国枝史郎

全体主義—– 国枝史郎

 全体主義とか全体主義国家とかいうことが盛んに云われている。日本が全体主義国家であるか無いかに就いては私は云わない。いや、むしろ、日本の国を、全体主義というような、外国伝来の言葉をもって範疇づけることは、その特殊の国体から云って不当であろうと思う。
 しかし、今日の場合、日本民衆に、全体主義の如何《いか》なるものであるか、そうして、現在の日本の国情に於ては、全体主義の内容が、必要化しているということを知らせる必要があるように思われる。
 この全体主義の内容が、そうして、その必要性が、民衆の間に徹底したならば、尠《すくな》くも、統制から来る不平や、物資不足から来る不満は解消されるであろう。
 全体主義理論家のシュパンの説を、ほんの一部、左に摘録してみる。
「何物も独立自存してはいない。又、独立自存することは出来ない。一切のものは、より偉大なもの、自己を包含するものによって、支持せられ、そうして実存せしめられる。したがって、それが自己を包含するものから脱落して独立自存しようとするや、それは立所に滅亡する。人間は、あらゆる精神的共同なくしては、精神的に死滅しなければならない。いかなる動物も仲間無くしては存在せず、いかなる茎も芝生なくしては生存しない。そして石ですら元素界以外に存在するか? 地球は大空を外にして考えられるだろうか? 存在する一切のものは全体の一節として存在するばかりである」
 まことに解りよい、そうして深い意味を持った、尤至極《もっともしごく》の言葉だと思う。わけても「いかなる動物も仲間なくしては存在せず」という言葉からはクロポトキンの、双互扶助論が連想され「石ですら元素界以外に存在するか?」の言葉の内容に至っては、極わめて卒直《そっちょく》なる科学的なる、唯物的なる、実証的なる思想によって裏付けされていることに想到するであろう。
 全体主義に哲学が無い、思想が無いなどと云為されて来たことが、これでノンセンスになったことを知るであろう。
 それに、大哲カントやヘーゲルを産んだ独逸《ドイツ》が、思索的な、余りに思索的な独逸《ドイツ》人が、全体主義に、ほんとうに首肯すべき哲学が無かったならば、何んでヒットラーの下に、全体主義を奉じて刻苦経営しようぞ。
 さて我等は国民である。国民は国家の一節であり一細胞である。
 国家という全体が――即ち母体が、衰滅に帰したならば、その細胞であり一節である国民が衰滅することは必然であろう。
 では国家がその全体性を活かす必要上統制経済を執行する場合、国民は喜悦して夫《そ》れに順応し、それから発生する一時的の物の不足や不自由を克服すべきは、当然と云わずして何んぞやである。

底本:「国枝史郎歴史小説傑作選」作品社
   2006(平成18)年3月30日第1刷発行
底本の親本:「外交」
   1940(昭和15)年9月2日
初出:「外交」
   1940(昭和15)年9月2日
入力:門田裕志
校正:阿和泉拓
2010年11月15日作成
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国枝史郎

善悪両面鼠小僧—– 国枝史郎

乃信姫に見とれた鼠小僧
「曲者《くせもの》!」という女性《じょしょう》の声。
 しばらくあって入り乱れる足音。
「あっちでござる!」
「いやこっちじゃ!」
 宿直《とのい》の武士の犇き合う声。
 文政《ぶんせい》末年春三月、桜の花の真っ盛り。所は芝二本榎、細川侯の下邸だ。
 邸内に大きな松の木がある。その一本の太い枝に一人の小男が隠れていた。豆絞の手拭スットコ冠り、その奥から眼ばかり光らせ高縁の辺りを見詰めている。腕を組み体を縮め足を曲げて胸へ着けた様子、ざっと針鼠と云った塩梅《あんばい》、これが曲者当人である。
「ええどうでえ美人《いいおんな》じゃねえか。どうもこいつア[#「こいつア」に傍点]耐《たま》らねえな。ああやって薙刀をトンと突き縁に立った様子と来たらとても下等の女じゃねえ。正にお大名の姫君様よ。吉原にだってありゃアしねえ。へ、ほんとに耐《たま》らねえや。……が、それにしても今夜の俺らを仲間が聞いたら何と云うだろう? おおおおそれでも鼠小僧かえ、どう致しまして土鼠《もぐら》小僧だアね、なるほどお手許金頂戴でよ、大名屋敷へ忍ぶと云やア、豪勢偉そうに聞こえるけれど、細川様の姫君に見とれ[#「見とれ」に傍点]茫然《ぼんやり》突立っているもんだから、眼覚めた姫君に見咎められ、曲者なんて叫ばれたので何にも取らずに飛び出したあげく、それこそほんに鼠のようにあっち[#「あっち」に傍点]へ追われ、こっち[#「こっち」に傍点]へ追われ逃げ場をなくして松の木へ飛び付き漸《やっと》呼吸《いき》を吐いたなんて、へ、それでも稼人《かせぎにん》けえ? 鼠小僧も箍《たが》が弛んだな。――なアんと云われねえものでもねえ。……が、云う奴は云うがいいや。そんな奴とは交際しねえばかりよ。そういう奴に見せてやりてえくらいだ。お美しくて威があって、お愛嬌があって上品と来てはこれぞ女の最上なるものを。クレオパトラだって適《かな》うめえ。ましてその辺のチョンチョン格子、安女郎ばっかり買っている奴には這般《しゃはん》の消息の解《わか》るはずがねえ。……何しろ俺らも驚いたね、いつものデンで忍び込んだ所が場所もあろうに姫君のお寝間、ひょいと覗くと屏風越しに寝乱れ姿が見えたと思え。寝白粉というやつさね。クッキリと白い頸からかけて半分お乳が見えるまで寝巻から抜いだ玉のような肌。まずブルッと身顫いしたね。丹花《たんか》の唇っていう奴をほん[#「ほん」に傍点]の僅かほころばせてよ、チラリと見せた上下の前歯、寝息さえ香ろうというものさ。で、思わず茫然としていつまでも屏風越しに覗いているとポッカリと眼をお開きなされたがにわかに夜具を刎ね上げたのでハテなと思うと声を掛けられた。
「曲者!」という凜とした声。
「掛けると同時にヒラリと起き長押《なげし》の薙刀をお取りになったがいやどうも[#「いやどうも」に傍点]その素早いことは、武芸の嗜みも想われて急にこっちは恐くなり何にも取らずにバタバタと逃げ、かくの通りに松の木の上で、ブルブル顫えておいでなさらア。……と云って恐ろしくて顫えるのじゃねえ。縁に立ったお姫様の薙刀姿が艶かだからよ。……ああ本当に悪くねえなあ。一度でもいいからあんな女を。……おや、畜生、宿直の武士ども漸時《だんだん》こっちへ遣《や》って来やがる。あ、いけねえ見付けやがった!」
「方々曲者を見付けてござる! 松の上に居ります松の上に居ります!」
「えい!」と突き出す大身の槍、それを外して鼠小僧、パッと家根《やね》へ飛び移った。
「それ家根だ!」
「逃がすな逃がすな!」
 五六人家根へ追い上って来る。
 賊はと見ればその賊は、家根棟の上にふん[#「ふん」に傍点]跨がり、大胆不敵にもニヤニヤとこっちを眺めて笑っているらしい。
 ツツ――と一人が走り寄り、「捕った!」とばかり組み付くのを、
「侍、命が惜しくないそうな」
 云うと同時に組まれたまま故意《わざ》と足を踏み辷らし、坂を転がる米俵か、コロコロコロコロと家根に添い、真逆様に落ちたのは、乃信《のぶ》姫君の佇んで居られる高縁先のお庭前で、落ちるより早く身を飜えし、組まれた相手を振り解《ほど》くとひょい[#「ひょい」に傍点]とばかりに突っ立った。
「へへ、これはこれはお姫様、とんだ失礼を致しまして真っ平ご免遊ばしませ。なアんて云うのも烏滸《おこ》がましいが私《わっち》は泥棒の鼠小僧、お初お目見得に粗末ながら面をお目にかけやしょう」
 パッと包んだ手拭を捕るとヌッと露出《むきだ》された変面異相、少し詳しく説明すれば、まずその眼は釣り上ってちょうど狐の眼のようであり、その鼻はひしゃげ[#「ひしゃげ」に傍点]て神楽獅子を想わせ、口は大きく横へ裂けて欠けた前歯がまばらに見える。夜眼にもクッキリ顔色は……白くはなくて黒いのだ。四尺足らずの小兵ではあり、全体が不具奇形である。
「へへへへ」と笑う声はどんよりと濁って不愉快を極め聞く人をしてゾッとさせる。いわゆる先天的犯罪面でその残忍酷薄さは一見しただけで想像される。
「無礼者!」と乃信姫はキリリと柳眉を上げたものである。

与力軍十郎逆捻を喰わす
 乃信姫の声に侍ども、バラバラとここへ集まって来たが、
「ここにいるここにいる! それ召し捕れ!」
「えい!」「や!」と槍や棒。四方八方から打ち込んで来るのを、ハッハッパッと手を挙げて払い、掛け声もなく宙に飛ぶと高塀の上へ突っ立った。
「えへへへ、お姫様! いずれまたお目にかかりやしょう。……いとし[#「いとし」に傍点]可愛いと締めて寝し……ちゃアんと浄瑠璃にもございやす。そんなことがねえとも限らねえ。後の証拠にこの金簪《きんかん》、飛び上った拍子にちょっと抜き、肌身放さず持って居りやす。また逢うまでさらばさらば」
 とんと向こうへ飛び下りた。
「それ!」と云うので侍共、裏木戸を開けて後を追う。
 遥かむこうに一人の人影宙を舞うように走って行く。
「あれ追え!」とばかり侍共、これも宙を走ったが、どうしてどうして追い付けそうもない。
 一つの辻を曲ったとたん、
「かかる深夜に周章《あわただ》しい! 大勢走ってどこへおいでなさる!」
 たちまち行手を遮られた。見れば様子でそれと知れる市中見廻りの与力が一人部下の目明五六人を連れ、悠然として立っていた。
「おおこれは与力衆か。我等は細川の家中でござるが、二本榎の下邸にただ今盗賊忍び入ったれば……」
「ははあ賊が入りましたかな」
 与力中條軍十郎はちょっとその眼を光らせた。
「左様、盗賊忍び入ったれば、直ちに見付け狩り出し、ここまで追っかけ参ったる所……」
「どの方面へ逃げましたかな?」
「辻を曲ってこの方面へ」
「これは不思議、この方面からは、たった今拙者参ってござるが……」
「盗賊お見掛けなされなかったかな?」
「いかにも左様なもの見掛けませぬ」
「人一人にもお逢いなされぬ?」
「いや一人逢いました」
「すなわち、そやつが盗賊でござる! どの方面へ逃げましたかな?」
「その人間盗賊ではござらぬ」
「いやいやそれこそ盗賊でござるよ。……四尺足らずの小兵の男」
「なかなかもって。五尺五六寸」
「色の黒い変面異相」
「なかなかもって。それも反対、色の白い好男子でござった」
「一応誰何なされたであろうな?」
「左様、互いに挨拶致した」
「ははあ、挨拶? ではご存知で?」
「よく存じ居る人物でござる。……威勢のよい魚屋でござる」
「どこの何という魚屋でござるな?」
「茅場町植木店、和泉《いずみ》屋という魚屋の主人、交際《つきあい》の広い先ずは侠客《だてしゅう》、ご貴殿方も名ぐらいはあるいはご存知かもしれませぬ、次郎吉という人物でござるよ」
「あ、次郎吉? 和泉屋のな? いやそれなら大承知でござる。ちょいちょい下邸へも出入りする男じゃ」
「細川侯へもお出入りとな? ははあさては魚のご用で?」
「いや」と云ったが細川の藩士、これには少なからずトチッたものである。
「いや何、別にそうでござらぬ。……」
「ああいう人物の常として、袁彦道《えんげんどう》の方面へも、ちょいちょい次郎吉も手を出すそうで」
「ははあ左様でござるかな」
 細川の藩士眼を見合わせた。
「噂によれば二本榎、細川侯のお下邸では、毎日毎夜賭場が立つそうで、ははあさては次郎吉も、その方面でお出入りかな」
「うへえ。……いやいや。……左様なこと。……」
「何のないことがござるものか」
 軍十郎ニタリと笑い、
「次郎吉は金使いの綺麗な男、失礼ながらご貴殿方も、時々小使金ぐらいお貰いでござろう」
「いやはや、どうして、なかなかもって……」
「アッハハハ」と軍十郎、臆面もなく笑ったが、
「賭場など立てばお邸内自然不用心にもなる道理、賊に入られてもしかたござらぬの」
「これはどうも飛んだお目違い」
「近来不思議な賊あって、大名邸へ忍び入りお手許金を奪う由、拙者そのため上の命にて夜中見廻り致し居る次第、世間随分物騒でござれば、諸事ご注意願いたいものじゃ」
「心得てござる。注意致すでござろう」
「最早お引き取り相成るよう」
「左様でござるかな。……しからばご免」
 さんざん油を取られたあげく、細川の藩士はコソコソと邸の方へ引っ返して行った。
 後を見送った軍十郎、苦笑せざるを得なかった。

鶯谷の狼藉
 その翌日のことであったが、細川侯の下邸から五挺揃って女乗物が粛々として現われた。乃信姫様がお付を連れて上野へお花見においでなさるのである。
 この当時の上野山内は一品親王輪王寺宮《いっぽんしんおうりんおうじのみや》が、巨然としておいで遊ばしたので神《かん》寂びた岡がますます神寂び、春が来れば桜の花が緑樹の間に爛漫と咲き得も云われない景色ではあったが、墨堤《すみだ》や小金井と事変わり仮装や騒ぎが許可《ゆるさ》れなかったので、花見る人は比較的少なく常時《いつも》お山は静かであった。で、大名の奥向などでは花見と云えば例外なしに上野の山へ出かけたものである。
 行列は極めて小人数であったが、さて山内へ着いて見ると、小袖幕で囲い設けた立派な観桜席《せき》が出来ていて、赤毛氈に重詰の数々、華やかな茵《しとね》、蒔絵の曲禄、酒を燗する場所もあり、女中若侍美々しく装い、お待ち受けして居た所から、ワッと一時に陽気になった。
 姫は設けの上座へ着き、老女|楓《かえで》、同じく松風、続いてズラリと順序を正し、老けたる者若き者、綺羅星のごとくに居溢れたので、その美しさ花に劣らず、物言うだけが優である。
「さあさあ今日は無礼講、芸ある者は遠慮なく芸を見せてくれるよう」
 酒が一渡り廻った頃、この乃信姫は仰せられた。
「さあさあお許しが出でました。三味線、琴、芝居声色、何でもよいから芸ある方は、出し惜みせずお出しなされ」
 いつも渋い顔をして睨んでばかりいる老女迄が、今日は愛相よくこういうので、待っていたとばかり女中共、芸尽くしを遣り出した。
 義太夫、清元、常磐津から、団十郎の連詞《つらね》の口真似、阿呆陀羅経からトッチリトン、安来節から出雲節、芸のない奴は逆立をする。お鉢叩きに椀廻し、いよいよ窮すると相撲を取る。越後の角兵衛逆蜻蛉、権兵衛が種蒔きゃ烏がほじくる、オヤほんとにどうしたね、お前待ち待ち蚊帳の外、十四の時から通わせていまさら厭とは胴欲な、……などと大変な騒ぎになった。笑声、歓語、泣き出す奴もある。――こいつヒステリーに相違ない。
「エッサッサ、エッサッサ」
 泥鰌掬いが始まった。
 姫は余りの可笑《おか》しさに、座にもいられず供一人連れ、小袖幕をヒラリと刎ね、囲いから外へ忍び出た。
「お菊や、どっちへ行って見ようね」
 供の腰元を振り返る。
「はい、お姫様のよろしい方へ」
「静かな方へ行って見たいね。あまり笑って苦しくなったよ」
 云いながらブラブラ遣って来たのは今日も寂しい鶯谷の方で、ここまで来ると人気はなく充分花も見ることが出来る。
「ああ好いこと」と云いながら二人は切株に腰を下ろし、咲きも終わらず散りも始めぬ、見頃の桜に見取れていた。
 と、そこへバラバラと五六人の人影が現われた。一見して市井の無頼漢、刺青《ほりもの》だらけの兄イ連、しかも酒に酔っている。
「オオオオこいつア見遁せねえなあ! どうでえどうでえこの美婦《たま》は!」
 一人が云うとその尾に付き、
「桜の花もいいけれど物言う花はもっと好《い》い。引っ張って行って酌をさせろ!」
「合点!」と云うと不作法にも、二人を手籠めにしようとする。
「無礼者!」と柳眉を逆立て、乃信姫は礑《はた》と睨んだが、そんなことには驚かず、二人がお菊を引っ担げば、後の三人の無頼漢は、乃信姫を手取り足取りして、宙に持ち上げて駆け出そうとする。途端に老桜の樹陰から、
「待て!」と云う声が響き渡った。深い編笠に顔を隠した一人の武士がつと[#「つと」に傍点]現われる。
「高貴のお方に無礼千万! 覚悟致せ!」と声も凜々しく、鉄扇でピシッと打ちひしぐ。
「わ――ッ、いけねえ! 邪魔が出たア!」
 最初の勢いはどこへやら、五人揃って無頼漢共は雲を霞と逃げてしまった。
 武士は静かに編笠を脱ぎ、
「浮雲《あぶな》い所でござりましたな。お怪我がなくて先ずは重畳、確か貴女様は細川の……」
「はい、乃信姫でござります。ようお助け下されました。あのう……」と云ったが急に口籠り、まぶし[#「まぶし」に傍点]そうに侍の顔を見た。水の垂れるような美男である。侍と云うよりも歌舞伎役者、野郎帽子の若紫がさも似合いそうな風情である。それまで蒼かった姫の顔へポーッと血の気が差したものである。

 その夜、浅草の料亭で、例の五人の無頼漢が、ひそひそ話しながら酒を飲んでいた。
 そこへ女中に案内され、入って来たのは例の武士である。
「今日はご苦労」と云いながら金の包をヒョイと出した。
「一人前十両ずつ。へへえ、有難う存じます。仕事も随分あぶなかったが、褒美の金も値がいいや」
「それではそれで堪能か、こっちも安心」と云いながら、グイと取った深編笠、顔を見ればこれはどうだ! 水の垂れそうな美男ではなく、二眼と見られない醜男ではないか!

解けぬ謎
 荒い格子に瓦家根、右の方は板流し! 程よい所に石の井戸、そうかと思うと格子の側《わき》に朝熊万金丹取次所と金看板がかかっている。所は茅場町植木店、真の江戸子が住んでいる所……で、表向きは魚屋渡世、裏へ廻ると博徒の親分、それが主人《あるじ》次郎吉の身分だ。力士《すもう》は勿論三座の役者から四十八組の火消《しごとし》仲間、誰彼となく交際《つきあ》うので、次郎兄い次郎兄いと顔がよい。直接の乾児が五六十人、まずは立派な親分と云えよう。
 雀がチウチウ烏がカアカア。それ夜が明けた戸を開けねえ。ガタン、ピシン、サーッと云うのは井戸から水を汲む音である。そこの若衆が息セキ切って河岸の買出しから帰って来る。
「アラヨ!」なあアんて景気がよい。
 お華客《とくい》廻りは陽の出ぬ中、今日《いま》でも東京の魚屋にはそう云う気風が残っている。
 女房のお松は二十三四、いわゆる小股の切れ上った女、雑種ではない正味の江戸者、張があって愛嬌があってそうして頗る人使いが旨い、若衆と一緒に床を出て、自分から火を焚いて湯を沸す、下女《したおんな》を労わる情からである。
 やがて朝陽が家根越しにカッとばかりに射して来た。
「まあ内の人はどうしたんだろう。朝寝坊にも際限《きり》があるよ、どれ行って起こしてやろう」
 裏に造られた離れ座敷へ飛石伝いに行って見た。
 ピッシリと雨戸が締まっている。
「もー、お起きなさいよ起きなさいよ。お日様が出たじゃありませんか」
 トントントンと戸を叩いた。
「おお、お松か、やけに叩くなア。まあもう少し寝かせてくれ」
 内から次郎吉の声がする。
「何の、昨夜《ゆうべ》遅かったのさ。どうも睡くて耐《たま》らねえ」
「いいえ、いけません、お起きなさいよ、魚屋の亭主が朝寝坊じゃ人前が悪いじゃありませんか。ようござんすか開けますよ」
 ガラリと一枚雨戸を開けた。
「いけねえいけねえ来ちゃいけねえ!」
「おや、おかしい?」――と、その声を聞くと、お松は小首を傾けた。と云うのは次郎吉の声が、平素《いつも》と大変|異《ちが》うからであった。妙に濁って底力がなく、それでいて太くて不快な響きがある。スッキリとした江戸前の、いつもの調子とは似ても似つかない。
「ねえお前さんどうしたの? いつもと声が違うじゃないか?」
 訊いて見ても返辞がない。
 で、構わず縁へ上り、立ててある障子を開けようとした。
「いけねえ! 馬鹿! 来ちゃいけねえ!」
 突然《いきなり》内から呶鳴る声がしたが、もうその時は開けていた。
「まあどうしたのさ。呶鳴ったりして」
 見ると次郎吉は端然と蒲団の上へ坐っている。別に変わったこともない。ただ二つの薬瓶が膝の上に置いてある。そうして周章《あわて》てその瓶をパッと両手で隠したものである。
「えい、あっちへ行っていろい!」
 云いながら次郎吉は睨んだが、その眼光の凄いことは、お松をして思わず身顫えさせた。
 お松には何となくその薬瓶が怪しいものに思われた。
 こういうことがあってから半月ほどの日が経った。
 その時またも次郎吉は、いつまで経っても起きて来なかった。
「どうして内の人はああ時々夜遅く帰って来るのだろう?」
 昼が来ても起きて来ない。
 で、お松は離れ座敷へ飛石伝いで行って見た。そうして雨戸を窃《そ》っと[#「窃《そ》っと」は底本では「窃《そっ》っと」]開けた。それから障子を窃っと開けた。
 ヒョイと覗くと次郎吉は端然と床の上に坐っていたがグッと振り返ったその顔付!
「あっ!」と云うと後ピッシャリ、気丈なお松ではあったけれど、バタバタと縁を飛び下りると、主屋の方へ逃げて来た。
 出合い頭に若衆の喜公《きいこう》、
「どうしやしたお神さん? 顔の色が蒼白《まっさお》ですぜ」
「あのね。……」と云ったが後は出ず、店へ来ると長火鉢の前へグタグタとなって膝を突く。
「何だろうあれ[#「あれ」に傍点]は? 化物かしら? 内の人が消えてなくなってその代わりにあんな小男が。……ひしゃげ[#「ひしゃげ」に傍点]た鼻、釣り上った眼、身長《たけ》と云えば四尺ばかり……それが妾《わたし》を睨んだんだよ」
 お松は体を顫わせてこの解き難い不思議な謎をどう解こうかと苦心した。
 どう解こうにも解きようがない。

水の垂れそうな若侍
 細川侯の下邸では、不思議な噂がパッと立った。
「乃信姫君にはこの日頃ちょうど物にでも憑かれた様にうつらうつらと日を暮らされ、正気の沙汰とも見えぬとのこと、不思議なことではござらぬかな」
「夜な夜な若い美しい男がお寝間へ忍ぶと云うことじゃ」
「あまり姫君がお美しいので妖怪《あやかし》が付いたのでござろうよ」
「狐かな? 狸かな?」
「狐にしろ狸にしろ、いやどうもとんだ[#「とんだ」に傍点]果報者だ」
「あのお美しい姫君を、お寝間で占めるとは羨ましい次第」
「狐狸の身分になりたいものじゃ」
「おお新十郎参ったか」
 肥後熊本で五十四万石の大名中での大々名、細川越中守はこう云って、小野派一刀流指南役、左分利新十郎をジロリ[#「ジロリ」は底本では「ヂロリ」]と見た。
「は」と云ったが新十郎、下げていた頭をまた下げる。
「其方《そち》の剣道、霊験あるかな?」
 藪から棒にこう云っておいて、越中守は眼を閉じた。何やら思案に余っていたらしい。
「は、霊験と仰せられますと?」
 新十郎は恐る恐る訊く。
「昔、源三位頼政は、いわゆる引目の法をもって紫宸殿の妖怪を追ったというが、其方の得意の一刀流をもって妖怪を追うこと出来ようかな?」
「は、そのことでござりますか。不肖なれども新十郎、剣をもって高禄をいただき居る身、いかなる妖怪か存じませぬが適《かな》わぬまでも剣の威をもって取り挫ぎます[#「挫ぎます」はママ]でござりましょう。
「おおよく申したそうなくてはならぬ」
「して妖怪と申されますは?」
「いずれは狐狸の類であろう」
「は、左様でござりますか」
「乃信姫の身に憑いたそうじゃ」
「姫君様のお身の上に……」
「毎夜通って参るそうじゃ」
「言語道断、奇怪の妖怪……」
「其方今宵は奥へ参り、姫の寝間の隣室に宿り、妖怪の正体見現わすよう」
「かしこまりましてござります」
「よいか、確《しか》と申し付けたぞ」
「承知致しましてござります」

 下邸の夜は森々《しんしん》と更け、間毎々々の燈火《ともしび》も消え、わけても奥殿は淋しかった。
 一つの部屋にだけ燈がともって[#「ともって」に傍点]いる。
 それは乃信姫の部屋である。
 ボーンとその時|丑満《うしみつ》の鐘が手近の寺から聞こえてきたが尾を曳いてその音の消えた後も初夏の風がザワザワと吹く。
 同時に庭に向いた廻廊の戸を、ホトホトホトホトと叩くものがある。
 と、障子に女の影が大きくボッと映ったがやがて障子が音もなく開いて一人の女が現われた。他ならぬそれは乃信姫である。
 姫は廊下へスルスルと出たが、すぐに雨戸へ手を掛けた。スーとその戸が横へ引かれる。
「乃信姫殿か」
「主水《もんど》様」
 内と外とで二声三声。……月代《さかやき》の跡も青々しい水の垂れそうな若侍がツト姿を現わした。鶯谷で姫を救った深編笠の侍である。
 その手を優しく姫が執る、二人はピッタリ肩を寄せ、部屋の内へ入って行く。
 とたんにパチッと鍔音がした。
 ハッと驚いた若侍、思わず一足下った時、
「イヤーッ」と鋭い小野派流の気合。
「む」と若侍は呼吸詰まり、ヨロヨロと廊下へ蹣跚《よろめ》き出た。
「えいッ」と再び掛声あって、隣室の障子を婆裟《ばさ》と貫き閃めき飛んで来た一本の小束! 若侍は束で受けたが切先逸れて肘へ立った。
「あっ」と云う声を後に残し、若侍は雨戸を蹴放し、闇のお庭へ飛び出して行った。

 この夜、与力の軍十郎は、同心二人を従えて二本榎の武家通りを人知れず静かに見廻っていた。
 と、行手から風のように一人の男が走って来た。怪しい奴と眼星を付け、
「待て!」と軍十郎は声を掛けた。
 しかし怪しいその男は見返りもせず走り過ぎる。
「それ方々《かたがた》! 引《ひ》っ捕《とら》えなされ!」
「はっ」と云うと二人の同心、すぐに後を追っかけたが、その男の足の速さ、ものの一丁とは追わないうちにとうとう姿を見失ってしまった。
「はてな?」と軍十郎は呟いた。
「あの姿には見覚えがある」

箱根へ行け! 箱根へ行け!
 その翌日の朝であったが、与力中條軍十郎は和泉屋の店先へ遣って来た。
「内儀《おかみ》、いつも景気がよいな」
「これはこれは中條の殿様。どうした風の吹き廻しか、ようこそお立寄り下されました」
 お松はいそいそと手を支えた。
「どうぞお上り遊ばして」
「店先の立話も変なものだな。どれちょっと邪魔しようか」
 座敷へ通って座を構えると、
「次郎吉どん、おいでかな?」
「離れの方に……まだ眠《やす》んで……ホホホ」とお松は笑う。
「白河夜船か。ちと困ったな」
「すぐ起こして参ります」
「少し訊きたいこともあり、少し話したいこともある。それでは呼んで来て貰おうかな」
「かしこまりましてございます」
 間もなく次郎吉は遣って来た。
 白布で右の肘を巻いている。坐るとピッタリ手を支え、
「これはこれは中條様、ようこそおいで下されました」
 そういう声にも元気がない。顔の色も勝れない。
 その様子を鋭い眼で、じっと[#「じっと」に傍点]軍十郎は見守ったが、
「内儀」と云って調子を砕《くだ》き、
「今日はちょっと密談だ。座を外してはくれまいか」
「おやマアさようでございますか」
 軽く受けたが不安そうに、
「どんな内緒のお話やら」
「色話だ。心配せぬがよい。アッハハハ」と洒然として笑う。
「おやおや左様でございますか。それはマア大変でございますこと。ほんにそれでは女房がいてはお話しにくいでございましょう。どれ妾は店の方へ」
 美しく笑って座を外した。
 後には二人差し向かい、しばらく双方とも黙っていたが、軍十郎はややあって一膝々をいざり出た。
「さて和泉屋」と顔を傾げて云い出した。
「私《わし》はお前が賊だと知った。知ったが捕らえるつもりはない。お前の気象が面白いからだ。……ところで私の今日来たのは決して与力としてではない。友人として遣って来たのだ。そこで私は思い切ってお前に一つ忠告しよう。和泉屋お前湯治に行ってはどうだ」
「へ、湯治でございますって?」
 次郎吉は不思議そうに眼を上げた。
「そうさ、その肘の治療にな」
「へえ、なるほど」と上げた眼をまた膝頭へ落してしまう。
「どうだ和泉屋、湯治に行くか」
「行ってもよろしゅうござりましょうか?」
「つまり江戸から足を抜くのさ」
「……でも私がそうなりましたら、旦那の手落ちにはなりますまいか?」
「俺が承知で湯治へ遣るに何で俺の手落ちになる。そんな心配は少しもない。……で、お前はどこへ行くつもりだ?」
「へえ、箱根へでも参りましょう」
「うん箱根か。それもよかろう。……ところで一つ訊きたいことがある」
「へえ、何でございましょう?」
「どうしてお前はああ自由に自分の体を変えることが出来る?」
「ああその事でございますか。これがネタでございますよ」
 云いながら次郎吉は懐中から二つの薬瓶を取り出した。
「何だそれは? 薬じゃないか」
「はい左様でございます。長崎の異人から貰ったところの変相薬にござります。……飲むと同時に神を念じます。……サンタマリヤ! アベ・マリヤ! ハライソ! ハライソ! ハライソと。そうすると姿が変わります」
「それじゃ貴様、吉利支丹《キリシタン》だな!」
「旦那! お縄を戴きやしょう!」
 次郎吉はパッと肌を脱いだ。
 胸に黄金の十字架が燦然として輝いている。
「もうお見遁しはなさるめえ! 旦那、お縄を戴きやしょう!」
「ところが、それが左様いかぬのだ」
 軍十郎は暗然と云った。
「乃信姫君にはご懐胎じゃ! 産み落すまでは姫へも其方《そち》へも指一本さすことならぬ! 箱根へ行け箱根へ行け!」
 十月経つと乃信姫君は因果の稚《こ》を産み落としたが、幸か不幸か死産であった。間もなく乃信姫も世を去られたがそれは自殺だということである。
 それを前後して一人の賊が、軍十郎の手で捕えられたが、実は自首だということである。
 鼠小僧事和泉屋次郎吉。これがその賊の名であった。
「薬を飲んで変相すると、急に悪心が萌しましてね、どうでも悪事をしなければ苦しくて苦しくて居たたまれないのです。所でもう一つの薬を飲んで元の体に返りますと、今度は善心が湧き起こり、他人《ひと》のために慈善をしないとこれ又苦しくて耐らないのです。善と悪との二方面がいつも私の心の中で戦っていたのでございますよ」
 死刑に処せられる前の日に、鼠小僧はこう云って軍十郎へ話したというが、あえて鼠小僧ばかりでなく、あらゆる浮世の人間は、善悪両面の葛藤をもって生から死まで間断なく終始するのではあるまいか。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
   1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「ポケット」
   1925(大正14)年4月
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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国枝史郎

前記天満焼—— 国枝史郎

 ここは大阪|天満通《てんまとおり》の大塩中斎《おおしおちゅうさい》の塾である。
 今講義が始まっている。
「王陽明の学説は、陸象山から発している。その象山の学説は、朱子の学から発している。周濂溪《しゅうれんけい》、張横渠《ちょうおうきょ》、程明道《ていめいどう》、程伊川《ていいせん》、これらの学説を集成したものが、すなわち朱子の学である。……朱子の学説を要約すれば、洒掃応待の礼よりはじめ、恭敬いやしくも事をなさず、かつ心を静止して、読書して事物を究め、聖賢の域に入れよとある。……がこれでは廻り遠い。人間そうそう永生きはできぬ、百般の事物を究理せぬうちに、一生の幕を下ろすことになろう。容易に聖賢になることはできぬ。……ここに至ってか陸象山、直覚的究理の説を立てた。陸象山云って曰く、――我心は天の与《あた》うるもの、万物の理は心内に在り、心内思考一番すれば、一切の理を認識すべしと――ところが陽明先生であるが、その象山の学説よりおこり、心即理、知行合一、致良知説を立てられた。……」
 凜々として説いて行く。中斎この時四十三歳、膏《あぶら》ののった[#「のった」に傍点]男盛りである。
 数十人の門弟は襟を正し、粛然として聞いている。咳《しわぶき》一つするものがない。
 説き去り説き進む中斎の講義……
「虚霊不昧、理具万事出、心外無理、心外無事」
 ちょうどこの辺りまで来た時であった、夕陽が消えて宵となった。
「今日の講義はまずこの辺りで……」
 云い捨て中斎が立ち上ったので、門弟一同も学堂を出た。
 …………
 居間に寛《くつろ》いだ大塩中斎は、小間使の持って来た茶を喫し、何か黙然と考えている。怒気と憂色とが顔にあり、思い詰めたような格好である。
 すると、その時襖の陰から、
「宇津木矩之丞《うつぎのりのじょう》にございます。ちょっとお話し致したく」
「ああ宇津木か、入っておいで」
 現われたのは若侍で、つつましく膝を進めたが、すぐに小声で話し出した。
「いよいよ平野屋では例の物を、江戸へ送るそうでございます」
「ふうんそうか、いよいよ送るか」
「どう致したものでございましょう?」
「そうさな」と中斎は考え込んだ。怒気とそうして憂色とが、いよいよ色濃くなってきた。
「やっぱりこっちへ取り上げることにしよう」
「はい」と云ったが矩之丞の顔には、不安と危惧《おそれ》とが漂っている。
「後世史家が何と申すやら、この点懸念にござります」
「うむ」と云ったが大塩中斎も、苦渋の表情をチラツカせた。
「拙者もそれを危惧ている。と云って目前の餓鬼道を見遁しにしては置けないな」
「先生の御気象と致しましては、御理《ごもっとも》千万に存ぜられます」
「俺は蔵書を売り払って、二万両の金を手に入れたが、日に日に増える窮民を、救ってやることは不可能だ」
「限りない人数でございますので」
「それで、断行しようと思う」
「はい」と云ったが宇津木矩之丞はやっぱり顔を曇らせている。
「本来けしからぬは徳川幕府じゃ。……その幕府の存在じゃ」と、中斎は日頃の持論の方へ、話の筋を向けだした。
「日本は神国、帝は現人神、天皇様御親政が我国の常道、中頃武家が政権を取ったは、覇道にして変則であるが、帝より政治をお預かりし、代って行なうと解釈すれば、認められないこともない。……しかしそれとて条件があって、国内《うち》は四民に不満なく、国外《そと》は外国《いこく》の侵逼《しんひつ》なく、五穀実り、天候静穏、礼楽ことごとく調うような、理想的政治を行なうなれば、預けまかせ[#「まかせ」に傍点]ておいてもよかろう。……しかるに現今の徳川幕府の、政治の執り方はどうであるか? 北からはロシアが北海道をうかがい、西からはイギリスが支那を犯し、香港《ホンコン》島を占領し、その余威を籍《か》りて神国日本へ、開港を逼ろうとして虎視眈々じゃ。……さらにイギリスの双生児ともいうべき、アメリカ国に至っては、その成り上り者の根性をもって、傍若無人に日本に対し、同じく開港を強いようとしている。……それに対して徳川幕府は、特別に兵備をととのえようともせず、海岸防備を試みようともせず、外侮を受けようとしているのじゃ。……しかして国内の有様はどうか? 上は将軍家をはじめとし、台閣《だいかく》諸侯、奉行輩、奢侈に耽り無為に日を暮らし、近世珍らしい大飢饉が、帝の赤子を餓死させつつあるのに、ろくろく救済の策さえ講ぜず、安閑として眺めている。……これでは幕府の存在は、有害であって無益ではないか! すべからく天下に罪を謝し、政治《まつりごと》を京師《けいし》へ奉還し、天皇様御親政の日本本来の、自然の政体に返すべきじゃ!」
「先生々々、もうその御議論は……」
 矩之丞は四辺《あたり》り[#「四辺《あたり》り」はママ]を憚って、押止めるように手を振った。
「うむ、よしよし」と中斎は頷き、しばらく沈黙していたが、
「矩之丞」と秘めた声で、
「こういう内外の悪情勢に際し、何が最も恐ろしいか、何を最も戒心すべきか、知っておるかな? 心得ておるか?」
「…………」
「外国渡来の悪思想、及び悪い宗教じゃ」
「これはごもっともに存じます」
「外国渡来の悪趣味の娯楽、これも注意して打倒しなければいけない」
「ごもっともに存じます」
「外国渡来の悪宗教といえば、過ぐる年わしは吉利支丹信者の、貢《みつぎ》という巫女を京都《きょうと》で捕らえ、一味の者共々刑に処したが……」
「これは与力でおわしました頃の、先生のお手柄の随一として……」
「いやいや自慢をするのではない。心にかかることがあるからじゃ」
「…………」
「貢の門下にお久美というしたたか者の女がいたが、それをあの際取り逃がしてのう」
「久美なら私も存じておりまする」
「どこへ行ったものか行衛《ゆくえ》が知れない。……これが心にかかっておる。……引っ捕らえて刑に処せねばと……」
 急に矩之丞は別のことを云った。
「二三ヶ月前に入門いたしました、飛田《ひだ》庄介、前川満兵衛、それから山村紋左衛門、ちと私には怪しいように……」
「どういう意味かな、怪しいとは?」
 不思議だというように中斎は訊いた。
「隠密などではありますまいかと」
「これこれ」と中斎はにわかに笑い、
「お前は俺《わし》の前身を、もう忘れてしまったと見える」
「は、何事でございますか」
「俺は以前は与力だったよ。だからこの俺の塾内に、そのような隠密など入り込んで居れば、観破しないでは置かないはずだよ」
「これはごもっともに存じます」
 矩之丞は苦笑した。
 部屋内しばらく静かである。
 と、中斎は静かに訊いた。
「例の物を平野屋が江戸へ送る、ハッキリした日取りは解《わか》って居るかな?」
「それはまだ不明にございます」
「是非とも探って確かめるよう」
「かしこまりましてございます」
 自分の屋敷へ帰ろうと、宇津木矩之丞が只一人で、中斎の屋敷を立ち出たのは、その夜もずっと更けてからであった。
 思案に暮れて歩いていたためか、道を取り違えて淀川縁へ出た。

「去年からかけて天候不順、五穀実らず飢民続出、それなのに官では冷淡を極め、救恤《すくい》の策を施そうともしない。富豪も蔵をひらこうともしない。これでは先生が憤慨されるはずだ。とは云え他人の大切なものを、横取りをして金に換えたら、盗賊とより云うことは出来ない。それを先生にはやろうといわれる。俺には正当に思われない。そればかりならともかくも、兵を発し乱を起こし、城代はじめ両奉行をも、やっつけて[#「やっつけて」に傍点]しまおうとの思し召し、成功の程も覚束ないが、よしや成功したところで、乱臣の名は免れまい。……あれほど明智だった中斎先生も、近来は少しく取り違えて居られる。……狂ったのかな、あの明智も……」
 考え考え考えあぐみ、木立のある所まで来た時であった。卑怯にも左右から声も掛けず、何者か二人切り込んで来た。
「おっ」と叫んだがそこは手練、宇津木|矩之丞《のりのじょう》剣道では、一刀流の皆伝である、前へパッと飛び越した。
 と、もう引き抜いていたのである。
「無礼! 誰だ! 宣《なの》らっしゃい! 拙者宇津木矩之丞、怨みを受ける覚えはない」
 ピッタリ青眼に太刀を構え、先ずもって声をこう掛けた。
 二人ながら返事をしなかった。星空の下に突っ立っている。そうしてヂリヂリと逼って来る。
「はてな?」と矩之丞が呟いたのは、敵に見覚えがあったからである。そこで、怒声を浴びせかけた。
「やあ汝《おのれ》は同門の、飛田庄介に前川満兵衛! 何と思って切ってかかったぞ?」
 だがここまで云って来て、急に矩之丞は口を噤《つぐ》んだ。
「いよいよこいつら隠密だわえ。それと観破したこの俺を、邪魔にして殺そうとするのらしい。いやかえって面白い。知れた手並だ、叩っ切り、中斎先生の身辺から、危険分子を払ってやろう」
 ――矩之丞はそこでヌッと出た。
 だが、何と危険なんだ、又も一つの人影が、木立の陰から現われたが、矩之丞の背後へシタシタと寄った。
 途端に飛び込んで来た前面の敵、すなわち飛田と前川が、鋭く声を掛け合ったのは、牽制しようとしたのだろう。果然、同時に、背後の敵、こいつは無言で抜き持った太刀で、矩之丞の背骨から胸板まで、グーッと一気に両手突いた。
 と、「アッ」という悲鳴が起こり、連れてドッタリ一人斃れ、つづいて「オッ」という声がした。見れば飛田と前川の二人が、抜身を下げたまま走っている。
 見れば一つの死骸の側《そば》に、一人の武士が立っている。
「あぶなかったよ」と呟いた。他ならぬ宇津木矩之丞であった。血刀をダラリと下げたまま、しばらく呼吸《いき》を静めるのらしい。佇んだまま動かない。
 と、ソロソロと首を下げ、足下の死骸を覗き込んだ。
「うむ、やっぱりそうだったか。……うむ、山村紋左衛門だったか」
 それからホ――ッと溜息をした。
「これで三人が三人ながら、隠密だったということが、証拠立てられたというものさ。狂いはなかったよ、俺のニラミに」
 だが、またもや溜息をした。
「と云うことは半面において、中斎先生の眼力が、狂ったという証拠になる。……和歌山、岸和田に関わる裁判《さばき》、京師《けいし》妖巫《ようふ》の逮捕などに、明察を揮われた先生の眼も、今はすっかり眩んでいるらしい。獅子身中の虫をさえ、観破することさえお出来なさらない。では……」
 と呟くと悄然とした。
「一切の今回のお企てなども、その狂った眼から、性急に計画されたものと、こう解しても、誤りはあるまい」
 フラフラと矩之丞は歩き出した。
「失敗なさろう! 失敗なさろう!」
 譫言《うわごと》のように呟いた。
「とはいえ騒動の失敗は、まだまだ我慢することが出来る。しかし盗賊の汚名だけはどんなことをしてもお着せしてはならない」
 矩之丞はフラフラと歩いて行く。
「うむ」と云うと足を止めた。
「犠牲になろう、この俺が! 辞す所でない、裏切者の汚名!」
 尚フラフラと歩いて行く。
「人を殺したこの俺だ、浪人をしてゴロン棒となり、汚名悪名受けてやろう! 手段はない、この他には。……」
 どことも知れず行ってしまった。
 後にはザワザワと晩春の風が夜の木立を揺すっている。
 天保七年四月中旬の、ある一夜の出来事である。

 さてその日から幾日か経った。
 その時天王寺の勝山通りで、又物騒なことが行なわれた。
 まずこのような段取りであった……
 一人の若い侍へ、覆面武士達が斬りかかったのを、若い侍が無雑作に、力を抜いて叩き倒し、最後に一人をたたき倒した時、懐紙で刀身をぬぐったのである。
 それから懐紙をサラリと捨て、刀をかざすとスーッと見た。
「切ったんじゃアない、峰打ちだ。刃こぼれがあってたまるものか」
 そこで、ソロリと鞘へ納めた。すると鍔鳴りの音がして、つづいて幽かではあったけれど、リ――ンと美しい余韻がした。
 鍔のどこかに高価の金具が、象眼されていたのだろう。
 それへ徹《こた》えてリ――ンと余韻が幽かながらもしたのだろう。
 宏大な屋敷が立っていて、厳重に土塀で鎧われていて、塀越しに新樹の葉が見える。
 空気に藤の花の匂いがあるのは、邸内に藤棚があるのだろう。屋敷は大阪の富豪として名高い平野屋の寮の一つであった。
 土塀に添い、十六夜月に照らされ、若い侍は立っている。
 身長は高いが痩せぎすであり、着流し姿がよく似合う。瀟洒として粋であり、どうやら容貌《きりょう》も美しいらしい。月を仰いだ顔の色が、白く蒼味を帯びていて、鼻が形よく高いのだろう、その陰影がキッパリとしている。
「平野屋の寮から例の物を持って、誰か江戸へ発足《た》ちはしまいかと、その警戒にやってきたのだが、変な侍三人に、闇討ちされようとは思わなかったよ。どうも今夜は気に入らない晩だ。……だがそれにしても不思議だなあ。素性も明かさず理由も云わず、フラフラッと切ってかかったんだからなあ。……女で怨みを買ったことも、金で怨みを受けたことも、これ迄の俺にはなかったはずだ。……覆面姿から推察《おしはか》ると、こいつら辻切りの悪侍《わる》共かな? しかしそれにしては弱いわる[#「わる」に傍点]だ。……引っこ抜いてポーンと肩を撲ると、一人がゴロッと転がってしまい、もう一度ポーンと頭を撲るともう一人がゴロッと転がってしまい、もう一度ビーンと横面を張ると、三人目のお客さんがひっくり返ってしまった。……ああも弱いと安心だが、また何だか気の毒にもなる。それにさ、第一道化て見える」
 ちょっと俯向き、何にもなかったというように、土に雪駄《せった》を吸い付かせ、若侍は歩き出した。
 取り入れるのを忘れたのであろう、かなり間遠ではあるけれど、五月幟《さつきのぼり》がハタハタと、風に靡く音がした。
 深夜だけにかえって物寂しい。
「そうだ今夜は宵節句だった」
 これは声に出して云ったのである。
 六七間も歩いたかしら、
「率爾ながら……」と呼ぶ声がした。
「しばらくお待ち下さるまいか」
 四辺《あたり》を憚った恥《しの》び音だ。
 グルッと振り返った若侍は、
「拙者のことで?」と隙かして見た。
 黒頭巾で顔を包んでい、黒の衣装を纏っている。いわゆる黒鴨|出立《いでた》ちであった。体のこなし[#「こなし」に傍点]、声の調子、どうでも年は三十七八、そういう武士が立っていた。
 大小をピンと胸高に差し、率爾ながらと呼びかけた癖に、何と無礼! 懐手《ふところで》をしている。ひどく横柄なところがあり、見下だしたような所がある。
 胸を悪くした若侍は、
「今夜はよくよく変な晩だ、いろいろの芸人が登場するよ」
 こう思ったのでぶっきら[#「ぶっきら」に傍点]棒に、
「御用かの! この拙者に?」
 すると向こうの武士が云った。
「感嘆してござるよ、立派な腕前」
「大変な黒鴨が出やアがった。俺を褒めるとは度胸がいいや。褒めるからには褒めっ放しでもあるまい。いずれ可《い》い物でもくれるのだろう」
 可笑《おか》しくなったので若侍は、
「お弱《よお》うござんしたからな、先方が」
「なかなかもって」と黒鴨の武士は、
「彼等も相当の手利きでござる」
「ははあ」と云ったが感付いた。
「さては貴殿のお仲間だの」
「さよう」とわるく[#「わるく」に傍点]おちついている。

「そうか」と云ったが若侍は、今度は少し腹を立てた。
「では早速お訊き致す、何故拙者を襲われた?」
 まごまごした返事でもしようものなら、叩っ切ってやるぞと云うように、ヌッと一足進み出た。
 しかし、相手の黒鴨も、何かに自信があると見え、その横柄さを持ち続け、
「士官[#「士官」はママ]なさる気はござらぬかな?」
 こんなことを云い出した。
「え、士官? 貴殿にかな?」
 これには若侍は参ってしまった。
(どうもいけないや、俺より上手だ)
 そこで茫然《ぼんやり》して絶句した。
 すると、黒鴨の武士が云った。
「長くとは申さぬ、一カ月余」
 それからスルスルと進み寄ったが、囁くように云いつづけた。
「悪いことは申さぬ士官おしなされ。もっとも主取りの御身分なら、無理にもお進め出来ないが。いやいや先刻《さっき》からの御様子でみれば、かけかまい[#「かけかまい」に傍点]のない御身上らしい。それで敢てお進めいたす。士官おしなされ士官おしなされ。実は」と云うといよいよ益々、声を細めて囁くようにしたが、
「ここ数夜、この界隈で、拙者試していたのでござる。勝れた武辺者はあるまいかとな。今は天保、浮世は飢饉、そのためでもござろう、腕の出来るご仁に、不幸、一人もぶつかり[#「ぶつかり」に傍点]ませんでしたよ。ところが今夜ゆくりなく、ぶつかり[#「ぶつかり」に傍点]ましたなア御貴殿に。……そこで、すっかり喜んだという次第。そこで、士官をお薦めするという次第。……そうは云っても藪から棒に、無闇と士官をお薦めしても、貴殿にはおそらく烏乱に覚《おぼ》され、御承引を手控えなされようもしれぬ。これは御理《ごもっとも》、当然でもござる。それでまず何より拙者の身分を、お打ち明け致すのが順当でござるが、まあまあそれははぶく[#「はぶく」に傍点]として、ただし、姓名だけ申しましょうかな。鮫島大学《さめじまだいがく》と申します。それより何より禄の方をな、定めることに致しましょう。一日五両はどうでござる」
 ここまで云って来て黒鴨の武士は、ヒョイと二三歩下ったが、首を傾げると覗くようにした。
「ただし……」と云うと黒鴨の武士は、今度は二三歩前へ出た。
 と、例によって囁くような声で、
「ただし、仕事はちと[#「ちと」に傍点]困難、と云っても貴殿の腕前なら、勿論何でもなく仕遂げられますて。ところで仕事の性質は? と、貴殿には訊かれるかも知れない。さあこれとて考えようで。善悪両様に取られますなあ。そこで、こいつは預かるか、ないしは善事だと決めてしまうか、ホッ、ホッ、ホッ、どっちでもよろしい」
 三十七八の男の癖に、ホッ、ホッ、ホッと女のような、滑らかな厭らしい笑い方をしたが、
「さてここまで云って来れば、後は何も彼もスッパリと、ぶちまけた方がよろしいようで。そこでお打ち明け致しましょう」
 ところがそれ前に若侍は、蹴飛ばすような声で云った。
「解《わか》っておるよ!」とまずノッケだ。
「受負でござろう、殺人《ひとごろし》のな!」
「ほほう成程、そう解されたか」
「でなかったらぶったくり[#「ぶったくり」に傍点]さ」
「成程な、なるほどな」
 黒鴨の武士は退いたが、
「ひょっとかすると、両方かも知れない」
「殺人の上にぶったくり[#「ぶったくり」に傍点]か、アッハッハッ、それにしては」
 若侍は横を向いた。
「安すぎますて、五両の日当」
「割増ししましょう、七両ではいかが?」
「まだ安い。駄目だ駄目だ!」
「あッ、なるほど、では八両」
「刻むな刻むな」と若侍は、グット胸を反らせたが、
「厭だと云ったらどうなさる」
「さればさ」と云うと黒鴨の武士は、スラスラとスラスラ左手へ寄った。間《あわい》一間、そこで止まると、ピンと右手の肘を上げた。と自然に掌が、柄の頭へあてられた。薄っペラな態度や声にも似ず、腰が据わって足の踏まえ、ピッタリ定《き》まって立派な姿勢。上げた右肘で敵を圧し、全身を斜めに平めかせ、首を幾何《いくばく》か前方へ曲げ、額い越しに睨んで狙いすました。籠めた気合で抜き打ったら、厭でも太刀は若侍の、左胴へ入るに相違ない。根岸|兎角《とかく》を流祖とした、微塵《みじん》流での真の位、即ち「捩螺《れいら》」の構えである。
「ううむこいつは素晴らしい」
 それと見て取った若侍は、こう思わず呟いたが、
「しかも不気味な腥《なまぐさ》い、殺気が鬱々と逼って来る。剣呑だな、油断は出来ない」
 しかしよくよく若侍には、腕に自信があると見え、刀の柄へ手もかけず、ブラッとしたままで立っていた。
 と、黒鴨の武士であるが、別に切り込んで行こうとはせず、あべこべ[#「あべこべ」に傍点]にヒョイと後退《あとじさ》ると、ダラリと両手を両脇へ下げ、それからまたも懐手をしたが、薄っペラの調子で喋舌《しゃべ》り出した。
「ざっとこんな[#「こんな」に傍点]恰好で。つまり貴殿不承知なら、秘密の小口を明かせた手前、生かしては置かぬ! 叩っ切る! と云うことになりますので。……と云うとおっかない[#「おっかない」に傍点]話になるが、何のこんなにも旨い話、貴殿諾かずにおられましょうか。承知と云われるは知れたことで。……だが日当不足となら、清水の舞台から飛んだつもりで、一日十両まで糶《せ》り上げましょう。これでは御不満ありますまいな。手を拍ちましょう、シャンシャンシャン! いかがなもので? シャンシャンシャン!」
 呑んでかかった態度である。

 こいつを聞くと若侍は、にわかに愉快になったらしい。
「一風変わった悪党だわえ。よしよし面白い面白い、ひとつこいつの手に従《つ》いて、殺人《ひとごろし》請負業を開店《ひら》いてやろう。天変地妖相続き、人心恟々天下騒然、食える野郎と食えぬ野郎と、変にひらき[#「ひらき」に傍点]があり過ぎる。こんな浮世ってあるものか。殺人だって必要さ」
 そこで若侍はズバリと云った。
「きっと十両出されるかな?」
「出します出します。……御承知かな」
「まず即金、一日分が所」
 若侍は手を出した。
「これはお早い、早速のことで」
 黒鴨もこれには驚いたらしい。
「が、結構、では十両」
 グッと懐中《ふところ》へ手を入れると、チャリン、チャリンと音をさせた。
 小判を数えたに相違ない。
 手を引き出すと掌《てのひら》の上に、黄金十枚が載っていた。
「遠慮は御無用、さあさあお取り」
「開店祝で、何の遠慮、では確かに」
「あ、しばらく、それにしても、せめて姓名なと! ……」
「拙者姓名は……」と云いかけたが、
(本名宇津木|矩之丞《のりのじょう》と、ほんとに宣《なの》っては面白くない)
 そこで、
「宇和島鉄之進《うわじまてつのしん》」と宣った。
「ではこの金を……」
「頂戴いたす。どれ」と小判を掴もうとした途端に、
「こちらへ御士官なされませ!」と、老人の声が聞こえてきた。
「日当二十両出しましょう!」
 傍らに立っている平野屋の寮の、その表門の背後《うしろ》から、声は聞こえてきたのである。
「やッ!」と云ったは若侍で、
「しまった!」と叫んだは黒鴨の武士で……
 すぐに、ギーと潜戸《くぐりど》が開き、またもや老人の声がした。
「お入りなさりませ、御浪人様!」
「オイ」と云ったは黒鴨である。
「どうだどうだ、どっちへ仕える?」
「考えるにも及ぶめえ」
「十両取るか」
「どう致しまして」
「それじゃアあっちへ行くつもりか?」
「云うにゃ及ぶだ、倍も食えらあ」
「きっとか」と黒鴨は眉を縮《ちぢ》めた。
「何時《いつ》如何《いか》なる時代でも、もっと食える方へ行くものさ」
「ホッ、ホッ、ホッ」
 嘲笑である。黒鴨が嘲笑をしたのである。
 が何とその嘲笑、残忍性を帯びていることか。
「そうか、だがな、オイ若侍、そうなった日の暁には、拙者の矢面へ立つのだぞ!」
「よかろう、大将、戦おうぜ!」
「まずこうだあァ――ッ」と凄い気合を、かけると同時に抜いた太刀で、のめらん[#「のめらん」に傍点]ばかりの掬《すく》い切り、若侍の股の交叉《つがい》を、ワングリ一刀にぶっ放した[#「ぶっ放した」は底本では「ぶつ放した」]。――と云う手筈になるところを、飛び違った若侍は、
「こっちもこうだあァ――ッ」と浴びせかけ、飛び違う間に抜いた太刀を、ヌ――ッとのす[#「のす」に傍点]と振り冠った。
 で、無言だ。静かである。ハタハタハタ……ハタハタハタと、夜風に靡く五月幟《さつきのぼり》の、音ばかりが聞こえてくる。
 位取った二人は動かない。藤の花の匂い、ほのかであり、十六夜《いざよい》の光、清らかである。こんな奇麗な佳《い》い晩に、二人は斬り合おうとするのであった。
 二人は動いて、太刀音がした! 即ち鏘然、合したのである。と、ピッタリ寄り添った。鍔逼り合いだ! 次は勝負! どっちか一人斃れるだろう。しかし群像は動かない。群像の頭上を抽《ぬきんで》てキラキラ閃めくものがある。月光を刎《は》ねたり纏ったり、ビリ付いている太刀である。と、忽然、次の瞬間、「ウン」と云う呻き! 二人同時だ! 群像は前後へ別れたが、不思議とどっち[#「どっち」に傍点]も仆れなかった。しかも一つの人影が、糸に引かれるそれのように、非常に素早く後退り、潜戸の側まで近寄って、そうして潜戸が一杯に開いて、その人影を吸い込んで、そうしてギ――ッと閉ざされた時、闘争は終りを告げたのである。
 屋敷へ入り込んだは若侍であり、後へ残ったのは黒鴨の武士で。……
 後はひっそり[#「ひっそり」に傍点]と静かであった。

 事件はここで江戸へ移る。
 ここは深川の霊岸島。そこに一軒の屋敷があった。特色は表門の一所に、桐の木の立っていることであった。その奥まった一室である。
 一人の着流しの武士が、頬杖をついて寝そべっている。年の頃は三十七八、色蒼黒く気味が悪い。ドロンと濁ってはいるけれど、油断も隙もならないような、妙な底光を漂わした眼、しかも左の一眼には、星さえ一つ入っている。顎の真中《まんなか》に溝があって、剣難の相を現わしている。小鼻の小さい高い鼻、――いやという程高いので、益々人相を険悪に見せる。いつも皮肉な揶揄的の微笑が、唇の辺りにチラツイている。だが一種の好男子とは云える。
 この家の主人鮫島大学で、無禄の浪人でありながら、非常に豪奢な生活《くらし》をしている。――と云う噂のある人物である。
 その鮫島大学の前に、膝を崩して坐っているのは、ちょっと言葉に云い表わせないような、濃艶さを持った女であった。薄紫の単衣《ひとえもの》、鞘形寺屋緞子《さやがたてらやどんす》の帯、ベッタリ食っ付けガックリ落とした髷の結振りから推察《おしはか》ると、この女どうやら女役者らしい。よい肉附き、高い身長《せい》。力のある立派な顔、女役者としても立て物らしい。大きなハッキリした二重瞼眼、それには情熱があふれている。全体が非常に明るくて、いつも愉快な冗談ばかりを、云いたそうな様子を見せている。人生の俗悪そのもののような、興行界に居りながら、それに負けずに打ち勝って行く――と云ったような女である。
 小屋掛けではあるが大変な人気の、両国広小路にこの頃出来た、吉沢一座の女歌舞伎、その座頭の扇女《せんじょ》なのであった。年は二十二三らしい。
 明るく燈火《ともしび》が燈《と》もってい、食べ散らし飲み散らした盃盤が、その燈火《ひ》に照らされて乱雑に見え、二人ながらいい加減酔っているらしい。
「どうだどうだ、え、扇女、ソロソロおっこち[#「おっこち」に傍点]てもいいだろう」
 扇女の胸の辺りへ視線を送り、大学はこんなことを云い出した。
「御贔屓様は御贔屓様、旦那様は旦那様、可愛いお方は可愛いお方、ちゃあんと分けて居りますのでね」
 扇女は早速蹴飛ばしてしまった。ビクともしない態度である。
「久しいものさ、その白《せりふ》も」
 大学はニヤニヤ笑っている。決して急かない態度である。
 二人ながらちょっとここで黙った。
 やがて、大学は云い出した。
「ところで有るのかい、可愛い人が?」
「こんな商売、情夫《いろ》がなくては、立ち行くものじゃアありませんよ」
「一体どいつだ、果報者は」
 勿論大学怒ったのではない。語気を強めて云ったまでである。
 怒るような大学ならいいのであって、いつも冷静、いつも策略、そうでなければ世は渡れぬ――と考えている彼なのであった。
「あやかり[#「あやかり」に傍点]たいの、果報者に」
「なかなかむずかしゅう[#「むずかしゅう」に傍点]ございますよ、果報者にあやかるということわね」
「ひどく勿体をつけるじゃアないか」
 ツト手を延ばすと盃を取り上げ、
「まず注いだり。……冷めたかな」
 銚子を取り上げた吉沢扇女は、盛り溢れるほど酒を注いだ。
「注ぎっぷりだけはいい気前だ」
「他人《ひと》のお酒でございますもの」
「御意、まさしく。拙者の酒で……」
 するとその時どこからともなく――と云って勿論屋敷内からではあったが、罵り合う声が聞こえてきた。
 ガラガラと物を投げる音もした。

「おや」と扇女は聞きとがめた。
「何をしたのでございましょう?」
 だが大学は黙っていた。とはいえ顔の表情の中には、困ったことをしやアがる、こんな肝心な大事な場合に――と云ったような気振りが見える。
 物を投げる音に引きつづき、罵り合う声が聞こえてきた。それも二人や三人ではなく、たくさんの人達が大声で、罵り合っているようである。
「静かなお屋敷だと思っていましたのに、どうやら大勢の人達が、おいでなさるようでございますね」
 こう云った扇女の言葉には皮肉の調子がこもっていた。
「女中三人に下僕が二人、閑静な生活《くらし》をしているよ、だから遊びに来るがよい。――などと仰有《おっしゃ》ったお言葉も、あてにならないようでございますね」
 大学は顔を顰めている。神経質らしいところさえ見せ、不機嫌に盃を嘗めている。
 物を投げる音は直ぐ止んだが、罵り声はまだ止まない。
「気味の悪いお屋敷でございますこと。……どれ妾《わたし》は帰りましょう。気味のよくないお屋敷などで、気味の悪い旦那様を相手にし、いつ迄お酒盛りをしたところで、面白くも可笑《おか》しくもございません」
「待てよ」とはじめて鮫島大学は、チラリと凄味を現わしたが、
「帰しはしないよ、遊んで行け。屋敷が不気味であろうとも、この俺が不気味であろうとも、それに怖気を揮うような、初心《うぶ》なお前ではないはずだ」
 ここでニタリと笑ったが、干した盃を突き出した。
「まず一杯、飲むがいい」
「はい」と云うと穏しく、扇女《せんじょ》は盃を手で受けたが、
「酔わせてグタグタにして置いて……などというような厭らしい、野暮なお方でもありますまい」
「またお前にしてからが、男の前で酔っ払い、不様に姿を崩すような、あたじけない[#「あたじけない」に傍点]女でもないはずだ」
 この時、バタバタと足音がして、隣部屋へ人が来たらしく、
「お頭!」と呼ぶ声が聞こえてきた。
「馬鹿!」と一喝した鮫島大学は、
「これこれ何だ、言葉を謹め! 客の居るのを知らないのか!」
「あッ、なるほど、これは粗相……」
 恐縮したらしい声音《こわね》である。
「あの、旦那様に申し上げます」
「何か用か? 用なら云え」
「少し間違いが起こりまして……」
「何を馬鹿な! 間違いとは何だ!」
「へい加賀屋の野良《のら》息子が、贋物《いかさま》のネタを割ったんで……」
「行け!」と怒鳴《どな》ったもののギョッとしたらしく、扇女の顔色を窺った。
「へい!」と云ったが、バタバタバタと、隣部屋の人間は立ち去ったらしい。
 すると、鮫島大学であるが、もうどうにも仕方がない――こう云ったような酸味ある笑いを、チラリと顔へ浮かべたが、弁解するように云い出した。
「何の、実はこういう訳だ。屋敷は広く俺は浪人、そこでわる[#「わる」に傍点]共が集まって来て、手慰みをやっているというものさ。これも交際《つきあい》仕方もない。とはいえ俺は手を出さない。屋敷を貸しているばかりさ。だからよ、何も、この俺をだ、悪漢《わるもの》あつかいにしないがいい。だが」と云うとヒョイと立った。
「どうやら間違いが起こったらしい。黙ってうっちゃっても置かれまい。ちょっくら行ってあつかって[#「あつかって」に傍点]来よう。何さ何さ帰るには及ばぬ。ゆっくり遊んで行くがいい。すぐさま帰って来るからな」
 刀を下げて部屋を出た。
「態ア見やがれ、尻尾を出したよ」
 一人残ったは扇女である。
「繁々《しげしげ》お茶屋へは呼んでくれる、パッパッと御祝儀は切ってくれる。派手にお金を使うので贔屓筋としては大事な人、こうは思っていたものの、万事の様子が腑に落ちず、迂散者らしく思われたが、やっぱりニラミは狂わなかったよ。不頼漢《ならずもの》の頭、賭博宿の主人、どうやらそんな塩梅《あんばい》らしい。……何だか気味が悪いねえ、どれソロソロ帰るとしよう」
 ひょいと立ち上ったが考えた。
「何も好奇《ものずき》、屋敷の様子を、こっそり探ってみてやろう。うまく賭博場でも目つかったら、とんだ面白いことになる」
 それで、ソロリと襖を開けた。

 一つの部屋で、一人の若者が、匕首《あいくち》などを振り廻し、大声で喚きちらしていた。
「なんだなんだ飛んでもねえ奴等だ! うまうま俺を瞞《だま》しゃアがった。これで解《わか》った、これで解った! 幾度勝負を争っても、一度も勝ったためしがねえ、おかしいおかしいと思ったが、こんな仕掛けのある以上、負けつづけるのは当然《あたりめえ》だ! ……飛んでもねえ奴等だ、承知出来ねえ! ……さあ叩っ斬るぞ叩っ斬るぞ!」
 年の頃は二十一二、非常に上品な若者である。否々《いやいや》むしろ坊ちゃんなのである。色が白く血色がよい。栄養の行き渡っている証拠である。丸味を帯びた細い眉、切長で涼しくて軟らか味のある眼、少し間延びをしているほど、長くて細くて高い鼻、ただし鬘《まげ》だけは刷毛先《はけさき》を散らし、豪勢|侠《いなせ》に作ってはいるが、それがちっとも似合わない。着ている物も立派であって、腰につけている煙草入の、根締の珊瑚は古渡りらしく、これ一つだけで数十金はしよう。秘蔵がられている豪商の息子が、悪友のために惑わされ、いい気になって不頼漢を気取り、悪所通いをしているという、一見そういう風態であった。
 で、匕首《あいくち》は振り上げたが、敵を切る前に自分の手を、切りそうで切りそうで見ていられない。――と云ったようなあぶなさ[#「あぶなさ」に傍点]がある。
 加賀家百万石の御用商人、加賀屋と云って大金持、その主人を源右衛門と云ったが、その息子の源三郎なのであった。
「キ、切るゾ――ッ! キ、切るゾ――ッ!」
 源三郎は匕首を振り廻すのであったが、しかし誰一人相手にしない。ニヤニヤみんな笑っている。
 源三郎を取り巻いて、十五六人の男がいたが、この連中が大変物で、浪人風の者、ゴロン棒風の者、商人風の者、鳶風の者、そうかと思うと僧形の者、そうかと思うと大名方の、お留守居風の人物もいるのであった。
 しかしいずれも変装らしく、どうやらみんな[#「みんな」に傍点]仲間らしい。
 それらの人数を抱いている、部屋のこしらえ[#「こしらえ」に傍点]というものが、また大変なものであった。だがそれとて一口に云えば、上海《シャンハイ》風ということが出来る。壁の一方に扉がある。双龍《そうりゅう》珠《たま》を争うところの図案を描いた扉である。一方の壁に窓がある。龕燈形の窓である。そのくせ窓には真鍮の棒が、無数に厳重に穿めてある。そうして窓のあるその壁にも、双龍珠を争う図が、黄色い色彩《いろ》で描かれてある。いやいや双龍珠を争う、そういう図面は二ヶ所ばかりでなく、青く塗られた天井にも、板敷になっている床の上にも、他の二方の壁の面にも、ベタベタ描かれてあるのであった。それにしても双龍の争っている、珠の形の大きいことは! 直径二尺はあるだろう。そうして一体どうしたのだろう、時々その珠が忽然と、鏡のように光るのは? いやいや鏡のように光るのではなく、事実鏡に変わるのであった。誰がどうして変えるのだろう? もし誰か龕燈形の窓へ行きそこから外を覗いたなら、そこに真暗な部屋があり、そこに一人の人間がいて、絶えずこの部屋を覗きながら、その真暗な部屋の壁に、突起している幾個《いくつ》かのボタンを、時々押すのを見ることが出来よう。その男の押すボタンに連れて、珠が鏡に変わるのである。部屋の広さ三十畳敷ぐらいそこに幾個か円卓があり、円卓の周囲《まわり》に榻《とう》がある。そこで勝負をするのだろう、この時代には珍らしい、トランプが幾組か置いてある。
 だがもう一つこの部屋に続き、異様《かわ》った部屋のあることを、ここへ来るほどの人間は、決して決して見落とすまい。寝椅子、垂幕、酒を載せた棚、そうして支那風の化粧をし、又支那風に扮装《みづくろ》った幾人かの若い娘達、そういうもので飾られている、いわゆる酒場――安息所が、そこに作られているのだから。
 だがそれにしてもその部屋へは、どうしてどこから入って行くのだろう? 双龍の描いてある一つの扉、そこから入って行くのだろうか? いやいやそうではなさそうである。扉の外は廊下なのだから。……ではどこから行くのだろう? どこかに隠された扉でもあって、それを開けると行けるのらしい。
 勝負に勝った連中が、その部屋へ行って飲むのである。
 これも充分支那風の、南京玉で鏤《ちりば》めた、切子型の燈籠が、天井から一基下っていて、菫《すみれ》色の光を落としているので、この部屋は朦朧と、何となく他界的に煙っている。
 それにしてもこんな天保時代に、こんな支那風の不思議な部屋が、中央ではないにしても江戸の中に、出来ているとは何ということだろう? いずれこれの経営者は、鮫島大学に相違あるまいが、ではその鮫島大学なる武士は、どんな素性の者なのだろう? 支那と関係のある人間だろうか?

 また源三郎は怒鳴り出した。
「鏡仕掛けとは何事だ! 鏡に持札を写されてみろ、相手に持札がみんな知れ、どんな旨《うま》い手を使ったところで、裏ばかり掻かれて勝負にならねえ! おおおお、おおおお手前達、グルだなグルだな、みんなグルだな! みんなグルになって俺一人にかかり、大金を捲き上げようとしたんだろう!」
 又、匕首を揮うのであるが、腰をかけたり佇んだり鼻歌をうたったり囁いたり、笑ったりしている悪漢《わる》どもは、
「何を坊ちゃんが云いおるやら、うっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]置け、うっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]置け」
 こう云ったように冷淡に、取り合おうとさえしないのであった。
 こういう空気は当然に、人をして一層怒らせるもので、源三郎は手近の一人を切った。
「ワッ」という悲鳴を立てて切られた鳶《とび》はぶっ仆れた。
 つづいて起こった混乱で、
「小僧、生意気!」
「飛んでもねえ奴だ!」
「うっそり[#「うっそり」に傍点]者の狂人《きちがい》め!」
「めんどッくせえや、眠らせろ!」
 声の渦巻きが渦巻いて、つづいて人間の渦が巻いた。大勢一度にムラムラと、源三郎へかかったのである。ガラガラと物を投げる音! 二三人の者が源三郎を目掛け、榻や器物を投げたのである。
 と、三四人悲鳴を上げ、人間の渦から飛び出した。逆上していよいよ狂暴になり、勇気を加えた源三郎が、夢中で揮った匕首で、傷つけられた連中である。
「あぶねえあぶねえ気を付けろ!」
「弱い野郎が物に憑かれ、にわかに強くなりゃアがった。だから一層物騒だ!」
 あつかい兼ねたというやつである。ダラダラと一同は後へ退いた。
 背後《うしろ》の壁へ背中をあて、全身をガクガク顫わせながら、匕首を頭上に振り冠り、その匕首から血をしたたらせ、突っ立ったのは源三郎で、髻《もとどり》がバラバラに千切れてい、頬から生血が流れてい、腰に下げていた煙草入など、どこへ行ったものか見当らない。従って高価な古渡り珊瑚の、根締の玉も見当らない。ドサクサまぎれに何者か、ふんだくって[#「ふんだくって」に傍点]しまったに相違ない。
 この時一人のゴロン棒風の男が、手捕りにしようと思ったのだろう。
「ヤイ!」と喚くと飛びかかった。
「うぬ!」と呻くと源三郎は、ピューッと匕首を横へ揮った。
「あぶのうございます」と飛び退いた。
「今度は俺だ」と浪人風の男が、刀を鞘ぐるみ[#「ぐるみ」に傍点]引っこ抜き、鐺《こじり》をグッと突き出した。
「見やがれ!」と叫ぶと源三郎は、一躍パッと飛び込んだ。
 と、カチリという音がした。匕首で鞘を払ったのである。
「あッ不可《いけ》ない、一両の損だ! 鞘を直しにやらなけりゃアならない」
 浪人は後へ退いた。
 獲物を揮って討ち取るのなら、何の手間暇もいらないのであって、すぐに柔弱の源三郎ぐらい、討って取ることは出来るのであるが、しかし源三郎は名家の息子、殺しては世間が承知しまい。大騒ぎをするに相違ない。世間が大騒ぎをすることによって、この屋敷のカクラリが、暴露されないものでもない。それが彼等には恐かった。それで手捕りにしてふん縛り、うん[#「うん」に傍点]と虐《いじ》め懲《こら》しめて、今後二度と来させまいとするのが、彼等|悪漢《わる》共の思惑なのであった。
 ところが一方源三郎は、怒りと屈辱とで正気を失い、今や狂暴になっていた。そこで、無闇とあばれ廻り、無二無三に匕首を揮い、遠慮会釈なく人を切る。捕らえることも抑えることも出来ない。

10

 しかし扉が開いてこの屋敷の主人《あるじ》の、鮫島大学《さめじまだいがく》が現われて、無雑作に源三郎の前に進み、源三郎の手をムズと掴み、グッとばかりに引っ立てた瞬間、この場の治まりは付いてしまった。
「汝《うぬ》は誰だ!」と源三郎は怒鳴った。
「拙者かな、拙者かな、さあ何者でござろうやら」
「痛え痛え、手を放せ!」
「ホッ、ホッ、ホッ、お痛いかな」
 三十七八の男の癖に、ホッ、ホッ、ホッと、女のような、滑らかな厭らしい笑い方をしたが、
「これ」とにわかにいかつく[#「いかつく」に傍点]なった。
「二度と来るなよ、こんな場所へ! 人に云うなよ、この場の光景を」
 更に一層凄くなり、
「上海《シャンハイ》仕立ての遊戯室、世間へ明かしたら賽の目だ、無いぞないぞ、汝《うぬ》の命は! 痛えどころか殺すぞよ!」
 グッと睨んだが考えた。
「待てよと……オ、茨木! 茨木!」
「は」と云いながら進み出たのは、いましがた鞘ぐるみ[#「ぐるみ」に傍点]刀を出し、源三郎をからかった[#「からかった」に傍点]、浪人風の男であった。
「たしかこいつは。……この若造は……加賀屋源右衛門の倅《せがれ》だったの?」
「は、さようでございます」
「よし」と云うと有意味に笑った。
「飛び込んで来た、よい囮が! 今まで迂濶《うっか》りしていたよ。……何よりの玉だ、こいつを利用し……」
 呟くと一緒に突き飛ばした。
 突かれて蹣跚《よろめ》いた源三郎は、ドンと壁へぶつかったが、充分の恐怖《おそれ》、充分の怒り、しかし依然として心は夢中で……
「汝は、汝は!」と匕首《あいくち》を揮った。
「ホッ、ホッ」という例の笑いと共に、入身となった鮫島大学は、グッと拳を突き出した。
「ムーッ」とこれは源三郎で、泳ぐような手付きをしたかと思うと、グニャグニャになってぶっ[#「ぶっ」に傍点]仆れた。
「悪い格好で寝ているよ。大金持の若旦那も、からきし[#「からきし」に傍点]こうなっちゃア見られないなあ」
 懐手《ふところで》をした鮫島大学は、見下ろしてこう呟いたが、
「おい茨木、考えがある。この態《ざま》の悪いお客さんを、じめつく[#「じめつく」に傍点]地下の物置で、大して大事にしなくともいいが、とにかく介抱してやってくれ。……ええとそれから」と鮫島大学は、手下の悪漢《わる》どもを見廻したが、
「あぶれた[#「あぶれた」に傍点]立ン棒じゃアあるまいし、並んで茫然《ぼんやり》立っているなよ。……ちょっと待て待て、オイ茨木! 今夜、宇和島という侍が、例の品物を懐中して、海路大阪から江戸へ着くはず、その宇和島への両様の手宛、もうすっかり出来ているだろうな」
「へい、すっかり出来ています。……最初は正面から斬ってかかり……」
「云うな云うな、出来ておればよい。……松本々々|依頼《たのみ》がある」
「へい」と云って顔を出したのは、御留守居風をした男である。
「今考えついた細工だが、お前町方役人となって、加賀屋へ行って主人《あるじ》と逢い……これこれちょっと耳を貸しな」
 囁くのを聞き取った御留守居風の男は、
「こりゃァ名案でございますなあ。……それにしても東三《とうさぶ》め、うまく[#「うまく」に傍点]やればよろしゅうござるが」
「久しい間入り込んでいるあいつ、ヘマなことはしないだろうよ」
 ここで又大学は茨木という男へ、苦笑いしながら話しかけた。
「大阪では宇和島というあの侍に、ひどい目に逢ったのう」
「ミッシリ峰打ちに叩かれて、ぶざまに気絶をいたしました」
「本来はあいつを味方に引き入れ、平野屋から加賀屋へ送る品物――凄く高価な品だというから、いずれは腕利きの人物に持たせ、送り届けるに相違ない。その送人を途中に擁し、宇和島に殺させ奪い取ろうと、そう目論《もくろ》んでの仕事だったのに、あいつの腕が利き過ぎていたので、平野屋の主人に逆に雇われ……」
「あいつが高価の品物を保護して、江戸入りすることになったとは、面白くない運命で」
「面白くない運命といえば、源三郎の運命も……金太々々ちょっと来い」
「へい」と近寄って来た乾兒《こぶん》の一人へ、又大学は囁いた。
「へえ、それでは加賀屋の倅を、加賀屋の金蔵へ送り込むんで」
「うん。……さあさあみんな行け」
 一同の悪漢《わる》どもが立ち去って、一人になると大学は榻の一つへ腰かけた。
「この考えは素晴らしいぞ」
 独り言を云いながら考え出した。
 すると、その時扉をあけて、スッと入って来た女があった。
「大変な芝居をなさいましたねえ」
 女役者の扇女《せんじょ》である。
「ほほうお前か、見ていたか。舞台の芝居より凄かろう」
「血糊と異って流されたは、本当の血でございましたからね」
「どうだ扇女、物は相談、凄味に惚れちゃアくれまいかな」
「そうですねえ、考えましょうよ、一つじっくり[#「じっくり」に傍点]と考えましょうよ」
「そのじっくり[#「じっくり」に傍点]だが、気に入らないな。それにさ恋というものは、考えてやらかすものではない。と、こんなように思うがの。大概考えている中に、恋というものは逃げてしまう」
「逃げてしまうような恋でしたら、やらない方が可《よ》いでしょう」
「これが秘決だ! 無分別! どうだこいつでやらかそう!」
「ところが妾《わたし》は天邪鬼《あまのじゃく》で、無分別が恋の秘決なら、思慮熟慮で行きましょう」
「理詰めで行こうとこういうのか?」
「そうですねえ、そうでしょうよ」
「オイ」と大学猛くなった。
「その理詰めだが嵩ずるとな……」
「どうなろうと仰有《おっしゃ》るので?」
「こうなるのだ! こうなるのだ!」
 ノッと立ち上った鮫島大学は、巨大な鳥が小雀を、翼の下へ抱え込むように、扇女を両腕へかい込もうとした。
 だがその途端に一方の壁の、真中《まんなか》の辺りへ穴が開き、一人の女が現われた。
 隣部屋へ通う隠し戸を開け、手に阿片の吹管を持ち、支那の乙女の扮装《すがた》をした、若い女が現われたのである。
「阿片をお吸いなさいまし。結構な飲物でございます」
 そう云いながらその女は、ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと前へ出た。
「奇麗な夢が見られます。見ることの出来ない美しい、世界を見ることも出来ましょう。聞くことの出来ない美しい、音楽を聞くことも出来ましょう。石榴《ざくろ》石から花が咲いて、その花の芯は茴香《ういきょう》色で、そうして花弁は瑪瑙《めのう》色で、でもその茎は蛋白石の、寂しい色をして居ります。そういう花も見られましょう。……そこは異国でございました。そこは上海《シャンハイ》でございました。その裏町でございました。一人の女が誘拐《かどわか》され、密房の中へ閉じ籠められ、眠らされたのでございます。黒檀の寝台には狼の毛皮。でその毛皮の荒い毛が、体の肉を刺しました。菱形の窓から熟んだ月が、ショボショボ覗いて居りました。猫目石のような月の眼が、女の胸を探りました。とどうでしょうお月様の眼が、潰れてしまったではございませんか。胸の辺りに刳られた穴が、龕のように出来ていたからです。それを見たからでございます。それで吃驚《びっくり》してお月様の眼が、潰れてしまったのでございます。……誰が刳ったのでございましょう? 青々と光るものがある! 鉛で作った大形の、偃月刀《えんげつとう》でございます。柄に鏤《ちりば》めたは月長石と、雲母石とでございました。それで刳ったのでございます。可哀そうな可哀そうな女の胸を! でもその間その女は、歌をうたって居りました。大変いい声でございました。だが本当に美しいことは、その歌声が熱のために、凍ってしまったことでございます。で虹色の一本の、棒になったのでございます。……阿片をお喫みなさいまし、凍った歌声の虹の棒を、手に取ることが出来ましょう。だが御用心なさりませ、今度は手の熱に冷やされて、棒が融けるでございましょう。それはまだまだよろしいので。ではその時歌声が、こう響いたらどうなさいます。『誰も彼も生きている死骸だよ』……よこせ! よこせ! よこせ! 呉れない! 呉れない! 呉れない! 呉れない! 寄って集《たか》ってたくさんの人が、虐むからでございます。そこで、生きながら誰も彼も、死骸になるのでございます。……死骸はいやらしゅうございます。見ない方がよろしゅうございます。死骸を見まいと思ったら、阿片をお喫いなさいまし。……お前は誰だい!」
 とその女は、よろめく足を踏み締めると、扇女の前へ突立った。
 支那風に髪を分けており、髪に包まれて顔があり、その顔は仮面と云った方が、似合うように思われた。と云うのは支那製の白粉《おしろい》で、部厚く一面に、塗りくろめ、書き眉をし、口紅をつけ、頬紅を注しているからである。特色的なのは眼であろう。眼窩が深く落ち窪み、暗い深い穴のように見える。
 楔《くさび》形に削ったのだろうか? こう思われる程ゲッソリと、頬が頤へかけて落ちている。
 上着の模様は唐草で、襟と袖とに銀の糸で、細く刺繍《ぬいとり》を施してある。紫色の袴の裾を洩れ、天鵞絨《ビロード》に銀糸で鳥獣を繍った、小さな沓《くつ》も見えている。
「奇麗な御婦人、別嬪さん!」
 云いながら睨むように扇女を見た。それから大学へ眼をやった。
「そうかそうか、恋仲か! 恋をしようとしているのか! だがねえ」とまたもや扇女を見た。
「用心が大事でございますよ。迂闊に恋などなさいますな。凄いお方でございます。この大学という方は! もし迂闊にこの人と恋仲などになりましたら、妾《わたし》のようにされましょう。廃人にね! 廃人にね! ……」
 ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと歩き出した。針金細工の人形かしら? あまりにも痩せているではないか! そうしてヒョロヒョロと歩く毎に、どうしてあんなにも顫えるのだろう?
 燈籠《とうろう》の火に照らされて、阿片の吹管が反射する。それを握っている手の指が、あたかも鈎のように曲がっている。
 と、だる[#「だる」に傍点]そうに振り返り、ノロノロと片手を上げ、それで大学を指さしたが、
「ね、妾《わたし》の恋男さ! そうさ妾の大学さんさ! 取っちゃア不可《いけ》ないよ、この人をね!」
 それから自分を指さした。
「教えてあげよう、妾の名をね! 『阿片食い』のお妻だよ!」
 またヒョロヒョロと歩き出し、部屋をグルグル廻り出した。

 同じこの夜のことである。
「一体どうしたのでございましょう、こんな夜が更けたのに、兄さんがお帰りにならないとは」
 こういう娘の声がした。清浄であどけない[#「あどけない」に傍点]その中に、憂いを含んだ声である。
 すぐ老人の声がした。
「源三郎にも困ったものだ。悪い友だちが出来たらしい。碌でもない所へ行くらしい」
 ここは浅草の蔵前通りの、富豪加賀屋の奥座敷である。
 源三郎の父の源右衛門と、源三郎の妹のお品とが、源三郎の身の上を案じ、寝もせず噂をしているのであった。
 するとその時足音がして、襖の陰で止まったが、
「大旦那様、大旦那様」
 こう呼ぶ不安そうな声がした。
「長吉どんかい、何か用かい」
「心配のことが出来ました」
「入っておいでな、どんな事だい?」
 襖を開けて顔を出したのは、長吉という手代であった。
「町役人の方がおいでになり、お目にかかりたいと申しております」

 ところが同じこの夜のこと、旅装凜々しい一人の武士が、端艇《はしけ》で海上を親船から、霊岸島まで駛《はし》らせて来た。
「御苦労」と水夫《かこ》へ挨拶をして岸へ上るとその侍は、あたかも人目を忍ぶように、佐賀町河岸までやって来た。
 すると家陰から数人の人影が、タラタラと一勢に現われたが、旅侍を取り巻くや、四方からドッと切り込んだ。
「うむ、出たか! 待っていたようなものだ」
 嘯《うそぶ》くように云ったかと思うと、抜打ちに一人を切り斃し、
「すなわち人殺《ひとごろし》受負業《うけおいぎょう》! アッハッハッハッ、一人切ったぞ」
 その時、
「引け」という声がした。……途端に刺客の人影は、八方に別れて散ってしまった。
「おかしいなあ」と佇んだまま、旅侍は呟いたが、
「はてな?」ともう[#「もう」に傍点]一度呟いた。
 というのは行手、眼の先へ、加賀屋と記された提燈が、幾個《いくつ》か現われたからである。
「宇和島様でございましょうな。加賀屋からのお迎えでございます」
 手代風の一人が進み寄ったが、こう旅侍へ声をかけ、さも丁寧に腰をかがめた。

 ところがこれも同じ晩に、もう一つ奇怪な出来事が起こった。
 一人の立派な老人が、それは加賀屋源右衛門であるが、手燭をかかげて土蔵の中を、神経質に見廻していた。土蔵の中に積まれてあるのは、金鋲を打った千両箱で、それも十や二十ではない。渦高いまでに積まれてある。その一つの前へ来た時である。
「あッ」と老人は声を上げた。
 と、その声が呼んだかのように、土蔵の口へ現われたのは、顔に醜い薄|痘痕《あばた》のある、蔵番らしい男であったが、手に匕首《あいくち》を握っている。じっと狙ったは老人の首で、ジリジリジリジリと擦り寄って行った。

11

「親分おいででござんすかえ」
「はいはいおいででございます」
「これは親分お早うございます」
「はいはいお早うございます」
「たんへんな事件《こと》が起こりましたので」
「ははあ左様で、承《うけたま》わりましょう」
「加賀屋の主人が消えましたんで」
「これは事件《こと》でございますな」
「昨夜《ゆうべ》のことでございますよ」
「ははあ左様で、昨夜のことで」
「いまだに行方が知れませんので」
「なるほどこれは大変なことで」
「家内中大騒ぎでございますよ」
「これは騒ぐのが当然で」
「ところがああいう大家のことなので、表立って世間へは知らせられないそうで」
「もっとももっとも……もっとももっとも」
「それ信用にも関しますので」
「左様どころではございません」
「一通り訊いては参りました」
「これはお手柄、承わりましょう」
「ええと昨夜も更けた頃に、町方のお役人がこっそりと、加賀屋へ参ったそうでございますよ」
「ああ町方のお役人様がね」
「で主人と逢いましたそうで」
「ああ左様で、源右衛門さんとね」
「ええそれからヒソヒソ話……」
「ははあお役人と源右衛門さんがね」
「と、どうしたのか源右衛門さんには、にわかに血相を変えまして、奥へ入ったということで」
「なるほどね、なるほどね」
「つまりそれっきり消えましたそうで」
「なるほどね、なるほどね」
「ところがもう一つ不思議なことには……」
「はいはい、不思議が、もう一つね」
「その夜若旦那も帰りませんそうで」
「へーい、なるほど、源三郎さんもね」
「親子行方が知れませんそうで」
「それは、まあまあ[#「まあまあ」に傍点]大変なことで」
 聞いているのは岡引の松吉で、その綽名《あだな》を「丁寧松」といい、告げに来たのは松吉の乾兒《こぶん》の、捨三《すてさぶ》という小男であった。
 所は神田|連雀《れんじゃく》町の丁寧松の住居《すまい》であり、障子に朝日がにぶく[#「にぶく」に傍点]射し、小鳥の影がぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]とうつる、そういう早朝のことであった。
 捨三が旨を受けて行ってしまうと、丁寧松は考え込んだ。
 その時お勝手から声がした。
「何だいお前、お菰《こも》の癖に、親分さんに逢いたいなんて」
 ちょっと小首を傾げたが、ツイと立ち上った丁寧松は、きさくにお勝手へ出て行った。
「お梅さんお梅さんどうしたものだ、お菰さんだろうと何だろうと、お出でなすったからにはお客さんだよ。不可《いけ》ない不可ない、粗末にしては不可ない」
 下女のお梅をたしなめ[#「たしなめ」に傍点]たが、ヒョイと丁寧松は眼をやった。乞食が勝手口に立っている。
「これはいらっしゃい。何か御用で?」
「へい」と云ったが入って来た。
「お貰いに参ったんじゃアございません、お為になろうかと存じましてね。ちょっとお聞かせにあがりましたんで」
「ああ左様で、それはそれは。……お梅さんお梅さん向うへ行っておいで。……さあさあ貴郎《あなた》遠慮はいらない。おかけなすって、おかけなすって」
「ここで結構でございますよ、実はね親分」と話し出した。
「人殺しがあったんでございますよ」
「へーい、人殺し? それはそれは」
「そいつをあっし[#「あっし」に傍点]は見ていたんで」
「なるほどね、なるほどね」
「あっし[#「あっし」に傍点]達の住居は軒下なんで。どこへでも寝ることが出来ますので」
「自由でよろしゅうございますなあ」
「昨夜《ゆうべ》寝たのが佐賀町河岸で」
「あああの辺りは景色がいい」
「と、侍が来かかりました」
「ナール、侍がね。……どうしました?」
「と、ムラムラと変な奴が出て、斬ってかかったんでございますよ」
「うむ、うむ、うむ、侍がね」
「と、スポーンと斬ったんで。侍の方が斬ったんで」
「冴えた腕だと見えますねえ」
「引け! というので引いてしまいました。その現われた連中の方が」
「衆寡敵せずの反対で」
「するとどうでしょう、提燈の火だ」
「ほほう提燈? 通行人のね?」
「加賀屋と書いてありましたんで」
「え」と云ったが松吉の眼は、この時ピカリと一閃した。
「加賀屋と書いてありましたかな」

12

 なおも乞食は云いつづけた。
「宇和島様でございましょうな、加賀屋からのお迎えでございます。……こう云ったではありませんか」
「ははあ提燈の持主がね?」
「へい左様でございますよ。……それから、侍を囲繞《とりかこ》んで、霊岸島の方へ行きましたので」
「霊岸島の方へ? 不思議ですなあ。加賀屋の本家も控えの寮も、霊岸島などにはなかったはずだが」
「これが好奇《ものずき》というのでしょう、後をつけた[#「つけた」に傍点]のでございますよ、人殺しをした侍が、どこへ落ち着くかと思いましてね」
「偉い」と松吉は手を拍った。
「ねえお菰さん、お菰さんを止めて、私の身内におなりなさいまし」
「これは」と乞食は苦笑したが、
「で、つけた[#「つけた」に傍点]のでございますよ」
「それで、どうでした、どこへ行きました?」
「へい、柏家へ入りました」
「柏家? なるほど、一流の旅籠《はたご》だ」
 こうは云ったが考えた。
「ちょっと不思議な噂のある旅籠だ。……ところで、それからどうしました?」
「話と申せばこれだけなので」
 ニンマリと乞食は笑ったが、
「親分さんは御親切で、どんな者にでもお逢いになり、話を聞いて下さるそうで。……仲間中での評判でしてね。……お為になれば結構と存じ」
「よく解《わか》りました、有難いことで。……これはほん[#「ほん」に傍点]の志で。……オイオイお梅さんお梅さん、このお客さんへお酒をお上げ。ええとそれからおまんま[#「おまんま」に傍点]をね」
 居間へ引っ返した丁寧松はポカンとした顔で考え込んだが、やがて長火鉢のひきだし[#「ひきだし」に傍点]を開けると、ちいさい十呂盤《そろばん》を取り出した。
 パチ、パチ、パチと弾き出した。
 岡引の松吉は三十五歳、働き盛りで男盛り、当時有名な腕っコキで、十人以上の乾兒《こぶん》もあったが、どうしたものか独身であった。そうして彼は変人でもあった。起居も動作も言葉つきも、岡引どころの騒ぎではなく、旦那衆のように丁寧なのである。乾兒や乞食に対してさえ、丁寧な言葉を使うのである。
 丁寧松の由縁《いわれ》である。
 ところで彼は捕り物にかけては、独特の腕を持っていた。武器はと云えば十呂盤と十手で……
 十手が武器なのは当然だが、十呂盤が武器とはどういうのだろう?
 それは誰にも解らなかった。
 とはいえ、彼は事件にぶつかると、きっと十呂盤を取り出して、掛けたり引いたりするのであった。
 こじつけ[#「こじつけ」に傍点]ればこんなように云うことは出来る――すべて数学というものは、人の心を緻密にし人の心をおちつかせる。そこで心をおちつかせるために、十呂盤弾きをするのだと。
 今も熱心に弾いている。
「二、一|天作《てんさく》の五、二|進《しん》が一|進《しん》、ええと三、一、三十の一……加賀屋親子の行方不明、佐賀町河岸での人殺し、そこへ迎えに出た加賀屋の提燈……これには連絡がなければならない。……宇和島という若侍……それに泊まった柏屋という旅籠? ……柏屋、柏屋、柏屋だな?」
 どうにも考えがまとまらないらしい。
「加賀屋から迎えに出た以上は、本家か寮かへ連れて行かなければ、本当のやり口とは云われない。……十から八引く六残る。冗談云うなよ、二が残らあ」
 珠算《たまざん》をしながら考えている。
 痩せぎすでそうして小造りであり、眼が窪んで光が強く、どっちかというと醜男である。だが決して一見した所、人に悪感を与えるような、そんな人相はしていない。
「十から八引く二が残る。と云うのが浮世の定法だが、本当の浮世はそうでない。八が残ったり四が残ったり、もう一つこいつ[#「こいつ」に傍点]が酷《ひど》いことになると、十一なんかが残ったりする」
 などと警句を云う男であった。
 珠を払うとヒョイと立った。
「本筋から手繰って行くことにしよう」
 土間を下りると雪駄を穿き、格子をあけると戸外《そと》へ出た。
 午前六時頃の日射しである。
 早朝だけに人通りが少なく、朝寝の家などは戸を閉ざしている。
 須田町から和泉《いずみ》橋、ずっと行って両国へ出たが、駕籠を拾うと走らせた。
「へいよろしゅうございます」
 駕籠屋に対しても丁寧である。酒手まではずんだ[#「はずんだ」に傍点]丁寧松は、駕籠を下りると歩き出した。

13

 立派な旅籠屋が立っていた。
 すなわち目的の柏屋で、下女が店先で水を撒いてい、番頭が小僧を追い廻している。
「御免下さい」と声をかけ、丁寧松は帳場の前へ立った。
「宇和島様おいででございましょうか」
「へい」と云ったは番頭であった。ジロジロ松吉を見廻したのは、品定めをしたのに相違ない。
「ええどちら[#「どちら」に傍点]様でございますかな?」
 居るとも居ないとも返事をせず、相手の身分を訊いたのは、大事を執《と》ったためなのだろう。
 鼻が平らで眉が下っていて、人のよさそうな人相ではあったが、眼に一脈の凄味がある。大きな旅籠屋の番頭なのである。人が良いばかりでは勤まらない、食えない代物には相違あるまい。
「加賀屋の者でございますがね」
 そこは松吉岡引である。加賀屋を活用したのである。
「おや左様でございましたか。これは失礼をいたしました。へいへい確かに宇和島様には、昨晩《ゆうべ》からお宿まりでございますよ」
 ――加賀屋から来たと聞いたので、番頭は安心をしたらしい。
「ちょっくらお目通りいたしたいもので」
「ちょっとお待ちを」と云いながら、番頭は女中へ頤をしゃくった。取次げという意味なのだろう。
 すぐに女中は小走って行ったが、どうしたものか帰って来ない。かなりの時間を取ってから、もっけ[#「もっけ」に傍点]の顔をして飛び帰って来たが、その返事たるや変なものであった。
「どこにもおいででございません」
「冗談お云いな、馬鹿なことを」
 番頭の言葉におっ[#「おっ」に傍点]冠せ、お杉という女中は云い張った。
「いえ本当なのでございますよ。どこにもおいでなさいませんので。お部屋にも居られず厠にも居られず、もしやと思って裏庭の方まで、お探ししたのでございますが、やっぱりお姿は見えませんでした。それで、念のために一部屋一部屋、お尋ねしたのではございますが……」
「お姿が見えないというのだね」
「はい、そうなのでございますよ」
「ふふん」と云ったが怪訝そうである。
 番頭は松吉の顔を見た。
「いやそうかも知れませんねえ」
 丁寧松は驚かなかった。
「それが本当かも知れませんねえ。実はね」というと丁寧松は、丁寧の調子を砕いてしまった。
「加賀屋の者じゃアないのだよ。連雀町の松吉なのさ。ちょっと見たいね、部屋の様子を」
「へえ、それじゃア親分さんで」
 番頭はすっかり顫え上った。
「うん」と云ったがズイと上る。
「どうぞこちらへ……偉いことになったぞ」
 不安に脅えた番頭を睨み、奥へ通った丁寧松は、またも丁寧な調子になった。
「ねえ番頭さん番頭さん、ビクビクなさるには及びませんよ。貴郎《あなた》が人殺しをしたんじゃアなし、お咎めを受けるはずはない。だが」と云うときつく[#「きつく」に傍点]なった。
「嘘を云っちゃア不可《いけ》ねえぜ!」
 丁寧松ではなくなったのである。
 胆を潰したのは番頭で、
「それでは昨夜のお侍様は、兇状持なのでございましょうか?」
「つまりそいつ[#「そいつ」に傍点]を調べに来たのさ。それで出張って来たってやつさ」
 だがまたもや丁寧になった。
「立派な造作でございますねえ」
 云いながら四辺《あたり》を見廻したが、立派な造作を見たのではなく、間取りの具合を見たのらしい。
 真中《まんなか》に廊下が通っていて、左右に座敷が並んでいる。
 その一画を通り過ぎると、広大な裏庭になっていて、離れ座敷に相違ない、三間造りの建物があり、母家と渡り縁で繋がれていた。
 その建物の中の部屋の、襖の前まで来た時である。
「このお座敷なのでございますよ」
 こう云って番頭は辞儀をしてみせた。

14

「なるほど」と云ったが丁寧松は、開けてみようともしなかった。
「結構なお庭でございますなあ」
 こんなことを云い出してしまったのである。
 築山、泉水、石橋、燈籠、一流の旅籠の庭だけあって、非の打ちどころのないまでに、まさに結構な庭ではあったが、築山の横に木立に囲まれ、古々しい一棟の離れ座敷の、家根《やね》の瓦の見えるのが、全体の風致を害していて、欠点といえば欠点とも云えた。
「腰かけてお話しいたしましょう」
 縁からダラリと足を下げ、縁へ腰かけた丁寧松は、さも悠暢に云い出した。
「お話を聞こうじゃアございませんか、どんな恰好でございましたかね?」
「へい?」と云ったものの番頭は、何の意味だが解らないらしい。
「何さ、昨夜《ゆうべ》の泊り客のことで。詳しく話していただきましょう」
「あ、その事でございますか。はいはいお話し致しますとも」
 そこで番頭は話し出した。
「ずっと夜更けでございましたが、門を叩くものがございましたので、開けて見ますと加賀屋の提燈、手代風のお方が五六人、ゾロゾロ入って参りましたが、『大切のお客様でございますから、丁寧にあずかって下さるように』と、かように申してお連れして来ましたが、二十五六のお武家様で、宇和島様だったのでございますよ。本来なればそんな[#「そんな」に傍点]夜更け、お断りするのでございますが、名に負う加賀屋様の御紹介ではあり、立派なお武家様でございましたので、早速この座敷へお通し申し……」
「今朝まで安心していなすったので?」
「へいへい左様でございます」
「ええと、所で云う迄もなく、その加賀屋の手代衆は、お引き取りなすったでございましょうね?」
 意味ありそうな質問である。
「はい……いいえ……お一人だけは……」
「え?」と松吉は訊き咎めた。
「一人どうしたと仰有《おっしゃ》るので?」
「お泊まりなすったのでございますよ」
「変ですねえ。……どこへ泊まりました」
「隣りのお部屋でございます」
「宇和島という侍の隣り部屋で?」
 こう訊いた松吉の声の中に、鋭いもののあったのは、何かを直感したからだろう。
「はいはい左様でございますよ」
「それで、只今《ただいま》もおいでなさるので?」
「それが明け方、暗い中に、お帰りなすったと申しますことで」
「お前さんそいつ[#「そいつ」に傍点]を御存知ない?」
「家内中寝込んで居りましたので……」
「どなたが表の戸を開けましたかい?」
 グッと鋭く突っ込んで訊いた。
「寝ずの番の女中のお清という女で……」
「ちょっと聞きたいことがある、お清という女中を呼んで下せえ」
 間もなく現われたお清という女中は、年も若いし、ぼんやり者らしく、それに昨夜の寝不足からだろう、眼など真赤に充血させていたが、御用聞に何かを訊かれるというので、ベッタリ縁へ膝をつくと、もうおどおどと脅え込んでいた。それと見て取った松吉は、恐がらせては不可《いけ》ないと、こう思ったに相違ない、丁寧な調子で話しかけた。
「今朝方帰ったという加賀屋さんの手代、何か持ってはいませんでしたかえ?」
「へい」とお清は考え込んだが、
「何にもお持ちではございませんでした」
「ふうん」と云ったが首を傾げた。
「痩せていましたかえ、肥えていましたかえ? 何さ、着ふくれ[#「ふくれ」に傍点]ちゃアいませんでしたかね?」
「へえ」と又もや考えたが、
「気がつきませんでございました」
 だがもう一度考えると、
「そう仰有《おっしゃ》ればそんな[#「そんな」に傍点]ようで、着ふくれ[#「ふくれ」に傍点]ていたようでございますよ」
「廊下には行燈でもありましたかね? 玄関には無論あったでしょうね?」
「それがホッホッと消えましたので」
 意外のことを云い出した。
「うむ」と云ったが丁寧松は、チラリと明るい眼付をした。何か暗示を得たようである。
「どっちが先立って行きましたね?」
「お客様がお先へ参りました」
「こう何となく反り返って、お辞儀なんかはしなかったでしょうね?」
 こう云ったが笑い出した。
「こいつァ無理だ、訊く方が無理だ、寝ずの番だって人間だ、夜っぴて起きていた日にゃア、明け方には眠くなるからねえ、そんな細かい変梃なことに、気の付くはずはありゃしない。いや有難う、御用済みだ……。ところで」と云うと丁寧松は、番頭の方へ顔を向けたが、
「気を悪くしちゃア不可《いけ》ませんぜ」
 一層声を押し低めたが、
「あれが評判の開けずの間だね?」
 築山の横に木立に囲まれ、立っている古々しい離れ座敷へ、頤を向けて訊いたことである。
「へい左様でございます」
「どれちょっくら[#「ちょっくら」に傍点]拝見して来よう。ナーニ中へは入りゃアしない」
 庭下駄を突っかけて歩いて行った。

15

 変った建物では無かったけれど、陰森たる建物には相違なく、縁が四方を取り巻いてい、雨戸がビッシリと閉ざされていた。縁も古ければ雨戸も古い。しかし用木は頑丈で、それが時代を食《は》んでいる為か、鉄のような色を呈してい、瓦|家根《やね》が深く垂れ下り、その家屋も黒く錆ていた。だから巨大な蝙蝠が、翼をひろげているようである。何処からも日の目が射して来ない。繁った木立が四方を鎧い、陽を遮っているからだろう。とは云え家根の一面だけが、陽を受けて明るく燃えている。それで、そこだけが昼であり、その他の所は宵闇であると、こういうことが出来そうである。つまりそんなにも建物と建物の周囲《まわり》は陰気なのであった。
 周囲の繁った木立によって、一切外界と交渉を断ち、一劃をなした別世界に、一種威嚇的な空気を纏い、物云わず立っている気味の悪い存在! それが離れ座敷の姿であった。
 だからその前に立った人は、そういう空気に圧迫され、逃げ出してしまうに相違ない。
 にも拘らず松吉は、怖くはないよと云いたそうに、胸の辺りで腕を組み、大工が普請でも見るように、家の周囲を廻りながら、仰向いて見たり俯向いて見たり、一向暢気そうに眺め出した。
「今朝方|箒目《ほうきめ》をあてたと見え、地面も縁の上も平《なら》されている」
 口の中での呟きである。
「おや木の枝が折れてるぜ」
 たしかに一所木の枝が、無理に乱暴に折り取られている。
「腰でもかけて休もうかい」
 ――縁へ腰をかけた丁寧松は、後脳を雨戸へ押し付けて、ぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]空を眺めたが、どうやら本当はぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と、空を眺めているのではなく、何かを聞き澄ましているのらしい。
「いい天気だなあ、鳥が啼いていらあ」
 梢で雀が啼いている。
「宇和島というお侍、高価な物でも持っているのか、人に怨みでも受けているのか、とにかく何者かに狙われているらしい。だから大勢の者に切りかけられたり、贋加賀屋の手代どもに、こんな旅籠へ連れ込まれたり……さあその贋加賀屋の手代の一人が、宇和島という侍の隣り部屋へ、泊まり込んだということだが、そうして今日の明方早く、立去って行ったということだが、こいつがどうにも眉唾物だて」
 ――番頭の言葉と婢女《はしため》の言葉、それを綜合して丁寧松は、推理と検討とに耽りだした。
 その間も松吉は縁の上などを、こっそり掌《てのひら》で撫でまわした。
「縁の上にひどく砂があるなあ。縁近くの庭で取っ組み合いでもしたら、縁の上へ砂ぐらい刎ね上るだろうよ。……ところで宇和島という侍だが、この旅籠から消えたとは何ということだ。……二から一引く一残る! これが十呂盤《そろばん》の定法だが、この事件はそうでねえ、二から一引く皆な消えっちゃった! 侍も手代もきえっちゃった。……こんな解《わか》らぬ話ってねえ。……ナーニこいつアこうなるのさ。……宇和島というお侍さん、身の危険を感じたので、贋手代を気絶でもさせて、そいつの衣裳をひん[#「ひん」に傍点]剥いて、自分の衣裳の上へ着て――着ふくれ[#「ふくれ」に傍点]ていたっていうことだからな――手代に化けてこの旅籠から、脱出して行ったというものさ。……行燈の火が消えたという。案内の女中に化けた姿を、感付かれまいために宇和島という武士が、行燈の側を通る時、袂でも振って消したのさ。……さて疑問として残るのは、衣裳を剥がれた贋手代の、可哀そうな身柄がどこにあるかってことさ……」
 この時開けずの間の建物の中から、物の気勢《けはい》が聞こえてきた。
「いつからともなく柏屋の庭に、開けずの間という建物があって、一切人を内へ入れず、一切人を寄せ付けず、厳《おごそか》に鎮座ましますと、世間の噂に立つようになったが、どう考えてもおかしいよ」
 口の中での呟きである。
「どだい建物というものは、人が住むために建てるものだ。人の住めない建物なら、さっさと壊すがいいじゃアないか。そんな建物を建てて置く! どうでも二二ンが四じゃアない」
 胸の中で珠算をやり出した。
「もっとも」と、これも口の中である。
「お宮と云ったような建物もある。だがもしそいつ[#「そいつ」に傍点]がお宮なら、神様が住んでいなけりゃアならない。……となすとここの建物にも、神様が住んでいるのかな」
 頭が一方へ傾いて行く。ピッタリ片耳が戸へあたる。
「うむ!」と突然丁寧松は、呻《うめき》の声を洩らしたが、
「やりゃアがったな!」と飛び上った。
「ヤイ!」と怒鳴ったが鋭い声だ。
「殺生な真似をしやアがるな! 丁寧松だ! 見現わしたぞ!」
 だがその次の瞬間には、非常な危険を直感した、猟り立てられた獣のように、庭を駆け抜け、主母《おもや》を駆け抜け、往来へ飛び出してしまったのである。
 すると、その時音も立てず、離れ座敷の雨戸が開いたが、その隙間から見えたのは、一人の女の姿であった。身に行衣を纏ってい、左手に御弊《ごへい》を握っている。しかし右手に下げているのは、血に塗られた短刀であった。御弊に仕込まれた懐刀らしい。美しいことも美しいが、その凄さは二倍と云えよう!
 髪を頸《うなじ》に束ねている。それで額が三角形に見える。ぼうぼうと[#「ぼうぼうと」に傍点]毛ば立った太い眉、耳まで続いていないだろうか? そう思わなければならない程、延々と長く引かれている。だがその下に凝然と、見据えられた眼を見た人は、ああこの女は狂信者だ! こう思わずにはいられないだろう。
 女は、全身を現わしたのではない。二尺余り開いた戸の隙から、半身を覗かせているのであった。
「市郎右衛門! 市郎右衛門!」
 その女が呼んだのである。喰い縛ったような声である。
 すると、木立を押し分けて、一人の男が現われた。他でもない番頭であった。だが、相好が変っている。キョトキョト恐れおどついて[#「おどついて」に傍点]いた、先刻《さっき》までの番頭ではないのであった。
「お久美様!」と土下座をした。
「かようなことになろうとは……迂闊千万にございました」
「今は云わぬよ! 何にも云わぬよ! ……しかし生かしては置かれない! ……今日中に命を取《と》るがいい! ……手が入ったら一大事だ」
「手配り致すでございましょう。……それに致しても血刀は?」
「意外だったよ、妾《わたし》にしてからが! ……裸体《はだか》に剥かれた人間が……」
「お部屋にいたのでございますか?」
「で、切ったのだ! 剖《あば》いたからの」
「では宇和島と宣った武士で?」
 市郎右衛門はギョッとしたらしい。
「妾は知らぬよ。……切っただけだよ。……手配りをおし! 一刻も早く!」
「はい」と云うと走り去った。
 なお、女は立っている。
「あいつのお蔭だ! ……大塩中斎《おおしおちゅうさい》! ……お気の毒な貢《みつぎ》様! ……妾までこんな目に逢っている。……」
 血刀が鈍く光っている。
「一世の碩学[#「碩学」は底本では「硯学」]、貢の巫女……それから伝わったこの教法……滅ぼしてなろうか! 滅ぼしてなろうか!」
 柏屋を飛び出た岡引の松吉は、この頃往来を走っていた。

