもないのだろう。……飛加藤の亜流にさえ従《つ》いて行けば、こっちの身も沼を渡れるだろう)
 頼母は沼の中へ入って行った。
 しかし数間とは歩けなかった。水が首まで彼を呑んだ。蛭、長虫が彼を目指し、四方八方から泳ぎ寄って来た。
「助けてくれーッ」と悲鳴を上げ、頼母は岸へ帰ろうとした。
 しかし深い泥が彼の足を捉え、彼を底の方へ引き込んだ。
 突然彼の姿が見えなくなり、彼の姿の消えた辺りへ、泡と渦巻とが現われた。
 と、ふいにその水面へ、一つの独楽が浮かび上った。頼母の持っていた独楽であって、水底に沈んだ彼の懐中から、水の面へ現われたのであった。独楽にも長虫はからみ付いていた。そうしてその虫は島を指して泳いだ。飛加藤の亜流とお八重との姿が、その島の岸に立っていた。そっちへ独楽は引かれて行く。

 閉扉《あけず》の館の二階では、なお血闘が行なわれていた。頼母の家来の数名の者が、死骸となって転がっていた。
 髪を乱し襟を拡げ、返り血を浴びた主税がその間に立ち、血にぬれた刀を中段に構え、開いている雨戸から射し込んでいる月光《ひかり》に、姿を仄かに見せていた。
 その背後《うしろ》に息を呑み、あやめ[#「あやめ」に傍点]とお葉とが立っていた。二人の女の持っている刀も、ヌラヌラと血にぬれていた。そうして二人の女の裾には、ほとんど正気を失ったところの、松女が倒れて蠢いていた。
 階段の下からは罵る声や怒声が、怯かすように聞こえてくる。
 しかし登っては来なかった。
 これ迄に登って行った者一人として、帰って来る者がないからであった。決死の主税に一人のこらず、二階で討って取られたからであった。
 しかしにわかにその階下から、主馬之進の声が聞こえてきた。
「お松、お松、お松は二階か! 心配するな、俺が行く!」
 つづいて勘兵衛の声が聞こえる。
「旦那、あぶねえ、まアお待ちなすって! ……とてもあぶねえ、うかつ[#「うかつ」に傍点]には行けねえ! ……行くなら皆で、みんなで行きやしょう! ……覚兵衛殿、覚兵衛殿、あんたが真先に!」
 しかし飛田林覚兵衛の声は、それに対して何とも答えなかった。
「お松、お松!」と主馬之進の声が、また悲痛に聞こえてきた。
「すぐ行くぞよ、しっかりしてくれ!」
「勘兵衛放せ、えい馬鹿者!」
 つづいて階段を駆け上る音がし、階段口を睨んでいる主税の眼に、主馬之進の狂気じみた姿が映った。
「…………」

   人々の運命

(来たな!)と主税は雀躍《こおどり》したが、相手を身近く引寄せようとして、かえって部屋の隅へ退いた。
「あなた!」とさながら巾《きぬ》を裂くような声で、倒れている松女が叫んだのは、主馬之進が階段を上り尽くし、二階へ現われた時であった。
「お松!」と叫んで蹣跚《よろめき》々々、主馬之進はお松の方へ走り寄った。
「…………」
「…………」
 が、その瞬間あやめ[#「あやめ」に傍点]とお葉とが、左右から飛鳥のように躍りかかり、
「お父様の敵《かたき》!」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は叫び、脇差で主馬之進の胸を突くと、
「お父様の敵!」とお葉も叫び、主馬之進の脇腹を匕首《あいくち》で刺した。
 グタグタと主馬之進は仆たれが、必死の声を絞って叫んだ。
「ま、待ってくれ! 少し待ってくれ! どうせ殺されて死んでゆく俺《わし》、殺されるのは恐れないが、それ前にお松へ云いたいことがある! それも懺悔だ、お松へのお礼だ! ……おおおおお松、よくまアこれまで、貞女を保ってくらして来たなア。……俺と夫婦にはなったものの、拒んで拒んで拒みとおして、俺とは一度の枕も交わさず、よくまア貞操《みさお》を立て通したものだ! ……そのため俺はどんなに怒り、どんなに苦しみ苦しんだことか! ……しかし今になって考えてみれば、けっきょくお前が偉かったのだ! ……俺はただ名ばかりの良人《おっと》として、荏原屋敷の格と財産とを、今日まで守護して来たばかりだった。……」
「主馬之進殿オーッ」
 松女は松女で、主馬之進へ取り縋り、
「あなたが御兄上の頼母様ともども、わたくしの家へ接近なされ、先代の主人わたくしの良人と、何くれとなく懇意になされ、やがては荏原屋敷の家政へまで、立ち入るようになりましたので、苦々しく思っておりましたところ、わたくし良人の申しますには『わしはもう長の病気、余命わずかと覚悟しておる。わがなき後はこの大家族の、荏原屋敷を切り廻してゆくこと、女のお前ではとうてい出来ない。幸い主馬之進殿そなたに対し、愛情を感じておるらしく、それに主馬之進殿の兄上は、田安家の奥家老で権勢家、かたがた都合がよいによって、俺《わし》の死んだ後は主馬之進殿と、夫婦になって荏原屋敷を守れ』と……その時|妾《わたし》はどんなに悲しく『いいえ妾はあなたの妻、あなたがおなくなりなさいました後は、有髪の尼の心持で、あなた様のご冥福をお祈りし』『それでは屋敷は滅びるぞ! 先祖に対して相済まぬ!』『では妾は形ばかり主馬之進様の妻となり……』こうして妾は良人の死後……」
「その御先代の死態だが……」
 いよいよ迫る死の息の下で、主馬之進は云いついだ。
「変死、怪死、他殺の死と、人々によって噂され、それに相違なかったが、しかし決してこの主馬之進が、手をくだして殺したのでもなく、他人《ひと》にすすめて殺したのでもない! ……わしの僕《しもべ》のあの勘兵衛、わしがこの家へ住み込ませたが、性来まことにかるはずみの男、勝手にわしの心持を……わしが先代のこの屋敷の主人の、死ぬのを希望《のぞ》んでいるものと推し、古沼から毒ある長虫を捕り、先代の病床へ投げ込んで……」
 しかしこれ以上断末魔の彼には、言葉を出すことが出来なくなったらしい、両手で虚空を握む[#「握む」はママ]かと見えたが、体をのばして動かなくなった。
「あやめ[#「あやめ」に傍点]よ、お葉よ、二人の娘よ!」と、これは精神の過労から、死相を呈して来た松女は叫んだ。
「お前たちの母は、荏原屋敷の主婦は、おおおお決してお前たちの、思い込んでいたような悪女でないこと……お解《わか》りかお解りか! ……なき良人の遺言を守って、家のためにこの身を苦しめ……でも、もう妾は生きていたくない! ……可哀そうな主馬様の後を追い……」
「お母様アーッ」
「お母様アーッ」
 意外の事の真相に、心を顛動させた二人の娘は、左右から母へすがりついた。
「そうとは知らずお母様を怨み……」
「そうとは知らず主馬之進殿を殺し……」
「わたしたちこそどうしよう!」
「お母様アーッ」
「主馬之進様アーッ」
「いやいや」と、本当に最後の息で、主馬之進は言葉を発した。
「やっぱりわしは殺されていい男……荏原屋敷を横領し、隠されてある淀屋の財宝を、ウ、奪おう、ト、取ろうと……殺されていい身じゃ殺されていい身じゃ」
 まったく息が絶えてしまった。
 途端に松女もガックリとなった。
 この時階段の上り口から、勘兵衛の狼狽した喚き声が聞こえた。
「不可《いけ》ねえ、殺《やら》れた、旦那が殺れた! ……オ、奥様も死んだらしいわ――ッ」
 バタバタと階段から駈け下りる音が、けたたましく聞こえてきた。
 しかし、その音は中途で止んで、呻き声が聞こえてきた。見れば階段の中央の辺りに、勘兵衛の体が延びていた。
 紐が首に捲き付いている。
 そうしてその紐は手繰《たぐ》られて、勘兵衛の体は階段を辷って、二階の方へ上って行った。紐を手繰っているのはあやめ[#「あやめ」に傍点]であった。
「古沼から蝮を捕らえて来て、この座敷へ投げ入れて、直々お父様を殺した汝《おのれ》! 今度こそ遁さぬくたばれくたばれ[#「くたばれくたばれ」に傍点]!」
 勘兵衛の体が二階へ上るや、あやめ[#「あやめ」に傍点]は勘兵衛に引導を渡し、脇差で勘兵衛の咽喉をえぐった。
 ある時は主馬之進の若党となり、ある時は見世物の太夫元となり、ある時は荏原屋敷の僕《しもべ》となり、又ある時は松浦頼母の用心棒めいた家来となって、悪事をつくした執念深い、一面道化た勘兵衛も、今度こそ本当に殺されたのであった。

 なお階下《した》にいる敵《かたき》の輩下を、討って取ろうと主税[#「主税」は底本では「主悦」]やあやめ[#「あやめ」に傍点]達が、二階から階下へ駈け下りるや、飛田林覚兵衛が先ず逃走し、その他の者共一人残らず、屋敷から逃げ出し姿を消してしまった。
 こうして今までは修羅の巷として、叫喚と悲鳴とで充たされていた屋敷は、静寂の場と化してしまった。わけてもあけず[#「あけず」に傍点]の館の二階は、無数の死骸を抱いたまま凄じい静かさに包まれていた。
 と、その部屋へ雨戸の隙から、子供のような物が飛び込んで来た。
 それは藤八猿であった。
 乱闘の際に懐中《ふところ》から落とした、主税[#「主税」は底本では「主悦」]の持っていた淀屋の独楽が、部屋の片隅にころがっているのへ、その藤八猿は眼を付けると、それを抱いて部屋を飛び出し、雨戸の隙から庭へ下り、さらに林の中へ走り込んだ。
 でも古沼の縁まで来た時、その独楽にも飽きたと見え、沼を目掛けて投げ込んだ。
 と独楽は自ずと動いて、小島の方へ進んで行った。飛加藤の亜流が超自然の力で、独楽を島の方へ招いたのでもあろうか。いややはり長虫が巻き付いていて、島の方へ泳いで行ったからである。

 お八重よりも一層生死を共にし、苦難に苦難を重ねたところの、あやめ[#「あやめ」に傍点]と主税[#「主税」は底本では「主悦」]とは夫婦になり、一旦は辛労で気絶したものの、息吹き返した貞婦の松女や、妹娘のお葉と一緒に、荏原屋敷に住むようになったのは、それから間もなくのことであり、そういう事実をさぐり知り、主税[#「主税」は底本では「主悦」]との恋を断念したお八重は、父の許秩父の山中へも帰らず、飛加藤の亜流の弟子となり、飛加藤の亜流に従って、世人を説き廻ったということである。
 淀屋の財宝はどうなったか? 一つに集まった独楽と一緒に、いぜんとして古沼の島の中にあるか、飛加藤の亜流やお八重の手により、他の場所へ移されたか? 謎はいまだに謎として、飛加藤の亜流とお八重以外には、知る者一人もないのであった。しかし飛加藤の亜流の教義が、その後ますます隆盛になり、善人に対し善事に対し、飛加藤の亜流は惜気もなく、多額の金子を与えたというから、淀屋の財宝はその方面に、浄財としてあるいは使われたのかもしれない。
 松女がその後有髪の尼として、清浄の生活を継続し、良人や主馬之進をとむらいながら、主税[#「主税」は底本では「主悦」]夫婦やお葉によって孝養されたということや、お葉が良縁を求めながら、その優しい心持から、藤八猿を可愛がり、いつまでも手放さなかったというようなことは、あえて贅言する必要はあるまい。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
   1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「講談雑記」
   1936(昭和11)年1月~10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本は、「おっしゃる」に「仰有る」と「有仰る」を混記しています。原義が「オオセ・アル」であることから、「有仰る」を注記の上「仰有る」に改め、表記の統一を図りました。
※「袖の中には?」「怪しの浪人」などの小見出しは、底本では天付きですが、3字下げとしました。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
YYYY年MM月DD日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

い、さあそのお部屋へお入りなされて、懺悔なさりませ、懺悔なさりませ! そうしてそれから妾《わたし》と共々、復讐の手段を講じましょう。……」
「復讐? お葉や、復讐とは?」
「わたしにとりましては実のお父様、お母様にとりましては最初の良人《おっと》の、先代の荏原屋敷の主人を殺した、当代の主人の主馬之進《しゅめのしん》を!」
「ヒエーッ、それでは主馬之進を!」
「お父様を殺した主馬之進を殺し、お父様の怨みを晴らすのさ。……さあお母様参りましょう!」
 お葉は、松女《まつじょ》の腕を握り、亭から外へ引き出した。
 この頃亭から少し離れた、閉扉の館の側《そば》の木立の陰に、主税《ちから》とあやめ[#「あやめ」に傍点]とが身体《からだ》をよせながら、地に腹這い呼吸《いき》を呑んでいた。
 主税が片手に握っているものは、血のしたたる抜身であった。
 それにしてもどうして主税やあやめ[#「あやめ」に傍点]や、お葉までが荏原屋敷へ、この夜忍び込んで来たのであろう?
 自分たちの持っていた淀屋の独楽は何者かに奪われてしまったけれど、藤八猿から得た独楽によって、幾行かの隠語《かくしことば》を知ることが出来た。
 そこで主税はその隠語を、以前《まえ》から知っている隠語と合わせて、何かの意味を探ろうとした。隠語はこのように綴られた。……「淀屋の財宝は代々荏原屋敷にありて飛加藤の亜流[#「亜流」は底本では「悪流」]守護す。見る日は南」と。「見る日は南」という意味は解《わか》らなかったが、その他の意味はよく解った。飛加藤の亜流[#「亜流」は底本では「悪流」]という老人のことも、お葉のくわしい説明によって解った。そうしてどっちみち[#「どっちみち」に傍点]淀屋の財宝が、荏原屋敷のどこかにあるということが、ハッキリ主税に感じられた。そこで主税は荏原屋敷へ忍び込んで、財宝の在場所を探りたいと思った。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]はあやめ[#「あやめ」に傍点]で又思った。
(姉妹《きょうだい》二人が揃ったのだから、すぐにも荏原屋敷へ乗り込んで行って、主馬之進を殺して復讐したい。お父様の怨みを晴らしたい)
 双方の祈願《ねがい》が一緒になって、あやめ[#「あやめ」に傍点]とお葉と主税とは、この夜荏原屋敷へ忍び込んだのであった。
 さて三人忍び込んでみれば、天の助けというのでもあろうか、頼母がい、勘兵衛がいた。
(よし、それでは次々に、機をみて討って取ってやろう)
 木陰に隠れて機会《おり》を待った。
 と、構え内を警護していた、頼母の家来の覆面武士の一人に、見現わされて誰何された。主税はその覆面武士を、一刀の下に斬り仆した。と、大勢がこの方面へ走って来た。主税はあやめ[#「あやめ」に傍点]を引っ抱えて、木立の陰へ隠れたのであるが、どうしたのかお葉は一人離れて、亭の方へ忍んで行った。声をかけて止めようと思ったが、声をあげたら敵の者共に、隠れ場所を知られる不安があった。そこで二人は無言のまま見過ごし、ここに忍んでいるのであった。……
 二人の眼前にみえているものは、主税に斬り仆された覆面武士を囲んで、同僚の三人の覆面武士と、頼母と主馬之進と飛田林覚兵衛と、絞殺したはずの勘兵衛とが、佇んでいる姿であった。
 飛び出していって斬ってかかることは、二人にとっては何でもなかったが、敵は大勢であり味方は二人、返り討ちに遇う心配があった。機《おり》を見て別々に一人々々、討って取らなければならなかった。
 二人は呼吸《いき》を呑み潜んでいた。

   閉扉の館

「曲者を探せ!」という烈しい怒声が、頼母の口からほとばしったのは、それから間もなくのことであった。
 俄然武士たちは四方へ散った。そして二人の覆面武士が主税たちの方へ小走って来た。
「居たーッ」と一人の覆面武士が叫んだ。
 だがもうその次の瞬間には、躍り上った主税によって、斬り仆されてノタウッていた。
「汝《おのれ》!」ともう一人の覆面武士が、主税を目掛けて斬り込んで来た。
 そこを横からあやめ[#「あやめ」に傍点]が突いた。
 その武士の仆れるのを後に見捨て、
「主税様、こっちへ」と主税の手を引き、あやめ[#「あやめ」に傍点]は木立をくぐって走った。……
 案内を知っている自分の屋敷の、木立や茂や築山などの多い――障害物の多い構内であった。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は逃げるに苦心しなかった。木立をくぐり藪を巡り、建物の陰の方へあやめ[#「あやめ」に傍点]は走った。
 とうとう建物の裏側へ出た。二階づくりの古い建物は、杉の木立を周囲に持ち、月の光にも照らされず、黒い一塊のかたまり[#「かたまり」に傍点]のように、静まり返って立っていた。
 それは閉扉《あけず》の館であった。
 と、建物の一方の角から、数人の武士が現われた。
 飛田林覚兵衛と頼母と家来の、五人ばかりの一団で、こちらへ走って来るらしかった。
 すると、つづいて背後《うしろ》の方から、大勢の喚く声が聞こえてきた。
 主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とは振り返って見た。
 十数人の姿が見えた。
 主馬之進と勘兵衛と、覆面の武士と屋敷の使僕《こもの》たちが、こっちへ走って来る姿であった。二人は腹背に敵を受け、進退まったく谷《きわ》まった。
 一方には十年間開いたことのない、閉扉の館が城壁のように、高く険しく立っている。そしてその反対側は古沼であった。
 泥の深さ底が知れず、しかも蛇《くちなわ》や蛭の類が、取りつくすことの出来ないほどに、住んでいると云われている、荏原屋敷七不思議の、その一つに数えられている、その恐ろしい古沼であった。
 逃げようにも逃げられない。
 敵を迎えて戦ったなら、大勢に無勢殺されるであろう。
(どうしよう)
(ここで死ぬのか)
(おお、みすみす返り討ちに遇うのか)
 その時何たる不思議であろう!
 閉扉の館の裏の門の扉が、内側から自ずとひらいたではないか!
 二人は夢中に駆け込んだ。
 すると、扉が内側から、又自ずと閉ざされたではないか。
 屋内は真の闇であった。

   死ぬ運命の二人

 閉扉《あけず》の館の闇の部屋で、主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とが寄り添っている時、館の外側では頼母や主馬之進や覚兵衛や勘兵衛たちが集まって、ひそやかな声で話し合っていた。
「不思議だな、消えてしまった」
 抜いた刀をダラリと下げて、さも審しいというように、頼母はこう云って主馬之進を眺めた。主馬之進も抜き身をひっさげたまま、これも審しいというように、四方《あたり》を忙しく見廻したが、
「一方は閉扉の館、また一方は底なしの古沼、前と背後《うしろ》とからは我々や覚兵衛たちが、隙なく取り詰めて参りましたのに、主税もあやめ[#「あやめ」に傍点]も消えてなくなったように、姿をくらましてしまいましたとは? ……不思議を通りこして気味のわるいことで」
「沼へ落ちたのではございますまいか?」
 覚兵衛が横から口を出した。
「沼へ落ちたのなら水音がして、あっし[#「あっし」に傍点]たちにも聞こえるはずで」と勘兵衛が側《そば》から打ち消した。
「ところが水音なんか聞こえませんでしたよ。……天に昇ったか地にくぐったか、面妖な話ったらありゃアしない」
「主馬!」と頼母は決心したように云った。
「主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]との隠れ場所は、閉扉の館以外にはないと思うよ。彼奴《きゃつ》らなんとかしてこの戸をひらき、屋内《なか》へ入ったに相違ない。戸を破り我らも屋内へ入るとしよう! ……それでなくともこの閉扉の館へ、わしは入ろうと思っていたのだ。淀屋の財宝を手に入れようとして、長の年月この荏原屋敷を、隅から隅まで探したが、この館ばかりは探さなかった。其方《そち》や松女が厭がるからじゃ! が、今夜はどうあろうと、屋内へ入って探さなければならぬ」
「兄上! しかし、そればかりは……」と主馬之進は夜眼にも知られるほどに、顔色を変え胴顫いをし、
「ご勘弁を、平に、ご勘弁を!」
「覚兵衛、勘兵衛!」と頼母は叫んだ。
「この館の戸を破れ!」
「いけねえ、殿様ア――ッ」と勘兵衛は喚いた。
「そいつア不可《いけ》ねえ! あっしゃア[#「あっしゃア」に傍点]恐い! ……先代の怨みの籠っている館だ! ……あっしも[#「あっしも」に傍点]手伝ってやったん[#「やったん」に傍点]ですからねえ!」
「臆病者揃いめ、汝《おのれ》らには頼まぬ! ……覚兵衛、館の戸を破れ!」
 飛田林覚兵衛はその声に応じ、閉扉の館の戸へ躍りかかった。
 が、戸は容易に開かなかった。
 先刻《さっき》は内側から自然と開いて、主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とを飲み込んだ戸が、今は容易に開かないのである。
「方々お手伝い下されい」
 覚兵衛はそう声をかけた。
 覆面をしている頼母の家来たちは、すぐに覚兵衛に手を貸して、館の戸を破りだした。
 この物音を耳にした時、屋内の闇に包まれていた主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とはハッとなった。
「主税様」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は云った。
「頼母や主馬之進たちが戸を破って……」
「うむ、乱入いたすそうな。……そうなってはどうせ切り死に……」
「切り死に? ……敵《かたき》と、お父様の敵と……それでは返り討ちになりますのね。……構わない構わないどうなろうと! ……本望、わたしは、わたしは本望! ……主税様と二人で死ぬのなら……」

   亡魂の招くところ

 たちまちふいに闇の部屋の中へ、一筋の薄赤い光が射した。
(あっ)と二人ながら驚いて、光の来た方へ眼をやった。
 奥の部屋を境している襖があって、その襖が細目に開いて、そっちの部屋にある燈火《ともしび》の光が、その隙間から射し込んで来たと、そう思われるような薄赤い光が、ぼっとこの部屋に射して来ていた。
「貴郎《あなた》!」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は怯えた声で云った。
「あけずの館に燈火の光が! ……では誰かがいるのです! ……恐ろしい、おおどうしよう!」
 主税も恐怖を新規《あらた》にして、燈火の光を睨んだが、
「そういえば閉扉の館の戸が、内から自ずと開きましたのも、不思議なことの一つでござる。……そこへ燈火の光が射した! ……いかにも、さては、この古館には、何者か住んで居るものと見える! ……どっちみち助からぬ二人の命! ……敵の手にかかって殺されようと、怪しいものの手にかかって殺されようと、死ぬる命はひとつでござれば、怪しいものの正体を……」と主税はヌッと立ち上った。
「では妾《わたし》も」とあやめ[#「あやめ」に傍点]も立った。
 でも二人が隣部屋へ入った時には、薄赤い光は消えてしまった。
(さては心の迷いだったか)
(わたしたちの眼違いであったのかしら)
 二人は茫然と闇の中に、手を取り合って佇んだ。この間も戸を破る烈しい音が、二人の耳へ聞こえてきた。
 と、又も同じ光が、廊下をへだてている襖の隙から、幽かに薄赤く射して来た。
(さては廊下に!)
 あやめ[#「あやめ」に傍点]と主税とは、夢中のようにそっちへ走った。
 しかし廊下へ出た時には、その光は消えていた。
 が、廊下の一方の詰の、天井の方から同じ光が、気味悪く朦朧と射して来た。
 二階へ登る階段があって、その頂上から来るらしかった。
 二人はふたたび夢中の様で、階段を駈け上って二階へ登った。しかし二階へ上った時には、その光は消えていて、闇ばかりが二人の周囲《まわり》にあった。
 悪漢毒婦の毒手によって、無残に殺された男の怨恨《うらみ》が、十年もの間籠っているところの、ここはあけず[#「あけず」に傍点]の館であった。その館に持主の知れない薄赤い燈火の光が射して、あっちへ動きこっちへ移って、二人の男女を迷わせる! さては殺された先代の亡魂が、怨恨の執念から行なう業では? ……
 こう思えば思われる。
 これが二人を怯かしたのである。
「主税様|階下《した》へ降りましょう。……もう妾《わたし》はこんな所には……こんな恐ろしい所には! ……それよりいっそ[#「いっそ」に傍点]階下へ降りて、頼母たちと斬り合って、敵《かな》わぬまでも一太刀怨み、その上で死にましょう!」
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は前歯を鳴らしながら云った。
「うむ」と主税も呻くように云った。
「亡魂などにたぶらかされ、うろついて生恥さらすより、斬り死にしましょう、斬り死にしましょう」
 階段の方へ足を向けた。
 すると、又も朦朧と、例の薄赤い燈火の光が、廊下の方から射して釆た。
「あッ」
「又も、執念深い!」
 今は主税は恐怖よりも、烈しい怒りに駆り立てられ、猛然と廊下へ突き進んだ。
 その後からあやめ[#「あやめ」に傍点]も続いた。
 しかし、廊下には燈火はなく、堅く閉ざされてあるはずの雨戸の一枚が、細目に開けられてあるばかりであった。
 二人はその隙から戸外《そと》を見た。
 三階造りの頂上よりも高く、特殊に建てられてある閉扉の館の、高い高い二階から眺められる夜景は、随分美しいものであった。主屋をはじめ諸々の建物や、おおよその庭木は眼の下にあった。土塀なども勿論眼の下にあった。月は澄みきった空に漂い、その光は物象《もののかたち》を清く蒼白く、神々しい姿に照らしていた。

   庭上の人影

 間もなく死ぬ運命の二人ではあったが、この美しい夜の景色には、うっとりとせざるを得なかった。
 ふいにあやめ[#「あやめ」に傍点]が驚喜の声をあげた。
「まア梯子が! ここに梯子が!」
 いかさま廊下の欄干ごしに、一筋の梯子が懸かっていて、それが地にまで達していた。
 それはあたかも二人の者に対して、この梯子をつたわって逃げ出すがよいと、そう教えてでもいるようであった。
「いかにも梯子が! ……天の与え! ……それにしても何者がこのようなことを!」
 主税も驚喜の声で叫んだ。
「不思議といえば不思議千万! ……いやいや不思議といえばこればかりではない! ……閉扉《あけず》の館の戸が開いたのも、燈火の光が現われて、われわれを二階へみちびいたのも、釘づけにされてある館の雨戸が、このように一枚だけ外されてあるのも、一切ことごとく不思議でござる」
「きっと誰かが……お父様の霊が、……わたしたちの運命をお憐れみ下されて、それで様々の不思議を現わし、救って下さるのでございましょうよ。……さあ主税様、この梯子をつたわり、ともかくも戸外へ! ともかくも戸外へ!」
「まず其方《そなた》から。あやめ[#「あやめ」に傍点]よ先に!」
「あい」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は褄をかかげ、梯子の桟へ足をかけた。
「あッ、しばらく、あやめ[#「あやめ」に傍点]よお待ち! ……何者かこっちへ! 何者かこっちへ!」
 見れば月光が蒼白く明るい、眼の前の庭を二つの人影が、組みつほぐれつ、追いつ追われつしながら、梯子の裾の方へ走って来ていた。
 二人は素早く雨戸の陰へかくれ、顔だけ出して窺った。
 夜眼ではあり遠眼だったので、庭上の人影の何者であるかが、主税にもあやめ[#「あやめ」に傍点]にもわからなかったが、でもそれはお葉と松女なのであった。
「さあお母様あの館で――十年戸をあけないあけず[#「あけず」に傍点]の館で、懺悔浄罪なさりませ! ……あの館のあの二階で、御寝なされていたお父様の臥所へ、古沼から捕った毒虫を追い込み、それに噛せてお父様を殺した……罪悪の巣の館の二階で、懺悔なさりませ懺悔なさりませ!」
 母の松女の両手を掴み、引きずるようにして導きながら、お葉は館の方へ走るのであった。
 行くまいともがく[#「もがく」に傍点]松女の姿は、捻れ捩れ痛々しかった。
「お葉やお葉や堪忍しておくれ、あそこへばかりは妾《わたし》は行けない! ……この年月、十年もの間、もう妾は毎日々々、心の苛責に苦しんで、後悔ばかりしていたのだよ。……それを、残酷な、娘の身で、あのような所へお母様を追い込み! ……それにあそこ[#「あそこ」に傍点]は、あの館は、扉も雨戸も鎹《かすがい》や太い釘で、厳しく隙なく止めに止めて、めったに開かないようにしてあるのだよ。……いいえいいえ女の力などでは、戸をあけることなど出来ないのだよ。……行っても無駄です! お葉やお葉や!」
 しかし二人が閉扉の館の、裾の辺りまで走りついた時、二人ながら「あッ」と声をあげた。
 二階の雨戸が開いており、梯子がかかっているからであった。
「あッあッ雨戸が開いている! ……十年このかた開けたことのない、閉扉の館の雨戸が雨戸が! それに梯子がかかっているとは!」
 松女は梯子の根元の土へ、恐怖で、ベッタリ仆れてしまった。
 その母親の側《そば》に突っ立ち、これも意外の出来事のために、一瞬間放心したお葉がいた。
 しかし直ぐお葉は躍り上って叫んだ。
「これこそお父様のお導き! お父様の霊のお導き! ……妻よここへ来て懺悔せよと、怒りながらも愛しておられる、お父様の霊魂が招いておる証拠! ……そうでなくて何でそうも厳重に、十年とざされていた閉扉の館の、雨戸が自然と開きましょうや! ……梯子までかけられてありましょうや!」
 母親の手をひっ掴み、お葉は梯子へ足をかけた。
「お母様!」と松女を引き立て、
「さあ一緒に、一緒に参って、お父様にお逢いいたしましょう! いまだに浮かばれずに迷っておられる、悲しい悲しいお父様の亡魂に!」

   月下の殺人

「お葉かえ!」とその途端に、二階から女の声がかかった。
 お葉は無言で二階を見上げた。
 欄干から半身をのり出して、あやめ[#「あやめ」に傍点]が下を見下ろしている。
「あッ、お姉様! どうしてそこには?」
 しかしあやめ[#「あやめ」に傍点]はそれには答えず、松女の姿へじっと眼をつけ、
「お葉やお葉や、そこにいるのは?」
「お母様よ! お姉様!」
「お母様だって? 良人《おっと》殺しの!」
「…………」
「良人殺しの松女という女かえ!」
「…………」
「よくノメノメとここへは来られたねえ」
「いいえお姉様」とお葉は叫んだ。
「わたしがお母様をここまで連れて……」
「お前がお母様を? 何のために?」
「お父様を殺したあのお部屋へ、お母様をお連れして懺悔させようと……」
「その悪女、懺悔するかえ?」
「あやめ[#「あやめ」に傍点]や!」とはじめて松女は叫んだ。
 連続して起こる意外の出来事に、今にも発狂しようとして、やっと正気を保っている松女が、嗄《しゃが》れた声で叫んだのである。
「あやめ[#「あやめ」に傍点]や……お前までが……この屋敷へ! ……いいえいいえ生みの家へ……おおおお帰っておいでだったのか! ……あやめ[#「あやめ」に傍点]や、あんまりな、あんまりな言葉! ……悪女とは! 懺悔するかえとは! ……わたしは、あれから、毎日々々、涙の乾く暇もないほどに、後悔して後悔して……」
「お黙り!」と絹でも引裂くような声が、――あやめ[#「あやめ」に傍点]の声が遮った。
「わたしは先刻《さっき》から雨戸の隙から、お前さんたちの様子を見ていたのだよ。……お葉がお前さんを引っ張って、この二階へ連れて来ようとするのに、お前さんは行くまいと拒んでいたじゃアないか……ほんとうに後悔しているなら、日夜二階の部屋へ来て、香でも焚いて唱名して、お父様の菩提を葬えばよいのだ! ……それを行くまいとして拒むのは、……」
「あやめ[#「あやめ」に傍点]や、それも恐ろしいからだよ。……あのお方の怨みが恐ろしく、わたしの罪業が恐ろしく、その館が恐ろしく……」
「おおそうとも、恐ろしいとも! この館は今も恐ろしいのだ! ……恐ろしいのも色々だが、今のこの館の恐ろしさは、又もやむごたらしい[#「むごたらしい」に傍点]人殺しが、行なわれようとしていることさ!」
「また人殺しが? 誰が、誰を?」
「お前さんの良人の主馬之進と、主馬之進の兄の松浦頼母とが、たくさんの眷族をかたらって、わたしとわたしの恋しい人とを、この館へとりこめて、これから殺そうとしているのさ。……お聞き、聞こえるだろう、戸をこわしている音が! ……館の裏の戸をぶちこわして、この館へ乱入し、わたしたちを殺そうとしているのさ! ……あッ、しめた! いいことがある! ……お葉やお葉やその女を捉え、ここへおよこし、引きずり上げておくれ! 人質にするのだよその女を! ……もう大丈夫だ、殺されっこはない。その女を人質に取っておいたら、いかな主馬之進や頼母でも、わたしたちを殺すことは出来ないだろうよ。……」
 松女の腕を捉《と》り引きずり引きずり、梯子を上るお葉の姿が、すぐに月光に照らされて見えた。
 松女を中へ取り籠めて、あやめ[#「あやめ」に傍点]とお葉と主税とが、刀や短刀を抜きそばめ、闇の二階の部屋の中に、息を殺して突立ったのは、それから間もなくのことであった。
 裏戸の破られた音が聞こえた。
 乱入して来る足音が聞こえた。
 間もなく階段を駈け上る、数人の足音が聞こえてきた。
「よし降り口に待ちかまえていて……」と、主税は云いすて三人を残し、階段の降り口へ突進して行った。
 頼母の家来の一人の武士が、いつの間に用意したか弓張提燈をかかげて、階段を駆け上り姿を現わした。
 その脳天を真上から、主税は一刀に斬りつけた。
 わッという悲鳴を響かせながら、武士は階段からころがり落ちた。
「居たぞ!」
「二階だ!」
「用心して進め!」
 声々が階下から聞こえてきた。

   さまよう娘

 この頃植木師の一隊が、植木車を数台囲み、荏原屋敷の土塀の外側を、山の手の方へ進んでいた。車には植木が一本もなかった。
 どこかのお屋敷へ植木を植えて、車をすっかり空にして、自分たちの本拠の秩父の山中へ、今帰って行く途中らしい。
 二十人に近い植木師たちは、例によって袖無しに伊賀袴を穿き、山岡頭巾をかむった姿で、粛々として歩いていた。
 その中に一人女がいた。意外にもそれはお八重であった。
 やはり袖無しを着、伊賀袴を穿き、山岡頭巾をかむっている。
 肩を落とし、首を垂れ、悄々《しおしお》として歩いて行く姿は、憐れに寂しく悲しそうであった。それにしてもどうして植木師などの中に、彼女、お八重はいるのであろう?
 松浦頼母の一味によって、田安様お屋敷の構内で、お八重もあのとおり迫害されたが、でも辛うじて構内から遁れた。すると、そこに屯《たむろ》していたのが、十数人の植木師たちであった。
 彼女は植木師たちに助けを乞うた。植木師たちは承知して、彼女に彼らの衣裳を着せ、追って来た頼母の家来たちの眼を、巧みにくらませて隠してくれた。
 それからというもの彼女はその姿で、植木師たちと一緒に住み、植木師たちと一緒に出歩き、恋人主税の行方を探し、今日までくらして来たのであった。
 主税もお葉もその姉のあやめ[#「あやめ」に傍点]も、無事に田安邸から遁れ出たという、そういう消息は人伝てに聞いたが、どこに主税が居ることやら、それはいまだに解らなかった。
 植木師たちの本拠は秩父にあったが、秩父から直接植木を運んで、諸家へ植え込みはしないのであった。
 まず秩父から運んで来て、本門寺つづきの丘や谷に、その植木をとりこ[#「とりこ」に傍点]にして置き――そこが秩父の出店なのであるが――そこから次々に植木を運んで、諸家へ納めるようにしているのであった。ところがとりこ[#「とりこ」に傍点]にして置いたたくさんの植木が、今日ですっかり片付いてしまった。
 そこで彼らは本拠の秩父へ、今夜帰って行くことにし、今歩いているのであった。……
(わたしには他に行くところはない。わたしも秩父へ行くことにしよう)
 お八重はこう悲しく心に決めて、彼らと一緒に歩いているのであった。
(主税様はどこにどうしておられるやら。……)
 思われるのは恋人のことであった。
 ほとんど江戸中残るところなく、主税の行方を探したのであったが、けっきょく知ることが出来なかった。
 秩父山中へ行ってしまったら、――又、江戸へでる機会はあるにしても、秩父山中にいる間は、主税を探すことは出来ないわけであって、探すことさえ出来ないのであるから、まして逢うことは絶対に出来ない。
 このことが彼女には悲しいのであった。
(いっそ江戸へ残ろうかしら?)
 でも一人江戸へ残ったところで、生活《くら》して行くことは出来そうもなかった。
 奉公をすれば奉公先の屋敷へ、体をしばられなければならないし、と云ってまさかに門付などになって、人の家の門へなどは立てそうもなかった。
(わたしには主税様は諦められない)
 月光が霜のように地面を明るめ、彼女の影や植木師たちの影を、長く細く曳いていた。
 荏原屋敷の土塀に添って、なお一行は歩いていた。
 と、土塀を抜きん出て、植込がこんもり茂っていたが、その植込の葉の陰から、何物か躍り出して宙を飛び、お八重の肩へ飛び移った。
「あれッ」とさすがに驚いて、お八重は悲鳴をあげ飛び上ったが、そのお八重の足許の地面へ、お八重の肩から飛び下りた物が、赤いちゃんちゃんこ[#「ちゃんちゃんこ」に傍点]を着た小猿だったので、お八重は驚きを繰り返して叫んだ。
「まア、お前は藤八じゃアないかえ!」
 さよう、それはお葉の飼猿、お八重もよく知っている藤八猿であった。

   奇怪な邂逅

 藤八猿が居るからには、持主のお葉がいなければならない。――とお八重はそう思った。お葉に逢って訊ねたならば、恋人主税のその後の消息《ようす》を、耳にすることが出来るかもしれない。――
(このお屋敷の土塀を越して、藤八猿は来たはずだった!)
 裾にまつわる藤八猿を、自由に裾にまつわらせながら、お八重は荏原屋敷の土塀を見上げた。土塀を高くぬきん出て、繁った植込の枝や葉が建物の姿を隠している。
(人声や物音がするようだが?)
(何か間違いでも起こったのかしら?)
(それとも妾《わたし》の空耳かしら?)
 なおもお八重は聞き澄ました。物音は間断なく聞こえてくる。
 主税の消息《ようす》を知っているお葉が、居るかもしれない屋敷の構内から、不穏な物音の聞こえるということは、お八重にとっては心配であった。
(妾、屋敷内へ入って行ってみようか?)
 でもどこから入れるだろう? 土塀を乗り越したら入れるかもしれない。
 けれどそんなことをしているうちに、植木師の一隊は彼女を見捨て秩父山中へ行ってしまうにちがいない。
 現に彼女が思案に余って、土塀を眺めて佇んでいる間に、植木師の一隊は彼女から離れて、一町も先の方を歩いているのだから。……
(どうしよう? どうしたらよかろう?)
 地団太を踏みたい心持で、彼女は同じ所に立っていた。
 でも、間もなく彼女の姿が、土塀に上って行くのが見えた。
 恋人の消息が知れるかも知れない。――この魅力が荏原屋敷へ、彼女をとうとう引き入れたのであった。
 月光に照らされたお八重の姿が、閉扉《あけず》の館の前に現われたのは、それから間もなくのことであった。
 高い二階建ての館の二階へ、地上から梯子がかかってい、閉ざされている鎧のような雨戸が、一枚だけ開いている。そうして館の裏側と、館の屋内から人声や物音が、間断なく聞こえてくるようであった。
(やはり何か事件が起こっているのだよ)
 お八重は二階を見上げながら、しばらく茫然《ぼんやり》と佇んでいた。
 すると、あけられてある雨戸の隙から、薄赤い燈火《ともしび》の光が射し、つづいて人影が現われた。龕燈を持った老人で、それは「飛加藤の亜流」であった。
 飛加藤の亜流は雨戸の隙から出て、梯子をソロソロと降り出した。
 飛加藤の亜流が地へ下り立ち、お八重と顔を合わせた時、お八重の口から迸しり出たのは、「叔父様!」という言葉であった。
「姪か、お八重か、苦労したようだのう」
 飛加藤の亜流はこう云って、空いている片手を前へ出した。
 お八重はその手へ縋りついたが、
「叔父様、どうしてこのような所に……」
「わしは飛加藤の亜流なのだよ、どのような所へでも入り込まれるよ。……お前の父親、わしの実兄の、東海林自得斎《しょうじじとくさい》が極重悪木を利用し、自由に人が殺せるようにのう。……それにしてもわし達兄弟は、何という変わった兄弟であろう。徳川によって滅ぼされた、小西摂津守の遺臣として、徳川家に怨みを抱いていることは、わしも兄上も同じなのではあるが、兄上は魔神の世界に住んで、悪木を作り人を殺し――田安中納言家をはじめとし、徳川家に縁ある人々を殺し、主家の怨を晴らそうとしているのに、わしは一念頓悟して、誠の教の庭に住み、真実《まこと》の人間を目つけ出そうとして、乞食のように歩き廻っている。……わが兄ながら惨忍な、実の娘を間者として、田安家の大奥へ住み込ませ、淀屋の独楽を奪わせようとは……」
「まあ叔父様、そのようなことまで……」
「わしは飛加藤の亜流なのだよ、どのようなことでも知っている……」
「では、叔父様には、淀屋の独楽の――三個《みっつ》あるという淀屋の独楽の、その所在《ありばしょ》もご存知なので?」
「一個《ひとつ》は頼母が持っておる。お前を苦しめた松浦頼母が。もう一つは主税が持っておる、お前が愛している山岸主税が。……が、最後の一つはのう」
「最後の一個は? 叔父様どこに?」
「それは云えぬ、今は云えぬ! ……勿論わしは知っているが」

   聞こえる歌声

「では叔父様、独楽にまつわる[#「まつわる」に傍点]、淀屋の財宝の所在も?」
「淀屋の財宝を守護する者こそ、この飛加藤の亜流なのだよ」
「…………」
「この荏原屋敷の先代の主人は、わしの教の弟子なのじゃ。そうして淀屋の財宝は、この荏原屋敷に隠されてあるのじゃ。淀屋の財宝の所在について、わしの知っているのは当然であろう」
「…………」
「おいで、お八重」と飛加藤の亜流は云って、館を巡って歩き出した。
「眼には眼をもって、歯には歯をもって……因果応報の恐ろしさを、若いお前に見せてあげよう」
 お八重は飛加藤の亜流の後から、胸を踊らせながら従《つ》いて行った。

 この頃館の裏口では、頼母と主馬之進とが不安そうに、破壊された戸口から屋内《なか》を覗きながら、聞こえてくる物音に耳を澄ましていた。
 そこへ屋内から走り出して来たのは、飛田林覚兵衛《とんだばやしかくべえ》であった。
「大変なことになりましてございます。主税《ちから》めどうして手に入れましたものか、主馬之進《しゅめのしん》殿のご内儀を捕虜《とりこ》とし、左様人質といたしまして、その人質を盾となし、二階座敷に攻勢をとり、階段を上る我らの味方を、斬り落とし斬り落としいたしまする」
 大息吐いて注進する後から、お喋舌《しゃべ》りの勘兵衛《かんべえ》が飛出して来て、
「坂本様も宇津木殿も、斬り仆されましてございます。とてもこいつア敵《かな》いませんや。向こうにゃア奥様という人質があって、こっちが無鉄砲に斬り込んで行きゃア、奥様に大怪我させるんですからねえ」とこれも大息吐いて呶鳴り立てた。
「ナニ家内が描虜にされた※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」とさすがの主馬之進も仰天したらしく、
「それは一大事うち捨ては置けない! ……方々お続き下されい!」と屋内へ夢中で駈け込んだ。
「では拙者も」と、それにつづいて覚兵衛が屋内に駈け込めば、
「それじゃアあっし[#「あっし」に傍点]ももう一度」と勘兵衛も意気込んで駈け込んだ。
(夫婦の情愛は別のものだな)と後に残った頼母は呟き、戸口から屋内を覗き込んだ。
(臆病者の主馬ではあるが、女房が敵の手に捕らえられたと聞くや、阿修羅のように飛び込んで行きおった。……ところで俺《わし》はどうしたものかな?)
 頼母にとっては松女《まつじょ》の命などより、淀屋の財宝の方が大切なのであった。主税やあやめ[#「あやめ」に傍点]などを討ってとるより、独楽の秘密を解くことの方が、遥かに遥かに大切なのであった。
 で、危険な屋内などへは、入って行く気にはなれないのであった。
 太刀音、掛け声、悲鳴などが、いよいよ烈しく聞こえてはきたが、頼母ばかりはなお門口に立っていた。
 するとその時老人の声が、どこからともなく聞こえてきた。しかもそれは歌声であった。
(はてな?)と頼母は聞き耳を立てた。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]真昼頃、見る日は南、背後《うしろ》北、左は東、右は西なり
[#ここで字下げ終わり]
 歌の文句はこうであった。
 そうしてその歌声は林の奥の、古沼の方から聞こえてくる。
「見る日は南と云ったようだな」と頼母は思わず声に出して云った。
(見る日は南というこの言葉は、独楽の隠語の中に有ったはずだ。その言葉を詠み込んだ歌を歌うからには、その歌の意味を知っていなければならない)
 頼母は歌の聞こえた方へ、足を空にして走って行った。
 歌の主を引っ捕らえ、歌の意味を質《ただ》そうと思ったからである。
 歌声は林に囲繞された大古沼の方から聞こえてきた。
 頼母は林の中へ走り込んだ。
 でも林の中には人影はなく、落葉松《からまつ》だの糸杉だの山桜だの、栗の木だの槇の木だのが繁りに繁り、月光を遮ぎり月光を澪し、萱だの芒だのいら[#「いら」に傍点]草だのの、生い茂り乱れもつれ[#「もつれ」に傍点]合っている地面へ、水銀のような光の斑を置き、長年積もり腐敗した落葉が、悪臭を発しているばかりであった。

   秘密は解けたり!

 そうして林の一方には、周囲五町もある大古沼が、葦だの萱だのに岸を茂らせ、水面に浮藻や落葉を浮かべ、曇った鏡のように月光に光り、楕円形に広がっていた。そうして沼の中央に在る、岩で出来ている小さい島の、岩の頂にある小さい祠が、鳥の形に見えていた。
 でも人影はどこにもなかった。失望して頼母は佇んだ。
 と、又もや歌声が、行手の方から聞こえてきた。
(さてはむこうか)と頼母は喜び、跫音《あしおと》を忍ばせてそっちへ走った。
 茨と灌木と蔓草とで出来た、小丘のような藪があったが、その藪の向こう側から、男女の話し声が聞こえてきた。
(さては?)と頼母は胸をドキつかせ、藪の横から向こう側を覗いた。
 一人の娘と一人の老人とが、草に坐りながら話していた。
 老人は白髪白髯の、神々しいような人物であったが、しかしそれは一向見知らない人物であった。しかし、女の方はお八重であった。田安中納言家の腰元で、そうして自分が想いを懸けた、その美しいお八重であった。
(これは一体どうしたことだ。こんな深夜にこんな所に、お八重などがいようとは?)
 夢に夢見る心持で、頼母は一刹那ぼんやりしてしまった。
 しかし、老人の膝の側《そば》に、龕燈が一個《ひとつ》置いてあり、その龕燈の光に照らされ、淀屋の独楽に相違ない独楽が、地上に廻っているのを眼に入れると、頼母は俄然正気づいた。
(独楽がある! 淀屋の独楽が! 三つ目の独楽に相違ない!)
 この時老人が話し出した。
「ね、この独楽へ現われる文字は『真昼頃』という三つの文字と『背後《うしろ》北、左は東、右は西なり』という、十一|文字《もじ》の外《ほか》にはない。……もう一つの独楽に現われて来るところの『見る日は南』という五つの文字へ、この独楽へ現われた文字を差し加えると「真昼頃、見る日は南、背後北、左は東、右は西なり」という、一首の和歌になるのだよ。……そうしてこの和歌は古歌の一つで、方角を教えた和歌なのさ。広野か海などをさまよって、不幸にも方角を失った際、それが真昼であったなら、先ず太陽を見るがよい。太陽は南にかかっているであろう。だから背後は北にあたり、左は東、右は西にあたる。――ただこういう意味なのだよ」
「でも、そんな和歌が淀屋の財宝と、どんな関係があるのでございます?」と好奇心で眼を輝かせながら、お八重は息をはずませて訊いた。
「淀屋の財宝の所在《ありばしょ》が、この和歌の中に詠まれているのだよ。……太陽を仰いでいる人間の位置は、東西南北の中央にある。その人間の位置にあたる所に、淀屋の財宝が隠されてあるのさ」
「ではどこかの中央に?」
「この屋敷の中央に?」
「この屋敷の中央とは?」
「荏原屋敷は大昔においては、沼を中央にして作られていたものさ」
「まア、では、財宝は古沼の中に?」
「沼の中央は岩の小島なのさ」
「まア、では、沼の小島の内に?」
「小島の中央は祠なのだ」
「では淀屋の財宝は祠の中に隠されてあるのね」
「そうだ」と老人は感慨深そうに云った。
「そうしてそのことを知っている者は、荏原屋敷の先代の主人と、この飛加藤の亜流だけなのさ。そうしてそのことを記してあったのは、三つの淀屋の独楽だけだったのさ。その独楽は以前には三つながら、荏原屋敷にあったのさ。ところがいつの間にか三つながら、荏原屋敷から失われてしまった。だがその中の一つだけは、ずっとわし[#「わし」に傍点]が持っていた。……それにしても淀屋の独楽を巡って、幾十人の者が長の年月、悲劇や喜劇を起こしたことか。……でも、いよいよ淀屋の独楽が、一所に集まる時期が来た。……お八重、わしに従《つ》いておいで。淀屋の財宝の莫大な額を、親しくお前の眼に見せてあげよう」
 地上の独楽を懐中に納め、龕燈を取り上げて飛加藤の亜流は、やおら草から立ち上った。
 お八重もつづいて立ち上ったが、
「でも叔父様、船もないのに、沼を渡って、どうして小島へ……」

   因果応報

「ナーニ、わしは飛加藤の亜流だよ。どんなことでも出来る人間だよ。そうしてわしに従《つ》いてさえ来れば、お前もどんなことでも出来るのだよ。……沼を渡って行くことなども……」
 二人は沼の方へ歩いて行った。
 藪の陰に佇んで、見聞きしていた頼母は太い息を吐き、
「さてはそういう事情だったのか」と声に出して呟いた。
(淀屋の独楽の隠語は解けた。淀屋の財宝の在場所も知れた)
 このことは頼母には有り難かったが、飛加藤の亜流とお八重とが揃って、財宝の所在地へ行くということが、どうにも不安でならなかった。
(財宝を二人に持ち出されては、これまでの苦心も水の泡だ)
 こう思われるからであった。
(俺も沼の中の島へ行こう)
 ――頼母は飛加藤の亜流の後を追い、沼の方へ小走った。
 頼母が沼の縁へ行きついた時、彼の眼に不思議な光景が見えた。
 月光に薄光っている沼の上を、飛加藤の亜流という老人が、植木師風のお八重を連れ、まるで平地でも歩くように、悠々と歩いて行くのであった。重なっていた浮藻が左右に別れ、水に浮いて眠っていた鴨の群が、これも左右に別れるのさえ見えた。
(水も泥も深い沼だのに、どうして歩いて行けるのだろう?)
 超自然的の行動ではなくて、水中に堤防が作られていて、陸からはそれが見えなかったが、飛加藤の亜流には解《わか》っていたので、それを渡って行ったまでである。しかし頼母には解っていなかったので、呆然佇んで見ていたが、
(そうだ、飛加藤の亜流には、出来ないことはないはずだった。水を渡ることなど何でもないのだろう。……飛加藤の亜流にさえ従《つ》いて行けば、こっちの身も沼を渡れるだろう)
 頼母は沼の中へ入って行った。
 しかし数間とは歩けなかった。水が首まで彼を呑んだ。蛭、長虫が彼を目指し、四方八方から泳ぎ寄って来た。
「助けてくれーッ」と悲鳴を上げ、頼母は岸へ帰ろうとした。
 しかし深い泥が彼の足を捉え、彼を底の方へ引き込んだ。
 突然彼の姿が見えなくなり、彼の姿の消えた辺りへ、泡と渦巻とが現われた。
 と、ふいにその水面へ、一つの独楽が浮かび上った。頼母の持っていた独楽であって、水底に沈んだ彼の懐中から、水の面へ現われたのであった。独楽にも長虫はからみ付いていた。そうしてその虫は島を指して泳いだ。飛加藤の亜流とお八重との姿が、その島の岸に立っていた。そっちへ独楽は引かれて行く。

 閉扉《あけず》の館の二階では、なお血闘が行なわれていた。頼母の家来の数名の者が、死骸となって転がっていた。
 髪を乱し襟を拡げ、返り血を浴びた主税がその間に立ち、血にぬれた刀を中段に構え、開いている雨戸から射し込んでいる月光《ひかり》に、姿を仄かに見せていた。
 その背後《うしろ》に息を呑み、あやめ[#「あやめ」に傍点]とお葉とが立っていた。二人の女の持っている刀も、ヌラヌラと血にぬれていた。そうして二人の女の裾には、ほとんど正気を失ったところの、松女が倒れて蠢いていた。
 階段の下からは罵る声や怒声が、怯かすように聞こえてくる。
 しかし登っては来なかった。
 これ迄に登って行った者一人として、帰って来る者がないからであった。決死の主税に一人のこらず、二階で討って取られたからであった。
 しかしにわかにその階下から、主馬之進の声が聞こえてきた。
「お松、お松、お松は二階か! 心配するな、俺が行く!」
 つづいて勘兵衛の声が聞こえる。
「旦那、あぶねえ、まアお待ちなすって! ……とてもあぶねえ、うかつ[#「うかつ」に傍点]には行けねえ! ……行くなら皆で、みんなで行きやしょう! ……覚兵衛殿、覚兵衛殿、あんたが真先に!」
 しかし飛田林覚兵衛の声は、それに対して何とも答えなかった。
「お松、お松!」と主馬之進の声が、また悲痛に聞こえてきた。
「すぐ行くぞよ、しっかりしてくれ!」
「勘兵衛放せ、えい馬鹿者!」
 つづいて階段を駆け上る音がし、階段口を睨んでいる主税の眼に、主馬之進の狂気じみた姿が映った。
「…………」

   人々の運命

(来たな!)と主税は雀躍《こおどり》したが、相手を身近く引寄せようとして、かえって部屋の隅へ退いた。
「あなた!」とさながら巾《きぬ》を裂くような声で、倒れている松女が叫んだのは、主馬之進が階段を上り尽くし、二階へ現われた時であった。
「お松!」と叫んで蹣跚《よろめき》々々、主馬之進はお松の方へ走り寄った。
「…………」
「…………」
 が、その瞬間あやめ[#「あやめ」に傍点]とお葉とが、左右から飛鳥のように躍りかかり、
「お父様の敵《かたき》!」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は叫び、脇差で主馬之進の胸を突くと、
「お父様の敵!」とお葉も叫び、主馬之進の脇腹を匕首《あいくち》で刺した。
 グタグタと主馬之進は仆たれが、必死の声を絞って叫んだ。
「ま、待ってくれ! 少し待ってくれ! どうせ殺されて死んでゆく俺《わし》、殺されるのは恐れないが、それ前にお松へ云いたいことがある! それも懺悔だ、お松へのお礼だ! ……おおおおお松、よくまアこれまで、貞女を保ってくらして来たなア。……俺と夫婦にはなったものの、拒んで拒んで拒みとおして、俺とは一度の枕も交わさず、よくまア貞操《みさお》を立て通したものだ! ……そのため俺はどんなに怒り、どんなに苦しみ苦しんだことか! ……しかし今になって考えてみれば、けっきょくお前が偉かったのだ! ……俺はただ名ばかりの良人《おっと》として、荏原屋敷の格と財産とを、今日まで守護して来たばかりだった。……」
「主馬之進殿オーッ」
 松女は松女で、主馬之進へ取り縋り、
「あなたが御兄上の頼母様ともども、わたくしの家へ接近なされ、先代の主人わたくしの良人と、何くれとなく懇意になされ、やがては荏原屋敷の家政へまで、立ち入るようになりましたので、苦々しく思っておりましたところ、わたくし良人の申しますには『わしはもう長の病気、余命わずかと覚悟しておる。わがなき後はこの大家族の、荏原屋敷を切り廻してゆくこと、女のお前ではとうてい出来ない。幸い主馬之進殿そなたに対し、愛情を感じておるらしく、それに主馬之進殿の兄上は、田安家の奥家老で権勢家、かたがた都合がよいによって、俺《わし》の死んだ後は主馬之進殿と、夫婦になって荏原屋敷を守れ』と……その時|妾《わたし》はどんなに悲しく『いいえ妾はあなたの妻、あなたがおなくなりなさいました後は、有髪の尼の心持で、あなた様のご冥福をお祈りし』『それでは屋敷は滅びるぞ! 先祖に対して相済まぬ!』『では妾は形ばかり主馬之進様の妻となり……』こうして妾は良人の死後……」
「その御先代の死態だが……」
 いよいよ迫る死の息の下で、主馬之進は云いついだ。
「変死、怪死、他殺の死と、人々によって噂され、それに相違なかったが、しかし決してこの主馬之進が、手をくだして殺したのでもなく、他人《ひと》にすすめて殺したのでもない! ……わしの僕《しもべ》のあの勘兵衛、わしがこの家へ住み込ませたが、性来まことにかるはずみの男、勝手にわしの心持を……わしが先代のこの屋敷の主人の、死ぬのを希望《のぞ》んでいるものと推し、古沼から毒ある長虫を捕り、先代の病床へ投げ込んで……」
 しかしこれ以上断末魔の彼には、言葉を出すことが出来なくなったらしい、両手で虚空を握む[#「握む」はママ]かと見えたが、体をのばして動かなくなった。
「あやめ[#「あやめ」に傍点]よ、お葉よ、二人の娘よ!」と、これは精神の過労から、死相を呈して来た松女は叫んだ。
「お前たちの母は、荏原屋敷の主婦は、おおおお決してお前たちの、思い込んでいたような悪女でないこと……お解《わか》りかお解りか! ……なき良人の遺言を守って、家のためにこの身を苦しめ……でも、もう妾は生きていたくない! ……可哀そうな主馬様の後を追い……」
「お母様アーッ」
「お母様アーッ」
 意外の事の真相に、心を顛動させた二人の娘は、左右から母へすがりついた。
「そうとは知らずお母様を怨み……」
「そうとは知らず主馬之進殿を殺し……」
「わたしたちこそどうしよう!」
「お母様アーッ」
「主馬之進様アーッ」
「いやいや」と、本当に最後の息で、主馬之進は言葉を発した。
「やっぱりわしは殺されていい男……荏原屋敷を横領し、隠されてある淀屋の財宝を、ウ、奪おう、ト、取ろうと……殺されていい身じゃ殺されていい身じゃ」
 まったく息が絶えてしまった。
 途端に松女もガックリとなった。
 この時階段の上り口から、勘兵衛の狼狽した喚き声が聞こえた。
「不可《いけ》ねえ、殺《やら》れた、旦那が殺れた! ……オ、奥様も死んだらしいわ――ッ」
 バタバタと階段から駈け下りる音が、けたたましく聞こえてきた。
 しかし、その音は中途で止んで、呻き声が聞こえてきた。見れば階段の中央の辺りに、勘兵衛の体が延びていた。
 紐が首に捲き付いている。
 そうしてその紐は手繰《たぐ》られて、勘兵衛の体は階段を辷って、二階の方へ上って行った。紐を手繰っているのはあやめ[#「あやめ」に傍点]であった。
「古沼から蝮を捕らえて来て、この座敷へ投げ入れて、直々お父様を殺した汝《おのれ》! 今度こそ遁さぬくたばれくたばれ[#「くたばれくたばれ」に傍点]!」
 勘兵衛の体が二階へ上るや、あやめ[#「あやめ」に傍点]は勘兵衛に引導を渡し、脇差で勘兵衛の咽喉をえぐった。
 ある時は主馬之進の若党となり、ある時は見世物の太夫元となり、ある時は荏原屋敷の僕《しもべ》となり、又ある時は松浦頼母の用心棒めいた家来となって、悪事をつくした執念深い、一面道化た勘兵衛も、今度こそ本当に殺されたのであった。

 なお階下《した》にいる敵《かたき》の輩下を、討って取ろうと主税[#「主税」は底本では「主悦」]やあやめ[#「あやめ」に傍点]達が、二階から階下へ駈け下りるや、飛田林覚兵衛が先ず逃走し、その他の者共一人残らず、屋敷から逃げ出し姿を消してしまった。
 こうして今までは修羅の巷として、叫喚と悲鳴とで充たされていた屋敷は、静寂の場と化してしまった。わけてもあけず[#「あけず」に傍点]の館の二階は、無数の死骸を抱いたまま凄じい静かさに包まれていた。
 と、その部屋へ雨戸の隙から、子供のような物が飛び込んで来た。
 それは藤八猿であった。
 乱闘の際に懐中《ふところ》から落とした、主税[#「主税」は底本では「主悦」]の持っていた淀屋の独楽が、部屋の片隅にころがっているのへ、その藤八猿は眼を付けると、それを抱いて部屋を飛び出し、雨戸の隙から庭へ下り、さらに林の中へ走り込んだ。
 でも古沼の縁まで来た時、その独楽にも飽きたと見え、沼を目掛けて投げ込んだ。
 と独楽は自ずと動いて、小島の方へ進んで行った。飛加藤の亜流が超自然の力で、独楽を島の方へ招いたのでもあろうか。いややはり長虫が巻き付いていて、島の方へ泳いで行ったからである。

 お八重よりも一層生死を共にし、苦難に苦難を重ねたところの、あやめ[#「あやめ」に傍点]と主税[#「主税」は底本では「主悦」]とは夫婦になり、一旦は辛労で気絶したものの、息吹き返した貞婦の松女や、妹娘のお葉と一緒に、荏原屋敷に住むようになったのは、それから間もなくのことであり、そういう事実をさぐり知り、主税[#「主税」は底本では「主悦」]との恋を断念したお八重は、父の許秩父の山中へも帰らず、飛加藤の亜流の弟子となり、飛加藤の亜流に従って、世人を説き廻ったということである。
 淀屋の財宝はどうなったか? 一つに集まった独楽と一緒に、いぜんとして古沼の島の中にあるか、飛加藤の亜流やお八重の手により、他の場所へ移されたか? 謎はいまだに謎として、飛加藤の亜流とお八重以外には、知る者一人もないのであった。しかし飛加藤の亜流の教義が、その後ますます隆盛になり、善人に対し善事に対し、飛加藤の亜流は惜気もなく、多額の金子を与えたというから、淀屋の財宝はその方面に、浄財としてあるいは使われたのかもしれない。
 松女がその後有髪の尼として、清浄の生活を継続し、良人や主馬之進をとむらいながら、主税[#「主税」は底本では「主悦」]夫婦やお葉によって孝養されたということや、お葉が良縁を求めながら、その優しい心持から、藤八猿を可愛がり、いつまでも手放さなかったというようなことは、あえて贅言する必要はあるまい。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
   1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「講談雑記」
   1936(昭和11)年1月~10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本は、「おっしゃる」に「仰有る」と「有仰る」を混記しています。原義が「オオセ・アル」であることから、「有仰る」を注記の上「仰有る」に改め、表記の統一を図りました。
※「袖の中には?」「怪しの浪人」などの小見出しは、底本では天付きですが、3字下げとしました。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
YYYY年MM月DD日作成
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を走り、雨戸を蹴破り庭へ出た。
 そういう山岸主税であった。
 すぐに月光が二人を照らした。その月光の蒼白いなかに、二つの女の人影があったが、
「山岸様!」
「お八重様!」
 と、同時に叫んで走り寄って来た。
「あッ、そなたはあやめ[#「あやめ」に傍点]殿!」
「まあまああなたはお葉様か!」
 主税とお八重とは驚いて叫んだ。
「事情は後から……今は遁れて! ……こっちへこっちへ!」と叫びながら、あやめ[#「あやめ」に傍点]は門の方へ先頭に立って走った。
 後につづいて一同も走った。開けられてある門を出れば、田安家お屋敷の廓内であった。
 木立をくぐり建物を巡り、廓《くるわ》の外へ出ようものと、男女四人はひた[#「ひた」に傍点]走った。するとその時|背後《うしろ》から、追い迫って来る数人の足音が聞こえた。
(一人二人叩っ斬ってやろう)
 今まで苦しめられた鬱忿と、女たちを逃がしてやる手段としても、そうしなければなるまいと主税は咄嗟に決心した。
「拙者にかまわず三人には、早く土塀を乗り越えて、屋敷より外へお出でなされ。……拙者は彼奴《きゃつ》らを一人二人! ……」
 云いすてると主税は引っ返した。
「それでは妾《わたし》も!」と強気のあやめ[#「あやめ」に傍点]が、主税の後から後を追った。
「お葉や、お前はお八重様を連れて……」
「あい。……それでは。……お八重様!」
 二人の女は先へ走った。主税の正面から浪人の一人が、命知らずにも斬り込んで来た。
「怨、晴らすぞ!」と主税は喚き、片膝折り敷くと思ったが、抜き持っていた刀を横へ払った。斬られた浪人は悲鳴と共に、手から刀を氷柱のように落とし、両手で右の脇腹を抑え、やがて仆れてノタウチ廻った。
 すると、その横をひた[#「ひた」に傍点]走って、あやめ[#「あやめ」に傍点]の方へ突き進む男があった。
「八重! 女郎《めろう》! 逃がしてたまるか!」
 あやめ[#「あやめ」に傍点]をお八重と間違えたらしく、こう叫んで大手を拡げたのは、太夫元の勘兵衛であった。
「汝《おのれ》は勘兵衛! 生きていたのか!」
 お高祖頭巾をかなぐり捨たあやめ[#「あやめ」に傍点]は、内懐中《うちぶところ》へ片手を差し入れたまま、さすがに驚いて声をかけた。
「わりゃアあやめ[#「あやめ」に傍点]!」と仰天し、勘兵衛も震えながら音をあげた。
「どうしてここへ※[#感嘆符疑問符、1-8-78] こんな夜中に!」――でもようやく元気を取り戻すと、
「生き返ったのよ、業が深いからのう。……あんな生温い締め方では……」
「そうか、それじゃアもう一度」
 あやめ[#「あやめ」に傍点]の手が素早く内懐中から抜かれて、高く頭上へ振りかぶられた。瞬間「わーッ」と勘兵衛は叫び、両手で咽喉を掻きむしった。
「これでもか! これでもか! これでもか」
 ピンと延びている紐を手繰《たぐ》り、勘兵衛を地上に引き摺り引き摺り、
「くたばれ! 殺す! 今度こそ殺す! ……お父様の敵《かたき》! 敵の片割れ!」
「山岸氏参るぞ――ッ」と、もう一人の浪人と、主税の横から迫ったのは、飛田林覚兵衛《とんだばやしかくべえ》であった。が、覚兵衛はお八重らしい女が、もう一人の女と遥か彼方を、木立をくぐって走って行くのを見るや、
「南部氏……主税は……貴殿へお任せ! ……拙者はお八重を!」と浪人へ叫び、二人の女を追っかけた。
 頼母は一旦は走り出たが、部屋へ置いて来た独楽のことが、気にかかってならなかった。
 それで屋敷へ取って返し、廊下を小走り部屋へ入った。
「あッ」
 頼母は立縮んだ。
 赤いちゃんちゃんこを着た一匹の小猿が、淀屋の独楽を両手に持ち、胸の辺りに支えて覗いているではないか。
 頼母はクラクラと眼が廻った。
「…………」
 無言で背後から躍りかかった。
 その頼母の袖の下をくぐり、藤八猿は独楽を握ったまま、素早く廊下へ飛び出した。
「はーッ」と不安の溜息を吐き、後を追って頼母も廊下へ出た。数間の先を猿は走っている。
「はーッ」
 頼母はよろめきながら追った。猿は庭へ飛び下りた。頼母も庭へ飛び下りたが、猿の姿は見えなかった。
 頼母はベタベタと地へ坐った。
「取られた! ……独楽を! ……淀屋の独楽を! ……猿に! ……はーッ……猿に! 猿に!」

   恋のわび住居

 それから一月の日が経った。桜も散り連翹《れんぎょう》も散り、四辺《あたり》は新緑の候となった。
 荏原郡《えばらごおり》馬込の里の、農家の離家《はなれ》に主税《ちから》とあやめ[#「あやめ」に傍点]とが、夫婦のようにして暮らしていた。
 表面《おもてむき》は夫婦と云ってはいるが、体は他人の間柄であった。
 三間ほどある部屋のその一つ、夕陽の射している西向きの部屋に、三味線を膝へ抱え上げ、あやめ[#「あやめ」に傍点]が一人で坐っていた。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]逢うことのまれまれなれば恋ぞかし
いつも逢うては何の恋ぞも
[#ここで字下げ終わり]
 爪びきに合わせてあやめ[#「あやめ」に傍点]は唄い出した。隆達節《りゅうたつぶし》の流れを汲み、天保末年に流行した、新隆達の小唄なのである。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]の声には艶があった。よく慣らされている咽喉から出て、その声は細かい節となり、悩ましい初夏の午さがりを、いよいよ悩ましいものにした。
 少し汗ばんでいる額の辺りへ、ばらりとほつれた前髪をかけ、薄紫の半襟から脱いた[#「脱いた」はママ]、白蝋のような頸を前に傾げ、潤いを持たせた切長の眼を、半眼にうっとりと見ひらいて、あやめ[#「あやめ」に傍点]は唄っているのであった。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]やるせなや帆かけて通る船さえも
都鳥|番《つが》いは水脈《みお》にせかれたり
[#ここで字下げ終わり]
 不意にあやめ[#「あやめ」に傍点]は溜息をし、だるそうに三味線を膝の上へ置くと、襖ごしに隣室へ声をかけた。
「主税さま、何をしておいで?」
 そとから舞い込んで来たらしい、雌雄《めお》の黄蝶がもつれ合いながら、襖へ時々羽を触れては、幽かな音を立てていた。
「例によりまして例の如くで」
 主税の声が襖のむこうから、物憂そうに聞こえてきた。
「あやめ[#「あやめ」に傍点]殿にはご機嫌そうな、三味線を弾いて小唄をうとうて」
「そう覚しめして?」と眉と眉との間へ、縦皺を二筋深く引き、
「昼日中なんの機嫌がよくて、三味線なんか弾きましょう」
「…………」
 主税からの返事は聞こえてこなかった。
「ねえ主税様」と又あやめ[#「あやめ」に傍点]は云った。
「心に悶えがあったればこそ、座頭の沢市《さわいち》は三味線を弾いて、小唄をうたったじゃアありませんか」
 隣室からは返事がなく、幽かな空咳が聞こえてきた。
 不平そうにあやめ[#「あやめ」に傍点]は立ち上ったが、開けられてある障子の間から、縁側や裏庭が見え、卯の花が雪のように咲いている、垣根を越して麦や野菜の、広々とした青い畑が、数十町も展開《ひら》けて見えた。
(何だろう? 人だかりがしているよ)
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は縁側へ出て行って、畑の中の野道の上に、十数人の男女が集まっているのへ、不思議そうに視線を投げた。
 しかし距離が大分遠かったので、野道が白地の帯のように見え、人の姿が蟻のように見えるだけであった。
 そこであやめ[#「あやめ」に傍点]は眼を移し、はるかあなたの野の涯に、起伏している小山や谷を背に、林のような木立に囲まれ、宏大な屋敷の立っているのを見た。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]にとっては実家であり、不思議と怪奇と神秘と伝説とで、有名な荏原屋敷であった。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]はしばらくその荏原屋敷を、憧憬《あこがれ》と憎悪《にくしみ》とのいりまじった眼で、まじろぎもせず眺めていたが、野道の上の人だかりが、にわかに動揺を起こしたので、慌ててその方へ眼をやった。

   怪老人の魔法

 野道の上に立っているのは、例の「飛加藤《とびかとう》の亜流」と呼ばれた、白髪自髯の老人と、昼も点っている龕燈を持った珠玉のように美しい少年とであり、百姓、子守娘、旅人、行商人、托鉢僧などがその二人を、面白そうに囲繞《とりま》いていた。
 不思議な事件が行なわれていた。
 美少年が手にした龕燈の光を、地面の一所へ投げかけていた。夕陽が強く照っている地面へ、龕燈の光など投げかけたところで、光の度に相違などないはずなのであるが、でもいくらかは違っていて、やはりそこだけが琥珀色の、微妙な色を呈していた。
 と、その光の圏内へ、棒が一本突き出された。飛加藤の亜流という老人が、自然木の杖を突き出したのである。円味を帯びたその杖の先が、地面の一所を軽く突いて、一つの小さい穴をあけると、その穴の中から薄緑色の芽が、筆の穂先のように現われ出で、見る見るうちにそれが延びて、やがて可愛らしい双葉となった。
「これは変だ」「どうしたというのだ」「こう早く草が延びるとは妙だ」と、たかって[#「たかって」に傍点]いた人々は、恐ろしさのあまり飛退いた。双葉はぐんぐんと生長を続け、蔓が生え、それが延び、蔓の左右から葉が生い出でた。二尺、三尺、一間、三間!
 蔓は三間も延びたのである。
 と、忽然蔓の頂上《てっぺん》へ、笠ほどの大きさの花が咲いた。
「わッ」
 人々は声をあげ、驚きと賞讃と不気味さをもって、夕顔のような白い花を、まぶしそうにふり仰いで眺めた。
「アッハッハッ、幻じゃ! 実在《ほんもの》ではない仮の象《すがた》じゃ!」
 夕顔の花から二間ほど離れ、夕顔の花を仰ぎ見ながら、杖に寄っていた飛加藤の亜流は、払子のような白髯を顫わせながら、皮肉に愉快そうにそう云った。
「何で夕顔がこのように早く、このように大きく育つことがあろう! みんなケレンじゃ、みんな詭計じゃ! わしは不正直が嫌いだから、ほんとうのことを云っておく、みんなこいつはケレンじゃと。……ただし、印度の婆羅門僧は、こういうことをケレンでなく、実行するということだが、わしは一度も見たことがないから、真偽のほどは云い切れない。……しかしじゃ、皆さん、生きとし生けるものは、ことごとく愛情を基としていて、愛情あれば生長するし、愛情がなければ育たない。だからあるいはわしという人間が、特に愛情を強く持って『夕顔の花よお開き』と念じ、それだけの経営をやったなら、夕顔の花はその愛に感じ、多少は早く咲くかもしれない。……いやそれにしても現在《いま》の浮世、愛情の深い真面目の人間が、めっきり少くなったのう。……そこでわしは昼も龕燈をともして、真面目の人間よどこかにいてくれと、歩きまわって探しているのさ。……ここにお立ち合いの皆様方は、みんな真面目のお方らしい。そこでわしはわしの信ずる、人間の道をお話しして……いや待てよ、一人だけ、邪悪《よこしま》の人間がいるようだ。死にかわり生きかわり執念深く、人に禍いをする悪人がいる。――こういう悪人へ道を説いても駄目だ。説かれた道を悪用して、一層人間に禍いする! こういう悪人へ制裁を加え、懲すのがわしの務めなのじゃ……」
 突然高く自然木の杖が、夕顔の花と向かい合い、夕焼の空へかざされた。そうしてその杖が横へ流れた途端、夕顔の蔓の一所が折れ、夕顔の花が人間の顔のように、グッタリと垂れて宙に下った。
 同時に獣の悲鳴のような声が、たかっている人達の間から起こり、すぐに乾いている野道から、パッと塵埃《ほこり》が立ち上った。
 見れば一人の人間が、首根ッ子を両手で抑え、野道の上を、塵埃の中を、転げ廻りノタウッている。
 意外にもそれは勘兵衛であった。二度までも浪速あやめ[#「あやめ」に傍点]によって、締め殺されたはずの勘兵衛であった。