16

 だが、十間とは走らなかった。柏屋と斜めに向かい合い、表門の一所に桐の木を持ち、黒板塀に蔽われた、宏大な屋敷が立っていたが、ちょうどそこまで走って来た時、一つの事件にぶつかっ[#「ぶつかっ」に傍点]てしまった。
 と云うのは二階の障子が開き、武士の姿が現われたが、松吉を目掛けて腕を振り、同時に障子を閉じたのである。
 昼の日を貫き一閃したは、投げられた小柄に相違ない。同時にピシッと音がした。
 すなわち岡引の松吉が、走りながらの神妙の手練、懐中の十手を引き抜くと、見事に払って捨たのである。
「うむ、やったな! 鮫島大学!」
 叫んだ時には数間のかなたを、岡引の松吉は走っていた。
 だがその行手に露地があり、そこへ駈け込んだ一刹那、またもや意外な出来事に逢った。
「無双の早業、素晴らしい手並、すっかり見ていた、立派であったぞ!」
 深編笠に黒紋付、仙台平の袴を穿き、きらびやかの大小を尋常に帯び、扇を握った若侍に、こう言葉を掛けられたのである。衣裳の紋は轡《くつわ》である。
「え」と云った岡引の松吉は、足を止めざるを得なかった。
「お褒めのお言葉、有難いことで。……が、全体、貴郎《あなた》様は?」
「拙者か」と云ったが歩き出した。
「柏屋の秘密を知って居るものだ」
「では」と云うと睨むように見た。
「宇和島様ではございませんかね?」
 一種の直感で感じたのらしい。
 それには返事をしなかったが、
「見受けるところ目明しだの。……柏屋から飛び出したあわただしい気振り、それもすっかり見届けた。……そこで、約束をしてもよい。お前の力になるかもしれない。この俺がな、都合次第。……今日はこれだけ。別れよう」
 露地から出たが人混《ひとごみ》にまじり、間もなく姿が見えなくなった。
「おかしいなあ、何者だろう? ……宇和島という武士に相違ない。よし来た、一番、つけて[#「つけて」に傍点]やろう」
 追っかけようとしたが駄目であった。その時一群の人間が、彼の方へ走って来たからである。
「不可《いけ》ない! しまった! あいつらだ! 多勢に一人、とっ[#「とっ」に傍点]捉まる!」
 サーッと一散に走り出した。露地が左右に別れている。
「よし、こっちだ!」と曲がったは左で、そこでグルリと振り返って見た。町人風ではあったけれど、ただの町人とは思われない、そういう人数が一二三人、執念《しつこ》く後を追っかけて来る。
「俺には解《わか》る! あの一味だ! ……偉いことになったぞ、偉いことになったぞ! ……こんな大物になろうとは、夢にも俺は思わなかった!」
 ――露地が丁字形になっていた。左へ曲がるとトッ走った。と、小広い往来へ出た。
「不可《いけ》ない不可ない、往来は不可ない! 人に見られたらみっとも[#「みっとも」に傍点]ない!」
 ――またもや露地へ駈け込んだ。追って来る一団も駈け込んだらしい、足音が乱れて聞こえてくる。案内には詳しい岡引である。露地から露地と縫って走る。だが執念深い追手であった。どこ迄もどこ迄も追っかけて来る。
「南無三宝! 行き止まりだ!」
 まさしく露地は行き止まり、その正面に格子造りの、粋な二階家が立っていた。
「ううむ」と唸ったが岡引の松吉は、早くも決心をしたらしい。飛びかかると格子をソロリと開け、それを閉じると穿物《はきもの》を脱ぎ、懐中《ふところ》に入れたが敏捷である、障子を開けると辷《すべ》り込んだ。
「だアれ!」と直ぐに声がして、つづいて隣部屋から現われたは、風俗《なり》で解る、女役者であった。
「太夫、頼む、かくまって[#「かくまって」に傍点]くれ!」

 ちょうどその日のことである。時刻は午後三時頃でもあろうか、所は蔵前の表通り、そこに立っている加賀屋の店へ、しとやかに入って来た若侍があった。
「拙者は宇和島と申す者、当家御主人にお目にかかりたく、大阪表よりまかりこしてござる、よろしくお取次ぎ下さいますよう」
 若侍は奥へ通された。

17

「町役人の方が参りまして、主人に逢いたいと申しました。そこで丁寧に奥の間へ通し、その旨を主人に申しましたところ、早速主人はそのお方にお逢いし、しばらくお話しして居りましたが、私は手代のことではあり、その場にも居らず、立聞きもせず、店へ参って居りますと、やがてそのお方がお帰りになり、主人も送って出られましたが、その時の主人の顔の様子が、変わって居りましてございます。不安の気持とでも申しましょうか、そんなようなものが顔に見え、おどつ[#「おどつ」に傍点]いていたのでございますが『困った奴だ! 源三郎め! これが本当なら勘当ものだ! えいこうしてはいられない! 調べてやろう! 調べてやろう』と、呟いたものでございます。……それから奥へ入りましたが、どうしたものでございましょうか、それっきり姿が消えましたので、一同大きに驚きまして、諸所方々を探しましたが、今にかいくれ[#「かいくれ」に傍点]知れませんような次第、裏木戸から外へでも出ましたものか、錠が破壊《こわ》れて居りました。……しかも、その晩には若旦那にも、家へ帰っておいでなされず、いまだに帰られないのでございます。……そういう不思議な出来事が、一度に起こって参りましたので、お可哀そうにもお嬢様には。……」
 こうここまで云って来て、手代の長吉は口を噤んだ。
 と云うのは側《そば》にお嬢様が――すなわち品子という十八の娘が、放心したような顔をして、茫然《ぼんやり》坐っていたからである。
 ここは加賀屋の奥まった部屋で、三人の人物が対座している。
 手代の長吉と娘の品子と、そうして今しがた訪ねて来た、宇和島鉄之進という若侍である。
「なるほど」と云ったのは宇和島という武士で、当惑を顔へ現わした。
「いや左様なお取り込みとも存ぜず、お訪ねしてかえって失礼をいたした。拙者は大阪表より――平野屋と申す大家より、大切の品物をあずかって、持参いたしたものでござるが、御主人が不在とあって見れば、その品物は渡し難く、一旦宿元へ持ち帰りましょう。……しかしそれにしても、御主人の行方の、一日も早く知れますよう、願わしいものでございます」
 そっと品子を見やったが、
「品子様とやら御心配でござろう。しかし心をしっかりと持たれ、決してお取り乱しなされぬよう」
 こうは云ったが心の中では、
「可哀そうに少しく上気して居る。こじれ[#「こじれ」に傍点]ると発狂もしかねまい」
「それでは御免」と立ち上った。
「主人在宅でございましたら、お扱い様もございますのに、この様な有様でございますれば……」
 気の毒そうに長吉が云った。
「いやいや何の、心配は御無用」
「それでは、ただ今のお住居《すまい》は?」
「神田神保町の若菜屋でござる」
 云いすてると宇和島鉄之進は、事情を審しく思ったのであろう、小首を傾げながら座を立った。
 そこで、長吉は送って出たが、後に残った品子という娘が、不意に甲高い声を上げた。
「妾《わたし》には解《わか》る! 殺されていなさる! おお、お父様もお兄様も!」
 フラフラと立つと眼を抑えた。
「お久美様の祟りだ、お久美様の祟りだ!」
 フラフラと部屋から外へ出た。
 水に螢をあしらった、京染の単衣が着崩れてい、島田髷さえ崩れている。後毛のかかった丸形の顔が、今はゲッソリ痩せている。優しく涼しい眼だったろう、それが一方を見詰めている。
 足許さだまらず歩いて行く。
 やがて襖をスルリと開けた。
「宇和島様!」と不意に呼んだ。
「綺麗な綺麗なお武家様!」
 それからまたも甲高く、
「献金いたすでございましょう! お久美様お久美様お助け下され!」
 また襖をスルリと開けた。奥庭の方へ行くのでもあろう。
 その時衣摺れの音がして、すぐに一方の襖が開いたが、その風俗《みなり》で大概わかる、どうやら品子の乳母らしい、四十ぐらいの女が現われた。
「まあお嬢様!」と声をかけたが、やにわに品子を抱きしめると、二人ながらベタベタと崩折れた。
「乳母《ばあや》!」と呼んだが縋り付いた。
「お嬢様お嬢様! ……もう不可《いけ》ない! ……気が狂われた! お可哀そうに!」
「乳母!」と縋ったがうっとり[#「うっとり」に傍点]となった。
「献金しておくれよ! たくさんにねえ」
「どこへ?」と乳母は眼を見張った。
「お久美様へだよ。……ねえたくさんに。……」
 すると乳母のお繁の顔へ、凄い微笑があらわれたが、
「はいはいよろしゅうございますとも」
 だがその時ソロソロと、一方の襖があけられて、一人の男の顔が出た。薄|痘痕《あばた》のある顔である。気付いてお繁が顔を向けると、すぐに襖は閉ざされた。
「蔵番の東三だが、変だねえ」
 何となく不安を感じたのだろう、お繁は頤《おとがい》を襟へ埋めたが、ちょうどこの頃宇和島鉄之進は、順賀橋《じゅんがばし》の辺りを歩いていた。

18

 本多|中務大輔《なかつかさだいふ》の邸を過ぎ、書替御役所の前を通り、南の方へ歩いて行く。
 ヂリヂリと熱い夏の午後で、通っている人達にも元気がない。日陰を選んで汗を拭き拭き、力が抜けたように歩いて行く。ひとつは飢饉のためでもあった。大方の人達は栄養不良で、足に力がないのであった。
「南北三百二十間、東西一百三十間、六万六千六百余坪、南北西の三方へ、渠《ほりわり》を作って河水を入れ、運漕に便しているお米倉、どれほどの米穀が入っていることか! いずれは素晴らしいものだろう。それを開いて施米したら、餓死するものもあるまいに、勝手な事情に遮られて、そうすることも出来ないものと見える」
 心中《こころ》でこんなことを思いながら、お米倉の方角へ眼をやった。すると、眼に付いたものがある。五六人の武士が話し合いながら、鉄之進の方へ来るのである。姿には異状はなかったが、様子に腑に落ちないところがあった。と云うのは鉄之進が眼をやった時、急に話を止めてしまって、揃って外方《そっぽ》を向いたからである。そうしてお互いに間隔《へだて》を置き、連絡のない他人だよ――と云ったような様子をつくり、バラバラに別れたからである。
「怪しい」と鉄之進は呟いた。
「加賀屋の手代だと偽って、昨夜深川の佐賀町河岸で、うまうま俺をたぶらかし[#「たぶらかし」に傍点]、柏屋へ連れ込んだ連中があったが、その連中の一味かも知れない。何と云ってもこの俺は、高価の品物を持っている。奪おうと狙っている連中が、いずれは幾組もあるだろう。加賀屋源右衛門へ渡す迄は、保存の責任が俺にある。つまらない連中に関係《かかりあ》って、もしものことがあろうものなら、使命《つかい》を全うすることが出来ぬ。……そうだ、あいつらをマイてやろう」
 そこで鉄之進は足を早めた。
 旅籠町の方へ曲がったのである。
 そこで、チラリと振り返って見た。五六人の武士が従《つ》いて来る。
「これは不可《いけ》ない」と南へ反れた。
 出た所が森田町である。
 でまたそこで振り返って見た。やはり武士達は従いて来る。そこで今度は西へ曲がった。平右衛門町へ出たのである。
 また見返らざるを得なかった。いぜんとして武士は従いて来る。
「いよいよこの俺を尾行《つけ》ているらしい。間違いはない、間違いはない」
 そこでまた南へ横切った。神田川河岸へ出たのである。それを渡ると両国である。
「よし」と鉄之進は呟いた。
「両国広小路へ出てやろう。名に負う盛場で人も多かろう。人にまぎれてマイてやろう」
 なおもぐるぐる廻ったが、とうとう両国の広小路へ出た。
 飢饉の折柄ではあったけれども、ここばかりは全く別世界で、見世物、小芝居、女相撲、ビッシリ軒を立て並べ、その間には水茶屋もある。飜《ひら》めく暖簾《のれん》に招きの声、ゾロゾロ通る人の足音、それに加えて三味線の音、太鼓の音などもきこえてくる。
「旨いぞうまいぞ、これならマケるぞ」
 群集に紛れ込んだ鉄之進は、こう口の中で呟いたが、しかし何となく不安だったので、こっそり背後《うしろ》を振り返って見た。
 いけないやっぱり従けて来ていた。しかもこれ迄の従け方とは違い、刀の柄へ手を掛けて、追い逼るように従けて来る。群集が四辺《あたり》を領している、こういう場所で叩っ切ったら、かえって人目を眩ますことが出来る。――どうやら彼らはこんなように、考えて追い逼って来るようであった。
「これはいけない、危険は逼った。ここで切り合いをはじめたら、大勢の人を傷付けるだろう。と云ってああ[#「ああ」に傍点]もハッキリと、殺意を現わして来る以上は、憎さも憎しだ、構うものか、一人二人叩っ切って逃げてやろう」
 こう決心をした鉄之進が、迎えるようにして足を止めた時、
「駕籠へ付いておいでなさりませ」
 艶めかしい女の声がした。
 見れば鉄之進の左側を、一挺の駕籠が通っている。

19

「おや」と鉄之進は怪訝そうにした。
「誰に云ったのだろう? この俺にか?」
 するとまた駕籠から声がした。
「轡《くつわ》の定紋のお侍様、駕籠に付いておいでなさりませ」
「うむ、違いない、俺に云ったのだ」
 ――いずれ理由《わけ》があるのだろう。――こう思ったので鉄之進は、素早く駕籠の後を追った。
 側に芝居小屋が立っていた。付いて廻ると木戸口があった。と駕籠が入って行く。つづいて宇和島鉄之進が、入って行ったのは云うまでもない。舞台裏へ入る切戸口の前で、駕籠がしずかに下りたかと思うと、駕籠の戸が内から開き、一人の女が現われた。女役者の扇女《せんじょ》である。切戸口から内へ入ろうとした時、裏木戸から武士達が入り込んで来た。鉄之進を従けて来た武士達である。
「御心配には及びませんよ」
 扇女は鉄之進へ囁いたが、五六人の武士へ眼をやった。
「ねえ皆さん方、見て下さいよ。ここに居られるお侍さんが、この妾《わたし》の恋しい人さ。……だから虐《いじ》めちゃアいけないよ。……お前さん達のお頭の、鮫島大学さんへ云っておくれ。女役者の扇女の情夫《いろ》は、途方もなく綺麗なお武家さんだったとね。……何をぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]しているんだよ。日中狐につままれもしまいし。……早くお帰り早くお帰り!」
 鉄之進の方へ身を寄せたが、
「いらっしゃいまし、妾の部屋へ」
 裏舞台へ入り込んだ。
 楽屋入りをする道程《みちすがら》に、扇女は鉄之進を助けたのであるが、たしかもう一人扇女のために、助けられた人間があるはずである。
 その助けられた人間が、ちょうどこの頃江戸の郊外に、つく[#「つく」に傍点]然として坐っていた。
 ここは隅田の土手下である。
「十から八引く十一が残る! 今度こそとうとうこんなことになった。何しろ俺という岡引が、悪党に追われて逃げこんだからなあ。由来岡引というものこそ悪党を追っ掛けて行くものじゃアないか。世は逆さまとぞなりにけり」
 丁寧松事松吉である。
 背後《うしろ》に大藪が繁っていて、微風に枝葉が靡いていた。ここらは一面の耕地であったが、耕地にはほとんど青色がなかった。天候不順で五穀が実らず、野菜さえ生長《おいた》たないからであった。所々に林がある。それにさえほとんど青色がなく、幹は白ちゃけて骨のように見え、葉は鉄錆て黒かった。どっちを眺めても農夫などの、姿を見ることは出来なかった。
 丁寧松は考え込んだ。

20

「さあどこから手を出したものか、からきし[#「からきし」に傍点]俺には見当が付かない。一ツとひとつ珠を弾くか! 柏屋の奥庭の開けずの間さ! ……二ツともう一つ珠を上げるか。久しい前から眼を着けていた、鮫島大学の問題さ。こいつもうっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]は置かれない。敵意を示して来たんだからなあ。……三ともう一つ珠を弾くか。加賀屋の主人の行方不明さ。そうして倅の行方不明さ……もう一つ珠を弾くとしよう。宇和島という武士も問題になる。――四ツ事件が紛糾《こんがらか》ったってものさ。……ええとところで四ツの中で、どれが一番重大だろうかなあ?」
 事件を寄せ集めて考え込んだ。
「四ツが四ツお互い同士、関係があるんじゃアないかしら?」
 そんなようにも思われた。
「とすると大変な事件だがなあ」
 関係がないようにも思われた。
「関係があろうがなかろうが、どっちみち皆大事件だ。わけても柏屋の開けずの間が、大変物と云わなければならない。人間五人や十人の、生死問題じゃアないんだからなア。……日本全体に関わることだ。……」
 藪で小鳥が啼いている。世間の飢饉に関係なく、ほがらかに啼いているのである。
 つく[#「つく」に傍点]ねんと坐っている松吉の、膝の直ぐ前に桃色をした昼顔の花が咲いている。
 と、蜂が飛んで来たが、花弁を分けてもぐり[#「もぐり」に傍点]込んだ。人の世と関係がなさそうである。
「と云ってもう一度柏屋へ行って、探りを入れようとは思わない。こっちの命があぶないからなあ。……鈴を振る音、祈祷の声、……その祈祷だったが大変物だった。……それからドンと首を落とした音! ……いや全く凄かったよ」
 思い出しても凄いというように、松吉は首を引っ込ませた。
「そいつ[#「そいつ」に傍点]の一味に追われたんだからなあ。逃げたところで恥にはなるまい」
 こう呟いたが苦笑をした。やっぱり恥しく思ったかららしい。
「いやいい所へ逃げ込んだものさ」
 女役者の扇女《せんじょ》の家へ、せっぱ詰まって転げ込み、扇女の侠気に縋りつき、扇女が門口に端座して、追手をあやなし[#「あやなし」に傍点]ている間に、二階の窓から屋根を伝い、裏町の露地へヒラリと下り、それからクルクル走り廻り、ここ迄辿り着いた一件を、心の中で思い出したのである。
「あれが普通のお神さんだったら、驚いて大きな声を上げ、俺を追手の連中へ、きっと突き出したに相違ない。世間に人気のある人間は、度胸も大きいというものさ。扇女ならこそ助けてくれたんだ。お礼をしなければならないなあ」
 するとその時藪の中で、物の蠢く気勢《けはい》がした。
「おや」と思って振り返って見たが、枝葉が繁っているために、隙かして見ることは出来なかった。
「さあこれからどうしたものだ?」
 丁寧松は考え出した。
「よし来た、今度は方針を変えて、鮫島大学の方を探って見よう。旅籠屋の柏屋とも近いからなあ。かたがた都合がいいかも知れない。……が。一人じゃア不安心だなあ。……そうしてどっちみち[#「どっちみち」に傍点]夜が来なけりゃア駄目だ」
 するとまたもや藪の中で、ゴソリと蠢く音がした。
「おかしいなあ」と振り向いた時、
「これは連雀町の親分で、変な所でお目にかかりますなあ」
 藪から這い出した男があった。
「どいつだ手前は?」
「へい私で」
「よ、今朝方のお菰さんか」
「お金にお飯《まんま》にお酒を戴き、今朝方は有難うございました」
 襤褸《ぼろ》を引っ張り杖を突っ張り、垢だらけの手足に髯ぼうぼうの顔、そういう乞食が現われた。

21

「今まで藪の中にいたのかい?」
「ここが私の別荘で」
「いや豪勢な別荘だ」
「少し藪蚊は居りますがね」
「人間の藪蚊よりは我慢出来る」
「いや全くでございますよ」
 乞食の上州はニヤリとしたが、
「不景気以上の大飢饉で、どこへお貰いに参りましても、まるで人間の藪蚊のように、相手に致してはくれませんなあ」
 云い云い上州は坐り込んだが、妙におかしなところがある。髯こそぼうぼうと生えているが、そうして垢で埋まってはいるが、太い眉に秀でた額、極めて高尚な高い鼻、トホンとした眼付きはしているが、よく見ると充分に知的である。だが口付きは笑殺的で、酸味をさえも帯ている。尋常な乞食とは思われない。
「こいつどうにも怪しいなあ」
 ――そこは松吉商売柄だ、何か看破をしたらしい。
 と、ソロソロと懐中《ふところ》の内へ、右の片手を突っ込んだが、
「私の云ったのはそうではない。お前さんのような由緒のある人を、乞食の身分に落とし入れた、世間のやつらが藪蚊だというので」
「え?」と乞食は眼を据えたが、
「この私が由緒のある。……」
「おい!」
「へい」
「正体を出せ!」
「何で?」と立とうとするところを、
「狢《むじな》め!」と一喝浴びせかけ、引き出した十手で、ガンと真向を! ……
「あぶねえ」と左へ開いたが、
「御冗談物で、親分さん」
「まだか!」
 懐中の縄を飛ばせた。
「どうだァーッ」と気込んでその縄を引いたが、
「なんだ! こいつアー 青竹の杖か!」
 乞食の両脚を搦んだものと、固く信じた松吉であったが、見れば見当が外れていた。乞食は青竹の杖を突いて悠然として立っている。その杖へ縄が搦まっている。万事意表に出たのである。
 だがその次の瞬間に、もう一つ意外の出来事が起こり、ますます松吉の肝を冷やした。と云うのは岡引の松吉が、
「いよいよ手前!」と叱咤しながら、グーッと縄を引っ張った途端、スルリとばかり杖が抜け、ギラツク刀身が現われたからである。
「青竹仕込みの。……」
「偽物で。……」
「何を!」
「見なせえ!」と上州という乞食は、カラッと刀を放り出した。
「どう致しまして……そんな古風な……敵《かたき》討ちの身分じゃアございませんよ。……ましてや大袈裟な謀反心なんか、持っている身分じゃアござんせんよ。……玩具《おもちゃ》でござんす! 銀紙細工の! もっとも」と云うと身をかがめ、
「呼吸《いき》さえ充ちて居りますれば、竹光であろうとこんな[#「こんな」に傍点]もので」
 その竹光を拾い上げ、スパッとばかりに叩っ切った。
 立木があって小太かったが、それが斜かいに切り折られ、
その切口が白々と、昼の陽を受けて光ったのである。
「素晴らしいなあ」と岡引の松吉は、心から感嘆したように、ドカリと草の間へ胡座《あぐら》を掻くと、
「ゆっくり話をいたしましょう」
「へい、それでは」と上州という乞食も、並んで側《そば》へ腰を下ろしたが、しばらく物を云わなかった。
 二人ながら黙っているのである。
 いぜんとして耕地には人影がなく、ひっそりとして物寂しく、日ばかりが野面を照らしている。
 と、一所影が射した。雲が渡って行ったのだろう。
 都――わけても両国の空は、ドンよりとして煙っている。
 砂塵が上っているのだろう。
 乞食はそっちを見ていたが、ふっ[#「ふっ」に傍点]とばかりに呟いた。
「今夜あたり起こるでございましょうよ。恐ろしい恐ろしい騒動が」
「ほほう」と云ったものの松吉は、どういう意味だか解らなかった。
「何が起こると有仰るので!」
 丁寧な言葉で訊き出した。
「私は乞食でございますよ」
「まあね、そりゃア、そうかも知れない。……それがどうしたと仰有るので?」
「で、江戸中をほっつい[#「ほっつい」に傍点]ています」
「私の商売と似ていまさあ」
「私の方がもっともっと、露地や裏店に縁故があります」
「そうして私にゃア悪党がね」
「どっちみち浮世の底の方に、縁故があるというもので」
「正に! そうだよ! 違いないなあ」
「親分!」と乞食は意味あり気に云った。
「露地や裏店の連中が、黙っているものと思いなさるかね?」
「何を?」
「へー」
「何をだよ」
「そいつを私にお訊きなさるので?」
「うん」と云ったが気になる調子だ。
「大概見当は付いているがね。……」
「隣家《となり》の餓鬼が死のうとも、こっちのお家じゃア驚かない。ところが一旦自分の方へ。……」
「移った日にゃア狂人《きちがい》になる」
「そいつが総体に移っているので」
「全くなあ、その通りだ。場末の横町へ踏み込むと、飢え死んだ人間が転がっているなあ」
「今度は俺らの番だろう……こう考えている人間が、幾万人あるか知れないんで」
「そうだろうなあ、そう思うよ」
「理屈抜きに皆が食えないんで」
「こいつが一番恐ろしい」
「そこを狙って悪い奴が――でなかったら義人だが。もっとも血眼で探したって、義の付く人間なんかいませんがね――烽火《のろし》を揚げたらどうなりましょう」
「煽動したらと云うのかい」
 乞食は幽かに頷いたが、
「火が上りますぜ! 今夜あたり! そうしてそれから騒動よ! 米屋が襲われるでございましょう」
「だがオイ」と云うと詰め寄った。
「どうして付けたね……え、眼星を! そうだよそうだよ、どうして今夜と?」
「申し上げたじゃアございませんか。ね、乞食の身分だと」
「それは知ってる、知ってるがね。……」
「下情に通じて居りますので」
「それも知ってる、知ってるがね。……」
「推察したのでございますよ。今夜あたりが天井だと」
 松吉は黙って腕を組んだ。

22

 組んだその腕をパラリと解くと、
「素性を明かしておくんなせえ」
 丁寧な語調で問いかけた。だが、態度には隙がない。
「さればさ」と云ったが沈痛であった。
「上州産れの乞食だと、こうもう私が云ったところで、合点をしては下さるまいねえ。……永らく私の住んでいた、その土地の名でも申しましょう。……遠い他国なのでございますよ」
「と云って唐でもありますめえ」
「いやその唐だよ、上海《シャンハイ》だ!」
「上海?」
「左様」
「そうでしたかねえ」
「この国へ帰ったのは一年前」
 いよいよ沈痛の顔をしたが、
「追っかけて来たのでございますよ」
「何をね?」と松吉は突っ込んだ。
「大事なものを!」とただ一句だ。
「で、眼星は?」
「まず大体。……」
「付いた? 結構! 方角は?」
「あの方角で! 霊岸島!」
「うむ」と云うと岡引の松吉は、十手と取縄とを懐中へ蔵《しま》い、
「霊岸島には用がある。おいお菰さん、一緒に行こう」
「へい」と云ったが空を見た。
「夏は日永で暮れませんねえ」
「ホイ、ホイ、ホイ、そうでしたねえ、日のある中は何にも出来ねえ」
 だがその日もとうとう暮れ、夜が大江戸を領した時、いう所の、「ぶちこわし」――掠奪、放火、米騒動の、恐ろしい事件が勃発した。

 最初に暴動の起こったのは、霊岸島だということである。
 ここはその霊岸島で……
 今、一団の群集が、柏屋の裏口から走り出した。
 五十人余りの人数である。
 真先に立ったのは巫女姿のお久美で、点火した龕を捧げてい、御弊を片手に持っている。懐刀仕込みの御弊である。
 白衣、高足駄、垂らした髪、ユラユラユラユラと歩いて行く。
 傍に添ったのは市郎右衛門で、脇差を腰にさしている。
 それを囲繞した五十余人が、東北の方へ走って行く。
 大音に叫ぶはお久美の声で……
「おお信者らよ、教法を守れ! 破壊しようとするものがある! おお信者らよ、教法を守れ! ……有司の驕慢、幕府の横暴、加うるに天災、世は飢饉! 天父がお怒りなされたのだ! 恐れよ、慎め、おお人々よ! 天父をお宥め申し上げろ! ……続け、続け、我に続け! 浄土が見えよう、我に続け! 飢えたる者よ、我に来よ! 死したる者よ、甦るだろう! 病める者よ、癒されるであろう! ……食を見付けよ! 到る所にあろうぞ! 我に来る者よ、幸福であろうぞ! ……」
 東北の方へ進んで行く。次第に人が馳せ集まり、百人、百五十人、二百人となった。
「世の建て直しだ!」と誰か叫んだ。
「焼打ち! 焼打ち! 焼打ちにかけろ!」
 ボーッと一所から火が上った。
「浮世を照らせ! 浮世を照らせ!」
 火事が見る見る燃え拡がる。
 群集を掻き分け狂信者の一団は、東北へ東北へと走って行く。
 火事の凄じい紅の光! 青い火が一点縫って行く。お久美の捧げた龕の火だ!
 叫声! 悲鳴! 鬨の声! ドンドンドンと破壊の音! それが一つに集まって、ゴーッと巨大な交響楽となる。
 一瞬の間に霊岸島は、修羅の巷と一変した。
 と、その時、鮫島大学の、屋敷の門がひらかれて、
「さあ方々、出動なされ! 面白い芝居が打てましょうぞ!」
 こう叫んだ男がある。他ならぬ鮫島大学であった。
 と、ムラムラと出て来たは、大学一味の無頼漢であった。
「火の手は上った! 燃え上った! 役目をしようぞ、風の役目を!」
 同じく鮫島大学である。
 一団となって東北の方へ、走って行こうとした折柄、漲る暴徒を掻き分けて、こっちへ走って来る人影があった。
 岡引の松吉と「上州」である。

23

 岡引の松吉と上州と、そうしてお久美の一団とは、当然衝突しなければならない。
「上州、お前は自由《まま》にするがいい、俺は逃げるぜ。相手が悪い!」
 云いすてると岡引の松吉は、露地へ一散に駈け込んでしまった。
「いやはやまたも逃げ出しの番か、今日は朝からげんが悪い。……こいつがあたりまえ[#「あたりまえ」に傍点]の連中なら、何の俺だって逃げるものか。……ところが相手は大変者だ。のみならず今夜は大勢で、しかも狂人《きちがい》になっている。取り囲まれたら助からない」
 そこで、一散に走るのであったが、お久美を頭に狂信者の群が、その後を追って走って来た。
「今朝方秘密の道場を、看破った人間にございます。連雀町の松吉だと、自分から宣って居りました。岡引に相違ございません」
 こう云ったのは市郎右衛門で、脇差を抜いてひっ[#「ひっ」に傍点]下げている。
「岡引といえば、官の犬、犬に嗅ぎ出された上からは、手入れをされると思わなければならない。手入れをされないその前に、是非とも命を取ってしまえ!」
 龕を捧げたお久美である。
「今朝方仰せをかしこみまして、追いかけましてございますが、とうとうとり逃がしてしまいました。懲りずにまたも近寄りましたは、何より幸いにございます。今度こそ逃がさず追い詰めて、息の根を止めるでございましょう」
 狂信者の群を見廻したが、
「向こうへ逃げて行くあの男こそ、我々にとっては無二の敵、教法を妨げる法敵でござる。追い付いて討っておとりなされ」
 狂信者の群が後を追う。
 背後《うしろ》を振り返った岡引の松吉は、
「いけないいけない追っかけて来る。いよいよ今朝方と同じだ。さあてどっちへ逃げたものだ。まさかにもう一度|扇女《せんじょ》さんの家へ、ころがり込むことも出来ないだろう。一体ここはどこなんだろう?」
 霊岸島の一ノ橋附近で、穢い小家が塊まっている。火事の光でポッと明るく、立騒いでいる人の姿が、影絵のように明暗して見える。
「火事だ火事だ!」
「ぶちこわしだ!」
「さあ押し出せ!」
「ぶったくれ!」
 などという声々が聞こえてくる。
 軒に倒れている人間がある。飢えた行路人《ゆきだおれ》に相違ない。家の中からけたたましい、赤子の泣き声が聞こえてくる。乳の足りない赤子なのであろう。
 そこを走って行く松吉である。
 と、右へ曲がろうとした。するとそっちから叫び声がした。
「こっちへ来るぞ打って取れ!」
 即ち狂信者の連中が、三方四方に組を分け、包囲するように追って来たが、その一組がその方角から、こっちへ走って来るのであった。
「いけない!」と喚くと岡引の松吉は、身を飜えすと左へ曲がった。
 なおも、ひた走るひた走る。
 するとその行手からこっちを目掛け、狂信者の群が走って来た。
「いけない」と露路へ走り込んだ。
「どうぞお助け下さいまし」
 露路に倒れていた一人の老婆が、腕を延ばすと縋り付こうとした。
「お粥なと一口下さりませ」
「こっちこそ助けて貰いたいよ」
 振り切って松吉はひた走る。
 出た所が川口町で、群集が飛び廻り馳せ廻っている。
 大火になると思ったのだろう家財を運んでいる者がある。
 ぶちこわし[#「ぶちこわし」に傍点]が恐ろしい連中なのであろう雨戸を閉ざす者もある。
 露路に向かって駈け込む者、露路から往来へ駈け出る者……それで、往来はごった返している。
「うむ、これなら大丈夫だ。身を隠すことも出来るだろう」
 松吉は背後《うしろ》を振り返って見た。薄紅い火事の遠照を縫って、青い火が一点ゆらめいて来る。
「どうもいけない、目つかりそうだ」
 また走らなければならなかった。
 出た所が富島町で、それを突っ切ると亀島橋、それを渡れば日本橋の区域、霊岸島から出ることが出来る。
「よし」と云うと岡引の松吉は、亀島橋をトッ走った。
 中与力《なかよりき》町が眼の前にあって、組屋敷が厳しく並んでいる。
「しめたしめた」とそっちへ走った。
 組屋敷の一画へ出られたら、松吉は安全に保護されるだろう。
 だが運悪く出られなかった。ぶちこわし[#「ぶちこわし」に傍点]の一団が大濤のように、その方角から蜒って来て、すぐに松吉を溺らせて、東北へ東北へと走ったからである。
 掻き分けて出ようと焦ったが、人の渦から出られそうもない。
 で、東北へ東北へと走る。
 日本橋の区域も霊岸島と負けずに、修羅の巷を現わしていた。

24

 しかしさすがに蔵前へ迄は、ぶちこわし[#「ぶちこわし」に傍点]の手が届かないと見え、寧ろひっそりと寂れていた。
 と云うのはぶちこわし[#「ぶちこわし」に傍点]の噂を聞き込み、ここらに住んでいる大商人達が、店々の戸を厳重にとざし、静まり返っているからである。
 ふと現われた人影がある。
「とうとう大事になってしまった」
 他でもない宇和島鉄之進であった。
「江戸中騒乱の巣となろう。死人も怪我人も出来るだろう。霊岸島の方は火の海だ。八百八町へ飛火がしよう。と、日本中へ押し広がる。京都、大阪、名古屋などへも、火の手が上るに相違ない。幕府の有司のやり方が、不親切だからこんなことになる。金持のやり方もよくないよ」
 呟いたがフッと笑い出した。
「いやその金持の加賀屋の主人だが、もう帰ってはいないかしら。どうにも渡すものを渡さなければ苦になって心が落ちつかない」
 扇女《せんじょ》のために危難を救われ、扇女の部屋でしばらく憩い、もうよかろうという時になって、芝居小屋から旅籠へ戻り、今まで休んでいたのであったが、預った物が心にかかる。そこで加賀屋をもう一度訪ねて、主人が帰っているようなら、早速渡そうと出て来たのであった。
 本多|中務大輔《なかつかさたいふ》の屋敷の前を通り、書替御役所の前を過ぎ、北の方へ歩いて行く。
 鮫島大学の一味に追われ、日中早足に歩いたところを、逆に歩いて行くのである。
 急に鉄之進は足を止めた。
 眼の前に加賀屋が立っている。しかし表戸は厳重に下ろされ、静まり返って人声もしない。
 しばらく見ていたが苦笑いをした。
「そうでなくてさえこんな大家は、点火《ひともし》前には戸を立てるものだ。ましてやこんな物騒な晩には、閉じ込めてしまうのが当然だ。――と云うことも知ってはいたが、やはりうかうか[#「うかうか」に傍点]出て来たところを見ると、利口な俺とは云われないな」
 ここでちょっと考えたが、
「戸を叩くのは止めにしよう。怯えさせるのはよくないからなあ」
 そこでクルリと方向を変え、元来た方へ引っ返そうとしたが、
「待てよ」と呟くと足を止めた。
「今日長吉という若い手代が気になることを云ったっけ、『……裏木戸から出たのでもございましょうか、錠がこわれて居りました』と……その裏木戸を見てやろう」
 勿論単なる好奇心からではあったが、加賀屋の大伽藍の壁に添い、宇和島鉄之進は裏へ廻った。
 裏木戸の前まで来た時である、木戸の内側から女の声が、物狂わしそうに聞こえてきた。
「出しておくれよ、出しておくれよ!」
「戸外《そと》は物騒でございます、今夜だけは止めなさりませ」
「出しておくれよ。出しておくれよ!」
「明日の昼にでも参りましょう。さあさあ、お嬢様、お休みなさりませ」
「ねえ乳母《ばあや》、献金しておくれよ。……お久美様へねえ。どっさりお金を」
「はいはい献金致しますとも。……今夜はお休みなさりませ」
「眼の前にお父様がお在《い》でなさる。……ああそうしてお兄様も。血だらけになってお在でなさる。……でもお二人とも呼吸《いき》はある。……助けてお上げよ! 助けてお上げよ!」
「ね、お嬢様、お休みなさりませ。……どなたか参るといけません。……ね、お嬢様、お嬢様。……」
「すぐ眼の前にいなさるのだよ。……ほんのちょっとした物の陰に。……妾《わたし》には解《わか》る! 妾には解る!」
「……どうでもお気が狂われた。……あれ誰やら参ります。……お部屋へお入りなさいまし。……オヤ、お前東三さんか」
 すると男の声がした。
「ああ蔵番の東三さ。……お繁さんお前何をしている」
「お嬢さんが出なさろうというのだよ。……それで妾は止めてるのさ」
「ふん」と東三の声がした。
「お前から勧めているのじゃアないか。……ただの乳母《おんば》さんとは異《ちが》うようだなあ」
「何だよ」とお繁の声がした。
「そういうお前さんだっていい加減変さ」

25

 娘の品子の声がした。
「東三、東三、悪党だねえ!」
「何を仰有《おっしゃ》います、お嬢様! ……おいお繁さん、奥へお連れ申せ! ……裏庭なんかを歩かせてはいけない」
「お部屋から抜けて来られたのだよ。……ね、お嬢様、内へ入りましょう」
 お繁とそうして東三とが、品子をなだめる声がしたが、やがて立ち去る足音がして、しばらくの間はひっそりとしたものの、またもや足音が聞こえてきた。
「お嬢さんには驚いたなあ。……どうしてお感づきなすったのだろう。……どうもな。……困った。……うっかり出来ない。……だが。……遅いなあ。……やりそこなったかな。……」
 裏木戸へ触る音がした。どうやら蔵番の東三らしい。
 しかし足音は遠ざかり、そうして全く静かになった。
 聞き澄ましていた宇和島鉄之進が、首を傾げたのは当然と云えよう。
「どうやら秘密があるようだ。いやこういう大家になると、いろいろの秘密があるものと見える。……だが、それはとにかくとして、いまだに主人は帰宅しないらしい。……これだけ確かめれば用はない。どれソロソロ帰ろうか」
 往来の方へ出ようした時[#「出ようした時」はママ]、にわかに四辺《あたり》が騒がしくなった。
 大勢の走って来る足音がする。
「逃がすな逃がすな」
「討って取れ」
「さあ追い詰めたぞ」
「しめた! しめた!」
 叫ぶ声々が聞こえてきた。
「はてな」と鉄之進は足を止めた。
「とうとうぶちこわし[#「ぶちこわし」に傍点]の手が来たか」
 その時一ツの人影が、往来の方から駈け込んで来て、二人あぶなくぶつかろうとした。
「これ、気をつけろ」
「真平御免」
 互いに相手を透かしたが、
「おっ、今朝方の小者ではないか」
「あ、あの時のお武家様で」
「どうしたどうしたあわただしい」
「追っかけられて居りますので」
「誰にな?」と鉄之進は不思議そうにした。
「例の柏屋の明けずの間の。……」
「うむ邪教徒の一味にか」
「はい左様でございます」
「よし」と云ったが鉄之進は、刀の下緒を引抜いた。
「今朝方約束したはずだ、場合によっては助けようと」
「それではお助け下さるので」
「拙者にも縁のある奴原《やつばら》だ。と云うより拙者の先生に、深い縁故のある奴だ、退治れば先生のお為にもなる。――其方《そち》は逃げろ! 一人で十分!」
 キリキリと下緒で綾を取る。
「それでは」と云って駈け抜けようとした時、裏へ廻った狂信者の群が、ムラムラとこっちへ寄せて来た。
「いけねえ」と喚いて岡引の松吉が、往来の方へ走ろうとした時、青白い龕の光が射し、お久美を先頭に狂信者の群が、ながれるように入り込んで来た。
「こっちもいけねえ」と喚いたが、
「ここは加賀屋か、急場のしのぎだ」
 壁へ手を掛けると身を躍らせ、飜然と裏庭へ飛び込んだ。
「誰だ!」と鋭い声がしたが、蔵番の東三の声らしかった。
「シッ、野暮な、大声を立てるな! ……よッ手前は大学一味の」
「何を! 手前は?」
「丁寧松だア」
 格闘をする音がしたが、つづいて松吉の声がした。
「蔵の戸が開いてる! や、死骸! しかも二人だ! こりゃア大変! ……息がある息がある虫の息だ!」
 壁の外側では宇和島鉄之進が、抜いた大刀で待ち構えたが、すぐに狂信者に包まれた。
「おお汝《おのれ》は宇和島鉄之進!」
 こう喚いたは市郎右衛門であった。
「うむ、柏屋の番頭か、その実お久美の一味だな。……いかにも宇和島鉄之進だ。……ただし本名は宇津木|矩之丞《のりのじょう》! すなわち大塩中斎先生の門下! これ!」と云うとヌッと出た。
「中斎先生に退治られた、京都の妖巫|貢《みつぎ》の姥《うば》、その高足のお久美という女、網の目を逃がれて行方が不明《しれな》い。その後も中斎先生には、心にかけられ居られたが、江戸にいようとは思わなかったぞ。見現わしたからにはようしゃはしない。先生に代わってこの矩之丞、破邪の剣を加えてやる。……一度にかかれ! 屯ろしてかかれ! 先ず汝《おのれ》から! 来い市郎右衛門!」
 技倆は十分、覇気は満腹、しかも怒りを加えている。
 飛び込みざまに横へ薙ぎ、市郎右衛門の胴を割り付けた。
 飛び返ると背後《うしろ》に土塀がある。それへ背中を食っ付けたが、
「一人退治た、次は誰だ! お久美お久美、今度は其方《そち》だ!」
 飛び込もうとするのを見て取るや、五六人信徒が中をへだてた。
「それでも感心、教主を守るか。充分に守れ、充分に切る。ソレ!」と飛び込むと一揮した。
「次はどいつだ。誰でもよい、行くぞ!」と叫ぶとまた一躍し、つれて悲鳴! 倒れる音がした。
 邪教徒たちがバタバタと逃げ出した。

26

 それを追っかけた宇津木矩之丞は、信徒に囲まれ龕を捧げ、逃げて行くお久美へ追い付いたが、
「天誅!」と叫ぶと背後袈裟《うしろげさ》に、右肩から背筋へまで斬り付けた。
 龕が投げられ、悲鳴が起こり、お久美が倒れてノタ打つのを、宙へ舁《か》きのせたが狂信者の群は、矩之丞の手並に恐れたのであろう、往来の方へなだれ出た。
 もう追おうともしなかった。宇津木矩之丞は血刀を拭うと、ソロリと鞘へ納めたが、
「何か加賀屋にあったようだ」
 裏木戸までスルスルと引っ返した時、その裏木戸が中から開けられ、
「お武家様いかがでございました」
 岡引の松吉が顔を出した。
「ちょっとお入り下さいまし、加賀屋の主人と若旦那とが。……」
「源右衛門殿がな」と入ったが、やがて遠々しく声がした。
「や、若主人が源右衛門殿を!」
「ナーニ、からくり[#「からくり」に傍点]でございます」
 岡引の松吉の声である。

 一方鮫島大学の身にも、一つの事件が起こっていた。
「さあさあ方々出動なされ、面白い芝居が打てましょうぞ。……火の手は上った。燃え上った。役目をしようぞ、風の役目を!」
 火事場泥棒の心持である。ぶちこわし[#「ぶちこわし」に傍点]の騒動に付け込んで、悪事をしようと企んだのである。
 自分自身が真っ先に立ち、混乱の巷へ押し出した時、一人の乞食が走って来たが、チラリ大学を横目で見ると、掠めるようにして馳せ違った。
「はてな、彼奴《きゃつ》は?」と鮫島大学は、背後の方を振り返ったが、もうその時には乞食の姿は、暴徒に紛れて見えなかった。
 しかし乞食は立ち去ったのではない。大学の屋敷の裏手の方に、身を潜《ひそ》めていたのである。
 と板壁へ手をかけた。そうして次の瞬間には、屋敷の内側へ飛び込んでいた。
 探すものでもあるのだろう。足音を盗んで入って行く。
 一つの部屋の前へ来た時である。唄うような女の声がした。
 扉を押しひらいた乞食の上州は、
「お妻殿か!」
「たあれ、貴郎《あなた》は?」
 上海《シャンハイ》風の部屋の中に、上海風の寝台があり、上海風の阿片食《アヘンくい》のお妻が、阿片の吹管を抱きながら洞然とした眼で見詰めている。
「拙者でござる。探しに来ました! ……それでもとうとう目つかった! ……ああそれにしても変わられたことは! ……」
 凝然として突立った。
「これが支部長の令嬢か! これが俺の許嫁《いいなずけ》か! 生ける死骸だ! 生ける死骸だ!」
「阿片をおのみなさいまし」
 茫然としてお妻が云った。
「何も彼も忘れてしまいましょう。美しい夢ばかり見られます。……あなたはたあれ[#「たあれ」に傍点]!」と恍惚《うっとり》とする。
「どっちみちお助けしなければならない!」
 こう思ったに相違ない。つと進むと腕を延ばし、乞食はお妻をひっ抱えた。
「助けて下さいよ! 助て下さいよ! 誰か妾《わたし》を連れて行きます!」
 行くまいとお妻はもがく[#「もがく」に傍点]のである。
 だが乞食の上州は、いわゆる有無を言わせないという態度で、お妻を抱えた手をゆるめず、部屋から外へ飛び出そうとした。
 そこへ飛び込んで来た人間がある。
「やはり貴殿か!」
 ――と大学であった。
「忘恩の徒よ! 反逆者よ!」
 竹光でこそあれ凄い利器、腕も充分冴えている、大学の胸を貫いた。
 こうして大学は斃れたが、突きさした竹光を突きさしたまま、お妻をかかえて、風のように、馳せ去った乞食の上州は、どこへ行ったものかその時以来、二度と姿を現わさなかった。しかし竹光の柄の上に一連の文字が刻《ほ》ってあったので、その身分を知ることが出来た。
 支那には「白蓮会」だの「哥老会」だの「六合会」だのというような、秘密結社がたくさんあったが、その中の「白毫会《びゃくごうかい》」という結社には、日本人も会員に加わってい、乞食の上州と宣《なの》った人物も(本名は富本雄之進《とみもとゆうのしん》とのこと)鮫島大学も会員であって、支那とそうして日本との間を密行していたそうな。
 富本雄之進は正義の士で、将来の日本の大陸進出のため、支那の内情を知ろうとして、白毫会員になったのであるが、鮫島大学はそうではなく、私利私欲を計ろうとして、白毫会員になったのであり、支那の悪質の娯楽場の組織を、江戸へ持って来て打ち立てて、詐欺的行為までしたのであり、なお彼は支那から帰国する際に、白毫会の支部長(これも日本人)の娘で、雄之進の許嫁にあたる、お妻というのを誘惑して来て、娯楽場の酒場のスターにしたが、阿片常用者にまで堕落させてしまった。
 しかしその当の大学も、許嫁のお妻を取り返すため日本へ帰って乞食にまでなり、大学を探していた雄之進のために、竹光で刺されて殺されてしまい、外国渡来の悪質娯楽場も、おりからの「ぶちこわし」の火事にかかり、まったく灰燼となってしまった。

27

 自分の家の金蔵の中に、どうして源右衛門と源三郎とが、血だらけになっていたのだろう? 鮫島大学の姦策からであった。一味の悪漢東三をして、加賀屋の蔵番に住み込ませたのは、かなり以前からのことであり、大金を盗ませようとしたのである。
 で昨夜手下の松本という男を、町役人に仕立て上げ源右衛門へこんなことを云わせたのである。
「源三郎殿には悪所通いをはじめ、おびただしいまでに金を使われる。恐らく御身代へも穴をあけたであろう。充分御注意なさるがよい」と。……
 そこで源右衛門が驚いて、金蔵へ行って調べたが、そこを背後《うしろ》から東三が斬り付け、負傷失心して倒れたところへ、大学方から送って来た、――金八という男が運んで来て、木戸をこじ[#「こじ」に傍点]開けて舁《かつ》ぎ入れた、これも失心した源三郎を押し込め、そうしてその手へ血刀を握らせ、それから大金を奪い取り、大学方へ渡したのである。
 源右衛門の行方が知れないと知ったら、加賀屋では官へ届けるであろう。すぐに役人がやって来て、金蔵なども調べるであろう。そこでそういう光景を見ると、官ではきっと思うであろう。――源三郎が金に詰まり、従来も金を盗んでいたが、この夜も金を盗もうとして、金蔵の中へ入り込んだところを、父の源右衛門に発見され、そこで兇行を演じたのであろうと。
 ………しかし加賀屋で大事を取り、官へ届けるのを控えている中に、松吉のために発見され、その企ては失敗に終った。
 そうして慧眼な松吉によって、かえって東三が疑われ、厳重に尋問された結果、一切のことが暴露された。
 幸い源右衛門の負傷は軽く、間もなく恢復したそうであり、平野屋から委託された貴重な品を宇津木矩之丞から受け取ることも出来た。
 貴重の品物とは何物だろう? 平野屋から加賀屋の手を通し、加賀宰相家へ売り込むべき品で、小さな物ではあったけれど、非常に値打ちのある物であり、金に換えたら萬金にもなろうか。
 そこで中斎が奪い取り、救民の資にあてようとしたのを、宇津木矩之丞が賊名を恐れ、変名をして浪人者となり、平野屋の寮の門前で、鮫島大学と斬り合って、その武勇を現わして、平野屋の老主人に認められ、その貴重品を托せられたのである。
 一方鮫島大学は、そういう悪党であったため、貴重品のことを耳にするや、奪い取ろうと大阪へ下り、平野屋の寮を窺っている中、宇津木矩之丞と出会ったまでである。
 大学は江戸へ帰ったが、矩之丞が大阪から上陸した晩に、手下の者へ云いふくめ、加賀屋からの迎えだと偽わって、旅籠屋の柏屋へ送り込み、手下の一人を同宿させて、機を見て貴重品を盗ませようとしたのを、矩之丞が早くも感付いて、あべこべに手下に当身をくれ、衣裳を奪って自分が着て、旅籠屋の柏屋を抜け出したのである。
 裸体《はだか》に剥いた大学の手下を、開けずの間の中へ放り込んだのには、次のような事情があったのである。
 何となく宇津木矩之丞には、開けずの間の建物が気になったので、そこで深夜に行ってみると、その後から例の大学の手下が、コッソリ尾行《つけ》て来たのである。
 そこで、気絶させて裸体に剥き、開けずの間の中へ抛り込んだまでで、その時開けずの間が邪宗の道場で、十字架、祭壇というような、いろいろの物のあるのを知り、一驚したということである。

 宇津木矩之丞のその後については、いろいろの説が行なわれている。
 大塩中斎《おおしおちゅうさい》に諌言をし、一揆(天満《てんま》から兵を挙げ、大阪の大半を焼き打ちにかけ、悪富豪や城代を征め、飢民を救済しようとしたので、世人、天満焼《てんまやけ》と称したが)――その一揆の勃発を、中止させようと努めたところ、中斎がそれを諾《き》かなかったので、矩之丞は断念し、大塩中斎の党から脱し、身を完《まっと》うしたとそういうのが、一番真相に近いらしい。
 乳母のお繁は悪人ではなかった。ただお久美の信者であって、時々品子の口を通し、源右衛門をして献金させようとしたが、源右衛門は承知をしなかったそうで、それを苦にした娘の品子が発作的に一時気を狂わせ、ああいうことを云ったまでで、そうして品子が父や兄について、近所にいると看破したのは、神経病者にありがちの、直感の結果だということである。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻五」未知谷
   1993(平成5)年7月20日初版
初出:「文芸倶楽部」
   1927(昭和2)年6月~10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「仰有る」と「有仰る」、「中務大輔」のルビにおける「なかつかさたいふ」と「なかつかさだいふ」の混在は、底本通りです。
※小見出しの終わりから、行末まで伸びた罫は、入力しませんでした。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年6月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

染吉の朱盆—— 国枝史郎

     一

 ぴかり!
 剣光!
 ワッという悲鳴!
 少し間を置いてパチンと鍔音。空には満月、地には霜。[#底本ではこの段落は1字下げになっている]
 切り仆《たお》したのは一人の武士、黒の紋付、着流し姿、黒頭巾で顔を包んでいる。お誂え通りの辻切仕立、懐中《ふところ》手をして反身になり、人なんかァ殺しゃァしませんよ……といったように悠然と下駄の歯音を、カラーンカラン! 立てて向うへ歩いて行く。
 切り仆されたのは手代風の男、まだヒクヒクうごめいている。手に包を握っている。
 側に屋敷が立っている。立派な屋敷で一軒きりだ。黒板塀、忍び返し、奥に植込が茂っている。周囲は空地、町の灯に遠い。
 その塀に添って、カランカラーン、武士はおちついて歩いて行く。
 塀について左へ曲がった。
 矢張り悠然、矢張り歯音、カラーンカラン! カラーンカラン!
 また塀について曲がった途端、
「御用!」
 捕手《とりて》だ!
 上がったは十手!
 武士、ちっとも驚かなかった。
 佇むとポンと胸を打った。
「へ――」
 と捕方平伏した。
「半刻あまりそこにいろ」
 いいすてて、またもカラーンカラン! 綺麗に歯音を霜夜に立て、そうして肩に満月を載せ、町の方へ行ってしまったのである。
 切り仆された手代風の男、まだヒクヒクうごめいている。
 と、右手から人の足音、雪駄穿きだな、バタバタと聞える。現れたのは職人風の男、死にぞこないにつまずいた。
「おっ!」というとつくばった[#「つくばった」に傍点]。
「しめた!」というと飛び上がった。途端に右手が宙へ躍った。
 と、どうしたんだ、あわてたように「しまった!」と叫ぶと引っ返してしまった。どこへ行ったか解らない。
「あッ、取られた、大事な朱盆!」
 切られた手代風の男の声! そうしてそれなり、死んでしまった。

 数日経った或日のこと、
「ご免下さい」と訪う声。
 人殺しのあった側の屋敷、その玄関から聞えて来た。扮装だけはシャンとしているが、顔に無数の痘痕のある可成り醜い男が立っている。
「はい」と現れたのは小間使い「何かご用でございますか?」
「突然で不躾ではございますが、もしやお屋敷の庭の隅に、朱盆が落ちてはおりませんでした?」
「しばらくお待ちを」と這入って行った。
 引き違いに現れたのは一人の令嬢、「※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]たけた」という形容詞が、そっくり当て篏まるような美人であった。
「おたずねの品物、これでございましょう」
 差し出したのは一面の朱盆。
「へい、さようで」
 と醜い男じっと朱盆を眺めやった。
 何んて微妙な深紅の色だ! 金短冊が蒔絵してある。そうして文字が書かれてある。
「こひすてふ」という五文字である。百人一首のその一つの、即ち上の五文字である。
 男、ヒョイと令嬢を見た。と、チラチラと眼の中へ、狂わしい情熱の火が燃えた。
「ご免下さい」と行ってしまった。
 ところがそれから数日経ち、同じようなことが行われた。
 同じ場所で、手代風の男が、スポリと一刀に切られたのである。切り仆したのは同じ武士、矢張り悠然と立ち去ってしまった。かけつけて来たのは職人風の男、
「しめた!」というと躍り上がった。途端に右手が宙へ上った。そうしてそのまま逃げ去ってしまった。
 切られた男の断末魔の声「あッ取られた、大事な朱盆……」
 それも全く同じであった。
 違った所も少しはある。
 当然その夜は満月ではなかった。小雪がチラチラ降っていた。で、道がぬかるんでいた。
 そこでもちろんカラーンカランと、下駄の歯音は響かなかった。
 もっと重大な相違点がある。
(一)捕手がその夜は現れなかったこと。
(二)「しまった!」と職人が叫ばなかったこと。
 だが、それから数日経ち、例の屋敷の玄関へ、例の醜男が現れて、朱盆の有無をたしかめたのは、以前と全く同じであり、その応待も同じであった。
 次ぎの一ヶ条だけは違っているが――。
(一)金短冊に書かれてあった文字が「我名はまだき」とあったことである。

     

 これが四回も続いたのである。
 で、その結果はどうなったか? 手代風の男が四人殺され、朱塗の盆が四枚がところ、※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]たけた令嬢の手に這入り、短冊の文字を集めると、
「恋すてふ、我名はまだき、立ちにけり、人しれずこそ」
 となったのである。
 令嬢の名は縫様、以来お縫様憂鬱になった。
 四枚の朱盆を前へ並べ、こんな独言をいうようになった。
「ああもう一枚ほしいものだ。そうするとすっかり揃うのに。――恋すてふ我名はまだき立ちにけり人知れずこそ……足りないわねえ。『思ひそめしが』ともう一句、それを記した盆がほしい。それにしても、どうして私の屋敷へ、こんなにも立派な四枚の盆を、誰が何のために投げ込んだのだろう? ――そうしてあの男は何者だろう? 盆の有無しを確めに来ては、持っても行かずに行ってしまう。不思議な眼つきで私を見る」
 もう一枚の盆に対する、執着の念が深くなった。
 そこで、とうとう蒔絵師を呼んだ。
「こんな朱盆ははじめてみます。この朱色は無類です。どんな顔料を使いましたやら。塗も蒔も同じ手です。これも素晴らしゅうございます。私など真似も出来ません。だが作り手は知れています。日本に蒔絵師は沢山あっても、これ程の物を作る者は、染吉のほかにはございません。……ああ染吉でございますか? 谷中の奥に住んでおります。大変な変人でございましてね、自分で作った品物を、人手に渡すのを惜がるのです。で、仲々手に入りません。どんな大金を積んだところで、気に向かないと作りませんので、珍重されておりますよ。だが染吉の作にしても、これは飛切り上等の方で、一代の傑作と申されましょう。……ええと年はまだ若く、二十八の独身者で、それに醜男《ぶおとこ》でございますので女嫌いで通っております。いかに仕事は名人でも、変人の上に醜男ときては、ご婦人方には好かれませんからなあ。それこそあなた、顔と来たら、疱瘡の痕でメチャメチャで」
 これが蒔絵師の挨拶であった。
「ああそれではあの男だ」お縫様は直に感付いた。
「朱盆の有無しを確めに来たあの男が染吉だ」
 そこでお縫様いったものである。
「どんなお望みにでも応じます。『思ひそめしが』と六文字を入れた、[#「、」は底本では「。」]この盆と対の朱塗の盆を、ぜひともおつくり下さいますよう、その名人の染吉さんに、あなたからお頼みして下さいまし」
 翌日蒔絵師はやって来たが、返辞は意外なものであった。
「こう染吉は申しました。『そのお嬢様のお頼みがなくとも、私の方からお作りし、そのお嬢様へ差上げようと、この日頃苦心しているのですが、とても望みは遂げられますまい。まあ見て下さい。この体を! すっかり痩せて衰えて、骨と皮ばかりになりました。実は私はその盆と一しょに、心を捧げようと思っていたので。ああそうです、お嬢様へ……思いそめしが! 思いそめしが!』……お嬢様どうやら染吉は死んでしまいそうでございますよ」
 果して名工染吉は、その後間もなく死んでしまい、お縫様も間もなくなくなってしまった[#「なくなってしまった」は底本では「なくってしまった」]。なくなる間際までお縫様は、最後の盆をほしがった。で、口癖のようにいったそうである。
「思いそめしが、思いそめしが」

「ね、兄貴、話といえば、ざっとこういったものなのさ」
 話し終えた岡引《おかっぴき》の半九郎は、変に皮肉に笑ったものである。
「成る程[#「成る程」は底本では「成る程。」]」といったのは岡八である。
「大して面白い話でもないな」
「どうしてだい、面白いじゃァないか」
「古いありきたり[#「ありきたり」に傍点]の因果物語りさ」
「そうばかりもいわれないよ、遺跡《あと》がのこっているのだからな」
「おおお縫様の屋敷跡か」
「そっくりそのまま残っているのさ」
「住人がないとかいったっけね」
「草茫々たる化物屋敷さ」
「根岸附近だとかいったっけね」
「そうだよ」と半九郎うなずいた。それからまたも変に皮肉に、盗むような笑いを浮かべたが、
「どうだい兄貴、謎が解けるかね?」
 それには返辞をしなかったが、
「十年前の話なんだな?」
「安政二年の物語りさ」

     

 岡八というのは綽名《あだな》である。
「一つの事件をあばこうとしたら、渦中へ飛び込んじゃいけないよ。いつも傍から見るんだなあ。渦の中へ一緒に巻き込まれようなものなら、渦を見ることが出来ないからなあ。ほんとに岡目八目さ」
 これがこの男の口癖である。その本名は綱吉といい、非常に腕っこきの岡引であった。
 一つ二つ例を挙げてみよう。
 一人の女が訴え出た。
「夫が家出をして帰りません」と。
 数日たって女の隣人が、井戸に死人があると訴え出た。
 その女も走って行った。井戸を覗くと叫んだものである。「私の夫でございます」
 そこで岡八が一喝した。
「人殺しは手前だ! ――ふん[#「ふん」に傍点]縛れ!」
 果してその婦《おんな》と情夫とが、共謀して良人を殺したのであった。
「岡目で見りゃァ直《すぐ》判《わか》りまさあ、古井戸の中は暗くてね、死人の形がぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と、やっと見えるくらいのものだったんで、一目覗いて亭主だなんて、どうして判りっこがあるものですかい。殺して置いてぶち込んだんで」
 或家でかんざし[#「かんざし」に傍点]を盗まれた。戸外から入り込んだ形跡はない。二人の下女が疑わしかった。そこで岡八、青麦を二本、二人の下女へやったものである。
「正直者の麦はそのままだが、不正直者の麦は長くなる。明日の朝までに一寸が所な」
 翌日調べると一本の麦は自若、一人の下女の持っていた麦が、一寸がところ摘切られてあった。
「そいつが詰り盗人だったんで、下女なんてものは無知なもので、そんな甘手にさえひっかかりますよ。ほんとに延びると考えて、一寸がところ摘んだんでさあ」
 さてその岡八だが、最近に至って、一つの難事件にぶつかってしまった。
 いい若者が無暗とさらわれ、十数日たつと送り返されて来る。その時はすっかり衰弱している。どうしたと尋ねても真相をいわない。そうして、おまけに、いうのである。
「ああもう一度あそこ[#「あそこ」に傍点]へ行きたい」
 そうして間もなく死んでしまうのである。
 時世は慶応元年で、尊王|攘夷《じょうい》、佐幕開港、日本の国家は動乱の極、江戸市中などは物情騒然、辻切、押借[#「辻切、押借」は底本では「辻切押借」]、放火、強盗、等、々、々といったような、あらゆる罪悪は行われていたが、岡八のぶつかった難事件のようなそんな事件は珍しかった。
「さらわれた先をいわないというのが、何より変梃《へんてこ》[#「変梃」は底本では「変挺」]で見当がつかない」
 全く見当がつかなかった。
 で、この日頃ムシャクシャしていた。
 そんな気も知らずに半九郎奴、十年前の古事件、お縫様屋敷の物語りを、面白くもなく、しゃべり立て謎を解いて見ろというのである。
「で、何かい」と岡八はいった。「その古々しい因果物語りが、はやり出したというのかい?」
「ああそうだよ」と半九郎。「銭湯へ行っても髪結床へ行っても、専《もっぱ》らそいつが評判なのさ」
「で、何かい」と、また岡八「四人までも切った侍が、其まま解らずに消えたのが、面妖だっていうのかい?」
「それからどうして染吉が、燈心の火が消えるように、衰死したかが不思議だというのさ」
「恋病《こいわずらい》だあね、それで死んだのさ」
「そうチョロッかに片付るなら、辻切の方だって片がつく、切りっぱなしで消えたんだとね。……だがそれだけでは済むまいぜ、俺等の商売からいく時はね」
「十年前の出来事じゃァねえか」
「ところがお前そうじゃァないんだ、俺等の仲間で競争的に、その謎解きにかかっているのさ」
「へえ、そいつァ物好きだなあ」岡八一寸眼を見張った。「初耳だよ、そんな話は」
「お前は一人で高くとまり、俺等とあんまりつきあわないからさ」
「それにしても暇の連中だなあ、この小忙しい浮世によ」
「そこで連中はいっているのさ。岡八兄貴なら解けるだろう。もし又こいつ[#「こいつ」に傍点]が解けねえようなら、岡八なんかとはいわせねえとね」
「えらく[#「えらく」に傍点]皆に憎まれたものだな」岡八ニヤリと笑ったが、どうしたものか膝を打った。それからヒョイと※[#「丿+臣+頁」、第4水準2-92-28]《おとがい》をしゃくった。「よし来た、それじゃァ解いてみせよう!」
「え、本当か! そいつァ豪勢だ!」
「しかも、きっと今日明日の中にな」

     

 半九郎が帰ると岡引の岡八、フラリと皆川町の家を出た。
「いや、いい話を耳にした、お縫様屋敷もさることながら、こっちの事件に役立ちそうだ。棚からぼた餅といわれているが、何んの当世棚を覗いたってぼた餅なんかァありそうもねえが、今日はそいつにありついたってものさ、そうはいっても俺の考え、間違っていりゃァ別だがな」
 押し詰った十二月の中旬真昼。歩いている人間が足ばかりに見える。そんなにも急がしく歩いている。そうかと思うと眼ばかりに見える。そんなにもキョロキョロあわただしい。天気はよいが風は強い家々の暖簾《のれん》が刎《は》ねている。
 賑かな町通りへやって来た。
「よしこの辺から探してやろう」
「ごめんよ」といって這入ったのは、店附の立派な古物商。
「へい、いらっしゃい」と小僧の挨拶、そんなものへは返辞もせず、ズンズン奥へ通って行った。
 主人であろう、皮肉そうな爺が、獅噛《しがみ》火鉢にしがみついている。
「へい、いらっしゃい」と上眼をした。冷かし客か買う客か、上眼一つで見究わめるらしい。
「染吉の朱盆ありますかえ?」
「へ、染吉?」ときき返したが「お生憎さまで、ございませんねえ」
「ぜひほしいんだが目っけてくれまいか」
 岡八店先へ腰をかけ、平気で火鉢へ手をかざした。
「ありゃァ滅多に手に入りませんよ」
「いうまでもなく承知だがね、だから一層ほしいのさ」
「あったにしてからが大変な値段で」
「値切りゃァしないよ。大丈夫だ」
「へい、そりゃァまあ、旦那のことですから」
 こういいながらも笑っている。相手にしないという恰好である。当然かも知れない。この時岡八、普段着の姿でやって来た。唐桟《とうざん》の半纏《はんてん》というやつである。そうして口調は伝法だ。だが、もし主人の眼が利いて、その懐中に取縄があり、朱総の十手があると知ったら、丁寧な物いいをしただろう。まして岡八と感づいたら[#「感づいたら」は底本では「感ずいたら」]、茶ぐらい出したに相違ない。
 年が三十五で小作りで、むしろ痩ぎすの岡八は、決して堂々たる仁態ではなかった。
「一体どのくらいするものだな?」岡八チョイと気をひいてみた。
「値段があって、ないようなもので」
「まさか百両とはしねえだろう?」大きな所を吹いてみた。
「そうばっかりもいわれませんよ」主人例によって冷淡である。「お噂によると雲州様では、百五十金でもとめられたそうで」
「ふうん」といったが少し参った。「成る程それではこの爺、俺を相手にしねえ筈だ」
「だが、それにしても値が出たなあ、たかだかお前染吉といえば、十年前の職人じゃァないか」
「初《はな》から数が少ないんで」
「江戸中に一体幾つあるんだろう?」
「日本中に三十とはありますまい」
「ふうん」と又も参ってしまった。「そんなに数がねえのかなあ」
「ひどく若死にをしましたのでね」
「その死に方も変だったそうだな」
「よくご存知で、衰死したそうで」
「縁起でもなく死んだものだな」
「だから一層値が出ました」
「それは一体どういう訳だ?」
「すべて数寄者という者は、箔のついたものを好みますからな」教える[#「教える」は底本では「数える」]ような態度である。
「箔にもよりけり、縁起でもねえ箔だ」
「当今死に絵さえ、はやっております」
「うん、成程」と、又参った。
「こいつァ初手から駄目らしいぞ」岡八しょげざるを得なかった。「ぼた餅は棚にはなかったよ」
 あきらめて立とうとした時である。一人の女が這入って来た。
 小紋縮緬の豪勢なみなり[#「みなり」に傍点]、おこそ[#「おこそ」に傍点]頭巾を冠っているので、顔はハッキリ解らなかったが、たしかに大変な美人らしい。眼が非常に美しい。……非常どころか、とても美しい。……というより寧ろ凄いようだ。魅力! 全くそのもののようだ。
「いらっしゃい」と主人、現金な奴だ、揉み手までしてお辞儀をした。「毎々ごひいき[#「ごひいき」に傍点]にあずかりまして」だが、こいつはお世辞らしい。
「染吉の朱盆、ございましょうか?」
 そうその女がいったものである。
 岡八、当然びっくりした。
「はてな、こいつ面白くなったぞ」
 で、わざと立ち上がり、店の品物をひやかす[#「ひやかす」に傍点]ようにして、女の様子をうかがった。

     

 古物商の主人と女客との会話は、ざっと次ぎのように運んで行った。
「ああ染吉でございますか、へい、ないこともございませんが」
「只今お店にございましょうか?」
「いえ店にはございませんが……心あたりにはございます。……もし何んなら取り寄せて」
「ぜひお願いいたします。幾枚ぐらい手に入りましょう?」
「さようでございますな、三枚ぐらいでしたら……」
「費用はいくらでも構いません、沢山ほしいのでございますよ」
「へい、しかし、三枚以上は……」
「では三枚お願いしましょう。……で、値段は? 一枚の?」
「二十五金ほどでございましょうか」
「では手附を、半分だけ」
「四十金? で……。これはどうも……へい、へい確にお預かりしました。……ええと所で、お住居は?」
「私、いただきに参ります」
「はい、左様で……。これは受取」
「いつ頃参ったら、ようございましょう?」
「さようでございますな……二三日ご猶予……」
「それではよろしく」
「かしこまりました」
 で、女は店を出た。
 怒ってしまったのは岡八である。
「馬鹿にしゃァがる! 一体何んだ!」心で毒吐いたものである。「みなり[#「みなり」に傍点]が悪いとこんな目に会う。百五十両だと吹っかけて置いて、二十五両だっていやあがる。ないといいながら三枚がところ、心あたりがあるというちきしょう[#「ちきしょう」に傍点」本当に張り倒してやるかな。……そうはいっても俺の手には、二十五両でも這入り[#「這入り」は底本では「遍入り」]そうもないなあ。……それにしても一体あの女、何んで染吉の朱盆ばかり、そんなにも沢山ほしがるんだろう?」
 フラリと岡八往来へ出た。すぐ眼の前を女が行く。尾行るという気もなかったが、矢っ張り後をつけて行った。出たところが神保町、店附の立派な古物商があった。
 女が這入って行くではないか。
「おや」と思いながら岡引の岡八、つづいて店へ這入って行った。
 主人と女客との応待は、全く以前と同じであった。
「染吉の朱盆、ございましょうか」
 今はないが取り寄せようという。
 そこで女が手附を払い、受取をとって立ち去ったのである。
「これはおかしい」と岡引の岡八、本式に女をつける気になった。「まるでこのおれの邪魔をしているようだ。先へ廻って染吉の朱盆を、かっ浚《さら》おうとでもしているようだ。曰くがなければならないぞ」
 神保町から一つ橋、神田橋から鎌倉河岸、それから斜《なな》めに本石町へ出、日本橋通を銀座の方へ、女はズンズン歩いて行く。だから、もちろん、岡八も歩いて行かなければならなかった。
 無暗と女は歩くのではなかった。目星しい古物商があると、軒別に這入って訊くのであった。
「染吉の朱盆、ありましょうか?」
 あるといえば手金を打ち、買取る約束をするのであった。
 実際のところ染吉の朱盆は、極めて数が少ないと見え、昼からかけて夕方までに、そうやって女が約束した数は近々五枚に過ぎなかった。尾張町まで来た時である、ふと女は足を止めた。
「またあったかな、古道具屋が?」
 岡八、見廻したが古道具屋はない、江戸で名高い錦絵の問屋、植甚というのがあるばかりであった。
 店先に錦絵が並べてある。沢山の武者絵や風景画や、役者の似顔絵や、美人画など……それを女は見ているのであった。
「朱盆が錦絵に変ったかな?」
 変に思った岡引の岡八、成るだけ女に気取られないように、自分も店先を覗いてみた。
 素晴らしい一枚の死絵がある。
 どうしたものか、それを見ると「うむ!」と岡八唸るようにいった。で女の横顔を見た。何んて微妙な微笑なんだろう? 皮肉で残忍で嘲笑的で、そうして、しかも満足したような、そういったような薄笑いが、女の顔にあるではないか? 眼は死絵を見詰ている。
「やっと前途が明るくなった。俺の見込みは狂わなかった」
 岡八呟いたものである。「よし、こうなりゃァこの女の住居。どんなことをしても突き止めなけりゃァならねえ」
 その時女が歩き出した。
 足早に歩いて行くところを見ると、いよいよ家へ帰るらしい。
 上野山下まで来た時には、すでに宵を過ごしていた。足に自信があると見え、女は駕籠へ乗ろうとさえしない。

     

「大金を持っているだろうに、こんな夜道を女一人で、この押詰った師走空を、恐れ気もなく歩くとは、とても度胸は太いものだ。いよいよ並の阿魔ッ子じゃァねえな」
 ますます不審が強まって来た。
 車坂の方へ歩いて行く。で岡八も、つけて行く。
 養善寺のそばから道が別れる。左へ行けば鶯谷、右へ行けば阪本である。
 何んと女は昼も物凄い鶯谷の方へ行くではないか、
「こいつはどうも大胆だなあ。こうなると俺も考えなけりゃならねえ」
 足をとめたのは、さすがの岡八も、薄っ気味が悪くなったのだろう。
 女はズンズンあるいて行く。直と藪蔭に消えてしまった。
「いけねえ、つけよう、どんなことをしても、たかが女だ、大事はあるまい……」
 で直に追っかけた。
 藪が左右を蔽うている。大木が空を遮っている。昼も薄暗い場所である。今は真の闇で、星さえ見えない。女の足音が遠くでする。
 藪の底まで来た時であった。岡八、何かに躓いた。たじろいた所[#「たじろいた所」に傍点][#「たじろいた所」はママ]を人間の手が、グイと首根ッ子を抑えつけた。
 ギョッとはしたがそこは岡引、スルリと抜けると前へ飛んだ。
「どいつだ」と叫んだものである。
 もちろん姿は見えなかった。しかし商売柄感覚でわかる、たしかに五、六人の男がいる。じっと、こちらを狙っている。
「とうとうこいつ[#「こいつ」に傍点]えらいことになったぞ」懐中へ手をやるとスルリと十手、引出して頭上へ振上げた――来やがれ、ミッシリ、くらわせてやるから! こう決心をしたのである。
「オイ若いの」しばらくの後だ、闇の中から声がした。「じたばたするな、ついて来い! 悪い所へ連れては行かない。途法もねえいい所へ連れて行く。眼の眩むようないい所へな!」
 濁った不快な声である。
 岡八返事をしなかった。出で入る気息をじっと調べ、飛び込んで来るのを待っていた。
「来るな」と思った一刹那、果して一人飛びかかって来た。ガンと一つ! 狂いはない! 手練の十手だ、眉間《みけん》を撲った。
「むっ」といううめき! 倒れる音! 後はシーンと静かである。
 岡八ソロリと位置を変えた。
「鳥渡手強い」とつぶやく声、闇の中から聞えて来た。例の濁った不快の声だ。
 と又一人飛び込んで来た。
 全く同じ手、ガンと一つ! 岡八、相手の眉間を撲った。
「むっ」といううめき! これも同じだ、ぶっ倒れる音! これも同じだ。「二匹どうやら片づけた[#「片づけた」は底本では「片ずけた」]らしい」岡八心で呟いた。「幾匹でも来い、退治てやる」
 そこでソロリと位置を変えた。
 しばらくの間は静かである。
 ボソボソと話す声がした。
「何か相談をしているな、一体幾匹いるんだろう?」
 じいいッと闇をすかして見た。まだ三、四人はいるらしい。
 矢張り感覚、こいつでわかる、その三四人が左右から、どうやら一度にかかるらしい。背後は大藪逃げることは出来ない。いかな岡八でも一人に三、四人、これでは勝目はなさそうであった。
「困ったな、仕方がねえ、勿体ねえが名乗ってやろう」
 そこで叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]《しった》したものである。
「やい、手前達、途法もねえ馬鹿だ! 俺を誰だと思っている! 皆川町の岡八だぞ!」
 果然[#「果然」は底本では「果燃」]こいつは効果があった。
「えッ」という声が先ず聞え「しまった!」という声がすぐ聞えた。
「お逃げよ!」と続いて女の声がした。
 と、バタバタと足音がして、後はシーンだ、静かなものだ。
「よし」というと岡引の岡八、ピタリと地面へ腹這いになった。「根岸の方へ逃げやがった。ふふん」というとヒョイと立った。「いよいよこれで見当がついた」
 ジメジメと肌が汗ばんでいる。カッカッと頭が燃えている。胸の動悸も相当高い。
「闇討ちだったから驚いたのさ。……闇討をするものは岡引だと、昔から相場が決まっているのに、今夜はそいつが逆だったからなあ。……さあて、これからどうしたものだ? まん[#「まん」に傍点]が悪いからひっ返すかな? そうして死絵を調べるとするか? ……だがどうもこれじゃァひっ込みがつかねえ。構うものか。行く所まで行こう」
 根岸の方へ下ったが、忽ち大難にひっかかってしまった。

     

 今日の上根岸、百十八番にあたるあたり、その頃は空地で家などはなかった。
 ところが一軒だけ屋敷があった。
 黒板塀、忍び返し、昔はさぞかしと思われるような寮構えだが大きな屋敷だ。無住で手入れが届かないと見え、随分あちこち破損している、植込などは荒れている。屋敷の周囲には雑草が生え冬だから狐色に枯れている。うっかり歩くと足にからむ。三尺ももっとも[#「もっとも」に傍点]丈延びている。
 これが名高いお縫様屋敷だ。
 そこへやって来た男がある。他ならぬ岡引の岡八だ。
 星空の下に佇んで、見上げ見下ろしたものである。
 それから忍びやかに動き廻った。
 岡引の探偵法、今も昔も大差ない。塀へ横ッ面をおっ付けたのは、家内の様子を窺ったのである。地面を克明に探がしたのは、人が歩いたか歩かなかったか、そいつを調べたに相違ない。三度ばかり屋敷をグルグルと廻わった。忍び込む口を目付けたのだろう。
 屋敷へ背を向けてヒョイとかがんだ。はてな? 何をする気だろう? 一ツポツリ赤いものが見えた。何ん点だ、つまらない、たばこの火だ。
「界隈の奴等は馬鹿揃いだなあ。何んのこいつが無住なものか、人間二十人も住んでいらあ」岡八呟いたものである。「全く御時世は、なげかわしいよ。こんな大変な悪党どもが、こんなにも一所に集まって、大それたことをしているのに、盲目同様気がつかないんだからなあ」二服目のたばこをふかし出した。「そうはいっても俺だって、トンチキでないとはいわれないよ。今日まで気づかずにいたのだからなあ」
「さてこれからどうしたものだ」たばこを喫い切ると考え込んだ。「用心堅固に構えているなら、かえって安々忍び込めるのだが、彼奴等まるで不用心だ。すっかり世間を甞め切っていやがる。それだけにちょっと物凄いよ」
 ポンともう一度煙管を抜き出し、またたばこをすい出した。
「一人で十二人はあげられ[#「あげられ」に傍点]ねえなあ」岡八またも考え込んだ、「帰って若いのをつれて来るかな?」煙管が地面へ落ちたのさえ、気づかない程に考え込んだ。「とはいえ一応中味も見ずに、食らいつくことも出来ないからなあ。……矢っ張り[#「矢っ張り」は底本では「失っ張り」]思い切って忍び込んでやれ。……だが俺は先刻名乗ったんだからなあ。彼奴等用心をしているかもしれねえ。……とそこまで取越苦労をしたら仕事なんか出来ねえということになる。……というものの薄ッ気味が悪い! 普通の悪党じゃァないんだからなあ。……などといっていると夜が明ける。……かまうものか、忍び込んでやれ!」
 塀にピッタリ体をつけさっと捕縄を忍び返しにかけて[#「かけて」は底本では「かけた」]スルスルスルスルとよじ上った。と、もう姿が見えなくなった。岡八、屋敷へ忍び込んだのである。

 その翌日のことである。
「兄貴家かえ」とやって来たのは、他ならぬ岡引の半九郎であった。
「昨日出たきり帰らないよ」
 こういったのは岡八の女房、鳥渡仇めいた女である。
「兄貴としちゃァ珍しいね」
「私も心配しているのさ」
「で、矢っぱりご用でかい?」
「半九郎の奴に鼻あかせてやる、こういいながら出て行ったよ」
 すると半九郎笑い出してしまった。
「アッハハハこいつァ面白え。少し兄貴も若|耄碌《もうろく》をしたな」
「なぜさ?」とお吉《よし》――岡八の女房――怒ったようにきき返した。
「ナーニこっちの話でさ。……あそれじゃあ姐御、また来やしょう」
 往来へ飛出したが吹出してしまった。
「あの物語りの謎解きをしようと、探ぐりに出たとはどうかしているよ。岡八の兄貴もヤキが廻ったなあ。そんな年でもない癖に」
 その翌日のことである、またも半九郎尋ねて来た。
「姐御、兄貴はお家かね?」
「それがさ、半さん、どうしたんだろう、いまだに帰って来ないんだよ」
 お吉の顔に憂色がある。
「へえ」といったが半九郎も、眉の間へ皺を寄せた。
「おかしいなあ、何んてえことだ」
「こんなことめった[#「めった」に傍点]にないんだがねえ」
 お吉いよいよ心配そうである。
「そうだ実際お上のご用で、遠ッ走りをする時の外は、決して泊って来ねえのが、岡八兄貴のいい所でしたね。……ふうむ、こいつァ変梃[#「変梃」は底本では「変挺」]だぞ」腕をこまぬいたものである。

     

 これから半九郎の活動になる。
 道をあるきながら考え込んでしまった。
「俺がああいう話をした。それで兄貴が飛び出した。そうして二晩も帰って来ない。といって真面目なあの兄貴、岡場所にひっかかる筈もない。遠ッ走りをしたのなら、あの仲のいいお吉姐御にあらかじめ話して行く筈だ。ふうん、ふうん、解らねえなあ」
 どうにも見当がつかなかった。
「何んだか[#「「何んだか」は底本では「何んだか」]俺には厭な気がするよ。変事でもありゃァしないかな? 兄貴のことだ、大丈夫だろうが名人の手からだって水は洩れる。――どだい俺等の話を聞いて、飛出して行ったというやつが、その名人の水洩れだからなあ。ふうん、ふうんわからねえなあ」
 矢張りどうにも見当がつかない。
「ええと筋立てて考えてみよう。……兎に角俺等の物語りの、謎解きをしようと出かけたというからこいつはこのまま信じるとして、真っ先にどこへ行くだろう? ……さあ真っ先にどこへゆくだろう?」
 当然なことが思いついた。
「お縫様屋敷へ行くというものさ」
 どうしたものか吹き出してしまった。
「行ったって何があるものか。大きな空家があるばかりさ」
 で、こいつは投げ出すことにした。
「さてこの外にはどこへ行くな?」
 雲を掴むようでわからない。
「こまったな、本当にこまった。……だが……」
 というと考え込んだ。
「だが矢っぱり筋道をたぐろう。お縫様屋敷へ行ってみよう。何か手がかりが目つかるかもしれねえ」
 半九郎スタスタあるき出した。
 上野を廻ると上根岸、お縫様屋敷の前まで来た。
 冬陽が黒塀にあたっている。あれにあれた屋敷である。屋根棟に烏《からす》がとまっている。生物といえばそれだけである。カラッと四方吹きさらしである。一軒の家も附近にはない。
「矢っ張り空家さ。何があるものか」
 呟いたが半九郎念のためだ、グルリと屋敷を巡り出した。
「おっ」
 と俄に立ちどまったのは[#「立ちどまったのは」は底本では「立ちとまったのは」]、雑草の中に見覚えのある、岡八の銀口の太煙管が一本ころがっていたからであった。
 拾い上げたがじっと見た。
「別に変わったこともねえ。ただこいつで解ることは、矢っ張り兄貴がお縫様屋敷へ、さぐりに来たということだけさ。いや待てよ!」
 とギョッとした。
「あッ、いけねえ、こんな筈ァねえ!」音に出して叫んだものである。「あのおちついた岡八兄貴、たとえどんなにあわてようと、煙管を落として行く筈はねえ。……にもかかわらず落ちている……ということであってみれば、大事件があったと見なければならねえ。……うん、ここにほごがある。……うん枯草が敷かれている。……休んで一服したんだな? ……さあてそれから、さあてそれから?」
 半九郎あたりを見廻した。
 眼についたは塀の足跡! いや雪駄の跡である。ヒョイと眼を上げると忍び返しが、二三本外側へ曲っている。
「ははあ兄貴、忍び込んだな」
 眼をつむって考えた。
「お縫様屋敷へやって来た。やって来たからには念のため、内を一応は調べるだろう。まあまあこれは尋常だ。が、煙管が落ちている。たしかに休んだ跡がある。……とすると煙管の落ちたのさえ、感づかない程に熱心に、休んで考えたということになる。その揚句屋敷へ忍んだとすれば、充分何かを見究めた結果、忍び込んだということになる。……こいつァ只の空家じゃァねえぞ!」
 半九郎ゾッと寒くなった。
「待て待て、待て待て、あわてちゃァいけねえ。這入りは這入ったが出て来たかも知れねえ」
 そこで屋敷をもう一度巡った。出たか出ないかは解らなかったが、少なくも「出た」という証拠はなかった。
 表門、裏門、くぐり[#「くぐり」に傍点]の戸、そいつを押しても見たけれど、内から閂《かんぬき》でも下ろされているのか、貧乏ゆるぎさえしなかった。
「さてこれから何うしたものだ?」
 這入ってみようかとも考えた。
「とんでもねえ」
 と直止めた。
「あの岡八の兄貴さえ、呑み込まれた恐しい屋敷じゃァねえか。いかに昼でも俺等一人で、踏ん込んで行くなァ度胸がよすぎる」
「帰って人数を連て来よう」
 急いで引っ返した半九郎、夜になるのを待ち受けて、十数人の乾児《こぶん》を連れ、お縫様屋敷へ忍び込んだ。
 何を彼等は見ただろう。

     

 命を助けられた岡引の岡八、家へ帰って正気づくと、
「もう一度あそこへ行って見てえものだ」
 真ッ先にこういったものである。
 それから又もトロトロと眠った。
 すっかり元気が恢復すると、またノッケにいったものである。
「支那の古事にあるっていうが、ありゃァ日本の纐纈《こうきつ》城だなあ」
 で、それから話し出した。
「半九、お前にゃァ何んといっていいか、半分はお礼、半分は怨みだ。……俺等お前の話を聞くと、ピシッと心に響いたことがあった。染吉の朱盆の真紅の色と、染吉の衰死という奴さ! ……こいつァ紅毛人の話だが、或る画家がいい色を出すため、自分の体から血を取って、絵具がわりに使ったというが、ははあそれでは染吉という男も、朱盆にそいつを使ったかもしれねえ。朱盆がマア、それはそれとして、俺の手掛ている難事件、いい若い者が姿をかくし、帰って来ると衰死してしまう、こいつに宛てはめたらどうだろうとな? どこかに悪い奴が屯していて、人間の生血を、絞るんじゃァないかな? ……で俺は出かけたってものさ。染吉の朱盆を手に入れてみよう、そうしてそいつを蘭医にでも頼んで、血が雑っているか雑っていないか、真ッ先に調べて貰うことにしよう。朱盆さて古道具屋へ行ってみたが、思うように手に入らねえ。数が少なくて高いんだ。ところがどうだろう凄いような美人が、俺等の邪魔でもするように、先廻りをして買い占めるじゃァねえかそうだよ染吉の朱盆をな、こいつ怪しいと思ったので俺等ドンドン後をつけてみた。すると今度はその女が植甚の店先へ立つじゃァねえか! 知っているだろうが卸問屋だ。うん有名な錦絵のな。ところが一枚死絵があった。それが[#「あった。それが」は底本では「あったそれが」]素晴らしい出来栄なのだ。わけても[#「出来栄なのだ。わけても」は底本では「出来栄なのだわけても」]紫色が素晴らしかった。解った[#「素晴らしかった。解った」は底本では「素晴らしかった解った」]と俺は手を拍とうとしたよ! あの紫色は血で描いたものだ! 血という奴ァはじめは赤い。それから[#「赤い。それから」は底本では「赤いそれから」]褐色《かばいろ》になり緑色になる。そうして終に紫色になる。そいつも並の紫じゃァねえ。何んともいえねえ紫だ! ところで死絵は紅毛人どもが今大変な高い金でドンドンドンドン買い入れている。ははあさてはいよいよ以て、悪い奴等がどこかにいて、人間の生血を絞っては、それで死絵をこしらえているな! そうして、恐らくこの女はそいつらの仲間の一人だな? こいつァどうにも逃されねえわい。で、どこまでもつけたってものさ。鶯谷で襲われっちゃった! うん、五、六人の野郎にな! 岡八だと名乗ると逃げてしまったが、根岸の方へ行ったらしい。で、不意に思ったものさ、ははあ、さてはお縫様屋敷に、悪い奴等はいるのだなと! そうして俺は思ったものだ、あの女はおとり[#「おとり」に傍点]だなと! 凄い程奇麗なあの顔で、若い男をそそのかしたら、どんな野郎だってついて行く、鶯谷でとっ捕まえてしまう! それから屋敷へ連て行くのさ、彼奴等の巣窟のお縫様屋敷へな。……で俺等行ってみた。森閑として人気がないとはいえ俺等考えたものさ。たしかに二十人はいるだろうとな! というのはほかでもねえ、さっき現れた人数を、大体のところ六人と見つもり、おっ[#「おっ」に傍点]振って出て来る筈はねえ、半数出て来たと仮に見ると、〆て十二人はいるだろう。そうして現在行方の知れねえ、若い男が八人ある。合わせて二十人になるじゃァねえか。が、それにしても人気がねえ。ナーニこれだって解釈はつく、それ地下部屋という、ありきたりのものを、勘定の中へ入れればな。……思案した揚句忍び込んだが、こいつは一生の失敗だったよ。岡八だと鶯谷で名乗ったんだから、彼奴等だって用心をしていた筈だ。一も二もなくとっ捕まってしまった。……とっ捕まって見て俺等の探索、みんな中たったのを確めたよ! 地下の工場、二十人の人数、錦絵の製造、その上にだ、肥え太っている幾人かの別嬪、ひどく油っこい旨い食物、そうしてギヤマンの無数の吸珠! ……だが本当にいい気持だった。血がドンドン吸い取られる。素っ裸の女が踊りを踊る! 自然自然に眠くなる! ……一人が二十回もやられるんだとよ! 俺等二度目をやられかけた時、半九、お前達が来たってものさ! 馬鹿な野郎だ、なぜ来たんだい! 地獄じゃァねえ極楽だったのに! ……だが随分お前達、彼奴等を相手に戦ったなあ。その揚句地下道から逃げられやがった! え、大将を捕まえたと? ムダなことをしたものさ! ……俺等もう一度あそこへ[#「あそこへ」は底本では「あそこ褄」]行きてえ」
 だが半九郎|笑止《しょうし》らしくいった。
「だがね、兄貴、俺等の話した、あのお縫様屋敷の因果物語りはね……」
「作り話だというのだろう」
「へえ、そいつを知っていたのかえ?」
「あんまり辻褄があっているからさ」

     一〇

 それから岡八嘲るように、ニヤニヤ笑いながらいい出した。
「巧んだ事件というやつは、例えどんなにコンガラガッていても、どこかで辻褄が合うものだ。作り話だって同じだァね。だがあの話は面白かった。旨く辻褄を合わせて見せよう。第一に辻斬の侍だが、ありゃァ将軍家ご連枝の、若殿様と見立てるんだなあ。新刀試しをしたことにするさ。お縫様屋敷のあの辺は、人家がなくて寂しくて、そんなことをするにはいい場所だ。捕方の連中に囲まれた時ポンと胸のあたりを打ったというから、こいつを大いに役たたせよう。葵の御紋があったとするのさ。満月の晩だからよく解らあ。で、捕方の面々ども、手が出せなくて『へー』と平伏……これだけで片がつくじゃァねえか。……切りたおされた手代だが、染吉の朱盆を持っていたとするさ。つまり主人のいいつけで、染吉の所から持って来たのさ。追っかけて来た職人は、当然染吉とするんだなあ。染吉という男名人気質で、自作にひどく愛着を持ち、人に渡すのを厭やがったというから、取り返しに来たと見立てるがいい、手代がそこにたおれている、朱盆をちゃんと持っている、で『しめた!』と叫んだことにするさ。取り返した嬉しさに飛び上がった途端、ヒョイと盆が手から放れ、お縫様屋敷へ飛び込んだとするさ。で『しまった!』と叫んだことにするさ。その時はじめて気がつくと手代の野郎殺されている。で一散に逃げたとするさ。盆に未練がある所から、お縫様屋敷へ取りに行ったが、あんまりお縫様が奇麗だったので、くれる気になって置いて来たとするさ。こいつを四回繰返させるんだあね。武士の辻斬り以前の通りさ、盆の取り返し、以前の通りを、ただし二回目からは、染吉をして、わざと屋敷へ投げ込ませたことにするさ。ああそうだよ、朱盆をな。で『しまった!』とはいわなかったことにするさ。なぜ投げ込んだ? いうまでもないや、恋の心を通わせるためさ。『恋すてふ』というあの歌だが、偶然蒔絵したと解するんだなあ。百人一首を蒔絵にする、有勝のことで不思議はないや。だが染吉はその偶然を、旨く利用したものと解するんだなあ。しかし最後の一枚になって、すっかりへこたれて[#「へこたれて」に傍点]しまったのは、……こいつだけは二通りに解釈出来る。恋病で衰死をし、製造することが[#「製造することが」は底本では「製造するこことが」]出来なかったと、こう解釈をしてもいいし、もし染吉の作った朱盆に、ひょっと人の血が雑《まざ》ってでもいるなら、染吉自身の血だとして、あんまり生血を絞ったんで、衰えて死んだとしてもいい。……兎に角ほんとに染吉という奴は、わけのわからない衰死病で、若死したというからなあ。古道具屋の爺もいっていたよ……どうだアラカタこれでよかろう。スッパリ辻褄は合ったろうがな」
 また笑ったものである。
「お縫様の死はどうするね?」半九郎|凹《へこ》まずきき返した。
「ある大店の娘御が、癆咳《ろうがい》を病って寮住居、年頃だから恋がほしい、そこでぜひとも『思ひそめしが』と、誰かに口説いて貰いたい、そこでその盆をほしがっているうち、病気が進んでなくなられた。癆咳娘の住居した寮だ、借手がないという所で、今日までも空家なのさ。……ということにするがいいさ。ごらんよ、ちゃァんと辻褄が合わあ」
「その話はそれでよいとして、お前のぶつかったその女、凄いほどの美人だということだが、どうして染吉の朱盆ばかりを、そうも買あつめたものだろう?」
「ああ、そいつか、その女がいったよ、『ねえ岡八さん、何も私は、あなたの邪魔をしようとして、染吉の朱盆を集めたんじゃァないよ。どうしたら立派な赤い色を、死絵の中へ出すことが出来るか、その参考に江戸中を廻って染吉の、盆を集めたってものさ。そいつにお前さんが引っかかったのは、少ォしばっかり間抜けだねえ』と。いやはやどうも、これには参った」
「だがオイ」と岡八またいった。「お前の話しがお縫様屋敷の話、みんながみんな嘘でもあるめえ」
「うん」と半九郎苦笑をし「今辻斬がはやるから、辻斬の武士を一枚入れ、染吉の朱盆が値を呼んだというからそこで、そいつを早速取り入れ、お縫様屋敷の物語りを、チョッピリ加えてデッチ上げたってものさ」
「お縫様屋敷の真相は?」
「お縫様という美人がいた。人を恋して死んでしまった。今に執念が残っている。ただこれだけさ、何があるものか」
「だが、よかったよ、お前の話、俺に難事件を片付させてくれた」
「兄貴を担ごうと思ったんだが、まるでアベコベに利用されてしまった」
「どんな話にだって暗示はあるなあ。だがお前にも厄介になった。有難かった、一杯飲もう」

底本:「妖異全集」桃源社
   1975(昭和50)年9月25日発行
初出:「サンデー毎日」毎日新聞社
   1927(昭和2)年1月
※「くらしっく時代小説10 国枝史郎集」リブリオ出版 1998(平成10)年3月20日初版1刷発行を参照し、底本の数カ所に現れる「」中の「」はすべて『』に統一し、促音が「つ」「ツ」、拗音が「や」と大振りにつくられている箇所はすべて小振りの「っ」「ッ」「ゃ」に統一しました。
※その他、「」や句点(。)の欠け、明らかに誤植と思われる箇所は上記テキストに基づいて修正し、入力者注を付しておきました。
※「いわれませんよ」主人例によって」は底本では「主人」の前で改行し、「主人例によって」の段落が天付きになっていましたが、「くらしっく時代小説10 国枝史郎集」にならって改行を取りました。
※底本には以下に挙げるように誤植が疑われる箇所がありましたが、「くらしっく時代小説10 国枝史郎集」でも同様で正しい形を判定することに困難を感じたので底本通りとし、ママ注記を付けました。
○たじろいた所:「たじろいだ」の誤植か。
※「綺麗」と「奇麗」の混在は底本通りにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:ロクス・ソルス
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年12月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

赤坂城の謀略—— 国枝史郎

       一

(これは駄目だ)
 と正成《まさしげ》は思った。
(兵糧が尽き水も尽きた。それに人数は僅か五百余人だ。然るに寄手《よせて》の勢と来ては、二十万人に余るだろう。それも笠置を落城させて、意気軒昂たる者共だ。しかも長期の策を執《と》り、この城を遠征めにしようとしている。とうてい籠城は覚束ない)
 そこで、正成は将卒をあつめ、しみじみとした口調で申し渡した。
「この間は数箇度《すかど》の合戦に打ち勝ち、敵を亡ぼすこと数を知らず、正成くれぐれも有難く思うぞ。が、敵大勢なれば物の数ともせず、囲みを解いて去るべくも見えぬ。然るに城中はすでに食尽き、援兵《えんぺい》の来る望みもない。……元来天下の衆に先立ち、草創《そうそう》の功を志す以上、節に当り義に臨んでは、命を惜《おし》むべきではない。とはいえ事に臨んで恐れ、謀《はかりごと》を好んで為すは勇士の為すところと、既に孔夫子も申しておる。されば暫くこの城を落ちて、正成自害したる態になし、敵の耳目を一時眩まそうと思う。……正成自害したりと思わば、関東勢さだめて喜びをなし、下向するに相違ない。下らば正成打って出で、また上らば山野にかくれ、四五回東国勢を悩まさんか、彼等といえども退屈するであろう。この時を以て敵を殲滅《せんめつ》するこそ妙策!」
 これを聞くと将卒共はしばらくの間は、言葉も出さず黙っていたが、やがて口々に云い出した。
「君公《きみ》の謀計《はかりごと》にござりまする。粗略あろうとは存じられませぬ」
「早々御落去なさりませ」
「再挙の時こそ待ち遠しゅうござりまする」
 そういう将卒の顔には、何等の憂《うれい》の影もなかった。
 我等が信ずる多門兵衛様が――日本の孔明《こうめい》、張良《ちょうりょう》が、城を開こうとするのである。開くべき筋があればこそ、こうして城を開くのであって、尋常一様の落城ではない。――という考えがあるからであった。
(では)
 と正成は決心し、城の落ちる日を心待ちに待った。
 その間に正成は士卒を督し、城中に大なる穴を掘らせ、堀の中にて討たれた死人の中、二三十人ばかりを持ち来たしその穴の中へ埋没《まいぼつ》させ、その上に炭《すみ》薪《たきぎ》を積み重ねさせた。
 と、幸いにもその翌々日、風雨はげしく荒れた。
(時こそ来たれり)
 と正成は思い、この赤坂城にそれ以前から、お籠《こも》りあそばされた護良親王様《もりながしんのうさま》を、まず第一に落し参らせ、つづいて将卒を落しやり、火かくる[#「火かくる」に傍点]者一人をとどめ置き、舎弟の七郎|正季《まさすえ》や、和田正遠等を従えて、自身も蓑笠《みのかさ》に身をやつし、ひそかに城を忍《しの》び出た。
 それとも知らない寄手の勢は、陣屋陣屋の戸をとざし、この吹降りには城兵といえども、よもや夜討などかけまいと、安心しきって眠っていた。
 と、正成たちは忍びやかに、寄手の陣屋の前を通り、千早の方へ潜行した。
「誰だ!」
 と突然声がかかった。
 寄手の大将長崎|四郎左衛門尉《しろうざえもんのじょう》、この人の陣屋の厩《うまや》の前に、さしかかった時であった。
 流石《さすが》に正成もハッとしたが、
「これは大将御内の者でござるが、道に踏み迷うてかくの通り」
 と、早速に云い放して足を早めた。
「怪しい曲者」
「射て、討ちとれ!」
 声に応じて弦鳴《つるな》りがし、正成の左臂に矢があたった。
(南無三宝)
 と正成は思った。
 が、不思議にも矢が立っていない。
(はてな?)
 と思いながら数町走り、そこで初めて臂を調べてみた。
 日頃信じて読誦《どくじゅ》し奉る、観音経を入れた守袋に、矢の立った痕《あと》があらわれていた。
(神仏の加護)
 と正成は思った。
(神の界に属しまつる宮方に、お味方仕るこの正成に、神仏の加護あるは必定か、それにいたしても忝《かたじ》けなし)
 こう思わざるを得なかった。
 二十町あまりも落ちのびた時、今まで籠城していた赤坂城に――寄手の関東勢二十余万人を、釣塀《つりべい》、投大木、熱湯かけ[#「かけ」に傍点]で、防ぎ苦しめた赤坂城に、焔《ほのお》が高く上ったのが見えた。
(穴の中の死骸の焼けたのを見て、正成自害したと思うであろうよ)

       

 一里あまりも落ちのびた時、行手に数人の人影が見え、
「多門兵衛か」
 と声がかかった。
「これは宮様にござりまするか」
 然う、そこにお立ちになられたは、いつか山伏風に身をやつされ、その上を蓑笠で蔽《おお》いあそばされた、大塔宮護良親王様と、同じ姿の七人の家来、村上彦四郎義光や、平賀三郎や片岡八郎等であった。
「御武運ひらきますでござります」
 云い云い正成は守袋を取り出し、敵に射かけられた矢が身にあたらず、これにあたったことをお物語りした。
「神仏は神仏を信ずる者にのみ、そのあらたかの加護を与うるものじゃ。……人君《じんくん》に忠節を尽くす者は、その全き同じ至誠を以て、神仏を信じ崇《あが》めるものじゃ」と、親王様には厳《おごそ》かに仰せられた。「正成、そちに神仏の加護ある、当然至極のことと思うぞ」
 深い感動が人々の心に、一瞬間産まれ出た。
 四辺《あたり》の木立を揺がすものは、なお止まない雨と風とであり、闇夜を赤く染めているものは、燃えている赤坂城の火の光であった。
 その火の光を眺めては、さすがに正成の心中にも、感慨が湧かざるを得なかった。
 河内《かわち》の国の一豪族の身が、一天万乗の君に見出され、たのむぞよとの御言葉を賜《たま》わった。何んたる一族の光栄であろう。尽忠の誠心を披瀝して、皇恩に御酬い致さねばならぬ。こう、ひたむきに決心した。功名も望まず栄誉も願わず、遠祖《えんそ》橘諸兄公《たちばなのもろえこう》以来の、忠心義胆が血となり涙となって、皇家へ御奉公仕ろうと、そう決心したのであった。
 その御奉公の最初の現われが、赤坂築城であり、義兵の旗あげであり、そうして今度の籠城戦であった。
 詭計《きけい》のためとは云いながら、その城が燃えているのである。
(ナーニ)
 と正成はすぐに思った。
(そうだ一旦《いったん》は敵に渡す。が、やがて奪回《とりかえ》して見せる)

       

 大塔宮様が熊野方面に落ち、楠正成《くすのきまさしげ》が河内摂津《かわちせっつ》の間に、隠顕出没《いんけんしゅつぼつ》して再挙を計るべく、赤坂の城をこうして開いたのは、元弘元年十月の、二十一日のことであった。
 が、約半年の月日が経って、翌年の四月になった時、正成はふたたび活動をはじめ、わずか五百の兵を以て、まず赤坂の城を攻め、城将湯浅定仏を降し、その兵を合わせて二千となし、住吉天王寺辺へ打って出で、渡辺橋の南に陣を敷いた。
 両六波羅探題の周章狼狽は、外目《よそめ》にも笑止の程であって、隅田《すみた》通治、高橋宗康、この両将に五千の兵を付け、急遽討伐に向わせた。
 そこで正成は二千の精兵を、まず三つの隊に分かち、天王寺の付近にかくし伏せ、外に弱卒三百をして、橋を守らせ、機会を待った。
 隅田、高橋はその弱卒を見て、大いに笑い突撃《とつげき》した。三百の卒は一散に逃げた。
 それを追って、隅田、高橋の勢が、天王寺付近にさしかかった時、伏兵が三方からあらわれた。
 隅田、高橋の勢の狼狽すまいことか!
「詭計ぞ!」とばかり退き逃げたが、正成の勢に追い討たれ、或いは川に溺《おぼ》れて死に、全軍ことごとく意気沮喪し、二将は京都へ引あげた。
 そこで正成は悠々と、天王寺の地へ陣を敷き、京都へ攻めのぼるべき気勢を示した。
 と、その時二度目の討手として、宇都宮治部大輔公綱が、向い来るという取沙汰が聞えて来た。

       

 七月××日の夜のことであった。正成の天王寺の陣営で、河内の国の住人和田孫三郎は、額の汗をふきふき、正成へ情勢を報知《しら》せていた。
「……そのような事情にござりまして、宇都宮公綱《うつのみやきんつな》宿所《しゅくしょ》にも帰えらず、六波羅殿よりすぐに打ち立ち、主従わずかに十五騎にて、天王寺へ向いましてござりまするが、洛中におりましたるところの兵《つわもの》ども、それと聞き伝え馳せ加わり、四塚作道に達しました頃には、五百|余騎《よき》になりましてござりまする。その行動の果敢なる、権門であれ勢家であれ、路次にて一旦|邂逅《かいこう》しますれば、乗馬を奪い、従者を役夫とし、躊躇するところござりませぬ。そのため旅人は路程を迂回《まわ》り、家々では扉《とぼそ》を閉じまするような有様。既に柱松《はしらもと》に陣を取り、明朝此方へ取りかからん構え、必死に見えましてござりまする」

       

「成程」と正成は聞き終ると、しばらくじっと考え込んだ。
「正遠」とややあって正成は、傍につつましく控えている、一族の和田五郎正遠へ微笑を含んで声をかけた。「意見あろう申してみい」
「は」と云うと正遠は、ユサリと一膝すすめたが、「先般隅田、高橋の勢の、五千余騎をさえ渡辺の橋にて、追い崩しましてござりまする。かかる我君の手腕《てなみ》にも恐れず、公綱《きんつな》わずか七百余騎にて二千余騎のわが軍に向うというは、先般の負戦に負腹たて、無二無三に仕掛くるものと存じまする。謂わば[#「謂わば」は底本では「謂はば」]暴虎馮河《ぼうこひょうが》の勇、何程のことがござりましょう。それに反しましてお味方の勢は、勝に乗りまして意気軒昂、然らば今夜|逆寄《さかよ》せ仕り、一挙に追い散らしあそばすこそ、肝要かと愚考いたされまする」。「一理はある」と、正成は云った。「が、それでは味方も損ずるよ」
「…………」
「合戦《かっせん》の勝敗と申すもの、必ずしも大勢小勢にはよらぬ。ただただ兵の志が、一になるかならぬかにある。……公綱が行動を案ずるに、先般関東方我に破られ、面目を失して帰りし後、小勢にて向い来し志、生きて帰らぬ覚悟であろう。それに公綱は弓矢とっては、坂東《ばんどう》一と称さるる人物。従う紀清《きせい》両党の兵は、宇都宮累世養うところのもの、戦場に於《おい》て命を棄つること、塵埃《じんあい》の如く思いおる輩《ともがら》じゃ。その兵七百余騎志を合わせ、決死を以て当手《とうて》に向わば[#「向わば」は底本では「向はば」]、当手の兵大半は討たれるであろう。関東討伐、朝権恢復、この戦《たたかい》を以て決しはせぬ。行末遥の戦に多からぬ味方を失うては、取り返しならぬこととなろう。……正成、今宵陣を引く所存じゃ」
「ご退陣?」と、正遠も、孫三郎も、驚いたように眼を見張った。「一戦もお交しあそばされずに?」
「一旦|退《の》いてまた乗っ取るのじゃ」
「…………」
「味方を傷つけず敵も傷つけぬためにな」
「…………」
「公綱に恩を施すともいえる」
「…………」
「宇都宮公綱は律義者じゃ。義に厚く情に脆《もろ》い。坂東武者の典型でもあろうよ。ただ不幸にして順逆《じゅんぎゃく》の道を誤り、今こそ朝家に弓引いておるが、一旦の恩に志を翻《ひるが》えし、皇家無二の忠臣として、尽瘁《じんすい》せぬとも限られぬ。……正成が為んよう見て居るがよいぞ」
 暁近くなった時、正成の本陣をはじめとし、和田正遠、湯浅定仏、その他楠家一党の陣は、ひそかに粛々と伍をととのえ天王寺から引きあげた。

       

 一方宇都宮治部大輔公綱は、東の空の白むと見るや、七百余騎を引率し、天王寺さして驀地《まっしぐら》に押し寄せ、古宇都《こうづ》の民家へ火をかけて、鬨《とき》の声をドッとあげた。
 京都あまりに無勢とあって、両六波羅探題北條時益、同じく北條仲時によって、わざわざ関東から呼びよせられ、京都守護をまかせられた、武功名誉の公綱であった。隅田、高橋の両武将が、もろくも正成《まさしげ》のために渡辺の橋で破られ、関東の武威《ぶい》を失墜《しっつい》するや「大軍すでに利を失いました後、小勢を以て向いますること、如何《いかが》あらんかとは存じまするが、関東を罷《まか》り出でまする際、このようなお大事に巡り合い、命を軽ういたすを以て、念願といたしおりましたる私、駆《か》け向いまするでござりましょう。今の場合を観じまするに、戦いの勝敗そのものを、云為《うんい》いたす時にてはござりませぬ。何はあれ一人にても駈け向い、落ちました関東の武威を揚げますこと、肝要《かんよう》のことかと存ぜられまする」と、こう言上《ごんじょう》して向って来た公綱であった。
 決死の程が想像されよう。
 さて、然うドッと鬨《とき》をあげた。
 然るに答える者はなく、駈け出して来る兵もなく、楠氏《なんし》の陣営には、焚《た》きすてられた篝《かがり》が、余燼《よじん》を上げているばかりであった。
「正成一流のたばかり[#「たばかり」に傍点]でもあろうぞ。油断《ゆだん》して裏掻《うらか》かるるな」
 と、公綱は馬上大音に叫び、更に天王寺の東西の口より、三度までも駈入り駈入ったが、敵の姿は一人も見られなかった。
 夜がまったく明け放れた。
 事実|敵影《てきえい》はないのであった。
 多少の疑惑はあったものの、戦わざるに勝った心地がして、公綱としては歓喜|類《たぐい》なく、正成の陣営のその後へ、自身|直《ただ》ちに陣を敷き、やがて京都へ早馬《はやうま》を立て勝利の旨を南六波羅へ申しやった。
 しかるに五六日経った頃から、奇怪なことが夜々に起った。
 天王寺を遠く囲繞《いにょう》して、秋篠《あきしの》の郷や外山《とやま》の里や、生駒の嶽や志城津《しぎつ》の浜や、住吉や難波の浦々に――即ち大和、河内、紀伊の、山々谷々浦々に、篝《かがり》や松明がおびただしく焚かれ、今にも数千数万の軍勢が、寄せ来るかとばかり見えることであった。
「一旦陣は引いたが正成め、新手の大軍を猟《か》り催し、押し寄せ来る手段と見える。誠《まこと》の戦《たたかい》一度もせず、残念に思っていたところ、押し寄せ来るこそ却って幸い、迎え撃《う》って雌雄《しゆう》を決しようぞ。……やア汝等《おのれら》寸刻といえども、油断をするな、用意怠るな!」
 こう部下に命を伝え、自己も鎧の上帯を解《と》かず、部下にも帯を解かしめず、馬の鞍《くら》をも休めようとはせず、まして夜な夜なを眠らず眠らせず、敵の押し寄せ来るを待ちかまえた。
 然るにその後も依然として、遠篝《とおかがり》は山々谷々に、また浦々に燃えつづいたが、寄せて来ようとはしなかった。
 大将公綱を初めとし、紀清両党の郎党たちも、追々|惰気《だき》を催して来、しかも思い切って心を許し、眠に入ることが出来なかったので、身心次第に疲労《つか》れ衰弱《おとろ》えて、戦意|頓《とみ》に失われ、退陣したいものと思うようになった。

       

 天王寺の陣を引いた正成は、数里はなれた櫨子原《しどみばら》に、幔幕《まんまく》ばかりの陣を張り、悠々と機をうかがっていた。
 或夜|正遠《まさとお》と定仏《じょうぶつ》とをつれ、陣々をひそかに見回りながら小高い丘の頂まで来た。
 はるかの彼方に天王寺があって、その辺に敷いてある公綱《きんつな》の陣から、立ちのぼる篝の火が空に映じ、ほの明るさを見せていたが、いつもの夜よりも火光は弱く、衰えの様が感じられた。
「正遠」
 と、正成は愉快そうに云った。
「明日は天王寺へ帰ることが出来るぞ」
「は?」
 と、正遠はいぶかしそうに、
「では明日わが君には、天王寺をお討ちあそばすので?」
「いや公綱とは戦いはせぬよ。これは以前から決めていることじゃ」
「では如何して天王寺へ、明日お帰りあそばしますか?」
「公綱明朝陣を引き、京都へ帰って行くからじゃ」
「ははあ、公綱退陣しましょうか?」
「あの篝火の衰え様では、明日退陣と見てよかろう」
「…………」
「一戦も交えず正成をして、退かせましてござりますと、これを功にして京に帰らば、公綱の面目は立つからのう」
「これは御意《ぎょい》にござります」
「公綱としてはわしを追い討ち、この陣を破りたく思ってはいようが、それにしては兵が少なすぎる。といって天王寺にとどまっているには、夜な夜な燃える数千の篝が、どうにも気になっておちついて居られぬ。で、結局、帰って行くのじゃ」
「さよう予《あらかじ》めご計画あそばして、天王寺をご退陣あそばしましたので?」
「そうだ」と正成は頷いた。「で、わしは百姓や漁夫や、樵夫《やまがつ》などに命を含め、山々谷々浦々に、あのように篝を焚かせたのじゃよ。……定仏定仏」と湯浅定仏を呼んだ。
「わしは赤坂を落ちる時にも、必ず後日奪回いたすと、こう決心して落ちたのじゃよ」
「は」
 と云ったが、湯浅定仏は、何んとない苦笑を頬に浮かべた。
「まこと君にはその後間もなく、赤坂城を復されましてござりまする」
「わしが火をかけて脱け出した城を、其方よく修理してくれたのう」
「…………」
 定仏は黙ってまた苦笑した。
 それに相違ないからであった。
 正成が赤坂城を捨てて出た後へ、六波羅の命で入城し、城を修理して籠もったのは、たしかに湯浅定仏だったのであった。
 が、その定仏は正成に攻められ、他愛なく城は乗っ取られ、本人はこのように降将として、正成に仕えているのであった。
 苦笑せざるを得ないではないか。
「過去を探り現在を識り、未来を察して世を渡らば、人間間違いはないものじゃ」こう正成は訓《おし》えるように云った。
「武人にとっては合戦こそは、立派な世渡りの術だからのう。未来を察してかからねばならぬよ。……明日天王寺へ帰ったなら、何を置いてもお寺へ参り、未来記を拝見するつもりじゃ」
 この夜も山々谷々に、そうして津々浦々一円に、正成の焚かせている篝火が、妖しく凄く燃えていた。

       

 正成の予言は的中し、翌朝公綱は陣を撤し、京都をさして帰って行き、代《かわ》って正成が天王寺へ這入った。
 元弘二年八月三日、この日はよく晴れた秋日和《あきびより》で、松林では鳩が啼き、天王寺の塔の甍《いらか》には、陽が銀箔のようにあたっていた。
 白鞍《しろくら》置いた馬、白覆輪《しろふくりん》の太刀、それに鎧一領を副《そ》え、徒者数人に曳き持たせ、正成は天王寺へ参詣し、大般若経《だいはんにゃきょう》転読《てんどく》の布施として献じ、髯の白い老いた長老に会い、正成不肖の身をもって、一大事思い立ちたる事由を審《つぶ》さに述べたるのち、虔《つつ》ましく居ずまいを正し、「承わりますれば、上宮太子|厩戸皇子《うまやどのおうじ》様、百王治天の安危を勘《かんが》え、日本一州の未来記を認《したた》め、この寺院に秘蔵あそばさるるとか。もし拝見苦しからずば、現代に関わる箇所だけなりとも、是非とも拝見仕りたく、如何のものにござりましょうや?」
 すると長老は深く頷いて、
「万代の秘書にはござりまするが、多門兵衛様には忠誠丹心《ちゅうせいたんしん》、まことの武夫《もののふ》と存じますれば、別儀をもちまして、お眼にかけるでござりましょう」
 と云い、一旦奥へはいったが、やがて金軸《こんじく》の書一巻を、恭《うやうや》しく捧げて現われた。
 正成は悦び譬《たと》うるものなく、謹みかしこんで両手に受け、徐《おもむろ》に開いて読んで行った。
 不思議の一連が眼にうつった。
「人王《じんおう》九十五代ニ当ツテ、天下一|度《たび》乱レテ而テ主《しゅ》安《やす》カラズ。此時|東魚《とうぎょ》来《きたり》テ四海ヲ呑ム。日《ひ》西天ニ没スルコト三百七十余箇日。西鳥来テ東魚ヲ食ウ。其後海内一ニ帰スルコト三年。※[#「けものへん+彌」、第3水準1-87-82]猴《びこう》ノ如キ者天下ヲ掠《かす》ムルコト三十余年。大兇変ジテ一元ニ帰ス」
 それはこういう文字であった。
 正成は沈思《ちんし》した。
 思いあたることが数々あった。
(後醍醐《ごだいご》の帝《みかど》こそは神武の帝より数えて、九十五代にあたらせ給う。天下一度乱レテ主安カラズ。これは現代《いまのよ》の事なのであろう。東魚来テ四海ヲ呑ム。これは北條の、一族の悪逆《あくぎゃく》を指しているのであろう。西鳥来テ東魚ヲ食ウ。これは何者か関東を滅す。という予言に相違ない。日西天ニ没スとあるは、帝《みかど》隠岐島《おきのしま》へ御|遷幸《せんこう》ましまされた、この一事を指しておられるのであろう。三百七十余日とあるからには、明年のその頃に都へ御還幸、御位に復されるやも計られぬ。……しかしそれにしてもその次に書かれた、※[#「けものへん+彌」、第3水準1-87-82]猴《びこう》ノ如キモノ天下ヲ掠《かす》ムとは、一体どういう意味なのであろう?)
 一抹の不安が正成の心に起った。
 これは勿論|足利尊氏《あしかがたかうじ》によって、天下を奪われることを予言したところの、その一文であるのであったが、如何に聡明の正成にも、そこまでは思い及ばなかったのである。
(どうあろうと我に於て関わりはない)
 すぐ正成は快然《かいぜん》とこう思った。
(帝の忠誠の臣として、帝の一個の衛士《えじ》として、尽くすべきことを尽くせばよい。ましてや太子のその後の予言に、大兇変ジテ一元ニ帰スと、こう記してあるではないか)
 快然とした正成の謹厚の顔には、初秋の明るい陽の光が、障子越しにほのかに射していて、穏やかな陰影をつけていた。
 間もなく正成は陣[#「陣」に傍点]へ帰った。
 正成の予想に狂いがなく、その後宇都宮公綱は、宮方に帰順して忠節を励んだ。

底本:「時代小説を読む 城之巻」大陸書房
   1991(平成3)年1月10日初版
底本の親本:「天保綺談」桜木書房
   1945(昭和20)年
初出:「日の出」
   1935(昭和10)年6月
入力:阿和泉拓
校正:noriko saito
2008年5月15日作成
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国枝史郎

赤格子九郎右衛門の娘—— 国枝史郎

何とも云えぬ物凄い睨視!
 海賊赤格子九郎右衛門が召捕り処刑になったのは寛延《かんえん》二年三月のことで、所は大阪千日前、弟七郎兵衛、遊女かしく、三人同時に斬られたのである。訴え人は駕籠屋重右衛門。実名船越重右衛門と云えば阿波の大守蜂須賀侯家中で勘定方をしていた人物、剣道無類の達人である。
 係りの奉行はその時の月番東町奉行志摩|長門守《ながとのかみ》で捕方与力は鈴木利右衛門であった。
 処刑された時の九郎右衛門の年は四十五歳と註されている。彼には三人の子供があった。六松、一平、粂というのである。一平は早く病気で死に六松はお園と心中したので今に浄瑠璃に歌われている。
 お粂の消息に至っては世間知る人皆無である。しかし作者《わたし》だけは知っている。――知っていればこそこの物語を書きつづることが出来るのである。

 寛延二年から十五年を経た明和《めいわ》元年のことであったが、摂州萩の茶屋の松林に正月三日の夕陽《せきよう》が薄黄色く射していた。
 林の中に寮があった。今はすでに役を退いた志摩長門守の隠居所で、大身の旗本であったから二万石三万石の大名などより家計はかえって豊かと見えなかなか立派な寮であった。
 寮の座敷では年始の酒宴《さかもり》が、今陽気にひらかれている。
「さあさあ今日は遠慮はいらぬ。破目を外して飲んでくれ。それ一献、受けたり受けたり」
 隠居し、今は卜翁《ぼくおう》と号したが、志摩|景元《かげもと》は自分からはしゃいで[#「はしゃいで」に傍点]無礼講の意気を見せるのであった。
「御前もあのように有仰《おっしゃ》ります。遠慮は禁物でござります。……鈴木様、小宮山様、さあさあお過しなさりませ。おやどうなされました川島様、お酒の一斗も召し上ったように顔を真赤にお染め遊ばして、どれお酌致しましょう、もう一つおあがりなさりませ、……山崎様や、井上様、いつもお強い松井様まで、どうしたことか今日に限って一向にお逸《はず》みなされませぬな。さてはお酌がお気に召さぬそうな」
「なんのなんの飛んでもないことで。お菊様の進め上手に、つい平素《いつも》より度をすごし、眼は廻る、胸は早鐘、苦しんで居るところでございますわい」
 鈴木利右衛門はこう云いながらトンと額を叩いたものである。
「お菊お菊、構うことはない、どしどし酒を注いでやれ。何の鈴木がまだ酔うものか」
 卜翁は大変なご機嫌でこうお菊をけしかけ[#「けしかけ」に傍点]た。
 今日は五人の年始客は、卜翁が役に居った頃部下として使っていた与力であって、心の置けない連中だったので、酒が廻るに従って、勝手に破目を外し出した。袴を取って踊り出すものもあればお菊の弾《かな》でる三味線に合わせて渋い喉を聞かせるものも出て来た。それが又卜翁には面白いと見えてご機嫌はよくなるばかりである。
 騒ぎ疲労《つかれ》て静まった所で、ふと卜翁は云い出した。
「……御身《おみ》達いずれも四十以上であろうな。鈴木が年嵩で六十五か。……年を取ってもこの元気じゃもの壮年時代が思いやられる。……さればこそ一世の大海賊赤格子九郎右衛門も遁れることが出来ず、御身達の手に捕えられたのじゃ。……いや全く今から思ってもあれ[#「あれ」に傍点]は大きな捕物であったよ」
「はい左様でございますとも」
 鈴木利右衛門が膝を進めた。
「まさか海賊赤格子が身分を隠して陸へ上り、安治川《あじかわ》一丁目へ酒屋を出し梶屋などという屋号まで付けて商売をやって居ようなどとは夢にも存ぜず居りました所へ、重右衛門の訴人で左様と知った時には仰天したものでございます。……番太まで加えて百人余り、キリキリと家は取り巻いたものの相手は名に負う赤格子です、どんな策略があろうも知れずと、今でこそお話し致しますが尻込みしたものでございます」
「九郎右衛門めは奥の座敷で酒を呑んでいたそうじゃな」
「我々を見ても驚きもせず、悠々と呑んで居りました。その大胆さ小面憎さ、思わずカッと致しまして、飛び込んで行ったものでございます」
「そうしてお前がたった一人で家の中へ飛び込んで行き、九郎右衛門に傷《て》を負わせたため、さすがの九郎右衛門も自由を失い捕えられたということじゃな」
「先ず左様でございますな」
 利右衛門はいくらか得意そうに、こう云って頭を下げたものである。
 先刻《さっき》から恐ろしい熱心をもって話を聞いていた美しいお菊は、どうしたものか利右衛門の顔をこの時横眼で睨んだものである。
 何とも云えぬ物凄い睨視《にらみ》! 何とも云えぬ殺伐な睨視!