   怨める美女

 その距離が遠かったので、縁に立って見ているあやめ[#「あやめ」に傍点]の眼には、こういう異変《かわ》った出来事も、人だかりが散ったり寄ったりしていると、そんなようにしか見えなかった。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は座敷へ引き返し、間《あい》の襖《ふすま》の前に立ち、そっとその襖を引き開けた。
 山岸主税《やまぎしちから》がこっちへ背を向け、首を垂れて襟足を見せ、端然として坐ってい、その彼の膝のすこし向うの、少し古びた畳の上で、淀屋の独楽が静かに廻っていた。また何か文字でも現われまいかと、今日も熱心に淀屋の独楽を、彼は廻しているのであった。
「あッ!」と主税は思わず叫んだ。
「何をなさる、これは乱暴!」
 でももうその時には主税の体は、背後《うしろ》からあやめの手によって、横倒しに倒されていた。
「悪|巫山戯《ふざけ》もいい加減になされ。人が見ましたら笑うでござろう」
 主税は寝たままで顔を上げて見た。すぐ眼の上にあるものといえば、衣裳を通して窺われる、ふっくりとしたあやめ[#「あやめ」に傍点]の胸と、紫の艶めかしい半襟と、それを抜いて延びている滑らかな咽喉と、俯向けている顔とであった。
 その顔の何と異様なことは! 眼には涙が溜まり唇は震え、頬の色は蒼褪め果て、まるで全体が怨みと悲しみとで、塗り潰されているようであった。そうしてその顔は主税の眼に近く、五寸と離れずに寄って来ていたので、普通より倍ほどの大きさに見えた。
「情無しのお方! 情知らずのお方!」
 椿の花のような唇が開いて、雌蕊のような前歯が現われたかと思うと、咽ぶような訴えるような、あやめ[#「あやめ」に傍点]の声がそう云った。
「松浦|頼母《たのも》の屋敷を遁れ、ここに共住みいたしてからも、時たま話す話といえば、お八重様とやらいうお腰元衆の噂、そうでなければ淀屋の独楽を、日がな一日お廻しなされて、文字が出るの出ないのと……お側《そば》に居る妾などへは眼もくれず、……ご一緒にこそ住んで居れ、夫婦でもなければ恋人でも……それにいたしても妾の心は、貴郎《あなた》さまにはご存知のはず……一度ぐらいは可愛そうなと。……お思いなすって下さいましても……」
 高い長い鼻筋の横を、涙の紐が伝わった。
「ねえ主税さま」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は云って、介《かか》えている手へ力を入れた。
「こう貴郎さまの身近くに寄って、貴郎さまを見下ろすのは、これで二度目でございますわねえ。一度はお茶ノ水の夜の林で、覚兵衛たちに襲われて、貴郎さまがお怪我をなさいました時。……あの時妾は心のたけ[#「たけ」に傍点]を、はじめてお打ち明けいたしましたわねえ……そうして今日は心の怨みを! ……でも、この次には、三度目には? ……いえいえ三度目こそは妾の方が、貴郎さまに介抱されて……それこそ本望! 女の本望! ……」
 涙が主税の顔へ落ちた。しかし主税は眼を閉じていた。
(無理はない)と彼は思った。
(たとえば蛇の生殺しのような、そんな境遇に置いているのだからなあ)
 一月前のことである、松浦頼母の屋敷の乱闘で、云いかわしたお八重とは別れ別れとなった。あやめ[#「あやめ」に傍点]の妹だという女猿廻しの、お葉という娘とも別れ別れとなった。殺されたか捕らえられたか、それともうまく遁れることが出来て、どこかに安全に住んでいるか? それさえいまだに不明であった。

   三下悪党

 主税《ちから》とあやめ[#「あやめ」に傍点]ばかりは幸福《しあわせ》にも、二人連れ立って遁れることが出来た。
 しかし主税は田安家お長屋へ、帰って行くことは出来なかった。いずれ頼母《たのも》があの夜の中に、田安中納言様へ自分のことを、お八重《やえ》を奪って逃げた不所存者、お館を騒がした狼藉者として、讒誣《ざんぶ》中傷したことであろう。そんなところへうかうか帰って行って、頼母の奸悪を申し立てたところで、信じられようはずはない。切腹かそれとも打ち首にされよう。これは分かりきった話であった。
 そこで主税は自然の成り行きとして、浪人の身の上になってしまった。そうしてこれも自然の成り行きとして、あやめ[#「あやめ」に傍点]と一緒に住むようになった。
「おりを見て荏原《えばら》屋敷へ忍び入り、お実父《とう》様の敵《かたき》を討たなければ……」
 あやめ[#「あやめ」に傍点]としてはこういう心持から、又、一方主税としては、「淀屋の財宝と荏原屋敷とは、深い関係があるらしいから、探ってみよう」という心持から、二人合意で荏原屋敷の見える、ここの農家の離家《はなれ》を借りて、夫婦のように住居《すまい》して来たのであった。
 しかるに二人して住んでいる間も、主税に絶えず思い出されることは、云いかわした恋人お八重のことで、従って自ずとそれが口へ出た。そうでない時には淀屋の独楽を廻し、これまでに現われ出た文字以外の文字が、なお現われはしまいかと調べることであった。
 しかしもちろん主税としては、あやめ[#「あやめ」に傍点]の寄せてくれる思慕の情を、解していないことはなく、のみならずあやめ[#「あやめ」に傍点]は自分の生命《いのち》を、二度までも救ってくれた恩人であった!
(あやめ[#「あやめ」に傍点]の心に従わなければ……)
 このように思うことさえあった。
 しかし恋人お八重の生死が、凶とも吉とも解《わか》らない先に、他の女と契りを交わすことは、彼の心が許さなかった。そこでこれまではあやめ[#「あやめ」に傍点]に対して、故意《わざ》と冷淡に振舞って来た。
 が、今になってそのあやめ[#「あやめ」に傍点]から、このように激しく訴えられては、主税としては無理なく思われ、心が動かないではいられなかった。
 堅く眼を閉じてはいたけれど、あやめ[#「あやめ」に傍点]の泣いていることが感じられる。
(決して嫌いな女ではない)
 なかば恍惚となった心の中で、ふと主税はそう思った。
(綺麗で、情熱的で、覇気があって、家格も血統も立派なあやめ[#「あやめ」に傍点]! 好きな女だ好きな女だ! ……云いかわしたお八重という女さえなければ……)
 恋人ともなり夫婦ともなり、末長く暮らして行ける女だと思った。
(しかもこのように俺を愛して!)
 カッと[#「カッと」は底本では「カツと」]胸の奥の燃えるのを感じ、全身がにわかに汗ばむのを覚えた。
(いっそあやめ[#「あやめ」に傍点]と一緒になろうか)
 悲しみを含んだ甘い感情が、主税の心をひたひたと浸した。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は涙の眼を見張って、主税の顔を見詰めている。
 涙の面紗《ヴェール》を通して見えているものは、畳の上の主税の顔であった。男らしい端麗な顔であった。わけても誘惑的に見えているものは、潤いを持ったふくよかな口であった。
 いつか夕陽が消えてしまって、野は黄昏《たそがれ》に入りかけていた。少し開いている障子の隙から、その黄昏の微光が、部屋の中へ入り込んで来て、部屋は雀色に仄めいて見え、その中にいる若い男女を、悩ましい艶かしい塑像のように見せた。
 横倒しになっている主税の足許に、その縁を白く微光《ひか》らせながら、淀屋の独楽が転がっている。
 と、その独楽を睨みながら、障子の外の縁側の方へ、生垣の裾から這い寄って来る、蟇《ひき》のような男があった。三下悪党の勘兵衛であった。

   二つ目の独楽を持って

 田安屋敷の乱闘の際に、あやめ[#「あやめ」に傍点]によって独楽の紐で、首を締められ一旦は死んだが、再び業強く生き返り、勘兵衛はその翌日からピンシャンしていた。
 そうして今日は頼母のお供をし、頼母の弟の主馬之進《しゅめのしん》の家へ、――向こうに見える荏原屋敷へ来た。その途中で見かけたのが、野道での人だかりであった。そこで自分だけ引返して来て、群集に雑って魔法を見ていた。と、老人の小太い杖で、首根っ子をしたたか撲られた。息の止まりそうなその痛さ! 無我夢中で逃げて来ると、百姓家が立っていた。水でも貰おうと入り込んでみると、意外にも主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とが、艶な模様を描いているではないか。
 淀屋の独楽さえ置いてある。
(凄いような獲物だ)と勘兵衛は思った。
(独楽を引っ攫って荏原屋敷へ駆けつけ、頼母様へ献上してやろう)
 勘兵衛はこう心を定《き》めると、ソロリソロリと縁側の方へ、身をしずかに這い寄せて行った。
 まだ痛む首根っ子を片手で抑え、別の片手を縁のふち[#「ふち」に傍点]へかけ、開いている障子の隙間から、部屋の中を窺っている勘兵衛の姿は、迫って来る宵闇の微光《うすびかり》の中で、まこと大きな蟇のように見えた。
 頼母の屋敷で奪い取った、二つ目[#「二つ目」は底本では「二つの目」]の淀屋の独楽を、玩具《おもちゃ》のように両手に持った、藤八猿を背中に背負い、猿廻しのお葉がこの百姓家の方へ、野道を伝わって歩いて来たのも、ちょうどこの頃のことであった。
 離家《はなれや》の門口まで来た。
(この家じゃアないかしら?)と思案しながら佇んだ。
 藤八猿の着ている赤いちゃんちゃんこ[#「ちゃんちゃんこ」に傍点]と、お葉の冠っている白手拭とが、もう蚊柱の立ち初めている門の、宵闇の中で際立って見えた。
(案内を乞うて見ようかしら?)
 思い惑いながら佇んでいる。
 田安屋敷の乱闘のおり、幸いお葉も遁れることが出来た。でも姉のあやめ[#「あやめ」に傍点]とも、腰元のお八重とも、姉の恋人だという山岸主税とも、一緒になれずに一人ぼっちとなった。
(姉さんが恋しい、姉さんと逢いたい。主税様の行方が解ったら、姉さんの行方も解るかも知れない)
 ふとお葉はこう思って、今日の昼こっそり田安家のお長屋、主税の屋敷の方へ行ってみた。すると幸いにも主税の親友の、鷲見《すみ》与四郎と逢うことが出来た。
「馬込のこうこういう百姓家の離家《はなれ》に、あやめ[#「あやめ」に傍点]という女と住んで居るよ」と、そう与四郎は教えてくれた。
 主税にとって鷲見与四郎は、親友でもあり同志でもあった。――頼母の勢力を覆えそうとする、その運動の同志だったので、与四郎へだけは自分の住居を、主税はそっと明かしていたのであった。
 聞かされたお葉は躍り上って、すぐに馬込の方へ足を向け、こうして今ここへやって来たのであった。
(この家らしい)とお葉は思った。
(考えていたって仕方がない。案内を乞おう、声をかけてみよう。……いいえそれより藤八を舞わして、座敷の中へ入れてみよう)
 お葉は肩から藤八猿を下ろした。
 藤八猿は二つ目の淀屋の独楽を、大切そうに手に持ったまま、地面へヒラリと飛び下りた。
 藤八猿はこの独楽を手に入れて以来、玩具のようにひどく気に入っていると見え、容易に手放そうとはしないのである。
「今日の最後の芸当だよ、器用に飛び込んで行って舞ってごらん」
 人間にでも云い聞かせるように云って、お葉は土間へ入って行った。

   蝋燭の燈の下で

「お猿廻しましょう」と声がかかり、赤いちゃんちゃんこ[#「ちゃんちゃんこ」に傍点]を着た藤八猿が、奥の部屋へ毬のように飛び込んで来たので主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とははっとした。
「まあ藤八だよ!」と叫んだのは、襟を掻き合わせたあやめ[#「あやめ」に傍点]であり、
「独楽を持っている、淀屋の独楽を!」と、つづいて叫んだのは主税であった。
 その前で藤八猿は独楽を持ったまま、綺麗に飜斗《とんぼ》を切って見せた。
「捕らえろ! 捕らえて淀屋の独楽を!」
 二人が藤八猿を追っかけると、猿は驚いて門口の方へ逃げた。それを追って門口まで走った……
 と、土間の宵闇の中に、女猿廻しが静かに立っていた。
「ま、やっぱりあやめ[#「あやめ」に傍点]お姉様!」
「お前は妹! まアお葉かえ!」

 この頃勘兵衛は野の道を、荏原屋敷の方へ走っていた。懐中《ふところ》をしっかり抑えている。主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とが猿を追って、土間の方へ走って行った隙を狙い、奪い取った第一の淀屋の独楽が、懐中の中にあるのであった。
(こいつを頼母様へ献上してみろ、俺、どんなに褒められるかしれねえ。……それにしてもあやめ[#「あやめ」に傍点]と主税とが、あんな所に住んでいようとは。……頼母様にお勧めして、今夜にも捕らえて処刑してやらなけりゃア。……)
 飛加藤の亜流という老人も、それにたかって[#「たかって」に傍点]いた人々も、とう[#「とう」に傍点]に散って誰もいない野の道を、小鬼のように走りながら、そんなことを思っているのであった。
 空には星がちらばってい、荏原屋敷を囲んでいる森が、遥かの行手に黒く見えていた。

 やがてこの夜も更けて真夜中となった。
 と、荏原屋敷の一所に、ポッツリ蝋燭の燈が点った。
 森と、土塀と、植込と、三重の囲いにかこわれて、大旗本の下屋敷かのように、荏原屋敷の建物が立っていた。歴史と伝説《いいつたえ》と罪悪《つみ》と栄誉《ほまれ》とで、長年蔽われていたこの屋敷には、主人夫婦や寄宿人《かかりうど》や、使僕《めしつかい》や小作人の家族たちが、三十人近くも住んでいるのであった。でも今は宏大なその屋敷も、星と月との光の下に、静かな眠りに入っていた。
 その屋敷の一所に、蝋燭の燈が点っているのであった。
 四方を木々に囲まれながら、一宇の亭《ちん》が立っていて、陶器《すえもの》で造った円形の卓が、その中央に置かれてあり、その上に、太巻の蝋燭が、赤黄色く燃えているのであった。そうしてその燈に照らされながら、三つの顔が明るく浮き出していた。松浦頼母と弟の主馬之進――すなわちこの屋敷の主人公と、その主馬之進の妻の松女《まつじょ》との顔で、その三人は榻《とう》に腰かけ、卓の上の蝋燭の燈の下で、渦のように廻っている淀屋の独楽を、睨むようにして見守っていた。……
 独楽は勘兵衛が今日の宵の口に、主税とあやめとの住居から奪い、頼母に献じたその独楽で、この独楽を頼母は手に入れるや、部屋で即座に廻してみた。幾十回となく廻してみた。と、独楽の蓋にあたる箇所へ、次々に文字が現われて来た。
「淀」「荏原屋敷」「に有りて」「飛加藤の亜流」等々という文字が現われて来た。……でももうそれ以上は現われなかった。ではどうしてこんな深夜に、庭の亭の卓の上などで、改めて独楽を廻すのだろう?
 それは荏原屋敷の伝説からであった。
 伝説によるとこれらの亭は、荏原屋敷の祖先の高麗人が、高麗から持って来たものであり、それをここへ据え付ける場合にも、特にその卓の面は絶対に水平[#「水平」に傍点]に、据えられたと云い伝えられていた。そういう意味からこの亭のことを、「水平の亭」と呼んで、遥かあなたに杉の木に囲まれた「閉扉《あけず》の館」などと共に、荏原屋敷の七不思議の中の、一つの不思議として数えられているのであった……

   まだ解けぬ謎

「絶対に水平のあの卓の上で、淀屋の独楽をお廻しになったら、別の文字が現われはしますまいか」
 ふと気がついたというように、深夜になって頼母へそう云ったのは、主馬之進の妻の松女であった。
「なるほど、それではやってみよう」
 でも卓の上で廻しても、独楽の面へ現われる文字は、あれの他には何もなかった。
「駄目だのう」と頼母は云って、落胆したように顔を上げた。
「あれ以上に文字は現われないのであろうよ。……この独楽に現われたあれらの文字と、以前にわしの持っていた独楽へ現われた文字、それを一緒にして綴ってみようではないか。何らかの意味をなすかもしれない」
「それがよろしゅうございましょう」
 こう云ったのは主馬之進であった。主馬之進は頼母の弟だけに、頼母にその容貌は酷似していたが、俳優などに見られるような、厭らしいまでの色気があって、婦人《おんな》の愛情を掻き立てるだけの、強い魅力を持っていた。
「この独楽へ現われた文字といえば『淀』『荏原屋敷』『有りて』『「飛加藤の亜流』という十五文字だし、以前《まえ》にわしの持っていた独楽へ現われた文字は、『屋の財宝は』『代々』『守護す』『見る日は南』の十五文字じゃ。……で、わしは先刻《さっき》からこの三十文字を、いろいろに考えて綴り合わせてみたが、こう綴るのが正しいらしい……ともかくも意味をなすよ『淀屋の財宝は代々荏原屋敷に有りて、飛加藤の亜流守護す』と、なるのだからの」
「飛加藤の亜流とは何でしょう?」
 主馬之進の妻の松女が訊いた。
 彼女はもう四十を過ごしていた。でも美貌は失われていなかった。大旗本以上の豪族であるところの、荏原屋敷の主婦としての貫禄、それも体に備わっていた。あやめ[#「あやめ」に傍点]やお葉の母親だけあって、品位なども人に立ち勝っていた。が、蝋燭の燈に照らされると、さすが小鼻の左右に深い陰影《かげ》などがつき、全体に窶れが窺われ、それに眼などもおちつか[#「おちつか」に傍点]ないで、なにか良心に咎められている。――そんなようなところが感じられた。
「飛加藤の亜流と申すのはな」と、頼母は松女を見い見い云った。
「白昼に龕燈をともしなどして、奇行をして世間を歩き廻っている、隠者のような老人とのことで。……勘兵衛めがそう云いましたよ。今日も夕方この近くの野道で、怪しい行ないをいたしましたとかで……」
「その飛加藤の亜流とかいう老人が、代々財宝を守護するなどと、文字の上に現われました以上は、その老人を捕らえませねば……」
「左様、捕らえて糺明するのが、万全の策には相違ござらぬが、その飛加藤の亜流という老人、どこにいるのやらどこへ現われるのやら、とんと我らにしれませぬのでな」
「それより……」と主馬之進が口を出した。
「『見る日は南』という訳のわらぬ文句が、隠語の中にありまするが、何のことでございましょうな?」
「それがさ、わしにも解《わか》らぬのだよ」と頼母は当惑したように云った。
「この文句だけが独立して――他の文句と飛び離れて記されてあるので、何ともわしにも意味が解らぬ。……だがしかしそれだけに、この文句の意味が解けた時に、淀屋の財宝の真の在場所が、解るようにも思われる……」
「三つ目の淀屋の独楽を目つけ出し、隠語を探り知りました時、この文句の意味も自ずから解けると、そんなように思われまするが」
「そうだよそうだよわしもそう思う。が、三つ目の淀屋の独楽が、果たしてどこにあるものやら、とんとわしには解らぬのでのう」
 三人はここで黙ってしまった。
 屋敷の構内に古池でもあって、そこに鷭《ばん》でも住んでいるのだろう、その啼声と羽搏きとが聞こえた。
 と、ふいにこの時|茂《しげみ》の陰から、「誰だ!」という誰何の声が聞こえた。
 三人はハッとして顔を見合わせた。と、すぐに悲鳴が聞こえ、つづいて物の仆れる音がした。三人は思わず立ち上った。
 するとこの亭を囲繞《とりま》いている木々の向こうから、この亭の人々を警護していた、飛田林覚兵衛と勘兵衛との声が、狼狽したらしく聞こえてきた。

   母娘は逢ったが

「曲者だ!」
「追え!」
「それ向こうへ逃げたぞ!」
「斬られたのは近藤氏じゃ」
 こんな声が聞こえてきた。そうして覚兵衛と勘兵衛とが、閉扉《あけず》の館の方角をさして、走って行く足音が聞こえてきた。
「行ってみよう」と頼母は云って、榻から立ち上って歩き出した。
「それでは私も」と主馬之進も云って兄に続いて亭を出た。
 亭には一人松女だけが残った。
 松女は寂しそうに卓へ倚り、両の肘を卓の上へのせ、その上へ顔をうずめるようにし、何やら物思いに耽っていた。燃え尽きかけている蝋燭の燈が、白い細い頸《うなじ》の辺りへ、琥珀色の光を投げているのが、妙にこの女を佗しく見せた。
 といつの間に現われたものか、その松女のすぐの背後《うしろ》に、妖怪《もののけ》のような女の姿が、朦朧として佇んでいた。
 猿廻し姿のお葉であった。じっと松女を見詰めている。その様子が何となく松女を狙い、襲おうとでもしているような様子で……
 と、不意にお葉の片手が上り、松女の肩を抑えたかと思うと、
「お母様!」と忍び音に云った。
 松女はひどく驚いたらしく、顔を上げると、
「誰だえ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」と訊いた。
「お母様、わたしでございます」
「お母様だって? このわたしを! まアまアまア失礼な! 見ればみすぼらしい猿廻しらしいが、夜ふけに無断にこんな所へ来て、わたしに向かってお母様などと! ……怪しいお人だ、人を呼ぼうか!」
「お母様、お久しぶりねえ」
「…………」
「お別れしたのは十年前の、雪の積もった日でございましたが、……お母様もお変わりなさいましたこと。……でも妾《わたし》は、このお葉は、もっと変わりましてございます。……苦労したからでございましょうよ。……産みのお母様がご覽になっても、それと知れない程ですものねえ。……妾はお葉でございます……」
「お葉※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
 それは譫言《うわごと》のような、魘されているような声であった。よろめきながら立ち上り、よろめきながら前へ進み、松女は近々と顔を寄せた。
「ほんに……お前は……おお……お葉だ! お葉だ!」
 グラグラと体が傾ぎ、前のめり[#「のめり」に傍点]にのめったかと思うと、もう親娘《おやこ》は抱き合っていた。しばらくは二人のすすり泣きの声が、しずかな夜の中に震えて聞こえた。
「不孝者! お葉! だいそれた[#「だいそれた」に傍点]不孝者! 親を捨て家出をして! ……」
 やがて松女の感情の籠った、途切れ途切れの声が響いた。
「でも……それでも……とうとうお葉や、よく帰って来ておくれだったねえ。……どこへもやらない、どこへもやらない! 家に置きます。妾《わたし》の手許へ!」
「お母様!」と、お葉は烈しく云った。
「あのお部屋へ参ろうではございませんか!」
「何をお云いだ、え、お葉や! あのお部屋へとは、お葉やお葉や!」
「あのお部屋へ参ろうではございませんか。……あのお部屋へお母様をお連れして、懺悔と浄罪とをさせようため、十年ぶりにこのお葉は、帰って来たのでございます!」
「お葉、それでは、それではお前は?」
「知っておりました、知っておりました! 知っておればこそこのお葉は、この罪悪の巣におられず、家出をしたのでございます!」
「そんな……お前……いえいえそれは!」
「悪人! 姦婦! 八ツ裂きにしてやろうか! ……いえいえいえ、やっぱりお母様だ! ……わたしを、わたしを、いとしがり可愛がり、花簪《はなかんざし》を買って下されたり、抱いて寝させて下さいました、産みのお母様でございます! ……でも、おおおお、そのお母様が、あの建物で、あのお部屋で……」
「いいえ妾は……いいえこの手で……」
「存じております、何のお母様が、何の悪行をなさいましたものか! ……ただお母様はみすみす[#「みすみす」に傍点]ズルズルと、引き込まれただけでございます。……ですから妾は申しております。懺悔なされて下さりませと……」
「行けない、妾は、あの部屋へは! ……あの時以来十年もの間、雨戸を閉め切り開けたことのない、あの建物のあのお部屋なのだよ。……堪忍しておくれ、妾には行けない!」

   恋と敵のあいだ

「おお、まアそれではあのお部屋は、十年間|閉扉《あけず》の間か! ……さすが悪漢毒婦にも、罪業《つみ》を恐れる善根が、心の片隅に残っていたそうな。……ではあのお部屋にはあのお方の、いまだに浮かばれない修羅の妄執が、黴と湿気と闇とに包まれ、残っておることでございましょうよ。なにより幸い、なにより幸い、さあそのお部屋へお入りなされて、懺悔なさりませ、懺悔なさりませ! そうしてそれから妾《わたし》と共々、復讐の手段を講じましょう。……」
「復讐? お葉や、復讐とは?」
「わたしにとりましては実のお父様、お母様にとりましては最初の良人《おっと》の、先代の荏原屋敷の主人を殺した、当代の主人の主馬之進《しゅめのしん》を!」
「ヒエーッ、それでは主馬之進を!」
「お父様を殺した主馬之進を殺し、お父様の怨みを晴らすのさ。……さあお母様参りましょう!」
 お葉は、松女《まつじょ》の腕を握り、亭から外へ引き出した。
 この頃亭から少し離れた、閉扉の館の側《そば》の木立の陰に、主税《ちから》とあやめ[#「あやめ」に傍点]とが身体《からだ》をよせながら、地に腹這い呼吸《いき》を呑んでいた。
 主税が片手に握っているものは、血のしたたる抜身であった。
 それにしてもどうして主税やあやめ[#「あやめ」に傍点]や、お葉までが荏原屋敷へ、この夜忍び込んで来たのであろう?
 自分たちの持っていた淀屋の独楽は何者かに奪われてしまったけれど、藤八猿から得た独楽によって、幾行かの隠語《かくしことば》を知ることが出来た。
 そこで主税はその隠語を、以前《まえ》から知っている隠語と合わせて、何かの意味を探ろうとした。隠語はこのように綴られた。……「淀屋の財宝は代々荏原屋敷にありて飛加藤の亜流[#「亜流」は底本では「悪流」]守護す。見る日は南」と。「見る日は南」という意味は解《わか》らなかったが、その他の意味はよく解った。飛加藤の亜流[#「亜流」は底本では「悪流」]という老人のことも、お葉のくわしい説明によって解った。そうしてどっちみち[#「どっちみち」に傍点]淀屋の財宝が、荏原屋敷のどこかにあるということが、ハッキリ主税に感じられた。そこで主税は荏原屋敷へ忍び込んで、財宝の在場所を探りたいと思った。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]はあやめ[#「あやめ」に傍点]で又思った。
(姉妹《きょうだい》二人が揃ったのだから、すぐにも荏原屋敷へ乗り込んで行って、主馬之進を殺して復讐したい。お父様の怨みを晴らしたい)
 双方の祈願《ねがい》が一緒になって、あやめ[#「あやめ」に傍点]とお葉と主税とは、この夜荏原屋敷へ忍び込んだのであった。
 さて三人忍び込んでみれば、天の助けというのでもあろうか、頼母がい、勘兵衛がいた。
(よし、それでは次々に、機をみて討って取ってやろう)
 木陰に隠れて機会《おり》を待った。
 と、構え内を警護していた、頼母の家来の覆面武士の一人に、見現わされて誰何された。主税はその覆面武士を、一刀の下に斬り仆した。と、大勢がこの方面へ走って来た。主税はあやめ[#「あやめ」に傍点]を引っ抱えて、木立の陰へ隠れたのであるが、どうしたのかお葉は一人離れて、亭の方へ忍んで行った。声をかけて止めようと思ったが、声をあげたら敵の者共に、隠れ場所を知られる不安があった。そこで二人は無言のまま見過ごし、ここに忍んでいるのであった。……
 二人の眼前にみえているものは、主税に斬り仆された覆面武士を囲んで、同僚の三人の覆面武士と、頼母と主馬之進と飛田林覚兵衛と、絞殺したはずの勘兵衛とが、佇んでいる姿であった。
 飛び出していって斬ってかかることは、二人にとっては何でもなかったが、敵は大勢であり味方は二人、返り討ちに遇う心配があった。機《おり》を見て別々に一人々々、討って取らなければならなかった。
 二人は呼吸《いき》を呑み潜んでいた。

   閉扉の館

「曲者を探せ!」という烈しい怒声が、頼母の口からほとばしったのは、それから間もなくのことであった。
 俄然武士たちは四方へ散った。そして二人の覆面武士が主税たちの方へ小走って来た。
「居たーッ」と一人の覆面武士が叫んだ。
 だがもうその次の瞬間には、躍り上った主税によって、斬り仆されてノタウッていた。
「汝《おのれ》!」ともう一人の覆面武士が、主税を目掛けて斬り込んで来た。
 そこを横からあやめ[#「あやめ」に傍点]が突いた。
 その武士の仆れるのを後に見捨て、
「主税様、こっちへ」と主税の手を引き、あやめ[#「あやめ」に傍点]は木立をくぐって走った。……
 案内を知っている自分の屋敷の、木立や茂や築山などの多い――障害物の多い構内であった。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は逃げるに苦心しなかった。木立をくぐり藪を巡り、建物の陰の方へあやめ[#「あやめ」に傍点]は走った。
 とうとう建物の裏側へ出た。二階づくりの古い建物は、杉の木立を周囲に持ち、月の光にも照らされず、黒い一塊のかたまり[#「かたまり」に傍点]のように、静まり返って立っていた。
 それは閉扉《あけず》の館であった。
 と、建物の一方の角から、数人の武士が現われた。
 飛田林覚兵衛と頼母と家来の、五人ばかりの一団で、こちらへ走って来るらしかった。
 すると、つづいて背後《うしろ》の方から、大勢の喚く声が聞こえてきた。
 主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とは振り返って見た。
 十数人の姿が見えた。
 主馬之進と勘兵衛と、覆面の武士と屋敷の使僕《こもの》たちが、こっちへ走って来る姿であった。二人は腹背に敵を受け、進退まったく谷《きわ》まった。
 一方には十年間開いたことのない、閉扉の館が城壁のように、高く険しく立っている。そしてその反対側は古沼であった。
 泥の深さ底が知れず、しかも蛇《くちなわ》や蛭の類が、取りつくすことの出来ないほどに、住んでいると云われている、荏原屋敷七不思議の、その一つに数えられている、その恐ろしい古沼であった。
 逃げようにも逃げられない。
 敵を迎えて戦ったなら、大勢に無勢殺されるであろう。
(どうしよう)
(ここで死ぬのか)
(おお、みすみす返り討ちに遇うのか)
 その時何たる不思議であろう!
 閉扉の館の裏の門の扉が、内側から自ずとひらいたではないか!
 二人は夢中に駆け込んだ。
 すると、扉が内側から、又自ずと閉ざされたではないか。
 屋内は真の闇であった。

   死ぬ運命の二人

 閉扉《あけず》の館の闇の部屋で、主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とが寄り添っている時、館の外側では頼母や主馬之進や覚兵衛や勘兵衛たちが集まって、ひそやかな声で話し合っていた。
「不思議だな、消えてしまった」
 抜いた刀をダラリと下げて、さも審しいというように、頼母はこう云って主馬之進を眺めた。主馬之進も抜き身をひっさげたまま、これも審しいというように、四方《あたり》を忙しく見廻したが、
「一方は閉扉の館、また一方は底なしの古沼、前と背後《うしろ》とからは我々や覚兵衛たちが、隙なく取り詰めて参りましたのに、主税もあやめ[#「あやめ」に傍点]も消えてなくなったように、姿をくらましてしまいましたとは? ……不思議を通りこして気味のわるいことで」
「沼へ落ちたのではございますまいか?」
 覚兵衛が横から口を出した。
「沼へ落ちたのなら水音がして、あっし[#「あっし」に傍点]たちにも聞こえるはずで」と勘兵衛が側《そば》から打ち消した。
「ところが水音なんか聞こえませんでしたよ。……天に昇ったか地にくぐったか、面妖な話ったらありゃアしない」
「主馬!」と頼母は決心したように云った。
「主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]との隠れ場所は、閉扉の館以外にはないと思うよ。彼奴《きゃつ》らなんとかしてこの戸をひらき、屋内《なか》へ入ったに相違ない。戸を破り我らも屋内へ入るとしよう! ……それでなくともこの閉扉の館へ、わしは入ろうと思っていたのだ。淀屋の財宝を手に入れようとして、長の年月この荏原屋敷を、隅から隅まで探したが、この館ばかりは探さなかった。其方《そち》や松女が厭がるからじゃ! が、今夜はどうあろうと、屋内へ入って探さなければならぬ」
「兄上! しかし、そればかりは……」と主馬之進は夜眼にも知られるほどに、顔色を変え胴顫いをし、
「ご勘弁を、平に、ご勘弁を!」
「覚兵衛、勘兵衛!」と頼母は叫んだ。
「この館の戸を破れ!」
「いけねえ、殿様ア――ッ」と勘兵衛は喚いた。
「そいつア不可《いけ》ねえ! あっしゃア[#「あっしゃア」に傍点]恐い! ……先代の怨みの籠っている館だ! ……あっしも[#「あっしも」に傍点]手伝ってやったん[#「やったん」に傍点]ですからねえ!」
「臆病者揃いめ、汝《おのれ》らには頼まぬ! ……覚兵衛、館の戸を破れ!」
 飛田林覚兵衛はその声に応じ、閉扉の館の戸へ躍りかかった。
 が、戸は容易に開かなかった。
 先刻《さっき》は内側から自然と開いて、主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とを飲み込んだ戸が、今は容易に開かないのである。
「方々お手伝い下されい」
 覚兵衛はそう声をかけた。
 覆面をしている頼母の家来たちは、すぐに覚兵衛に手を貸して、館の戸を破りだした。
 この物音を耳にした時、屋内の闇に包まれていた主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とはハッとなった。
「主税様」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は云った。
「頼母や主馬之進たちが戸を破って……」
「うむ、乱入いたすそうな。……そうなってはどうせ切り死に……」
「切り死に? ……敵《かたき》と、お父様の敵と……それでは返り討ちになりますのね。……構わない構わないどうなろうと! ……本望、わたしは、わたしは本望! ……主税様と二人で死ぬのなら……」

   亡魂の招くところ

 たちまちふいに闇の部屋の中へ、一筋の薄赤い光が射した。
(あっ)と二人ながら驚いて、光の来た方へ眼をやった。
 奥の部屋を境している襖があって、その襖が細目に開いて、そっちの部屋にある燈火《ともしび》の光が、その隙間から射し込んで来たと、そう思われるような薄赤い光が、ぼっとこの部屋に射して来ていた。
「貴郎《あなた》!」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は怯えた声で云った。
「あけずの館に燈火の光が! ……では誰かがいるのです! ……恐ろしい、おおどうしよう!」
 主税も恐怖を新規《あらた》にして、燈火の光を睨んだが、
「そういえば閉扉の館の戸が、内から自ずと開きましたのも、不思議なことの一つでござる。……そこへ燈火の光が射した! ……いかにも、さては、この古館には、何者か住んで居るものと見える! ……どっちみち助からぬ二人の命! ……敵の手にかかって殺されようと、怪しいものの手にかかって殺されようと、死ぬる命はひとつでござれば、怪しいものの正体を……」と主税はヌッと立ち上った。
「では妾《わたし》も」とあやめ[#「あやめ」に傍点]も立った。
 でも二人が隣部屋へ入った時には、薄赤い光は消えてしまった。
(さては心の迷いだったか)
(わたしたちの眼違いであったのかしら)
 二人は茫然と闇の中に、手を取り合って佇んだ。この間も戸を破る烈しい音が、二人の耳へ聞こえてきた。
 と、又も同じ光が、廊下をへだてている襖の隙から、幽かに薄赤く射して来た。
(さては廊下に!)
 あやめ[#「あやめ」に傍点]と主税とは、夢中のようにそっちへ走った。
 しかし廊下へ出た時には、その光は消えていた。
 が、廊下の一方の詰の、天井の方から同じ光が、気味悪く朦朧と射して来た。
 二階へ登る階段があって、その頂上から来るらしかった。
 二人はふたたび夢中の様で、階段を駈け上って二階へ登った。しかし二階へ上った時には、その光は消えていて、闇ばかりが二人の周囲《まわり》にあった。
 悪漢毒婦の毒手によって、無残に殺された男の怨恨《うらみ》が、十年もの間籠っているところの、ここはあけず[#「あけず」に傍点]の館であった。その館に持主の知れない薄赤い燈火の光が射して、あっちへ動きこっちへ移って、二人の男女を迷わせる! さては殺された先代の亡魂が、怨恨の執念から行なう業では? ……
 こう思えば思われる。
 これが二人を怯かしたのである。
「主税様|階下《した》へ降りましょう。……もう妾《わたし》はこんな所には……こんな恐ろしい所には! ……それよりいっそ[#「いっそ」に傍点]階下へ降りて、頼母たちと斬り合って、敵《かな》わぬまでも一太刀怨み、その上で死にましょう!」
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は前歯を鳴らしながら云った。
「うむ」と主税も呻くように云った。
「亡魂などにたぶらかされ、うろついて生恥さらすより、斬り死にしましょう、斬り死にしましょう」
 階段の方へ足を向けた。
 すると、又も朦朧と、例の薄赤い燈火の光が、廊下の方から射して釆た。
「あッ」
「又も、執念深い!」
 今は主税は恐怖よりも、烈しい怒りに駆り立てられ、猛然と廊下へ突き進んだ。
 その後からあやめ[#「あやめ」に傍点]も続いた。
 しかし、廊下には燈火はなく、堅く閉ざされてあるはずの雨戸の一枚が、細目に開けられてあるばかりであった。
 二人はその隙から戸外《そと》を見た。
 三階造りの頂上よりも高く、特殊に建てられてある閉扉の館の、高い高い二階から眺められる夜景は、随分美しいものであった。主屋をはじめ諸々の建物や、おおよその庭木は眼の下にあった。土塀なども勿論眼の下にあった。月は澄みきった空に漂い、その光は物象《もののかたち》を清く蒼白く、神々しい姿に照らしていた。

   庭上の人影

 間もなく死ぬ運命の二人ではあったが、この美しい夜の景色には、うっとりとせざるを得なかった。
 ふいにあやめ[#「あやめ」に傍点]が驚喜の声をあげた。
「まア梯子が! ここに梯子が!」
 いかさま廊下の欄干ごしに、一筋の梯子が懸かっていて、それが地にまで達していた。
 それはあたかも二人の者に対して、この梯子をつたわって逃げ出すがよいと、そう教えてでもいるようであった。
「いかにも梯子が! ……天の与え! ……それにしても何者がこのようなことを!」
 主税も驚喜の声で叫んだ。
「不思議といえば不思議千万! ……いやいや不思議といえばこればかりではない! ……閉扉《あけず》の館の戸が開いたのも、燈火の光が現われて、われわれを二階へみちびいたのも、釘づけにされてある館の雨戸が、このように一枚だけ外されてあるのも、一切ことごとく不思議でござる」
「きっと誰かが……お父様の霊が、……わたしたちの運命をお憐れみ下されて、それで様々の不思議を現わし、救って下さるのでございましょうよ。……さあ主税様、この梯子をつたわり、ともかくも戸外へ! ともかくも戸外へ!」
「まず其方《そなた》から。あやめ[#「あやめ」に傍点]よ先に!」
「あい」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は褄をかかげ、梯子の桟へ足をかけた。
「あッ、しばらく、あやめ[#「あやめ」に傍点]よお待ち! ……何者かこっちへ! 何者かこっちへ!」
 見れば月光が蒼白く明るい、眼の前の庭を二つの人影が、組みつほぐれつ、追いつ追われつしながら、梯子の裾の方へ走って来ていた。
 二人は素早く雨戸の陰へかくれ、顔だけ出して窺った。
 夜眼ではあり遠眼だったので、庭上の人影の何者であるかが、主税にもあやめ[#「あやめ」に傍点]にもわからなかったが、でもそれはお葉と松女なのであった。
「さあお母様あの館で――十年戸をあけないあけず[#「あけず」に傍点]の館で、懺悔浄罪なさりませ! ……あの館のあの二階で、御寝なされていたお父様の臥所へ、古沼から捕った毒虫を追い込み、それに噛せてお父様を殺した……罪悪の巣の館の二階で、懺悔なさりませ懺悔なさりませ!」
 母の松女の両手を掴み、引きずるようにして導きながら、お葉は館の方へ走るのであった。
 行くまいともがく[#「もがく」に傍点]松女の姿は、捻れ捩れ痛々しかった。
「お葉やお葉や堪忍しておくれ、あそこへばかりは妾《わたし》は行けない! ……この年月、十年もの間、もう妾は毎日々々、心の苛責に苦しんで、後悔ばかりしていたのだよ。……それを、残酷な、娘の身で、あのような所へお母様を追い込み! ……それにあそこ[#「あそこ」に傍点]は、あの館は、扉も雨戸も鎹《かすがい》や太い釘で、厳しく隙なく止めに止めて、めったに開かないようにしてあるのだよ。……いいえいいえ女の力などでは、戸をあけることなど出来ないのだよ。……行っても無駄です! お葉やお葉や!」
 しかし二人が閉扉の館の、裾の辺りまで走りついた時、二人ながら「あッ」と声をあげた。
 二階の雨戸が開いており、梯子がかかっているからであった。
「あッあッ雨戸が開いている! ……十年このかた開けたことのない、閉扉の館の雨戸が雨戸が! それに梯子がかかっているとは!」
 松女は梯子の根元の土へ、恐怖で、ベッタリ仆れてしまった。
 その母親の側《そば》に突っ立ち、これも意外の出来事のために、一瞬間放心したお葉がいた。
 しかし直ぐお葉は躍り上って叫んだ。
「これこそお父様のお導き! お父様の霊のお導き! ……妻よここへ来て懺悔せよと、怒りながらも愛しておられる、お父様の霊魂が招いておる証拠! ……そうでなくて何でそうも厳重に、十年とざされていた閉扉の館の、雨戸が自然と開きましょうや! ……梯子までかけられてありましょうや!」
 母親の手をひっ掴み、お葉は梯子へ足をかけた。
「お母様!」と松女を引き立て、
「さあ一緒に、一緒に参って、お父様にお逢いいたしましょう! いまだに浮かばれずに迷っておられる、悲しい悲しいお父様の亡魂に!」

   月下の殺人

「お葉かえ!」とその途端に、二階から女の声がかかった。
 お葉は無言で二階を見上げた。
 欄干から半身をのり出して、あやめ[#「あやめ」に傍点]が下を見下ろしている。
「あッ、お姉様! どうしてそこには?」
 しかしあやめ[#「あやめ」に傍点]はそれには答えず、松女の姿へじっと眼をつけ、
「お葉やお葉や、そこにいるのは?」
「お母様よ! お姉様!」
「お母様だって? 良人《おっと》殺しの!」
「…………」
「良人殺しの松女という女かえ!」
「…………」
「よくノメノメとここへは来られたねえ」
「いいえお姉様」とお葉は叫んだ。
「わたしがお母様をここまで連れて……」
「お前がお母様を? 何のために?」
「お父様を殺したあのお部屋へ、お母様をお連れして懺悔させようと……」
「その悪女、懺悔するかえ?」
「あやめ[#「あやめ」に傍点]や!」とはじめて松女は叫んだ。
 連続して起こる意外の出来事に、今にも発狂しようとして、やっと正気を保っている松女が、嗄《しゃが》れた声で叫んだのである。
「あやめ[#「あやめ」に傍点]や……お前までが……この屋敷へ! ……いいえいいえ生みの家へ……おおおお帰っておいでだったのか! ……あやめ[#「あやめ」に傍点]や、あんまりな、あんまりな言葉! ……悪女とは! 懺悔するかえとは! ……わたしは、あれから、毎日々々、涙の乾く暇もないほどに、後悔して後悔して……」
「お黙り!」と絹でも引裂くような声が、――あやめ[#「あやめ」に傍点]の声が遮った。
「わたしは先刻《さっき》から雨戸の隙から、お前さんたちの様子を見ていたのだよ。……お葉がお前さんを引っ張って、この二階へ連れて来ようとするのに、お前さんは行くまいと拒んでいたじゃアないか……ほんとうに後悔しているなら、日夜二階の部屋へ来て、香でも焚いて唱名して、お父様の菩提を葬えばよいのだ! ……それを行くまいとして拒むのは、……」
「あやめ[#「あやめ」に傍点]や、それも恐ろしいからだよ。……あのお方の怨みが恐ろしく、わたしの罪業が恐ろしく、その館が恐ろしく……」
「おおそうとも、恐ろしいとも! この館は今も恐ろしいのだ! ……恐ろしいのも色々だが、今のこの館の恐ろしさは、又もやむごたらしい[#「むごたらしい」に傍点]人殺しが、行なわれようとしていることさ!」
「また人殺しが? 誰が、誰を?」
「お前さんの良人の主馬之進と、主馬之進の兄の松浦頼母とが、たくさんの眷族をかたらって、わたしとわたしの恋しい人とを、この館へとりこめて、これから殺そうとしているのさ。……お聞き、聞こえるだろう、戸をこわしている音が! ……館の裏の戸をぶちこわして、この館へ乱入し、わたしたちを殺そうとしているのさ! ……あッ、しめた! いいことがある! ……お葉やお葉やその女を捉え、ここへおよこし、引きずり上げておくれ! 人質にするのだよその女を! ……もう大丈夫だ、殺されっこはない。その女を人質に取っておいたら、いかな主馬之進や頼母でも、わたしたちを殺すことは出来ないだろうよ。……」
 松女の腕を捉《と》り引きずり引きずり、梯子を上るお葉の姿が、すぐに月光に照らされて見えた。
 松女を中へ取り籠めて、あやめ[#「あやめ」に傍点]とお葉と主税とが、刀や短刀を抜きそばめ、闇の二階の部屋の中に、息を殺して突立ったのは、それから間もなくのことであった。
 裏戸の破られた音が聞こえた。
 乱入して来る足音が聞こえた。
 間もなく階段を駈け上る、数人の足音が聞こえてきた。
「よし降り口に待ちかまえていて……」と、主税は云いすて三人を残し、階段の降り口へ突進して行った。
 頼母の家来の一人の武士が、いつの間に用意したか弓張提燈をかかげて、階段を駆け上り姿を現わした。
 その脳天を真上から、主税は一刀に斬りつけた。
 わッという悲鳴を響かせながら、武士は階段からころがり落ちた。
「居たぞ!」
「二階だ!」
「用心して進め!」
 声々が階下から聞こえてきた。

   さまよう娘

 この頃植木師の一隊が、植木車を数台囲み、荏原屋敷の土塀の外側を、山の手の方へ進んでいた。車には植木が一本もなかった。
 どこかのお屋敷へ植木を植えて、車をすっかり空にして、自分たちの本拠の秩父の山中へ、今帰って行く途中らしい。
 二十人に近い植木師たちは、例によって袖無しに伊賀袴を穿き、山岡頭巾をかむった姿で、粛々として歩いていた。
 その中に一人女がいた。意外にもそれはお八重であった。
 やはり袖無しを着、伊賀袴を穿き、山岡頭巾をかむっている。
 肩を落とし、首を垂れ、悄々《しおしお》として歩いて行く姿は、憐れに寂しく悲しそうであった。それにしてもどうして植木師などの中に、彼女、お八重はいるのであろう?
 松浦頼母の一味によって、田安様お屋敷の構内で、お八重もあのとおり迫害されたが、でも辛うじて構内から遁れた。すると、そこに屯《たむろ》していたのが、十数人の植木師たちであった。
 彼女は植木師たちに助けを乞うた。植木師たちは承知して、彼女に彼らの衣裳を着せ、追って来た頼母の家来たちの眼を、巧みにくらませて隠してくれた。
 それからというもの彼女はその姿で、植木師たちと一緒に住み、植木師たちと一緒に出歩き、恋人主税の行方を探し、今日までくらして来たのであった。
 主税もお葉もその姉のあやめ[#「あやめ」に傍点]も、無事に田安邸から遁れ出たという、そういう消息は人伝てに聞いたが、どこに主税が居ることやら、それはいまだに解らなかった。
 植木師たちの本拠は秩父にあったが、秩父から直接植木を運んで、諸家へ植え込みはしないのであった。
 まず秩父から運んで来て、本門寺つづきの丘や谷に、その植木をとりこ[#「とりこ」に傍点]にして置き――そこが秩父の出店なのであるが――そこから次々に植木を運んで、諸家へ納めるようにしているのであった。ところがとりこ[#「とりこ」に傍点]にして置いたたくさんの植木が、今日ですっかり片付いてしまった。
 そこで彼らは本拠の秩父へ、今夜帰って行くことにし、今歩いているのであった。……
(わたしには他に行くところはない。わたしも秩父へ行くことにしよう)
 お八重はこう悲しく心に決めて、彼らと一緒に歩いているのであった。
(主税様はどこにどうしておられるやら。……)
 思われるのは恋人のことであった。
 ほとんど江戸中残るところなく、主税の行方を探したのであったが、けっきょく知ることが出来なかった。
 秩父山中へ行ってしまったら、――又、江戸へでる機会はあるにしても、秩父山中にいる間は、主税を探すことは出来ないわけであって、探すことさえ出来ないのであるから、まして逢うことは絶対に出来ない。
 このことが彼女には悲しいのであった。
(いっそ江戸へ残ろうかしら?)
 でも一人江戸へ残ったところで、生活《くら》して行くことは出来そうもなかった。
 奉公をすれば奉公先の屋敷へ、体をしばられなければならないし、と云ってまさかに門付などになって、人の家の門へなどは立てそうもなかった。
(わたしには主税様は諦められない)
 月光が霜のように地面を明るめ、彼女の影や植木師たちの影を、長く細く曳いていた。
 荏原屋敷の土塀に添って、なお一行は歩いていた。
 と、土塀を抜きん出て、植込がこんもり茂っていたが、その植込の葉の陰から、何物か躍り出して宙を飛び、お八重の肩へ飛び移った。
「あれッ」とさすがに驚いて、お八重は悲鳴をあげ飛び上ったが、そのお八重の足許の地面へ、お八重の肩から飛び下りた物が、赤いちゃんちゃんこ[#「ちゃんちゃんこ」に傍点]を着た小猿だったので、お八重は驚きを繰り返して叫んだ。
「まア、お前は藤八じゃアないかえ!」
 さよう、それはお葉の飼猿、お八重もよく知っている藤八猿であった。

   奇怪な邂逅

 藤八猿が居るからには、持主のお葉がいなければならない。――とお八重はそう思った。お葉に逢って訊ねたならば、恋人主税のその後の消息《ようす》を、耳にすることが出来るかもしれない。――
(このお屋敷の土塀を越して、藤八猿は来たはずだった!)
 裾にまつわる藤八猿を、自由に裾にまつわらせながら、お八重は荏原屋敷の土塀を見上げた。土塀を高くぬきん出て、繁った植込の枝や葉が建物の姿を隠している。
(人声や物音がするようだが?)
(何か間違いでも起こったのかしら?)
(それとも妾《わたし》の空耳かしら?)
 なおもお八重は聞き澄ました。物音は間断なく聞こえてくる。
 主税の消息《ようす》を知っているお葉が、居るかもしれない屋敷の構内から、不穏な物音の聞こえるということは、お八重にとっては心配であった。
(妾、屋敷内へ入って行ってみようか?)
 でもどこから入れるだろう? 土塀を乗り越したら入れるかもしれない。
 けれどそんなことをしているうちに、植木師の一隊は彼女を見捨て秩父山中へ行ってしまうにちがいない。
 現に彼女が思案に余って、土塀を眺めて佇んでいる間に、植木師の一隊は彼女から離れて、一町も先の方を歩いているのだから。……
(どうしよう? どうしたらよかろう?)
 地団太を踏みたい心持で、彼女は同じ所に立っていた。
 でも、間もなく彼女の姿が、土塀に上って行くのが見えた。
 恋人の消息が知れるかも知れない。――この魅力が荏原屋敷へ、彼女をとうとう引き入れたのであった。
 月光に照らされたお八重の姿が、閉扉《あけず》の館の前に現われたのは、それから間もなくのことであった。
 高い二階建ての館の二階へ、地上から梯子がかかってい、閉ざされている鎧のような雨戸が、一枚だけ開いている。そうして館の裏側と、館の屋内から人声や物音が、間断なく聞こえてくるようであった。
(やはり何か事件が起こっているのだよ)
 お八重は二階を見上げながら、しばらく茫然《ぼんやり》と佇んでいた。
 すると、あけられてある雨戸の隙から、薄赤い燈火《ともしび》の光が射し、つづいて人影が現われた。龕燈を持った老人で、それは「飛加藤の亜流」であった。
 飛加藤の亜流は雨戸の隙から出て、梯子をソロソロと降り出した。
 飛加藤の亜流が地へ下り立ち、お八重と顔を合わせた時、お八重の口から迸しり出たのは、「叔父様!」という言葉であった。
「姪か、お八重か、苦労したようだのう」
 飛加藤の亜流はこう云って、空いている片手を前へ出した。
 お八重はその手へ縋りついたが、
「叔父様、どうしてこのような所に……」
「わしは飛加藤の亜流なのだよ、どのような所へでも入り込まれるよ。……お前の父親、わしの実兄の、東海林自得斎《しょうじじとくさい》が極重悪木を利用し、自由に人が殺せるようにのう。……それにしてもわし達兄弟は、何という変わった兄弟であろう。徳川によって滅ぼされた、小西摂津守の遺臣として、徳川家に怨みを抱いていることは、わしも兄上も同じなのではあるが、兄上は魔神の世界に住んで、悪木を作り人を殺し――田安中納言家をはじめとし、徳川家に縁ある人々を殺し、主家の怨を晴らそうとしているのに、わしは一念頓悟して、誠の教の庭に住み、真実《まこと》の人間を目つけ出そうとして、乞食のように歩き廻っている。……わが兄ながら惨忍な、実の娘を間者として、田安家の大奥へ住み込ませ、淀屋の独楽を奪わせようとは……」
「まあ叔父様、そのようなことまで……」
「わしは飛加藤の亜流なのだよ、どのようなことでも知っている……」
「では、叔父様には、淀屋の独楽の――三個《みっつ》あるという淀屋の独楽の、その所在《ありばしょ》もご存知なので?」
「一個《ひとつ》は頼母が持っておる。お前を苦しめた松浦頼母が。もう一つは主税が持っておる、お前が愛している山岸主税が。……が、最後の一つはのう」
「最後の一個は? 叔父様どこに?」
「それは云えぬ、今は云えぬ! ……勿論わしは知っているが」

   聞こえる歌声

「では叔父様、独楽にまつわる[#「まつわる」に傍点]、淀屋の財宝の所在も?」
「淀屋の財宝を守護する者こそ、この飛加藤の亜流なのだよ」
「…………」
「この荏原屋敷の先代の主人は、わしの教の弟子なのじゃ。そうして淀屋の財宝は、この荏原屋敷に隠されてあるのじゃ。淀屋の財宝の所在について、わしの知っているのは当然であろう」
「…………」
「おいで、お八重」と飛加藤の亜流は云って、館を巡って歩き出した。
「眼には眼をもって、歯には歯をもって……因果応報の恐ろしさを、若いお前に見せてあげよう」
 お八重は飛加藤の亜流の後から、胸を踊らせながら従《つ》いて行った。

 この頃館の裏口では、頼母と主馬之進とが不安そうに、破壊された戸口から屋内《なか》を覗きながら、聞こえてくる物音に耳を澄ましていた。
 そこへ屋内から走り出して来たのは、飛田林覚兵衛《とんだばやしかくべえ》であった。
「大変なことになりましてございます。主税《ちから》めどうして手に入れましたものか、主馬之進《しゅめのしん》殿のご内儀を捕虜《とりこ》とし、左様人質といたしまして、その人質を盾となし、二階座敷に攻勢をとり、階段を上る我らの味方を、斬り落とし斬り落としいたしまする」
 大息吐いて注進する後から、お喋舌《しゃべ》りの勘兵衛《かんべえ》が飛出して来て、
「坂本様も宇津木殿も、斬り仆されましてございます。とてもこいつア敵《かな》いませんや。向こうにゃア奥様という人質があって、こっちが無鉄砲に斬り込んで行きゃア、奥様に大怪我させるんですからねえ」とこれも大息吐いて呶鳴り立てた。
「ナニ家内が描虜にされた※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」とさすがの主馬之進も仰天したらしく、
「それは一大事うち捨ては置けない! ……方々お続き下されい!」と屋内へ夢中で駈け込んだ。
「では拙者も」と、それにつづいて覚兵衛が屋内に駈け込めば、
「それじゃアあっし[#「あっし」に傍点]ももう一度」と勘兵衛も意気込んで駈け込んだ。
(夫婦の情愛は別のものだな)と後に残った頼母は呟き、戸口から屋内を覗き込んだ。
(臆病者の主馬ではあるが、女房が敵の手に捕らえられたと聞くや、阿修羅のように飛び込んで行きおった。……ところで俺《わし》はどうしたものかな?)
 頼母にとっては松女《まつじょ》の命などより、淀屋の財宝の方が大切なのであった。主税やあやめ[#「あやめ」に傍点]などを討ってとるより、独楽の秘密を解くことの方が、遥かに遥かに大切なのであった。
 で、危険な屋内などへは、入って行く気にはなれないのであった。
 太刀音、掛け声、悲鳴などが、いよいよ烈しく聞こえてはきたが、頼母ばかりはなお門口に立っていた。
 するとその時老人の声が、どこからともなく聞こえてきた。しかもそれは歌声であった。
(はてな?)と頼母は聞き耳を立てた。
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※[#歌記号、1-3-28]真昼頃、見る日は南、背後《うしろ》北、左は東、右は西なり
[#ここで字下げ終わり]
 歌の文句はこうであった。
 そうしてその歌声は林の奥の、古沼の方から聞こえてくる。
「見る日は南と云ったようだな」と頼母は思わず声に出して云った。
(見る日は南というこの言葉は、独楽の隠語の中に有ったはずだ。その言葉を詠み込んだ歌を歌うからには、その歌の意味を知っていなければならない)
 頼母は歌の聞こえた方へ、足を空にして走って行った。
 歌の主を引っ捕らえ、歌の意味を質《ただ》そうと思ったからである。
 歌声は林に囲繞された大古沼の方から聞こえてきた。
 頼母は林の中へ走り込んだ。
 でも林の中には人影はなく、落葉松《からまつ》だの糸杉だの山桜だの、栗の木だの槇の木だのが繁りに繁り、月光を遮ぎり月光を澪し、萱だの芒だのいら[#「いら」に傍点]草だのの、生い茂り乱れもつれ[#「もつれ」に傍点]合っている地面へ、水銀のような光の斑を置き、長年積もり腐敗した落葉が、悪臭を発しているばかりであった。

   秘密は解けたり!

 そうして林の一方には、周囲五町もある大古沼が、葦だの萱だのに岸を茂らせ、水面に浮藻や落葉を浮かべ、曇った鏡のように月光に光り、楕円形に広がっていた。そうして沼の中央に在る、岩で出来ている小さい島の、岩の頂にある小さい祠が、鳥の形に見えていた。
 でも人影はどこにもなかった。失望して頼母は佇んだ。
 と、又もや歌声が、行手の方から聞こえてきた。
(さてはむこうか)と頼母は喜び、跫音《あしおと》を忍ばせてそっちへ走った。
 茨と灌木と蔓草とで出来た、小丘のような藪があったが、その藪の向こう側から、男女の話し声が聞こえてきた。
(さては?)と頼母は胸をドキつかせ、藪の横から向こう側を覗いた。
 一人の娘と一人の老人とが、草に坐りながら話していた。
 老人は白髪白髯の、神々しいような人物であったが、しかしそれは一向見知らない人物であった。しかし、女の方はお八重であった。田安中納言家の腰元で、そうして自分が想いを懸けた、その美しいお八重であった。
(これは一体どうしたことだ。こんな深夜にこんな所に、お八重などがいようとは?)
 夢に夢見る心持で、頼母は一刹那ぼんやりしてしまった。
 しかし、老人の膝の側《そば》に、龕燈が一個《ひとつ》置いてあり、その龕燈の光に照らされ、淀屋の独楽に相違ない独楽が、地上に廻っているのを眼に入れると、頼母は俄然正気づいた。
(独楽がある! 淀屋の独楽が! 三つ目の独楽に相違ない!)
 この時老人が話し出した。
「ね、この独楽へ現われる文字は『真昼頃』という三つの文字と『背後《うしろ》北、左は東、右は西なり』という、十一|文字《もじ》の外《ほか》にはない。……もう一つの独楽に現われて来るところの『見る日は南』という五つの文字へ、この独楽へ現われた文字を差し加えると「真昼頃、見る日は南、背後北、左は東、右は西なり」という、一首の和歌になるのだよ。……そうしてこの和歌は古歌の一つで、方角を教えた和歌なのさ。広野か海などをさまよって、不幸にも方角を失った際、それが真昼であったなら、先ず太陽を見るがよい。太陽は南にかかっているであろう。だから背後は北にあたり、左は東、右は西にあたる。――ただこういう意味なのだよ」
「でも、そんな和歌が淀屋の財宝と、どんな関係があるのでございます?」と好奇心で眼を輝かせながら、お八重は息をはずませて訊いた。
「淀屋の財宝の所在《ありばしょ》が、この和歌の中に詠まれているのだよ。……太陽を仰いでいる人間の位置は、東西南北の中央にある。その人間の位置にあたる所に、淀屋の財宝が隠されてあるのさ」
「ではどこかの中央に?」
「この屋敷の中央に?」
「この屋敷の中央とは?」
「荏原屋敷は大昔においては、沼を中央にして作られていたものさ」
「まア、では、財宝は古沼の中に?」
「沼の中央は岩の小島なのさ」
「まア、では、沼の小島の内に?」
「小島の中央は祠なのだ」
「では淀屋の財宝は祠の中に隠されてあるのね」
「そうだ」と老人は感慨深そうに云った。
「そうしてそのことを知っている者は、荏原屋敷の先代の主人と、この飛加藤の亜流だけなのさ。そうしてそのことを記してあったのは、三つの淀屋の独楽だけだったのさ。その独楽は以前には三つながら、荏原屋敷にあったのさ。ところがいつの間にか三つながら、荏原屋敷から失われてしまった。だがその中の一つだけは、ずっとわし[#「わし」に傍点]が持っていた。……それにしても淀屋の独楽を巡って、幾十人の者が長の年月、悲劇や喜劇を起こしたことか。……でも、いよいよ淀屋の独楽が、一所に集まる時期が来た。……お八重、わしに従《つ》いておいで。淀屋の財宝の莫大な額を、親しくお前の眼に見せてあげよう」
 地上の独楽を懐中に納め、龕燈を取り上げて飛加藤の亜流は、やおら草から立ち上った。
 お八重もつづいて立ち上ったが、
「でも叔父様、船もないのに、沼を渡って、どうして小島へ……」

   因果応報

「ナーニ、わしは飛加藤の亜流だよ。どんなことでも出来る人間だよ。そうしてわしに従《つ》いてさえ来れば、お前もどんなことでも出来るのだよ。……沼を渡って行くことなども……」
 二人は沼の方へ歩いて行った。
 藪の陰に佇んで、見聞きしていた頼母は太い息を吐き、
「さてはそういう事情だったのか」と声に出して呟いた。
(淀屋の独楽の隠語は解けた。淀屋の財宝の在場所も知れた)
 このことは頼母には有り難かったが、飛加藤の亜流とお八重とが揃って、財宝の所在地へ行くということが、どうにも不安でならなかった。
(財宝を二人に持ち出されては、これまでの苦心も水の泡だ)
 こう思われるからであった。
(俺も沼の中の島へ行こう)
 ――頼母は飛加藤の亜流の後を追い、沼の方へ小走った。
 頼母が沼の縁へ行きついた時、彼の眼に不思議な光景が見えた。
 月光に薄光っている沼の上を、飛加藤の亜流という老人が、植木師風のお八重を連れ、まるで平地でも歩くように、悠々と歩いて行くのであった。重なっていた浮藻が左右に別れ、水に浮いて眠っていた鴨の群が、これも左右に別れるのさえ見えた。
(水も泥も深い沼だのに、どうして歩いて行けるのだろう?)
 超自然的の行動ではなくて、水中に堤防が作られていて、陸からはそれが見えなかったが、飛加藤の亜流には解《わか》っていたので、それを渡って行ったまでである。しかし頼母には解っていなかったので、呆然佇んで見ていたが、
(そうだ、飛加藤の亜流には、出来ないことはないはずだった。水を渡ることなど何でもないのだろう。……飛加藤の亜流にさえ従《つ》いて行けば、こっちの身も沼を渡れるだろう)
 頼母は沼の中へ入って行った。
 しかし数間とは歩けなかった。水が首まで彼を呑んだ。蛭、長虫が彼を目指し、四方八方から泳ぎ寄って来た。
「助けてくれーッ」と悲鳴を上げ、頼母は岸へ帰ろうとした。
 しかし深い泥が彼の足を捉え、彼を底の方へ引き込んだ。
 突然彼の姿が見えなくなり、彼の姿の消えた辺りへ、泡と渦巻とが現われた。
 と、ふいにその水面へ、一つの独楽が浮かび上った。頼母の持っていた独楽であって、水底に沈んだ彼の懐中から、水の面へ現われたのであった。独楽にも長虫はからみ付いていた。そうしてその虫は島を指して泳いだ。飛加藤の亜流とお八重との姿が、その島の岸に立っていた。そっちへ独楽は引かれて行く。

 閉扉《あけず》の館の二階では、なお血闘が行なわれていた。頼母の家来の数名の者が、死骸となって転がっていた。
 髪を乱し襟を拡げ、返り血を浴びた主税がその間に立ち、血にぬれた刀を中段に構え、開いている雨戸から射し込んでいる月光《ひかり》に、姿を仄かに見せていた。
 その背後《うしろ》に息を呑み、あやめ[#「あやめ」に傍点]とお葉とが立っていた。二人の女の持っている刀も、ヌラヌラと血にぬれていた。そうして二人の女の裾には、ほとんど正気を失ったところの、松女が倒れて蠢いていた。
 階段の下からは罵る声や怒声が、怯かすように聞こえてくる。
 しかし登っては来なかった。
 これ迄に登って行った者一人として、帰って来る者がないからであった。決死の主税に一人のこらず、二階で討って取られたからであった。
 しかしにわかにその階下から、主馬之進の声が聞こえてきた。
「お松、お松、お松は二階か! 心配するな、俺が行く!」
 つづいて勘兵衛の声が聞こえる。
「旦那、あぶねえ、まアお待ちなすって! ……とてもあぶねえ、うかつ[#「うかつ」に傍点]には行けねえ! ……行くなら皆で、みんなで行きやしょう! ……覚兵衛殿、覚兵衛殿、あんたが真先に!」
 しかし飛田林覚兵衛の声は、それに対して何とも答えなかった。
「お松、お松!」と主馬之進の声が、また悲痛に聞こえてきた。
「すぐ行くぞよ、しっかりしてくれ!」
「勘兵衛放せ、えい馬鹿者!」
 つづいて階段を駆け上る音がし、階段口を睨んでいる主税の眼に、主馬之進の狂気じみた姿が映った。
「…………」

   人々の運命

(来たな!)と主税は雀躍《こおどり》したが、相手を身近く引寄せようとして、かえって部屋の隅へ退いた。
「あなた!」とさながら巾《きぬ》を裂くような声で、倒れている松女が叫んだのは、主馬之進が階段を上り尽くし、二階へ現われた時であった。
「お松!」と叫んで蹣跚《よろめき》々々、主馬之進はお松の方へ走り寄った。
「…………」
「…………」
 が、その瞬間あやめ[#「あやめ」に傍点]とお葉とが、左右から飛鳥のように躍りかかり、
「お父様の敵《かたき》!」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は叫び、脇差で主馬之進の胸を突くと、
「お父様の敵!」とお葉も叫び、主馬之進の脇腹を匕首《あいくち》で刺した。
 グタグタと主馬之進は仆たれが、必死の声を絞って叫んだ。
「ま、待ってくれ! 少し待ってくれ! どうせ殺されて死んでゆく俺《わし》、殺されるのは恐れないが、それ前にお松へ云いたいことがある! それも懺悔だ、お松へのお礼だ! ……おおおおお松、よくまアこれまで、貞女を保ってくらして来たなア。……俺と夫婦にはなったものの、拒んで拒んで拒みとおして、俺とは一度の枕も交わさず、よくまア貞操《みさお》を立て通したものだ! ……そのため俺はどんなに怒り、どんなに苦しみ苦しんだことか! ……しかし今になって考えてみれば、けっきょくお前が偉かったのだ! ……俺はただ名ばかりの良人《おっと》として、荏原屋敷の格と財産とを、今日まで守護して来たばかりだった。……」
「主馬之進殿オーッ」
 松女は松女で、主馬之進へ取り縋り、
「あなたが御兄上の頼母様ともども、わたくしの家へ接近なされ、先代の主人わたくしの良人と、何くれとなく懇意になされ、やがては荏原屋敷の家政へまで、立ち入るようになりましたので、苦々しく思っておりましたところ、わたくし良人の申しますには『わしはもう長の病気、余命わずかと覚悟しておる。わがなき後はこの大家族の、荏原屋敷を切り廻してゆくこと、女のお前ではとうてい出来ない。幸い主馬之進殿そなたに対し、愛情を感じておるらしく、それに主馬之進殿の兄上は、田安家の奥家老で権勢家、かたがた都合がよいによって、俺《わし》の死んだ後は主馬之進殿と、夫婦になって荏原屋敷を守れ』と……その時|妾《わたし》はどんなに悲しく『いいえ妾はあなたの妻、あなたがおなくなりなさいました後は、有髪の尼の心持で、あなた様のご冥福をお祈りし』『それでは屋敷は滅びるぞ! 先祖に対して相済まぬ!』『では妾は形ばかり主馬之進様の妻となり……』こうして妾は良人の死後……」
「その御先代の死態だが……」
 いよいよ迫る死の息の下で、主馬之進は云いついだ。
「変死、怪死、他殺の死と、人々によって噂され、それに相違なかったが、しかし決してこの主馬之進が、手をくだして殺したのでもなく、他人《ひと》にすすめて殺したのでもない! ……わしの僕《しもべ》のあの勘兵衛、わしがこの家へ住み込ませたが、性来まことにかるはずみの男、勝手にわしの心持を……わしが先代のこの屋敷の主人の、死ぬのを希望《のぞ》んでいるものと推し、古沼から毒ある長虫を捕り、先代の病床へ投げ込んで……」
 しかしこれ以上断末魔の彼には、言葉を出すことが出来なくなったらしい、両手で虚空を握む[#「握む」はママ]かと見えたが、体をのばして動かなくなった。
「あやめ[#「あやめ」に傍点]よ、お葉よ、二人の娘よ!」と、これは精神の過労から、死相を呈して来た松女は叫んだ。
「お前たちの母は、荏原屋敷の主婦は、おおおお決してお前たちの、思い込んでいたような悪女でないこと……お解《わか》りかお解りか! ……なき良人の遺言を守って、家のためにこの身を苦しめ……でも、もう妾は生きていたくない! ……可哀そうな主馬様の後を追い……」
「お母様アーッ」
「お母様アーッ」
 意外の事の真相に、心を顛動させた二人の娘は、左右から母へすがりついた。
「そうとは知らずお母様を怨み……」
「そうとは知らず主馬之進殿を殺し……」
「わたしたちこそどうしよう!」
「お母様アーッ」
「主馬之進様アーッ」
「いやいや」と、本当に最後の息で、主馬之進は言葉を発した。
「やっぱりわしは殺されていい男……荏原屋敷を横領し、隠されてある淀屋の財宝を、ウ、奪おう、ト、取ろうと……殺されていい身じゃ殺されていい身じゃ」
 まったく息が絶えてしまった。
 途端に松女もガックリとなった。
 この時階段の上り口から、勘兵衛の狼狽した喚き声が聞こえた。
「不可《いけ》ねえ、殺《やら》れた、旦那が殺れた! ……オ、奥様も死んだらしいわ――ッ」
 バタバタと階段から駈け下りる音が、けたたましく聞こえてきた。
 しかし、その音は中途で止んで、呻き声が聞こえてきた。見れば階段の中央の辺りに、勘兵衛の体が延びていた。
 紐が首に捲き付いている。
 そうしてその紐は手繰《たぐ》られて、勘兵衛の体は階段を辷って、二階の方へ上って行った。紐を手繰っているのはあやめ[#「あやめ」に傍点]であった。
「古沼から蝮を捕らえて来て、この座敷へ投げ入れて、直々お父様を殺した汝《おのれ》! 今度こそ遁さぬくたばれくたばれ[#「くたばれくたばれ」に傍点]!」
 勘兵衛の体が二階へ上るや、あやめ[#「あやめ」に傍点]は勘兵衛に引導を渡し、脇差で勘兵衛の咽喉をえぐった。
 ある時は主馬之進の若党となり、ある時は見世物の太夫元となり、ある時は荏原屋敷の僕《しもべ》となり、又ある時は松浦頼母の用心棒めいた家来となって、悪事をつくした執念深い、一面道化た勘兵衛も、今度こそ本当に殺されたのであった。

 なお階下《した》にいる敵《かたき》の輩下を、討って取ろうと主税[#「主税」は底本では「主悦」]やあやめ[#「あやめ」に傍点]達が、二階から階下へ駈け下りるや、飛田林覚兵衛が先ず逃走し、その他の者共一人残らず、屋敷から逃げ出し姿を消してしまった。
 こうして今までは修羅の巷として、叫喚と悲鳴とで充たされていた屋敷は、静寂の場と化してしまった。わけてもあけず[#「あけず」に傍点]の館の二階は、無数の死骸を抱いたまま凄じい静かさに包まれていた。
 と、その部屋へ雨戸の隙から、子供のような物が飛び込んで来た。
 それは藤八猿であった。
 乱闘の際に懐中《ふところ》から落とした、主税[#「主税」は底本では「主悦」]の持っていた淀屋の独楽が、部屋の片隅にころがっているのへ、その藤八猿は眼を付けると、それを抱いて部屋を飛び出し、雨戸の隙から庭へ下り、さらに林の中へ走り込んだ。
 でも古沼の縁まで来た時、その独楽にも飽きたと見え、沼を目掛けて投げ込んだ。
 と独楽は自ずと動いて、小島の方へ進んで行った。飛加藤の亜流が超自然の力で、独楽を島の方へ招いたのでもあろうか。いややはり長虫が巻き付いていて、島の方へ泳いで行ったからである。

 お八重よりも一層生死を共にし、苦難に苦難を重ねたところの、あやめ[#「あやめ」に傍点]と主税[#「主税」は底本では「主悦」]とは夫婦になり、一旦は辛労で気絶したものの、息吹き返した貞婦の松女や、妹娘のお葉と一緒に、荏原屋敷に住むようになったのは、それから間もなくのことであり、そういう事実をさぐり知り、主税[#「主税」は底本では「主悦」]との恋を断念したお八重は、父の許秩父の山中へも帰らず、飛加藤の亜流の弟子となり、飛加藤の亜流に従って、世人を説き廻ったということである。
 淀屋の財宝はどうなったか? 一つに集まった独楽と一緒に、いぜんとして古沼の島の中にあるか、飛加藤の亜流やお八重の手により、他の場所へ移されたか? 謎はいまだに謎として、飛加藤の亜流とお八重以外には、知る者一人もないのであった。しかし飛加藤の亜流の教義が、その後ますます隆盛になり、善人に対し善事に対し、飛加藤の亜流は惜気もなく、多額の金子を与えたというから、淀屋の財宝はその方面に、浄財としてあるいは使われたのかもしれない。
 松女がその後有髪の尼として、清浄の生活を継続し、良人や主馬之進をとむらいながら、主税[#「主税」は底本では「主悦」]夫婦やお葉によって孝養されたということや、お葉が良縁を求めながら、その優しい心持から、藤八猿を可愛がり、いつまでも手放さなかったというようなことは、あえて贅言する必要はあるまい。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
   1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「講談雑記」
   1936(昭和11)年1月~10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本は、「おっしゃる」に「仰有る」と「有仰る」を混記しています。原義が「オオセ・アル」であることから、「有仰る」を注記の上「仰有る」に改め、表記の統一を図りました。
※「袖の中には?」「怪しの浪人」などの小見出しは、底本では天付きですが、3字下げとしました。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
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国枝史郎