貴殿の背中に白い糸屑が!
 しかし勿論誰一人としてお菊の顔色の変わったことに不審を打とうとするものはなかった。
 尚ひとしきり赤格子の噂で酒宴の席は賑わった。その中《うち》日が暮れ夜となった。銀燭が華やかに座敷に点《とも》り肴が新しく並べられ一座はますます興に入り夜の更けるのを知らないようである。
 今の時間にして十時過ぎになるとさすがに人々は騒ぎ疲労たらしく次第に座敷は静かになった。
「私少しく遠方でござれば失礼ながらこれで中座を」
 こう云って利右衛門は腰を浮かせた。
「もう帰ると? まだよかろう。夜道には日の暮れる心配はない。……もっとも家は遠かったな」
「はい玉造でございますので」
「お前が帰ると云ったなら他の連中も遠慮して一時にバタバタ立ち上ろうもしれぬ。……それでは私《わし》が寂しいではないか」と卜翁は子供のように云うのであった。
 それでもとうとう利右衛門だけは中座することを許された。それに小宮山彦七も同じく玉造に家があったのでこれも一緒に帰ることになった。二人はお菊に送られて、定まらぬ足付きで玄関まで来ると、掛けてあった合羽を取ろうとした。
「いえお着せ致しましょう」
 お菊が代わって素早く取る。
「これはこれは恐縮千万」
 など、二人は云いながらも、素晴らしい別嬪の優しい手でフワリと肩へ掛けられるのだから悪い気持もしないらしい。戸外《そと》には下男の忠蔵が、身分にも似ない小粋な様子で提燈《ちょうちん》を持って立っていたが、
「|戎ノ宮《えびすのみや》の藪畳まで、私めお送り申しましょう」
「それには及ばぬ、結構々々。……折角のご主人のご厚意じゃ提燈だけは借りて参ろう」
 云いながら利右衛門は手を出した。忠蔵はちょっと渋ったが、それでも提燈は手渡した。
「では、お菊様、よろしくな」
 云いすてて二人は歩き出す。
「お大事においで遊ばしませ」
 お菊はつつましく手を突いて二人の姿を見送ったが、その眼を返すと忠蔵を見た。
 と、忠蔵もお菊を見た。
 二人は意味深く笑ったものである。

 霜夜に凍った田舎路を、一つの提燈に先を照らし、彦七と利右衛門とは歩いて行く。
「お互い金は欲しいものじゃ」
 利右衛門はふと[#「ふと」に傍点]こんなことを云った。
「はてね」と彦七は笑い声を立て、
「今更らしく何を有仰《おっしゃ》る」
「立派な寮、美しい愛妾。……卜翁様の豪奢振り、何と羨しいではござらぬかな」
「ははアなるほど、そのことでござるかな」
 彦七もどうやら胸に落ちたらしく、
「羨しいと申そうか小腹が立つと申そうか、今年六十二の卜翁が曾孫のような十八娘をああやっ[#「ああやっ」に傍点]て側へ引き付けて、我々にまで見せ付けられる。……その又|妾《めかけ》のお菊というのが、眼の覚めるほど綺麗な上に利口者の世辞上手。……」
「しかも今から一月ほど前に抱えた妾だと申すことじゃ。閨《ねや》の中まで思い遣られてなアッハハハ」と利右衛門は、卑しい笑い声を立てたものである。
 とたんに利右衛門は躓いた。
「あ痛!」と叫んで俯向いた。指の先でも打ったらしい。
 一足おくれて歩いていた小宮山彦七は驚いて、つと側へ寄って行ったが、
「あっ!」と叫んで立ち縮んだ。
「大変でござるぞ鈴木氏!」
「なに大変?」と利右衛門の方がかえって驚いて背を延ばしたが、
「はて何事か起こりましたかな? 顫えて居られるではござらぬか!」
「き、貴殿の……せ、背中に……」
「拙者の背中に何がござるな?」
「し、白い、……い、糸屑が……」
「ヒエーッ」と、利右衛門はのけぞっ[#「のけぞっ」に傍点]たが、よろよろと二三歩後へ退った。
 ……と見るや彦七の背中にも一房の白糸が下っている。
「や、や、貴殿の背中にも。……やっぱり同じ白糸が!」
「うわ!」と彦七はそれを聞くと、生気地なくベタベタと地へ坐った。
「エイ!」と右手の藪陰からその時に鋭い掛声が掛かった。
「うむう」と同時に呻き声がした。クルリ体を廻したかと思うと、仰向けに利右衛門は転がった。鋭利な削竹《そぎたけ》が節元まで深く咽喉に差さっている。
「人殺し!」と、彦七はやにわに喚いて飛び上ったが、
 それより早く藪陰からまたも同じ掛声がした。……声《こえ》と一|緒《しょ》に彦《ひこ》七も霜の大地へころがった。
 削竹が咽喉に立っている。

大阪界隈怪盗横行
 後は森然《しん》と静かである。
 さっきから今にも泣き出しそうにどんより[#「どんより」に傍点]曇っていた低い空から霙《みぞれ》がパラパラと降って来たが、それさえほん[#「ほん」に傍点]の一|瞬間《しきり》で、止んだ後は尚さびしい。
 藪がにわかにガサガサと揺れた。
 ひょい[#「ひょい」に傍点]と黒い人影が出る。頬冠りに尻|端折《はしょ》り、腰の辺りに削竹が五六本たばね[#「たばね」に傍点]られて差さっている。四辺《あたり》を静かに窺ってからつと[#「つと」に傍点]死骸へ近寄った。死骸の懐中《ふところ》へ手を突っ込むと財布をズルズルと引き出した。自分の懐中へツルリと入れる。雲切れがして星が出た。
 仄かに曲者の顔を照らす。
 曲者は下男の忠蔵であった。

「白糸」「削竹」のこの二つは、当時大阪を横行していた一群の怪賊の合言葉であった。そうして慣用の符号《マーク》でもあった。
 白い糸屑を付けられた「者」は必ず殺されなければならなかった。――又白い糸屑を付けられた「家」は必ず襲われなければならなかった。
 この怪奇な盗賊の群は今から数えて半年程前から大阪市中へは現われたのであって、一旦現われるや倏忽の間にその勢力を逞しゅうし、大阪市人の恐怖となった。
 噂によれば彼等の群はほとんど百人もあるらしく、しかも頭領は人もあろうに妙齢の美女だということであった。――彼等は平気で殺人もしたが町人や百姓には眼もくれず、定《き》まって武士《さむらい》へ向かって行き、好んで町奉行配下の士を暗殺するということであった。
 これも同じく噂ではあったが、この盗賊の一群は、大阪市中を流れている蜘蛛手のような堀割を利用し、帆船|端艇《はしけ》を繰り廻し、思う所へ横付けにし、電光石火に仕事を行《や》り、再び船へ取って返すや行方をくらますということであった。
 勿論東西の町奉行は与力同心に命を含め、この不届きの盗賊共を一網打尽に捕えようとして様々肺肝を砕くのではあったが、彼等の方が上手と見えいつも後手へ廻されていた。
 そのうち、鈴木利右衛門と小宮山彦七が殺されたのであった。昔名与力と謳われた二人がいかに年を取ったとは云え、刀を抜き合わせる暇《いとま》もなくむざむざ削竹に咽喉を貫ぬかれ、惨殺されたということは、一面から云えば不覚ではあったが、他面彼等盗賊の群がいかに強いかということの新しい証拠ともなるのであって、有司にとっても市民にとっても恐ろしく思われたのは云うまでもない。

「お菊や」と卜翁はお菊の部屋で、お菊の立ててくれた茶をすすりながら、何気ない調子で話した。
「私はこの頃元気がない。そして漸時《だんだん》痩せるような気がする。お菊お前には気が付かぬかな?」
「はい」とお菊は艶かに笑い、
「かえってこの頃お殿様はお健かにおなり遊ばしました。以前は夜などお苦しそうで容易にお睡り遊ばさず、徹夜《よあかし》したことなどもございましたが、この頃では大変楽々とお睡り遊ばすようでござります」
「そこだ」と卜翁は首をかしげ、
「すこしどうも睡り過ぎるようだ。……毎晩お前の立ててくれるこの一杯の薄茶を飲むと、地獄の底へでも引き込まれるようににわかに深い睡眠《ねむり》に誘われ、そのまま昏々睡ったが最後、明けの光の射す迄はかつて眼を覚ましたことはない」
「まアお殿様、何を有仰《おっしゃ》ります」
 お菊は柳眉をキリリと上げた。
「何か妾《わたし》がお殿様へ、毒なものでも差し上げるような、その惨酷《むご》い仰せられよう。あんまりでござんすあんまりでござんす。……それほど疑がわしく覚し召さば一層お暇を下さいまし。きっと生きては居りませぬ。淵川へなりと身を投げて……」
「ああこれこれ何を申す。……何のお前を疑うものか。暇くれなどとはもっての他じゃ。手放し難いは老後の妾《めかけ》と、ちゃんと下世話にもあるくらい、お前に行かれてなるものか。……とは云えどうもこの薄茶が……」
「お厭ならお捨なさりませ」
 お菊はツンと横を向いた。
「アッハハハ、また憤《おこ》ったか。そう老人《としより》を虐めるものではない。せっかくお前の立てた薄茶、捨るなどとは勿体ない話。どれそれでは。いいお手前じゃ」
 指で拭って前へ置き、その指を懐中《ふところ》の紙で拭いた。ともう睡気に襲われるのであった。
「プッ」とお菊は吹き出した。
「この寝顔のだらしなさ。昔の奉行が聞いて呆れるよ」

塩田の忠蔵身の上話
 コツコツコツコツと部屋の襖を窃《そっ》と指で打つ者がある。
「忠さんかえ、お入りよ」……お菊は云いながら襖をあけた。
 入って来たのは忠蔵である。
「姐御、首尾は? と云う所だが、首尾はいいに定《き》まっている。……さあソロソロ出かけやしょうぜ」
「あいよ」と云いながら立膝をして、煙草をパクパク吹かしている。
「忠さん、妾ゃア思うんだよ。まるで鱶《ふか》のような鼾をかいて、他愛なく寝ているこの爺さんが、十五年前はお町奉行でさ、長門守と任官し、稼人達に恐れられ、赤格子と異名を取ったほどの妾の父さん九郎右衛門殿を、千日前で首にしたとは、どっちから見たって見えないじゃないか、……今じゃ罪も憎気もない髯だらけの爺さんだよ」
「全く人間年を取ってはからしき[#「からしき」に傍点]駄目でござんすね」
「生命《いのち》を狙う仇敵《てき》とも知らず、この日頃からこの妾をまアどんなに可愛がるだろう」
「うへえ、姐御、惚気ですかい」
「と云う訳でもないんだがね、今も今とてこの毒薬を薄々感付いて居りながら、妾がふっ[#「ふっ」に傍点]と怒って見せたら笑って機嫌よく飲んだものだよ」
「南蛮渡来の眠薬に砒石を雑ぜたこの薄茶、さぞ飲み工合がようござんしょう」
「一思いに殺さばこそ、一日々々体を腐らせ骨を溶解《と》かして殺そうというのもお父様の怨みが晴らしたいからさ」
「しかし迂闊《うっか》り[#「迂闊《うっか》り」は底本では「迂闊《うっかり》り」]油断するとあべこべ[#「あべこべ」に傍点]に逆捻を喰いますぜ。……大方船出の準備も出来、物品《もの》も人間《ひと》も揃いやした。片付けるもの[#「もの」に傍点]は片付けてしまい、急いで海に乗り出した方が、皆の為じゃありませんかな」
「それも一つの考えだが、まだこの妾には品物が少し不足に思われてね」
「何も買入れた品物じゃなし、資本《もとで》いらずに仕入れた品、見切り時が肝腎ですよ。そうこう云っているうちに、一人でも仲間が上げられたひにゃア、悉皆ぐれ[#「ぐれ」に傍点]蛤《はま》になろうもしれず……」
「おや一体どうしたんだい。お前も塩田の忠蔵じゃないか。莫迦に弱い音をお吹きだねえ」
 お菊はニヤリと嘲笑った。
「姐御に逢っちゃ適《かな》わない。私《わっち》は案外臆病者でね。……そりゃ肩書もござんすが、この肩書の塩田というのが、そもそもヤクザの証拠でね、私の国は播州赤穂、塩田事業の多い所で、私の家もお多分に洩れず、山屋といって塩造、土地でも一流の方でしたが、鷹の産んだ鳶とでも云おうか、産まれながらこの私だけ、誰にも似ない無頼漢《やくざもの》、十五の時から家を抜け出し今年で二十年三十五歳、国へも家へも寄り付かず気儘にくらして居りましたところ、今から数えて十八年前、人の噂で聞いたところ、私の一家は海賊に襲われ、その時漸く五つになった妹のお浪たった一人だけ、乳母に抱かれて逃げたばかり後は残らず殺されたとか。……驚いても悲しんでも過ぎ去ったことはどうにもならず、それから一層邪道に入り今では立派な夜働き、しかし魂は腐っても兄妹の情は切っても切れず、一人生き残った妹お浪を右腕の痣を証拠にして探しあてようとこの年月心掛けては居りやすが、いまだに在家《ありか》の知れないのは運の尽きか死んだのか、心残りでございますよ。……なアんて詰まらない身の上話に大事な時を無駄にした。さあ姐御、参りやしょう。仲間が待って居りやしょうに」
 二人はスルリと部屋を出た。
 後には卜翁の寝息ばかりがさも安らかに聞こえている。

誰白浪の夜働
 こういうことがあってから二十日あまりの日が経った。
 夜桜の候となったのである。
 ここは寂しい木津川《きつがわ》縁で、うるんだ春の二十日月が、岸に並んで花咲いている桜並木の梢にかかり、蒼茫と煙った川水に一所影を宿している。
 と、パタパタと足音がして、一人の娘が来かかったが、風俗を見れば確かに夜鷹、どうやら急いでいるらしい。
「はてマアどこへ行った事か、ここまで後を追って来て、今さら姿を見失っては、せっかくの親切が行き届かぬ。と云ってこれから川下は人家もない寂しい場所、女の身では恐ろしい」
 ――とたんに若い女の声で、
「あれッ」と云う声が聞こえてきた。
 はっ[#「はっ」に傍点]と驚いて声の来た方を、夜鷹はじっと隙かして見た。夜眼にも華やかな振袖姿、一人の娘が川下から脛もあらわに走って来たが、
「助けて!」と叫ぶ声と一緒に犇《ひし》と夜鷹へ抱き付いた。それをその儘しか[#「しか」に傍点]と抱き、
「見れば可愛らしいお娘御、こんな夜更けに何をしてこんな[#「こんな」に傍点]所においでなさんす」
「はい」と云ったがなお娘は、恐ろしさに魂も身に添わぬか、ガタガタ胴を顫わせながら、
「はい、妾《わたし》は京橋の者、悪漢共に誘拐《かどわか》され、蘆の間に押し伏せられ手籠めに合おうとしましたのを、やっとのことで擦り抜けてそれこそ夢とも現とも、ここまで逃げて参りました。後から追って来ようもしれず、お助けなされて下さりませ」
「それはまアお気の毒な。いえいえ妾がこうやって一度お助けしたからは、例え悪漢《わるもの》が追って来ようと渡すものではござんせぬ。それはご安心なさりませ」
「はい有難う存じます」
 こう娘は云ったものの、不思議そうに夜鷹を眺め、
「お見受けすればお前様もまだ若い娘御こんな夜更けに何をして?」
「ああその事でござんすか。……何と申してよろしいやら。……」
 袖で顔をかくしたが、
「こういう寂しい場所へ出て客を引くのが妾の商売、……妾は夜鷹でござんすよ。――どうやら吃驚《びっくり》なされたご様子。決してご心配には及びませぬ。心は案外正直でござんす。……実は難波桜川で、はじめてのお客を引きましたところ、わたしの初心《うぶ》の様子を見て、かえって不心得を訓しめられ、一朱ばかり頂戴し、別れた後で往来を見れば、大金を入れた革財布が……」
「おお落ちて居りましたか?」
「中味を見れば二百両」
「え、二百両? むうう、大金!」
「はい、大金でございますとも。すぐに後を追っかけて、ここまで走って来は来ましたが……」
「見付かりましたか、落し主は?」
「いいえ、それがどこへ行ったものか、見失ってしまいました」
「それでは財布はそっくり[#「そっくり」に傍点]その儘……」
「妾の懐中《ふところ》にござんすとも」
「おやまアそれはいい幸い、どれ妾に障《さわ》らせておくれ」
 グイと腕を差し延ばすと、夜鷹の胸元へ突っ込んだ。
「あれ!」と云う間もあらばこそ、ズルズルと財布は引き出された。
「それじゃお前は泥棒だね!」
「今それに気がお付きか! こう見えても女賊の張本赤格子九郎右衛門の娘だよ!」
「泥棒! 泥棒!」と喚き立てる夜鷹。
「ええ八釜敷《やかましい》!」とサット突く。
 ドンという水の音。パッと立つ水煙り。夜鷹は木津川へ投げ込まれた。
 その時、黒い人影が川下の方から走って来たが、
「そこに居るのは姐御じゃねえか」
 近寄るままに声を掛ける。
「ああ忠さんかいどうおしだえ?」
「ひでえ目に逢いましたよ」
「眼端の鋭いお前さんが、酷い目に逢ったとは面白いね。何を一体|縮尻《しくじっ》たんだえ?」
「何ね中之島の蔵屋敷前で、老人《としより》の武士《りゃんこ》を叩斬り、懐中物を抜いたはいいが、桜川辺りの往来でそいつを落としてしまったんだ。つまらない目にあいやしたよ」
 聞くとお菊はプッと吹き出し、
「落とした金は二百両かえ?」
「へえ、いかにも二百両で……」
「革の財布に入れたままで?」
「こりゃ面妖だ。こいつア不思議だ!」
「女を買うもいいけれど、夜鷹だけは止めたがいいね」
「…………」
「何だ詰まらないお前の金か。無益の殺生したものさね。……さあ返すよ。それお取り」

「殿様、今夜は漁《と》れましょうぜ。潮の加減でわかりまさあ」
 ギーギーと櫓を漕ぎながら漁師は元気よく云うのであった。
「おお漁れそうかな。それは有難い網の上らぬほど漁りたいものだ」
 船の中から老武士が髯を撫しながら悠然と云った。それは志摩卜翁であった。
「殿様、塩梅《あんべえ》が悪いそうだね」
「どうも体がよくないよ」
「若い女子ばかり傍《そば》へ引き付け、あんまり不養生さっしゃるからだ」
「アッハハハこれは驚いた。すこし攻撃が手酷《てひ》どすぎるぞ。とは云え確かに一理はあるな。実は俺も考えたのじゃ。どうも運動が足りないようだとな。そこで投網《とあみ》をやりだしたのさ」
「投網結構でございますよ。いい運動になりますだ。……おおもうここは木津川口だ。そろそろ網を入れましょうかな。あッ、畜生! これは何だ!」
「どうした?」と卜翁は膝を立てた。
「お客様だア! 土左衛門でごわす!」

不思議な邂逅
「なに、水死人だ? それ引き上げろ!」
 卜翁は烈しく下知をした。そうして自分も手伝って若い女の死骸を上げた。
「漁は止めだ。船を漕いで一刻も早く陸へ着けろ」
「へえへえ宜敷うござります」
 漁師はすっかり狼狽してただ無闇と櫓を漕いだ。
 卜翁は女の鳩尾《みぞおち》の辺りへじっと片手を当てて見たが、
「うむ、有難い、体温《ぬくみ》がある。手当てをしたら助かるであろう。まだ浦若い娘だのに殺してしまっては気の毒だ。爺々《おやじおやじ》もっと漕げ!」
「へえへえ宜敷うござります」
 船は闇夜の海の上を矢のように陸の方へ駛《はし》って行く。

 その翌日のことであった。
 落花を掃きながら忠蔵はそれとなく亭《ちん》の方へ寄って行った。亭の中にはお菊がいる。とほん[#「とほん」に傍点]としたような顔をして当てもなく四辺《あたり》を眺めている。
「姐御、変なことになりましたぜ」
 忠蔵は窃《そ》っと囁いた。
「昨夜《ゆうべ》の女が死にもせず、旦那に命を助けられてここへ来ようとはコリャどうじゃ」
「お釈迦様でも知らないってね、……お前さんはそれでもまだいいよ。妾の身にもなってごらん。本当に耐《たま》ったものじゃないよ。とにかく妾はあの女を川へ蹴落したに相違ないんだからね。これが旦那に暴露《ばれ》ようものなら妾達の素性も自然と知れ、三尺高い木の上で首を曝さなけりゃならないんだよ」
「姐御、逃げやしょう。逃げるが勝だ」
「そうさ、逃げるが勝だけれど、親の敵を討ちもせず、あべこべに追われて逃げるなんて妾は癪でしかたがないよ」
「と云ってみすみすここにいてはこっちのお蔵に火が付きやすぜ」
「とにかくもう少し様子を見ようよ。と云って妾は行かれない」
「へえそれじゃこの私《あっし》に様子を見ろと仰有《おっしゃ》るので? どうもね、私にはその悠長が心にかかってならないのですよ。いっそこの儘突っ走った方が結句安全じゃありませんかね」
 お菊は返辞をしなかった。
 陽が次第に暮れて来る。

 こういうことがあってから二十日あまりの日が経った。三日見ぬ間に散るという桜の花は名残なく散り、昔のことなど思い出される、山吹の花の季節となった。
 この頃水死から助けられた辻君のお袖は元気を恢復し、卜翁の好意ある進めに従い、穢わしい商売から足を洗い、一つは卜翁への恩返し、小間使いとして働くことになり、病気と云って誰にも逢わず離れ座敷に引き籠もっている妾《めかけ》のお菊の代理として今では卜翁の身の廻りまで手伝う身分となっていた。
 日向《ひあた》りのよい離れ座敷の丸窓の下で出逢ったのは、そのお袖と忠蔵とである。
「おや忠さん、いい天気だね」
「そうさ、莫迦にいい天気だなあ。そうそう夏めいたというものだろう」
 云いすてて忠蔵は行き過ぎようとした。
「ちょいと忠さん、待っておくれよ。そう逃げないでもいいじゃないか」
「なアに別に逃げはしないが、それ諺《ことわざ》にもある通り男女七歳にして席を同じうせずか。殊にこちらの旦那様は大変風儀がやかましいのでね」
「でもね、忠さん、立ち話ぐらい、奉公人同志何悪かろう。……ところで妾はたった[#「たった」に傍点]一つだけ訊きたいことがあるのだよ」
「そりゃ一体どんなことだね?」
 しかたなく忠蔵はこう云った。
「他でもないが二十日ほど前、それも夜の夜中にね、大阪難波桜川辺りを通ったことはなかったかね?」
 ――そりゃこそお出でなすったは。こう忠蔵は思ったもののそんな気振はおくび[#「おくび」に傍点]にも出さず。
「いいや、ないね。通ったことはない」
「それでもその時のお客というのがそれこそお前さんと瓜二つだがね」
「夜目遠目傘の中他人の空似ということもある」
「それじゃやっぱり人違いかねえ」
 お袖はじっと思案したが、
「なるほど、人違いに相違ない。お前さんがあの時のお客なら妾の顔を見るや否や忘れて行ったお金のことを直ぐに訊かなければならないものね」
「へえ、それではその野郎は財布でも忘れて行ったのかね!」
 わざ[#「わざ」に傍点]ととぼ[#「とぼ」に傍点]けて忠蔵は訊く。
「しかもお前さん二百両という大金の入った財布をね」
「おやおや広い世間にとぼ[#「とぼ」に傍点]けた野郎があるものだね」
 ポンと自分の額を叩き、
「夜鷹を買って財布を落とし、それを姐御に横取りされ……」
「エヘン」とこの時、丸窓の内から、咳の声が聞こえてきた。気が付いた忠蔵は苦笑をし。
「何さ、お前さんの前身が闇を世界の姐御などにはとても見えねえと云ったまでさ」

南無三宝! 絶体絶命!
「妾の前身でござんすか」
 お袖はにわかに眼をしばたたき、
「卑しい夜鷹ではござんしたが、根からの夜鷹ではござんせぬ」
「そりゃ云うまでもないことさ。オギャーと産れたその時から夜鷹商売をするものはねえ」
「妾は播州赤穂産れ。家は塩屋でござんした」
「何、赤穂の塩屋だって? ふうむ、こいつは聞き流せねえ。ところで屋号は何と云ったね?」
 忠蔵は急に真顔になった。
「はい、山屋と云いましたよ」
「ぷッ」と驚いた忠蔵はつくづくとお袖の顔を見たが。
「それじゃもしや本名は……」
「はい、本名でござんすか。本名はお浪と申します」
「ううむ、お浪! ではいよいよ。……もしやお前の右の腕に、蟹に似た痣はなかったかな?」
「どうして詳くそんな事まで……」
 不思議そうにお袖は云いながらグイと袂を捲り上げた。むっちり[#「むっちり」に傍点]と白い二の腕のあたり鮮かに見える蟹の痣。
「あッ」と驚いた忠蔵がヨロヨロと蹣跚《よろめ》くその途端、丸窓の障子に音がして、ヒューッと白い物が飛んで来た。それがお袖の襟上に刺さる。白糸の付いた、木綿針だ! お袖を殺せとの命令である。丸窓の内から九郎右衛門の娘、お菊が投げたに相違ない。
 仲間の掟は山より重い。頭領《かしら》の命令は義よりも堅い。たとえ妹であろうとも、白糸の合図があった以上、殺さなければならないのである。
「南無三宝! 絶体絶命!」
 腹の中で泣きながら、呑んでいた匕首《あいくち》を抜いた途端、
「お袖、お袖!」と卜翁の声、母屋の縁に立って招いている。
「はい、ただ今」と云いながら、背中に白糸を付けたまま、バタバタとお袖は走って行った。
 胸撫で下ろした忠蔵がホッと溜息を吐いた時、サラリと丸窓が内から開き、
「おい忠蔵!」とお菊の声。
 無言で忠蔵は眼を上げた。
「因果は巡る小車の、とんだ事になったねえ。ホッホッホッホッ」と凄く笑う。
 しかし忠蔵は黙っている。
「お前の妹と知ったなら川へ落としもしなかったろうに。いわば妾はお前にとっては妹の敵と云うところさね。それに反して卜翁めは、お前にとっては妹の恩人。その恩人の卜翁を妾は父の敵として嬲り殺しにしているのだよ。……遠慮はいらない明瞭《はっきり》とお云い! 妾に従《つ》くか卜翁に従くか? 妾は十まで数えよう。その間に決心するがいい。一つ、二つ、三つ、四つ」
「姐御」と忠蔵は冷やかに云った。
「もう数えるには及ばねえ。とうに決心は付いてるのだ。そも悪党には情はねえ。肉親の愛に溺れた日にゃ、一刻も泥棒はしていられねえ。今更姐御に背かれようか」
「おおそれでこそ妾の片腕。いい度胸だと褒めてもやろうよ。……変心しないその証拠に今夜お袖をしとめておしまい!」
「え! 罪もねえ妹を※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「妾も卜翁をばらす[#「ばらす」に傍点]からさ」
「その卜翁は姐御の敵。ばらす[#「ばらす」に傍点]というのも解《わか》っているが、妹には罪も咎もねえ」
「それでは厭だと云うのかい?」
 お菊はキリリと眉を上げた。
「…………」
 忠蔵は歯を噛むばかりである。
「およしよ」と一句冷やかに、お菊は障子を締め切った。
「姐御!」と忠蔵は声を掛けた、丸窓の内は静かである。
「うん」と忠蔵は頷いたが。
「姐御々々やっつけ[#「やっつけ」に傍点]やしょう!」
「後夜の鐘の鳴る頃に……」
 丸窓の奥からお菊が云った。
「後夜の鐘の鳴る頃に……」
 忠蔵がそれをなぞって[#「なぞって」に傍点]行く。
「妾はここで三味線を弾こう。それが合図さ。きっとおやりよ」

怨みは深し畜生道
 やがて日が暮れ夜となった。
 夜は森々《しんしん》と更けている。
 卜翁の部屋は静かである――お袖とそして卜翁とが、今、しめやかに話している。
「さてお袖」と卜翁は、真面目の口調で改めて云った。
「水死を助けてこの家へ置き、ひそかに様子を見ていると、前身夜鷹とは思われないほど行儀正しい立居振舞。さて不思議と思っていたが、今のお前の物語でよくお前の素性も解《わか》った。播州赤穂の山屋といえば大阪までも響いていた立派な塩の製造業。そこの娘とあるからはなるほど行儀もよいはずじゃ。氏より育ちとは云うけれど、やはり氏がよくなければどことなく品が落ちるものじゃ。……そこでお前に訊くことがある。十八年前海賊が突然お前の実家を襲い一家惨殺した上に家財をあげて奪ったという、その海賊の頭領の名を、其方《そち》はどうやら知らぬらしいの」
「はい」とお袖は打ち湿り。
「ただ恐ろしい海賊が、ある夜海から襲って参り、妾の家を惨酷《むごたら》しく、滅して行ったと聞いたばかり、妾はその時僅か五歳《いつつ》、乳母に抱かれて山手へ逃げ、そのまま乳母の実家で育ち、十五の春まで暮らしましたが乳母が病気で死にましてからは、日に日に悲しいことばかり、とうとう人外の夜鷹とまで零落《おちぶ》れましてござりますが、いまだに海賊の名も知らず残念に存じて居りまする」
「そうであろうと察していた。……その海賊が何者であるか俺《わし》が教えて進ぜよう」
「え」とお袖は驚いた。
「おおそれではお殿様にはご存じなのでござりますか?」
「おお俺は知って居る」
 卜翁は白髯をしごいたが、
「俺は海賊の本人から親しく聞いて知って居るのじゃ」
 卜翁は遠い昔のことでも思い出そうとするかのように軽くその眼を瞑ったが。
「あの頃俺は官に居た。長門守《ながとのかみ》と守名を宣り大阪町奉行を勤めていた。ちょうどその頃のことであるが、瀬戸内海の大海賊赤格子九郎右衛門をひっ[#「ひっ」に傍点]捕え千日前の刑場で獄門に掛けたことがある。その赤格子九郎右衛門こそ其方《そなた》にとっては父母の仇又一家の仇なのじゃ」
 ふと[#「ふと」に傍点]卜翁は話をやめた。そうして耳を傾けた。廊下に当たってミシリという人の足音が聞こえたからである。
 誰か立聞きでもしているらしい。
「誰じゃ!」と卜翁は声を掛けた。
 しかし答える者もない。
 と、その時近くの寺で、搗き鳴らすらしい鐘の音がボーンと尾を曳いて聞こえてきた。
「おおもう後夜か」と指を折る。
 その時庭の離れ座敷から三味線の音が聞こえてきた。唄うは何? 江戸唄らしい。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]ほんに思えば昨日今日
…………
[#ここで字下げ終わり]
 それはお菊の声であった。
「人を避けて籠っていたが、今夜は気分がよいと見えて、あのように唄をうとうている」
 卜翁は機嫌よく呟いた。
 とミシリと音がする。
「お袖ちょっと見て参れ!」
「はい」と云って立ち上り廊下の方へクルリと向く。背後《うしろ》姿に眼を付けた卜翁。
「おっ! 白糸!」と声を上げた。
 とたんに「エイッ」と鋭い掛声。障子を貫いた削竹《そぎたけ》がお袖の喉に突立った。
 やにわに刀をひっさげて。
「曲者!」と卜翁は飛び上る。
「あッ」という苦痛の声。続いて「むう」と云う唸り声が廊下にあたって聞こえてきた。
 颯《さっ》と卜翁は障子を開けた。その眼前《めのまえ》の廊下の上にのた[#「のた」に傍点]打っているのは忠蔵である。我と我喉を削竹で裏掻くまでに突き刺している。片手にもったは封無しの書面。「ご主人様へ」と血で書いてある。
 卜翁はつと[#「つと」に傍点]取り上げた行燈の燈で読んで行く。
 ――こういう意味のことが書かれてある。
 我《わたし》は賊でございます。海賊赤格子九郎右衛門の娘本名お粂、今の名はお菊、すなわち殿様のご愛妾、お菊殿の一の乾児、海蛇の忠蔵とは私のこと。殿様のお命を害《あや》めんためお菊殿共々お屋敷へ住み込み、機会を窺って居りました次第。とは云え性来の海賊ではなく産れは播州赤穂城下、塩田業山屋こそは私の実家でござります。……
「何」と卜翁は驚いた。
「山屋の倅《せがれ》というからには、このお袖とは兄妹じゃ。それを殺すとは不思議千万。待て待て後を読んで見よう」

この危難に三味線の音
 ――手紙の文字は尚つづく。
「……知らぬこととは云いながら兄妹契りを結ぶとは取りも直さず畜生道。二人ながら活きては居られず、かつは頭領《かしら》の命令《いいつけ》もあり、今宵忍んで妹めを打ち果たしましてござります。……」
 ここまで読んで来て卜翁は初めて意味が解ったと見え、手紙をクルクルと巻き納めた。それからお袖の側《そば》へ寄り静かに体を抱き起こした。
 もう呼吸《いき》は絶えている。
 卜翁は忠蔵を抱き起こした。
 と、忠蔵は眼を開けた。
「これ忠蔵」と忍び音に卜翁は耳元で呼ばった。
「様子は解った気の毒な身の上。卜翁の命を狙ったことも決して怨みには思わぬぞ。お袖は死んだ。お前も死ね」
「ああ有難う存じます」
「ただし一つ合点のゆかぬは、山屋を滅ぼした赤格子一家は其方《そち》の仇じゃ。しかるを何故その赤格子の一味徒党とはなったるぞ?」
「……知らぬが仏とは正しくこの事。存ぜぬこととは云いながら今日が日まで一家の仇赤格子の娘の手下となりうかうか暮らして居りましたこと残念至極に存じます」
「…………」
「妹お袖へお話し下されたお殿様のお話で初めて知りましてござります」
 この時、遥かの海上に当って、吹き鳴らすらしい法螺の音が、夜気を貫いて陰々と手に取るように聞こえてきた。
 一方、こなた離れ座敷では、お菊が、三味線を弾いている。
 と、遥かの海上にあたって法螺の音が響き渡った。
「あッ」と驚いて弾く手を止め、スックとばかり立ち上る。
 ボ――、ボ――、ボ、ボ、ボ――
 それは正しく仲間の合図だ、しかも敵に襲われたという非常を知らせる法螺の音だ。
「さては住吉の海上へ、商船《あきないぶね》に装わせ、碇泊《ふながか》りさせた毛剃丸《けぞりまる》、捕方共に囲まれたと見える。これはこうしてはいられない」
 パッと裳《もすそ》を蹴散らかしバタバタと縁へ走り出たがガラリと開けた雨戸の隙から、掛声もなく突き出された十手!
「南無三!」と、お菊は雨戸を閉じガッチリ閾《しきい》をおろして置いて、今度は窃と足音を忍ばせ、丸窓の側《そば》へ寄って行く。
 細目に障子を開けると同時に。
「ご用だ!」と鋭い捕手の声。
「もう不可《いけな》い。手が廻った」
 お菊は部屋へ帰って来ると、悪びれもせず端然と坐り、またも三味線を弾き出した。

 ドンドンドンドン。
 戸を叩く音が玄関の方から聞こえてくる。
 卜翁は忠蔵の死骸をお袖と一緒に寝かせて置いて自身玄関へ出て行った。
「何人《どなた》でござる?」と忍音に問う。
「西町奉行手付の与力、本條鹿十郎と申す者。至急ご主人に御意得たく深夜押して参ってござる。ここお開け下されい」
「それはそれはご苦労千万。拙者すなわち卜翁でござる」
 こう云いながら戸を開けた。
「いざこなたへ」と自分で導き、玄関脇の部屋へ通す。
「ご用の筋は?」と卜翁は訊いた。
「実は」と本條鹿十郎は、声を低く落しながら、
「住吉の海上におきまして海賊船を見付けましてござる」
 こう云って卜翁の様子をうかがう。
「何、住吉の海上で海賊船を見付けたとな。それは何よりお手柄お手柄。して勿論海賊船は取り抑えたでござろうな?」
「それが……」と本條鹿十郎は、云い悪《に》くそうに云うのであった。
「取り逃がしましてござります」
「なに逃がした? 逃がしたと仰有《おっしゃ》るか? 怠慢至極ではござらぬかな」
 志摩卜翁は嘲るように白髯を撫しながら云うのであった。
「しかし」と鹿十郎は自信あり気に、
「海賊船こそ取り逃がしましたが、主立った海賊を二三人召捕りましてござりますれば、そやつ等を窮命致しましたなら自ら行衛は知れましょう。この点ご心配には及びませぬ」
「左様か」と卜翁は素気なく、
「して拙宅を訪ねられたは何かご用のござってかな?」
「左様」と鹿十郎は云ったものの、どうやらその後を云いにくそうに暫くじっ[#「じっ」に傍点]と俯向いていたが、
「卒爾《そつじ》のお尋ねではござりますが、もしやお屋敷の召使中にお菊と宣るものござりましょうか?」
「お菊? お菊? いかにも居ります」
「実は」と鹿十郎は膝を進め、
「召捕りましたる海賊の口より確《しか》と聞きましたる所によれば、その女子こそ海賊船の頭領《かしら》とのことにござります」
「ははあなるほど。左様でござるかな」
 卜翁はいかにも平然と、
「それで訪ねてまいられたか?」
「はい追い込んで参りました」
「お菊は拙者の妾《めかけ》でござる」
「ははあ左様でござりますか」
 今度はかえって鹿十郎の方が一向平気でこう云った。

毛剃丸の行方
「追い込んで参ったというからには、いずれ屋敷の四方八方、捕方を配したでござろうな?」
 探るように卜翁は訊く。
「仰せの通りにござります。はなはだ失礼とは存じましたが、お庭内まで乱入致し、離れ座敷の出入口まで人を配りましてござります」
「や、それこそお手柄でござった。お菊はあそこに居るのでござるよ」
「ははあ左様でござりますか」
「ところで」と卜翁は形を改め、
「お菊は拙者の妾でござる。日頃不愍をかけた女。お手前達の手籠めに逢い縄目の恥辱蒙るのをただ黙って見ているのもはなはだ愍然と存ずるについては、拙者より直々因果を含め、宣《なの》り出るよう致させましょうがこの儀何と覚し召すな」
「さあ」と云って苦い顔をする。
「卜翁をご信用なされぬそうな」
「なかなかもって左様なこと。……」
「拙者昔は町奉行でござった」
「よく存じて居ります」
「しからばご信用下されい」
「…………」
「厭と申されるか」と叱咤する。
「しからば宜しく」と鹿十郎は云った。無論止むを得ず、云ったのである。
「おおお任せ下さるとな。忝《かたじ》けのうござる忝けのうござる」
 つと[#「つと」に傍点]卜翁は立ち上り奥の部屋へ引っ込んだ。
 鹿十郎も立ち上り玄関から裏の方へ廻って行った。
 離れ座敷をグルリと囲繞《とりま》き真黒に捕方が集まっている。しかも座敷の中からは三味線が長閑《のどか》に聞こえてくる。
 と、主屋から飛石づたいに卜翁の姿が現われた。
 卜翁は雨戸をトントンと打つ。
「お菊、俺《わし》じゃ、雨戸をあけい」
 三味線の音が急に止み、サラサラと衣擦れの音がした。と、雨戸が静かに引かれ颯と燈火《ひかり》が庭へ射した。
 つと[#「つと」に傍点]卜翁は中へ入る。ふたたび雨戸は中からとざされ、そのまま寂然と静かになった。
 本條鹿十郎は聞耳を立て家内の様子を窺ったが何の物音も聞こえない。
「はてな」と小首を傾けた。
 その時、突然、家の中から、「あっ!」という女の悲鳴、つづいてドンと重い物が畳へ落ちる音がした。
「しまった!」と鹿十郎が呻いた時、雨戸が中からあけられた。
 そこへ立ったは卜翁である。
「本條氏、本條氏!」
「はっ」と云って鹿十郎、ツツ――と前へ進み出た。
「因果を含め観念させ、自首させようと致しましたる所、さすが女の心弱く、急に自害致しましたれば止むなく拙者首打ってござる。いざ首級《くび》お受け取り下されい」

 こういうことがあってから数日経ったある日のこと、瀬戸内海を堂々と一隻の親船が駛《はし》っていた。船首に描かれた三個の文字それは「毛剃丸」というのである。
 今、甲板に腹巻を着け陣羽織を着た美丈夫が日没の余光虹よりも美しい西の空を眺めながら感慨深く佇んでいたが、これぞ赤格子九郎右衛門の娘、お菊事本名お粂であった。
 船には無数の珍器宝物高貴の織物が積んである。その為船は船足重く喫水深く見えるのであった。
 支那の港香港を指して駸々と駛って行くのである。そうしてそこで、利益の多い貿易事業をするのであった。
 しかし、一旦首を討たれ死んだはずの赤格子の娘がどうして生きているのであろう?
 贋首を使ったからである。――それはお袖の首なのであった。
 自分の生命《いのち》を狙ったというに、贋首の計を使ってまで、何故卜翁は赤格子の娘お粂の生命を救ったのであろう?
 一つはお粂を愛していたため、そしてもう一つは女の身で、復讐を心掛けた健気《けなげ》さに感動したからだということである。
 さあれ、お粂はこの時以来フッツリ海賊の生活を捨、一躍立派な貿易商に一変したということである。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
   1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「ポケット」
   1925(大正14)年2月~3月
※「仰有る」と「有仰る」の混在は、底本通りです。
※「サット」は底本通りです。
※「グイと腕を差し延ばすと、夜鷹の胸元へ突っ込んだ。」は底本では天付きです。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

赤格子九郎右衛門—- 国枝史郎

     

 江川太郎左衛門、名は英竜、号は坦庵、字は九淵世々韮山の代官であって、高島秋帆の門に入り火術の蘊奥を極わめた英傑、和漢洋の学に秀で、多くの門弟を取り立てたが、中に二人の弟子が有って出藍の誉を謳われた。即ち、一人は川路聖謨、もう一人は佐久間象山であった。象山の弟子に吉田松陰があり、松陰の弟子には伊藤、井上、所謂維新の元勲がある。
 所で江川太郎左衛門には一人の異色ある弟子があった。それは金限《かねもち》の御家人の伜で、宮河雪次郎と宣《なの》る男で後年号を雪斎と云った。この雪次郎は面白いことには、江川塾へ這入ったものの、別に砲術を究めるでもなく、又蘭学を学ぶでもなく、のらりくらり[#「のらりくらり」に傍点]としていたが、俄然一書を著わした。即ち、「緑林黒白」である。
 この「緑林黒白」こそは、日本、支那、朝鮮に輩出した巨盗大賊の伝記であって、行文の妙、考証の厳、新説百出、規模雄大、奇々怪々たる珍書であったが、惜しい事には維新の際、殆ど失われたということである。つまり兵燹《へいせん》に焼かれたのである。
 然るに夫《そ》れを、偶然のことから、私は完全に手に入れた。何んという好運であったろう。そこで私は夫れを材料《たね》として、是迄|幾個《いくつ》かの物語を諸種の雑誌へ発表したが、今回は赤格子九郎右衛門に就き、「緑林黒白」に憑拠して考察を加えて見ようかと思う。
 先ず第一に云って置き度い事は、私の物語に現れて来る、快男子赤格子九郎右衛門なる者は、従来の芝居や稗史小説で、嘘八百を語り伝えられて来たその人物とはあらゆる点に於て、大いに相違があるという事である。その最も著しい点は、彼の現れた時代である。彼は小説で云われているような享保年間の人物では無く実に豊臣の晩年から徳川時代の初期にかけて、内外に勇名を轟かせた所の、堂々たる一個の武人なのである。
 而《そし》て又「緑林黒白」によれば、彼九郎右衛門は賊では無くて、誠に熟練した忍術家であり、豊臣秀吉に重用された所の、細作、即ち隠密だそうである。
 彼は度々秀吉の命で、西国外様の大名や関東徳川家などの内幕を、得意の忍術を応用して、深く探ったとも云われている。
 ところで彼を秀吉へ誰が推薦したかというと、千利休だということである。夫れに関しては次のような極わめて面白い物語がある。
 博多の豪商、神谷宗湛に、先祖より家宝として伝え来った楢柴という茶入があった。最初にそれを所望したのは豊後の大友宗麟であったが宗湛はニベも無く断わった。次に秋月種実が強迫的に得ようとしたが呂宋《るそん》、暹羅《しゃむ》、明国を股にかけ、地獄をも天国をも恐れようとはしない海上王たる宗湛に執っては、強迫が強迫に成らなかった。で、ニベも無く断わった。最後に夫れを望んだは他ならぬ豊臣秀吉であった。然るに宗湛は夫れをさえ、情《すげ》なく断わって了ったのである。
 併し、名に負う天下人が、一旦所望したからは、いかに宗湛が強情でも遂には命に従わなければならない。斯うして遂々其茶入は、秀吉の有に帰したのである。
 楢柴を得た秀吉は、勿論非常に喜んだが、そういう名器であって見れば、迂濶に左右に置くことも出来ぬ。で、利休へ預けたのである。
 常時[#「常時」はママ]利休は茶博士として生きながら居士号を許された名家、且は秀吉の師匠ではあり、城内に屋敷を賜わって並び無き権勢を揮っていたが、名器楢柴を預かって以来、度々怪異に襲われるようになった。
 或夜、利休は供も連れず静かに庭を彷徨っていた。さび[#「さび」に傍点]と豪奢とを一つに蒐め、彼自ら手を下して造り上げたところの庭であるから、一本の木にも一坐の山にも悉く神経が通っている。
 彼は亭《ちん》の前まで来た、其横手に石燈籠が幽《かすか》に一基燈っている。
「はて」と不思議そうに呟き乍ら、彼は其前に彳《たたず》んだ。どう考えても其辺に石燈籠があるわけが無い。其処には燈籠は置かなかった筈だ。そこに燈籠のあるということは、彼の流儀に反している。
 で彼は小首を傾げながら、何時迄も其前に立っていた。
 すると、あやしくも、燈籠の火が、次第々々に明るくなり、空に太陽でも出たかのように庭一面輝き渡ったが、次の瞬間には忽然と消えて、今迄在った燈籠さえ何処へ行ったものか影も無い。
 利休は思わず嘆息した。
「此利休の芸術には、乗ぜられる隙があると見える。風雅で固めた庭の上を、狐狸の類に荒らされるとは、さてさて不覚の沙汰ではある」
 併《しか》し不覚は是ばかりで無く、もっと致命的の大不覚が、彼の身辺に起って来た。
 夫は六月の十日という夏の最中のことであったが、夜更けて彼は只一人、いつもの寝間に眠っていた。
 轡《くつわ》の音に眼を醒ます。これは武士の嗜である。彼は茶筌の音を聞いて、ふと真夜中に眼を醒ました。衾の上に起き上り、じっと其音へ耳を済ます。と、其音は思いもよらず隣の室から聞えて来る。
 彼は思わず衾を刎《は》ねた。そしてスルリと立ち上がった。足音を盗んで襖へ寄り、細目に開けて隙かして見た。
 髪を若衆髷に取上げた躯幹《からだ》の小造りの少年武士が彼の方へ横顔を見せ、部屋の真中に端然と坐わり、巧みな手並で茶を立てている。見覚えの無い武士である。
 利休は武士の手元を見た。と彼は「あっ」と声を上げた。関白殿下より預けられた楢柴の茶碗で悠々と武士が茶を立てているからであった。
「曲者!」と利休は声を立てた。しかし其声は口の中で消え四辺《あたり》は寂然《しん》と静かである。彼は襖を引き開けた。それは開けたと思ったばかりで、依然として襖は閉ざされている。不動の金縛りにでも逢ったように、動くことも声を立てることも出来なかった。
 其間に武士は悠々と忙《せ》かず周章《あわ》てず茶を立て終えて、心静かに飲み下した。作法に従って清め拭うや、徐《おもむろ》に茶碗を箱に納め、ふと利休の方へ顔を向けたが滴たるような笑い方をし、それからすらり[#「すらり」に傍点]と立ち上がり、二三歩足を進んだかと思うと、朦朧と姿は消えたのである。

     

 その翌日のことであるが、利休は秀吉に謁を乞うた。二度の不思議を物語ってから、斯う云って彼は付け加えた。
「最初は狐狸かとも存じましたなれど、殿下お手付けの名器を恐れず、悠然茶を立てた振舞いは、大胆過ぎて正しく人間、恐らく無双の忍術家と、目星をつけましてござりますが……」
「解った」と秀吉は性急に云った。「草を分けても探がし出し、引捕らえて罰せずばなるまいぞ!」
「あいや暫らく」と夫れを聞くと、利休は急いで手を揮った。「ちと浅慮かと存ぜられまする」
「なに、浅慮じゃ? この秀吉を!」
「過言はお許し下さいますよう。名に負う左様な不敵の人間、まして術者とござりますれば、不礼を咎めて罪するよりも、恩を掛けてお味方に付け……」
「何かの役に立てろと云うか?」
「仰せの通りにござりまする」
「利休、今日より茶を止めい!」
「え?」と驚いて眼を見張る。
 すると秀吉はカラカラと笑い、
「何も驚くことは無いわ。器量ある男と云った迄じゃ。茶を止めて采配を握ったなら、如水ぐらいには成れようも知れぬ。よいよい其方の言葉に従い、其奴捕えて幕下として細作なんどに使うとしょうぞ」
 斯うして翌日から諸方に向かって不敵の術者捜索の為めの多勢の人数が配られた。そして其結果見付け出されたものこそ、この物語の主人公、赤格子と後年字名を呼ばれた梶原九郎右衛門教之であった。
 此時、九郎右衛門は十五歳、産れは九州天草島、郡領房雪の末子であった。
 豊公歿後、仕を辞し、徳川氏の代になってからは、彼は陸上に望を断ち、海に向かって発展した。即ち博多の大富豪島井宗室の大参謀となり、朝鮮、呂宋、暹羅、安南に、御朱印船の長として、貿易事業を進めたのである。
 彼は復《また》居合の名人であった。それに就いて一つの逸話がある。

「一人の老いた侍が静かに歩いて居りました、深編笠で顔を隠し其上俯向いて居りますので顔は少しも解りませんが強健な姿から推察ると偉貌の持主に相違ありません。黒紋附に細身の大小、緞子《どんす》の袴を穿いた様子は何《ど》うして中々立派なものです。千石以上の旗本の先ず御隠居という所です。が夫れにしてはお供が無い。
 慶安四年の卯月の陽がカンカン当たっている真昼の事で自由に身動きが出来ないほど浅草奥山の盛場は人で立て込んで居りました。其侍は忙かず急がず其中を歩いて行くのでした。
 其時行手から人波を分けて侍が三人遣って参りましたが打見た所御家人か小禄の旗本と云ったようながさつ[#「がさつ」に傍点]な人品でございます。やがて人波に揉まれながら双方の侍は行き違いましたが、どうしたものか不図其時、編笠を冠った其侍がその編笠へ左手《ゆんで》を掛けヒョイと空の方へ向きました。と、其空に物化でもいて彼に逼るのを払うかのように左手をバラバラと振ったものです。そして殆ど夫《そ》れと同時に右手《めて》が突然胸元まで上がり、何かピカリと閃めいたかと思うと一刹那掛声が掛かりました。
「えい」でも無ければ「ヤッ」でも無い。それは、「カーッ」という掛声です。
 その掛声の鋭いことは、歩いていた人達が立ち止まった程です。一体「か」という此音は喉的破裂の音と云って舌の後部を軟口蓋に接し一気に破裂させる鋭い音ですが不思議のことには剣道の方では殆ど此音を用いません。いずれ理由はあるのでしょう。
 ところが雑踏の浅草境内の加之《しかも》真昼間往来中でこの掛声が掛かったのです。そうして何んと不思議な事には、いまし方迄歩いていた編笠を冠った其侍の姿が、見えなくなったではありませんか。つまり掛声が掛かると一緒に姿が見えなくなったのです。そうして胆の潰れることには朱に染まった三人の武士が斃れているではありませんか。三人ながら只一刀に脳天を割られているのでした。
 この白昼の兇変は瞬間に江戸中に伝わりまして大変な評判になりました。その侍こそ怪いというので南北町奉行配下の与力や、同心岡引目明まで、揃って心を一つにして其詮策に取り掛かかりましたが一向手掛かりもありません。
 旗本や御家人や勤番侍などへ夫れと無く探り入れても見ましたが、香ばしいこともありません。かいくれ目星が付かない中にどんどん日数が経って行って一月余りも経ちました。其の時、全然同じ一手段で夫れも立派な旗本が一人、芝の御霊屋《おたまや》の華表《とりい》側で切り仆されたではありませんか。
 そうして矢張り切手の侍は何処へ行ったものか姿は見えず、「カーッ」と掛けた掛声ばかりが、往来の人の耳の底に残って居るばかりでありました。
 江戸の治安を司る町奉行の驚きは何《ど》んなだったでしょう。以前にも優して厳重に兇徒の行方を探がされたことは云う迄も無いことで厶《ござい》ます。併し依然として行方が知れぬ。そして遂々永久に行方が知れなかったので厶ます。とは云え世人の噂に依れば、これこそ赤格子九郎右衛門が、怨みある敵を討ち果たしたので、その神速の行動は即ち忍術の奥儀でありその精妙の剣の業は即ち居合の秘術であると。
 噂は事実でございました。九郎右衛門の死後その手記に、その事実が記されてあったそうです。」[#「そうです。」」は底本では「そうです。」]

     

 以上は「緑林黒白」中の、逸話の一節を書換たものであるが此時は既に九郎右衛門は七十一歳になっていたそうで、其の老体を持ちながらそれ程の働きの出来た所を見ると、確かに居合は名人であったらしい。
 偖《さて》、それほどの剣技を持ち、加之《しかも》忍術の達人たる彼九郎右衛門は其壮年時代を――特に海上雄飛時代を、どんな有様で暮らしたろう? それこそ洵《まこと》に聞物である。そして夫れこそこの私が語り度いと思う題目なのである。
 元和元年八月二十四日に――信長、秀吉の殊寵を受け、わけても関白秀吉の為めには、朝鮮征伐の地勢調査として自ら韓人に変装し、慶尚、京畿、平壌などを、詳《つまびら》かに探って復命したほどの、大貿易商であり武人である所の――島井宗室は病歿した。享年七十七であった。
 遺命を受けた九郎右衛門が、宗室の次子を家督に据え、二代目宗室の命に依って、南洋の呂宋へ旅立ったのは、其翌年の三月であった。
 此時、九郎右衛門は、三十歳、膏の乗った盛りである。蜀紅錦の陣羽織に黄金造りの太刀を佩き、手には軍扇、足には野袴、頭髪《かみ》は総髪の大髻、武者|草鞋《わらじ》をしっかと踏み締めて、船首に立った其姿! 今から追想《おも》っても凛々しいでは無いか。
 所謂今日の澎湖諸島の、漁翁島まで来た時には七月も中旬になっていた。
 船中へ真水を汲み入れるため船は数日馬公の港へ碇泊しなければならなかった。毎年の事なので島の土人とも以前から了解《はなしあい》が出来ていて、襲撃される心配はない。
 明日はいよいよ出帆という、その前夜の事であったが、九郎右衛門はただ一人、島の渚を彷徨っていた。
 折柄満月が空に懸かり、※[#「水/(水+水)」、第3水準1-86-86]々《びょうびょう》たる海上は波平らかに、銀色をなして拡がっている。塁々と渚に群立っている巨大な無数の岩の上にも、月の光は滴って薄白い色におぼめいている。ギャーッと、一声月を掠めて、岩から海の方へ翔けて行ったのは、余りに明るい月の光に暁と間違えて眼を覚ました鴻鳥ででもあったろう。彼は静かに足を運び岩の一つへ上って行った。海から微風が吹いて来て、鬢の後れ毛を飜えし、身内の汗を拭ってくれる。
 と、彼は急に足を止めた。
 悲しげな少年の泣声が、何処か手近の岩蔭から細々と聞えて来たからである。彼は少なからず驚いて、声の来る方へ耳を傾け、暫くじっと聞き済ましたが、軈《やが》て小走りに走り出した。屏風のように突立っている平の岩をグルリと廻わると忽然と広い空地へ出た。そして其空地の中央に、十四五歳の少年が、縄で手足を厳重に縛られ、地面に転がされているのではないか。
 月光に照らされた少年の端麗優美の容貌が、先ず九郎右衛門の心を曳いた。その次に彼を驚かせたのは、少年の着ている衣裳であった。その衣裳には柬埔寨《かんぼじや》国の王室の紋章が散らしてある。
 曾て、九郎右衛門は柬埔寨へも、一二度往復したことがあって、可成り国語にも通じていた。
 で彼は少年へ話しかけた。
 その結果彼の知ったことは、その少年こそ柬埔寨国の皇太子であるということや、其柬埔寨国に恐ろしい革命が起こったということや、その結果王と王妃とが憐れにも牢獄へ投ぜられ、皇太子のカンボ・コマだけが、謀叛人の一味に捉えられ、此澎湖島の岩の間へ捨て去られたということや――要するに彼と交渉のある柬埔寨の国家の兇変を、皇太子の口から知ったのであった。
 義侠に富んだ九郎右衛門が、その皇子の話を聞いて如何に義憤の血を湧かせたか、如何に皇子に同情したか、それは書き記すにも及ぶまい。
「よろしゅうござる!」と、九郎右衛門は重々しい声で先ず云った。
「日本《ひのもと》の男子九郎右衛門が、計らず殿下にお眼にかかり、お国の大事を聞いたというも、何かのご縁でござりましょう。及ばずながらお力になり、王様、王妃様を救い出し、無事にご対面出来ますようお取計い致しましょう。手近の浜辺に某《それがし》の率る大船|碇泊《ふながか》りして居りますれば、まず夫れへご遷座なされますよう」
 斯うして九郎右衛門は皇子を背負い、自分の船まで帰って来た。そして船中|主立《おもだ》った者を、窃に五人だけ呼び寄せて、其夜の出来事を物語った。
 それから九郎右衛門は斯う云った。
「何より先に呂宋まで急いで船をやらずばなるまい。そこで積んで来た荷を卸し改めて柬埔寨へ渡るとしょうぞ」
「心得申した」と五人の者は、恭く一度に頭を下げた。彼等に執っては九郎右衛門は、無限の権力を持った君主なのである。
 その翌日からコマ皇子は、日本の衣裳を着せられて日本流に駒太郎と呼ばれるようになった。そうして船も其日から有るだけの帆を一杯に張って、南へ南へと下だり出した。麗かな日和がよく続いて、海上は何時も穏かである。程経て船は呂宋へ着いたが、呂宋には島井家の支店《でみせ》がある。そこで荷物を積み代えると船は海上を日本へ向けて、急いで取って返えしたのであった。併し此時、積荷と一緒に多量の煙硝や弾丸や、刀槍の類を窃《こっそ》りと、船内へ運搬された事は、支店の人さえ気が付かなかった。まして勿論その船が途中から航路を西南に執り、日本と正反対の方角へ、進んで行ったというような事は、考えて見ることさえしなかった。
 しかし御朱印船宗室丸は、コマ皇子の駒太郎や、頭領赤格子九郎右衛門や、五十余名の水夫《ふなのり》を載せて、船脚軽く堂々と柬埔寨国へ進んだのであった。
 そうして、それ以来、宗室丸は、暫く人々の耳目から其踪跡を晦ませたのであった。

     

 斯うして一月は経過した。
 そして物語は舞台を変えた柬埔寨国へ移ったのである。
 暹羅の南、交趾支那の北、これぞ王国柬埔寨の位置で、メコン河の下流、トッテサップ湖の砂洲に、首都プノンペン市は出来ていた。町の東北に片寄って、巍然として聳える高楼こそ、アラカン王の宮殿であるが、今は叛将イルマ将軍に依って、占領されているのであった。
 それは月の無い深夜である。
 厳めしい宮殿の裏門には、槍を握った叛軍の衛兵が、五人列んで佇んでいたが、不意に一斉に声を上げた。
「誰じゃ?」と鋭く叫んだものである。すると、其声の終えない中に、闇の中から人影が、ヒラリと前へ飛び出して来たが「カーッ」と劇《はげ》しく一喝した。それと一緒に閃々と電光《いなずま》のようなものが閃めいた。と、手に槍を握ったまま、五人の兵は五人ながら、地にバタバタと切仆された。
「いざ、駒太郎殿、おいでなされい」
 すると音も無く闇の中から復人影が現れたが、九郎右衛門殿と囁いた。
 二人は其儘スルスルと宮殿の中へ這入って行った。
 赤格子九郎右衛門教之は、衛兵数人を切り仆し、カンボ・コマ皇子事駒太郎を連れて、柬埔寨国の王宮の中へ、門を排して突入った。
 その時の事を「緑林黒白」には次のような文章で書き記してある。
「門ヲ入レバ内庭ニシテ、四辺闃寂人影無シ、中央ニ大池アリ。奇巌怪石岸ニ聳チ、一切前景ヲ遮ルアリ、両人即チ池ヲ巡リ、更ニ森林ノ奥ニ迷フ。忽然茂ヨリ走リ出デ九郎右衛門ニ向カッテ跳躍スルモノアリ。一個獰猛ノ大豹ニシテ、白刄一閃大地ニ横仆ワル。林ヲ出デ、奥庭ニ入リ、廻廊ヲ巡リ巨塔ノ前ニ現ル。衛兵三人、槍ヲ擬シ誰何ス。二人ヲ斃シ、一人ヲ捉ヘ、威嚇シテ以テ東道トナス。巨塔ハ即チ牢舎ニシテ、地下数丈階段ヲ下レバ、岩モテ畳メル密室アリ、王及ビ王妃ヲ幽閉セル処……」云々と。
 斯うして皇子と九郎右衛門とは、地底の牢獄まで辿り着いたのであった。其処には誰も居なかった。王の持っていたらしい王笏と、穿いていたらしい靴が一足、傷ましい悲劇を語り顔に、床の上に捨ててあるばかりで、王も王妃も居ないのである。
「弑虐か、それとも救い出されたか?」
 要するに此二つであった。
 併し恐らく弑せられたのであろう。九郎右衛門とコマ皇子とは茫然と顔を見合わせて、立ち縮まざるを得なかった。
 しかし左様やって何時までも立ち縮んでいることは出来なかった。敵の領内であるからである。
 二人は急いで塔を出た。
 気付いて囲繞んだ叛軍の群を、例の精妙の「か音の一手」で、縦横無尽に切り払い、一散に城外へ走り出た。城外には予め備えて置いた、彼の五十人の部下が居たので忽ち一方の血路を開き、カンポット港まで潜行した。こうして船へ乗り込んで一先ず日本へ引き上げたのである。

 寛文六年の初夏であったが、その赤格子九郎右衛門は、博多から江戸へ出かけて行った。
 時に年八十六歳。頽然たる老人である可きであったが、名に負う海洋で鍛えた体は矍鑠《かくしゃく》として尚逞しく、上下の歯など大方揃っていた。加之此時は彼の資産なども、末次平蔵と伯仲の間にあって、居然たる九州の富豪であった。従って官民上下からも多大の尊敬を払われていたが、時の大老酒井忠清は取り分け彼を愛していた。
 で、此時も邸へ招いて、彼の口から語り出される壮快極わまる冒険談を喜んで聞いたということであるが、其時座中には堀田正俊だの、阿部豊後守忠秋だの、又は河村瑞軒などという、一代の名賢奇才などが、臨席していたということである。
「其方程の剛の者には恐ろしいと思うた事などは、曾て一度もあるまいの?」ふと忠清は話のついでに斯う九郎右衛門[#「九郎右衛門」は底本では「九郎付衛門」]に訊いて見た。
 すると、九郎右衛門は、大きな眼を、心持細く窄めたがそれは過ぎ去った遠い昔を、想い返えそうとする表情なのでもあろう。
「仲々もって左様な事……」
 と、謙遜に彼は首を振ったが、
「取り分け香港に於きまして、〈黒仮面船〉の猛者どもに、おっ取り巻かれました其時は、此九郎右衛門心の底より恐ろしく思いましてござります」
「なに、香港の〈黒仮面船〉とな? それは一体何者じゃな?」
「不思義な海賊にござります」
「ほほう海賊? 支那の海賊かな?」
「ところが、支那人ではござりませぬ」
「どうやら話は面白そうじゃ。ひとつ詳細に話して貰いたいの」
「心得ましてござります」九郎右衛門は斯う云って、夫れから其話しを話し出した。

 それは今から四十六年の昔、元和七年の初夏の事で、その時私は男盛りの四十歳でござりましたが、宗室丸の船頭として、南洋に向かって出帆致しました途次、予定の寄港地たる香港の港へ碇泊り致しましたのが事の発端で、其夜私は東六という若い楫《かじ》取を供に連れて港へ上陸いたしました。
 ご承知の通り香港《ホンコン》は、支那大陸の九竜とは指呼の間にござりまして、小さい孤島ではござりますが、其湾内は東洋一、水深く浪平に、誠に良港でございますので、各国の船は必ず一度は、其処へ泊まるのでございます。
 とは云え気候は極わめて熱く、悪疫四方に流行し、加之《しかも》土人は兇悪惨暴、その上陸地は山ばかりで、取り処の無い島とも云えましょう。併し、港の近傍には無数の人家軒を並べ、酒店、娼家、喫茶店など、到る所に立ち並び繁昌を極めて居りました。
 で、私と東六とは、その中で特に外見の好い、酒店へ這入って行きました。

     

 這入って見ますると、店の中は、諸国の水夫《かこ》や楫取で、一杯になって居りました。支那の言葉、呂宋の言葉、西班牙《イスパニア》の言葉、ポルトガルの言葉――色々様々の国々の言葉で、四辺は騒々しく活気に充ち、何か今にも面白い事件でも、起こって来そうに思われました。
 私と東六は室の隅の丸い卓子《テーブル》を前にして、所の名物|柘榴《ざくろ》酒を飲みながら、四辺の様子を見て居りましたが、不意に其時、私達の横で、
「あ、来たぞ! 黒仮面が!」と、小声で叫んだのを聞きました。
 それと同時に室の中が急に静かになりました。と、見ると、遙か室の向うの、戸外へ向いた戸口から、其形恰も蝙蝠のような畸形な真黒の人影が、室の中へひらひらと這入って参りました。
「成程、噂に聞いた通りの不思議な様子をして居る哩」と、私は胸で呟いたものです。
 漆黒の服で全身を包み、同じ色の覆面をし、翼のような黒母衣を背負った、国籍不明の水夫《かこ》達に依って、繰られている大型の船が、南海や支那海を横行し、海上を通る総船を、理由《いわれ》無しに引き止めて、その船内へ踊り込み、人間の数を調べたり掠奪を為るということは、以前から聞いて居りましたので、其時、室へ這入って来た、蝙蝠のような人間を見ると、それだ[#「それだ」に傍点]と直ぐに感付いたのでした。
 ところで「黒仮面船」の水夫達は、そうやって室へ這入って来ましたけれど、別に乱暴をするでも無く、室の片隅に佇んだまま只じっと四辺を見てるのでした。ところが夫れが店の客達に執っては、却って気味悪く思われるのかして、一人去り二人去り何時の間にか、皆立ち去って了いました。そうして私と東六とだけが後へ残されて了いました。
 そのうち東六も恐ろしくなったか私に帰船を進め出しました。併し私は帰りませんでした。「何者か正体を見届けてやろう」――斯ういう思惑がありましたからです。
 そこで私は平然と柘榴酒を傾けて居りました。すると、彼等は私を眺め乍ら、暫く囁いて居りましたが、俄に近寄って参りました。そうして、私達を取り囲みましたが、年長らしい一人の男が、明瞭《はっきり》した正確《ただし》い柬埔寨語で、斯う私に話し掛けました。
「貴郎達は私達をご存知無いと見える。それとも私達を承知の上で、尚此処に残って居られるのなら、貴郎方は非常な勇士で厶る」と、
「申す迄も無く承知の上でござる!」私は此様に云ってやりました。「方々は近頃噂の高い、黒仮面船の水夫衆でござろう。拙者は日本《ひのもと》の武士でござれば、如何なる者をも恐れは致さぬ!」
「天晴れお言葉! 如何様勇士じゃ!」彼等は急に態度を改め、極わめて慇懃になりましたが「そのお言葉にお縋り申し、是非共お願い致し度き儀ござれば、我等とご同行下さるまいか!」――「日本の武士は死をだに辞せず、ましてお頼みとあるからは喜んでお供致しましょうぞ」――「それは千万忝のうござる。然らばご案内……」――「心得申した」
 こんな具合に、この私は、引き止める東六を船へ追い返えし、彼等の後に従って、酒場から出たのでございます。彼等は暗い方へ暗い方へと私を導いて行きました。そして浜の方へ行きました。ものの半刻も経った頃、私達は海岸へ参りましたが、見渡す限り海上は墨のように真黒です。背後は嶮山左右は巉岩《ざんがん》、そうして前は大海です。空には月も星も無く、嵐に追われる黒雲ばかりが海の方へ海の方へと走って行くばかり、真に物凄い場所でした。
 と、一人の黒仮面の男が、手に持っていた松火を高く頭上に差しかざし、海に向かって振りました。すると、眼前の海の底から、ゴーゴーという音が響き渡り、巨大な岩とばかり思っていた海の面の物象が、見る間に上へ持ち上がり、忽ち居然たる大船が海上へ浮んだではございませんか。是ぞ黒仮面船でございます。それにしても自由に波に沈み又浪間から浮き上がって来るとは! 何んという不思議な恐ろしい船が此世の中にあるのだろうと初めて此時心から私は恐ろしく思いました。

     

 それから私は何うしたか? 別に何うも致しません! 覆面した水夫達に導かれて、浮沈自由の怪船に乗り込んだのでございます。乗り込んで夫れから何うしたか? 別に何うも致しません! 階段を下って其怪船の胴の間へ這入ったのでござります。
 すると其時、船底に当たってコトコトコトコトコトコトという、不思議な物音が聞えました。夫れと一緒に乗っている船が、恐らく水の底へ沈むのでしょう、グラグラ揺れるではござりませぬか。
「船は今水の中にいるのだな」斯う思うと私は復心[#「復心」はママ]からぞっとしたのでござります。それで私は無言のまま四辺をグルグル見廻わしました。室は狭くはありましたけれど柬埔寨風に飾られてあって大変綺麗でござりました。
 と、年長の覆面の水夫が、片手を上げて振りました。何かの合図なのでござりましょう、それと同時に他の水夫共は隣室へ立ち去って了いました。後には私と年長の水夫ばかりが室に残ったのでござります。
「いざ先ず夫れへお掛け下されい」年長の水夫は斯う云い乍ら一つの椅子を進めましたので、私は黙って腰掛けました。
 すると、覆面のその水夫は、私の腰間の両刀へ、屹《きっ》と両眼を注ぎましたが、
「失礼ながら其両刀、天晴業物でござりましょうな?」と、意外な事を訊いたものです。
「双方共彦四郎貞宗の作、日本刀での名刀でござる」
「如何でござろう、その名刀を、お揮い下さることはなりますまいかな?」――「是は又異なお頼み……なれども夫れだけの仔細ござらば、お頼みに応ぜぬものでもござらぬ。……抑《そも》、相手は何者でござるな?」――「国を奪い、人民を虐げる大悪人でござります」――「ウム、そのような悪人なりや、討ち果たすに異存はござらぬが……して其大虐無道の相手は、今、何処に居られまするな?」――「船底に閉じ込めてござります」――「何、此船の底にとな? これはこれは思いも依らぬ。然らば拙者の手を籍《か》らずとも、諸君方多数の手に依って討ち果たすこと出来ましょうに……」――「いやいや彼は悪人ながら剣にかけては無双の達人。それに多人数一度にかかり、討ち取ることはなりませぬ」――「それは又何故でござるかな?」――「私共が主君と奉める、やんごとなきお方様ご夫婦に執りまして、生命にかけても知り度いと願う、或重大の秘密事を、彼一人存じて居るが為、それを武器として彼の申すには「十人だけ勇士を選べ、そして一人一人室へよこせ。そうして俺と立合わせろ。掠傷でも負わすものあらば、運命と諦めて生命を呉れる。呉れる前に秘密も明せてやろう。併し十人の勇士共を一人残らず討ち取ったなら、其方の不覚と諦らめて、此俺を船から遁がすがよい」と。でその申し入れに従いまして、是迄に九人の勇士を選んで彼の室へ送ったのでございますが、室へ這入ると殆ど同時に、只一刀に切殺されて助かった者とてはござりませぬ……」
「成程」と私は頷きました「そこで最後の十人目にこの拙者を選んだのでござるな――心得申した。承知致してござる。如何にも仰せに従って此彦四郎揮いましょうぞ?」――私は深い決心を以て引受けて了ったのでござります。
「それでは愈々《いよいよ》ご承引か?」
「その無道人を只一刀に息の根止めてご覧に入れる!」
「あいや、息の根止められましては、却って困難致しますゆえ‥…」
「左様であったの、では深手を、死なぬぐらいに付けると致そう」
 それから私は彼の後に従いて、狭い険しい階段を船底へ下りて行ったのでした。下り切った所に閂《かんぬき》を掛けた厳重な扉がございましたが、その中にこそ目指す相手が籠って居るのでござりました。
 私を此処まで導いて来た覆面をした年長の水夫が燈火を持って立ち去った後は、一点の燈火も無い真の闇で、扉も閂も見えはしません。その中で私は暫くの間、深い呼吸をして心気を沈め、やおら手探りに閂を外し、その瞬間に身を躍らせて、真直ぐに室の中へ突き入りました。果して私の背を掠めて、正しく扉口の左側から切り込んで来た太刀風が、鋭く横顔に感じましたが、既に其時は機先を制して私は室の中に居たのでした。そして私は思いました。恐らく是迄の九人の勇士は、この一刹那の機を誤って、あの鋭い一太刀の為めに空しく生命を失ったのであろうと。
 私は室の真中に呼吸を封じて立っていました。是ぞ忍術《しのび》の奥儀の一つ、生身を変じて死身にする「封息」の一手でございます。少くとも左様やって呼吸を封じて、突立っている瞬間だけは、人間を変じて木石とも為し、又、鼠とも大蛇《おろち》とも蛛蜘とも為ることが出来るのです。――封じた気息は遂には洩れる! その洩れる時が大切です。私は徐々《そろそろ》と足を運んで扉の方へ参りました。そこに相手の居ないことは余りに明らかの事実です。ハッと切込んだ一転瞬に、ヒラリと体を変化させて、居所を眩すのが常道で、その常道の隙を狙って、逆に其方へ飛び込んで行くのが、忍術の奇道なのでございます。果して戸口には居ませんでした。そこで私は次の術――即ち、木遁の一手であって身を木の形に順応させ而《そうし》てその木と同化させる所の所謂「木荒隠形《もくこういんぎょう》」の秘法。それを使ったのでございます。易い言葉で申しますと、木目と同じような姿勢を作り、樹木と同じ心持ちとなる。――要するに是なのでございます。

     

 私は実に此時まで、刀は抜かなかったのでござります。刀には刀の気息があって俗に刀気と申しますが、殺気と申しても宜敷《よろしい》でしょう。
 でその刀気はある場合には、相手を威嚇する武器として非常に役立つのでございますが、又反対に或場合には身の禍ともなるのでした。即ち、抜身を持っているが為めに、刀気走って身を隠すことが出来ず、闇討の憂目に逢うのです。
 私は、そうやって戸の面へ、ピッタリ体を食付けたまま静かに暗中を隙かして見ました。
 果然、相手の居所が、抜身を握って居たが為に、自と私に解って参りました。私の立っている戸口から、斜めに当たる室の隅に、刀気が仄かに白々と走っているではござりませぬか。
「よし。勝利は此方のものだ!」私は思わず心の中で斯う呟いたものでした。
 そうして本当に其決闘は私の勝に帰しました。――ハッと私が気息を弛める。そこを狙って突いて来た。と直ぐ除けて入身になる。一髪の間に束を廻わし、「カーッ」と一声掛けると同時に胴切にしたのでござります。
 ばったり[#「ばったり」に傍点]床へ仆《たお》れる音。ムーと呻く苦しそうな声。そして静かになりました。
「しまった」と、其時、思わず私は、大声を上げて了いました。深手を負わせるという約束に背いて時の逸《はず》みとは云い乍ら、切り殺したように思われたからです。
 扉が開かれ、松火が点され、神々しい威厳を体に持たせた二人の男女を中にして、覆面の水夫達数十人が、室の中へ這入って参りました時、松火の光に照らされて、一人の大男が血に染みながら床の上に斃れて居りますのを、私は明瞭《はっきり》り[#「明瞭《はっきり》り」はママ]認めましたが、それこそ決闘の相手でした。
「イルマ将軍とも云われた者が、いかに悪行の酬いとは云え[#「云え」は底本では「云へ」]、この死態《しにざま》は何事じゃ! ……おお天晴れな日本の勇士! よくぞお援助下された。柬埔寨国の国王アラカンが厚くお礼を申しますぞ」
「や!」と思わず此の私は、神々しい迄に威厳のある、其人の姿を見詰めましたが「それでは貴郎様は柬埔寨国のアラカン王陛下でござりましたか?」――「左様」と其人は頷きましたが「そして此処に居る此婦人は、朕が連れ合い、即ち、王妃!」
「王陛下と王妃陛下! ホホウ、左様にござりましたか。さりとも存ぜず意外の失礼、何卒お許し下さりますよう。偖《さて》、王陛下と承まわり、お尋ね致し度き一義ござります。……今より大略《おおよそ》五年以前に、皇太子におわすカンボ・コマ殿下、悪人共の毒手に渡り、お行方不明になられませなんだかな?」
「おお如何にも其通り、行方解らずなり申した。……そして其行方を突き止めて、コマの安否を知りたいばかりに叛将イルマを捉えながら[#「捉えながら」は底本では「捉へながら」]、早速に誅罰を加えようともせず、却って彼の申し出に従い其方を加えて十人の勇士を、憎む可き彼の毒刃の前に、おめおめ晒した次第でござるよ。と申すのは彼の口から皇子の成行を聞きたかったからじゃ……が其希望も今は絶えて、イルマは此通り死んで了った! 語る可き口も閉じられて了った!」
「あいや其儀でござりましたら、必ずご心配はご無用でござります」
 私は思わず大声で、斯う叫んだのでござりました。驚き審かる両陛下の前で、それから私は細々とカンボ・コマ皇子をお救助け致した、五年以前の出来事を、申し上げたのでござります――。

 此処まで九郎右衛門は語って来ると、感慨深そうに[#「感慨深そうに」は底本では「感概深そうに」]瞑目した。そうして暫く黙っていた。一座の者も押し黙って咳《しわぶき》一つ為る者も無い。――軈て、忠清は斯う云って訊いた。――
「……フウム、左様か、五年以前に、柬埔寨国の皇太子、カンボ・コマ皇子を其方が、お救助け致したと申すのじゃな? 面白そうな話じゃの。それを詳細く聞かしてくれい」
「かしこまりましてござります」
 其処で九郎右衛門は改めて、その事件に就いて物語った。
 その物語は既に以前に、九郎右衛門に代って此|作者《わたし》が、大略書き綴った筈である。……
 兎に角、斯うして九郎右衛門は、王ご夫婦と皇子とを、お救助けすることが出来たのであった。親子の対面が行われた時、どんなに皆が歓喜したか? 説明にも及ぶまい。
 間も無く王朝は恢復された。そうして日本と柬埔寨国との通商貿易も行われるようになった。
「しかし、どうして王、王妃は、叛軍共の目を眩まして、牢獄から出ることが出来たのであろう?」
 ――審《いぶ》かしそうに忠清は訊いた……。
「忠義の臣下が、隙を伺い、盗み出したのだそうでござります。……覆面をした水夫の群こそ、その臣下達でござりました」
「浮沈自由の奇怪の船、その後何んと致したな?」
「撃沈めましてござります」
「それは又何故に沈めたか?」「兵器は兇器でござります故……」
「如何にも左様じゃの」と、酒井忠清は、呟き乍ら頷いた。
「左様な兇器の働かぬ世が、どうぞ何時迄も続くように」
「御世は万歳でござります!」赤格子九郎右衛門は老いても鋭い、その両眼を輝かせ乍ら斯う磊落《らいらく》に叫んだが、その声の中、風貌の中には、壮者を凌ぐ勇猛心が、尚鮮かに見えていて一座の名賢奇才達をして、却って顔色無からしめたのである。

底本:「妖異全集」桃源社
   1975(昭和50)年9月25日発行
初出:「中学世界」
   1924(大正13)年6月
※底本には以下に挙げるように誤植が疑われる箇所がありましたが、正しい形を判定することに困難を感じたので底本通りとし、ママ注記を付けました。
○常時利休は:「当時」の誤植か、旧字の「當」を新字にする時に間違った可能性を疑いました。
○復心:「腹心」の誤植か。
○明瞭《はっきり》り:別箇所に「明瞭《はっきり》した」があり、「明瞭《はっきり》した」か「明瞭《はっき》りした」か判断がつきませんでした。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年12月13日作成
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国枝史郎

生死卍巴—— 国枝史郎

占われたる運命は?

「お侍様え、お買いなすって。どうぞあなた様のご運命を」
 こういう女の声のしたのは享保十五年六月中旬の、後夜《ごや》を過ごした頃であった。月が中空に輝いていたので、傍らに立っている旗本屋敷の、家根の甍《いらか》が光って見えた。土塀を食《は》み出して夕顔の花が、それこそ女の顔のように、白くぽっかりと浮いて見えるのが、凄艶の趣きを充分に添えた。
 その夕顔の花の下に立って、そう美女が侍を呼びかけたのであった。
「わしの運命を買えというのか、面白いことを申す女だ」
 青木昆陽の門下であって、三年あまり長崎へ行って、蘭人について蘭学を学んだ二十五歳の若侍の、宮川茅野雄《みやかわちのお》は行きかかった足を、後《あと》へ返しながら女へ云った。
「買えと云うなら買ってもよいが、運命などというものはあるものかな?」
 云い云い女をつくづくと見た。女は二十二三らしい。身長《たけ》が高く肥えていて、面長の顔をしているようであった。どこか巫女《みこ》めいたところがある。
「はいはい運命はございますとも。定まっているのでございますよ。あなた様にはあなた様の運命が。私には私の運命が」
「さようか、さようか、そうかもしれない。もっともわし[#「わし」に傍点]は信じないが。……ところで運命は、なんぼ[#「なんぼ」に傍点]するな?」
「それではお買いくださいますので。ありがたいしあわせに存じます。はいはい、あなた様の運命の値段は、あなた様次第でございます。一両の運命もございますれば、十両の運命もございます」
「なるほど」と茅野雄は苦笑したが、
「つまりは易料や観相料と、さして変わりはないようだの」
「はいはいさようでございます」と女の声も笑っている。
「それではなるだけ安いのにしよう。一分ぐらいの運命を買いたい」
「かしこまりましてございます」
 こう云うと女は眼をつむって、空を仰ぐような格好をしたが、
「山岳へおいでなさりませ。何か得られるでござりましょう。都《みやこ》へお帰りなさいませ。何か得られるでござりましょう。それが幸福か不幸かは、申し上げることは出来ません」
 ――で、女は行ってしまった。
(浮世は全く世智辛《せちがら》くなった。何でもない普通の占いをするのに、運命をお買いなさいませなどと、さも物々しく呼び止めて、度胆を抜いて金を巻き上げる。男でもあろうことか若い女だ。昼でもあろうことか更けた夜だ)
 茅野雄は、苦笑を笑いつづけながら、下谷の方へ歩き出した。そっちに屋敷があるからである。
 ここは小石川の一画で、大名屋敷や旗本屋敷などが、整然として並んでいて、人の通りが極めて少ない。南へ突っ切れば元町《もとまち》となって、そこを東の方へ曲がって行けば、お茶の水の通りとなる。
 その道筋を通りながら、宮川茅野雄は歩いて行く。女巫女の占った運命のことなど、今はほとんど忘れていた。
(仕官しようか、浪人のままでいようか)
 この日頃心にこだわっている、この実際的の問題について、今は考えているのであった。
(せっかく仕官をしたところで、長崎仕込みの俺の蘭学を、活用してくれなければ仕方がない。それよりもいっそ塾でもひらいて、門弟どもをとり立てようか)
 師匠の青木昆陽が、その世間的の勢力をもって、茅野雄を諸侯に[#「諸侯に」は底本では「諸候に」]推薦していたが、肝心の茅野雄の心持は、大して進んでいなかった。と云って塾をひらいたところで、はたして生活が出来るかどうか? これが茅野雄には不安であった。どっちつかずの心持で、長崎から帰って今日で半年、ブラブラ遊んでいるのであった。放胆で自由で新智識で、冒険心もある茅野雄だったので、そういう今のような境遇にあっても、あえて焦心《あせ》りはしなかったが、多少の屈託にはなっていた。
(青木先生の食客となって一生冷や飯を食うのもいいさ)などと磊落に思うこともあった。
(父母もなければ兄弟もなく、親戚《みより》もないということが、こんな場合にはかえって気安い)
 しかし時にはそういうことが、寂しみとなって感ずることもあった。
 宮川茅野雄は歩いて行く。
 と、青木侯[#「青木侯」は底本では「青木候」]のお屋敷の、土塀を左へ曲がった時に、先へ行く二つの人影を見た。一人は、若い侍で、背後《うしろ》姿ではあったけれど、何とも言えない品《ひん》と位《い》がその体に備わっていた。もう一人は、六十を過ごしたくらいの、頑丈らしい老武士であったが、これも品位を備えていた。
(追い抜いては失礼にあたるだろう)
 で、茅野雄は後について歩いた。
 すぐに茅野雄の耳についたのは、二人の変わった会話《はなし》であった。
「ああいう品物を手に入れるのは、個人としては危険なのだよ。どうでもあれは昔に返して、亜剌比亜《アラビア》の沙漠の神殿の奥へ、封じ込まなければならないのだよ」
 こう云ったのは若い方の武士で、その云い方には特色があった。すなわちいつも他人に対して、絶対的服従を命じ慣れている――と云ったような云い方なのである。高貴で威厳があって断乎としているうちに、温情があふれ漲《みなぎ》っている。
「これは極東の教主《カリフ》様の、御意の通りと存じます」
 老将軍とでも形容したいような、頑健な老武士はこう応じたが、その声には一種の不快さがあって、信用の置けない老獪な人物――と云ったように感じられた。しかし極東のカリフ様と呼ばれた、若い気高い侍には、一目も二目も置いていると見えて、物言いも物腰も慇懃《いんぎん》であった。
「あの両眼がよくないのだよ。もちろん値打ちを知らない者には、変わった単なる石ッころ[#「ころ」に傍点]として、無価値の物に映るであろうが、知っている者には宇宙にも見えよう」
「これは極東のカリフ様の、お言葉の通りにござります。両眼の価値を知りました者には、宇宙にもあたるでござりましょう。が、幸いにもこの国には、ああいう物の偉大な価値を、知っておる者は少ないようで」
「いやいやそうでもなさそうだよ。わし[#「わし」に傍点]も知っていればお前も知っている」
「さあその他にございましょうかしら?」
「あの品物がこの国へ渡って、五年になると云うことだが、いまだに行衛《ゆくえ》がわからない。――ということから推察すると、われわれ二人以外の者で、あの両眼の素晴らしい価値を、知っている者が確かにあると――そう云うことも云われそうだよ」
「と、申しますと何者かが、あの品物を隠して持っている――と、このように仰言《おっしゃ》いますので?」
「さよう、わし[#「わし」に傍点]はそう思う」
「その反対とも申されましょう」
「はてな、それはどういう意味かな?」
「無価値な品物と見きわめ[#「きわめ」に傍点]られて、古道具屋の店先などに、転がされているのではござりますまいか?」
「もしそうなら面白いの」
「いえ勿体なく存じます」
「お前ひとつ探してはどうか」
「は。さようで。探し出しましょうか」
「好事家《こうずか》で名高いお前のことだ。探し出したらはなすまいよ」
「いえ、ご連枝様に差し上げます」
「これこれ何だ雲州の爺《おやじ》、いちいち極東のカリフ様だの、ご連枝様だのと呼ばないがよい。わし[#「わし」に傍点]とお前とは話相手ではないか。わしの名を呼べ、慶正《よしまさ》と呼べ」
「ハッ、ハッ、ハッ、呼びましょうかな」
 聞くともなしに聞いていた宮川茅野雄はこの言葉を聞くと、
「ははあ」と、呟《つぶや》かざるを得なかった。二人の身分がわかったからである。
 極東のカリフ様と呼ばれたり、ご連枝様と呼ばれたりする武士は、奇矯と大胆と仁慈と正義と、平民的とで名を知られている、一ツ橋大納言の弟にあたられる、徳川慶正卿その人であり、雲州の爺と呼ばれている武士は、出雲松江侯の傍流の隠居で、蝦夷《えぞ》や韃靼《だったん》や天竺《てんじく》や高砂《たかさご》や、シャムロの国へまで手を延ばして、珍器名什を蒐集することによって、これまた世人に謳われている松平|碩寿翁《せきじゅおう》その人なのであった。
(立派な人物が二人まで揃って、面白い話を話して行く。高価な品物とはどんなものだろう? 両眼とは何の両眼なのであろう?)
 茅野雄は好奇心に心を躍らせて、尚も二人をつけ[#「つけ」に傍点]て行った。
(それにしても極東のカリフ様とは、一体どういう意味なのであろう?)
 これが茅野雄には疑問であった。
 ただし長崎におった頃、茅野雄は蘭人の口を通して、カリフという言葉と言葉の意味とを、一再ならず耳にはした。マホメットという人物を宗祖として、近東|亜剌比亜《アラビア》の沙漠の国へ興った、非常に武断的の宗教の、教主であるということであった。
 で、これはこれでよかった。
 しかし極東の教主《カリフ》という、極東の意味が解らなかった。
(日本のことを極東というと、蘭人からかつて聞いたことはある。では極東の教主というのは、日本におけるマホメット教の、教主というような意味なのであろうか? ではいつの間にか日本の国へもマホメット教が渡来したのであろうか?)
 そう思うより仕方がなかった。
(それにしても一ツ橋慶正卿がそのカリフとは驚くべきことだ)
 考えながらも宮川茅野雄は、二人の後をつけ[#「つけ」に傍点]て行った。

松倉屋の家庭

 宮川茅野雄という若い武士に、後をつけ[#「つけ」に傍点]られているとも知らずに、極東のカリフ様と碩寿翁とは、ズンズン先へ歩いて行った。
 と、その時行く手にあたって、一軒の屋敷が立っていた。右は松平駿河守の屋敷で、左はこみいった[#「こみいった」に傍点]お長屋であったが、その一画を出外れた所に、その屋敷は立っていたのである。
 武家屋敷とは見えなかったが、随分と宏荘な作り方で、土塀がグルリと取り巻いていた。植え込みは手薄で門も小さくて、どこかに瀟洒としたところはあったが、グルリと外廊《そとがわ》を巡ったならば、二町ぐらいはありそうに見えた。
 富豪の商人の別邸と言ったら、一番似合わしく思われる。
 その屋敷の門の前まで、極東のカリフ様が行った時であったが、
「雲州の爺々《おやじおやじ》、この屋敷などあぶない[#「あぶない」に傍点]ものだ」
 こう云って顎をしゃくるようにした。
「は、あぶないと仰せられますと?」
 足をとどめた碩寿翁は、不思議そうに屋敷に眼をやった。
「これはお前には解らないかも知れない。が、私《わし》にはよく解《わか》る。ろくでもない[#「ろくでもない」に傍点]事が起こって来ようぞ」
「この屋敷へでござりますか?」
「ああそうだよ、この屋敷へだよ」
「ご三卿様のご用達《ようたし》、松倉屋の別邸だと存じますが、何事が起こるのでござりましょうか?」
「松倉屋の女房を知っているかな?」
「美人で派手好みで交際《つきあい》好きで、評判の女房にござります」
「そうして大分若いはずだ」
「二十三歳とか申しますことで」
「しかるに松倉屋勘右衛門は、六十一歳とかいうことだ」
「大分違うようでござりますな」
「で、よくないことが起こる」
「どうも私には解りませぬが」
「身分違いの持っていけない物を、松倉屋勘右衛門が持っているからだよ」
「…………」
 やはり碩寿翁には解らないらしい。黙って屋敷を見上げ見下ろしている。
「それ第一に年が違う。ええとそれから身分が違う。と云うのは女房のお菊というのは、富豪の商人の松倉屋などへ、輿入《こしい》れすることなど出来そうもない、貧しい町家の娘だそうだ。で女から云う時は、松倉屋の財産に眼が眩《く》れて、若さと美しさとを犠牲にしたのだし、松倉屋の方から云う時には、女の若さと美しさのために、財産とそうして位置と名誉とを、犠牲にしたということになる」
「が、しかしそのようなことは、世間にザラにありますようで」
「そう云ってしまえばそれまでだがな、いけない事情があるらしいよ」
 極東のカリフ様はこう云って来て、フッと話を横へ外らせた。
「松倉屋の前身を知っているかな?」
「抜け荷買いをしたとか聞き及びましたが」
「抜け荷買い、さよう、その通りだ。……で、異国の珍器の価値《ねうち》を、松倉屋勘右衛門は充分に知っとる」
「…………」
「それにお前に負けないほどに、好事家として有名だ」
「…………」
「五年|以来《このかた》松倉屋の様子が、何となく変に変わって来た。私《わし》の屋敷へ出入りをするごとに、私におかし気な謎をかける。……がまあまあそれもよかろう」
 極東のカリフ様が歩き出したので、碩寿翁もつづいて歩き出したが、間もなく姿が見えなくなった。
 小出信濃守《こいでしなののかみ》の邸の前を通って、榊原《さかきばら》式部少輔の邸の横を抜けて、一ツ橋御門を中へ入れば一ツ橋中納言家のお邸となる。
 二人ながらその方へ行ったようである。
 で、月光に照らされながら、松倉屋勘右衛門の邸の前に、首を傾《かし》げて佇んでいるのは、宮川茅野雄一人となった。
(今夜は実際いろいろの人から、色々の面白い話を聞いた。松倉屋勘右衛門と女房との話も、俺にとっては面白かった。それとはハッキリと云わなかったが、一ツ橋様のお話の中には、莫大の価値のある何かの両眼と、松倉屋勘右衛門との間には、何らかのつながり[#「つながり」に傍点]がありそうだ)
 しかし、その事が宮川茅野雄の持ちつづけて来た好奇心を、急速に膨張させたのではなかった。
 そんなように思われたばかりであった。
(どれ家《うち》へ帰ろうか)
 で、茅野雄は歩き出した。
 しかるに十町とは歩かないうちに、茅野雄の身の上に不慮の事件が起こった。
 と、いうのは茅野雄は感付かなかったが、茅野雄が巫女《みこ》めいた若い女から、自分の運命を買った時から――いや巫女めいた女から別れて、極東のカリフ様と碩寿翁との、後をつけて足を運び出した時から、一人の武士が足音を盗んで、茅野雄の後をつけて来たが、この時俄然と茅野雄の背後《うしろ》から、声もかけずに切り込んだのである。
 茅野雄は蘭学の学究であったが、柳生流でも名手であった。で、背後から名の知れない武士に、俄然と切ってかかられた時にも、身を翻えして、刃を遁れた。
「誰だ!」と、まずもって声を掛けた。
「瞞《だま》し討ちとは卑怯な奴だ! 怨みがあるなら尋常に宣《なの》って、真っ正面からかかって来い! 身分を云え! 名を宣れ! ……拙者の名は宮川茅野雄という、他人に怨みを受けるような、曲事《きょくじ》をしたような覚えはない! 思うにおおかた人違いであろう。……それとも、拙者に怨みがあるか※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」
 こう云いながら宮川茅野雄は、刀の鍔際をしっかりと抑えて、五寸あまりも鞘ぐるみ抜いて、右手で柄もとを握りしめて、身を斜めにして右足を出して、いつでも抜き打ちの出来るように、居合腰をして首を延ばしたが、じっと前の方を隙《す》かして見た。
 漲っている蒼白い月の光を浴びて、宮川茅野雄から五間あまりの彼方《かなた》に、肥えた長身の三十五六歳の武士が、抜き身をダラリと引っ下げた姿で、こっちを見ながら立っていたが、髪は大束《おおたぶさ》の総髪であった。
 と、その武士は落ち着き払った態度で、ゆるゆると茅野雄へ近寄って来たが、
「宮川茅野雄殿と仰せられるか、はじめてお名前を承《うけたま》わってござる。拙者は醍醐《だいご》弦四郎と申して、身の上の儀はまずまず浪人、ただしいくら[#「いくら」に傍点]かは違いますがな。……いかにも貴殿の仰せられる通りに、拙者、貴殿に怨みはござらぬ。と云え貴殿の仰せられるように、人違いで切ってかかったのでもござらぬ。思うところあって切り付けたのでござる。と云うのは貴殿の運命と、――巫女から買い取られた運命と、拙者の運命とが似ているからでござる」
 こう云うとクックッと含み笑いをしたが、
「実は拙者も同じ巫女から、運命を買ったのでございますよ」
「ほほう」とそれを聞くと宮川茅野雄は、化《ば》かされたような気持ちがしたが、
「貴殿の買われた運命と、拙者の買い取った運命とが、似ているというようなそのようなことが、殺生沙汰を招きましょうかな?」
「運命を占った女巫女の、素性をご存知ない貴殿としては、そういう疑念を挿まれるのは、当然至極と存ぜられますよ。またあの巫女の占ったところの、『何か』得られるというその『何か』の、何であるかをご存知なければ、そういう疑念も挿まれましょうよ」
「それでは貴殿におかれましては、巫女の素性をご存知なので?」
「さよう、拙者は存じております」
「で、その『何か』もご存知なので?」
「さよう、拙者は存じております。と云うよりもこれはこう云った方がよろしい。――その『何か』を手に入れようとして、五年|以来《このかた》探しておりましたとな」
「が、それにしても何の理由から、拙者を討とうとなされましたので?」
「競争相手を亡ぼしたかったからで」
「ほほう」とそれを聞くと宮川茅野雄は、また化かされたような気持がしたが、
「いやいや拙者におきましては、あの巫女の占った運命などは、決して信じはいたしませぬよ。したがって『何か』を手に入れようなどと、貴殿と競争などはいたしませぬよ。……と、このように申しましても、どうでも貴殿におかれましては、拙者を討ってとるお意《つもり》なので?」
 すると醍醐弦四郎という武士は、抜き身をソロリと鞘へ納めたが、
「競争をなさらないと仰せられるならば、何の拙者が恩怨もない貴殿へ、敵対などをいたしましょう。……しかしあらかじめ申し上げて置きます、あの巫女が占いをいたした以上は、貴殿にはほとんど間違いなく、その『何か』を手に入れようとして、努力をなさるようになりましょうとな。と、拙者とは必然的に、競争をすることになりましょう。もしもそのようになった際には、いつも貴殿の生命を巡って、拙者の刃のあるということを、覚悟をなされておいでなさるがよろしい。……とにかく今夜はお別れをいたす。ご免」と云うと元来た方へ、醍醐弦四郎は歩き出した。
 茅野雄は後を見送ったが首を傾《かし》げざるを得なかった。
(ああいうように云われて見れば、俺といえども巫女の占いを、何となく信じて見たくなった。醍醐弦四郎という武士が出て、俺の好奇心へ油を注いで、火を焚きつけたというものだ。……だが「何か」とは何だろう? 要するに今の場合では、何が何だか解らない――と云うことになっているな。……山岳へおいでなさりませ、何か得られるでござりましょうと、こうあの巫女は占ってくれたが、日本の国には山が多い。どこの山へ行けというのだろう? そこまで占ってくれなかったのだから、山へ行こうにも行きようがない)
 で、茅野雄は歩き出した。
 と、松倉屋の邸の中から、荒々しく怒鳴る老人の声が、門扉を通して聞こえてきた。

怒号の意味は?