開運の鼓—— 国枝史郎

        一

 将軍家斉の時代であった。天保の初年から天候が不順で旱天と洪水とが交※[#二の字点、1-2-22]《こもごも》襲い夏寒く冬暑く日本全国の田や畑には実らない作物が枯れ腐って凶年の相を現わしたが、俄然大飢饉が見舞って来た。将軍家お膝元大江戸でさえ餓※[#「くさかんむり/孚」、第3水準1-90-90]《がひょう》道に横たわり死骸から発する腥《なまぐさ》い匂いが空を立ち籠めるというありさまであった。
 上野広小路に救い小屋を設けて、幕府では貧民を救助した。また浅草の米蔵を開いて籾《もみ》を窮民に頒ったりした。しかしもちろんこんな事では日々に増える不幸の餓鬼どもを賑わすことは出来なかった。米の磨汁《とぎしる》を飲むものもあれば松の樹の薄皮を引き※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77]《むし》って鯣《するめ》のようにして食うものもあり、赤土一升を水三升で解きそれを布の上へ厚く敷いて天日に曝らして乾いたところへ麩《ふ》の粉を入れて団子に円め、水を含んで喉を通し腹を膨らせる者もあった。金はあっても売り者《て》がないので、みすみす食物を摂ることが出来ず、錦の衣裳を纒《まと》ったまま飢え死にをした能役者もあった。元大坂の吟味与力の陽明学者の大塩平八郎が飢民救済の大旆《たいはい》のもとに大坂城代を焼き打ちしたのはすなわちこの頃の事である。江戸三界、八百八町、どこを見ても生色なく、蠢《うごめ》くものは飢えた人、餓えた犬猫ばかりであったが、わけても本所深川辺りは当時の盛り場であっただけ悲惨《みじめ》さは一層目に立った。
 その本所の亀沢町に身分こそ徳川の旗本であったが小禄の貧しさは損じた門破れた屋敷の様子にも知れる左衛門太郎という武士があった。実子の麟太郎《りんたろう》はまだ少《わか》く額には前髪さえ立てていたがその精悍さは眼付きに現われその利発さは口もとに見え、体こそ小さく痩せてはいたが触れれば刎ね返しそうな弾力があった。
 彼の一家も饑饉《ききん》に祟《たた》られ、その日その日の食い扶持《ぶち》にさえ心を労さなければならなかった。その貧困のありさまは彼の日記にこう書かれてある。「予この時貧骨に到り、夏夜|無※[#「巾+廚」、第4水準2-12-1]《かやなく》、冬|無衾《きんなく》、ただ日夜机に倚《よ》って眠る。しかのみならず大母病気にあり、諸妹幼弱|不解事《ことをかいせず》、自ら縁を破り柱を割《さ》いて炊《かし》ぐ、云々」ところで父の左衛門太郎は馬術剣術の達人で気宇《きう》人を呑む豪傑ではあったが平常賭け事や喧嘩を好んで一向家事を治めなかったので一家の会計は少《わか》い麟太郎が所理《とりおこな》わなければならなかった。
 ある朝、麟太郎はいつものように破れた縁へ腰を掛け米の徳利搗《とっくりづ》きをやっていた。徳利搗きというのは他でもない。五合ばかりの玄米《くろごめ》を、徳利の中へ無造作に入れて樫《かし》の棒でコツコツ搗《つ》くのであって搗き上がるとそれを篩《ふるい》にかけその後で飯に炊《かし》ぐのであった。彼は徳利搗きをやりながらも眼では本を読んでいた。
 その朝も米を搗き終えるといつものように釜へ移しに縁を廻って厨《くりや》へ行った。竈《かまど》の前へ片膝を突いて飯の煮えるのを待ちながらも手からは書物を放さなかった。武経七書を読んでいるのである。
 紙の破れた格子窓からすぐに往来が見えていたが、その往来に佇《たたず》んで小鼓《こつづみ》を打っている者がある。麟太郎は書物から目を上げて音のする方を眺めて見た。銀のような白髪を背後《うしろ》で束《たば》ね繻珍《しゅちん》の帯を胸高に結んだ※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]《ろう》たけた老女がこっちを見ながら静かに鼓を調べている。その物腰が上品で乞食《ものもらい》の類とは見えなかった。麟太郎はしばらく耳を澄まして鼓の音色《ねいろ》に聞き入った。いらいらしている人の心へ平和と慰安とを与えようとして遙かの青空からでも来たようなまことに穏《おだや》かな音色であって、それを聞いている麟太郎の心は自然自然に柔らげられた。父の性格を受け継いで豪放濶達の彼ではあったが打ち続く貧困と饑餓のためにこの日頃心は平和を失い、読んでいる書物の文字の意味さえ呑み込めないまでになっていたが鼓の音色を耳にするや否や平和が立ち帰って来たのである。
「それにしても老女は何者であろう。そしていったい何んのためにいつまでも鼓を打っているのであろう」
 彼は不思議に思いながら厨《くりや》から外へ出て行った。そして老女へ近付いた。彼の眼に真っ先に映ったのは、名匠の刻んだ姥《うば》の面のような神々《こうごう》しい老女の顔であった。その次に彼の眼に付いたものは彼女の持っている鼓であった。漆黒《しっこく》の胴、飴色の皮、紫の締め緒を房々と結んだやや時代ばんだその鼓は生命《いのち》ない木製の楽器とは見えず声のある微妙な生物《いきもの》のように彼の瞳に映ったのであった。
「ご老女」と麟太郎は呼びかけた。しかしその後はどう云ってよいか継ぎ穂に困《こう》じて黙ってしまった。すると老女は仮面《めん》のような顔をわずか綻《ほころ》ばして笑ったが穏《おだや》かな調子でこう云った。
「どうぞあなたのお芳志《こころざし》をお施こしなされてくださいまし」
「容易《たやす》いことです、進ぜましょう」麟太郎は袂《たもと》へ手を入れたが鳥目《ちょうもく》などは一文もない。まして家の内を探したところで金のありよう筈がない。彼は当惑して赤面したが焚きかけの飯の事を思い出してにわかに元気付いて云うのであった。
「鳥目《ちょうもく》とてはござらぬが、饑饉《ききん》のおりから米飯がござる。それもわずかしかござらぬによって俺《わし》の分だけ進ぜましょう」――急いで厨《くりや》へ駈け込んで湯気《いき》の上がっている米飯を鉢へ移して持って来た。すると老女は頷《うなず》きながら穏かな声でこう云った。
「私は欲しゅうはござりませぬ。そこに仆れている饑えた人にそれを差し上げてくださいまし」
 見ればなるほど往来の上に子を負った女が仆れている。子供の方は死んでいるらしい。麟太郎は女の側《そば》へ行って鉢の飯を膝の前へ置いてやった。それから老女を振り返って見たが、もうそこには老女はいなかった。遙か離れた往来の人混みの中から鼓の音が、餓鬼道の巷《ちまた》に彷徨《さまよ》っている血眼《ちまなこ》の人達の心の中へ平和と慰安と勇気とを注ぎ込もうとするかのように穏かに鳴るのが聞こえては来たが……。
 麟太郎はふとした動機からその時まで懸命に学んでいた支那の学問を投げ捨てて当時流行の蘭学を取ったがこれが開運の基となって彼の世界は展開された。彼はこんな順に立身した。
 蛮書翻訳係。軍艦練習所教授方頭取。それから咸臨丸の船長として米国へ航海した事もあった。作事奉行格並に軍艦奉行。もうこの頃は麟太郎は四十を幾年《いくつ》か越していた。そうして彼の名声は既に日本的になっていた。ある時は彼は塾を構えて有為の人材を養成した。坂本竜馬、陸奥宗光、いずれも彼の塾生であった。
 しかし喬木風強し矣《い》! 幕府の執政に疑がわれて「寄合い」の身に左遷された。
 ちょうどこの時分の事であった。欝勃《うつぼつ》たる覇気と忿懣とを胸に貯《たくわ》えた麟太郎は上野の車坂を本所の方へ騎馬でいらいらと走らせていた。燈火の点《つ》き初めた夕暮れ時で往来には人々が出盛っていた。人声、足音、物売りの叫び。やかましいほど賑やかであった。その時、騒然たる物の音を縫って鼓の音が聞こえて来た。麟太郎は思わず馬を止めて音のする方へ眼をやった。三十年前に一度見た姥の面のような顔を持った上品な老女が彼を見ながら鼓を打っているではないか。彼の心は静かに和《なご》み海のように胸が開けて来た。
 翌日彼は召し出されて軍艦奉行を命ぜられたのである。

        

 その後麟太郎はもう一度だけ鼓の持ち主に邂逅《いきあ》った。明治元年三月十三日のしかも日中のことである。この頃大江戸は釜で煮られる熱湯のように湧き立っていた。十五代続いた徳川家にようやく没落の悲運が来て、将軍|慶喜《よしのぶ》は寛永寺に屏居《へいきょ》し恭順の意を示している一方、幕臣達は隊を組んで安房、下総、会津等へ日に夜に脱走を企てる。征討大総督|有栖川宮《ありすがわのみや》は西郷隆盛を参謀として東山北陸東海の、三道に分れて押し寄せて来る。二百数十年泰平を誇ったさすが繁華な大江戸も兵燹《へいせん》にかかって焼土となるのもここしばらくの間となった。贅沢《ぜいたく》出来るのも今のうちだ、それ酒を飲め女を買えと、町人達まで自暴自棄となって悪事|三昧《ざんまい》に耽けるようになった。切り取り強盗《おしこみ》、闇討ち放火《つけび》、至る所に行なわれ巷の辻々には切り仆された武士の屍《かばね》が横たわっていたりまた武家屋敷の窓や塀には斬奸状が張られてあったり、二百万人を包容していた幕府所在地の大きな都には平和の影さえも見られなくなった。麟太郎は軍事取り扱かいという重大の役目を持っていたが強硬なる非戦論の主謀者として逸《はや》り立つ旗本八万騎を鎮撫しなければならなかった。彼は官軍に内通している獅子《しし》身中の虫と見られ、ある夜のごときは数十人の兵にその身辺を取りまかれ鉄砲の筒口を一斉に向けられ硝煙に包まれたことさえあった。
「慶喜の生命《いのち》は助けなければならない。江戸を兵燹《へいせん》から守らなければならない。好い策はないか。よい策はないか」と、寧日のない騒忙の裏にこの事ばかりを考えた。
「西郷に会おう。西郷は知己だ。会って赤誠《せきせい》を披瀝しよう」これが終局の決心であった。こう決心はしたものの心にはかなりの不安があった。多智大胆権謀無双、隼《はやぶさ》のような彼ではあったが、西郷との会見は重荷であった。
 当日になると式服を纒《まと》い馬上に鞭を携えて薩州の邸へ歩ませた。芝高輪《しばたかなわ》まで向かう間に彼の眼に触れる事々物々は焦心の種ならぬはない。兵を近在に避けようとして荷車を曳く商人《あきゅうど》の群れ。刀の柄《つか》に手を掛けて四方に眼を配りながらノシノシ歩く家人《けにん》の群れ。店を開けている家は稀《まれ》である。陽はカンカンと照ってはいるが街々の姿は暗く見える。
 突然、横町から十人余りの幕兵が塊《かた》まって現われたが、互いに耳打ちをしたかと思うと麟太郎の行く手を遮《さえぎ》った。そしてその中の頭領らしい一人の武士が声を掛けた。
「しばらくお待ちくだされい!」と。
 麟太郎は静かに馬を止めた。それから彼らを見廻したが、「諸君の風貌は逼《せま》ってござるが、そもそも何事が起こりましたかな?」鋭い口調で詰問した。
 彼らはそれには答えなかった。
「そういうご貴殿こそどこへ参られるな?」
「君命を帯びて薩州邸まで……」
「江戸開け渡しのご相談にか? フン」と一人が嘲笑った。麟太郎の張り切った神経はこの「フン」のために切れそうになった。怒りの声を張り上げて一句嘲罵を報いようとした。その刹那聞こえて来たものが、例の鼓《つづみ》の音である。春陽のようにも温かく松風のようにも清らかな、人の心を平和に誘う天籟《てんらい》のような鼓の音!
 麟太郎の心に余裕が出来た。彼は穏かに微笑して訓すような口調でこう云った。
「諸君の身上はお察し申す。ただし、某《それがし》の考えはいささか諸君とは異なってござる。江戸を開くも開かぬも皆将軍家のおためでござる。全く他に私心はござらぬ――諸君のために某《それがし》計るに、東照神君の英霊の在《おわ》す駿州久能山に籠もられるこそ策の上なるものと存ぜられ申す。そこにて天下を窺《うかが》わせられい」
 実《げ》にもと思う武士達の顔をズラリと一渡り見廻してから彼は手綱《たづな》を掻い繰った。馬は粛々と歩を運ぶ。危険は瞬間に去ったのである。
 彼と西郷との会見について後年彼はある人に次のようなことを語ったことがある。
「薩摩屋敷へ行って見ると、すぐに一室へ案内された。しばらくすると西郷は洋服の足へ薩摩下駄を穿いて、熊次郎という僕《しもべ》を従え平気な顔をして現われた。庭から室へはいって来ると『先生おおきに遅刻し申した』こう云ってノッソリ座を構えたものだ。大事件を眼前に控えているようなそういった様子はどこにもない。俺も一向平気なものでしばらく雑談を交わせていたが、云うだけの事は云ってしまおうと俺は本題へはいって行った。懸河の弁を尽くしたものさ。すると西郷は膝へ手を置き黙って終いまで聴いていたが、
『いろいろ議論もございましょうが私が一身にかけましてお引き受けすることに致しましょう』と卒直に一言云ったものだ。これで会見はお終いだ。そして慶喜公のお命と江戸の命とが保証されたのさ」
 爾来、麟太郎の生活は、やっぱり危険で困難であった。がしかしそのつど大勇猛心と海のように広い度量とで易々《やすやす》と荒濤《あらなみ》を凌《しの》いで行った。彼はいつでも平和であった。晩年になるといよいよ益益彼の襟懐は穏かになった。参議兼海軍卿。こんなに高い栄誉の位置に一度は登ったこともある。従二位勲一等伯爵という、顕爵さえも授けられた。とはいえ天性洒落の彼は誇りも驕《たか》ぶりもしなかった。いつも門戸を開放し来るに任せて談笑した。官吏も来れば相場師も来る。力士も来れば茶屋の女将《おかみ》も来る。
 それはある日のことであったが、八百善《やおぜん》の女将が機嫌伺いに彼の屋敷を訪ずれた時、突然彼はこんなことを訊いた。
「女で、鼓の名人で、永生きをした者はなかったかえ? ……天保の時分にもう老人《としより》で明治の初年まで生きていた……」
「さあ」と女将は不思議そうに彼の顔色を窺いながらしばらくじっと考えていたが、
「志賀山初という名人が近年まで生きておりましたが」
「どんな様子の女だったね?」
「なかなか上品のお婆さんでした」
「それじゃその人かも知れないな……俺は三度まで逢ったんだがね。それもいつも往来でね」
「それで、何んですか、ご前とは、何か関係でもございましたので?」
「あるといえばあったようなもの、ないと云えばなかったようなものさ……ところで、初というその老女はどんな具合に死んだかな? 往来の上で野|倒《た》れ死にかな?」
「まさかそんな事もありますまい」女将の返辞は平凡であった。
 明治三十一年の十二月十九日に彼は死んだ。眼を瞑《と》じる時こう云ったと看護のある人が公開した。
「いよいよ俺ももういけねえ」と。これは恐らく聞き違いであろう。彼は恐らくこう云ったのであろう。
「いよいよ俺ももう聞けねえ」と。鼓が聞けないと云ったのであろう。
 姓は、勝。通称は、麟太郎。そして号は海舟であった。

底本:「怪しの館 短編」国枝史郎伝奇文庫28、講談社
   1976(昭和51)年11月12日第1刷発行
初出:「サンデー毎日」
   1924(大正13)年1月1日号
入力:阿和泉拓
校正:多羅尾伴内
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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国枝史郎

怪しの者—— 国枝史郎

      一

 乞食の権七が物語った。

 尾張の国春日井郡、庄内川の岸の、草の中に寝ていたのは、正徳三年六月十日の、午後のことでありました。いくらか靄《もや》を含んでいて、白っぽく見えてはおりましたが、でもよく晴れた夏の空を、自分の遊歩場《あそびば》ででもあるかのように、鳶《とび》が舞っておりましたっけ。
 ふと人の気勢《けはい》を感じたので、躰《からだ》を蔽《おお》うている草の間から、わたしはそっちを眺めました。
 二十八、九歳の職人風の男が、いつのまにやって来たものか、わたしのいるところから数間《すうけん》はなれた岸に、佇んでいるではありませんか。(はてな?)とわたしは思いながら、その男の視線を辿って行きました。岸に近い水面を睨んでいました。そこでわたしも水面を見ました。
(成程、これじゃア誰だって、眼をつけるだろうよ)
 と、わたしは呟きましたっけ。この川(幅三十間といわれている庄内川)は、周囲にひろがってい、広漠《ひろびろ》とした耕地一帯をうるおす、灌漑《かんがい》用の川だったので、上流からは菜の葉や大根の葉や、藁屑《わらくず》などが流れて来ていましたが、どうでしょう、流れて来たそれらの葉や藁屑が、その男の立っている辺まで来ますと、緩《ゆる》く渦《うず》をまき、躊躇《ちゅうちょ》でもするように漂ったあげく、沈んでしまうではありませんか。(あれへ眼をつけるあの野郎こそ怪しい)
 と、私といたしましては、職人風の男へかえって不審を打ったのでございます。
(只者じゃアない、うろんな奴だ)
 私は考えに沈みながら、広い耕地を見やりました。野菜の名産地の尾張城下の郊外です、畑という畑には季節《とき》の野菜が、濃い緑、淡い緑、黄がかった緑などの氈《かお》を敷いておりましたっけ。人家などどこにも見えず、百姓家さえ近所にはありませんでした。いやたった一軒だけ、数町はなれた巽《たつみ》の方角に、お屋敷が立っておりましたっけ。それも因縁づきのお屋敷が。……尾張様の先々代|継友卿《つぎともきょう》が、お家督《よつぎ》の絶えた徳川|宗家《そうけ》を継いで、八代の将軍様におなりなさろうとしたところ、紀伊様によって邪魔をされて、その希望《のぞみ》が水の泡と消え、紀伊様が代わって将軍家になられた。当代の吉宗《よしむね》卿で。……その憂欝《ゆううつ》からお心が荒《すさ》み、継友様には再三家臣をお手討ちなされましたが、その中に、平塚刑部様という、御用人があり、生前に建てた庄内川近くの別墅《やしき》へ、ひどく執着を持ち、お手討ちになってからも、その別墅へ夜な夜な姿を現わされる。――という因縁づきのお屋敷なので。
(流れ屑が自然《ひとりで》に沈む淵があったり、化け物屋敷があったりして、この界隈《かいわい》は物騒だよ)と、私は呟《つぶや》いたことでした。

      

(おや)と驚いて川添いの堤へ眼をやったのは、それから間もなくのことでした。野袴《のばかま》を穿《は》き、編笠《あみがさ》をかむった、立派なみなりのお侍様五人が、半僧半俗といったような、円《まる》めたお頭《つむ》へ頭巾《ずきん》をいただかれ、羅織《うすもの》の被風《ひふ》をお羽織りになられた、気高いお方を守り、こなたへ歩いて来るからでした。
(これは大変なお方が来られた)
 こうわたしは呟《つぶや》きましたが、半僧半俗のそのお方が、前《さき》の尾張中納言様、ただ今はご隠居あそばされて、無念坊退身《むねんぼうたいしん》とお宣《なの》りになり、西丸に住居しておいであそばす、徳川宗春様であられるのですから、驚いたのは当然でしょう。
 と、宗春様はお足をとめられ、何やら一人のご家来に向かい、ささやかれたようでございました。するとそのご家来は群れから離れ、職人風の男の側《そば》へ寄って来ましたが、
「これ其方《そち》そこで何をしておる」と、厳《いか》めしい口調で申されました。
「川を見ているのでございますよ」そう職人風の男は申しましたっけ。
「川に何か変わったことでもあるのか」
「いいえそうではございませんが。所在なさに見ていますんで」
「所在ない? なぜ所在ない」
「わたしは大工なのでございますが、親方のご機嫌をとりそこなって、職を分けてもらうことができなくなったんで。……どうしたものかと、思案しいしい歩いていますうちに、こんなところへ来ましたんで。……そこでぼんやり川を眺めて……」
「大工、そうか、手を見せろ」
「手を? なんで? なんで手を?」
「大工か大工でないか調べてやる」
「…………」
「大工なら鉋《かんな》だこ[#「だこ」に傍点]があるはずだ」
「…………」
「これ手を出せ、調べてやる。……此奴《こやつ》手を懐中《ふところ》へ入れおったな!」
「斬れ!」
 とその時烈しいお声で、宗春様が仰せられました。
「あッ」
 これはわたしが言ったのです。
 ご家来が編笠をうしろへ刎《は》ね、抜く手も見せず、職人風の男の右の肩を、袈裟《けさ》がけにかけたからで。
 職人風の男は倒れました。でもそれは斬られて倒れたのではなくて、太刀先を避けて倒れたのです。
「汝《おのれ》!」
 と西条勘右衛門《さいじょうかんえもん》様は――そう、編笠が取れましたので、そのご家来が尾張の藩中でも、中条流《ちゅうじょうりゅう》では使い手といわれる、西条様だということがわかりましたが、そう仰せられると、踏み込み、刀を真向《まっこう》にふりかぶり、倒れている職人風の男の背をめがけ、お斬りつけなさいました。
 が、その途端に土と小石と、むしられた草とがひとつになって、バッと宙へ投げ上げられ、つづいて烈しい水音がして、職人風の男は見えなくなってしまいました。川へ飛び込んで逃げたのでした。

      

 二度目にこの男と逢《あ》いましたのは、それから三日後のことでありまして、名古屋お城下は水主町《かこまち》、尾張様御用の船大工の棟梁《とうりょう》、持田《もちだ》という苗字《みょうじ》を許されている八郎右衛門というお方の台所口で。
 燈《ひ》ともしころのことでありまして、わたしはその日、そのお宅へ、物乞《ものご》いに参ったのでございます。それまでにも再々参ったことがありまして、そのお宅はいわばわたしにとりましては、縄張りの一つだったのでございます。ご主人様がご親切だからでございましょうが、下女下男までが親切で、わたしの顔を見ますると「勢州《せいしゅう》が見えたから何かやりな」と、面桶《めんつう》の中へ、焚《た》きたてのご飯などを、お入れ下さるのでございます。さてその日も、ご飯を頂戴いたしましたので、台所口から出て、塀《へい》に添って往来《とおり》の方へ歩いて行きました。すると行く手から、一人の男がやって参りましたが、お台所ちかくまで参りますと、にわかに呻《うめ》き声をあげて、地へ倒れたではございませんか。驚いてわたしは引き返し、その男の側へ参り、顔を覗《のぞ》きこみましたところ、例の男だったのでございます。
(さてはこの男ここでまた一芝居《ひとしばい》を……)
 と、胸にこたえる[#「こたえる」に傍点]ところがありましたので、いっそ蹴殺してやろうかと足を上げました。

      

 ところが、お台所口から射し出している燈《ひ》の光で、その男の地に倒れている姿が、女中衆や下男衆に見えたとみえて、飛び出して来て、
「可哀そうに」
「行き倒れだね」
「自身番へ知らせてやんな」
「何より薬を」
「水を持って来い」
 などと、口々に言って、その男の介抱にかかったではありませんか。その騒がしさに不審を打ちましたものか、持田様のお嬢様と、そのお気に入りのお上女中《かみじょちゅう》のお柳さんというお方が、奥から出て参られ、
「気の毒だから家《うち》へ入れて介抱してあげたがいいよ」
 と言われました。下男衆がその男をかかえて、家の中へ運んで行く時、その男の顔を覗き、
「好《い》い縹緻《きりょう》ね」
 とお嬢様のお小夜様が、お柳という女中へささやかれたのを聞いて、わたしは厭な気がいたしましたっけ。それというのも日ごろから、そのお美しさと初々《ういうい》しさとに、感心もし敬ってもいる、お小夜様だったからでございます。お小夜様のお年は十九歳でございましたが、すこし小柄でございましたので、十七歳ぐらいにしか眺められず、小さい口、つまみ鼻、鮠《はや》の形をした艶のある眼、人形そっくりでございました。大工の棟梁とは申しましても、尾張様御用の持田家は、素晴らしい格式を持っていまして、津田助左衛門様、倉田新十郎様、などという、清洲越《きよすごえ》十九人衆の、大金持の御用達衆《ごようたししゅう》と、なんの遜色《そんしょく》もないのでありまして、その持田様のお娘御でございますことゆえ、召されておられるお召し物なども、豪勢なもので、髪飾りなどは銀や玳瑁《たいまい》でございました。
「ほんとに好い男振りでございますのね」
 とお柳という女中も申しましたっけ。
「馬鹿め、何が好い男だ!」
 とうとうわたしは腹立たしさのあまり、かなり烈しい声で、そう言ったものでございます。するとどうでしょうお柳という女は、わたしをジロリと見返しましたが、「いいじゃアないか、お嫉妬《やき》でないよ」
 と、言い返したではありませんか。

 それから十日ばかりの日がたちました。ある日わたしはいつものように、縄張りの諸家様《しょけさま》を廻り、合力《ごうりき》を受け、夕方帰路につきました。鳥にだって寝倉がありますように、乞食にだって巣はございますので。瓦町《かわらまち》の方へ歩いて行きました。考えごとをしておりましたので。町の口へ参りましたころには、初夜《しょや》近くなっておりましたっけ。ふと行く手を見ますと、一人のお侍さんが、思案にくれたように、首を垂れ、肩をちぢめて歩いて行く姿が、月の光でぼんやりと見えました。
(途方にくれているらしい)わたしはおかしくなりました。(殺生《せっしょう》だが一つからかって[#「からかって」に傍点]やろう)というのは、そのお侍さんの誰であるかが、私にわかっていたからで。
 そこでわたしはお侍さんに近より、
「討ち損じたは貴郎様《あなたさま》の未熟、それでさがし出して討とうとなされても、あてなしにおさがしなされては、なんではしっこい[#「はしっこい」に傍点]江戸者などを、さがし出すことができましょう」
 と、ささやくように言ってやりました。
 西条勘右衛門様の驚くまいことか――そう、そのお侍様は西条様なので――ギョッとしたように振りかえられました。でも見廻した西条様の眼には、菰《こも》をまとい竹の杖をつき、面桶《めんつう》を抱いた乞食のほかには、人っ子一人見えなかったはずで。そうしてまさかその乞食が、今のようなことを言ったとは、思わなかったことと存じます。
 はたして西条様は、自分の耳を疑うかのように、首をかしげましたが、やがて足を運ばれました。そこでわたしもしばらくの間は、無言で従《つ》いて行きました。でもまたこっそり背後《うしろ》へ近寄り、ささやくように言ってやりました。

      

「大工だと申したではございませんか。ではお城下の大工の棟領を――それも船大工の棟領を、おしらべなさいましたら、あの男の素性も、現在のおり場所も、おわかりになろうかと存ぜられまする」
「チエ」
 もうこの時には西条様の刀が、抜き打ちにわたしの右の肩へ、袈裟《けさ》がけに来ておりました。
 わたしは前へつんのめり[#「つんのめり」に傍点]ました。
「そう、あの男もこんなように、貴郎様の太刀先をのがれましたねえ」
「乞食め!」
 と西条様はわたしの背を目がけ、斬りおろしました。
 それを掻《か》いくぐって左へ飛び、
「ここに庄内川がありましたら、わたしもあの男のように川へ飛び込んで、のがれることでございましょうよ。……それにしても惜しいものだ、乞食にばかりこだわらずに、素直に私という人間の言葉を聞いて、持田さんあたりを調べたら、たいした功が立てられるのに……」
 言いすててわたしは露路の一つへ駈《か》けこみましたっけ。
 庄内川の岸で、職人風の男を討ちそこなって逃がし、西丸様からお叱りを受け、どうあろうとその男をさがし出し、討ってとれとの厳命を受け、さがし廻っているがわからない。そのムシャクシャしている腹の中へ、グッと棒でも突っ込んだように、わたしの言葉がはいったのですから、わたしに対する憎しみは烈しく、あくまでも斬りすてようと、わたしの後《あと》を追って、西条様が、露路へ駈け込んで来たのは、当然のことかと存ぜられます。でも露路には枝道《えだみち》が多く、こみいっておりましたので、わたしがどこへかくれたか、西条様にはわからなかったようです。
 その西条様がぼんやりした様子で、一軒の家の前に佇んだのは、それから間もなくのことでした。
 平家《ひらや》だての格子づくりの、粋《いき》な真新しい家の前でした。
 と、格子戸の奥の障子が、土間をへだてて明るみ、やがて障子が開き行燈《あんどん》をさげた仇《あだ》っぽい女が、しどけない姿をあらわしました。睫毛《まつげ》の濃い大型の眼、中だるみ[#「だるみ」に傍点]のない高い鼻、口はといえばこれも大型でしたが、受け口めいておりましたので、色気にかけては充分でした。空《あ》いている左手を鬢《びん》へ持って行き、女のくせで、こぼれている毛筋を、掻《か》きあげるようにいたしましたが、八口《やつくち》や袖口から、紅色がチラチラこぼれて、男の心持を、迷わせるようなところがありました。及び腰をして格子戸の方を隙《す》かし、
「どなた、宅にご用?」
 と、含みのある水っぽい声で言ったものです。
「いや」
 と西条さんは狼狽《ろうばい》したような声で、
「狼藉者《ろうぜきもの》が入り込んだのでな」
「狼藉者? 気味の悪い……どのような様子の狼藉者で?」
「乞食じゃよ、穢《きた》ない乞食じゃ」
「お菰《こも》さん、おやおや……お菰さんでございましたら、もうこの辺へは、毎日のように、いくらでも立ち廻るのでございますよ」
「それが怪《け》しからん乞食でな」
「旦那様に失礼でもなさいましたので?」
「うむ、まあ、そういったことになる」
「息づかいがお荒うございますのね。お水《ひや》でも……」
「水か、いや、それには及ばぬ」
「ではお茶でも、ホ、ホ」
 その女は、プリプリしているお侍さんを、からかってやろうというような様子を、見せはじめましてございます。
「戸じまりなど充分気をつけるがよいぞ」
 西条様はテレかくしのように言って、歩き出されました。
 女は持田様の女中お柳でございました。そうしてそのお柳は少したったのちには、この家の奥の茶の間にすわって、丹前《たんぜん》を着た三十五、六の、眼の鋭い、口元の締まった武士と、砕けた様子で話していました。長火鉢の横には塗り膳があって、それには小鉢物がのせてあり、燗《かん》徳利などものせてあるという始末で。お柳がその男を旗さんと呼んだり、頼母《たのも》さんと呼んだりするところを見ると、それがその男の姓名であり、二人の間柄は、情夫情婦のようでありました。
 そうして、その旗頼母《はたたのも》という武士こそ、勢州《せいしゅう》と呼ばれているこの乞食の私なのでございます。どうして武士の私が乞食などになっているかと申しますに、ある重大な計画の秘密を探るためなので。つまり私は乞食に身を※[#「にんべん+悄のつくり」、第4水準2-1-52]《やつ》して隠密をしているのでございます。庄内川の岸に寝ていたのも、持田家の周囲を立ち廻ったのも、そのためなので。それにしてもどうして露路へ逃げ込んだ私が、そんな家で、お柳と、取膳で、酒など飲んでいたのかと申しますに、私は、露路へ逃げ込むや、その家――それは私の隠れ家なのですが、その家の前のしもた家の蔭に隠れて、お柳と西条様との会話《はなし》を聞いていたのでしたが、西条様が立ち去るやすぐに私は、自分の家の裏口から台所へはいって行き、持田家の秘密を探らせるために、持田家へ、女中として入り込ませておいたお柳が、持田家の秘密を持って、この夜来合わせていたのに手伝わせ、乞食の衣裳を脱ぎ、行水を使い、茶の間で、そんなように、取膳で……と、いうことになったのでありまして、さてそれからは、私とお柳との会話《はなし》になるのでございます。――
「今夜は泊まって行ってもいいのだろう」これは私で。
「というわけにもいかないのさ。……何しろお嬢様があんなだからねえ」
「惚れるのに事を欠いて、あんな野郎に惚れるとはなア」
「鶴吉と宣っているあの江戸者、女にかけちゃア凄いものさ」
「そこへもって来てお小夜坊《さよぼう》が、初心《うぶ》の生娘《きむすめ》ときているのだからなあ」
「ころりと参って無我夢中さ」
「駆け落ちの相談ができ上がったとは、呆《あき》れ返って話にもならない」
「世間知らずの娘だからだよ」
「男の素性に気もつかずか」
「男の心にも気がつかずさ」
「まったくそうだ、だから困るのさ。本当の恋からの所業《しわざ》ならいいのだが、そうでないのだから恐ろしい」
「江戸へうまうま連れ出されてから、どうされるかってこと、知らないんだからねえ」
「生き証拠にされるってこと、ご存知ないからお気の毒さ」
 お柳の注いだ猪口《ちょこ》を私は口へ持って行きました。

      

「駆け落ちの日にちと刻限とに、間違いがあっちゃア大変だが」
「今日から五日後の子《ね》の刻さ。たしかめておいたから大丈夫だよ」
「お前《めえ》も従《つ》いて行くんだったな」
「そうさ途中までお見送りするのさ。お嬢様は可愛らしいよ、何から何まで、妾《わたし》にだけはお明かしなさるのだから」
「そこがこっちのつけめ[#「つけめ」に傍点]なのだが……それにしても鶴吉というあの男、お小夜坊ばかりを連れ出して、それで満足するような、優しい玉とは思われないが」
「これまでにお嬢様の手を通して、いろいろの物を引きだしたらしいよ」
「証拠になるような品をだろう」
「ああそうさ、証拠になるような品さ」
「ところで職場の仕事だが、どうだな、はかどっているようかな」
「それだけは妾にもわからないのさ。こしらえた端《はし》から化け物屋敷の方へ、こっそり運んで行くのだからねえ」
「そういうことは鶴吉って男も、とうに知っているだろうに、化け物屋敷を調べないとは、どうにも俺には腑《ふ》におちないよ」
「これから調べるのかもしれないじゃアないか」
「そうよなア、そうかもしれない……駆け落ちの前にか、駆け落ちの夜にかな」
 私は背後《うしろ》の地袋《じぶくろ》を開け、木箱を取り出し、その中から太い竹の筒を取り出しました。
「こいつ湿らせちゃア大変だ」
「変な物だねえ、何なのさ?」
「いってみりゃア地雷火さ。普通にゃ落火《らっか》というが」
「地雷火? まア、気味の悪い……どうしてお前さんそんなものを?」
「お殿様から下げ渡されたのさ」
「お殿様って? どこのお殿様?」
「殿様に二人あるものか。俺等《おいら》のご主君は犬山の御前さ」
「それじゃア成瀬様《なるせさま》から。……でも、成瀬様がそんな恐ろしいものを……」
「いよいよの場合には火をかけろってね、俺等前もって言いつけられているのさ」
 この時露路のあちこちで、犬が吠《ほ》え出しましてございます。私は竹筒を木箱の中へ納め、また地袋の中へ押し入れて、犬の吠え声に耳をかしげましたが、「あらかた話は済んだらしいな。それじゃア……」
「何がさ」
「隣の部屋に紅裏《もみうら》の布団が敷いてあるってことさ」
「ばからしい、……わたしゃア小母様が病気だから、ちょっと見舞いに行って来るといって、お暇をいただいて来たんだよ」
「ありもしない小母様に病気をさせて、情夫《おとこ》に逢いに来るなんて、隅に置けない歌舞伎者《かぶきもの》さ」
「その歌舞伎者で心配になったよ。行き倒れ者に自分を仕組んで、持田様へ抱《かか》え込まれ、ずるずるべったりに居ついてしまって、お嬢様をたらしたあの鶴吉、わたしの居ない間に、二番狂言でも仕組んで、わたしたちを出し抜きゃアしないかとねえ」
「それじゃアすぐに帰る気か」
「どうしよう」
「じらすのか。……それともじれているのか……」
「あれ、痛いよ」
 見る眼に痛い絵模様となりましたので……。

      

 相変らず菰をかむり、竹の杖をつき、面桶《めんつう》を抱《かか》えた、乞食のわたしが、庄内川の方へ辿って行きましたのは、それから五日後の夜のことでした。
 化け物屋敷の前まで来ました。
 一|町四方《ちょうしほう》もある、宏大なお屋敷は、樹木と土塀とで、厳重に囲《かこ》まれておりまして、外から見ますると、内部《なか》の建物《たてもの》は、家根さえ見えないほどなのでございます。
 しばらくわたしは土塀について、お屋敷の周囲をまわりました。と、東側の小門《こもん》から小半町《こはんちょう》ほど距たった辺に、こんもりした林がありました。それをわたしは眺めやりましたが(あれ[#「あれ」に傍点]に任《ま》かせて置けば大丈夫さ)と、こう心中で思いまして、そのまま先へ進んで行きました。足場のよいところまでやって来ました。そこでわたしは木立へ登り、そこから土塀の頂《いただき》へ登り、お屋敷の構内へ飛び下りました。構内の土塀近くに茂っているのは、松や楓《かえで》や槇《まき》や桜の、植え込みでございました。
(塀外の木立ちと高い厚い土塀と、そうして内側のこの植え込みとで、こう厳重に鎧《よろ》われたんでは、屋敷内で何を企てようと、外からは見えもしなければ聞こえもしない。ましてその上に化け物屋敷などという、気味の悪い噂を立てておいたら、近寄ろうとする人はないだろう。)[#「近寄ろうとする人はないだろう。)」は底本では「近寄ろうとする人はないだろう。」]
 そんなことをわたしは思いながら、植え込みをわけて進んで行きました。と行く手から大勢の人声や、物を打つ音や物を切る音やが、潮の遠鳴りのように聞こえ、燈《ひ》の光なども見えて来ました。不意にその時人声が、此方《こなた》へ近づいて参りましたので、わたしは藪《やぶ》蔭へ身をかくしました。
「見慣れない奴でありましたよ」
「外から忍び込んだ人間らしい」
「どうあろうとさがし出して捕えねば……」
 それは二人のお侍さんでした。
「居た!」
 とその中の一人が、わたしを目付けて叫び、手取りにしようとしてか組みついて来ました。(やむを得ない)と思って、わたしは竹の杖を突き出しました。もちろん急所へあて[#「あて」に傍点]たんで。かすかに呻き声をあげたばかりで、そのお侍さんは倒れてしまいました。
「曲者《くせもの》!」
 この人は斬り込んで来ました。
 でもその人も倒れてしまいました。
 わたしの突き出した竹の杖が、うまく鳩尾《みぞおち》へはまった[#「はまった」に傍点]からで。
(ナーニ半刻《はんとき》のご辛棒で。自然と息を吹き返しまさあ)
 わたしは先へ進んで行きました。
 でもわたしは気が気ではありませんでした。あの鶴吉という男が、わたしのように土塀を乗り越えて、屋敷内にはいり込んだということは、わたしにはわかっておりましたが、愚図愚図しているうちに目的を遂げて、この屋敷から脱け出されたら、一大事と思ったからです。
 わたしは先へ進んで行きました。
 すると「誰だ!」という声が起こり、つづいて「わッ」という悲鳴が起こり、すぐに「曲者!」と喚《わめ》く声が聞こえ、つづいて「わッ」という悲鳴が聞こえ、さらに逃げてでも行くらしい、けたたましい足音が聞こえましたが、またもや「わッ」という悲鳴が聞こえ、その後は寂然《しん》となってしまいました。
(凄《すご》いな。三人|殺《や》った! 彼奴《きゃつ》だ!)
 とわたしは走って行きました。
 そうして間《ま》もなくわたしは、厳重な旅の仕度をし、黒い頭巾で顔をつつんだ、鶴吉と呼ぶ例の男と、木立ちの中で刀を構えていました。そうですわたしも竹杖《たけづえ》仕込みの刀を、ひっこ抜いて構えたのです。
 わたしたちの足許にころがっているのは、三人の武士の死骸《しがい》でした。みんな一太刀で仕止められていました。
(凄い剣技《てなみ》だ、油断するとあぶない)
 わたしは必死に構えました。
 と、鶴吉は月の光で、わたしの姿を認めたらしく、
「なんだ、貴様、乞食ではないか。……しかし、……本当の乞食ではないな。……宣《なの》れ、身分を!」
「そういう貴様こそ身分を宣れ! 庄内川からこの屋敷へ、大水《たいすい》を取り入れるために作り設けた、取入口を探ったり、行き倒れ者に身を※[#「にんべん+悄のつくり」、第4水準2-1-52]《やつ》して、船大工の棟領持田の家へはいり込み、娘をたぶらかして秘密を探ったり、最後にはこの屋敷へ忍び入り、現場を見届けようとしたり……」
「黙れ! 此奴《こやつ》、それにしてもそこまで俺の素性を知るとは?……さては、汝《おのれ》は、……もしや汝は※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」
「…………」
「隠密《おんみつ》ではないかな? どこぞの国の?」
「…………」
「ものは相談じゃ、いや頼みじゃ、同じ身分のものと見かけ、頼む見遁《みのが》してくれ」

      八

「礼には何をくれる」わたしはこう言ってやりました。
「ナニ礼だと、礼がほしいのか?」
「ただで頼《たの》まれてたまるものか」
「なるほどな、もっともだ。……かえって話が早くていい。……何がほしい、なんでもやる。」[#「何がほしい、なんでもやる。」」は底本では「何がほしい、なんでもやる。」]
「調べた秘密をこっちへ吐き出せ」
「…………」
「抑《おさ》えた材料《ねた》を当方へ渡せ」
「…………」
「江戸まで連れて逃げようとする生き証拠を俺の手へ返せ」
「チェッ、要求《のぞみ》はそれだけか」
「もう一つ残っている」
「まだあるのか、早く言え!」
「汝《おのれ》この場で消えてなくなれ」
「ナ、なんだと?」
「汝《おのれ》に生きていられては都合が悪いと言っているのだ」
 疾風迅雷とでも形容しましょうか、怒りと憎悪《にくみ》とで斬り込んで来た、鶴吉の刀の凄《すさま》じかったことは! あやうく受け流し、わたしは木立ちの中へ駈け込みました。そのわたしを追いかけて来る、鶴吉の姿というものは、さながら豹《ひょう》でしたよ。
(駄目だ)とわたしは観念しました。(俺の手では仕止められない)
 松の木を盾として、鶴吉の太刀先を防ぎながら、わたしは大音に呼びました。
「お屋敷の方々お出合い下され、江戸|柳営《りゅうえい》より遣《つか》わされた、黒鍬組《くろくわぐみ》の隠密が、西丸様お企《くわだ》ての秘密を探りに、当屋敷へ忍び込みましてござる! 生かして江戸へ帰しましては、お家の瑕瑾《かきん》となりましょう! 曲者はここにおりまする、お駈けつけ下され!」
 声に応じて四方から、おっ取り刀のお侍さんや、鋸《のこぎり》や槌《つち》を持った船大工の群れが、松明《たいまつ》などを振り照らして、わたしたちの方へ駈けつけて来ました。その先頭に立っておりましたのが、西条勘左衛門様でございましたので、
「あなた様の太刀先をひっ[#「ひっ」に傍点]外《ぱず》して、庄内川へ飛び込んだ男が、隠密の此奴《こやつ》でございます。川がないから大丈夫で。今度こそお討ちとりなさりませ」
「そういう貴様《きさま》は……や、いつぞやの晩……」
「あれは内証《ないしょ》にしておきましょうよ。お味方同志でございますから」
 言いすてるとわたしはお屋敷の建物の方へ、一散に走って行きました。

 やるべき仕事をやってしまうと、わたしは引っ返して来ました。屋敷の門が開《あ》いていました。で、わたしは走り出ました。
 何が門外にあったでしょう?
 東側の小門から、小半町ほどはなされている林の中から、人声が聞こえ、松明《たいまつ》の火が射しているのです。
 わたしはそっちへ走って行きました。
 そこでわたしの見たものといえば、垂《たれ》を下《さ》げた一梃《いっちょう》の駕籠《かご》の前に、返り血やら自分の血やらで、血達磨《ちだるま》のようになりながら、まだ闘士満々としている、精悍《せいかん》そのもののような鶴吉が、血刀を右手にふりかぶり、左手を駕籠の峯へかけ、自分の前に集まっている尾張藩の武士や、持田八郎右衛門の弟子の、大勢の船大工たちを睨《にら》んでいる、凄愴《せいそう》とした光景でした。
「かかれ、汝等《おのれら》、かかったが最後だ!」
 と、嗄《しわが》れた声で、鶴吉は叫びましたっけ。
「かかったが最後駕籠の中の女は、俺が一刀に刺し殺す!……持田八郎右衛門の娘を殺す! かかれたらかかれ!」
 船大工たちは口惜しそうに、口々に詈《ののし》りました。
「畜生、鶴吉!」
「恩知らず!」
 ――しかし棟領の秘蔵の娘を、人質にとられているのですから、かかって行くことはできませんでした。西条様はじめお侍さんたちも、刀を構えて焦心《あせ》っているばかりで、どうすることもできませんでした。というのは持田八郎右衛門は、船大工の棟領とはいいながら、立派な藩の御用番匠《ごようばんしょう》であり、ことには西丸様の今度のお企ての、大立物でありますので、その人の娘にもしも[#「もしも」に傍点]のことがあったら、一大事だと思ったからで。
 しかしわたしは遠慮しませんでした。大声で言ってやりました。
「今だ、お小夜坊《さよぼう》、やっつけな!」

      

 途端に「あッ」という悲鳴が起こり、刀をふりかぶったまま、鶴吉は躰《からだ》を捻《ねじ》りましたが、やがて、よろめくと、ドット倒れました。脇腹《わきばら》から血が吹き出しています。
「わーッ」という声が湧《わ》き上がりましたが、これは船大工や藩士の方々が、思わずあげた声でした。でもその声はすぐに止《や》んで、気味悪くひっそりとなってしまいました。
 血にぬれた懐剣をひっさげて、駕籠の垂《た》れを刎《は》ねてお小夜坊が、姿を現わしたからです。
 お小夜坊ではなくてお柳《りゅう》でした。
 はじめて人を斬ったのでした。お柳の顔色はさすがに蒼《あお》く、その眼は血走っておりましたが、それだけにかえって凄艶《せいえん》で、わたしとしましてはお柳という女を、この時ほど美しいと思ったことは、ほかに一度もありませんでした。お柳はわたしを見やってから、船大工たちへ言いましたっけ。
「皆様ご安心なさいまし、お小夜様は妾《わたし》がお助けして、この林の奥の、藪蔭にお隠しして置きました」
 歓喜の声をあげて、船大工たちが林の奥へ走って行ったのは、いうまでもないことでございます。その間に西条様や藩士の方々は、鶴吉の息の根を止めようとしました。でもわたしは制止しました。
「どうせ死んで行く人間です、静かに死なせてやって下さい」
 見れば鶴吉は断末魔に近い眼を、わたしの眼へヒタとつけて、物言いたげにしておりました。そこでわたしは近寄って行って、耳に口を寄せてささやきました。
「言いたいことがあるなら言うがいい」
「乞食に計られて死んだとあっては、オ、俺《おれ》は死に切れぬ。頼む、明かしてくれ、お前の素性を」
「もっともだ、明かすことにしよう。……尾張家の附家老《つけがろう》、犬山の城主、成瀬隼人正《なるせはやとのしょう》の家臣、旗頼母《はたたのも》、それが俺だ」
 ここで私は言葉を改め、「貴殿のご姓名なんと申されるかな?」
「…………」無言で首を振るのでした。
「隠密として事破れし以上、姓名は言わぬというお心か。ごもっともでござる」
 この時突然屋敷内から、火の手が立ち昇りました。
「火事だ!」
「大変だ、作事場《さくじば》が燃える!」
 人々は叫んで走って行きました。
「鶴吉殿」と耳に口を寄せ、またわたしはささやきました。
「貴殿をこの地へ遣《つか》わした、そのお方が心にかけられた、宗春様ご建造の禁制の大船、ただ今燃えておりまする。貴殿のお役目遂げられたも同然、お喜びなされ、ご安心なされ!」
「火事?……大船が?……燃えている?」
「拙者が放火《つけび》いたしたからでござる」
「貴殿が……お身内の貴殿が?」
「われらが主君成瀬隼人正、西丸様お企てを一大事と観じ、再三ご諫言《かんげん》申し上げたれど聞かれず、やむを得ず拙者に旨を含め……」
 この時船大工たちがお小夜様を連れて、林の奥から出て来ました。
「お柳、お小夜様を、鶴吉殿へ!」
 わたしの相棒のお柳は、お小夜様の手を取って、鶴吉の側へ連れて行きました。お小夜様は恐怖《おそろしさ》と悲哀《かなしさ》とで、生きた空もないようでございましたが、でもベッタリと地へすわると、鶴吉の項《うなじ》を膝の上へのせ、しゃくり[#「しゃくり」に傍点]上げて泣きました。鶴吉を愛していたのですねえ。

 宗家相続の問題以来、将軍吉宗様《はちだいさま》と尾張家とは、面白くない関係《あいだがら》となりまして、宗春様が年若の御身《おんみ》で、早くご隠居なされましたのも、そのためからでございますし、ご禁制の大船を造られましたのも、吉宗様《はちだいさま》に対する欝忿《うっぷん》晴らし、そのためだったように思われます。そのご禁制の大船ですが、もうあの時には九分がたできていて、立派なものでございました。ご主君から渡された竹筒仕込みの地雷で、わたしが焼き払いさえしなかったなら、完成したに相違ございません。庄内川から取り入れた水を、すぐに船渠《せんきょ》へ注ぎ入れ、まず庄内川へ押しいだし、それから海へ出すように、巧みに仕組まれてもおりました。
 勢州《せいしゅう》産まれの乞食《こじき》権七《ごんしち》、そんなものにまで身を※[#「にんべん+悄のつくり」、第4水準2-1-52]《やつ》し、尾張家のためとはいいながら、あの立派な船を焼きはらったことは、もったいなく思われてなりません。

底本:「日本伝奇名作全集4 剣侠受難・生死卍巴(他)」番町書房
   1970(昭和45)年2月25日初版発行
初出:本全集収録まで未発表
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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国枝史郎

加利福尼亜の宝島 (お伽冒険談) ——国枝史郎

        一

「小豆島《あずきじま》紋太夫が捕らえられたそうな」
「いよいよ天運尽きたと見える」
「八幡船の後胤もこれでいよいよ根絶やしか。ちょっと惜しいような気もするな」
「住吉の浜で切られるそうな」
「末代までの語り草じゃ、これは是非とも見に行かずばなるまい」
「あれほど鳴らした海賊の長《おさ》、さぞ立派な最期《さいご》をとげようぞ」
 摂津国《せっつのくに》大坂の町では寄るとさわると噂である。
 当日になると紋太夫は、跛《ちんば》の馬に乗せられて、市中一円を引き廻されたが、松並木の多い住吉街道をやがて浜まで引かれて来た。
 矢来の中へ押し入れられ、首の座へ直ったところで、係りの役人がつと[#「つと」に傍点]進んだ。
「これ紋太夫、云い遺すことはないか?」作法によって尋ねて見た。
「はい」と云って紋太夫は逞《たくま》しい髯面をグイと上げたが、「私は、海賊にござります。海で死にとうござります」
「ならぬ」と役人は叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]《しった》した。
「その方|以前《まえかた》何んと申した。海を見ながら死にとうござると、このように申した筈ではないか、本来なれば千日前の刑場で所刑さるべきもの、海外までも名に響いた紋太夫の名を愛《め》でさせられ、特に願いを聞き届けこの住吉の海辺において首打つ事になったというは、一方ならぬ上《かみ》のご仁慈じゃ。今さら何を申しおるぞ」
「いや」
 と紋太夫は微笑を含み、
「海で死にたいと申しましたは、決して海の中へはいり、水に溺れて死にたいという、そういう意味ではござりませぬ」
「うむ、しからばどういう意味じゃな?」
「自由に海が眺められるよう、海に向かった矢来だけお取り払いください[#「ください」は底本では「くだい」]ますよう」
「自由に海を眺めたいというのか」
「はいさようでございます。高手小手に縛《ばく》された私、矢来をお取り払いくだされたとてとうてい逃げることは出来ませぬ」
「警護の者も沢山いる。逃げようとて逃がしはせぬ。……最後の願いじゃ聞き届けて進ぜる」
「有難い仕合せに存じます」
 そこで矢来は取り払われ波|平《たいら》かの浪華《なにわ》の海、住吉の入江が見渡された。頃は極月二十日の午後、暖国のこととて日射し暖かに、白砂青松相映じ、心ゆくばかりの景色である。
 太刀取りの武士が白刃《しらは》を提げ、静かに背後《うしろ》へ寄り添った。
「行くぞ」
 と一声掛けて置いて紋太夫の様子を窺《うかが》った。
 紋太夫は屹《きっ》と眼を据えて、水天髣髴《すいてんほうふつ》の遠方《おちかた》を喰い入るばかりに睨んでいたが、
「いざ、スッパリおやりくだされい」
 とたんに、太刀影《たちかげ》陽《ひ》に閃めいたがドンと鈍い音がして、紋太夫の首は地に落ちた。颯《さっ》と切り口から迸《ほとば》しる血! と見る間にコロコロコロコロと地上の生首渦を巻いたが、ピョンと空中へ飛び上がった。同時に俯向《うつむ》きに仆れていた紋太夫の体が起き上がる。
 首は体へ繋がったのである。
「ハッハッハッハッ」
 と紋太夫は大眼カッと見開いて役人どもを見廻したが、
「ご免|蒙《こうむ》る」
 と一声叫ぶと、海へ向かって走り出し、身を躍らせて飛び込んだ。パッと立つ水煙り。そのまま姿は見えなくなった。

 小豆島紋太夫の持ち船が、瀬戸内海風ノ子島の、深い入江にはいって来たのは、同じその日の宵のことであった。
 船中|寂《せき》として声もない。
 二本|帆柱《ばしら》の大船で、南洋船と和船とを折衷したような型である。
 鋭い弦月が現われて、一本の帆柱へ懸かった頃、すなわち夜も明方の事、副将|来島《くるしま》十平太は、二、三の部下を従えて胴の間から甲板《かんぱん》へ出た。
「ああ今夜は厭な気持ちだ。月までが蒼褪《あおざ》めて幽霊のように見える」
 呟きながら十平太は東の空を振り仰いだが、「今頃|骸《むくろ》は晒されていようぞ。ああもう頭領とも逢うことが出来ぬ」
「とんだことになりましたな」一人の部下が合槌を打つ。「あの偉かった頭領がこうはかなく殺されようとは、ほんとに、夢のようでございますなあ」
「俺はあの時お止めしたものだ。……大坂城代も町奉行も我ら眷族の者どもを一網打尽に捕らえようとてぐすね引いて待っている由《よし》、危険千万でござるゆえ、大坂上陸はお止めなされとな。しかし頭領は聞かれなかった。――近頃南洋のある国よりある地理書を城代まで献上致した風聞じゃ。是非とも地理書を奪い取り、書かれた中身を一見せねばこの紋太夫胸が治まらぬ――こう云って無理に上陸したところ、はたして町奉行手附きの者に、騙《たば》かられて捕縛《めしと》られ、無残にも刑死をとげられたのじゃよ」

        二

 その時、あわただしく胴の間から一人の部下が飛んで来たが、月の光のためばかりでなくその顔はほとんど真っ蒼であった。
「どうした?」
 と十平太は訝《いぶか》し気に聞いた。
「大変なことが起こりました」胸を拳で叩きながら、「頭領の部屋に、頭領が……」
「なに?」
 と十平太は進み出た。
「えい、あわてずにしっかり[#「しっかり」に傍点]云え!」
「はい、頭領がおられます! はい、頭領がおられます。いつものお部屋におられます」
「馬鹿!」
 と海賊の塩風声《しおかぜごえ》、十平太は浴びせかけたが、
「首を打たれた頭領が何んで船中におられるものか。嘉三貴様血迷ったな!」
 嘉三と呼ばれたその男は、そう云われても頑強《かたくな》に、頭領がいると叫ぶのであった。
「いえ血迷いは致しませぬ。この眼で見たのでございます」
「そうか」ととうとう十平太も不審の小首を傾《かし》げるようになった。と、見て取った手下どもは一時にゾッと身顫《みぶる》いをした。迷信深い賊の常として、幽霊を連想したのであった。
 十平太は腕を組んでしばらく考えに沈んでいたが、バラリ腕を解くと歩き出した。
「よろしい、行って確かめてやろうぞ」

 胴の間の頭領の部屋は、諸国の珍器で飾られていた。
 印度《インド》産の黒檀の卓子《テーブル》。波斯《ペルシャ》織りの花|毛氈《もうせん》。アフガニスタンの絹窓掛け。サクソンの時計。支那の硯。インカ帝国から伝わった黄金《こがね》作りの太刀や甲《かぶと》。朝鮮の人参は袋に入れられ柱に幾個《いくつ》か掛けてある。
 と、正面の扉《と》が開いて、十平太がはいって来た。すると部屋の片隅のゴブラン織りの寝台《ねだい》から嗄れた声が聞こえて来た。――
「おお十平太か、よいところへ来た。ちょっとここへ来て手伝ってくれ」
 頭領小豆島紋太夫の声に、それは疑がいないのであった。
 はっ[#「はっ」に傍点]と十平太は呼吸《いき》を呑んだが、さすがに逃げもしなかった。
「頭領」と声を掛けながら寝台《ねだい》の方へ突き進んだ。見れば寝台に紋太夫がいる。広東《カントン》出来の錦襴の筒袖に蜀紅錦の陣羽織を羽織り、亀甲《きっこう》模様の野袴を穿き、腰に小刀を帯びたままゴロリとばかりに寝ていたが、頸《くび》の周囲《まわり》に白布で幾重にもグルグル巻いているのがいつもの頭領と異《ちが》っている。
 両手で頸を抑えながら、大儀そうに紋太夫は立ち上がった。
「頸へさわっちゃいけないぜ」
 嗄《しわが》れた声で云いながら、黒檀の卓の前まで行くとドンと椅子へ腰掛けた。
「頭領」
 と十平太は立ったまま紋太夫の様子を眺めていたが、「いつお帰りになられましたな? そうして頸はどうなされましたな?」
「そんな事はどうでもよい。これちょっと手伝ってくれ。隠《かく》しから、書籍《ほん》を出してくれ」相変わらずいかにも呼吸《いき》苦しそうに紋太夫は云うのであった。
 で、十平太は書籍《ほん》を出した。黒い獣皮で装幀された厚い小型の本である。
「これだよ、地理書は! ああこれだよ!」
 嬉しそうに紋太夫は笑い出した。「アッハハハウフフフフアッハハハハ。ヒヒヒヒヒ」
 音はあっても響きのないいかにも気味の悪い笑声で、聞いているうちに、十平太は身の毛のよだつような気持ちがした。
「まるでこれでは幽霊だ。それに何んのために白い布《きれ》を頸にあんなに巻いているのだろう」
 口の中で呟いて、十平太は見詰めていた。
「ああそうだよ。これが地理書さ。……上陸すると俺はすぐに城代屋敷まで行ったものさ。かなり厳重な構えであったが、忍ぶことにかけては得意だからな。うまうま盗み出したというものさ」
「しかし頭領」と十平太は椅子に腰をかけながら、「あなたは町奉行手附きの者に捕らえられた筈ではありませんか」
「うん」
 と紋太夫は頷《うなず》いたが、「いかにも俺は捕らえられ住吉の海辺で首を切られたよ。が、この通りここにいる。そうしてお前と話している。ハハハハ、これでいいではないか。ただし首へはさわるなよ。ひょっと[#「ひょっと」に傍点]落ちると困るからな」
 書籍《ほん》を取り上げ頁《ページ》を翻《ひるがえ》し、じっと一所《ひとところ》を見詰めたが、ガラリ言葉の調子を変え紋太夫はこう云った。
「聞け十平太! よく聞くがいい! 宝は海の東南にあるそうじゃ」
「どのような宝でございますな?」
「隠されたる巨万の富だ!」
 紋太夫は愉快そうに云う。

        

「隠されたる巨万の富?」十平太は鸚鵡《おうむ》返しに、「場所はどの辺でございますな?」
「遠い遠い海のあなたのメキシコという国じゃそうな」
「メキシコ? メキシコ? 聞かぬ名じゃ」
 十平太は呟いた。
「そこに一つの湾がある」
「大きな湾でございましょうな?」
「日本の九州より大きいそうじゃ。湾の名は加利福尼亜《カリフォルニア》という」
「加利福尼亜《カリフォルニア》湾でございますかな」
「そこに一つの島があるそうじゃ。チブロンという島じゃそうな。宝はそこに隠されてあるのじゃ。――みんな地理書に記されてある」
「どのような宝でございましょうな?」
「砂金、宝石、異国の小判」
「無人の島でございますかな?」
「兇暴残忍の土人どもが無数に住んでいるそうじゃよ」
「頭領」
 と十平太は立ち上がった。「土人どもを平《たい》らげて宝を奪おうではございませぬか」
「航海は往復二年かかるぞよ」
「二年?」と十平太は眼を見張った。
「恐ろしいか?」と紋太夫は笑う。
「何んの!」と十平太は哄笑した。
「瀬戸内海の大海賊、小豆島紋太夫の手下には、臆病者はおりませぬ筈!」
「おおいかにもその通りじゃ、それではいよいよ加利福尼亜《カリフォルニア》へ行くか!」
「申すまでもございませぬ」
「準備に半年はかかろうぞ」
「心得ましてございます」
「鉄砲、大砲も用意せねばならぬ」
「それも心得ておりまする」
「四方に散々《ちりぢり》に散っている友船を悉《ことごと》く集めねばならぬ」
「すぐに早船を遣《つか》わしましょう」
「よし」
 と紋太夫は拳を固め黒檀の卓をトンと打った。とたんに首ががっくり[#「がっくり」に傍点]となる。
「ほい、あぶない」
 と云いながら、両手で頸《くび》をグイと支えた。
「まだまだ首は渡されぬて、ハッハハハ」
 と物凄く笑う。
 真に気味の悪い笑声である。

 八幡大菩薩の大旗を、足利《あしかが》時代の八幡船のように各自《めいめい》船首《へさき》へ押し立てた十隻の日本の軍船《いくさぶね》が、太平洋の浪を分けて想像もつかない大胆さで、南米|墨西哥《メキシコ》へ向かったのは天保末年夏のことであった。
 幾度かの暴風幾度かの暴雨、時には海賊に襲われたりして、つぶさに艱難を甞めた後、眼差す加利福尼亜《カリフォルニア》へ着いたのは日本を立ってから一年後の夏でもうこの時は軍船の数もわずか五隻となっていた。
 ここで物語は一変する。
 墨西哥《メキシコ》国、ソラノ州、熱帯植物の生い茂っているドームという海岸へ舞台は一変しなければならない。

 チブロン島とドーム地帯とは小地獄という海峡を距《へだ》ててほとんど真っ直ぐに向かい合っていた。その距離一里というのだから、互いの顔さえ解りそうである。
 そのドームの深林の中に天幕《テント》が幾十となく張ってあった。大英国の探険家ジョージ・ホーキン氏の一隊で、これもやはりチブロンの大宝庫を探し当てようため、遠征隊を組織して今からちょうど一月ほど前から窃《ひそ》かにここに屯《たむ》ろして様子を窺《うかが》っているのであった。
 熱国の夕暮れの美しさ。真紅|黄金《こがね》色、濃紫《こむらさき》落ちる太陽に照らされて、五彩に輝く雲の峰が、海のあなたにむら[#「むら」に傍点]立ち昇り、その余光が林の木々天幕の布を血のような気味の悪い色に染め付けている。
 鳥の啼く音や猿の叫び声や豹の吠え声や山犬の声などが、林の四方で騒がしくひっきり[#「ひっきり」に傍点]なしに聞こえていたが、それはどうやら遠征隊の傍若無人の振る舞いを怒っているようにも聞きなされた。
 と、一羽のメキシコ孔雀《くじゃく》が虹のような美しい尾をキラキラ夕陽に輝かせながら林の奥から飛んで来たが、天幕《テント》の側《そば》の低い木へ静かに止まって一声啼いた。
「やあ孔雀だ。綺麗だなあ」
 こういう声が聞こえたかと思うと、天幕の口から一人の少年がひらり[#「ひらり」に傍点]と身軽に走り出た、これはホーキン氏の令息でジョンと云って十二歳のきわめて愛らしい美少年であった。
「よし、こん畜生|捕《つか》まえてやるぞ」
 跫音《あしおと》を忍んで近寄って行き、そっと片手を差し出すと、孔雀はピョンと一刎ね刎ね他の灌木へ飛び移った。
「おやおや、こいつ狡猾《ずる》い奴だ」
 ジョンは口小言を云いながらまたそっちへ近寄って行く。
 とまた孔雀は他の木へ移った。
「いけねえいけねえ」
 と呟きながらジョンはそっちへ追って行く。

        

 ジョンの姿はいつの間にか、木蔭に隠れて見えなくなった。
 夕栄えが褪《さ》め月が出て、原始林はすっかり夜となったが、どうしたのかジョンは帰って来ない。炊事の煙りが天幕《テント》から洩れ焚火《たきび》の明りが赤々と射し、森林の中は得も云われない神秘の光景を呈したが、ジョン少年の姿は見えない。
 と、先刻ジョンが出て来たその同じ天幕から、
「ジョンはどうした。見えないではないか」
 こういう声が聞こえたかと思うと、長身肥大の立派な紳士が、片手に銃を持ちながらつと[#「つと」に傍点]戸外へ現われた。
「ジョン! ジョン! ジョンはいないか!」
 呼びながら耳を澄ましたが、どこからも返辞は聞こえて来ない。
 この紳士こそ一隊の隊長ジョージ・ホーキン氏その人であったが、次第に不安に感じられると見え、いちいち天幕を訪ねながら、「ジョンはいないかね?」と尋ね廻った。
 ジョン少年失踪の評判が隊全体に拡がった時人達はいずれも仰天した。我も我もと天幕を出て隊長の周囲《まわり》へ集まった。
 そうして四組の捜索隊が忽ちのうちに出来上がった。松火《たいまつ》を振り龕燈《がんどう》を照らし東西南北四方に向かって四つの隊は発足した。
 愛児を失ったホーキン氏は自《みずから》一隊を引率し、海岸に添って南の方へ飛ぶようにして、下って行った。
 行けども行けども密林である。眼を覚まされた鳥や獣がさも怒りに堪えないようにけたたましい鳴き声を響かせ時々一行に飛び掛かって来た。サーッサーッサーッサーッと生い茂った雑草を分けながら隊の行く手を横切るものがあったが、云うまでもなく大蛇である。
 一時間あまりも走った時、一行は小広い空地へ出た。
 と、ホーキン氏は立ち止まった。
「しまった」
 と小声で叫びながら空地の一所へ走って行き体を曲げ手を伸ばし地上から何か拾い上げたが、松火の火ですかして見ると、
「やっぱりそうか! もう駄目だ」
 こう云って愁然と眼を垂れた。拾い上げたのは小さい帽子で、紛《まご》うべくもないジョンの物だ。
 帽子に着いている血の染《しみ》と、急拵えの石の竈《かまど》と、その傍《わき》に落ちていたセリ・インデヤ人の毒矢とを見れば、ジョン少年の運命は知れる。チブロン島の土人どもが、こっそりここへ上陸し、竈を作り焚火を焚き、遠征隊の動静を密《ひそ》かに窺っていたところへ、ジョン少年がやって来たのだ。そうして殺されて食われたのだ。
 ジョージ・ホーキン氏の悲しそうな様子は、部下の者達を皆泣かせた。獅子であろうと虎であろうとビクともしない大冒険家も、肉親の情には堪えられないと見え、顔も上げえず咽《むせ》んでいる。
 その時、遙か北の方から、大砲の音が聞こえて来た。
 一同は驚いて耳を澄ました。
 するとまた一発聞こえて来た。
 にわかにホーキン氏は奮い立った。
「ドームへ!」
 と一声号令を下すと、元来た方へ一散に、先頭に立って走り出した。
 ドームの露営地まで来て見ると、別に変わったこともない。天幕《テント》もそのまま立っている。捜索隊も帰って来ている。北へ向かった一隊だけがまだ帰っていなかった。
 ものの半時間も経った頃その一隊も帰って来た。
 そうして彼らは云うのであった。
「異形の軍船《いくさぶね》が五隻揃って湾を静かに上《のぼ》って行きました」と。
「大砲の音は?」
 とホーキン氏が訊いた。
「やはり異形のその軍船から打ち出したものでございます」
「どこへ向かって打ったのか?」
「島へ向かって打ちました」
「チブロン島へ向かってか?」
「はい、さようでございます」
「ふうむ」
 とホーキン氏は考え込んだ。解らないのが当然である。日本という東洋の国の紋太夫という海賊が船隊を率い大海を越え、こんな所へやって来ようとは、誰しも夢にも思い付くまい。
 さて、それにしてもジョン少年ははたして土人に喰われたであろうか?

        

 チブロン島の海岸に近く、土人部落が立っていた。椰子や芭蕉や棗《なつめ》の木などにこんもりと囲まれた広庭は彼ら土人達の会議所であったが、今や酋長のオンコッコは、一段高い岩の上に立って滔々《とうとう》と雄弁を揮《ふる》っている。
「……俺達の国は神聖だ。俺達の国土は穢《けが》れていない。俺達の国土はかつて一度も外敵に襲われたことはない。……俺達の国は金持ちだ。黄金、真珠、輝瀝青《きれきせい》、それから小判大判が山のように隠されてある。俺達セリ・インデアンは、祝福されたる神の児《こ》だ。そうして俺達のこの国はその神様の花園だ。それだのに無礼にもこの俺達と、俺達の大事なこの国とを、征服しようとする者がある。それは色の白い毛の赤い欧羅巴《ヨーロッパ》人とか云う奴らだ。そうしてそいつらは海峡を隔《へだ》てた大陸の林に陣取っている。ちっとも恐れる必要はない。しかし決して油断は出来ない。鏃《やじり》を磨き刀を研ぎ楯を繕い弓弦を張れよ!」
 この勇ましい雄弁がどんなに土人達を感心させたか、一斉に土人達は歓呼した。そうして彼らの習慣として広場をグルグル廻りながら勇敢な踊りをおどり出した。
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赤い鶫《つぐみ》が飛んで行った
そっちから敵めが現われた
矢をとばせよ、槍を投げよや
可愛い女達を守らねばならぬ
部落のため、島のため
家族のために死のうではないか

赤い鶫が飛んで行った
そっちから敵があらわれた
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 彼らの唄う戦いの歌は森に林に反響した。勇ましい愉快な反響である。
 その日が暮れて夜となった。土人達は篝《かがり》を焚いた。血の色をした焔《ほのお》に照らされ、抜き身の武器はキラキラ輝き土人達の顔は真っ赤に染まり凄愴の気を漂わせた。
 しかしその晩は変わったこともなくやがて、夜が明け朝となり太陽が華々しく射し出《い》でた。
 この時一大事が持ち上がった。
 島の北方ビサンチン湾へ、物見に出して置いたゴーという土人が、息急《いきせ》き切って走って来たが、
「大きな船が五隻揃ってビサンチン湾へはいって来た」とこういうことを告げたものである。
「どんな船だか云って見ろ!」
 悠然と床几《しょうぎ》へ腰かけたままオンコッコ酋長はまず云った。
「不思議な帆船でございます。見たこともないような不思議な船!」
「どんな人間が乗り組んでいたな?」
「それが不思議なのでございます。私達と大変似ております」
「肌の色はどうだ白いかな?」
「いえ、銅色《あかがねいろ》でございます」
「そうか、そうして頭の髪《け》は?」
「それも私達と同じように真っ黒な色をしております」
「なるほど、俺達と同じだな」
 オンコッコは腑に落ちないように、眼を閉《つむ》って考え込んだが、急に飛び上がって叫び出した。
「集まれ集まれ皆《みんな》集まってくれ! 伝説の東邦人がやって来た!」
 そこで再び大会議が例の広場でひらかれた。そうしてオンコッコは岩の上へ突っ立ち、再び雄弁を揮うことになった。
「俺達の先祖はいい先祖だ。立派な国を残してくれた。しかし一方俺達の先祖は悪い予言を残してもくれた。ある日ある時東邦人が、五隻の船に乗り込んでこの国へやって来るだろう。そうして謎語《めいご》を解くであろう。そうして紐を解くであろう。そうしたら国中の財産を東邦人へくれなければならない。……こういう予言を残してくれた。今、どうやらその連中が船へ乗って来たらしい」
 この酋長の言葉を聞くや土人達はにわかに騒ぎ出した。あっちでも議論こっちでも議論。広い空地は土人達の声で海嘯《つなみ》のように騒がしくなった。
「東邦人を追っ払え! 宝を渡してたまるものか!」
「東邦人が利口でもあの謎語《めいご》を解くことは出来まい」
「たとい謎語は解くにしても、あの紐だけは解くことは出来まい」
「とにかく充分用心しよう。少しの間様子を見よう」
 最後の議論が勝ちを占めた。しばらく様子を見ることになった。
 やがて三日が過ぎ去った。東邦人はやって来ない。と云って五隻の軍船《いくさぶね》が湾から外海へ出ようともしない。現状維持というところだ。
 と、事件が持ち上がった。物見をしていた土人のゴーが東邦人に捕らえられたのである。

        

 オンコッコは憤慨したが、相手が名におう伝説にある東邦人というところから、どうすることも出来なかった。
 こうして、またも数日経った。その時、船から使者が来た。その使者こそは、他ならぬ来島十平太その人であって、案内人はゴーであった。
 酋長オンコッコは熟慮した後、その十平太と逢うことにした。通弁の役はゴーである。
「我らは東邦の君子国、日本という国の軍人でござる」まず十平太はこう云った。
「それには何か証拠がござるかな?」オンコッコも負けてはいない。
「証拠と申して何もないが、東邦人には相違ござらぬ」十平太は昂然《こうぜん》と云う。
「それはそれとして何用あって我らの国へは参られたな?」オンコッコは突っ込んだ。
「交際《まじわり》を修め貿易をなし利益交換を致したいために」
「東邦人に相違なくば、祖先より伝わる数連の謎語と、固くむすぼれた不思議な紐とを、何より先にお解きくだされい。修交貿易はその後のことでござる」
「ははあさようか、よろしゅうござる。一旦船中へ取って返し、御大将《おんたいしょう》に申し上げ、改めて再度参ることに致す」
 こう云い残して十平太は湾の方へ帰って行った。ゴーも一緒に従《つ》いて行く。どうやらゴーは土人などより東邦人の方が好きになったらしい。
 翌日数十人の東邦人が土人部落へやって来た。小豆島紋太夫と十平太とが部下を従えて来たのである。と、酋長のオンコッコはこれも部落中の土人を従え例の広場へ出張って来た。
「拙者は小豆島紋太夫。東邦人の頭領でござる」
「拙者はオンコッコと申すもの。チブロン島国の酋長でござる」
 こう両軍の大将は物々しげに宣《なの》り合った。
「何か謎語《めいご》がござる由《よし》、拙者必ず解くでござろう」自信あり気に紋太夫は云う。
「しからばこなたへおいでくだされい」
 こう云ってオンコッコは歩き出した。十平太初め部下の者が紋太夫の後から続こうとするのを、オンコッコは手で止めた。そうしてたった[#「たった」に傍点]二人だけで林の中へ分け入った。ただし通弁のゴーだけは従いて行かなければならなかった。
 三人はずんずん進んで行く。
 林の中は薄暗くそしてほとんど道がなかった。しかし豪勇の紋太夫はびく[#「びく」に傍点]ともせず進んで行く。
 行く手に巨岩が立っていた。数行の文字が刻《ほ》り付けられてある。
「これでござる」
 と云いながらオンコッコは足を止め、指で石文字を差し示した。
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この地上に一物あり
四脚にして二脚にて、三脚なり
しかして声は一あるのみ
四脚を用いて歩む時、彼の歩行最も遅し。
[#ここで字下げ終わり]
 こういう意味のことが刻《ほ》り付けてあった。
「その一物とは何物じゃな? もしこの謎語を解くことが出来れば、大岩自然に左右に開く、とこう伝説に云われております。その一物とは何物じゃな?」
 酋長オンコッコは得意そうに云った。
「何んだ詰まらないこんな事か。よろしいすぐに解いて進ぜる」紋太夫はカラカラと笑ったものだ。
「聞け、よいかさあ解くぞ。そもそも人間というものは、赤児《あかご》の時分には四つ脚がある。手が脚の用をするからじゃ。壮年時代に至っては云うまでもなく脚は二本だ。老人となって杖を突く、すなわち脚は三本となる。四つの脚を働かせて這い廻っている赤児時代に、人間は一番歩行が遅い、人間には声は一つしかない。謎の一物とは人間のことじゃ!」
 こう叫んだそのとたんに、岩に刻られた文字が消えた。
 そうして岩が二つに割れ、左右へ開いて道を作った。道のあなたに社殿がある、古びた小さい社殿である。
「一つの謎はこれで解けた。さあこんどは二番目だ」
 酋長オンコッコは胆を潰したが、こう云って社殿の方へ走り出した。
 社殿の棟から太い紐が長々と地の上に垂れていた、それは細い細い女の髪の毛を、千八重《ちやえ》に結んで出来た紐で、たといどのように根気よく幾年かかって解こうとしても人間業では解けそうもない。
「さあこの紐を解くがいい、細い髪の毛をバラバラに、一本一本解くがいい」
 オンコッコは怒鳴り出した。
「うむ、これか」と云いながら、紋太夫は紐を握ったが、「一本一本解けばよいのか? バラバラに解けばよいのだな?」
「一本一本バラバラに解いて、それが神の御旨《みむね》に適《かな》えば社殿の奥から鈴が鳴る筈じゃ」
「よし心得た」と云ったかと思うと、紐を小脇に抱《か》い込んだ。

        七

 と、やにわに腰の太刀を掛け声も掛けず引き抜いたが、そのまま颯《さっ》と切り付けた。髪のより紐は中央《なかば》から断たれ、結ぼれていた髪の毛は瞬間にバラバラに解けてしまった。その時はたして社殿の奥からカラカラカラカラと鈴の音がした。
「おお鈴の音がする鈴の音がする。神がご嘉納なされたと見える」
 オンコッコは仰天し、思わず両手を天へ上げたが、にわかに何か叫びながら社殿の格子戸を引き開けた。と、内陣の板の間に老土人が一人眠っていた。そうしてその側《そば》に少年がいた。しかし土人の子供ではない。白い肌、青い眼、黄金色の髪、紛れもないそれは欧羅巴《ヨーロッパ》人で、他ならぬそれはジョン少年であった。そうしてジョンは鈴の紐を両手に握って振っていた。そのつど鈴はカラカラと鳴る。
「こやついったい何者だ!」
 オンコッコは怒鳴りながら、ジョン少年を睨《にら》み付けたが、老土人の側へツカツカと進み、
「起きろ起きろバタチカン」こう云って肩を揺すぶった。
 バタチカンと呼ばれた老土人は、眼を覚ましてムックリ起き上がったが、
「おおこれは酋長様で」
「こやついったい何者だな?」ジョン少年を指差した。
「ああその子供でございますかな。欧羅巴《ヨーロッパ》人の子供だそうで」
「それでは俺達の敵ではないか」オンコッコは顔をしかめ、
「いったいどこから捕らえて来たのだ?」
「ドームの森の附近《ちかく》だそうで」
「誰がいったい捕らえたのだ?」
「物見に行った仲間達で」
「何故俺達の敵の子を神聖な社殿などへ隠匿《かくま》うのだ?」
「あまり不愍《ふびん》でございましたから」
「不愍とは何んだ。何が不愍だ」
「この子を捕らえた仲間達は、戦勝を祈る犠牲《にえ》だと申して、この子を神の拝殿の前で焼き殺そうと致しました、見るに見かねてこの私が命乞いを致したのでございます。私は祭司でござります。神の御旨《みむね》はこの私が誰よりも一番存じております。神は助けよと申されました」
 祭司バタチカンはこう云いながらジョン少年を引き寄せようとした。
 酋長オンコッコは月形をした長い太刀を引き抜いたが、左の腕でジョン少年を捕らえ、自分の方へ引き寄せた。怯《おび》えて泣くジョン少年。バタチカンはひざまずいて何やらブツブツ云い出したのは神へお祈りでもするのであろう。
 オンコッコは力をこめてジョン少年の胸の辺を偃月刀《えんげつとう》で突き刺そうとした。とにわかに手が麻痺《しび》れた。
「お待ちなされい!」と沈着《おちつ》いた声。紋太夫が背後《うしろ》に立っている。オンコッコの腕は紋太夫の手の中にしっかり握られているのであった。
「女子供には罪はない。女子供は非戦闘員でござる。助けておやりなさるがよい」紋太夫は静かに云った。
「おお助けよとおっしゃるなら助けないものでもござらぬが、それには償いがいり申すぞ」オンコッコは憎さげに云う。
「拙者代わって償いましょう」
「この深い深い林の中を西へ西へと三里余り参ると一つの大きな巌窟《いわや》がござる。巌窟《いわや》の中に剣《つるぎ》がござる」
「ははあそれではその剣を持って参れと云われるのか」
「さよう」とオンコッコは頷《うなず》いた。
「いと容易《やす》いことじゃ。すぐに参ろう」
 こう云うと紋太夫は社殿から下りて林の中へはいって行った。
 彼はズンズン進んで行く。

「ははあこれだな」
 と呟《つぶや》きながら、大岩の前に彳《たたず》んだのは、それから三時間も経った後で、永い永い南国の日も今は暮れて夜となっていた。
 彼の眼前に大岩が――大岩というより岩山が、高さ数十丈広さ数町、峨々《がが》堂々《どうどう》として聳《そび》えていたが、正面に一つの口があってそこから内へはいれるらしい。
「内は暗いに相違あるまい。松火《たいまつ》を作る必要がある」
 紋太夫はこう思って、枯れ枝を集めに取りかかった。やがて松火が出来上がる。燧石《いし》を打って火を作る。松火は焔々と燃え上がった。
 で、紋太夫は元気よく、しかし充分用心して窟《いわや》の内《なか》へはいって行った。道が一筋通じている。その道をズンズン歩いて行く。
 やがて一つの辻へ出た。道が二つに別れている。紋太夫はちょっと考えてから左の方へ進んで行った。道はきわめて平坦でそして天井も高かった。しかし幅はかなり狭く、腕を左右に拡げると、指の先が岩壁へ届くのであった。

        

 紋太夫はズンズン進んで行く。
 とまた辻へ現われた、道が四つに別れている。で、同じように左を取って彼は躊躇《ちゅうちょ》せず進んで行った。行くにしたがって次々にほとんど無際限に辻が現われた。そうして全く不思議なことには、二、四、八、十六というように、枝道の数が殖《ふ》えるのであった。こうしてとうとう十回目の辻の前へ立った時、彼はすっかり当惑した。一千〇二十四本の枝道が別れているではないか!
「むう、さては迷宮だな」初めて彼は気が付いた。
「うかうか先へは進まれない。今のうちに引っ返すことにしよう」さすがの彼も心細くなり、元来た道へ引き返そうとした。しかしその時彼は一層当惑せざるを得なかった。どれも、これも同じような道である。今来た道がどれであるか全く見分けが付かないのであった。
「…………」彼は無言で立ち止まった。初めて恐怖が心に湧いた。
「この無数の枝道のうち戸外《そと》へ出られる道と云えば、今自分が通って来たその道以外にはありそうもない。その他の道は迷路に相違ない。むう、こいつは困ったぞ。戸外《そと》へ出られる肝心の道を俺はすっかり見失ってしまった。それをいちいち調べていた日には十日も二十日も掛かるだろう。食物がない。水がない。みすみす俺は餓え死ななければならない。土人酋長オンコッコめさては俺を計ったな!」
 紋太夫は歯噛みをしたけれどどうすることも出来なかった。
 そのうちに松火《たいまつ》の火も消えた。四辺《あたり》は真の如法暗夜《にょほうあんや》。そうして何んの音もない。
 紋太夫は生きながら地の中へ全く葬られてしまったのである。
 こうして幾時間か経たらしい。
 その時一つの枝道の、奥の方から一点の赤い火の光が見えて来た。
「おお」と思わず歓喜の声が紋太夫の口から飛び出したのはまことにもっとものことである。いわば地獄での仏《ほとけ》である。彼は勇気を振り起こし、火の光の方へ走って行った。近付くままによく見れば、そこは小広い部屋であって、一人の女が火を焚いている。打ち見たところ土人の娘であるが、どことなく様子が違っている。
 紋太夫は側《そば》へ寄って行った。そうして手真似《てまね》で話し出した。
「あなたはいったい何者です? ここで何をしておられるのです!」
 すると娘も覚束《おぼつか》ない手真似で、
「妾《わたし》は巫女《みこ》でございます。ここが妾の住み家なのです」こうようやく答えたのである。
「拙者は東邦の人間でござるが、計らず洞中へ迷い入り、帰りの道を失ってござる。あなたのご好意をもちまして洞窟外へ出るを得ましたら有難き仕合せに存じます」
「それはとうてい出来ますまい」
 これが巫女の返辞であった。
「それはまた何故でござりますな?」
「何故と申してこの妾《わたし》も、やはり出口を存じませぬゆえ」
「おおあなたもご存じない?」
「はい妾も存じませぬ。物心ついたその頃から妾はずっ[#「ずっ」に傍点]とこの洞内に起き伏ししておるのでございます」
「食物もなく水もなくどうして活《い》きておいでなさるな?」
「いえいえ水も食物も、運んでくださる方がござります」
「それは何者でござるかな?」
「妾は一向存じませぬ」
「ご存知ないとな、これは不思議」
「きっと妾のお仕えしている尊い尊い壺神様《つぼがみさま》がお運びくださるのでござりましょう」
 紋太夫は早くも聞き咎《とが》めた。
「何、壺とな? 壺神様とな?」

 英国の探険家ジョージ・ホーキン氏は、愛児のジョンを失ったことを、驚きも悲しみもしたけれど、そこは冷静な英人|気質《かたぎ》、あわても血迷いもしなかった。
 彼は部下を呼び集め、今後の方針について物語った。
「我々の露営もかなり久しい。土人の様子もたいがい解った。平和手段では駄目らしい。で船を出し海峡を越え砲火を交じえて征服しよう。しかし、聞けば不思議な軍艦が、ビサンチン湾に碇泊し、やはり我々と同じようにチブロン島を狙っているそうだ。まず使者を遣《つか》わして彼らと一応商議しようと思う」
「賛成」
 と部下達は一斉に叫んだ。
 そこで二十人の部下達は、後備《こうび》少佐ゴルドンという勇敢な軍人に引率され湾を指して出発した。
 往復三日はかかるであろう。……こういう予定で出発したのが五日になっても帰って来ない。で、不安には思ったけれど、待っていることも無意味だというので、いよいよホーキン氏は全軍を率いチブロン島へ襲撃し土人と一戦することにした。

        

 ホーキン氏の率いる遠征隊が、チブロン島へ上陸するや否や、土人の斥候が早くも見附け、ピューッと鋭い笛を吹いた。するとその笛は他の笛を呼び、さらにその笛は他の笛を呼び、次々に吹き継いで、土人部落へ報告したらしい。
 海岸へ上がるやホーキン氏は直《ただ》ちに部下を一所《ひとところ》に集めた。
「土人を殺すが目的ではない。彼らを威嚇し降参させ、財宝を発見《みつけ》るのが目的である。鉄砲は是非とも打たねばなるまい。しかし急所は避けるがよい。戦闘力を失わせる! これが最も肝心である。……では諸君進もうではないか! 土人は毒矢を射るであろう。木立ちを楯に進むがよい」
 まだ言葉の終らぬうちに、一斉に毒矢が降って来た。
「林の中へ!」とホーキン氏は云った。
 遠征隊は一散に林の中へ飛び込んだ。棗椰子《なつめやし》や山毛欅《ぶなのき》や棕櫚《しゅろ》の木などに蔽《おお》われて林の中は暗かった。
「散って!」とホーキン氏が叫んだので密集していた部下の者は二間の隔《へだ》てを置きながら左右へ翼のように拡がった。
 毒矢は今は飛んで来ない。土人の姿も見ることは出来ない。全軍|粛々《しゅくしゅく》と進んで行く。
 深い林が浅くなり日光がキラキラ射し込んで来た。遙か前方に丘が見えた。そこに土人が集まっている。
「打て!」とホーキン氏が令を下した。と同時に火蓋《ひぶた》が切られ白煙りがパッと立ち上がり木精《こだま》が四方から返って来た。
 三人の土人が地に仆《たお》れた。あわてふためい[#「ふためい」に傍点]た余《あと》の土人は仆れた土人を抱きかかえ忽ち丘から見えなくなった。
「左へ!」とホーキン氏が号令を掛けた。
 全軍素早く左へ走り、敵に位置を知られないようにした。
 突然その時|背後《うしろ》にあたって異様な叫び声が湧き起こり、同時に毒矢が降って来た。案内知った土人軍は早くも背後《うしろ》へ廻ったと見える。
「止まれ! 伏せ!」とホーキン氏は勇ましい声で命令した。部下達はバタバタと地へ伏した。そうして後方《うしろ》をすかして見た。
 土人の姿がチラチラ見える。いずれも刺青《ほりもの》で肉体を飾りそのある者は鳥の羽根を附け、そのある者は髑髏《どくろ》を懸け、そうしてほとんど一人残らず毒矢を入れた箙《やなぐい》を負い、手に半弓を握っている。
「随意打て!」とホーキン氏は、全軍に令を下して置いて自分も銃の狙いをつけた。
 パン、パン、パンという小銃の音は、忽ち諸方から響き渡り、その音に連れて土人どもは見る見るバタバタと仆れたが、彼らも獰猛のセリ・インデアン、容易に退《しりぞ》こうとはしなかった。草に伏し木に隠れ岩を楯にし頻々と毒矢を飛ばせて来る。
 その時、今度は丘の方からワーッという声が聞こえて来た。そうして毒矢が飛んで来た。
 土人は挟み撃ちを試みるらしい。
 遠征軍は隊を分かち、前後の敵に向かうことになった。そうして数人毒矢に当たったが、幸いに命は取られなかった。永い露営のその間に研究して置いた対症療養がこの時効を奏したのである。
 戦闘は発展しなかった。敵も味方も居坐ったまま矢弾《やだま》をポンポン飛ばせるばかりである。
「これはいけない」とホーキン氏は鉄砲を打ちながら考えた。
「戦いが長引けば長引くほど味方の者を損ずるばかりだ。……一方の敵を打ち破り安全の場所へ引き上げることにしよう」
 丘の土人軍を一掃し、丘を手中に納めるよう彼は全軍に命を下した。遠征隊は立ち上がり、一斉に喊声を上げながら丘へ向かって突進した。敵は頑強に手向かったが間もなく散々《ちりぢり》に逃げてしまった。
 丘を占領した遠征軍は丘の背後《うしろ》に空地があり、空地を取り巻いて土人の小屋が円形の屋根を陽に輝かせ、無数に建っているのを見て驚きもし喜びもした。
「ついでに部落も占領するがよい!」
 ホーキン氏は銃を握り自身真っ先に駈け下りた。不思議のことには部落から毒矢一筋飛んで来ない。
 部落は文字通り空虚《からっぽ》であった。
 少しの家畜と少しの食料、それを部落へ残したまま住民はすっかり逃げてしまったらしい。しかし小屋は完全であった。で、小屋にさえはいっていれば土人の毒矢を防ぐことが出来る。
「諸所へ歩哨を立てて置いて、全軍、小屋の中で休息させよう」
 ホーキン氏はそこへ気が附いた。
 十人の歩哨を十方へ配り、その後で全軍は小屋にはいった。
 不思議のことには土人どもは、追撃をして来なかった。でのびのびと遠征軍は小屋の中で休むことが出来、元気を恢復したのであった。

        

 やがて日が暮れ夜となった。
 歩哨の数を二十人に増し土人軍の襲来に備え、その他は小屋で眠ることにした。人々は皆|疲労《つか》れていたのですぐさま深い睡眠《ねむり》に落ちたが、一人ホーキン氏は眠られなかった。考えられるのはジョンの事で、兇猛無残の土人のために殺されたことには疑がいないにしても、もしやどこかに活きてはいないか? どこからか泣き声でも聞こえはしないかと、何んとなく耳を澄まされるのであった。
「もう夜も大分更けたらしい。今、少しでも眠って置かないと、明日の戦いに差し支えるだろう。眠ろう眠ろう」
 と云いながら心を落ち着け眼を閉じた時、
「お父|様《さん》! お父|様《さん》!」
 と紛れもない、ジョンの呼び声が聞こえて来た。
「おおジョンか!」
 と飛び上がり、小屋の窓を開けて見た。
 しかし戸外《そと》は月の光が蒼茫《そうぼう》と空地に流れているばかり、林や森や土人小屋は、黒く朦朧《もうろう》と見えもするがジョンらしい少年の姿は見えない。
「ジョンの事ばかり思っていたので、それでそんなように聞こえたのであろう。……殺されたジョンがこんな夜中に何んでこんな所へ来るものか」
 ……ホーキン氏は窓を閉じようとした。と、また紛れもないジョンの声が、手近の椰子《やし》の林の中から、「お父|様《さん》! お父|様《さん》!」
 と聞こえて来た。
「おお!」とホーキン氏は驚いて、林の方へ耳を澄ましたが、
「紛れもないジョンの声だ! さては向こうの林の中に捕らえられているのかもしれない。……ともかく林まで行って見よう。ジョンよ! ジョンよ!」
 と呼びながら、用心のために銃を握り、小屋から戸外《そと》へ飛び出した。
 空地を横切り部落を駈け抜け忽ち林へ分け入ったが、
「ジョンよ! 私だ! ジョンはどこにいるな!」こう呼んで耳を澄ましたが、林の中はしん[#「しん」に傍点]と寂しく、木に当たる微風の幽《かす》かな音が耳に入るばかり、ジョンの声などは聞こえようともしない。
「それではやはり空耳かな?」疑がいが心に起こった時、
「お父様! お父様! 早く来てください! 土人が私を殺します! 恐ろしいお父様!」
 こう呼び立てるジョンの声が林の奥から聞こえて来た。
「おおジョンか、すぐ行くぞよ! 土人がお前を殺すって※[#感嘆符疑問符、1-8-78] その土人を撲《なぐ》ってやれ! お父様はすぐ行くからな! その土人を撲ってやれ!」
 ホーキン氏は夢中で藪を分け、遮《さえぎ》る木立ちを押しのけ押しのけ奥を指して走り出した。
「お父様! お父様! 早く来てください! 土人は刀を抜きました。私の胸へ差し附けました!」
「神様神様お助けください! おおジョンよすぐ行くぞよ! その土人を撲るがいい! その土人を蹴ってやるがいい! どこにいる? どこにいる? ジョンよどこにいるのだ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
 云い云い奥へ走って行く。
「お父様。私は殺されます! 土人は毒矢をつがえました。私の頸《くび》を括《くく》っています!」
 そういう声はだんだん幽かにだんだん奥へ遠ざかって行く。
「ジョンよジョンよ失望してはいけない! これもう一度お父様と云え! もう一度お父様と云ってくれ! すぐ行く! すぐ行く! すぐ行くぞよ!」
 ホーキン氏はあたかも狂人《きちがい》のように、藪を潜り木立ちを分け、無二無三に走ったが、忽然《こつぜん》何者かに足を掬われドッとばかりに前へ倒れた。
 ハッと驚いて飛び起きようとする。とたんにバラバラと木蔭からセリ・インデアンが二十人余り、獣のように飛び出して来たが、起きようともがくホーキン氏の上へ折り重なって組み附いた。二十人に一人では敵《かな》うべくもなく、見る間にホーキン氏は縛り上げられた。
「むう、さては計略だったのか」
 初めて気が附いたホーキン氏は、牙を噛むばかりに怒ったが、縛られた今はどうすることも出来ない。
 喜んだのは土人達で、彼らは彼らの言葉をもって戦勝の歌を唄いながら、捕虜ホーキン氏を引っ立てた。
[#ここから2字下げ]
麦と燕麦《からすむぎ》と椰子《やし》の実と
俺《おい》らの神様へ捧げよう
係蹄《わな》にかかった敵の捕虜《とりこ》
神様の犠牲《にえ》に捧げよう
肉は肉、骨は骨
バラバラにして食おうじゃねえか。
ああ、ああ、ああ、
捕虜《とりこ》を殺せ!
[#ここで字下げ終わり]

        十一

 チブロン島の夜が明けて遠征隊は起き上がったが、隊長ホーキン氏の姿が見えない。
「きっと朝の散歩だろう。林の中へでも行ったんだろう」
 彼らは互いにこう思ってたいして[#「たいして」に傍点]心配もしなかったが、しかし間もなく昼となり、そうしてとうとう晩になってもホーキン氏の姿が見えないので、にわかに彼らはあわて出した。
 こうして彼らは土人どもが何らか不思議な詭計《きけい》を設けて彼らの隊長ホーキン氏を昨夜のうちに誘拐《おびきだ》しどこか土人どもの本陣へ連れて行ったに相違ないと、こうようやく感附いたのはもうずっと[#「ずっと」に傍点]夜も更けてからであった。
「とにかく手を分けて探すことにしよう。ああしかしどうもとんだことになった」
 そこで彼らは全軍を三つの隊に分けることにした。一隊をもって部落を守り、他の二隊は夜を冒して土人の本陣に向かうことにした。
 南に向かった一隊の将は、チャンバレンという予備大尉で非常に勇敢な人物であり、北に向かった一隊の将はジョンソンという会社員上がりで思慮に富んだ人物であり、部落守備の隊長はマコーレーという人物で、生まれながらの冒険家でありホーキン氏にとっては片腕であった。
 各隊の人数は百人ずつで、いずれも決死の覚悟をもって各※[#二の字点、1-2-22]《おのおの》の任務についたのである。

「みんな唄うがいい! みんな踊るがいい! 敵の大将を捕虜《とりこ》にしたぞ!」
 土人酋長オンコッコは、社殿の縁に突っ立ち上がり、さも得意気に喋舌《しゃべ》るのであった。
「……最初俺達は敵の大将ホーキンの子供を捕虜《とりこ》にした。そこで俺達は考えた。このジョンという子伜《こせがれ》めをどうぞうまく囮《おとり》につかって敵の大将をおびき[#「おびき」に傍点]出したいとな。……そこでジョンをふん[#「ふん」に傍点]縛り部落近くへ連れて行きピシピシ鞭《むち》で撲《なぐ》ったものさ。するとこっちの思惑通りジョンめ親父の名を呼んだものさ。そこで親父のホーキンめが一人でノコノコやって来た。それをだんだんおびきよせ[#「おびきよせ」に傍点]、以前《まえかた》係蹄《わな》をかけて置いた林の奥まで引っ張り寄せ、そこでうまうま捉えたというものだ! 何んと愚かな敵じゃないか! 何んと利口な俺達じゃないか! ……さあみんな唄ってくれ! 大きな声で唄ってくれ!」
 住み慣れた部落を惜し気なく捨てここ社殿へ住居《すまい》を移した千人に余る土人どもは、この酋長の話を聞くと老若男女一斉にワッとばかりに喊声を上げ、社殿の周囲《まわり》を廻り出した。
 体には刺青《ほりもの》、手には武器、頭や腰を羽毛で飾った兇猛無残の食人族が、不思議な身振り奇怪な手振りで、踊りつ唄いつ廻り歩く様子は、何んと形容しようもない世にも物凄い光景であったが、しかし間もなくそれ以上の恐ろしい光景が展開された。
「もうよかろう引っ張り出せ!」
 オンコッコが叫ぶと同時に社殿の扉が左右に開いて、まず現われたのはホーキン氏、次に引き出されたのはジョン少年で、二人ながら革紐《かわひも》で縛られている。
「そこの杭《くい》へ縛り附けろ!」
 社殿の前の小広い空地に一本の杭が立っていたが、二人はそこへ縛り附けられた。
「さあそろそろやろうじゃないか。血を出せ血を出せ! 肉を削《そ》げ肉を削げ!」
 このオンコッコの合図と共に、社殿を廻っていた土人達は、杭の周囲《まわり》へ集まって来た。そうして二人の捕虜の周囲をグルグルグルグル廻り出した。そうして歌を唄い出した。
 いよいよ虐殺が始まるのである。
 彼らは捕虜を廻りながら、手に持っている槍や刀で捕虜の体を切るのであった。そうしてほとんど一日がかりで嬲《なぶ》り殺しにするのであった。
 今や一人の蛮人が、手に持っている両刃の剣で、ホーキン氏の腕を切ろうとした。とその刹那木立ちを通し一筋の征矢《そや》が飛んで来たが、その蛮人の拳に当った。
「あっ」と叫んで持っていた刀を手からポロリと取り落とす。とたんにドッと鬨《とき》の声が林の奥から湧き起こり、朝陽の輝く社殿を目がけ雨のように矢が飛んで来た。それが一本として空矢《あだや》はなく、生死は知らず二十人の土人バタバタと地上へ転《ころ》がった。
「それ敵が征《せ》めて来たぞ!」「弓を射ろ槍を飛ばせろ!」「敵は向こうの林の中にいるぞ! 油断をするな油断をするな」
「踊りを止めて武器をとれ!」
「捕虜《とりこ》を攫《さら》われない用心をしろ!」
「それ敵めが現われたぞ! 毒矢を射ろ毒矢を射ろ!」
 土人どもは狼狽し、右往左往に立ち迷いながらもそこは勇敢なセリ・インデアン、襲い来る敵に立ち向かった。
 その時またも林の中からドッとばかりに鬨の声が上り、ひとしきり[#「ひとしきり」に傍点]征矢《そや》が飛んで来たが、忽ち人影が現われ出た。
 先《さき》に立ったは来島十平太で、後《あと》に続いたのはゴルドン大佐、そうしてその後から雲霞《うんか》のように続々として現われ出《い》でたのはゴルドンの引率した二十人の兵と、十平太[#「十平太」は底本では「十兵太」]の率いた二百人の武士、しめて二百二十二人、日英同盟の勇士達であった。

        十二

 ところでどうしてこれらの勇士達が忽然《こつぜん》ここへ現われ出で土人に向かって攻撃を開始し、ホーキン氏親子の危い命を、間一髪に止めたかというに、それには次のような経路がある。
 ゴルドン大佐はホーキン氏の命で、日本の海豪《かいごう》小豆島紋太夫と、同盟の相談をしようものと、往復二日の予定をもってドームの露営地を出発したところ、不案内の蛮地であったがため予想外に日数がかかり、目指すビサンチン湾へ行き着いたのは実に五日目の真昼であった。
 しかるにこの時日本軍の方では、頭領小豆島紋太夫が土人部落へ行ったまま、五日経っても帰って来ず何の消息もないところから、来島十平太を大将としていよいよ土人の部落に向かい進撃しようとしていた時であった。
 そこで同盟はすぐに整《ととの》い、全軍五百のその中から二百人だけ選抜し、それへ英人二十人を加え、十平太とゴルドンが両大将となり、チブロン島を横断し計らずもここまでやって来たのであった。
 今や日英同盟軍とセリ・インデアンとの戦いはまさに白熱の最中にあったが、いかに土人が勇敢であってもとうてい日本武士には及ぶべくもなく次第次第に敗け色になった。
 土人酋長オンコッコは早くも味方の負け色を見ると、逃げ出すことに覚悟を決めたが、みすみすホーキン氏とジョン少年とを、奪いかえされるのが残念と思ったか、刀を握って走り寄り二人の傍《そば》へ近寄るや否や杭《くい》へ繋《つな》いだ縄を切り二人へ刀を突き附け、社殿の中へ連れ込もうとした。
 しかるにこの時思いもよらず裏切り者が現われた。他でもない祭司のバタチカンで、彼は最初にジョン少年が仲間の土人に捕らえられ殺されようとした時に、命乞いをして助けて以来、ジョン少年が可愛くてたまらず、杭に繋がれたその時からどうぞして助けようと思っていたところ、今その機会がやって来たので、隠れていた社殿の扉《と》を押し開き脱兎《だっと》のように走り出て、オンコッコの側《そば》へ近寄るや否ややにわにジョンを横抱きにして林の中へ逃げ込んだ。
 あっ[#「あっ」に傍点]と驚いたオンコッコは、
「裏切り者だ! 謀反人だ! 早く早くバタチカンを捉らえろ!」
 大声を上げて叫んだが、戦い最中のことではあり、誰とて耳に止めるものはない。そのうち早くもバタチカンの姿は木蔭に隠れて見えなくなった。
「よしよし餓鬼《がき》は逃げるがいい。そのうちきっと捉えてやる。……こうなったからには親父の方はどんなことがあっても逃がすことは出来ない。……さあ来やがれ! さあ来るがいい!」
 オンコッコは叫びながらホーキン氏の腕を引っ立て社殿の中へ連れ込んだ。
 すぐにガラガラと扉を締《と》じる。
 それからオンコッコはニヤニヤ笑い、柱の一所へ手を触れた。
 と、恐ろしい音がして、ホーキン氏の立っている足の下へ忽然として穴が開《あ》いた。すなわち床板が外れたのであって、アッという間もあらばこそホーキン氏の体はもんどり打って深い深い地の底へ落ち込んだ。
「おいホーキン! おい大将! そこでゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]休むがいい。もっとも少し暗いけれどな。そうして少し黴臭《かびくさ》いけれどな。アッハハハゆっくり休みねえ。けれどあらかじめ云っておくがな、あんまりノコノコ歩き廻らぬがいい。うかうか歩くと迷児《まいご》になるぜ」
 暗い穴の中を覗きながら、オンコッコは悪口を云った。それから外れた床板を篏めるとやがて扉《と》を開けて外へ出た。
 戸外《そと》は戦いの最中である。

 穴の底へ落ちたホーキン氏は幸い酷《ひど》い傷も受けず、落ちた拍子に縄も解けにわかに自由の身になった。
「やれやれどうも酷い目に会ったぞ。おやおや手足が擦《す》り剥《む》けている」
 呟き呟きホーキン氏は四辺《あたり》の様子を探ろうとしてそっと立ち上がって歩いて見た。
「これが右だ。石の壁らしい。……これが左だ。やはり石壁か。……これが正面。これも石の壁だ。……さて背後《うしろ》はどうだろう? やはり石壁じゃあるまいかな?」
 で、背後《うしろ》へ手をやって見た。スベスベとして酷く冷たい。石ではなくて鉄の壁らしい。
「鉄とあっては石壁よりまずい[#「まずい」に傍点]。おや、待てよ、変なものがあるぞ。……や、これは金《かね》の錠だ!」
 力をこめて捻《ね》じって見た。金が腐っていたのであろう、何んの苦もなく捻じ切れた。とたんに鉄の扉がギーと開いて冷たい風が吹いて来た。
 どうやら道でもあるらしい。

        十三

 窟《いわや》の中の生活には昼もなければ夜もない。いつも四辺《あたり》は闇である。その闇々たる窟の中で、土人の巫女《みこ》を話し相手として焚火《たきび》の火で暖を取り、小豆島《あずきじま》紋大夫は日を送った。
 会話と云っても手真似《てまね》である。その覚束《おぼつか》ない手真似をもって、ようやく紋太夫が聞き出したのは、壺神様《つぼがみさま》の事である。
「この窟の奥、五里も八里も隔《へだ》たっている遠い遠い窟の奥に、壺神様の神殿がおありなさるのでございます。そうしてそこには蛇使いの恐い恐いお婆さんが、沢山の眷族《けんぞく》を引き連れて、住んでいるそうでございます。壺神様のご神体は剣《つるぎ》だそうでございます。それもただの剣ではなく、活き剣だそうでございます。物を云ったり歌を唄ったり歩いたりするそうでございます。恐い蛇使いのお婆さんは、神主《かんぬし》なのでございます」
 これが巫女《みこ》の話であった。紋太夫は早くも感付いた。
「土人酋長オンコッコめが、俺に取って来いと云ったのは、この活き剣の事だったのか。取って来いなら取っても来よう。活き剣とは面白い」
 で、手真似《てまね》で巫女《みこ》に訊いた。
「壺神様の神殿へはどう行ったらよいのかね?」
「奇数、偶数、奇数、偶数と、こう辿っておいでになれば、参られるそうではございますが、しかし行く事は出来ますまい」
「何故行くことが出来ないな?」
「行く道々悪者どもが蔓延《はびこ》っているそうでございます」
「とにかく私は行くことにしよう」
「これまで沢山の人達がその活き剣を取ろうとして、幾度《いくたび》行ったか知れませぬ。けれどそのうち一人として帰って来た人はござりませぬ。恐ろしい所でございます。決しておいでなさいますな」巫女は熱心に止めるのであった。
「私は東方の君子国日本という国の侍じゃ。恐ろしいということを知らぬ者じゃ」紋太夫はカラカラと笑い、「一旦行くと云ったからはどうでも一度は行かねばならぬ。これが武士《さむらい》の作法なのじゃ。巫女《みこ》殿まことに申しかねるが、一日分の食糧と松火《たいまつ》とを頂戴出来まいかな」
「どうでもおいでなされますか」
「活き剣を手に入れてきっと帰って参りまするぞ」
 そこで松火と食物とを巫女の手から貰い受け、紋太夫は元気よく出立した。
 ものの十町と行かないうちに無数の枝道が現われた。
「奇数、偶数、奇数、偶数、こう辿《たど》ればいいのだな。一は奇数だ、云うまでもなくな。……一の道を行ってやろう」
 一番手近の枝道を彼はズンズン進んで行った。とまた無数の枝道へ出た。今度は手近から二番目の道を――偶数の道を進んで行った。奇数、偶数、奇数、偶数、これを繰《く》り返し繰り返し紋太夫は先へ進むのである。
 行く手は暗々《あんあん》たる闇であったが手に松火《たいまつ》を持っているので道を間違える心配はない。
 半刻余りも歩いた頃、遙か行く手の闇を染めて薔薇色《ばらいろ》の光が射して来た。
「ははあ、何者かいるらしい。いずれ悪者の仲間であろう」
 呟《つぶや》きながら紋太夫は足早にそっちへ進んで行った。はたして一人の大男が、狭い坑道に立ちはだかり[#「はだかり」に傍点]、豪然《ごうぜん》と焚火《たきび》に当たっていたが、紋太夫を見ると、手を拡げ、大きな声で叫び出した。何の事だか解らない。
 そこで紋太夫は十八番の手真似をもって話しかけた。
「何用あって俺を止めた」まずこれから食ってかかる。
「見れば見慣れない人間だが、貴様はいったい何者だ?」大男は聞き返した。
「俺は東邦の人間だ。壺の神の神殿へ行く」
「おお行きたくば行くがよい。しかしその前にこの関門を、貴様どうして通るつもりだ」
「関門とは何だ? 何が関門だ?」
「すなわちここが関門よ。そうして俺こそ関守《せきもり》よ」
「関門であろうと関守であろうと、俺は腕ずくで通って見せる」
「腕ずくでは駄目だ、智恵で通れ」
「おお面白い。何でも尋《たず》ねろ。紋太夫即座に答えて見せる」こう云うとポンと胸を打った。
「それ訊《き》くぞ。答えろよ」大男はニヤリと笑った。
「使えば使うほど殖えるものは何んだ?」
「へん、べらぼうめ。そんな事か。他でもねえ人間の智恵だ。さあドシドシ訊くがいい」紋太夫は大得意だ。
「形がなくて声がある、早く走るけれども足がない。これは何んだ、当てて見ろ」
「いよいよ益※[#二の字点、1-2-22]愚劣だな。それは風と云うものだ。さあ何でも訊くがいい」
「だんだん肥えてだんだん痩せる。死んでも死んでも生まれるものは何んだ?」
「智恵のねえ事を訊きゃあがるな。それはな、空のお月様だ」

        十四

「さあ今度は貴様が訊け」大男はとうとう我を折った。
「よし訊くぞよ、答えるがいい。……大きくて小さく、形あって形ない。これは何んだ? さあ答えろ!」
 紋太夫は大喝《だいかつ》した。
「むう」と云ったが大男は返辞をすることが出来なかった。
「どうだ?」と紋太夫は嘲笑い、「返辞が出来ずば関を通せい」
「仕方がねえ。通るがいい」
 大男は片寄った。そこを眼がけて駈け抜ける。
「大きくて小さく、形あって形なし、――どうも俺には解らねえ。いったいこれは何者だな?」
 大男は訊いたものである。
「実は俺にも解らねえのさ! そんな物は世にあるまい。アッハハハ」と駈け過ぎる。
「いやはや馬鹿な奴ではある。うまく一杯食いおったわい」
 こう心地よげに呟きながら、松火《たいまつ》の光で道を照らし先へ先へと進んで行った。
 とまた遙か行く手に当って蒼白い光が見えて来た。近付くままによく見れば、肥えた傴僂《せむし》の老人《としより》が岩に一人腰掛けている。背後《うしろ》の岩壁を刳《く》り抜いてそこに灯皿《ほざら》が置いてあったが、そこで灯っている獣油の火が蒼然と四辺《あたり》を照らしている態《さま》は、鬼々陰々たるものである。
 と見ると老人《としより》の足もとに深い穴が掘ってある。
 消え入るような悲しそうな声で何やら老人は話しかけた。しかし紋太夫には解らない。彼は手真似で訊き返した。
「足を洗わせてくださいませ」こう老人は云っているのであった。「諸人の足を洗うのが私の役目でござります。罪障消滅のそのために足を洗わせてくださりませ」繰り返し老人は云うのであった。
「変わった事を云う奴だな。これは迂濶《うかつ》には信じられぬ」心中怪しく思いながら、紋太夫は思案した。「岩から泉水《いずみ》が流れている。ははあこの水で洗うのだな。……ここに深い穴がある。穴! 穴! これが怪しい」
 この時忽然彼の心へ、老人の姦計が映って見えた。「ううむそうか。よく解った。そっちがそういう心なら、こっちはその裏を掻いてやろう」
 つと紋太夫は片足を老人《としより》の前へ突き出した。とたんに老人は膝を突き、その足首を掴んだが、真っ逆さまに紋太夫を穴の中へ投げ込もうとした。
「えい!」と云う裂帛《れっぱく》の声、紋太夫の口から※[#「しんにゅう+奔」、189-5]《ほとば》しると見るや、傴僂《せむし》の老人の小さい体は、幾十丈幾百丈、底の知れない穴の中へもんどり打って蹴落とされた。
「人を咒《のろ》わば穴二つ、いい気味だ、態《ざま》ア見ろ」
 じっと穴の中を見込んだが、文目《あやめ》も知れぬ闇の底から冷たい風が吹いて来るばかり、老人の姿は見えなかった。
「なるほど巫女の云った通り、小気味の悪い悪人どもが到る所に蔓延《はびこ》っているわい」――油断は出来ぬと心を引き締め、松火《たいまつ》の火を打ち振り打ち振り紋太夫は進んで行く。
 奇数、偶数、奇数、偶数! ――幾百ないし幾千本、どれほど枝道が現われようと、彼は驚きはしなかった。奇数、偶数と行きさえすれば迷う心配がないからである。
 今の時間にして十時間余り、道程《みちのり》にして十二、三里、紋太夫は歩いたものである。その時|洞然《どうぜん》と打ち開けた広い空地が現われた。それは空地と云うよりもむしろ一個の別天地であった。丘もあれば林もあり人家もあれば小川もある。蛍の光か月光か、蒼澄んだ仄《ほの》かな微光《うすびかり》が、茫然と別天地を照らしているが何んの光だか解らない。
 どこからともなく人声がする。と歌声が聞こえて来た。その歌声を耳にすると紋太夫はアッと仰天した。日本の言葉で日本の歌を鮮かに歌っているからであった。
「おおここには日本人がいる! ここはいったいどこだろう?」
 夢に夢見る心地と云うのはこの時の紋太夫の心持ちであろう。歌声は益※[#二の字点、1-2-22]はっきりと、益※[#二の字点、1-2-22]美しく聞こえて来る。紛れもない日本の歌だ。
「ここはいったいどこだろう」
 紋太夫は感にたえ思わず繰り返して呟いた。しかり! ここはどこだろう?
 壺神様を奉安した神秘崇厳の神境なのである!
 壺神様とは何物ぞ? それには一場の物語がある。

        十五

 昔々遙かの昔に、墨西哥《メキシコ》の国ガイマスの地にガイマス王という国王があった。その王子を壺皇子《つぼみこ》と云ったが、早く母上と死に別れ、継母《ままはは》の手で育てられた。多くの継母がそうであるようにこの継母も継子を憎みどうぞして壺皇子を殺そうとした。
 壺皇子八歳の時であったが、天変地妖相継いで国内飢餓に襲われた。その時継母は国王に云った。
「神のお怒りでござります。神様が何かを怒らせられ飢餓を下されたのでござります。大事な宝を犠牲《にえ》として、お怒りを和《なだ》めずばなりますまい」
「犠牲《にえ》には何を捧げような?」
「一番大切な宝物を」「一番大切な宝物とは?」「壺皇子をお捧げなさりませ」
「なるほど俺《わし》の身にとって皇子より大事なものはない。皇子を捧げずばなるまいかな」
「皇子を犠牲となされずば神の怒りは解けますまい」
「人民のため国家のため、それでは壺皇子を捧げる事にしよう」
 王は悲しくは思いながらも継母の甘言に心迷い壺皇子を犠牲にすることにした。
 祭壇が築かれ薪木《たきぎ》が積まれ犠牲を焚く日がやって来た。八歳の壺皇子がそれとは知らず嬉々として祭壇へ上った時火が薪木へ掛けられた。しかし神は非礼を受けず忽ち奇蹟を現わされた。忽然巨大な一振りの剣《つるぎ》が雲の中から現われ出たが、まず継母の首を斬り、次いで壺皇子を束《つか》へ乗せ、どことも知れず翔《か》け去ったのである。
 剣は皇子を乗せたままチブロン島まで翔けて来たが、そこで一旦地上へ下り、さらに虚空を斜めに飛び窟《いわや》の中へ飛び込んだ。
 この神秘境へ来たのである。
 活ける剣は窟の中で壺皇子を人知れず養育した。皇子の寂寥を慰めるために人界から人間を連れて来た。その人間は次第に殖え、ここに部落を形成《かたちづく》った。
 そこで壺皇子はその部落の帝王として君臨した。
 部落は平和に富み栄え、壺皇子は数百年活き延びたが、天寿終って崩御《ほうぎょ》するや、人民達はその死骸《なきがら》を林の中へ埋葬し神に祀って壺神様と云った。御神体は活ける剣である。
 その後部落は一盛一衰、幾多変遷はあったものの、今に及んで絶えることなく、不思議な国家として存在した。――以上は島の土人によって、今も語られる伝説なのである。
 それはそれとして、部落の中から、日本の歌の聞こえるのは何んと解釈したものであろう?
「何んという不思議なことだろう?」
 小豆島紋太夫は佇《たたず》んでしばらく歌声に耳を澄ました。
「歌の主を探し当てよう。それが何よりの急務である」
 ――で、紋太夫は足を早め、声のする方へ辿《たど》って行った。
 行くに従って歌声は次第にハッキリ聞こえて来た。歌の文句も聞き取れた。
「あれは万葉の古歌ではないか。これはどうでも歌の主は日本の人間に相違ない」
 こう考えて来て紋太夫は怪しく心の躍るを覚えた。彼はとうとう駈け出した。
 林の中へはいった時、石に腰かけた土人老婆が、無心に歌をうたっているのを、微光《うすびかり》の中に見て取った。
「や、日本の人間ではない!」
 紋太夫は叫んだものである。と、老婆は歌を止め、紋太夫をつくづく眺めたが、流暢《りゅうちょう》な日本語で話しかけた。
「おおあなたは日本人ですね」
「さよう、私は日本人」
「助けてください助けてください!」
 老婆は大地にひざまずき、日本流に合掌した。
「助けてやろうとも助けてやろうとも、しかし何を助けるのです」
「妾は聖典を盗まれました」
「何、聖典! 聖典とは?」
「それには諸※[#二の字点、1-2-22]《もろもろ》の尊い智恵が記されてあるのでございます」
「そうして誰が盗んだのだ?」
「旅籠屋《はたごや》の主人でござります」
「その旅籠屋はどこにある!」
「林の奥でござります」
「では俺が取り返してやろう」
「どうぞお願い致します。どうぞお願い致します」
「それにしても不思議だな。どうして日本語を知っておるな?」
「それには訳がございます。いずれお話し致します。聖典をお取り返しくださいませ」
「心配するな。取り返してやる」
 紋太夫は林を分け奥へ奥へと進んで行った。
「重ね重ね不思議なことだ。いろいろの事件にぶつかる[#「ぶつかる」に傍点]わい」
 行っても行っても深い林は容易に尽きようとはしなかった。

        十六

 建物の様子でそれと知れる土人|旅籠《はたご》の前まで来た時、その戸口から一人の土人が、笑いながら現われた。筋骨逞しい若者である。
 何か紋太夫へ話しかけたが、土人語で要領を得ない。
 そこで、度々の経験で、今はすっかり熟達している、例の手真似で紋太夫はその若者へ話しかけた。
「お前の所は旅籠屋かな?」「はいさようでございます」
「どうだ俺を宿《と》めてくれぬか?」「どうぞお宿まりくださいますよう」
「どんな物を食わせるな」「いろいろご馳走致します」
「で、上等の部屋はあるか」「聖典の間へお宿めしましょう」
「聖典の間? おおそうか」紋太夫は頷《うなず》いた。
「では俺を宿めてくれ」「さあ、おいでなさりませ」
 若者の後に従って紋太夫は家内《なか》へはいって行った。はいった所に部屋があり、部屋には無数の土人がいた。ガヤガヤ喚きながら酒を飲んでいる。残忍酷薄な表情をした見るから恐ろしい土人どもである。
 それからさらに二つ三つ大きな部屋を通ったが、やがて通された部屋を見ると、別に変わったこともない。床と天井とが石で出来ている。床に巌丈な寝台がある。寝台の側《そば》に卓があり、その上に書物《ほん》が載せてある。羊皮紙で作った厚い書物で、表紙には漢文字で「明智篇」と記されてある。
「はてな」と呟くと紋太夫はまず寝台へ腰を下ろし、それから書物《ほん》を取り上げた。書かれてあるのは漢文であった。
「范邸《はんたい》は浚儀《しゅんぎ》の令たり。二人絹を市に挟《さしはさ》み互いに争う。令これを両断し各※[#二の字点、1-2-22]一半を分《わか》ちて去らしめ、後人を遣わして密《ひそ》かにこれを察せしむ。一人は喜び、一人は慍《いきどお》る色あり。ここにおいて喜ぶ者を捕らう。はたして賊也」
「魏の李恵《りけい》、雍州《ようしゅう》に刺史たり、薪を負う者と塩を負う者とあり。同じく担《たん》を弛《ゆる》めて樹蔭に憩う。まさに行かんとして一羊皮を争う。各※[#二の字点、1-2-22]背《せな》に藉《し》ける物と言う。恵がいわく、これ甚だ弁じ易しと。すなわち羊皮を席上に置かしめ、杖をもってこれを撃《う》つ。塩屑《えんせつ》出《い》ず。薪を負う者すなわち罪に服す」
「相伝《あいつた》う、維亭《いてい》の張小舎、善《よ》く盗《とう》を察すと。たまたま市中を歩く。一人の衣冠甚だ整いたるが、草を荷《にな》う者に遭うて、数茎を抜き取り、因《よ》って厠《かわや》にゆくを見る。張、その出《い》ずるをまって、後ろよりこれを叱《しっ》す。その人|惶懼《こうく》す。これを掬《きく》すれば盗なり」
「またかつて暑月において一古廟の中に遊ぶ。三、四|輩《はい》あり。地に蓆《むしろ》して鼾睡《かんすい》す。傍《かたわ》らに西瓜あり。劈開《へきかい》して未だ食わず。張また指さして盗と為《な》して擒《とら》う。はたしてしかり。ある人その術を叩く。張がいわく、厠に入るに草を用う。これ無頼の小人。その衣冠も必ず盗み来たるもの。古廟に群がり睡るは、夜労して昼疲る。西瓜を劈《つんざ》くはもって蠅を辟《さ》くるなりと」
「なるほど」と紋太夫は呟いた。
「支那の昔の賢人の逸話を書き集めた書物《ほん》と見える。昔の人は利口であった。……老婆の話しの聖典とは恐らくこの書物のことであろう。この書物をさえ手に入れればここに止どまる必要はない」
 紋太夫は立ち上がった。それからツカツカと戸口へ行った。戸には錠が下ろされてある。外から下ろされているのである。見廻すと一つ窓があった。
 彼は窓へ飛んで行った。窓にも錠が下ろされてある。外から下ろされているのである。彼は捕虜《とりこ》にされたのだ。完全に監禁されたのである。
 彼は思わず唸ったが、どうする事も出来なかった。再び寝台へ腰を下ろし、心を静めて考えようとした。その時、石の天井が徐々として下へ下がって来た。
「あっ」と紋太夫は声を上げた。「南無三宝! 計られた! さては圧殺《おしころ》すつもりだな」
 石の天井はきわめて静かに下へ下へと下りて来る。間もなく天井は下りきるであろう。彼は圧殺《あっさつ》されるであろう。どこからも遁《の》がれる道はない。手を空《むな》しゅうして殺されなければならない。

        十七

 陰気な、鈍い、気味の悪い、キ――という軋り音《ね》を立てながら、一刻一刻、徐々として、釣天井が下がって来る。重い重い釣天井だ。それに圧《お》されたら命はない。平目《ひらめ》のように潰されなければならない。
 豪勇小豆島紋太夫もどうすることも出来なかった。「俺の命もここで終えるか」――こう思うと残念ではあったが、遁がれ出ることも出来そうもない。床は部厚の石畳であり四方の壁も石である。たった一つの戸口の扉には外から閂《かんぬき》がおろされてある。……キー、キー、キー、キー、天井は央《なかば》まで下りて来た。
 紋太夫は切歯したものの、坐っていることが出来ないので、ぴったり石畳へ横臥した。間もなく天井は部屋の高さの三分の二まで下がって来た。しかも尚も下がり止《や》まない。やがて紋太夫は背の辺へ天井の重さを感じるようになった。とうとう天井が彼を殺すべく背まで下がって来たのである。
「もういけねえ」と紋太夫は観念の眼を堅く閉じた。「大日本国の武士《もののふ》が、異国も異国南米の蛮地の、しかも不思議な窟《いわや》の中の日の目を見ない妖怪国で、野蛮人どもの姦計に落ち、釣天井に圧殺されようとは! 無念も無念、残念ではあるが、これも、天命のしからしむるところか。――あ、苦しい! 息詰まるわい!」
 もう一押し押されたなら、紋太夫の体はひとたまりもなく、粉微塵《こなみじん》になろうと思われた。と、その時、彼の寝ている厚い石畳の真下に当たって、コツコツコツコツと音がした。
 こういう危険の場合にも、紋太夫は正気を失わない。「はてな?」と耳を傾むける。
 コツコツコツコツとその音は、次第次第に高くなったが、ザーッと土でも崩れるような騒がしい音が聞こえたとたん、グラグラと、石畳は左右に揺れ、そのままドーンと下へ落ちた。あっ! と思う暇もない、紋太夫の体は宙を飛んで、どっと床下へ落ちたものである。
「ああ助かった!」
 と紋太夫は、思わず歓喜の声を上げ、忙がしく四辺《あたり》を見廻すと、石畳の外れた跡の穴から、仄々《ほのぼの》射し込む光に照らされ、朦朧《もうろう》と四方《あたり》は明るかったが、見れば自分のすぐ側に一人の男が立っている。
 土人でもなければ日本人でもない。長崎あたりでよく見掛ける、それは西洋の人間であったが、いかにも意外だと云うように紋太夫の顔を見守っている。これぞ他ならぬジョージ・ホーキン氏で、同氏が酋長オンコッコのため神殿の床下へ押し込められたことは、すでに説明した筈であるが、その後同氏はその床下に地下道のあることを発見し、死中に活路を得ようものと無二無三に突き進んだ結果、ほとんど一昼夜を費したところで、その地下道がこの地点で行き詰まったことを発見した。そこでふと天井を眺めて見た。と、平石《ひらいし》が並べてある。長い年月を経たものと見えて石と石とのその間にわずかながらも隙間《すきま》があって、そこから光が洩れていたのでさては地上へ出られようも知れずと、饑えと、乾《かわ》きと疲労とで、弱っているにも拘《かかわ》らず夢中で土を掘ったのであった。果然平石が落下して、穴の開いたのはよいとして、それと一緒にいとも凛々《りり》しい立派な人間が落ちて来ようとは思い設けないことであった。
 その落ちて来た人間が、土人でもなければ自分の味方でもなく、東洋の武士《もののふ》だということが一層彼を驚かせた。
 紋太夫はつと[#「つと」に傍点]進んだ。
「これはどなたか存じませぬが、あぶないところをお助けくだされ何んとお礼を申してよいやら、私事は日本の武士小豆島紋太夫にござります」
 こう恭《うやうや》しく云いながら丁寧《ていねい》に腰をかがめたけれど、英国人のホーキン氏にそれが解ろう筈がない。でホーキン氏は当惑してただ黙って立っている。しかし人間の感情は、日本人であれ英国人であれ、大して変わるものではない。で、ホーキン氏は手真似を加え、それで和蘭語《オランダご》や西班牙語《スペインご》や、知っている限りの言葉を雑《まじ》え、
「私は英国の探険家ジョージ・ホーキンと申すもの、お見受けすれば何事か恐ろしい事件の起こられた様子、事情お話しくだされますよう」
 ところが、小豆島紋太夫は、かつて長崎の和蘭人《オランダじん》から、久しく和蘭語《オランダご》を学んだことがあって、会話ぐらいには事を欠かなかった。そこで忽ち二人の者は、お互いの遭難を語り合うことが出来た。話し合って見れば同じような境遇、親しくならざるを得なかった。
「釣天井で圧殺とは、聞いただけでも身が縮《すく》む。無残なことをする奴らだ」
 ホーキン氏もさもさも驚いたように歎息しながらこう云ったが、「これは捨てて置かれない。是非とも復讐をしなければならぬ」
「さよう、復讐をしなければならぬ」紋太夫は頷いて、「石畳が落ちた後の穴から、屋上へ二人躍り出て土人どもを撫で切りにするか。それともきゃつらが結果を案じ、いずれ地下道へ下りて来るであろうが、そこを待ち受けて討ち果たすか、さあどっちがよかろうな」

        十八

「敵は大勢、味方は二人、広場へ出ては敵《かな》いそうもない。きゃつらが地下道へ来るのを待って、容易《やすやす》討つに越したことはない」これがホーキン氏の意見である。
「なるほど、それがよろしかろう。逸《いつ》をもって労を討つ、これ日本の兵法の極意じゃ」
「我が英国の兵法にもそういうことは記されてある。兵の極意は科学的であるとな」
「科学的とは面白い言葉だ。つまり理詰めと云うのであろう」
「さようさよう、理詰めと云うことじゃ。敢て兵法ばかりでなく、万事万端浮世の事は、すべからく総《すべ》て科学的でなければならない」

「科学もいい、理詰めもいい、しかしその外にも大事なものがある」紋太夫は昂然《こうぜん》と云う。「他でもない大和魂《やまとだましい》よ」
「大和魂? 珍らしい言葉だな。俺にとっては初耳だ。ひとつ説明を願おうかな」ホーキン氏は不思議そうに訊く。
「いと易いこと、説明してやろう。君には忠、親には孝、この二道を根本とし、義のためには身を忘れ情のためには犠牲となる。科学や理詰めを超越し、その上に存在する大感情! これすなわち大和魂じゃ!」
「ははあ、なるほど、よく解った。英国流に解釈すると、つまり騎士道という奴だな」
「騎士道? 騎士道? いい言葉だな。しかし、俺には初耳だ。騎士道の説明願おうかな」
「何んでもないこと、説明しよう。我が国中古は封建時代と称し、各地に大名が割拠《かっきょ》していた。その大名には騎士《ナイト》と称する仁義兼備の若武者が、武芸を誇って仕えていた。その騎士は原則として、魑魅魍魎《ちみもうりょう》盗賊毒蛇、これらのものの横行する道路険難の諸国へ出て行き、良民のために粉骨砕身、その害物を除かねばならぬ。多くの悪魔を討ち取った者、これが最も勝れた騎士で、その勝れた騎士になろうと無数の騎士達は努力する。これがすなわち騎士道じゃ!」
「なるほど、説明でよく解った。いやどうも立派なものだ。いかさまそれこそ大和魂だ」
「それではそなたは大和魂で、そうしてこちらは騎士道で、土人どもに当たるとしようぞ」
「向かうところ敵はあるまい」
「そろそろ土人ども来ればよいに」
「や、にわかに明るくなったぞ」
 危難を眼前に控えながら、小豆島紋太夫とホーキン氏とはお国自慢兵法話に、夢中になっていた折りも折り、薄暗かった地下道の中がカッと明るく輝いたので、驚いてそっちを眺めると、石畳が落ちて出来た穴から、松火《たいまつ》が幾本か差し出されている。土人どもが覗いているのだ。
「さてはいよいよ下りて来るな」「少し奥へ引っ込んでいようぞ」
 地下道の二人は囁《ささや》き合いながら、そっと奥へ身を引いたが、ちょうど幸い左右の岩壁から、体を隠《かく》すに足りるような二つの岩が突き出ていたので紋太夫は左手の岩の蔭へ、ホーキン氏は右手の岩の蔭へ、素早く姿を隠したが、困ったことにはホーキン氏は手に武器を持っていない。酋長オンコッコに捕らえられた時、悉皆《しっかい》掠奪されてしまった。
「小豆島氏、紋太夫殿」ホーキン氏は呼びかけた。
「何んでござるな? 何かご用かな?」
「拙者、武器を持っていませぬ」
「武器がないとな。いやいや大丈夫。武器を持っている土人めを拙者真っ先に叩き斬るゆえ、そいつの武器をお使いなされ」
「これは妙案。お願い申す」
 で、二人は沈黙した。じっと向こうの様子を窺《うかが》う。
 と、五、六人ヒラヒラと穴から地下道へ飛んだ者がある。とまた五、六人ヒラヒラと蝙蝠《こうもり》のように飛び下りて来た。武器を持った土人どもである。すぐに彼らは一団となり、何か大声で喚きながら、地上を熱心に探し廻る。紋太夫の死骸を探すのでもあろう。死骸のないのを確かめたからか、彼らはいかにも不思議そうに顔を集めて話し合ったがややあって颯《さっ》と別れると、一列縦隊に組を組み、ここへ足早に走って来た。
「ホーキン氏《うじ》、来ましたぞ」「さようかな、それは面白い」
 こちらの二人は囁き合いながら、土人の近寄るのを待っている。
 土人が手に持った松火《たいまつ》の光で、地下道の中は昼のように明るく、そのため土人の行動は手に取るように解ったが、二人は岩に隠れているので、土人の眼には映らない。今や土人は二人の前を足早に奥へ走り抜けようとした。
 日本人同士の戦いではない。相手は無作法の土人のことだ。紋太夫はあえて掛け声もかけず、振り冠っていた白刃を、ピューッと一つ振り下ろした。ドンという鈍い音! 土人の首が地へ落ちたのだ。松火の光を貫いて一筋の太い血の迸《ほとばし》りが、四尺余り吹き出したのは、物凄くも壮観である。土人はあたかも枯れ木のようにドンと斃《たお》れて動かなくなった。

        十九

 斬ると同時に紋太夫は岩の蔭へ身を引いたが、真に素早い行動である。しかしそれにも劣らなかったのは、斃れた土人が手に持っていた人骨製の短槍を、岩の蔭から手を伸ばし、素早く攫《と》ったホーキン氏の動作で、槍を握るとその槍で二番手の土人の胸を突いた。「ワーッ」と云ってぶっ[#「ぶっ」に傍点]仆《たお》れる土人。胸から滾々《こんこん》と流れ出る血で、土がぬかるむ[#「ぬかるむ」に傍点]ほどである。とまたパッと岩の蔭から躍り出たのは紋太夫で、構えも付けず横なぐり[#「なぐり」に傍点]に三番目の土人の肩を斬った。すなわち袈裟掛《けさが》けにぶっ[#「ぶっ」に傍点]放《ぱな》したのである。「キャッ」というとその土人は酒樽のようにぶっ仆《たお》れたが、切り口からドクドク血を零《こぼ》す。とたんに飛び出たのはホーキン氏で四番目の土人の腹を突いた。
「えい、ついでにもう一匹!」
 叫ぶと一緒に五番目の土人を、紋太夫は腰車に刎《は》ね上げた。
「もうよかろう」
「では一休み」
 二人は声を掛け合ったが颯《さっ》と隠《かく》れ家《が》へ飛び込んだ。汗も出なければ呼吸《いき》もはずまない。
 それこそ文字通り一瞬のうちに、五人殺された土人どもは、味方の死骸を捨てたまま、悲鳴を上げて逃げ出した。元来た方へ逃げ帰ったのである。土人の姿が消えてしまうと同時に松火も消えたので地下道の中は暗くなった。
「アッハハハハハ、弱い奴らだ」紋太夫は大声で笑い出した。「ホーキン氏、幾人斬ったな?」
「さようさ、二人は殺した筈だ」
「俺の方が一人多いな。俺は三人ぶッ[#「ぶッ」に傍点]放した」
「土人ども、どうするであろう?」
「このままでは済むまいな。いずれ大勢で盛り返して来よう」
「ちとそいつはうるさい[#「うるさい」に傍点]な」ホーキン氏は考え込む。
「来る端から叩っ斬るまでよ」紋太夫は平気である。
「しかしきゃつらは無尽蔵だからな」
「百人も殺したら形が付こう。茄子《なす》や大根を切るようなものだ」紋太夫は豪語する。
「しかしそれまでにはこっちも疲労《つか》れよう」
「ナニ、疲労《つか》れたら休むまでよ」
「俺の考えは少し違う」考え考えホーキン氏は云う。「俺は後へ引っ返そうと思う」
「引っ返すとはどこへ行くのだ?」
「俺の通って来たこの地下道は、幸いのことに迷宮ではない。枝道のない一本道だ。そうして社殿へ通じている。……だからこの道を二人で辿ってひとまず社殿へ出ようと思う」
「なるほど」と云ったが紋太夫は賛成の様子を見せなかった。
「なるほどそれもよいかも知れない。しかし俺は不賛成だ」
「ふうむ、不賛成? それは何故かな?」
「俺はオンコッコと約束した。剣《つるぎ》を取って来ると約束した。是非とも剣は取らなければならない」
「剣は大いに取るがいいさ。しかし今は機会《おり》が悪い」ホーキン氏は熱心に、「そうだ今は機会《おり》が悪い。とにかく一旦地下を出て、日の光の射す地の上へ出て、そうして部下を呼び集め、さらに再びこの地下道から地下の国へ侵入し、その剣を取るもよく、神秘の国の秘密を探り故郷への土産《みやげ》にするもいい。しかしどうしても一旦は地の上へ出る必要がある」
 さすがホーキン氏は英国人だけに、その云う事が合理的である。
「これはお説ごもっともじゃ」紋太夫は頷いた。「よろしい、お言葉に従おう。すぐに地下を出ることにしよう」
「おおそれでは賛成か。案内役はこの俺だ」
 云うより早く、ホーキン氏は地下道の奥の方へ走り出した。
 おおよそ十丁も来た頃であった。その時忽ち前方から――すなわち二人の行く手から、松火《たいまつ》の火を先頭に立て、その勢百人にも余るであろうか、真っ黒に固まった一団の人数が、こなたを指して寄せて来た。
 二人は驚いて立ち止まり、その一団の人数を見ると、意外も意外土人酋長オンコッコの率いる軍勢であった。
 その時、ワーッと鬨《とき》の声が、今来た方角から聞こえて来た。振り返って見ればさっきの土人が新たに人数を駆り集め後を追っかけて来たのであった。
 二人はここに計らずも腹背に敵を受けたのである。
「紋太夫殿、もういけない」ホーキン氏は嘆息した。
「いやいや、まだまだ、落胆するには及ばぬ。最後の場合には剣がござる。切れ味のよい日本刀! たかが南米の蛮人ども、切って捨てるに訳はござらぬ」
 日本武士の真骨頂、大敵前後に現われたと見るや、紋太夫は勇気いよいよ加わり、大刀の束《つか》に手を掛けながら前後を屹《きっ》と見廻したものである。

        二十

 ここで物語は一変する。
 ここは地上の森である。
 日光がキラキラと射し込んでいる。小鳥の啼き声、蜜蜂の唸り、小枝に当たる微風の囁《ささや》き、何んとも云えず快い。地上には草が青々と生え紅紫繚乱《こうしりょうらん》たる草花が虹のように咲いている。ジョージ・ホーキン氏と紋太夫とが、敵に襲われ敵を襲い、苦心している地下国と比べて、何んと気持ちよく美しいことぞ。
 と、森の一所から、嗄《か》れて神々《こうごう》しい老人の声と、楽し気な無邪気な少年の声とで、神を讃美する土人歌を、さも熱心に合唱している清らかな歌声が聞こえて来た。
 歌声はだんだん近寄って来る。と、一人の少年が、活溌に木の間から現われたが、他ならぬジョージ・ホーキン氏の子、美少年のジョンであった。
「小父さんおいでよ! 小父さんおいでよ」
 流暢《りゅうちょう》な土人語でこう呼ぶと、
「ジョンよジョンよ、足が速いのう、二歳《ふたつ》になった牝鹿のようだ」
 こう云い云い出て来たのは、酋長オンコッコを裏切ってまでジョンの危難を救ったところの、土人祭司バタチカンであった。
「あんまりピョンピョン刎《は》ね廻って、森の外へ出たが最後恐ろしい奴らに眼付《めっ》かるぞよ。さあさあここへ来るがいい。青草の上へ坐るがいい。面白い話を話してやろう」
 ジョン少年は穏《おとな》しく、祭司バタチカンの側へ行き、坐って話を聞こうとした。
 バタチカンとジョンとは親友《なかよし》である。ことに祭司バタチカンにとっては敵とも云うべきジョン少年が妙に可愛くてならないのであった。
 で、バタチカンはジョン少年を、最初の危難から救って以来、一心不乱に土人の言葉をジョン少年に教えたものである。土人の言葉は簡単であり、ことにジョンは怜悧であったので、わずかの間に覚えてしまって、二人はかなり困難《むずかし》いことまで土人の言葉で話すことが出来た。
「ジョンよ、ジョンよ、さあお聞きよ。これは大事な話だからね。そうしてこれは私達のうちでも、代々祭司を務める者だけが、わずかに知っている話だからね。……昔々遠い昔に、一羽の烏《からす》があったとさ。その烏は一本足でね、形は変に醜《みにく》かったけれど、大変利口な鳥だったそうだよ。その烏がある日のこと土人に向かってこう云ったそうだよ――
『チブロン島には宝はない。実は宝は海の上にある。船に乗って従《つ》いておいで! 私がそこまで案内しよう。けれど随分危険だぞよ。歌を唄う人魚とか、揺れている大岩とかその他山ほど恐ろしいことがある。それを承知なら従いて来い。宝の側まで連れて行ってやろう』
 ところが土人達は臆病で、従いて行こうとしなかったので、烏はとうとう愛想を尽かしてどこかへ飛んで行ってしまったとさ」
「それで烏はどこへ行ったの?」ジョン少年は訊くのであった。
「さあどこへ行ったものかね。それは私《わし》も知らないよ」
「二度と烏はやって来ないの?」
「さあそれも知らないよ」
「僕、烏に逢いたいなア」
「どうして烏に逢いたい?」
「僕、宝島へ行ってみたいよ」
「宝島へなら私《わし》も行きたい」
「烏! 烏!一本足の烏!」
 ジョン少年は歌いながら、森の奥へ駈けて行った。
 ちょうど同じ日の午後であったが、ジョン少年は森の奥で一羽の烏を発見した。残念なことにはその烏は一本足ではなかったけれど、しかし立派な大烏で、少年の空想を充たせるには、充分の値打ちを持っていた。
「烏、烏、大きな烏!」
 ジョン少年は歌いながらそっと石を拾い取り、何気ない風を装《よそお》ったが、忽ちビューッと投げ付けた。彼の考えでは石を投げ付け、黒い逞《たくま》しい二本の足の一本を折ろうとしたのである。
 狙った石は誤またず、一本の足へ当たったが、これが奇蹟とでも云うのであろうか、その足が折れて落ちて来た。
「あっ」
 と驚いたジョン少年は思わず声を筒抜かせたが、それより一層驚いたのは足を折られた大烏で、バタバタと枝から離れると、さも倦怠《だる》そうに羽摶《はばた》きながら、森を潜って舞って行く。
「烏、烏、一本足の烏! 烏、烏、一本足の烏」
 ジョンは夢中に叫びながら烏の後を追っかけた。
「ジョンよ、ジョンよ!」とバタチカンの声が、背後《うしろ》から心配そうに呼ばわったが、ジョン少年は返辞さえしない。
 いつしか森も出外れた。
 と、突然、海岸へ出た。潮が岸へ寄せている。一つの小さい入江があり、そこに一艘の丸木舟が、波に揺れながら漂っていた。そうして烏は海の上をゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]ゆっくり翔《か》けて行く。
 ジョンは英国の少年である。そうして英国は海国である。ジョン少年は子供ながら、海の知識には富んでいた。丸木舟ぐらい漕ぐことが出来る。
 ひらり[#「ひらり」に傍点]と丸木舟へ飛び込んだ。
 烏を追おうとするのである。

        二十一

 一本足の烏に誘われ、ジョン少年が走り去ったとも知らず、司祭バタチカンは林の中を声を上げながら探し廻った。
「ジョンよ! ジョンよ! ジョンはいないかな! 林の外には敵がいるぞよ、林の外へ行くではないぞよ。ジョンよ。ジョンよどこにいるな!」
 しかしどこからも返辞がない。
 バタチカンは次第に不安になった。椰子《やし》の根もとに佇《たたず》みながら心配そうに考え込んだ。林の中は静かである。ここには何んの危険もない。美しい日光と涼しい風と香《におい》のよい草花と緑の木々、それらの物があるばかりだ。旨《うま》い果物《くだもの》や綺麗な泉、これらの物があるばかりだ。しかし一|度《たび》林の外へ出ると、恐ろしい土人が群れていよう。
「ジョンよ、ジョンよ!」
 とバタチカンはまた不安そうに呼んだけれど、ジョンの返辞は聞こえなかった。
「ああ心配だ心配だ。あの子はいったいどこへ行ったんだろう」
 益※[#二の字点、1-2-22]不安は加わって来る。その時にわかに大勢の人が歩いて来るような足音がした。
 ハッとバタチカンは仰天した。「オンコッコの仲間に違いない。見付かったが最後裏切り者として掟《おきて》通り殺されるだろう。逃げなければならない、逃げなければならない」
 彼は急いで藪地の方へ足音を忍んで走って行った。しかし藪地へ届かない前に彼は敵に見出《みい》だされた。それはオンコッコの仲間ではなくて、日英同盟の軍隊であった。すなわち来島十平太とゴルドン大佐との連合軍であった。
 忽ちバタチカンは縛《いまし》められ二大将の前へ引き据えられた。
「これ貴様は何者だ?」
 ゴルドン大佐がまず訊いた。
「土人の神職《かんぬし》でございます」バタチカンは英語でこう云った。ジョン少年からバタチカンは、速成に英語を学んだので普通の会話ぐらいは出来るのである。
「貴様の名は何んと云う?」
「はい、バタチカンと申します」
「仲間の土人はどこへ行った?」
「私、一向存じません」
「何、知らぬ? それは何故か?」
「仲間にとってこの私は裏切り者でございます」
「何をして裏切った?」
「ジョンという子供を助けましたので」
 これを聞くと英人達はにわかに態度を改めた。
「ジョン少年を救ったのはさてはバタチカンお前であったか。乱軍の場合ではあったけれど、一人の土人がジョン少年を酋長オンコッコの毒刃から救い、小脇に抱えて逃げ出したのを遠目ながら確かに見た。そう聞いては粗末に出来ぬ。バタチカンの縛《いまし》めを解かなければならない。……さて、ところでジョン少年は今もお前の手もとにいような?」
「それがいないのでございます」
「ナニ、いない? どこへやった?」
「いえやったのではございません。消えてなくなったのでございます」
 それからバタチカンはこれまでの事を、貧しい会話と手真似とで出来るだけ詳しく物語った。その態度にも、言葉にも偽《いつわ》りらしいものは見えぬ。ゴルドン始め人達は信用せざるを得なかった。
「探さねばならぬ。探さねばならぬ」
 英人達は云うまでもなく日本方でもこう云って、捜索の人数を出すことにした。
 しかし、いくら探してもジョンの姿は見付からなかった。で、人達は絶望してまた一所へ集まった。
 ジョン少年はどこへ行ったのであろう?
 ゴルドン大佐はバタチカンを捉らえ、いろいろのことを訊いて見た。
「実は俺達は土人軍を追って、島を縦横に駈け廻ったところ、不意に一時にその土人達が姿を隠してしまったのだ。まるで地の中へ吸い込まれたようにな。……この島には地下へ通う抜け穴のようなものがあるのではないかな?」
「はい、抜け穴がございます」
「おおあるか! どこにあるな?」
「しかも三つございます」
「おお、そうか、教えてくれ」
「一つは社殿にございます」
「ナニ、社殿? 社殿のどこに?」
「はい床下にございます」
「それは少しも気が附かなかった」
「それからもう一つは林の奥の窟《いわや》の中にございます。しかしここからは、容易のことでは地下の世界へは行けません。迷路が作られてありますので」
「で、もう一つはどこにあるな?」
「はいこの島の裏海岸の荒野の中にございます」
「さてはそこから逃げ込んだものと見える」
「恐らくさようでございましょう」
「地下の世界とはどんな世界かな?」
「恐ろしい所でございます。神秘の世界でございます」

        二十二

 一本足の大烏はズンズン海上を翔けて行く。
 ジョン少年は櫂《かい》を操《あやつ》りドンドン小舟を進ませる。空は晴れ、海は凪《な》ぎ、大変|長閑《のどか》な日和《ひより》である。
 舟はズンズン進んで行く。
 長い間漕ぎ続けた。振り返って見ると、チブロン島は低く海上へ浮かんでいる。海鳥が無数に飛んでいる。
 烏はどこまでも翔《か》けて行く。
 今の時間にして一時間余りジョン少年は漕ぎに漕いだ。その時二つの大岩が行く手の海に現われた。伝説にある浮き岩である。岩のくせに水に浮いている。そうして互いに衝突《ぶつか》り合い、恐ろしい泡沫《しぶき》を揚げている。その泡沫は雪のように四辺《あたり》の海を濛々と曇らせ、行く手をすっかり蔽い隠している。そうして互いに衝突《ぶつか》り合う音が雷のように響き渡る。
 烏は二つの浮き岩の間を電光のように翔け過ぎた。
 そうして背後《うしろ》を振り返ったが、ジョン少年を呼ぶかのように、「コー」「コー」と啼いたものである。
 ジョン少年は躊躇《ちゅうちょ》した。岩の間を乗り切ることが困難《むずかし》そうに思われたからだ。で彼は乗り切るのを止めて、一つの岩の周囲《まわり》を廻り先へ出ようと考えた。しかしその間に烏の行方《ゆくえ》が見失われたらどうしよう。それこそ虻蜂捕らずである。
「勇気、勇気、勇気が大事だ! 冒険、冒険! 冒険に限る! 構うものか乗り切ってしまえ!」
 ジョン少年は決心した。で櫂《かい》に力をこめ、岩と岩とが衝突《ぶつか》り合い、やがて離れた一髪の間にスーッとばかりに突っ切った。とたんに左右から二つの岩が轟然と憤怒《いかり》の叫びを上げ、動物《いきもの》のように衝突《ぶつか》って来たが、わずかに舟尾《とも》に触れたばかりで舟も人も無事であった。
 烏はと見れば行く手の空を悠々と向こうへ翔けて行く。安心をしたジョン少年は、さらに櫂に力をこめ先へ先へと漕いで行く。
 こうして半時間ばかり経った時一つの小島が行く手に見えた。近附くままによく見ると、子供達が沢山遊んでいる。それは非常に美しい島で、虹を空から持って来たように種々《いろいろ》の花が咲いている。赤、白、黄、紫、藍、黄金色! 空色をした花もあれば桃色をした花もある。花間《はなま》では兎が飛んでいる。可愛い緑色の小さい森! そこでは栗鼠《りす》が啼いている。森から流れ出るリボンのような小川! 水が銀色に光っている。沢山の子供達は手を繋《つな》ぎ合い輪を作って踊っている。そうして彼らは唄っている。
[#ここから2字下げ]
いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい、
夢の島、絵の島、お伽噺《とぎ》の島、
いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい、
[#ここで字下げ終わり]
 ジョン少年はしばらくの間、漕ぐ手を止めて見惚《みと》れていた。
「皆な楽しそうに遊んでいるよ。僕も一緒に遊びたいな」
 また歌声が聞こえて来る。
[#ここから2字下げ]
いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい、
花を摘んで差し上げましょう、
ここにはお乳が流れています、
甘い蜜もございます。
蜂はブンブン、蝶はヒラヒラ、
夢の島、絵の島、お伽噺《とぎ》の島、
いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい。
[#ここで字下げ終わり]
 唄いながら子供達が踊っている。足が揃って上へあがる。手が揃って前へ出る。輪がグルグル渦を巻く。伴奏の役目は小鳥である。
「ああいいなあ」とジョン少年はその子供達が羨《うらや》ましくなった。
「上陸して一緒に遊ぼうかしら」
 で、櫂《かい》へ力をこめ、小舟を島へ着けようとした。その時ハッと気が付いて行く手の空を眺めて見た。彼を導く大烏の姿が遙か彼方《むこう》の空の涯《はて》を今にも消えそうに翔けている。
「あ、しまった! 見失ってしまう!」
 ジョン少年は吃驚《びっくり》したが、急いで舟をグルリと廻すと、島を見捨てて漕ぎ出した。尚後ろからは子供達の唄う楽しそうな歌声が聞こえて来る。それは誘惑の声である。しかしもはやジョン少年は心を乱そうとはしなかった。ただ一心に漕ぎ進んだ。
 随分久しく漕いだので大分腕が疲労《つか》れて来た。その時行く手に陸が見えた。そうして烏はその陸を目がけ静かに静かに舞って行く。
 ようやく岸へ漕ぎつけて見ると、烏の姿がどこにも見えない。
「あ、とうとう見失ってしまった」ひどく落胆したものの、またこうも思って見た。「つまり烏はこの陸地まで、僕を案内して来たのかもしれない。物語の中の宝物は、この陸のどこかにあるのかもしれない」
 岸の木立ちへ藤蔓で舟をしっかり繋《つな》いでから、ジョン少年は上陸した。そうして奥の方へ歩いて行った。

        二十三

 間もなく一つの河へ来た。河岸に乞食《こじき》が転がっている。老い衰えた土人乞食で、手足は垢黒み衣裳は破れ、悪臭がプンプン匂って来る。とても穢《きたな》い乞食であったが、ジョン少年を呼び掛けた。
「小僧、小僧、ちょっと待て!」
 ジョンは吃驚《びっくり》して立ち止まった。
「俺は病気で歩くことが出来ぬ。俺を背負って河を越せ!」横柄な不遜な物云いである。
 ジョン少年はムッとしたが、相手が年寄りの病人だと思うと、怒鳴り返すことも出来なかった。かえって乞食が気の毒になった。
「病気なの? 気の毒だなあ。ああいいとも背負ってあげよう」こう云いながら背を向けた。と、乞食は立ち上がり、痩せ涸れた体を凭《も》たせかけたが、見掛けに似合わず目方がある。
「ううん、畜生、ヤケに重いなあ」呟き呟きジョン少年は河を向こうへ越して行った。
 すると乞食は負われながらむやみと悪態を吐《つ》くのであった。
「ヤイ薄野呂《うすのろ》! 間抜け野郎! そんな方へ行くと溺れるぞ! そっちは淵だ! 深い淵だ! ヤイヤイ小僧どこへ行くんだ! そんな方へ行くと躓《つまず》くぞ! そこには大きな岩があるんだ! 何んというこいつは馬鹿なんだろう! 真っ直ぐに行きな真っ直ぐに。そうだそうだ真っ直ぐにな。おやこの餓鬼は横へ曲がったな。餓鬼のくせに云う事を聞かぬ。根性曲がりの悪垂《あくた》れ小僧め、ほんとに小憎らしい小僧じゃアねえか!」などと憎々しく怒鳴るのであった。
 ジョン少年は何んと云われても、相手になろうとはしなかった。「可哀そうな乞食だよ。あんまりこれまで苦労したので気が狂ったに違いない」――こう思えば腹も立たない。で黙って進んで行く。
 やがて河を渡り切るとジョン少年はほっとした。そこで乞食《こじき》を背中から下ろし帽子を取ると挨拶した。
「お爺さんさようなら。僕はこれで失敬するよ」
「まあお待ち」と乞食は云った。「お前はほんとに感心な子だね。よくお前は忍耐したね。俺はほんとに感心したよ。お前はきっと成功するよ。それは俺が保証してもいい。……さあ、ご褒美にいい物を上げよう」
 こう云いながら左右の手を、ジョンの眼の前でパッと開いた。黒い色をした石の玉が二つ掌《てのひら》に載っかっている。
「これはな」と老人は説明した。「世に珍らしい武器なのだよ。だからこれさえ持っていれば、大概の危難は遁《の》がれることが出来る。恐ろしい敵が襲って来ていよいよ命があぶなくなったら、こいつをその敵へ投げ付けるがいい。まず最初に一つ投げる。それからもう一つ投げ付ける。そうしたらお前は助かるだろう。ではさようなら、健康《たっしゃ》で行くがいい」
 乞食はそのまま行ってしまった。
 ジョン少年は乞食の後をしばらくじっと[#「じっと」に傍点]見送っていたが、奇妙な黒い二つの玉を上衣《うわぎ》のポケットへ蔵《しま》い込むと、足に任せて歩き出した。すると遙かの行く手に当たって一軒の家が現われた。もうこの時は夕暮れでジョン少年は疲労《つか》れてもいたし酷《ひど》く腹も空いていたので、その家へ行って、宿も乞い食物も貰おうと決心した。
 邸の造作《つくり》も異様であったが、永く手入れをしないと見えて、門は傾むき屋根は崩れ凄まじいまでに荒れていた。――見たこともない家造りである。
「ご免! ご免!」
 と案内を乞うた。誰も答える者がない。ジョン少年は途方に暮れてぼんやり門口に佇《たたず》んだが、
「もし叱られたら謝まるばかりだ。構うものかはいってやれ」
 ――そこは英国の冒険少年、大胆に家の中へ入って行った。すると大きな部屋があり、一人の男が寝ていたが、ジョン少年の姿を見るとムクムクと体を起き上がらせた。そうしてジョンを睨み付けた。
「貴様は誰だ!」と大きな声で、突然その人は怒鳴ったものである。不思議なことにはその人は、土人の言葉は使うけれど、人種は土人ではなさそうである。
「怪しい者ではありません」ジョン少年は急いで云った。
「道に迷った子供です」
「いやいや貴様は泥棒だろう! また聖典を盗みに来たな!」不思議な男はまた怒鳴った。「貴様は蛇使いの一味だろう※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「そんな者ではありません。僕は英国の少年です。ジョン・ホーキンと云う子供です」
「嘘を云え悪者め! が、子供などは相手にしない。サッサとここを立ち去るがいい。そうして蛇使いの婆さんに云え、早く聖典を返せとな!」
「僕、蛇使いの婆さんなどに一度も逢ったことはありません」
「ああ睡い、俺は寝る」云ったかと思うと、その男は肘を曲げてゴロリと寝た。とすぐ鼾《いびき》が聞こえ出した。