「……俺はお前を見損なったよ! そんな女とは知らなかった! 我儘にもほどがある! いや贅沢にもほどがある! ……大目に見て置けばよい気になって、何ということだ何ということだ! ……月々の入費の大袈裟なことは! これでは俺もたまらない! この松倉屋は潰れてしまう! ……それにお前は勝手すぎるよ! 俺の気に入らない若僧どもを、いい気になって屋敷へ入れて、悪ふざけをして平気でいる。……俺は杉次郎が大嫌いだ。まるで歌舞伎の和事師《わごとし》のように、色が生白《なまちろ》くておべんちゃら[#「おべんちゃら」に傍点]で、女あつかいばかりが莫迦にうまくて、男らしいところがどこにもない。旗本の次男だということだが、あんな人間は寄せつけないがよろしい! それにお前の兄も嫌いだ。お前の兄ながら弁太という男は、どうしてヤクザの破戸漢《ごろつき》だよ。毎日のように出入りをしては、俺やお前から金を持って行く。まじめの仕事でもすることか、賭博ばかりやるということだ! どいつもこいつもみんな嫌いだ! おおおおそうそう京助という奴も、我慢の出来ないほど俺は嫌いだ。娘のような顔をして、娘のような品《しな》を作って、娘のようなお化粧をして、お前の用事ならどんなことでも聞くが、俺の用事ならどんなことでも聞かない。……あんな奴には暇をくれるがよい! でなかったら店の方へ廻してよこせ、使って使ってコキ使って、働き者に仕立て上げてやろうに。……ところがお前はあいつが好きで、お小姓のように目をかけている! お前は若い女房の身分だ、小間使いばかりを使うがよい。女は女を使うがよい。若い男を小間使いにまぜて[#「まぜて」に傍点]、いい気になって使ってなどといると、間違いが起こらないものでもない! ……何もかも俺には気に入らない! ……が、まあまあよいとしよう。だんだんに直して貰うとしよう。が、それはよいとしても、あれだけ[#「あれだけ」に傍点]は返して貰わなければならない。あれは大変な品物だからな。お前が是非とも見たいというので、一時お前に預けたが、是非とも返して貰わなければならない。さあさあお返し、さあさあお返し! ……アッハッハッハッ、泣くことはないよ。ナーニお前を叱ってはいない。やはりお前は俺には可愛い。お泣きでないよ、お泣きでないよ! ――とこんなように嚇《おど》しつ賺《すか》しつ、今夜はどうでもお菊をとらえて、云って云って云ってやらなければならない。……それにしても帰りが遅いではないか! 芝居は夕方にハネたはずだのに。……酔った酔った俺は酔った!」
 庭をグルグルと歩きながら、酔っているらしい勘右衛門が、女房のお菊の芝居帰りの、あまりに遅いのに心を苛立て、門の内側で相手もないのに、そこに女房がいるかのように、怒鳴ったり喚《わめ》いたりしているのであった。
(なるほど、これではよくないことが、松倉屋の家庭へ起こるかもしれない)
 門外に佇んで勘右衛門の独語《ひとりごと》を、聞くともなしに聞いた宮川茅野雄は、こう思わざるを得なかった。
 尚も勘右衛門は門の内側で、酔ったあまりに思慮を失って、止める者のないのを幸いにして、怒鳴り声をつづけているようであったが、茅野雄には興味がなくなったので、怒鳴り声を聞きすてて歩き出した。
(抜け荷買いをした人間だそうだ。今でこそ三卿のご用達《ようたし》などと、上品に構えてはいるけれど、一つ間違うと兇暴になって何をやり出すかわからないというのが、松倉屋勘右衛門の本性らしい)
 茅野雄は歩きながら思ったりした。
(どれ急いで家《うち》へ帰ろう)
 こうして茅野雄が自宅へ帰って、下男の弥助《やすけ》に迎えられて、自分の部屋へ入った時に、一つの運命が待っていた。
 飛脚が届けたという書面であった。
「夕方お飛脚が参りまして、この書面を置いて参りました」
 これが弥助の言葉であった。
「ほほうどこから来たのであろう? 俺のところへ書面を届けるような、親しい遠方の知人などは、どうにも俺にはなかったはずだが」
 呟きながらも宮川茅野雄は、文箱《ふばこ》をあけて書面を出して、静かに文面へ眼を落とした。
「お懐かしき茅野雄様、妾《わたし》は浪江《なみえ》でござります。あなたのたった[#「たった」に傍点]一人きりの、従妹《いとこ》の浪江でござります。浪江があなた様へお願いいたします。妾の処《ところ》へおいでくださいましと。妾の一家は五年前に、――あなた様が長崎へおいでになった時に、江戸を立ってこの地へ参りました。飛騨の国の高山城下から、十里ほど離れた山の奥の、丹生川平《にゅうがわだいら》という寂しい土地へ。……父も母も無事でござります。でも性質は変わりました。敵を持つようになりました[#「なりました」は底本では「なりした」]。で只今私達一族は、苦境にあるのでござります。どうぞどうぞおいでくださいまして、私達一族の味方となって、私達をお助けくださりませ。……妾は十八歳になりました。五年前にお別れをいたしました時には、妾は十四歳でございました。ほんとに子供でございました。でも今は娘でござります。……あの頃から妾はあなた様を、懐かしいお方に思っておりました。今も同じでござります。あなた様を懐かしく思っております」
 こういう意味のことが書いてあった。
(そうそう俺には親戚《みより》として、叔父の一族があったっけ。俺が長崎へ行っていた留守に、消えたと云ってもいいほどに、行衛知れずになってしまったので、思い出しさえもしなかったが、無事にこの世にいると聞いては、ちょっとなつかしく思われる。――従妹の浪江は小さい時から、驚くばかりに美しかったが、もっと美しくなっていよう。いかにも二人は仲がよかった。逢って話をしてみたいものだ。……敵を持って苦境にあるという? これがいくらか[#「いくらか」に傍点]気にかかるが、行って見たら様子が知れることであろう。……飛騨といえば随分山国だが、そんなことには驚かない。よしよし明日にも出かけることにしよう)
 ――こうして茅野雄は行くことに定《き》めた。が、これを一面から見ると、巫女《みこ》の占った運命の一つが、適中したという事になる。
 では次々に巫女の占いが適中しないとは云われない。
 茅野雄は「何か」を手に入れるであろうか?
 その「何か」とはどんなものであろう?

 その翌日のことであったが、松倉屋勘右衛門の邸の中で一つの事件が起こっていた。
「お前は旦那様に憎まれているねえ」
「はい奥様、そんな様子で、私は心配でなりませぬ」
「妾がお前を贔屓《ひいき》にするからだよ」
「はい奥様、さようでございますとも」
「旦那様はお前を嫉妬《やい》ているのだよ」
「どうやらそのようなご様子に見えます」
「お前の縹緻《きりょう》がよいからだよ」
「奥様ありがとう存じます」
「妾がお前を贔屓にするのも、お前の縹緻がよいからだよ」
「奥様、お礼を申し上げます」
「それにお前は気も利いているよ」
「はい奥様、ありがたいことで」
「それに妾に忠実だよ」
「はいはいさようでござりますとも。私は奥様のお旨とならば、火の中であろうと水の中であろうと、飛び込んで行く意《つもり》でござります」
「そうだよそうだよそういう性質だよ。だから贔屓にしてやるのだよ。でもそれは本当かしら? 妾がどのような無理を云っても、お前は聞いてくれるかしら?」
「聞きます段ではございません。きっと、きっと、きっと聞きます」
「それではお前をためす[#「ためす」に傍点]意で、少し無理なことを云いつけようかしら」
 そこは松倉屋の女房の部屋で豪奢な調度で飾られていた。
 その部屋に坐って話し合っているのは、女房のお菊と気に入りの手代の、二十歳《はたち》になる京助とであった。

お菊と京助

「それではお前を験《ため》すつもりで、少し無理なことを云いつけようかしら」
 こう云いながら立ち上ったのは、松倉屋の女房のお菊であった。濃い眉毛に大きな眼に――その眼はいつも潤《うるお》っていて、男の心をそそるような、艶《なまめ》きと媚びとを持っていた。――高慢らしい高い鼻に、軽薄らしい薄手の唇に――しかしそういう唇は、男の好色心を強く誘《いざな》って、接吻《くちづけ》を願わせるものである。――お菊の顔は美しかった。と云ってどこにも一点として、精神的のところはなくて、徹頭徹尾肉感的であった。
 で、立ち上った立ち姿などにも、そういう肉感的のところがあった。発達した四肢、脂肪づいた体――乳房などは恐ろしく大きいのであろう、帯の上が円々《まるまる》と膨らんでいて、つい手を触れたくなりそうである。女の肉体は肩と頸足《えりあし》と、腰と脛《はぎ》との形によって、艶っぽくもなれば野暮ったくもなる。お菊の肩は低く垂れていて、腕が今にも脱けそうであった。頸足の白さと長さとは雌蕊《しずい》を思わせるものがある。胴から腰への蜒《うね》り具合と来ては、ねばっこくて[#「ねばっこくて」に傍点]なだらかでS字形をしていて、爬虫類などの蜒り具合を、ともすると想わせるものがあった、で、どのような真面目な男でも、その腰の形を見せつけられたならば、溜息を吐かざるを得なくなるだろう。
 はたしてキチンと膝を揃えて、敷き物も敷かずにかしこまって[#「かしこまって」に傍点]いた、手代の京助は悩ましそうに、こっそりと一つ溜息をしたが、周章《あわて》て視線を腰から外《そ》らせた。と、京助は一層に悩ましい、溜息を吐かなければならないことになった。と云うのは立ち上った女房のお菊が、隣の部屋へ行こうとして、サラサラと足を運んだ時に、緋縮緬を纏った滑石《なめいし》のような脛が、裾からこぼれて見えたからである。
「ホー」とそこで溜息をしたが、京助は思わず手を上げた。苦しいほどにも蠱惑《こわく》的の物を、うっかりと見た自分自身の眼を、急いで抑えようとしたのであった。が、中途で心が変わったのか、上げた手で忙《せわ》しくぼんのくぼ[#「ぼんのくぼ」に傍点]を撫でた。汗が流れていたからである。
 しかし京助は幸福なのであった。
(何てお美しい奥様なのだろう。私は何よりも美しいものが好きだ。お本店《みせ》へ務《つと》めて荷作りをしたり、物を持ってお顧客《とくい》様へお使いをしたり、番頭さんに睨まれたり、丁稚《でっち》に綽名を付けられたり、お三どんに意地悪くあたられることは、どうにも私の嗜好《このみ》に合わない。お美しい奥様のお傍に仕えて、何くれとなくお世話をして、「京助や、この衣裳はどう?」「よくお似合いでござります」「京助や、この櫛はどう?」「まことにお立派でござります」「京助や、今日の髪はどう?」「お綺麗なお髪《ぐし》にござります」「京助や、下駄をお出し」「はい、揃えましてござります」「京助や、供をしておいで」「お供いたすでござりましょう」――などと何くれとなくお世話をするのが、私には大変好もしい。お蔭で指は細くもなり、滑らかにもなり白くもなった。節立った指などというものはどうにも私の嗜好に合わない)
 その京助という若い手代は、どういう性質の男なのであろう?
 決して悪人でないばかりか、正直で忠実で働き好きで、そうして綺麗好きの若者であった。ただ小心だということと、腕力のないということと、男性よりも女性を好んで、男性に対すると無口になるが、女性に対するとお喋舌《しゃべ》りになって、活き活きとしてくるという、そういう欠点があるばかりであった。
 で、自然と松倉屋の主人の、勘右衛門に対しては不機嫌となるが、勘右衛門の女房のお菊に対すると、よきお小姓となるのであった。
 ところで最近に京助にとって、面白くないことが起こってきた。
 旗本の次男の杉次郎という武士が、女王様のように崇拝《すうはい》をしている、奥様の心をたぶらかして、奥様の心を引っ張り寄せて、愛人としての位置を掴んだかのように、京助に感じられたことであった。
(あの杉次郎という若侍は、どうやら奥様を甘言《かんげん》でまるめて、お金や物品《もの》を持ち出すらしい)
 これが京助には面白くなかった。
(それに奥様のお兄様だとかいう破落戸《ごろつき》のような風儀《ふう》の悪い、弁太とかいう男が出入りをしては、ずっと以前から、奥様の手から、いろいろの無心をしたようだが、この頃では一層に烈しくなったようだ)
 これも京助には面白くなかった。
(どのように奥様にお金があっても、ご自分には財産はないはずだ。旦那様からのお手当でお暮らしなすっておられるはずだ。その旦那様だがこの頃になって、奥様のふしだら[#「ふしだら」に傍点]に感付かれたものか、昔よりもお手当を減らしたらしい。……で、奥様はご不如意らしい)
 これも京助には心配であった。
 京助は部屋を見廻して見た。
 床の間に香炉が置いてあったが、いつもの香炉とは違うようであった。安物のように思われる。掛けてある掛け物も違うようであった。安物のように思われる。桃山時代の名手によって、描かれたとかいう六枚折りの屏風《びょうぶ》が、いつもは部屋に立てられてあったが、今は姿が見られなかった。異国製だとかいうビードロ細工の、旦那の自慢の燈籠があって、庭裏に向いた高い鴨居から、いつもキラビヤカに下っていたが、今はそれさえ見られなかった。
(そう云えば奥様の髪飾りなども、金目の物から一つ一つ、いつの間にか行衛が知れなくなった)
 部屋の中をジロジロ見廻していた京助の優しい心配らしい眼が、自分の膝の上へ落ちた時に、また京助は溜息を洩らした。
(一体奥様という人は、奥様らしくないお方だ。お妾《めかけ》さんのようなところがある。でもそれは奥様がお悪いのではなくて、旦那様のやり口がお悪いからだ。本宅の方へ奥様を入れて、内所向きのことを一切合財、奥様にお任せしようとはせずに、本宅の方は古くからいる先の奥様の時代からの、年老《としより》の頑固のしみったれ[#「しみったれ」に傍点]の、女中頭に切り盛りさせて、今度の奥様には手もつけさせない。こんな所へ寮を建てて、そこへ奥様を住まわせて、あてがい[#「あてがい」に傍点]扶持《ぶち》をくれて飼って置かれる。……だから奥様にしてからが、お心が面白くないはずだ。で、ふしだら[#「ふしだら」に傍点]をなされたり、無駄使いなどをなされるのだ。……それにしてもこのようにお道具類が、眼に見えてなくなってしまっては、旦那様だとて不思議に思われて、何とか苦情を仰言《おっしゃ》られるだろう。……でも奥様なら大丈夫かもしれない。あのお美しいお顔で笑って、あのお上手な口前で喋舌って、丸めておしまいなさるだろう)
 こう思うと京助は嬉しくなった。
(奥様はお偉い奥様はお偉い。それに旦那様は、疑がいながらも、奥様のお美しさには参っておられる)
 で、京助は安心をして、今度は部屋の中を長閑《のどか》そうに見た。
 と、その京助の眼の前の襖《ふすま》が、向こう側の方からあけられて、さっき隣りの部屋へ入って行ったお菊が、手に小さな包物《つつみ》を持って、忍ぶようにこっちの部屋へ入って来たが、四辺《あたり》に気でも配るように、オドツイた眼で部屋を見廻すと、京助の前にベタリと坐った。
「京助や」と云ったが嗄《しわ》がれた声であった。
「これをね、急いで持って行っておくれ。ここにね」と云うと書面を出した。
「行き先の番地が書いてあるよ。で、すぐさま行っておくれ。途中で誰が何と云おうと、よしんば誰が止めようと、決してこれ[#「これ」に傍点]を渡したり、引っ返して来てはいけないよ。書面をお取り、包物をお取り! 急いで急いで急いでおいで」
「はい奥様」と手代の京助は、書面と包物とを受け取りはしたが、お菊の顔付きに不安なものがあって、その言葉つきにあわただしさがあって、全体に何となく不吉なものを、感じさせるものがあったので、飛び出して行く気にならなかった。
 しかしお菊が怒ったような声で、こう続けさまに云ったので、京助は不安ながらも部屋を出た。
「云うことをお聞き! 行っておいで! お前は妾に云ったじゃアないか、どのような無理でも難題でも聞くと。……何でもありゃアしないのだよ。持って行って返辞を聞くだけだよ。そうそう何かを渡すかもしれない。大切に持って帰っておいで。……妾の云い付けを聞かなかろうものなら、お前は明日《あした》からお払い箱だよ」
 ――お前は明日からお払い箱だよ――この言葉ほど京助にとって、恐ろしい言葉はないのであった。
 で、あわただしく部屋を出た。
 が、すぐに邪魔がはいった。
 門口を出て庭へ出て、門から往来へ駆け出そうとして、束《たば》になって咲いている木芙蓉の花の叢《くさむら》の側《そば》まで走って来た時に、
「京助!」と呼ぶ声が近くで聞こえて、
「これ、どこへいく? 持っている物は何だ!」と、続いて呼ぶ声が聞こえたからである。
 で、京助は声の来た方を見た。
 盆のようにも大きな顔には、鈎《かぎ》のような鼻が盛り上っているし、牛のようにも太い頸筋には静脈が紐のように蜒《うね》っている、半白ではあったがたっぷり[#「たっぷり」に傍点]とある髪を、太々しく髷に取り上げている、年の格好は六十前後であったが、血色がよくて肥えていて、皮膚に弛みがないところから五十歳ぐらいにしか思われない。松倉屋の主人《あるじ》の勘右衛門であった。勘右衛門がそう云って呼び止めたのであった。
 と、見て取った手代の京助は、不機嫌らしい顔をしたが、不精々々に挨拶をした。
「へい、これは旦那様で。ちょっと出かけて参ります」
 で、手に持った包み物を、胸へ大事そうに抱くようにしたが、云いすてて門の方へ行こうとした。

邪魔がはいる

「お待ち」と勘右衛門は迂散《うさん》くさそうに云った。
「何だ何だ持っている物は?」
 すると京助は首を振るようにしたが、
「さあ何でありましょうやら、とんと私は存じません」
「で、どこへ持って行くのだ」
 いかにも昔は抜け荷買いなどを、お上《かみ》の眼を盗んでやったらしい、鋭い、光の強い、兇暴らしい、不気味な巨眼で食い付くように、勘右衛門は京助が胸へ抱いている小さな包物《つつみ》を見詰めたが、
「ちょっとそいつを見せてくれ」と近寄りながら、手を延ばした。
 が、京助はうべなおう[#「うべなおう」に傍点]とはしない。後ろへ二三歩さがったかと思うと、
「奥様からのご依頼の品で……持って参らなければなりません。大変お大事の品物のようで。……で、たとえ旦那様でも、奥様のお許しの出ないうちは、お眼にかけることは出来ません」
 奥様の忠実なお小姓として、自ら任じている京助としては、こう云うより他はなかったようであった。
 そうして京助の直感力からすれば、どうやら持っているこの包物は、奥様にとっては秘密な品で、旦那様のお眼にかけることを、欲していないもののように思われた。
(とにかく急いで出かけなければいけない)
 で、京助は駆け出そうとした。
 と、松倉屋勘右衛門であるが、いよいよ迂散くさく思ったものと見えて、京助の行く手へ素早く廻ると、両手を大きく左右へひろげた。
「奥の品物なら俺の品物だ! 見せないということがあるものか! ……どうも大きさがあれ[#「あれ」に傍点]に似ている。さあさあ見せろ! 俺へ渡せ! 何だ貴様は手代ではないか! お前にとっては俺は主人だ! 主人の云い付けなら聞かなければなるまい! どうしても見せないと云うのなら、俺が腕ずくで取ってみせる!」
 で、包物を両手で握った。
「旦那様、いけませんいけません!」
 取られてたまるか[#「たまるか」に傍点]というように、京助は、包物を益々しっかりと、両手で、胸へ抱きしめたが、
「泥棒! 泥棒!」と声を上げた。
 胆を潰したのは勘右衛門であって、呆れたように眼を見張ったが、すぐに激怒に駆り立てられたらしい。
「泥棒だと※[#疑問符感嘆符、1-8-77] 馬鹿者め! 何をほざくか! 奥の品物を見ようとするのだ! 奥の品物なら俺の物! 取って見たとて何が泥棒だ! ……ははあいよいよ怪しいわい! そうまでして俺に見せまいとする! そうだてっきり[#「てっきり」に傍点]あの品物だ! これよこせ[#「よこせ」に傍点]! これ見せろ! ……昨夜《ゆうべ》も昨夜だ、深夜に帰って来て、俺の言葉をごまかしてしまって、あるともないとも品物について、ハッキリした返事をしなかった。……で、今日は昼からやって来たのだ。……と、どうだろう手代をけしかけて[#「けしかけて」に傍点]、あいつ[#「あいつ」に傍点]をどこかへ持たせてやろうとする。……もう女房とは思わない! 俺を破滅へ落とし入れる、恐ろしい憎い悪党|女《あま》だ! ……この京助めが、手前も手前だ! あくまでも拒むとは途方もない奴だ! よこせ! 馬鹿めが! こうしてやろう!」
 突然パンパンという音がして、すぐに続いて悲鳴が起こった。
 勘右衛門が平手で京助の頬を、二つがところ食らわせて置いて、包物をグイと引ったくったため、京助が悲鳴を上げたのである。
 こうして、松倉屋勘右衛門は、包物を手中には入れたけれど、持ちつづけることは出来なかった。
 いつの間にどこから来たのであろうか、一見して放蕩《ほうとう》で無頼に見える、三十がらみの大男が、勘右衛門の側《そば》に突っ立ったが、顔立ちがお菊とよく似ていて、好男子であることには疑がいがなかった。左の眼の白味に星が入っていて、黒味へかかろうとしているのが、人相をいやらしい[#「いやらしい」に傍点]ものにしている。濃い頬髯を剃ったばかりと見えて、その辺りが緑青《ろくしょう》でも塗ったようであった。
 お菊の兄の弁太なのであった。
 その弁太が右手《めて》を上げたかと思うと、ポンと勘右衛門の小手を打った。
 不意に打たれたことである。勘右衛門が持っていた包物を、取り落としたのは当然と云えよう。
「おい」と弁太が声をかけた。
「おい京助さんそいつ[#「そいつ」に傍点]を拾って、早く行く所へ行くがいいよ」
 それから勘右衛門へ眼をやったが、ニヤニヤ笑うと揉み手をした。
「妹に話がございましてね、参上したのでございますよ。……旦那、やり口があくどい[#「あくどい」に傍点]ようで。妹にだって用事はありましょうよ。その、私用という奴がね。……何の包物だか存じませんが、何か妹に思わくがあって、どこかへやろうとしていますようで。――へい、来かかって小耳へ挿んだので。……いくら旦那でもそんなことへまで、干渉なすっちゃアいけませんな。……おい、京助さん、早くお行き! ハッ、ハッ、ハッ、行ってしまったか」
 小気味よさそうに声を上げて笑った。
 勘右衛門が怒ったのは当然と云えよう。さも憎さげに弁太を睨《にら》んだが、
「うむ、お前さんは弁太殿か、妹をいたぶり[#「いたぶり」に傍点]に参られたと見える。……妹とは云ってもわし[#「わし」に傍点]の女房だ、そうそういたぶっ[#「いたぶっ」に傍点]て貰いますまいよ。……が、そんなことはどうでもよい! 何故今わし[#「わし」に傍点]の邪魔をされた! 返辞をおし! ……と、今になって云ったところで、こいつどうにもなりそうもない! ……京助々々包物をよこせ! ……おや京助め行ってしまったか! ……待て待て待て、遁してたまるか!」
 で、弁太を背後《うしろ》へ見すてて、勘右衛門は門の外へ走り出したが、もうこの頃には手代の京助は、町の通りを足早に、先へ先へと走っていた。
 京助は往来《とおり》を走っている。
(弁太という男は大嫌いだが、今日はにわかに好きになった。俺を助けてくれたのだからな。あの男が加勢してくれなかろうものなら、奥様からの預かり物を、すんでに旦那に取られるところだった。よかったよかった本当によかった。……それにしても一体包物の中には、何が入っているのだろう。奥様は奥様であんなにも真剣に、「途中で誰が何と云おうと、よしんば誰が止めようと、決してこれを渡したり引っ返して来てはいけない」と云われた。先方へ渡せと仰せられた。旦那は旦那で怖い顔をして、是非によこせと云って取ろうとした。大切な物には相違ない。何だか中身が見たくなった。ちょっと包物をひらいて見ようか)
(いや!)とすぐに思い返した。
(それこそ不忠実というものだ。何であろうと彼であろうと、俺に関係はないはずだ。俺の役目は一つだけだ。書面に書かれてある宛名の人へ、包物を直接に手渡して、返事と一緒に下さる物を、奥様へ持って帰ればいいのだ。……おッ、何だ、おかしくもない! まだ届け先を見なかったっけ)
 京助は懐中《ふところ》へ手を差し込んで、仕舞って置いた書面を引き出した。
 根津仏町|勘解由店《かげゆだな》、刑部《おさかべ》殿参る――
 こう宛名が記されてある。
「なるほど」と京助は声を洩らしたが、
(ははあそうか、根津なのか。よしよし根津へ行ってやろう。……ところでここはどこなのかしら?)
 で、四辺《あたり》を見廻して見た。
(おやおやここは蝋燭《ろうそく》町らしい)
 夢中で小走って来たがために、神田の区域の蝋燭町という、根津とはまるっきり反対の方へ、京助は来たことに感付いた。
(いけないいけない引っ返してやろう)
 で、きびす[#「きびす」に傍点]をクルリと返すと、根津の方へ歩き出した。
 永い夏の日も暮れかけていて、夕日が町の片側の、駄菓子屋だの荒物屋だの八百屋だのの、店先をカッと明るめていた。妙にひっそりとした往来《まちどおり》であって、歩いている人影もまばらである。赤児の泣き声が聞こえてきたり、犬の吠え声が聞こえてきたりしたが、それさえ貧しげな町の通りを、寂しくするに役立つだけであった。
(ここから根津へ行こうとするには、どう道順を取ったらよかろう? ……雉子《きじ》町へ出て、駿河台へ出て、橋を渡って松住町へ出て、神田神社から湯島神社へ抜けて、それから上野の裾を巡って、根津へ行くのがよさそうだ。どれ)
 と、云うので足を早めた。
 しかし半町とは歩かない中に、京助は仰天して足を止めた。
 怒気に充ちた顔を夕日に赭《あか》らめ、膏汗《あぶらあせ》の額をテラテラ光らせ、見得も外聞もないというように、衣裳の胸や裾を崩して、こちらへ走って来る勘右衛門の姿が、忽然と眼の前へ現われたからであった。
「京助!」と、勘右衛門は呻《うめ》くように云った。

旗本の次男杉次郎

 そう勘右衛門は呻くように云って、やにわに京助へむしゃぶり[#「むしゃぶり」に傍点]付くと、京助の持っている包物《つつみ》を、奪い取ろうと手をかけた。
 その勢いは凄じいほどで、京助の持っている包物の価値が、どんなに大きいかということを、証拠立てるに足るものがあった。
 しかし勘右衛門は老年ではあるし脂肪太りに太ってはいるし、その上に走って来たためか、その息使いは波のように荒くて胸の鼓動も高かった。今にも仆れそうな様子なのである。
 そうしてそのようにも苦しいのに、その苦しさを犠牲にして、どうでも包物を取り返そうとして、身もだえをするありさまと来ては、むしろ悲壮なものがあって、そうしていよいよ包物の価値の、偉大であるということを、証拠立てるに足るものがあった。
「よこせよこせ包物をよこせ! いやお願いだ返してくれ。怒りはしない、頼むのだ! どうぞどうぞ返してくれ!」
 ――で、無二無三に引ったくろうとする。
「私こそお願いいたします、どうぞ[#「どうぞ」は底本では「そうぞ」]旦那様お許しなすって! 包物はお渡しいたしません。奥様のお云い付けでございますもの。……持って参らなければなりません! はい、奥様のお云い付けの所へ!」
 京助は京助でこう喚《わめ》きながら、胸に抱いている包物を、どうともして取られまい取られまいとして、勘右衛門と捻じ合いひしめき合うのであった。
 京助としては当然と云えよう。
 こんなように京助には思ったのであるから。――
(こうも旦那が執念深く、奪い返そうとしているからには、小さいけれど包物の中には、素晴らしく大切な値打ちのある物が、入っているに相違ない。そうしてそれは奥様にとっては、一大事な物に相違ない。ひょっとかすると秘密の物かもしれない。もしも旦那に取り返されようものなら、奥様は絶望をして病気になって、京助や京助やとご機嫌よく、私を呼んでくださらないかもしれない。で、どのように頑張っても、旦那に包物は渡されない)
 ――で、喚きを上げながら、勘右衛門と捻じ合いひしめき合うのであった。
 いかにひっそり[#「ひっそり」に傍点]とした町とは云っても、大家の旦那とも思われる、非常に立派な老人と、大店の手代とも思われる、綺麗なお洒落の若い男とが、衣紋を崩して喚き声を上げて、往来《みち》の中央《まんなか》で人目も恥じないで、一つの包物を取ろう取られまいと、捻じ合いひしめき合っているのであるから、往来《ゆきき》の人達は足を止め、店から小僧や下女や子供や、娘やお神《かみ》さんや主人までが、飛び出して来て眺めやった。
 が、勘右衛門も京助も、そのようなことには感付かないかして、いつまでも捻じ合いひしめき合うのであった。
 その結果はどうなったであろうか?
 二人の争いを見守りながら、二人をグルリと取り巻いている、町の人達の間を分けて、痩せぎすで長身《せたか》くて色が白くて、月代《さかやき》が青くて冴え冴えとしていて、眼に云われぬ愛嬌があって、延びやかに高くて端麗な鼻梁に、一つの黒子《ほくろ》を特色的に付けて、黒絽の単衣《ひとえ》を着流しに着て、白献上の帯をしめて、細身の蝋鞘《ろうざや》の大小を、少しく自堕落に落とし目に差して、小紋の足袋《たび》に雪駄《せった》を突っかけた、歌舞伎役者とでも云いたいような、二十歳《はたち》前後の若い武士が、勘右衛門と京助とへ近寄って来たが、――そして真ん中へヌッと立ったが、
「これは松倉屋のご主人で、京助などという手代風情と、このような道の真ん中などで、何をなされておいでなさる。みっとものうござる、みっとものうござる……。京助々々何ということだ。ご主人様と争うなどと! ……え、そうか、ふうん、なるほど、ご内儀の云い付けでその包物を、どこかへお届けしようというのか。ではサッサと行くがよい。行け行け行け、かまわない。……ハッハッハッ、勘右衛門殿、はしたない[#「はしたない」に傍点]ではござりませぬか。いかさまお菊殿はあなたにとっては、自由《まま》になるご内儀でござりましょう。が、しかしご内儀のお菊殿から云えば、自分一人だけの勝手の用事も、自らあろうというもので。そこまで掣肘《せいちゅう》をなさるのは、少しく横暴でござりますよ」
 ――と、このように云うことによって、京助を勘右衛門から立ち去らせ、怒って焦燥して執念深く、尚も京助を追いかけようとする、勘右衛門を抑えて動かさなかった。――で、事件は解決された。
 が、この武士は何者なのであろうか?
 旗本の次男の杉次郎なのであった。

 根津仏町|勘解由店《かげゆだな》の、一軒の家の階下の部屋で、話し合っている武士があった。
「アラの神は讃《たた》うべきかなさ」
 こう云ったのは老いたる武士であった。
「もっと讃うべきものが厶《ござる》」
 中年の武士が皮肉そうに云った。
「さようさようアラの神よりも、もっと讃うべきものが厶。が、そいつは残念にも、容易に手には入らないようで」
「そこでいよいよ欲しくなります」
「で、貴殿にはここへ出張られて、狙いを付けておられるので」
「さよう、貴所《きしょ》様と同じようにな」
「誰が最初に手に入れるやら。まず愚老でござろうな」
「はてね、少しあぶないもので。某《やつがれ》が勝つでござりましょうよ」
「愚老の方が眼が高い」
「が、某といたしましては、彼の故国を知っております」
「ほほう。亜剌比亜《アラビア》をご存知なので」
「いかにも某存じております」
「ふうむ」と老武士は呻き声を上げたが、すぐに、そいつ[#「そいつ」に傍点]を引っ込ませると、別のことを云い出した。
「愚老の方が財力がある」
 すぐに中年の武士が答えた。
「健康はいかがで健康はいかがで? 某の方が健康で厶」
「が、愚老には権勢がある」
「某にも権勢はござりますよ」
「どのような種類の権勢やら」
「命知らずの部下がおります」
「浪人であろう。食い詰め者であろう」
「もっともっとあくどい[#「あくどい」に傍点]奴らで」
「ほほうさようか、何者かな?」
「放火《つけび》、殺人《ひとごろし》、誘拐《かどわかし》、詐欺――と云ったような荒っぽいことを、日常茶飯事といたしている、極めて善良な正直者たちで」
「なるほど」と老武士は苦笑いをしたが、
「愚老の背後《うしろ》楯は少しく違う。大名衆や旗本衆で」
「大名衆や旗本衆?」
 中年の武士は迂散くさそうに、老年の武士の顔を見たが、
「失礼ながらご老人には、いかようなご身分でありますかな?」
 少し慇懃《いんぎん》にこのように訊ねた。
「よろしかったらご姓名なども、承りたいものでござりますな」
 すると老武士は顎を撫でるようにしたが、
「そう云われる貴殿の素性と姓名とが、愚老には聞きたく思われますよ」
「拙者は醍醐弦四郎と申して、浪人者でござります」
「愚老は雲州の隠居だよ」
「…………」
 醍醐弦四郎は仰天して、改めてつくづくと老武士を見たが、
「それでは松平|碩寿翁《せきじゅおう》様で。……が、それにしてはこのような醜悪極まる勘解由店の、刑部《おさかべ》屋敷などへおいでなさるとは、心得ぬ儀にござりますな」
 ――で、碩寿翁の返辞を待った。
 それにしても勘解由店の刑部屋敷とは、どういう性質の屋敷なのであろうか?

勘解由と刑部?

「根津仏町に祈祷者住む、カアバ勘解由と云う。祈祷して曰く、『最も慈悲深き神よ、全智全能の神よ、死後まで祈祷すべし、尚神に願うべきことあり、正直に導けよ、邪道に導くなかれ』また曰く『告白せよ、神は唯一なり、信ぜよ、神は産れず、産ず、神と比較すべきもの何らあることなし』と。――吉利支丹《キリシタン》には非ず。有司放任す。信者|数多《あまた》あり、いずれも謙遜」云々。
 古い文献に記してある。
 で、その信者達が住んでいたので、勘解由店と云ったのである。数十軒かたまっていたらしい。
 その一軒に刑部という男が、やはり信者として住んでいたが、カアバ勘解由と親交があり、最も信任されていた。が、刑部には商売があって、単なる信者ではなかったそうである。商売というのは古物商で、特に異国の珍器などを、蒐集していたということである。で、好奇《こうず》の富豪連や、大名などが手を廻して、取り引きをしたということである。
 以上は将軍家光時代、寛永年間のことなのであるが、それから数十年の時が経って、享保十五年になった時には、多少趣が変わっていた。
 すなわち代々勘解由という名をもって、男性ばかりが継いで来た家が、この代になって女性となり、信者が目立って減って来て、その代わりにただの市民達が、勘解由店へ続々移り住み、普通の貧しい部落となったことが、その一つの変化であり、勘解由家の後を継いだ千賀子という女が、勘解由家代々の主人のように、権力を持っていないばかりか、肝心の実家へもろくろく住まず、江戸の市中や地方などへ出て、人相だの家相だの身の上判断だのと、そういったような貧弱な業に、専心たずさわっているところから、家がほとんど没落してしまった。――と云うのも変化の一つといえよう。しかしある人の噂《うわさ》によれば、千賀子の代になってからであるが、二人の非常に有力の信者が、女性である千賀子を裏切って、勘解由家にとって重大な何かを、横領をしてしまったので、それで千賀子は落胆をして、そんな変なものになったのだとも云われ、いやいやそれだから千賀子という女は、奪われた何かを奪い返そうとして、放浪的生活をしているのだと、そんなようにも云われていた。
 ところで一方|刑部《おさかべ》家の方には、どういう変化があったかというに、これは勘解由家とは反対に、昔よりも一層に盛んになって、江戸における特殊の古物商として、認められるようになっていた。
 と、こんなように説明して来れば、何か初代の勘解由という男が、偉大な宗祖のように見えるが、大したものではなかったらしい。カアバというこの文字から推察すれば、回教には因縁があったようである。と云うのはカアバというこの文字の意味は、亜剌比亜《アラビア》のメッカ市に存在する、回教の殿堂の名なのであるから。そういえば祈祷の文句にある、神は唯一なりというこの言葉なども、回教の教典《コーラン》の中にある。
 家光将軍の時代といえば、吉利支丹迫害の全盛時代で、吉利支丹信者は迫害したが、その他の宗教に対しては、政策として保護を加えた。で勘解由という人物であるが、長崎あたりにゴロツイていて、何かの拍子に回教の教理の、ほんの一端を知ったところから、江戸へ出て来て布教したのであろう。大して勢力もなかったので、有司もうっちゃって置いたのであろう。
 刑部という男にしてからが、同じ頃に長崎にゴロツイていて、いろいろの国の紅毛人と交わり、異国の安っぽい器具《うつわもの》などを、安い値でたくさん仕入れて来て、これも長崎で知り合いになった、勘解由という男と結托して、大袈裟に宣伝して売っただけなのであろう。
 さてまずそれはそれとして、人間という者は出世をすれば、自分へ箔を付けようとして、勿体《もったい》をつけるものであるが、刑部といえどもそうであった。第一にめったに人に逢わず、第二に諸家様から招かれても、容易なことには出て行かず、物を買ったり売ったりする時にも、お世辞らしいことは云わなかった。しかし一体に古物商には、変人奇人があるものであるから、刑部のそうした勿体ぶった様子は、あるいは加工的の勿体ぶりではなくて、本質的のものなのかもしれない。
 が、とりわけ勿体的であり、また変奇的であるものといえば、刑部の家の構造であろう。いやいや家の構造というより、古道具類を置き並べてある、――現代の言葉で云ったならば――蒐集室の構造であろう。
 しかし、それとても昭和の人間の、科学的の眼から見る時には、別に変奇なものではなかった。窓々に硝子《ガラス》が篏めてあって、採光が巧妙に出来ている。四方の壁には棚があったが、それが無数に仕切られていて、一つ一つの区画の面《おもて》に、同じく硝子が篏め込まれてあり、その中に置かれてある古道具類を、硝子越しに仔細に見ることが出来た。部屋の板敷きには幾個《いくつ》も幾個も、脚高の台が置かれてあったが、その台の上にも硝子を篏めたところの、無数の木箱が置かれてあって、中に入れてある古道具類を、硝子越しに見ることが出来た。
 構造と云ってもこれだけなのであった。
 しかし日本のこの時代においては、硝子というものが尊く珍らしく、容易に入手することが出来ない。その硝子を無数に使っているのである。変にも奇にも見えたことであろう。その上に壁の合間などに、波斯《ペルシャ》織りだの亜剌比亜《アラビア》織りだのの、高価らしい華麗な壁掛けなどが、現代の眼から見る時には、ペンキ画ぐらいしかの値打《かち》しかない――しかし享保の昔にあっては、谷《きわ》めて高雅に思われるところの、油絵の金縁の額などと一緒に、物々しくかけられてあるのであるから、見る人の眼を奪うには足りた。のみならず高い天井などからは、瓔珞《ようらく》を垂らした南京龕《ナンキンずし》などが、これも物々しく下げられてあるので、見る人の眼を奪うには足りた。で、日中であろうものなら、硝子窓から射して来る日光《ひかり》が、蒐集棚の硝子にあたり、蒐集木箱の硝子にあたり、五彩の虹のような光を放ち、それらの奥所《おくど》に置かれてあるところの、古い異国の神像や、耳環や木乃伊《ミイラ》や椰子の実や、土耳古《トルコ》製らしい偃月刀《えんげつとう》や、亜剌比亜人の巻くターバンの片《きれ》や、中身のなくなっている酒の瓶や、刺繍した靴や木彫りの面や、紅、青、紫の宝玉類を、異様に美々しく装飾し、もしそれが夜であろうものなら、南京龕に燈《とも》された火が、やはり硝子や異国の器具類を、これは神秘的に色彩るのであった。
 しかしこれらの部屋の構造も、そこに置かれてある異国の古道具も、今日の眼から見る時には、安物でなければ贋物なのであって、誠に価値のある物といえば、皆無と云ってもよいほどであった。いやもっと率直に云えば、享保年間のその時代においても、少し利口な人間であり、長崎などと往来し、紅毛人などと親しくし、多少商才のある人間であったから、こういう部屋の構造や、こういう異国の古道具などは、造ることも出来れば蒐《あつ》めることも出来、したがって高価に売りつけることも、苦心もせずに出来るのであった。だがもしそれが反対となって、異国の事情を知らない者などが、この部屋へ入って来ようものなら、何から何までが怪奇に見え、高雅に見えることであろう。
 とまれこういう部屋を持った、刑部屋敷という一軒の家《うち》が、その左隣りに没落をして、廃墟めいた姿をさらしている、勘解由千賀子の屋敷を持ち、周囲に貧民の家々を持って、かなり豪奢に立っているのであった。
 ところで当主の刑部という男は、そもそもどんな人物なのであろう。
 年は六十で痩せていて、狡猾尊大な風貌をしていて、道服めいた着物を着ていて、手に払子《ほっす》めいたたたき[#「たたき」に傍点]を持ち、絶えず口の中で何かを呟き、隙のない眼でジロジロ見廻す。――と云ったような人物であった。
 しかし刑部はめったのことには、蒐集室へは現われなかった。いつも奥の部屋にいるのであった。とはいえ見張ってはいるものと見えて、いかがわしい客などが入り込んで来ると、扉をあけてチョロチョロと入って来て、払子を揮って追い出したりした。
 宝石や貴金属の鑑定には、名人だという噂があり、贓品《ぞうひん》などをも秘密に買って、秘密に売るという噂もあった。で、大家の若旦那とか、ないしは富豪の妻妾などが、こっそり金の用途があって、まとまった金の欲しい時には、そうした宝石や貴金属を、ひそかにここへ持ち込んで来て、買い取って貰うということである。と、それとは反対に、掘り出し物の宝玉とか、貴金属などの欲しい者は、これはおおっぴらにここへ来て、蒐集室で探したり、直接刑部にぶつかったりして、手中に入れると噂されてもいた。
 松平碩寿翁と醍醐弦四郎とが、この日蒐集室へ集まって、互いに相手を探るような話を、さっきから曖昧に取りかわせていたのも、宝石かないしは貴金属か、掘り出し物をしようとして、苦心している結果とみなすことが出来る。

曖昧な会話

「それでは松平碩寿翁様で。……が、それにしてはこのような、醜悪極まる勘解由店《かげゆだな》の、刑部《おさかべ》屋敷などへおいでなさるとは、心得ぬ儀にござりますな」
 こう云って醍醐弦四郎は、碩寿翁の返辞をしばらく待った。
 何と碩寿翁は答えるであろうか?
 答えは極めて簡単であった。
「私はな、珍器や古器物が好きだ。世間周知のことではないか、何の勘解由店の刑部屋敷が、醜悪極まる処であろう。すくなくも私《わし》にはよい所だ。ここへ来て探すと珍らしい物が、ヒョッコリヒョッコリと手に入るからの。……それはそうとお手前におかれても、身分ある立派なお武家らしいが、お手前こそ何の用事があって、このような処へ参られたかの? と訊《たず》ねるのが本当ではあるが、ナーニ私は訊ねないよ。ちゃんと解っているからさ。掘り出し物がしたいからであろう。ここへ来るほどの人間は、一人残らず誰も彼もそうさ。アッハッハッ、図星だろうがな。ところでどういう掘り出し物を、お手前は望んでおられるやら? 実はな、私はそいつが聞きたい。が、押しては訊ねない、と云うのは推量がついているからよ。お手前の今の話によって、推量を私はつけたのだ。……亜剌比亜《アラビア》から渡って来た何かであろう。ここで率直に云うことにする。私もな、同じ物を探しているのだ」
 戸外《そと》は夜で暗かったが、部屋の中は燈火で明るかった。一つの卓を前にして、その向こう側へ醍醐弦四郎を置いて、眼光の鋭い巨大な鷲鼻の、老将軍のような碩寿翁が、胡麻塩の頤髯を悠々と撫《ぶ》し、威厳のある声音《こわね》で急所々々を、ピタピタ抑えてまくし立てた様子は、爽快と云ってよいほどであった。
 向かい合っている醍醐弦四郎も、一種剛強の人物らしく、太い眉に釣り上った眼、むっと結んだ厚手の唇、鉄のように張った胸板など、堂々とした風采ではあったが、碩寿翁にかかっては及ぶべくもないのか、たじろいだような格好に、卓から一二歩後ろへ離れた。
 しばらくの間は無言である。
 で、部屋の中は静かであって、南京龕《ナンキンずし》から射して来る光に、蒐集棚の硝子《ガラス》が光り、蒐集箱の硝子が光り、額の金縁が光って見えた。部屋の片隅に等身ほどもある、梵天《ぼんてん》めいた胴の立像があったが、その眼へ篏められてある二つの宝玉が、焔のような深紅《しんく》に輝いていた。紅玉などであろうかもしれない。
(相手が松平の大隠居とあっては、俺に勝ち目があるはずがない。のみならず俺の探している物を、碩寿翁も探しているという、困った敵が現われたものだ)
 碩寿翁と眼と眼とを見合わせながら、弦四郎は思わざるを得なかった。
(さてこれからどうしたものだ)
(何とかバツを合わせて置いて、器用にこの部屋を退散しよう。それにさ俺は何をおいても、伊十郎めに逢わなければならない)
 そこで弦四郎はお辞儀をした。
「これは恐縮に存じます。いや、お言葉にはございますが、何の私めがご前様と同じに、亜剌比亜《アラビア》から渡った何かなどを、探しなどいたしておりましょうぞ。先刻申し上げました話なども、ほんの出鱈目なのでござります。遠い異国の亜剌比亜のことなど、存じておるわけはござりませぬ。……さあこの屋敷へ参りましたのも、偶然からにござります。珍らしい器類を置き並べてあると、江戸で名高うございますので、一度は見ようと存じまして、本日|門口《かどぐち》を通りましたので、立ち寄ったまでにございます。……まことに珍器、まことに異品、このように取り揃えてありましょうとは、思いも及ばないでおりましたので、驚かされましてござります。が、私めにとりましては、ご高名の松平碩寿翁様に、このように親しくお目にかかり、このように気安くお話をし、謦咳《けいがい》に接しましたそのことの方が、実は一層に珍らしくも、有難くも想われるのでござります。で、なにとぞこれをご縁に、今後はお引き立てにあずかりたく……ええ私めの素性と申せば……ハッハッハッとんでもない儀で、浪人者の私などに、何の素性などござりますものか。……よしまた素性がありましたところで、お耳に入れて徳もなく、聞かれるあなた様におかれましても、面白くもおかしくもござりますまい。そこで……」と云って来たが醍醐弦四郎は、自分が頓馬《とんま》に思われて来た。
(まるで辻褄が合わないじゃアないか。鼻の頭へ汗を掻いて、俺は一体何を云ってるのだ)
 で、また一つお辞儀をしたが、
「お別れいたすでござります。ご免」と、云うと部屋を飛び出した。
 こうして二人の変な会見は、あっけなく終りを告げたのであったが、しかし碩寿翁にも弦四郎にも、すぐ意外な事件が起こった。
 弦四郎の事件から書くことにしよう。
 刑部屋敷を出た弦四郎が、上野の山下まで来た時であったが、紗《しゃ》を巻いたような月光の中から、
「あの方もご出立でございます。あなたもご出立なさりませ!」
 こういう女の声が聞こえた。
「…………」
 で、弦四郎は声の来た方を見た。
 巫女《みこ》姿の女が弦四郎の横手を辷《すべ》るようにして歩いて行く。
「おお、あれはあの女だ」
 で、弦四郎は見送るようにした。
 月の光をヒラヒラと縫って、髪を垂らして、御幣《ごへい》を持って、脚に一本歯の足駄をはき、胸へ円鏡をかけている。衣裳といえば白衣《びゃくえ》であって、長い袖が風にひるがえり、巨大な蛾などが飛んでいるように見える。容貌なども美しいと見えて、月光にさらされた横顔の形は、鼻が高くて額が秀でて、頤が珠のように円味がかっていた。
「待て!」と、弦四郎は声をかけたが、すぐにスッと走り寄り、巫女の片袖へ手をかけた。
「千賀子殿でござろう、相違ござるまい!」
 だがその巫女は返辞もしないで、取られた片袖を柔かに外し、同じ辷るような歩き方で、根津の方角へ足を運んだ。
 一種いわれぬ威厳があって、遮ろうにも遮ることが出来ない。
 で、弦四郎は立ったままでいたが、千賀子の姿が見えなくなるや嘲るような声をもらした。
「碩寿翁には先手を打たれ、千賀子には謎語《めいご》を浴びせかけられてしまった。今夜は、俺にはめでたくない晩だ。二度あることは三度あるというが、もう一度、今夜中に嚇されるかもしれない」
(それにしてもどういう意味なのであろう? あの方はご出立なさいました、あなたもご出立なさいませとは?)
 しかし間もなく謎語の意味が、醍醐《だいご》弦四郎には解けて来た。
「伊十郎めに早く逢おう」
 こうして足を早ませて、両国の橋詰めまで行った時に、向こうから一人の若い武士が、息をせき切って走って来たが、
「おおこれは醍醐殿で」
「伊十郎氏か、何か起こったか?」
「宮川|茅野雄《ちのお》が旅に立ちました」
(ははあこの事を云ったのだな、あの千賀子という女巫女は)
「おおさようか、で、何処《いずこ》へ?」
「まずお聞きなさりませ」
 年は二十八九であろうか、帷子《かたびら》に小袴をつけている。敏捷らしい顔立ちのうちに、一味の殺気の凝《こ》っているのは、善良でない証拠と云えよう。醍醐弦四郎の部下と見えて弦四郎に対しては慇懃《いんぎん》である。
「まずお聞きなさりませ」
 半田伊十郎は話し出した。
「ご貴殿のお指図《さしず》がありましたので、昨夜より私茅野雄めの邸を、警戒いたしましてござります。ところが今朝になりまして、にわかに旅支度をいたしまして、茅野雄には邸を立ちいでましたので、すぐに私|事《こと》玄関へかかり、茅野雄の友人と偽わりまして、行く先を詳しく訊ねましたところ、僕《しもべ》らしい老人の申しますことには、飛騨の国は高山城下より、十五里あまり離れましたところの、丹生川平《にゅうがわだいら》という一つの郷《ごう》へ、参りました旨語りましたので、早速お耳に入れたく存じて、お邸へ参上いたしましたところ、ご外出にてご不在とのこと、そこで止むなくお約束の場所の、ここでお待ち受けいたしますうちに、お姿をお見かけいたしましたので、馳《は》せ参った次第にござります」
「そうか」と、それを聞くと醍醐弦四郎は、大きく一つ頷いて見せたが、
「すぐ俺も出立しよう」
「は、ご出立? でどちらへ?」
「云うまでもない、丹生川平へよ」
「茅野雄の後を追いましてな」
「素晴らしい何かを求めてだよ」
「で、我々一党の者は?」
「出立々々、同時に出立!」
「かしこまりましてございます」
 ――で、二人は引っ返したが、この頃松平碩寿翁においては、刑部屋敷の露路の口で、一人の若者と話していた。

兇悪の碩寿翁

(醍醐弦四郎と云ったあの男も、俺と同じ物を探しているらしい。油断のならない人物らしかったが、とんでもない競争者が出て来たものだ)
 碩寿翁はこんなことを思いながら、弦四郎の立ち去ったその後においても、蒐集部屋の中をあちらこちらと、珍奇の器具類を調べながら、しばらくの間はさまよっていた。
(今日はこれぐらいで帰るとしよう)
 で、碩寿翁は蒐集部屋を出たが、出たところに露路があって、それをウネウネと幾廻りかして、往来へ出なければならなかった。
 こうして碩寿翁は露路口まで来た。と、その時一人の男が、誰かに追われてでもいるかのように、息を切らして走って来たが、そこまで来ると足を止めて、キョロキョロ四辺《あたり》を見廻し出した。
「もし」と、碩寿翁を眼に入れたので、その若者は声をかけた。
「ちょっとお訊ねいたしますが、刑部屋敷と申します屋敷は、どこら辺りでござりましょうか?」
「刑部屋敷か、刑部屋敷はここだ。たった今私の出て来たところだ」
 こう云うと碩寿翁は若者を見た。
「おやそうでございましたか。やっと安心いたしました。で、はなはだ失礼ながら、あなた様がお屋敷のご主人で?」
「何か用でもあるというのか?」
「主人の用事でござります。はいはい私のご主人様の。ええ私のご主人様と申すは、松倉屋の奥様にござります。私ことは京助と申して、寵愛の手代にござります。で、奥様が仰せられました。この品物を持って行って、刑部屋敷のご主人に逢って、お手渡しをして参るがよい。一緒に書面もお渡ししな。そうしてご返辞をいただいて参れ。下さるものがあるだろう、それをもいただいて参るがよい。……これが品物にございます。これがお手紙にござります。……品物の中身は存じませぬが、どうやら高価の品物らしく、それが証拠には勘右衛門様が――はい松倉屋のご主人様なので、――品物を取り返そう取り返そうとして、いやはやいやはやとてもしつこく[#「しつこく」に傍点]、追っかけて来ましてございます。で、私は一散に逃げて、やっとここまで参りました。ほッ、この汗! この汗はどうだ! 汗をかきましてござります。ほッ、この動悸! この動悸はどうだ! ひどい動悸が打っております。……」
 碩寿翁を屋敷の主人と見あやまり、京助はあたふた[#「あたふた」に傍点]こう云いながら、包み物と書面とを前へ出した。
 恐ろしい主人の勘右衛門に、執念深く追いかけられ、弁太や杉次郎に助けられ、ようやく逃げて根津まで来て、あっちこっちをほっつき[#「ほっつき」に傍点]廻り、ようやく目的の刑部屋敷の、露路の口まで来たのであった。その時風采堂々とした、松平碩寿翁に逢ったのである。顛倒している眼から見れば、刑部屋敷の主人公に、碩寿翁の見えたのは当然と云えよう。
 で、京助は恭しく、包み物と書面とを支え持っていた。
(松倉屋の女房の高価な品物? 勘右衛門が取り返そうと追って来た品物? 刑部屋敷の主人へ渡して、返辞と何かを下さるだろうから、それをいただいて参れという品物。……松倉屋は昔は抜け荷買いだ、異国の珍器なども持っていよう。刑部屋敷の主人といえば、そういう品物を売買する奴だ……松倉屋の女房は贅沢三昧で、むやみと金を使うという。……うむ、解った! それに違いない!)
 碩寿翁には咄嗟に真相が解った。
 俄然碩寿翁の眼の光が、貴人などにはあるまじいほどに、毒々しく惨酷に輝いたが、
「さようか、よろしい、受け取りましょう。返辞もあげよう、物もあげよう。……さあさあこっちへ参るがよい。どれ」と、手を延ばして二品を取ったが、とたんに片手をグッと突き出した。
 呻きの声の聞こえたのは、急所を突かれた手代の京助が、倒れながら呻いたからであろう。
 左右は貧民の家々であって、露路を挟んで立ち並んでいる。月の光が遮られて、露路の中はほとんど闇であった。そういう露路を背後《うしろ》にして、露路口に立っている碩寿翁の姿は、その長い髯に、頑丈な肩に、秀れた上身長《うわぜい》に、老将軍らしい顔に、青白い月光を真っ向に浴びて、茶人とか好奇家《こうずか》とか大名の隠居とか、そういうおおらか[#「おおらか」に傍点]の人物とは見えずに、老吸血鬼か殺人狂のように見えた。その足もとに転がっているのは、犠牲にされた京助であって、両手を握って左右へ延ばし、食いしばった口から泡を吹き半眼で空を睨んでいる。
 と、碩寿翁は腰を曲げたが、手を延ばすと京助の襟上をつかみ、露路へズルズルと引っ張り込んだ。
 一つの露路は二つの露路を産み、二つの露路は四つの露路を産み、この一画は細い露路によって、蜘蛛手《くもで》のように織られていたが、それの一つへ投げ込まれたが最後、死人であろうと、怪我人であろうと、犬や猫のように扱われて、死人は下手人も探されず、そのままどこかへ片寄せられ、怪我人は介抱もされないのであった。
 この一画は貧民窟ではあったが、また罪悪の巣でもあり、悪漢《わる》や無頼漢《ごろつき》の根城なのでもあった。
 淫祠邪教の存在地なるものは、表面人助けが行なわれるが、裡面においては惨忍極まる、悪徳が横行するものである。
 とりわけ細い露路の一つへ、死んでしまったのか、気絶をしているのか、されるままになっている京助の体を、ズルズルと引っ張って来た松平碩寿翁は、一軒の家の門口《かどぐち》の前へ、その京助の体を捨て、忍びやかに露路を出ようとした。
 と、その家の窓の辺りから、急に華やかな燈火《ともしび》が射し、高貴な若々しい男の声が、屈託もなさそうに聞こえてきた。
「問題は非常に簡単なのだよ。小慾にあり知足《ちそく》にあるのさ。なるほど、今は生活《くらし》にくい浮世だ。戦い取ろう、搾《しぼ》り取ろうと、誰も彼も逆上してあせっている。だから私は云うのだよ、慾を少なくして、足るを知れと。つまり浮世と逆行するのだ。その逆行が徹底した時に、桃源郷が現じ出してくる。……誰も彼も桃源郷を求めていながら、誰も彼もが桃源郷を断っている」
 するとその声に答えるようにして、あどけない娘の声がした。
「小父《おじ》様ほんとうでございますわね。……でも小父様はどういうお方ですの?」
「私《わし》かね」と男の笑声が云った。
「旅人なのだよ、この人の世の。……お伽噺の語り手なのだよ。伝道者と云ってもよいかも知れない」
「妾《わたし》ちっとも恐くないわ。知らないお方ではございますけど。……フラリと先刻《さっき》いらしった時から、ちっとも恐くはございませんでしたの」
「それはね、お前さんがよい娘《こ》だからよ。……悪人なら私を怖がるはずだ」
「でも小父様はお立派なのね。お顔もお姿もお召し物も。……そうして何て神々《こうごう》しいのでしょう。妾、ひざまずいて拝みたいのよ」
「お前さんの心が立派だからよ。……立派な心は立派な心を好くよ。私こそお前さんにひざまずくべきだよ」
「でも妾貧しいのでございますの。誰も彼も私を馬鹿にしますの」
「一人だけお前さんを認めているものがあるよ」
「まあ小父様、あなたのことですの」
「いやいや私がお仕えしている方だよ」
「どなたでございますの? ねえ小父様?」
「唯一なる神」
「唯一なる神?」
「お聞きお妙《たえ》さん、聞こえるだろうね」
「…………」
「小慾知足とは反対に、飽くことを知らない強慾者が、みすみす没落の穴の方へ、歩いて行く足音が聞こえましょう」
「小父様妾には聞こえませぬが」
「窓をお開け!」と男の声がした。
「姿を見ることが出来ましょう。その気の毒な強慾者の姿が」
 露路の闇に佇んで、聞きすましていた碩寿翁は、一刹那体をひるがえすと、その家の板へへばり[#「へばり」に傍点]ついた。
 と、すぐに窓があき、娘の顔が現われたが、家内《いえうち》から射し出る燈火《ともしび》の光を、背景としているがために、顔立ちなどはわからなかった。清らかな白い輪廓ばかりが、ぼんやり見えるばかりであった。
 娘は露路の左右を見たが、
「小父様、何にも見えませぬ」
「さようか」と、家内で男の声が云った。
「では見ない方がよいだろう。……そうだ、なるたけ穢らわしいものは」
「ああ小父様、黒い物が見えます。おおおお死骸でございます。若い方の死骸でございます。露路の真ん中に倒れております」
「助けておいで」と、男の声がした。
「可哀そうな不幸な贄《にえ》なのだよ」
 つづいて「はい」という声が聞こえて、窓から娘の顔が消えた。
 と、戸をあける声がした。
 松平碩寿翁は見付けられなければなるまい。
 いやいや碩寿翁はこの時には、既に露地から走り出していた。すなわち窓から娘の顔が、引っ込むと同時に身を躍らせて、露路から外へ飛び出したのであった。

颯と一揮

(あのお方があんな[#「あんな」に傍点]所におられようとは。……俺はとうとう感付かれてしまった! ……俺に恐ろしいのはあのお方ばかりだ。……俺は邸へは帰られない。俺は体を隠さなければならない。……あのお方があんな所におられようとは。いやいやこれは当然かも知れない。……あのお方はああいうお方なのだから。……不正な所へも現われるし、正しい所へも現われる。貧しい所へも現われれば、富んだところへも現われる。そうして「状態」をひっくり返す)
 露路口で立ち止まった碩寿翁は、こう考えて戦慄したが、そういう恐怖よりもさらに一層の、好奇心が胸へ湧き上った。で、手に持っていた包み物の、包みをグルグルと解きほぐし、現われた蒔絵《まきえ》の箱の蓋《ふた》を、月に向かってパッと取った。と一道の鯖《さば》色の光が、月の光を奪うばかりに、燦然としてほとばしり出たが、ほんの一瞬間に消えてしまった。碩寿翁が箱の蓋を冠《かぶ》せたからである。
「おおこの光に比べては、名誉も身分も、財産も生命《いのち》さえも劣って見える。……あれだ! たしかに! 探していたあれだ!」
 感動が著しかったためなのであろう、碩寿翁はガタガタと顫え出した。
 が、その次の瞬間に、碩寿翁を驚かせたものがあった。一本の腕が背後《うしろ》から延びて、蒔絵の箱を掴んだからである。
 とたんに活然と音がして、白い物が月光に躍り上り、すぐに地に落ちてころがった。
 抜き討ちに切りつけた碩寿翁の太刀に、御幣《ごへい》の柄が真ん中から二つに切られ、その先が躍り上って落ちたのであった。
 露路口に立っている女があった。白の行衣《ぎょうえ》に高足駄をはき、胸に円鏡を光らせてかけ、手に御幣の切られたのを持って、それを頭上で左右に振って、鋭い声で喚いている。
 勘解由《かげゆ》家の当主の千賀子であった。
「返せ返せ持っている物を返せ! 久しく尋ねていた我が家の物だ! それの一つだ、返せ返せ! ……刑部《おさかべ》殿々々々、お出合いくだされ! あなたにとっても大切の物が、見付かりましてござりますぞ! ……得体の知れない老人が、持って立ち去ろうといたします! ……お出合いくだされ、お出合いくだされ! ……あッ、切り込んで参ります! 妾は殺されそうでござります! お出合いくだされ! お助けくだされ!」
「黙れ!」と碩寿翁は叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]《しった》した。
「汝《おのれ》こそ誰だ、不届きの女め! 拙者の持ち物を取ろうとする! ……うむ、うむ、うむ、汝もそうか! 汝もこいつを探している一人か! ……では許されぬ! 助けはしない! ……くたばれ!」と、毒々しく食らわせたが、一躍すると颯《さっ》と切った。
 辛くもひっ外した巫女の千賀子は、御幣《ごへい》を尚も頭上で振ったが、
「なんの汝に! 切られてなろうか! なんの汝に! 取られてなろうか! ……返せ返せ、我が家の物だ! ……刑部殿、刑部殿、刑部殿!」
 するとその声が聞こえたのであろう、露路の奥から応ずる声がした。
「おお千賀子殿か、何事でござる!」
 つづいて走って来る足の音がしたが、刑部老人が来るのでもあろう。道服めいた衣裳を着て、払子《ほっす》を持った身長《たけ》の高い翁《おきな》の、古物商の刑部が露路を走って、露路の口まで出て来た時には、しかし松平碩寿翁は、その辺りにはいなかった。月の光を青々と刎《は》ねて、数間の先を走っていた。
「あッ、ありゃア碩寿翁様だ! ……え、あの方があれ[#「あれ」に傍点]を持って? ……ふうむ、さようか、それはそれは。いやそれなら大事ない! 私に取り返す策がある。……が、待てよ、こいつはいけない! ……大変だ大変だかえって大変だ!」

 それから三日の日が経った時に、旅よそおいをした一人の武士が、飛騨の峠路を辿っていた。
 ほかならぬ宮川|茅野雄《ちのお》であった。
 巨木が鬱々と繁っていて、峠の路は薄暗く、山蛭《やまひる》などが落ちて来て、気味の悪さも一通りでなかった。と、その時唸りをなして、一本の征矢《そや》が飛んで来たが、杉の老幹の一所へ立った。矢文と見えて紙が巻いてある。
「はてな?」と、立ち止まった宮川茅野雄は、手を延ばすと文をほぐし取ったが、開いて読むと血相を変えた。
「醍醐《だいご》弦四郎お約束通り、貴殿を付け狙い致してござる」
 矢文に書いてあった文字《もんじ》である。
 で、茅野雄は顔色を変えて、突っ立ったままで考え込んだ。
 思い出されるのは、いつぞやの晩に、醍醐弦四郎という浪人者に、突然切ってかかられたあげく、
「あの巫女《みこ》が占いをいたした以上は貴殿にはほとんど間違いなく、その『何か』を手に入れようとして、努力をなさるようになりましょう。と、拙者とは必然的に、競争をすることになりましょう。もしもそのようになった際にはいつも貴殿の生命《いのち》を巡って、拙者の刃《やいば》のあるということを、覚悟をなされておいでなさるがよろしい」と、このように云った言葉であった。
(それでは醍醐弦四郎という男は、俺と敵対をするために、このように飛騨の山中まで後をつけて来て矢文を射て、俺を脅迫しているのか)
 茅野雄は何となく肌寒くなった。
(どうして俺が江戸を立って、飛騨の山中へ入り込んだことを、あの男は探り知ったのであろう?)
 これが茅野雄には不思議であった。
(しかし俺は巫女の占いを奉じて、飛騨の山中へ来たのではない。叔父の一族に逢おうとして、飛騨の山中へ入り込んだのだ)
 とはいえ結果から云う時には、
「山岳へおいでなさりませ、何か得られるでございましょう」と、そう云った巫女の言葉の、占い通りにはなっていた。
(しかし俺に巫女が占ってくれた「何か」がはたして何であるか、それさえ知ってはいないのだ)
 ――で、醍醐弦四郎などに、敵対行動を取られるという、そういう理由はないものと、そう思わざるを得なかった。
(そうは思うものの醍醐弦四郎に、現在このように矢文を付けられ、あからさまなる敵対行動を、約束された上からは、用心しなければならないだろう)
 で、茅野雄は四方《あたり》を見た。
 六月の山中の美しさは、緑葉と花木とに装われて、類い少なく見事であった。椎の花が咲いている。石斛《せっこく》の花が咲いている。槐《えんじゅ》の花が咲いている。そうして厚朴《ほお》の花が咲いている。鹿が断崖の頂きを駆け、鷹《たか》が松林で啼いている。鵙《もず》が木の枝で叫んでいるかと思うと、鶇《つぐみ》が藪でさえずっている。
 四方八方険山であって、一所に滝が落ちていた。その滝のまわりを廻《めぐ》りながら、啼いているのは何の鳥であろう? 数十羽群れた岩燕であった。
 高山の城下までつづいているはずの、峠路とも云えない細い道は、足の爪先からやまがた[#「やまがた」に傍点]をなして、曲がりくねって[#「くねって」に傍点]延びていた。昼の日があたっているからであろう。道の小石や大石が、キラキラと所々白く光った。
 しかし、弦四郎と思われるような、人の姿は見えなかった。
(不思議だな、どうしたのであろう?)
 宮川茅野雄は首を捻《ひね》ったが、ややあって苦い笑いをもらした。
(何も近くにいるのなら、矢文を射てよこすはずはない。遠くに隠れているのだろう。そこから矢文を射てよこしたのだ。そうしてそこから窺っているのだ)
 それにしても戦国の時代ではなし、矢文を射ってよこすとは、すこし古風に過ぎるようだ。――こう思って茅野雄はおかしかった。
(弓矢で人を嚇すなんて、今時なら山賊のやることだがなあ)
 考えていたところで仕方がない。用心しいしい進んで行くことにした。
 で、茅野雄は歩き出した。
 裾べり野袴に菅《すげ》の笠、柄袋をかけた細身の大小、あられ小紋の手甲に脚絆、――旅装いは尋常であった。
 峠の路は歩きにくい、野茨が野袴の裾を引いたり、崖から落ちて来る泉の水が、峠の道に溢れ出て、膝に浸《つ》くまでに溜っていたりした。
 高山の城下へ着くまでには、まだまだ十里はあるだろう。それまでに人家がなかろうものなら、野宿をしなければならないだろう。
(急がなければならない、急がなければならない)
 で、茅野雄は足を早めた。
 こうして二里あまりも来ただろうか、峠の道が丁寧にも三つに別れた地点まで来た。
(さあ、どの道を行ったものであろうか、ちょっとこれは困ったことになったぞ)
 で、茅野雄は足を止めた。

不思議な老樵夫

 一本の道は少しく広く、他の二本の道は狭かった。
(城下へ通う道なのだから、相当に広い道でなければならない――この広い道がそうなんだろう。高山へ通っている道なんだろう)
 こう茅野雄は考えて、その広い道へ足を入れた。
 と、その時一人の老人が、狭い方の道の一本から、ノッソリと姿を現わした。かるさん[#「かるさん」に傍点]を穿いて筒袖を着て、樵夫《そま》と見えて背中に薪木をしょって、黒木の杖をついていた。
「ああこれ爺《おやじ》ちょっと訊きたい」
 茅野雄はそれと見てとって、確かめて見ようと思ったのだろう。後戻りをして声をかけた。
「高山のお城下へ参るには、この道を参ってよろしかろうかな?」
 こう云って広い方の道を指した。
 と、老樵夫は冠り物を取って、コツンと一つ頭をさげたが、つくづくと茅野雄の顔を見た。
「へい、高山へいらっしゃいますので」
「さよう、高山へ参る者だ。この道を参ってよろしかろうかな?」
「…………」
 どうしたのか老樵夫は物を云わないで、何か物でも探るように、茅野雄の顔を見守った。
 大きい眼、高い鼻、田舎者らしくない薄い唇、頬の肉がたっぷり[#「たっぷり」に傍点]と垂れていて、わずかではあったが品位があった。年格好は五十五六か、顔の色は赧く日に焼けていたが、かえってそれが健康そうであり、額や頤に皺はあったが、野卑なところは持っていなかった。――これが老樵夫の風貌であって、注意して観察を下したならば、単なる山間の住民などではなく、由緒ある人間だということに、感付くことが出来たであろう。
 と、老樵夫は意味ありそうに笑った。
「ハッハッハッ、異《ちが》いますよ」
「異う? そうか、この道ではないのか」
「へいへいこの道ではございません」
「しかしこの道が広いようだが。お城下へ通っている道とすれば、この道以外にはなさそうだが」
 すると老樵夫はまた笑ったが、意味ありそうに次のように云った。
「尊いお文《ふみ》にございます。天国への道は細く嶮しく、地獄への道は広うござるとな。――それ、この一番狭い道が、あなた様の道でございますよ」
(何だか風変わりのことを云う爺だ。まるでお説教でもしているようだ)
 茅野雄は笑止に思いはしたが、
「ほほうさようか、この細い道か。この道を真直ぐに辿って行けば、高山のお城下へ出られるのだな」
 しかし老樵夫は同じような事を、慇懃《ねんごろ》に繰り返すばかりであった。
「それ、この一番狭い道が、あなた様の道でございますよ」
「そうか」と、茅野雄は会釈をした。
「お前に訊ねてよいことをした。お前へ道を訊かなかろうものなら、すんでに別の道へ行くところだった。ではこの道から参ることにしよう」
 で、茅野雄は歩き出したが、すぐに丈《たけ》延びた雑草に蔽われ、その姿が見えなくなった。と、老樵夫は茅野雄の行った後を、意味ありそうに見送ったが、
「武道も学問もおありなさる、立派なお武家に相違なさそうだ。……郷民《ごうみん》たちは喜ぶだろう。……きっと歓迎するだろう。……が、云ってみれば人身御供《ひとみごくう》さ。お武家様にはご迷惑かもしれない。……とはいえ俺達にとって見ればなあ」
 こう呟きの声を洩らした。
 夏の日が熱く照っていて、ムッとするような草いきれがした。と、一匹の青大将が、草むらから姿を現わしたが、老樵夫を見ても逃げようとはせず、道を横切って姿を消した。
「どれ、そろそろ行くとしようか」
 で、老樵夫は歩き出したが、ものの二間とは行かなかったろう、旅装いをした五人の武士が、茅野雄の上って来た同じ道から、上って来るのに邂逅《いきあ》った。
「これこれ」と、一人の武士が云った。
「ちょっと物を訊《たず》ねたい」
 猟夫《さつお》の使う半弓を持った、それは醍醐弦四郎であったが、さも横柄に言葉をつづけた。
「旅の侍が通ったはずだ。ここに三本の道がある。どの道を行ったか教えてくれ」
「へいへい」と云ったが首を下げて、老樵夫は弦四郎の笠の中を覗いた。人相を通してこの侍の人物を知ろうとするものらしい。しばらくの間は黙っていた。
 その態度がどうやら弦四郎には、腹立たしいものに思われたらしい。癇癪声で怒鳴るように云った。
「当方の申すことが解らぬか。唖者かそれとも聾者なのか! ……では改めてもう一度訊く。――旅の侍が通った筈だ。ここに三本の道がある。どの道を侍は通って行ったな」
「へい」と老樵夫は決心したように云った。
「細い道を通って参りました」
「おおそうか、細い道を行ったか。が、細い道は二本ある。どっちの細い道を通って行ったな?」
「へい」と老樵夫は妙な笑い方をしたが、
「この細い道を通って参りました」
 こう云って一本の道を指した。が、その道は茅野雄の通った、細い道とは異《ちが》っていた。
 しかし弦四郎には解るはずがなかった。
「おおそうか、この道を行ったか」
 ――で、ロクロク礼も云わず、四人の部下を従えて、その細い道を先へ進んだ。
 そうしてこれも長く延びた芒《すすき》に、間もなく蔽われて見えなくなった。
 一旦|隠《かく》れた青大将が、草むらから姿を現わしたが、また道を横切って、どこへともなく行ってしまった。
 風の音がサラサラと草を渡り、日がまじまじと照っていて、四辺《あたり》[#「四辺《あたり》」は底本では「四辺《あたり》り」]はひっそりと物寂しい。
 と、高い笑い声がした。
 老樵夫が上げた笑い声であった。
「ああいう悪いお侍さんはあっちの郷へやった方がいい。あっちの郷は乱されるだろうなあ」

(どうも恐ろしく歩きにくい道だ。天国へ行く道は狭くて嶮しいと、先刻《さっき》の老樵夫がお談義をしてくれたが、高山のお城下へ行く道が、こんなに歩きにくいとは思わなかった)
 もう夕暮が逼って来ていた。草には重く露が下りて、脚絆を通して脚を濡らし、道の左右に繁り合っている、巨大な年老いた木々の間から、夕日が砂金のように時々こぼれた。道は思い切った爪先上りで、胸を突きそうな所さえあった。大岩が行く手にころがっていて、それを巡って向こうへ出たところ、大沼が湛えてあったりもした。
 老樵夫に逢った地点から、少なくも二里は歩いたはずだが、一つの人家にも逢わなかった。
(変だな)と茅野雄は思案した。
(道が異ったのではあるまいかな? お城下へ通じている道である以上は、本街道と云わなければならない。本街道なら本街道らしく、たとえまれまれ[#「まれまれ」に傍点]であろうとも、人家が立っていなければならない)
 ところが人家は一軒もない。
(おかしいな、おかしい)
 しかし老樵夫がああ教えた以上は、やはり高山のお城下へ通う、本街道であるものと認めて、辿って行くべきが至当のようであった。
 で、茅野雄は歩いて行った。
 人間の不安や心配などに、なんの「時」が関わろうとしよう。間もなく夜となり夜が更けた。星の姿さえ見えないほどに樹木が厚く繁っている。で、四辺《あたり》が真の闇となり歩こうにも、歩くことが出来なくなった。
(いよいよ野宿ということになった。どうも仕方がない野宿をしよう)
 狼の襲来というようなことも、弦四郎の襲来というようなことも、もちろん心にはかかったけれども、それよりも山道を歩いて行って、断崖などを踏みそこなって、深い谿《たに》などへころがり落ちて、死んでしまうかもしれないという、そういう不安の方が茅野雄にとっては、緊急の不安であったので、野宿をすることに決心した。
(大岩の陰へでも寝ることにしよう)
 で、手さぐりに探り出した。
 と、その時遥か行く手の、高所《たかみ》の上から一点の火光が、木の間を通して見えて来た。
(はてな?)と、これは誰でも思う。茅野雄は怪しんで火光を見詰めた。
 と、火光が下って来た。しかも火光は数を増した。二点! 三点! 五点! 十点!
 ……で、こっちへ近寄って来る。
(あの光は松火《たいまつ》だ。山賊かな? それとも樵夫であろうか?)

どこへ?

 そもその一団は何者なのであろう? その風采から調べなければならない。同勢はすべてで二十人であったが、筒袖に伊賀袴を穿いていて、腰に小刀を一本だけ帯び、切れ緒の草鞋《わらじ》をはいていた。で、風采から云う時は、大して変なものでもなかった。が、顔立ちには特色があった。と云うのは山間の住民などに見る、粗野で物慾的で殺伐で、ぐずぐずしたようなところがなくて、精神的の修養を経た、信仰深い人ばかりが持つ、霊的な顔立ちを備えているのである。
 彼らは輿《こし》を担いでいた。白木と藤蔓とで作られた輿で、柄《え》ばかりが黒木で出来ていた。四人の若者が担いでいる。どこか神輿《みこし》めいたところがあって、何となく尊げに見受けられたが、一所に垂れている垂れ布《ぎぬ》の模様が、日本の織り物としてはかなり珍らしい。剣だの巻軸だの寺院《てら》だのの形で、充たされているのが異様であった。
 と、この一団だが近づいて来て、茅野雄の前までやって来ると、予定の行動ででもあるかのように、足を止めて松火《たいまつ》をかかげた。
 そうでなくてさえ茅野雄にとっては、もの珍らしい一団であった。ましてや足を止められたのである。必然的に彼らを見た。
 と、「おや!」という驚きの声が、茅野雄の口から飛び出した。
 その一団の先頭に佇み、茅野雄を見ている老人があったが、昼間茅野雄に道を教えた、老樵夫その人であったからである。
 と、老樵夫は腰をかがめたが、恭しく茅野雄へお辞儀した。
「お迎えに参りましてござります。ご案内いたすでござりましょう。どうぞ輿へお召しくださりませ」
(驚いたなア何ということだ。俺には訳が解らない)
 茅野雄は老人へ云った。
「親切に道を教えてくれた、お前は先刻の老人ではないか。何と思ってこのようなことをするぞ?」
 しかし老人は茅野雄の言葉へ、返辞をしようとはしなかった。
「お迎えに参りましたのでござります。ご案内いたすでござりましょう。どうぞ輿へお召しくださりませ」
 こう繰り返して云うばかりであった。
「お前に迎えられる理由はないよ」
 茅野雄は少しく腹立たしくなった。
「案内すると云うが、俺《わし》の行く先を知っているかな?」
 老人の言葉は同じであった。
「お迎えに参りましてござります。ご案内いたすでござりましょう。どうぞ輿へお召しくださりませ」
「俺《わし》はな」と茅野雄は苦笑しながら云った。
「先刻《さっき》は高山へ行くとは云ったが、ほんとうの行く先は高山ではないのだ。高山からさらに十里離れた……」
 しかしこのように云って来て、不意に茅野雄は口を噤《つぐ》んだ。
(迎えに来たというからには、案内しようというからには、俺の行く先を知っていなければ嘘だ、……と云って知っているはずはない。よしよし一つからかって[#「からかって」に傍点]やろう)
 で、茅野雄はわざと慇懃《いんぎん》に云った。
「せっかくのお迎えでござるゆえ、遠慮なく輿に乗りまして、行く先までご案内をお願いしましょう。が、只今も申した通りに、貴殿方には拙者の行く先を、ご存じないように存じますよ。それともご存じでござりますかな? ご存じならば仰せられるがよろしい。ただしこれだけは申し上げる。と云うのは今も申しました通り、拙者の行く先は高山から、十里はなれた地点でござる。どこでござろうな? どこでござろうな?」
 で、老人の答えを待った。
「はい」と老人はその言葉を聞くと、いくらか眉をひそめたようであったが、
「高山のお城下を中心にして、十里離れた地点と申しても、いろいろの里や郷があります。どの方角へ十里でござりましょうか」
(それ見ろ)と茅野雄は笑止に思った。
(お迎えに来たの案内しようのと、いいかげんのことを云っていながら、俺の行く先を知らないではないか。――どうやらこ奴らは悪者らしい)
 しかし茅野雄は云うことにした。
「どの方角だか俺《わし》も知らぬ。ただし地名は丹生川平《にゅうがわだいら》と云うよ」
 ――するとこれはどうしたのであろうか、老人の態度がにわかに変わって、一種の殺気を持って来た。
「丹生川平へおいでになる? どのようなご用でおいでになりますかな?」
「そこにの、俺《わし》の叔父がいるのだ」
「お名前は何と仰せられますかな?」
(何故こううるさく訊くのだろう?)
 茅野雄は変な気持がしたが、
「叔父の名前か、宮川|覚明《かくめい》というよ」と、一つの事件が起こった。
 茅野雄のそう云った言葉を聞いて、老人が鬼のような兇悪な顔をつくり、従えて来た部下らしい十九人の者へ、何やら大声で喚いたかと思うと、十九人の若者が小刀を抜いて、死に物狂いの凄じさで、茅野雄へ切ってかかったことであった。輿も松火も投げ捨てられて、輿は微塵に破壊《こわ》されたらしく、松火は消えて真の闇となった。
 ダ、ダ、ダ、ダ、ダ――ッと物凄い足音! つづいて喚く声々が聞こえた。
「法敵の片割れだ! 生かして帰すな!」
「丹生川平へ走らせるな!」
「谷へ蹴落とせ! 切り刻んでしまえ!」
「いや引っ捕らえろ! 生贄《いけにえ》にしろ!」
 しかしそういう声々よりも、そういう声々の凄じい中を縫って、例の老人の錆びた太い声が、祈りでも上げているように、途切れ途切れではあったけれども、
「我が兄弟健在なれ! 勝利を神に祈れ! 教主マホメットの威徳を我らに体得せしめよ! 全幅の敬意を我らは捧ぐ! 唯一なる神よ! 謀叛人を許すなく、マホメットの使徒に行なわしめよ! 最も荘厳なる殺戮を! この者我らの敵にして、神を犯しマホメットを穢す! 嵐よ吹け! この者を倒せ! 豪雨よ降れ! この者を溺らせよ!」
 と、木や岩に反響して聞こえてくるのが、一層に凄くすさまじかった。
 思いも及ばなかった殺到に対して、いかに茅野雄が驚いたかは、説明をするにも及ばないであろう。
 身を翻えすと飛びしさって、そこにあった老木の杉の幹を楯に、引き抜いた刀を脇構えに構え、しばらく様子をうかがった。
 と云っても相手を見ることは出来ない。深山の暗夜であるからである。焔は消えたが余燼《よじん》はあって、五六本の松火が地上に赤く、点々とくすぶって[#「くすぶって」に傍点]はいたけれど、光は空間へは届いていなかった。案内の知れない山中であった。諸所に大岩や灌木の叢《くさむら》や、仆れ木や地割れがあることであろう。飛び出して行って叩っ切ろうとしても、躓《つまず》いて転がるのが精々であった。
(こ奴らは、一体何者なのであろう?)
 老人の祈りめいた叫び声によって、マホメット教徒であるらしい――そういうことだけは思われた。
(丹生川平の叔父の一族を、敵として憎んでいるらしいが、どういう理由から憎むのであろう?)
 すると不意に茅野雄の記憶の中へ、従妹《いとこ》の浪江から送り来《こ》された、書面の文句が甦えって来た。
(父も母も無事でございます。でも性質は変わりました。敵を持つようになりました。只今私達の一族は、苦境にあるのでございます。どうぞどうぞおいでくださいまして、私達一族の味方となって、私達をお助けくださいませ。――そうだ、こんなように書いてあった。その敵というのがこ奴らなのであろう)
「だが何故俺を殺そうとするのか?」
(俺が叔父達の一族だからであろう)
(俺にとってもこいつらは敵だ!)
 眼の前の余燼を赤らめて、点々と見えていた松火の火が、この時にわかに消えてしまった。
 松火の余燼の消えたのは、そこへ相手の敵の勢が集まって、足で踏み消したのであろう――と、直感した直感を手頼《たよ》って、茅野雄は翻然と突き進んだ。声は掛けなかったが辛辣であった! 感覚的に横へ薙いだ。と、すぐに鋭い悲鳴が上って、人の仆れる物音がしたが、つづいて太刀音と喧号《けんごう》とが、嵐のように湧き起こった。そうして闇の一所に、その闇をいよいよ闇にするような、異様な渦巻が渦巻いたが、にわかに崩れて一方へ走った。
 と、数間離れたところで、同じような渦巻が渦巻いて、またもや太刀音と喧号とが悲鳴と仆れる音とに雑って、同じく嵐のように湧き起こった。茅野雄が敵を切って位置を変えるごとに、執念深く敵が追い逼って、引っ包んで討ち取ろうとしているのであった。
 同じようなことが繰り返されて、渦巻が崩れて一方へ走って、そっちへ渦巻が移って行った時に、谷へ石でも転落するような、ガラガラという音が響き渡った。

白河戸郷

 その日から十日は経ったようであった。
 丹生川平から五里ほど離れた、白河戸郷《しらかわどごう》から一群の人数が、曠野の方へ歩いて来た。
 一人の若い美しい乙女を、十二人の処女らしい娘達が、守護するように真ん中に包んで、長閑《のどか》に話したり歌ったりして、ゆるゆると漫歩して来るのであった。飛騨の山の中でも白河戸郷といえば、日あたりの良いいい土地として、同国の人達に知られていた。
 季節は六月ではあったけれども、山深い国の習いとして、春の花から夏の花から、一時に咲いて妍《けん》を競っていた。木芙蓉の花が咲いているかと思うと、九輪草の花が咲いていた。薔薇と藤とが咲いているかと思うと、水葵の花が咲いていた。青草の間には名さえ知られていない、黄色い花や桃色の花が、青い絨毯に小粒の宝石を、蒔き散らしたように咲いていた。
 白河戸郷は四方グルリと、低い丘によって囲まれていて、その丘を上ると曠野であって、曠野の外れは高山によって、これまた四方を囲まれていた。で、高山の大城壁が、白河戸郷をまず守り、次に荒々しい広い曠野が、白河戸郷を抱き包み、さらに低い丘が内壁かのように、白河戸郷を守っているのであった。
 約言すると白河戸郷は、三重の大自然の城壁によって、守護されている盆地形の、城廓都市ということが出来た。
 が、もちろん、城廓都市という、この大袈裟な形容詞の、中《あた》っていないことは確かであって、むしろ三重の大自然によって、外界と遮断されている、別天地と云った方が中っていて、盆地の中には多数の人家や、小ぢんまりとした牧場や、花園や畑や田や売店や、居酒屋さえも出来ていた。
 で、朝夕炊煙が上って、青々と空へ消えもすれば、往来で女達が喋舌《しゃべ》ってもいれば、居酒屋で男達が酔っぱらってもいれば、花園で子供達が飛び廻ってもいれば、田畑で農夫達が耕してもいた。
 が、ここに不思議なことには、盆地の中央に一宇[#「一宇」は底本では「一字」]の伽藍が、森然として立っていることであって、その形は小さかったが――と云って二十間四方はあろうか、様式がこの上もなく異様であった。とは云え伽藍の本当の姿は、その伽藍をこんもり[#「こんもり」に傍点]と取り巻いている、巨大な杉や桧に蔽われて、見て取ることは出来なかった。が、真鍮色の天蓋形の、伽藍の屋根が朝日や夕日に、眼眩《めくる》めくばかりに輝いて、正視することさえ出来ないように、鋭い光を反射して、そのため鳥の群がそこへばかりは、翼を休めて停まろうとさえしない。――と、云うほどにも神々しい屋根が、人々の眼に見てはとれた。
 曠野の方へ漫歩して行く、女の群はその伽藍から、どうやら揃って出て来たらしい。
 その群は今や丘の斜面を、上へすっかり上り切って、丘の頂きへ姿を現わした。
 十二人の処女らしい娘達に、守護されながら歩いている乙女の、何という美しく健康《すこやか》で、快活で無邪気であることか! 身長《せい》も高ければ肥えてもいる。四肢の均整がよく取れていて、胸などもたっぷりと張っている。切れ長でしかも大きな眼、肉厚で高い真直ぐの鼻、笑うごとに石英でも並べたような、白くて艶のある前歯が見え、その歯を蔽うている唇は、臙脂《べに》を塗ってはいなかったが、臙脂《べに》を塗っているよりも美しかった。練り絹の裾だけに、堂や塔や伽藍や、武器だの鳥獣だのの刺繍をしている、白の被衣《かつぎ》めいた長い布《きれ》を、頭からなだらかに冠っていた。異国織りらしい帯の前半《まえはん》へ、異国製らしい形をした、金銀や青貝をちりばめた、懐剣を一本差しているのが、この乙女を気高いものにしていた。
 乙女を守護している娘達も、揃って美しく健康で、上品で無邪気ではあったけれども、被衣などは冠っていなかった。侍女達であることは云うまでもあるまい。
 その一行が斜面を上って、丘の頂きへ立った時に、下から一斉に声を揃えて、呼びかける声が聞こえてきた。
 ――お嬢様ご用心なさりましょう。
 ――あまり遠くへおいでなさいますな。
 ――丹生川平の連中が、襲って参るかもしれませぬ。
 距離がへだたっているがために、地言《じこと》はハッキリと解らなかったが、こういう意味のことを言っているようであった。
 で、乙女も侍女達も、盆地の方を振り返って見た。往来や田畑や家の門口《かどぐち》などに、人々が集まって丘の方を見ていた。
 その人達が注意したのであった。
「大丈夫だから先へ行こうよ」
 この郷の長であると共に、この郷の神殿の祭司である、白河戸将監《しらかわどしょうげん》の一人娘の、小枝《さえだ》というのがこの乙女であったが、そう云うと侍女達を従えて、曠野の方へ漫歩をつづけた。
 彼女達は彼女達が信じている、白河戸郷の守護神とも云うべき、神殿のご本尊の「唯一なる神」へ、野の花を捧げようと考えて、野の花を摘みに来たのであった。
 小川が一筋流れていて、燕子花《かきつばた》の花が咲いていた。と、小枝は手を延ばしたが、長目に燕子花の花を折った。と、小枝は唄い出した。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]メッカの礼拝堂《ハラーム》に
信者らの祈る時、
帳《とばり》の奥におわす
御像《みぞう》の脚に捧げまつらん
日の本の燕子花を。
[#ここで字下げ終わり]
「みんなも燕子花を取るがよいよ」
 ――すると侍女達も手を延ばして、各自《めいめい》燕子花を折った。
 一行は楽しそうに歩いて行く。
 灌木の裾に白百合の花が、微風に花冠を揺すりながら、幾千本となく咲いていた。
 と、小枝は手を延ばして、その一本を折り取ったが、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]|白楊《はこやなぎ》の林に豹が隠れ、
信者らが含嗽《うがい》して
アラの御神《みかみ》を讃え奉《まつ》る時、
回教|弘通者《ぐつうしゃ》のオメル様の墳塋《はか》へ、
ささげまつらん白百合の花を。
[#ここで字下げ終わり]
 こう歌って侍女を返り見た。
「さあお前達も百合の花をお取り」
 一行は先へ進んで行く。
 一所に崖が出来ていて、小さな滝が落ちていた。岩燕が滝壺を巡って啼き、黄色い苔の花が咲いていた。その苔の花にまじりながら、常夏《とこなつ》の花が咲き乱れていた。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]|果物《くだもの》の木に匂いあり
御神水《ミム》と黒石《アラオ》とに、
虹の光のまとう時
馬合点《マホメット》様の死せざる魂に
いざや捧げまつろうよ
常夏の花の束を。
[#ここで字下げ終わり]
 小枝は常夏の花を見ると、こう朗らかに歌いながら、手を延ばして一本の花を折った。と、延ばした右の手の袖が、肘の辺りまで捲くれ上って、白い脂肪《あぶら》づいた丸々とした腕が、ムキ出しに日の光にさらされた。艶々とその腕が濡れて見えたのは、滝の飛沫《しぶき》がかかったからであろう。侍女の一人が小枝の背後《うしろ》で、ひざまずくように小腰をかがめて、地に敷こうとしている被衣の裾を、恭しく両手でかかげている。
 と、小枝は歩き出した。
 蜂が花から花へ飛んで、うたいながら蜜を漁っている。小鳥が八方から翔《か》けて来て、この人達は害をしないよ――そう思ってでもいるかのように、一行の頭上や周囲で啼いた。陽炎《かげろう》がユラユラと上っている。花の匂いと草の匂いとが、蒸せるように匂っている。空は白味を含んではいたが、しかし一|片《ひら》の雲も浮かべず、澄んで遥かにかかっていて、その中に太陽が燃えながら、地上の一行を眺めていた。
 手に手に野花を握り持って、楽しそうに歌いながら歩いて行く群の、女達十三人の姿というものは、画中の人物が歩くようであった。時々|草叢《くさむら》から兎が飛び出したり、山猫が唸り声をあげながら、一行の行く手を横切って、ノッソリと林へ入ったりした。遠くに森林が連らなっていたが、その裾を一列の隊をなして、鹿の走って行く優しい姿が、一行の眼に見えもした。
 この一行が進めば進むほど、その一行を惑わかすかのように、野には諸々の草や木の花が、数を尽くして咲いていた。
 で、一行は我を忘れて、先へ先へと歩いて行く。
 いつか白河戸郷を巡っている、連々たる丘からは遠く放れて、曠野の中央の辺りまで行った。
 惑わしでなくて何であろう! 一行の進んで行く方角に、白河戸郷を敵と目して、日頃から争いをつづけている、丹生川平があるのであるから。
 が、勿論彼女達といえども、五里のへだたりを持っている、丹生川平の領域へまでは漫歩をつづけて行きもしまいが、もしも丹生川平の住民が、この方面へ様子を見に来て、彼女達の姿を認めたならば、見遁して置くようなことはあるまい。
 しかし花野の美しさは、彼女達にそういう危険をさえ、感じさせないように思われた。
 花を摘んでは手に抱え、歌いながら先へ進んで行く。

丹生川平の人々

 はたしてこの頃一群の人数が、丹生川平《にゅうがわだいら》の方角から、こなたへ向かって歩いて来た。
 その中の一人は意外にも、醍醐《だいご》弦四郎その人であり、その他は恐らく丹生川平の、住民達であろう、筒袖を着て山袴を穿いて、腰に一本ずつ脇差しを差した、精悍らしい若者達で、その数総勢で十人であった。
 花野を踏み踏み歩いて来る。しかしおおっぴらに歩けないのでもあろう、木立があれば木立に隠れ、灌木があれば灌木に隠れ、林があれば林に隠れ、森があれば森に隠れて、忍ぶがように歩いて来る。
「醍醐様そろそろ近づきました。なるだけご用心なさいますよう」
 一人の若者がこう云いながら、弦四郎の顔を覗くように見た。
「たかが山奥の住民どもだ、武芸の心得などロクロクあるまい。襲って参らばよい幸いに、この弦四郎みなごろし[#「みなごろし」に傍点]にしてやるよ」
 弦四郎は太々しくこんなことを云ったが、
「美しい娘があるということだの?」
「はいはい小枝《さえだ》と申しまして、美しい娘がございます」
「丹生川平の浪江殿と、どっちの方が美しいかな?」
「それを見る人の心々で、どっちがどうとも申されませぬ。二人ながら美しゅうございます」
「浪江殿に負けずに美しいというのか。ふうむ、それは素晴らしいの」と弦四郎は厭らしい笑い方をしたが、
「全く浪江殿はお美しい。ちょっと都にもなさそうだ」
「はいお美しゅうございます」
「性質はちと[#「ちと」に傍点]優しすぎるようだが」
「お父上がああいうお方ゆえ、いろいろご苦労がありまして、陰気になられるのでございましょう」
「いかにも処女らしくて俺《わし》は好きだ」
「山道に迷ったと仰せられて、あなたさまが数人のご家来を連れられ、丹生川平へおいでになって以来、どうやらあなた様におかれては、浪江様に大変ご執心のようで、もっぱら評判でございます」
「そうかな」と弦四郎は苦笑いをしたが、
「丹生川平へ入り込んでから、十日という日が経ってしまった。そのくせ俺《わし》はある重大な、用事を持っている身分で、かつ一人の人間を、探し廻っているのであるが、どうもお美しい浪江殿という、あのお娘ごを見て以来は、外《ほか》へ行くのが厭になってしまった」
「我々住民にとりましては、有難いことにございますよ」
 追従めかしくこう云ったのは、額に瘤のある若者であった。
「洵《まこと》に浪江殿はいい娘ごではあるが、父上の宮川覚明殿は、俺には変に人間放れのした、奇怪な人物に見えてならぬ」
 弦四郎はこう云うと苦々しく笑った。
「そのくせあの仁に依頼されると、危険だと云われている白河戸郷へ、こうして様子を見に出かけて来る。我ながら変な気持がするよ」
「覚明様は一面霊人、他面魔物にございますよ」
 こう怖そうに云ったのは、片眼潰れている若者であった。
「奇怪といえばもう一つある」
 弦四郎は云い云い首を傾《かし》げた。
「あの神殿も奇怪なものだ」
「…………」
 誰もが返辞をしなかった。
 誰も彼も弦四郎が言葉に出した、「神殿」というその言葉に、触れることを憚っているようであった。
「が、俺は覚明殿と約束をしたのさ。俺の力で白河戸郷を、没落させることが出来たなら、浪江殿をくれるか神殿の中へ入れるか、どっちかを果すという約束をな」
 しかし弦四郎がこう云っても、若者達は黙っていた。
 信用しないぞという様子なのである。
 一行は先へ進んで行く。
 同じように野からは陽炎が立ち、兎が草の間から飛び出したりした。
 一行の歩いて行く影法師が、野の花で絨毯を織っている、曠野の上へ黒々と落ちて、一行が進むに従って、影法師も先へ進んで行き、影法師が進んで行くにつれて、野の花がある時は暗くなり、またある時は明るくなった。すなわち影法師の落ちているところの、野の花は影法師に蔽われて、色と艶とを失って、暗い姿となるのであるが、その反対に影法師が、先へ進んで行ってしまうと、暗い姿であった野の花が、鮮かに色と艶を甦生《よみがえ》らすからであった。
 こうして一行は進んで行ったが、一つの小さな林まで来た。
 と、その林の向こう側から、女の歌声が聞こえてきた。

 で、弦四郎の一行は、顔を互いに見合わせたが、眼を返すと木立の隙《ひま》から、歌声の来る方をすかして見た。
 被衣《かつぎ》を冠った一人の乙女を、十数人の娘達が、守護するように囲繞して、各自《めいめい》野花を手にかざして、歌いながらこっちへ歩いて来ていた。
「素晴らしい代物がやって来たぞ」
 額に瘤のある若者が、こう頓狂に声を上げた。
「醍醐殿々々々ご覧なされ、被衣を冠っているあの女が、白河戸郷の長をしている、将監の娘の小枝でございますよ」
「そうか」と弦四郎は小枝を見詰めた。
「遠眼でしかとは解らないが、いかさま美しい娘らしい。……が、何のために女ばかり揃って、こんな所へ来たのだろう」
 しかし弦四郎にはそんなことは、どうであろうと関係《かかわり》はなかった。
 弦四郎はすぐに計画を案じた。
(小枝を奪い取って人質としよう。白河戸郷を苦しめるのに、上越《うえこ》す良策はない)
 で、弦四郎は若者達へ云った。
「方々《かたがた》拙者に存じよりがあります。ここに待ち受けて小枝という娘を、奪い取ることにいたしましょう。さあさあ木陰へおかくれなされ」

 で、弦四郎をはじめとして、丹生川平の若者達は、木陰に体をひそませて、小枝達の一行の近寄って来るのを、一団にかたまって待ち受けた。
 そういう危険が待っているという、そういうことを小枝達が、どうして感付くことが出来よう。野花を摘みながら讃歌をうたい、歌いながら次第に林の方へ、浮き浮きとした様子で近寄って来た。
 間もなく小枝達の一行は、林の前まで来ることであろう。
 と、弦四郎達の一団が、踊り出て彼女達を襲うであろう。
 その結果は知れている。
 小枝は奪われるに相違ない。
 しかるにこの頃一人の武士が、汚れ垢じみた旅姿で、曠野をこっちへ辿って来た。
 他ならぬ宮川|茅野雄《ちのお》であった。
 輿《こし》を担《かつ》いで来た二十人の、異様な樵夫《そま》のような人物達に、意外なことから襲われて、数人茅野雄は切りは切ったが、不覚にも崖を踏み外して、谷底深く落ち込んだのは、この日から十日前の深夜のことであった。
 脾腹《ひばら》を岩などで打ったからであろう、茅野雄は谷底で意識を失った。
 と、何者か呼ぶ者があった。
「お侍様! お侍様!」
 で、茅野雄は蘇生した。
 年寄りの夫婦の樵夫がいて、茅野雄を親切に介抱していた。
 通りかかった良人《おっと》の方の樵夫が、気絶している茅野雄の姿を、谷底で発見したところから、自分の小屋へ連れて来て、妻と介抱して蘇生させたのであった。
 爾来茅野雄は小屋の中で、老樵夫夫婦の厄介になり、傷の養生に精を出した。大した負傷でもなかったので、まもなく恢復することが出来た。
 で、樵夫夫婦に礼を述べ、丹生川平への道筋を、夫婦の者に教えられ、今朝方|出発《た》って来たのであった。
 茅野雄は曠野の美しい景色に、一種の恍惚を感じながら、長閑《のどか》に先へ歩いて行った。
 と、その時行く手にあたって、小高い丘が立っていたが、その丘の背後《うしろ》と思われる辺りから、男達の怒声が突如として起こり、つづいて女達の悲鳴が聞こえた。
 で、茅野雄は眼をひそめたが、声の来た方を眺めやった。
 間断なく男達の怒声が聞こえ、女達の悲鳴がそれにつづいた。大勢の男女が争っているらしい。
(若い女子《おなご》を悪者が、誘拐《かどわか》そうとしているのであろう)
 こういう場合の常識として、ふと茅野雄はこう思った。
(ともかくも行ってみることにしよう)
 で、茅野雄は小走った。
 と、その時丘を巡って、一人の女を小脇に抱えた、逞しい武士が現われたが、茅野雄の方へ走って来た。

弦四郎の心! 茅野雄の心!