        二十四

 ジョン少年は呆気《あっけ》に取られ、少しの間立って見守っていた。
 その時一人の少年がツカツカと部屋の中へはいって来た。年|恰好《かっこう》はジョンぐらいである。やはり土人ではなさそうである。
「おや君はどなたです?」その少年は審《いぶか》しそうに訊いた。その言葉は土人語である。
「道に迷った子供です」
「ああそうですか、それはお気の毒……」その少年は優しく云った。親切そうな少年である。
「君は土人ではありませんね?」ジョン少年はまず尋ねた。
「ええ僕らは日本人です。……君も土人ではありませんね?」
「そうです僕は英国人です」
「英国人? ああそうですか。で名前は何んと云うのです? 僕の名は大和日出夫」
「僕の名はジョン・ホーキン」
「英国というとどの辺です?」
「遠くの遠くの海のあなたです」
「そこから一人で来たのですか?」
「どうして一人で来られるものですか。お父さんや仲間の者と、海を越えて来たのですよ」
「その人達はどうしました?」
「土人と戦争をしています。……ところでここはどこなのです? 大陸ですか島ですか?」
「チブロン島の裏海岸です」
「オヤやっぱりチブロン島ですか」ジョン少年は吃驚《びっくり》したが、「日本というのはどんな国です?」
「日本は東洋の君子国ですよ。そうして人間は利口ですよ。尚武《しょうぶ》の気象に富んでいます」
「チブロン島から近いのですか?」
「いいえ非常に遠いのです」
「いつこの島へ来られたのです?」
「ちょうど、今から五年ほど以前《まえ》に」
「何んのために来られたのです?」
「隠された宝庫を探すためにね?」
「やはり君達もそうなんですか」ジョン少年は眼を円くしたが、「そうして宝は見付かりましたか?」
「もう一息というところでとうとう失敗したのですよ。……つまり聖典を盗まれたのでね」
「その聖典とはどんなものです?」
「漢文で書かれた本ですよ」
「漢文というと支那の文章ですね」
「ええそうです支那の文章です。……その聖典には、益《ため》になる話が数限りなく書いてあるのです。……大事な大事な本なのです」
「いったい誰が盗んだのです?」
「蛇使いの婆さんがね」
「その婆さんはどこにいます」
「地下の世界にいるのだそうです」
「そんな世界があるのですか?」
「ええあるということですよ」
「何故他人の本なんか盗んだのでしょう?」
「宝の在所《ありか》が書いてあったからです」
「隠された宝と婆さんとは何か関係でもあるのですか?」
「その婆さんが守り主なのです。その隠された宝のね。で、婆さんは本さえ盗んだら宝は安全だと思ったのです」
「晩に来てこっそり盗んだのですね?」
「いいえ、そうではありません。その婆さんは毎日のようにここへ遊びに来ていたのですよ。そうしてある日大威張りで聖典を攫《さら》って行ったのですよ。土人酋長オンコッコなどもよく遊びに来たものです。その婆さんとオンコッコとがチブロン島の支配者なのでね。つまりオンコッコは地上の支配者、婆さんが地下の支配者なのです。そうして二人は力を合わせて宝を守っているのですよ」
「すると君のお父様はその婆さんやオンコッコ等《など》と、以前《まえ》から仲がよかったのですね?」
「つまりお父様はその二人を利用しようとしたんですよ。そやつらの口から宝の在所《ありか》を確かめようとしたのですよ。……すべて野蛮人というものは、歌を唄うことを好みますね。ことに蛇使いの婆さんは酷《ひど》くそいつが好きだったので、万葉という日本の古歌へ今様の節をくっ付けて、そいつをお婆さんへ教えたり、日本語を教えたりしたんですね。語学にかけては野蛮人どもは本当に立派な天才ですね。すぐに覚えてしまいましたよ。それを有難いとも思わずに聖典を盗んだというものです。それからというものお父さんはすっかり気持ちが変になって、人さえ見れば、泥棒だと思い悪口ばかり吐くのですよ」
 二人の少年は話している間に、互いに親しみを感じて来たのだった。と、突然ジョンが云った。
「僕、武器を持っています! 蛇使いの婆さんを退治てやろう! 地下の世界へ行けさえしたら、きっとそいつを退治てやる!」
「地下の世界へなら行けますよ!」
 大和日出夫は元気よく云った。「この附近《ちかく》の野の中に地下へ行く道があるのです」

        二十五

「地下へ行く道があるんだって? そいつを僕に教えておくれ。そうして二人は地下へ行こうよ」
 ジョン少年はこう云った。
「ああいいとも、教えてあげよう」
 大和日出夫は喜んだ。それから彼は先へ立って、ジョン少年を案内した。
 館を出ると荒野である。二人は荒野を歩いて行く。
 やがて一つの空井戸へ出た。空井戸だから水がない。そうして井戸の一方の側《がわ》に不細工に出来た階段がある。
「ね、ここにある階段ね。これが地下へ行く道なのさ」日出夫は云って指差した。
「それじゃここから下りて行こうよ」
「では僕が先へ行こう」
 で、日出夫が先に立ち、その後からジョンが続き、空井戸を下へ下りて行った。
 間もなく二人は底へ着いた。細い横穴が通じている。それを二少年は辿って行く。
 道は案外平坦で山もなければ坂もない。ただ暗いのが欠点である。
 二人はドンドン走って行く。
 二時間余りも走った頃、行く手に当たって人声がした。
「いよいよ地下の国へ着いたようだな」
「土人どもが騒いでいる」
「気を付けて行こうぜ」「そっと行こうよ」
 二人は互いに戒《いまし》め合い、足音を忍んで近寄って行った。

 小豆島紋太夫とホーキン氏とが、前後に大敵を引き受けて進退全くきわまったことは、既に書き記したが、さてその後どうしたかと云うに、他に手段もなかったので小豆島紋太夫はオンコッコ軍に向かい、またホーキン氏は地下人軍に向かい、悪戦苦闘をしたものである。
 ワッワッという叫び声、悲鳴、掛け声、打ち物の音、狭い地下道は一瞬にして地獄のような修羅場となったが、その中で紋太夫は十五人、ホーキン氏は十人の敵を生死は知らず切り伏せた。
 これには土人軍も辟易したが、ド、ド、ド、ドと一度に崩れを打ち、元来た方へ引き返したが、しかしすっかり逃げたのではなく、一時退却したまでである。
 こなた二人はホッとしたが、さすがに体は疲労《つか》れていた。
「さてこれからどうしたものだ」こう云ったのはホーキン氏である。
「いずれすぐに盛り返して来よう。戦うより仕方がない」紋太夫は憮然《ぶぜん》として云った。
「さよう、戦うより仕方あるまい。敵は大勢味方は二人、とてもこっちに勝ち目はないな」ホーキン氏は暗然とした。
「そうばかりも云われない」紋太夫は故意《わざ》と元気に、「世には天祐というものがある」
「俺はそんなものは認めない」ホーキン氏は冷ややかに、「それは憐れむべき迷信だ」
「いやいや決して迷信ではない。日本には沢山例がある」
「いや迷信だ。非科学だ。合理的とは認められぬ」
「西洋流の解釈だな」
「そうして正しい解釈だ」
「しかしそいつはまだ解らぬ。……や、来た来た盛り返して来たぞ。議論をしている暇はない」
「うん、来たな。サア戦争だ」
 二人はそこで以前《まえ》のように前後の敵に向かうことにした。
 衆を頼んだオンコッコ軍はひたひた[#「ひたひた」に傍点]と紋太夫へ攻め寄せる。
 ビクともしない紋太夫は、ピッタリ岩壁へ体をくっ付け、しばらく敵を睨んでいたが、パッと敵の中へ飛び込むと、やにわに二人を切り伏せた。そうして次の瞬間にはピッタリ岩壁へ身を寄せた。と、またパッと飛び込むと同じく二人を切り仆し、仆した瞬間には彼の体は既に岩壁へくっ付いている。
 六人、八人、十人と、見る見る土人は切り仆されたが、紋太夫も体へ一、二箇所傷を負わざるを得なかった。
 この凄まじい太刀風にまたもや土人軍は退却したが、その時忽然地下道を震わせ轟然たる大音響が鳴り渡り、それと同時にその時まで雲霞《うんか》のように集まっていたオンコッコ軍が数を尽くしバタバタと地上へ転がった。
 濛々と立ち上る黄色い煙り、プンと鼻を刺す煙硝の匂い、誰か爆弾を投げたと見える。
 あまりの意外に紋太夫は、驚きの眼を見張ったまま暫時《ざんじ》茫然と佇《たたず》んでいたが、忽ち煙硝を分け、二人の少年が現われたのを見ると、さらに驚きを二倍にした。
 その少年こそ他ならぬジョン少年と日出夫である。

        二十六

 一方ジョージ・ホーキン氏は、地下人どもを相手とし、人骨製の槍をもって、悪戦苦闘を続けていた。五人の土人を突き伏せた時、自分も数痕《すうこん》を蒙《こうむ》ったが、そんな事にはビクともしない。さらに敵中へ飛び込んで行った。その時、耳朶《じだ》を貫いたのが大爆発の音響である。
 これにはホーキン氏も驚いたが、一層驚いたのは土人達で、ワッという悲鳴を上げると共に十間余りも逃げ延びた。
 で、ホーキン氏は振り返って見た。濛々たる煙り、累々たる死屍、その中から走り出た二人の少年のその一人が、自分の子のジョンだと知った時、その喜びと驚きとはほとんど形容の外《ほか》にあった。
「ジョンよ! ジョンよ! ジョンではないか!」
 思わず大声で呼んだものである。
 呼ばれたジョンはホーキン氏を見たが、
「あッ、お父|様《さん》だ! お父|様《さん》だ!」
 歓喜の声を高く上げると、鞠《まり》のように飛んで来た。それをホーキン氏は両手を拡げひしとばかりに抱き締めた。
 親子久しぶりでの邂逅《めぐりあい》である。死んだと思ったのが生きていたのである。……しばらく、二人は抱き合ったまま、一言も云わずに立っていた。涙が頬をつたわっている。
 と、不意にジョン少年は地下人の群れを睨んだが、
「ああ、あいつらは土人ですね。憎い僕らの敵ですね。それでは僕退治てやろう」
 云うより早く、ポケットから、れいの不思議な乞食から貰った黒い玉を取り出すと、土人目がけて投げ付けた。
 ふたたび轟然たる爆発の音が、坑道一杯に鳴り渡ったが、続いて起こった大音響は全く予期しないものであった。
 その辺の岩組が弱かったためか、左右の岩壁と天井とが、同時に崩れて来たのである。
 地下人どもは一人残らず岩石の下へ埋められたが、今まで通じていた地下への道も同じくその地点で埋没された。
 こうして腹背敵を受けたその危険からは遁《の》がれたが、神秘を極めた地下国へは再び行くことが出来なくなった。
 しかし地上へは出ることが出来る。
 でホーキン氏を先頭に、ジョン少年、大和日出夫、小豆島紋太夫が殿《しんがり》となり、坑道を先へ辿ることにした。
 一里余りも行った時、道が二つに分れていた。左へ行けば社殿へ出られ、右へ行けば空井戸へ出られる。
「さてどっちへ行ったものかな?」――ここで一同は躊躇した。
 その時、左手の坑道から大勢の足音が聞こえて来た。そうして人声も聞こえて来た。
「また土人軍がやって来たらしい」一同は少なからず当惑した。
 大勢の足音はそういう間も次第次第に近寄って来る。はっきり[#「はっきり」に傍点]人声も聞こえて来る。
「や、あれは日本の言葉だ」紋太夫は思わず云った。
「英国の言葉も雑っている」続いてホーキン氏もこう云った。
 松火《たいまつ》の火を真っ先にやがて人影が現われたが、それは土人の軍勢ではなく、土人祭司バタチカンを案内役に先に立てたすなわち日英の同盟軍――来島十平太とゴルドン大佐と、彼ら二人の部下とであった。
「これはこれは小豆島殿!」「ああお前は十平太か!」
「これはこれはホーキン隊長!」「おお君はゴルドン大佐か!」
 忽ち双方から歓喜に充ちたこういう会話が交わされた。
 そこで一同熟議の結果、大和日出夫の父の邸へひとまず落ち着こうということになった。で、道を右に取り、元気よく一同は先へ進んだ。
 一里余りも進んだ時、狭い坑道は行き詰まった。空井戸の底へ来たのである。そこで一同は順々に空井戸を上へ登って行った。それから日出夫を先に立て、荒野をズンズン歩いて行った。
 間もなく日出夫の邸へ着いた。
 思わぬ大勢の来客に日出夫の父は仰天したがまた甚《ひど》く喜びもした。
 誰も彼も空腹であった。日出夫の父は家内を探しあるだけの食物《たべもの》を提供した。
 それから一同一室に集まり今後の方針を議することとした。
 真っ先に立ち上がって発言したのは大和日出夫の父であった。
「拙者は日本の本草家|大和《やまと》節斎《せっさい》と申す者でござる」
 これを聞くと紋太夫は驚いたような顔をしたが、
「ナニ大和節斎殿とな? これはこれはさようでござったか。和漢洋の学に通じ、本草学の研究においては一流の学者と申すこと、噂に承《うけたま》わっておりました。しかし今より十数年前、支那|上海《シャンハイ》の方面にて行方不明になられたと、もっぱらの評判でござりましたが、意外も意外このような土地に、ご壮健にておいでとは、不思議な事でござりますな」
「いやそれには訳がござる」節斎は微妙に笑ったが、「まずともかくもお聞きくだされ。これは不思議な話でござる。そうしてこれは皆様にとって最も有益な話でござる。実はな拙者|上海《シャンハイ》において珍らしい書物を手に入れたのでござる」

        二十七

 大和節斎は演説を続けた。――
「さよう、拙者は上海《シャンハイ》において、珍らしい書物を手に入れました。孔子以後現代までの聖人賢人悪人どもの知識について書き記したもので、この本一冊持っていさえしたら、世界のあらゆる出来事はさながら掌上を指すがごとく理解出来るのでございます。で、拙者はこの書物を『聖典』と呼ぶことに致しました。さて、その聖典の暗示によって、この島のどこかに大宝庫があり、発掘を待っているということを、朧《おぼ》ろ気ながら知ることを得たのは十数年前のことであって、その時以来この島へ移住し、土人どもと交際をし今日まで暮らして参りました。最近聖典を失いましたため、一時研究を放擲《ほうてき》しましたが、大挙して諸君が参られたからは、再び勇気を揮《ふる》い起こし、所期を貫徹致すべく努力するつもりでございます」
 ここで彼は一|咳《がい》したが、
「さて、ついては今日まで、十数年間この島に関して、研究致しました成績について、あらかたお話し致しましょう。……まず第一この島には宝石の土蔵がございます」
 ここでまた一咳した。
「それから第二にこの島には黄金の土蔵がございます。そうしてこの島の樹木たるやいずれも珍木でございます。要するにこの島その物が一大宝庫なのでございます。しかるにこの島の土人なる者が、昔から剽悍《ひょうかん》でございましたので、幾多著名の冒険家達もついにこの島を窺うことが出来ず、今日まで捨てられておりました。さてところで、この島には、これら天然の財産の他に、人工的の大財宝が隠されてあるのでございます。すなわち代々の土人酋長が部下を従え海を越え、他国に向かって侵略し、奪い取ったところの貨幣珍器が、莫大もない額《たか》となって隠されてある筈でございます。ところでそれはどこにあるかというに、今日までの研究によれば地下の世界にある筈です。そして地下のどこにあるかというに、この島の伝説として語られている活《い》き剣《つるぎ》の神殿に、隠されてある筈でございます。拙者をして云わしむれば、活《い》き剣《つるぎ》に関する伝説などは作り話としか思われません。つまり物々しい伝説を作り地下の世界を神聖の物とし、他人の侵入を防いだのであります。秘密の通路を二つ設け、その一方を迷路としたのも侵入を防ぐ手段であります。
 で、我々がその財宝を手に入れようと思うなら、是非とも地下の世界へ行き、その活き剣の神殿なるものを発《あば》かなければなりません。しかるにまことに残念なことには、二つの中の一つの通路は、完全に破壊されてしまいました。でこの道からは行けません。ところでもう一つの迷路からも絶対に行くことは出来ません。お聞きすれば紋太夫殿は、迷路に住んでいる巫女《みこ》に教わり、奇数偶数、奇数偶数と、こう辿って行かれた結果、地下の世界へ参られたというが、しかし再びその巫女の所へどうして行くことが出来ましょう。なるほど、巫女の住む場所からはそういう順序でも行けましょう。しかし入り口から巫女の部屋へはそういう順序では参れません。もしそんな順序で参れるようなら、それは迷路ではありません。仮りにも迷路とあるからは、そんな簡単な順序では到底行くことは出来ません。
 で、要するに地下の世界へは、今のところ我々は、絶対に行けないのでございます。
 ではどうしたらよかろうか?
 当分の間我々には、地下の世界の財宝を諦らめ、この天産の無限に多い島その物の開拓に従事すべきではありますまいか。そうして緩々《ゆるゆる》その間に、壊れた地下道を修繕するもよし、新に開鑿《かいさく》するもよし、手段はいくらもございます。その上で地下へ参ったなら、成功することと思われます」
 節斎の長い物語はようやくここで終りとなった。
 他に手段がなかったので、紋太夫もホーキン氏もその説に従い、島を開拓することにした。
 まず住宅が作られた。
 各自愉快に生活した。
 予想にも増してこの島には天産物が豊富にあった。規則正しい労働と、この時代の文明から推してきわめて進んだ設備とで、彼らはドシドシ発掘した。
 この間、島の土人達と、幾度か小競合《こぜりあ》いが行なわれたが、とても彼らに敵すべくもない。間もなく完全にチブロン島は彼らの手中に帰することになった。
 島の政体は共和であった。第一期の大統領には紋太夫が選ばれた。選挙は毎年行なわれ、二期の大統領にはホーキン氏がなった。大和節斎は老人ではあり、且つ学者でもあったので、最高顧問ということになった。祭礼方面は土人司祭のバタチカンが司《つかさど》った。
 ジョン少年と大和日出夫とは、この共和国の寵児として仲間の者から可愛がられたが、云うまでもなくこの二人はこの上もない親友であった。

        二十八

 平和の月日が過ぎて行った。
 それは蒸暑《むしあつ》い夏の陽が、平和な島の草や木に、キラキラあたっているある日であったが、ジョン少年と日出夫とは、海岸の岩へ腰を掛け、愉快な会話に耽けっていた。
「……で、僕には不思議なのだ」ジョン少年がこう云った。
「ナーニ、ちっとも不思議じゃないよ」日出夫は笑って反対した。「要するにそれは蜃気楼《しんきろう》さ」
「蜃気楼だって? そんな筈はない。確かに僕は見たんだからね」
「でも、上陸はしなかったんだろう」
「ああ上陸はしなかった。少し先を急いだものだから」
「では確かに島があったと断言することは出来ないじゃないか」
「しかし、確かに見たんだからね」
「人間の眼というものは、案外アテにならないものでね」
「それに僕は歌声を聞いたよ。沢山の子供達が輪を作って、『いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい、夢の島絵の島お伽噺《とぎばなし》の島、いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい』ッてね、声を揃えて唄っているのを、僕はハッキリ聞いたんだが、これもやはり蜃気楼《しんきろう》かしら?」
「いやそれは空耳だよ。でなけれは聞き間違いだよ。潮の音か風の音かが、そんなように聞こえたのさ」
「でも繰り返して聞こえたがな」
「人間の耳というものは案外アテにならないものでね」日出夫は自説を曲げなかった。
 ややあってジョンはまた云った。「君は伝説を信じるかね?」
「それは伝説の性質によるね」
「では烏《からす》の伝説は?」
「烏の伝説? 聞いたことがないね」
「一本足の大烏が、隠されてある宝の島へ、案内するという伝説だがね」
「で、誰が話したね?」
「土人司祭のバタチカンがね」
「いや僕は信じないね。……だって君そうじゃないか、一本足の烏なんてものはどこの国にだってありゃしないからね」
「ところがあったから面白いじゃないか、僕はこの眼で見たんだよ。僕はその烏に案内されて、島の表から裏側まで、つまり君の家へまで、やって行くことが出来たんだよ」
「なるほど」と日出夫は鹿爪《しかつめ》らしく、「ほんとに君が見たのなら、そうして僕が君のように、その烏を見ることが出来たら、そうしたら、伝説を信じよう」
 この言葉の終えないうちに、一羽の烏が林の中から二人の方へ翔《か》けて来たが、すぐ前面《まえ》の岩の上へ静かに止まって羽根を畳んだ。
「一本足の烏! 一本足の烏!」
 ジョンは飛び上がって叫び出した。見ればいかにもその烏は、一本の足しか持っていない。
「ああ本当に一本足だ!」
 日出夫も驚いて飛び上がった。
 と、烏は悠々とこの時岩から舞い上がったが、一つの大きな円を描き、それからいかににも緩《ゆる》やかに海の方へ翔け出した。
「ジョン君、僕は信じるよ! 君の話した伝説をね! さあアノ烏を追っ駈けよう!」
 そこで日出夫とジョン少年とは、纜《つな》いであった小舟に乗り、海上遙かに漕ぎ出した。
 風もない夏の海は、蒼く平らにトロリと澄んで、魚の影さえ透いて見える。
 烏は二人を誘《いざな》うかのように、時々こっちを振り返って見ては悠々翼を羽摶いた。そうして千切れるように時々啼いた。
 烏と舟とは空と海とで永い間競争した。二時間の余も競争した。
 その時、舟の行く手に当たって、例の浮き岩が見えて来た。
「日出夫君、日出夫君、浮き岩だよ」
 ジョン少年は注意した。
「ああ本当に浮き岩だね」
 日出夫は櫂《かい》の手を止めた。
 二つの浮き岩は唸りながら、互いに相手を憎むかのように、力任せに衝突《ぶつか》り合っていた。飛び散る泡沫《しぶき》は霧を作り、その霧の面《おもて》へ虹が立ち、その虹の端の一方は、陸地《くがち》の断崖《がけ》に懸かっていた。
 その陸地はチブロン島の南の側に当たっていた。
 その断崖は岩で畳まれ、諸所に欝蒼と大木が繁り、上りも下りも出来そうもないほど、険しい様子を備えていたが、しかしどことなく人工的であった。
 この人工的の断崖の下の、深い深い海上で浮き岩が衝突《ぶつか》り合っているのであった。
 ここまで翔けて来た一本足の烏は、この時にわかに千切れるように幾度も幾度も啼き声を立てたが、スーッと低く舞い下がって来た。おや! と思う暇もなく、断崖の裾まで下り切ると、フッと姿が消えてしまった。

        二十九

「やッしまった、烏が消えた!」ジョンは驚いて叫び声を上げた。
「まあ待ちたまえ、考えがある」
 日出夫少年は腕を組み何やらじっと考えこんだが、
「ねえ、ジョン君、こう思うのだよ、理由《わけ》なしに烏が消える筈がない。消えるには消えるだけの理由があろう。いや理由がなければならないとね」
「ああ、そうとも、理由がなければならない」
「で、僕は思うのだがね、あの断崖の裾の辺に、何か秘密があるのだろうとね」
「ああなるほど、そうかもしれないね」
「恐らく洞窟《ほらあな》でもあるのだろう」
「ああなるほど、そうかもしれないね」
「しかも普通の洞窟ではない」
「そんな事までは解らないよ」
「いや僕は断言してもいい。きっと普通の洞窟ではない。非常に価値《ねうち》のある洞窟だよ」
「どうしてそんな事云えるだろう?」
「云えるだけの理由があるからさ」
「僕にはちっともわからない」
「君は浮き岩をどう思うね」日出夫少年は真面目《まじめ》に云った。
「天工と思うかね? 人工と思うかね?」
「それはもちろん天工だろう」
「ところが、あいつ[#「あいつ」に傍点]は人工なのだ」
「どういうところから発見したね?」ジョン少年は不思議そうに訊いた。
「見たまえ、鎖《くさり》が見えるじゃないか」
 こう云いながら日出夫少年は、二つの岩に挟まれている蒼い水を指差した。
 なるほど、そう云えば鎖が見える。すっかり錆びて赤くなり、そこへ海草がまとっているので、一見岩と見紛うけれどもまさしく太い鎖であった。
「ああなるほど、太い鎖だ!」ジョン少年は感動した。
「鎖で繋いであるのだからこの浮き岩は人工だよ」日出夫はさらに説明した。「こんな大掛かりの浮き岩を人工で作ったというのは、決して冗談や好奇心《おもいつき》からではあるまい。きっと必要があったからさ」
「その解釈は胸に落ちるね」
「そこで僕はこう思うのだよ、人工の浮き岩を作ったのは、何かを防禦《ぼうぎょ》するためだとね」
「ははあなるほど、そうかもしれない」
「つまり、洞窟《ほらあな》が大事だからだ。洞窟に価値《ねうち》があるからだ。で、その洞窟へ泥棒どもを侵入させないそのために、浮き岩なる物が作られたのさ」
「そうだそうだ、それに違いない!」ジョン少年は手を拍った。
「では早速行って見ようや」
「よかろう」
 と云うと日出夫少年は、櫂《かい》へグイと力をこめた。
 随分危険ではあった。けれど冒険に慣れている二少年はそれでもとうとう断崖の裾へ、自分達の小舟を寄せることが出来た。
 はたして想像をした通りそこに洞窟の口があった。
 二人はすっかり元気付き、その口から舟を入れた。と二人の眼の前へ、狭い水路が現われた。水路は遠くまで続いていた。
 二人はズンズン舟を進めた。舟が進むに従って水路は次第に広くなり、やがて一つの湾へ出た。
 湾の円周五丁もあろうか、その中央と思われる辺に小さな島が浮き出ていた。
「やあ小《ちっ》ちゃい島があらあ」
「おやおや烏があんな所にいるよ」
 一本足の大烏が、島の頂の木の枝で、羽根を畳んで休んでいた。
 二少年は舟を出て、島の渚《なぎさ》へ下り立った。
 島は美しく可愛らしく周囲一町もなさそうであった。
「これが伝説の宝島だろう」
「そうだそれに違いない」
「大急ぎで宝を目付けようぜ」
「よしきた、目付けよう、競争だ!」
 そこで二人は走り廻った。
 日出夫少年は頂上を目がけ兎のように駈け上がった。そうしてそこで目付けたのは巨大な鉄の箱であった。腐蝕した穴から黄金の光が燦然《さんぜん》と彼の眼《まなこ》を射た。
「目付けた!」
 と彼は歓喜の声を湾一杯に響かせた。そうだ、彼は目付けたのであった。それこそ伝説に語られてある「チブロン島の宝庫」なのであった。
 そこで二人は舟へ乗り、急いで外海へ出ようとした。
「おや、あんな所に階段があるよ!」
 こう云いながらジョン少年は、湾をグルリと囲繞《とりま》いていた洞窟《ほらあな》の内壁を指差した。
 洞窟の内壁を上の方で斜めに階段が出来ていた。その上層は闇に鎖ざされほとんど見ることが出来なかった。
 好奇心の強い二少年がこれを見遁がす訳がない。二人は舟を岸へ着けると揃って階段を上へ登った。

        三十

 やがて二人は登り尽くし、不思議な神秘的な平原へ出た。蒼白い光が充ち満ちていた。丘もあれば林もあり、人家もあれば人声もした。
 これぞ地下の世界であった。
 眼の前にこんもり[#「こんもり」に傍点]とした森があり、一宇の神社が建っていた。
 活《い》き剣《つるぎ》を祀った社《やしろ》であった。
 と、忽ち松火《たいまつ》の火がこっちを目がけて走って来た。土人が二人を目付けたのであった。
「それ大変だ、逃げろ逃げろ!」
 二人は急いで引き返した。階段を下り湾岸へ出、小舟の中へ逃げ込んだ。
「ヨイショヨイショ、ヨイショヨイショ」
 二人は夢中で櫂を使った。

 二人の少年の報告を聞くと、一同は驚喜して躍り上がった。
 にわかに海軍が編成され、宝島征伐が行なわれた。
 地下人どもを平らげて、完全に宝島を占領するには、それでも二十日の日数がかかった。ようやく手に入れた宝庫の中には、大和節斎が洞察した通り、黄金の貨幣や高価な器具が今の金にして五億円余あった

 日英合同の植民地は、こうして益※[#二の字点、1-2-22]繁昌した。種々の設備が行なわれ、まことに暮らしよい土地となった。政治も円満に行なわれた。
 しかるにある日紋太夫は、こんな変なことを云い出した。
「俺は最近にお暇《いとま》するぜ」
「お暇ですって? 何のことです?」
 来島十平太が不思議そうに訊いた。
 しかし紋太夫はそれには答えず、
「首にさわっちゃいけないよ、首にさわっちゃいけないよ」
「ええええ、首になんかさわるものですか」
「ところで」紋太夫はまた云った。「人間の意志っていう奴は、実に生命《いのち》より強いものだね」
「ははあ、さようでございますかな」十平太は怪訝《けげん》そうに答えた。
「どうも近来首が痛い」
「それはどうも困りましたな」
「ナーニ、ちっとも困りゃしないよ。所期の目的はとげたんだからな」
「所期の目的とおっしゃると?」
「チブロン島の宝庫発見よ」
「それなら充分にとげられましたとも」
「で、首が痛くなったのさ」
「あなたの云うことは解らない」
「本来俺は住吉の浜で首を切られた人間だよ」
「…………」
「意志は強し! 生命《いのち》より強し!」
 彼は愉快そうに哄笑した。

 それから間もなくのことであったが、彼の首がポッカリ外れた。しかし一滴の血も出なかった。その切り口もスベスベしていた。
 その顔もひどく愉快そうであった。島中の同志達もついに悲しむのを忘れてしまった。こうして紋太夫は死んだけれど、彼の精神は残っていた。
「意志は強し、生命より強し」こういう言葉によって残っていた。

底本:「十二神貝十郎手柄話」国枝史郎伝奇文庫17、講談社
   1976(昭和51)年9月12日第1刷発行
初出:「中学世界」博文館
   1925(大正14)年1月~8月
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年3月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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国枝史郎

猿ヶ京片耳伝説—— 国枝史郎

    痛む耳

「耳が痛んでなりませぬ」
 と女は云って、掌《てのひら》で左の耳を抑えた。
 年増《としま》ではあるが美しいその武士の妻女は、地に据えられた駕籠の、たれ[#「たれ」に傍点]のかかげられた隙から顔を覗かせて、そう云ったのであった。
 もう一挺の駕籠が地に据えられてあり、それには、女の良人《おっと》らしい立派な武士が乗っていたが、
「こまったものだの。出来たら辛棒《しんぼう》おし。もう直《じき》だから」
 と、優しく云った。
「とても辛棒なりませぬ。痛んで痛んで、いまにも耳が千切れそうでございます」
 と女は、武士の妻としては仇《あだ》めきすぎて見える、細眉の、くくり頤の顔をしかめ、身悶えした。
「このまま沼田まで駕籠で揺られて参りましては、死にまする、死んでしまうでございましょう」
「莫迦《ばか》な、耳ぐらいで。……とはいえそう痛んではのう」
 と武士は、当惑したように云った。
 ここは、群馬の須川在、猿ヶ京であった。
 三国、大源太、仙ノ倉、万太郎の山々に四方を取り巻かれ、西川と赤谷《あかや》川との合流が眼の下を流れている盆地であった。
 文政二年三月下旬の、午後の陽《ひ》が滑らかに照っていて、山々谷々の木々を水銀のように輝かせ、岩にあたって飛沫《しぶき》をあげている谿水《たにみず》を、幽《かす》かな虹で飾っていた。散り初めた山桜が、時々渡る微風に連れて、駕籠の上へも人の肩へも降って来た。
「やむを得ない」
 と武士は云った。
「舅殿がお待ちかねではあろうが、そう耳が痛んでは、無理強いに行くもなるまい。……今夜一晩猿ヶ京の温泉宿《ゆやど》で泊まることにしよう」
「そうしていただきますれば……そこで一晩手あてしましたら、……明日はもう大丈夫」
 と女は云って、遙かの谿川の下流、山の中腹のあたりに、懸け作りのようになって建ててある温泉宿《ゆやど》、桔梗屋の方を見た。
「聞いたか」
 と武士は、駕籠の横の草の上へ腰をおろし、※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]み箱を膝の上へのせている、忠実らしい老僕へ云った。
「今夜はここの温泉宿へ泊まるのじゃ。そちも皺のばしが出来るぞ」
「有難いことで」
 と僕《しもべ》は云った。
「越後の長岡から三国を越しての旅、おいぼれの私には難渋でございましたが、一晩でも湯治が出来ましたら元気が出ることでございましょう」
 猿ヶ京と云われているだけにこの辺には猿が多く、それが木の枝や藪の蔭などから、この人たちを眺めていた。丘をへだてた竹叢《たけむら》のほとりから、老鶯《ろうおう》の啼《な》き音《ね》が聞こえて来た。
「痛い! ま、どうしてこう痛むのだろう!」
 女は駕籠の中で突っ伏した。
「駕籠屋、桔梗屋へやれ」
 と武士は、あわてたように云った。

 お蘭は、月を越すと、相思の仲の、渋川宿の旅舎《はたごや》、布施屋の長男、進一のもとへ輿入ることになっていた。今夜も彼女は新婚の日の楽しさを胸に描きながら、帳場格子の中で帳面を調べている父親の横へ坐り、縫い物の針を動かしていた。結《ゆ》い立ての島田が、行燈の灯に艶々しく光り、くくり頤の愛くるしい顔には、幸福そうな微笑さえ浮かんでいた。
 土間をへだてた表戸はもう下ろされていたが、昼の間に吹き込んで来た桜の花が、敷居の下に残っていて、長い薄白い雪の筋かのように見えていた。
「こんな気の毒な男があるのですよ」
 という声が聞こえた時、両耳の辺ばかりにわずかの髪をのこしている、お父親《とう》さんの禿《はげ》た頭が上がり、声の来た方へ向いたので、お蘭もそっちへ顔を向けた。
 猿ヶ京にたった一軒だけ立っている湯宿、この桔梗屋は、百年以上を経た旧家だといわれていたが、それはこの店の間の板敷が、黒檀のように黒く艶を出しているのでも頷《うなず》かれた。
 板敷には囲炉裡が切ってあり、自在鉤にかけられてある薬罐《やかん》からは、湯気が立っていた。炉を囲んでいるのは五人の湯治客で、茶を飲み飲みさっきから話しているのであった。
「こんな気の毒な男があるのですよ」
 と云ったのは、その中の、絹商人だという三十八、九の、顔に薄菊石《うすあばた》のある男であった。
「お侍さんですがね、若い頃に、あるお屋敷へ、若党として住み込んだそうで。ところがそこに、若い綺麗なお嬢様がおありなされたが、同藩のお奉行様のご子息と婚約が出来、いよいよ行かれることになったそうで。婚礼の晴着姿で駕籠に乗られた時の美しさにはその若党も恍惚《うっとり》としたそうです。ところがどうでしょう、向こうのお屋敷で、今頃は高砂《たかさご》をうたっておられるだろうと思われる時刻に、そのお嬢様が一人で帰って来られ、若党へ、これからすぐ妾と一緒に行っておくれとおっしゃったそうで。どこへと若党が驚いて訊くと、いいから妾と一緒においでと云うのだそうです。そこで若党は夢中のありさまで従《つ》いて行ったところ、お嬢様は途中で駕籠をやとい、山越しをして某《なにがし》という湯治場へ行かれ、そこで一夜をその若党と明かされたそうですが、もちろん二人の仲には何事も……」
「へえ、そいつは感心ですねえ。……それにしてもどうして婚礼の席から?」

    片耳を切られて

 こう口を出したのは、越中の薬売りだという三十一、二の小柄の男であった。
「まアお聞きなさい。……お嬢様は、良人《おっと》になる奉行の息子というのが、兎口《みつくち》の醜男《ぶおとこ》なので嫌いぬいていたんですが、親と親との約束なのでどうにもならず、それで婚礼の席へは出たものの、今夜からこの男と……と思ったらいても立ってもいられず……そこでその席から逃げ出し……若党をつれて湯治場へ遁《の》がれ……」
「婚礼の当夜ではあり、若い若党と、そんな温泉宿《ゆやど》で、二人だけで泊まったのに、何んでもなかったとは偉いですなあ」
 と云ったのは、同じ越中の薬売りであった。
「だが人は信じますまいよ」
「そうなのです」
 と、絹商人は話をつづけた。
「お嬢様の父親というのがまず信じなかったそうで……」
「どうしました?」
「主家の娘を誘惑し、連れ出し、傷者にした不届きの若党というので……」
「どうしました?」
「打ち首……」
「へえ」
「というところを、片耳を剃いで、抛《ほう》りだしたそうで」
「ひどいことをしやがる。娘がそいつを止めないという法はない」
「そうですとも」
「それから娘はどうしました?」
「翌年、他藩の重役のご子息のもとへ、めでたく輿入れなされたそうで」
「結構なことで、フン!」
「結構でないのは若党――お侍さんで、ガラリと性質が変わりましたそうで」
「変わりましょうなア」
「それからは女という女を憎むようになったそうです」
「あっしだって憎みますよ」
 と、口を出したのは、八木原宿の葉茶屋の亭主だという、四十がらみの男であった。
「あっしばかりじゃアない、誰だって憎むでしょうよ。……ねえご主人、そうじゃアありませんか」
 こう云うと葉茶屋の亭主だという男は、桔梗屋の主人の方へ顔を向けた。
 桔梗屋の主人の佐五衛門は、持っていた筆を、ヒョイと耳へ※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]んだが、帳場格子へ、うっかり額を打ち付けそうに頷き、
「ごもっともさまで、女出入りで、そんな酷《ひど》い目にあわされましたら、誰だって女を憎むようになりますとも」
「若党っていう男に、同情だってするでしょうねえ」
 とまた口を出したのは、左官の親方だという触れ込みの、三十四、五の男であった。
「さようですとも、その気の毒な若党殿には、私ばかりか、誰だって同情するでございましょうよ」
 と、佐五衛門はまた頷いてみせた。
「ところで、その若党――お侍さんが、どんな塩梅《あんばい》に女を憎んだかってこと、お話ししましょうかね」
 と、絹商人は、話のつづきを話し出した。
「そのことがあってからというもの、そのお侍さんは、生活《たつき》の途《みち》を失い……そりゃアそうでしょうよ、片耳ないような人間を、誰だって使う者はおりませんからねえ。……ウロウロと諸地方を彷徨《さまよ》いましたそうで。……木曽街道を彷徨《さまよ》っていた時のことだといいますが、板橋宿外れの葉茶屋へ寄って、昼食をしたためたそうで。すると側《そば》に、二十一、二ぐらいの仇めいた道中姿の女がいて、これも飯を食べていたそうで。いざお勘定となると、百文の勘定に、何んと女は小判を出して、これで取ってくれといったそうで。ところが、そんな葉茶屋ですから釣銭がない。それで女にそういうと、女は当惑したような顔をしいしい、妾にも小銭はないと云い、ヒョイとそのお侍さんの方へ向き、
『申し兼ねますがお立て替えを』
『よろしゅうござる』
 とお侍さんは何んと感心にも、乏しい懐中《ふところ》の中から金を立て替えてやり、それを縁に連れ立って歩き、日の暮れに上尾宿まで参りましたところ、女の姿が見えなくなったそうで。
『はぐれた筈もないが』
 と不思議に思いながらその宿の安宿へ泊まり、翌朝発足して熊谷宿まで行くと、棒端《ぼうはな》の葉茶屋にその女がいたそうで。そこでお侍さんも寄って茶を飲み、女と話したそうですが、いざお勘定となると同じことが行われたそうで。……女が小判を出す、葉茶屋には釣銭がない。
『申し兼ねますがお立て替えを』
『よろしゅうござる』
 ……こうしてそこを出、野道へさしかかった時、お侍さんが開き直り、
『拙者立て替えた銭お払いなされ」
 ……すると女はさもさも軽蔑したように、
『あればかりの小銭《こぜに》……』
 ――とたんにお侍さんは女を斬《き》り仆《たお》し……いや、峰打ちで気絶するまで叩き倒したそうで」
「なるほど」
「お侍さんの心持ちはこうだったそうで『弱いを看板に、女が男をたぶらかし[#「たぶらかし」に傍点]たとあっては許されぬ』と……」
「こりゃアもっともだ」
 と云ったのは、易者《うらない》だという触れ込みの、総髪の男であったが、
「ご主人、何んと思われるかな?」
 と、佐五衛門の方を見た。
 佐五衛門は、少し当惑したような表情をしたが、
「さようで。女が男をたぶらかす[#「たぶらかす」に傍点]ということ、こいつアよろしくございませんなあ。……重ね重ね、そのお侍さんはご不運で」
 薪《まき》が刎《は》ねて炉の火がパッと焔《ほのお》を立てた。
 湯治客たちは一斉に胸を反《そ》らせたが、五人が五人ながらたがいに顔を見合わせた。

    大盗になった理由

(厭な話だこと)
 とお蘭は思った。
(男も男だけれど、女の方が悪いわ……)
 この囲炉裡側《いろりばた》へは、毎夜のように客が集まって来て、無聊なままに世間話をした。それを聞くのを楽しいものにして、お蘭も、毎夜のようにここへ来て、お母親《かあ》さんが早く死去《なくな》り、お父親《とう》さん一人きりになっている、その大切なお父親《とう》さんの側に坐り込み、耳を澄ますのを習慣としていた。
 しかし十七歳の、それも一月後には嫁入ろうとする処女《きむすめ》にとっては、今の「女を憎む男の話」は嬉しいものではなかった。
(わたし行って寝ようかしら)
「ところが、そのお侍さんは気の毒にも、女のためばかりでなく、金のために、とうとう半生を誤りましてねえ」
 と、絹商人だという男が話し出したので、お蘭は、つい、また聞き耳を立てた。
「その後、そのお侍さんは、いよいよ零落し、下谷のひどい裏長屋に住むようになられたそうです。ところがその長屋の大屋さんですがちょっとした物持ちでしてな、因業《いんごう》だったので憎まれていましたが、大屋のうえに金持ちなので歯が立たず、店子《たなこ》たちは歯ぎしりしながらも追従《ついしょう》していたそうです。ところがある晩、祝い事があるというので、この大屋さん、店子一同を自宅《うち》へ招待《よ》んでご馳走したそうで。とそこへ新鋳《しんぶき》の小判十枚が届けられて来たそうです。ナーニ、その小判の自慢をしたかったので大屋の禿頭《はげあたま》、店子たちを招待《よ》んだんで。さて自慢をしたはいいが、ご馳走が終ってみんな帰った後で、小判を調べてみると、一枚不足しているんで。盗られた! と思ったとたんに自分と一番近く並んでいた貧乏なお侍さんの、物欲しそうだった顔が眼に浮かんで来たそうで。そこで『盗んだなアあいつだ』と云いふらしたそうで。これが長屋中の評判になったんですねえ。お侍さんはとうとう居たたまらずに長屋を出たそうですが、出る際黙って小判一枚を大屋さんの門口から抛りこんだそうで。『やっぱりあいつがやったんだわい』と大屋さんはまたこのことを云いふらしたそうですが、その実お侍さんは、大事な刀を売りはらって、その金で償《つぐな》ったのだそうです。ところがどうでしょうその年の大晦日《おおみそか》になって、煤払いをしたところ、なくなったと思った新鋳《しんぶき》の小判が畳の下から出て来たそうで。さあさすがの大屋さんも参りましたねえ。『あのお侍さんにあやまらなければならねえ』とその行方《ゆくえ》をさがしましたが、行方がわからない。当惑しながら日を送り、三月になるとお花見、向島《むこうじま》へお花見に行ったところ、そのお侍さんが花の下で、謡《うたい》をうたって合力を乞うていたそうで。そこで大屋の禿頭、オズオズ寄って行って、事情を話して小判を返そうとすると『エイ!』という鋭い声で。見れば大屋の首が堤の上に、ころがっていたそうで。というところへ行きたいんですが、やはり峰打ちで叩き倒したんだそうで。……しかし、それからが大変で『金がなければこそこの恥辱を受ける』とそのお侍さん、その晩大屋さんの家へ強盗《おしこみ》にはいって、大金を奪いとったのを手始めに、大泥棒になったそうです」

    風呂の中の人形

「泥棒に!」
 と、脅《おび》えたような声で云ったのは佐五衛門であった。でも、すぐに幾度も頷き、
「無理はない。次から次と、ひどい目にあわされれば、どんな人間だろうと……」
「おおご主人もそうお思いか」
 と、云ったは、易者《うらない》という触れ込みの男であったが、
「それで安心」
 と口を辷らせたように云い継ぎ、ハッとしたように、急に黙ってしまった。この時深い谷の方から鋭い笛の音が一声聞こえて来た。
「何んだろう」
 と云ったのは、佐五衛門であった。
「季節《しゅん》違いだから鹿笛じゃアなし。……呼笛《よびこ》かな」
 首をかしげ、眉と眉との間へ皺をたたんだ。
 お蘭は立ち上がった。
「どこへ行くんだえ」
「お湯へはいって、それから寝るの」
「こんな晩は早く寝た方がいいなア」
 五人の湯治客も、今の笛の音に不審を起こしたらしく、黙って顔を見合わせ、耳を澄ました。

 お蘭は湯に浸《つ》かりながら空想にふけっていた。
(あたしは男に憎まれたり、大事な男の心を、女を憎むようなひねくれた心になんかしやしない)
 そんなことを空想していた。大事な男というのは、一ヵ月先になると自分の良人《おっと》となるべき、布施屋《ふせや》の息子のことであった。
(進一さんだって、わずかな金――小判一枚のゆきちがい[#「ゆきちがい」に傍点]ぐらいで、人を叩き倒すような兇暴《あら》い性質《たち》の人じゃアないから安心だわ)
 彼女にはさっきの湯治客の話が、やはり心にかかっているのであった。
 この湯殿は主屋《おもや》と離れてたててあり、そうして主屋よりひくくたててあった。それで二十段もある階段が斜《はす》に上にかかって、その行き詰まりの所に出入り口があり、そこに古びた長方形の行燈がかけてあった。それでこの十坪ぐらいしかない湯殿は、ほんのぼんやりとしか明るくなかった。湯槽《ゆぶね》の広さは三坪ぐらいでもあろうか、だから高い階段の一番上に立って、湯に浸かっているお蘭を見下ろしたなら、薄黄色い行燈の光と、灰色の湯気とに包まれた、可愛らしい小さい裸体《はだか》の人形が、行水でも使っているように見えたことだろう。明礬質《みょうばんしつ》のこの温泉《いでゆ》は、清水以上に玲瓏としていて、入浴《はい》っている人の体を美しく見せた。胸が豊かで、膝から下の足が素直に延びているお蘭の体は、湯から出ている胸から上は瑪瑙色《めのういろ》に映《は》えていたが、胸から下は、白蝋《はくろう》のように蒼いまでに白く見えていた。お蘭は時々唇をとんがらせ、顔を上向け、眼の辺へかかって来る、絹糸のような湯気を吹き散らした。フーッと音を立てて吹くのであった。その動作は、罪のない子供の、屈托のない動作そのものであった。
 フーッとまた吹いた。そうして笑った。
 と、その時|背後《うしろ》の方で物音がした。お蘭は振り返って見た。頬冠りをした一人の男が、階段の下に、行燈の光を背にして立っていた。
「まあ」
 とお蘭は云った。
「それ妾の着物よ。どうするのさ」
 男女混浴の湯殿へ、男がはいって来るに不思議はなかったが、その男が、衣裳棚の中へ脱ぎ入れてあったお蘭の着物を抱えていたので、そう云ったのであった。男は着物を棚の中へ返した。
「お湯へはいったらどう」
 とお蘭は云った。
「お客様ね、何番さん?」
 しかし男は返辞をしないで、暗い頬冠りの中から刺すような眼でお蘭を見詰めた。
「おかしな人ね。……何番さんだったかしら? ……お湯へおはいりなさいよ」
 そういうとお蘭は、背中を湯面《ゆおもて》へ浮かせ、蛙泳《かわずおよ》ぎをして湯槽《ゆぶね》の向こう側へ泳いで行き、振り返るとぼんのくぼ[#「ぼんのくぼ」に傍点]を湯槽の縁へかけ、フーッと、唇をとんがらかして湯気を吹き、男と向かい合った。
「おかしな人ね、棒ッ杭のように突っ立ってるってことないわ。……わかった、あんた恥ずかしがり屋さんね、女の子と一緒にお湯へはいるの恥ずかしいのね。……大丈夫、あたしかまやア[#「かまやア」に傍点]しないことよ。……おはいりなさいよ。フーッ」
「はいってもいいかい」
 と男ははじめて云った。その声は深みのある、また濁りのある、聞く人の心をゾッとさせるようなところのある声であった。しかも四辺《あたり》を憚るように、押し殺した声であった。

    怪しの男

 でもお蘭にはそんなことは気が付かないらしく、
「どうしたって変な人ね、湯治に来たくせに、湯へはいっていいかいなんて。……おはいりなさいよ」
「じゃアはいろう」
 男は湯槽《ゆぶね》の中へ下りて来た。すぐ沈んだ。
「湯の中へ頬冠りしたままではいるなんてことないわ。おとりなさいよ」
「取らねえ方がいいようだ」
「何故よ」
「恐がるといけねえ」
「誰がよ」
「娘っ子が」
「あたし? フーッ。……湯屋の娘が男の顔見て恐がっていたのでは商売にならないわ。フーッ。明日は雨よ、今夜のお湯とても湯気が濃いんだもの。匂いだって強いし。……こうと、あんたきっと猟師《かりゅうど》さんね」
「猟師?」
 と男は吃驚《びっく》りし、
「何故だい?」
「いい体しているもの。……骨太で、肉附きがよくて、肩幅が広くて……」
「猟師じゃアねえ」
「じゃア樵夫《きこり》さんね」
「樵夫だって」
 吃驚りして、
「違う」
「そう」
「お前さん何んていう名だい?」
 と今度は男が訊いた。
「お蘭ちゃん」
「ふうん。そのお蘭ちゃん幾歳《いくつ》だい?」
「十七」
「年頃だ」
「そうよ。だから妾《わたし》来月お嫁に行くんだわ」
「どこへ?」
「進一さんの所へ」
「親しそうに云うなア。以前《まえ》から知ってる男かい?」
「幼な馴染なの」
「お前さんを可愛がっているかい?」
「雪弾丸《ゆきだま》投げつけてよく泣かせたわ」
「ひどい野郎だな」
「あたしの泣き顔が可愛いのでそれが見たかったんだって」
「負けた」
 と男ははじめて笑った。好意ある笑い方だった。
 この時、また鋭い笛の音が谷の方から聞こえて来た。と、それに答えて、山の方からも同じような笛の音が聞こえて来た。
「チェ」
 と男は舌打ちをした。
「取巻きゃアがったな」
「何よ?」
 とお蘭は聞き咎めた。
「取巻いたって?」
「猛々《たけだけ》しいケダモノを取巻いたというのさ」
「猪? ……だって、季節《しゅん》じゃアないわ」
「猪よりもっと恐ろしいケダモノだ」
「何んだろう?」
「邪悪――そうだ、女をとりわけ憎んだっけ。……強盗《おしこみ》、放火《ひつけ》、殺人《ひとごろし》、ありとあらゆる悪業を働いた野郎だ」
「じゃア『三国峠の権《ごん》』のような奴ね」
「知ってるのか?」
「三国峠の権の悪漢《わるもの》だってこと、誰だって知ってるわ。でも、その権、ご領主様に捕えられたじゃアないの」
「うん、沼田のお城下で、土岐様の手に捕えられたよ」
「お牢屋へ入れられたっていうじゃないの」
「その牢を破ったんだ」
「まア。いつ?」
「昨夜《ゆうべ》」
「まア」
「そいつがこの土地へ逃げ込んだらしい」
「どうして解るの?」
「捕り手がこの家《うち》を取巻いたからさ」
「じゃアこの家の中に?」
「うん。……恐いか!」
「恐いわ」
「だから俺はさっき恐かアないかと云ったんだ! 俺が権だ!」
 ヌーッと男は、湯から、巨大《おおき》な柱でも抜き上げたように立ち上がった。
「フーッ」
 とお蘭は湯気を吹いた。
「あたし思いあたったわ、あんたきっと役者ね」
「何んだって?」
「あんたきっと旅役者だわ」
「…………」
「とても芝居うまいものね」
 男は湯の中へ沈んでしまった。

    三国峠の権

「そうかい、俺を役者だというのかい」
 と男は溜息をしながら云った。頬冠りの顔は俯向いて、湯の面《おもて》に見入っていた。
「三国峠の権の真似《まね》上手だものね。お役者さんよ」
「どうして物真似だってこと解るんだい?」
「そりゃア眼力《め》だわ。……あたし客商売の温泉宿《ゆやど》の娘でしょう。ですから、悪い人かいい人か、贋物か本物かってこと一眼見ればわかるわ」
「なるほどなア、それで俺《おい》らを……」
「いい人だと睨んだのよ。だってそうでしょう、女と一緒にお風呂にはいるの恥ずかしがったり、顔見られるの恥ずかしがって、頬冠り取らなかったりするあなたですものね。恥ずかしがり屋に悪人ってものないわ」
「恥ずかしがり屋に悪人はないとも。……だが俺《おい》ら恥ずかしがり屋かなア」
「あたしの眼に狂いないわ」
「それならいいが」
「フーッ。狂いないわ」
「俺《おい》らア初めてだ」
 と男はしみじみとした声で云った。
「冒頭《のっけ》から善人だと女に云われ、何んの疑がいもなくぶつかって[#「ぶつかって」に傍点]来られたなア、今夜のお蘭ちゃんが初めてだ。……礼云うぜ」
 烈しい呼笛《よびこ》の音がこの温泉宿《ゆやど》の表と裏とから聞こえ、遙かに離れている主屋の方から、大勢の者の詈しり声や悲鳴や、雨戸や障子の仆れる音が聞こえて来た。
「捕手《いぬ》どもとうとう猟立《かりた》てに来やがったな! ようし!」
 こう云った時にはもう男は湯槽から躍り上がっていた。
「おいお蘭ちゃん、済まないがお前の着物貰って行くぜ、……着物どころかお前の体も貰うつもりだったが、裸身《はだか》で――そうよ、心も体も綺麗な裸身でぶつかって来られたので、俺らにゃア手が出せなかった。……お前のためにも幸福《しあわせ》だったろうが、俺らにも幸福だった。将来《これから》は俺らは女だけは。……それもお前のおかげで女の観方《みかた》変わったからよ。世間にゃお蘭ちゃんのような女もあると思やアなア。……それにしても、俺らに最初《はな》にぶつかって[#「ぶつかって」に傍点]来た女が、お前のような女だったら、俺らこんな身の上にゃアならなかったんだが……」
 頬冠りを取り、手拭いで体を拭き拭き、
「それにしても進一さんて人は幸福《しあわせ》だなア、お蘭ちゃんのような可愛らしい人を嫁さんにするなんて。……おいお蘭ちゃん、俺らお前さんに餞別《はなむけ》するぜ。どうかまア今のような綺麗な裸体《はだか》の心で、進一さんに尽くしてくんなと。……男なんてもなア女のやり方一つで、どうにでもなるんだからなあ」
 男は手早くお蘭の着物を纒《まと》った。
「アッハッハッ、この風で捕手《いぬ》どもの眼を眩《くらま》しとっ[#「とっ」に傍点]走るのよ! ……おかげで湯にもはいれた。……心と一緒に体も綺麗になったってものさ」
 お蘭は驚愕した大きな眼で男の顔を見詰め、
「あ、あんたの耳! ないわないわ、一つしかないわ!」
 男はこの時もう階段を上がっていたが、振り返ると云った。
「三国峠の権は片耳なのだよ」

 三国峠の権が女装をし頬冠りをして湯殿から飛び出し、廊下づたいに主屋の方へ走り出した時には、沼田藩の捕り手たち数十人が、この温泉宿《ゆやど》へ混み入って、部屋部屋を探し廻っていた。上野《こうずけ》、下野《しもつけ》、武蔵《むさし》、常陸《ひたち》、安房《あわ》、上総《かずさ》、下総《しもうさ》、相模《さがみ》と股にかけ、ある時は一人で、ある時は数十人の眷属《けんぞく》と共に、強盗《おしこみ》、放火《ひつけ》、殺人《ひとごろし》の兇行を演じて来た、武士あがりのこの大盗が、破牢して逃げたということだけでも、沼田藩は、捕り手組子を押し出して捕縛に大わらわにならなければならないのであったが、そればかりでなく、三国峠の権は、破牢するとその夜、藩の蔵奉行五百枝将左衛門の屋敷へ押し入り、主人将左衛門の片耳を切り落とし、「汝の娘、松乃《まつの》の嫁入り先、長岡の牧野家の槍奉行、坂田方へ押し入り、松乃の片耳を切り取るぞよ」と威嚇して立ち去ったのであった。一藩が震駭《しんがい》し、数十人の捕り手を繰り出し、逃げ込み先の猿ヶ京の温泉《いでゆ》をおっとり囲んだのは当然といえよう。
 権は今廊下を走って行く。と、行く手に四、五人の捕り方が現われた。権は素早く廊下添いの部屋の襖を開けて飛び込んだ。
「それ」
 と捕り方たちは走って来た。襖をあけて覗くと、若い女が俯伏しに寝て、両袖で顔をかくしていた。
「女だ」
「恐いことはないぞ。アッハッハ」
 と、捕り方たちは走り去った。権はしばらくじっ[#「じっ」に傍点]としていたが、やがて起き上がると廊下へ出、主屋の方へ小走り出した。廊下が丁字形になっている所へ来た。左へ曲がったとたん、二人の捕り方にぶつ[#「ぶつ」に傍点]かった。顔を見られた。

    懺悔の妻

「曲者!」
 と一人の捕り方が正面から組付いて来た。
「わッ」
 と捕り方は悲鳴をあげて仆れた。脇腹から血が流れ出ている。
「汝《おのれ》!」
 ともう一人の捕り方が横から躍りかかった。権の匕首《あいくち》が捕り方の咽喉へ飛んだ。権は、仆れてノタウチ廻る捕り方を見すてて走った。
「お頭《かしら》アーッ」
 と呼ぶ声がした。行く手の降り口から、囲炉裡|側《ばた》で、片耳のない武士の話をしていた絹商人が、顔を出していた。
「七五郎か、他の奴らは?」
「さっきまで囲炉裡側で、五人揃って、お頭のおいでになるのを待っていましたが、捕方《いぬ》どもが飛び込んで参りましたのでチリヂリバラバラ、この家のあちこちに……」
「集めなけりゃアならねえ。……一つに集まって三国を越して越後境いへ!」

 主屋と離れ、崖の中腹に、懸け作りになっている別館《はなれ》が一棟、桜や椿や朴《ほお》の木に囲まれ、寂然として立っていた。主屋と別館《はなれ》とをつないでいるものは、屋根を持っている渡り廊下で、真珠のような月の光が、木の間を洩れて廊の欄干へ、光の斑を置いていた。別館の一間に寝ているのは、耳を病んでいる松乃であった。枕もとには水を張った小桶が置いてあり、その横には良人《おっと》の内記《ないき》が、心配そうにして坐っていた。
 この優しい親切な良人は、寝もしないで妻の介抱をしているのであった。
「だんだん騒ぎが烈しくなるが、何んだろう?」
 長岡藩の槍奉行、坂田内蔵之丞の総領内記は、妻が眠るようにと、わざと燈を細めた行燈を無心に見詰め、耳をかしげながら呟いた。
 松乃は、痛む左の耳を上にし、反対の頬を枕にうずめ、夜具の襟から、蒼白の顔を覗かせ、眼を閉じていた。さっき、鋭い呼笛《よびこ》の音《ね》がし、つづいて主屋の方から、悲鳴や、襖、障子を蹴ひらく音や、走り廻る音が聞こえて来、僕《しもべ》の三平|翁《じいや》が、あわただしく様子を見に行ったがまだ帰って来ない。――これらのことも心にかかっていたが、しかし彼女には、もっと心にかかることがあった。
 それは、この部屋そのものであった。
 彼女がまだ娘であった頃、同藩――沼田藩の槍奉行、斉藤源太夫の息子源之進と結婚することになり、婚礼の席へ臨んだ。ところが源之進が余りの醜男《ぶおとこ》なのに厭気がさし(長いこれからの浮世を、こんな男と一緒にくらさなければならないとは。厭だ厭だ)と思い詰め、生《き》一本の娘の、前後《あとさき》見ない感情からその席を遁《の》がれ、実家へ逃げ帰り、居合わせた若党の井口権之介というのを連れ、夢中で家出し、駕籠で山越えをし、この猿ヶ京の、この桔梗屋の、この別館《はなれ》の、この部屋で一夜を明かしたが……
(その因縁の部屋へ泊まるとは)
 松乃は眼を開き、いまさらに部屋の中を見廻した。辺鄙《へんぴ》の山の温泉《ゆ》の宿は、部屋の造作《つくり》も装飾《かざり》も以前《むかし》と変わらなかった。天井の雨漏りの跡さえそのままであった。
(主家の娘を誘惑《そそのか》したというかどで、権之介は、お父様に片耳を剃がれて放逐されたが、その後どうしたことやら。……噂によれば、身を持ち崩したあげく、恐ろしい大賊になったということだが……三国峠の権という大賊に。……それもこれも元はといえば妾《わたし》の不注意から。……あの人には罪はなかったのだ)
「痛い!」
 と松乃は思わず悲鳴をあげた。耳の痛みが烈しくなったからである。
 実父《ちち》の将左衛門から、久しく逢わないから逢いたい、婿殿ともども逢いに来るようにと伝言《ことづて》があった。そこで松乃は良人と一緒に里帰りの旅へ出たのであったが、昨夜、浅貝《あさかい》の旅宿《やどり》あたりから耳が痛み出し、次第に烈しくなって来た。今は堪えられないほどに痛むのであった。
(片耳を切られた権之介の怨み! それで妾の耳が!)
 こんなことも思われた。
(恐ろしい因縁の部屋で、痛む耳の手あてをするとは)
 ゾッとするような思いもした。
 そっと良人を見た。妻の過去の過失など知らないで、ただただ松乃を愛している内記は、気づかわしそうに妻の顔を見詰め、
「痛むか、困ったのう。この辺には医者はなし……」
 と云った。
 主屋の方でのけたたましい物音は、いよいよ烈しくなった。
 と、渡り廊下をこっちへ走って来る足音がした。
 内記は思わず刀を引きつけた。
 あわただしく襖をあけて走り込んで来たのは僕《しもべ》の三平であったが、
「大変でございます。お捕り物で! ……昨夜、沼田様のお牢を破りました三国峠の権という大泥棒が……」
「あッ」
 と松乃は起き上がった。
「三国峠の権が?」
「はい。……破牢したばかりか、……奥様、旦那様、決してお驚きなさいますな、……それに致しても何んと申してよいやら……その権という泥棒、奥様の実家《おさと》、五百枝様のお屋敷へ忍び入り、将左衛門様の片耳を切り取り……」
「あッ」
 と松乃は立ち上がった。
「お父様の片耳を! ……権が!」
「はい。……そうしてここへ、この猿ヶ京へ逃げ込みましたそうで。……それで沼田様からお捕り方が出……」
「権! 権之介よ! ……無理はない、さあ妾の耳も切っておくれ! ……みんな妾が悪かったからじゃ! ……切って怨みを晴らしておくれ! ……おお痛む! 痛む痛む耳! いっそ切られた方が! ……あげまする、この耳あげまする! 権よ権よ切っておくれ! ……昨夜から痛む訳じゃ! お父様がお切られなされたのじゃもの! ……同じ時刻から痛み出した耳! ……親の苦痛が娘へ伝わったのじゃ! ……それもこれも権の怨み! ……権よ、さあこの耳を切っておくれ!」
 松乃は廊下へ走り出た。

    救われた命、助かった心

 これより少し以前《まえ》のことであるが、桔梗屋の主人《あるじ》佐五衛門は、行燈を提げ、帳場の辺をウロウロしていた。
(娘は?)
 とこのことばかりを思っていた。
(どこへ行ったろう? 何をしているのだ! こんな時に、こんな物騒な時に!)
 廊下の方から、部屋部屋から、二階からも階下《した》からも、足音、悲鳴、呶声、罵しり声、物を投げる音、襖障子を開閉《あけたて》する音が、凄まじく聞こえて来た。
 ――五人の湯治客が囲炉裡|側《ばた》で、片耳のない武士の話をしていると、表戸を蹴開き十数人の捕り方が混み入り「三国峠の権という盗賊この家に潜みおる、縛《から》め取るぞ」と叫び家探しにとりかかった。裏口からも捕り方は侵入したらしく、その方からも足音や呶声が聞こえて来た。
 それはほんの寸刻前《いましがた》のことで、今はもうこの店の間には、捕り方も湯治客もいなかった。捕り方は奥へ走り込み、湯治客たちは散々《ちりぢり》に逃げたからであった。
「娘は?」
 暴風《あらし》の吹いた後のように、帳場格子は折れ、硯箱はひっくりかえり、薬罐は灰神楽《はいかぐら》をあげている店の間を、グルグル廻りながら(娘は?)と佐五衛門は、そのことばかりを思った。
(あッ、風呂へはいりに行ったっけ!)
 やっと思い出した。そこで行燈を抛《ほう》り出し、廊下の方へ走り出した。
「お父様アーッ」
 と、お蘭が、その廊下から駆け込んで来た。
「お蘭が! わッ、その風《ふう》は!」
 お蘭は、男の着物、それも襤褸《ぼろ》のような着物を纒っていた。
「これ、権の着物よ、三国峠の権の……」
「権の? じやア手前、……」
「逢ったの、権と。……風呂で……」
「ヒエーッ、それじゃア手前、体を、権に! ヒエーッ、嫁入り前の体を!」
「何云ってるのよ。権、いい人だわ、恥ずかしがり屋だわ。悪人じゃアないわ。妾の眼に狂いはないわ! ……助けてやらなけりゃア! 捕られちゃア可哀そうよ」
「手エ付けなかったと? お前へ!」
(本当だろうか?)
(本当ならどんなに有難いことか!)
 と思う心の裏に、そんなことのあろう筈がないという不安が、すぐに湧いて来た。
(兇悪で通っている三国峠の権が、若い娘と、人のいない風呂で……)
 ムラムラと疑惑が募るのであった。
 でも、彼は、娘が、ひたむきに権を助けようとして焦心《あせ》るばかりで、権に対し、怒りも悲しみも怨みもしていない様子を見ると、やはり権が、自分の娘へ毒牙を加えなかったことを、認めるより仕方がなかった。
(好きな許婚《いいなずけ》の進一と、一月先になると、夫婦《いっしょ》になることになっている娘だ、それが泥棒に……そんなことをされようものなら、泣き喚き怨み憤るは愚か、突き詰めた心で、首を絞《くく》るぐらいのことはやるだろう。それだのにどうだお蘭は、泥棒の権を助けようとして夢中になっている。……とすると権は、やっぱり、ほんとうに、お蘭に手をつけなかったんだ!)[#「なかったんだ!)」は底本では「なかったんだ!」]
「偉えぞ権!」
 と、佐五衛門は、嬉しさと、感謝と、神々しい奇蹟にでも遭遇《ぶつかっ》たような心持ちとで、思わず喚き出した。
「悪人じゃアねえとも、権! 悪人どころか、神様みたいな男だ!」
「竹法螺《たけぼら》を、お父さん、竹法螺を!」
「吹くか、いいとも、竹法螺吹いて、捕り方の奴らを!」
 柱にかけてあった竹法螺を佐五衛門はひっ[#「ひっ」に傍点]外した。
「妾が吹く、妾が!」
 と、お蘭は、父親から竹法螺をひったくる[#「ひったくる」に傍点]と、蹴放されたままで、月光を射し込ませている表戸の開間《あきま》から、戸外《そと》へ走り出た。
 その後を追って佐五衛門も走った。
 と、その時、捕り方の叫ぶ声が聞こえて来た。
「方々、ご用心なされ、三国峠の権の手下五人が、この湯宿に、権めを待ち迎えおるということでござるぞ!」
(あッ)
 と佐五衛門は、それを聞くと、思わず口の中で叫んだ。そうして思った。
(そうか、これで解った、炉端に集まっていた五人の湯治客、三国峠の権の手下だったんだ。あいつらの話した話は――片耳を切られた武士《さむらい》の話は、権の過去の出来事だったんだ。ああいう話を俺《おい》らに聞かせておいて、こんな場合に、味方になってくれと謎をかけたんだ。それに違えねえ。……つづけざまにあんな目に逢わされりゃア誰だって悪党にならア。……三国峠の権、根は善人とも!)

 谷の方から竹法螺の音《ね》が聞こえたので、捕り方たちは、三国峠の権が捕えられたと思ったのだろう、屋内や木蔭などから走り出し、谷を目ざして走って行った。と、その隙を狙い、五人の手下に護られた三国峠の権が、谷とは反対の、山の方へ遁がれて行くのが見られた。一刻も早く姿を隠さなければならなかった。見れば、主屋と離れて、山の中腹にかけ[#「かけ」に傍点]づくりになっている別館《はなれ》があって、主屋と廊下でつながれていた。あの別館へ一時身をかくし、手下どもが用意して来た衣裳と着換えよう――こう権は思った。そこで崖をよじ上り、廊下へ這い上がった。部屋の中へ駆け込もうとしたとたんに、
「……権よ! この耳を切っておくれ!」
 という女の声が聞こえ、部屋から女が走り出して来た。
「…………」
「…………」
 権之介――三国峠の権と松乃とはヒタと顔を合わせた。
 谷からは尚お蘭の吹く竹法螺の音が聞こえて来ていた。
「権! ……権之介様、恨みある妾の耳を、さあお切りくださいませ!」
 谷からは、――本当は悪党ではない三国峠の権よ、早くここから逃げておくれというように、お蘭の吹く竹法螺の音が聞こえて来た。
「俺ア」
 と権は云った。
「お前なんか知らねえ、昔から今までお前のような女知らねえ」
 松乃は廊下へ仆れた。
 耳の痛みが次第に消えて行く中で彼女は思った。
(救われた! 妾は救われた)

 三国峠の林の中を、五人の手下と一緒に、今は悠々と歩きながら、三国峠の権は思った。
(誰が吹いたかしらねえけれど、竹法螺のおかげで、俺ア助かったのだ)

 権はその後改心したという。

底本:「怪しの館 短編」国枝史郎伝奇文庫28、講談社
   1976(昭和51)年11月12日第1刷発行
初出:「冨士」
   1937(昭和12)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:多羅尾伴内
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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国枝史郎

隠亡堀—– 国枝史郎

       一

「伊右衛門《いえもん》さん、久しぶりで」
 こう云ったのは直助《なおすけ》であった。
 今の商売は鰻掻《うなぎかき》であった。
 昔の商売は薬売であった。
 一名直助|権兵衛《ごんべえ》とも呼ばれた。
「うん、暫く逢わなかったな」
 こう云ったのは伊右衛門であった。
 昔は塩谷家《えんやけ》の家来であった。
 今は無禄の浪人であった。
「考えて見りゃあお前《めえ》さんは、私に執《と》っちゃあ敵《かたき》だね」
 一向敵でも無さそうに、にやにや笑い乍《なが》ら直助は言った。
「洒落《しゃれ》かい、それとも無駄なのか」伊右衛門には興味も無さそうであった。「洒落にしちゃあ恐ろしい不味《まず》い。無駄にしちゃあ……いかにも無駄だ」
「でもね伊右衛門さん、そうじゃあ無いか。私の女房の姉というのは、四谷左門《よつやさもん》の娘お岩《いわ》、その左門とお岩とを、お前さんは文字通り殺したんだからね」
「そうとも文字通り殺したよ。お岩を呉《く》れろと云った所、左門|奴《め》頑固に断わったからな。それで簡単に叩《たた》っ切ったのさ」
「でも何《ど》うしてお岩さん迄?」
「うん、増花《ますはな》が出来たからよ」
「伊藤喜兵衛《いとうきへえ》のお嬢さんが、惚れていたとは聞いていたが」
「お梅《うめ》と云って別嬪《べっぴん》だった」
「お岩さんより可《よ》かったんだね?」
「第一若くて初心《うぶ》だったよ。子を産みそうな女ではなかった。玩具《おもちゃ》のような女だったよ」
「へへえ、そこへ打ち込んだんだね!」
「何しろお岩は古女房、そこへ持って来て子を産みやあがった。どうもね、女は子を産んじゃあ不可《いけ》ねえ。ひどく窶《やつ》れてみっとも[#「みっとも」に傍点]なくなる。肋骨《あばらぼね》などがギロギロする。尤《もっと》も金持の家庭なら、一人ぐらいは可《い》いだろう。産後の肥立が成功すると、体の膏《あぶら》がすっかり脱けて、却って別嬪になるそうだからな。ところが不幸にもあの時分、俺等《おいら》はヤケに貧乏だったものさ」
「でも、殺さずとも可《よ》かったろうに」
「ナーニ、手にかけて殺したんじゃあねえ。変な具合で自殺したんだ。尤も自分で死ななかったら、屹度《きっと》俺は殺したろうよ」
「恨死《うらみじに》に死んだんだね」
「お説の通りだ、恨死に死んだ」
「で、只今はお梅さんと、仲|宜《よ》くおくらしでござんすかえ?」
 直助は古風に冷《ひや》かすように訊いた。
「何さ、お梅も喜兵衛|奴《め》も、婚礼の晩に叩っ切って了《しま》った」
 伊右衛門は斯《こ》う云うと苦笑した。
「お梅は何《ど》うでも可《よ》かったが、持参金だけは欲しかった。伊藤の家庭と来たひにゃあ、時々蔵から小判を出して、錆《さび》を落とさなけりゃあならねえ程、うんとこさ金があったんだからなあ」
「だが何《ど》うして殺したんで?」
「時の機勢《はずみ》という奴さ」伊右衛門はひどく冷淡に「お梅の顔がお岩に見え、喜兵衛の顔が小仏小平《こぼとけこへい》、其奴《そいつ》の顔に見えたのでな、ヒョイと刀を引っこ抜くと、コロコロと首が落ちたってものさ」
「ははあ、其奴ぁお岩さんの怨《うらみ》だ」
「世間でもそんなことを云っていたよ」
「でお前さんは何《ど》う思うので?」
「何《ど》う思うとは何を何《ど》う?」
「幽霊が恐くはありませんかね?」
「それより俺は斯《こ》う云い度《た》いのさ。人間の良心というものは、麻痺させようと思えば麻痺出来るとな」
 鳥渡《ちょっと》直助には解らなかった。
 二人は暫く黙っていた。
 此処《ここ》は砂村《すなむら》隠亡堀であった。
 一所《ひとつところ》に土橋がかかっていた。その下に枯蘆《かれあし》が茂っていた。また一所に樋《ひ》の口があった。枯れた苔《こけ》が食《く》っ付《つ》いていた。
 前方《まえ》はドロンとした堀であった。さあ、確に鰻は居そうだ。
 土手の背後《うしろ》に石地蔵があった。鼻が半分欠けていた。慈悲円満にも見えなかった。
 土手の向うは田圃であった。
 稲村が飛び飛びに立っていた。
 それは曇天の夕暮であった。
 茶がかった[#「がかった」に傍点]渋い風景であった。
 芭蕉《ばしょう》好み、そんな景色だ。
 伊右衛門の前には釣棹《つりざお》が、三本が所下ろされてあった。
 その一本がピクピクと揺れた。
「ああ出来た」
 と直助が云った。
 で、伊右衛門は上げてみた。
 一尾の鯰《なまず》が掛かっていた。
 ポンと畚《びく》へ投げ込んだ。
「ところで何《ど》うだい、お前の方は? お袖《そで》と仲宜く暮らしているのか?」
 伊右衛門は斯う云って覗き込んだ。
「それがね、洵《まこと》に変梃《へんてこ》なんで」
 直助は此処で薄笑いをした。

       

「変梃だって? 何《ど》う変なんだ?」
 伊右衛門は興味を持ったらしい。
「それ、お前《めえ》さんもご存知の通り、お袖《そで》の許婚《いいなずけ》は佐藤与茂七《さとうよもしち》、其奴《そいつ》を私が叩っ切り、敵《かたき》の目付かる其うち中、俺等《おいら》の所へ来るがいいと、斯う云ってお袖を連れて来たんでしょう。ところがお袖|奴《め》真《ま》に受けて、許婚の敵の知れる迄は、私に肌身を許さないそうで」
「やれやれ其奴《そいつ》はお気の毒だ。お前にしては気が長いな」
「短くしてえんだが成りそうもねえ」
「構うものか、腕力でやるさ」
「其奴《そいつ》だけは何《ど》うも出来そうもねえ」
「そりゃあ然《そ》うだろう、惚れてるからな」嘲笑《あざわら》うように鼻を鳴らした。「女を占めようと思ったら、決して此方《こっち》で惚れちゃあ不可《いけ》ねえ」
「お談義かね、面白くもねえ」直助はフイと横を向いた。「惚れねえ前なら其お談義、役に立つかもしれねえが、今の私にゃあ役立たねえね」
「じゃあ最《も》う一つ手段がある」
「へえ、もう一つ、聞かして下せえ」
「好む所に応ずるのよ」
「あっさり[#「あっさり」に傍点]していて解らねえ」
「いいか、お袖へ斯う云うのさ。敵を目付けた其上に、助太刀ぐらいはしてやるから、俺の云うことを聞くがいいとな」
「成程、大きに可《い》いかも知れねえ」
「逆応用という奴《やつ》さ」
「今夜あたり遣《や》っ付《つ》けるか」
「ところで何《ど》うだ、稼業の方は?」
「今年は何うやら鰻|奴《め》が、上方の方へでも引っ越したらしい。何処《どこ》を漁《あさ》っても獲物がねえ」
「じゃあ随分貧的だろう?」
「顔色を見てくれ、艶《つや》があるかね」
「お袖は何うだ? 顔の艶は?」
「それがさ、俺よりもう一つ悪い」
「つまり栄養不良だな」
「商売物だけは食わせられねえ」
「今夜だけ其奴《そいつ》を食わせてやれ」
「え、鰻をかい? 今夜だけね?」
「そうさ、精力が無かったら、色気の方だって起こるめえ」
「うん、こいつぁ金言だ」
「それ、金言という奴は、行う所に値打がある」
「よしよし今夜だけ食わせてやろう」
「そうだ、其処だよ、今夜だけ[#「だけ」に傍点]だ。明日になったら麦飯をやんな」
「麦飯なら毎日食っている」
「おお然《そ》うか、そいつぁ不可《いけ》ねえ。豆腐のから[#「から」に傍点]でも食わせるがいい」伊右衛門は此処でニヤリとした。「一旦手中に入れたからは、女は虐《いじ》めて虐め抜くに限る。そうすると屹度《きっと》従《つ》いて来る。手が弛《ゆる》むと逃げ出すぞ」
「悪にかけちゃあお前《めえ》が上だ」
「天井抜けの不義非道」
「首が飛んでも動いて見せるか」
「なにさ、良心を麻痺させる、だけよ」
 また釣棹が動き出した。
 グイと伊右衛門は引き上げた。
「や、南無三、餌《え》を取られた。……それは然《そ》うとオイ直助、今日は鰻は取れたのか?」
「うんにゃ」
 と直助は首を振った。「店で買って食わせる気だ」
「そんなに金があるのかえ?」
「金はねえが料《しろ》がある」懐中《ふところ》から櫛《くし》を取り出した。「先刻《さっき》下ろした鰻掻、歯先に掛かった黒髪から、こんな鼈甲《べっこう》が現われたってやつさ」
「おや」
 と伊右衛門は眼を見張った。「たしか其奴《そいつ》はお岩の櫛!」
「いけねえいけねえ」と懐中《ふところ》へ隠した。「ふてえ[#「ふてえ」に傍点]分けはご免だよ」
 のい[#「のい」に傍点]と直助は立ち上った。
「それじゃあ旦那、また逢おう」
 愉快な空想に耽り乍《なが》ら、直助は飛ぶように帰って行った。
 夕暮れがヒタヒタと迫って来た。
 遠景が仄《ほのか》に暈《ぼか》された。
 夜と昼との一線が来た。
「どれ棹を上げようかい」
 何か樋の口から流れ出た。
 菰《こも》を冠《かぶ》った板戸であった。
「覚えの杉戸」
 と伊右衛門は云った。
 手を板戸の角《すみ》へかけた。グーッと足下へ引き上げた。
 バラリと菰を刎《は》ね退《の》けた。
 お岩の死骸が其処にあった。
 肉が大方落ちていた。眉間が割れて血が出ていた。片眼が瘤《こぶ》のように膨れ上がっていた。
 と、死骸が物を言った。
「民谷《たみや》の血筋……伊藤喜兵衛が……根葉を枯らして……この身の恨み……」
 伊右衛門は高尚《ノーブル》に反問した。
「ははあ、白《せりふ》は夫《そ》れだけで?」
 お岩の片眼が大きくなった。

       

「もう是《これ》で三回目だ」
 伊右衛門は却って気の毒そうに言った。「実際幽霊というような物も、一回目あたりは恐ろしいよ。二回目となると稀薄になる。三回も出られると笑い度《た》くなる。お岩さん不量見は止《や》めたがいい。四回も出ると張り仆《たお》すぜ。五回出ようものなら見世物にする。……」
 クルリと板戸を翻えした。
 一杯に水藻を冠っていた。
「俺には大概見当が付く、水藻を取ると其下に、小平の死骸があるだろう。生前間男の濡衣《ぬれぎぬ》を着せ、――世間へ見せしめ、二人の死骸、戸板へ打ち付け、水葬礼――ふん、そいつ[#「そいつ」に傍点]にしたんだからなあ。だって小平が宜《よ》くねえからよ。主人の病気を癒《なお》すは可《い》いが、俺の印籠を盗むは悪い」
 ダラダラと水藻を払い落とした。
 果たして小平の死骸があった。
 死骸はカッと眼を剥《む》いた。
「お主《しゅ》の難病……薬下せえ」
「うんにゃ」
 と伊右衛門はかぶり[#「かぶり」に傍点]を振った。
「俺は要求を拒否するよ。俺にだって薬は必要だからな」
 足を上げて板戸を蹴った。
 死骸がバラバラと白骨になった。
「手品としては不味《まず》くない。だがね。恐怖を呼ぼうとするには、もう一段の工夫が入《い》る」
 突然鬼火が燃え上った。
 伊右衛門は刀へ手を掛けた。いやいや抜きはしなかった。
 剛悪振りを見せようとして、グイと落差にした迄であった。
「ふんだん[#「ふんだん」に傍点]に燃やせよ、焼酎火をな」
 非常にゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]した足取りで、伊右衛門は町の方へ帰って行った。
 後はシーンと静《しずか》であった。
 と、堀から人声がした。
「伊右衛門は度胸が据わったねえ」
 それは女の声であった。
「困ったものでございます」
 それは男の声であった。
 板戸の上下で話しているらしい。
 お岩と小平の声らしい。
「さあ、是から何《ど》うしよう」
「ああも悪党が徹底しては、どうすることも出来ません」小平の声は寂しそうであった。
「恐がらないとは不思議だねえ」お岩の声も寂しそうであった。
 水面に板戸が浮かんでいた。
 闇が其上を領していた。
 死骸の声は沈黙した。
 手近で鷭《ばん》の羽音がした。
「こうなっちゃあ仕方が無いよ。迚《とて》も無理には嚇《おど》せないからね」お岩の声は憂鬱《ゆううつ》であった。
「あべこべ[#「あべこべ」に傍点]に私達が嚇されます」小平の声も憂鬱であった。
「ねえ小平さん」
 とお岩の声が云った。「もう祟《たた》るのは止めようよ」
「止むを得ませんね、止めましょう」
 お岩の声が恥しそうに云った。
「妾《わたし》、そこでご相談があるの。……濡衣を真実《ほんと》にしましょうよ」
「え」と云った小平の声には、寧《むし》ろ喜びが溢れていた。「あの、それでは、私達二人が」
「そうよ、夫婦になりましょうよ」
「大変結構でございまする」
「これには伊右衛門も驚くだろうね」
「こんな事でもしなかったら、彼奴《あいつ》は吃驚《びっく》りしますまい。……だが最《も》う私達は伊右衛門のことなど、これからは勘定に入れますまい」
 此処で声が一時止んだ。
 骨の軋《きし》む音がした。
 板戸を隔てた二つの死骸がどうやらキッスをしたらしい。
 ユラユラと板戸は動き出した。
「嬉しいのよ、小平さん」
「ああ私も、お岩さん」
 ユラユラと板戸は流れ出した。
 南無幽霊頓生菩提《なむゆうれいとんしょうぼだい》!
 お岩さんとそうして小平さん、
 彼等は正《まさ》しく成仏した。
 下流の方へ流れて行った。
 鬼火だけが燃えていた。
 真暗の夜を青い顔をして、上下左右に躍っていた。
 何を一人で働くのだ。
 消えろ消えろ! とぼけた[#「とぼけた」に傍点]鬼火だ!
 幕の閉じたのを知らないのか。

底本:「怪奇・伝奇時代小説選集2」春陽文庫、春陽堂書店
   1999(平成11)年11月20日第1刷発行
初出:「大衆文藝」
   1926(大正15)年6月
入力:阿和泉拓
校正:noriko saito
2007年11月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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国枝史郎

印度の詩人—— 国枝史郎

 印度《インド》独立運動が活溌になりガンジーの名が国際舞台へ大きくうつしだされてきた。
 ガンジーにつれて思い出されるのは同国の詩人タゴールのことである。
 タゴールがノーベル賞金を受けて世界的有名になった頃、日本観光に来た。それを招待してタゴールを日本中へ紹介したのは大阪朝日新聞社で、天王寺の公会堂で、タゴールの初御目見得と第一声とを発表した。その時わたしは同社の若い記者として、時の社会部長の長谷川|如是閑《にょぜかん》先生の下に、叱られ叱られ働いていたその時にも、会場の光景を書くべく、会場に出張し、鉛筆を嘗《な》めていた。会場は文字通り立錐の余地のないほどの盛況であった。
 タゴールは、白色の長い印度服を着白のターバンを捲き、悠然と壇上に立った。磨いた銅のような美しい艶のある顔色肩にまで降りかかっている長髪、鳳眼隆鼻、まことに神々しいほどの端麗さを備えた容貌がわたしたちの眼をみはらせた。彼は手に持っていた原稿を読んだ。その声? それは、故人となられたが当時の主筆兼編集局長であった鳥居素川先生が「あの声を聞いただけでも若い婦人などは泣くね」と評されたほど感銘の深い、銀鈴を振るような声であった。
 通訳に立ったのは、西蔵《チベット》探険で有名な河口慧海師で、師は、枯木のような体に墨染の法衣をまとい、タゴール翁と並んで壇上に立った。この二人の対照はまったく素晴らしい「オリエンタルカラー」の生きたサンプルであり、洋風の会堂が不似合いにさえ感ぜられた。
      ×     ×      ×
 私はタゴールの詩は「新月」ほか数種読んでいるし、戯曲も「郵便局」その他幾篇か読んでいる。正直のところ、その詩は、具体性が無いという点で、私にはあまり好ましくなかった。私にはシェレーの「雲雀《ひばり》の歌」やヴェルレーヌの「廃園」のような、空に喘ぎ昇る雲雀の姿が見えて来るような詩でないことには、又衰え咲いている草花の間に欠けた塑像が立っている、そこに寂しく、噴水が、忘れられた昔の歌をうたっている――そういう光景の見えて来るような詩でないことには、受入れることが出来ない。
 タゴールの詩にはそういう、具体性がなかった。
 彼の戯曲も、その素朴の構成などは、アイルランド劇に似通うものがあって好感は持てたがあまりに迫力に乏しく、とらえどころのないという点で嬉しくなかった。
 タゴールがノーベル賞金を得たのは、その彼の芸術のためではなく、英国政府が、印度民衆をサービスするために、多分に政治的意味を罩《こ》めて策動したからであるなどと、その当時喧伝されたことがあったが、まさかと思う。しかし英国の性格からすれば有りそうなことである。
 わたしにとってはタゴールはその風采容貌と声とが何より詩であり美であった。
 その彼の祖国印度もどうやら長年の英国の鉄鎖から解放されそうである。
 解放された印度からどんな詩人が産れることか。

底本:「国枝史郎歴史小説傑作選」作品社
   2006(平成18)年3月30日第1刷発行
底本の親本:「外交」
   1940(昭和15)年9月16日
初出:「外交」
   1940(昭和15)年9月16日
入力:門田裕志
校正:阿和泉拓
2010年11月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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国枝史郎

一枚絵の女—— 国枝史郎

        

 ご家人《けにん》の貝塚三十郎が、また芝山内で悪事をした。
 一太刀で仕止めた死骸から、スルスルと胴巻をひっぱり出すと、中身を数えて苦笑いをし、
(思ったよりは少なかった)
 でも衣更《ころもがえ》の晴着ぐらいは、買ってやれるとそう思った。
 歌麿が描いた時もそうだった。衣裳は俺が買ってやったものだった。春信が描いた時もそうだった。栄之《えいし》の描いた時もそうだった。衣裳は俺が買ってやったものだった。
 豊国が今度描くという。
 どうしても俺が買ってやらなければ。
 新樹、つり忍《しのぶ》、羽蟻、菖蒲湯、そういった時令が俳句に詠み込まれる、立夏に近い頃だったので、杉の木立の間を洩れて、射し入る月光はわけてもすがすがしく地に敷いては霜のように見えた。
 その月光に半面を照らした、三十郎の顔は鼻が高いので、その陰影がキッパリとつき、美男だのに変に畸形に見えた。
 足もとの血溜まりに延びている死骸――手代風の男の死骸にも、月光は同じように射していた。まだビクビクと動いている足が、からくりで動く人形の足のように見えた。
「とうとうあのお方は憑かれてしまった。お気の毒に、お可哀そうに」
 ずっと離れた石燈籠の裾に、襤褸《ぼろ》のように固まって始終を見ていた、新発意《しんぼち》の源空は呟いた。
(わしはあのお方がこれで三人も、人を殺したのを見たのだが、幾人これから殺すのだろう。……でもこれは人事ではない。わしが変心していなかったら、あのお方のようになっていただろう)
 そんなように心で思った。

「これで流行《はやり》の白飛白《しろがすり》でも買って、それを着て豊国に描かせておやり」
 こう云いながら若干《なにがし》かのお金を、おきたの前へ差し出して、自分の方が嬉しそうに、三十郎が笑ったのは、数日後のことであった。
 隅田川に向いている裏座敷の障子が、一枚がところ開いていて、時々白帆の通るのが見えた。
 額がすこし高かったが、それがかえって愛嬌になり、眼が眠たげに細かったが、それがかえって情的でもある、難波屋《なんばや》おきたは小判を見ながら、辞儀をしたものの眉をひそめた。
(この人微禄の身分だのに、随分派手にお金を使う)
 こう云う不安があったからである。
 いつも媾曳《あいびき》をするこの船宿にも、かなりの払いをするようだし、そのほか色々あれやこれや……。
「ねえ」
 とおきたは甘えた声の中へ真面目さをこめて男へ云った。
「無理な算段などなされずにねえ」
「大丈夫だよ、大丈夫だよ」

 今日も浅草随身門内の、水茶屋難波屋の店に立って、おきたは客あしらいに余念なかった。
 白飛白《しろがすり》を着たおきたの姿が、豊国によって描かれて、それが市中へ売り出されたのは、ほんの最近のことであり、飛ぶように売れて大評判であった。
 来る客来る客が噂して褒めた。
「左の手に団扇《うちわ》を提げ、右手に茶盆を捧げた、歌麿の描いた絵もよかったが、今度のはまた一段とねえ」
 などと云うものがあるかと思うと、
「襦袢の襟《えり》に鹿《か》の子をかけ、着物の襟へ黒繻子をかけ、斜めに揃えた膝の上へ、狆《ちん》を一匹のっけたところを描いた、栄之の一枚絵もよかったが、今度のはいっそサラリとしていい」
 こう云って褒めるものもあった。
 ――容色極メテ美麗ニシテ愛嬌アフルルバカリナリ。茶代ノ少キ客トイエドモ軽ク取リ扱ワズ、況ンヤ多ク恵ム者ニオイテヲヤ。――
 と書かれたおきたであった。どの客にも愛想よく接した。今日はわけても褒められるので、心うれしく立ち振る舞った。
 と店先を人々と混《まじ》って、網代の笠を冠った新発意《しんぼち》が、その笠をかたむけおきたを見ながら、足を早めて通って行った。

        

「あ」
 とおきたは口の中で叫び、急いで店先きまで小走って行き、その新発意を見送った。
 新発意は幾度となく振り返った。
(またあのお方が通って行く。……似ている。……いいえ酷似《そっくり》だ! ……あのお方に相違ない。……では妾はここにはいられぬ。……妾の身分があの人によって。……でもどうしてあのお方がご出家なんかしたのであろう?)
 恋しい人……憎い人……秘密を知られた人……弥兵衛様……今は新発意――その人のことが彼女の心を、この日一日支配した。

「おきた、わしはもう駄目だ。わしはもう江戸にはいられぬ」
 いつもの船宿へおきたを呼び出し、貝塚三十郎はそう云った。おきたの心を喜ばせるため、幾度となく辻斬りをし、金を取ったことを感付かれ、手が廻ったということを、云いにくそうに三十郎は云った。
 おきたは黙って聞いていたが、
「妾も江戸を売りまする。ご一緒に連れて行ってくださりませ」
 と云った。
 その後も例の新発意が、絶えず店の前を通ることや、絵双紙屋で自分の一枚絵を買っていた姿を見かけたことなどを、心のうちで思いながら、そうおきたは云ったのであった。

 奥州方面へ落ちようとして、三十郎とおきたとは夏の夜の、家の軒へ蚊柱の立つ時刻に、千住の宿を出外れた。
 三十郎は満足であった。明和年間の代表的美人、春信によって一枚絵に描かれ、江戸市民讃仰のまとになったところの、笠森お仙や公孫樹《いちょうのき》のお藤、それにも負けない美人として、現代一流の浮世絵師によって、四季さまざまに描かれて、やはり一枚絵として売り出され、諸人讃美のまとになっている、難波屋おきたと駈け落ちをする。
 もうすっかり満足していた。
 おきたも満足しているのであった。
 尋常の人とは夫婦になれない、そういう身分の自分であった。それが微禄とはいいながら、徳川直参の若い武士と、夫婦になることが出来るのである。
(茶汲み女として囃《はや》されても、そんな人気はひとしきり、妾の素性が知れようものなら、あべこべに爪はじきされるだろう。それより好きな人と他国へ落ちて、安穏に一緒にくらした方が……)
 どんなによいかと思われるのであった。
 宿を出外れると松並木で、人通りなどはほとんどなく、夜啼き蝉の滲み入るような声が、半かけの月の光の中で、短い命を啼いていた。
 その時|背後《うしろ》から足音がした。
 あたりに気を置く落人《おちゅうど》であった。そっとおきたは振り返って見た。
 網代の笠を傾けて、おきたを見つめながら例の新発意がすぐの背後《うしろ》を歩いて来ていた。
「あ」
 おきたは三十郎へ縋った。
「あの坊主を殺して……そうでなければ……妾は……お前とは……添われぬ! ……添われぬ! ……」
 抜き打ちにしようと三十郎は、刀の柄へ手をかけた。
(わしは殺される、わしは殺される!)
 と、そのとたんに源空は観念した。
 するとその瞬間に過去のことが、一時に彼の脳裡に浮かんだ。

        

 二十五の時の弥兵衛であった。お伊勢様へ抜け参りをした。どうしたものか三河の国の御油《ぎょゆ》の駅路近くやって来た時に、道を迷ってあらぬ方へ行った。そうして寂しい山村へ来た。おりから夕暮れで豪雨が降り、どうすることも出来なかったので、豪家らしい屋敷の門際《もんぎわ》に佇《たたず》み、雨のやむのを待っていた。するとそこへ上品な老人が供を連れて通りかかったが、弥兵衛を見ると親切に声かけその屋敷へ伴なった。老人はその屋敷の主人なのであった。弥兵衛は町人の伜《せがれ》であり、母一人に子一人の境遇、美貌であり品もあり穏《おとな》しくもあったが、どっちかといえば病身で、劇《はげ》しい商機にたずさわることが出来ず、家に小金があるところから、和歌俳諧茶の湯音曲、そんなものを道楽にやり、ノンビリとしてくらしていたので、どこか鷹揚のところがあった。
 屋敷の主人は弥兵衛のために、驚くばかりの馳走をし、茶菓を出し酒肴をととのえ、着飾った娘のおきたをさえ出し、琴を弾かせて饗応《もてな》した。
 こういうことが縁となり、弥兵衛とおきたとは恋仲となり、おきたは弥兵衛へあけすけ[#「あけすけ」に傍点]に云った。
「妾を連れて逃げてくださりませ」と。
 大家のお嬢様で眼覚めるような美人と駈け落ちをして夫婦になる、これは決して弥兵衛にとって、迷惑のことではなかったが、伊勢参宮を済ましていなかった。女を連れての神詣で、これはどうにも気が済まなかったので、
「帰途かならず立ち寄って、その時お連れいたしましょう」
 弥兵衛は娘へそう云った。
 男の真実がわかったと見えて、
「お待ちいたします」
 と娘は云った。
 参宮を済まして帰って来た弥兵衛は、村口の駄菓子屋で菓子を買いながら、それとなく例の屋敷のことを、そこの主人に訊ねて見た。
「大金持ちではございますが、犬神のお頭でございましてな、素人の衆は交際《つきあ》いませぬ。お気の毒なはあそこの娘で、名をおきたと云ってあれだけの縹緻《きりょう》、そこで父親が苦心をし、この娘だけは人並々に、素人衆に婚礼《めあ》わせたいと……」
 そう菓子屋の主人《あるじ》は云った。
 弥兵衛は顔色を失って、そのまま屋敷へは立ち寄らず、駿河《するが》の故郷へ一途に走った。
 犬神! それは「とっつき」とも云い、その種族の者に見詰められると、見詰められた者は病気になるか、財を失うか発狂するか、ろくなことにはならないというので、誰でもが交際《つきあ》わない種族なのであった。
「犬神に憑かれたらおしまいだ」
 そう人々は云いさえした。
 その種族の娘と夫婦《ふうふ》になる。これはとうてい弥兵衛にとっては我慢のならないことであった。
 が家《うち》へ帰って見て、もう犬神に憑かれていることを、弥兵衛は感ぜざるを得なかった。
 娘と恋仲になった日に、母が悶死したということであった。
 弥兵衛はすぐに出家してしまった。そうして諸国を巡《めぐ》った後、江戸へ出て浅草へ行った。
 と、おきたが茶汲み女として、美貌と艶姿とで鳴らしているのを見た。
 恐怖と懊悩とが彼の心を焼いた。
 彼は毎日難波屋の前を、往来しておきたを眺めたり、彼女の愛人として知られていた、貝塚三十郎の後をつけたりした。
 おきたを写した一枚絵を、それからそれと買いもした。
 死を前にしてこれだけのことが、弥兵衛――源空の記憶に上った。
(わしも結局|憑《つ》かれたんだ。こんなように憑かれるくらいだったら、いっそおきたと夫婦になった方が……
 いやそうではないそうではない! ……そんな小さな問題ではない! ……宗教《おしえ》の道へ入ってみて、人間は一切平等だという、真理《まこと》をわしは知ることが出来た。犬神だのとっつき[#「とっつき」に傍点]だのと、同じ日本の人間を、差別視するということの、不合理であるということも知った。わしはあの時あのおきたと、夫婦になればよかったのだ。わしがおきたと夫婦になっていたら、おきたはこんなあばずれ[#「あばずれ」に傍点]女に、決してなってはいなかっただろう! ……因果応報! 悪因悪果! わしは快く殺されよう!)
 そこで彼は大声で叫んだ。
「わたしは快く死にまする! さあさあお斬りくださいまし!」
 彼は立ったまま合掌し、眼をつむって静まっていた。
 でもいつまで待っていても、刀が彼の身へは触れなかった。
 そうして彼が眼をあけた時には、おきたと三十郎との姿は見えず、野面《のづら》の芒《すすき》を風がそよがし、月が照っているばかりであった。

 このことが絶好の教訓《いましめ》となって、源空は仏道に精進し、そのため次第に位置も進み、やがて一箇寺の住職となり、老年となるや高僧として、諸人に渇仰《かつごう》されるようになったが、そうなってからも疑問だったのは、
(あの時どうして三十郎のために、わしは命を取られなかったのだろう?)
 という、そういうことであった。
 しかしもし彼が雲水となって、奥州塩釜の里へ行き、なにがしという尼寺を訪ね、法均《ほうきん》という尼の口から、身の上話を聞いたなら、疑問は氷解したことと思う。
 法均は人へこう話すそうな。
「わたしが難波屋おきたといって、浅草の境内におりました頃、あるお侍さんに誘われて、道行きをしたことがございました。するとわたしたちの後をつけて、それ以前にわたくしと縁のありました、若い新発意が追って参りました。そこでわたしはお侍さんに勧めて、新発意を殺させようといたしました。ところがどうでしょうその新発意は、街道に立って合掌し、『わたしは快く死にまする。どうぞお斬りくださいまし』と、こう申したではありませんか。それはまアどうでもよいとして、そう云いました時の新発意の姿が、浅草寺にある仏様の、ご一体そっくりに見えましたので、わたくしはお侍さんの袖を引いて、いそいで逃げてしまいました。ところが貝塚[#「貝塚」は底本では「見塚」]三十郎という、そのお侍さんの眼には新発意の姿が――俗名は弥兵衛、法名は源空――その人の姿がこれも仏様の、不動明王に見えましたそうで、『わしの過去の罪業を不動様が責めるわ責めるわ』と云って、間もなく狂死いたしました。そこでわたしは仏門に入り」……と。
 ――けだしあの時源空が、人間無差別の悟りに徹し、死を覚悟した尊い態度
がおきたや三十郎の心を打って、死をまぬかれたものらしい。

底本:「怪しの館 短編」国枝史郎伝奇文庫28、講談社
   1976(昭和51)年11月12日第1刷発行
入力:阿和泉拓
校正:多羅尾伴内
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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国枝史郎

ローマ法王と外交—- 国枝史郎

 帝国政府は今回ローマの法王庁へ原田健氏を初代公使として派遣することになったが時局がら洵《まこと》に機宜を得た外交手段だと思う。
 この機会に歴代|羅馬《ローマ》法王のうち特にすぐれた外交家について検討を加えてみよう。
 一体に歴代の羅馬《ローマ》法王は傑物揃いであるが、わけてもヨハネ十二世などは法王の位置をドイツ皇帝の上に置いたことと神聖|羅馬《ローマ》帝国というものを一種の外交手段によって作りあげた点とで記憶さるべき人物だと思う。
 東フランク王国(即ちドイツ)の国王は、前王ヘンリ一世の子のオットーであったが、その即位の際法王ヨハネ十二世は部下のマインツ大僧正を遣わしてその式に列せしめ斯《こ》う云わしめた。
「今オットー一世先王の遺旨により上帝の命に従い、全国の貴族に選ばれて、汝等の王となった。汝等異議なくば右手をあげてその意を示せよ」と。
 群衆は歓呼して是を迎えた。そこで大僧正は王剣を王に授け、
「この剣を取り全国の兵を率いて異教徒を退けよ」と云い、次に外套を取って王の肩へかけ、つづいて杖と笏とを与え、最後に王冠を王の頭上に置いて聖油を注ぎ、即位の大典をリードした。
 こうして先ずオットー一世に恩を売ったのである。
 オットー一世は英邁で、ドイツ王になるやスラブ、デーン、マジャル等の敵性諸民族を撃滅し、又西フランク(フランス)を征し、進んで羅馬《ローマ》法王の居ますイタリヤへ入り、法王を助けてその敵を降したりした。
 そこで早速法王ヨハネ十二世は外交手段を揮《ふる》い、盛儀を執行《とりおこな》い、
「汝を神聖ローマ皇帝となす」
 と宣言し、その冠を頭上に置き、
「イタリイ王をも兼ねよ」と追加して云った。
 これで地球及び歴史の上に忽然と神聖ローマ帝国なるものが出来上がったのであった。しかもその物々しい名称の神聖ローマ帝国なるものの内容はといえば、ドイツとイタリヤとを合わせたものに過ぎないのであり、そうしてそのドイツとイタリヤとは既にオットー一世が平定|乃至《ないし》は攻略したものであったので、何も羅馬《ローマ》法王から今更《いまさ》ら頂戴する必要はないのであるが、それを呉《く》れてやるような形式にして、法王の位置を皇帝よりも上のように認識させたところに、この法王の偉さがあるのである。
 こういう出来事のあったのは西暦九六二年で、わが朝の村上天皇の御宇に当っている。
 次に西暦一〇七三年から八五年に在位した法王グレゴリオ七世の大外交的手腕について検討してみよう。歴代法王のうち、その人物の雄大という点ではこのグレゴリオ七世が最上であるように思われる。法王は大工の子であるとも農夫の子であるともいわれ、微賎の産れであることは疑いなさそうである。約二十五年間に五代の法王に仕え、やがて一〇七三年に法王の位に即いたが、一旦法王となるや法権伸張と教界粛清とに全力を尽し、その英雄の資を発揮して、諸事に大改革を加えた。その結果、俗界の王たるドイツ皇帝ヘンリー四世と衝突せざるを得ないことになった。正面衝突を惹起した原因は、僧官任命権を皇帝の手から羅馬《ローマ》法王庁へ取戻す問題からであった。グレゴリオ七世は断乎としてこの旨を宣言した。即ち、
「羅馬《ローマ》教会は神によってのみ建てられた。すべての僧正は法王によってのみ任命せらるべきである」
 というのである。
 ヘンリー四世の納まる筈はない。皇帝は怒ってウォルムスに宗教会議を開催し、グレゴリー七世法王を廃することに議決した。
 すると今度はグレゴリー七世が納まらず、ヘンリー四世をローマ教会から破門することとし、この旨を宣言した。そうしてその上ドイツ臣民に向い今後皇帝に対し忠誠を致すの要なきことを命令した。この教会からの破門ということは、この時代に於ては一方《ひとかた》ならない力を持っていて、破門されたものはキリスト教の儀式を永久に差止められ、従来の朋友とも交際を絶たれ、知己との会食さえ禁ぜられるという有様で、一度破門を受けた者は終世孤独、寂莫の中に生活しなければならないのであった。皇帝の場合といえども然《そ》うであった。その上ヘンリー四世の場合に於てはドイツ国内の大小諸公伯の不平組がこの破門事件を好機としてヘンリー四世の廃立を企てた。
 こうなっては如何《いか》なヘンリー四世といえども狼狽せざるを得ず、皇帝の尊厳を抛《なげうっ》て法王に破門免除を懇願するより他には手はなかった。

 そこでヘンリー四世は一〇七六年も将《まさ》に暮れようとする頃皇后と皇子と他に従者一人をつれて本国を発し、罪を謝すべくイタリヤに向かって旅立った。途中にはアルプスの険難がある。アルプスといえば先にはカルタゴの雄将ハンニバルが大兵を率いて越え、後にはナポレオンが同じく大兵を率いて越え、いずれも赫々《かっかく》たる戦果をあげたことによって著名であるが、私はこの二将軍の勇壮なるアルプス越えに、ヘンリー四世の悲惨なるアルプス越えを加えて天下三大アルプス越えとしたいと考えている。兎《と》まれヘンリー四世は吹雪《ふぶき》や雪崩《なだ》れに覆われたアルプスを越えて、北イタリヤのカノッサの城へまで辿って行ったのである。それはこの時グレゴリー七世がローマを発ってこの城に滞留していたからである。
 ヘンリー四世は、一人で城を訪ね法王へ謁を乞うた。すると衛士は、
「汝此処に立って法王の許可を待て」
 と、法王の旨を伝えた。
 そこでヘンリー四世は、髪をかむり、洗足で、毛織の服を着て、すなわちみすぼらしい平民の姿で城門の前に佇み、氷柱むすぶ厳冬の候を外気にうたれながら法王面謁の許可の下るのを待った。その日が暮れ翌日となり、その翌日が暮れて三日目となったが法王は面謁しようとはしなかった。見るに見かねて斡旋の労を取ったのは、このカノッサの城主の奥方であった。そこではじめてグレゴリー七世はヘンリー四世に面謁を許し、面謁をゆるされた破門の皇帝は城内に走入り、法王の足を抱き泣いて罪を謝すこと数時間、ようやく破門を免除された。
 何んという羅馬《ローマ》法王の権力ぞや!
 それにしても教権はあっても兵権の無い彼が暴挙に近いこの超非常事件を断行し、羅馬《ローマ》法王の位置をして、皇帝の上遥に、九鼎大呂の如く重からしめたのは、彼の如何《いか》な気質から来ているのであろう? 狂信家なるが故であろうか? いや彼が教界刷新のやり口が秩序整然としていて変質者流の夫《そ》れでないところから推してこの断定はあたらない。けっきょく彼は大外交家であって、如斯の大芝居を打つことによって、物質界の王を倒すか精神界の王倒れるかを試験してみたものと解すべきであろう。
 狂信家といえば、その狂信家のペートルという乞食巡礼の狂態を利用して西洋史上空前の事変たる十字軍の大運動を捲起こした一〇九五、六年時代の羅馬《ローマ》法王ウルバン二世も一代の外交家といってよかろう。
 シリヤなるエルサレムの地はイエス・キリスト終焉の地として名高く、聖地としてキリスト教徒は一生に一度は巡礼となってこの地へ参拝することを念願とした。然るに十一世紀の中葉この聖地はトルコ族の一派セルジュウク人によって占領され、聖廟は荒らされ、遺跡は蹂躪され、巡礼は掠奪迫害され、土地在住のキリスト教徒は殺戮される迄《まで》に至った。この報が西ヨーロッパ一帯に伝わるや諸国のキリスト教徒は義憤を起こして、回教徒(トルコ族)討つべしの叫びをあげたものの夫れを断行するには機いまだ熟さなかった。然るにこの時フランスの巡礼僧にペートルという者があって、親しく聖地エルサレムに至り異教徒の横暴を見、聖地荒廃の態を探ったと称し、且《かつ》、エルサレムの大長老より托されたという書簡をかざし、イタリヤ、フランスの各地を巡り、「すみやかに聖地に行き、異教徒を討払い、キリストの墳墓を清むべし」と絶叫した。この僧の風采は、短躯矮小みるかげもないものであり、身には襤褸《らんる》をまとい腰には縄の帯をしめ、醜穢をきわめていたものの、手に十字架を握り驢馬にまたがり、一度口をひらくや熱弁奔流の如くにほとばしり聞く者をして涙を流させ切歯扼腕させた。上は王侯から下は一般市民をまで感激させたのである。
 この噂を耳にした時ウルバン二世は、「やっと機会が来た。そういう狂信家が出て聖地清掃を叫ぶというのは、天に口無し人を以って云わしむで、キリスト教徒全体がエルサレム恢復を熱望している証拠だ。わしは起とう!」と決心した。折柄《おりから》そこへ東ローマ皇帝からの使者が来て「トルコ人侵寇を防衛するために法王の援助を乞う」という旨を伝えた。「いよいよ思う壺だ。では至急兵を募り、東ローマ皇帝と力を合わせ異教徒を征《せ》め、一には羅馬《ローマ》法王の勢力を強め、あわよくば東西二派に分れているキリスト教を合一させ、その元首となろう」といよいよ決心の臍《ほぞ》を固めた。キリスト教は遥の以前から、東ローマ皇帝を戴くギリシャ正教(東)とローマ法王を戴くローマ正教(西)とに別れ、事毎に争っていたからである。

 こうしてウルバン二世が聖地恢復の遠征軍を起こすべく南フランスのクレルモンへ諸国の城主、貴族、僧侶を招集して大会議を開いたのは西暦一〇九五年十一月十九日のことで、この日法王は自身親しく会議の席に臨み「兵を発して聖地を恢復するは神の意志である」と絶叫し、一瞬にして十字軍編制、エルサレム進撃を決定し、四十万の大軍を翌年第一回十字軍としてエルサレムに進軍させた。
 私が何故法王ウルバン二世を大外交家であるというかというに、当時の封建武士がこの時代に流行した騎士道に心酔し、兎《と》もすると法権を侵す態《てい》の行動をし英気を他に洩らす術《すべ》なき脾肉の嘆をかこっていたのを認め、この十字軍の挙によってその英気を宗教戦に洩らさせ、キリスト教興隆に役立てようとしたその点からである。
 十字軍の功罪、及びその成功不成功に就いては此処《ここ》ではいわない。
 最後に私は、外交家の素質は持っていたが夫れを小策に使ったため教界を腐敗させそのためルーテルをして宗教改革を叫ばしめ新教を樹立させカソリック教を衰運におとし入れたものの、ルネッサン期の大芸術家、又世界古今を通じての大天才たるレオナルド・ダ・ビンチやミケランゼロやラファエル等を庇護し、その才能を充分に発揮させ不朽の傑作を無数に産ませ世界の文化に至大の貢献をした特異の法王レオ十世に就いて語ってみたい。レオ十世はその芸術愛好の精神から当時第一流の建築家ブラマンテの建築手腕に眼を着け、彼をしてこの時代を風靡した復活式の様式を以ってサンピエトロ寺院を建立させ、飾るにダ・ビンチやミケランゼロの絵画や彫刻を以て為ようと企てた。しかし充分の資金が無かったところから、その外交的頭脳から一策を案出し罪障消滅札(免罪符)なるものを売出し、その上がり額を以ってその費用にあてようとした。免罪符というのはその符札を金を出して買いさえすれば日頃の罪障が消滅して死後天国へ行くことが出来るという調法のものなのである。法王はこれを売出すにあたり、ドミニク派の僧侶テッチェルとその一団を馬車に乗せ諸地方を廻らせ大小の旗を立て鈴を鳴らして囃立て、群集の注意を集め、さてその地の教会堂へ入るや数日滞在し真面目に厳粛に儀式を執行する傍《かたわら》、赤色の大十字架の下に置いてある賽銭箱を指さし、「さあ諸君よ、諸君が奉る黄金がチャリンチャリンとこの箱の底へ落ちる時諸君及び諸君の祖先の犯したもろもろの罪障が忽《たちま》ち水の如く流去り泡の如くに消えるのであります」と説明するのであった。そこで参拝の群集が感激して賽銭を投げるや免罪符がその人の手へ渡されるのであった。
 こうしてレオ十世は莫大な金を得てサン・ピエトロ寺院を建立したのであったが、ルーテル出《い》でて九十五箇条の免罪符攻撃の意見書を草し、宗教改革の火蓋を切ったのでこの企ては失敗に終り、諸人非難のまととなった。
 しかし前述の如くダビンチやミケランゼロやブラマンテやラファエル等の大芸術家を庇護したことは世界文化のためには大功績であり、法王の他の諸政策の失敗をつぐのって余りありといってもよいかもしれない。法王がそれら大芸術家を庇護したため、他の諸侯伯や領主、豪族、貴族、富豪、貴婦人等が争って夫等の芸術家を贔屓《ひいき》にし尊敬し援助してその天才を発揮せしめた。その結果ミケランゼロにありては「ダビト」「モーゼ」「天地創造」「メヂチ家の墳墓彫刻」ダ・ビンチにありては「最後の晩餐」「ジョコンダ」ラファエルにありては「聖母子」その他の無数の傑作を産出し、我等芸術にたずさわる者をして生くることの喜びを感ぜしめている。
 さて右の如く偉大なる法王を出したカソリック教の総本家バチカンも星移り物変わり現代にあっては物質世界に於ける勢力は、昔日の如くではない。しかしながら精神界に於ける勢力は、全世界を通じて三億五千万の信徒を有し我大東亜共栄圏内にありても、大約二千万人の信徒を持っていることによって、尚《なお》その偉大性を保持しつつあるものといわざるを得ない。その羅馬《ローマ》法王庁へ公使を派して、彼我尋常の外交関係を形成したことは我国外交の明朗性を示したものということが出来る。しかもその法王庁や、各国大公使の特殊的社交場であって、最も公平なる世界ニュースの集積地たる以上は、公使を置いて以って我国現在及び将来の国威発展に資する必要がある。

底本:「国枝史郎歴史小説傑作選」作品社
   2006(平成18)年3月30日第1刷発行
底本の親本:「外交評論」
   1942(昭和17)年5月
初出:「外交評論」
   1942(昭和17)年5月
入力:門田裕志
校正:阿和泉拓
2010年11月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

レモンの花の咲く丘へ– 国枝史郎


この Exotic の一巻を
三郎兄上に献ず、
兄上は小弟を愛し小弟
を是認し小弟を保護し
たまう一人の人なり。

序に代うるの詩二編

孤独の楽調

三味線の音が秋の都会を流れて行く。
霧と瓦斯《ガス》との青白き光が
Mitily の邦《くに》の悲哀を思わせる
宵。……………………

唄うを聞けや。
艶《つや》もなき中年の女の歌、
節《ふし》は秋の夜の時雨よりも
凋落の情調ぞ。

私の思い出は涙ぐみ
ただ何とはなしに人の情《なさけ》の怨まるる。
その三味線と女の歌の聞こゆる間。

木の葉が瓦斯の光に散っている。

君代さん

さし櫛に月の光が落ちている
君代さん。

冴えた霜夜の
秋の白さ。

涙ぐみつつ露は窓のガラスに伝い
老いたる木の葉は散っている。

君代さん
十八の君代さん

鼈甲《べっこう》のさし櫛は
若いあなたには老《ふ》けすぎた。

(別れし夕の私の印象。)

死に行く人魚

時代 騎士の盛《さかん》なりし頃
場所 レモンの花の咲く南の国
人物 序を語る人
   公子
   女子
   領主
   従者
   Fなる魔法使い
   騎士、音楽家、使女、童、(多数)

序を語る人
 旧教僧侶の着る如き長き黒衣を肩より垂れ、胸に紅き薔薇花をさす。青白き少年の仮面を冠る。
独白――
 レモンの花の咲く南方の暖国はここであります。黄昏は薔薇色の光を長く西の空に保ち、海には濃き藍の面を鴎が群れ飛び、鴎を驚かして滑り行く帆船は遙かの沖をめがけます。日は音なく昇り、音なく沈み、星と露とは常に白く冷やかにちょうど蛋白石のように輝きます。湖水の岸には橄欖《かんらん》の林あり、瑠璃鳥はその枝に囀《さえず》る。林の奥に森あり、香り強き樟脳は群れて繁り、繁みの陰には国の人々珍しき祭を執り行う。ああその祭たるや筆にも言葉には尽くせません。螺鈿《らでん》の箱に入れた土耳古《トルコ》石を捧げて歩む少女の一群、緑玉髄を冠に着けたる年若き騎士の一団。司祭の頭には黄金の冠あり。……御厨の前の幕をかかぐる時、神体は見えざれども数千人の人々は声を揃えてサンタマリヤを唱う。その唱命は海の彼方の異国の涯《はて》にまで響きます。――この美しい南国の人々の心はどのように華やかでござりましょう、その人々の語り合う恋は、どのように秘密の烈しさを有していることでしょう。この脚本は、その秘密の烈しい恋を基として、演じられるのでござります。私はこれからこの脚本の諸々の色と匂い、光と陰、無音と音楽とをお話し致しましょう。
 この脚本は夕暮より始まり、次の日の夜半に終ります。夜はこの脚本の舞台であります。この脚本には短ホ調の音楽と、短嬰ヘ調の音楽とが入ります。尚その他いろいろの楽器、例えば死せる人を弔う鐘、遂げられざる恋の憂いを洩らす憐のバイオリン、悪魔の誘惑を意味する銀の竪琴、騎士の吹く角の笛、楯につけたる鉄と真鍮《しんちゅう》の喇叭《らっぱ》、そして波も松風も嘶《いなな》く駒も、白き柩と共に歌う小供等も、楽器と云えば云えましょう。――これらの楽器がはいります。この脚本には「死に行く人魚」の歌が歌われます。嫉妬よりの契約が交わされます。海と自由と、幻のような舟と、舟の中の音楽と、音楽を奏した未知の若者とを恋うる少女が現われます。この少女は恋の贈物として深山鈴蘭の純潔の花を愛さずに、暗の手に培《つちか》われた、紅の薔薇を愛します。(と自分の胸より紅薔薇を抜き取り観客に見せ)このような罪の贈物を愛します。(花を床上に投げ棄て)かくて少女は恋の獲物を失います。
 過去の恋をなつかしむあまり、恋の記念に造った音楽堂は、対岸の絶壁の上に立てられ、悲劇はその堂内で演じられます。譬《たと》えその悲劇が諸君の御眼には見えずとも、諸君は必ず憐れと覚しめすでしょう。悲劇の主人公は、美しい少年であります。少年の美しさは何と云って形容したらいいでしょう。猶太《ユダヤ》の王女が恋したと云う、ヨハネの幼顔よりも美しく、ラハエルよりも美しい。ギリシヤの彫刻の裸体美でも、少年の美には及びません。この少年が「死に行く人魚の歌」を[#「「死に行く人魚の歌」を」は底本では「「死に行く人魚の歌を」」]歌います。けれども恋の競技の音楽堂で歌ったのではありません。たれこめた自分の室で、つれない女子《おなご》に物を思わせようと、又血汐のような罌粟《けし》畑で、銀の呪詛をのがれんと、競技の前の夜の半ばに、歌ったのでござります。噫! その「死に行く人魚」の歌は、世にも悲しい弔いの歌となりました。
 婚儀の式場とも成るべき音楽堂からは葬式の柩が出で、つがいの鴛鴦《おしどり》の浮くべき海の上には、柩をのせた小舟が浮かび、嘆きの歌を唄わんとして集った小供等は、曇った声で弔いの歌を唄います。祝して鳴らさるる筈の鐘は凶事を伝え、諸国より集りし騎士音楽家は、驚きと怒りと悲しみとを、不思議を見たる瞳に充たせ、ものも云わずに柩を送ります。そして月桂樹の冠はFなる魔法使いの頭に落ち、Fなる魔法使いは、その名誉ある冠を以て、空想の少女を眩《まどわ》さんとし、猩々緋《しょうじょうひ》の舌を動かします。――しかも凶《よこしま》は正《ただしき》に敗け、最後の勝利は公子に帰して、月桂樹は幼い天才に渡ります。――神よ、正しき者に幸あれ!
 領主は、凍れる棒の如くに気死して壁により、忠僕は天を睨み、やがて声を上げて泣き仆《たお》れます。噫! 幸福たらんとして不幸となり、楽しからんとして憂いを呼び、平和たらんとして、凶事動乱、潮のように湧き起ります。(と片手を高く差し上げ)、この諸々の喜怒哀楽が、霧に包まれた宝玉のように、水の中の王冠のように、煙の中の城のように、おぼろげに諸君の眼に映る時、諸君は無理の解釈をなされずに、有るがまま、見ゆるがまま、聞こえるがままにくみ取って戴きたい。(片手を下し、後方に静かに退場しつつ)如何にFなる魔法使いが、銀の竪琴に魔を呼ぶか、如何にレモンの花の咲く南方の国の人々が、燃え狂う恋路を辿り行くか、諸君はこの幕が開くと共に、残る方なく知ることが出来ましょう。(と一礼して退場)
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          第一場

領主の館の一室 正面に出入口ありて裏庭に通ず。裏庭を距てて静かなる湾あり、湾の対岸は削れるが如き絶壁にしてその頂上には古き白亜の音楽堂あり(但し之は背景《バック》なり)、出入口の左右に大いなる窓あり。窓には窓掛けなく自由に湾の風景を望み得べし。なお室の左右に出入口あり、左の口は主屋に通じ右の口は高殿に通ず。高殿は領主の一子にして年若く美しき音楽の天才ある公子の居室とす。左の窓に近く大いなる丸テーブルあり、丸テーブルを囲みて寝台と椅子とあり。以上の建築装飾は総て中世紀頃の型を用う。
時 夕暮れ落日の頃。
季 初夏。薔薇、レモンの花盛り。

領主 (品位ある風采、この時代の豪族に似つかわしき服装、腰に剣をつるす。左の窓口によりて湾の風景を眺む。)今日の夕日は平素《いつも》よりは別して美しく静かに見える。小鳥や風に送られて日は海に沈まんとし、猩々緋の雲は戦《いくさ》の旗のように空の涯《はて》を流れている。沈まんとする日の美しさはどうだ。黄金の車が焼け爛れながら水晶盤の上へ落ちるようだ。櫛の歯のような御光は珊瑚をとかして振り撒いたような空と海とへ、霧時雨《きりしぐれ》のようにふりそそいでいる。その光は一刻一刻に変わり、その色は次第次第に移って行く。沈まんとする日の上には猶太《ユダヤ》王の袍《ほう》に似た、金繍のヘリ[#「ヘリ」に傍点]ある雲の一群がじっと動かずに浮かんでいる。その雲の上には風信子石のような星が唯一つ、淡く光っているが、やがて日が沈みきると一緒にダイヤモンドのようにキラキラと輝くのであろう。その星の上は緑青《ろくしょう》のように澄んで青い夕暮れの空で、風が小鳥の眠りを誘うように、やさしくやさしく渡っている。(間)猶太王の袍に似た雲が動き出した。錦《にしき》の蛇のように長く細く延びて行く。風が吹くからだろう。細く長く延びた雲は日の面を掠めるばかりにして、海の面へ垂れ下がって来る。(間)海は親切の心を持っているように、雲の影を残らずうつしている。(語を強め)海は寛大だ!
従者 (始めより領主の後方に謹んで彳《たたず》みいる、白髪、忠実質朴の風采、恐る恐る小さき声にて)御前様《ごぜんさま》。
領主 (聞こえぬ如く)海は寛大だ。海は聖人の心のように寛大だ! だがしかし、また法官のように冷やかで厳かで一点の偽りも許さない。仮面偽体虚飾の悪徳は、この海の鏡にうつった時、すっかり化けの皮が剥げてしまう。海は鏡だ。だからあるがままに空の色や光や形が映るのだ。
従者 御前様。
領主 (聞こえぬ如く)それにしても今日の海の美しく平和のことはどうだ。今までもかなり平和で美しい夕べはあったけれど、今日のように漣《さざなみ》一つ立たず、飛魚一つ躍らぬと云うことはなかった。今日の静けさは美人の死のようだ。
従者 (気づかわしげに)美人の死のようだ!
領主 (急に振り返り)何時《いつ》からおまえはそこにいたのか。
従者 はい、先刻からお呼び申しておりました。
領主 そうか、一向知らなかった(とまた窓に向い)。どうだ今日の夕日の美しさは、建国の日のようじゃないか。お前の衰えた眼にも少しは立派に見えようがな。ほら、帆をなかば張った船が岩陰から現われた。帆は夕日で燃えるように赤く、水に映った様子が人魚そっくりだ。あれは人魚の舟だ。人魚の舟は地平線をめがけて進んで行く。日が沈み限《き》る頃、地平線の上へ行き着くだろう。沈む日と人魚の舟とが一緒になって、地平線の外へ消え失せる時、月がそろそろと昇り始めるのだ。綿帽子を取りはずされた嫁様のように恥かしさとかがやか[#「かがやか」に傍点]しさとで、どんなに月は下界の美貌に恍惚《うっとり》とするだろう。そして、月の秋波《ながしめ》があの絶壁の上の音楽堂に注がれた時、どんなにあの白い建築が、方解石のように美しく、形よく見えることだろう。あの白衣を着けたラマ僧のような音楽堂が(間)それは月夜のことだ、今この夕日に照り輝いている有様も、何と神々しい姿ではないか。円錐形の銀板の屋根は、洪水のように光を漲《みなぎ》らせ、幾万となく打ちつけた銀の鋲は、騎士の鎧よりも目覚ましい。白壁は薔薇色の陰を帯び、窓の掛け布は恋人の腕にすがった乙女のように力なく垂れ下がり、それに空の七色が接吻している。(間)海に突き出した高殿の一郭は岩の上の鷲の巣のように、まことにあやうく見えるけれど、勇ましさも一層で、美しさはそのあやうく勇ましい所にひそんでいる。あの高殿で恋を語ったら、どんなに悦《うれ》しいことだろう。
従者 御前様!
領主 (うるさげに)何だと云うに。
従者 もう窓から外を見るはおよし遊ばせ。
領主 いいではないか、外を見るのは俺の勝手だ。お前は俺の云いつけた通り、御客様を御馳走する準備をせい。(とまた窓の外を向き)ああ初夏の夕べほど気持ちのよいものはない。草花の雌蘂《めしべ》には咽《む》せかえる程の香りがあり、花弁にはルビーのような露が溜り、黄金虫は囁くような恋の唸りや、訴えるような羽音をさせて、花から花、梢から梢へと飛び巡る。物の音色、光や陰には優しい艶が着き、人々の眼差しには、たえられぬ内心の悶えや恋や喜びが、恥かしい程あふれている。(間)だが俺の心はどうだ、(破裂せる如き調子)俺の心はまるで謀反人《むほんにん》の心のように、絶えず苦しみ、気を遣い、他人の思慮《おもわく》を憚り、そして常時《しじゅう》疑っている。(窓を離れる。――と従者と顔を見合わせる)まだいたのか。
従者 はい、お殿様のお心を伺わぬうちは参りませぬ。
領主 (不審そうに)俺の心の何を伺うと云うのか。
従者 お隠し遊ばしても、チャンと存じておりまする。ハイ、チャンと存じておりまする。あなた様がこれんばかりの時から今日が日まで、一日も離れずお付き申し上げた私でござりますもの、お殿様のお心の中は、私自身の心の中よりも、ずんと詳しく存じぬいておりまする。ハイ。
領主 それがどうしたと云うのか。
従者 お隠し遊ばしても駄目でござります。
領主 (いらいらとして)くどい奴だな、俺は何も隠してはいないじゃないか。それともお前には隠しているように見えると云うのか。
従者 ハイ、その通りでござります。お殿様は一から十まで近頃はお隠しなされておりまする。
領主 何も別に隠している覚えはないが、それでも、かくしているように見えると云うなら為方《しかた》がない。そう見られるばかりだ。(と復《ま》た窓の方へ向かんとするを引き止め)
従者 (眤《じ》っと主人の顔を眺め)お顔もおやつれ遊ばしました。頬も額も青玉のように青褪めておりまする。
領主 俺は元から、あまり肥えてはいなかった、そして色も青かった。(やや悲しげに)それに近頃は…………。
従者 (遮《さえぎ》り)あの女子《おなご》がこの館へ参られてからは、一層お痩せなされたと申しましても間違いではござりますまい。
領主 (顔色を変えず)何を云うのか。
従者 お気に障りましたら御免下さりませ。
領主 別に気にも障らんが、お前はどうも俺を誤解しているようだ。
従者 ハイハイ、ひょっとすると左様かも知れませぬ。いえいえ、屹度左様に違いござりますまい。あれほど御発明であられたお殿様が(と声を落として、昔を追想するが如き姿)十年前のあの日[#「あの日」に傍点]、あの事件[#「あの事件」に傍点]のあったばかりに、からりと様子がお変りなされ、気抜けしたような御心となり、閉じ篭もってばかりおられました。(間)かと思うとまた近頃、あの女子をこの館へ引き入れられてからは、以前と違い、活発にはなられましたが、御家来衆に対しては昔ほどお情けをおかけ下されず、一にも十にもあの女子のためばかりを計られて、お館の乱れるのもおかまいなされぬのでござりますもの、ハイ、発明のお殿様でさえ、そのようなお心得違いのある世の中に、私のような賎しい奴が、考え違いをするのはあたりまえでござります。
領主 そのように、ムキにならずとものことだ。そんなら何か、近頃俺が皆の者に対して不親切になったから、それが気に食わぬと云うのか。
従者 そればかりではござりませぬ。近頃は大変にソワソワなされます。まるで十七、八の若者が初恋を知った時のように。
領主 (苦笑)それが気まずいと申すのか。
従者 そればかりではござりませぬ。近頃は何彼《なにか》と疑い深くなられました。これもあの女子のためでござりましょう。
領主 あの女子、あの女子とよく云うが、彼女《あれ》は決して悪い女ではない。ほんの無邪気な性質で、例えて云って見れば、空を自由にかけたがる白い雲のようなものだ。(少し考え)もっとも、あまり空をかけたがるので、心もち、フワフワとしてはいるが、それが決して、あの女子の美しい容貌と正直の心とを傷つけはしない。
従者 よく存じておりまする。
領主 それではもうよいではないか(とまた窓に向かわんとするを従者は再び引きとめ)、
従者 たとえ、女子の性質はよいと致しましても、お殿様の御性質《おこころもち》お振る舞いを近頃のように変えさせますれば、何のためにもなりませぬ。却って悪い性質の女子でも、お殿様の性質《おこころもち》[#「性質《おこころもち》」はママ]を変えぬならば、その女子の方が御身の為また私共の為かと存じます。……一体、あの女子は、どこからお連れなされました。
領主 海の彼方《むこう》の淋しい浜辺から、(と窓を離れて丸テーブルの傍の寝台の上に腰をおろす)、海の彼方の淋しい浜辺で、消えて行く帆舟の影を泣きながら見送っていた――あの女子が見送っていた。――それを俺が連れて来たのだ。(間)あの日は、涙ぐんだ日が浜に散っている貝殻と、水に濡れた大きい岩と、そして女子の頬を伝う二筋の涙とを白く照らしていた。女子は忍び泣きに泣きながら、片手に赤い薔薇の花を持ち、それを高く振りかざし、地平線の辺へ消えて行く帆舟を見送っておったのだ。荒れ果てた海岸の淋しい淋しい午後だった。
従者 (領主に向かい合って椅子に腰をかけ)何故そんな女子をお連れなされました。
領主 (恋しそうに)以前《まえ》の妻に似ていたからよ。
従者 (思わず立ち上がり)以前の妻! と申せば、あの若様のお母様《かあさま》の……。
領主 (昂奮して)そうだ、あの不貞の妻に似ていたからさ。
従者 御前様。
領主 不貞の妻だが恋しい女だ。あの女のことを思えば、身も心も消えて行きそうだ。(と思慕の情に耐えざる様子)
従者 御前様。
領主 (その当時を思い出し、声も瞳も力を増す)以前の妻と一緒に住んでいた頃は、俺もお前も若かった。
従者 (なつかしそうに)十年前でござりました。
領主 俺には昨日のように思われる。けれどもまた、この世ではなく、他界の消息のように思われる。ああ、思ったとて考えたとて、二度と再び、あんな幸福の日は送れないと思えば、あの頃の生活が、追いすがって引き止めたいようだ。
従者 私もそんな気がいたします。
領主 十年以前と云えば俺もこんなに衰えてはいず、お前もそうまで年を取ってはいなかった。(間)彼女《あれ》と俺とは(と窓を通して音楽堂を見る)今音楽堂の建っている対岸の岩の上に、小城のような家を構えて住んでいた。そこには水晶のような水を吹き出す噴水も、レモン薔薇の咲き乱れる花園もあった。宵毎に花園には露が下り、虫がその陰で鳴いていた。朝毎に小鳥が囀《さえず》り、柑子レモンの花が小鳥の羽搏《はばた》きで散り乱れた。そして音なく窓にとまり、妻はその花弁を唇に含んで、俺の唇へ口渡しに移してくれた。その時妻の金髪は恋しさにふるえ、妻の眼はしばしも離れずに俺の瞳を見詰めていた。
従者 奥様はバイオリンの妙手でございました。
領主 そうだ、それが何よりも俺の心に残っている。彼女《あれ》はバイオリンの妙手だった。紅宝玉と貴橄欖石とで象眼したバイオリンは、いつも彼女の腕に抱えられていた。
従者 (なつかしげに)奥様は花園を見下ろす窓に倚《よ》って、いつもいつも哀れっぽい歌をお弾きなされました。(間)花園の彼方は底の知れぬ青海で、奥様は人魚が波間に見える見えるとよく申されました。
領主 彼女が歌った歌は、みんな哀れっぽいものばかりだったが、その中でも、「死に行く人魚」の歌が一番悲しい節の歌だった。彼女がこの歌を歌って弾く時は、きっと涙ぐんだ眼で海を眺めた。その様子が、海の中に歌の主の人魚がいて、その人魚へ歌を送ってやると云うように見えた。(間)そしてあの歌を弾きながら歌う声は、ちょうど潮が深い深い洞穴の奥へ、忍びやかに寄せて行くように、幽《かすか》にそして震えていた。(間)俺は、あの歌を唄う彼女を見る毎に、この女は、どうしても果敢《はかな》い運命の女だと思わずにはいられなかった。(長き嘆息)その思いは誤らなかった。
従者 御前様、そのことを思い出しましてはお為《た》めになりませぬ。そんな無惨なことは思わずに、あの頃の楽しかったことばかりをお思い出すに限ります。追想は、いずれ美しく見えるものでござります。ちょうど、桃色の霧で蔽《おお》われた、縞瑪瑙の丸柱を見るように、(間)御前様、奥様は花に溜った露でお化粧をするのがお好きでござりましたな。
領主 (恍惚と)そうだ、彼女は小鳥よりも早く起きて、花園に下りて行き、数條に分かれた庭の小径を、絹の薄物をゆったりと肩から垂れたばかりの朝姿で、アルハラヤ月草や、こととい草や沈丁花の花の間を、白鳥よりもしなやかに歩き廻った。そして花弁に溜った露の滴を、百合の花のような掌に受けて、それで金色の髪をとかした。金色の髪は、耳朶《みみたぶ》を掠めて頬を流れ、丸い玉のような肩に崩れ落ちた。それを左の手でそっと梳《す》き、また右の手でゆっくりと梳いた。梳く度に、薔薇色の日が金髪に映って、虹のような光がそこから湧いた。(間)梳き終わるとそのまま金髪を背に垂れて、傍の小石へ腰を掛け、この場合にも抱えて来た、バイオリンを弾き出すのだ。
従者 何の曲をお弾きなされました。
領主 「死に行く人魚」の歌。
従者 その歌は不吉の歌ではござりませぬか。
領主 そうだ。
従者 何故、そんな不吉の歌をお化粧する間もお歌いなされたのでござりましょう。
領主 その頃は解らなかったが、今になってその意味が少しは解って来たように思われる。あの不幸の女は、自分で歌って自分で泣き、悲しい歌に同情して、それで心を慰めていたらしい。
従者 何故でござりましょう。お殿様と云う立派な情人《おもいびと》がおありなさること故、そのようなことをして、自分の心を慰めずとも、よかりそうなものではござりませぬか。
領主 いやいや、彼女《あれ》は不思議な神経を持っていて、自分の運命の行方を、その時分から、知っていた。
従者 と申しますと?
領主 彼女自身が、死に行く人魚だったのさ。
従者 私にはよく解りませぬが。
領主 誰によく解るものか、一緒に連れ添っていた俺にさえ、彼女が死んで十年も経った今日、やっと少し解りかけた程だもの。(間)だが不思議な運命――魔法使いの銀の杖から音なく形なく現われる、奇怪な運命が、しじゅう彼女の身の上にふりかかっていたことは、確かであったと云うことが出来る。
従者 そんなものが世の中に、あるものでござりましょうか?
領主 あればこそ、彼女が、あんな不幸な最後を遂げたじゃないか。(間)この世の中には神秘の門が、数限りもなく立っているが、それを開ける鍵は一つもない。
従者 奥様はその鍵の一つを持っていたのではござりますまいか。
領主 (従者の顔を見詰め)お前は面白いことを云う。(眼をそらし)彼女は鍵は持っていなかったが、神秘の門を幾度も幾度もおとずれたことはあった。だがそれは、ただおとずれたばかりだった。
従者 お偉い方でござりましたな。
領主 偉いか偉くないか知らぬけれど、不幸の女だった。(間)俺にとっては一生忘れられぬ強い強い記憶である。――
従者 その奥様と、今度この館へ参られた女子《おなご》とが似ていると申すのでござりますか。
領主 (深く頷き)その通りだ。
従者 どこが似ているのでござります。
領主 何から何まで。
従者 あの女子は、バイオリンを弾かぬではござりませぬか。
領主 手では弾かぬが心ではいつも弾いて歌っている。
従者 と申しますと?
領主 文字でも言葉でも絵でも表わせぬあるものをいつも思っていると云うことさ。
従者 それが音楽でござりますか。
領主 音楽だ、それが魔のような音楽だ、それが恐ろしい運命だ!
従者 恐ろしい運命! それではあの女子の身の上にも、魔法使いの銀の杖から湧いて出ると云う、悪い運命が、つきまとっているのでござりますか。
領主 (にわかに立ち上り)ああ、その悪い運命が、つきまとっていればこそ明日の競技が行われるのだ。
従者 と申しても私には解りませぬ。
領主 (寝台より離れて窓口に行き、対岸の頂上に立てる音楽堂を指す)お前にあれが見えるかの?
従者 (領主と並びて窓口に行き)はい、かすんだ眼にもよく見えまする。
領主 何と見えるかの?
従者 以前《まえ》の奥様の記念として、お殿様が業々《わざわざ》お立てなされた音楽堂でござります。
領主 そうだ、前の妻と二人で住んだ対岸の岩の上へ、果敢《はかな》い恋の形見として立てたのが、あの音楽堂だ。あすこには妻の魂と、音楽と、恋心とが籠もっている。(烈しき怒り)そして不貞と! (沈黙。――長き嘆息)そして、そして悲しき運命と、怪しい呪詛と。
従者 ああ、またそんなことをお思い出しなされましたな、それは過ぎ去った罪ではござりませぬか。お思い出しなされぬに限ります。(独白の如く)音楽堂などを、お立てなされたのが、お心得違いのように思われる。あれが立っている限りは、お殿様のお心は、前の奥様から離れることは出来ぬのだ。云ってみれば、あの音楽堂は、お殿様へ、古い傷の痛みをいつまでも思わせようと、立っているようなものだ。(気を取り直し)で、あの音楽堂と、館へ参られた女子と、何か関係でもあると申すので、ござりますか。
領主 女子と関係があると云うよりも、女子の上にふりかかっている悪運命と、関係があると云った方が的中《あた》っている。
従者 それはまた、どう云うわけでござります。
領主 前の妻をたぶらかした、憎い恐ろしい誘惑が、この度の女子にもかかっていて、女子の心はその誘惑に捉われている。(間)誘惑に捉われているばっかりに、女子は俺の心に従わず、俺を愛さず、絶えず元の淋しい荒海の衰え果てた浜を慕っているのだ。(沈黙)けれども、いよいよ明日の晩には、あの音楽堂の競技場で、一切が現われ総てがかたづくだろう。
従者 一切が現われ総てがかたづくとはどう云うわけでござります。
領主 女子をまどわす、誘惑の本体が現われると云うことさ。(心配気に)女子の心が俺の方へ従うか、誘惑の主に従うか、総て、明日の晩、あの音楽堂の中で決定《きま》ると云うことさ。
従者 明日の晩、あの音楽堂で、お殿様が諸国へふれ[#「ふれ」に傍点]を出して呼び集めた名高い音楽家が、各自《めいめい》お得意の音楽を奏するのだとは聞いておりましたが、それが誘惑の主を現わす手段《てだて》であるのでござりますか。
領主 その通り。諸国から集った音楽家の中に、めざす悪魔がいる筈だ。
従者 どんな姿をしておりましょう。
領主 紫の袍を着て、桂の冠をかぶり、銀の竪琴を持った年の若い音楽家で、騎士よりも気高い様子に見えると云うことだ。そして其奴《そやつ》の好んで弾く曲は、短嬰ヘ調で始まる、「暗《やみ》と血薔薇」と云う誘惑の曲だと申すことだ。
従者 紫の袍を着て、桂の冠をかぶり、銀の竪琴を持った年の若い音楽家でござりますか。
領主 (頷き)そういう風をした音楽家が女子の心をとらかして、不貞の罪を犯させる誘惑の本体だ。
従者 どうしてお殿様は、たしかにそうだとお気づきなされました。
領主 あの女子《おなご》がそう申した。
従者 不思議のことでござりますな。(と考える。この時、領主の一人息子にして、先妻の遺子たる公子の住する、高殿よりバイオリンの音聞こゆ)
領主 (耳をすまし)あれは誰が弾くのだろうな。
従者 (高殿を見上げ)若様でござります。
領主 (耳を澄ませるまま)あの切れ切れに鳴る悲哀の音は、確かに短ホ調だ。
従者 涙のこぼれるような音でござりまする。
領主 (耳を澄ましながら窓を離れ、高殿に近寄り)、そうだ確かに短ホ調だ、ああ短ホ調が歌《な》っている。
従者 何んと歌っているのでござりましょう。
(領主無言にて耳を澄ます。従者もその後にひき添って耳をすます。バイオリンの音に連れて、死に行く人魚の歌聞こゆ)