 と、見てとった宮川茅野雄は、立ち向かうように足を止めた。
 と、女を小脇に抱えた、逞しい武士は走って来たが、腕前に自信があるがためか、傍若無人の心持からか、遮った茅野雄を無視するように、避けもせずに駆け抜けようとした。
「待て!」
「邪魔だ!」
「こ奴、悪漢!」
「よッ、貴殿は宮川氏か!」
「どなたでござるな?」
「醍醐弦四郎でござる!」
「これはいかにも醍醐氏であったか!」
 いつぞや江戸の小石川の、松倉屋勘右衛門の別邸の前で、弦四郎に突然に切りかけられた時には、月こそあったが夜であったので、醍醐弦四郎の顔や姿を、ハッキリと見ることは出来なかった。
 で、今、こうやって邂逅《いきあ》った時にも、早速には逞しいこの武士が、醍醐弦四郎であることは気がつかなかった。
 しかし一方弦四郎の方では、いうところの競争相手として、茅野雄の身分から屋敷から顔や姿までも調べて置いたらしい。
 で、今こうやって邂逅って、二言三言罵り合っている間に、弦四郎が茅野雄だということを、早くも見て取って声をかけたのであった。
 しかし弦四郎は声をかけてから、「しまった!」と思わざるを得なかった。いやいや、「しまった!」というよりも、「どう処置をしたらよいだろうか?」とこう思わざるを得なかった。と云うのは弦四郎は茅野雄の後を尾行《つけ》て、わざわざ飛騨の山の中へ、入り込んで来た身の上であって、道に迷って茅野雄を見失い、偶然に丹生川平という、不思議な郷へ入ったものの、心では常時《しじゅう》茅野雄の行衛を、知りたいものと思っていた。その茅野雄に今や邂逅ったのである。
 本来なれば何も彼もすてて、茅野雄の後を尾行て行くか、でなかったら後腹《あとばら》の痛《や》めぬように――競争相手を滅ぼす意味で――討って取るのが本当であった。
 が、しかし今は出来なかった。
 と云うのはせっかくに白河戸郷の、郷長《むらおさ》の娘の小枝《さえだ》という乙女を、奪って小脇に抱えている。で、この小枝を丹生川平へ、首尾よく連れて行くことが出来たら、白河戸郷の勢力を弱めて、滅ぼすことが出来るかもしれない。滅ぼすことが出来たならば、丹生川平の郷の長の、宮川覚明と約束をした通りに、覚明の娘の浪江という美女を手中へ入れることも出来、それが出来なくとも丹生川平の、守護神とも云うべき神殿の中へ――弦四郎にはある種の予感によって、神殿の中に高価な物が、蔵されてあるように感じられていた。――その神殿の内陣へ、入って行くことが出来るのであった。
 茅野雄の後を尾行《つけ》るとなれば、小枝を捨てなければならないだろう。弦四郎には小枝が捨てかねた。茅野雄と戦って茅野雄を殺すにしても、小枝を地上へ下ろさねばなるまい。下ろされた小枝は逃げ去るであろう。弦四郎には小枝に逃げられることが、どうにも苦痛でならなかった。
 では小枝を小脇に抱えたまま、茅野雄を見捨て丹生川平へ行こうか。すると茅野雄は行衛不明になろう。と、後を尾行て行くことが出来ない。これが弦四郎には苦痛であった。
(百発百中に予言をする、巫女《みこ》の千賀子が茅野雄に向かって、「山岳へおいでなさりませ、何か得られるでござりましょう」と、こう予言をしたからには、間違いなく茅野雄はその何かを、手に入れるものとみなさなければならない。その何かが何であるかを、俺は大略《おおよそ》知っている。恐ろしいほどにも高価なものだ。茅野雄の手へは渡されない。是非とも俺が手に入れなければならない。ではどうしても茅野雄の後を尾行て、彼の行く所へ自分も行って、彼が何かを得ようとするのを、邪魔をして横取りしなければならない)と、いう思惑があるからであった。
 右することも出来なければ、左することも出来ないというのが、現在の弦四郎の心持であった。
 一方宮川茅野雄においては、弦四郎に対して咎めたいことが、いろいろ心にわだかまっていた。たとえば自分は巫女の占った、「山岳へおいでなさりませ、何か得られるでござりましょう」と云う、その占いを実現しようとして、飛騨の山の中へ来たのでもないのに、「醍醐弦四郎お約束通り、貴殿を付け狙い致してござる」などと、あのような矢文を射てよこして、こちらの心を不安にさせたのは、不届きではないかと咎めもしたければ、あの巫女の占った「何か」なるものを、弦四郎は知っているらしいので、かえって訊ねて見たいとも思った。そうして自分がこのようにして、飛騨の山の中へ入り込んで来たのは、丹生川平という郷にいる、宮川覚明という叔父の一族と、邂逅《かいこう》しようがためなのであると、そういうことも告げたかった。
 が、しかしそれより茅野雄としては、現在弦四郎が小脇に抱えている、姫君のように美しく若い、気絶をしている乙女の身分と、何故にそういう乙女を攫《さら》って、どこへ行くのか何をしようとするのかを、詰問したい衝動に猟り立てられた。
 で、茅野雄はたしなめる[#「たしなめる」に傍点]ように云った。
「拙者貴殿に対しては、いろいろ申し上げたいこともあり、お訊ねいたしたいこともあり、釈明いたしたいこともござる。が、まずそれはそれとして、ゆっくり後日に譲ってもよろしい。しかし後日に譲れないのは、現在の貴殿の悪行を、見過ごしにするということでござる。見れば臈《ろう》たけた[#「たけた」に傍点]娘ごを、貴殿には誘拐なされようとしている。穢《きたな》い所業、卑怯でござるぞ! 武士たる者のすべきことではござらぬ! 娘ごを放しておやりなされ! もしも悪行をつづけられるならば……」
 ここで刀の柄頭《つかがしら》を、茅野雄はトントンと右手で叩いたが、
「勿論拙者にはその娘ごの、身分も存ぜねば名も存ぜぬ。また娘ごと貴殿との間の、交渉も知らねば関係も知らぬ。が、偶然来合わせて、この眼で貴殿の悪行を――さようさよう打ち見たところ、貴殿には正義の武士でなく、この出来事は悪行らしゅう厶《ござる》。――で、貴殿の悪行を、認めた以上は打ち捨ては置かれぬ。貴殿に制裁を加えた上で、その娘ごをお助けせねばならぬ」
 ここでまた茅野雄は右の手でトントンと刀の柄頭を打った。
「娘ごを放しておやりなされ! 否と申さば太刀打ち申そう! いかがでござる! いかがでござる!」――で、右手で刀の柄を握り、拇指《ぼし》で鯉口をグッと切った。抜き打ちに切ろうとする足の踏み方だ、右足を一歩前へ踏み出し、左足のかかと[#「かかと」に傍点]を軽く上げ、体全体を斜めにして、刀の柄を握った上にソリを打たせて上へ上げたので、右の手の肘が矩形《くけい》をなして、胸の上まで上ったのを、拍子取るように揺るがして、弦四郎の眼を睨み付けた。否と云ったならばただ一刀に、弦四郎の左の胴からかけて、胸まで割り付ける意気込みであった。握った手に余った柄頭の、金具が日の光に反射して、露が溜ってでもいるように、細かく生白《なまじろ》く光って見えた。
(凄いの! これは! 凄い気魄だ!)
 物も云わなければ動きもしないで、茅野雄の動作と言葉とへ、注意を向けていた弦四郎は、こう思わざるを得なかった。
(正当に太刀打ちをしたところで、五分と五分の勝負になろう。小枝などを抱えていて、片手でうかうかあしらおうものなら、こっちがあぶない、仕止められるであろう。言葉をもって云いくるめようとしても、眩まされるような人物でもない。彼の云う通り小枝を放して、丹生川平へ逃げ帰るか、ないしは真剣に切り合うより、他に手段はなさそうだ。どっちにしても困ったものだ)
 弦四郎は処置に当惑した。
 しかしその時丘の背後《うしろ》から、今まで聞こえていた女達の悲鳴や、男達の喚き罵っていた声が、急にこなたへ近寄って来て、すぐに九人の荒くれた男が、若い女を一人ずつ抱いて、丘の陰から走り出て、こっちに走って来るのが見えた。
 丹生川平の若者達で、女は小枝の侍女達であった。弦四郎が小枝を奪ったのを習って、一人ずつ侍女達を奪って来たのであった。
 と、見て取った弦四郎は、しめた! とばかり心で想った。
「方々!」と、そこで大音に、若者達へけしかける[#「けしかける」に傍点]ように云った。
「この武士を打ってお取りなされ、我ら小枝を奪ったのに対して、こ奴は邪魔立て致そうとしております! 我々の怨敵白河戸郷に、味方を致す人間と見えます! 女子どもを打ち捨ておかかりなされ!」
 この言葉は、極めて効果的であった。
(白河戸郷に味方する奴なら、我らにとっては怨敵である! やれ! 逃がすな! 切り刻め!)と、云う感情を男達の心へ、一斉に理性なしに湧き起こさせたのであるから。
 ワ――ッというような叫声が、九人の男から起こった時には、九人の若い侍女達が、地上へ抛《ほう》り出された時であり、九本の刀が夏の日の光に、氷柱《つらら》のように光った時であり、意外の出来事に驚いて、棒立ちに立った茅野雄の左右へ、男達の逼った時であった。
 男達の凄じい殺気立った顔と、虐殺することを喜んでいるらしい、男達の悪鬼じみた[#「じみた」に傍点]態度とは、茅野雄をして口をひらかせて、事の真相を弁解させるべく、無駄であることを思わせた。

五人を切った宮川茅野雄

(こうなってはもういけない! 相手を切らなければこっちが切られる)
 で、茅野雄は一躍したが、真っ先立って逼って来た、敵の一人の右の肩を、抜き打ちにカッとぶった[#「ぶった」に傍点]切り、悲鳴を耳にした次の瞬間には、左から寄せて来た敵の一人の、左の胴を割っていた。
 日が明るくて鳥が啼いている!
 晴ればれとした曠野には、草花が虹を敷いている。
 が、その虹を蹴散らして、ドッと合わさり、サ――ッと散る、黒々とした物があった。二人の味方を切り仆されて、死に物狂いに狂い立った、丹生川平の男達であった。馳せ寄って茅野雄を引っ包んだり、茅野雄の振る太刀に敵しかねて、退いたりしているのであった。
 四本の腕が空を掴み、四本の脚が草花をむしり、ぬらぬらとした真紅《まっか》の色が、草と土とを濡らしていたが、これはどうしたことなのであろう? 茅野雄によって切り仆された、二人の男達が傷の痛みに、もがき廻っているのであった。
 その凄惨とした光景の中に、一本の線が空に斜めに、微動しながら浮いていた。上段に冠って敵に向かい、来い! 切るぞ! 斃《たお》すぞと、構えている茅野雄の刀身であった。空の一所に雲があって、野茨の花が群れているように見えたが、ゆるゆると動いて太陽《ひ》を蔽うた。と、さながら氷柱のように、白光りをしていた刀身が、にわかに色を変えて桔梗色《ききょういろ》となった。が、それとても一瞬《ひとしきり》で、刀身はまたもや白く輝き、柄で蔽われていた茅野雄の額の、陰影《かげ》さえ消えて炬《きょ》のような眼が、眼前数間の彼方《あなた》に群立《むらだ》ち、刀の切っ先を此方《こなた》へ差し向け、隙があったら一斉に寄せて、打って取ろうとひしめいている、七人の敵を睨んでいた。
 と、茅野雄はギョッとして、七人の敵から眼を放して、グルグルと四方へ眼を配った。
 娘を小脇に引っ抱えた、醍醐弦四郎はどうしたか? ここに思いが至ったからであった。
 十間あまりの左手を、向こうへ走って行く人影がある。
 それこそ醍醐弦四郎で、依然として娘を抱えていた。
「待て! 弦四郎! 逃げるか! 卑怯!」
 茅野雄は怒声を浴びせかけたが、浴びせかけた時には追っかけていた。
 が、茅野雄が追っかけていた時には、七人の男達も追っかけていた。
 と、そのうちの一人であったが、群より離れて素早く走り、茅野雄の背後へ追いつくや、茅野雄の後脳を二つに割るべく、刀を冠って振り下ろした。
 しかし茅野雄に油断があろうか、逼って来た足音で自《おの》ずと解った、振り返ったと見るや片手撲りだ、敵の真っ向を朱《あけ》に染め、その隙にこれも追いついて、前後から切り込んで来た二人の敵の、前の一人を袈裟《けさ》に斃し、引き足もしない同じ位置で、ブン廻るように廻ったが、後ろの一人の腕を落とした。
「待て! 弦四郎!」
 一散に走り、追い詰めると颯《さっ》と前へ出て、行く手を扼《やく》したが大音声だ。
「娘を放せ! 切って来い! 汝《おのれ》の味方を五人斃した、茅野雄は汝が敵であろうぞ! 遁しはしまい、拙者も遁さぬ! 逃げても切るぞ来ても切る!」
 ――で、グ――ッと刀を冠った。
 と、その刀と向かい合って、一本の刀が茅野雄の眉間へ、切っ先を向けて宙へ浮かんだ。もういけないと観念をして、小枝を地上へ抛り出し、抜き合わせた醍醐弦四郎の、正眼に構えた刀であった。
 上と下とで二本の刀が、凄じい気合で拍子取っている。刀の切っ先を真直ぐに越して、茅野雄を睨んでいる弦四郎の眼と、刀の柄頭の下を通して、弦四郎を睨んでいる茅野雄の眼とが、互いに相手を射殺そうとしている。
 しばらくは二人とも動かない。
 で、天地が寂然と、にわかに眠ってしまったかのように、二人には感じていなければならない。
 しかしそれにしても弦四郎と一緒に、茅野雄を襲った丹生川平の、九人の男達はどうしたことであろう?
 そのうちの五人は茅野雄のために、今までに斃されてしまったが、後にまだ四人残っているはずだ。何故茅野雄に切ってかからないのであろう? 茅野雄の手並に驚いて、いずこへともなく逃げたのであろうか? 逃げたと云わなければならないかもしれない。四人ながら一散に大森林の方へ、今や走っているのであるから。
 その大森林の向こうの側に、丹生川平はあるのであった。
 走って行くのは事実であったが、逃げて行くのだとは云われないかもしれない。
 四人バラバラに森林の中へ入ると、四方八方へ駈け廻《めぐ》って、手に石を拾い取ると、一種の合図めいた調子を取って、老木の幹を叩きつづけたのであるから。
 と、どうだろう、遥か奥から、それに答えでもするかのように、同じ一種の合図めいた、調子を持った木を叩く音が、木精《こだま》を起こして聞こえてきた。が、もし誰かが森林の奥へ、さらに踏み入って耳を澄ましたならば、一層に森林の奥の方から、同じような音の聞こえてくることに、感付いたことに相違ない。いやいやそういう合図めいた音は、それらの場所から起こるばかりでなく、次から次へ、奥から奥へ、次第次第に送りをなして、丹生川平の郷へまで、伝わり伝わって行くのであった。
 飛騨というような山国にあっては、猛獣や毒蛇や山賊などに、しばしば人は襲われるもので、そういう場合の警報として、いろいろの里や、いろいろの郷や、さまざまの村に住居している、住民達は里別郷別に、木を叩くとか竹法螺《たけぼら》を吹くとか、枯れ木に火をかけて煙りを上げるとか、そういうことをすることにしていた。
 丹生川平の郷にあっては、木の幹を叩いて警報することが、それに当っているものと見える。
 軽い危険の場合には、それに一致した叩き方をして、森林の中に散在して、枯れ木を採ったり伐木したり、馬を飼ったりしている者を、最初に合図の起こった場所へ、呼び寄せて加勢をさせることに、大体|定《き》まっているのであったが、重大な危険の場合には、それに一致した叩き方をして、次から次と今のように、丹生川平の郷へまで知らせて、そこから大勢の加勢の者を、呼び寄せることになっていた。
 今や、大危険の警報が、四里に渡る森林の中を縫い入って、丹生川平の郷の方へ、素晴らしい速さで送られて行く。
 名に負う飛騨の大森林である。杉や樫や桧や、楢《なら》や落葉松《からまつ》というような、喬木が鬱々蒼々と繁って、日の光など通そうとはしない。そうかと思うと茨《ばら》だの、櫨《はぜ》だの、躑躅《つつじ》だの、もち[#「もち」に傍点]だのというような、灌木の叢《くさむら》が丘のように、地上へこんもり[#「こんもり」に傍点]と生えていて、土の色をさえ見せようとしていない。で、ほとんど黄昏《たそがれ》のように、森林の中は暗く寂しく、物恐ろしくさえ眺められた。
 そういう森林に音響の線が、太く素早く走って行く。
 四里ぐらいの道程《みちのり》は瞬《またたく》間に、行きついてしまうに相違ない。すると丹生川平から、鉄砲や弓や山刀や槍の、武器をたずさえた郷民達が、大勢大挙して現われ出て、大森林を押し通って、曠野の面へ現われて、弦四郎を助けて宮川茅野雄を、おっ取り囲んで討ち取るであろう。
 とまれ大危険を警報する、調子を持った木を叩く音が、次第次第に、丹生川平の方へ伝わって行く。
 が、もし人が曠野の一所の丘――すなわち醍醐弦四郎や丹生川平の男達が、現われて来た例の丘の、背後へ行って眺めたならば、小枝の侍女達三人が、丹生川平の男達の掠奪の手から遁れたところの、侍女達三人が転んだり起きたり、走ったり仆れたり泣いたり叫んだりして、丹生川平の男達に、小枝が奪われたという知らせを、白河戸郷へ知らせようものと、一里の道程を命がけに、走って行く姿を見たことであろう。
 女の足で走るのであるから、一里と云っても容易なことでは、行くつくことが出来ないであろう。とは云えいずれは行きつくであろう。と、白河戸郷の郷民達は、それこそ鉄砲や弓や山刀や、槍をたずさえて大挙して、白河戸郷から走り出て、一里の曠野を走って来て、茅野雄を助けて弦四郎を、引っ包んで討って取ることであろう。
 侍女達は懸命に走って行く。
 ところで小枝《さえだ》はどうしたであろうか?
 気絶したままで草の上に、衣裳を崩して仆れていた。
 丹生川平の九人の男達に、掠奪をされてここまで来たが、その九人の男達が、弦四郎を助けて宮川茅野雄を、討って取ろうと心掛けた結果、投げ出した九人の小枝の侍女達は、今やどこにいるであろう。その幾人かは気絶をして、草の上に無残に仆れていたが、その幾人かは自分達の主人の、気絶をしている小枝を囲んで、呼び生かそうと手を尽くしていた。が、その幾人かはこの出来事を、白河戸郷の郷民達へ、知らせようものと叫んだり喚いたり、同じく転んだり起きたりして、曠野の草花を蹴散らして、一所懸命に走っていた。
 そういう悲惨なあわただしい、光景の中に突っ立って、茅野雄は上段に弦四郎は正眼に、刀を構えて睨み合っていた。

騎馬の一団

 危急を知らせる合図の音が――調子を持った木を叩く音が、四里の森林を丹生川平の方へ、矢のように早く伝わって行く。
 と、森林の壁が切れて、向こうに丘が聳えていたが、忽ち丘の頂きの上に、数人の男が現われた。その丘の奥が丹生川平であって、頂きへ現われた男達は、丹生川平の住民達であった。
 眼の前に連らなっている森林の中から、伝わって来た合図の音を聞くと、男達は何やら叫び声を上げたが、丘の頂きから姿を消した。
 と、思う間もないうちに、馬の蹄《ひづめ》の音がして、忽然と数十人の騎馬の一団が、丘の頂きへ現われた。
 弓を持っている者、棍棒《こんぼう》を持っている者、竹槍を小脇に抱えている者、騎馬の一団は一人残らず、各自《めいめい》得物を持っていたが、その扮装《いでたち》には異《か》わりがなく、筒袖に伊賀袴を穿いていて、腰に小刀を帯びていた。精悍らしい若者達で、血色もよければ四肢も逞しく、いかにも飛騨という山岳国の、森林の中へ特殊の郷を設けて、生活をしている人間らしかった。
 飛騨と信州とは接近しているので、自然も動物もよく似ていたが、彼らの乗っている馬と来ては、信州駒――わけても木曽駒に似ていて、背丈こそ低く、形こそ小さく、一見貧弱ではあったけれども、脚の強さ息の長さ、険しい山道を上り下りする場合に、決して転《まろ》びもせず膝も突かず、また縦横に入り乱れている木々の間を巧みに縫って、駛《はし》るに得意な点などにかけては、南部駒よりも、三春駒よりも、遥かに優れているのであった。
 そういう駒に打ち乗って、丹生川平の男達が、今や丘から走《は》せ下り、森林の中を突破して、宮川茅野雄と醍醐弦四郎とが、切り合っている曠野の方へ、無二無三に押し出そうとしている。
 いや押し出そうとしているばかりではなくて、事実無二無三に押し出して来て、瞬間に丘を走り下りて、森林の中へ走り込んだ。
 で、その丘のなだらかな斜面は、蹄で蹴られて雲のように、ムラムラと上った砂煙りのために、一時全く蔽われたように見え、啼いていた小鳥の歌声も途絶え、飛び散って咲いていた草の花の、織り物のように鮮麗だった色も、砂煙りの奥へ消え込んでしまった。
 が、その時分には騎馬の一団は、森林の中を走っていた。
 いかに彼らが馬術に達し、熟練を極めていることか! 灌木があれば躍り越し、喬木があれば巡って進み、沼があれば岸を輪なり[#「なり」に傍点]に馳せ、網の目のように強靱の蔓が数間に渡って張られてあれば、得物で切り払って突破した。当然の所業《しわざ》ではあったけれども、何とその所作が敏捷で、かつ自在であることか!
 と、一団が雁行《がんこう》をなした。馬の首が前方を走っているところの、他の馬の尻に触れそうなほどにも、接近をして走っておりながらも、前の馬の走る邪魔をしない。
 と、一団が鶴翼《かくよく》をなした。宏大な森林を横へ拡がり、横隊をなして走らせて行く。無数の障碍物《しょうがいぶつ》を持ちながら、その障碍物を巧みに避《よ》けて、互いに呼び合うことによって、一定の間隔をいつも保ち、疾風のように走って行く。
 一匹の馬が躓《つまず》いて、乗り手が逆様《さかさま》に落ちようとした。しかしその時にはもう一人の乗り手が、いち早く横手へ走って来ていて、落ちかかった乗り手を手を延ばして支えた。
 やがて一団は集合したままで走った。
 彼らの走って行った後に、何が残されているだろう? 踏みにじられた無数の草花と、蹄で掘られた無数の小穴と、蹴殺された幾匹かの野兎と、折られた木の枝と散らされた葉と、崩された沼の岸とであった。
 一所から彼らの一団の、姿が見えなくなった時には、遥かの前方の一所に、彼らの一団が見えていた。
 得物の触れ合う金属性の音と、絶えず叫んでいる警戒の声と、馬の嘶《いなな》きと蹄の音とが、一つに塊《かた》まった雑音が、一所で起こって消えた時には、既に遥かの前方で、同じ雑音が起こっていた。
 不意に彼らの一団の上に、華やかな光が輝いた。空を蔽うていた森林が切れて、そこから日の光が落ちて来たからである。と、彼らの一団の中で、雪のように白く輝く物があったが、それは三頭の白馬であった。
 しかし瞬間に彼《か》の一団は、輝かしい日の光の圏内から消えて、暗い寂しい物恐ろしい、森林の奥へ消え込んだ。
 こうして無二無三に走って行く。
 この勢いで走ったならば、四里の道程《みちのり》などは一時間《はんとき》足らずで、走り抜けてしまうことであろう。
 そうして曠野へ現われたならば、醍醐弦四郎に力を添えて、宮川茅野雄を打って取って、小枝を奪うことであろう。
「オ――イ! オ――イ! オ――イ! オ――イ!」
 しかしこういう呼び声を上げて、白河戸郷の長の娘の、小枝の侍女達の命限りに、曠野を転んだり起きたりして、道程一里の白河戸郷の方へ、小枝が怨敵丹生川平の者に、誘拐《かどわか》されたということを、告げるために走って行っていることに、一方留意をしなければならない。
「オ――イ! オ――イ! オ――イ! オ――イ!」
 侍女達は懸命に走って行く。
 一人の侍女がまた転んだ。と、衣裳の裾が乱れて、白い脛《はぎ》が現われた。恥かしいとも思わずに、あらわな脛で立ち上ると、あらわな脛でその侍女は走った。
 もう一人の侍女が地に仆れた。その瞬間に握ったのでもあろう、起き上った時に右の手に、野茨《のいばら》の花を握っていた。枝も一緒に握ったものと見えて、その枝の刺《とげ》に刺されたらしく、指から生血がにじみ出ていた。しかし彼女は夢中だと見えて、枝つきの野茨を捨てようともせずに、血を流したままでひた走った。
 と、もう一人の侍女が仆れた。仆れた所に石があったと見える、それで後脳を打ったと見える、仆れたままで悲鳴を上げて、両手で後脳を抱えるようにして、ゴロゴロと地上を転がった。が、それでも飛び起きると、解けて乱れてバラバラになった、長い髪を背後《うしろ》へなびかせたままで、先へ先へとひた走った。
「オ――イ! オ――イ! オ――イ! オ――イ!」
 呼びながら侍女達は走って行く。
 こうして半里は走ったであろう、侍女達はすっかり疲労した。
 飛騨という山国へ別天地を創って、そこに住んでいる女達である。都会の華奢《きゃしゃ》な女などとは、体格においても著しく強く、曠野や山道を走ることにかけても、遥かに勝れてはいるのであったが、お嬢様の小枝を丹生川平の者に、誘拐されようとした時に、女ながらも命限りに、丹生川平の若者達と、争って充分|疲労《つかれ》ていた。その上に半里の道程を、死に物狂いに走って来たのである。疲労切ったのは当然と云えよう。
 とうとう侍女達は草の上へ坐って、慟哭の声を上げ出した。もう一寸も歩けないのであった。
 慟哭をしている侍女達を巡って、曠野は広く物寂しく、しかし草の花や灌木の花に、華やかに飾られて拡がっていて、その草の花の間から、また灌木の花の間から、兎や野猫や黄鼬《てん》などが、いぶかしそうに顔を覗かせ、侍女達の方を窺った。それらの物の上にあるのは、晴れた六月の蒼い空と、燃えている六月の太陽とで、鳶らしい鳥や烏らしい鳥や、鷹らしい鳥や野鳩らしい鳥が、そういう地上の悲惨事などには、関係《かかわり》がないというように翼を揮って翔《か》けてもいた。
 走って行く力はなくなっていたが、声を上げる力は残っていた。
 で侍女達は慟哭しながら、
「オ――イ! オ――イ! オ――イ! オ――イ!」と、呼んだ。
 悲しみに充ちた声であった。曠野にはいつの場合でも、微風が渡っているものである。その微風に乗りながら、その悲しい侍女達の声は、遠くへ送られて行くようであった。
 とはいえ半里をへだてている、白河戸郷の郷へまでは、送られて行くものとは思われない。
 しかし侍女達は呼びつづけた。
 と、行く手に小さい林が、青葉を光らせて立っていたが、その林から四人の若者が、姿を現わして小走って来た。
 小枝の一行が花野の景色の、美しさに魅せられて丹生川平の方へ、うかうかとして彷徨《さまよ》って行って、久しく経っても帰って来ないのに、不安を感じて様子を見に来た、白河戸郷の郷民達であった。
 四人の若者は走り寄って来た。
「や、これはどうしたのだ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「お前方お嬢様のお腰元ではないか※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「お嬢様はどうした※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 小枝様はどうした」
「泣いていてはいけない! 訳をお云い!」
 慟哭しながら、「オ――イ! オ――イ!」と、呼んでいる侍女達を介抱しながら、四人の白河戸郷の若者達が、忙《せ》わしく訊ねたのはこのことであった。

姦策

 白河戸郷の若者達が、四人来てくれたということは、侍女達にとっては救いであった。
 しどろもどろに侍女達は云った。
「誘拐《かどわか》されましてござります」
「お嬢様も! 朋輩《ほうばい》も! 向こうの方で!」
「丹生川平の人達に!」
 もうこれだけで充分であった。
 侍女達の言葉を耳に入れるや、白河戸郷の若者達は、血相を変えて躍り上った。
 そうして口々に叫び合ったが、すぐに手筈が行なわれた。
 まず一人の若者であったが、白河戸郷の方へまっしぐらに走った。危急を白河戸郷へ報告して、加勢を求めるためであろう。
 二人の若者は腰刀を抜くや、小枝が誘拐しに遭ったという、その方角へ疾風のように走った。
 残った一人の若者は、侍女達の介抱にとりかかった。

 が、一方、宮川茅野雄と、醍醐弦四郎とはどうしたか?
 茅野雄は上段に弦四郎は正眼に、構えをつけたままで睨み合っていた。
 その横では気絶をしているらしい、小枝を侍女達が介抱しているし、幾人かの侍女達は気絶をしてもいた。
 構えをつけながらも弦四郎は、恐怖を感ぜざるを得なかった。
(思ったよりも素晴らしい剣技だ。尋常に闘ったら俺の方が負ける)
 茅野雄の剣技の勝れているのに、弦四郎は恐怖を感じたのであった。
(どうしたらよかろう? どうしたらよかろう?)
 ――と、すぐに一つの考えが浮かんだ。
(丹生川平の奴原が、俺を見捨て走り去った。が、精悍の彼らである。よもや逃げて行ってしまったのではあるまい。丹生川平へ事件を知らせて、加勢を呼びに行ったのであろう。……おッ、そう云えば音が聞こえる。危急を伝える合図の音が! 拍子を取った木叩きの音が!)
 弦四郎は丹生川平に住んで、十日の日数を経《けみ》していた。で、そういう合図の方法の、あるということも知っていたし、そういう方法で合図されるや、丹生川平の郷民たちが、得物を持って馬に乗って、一瞬の間に加勢をするべく、押し出して来るということをも、郷民達に聞いて知っていた。
(一時間《はんとき》あまり待ってやろう。加勢の勢の来るのを待って、茅野雄を処分してやろう)
 ――で、弦四郎は刀を引くやスッと背後《うしろ》へ身を退け、刀を鞘へ納めてしまった。
「さて、宮川氏、ごらんの通りでござる。拙者、刀を納めてござる。貴殿にも刀をお納めなさるがよろしい」
 こう云うと弦四郎はトホンとしたような、不得要領の笑い方をしたが、
「まずご免、あやまります。少しく悪ふざけが過ぎましたようで。が、拙者は道化者なので、こういうことも大好きでござる。と云うこういう[#「こういう」に傍点]事というのは、突然に深夜の江戸の町で、貴殿に切ってかかったり、飛騨の山中の峠道で、妙な矢文を貴殿へ送ったり、また今日のようなこんな恰好で、貴殿と太刀打ちを致したりする。こういうことを云っているのでござる。……アッハッハッ、変わった性質でな。……とは云えもはや飽き飽きしました。かような悪ふざけには飽き飽きしました。で、中止といたします。貴殿にもご中止なさるがよろしい」
 訳の解らないことを云い出した。
 これにはさすがの宮川茅野雄も、度胆を抜かれざるを得なかった。
(何という事だ! 何という武士だ!)
 ――で、茅野雄も後へ引いた。
 とは云え茅野雄には弦四郎の態度や、云った言葉に合点の行かない、曖昧のところのあるのを感じて、油断をしようとはしなかった。
 しかし弦四郎は暢気《のんき》そうに、刀を鞘へ納めてしまうと、両手を胸へ組んでしまって、ブラリブラリと歩き出した。
 で、茅野雄も不審ながら、自分ばかりが物々しく、抜いた刀を持っていることが、不恰好のように思われて来た。
 で、刀を鞘に納めた。
 と、見て取った弦四郎は、一つニタリと含み笑いをしたが、
「高原の景色は美しゅうござるな」
 こう云って四辺《あたり》を見るようにした。
「……」――しかし茅野雄は黙っていた。
「綺麗な草の花を茵《しとね》として、美しい婦人方が仆れております」
「さよう!」と、茅野雄ははじめて云った。
「貴殿や貴殿の輩下の者が、誘拐し参った女達でござる」
「いかにも」と、今度は弦四郎が云った。
「誘拐して参った女達でござる」
「何故そのようなよくないことをなされる?」
 茅野雄は怒りを加えたらしい。病気上りの、痩せて蒼い頬の辺りへ紅潮を注《さ》させ、少し窪んだ鋭い眼に――いつもは学究らしい穏かさと、叡知とを湛えているのであったが――憎悪の光を漲らせて、弦四郎の眼を追いながら睨んだ。
 そう茅野雄にたしなめ[#「たしなめ」に傍点]られて、かつは鋭く睨められたが、根が浮世を目八分に見ている、身分不詳の弦四郎には、堪《こた》えるところが少なかったらしい。
 例によってトホンとした不得要領の、一種の笑いを笑ったが、
「そう宮川氏云われるものではござらぬ。な、只今も拙者は申した。ちとどうも悪ふざけが過ぎましたようで。女子誘拐しの一件も、その悪ふざけの一つでござる」
 しかしこのように云って来て、急に弦四郎は咎めるように云った。
「たしか貴殿におかれては、丹生川平という別天地へ、おいでなされるはずでありましたな」
(おや)とそれを聞くと茅野雄は思った。
(どうしてそんなことを知っているのであろう?)
「さよう」としかし茅野雄は云った。
「拙者、丹生川平へ参る。が、どうしてご存知かな?」
 それには返事はしなかったが、弦四郎は次のように云って笑った。
「丹生川平の郷民達は、貴殿を歓迎なさるまいよ」
「何故な?」と、茅野雄はけげん[#「けげん」に傍点]そうに云った。
「必ずや歓迎をいたしましょう」
「駄目々々」といよいよ嘲笑ったが、曠野の上に仆れている、丹生川平の郷民達の、死骸を弦四郎は指差した。
「貴殿、この者達を殺したではないか」
「悪漢ゆえに殺してござる」
「貴殿はここにいる令嬢姿の乙女を、遮二無二助けようとなされたではないか」
「不幸の誘拐されの乙女だからよ」
「何にもご存知ないからじゃよ」
 ここで弦四郎は皮肉に笑った。
「で拙者、お知らせいたそう。……貴殿が討って取られたところの、仆れている五人の若者達こそ、丹生川平の郷民達なのでござるよ!」
「何を馬鹿な! そのようなことが!」
「貴殿が助けようとなされた乙女は、丹生川平の郷民達にとっては、讐敵にあたる白河戸郷の、郷の長の娘の小枝《さえだ》という乙女で」
「…………」
「そこでもう一言云うことがござる。聞いたら胸が潰れるでござろう。――拙者は目下丹生川平におります。とこう云うのがその一つでござる! 丹生川平の郷の長の、宮川覚明殿に依頼されて小枝を奪いに来たものでござる。とこう云うのがその二つでござる。……しかるに貴殿におかれては、丹生川平の郷民達を、このように討ってお取りになり、小枝を奪おうとした上、拙者の仕事の邪魔をなされた。……何の貴殿が丹生川平へ、これからおいでになろうとも、丹生川平の郷民達が、歓迎などをいたしましょうぞ。その証拠は……」と云いながら、弦四郎は頭を背後《うしろ》へ巡らすと、背後に連らなり聳えている、大森林を眺めやった。と、ドッと云う大勢の鬨の声が、その大森林の中から起こって、ムラムラと騎馬の一団が、大森林の中から現われて来た。
「その証拠こそあれ[#「あれ」に傍点]でござる!」
 こう云うや弦四郎は身を翻《ひるが》えして、騎馬の一団の走って来る方へ、脱兎のようにひた[#「ひた」に傍点]走ったが、走りながらも茅野雄へ云った。
「貴殿を討って取ろうとして、丹生川平の郷民達が、押し出して来たのでござりますぞ!」
 それから刀をひっこ[#「ひっこ」に傍点]抜くと、騎馬の一団の走る方へ、高々と上げて差し招いた。
「方々ようこそ参られた! ご助勢くだされ! ご助勢くだされ! あそこに立っている侍こそは、怨敵白河戸郷に味方をする、某《なにがし》という痴漢《しれもの》でござる! 拙者が小枝を奪おうとしたのを、邪魔をいたしたそのあげく[#「あげく」に傍点]に、丹生川平のあたら若者を、五人がところ討ち取ってござる! 早々討ってお取りくだされ!」
 こう叫ぶと弦四郎は二度も三度も、けしかける[#「けしかける」に傍点]ように刀を揮った。

乱闘

 敵は一人と見てとって、心に侮《あなど》りを覚えたからであろう、丹生川平の郷民達は、遠くから茅野雄をとりこめ[#「とりこめ」に傍点]て、矢《や》ぶすま[#「ぶすま」に傍点]にかけて射仆《いたお》そうとはしないで、馬を煽《あお》ると大勢が一度に、茅野雄にドッと襲いかかった。
 郷民達の叫喚、馬の蹄の音、打ち振る得物の触れ合う音、その得物の閃めく光、馬の蹄に蹴上げられて、煙りのように立つ茶色の砂塵、――それらのものが茅野雄を巡って、茅野雄を埋没させようとした。
 こうなっては茅野雄は声を上げて、いかに弁解をしたところで、相手に受け入れられる望みはなく、虐殺されるばかりであった。
(戦って逃げるより仕方がない!)
 とは云え相手は大勢であり、ことには悉《ことごと》く騎馬であった。徒歩《かち》で刀を揮ったところで、駆け仆されるのがおち[#「おち」に傍点]であった。
(一人叩っ切って馬を奪ってやろう)
 馬の前脚を諸《もろ》に立てて、茅野雄をその馬の脚の下《もと》に、乗り潰そうと正面から、逼って来た一騎の郷民があった。
 乗りかけられたらそれまでである。何のむざむざ乗りかけられよう。見て取った茅野雄は横筋違《よこすじかい》に、さながら矢のように素走ったが、擦れ違いざまに馬の脚へ、一刀サッと浴びせかけた。
 嘶《いなな》きの声がしたかと思うと、ドッと横仆しに馬が仆れ、乗っていた敵がとんぼ[#「とんぼ」に傍点]返って落ちた。
 と、その仆れた馬の胴へ、他の馬が躓《つまず》いて乗ってきた敵が不覚にも、ズルズルと馬背《ばはい》を辷《すべ》り落ちた。
 と、その馬の背の辺りへ、手甲《てっこう》を穿《は》めた二本の腕が、素早くかかったと思ったが、その時には一人の旅|装《よそお》いをした武士が、既に馬背に乗っていた。
 そうしてその次の瞬間には、丹生川平の郷民達の群から、数間先を走っていた。
 他ならぬ宮川茅野雄である。
 驚き周章《あわて》た大勢の声が、ひとしきり背後で聞こえたかと思うと、すぐに弦音《つるおと》が高く響いた。
 丹生川平の郷民達が、茅野雄を射って取ろうとして、半弓を数人で射かけたのである。
 しかし彼らは周章ていた。で、狙いが狂ったものと見えて、走って行く茅野雄の左右と頭上を、空しく征矢《そや》は貫いた。
 が、その次の瞬間には、大勢の追って来る蹄の音が、茅野雄の後から聞こえてきた。と思う間もあらばこそであった。走って行く茅野雄の右と左へ、馬の首が数頭現われたが、見る見る茅野雄を追い抜いて、数間の先へ現われた。次々に数を増して来る。
 茅野雄は武術の一通りには、達していることは達していたが、馬術は精妙とは云われなかった。
 これに反して丹生川平の、郷民達と来た日には、生活から来る必要として、充分に馬術に達していた。曠野を自在に駆けることも、森林の中を縦横無尽に、走り廻ることも出来るのであった。
 で、今も茅野雄を追い抜いて、その前方へ現われて、茅野雄の行く手を扼《やく》したのである。
 こうなっては茅野雄は仕方がなかった。がむしゃら[#「がむしゃら」に傍点]に前面の敵に向かって、切り散らして逃げるより方法がない。
 しかし茅野雄は考えた。
(ここは曠野で隠れ場所がない。どこまで逃げてもまる[#「まる」に傍点]見えだ。また追いつかれて扼されるであろう。これはどうしても林の中か、森の中へ駆け込んで、身を隠さなければ仕方がない)
 で、背後を振り返って見た。
 曠野を仕切って壁のように、連らなっている大森林があった。
(あの森林の中へ入ってやろう)
 で、茅野雄は突嗟の間に、手綱をしぼると馬を廻し、一散に後へ引っ返した。
 その行く手には馬に乗った、丹生川平の郷民達が、得物を揮って群がっていたが、駈けて来る茅野雄の必死の姿に、気を呑まれたか道をひらいた。で、茅野雄は駆け抜けた。
 と、これはどうしたのであろう、ドッと背後から大勢の者の、笑う声が聞こえてきたではないか。
 こういう危急の場合にも、笑われて見れば気持が悪い。そこで茅野雄は振り返って見た。
 丹生川平の郷民達が、遥かの後方に屯《たむろ》していて、茅野雄の方を指さして、笑っているのが見てとれた。
(何故あいつらは笑っているのだ? 何故俺を追っかけて来ないのだ?)
 とは云え彼ら丹生川平の、郷民達から云う時には、笑うべきことに相違なかった。
 というのは大森林の奥所《おくど》にあたって、丹生川平があるのであるから。
(あの可哀そうな旅の武士は、自然に一人で俺達の郷へ、惨《いじ》められるために駆けて行く)
 で、指さしをして笑ったのであった。
 そういうことを茅野雄は知らない。
 で、馬を走らせた。
 しかしその時背後の方にあたって、忽然鬨の声がわき起こったので、振り返らざるを得なかった。
 何を茅野雄は見たであろう?
 丹生川平の郷民達の群へ、一団の人数が襲いかかって、凄まじい戦いを演じている。
 白河戸郷の郷民達が、ようやくこの時駈けつけて来て、丹生川平の郷民達へ、殺到したに他ならなかった。
 しかし茅野雄その人にとっては、そんな事情は解らなかった。
(この隙に森林の中へ入り、危険から遁れることにしよう)
 で、いよいよ馬をあおって、森林の方へ駈けて行ったが、間もなく姿が見えなくなった。
 森林が茅野雄を呑んだのである。

 物語少しく後へ戻る。
 飛騨の萩村は街道筋における、相当に賑やかな駅《うまやじ》であって、旅籠《はたご》屋などにもよいものがあった。
 宮川茅野雄が難を受け、森林の中へ姿を没した、ちょうどその日のことであったが、この萩村の四挺の駕籠が、旅人を乗せて入り込んで来た。
 夕暮のことであったので、旅籠屋の門口《かどぐち》では出女《でおんな》などが、大声で旅人を呼んでいた。
 その一軒の柏屋《かしわや》というのへ、一挺の駕籠が入って行った。
 駕籠から現われたのは若い武士であったが、高貴の身分のお方らしく、云われぬ威厳を持っていた。
 で、丁寧にあつかわれて、奥まった部屋へ通って行った。
 その武士の乗っていた駕籠の後から、もう一挺の駕籠がついて来たが、これは柏屋の前を過ぎて、先の方へ向かって進んで行った。
 が、どうしたのか不意に止まると、ユルユルと後へ引っ返して、柏屋の門口で止まってしまった。
 と、その中から客が出たが、それは威厳のある老武士であった。
 そうしてこの武士も丁寧に、下女に奥の間へ案内されて、姿を消してしまった時、二挺の駕籠が肩を揃えて、同じ柏屋の門口へ止まった。
 一挺の駕籠から現われたのは、身分に見当の附かないような、小気味の悪い老人であったが、もう一挺の駕籠から現われたのは、美しい若い女であった。
 この二人はどうやら連れと見えて、二言三言囁いたかと思うと、打ち揃って奥の部屋へ通って行った。
 その後でも幾組か泊まり客があったが、特に目立つような客はなかった。
 全く日が暮れて夜となった。
「お泊まりなさいまし」「柏屋でございます」「へいへいこれはお早いお着きで」――などと云っていた出女の声も、封ぜられたようになくなって、萩村の駅は寂静《ひっそり》となった。
 こうして夜が次第に更け、柏屋でも門へ閂《かんぬき》を差した。客も家の者も寝《しん》についたらしい。
 で、何事もなさそうであった。
 では何事も起こらなかったか?
 いやいや変わった事件が起こった。
 奥に一つの部屋があったが、消えていた行燈《あんどん》が不意に点《とも》り、ぽっと明るく部屋を照らした。
 見れば一人の老武士が、床から起きて行燈の側《そば》に、膝を揃えて坐っている。

老武士は?

 二番目に着いた駕籠の中から、立ち現われた老武士であった。
 何やら口の中で呟いたかと思うと、老武士は部屋の中を見廻した。と、にわかに立ち上った。それからそっと襖《ふすま》をあけて、隣り部屋の様子を窺《うかが》った。
「隣り部屋には客がない」
 で、安心したようであった。が、再びそろそろと歩いて、反対側の襖へ行くと、細目に開けて覗いて見た。
「有難い、この部屋にも客がない」
 しかしそれでも不安心と見えて、廊下に向かった障子をあけると、顔を差し出して左右を見た。
「よし」――で、引っ返し、二度行燈の側へ坐り、両手を袂《たもと》から懐中《ふところ》へ入れた。
 取り出したのは小箱であったが、真に美しい鯖《さば》色の光が、小箱の中から射るように射して、部屋を瞬間に輝やかした。
 小箱の中を覗いている、老武士の顔の嬉しそうなことは!
 この老武士は何者であろう?
 他ならぬ松平|碩寿翁《せきじゅおう》であった。
 それにしても何のためにこのような所へ、碩寿翁ともある人が、供も連れずに来たのであろう?
 それには怪奇な事情がある。
 根津仏町|勘解由店《かげゆだな》の刑部《おさかべ》屋敷の露地口で、京助という手代から、一個《ひとつ》の品物を奪い取って以来、碩寿翁は蠱物《まじもの》にでも憑《つ》かれたかのように、心が絶えず動揺し、心が恐怖に襲われた。
 時にはこんなように口走ったりした。
「あのお方があんな所にいられようとは! ……俺はとうとう感付かれてしまった。……俺に恐ろしいはあのお方ばかりだ。俺は体を隠さなければならない」
 で、恐怖に耐えられなくなって、江戸を発足したのであった。
「長崎へ行こう! 長崎へ行こう!」
(この素晴らしい値打ちのある物を、売るのはいかにも惜しいけれど、あのお方にあのように感付かれた以上は、とうてい持ってはいられない。売って金に代えることにしよう。これほどの物を買い取る者は、長崎の蘭人《らんじん》の他にはない)
 で、長崎へ向かったのであった。
 しかるに何という事だろう。碩寿翁の乗っている駕籠の前に、いつも一挺の駕籠がいて、ゆるゆると進んで行くではないか。そればかりなら何でもなかった。その駕籠が強い力をもって、碩寿翁の駕籠を支配するではないか。
 その駕籠が旅籠屋へ入ったとする。と、碩寿翁の乗っている駕籠も同じ旅籠屋へ入るのであった。
 これに気が付いた碩寿翁は、云われぬ恐怖と不思議とを感じて、その駕籠の支配から遁れようとした。
「これこれ駕籠屋、他の旅籠へつけろ」
「へいへいよろしゅうございます」
 ――他の旅籠屋へつけようとする。と、どうだろう、碩寿翁自身が、駕籠の中から云うではないか。
「これこれ駕籠屋どうしたものだ。先へ行く駕籠の入った旅籠へ、すぐこの駕籠をつけてくれ」
 同じ旅籠屋へ泊まるのであった。
 こうして道中をしているうちに、長崎へは行かずに飛騨の山中の、萩村の柏屋へ来たのであった。
 さて今碩寿翁は行燈の側へ、膝を揃えて坐っている。
「この立派過ぎる原形のままでは、人に売ろうにも買い手があるまい。惜しいけれども割ることにしよう」
 憑かれているような碩寿翁であった。こう声に出して呟くと、またも懐中へ手を入れたが、掌《てのひら》の中へ隠れるほどにも、小さい長方形の揉み皮張りの、小箱を取り出して膝の上へ置いた。すぐささやか[#「ささやか」に傍点]な音のしたのは、その箱の蓋《ふた》があいたからであろう。何が箱の中に入っていたか? 日本の国内では見られないような、精巧を極めた洋鑢《ようやすり》だの、メスだの錐《きり》だのの道具類が、整然として入っていた。
 碩寿翁であったがメスを取ると、右手でメスの柄を握って、注意しいしい下へ下ろした。
 下りて行くメスの下にあるのは、真に美しい鯖色の光を、ギラギラと空へ投げている、そう云う品物を底に蔵した、例の小さい箱であった。
 しかるにこの時隣りの部屋で、囁き合っている男と女があった。
「今夜こそどうでも取らなければならない」
 こう云ったのは男であった。
 すると女が囁き返した。
「そうとも、どうしても取らなければならない」
「眠っているだろうか? 起きているだろうか?」
「そっと襖をあけてごらんよ」
「何となく俺には恐ろしい。碩寿翁様が相手だからな」
「と云ってうっちゃっては置かれないよ。……ここまで尾行《つけ》て来た甲斐《かい》だってないよ」
「それにしてもどういうお考えから、碩寿翁様には飛騨などという、こんな山国へ来られたのだろう?」
「私達には関係《かかわり》はないよ。……襖をあけて覗いてごらんよ」
 ここの部屋には燈火《ともしび》がなかった。
 で、二人の男と女の、姿を見ることが出来なかった。
 が、もし燈火があったならば、囁き合っている男と女が、夕暮時に柏屋の門《かど》へ、二挺の駕籠を並べてつけ、揃って奥へ通って行った、老人と若い美しい、女とであることが見て取れたであろう。
 しかしそれにしても碩寿翁が、さっき方この部屋を覗いた時には、客がなかったはずである。
 それだのに今は二人もいる。
 これはどうしたことなのであろう?
 思うに二人の男と女は、どこか別の部屋にいたのであったが、この時その部屋から忍び出て、この部屋へ潜入したのであろう。
 と、この部屋へ一筋の、細い明るい光の縞が出来た。
 男が襖をあけたので、隣りの部屋の行燈の火が、隙間から射して来たのであった。
「あッ」と、云う声が突然に起こった。
「大変だ! 割りおる! 二つに割りおる!」
 つづいてこう云う声がした。
「汝《おのれ》! 無礼! 覗きおったな!」
 間髪を入れず風を切って、物を投げる音がヒューッとした。
 しかし、続いて清浄と威厳と、神々《こうごう》しさを備えたような声が、どこからともなく聞こえてきた。
「物は完全に保つがよい! 美しさも神聖さも完全にある! ……碩寿翁、碩寿翁、物をこぼつな!」
 この時碩寿翁は刀を抜いて、部屋の一所に立っていたが、その眼は細く開けられている、襖の一方に注がれていた。見れば襖の縁の辺りに、碩寿翁が投げたらしいメスが一本、鋭く光って立っていた。
「…………」
 無言で碩寿翁は眼を返したが、反対側の襖を睨んだ。清浄で威厳のある神々しい声が、その襖の奥の方から、碩寿翁へ聞こえてきたのである。
「恐ろしいことだ! 恐ろしいことだ!」
 碩寿翁はワナワナと顫え出した。
「今のお声はあのお方のお声だ!」
(しかしどうしてあのお方が?)
 で、碩寿翁はヒョロヒョロと歩いて、襖の方へ寄って行ったが、恐る恐る襖を引きあけた。
 空虚! 闇! 人の姿はなかった。
「二組の人間に狙われている! 俺は一体どうしたらいいのだ!」
 また佇《たたず》んだ碩寿翁の、足もとに置かれてある小箱から、何と美しく何と高貴な、光が放たれていることか!

 その翌日のことであった。四挺の駕籠が前後して、柏屋の門口からかき[#「かき」に傍点]出され、高山の方へ進んで行った。

 四方を森林に囲まれているので、丹生川平《にゅうがわだいら》は丘の上にあったが、極めて陰気に眺められた。
 切り株に腰をかけながら、話している若い男女があった。
「あなたには大分変わられましたな。昔より陰気になられたようで」
「……でもあなたがおいでくださいまして、陽気になりましてございます。……あなた、お体はよろしいので?」
「いずれも微傷《うすで》ゆえ大丈夫でござる。……が、あのような経験は、拙者、一度で充分でござる」
「何と申し上げてよろしいやら」
「みんな弦四郎めが悪いので」
 二人は茅野雄《ちのお》と浪江《なみえ》とであった。
 と、背後《うしろ》から声がした。
「まあそう拙者を憎まないがよろしい。……大した悪人でもありませぬからな」

別天地

 丹生川平という別天地に、宮川茅野雄と醍醐《だいご》弦四郎とが、一緒に住居をしているとは、ちょっと不思議と云わなければならない。
 考えて見れば不思議ではなかった。
 茅野雄は丹生川平の長の、宮川覚明の甥であって、覚明の娘の浪江によって、招かれている人物であった。で、弦四郎や、丹生川平の、郷民達に襲われて、その幾人かを切って捨て、馬を奪って大森林を駈け抜け、丹生川平に辿りつくや、覚明をはじめ浪江によって、歓迎をされ無事を祝された。郷民を切ったことなども、間違いの結果であったので、郷民の方でも怨みとは思わず、かえって気の毒がり同情した。
 で、茅野雄は無事であった。
 弦四郎の方はどうかというに、彼の図々《ずうずう》しさと機智とによって、丹生川平の別天地に、依然として住居することが出来た。
「ははあさようでございましたか。宮川氏には丹生川平の長の、覚明殿の甥でござったか。とんと某《それがし》存じませんでしてな、丹生川平には敵にあたる、白河戸郷の長の娘の、小枝《さえだ》を某奪い取り、丹生川平へ参ろうとした時、宮川氏が邪魔されたので、これはてっきり[#「てっきり」に傍点]宮川氏は、白河戸郷の味方の者と思い、それで某お敵対をいたし、丹生川平の人々へも、宮川氏を討ち取るよう、差図《さしず》をいたした次第でござる。それにしてもあの時は残念でござった。白河戸郷の郷民達に、半ば奪い取った小枝という娘を、奪い返されてしまいましたのでな」
 これが弦四郎の弁解であった。
 辻褄《つじつま》の合わないところはあったが、しかし確かに丹生川平のために、働いたことは事実だったので、誰もが一応受け入れて、弦四郎をして依然として、丹生川平のこの別天地へ、住ませることにしたのであった。
 丹生川平へやって来て、茅野雄が驚いたことと云えば、決して一つや二つではなかった。
 従妹《いとこ》の浪江が美しくなり、神々しいまでに霊的になり、だから陰気になったこと。伯父の覚明が訳の解らないほど、不思議な人間に変わったこと。
 丹生川平という別天地が、何とも云えない気味の悪い土地で、丘ではあるが日あたりが悪く、四方森林にとりかこまれていたり、随所に洞窟や古沼などがあったり、一つの巨大洞窟の奥に、異国めいた造りの神殿があったり、そういう古沼の岸のほとりや、森林の中などに無数の住民が、家《うち》を作って住んでいたり、洞窟の中にはいろいろさまざまの、諸国から来た病人が、お籠りをして住んでいたり、そういう境地の一所に、堂々としてはいたけれど、暗く寂しく物恐ろしく、覚明の屋敷が立っていたり、等、等、等というような事が、「驚き」の主なるものであった。
 茅野雄が、この土地へやって来るや、浪江は最初から驚喜したが、覚明の方は、それほどでもなく、
「うむ、茅野雄か、何と思って来たぞ?」
 こんなように云ってから形をただし、
「俺《わし》に関しての行動に、一切干渉してはならない。洞窟の奥の神殿へは――わけても、神殿の内陣へは、決して入って行ってはならない。――が、これだけは頼んで置く、白河戸郷は丹生川平の敵だ。で、どうともして滅ぼさなければならない――滅ぼす策を講じてくれ」
 こう云って茅野雄を迂散そうにさえ見た。
(驚いたな)と茅野雄は思った。
(昔の伯父はこんな人ではなかった。何らか神は信仰していたが、もっと性質が明るくて、秘密など持つような人でなかった。……それだのにどうだろう今の伯父は、山師にしてしかも狂信者! と云ったようなところがある。それにどうだろう伯父の風采は?)
 覚明の風采は妙なものであった。切り下げの長髪を肩へかけ、異国めいた模様の道服を着し、刺繍の沓《くつ》を穿いていた。
(それに恐ろしく勿体ぶるではないか)
 これも茅野雄にはおかしかった。
 覚明は容易に人に逢わず、絶えず居場所を眩ませていた。時あって姿を現わす時には、十数人の侍者に周囲を守らせ、威厳をもって現われた。
 そうして茅野雄に対しても、伯父甥として対しようとはしないで、一宗の祖師が一介の信者へ対するような態度で対した。
 で、茅野雄はある時のこと、浪江に向かって問いを発した。
「伯父様の奉じている宗教は、回々教《ふいふいきょう》でございましょうな?」
 こう問うたのには訳がある。
 覚明がお祈りをする時に、こう云うことを云うのであるから。
「健在なれ、万福を神に祈れ、教主マホメットの感謝を神に挨拶せよ、全幅の敬意を表せよ、神は唯一にして、マホメットは教主なりと信ぜよ。信ぜよ、神は産れず、産ず、神と比較すべきもの何らあることなし」
 そうしてこの言葉は回々教《ふいふいきょう》の教典、祈祷の部の中にあるのであるから。
「回々教のようでございます」
 こう云って浪江は寂しそうに答えた。
 そういう浪江の答えぶりによって、茅野雄は浪江が信者でないことを、ハッキリ感ずることが出来た。
 で、茅野雄は尚も訊いた。
「どういう機会から飛騨の山中の、こんな寂しい物恐ろしい、丹生川平というような所へ、伯父様はおいでなされたのでござろう?」
「妾にも解らないのでございますよ。ある日父上にはこう仰言《おっしゃ》って、無理矢理に一家を引きまとめてこの土地へ参ったまででございます。『素晴らしい物を手に入れた。江戸にいては危険である。山中へ行って守ることにしよう』……」
「しかしわずかに五年ばかりの間にこのような建物を押し立てたり、このように信者を集めたり、よく行《し》たものでございますな」
「父は力を持っております。人を魅する不思議な偉大な力を! で、信者達が集まって来まして、このような建物をまたたく間に、建ててしまったのでございます」
「白河戸郷という彼《あ》の土地にも、同じように回々教《ふいふいきょう》の信者が、集まっているようでございますな」
「ええ」と、浪江は苦痛らしく云った。
「それで父上には白河戸郷を、憎んでいるのでございます」
「同宗という誼《よし》みから親しくすればよろしいのに」
「父は反対に申しております。白河戸郷を滅ぼして、彼《あ》の地に立っている神殿のうちの、重大なものを持って来なければ、丹生川平の本尊は、完全であるとは云われないと」
「白河戸郷の長という人は、どういう人物にございますな?」
「父の同門でありましたそうで。そうして父と同じように、何か重大な物を持って、父とほとんど同じ時に、父のように江戸から身を隠して、白河戸郷へ参ったのだそうで」
 そう云った浪江という娘は、面長の顔、愁えを含んだ眼、肉感的のところなどどこにも見られない薄手の唇、きゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]で痩せぎすで弱々しそうな体格! 一見人の同情を呼び、尊敬を呼ぶに足るような、そう云ったような娘であった。それでいて一本の白百合のような、清浄な美しさに充たされていて、しかも犯すことの出来ないような、威厳をさえ持っていた。
 さて今そういう娘の浪江と、茅野雄とが話していたところへ、醍醐弦四郎が現われて来て、話の仲間へ加わったのである。
「いや貴殿は悪人でござるよ」
 茅野雄は磊落《らいらく》の性質から、こだわろう[#「こだわろう」に傍点]ともせずこういうように云った。
「ナーニ拙者は好人物で」
 弦四郎も今日は陽気であった。もっともいつもこの侍は陽気で駄弁家で道化者であって、それを保護色にはしていたが。
「たとえば貴殿と浪江殿とが、そのようにいかにも親しそうに、まるで恋人同志かのように、お話をしているのを見ながら、拙者嫉妬をしないというだけでも、好人物であると云うことが、お解りになるはずでござる」
「馬鹿な!」と、茅野雄は苦々しそうに云った。
「浪江殿と拙者とは従兄妹でござるよ。仲よく話すのは当然でござる」
「そうとばかりも限りますまいよ」
 どうしたのか弦四郎はニヤニヤ笑った。
「案外親戚というものは、表面仲をよくしていて、裏面では仲の悪いもので」

神殿の中の物?

「そういうものでござるかな」
 茅野雄はうるさ[#「うるさ」に傍点]そうにすげなく云った。
 が、弦四郎は云いつづけた。
「親戚の一方が出世をすると、他の一方が嫉妬をする。親戚の一方が零落すると、他の親戚は寄りつかない。競争心の烈しいもので。さよう親戚というものはな」
「他人同志でも同じでござろう」
「なまじいに血潮が通っているだけ、愛憎は強うございますよ。さようさよう親戚の方が」
「兄弟などは親戚中でも、特に血の濃いものでござるが『兄弟|垣《かき》にせめげども、外その侮《あなど》りを防ぐ』と云って、真実仲よくしていますがな」
「が、一旦垣の中を覗くと、他人同志では見られないような、財産争いというような、深刻な争いがありますようで」
「が、幸い我らには――さよう、浪江殿と拙者とには――いや拙者と伯父一族とには、そのような争いはありませぬよ」
「御意!」と、弦四郎は道化た調子で云った。
「だからこそ拙者申しましたので、貴殿と浪江殿とは恋人かのように、大変お仲がよろしいとな」
「御意!」
 今度は茅野雄が云った。
「大変お仲がよろしゅうござる。その上に貴殿というような、おせっかい[#「おせっかい」に傍点]な人物が現われて、恋人らしい恋人らしいと、はた[#「はた」に傍点]から大袈裟にけしかけ[#「けしかけ」に傍点]などしたら、事実恋仲になろうもしれない」
「よい観察! その通りでござる」
 弦四郎はこう云うと憎々しそうにした。
「が、永遠の処女として、丹生川平の郷民達から、愛せられ敬まわれ慕われている、浪江殿を貴殿が手に入れられたら、郷民達は怒るでござろう」
「さようかな」
 と、茅野雄であったが、軽蔑したように軽く受けた。
「郷民達が怒る前に、貴殿が怒るでございましょうよ」
「…………」
「と云うのは貴殿こそ浪江殿に対して、恋心を寄せておられるからで」
 これには弦四郎も鼻白んだようであったが、負けてはいなかった。
「いかにも某《それがし》浪江殿を、深く心に愛しております。覚明殿にも打ち明けてござる。と、覚明殿仰せられてござる。『白河戸郷を滅ぼしたならば、浪江を貴殿に差し上げましょう』とな」
「ほう」と、茅野雄はあざける[#「あざける」に傍点]ように云った。
「覚明殿が許されても、肝心の本人の浪江殿が、はたして貴殿へ行きますかな?」
 するとその時まで沈黙して、次第に闘争的感情をつのらせ[#「つのらせ」に傍点]、云い合っている二人の武士の、その言い争いを心苦しそうに、眉をひそめて聞いていた浪江が、優しい性質を裏切ったような、強い意志的の口調で云った。
「妾《わたし》は品物ではございません。妾は人間でございます。妾は妾の愛する人を、妾の心で選びますよ!」
 で、茅野雄も弦四郎も白けて、しばらくの間は無言でいた。
 ここは小川の岸であって、突羽根草《つくばねそう》の花や天女花《てんにんか》の花や、夏水仙の花が咲いていた。小川には水草がゆるやかに流れ、上を蔽うている林の木には、枝や葉の隙《すき》から射し落ちて来る日の光に水面は斑《ふ》をなして輝き、底に転がっている石の形や、水中を泳いで行き来している小魚の姿を浮き出させていた。
 一筋の日光が落ちかかって、首を下げている浪江の頸《うなじ》の、後れ毛を艶々《つやつや》しく光らせていたが、いたいたしいものに見えなされた。
 そういう浪江と寄り添うようにして、腰をかけている茅野雄の大小の、柄の辺りにも日が射していて、鍔《つば》をキラキラと光らせていた。
 その前に立っている弦四郎の態度の、毒々しくあせって[#「あせって」に傍点]いることは! 両足を左右にうん[#「うん」に傍点]と踏ん張り、胸へ両腕を組んでいる。
 と、そういう弦四郎であったが、にわかに磊落《らいらく》に哄笑した。
「アッハッハッ、ごもっとも千万! 浪江殿の婿様でござるゆえ、浪江殿が自身で選ばれるのが、当然至極でございますとも。……そうなると拙者は方針を変えて、慾の方へ走って行くでござろう」
「慾? なるほど! どんな慾やら?」
 茅野雄には意味が解らないようであった。
「慾は慾なり[#「なり」に傍点]でございますよ」
 こう云う弦四郎は眼を走らせて、遥かの彼方《かなた》に森林に蔽われ、頂きだけを出している、洞窟のある岩の山を、意味ありげに眺めやった。
「あそこの洞窟の中にある、神殿の内陣へまかり越し、値打ちあるものをいただくという慾で」
 この意味も茅野雄には解らなかったらしい。
「神殿の内陣にありますかな? そのように値打ちのある品物が!」
「馬鹿な!」と、弦四郎は喝《かっ》するように云った。
「貴殿も承知しておられるくせに」
「拙者は知らぬよ!」とブッキラ棒であった。
 茅野雄はブッキラ棒に云い切った。
 しかし弦四郎は嘲けるように云った。
「巫女《みこ》が貴殿に予言された筈で。山岳へおいでなさりませ、何か得られるでございましょうとな! ……その何かがあの神殿の、内陣にあるのでございますよ! 得ようと思って来られたのでござろう! さよう、ここへ、丹生川平へ!」
「また出ましたな、巫女という言葉が! が、拙者は巫女の云ったことなど。……」
 茅野雄がすっかり云い切らないうちに、しかし弦四郎は歩き出した。
「内陣の中の品物についても、貴殿と競争をするように、いずれはなるでござりましょうよ。どっちが先に手に入れるか? こいつ面白い賭事でござる。……勝つには是非とも白河戸郷を、何より滅ぼさなければならないようで。……何故? 曰くさ! 覚明殿がだ、拙者へこのように云ったからでござる。白河戸郷を滅ぼしたならば、神殿の内陣へ入れてあげましょうと! ……入ったが最後掴んでみせる。……で、貴殿にも心を巡らされ、白河戸郷を滅ぼすような、うまい策略をお立てなされ!」
 云い捨ると弦四郎は行ってしまった。
 茅野雄は後を見送ったが、心の中で呟いた。
(ああ云われると俺といえども、内陣の中へ入って行って、何が内陣に置かれてあるのか、ちょっと調べて見たくなった)

 星月夜ではあったけれど、森に蔽われている丹生川平は、この夜もほとんど闇であった。
 神殿が設けられているという、岩山の辺りはわけても暗く、人が歩いていたところで、全然姿はわかりそうもなかった。
 そういう境地を人の足音が、岩山の方へ辿っていた。
 足音の主は宮川茅野雄で(何が内陣に置かれてあるか、ちょっと調べて見たくなった)――この心持が茅野雄を猟《か》って、今や歩ませていたのであった。
 古沼の方に燈火《ともしび》が見えた。病人達が古沼の水で、水垢離《みずごり》を取っているのであろう。
 どことも知れない藪の陰から、低くはあるが大勢の男女が、合唱している声が聞こえた。
 病人達が唄っているのであろう。
 が、神聖の地域として、教主の宮川覚明が、許さない限りは寄り付くことの出来ない、この岩山の洞窟の入り口――そこの辺りには人気がなくて、森閑《しん》として寂しかった。
 茅野雄は洞窟の入り口まで来た。
(いずれは番人がついていて、承知して入れてはくれないだろう。が、ともかくも様子だけでも見よう)
 茅野雄はこういう心持から、この夜一人でこっそりと、ここまで辿って来たのであった。
 さて、洞窟の前まで来た。
 茅野雄は入り口から覗いて見た。暗い暗いただ暗い! 恐らく神殿の設けられてある洞窟内の奥までには、幾個《いくつ》かの門や番所があり、道とて曲がりくねって[#「くねって」に傍点]いて、容易に行けそうには思われなかった。
(行ける所まで行ってみよう)
 で、茅野雄は入り口へ入った。
 が、その時背後にあたって、ゾッとするような感じを感じた。
 と、思う間もあらばこそであった。数人の人間が殺到して来た。
「…………」
 無言で洞窟の入り口から、外へ飛び出した宮川茅野雄は、これも無言で切り込んで来た、数人の人間の真っ先の一人へ、ガッとばかりに体あたり[#「あたり」に傍点]をくれて、仆れるところを横へ逸《そ》れ、木立の一本へ隠れようとした。
 意外! そこにも敵がいた。
 閃めく刀光! 切って来た。
 鏘然! 音だ! 合した音だ!

白皓々

 切って来た鋭い敵の刀を、抜き合わせて茅野雄が払ったのであった。
 茅野雄は巡《まわ》った! 木立を巡った。もう一本の木立へ来た。
 刀光! 意外! 敵がいた! 閃めかして茅野雄へ切ってかかった。
 また太刀音! が、しかしだ! 既に茅野雄はこの時には、身を翻えして遁れていた。
 この間も茅野雄は考えた。
(信者なら声をかけるはずだ! 「神殿を荒らす背教者でござるぞ! 出合え! 方々!」――と、こんなように! ……ところがこいつは黙っている。……何者だろう? 何者だろう? うむ、五人だな! おッ、来おる!)
 闇を一層に闇にして、五人の人影が塊《かた》まって、迫って来るのが幽かに見えた。
 と、その次に起こったことは、数合の太刀音のしたことと、一人の人影が地上へ仆れ、仆れながら何かを投げたことと、その人影が起き上った時、一人の男が唸《うな》り声をあげて、ドッと地上へ仆れたことと、仆れた人間を切り刻もうとして、五人の人影が飛びかかったことと、洞窟の入り口へ光が射して、すぐに一点|龕燈《がんどう》の光が、闇へ花のように浮かび出たことと、全裸体《まるはだか》の乙女がその龕燈を捧げて、悩ましそうな眼付きをして、投げられた丸太に足を打たれ、地上へ仆れている茅野雄の姿と、茅野雄を切って刻もうとして、醍醐《だいご》弦四郎と彼の部下の、半田伊十郎と他五人とが、茅野雄の周囲に集まっているのを、順々に見廻したこととであった。
「浪江殿ではござらぬか※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「……その姿は? ……白皓々《はくこうこう》!」
 茅野雄と弦四郎とは同時に云った。

 それから数日後のことであった。三挺の駕籠が前後して、花の曠野へ現われた。
 曠野へ駕籠が三挺出て、すこしばかり先へ進み出した時、もう一挺の駕籠が出て、三挺の駕籠へ追いついた。
 数日前に萩村の駅《うまやじ》の、柏屋という旅籠《はたご》屋から、乗り出した駕籠に相違ない。
 では真っ先の駕籠にいるのは、いわれぬ威厳を持ったところの、高貴な身分の若武士《わかざむらい》であろうし、その次の駕籠にいる者は、松平碩寿翁その人であろうし、その次の二挺の駕籠にいるのは、身分に見当の付かないような、小気味の悪い老人と、若い美しい娘とであろう。
 さてこうして四挺の駕籠が、丹生川平と白河戸郷とを、連絡している花の曠野へ、同時に姿を現わした。どっちかの郷へ行かなければなるまい。
 と、はたして四挺の駕籠は、白河戸郷の方角へ向かって、ゆるゆると歩みを進ませて行った。
 と云うよりも真っ先の駕籠が、白河戸郷の方角を目ざして、ゆるゆるとして進んで行くので、碩寿翁の乗っているもう一挺の駕籠が、その駕籠についてその方へ進み、碩寿翁の乗っているその駕籠が、その方へ進んで行くところから、それをつけて[#「つけて」に傍点]その次の二挺の駕籠が、その方へ進んで行くのだと、こう云った方がよさそうであった。
 進み進んで四挺の駕籠が、曠野から姿を消した時、白河戸郷の盆地の上の、丘の一所へ現われた。
 そこから姿の消えた時には、盆地の坂を下っていた。
 が、そうして四挺の駕籠が、白河戸郷へ到着するや、幾つかの事件が行なわれた。
 衆を集める鐘の音が、回教寺院めいた建物から響くと、耕地からも往来《みち》からも家々からも、居酒屋からも、花園からも、大人や子供や男や女が、一度に鬨《とき》を上げて集まって来て、四挺の駕籠を取り巻いてしまった。
「誰だ誰だ! 何者だ!」
「神域へ無断で入って来た! 追い払ってしまえ! 虐殺してしまえ!」
「とにかく将監《しょうげん》様へお知らせしろ!」
「どんな奴が駕籠に乗っているのだ! 駕籠の戸をあけて引きずり出せ!」
 郷民達が声々に喚いた。
 と、その時一人の老人が、幾人かの郷民に囲繞されて、四挺の駕籠の方へ近寄って来たが、
「拙者は白河戸将監でござる。白河戸郷の長でござる。何用あって参られたか?」
 こう四挺の駕籠に向かって云った。
 と、その声に応じて一挺の駕籠から、一ツ橋|慶正《よしまさ》卿が悠々と現われ、もう一挺の駕籠から碩寿翁が現われ、もう二挺の駕籠から老人と美女――他ならぬ刑部《おさかべ》老人と、巫女《みこ》の千賀子とが現われた。
 そうして一ツ橋慶正卿が、何やら将監へ囁いた。
 と、形勢が一変した。
 郷民達が慇懃《いんぎん》になり、一度に揃って慶正卿へ、ひざまずいて頭を下げたりした。将監においても丁寧になり、恭しく慶正卿に一礼し、それから自身が先頭に立って、回教寺院めいた建物の側の、一宇の屋敷へ案内した。それは将監の屋敷らしかった。
 ところで碩寿翁と刑部老人と、巫女の千賀子とはどうしたかというに、これも将監に案内されて、慶正卿につづいて将監の屋敷へ、同じく招待されたのであった。
 で、その後は白河戸郷は、以前《まえ》ながらの平和に帰ったが、その平和には活気があって、明るさを加えたようであった。

 これに反して丹生川平の方は、陰鬱の度を加えて来た。
 わけても陰鬱になったのは、宮川茅野雄その人であって、ある日人目を避けながら、森林の中を浪江と一諸に、話をしながら歩いていた。
「あれは何事でございますか! 若い乙女の身をもって、一糸もまとわぬ全裸体《まるはだか》で、あのような所におられましたのは?」
「止むを得なかったからでございます。……それにあの時ばかりでなく、従来《これまで》もああだったのでございます」
「尚よくないではございませんか。何のためにあんなことをなされるので?」
「お父上がせよと仰言《おっしゃ》いますので」
「私には伯父上の、覚明殿が?」
「そうして丹生川平から申せば、祭司であり長である怖い方から」

病める人々

 浪江の声は悲しそうであり、浪江の態度はおどおどしていた。
 が、茅野雄は突っ込んで訊ねた。
「どういう利益がありますので? あなたがあのように裸体《はだか》になれば?」
「はい、信者が喜びますそうで」
「信者? ふうむ、業病人《ごうびょうにん》達が?」
「はい、さようでございます。諸国から無数に集まって来た、業病人達でございます」
「何をあなたはなされるので? その不快な業病人達の前で?」
「ただ現われるのでございます。美しい清浄な女として。……」
「が、私には解らない! どうにも私には解らない!」
 すると今度は浪江が訊ねた。
「それにしても、あなた様には何の目的で、あの晩あのような場所へ参って、あのようなことをなさいましたので?」
「内陣の様子を見ようものと、忍んで行ったのでございますよ」
「でも父上からあなた様には、止められているはずではございませんか。内陣を見てはいけないと」
「さよう、ですからより[#「より」に傍点]一層に、内陣が見たかったのでございますよ」
「好奇心からでございましょうね?」
「好奇心からでございますとも」
「でも好奇心は好奇心のままで、うっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]お置きなさいました方が、よろしいようにございます。……好奇心は好奇心をとげた時に、値打《かち》を失うでございましょうから」
「値打を失なってしまいたいために、好奇心というものは強い力で、人間に逼るものでございますよ。好奇心は力でございます」
 森林の底と云ってもよかろう。特に薄暗い所へ来た。杉だの桧だの※[#「木+無」、第3水準1-86-12]《ぶな》[#「※[#「木+無」、第3水準1-86-12]」は底本では「撫」]だの欅だのの、喬木ばかりが生い茂っていて、ほとんど日の光を通さなかった。で、歩いて行く茅野雄と浪江との、姿さえぼけて[#「ぼけて」に傍点]見えるほどであった。
「伯父上はご立腹のようですな」
 巨大な楠の木の裾を巡り、行く手に黒くよどんで見える、古沼の方へ歩きながら、こう茅野雄は苦痛らしく云った。
 そういう茅野雄と肩を並べながら、足に引っかかる蔓草や落ち葉を、踏み踏み歩きながら浪江は云った。
「内陣を見られるということが、お父様にはこの上もなく、不愉快なのでございますので、それをご覧になろうとして、深夜に洞窟へ人に知らさず、こっそり行かれたあなた様を、怒っているのでございますよ」
「私にこの土地から立ち去るようにと、伯父上には今日仰せられました」
「…………」
「が、それにしても内陣には、何があるのでございましょうかな?」
「…………」
「醍醐弦四郎に対しましても、伯父上にはこの土地を立ち去るようにと、厳命したようでございますな」

「でも、弦四郎様は申されましたそうで『こっそり内陣へ入り込もうとした、宮川氏を入れまいとして、あの晩私や私の部下で、宮川氏を遮りました。功こそあれ罪はないはずで。立ち去れとは不当でございましょうよ』と」
「ナーニ、そのくせ醍醐弦四郎めも、あの晩内陣へ入り込もうとして、洞窟の入り口まで行っていましたので。そこへ私が参りましたので、競争相手を斃《たお》すつもりで、この私へあのように、切ってかかったのでございますよ」
 二人は尚も彷徨《さまよ》って行った。
 と、一所から声々が聞こえた。
 木立がそこだけ隙をなして、日光の射している丘があったが、そこに無数の業病人達がいて、話をし合っているのであった。
 茅野雄と浪江とは隙《す》かして見た。
 顔に白布をかけている者、松葉杖を脇の下へかっ[#「かっ」に傍点]ている者、一本しかない一本の腕で、胸の辺りをガリガリと掻いている者、膝から両脚がもげているので、歩くことが出来ずに這い廻っている者、髪の毛が残らず抜けたために、老婆のように見える若い女、骨なしの子供、せむし[#「せむし」に傍点]の老人――いずれも人の世の惨苦者《さんくしゃ》であったが、信仰を失ってはいないと見えて、その動作にも話しぶりにも、穏かな沈着《おちつ》いたところがあった。
 せむし[#「せむし」に傍点]の老人が体を延ばして、石楠花《しゃくなげ》の花を折ろうとしたが、どうにも身長《せい》が届かなかったので、人々はドッと声を上げて笑った。とは云え笑ったそういう声にも、軽蔑らしい響きなどはなかった。
 笑い声が高く大きかったからか、小鳥の群が棹《さお》をなして、日光の明るいそこの空間を、斜めに矢のように翔《か》けて通った。

「幸福そうでございますな」
 ふと茅野雄は浪江へ云った。
「幸福なのでございますよ」
 こう浪江は答えはしたが、苦しそうなところが声にあった。
「偽瞞《ぎまん》であろうとカラクリであろうと、それが信じられているうちは、幸福なのでございますよ。あの可哀そうな業病人達は」
(偽瞞? カラクリ? 何のことだろう?)
 茅野雄には浪江の云った言葉が、審《いぶか》しいものに思われた。
(これもやっぱり洞窟の中の、内陣に置いてある何らかの物と、関係のある言葉に相違ない)
 で、茅野雄は押し強く訊いた。
「浪江殿、お話しくださるまいか。内陣には何がありますので?」
「…………」
 浪江は返辞はしなかったが、云いたいと努力しているようであった。
 二人は宛なしに足を運んだ。
 古沼の岸を巡って越し、灌木の多い境地へ出た。
 と、その時人の足音が、ひそやかに二人の背後《うしろ》の方でした。
 しかし二人には解らなかった[#「解らなかった」は底本では「解らなった」]。
 不意に浪江が苦しそうに云った。
「申し上げることにいたします。どなたかにお話しいたしませねば、妾良心の苦しさに、息詰まってしまうのでございます。……あの内陣にあるものは、盗んで来た品物でございます。……しかも片輪なのでございます!」
「浪江!」と、その時鋭い声が、いや、幽鬼的の兇暴の声が、背後にあたって響き渡った。
 同時に風を切る音がした。
「あれ!」
「伯父上!」
 ガラガラガラ!
 体は長身、髪は切り下げ、道服めいた衣裳を着た、一人の老人が鉄の杖を、両手で頭上に振り冠り、怒りと憎しみとで顔を燃やし、水銀のようにギラギラと光る、鋭い眼で、一所を睨みながら、あたかも鬼のように立っていた。
 外ならぬ宮川覚明であった。
 そういう覚明から二間ほど離れた、桧の大木の背後の辺りに、一個の群像が顫えながら、覚明を見詰めて、立っていた。
 覚明が背後から鉄の杖で、浪江を撲殺しようとしたのを、早くも気勢《けはい》で察した茅野雄が、刹那に浪江を引っ抱え、瞬間に飛び退いて難を遁れ、いまだに浪江を引っ抱えたままで、立っているところの姿なのであった。
 寂然とした間があった。
 向かい合った三人の空間を、病葉《わくらば》が揺れながら一葉二葉落ちた。
 と、讃歌が聞こえてきた。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]唯一なる神
みそなわし給う
病める我らを
慈悲の眼をもて。
[#ここで字下げ終わり]
 丘の上の大勢の業病人達が、歌っている讃歌に相違なかった。
 宙に上っている鉄の杖が、この時ゆらゆらと前へ出た。
 覚明が前へ出たのである。
 その覚明が呻《うめ》くように云った。
「内陣の秘密を洩らす者は、肉親といえども許されない! 洩らしたな浪江! 聞いたな茅野雄! ……娘ではないぞ! 甥でもない! 教法の敵だ! おのれ許そうか! ……生かしては置けぬ! 犬のように死《くた》ばれ!」
 ジリジリジリジリと前へ進んだ。
 が、また讃歌が聞こえてきた。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]唯一なる神
許したもう
信じて疑わぬ
我らのみを。
[#ここで字下げ終わり]
「聞け!」と、覚明はまた進んだ。
「あの歌を聞け! あの歌を聞け! 疑わぬ者のみが許されるのだ! ……おのれらよくも疑がったな! よしや盗んだ品であろうと、よしやその品が片輪であろうと、疑がわぬ者には力なのだ! あばく[#「あばく」に傍点]ことがあろうか! あばく[#「あばく」に傍点]ことこそ罪だ! 死ね!」と、鉄の杖が振り下ろされた。

長閑な会話

 しかしその時には浪江を抱いたまま、茅野雄は背後へ飛び退いていた。
 茅野雄と浪江とは若かった。その行動も敏捷であった。
 しかし覚明は老人であった。行動は鈍く敏捷でなかった。
 このままで推移したならば、茅野雄と浪江とは遁れられるかも知れない。
 と、云うことが解ったと見える。
 大音声に覚明は叫んだ。
「教法の敵こそ現われましたぞ! 方々出合って打って取りなされ!」
 オーッという応ずる高声と、ワーッという大勢の鬨《とき》の声とが、忽ち四方から湧き起こった。

 しかるにこの頃数人の武士が、丹生川平の境地を下り、例の曠野まで続いている、大森林を分けながら、曠野の方へ辿っていた。
 醍醐弦四郎と部下とであった。
「まごまごしていると追っ払われるぞ」
 こう云ったのは弦四郎であった。
「丹生川平をでございますかな」
 こう云ったのは半田伊十郎であった。
「ああそうだよ、丹生川平をさ」
「お立ち退きなさればよろしいのに」
「途方もないことを云うものではない。あれほどの宝とあれほどの女を、うっちゃることが出来るものか」
「それはまアさようでございましょうが」
「俺が内陣へ入りたがっている。――いやあの晩は入ろうとした――と云うことを覚明殿に見抜かれたのが、失敗だったよ」
「茅野雄も内陣へ入りたがっていたようで」
「だからこそあの晩洞窟の口へ、こっそり忍んでやって来たのさ」
「そこで我々が襲ったという訳で」
 弦四郎の一行は歩いて行く。
「どうともして今度こそ白河戸郷を、退治る方法を講じなければならない」
 まだ弦四郎はこういうように云った。
「で、出かけて来たのだがな」
「ともかく一応白河戸郷へ、潜入する必要がございますな」
「そのためこうやって出て来たのさ」
 弦四郎達は大森林を出た。
 と、美しい花の曠野が、依然として人の眼を奪うばかりに、弦四郎達の眼の前に拡がった。
 灌木に隠れ、丘に隠れ、弦四郎達は先へ進んだ。
 と、にわかに立ち止まり、弦四郎はグッと眼を見張った。
 白河戸郷の方角から、三人の男と一人の女とが、長閑《のどか》そうに話しながら来たからであった。
「はてな」と、弦四郎は打ち案じた。
「遠目でハッキリとは解らないが、見たことのあるような連中だ」
 で、じっと尚も見た。
 歩いて来る四人は何者なのであろう?
 一人は一ツ橋|慶正《よしまさ》卿であり、一人は松平|碩寿翁《せきじゅおう》であり、一人は刑部《おさかべ》老人であり、一人は巫女の千賀子なのであった。
「よい眺めだの」と、慶正卿が云った。
「花園のようでございます」
 碩寿翁がすぐ応じた。
「こういう景色を見ていれば、悪事などしたくなくなるだろうな」
「まさにさようでございます」
「京助などという穏しい手代を、殺そうなどとは思うまいな」
「とんだところでとんでもないことを」
「が、安心をするがよい。あの男は私が助けてやった。今頃は貧しいが清浄な娘と、つつましい恋をしているだろう。……それはそうと千賀子殿」
「はい」と、千賀子は慇懃《いんぎん》に云った。
「昔のあなたになれそうだの」
「殿様のお蔭にございます」
「それはそうと刑部老人」
「はい」と、刑部老人は云った。
「その物々しい白い髯は、そうそう苅ってしまってはどうか」
(おやおや)と、刑部老人は思った。
(俺ばかりが歩が悪いぞ。髯の悪口を云われたんだからな)
「殿様のご注文でございましたら、早速髯など苅りましょうとも」
「苅った髯は店へ並べるがいい」
「並べる段ではございません」
「それだけが本物ということになる」
「それだけが本物と仰言《おっしゃ》いますと?」
「お前の店にある他の物は、確かことごとく贋物《にせもの》のはずだ」
(いよいよ俺だけが歩が悪いぞ)
「そうばかりでもござりませぬがな」
「いけないいけない嘘を云ってはいけない」
「アッハハ、そうでございますかな」
「もっとも店の主人公が、店の物は贋物でございますと、自分から云うことは出来まいがな」
「はい信用にかかわりますので」
 長閑に話しながら歩いて来る。
 一ツ橋慶正卿と碩寿翁と、千賀子と刑部老人とが、こう話しながら先へ進み、曠野を大森林へまで辿って行き、大森林の中へ入って、全く姿を消した時、四人の後を見送って、不思議そうに呟いたものがあった。
「碩寿翁と千賀子と刑部老人ではないか! 何と思ってこんな所へ、ああも揃って来たのだろう! もう一人のお方は知らないが、威厳があってまるで貴人のようだった」
 隠れ場所から現われた、それは醍醐弦四郎であった。
 何のためにそういう人達が、揃ってこの地へ現われて、大森林の中へ、入って行ったか? ハッキリしたことは解らなかったが、こう云うことは感じられた。
(貴人のようなお方は別として、他の三人は俺の狙っている物を、同じように狙っている人達だと、こう云ってもよさそうである。さてそういう人達が、大森林の中へ入って行ったのだ。大森林の彼方《あなた》には、丹生川平が存在する。丹生川平の神殿には、その「狙っている物」があるはずだ。で、連中はそこへ行って、その物を取ろうとするのかもしれない。うっかりすると横取りされるぞ)
 とは云え弦四郎は引っ返して、丹生川平へ帰って行って、その四人の人達を相手に、「狙っている物」を競争しようという、そう云う気持にはなれなかった。
(碩寿翁一人を相手にしても、俺に勝ち目はありそうもない。まして、四人を相手にしては……)
 とても駄目だと思われるからであった。
(それよりも急いで白河戸郷へ行き、小枝《さえだ》という娘を引っ攫《さら》って来よう。そうして、それを功にして、覚明殿に話し込み、神殿の内陣へ入れて貰おう。入ったが最後盗んで逃げよう。碩寿翁をはじめ四人の者が、どのような権威者であろうとも、行ってすぐに覚明殿に談じ込んだところで、覚明殿にはおいそれ[#「おいそれ」に傍点]と、四人を内陣へは入れないだろう。四人が内陣へ入らない先に、小枝を奪って丹生川平へ帰ろう)
 で、弦四郎は部下を急がして、白河戸郷の方へ足早に進んだ。

 ここは洞窟の内部であって、暗々《あんあん》とした闇であった。
 と、その闇の一所から、男女の囁く声がした。
「浪江殿、これからどうしましょう?」
「とうてい外へは出られません。奥へ参ることにいたしましょう」
 男女は茅野雄と浪江とであった。
 郷民達に襲われたので、茅野雄は殺生とは思いながら、幾人かの郷民を叩っ切り、浪江を連れて逃げ廻るうち、岩山の洞窟の口まで来た。と、洞窟の口があいた。外の騒ぎが烈しかったので、洞窟を守っていた番人が、外の様子を見ようとして、内部から扉を開けたのであった。
 そこで茅野雄は(しめた!)と思った。(洞窟の中へ入ってやろう)――で浪江を引っ抱えて、洞窟の中へ突き進んだ。と、番人が切ってかかった。それは峰打ちに叩き仆して置いて、茅野雄は中から扉を閉じ、ガッシリと閂《かんぬき》を下ろしてしまった。
 ――で、今、洞窟の中にいるのであった。
 外から大勢の郷民達が、扉を叩いたり喚き声を上げたり、番人に向かって扉をあけるようにと、命じている声が塊《かた》まり、ワーンというように聞こえてきたが、番人は気絶をして仆れていた。なんの扉をあけることが出来よう。
 で、今のところ茅野雄も浪江も一時安全を保つことが出来た。
 とは云えいつまでも洞窟の中に、隠れていることは出来そうもなかった。食べ物だってないだろう。飲み水だってないだろう。
 しかしながら外へは出られなかった。出たが最後に二人ながら、兇暴になっている郷民達のために、私刑にされるに相違ないのであるから。
「そう、とうてい今のところ、外へ出ては行かれますまい。そう、それではともかくも、奥へ進んで参ることにしましょう」
 こう云うと茅野雄は奥へ向かって歩いた。
 と、浪江が囁くように云った。
「行く先に幾個《いくつ》か関門があります。そこには番人が守っております。……妾《わたくし》、先へ立って参りましょう。妾が声をかけましたら、番人達は扉をひらきましょう。と云うのは、妾と父上とばかりが、関門をひらかせる特別の権利を、持っているからでございます」

恐ろしき予感

 そこで浪江は先へ立って進んだ。
 はたして関門が行く手にあった。
「ね、妾だよ。門をおあけ」
 浪江は何気なさそうに声をかけた。
 と、内側から男の声がした。
「ああお嬢様でございますか。……が、今頃何のご用で?」
「妾はおあけと云っているのだよ。……何の用であろうとなかろうと、お前には関係のないことだよ。……門をおあけ! ね、おあけ」
 内側では考えているようであったが、やがて閂を外すらしい、軋《きし》り音《ね》が鈍く聞こえてきて、やがて関門の扉があいた。
 内側に燈火《ともしび》があったと見えて、開けられた扉の隙間から、ボッと光が射して来た。
 が、すぐ隙間から顔が覗いた。
「お嬢様、……背後《うしろ》におられるお方は?」
 覗いたのは番人の顔であって、浪江の背後に佇んでいる、茅野雄に疑問をかけたのであった。
 しかしその次の瞬間には、簡単な格闘が演ぜられていた。扉を押しひらいて内へ入った茅野雄が、組みついて来た番人の急所へ、あて身をくれて気絶をさせ、猿轡《さるぐつわ》をかませ手足を縛り、地上へころがしてしまったのである。
 茅野雄と浪江とは先へ進んだ。燈火《ともしび》が仄《ほの》かに点《とも》っていて、歩いて行く二人の影法師を、しばらくの間行く手の地面へ、ぼんやりと黒く落としてい、左右の岩壁に刻られてある、奇怪な亜剌比亜《アラビア》の鳥類の模様を、これもぼんやりと照らしていた。
 やがて二人の姿は消えた。
 道が左の方へ曲がったからである。
 が、間もなく二人の姿は、第二の関門の前に来ていた。
「ね、妾だよ、門をおあけ」
「ああお嬢様でございますか! ……が今頃何のご用で?」
「妾はおあけと云っているのだよ。……何の用であろうとなかろうと、お前には関係のないことだよ。……門をおあけ! ね、おあけ!」
 以前《まえ》と同じような問答の後に、関門の扉が同じように開けられ、そうして同じような格闘が、以前のように行なわれたあげく、番人が地上へころがされ、茅野雄と浪江とが先へ進んだ。
 こうしてまたも関門へ出、同じような状態で関門を破り、先へ進んで行った時、茅野雄と浪江とは前の方に、一つの怪異な光景を見た。

「これは大急ぎで行かなければいけない」
 大森林の中を白河戸郷をさして、歩いていた一ツ橋慶正卿は、にわかにこう云って碩寿翁達を見た。
「それはまた何ゆえでございますかな?」
 こう碩寿翁は意外そうに訊いた。
「お前達みんなが取り合おうとしている、その[#「その」に傍点]物が人の手に渡ろうとしている」
「いやそれは大変なことで! ……しかしどうしてそのようなことが?」
「わし[#「わし」に傍点]だけには解る理由があるのだ」
「ではこうしてはおられませんな」
「それに二人の立派な男女が、虐殺の憂目に逢おうとしている」
「丹生川平《にゅうがわだいら》ででございますかな?」
「そうだ、丹生川平でだ」
「急いで行こうにも道程《みちのり》はあり、ことには歩きにくい森林ではあり……」
「そうだ、どうも、それが困る」
 慶正卿はこう云ったが、四辺《あたり》に放牧されている、野馬の群へ眼をつけると、
「うん、ちょうど野馬がいる。これへ乗って駈け付けることにしよう」
「よい思い付きにございます。では私もお供しましょう」
「刑部《おさかべ》老人と千賀子殿とは、まさか野馬には乗れまいな。またお前達二人などは、急いで駈けつける必要はない。後からゆっくり来られるがよい」
 こう云った時には慶正卿は、既に一匹の野馬の背へ、翻然として飛び乗っていた。
 そうして飛び乗った、次の瞬間には、大森林を縫って走らせていた。
 その後からこれも野馬に乗った碩寿翁が走らせていた。

 はたしてこの頃丹生川平では、恐ろしい事件が起こっていた。
「さあ火をかけろ!」
「火で焼き切れ!」
「どうでも扉はひらかなければいけない」
 洞窟の入り口に屯《たむろ》している、丹生川平の郷民達は、こう口々に喚きながら、枯れ木や枯れ草をうず[#「うず」に傍点]高いまでに、洞窟の扉の前に積んだ。
 茅野雄と浪江が郷民を切って、洞窟の内へ入り込んで、内から扉をとじてしまった。呼んでも呼んでも返辞をしない。扉をあけろと命じても、番人は返辞《いらえ》さえしようとしない。
 で、郷民達はこう思った。
(茅野雄が番人を切り殺し、内側から閂をかって[#「かって」に傍点]置いて内陣の方へ行ったのであろう)と。
 内から閂をかった[#「かった」に傍点]が最後、外からは開かない扉であった。火をかけて焼いて焼き切るより、開く手段はない扉であった。
 しかし郷民達は躊躇した。
(浪江殿は教主覚明殿の、一人娘ごであられるし、茅野雄殿は教主覚明殿の、一人の甥ごであられるのだから、扉を焼き切って洞窟内へ乱入してお二人を討ち取ることは、覚明殿に対してどうだろう?)
 で、郷民達は躊躇した。
 しかしその時郷民達に雑って、歯を食いしばり地団駄を踏み、洞窟の扉を睨みつけていた宮川覚明が、長髪を揺すり、狂信者にありがちの兇暴性を現わし、こう吼えるように怒号した。
「かまわないから火をかけろ! 扉を焼き切って乱入しろ! 茅野雄と浪江とが奥の院の、内陣にまで行きつかないうちに、追い付いて討って取るがよい! 洞窟内には関門がある! いくつとなく関門がある。厳重に番人が守ってもいる! 容易に破って行くことは出来ない。そこが我々の付け目とも云える! 二人を内陣へ行かせてはいけない! どうしても途中で討って取らなければいけない! ……娘でもない甥でもない! 我々に取っては教法の敵だ! 教法の敵の運命は、自ら一つに定《き》まっている! 刃《やいば》を頭上に受けることだ! ……さあやっつけろ! 火をかけろ!」
 これでやるべきことが定まった。
 間もなく煙りが渦巻き上り、火焔が扉へ吹きかかった。

 一方醍醐弦四郎は、曠野をズンズンと潜行して、間もなく白河戸郷を巡っている、丘の一つの頂きへ着いた。
 灌木の陰へ身を隠しながら、白河戸郷を見下ろした。
「これは一体どうしたんだ!」
 何を弦四郎は見たのであろう? いかにも驚きに打たれたように、こう頓狂な声を上げた。
 眼の下に見える白河戸郷に、一大事が起こっていたからであった。
 すなわち人家や牧場や、花園や売店や居酒屋などから、老若男女子供までが、得物々々をひっさげて、盆地の中央に聳えている、真鍮の天蓋型の屋根を持った、回教寺院《モスク》型の伽藍の方向へ向かって、波の蜒《うね》るように押し出して行き、その回教寺院を破壊するべく、得物々々を揮っているのであった。
 で、そこから聞こえてくるものは、人の喚き声と物の破壊《こわ》れる音とで、そうしてそこから見えて来るものは、砂塵と日に光る斧や槌や、鉄の棒や、鉞《まさかり》や刃物なのであった。
 内乱が起こったと見るべきであろう。
 この勢いで、時が経ったなら、白河戸郷という神域別天地は、間もなく滅亡してしまうであろう。
(これは内乱に相違ない! が、どうして内乱なんかが?)
 丘の頂きに立ちながら、そういう光景を眼の中へ入れた、醍醐弦四郎はそう思ったが、しかし、弦四郎の身にとって見れば、白河戸郷に内乱のあるのは、まさにもっけ[#「もっけ」に傍点]の幸いであって、内乱の事情などどうであろうと、かかわるところではないのであった。
 そこで弦四郎は部下を連れて、盆地を下へ走り下った。
(どさくさまぎれに小枝《さえだ》を攫《さら》おう)
 こう思ったからであった。

新しき登場者

 さてこういう出来事が、白河戸郷や丹生川平の、二つの別天地に起こっている時、この別天地をつないでいる、花の曠野へ四挺の山駕籠が、浮かぶがように現われて来た。
 何者達が乗っているのであろう?
 勘右衛門とお菊と弁太と杉次郎とが、駕籠には乗っているのであった。
 愛と憎とのもつれ合っている、この四人の男女のものが、どうしてこのように一緒になって、このような所へ来たのであろう?
 勘右衛門がお菊を訊問することによって、お菊が勘右衛門の大切にしていた、例の品物を京助の手により、古物商の刑部老人の元へやったということを知ることが出来た。そこで勘右衛門は刑部の家を訪ねた。旅へ向かって立ったという。
 そこで勘右衛門は手を尽くして、刑部の旅先を突き止めようとした。
 勘右衛門は抜け荷買いをしたほどの男で、異国の事情に通じていたし、長崎の事情にも通じてい、刑部という老人が、長崎辺りの蘭人達と、取り引きをしているということなども、ずっと以前から知っていた。
 つまり勘右衛門は刑部老人の、素性《ひととなり》と行動とを知っていたのであった。
 したがって刑部老人が、あの大切な品物を持って、どの方へ旅立って行ったかについても、大体見当をつけることが出来た。
(長崎へ行ったに相違ない)
 しかしだんだん探って見たところ、飛騨の方へ行ったということであった。
(これは一体どうしたことだ?)
 勘右衛門には意外であった。
 しかし、それから筋を手繰《たぐ》って、一層くわしく探ったところ、巫女《みこ》の千賀子も刑部老人と一緒に、飛騨の方へ行ったということであった。
 そこで勘右衛門は決心をして、飛騨の方へ追って行くことにした。
 その時勘右衛門は女房のお菊や、杉次郎や弁太を自分の前へ呼んで、こういう意味のことを話して聞かせた。
「お菊、お前は何にも知らないで、京助の手からあの大切な品を、刑部老人の元へやって、わずかばかりの金に換えようとしたし、杉次郎殿や弁太さんなどは、京助からあの品を取り戻そうとした私を、あんな塩梅《あんばい》に邪魔をしたが、それはいずれもあの品物の、素晴らしい価値を知らなかったからだ。私はお前さん達に正直に云うが、あの品物は今の私の家の、全財産よりも価値のあるものだ。それをお前達はよってたかって[#「よってたかって」に傍点]、私の手元からなくなしてしまった。……今になってはそれも仕方がない。で私はあれを取り返しに、飛騨の方へ旅をすることにした。お前さん達も一緒に行ってはどうか」
 こう云われてお菊や杉次郎達は、今さら自分達のやったことを、後悔せざるを得なかった。
 そうして彼らは勘右衛門と一緒に、その品物を取り返す旅に、出て行くことに決心した。
 とは云うもののお菊などは、飛騨というような山国などへは、こんな機会がなかろうものなら、生涯行っては見られないだろう。よい機会だから行ってみようという、そういう心理に動かされてはいた。
 また杉次郎は情婦のお菊が、旅に出かけて行くというので、別れるのが厭だという心持から、一緒に行く気になったのであり、弁太は弁太で行を共にしたら、うまい儲け口があるかもしれない。――そう思って行くことにしたのであった。
 勘右衛門にしてからが考えがあった。
(杉次郎や弁太はお菊をとり巻いて、よくないことをやっている。こいつらを江戸へ残して置いては、どんなことをやり出すか分らない。旅へ一緒に連れて出たところで、手助けにも何にもなりはしないが、江戸へ残して置くよりはいい)
 で、四人は旅へ出て、辿り辿ってこの曠野へまで、今や姿を現わしたのであった。
(本来あの品は二つある品だ。二つあると飛び離れた価値になる。刑部老人はその素性から、また商売の関係から、あの品物の二つあることを、心得ているに相違ない。その刑部老人が、飛騨の国へ来たのである。ではあるいは飛騨の国に、もう一つの品があるのかも知れない。それを得ようとして来たのかもしれない)
(そればかりか千賀子までも一緒に来たそうだ。千賀子に至ってはあの品物の、どういう品物であることか、どれだけの価値のあるものかを、自分の物のように知っているはずだ。その千賀子が刑部老人と一緒に、この飛騨の国へ来たのである。では、いよいよもう一つの品が、この国にあるものと見てよかろう)
 道々勘右衛門はこう思って、好奇心と興味と慾望とを起こし、自分こそ失った例の品と、そのもう一つの品物とを、手に入れようと希望したりした。
 こうして今や曠野まで来た。
 と、一方から大勢の者が、この四人の駕籠の方へ、群て歩いて来るのが見られた。
 白河戸郷の方角から、その大勢の者は来るのであった。

 洞窟の奥の神殿の前に佇んでいる男女があった。宮川茅野雄と浪江とであった。
 神殿の扉がひらかれていて――開いたのは茅野雄その人なのであったが――内陣のご神体が見えていた。
 六尺ぐらいの異国神の像で、左の一眼が鯖《さば》色の光を、燈明の火に反射させていた。
 それだのにどうだろう、右の一眼は、盲《めし》いたままになっているではないか。眼窩《がんか》は洞然《ほこらぜん》と開いているが、眼球が失われているのである。
 アラ神であるということは、多少とも回教を知っている人には、看取されたに相違《ちがい》ない。
 そのアラ神を囲んでいる厨子《ずし》が、宝石や貴金属や彫刻によって――アラビア風の彫刻によって――精巧に作られちりばめられてあり、厨子の前方燈明の燈《ひ》に――その燈明の皿も脚も、黄金で作られているのであったが――照らされているありさまは、神々《こうごう》しいものの限りであった。
 神殿は石段の上にあり、その石段もこの時代にあっては珍らしい大理石で作られていた。
 しかし建物は神殿ばかりではなく、神殿から云えば東北の辺りに、二棟の建物が建ててあった。いずれも導師が祈祷をしたり、読経を行なう所らしい。
 その中の一棟の建物の床から、泉が湧き出して流れてい、その流れの岸の辺りに、黒い色の石が据えてあった。
 が、もう一棟の建物の横には、三基の墳塋《はか》が立てられてあり、その前にも燈明が点《とも》されていた。
 茅野雄には解っていなかったが、それらの建物や墳塋や泉や、黒石などは回教の本山、亜剌比亜《アラビア》のメッカに建てられている、礼拝堂《ハラグ》に則《のっと》って作られたものであった。
 すなわち泉はザムであり、また黒石はアラオであり、墳塋は教主のマホメットと、その子と、弘教者《ぐきょうしゃ》のオメルとの墳塋で、回教の三尊の墳塋なのであった。
 そういう建物や墳塋を蔽うて、洞窟の壁と天井とがあったが、壁の面《おもて》にも天井にも、さまざまの彫刻が施こしてあり、いろいろの装飾が施こしてあった。
 そういう洞窟の一所に立って、茅野雄と浪江とは神像を眺め、言葉もなく黙っているのであった。
 幾人かの人間を切ったことなど、茅野雄の考えの中にはなかった。今にも覚明を初めとして、丹生川平の郷民達が、洞窟の扉を破壊して、ここへ無二無三に殺到して来て、自分達を討って取るだろうという、そういう不安さえ心になかった。
 奇怪と荘厳とを一緒にしたような、妙な気持に圧迫されて、押し黙っているばかりであった。
 と、浪江の囁く声がした。
「ご神体は贋物なのでございます。ご覧の通り一方の眼だけが、見ひらかれて鋭く輝いております。でももう一方の眼は潰れております。……父上は開いている一方の眼だけを、手に入れたばかりでございました。その一つの眼を基にして、あのご神体を作ったのでした」
「…………」
 茅野雄は返辞をしようともせず、その輝いている一眼へ、恍惚とした眼を注いでいた。
 茅野雄は自分の心持が、抑えても抑えても抑え切れないほどに、その一眼を手に入れたいという、慾望に誘惑されるのを感じた。
(あの眼の光に比べては、名誉も身分も財産も、生命までも劣って見える)
 茅野雄は深い溜息をしたが、誰かが背後から押したかのように、思わず前へ突き進んだ。
 いつか茅野雄は石段を上り、神殿の前に立っていた。
 と、茅野雄は腕を延ばしたが、グルグルと神像の首を捲いて、右手で刀の小柄《こづか》を抜くと、神像の眼をえぐりにかかった。
「あ、茅野雄様!」と恐怖に怯《おび》えた、浪江の声が聞こえて来た。しかし夢中の茅野雄の耳には、聞こえようとはしなかった。
 浪江はそういう茅野雄を見ながら、体をこわばらして佇んでいたが、うっちゃっては置けないと思ったからであろう、石段を茅野雄の方へ走り上った。
「あまりに勿体のうございます!」
 浪江は茅野雄の右の腕に縋《すが》った。
 が、すぐに振りほどかれた。しかし浪江は一所懸命に、再度茅野雄の腕に縋った。が、またも振りほどかれた。

超人

 しかしそういう夢中になっている、茅野雄の耳へ殺到して来る、大勢の足音や喚き声や、打ち物の烈しく触れ合う音が、聞こえてきたのは間もなくであった。
 そうしてその次の瞬間には、宮川覚明と郷民達とが、石段の下まで襲って来たのを迎え、神殿を背後に神像の前に、抜き身を中段に構えた茅野雄が、その足もとに仆れている浪江の、気絶をしている体を置いて、決死の姿で突っ立っていた。
 しかしその次の瞬間には、切りかかって来た郷民の二人を、石段の上へ切り仆した茅野雄の、物凄い姿が見受けられた。
 全く物凄いと云わざるを得ない。
 乱れた髪、返り血を浴びた衣裳、はだかった胸、むきだされた足、そうして構えている刀からは、鍔越《つばご》しに血がしたたっている。が、そういう茅野雄の肩の、真上にあたる背後《うしろ》の方から、例の神像の一眼が、空から下りて来た星かのように、鋭い光を放っているのが、わけても凄く見えなされた。
 しかもそういう茅野雄の前には、無数の郷民が打ち物を揃えて、隙があったら切り込もうと、ひしめき合っているのであった。
 そういう郷民達の群の中に、ひときわ背高く見えている、妖精じみた老人があったが、他ならぬ宮川覚明で、杖を頭上にかかげるようにすると、
「神殿の扉を無断で開け、アラ神を曝露した涜神の悪人、茅野雄は教法の大敵でござるぞ! 神も虐殺を嘉納なされよう! 何を汝《おのれ》ら躊躇しておるぞ! 一手は正面からかかって行け! 一手は左からかかって行け! そうして一手は右からかかれ!」と、狂信者特有の狂気じみた声で、荒々しく叫んで指揮をした。
 それに勇気をつけられたのであろう、三方から郷民達は襲いかかった。
 その結果行なわれたことと云えば、正面から襲って行った一手の勢が、茅野雄のために切り崩され、なだれるように下りたのに引かれて、茅野雄も下へ下りた隙に、左右から襲って行った二手の勢が、段上を占めたことであった。
 下へ下りた茅野雄を引っ包んで、郷民達の渦巻いている姿が、こうしてその次には見受け[#「見受け」は底本では「身受け」]られたが、しかしその次の瞬間には、渦巻が左右に割れていた。
 と、その割れ目を一散に走って、黒石《アラオ》の方へ行く者があり、やがて黒石の上へ、片足を掛けて休んだ者が見られた。
 数人の郷民を切り斃して、そこまで行った茅野雄であった。
「黒石を土足で穢した逆賊!」
 すぐに覚明の喚く声がした。
「躊躇する汝らも逆賊であろうぞ!」
 またも茅野雄を取り囲んで、人間の渦が渦巻き返った。
 しかしその次には全く意外の、驚くべき事件が演ぜられた。
 老人の声ではあったけれど、底力のある威厳のある声で、
「極東のカリフ様がおいでなされたぞ! 謹んでお迎えなさるがよろしい!」
 つづいて威厳と清浄と、神々しさと備えたような声が、若さをもって聞こえてきた。
「覚明殿、殺生はお止めなされ!」
 一同の者は声の来た方を見た。
 一ツ橋|慶正《よしまさ》卿の高朗とした姿が、老将軍のような碩寿《せきじゅ》翁を連れて、此方《こなた》へ歩いて来るのが見られた。
 大森林の中で野馬を捕らえ、丹生川平へ駛《はし》らせて来た、慶正卿と碩寿翁とが、この時到着したのであった。
 超人《スーパーマン》には常人などの、及びもつかない神性がある。駕籠に乗って歩かせていたばかりで、碩寿翁ほどの人物を、目的の長崎へやろうとはせず、飛騨の地へ来させてしまったことなどは、神性のしからしむるところであり、茅野雄と浪江との恐ろしい危難を、洞察したのもそれであり、飛騨の地に回教を密修している、二つの郷のあることと、回教にとって重大の価値ある、ある「何か」が多くの人の、さまざまの手を通したあげく、この飛騨の地で「あるべき所へ帰る」――そういうことを洞察して、そうしてこの地へ出て来たことも、神性のしからしむるところであった。
 いやいやむしろこの飛騨の地で、従来散失していたものを、一所に集めようと心掛けて、その神性を働かせて、それに関係ある一切の人を、この地へ集めたと云った方が、中《あた》っているように思われる。
 そういう超人の慶正卿であった。
 その神々しい風采は狂信者の覚明や郷民達をさえ、恭謙の心へ導いてしまった。
 で、にわかに洞窟の内は、静粛となり平和となった。
 と、そういう洞窟の内を、一応見廻した慶正卿は、神殿の方へゆるゆると進んだ。
 右手を前へ差し出している。その掌《てのひら》から鯖色[#「鯖色」は底本では「錆色」]の光が、矢のように鋭く、射し出ていたが、その光は神像の一眼の光と、全く同じものであった。
 碩寿翁の持っていた小箱の中の物品! それと全く同じ物で、碩寿翁から慶正卿が、横取ったものに相違ない。
 石段を上ると慶正卿は、敬虔に神像の前に立ち、右手を神像の方へ差し出したが、ややあって神像から立ち離れ、神殿の横手へ佇んだ。
 片眼であった神像の眼が、二つながら今は明いている。例の鯖色の素晴らしい光が、両眼から燦然と輝いている。
 と、歓喜の高い声が、洞窟の内へ響き渡った。これは覚明を初めとして、集まっていたほどの郷民が、両眼を備えた神像に対して、思わず上げた歓声なのであった。
 しかしこの時意外の意外として、洞窟の外とも思われる辺りから、素晴らしく高い大勢の讃歌の声が聞こえてきた。

 ここは洞窟の外である。
 六尺ぐらいのアラ神の像を、神輿《しんよ》に舁《か》きのせた数百の男女が、洞窟の入り口に屯《たむろ》していた。
 数人の武士がその中にいたが、何と高手小手に縛られているではないか。醍醐弦四郎とその部下とであった。
 そうして群衆は白河戸郷の、郷民達に他ならなかった。
 その証拠には群衆の中に、以前に宮川茅野雄へ向かって、道を教えたことのある、また、同じ宮川茅野雄を、暗夜に襲って殺戮しようとした、老樵夫《ろうそま》のような人物が――もっとも今は威厳と信仰とを、具現したような風采をしている――白河戸|将監《しょうげん》その人が、娘の小枝《さえだ》を側《そば》に立たせ、自身も神輿の横に立って、郷民達と讃歌をうたっていた。
 見れば大勢の郷民の中に、巫女《みこ》の千賀子も雑《まじ》っていれば、刑部《おさかべ》老人も雑っており、松倉屋勘右衛門も雑っていれば、杉次郎も弁太もお菊なども、同じように雑っていた。
 一ツ橋慶正卿の言葉に従い、まず将監は白河戸郷の山岳宗教境を破壊した上、千賀子の元から奪い取り白河戸郷の神体としたアラ神の像を神輿に納め、「神像の完璧」を行なうために丹生川平へ進んで行こうとした時、醍醐弦四郎とその部下とが白河戸郷へ入り込んで来て小枝を奪い取ろうとしたのですぐに捕らえて縛り上げ、道々勘右衛門の一行と千賀子と刑部老人とを収容してここまで来たのであった。
 勿論彼らは丹生川平と、戦いをするために来たのではなくて、和睦《わぼく》するために来たのであった。
 やがて彼らの一団は、洞窟の入り口から中へ進み、間もなく神殿の前まで来た。
 行なわれたことは何であったか?
 この物語に関係のある、一切の人物と物品とが、一所に揃ったことであった。

 もうこれで物語は終えたと云ってよかろう。が、しかしながら極めて簡単に、――スチブンソンの「ニュウアラビヤンナイト」式に、説明を加える方がよいとならば、説明をすることにしよう。
(一)大金剛石を両眼に持った、アラ神の像は千賀子のもとに代々伝わっていたものであったが、その一眼を覚明が奪い、他の一眼を何らかの手段で、松倉屋勘右衛門が手中に入れ、神像その物は白河戸将監が奪い、各々《めいめい》勝手に保存した結果が、事件の基となったのであった。
(二)一ツ橋慶正卿が回教における、カリフの尊号を得たことについては、作者の調べた文献の中に、その詳細がないところから、ここで説明することは出来ない。
(三)大金剛石の両眼は、白河戸郷から持ち来たされた、真のアラ神の眼窩の中へ、あらためて納められたということであるが、そのアラ神は慶正卿の意見――メッカへ返せという意見のままに、遥々《はるばる》亜剌比亜《アラビア》へ送り返されたとも、元の持主の千賀子のもとで、保存されたとも云われている。
(四)丹生川平と白河戸郷とが、和睦したことは云うまでもないが、「山岳の奥にとじこもって、密修をするよりも都会へ出て、市井の間に布教した方が、宗教として効果がある」という、慶正卿の意見に従い、二郷の人達が江戸へ出て、千賀子を昔通り教主に立て、回教|弘通《ぐずう》に努力したと、こう文献に記されてあるが、詳細のことは作者も知らない。
(五)醍醐弦四郎はその以前に、長崎辺りにゴロツイていた、某大名の浪人であったが、この出来事のあった頃には、浪人組の頭《かしら》として、強請《ゆす》りや盗賊《ものとり》もしていたそうで、悪人には相違なかったが、物解りのよい男だったので、慶正卿に許されて、放逐されたということである。
(六)松倉屋勘右衛門はお菊を離縁し、真面目な大商人に帰ったそうな。
 ではお菊や杉次郎や、弁太などの連中はどうしたか?
 いや物語の傍流にいる、こういう人達の運命にまで、立ち入って語るのは無駄なことで、勝れた作家のやることではない。――だからうっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]置くことにしよう。

 それから数カ月経った時であった。
 慶正卿の館の奥で、慶正卿と碩寿翁とが長閑《のどか》そうに話していた。
「どうだ碩寿翁、感ずるところがあったか?」
「はい、何でございますか?」
「もちろん今回の事件でだよ」
「はい、一つだけございました。……大金剛石の光を見た時、名誉も身分も財産も、生命《いのち》もいらないと思いましたことで」
「どういうところからそう思ったかな?」
「ただ、そんなように思ったまでで。……つまり、思うに、あの光が、私の良心を眩ましたもののようで」
「その答えは俺《わし》には気に入った」
 慶正卿は意を得たように云った。
「ああいう素晴らしい品物だから、売ったら大金になるだろう――と云うそういう心持から、誘惑されたのでなさそうだからな」
「はい、その通りでございます。理由は無く誘惑されましたので」
「それはこういうことになるのだ。大金剛石のあの光は、『美』その物の最上的具現で、芸術的であったので、それで誘惑されたのだと。……金銭の事に関しても、勿論人は罪悪を犯す。が、そのための罪悪は、俗で非芸術的で不愉快だ。……ところで人間というものは、『美』のためにも罪悪を犯す。この方の罪悪は芸術的だ。……そこでこういうことが云われる。完全の美とか最大級の美とかは、阿片のように罪なものだ。と」
 その時一人のお小姓が、恭しく天目《てんもく》を捧げながら、襖をあけて入って来た。
 小姓を見ると碩寿翁は「おやッ」とばかりに声を上げた。
 と、すぐに一人の小間使いが、菓子盆を恭しく持って来て、二人の間へしとやかに置いた。
「碩寿翁」と笑いながら慶正卿が云った。
「京助はあの通りピンピンしている。今は俺《わし》の小姓になっている。……菓子を持って来た小間使いには、お前は覚えはなかろうが、声には覚えがあるはずだ。……お前が京助を殺そうとした時、一軒のみすぼらしい家《うち》の中で、俺と話していた娘なのだ。……今、あの二人は夫婦になっている。夫婦にしたのはこの俺さ。……が、俺はもう二人の男女を、ほんの最近に夫婦にしてやった」
 そういう言葉の終えない内に、小姓の京助が再度あらわれて、慶正卿に囁いた。
「待っていたのだ、通すがよい」
 間もなく部屋へ入って来たのは、宮川茅野雄と浪江とであった。浪江は丸髷に結っていた。
 つづいてもう一人の若く美しい、無邪気らしい乙女が入って来た。
 将監の娘の小枝《さえだ》であった。
 ――が、俺はもう二人の男女を、ほんの最近に夫婦にしてやったと、慶正卿の云った男女が、この茅野雄と浪江なのであった。
 そうして小枝と茅野雄夫婦とは、いずれも仲のよい友達であり、三人ながら慶正卿の館へ、伺候することを許されている、そういう身の上になっていた。
「何か珍らしい話はないか?」
 慶正卿が三人へ訊いた。
 と、小枝があどけなく云った。
「刑部老人の蒐集室へ参り、このような物を買うて参りました」
 取り出して見せたのは宝玉をちりばめた、美しい異国風の簪《かんざし》であった。
 慶正卿はとりあげたが、
「碩寿翁、これを値踏みしてごらん」
 こう云って笑って簪を渡した。
 と、碩寿翁は苦笑をしたが、
「どうやら依然としてあの老人は、贋物を売っておりますようで。……この宝玉は硝子《ガラス》のかけら[#「かけら」に傍点]で」
「さようさよう硝子のかけら[#「かけら」に傍点]だ」
 で、二人は哄笑した。
 これで刑部という老人が、例の屋敷で勿体らしく、贋物の古物や異国産の品を、売っているということが読者諸君にも、諒解されたことと思う。
 これで書くことはないはずである。
 では大団円とすることにしよう。
 が、しかし一言云いたいことがある。
 それは茅野雄の心持のことで、彼はこのように思っていた。
「千賀子という巫女《みこ》が俺を占い、『山岳へおいでなさいまし、何か得られるでございましょう』と、こんなようにあの晩云ってくれたが、その何かは浪江のことだった。……あの晩以来生死の境いを、卍巴と駈け巡ったが、しかし浪江を手に入れたのだから、無駄であったとは云われない」

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻四」未知谷
   1993(平成5)年5月20日初版発行
初出:「雄弁」
   1928(昭和3)年9月~1929(昭和4)年8月連載
※「露路」と「露地」の混在は底本通りにしました。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年1月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

正雪の遺書—— 国枝史郎


 丸橋忠弥《まるばしちゅうや》召捕りのために、時の町奉行|石谷左近将監《いしがやさこんしょうげん》が与力同心三百人を率いて彼の邸へ向かったのは、慶安四年七月二十二日の丑刻《うしのこく》を過ぎた頃であった。
 染帷《そめかたびら》に鞣革《なめしがわ》の襷、伯耆安綱《ほうきやすつな》の大刀を帯び、天九郎《てんくろう》勝長の槍を執って、忠弥はひとしきり防いだが、不意を襲われたことではあり組織立った攻め手に叶うべくもなく、少時《しばらく》の後には縛に就いた。
 この夜しかも同じ時刻に、旗本近藤|石見守《いわみのかみ》は、本郷妻恋坂の坂の上に軍学の道場を構えている柴田三郎兵衛の宅へ押し寄せた。
 彼等の巨魁由井正雪は、既に駿府へ発した後で、牛込榎町の留守宅には佐原重兵衛が籠もっていたが、ここへ取り詰めたのは堀|豊前守《ぶぜんのかみ》で、同勢は二百五十人であった。しかし三郎兵衛も重兵衛も忠弥ほど迂闊ではなかったと見えて、捕り方に先立って逐電したが、徳川も既に四代となり法令四方に行き渡り、身を隠すべき隈《くま》も無かったか、間もなく二人とも宣《なの》り出て、忠弥[#「忠弥」は底本では「中弥」]等と一緒に刑を受けた。京都へ乗り込んだ加藤市左衛門も、大阪方の大将たる金井半兵衛も吉田初右衛門も、それぞれその土地の司直の手で、多少の波瀾の後で捕らえられた。
 こうして正雪一味の徒はほとんど一網打尽の体《てい》で、一人残らず捕らえられたが、その捕らえ方の迅速なるは洵《まこと》に電光石火ともいうべく真に目覚しいものであって、これを指揮した松平伊豆守は、諸人賞讃の的となった。
「さすがは智慧伊豆。至極の働き」
 容易のことでは人を褒めない水府お館さえこういって信綱の遣り口を認めたのであった。
 しかるにここに不思議な事には、反徒の頭目由井正雪を駿府の旅宿で縛《から》めようとした時だけは、幕府有司のその神速振りが妙にこじれて精彩がなかった。江戸から発せられた早打が駿府の城へ着いてから、今日の時間にして四時間余というもの、全く無為に費やされたのであった。
 不思議といえば不思議のことで、当時にあっても問題とされたが、しかし正雪は自殺したし、その他随身一同の者もあるいは捕らえられ又は殺され、そうでない者は自殺して、取り逃がした者は一人も無かったので、事はうやむやの間に葬られてしまった。

 駿府から発した早打が、江戸柳営に届いたのは、ちょうど暮六つの頃であった。
 折から松平伊豆守は、老中部屋に詰めていたが、正雪自殺の報知《しらせ》を聞くと、
「それは真実《まこと》か?」と言葉|忙《せわ》しく、驚いたように訊き返した。
 彼にはそれが信じられなかったらしい。引き続いて幾個《いくつ》かの早打が、千代田の門を潜ったが、その齎《もた》らせた報知というはいずれも正雪の自殺したことで、それに関しては最早一点の疑いの余地さえ存しなかった。
「天下のおため、お目出度うござる」
 伊豆守はそれを確かめると、同席の人達へこう挨拶して、その儘役宅へ帰って来た。
 屋敷へ帰っても伊豆守は、支度を取ろうともしなかった。端座したまま考えている。腑に落ちないことでもあるのだろう。
 夜は深々と更けて行く。夜番の鳴らす拍子木の音が、屋敷を巡って聞こえるのさえ、今夜は沁々《しみじみ》と身に浸る。戸の隙からでもまぎれ込んだのであろう、大形の蚊が輪を描きながら燈皿の周囲《まわり》を廻っていたが、ふと焔先に嘗められて畳の上へ転び落ちた。
 その時人の気勢《けはい》がしたが、静かに襖が開けられて、公用人の志摩の顔が開けられた隙から現われた。
「何じゃ?」と、伊豆守は物憂そうに訊く。
「は」と志摩は恐る恐る、
「只今、僧形の怪しい男、是非とも御前にお目通り致し申し上げたき事ござる由にて御門口迄罷り出でましたる故、きっと叱り懲らしましたる所……」
「解《わか》った」と、何か伊豆守には思い当たることでもあると見えて、いつになく早速に聞き届けた。
「その者庭前に差し廻すよう」
「は」と志摩は額を摺り付け、襖を閉じると立ち去って行った。
 間もなく一人の大入道が、袂下《たもとさげ》にされて引き出された。生々しい焼傷が顔を蔽うて目口さえろくろく見分けが付かない。墨染の法衣《ころも》は千切れ穢れてむさい臭気さえ漂って来る。
 伊豆守は故意《わざ》と人を遠ざけ、親しく縁へ出て差し向かった。
 虫の鳴く音が雨のように、草叢の中から聞こえてくる。音らしいものと云えばそれだけである。
 と、その僧は手を上げて法衣の襟をほころばせたが、そこから紙片を取り出した。そして無言で手を延ばして、その紙片を縁の上へそっと大事そうに置いたのである。


 その紙片こそは由井正雪が臨終に際して書きのこしたところの世にも珍らしい遺書《かきおき》なのであって、慶安謀叛の真相と正雪の真価とを知りたい人には無くてならない好史料なのである。
 私がそれを手に入れたのはほんの偶然のことからであって、意識して求めた結果ではない。しかし私がその遺書のある肝心の部分だけを解り易い現代語に書き直して発表するということには多少の意味がある意《つもり》である。
 とはいえ私は説明はしまい。意味を汲み取るのは読者の領分で私は記載するばかりである。

   ――以下正雪の遺書――

(前略)……老中松平伊豆守様。貴方《あなた》はきっと驚かれるでしょう。それが私には眼に見えるようです。貴方は恐らくこう仰有《おっしゃ》るでしょう。
「なに正雪が自殺したと? そうしてそれは真実《ほんと》かな?」と。
 ――そうです、それは真実なのです。私はこれから自殺いたします。私の首を討ち落とそうと、覚善坊はもう先刻《さっき》から長光の太刀を引き着けて私の様子を窺っています。
 私の心は今静かです。実に限りなく静かです。顕文紗《けんもんしゃ》の十徳に薄紫の法眼袴。切下髪《きりさげがみ》にはたった今櫛の歯を入れたばかりです。平素《いつも》と少しの変わりもない扮装《よそおい》をして居るのでした。私の周囲《まわり》を取り囲んで十三人の同志の者が声も立てずズラリと居流れて居ます。戸次《へつぎ》与左衛門、四宮《しのみや》隼人、永井兵左衛門、坪内作馬、石橋源右衛門、鵜野九郎右衛門、桜井三右衛門、有竹作左衛門、これらの輩は一味の中でもいずれも一方の大将株で、胆力の据わった者どもでしたから、こういう一期の大事に際しても顔色ひとつ変えてもいません。一同の介錯を引受けた僧覚善に至っては、阿修羅のような顔をして、じっと聴耳を澄ましています。そして時々思い出したように、口の中でこんなことを唱えています。
「生死流転《しょうしるてん》、如心車鑠《にょしんしゃしゃく》、五百縁生《ごひゃくえんしょう》、皆是悪逆《かいぜあくぎゃく》、頓生菩提《とんしょうぼだい》」
 町奉行落合小平太殿、御加番《ごかばん》松平山城守殿、お二方の手に率いられた六百人の捕り方衆は、もう先刻から私共の旅宿、梅屋勘兵衛方を追っ取り巻き、時々鬨の声をあげるのが手に取るように聞こえてきますが、左右無く踏み込んでも参らぬ気勢《けはい》に、私共は心を落ちつかせ静かな最期を遂げようと差し控えて居るのでございます。
 そうして私は貴郎《あなた》宛のこの遺書を認めて居るのです。
 先程奉行所から、手付与力の田中万右衛門殿と小林三八郎殿とが、
「当家宿泊の由井正雪殿に少しく尋ねたき仔細ござれば奉行所まで同道致すように」
 と、旅宿の門まで参られましたが、私は「病気」の故を以って堅くお断わり致しました。貴郎はこれをお聞きになったらさぞ御不審に思われましょう。
「それが最初からの手筈ではなかったか。何故正雪は断わったのであろう?」
 こう仰せられるに相違ありません。いかにもそれは貴郎と私との二人の間に取り決められた手筈であったことは確かです。
 二人の与力に守られて、私は奉行所へ罷り越す。と直ぐ貴郎のご保護の下に、多分のお手当てを頂戴した上、ある方面へ身を隠す。しかし私の一味徒党だけは、一人残らず召捕られる。
 ――というのが段取りでございました。
 しかるにそういう手筈を狂わせ、そういう段取りに背いたばかりか、死なずともよい自分の身を自分から刄で突裂くとは何という愚かな仕打ちであろう。こう貴郎の仰せられることも十分私には解って居ります。
 解っていながら愚かな行為を敢えて行なうという以上は、行なうだけの何等かの理由が、そこになければならない話です。それで私はその理由を、ここで披瀝いたしまして、貴意を得る次第でございます。
 さて、私の追想は、江戸牛込榎町に道場を開いたその時分に、立ち返らなければなりません。山気の多い私にとっては万事万端浮世の事は大風呂敷を拡げるに限る、これが最良の処世法だと、この様に思われたものですから、道場に掛けた看板も、
[#ここから3字下げ]
由井民部之助橘正雪張孔堂《ゆいみんぶのすけたちばなのしょうせつちょうこうどう》、十能六芸|伊尹《いいん》両道、仰げば天文俯せば地理、武芸十八般何流に拘らず他流試合勝手たる可《べ》き事、但《ただ》し真剣勝負仕る可き者也
[#ここで字下げ終わり]
 こういったようなものでした。果たして私の思惑通り、この大風呂敷が図に当たり、予想にも優《ま》した大繁盛が訪ずれて来たのでございます。諸大名方へのお出入りも出来、内弟子外弟子ひっ包《くる》めると、およそ千人の門弟が瞬間《またたくま》に出来上ってしまいました。
「何と世の中は甘いものであろう」
 この時の私の気持といえば、ざっとこんなものでございました。


 とはいえさすがのこの私も、貴郎《あなた》から差し紙を戴いた時には、思わず呼吸《いき》を呑みました。
「これは少しくやり過ぎたな」
 咄嗟にこのように思いました。
「処士の身分で華美《きらびやか》な振舞、世の縄墨を乱す者とあって、軽く追放重くて流罪、遁れ了《おお》すことはよもなるまい」
 それで私は心|竊《ひそ》かに覚悟を定《き》めたのでございます。そうして当日は、乗物をも用いず辰の口のお役宅まで、お伺いしたのでございました。
 するとどうでしょう、お取次の人がさも鄭重に案内して、質素ではあるがいとも結構なお座敷へ、通されたではございませんか。それからお菓子、それからお茶――お客人としての待遇を致されたではございませんか。
「はてな?」と私は考えました。
「皮肉か? それともお戯むれか? しかしかりそめにも天下のご老中! 左様なことはよもあるまい。深い仔細のある事かも知れぬ」
 ――こう思わざるを得ませんでした。
 やがて傍らの襖が開いて姿を現わされたのは貴郎でした。
「由井殿ようこそ参られたの」
 立ったままこの様に声を掛けられ、双方の間三尺を距てず、ピタリとお坐りになられた時には、いよいよ驚いてしまいました。
「今日は公の会見ではのうて、平の松平信綱と正雪殿との懇談じゃと、斯様《こう》思召《おぼしめ》し下されい……さてそこでご貴殿のご器量と、ご名声とにお縋りしてお頼み致したい一儀がござるが、お聞き届け下されようや? ――と藪から棒に申してはご返答にもお困りであろうが、余の儀ではござらぬ、謀叛遊ばされい!」
「え?」と私は眼を上げて、貴郎のお顔を見詰めたはずです。
「徳川幕府に弓引かれいと、信綱お進め申すのじゃ。いや驚くには及び申さぬ。勿論これは奇道でござって正道はその裏にござるのじゃ! ――徳川も今は三代となり平和の瑞気|充々《みちみち》て見ゆれど、遠くは豊臣の残党や近くは天草の兇徒の名残り、又はご当家の御代となって取り潰された加藤、福島の、遺臣の輩《ともがら》、徳川家を怨んで乗ずべき隙もあれかしと虚を狙っているに相違ござらぬ。一網打尽に致したけれど罪を犯さねばそれもならぬ。頼みというのはここのことでござる。貴殿の勝れた才覚をもってこれらの者共を糾合して、事を起こしては下さるまいか」
 つまり私に徳川幕府の細作《かんじゃ》になれと云われるのでした。当代の政治《しおき》に順服《まつろ》わぬ徒輩《とはい》を一気に殲滅《ほろぼ》す下拵えを私にせよというのでした。
 私は当惑する前に知己の恩に感じたのでございます。私のような一|布衣《ほい》を限りなくお信じなされればこそ、この一大事をお任せ下さるのだ。自分は幕府に対しても、又徳川家に対しても、何等恩怨ある者ではない。ただ士は己を知る者のために死す。一つ大いに頼まれようと、決心したのでございました。
 お受けして帰ったその後の私は、益々辺幅を修めました。一層門戸を張りました。すると道場は、それに連れて繁昌するではございませんか。まもなく門弟三千人と註されるようになりました。一万石以上の大名|生活《ぐらし》! それが私の生活でした。そういう生活をしている間も、私は隙無く目を配って、これはと思われる武士に対して、あるいは武芸で嚇し付け又は弁論で胆を奪い配下に附けることを忘れませんでした。集まって来た一味の中には、毛色の変わった人間も、幾人か見えて居りました。
 一貫弾の大砲を抱え打ちにする牧野兵庫――紀伊家のご家臣でございます。降雨晴天自由自在、天文に秀でた秦野式部……これらは分けても、党中にあっても異色のある者達でございます。この他奥村八右衛門をもって訴人致させましたその際に、お手許に迄差し出したはずの連判状に記されてある頭立ったる数十名の者は、いずれもそれぞれ何等かの方面の達人なのでございます。
 しかし、徳川の社稷《しゃしょく》に向かって鼎《かなえ》を上げようとするような者は、ほとんど一人もないということは確かな事実でございます。即ち一方の旗頭たる者は、済々として多士ではございますが、将帥の器を備えている者は、全然皆無なのでございます。正雪、鈍才ではございますが、この徒と肩を並べた時だけは、やはり采配を握る者は自分を措いて他にないということを、感じさせられるのでございます。それか有らぬかこれらの者は、ちょうど慈父でも慕うように、私を慕うのでございました。
 慕われるというこの苦痛! 慕われるというこの快感! この感情こそは、私を駆って私に貴郎を裏切らせ、私の生命を同志の者に投げ与えさせたのでございます。


 寛永十三年十一月、七十五名の頭立った者が血判を据えた謀叛の趣意書を私の前へ突き付けて、私に謀叛を勧めました。頭目になるようにというのでした。彼等をしてこの様にいわしめたのはやはり私でございましたが、いよいよ彼等にこう出られて見ると、気の毒に思わざるを得ませんでした。
「俺を幕府の細作《かんじゃ》とも知らず、俺の詭計に引っかかるとは思えば気の毒な連中ではある」
 惻隠の情とでもいうのでしょうか、こういう感情が湧くと一緒に自己|譴責《けんせき》の心持も、起こらない訳にはいきませんでした。
 爾来私は彼等を相手に、所謂る謀叛の旗上げの準備に取りかかったのでございます。
 私は彼等に云いました――
「先ず其《それがし》の方寸としては最初江戸にて事を起こし漸次駿府大阪京都と火の手を挙ぐるがよろしかろう。また甲斐国甲府の城は要害堅固にして征むるに難い。しかし某の兵法をもってすれば陥落《おとしい》れることも容易である。一手は下野《しもつけ》日光山に立籠もることも肝要でござろう。華麗を極めた東照宮を焼き立てるのも一興じゃ」
 それから私はなお細々と、策戦について語りました。
「江戸は本丸西丸の、両丸に兵燹《へいせん》を掛けねばならぬ。機を見て城中へ兵を進め新将軍を奪取する。又京都は二条の城及び内裏へも火を放ち、勿体至極もないことながら、帝の遷幸を乞い奉れば公卿《くげ》百官は草の如くに必ず伏し靡くに相違ござらぬ……」
 こう云って説いて行く中に私はふっとこんな事を心の隅で思いました。
「この従順な勇士達を、手足のように使い砕《こな》し、ほんとに自分が徳川家に対して、不軌を計ったとしたならばどういう結果になるであろう? 三月、いやいや二月でもよい、二月の間幕府の軍を、支えることは出来ないであろうか? 二月幕兵を防ぎ得たとしたら、四国九州に残っている、豊臣恩顧の大名達が、旗を動かさないものでもない。それらの大名と呼応したならば面白い賭博《ばくち》が打てるかもしれない」
 私は一種の武者振いを禁ずることが出来ませんでした。
「しかし」と直ぐに思い返しました。
 乱を起こすことはいと容易《やす》い。防ぎ戦うことも出来るかもしれない。しかし然諾《ぜんだく》をどうしよう? 知己のご恩をどうしよう? ……この大任を委ねて下された貴郎に対する知己の恩! その大任をお引き受けした貴郎に向かっての私の然諾! この信と義とをどうしよう? これは滅多には棄てられない! それではやはり一味徒党を貴郎に内通した上で、私だけ党中から遁れようか? それにしては彼等が私を信じ私を敬い私を慕うこの感情をどうしよう? 彼も棄てられず是も背かれぬ。ここまで考えて来ました時に忽然と胸中に浮かびましたものは、自殺ということでございました。一死もって党内に酬い、一死もって然諾を全うしよう! こう考えたのでございます。
 一旦決心が付いてからは、私の心は豁然と開け一切の煩悶はなくなりました。仕事も捗取《はかど》って行きました。
 こうして私は江戸を立って駿府へ参ったのでございます。駿府の町を焼打に掛け、駿府の城を乗っ取るというのが、表向きの私の意見でしたが、その実そこで心静かに自殺する意《つもり》なのでございました。
 今や旅宿は捕り方によって、十重二十重に囲まれて居ります。容易に踏み込んで来られますのに、それを来ないというものは、私一人を逃がせよという貴郎からの内命があったからでしょう。
 しかし私は逃げません。同志と一緒に自殺します。
 同志の者は今も私を限りなく信じて居るのです。
 今回の露見に関しても、私が奥村八右衛門をして訴人させたとは夢にも知らず、忠弥の粗忽の結果であろうと勝手に定めて居る程です。
 そして恐らく私の遺書《かきおき》を、貴郎が発表なさらぬ限りは慶安謀叛の真相とその発覚の顛末については、多くの後世の史家達も首を捻ることでございましょう。
 待ち飽ぐんだものと見えまして、捕り方衆の立ち騒ぐ声が表や裏から聞こえてきます。踏み込んで参るのももう直ぐでしょう。いよいよ死ぬ期《とき》が参りました。もうこの遺書を書きつづける間《ひま》も、たくさんはあるまいと存ぜられます。
 遺書は覚善に託します。私を初め同志の者を悉く介錯した後で、単身囲みを突き破って必ず遺書はお届けすると、彼は大変意気込んで居ります。
 いよいよ踏み込んで参りました。乱れた跫音が聞こえて参ります。しかし早速にはこの部屋へは入って来ることはなりますまい。鴨居から鴨居へ麻縄を張り渡してあるからでございます。
 今生の名残りに壁の面《おもて》へ辞世を書くことに致します。
「翼の調わざるものは高く飛ぶ能《あた》わず。四足の未だ整わざるものは遠く行く事能わず。整えども、高く飛び遠く行くこと能わざるはこれ天なりとして止まん。己《おのれ》天下に深き恨み無しと雖《いえど》も慈父の憤りを継げるのみ。更に黄金《こがね》の鞭を取り銀《しろがね》の鞍に跨がり鼎《かなえ》を連ねて遇わんとするに非ず、いでや事成れば天が下の君とはなれずとも一国の主たらんとの古《いにしえ》の人の言葉慕うにたえたり」
 みんな出鱈目でございます。私の本当の心持といえば板挟みになった苦しまぎれに同志の者達と心中をする――つまりこれなのでございます。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻五」未知谷
   1993(平成5)年7月20日初版
初出:「サンデー毎日」
   1924(大正13)年4月1日春季特別号
※「大刀」と「太刀」の混在は、底本通りです。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年6月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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国枝史郎

神秘昆虫館—– 国枝史郎

        一

「お侍様というものは……」女役者の阪東|小篠《こしの》は、微妙に笑って云ったものである。「お強くなければなりません」
「俺は随分強いつもりだ」こう答えたのは一式小一郎で、年は二十三で、鐘巻流《かねまきりゅう》の名手であり、父は田安家《たやすけ》の家臣として、重望のある清左衛門であった。しかし小一郎は仕官していない。束縛されるのが厭だからで、放浪性の持ち主なのである。秀でた眉、ムッと高い鼻、眼尻がピンと切れ上がり、一脈剣気が漂っているが、物騒というところまでは行っていない。中肉中|丈《ぜい》、白色である。そうして性質は明るくて皮肉。
「どんなにあなたがお強くても、人を切ったことはございますまい」阪東小篠は云い出した。
「泰平の御世《みよ》だ、人など切れるか」
「では解らないではございませんか。……はたしてお強いかお弱いか?」
「鐘巻流では皆伝だよ。年二十三で皆伝になる、まあまあよほど強い方さ」一式小一郎は唇を刎《は》ね、ニヤニヤ笑ったものである。
「お侍様というものは、お強くなければいけません」
「だからさ、強いと云っているではないか」
「ねえ、あなた」と阪東小篠は、そそのかす[#「そそのかす」に傍点]ように云い出した。
「一度でも人をお切りになった方は、度胸が決まると申しますねえ」
「どうやらそんな話だな」
「お侍様というものは、度胸がなければいけませんねえ」
「云うまでもないよ」と小一郎は笑止らしく横を向いた。
「あなたに度胸がありますかしら?」
「あるともあるとも大ありだ」
「人を切ったこともない癖に」
「小篠!」と云うと小一郎は、ちょっと睨むように相手を見た。「何か目算がありそうだな」
「何んの何んのどう致しまして」小篠は例によって笑ったが、微妙な笑いであると共に、吸血鬼《バンパイヤ》的の笑いでもあった。「ねえ、あなた、ただ妾《わたし》はこう云いたいのでございますよ。――すべて女というものは、男が度胸を見せた時、すぐ飛びかかって行くものだとねえ」
「うむ、惚れるということか?」
「はいはいさようでございます」
「なるほど」と云ったが小一郎は、いくらか物憂そうに考え込んだ。と、話題をヒョイと変えた。
「それはそうとオイ小篠、南部集五郎はやって来るのかな?」
「よくお呼びしてくださいます」
「あいつも根気がいい方だなあ」
「ホッホッホッホッ、あなたのように」
「そうさ、俺だって根気はいいよ。……ところで小篠、どっちが好きだな?」
「南部様もそんなことをおっしゃいました。――一式|氏《うじ》とこの拙者と、どっちにお前は惚れているかなどと」
「で、どっちに惚れているのだ?」
「どっちがお強うございましょう?」
「ふふん、それでは強い方へ、お前はなびく[#「なびく」に傍点]というのだな?」
「そんな見当でございます」小篠は妖艶にニッコリとした。
「そうか」
 と云うと一式小一郎は、ズイとばかりに立ち上がった。「小篠、それではまた会おう」
「もうお帰りでございますか」
「うん」
 と云うと部屋を出た。
 ここは深川の、桔梗《ききょう》茶屋の、その奥まった一室である。一人になった阪東小篠は、心の中で呟いた。
「南部さんにも云ったものさ。人一人お切りなさいましと。……妾《わたし》のためにお侍さんが、罪もない人間を叩っ切る! ああどんなにいいだろう! そこまで妾に惚れてくれなければ妾の方だって惚れてはやらない。お二人の中でサアどっちが、希望《のぞみ》を叶えてくれるかしら? いい見物だよ、待っていよう」

 桔梗茶屋を出た小一郎は、考えながら歩いて行く。
「小篠という女、俺は好きだ。美しい上に惨酷性がある。完全な女というものさ。惨酷性のない女なんか、女ではなくて雌だからなあ。……それにしても随分|手強《てごわ》い女だ。俺は半年も呼びつづけたかしら? それで未だにうんと云わない。……その上とうとう本性を現わし、人を切れなどと云い出してしまった。……いかにあいつのためとは云え、罪もない人間は切れないなあ。……そう云っても人を切らなければ、手に入れることは出来ないだろう。……そうしてまごまごしている中に、あの恋仇の南部奴に、かっ[#「かっ」に傍点]攫われまいものでもない。こいつだけはいかにも残念だなあ。……それはそうとここはどこだ?」
 四辺《あたり》を見廻わすと小梅田圃で、極月十日の星月夜の中に、藪や林が立っている。

        

「これは驚いた」と小一郎は、思わず足をピタリと止めた。
「いかに考えて歩いたとはいえ、小梅田圃へ出ようとは! こいつ狐につままれたかな?」
 いやそうでもなさそうである。
「寒い寒い、急いで帰ろう」歩き出したがまた考えた。「だが全く竹刀《しない》の先で、ポンポン打ち合った剣術は、実戦の用には立ちそうもないなあ。……人間一人サ――ッと切る! 手答えあって血の匂い! ヒーッという悲鳴、のた[#「のた」に傍点]打つ音! ……悪くないなあ悪くないなあ。……一度辻切りをして見たいものだ」
 ふと小一郎は誘惑を感じた。
「切るにしても女や町人はいけない。うんと[#「うんと」に傍点]屈竟な武士に限る!」
 考えながら歩いて行く。と、行手に藪があり、ザワザワと風に戦《そよ》いでいる。その、裾辺まで来た時である、
「む、こいつは可笑《おか》しいぞ」小一郎はスッと後へ退《の》き、ジ――ッと藪を隙《す》かして見た。
 何んにも変ったことはない。が、小一郎には感ぜられるらしい。小首を傾《かし》げたものである。
「どいつかいるな! 刀を按じて!」
 迫身《ハクシン》ノ刀気《トウキ》ハ盤石ヲ貫ク、心眼察スル者《モノ》則《スナワ》チ豪《ゴウ》――鐘巻流の奥品《おうぽん》にある。その刀気を感じたらしい。で、寂然と動かなかった。
 不意に小一郎は左手《ゆんで》を上げ、鞘ぐるみ大刀を差し出したが、柄《つか》へ手をやると二寸ほど抜き、パチンと鍔鳴りの音をさせた。
 と、黒々と藪を巡り、一個の人影が現われた。
「さすがは一式小一郎氏、拙者のいるのを察しられたと見える」
「や、貴殿南部氏か!」
「さよう」というと南部集五郎は、二歩《ふたあし》ほど前へ進み出たが、「尾行《つ》けて参った、深川からな」
「ははあさようか、何んのご用で?」小一郎は油断をしなかった。
「率直に申す! お立ち合いなされ……」
「ほほう」と云ったが小一郎は、一つの考えを胸へ浮かべた。
「さては貴殿におかれても、阪東小篠にけしかけられ[#「けしかけられ」に傍点]ましたな?」
「では貴殿にも?」と南部集五郎は、いささか興醒めたというように、
「それでは益※[#二の字点、1-2-22]恰好というもの、遁《の》がしはせぬ、お立ち合いなされ!」
「さようさ、こいつは遁がれられまい」――だがにわかにクックッと笑った。「それにしても武士道は廃《すた》れましたな」
「何故な?」と集五郎はトホンとした。
「元亀天正の昔なら、女を賭けては切り合いませんよ」
「これはいかにも」と南部集五郎も、胸に落ちたか笑い出した。
「アッハハハ御世の有難さで」
「ええと今年は天保十年、文化からかけて文政と、武士ども柔弱になりましたな」悠々とこんなことを云い出した。
「これこれ一式氏一式氏、何を云われる、つまらないことを! 命の取りやり、さあ参るぞ!」次第に急《せ》くのは集五郎である。
「心得ておる!」と小一郎は、尚悠々と云いつづけた。「拙者剣侠を志してな、上《かみ》にも仕えず二十三の部屋住み、そこで長剣を横たえて、千里に旅しようと思っていました。ところがとうとうおっこち[#「おっこち」に傍点]ましたよ、あの小篠という河原者にな」
「抜け!」と集五郎は威猛高《いたけだか》である。「ごまかす気だな、卑怯千万!」
「剣侠も女にはまって[#「はまって」に傍点]は」と小一郎はかまわず云いつづける。
「いやはや一向値打ちござらぬ」
「チェッ」と集五郎は舌打ちをした。「これ臆したな! 一式小一郎!」
「剣より女の方が魅力がある」
「何を馬鹿な! それがどうした」
「そこで俺は徹底する」
「え?」と集五郎は一歩|退《の》いた。
「人を切れという小篠の言葉、それに手頼《たよ》って徹底する! 人を切る! 貴様を切る! 女を取る! 悪事をする! 拙者悪剣に徹底する! これ、集五郎!」とヌッと進んだ。「飛び込んで来たな、よいところへ! 俺はな、俺はな!」とまた進んだ。「待っていたのだ! 辻切りの相手を! ……参るゾーッ」と声を掛けた。
 はじめての大音、野面を渡り、まるで巨大な棒のように、夜の暗さを貫いた。
 同時に飛び退いた小一郎は、引き抜いた下緒をピューッと振り、一つ扱《しご》くと早襷《はやだすき》! 袖が捲くれて二本の腕が生白くニュッと食《は》み出したが、つづいて聞こえたは鞘走る音だ。と、にわかに小一郎の体《からだ》がシーンと下へ沈んだが、見れば右足を前へ踏み出し、膝から曲げて左足を敷き、腰を落したは蟠《わだかま》った竜! 曲げた膝頭の上二寸、そこへ刀の柄をあて、斜めに枝を張ったように、開いて太刀をつけたのは、鐘巻流での下段八双! 真っ向からかかれば払って退け、突いて来れば搦み落とす、翩翻《へんぽん》自在の構えである。星を刻むような鋒止先《きっさき》、チカチカチカチカと青光る。居付かぬように動かすのである。ブ――ッと剣気そこから湧き、暗中に虹でも吹きそうである。

        

 だが南部集五郎、こいつも決して只者ではなかった。東軍流ではかなりの手利《てき》き、同じく飛び退くとヌッと延《の》し、抜き持った太刀|柄《づか》気海へ引き付け、両肘を縮めて構え込んだが、すなわち尋常の中段である。
「なるほど」と呟いたは小一郎で、「かなり立派な腕前だな。だがこの俺の敵ではない。よし」と云うと揶揄し出した。「さあ南部氏、かかってござれ! 立っているばかりが能ではない。お揮いなされ、そのだんびら[#「だんびら」に傍点]を! ちょうど星空だ光りましょうぞ! 廻わり込みなされ、右の方へ! すると拙者は左へ廻わる。と、ご両人ぶつかり[#「ぶつかり」に傍点]合う。そこでチャリ――ンと一合の太刀! ナーニ二合とは合わせませんよ、一合でちゃ[#「ちゃ」に傍点]アんと片が付く。もちろん貴殿が負けるのさ。それ石卵は敵しがたし! 唐人も時にはうまいことを云う。石と卵とぶつかれ[#「ぶつかれ」に傍点]ば、間違いなく石の方が勝ってしまう。拙者が石で貴殿が卵、さあ卵|氏《うじ》、卵氏はずんで、飛び込んでおいでなされ」喋舌りながらも考えた。「俺は案外大胆だな、今夜が最初の実戦だが、大して怖くも恐ろしくもない。うむ、これなら人間が切れる。……よしよしこっちから迫《せ》り詰めてやれ」
 足の爪先|蝮《まむし》をつくり、土を刻んでジリジリと、廻わりも込まずに前へ出た。
 次第に後退《あとじ》さる集五郎、いわゆる気勢に圧せられ、ともすると太刀先が上がろうとする。上がったが最後、「突き」が来る。そこで押し静め、押し静め、盛り返して一歩出た。と、小一郎は一歩引いた。と、集五郎また一歩! と、小一郎一歩退がった。「しめた」と考えた集五郎、相手が「釣手《つりて》」で退くとも知らず、ムッと気息、腹一杯、籠めると同時に躍り込んだ。両肘を延ばし、太刀を上げ目差すは小一郎の右の肩、そいつをサッと左袈裟!
「駄目だよ」と小一郎は一喝した。瞬間に鏘然《しょうぜん》たる太刀の音! つづいて大きく星空に、一つの楕円が描かれた。すなわち一式小一郎が敵の刀を払い落とし、身を翻えすと片手切り、大刀宙へ刎ねたのである。こいつが落ちれば集五郎の首は、斜《はす》に耳から切られただろう。
 その際《きわ》どい一髪の間だ、女の声が聞こえて来た。
「蝶々をご存知ではございますまいか」
 美しい清浄な声であった。ス――ッと小一郎の心から、殺伐な邪気が抜けてしまった。
 と、また女の声がした。
「永生《えいせい》の蝶でございます。……蝶々をご存知ではございますまいか」
 どこにいるのだろう、声の主は? 木立があって、藪があって、後は吹きさらしの、小梅田圃。女の姿などどこにも見えない。それにもかかわらず女の声は、すぐ手近から聞こえるのであった。
「もしご存知でございましたら、昆虫館までお届けください」
 するとどうだろう、それに続いて、老人の声が聞こえて来た。「娘よ、駄目だよ、永生の蝶、何んのこういう人達に、探し出すことが出来るものか」
 非常に威厳のある声であった。手近の所から聞こえて来る。だがやっぱり姿は見えない。
「人殺しをしようという人間に、永久に生きる神秘の蝶が、何んの何んの探し出せるものか」老人の声がまた聞こえた。「さあ娘よ、そろそろ行こう」
「はい、お父様」と女の声がした。「それでは他へ参りましょう」それから優しくもう一度云った。「お止めなさりませ……お侍様……殺生のことはね……さようなら」
 もうそれだけしか聞こえなかった。立ち去る足音もしなかった。声だけが突然土から生れ、倏忽《しゅっこつ》と空へ消えたようであった。
 風が少しく強まったらしい。藪がザワザワと揺れ出した。
 刀を宙へ振り上げたまま、じっと聞き澄ましていた一式小一郎、で思わず溜息をしたものである。
「南部氏!」と呼びかけた。「今夜の立ち合い、止めにしましょう」
「よろしい」と云うと南部集五郎は落とした刀を拾い上げた。
 パチンと鍔音高く立て、刀を納めた小一郎、「お別れ致す」と云いすてると、町の方へスタスタ歩き出した。
「何んだろういったい永生《えいせい》の蝶とは?」小一郎は歩きながら思案した。
「昆虫館とは何んだろう?」何が何んだか解らなかった。「それにしても美しい声だったなあ。心が一時に清まってしまった。……若い美しい娘なんだろう。……逢ってみたいような気がするなあ」
 彼の屋敷は麹町にあった。そこへ帰って来た小一郎は、意外な話を聞いたものである。

        

 意外の話を話したのは、他ならぬ清左衛門であった。
「それお前も知っている通り、この頃|田安《たやす》家と一ツ橋家とは、何彼につけて競争ばかりし、面白くない気勢が醸されているが、とうとう変なものを争うようになったよ」こんな調子に話し出した。「と云うのは、他でもない、江戸の四方五十里の内に、昆虫館という建物があり、永生《えいせい》の蝶と云われている雌雄二匹の蝶がいて、神秘の伝説を持っているそうだ。すなわち二匹を手に入れて、交尾をさせて子を産ませた者は、莫大な財宝を得られるとな。云い出したのは女|方術師《ほうじゅつし》、お前も知っておる鉄拐《てっかい》夫人だ。で今やお館《やかた》には、二匹の蝶を手に入れようと、苦心惨澹をしていられる。が、こいつは、馬鹿な話さ。永生とは何か、無限に生きることだ。ところが蝶は一年とは生きない。永生の蝶などある筈がない。云い出した人間が悪い。方術師とは由来道教の祖述者、虚無|恬淡《てんたん》を旨とする、老子の哲学を遵奉《じゅんぽう》するもので、無慾でなければならない筈だ。ところが例の鉄拐夫人、無慾でもなければ恬淡でもない。ヤレ錬金だの、仙丹だのと、金持ちになることと永生《ながい》きすることとを、セッセとお館に進めている、彼奴《きゃつ》決して方術師ではなく、精々のところ手品使い、初歩の忍術《しのび》の使い手に過ぎない。かような女を召し抱えたは、お館にとって不幸だが、これとてやはり競争から来ておる。一ツ橋家の方でまず最初に、蝦蟇《がま》夫人という女方術師を抱え、大仰に吹聴《ふいちょう》したからさ。で、噂による時は、一ツ橋家でも同じようなことを、その蝦蟇夫人が云い出したため、やはりそいつを手に入れようと、お館にはご苦心をされておるそうだ。今日も一日中御殿では、その評定で大騒ぎだった。困ったものだよ。こういう迷妄はな」
 こいつを聞いた小一郎が、驚きと興味とを感じたのは、説明するにも及ぶまい。膝を進めて訊いたものである。
「で、お父様、昆虫館は、どの辺にあるのでございましょう」
「云ったではないか、江戸を中心に、五十里以内の所にあると」
「確かなあり場所は解りませんので?」
「そうだよ、解っていないそうだ」
「鉄拐夫人が方術師なら、方術を用いて昆虫館のあり場所、すぐにも探し出してよさそうなもので」
「だからよ、彼奴《きゃつ》め、贋方術師さ」ここで清左衛門は眉をひそめたが、「もっとも彼奴《きゃつ》め、こんなことを云ったよ。『半島にして樹木森々、大地あって土地高燥、これ永生の蝶に適す』とな。アッハッハッハッ何を云うやら」
「昆虫館の持ち主は?」
「昆虫学者の老人だそうだ」
「美しい涼しい声を持った、娘と一緒ではございませんかな」
「え?」と清左衛門は眼を円くした。
「いえ何これはこっちの方の話で」こうはごまかし[#「ごまかし」に傍点]たが小一郎は、心の中では考えた。「不思議だな、随分不思議だ。小梅田圃でも永生の蝶! 家へ帰っても永生の蝶! あっちでもこっちでも昆虫館! 待てよ」と一層沈思した。「小梅で聞いた二つの声、その中一つは老人の声で、神々しいほどにも威厳があった。学者か宗教家か剣聖か、とまれ達識の人物でなければ、ああいう声は出せないものだ。永生の蝶を探していたっけ! ひょっとかするとあの声の主が、その昆虫館という建物の、持ち主などではあるまいかな。……いやいやそうではなさそうだ」小一郎は尚も考えた。「なにも昆虫館の持ち主なら、永生の蝶を探す筈はない。と云うのは蝶を持っているからさ、では全然別人かな。……いやいやそうでもなさそうだ」またも小一郎は考えた。
「たしかあの時娘の声で『もしご存知なら昆虫館まで、どうぞお届けくださいまし』と、こうハッキリ云ったのを聞いた。とすると、どうしても声の主達は、永生の蝶と昆虫館とに、関係あるものと見なければならない」ここで一層考えた。
「永生の蝶というようなものが、本当にこの世にいるのなら俺は是非とも手に入れたい。昆虫館というようなものが、本当にどこかにあるのなら、是非とも行って見たいものだ。しかしそれよりより一層、俺の心から殺伐の邪気を、ス――ッと一度に引っこ抜いてくれた、美しい涼しい声の主に、是非とも逢って見たいものだ。全くあの声はよかったよ。あんなにいい声の持ち主だ、素晴しい美人に相違ない。よし俺は探しに行く!」
 年が返って新年《はる》になった。天保十一年一月十日、その晴れた日の早朝《あさまだき》に、一式小一郎は屋敷を出た。
 深編笠に裾縁《すそべり》野袴、柄袋《つかぶくろ》をかけた蝋鞘の大小、スッキリとした旅装《たびよそお》い、足を入れたは東海道で、剣侠《けんきょう》旅へ出たのである。
「考えてみればあぶなっかしい[#「あぶなっかしい」に傍点]旅さ」小一郎は心中|可笑《おか》しくもあった。「たった一度だけ耳にした娘の声を手頼《たよ》りにして、声の主を探しに行くのだからなあ」
 長閑《のどか》にボツボツ歩いて行く。

        

 川崎の宿まで来た時である。
「お武家様え、お馬に召しませ」可愛らしい娘の声がした。
 振り返った一式小一郎、見れば駄賃馬の手綱を取り、女馬子が立っていた。
「さようさな、乗ってもよい」
「これは有難う存じます。どこまでお供いたしましょう」
「そうさなあ、どこへ行こう」
「どこへでもお供いたします」
「さあてどこへ行ったものか、これ女馬子、どこへ行ったらよいな?」
「ホ、ホ、ホ、ホ」と笑ったが、「京大坂などいかさまのもので」
「ちと遠いな」と小一郎はこれも笑いながら考えたが、「これ女馬子、聞きたいことがある。土地高燥で半島で、木が茂っていて大きな池がある、そういう土地はあるまいかな?」
 すると女馬子はどうしたものか、チラリとその眼を険しくしたが、すぐに、表情を取り返した。
「三浦三崎の関宿《せきやど》など、似つかわしいように存ぜられます」
「ああなるほど、そこがよかろう。では関宿へやってくれ」
 小一郎はヒラリと馬へ乗った。ドー、ドー、ドーと馬子が云う。カパカパと馬が歩き出した。シャンシャンシャンと鈴が鳴る。旅が旅らしくなって来た。
「旦那様え」と女馬子は、手綱を引きながら話しかけた。「ご遊山旅でございますか」
「まあザッとその辺だ」
「ご遊山にはお寒うございます」ちょっと皮肉な調子である。
「寒さなどには驚かない」
「それはさようでございますとも」クスッと笑ったが話しかけた。「土地が高燥で半島で、木が茂っていて大きな池がある。そういう土地で旦那様は、何かをお探しなさいますので」
「何!」と云ったが小一郎は、かなり吃驚《びっく》りしてしまった。「どうしてお前、そんなことを聞くのだ!」
「そういう土地には色々の不思議が、沢山あるからでございますよ」
「この女馬子怪しいぞ」はじめて気が付いた小一郎は、仔細に女を観察した。立派な体格で品がある。肌は白く、髪は多く、顔の道具も充分|調《ととの》い、上流の商家の娘のようだ。特にその眼が美しい。情熱のためには理性など、うっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]しまいそうな眼付きである。上唇に黒子《ほくろ》がある。かえって愛嬌を添えている。「こいつは本物の馬子ではないな」小一郎はひそかに考えた。「女賊などではあるまいかな」
 すると女が声を掛けた。「大丈夫でございますよお武家様、妾《わたくし》悪人ではございません」
「ううん」と小一郎は参ってしまった。「何を申すか、つまらないことを!」
「お心で思っていらっしゃったくせに」
 これにも小一郎は参ってしまった。
「お前には解るのか、人の心が!」
「旦那様のお心なら解ります」
「これは驚いた。どうして解る?」
「好きなお方でございますもの」
「え?」とまたまた小一郎は、胆を潰さざるを得なかった。「お前は俺が好きなのか!」
「一眼で好きになりました」
「ヤレヤレ」と小一郎は苦笑した。「途方もないことになってしまった」
「恋しいお方のお心持ちだけは、恋している女に解ります」
「馬子! あんまり嚇《おど》してはいけない!」
「ホ、ホ、ホ、ホ、ご免遊ばせ」
 どうにも小一郎には見当が付かない。何んだろういったいこの女は? そこで身の上を調べることにした。
「ところでお前の名は何んというな?」
「はい、君江と申します」
「ああ、君江か。年は幾個《いくつ》だ?」
「はい、十八でございます」
「で、両親はあるのかな?」
「はい健康《たっしゃ》でございます」
「で、家はどこにある?」
「三浦三崎の関宿《せきやど》に」
「えッ」と小一郎はまた嚇《おど》された。「これ、あんまり嬲《なぶ》るものではない」
「いえいえ本当でございます」女馬子の声は真面目であった。
「妾《わたくし》の家は三浦三崎、関宿にあるのでございます。それで妾は旦那様を、妾の家へお連れしようと、こう思っているのでございます」
「それはいったいどうした訳だ?」
「旅籠《はたご》商売でございますもの」
「ははあそうか、旅籠屋か。……旅籠屋の娘が何んのために、馬子稼ぎなどをやっているのだ?」
「探していたのでございます」
「ふうんそうか、何者をな?」
「はい恋人をでございます」こう云うと女馬子はニッコリした。
「そうしてとうとう今日はじめて、恋しいお方を探し当てました。旦那様あなたでございますの」
 さて剣侠一式小一郎は、この女馬子に逢ったばかりに、意外の事件に続々ぶつかり、恋と怨《うら》み、悪剣と侠剣、暗黒と光明、迷信と智恵、神秘の世界と現実の世界へ、隠見出没することになった。

        

 その日からちょうど五日経った。
 三浦三崎の君江の家、その家号を角屋と云って、立派な構えの旅籠屋である。その門口からフラリと出たのは、他ならぬ一式小一郎で、口先に微笑を漂わせている。
「君江という娘、嘘は云わなかった。まさしく家は旅籠屋で、両親もピンピン健康《たっしゃ》でいる。そうして俺には親切だ。親切といえばあの君江、ほんとに俺を愛しているらしい。ちと困ったが迷惑でもない。明るくて快活でわだかまりがない。たしかに野に咲いた一輪の名花さ。そうは云ってもこの俺には、他に愛する女がある。姿形はまだ見ないが、小梅田圃の切り合いの最中、声だけ聞いたあの女だ。是非是非探しあてて逢って見たいものだ。……それはそれとしてその君江、大池のあるという森林の中へ、何故この俺を行かせないのだろう?」
 立ち止まって四辺《あたり》を見廻わした。冬ざれた半農半漁の村が、一筋寂しく横仆《よこた》わっている。それを越すと耕地である。耕地の向こうが大森林で、檜や杉の喬木が、澄み切った空を摩している。
 ヒョイと何気なく振り返って見た。「はてな?」と云ったのはどうしたのだろう? 十五、六人の侍が、いずれも立派な旅姿で、スタスタとこっちへ来るからであった。
「こんなに辺鄙な関宿などへ、ああも沢山の侍が、入り込んで来るとは只事でない。可笑《おか》しいなあ」と呟いたが、物蔭へ隠れて窺った。
 それとも知らぬか侍達は、ガヤガヤ話しながら通り過ぎる。
「まずともかくも森林へな! 昆虫館があるかも知れぬ」こう云ったのは頬髯のある武士で、「なかったら今度は伊豆の方へ行こう」
「いわば我々は先乗りで、探りさえすればいいというものさ」こう云ったのは段鼻の武士。
「永生の蝶! 永生の蝶! はたしてそんな[#「そんな」に傍点]物ありましょうかな」こう云ったのは赤痣《あかあざ》のある武士。
「昆虫館も永生の蝶も、拙者には用はござらぬよ。小梅田圃で耳にした、美しい涼しい声の主、それに是非とも巡り会いたいもので」
 こう云ったのは誰あろう、恋仇《こいがたき》南部集五郎であった。
 タッタッと森林の方へ行ってしまった。
 物蔭から出た小一郎は仰天せざるを得なかった。
「一ツ橋家の武士どもだな! 一ツ橋殿の命を受け、昆虫館を探しあてようと、さてこそやって来たらしい。……憎いは南部集五郎だ、またもや俺の恋仇となった。あの時耳にした声の主を、昆虫館の関係者と、彼奴《きゃつ》も目星を付けたらしい。……これはこうしてはいられない。誰が止めようと森林へ分け入り、彼奴《きゃつ》らより先に声の主を、目付《めつ》け出さなければ心が済まぬ」
 彼らの後を追うように、サ――ッと小一郎は走り出したが、その時角屋の門口から、ヒョイと一人の娘が出た。
「あれ!」と叫んだが君江であった。「お父様大変でございます!」
「どうした?」と云いながら現われたのは、五十年輩の立派な人物で、英五郎と云って君江の父、この辺一帯の顔役で、髪は半白、下膨れの垂《た》れ頬《ほお》、柔和の容貌ではあるけれど、眼附きに敢為の気象が見える。
「小一郎様が森の中へ!」
「おお行かれたか! 困ったなあ」
「お父様! お父様! どうともして……」
「さあはたして助けられるかな!」
「ああ小一郎様のお身の上に、もしものことがあろうものなら……死んでしまいます! 死んでしまいます!」
「よし!」と英五郎は決心した。「ともかくも乾児《こぶん》を猟り集め、森中手を分けて探してみよう! ……しかし名に負う木精《こだま》の森だ、入り込んだが最後出られない魔所! 目付《めつ》かってくれればいいがなあ」
 木精《こだま》の森の底の辺に、一つの岩が聳えていた。裾から泉が湧き出している。
 側で話している二人の男女があった。一人は※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]《ろう》たけた[#「たけた」に傍点]二十歳《はたち》ばかりの美女で、一人は片足の醜男《ぶおとこ》である。
「先生には今日もご不機嫌で?」こう訊いたのは片足の醜男。
「吉や、困ったよ、この頃は、いつもお父様には不機嫌でねえ」こう云ったのは美女である。
「それというのも大切な雄蝶を、お盗まれになってからでございましょうね」片足の男の名は吉次《きちじ》であり、そうして美女の名は桔梗《ききょう》様であり、その関係は主従らしい。

        

 桔梗様の年は二十歳ぐらいで、痩せぎすでスンナリと身長《せい》が高い、名に相似わしい桔梗色の振り袖、高々と結んだ緞子《どんす》の帯、だが髪だけは無造作にも、頸《うなじ》で束ねて垂らしている。もっともそのため神々しく見える。いや神々しいのは髪ばかりではない。顔も随分神々しい。特に神々しいのは眼付きである。霊性の窓! 全くそうだ! そう云いたいような眼付きである。
 山住みの娘などとは思われない。と云って都会の娘とも違う。勝れた血統を伝えたところの、高貴な姫君が何かの理由で、山に流されて住んでいる――と云いたいような娘である。永遠の処女! こう云ったらよかろう。物云いが明るくて率直で、こだわらないところが一層いい。
 これに反して吉次の方は、かなり醜くて毒々しい。低い鼻、厚い唇、その上片脚というのである。しかし不思議にも智的に見える。学殖は相当深いらしい。筒袖を着て伊賀袴を穿き、松葉杖をついている。年は二十七、八でもあろう。
 桔梗様は昆虫館主人の娘、吉次は館主の助手なのである。
「吉次や、そうだよ、お父様はね、あの雄蝶をなくして以来、ずっと不機嫌におなりなすったのだよ」桔梗様の声は憂わしそうである。
「私は不思議でなりませんなあ」吉次は松葉杖を突き代えたが、「だってそうじゃアございませんか、尋常な蝶ではございませんのに、どこかへ消えてなくなったなんて。……」
「でも本当だから仕方がないよ。現在蝶はいないんだからね」
「どうやら先生のお言葉によると、盗まれたように思われますが、さあはたしてそうでしょうか?」
「そうねえ、それはこの妾《わたし》にも、どうもはっきり解らないよ」
「ねえお嬢様、ようございますか、あの永生の蝶と来ては、盗めるものではございませんよ。こうも厳重に私達が、お守りをしているのですからね。それにお山は要害堅固、忍び込むことなんか出来ません」
「ところがそうばかりも云えないようだよ」いよいよ桔梗様は不安らしく、「この頃お父様問わず語りに『恐ろしい敵が現われた』と、こんなことを二、三度おっしゃったからね」
「へえ、そんな事を? 初耳ですなあ。で、いったいどんな敵なので?」
「今のところでは解らないよ。……それはそうと妾としては……」こう云うと桔梗様はどうしたものか、じーッと吉次の顔を見たが、「ああそうだよ妾としては、そんなお父様のおっしゃるような、恐ろしい敵がなかろうと、盗もうと思えば永生の蝶、誰にだって盗むことが出来ると思うよ」
「へえ、さようでございましょうか?」吉次は不安そうに訊き返した。
「お前にも盗めるし妾にも盗める」これは暗示的の言葉であった。
「何をおっしゃいます、お嬢様!」吉次は一足引いたものである。
「仲間うち[#「うち」に傍点]の者なら盗めるよ」
「ああそれではお嬢様は、仲聞のうちに裏切り者があって、そいつが盗んだとおっしゃるので?」
「そうもハッキリとは云っているんじゃアないよ。裏切り者になら盗むことが出来る、ただこんなように云っているまでさ」
「裏切り者などおりますものか」
「ほんとにほんとにそうありたいねえ」
 ここで二人は黙ってしまった。吉次は足もとを見詰めている。泉を湛えた岩壺がある。人間一人がはいれるくらいの、円い形の岩壺である。湛えられた水の美しさ! 底まで透き通らなければならない筈だ。ところが底は真っ暗である。非常に深いに相違ない。水面に空が映っている。その空を小鳥が飛んだのだろう、水面に小鳥の影が射した。が、一瞬間に消えてしまった。吉次の視線が落ちている! その岩壺の水面へ!
 と、大岩の背後《うしろ》から、呼びかける声が聞こえて来た。
「桔梗や、桔梗や、桔梗はいるかな?」
「はいお父様、ここにおります」
 岩を巡って現われたのは、一種異様な老人であった。纏《まと》っているのは胴服《どうふく》であったが、決して唐風のものではなく、どっちかというと和蘭陀《オランダ》風で、襟にも袖にも刺繍がある。色目は黒で地質は羅紗、裾にも刺繍が施してある。その裾を洩れて見えるのは、同じく和蘭陀型の靴である。戴いている帽子も和蘭陀風で、清教徒でも用いそうな、鍔広で先が捲くれ上がっている。

        

 帽子を洩れた白髪の、何んと美しいことだろう。肩に屯《たむろ》して泡立っている。広い額、窪んだ眼窩、その奥で輝いている霊智的の眼! まさしく碩学《せきがく》に相違ない。きわめて高尚な高い鼻、日本人に珍らしい希臘型《ギリシャがた》である。意志! 強いぞ! と云うように、少し厚手の唇を洩れ、時々見える歯並びのよさ、老人などとは思われない。角張った顎も意志的である。顔色は赧く小皺などはない。身長《みたけ》高く肉附きよく、腰もピーンと延びている。永らく欧羅巴《ヨーロッパ》に住んでいたが、最近帰朝した日本人――と云ったような俤《おもかげ》がある。非常な苦痛を持っていながら、強い意志力で抑え付け、わざと愉快そうに振る舞っている。――と云ったような態度がある。
「ここか、桔梗、吉次もいたか。俺はな、やっぱり諦めようと思う」岩の一所へ腰をかけ、こんな調子に話し出した。「なくなったものなら仕方がないよ。随分手分けして探したが、見付からないのだから止むを得ない。それにさ」と云うとやや皮肉に、「雄蝶一匹を手に入れたところで、全く役に立たないばかりか、それを手に入れた人間は、かえって禍《わざわ》いを蒙るのだからなあ。それで恐らく吃驚《びっく》りして、逃がしてしまうに相違ないよ。逃がせば蝶は帰って来よう。ああそうだよ、この山へな。で、そいつを待つことにしよう。よしんば永久に帰らないにしても、後に残っている雌蝶をさえ、握っていれば大丈夫だよ。神秘の秘密は解けるものではない。とはいえもちろん心掛けて、絶えず捜索はするんだなあ。私の云いたいのはこうなのさ。なくなった雄蝶ばかりに心を取られ、雌蝶の方を疎かにしては、かえってよくないとこういうのさ。桔梗、お前はどう思うな?」頤髯を撫したものである。
「これはごもっともに存じます」桔梗様の声は嬉しそうである。
「ようご決心が付きました。ほんとうにさようでございますとも。いずれは帰るでございましょう。待ちましょうねえお父様。……そうしてどうぞお父様には、以前《まえ》通りご機嫌のよいお父様となり、ご研究にお尽くしくださいまし」
「ああいいとも、そういうことにしよう。不機嫌になったって仕方がない。なかなか浮世というものは、思うようにはならないんだからなア。で、私はこれまで通り、愉快な明るい人間となり、セッセと仕事をやろうと思うよ。吉次、お前はどう思うな?」
 すると吉次も安心したように、「まことに結構に存じます。先生に憂鬱になられましては、全く私どもがどうしてよいか、途方に暮れてしまいますので」
「アッハハハ、そうだろうて、主人の私が怒っていたでは、誰も彼も仕事がやりにくかろうて。よしよしこれからは快活にやろう。いつも明るく笑ってな」そこでもう一度笑ったが、取って付けたような笑い方であった。「さあさあ吉次、働け働け、行ってみんな[#「みんな」に傍点]を指図するがよい。ええと今日は温室の整埋だ。ええとそれから孵卵器の取り付け、ええとそれから蜂の巣の製造、忙《せわ》しいぞ忙しいぞ随分忙しい……はてな?」
 と云うとどうしたものか、昆虫館主人は耳|傾《かし》げた。何かを聞こうとするらしい。森林を渡る風の音、岩から滴る泉の音、何んにも聞こえない、それ以外には……だが、どうやら昆虫館主人には、別の物音が聞こえるらしい。見る見る顔が険しくなり、気むずかしそうに眼が顰《ひそ》んだ。「どいつか来るな、邪魔をしに!」
「うるさいことでございますね」こう云ったのは桔梗様で、おんなじように眼を顰めた。
「どっちの方角からでございます?」こう訊いたのは吉次である。
「麓の方からだ、関宿の方から」
「いつもの手段で追っ払いましょう」吉次は、松葉杖をポンと上げた。
「うむ、吉次、追っ払ってくれ!」
「ご免」
 と云うと走り出した。非常に敏捷な走り方である。二本足を持った人間より、ずっとずっと敏捷である。
「桔梗、部屋へ行って茶でも飲もう。……どうもうるさい[#「うるさい」に傍点]よ世間の連中、時々住居を騒がせに来おる!」
「ほんとにうるそう[#「うるそう」に傍点]ございますねえ」
「じっくり研究さえさせてくれない。全く俗流という奴は、鼻持ちのならない厭な奴だ。好奇心ばかり強くてな。そうしてそいつの満足のためには、他人の迷惑など何んとも思わない」
「参りましょうよ、お部屋へね」
 で、二人とも岩を巡り、奥の方へ姿を消してしまった。
 トコトコトコトコと泉の音が、微妙な音楽を奏している。小鳥の啼音《なくね》が聞こえて来る。冬陽が明るく射している。静かで清らかで平和である。
 だがこの平和を乱すべく、大乱闘の行われたのは、それから間もなくのことであった。

        

 木精《こだま》の森を踏み分け踏み分け、一式小一郎は歩いている。
「一ツ橋家の武士達より、どうともして先に昆虫館を、目付《めつ》け出さなければ意地が立たない。だがどうにも歩きにくいなあ」
 喬木がすくすくと聳えている。枝葉が空を蔽うている。昼だというのに陽が射さない。四方《あたり》が宵のように薄暗い、灌木や蔓草が茂っている。それが歩く足を攫《さら》おうとする。巨大な仆《たお》れ木が横仆《よこた》わり、それがやっぱり足を止める。丘のような大岩が転がっている。所々に古池がある。突然飛び出したものがある。純白の兎の群である。サラサラと枝を渡るものがある。幾匹かの野生の猿である。カーッ、カーッと啼くものがある。鳥のようでもあれば獣のようでもある。季節は一月、所は大森林、凍りつくばかりに冷々《ひやひや》する。ヒューッ、ヒューッと風の音がする。梢を渡っているのだろう。だが樹が密生しているためか、森の中には吹き込んで来ない。地面は凍てついてるらしい。その上を腐葉が蔽うている。で、ズボズボと足がはいる。
 一式小一郎は傾斜面を、ズンズン上へ上がって行く。気が忙《せ》くので足が早まる。だが息切れのしないように、丹田へ力をこめている。
「考えてみればあぶなっかしい[#「あぶなっかしい」に傍点]ものだ」小一郎は心中で考えた。
「案内知らぬ森の中を、こんな塩梅《あんばい》にただむやみと、上へ上へと上がったところで、そのあるという大池へ、辿りつくことが出来るかしら? そうしてはたして大池の畔《ほとり》に、昆虫館があるかしら? 幸い大池と昆虫館とを目付け出すことが出来たとしても、あの美しい声の主を、発見することが出来るだろうか? ……だがマアそいつ[#「そいつ」に傍点]は考えまい。ただ歩くんだ歩くんだ! ただ進むんだ進むんだ!」
 そこでズンズンと突き進んだ。と、森の木がまばらとなり、小広い一つの空地へ出た。一座の大岩が聳えている。
「はてな?」とその時小一郎は足を止めて耳を澄ました。その大岩に反響し、人の足音が聞こえたからである。どうやら大岩の向こう側から、こっちを目指して来るらしい。一人や二人の人数ではない。十五、六人の人数である。
「一ツ橋家の侍ども、ははあさてはやって来たな。さてどうしたものだろう?」――こうなっては他に思案もない。逃げるかもしくはぶつかる[#「ぶつかる」に傍点]ばかりだ。「どうなるものか、ぶつかってしまえ」
 早くも決心した一式小一郎は、素早く四辺を見廻わしたが、足場を計るためだろう。「ちょうど幸い大岩がある。こいつを早速楯として、構うものか、叩っ切ってやろう」
 及び腰をして待ち設けたが、それとも感付かぬ岩向こうの人数、ガヤガヤ喋舌《しゃべ》りながら近付いて来た。その時小一郎は声をかけた。
「ご用心!」とまず一声! それから凛々と云ったものである。
「あいやそこへ参られたは、南部集五郎殿をはじめとし、一ツ橋殿のご家中でござろう。その目的は昆虫館探し、何んとさようでござろうがな」ここでちょっと言葉を切り、先方の様子を窺った。
 と、ひどく驚いたらしく、足音が止み声が絶えた。がすぐ南部集五郎の、物々しい声が聞こえて来た。
「そういう貴殿は何者かな? いかにも我々は一ツ橋家の家臣!」
 そこで小一郎は声を上げた。
「南部氏だな、声で解る。拙者は一式小一郎、貴殿にとっては怨《うら》みあるもの。拙者にとっても怨みがある。小梅田圃では意外のことから、せっかくの果たし合いが中折れ致した。あの夜の続き、今日こそ果たそう。さて次に」と小一郎は、ここで一段声を張ったが、「一ツ橋家の爾余の方々、お互い私怨とてはござらぬが、拙者は田安家のまず家臣、貴殿方は一ツ橋殿の家臣、近来田安家と一ツ橋家、各※[#二の字点、1-2-22]方にもご存知通り、事ごとに競争致しております。そこで」と云うと小一郎は投げたような調子に言葉を変えた。
「お館同志の競争は、家臣同志の競争でござる。そいつが迫《せ》り合うと喧嘩になる。喧嘩のどんづまり[#「どんづまり」に傍点]は果たし合い! これはもうもう決まった話だ。そこで喧嘩! そこで果たし合い! 勝負だア――」
 と威嚇的に叫んだ。それからじいいっ[#「じいいっ」に傍点]と耳を澄ました。向うからは何んの返辞もない。だが何んとなく騒がしい。どうやら用意をしているらしい。
「敵は多勢、俺は一人、多少詭計を用いずばなるまい」こう考えた小一郎はわざと厳《いか》めしく声をかけた。「拙者は大岩のこっちにおる。いつまでもここでお待ち受け致す。左からなりと右からなりと、ご随意にかかっておいでなされ。左右同時にかかられるもよかろう。岩を巡って、さあさあ参られい」
 スルリと刀を引き抜くと、スルスルと大岩の左の角、そこまで行くと腹這いになった。

        

 腹這いになった小一郎は地面へ耳をおっ[#「おっ」に傍点]付けたのは、この方面から一ツ橋家の武士ども、幾人来るか足音を、聞き澄まそうとしたのである。と、忍びやかに腐葉を踏み、近寄って来る足音がした。「うむ、大略《おおよそ》七、八人だな。……ははあそうすると反対側からも、七、八人がやって来るらしい。お誂え通りだ。左右から廻わり、腹背を衝こうとするらしい。よし」と尚も聞き澄ました。「三間……二間……立ち止まったな。……また歩き出した、怖そうに。……来たな!」
 と小一郎は飛び上がったが、飛び上がった時には飛び出していた。上げた一刀、片手切りの呼吸、カーッと掛けたは喉的破音《こうてきはおん》、狙いは感覚、サーッと切った。
「ガッ」という悲鳴、倒れたのは、真っ先に進んで来た段鼻の武士で、頭の鉢を右から斜《はす》、左の眼頭まで割り付けられた。
「おッ」と叫んだは赤痣のある武士、二番手として進んで来たが、凄い気合、素晴しい剣技、目前味方の斃されたのを見ると、居縮《いすくん》だように棒立ちになった。そこを目掛けて小一郎は取り直した大刀、柄を廻わし、一歩踏み出すと身長《せ》を縮《すく》め、相手の左胴を上斜めに、五枚目の肋《あばら》六枚目へかけ、鐘巻流での荒陣払い、ザックリのぶかく[#「のぶかく」に傍点]掬い切った。
 痣のある武士、ムーッと呻くと、ポタリと刀を落としたが、全身を弓のように蜒《うね》らせると、ヒョロヒョロヒョロヒョロと前へ出た。
 と、小一郎は、抑えた呼吸で、ヒョイと刀を手もとへ引いた。連れてドッタリ斃れた敵、ドクドクドクドクと流れる血、下は腐葉だ、滲み込んでしまった。瞬間に二人を討って取られ、浮き足立った一ツ橋家の武士達、思わずタジタジと引くところを、
「参るゾーッ」と声をかけ、ヌッと右足を踏み出したのは、追い迫る気勢を示したのである。胆を奪われた一ツ橋家の武士ども、刀を引くと一息に、元来た方へ逃げてしまった。
 追っかけると見せて身を翻えし、岩角まで飛び返った小一郎は一瞬耳を澄ましたが、「いるな」と呟くと一躍した。はたして七、八人そこにいた。真っ先に立ったは頬髯のある武士で、突然小一郎に飛び出され、ギョッとして一足引くところを、
「参るゾーッ」と例の大音、まず一喝くれて置いて、毬のように弾んで飛びかかったが、刀の柄頭《つかがしら》を胸へあて、肩を縮めたも一刹那、うむ[#「うむ」に傍点]と突き出した双手《もろて》突き、極《きま》った! まさしく! 敵の咽喉へ! だがその間に敵の一人、右手から颯《さっ》と切り込んで来た。何んの驚く、飛び返ると、狙いを外した敵の一人、自分の力に自分から押され、トントンと二、三歩前へ出た。背が低まって右の肩が、さも切りよげに小一郎の、眼の前三尺へ泳いで来た。そこをすかさず小一郎は、刀を上げると横撲り、軽くスッポリと切り付けた。
 右腕を肩から落とされて、悲鳴を上げるとキリキリキリと、独楽《こま》のように二、三度廻わったが、まずグンニャリと腰を砕き、すぐに横倒しに倒れてしまった。
 ここでも一式小一郎は瞬間に二人を斃したのである。二人斃された一ツ橋家の武士ども、太刀を構えたまま後退《あとじさ》り、次第次第に下がったが、岩角まで行くと背中を見せ、一|斉《せい》に岩蔭へ引いてしまった。
 左右の敵を左右に追い込み、一人となった小一郎はここで気息を抜くような、そんな不鍛練な武士ではない。ピッタリと大岩へ背をもた[#「もた」に傍点]せ、敵、眼前にあるがよう、グッと前方を睨んだが、にわかにシーンと体を沈め、ヒョイと踏み出したは右の足だ、膝から曲げて左足を敷き、曲げた膝頭の上二寸、そこへ刀の柄をあて、斜めに枝を張ったように、開いて太刀を付けてしまった。得意の構えだ、下段八双。棒の「掻《か》い手《で》」から編み出された鐘巻流では必勝の手。さてそれからユルユルと、頭《こうべ》を巡らすと右手を見た。が、はたして一ツ橋家の武士ども、岩角を巡って現われたが、以前に懲りたか遠廻わりをし、タラタラと正面数間の彼方へ、一列に並んで構え込んだ。
「ほほう来たな」と呟いたが、小一郎は頭を巡らすと、左手の方をゆるやかに見た。思った通りだ、岩角を巡り、一旦逃げた一ツ橋家の武士ども、同じく遠廻わりに廻わりながら、タラタラと正面数間の彼方へ、一列を作って立ち並んだ。
 つと進み出た武士がある、「一式氏」と声を掛けた。余人ではない。南部集五郎だ、年の頃は二十七、八、赧《あか》ら顔で大兵肥満、上身長《うわぜい》があって立派である。眉太く、眼は円《つぶら》、鼻梁長く、口は大きい。眉の間に二本の縦皺、これがあるために陰険に見える。「一式氏」ともう一度呼んだが、嘲笑《あざわら》うように云いつづけた。「悪縁でござるな、貴殿とは! 一人の河原者を争って、小梅田圃で切り合ったばかりか、どうやら今度は姿さえ知れない、美しい声の持ち主を、争わなければならないようで。……と云うとあるいは貴殿には、さようなものはとんと[#「とんと」に傍点]存ぜぬ。争いの種を阪東小篠、ないしは神秘な昆虫館……などと云われるかも知れないが、何んの何んの、そんなことはござらぬ。小梅田圃で聞いた声、あの美しさを耳にしては、どんな人間でも引き付けられますて。現に」と云うと集五郎は、好色漢らしい厭らしい、不快な笑いを浮かべたが「現に」ともう一度、繰り返した。「拙者においても引き付けられ、その声の主を目付けようと、ここまで出張って来たほどでござる。で、貴殿におかれても、やっぱり美しい声の主を、探しに来られたに相違ござらぬ。狂いましたかな。この眼力! ……だがそれにしてもこんな所で、貴殿にお逢いしようとは、いささか意外でございましたよ。そこでいよいよ悪縁と云う、この言葉がピンと響きますて。……が駄弁はこのくらい。……方々!」というと集五郎は、味方の勢《ぜい》を振り返った。

        十一

 味方を振り返った集五郎は、注意するように云ったものである。「一式氏はな、鐘巻流の名手、瞬間に四人を討ち取ったほどの、素晴らしい腕を持っておられる。とても敵《かな》いませんよ、一騎討ちではな! そこで一同一つに集まり、半円を作ってヒタヒタ攻め、乱刃の中へ取り込めましょう。抜からぬように、よろしいかな。……一式氏!」と集五郎は、今度は小一郎へ声を掛けた。「さあさあ弾んで飛び込んでござい。真ん中を襲わば拙者お相手、その間に左右両翼が、引っ包んで討って取りましょう。左に向かわば右翼が返り、右に向かわば左翼が返り、同じく引っ包んで討って取る。もしいつまでも岩を背に、縮《すく》んでおいでなさるなら、よろしいよろしい次第に迫り詰め、十二本の白刃一時に、雨のように浴びせてお目にかける。……方々!」とまたもや集五郎は味方の勢《ぜい》を見返ったが、「とりかかりましょうか、人間料理!」
 声に応じて一ツ橋家の武士達、左右に延びて半円を作り、ジリジリジリジリと攻め寄せた。
 一方一式小一郎は、岩を背後に下段八双、構えたままで動かない。とはいえ心では考えていた。
「いかにも集五郎の云う通り、真ん中を襲ったら左右の翼、瞬間に畳んで来るだろう。取り込められては敵わない。と云って右を襲っても、ないしは左を襲っても、取り込められるに相違ない。やっぱりここに構えていよう。引き寄せられるだけ引き寄せてやろう。そこで翻然と飛び出して行き、憎いは南部集五郎、まず真っ先に叩っ切ってやろう。もう[#「もう」に傍点]二、三人仕止めたら、おおかた逃げて行くだろう。……来るわ来るわ、ジリジリと。寄せるわ寄せるわ、ジリジリと。……十二人と一人、ちと手強い。ナーニ大丈夫だ大丈夫だ!」
 いよいよ体を押し沈め、腰から上の上半身を、徐々に前方へ傾げたのは、飛び出して行く用意である。
 間隔《あわい》が次第に縮まって来る。今は双方とも物を云わない。十二本の剣がヌラヌラと、宵闇のような森の中を、一本の剣へ迫って行く。そいつを迎えた一本の剣、鶺鴒《せきれい》の尾のように上下へ揺れ、チカチカチカチカと青光る。
 殺気に充ちた静けさである。その殺気に驚いたか、数十羽の雀が棹をなし、森の一方から一方へ、啼く音も立てずに翔け通った。翼に煽られて散る枯葉、ハラハラ、ハラハラ、ハラハラと、向かい合った剣へ降りかかる。
 だがその時どうしたんだ、麓の方から竹法螺《たけぼら》の音が、ボーッとばかりに鳴り渡った。それに続いて大勢の者が、声を揃えて呼ぶ声が、木精《こだま》を起こして聞こえて来た。
「一式様!」
「小一郎様!」
「オーイ、オーイ!」
「オーイ、オーイ!」
 関宿の侠客英五郎と、その乾児《こぶん》の者百人あまり、娘の君江も中に雑《まじ》った、小一郎さがしの同勢が、大森林を上へ上へと、今や上って来るのであった。
 真っ先に立ったは英五郎で、それに引き添って君江がいる。
「お父様大丈夫でございましょうか?」君江の声は顫えている。
「さあそいつ[#「そいつ」に傍点]は解らないよ」英五郎の声は不安そうである。
「魔所だからなあ、この森は。大勢の人間の叫び声がしたり、突然大岩が転がって来たり、にわかに大水が流れて来たり、幾十人かの片輪者ばかりが、手を繋《つな》いで現われたり、そうかと思うと天人のような綺麗な娘が一人きりで、木にもたれてションボリ考えていたり、そうかと思うと神様のような、神々しい老人が虫籠をさげて、木の枝に腰をかけたり、怪しいことばかりがあるのだからなあ……普通《なみ》の人間の分け入るのを、厭《いと》っているのだよ、この森はな。……」

        十二

「だから申したのでございます」顫えた声で君江が云う。「小一郎様、一式様、あの森へはおはいりなさいますな。恐ろしい魔所でございます。はいったが最後、お身の上に、きっと危険がございましょう。いけませんいけません。はいっては。……それだのにあの方|憑《つ》かれたように、スルスルとはいって行かれました。……お父様お父様急ぎましょう! 早く早く目付けましょう! ……どうぞご無事でいられますよう。……妾はこんなに顫えています。……だんだん胸が苦しくなる!」
「そうだそうだ、急がなければならない。早く目付けないと取り返しが付かない。……やいやい野郎ども声を上げろ! お呼びしてみろ、お呼びしてみろ!」
 そこで一同呼び立てた。「小一郎様! 一式様!」
 声々が森に反響する。「小一郎様!」と返って来る。「一式様!」と返って来る。一緒になって君江も呼んだ。君江の声が一番高い。恋人探しの若い娘の、一生懸命の声だからである。
 一人がボーッと竹法螺を吹いた。木精ばかりが、ボーッと返る。
 ドンドン一同押し上る。歩きにくい歩きにくい。
 と、一所森が途切れ、小広い空地が現われた。そこに一座の大岩があった。その前に一人の武士がいた。他ならぬ一式小一郎で、ピッタリ太刀を構えている。それを半円に取り囲み、十二人の武士が構えていた。
 全く意外な光景であった。英五郎も君江も乾児の者も、アッと一時に釘付けになった。
 その時である。小一郎は、一躍前へ飛び出した。キラッと光ったは刀であろう。一声悲鳴が森を縫った。一人の武士がぶっ倒れた。しかしその次の瞬間には、十一人の武士がグルグルと、小一郎を真ん中に引っ包んだ。
「お父様!」
「君江!」
 と親子二人が、思わずヒョロヒョロとよろめいたのは、一式小一郎が、十一人の武士に、討って取られたと思ったからであろう。が、そいつは杞憂であった。数合の太刀音、数声の悲鳴、二人の武士が転がった。と、爾余の武士達が、ムラムラと左右へ崩れ立った。その隙間から毬のように、ポンと飛び出した武士がある。小一郎だ、岩を背負い、軽傷《うすで》も負わぬか、たじろぎ[#「たじろぎ」に傍点]もせず、刀を付けて構え込んだ。
「野郎ども!」と英五郎は、はじめて大音を響かせた。「やっつけてしまえ、背後《うしろ》から! 鏖殺《みなごろし》にしろ! 三ピンを!」
 竹槍、棍棒、道中差し、得物をひっさげた百人あまりの乾児、ワーッとばかり鬨の声を上げた。英五郎を先頭に君江までが、武士達の一団へ切り込んだのである。
 しかしこの時何んという、不思議なことが起ったのだろう!
 森の奥から気味の悪い、妖精じみた叫び声が、はっきり二声聞こえたのである。
「お山を穢《けが》すな! お山を穢すな!」
 それからゴーッという音がした。
 それから大水が流れて来た。河というよりも滝というべきで、石を転ばせ木を倒し、灌木の茂みを根こそぎ[#「こそぎ」に傍点]にし、そうして人間を押し流した。小一郎はどうしたろう? 一ツ橋家の武士達はどうしたろう? 英五郎や君江達はどうしたろう?。

 さてその日から数日経った。
 ここは森林の底である。周囲半里はあるだろうか、大きな池が湛えられている。その岸に点々と家がある。
 ひときわ大きな木造家屋は、全く風変りのものであった。一口に云えば和蘭陀《オランダ》風で、柱にも壁にも扉にも、昆虫の図が刻《ほ》ってある。真昼である、陽があたっている。
 と、玄関の戸をひらき、現われた一人の武士がある。何んと一式小一郎ではないか。
 前庭をブラブラ歩き出した。
「いい景色だな、風変りの景色だ。日本の景色とは思われない」
 こんなことを口の中で呟いている。
「小一郎様」
 と呼ぶ声がして、家の背後《うしろ》から現われたのは、笑みを含んだ桔梗様であった。
「ご気分はいかがでございます」
「お蔭で今日はハッキリしました」小一郎は愉快そうに笑い返した。
「憎い大水でございましたことね」
「かえってお蔭で昆虫館へ参られ、私には本望でございましたよ。その上美しい声の主の、あなたにお目にかかれましたのでな」
「おや」と云うと桔梗様は、花壇の方へ眼をやった。四季咲き薔薇の花の蔭から、誰か覗いていたからである。二人の話を盗み聞くように。

        十三

「どうなされました?」と小一郎は、桔梗様の顔を見守った。
「いいえ何んでもございません」こう云ったは桔梗様で、いくらか不安そうな様子である。
 だが覗いていた眼の主は、すぐに姿を消してしまった。コツンコツンと音がする。松葉杖の音である。覗いていたのは吉次らしい。花壇を巡って立ち去ったらしい。
 そこで小一郎と桔梗様とは、大池の方へ歩き出した。
「あの大水には驚きました。幸いに岩蔭におりましたので、私は流されはしませんでしたが、他の連中は一人残らず、流されたことでございましょう」小一郎は笑止らしく云ったものである。
「しかし私も実際のところ、したたか水を飲ませられ、かなりひどい目には合わされましたよ」
「お気の毒でございましたこと」桔梗様は美しく笑ったが、「ご縁があったのでございましょうよ、何んとなく妾心配になり、平素《いつも》にもなく召使いどもを連れて、あの大岩まで行って見ましたところ、綺麗な若いお侍様が――あなたのことでございますよ――気絶しておいで遊ばすので、すぐお助け致しましたものの、父は不機嫌でございました」
「あなたのお父上昆虫館ご主人、ちと変人でございますな。アッハッハッ」と笑ったが、「学者にあり勝ちの憎人主義者のようで。……それはそうとあの大水、人工だそうでございますな?」
「槓杆《こうかん》一本を動かしさえすれば、大池の水が迸《ほとば》しり、流れ出るのでございます」
「とんでもない悪い槓杆で」小一郎はしかし愉快そうである、「いや俗流を追っ払うには、よい考案でございますよ。承われば、その他にも、いろいろの防備がございますそうで」
「はい」と云ったが桔梗様は、それについて話すのを好まないらしい。ヒョイと話題を変えてしまった。
「厭なお方でございますこと」こんな事を云い出した。
「は?」とちょっとばかり[#「ちょっとばかり」に傍点]面喰らったが「どなたでございますな、厭な奴とは?」
「奴などと申しは致しません」――言葉を慎しめと云いたそうに、桔梗様はちょっと睨んだが、
「厭なお方でございますこと」
「は、どうやら私のことのようで?」
「はいはいさようでございますとも」
「すると」小一郎は故意《わざと》らしく、誇張した悲しそうな表情をしたが、「美しいお声の令嬢に、恋を捧げるということは、あなたにはお気に召さないようで」
「嗜好《このみ》に合いませんとも、妾にはね」
 桔梗様も故意《わざ》と空呆けた。「恋には捧げようがございますよ」
「承わりましょう、捧げようを?」
「跪座《ひざまず》くのでございます」
「ああそれではこんなように」突然小一郎は跪座き、両手を上向けて捧げるようにしたが、「お受けくださいまし、私の恋を!」
「騎士《ナイト》よ」と桔梗様は笑いながら云った。「大岩の蔭や小梅田圃などで、むやみと太刀を揮わないように」
「ああなるほど、そのことで、厭な野郎とおっしゃったのは?」
「厭なお方と申しましたのは」
「心得ました。今後は注意! ――で、令嬢よ、私の恋は?」
「お立ちなさりませ! 妾の騎士《ナイト》!」それから片手をつと延ばした。
 その手を握りしめた小一郎は、立ち上がると今度こそ本当に、歓喜の声を上げたものである。
「あああなたは私のものだ!」それから心で考えた。「こんなに早くこの恋が、成り立とうとは思わなかった」
 だが桔梗様は不安そうに、「伴《ともな》いそうでございますよ。恐ろしい恐ろしい危険がね! ああ何んとなく私達の恋には!」
「お信じください」と小一郎は、自分の胸を指さした。「防いでみせます。この楯で」それから両腕を差し出した。「お信じください、この腕を!」
 二人優艶に抱き合おうとした。
 大池へ通う小径《こみち》である。小径の左右は花壇である。早春の花が咲いている。縞水仙の黄金色の花、迎春花の紫の花、椿、寒紅梅、ガラントウス、ところどころに灌木がある。白梅が枝を突っ張っている。貝のような花をつけている。昼の陽が小径に零《こぼ》れている。敷かれた砂がキラキラと光る。二人の影が落ちている。行手に見えるは大池の水で箔を置いたように輝いている。背後に立っているのは昆虫館で、玄関の戸が開いている。窓のカーテンは引かれている。柱や板壁に彫りつけられた、昆虫の模様にも陽が射している。
 と、そこから呼ぶ声がした。「桔梗、桔梗、ちょっとおいで!」
 カーテンが開けられて現われたのは、昆虫館主人の顔であった。

        十四

 桔梗様と別れた小一郎は、大池の方へ歩き出した。胸の中は幸福で一杯であった。
「態《ざま》ア見やがれ南部集五郎め!」こんなことを呟いた。「勝ったよ勝ったよ俺の方が、昆虫館も先に探し出したし、美しい声の主の桔梗様も、お前より先に手に入れてしまった。もっとも今のところ『心』だけだが。その中|身体《からだ》だって手に入れて見せる。だが集五郎めどうしたかしら? 大水に流されて谿《たに》へ落ち死んでしまやアしないかな」それからまたも呟いた。「態ア見やがれ、阪東小篠め! あんな女には用はない!」ここでちょっとばかり憂鬱になった。「だが君江はどうしたろう? 英五郎殿はどうしたろう? 確かにこの俺を助けようとして、あの時大勢でやって来たが、やはり大水に流されたらしい。死にはしないかな、谿へ落ちて。もしそうなら気の毒なものだ」しかし小一郎は諦めることにした。「考えまいよ、そういうことは。現在の幸福に浸ろうよ」
 大池の岸へ出た小一郎は、枯草を敷いて眺めやった。別に変わった池でもない。熔岩だろう黒い岩が、グルリと池を取り巻いている。池の形は楕円形で、いささか人工は加えられているが、天然に出来たものらしい。黒いまでに蒼い水の色、早春の水としては当然である。漣《さざなみ》一つ立っていない。すなわち風が吹かないからだ。ちょうど鞣《なめ》し革でも敷いたようである。一所箔のように輝いている。日光の加減に相違ない。水鳥が幾羽か浮かんでいる。水草がのびのびと流れている。じっと見ていると心が和み、つい恍惚《うっとり》となってしまう。
 池の周囲に点々と、沢山の家が立っている。それとて変わった造りではない。小さな木造の日本家屋である。だがいずれも平屋建てで、障子が白々と陽に光っている。ここの住民は花好きと見え、家々の前庭には花壇があり、早春の花が咲いている。
 池と家とを守護《まも》るようにして、空を摩すような大森林が、錆びた鉄のような頑丈な幹と、黒曜石のような黒い葉とで、周囲をグルリと取り巻いているのは、まさしく偉観と云ってよかった。で、この場の風景は、こんなように形容することが出来る。大森林という円筒の中に、穏かな池と可愛らしい家と、そうして美しい花壇とが、こっぽり[#「こっぽり」に傍点]囲まれて出来ていて、そこで大勢の人達が、さも愉快そうに働いていると。――
 全く大勢の人達が、そこで働いているのであった。家の中にも人がいる。家の外にも人がいる。みんなクルクルと動き廻わっている。男もいれば女もいる、年寄りもいれば子供もいる。笑い声、話し声、唄い声、それが快い合唱《コーラス》となって、大池の方へ蒔かれている。何を働いているのだろう? 昆虫館の館主のために、各自の仕事をしているらしい。
 森林にかこまれているためか、寒い風など吹いて来ない。季節はたしかに一月だが、気候から云えば三月のようだ。いい天気だ、あたり明るく、小鳥が八方で啼いている。桃源境! 別天地! だが不具者《かたわもの》の社会でもあった。
 と云うのはそうやって働いている、大勢の人間の一人一人が、片耳であったり片足であったり、てんぼう[#「てんぼう」に傍点]であったり盲目《めくら》であったり、唖者《おし》であったり聾者《つんぼ》であったり、満足な人間はないからであった。
 想うに碩学昆虫館主人が、世の廃人《すたれもの》を拾い集め、ここに別社会を建設し、何らか事業をしているのらしい。
 だが遠くから見ていると、不具者《かたわもの》などとは思われない。みんな健康《たっしゃ》そうな人間に見える。
「平和で長閑で美しい。いい境地だ。住みよさそうだ」うっとりしながら小一郎は、こんなことを考えた。「あの桔梗様と婚礼をし、あの学者を舅に持ち、ここでいつまでも住みたいものだ」
 少し睡気《ねむけ》がさして来た。横になろうとした。しかしその時近寄って来る、人の気勢《けはい》が感じられた。コツンコツンと松葉杖の音が、灌木の叢の裾を巡り、現われたのは片足の吉次で、小一郎の前へ立ち止まると、不遜な目付きでジロジロと、小一郎の体を嘗め廻わしたが、
「騎士《ナイト》よ」と云い出したものである。それから嗄《しゃが》れ声で笑い出してしまった。笑いおえると云ったものである。「ここ神秘なる昆虫館で、厳重に禁じられているものを、一式氏にはご存知ないと見える」
「厭な奴だな」と小一郎は、快い睡気を醒ましたが、明るくて皮肉な性質である。負けずに云い返した。
「拙者新米、昆虫館の掟、さようさ、とんと[#「とんと」に傍点]存じませんて」
「そうらしいの」と片足の吉次は、いよいよ不遜な態度をとったが、「穢してはならぬよ! 女王をな! 女王との恋は禁じられているよ」
「ははん、さようか、それはそれは」一式小一郎はこう云ったが、女王が何者だかということは、すぐに推察することが出来た。

        十五

 そこで小一郎は云い出した。
「穢しはせぬよ、崇めるばかりだ」
「それがいけない」と片足の吉次は、「崇めた後では穢すものさ」
「名言」と小一郎は一笑してしまった。「君の人情観察には、徹底したものがあるらしい。で、一応は受け入れて置こう」
「守らっしゃい!」と押し付けるような声で、吉次はグッとたしなめ[#「たしなめ」に傍点]にかかった。「いっそ昆虫館をお立ち去りなされ!」
「さあてね」と小一郎は、わざと困ったような顔をしたが、「女王殿下が許しましょうかしら?」
「ソレソレソレ、それが悪い!」吉次は今度は叱るように、「許すもない、許さないもない、本来神秘昆虫館へは、下界の人間を入れぬが規則、そいつを破って貴殿一人を、ここへ住居を許したのは、桔梗様特別のお慈悲だからだ」
「だからよ」と小一郎は冷《ひや》っこく、「その桔梗様がこの拙者を、お放しなさるまいと云っているのさ」
「だからよ」と吉次も云い返した。「そういうお慈悲深い桔梗様だ、恋してはならぬ、手を取ってはならぬ、うむ、そうして跪座《ひざまず》いてはならぬ」
「ははあ隙見をしていたな」
「見守っていたのだ、厳しくな!」
「手を下されたのは桔梗様だ」
「お前がそれを強請《せが》んだからさ」
「恋の告白をしただけさ」
「オイ」と吉次は憎々しく、「この昆虫館にいるほどの者で、誰一人として桔梗様を、恋していない者はないのだよ。ただそいつを云い出さないまでさ!」
「そこでこの俺が云い出したのさ」
「そうだ、外来者の外道めが!」
「外道、よかろう、恋の勝利者!」
「俺が許さぬ!」とヌッと吉次は、松葉杖を上げると進み出た。
「俺が許さぬ! な、俺が!」
 だがどうやら小一郎には、一向それが風馬牛らしい。「いったいお前は何者かな? 兄か、弟か、桔梗様の?」
「世にも忠実なる女王の僕《しもべ》さ!」これが吉次の返辞であった。
「そうか」と小一郎はゲラゲラ笑い、「引き立ててやろう、この俺がだ! 女王の※[#「馬+付」、第4水準2-92-84]馬《ふば》になった時!」
 怒るかと思ったら反対であった。片足の吉次は、声を窃《ひそ》め、諂《へつら》うように頼むように、囁くような声で云ったものである。
「まあさまあさ小一郎殿、角目立つのは止めにしましょう。お互いろくなことはありませんからな。で、今度はご相談、いやいやむしろお願いでござる。と云うのは他でもないが、今も私申しました通り、昆虫館に住むほどの者で、あのお美しい桔梗様を、愛し崇めていない者は、一人もないのでございますよ。まさしく文字通り女王様でござる。だからどうしてもあの方だけは、永遠の処女で置かなければ、治まりがつかないのでございますよ。一人が占有しようものなら、それこそ誰も彼も怒りますて。まして貴殿は外来者、そうでなくてさえ白い眼で、みんなに見られているのでござる。そういう貴殿が占有したとあっては、昆虫館住民一斉に、騒ぎ立てるは見たようなもの、これが私には心配でな……。で願わくば昆虫館を、至急お立ち去りくだされたいもので」ここで上眼を使ったが、さらに一段声を窃め、「それが厭だとおっしゃるなら、よろしいよろしいお住居《すまい》なされ。ただし充分ご注意くだされ、今後は決して桔梗様の側へ、お立ち寄りなどなさいませんよう。そうして」と云うと狡猾らしく、二、三度|眼瞼《まぶた》を叩いたが、「そうしてどうぞ桔梗様へ、このようにおっしゃっていただきたいもので、『先刻下されたあの御手は、何かのお間違いかと存ぜられます。で、私におきましては、失礼ながらあなた様との恋は、この際お断わり致します』とな。……そうするといつまでもこの里は、平和を保つことが出来ますので」
 こう云われて見れば小一郎も、一思案せざるを得なかった。
「なるほどな、そんなものかも知れない」心の中で呟いた。「昆虫館住民一人残らず、桔梗様を崇めているという、これには嘘はなさそうだ。外来者の俺が占有したら、たしかに不快に思うだろう。せっかくの平和が破れるだろう。こうなっては仕方がない。惜しい恋人ではあるけれど、桔梗様を見棄ててここを去ろう。そうして一まず関宿へ帰り、角屋の安否を尋ねて見よう。それから江戸へ帰るとしよう。だが待てよ」と小一郎は、吉次の顔をつくづくと見た。「醜貌ながらも智恵ありげだ。それもどうやら邪智らしい。こいつの言葉をそのままに、はたして受け取っていいだろうか?」ふとこの点へ気が付いた。
 と、早くも片足の吉次は、小一郎の心中を読んだらしい。ヒョイと二、三歩飛び退ると、俄然態度を一変した。

        十六

「ふふん」とまずもって片足の吉次は、毒々しく笑ったものである。
「承知《きく》か、それとも断わるか、俺の云うこと、どうだどうだ! もしも」と云うとピョンピョンと、二足ばかり飛び出したが、「断わると云うなら覚悟がある! 落ち下るぞよ、恐ろしい危険が! しかも即座だ! さあ返答!」
 云いながら奇妙にも全身を、満足の一本の足の方へ、そろりそろりと傾けて来た。
「はたしてこいつ奸物だわい」見抜いた一式小一郎は、グンと突っ刎ねたものである。「恋も捨てぬよ、この地へも止どまる、アッハッハッ、気の毒だなア」
「きっとか!」と吉次は、いよいよ益※[#二の字点、1-2-22]、片足へ全身をもたせかけたが、心持ち両肩を縮めると、首を突き出し、上眼を使い、狙ったは小一郎の頤の辺。「見損なうなよ、この吉次を!」
「見損なうなよ、一式小一郎を」
 とたんに、「うん!」という凄い呻きが、吉次の口から迸しったが、瞬間ピューッと空を裂き、刎ね上がったは松葉杖で、ピカッと光ったは杖の先に、取り付けてある鋼鉄《はがね》の環、それとて尋常なものではない、無数の鋭い金属性の棘で、鎧《よろ》われたところの環である。意外な利器、素晴らしい手並み、しかも呼吸の辛辣さ、武道以外の神妙の武道!
「あっ」と叫んだは小一郎で、微塵に下頤を叩っ壊され、上下の歯を吹き飛ばし、舌を噛み切り血嘔吐《ちへど》を吐き、グ――ッ背後態《うしろざま》にへたばったなら、ヤクザな武士と云わなければならない。何んの小一郎が、そんな武士なものか、「あっ」と叫んだ一刹那、大略《おおよそ》二間背後の方へ、束《そく》に飛び返っていたのである。
 柄へ片手はかけたものの、抜こうともせず悠然と、吉次の様子を眺めやった。
 すると吉次は、一本足で立ち、高々と松葉杖を振り上げたが、姿勢の立派さ、驚くばかり、地へ生え抜いた樫の木だ。と、そろそろと松葉杖を、下へ下へと下ろして来た。トンと突くと倚《よ》っかかり、して云い出したものである。
「見事、さすがは、一式氏、よく避けましたな、拙者の一撃! 百に一人もなかった筈だ。だが……」と云うとピョンピョンと飛んだ。「二撃がある、三撃がある、四撃五撃といつまでも襲う! 遁がさぬぞよ、遁がすものか! 逃げたら卑怯、武士とは云わせぬ! さあ抜け抜け、汝《うぬ》も抜け!」
 小一郎の前方約一間、そこまで迫って来た片足の吉次は、例によって全身を左へ傾け、一本の足で支えたが、ジリジリジリジリと松葉杖を、上へ上へと上げて来る。狙いはどこだ。解らない! ただジリジリと上げて来る。
「ちょっと凄い」と小一郎は、睨み付けながら考えた。「足か、胴か、横面か、それとも頤か、さっきのように。……あいつ[#「あいつ」に傍点]を受けたら粉微塵、骨肉共にけし[#「けし」に傍点]飛ぶだろう。……習った武道とは思われない。あしらいにくいよそれだけに。……切って捨てるに訳はないが、しかし相手は片輪者、それに昆虫館土着の人間、非難が起ころう、討ち果たしてはな」
 思案に余ってしまったのである。
 その間もジリジリと松葉杖は、上へ上へと上がって来る。一尺二尺、さて三尺! と、グ――ッと振り冠った。光るは棘のある環である。陽に反射してキラキラキラキラと、非常に綺麗な宝石のようだ。そうして吉次は、一本足で、ヌ――ッと突っ立ち微動もしない。例によって樫の木、生え抜いたようだ。
 と、何んとその吉次であるが、翻然片足を刎ね返すと、小一郎の正面三尺の地点、そこまで飛び込んで来たではないか。
 同時に「うん」という例の呻きが、吉次の口から迸しるや、シ――ン真っ向から松葉杖が、小一郎の脳天へ降り下ろされた。
 ひっ[#「ひっ」に傍点]外して[#「ひっ[#「ひっ」に傍点]外して」は底本では「ひっ外[#「っ外」に傍点]して」]右へ小一郎が、飛び交うのを追っかけた吉次の、その素早さ、どうでも妖怪、二本足のある人間より、遙かに遙かに遙かに早い。
「ド、どうだア――ッ」と松葉杖で、一式小一郎の足を払った。
 きわどく、左転、小一郎は、飛び交《ちが》ったが決心した。
「もういけない、叩っ切ってやろう!」
 腰を捻ったおりからであった、「一式様」と、呼ぶ声がした。つづいて、「吉次や!」と同じ声がした。
 すがすがしい桔梗様の声である。
 その桔梗様は花壇を巡り、二人の方へ近寄って来た。
「お話しいたしたいと申しまして、父が待っておられます。おいでくださいまし、一式様」
 吉次の方へ顔を向けた。
「行って砂糖をやっておくれ、蜜蜂を飢えさせていけません」

        十七

 ここは昆虫館館主の部屋で、和蘭陀《オランダ》風に装飾《よそお》われている。壁に懸けられたは壁掛けである。昆虫の刺繍が施されてある。諸所に額がある。昆虫の絵が描かれてある。天井にも模様が描かれてある。その模様も昆虫である。戸外《そと》に向かって二つの窓、その窓縁にも昆虫の図が、非常に手際よく彫刻《ほ》られてある。窓を通して眺められるのは、前庭に咲いている花壇の花で、仄かな芳香が馨って来る。長椅子、卓子《テーブル》、肘掛椅子、暖炉、書棚、和蘭陀《オランダ》箪笥、いろいろの調度や器具の類が、整然と位置を保っている。特に大きいのは書棚である。幅一間、高さ一間半、そんなにも大きい頑丈な書棚が、三|個《つ》並列して置かれてある。だがそれでも足りないと見え、塗り込めになっている書棚があり、昆虫を刺繍した真紅《まっか》の垂《た》れ布《ぬの》が、ダラリと襞をなしてかかっている。いやそれでも足りないと見え、二|個《つ》の瀟洒とした廻転書架が、部屋の片隅に置かれてある。さてそれらの書棚であるが、日本の書籍などきわめて少く、大方洋書と漢書とで、ふくれ[#「ふくれ」に傍点]上がるほど充たされている。
 パチパチパチパチと音がする。暖炉で燃えている火の音である。暖炉の上に置かれてある花は、五月に咲くというトリテリヤである。温室花に相違ない。床には絨緞が敷かれてある。やはり昆虫の模様があり、その地色は薄緑である。
 それは黒檀に相違あるまい、しなやか[#「しなやか」に傍点]に作られた卓子《テーブル》の上に、幾個もの虫箱が置いてある。いや虫箱はそればかりではない。ほとんど無数に天井から、絹紐をもって釣り下げられてある。で、この部屋へはいる者は、多少頭を下げなければ、その虫箱に額をぶッつけ[#「ぶッつけ」に傍点]、軽傷を負わなければならないだろう。
 一方の壁に扉がある。隣り部屋へ通う扉らしい。
「誓ってこの扉をひらくべからず」
 こういう張り紙が張られてある。秘密の部屋に相違ない。
 もう一つの壁にも扉がある。それは廊下への出入口で、その扉にも昆虫の図が、彫刻《ほ》られてあることはいうまでもない。
 窓から日光が射し込んでいる。その日光に照らされて、書き物|卓子《づくえ》が明るく輝き、一枚の図案を照らしている。図案というより模様と云った方がいい。微妙な単純な斑紋を持った、一個《ひとつ》の蝶の模様である。絵と云った方がよいかも知れない。
 長椅子にゆったり腰かけながら、話しているのは昆虫館主人で、鵞ペンを指先で弄んでいる。大分機嫌がいいらしい。
「……あなたは全くいい人だ。あなたのような人物なら、決して私は苦情は云わない。いつまでも昆虫館においでください。……だが恐らくあなたとしては、さぞ不思議に思われましょうな。私のこういう生活と、そうしてここの社会とが。……第一住んでいる人間が、私と桔梗とを抜かしてしまえば、全部が全部|不具者《かたわもの》というのが、不思議に思われるに相違ありますまいな。だがこれとて何んでもないことで、由来不具者というものは、その肉体が不具《かたわ》だけに、心も不具だと思われていますが、これはとんでもない間違いなので、本当のところは正反対ですよ。肉体が不具であるだけに、心の中にひけめ[#「ひけめ」に傍点]があり、傲慢にならずに謙遜になります。人を憎まず、愛されようとします。ところが一般世間なるものは、そういう心持ちを理解せずに、肉体が不具だという点で、その不具者を軽蔑しますね。これが非常によくないことで、これあるがために不具者達は、僻み心を起こすのです。だから私としてはこういうことが云えます。健全な肉体の持ち主こそ、かえって心は不具者で、不具な肉体の持ち主こそ、その心は健全であるとね。そこで私は考えたのです。不具者ばかりを寄せ集め、一つの独立した社会を作ろう、そうしてそういう人達に、思う存分働いて貰い、私の研究をつづけて行こう。……と、こんなようにお話ししたら、この昆虫館の組織なるものが、奇もない変もない合理的なものだと、きっとあなただって思われるでしょうな。そうしてそれはそうなのですよ。……さてところで私の研究ですが、これとて何んでもありゃアしません。私の好きなは昆虫なので、その昆虫の生活状態を、科学的に徹底的に研究してみよう、そうしてその結果法則を見出し、それが人生に必要なものなら、早速人生に応用してみよう。――と云うぐらいなものなのでね。……この試みは成功でした。蜂と蟻との集団生活、この二つを知ることによって、理想的人間の生活の、法則を知ることが出来ましたよ。で、その中あなたへも、お話ししようとは思っていますが、一口に云えばこうなるようです。王への忠誠、公平の労働、完全の分業、協同的動作、等、等、等、といったようなものでね。いや実際人間などより、どんなにか昆虫の生活の方が、正しくて平等だか知れませんよ」
 学者らしい淡々とした口調である。
 向かい合って椅子へ腰をかけ、聞いているのは一式小一郎で、その顔付きは熱心である。

        十八

「だがご主人」と小一郎は、躊躇しながらも訊いてみた。「世間の噂によりますと、永生の蝶とかいう不思議な蝶が、この昆虫館にはありますそうで、どういう蝶なのでございましょう?」
 するとにわかに昆虫館主人は、いくらか憂鬱な顔をしたが、「結局私にも解らないのです」
「ははあ」と云ったが一式小一郎は、ちょっと物足りない思いがした。
「雄と雌との二匹がいて、二つを交尾《つが》えて子を産ませた時、莫大な財宝を得られるという、伝説的の蝶だそうで?」
「あれは絶対に子を産みませんよ」どうしたものか昆虫館主人は、こうにべもなく云ったものである。
「人工的蝶でございますからな」
「ははあなるほど、人工的なもので?」
「だがやっぱり生きてはいます」
 これは小一郎には解らなかった。
「では人間の力をもって、生命というものは作れますもので?」
「さあそいつ[#「そいつ」に傍点]も解らない」主人はいよいよ憂鬱になったが、「とにかくあの蝶は人工的のもので、非常な大昔に作られたものです。しかしやっぱり活きてはいます。だが絶対に子は産みません。しかしひょっとか[#「ひょっとか」に傍点]すると[#「しかしひょっとか[#「ひょっとか」に傍点]すると」は底本では「しかしひょっ[#「かしひょっ」に傍点]とかすると」]産むかもしれない。それとて普通に云われている、子というものとは違いますなあ。千古の秘密は持っています。だがその謎は解けませんよ。私にさえ解けなかった謎ですからな。しかも不覚にもこの私は、雄蝶の方を逃がしてしまいました」
「ああその雄蝶をお探しになるため、小梅田圃などへ参られましたので。……それにしてもあの時お声だけ聞こえて、お姿の見えなかったのはどうしたのでしょう?」
「藪の中にはいっていたからですよ」
 こう聞いてみれば何んでもなかった。むしろ飽気《あっけ》ないくらいである。
 しばらく部屋の中はしずかである。働きながら唄っているらしい、昆虫館住民の歌声が、窓を通して聞こえて来る。平和と喜びの歌声である。
 と、不意に昆虫館主人は、卓上の図案を指さしたが、
「これでござるよ、一式氏、行衛を失なった雄蝶というのは」声がにわかに威厳を持って来た。
 そこで一式小一郎は、じっと図案を眺めやった。翅《はね》に付いている斑紋が、とりわけ小一郎には奇妙に見えた。普通の蝶の斑紋ではない。それは地図のような斑紋である。どんな人間でも一眼見たら、オヤと思わざるを得ないほど、変わった斑紋と云ってよい。
「奇妙な斑紋でございますな」
「さよう」と主人は頷いたが、「もう一匹の蝶の翅《はね》にも、これに似た斑紋がありましてな、どうやら私の考えによれば、どこかの地図かと思われますよ」
 でまた部屋の中がしずかになった。やっぱり歌声が聞こえて来る。窓から花の香が馨って来る。早春などとは思われない。汗ばむほどに暖かい。どうでも酣《たけなわ》の春のようだ。
「それに致しても」と小一郎は不審《いぶか》しそうに訊き出した。
「どうして先生にはそんな蝶を、お手に入れられたのでございますかな?」
「さあ」と云ったが昆虫館主人は、ここで沈黙をしてしまった。と、気軽に云い出した。「和蘭陀の首府ブラッセル、そこで偶然手に入れましたよ」それからこだわらず[#「こだわらず」に傍点]に云いつづけた。
「私はこれでも名門でな、門地から云えば徳川の連枝、もっとも三代将軍の頃、故あって家は潰されましたが、血統だけは今に続き、まず私が直系の後胤、青年の頃から欧羅巴《ヨーロッパ》へ渡り、そこで一通り昆虫学を学び、帰朝したのは最近のことで。……がマアそれはどうでもよい、ところで問題の雌雄の蝶だが、これは決して外国産ではなく、作られたのは間違いなく日本、それから朝鮮、支那を経て、和蘭陀の国へ渡ったようです。証拠もいろいろありますが、それは専門に属していることで、お話ししても解りますまい。……これは可笑《おか》しい!」
 と昆虫館主人は、にわかに長椅子から突っ立ち上がった。
「敏感な麝香《じゃこう》虫が騒ぎ出した」スルスルと窓まで走ったが、「困ったことだ! 何か起こる! 俺には解る、大事件が起こる!」

 ちょうどこの頃のことである。片手の小男が馬に乗り、関宿《せきやど》とは反対の方角から、大森林を上へ上へと、昆虫館を目差して走っていた。非常に周章《あわ》てているらしい。非常に恐怖しているらしい。
「さあ大変だ大変だ、早く先生へお告げしなければならない。攻めて来る攻めて来る彼奴《きゃつ》らが!」
 こんなことを口の中で呟いている。馬術は精妙、木立をくぐり、険路を突破して走って来る。
 やがて間もなくこの伝騎は昆虫館へ馳せ付けるだろう、そうしたら何かが語られるだろう。美しい平和な昆虫館に、そのため騒動が起こらなければよいが。
 伝騎が着いた。小男が叫んだ。――
「ご用心なさりませ、山尼《やまあま》の徒が、続々入り込んで参りました!」

        十九

「昆虫館閉鎖は山尼《やまあま》の徒の為なり」
 こう古文書に記されてある。
 山尼というのは何んだろう? いわゆる山姥《やまうば》の別名なのだろうか? それはハッキリ解らない。とにかく山間に住んでいる、一種の神秘的の人間らしい。どうしてそういう山尼の徒が、昆虫館を閉ざしたのだろう? それもハッキリ解らない。ただし昆虫館を閉ざしたのは、むしろ館主自身なのであった。
「山尼の徒が攻めて来た!」――伝騎が昆虫館へ知らせて来ると共に、次のような事件が起こったのである。
(一)「とうとう俺の心配していた、恐ろしい敵が攻めて来た。戦えばこっちの負けである。彼らはこの俺から永生の蝶を、手放させようとしているのだ。これはどうでも放さなければならない」こう云いながら昆虫館館主が、一匹残っていた雌蝶の方を、空高く放してやった事。
(二)「昆虫館は閉鎖する。館民は自由に立ち去るがいい」こう云いながら昆虫館館主が、建物の内へ引き籠ったので、多くの集まっていた片輪者達が、館を見すてて立ち去った事。
(三)ただし助手の吉次だけが、一人頑固に居残った事。
(四)桔梗様も父の館主と共に、昆虫館の内へ籠ってしまった事。
(五)そこで一式小一郎は、一旦関宿へ引っ返し、水難を遁がれた英五郎や君江と、再び顔を合わせた事。
 美しくて平和で神秘的であった昆虫館という別社会は、こうして実に一朝にして、寂寞の天地に化したのであった。

 さてその日から十日ほど経ったあるよく晴れた快い日に、一人の武士が馬に乗り、一人の女馬子が手綱を引き、三浦半島の野の路を、江戸の方へ向かって辿っていた。
 武士は一式小一郎で、そうして女馬子は君江であった。
「もうお帰りなさいまし」こう云ったのは小一郎である。
 君江は笑って聞こうともしない。「いいえお送り致します」
 そこで小一郎は揶揄《からか》うように、「かえって迷惑でございますよ」
 君江は承知だというように、「お気の毒さまでございますこと」
 今度は小一郎怒ったように、「ちと無礼ではございませんかな」
「まんざらそうでもございますまい」君江は少しも動じない。
 シャン、シャン、シャンと鈴の音、カバ、カバ、カバと蹄の音、二人の旅はつづいて行く。
「どこまでお送りくださるので?」やがて小一郎はこう訊いた。
「はい、どこへでも、あなたまかせ」君江の返辞はハッキリしている。
「拙者、江戸表へ帰ります」
「それでは江戸までお送りします」
「いささか執拗ではござらぬかな」小一郎は今度は窘《たしな》めにかかった。
「妾の性質でございます」依然として君江は驚かない。
「江戸までお送りくださるとして、一人で帰られるのは寂しかろうに」小一郎は今度は同情してしまった。
「何んの妾帰りましょう」
「え?」と小一郎は訊き返した。
「妾、いつまでもお側にいます」
「ははあさようで、それはそれは、しかし拙者は江戸へ帰れば、父の邸へ入るつもりで」
「お小間使いとなって住み込みます」君江は益※[#二の字点、1-2-22]長閑そうである。
「驚きましたな」と小一郎はほんとにひどく[#「ひどく」に傍点]驚いてしまった。「誰が小間使いに頼みますので?」
「ホ、ホ、ホ、ホ、あなた様が」
「いやはやどうも」と小一郎はさらに驚きを重ねたが、「拙者決して雇いませんな」
「何んのお雇いなさいますとも」君江はすっかり安心している。「こんないい小間使いでございますもの」
 ――どうにもこうにもやり切れない――小一郎は当惑したものである。そこで改めて云って見た。「いやいや拙者江戸へ帰っても、父の邸へは入りますまい。一戸を借り受け所帯を張ります。さよう剣術の道場をな、荒くれ男達が出入りしましょう」
 こいつを聞くと娘の君江は、さも嬉しそうに晴々《はればれ》と云った。
「まあまあ結構でございますこと、それでは妾妹として、お勝手の切り盛りを致しましょう」
 ――最初《はな》からこの娘には嚇されたが、どうやら最後《きり》まで嚇されそうだ。――さすがの一式小一郎も、微苦笑せざるを得なかった。