幻《まぼろし》の美しければ
海の乙女の、
あわれ人魚は
舟を追う、
波を分けて舟を追う、
月は青褪めぬ、
屍に似たる水の色。

領主 (驚きにうたれ)あれは「死に行く人魚」の歌だ。
従者 (声をふるわせ)ああ悪い前兆でござります。
領主 一度も歌ったことのないあの歌を、今日に限ってあれが歌うとは、どうしたことだろう。
従者 決してよい前兆ではござりませぬ。
領主 歌う声も弾く節《ふし》も前の妻とそっくりだ。
従者 そっくりでございます、決してよい前兆ではござりませぬ。
領主 若《わか》は近頃、どんな様子で暮らしている。
従者 近頃はいつもいつも、一室にお閉じ篭もりでござります。その御様子が、いかにも物ごと[#「物ごと」に傍点]に労《つか》れ、物あんじ[#「あんじ」に傍点]に倦《う》んで、そして御心配ごとで胸も心も一杯だという風に見えまする。……けれども……(と云いよどむ)
領主 けれども、どうしたと申すのか。
従者 お気に障りましたら御免下さりますように。(と云い憎《に》く気に)あの、今度館へ参られた女子と、度々人のいない場所でお話しなされておらるるのをお見受け申しました。……その時に限って、お顔のいろも、御様子も、生々《いきいき》として、さも喜ばしそうでござります。
領主 (色を変じ、苦し気に)ああ、ああ。(と仆《たお》れんとす)
従者 (それを助け)どう致されたのでござります。
領主 いやいや。ああ。(と再び仆れんとす)
従者 どう致したのでござります。
領主 そうだそうだ、それに違いない。若が、若が……思った通りだ……。
従者 若様がどう致したのでござります。
領主 若があの女子を……。
従者 (高殿を見上げ)そんなら若様が、あの女子にお心があると申すのでござりますか、私ももしやとは思っておりましたが……。
領主 それに違いはない。若はあの通りの熱情家である上に、年も若く気も若い。その上、母に似て恋の美しい幻影には人一倍|憧憬《あこが》れる性質の若者だ。(沈思)それに、若も明晩の音楽の競技には出場すると云うではないか。
従者 はい、それはそれは大変な意気ごみでござります。必ず競争に打ち勝って、月桂冠を得ると申しておりまする。
領主 ふむ、必ず勝って月桂冠を得ると申しておるか。
従者 ハイ、そう申して大変な意気ごみでござります。
領主 ただ月桂冠を得れば満足じゃと申しておるか。(しっかりと)よもや、そうではあるまいがな。
従者 ハイ、月桂冠と一緒に美しい贈物《かずけもの》を得るのじゃと申しておられます。
領主 いよいよ女子を手に入れる心と見える。(煩悶の情、寝台に仆《たお》れる。従者驚きて助け起こさんとす)
従者 どう致したのでござります。――その美しい贈物とは何物でござります。
領主 (苦し気に)あの女子のことじゃ。俺が諸国の騎士、音楽家を呼び集める手段として、あの女子を勝利の贈物に致したのだ。幾百人音楽家は集り来るかは知らぬけれど、その人々の中の最後の勝利者には、月桂冠に添えてあの美しい女子の身を、贈物に致すと申しふらしたのだ。若はそれを誠と思い、それで競技に出るのだろう。
従者 それは驚き入ったことでござりますが、ほんとにお殿様は、あの女子を、勝利の贈物として、おつかわしになるのでござりますか。
領主 なんのなんの、ただそのように云いふらして、世間の音楽家を集めたばかりさ。さよう申して集めねば、かんじんの相手が来ないじゃないか。女子の心をひきつけている、憎い誘惑者が来ないじゃないか。
従者 さようなれば、ほんの手段でござりますな。
領主 その手段と知らずに、若は女子を手に入れようと競技の場所へ出ると見える。(両人、無言。最早高殿よりはバイオリンの音聞こえず、夕陽益々美しく音楽堂は光り輝く。やがて、主屋の方にて馬の嘶《いなな》き、騎士の吹く角の笛、また真鍮の喇叭《らっぱ》の音、小太鼓の音と合せて、領主の万歳を呼ぶ声、騒がしく、賑わしく響き来る。両人これに驚き立ち上がる。間もなく左の口より召し使いの童|忙《せわ》しく入り来り、領主の前にて一礼す)
童 唯今、お召し寄せの騎士、音楽家の方々が、お着きになられまして、玄関側にて、お殿様のお出ましを待ちかねておられます。
領主 (頷き)おおそうか、して、その中に紫の袍を着て桂の冠をかむり、銀の竪琴を持った若い美しい音楽家は見えなかったか。
童 いえ、そのようなお方はお見受け申しませぬ。
領主 (失望し)そんな筈はないのだが。(間)とにかく玄関まで出迎えることにしよう。(領主を先に、従者、童、退場。間もなく玄関にて再び領主万歳の声高く起こり、やがて静まる、三分間静。――正面の口より、二人の使女《つかいめ》と共に、海岸より連れられ来し女子現わる。女子は桃色の上衣、白色の袴。金髪。肩と腕とは露出す。美人にして若し。胸の上に深紅の薔薇花をさす。常にこれを気にかく)
使女A 大勢の騎士、音楽家でござりました。
使女B 白い駒に乗り、水浅黄の袍を着け、銅の楯と象牙の笛と、猫目石で象眼した一弦琴を持った二十五、六の音楽家は何んと美しい方ではござりませぬか。
使女A 銀鋲《ぎんびょう》の着いた冑を冠り、緋の袍の上へ、銀と真鍮とで造った腹巻《はらまき》をしめ、濡れ烏《がらす》よりも黒い髪の毛を右と左の肩に垂らし、それを片手でなぶりなぶり小声で歌を唄うていた二十七、八の騎士の方が、男らしくてようござりました。
使女B だがあのお方の眼は、東洋人の眼のように、瞳も睫毛もまっ黒[#「まっ黒」に傍点]で、惨酷心《むごいこころ》のように思われました。
使女A そのようにおっしゃるけれど、貴女《あなた》の好きな水浅黄の音楽家の方は、口があまり大きすぎ、それにチト肥えすぎていて、何んとなく気品に乏しく見えたではござりませぬか。
使女B 気品に乏しいかは知りませぬが、その代り愛嬌がたっぷりとござりました。
使女A 惨酷心かは知りませんが、男の大事の威光がたっぷりとござりました。
女子 (窓に寄り二人の使女の口争《くちあらそい》を聞きおりしが、軽く笑い消し)お客様のお噂は、もういい加減にして止めておくれ。どのようにいいと思ったとて、所詮お前方の所有《もの》にはなるまいに。
使女B まあお嬢様のお口の悪いこと、そんなら誰の所有になるのでござりましょう。
使女A 知れたことではござりませぬか。あの方々は、お嬢様を贈物《かずけもの》に貰おうと音楽の競技に来られた人達でござりますもの、皆お嬢様をめがけておりましょう。
使女B ほんにそうでござりました。
女子 (忙がしく止めて)もうもう、そんなことを云っておくれでない。いつもいつもお前方に云う通り、私には約束した一人の方があるのだぞえ。たとえ、お殿様がお客様のお一人へ贈物として私を下されても、私は決して行きはせぬ。
使女A そうそう、お嬢様には、この館へ来られる前に、お約束を遊ばされた立派の人が、おありなされるのだと常々聞いておりましたっけ。
使女B 紫の袍を着て、桂の冠をかむり、銀の竪琴を持った美しい音楽家でござりますそうな。
女子 (頷き)そのような風をしたお方が、今日のお客様の中にお見えなされはしなかったえ。
使女A さあ、おりましたやら、おらぬやら(とBと顔を見合せる。主屋の方にて大勢の笑声)
女子 あの笑声の中に、そのお方の笑い声もまざっているのではあるまいか。
使女B (気を利かせ)一寸《ちょっと》行って、そっと見て参りましょうか。
女子 こんに、そうしておくれなら、どんなに私は悦《うれ》しいか知れぬ。
使女A さようなら二人で一寸行き、直ぐに見て参りましょう。(と二人の使女は左の口より小走りに退場。女子は二人の出て去りし方に向かい、暫時|彳《たたず》み、やがてそのままの姿にて寝台に腰をかけて首を垂れる。夕陽、女子の肩と横顔を照らす。静。(三分間)やがて、高殿の階段へ領主の一子、美しき青年姿を現わす。天才的熱情の容貌、高尚なる騎士の服装。片手に一束の深山鈴蘭の花を持つ。女子の階下に在るを見て足音を盗み、段梯を下り、女子の背後に彳む)。
公子 (静かなれども熱心の口調にて)日頃|情無《つれな》い貴女《あなた》のことゆえ、私に逢いに来られたのではござりますまいが、一人でそのようにうなだれているのを見ると、何んとなく貴女が、私の所有《もの》のように思われます。
女子 (驚き振り返る)まあ、若様でござりましたか(とやや当惑の様子。)はい、おっしゃる通り、貴郎《あなた》に逢いに来たのではござりませぬが、(間)そのように御親切に云われて見ますれば、私もどうやら、貴郎のもの[#「もの」に傍点]になるのではあるまいかと思われます。
公子 そのような、程の宜《よ》いお言葉で、いつもいつもあしらわれますのは、吹くに委せて風に靡《なび》く柳の枝がその実、下の川水に姿をうつしているようなものでござります。私は風の役目と申すもの、川水は誰でござるやら、おうらやましいことでござります。
女子 そういうお言葉を聞く度に、私の心はかき乱されます。どうかもう、おっしゃらずにいて下さりませ。
公子 それは貴女の申すお言葉で、私の申し上げる言葉は別にござります。
女子 そのお言葉を、聞きたいことは山々でござりますが、聞いては却って後の嘆き、悲しい涙となりますれば、おっしゃらずにいて下さいまし。
公子 どうしたわけでござります。聞きたいことは山々なれど、聞いては後の嘆き、悲しい涙になるとは、どうしたわけでござります。(間)いやいや、またさように程の宜いことをおっしゃって、私の言葉をおはずしなさるのでござりましょう、私はよく存じておりまする。
女子 ほんにそうかも知れませぬ。(間)何彼《なにか》と申しましても、私は一つの願いに捉われている身でござりますれば、その願いの届くまでは、何んと申しても貴郎様の御親切にお答え申すことは出来ないのでござります。
公子 一つの願いとはどんな願いでござります。それを私に、お話し下さるわけにはなりますまいか。
女子 一つの願いは、また一つの呪詛《のろい》のように思われてなりませぬ。それをお話し申すは、やすいことでござりますけれど、お話し申しても何んの役にも立たぬことでござりますれば……。
公子 それは、あまり、情無《つれな》いお言葉と申すもの。が、その情無いお言葉は今に始まったことではなく、昔からのことでござりました。あの裏庭の無花果《いちじく》の陰で、さびしい花を毟《むし》っては、泉水へ流しながら、あれほど私が情をこめて、心のたけを申しました時も、甘《うま》くはずして、はっきりとした御返事は下されず。また、海に臨んだ岩陰の、人手と桜貝とで取りまかれた藻の香《か》の強い洞穴で、人魚同志が語るように、睦まじく話し合うた時も、恋の物語になる時は、屹度、いつかどうかおはずしなされます。さりとて情無《すげな》く振り切りもなされずに、恋の僕《しもべ》の狂うのをじらして遊ぶ、悪性《しょうわる》の姫君のように、気をいらだたせるお心が、私には怨めしいよりも、なつかしく、また慕わしいとは、よくよくのことでござりまする。(語る中に、そろそろと女子の傍へ座を占める。女子は困りたる風にて傍による)いつぞや二人して、河添《かわぞ》いの牧場《まきば》を歩いておりました時、乙女等の摘み残した忘れな草[#「忘れな草」に傍点]があったのを、私がそっと摘み取って、貴女《あなた》の髪へさしました所、貴女はいつの間にか取り棄てておしまいなされました。その時私の悲しさはどのようでありましたろう。うるんだ眼から流れ出た二筋の熱い滴が、頬を伝ってその時忘れな草[#「忘れな草」に傍点]に散ったのを見ましても、知れるわけではござりませぬか。
女子 そのように一々おっしゃらずとも、とうから貴郎のお心はよう存じておりまする。……がもうもう、何もおっしゃって下さいますな。おっしゃられれば胸の苦しさが増すばかり、また貴郎に致しましても、そのようにおっしゃって、私の心を苦しめますのは、ほんとに私を愛して下さる、お志にも戻《もと》ると申すものでござります。
公子 云うなとおっしゃれば、もう一言でも云いは致しませぬが、その代り、せめてこの花を、その彫刻のような美しい手で、お受けなされて下さりませ(と深山鈴蘭の花束を出す)。白木《しらき》の戒名よりも淋しい花ではありますが、貴女のお手に取られたら、白い花も紅に見えましょう。
女子 (花をしりぞけ)谷に咲いておってこそ、いとしい花でござります。何んの私が手に取りましょう。
公子 自然は冷酷でござります。人肌はなつかしいものでござります。いつまでこの花を、冷酷の自然にまかせて置けましょう。(と花をさしつけ)さあ早くお取り下さいまし。
女子 (暫時沈黙。やがて、淋しく悲しき嘆息。遂に胸にさしたる紅の薔薇花を取り、公子に示し)噫! 貴郎のように心の清い方は、恋の送り物をなさるにも、深山鈴蘭のような、清く淋しい野生の花を、花束にして送ります。そのお心に対しましても、私は貴郎にお従い申さねばならぬのでござりますが(と薔薇を唇にあて)、これごらん遊ばせ、この紅の薔薇の花が、いつの間にか私の胸に咲いてでござります。白い花と違い紅い花は、色から艶から匂いから一倍勝れて見えまする。私の心は、とうからこの紅い薔薇の花に、ひきつけられているのでござります。(悲しげに)そしてそれが、恐ろしい程、私には強い執着でござります。
公子 (失望して深山鈴蘭を床に投げる)いつも深紅の薔薇の花が、貴女の胸にさしてある故、どうしたわけかと思っておりましたが、もし迂闊《うかつ》に聞いて、口惜《くや》しい他人の名でも語られては、苦しい上の心苦しさと今までは、見て見ぬふりに黙っておりましたが、貴女より今のように打ち明けられては、今までの苦心も空しいものとなりました。(力強く)とてものことにその紅い花の送り主を、私に打ち明けて下さいまし。祝すか呪詛《のろ》うか、それは今から誓うことは出来ぬなれど、貴女の憂いを増させるような、はしたない真似は致しませぬ、これだけは屹度お誓い申します。(と十字を切る)
女子 (感激し)誓うとおっしゃるまでの御志《おこころざし》、私はどうしておろそかに致されましょう。(間)はい、紅い薔薇の送り主を話せとおっしゃるなら、話さぬものでもござりませぬが、あのお話し申したその上句《あげく》、あさはか[#「あさはか」に傍点]な迷信だとお笑いなさりょうかと思いまして……。
公子 何んで迷信だなどと申しましょう。貴女のその美しいお姿には、迷信などのとり入る隙がござりませぬ。よしまた、それが世に云う迷信であった所で、美しい貴女が、迷信でないと堅くお思い遊ばすなら、やがてそれが迷信でないように、総ての世間が思いこむでござりましょう。勢力は権力でござります、勢力の源は個人の力でござります。その個人の力は美より外にはござりませぬ。貴女はその美の権化でござりますもの、権力の源とも申されましょう。
女子 そのように私をお信じ下され、褒め讃えて下さる方は他に一人もござりませぬ。その唯一人きりの若様へあの不思議の物語、アラビヤあたりの童話にでもありそうな、幻《まぼろし》じみたお話を致すのは心苦しいことでござりますが、(間)思い切ってお話し致しましょう。けれど、今私がお話し致します夢よりはかない物語をお聞きなされたその後で、貴下が私を思い切り遊ばすのは、お心まかせでござりますが(間)、それと一緒に、たよりない私を、おさげすみ遊ばすようになることかと思えば、悲しい淋しい思いが致してなりませぬ。
公子 (女子の手を取り)それは全く貴女のおめがね違いと申すもの、私は決してそのような軽薄な心のものではござりませぬ。たとえその物語が祭の夜、裸体の男を見そめたと申すようなお話でも、また、猛獣の狂う砂漠の中で、メッカあたりへ渡って行く、カラバンの一人を、おしたいなされたと云うのでも、私は決して貴女をおさげすみ申すようなことは致しませぬ。(間)恋には天津乙女も土龍の穴まで下り、女王が蛇の窟へ忍んで行ったではござりませぬか。――そのような取り越し苦労をなされずと、さあ早く紅い花の送り主を、語って聞せて下さいまし。
女子 (頭を傾けて肩に垂れ、過去を追想する如き風をなす)北の海辺の小さい領主の一人娘が、夏の終りの夕暮に浜に彳《たたず》んでいたと覚しめせ。
公子 その娘が貴女だと申しましても宜《よろ》しいのでござりますか。
女子 はい、そのおつもりでお聞き下さいまし。
公子 つづまやかな美しさが、その一人娘の彳んだ姿を装飾《かざ》っていたでござりましょう。
女子 その一人娘の着ていた衣《きぬ》は上衣は桃色で下は純白でござりました。(と自分の着ている衣を見る)その娘は小さい時からこのような色が大好きでござりました。
公子 私もそのような色彩が大好きでござります。
女子 娘の髪の毛は透明に見ゆる程光り輝く黄金色でござりました。(と自分の髪の毛にさわる)その髪の毛を暮れ行く薔薇色の夕日に映しておりました。そこは荒れ果てた浜で、髑髏《しゃれこうべ》のような石ばかりが其処《そこ》にも此処《ここ》にもころがっておりました。破船の板や丸太や縄切れや、ブリキが岩の間に落ち散り、磯巾着《いそぎんちゃく》が取りついているのでござります。そして餌をあさりかねた海鳥が、十羽も二十羽も、群れ飛んでいるのでござります。長い翼は日に映り、飛び巡るたびに木をこするような音で鳴き合いました。浜には一人の人もいず、背後の丘を越して風ばかりが吹いておりました。丘には花も咲かず実も熟《う》まず、ただ一面に赤茶けて骨のような石ころが土[#「石ころが土」に傍点]の裂け目に見えているのでござります。夕暮のことでありますから、沖の波は荒れて大きなうねりが磯に寄せて参ります。磯に寄せた大波はそこで砕け、白い泡沫が雹のように飛び散るのでござります。娘はその浜の水辺《みずぎわ》に立って、自分の影を見詰めておりましたが、影は長く砂に落ちているのでござります。(間)娘は老いた領主の一人子でありましたから、不足なく育てあげられておりました。(間)その時の娘の心は全くの虚心平気と云うわけではござりませぬ。何んと名づけてよいか名づけようのない心持ちが娘の心を領しておりました。もっと完備した生活を送りたいと願う心でもなく、自由に世の中へ出たいと思う心でもござりません、両親の愛を不足に思うでも兄弟の無いのをつまらなく思うのでもなく、もっと高い感情でござりました。まあ云って見ますれば、形のない憧憬とでも申しましょうか、ただ心が或る美しい幻影を描き出し、その幻影を捉えようとあせるのでござります。
公子 (熱心に)その幻影と申すのは恋のことではござりませぬか。
女子 さようかも知れませぬ。(間)あの時の感情は、今思うたとて、とても思い出せるものではござりませぬ。(間)娘はただ恍惚として自分の影を見詰めておりました。(やや長き沈黙)そうすると、自分の影と並んで一人の男の影が砂の上へ映りました。娘は驚いて振り返りますと、若い騎士姿の音楽家が娘の直ぐ傍に立っているではござりませんか。(間)娘は一眼その姿を見て、心の中で「待っていた人影」ではないかと思いました。
公子 (忙はしく)その騎士姿の音楽家が、紅い薔薇の花を娘に送ったのではござりませぬか、その音楽家が。
女子 (頷き)紅い薔薇の花をくれる前に、その人は銀の竪琴で長い曲を弾きました。それは短嬰ヘ調で始まる「暗と血薔薇」の曲でござります。(公子思いあたると云う風をなす)それを聞いている中に、娘の心は夢よりも幽になり、意志も情も消えてなくなり、ただ一つ所をじっと見詰めていたのでござります。
公子 何を見詰めていたのでござります。
女子 見詰めていたのではなく、引きつけられていたのでござります。その証拠には、その一つ所から視線を外《はず》そう外そうとあせっていたことを娘は今でもはっきり[#「はっきり」に傍点]と覚えているのでも解ります。
公子 何に引きつけられていたのでござります。
女子 恐ろしい魔法の光り物……。
公子 それは何でござります。
女子 恐ろしいものでござりまする。
公子 ただ恐ろしいものだけでは私には解りかねまする。
女子 その騎士姿の音楽家の恐ろしい眼でござります。(間)その恐ろしい魔法の光り物がその人の眼だと気付いた時は、娘の体は音楽家の両手の中にありました。
公子 (せわしく)両手の中に。
女子 (公子を止めて)音楽家の両手の中にありました。けれども体が両手の中に在ったと申しますのは、決して体をまかせたと申すのではござりませぬ。
公子 そんならその娘は、今でもなお清い体でござりますな。
女子 はい、その娘の体は、今もなお鈴蘭のように清い体でござります。(悲しげに、また恋しげに)、けれども遂にはその音楽家の両手に抱かれて、身も心もまかせるようになるのでござりましょう。
公子 それは何故でござります。
女子 別れる時その人は(と紅の薔薇を唇にあて)これこの紅の薔薇の花を、娘の胸へさして、そしてこのように申しました。「今度お前と逢う時は、お前の幸福になる時だ」とこのように申しました。そして何時の間に来ていたやら、岸に着いていた帆舟に乗って、南の方へ消えて行ってしまいました。帆舟が地平線の背後へ消えてなくなるまで娘は見送っておりました。(長き沈黙)それから後は娘の心は、しじゅうその音楽家の姿に引きつけられ、忘れることは出来ませぬ。時々忘れかけようと致しますと、たちまち別れる時の言葉が聞こえて来ます。……それが娘には何んとなく、恐いと同時になつかしいのでござります。(間)娘は心の中で、あの音楽家が娘の体と心とを、永久に支配する人のように思われてしまいました。(間)今も今とて、堅くそう信じているのでござります。
公子 その怪しい音楽家は、どのような姿をしておりました。(思いあたると云う様子)
女子 (ためらわず)紫の袍を着て、桂の冠をかむり、銀の竪琴を持った、若い美しい、騎士の姿でござりました。
公子 (思わず立ち上がり)ああ、それは、ほんに、ほんに、ほんに恐ろしい誘惑でござりますぞ。私は誓って申します。それは世にも恐ろしい誘惑でありますと。……私の死んだ母も、その誘惑のため、不貞の女となったのでござります。
女子 (驚き)貴郎のお母様。
公子 決して偽《いつわり》は申しませぬ。紫の袍を着て桂の冠をかむり、銀の竪琴を持っている騎士姿の音楽家なら間違いなく母の敵《かたき》でござります。
女子 (戦慄)私は何やら空恐ろしくなりました。一体貴郎のお母様はどうなされたのでござります。
公子 私の申すことを信じて下さいまし。(力を籠め)母はその恐ろしい男のため不貞の罪を犯しました。そしてそれが母の最後を急がせました。……思っても恐ろしい、そして憎んでも憎み足らぬあの悪魔……悪魔悪魔。
女子 ただそれだけでは私にはよく解らないのでござります。いま少し詳しくお話しなされて下さいまし。(間)ああ、私の心は、どうやら寒くなりました。聞かぬ中からその時のことや、その場の様子が眼に見えるようでござります。
公子 (やや沈着となり窓に行き音楽堂を眺む。夕陽消えて暮天暗し。月の昇らんとする様見ゆ)ああ日が暮れた。(沈思女子の顔を熱心に眺め、力をこめて語り出す)今音楽堂のある対岸の岩の上には、十年以前、小城のような邸宅が立っていたのでござります。(娘も窓に行きて音楽堂を眺む)その小城で若い領主は、美しくそして操《みさお》の正しい女子を妻として、八年間、そこに暮しておりました。その女子はバイオリンの名手でござりました。(間)それが私の母であるのでござります。(間)二人の間がどのように幸福であったか、その睦まじさがどんなに人々をうらやませたかは申さずとも、貴女はお察し下さるでしょう。近隣の人々は、あの小城の下の海には、つがいの鴛鴦《おしどり》がいつも浮いていると云いふらしましたくらい。――二人がよく小舟を浮かべて、小城の下の静かな海で漕ぎ廻ったからでござります。(間)母はまるで白い人魚のように見えました。で誰云うとなく人々は、母のことを人魚人魚と申しましたが、母もしまいには、自分ながら、自分を人魚だと申しておりました。(間)人魚はよく歌いました。歌った歌は、「死に行く人魚」の歌と云って、憐れっぽい歌でござりました。その歌の大体の意味はこう云うのでござります。――海の都に人魚の姫が住んでおりました。或る日の夕暮に、ふと[#「ふと」に傍点]海の面へ浮かびますと、一つの赤い帆の舟が直ぐ手前に浮いておりました。舟の船首《へさき》には一人の美しい公子がおりまして、人魚に笑いかけ、そして手に持っていた銀の竪琴をかき鳴らし、誘惑の歌を歌ったのでござります。歌声が人魚に聞こえた時、人魚は海の都を忘れ果て、その公子を慕うようになったのでござります。(間)人魚は公子の乗っている舟を追いました。(間)舟は次第次第に地平線の方へ辷《すべ》って行きまする。公子はその舟の船首で声高々と誘惑の歌を歌います。(間)人魚が追えば追う程、舟はだんだんと遠ざかりまして、青褪めた月が海上に昇り、屍のような水の色が、海の面《おもて》を蔽《おお》うた時、人魚も舟も地平線の背後へ隠れてしまいました。(間)そして人魚は永久に海の都へは帰って来ず、海の都では行方知れずの人魚を浮気心だと云って憎みました。……歌の意味はこのようなものでござりましたが、母はこればかりを歌っておったのでござります。(長き沈黙)恐ろしいことでござりました、不思議なことでござりました。その人魚姫の運命が、さながらに母の身の上へ落ちて来たのでござります。(と窓外を見る、月光水の如く窓より差し下る。これより以前、二人の使女は立ち帰りしが女子と公子と語り合うを見て、何か囁き合うて退場)
公子 その悪い運命の呪詛が、母の身の上へ落ちた晩も、(間)ああ今夜のように月光の青い晩でござりました。死んで行く人へ着せる経帷子《きょうかたびら》に螢の光がさしたような、陰気の晩でござりました。ああ丁度今夜のような、(女子は身を震わす。風吹く)母が寝台から不意に立ち上がりました。(間)傍に寝ていたその時八歳の私へ、チラリと横眼をくれたばかりで――それは母が私にくれた最後のなつかしい眺めでござりましたが。母は寝巻姿のままで裏庭へ立ち出でました。ふらふらと歩く姿は、夢遊病患者のようで、やさしい肩から垂れた懸《か》け衣《きぬ》が、空の光で透き通るほど白く見えました。(間)母は裏庭の細道をトボトボと辿るのでござりますが、その時の母の姿は未だに私の眼に残っています。肘まで露骨《あらわ》に出た、象牙細工のような両手を前にさし出して、足をつま立てて、おるのでござります。もすそ[#「もすそ」に傍点]は道の露にぬれて、袖ばりが夜風に払われて、ハタハタと翻ります。母の歩く道には真紅《まっか》の罌粟《けし》の花が、長い茎の項に咲き、その花がゆらゆらと揺れて、母の行くのを危ぶむように見えました。(間)母が両手を前へ差し出した様子が何者かを捉えようとあせっている風に見えましたので、私は窓越しに母の行手を見つめましたが驚いたのでござります。(間)一人の騎士姿の音楽家が、月光に全身をあびせたまま、いと誇り顔に立っているではござりませぬか。(間)夜眼にもしかと認めたのは、紫の袍と、桂の冠と、銀の竪琴とでござりました。そして銀の竪琴をかき鳴らしては、母を海辺へ導いて行くのでござります。竪琴の曲は聞きまがうようもない、短嬰ヘ調で始まる、「暗と血薔薇」の曲でござりました。(間)やがて母の体はその音楽家の両手の中に埋もれました。(間)二人は抱き合ったまま海に臨んだ断崖へ昇って参ります。ああ、ああ、あの夜の物凄く、神秘に充ち充ちた有様と云うものは……空の光に迷う梟《ふくろ》の声、海の波間で閃めく夜光虫、遠い遠い沖の方から、何者とも知れぬ響が幽《かすか》に起こり、暫《しばらく》して鳴り止みますと、後は森然《しん》としています。……丁度、今夜のようにものごとが密やかに見られる晩でござりました、(間、四方を眺め)丁度、今夜のような。(海の遠鳴聞こゆ)
女子 (四方を見廻し)体《からだ》がぞくぞくと寒くなって参りました。恐いお話でござりましたこと。……ほんに今夜は気味の悪い晩でござりますこと。……そして、何者か、迫って来るように。……
公子 あの晩は丁度今夜のように、室には燈火一つ無く、窓の外ばかりが青海の底のように冴え冴えとした沈んだ光で取り巻かれておりました。じっとしていると、何者か背後から迫って来はしないかと思われて、そっと振り返って見たいような、おびやかさるる晩でござりました。丁度今夜のように……
女子 (卒然と背後を振り返り)ああもう、そんなことはおっしゃらずにいて下さいまし。私はもうもう、気絶しそうに思われてなりませぬ。……あのそして、それからお母様はどう遊ばしたのでござります。お母様の運命が早く知りたいように思われてなりませぬ。……そして何んとなく、私の運命が、貴郎のお母様の運命と似ているように思われますのは、どうしたものでござりましょう。……ただ何んとなく、そのように思われますのは……。
公子 同じような誘惑が、振りかかっているからではござりますまいか。(四方を見)ああ、如何《いか》にも今夜は、あの晩によく似た晩でござります。(梟の啼き声聞こゆ)あれ梟も啼いているではござりませぬか。
女子 (胸に手をあてる)悪い運命を導いて来るような厭な鳥の声でござりますこと。……そして今夜に限って、あのように啼いている。……お母様はそれからどう遊ばしたのでござります。若様。
公子 母の姿が岩の頂上に立ったのを窓越しに見たのが、最後の眺めでござりました。(間)翌日、母の白い屍は、海の面に浮いておりました。あおむき[#「あおむき」に傍点]に水に浮いている様子が人魚そっくりでござりました。(間)鴛鴦の浮くべき海の上に、人魚の屍が浮かんだのでござります。(間)恐ろしい誘惑ではござりませぬか。(間)紫の袍を着た、桂の冠をかむった、銀の竪琴を持った騎士姿の音楽家が誘惑の主でござりますぞ。
女子 私は……そのお話を聞いております中に、何んだか自分の運命が、間近に迫ったように思われて参りました。(入口をすかし見て)私にはあの入口の背後に、騎士姿の音楽家が彳《たたず》んでいるように思われます。あの扉が今にも開いてその人が、光り輝く魔法の瞳で私の眼をひきつけはしないかと思われてなりませぬ。(公子忙しく入口に行き扉を開く、廊下より薔薇色の光線さし入る)
公子 紅い光ばかりが彳んでおりました。(と女子の傍へ来る)
女子 (室中を見廻し)、何故今夜に限ってこの室には一つの燈火も無いのでござりましょう、罪を犯す人は光を恐れると申しますが、私共二人は罪を犯すものではありませんのに。
公子 いえいえ、貴女の為ならば、私はどんな罪でも犯します……人を殺すことさえも。
女子 そのような恐《こ》わらしいことを申すものではござりませぬ。人を殺すのは、自分を殺すと同じではござりませぬか……。
(暫く無音にて両人顔を見合わす。突然、公子は女子の手を取る、女子はそれをこばまんとして能《あた》わず。公子は取りし女子の手を唇にあてんとす。奥より不意に、笑声起こる。女子取られし手を振りはなし)
女子 あれ笑い声が聞こえます。
公子 我等二人を笑ったのではありますまいに。
女子 いえいえ、それを案じたのではござりませぬ。あの笑い声の中に。(と恍惚となり笑声せし方に二三歩進む)
公子 (女子を支え)あの笑い声の中に……。
女子 はい、あの人[#「あの人」に傍点]の笑い声が混ざっているのではありますまいかと……。
公子 あの人[#「あの人」に傍点]とは……。
女子 私の恋しい人でござります。
公子 (意気ごみ)恋しい人……。
女子 恋しい恋しい人でござります。
公子 それは誰のことでござります?
女子 紅の薔薇の送り主。
公子 ええ。
女子 はい、紫の袍を着て、桂の冠を冠り、銀の竪琴を持った、騎士姿の音楽家のことでござります。
公子 (憤慨の語気)貴女を魔道に導く誘惑だと知りながら……誘惑の主と知った今も、尚そのように恋しいのでござりますか。
女子 どうしても恋しいのでござります。(悲しげに)恋しく思わねばならぬ義務のあるように……。
公子 恐ろしくは思わずに。
女子 恐ろしさと恋しさとが、今は一つになりました……。恐ろしいのか恋しいのかも知れませぬ。
公子 ああ貴女は……呪詛《のろ》われた女ですぞ。(力強く)私は、そう申します、貴女は呪詛われた女だと。
女子 紫の袍、桂の冠、銀の竪琴の人。(とすすり泣く)
公子 (暫時手を胸に組み、然《しか》る後に女子を見る。憤然と)――お聞き下さい!
女子 はい!
公子 私は決心致しました。屹度《きっと》貴女を誘惑者の手には渡しませぬ。
女子 いえいえ、それは……。
公子 お聞き下さい! 私は屹度、貴女を救ってごらんに入れますぞ!
女子 いえいえ、それは……はい、それはとうてい無駄のことでござります……。私の心は紅いこの薔薇の花から、離れることは出来ませぬ……。暗《やみ》の中にて、罪悪の手に培われた血薔薇の花!(と紅き薔薇に唇をあつ)
公子 (窓外の月を眺め)あの月がひとまず沈み、やがて再び現われる頃、貴女は私の所有《もの》です。
女子 明晩のことでござりまするか。
公子 明晩の今頃は、月桂樹の冠と共に、貴女は私の所有です。ああ明晩私の弾くバイオリンの曲は、死んだ母と、私ばかりが知っている「死に行く人魚」の歌でござります。あの歌には母の思いが篭っています。(間)あの歌を明晩は音楽堂で弾くのでござります。そして競争に打ち勝つのでござります。そして貴女を私の所有とするのでござります。(力強く)私の弾く短ホ調のバイオリンの曲は、あらゆる総ての楽器に打ち勝つでござりましょう。
(奥にて大勢の笑声、諸々の楽器の音……やがて燈火を携えし、以前の使女二人、左の口より入り来り、公子に丁寧に礼をなし、女子に向かい)
使女A お嬢様はまだ此処においででござりましたか。
女子 若様と明晩の競技のお話をしていたところ。(やや小声にて)そして、あのお方は奥においでではなかったかえ。
使女B 浅黄色の袍の人、萌黄色の袍の人、蛋白石よりも涼しい白い色の袍の人は幾人もおいでになりますが、紫の袍の人は一人もおいでではござりませぬ。
使女A 真鍮に銀の鋲を打った冑、金襴で錏《しころ》がわりに装飾《よそお》った投頭巾《なげずきん》、輪頭形《りんどうがた》の冑の頂上に、雄猛子の鬚をつけた厳《いか》つい冠もの[#「冠もの」に傍点]、そのような冠もの[#「冠もの」に傍点]を冠《かむ》った方は数多く見えましたが、桂の冠をかむった方は一人もお見えなされは致しませぬ。
使女B そして銀の竪琴を持った人は一人おいでなされましたが、そのお人は、白髪の老人でござりました。
女子 ……白髪の老人……。(と不思議そうに考える。――奥にて盛んなる笑声と、楽器の音)
使女A 私共二人は若様とお嬢様とをお迎えに来たのでござります。お殿様が、若様とお嬢様とを、お客様の方々へ、紹介《ひきあわせ》るによって、連れて参れと申したのでござります。
使女B お殿様もお客様も、皆お待ちかねでござりますれば、早く御出で下さるよう。
公子 (頷きて)おお、それはそうありそうなこと。(女子に向かい)明日の贈物《かずけもの》の貴女のお顔を皆の者にお見せ下されて、贈物がどのように美しく気高く値《あたい》あるかをお知らせなされませ。(女子の手を取り)そしてその贈物を屹度手に入れて見せると云うて、天地の神々は愚か、母の魂にまで誓った一人の若者が、この館にいることをも皆の者にお知らせなされて下さりませ。(二人の使女に向かい)俺は残念ながら、明晩の競技までは誰にも面会は致さぬ決心故、さようお父上に申しくれい。(大いなる決心を見せ)あの月が沈むまで(と窓外の月を眺む)、死に行く人魚の歌を(と高殿を見)、あの高殿で弾くことにしよう。(と階上に昇り行く)
使女A さあお嬢様、皆様のお待ちかねの、酒宴の席へ参りましょう。
使女B そのお美しい御様子を、風流の方々へお見せ遊ばしませ。(と左右より手を取る。奥にて笑声)
女子 (取られし手を払い)私は奥へは行きはせぬ。
使女A それなら、どう遊ばすのでござります。
女子 (月を眺め)月の光に照らされて、この室にいつまでもいるつもり。
使女B それでもお殿様やお客様の方々が、お待ちかねでござりますのに。
女子 待つ人の心と、待たるる人の心とが、離ればなれなら致し方がないではないかえ。
使女A 紫の袍を着て、桂の冠をかむり、銀の竪琴を持った方がおいでなされぬ故、そのように申すのでござりましょう。
女子 そうだと云うても、お前方は笑ってくれてはいけぬぞえ。(と面をかくす)
使女B 笑いなどは致しませぬが、使いに参った私どもが、お殿様やお客様へ、何んと御返事を申し上げてよいやらと、それに当惑致します。
女子 いえいえ、少しも云い憎いことはない故に、ありのままを申しておくれ(使女二人は困却せる風にて立ち尽くす。奥にて大勢の笑声。間もなく大勢の足音。――童四人と使女四人とに燭を持たせ、領主及び大勢の騎士、音楽家左の口より出場)
領主 (微酔《ほろよい》)使いの者の遅いのは、また嬢が苦情を申して、早速は来ぬのだろうと察した故、我等の方より出て参った。(騎士、音楽家を返り見、女子を指しながら)これ見られい、明日の勝利の贈物は、このように美しい。この美しさを方々《かたがた》は何んと形容なさるかな、宝玉の名でも花の名でも、色の名でも形容は出来ますまい。
白髪の音楽家 (群衆の最後の列にあり、紅顔なれど白髪、手に銀の竪琴を持つ。それをかき鳴らして進み出で)お嬢様の美しさは、この銀の竪琴の音のようでござります。(一同の騎士、音楽家驚きてその人を見る。その人は静々と場の中央に進む。一同はその音楽家を左右に取りかこむ。女子と老人と向かい合って立つ)
領主 嬢の美しさが銀の竪琴の音のようだとは、当意即妙の讃辞《ほめことば》。(と一同を見)方々もさように覚しめすか、如何でござる。(一同の騎士、音楽家は一斉に頷き笑い、互いに語り合うて各自の楽器を鳴らす。その音、場に充《み》つ。女子は少しく進みて老人を見る。知らぬ人なれば直《ただ》ちに視線をそらして左右の騎士音楽家を見廻し、情人はおらずやと尋ぬれど無し。失望して無音)
領主 (一同に向かい)嬢は機嫌が悪いと見えて、方々に何の挨拶もしない。嬢には時々このような時がある。これは嬢に悪い影がさしていて、時々その影が心をくらますからでござる。
白髪の音楽家 僕《やつがれ》がお嬢様のお機嫌を直してお見せ申しましょう。
領主 いやいやそれは、無駄のことと思われるが。
白髪の音楽家 僕はこの銀の竪琴でどのような悪い影でも追いしりぞけることが出来まする。
領主 (疑わしげに、その音楽家を眺め)その銀の竪琴に何かの呪《まじない》でも籠っていると云うのでござるかの。
白髪の音楽家 世の中の不思議と云う不思議は、皆この銀の竪琴に籠っていると申しても過言ではござりませぬ。(間)これはFなる魔法使いの持っていた竪琴でござります。
領主 Fなる魔法使いとは、どのような魔法使いでござるかの。――紫の袍を着て、桂の冠をかむり、銀の竪琴を持った、若い騎士姿の音楽家ではござらぬか。
白髪の音楽家 Fなる魔法使いは、国々の北から南へ旅をして歩く、音楽家で、「暗と血薔薇」の曲を上手に弾きまする。
女子 (熱心に進み出で)「暗と血薔薇」の曲を上手にお弾きなされますと。
領主 (同じく熱心に)その魔法使いは、今どこ[#「どこ」に傍点]にいるのでござるかの。
白髪の音楽家 (口調ある朗吟的の言葉にて)レモンの花の咲く南の国の人々が、夢よりも虹よりも果敢《はかな》い歓楽にふけっている中に、暗と血薔薇が芽を吹いて、温室の中の子胞よりも生々と、罪悪の香を漲らせます。(間)夕暮の神の白い素足が後園の階段へ下りて来る時、殿堂の姫君達は夜の衣をひきまといて、密かに寝所を遁《のが》れ出で、湖水の面に漂っている、ゴンドラへ乗り込みましょう。そこで罪ある歓楽は遂げられます。(間)姫君達が、そのゴンドラを立ち出でて再び寝所へ戻られた時、室の中には暗と血薔薇が歌っています。(間)恋人を知らず恋人を得んとも思わず、髑髏《どくろ》の盃を見るようなつれない[#「つれない」に傍点]女子でも。また尼寺の童貞でも、森の中の蛇の皮と、裸体祭の風流男《みやびお》とを百年の仇と思いつめるような、情《なさけ》知らずの乙女でも、櫛を折り、鏡を砕き、赤き色のあらゆる衣を引き裂いて、操を立てた若い後家《ごけ》でも、一度Fなる魔法使いの「暗と血薔薇」の音を聞けば、必ず熱い血が躍る。(と銀の竪琴をかき鳴らす)
女子 その「暗と血薔薇」の曲は、私の恋しい人が常々弾いた曲でござります。
白髪の音楽家 恋しい人は、光のように早く来るがまた影のように淡く消ゆるものでござります。(間)淡く消えた影の恋人も、暁の太陽のように、海を照らす探海燈のように、やがて何処《いずこ》からともなく、赤々と現われて参ります、(間)万年、千年、百年、十年。いやいやそのように遠い月日ではない。一年、一日、今宵の中に、その恋人は紫の衣で現われましょう。
女子 (前へ進み)あの紫の衣で現われてか。
白髪の音楽家 赤い色は血の色で、毒々しい罪の色。青い色は秘密の色。この二つの色を合わせた紫の色は、世界の乙女の好む色。この紫の袍を着て、Fなる魔法使いは現われましょう。
女子 そして「暗と血薔薇」を歌ってか。
白髪の音楽家 何かは存じませぬが、まずこのように掻き鳴らします。(と銀の竪琴をかき鳴らす)この銀の音を聞く時は、(凄惨たる音調と、命令的の口調)雄獅子も眠り砂漠の月も空に彳《たたず》む。夢遊病患者が夜の都会の大理石の道を、青い煙のようによろめき歩いても、やがて運河のほとりの岸で、打ち仆《たお》れて眠ります。(威圧的の強き口調にて)騎士も眠り領主も眠る。(立ち並びいる騎士、音楽家は、各自の楽器を介《かか》えしまま、床上に片膝をつきて眠る。領主は傍の寝台の上に仆れて眠る。使女や童はいつしか退場、従者は壁によりかかりて眠る)――醒めたる者は恋人同志の二人だけ!
女子 (なつかしげに)その恋人はどこにいるのでござります。
白髪の音楽家 (女子の言葉を聞かぬものの如く)短嬰ヘ調は地獄の音調でござります。――この音調の響く時、まず眠りが参ります。その次に死が参ります。(間)短嬰ヘ調を銀の竪琴に合わせて歌う令人は、全世界に唯一人ある(間)「暗と血薔薇」の曲を弾く、紫の袍を着た人だ。(この時より言葉の調子荒くなり、一層朗吟的となる)やさしき女よ。お前は間もなく、その悲しい歌を聞かねばならぬ。お前のなつかしむ恋人に逢う時は、その死の歌を聞く時だ。その死の歌を聞く時が、女よお前の一生で、最後の幸福が来る時だ。(間)悲しいこの歌の犠牲となった、世に美しい女の中には、一国の領主の妻もあった。領主の妻は、高い岩の頂きに住み、海の人魚に歌を送り、わが身を人魚に例《なぞら》えていた。……ああ実《げ》に死に行く人魚よ!(窓口に行き、音楽堂を眺め)悪しき紀念の音楽堂が、不貞の妻のために造られて、白からぬ女の霊魂を、何時まで彼処《かしこ》に止め置くのか。(領主を返り見)愚かなる領主の君! (女子はこの間に恍惚たる心となり、柱によりかかりて首を垂れる)再び罪と嘆きを呼ぼうとて、Fなる魔法使いを此処に召した。巡り来る、必然的の運命なれば致し方もあるまいが、(領主を見て)さりとては、うつけ者の領主の君! (また並びて眠れる騎士、音楽家を眺め)眠れば死んだと同様なるお前達! 大理石の邸宅が焼け、金剛石の腕輪が燃え、氷山の頂きに裸体の女が立っていても、また東洋の草や木が、ホライズンの彼方に見えて、巫人《みこ》の一群が丸き輪をなし、聖歌を歌いながら躍っていても、眠ったお前達には何も見えまい。(突然)神秘の曲が夢に入る。早く各自の楽器を鳴らせ。(一同無意識に楽器を鳴らす、その音、場に充《み》つ)地獄へ送る送別の音が、いと高々に鳴り渡っても、眼醒むる人は一人も無い。(女子を見て)野を行く柩のかけ[#「かけ」に傍点]衣《ぎぬ》が、麻で織られた白布でも、大理石の温槽《ゆそう》の中へ、流れて落つる雪どけ水[#「雪どけ水」に傍点]でも、お前の今の心のように、清いものは世にあるまいが、それが亡びようとしているのだ。しかし小鳥よ眼を醒すな、眼を醒さずに音を聞け! (と短嬰ヘ調の音をかき鳴らす)聞け聞け今の一曲が「暗と血薔薇」の序の一節だ。湧き狂い立つ罪の喜びが、どのように暗の中で笑っているか、その一曲では未だ知れぬ、小鳥よ眠りながら再び聞け。(とまた弾ず)暗は罪悪を醗酵させ、生を死と変じさせ、光を吸って生きている。丁度女の心のようだ。……女よ! さらば歌を聞け。(と「暗と血薔薇」の歌を歌う)

短い命が暗《やみ》に沈む、
紅い薔薇の嘲笑《あざわらい》
罪が楽しい戯《たわむれ》と、
思う時の人心《ひとごころ》
それ暗の赤き薔薇。

(歌い終わりし時、白髪は一変して黄金色となり、白衣は紫の袍と変ず)幻《まぼろし》は夢と現《うつつ》の間より来る、誘惑は美より来る、Fなる魔法使いは、美と誘惑と幻とを、一つに集めた夕月より来る。(間)夕月の光が窓を通って、俺の姿を照らしている。俺の姿を見ろ! Fなる魔法使いの姿を見ろ! (と女子を手にて招く、女子は両手を前に差し出し、足をつま立てて進み来る。その状あたかも、先刻公子が語りたる、死せる領主の妻の誘惑に向かいし時の姿に似たり)女よ今こそ、お前の恋しい人を見ることが出来るだろう。紫の袍を着た、銀の竪琴を携えた――。北の海辺の荒れたる丘で、血薔薇の花をお前にくれた、一人の男はこの俺だ、俺の眼《まなこ》を見ろ! 魔法の光に輝いている――。(竪琴を鳴らし)眠った人の覚めぬ間に、我等は罪悪を犯さにゃならぬ。(間)罪悪には燈火はいらぬ。(間)人のつけた燈火《ともし》の光は、人間の罪を照らすには、あまりに明るすぎるようだ。(突然)外に出よ月がある。月の光は青白く罪そのものの光のようだ。(女子を見て)女よ俺に従《つ》いて来い、Fなる魔法使いに従いて来い。(と竪琴を弾きながら、そろそろと正面の出口に向かう。女子は姿勢を崩さずに、その後に従う。Fなる魔法使いは一同を眺め、冷笑的の口調にて)愚者《おろかもの》の騎士、音楽家、領主の君のおひとよし[#「おひとよし」に傍点]、いつまでも明るい殿堂の中で、一人の女の不義する間、心地よい眠りをつづけていろ!(大きく笑い)領主の君の恋する女は、勇み進んで不義の砦へ進んで行く。白い肌が血に染まり、一度も吸われぬ唇は、千度《ちたび》百度《ももたび》けがされよう。(再び大笑)熟睡の間、楽器をかなで、節操の讃歌《ほめうた》でも歌っていろ! (大声)さあ早く一曲弾け! (一同各自の楽器を鳴らす。楽器の鳴りおる間に、Fなる魔法使いと女子とは、正面の口より退場す。燈火一時に消え、月光のみ青く窓よりさし入る。暗黒の中にて楽器は暫時鳴り渡る)

(幕――)

          第二場

領主の館の裏庭。同じ夜。
一面の罌粟《けし》畑、月光それを照らす。左方に領主の一子(公子)の住む高殿聳つ。その奥は断崖にして海に連なる。右方には音楽堂の姿背景《バック》にて現わる。Fなる魔法使いは領主の館に向かい竪琴を弾じつつ後《うし》ろ退《さが》りに罌粟畑を歩み出ず。一間ほどを距《へだ》てて女子、両手を前に差し出し足をつま立てて歩く、眠れるが如き様子)[#「様子)」はママ]
Fなる魔法使い 大理石の牢獄を遁《の》がれ出て、潮の国へ自由が歩む。潮の国には人魚がいる。(笑う)敗けた歌女《うたいて》が海の底でお前の来るのを待っている。(女子を見詰め)女よ! 溺れ行く、弱き者よ。執念の蛇の血は、心地よき流れとなりて、俺が弾ずる琴の糸からあふれ出て、お前の心へ忍び入る。心のかなめ[#「かなめ」に傍点]はかき乱され、肉は熱く戦慄《おののい》て……お前の顔は笑み崩れる。(大声)さあ女よ笑って見せろ! (女子声なく笑う)お前の笑《えみ》を得んがため、諸国の憐れな令人達は、大理石の館へ集った。そして今そこで眠っている。(笑う)笑は罌粟の畑をすぎて、青海原へ沈み行くのに、何も知らぬ領主の君。(間)さても白いお前の肌(と女をしげしげと眺め)ローマの朝の白露が野茨の花へ降ったようだ。鴻の鳥の胸毛のようだ。建国の第一の朝に、汚れを知らぬ谷の洞から、湧き上がった霧のようだ。(やや悲しげに)それが今や汚される。(罌粟畑を眺め)この広い血の海で、その白無垢が赤く染まる。(竪琴を眺め)どのように銀の調《しらべ》が、血と暗《やみ》とを喜ぶだろう――。女よ再び暗と血薔薇の呪詛を受けよ。(と短嬰ヘ調をかき鳴らす。琴と共に「暗と血薔薇」の歌を歌う)

暗がわが身を取りかこむ、
裸身なれど恥らわじ。
……………………
抱く男のやわ肌を
燃ゆる瞳にさがさばや

罪が巣くいし血薔薇とて、
恋の生身を刺すとかや、
暗なれば血は見えずして。
……………………

(この歌と共に、女子は弱々しく歩む。Fなる魔法使いはなお歌い弾く)
一夜の情にほだされて、
大理石なる清き身を
罪に渡すも男ゆえ。
砒素の歌……………
真珠に盛りし鴉片《あへん》さえ
女子の恋はうつせまじ。

(歌切れると共に女子は疲れ果ててFなる魔法使いの肩にすがる。魔法使いは女子を片手に介《かか》えて海を眺めて彳む。突如高殿よりバイオリンの音聞こゆ。調《しらべ》は短ホ調、歌は「死に行く人魚」の歌)
幻の美しければ
海の乙女の
あわれ人魚は
舟を追う。
波を分けて舟を追う。
月は青褪めぬ、
屍に似たる水の色。

(歌と共に高殿の窓開らけて、公子の姿現わる)
Fなる魔法使い (公子の姿を眺め、歌に耳を澄まし)あの歌は以前どこかで散々聞いた歌だ。奈落に沈む悲しげの音が短ホ調へしみこんでいる。あれを歌う男は生きてはいまい。あれを聞く女も死ぬだろう。(間)あれは死の歌だ。(女子もその歌に耳を澄ませて、高殿を見上ぐ。高殿の上にて公子、罌粟畑を見下して弾き且《か》つ歌う)

赤き帆は
追えども遠く離れ行く(ふっと切れ、直につづく)
船の中なる美しき影。

(女子はFなる魔法使いより離れて、高殿の方に歩み寄る、Fなる魔法使いはそれを凝視し)
Fなる魔法使い あの歌の力強い響きは巨人のようだ。眼に見えぬ大いなる影が、あの歌の陰にひそんでいて、歌う彼を助けている。それがあの歌を助けている。(間)俺の弾く「暗と血薔薇」の一曲には、邪悪《よこしま》の恋が歌われ、不義の慾望が吟じてあるが、あの短ホ調の一節には、正しい嘆きが篭っている。恋しさを恋する純なる情と、遂げねば死なんと願う心が、三筋の糸の顫《ふる》えから流れ、砒素のような烈しさで、女心をかき乱し、迷いの霧から招いている。(力強く)誰のために誰が作った歌だろう。
公子 (歌い且つ弾く)

ひきとめ難き恋心、
恋心、
遂げねばならぬ恋心、

(女子、高殿の下まで行き、公子を見上げ)
女子 若様!
公子 (聞こえぬものの如くに歌う)


水の都の人魚は、
  人のなすなる恋の道

女子 若様、若様!
Fなる魔法使い (楽器を烈しく掻き鳴らし)あの歌の鋭い神経が、迷った女を醒《さま》そうとする。(突然)俺の敵だ! 死を教えるようなあの歌の清い意味が俺の敵だ。(間)幸福たらんとする乙女、既に幸福なる人妻を、思わぬ邪道に導き行くこのFなる魔法使いの、銀の竪琴の淫《みだ》らの音が、あの清き音に敗けてはならぬ。(突然)敗ける時は俺の恥だ! 千万人に試みて、千万人に成功した我が誘惑の「暗と血薔薇」の一曲が、罌粟畑の血の海でどれだけ音高く歌われるか聞け。(と「暗と血薔薇」の曲を歌う)
 
  暗《やみ》に咲ける緋文字の悪よ
  悪の手に培《つちか》われ
  暗に咲ける罪の花

女子 (高殿の下よりFなる魔法使いの方に歩み寄り、その肩にすがり)貴郎《あなた》は誰れなの?
Fなる魔法使い (女子を介《かか》え)北へ行こう北へ行こう……。北の浜辺で、お前へ血薔薇の花を与えた若い男は俺だ。
女子 その人は桂の冠をかむっておりました。貴郎にはそれが無い。
Fなる魔法使い (頭に手をやり)桂の冠は、明日の競技に勝った時、俺の頭に載っている。
女子 貴郎は誰なの?
Fなる魔法使い お前の恋しい男じゃないか。
女子 貴郎は誰なの?
Fなる魔法使い Fなる魔法使い! (と女子を介えて海辺へ行かんとす。高殿より再びバイオリンの音聞こゆ。それと共に、「死に行く人魚」の歌を歌う)

  人魚の恋はとげられて
   はかなく消えし赤き帆や
  あわれ幻。

(女子はまた、Fなる魔法使いの肩より離れて、高殿を見上げる)
女子 若様!
公子 (歌う)

   屍には白き藻草を着せかけん、
  瞳の閉じし面には、
  かぐろき髪の幾筋と
  鈴蘭の花をのせて置く

女子 若様、私は此処におりまする、若様!
公子 (歌う)

  死んで行くなる乙女子の
   水の都の人魚へ……

女子 (高殿の下へ馳せ行き、物狂わしく)若様、若様、私は此処におりまする。
公子 (答えなく歌う)

   声もとどかぬ水底の
   水の都の同胞《はらから》は、

女子 ああ未《ま》だあんな悲しい歌を歌っていらっしゃる。若様!
公子 (歌いつづけ)

  行方知れずの人魚を
  浮藻の恋になぞらえて、
  はかなきものと語り合う。

女子 (泣きつつ)若様、若様、若様よう。
公子 (ふっと歌を止めて、すかし見しが、直ちに復《ま》た歌う)


  わだつみなれば燐の火の
  屍を守ることもなく、
   珊瑚の陰や渦巻の
  泡の乱れの片陰に……

(声も楽器も、不意に途絶ゆ。女子は高殿の柱に取りつき)
女子 若様! そんな悲しい歌はお止《や》め遊ばしな。あの、私は此処におりまする。
公子 (身を階下にかしげ)誰れだ!
女子 私でござります。
公子 誰れだ!
女子 私よ……若様!
公子 (青き燭の火を差し出す、女子はその火をあおぐ)
女子 若様!
公子 (すかし見て)おお貴女は! ……どうして今頃そんなところに……おいでなされます。
女子 あの恐ろしい老人が、私を連れ出したのでござります。銀の竪琴で歌を歌い……。
公子 (せわしく)それが誘惑です。
女子 若様。
公子 その老人とは、紫の袍を着て、桂の冠をかむり、銀の竪琴を持った、騎士姿の音楽家ではござりませぬか。
女子 いいえ、白い衣を着た、白髪の老人でござります。桂の冠はかむっておりませぬ。
公子 その老人はどこにいるのです。
女子 (振り返り)あれ、あすこに立っておりまする、月の光をあびて立っておりまする。
公子 (すかし見て)ああ、私にもよく見えます。(驚き)あの男だ、あの男だ、――ああ悪魔!
女子 老人でござります。白髪の老人でござります。
公子 紫の袍を着て、銀の竪琴を持っている。若い美しい音楽家だ! (一寸躊躇し)ああそれだのに、桂の冠をかむっていない。
女子 いえいえ白い衣を着た老人でござります。
公子 あの男だ、母を殺したあの男だ。
女子 いえいえ老人でござります。(と振り返り)あれ、もう、静かに歩いて行きまする。
公子 勝ち誇った騎士のように、ゆっくりと歩いて行く。――紫の袍が煙のように、銀の竪琴が星のように……。(Fなる魔法使いは、無音にて花陰へ隠れ去る。奥にて大勢の人声。やがて真先に領主と従者、後につづいて騎士、音楽家、左右より現われて女子の方を見る)

(幕――)

          第三場

翌日。一場と同じ領主の館の一室、窓より海と音楽堂と見ゆ。室内には窓に近くただ一台の寝台あり。夜。先夜の如く月明らかなり。
女子は寝台に腰をかけ体を斜にして音楽堂を眺む。使女ABの二人はその左右に立ち、同じく音楽堂を眺む。静。――館内の人々は皆、音楽堂に出で行ける後)
使女A 空が水銀のように晴れて、滴が垂れそうな晩でございますね。(間)ごらん遊ばせ、お月様が空のまん中を軽々と歩いていらっしゃります。お月様の通る道には雲が金色の縁《へり》をつけております。風が渡ると見えて、その雲は千切れたり集ったり致します。そして皆んな音楽堂の丸家根をめがけて押し寄せて参ります。(笑う)おしかけ婿様のような雲でございます。
女子 そのように、騒いではいけぬじゃないかえ。今夜はそんな晩ではありません。(間)ほんにお月様は空のまん中を歩いていらっしゃるが、その御様子が大変心配ごとでもおありなされるように見えるじゃないか、そして私にはいつもより大そう形が大きく見える、そして光が青く見える、そして顫《ふる》えておいでのように見えるぞえ。雲の間をお通りなさる時は、忍びやかに恐ろしそうに、丁度暗殺者の群の中を及び腰で通って行くようだ。お月様の周囲を取りかこんでいる雲は、平常《いつも》の夜とは違って形が怪しく見えるじゃないか。お心よしの王様を毒害しようと、毒のある盃を口許へ突き出したような雲、墓場の門を大勢の亡者が押し破ろうとしている雲、葬式の柩を尼寺の尼僧と童貞ばかりが送って行くような雲、運河の上を数限りもない帆舟が行き、その舟の中には経帷子《きょうかたびら》を着た女と男、老人と子供の亡者ばかりが乗りこんでいて、呪詛の叫びをあげているような雲、(間)そして一番はっきり[#「はっきり」に傍点]と見えるのは、天才らしい青年の音楽家が、競技に敗けて愧死するように見える雲だが、あの青年は誰れやらに似ているように思われるぞえ。
使女B どの雲でござります。
女子 (窓口に来り、空を指し)今、音楽堂の丸家根の上にじっと止《とま》って下を見下ている、あの雲の形がそのように見えるじゃないか。
使女A (笑い)水母《くらげ》が躍っているように見えるではござりませぬか。
使女B 白痴の子供が裸体で騒いでいるようにも見えますが。
使女A ほんにそのようにも見えまする。
女子 (首を振り)いえいえそんな形じゃない、あれは大変悪い前兆の雲だぞえ。あれいつまでも丸家根の上から離れぬじゃないか。他の雲は皆んな丸家根を越して、彼方《むこう》へ彼方へと行ってしまうけれど、あの雲だけが動かずに、じっと音楽堂を見下している。あれが悪い前兆だと云うのだぞえ。
使女B お嬢様は昨夜からかけて、よほどお心持ちが昂奮していらっしゃります。神経が鋭くなりすぎていらっしゃります。
女子 昨夜のことは決して云うておくれでない。あれはほんの魔がさしたと云うものだから。
使女A 魔がさしたのはお嬢様ばかりではござりませぬ。あれほど沢山おいでなされた、騎士、音楽家の方々が、一人残らず片膝をついてお眠り遊ばし、無宙《むちゅう》で楽器をお弾きなされたと申すのは……。
使女B あれは皆様御一同へ魔がさしたと申すものでござりましょう。その中でもお嬢様が一番お美しくていらっしゃる故、それで一番深く魔者に見込まれたと申すものでござりましょう。
女子 あの晩私は、何時の間にお館を出て裏庭の罌粟畑へ行ったやら、私は少しも知りはせぬ。(間)ただ覚えていることは、白い髪の毛の音楽家が、銀の竪琴を弾いたこととその音が胸にしみ入ると、私はいつもになく……笑っておくれでない、私はいつもになく、淫《みだら》の心となったこと、丁度、一年前、北の浜辺で紅い薔薇の花を、紫の袍を着た、桂の冠をかむった、銀の竪琴を持った、若い美しい音楽家に貰った時のような心持ちとなったことを、いまだにはっきりと覚えている。
使女A 高殿でバイオリンを弾いていらっしゃった若様が、あの時、罌粟畑の中で今お嬢様のおっしゃったような、紫の袍を着て、桂の冠をかむり、銀の竪琴を持った、年若の美しい音楽家をごらんになったと申すことではござりませぬか。
使女B いえいえ、桂の冠だけはかむって[#「かむって」に傍点]いなかったと申すことでござります。
使女A ほんにそうだったと申すことでござります……。お嬢様はその音楽家をごらんなされはしなかったのでござりますか。
女子 私はそのような音楽家は見なかったけれど。(と考える)
使女B 白髪の老人だと云う音楽家が、その実、若い美しい、紫の袍の音楽家であったのではござりませぬか。
女子 私も、もしや、そうではなかったかと思うけれど、(間)いえいえ、そんな筈はない。もし老人の音楽家が私の思っているその人なら、私は屹度その人に連れて行かれたに相違ない。
使女A 連れて行かれそうになったのを、若様がおひきとめなされたと申すことではござりませぬか。
使女B 若様のお歌いなされた歌が、お嬢様のお耳へ聞こえたので、お嬢様は正気にお返りなされたと申すことではござりませぬか。
女子 若様のお歌いなされた「死に行く人魚」の歌が、あの時私の耳へはいって、私を正気づけたことは、ほんとに違いはないけれど。(小声にてその歌を歌う)

   屍には白き藻草を着せかけん、
  眼の閉じし面には
  かぐろき髪の幾筋と、
   鈴蘭の花をのせておく。

何故この悲しい歌が、私を正気に返らせたのか、私には解らない。
使女A あの怪しい老人の歌った厭な歌に、歌い勝ったと申すのではござりますまいか。
使女B 老人の歌った歌を、お嬢様は今でも覚えていらっしゃりますか、血が泣くような厭な厭な歌。
女子 (小声にて歌う)

   短い命が暗《やみ》に沈む
  紅い薔薇のあざ笑い、
   罪が楽しい戯れと
  思う時の人心、
  それが暗の紅き薔薇。

ほんに厭な恐ろしい歌だこと。ただ歌ったばかりでも、深い深い罪の洞へ引きこまれるような気持ちがする。……だがまた何んだかなつかしい[#「なつかしい」に傍点]、恋しい思いの湧き起こるのは不思議じゃないか、丁度|人眼《ひとめ》を忍んで媾曳《あいびき》する夜の、罪と喜びとの融《と》け合った、その恋しさがこの歌の調子に似ているぞえ。――そしてこの歌は、どうしても嘗《まえかた》どこかで聞いたことがあるように思われる。
使女A 北の国の浜辺でお嬢様へ、紅い薔薇の花をお渡しなされた、若い美しい音楽家が、歌ったのではござりませぬか。
女子 (手を軽く拍ち)ほんにそう云えばその通り、たしかに其処で聞いたに違いない、魔法の光り物のようなあの人の瞳が、私の瞳を引きつけている間に、お歌いなされた歌に相違はない。どうしてお前はそれを知っているの。
使女A 知っているのではござりませぬ。何事でもお嬢様のお心を強くひきつけるいろいろの事件は皆、その人がなされる仕業のように思われますので、それでそう申し上げたまででござります。(女子黙して考える。二人の使女も黙す。月光やや暗くなり、海上に白き影浮かぶ)
女子 白いものが海の上に浮いて見える。音楽堂の下の岩陰からだんだん此方《こなた》へ動いて来る。
使女A 夜を遊ぶダイヤナと申す水鳥でござります。
女子 ダイヤナにしては形が大きすぎるじゃないか。私にはどうやらあれも[#「あれも」に傍点]、悪い兆《しるし》のように思われるぞえ。
使女B いいえ、水鳥の列でござります。ダイヤナはよくあのように列を作って夜を海上で遊びます。あれごらん遊ばせ、二三羽|羽搏《はばた》きをしたので水煙が銀砂のようにパット空に昇りました。
女子 いえいえ悪い兆です。どうやら死んだ屍を送って行く柩の舟に見えるじゃないか。
使女A あれまたお嬢様は気味の悪いことをおっしゃります。何んであれが葬式の柩でござりましょう。水鳥が連らなって泳いでいるのでござります。
(空にて大鳥の翔《か》くる音)
女子 (空を見上げ)あの恐《こ》わらしい音は?
使女B ダイヤナの五六羽が空を翔けたのでござります。あの鳥が空をかける時は、ほんに星が飛ぶように素早くて、そして嵐のような恐い羽音を立てまする。
女子 空を翔けて何処へ行くのだろうね。
使女A 寒い北の国へ。
女子 (卒然と)その国では沢山の人が死ぬのじゃないかえ。
使女B (Aと顔を見合わせ)お嬢様!
女子 (悲しげに)死んだ人の魂を送りに行くのじゃないのかしら。
使女A もうお嬢様、窓から覘《のぞ》くのはお止め遊ばしませ――何んだか今夜も昨晩のように魔でもさしそうな晩でござります。――早く御寝間へおはいりなされてお眠り遊ばしませ。
女子 (悲しげに)どうして私が眠られるものか。今夜で私の運命が(と言葉を切り)決定《きま》ってしまうのじゃないかえ。
使女B (当惑らしく)それはそうかも知れませぬが……。
女子 私の運命は、今に点ぜられる音楽堂の燈火の色で決せられてしまうのじゃないかえ。
使女A まだまだ間がござりましょう。
女子 間があると云ったとてほんのそれは知れたもの(と音楽堂を眺めやり)、あの頂上の窓へ赤い燈火の点《つ》く時は、沢山の音楽家の中で、誰かが桂の冠を貰うた時――ああそして私の運命が決まった時! (と忍び泣く。二人の使女は顔を合わせて、気の毒の表情。――静。やがて使女は小声にて語り合う)
使女A 音楽堂の内は、今どのようでござりましょう。
使女B 桂の冠と一緒にお嬢様を戴《いただ》こうと、幾百と云う騎士、音楽家が、セロやバイオリンを掻き鳴らし、互いに競い合っているでござりましょう。
使女A 誰が勝つでござりましょう。
使女B 誰が勝つでござりましょう。
使女A ほんに誰がお美しいお嬢様をお貰い遊ばすでござりましょう。
使女B 若様がお弾き遊ばすのは、「死に行く人魚」の歌とか云って、世界中でただ若様一人お知りなされる、悲しい歌だそうでござりますね。
使女A (女子を盗み見)若様がお勝ち遊ばして、お嬢様をお貰い遊ばすなら、どんなに若様はお喜びなさるでござりましょう。
使女B どんなにお嬢様もお安心なさるでござりましょう。
使女A 私は何となく、若様がお嬢様をお貰いなさるのではあるまいかと思われます。
使女B 私もそのように思われます。今にあの音楽堂の窓から赤い燈火が点ぜられ、注進の者が馬に鞭打ってこの館の門前まで駆けつけ、勝利者の名を高々にお呼び上げなさる時。
使女B そのお名は若様のお名らしく思われます。(女子は二人の使女の話を黙って聞き居しが、この時使女に向かい)
女子 若様のお相手をする人は、どんな人だか知っておいでかえ。
使女A 若様と音楽の競争をなさる人でござりますか。
女子 今夜若様と競技をなさる、その相手の人を知っておいでかえ。
使女B (Aと顔を見合わせ)昨夜の大変が起こらぬ前までは。
女子 前までは。
使女A 銀の竪琴を持っていた、白髪の老人が、若様のお相手と決まっていたのでござります。
使女B あの大変が起こって、その白髪の老人の行方が解らなくなりましたので、若様のお相手は、誰れに御変更なされたやら、私共は存じませぬ。
女子 昨夜の大変の起こらない前までは、若様のお相手は、あの白髪の老人だと云うのだね。
使女A 左様でござります。
女子 そんなら今夜の若様のお相手も、あの白髪の老人に相違ない。
使女B 何故でござります。
女子 何故と云うても。
使女A 何故でござります。
使女B あんな騒ぎをひき起こした老人が、今夜あたり、音楽堂へ姿を現わす気づかいはござりますまいに。
女子 そう思うと間違うぞえ。
使女A そんなら、あの老人は今夜の競技に出るのだとお嬢様はお思い遊ばすのでござりますか。
女子 しかも銀の竪琴を持って。
使女B ほんにそう覚しめすのでござりますか。
女子 あの老人は、昨夜唯一度現われて、それっきり姿を隠すような、卑怯な者ではないのだぞえ。
使女A どうしてお嬢様は、それを御存知でいらっしゃります。
女子 (小声にて)Fなる魔法使い、Fなる魔法使い!
使女B どうしてお嬢様はあの老人が、再び現われるとおっしゃるのでござります。
女子 私の呪詛《のろ》われた神経が、そうだと私に教えている故。
使女 呪詛われた神経が?
女子 私の呪詛われた神経が、今夜再びあの老人が音楽堂へ現われると教えている。
使女B 呪詛われた神経とは何んのことでござります。
女子 私にもよく解らない程だもの、何んでお前方に解るものかね。ただ、私の心持ちが、私の智識を打ち破り、智識以上の大きい力で、今夜のことを私に教えている。
使女A 今夜のことを教えている?
女子 今夜あの老人が、音楽堂へ現われると云うことを、何気なくこの私に教えている。
使女A それがお解りのくらいなら、それ以上のこともお解り遊ばすでござりましょう。
使女B 誰が最後の勝利者か、誰がお嬢様をお貰い遊ばすか、それもお嬢様にはお解りなさる筈ではござりませぬか。
女子 それが解るくらいなら、世の中の人は、不幸に沈むことはない。
使女A 解らないのでござりますか。
女子 私の身の上は、私には解らぬもの……。(三人暫時無音。遙かに音楽堂よりオーケストラの音聞こゆ)
使女B オーケストラの音が、つなみ[#「つなみ」に傍点]のように聞こえます。
使女A 音楽のつなみ[#「つなみ」に傍点]のようなあのオーケストラの後が、いよいよ優勝者同志で、最後の競技をするのでござります。
使女B (女子を振り返り)お嬢様にもあのオーケストラの音が聞こえますか。
女子 ええ、ええ、よく聞こえている。(耳を澄まし)そしてあのオーケストラの中で、二つの音が恐い程はっきりと聞こえて来る。……二つの音が。
使女A どんな音でござります。
女子 バイオリンの音と、銀の竪琴の音。
使女B 私にはただ、海のどよめきのような音よりは外に何も聞こえは致しませぬ。
女子 銀の竪琴の音は、つむじ風のように、バイオリンの音を吹き消して行く。
使女A そのバイオリンは誰が弾いているのでござりましょう。
使女B 若様ではござりますまいか。
女子 バイオリンの音は、深山鈴蘭が谷の陰で泣いているように細い細い声となった。
使女A 銀の竪琴は誰が弾いているのでござりましょう。
使女B あの怪しい老人が弾いているのではありますまいか。
女子 銀の竪琴の音は、暗《やみ》の中を荒れ狂っている、赤い焔のように鳴っている。……暗の中の血薔薇のように。(オーケストラの音|止《や》む)
使女A オーケストラが止みました。
女子 (急に窓に行き)ほんに、オーケストラはもう止んだ。(時を告ぐる鐘の音、音楽堂より聞こえ来る)
使女 お聞き遊ばせ、鐘が鳴っておりまする。あの鐘が二度鳴って、三度目に鳴る時は、三組残った優勝者の中最後に打ち勝った一人へ、月桂冠を与える時でござります。
使女A その時、音楽堂の頂上の窓へ赤い燈が点ぜられるのでござります。
使女B その時喜びの太鼓の音が、音楽堂のまん中で轟き渡るので、ござります。
使女A その時、近在から集って来た美しい少年等は声を揃えて、ほめ歌[#「ほめ歌」に傍点]を歌うのでござります。
使女B その時、月桂冠を得た名誉の音楽家は、少年等に取りかこまれ、音楽堂を立ち出でて、海へ出るのでござります。
使女A 海には紅い花で飾った舟が夜眼にも美しく浮かんでおります。
使女B 私共はその舟を婚儀の舟と呼びたいのでござります。なぜと申しますと、月桂冠を貰った音楽家は、その舟に打ち乗って、この館へ参られます。――そしてお嬢様と御婚礼を遊ばすのでござります。
使女A お嬢様と御婚礼を遊ばすのでござります。
使女B (海上の水鳥を眺め)あの水鳥が婚礼の舟の先ぶれのようではござりませぬか。
使女A (同じく海上の水鳥を眺め)私もそのように思っておりました。あのように列を造って泳いで来る様子が、まるで婚礼の舟が引き連いて来るようでござります。
女子 (海上の水鳥を眺め)いえいえ、私には屍を送る葬式の舟のように見えるぞえ、音も立てず、しめやかに泳ぐ様子が、白無垢を着て悲しげに続く弔者の姿そっくりではないかえ。(空の雲を眺め)そして、あの気味の悪い雲が、まだ動かずに音楽堂の頂上で、葬式の列を見送っている。(第二の鐘鳴る)あれ! もう第二の鐘が鳴る。
使女B ほんに第二の鐘がもう鳴ります。
使女A 第三の鐘が鳴るのも間がござりますまい。(三人無音にて、窓外の音楽堂を眺む。静。――やがて第三の鐘が鳴る)
使女B あれあれ、第三の鐘の音が……。
使女A 第三の鐘の音が……。
(音楽堂の頂上に赤き灯《ひ》点ぜらる)
女子 あれ、あれ、紅い火が。(とよろめく)
使女A ほんに赤い灯……赤い灯がつきました。
使女B 赤い灯、赤い灯……。
女子 (寝台に仆れ)私は……ああ、ああ私は……。
使女A (女子を助け起こし)お嬢様!
女子 ――赤い灯、赤い灯……私は……。
使女B お嬢様!
女子 私はもう……誰れかの……。
使女A お嬢様、お嬢様?
女子 いや、いや、いや……。(と泣き沈む。二人の使女途方に暮れて無音。やや長き間の静寂。やがて音楽堂より憂いを含める弔鉦の音聞こゆ)
使女B (窓に馳せ行き)あの悲しげの鉦《かね》の音。
使女A (同じく窓に馳せ行き)歓びの太鼓の音は響かずに、いまわしい鉦の音が聞こえるとは、どうしたわけでござりましょう。
使女B あの鉦の音は、死んだ人を弔う音でござります。それも、思わぬ凶事に身を殺した人のために、つき鳴らされる鉦の音でござります。
(鉦の音、益々悲しげに響き、今まで点ぜられ居し赤き燈火消ゆ)
使女A お嬢様、お嬢様、ごらん遊ばせ、赤い灯が消えてしまいました。
女子 (寝台より起きて窓に馳せ行く)ほんに赤い灯が消えて、月の光ばかりが音楽堂の丸屋根を照らしている。……赤い灯が消えて、(鉦は益々悲しげに鳴る)ああ、そしてあの悲しげの弔いの鉦の音が、震え震えて鳴っている。……凶事の鉦が。
(青き燈火、以前の場所に点ぜらる)
使女B あれ青い灯が!
使女A 赤い灯の代りに点《つ》いている。
女子 ほんに青い灯が……どうしたと云うだろう、死んだ人の魂のために点ぜられる青い灯が……音楽堂に点いている。そして弔いの鉦がつき鳴らされ……。(と海を眺め)あれ、今まで見えていた水鳥の列が、どこへ行ったかもう見えぬ。
使女B (空を見上げ)そして怪しい雲も消えてしまいました。
使女A 死んだように影も形もなく消えてしまいました。(鉦なお鳴りやまず)
女子 まだ鳴っている、まだ鳴っている。
(玄関の方にて駒の蹄の音。嘶《いななき》。やがて間もなく従者いそがわしく出場)
従者 お嬢様は此処においででござりましたか、今音楽堂で大変なことが出来《しゅったい》致してござります。
女子 (従者を凝視し)今鳴っている弔いの鉦の音が、その一大事を告げているのではあるまいか!
従者 おおせの通りでござります。亡び行く魂を傷む鉦の音が、若様の横死を告げておるのでござります。
女子 えッ、若様の横死! 横死! (と寝台へ仆れる)
使女A 若様の横死!
使女B 死! 死!
従者 お驚き遊ばすは御尤《ごもっとも》でござりますが、唯今は驚いてばかりいる時ではござりませぬ。間もなく涙ぐんだ大勢の騎士、音楽家に送られ小供等の挽歌に傷まれて、若様を入れた白木の柩が、この館へ参らるるでござりましょう。柩が館へ着く前に、音楽堂で起こった一大事をお話し致そうと馳せ参じたのでござります。
女子 早く早く、そんなら、それを早く話しておくれ。ああ私の心はつなみ[#「つなみ」に傍点]のように騒ぎ、黒い怪しい魔のような影が心をまッ黒に曇らせている。……若様はどうしてお死になされたのだえ。あの優しくお情《なさけ》深かった若様が。
従者 はいはい。今朝から音楽堂は……。
女子 (もどかしげに)音楽などはどうでもよい。早く若様の御様子を……。
従者 はいはい、ではござりますが、順を追って申さねば、話はお解りなさりませぬ故、まあまあ、お気を静めて一通りお聞きなさりませ。――今朝から音楽堂の中は、セロやラッパの奏楽で耳もつぶれる程でござりました。諸国よりお集りの音楽家の方々は一つの月桂冠と一人の乙女を得ようため、二十歳の人は二十代までの、八十歳の人は八十代までの、自分の技倆の有らん限りを現わして、弾きつ、歌いつなされますので、音楽の嵐がさしもに堅固の建物を揺するかと思われるほどでござりました。(間)それが夕方になってからは追々に静まって、つい先刻の夜半となった頃は、音楽堂は静まり返り、ただ咽び泣くバイオリンの糸、銀の竪琴のそそるような響きが、聴く人の耳にゆれるばかり。(間)やがてオーケストラが始まり、それが止み、堂内は一層の静かさとなりました。さてこれからが三人残った優勝者の中、最後の優勝者を定めるのでござります。
女子 その三人の中に若様がおいでなされたのではあるまいか。
従者 三人の中でも一番望みを嘱されておられましたのが、若様でござります。(間)若様の歌う歌は、天下に若様のみ唯一人知っておらるる「死に行く人魚」の歌と申すのでござりますそうな。(間)若様が気高い姿を楽堂の中央へ現わして、壇上へお上がりになろうとお進み遊ばした時、集《つど》いあつまった諸国の騎士、音楽家の人々や祝歌《ほぎうた》を歌おうと召し寄せられた小供等の視線は、まじろぎもせずに若様の一身に注がれました。その時の若様のお姿は、窓からの月光も、堂内の燭の光も、若様お一人に集ったかと思われる程、気高く美しく見えました、胸には一輪の深山鈴蘭の花がさされ、手には御秘蔵のバイオリンを持っておられました。この貴橄欖石と紅宝玉とで象眼《ぞうがん》されたバイオリンは亡き母上の御形身であるのでござります。(間)しかし、ああ不幸にも、若様が正面の壇の上へ昇ろうと片足を段へかけられました時、その時、人々は奇異の姿に眼を奪われ、不思議の楽音に心をとられました。――ああ、禍いはそこから来たのでござります。
女子 昨夜の老人が、昨夜の姿のままで銀の竪琴を手に持って、立ち現われたのではないのかえ。
従者 その通りでござります、お嬢様はどうしてそれをご存じでいらっしゃりまする。
女子 呪詛《のろ》われた神経が、私の呪詛われた神経が、そうだと私に告げている。
従者 呪詛われた神経はお嬢様ばかりがお持ちなされていたのではござりませぬ。音楽堂に集っていた数知れずの騎士、音楽家、さては近在の人々や、祝歌を歌う小供まで皆、恐ろしい呪詛にかかっていたのでござります。と申しますのは、その不思議の老人が銀の竪琴をかき鳴らし、しずしずと壇の上へ昇って行くのを誰もひきとめずさえぎらず[#「さえぎらず」に傍点]、あるがままに茫然と見ていたことでよく解りまする、(間)はい、堂内の人々は皆もう茫然《ぼんやり》と見ていたばかりでござります。そして掻き鳴らす銀の竪琴の音に魂までも打ちこんで聞き惚れていたのでござります。(間)ああ、あの悲しげに悩ましげに、震えて鳴った竪琴の弦!
女子 その老人の歌うた歌は? 銀の竪琴の弦に合わせて、その老人の歌うた歌は?
従者 まあお待ち遊ばしませ。……聴衆は、眠り薬と惚れ薬とを一緒に飲ませられた人のように、首を垂れ耳を澄まし、そしてあの恐ろしいことには、丁度昨夜のあの時のように、人々はいずれも片膝をつき、自分の楽器を顎に埋め、感に堪えた時、時々それをかき鳴らし、聞き惚れていたのでござります。
女子 そして、その銀の竪琴の曲は?
従者 それをお話し致す前に、まだまだお話し致すことが沢山にござります。――で、その魔法使いのような老人が壇上に立って、ものの二十分も銀の竪琴を掻き鳴らしました。それを聞いている中に、人々の眼からは悲しみの涙が熱く流れ、あわれの運命を傷む溜息が、唇から漏れ、肩を震わせて歌の心に同情致しました。そして、その曲を聞いてる人々の眼には、紺青の海の上を、赤き帆を上げて行く幻の舟と、それを追って行く人魚の、艶に美しい肩と乳房と、長き黒髪とが見えていました。(間)銀の竪琴の音に連れて、老人はこのように歌うのでござります。