        二十

 だが一式小一郎には、君江の心が解っていた。「無茶苦茶にこの俺を愛しているのさ」
 そうしてそれは小一郎にとっては、決して不愉快ではないのであった。否々むしろ嬉しいのであった。
「何んと云っても風変りの娘さ。こんな娘と所帯を持ち、町家住居をやらかしたら、とんだ面白い日が暮らせるかもしれない」
 そうはいっても小一郎には、桔梗様のことが忘れられなかった。「あの桔梗様の美しさは、いわば類《たぐい》稀れなるものだ。君江などとは比べものにはならない」とはいえ今に至っては、どうすることも出来なかった。「それにしてもどうして桔梗様は、この俺の恋を入れながら、この俺と一緒に来ようとはせず、昆虫館などへ残ったのだろう?」これがどうにも不平であった。「恋人の愛より親の愛の方が、魅力があったというものかな?」そうとしかとるより仕方なかった。「若い娘というものは、親の愛なんか蹴飛ばしても、愛人の方へ来るものだと、俺は今日まで思っていたが、どうもね、今度は失敗したよ」それが不服でならなかった。
 にわかに小一郎は馬の上で、ク、ク、クッと笑い出してしまった。
「何んの馬鹿らしい、考えてみれば、せっかく昆虫館をさがし中《あ》てた結果、いったい何を得たかというに、あの『騎士《ナイト》よ』という言葉だけだったってものさ」
 自嘲的にならざるを得なかった。
「何をお笑いなさいます?」君江はちょっとばかり怪訝そうに訊いた。
「騎士《ナイト》よ、騎士《ナイト》よ、ハッハッハッ、こんな言葉を覚えましたので」
「綺麗な言葉でございますこと」
「その癖中身はからっぽ[#「からっぽ」に傍点]で」
「どういう意味なのでございましょう?」
「恋人の前へ跪坐《ひざまず》き、恋人のお手々を頂戴し、そのあげくお手々をふんだくられ[#「ふんだくられ」に傍点]、ひどい目に会わされるさむらい[#「さむらい」に傍点]の、毛唐語だそうでございますよ。云ってみればちょうど拙者のようなもので」
「可哀そうな可哀そうな可哀そうな騎士《ナイト》!」
「可哀そうな可哀そうな可哀そうな拙者!」
「でも、妾なら裏切りません」
「また拙者にしてからが、あなたの前では跪坐《ひざまず》きません」
「好きでございます、そういうお方こそ。……女を認めないで虐めるお方! 本当の男でございます」
 二人の旅はつづいて行く。
 ふと小一郎は気になった。
「ご両親はご承知でございましょうな? あなたが拙者と住むことを?」
「妾、勘定に入れませんでした」
「ああ」と思わず小一郎は、嘆息の声を筒抜かせた。それから口の中で呟いた。「何も彼も一切反対だ、あの桔梗様とこの君江とは」
 二月《きさらぎ》である。野は寒い。枯草がサラサラと戦《そよ》いでいる。山々が固黒く縮こまっている。花などどこにも咲いていない。旅人の姿も見あたらない。ひっそり閑とただ寂しい。
 シャン、シャン、シャン……カバ、カバ、カバ、この音ばかりが響き渡る。二人ながら今は黙ってしまった。江戸へ江戸へと歩いて行く。が、このまま江戸入りをしたら、奇もなければ変もない、平凡な旅だと云わなければなるまい。ところが一つの事件が起こった。と云うのは林へ差しかかった時、枯葉でもあろうヒラヒラと、一葉の葉が舞って来た。全く無意識というやつである、ヒョイと小一郎は右手を出し、パッとばかりに掌で受けた。
 と、落ちて来たその木の葉であるが、掌の上に静もったが……
 見れば!
 蝶だ!
 季節違いの!
「ううむ」と小一郎は翅を見た。「斑紋がある! あの斑紋!」それからホーッと吐息をした。
「ああこれこそ永生の蝶!」
 さてこの蝶を得たばかりに、江戸入りをした小一郎はさまざまの危難に遭遇し、その剣侠の剣侠たる所以《ゆえん》を、縦横に発揮することになった。

        二十一

 春がやって来て春が去り、江戸の町々は初夏となった。
 ここは深川上の橋附近の、中洲の渡《わた》しに程近い地点で、そこにささやかな町道場があった。道場の主人は一式小一郎で、君江と二人で住んでいる。一人甚吉という下男がいる。内弟子もない質素な住居――と云いたいがそうでもない、いろいろの人間が集まって来た。浪人、遊び人、小旗本の次男、仲のよい田安家の友人達、安御家人《やすごけにん》やごろん[#「ごろん」に傍点]棒、剣術好きの町家の番頭、それから勇みの鳶の者。
 鐘巻《かねまき》流剣道指南。
 門に看板が上がっている。
 時々竹刀の音もするが、それより無駄話や高笑いの方が、一層繁く聞こえて来た。
 剣道指南所というよりも、倶楽部と云った方がよさそうである。
「父親から仕送りが来るんだよ、束脩《そくしゅう》や月謝なんか宛《あて》にするものか」
 これが小一郎の心持ちであった。
 父清左衛門云って曰く、「どうせお前は次男の身分だ。養子に行くか別家するか、どうかしなければならないのだが、どっちもお前には適しないらしい。戦国の世にでも産まれたら、小城の主ぐらいにはなれたかもしれない。ちょっと当世には向かない性《たち》だ。遊侠の徒になるもよかろう。町道場をひらくもいい。好きな娘とくらすもいい。そうしてそうやってくらしていることが、やがては君侯田安家のおために、ならないこともなかろうからな。いろいろの人間と交わって、沢山同志をつくるもよかろう。台所の方は引き受けたよ。まさかお前に食い潰されもしまい」
 こういう背後楯《うしろだて》があるのである。小一郎たるもの喜ばざるを得ない。
 とはいえ一式小一郎は、そういう父の寛大に付け込み、暢気《のんき》に遊んでいるような、そんなナマクラな人物ではなかった。
「手に入れた永生の蝶の秘密を、是非とも解いて見たいものだ」――こいつに腐心をしているのであった。
 さてその永生の蝶であるが、まことに不思議なものであった。たしかにそいつは生きていた。呼吸もしていれば脈搏っている。しかし翅から肢体から、普通の蝶とはまるで異う。普通の蝶のように軟らかくない。鋼鉄で造られているのである。――いや鋼鉄で造られていると、そう云わなければ云いようのないほど、特殊の堅い物質で、精巧に造られているのである。
 それは実際こういうことが出来る。
 ――生命を持った人工の蝶と!
 火にくべても焼けそうもなく、水へ入れても溺れそうになく、懐中《ふところ》へ入れて抱きしめても、潰れもしなければ死にもしない。
 水も飲めば砂糖も食べる、そうして部屋の中を舞い遊ぶ、指を差し出せば指へも止まる、そうかと思うと幾日も幾日も、一つ所に静まっている。
 普通の蝶のように驚き易く、その上もなく敏感かと思うと、無生物のように鈍感でもある。
「奇怪な存在」と云わざるを得ない。
「だがいったいこの蝶は、雄蝶の方だろうか雌蝶の方だろうか?」これが小一郎には疑問であった。「もしこいつが雄蝶だとすれば、昆虫館から盗まれたものだし、もしもこいつが雌蝶だとすれば、昆虫館主が逃がしたものだ」しかし遺憾ながら小一郎には、雌雄の見分けが付かなかった。「昆虫館主の話によれば、翅に置いてある斑紋が、非常に大切だということだが、どうしてこんな斑紋が、そんなにまでも大切なんだろう?」――小一郎の手に入れた蝶の翅にも、地図のような斑紋が置いてあった。
「盗まれたという雄蝶の翅に、置いてあったという斑紋を、俺は昆虫館館主の部屋で、昆虫館主によって見せられたが、その斑紋と非常に似ている。ではこの蝶は雄蝶だろうか? しかしその時昆虫館主は、もう一匹の雌蝶の翅にも、そっくりの斑紋があると云った。ではこの蝶は雌蝶かも知れない。……俺は実際惜しいことをしたよ、あの時見せられた雄蝶の斑紋を、もっと詳しく見て置けばよかった。不幸にも俺は瞥見しただけだ。で、ハッキリとは覚えていない。で、この蝶の斑紋が、雄蝶の斑紋だとは云い切れない。そうして一方雌蝶の方は、俺は全然見ていない。だが」と小一郎は考えた。「雄蝶であろうと雌蝶であろうと、そんな事は結局どうでもいい。是非ともこの際必要なのは、もう一匹蝶を目付けることだ」
 ところがこの蝶を手に入れて以来、そうして道場を持って以来、次々に左のような奇怪なことが、小一郎の身の上に起こって来た。
(一)絶えず何者か小一郎の家を、深夜になると立ち廻わる事。
(二)一回夜の往来で、何者か小一郎を襲った事。
(三)一回小一郎の不在中に、何者か小一郎の家を襲い、乱暴狼藉を極めた事。
(四)そのつど不思議な美人が現われ、小一郎を危難から救った事。
(五)敵の中にも美人がいて、それが指図をしていた事。

        二十二

 第一の場合はこうであった。
 夜更け人帰り寝静まった頃、家の周囲を忍びやかに、幾人かの者が歩き廻わり、囁き合ったり合図し合ったり、どうやら家の中へ忍び込もうとする、そういう気勢を示すのであった。ある夜の如きは厳重な雨戸が、自然にス――と開いたかと思うと、長い白布がヒラヒラと、生あるもののように入り込んで来て、パッと消滅したりした。突然窓があくこともあった。そうしてそこから袋のような物が、ヒョイと「顔」を覗かせたりした。そうかと思うと若い女の声で「経」を読むのが聞こえたりした。もっともその「経」は意味の解らない、呪文のようなものであったけれど……
 第二の場合はこうであった。
 ある夜一式小一郎は、お茶の水の辺を歩いていた。と突然七、八人の武士が、お誂え通りの黒装束で、木蔭からムラムラと現われたかと思うと、刀を抜き連れて切ってかかった。何者? と訊いたが答えがない。止むを得ず小一郎も刀を抜き、峯打ちに二、三人叩き倒した。と、若々しい女の声で「妾にお任せよ」というのが聞こえ、それと同時に長い白布が、ヒラヒラと小一郎の方へ延びて来た。と思った瞬間に、小一郎はポッと気が遠くなり、グッタリ地上へ倒れてしまった。それからどうやら武士達は、小一郎の体を調べたらしい。そんなように小一郎には感じられた。「持っていないよ。残念だね」こう云う女の声もした。それから幾刻経ったろうか、誰かが介抱するようであった。で、ポッカリ眼を覚ますと、やはり黒装束で身を固めた、五、六人の武士が並んでいたがそれは敵ではなさそうであった。
「我ら介抱いたしてござる。ひどい目に会われたな、ご用心なされ」
 こう云いすてると立ち去ってしまった。たしかにその中に一人の女が、立ち雑《まじ》っているように思われた。
 第三の場合はこうである。――
 ある夜友人の一人から、一杯飲もうという使いが来たので、指定された茶屋へ行ってみた。ところが友人はやって来ない。酒を命じ女をよび、夜の更けるまで待ってみたが、さらに友人はやって来ない。「ははあ」と感付いた小一郎は、いそいで家へ帰って見ると、家内は乱暴狼藉を極め、君江がその眼を真ん丸にし、こんな事を云って説明した。「黒装束のお侍さん達が、ドタドタ家の中へはいって来て、『どこにあるどこにある』と云いながら、何かを探したのでございます。するとその時戸外の方から女の声が聞こえました。呼びかけたのでございます。すると黒装束の武士の中からも、一人の女の声がして、どうやらそれに答えたようでした。そうしてすぐに周章《あわ》てたように、みんな立ち去ってしまいました」
「ははあ」と小一郎は自分へ云った。「永生の蝶を探しているのだ。この前お茶の水で襲われた時、おおかたそうだろうと思ったのだ。今夜は懐中《ふところ》へ入れて行ったので、幸い取られはしなかったが、いささか物騒になった。……二つの出来事を推し計ると、蝶を盗もうとする者と、保護をしようとする者と、二組あるように思われる。いったいどういう連中だろう? そうしてこの俺が永生の蝶を、所持しているということを、どうして知っているのだろう? ……どっちみちこうも襲われては、俺といえどもやり切れないよ。さてどうしたものだろう?」
 一式小一郎も参ってしまった。
「面倒臭いから放してしまうか」こんなようにさえ思うようになった。
 だがその後しばらくの間は、これという変ったこともなく、まずは平穏無事であった。しかし小一郎は油断せず、外出をする時には、永生の蝶を懐中に入れ、またある時は家へ残して出た。
 相変らず色々の人間が、小一郎の道場へ出入りした。全身綺麗に刺青《いれずみ》をした遊び人などもやって来た。
 豪放快活で洒落気があって、一面蕩児の気持ちをさえ備えているところの小一郎である。ふと刺青に誘惑された。
「よしよし俺も刻《ほ》ってやろう」
 そこでその頃有名の、浅草にいる刺青師の、蔦源の店へ出かけて行き、刺青を彫って貰ったりした。
「これでどうやらこの俺も、一人前の悪武士《わる》になったらしい。アッハハ、面白いなあ。どうせ浮世は思うようにはならない。したい三昧をするがいいさ。……だがどうも俺はこの頃になって、少し性質が変わったようだ。桔梗様に失恋したからだろう」
 物憂い初夏の日が続こうとした。
 しかしとうとうある夜のこと、またも小一郎は敵に襲われ、大事な獲物を失った代わりに、より大切の素晴らしい宝を、偶然手に入れることが出来た。
 その夜であるが小一郎は、フラリとばかり家を出た。円々《まるまる》としたよい月夜で家々の屋根も往来も、霜が降りたように蒼白い。
 大川を左に家並を右に、歩いて来た所が尾上《おのえ》河岸、別にこれと云って用もなく、明月に誘われて出たのである。と、にわかに足を止め、じっと行手を透かして見た。

        二十三

 黒装束で身を固めた、見覚えのある武士が一人、家の蔭から現われて、行手を遮ったからである。
「一式氏」とその武士が云った。すたわち南部集五郎であった。
「また逢いましたな、これで三度目」
「南部氏か」と小一郎は、素早く四辺を見廻わしたが、「貴殿一人ではあるまいな」
「さようさ」と云ったが集五郎は、とぼけ[#「とぼけ」に傍点]たような調子となった。
「今のところは拙者一人で」
「三度逢ったと云われたが、拙者を襲ったのは五度目でござろう」
「どう致しまして、三度目で」
「先夜お茶の水の往来で、拙者を襲ったのも貴殿の筈だ」
「ははあ感付きめされたかな。……ひどくあの時は一式氏、いつもに似げなくお弱うござんしたな」
「留守中の拙宅を襲ったのも、貴殿一味でござろうがな」
「敏感敏感、その通りで」
「だからよ五度目だ、今夜を入れて」
「御意《ぎょい》!」と集五郎は揶揄《やゆ》的に笑った。「下世話に三度目が定《じょう》の目というが、そいつが延びて五度目が定の目、今夜こそ遁がさぬ、一式氏、充分観念なさるがよろしい」
「さようよなア」と小一郎は、伝法な口調に砕けたが、眼では四方をジロジロ見廻わし、ちょっとの油断もしなかった。そうして心で考えた。「間を持たせて様子を見てやろう」そこで悠々と云い出した。「それはそれとして南部氏、よく水難から遁がれましたな」
「あああれ[#「あれ」に傍点]か」と集五郎は、鼻白んだ声音を作ったが、「いや全く三浦半島、木精《こだま》の森の大水には、さすがの拙者も参ってござるよ。一同谷間へ流されましてな、アブアブ水を飲みましたっけ。が、それそこは天祐というやつ、二、三人怪我はしましたが、命に別条はげえせん[#「げえせん」に傍点]でした」頼むところがあると見え、南部集五郎いつもに似気なく、寛々《ゆるゆる》としておちついて[#「おちついて」に傍点]いる。「貴殿こそあの際どうなされた?」
「さればさやっぱり天祐というやつ、水にも溺れずピンシャンと、ご覧の通り壮健で」
「めでたい」と集五郎はいよいよ揶揄的に、「その上貴殿におかれては、昆虫館へ参られたようで」
 これにはちょっと小一郎は驚かざるを得なかった。「よくご存知だの、どうして知られた」
「永生の蝶を持っているからよ」
「よくご存知だの、どうして知られた?」
「女方術師、蝦蟇《がま》夫人、その本名は冷泉|華子《はなこ》、そのお方の透視《みとおし》で知れた」ここでウンと威張ったが、「その華子様仰せらく『江戸を中心に五十里の地点、そこに住んでいた永生の蝶、その一匹が江戸へ入った』――そこで探しにかかったところ、目付かりましたよ、貴殿の道場が。鐘巻流剣道指南、一式小一郎とありましたからな。ははあとすぐに感付いて、それからそれと探りを入れると、知れましたなあ、永生の蝶をたしかにお持ちということがな」
「そこでその蝶を奪おうと、再々拙者を襲われたのだな」
「御意」と集五郎はまた揶揄的に、「どうだな、柔順《すなお》に渡されては」
「さればさ」と云ったが小一郎は、わざとらしく首を引っ傾《かし》げた。
「余人へならば渡してもよい。が、貴殿へは渡されぬよ」
「ウフッ、なるほど、恋敵《こいがたき》だからで」
「その恋敵で思い出した。これ南部氏、集五郎氏、小梅田圃で耳にした、例の美しい声の主に、拙者面会致してな、恋の告白をしたところ、早速承知というところで、お手を下されたというものだ。うらやましかろうがな、いかがのもので」――こん畜生め! というような調子、そいつで小一郎はまくし立てた。
 こいつを聞くと集五郎は「ううむ」と唸ったがその唸り、さすがに気色が悪そうであった。「そうさどっちみち[#「どっちみち」に傍点]昆虫館へ入り込み、永生の蝶を盗み出した貴殿だ、乙女の恋も盗んだでござろう」
「無礼な!」と小一郎は一喝した。「盗みはせぬよ、永生の蝶を、手に入れたのだ、偶然にな!」
「さようか」と集五郎は毒々しい。「まあまあそいつはどうでもよい。そうともそいつはどうでもよい。とまれ貴殿永生の蝶を、持っているのは事実だからの。でこっちへふんだくる[#「ふんだくる」に傍点]、それだけで当方用はない。そこでちょっくら[#「ちょっくら」に傍点]聞きたいは、たった今貴殿ご自慢の、美しいお声の主との恋、首尾よく成就しましたかな? 云い換えるとご婚礼しましたかな?」
「ナニ婚礼!」と小一郎、これにはギョッとしてつまずいたが、「うむ、婚礼か、いや未だ」
「それではいつ頃?」
「いずれその中……」
「気の毒だなあ」
「何が何んだと!」
「プッ」と集五郎はどうしたものか、にわかに吹き出したものである。
「昆虫館主のご令嬢、美しい声の桔梗様が、山を下ってつい[#「つい」に傍点]この頃、江戸へはいったを知らないと見える」
「えッ」と仰天した小一郎は、「それは本当か!」ヌッと出た。
「迂濶《うかつ》な武士め!」
「何を! ……嘘だ!」
「よかろう」と集五郎はヘラヘラ笑い、「嘘だ嘘だと思うがいい。その中我らひっ[#「ひっ」に傍点]攫う」
「云え!」と小一郎の凄じい声! 「云え云え云え、どこにいる!」
「ある所によ、かくまわれ[#「かくまわれ」に傍点]てな」
「どうして知った?」
「透視《みとおし》だあ――」
「参るゾーッ」
 と小一郎は、例の大音に怒りを加え、吠えるがように響かせたが、腰を捻ると抜き打ちだ。鞘走らせたは一竿子忠綱、月光を突ん裂き横一揮、南部集五郎の左胴、腰の支《つが》えをダ――ッと切った。
 だが抜き合わせた集五郎、チャリーンと鍔元で払ったが、ジタジタと退《ひ》くと、脅えた声で「方々出合え、方々出合え!」
 声に応じて家蔭から、ムラムラと現われたは二十人ほどの武士。

        二十四

 引っ包まれた小一郎は、既に覚悟は決めていた。何んのビクとも驚くものか。例によって下段に太刀を付け、身を沈ませて構えたが、残念地の利が悪かった。背後《うしろ》は大川、引くことが出来ぬ。前には敵の二十人、揃って太刀を中段につけ、掛け声もかけず静まり返り、半円を作って寸から寸? ジリジリジリジリと寄せて来る。
「ちと手強い」と小一郎は、考えざるを得なかった。「木精《こだま》の森で切り合った、あの時の連中より強いらしい。じっと構え込んだ様子で解る。……ふふん例によって集五郎め、衆の真ん中に控えておる。こいつも今夜は懸命らしい。……さあてこれからどうしたものだ」考えがグルグル渦を巻く。桔梗様のことに気が付いた。と、カーッと血が湧いた。「桔梗様が江戸にいると云う。本当か知ら? いるなら是非とも逢いたいものだ。どうともしてお探ししたいものだ。……」にわかに一式小一郎は、その場から遁がれたいと思い出した。「永生の蝶などどうでもいい。南部一味にくれてもいい。蝶さえ渡したら文句はあるまい。こんな奴らとかかりあい、傷でも受けたらつまらない。トッ放そうかな、永生の蝶を」
 その間も敵は逼《せま》って来る。
 中段に付けた敵の刀が、月光を吸ってキラキラと、鋩先《きっさき》を上下へ動かすので、無数に螢が飛ぶようだ。
 次第に半円が縮まって来る。後へ後へと小一郎は、退かざるを得なかった。
「どうしたものだ、どうしたものだ!」小一郎は焦燥を覚えて来た。下段に引き付けた太刀構えが、だんだん上へ反ろうとする。
 と、その時小一郎の眼に、チラリと映ったものがある。敵勢の背後《うしろ》、家並の軒、月光の射さない一所に、じっとこっちを見詰めながら、スラリと立っている人影である。黒頭巾で顔を隠している。黒の振り袖を纒っている。裾が朦朧と暈《ぼ》けている。裾模様を着ているためらしい。まさしく女に相違ない。左の肩に生白く、懸けているのは何んだろう? 袋のようなものである。
 と、そこから声がした。
「お放しなさりませ、永生の蝶を」
 その女が小一郎へ云ったのである。「冷泉|華子《はなこ》でございます」
「ははあさてはこいつだな」咄嗟《とっさ》に小一郎は感付いた。「女方術師の蝦蟇《がま》夫人! ……放すかな、永生の蝶を!」
 その間もジリジリと敵の勢は、威嚇的に無言に逼って来る。そいつに連れて小一郎は、後へ後へ後へと下がる。
「これはいけない、崖縁だ!」小一郎は総身汗ばんだ。片足の踵が大川の崖へ、今や半分かかったのである。もう絶対に引くことは出来ない。一足引けば転落だ。
 またも女の声がした。「お放しなさりませ、永生の蝶を」
「うむ」と呻いた小一郎は、グッと懐中へ手を入れたが、その手を抜くと空高く、投げた! 何かを! 黒々と!
 蝶だ! クルクルと月光を縫い、舞い去ろうとする! 舞い去ろうとする! とたんに女が進み出た。ポンと投げたは袋様の物で、ベッタリ地上へへたばる[#「へたばる」に傍点]と、何んと生あるもののように、ムクムクと背中を持ち上げ[#「持ち上げ」に傍点]たではないか。続いて開いたは大きな口だ。と、そこからスラスラと、一筋の白布が濛気のように、空に向かって巻き上がったが、飛び去る蝶を追っかけた。
 何んという卑怯だ、その一刹那に、南部集五郎は声も掛けず、翻然と小一郎へ躍りかかった。
「こやつ!」と叫んで小一郎は、キワドク受けは受けたものの、足を辷らせザンブリと南無三! 南無三! 大川へ落ちた。

 シ――ンと岸上静かである。南部の一味立ち去ったらしい。
 もがいているのは小一郎で、今や溺れようとしているのであった。小一郎は水練には達していた。しかし全身|疲労《つか》れていた。転落する時腕を挫《くじ》いた。で、泳ぐことが出来ないのである。
「無念、死ぬのだ、もう駄目だ!」
 沈んでは浮かび、浮かんでは沈む。
 どこからも救いは来ないらしい。
 だがその時下流の方から、こんな掛け声が聞こえて来た。「エッサ、エッサ、エッサ、エッサ」
 つづいて現われたは小舟である。一種異様な軽舟で、七人の男女が乗り込んでいる。櫂の数は六挺である。七福神の乗っている宝舟、そんなような形の舟である。船首《へさき》に竜の彫刻《ほりもの》がある。その先から総《ふさ》が下がっている。月光に照らされて朦朧と見える。魔物のように速い速い。六人が櫂を漕いでいる。一人が梶を握っている。
 小一郎の側まで来た時であった。
「オッと止めたり、舟をお止め、人間一人アブアブと、土左衛門になろうとしているじゃアないか。お助けよ、お助けよ、何も功徳だ」こう云ったのは梶を握っていた女。
「合点」と一同答えた時には、舟はピタリと止まっていた。と、その舟から手が延びて、グーッと引き上げたは小一郎の体!
「さあ介抱は韋駄天だ」
「おいよ」と云うと一人の男は、小一郎の衣裳を絞ったが、
「やアいい男のお武家さんだ、弁天の姐《あね》ごが惚れなければいいが」
「何を云うんだよ途方もない」弁天と呼ばれた梶取りの女は、クックックッと笑ったが、「さあさあ漕いだり、お急ぎお急ぎ」エッサ、エッサ、エッサ、エッサと、舟、上流へ駛《はし》って行く。

 ちょうどこの頃のことである。大川の名が隅田川と変わり、向こうの岸は三囲社《みめぐりのやしろ》、こっちの岸は金竜山、その金竜山の一所に、川面へ突き出して造られた、一宇の宏大な屋敷があり、その屋敷の奥まった部屋で、しめやかに話している男女があった。
「そろそろ彼らの来る頃だが、まだ水門は開かないかな」こう呟いたは男である。百歳以上ではあるまいか? そう想われるほどの老人ではあるが、青年のように血色がよい。葵の紋服を纒っている。「それはそうとお前さんが、突然当家へ見えられた時には、俺もいささか驚きましたよ」
「相済みませんでございます」こう云いながら微笑したのは、昆虫館館主の娘であった。すなわち他ならぬ桔梗様であった。

        二十五

「いや全くお前さんが、突然ここへ見えた時には、私はいささか驚いたものだよ。がその代り久しぶりで、お前さんのお父さんの消息を知り、嬉しくもあれば懐しくもあった。だがどうもちょっと困ったな。娘のお前をさえ寄せ付けず、そんなにも酷《ひど》く憂鬱になり、部屋へ一人で閉じこもり、研究に浮身をやつしているとは。……ははあそうか、大事な大事な、永生の蝶とかいうものを、二匹ともなくしてしまったので、それでそんなに変わったというのか。学者というものは変なものだな。変梃《へんてこ》な蝶をなくしたことぐらいで、気が変わるとは解せないよ。もっとも研究材料で、大事なものには相違あるまいがな……まあまあそれはそれとして、お前さんと逢えたのは有難い。遠慮はいらない遠慮はいらない。ここを自分の家だと思って、気随気儘にくらすがいい。何んと云っても私とお前とは、叔父さん姪さんの仲だからな。綺麗な姪さんがやって来たのだ。これまでは陰気過ぎたこの家も、これからは陽気になるだろう。……お前さんにとってもいいことだよ、三浦三崎の山の中などに、そんな虫だの獣だの、片輪者などと住んでいるよりはな。江戸へ来た方がずっといい。……と云って茫然《ぼんやり》遊んでいたでは、お前さんにしてからが退屈だろう。そこで何かを習うがいい。と云ってお父さんはあれほどの学者、したがってお前さんも学者だろう。だから、恐らく学問などは習う必要はないだろう。ひとつ反対《あべこべ》に弟子でも取って、お前さんの方で教授するかな。……いや待ったり他のことがある、生花や茶の湯を習うがいい。山の中にいたお前さんのことだ、そういうことは知らないだろう。茶の湯、生花、これからお習い! え、何んだって、知っているって? 痩せ我慢はいけない、気取ってはいけない。山家育ちのお前さんなどが――と云っても大変別嬪だが、何んの茶の湯や生花などを、知っていることがあるものか。え、本当に知っているって? ふうん、そうか、それは感心。そうかも知れない。そうかも知れない、打ち見たところ上品で、女一通りの芸や作法は、どうやら心得ているように見える。何さ何さ一通りどころか、十二分に心得ているらしい。とするとどうも困ったな。何を習ったらいいだろう? おおそうだ、いいものがある、お習いお習い、泥棒をね」
 葵ご紋の威厳のある武士《さむらい》は、能弁に愉快そうに喋舌って来たが、とうとうこんなことを云い出してしまった。泥棒を習えというのである。
 これにはさすがの桔梗様も、驚いたかというに驚かなかった。
 したたるような美しい眼と、恍惚《うっとり》するほどの美しい声とで、負けずに愉快そうに云ったものである。
「叔父様、結構でございますこと、習いましょうねえ、泥棒を」
「え?」とこれには叔父の方が――葵ご紋の武士《さむらい》の方が、あべこべに仰天したらしい。「本当かな、習う気かな、泥棒という商売を?」
「はいはい妾習いますとも、大喜びで習いますとも。あの、必要がございますので」桔梗様は真面目に云ったものである。
「これはこれは」と葵ご紋の武士は、いよいよ胆を潰したらしい。「度胸がいいの。偉い度胸だ。どんな必要かな? 云ってごらん?」
 すると桔梗様は一層真面目に、それでいて途方もなく愉快そうに、ズケズケこんなことを云い出した。
「お探ししたい人がございますの、綺麗な綺麗なお侍さんなの。少し皮肉ではございますが、そこがまた大変よいところで、可愛らしいのでございますの。……云い交わした人なのでございます、恋し合った方なのでございます。……たしか只今は江戸|住居《ずまい》で。どうともしてお探しし、お逢いしたいのでございますの。……ようございますわね、泥棒は。どこへでも勝手に忍び込め、どんな方とも逢うことが出来、ほんとに何んて結構なんでしょう。でもねえ叔父様」と甘えた声で、「よい先生がございましょうか、上手に泥棒をお教えになる」
「待ったり」と叔父様は――葵ご紋の武士は、眼を円くすると手を振った。「私は知らぬよ、こんな娘は! 驚きましたね、二の句も継げない。どうも当世の娘っ子は、油断も隙も出来ないの。叔父さんを前にちゃアンと据えて、恋人があるというのだから。とんだ姪さんを持ったものさ。私は謝罪《あや》まる、私は謝罪まる。……そうは云っても面白いの。やっぱり血統は争われない、反骨稜々侠気充満、徳川宗家に盾突いて、日本は狭いと云うところから、海を渡って異国へ行った、我々のご先祖の血液が、お前のお父さんにもこの私にも、お前さんにも通っているらしい。……うむ!」と云うとどうしたものか、葵ご紋の威厳のある武士は、にわかに不思議な表情をしたが、すぐに磊落《らいらく》に笑い出した。「先生かな、泥棒さんの。いるともいるとも、ここにいるよ」云うと一緒に手を延ばし、手首を曲げると人差し指を延ばし、ポンと自分を指さした。それから云ったものである。
「大泥棒! 異国をさえも盗む! そういう泥棒の先生がな」
 ――でまたそこで磊落に笑った。

        二十六

 磊落に笑った大きな声に、吃驚《びっくり》したというように、床に活けてあった牡丹の花が、一|片《ひら》ポロリと床の上へ零れた。
 顔輝《がんき》筆とも思われる、蝦蟇仙人と鉄拐仙人、二人を描いた対幅が、床一杯に掛けられてある。それが名筆であるだけに、三十畳ぐらいは敷けるであろう。そのくらい広い部屋の中に、一種云われぬ蒼古な妖気が、陰々として漂っている。
 実際それは名筆であった。二人とも活けるがようであった。二人ながら乱髪である。二人ながら跣足《はだし》である。そうして二人ながら襤褸《ぼろ》を纒い、二人ながら岩に腰かけている。ただし、一方蝦蟇仙人は、左手に躑躅《つつじ》の花を持ち、右肩に蝦蟇を背負っている。白味を帯びた巨大な蝦蟇で、まるで大きな袋のようである。パックリ開いた醜悪の口から、布のように見える白気を吐き、飛び出した眼を輝かせている。一方鉄拐仙人は、腰に大きな瓢《ひさご》を付け、両足の間に杖を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]み、左手で奇形な印を結び、すぼめた[#「すぼめた」に傍点]口からこれは黒気を、一筋空へ吐き出している。そうして黒気の行き止まりの辺に、同じ姿の鉄拐仙人が、豆のように小さく走っている。秘術を行っているところだ。鉄拐仙人には髷があり、蝦蟇仙人には髷がない。で前者は老人に見え、そうして後者は老婆さんに見える。
 二人ながら物凄くいやらしい。
 ちょっとの間部屋中静かであった。
 対に立ててある雪洞《ぼんぼり》の灯が、蒔絵の脇息を照らしている。それに悠然と倚っている、葵ご紋の武士の顔は、昆虫館主人と非常に似ている。広い額、窪んだ眼窩、きわめて高い高尚な鼻、しかし異ったところもある。昆虫館主人は白髪だのに、こっちは艶々しい黒色である。昆虫館主人の眼と来ては、霊智そのもののような眼であったが、こっちの眼は意志的英雄的である。昆虫館主人よりも身長《たけ》が高く、そうして一層肥えてもいる。健康そのもののような体格である。昆虫館主人は学究として、あくまでも真面目、あくまでも真剣、しかるにこっち葵ご紋の武士は、洒々落々としたところがあり、人を食ったようなところがある。
 だがいったい葵ご紋の武士は、何んという姓名を持っているのだろう? 世間の人達は敬称して、隅田のご前と云っている。葵の紋服を着ている以上、将軍家の連枝には相違あるまい。
 隅田のご前を前に置き、端然と坐っている桔梗様と来ては、清浄で、美しくて、自由で無邪気で、いかにもいかにも処女というものを、掬い固めたような俤《おもかげ》がある。
 この二人の対照は、全く一幅の絵と云っていい。
 まだ二人は黙っている。
 と、どこから来たものか、四方雨戸をとざしてあるのに、一匹の火捕《ひと》り虫が飛んで来た。バタバタバタバタと雪洞へ中《あた》る。
「遅いの」と不意に隅田のご前は、独り言のように呟いた。それが桔梗様の気にかかったらしい。
「誰をお待ちでございます!」
「ああ待ち人かな、泥棒さん達だよ」隅田のご前は道化出した。「私はな、大変な大泥棒だ。で沢山手下がある。その手下を待っているのだよ」無邪気な可愛い桔梗様を、嬲《なぶ》ってみるのが面白いのらしい。
「おやおやさようでございますか」桔梗様は一向驚かない。「妾もお待ち致しましょう」
「ご用でもあるかな、私の手下に」
「はいはい沢山ございますとも、参りましたらとっ[#「とっ」に傍点]捉まえ、忍び込みの術を教わります」
「あッ、話はそこへ行くのか、忍び込みの術を教わって、その恋しいお侍さんを、探しに行こうというのだの」
「はいはいさようでございますとも。でもねえ叔父様、実を申せば、もう一つ大切なご用があって、探しているのでございますの。その一式様というお侍さんを」
「ほほう」とご前眼を円くした。「その恋男のご姓名は、一式様というようだの」
「一式小一郎様と申します」
「で、何かの、大切の用とは?」どうやら興味を持ったらしい。
「お父様からお預りをした、大事な大事な大事な物を、お渡ししたいのでございます」
「何?」と云うと隅田のご前は、いくらか驚いた様子があった。「それでは何かの、お前のお父様も、承知しておられるご仁かの、その一式という人物は?」
「私達の住居の昆虫館へ、訪ねておいでくださいました時、お父様もお逢いでございました。そうしてお父様もそのお方を、大変好かれたのでございます」
「ふうん」と云ったが真面目になった。「私はそうとは知らなかったよ、そんな恋人の話など、お前の出鱈目と思っていたよ。うむうむそうか、本当の話か。で、何かの、大事なものとは?」
「はいこれでございます」
 何か帯から出そうとした時、隅田川の方から声がした。
「エッサ、エッサ、エッサ、エッサ」それはこう云う声であった。
 そうしてこの声が次第に近付き、隅田のご前の屋敷の前で、にわかにプッツリと切れてしまい、つづいて幽かではあったけれど、水門の開く音がした時から、この物語の局面は、新しく展開されることになった。
 まず隅田のご前様が「来たな」と云うと立ち上がり、それから桔梗様へ云ったものである。
「お前もおいで! 度胸がある。見せて置いてもいいだろう。……紹介《ひきあわ》せて置こう、変った奴らを。無頼漢《ならずもの》どもだがためにもなる奴らだ」
 で、部屋から廻廊へ出た。云われるままに立ち上がり、桔梗様が後から従った。
 少し行くと階段になる。螺旋《らせん》形をした階段である。下り切った所に池があった。隅田の川水を取り入れて、作ったところの池らしい。小さい入江! こう云った方がいい。小|船渠《ドック》! こう云った方がいい。水がピチャピチャと石段を洗い、小波をウネウネと立てている。石段の左右に龕《がん》ある。青白い燈火《ひかり》が射しいる。その燈火に照らされて見えるのは、七福神の宝船、それに則って作られた船と、満載されてある武器弾薬と、そうしてそれへ乗り組んでいる、七人の異様な水夫《かこ》達であった。
 いやもう一人|人《ひと》がいた。それは水に濡れた侍であった。
「あッ、あなたは一式様!」
「おっ、これは桔梗様!」

        二十七

 さてその翌日のことである。
 一式小一郎は自分の家の、自分の部屋にこもっていた。襖を締め切り黙然と坐り、じっと膝の上を見詰めている。西向きの窓から夕陽が射し、随分部屋は熱いのに、そんなことには無感覚らしい。視線の向けられた膝の上に、銀製の小さな鍵がある。だが小一郎の表情から推せば、鍵について考えているのではなく、別のことを考えているらしい。
 道場の方からポンポンと、竹刀の音が聞こえて来る。弟子達が稽古をしているのであろう。
 お勝手の方からコチンコチンと、器物《うつわもの》のぶつかる[#「ぶつかる」に傍点]音がする。君江が洗い物をしているのであろう。
「気の毒なものだな、あの君江は」小一郎はふっと呟いた。
「俺は逢ったのだ、桔梗様に。本当の本当の恋人に。で、君江は正直に云えば、俺には不用の人間になった。邪魔な人間になったともいえる。……がそれはそれとして、全く昨夜は意外だったよ。南部に襲われ蝶を逃がし、大川の中へ転がり落ち、負け籤《くじ》ばっかり引いたかと思うと、今度は恋人の桔梗様と逢う。塞翁《さいおう》が馬っていうやつさな」微笑したいような気持ちになった。「それにさ随分変な人間に、一時に紹介されたものさ。隅田のご前という凄いような人物や、七人の異様な無頼漢《ならずもの》達に。……屋敷の構造も変なものであった。……悪人の住家《すみか》ではあるまいかな? あんな所へ桔梗様を置いて、はたして安全が保たれるかな?」これが小一郎には不安であった。だがしかしすぐに打ち消してしまった。「葵の紋服を召していた。では隅田のご前という人物は、高貴な身分に相違ない。それから桔梗様がその人を、叔父様叔父様と呼んでいた。とすると血筋を引いているのだろう。それでは安全と見てもいい」
 小一郎の心へは次から次と、昨夜のことが思い出された。
 船から上げられて介抱されたこと、濡れた衣裳を干して貰ったこと、別室で桔梗様と二人だけで、しばらく話を交わせたこと……
「昆虫館でのお約束を、反故にしたのではございません」こう桔梗様が云ったこと。「父は憂鬱になりました。『俺は一人で研究したい。娘よ、お前は江戸へ行け! 人間の世を見て来るがいい』こう云って妾を山から出し、人を付けて江戸へ送ってくれました」こう桔梗様が云ったこと。「その節父が申されました『一式氏は人物である。あのお方とお前との交際を、私は好んでお前へ許す、ついてはあの方を探し出し、この鍵を是非とも手渡しておくれ。雌雄二匹の永生の蝶を、一式氏が手に入れて、もしそれが子供を産んだ際には、この鍵が役に立つかも知れない』――で、お渡し致します」こう桔梗様が云ったこと。等、等、等を思い出した。「一式氏とやら、お暇があったら、時々お遊びにおいでなされ。があらかじめ申し上げて置く、拙者の屋敷の構造や、拙者の行動に関しては、絶対に世間へ洩らされぬように。うち見たところ貴殿には、一個任侠の大丈夫らしい。その中拙者の計画や、心持ちなどもお話し致す。時々遊びに参られるよう。それにどうやら姪の桔梗が、そなたを愛しておられるようで、遊びにおいでなさるがよい」――隅田のご前という人が、云ったことなども思い出した。
「時々どころか毎日でも行って、桔梗様と話をしたいものだ」小一郎は恋しくてならなかった。
「今日も、これから行ってやろう」
 フラリと立つと大小を差した。だが何んとなく気が咎める。「気の毒だな、君江には」そこでこっそり[#「こっそり」に傍点]足音を盗み、玄関へかかると雪駄を穿き、「まるで間男でもするようだな」苦笑しながらも門を潜り、うまく君江にも目付からずに、夕陽の明るい町へ出た。
 差しかかった所が大川端で、隅田の屋敷の方へ、急ぎ足に歩き出した。夕暮れ時の美しさ、大川の水が光っている。そこを荷舟が辷っている。対岸の白壁が燃えている。夕陽を受けているからである。鴎が群れて飛んでいる。舞い上がっては舞い下りる。翼が夕陽を刎ね返している。甍を越して煙りが見える。どうやら昼火事でもあるらしい。人々の罵る声がする。「火事だ火事だ! 景気がいいな!」間もなく煙りが消えてしまった。小火《ぼや》で済んだに相違ない。渡し船には人が一杯である。橋にも通る人が一杯である。物売りの声々が充ちている。江戸の夕暮れは活気がある。
「ひどく俺は幸福だよ」小一郎はこんなことを呟いた。「桔梗様にも愛されているし、君江どん[#「どん」に傍点]にも愛されている。色男の果報者というやつさ。……だが待てよ」と考え込んだ。「いかに何んでもこいつ[#「こいつ」に傍点]はいけない。桔梗様とは昨夜逢ったばかりだ。それだのにノコノコ今日行っては、あんまり俺がオッチョコチョイに見える。大人物らしい隅田のご前にも、裏を見られないものでもない。それにさ、幸福というものは、そう続け様に求めても、そう続け様に来るものではない。うかうか図に乗って逢いに行って、変な顔でもされた日には、とても助からないことになる。それにさ、幸福というものは、その幸福を抱きしめて、一人で味わうことによって、二倍の幸福を感ずるものだ。今日は行くのは止めにしよう。それより静かな所へ行き、楽しそうなことを考えよう」
 そこで小一郎は横へ反《そ》れた。
 来た所が品川の海岸で、この頃はすっかり日が暮れて、月が真《ま》ん円《まる》く空へかかった。もうほとんど人通りがない。宛《あて》なしにブラブラ歩いて行く。海では波も静からしい。青葉の匂いが馨《かんば》しい。
「幸福だな、幸福だ」
 呟きながら彷徨《さまよ》って行く。
 だがはたして小一郎の幸福は、幸福のままで済んだろうか? 鮫洲《さめす》の宿までかかった時――一挺の駕籠が江戸の方から、飛ぶように走ってやって来て、小一郎の傍を駈け抜けて、そうして夜の東海道を物怪《もののけ》のように走り去った時――そうしてその駕籠から何物か、地上へポンと落とされた時――そうしてそれを小一郎が、不思議に思って拾い上げた時、彼の幸福は覆えされてしまった。
 拾い上げたのは簪《かんざし》であった。脚に紙片が巻き付けてある。それに文字が書かれてある。恐らく小指でも食い切ったのだろう。そうしてその血で書いたのだろう、生々しく赤くこう書かれてあった。
「悪者に誘拐されております。どなたかお助けくださいまし[#「くださいまし」は底本では「くだいまし」]」そうして「桔梗」と記してあった。
「ム――」と呻いた小一郎は、ブルッとばかりに顫えたが、「駕籠待てエーッ」と思わず大音に呼んだ。しかしその駕籠はついに馳せ去り、もちろん姿は見えなかった。気勢で呼んだまでである。
「これはこうしてはいられない!」
 大小の鍔際を抱えるように、グッと握って胸へあてたが、片手で裾を端折ると、さながら疾風が渦巻くように、月夜に延びている街道を、走り下ったものである。

        二十八

 だがそれにしても桔梗様は、誰に誘拐《かどわか》されたのだろう? どこへ運ばれて行ったのだろう? 隅田のご前というような、あんな立派な人物によって、城廓めいた宏大な屋敷に、秘蔵されていた桔梗様だのに、どんな手段で誘拐されたのだろう?
 そうして一式小一郎は、はたして駕籠へ追い付いて、取り返すことが出来るだろうか?
 今、月夜の東海道は、人通りがなくて静かである。
 と、その時江戸の方から、一つの掛け声が聞こえて来た。「エッサ、エッサ、エッサ、エッサ!」――だんだんそれが近付いて来る。と、間もなく月光に浮かび、畸型な群像が現われた。屈竟な六人の若者が、体をピッタリくっつけ[#「くっつけ」に傍点]合わせ、六本の腕を組み合わせ、巧みに作った「手組輿《てくみこし》」――その上へ一人の女を乗せ、空いている片手で調子を取り、舞うように走って来るのであった。七福神と称されて当時の旗本や大名などに、非常に恐れられた怪盗である。彼らの掛けるエッサの声が、水上であれ陸上であれ、一旦掠めて通った後には、犠牲者が出来たという事である。だが決して細民や、女子供など襲ったことはなく、衣裳だの宝物だの器具調度だの、そんな物を盗んだこともなく、黄金か武器か弾薬かを、唯一に盗んだということである。町方でも苦心して捕えようとしたが、捕えることが出来なかったそうだ。「ある素晴らしく高貴な方が、蔭ながら保護をしているからだ――」ある方面での噂であった。町方で探ったところによると、蛭子《えびす》三郎次、布袋《ほてい》の市若、福禄の六兵衛、毘沙門の紋太、寿老人の星右衛門、大黒の次郎、弁天の松代、これが彼らの名であって、弁天の松代が一党の頭《かしら》で、そうして松代は美しい、若い女だということであった。彼らが水上を駛《はし》る時は、宝船に則った軽舟を用い、また陸上を走る時は、彼ら独特の「手組輿」――そういうもので走ったそうである。
 その怪盗の七福神組が、今や走って来たのであった。
 手組輿とは変なものではあるが、要するに七人が七人ながら、心と体とを一つに食っ付け、一緒の行動を取ろうがために、彼らの案じた人間輿で、意味深いものでもなさそうである。しかし七人が心身を一にし、一致の行動をとるのであるから、自由の活動、敏速の歩行、これは出来るに相違ない。
 何んと云う速さだ! 走って来る!
 と、突然女の声がした。「おっと待ったり、お止めお止め!」「合点」と一団止まってしまった。同時にバラバラと手組輿が崩れ、ヒラリと飛び下りたは一人の女で、髪は結綿、鬼鹿子、黄八丈の振り袖を纒っている。頭の弁天松代である。手を延ばすと地面から、何かをヒョイと取り上げたが、月に翳《かざ》すと、「やっぱりそうだ!」
「え?」と六人が同音に声を掛けたが首を延ばした。手甲脚半腹掛け姿、軽快至極の扮装《みなり》である。一同お揃いの姿である。
「桔梗様の持ち物の銀簪が落ちていたのさ、これここにね。月が当たってピカピカと光っていたから目付かったのさ」
「それじゃア姐《あね》ごの思惑通り、こっちへ攫《さら》われて来たんだな」腕に蛭子《えびす》の刺青のある小頭の蛭子三郎次である。
「それじゃアどこかに血で書いた、小菊の紙が落ちていなけりゃアならねえ」こう云ったのは十七、八の前髪のある男である。すなわち布袋の市若である。
「ところがどこにもねえようだぜ」四方《あたり》をキョロキョロ見廻わしたのは、三十を一つ二つ越したらしい、顔の細長い男であったが、これ福禄の六兵衛であった。
「なにさなにさ風だって吹く、どこかへ飛ばされて行ったんだろう」こう云ったのは爺むさい小男、他ならぬ寿老人の星右衛門。
「さっき浅草で拾ったのは、これも桔梗様の持ち物? ※[#「王+毒」の「毋」に代えて「母」、第3水準1-88-16]瑁《たいまい》の櫛へ巻き付けた血書! そうしてここには銀簪! とするとこれからも要所々々へ、何か品物を落とすものと見える」こう思料深く云ったのは、四十がらみの大男、すなわち大黒の次郎である。
「何はともあれ走ろうぜ」こう云ったのは髯面の男、「突っ立っていたって仕方がねえ」こいつは毘沙門の紋太である。
「そうともそうともさあ行こう」弁天の松代は意気込んだ。「思案している時じゃアない。桔梗様には処女《おぼこむすめ》だ。一刻半時の手違いで、取り返しの付かない身ともなる。それこそ泣いても泣かれない。それにしてもさ、一体全体、どいつがこんなことをしたんだろう。七福神組を出し抜いて、途方もない真似をしゃアがる。と、云って怒ったってはじまらない。見付け出すより仕方がない! ……さあさあお組みよ、手組輿を!」

        二十九

 声に応じて六人の男は、颯と片手を差し出したが、肩と肩とをすぐ組んだ。ガッシリ手輿が築かれたのである。
「お乗んなせえまし。さあ姐ご!」
「あいよ、あいよ、ソレ乗るよ」
 裾を翻《ひら》めかすと燃え立つ蹴出しだ、火焔が立つかと思ったが、弁天松代ちゃアんと[#「ちゃアんと」に傍点]乗った。
「急いでおやりよ! さあおやり!」
「おっと合点」
「エッサ、エッサ」
 こんな場合にも愉快そうに、こんな場合にも仲がよく、月光を蹴散らし走り出した。

 ちょうどこの頃のことである。全然別の方角で、別の事件が起こっていた。
 ここは赤坂青山の一画、そこに一宇の大屋敷がある。大大名の下屋敷らしい。宏壮な規模、厳重な構え、巡らした土塀の屋根を越し、鬱々と木立が茂っている。
 御三卿の一方田安中納言家、そのお方《かた》の下屋敷である。
 その裏門が音なく開き、タラタラと一群の人数が出た。黒仕立てに黒頭巾、珍らしくもない密行姿、いずれも武士で十五、六人、ただしその中ただ一人だけ、黒小袖に黒頭巾、若い女が雑《まじ》っていた。みんなが尊敬をするところを見ると、これら一群の支配者らしい。身長高く痩せてはいるが、一種云われぬ品位がある。鬼気と云った方がいいかも知れない。あるいは妖気と云うべきかも知れない。縹渺《ひょうびょう》としたところがある。裾の辺が朦朧と暈《ぼ》け、靄でも踏んでいるのだろうか? と思わせるようなところがある。
 一挺の駕籠が舁ぎ出された。
「鉄拐ご夫人、お召しなさりませ」
 一人の武士が会釈した。
 すると頷いたが乗ろうともせず、駕籠の上へ片手を載せたまま、女方術師鉄拐夫人は、頸《うなじ》を反らせると空を見た。
「とうとう後手へ廻わされて、永生の蝶一匹を、一ツ橋家へ取られたが、今度はどうでも先手を打ち、あの桔梗という森の娘を、こっちへ奪って来なければならない。だが迂濶《うかつ》に立ち廻わると、今度も煮え湯を飲まされそうだよ。現に攫《さら》われてしまったんだからねえ」
 心配そうに呟いた。
「だが行先は解っている。それだけがこっちの付け目だろうさ。それもさ街道を辿って行けば、随分時間もかかるだろう。近道を行けば何んでもない。柵頼《さくらい》柵頼」と声をかけた。
「は」と云って進んだのは、今会釈をした武士であった。
「神奈川の宿から海の方へ、ずっと突き出た芹沢の郷、そこまで近道を走っておくれ」
「かしこまりましてござります」
「道の案内は妾がしよう、ああそうだよ。駕籠の中からね。さあそれでは戸をお開け」
 コトッと駕籠の戸が開いた隙から、スルリとはいった女方術師、
「それではおやり、足音を立てずに」
 駕籠を包んだ田安家の武士達、トットットッと、走り出したが、見当違いの玉川の方へ、駈け去ってやがて見えなくなった。
 月ばかりが後を照らしている。
 シ――ンと界隈静かである。
 いやいや界隈ばかりでなく、江戸内一帯静かであろう。
 敢て江戸内ばかりでなく、日本国中夜のことだ。少くも昼間よりは静かだろう。
 がしかしそれは表面だけのことで、裏面においては昼間よりも、さらに一層夜だけに、罪悪が行われているかもしれない。

 まさしく罪悪が行われていた。
 芹沢の郷の海岸に、不思議な建物が立っていた。
 その中で行われていたのである。
 その建物の珍奇なことは!

        三十

 海に臨んで造られた館《やかた》は、一口に云えば唐風であった。幾棟かに別れているらしい。鶴の翼を想わせるような、勾配の劇しい瓦屋根が、月光に薄白く光っている。しかし館は土塀に囲まれ、その上森のように鬱々《うつうつ》とした、庭木にこんもり取り巻かれているので、仔細に見ることは出来なかった。
 館の一方は海である。岸へ波が打ち上げている。白衣の修験者でも躍るように、穂頭が白々と光っている。館の三方は曠野である。木立や丘や沼や岩が、月光に濡れて静もっている。遙か離れて人家がある。みすぼらしい芹沢の里である。
 と、その時里の方から、一挺の駕籠が走って来た。二、三人の武士が守っている。館の方へ走って来る。
 その裏門まで来た時である、内と外とで二声三声、問答をする声がした。
 と、門が音なく開き、音なく駕籠が辷り込んだ。
 後に残ったは月ばかりである。蠢《うご》めくものの影さえない。館からも何んの物音もない。沼で寝とぼけた水鳥が、ひとしきり羽音をバタバタと立てたが、すぐにそれも静まってしまった。
 だが間もなく人影が、ポッツリ丘の上へ現われた。館の方を見ているらしい。と、丘を馳せ下った。
 月に曝《さら》された顔を見れば、他ならぬ一式小一郎であった。
「確かにここへはいった筈だ」
 土塀に沿って小一郎は、館の周囲を廻わり出した。
「うむここに裏門がある」
 そっと裏門を押してみたが、ゆるごう[#「ゆるごう」に傍点]とさえしなかった。で、またそろそろと歩き出した。やがて表門の前へ出た。押してみたがやっぱりゆるぎ[#「ゆるぎ」に傍点]さえしない[#「やっぱりゆるぎ[#「ゆるぎ」に傍点]さえしない」は底本では「やっぱりゆる[#「りゆる」に傍点]ぎさえしない」]。でまたそろそろと歩き出した。もうどこにも出入口はない。
「さてこれからどうしたものだ?」土塀に体をもたせかけ[#「もたせかけ」に傍点]、一式小一郎は考え込んだ。
「桔梗様をさらった駕籠の姿を、やっと神奈川の宿外《はずれ》で目付け、後を追っかけてここまでは来たが、こんな不思議な建物の中へ、引き込まれようとは思わなかった。いったいどういう建物なんだろう?」
 だが酷《ひど》く胸が苦しかった。非常に息切れがするのである。走りつづけて来たからである。
「休もう、万事はそれからだ」
 地面へ坐って胡座《あぐら》を組み、小一郎は心を押し静めた。
「いやこうしてはいられない」小一郎はにわかに立ち上がった。
「どんな危険が桔梗様の上に、ふりかかっていないものでもない。館の中へ忍び込み、何を置いても様子を見よう」
 土塀へ体を食《く》っ付けたが、武道で鍛えた身の軽さ、一丈以上の高さを飛び、ポンと向こう側へ飛び下りた。
 飛び下りたが音さえ立てなかった。胸をピッタリ地面へおっつけ、腹這いになって様子を見た。庭木が真っ暗に繁っている。ところどころに斑のように、葉漏れの月光が射している。ずっと奥深い正面に、建物が一つ立っている。
「まずあれ[#「あれ」に傍点]から探ってみよう」
 そこでソロリと立ち上がり、小一郎は忍びやかに歩き出した。
「役目は終えたというものさ」不意に人声が聞こえて来た。いかつい[#「いかつい」に傍点]男の声である。
「有難い役目ではなかったよ」これはゾンザイな声であった。
「美人誘拐というのだからの」
「それもさ」ともう一人の声がした。「口を開かせて秘密を云わせ、云わせた後では南部氏が、手に入れようというのだからの」
 三人の人影が現われた。
「あれほどの美人を手に入れる、ムカムカするの、うらやましくもある」
「詰所へ帰って酒でも飲もう」
 三人ながら武士であった。広大な庭の反対側に、別の建物が立っていたが、そこが彼らの詰所と見える。木立を縫って築山を越して、小一郎が窺っているとも知らず、庭下駄の音をゆるやか[#「ゆるやか」に傍点]に立て、三人そっちへ歩いて行く。
 こいつを聞いた一式小一郎が、怒りを心頭に発したのは、まさに当然というべきであろう。
「さては桔梗様を攫ったのは、南部集五郎の一味だったのか。憎い奴らだ、どうしてくれよう」
 平素《ふだん》は思料深い小一郎ではあったが、怒りでそれさえ失ってしまった。
「三人血祭りに叩っ切り、その上で家内へ切って入り、桔梗様をこっちへ取り返してやろう」
 身を平《ひら》めかすと背をかがめ、暗い木蔭を伝わったが、行手へ先廻わりをしたのである。
 築山があって築山の裾に、石楠花《しゃくなげ》の叢が繁っていた。無数に蕾を附けている。蔭へ身を隠した小一郎は、刀の鯉口をプッツリと、切り、ソロリと抜くと左手を上げ、タラリと下がった片袖の背後《うしろ》へ、右手の刀を隠したが、自然と姿勢が斜めになる、鐘巻流での居待《いま》ち懸《が》け、すなわち「罅這《こばい》」の構えである。
「来い!」と心中で叫んだが、「一刀で一人! 三太刀で三人! 切り落とすぞよ、アッとも云わせず!」
 ムッと気息をこめた時、ヒョッコリ一人現われた。
 それを見て取った小一郎は、斜めの姿勢を閃めかし、正面を切ると肘を延ばし、一歩踏み出すと横払い! 四辺が木立で暗かったので、ピカリとも光りはしなかったが、狙いは毫末も狂わない、耳の下からスッポリと、一刀に首を打ち落とした。
 と、切られたその侍であるが、そこだけは月が射していた、その中でちょっとの間立っていたが、やがて前仆れに転がった。
 もうこの頃には小一郎は、刀をグルリと背後へ廻わし、元の位置へ返ってひそまっていた。
「おいどうした?」
 と云う声がして、二人目の人影が現われた。
「つまずいたのか? 転んだのか? 生地《いくじ》がないなあ、起きろ起きろ」
 トンと立ち止まって同僚の死骸を――死骸とも知らず見下した時、全く同じだ、小一郎は、一歩踏み出すと、肘を延ばし、颯《さっ》と一刀横っ払った。これも同じだ、首を刎ねられた敵は、そのまま一瞬間立っていたが、すぐ前仆れにぶっ[#「ぶっ」に傍点]仆れた。
「あッ」と叫んだは三番目の武士で、「曲者でござる! 狼藉者でござる!」
 身を翻えして逃げようとした。
 猛然と飛び出した小一郎は、全身を月光へ浮かべたが、
「騒ぐな」
 と抑えた辛辣の呼吸! とたんに太刀を振り冠り、脳天からザックリと鼻柱まで、割り付けて軽く太刀を引いた。
 プーッと腥《なまぐさ》い血の匂い! その血の中に三つの死骸が、丸太ン棒のように転がっている。
 見下ろした一式小一郎は、ブルッと体を顫わせたが、血顫いでもあれば武者顫いでもあった。
「さあ三人、これで退治た、……桔梗様は? 桔梗様は?」
 血刀を下げて小一郎が、館の方へ走ろうとした時、詰所らしい建物の雨戸が開き、数人の武士が現われた。屋内から射す燈火で、ぼんやりと輪廓づけられている。
「騒々しいの、何事でござる」
 一人の武士が声をかけた。衆の先頭に身を乗り出し、縁側の上に立っている。まさしく南部集五郎であった。
 早くも見て取った小一郎は、新しく怒りを燃え立たせたが、「集五郎!」とばかり走り寄った。「拙者だ、拙者だ、一式小一郎だ! ……卑怯姦悪未練の武士め! よくも桔梗様を誘拐《かどわか》したな! 出せ出せ出せ! 桔梗様を出せ!」
 血に塗られた一竿子忠綱を、突き出すとヌッと迫《せ》り詰めた。
「おっ、いかにも汝《おのれ》は一式! やあ方々!」と集五郎は、仰天した声を張り上げたが、「一式小一郎、田安家の家臣、我々の秘密の道場へ、潜入致してございますぞ! 出合え出合え! 打って取れ!」
 幾棟か館が建っている。その幾棟かの館の戸が、声に答えて蹴放され、槍を持った武士、半弓を持った武士、捕り物道具を持った武士が、ちょうど雲でも湧くように、群れてムクムクと現われて、小一郎をおっ取り囲んだのは、実にその次の瞬間であった。
「しまった!」と小一郎は呻いたが、要害さえも解っていない、敵は目に余る大勢である、飛び道具さえ持っている、どうする事も出来なかった。
「ううむ、残念、軽率であったぞ」
 摺り足をして後退《あとじ》さる。
 築山を背負い、木立を楯に、膝折り敷いて下段の構え、小一郎は備えは備えたものの、どうにも勝ち目はなさそうである。
 月が明るいので敵勢が見える。自分の姿も見えるだろう。
 とパッチリ音がした。すなわち弦返りの音である。敵の一人が射たらしい、征矢《そや》が一本月光を縫い、唸りを為《な》して飛んで来た。
 際どく飛び違って小一郎は、刀を上げて払ったが、すぐに続いてもう一本!
 あぶない、あぶない、あぶない、あぶない! ……だがこの時リーンという、微妙な音色の聞こえたのは、いったいどうしたというのだろう?

        三十一

 ここは館の一室である。――
 一人の女が仆れている。
 髪がグッタリと崩れている。裾が淫りがわしく乱れている。死んでいるように動かないが、決して死んでいるのではない。幽かながらも呼吸をしている。どうやら気絶をしているのらしい。誰だろういったいこの女は? 他でもない桔梗様であった。
 と、桔梗様は眼を開けた。
「おや妾はどうしたんだろう?」呟くと衣裳を調えた。「まあ奇妙なお部屋だこと」
 で、グルリと見廻わして見た。眼についたのは大釜である。部屋の正面に据えてある。三人以上の大男が、両手を繋いで抱えなければ、抱えることは出来ないだろう――そんなにも大きな釜であった。そこから湯気が上っている。熱湯が湛えてあるらしい。釜の下には火炉がある。焔がカーッと燃えている。釜の形は筒形である。上の方で花のように開いている。そうして周囲には彫刻《ほりもの》がある。どうでも日本風の釜ではない。古代唐風の釜である。火炉もやっぱり唐風である。唐獅子の首だけを切って来て、押し据えたような形である。ワングリ開いた巨大な口! そこが火口になっている。燃えている焔の真紅の色が、まるで血汐でも含んでいるようだ。
 火炉と釜との背後《うしろ》にあたって、大きな棚が置いてある。一|個《つ》ではない、三|個《つ》である。で正面の部屋の壁は、棚ですっかり埋められている。棚には幾個か段がある。段には壺が載せてある。壺の数は無数である。そうして形が各自《めいめい》異う。角形のもの、円形のもの、菱形のもの、円錐形のもの、八角形のものもある。そうしてその色も異っている。ある壺は紫色を呈している。ある壺は青磁色を呈している。
 薬を盛った壺らしい。
 薬棚の前、釜の横、そこに彫像が立っていた。等身大の像である。まるで生身の人間のようだ。そんなにも活々とした像なのである。今にも物を云いそうである。しかし唇は結ばれている。唇の色の美しさ! 紅を塗ったように紅である。だが顔色は蒼白い。端麗な女の顔である。開いたらどんなに美しかろう? そう思われるような両眼が、軽く軟かく閉ざされている。棘のように高い鋭い鼻、それはむしろ兇相である。肩へかかった髪の黒さ! いや黒いのは髪ばかりではない。着ている衣裳も漆黒である。が形は日本風ではない。胸に刺繍が施してある。裾にも刺繍が施してある。袖は長く指先を蔽い、その形は筒形である。道教の奉仕者方術師、その人の着るべき道服なのであった。すなわちそこにある彫像は女方術師の彫像なのであった。片手に杖を持っている。何んとそれは黄金ではないか! 黄金の杖を持っているのである。
 美しい女の像ではあるが、全体に凄く幽鬼的で、ゾッとするようなところがある。
 彫像である! 動かない! がもしそれが動いたら、一層物凄く思われるだろう。
 部屋全体が煙っている。紫陽花《あじさい》色に暈《ぼ》かされている。とは云え煙りこめているのではない。それは光の加減からであった。
 穹窿形をした組天井、そこから龕が下っている。瓔珞《ようらく》を下げた龕である。さあその容積? 一抱えはあろうか! 他界的な紫陽花色の光線が、そこから射しているのであった。
 部屋の四方は板張りである。板張りは純白に塗られている。釜の据えてある左手に、錦の帳《とばり》が懸けられてある。部屋の外へ通う戸口だろう。深い襞を作っている。襞の窪《くぼ》みは蔭影《かげ》をつくり、襞の高みは輝いている。
 足が冷々と冷たかった。で桔梗様は床を見た。床は石畳になっていた。白と黒との碁盤形、それに畳まれているのである。
 シン、シン、シンと湯の煮える音! それが唯一の音であった。
 が、もう一つ音がした。ドーン、ドーンという音である。岸にぶつかる波の音だ。非常に遠々しく聞こえて来る。
 それからもう一つ音がした。ドン、ドン、ドン、ドンという音である。滝の落ちるような音である。
 その他には音はない。部屋内は気味悪く静かである。
 気丈で無邪気な桔梗様にも、この光景は恐ろしかったらしい。
「ここはいったいどこなんだろう」顫え声で呟いたものである。
 と、すぐに声がした。「錬金部屋でございます。女方術師|蝦蟇《がま》夫人、その本名は冷泉華子、その人の部屋でございます。……所は海岸、芹沢の郷、……江戸の中ではございません。……建てたお方は一ツ橋様! そうしてあなた様は囚人《とらわれびと》で、逃げようとなされても逃げられません。……そうして妾こそその華子なので。でも恐れるには及びません。無益に危害は加えません。……で、お答えなさりませ、これから妾のお訊きすることに!」
 彫像が物を云ったのである。

        三十二

 釜の横に立っていた女の彫像、それが物を云ったのである。いやいや彫像ではなかったのであった。蝦蟇夫人事華子なのであった。
 桔梗様が気絶から蘇甦《よみがえ》るのを、それまで待っていたのらしい。
 と、華子は一足出た。閉じていた眼が見開かれている。結んでいた口が綻びている。眼には針のような光がある。捲くれた唇から見える歯にも、刺すような冷たい光がある。
 と、リーンと音がした。手に持っていた黄金の杖を、石畳の床へ突いたのである。
「昆虫館主のお嬢様の、桔梗様へお訊ね致します。雌雄二匹の永生の蝶の、その一匹は手に入れました、さようでございます、この華子が! もう一匹の蝶のありか[#「ありか」に傍点]を、さあさあお教えなさりませ」
 またも一足踏み出して、またも黄金の杖を突いた。と、リーンと美しい音色が、部屋へ拡がったものである。
 事の意外に桔梗様が、ポッカリとその口を無邪気に開け、ポッカリとその眼を無邪気に見張り、しばらく物の云えなかったのは、当然なことと云わなければならない。
 もちろん返辞はしなかった。もちろん微動さえしなかった。呆然見詰めているばかりであった。
 この桔梗様のそういう態度は、見ようによっては図々しくも、また大胆不敵にも見える。
 それが華子を怒らせたらしい。俄然態度を変えたものである。
「オイ」と云ったが、その声は、優しい女の声ではなく、残忍な悪婆の声であった。「処女《おぼこ》に似わず図々しいの、フフンそうか、そう出たか、よろしいよろしいそう出るがいい。が、すぐにも後悔しよう、顫え上がるに相違ない、悲鳴を上げるに相違ない、そうして許しを乞うだろう、見たようなものだ、見たようなものだ! まず!」
 というと冷泉華子は、そろそろそろそろと黄金の杖を、斜めに上へ振り上げた。
「打ちはしないよ。何んの打とう、もっともっと凄いことをする。……ご覧!」
 と今度は嘲笑った。と、クルリと身を廻わし、釜の方へスルスルと寄ったかと思うと、振り上げていた杖を斜《はす》かい[#「かい」に傍点]に、グーッと釜の中へ突っ込んだ。瞬間湯気が渦巻いたが、すぐに杖を引き出した。尖端《せんたん》から滴たったは水銀色の滴《しずく》で石畳へ落ちたと見る間もなく、どうだろう石畳の一所へ、小穴が深く穿《うが》たれたではないか! 水銀色の滴には、世にも恐ろしい力強い、腐蝕作用があるのらしい。
 と、華子であるが腕を延ばすと、スーッと杖を突き出した。桔梗様の顔から一尺のこなた、そこまでやると止めたものである。
「穴が穿《あ》きましょう、綺麗な顔へ! 鉛を変えて黄金とする、道教での錬金術、それに用いる醂麝《りんじゃ》液、一滴つけたら肉も骨も、海鼠《なまこ》のように融けましょう、……さて付ける、どこがいい? 額にしようか頬にしようか? 眼につければ眼が潰れる、鼻へ付ければ鼻がもげる[#「もげる」に傍点]、耳へ付ければ耳髱《みみたぼ》が、木の葉のように落ちてしまう! さあさあさあ、それそれそれ!」
 そろり[#「そろり」に傍点]と杖を突き出した。距離を五寸に縮めたのである。
「お云い!」と華子はそこで云った。「お前は昆虫館館主の娘、蝶のありか[#「ありか」に傍点]を知っている筈だ! もう一匹、さあどこだ?」
 そろそろそろそろと杖を出す。その杖の先と桔梗様の顔と今にも今にも触れ合おうとする。杖の先が顫えている。と一滴その先から、ポタリと滴が床に落ちた。幽かながらもジーッという音! ポーッと立ったは糸のような煙り! 小穴がまたも開いたものである。
 怪奇な光景と云わざるを得ない。
 龕から射している他界的の光、その中に立っている女方術師、背後《うしろ》で燃えている唐獅子型の火炉、その上に滾《たぎ》っている巨大な釜、……そうしてキラキラキラキラと、黄金の杖が輝いている。そうしてその杖の尖端から、水銀色の滴が落ち、落ちると同時に煙りが立ち、碁盤形の石畳へ穴を穿ける。
 怪奇な光景と云わざるを得ない。――
 桔梗様には夢のようであった。魘《うな》されていると云った方がいい。何が何んだか解らなかった。解っているのは次のことであった。
 夕方叔父の屋敷から出て、隅田の流れを見ていると、突然背後から猿轡《さるぐつわ》を噛まされ、おりから走って来た駕籠に乗せられ、誘拐されたということである。誘拐されたと感付いたので、小指を食い切り血をしたたらせ、懐紙へそのことを認めて、持ち物へそれを巻き付けて、幾個《いくつ》か落としたということである。

        三十三

「それでは妾を誘拐《かどわか》したのは、雌雄二匹の永生の蝶々の、ありかを云わせようためだったのか。……でも妾はありかは知らない。雌蝶の方はお父様が、昆虫館から放してしまった」――で桔梗様は当惑した。と云って黙ってはいられなかった。いつまでも黙っていようものなら、杖の先で顔を突かれるだろう。突かれたら顔へ穴が穿《あ》こう。トロトロに顔が融かされよう。
 そこで桔梗様は云ったものである。
「存じませんでございます」それから正直に云いついだ。「雌雄二匹の蝶の中、雄蝶は盗まれてしまいました。随分探しましたが、目付けることは出来ませんでした。雌蝶の方はお父様が、手放してしまったのでございます。……雌雄二匹の永生の蝶々、只今どこにおりますや、存じませんでございます。……」それから嘆願するように、「叔父様が待っておりましょう、家へお帰しくださいまし。妾何んにも悪いことなど、致した覚えはございません。どうぞ虐《いじ》めないでくださいまし。本当に知らないのでございます。何んにも知らないのでございます。決して嘘など申しません。どこに蝶々がおりますやら、本当に知らないのでございます」
 偽りのない態度である。偽りのない云い方である。そうして沈着《おちつ》いた様子である。
 しかしそういう一切のものは、反対に見れば反対にも見られる。すなわち図太く見られるのである。
 女方術師冷泉華子はどうやら反対に見たらしい。
「嘘をお云いよ!」と一喝した。とたんに引いたは黄金の杖で、斜めに上げると釜の中へ、再びボーンと突っ込んだ。引き上げると滴る水銀色の滴! と、その滴をしたたらせたまま、ズーッとその先を突きつけた。「お云い!」と云ったが憎さげである。「一匹逃がしたのは本当らしい。それを手に入れたのがこの妾だ! で、それは信じよう。盗まれたなどとは信じられない。そう甲斐|撫《な》でに盗まれるような、そんな永生の蝶でもなく、それにまた蝶を盗まれるような、ヤクザな館主でもない筈だ! お聞き!」と云うと歯を剥いた。惨酷に刺すように笑ったのである。「お前の父親昆虫館館主は、無双の学者で恐ろしい人物、唯一の証拠は最近まで、昆虫館のあり場所を、知らせなかった一事でも知れる。何んの貴重な永生の蝶を、他人に盗まれることがあろう。親子ひそかに巧らんで、どこかへ隠したに相違ない。お云い!」
 と云うとスルスルと、黄金の杖を突き付けた。と滴がポッツリと落ち、ボーッと白煙が立ち上ったが、小穴がまたも出来たものである。
 桔梗様は黙っている。ただ杖の先を見詰めている。云いたいにも云うことがないのである。
 端然として動かない。
 波の音が聞こえて来る。滝の落ちる音が聞こえて来る。依然部屋内は静かである。
 と、どうしたのか冷泉華子は、ガラリと態度を一変した。まず突き付けた杖を引き、片膝を突くと首を延ばし、愛想笑いを眼に湛え、その眼で桔梗様の顔を覗き、猫撫で声で云い出したのである。
「立派なお心掛けでございますよ。そうでなければなりますまい。それでこそ昆虫館館主の令嬢、感心を致してございますよ。……云わぬと決心したからには、そこまで徹底しない事には、本当の女丈夫とは申されますまい。嚇して聞こうと致したは、妾の間違いでございました。もうもうすることはございません。……が、桔梗様、そうは云っても、妾も女方術師の、冷泉華子でございますよ。これと一旦決心したことは、きっとやり通してお目にかけます。たとえば……」というと冷泉華子は、いよいよ声を優しくしたが、「たとえばあなたを隅田の屋敷から、ここへお連れして来ましたのも、そうしてあなたが、三浦三崎の、木精《こだま》の森から下られて、江戸へおいでになりました事を、探って知ったのも妾でございます。もっとも直接それをしたは、妾の部下で一ツ橋の家臣の、南部さんというお侍さんと、その一味ではございますが、命じたのは妾でございます。……いやそればかりではございません。まだ色々のことを知っております。昆虫館が閉ざされたこと、郷民がみんな立ち去ったこと、みんな探って知っておりました。知ろうと思えばどんなことでも、きっと妾は知ってみせます。で……」と云うと冷泉華子は、穏かではあるが気味の悪い、叮嚀《ていねい》ではあるが威嚇的の、矛盾した微笑を浮かべたが、「で、あなたがどう隠し、どう口をお噤みなさろうと、最後には一匹の蝶のありか[#「ありか」に傍点]を、きっと云わせてお目にかけます。つまりあなたと致しましては、隠すだけが損なのでございます。いつまでも強情にお隠しになると、好んでしたくはございませんが、今度こそ本当に醂麝《りんじゃ》液で、あなたのお美しい顔や手を、焼け爛《ただ》らせてお目にかけます。オヤオヤ」と華子は苦笑《にがわら》いをした。「またも妾の厭な癖の、嚇しの手が出たようでございますね。いえ嚇しません嚇しません、嚇して口を開くような、そんな臆病な桔梗様ではなかった筈でございますから。……嚇すどころではございません、お願いするのでございます。どうぞお明かしくださいませ、どうぞお知らせくださいまし、永生の蝶の一匹のありか[#「ありか」に傍点]は、いったいどこなのでございましょう」
 どんなに云われても桔梗様には、返事をすることが出来なかった。永生の蝶の居場所を、真実知っていないからである。
 首をうなだれた[#「うなだれた」に傍点]桔梗様は、ただ繰り返すばかりであった。
「妾嘘は申しません。どこに蝶がおりますやら、存じませんでございます。どうぞ虐めないでくださいまし。どうぞ叔父様のお屋敷へ、お帰しなすってくださいまし」
 両袖を顔へあてたのは、涙を見せまいとしたのだろう。やがて泣き声が洩れて来た。肩が細かく波を打つ、耳髱へかかった後毛《おくれげ》が、次第に顫えを増して来る。

        三十四

 しばらく見ていた冷泉華子は、舌打ちをすると突っ立った。取り上げたのは黄金の杖で、引きそばめると後退《あとしざ》りし、煮えている釜の横手まで、一気にスーッと引っ返した。
「なるほど!」
 と云ったが凄じい声だ!
「なるほど、それほどの強情なら、殺されるまでも明かすまい。……女よ! お死に! 殺してあげよう! 嬲《なぶ》り殺しだ、まずこうだ!」
 ジーンと不気味の音がした。杖を釜の中へ入れたのである。湯気が渦巻き立つ。それを貫いて斜《はす》かいに、黄金色の線が引かれている。すなわち黄金の杖である。そろそろとそれが引き上げられた。と杖の先が現われた。弧を描いてその先が、部屋の空間へ差し出された時、ポッツリと一滴水銀色の滴が、石畳の上へしたたった。ボーッと上がったのは煙りである。石畳へ出来たのは小穴である。幽かな顫えを見せながら、杖の先が延びて行く。それの止まった正面に、両袖で顔を蔽い隠した、桔梗様の姿がうずく[#「うずく」に傍点]まっている[#「姿がうずく[#「うずく」に傍点]まっている」は底本では「姿がうず[#「がうず」に傍点]くまっている」]。それを黄金の杖で繋ぎ、向かい合って延々《のびのび》と立っているのが、女方術師の華子である。
 黒の道教の道服を纒い、真っ直ぐに立っている華子の姿は、太くて円い墨の柱が、一本立っているようであった。その頂上に白い物がある。仮面のように冷静な顔である。まくれ上がった唇から、上の前歯が露出している。鈍い銀色の真珠貝、そんなように見える二つの眼が、一点をじっと見詰めている。
「さあ桔梗様、両袖を、顔からお取りなさいまし」
 命ずるような声である、催眠性を持った声である。反抗することは出来ないだろう――そんなように思われる声であった。
「はい」
 と云ったのは桔梗様である。
 と、桔梗様は袖を取った。涙で洗われていよいよ益※[#二の字点、1-2-22]、可憐にも見え美しくも見える、桔梗様の顔が現われた。
「綺麗なお顔でございますこと」
 黄金の杖を差し向けながら、華子は冷やかに云ったものである。
「左の眼から焼きましょうか。それとも右から焼きましょうか。ドカリと二つの真っ暗な穴が、顔へ出来るでございましょう。口があって鼻があって、そうして眼だけが二つながらない、どんなに変った面白い顔が出来上がることでございましょう」
 杖の先を次第に近づけた。桔梗様は見詰めている。放心したような眼つきである。眼を放すことが出来なかった。黄金の杖に磁気があって、それが引きつけているように、眼を放すことが出来なかった。だが心ではハッキリと、こんなことを考えていた。
「妾は決して殺されはしまい。妾は怪我《けが》だってしないだろう。何も悪いことをしないのだから。冷泉華子という人は、冗談をしているのだろう。妾を嬲っているのだろう」
 だがもし桔梗様が眼を上げて、華子の顔を一眼でも見たら、そういう考えは消えてしまったろう。
 華子の顔は無表情であった。まるで事務的の顔であった。どこにも感情は見られない。惨酷な精神の持ち主が、惨酷の行いをやる場合、多くは無表情の顔になる。その惨酷な無表情な顔が、今の華子の顔であった。
 杖の先がだんだん延びて行く。その先から今にも滴ろうとして、水銀色の醂麝液が、顫えを帯びて光っている。と、杖の先が、一息に、桔梗様の左の眼へ延びて来た。
 この時外から聞こえて来たのが、「一式小一郎、田安家の家臣、我々の秘密の道場へ潜入致してございますぞ! 出合え!」という声であった。
「あッ、それでは一式様が!」
 叫んで立ったのは桔梗様である。
 と、ひときわ甲《かん》高く、リーンという音がした。すなわち華子が黄金の杖を、石畳の上へ突いたのである。

 一本二本目の矢を払い、難を遁がれた小一郎は、築山を背に木立を前に、例によって太刀を下段に構え、この時ホッと息吐いたが、敵勢百人はあるだろうか、四方八方取り囲まれ、遁がれ出る隙間はなさそうであった。
 と、左右から二人の敵が月光を刎ねて飛び込んで来た。
「うむ」と呻いたが小一郎は、左の一人へ太刀をつけ、瞬間足を踏み交《ちが》えると、右手の一人へ太刀をつけた。
 左手の一人は肩を割られ、右手の敵は真っ向を割られ、等しく弓のように反り返ったが、月でも捕えようとするように、両手を高く上げたかと思うと、そのまま延びて仆れてしまった。
 スッと後へ引いた小一郎を追って、突き出されたのは一筋の槍だ。
 いうところの逆モーション。かわすところを反対に、前へ飛び出した小一郎は、これもあくまで逆モーション、刀を揮って払いもせず、千段巻を握ろうともせず、飛び込みざまの双手突き、ウンとばかりに突っ込んだ。
 悲鳴をあげたのは槍の持ち主で、槍を前方へ突き出したまま、しばらく堪えて立っていたが、やがてポロリと槍を落とすと、背後《うしろ》ざまに地に仆れた。
 もうこの頃には小一郎は、束《そく》に背後へ飛び返り、ふたたび太刀を下段に付け、「来やアがれーッ!」と構えたが「あッ」とその次の瞬間には、驚きの声を迸らせた。
 月夜に楕円形の抛物線《ほうぶつせん》を描き、蛇のようなものが翻然と、小一郎へ飛びかかって来たからである。
「残念! やられた! 鎖鎌だ!」
 叫んだ小一郎の声と共に、ガラガラという音がした。同時にピカッと何物か、閃めき飛んだものがある。

        三十五

 争闘の後の静けさよ! ただ声ばかりが聞こえて来る。
「一尺になった! 二尺になった!」
 それから少し間を置いて、
「三尺になるのも間もあるまい!」
 滝の落ちる音が聞こえて来る。これまでの音とは少し違う。ドンドンドン……ドンドンドン……これがこれまでの音であった。しかるに今はザーッ、ザーッと、あたかも夕立ちの降るような、そんな音に変わっている。
 女方術師蝦蟇夫人の、その本名は冷泉華子、その華子の錬金道場の、その道場を囲繞している、樹木の鬱々と繁った所は、宏大もない庭である。
 先刻まで、一式小一郎が、南部集五郎一味の者と、切り合っていたところの庭である。
 その庭の隅の一所に、一個の建物が立っていた。木口で作った建物ではない。岩で作った建物である。その形は正方形、いや丈《たけ》の方がうん[#「うん」に傍点]と高い。長方形と云うべきであろう。十畳敷きぐらいの大きさである。その一方に扉がある。どうやら鉄で出来ているらしい。外から閂《かんぬき》が下ろされてある。ずっと高い一所に、四角の窓が開いている。その窓から巨大な棒が、一本ヌッと掛け渡してある。その棒の外れに聳えているのが、雑木に蔽われた崖である。その距離は精々一間であろう。崖からは滝が落ちている。いやその滝は先刻方まで、崖を伝って滝壺へ、素晴らしい勢で落ちていたのであるが、今では少し違う。と云うのは今では滝の水は、巨大な棒――樋なのであるが、それを伝って岩組の建物――すなわち華子の垢離《こり》部屋なのであるが、その中へ落ち込んでいるのであった。
 崖の一角へ足場を定め、窓から垢離部屋を覗き込みながら、叫びを上げている武士がある。他ならぬ南部集五郎であった。
「三尺になるのも間もあるまい! 四尺になるのも間もあるまい。五尺六尺となるだろう。部屋が滝の水で一杯になろう、と窒息だ! すなわち溺死!」さも愉快そうに叫んでいる。
 垢離部屋の中に武士がいる。囚われた一式小一郎である。
 大水が頭上から落ちて来る。部屋の扉は閉ざされている。逃げ出すことは絶対に出来ない。水の疏口《はけぐち》も閉ざされたのだろう。部屋の中の水は増すばかりである。
 窓から外光が射している。青々とした月光である。で岩組の垢離部屋の中が、幽かながらも朦朧と見える。
「鎖鎌で刀を捲き落とされた。そこを大勢に組み付かれた。二、三人投げたがおっつかなかった[#「おっつかなかった」に傍点]。手を取られ足を取られ、担ぎ上げられたと思ったら、ドンとこんな部屋へ投げ込まれた。……水が落ちて来る! 水が湛《た》まる! 天井は高い! 窓も高い! 扉が開かない! 逃げることは出来ない! だがこうしてはいられない! まごまごしていると溺死する! どんなことをしても逃げなければならない! どんなことをしても出なければならない!」
 で、一式小一郎は、扉の方へ走って行った。水が股までつい[#「つい」に傍点]ている。足を取られてヨロヨロする。扉を押したが揺るごうともしない。
「どこかにないか! どこかに出口は!」
 で、一方の岩壁へ走った。叩いたが岩壁は動かない。ツルツルしていて足がかりもない。
 もう一方の岩壁へ走って行った。やはり叩いたが動かない。もう一方の岩壁へ走って行った。やっぱり駄目だ。打っても叩いても、岩壁は微動さえしなかった。
 どっちの壁を叩いても、微塵《みじん》動こうとはしないのである。そうしてどの壁も垂直であり、手もかからなければ足もかからないで、岩壁をよじ上り、窓まで行くことも出来なかった。
 ザ――ッ、ザ――ッと水が落ちる。見る見るその水が量を増す。腰までつい[#「つい」に傍点]た。腹までつい[#「つい」に傍点]た。ととうとう胸までつい[#「つい」に傍点]た。
 間もなく首までつく[#「つく」に傍点]だろう、すぐに顎までつく[#「つく」に傍点]だろう。そうして口までつく[#「つく」に傍点]だろう。鼻までつい[#「つい」に傍点]たら最後である。
 岩壁へもたれた小一郎は、「無念! 駄目だ! 俺は死ぬ! あッあッあッ、溺死する! ……桔梗様アーッ」と呼ばわった。
「そうだ桔梗様はどうしているだろう? 恐ろしい恐ろしいその館、ここに囚われている限りは、ロクな目に逢ってはおられまい! 命のほども危ぶまれる! 助けなければならない、助けなければならない! 桔梗様アーッ」と呼ばわった。
 考えがグルグル渦を巻く。その間も滝は落ちて来る。ズンズンズンズン水が増す。
「出なければならない、この部屋から! ……助けなければならない、桔梗様を! ……だが出られない! 助けることも出来ない! ……桔梗様! 桔梗様!」
 ザ――ッ、ザ――ッと落ちる水! 次第にまさる水の量!
 一式小一郎はこの部屋で、溺死しなければならないだろう。
 だが本当に桔梗様は、この頃何をしていたろう?

        三十六

 ここは華子の錬金部屋である。床へペッタリくず[#「くず」に傍点]折れて、身悶えしているのは桔梗様である。袖で顔を蔽うている。肩で烈しく呼吸をしている。歔欷《すすりない》ている証拠である。
 その前に墨の柱のように、黒の道服を身に纒い、立っているのは華子であった。黄金の杖を差し出している。杖の先からは醂麝液が、水銀色をして落ちている。落ちるに従って石畳の上に、小穴がポッツリポッツリと穿《あ》く。そうして煙りがポ――ッと立つ。
 唐獅子型の火炉の中では、火が赤々と燃えている。火炉には釜がかかっている。巨大な唐風の釜である。釜から立ち上っているものは、乳色をした湯気である。部屋全体が煙っている。紫陽花《あじさい》色に煙っている。天井から下がっている瓔珞龕《ようらくがん》、そこから射している灯の光それが煙らしているのである。
 少しも変わらない錬金部屋の光景!
 いやいや一つだけ変わっている。出入口に垂れてあった錦の帳《とばり》が、今は高々と掲げられ、開いた戸口から遠々しく、声が聞こえて来ることであった。
「一尺になった! 二尺になった!」それから少し間を置いて、「三尺になるのも間もあるまい!」――南部集五郎の呼び声である。
 と、華子は云い出した。
「あなたの恋人の一式様は、岩組で作った垢離部屋の中に、閉じ込められてしまいました。あなたの身の上を案じられ、助けに来られた一式様が! ……お聞きなさりませ滝の音を! ザ――ッ、ザ――ッ、ザッ、ザ――ッと聞こえて来るではございませんか! 落ちているのでございますよ、その岩組の垢離部屋の中へ! ……一尺になった、二尺になった、三尺になるのも間もあるまい! お解りになりましょうか、この意味が? 水が湛まったということです。……湛まり湛まって滝の水が、垢離部屋一杯になった時、溺死することでございましょう、あなたの恋人の一式小一郎様は! で、悪いことは申しません、永世の蝶の一匹の在家《ありか》を、一口お打ち明けなさいませ、そうしたら滝の水を止めましょう。そうして一式小一郎様と、あなたとをお助けいたしましょう」
 で、じっと[#「じっと」に傍点]桔梗様を見た。
 桔梗様は返辞をしなかった。云いたいにも云うことがないからであった。永生の蝶の一匹の在家《ありか》を事実知っていないからであった。
 恐ろしい拷問と云わなければならない。
 助けにやって来た恋人を、一方において水責めに、断末魔の時期を刻々に告げ、さらに一方では恐ろしい、腐蝕性ある醂麝液を、突き付けて威嚇するのである。永生の蝶の一匹の在家を、もし桔梗様が知っていたら、一も二もなく明かせたであろう。そうでなくとも桔梗様に、少しでも不純の心があったら、出鱈目の在家を告げることによって、一時の危難から遁がれたかも知れない。桔梗様にはそれは出来なかった。と云うよりむしろ桔梗様には、一時遁がれの口実等を、考える事さえ出来なかったのである。そんなにも心が純なのであった。
「一式様とご一緒に死ぬ! それこそ妾の本望だ。ちっとも妾は悲しくない。それにしても一式小一郎様は、どうして妾の居場所を、突き止めて助けに来られたのだろう? ……誘拐されたと感付いたので、小指を噛み切り、血をしたたらせ、そのことを懐紙へ認めて、櫛や簪に巻き付けて、幾個《いくつ》か往来へ落としたが、ひょっとかすると[#「ひょっとかすると」に傍点]その一つを、一式様がお拾いになり、それからそれと手蔓を手繰《たぐ》り、ここをお突き止めなされたのかも知れない。もしそうなら妾と一式様は、よくよくご縁があるというものだ。そういうお方と同じ場所で、同じ一味の悪者の手で、同時に殺されてこの世を去る。恋冥加! 怨みはない!」これが桔梗様の心持ちであった。
 で少しも取り乱さなかった。とは云えやっぱり悲しくもあれば、また恐ろしくも思われた。で、泣きながら身顫いをし、顔から袖を放さなかった。
 その間も南部集五郎の声は、戸口を通して聞こえて来た。
「三尺になるのも間もあるまい! 四尺になるのも間もあるまい! 五尺六尺となるだろう! 部屋が滝の水で一杯になろう。と窒息だ! すなわち溺死!」
 ザ――ッ、ザ――ッと滝の音が、伴奏のように聞こえて来る。
 と、またもや集五郎の声が、「腰まで浸《つ》いた! 腹まで浸いた! おおとうとう胸まで浸いた!」
 ザ――ッ、ザ――ッと滝の音!
 と、また集五郎の声がした。
「喉まで浸《つ》いたぞ! 頤《あご》まで浸いたぞ!」
 ザ――ッ、ザ――ッと滝の音!
 つと[#「つと」に傍点]華子は踏み出した。「まだ云わぬか! 汝《おのれ》強情! 云え云え云え、蝶の在家《ありか》を! まだ助かる、さあ桔梗!」
 ヌ――ッと杖を突き出した。キラキラ光る黄金の杖! 水銀色の醂麝液が、その尖端で顫えている。
 だがとうとう聞こえ来た。「口まで浸《つ》いたぞ! 鼻まで浸いたぞ! 水が全身を乗り越したぞ! 姿が見えない! 水ばかりだ! 溺れた溺れた! 一式小一郎は!」
「汝《おのれ》も共々!」と冷泉華子は、一気に杖を突き出した。「くたばれくたばれ! 殺してやろう!」
 が、桔梗様はそれより早く、グ――ッと横仆しに転がった。気絶か、それとも本当の死か? 仆れた桔梗様は動かない。
 恋人同志、桔梗様と小一郎は同時にこの世を去ったらしい。
 だからこの時この館を目掛け、芹沢の方から七福神組が、手組輿に弁天松代を載せ、掠めた調子でエッサエッサと、掛け声を掛けながら馳せつけて来たが、手遅れになったと云わなければならない。
 だが乱闘の始まったのは、それから間もなくのことであった。

        三十七

 裏門まで馳せつけた七福神組は、バラバラとそこで手を解いた。手組輿がこわれた。
 ヒラリと下り立ったのは弁天松代で、ズ――ッと館を見廻わしたが、
「さあさあいよいよ乗り込みだ。唐の建物に則った、珍妙を極めた家のつくり、棟数も随分多いようだ。人数も大分こもっているらしい。七人の仲間がバラバラに、別れて探しにかかった日には、打って取られる恐れがある。成るたけ七人かたまって、片っ端から一棟ずつ、虱潰《しらみつぶ》しに潰すとしよう。何んの何んの潰すんじゃアない。桔梗様を見付けて取り返すのさ。どうせ切り合いになるだろう。刀の目釘を湿すがいい。ええと合言葉は『船と輿』だ。そうは云っても乱闘となったら、チリヂリバラバラに別れるかも知れない。そうなったら仕方がない、各自《めいめい》思うさま働くがいい。そうして危険にぶつかったら[#「ぶつかったら」に傍点]、合図の手笛を吹くことにしよう。一声永く引っ張ってな。ええとそれから誰でもいい、誰か桔梗様を目付けたら、手笛を二声吹くとしよう。……さあさあ乗り込め、まず妾から」女ながらも一党の頭《かしら》、隙のない手配《てくば》りを云い渡したが、やがて土塀へ手をかけると、翩翻《へんぽん》と向こうへ飛び越した。
 後の六人も負けてはいない、これも土塀を飛び越した。
 宏大な庭が拡がっている。樹木や築山が聳えている。泉水も小川もあるらしい。それに介在して建物が、到る所に立っている。月光が、それを照らしている。ある建物からは人声がする。ある建物は沈黙である。
 地に肚這った七福神組は、しばらく様子をうかがったが、
「オイ」と松代がまず云った。「手近の建物から調べよう」
「合点」と答えたのは六人である。もちろん掠めた声である。
 眼の前に一宇の建物がある。厳重に雨戸で鎧《よろ》われている。そこは怪盗七福神組だ。そこまで素早く走ったが、神妙を極めた潜行ぶりで、葉擦れの音も立てなければ、足音一つ立てなかった。
 と、松代だがピッタリと、雨戸へ耳を押しあてた。
「どうやらここは図書庫らしい。人の気勢が感じられない。紙魚《しみ》くさい匂いばかりが匂って来る」すなわち六感で感じたのだろう。「さあさあ、向こうの建物へ行こう」
 そこで七人また潜行し、もう一つの建物までやって来た。と、ピッタリ弁天松代は、雨戸へ耳をおっ[#「おっ」に傍点]付けたが、「ここには四五人|人《ひと》がいる。だが一人も女はいない。何んとなく刀気が感じられる。これは武器庫に相違ないよ。随分沢山|蔵《しま》ってあるらしい。これがいつもの私達だったら、決して決して見逃しては置かない。踏ん込んで行って攫《さら》うのだが、今夜はそうしてはいられない。攫うものが他にあるのだからね。……さあさあそれでは向こうへ行こう」
 行手にあたって林がある。と云っても楓の植え込みである。林のように繁っている。月光を遮って闇である。その右手に建物がある。
「まず植え込みへ隠れよう」こう云ったのは弁天松代。
「合点」と六人は頷いた。
 で七人が潜行し、素早く植え込みへ身を隠した時、ザ――ッ、ザ――ッとさっきから、響を立てていた滝の音が近増《ちかま》さったのか、高く聞こえ、何んとなく凄く感じられたが、その滝の鳴る方角から、肩に月光を浴びながら、一人の武士が小走って来た。右手の建物へ行くのらしい。
 それと見て取った弁天松代は「オイ」とまたもや囁いた。「侍が一人やって来る。館の住人の一人だろう。二、三人同時に飛び出して行き、有無を云わせず引っ捕え、ここへしょび[#「しょび」に傍点]いて来るがいい。桔梗様の居場所を聞いてやろう。が、いいかい間違っても、音を上げさせちゃアいけないぜ」
「おっとよい来た」と答えたのは、小頭の蛭子《えびす》三郎次である。
「それじゃア俺《おい》らも手を貸そう」こう云ったのは大黒の次郎。
「面白いの、俺も行く」こう云ったのは布袋《ほてい》の市若で、前髪立ちの美男子だ。

        三十八

 それとも感付かぬその侍は、植え込みの前を行き過ぎた。
 とたんに飛び出した布袋の市若は、敏捷さながら猟犬のように、背後からパッと飛び付いた。同時に左腕を鈎に曲げ、侍の首へ捲き付けたのは、声を上げさせないためなのだろう。
「うまいぞ市若!」と大黒の次郎は、つづいて颯と飛び出すと、小手を揮って眼潰しだ、侍の眼の辺をひっ叩《ぱた》いた。
 で、侍はひとたまりもなく、捕虜にされたかと思ったら、結果はむしろ反対であった。布袋の市若がドッサリと、まず地上に投げ付けられ、つづいて大黒が蹴仆された。非常に武道の達者らしい。だがこの侍は何者であろう?
 他でもない南部集五郎で、一刀流では達人である。七福神組が怪盗でもまた行動が敏捷でも、なんのそれらにムザムザと、捕えられるようなヤクザではない。ともすると一式小一郎と、互角に勝負をするほどの、腕に覚えのある人物であった。
 垢離部屋に滝の水が一杯に充ち、一式小一郎が完全に、その水に溺れて見えなくなったのを、今や充分確かめて、それを冷泉華子の耳へ、入れてやろうと崖から下り、ここまで小走って来たところであった。
「これ、誰だ!」と集五郎は、一喝声を浴びせかけた。それからグルリと見廻わして見た。不思議なことには誰もいない。たしかに二人の人間を、投げ出し蹴仆した筈であるが、どうしたものか姿が見えない。
 これは見えないのが当然であった。七福神の連中と来ては、動作の素早さ身の軽さ、驚くべきものがあるのであった。で、布袋と大黒だが、投げられ蹴仆された一瞬に弾んだ毬のように刎ね上がり、刎ね上がった時には横へ反《そ》れ、闇を領して繁っている、楓の植え込みの真ん中へ、飛び込んで姿を眩ませたのである。
「可笑《おか》しいなあ」と集五郎は、刀の柄へ手を掛けながら、油断なく前後を睨め廻わしたが、自然と気配が感じられたのだろう。楓の植え込みへ眼をつけた。じっと見込んだが愕然とした。異風をした六、七人の人間が、地上に腹這い鎌首を立て、こちらを狙っている姿が、闇を一層闇にして、黒々と浮かんで見えたからである。
 そこで集五郎は大音を上げた。「やあ方々お出合いなされ! 我らの秘密の道場へ、またも何者か忍び入ってござる! しかも今回は一人ではない、六、七人はおりましょう! いずれも異風の怪しい連中! 討ち取りなされ! 討ち取りなされ!」刀を引き抜くと「出ろ汝《おのれ》ら!」
 ガラガラガラ! と戸を開ける音や、バタバタバタ! と走り出る音が、四方八方で聞こえたが、人影がムラムラと集まって来た。すなわち幾個《いくつ》かの建物に、閉じこもっていた武士どもが、南部集五郎の声に応じ、得物得物をひっさげて、楓の植え込みを包囲するように、一度に集まって来たのである。
「やあ方々!」と南部集五郎は云った。「曲者はそこだ、植え込みの中だ! 押し包んで一気に乱刃に、討ち取りなされ、討ち取りなされ!」
「心得てござる!」
 と十五、六人は、抜いた白刃を「突き」に構え、植え込みの中へ突き行った。
「おっどうした!」「これは不思議!」「いないではないか!」
「一人もいない!」
 まさしく楓の植え込みの中には、人の子一人いなかった。
 駈け引き自在の七福神組達、形勢非なりと見て取るや例の神速の行動で、七人七方へバラバラと、潜行してしまったに相違ない。
 正しくそれに相違なかった。
 次の瞬間にあちこち[#「あちこち」に傍点]から、喚声と悲鳴とが聞こえて来た。
「ここに曲者! ……一人目付けた!」
 築山の方からの声である。
「何を!」と凄い突っ刎ねる声、「斃《くた》ばりやアがれーッ」ともう一声!
 つづいて「ワッ」という恐ろしい悲鳴!
 七福神組の一人が、一ツ橋家の侍を、どうやら一刀に切ったらしい。
 と反対の竹藪の方から、「ここにも一人! 異風の曲者!」
「うるせえヤイ!」と答える声!
 すぐに続いて「ワッ」という悲鳴!
 七福神組の一人に、またもや一ツ橋家の侍が、どうやら討って取られたらしい。
 と、遙かに距離をへだてた、泉水のある方角から、「曲者でござる! 曲者でござる!」
 すぐにチャリ――ンと太刀の音! つづいてドブ――ンと水の音!
「態《ざま》ア見やがれーッ」と言う声がした。
 一ツ橋家の武士が一人、七福神組の一人に、切られて泉水へ蹴込まれたらしい。

        三十九

 太刀音、悲鳴、罵る声、四方八方から聞こえて来る。
 と、石橋のある方角から、数人の声が聞こえて来た。「ここにも曲者」「しかも女!」「異風してござる!」「しめたしめた!」
「さあ取りこめたぞ!」「手捕りにしろ!」
「馬鹿め!」と裂帛《れっぱく》の女の声! どうやら頭《かしら》の弁天松代が、一ツ橋家の武士どもに、目付かって包囲されたらしい。
 だがその次の瞬間であった、そっちの方角から一声永く、ヒュ――ッと笛の音が聞こえて来た。と、忽ち宏大の庭の、木立を揺るがせ、灌木を揺るがせ、枝葉に光っている月光を散らし、三方四方から六個の人影が、まるで小鬼でも走るように、眼にも止まらぬ素早さで、笛の聞こえた方角へ、一度に走って行くと見えたがチャリ――ン、チャリ――ンと太刀の音! 「ワッ」という、悲鳴! 仆れる音! 「船だよ!」「輿だよ!」の合言葉! 物凄じく鳴り渡ったが、間もなく女の声がした。
「もう大丈夫! さあお隠れ! そうしてお探し、桔梗様を!」
 とにわかにひっそり[#「ひっそり」に傍点]となり、またもや月光を刎ね飛ばし、木を揺るがせ、木立を揺るがせ、黒々とした人の影が、七個《ななつ》散るのが見て取れた。
 すなわち頭の弁天松代が、合図の手笛を吹き鳴らし、散っていた六人の仲間を集め、包囲した一ツ橋家の武士どもを、力を合わせて切り散らし、そうして再び六人の仲間に、自由の行動をとらすべく、分散させたものと思われる。
 で、にわかにひっそり[#「ひっそり」に傍点]となった。が、わずかの間であった。色々の声が聞こえて来た。
「ム――」……手負いの呻き声である。「どっちへ行った? どっちへ行った?」……一ツ橋家の武士達が、七福神組の連中を、さがし廻わっている声である。
 いろいろの音が聞こえて来た。
「サラサラサラ! サラサラサラ!」灌木や木立を押し分けて、走り廻わっている音である。七福神組の連中もいよう、一ツ橋家の武士達もいよう。ザ――ッ、ザ――ッ! 滝の音だ! 一式小一郎を葬って、死骸の上へ尚一層、落ち下っている滝の音だ。チャリ――ン! 太刀音! 衝突したのだ! 七福神組の連中と、一ツ橋家の武士達とが。
 キラッと閃めく物がある。揮った刀や槍の穂に、月の光がぶつかった[#「ぶつかった」に傍点]のだ。
 一所に石楠花《しゃくなげ》の叢があった。その叢の根にうずくまり、様子を窺っている人影があった。
 ソロリと立ち上がった姿を見れば、手に小脇差しを引っ下げている。ベットリと血に濡れている。小褄をキリキリと取り上げている。その下から見えるのは、緋縮緬の長襦袢で、その裾から見えるのは白いふっくり[#「ふっくり」に傍点]とした綺麗な脛だ。髪は結綿、鬼鹿子、着ているのは黄八丈の振り袖である。が、両袖とも捲くり上げている。頭の弁天松代である。衣裳も手足も紅斑々、切られたのではない返り血だ。敵を幾人か切り斃し、その血を浴びたものらしい。
「さあてこれからどうしたものだ。うむ」と云うと合点をした。「さっき隠れた楓の植え込み、右手に立っていた一つの建物。妾にゃア何んとなく気になるよ。ひとつあそこ[#「あそこ」に傍点]を探って見よう」
 これも六感で感じたのだろう、呟くと同時に弁天松代は、クルリと体の向きを変え、暗い木間を伝い伝い、その方角へ引っ返した。
 四方へバラバラに散ったと見え、一ツ橋家の侍達は、その辺に一人もいなかった。「有難いねえ」と弁天松代は、サ――ッと建物へ馳せつけた。円錐形の外廓を持ち、鶴の翼を想わせるような、勾配の烈しい屋根を持った、全く独立した建物であった。その外廓は朱塗りである。屋根の瓦は緑である。月が瓦を照らしている。木洩れの月光が外廓の、諸所へ銀の斑を置いている。全体がきわめて神秘的である。グルリと欄干が取り廻わしてある。その欄干も朱塗りである。「入口はないか? 入口はないか?」松代は欄干を飛び越した。そこは廻廊である。建物について廻廊を、松代はグルリと一周した。入口だろう口があり、錦の帳《とばり》が掲げられ、掲げられた隙から紫陽花《あじさい》色の、燈火の光が射していた。「しめた!」と呟いた弁天松代は、一躍すると駈け込んだが、
「おっ、これは!」と立ち縮《すく》んだ。
 巨大な火炉が燃えている。その上に大釜が懸かっている。朦朦《もうもう》と湯気が立っている。プ――ンと異臭が鼻を刺劇《つ》く。その傍に黒々と、道服を纒った女がいる。左手に持ったは黄金の杖で、そうして右手に抱えたは、死んでいるのか気絶しているのか、両眼を瞑《つむ》ってグッタリと、延びている乙女の体である。女のくせに何んと大力、道服の女――冷泉華子は、抱えた乙女を――桔梗様を、グ――ッと上へ差し上げた。きっと釜の中を睨んだが、「融《と》かしてやろうぞ! 融かしてやろうぞ!」まさに桔梗様を投げ込もうとした。
「待て!」と叫んだ弁天松代は、あたかも雌豹、飛びかかった。
 と、飛び退いた冷泉華子は、思わず桔梗様を床へ置き、黄金の杖を突き出したが、「誰だ誰だ汝《うぬ》は誰だ!」
「世上に名高い七福神組、その頭領の弁天松代だ! 汝《うぬ》は誰だ! 汝は誰だ!」
「女方術師蝦蟇夫人さ! ……弁天とやら、何んしに来た!」スルスルと黄金の杖を出した。
 脇差しを構えた弁天松代、「云って聞かそう、取り返しにだ! 昆虫館館主のご令嬢を」
「桔梗をか※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」と冷酷に、「ここにいるわい! 生死は知らぬよ!」
「貰うぞ!」と叫んだが弁天松代は脇差しを揮うと飛び込んだ。
 気勢に圧せられた冷泉華子はタジタジと後へ退ったが付け目、片手を延ばすこれも大力、松代は桔梗様を引っ抱えた。
「お礼は後日! ……思い知れよ!」
 捨て科白《ぜりふ》を残して弁天松代が、部屋から駈け出ようとした時である。
「女賊め、ならぬ!」
 と声を掛け、戸口から現われた武士がある。ドギツク白刃を下げている。
「邪魔だよ、退《ど》きな!」と弁天松代。
「行手は封じた! 遁がさぬぞよ!」
「汝《おのれ》は誰だ?」
「南部集五郎だ」
「一ツ橋家の侍だな」
「桔梗様に焦心《こが》れている者だ!」
「さては汝が……」
「誘拐《かどわか》したあア――」
「観念!」
 と投げ付けた声と共に、松代は片手で突きをくれた。
 と、チャリ――ンと太刀の音! すなわち南部集五郎が苦もなく払って退けたのである。「蟷螂《とうろう》に斧だ! くたばれ女郎!」
 その時ジ――ンと音がした。冷泉華子が黄金の杖を、素早く釜の中に入れたのである! 引き出すとスルスルと突き出した。水銀色の滴が垂れ、例によって床から煙りが立ち、そうして床へ穴が穿《あ》いた。
「熔《と》ろかせてやろう。醂麝液で!」左手からジリジリと詰め寄せた。
 上段に振り冠った集五郎、右手からシタシタと廻わり込んだ。「女郎! 助けぬ! きっと殺す!」
 後へ退った弁天の松代は左右の敵を睨んだが、俄然床の上へ膝を突いた。抱いていた桔梗様を放したかと思うと、人差し指を鈎に曲げ、口に含むと合図の笛だ、長く二声吹き立てた。
 と、聞こえる足の音! むらむらと込み入った人数がある。六人組の怪盗である。
「や、姐ご!」
「お前達!」
「おお桔梗様が?」
「目付かったよ」
「しめたしめた、引き上げろ!」
「手輿をお組みよ!」
「おっと合点!」
 六人は片手をガッシリと組んだ。飛び上がった弁天松代は、桔梗様を軽々と抱き上げたが、「表門から行こう、さあ行け行け!」桔梗様を手輿へ舁《か》きのせた。
「それ!」と叫ぶと怪盗六人、片手の抜身を水平に突き出し、シタシタシタシタとそよがせ[#「そよがせ」に傍点]たが、敵を寄せ付けぬ算段である。
 一切の行動が風のようだ。弁天松代を先頭に、サ――ッと戸口から走り去った。
 冷泉華子と南部集五郎は、あまりの意外、あまりの神速、そのやり口に胆を奪われ、しばらく茫然と立っていたが、気が付くとまず集五郎は後追っかけて走り出た。
「やあ方々!」と大音声、「七人の曲者一団となり、表門の方へ走ってござる! 追っかけめされ追っかけめされ!」
 つづいて華子が走り出た。「方々!」とこれは金切り声、「秘密の道場を剖《あば》いた彼ら、遁がしてはならぬ、討って取りなされ! 一手は裏門へお廻わりなされ! 先廻わりをなされ! 先廻わりを!」
 二手に別れた一ツ橋勢、表門と裏門とへ向かったが、既にこの時弁天松代は、表の大門の閂へ、ピッタリ両手を掛けていた。
 ガラガラド――ン! 門が開いた。
「さあさあ早く」
「エッサエッサ!」
 依然松代を先頭に、七福神組の怪盗一団、魔のように門を駈けぬけた。
 後追っかけるは一ツ橋勢! だが怪盗の神速には、到底及びもつきそうもない。
 とはいえこの時行手にあたり、喊声《かんせい》の起こったのはどうしたのだろう? 裏門をひらいて走り出た、一ツ橋家の一手の勢《ぜい》が、七福神組の先に廻わり、今やおっ[#「おっ」に傍点]取り囲んだのである。

        四十

 ところがちょうどこの頃のこと、大森の方角から海岸づたいに、一団の人影が走って来た。一挺の駕籠を取り巻いた、十五、六人の武士達で、いずれも[#「いずれも」は底本では「いずも」]密行姿である。女方術師鉄拐夫人、その本名は北王子妙子、それを駕籠へ乗せた田安家の武士で、桔梗様を救いの人数であった。
 すなわち田安家の裏門から、この夜こっそり忍び出て、方角違いの玉川の方へ走って行った一団なのであるが、どこをどうして廻わって来たものか、この時姿を現わしたのである。
 海岸を一散に走って行く。と、妙子が声をかけた。
「お急ぎお急ぎ、急いでおくれ! まごまごしていると間に合わない! ……妾には解る、妾には解る! 昆虫館主の娘の桔梗が、今危難に墜落《おちい》っている! 生死のほども気づかわれる! 一刻を争う場合だよ! お急ぎお急ぎ、お急ぎお急ぎ!」
 駕籠の一団はひた[#「ひた」に傍点]走る。
 砂山がある。砂山を越す。流木がある。流木を飛ぶ。とまた砂山が出来ている。それを越さなければならなかった。
「可笑《おか》しいねえ。どうしたんだろう? 何んとも云えない不安の気が、海の方から襲って来るよ」
 北王子妙子の声がした。
「走るのをお止め! 駕籠をお止め!」
 ――止まった駕籠からスルスルと、北王子妙子は現われたが、浪打ち際まで歩いて行き、ズーッと海上を眺めやった。
 が、海上には何んにもない。月光に暈《ぼ》かされて茫漾と、煙りこめているばかりである。
 だが北王子妙子には、どうやら何かが見えるらしい。いつまでも不安そうに眺めている。
 と、にわかに振り返ったが、
「柵頼《さくらい》柵頼!」と声を掛けた。
「は」寄って来た武士がある。柵頼格之進という武士である。慇懃に小腰をかがめたが、「は、何事でございますか?」
「ご覧、海上を、船が来るだろう?」
 柵頼格之進は海上を見たが、船の姿などは見えなかった。
「いえ、見えませんでございます」
「そうかい」と云ったが妙子の声は、依然不安を帯びていた。「お前達のような凡眼には、時刻《とき》は深夜、間隔《あわい》は遠し、なるほどねえ、見えないかも知れない、が、確かに恐ろしい船が、一隻帆走って来るのだよ」
「どういう意味でございますかな? 恐ろしい船と申しますのは?」
「船は何んでもないのだよ。恐ろしいのは乗っている方さ」
「いかなるお方でございますかな?」
「秘密を握っている方さ」
「何んの秘密でございましょう?」どうにも柵頼格之進には、妙子の云うことが解らないらしい。
「妾の秘密を握っている方さ! そうして妾の競争相手の、冷泉華子さんの秘密もね」
「そのお方のご身分は?」
「偉い方だよ、力を持った方さ」
「ご姓名は?」
「うるさいねえ!」
「は」と格之進は引っ込んだ。
「こんな場合にあのお方に、出現されてはたまらない[#「たまらない」に傍点]! 何も彼もみんな駄目になる」譫言《うわごと》のように呟いたが、「ナーニそうなりゃア怨《うら》み恋《こい》なしだ! 妾ばかりが困るのではない、華子さんだって困るのだ。諦めなければならないかもしれない」
 尚も海上を眺めやった。
 だが、海上には何んにもない。風の凪《な》いだ海は、穏かで、事実人魚というようなものが、ほんとに海の中に住んでいるなら、波に浮かび出て美しい声で、歌でもうたいそうにさえ思われる。
 クルリと方角《むき》を変えた北王子妙子は、駕籠の傍まで引っ返したが、
「案じていたところで仕方がない。やるところまでやるとしよう」駕籠へはいると声をかけた。
「おやり! 急いで! 一生懸命!」
 海岸を伝って一散に、駕籠を囲んで田安家の武士達は、芹沢の方へ走ったが、駕籠の中では北王子妙子が、不安そうに呟いていた。
「船! ……あのお方! ……手も足も出ない!」
 だが本当にそんな[#「そんな」に傍点]船が、そんな恐ろしい人物を乗せて、海上を渡って来るのだろうか?
 妙子の透視《みとおし》には狂いがなかった。
 遙か離れた海上を、一隻の船が帆走っていた。