  幻の美しければ
  海の乙女の
  あわれ人魚は
   舟を追う。
  波を分けて舟を追う。
  月は青ざめぬ
  屍に似たる水の色。

女子 (驚き)ああそれは、若様の歌う筈の「死に行く人魚」の歌ではないのかえ。
従者 そうだと気づいたのは、それから後のことでござります。音の響いている間、歌の聞こえている中は、人々の心はただただ同情と涙と感激とにひたされていたのでござります。あああの時の室内の光景は、燭の光は赤からず白からず、薄物を通して空を見るように青褪めて、壁に天井に人々の影をうつしている。身動きもせぬ人々のその影は、いまにも沸き起こる悪魔の荒《あら》びの一瞬前の静寂《しずけさ》のように、神秘とも凄惨とも云おうようなく見えました。窓を通して外を見れば、月光に浮く海の水鳥、それが人魚の群のように、海の光をうけて流るる空の雲、それが幻の舟のようで。――風も吹かずそよぎもせず、外も内も森然《しん》とした状態《たたずまい》! 響くものは悲しみの歌ばかり、咽び泣く銀の竪琴の音ばかり、ただ音ばかりでござりました。
女子 その時若様は、どうしていたのかえ。
従者 曲を盗まれた若様は、化石のように立ちすくんで、壇の前にかたくなっておりました。
女子 立ちすくんでいるばかり! ええ、ええ、堅くなっているばかり!
従者 曲を盗まれた若様は、壇の前に立ちすくんで、自分の歌うべきその歌を、仇の口から聞いている。
女子 ええ、ええ、ただ聞いている。
従者 ただ聞いているばかり、どうすることも出来なかったのでござります。(間)いま少しお聞き下さいまし――このもの凄い静寂の後に、暴風よりも荒々しい喧騒の幕が開かれました。それは拍手と感嘆と、褒めののしる声でござります。数え知られぬ室内の人々は皆一様に老人の、神のような妙曲に対し、月桂冠を与えよと、叫び出したのでござります。――やがて数千の花輪花束が老人の身の周囲に飛びまわり、あらゆる楽器が一時に鳴り出し、それが皆賞讃の曲を歌い、最後の勝利者たる老人の名誉と幸福とを讃えました。そして絶えず人々は、月桂冠を彼に与えよと、ののしるのでござります。――たちまち、第三の鐘はつきならされ、高殿へは紅い灯が点ぜられました。――お嬢様! 貴女様の良人《おっと》となる人が、仮にもせよその時定まったのでござります!
女子 (身を震わせ)私の良人が!
従者 白髪の老人が、曲を盗んだ老人が、お嬢様の良人となるべき人でありますぞ!
女子 ええ、ええ!
従者 けれども悲劇の幕は、それからでございました。お嬢様! 若様の横死はそれから後でござりました。
女子 若様の横死……そして、そして、ああそれを早く話しておくれ……。若様の横……死……。
従者 その横死は、ああ、ああ、傷ましいとも、いじらしいとも……私始め一同が永久に忘れられぬその横死!
女子 早くそれを話しておくれ…………………………私のこの心が…………。
従者 はいはい今申し上げまするが……あ、傷《いたま》しや。……それからでござります。……よろしゅうござりますかお嬢様。……人々の拍手と感嘆との渦巻の間を、館のお殿様の手に捧げられて、月桂冠は、老人の方へ進んで行くのでござります、花束は天井や床にひるがえり、小供等は讃歌《ほめうた》を歌うその間を、月桂冠は老人の方へ進んで行くのでござります。
女子 月桂冠が……。
従者 月桂冠が今やまさに、老人の頭へ落ちようとした時に、天使の声が響き渡りました。『盗める曲に何を与う!』
女子 天使の声!
従者 若様が、そう叫ばれたのでござります。『盗める曲に何を与う』
女子 盗める曲に何を与う!
従者 立ちすくんでいた若様が満身の勇を振り起こし、天使のように、そう叫んで、壇上めがけて進みました。
女子 その時の人々は?
従者 人々は一時に声を飲み、一寸も動かず、ただ眼を見張り、立ちすくんでしまいました。
女子 ああ眼に見えるような。……………………
従者 それも瞬間でござりました。たちまち怒りの声と罵る声と、嘲笑の声とが四方八方から湧き起こりました。そして見る見る中に若様は、群衆の中に取りかこまれました。――むらむらと若様を取りかこんだ群集はバット一時に別れました。が、そのまん中に若様は、青褪め果てて仆れておりました。『公子といえども……』『名誉ある令人を罵る者は、公子といえども罰せよ!』『公子といえども』群衆は公子の体へ、これらの言葉と諸共に烈しい打撃を与えたのでござります。――この悲劇の最中に老人は月桂冠を頭に戴《いただ》いたのでござります。
女子 そして老人は。
従者 どこともなく消え失せてしまいました。暗の中を吹く風のように、雲の間の流星のように……。
女子 そのように消えてしまったのかえ、ええ、ええ。
従者 堂内に集っていた小供等が、月桂冠のため、銀の竪琴のため、名誉ある曲のため、その歌い手を取りかこみ、祝いの歌を歌おうと、老人をさがした時、老人はもう音楽堂の中には居らなかったのでござります。(間)消えたように無くなったのか、始めから此処に居なかったのか、人々は互いに審《いぶか》り合うほどに、素早く身を隠してしまったのでござります。いきり立っていた館の殿様はじめ、騎士、音楽家の人々は、一時に静まり返りまして、胸に手をあてて彳《たたず》みました。――先刻までの物凄まじき喧騒の後が、氷のような底冷たい、神秘がかったこの沈静でござります。(間)人々は四方を見廻し、また自分の影を見詰め、そして物音を聞き定めようと耳をすましました。――人々の心の中に、この時老人を怪しむ念が、稲妻のように閃めいたのでござります。……その時でござります!
女子 ええ。
従者 若様が虫のような声でお嬢様の名をお呼びなされました。
女子 あの私の名を!
従者 はい、お嬢様のお名をお呼びなされました。そして胸にさしておられました鈴蘭の花を差し出して、お嬢様へと申されました。(と従者、凋《し》おれし一枝の鈴蘭の花を女子に渡す、女子無音に受け取り、唇にあつ)
女子 若様、若様!
従者 人々は始めてこの時、仆《たお》れている若様に気づいたのでござります。
女子 若様!
従者 人々は顔色を変え叫びを上げ、一時に若様の傍へ集って、そのお顔を眺めました。噫! 若様のお顔は青褪め果てて、死んで行くべき相となっておりました。
女子 若様!
従者 『若を殺したは誰れぞ!』とお殿様のお怒りとお悲しみの叫び声……一同の騎士、音楽家の方々は、ひれ伏してしまいました。(間)すると若様は青ざめた唇を震わして、聞きとれぬ程の虫の声で、「死に行く人魚」の歌を歌いました。
女子 「死に行く人魚」の歌を!
従者 その歌の一節を歌い終わると、急にお怒りの相を顔に見せ、苦しい声で『盗める曲に何を与う!』と叫んだのでござります。
女子 盗める曲に何を与う。
従者 そして若様は、片手をあげて窓を指し、最後の息でこう申しました。『北の国の魔法使い、「死に行く人魚」の歌を歌う』
女子 若様! ええ、ええ。
従者 後はもう申し上ぐるまでもござりませぬ。堂内の騎士、音楽家は、あるいは窓口に向かって立ち、あるいは高殿に馳せ昇り、外に通ずる廊下に急ぎ、百方怪しい老人の魔法使いをさがしましたが、それらしい者の影もござりませぬ。さがしあぐんで騎士、音楽家の方々が、旧《もと》の広間へ立ち戻って来た時には、屍となられた若様をとりかこみ、小供等の大勢が、弔いの歌を歌っておりました。はい、弔いの歌を歌っておりました。(間)そして、間もなく高殿へは魂を祭る青き燈火が点ぜられ、葬いの鉦がつきなされたのでござります。(と窓より音楽堂の方を眺め)あれ、ごらん遊ばせ、今音楽堂の表門から海岸へ向けて白き柩を真先に、騎士、音楽家や小供等の列が悲しみ嘆いて出て参ります。あの一列は海岸から小舟に乗ってこの館へ来るのでござります。(一同窓より外を見る)
使女A ああ、ほんとに今度こそ、白い葬式の一列が音楽堂から出て参ります。
使女B 首を垂れて、遅く遅く歩く様子は、何んと云う物あわれな果敢《はかな》い姿ではござりませぬか。
女子 あの真先に小さく見える白い色のかけ[#「かけ」に傍点]衣《ぎぬ》は、柩を包んだ経帷子《きょうかたびら》か?
従者 (耳を澄まし)弔いの鉦を通して、小供等の歌う挽歌の節が……挽歌の節が聞こえます。
(挽歌聞こゆ)
使女A ほんにまあ物あわれな、亡き魂を祭るあの挽歌の節は。……この世の人が聞くに堪えない調《しらべ》でござります……聞くに堪えない節でござります。
使女B 挽歌につれて葬式の列が、浜辺の砂へ立ち並びました。(浜辺に白きものチラチラす)
従者 (急に姿勢を直《ただ》し)私は何時《いつ》までも、此処にこうしておられる体ではござりませぬ。私は直《す》ぐに馳せ戻り、あの葬式のお先導をして、小船を漕がねばなりませぬ。(女子に一礼し)お嬢様、これでごめんをこうむります。――(と急ぎ左の口より退場。女子は従者の退場と共に寝台に仆れ、面に手をあてて泣き、またたちまち起き上がり、窓口に行きて白き柩の一列を眺めやり)
女子 若様! 若様! (寝台へ再び仆れて忍び泣く。二人の使女は途方に暮れ、場内を二度ばかり歩き廻りし後、寝台の女子をいたわらんとし、立ちよりしが、思い返して、たちまち窓口に行きて葬式の列を眺め、頷き合うて正面の出口より浜に向かって馳せ行く。正面の扉《と》はいっぱいに開け放され、月光に浮く紅き罌粟の花畑見ゆ――場内には女子一人となる。三分間静。やがて正面の出口の彼方、罌粟畑の中より、一人の人影立ち現われる。女子それを知らず。その人は、紫の袍を着て、桂の冠をかむり、銀の竪琴を持ちし騎士姿の音楽家即ち、Fなる魔法使いとす。Fなる魔法使いは銀の竪琴を鳴らしながら、罌粟畑より出でて場内に入り来る)
(Fなる魔法使い、盗める曲の「死に行く人魚」の歌を歌う)

  屍には白き藻草を着せかけん、
   瞳の閉じし面には
  かぐろき髪の幾筋を
   鈴蘭の花をのせて置く、

(この歌を歌いながらFなる魔法使いは女子の後背を通り、その正面一間半ほどの所に立ち、女子を熟視す、女子は、「死に行く人魚」の歌を聞き、ふと[#「ふと」に傍点]首を上げてFなる魔法使いをすかし見る)
女子 誰れなの。(と考え、急に声をはずませ)若様ではござりませぬか、その歌を歌うのは若様より他にない。貴郎は若様?
Fなる魔法使い (「死に行く人魚」の歌を歌う)

  声もとどかぬ水底の
  水の都の同胞は
  行方知れずの人魚を
  浮藻の恋になぞらえて
   はかなきものと語り合う、

女子 (Fなる魔法使いの方に両手を差し出し)若様、若様、ああ貴郎は若様だ!……若様はまだ死にはせぬ。……ね、若様。
Fなる魔法使い (「死に行く人魚」の歌を歌う)
わだつみなれば燐の火の
屍を守ることもなく
珊瑚の陰や渦巻の
泡の乱れの片陰に。

女子 (二三歩あゆみ寄る)若様、若様! ほんとに貴下は若様でござりましょう。……その歌をお歌いなさる人は世の中にただ若様お一人きりよ。……若様! 若様!
Fなる魔法使い (銀の竪琴を指し)これを見ろ!
女子 銀の竪琴!
Fなる魔法使い (紫の袍を示し)これを見ろ!
女子 紫の袍よ!
Fなる魔法使い (桂の冠を指し示し)女よ! これを見ろ!
女子 (声を震わせ)ああ、ああ、それは桂の冠!
Fなる魔法使い (無音にて自分の瞳を指す)
女子 (片膝をつき)Fなる魔法使い!
Fなる魔法使い (今度は「暗と血薔薇」の歌を唄う)

   暗がわが身をとりかこむ
  裸身なれど恥《はじら》わじ、
   抱く男のやわ肌を
   燃ゆる瞳にさがさばや。

女子 その歌を歌うは誰れなの?
Fなる魔法使い 血薔薇をお前にくれた男だ。(と「暗と血薔薇」の歌を歌う)

  罪が巣くいし血薔薇とて、
   恋の生身を刺すとかや、
   暗なれば血は見えずして。

(口調ある朗吟的の言葉にて)女よ、窓を通して音楽堂を見ろ! 青い燈火が点《つ》いている。お前のために恋を歌った、深山鈴蘭の送り主が、青い燈火の光の裏に、恋の屍を横仆《よこた》えている。お前はそれが悲しいか。(間)黄昏の神の素足のような、美しく白い公子の肌が、麻の衣にかけ[#「かけ」に傍点]衣《ぎぬ》された樫の柩の底にある。彫刻の美も光がなければ、女の眼には映るまい。その彫刻の美が柩の中の、堅い床の上にある。(間)女よお前は俺に問うか、「語れ公子を殺せし毒と」(銀の竪琴を見て)毒は白銀の弦より流れ、あふれて彼を死《ころ》したのだ。女よお前は俺に問うか、「語れ毒を盛りしその悪魔を」――悪魔はお前の前に立ち、銀の竪琴を弾いている。(自分を見廻し)われながらこの悪魔! われながら華美のこの姿! 幾百千人の若い女を、罪と不貞に導いたか! 淫《みだら》を語るこの唇で、情《なさけ》深げの歌を歌い、乙女心を誘ったか。(間)純潔ならぬ恋の主は、千度《ちたび》乙女の恋を試み、千度乙女に成功した、俺は云う! 乙女は弱く果敢《はかな》いものの世にまたとなき宜《よ》き標本《しるし》と! (女子を見て)弱き乙女のお前の心も、これで三度試みた。一度は紅き薔薇の花、二度は月夜の罌粟畑、三度は今や桂の冠! (間)紅き薔薇ではもの[#「もの」に傍点]を思わせ、憂いと恋を心に蒔《ま》いた。(間)されども罌粟畑のバイオリン! 罌粟畑のバイオリン!(と罌粟畑をすかし)心臓の血の紅《くれない》が、はてなき罪の香を帯びて、誘惑らしく咲く花畑。その罌粟畑。――そこへ二人が立ち出でた時、お前は象牙細工の手を差し出し、胸や乳房に恋を思わせ、(小声にて歌う)「抱く男のやわ肌を、燃ゆる瞳にさがさばや」……そのやわ肌をさがさんと、銀の音色を追って行った。(突然)その罌粟畑! 高殿よりして公子が弾いた、あの純潔の恋の楽、それがお前を醒《さま》したね! (突然)俺の計画《もくろみ》は崩された! (憤然と)暗と血薔薇の一曲が、死に行く人魚の恋歌に、歌い消され弾き消され、凶《よこしま》だったわが弦が、お前を誘う音を出すには、その夜に限って弱かった。(女を見)女よ! 女よ! けれどもお前はもう俺の者だ! 今はもう俺の者だ! (窓口に行き音楽堂を眺め)罪と不貞の結晶堂、弱き女の恋の墓、不幸の記憶の生きたる所。(声鋭く)領主の妻の屍の恋が、罪の結晶堂に埋めてある、見ろ! その不吉の堂内から、公子の屍が運ばれる。――ああ歓楽の楽堂が、一瞬にして悲哀に埋もれ、あたたかなりし人の息が、冷えたる血汐に変えられて、高殿の青き灯《ひ》と、広間に嘆く鉦の音が恋の末路を見せている。(突然)領主の妻と領主の子と、同じ運命の呪詛の的《まと》! (女子を見て)そして女子よ、お前は俺の所有《もの》となった、(命令的に)女子よ俺の胸に来い! (女子、Fなる魔法使いの胸にすがる。弔いの鉦の音益々悲哀を含んで鳴り渡り、それと共に、小供等の歌う挽歌聞こゆ)
女子 (うっとりとなりて鉦の音に耳を澄ます)あの鉦の音は?
Fなる魔法使い 恋を葬《ほうむ》る鉦の音。
女子 あの小供等の歌う歌は?
Fなる魔法使い 悲しみ嘆く葬《とむらい》の歌!
女子 死んだは誰れなの?
Fなる魔法使い か弱き母に似た不幸の公子!
女子 それは誰れなの?
Fなる魔法使い 深山鈴蘭をお前にくれた一人の男!
女子 (すすり泣き)ああ若様か。(されどFなる魔法使いの胸より離れず)
Fなる魔法使い (女と共に窓に行き)空には月が涙ぐみて彳《たたず》み、海には屍の船が浮き、風は光の陰に隠れ、人は幽《かすか》に挽歌を歌い。聞け! 小船を漕ぐなる艫《ろ》の音が、沈み沈んで海底の、人魚の洞へくぐり行く。海底には人魚の母が、桜貝と藻の花を、据え物として待っている。公子の来るのを待っている。(突然)俺は云う! 公子は俺が殺したのだ!
女子 誰れが若様を殺したの?
Fなる魔法使い (明瞭に)公子は俺が殺したのだ!
女子 誰れが殺したの?
Fなる魔法使い Fなる魔法使いが殺したのだ!
女子 その魔法使いは何処にいて?
Fなる魔法使い お前の体を抱いている。
女子 ええ。ええ。(とFなる魔法使いより離れて、Fなる魔法使いを睨《にら》む)悪魔! 悪魔!
Fなる魔法使い (冷然と)女!
女子 悪魔! 悪魔! 若様を殺したお前は悪魔!
Fなる魔法使い (銀の竪琴を見せ)女よ! これを見ろ!
女子 銀の竪琴!
Fなる魔法使い (紫の袍を示し)女よこれを見ろ!
女子 紫の袍!
Fなる魔法使い (桂の冠を指し示し)紫の袍を着て、銀の竪琴を持ち、桂の冠をかむった俺は、お前を奪う唯一人の男だ!
女子 (声を震わせ、しかもなつかしげに)Fなる魔法使い!
Fなる魔法使い (笑い)北の浜辺で紅の薔薇の花を、お前にくれたFなる魔法使いは俺だ! さあまた北の浜辺へ行こう、罪の深い歓楽が、そこの浜辺に待っている。行こう行こう北の浜辺へ。
女子 (再びFなる魔法使いの胸にすがり)行きましょう北の浜辺へ、ああ、ああ、私はほんとにお前の者よ! ああ、ああ、私はお前を長らく待っていた。
Fなる魔法使い (女子を介《かか》え)行こう北の浜辺の、罪の深い歓楽へ。
女子 行きましょう北の浜辺へ、私はお前を待っていた。
Fなる魔法使い 女よ!
女子 Fなる魔法使い! (既に両人接吻せんとする時、小供等の挽歌、手近の罌粟畑に聞こゆ。二人の驚きて同時に顔を上げる。――領主及び従者を真っ先に、白木の柩を守りて騎士、音楽家及び小供等数十人。使女は燭を携え正面の口より場内に入り来る、Fなる魔法使いと女子とは相抱きしまま場の右方に立つ。葬式の行列は左にまがり、室を一周し、やがて白木の柩を中央に置く、人々は四方に並ぶ。人々の位置定まりし時、小供等は柩を巡りて挽歌を歌う。一節終わる毎に騎士、音楽隊は、一時に各自の楽器を鳴らす。――三回目の歌のなかばに領主始めてFなる魔法使いに注目し、驚き怒る)
領主 (声高に)歌を止めろ!
(一同歌を止める)
領主 門を守れ!
(人々は出口入口に立つ)
領主 Fなる魔法使いがそこにいる!
(一同Fなる魔法使いに注目す)
領主 曲を盗んだ悪魔は嬢をも盗んで行こうとする。見ろ! 彼は嬢をかかえている。
(一同楽器を棄てて剣を抜く。光茫場にあふる)
Fなる魔法使い (冷やかに鋭く)俺の頭を見ろ! (月桂冠を指し)月桂冠を得たものは、女子をも共に得べきものだ! 俺の頭には月桂冠が輝いている。(女子を見)女子は俺のものだ!
領主 月桂冠は、死んだ若《わか》が戴くべきものだ! 汝の歌った一曲は、若が歌うべき「死に行く人魚」の歌ではないか。(鋭く)盗める曲に何を与う!
騎士・音楽家 (声を揃え)盗める曲に何を与う!
小供一同 (声を揃え)盗める曲に何を与う!
領主 (柩の蓋《ふた》をはずし、死せる公子の姿を現わす、屍は白き花を以て飾られたり)この屍に罪を謝し、疾《と》く月桂冠を取りはずせ!
Fなる魔法使い (悠然と月桂冠をはずし)最大の悪、最後の手段! それが盗んだ曲である。(月桂冠を高くかざし)天にありては月、地に咲きては花、桂の冠がわが手を離れ、(女子を見て)一人の女の手に渡る。(と女子に冠を渡し)女よ、それを誰に与える。それを得たものがお前の良人だ! (領主を見て)お前を救ったあの老人へか、(柩の中の公子を指し)鈴蘭の花の送り主か、(自分を指し)紫の袍を着た、銀の竪琴を持った、Fなる魔法使いのこの俺か!
領主 (熱心に)我に与えよ!
従者 お殿様へ差し上げなされませ。
騎士・音楽家 (声を揃え)公子に与えよ、最後の勝利者の公子に与えよ!
小供一同 (声を揃え)公子様へ、公子様へ!
Fなる魔法使い 我に与えよ、血薔薇の送り主なる我に与えよ。
(女子は月桂冠を胸に抱きしまま失神せるものの如く彳《たたず》む。室内静。女子引きつけらるる如く公子の柩に近づく。時に、何処よりともなく哀怨の調べにて「死に行く人魚」の歌聞こゆ)
女子 (突然悲しき声にて)人魚、人魚、死に行く人魚! (と柩の上へ身を蔽い)若様! (燈火一時に消え、月光青く窓より入る、女子悲しげに叫ぶ)
女子 若様、若様! 私も貴郎と一緒に参ります、遠い遠い海底へ……。
(声細り行くと共に、場中再び明るくなる。見れば、女子は柩の中の公子を抱き起こし、かかえしままにて気死す。公子の頭には月桂冠あり。領主は気死せる女子を支えて片膝をつき。騎士、音楽家及び小供と使女の大勢は、それぞれの形にて、十字を切りて葬礼の姿を現わす。――Fなる魔法使いは正面の口より出でんとし、斜に姿を観客に見せる。従者は床に伏して泣く。鉦の音。哀しき歌)
Fなる魔法使い 誘惑より勝るものが此処にある。
(銀の竪琴をかき鳴らし)この音の響く方へ俺は行こう、そこで再び女を試みよう。(間)けれども此処へはもう来まい。此処には俺より強いものがある。
(再び銀の竪琴をかき鳴らす。その音場に充《み》つ。音と共にFなる魔法使い退場)

その日のために

場所 一室
人物 女子
   その弟(ヨハナーン)
   巨人
   影の人(多数)

          一場

一室。四方灰色を以て塗る。天井より青白き光線さし下る。左右に口ありて堅き鉄の扉を以て閉ざす。室の正面中央に大なる窓。窓には鉄の格子あり、黒き掛け布ありて半ばしぼられたり。窓を通して陰鬱なる高塔見ゆ。塔の下は水門にして濁水そこに流れ入る。窓に対して一台の織機《はた》あり。一人の女子その機を織る。綾糸は、青、赤、黄、白、黒の五色とす。糸は天井より垂れ下る。
夕暮。
女子 (機を織りつつ歌う)
  美しき色ある糸の
  綾を織る人の一生、
  五色《いついろ》の色のさだめは
  苧環《おだまき》の繰るにまかせて、
  桧の梭《ひ》の飛び交うひまに、
   綾を織る罪や誉《ほまれ》や。

(窓より塔をすかし見て)日は未《ま》だ暮れぬそうな。塔の頂きの影が消えぬ。(また歌う)
  五色《いついろ》の色の機織《はたお》り、
  一日を十年《ととせ》に数え
  幾日|経《へ》にけん。

(機を織る手をとめて)ああ私は此処に幾年居るのだろう。月も日も春も夏も、ただ窓ごしに見るばかり、それにあの黒い塔が、いつも窓の外に立っていて、外を見る私の眼をさえぎって[#「さえぎって」に傍点]いる、鳥が飛んでも雲が歩いても、風に小歌が響いて来ても、木の葉に時雨が降りかかっても、蝶が散る花に囁いても、私はただ窓ごしに見るばかり。それもあの黒い塔が、私の見る眼をさえぎるので、思うがままに見ることが出来ぬ。(間)あの塔の物凄さはどうだろう。唯《ただ》その姿を見ただけでも、血汐が凍ってしまいそうだ。――夜でも昼でもあの塔には湿った影がついている。そのしめった影が昼は塔の頂きにあるが、夜は灰色の壁を伝《つたわ》って、水門の方へ下りて来る。その様子が恰度《ちょうど》、墓場を巡る燐の火に人の魂が迷うようだ。ああ、ああ、あの塔は墓場かも知れぬ。(沈思)墓場かも知れぬ。けれども私は、まだ一度もあの中へは這入《はい》って見ぬ故、塔の中には何が居るやら、どんな秘密が籠っているやら、どんな悲しみが住んでいるやら、どんな恐怖がひそんでいるやら、私には解らない。(間)わからない方がいいのかも知れぬ。解った時は私の運命の沈む時かも知れぬ。(間)あの塔の中には私のお父様もお母様も、そして代々の御先祖様も、みんなおいでなさるのだそうな。そしてその人達が私の来るのを待っているそうな。塔の面にちらつく人影は、その人達の影だそうな。(機に手をかけ)そしてこの綾糸の切れた時、私も塔へ行かねばならぬ。それが私の身にかかっている命の預言、それが私のこの世の運命《さだめ》。(二三度機を織り)私はどうしてもあの塔へ行く気にはなれぬ。晴々《はればれ》しい光も、なつかしい色も、浮き立つような物の音も、何一つ楽の無い、あの灰色の墓場の塔へ、私はどうしても行く気にはなれぬ。あの塔の中にあるものは、もの恐ろしい沈黙と、総てのものを支配する大きい大きい暗黒ばかり、その沈黙と暗黒とへ、私はこの身を何んで投げよう。私はいつまでも此処にこうして機を織っていよう。(と機を織りつつ歌う)
  若き世の恋の色彩《いろあや》、
  日の如き赤き喜《よろこび》、
  ああそれもまたたく消えて、
  墓を巡る夕月の色、
   悲しみの青き綾糸、
  人生《ひとのよ》の縦《たて》となりけり。

(塔を眺め)そろそろ日が暮れると見えて、塔の上の湿った影が、だんだん下へ下《お》りて来る。あの影の下りきらぬ中に、私は機を織らねばならぬ。(無音にて機を織る。――杳《はるか》の屋外にて、堅き城門の開く音す。女子は機の手を止《と》めて耳を澄ます。その音尚かすかに響き来る)
女子 剣でかこまれた第一の城門が、たやすく開《ひら》く筈はないが、(と考え)今の音はどうやらその城門が開いた音のように思われる。(音なお残りて聞こゆ)あれあれまだ鳴っている。鋼鉄の琴のゆれびきのように、あれあれまだ鳴っている。(音次第に幽《かすか》になりて遂に止《や》む)止んだ! (と淋しく笑い)私の耳の空聞《あだきき》だろう、剱で守られたあの城門が、何んで容易《たやす》く開くものぞ、あの音は空の真ん中で鳴りはためく、雷の音であったのだろう。(やや長き沈黙。音の有無を聞き澄ます。――塔を吹く風の音)塔を吹く風の音が、挽歌のように鳴っている。(水門へ流れ入る水の音)そして水門へ流れ入る水の音が、屍をのせた柩の舟を運び行くように聞こえている……。ただそれだけだ。……何も聞こえない。……城門が開《あ》いたと思うたのは、ほんの私の空耳だろう。(間)空耳で幸いな。あれが空耳でなかったら……。ほんに城門が開いたのなら、(恐ろしげに)私の運命が……運命の糸が切れるだろう。それが私の身にふりかかっている、命の預言! この世の運命《さだめ》……そんなことがあるものか、私は長く長く此処に居て、五色の糸を織る身じゃもの。今の音は、雲の間で空しく鳴る、意味のない雷の音よ! (されど不安そうに耳を澄ます。静。女子淋しく笑いて機に手をかけ、五色の糸を見て驚く)――糸が切れた! (青と赤との糸切れてあり)青と赤との糸が切れた! (と機より立ち上がらんとして再び座し、手にて顔を蔽《おお》う。忍び泣き。三分間。やがて女子顔を上げて、残りの三色の糸を見る)ああ、私は何も云うまい。まだ三色の糸が残っている。私は三色の糸で機を織ろう。この三色の糸の切れぬ中は、私は此処に居られる身じゃ……。私は何も云わぬことにしよう。(女子再び機を織る。以前よりは悲しき声にて歌う)

  白糸の清ければ
  乙女心よ、
  やがて染む緋や紫や
   あるは又罪の恐れの
  暗《やみ》に似てか黒き[#「か黒き」に傍点]色の
   罪の黒糸
   罪の黒糸。

  さまざまの色ある糸の
  綾を織る人の世の象《さま》
  ああ斯《か》くて日を織り月を
  年を織り命を織りて、
  人生《ひとのよ》を織りて行く梭か。
 (その日のために)

(歌声やむ時、第二の城門の開く音す。女子耳を澄ます)
女子 第二の城門は瀧のように落ち下る、泉の水で守られている。(やや間近に聞こゆる余韻を追い)その城門も開いたのか? 私の身の上にふりかかっている命の預言が近づいた。(塔をすかし)ああ塔の上の人影は今は水門の上へ下りている。やがてこの室へ忍び入るのだろう。そして私を、あの塔の中へ導いて行くのだろう。(耳を澄まし戸外の音を聞く)誰やらが歩いて来る。足音は小供の足音のように軽く小さく聞えて来る。私の身代りにこの室へ来たのかも知れぬ。物凄い城門の音に送られて、此処へ来る不幸の人は、女ならば機を織り男ならば琴を弾《ひ》き、一生を此処で暮らさにゃならぬ。(機糸を眺め)ああまた白い糸が切れたそうな。後に残ったは黒と黄との二色ばかり、私はこの糸の切れるまで、此処で機を織らねばならぬ。そして二色の糸の切れた時、私は静かにこの室を出て、あの塔の影となる。それが私の命の預言。(と機に手をかけ、織りながら歌う)

  人生を織り行く梭の
  絶ゆる日に琴の音鳴らん、
  七筋の調べの弦《いと》に
   黄なる糸|運命《さだめ》の糸を
  ひきかけて
  鳴らさんものか。
  (その日のために)

(第三の城門の開く音間近く聞こゆ。女子織る手をとめる)
女子 黒い糸もまた切れた! (と決心せる如く機《はた》より立ち離れ、場の中央に立ちて下手の口の堅き鉄の扉を見詰む。――扉の外にて軽き足音聞こゆ)
女子 軽い足音がする。このもの寂しい室へ来るには、あまりあどけない[#「あどけない」に傍点]足音だ、小供の足音だ。
(足音近づくと共に、七弦琴の音聞こゆ)
女子 (耳を澄まし)七弦琴の音がする。私の幼《ちいさ》い頃、この室へ来ぬ前に、弟と一緒に弾いた七弦琴の音がする。(一層《ひときわ》高く七弦琴鳴る。その音絶えると同時に、堅き鉄の扉は自《おのず》と開けて一人の愛らしき少年現われる。手に七弦琴を持つ)
少年 (女子を眺め)お姉様!
女子 (驚き)誰なの?
少年 (無邪気に、さも悦《うれ》しげに)お姉様、お姉様、私はお姉様を尋ねて来たのよ。
女子 お前さんは誰なの?
少年 ヨハナーンよ!
女子 ヨハナーン?
少年 お姉様の弟の。
女子 弟?
少年 お姉様! お姉様は私を見忘れたの! 私はお姉様の弟のヨハナンよ!
女子 (少年を凝視し、にわかに馳せ寄る)ヨハナーン! ヨハナーン! ほんとにお前は私の可愛いヨハナーン!
少年 (姉にすがり)お姉様! (となつかしげに顔を見る)
女子 (少年を抱き幾度も接吻し)ヨハナーンや、私の大事の大事のヨハナーンや! どうしてこんな[#「こんな」に傍点]所へ来たの? え、どうして此様所《こんなところ》へ来たのです。
少年 (なつかしげに。姉に接吻し)お姉様に逢いに来たのよ。……そしてあのお歌を聞きに!
女子 あのお歌?
少年 ええ、ええ、お姉様のお歌を聞きに来たのよ。
女子 お歌を? まあ!
少年 ええ、ええ、お姉様のお歌を。
女子 まあ……。
少年 ね、お姉様、あのお歌を教えて下さいな、お姉様が一度っきり私に教えたあのお歌を!
女子 一度っきり教えた。
少年 お姉様が、私を棄てて遠い所へ行《いら》っしゃる日に、一度っきり私に教えたあのお歌よ!
女子 どんなお歌だったかねぇ。
少年 「その日のために」って云うあのお歌よ!
女子 (驚き)「その日のために」?
少年 大変悲しい節《ふし》のあのお歌を、いま一度お姉様のお口から聞きたいの。
女子 それでお前さんは此処へ来たのかい。
少年 あのお歌を聞きたいばっかりに、私はお姉様をさがしたの。……そして、とうとう私はお姉様を見つけ[#「見つけ」に傍点]たのよ。ね、お姉様。お姉様は其処にいらっしゃるでしょう。――ああ私はほんとに安心した。(となつかしげに見る)
女子 (ヨハナーンを引き寄せ、そのままそろそろと機の所まで行き、腰を踏台の所へ下ろし、ヨハナーンを膝にすがらす)ええ、ええ、姉様は此処に居りますよ、お前さんがそのように、なつかしがる姉様は此処に居りますよ。(悲しげに)間もなく別れねばならぬ身なれど……。(ヨハナーンを凝視し)ヨハナーンや、お前さんはそんなにこの姉さまが恋しいのかぇ。
少年 お姉様のことばかりを私はしじゅう思っていたの。……そしてお姉様の歌ったあのお歌を!
女子 「その日のために」と云う歌をかぇ。
少年 お姉様、あのお歌をいま一度歌って下さいな。私はあのお歌を、お姉様のお口から唯一度聞いたばかり故、まだあのお歌の文句をよっく知らないのよ。
女子 ほんに唯一度きり、それもお前さんと別れる日に、唯一度っきり教えた歌だったねぇ。
少年 だから私は、あのお歌の文句を未だ知らないのよ。……けれどもね、節《ふし》だけは知っているのよ。節だけはね。
女子 まあ、節だけは知っているの?
少年 節だけはね。私この七弦琴に合わせて弾《ひ》くことが出来るのよ。けれども文句を知らないから口で歌うことは出来ないのよ。
女子 (考える。――やや長き間)ああ、それも悲しい一つの預言じゃあるまいか。
少年 (心配そうに)お姉様、お姉様、節だけ知っていて文句を知らぬのは大変悪いことですか。ええ何故そんなに心配そうなお顔をするの、お姉様がそんなに心配そうなお顔をすれば、私はほんとに悲しくって。
女子 (心を取り直し)いいえ、何も姉様は心配してはおりませんよ。……だがね、お前さんが、節だけ知っていて、文句を知らぬと云ったから……。
少年 ほんとですもの、私ほんとに節だけは知っているけれど……。
女子 ええ、ええ、そうでしょう。それはいいけれど。(と考え)恰度《ちょうど》、思うことは出来るけれど、知ることが出来ぬと同じようだ。朧《おぼ》ろ気《げ》に感ずることは出来るけれど、ほんとに見ることが出来ぬと同じようだ……。
少年 お姉様は何を云っているの。私には解らないのよ。
女子 いいんですよ。……ああ、けれどもね。
少年 ええ、ええ、お姉様!
女子 お前さんが、その歌の文句を知ることが出来る時は。……お前さんは自分の運命を知る時ですよ。
少年 ……私の運命。……それは何?
女子 此処へ来た運命をね。
少年 (笑い)お姉様、お姉様。私は此処へ何故来たか知っていてよ。ええ、ええ、よーっく知っていてよ。
女子 (驚き)まあ(とヨハナーンの顔を熟視し)知っているの?
少年 そんなこと何んでもないわ! 私はね、此処へ大事の大事のお姉様を尋ねて来たんですもの……。
女子 (少年に頬ずりをし)そうかぇ、そうかぇ、ああ、ほんとにお前さんは無邪気だねぇ。(窓ごしに塔をすかし見て)けれども、あの塔の影を見る時には、もうその無邪気はなくなるだろう……。(少年を抱きしめ)ヨハナーンや!
少年 (何んとなく悲しげに)お姉様!
(両人無音にて顔を見合わせ、かたく抱き合う)
少年 (四方を見廻し)お姉様、このお室《へや》は淋しいね。
女子 (四方を見)そうお思いかぇ、ヨハナーンや!
少年 (恐ろしそうに)お姉様、このお室には何故|燈火《ともし》がついて[#「ついて」に傍点]いないの? ただ高い高い天井から、青い光が落ちて来るばかり。……お姉様! あの青い光は何処《どこ》から来るの?
女子 恐ろしい所から来るのじゃありませんよ。ただ天井から。
少年 (天井を見上げ)天井の高いこと、どこが限りだか解らない。――お姉様、どこが限りなの?
女子 ……姉様も知りません。
少年 お姉様も知らぬ遠い所から、青い光は来るんだね。……お姉様! 何故此処には寝台が無いの?
女子 このお室に居る人は、夜も昼もしじゅう機を織らねばならぬ故。
少年 (不思議そうに姉を眺め)夜も昼も?
女子 ええ、ええ、夜も昼も五色の糸の綾を織るの。(と機を指さす)
少年 (機を眺め)あの機で織るの?
女子 (頷く)あの機で!
(少年機の傍に行き、触り見る。)
少年 冷たい機!
(再び姉の傍に来て顔を見上ぐ。水の音聞こゆ)
少年 お姉様、外には何があるの。恐ろしい水音が聞こえてよ。
女子 あれはね、暗い水門へ流れ入る水の音です……その水門へ流れ込む水は、二度と再び明るい世界へ出られないんですよ。
少年 その水門はどこにあるの?
女子 このお室の外。
(塔を吹く風の音聞こゆ)
少年 (耳を澄まし)お姉様、風が吹いているね。
女子 塔を風が吹いています。
少年 塔?
女子 水門の上にはね、高い塔があるんですよ。その塔の中にはね……いやいや……何も教えまい。(と急に思い返して黙す)
少年 (姉の顔を熱心に視て)お姉様!
女子 (無音にてヨハナーンを見る)
少年 (熱心に)塔?
女子 いいえ、何もありません。
少年 お姉様! 塔?
女子 いいえ、あの音は水門を吹く風の音です。
少年 その水門の上の塔?
(女子立ち上がり、窓より塔をすかし見る、塔に月光さす)
女子 夜になった、青ざめた光が塔の頂きに流れている。……いいえ、外には何もありません。(と身を以て窓を蔽《おお》い)ヨハナーンや。
少年 お姉様。
女子 (淋しげに)ね、もう風も吹かないでしょう。
少年 塔の中には何がいるの?
女子 ええ。
少年 塔の中は暗いでしょう。
女子 ヨハナーンや。
少年 塔の中は暗いでしょう、恰度お墓のように。
女子 ヨハナーンや、ヨハナーンや!
少年 お姉様。(泣き声にて)お姉様、塔へ行ってはいやよ。
女子 (こらえず)ヨハナーンや、そんなことお云いでない。……いえ、いえ、塔も何もないんですよ、姉様はね、いつまでも、いつまでも、可愛いお前と一緒に居りますよ。一緒にね、一緒にね。
(場内静。羽虫ときどき青き光を掠めて飛ぶ)
女子 (少年の頭を撫でて)ヨハナーンや、昔二人で一緒にいた頃はほんとに楽しかったねぇ。あの頃のお話をしようじゃありませんか。……悲しいことや恐いことは云いっこなしにして、あの頃の楽しかったことばかりを話し合いましょうねぇ。……何故お前さんはそんなに寂しい顔をしているの、もっと悦《うれ》しそうな顔をおしなさいよ。姉様と一緒にいるんじゃないかい。ね、姉様と一緒に。(小声にて)別れが二人の前に迫ってはいれど。(やや暫時無音――気を取り直し)ヨハナーンや、姉様はお前といつまでも、此処にじっとしておりますよ。ね、だから昔の話をしておくれ。昔お前さんと私と一緒にいた頃の、楽しかったお話を。……二人はお日様の暖かい土地に居たっけねぇ。
少年 (悦しそうに頷き)ええ、ええ、暖かい丘の上に私どものお家はあったのよ。花時《はなどき》にはいい香がかおって来て、桃色の窓掛の裾から私どものお室へはいって[#「はいって」に傍点]来てよ、そして緑色と金色とで羽根を飾った小さい鳥が、しじゅう丘の草原とレモンの花の間と、窓の外の欄干で啼いておりましたっけね。
女子 そのお家にいた頃、お前さんの一番楽しかったことはどんなこと?
少年 楽しかったこと?
女子 今に忘れられない楽しかったことは、どんなことだか云ってごらん。……姉様にそれを聞かせておくれ。
少年 いろいろ楽しかったことはあったけれど、みんな忘れてしまったのよ……。けれどもね……。
女子 ええ。
少年 唯二つあるの。
女子 二つ! そう、それはどんなことなの。
少年 それはね、楽しかったことじゃないのよ。
女子 そんなら悲しかったことなのかい。悲しいお話なら止《や》めにしましょうよ。(間)お前さんが此処へ来たからには、これからはもう悲しいこと寂しいことばかりが、一生つづいて来るのです。……わざわざ昔の悲しいことまで思い出さずともよいのだよ。
少年 いいえお姉様! 悲しいことでもないのよ。ただ忘れられないことなのよ。ええ、ええ、少しは悲しいことだけれど。……それはね、私のほんとに小さい頃のお話よ。或る日私はね、揺籠《ゆりかご》に乗ったままお庭の何処《どこか》へ置かれていたのよ。私の頭の上には広い広い青い幕が丸く一ぱいに広がっていたのよ。
女子 それは晴れきった青空でしょう。
少年 彼方《あっち》からも此方《こっち》からも可愛い声で、私を呼んだり挨拶をしたりして、美しい色の間を飛び廻っているものがあるの。
女子 小鳥が花の間で啼いていたんですわ。
少年 私はじっと黙ってそれを聞いていると、いい香りの風が私の顔をさすって行くのよ。……私は母指を口の中に入れて、それをチュウチュウと吸いながら、眼を細めて呆然《ぼんやり》としていたの、けれども私は寂しかったのよ。何故ってね、一人も私の傍に人がいないんですもの、いつも私を眠らせたり、やさしく頬を吸ったりして、可愛がって下さった女の人も、その日に限っていないんですもの。私は一人でそのお庭に棄てられていたんですの、お姉様。
女子 それからどうしたの。
少年 その中に急に私は泣き出したの。
女子 どうしたんでしょうねぇ。
少年 それはねぇ。黒い大きい幕のようなものが、私の体の上へ垂れ下って来たんですもの。……四方がにわかに薄暗くなって、やさしい歌も美しい色も、一時に消えてなくなったのですもの。……それで私は泣いたのよ。
女子 まあ、それから。
少年 その中にね、私はお庭からお室へつれて行かれたのよ。……お姉様! そのお室に何があって?
女子 姉様は知りません。
少年 四角なもの!
女子 四角なもの?
少年 白いかけ布[#「かけ布」に傍点]をした四角なものよ。……その上に人が寝ているのよ。
女子 ああ、病人の寝台です。
少年 その上に人が寝ているのよ。……冷たい顔をした人が寝ているのよ。……その人はね、いつもやさしい歌を歌って私を眠らせたり、私の頬をそっと吸って下さった女の人なのよ。私はその人の手に抱かれている時にね、一番安心していたんですの。一番気強く思われたのよ。……その人が青い冷たい顔をして寝台の上に寝ているの。その人を取りかこんで沢山の人が泣いているの。お室は寂《しん》として淋しいのよ。そして四方が暗いのよ。窓からはね、黄いろいお日様がのぞいているばかり……。
女子 (思いあたれる如く)ヨハナーンや!
少年 その日から私は、もうそのやさしい女の人を見ることが出来なかったの、そして何んだか物足りないような気がしたの。
女子 ヨハナーンや、それはね……。
少年 お姉様、私はその日のことがどうしても忘れられないのよ。
女子 それはねぇ、ヨハナーンや、お母様のお死になされた日のことですよ。
少年 (深く考えるが如き様子。――大人《おとな》の如く厳乎《まじめ》なる表情。やや長き無音)それから外に、もう一つあるの。……忘れられないことが。
女子 云ってごらんなさいな。
少年 それはねぇ、お姉様。(と姉を熟視す)
女子 どんなこと?
少年 (声をひそめて。姉の顔を熟視せるまま)あのお舟よ!
女子 お舟ですって?
少年 灰色のお舟よ!
女子 (無音。考う)
少年 お姉様を遠い所へつれて行った。
女子 (ハッとして、眼を見張り、立ち上がる)まあー。
少年 (勢いこんで、言葉急に)灰色のお舟よ、灰色のお舟よ、お姉様をこんな所へつれて来た灰色のお舟よ。……あの恐い小さいお舟が私の眼にちらついているの。
女子 (打ち消さんと)ヨハナーンや、それはお前の何かの思い違いですよ。(小声にて)ああ、けれど、小供の神経と云うものは、小供の記憶と云うものは……何んて不思議に……ヨハナーンや、(少年の首を胸に介《かか》え)ヨハナーンや、そんなことは忘れてしまうものですよ。あんなことはね。覚えていても益のない、ほんの妄想と云うものです。……ヨハナーンや……何も何も……。
少年 いいえお姉様、私はどうしても忘れることは出来ないのよ。……あの日にお姉様が始めて私へ、あのお歌を教えて下さったんですもの。……「その日のために」って云う悲しいお歌を。
女子 まあ。
少年 あの日私は大変|此処《ここ》が躍っていたのよ。(と胸に手をあてる)そして、泣きたいような気がしたのよ。泣いたって駄目よっと思うけれど、それでも泣きたいような気がしたの……そしてね、お姉様!
女子 (ヨハナーンを憐れ気に見る)
少年 私はもうちゃんと知っていたのよ。
女子 何を知っていたのです。
少年 お姉様と別れることを。
女子 まあ……ほんとにかい。……ヨハナーンや。
少年 ええ、ええ、ちゃんと知っていたのよ。何故って云うにね。その日の気持ちが、恰度、あの日に似ていたからよ。
女子 あの日?
少年 私に親切だった女の人と別れる日に。……寝台の上の……。
女子 まあ。お母様と別れる日とかぇ。
少年 ええ、ええ。……そうよ。だから私は心の中で今日はお姉様とも別れるのだと思っていたのよ。
女子 ヨハナーンや。――お前さんは!
少年 あの日二人は、岩の上に座っておりましたっけねぇ。二人の前には濁った海がどんよりと広がっておりましたわ。雲が遠くの海に垂れて、空と水とが同じ色に染めつけられていましたわね。……二人は岩の上に座ったまま黙って考えておりましたわね。何故黙っていたんでしょう。
女子 いろいろのことを考えていたからですよ。
少年 その中に急にお姉様が歌をお歌いなされたわ。おのお歌を[#「おのお歌を」はママ]、「その日のために」って云う悲しいお歌を。……なぜ、あんなお歌を歌ったの?
女子 (暫時沈黙。やがて総て決心せるが如き語調にて簡単に)歌う時が来たからですよ。
少年 歌う時が?
女子 ヨハナーンや、あのお歌はね、お母様が私共を棄てて遠い遠い所へ行かれる日(塔をチラリとすかし見て小声にて)あの塔の中へ行かれる日、(大きく)私に教えて行った歌ですよ。……もう二度逢えぬ名残りだと云ってね……。
少年 お姉様!
女子 ヨハナーンや、あのお歌はねぇ。この世の名残りに歌う歌ですよ……。
少年 そんな悲しいお歌を、何故あの日お姉様は歌ったの。
女子 歌う日が来たからですよ。
少年 二度と逢えぬお別れの日が、あの時来たの。
女子 ええ、ええ、あの日がそうです。
少年 お姉様! (と一寸笑い)それだのに今日また二人は逢えたねぇ。……お姉様と私と……。
女子 ヨハナーンや、それはねぇ。
少年 二人は逢われたわ。……そしていつまでも一緒に居られるのよ。此処にねぇ……。
女子 (独言の如く)一緒に居られるって、一緒に居られるって。……ああヨハナーンや、お前さんは、ほんとにそう思うの……。
少年 だってお姉様!
女子 (思い返し)ええ、ええ私共二人はいつまでも一緒に居ることが出来ますとも。……ええ、ええ、居ることが出来ますとも。……だがね、ヨハナーンや。
少年 (無邪気に)ね、一緒にいつまでも居られるんでしょう。……そして、(笑い)だから、ほら、あの日は二度逢えぬお別れの日じゃなかったわ。
女子 いいえ、ヨハナーン。(と厳《おごそ》かなる言葉と態度を以てヨハナーンに迫る。ヨハナーン、何んとなく、一大事を明かさるるにはあらずやと思う如く、姉の顔を注視す。緊張せる沈黙)
女子 ね、ヨハナーンや。……今お前さんは、歌の節だけは知っているけれど、文句を知らぬと云ったじゃないの?
少年 ええ、ええ、お姉様、私文句は知らないのよ。
女子 ね、そうでしょう。……そしてお前さんはそのお歌の文句を知りたくて来たんでしょう。
少年 ええ、ええ、そうですよ。
女子 ね、そうでしょう。……だから二人は逢われたんです。……あの日お前がいま少し大きければ……。

少年 お姉様! (と深刻の眼つきと声)……恐《こわ》い!
女子 (四方を見て)いいえ、恐いことはありません。……ただね、二人は此処であのお歌を、いま一度歌うのです。
少年 (何となく総てを知りしが如き様子)お姉様が歌うのを私は聞いているの。
女子 ええ、ええ、そうです。
少年 (姉の手を取り)お姉様! そして私がそのお歌の文句を覚えるんでしょう。
女子 ええ、ええ。
少年 (身をふるわせ)お姉様! そして二人は別れるの。
女子 (ヨハナーンを抱かんとして手を出し)ヨハナーンや、そんな……。

少年 お姉様、此処《ここ》が! (と胸を抑え)大変躍るのよ。
女子 いいえ、いいえ。……そんなこと。
少年 あの日のように大変躍るのよ。
(二人は立ち向かいしまま無音。戸外は風と水の音。やや長き沈黙。――やがて相方進みよりて顔を見合わす。――突然ヨハナーンは痙攣的に泣き出す。姉はそれを抱きしめ)
女子 ヨハナーンや、ヨハナーンや、泣いてはいけませんよ、いけませんよ。私はお前と一緒に此処に居りますからね。いいえ、別れるんじゃありませんよ。ね、ね、ね、ヨハナーンや。……何故泣くんです。……泣くのはおやめ、泣くのはおやめ! 泣くのをやめて、さあ、お話のつづきを話しておくれ。ヨハナーンや……そしてどうしたの。私が歌を歌った後でどうしたの?
少年 (泣くのをやめる)お姉様! (とすすり上げ、また胸を抑えて、恐々《こわごわ》四方を見廻す。姉は密かに窓に行き、黒き布を窓に垂れる)
女子 ね、もう胸の動悸も直ったでしょう。……泣くのはおやめ! ……そして話のつづきを話しておくれ。(独言の如く)ああ、このような昔のことを、二人で話すのもほんの僅かだ。……塔の中、塔の人!
少年 (恐る恐る)それからねお姉様!……お姉様がお歌をお歌いなされた後で、私に二つのうらうづ貝[#「うらうづ貝」に傍点]を下されたでしょう。二つのうらうづ貝[#「うらうづ貝」に傍点]を。――お姉様、それを覚えていて。
女子 いいえ、(頷き)ああ、そうそう。二つのうらうづ貝[#「うらうづ貝」に傍点]をお前さんにやったっけねぇ。……そしてお前さんはそれでどうしたの。
少年 一つを眼にあて、一つを耳にあてるんだって、お姉様はおっしゃったでしょう。
女子 (無音)
少年 私はその通りにしたの。……大きい方を耳にあて、小さい方を眼にあてたのよ。……するとお姉様はこう云ったでしょう。「耳の貝で海を聞き、眼の貝で海を見ろ!」って……。
女子 (無音)
少年 私は一生懸命に耳の貝で海を聞き、眼の貝で海を見ていたのよ。……するとお姉様がまた「ヨハナーンや、どんな音が聞こえます」って聞くの。「何も聞こえませんよ」って私は答えたわ。ほんとに何も聞こえませんもの。するとお姉様は「その筈です」と云ったわね。お姉様!
女子 (無音)
少年 するとまたお姉様は「ヨハナーンや、海の上に何が見えて」って聞くんです。何も見えないんでしょう、だから私「お姉様、お姉様、何も海には見えません。ただ暗いばっかりよ」って答えたの。「その筈です」ってお姉様は、淋しいお声で云いました。――そして少し経《た》ってから、またお姉様は、「ヨハナーンや、お前さんは沈黙と暗黒とを見ているね、暗黒と沈黙とを聞いているね」っておっしゃるの、そして直《す》ぐにまた「ヨハナーンや、姉様はその沈黙と暗黒のおそばへ行くんですよ、――さようなら、……あれもう灰色のお舟が迎えに来てよ」っておっしゃるの。私は吃驚《びっくり》して耳の貝と眼の貝とを一緒に取ってお姉様の方を振り返ったのよ。
女子 ヨハナーンや、姉様はもうその時、岩の上にはいなかったんでしょうね。
少年 ええ、ええ、いなかったのよ。今までお姉様のいらっしゃった岩の上には、お姉様がしじゅう弾いていらっしゃった七弦琴が置いてあったばかり。……ね、この七弦琴が。(と自分の持ちたる七弦琴を差し出す)そこで私は、岩の上に立ち上がって海の方を眺めたのよ。すると海の遠くの遠くの方に、灰色の帆舟が一艘|辷《すべ》って行くのよ。……空と海とが一重に見える遠くの方へ。……私は心の中で、あのお舟の中にお姉様はいる。……あのお舟でお姉様は私の知らぬお国へ行くんだと思ったの。……そしてもう為方《しかた》がないのよッて思ったの。それでもお姉様、私は三度ほどお姉様を呼んだのですよ。……白い鴎が飛び返って来るばかりで、お姉様のお声は返って来ないのよ。(姉を熟視し)お姉様! あのお舟でお姉様は此処へ来たの。
女子 (厳粛に頷き)ヨハナーンや、それからお前さんは今日までどうして日をくらしていたのです。え。
少年 一人でくらしていたのよ。お姉様の弾いていらっしゃった七弦琴を弾いてね。
女子 どんなお歌を弾いていたの?
少年 私のような年格好の小供の、知っているようなお歌よ。
女子 どんなお歌? ……それを私に弾いて聞かせておくれ。
少年 ええ、ええ。(と躊躇せずに弾き且《か》つ歌う)

  南の国の王様が
  レモンの花の夕暮に
  銀のお笛を吹いている。

  銀のお笛は山越えて
   湖《みずうみ》こえて鳴ったれば
   レモン林の姫様が
   明日《あす》は行きます
待ってやと
玉の琴音をかき鳴す。

女子 まあまあ、そんな可愛いお歌を歌っていたのかぇ。
少年 このお歌を歌ったり弾いたりしていたのよ。……けれどもね、その中に私はこのお歌が嫌になったのよ。
女子 何故でしょうねぇ。そんなに可愛いお歌を。
少年 可愛いお歌! そうですわ。このお歌はほんとに可愛いお歌ですわね。けれど私、もうこんな可愛いお歌は厭になったんですの。……もっと、もっと、悲しいような、身にしみるお歌が弾きたくなったのよ。……それでね、お姉様!
女子 それで別のお歌を弾いたのかい。
少年 ええ、ええ、別のお歌を弾いたのよ。……あのお歌を弾いたのよ。「その日のために」って云うお歌を。
女子 まあ。
少年 けれども私、今も云った通り、あのお歌は節《ふし》だけは知っているけれども、文句は知らないんでしょう。だから私、ただ七弦琴に合わせて、節だけ鳴らしていたんですの。……歌は歌わないでね。……けれども私、その中に節だけでは物足らなくなって来たの、どうしてもお歌の文句を知りたくなったのよ。……そして、お姉様! そしてお姉様が恋しくなったのよ。……お姉様に逢いたくなったのよ。……毎日毎日私はお姉様のことばかりを思っていたのよ。
女子 それで姉様を此処まで尋ねて来たの?
少年 ええ、ええ、そして、とうとうお姉様と逢われたわ。
女子 (不思議そうに)けれどねぇ、ヨハナーンや、どうしてお前さんはお姉様が此処に居ることを知ったんです。……そしてどうして一人で此処まで来られたの。
少年 (首を振り)いいえ、お姉様、私は一人で来たんじゃないのよ。
女子 (驚き)一人でない?
少年 大きい人と一緒に!
女子 大きい人?
少年 大きい恐い人。
女子 (無音。――やや思いあたれるが如き様子)ああ。
少年 大きい恐い、そして影のような人と一緒に来たのよ。お姉様。
女子 ヨハナーンや。……そしてその人は。……あのお前さんを……。
少年 ええ、ええ、私を引っぱったり押したりして、此処までつれて来たんですわ。前に立ったり背後《うしろ》に立ったりしてね。……私はその人の歩いて行く方へ歩いて行ったの。……押されるまんまに押されて来たのよ。……私はね、心の中で思ったの。……この人が私をお姉様の所へ連れて行くんだとね。ええ、ええ、その人は唯フッと現われたのよ。フッと現われた人だけれど、なんだか大変偉いようなお人だわ。そして恐いお人よ。……その人はね、いつも私に囁いているの。「行け行け! ただ行け、行け! お前はどうしても行かねばならぬ!」こう私に囁いているのよ。
女子 (凝然たる瞳を以て黒幕をすかして塔を眺む。――失望の色は顔を鉛色に染む)ただ行け行け! お前は行かねばならぬ! その影のような人がそう云ったんだね。
少年 ええ、ええ。
女子 塔の人。塔の人。
少年 お姉様! (と姉を恐ろしげに眺め)そのお人は悪い人ですか……。
女子 いいえ、(間)いいえ、(間)いいえ。(間)
少年 恐い人ですか?
女子 いいえ、(間)いいえ。……その人はね、塔の人ですよ。塔の人……。
少年 お姉様! 私には……わからない……強い人なの?
女子 もうもう、何もお聞きでない。お前さんは、その人に連れられて来たんですもの。……恰度《ちょうど》私が灰色の帆舟で連れられて来たように。……ヨハナーンや! ……その人と一緒に三つの門を越して来られたんでしょうねぇ。
少年 (深く頷き)ええ、ええ、三つの門を越して来たのよ。
女子 やすやすと越せたかぇ。
少年 ええ、ええ、安々《やすやす》と越せたのよ。私を連れて来たその人がね。私の手を引いて門の前まで来ると、門が自然と両方に開《あ》いて、二人が這入《はい》るとまたしまったのよ。開いた時と閉じた時、重い陰気な音がしてよ。その音を聞いた時、私は心の中で、ああもう二度と私はこの門を出ることが出来ないのだと思ったの。……お姉様あの門は何の門? 両方に刃《は》のついてる長い剣が門をしっかりと守っていてよ。お姉様!
女子 お前さんを連れて来た影の人が、何んとかお前さんに云わなくって。
少年 ええ、ええ、むずかしいことを云ったのよ。……肉体を守る剣の門だって。
女子 肉体を守る剣の門! その人の云う通りですよ。……第二の門もらくに越せたの?
少年 泉の水で守られた第二の門も、第一の門と同じように、影のような人に手を引かれて、らくらくと越したのよ。お姉様あの門は?
女子 あの門はね。情の泉で守られた門。
少年 影のような人もそう云ったのよ。
女子 ヨハナーンや! 第三の門は火の門でしょうね。
少年 赤い火の門よ……。
女子 そして熱い!
少年 ええ、ええ、熱い火の門よ!
女子 それもらくに越したのかい。
少年 自然《ひとりで》に門が開《あ》いて、二人はらくらくとこせたのよ。お姉様あの門は?
女子 影の人は何んと云うたの。
少年 熱い魂の門ですって。
女子 その三つの門を越して、この青白いお室《へや》へ来たんですね。……可愛そうなヨハナーンや! ……何も知らぬヨハナーンや! (間――涙と共に)ああ、ああ、可愛そうなヨハナーンや!
(二人無音。――墓の如き静寂。時々塔を吹く風の音と、水門に流れ入る水の音。……ヨハナーン、また痙攣的に泣き出す)
少年 (泣きながら)お姉様! 此処《ここ》が躍ってよ、大変躍ってよ、お母様やお姉様とお別れした日のように躍ってよ。……お姉様、お姉様! 大変躍ってよ。(胸を抑えて姉を凝視す。泣く)
女子 (最早詮方なきを知りしものの如く)ヨハナーン! (沈痛に)ヨハナーン!
少年 お姉様! 私は、(と四方を見て)私は。……(四方を見ておびえる。――姉も四方を見る。――青白き光線室内に充《み》つ)
少年 お姉様、青い光がだんだん濃くなって来てよ。……私の体がだんだん弱くなって来てよ。(塔を吹く風の音)お姉様! あの音?
女子 風の音です、何んでもない風の音です。……ヨハナーンや! さあ姉様の所へおいで、さあ昔のように緊《しっ》かりと抱っこしてあげましょう。……さあおいで。
少年 (後退《あとずさ》りして)いいえ、いいえ。
女子 恐いことはありませんよ、……さあ。(と手を差し出す)
少年 (それをくぐり)お姉様!
女子 ヨハナーンよ! 姉様を恋しがって来たのじゃありませんか、……さあ、その恋しい姉様が昔のように可愛がって抱いてやるんですよ。さあおいで、……お前さんをよく眠らせた子守歌を歌ってあげましょうね。
少年 (姉の傍へそっと行き、その手に抱かるる)お姉様! (と接吻す)お姉様!
女子 (ヨハナーンを数々《しばしば》接吻し)昔のように、さあしっかりと抱《だか》っておいで、もっと緊《しっ》かりと緊かりと。(ヨハナーンの顔を熟視し)姉様をようくようくごらんなさいよ。忘れぬように、忘れぬように。……ね、いつまでも忘れぬように。
少年 (姉の顔を見上げ)青い!
女子 ええ!
少年 青い!
女子 何が?
少年 青いの、お姉様のお顔が……そして冷たい! そして大変悲しそうなお眼だこと。お姉様! ……そしてね、お姉様のお手は骨のように堅い。骨のように。
女子 いいえ、いいえ、ヨハナーンや! 私は昔のようにやさしく抱いているんですよ。……ね、やさしく。……ほら。
少年 いいえ、骨のように堅いのよ。……そして私の、私の、(と胸を抑え)また私の胸が大変躍ってよ。……あの日のように。――お姉様! ほら、ほら、ね、こんなに。
女子 (ヨハナーンの胸を抑え)まあー。
少年 お姉様! お姉様! お姉様! (と痙攣的に泣く)
女子 ええ、ええ、もう。(と塔をすかし見て、絶望的に嘆息す)
(ヨハナーンの泣き声のみ悲哀をこめて場内に響く。――その声、次第次第に細り行く、笛の音の切れんとするが如し。……やや長き沈黙)
女子 (卒然として立ち上がり、上手の扉に向かい耳を澄ます)足音! 足音!(とヨハナーンを床の上に立たす。ヨハナーンはにわかに泣き止め、恐怖に襲われしが如く身をふるわす。大人の如く真面目なる表情)
女子 ヨハナーンや! あの音が聞こえますか。あの音が? おお おお!
少年 いいえ、何も、お姉様何も聞こえは致しませぬ。……ああ、いいえ! お姉様! どんな音? 風の音?
女子 (凝然と扉を見つめ)いいえ、足音! 大勢の足音!
少年 いいえ、いいえ。お姉様!
女子 そうだ。たしかに。(と覚悟せる冷静を以て。されどまた最早躊躇する時にあらずと云うが如き態度にて)ヨハナーンや! さあ!(と云いつつ床上に落ちたる七弦琴を取り上げてヨハナーンに渡し)さあ。(塔をすかし。また扉の外へ耳をすまし)さあ!
少年 (七弦琴を受け取り)お姉様!
女子 (扉を見詰めつつ)歌ってあげましょう。「その日のために」を。……早く!
少年 お歌! (と七弦琴を構える)
女子 (絶えず、扉の外の物音に気をくばり)このお歌は。……(と機の方に近より)いつもこのお室でこの機を織りながら歌った歌ですよ。……ね、さあ、……今日は機の織り終《しま》いに、……歌の歌い終《しま》いに。……歌って織りましょう。(間)ヨハナーンや?
少年 お姉様!
女子 ようッく、ようッく歌の文句を覚えるんですよ。……(と女子機の台に腰を下ろし、梭に手をかける。この時、最後に残りし黄なる糸、中頃より切れて落つ)
女子 切れた! (立ち上がる)
(たちまち、上手の入口の鉄の扉、音なく開けて、影の如き人々の列、表情なき足どりを以て室内に入り来る。――真先には巨人立つ。(巨人もまた影の如き姿)この一列は室を廻りて下手に半円形を造りて、立ち並ぶ。巨人のみ中央に立つ。無音。鬼気。冷風。――然《しか》り冥府の如き冷たき光影! ヨハナーンは巨人の姿を見るや絶叫す)
少年 お姉様! あの人なの、あの人なの! 私を連れて来た人はあの人なの。(巨人を指し、後退《うしろじさ》りに退きしが、そのまま気絶して場内に仆《たお》る。姉は凍れる棒の如くに立つ)
巨人 (表情なき声)女よ! お前の祖先がお前を待っている。(と影の如き人々を振り返る。影の如き人々は一様に広き灰色の衣を左右に拡げ、女子を包むが如き風をなす。冷風衣の下より起こる)
巨人 彼等は塔に住む! 女よ! お前も塔へ行かねばならぬ。……女よ! 塔へ歩め!
(女子は無音にて首を垂れ、機より離れて巨人に近く進む)
巨人 (上手の扉を指さし)塔に歩め!
(巨人を先頭に影の如き人々列を造りて上手の口より出で去る。女子もまた影の人々の如く表情なき歩調にて列の最後より歩み行く。――女子この室より出でんとし、瞬間出口にて振り返り、仆れし愛弟を凝視す。その眼には無限の思慕の情涙と共に溢る……)
女子 (一声)ヨハナーン!
(この声と同時に仆れしヨハナーン飛び起きて姉の顔を見る。二人の視線正しく合す)ヨハナーン!
少年 お姉様! (姉の姿扉の彼方に消え、扉は音もなく刎《は》ね返りて堅く閉ず)
少年 お姉様! (馳せ行きて扉を擲《たた》く)お姉様! (ヨハナーンの呼び声のみ反響す)お姉様よう。……(泣く。泣く声のみ反響す)
お姉様! お姉様! お姉様よう!
(惨酷なる無音。――ヨハナーン再び気絶せるが如くに床上に仆れしまま動かず。その小さき体を青白き天井の光は照らす。三分間静。たちまち窓外より限りなき思慕の声にて幽《かすか》に幽にヨハナーンを呼ぶ)
女子の声 ヨハナーン!
(ヨハナーンふと心づきて頭を上げ室内を見廻す。――姉の姿見えず。自分の耳を疑うが如くなお四方を見廻す。――再び姉の声、此度はやや間近に聞こゆ)
女子の声 ヨハナーン!
(それに引きつづきて哀切の調べにて「その日のために」の歌を歌うが聞こゆ)

  美しき色ある糸の
   機を織る人の一生

   五色《いついろ》の色のさだめは
  苧環《おだまき》の繰るにまかせて、
  桧《ひ》の梭《さお》の飛び交うひまに
  綾を織る罪や誉《ほまれ》や。
  (その日のために――)

(ヨハナーン暫時その歌に耳を澄ませしがにわかに飛び起き窓を見詰め)
少年 お姉様!
女子の声 (やや明瞭《はっきり》と)ヨハナーン! ヨハナーン! お歌をよーっく覚えるんですよ!

  五色《いついろ》の色の機織《はたお》り
  一日を十年《ととせ》に数え
  幾日《いくひ》経《へ》にけん。

(ヨハナーンたちまち喜色を顔に浮かべ)
少年 お姉様だ! お姉様だ! あのお声はお姉様のお声だ! 窓の外にお姉様がいらっしゃる。
(と窓に馳せ行き、垂れし黒幕をいっぱいに開く。窓外の光景大きく観客に見ゆ。――塔は空の光に浮き出でて牢獄の如く凄惨として彳《たたず》み、塔の裾の水門もまた鮮やかなり。その水門の上には影の如き人々一列に並び、その前面には巨人立つ。巨人は灰色の衣の袖を上下して上流の小舟を招く。上流には小舟あり、ゆるゆると水門さして流れ下る。小舟の中にはヨハナーンの姉、白衣に包まれ白き百合の花に飾られて仰臥す。眼は見開けども瞳定まらず、ただ仄明るき空を見るのみ。空には小さき月ありて、雲間断なくこれを掠め、風絶えず雲を吹く。雲を吹くの風はまた塔を吹く、塔には悲愁の叫びあり。――光景憐れに冷ややかなり。
小舟はゆるゆると流れ下り窓の下にて暫《しばし》漂う)
少年 (窓の格子より両手を差し出し)お姉様がいる、お姉様がいる、お姉様! お姉様! あれ舟へなど乗って何処《どこ》へ行くの食え お姉様は私と一緒に、いつまでも此処にいると云ったじゃないの。それだのに舟へ乗って、どこかへ行ってしまうなんて! 行ってはいけない、行ってはいけない! ……何故舟へなんてお乗りなされたの? ええ、ええ、そんな恐い厭なお舟へ! ……あっ、そしてお姉様の着物は白いのね! そして白い百合の花が! お姉様、お姉様! なぜそんな白無垢のような着物をお着なされたの……いや、いや、いや! ……あれあれ舟は流れるんだもの、……早く、早く、早く止《と》めてよ。お姉様!(舟は水門の方にゆるゆると流れ行く)お姉様! 舟は何者《なにか》に引っぱられて行くように水門の方へ流れるんですよ。何故|止《と》めないの、何故止めないの! ええ、ええ、お姉様ってばなぜ止めないの!
女子 (ヨハナーンの顔を情深く打ち眺めしまま)ヨハナーンや! (沈痛に)ヨハナーンや!

  若き世の恋の色彩《いろあや》、
  日の如き赤き喜《よろこび》
  ああそれもまたたく消えて、
  悲しみの青き綾糸
  人の世の縦《たて》となりけり。

少年 (塔を眺め)塔! 塔! 物凄い塔! 先刻《さっき》お姉様が、塔も何もないと云ったのはみんな嘘よ! 嘘よ! あの物凄い厭な塔が……お姉様! ええ、ええ、あの塔の中へ! お姉様が! ……お姉様よう! 行ってはいけない、行ってはいけない! 早く! 早く舟を漕ぎ返しておいでよう! 何故そんなにあお向いて臥《ふし》てばかりいらっしゃるの! 立って立って! お姉様! (と舟を止めんと身をあせり、格子をゆする)私が行く、私が行く! 私が行って舟を漕ぎ返してやる! ……待って、待って! (格子をたたき揺《ゆ》すれど格子は動かず!)
女子 ヨハナーン。

  白糸の清ければ
  乙女心よ、
   やがて染む緋や紫や
  或はまた罪の恐れの
  暗《やみ》に似てかぐろき色の
  罪の黒糸
  罪の黒糸

ヨハナーンよ! ヨハナーンよ……お歌をよーっく覚えるんですよ、よーっく覚えるんですよ!
  さまざまの色ある糸の
   綾を織る人の世の象《さま》
  ああかくて日を織り月を
  年を織り命を織りて
  人生《ひとのよ》を織り行く梭か、
  (その日のために――)

少年 ええ、ええ、お姉様! お歌はよーっく覚えますよ。よーっく、よーっく覚えますよ。――だから此処へ帰って来て下さいなよう。……ああ舟が、舟がどんどん流れて行くんだもの! ええ、ええ、誰が舟をひっぱって行く! 誰が誰が!(水門の上の巨人の姿、ヨハナーンの眼に映る)彼奴《やいつ》が! 畜生! 彼奴が! お姉様を! 彼奴が水門の上でお姉様を呼んでいる。私をこんな所へ連れて来た巨《おっき》い恐いあの奴が! ……あれあれあのように広い灰色の衣を振ってお姉様を呼んでいる。……お姉様、早く睨《にら》んでおやり遊ばせ! 行かぬ行かぬと云っておやり遊ばせ! ……あれまだ呼んでいる! 畜生! いっくら呼んだってお姉様はやらぬぞ! 私がやらぬ私がやらぬ! やるものか、やるものか! ……けれども、ああ、ああお舟が流れて行く! 流れながら! ……私とお姉様との間が、こんなに遠く離れてしまった! ……早く、早く、お姉様舟を止めて下さいよう。……そして此処へ来て下さいよう。……ああ、舟が水門へ! あれあれあのように吸いこまれる! ええ、ええ、あのように吸いこまれる!
(舟水門に入らんとす、影の如き人々水門の端に立ち出で、喜び迎うる風をなし、はげしく手を上げて呼び招く)
女子 (悲しき声にて)ヨハナーンよ! (更に悲しく)さようなら!

  人生《ひとのよ》を織り行く梭の
   絶ゆる日に琴の音鳴らん。

ヨハナーンよ、さようなら!
少年 (両手を差し出し、姉を抱きかかえる如き風をなし)お姉様よう、(狂気の如く手を上下し)舟が水門へ吸いこまれる。……影のような人達がお姉様を引っぱりこむ! あの憎い恐い奴! ……舟がグルグルと渦巻いて。……舟首《へさき》がもう水門へ。……白いお姉様の着物が……黒い水が蛇のようにうねくって。……あッ! 舟が水門へ! ……お姉様よう!
女子 さようなら、可愛い坊や! ヨハナーン!


  ひきかけて

(小舟水門の中に入る、影の如き人も巨人も一時に消え失す)
少年 ああれ! (と叫びを上げ)お姉様よう、……もうもう私は、……あんなに云ったのに、とうとうお姉様は水門の中へ。……もう白い着物も見えはせぬ。……水門ばかりが。……黒い水ばかりが。……お姉様よう……。
女子 (水門の中にて)ヨハナーンよ、さようなら!

  鳴らさんものか
 (その日のために――)

少年 お声がする。……お声だけが水門の中から! ……お姉様のお声が。……お姉様! お姉様! ヨハナーンは此処におりますよ。……アーイ、アーイお姉様、ヨハナーンは此処でお姉様を呼んでおりますよ! お姉様よう!
女子 (水門の中にて)ヨハナーン!
少年 (頭髪をむしり)アーイ、お姉様よう。おお、おお、何んて遠くの方で呼ぶのだろう。アーイ、お姉様!
女子 (水門の中にて)さようなら!
少年 (格子を破らんともがきもがき)アーイ、アーイ、お姉様! ……だんだんお声が小さくなる。……お姉様よう。帰って下さいよう。……水門を出て下さいよう。何故私が止めた時お舟を漕ぎ返して下さらなかったの。……ええ、ええ、ええ、もうこのように水門の中へはいってしまっては。……いえ、いえ、大丈夫、大丈夫! 水門を破って。……あんな水門はじきに破れます。……早く此処へ帰って下さいなよう。……塔へなぞ、塔へなぞ!
女子 (水門の中にて次第に幽《かすか》に)さようなら!
少年 (泣きつつ)あれ、あんなにお声が幽になった。……まだ舟は流れて行くのか知ら? 流れちゃいけない、流れちゃいけない。……何故お姉様は止めないんだろう。……お姉様よう。しっかりと舟をお止めなさいよう。しっかりと! 立ち上がって、立ち上がって!
女子 (水門の中にて、ただ僅かに聞きとれるばかりの哀音にて)ヨハナーン、……さよう……なら……。
少年 (恐怖と不安とに声おののき。口に手をあて)お姉様よう。あれあれ、もう千里も遠くへ行ってしまったような幽のお声が。……お姉様よう。……帰って、帰って……お姉様よう。……(耳を澄ます。沈黙《サイレンス》!)あれ、もうお返事がない! 声の聞こえないほど遠くへ行《いら》っしゃったの? いえいえ、そんなことはない! きっとまだあの水門の口においでなさるんだ! ……今はいったばかりだもの! ……お姉様よう、……ご返事をして下さいよう、私の声が聞こえないの。(耳を澄ます)ええ、ええ、だまっている! ……ええ、ええ、黙っている! (口に手をあて)お姉様よう! 一度っきり、一度っきり(とすすり上げ)、そんならお姉様! いま一度っきり此処へ帰って下さいよう。(沈黙! ヨハナーン失望して声を忍んで泣く。場内静。再びヨハナーン気を取り直し)お姉様一度っきり帰って下さいよう! お姉様は私と一緒に此処にいつまでもいると云ったじゃないの! え、お姉様! それは嘘なの嘘を云ったの? 嘘じゃない嘘じゃ無い! お姉様は嘘なんか云いはせぬ。……それだのにお姉様は私を棄てて塔の中へ行ってしまうなんて! ……塔の中に何があるの? お姉様の好きのものがおありなさるの? え、好きのものがあるの? 嘘々《うそうそ》! 何もありゃしない! あんな黒い恐い塔の中にそんなものはありゃしない。塔の中は暗くて淋しくて冷たいばっかりよ。……何故姉様は黙ってるの、今までヨハナーンと私を呼んでいたじゃないの! ヨハナーンと呼んで下さいよう。何故黙っているの、何故、何故、何故! ……私が憎いから黙っているの! 私が、あんなお歌を歌ったから怒っていらっしゃるの? そんならもう、あんなお歌は歌いませんから、一度っきり帰って下さいよう。……まだ黙っている。……ええ、ええ、私の声が聞こえないの? そこまで届かないの? え、お姉様! 私はこんなに大きい声をして――ああ喉から赤い血が流れそうだ――こんなに大きい声をしているのに何故お返事をしてくれないの? (耳を澄ます、沈黙《サイレンス》!)ええ、ええ、私はこんなにお姉様を恋しがって呼んでいるのに、いつまでもお姉様は黙っている。……(塔を吹く風の音)風が吹いておりますよお姉様! そして大変淋しいの。……お姉様がいない故このお室《へや》はお墓の道のように淋しいのよ。いやいやいや、こんな淋しいお室に一人でいるのはどうしたって厭……お姉様、屹度《きっと》屹度私は、お姉様のおっしゃる通りにおとなしくしておりますから。歌を歌えとなら歌いますし、黙っていろとなら一日でも一年でも屹度口をききません! お姉様のおっしゃる通り、おとなしい子になりますから、いま一度っきり此処へ帰って来て下さいよう。……これ私はこんなに頭を下げて頼んでおりますよ。これがお姉様には見えないの、聞こえないの? 私はこんなに……泣きながらこれこんなに(と手を合わせ、頭を下げる)お願い申しておるのですよ! ……ほんとに、ほんとに……私は、お姉様の弟ですのに。……(泣きながら)ええ、ええ、情けないお姉様だこと! 私がこんなに頼んでいるのに、いつまでも黙っている。……それともお姉様、水門から出て来られないの? そんなことはないでしょう。そんなことはない、そんなことはない! 力まかせに押し破って、お姉様は大人だもの、力まかせに押し破って……そしたら出て来られますよ。早く出て来て下さいよう。……そして私を昔のように抱いて接吻して下さいよう。え、え、お姉様!(耳を澄ます、沈黙《サイレンス》)ええ、ええ、何んてお姉様は!
あれあれどうしたんでしょう私の体がだんだん冷たくなって来ます。お室の冷たいのが身にしみて参ります。……いま少し此処に一人でいれば、このお室の底へ引きこまれるように思われます……お室の冷たい風や青い光に。……ほんに私はもうこのお室で……お姉様ってばよう。
ええ、ええ、私も一層のことお姉様と一緒に、その塔へ行ってしまいたい! 塔へ塔へ! (と格子を破り出でんとあせれど格子は破れず)ええ、ええ、この格子が! ああ私は塔へも行けないの、お姉様よう。……(と格子より手を離せばヨハナーンの小さき体は床上に落つ。すき通るが如き声にて烈しく泣く、その声次第次第に細り行き、遂に断ち切りしが如くに止む。――屍の如き体を天井の青き光と窓外の月とほのかに照らす。――冷酷なる沈黙!)
  

底本:「伝奇ノ匣1 国枝史郎ベスト・セレクション」学研M文庫、学習研究社
   2001(平成13)年11月16日初版発行
初出:「レモンの花の咲く丘へ」東京堂書店
   1910(明治43)年10月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2008年11月30日作成
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