        四十一

 船首《へさき》には老婦人が立っている。
 悠然と行手を眺めている。
 と、老婦人が声をかけた。
「これこれ鯱丸《しゃちまる》、どうしたものだ、眠ってはいけない、起きたり起きたり」
「阿呆らしい」とすぐに返辞が来た。「何んの眠ってなんかおりますものか、こんなに大きくパッチリと、眼をあいているじゃアありませんか」こう云ったのは少年である。船尾《とも》の方に坐っている。青い頭の小法師である。年はようやく十四、五らしい。可愛い腰衣《こしごろも》をつけている。帆をあやつっているのである。
 その帆であるが変わった型で、三角型のものもあれば、菱形をなしたものもある。一本の丁字形の帆柱に、鳥が羽根でも張ったように、風を孕んで懸かっている。だがその地質はひどい[#「ひどい」に傍点]物で、継接をした襤褸なのである。
 船の形も珍しかった。と云うよりそれは筏《いかだ》なのであった。あの木曽川とか富土川とか、山間の河を上下するために、山の人達は丸太を組んで、堅固の筏を作るものであるが、その船もそういう筏なのであった。
 それにしても、速力の速いことは!
 筏船は駸々《しんしん》と走って来る。歌のような帆鳴りの音がする。泡沫《しぶき》がパッパッと船首《へさき》から立つ。船尾《とも》から一筋|水脈《みお》が引かれ、月に照らされて縞のように見える。
「嘘をお云いよ、嘘をお云いよ、何んの鯱丸がパッチリコと、眼なんか開いているものか。居眠りをしていたに相違ない」老婦人はこんなことを云い出した。「その証拠には三角の帆が、ダラリと下がっているではないか」
「おや」と鯱丸は吃驚《びっく》りした。「向こうを向いている癖に、こっちのことが解ると見える。背後《うしろ》に眼でもあるのかしら。小気味の悪い婆さんだよ」
 優れて美しい容貌にも似ず、鯱丸は口が悪いのである。
 ところが老婦人の性質は、寛大で剽軽《ひょうきん》で磊落《らいらく》だと見え、一向それを咎めようともしない。
「背後《うしろ》にもあれば前にもある、足にもあれば手にもある、胸にもあれば背中にもある、妾は体中眼なんだよ。何んのそればかりではない! 頭脳《あたま》! 頭脳! ね、頭脳、頭脳そのものが眼なんだよ。だからさ、妾にはどんなものでも見える、……だからさ、今度山を下り、江戸へ入り込んだというものさ」老婦人はこんなことを云い出した。
「いよいよ迷惑な婆さんだよ」小法師の鯱丸は毒舌である。「江戸入りしたのはいいけれど、筏船を作って帆を上げて、隅田川を上へ溯《さかのぼ》って、大きな屋敷の水門から、屋敷へ入り込もうとしたかと思うと、にわかに後へ引っ返し『鯱丸よ、行手変えだ! 芹沢の郷! 芹沢の郷! やれやれやれ、そっちへやれ』などとむやみに急《せ》き立てて、こんな方へ走らせて来たんだからなあ。その途方もない沢山の眼で何を見たのか知らないが、梶取《かじと》りの俺《おい》らは疲労《つか》れてしまう」どうやら鯱丸は不平らしい。「一体全体何んのために、そんな所へ行くのだろう」
「それはね」と云ったが老婦人の声は、この時いくらか真面目になった。「人を助けに行くのだよ」
「人を助けに? 怪しいものさ」
「綺麗な綺麗な娘をね」
「ふうん、何んだか解るものか」
「そうして叱りに行くのだよ」
「だんだん解らなくなって来た」
「妾の家来でありながら、その妾を裏切って、よくないことをやっている、二人を叱りに行くのだよ。……鯱丸!」と俄然いかつくなった。
「船をお廻わし、陸の方へ! 街道の方へお近付け!」
「はい」と云ったが神妙であった。鯱丸はグ――ッと綱を引いた。ハタハタハタ、ハタハタハタと、方向が変えられた幾個の帆は風を孕んで靡いたが、筏船は素早く方向を変え、街道筋の方へ辷り出した。
 と、間もなく街道が――東海道の陸の影が、遙かにぼんやりと見えて来た。
「鯱丸」とまたも命令的に、「さあさあ松火《たいまつ》へ火をおつけ!」
 カチッ! と燧《ひうち》石の音がした。すぐにボ――ッと火が立った。鯱丸が松火を点したのである。
「およこし」と云ったが老婦人は、松火を取ると頭上へかざし、二、三度グルグルと渦を描いた。
 と、どうだろう、それに答えて、陸から松火の桃色の火が、一点ポッツリと見えたではないか。
 何者かそこにいると見える。
 何者どころではない行列なのであった。
 頭髪《かみ》こそ削《そ》らずに切り下げとして、肩へ掛けてはいたけれど、無地の鼠の衣裳の上へ、腰衣《こしごろも》を纒い袈裟をかけた、尼の一団が足並みを揃え、その数およそ三、四十人、トットと走っているのであった。
 有髪の尼僧の一団なのである。
 筏船に乗っている老婦人も、全く同じ姿であった。鼠の無地の衣裳を着、黒の腰衣を纒っていた。そうして袈裟を掛けていた。その袈裟ばかりは金襴である。松火の火に照り返り、まばゆいまでに美しい。美しいといえばその顔も、随分美しいものであった。男のような高い鼻、凛々しく引き締まった大型の口、延び延びと引かれた長い眉、それより何より特色的なのは「神秘」という言葉を如実に示した、大きくて、窪んで、光が強くて、そうしてともすれば残忍にさえ見え、そう見えるために美しい弓形をした眼であった。血色もよく皺もない。が老女には相違なかった。肩を蔽うている切り下げ髪が、白金のように白くもあれば、眉毛さえも白金のように白いのだから。

        四十二

 火を吹き消した有髪の老尼は「鯱丸」とまたも命令的に云った。
「これでよろしい、方向《むき》をお変え! 芹沢を目指して一直線! 乗っ切れ、乗っ切れ、さあ乗っ切れ!」
 方向を変えた筏船は、帆鳴りの音を響かせて、しんしんしんしん[#「しんしんしんしん」に傍点]と走り出した。
 有髪の老尼は何者であろう?
 街道を走って行く尼の行列は、どういう身分の者だろう?
 もちろん今は解らない。
 とはいえ両者は味方らしい。
 そうして両者の行先は、芹沢の郷に相違ない。
 とにかく水陸呼応して、奇怪な尼僧の一団が、月の明るい更けた夜を、走り走って行くのである。

 ここは芹沢の郷である。七福神組の怪盗七人が、一ツ橋勢に遮られた。
 ドッとあがったは喊声である。一ツ橋家の武士どもが、同音にあげた喊声である。と、同時にキラキラと、月にきらめく[#「きらめく」に傍点]もの[#「月にきらめく[#「きらめく」に傍点]もの」は底本では「月にきらめ[#「にきらめ」に傍点]くもの」]があった。彼らの構えた太刀である。
 グ――ッと一列に押し列《なら》び、来い! 通さぬ! と構えたのである。
「先廻わりをされたよ、残念だねえ! しかしナーニびくつく[#「びくつく」に傍点]ものか!」こう云ったのは松代である。
「さあさあみんないつもの手だ! 卍《まんじ》廻わりに押し廻わり、突き破って行こう、切り抜けて行こう!」
「合点」と云ったのは六人の部下で、で、グルグルと廻わり出した。
 卍廻わりとは何んだろう? 彼ら独特の戦術なのであった。手組輿《てくみごし》の上へ桔梗様を乗せ、群像のように塊《かた》まった。七福神組六人が、塊まったままで廻わるのであった。まず左へグルグルと廻わる。それから右へグルグルと廻わる。それからまたも左へ廻わり、それからまたも右へ廻わる。これを無限に繰り返すのである。そうしてそのように廻わりながら、先へ先へと進むのである。廻わる間も進む間も、右手の太刀を前方へ突き出し、それを上下へシタシタと戦《そよ》がせ、敵を寄せ付けまいとするのである。
 ただし頭《かしら》の松代ばかりは、一団から離れて先頭に立ち、「左へお廻わり! 右へお廻わり!」こんなように指揮するのである。
 今やグルグル廻わり出した。
 何という変わった見物《みもの》だろう?
 月が上から射している。で、白刃がキラキラする。輿の上にいる桔梗様は、蒼白い顔を月光に曝らし、廻わされるままに廻わっている。ダラリと下がった両袖が、廻わるに連れて翻《ひるが》えり、風を孕んでハタハタと鳴る。蝙蝠《こうもり》が翼を振るようである。
 背後《うしろ》には館が立っている。黒々と立っている態《さま》が、異国の魔塔を想わせる。
 右手に煙っているものは、月光に暈《ぼか》された海である。
 何んだろう、あれは、点々と、左手に見える赤いものは? 芹沢の里の燈火《ともしび》である。
 依然行手には一ツ橋勢が、抜き身を揃えて並んでいる。
 それらのものに囲まれた、深夜の広い野の上で、群像が廻わっているのである。
 そうして先へ進むのである。
 変わった見物《みもの》と云わざるを得ない。
 と、松代が声を上げた。
「さあさあ右へお廻わりよ!」
 群像は右へ廻わり出した。
「今度は左だ! 廻わったり!」
 群像は左へ廻わり出した。
 白刃が光る、足が揃う、群像がグルグル渦を巻く。
「お進みお進み、さあお進み!」弁天松代の指揮である。
 廻わりながら群像は進み出した。
 凛々《りり》しい松代の姿である。裾をキリキリと取り上げている。両袖を肩で結んでいる。深紅の蹴出《けだ》しから脛《はぎ》が洩れ、脛には血汐が着いている。たくし上げられた袖から抽《ぬ》きでて、二の腕まで腕が現われている。それにも血汐が着いている。手に握ったは白刃である。中段に構えて押し進む。
 廻わる群像! 進む群像! 指揮をして走って行く弁天松代!
 タッ、タッ、タッ、タッと押し進む。
 一ツ橋家の武士たちが、胆を潰したのは当然と云えよう。全くこんな戦術は、かつて見たことも聞いたこともなかった。
 切り込んで行こうにも行きようがない。取り抑えようにも抑えようがない。迂濶《うかつ》に切り込んで行ったが最後、六本の太刀の幾本かが、同時に落ち下るに相違ない。また抑えようとしたところで、群像の行動は素ばしっこい[#「ばしっこい」に傍点]、容易に抑えられるものではない。
 多勢を頼んで遮ってはみたが、進みもならず一様に、後へ後へと引くばかりであった。
 七福神組は進んで行く。一ツ橋勢は引き退く。
 結果はどうなることだろう?
 そうは云っても一ツ橋家の武士にも、全然勇士がないことはなかった。果然、一人、月光を刎ね、猛然と群像へ切り込んだ。だがその結果は無残であった。それと見て取った七福神組は、一斉に刀を振り上げたが、廻わりながらの薙《な》ぎの手だ、サ――ッとばかりに振り下ろした。すぐに起こったは悲鳴である。つづいて起こったは仆れる音! 一本の刀に脳天を割られ、一本の刀に肩を切られ、もう一本の脇差しに肋《あばら》を刎ねられた一ツ橋家の武士が、悲鳴を上げて仆れたのである。
「こんなものだよ!」と愉快そうな声! 弁天松代が云ったのである。「乗り越せ乗り越せ! さあお進み!」ポンと死骸を飛び越した。
「合点!」と同音! 六人の部下だ。これも死骸を飛び越して、タッ、タッ、タッ、タッと押し進んだ。
 群像は進んで行くのである。依然グルグル廻わるのである。
 蒼白いは桔梗様の顔である。月に向かって曝らされている。翻えるは桔梗様の袖である。蝙蝠《こうもり》が翼を振るようだ。
 手組輿の上の桔梗様は廻わされるままに廻わっている。生死のほどは解らない。されるままになっているのである。

        四十三

 ひた[#「ひた」に傍点]走るひた[#「ひた」に傍点]走る七福神組! 芹沢の里の方へひた[#「ひた」に傍点]走る! こうして首尾よく七福神組は、桔梗様を救うことが出来るだろうか。
 いやいやそれは出来そうもなかった。
 味方の一人を目前において、討って取られた一ツ橋家の武士達は、かえって怒りを発したと見える、四、五人一度に声を掛け合わせ、同時に猛然と飛びかかって来た。
 が、その結果は駄目であった。
 七福神組の六人が、一斉に上げた六本の太刀が、廻わりながらの薙ぎの手で、サ――ッと一度に下ろされた時、数声の悲鳴がすぐ起こり、つづいて仆れる音がした。
 四、五の死骸が野に転がり、その死骸から血が吹き出し、飛沫のように散った先が、煙りのように茫と霞み、月の光を蔽うたので、月が血煙りに暈《ぼか》されて、一瞬間赤く色を変え、まるで巨大な酸漿《ほおずき》が、空にかかったかと思われたが、それを肩にした弁天松代が、
「こんなものだよ、驚いたか! 七福神組の卍廻わり、そう甲斐|撫《な》でには破れない! 相手になろうよ、幾度でもかかれ! ……乗り越せ乗り越せ! さあ進め!」死骸を向こうへ飛び越した。
「オッと合点! さあ行こうぞ!」
 群像は、形を崩さずに、松代の後に従って、死骸を向こうへ飛び越した。
 左へ廻わる。右へ廻わる。そうして先へ進んで行く。
 次第次第に一ツ橋勢は、後へ後へと押されて行く。
 だがこの時背後にあたって、ドッと喊声の起こったのは、いったいどうしたというのだろう?
 表門から走り出た、五、六十人の一ツ橋家の勢《ぜい》が、ようやくこの時追い付いたのである。
 ここに至って七福神組は、腹背敵を受けてしまった。
 と、数声弦鳴りの音が、背後にあたって聞こえたが、数本の征矢《そや》が飛んで来た。
 瞬間に上がった六本の太刀が、キラキラキラキラと閃めいたのは、矢を切り払ったためだろう。
 だが第二の弦鳴りの音! だが第三の弦鳴りの音! ひっきり[#「ひっきり」に傍点]なしに響くに連れ、唸りをなして飛んで来る征矢も、次第に繁くなって来た。
 背後から逼って来た一ツ橋家の勢が、打ち物業を故意《わざ》と避け、飛び道具で打ち取ろうとするのであった。
 それと察した弁天松代は、甲《かん》高く声を響かせた。
「さあさあみんな寝るがいい。一時息を抜こう息を抜こう!」
 声に応じて六人の部下達は、忽然姿を消してしまった。
 と云ってもちろん煙りのように、消えてなくなってしまったのではない。蒼茫たる月光を刎ね飛ばし、卍廻わりに廻わっていた、七福神組の群像が、一刹の間にバラバラに分かれ、地面へピッタリひれ伏したのである。
 桔梗様が地上へ寝かされている。傍に松代が体を伏せている。二人を中心に大円を描き、松代の部下の六人が、地面へ体を食っ付けている。で姿が解らないのである。
 が、一ツ橋家の武士達は、どうやらそうはとらなかったらしい。射掛けた征矢を一斉に喰らい、斃れたものと解したらしい。
 で、腹背の二手の勢《ぜい》は、ドッと喊声を響かせたが、思慮浅くムラムラと、七福神組へ走り寄った。
 待ち設けていたことである、弁天松代は飛び上がった。
「いい潮合いだ。やっつけろ!」
「それ!」
 と声を掛け合わせ、猛然刎ね上った六人の部下、「馬鹿め!」「くたばれ!」「思い知れ!」
 喚きを上げて飛び込んだ。
 で、太刀音だ! 仆れる音! 悲鳴に続く呻き声!
 と、バラバラと人の影が、四方八方へ別れたが、切り立てられた一ツ橋勢が、逃げて走って行く影であった。
 気勢に乗った七福神組は、追い討ちに後を追っかけたが、心配したのは松代である。
「長追いするな! 引き上げろ! 集まれ集まれ、一所へ!」
 しかし足音や喊声や、太刀打ちの音に遮られ、松代の声は通らなかった。
 六人の部下達は、追っかけ追っかけ、馳せ違い行き違い切り仆す。
 いよいよ周章《あわ》てた一ツ橋勢、館へ逃げ込もうとしたのだろう、分かれていたのが一つに集まり、表門の方へ走り出した。

        四十四

 と、その一団が馳せ付けた時、表門から一手の勢《ぜい》が、丸く塊《かた》まって現われた。
 冷泉華子を真ん中にし、南部集五郎を先頭に立てた、一ツ橋家の新手の勢で、その数およそ三十人もあろうか、逃げ込もうとする味方の勢を、押し返すようにして現われたのである。
「やあ方々何事でござる!」こう叫んだのは集五郎である。
「相手は鼠賊、たかが七、八人、討ち取るに手間隙は入らぬ筈、逃げ込むなどとは沙汰の限り、引っ返しなされ、引っ返しなされ!」
 これに勇気づいた一ツ橋勢は、グルリ振り返ると喊声を上げ大波のように引っ返した。
「引っ包んで討って取れ!」
「逃がすな逃がすな縛《から》め取れ!」
 グルグルグルグルと包囲した。
 取り込められた七福神組は、いかに行動が敏捷でも、敵の人数は十倍にも余る、多勢に無勢、敵《かな》うべくもない。
「しまった!」
「やられた!」
「どうしたものだ!」
「とにかく一所へ集まろう!」
「頭《かしら》はどうした」
「桔梗様は」
 互いに呼び合い注意し合ったが、駈け隔てられ追い詰められ、一所になることも出来なければ、頭の松代や桔梗様を、探し出すことも出来なかった。
「もうこうなっては仕方がない! 死ねや死ねや、切り死にをしろ!」
 そこで六人六方へ分かれ、飛び込んでは叩っ切り、引っ返しては叩っ切る。
 全く混戦となったのである。
 月光は益※[#二の字点、1-2-22]冴えて来た。四方《あたり》が明るく暈けて来た。
 その中で乱闘が行われている。
 あっちに一団、こっちに一団、切り結んでいる影が見える。
 サ――ッと一組が走り出す。サ――ッと一組が追っかける。
 組と組とがぶつかり[#「ぶつかり」に傍点]合う。
 ヒュ――ッと笛の音がする。
 そっちへ走《は》せ付ける人の影!
 と、すぐに太刀の音!
 混戦! 混戦! 混戦! 混戦!

        四十五

 次第に時間が経って行く。
 時間が経つに従って、一ツ橋勢が益※[#二の字点、1-2-22]気負い、七福神組がそれに反し、気萎《きな》えするのは当然と云えよう。
 こうして間もなく七福神組は、一人残らず討ち取られるだろう。
 しかしその時意外の事件が、忽然として勃発した。
 まず凄じい鬨《とき》の声が起こり、つづいて太刀音が消魂《けたたま》しく起こり、一ツ橋勢の一角が、見る見る中に崩されたのである。
 田安家の武士達が到着し、一ツ橋勢の横手から、この時切り込んで来たのである。
 こうして一層の混戦が、展開されることになった。
 と、その混戦の場を抜き、一挺の駕籠が飛んで来た。
 衆に守られた冷泉華子、それの前から数間の手前、そこまで来た時駕籠が止まり、スルスルと現われたものがある。
「華子さん!」と云ったが妙子であった。「貰いに来ましたよ、桔梗様を!」
「妙子さんか!」
 と冷泉華子は、驚いたように進み出たが、「勝手に連れて行くがいいよ。妾は知らぬよ。その生死は!」
「ついでに貰うものがある」妙子は一足踏み出したが、「永生の蝶さ! こっちへおくれ!」
「駄目だよ!」と華子は突っ刎ねた。「お気の毒だが上げられないよ」
「取って見せるよ。腕ずくでね」
「面白いねえ。取れたらお取り」
「どれ」
 と云うと北王子妙子は、腰の辺《あた》りを探ったが、ヒュ――ッと何物かを空へ投げた。
 小さな小さな二つの車輪、そいつを棒で繋《つな》いだようなもので、瓢《ふくべ》と云った方がよいかも知れない。
 クルクルクルクルと空で舞う。
 と、何んという不思議だろう、冷泉華子の懐中から、キリキリ舞い立ったものがある。それは永生の蝶であった。
「おっ」
 と叫んだは冷泉華子で、肩に掛けていた袋よう[#「よう」に傍点]のものを、ドッサリと地上へ投げ付けた。と、その背中がムクムクと動き、パックリ口をあけたかと思うと、ヒラヒラヒラヒラと気を吐いた。
 もうその頃には車輪よう[#「よう」に傍点]のものは、空から地の上へ落ちていたが、袋よう[#「よう」に傍点]のものと向かい合い、独楽鼠《こまねずみ》のように廻わり出した。
 その中間の虚空では、蝶がグルグルと舞っている。
 どっちへ行くことも出来ないと見える。飛び去ることも出来ないと見える。
 それを眺めている女方術師の、北王子妙子と冷泉華子とは、身動き一つしようとさえしない。
 まさに変わった光景と云えよう。
 だがそういう光景に対し、何んのかかわるところもなく、混戦は引き続いて行われていた。
 と、その混戦の場を抜け、一人の女が彷徨《さまよ》っていた。
 気絶から醒めた桔梗様である。
 フラフラフラフラと歩いて行く。
 まるっきり意識などなさそうである。無我夢中でいるらしい。何か口の中で呟いている。
「どうしたのだろう? 解らない! ……切り合っているよ! 恐ろしい! ……妾はどうしたらいいのだろう? ……逃げなければならない! 逃げなければならない! ……」
 フラフラフラフラと歩いて行く。
 どこへ行こうとするのだろう? 自分にも解っていないらしい。どこへ行くのが至当なのだろう? 自分にも解っていないらしい。
 館の方へ歩いて行く。裏門の方へ歩いて行く。
 これこそ正気でない証拠である。
 恐ろしい恐ろしい館ではないか! 彼女を捕えて苦しめた、敵の住んでいる館ではないか! それだのにそっちへ行こうとする。
 フラフラフラフラと歩いて行く。
 どうして誰もが止めないのだろう? 弁天松代はどうしているのか? やっぱり戦っているものと見える。
 桔梗様はフラフラと歩いて行く。
 とうとう裏門から入り込んだ。
 ザ――ッ、ザ――ッと音がする。
 滝の落ちている音である。
 そっちへ桔梗様は歩いて行く。
「綺麗な滝! 落ちているねえ」
 佇《たたず》んで桔梗様は眺めやった。
 石造りの建物がある。その一所に窓がある。そこから滝が落ちている。一式小一郎を葬って、垢離部屋を一杯に充たした水が、窓から落ちているのである。
「落ちているねえ。……綺麗な滝が!」
 ――とその時声がした。
「桔梗様! 桔梗様!」
 滝の中からしたのである。
「どなたか妾を呼んでいるよ」
 ――その時滝の水を分け、ヨロヨロと現われた人影があった。全身水に濡れている。おお水死人の幽霊だ!
「あああなたは?」
「小一郎でござる!」
「一式様か!」
「桔梗様!」
 抱き合ったとたんに鬨の声が、館外にあたって響いたが、つづいて叫び声が聞こえて来た。
「山尼《やまあま》だ! 山尼だ! 山尼だ!」
 と、裏門からムラムラと、一ツ橋勢が逃げ込んで来た。
「や、汝《おのれ》は!」とその中の一人が、一式小一郎へ切りかかった。
「まだ生きていたか! どうして遁がれた!」
 危くヒョロヒョロと小一郎は、身を反《か》わせたが苦しい声で、
「ナ、南部か! 集五郎!」
 桔梗様はフラフラと歩き出した。
「小一郎様! 小一郎様! お逃げなさりませ、お逃げなさりませ」
 フラフラフラフラと裏門を出た。
「桔梗様!」
 と小一郎は、足もと定まらず追おうとする。
 そこを背後《うしろ》から集五郎は、肩を目掛けてただ一刀!

 それから一月の日が経った。女馬子の引く馬に乗り、一人の武士が旅をしていた。

        四十六

 秩父連山の中腹であり、武士は一式小一郎で、そうして女馬子は君江であったが、その同じ日に三浦三崎の方へ、八人連れの旅人が、事ありそうに歩いていた。
 隅田のご前を前後に守り、七福神組の連中が、目立たぬ旅の装いをして、密《ひそ》かに歩いて行くのであった。
 だがもし仔細に見たならば、大工や行商人や、修験者や、農夫や虚無僧や浪人者や、そういう者に身を※[#「にんべん+峭のつくり」、第4水準2-1-52]《やつ》した、二百人あまりの同勢が、無関心な様子はとりながらも、隅田のご前を警護して、先になったり後になったり、歩いて行くのに気が付くであろう。
 すなわち英雄の俤《おもかげ》のある、隅田のご前が部下を引き連れ、三浦三崎の方角へ、密行しているものと見なければならない。
 隅田のご前は例によって、悠々寛々たる態度をもって、弁天松代を相手とし、剽軽《ひょうきん》な口を利いている。
「いやはやいやはや偉いことになったぞ、こんな俺のようないい年をした者が、草鞋穿《わらじば》きでテクテク三浦三崎などへ、出て行かなければならないのだからなあ。……そうは云ってもよい景色だの。一方は海岸一方は野原、秋草も綺麗に咲いているわい」
 葵の紋服など着ていない。無紋の単衣《ひとえ》にぶっさき[#「ぶっさき」に傍点]羽織、自然木の杖をついている。顔を見られるのを嫌ったからだろう、編笠を目深に冠っている。
「そうは云ってもひょっと[#「ひょっと」に傍点]かすると、今度は大騒動になるかもしれない。私は騒動は嫌いでな。わけてもちっぽけ[#「ちっぽけ」に傍点]な日本国内で、いがみ[#「いがみ」に傍点]合うことなどは大嫌いだよ。……と云ってもどうも今度ばかりは、うっちゃって置くことは出来そうもないよ……。何しろこの私の兄にあたる、昆虫館主がやられる[#「やられる」に傍点]のだからなあ……。そうは云っても一方から云えば、私にはこの旅が面白いのさ。久しぶりで兄弟と逢えるのだからなあ。……お前達にとっても楽しかろうよ、変わった建物が見られるのだからな。昆虫館という建物さ。……がその代わり間違うと、それこそ本当に腥《なまぐさ》い、死山血河の大修羅場が、演ぜられることになるだろうよ。いやそうなったらお前達が力だ、思い切って腕を揮ってくれ」
「かしこまりましてございます」こう云ったのは松代である。道行《みちゆき》を着てその裾から、甲斐絹の甲掛《こうがけ》を見せている。武家の娘の旅姿で、歩き方なども上品にしている。「ご前のおためでございましたら、どのようなことでもいたします」充分謹んだ言葉つきである。
「ご前という言葉はよくないなあ。お爺さんとでも呼ぶがいい。人目を避けての旅だからな」
「はいはいそれではお爺さん」
「それがよろしい、さて娘や」
 こんな具合に話して行く。
 こうして一同|関宿《せきやど》まで行き、それから森林を分け上り、昆虫館まで行くのであろうが、この頃小一郎と君江とは、例の秩父の中腹を、上へ上へと辿っていた。
「例によりましてあなたの位置は、お気の毒様でございますなあ」こう云ったのは小一郎である。
 それに答えて君江が云う。「大してそうでもございません」
 馬の足掻《あが》きがパカパカと聞こえ、そうして鈴の音がシャンシャンと鳴る。
 少し秋めいた夏の陽が濃緑の葉を明かるめている。人通りがないので寂しいが、それだけに長閑と云ってもよい。
「そうではないとおっしゃっても、やっぱりそんなようでございますよ」小一郎の調子は軽かったが、それは努めての軽さであり、本当の心持ちは重いのである。「桔梗様を目付けに行きますので」
「はいはいさようでございますとも」君江の調子も軽かった。そうしてこれは雑《まざ》り気《け》のない、心からの本当の軽さらしい。「桔梗様を目付けに行きますので。そうして是非とも桔梗様を、お見付けしなければなりません」
「だが」と小一郎は気の毒そうに、「いよいよ桔梗様が目付かったとして、どうなりましょうな、あなたの位置は?」
「何んの変わりがありましょう。おんなじ位置でございますよ」君江は少しも動じようとしない。そんなようにこだわらず[#「こだわらず」に傍点]に云うのであった。
「さあはたしてそうでしょうか?」小一郎の方が心配そうである。「変わるだろうと思いますよ」
「何んの変わりがありましょう」君江には自信があるようである。「妾《わたし》の心が変わりませんもの」
「そういう私の心持ちも、昔と変わっていませんので。と云うのは昔から今日が日まで、あの桔梗様を心から、愛しているのでございますよ」
「それを知らないでどうしましょう。妾は以前《まえ》から知っておりました」
「ええとところで桔梗様の方でも、私を愛しておりますので」
「それもあなたから一再ならず、承わった筈でございますよ」
「で、桔梗様が目付かったとすると、どういう結果になりましょう」
「どういう結果になりましょうとも、妾には関係ございません」本当に関係がなさそうに、君江の調子には変わりがなかった。「この妾といたしましては、あなたを愛しておりますので、ただそれだけでございますよ」
「しかし」と小一郎はやや物鬱《ものう》く、「競争になるかも知れませんなあ」
「いずれは競争になりましょう」やっぱり君江は変わらないのである。「あなたを取り合って二人の女が、競争することでございましょう」他人事《ひとごと》のような調子である。
「さあどっちが勝ちますやら」かえって小一郎の方が不安そうである。
「はい、妾が勝ちますとも」
「随分自信がありますようで」今度は小一郎は可笑《おか》しくなった。
「そういう自信がないことには、何んで妾がお供をして、桔梗様をさがしの旅などへ、進んで出かけて参りましょう」
「いかさまこれはもっともで」
 話がここで切れてしまった。
 手綱を引いて君江が行く。馬に揺られて小一郎が行く。一見長閑な旅である。
 どこへ向かって行くのだろう? ズンズン行けば桐窪《きりくぼ》へ出る。それでは桐窪へ行くのだろうか?
 それにしても一式小一郎は、芹沢の里に建てられてあった、冷泉華子の道場の、水に充たされた垢離部屋から、どうして出ることが出来たのだろう? それこそ何んでもなかったのである。高い窓から遁がれたのである。水が窓から流れ出るまで、小一郎は垢離部屋で立泳ぎをしていた。そうして流れ出る水と一緒に、窓から外へ出たのである。窓が大きくなかったら遁がれ出ることは出来なかったろう。幸いに窓は大きかった。で、出ることが出来たのである。もしまた南部集五郎が、さらに一層注意深く、窓まで水が浸《つ》く前に、早く樋口を引いたなら、遁がれ出ることは出来なかったろう。集五郎は周章《あわ》てていたようである。で、樋口を掛け放しにして、華子へ知らせに走ったのであった。そうしてその後に起こったのが、あの凄まじい乱闘で、そうして乱闘の行われている間に、窓まで水が浸いたのであった。
 それから小一郎はどうしたか?
 乱闘の場を辛く遁がれ、自分の屋敷へ帰ったのであった。もっとも修羅場を遁がれ出る時、彼はこういう叫び声を聞いた。
「桔梗様を山尼《やまあま》が攫って行く!」と。
 屋敷へ帰った小一郎が、傷付いた体を養いながら、山尼なるものの性質と、その居場所とを調べたことは、云うまでもないことであったが、知ることは出来なかった。
 ただし一旦家を出て、隅田のご前をお訪ねした時、計らずもそれを知ることが出来た。

        四十七

 隅田のご前がこう云ったからである。
「桔梗を山尼が連れて行ったそうだの。いや一切知っておる弁天の松代が話してくれた。いやいや少しも心配はない。桔梗はむしろ安全だろう。と云って捨てては置かれない。……夫婦の間の憎悪《にくしみ》は、恐ろしい結果を呼ぶものだからの……一番不幸なのは昆虫館主さ……が、まあまあそれはよい。この俺が処置をつけてやる。……どっちみち桔梗だけは安全だよ。……と云ってお前の身になってみれば、安心してはおられまい。山尼の何者かを知りたかろう。では簡単に話してやろう。山岳|行脚《あんぎゃ》の尼僧の群だ。と云って尋常な尼僧ではない。一種特別の放浪者だ。不思議な業さえ心得ている。兇暴な性質も持っている。……ところで居場所だが解らない。天幕生活をしているのでな。もっとも大略《おおよそ》の見当はつく。秩父山中の桐窪にいよう。……これ以上は教えられない」
 そこで一式小一郎は、それだけの言葉を手頼りにして、桔梗様を探しに出て来たのであった。
 手綱を引いて君江が行く。馬に揺られて小一郎が行く。懸巣《かけす》が林で啼いている。野の草が風に靡いている。
 二人は旅をつづけて行く。
 はたして一式小一郎は、山尼の居場所を突き止めて、ふたたび恋人の桔梗様を、取り返すことが出来るだろうか?
 一つの森が現われた。と、その森の向こう側から、大勢の人声が聞こえて来た。
「はてな?」と耳を傾《かし》げた時には、風の吹き具合が変わったのだろう、もう話し声は聞こえなかった。それにも拘らず小一郎は、非常に不安の様子を見せた。話し声に聞き覚えがあったからである。
「とは云えまさか[#「まさか」に傍点]あの連中が」口の中で呟いた。「ナーニこの俺の聞き違いだろう」
 いやいやそれは聞き違いではなかった。小一郎にとっては恐ろしい敵が、その時その森の向う側を、まさしく歩いていたのであった。
 山駕籠に乗った冷泉華子を、南部集五郎とその一味とが、守護するように引き包み、話しながら辿っていたのであった。
 山駕籠の引き戸が開いている。華子がそこから覗いている。景色を眺めているのだろう。傍に引き添ったのは集五郎で、旅の装いを凝らしている。
 人数にして三十人あまり、同じ方角へ歩いて行く。
「はたして目付かるでございましょうか?」こう云ったのは集五郎であった。何んとなく不安な様子がある。
「たしかに目付かると思うがね」こう云ったのは華子であった。だがやっぱりどことなく、不安な様子を見せていた。「山尼の居場所を見付けるのは、大して困難ではないのだよ。目付けた後が困難なのさ。つまり取られた永生の蝶を、取り返すのが困難なのさ」
「ひどい目に逢ったというもので」こう云うと集五郎は苦笑をした。「やっと捕えた一匹の蝶を、横取りされたのでございますからな」
 すると今度は冷泉華子が、苦笑を口もとへ浮かべたが、「妾のニラミに狂いがなければ、永生の蝶を取られたより、桔梗という娘を取られた方が、お前さんにとっては苦痛のようで」
 これには集五郎も参ったようであった。
「率直に申せばその通りで、あれは残念でございましたよ。が、それにしても何用あって、永生の蝶や桔梗という娘を、あの不思議な山尼達は、横取って行ったのでございましょう」
「それは妾には解らないよ。……そうは云っても永生の蝶は、あれだけ名高いものではあり、それの秘密を剖《あば》いた者は、道教でいうところの寿福栄華を、一度に掴むことが出来るのだから、山尼の長《おさ》の高蔵尼《こうぞうに》が、欲しく思ったのは当然といえよう」
「その高蔵尼でございますが、あなた様や北王子妙子にとっては、どのような関係がございますので」集五郎にはこれが疑問らしかった。
「旧師匠なのだよ、私達のね。……これ以上は云われないよ。……一度あのお方に出られたが最後、妾にしてからが妙子さんにしてからが、それこそ手も足も出ないのだよ」
「ははあ」と云ったが集五郎には、腑に落ちないところがあるようであった。「それにしても奇観でございましたよ、あなた様の方へも行くことが出来ず、妙子の方へも行くことが出来ず、宙に舞っていた永生の蝶が、あの高蔵尼が現われるや否や、一気にそっち[#「そっち」に傍点]へ翔《か》けて行き、袖へ飛び込んだのでございますからなあ」
「強い力をお持ちだからさ」
「どういう力でございましょう?」
「妾や妙子さんの持っている力と、同じような力なのさ。それが十倍も強いだけさ」
 一行はズンズン歩いて行く。
 やはり秩父の山中の、桐窪《きりくぼ》が一行の行く先らしい。山尼の居場所が目的地のようだ。
「おや」と集五郎が呟きながら、ちょっと小首を傾げたのは、森の向こう側からシャンシャンという、馬の鈴音が聞こえたからである。「旅人が通っているらしい」何んとなく不安の気のしたのは、所は道のない野原であり、山越しをして行く旅人などが、めったに通らない場所だからであった。
「馬の鈴音が聞こえましたようで」華子に向かって声をかけた。
「ああ妾も聞こえたよ」
「同じ方角へ行きますようで」
「どうやらそんな様子だねえ。だが大概は旅人だろうよ」案外華子には苦にならないらしい。
「しかし今回の私どもの旅行は、絶対の秘密になっております。人に姿を見られましては、あまり感心いたしません」
「云うまでもないよ、その通りだよ」
「で、好んで峠路を避け、道のない野原を辿っております」
「そうした方が安全だからね」
「森の向こう側の旅人に、見られないものでもございません」
「同じ方角へ行くのだから、いずれはどこかで出合うだろうよ」
「その旅人が人里へ下って、我々の様子を吹聴しましたら、いささか困りものにございます」
「と云って旅人を掣肘《せいちゅう》して、旅をするなとは云えないではないか」
「ともかくもどういう旅の者か、確かめて置いた方がよろしいようで」
「なるほど、それだけは必要かも知れない」
「森の向こう側へ人をやり、見させることに致しましょう」
「そうだねえ、そうしてごらん」
「山本氏、山本氏」武士の一人を呼びかけた。
「は」と云いながら近寄って来たのは、二十七、八の武士であった。
「ご貴殿森の向こう側へ行き、馬に乗って通る旅人の様子を、それとなく窺《うか》がってくださるよう」
「委細承知」と云いすてると、森を分けて武士は走り去った。
 で、一行は進んで行く。
 華子の乗った山駕籠が、列の先頭を切っている。それに引き添ったは集五郎である。それに続いて三十余人の武士が、旅装いかめしく付いて行く。一ツ橋家の武士である。
 右手は鬱々とした森である。左手は起伏した丘である。行手にも幾個《いくつ》か森がある。長く続いた林もある。小山もあれば谷もあり、川も流れているらしい。灌木や藪が飛び散っている。山は斜面をなしていたが、登りはそれほど険しくはなかった。空を横切って小鳥が飛ぶ。遙かの山の頂きに、入道雲が屯《たむろ》している。晴れた空が海のように深く見える、山地特有の空である。
 一行はズンズン進んで行く。
 五町あまりも歩いたろうか、森は途切れたが林となった。林の左側に沿いながら、一行はさらに進んで行く。
 と、今度は小山となった。山の斜面に瘤《こぶ》のように、うずくまっている小山である。小山の裾を巡りながら、一行は尚も進んで行く。
 と、小山の反対側から、またも馬の鈴が聞こえて来た。
 ところがどうにも腑に落ちないのは、物見に出て行った山本という武士が、いまだに帰って来ないことであった。
「どうしたのだろう、可笑《おか》しいではないか」
 集五郎には不思議でならなかった。
「山本氏が帰りませんようで」華子に向かって不安そうに云った。
「そうだねえ、どうしたのだろう」
 日光を遮って駕籠の中は、ボッと薄暗く煙っていたが、その中に浮いている華子の顔には、幽かながらも不安があった。「十や十五の子供ではなし、迷児《まいご》になったのではあるまいが、それにしても少し手間取り過ぎるよ」
「それに旅人の鈴の音が、小山の向こう側で聞こえております」
「もう一人物見にやってごらん」
「北条氏北条氏」呼ぶ声に連れて、北条という若い武士が、すぐに後列から走って来た。
「は、何事でございますかな?」二十五、六の武士である。
「お聞きの通り小山の向うで、馬の鈴音が聞こえております。どのような旅人が通っておるか、行ってお調べくださるよう」
「かしこまりましてございます」
 北条という武士は馳せ去ったが、すぐに山の向うへ隠れてしまった。
 一行はズンズン進んで行く。

        四十八

 小山と云っても丘のようなもので、高さから云うと知れたものであったが、その延長は著しかった。で、その裾に添いながら一行はズンズン進んで行った。
 依然鈴の音は聞こえて来る。悠々と歩いていると見えて、その鈴の音もおちついている。
 だがその鈴の音が急に止み、罵り合う声が続いて起こり、すぐに消魂《けたたまし》い悲鳴が聞こえ、同時に鈴の音が乱調を作《な》し、甲高く響いた瞬間から、局面が一変することになった。
「悲鳴が聞こえた、不思議千万!」呻くように云ったのは集五郎である。
「うむ」と華子も呻くように云ったが、「そなた小山へ馳せ上り、向こう側の様子を窺うよう」
「心得てござる! では早速!」
 小山には灌木が生えている。しかし丈の高い木などはない。走り上がった集五郎は、頂きに立つと手をかざし、山の向こう側を見下した。と、山の裾の草の中に、見誤りはない山本という武士が、俯向《うつむ》けになって斃れている。肩を大袈裟に切られたと見え、血が流れ出て日に光るのが、かなり間遠ではあったけれど、不思議のようにハッキリと見えた。
「おっ! やられたか! ウーム気の毒! が、それにしても旅人は?」
 集五郎は眼を走らせたが、すぐに旅人を目付けることが出来た。女馬子の引く馬に乗り、旅仕度をした一人の武士が、小山が途切れて谷になっている、そっちを目掛けて急がしく、飛ぶように走らせているのであった。背後《うしろ》姿ではあったけれど、集五郎には見覚えがあった。
「まさしく彼奴《きゃつ》だ! 相違ない!」
 唸るがように云った時、馬上の武士が振り返った。
「また逢いましたな。南部氏! 拙者は一式小一郎、貴殿の部下の二人の武士を、殺生ながらも手にかけてござる。と云っても敢て理不尽ではござらぬ。拙者の行手を遮ったからで……いずれは貴殿のことである。ムザムザ拙者を見遁がしはしまい! 大勢でかかって来られるだろう。遠慮はいらない、かかってござれ! が拙者は騎馬しておる。貴殿方は徒歩《かち》らしい。滅多に滅多に追い付くまい!」
 間隔《あい》は相当へだたっていたが、高原の空気は澄み返り、雑音が雑《まじ》らないためでもあろう、粒立って声が聞こえて来た。
 とまたもや小一郎が、嘲けりの声を響かせた。「それ石卵は敵しがたし、拙者は石で貴殿が卵、幾度ぶつかっても[#「ぶつかっても」に傍点]拙者が勝つ――と云う事はずっと以前に、小梅田圃で云った筈でござる! さあさあ卵氏《たまごうじ》卵氏、ぶつかって[#「ぶつかって」に傍点]ござれぶつかって[#「ぶつかって」に傍点]ござれ! ぶつからぬ[#「ぶつからぬ」に傍点]かな、ではご免!」
 クルリと振り返ると小一郎は、女馬子へ何か云ったようであった。とそのとたんに女馬子であるが、持っていた手綱《たづな》を放したが、その手を延ばして馬の背へかけると、翻然飛び乗ったものである。馬上でピッタリ男女の者が、縋るようにして抱き合ったが、キューッと、ひと[#「ひと」に傍点]締め![#「ひと[#「ひと」に傍点]締め!」は底本では「ひと締[#「と締」に傍点]め!」] 馬を締めた! タッタッタッ! タッタッタッ! 野花を蹴散らし砂塵を上げ、走る走る驀地《まっしぐら》!
 怒りとそうして驚きとを、同時に感じたのが集五郎であった。小山の頂きに突っ立って、地団太を踏んだが及ばない、そこでグルリと振り返ったが、
「やあ方々一大事でござる、ご存知の一式小一郎が、山本氏と北条氏とを、切ってすてましてござります! 旅人の正体は小一郎、同じ方角へ向かうからは、我々と同じく山尼《やまあま》の居場所へ、訪ねて行くものと存ぜられます! 谷へ向かって馬を飛ばし、今や驀地《まっしぐら》に走って行きます! 追っかけなされ! 討って取りなされ! 谷を包囲し隙間もなく、探し探してお討ち取りなされ!」
 こう呼び捨てると集五郎は、小一郎の後を追っかけて、一散に小山を馳せ下った。
 そう呼びかけられて一ツ橋勢が、動揺したのは当然と云えよう。
 華子の乗った山駕籠を、真ん中に包むと三十余人、同じく谷の方へ走り出したが、もうこの頃には一式小一郎は、谷の斜面の大岩の蔭に、君江と一緒に隠れていた。

        四十九

「切り合いをするは容易《たやす》いが、他に大事な目的がある。敵は大勢こっちは一人だ。お前は女で用に立たぬ、怪我でもしては大変である。ああは大言は払ったもののうまく危難を遁がれたいものだ」
 いささか心配だというように、小声で小一郎は話しかけた。
「思い付いたことがござます」こう云ったのは君江である。「鹿毛《かげ》を放すことにいたしましょう」
「ああ馬をか? ふうん、何故な」
「ごらんの通り木が繁って、谷間は暗うございます。しかもその木は大木ばかりで、馬が走って行きましても、恐らく姿は見えますまい」
「うむ、そうだな、それは見えまい」
「蹄の音は聞こえましょう」
「おおなるほど、それで解った。馬を走らせて蹄の音を聞かせ、一ツ橋家の武士どもを、迷わせようというのだな?」
「うまく行こうではございませんか」
「鹿毛は戻って来るだろうか?」
「云い聞かせることに致しましょう。きっと大丈夫でございますよ。利口な馬でございますもの」
 大岩を巡って木立がある。二人の居場所は薄暗い。その薄暗い一所に、馬が静かに立っている。青草を食べているのである。君江の愛馬の鹿毛である。三浦三崎の実家から、小一郎を乗せて江戸へ出て、そのまま小一郎の屋敷の裏で、飼われていたところの馬である。
 君江は立ち上がって近寄ったが、優しく鼻面を手で撫でた。「鹿毛よ」と云ったが情のある声だ、「私達にとっては一大事、それをお前にお願いします。さあさあ谷底へ駈けて行っておくれ。そうして谷底を駈け廻わっておくれ。ドンドン遠くまで走って行っておくれ。疲労《つか》れた頃に帰るがいい。いつまでも待っているからね。さあおいでよ!」
 と云いながら、君江は馬の平首を打った。
 君江の言葉を聞き分けたからか、ないしは打たれて驚いたからか、馬は一声|嘶《いなな》いたが、谷底を目掛けて馳せ下った。
 予想は中《あた》ったというべきであろう。
 馬の姿は解らない。蹄の音ばかりは聞こえて来る。
「うむ、これなら大丈夫だ」
「うまくゆくことでございましょう」
 二人が微笑して眼を見合わせた時、谷の上から声がした。
「蹄の音だ! 聞こえる聞こえる!」
「ソレそっちへ追いかけろ!」
 つづいて木を分け草を分け、大勢の馳せ下る音がした。一ツ橋家の武士達であろう。馬の蹄の鳴る方へ、追っかけて行くものと思われる。
「計画的中! しめたしめた!」
 笑みを湛えたが小一郎は、決して油断はしなかった。二人の武士を叩っ切り、血に濡れている大刀を抜いたまんまで膝へ引き付け、全身を大岩の蔭へ隠し、立て膝をして窺った。木洩《こも》れ陽《び》が一筋射している。それが刀身を照らしている。そこだけがカッと燃えている。がその他は朦朧《ぼけ》ている。引き添って背後に坐っているのは、女馬子姿の君江である。用意をして来た懐刀《ふところがたな》を、帯へ差したまま柄《つか》を握り、見現《みあら》わされたら女ながらも、切り捲くってやろうと構えている。
 蹄の音が遠ざかる。追って行く武士の足音も、それに続いて遠ざかる。
 いよいよ危険は去ったらしい――と思った瞬間であった。二人の真上から人声がして、走り下って来る足音がした。
「これはいけない、見現わされそうだぞ!」さすがにハッとして小一郎が、抜き身をユラリと取り直した時、五、六人の武士が馳せ下って来た。とその中の一人であるが、スルスルと大岩の頂きへ登った。見上げた小一郎の眼の上に、わずか一間の間隔を置き、その武士の穿いている野袴の裾が、風に煽られて靡いている。蹄の聞こえる方角を、じっと眺めているようである。もしその武士が振り返り、大岩の蔭へ眼を落としたら、一式小一郎と君江の姿を、見て取ることが出来ただろう。
「平林平林、何をしている。さあさあ早く追っかけよう」大岩の向こうから声がした。一ツ橋の武士達が、そこに五、六人いるようであった。
「むやみと追っかけても仕方がない」岩の上の武士が云い返した。「それに俺には不思議でならない。蹄の音が軽すぎるよ。人間を背にして走っている、馬の足音とは思われない」
「うむ、なるほど、そうだなあ」岩の向こう側からの声である。「ちょっとこいつは可笑《おか》しいぞ」
 するともう一人の声がした。
「馬だけ放して小一郎奴は、どこかに隠れているのではないかな」
 つづいてもう一人の声がした、「オイこの地面を見るがいい。草があちこち千切れている。どうやら馬が食い千切ったようだ」
「ではこの辺で小一郎奴は、馬を休ませたに相違ない」岩の上の武士の声である。「それから馬だけ放したかもしれない……。ひょっとかするとこの辺に、小一郎奴は隠れているかも知れない」
「ではともかくも探してみよう」岩の向こうからの声である。
「よかろう」という声が同時にした。と、大岩をゆるゆると、こっちへ巡って来る足音がした。

        五十

「もういけない」と小一郎は、覚悟の臍《ほぞ》を固めたが、俺一人なら飛び出して、切り死にしても構わないが、君江という娘が附いている、優しい忠実な娘である、一緒に死なしては相済まない、――そこで一式小一郎は、逸《はや》る心を押し沈め、目付けられて声を掛けられるまでは、隠れていよう隠れていよう……そこで一層大岩へ、ピッシリ体を押しつけて、尚も様子をうかがった。この時またもや頭上にあたって、数人の人の声がした。つづいて馳せ下る音がした。一直線に大岩の方へ、走り下って来るようである。
 華子の乗った山駕籠を守り、一ツ橋の武士達が、四、五人下って来るのであった。
 こうして小一郎と君江とは、腹背に敵を受けてしまった。
 目付けられるに相違ない。目付けられたら切り合いになろう。相手は三十余人もある。小一郎は一人である。足手纒いの君江もいる。勝敗の数は知れている。剣侠一式小一郎も、命を落とさなければならないだろう。
 だがそのおりから谷を越した、ずっと向こう側の山の上から、ドッと喊声が湧き起こった。
 一挺の山駕籠がまず現われ、それに続いて二、三十人の武士が、黒蟻のように現われた。谷を見下ろしているのである。
「おおあれは田安勢だ!」こういう声が聞こえて来た。冷泉華子の声である。山駕籠の中から叫んだのらしい。「あの山駕籠に乗っている者は、北王子妙子さんに相違ないよ」
 こうして田安勢と一ツ橋勢とが、顔を合わせることになったが、それにしても田安勢は何んのために、北王子妙子を山駕籠に乗せ、こんな所へあらわれたのだろう。
 説明するにも及ぶまい。同じく山尼の居場所を突き止め、永世の蝶を取り返そうと、やって来たものに相違ない。
 ふたたび乱闘は行われよう。
 秩父山中を血に染めて、切り合うことになるだろう。
 それにしても小一郎や集五郎や、冷泉華子や妙子までが、探し求めている山尼の群が、はたしてそんな秩父山中の、桐窪などにいるのだろうか?

 ここは桐窪の一画である。
 盆地が広く開いている。
 晩夏の日光を刎ね返し、天幕が無数に立っている。わけても大きな天幕の中に、さも長閑《のどか》そうに話している、面白い対照の男女があった。
「ねむねむゴー、ねむねむゴー、こうおっしゃったのでございますよ。ほんとに面白いお師匠様で」
 こう云ったのは鯱丸《しゃちまる》である。
「ねむねむゴー、ねむねむゴー、面白い言葉でございますこと、どういう意味なのでございましょう」
 こう云ったのは桔梗様である。
「そうかと思うとお師匠様は、こうも云うのでございますよ。鯱丸よ鯱丸よパッチリコ! 鯱丸よ鯱丸よパッチリコ!」
「おやおや今度はパッチリコで、どういう意味なのでございましょう」さも楽しそうに桔梗様が訊く。
「そうかと思うと、お師匠様はこう云うのでございますよ」またもや鯱丸はやり出した。
「グルグルチン! グルグルチン!」
 とうとう桔梗様は吹き出してしまった。
「だんだんむずかしくなりますのね。ねむねむゴーからパッチリコになり、そうしてそれからグルグルチン……何んだか妾には解らない」
「何んでもないのでございますよ」いよいよどうやら鯱丸は、その説明に取りかかるらしい。「ねむねむというのは、眠れということで、ゴーというのは鼾《いびき》のことで、つまりゴーッと鼾を立てて、眠れということなのでございますよ。私が晩《おそ》くまで起きていますと、そうお師匠様がおっしゃるので、パッチリコと申すのは反対なので、眼をパッチリコと開けるようにと、こういう意味なのでございますよ。朝寝坊をしておりますと、そうお師匠様がおっしゃいますので、ところでグルグルチンですが、谷川へ行ってグルグルと、顔を洗ったら音を立てて、チンと鼻をかむ[#「かむ」に傍点]がいいと、こういう意味なのでございますよ。はいはいみんな何でもないことで」
 なるほど説明を聞いてみれば、何んでもないことではあったけれど、鼠の衣裳に腰衣《こしごろも》を付けた、縹緻《きりょう》のいい愛くるしい鯱丸が、真面目な顔をして話すのであった。
 どうにも桔梗様には可笑《おか》しかった。で明るく笑った時、その明るさを抑えるかのように、陰気な不気味な梵鐘《ぼんしょう》の音が、盆地の一所から聞こえて来た。

        五十一

「昆虫館再興は山尼《やまあま》の徒の為なり」
 こう古文書に記されてある。
 同じ山尼の連中によって、昆虫館は閉鎖されたのであったが、それがふたたび興されたについては、重大な理由がなくてはならない。
 秩父連山の山尼の部落の、深い谷の底から鐘の聞こえたのは、衆を集める合図であった。で無数の山尼達が、めいめいの天幕から走り出て、谷底の方へ走って行ったが、それは壮観というべきであった。切り下げ髪を風に靡《なび》かせ、また腰衣《こしごろも》を風に靡かせ、数百の尼が走って行く。
 その谷の底の大岩の上に、一人の山尼が立っていたが、他でもない高蔵尼であった。
「物見の者から知らせが来た。昆虫館では衆を集め、戦いの準備をしているそうだ。だから棄てては置かれない。昆虫館へ押し寄せることにしよう」
 これが高蔵尼の命であった。
 それから行われた行軍は、非常に面白いものであった。一挺の山駕籠へ高蔵尼を乗せ、それを囲んで有髪の尼達が、秩父連山を縦断して三浦三崎の方へ出かけたのである。
 ところが一方昆虫館でも、一つの事件が起こっていた。
 と云ったところで変わったことでもなく、戦いの準備をしているのであった。
 隅田のご前の部下の者や、七福神組が走り廻わり、それの準備をやっているのであった。
「さあ壕を掘れ、鹿砦《ろくさい》をつくれ、墻壁《しょうへき》をこしらえろ、掩護物《えんごぶつ》を設けろ、小杭を打ち込め、竹束を束ねろ! 武器の手入れだ、武器の手入れだ! 槍を磨け、刀を磨け、鉄砲の筒を掃除しろ。……一手は森林の裾へ行け。そこへ幕営をつくるがいい。一手は森林の底へ行け。そこへ地雷を伏せるがいい。……火薬袋に注意しろ。点火の手筈の狂わぬよう。……谷川へは橋をかけるがいい。……物見だ物見だ、物見に行け!」
 指揮しているのは、隅田のご前で、昆虫館の建物の前へ、牀几《しょうぎ》を出して腰かけている。
 人々が八方へ駈け巡る。伝令が四方へ飛んで行く。遠くで鉄砲の音がする。恐らく試射をやっているのであろう。と、ゴーッという音がした。水の流れる音である。槓杆《こうかん》を動かしたに相違ない。そこで湛えられた湖水の水が、森林をひらいて流れたのであろう。
 と、麓の方角から、一団の人数が上って来た。醜い不具者の群である。ずっと以前に昆虫館にいて、閉ざされると共に立ち去ったのだが、昆虫館の大事を聞き、今や集まって来たのである。
 ひっそりと寂しかった昆虫館は、こうして活気を呈したが、むしろ活気というよりも、殺気と云わなければならないだろう。
 だがこういう殺気の場を、一向無関心に横目に見て、一人働かない人物があった。他ならぬ片足の吉次である。
「立ち廻われ立ち廻われ騒げ騒げ。が、この俺は騒がないよ」
 岩から落ちて来る滝の前に佇《たたず》み、滝壺の中を睨んでいる。
 と、「吉次さん」と云う声がして、ヒョッコリ現われた女がある。他ならぬ弁天松代であった。
「ヨー。これは松代さんか」
 吉次はニヤニヤ笑い出した。群《あつ》まって来た連中の中で、吉次の一番好きなのは、この弁天松代だからである。
「松代さん相変わらず綺麗だなあ」
「ああいつだって綺麗だよ」松代は並んで佇んだが、「どうしてお前さん働かないんだい」咎めるような調子である。
「一本足じゃ働きもならない」
「そりゃアそうだねえ。もっともだよ」
「それに俺《おい》らは不賛成なのさ」
「何んのことだよ、不賛成とは!」
「むやみと騒がしく立ち廻わることさ」
「だって戦いが始まるんじゃないか」
「さあその戦争だが嫌いなのさ」
「成るようにして成ったんだから、どうにも仕方がないじゃアないか」
「へえ、そりゃアどういう訳だえ」
「だって、山尼の連中は、永生の蝶が欲しいのだろう? ところがその中一匹の方は――つまり盗まれた雄蝶の方だが、どんなことをしたって目付からないのだよ」ここで吉次は変に笑ったが、「松代さんだからちょっと明かすが、盗まれた永生の蝶のありかを、一人だけ知っているものがあるのだよ」

        五十二

「へえ、そりゃア誰だろうね?」さも不思議そうに松代は訊く。
「さあ何奴が知っているかな」吉次は依然として笑っている。と、話題を一変させ、「桔梗様もさらわれた[#「さらわれた」に傍点]ということだの」
「山尼の連中がさらって行ったのさ」
「つまり囮《おとり》に取ったってわけだな」
「え、何んだい、囮というのは?」
「つまり桔梗様を返すから、永世の蝶を引き渡せと、こう連中は云うつもりなのさ」
「ああ山尼の連中がね。そうすると桔梗様は可哀そうだねえ」
「可哀そうには相違ないが、どうも桔梗様という人は、少し見識が高すぎたから、たまには酷い目に逢った方がいいよ」
「見識の高い方がいいじゃアないか」
「そうだろうかなあ、そうだろうかなあ」吉次は何んとなく不満そうである。「が、見識の高い人は、他人の思いなどを受け入れないからなあ」
「おや」と松代は妙に思った。で、黙って吉次を見た。
 滝が涼しそうに落ちている。小さな小さな滝なのである。滝壺の水面は泡立っている。日光が横から射しているので、滝の泡沫《しぶき》に虹がかかり、何んとも云えず美しい。
「そりゃアそうと、ねえ松代さん、俺《おい》らはお前さんが好きなんだよ」こんなことを云い出した。気恥ずかしそうなところがある。
「おや」ともう一度思ったが、松代は故意《わざ》と何気なく、「妾もお前さんが大好きさ」
「ふうん、何んだか解るものか」こうは云ったものの嬉しそうである。
「色気のないところが好きなんだよ」
「ところで俺らはお前さんの、見識張らないところが好きなのさ」
「見識張られる身分じゃアないよ」
「また俺らにしてからが、色気の出せる身分じゃアない」
「一緒にくらしたら面白かろうね」
「え」と云ったものの片足の吉次は、松代の顔を盗むように見た。「嬲《なぶ》っちゃアいけない。嬲っちゃアいけない」
「何んの妾が嬲るものか。本当のことを云ってるのさ」――だが嬲ってはいるようである。
「そうかなあ、そうかなあ」吉次は茫然《ぼっ》として考えたが、「俺《おい》らは醜男《ぶおとこ》で片輪者で、女に思われたことなんかない。俺らの方では想ったがな。でもその女は見高《けんだか》で、相手にしようともしてくれなかった。……だから俺らはやったん[#「やったん」に傍点]だ。……だが俺らには金はある。少しばかり考えを運ばしたら、どっさり金を儲けることが出来る。半分手に入れているんだからなあ。……永生の蝶っていう奴は、水の中ででも活きられるのだよ。……」
「お金がありゃア尚いいねえ。楽な生活《くらし》が出来るんだからねえ……ほんとにお前さんにあるかしら?」窺《うか》がうような調子である。
「少し考えを運ばせさえすれば、莫大な金が手に入るのさ」
「ねえ、吉次さん」と寄り添った。
「うん」と云ったが片足の吉次は、凝然と滝壺を見下ろしている。
 ひん[#「ひん」に傍点]曲がった美しい劇的光景! それはこう云ってもいいだろう。一人は片足の醜男である。一人は妖艶な女賊である。それが互いにもたれ[#「もたれ」に傍点]合い、滝壺を覗いているのである。
 大岩の背後には人声がする。戦闘準備の雑音もする。
 だがここばかりはひそやか[#「ひそやか」に傍点]である。虹が相変わらず懸かっている。

        五十三

 その日の午後のことであったが、昆虫館の一室で、二人の老人が話していた。
「兄ごお前さんは不賛成だろうな」こう云ったのは隅田のご前。
「行くところまで行ったのだから、どうにも仕方があるまいよ」こう云ったのは昆虫館主人で、悩ましい表情が顔にある。
「兄ご夫婦の関係は、私には不思議でならないよ」隅田のご前が云ったのである。
「元からそうではなかったのだが、そういうことになったのさ」昆虫館主人は憂鬱《ゆううつ》であった。
「と云うのも永世の蝶からだろうね?」
「ああそうだよ」と昆虫館主人は、いよいよ悩ましい様子をしたが、「本はといえば扱い方の相違だ。見方の相違と云ってもいい。即座にあれ[#「あれ」に傍点]を役立てよう。――と云うのがあれ[#「あれ」に傍点]のやり方だったのだ。私はそれとは反対だった。まず飼って置いて様子を見よう――」
「どっちみち和睦《わぼく》をした方がいいよ」隅田のご前が不意に云った。
「和睦をしろとはおかしいではないか。こんなに戦備をして置いてからに」怪訝だというような表情である。
 隅田のご前は笑ったが、「和戦両様に備えたのさ。浮世は万事がこういかなければいけない」
「何も私だって争いたくはないよ。……が、向こうのやり口が悪い。……娘に罪はないのだからな」
「実の親子だ。逢いたかったまでさ。それでおおかた連れて行ったのだろう」
「私にはそうは思われない」昆虫館主人は首を振ったが、「威嚇の道具に使うのだろう。囮《おとり》に使おうとしているのだろう。永生の蝶を奪おうためにな」
「さあその永世の蝶という奴だが、兄ごは充分調べた筈だ」
「そうして未だにわからない」
「これから調べても解るまい」
「そうよなア、解らないかもしれない」
「では先方へくれてやるさ」
「一匹は取ったということではないか」
「芹沢の郷で取ったそうだ」
「もう一匹は不明なのだ。どこへ行ったかわからないのだ」
「ふうん、それは本当のことかな?」
「嘘は云わぬよ、盗まれたらしい」
「では先方へそういうことを、云ってやったらよかりそうなものだ」
「云ってはやったが信じないのだよ」昆虫館主人は苦々しそうにしたが、「どうしてもこの土地にいるというのだ」
 部屋は昔と変わりがない。和蘭陀《オテンダ》風に装飾《よそお》われている。壁に懸けられたは壁掛けである。昆虫の刺繍が施されてある。諸所《ところどころ》に額がある。昆虫の絵が描かれている。天井にも模様が描かれてある。その模様も昆虫である。戸外《そと》に向かって窓がある。その窓縁にも昆虫の図が、非常に手際よく彫刻《ほら》れてある。窓を通して眺められるのは、前庭に咲いている花壇の花で、仄《ほの》かな芳香が馨《にお》って来る。長椅子、卓子《テーブル》、肘掛椅子、書棚の類が置いてある。床には絨緞が敷いてあり、それには昆虫の模様が織られ、その地色は薄緑である。
 黒檀細工の卓子《テーブル》の上に、幾個かの虫箱が置いてある。そうして例によって天井からも、無数の虫箱が釣り下げられてある。
 昔と何んの変わりもない。いくらか古びているばかりである。で、この部屋にあるものと云えば、学究的の静寂である。それも昔と変わりがない。
 と、不意に昆虫館主人が、かけていた椅子から立ち上がり、一つの虫箱を覗いたが、
「敏感な麝香虫が騒ぎ出した。……いよいよ山尼の一隊が、迫って来たに相違ない」
 こう云って窓まで身を寄せて行ったが、これも昔とそっくりであった。

 こういう事件の行われている頃、秩父連山の一所でも、風変わりの事件が行われていた。
 馬に乗った一式小一郎が、女馬子の君江に手綱をとらせ、谷の底を歩ませていたのである。
 その左側の谷の上を、山駕籠を囲んだ同勢が、同じ方角へ進んで行く。冷泉華子の一隊である。
 と、右側の谷の上を、同じような同勢が辿っている。北王子妙子の一隊である。
「いや面白い旅行だわい」こう云ったのは一式小一郎で、愉快そうな笑いを漂わせている。「危機一髪、もういけまい。こう思った時現われたのが、あの田安家の勢なのだからなあ。それに牽制されたので、一ツ橋の連中にも討って取られず、両家の者に左右を守られ、こんな塩梅《あんばい》に旅が出来る。どうも浮世って皮肉なものだ」
「結構な皮肉でございます。時々こういう皮肉があるので、ほんとに私達は助かります」
 こう云ったのは君江である。君江の様子も愉快そうである。
「一ツ橋勢が谷へ下り、俺達を討って取ろうとすれば、田安家の連中が下りて来て、この俺達を救ってくれる。この俺達が谷を上り、田安の連中と一緒になろうとすれば、一ツ橋勢が追っかけて来る。そこでどうでも俺達とすれば、いつまでもこうやって谷の底を、辿って行かなければならないのさ」
「面白い身の上でございますよ。強い二つの大きな国に押し付けられておりながら、威張り巻くっている小さな国、それが私達でございますよ」
「俺達がちょっとでも間違うと、すぐに平均が崩れてしまう」
「私達が穏《おとな》しくしていれば、いつまでも現状はつづいて行きます」
「だから随分危険だとも云える」
「危険だからこそ面白いので」
「君江、相変わらず面白いことを云うな」
「あたりまえのことでございますよ」
「そのあたりまえということが、なかなかもって云えないものさ」
 谷底の道は辿りにくい。でも二人は辿って行く。

        五十四

 随分辿りにくい谷底である。大岩が諸所に盛り上がっている。藪や灌木が蔓《はびこ》っている。谷川が一筋流れていて、パッパッと飛沫をあげている。秩父名物の猿の群が、枝から枝へと飛び移り、二人を見ながら奇声を上げる。と、闇のような所へ出た。喬木が蔽うているのである。二人は先へ辿って行く。
 その時右側の谷の上から、ドッと鬨の声が湧き起こった。田安家の勢が一ツ橋家の勢へ、どうやら挑戦したらしい。と左側の谷の上から、それに答える鬨の声がした。一ツ橋勢が応じたものと見える。
 こうして二、三回鬨が上がったが、事件らしい事件も起こらなかった。
「面白いな」と小一郎。
「陽気でよろしゅうございます」
 ――で、三組の同勢は、先へ先へと進んで行く。目差すは同じ場所である。すなわち山尼の居場所である。
 先へ先へと進んで行く。
 だが先は続かなかった。
 遙か向うに盆地が見え、そこに点々と幾個《いくつ》かの天幕が日を受けて白く見渡された。
 それこそ山尼の部落である。
 谷を作っている左右の山も、盆地に向かって傾斜をなし、盆地に到って尽きている。谷も盆地で尽きている。
 で自然の勢いとして、田安家の勢《ぜい》も一ツ橋家の勢も、そうして君江も小一郎も、盆地で一緒にならなければなるまい。
 そういう盆地の中央にある、一つの大きな天幕の中で、桔梗様と鯱丸とは話していた。
 桔梗様を守護する山尼の徒が、十数人残っているばかりで、その他の無数の山尼達は、秩父の山にはいなかった。昆虫館をさして馳せ去ったのである。
「大変寂しくなりました」
 こう云ったのは鯱丸である。
「ほんとにひっそり[#「ひっそり」に傍点]としましたことね」桔梗様は何んとなく物憂そうである。
 天幕の中へ日が射している。それが桔梗様の顔を照らし、鯱丸のぼんのくぼ[#「ぼんのくぼ」に傍点]を照らしている。
「どこへ行ったのでございましょうね?」
 鐘が谷の方で鳴り渡って、山尼の徒がそっちへ走って、そうしてそのまま大忙《おおいそが》しに、山を下って行ったことだけは、桔梗様にも解っていたが、その他のことは解らないのであった。
「わけの解らない連中なので、さあどこをさして行ったものやら」早熟《ませ》た口調で鯱丸が云う。
「ところで高蔵尼とおっしゃる方は、いいお方なのでございましょうね」
 芹沢の里の乱闘の際、突然高蔵尼に攫《さら》われて以来、そうしてこの土地へ来て以来、ただ親切にあつかわれるばかりで、高蔵尼という尼様の素性は、いまだに桔梗様には解らないのであった。
「口小言のうるさい婆さまで」鯱丸は依然として、口が悪い。「でも結構な婆様で」今度は鯱丸は褒めるのであった。
「それにしてもここの人達は、何をして生活《くら》しているのでしょう?」
 一月あまり住居してみたが、桔梗様には山尼の生活が、どうにも胸に落ちないのであった。毎朝毎晩看経をするのは、尼としては当然のことであったが、突然一同が打ち揃って、どこへともなく行くことがあった。托鉢に行くのだとも思われたが、そうでもないようなところもある。規律はいかにも整然としていて、女軍のようなところもある。そういえば武器さえ貯えている。
 今こそ秩父の山中にいるが、以前には信州や上州や、美濃や飛騨にもいたそうである。
 わけのわからない団体なのであった。

        五十五

 そこで鯱丸に訊いたのであった。
 ところが鯱丸の返辞たるやまことに、簡単なものであった。
「人里の人間を憎んでいる、尼さん達の集まりなので。時々行衛を眩《くら》ますのは、人里へ出て行って掠奪《りゃくだつ》をやるので。そうしてお師匠さんの素性はといえば、謀反人の血統だということなので」
 こう云われていよいよ桔梗様には、山尼の性質が解らなくなった。
 しかしそれよりも桔梗様にとっては、一式小一郎の身の上が、心にかかってならなかった。芹沢の里で別れて以来、絶えて消息を聞かないのである。死んだであろうか、生きているだろうか? その点さえも心もとない。
 それより何より桔梗様には、小一郎が恋しくてならなかった。自分はこんな山の中にいる。恋人小一郎の行衛は知れない。もう一生逢えないかもしれない。これが悲しくてならないのである。それにしても何んの必要があって、自分をこんな山の中へ、山尼達は攫って来たのだろう? これからどうするつもりだろう? 一生人里へは返さずに、山の中へ止めて置くのだろうか?
 これを思うと桔梗様は、不安で不安でならなかった。
 しかし桔梗様のその不安は、一瞬の間に喜びとなった。
 というのは盆地の外れにあたって、二派の武士達でも衝突したような、凄じい叫び声が忽然と起こり、太刀打ちの音が聞こえて来たかと思うと、その方角から馬に乗った武士が、女の馬子を後に従え、桔梗様の方へ走って来たが、天幕の前までやって来ると、ヒラリと馬から飛び下りた。
「おお桔梗様、いられたか!」
「まあ、あなたは小一郎様!」
「お助けに参った、さあさあ馬へ!」
 ――で、桔梗様を馬へ乗せ、君江を先立て一式小一郎は、一散に麓へ下ったからである。
 しかしその時邪魔がはいった。いつの間に先に廻わっていたものか、南部集五郎が二、三人と共に、翻然木蔭から飛び出して、素早く行手を遮《さえぎ》ったのである。
「やらぬぞ一式!」
 切り込んで来た。
「集五郎か」
 と太刀を抜いたが、股を一|揮《き》! 充分に切った。
「あっ」
 という悲鳴! 集五郎だ。切られてグダグダに膝を突いたところを、
「許してやろうぞ! 命ばかりは! ……やれ! 君江!」
「あい!」と云うと、君江は馬を追い立てた。
 馬は一散に馳せ下る。馬上の桔梗様の袖が靡き、崩れた髪の毛が渦を巻く。
 血刀を片手に下げたまま、後を追って走る一式小一郎の、その勢いに恐れたのであろう。誰一人それを追おうともしない。
 盆地の一角では田安家の勢と、一ツ橋家の勢とが切り合っている。

「昆虫館再興は山尼の徒の為なり」
 だが本当を云う時は、
「昆虫館再興は弁天松代の為なり」
 こう云わなければならないのである。
 と云うのは山尼の一団と、昆虫館の一団とが、いよいよ衝突しようとした時、片足の吉次が盗み取った雄蝶を、吉次をたぶらかして滝壺から出させ、それを奪って昆虫館へ駈け込み、昆虫館主人に渡したので、それを山尼の一団へ渡し、戦いを未然に防いだからである。

「神秘昆虫館」の物語も、数種説明を加えることによって、大団円とすることにする。永世の蝶の持っていた、奇怪の謎は解けただろうか? 山尼の徒が持ち去ってしまった。そうして山尼はどこへ行ったものか、その消息を失ってしまった。自然永世の蝶の謎もどうなったものか解らない。山尼の迫害から遁がれたため、昆虫館は昔にかえり、昆虫館主人はそこに住んで、研究をつづけたということであるが、そもそも昆虫館主人とは、どういう素性の人物なのであろう? ある伝説による時は、家光に亡ぼされた駿河大納言の、正統の血を引いている人物であり、そうして隅田のご前なる人は、同じく妾腹の血を引いた人で、幕府にとっては二人ながら、恐れられていた人達であり、そうして高蔵尼という一女性は、駿河大納言を亡ぼすべく、活躍したところの本多上野介の、血を引いた姫だということである。昆虫館主人と高蔵尼とは、敵同志でありながら、どうしてかつては夫婦などになったのか? これこそ疑問というべきであるが、詳しいところは伝説にもない。
 ところで一式小一郎は、その後どういう生活をしたろう? 桔梗様と結婚したそうである。では君江は気の毒ではないか。いやいや彼女は風変わりの女で、そうして楽天家でもあったため、自分の運命を悲しみもせず、例の愛馬の手綱を取り、故郷へ帰ったということである。
 隅田のご前に至っては、依然隅田川の岸へ住み何やら大きな企てに、専念したということである。
 北王子妙子や冷泉華子の、その後の消息も明記されていない。

底本:「神秘昆虫館」国枝史郎伝奇文庫(十)、講談社
   1976(昭和51)年3月12日第1刷発行
※「纒」と「纏」、「跪座」と「跪坐」、の混在は底本通りにしました。
※誤植の確認には「大衆文学大系12」(講談社)を用いました。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:六郷梧三郎
2008年5月21日作成
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国枝史郎

真間の手古奈—— 国枝史郎

     

 一人の年老いた人相見が、三河の国の碧海郡の、八ツ橋のあたりに立っている古風な家を訪れました。
 それは初夏のことでありまして、河の両岸には名に高い、燕子花《かきつばた》の花が咲いていました。
 茶など戴こうとこのように思って、人相見はその家を訪れたのでした。
 縁につつましく腰をおろして、その左衛門という人相見は、戴いた茶をゆるやかに飲んで、そうして割籠のご飯を食べました。
 その家はこのあたりの長者の家と見えて、家のつくりも上品であれば、庭なども手入れが届いていました。
「よい眺めでござりますな」
 お世辞ともなくこのようにいって、生垣の向うに眺められる八ツ橋の景色を眺めおりました。
 左衛門はその頃の人相見としては、江戸で一番といわれている人で、百発百中のほまれがありました。人相風采もまことに立派で、人の尊敬を引くに足りました。で、山間や僻地へ行っても、多くの男女に尊敬され、いつも丁寧にあつかわれました。
 この時も左衛門は名のりませんでしたが、神々しい人相や風采のために、その家――泉谷《いずみや》という旧家でありましたが――その泉谷の家族達によって丁寧な態度であつかわれました。
「真間《まま》の継橋《つぎはし》へも参ったことであります。矢張《やは》りよい景色でござりました。ここにも継橋がございますな」
 いかさま継橋が見えていました。
 八筋の川が流れて居りまして、一筋ごとに橋がかかっていて、継橋をなしているのでした。
 継橋の数が八ツなので、そこで八橋ともいうのでした。
「憐れな伝説がございます」
 左衛門の前へ穏かに坐って、左衛門と一緒に茶を喫し、長閑《のどか》に話していた泉谷の主の、彦右衛門という人物は、こう左衛門にいった後で、その憐れな伝説を、古雅な言葉つきで話しました。
「仁明の御皇《みかど》の御代《みよ》でありましたが、羽田玄喜という医師がありまして、この里に住居《すまい》して居りました。女房と申すのがこの里の庄司の、継娘《ままむすめ》でありましたが、気だての優しい美しい縹緻《きりょう》の、立派な女でありまして、二人の間に男の子が、二人あったそうにござります。ところが玄喜は三十歳の時に、病気でなくなってしまいましたので、女房は気の毒な寡婦の身となり、子供は孤児となりまして、家計も貧しくなりました。が、女房は健気《けなげ》にも、他へ再婚しようともしないで、山へ登って行って薪を拾ったり、浦へ出て行って和布《わかめ》をかったり、苦心して子供を育てました。つまり二人の子を養育して、亡き良人《おっと》の業をつがせようものと、辛苦したのでございます。然るに長男が八歳となり、次男が五歳となりました時に、悲しい出来事が起こりました。というのは、或日でありましたが、川の向う岸に沢山《たくさん》の海苔《のり》が粗朶《そだ》にかかっているのを見て、母親がとりに渡りましたところ、後を慕って二人の子供がこれを渡って行きました。と流れが急でありましたので、二人の子供は溺れ死にました。どのように母親が嘆き悲しんだか? 想像に余るではありませんか。で、母親は髪をおろし、尼となって朝夕念仏をし、菩提を葬ったのでありますが、『橋さえかかって居ったならば、このようなことは起こらなかったであろう、どうぞして橋をかけたいものだ。将来人助けにもなるのだから』不図《ふと》こんなことを思ったそうです。と、或日大きな流れ木が、河の岸へ横付けになりました『これこそ丁度幸いだから、この流れ木で橋を架けることにしよう』――で、橋をかけにかかりましたところ、流れが八筋ありましたので、次から次と流れ木を捨って、八ツながら橋をかけましたそうで。そこで八ツ橋という名が起こって、名所になったのでござります」
 その時十八九にもなりましょうか、美しい娘が菓子皿を持って、奥の座敷から出て来ましたが左衛門の前へ菓子皿を置くと、しとやかに辞儀をいたしました。
 で、左衛門も辞儀を返しましたが、
「ああ……これは……ううむ……悪いぞ」
 と、口の中でこう呟いて、まじまじと娘の顔を見ました。
 人相見の左衛門でございます。何か娘の人相の中に、不吉の形を見たがために、そう呟いたのでありましょう。
 が、彦右衛門には解りませんでした。
「私の娘、蘭でございます」
 こう左衛門にひきあわせてから作男へ指図しようとして、庭下駄を穿くと裏手の方へ足早に行ってしまいました。

     

 で、縁へは左衛門とお蘭と、二人だけが残ってしまいました。
 と、左衛門でありましたが、何気ない様子で話しかけました。
「――から衣きつつなれにし妻しあれば、はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ――業平朝臣《なりひらあそん》の有名な和歌は申すまでもないことでありますが、八ツ橋は名高い歌枕の土地ゆえ、この外にいろいろ有名な和歌が、うたわれていることでございましょうな」
 するとお蘭は直《す》ぐに答えました。
「――一筋に思いさだめず八橋のくもでに身をも嘆くころかな。――有名な宗長《むねなが》親王様の、このような和歌がございます」
「成程《なるほど》」
 と、左衛門はうなずきました。
「で、私は申し上げましょう。物事はすべて一筋に、思い定めてはいけませんな。……とその他に和歌はございませぬかな」
「為家卿がうたわれましたそうで――もろともに行かぬ三河の八橋に、恋しとのみや思いわたらん」
「成程」
 と左衛門はまたうなずきました。
「そこで私は申し上げましょう。恋しと思ってはいけませんとな。……その他に名歌はございませんかな」
「読人知らずではございますがこのような和歌もございます。――打わたし長き心は八橋の、くもでに思うことにたえせじ」
「成程」
 と左衛門はまたいいました。
「蜘蛛手に思う恋の心が、突きつめて一つになった時に、恐ろしい一筋の恋となります。ご用心なされた方がよろしいようで」
 すると、俄《にわか》にお蘭という娘は、物悲しそうに俯向いて、口をとじてしまいました。蒼いまでに白い額の上へ、俯向いた拍子にもつれ毛がかかって、顫《ふる》えを細かく見せて居りましたが、烈しい感情が胸に起こって、それが顫わせているようでした。
 と、その様子をしばらくの間、左衛門は見守って居りましたが、やおら膝をその方へ進ませ長い顎髭を前へ差し出し、さとすような声でいいました。
「死を覚悟していられましょうな? 正直にお話しなさりませ。私は江戸の人相見の、左衛門というものでございますよ。お前様の顔を一目見た時から、お前様の覚悟を見てとりました。でお前様に申し上げます。正直に私にお打ち明けなされ。何んとか私が取りはからいましょう。……恋でございましょう? 思い詰めた恋で?」
 するとお蘭は顔を上げましたがこういうと直ぐに俯向きました。
「はい、そうでございます。……一人のお方でございましたら、何んでもないのでございますが……」
「成程」
 と左衛門はその言葉を聞くと、苦しいような笑を浮べました。
「二人の男に恋をされて、それで悶えておいでなさるので」
 お蘭は黙ったままでうなずきました。
「そこでお前様には二人の男へ、双方義理を立てるために、入水などなされようと覚悟されましたので?」
 お蘭は黙ったままでうなずきました。
「そこで」
 と左衛門はまたいいましたが、その声には皮肉がありました。
「そこでもう一つおうかがいをしますが、そのお二人の男の方の、お身分は何なのでございますか?」
 するとお蘭は云おうか云うまいかと、躊躇したようでありましたが、思い切ったようにいいました。
「一人のお方は源次郎様と申して、この里を支配なされていられる、大庄屋のご次男様でございますし、もう一人のお方は喜之介様と申して、江戸の大きな絹問屋の、若旦那様にございます。源次郎様と喜之介様とは、お家がご親戚でありますので、久しい前から保養のために、喜之介様には源次郎様のお家へ、参られているのだそうでござります」
「成程」
 と左衛門はいいましたが、いよいよその声には揶揄《やゆ》するような、皮肉な調子がありました。
「で、お前様にはお二人の中《うち》、どちらを愛していられますので?」
 するとお蘭は物憂そうに、
「私はまことはどのお方をも、お愛ししているのではございません。ただお二人に同じように同時に愛を打ちあけられましたので、どちらの方へ靡《なび》いてよいやら、苦しんで居るだけにございます」
 これを聞くと左衛門はいぶかしそうに、咎《とが》めるようにききました。
「二人ともお愛ししていられないなら、お二人へお前様の心を、お打ちあけなされておことわりなされたら、よろしいように思われますがな」
「はい」
 とお蘭は申しました。
「でも私にはどういうものか、決心が付かないのでございます。はい、私にはどういうものか。……」

     

 と、俄に嘲るような、かれた笑声が起こりました。左衛門が笑ったのでございます。
「――われも見つ人にも告げん葛飾の、真間の手児奈の奥津城《おくつき》どころ――お前様にはこの和歌をご存知でしょうな」「はい」
 とお蘭は直ぐに申しました。
「二人の殿方に恋せられて、どっちへも靡いて行くことが出来ずに、入水して死なれた憐れに美しい、真間の手児奈という娘の墓を、山辺赤人というお偉い歌人が、詠まれた和歌にございます」
「さよう」
 と、左衛門はいいました。
「で、お前様が覚悟どおりに、今のお二人に義理を立てて、入水してお死になされたなら、偉い歌人が憐れがって、名歌を詠まれるかもしれませぬな。……が、そうなるとこの八ツ橋の里に、二つの伝説が出来まして、迷惑のことになりましょう。……お前様のお父上がたった今し方私に話して下された、羽田玄喜の妻の伝説と、そうしてお前様の伝説とがな。……で、私は申しますよ。美しい物語にあくがれるのは、若いお前様の勝手ではあるが、その伝説の真似をして、自分自身に行うことは、この上もないつまらないことだと。……それよりもこの里に残されている、羽田玄喜の妻の伝説を、旨く利用なさいまし。……つまり源次郎という若いお方と、喜之介という若いお方とへ、このようにお前様からおっしゃるのです『向うの河岸に海苔《のり》があります。私をいとしく思われるならば、橋を渡らずに川を泳いで、向う岸まで渡って行って、海苔《のり》をとって来て下さいまし。とって来たお方に靡きましょう』と。……もちろん私は源次郎というお方も、喜之介というお方も存じません。しかしお前様のお話によれば、いずれも立派な若旦那なので、力業《ちからわざ》だの危険な業だのには、大方不慣れでございましょう。で、漁師でさえ泳ぎかねるような、瀬の早い八筋の川を泳いで、海苔《のり》をとって来ようとはなされますまい。……さて、ご馳走になりました。そろそろ出かけることにいたしましょう。……」
 後年左衛門は人にいったそうです。――
「そうだよ、お蘭という娘の顔には、死相が現れていたのだよ。これはいけないと思ったのでだんだん話しをして行くうちに、いろいろの古歌を知っていて、性質がひどく憧憬的だ。二人の男に恋されている。場所はといえば八橋といって、真間の継橋とよく似ている。ははあそれでは手児奈を気取って、二人の男へ義理を立てて、自分は美しく入水して死のう――恋を恋する気持といおうか、伝説を真似る心持といおうか……そういう心持でいるらしい。――と、こんなように思ったので、ああいう手段を教えてやったんだね。……お蘭という娘は実行したそうだよ。と、どうだろう源次郎という男も、喜之介という男も私の予想どおり、川を泳いでは行かなかったそうだ。その結果お蘭という娘は、柔弱の男に愛相をつかし、真面目な田園の逞しい男と、結婚したということだよ」

底本:「国枝史郎伝奇短篇小説集成 第二巻 昭和三年~十二年」作品社
   2006(平成18)年12月25日第1刷発行
底本の親本:「読切小説名作帖」文松堂
   1942(昭和17)年1月
初出:「サンデー毎日」
   1929(昭和4)年1月1日
入力:H.YAM
校正:門田裕志
2008年5月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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国枝史郎

十二神貝十郎手柄話—– 国枝史郎

    ままごと狂女

        

「うん、あの女があれ[#「あれ」に傍点]なんだな」
 大|髻《たぶさ》に黒紋付き、袴なしの着流しにした、大兵の武士がこういうように云った。独り言のように云ったのであった。
 そこは稲荷堀の往来で、向こうに田沼|主殿頭《とのものかみ》の、宏大の下屋敷が立っていた。
「世上で評判の『ままごと女』のようで」
 こう合槌を打つものがあった。旅姿をした僧侶であった。
「つまり狂人《きちがい》なのでありましょうな」
 これも単なる問わず語りのように、こう呟いた人物があった。笈摺《おいずる》を背負った六部であった。と、その側に彳《たたず》んでいた、博徒のような男が云った。「迫害されて成った狂人なのでしょうよ」
「『ね、もう一度ままごと[#「ままごと」に傍点]をしようよ』こう云って市中を狂い廻るなんて、おお厭だ、恥ずかしいことね」
 すぐにこう云う者があった。振り袖を着た町娘で、美しさは並々でなかったが、どこかに蓮《はす》っ葉なところがあった。
「それが一人や二人でなく、この頃月に幾人となく、ああいう狂人の出て来るのは、変だと云えば変ですなあ」
 こう云ったのは総髪物々しく、被布《ひふ》を着た一人の易者であった。冷雨《ひさめ》がにわかに降り出したので、そこの仕舞家《しもたや》の軒の下に、五人は雨宿りをしたものと見える。
 今も冷雨は降っていた。その冷雨に濡れながら、髪を乱し衣紋を乱した、若い美しい狂人の娘が、田沼家の前を行ったり来たりしていた。
「ね、もう一度ままごと[#「ままごと」に傍点]をしようよ」
 そう喚く声がここまで聞こえた。が、間もなく姿が消えた。裏門の方へでも[#「でも」は底本では「ても」]行ったのであろう。
 パラパラと不意に降って来て、しばらく経つとスッと上がる。これが冷雨《ひさめ》の常である。冷雨が上がった。
「へい皆様、ご免くだすって」
 易者が最初にこう声をかけて、軒下から往来へ出た。
「それじゃ私も」
「では拙者も」
 などと云いながら五人の者は、つづいて軒下から往来へ出た。そういう様子を少し離れた、これも軒下に佇《たたず》んで、雨宿りをしていた三十五、六歳の武士が、狙うようにして見守っていたが、
「またあいつら何かをやり出すな」
 言葉に出して呟いた。それから首を傾げるようにしたが、
「どうもそれにしてもお篠という女が、あのお方の側室《そばめ》にあがって以来、あのお方のやり方が変になられた。……どっちみちお篠に似た女の狂人《きちがい》が、こう輩出したのではやり切れない」
(よし、一つ調べてやろう)
 その日の夕方のことであったが、神田三崎町三丁目の、指物店山大の店へ、ツトはいって来た侍があった。雨宿りをしていた侍である。
「主人はいるかな、ちょっと逢いたいが」
「へい、どなた様でいらっしゃいますか?」
 店にいた小僧が恐る恐る訊いた。
「十二神《オチフルイ》貝十郎と云うものだ」
 主人の嘉助が奥から飛んで来た。
「これはこれは十二神《オチフルイ》の殿様で。……」
「ああ主人か、訊きたいことがある。この頃『ままごと』がよく出るようだが」
「へい」と嘉助は小鬢を掻いた。
「諸方様からご注文でございますので」
「どんな方々から注文があるか、ひとつそれを聞かしてくれ」
「かしこまりましてございます」
 それから主人は名を上げた。松本伊豆守から五個、赤井越前守から三個、松平|正允《まさすけ》から二個、伊井中将から一個、浜田侍従から一個。……等々であった。
「なるほど」
 と貝十郎は苦笑いをしたが、
「いずれも立派な方々からだな。……ところで松本伊豆守様からが、一番注文が多いようだが、この頃にご注文があったかな?」
「へい、一月の十五日までに、是非とも一つ納めるようにと、ご用人の三浦作右衛門様から。……」
「一月の十五日、ふうんそうか」
 尚二つ三つ訊ねてから、貝十郎は山大を出た。

        

(どうにも今は変な時世だ。物を贈るにも流行がある。以前には岩石菖が流行《はや》ったっけ)
 以前に田沼主殿頭が、病床に伏したことがあった。病気見舞いのある大名が、主殿頭の家臣に訊ねた。
「この頃は田沼主殿頭殿には、何をご愛玩でございますかな?」と。
「岩石菖をご愛玩でございます」
 するとそれから二、三日が間に、岩石菖の贈物が、大きい座敷二つを埋めて、田沼家へ到来したそうである。
(ところが今では『ままごと』だ。……われもわれもと『ままごと』を贈る)
 貝十郎は歩きながら、苦笑せざるを得なかった。
(これも仕方がないのだろう、贈賄《わいろ》という風習はな。……長崎奉行が二千両、御目附が一千両と、相場さえ立っているのだからな。……贈った方が得なんだからな。……贈賄をする。役にありつく。今度は自分が収賄をする。贈賄の額よりも十倍も百倍も、多額のものを収賄する。……贈った方が得なんだからな。……それにさ世間のそうした風習に、一人逆らって超然としていると、旧弊というので仲間っ外れにされる。そのあげくに迫害される。そればかりかそのあげくには、あいつばかりがこんな時世に、廉潔を保っているなんて、途方もない売名家だ。逆行して名を売ろうとしているのだ。あいつこそ本当は悪党だと悪党から悪党視されることになる。……だからさ時には岩石菖だの『ままごと』をお贈りした方がよろしい。……もっとも俺には出来ないがな。……出来ない俺には別の処世法がある、踏晦《ふみさら》して遊蕩に耽けることさ。……どれ水茶屋へでも出かけて行こう)
 こうして貝十郎は浅草まで来た。
 江戸一番の盛り場で、四季に人出が多かった。「あづま」という水茶屋があって、そこの前まで歩いて来た時、五十年輩の侍が、暖簾《のれん》を刎ねて出るのが見られた。顔にあばた[#「あばた」に傍点]があって下品であったが、衣裳や腰の物は高価の物ずくめで、裕福の身分を思わせた。
(おやあれは三浦作右衛門だ)
 貝十郎はニヤリとした。
(松本殿の用人の、ああいう人までが水茶屋女に、興味を持つようになったのかな。……ああでもないと四畳半! その四畳半趣味に飽きると、こうでもないと水茶屋の牀几へ、腰を下ろすようなことになる)
 こんなことを思いながら、貝十郎は見送った。と、その時、「あづま」の門へ、姿を現わした女があった。へへり頤、二重瞼、富士額、豊かな頬、肉厚の高い鼻。……そういう顔をした女であって、肉感的の存在であったが、心はそれと反対なのであろう。全体はかえって精神的であった。
(ここの娘のお品だな、相いも変らず美しいものだ)
 貝十郎はそう思ったが、
(待てよ! ふうん、お品の顔!)
 で、何やら考え込んだ。そういう貝十郎が見ているとも知らず、お品は何んとなく愁わしそうな様子で、暮れて行く空を仰いでいたが、にわかに活々《いきいき》と眼を躍らせた。
 向こうから一人の若侍が、お品に向かって笑いかけながら、足を早めて来たからであった。貝十郎は若侍を見た。それからお品の顔を見た。
(そうか)
 と思いあたったような様子であった。
(新八郎氏がお品に通う! これはありそうなことだわい)
 その若侍とお品とが、もつれるような姿をして、暖簾の奥へ引っ込んだのを見すてて、貝十郎は歩き出した。
 思案に耽っている様子であった。冷雨の降った後である。盛り場も今日は比較的に寂しく、それに夕暮れになっていたので、家々では店を片付け出していた。
 しかし一所《ひとところ》に大|公孫樹《いちょう》があって、そこだけには人が集まっていた。居合抜きの香具師《やし》の薬売りで、この盛り場の名物になっている、藤兵衛という皮肉な男が、口上を述べているからであった。
 この藤兵衛には特技があった。彼のお喋舌《しゃべ》りを聞こうとして、集まって来る人達の中に、知名の人や名士がいると、早速その人の名を揚げて、その人の癖や特色を、揶揄《やゆ》したり褒めたりすることであった。
「大変なお方がお立ち寄りになった。これは大和屋文魚様で! 蔵前の札差し、十八大通のお一人! 河東節の名人、文魚本多の創始者、豪勢なお方でございますよ。が、その割に花魁《おいらん》にはもて[#「もて」に傍点]ず、そこでかえって稼業は繁昌、夫婦別れもないという次第! 結構至極ではありますが、私の薬をお飲みになったら、もて[#「もて」に傍点]ないお方ももて[#「もて」に傍点]ようというもの! それ精力が増しますのでな。……これはこれは平賀源内様で、ようこそお立ち寄りくださいました。が、どうして平賀様には、奥様をお貰いなさいませんので。それにさいったい平賀様には、何が本職でございますかな? 本草学者か発明家か、それとも山師か蘭学者か? お医者衆なのでございますかな。……」
 ――などと云うような類であった。
 今も彼は十五、六人の、暇そうな見物に取り巻かれ、気忙《きぜわ》しそうに喋舌っていた。
「近来|流行《はや》る『ままごと』の中へ、この売薬を一袋、どうでも入れなければ嘘でござんす! 名に負う蘭人の甲必丹《キャピタン》から、お上へ献上なされようとして、わざわざ長崎の港から、江戸まで持って参った薬で! 人参などは愚かのこと、四目屋の薬など愚かのことで! 利きます利きます非常に利きます! 一粒飲めば胸もとが躍る、二粒飲めばこめかみ[#「こめかみ」に傍点]に汗、三粒飲めばワクワクする。四粒五粒と飲んで行くうちに、悉皆《しっかい》我慢が出来なくなる。さて一袋飲んだとする、この世がかの世か、かの世がこの世か、見境いのないことになり、うっちゃって置けば鼻血が出る。捨てっ放なしにして置けば、……もうこの後は云われない。……やッ」
 とにわかに藤兵衛は云って、一方へ眼を走らせた。それからまたも喋舌り出した。
「ご大層もない人がお立ち寄りなされた! この節世上にお噂の高い『館林様』がお立ち寄りなされた! 深編笠、無紋のお羽織、紫柄のお腰の物、黙って道を歩かれても、威厳で人が左右へ除ける! お供はいつもお一人で……おやいけない、行っておしまいなさる!」
「館林様? ふうん、そうか」
 公孫樹《いちょう》の蔭に佇んでいた、十二神《オチフルイ》貝十郎は呟きながら、右手の方へ眼をやった。
 いかさま深い編笠を冠り、黒の衣裳に無紋の羽織、紫の紐で柄を巻いたきゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]な大小を穏かに差し、袴なしの着流しで、塗り下駄を穿いた二十八、九歳の、貴人のように威厳のある武士が三十五、六の大兵の武士を、後に従えて人の群から離れ、町の方へ静かに歩きつつあった。
(こういう俗悪の世になると、ああいう神聖な人物も出る。反動的とでも云うのだろう)
 貝十郎はこう思いながら、雀色になった夕暮れの中に、消え込んで行くその人の姿を、尊いもののように見送ったが、やがて藤兵衛へ近寄って云った。
「これ、薬を一袋くれ」
 買った薬を懐中し、貝十郎は歩き出した。
(お篠という女が側室《そばめ》に上がった。……お篠という女に似た女が、盛んに変な狂人《きちがい》になる。……『ままごと』という変わった道具。……松本伊豆守が頻《しき》りに使う、……お品という娘がお篠に似ている。……松本伊豆守の用人がお品の店へ出入りをする。……一月十五日に『ままごと』が、伊豆守の邸へ届けられる。……新八郎氏がお品の情人《いろ》。……藤兵衛の売っていたこの薬? ……玄伯老にでも訊ねてみよう)
 蘭医杉田玄伯の家へ、貝十郎がはいって行ったのは、初夜を過ごした頃であった。

        

 こういうことがあってから、幾日か経ったある日のこと、お品の家で、お品と新八郎とが、しめやかな声で話していた。
「お品、私はお前をいとしく[#「いとしく」に傍点]思うよ。お前一人だけを。……お前も私をいとしく[#「いとしく」に傍点]思ってくれるだろうね。裏切りはしまいね。この私を。……私は女に裏切られた男だ」
 新八郎はこういうように云って、自分の前へつつましく坐り、うなだれているお品の額へ、そのきゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]な手をやった。ほつれている髪を上げてやったのである。お品は頷《うなず》くばかりであった。
(妾《わたし》もほんとにこのお方が好きだ。何の妾が裏切ろう。妾は決して裏切りはしない。でも、ある強い外界からの力が、妾を裏切らせようとしている)
 お品にはこれが苦しかった。どう云って返辞をしてよいか? それも解らなかった。頷くばかりで黙っている理由《わけ》はこれであった。
 ふとお品は新八郎へ訊いた。
「お勘定奉行の松本伊豆守様とおっしゃいますお方は、どういうお方なのでございましょう」
「厭な奴らしい」
 新八郎は吐き出すように云った。
「賄賂取りの名人だ。自分でも随分賄賂を使う。田沼侯へ贈賄して、あれまでの位置になった奴だ。……だがそれがどうかしたかな」
「はい。……いいえ」
 と曖昧《あいまい》に云った。そう曖昧に云って置いて、お品は愁然とした。
「そのお方のご用人だとかいうお方が……」
「お前を見初めたとでも云うのかな?」
「でも妾はどうありましょうとも。……」
「…………」
 この日の午後は晴れていて、この家の裏庭に向いている障子へ、木の枝の影などが映っていた。

 その同じ新八郎が、ある夜|往来《みち》で声をかけられた。
「お気の毒なお身の上でございますのね。でも、あの娘ごの罪ではございません。さりとて、松本伊豆守様の罪ばかりとも申されません。元兇は他にあります。……×××町を通り、△△町を過ぎ、□□町を行き抜け、○○町まで行き、そこで認めた異形の人数をどこまでもつけ[#「つけ」に傍点]ていらっしゃいまし。自ずとわかるでございましょう」
 それは女の声であった。
(おや?)
 と新八郎は驚きながら、声の来た方へ眼をやった。お高祖頭巾を冠っている。上身長《うわぜい》があって肥えている。そう云う女が土塀に添って、一人で立っている姿が見えた。
 新八郎は不思議そうに訊いた。
「あなたはどなたでございますか?」
 しかし女は答えなかった。
「お品のことについて云っておられますので?」
「はい。……そうしてもう一人の、お気の毒な女の方についても」
「ああそれではお篠のことについて?」
 すると女は頷いて見せた。
「妾をお信じなさりませ。云う通りに実行なさりませ」
(何んと云う眼だ! 何んと云う声だ!)
 新八郎はそう思った。
 お高祖頭巾の奥の方から、彼を見詰めている彼女の眼が、男のような眼だからであった。声にも著しい特色があった。男の声のように強かった。
(お品のことを知っている。お篠のことを知っている。この女はいったい何者なのであろう?)
(こんな所にこんな晩に、女一人で供も連れず、何んと思って立っているのか?)
(俺に云いかけたこの女の言葉! 親切なのか不親切なのか)
 新八郎は疑惑を感じながら、立ち去ることも出来ず立っていた。

        

 朧月《おぼろづき》の深夜で、往来《ゆきき》の人はなく、犬の吠え声がずっと遠くの、露路の方から聞こえて来た。お筒持ちの小身の武士達の長屋町なので、道幅なども狭かった。
 新八郎の姓は小糸、年は二十八歳で、身分は旗本の次男であり、独身の部屋住みであった。当時少しずつ流行して来た蘭学に趣味を持ち、苦心して読みにかかっていた。平賀源内か、前野良沢かについて学ぼうか、それとも長崎へ行って、通辞に従い、単語でも覚えようかなどと、そんなことを考えてもいた。
 五百石の旗本の伜《せがれ》なので、随分裕福で、わがままであった。女も好き酒も好き、それに年齢《とし》からも来ているのであろう、猟奇的の性格の持ち主であった。戸ヶ崎熊太郎の門下であって、剣道では上手の域に達してもいた。
 毎年長崎から甲必丹《キャピタン》蘭人が通辞と一緒に江戸へ来て、将軍家に拝謁した。その逗留所を客室と云い、その客室では蘭人が携さえて来た舶来品を並べて諸人に見せた。天気験器《ウェールガラス》、寒暖験器《テルモメートル》、震雷験器《ドンドルガラス》、暗室写真鏡《ドンクルカームル》、等々――そんなものが陳列された。杉田玄伯だの桂川甫周だの、中川淳庵だのがよく見に行った。で、新八郎も見に行った。そうして誰にも負けず好奇心を募《つの》らせた。
 欧羅巴《ヨーロッパ》における拷問器具――姦通をした女に冠せたという、「驢馬仮面」と十字軍の戦士連が出征に際して、その妻妾の貞操を保護するために、その妻妾連の局部へまとわせたという鉄製の「貞操帯」を見た時変な気がした。狂人のような好奇心に猟り立てられたのである。
「こういう種類の品物、まだまだありましょうな?」
 と大通辞の吉雄幸左衛門へ訊いた。
「さよう、沢山あります。そうして江戸へも持って来ました。がそれはご懇望によりある方面の貴顕へ献じました」
 こう幸左衛門は答えた。
(是非見たいものだ)
 新八郎はこう思ったが、誰に献じたのか解らなかったので、その人を尋ねて見ることは出来なかった。しかし彼は訊いて見た。
「どなたへご献上なさいましたので?」
「甲必丹《キャピタン》カランス殿にお訊きなされ」
 こう云って幸左衛門は笑って取り合わなかった。甲必丹には容易に逢うことが出来ず、出来ても言葉が解らず話すことが出来なかったので、新八郎の希望《のぞみ》はとげられそうもなかった。
(惨忍ではあるが何んと誘惑的の器具なのだろう? 是非見たいものだ)
 新八郎はそう思った。
 今もそのことを思いながら歩いているのである。それにしても何故彼はそうした器具に興味を持ったのであろう? 彼の愛人であったお篠という女が彼を裏切って、ある幕府の権臣の妾になったことが原因であった。
(是非あの女に逢って見たい、逢ってああいう器具を使用させて見たい)
 これが希望《のぞみ》なのであった。その女は町医者千賀道有の娘で、随分美しい女であった。二年の間|睦《むつ》み合い、相当の武士の養女として、そこから嫁として新八郎のもとへ来ることに話がきまってさえいた。
 ところが不意に女はいなくなった。
 で、新八郎は道有を責めて、女をどこへやったかと訊ねた。
「あるお方の側室《そばめ》に差し上げました。しかし、その方の何方であるかは申し上げられません。また、申し上げたとしても、貴所にはどうもなりますまい。御大老伊井中将直幸様さえ頭の上がらないお方なのですから」
 これが道有の返辞であった。
 女の行った先が、素晴らしい権臣であることだけは間もなく証明された。町医者であった道有が、その後恐ろしいような出世をしたのであるから。すなわち侍医法眼となり、浜町に二千坪の屋敷を持つようになったのであるから。
 お篠がそういうようになって以来、新八郎は楽しまなかった。しかるに間もなく水茶屋の娘でお品という女が、お篠と顔立ちが似ているところから、新八郎の心を引くこととなり、新八郎はお品と睦んだ。がどうだろうそのお品も、二、三日前に松本伊豆守へ、用人の手から引き上げられてしまった。小間使いという名義の下に、どうやら妾にされたようであった。
 お篠は派手な性質で、贅沢することが出来るのだったら、自分から進んで貴顕権門の、妾になるような女であった。
 しかしお品の方はそうではなかった。こまやか[#「こまやか」に傍点]なつつましい情緒を持ち、ささやかな欲望に満足し、愛する男を一本気に愛する。――そう云ったような性質の女であった。
 でお篠が自分を見捨てて権門の妾になったという、そういうことを知った時、新八郎は憎悪を感じた。
 しかしお品が同じ身の上になったと、お品の母親によって聞かされた時、新八郎は可哀そうなと思った。が、どっちみち新八郎の心は、慰めのないものとなったのである。
 そういう新八郎の眼の前に、お高祖頭巾を冠った女が、今忽然と現われて、謎めいた言葉をかけたのである。
(この女は何者なのであろう? ……どうして俺の身の上や、お品やお篠の身の上について、見通しのようなことを云うのであろう?)
 疑惑を持たざるを得なかった。
(もう少し突っ込んで訊いて見よう)
 こう新八郎は思い付いて、その女の方へ近寄ろうとした。
 と、その女は歩き出した。
「ご婦人」
 と新八郎は声をかけた。しかしその時にはもうその女は、そこの横手に延びている小広い横丁へはいっていた。
「しばらく」
 と新八郎も横丁へはいった。が、すぐに「おや」と云った。女が四人の男達に、前後を守られていたからである。
(そうか)
 と新八郎はすぐに思った。
(女は一人ではなかったのだ。以前《まえ》から男達があそこにいて、あの女を警護していたのだ)
(いよいよ不思議な女ではある)

        

 女の一団は歩き出した。
(さてこれからどうしたものだ?)
 このまま自分の家へ帰るか、それとも女の言葉に従い、×××町などを通り過ぎて、○○町まで歩いて行って、そこで逢うことになっている、異形の人数に逢ってみようか? ――新八郎はちょっと迷った。
(いやいやそれよりあの女の素姓と、住居《すまい》とを突き止める[#「突き止める」は底本では「突め止める」]ことにしよう)
 新八郎の好奇心は、女の方へ向かって行った。で、先へ行く女の一団を、新八郎はつけ[#「つけ」に傍点]て行った。
(おや)
 としばらく歩いた時に、新八郎は呟いた。×××町へ出ていたからであり、そうして女の一団が、○○町の方へ行くからであった。
(女が俺を案内して○○町まで行くのかもしれない)
 新八郎の好奇心は、このためにかえって倍加された。で、後をつけて行った。
 こうしてとうとう○○町まで来た。するとそこで新八郎は、次々に変わった出来事と、そうして変わった人物とに逢った。
 行く手に宏壮な屋敷があって、甍《いらか》を月光に光らせていたが、その屋敷の門の前まで行くと、例の女の一団が、にわかに揃って足を止め、内の様子を窺うようにした。が、急に引っ返し、その屋敷の横手に出来ている、露路の中へはいってしまった。
(いったいどうしたというのだろう)
 新八郎は不思議に思って、その屋敷の方へ小走ろうとした。しかし彼は足を止めて、あべこべに物の蔭へ隠れた。
 その屋敷の門が開いて、異様の行列が出たからである。二人の侍が最初に出、つづいて四人の侍が出た。その四人の侍が、長方形の箱を担《かつ》いでいる。と、その後から二人の侍が、一挺の厳《いか》めしい駕籠に付き添い、警護するように現われた。
 これだけでは異様とは云えまい。
 しかるにその後から蒔絵を施した、善美を尽くしたお勝手|箪笥《だんす》が、これも四人の武士に担がれ、門から外へ出たのである。
 異様な行列と云わざるを得まい。がもし新八郎が近寄って行って、先に出た長方形の箱を見たなら、一層に異様に思ったことであろう。
 その箱が桐で出来ていて、金水引きがかかっていて、巨大な熨斗《のし》が張りつけられてあり、献上という文字が書かれてあるのであるから。
 行列は無言で進んで行った。
 半町あまりも行き過ぎたであろうか、その時露路に隠れていた、例の一団が、往来へ姿を現わして、その行列をつけ[#「つけ」に傍点]出した。
 しかし行列の人達に、目付けられるのを憚るかのように、家々が月光を遮って、陰をなしているそういう陰を選んで、きわめてひそやかにつけ[#「つけ」に傍点]て行った。
 新八郎の好奇心は、いよいよたかぶら[#「たかぶら」に傍点]ざるを得なかった。でこれも後をつけた。例の屋敷の前まで行った時、それが松本伊豆守の別邸であることに感付いた。
「ふうん」
 と何がなしに新八郎は呻いた。不安と憎悪と敵愾心《てきがいしん》とが、ひとつ[#「ひとつ」に傍点]になったものを感じたからである。
(駕籠の中に伊豆守はいるのかな? 箱の中には何があるのか? そうしてあの箪笥の中には?)
(こんな深夜にどこへ行くのか?)
 疑惑が疑惑を次々に生んだ。と、その時新八郎は、背後から含み声で声をかけられた。
「小糸氏、お遊びのお帰りかな」
 驚いて新八郎は振り返って見た。三人の武士が背後にいる。

        

 一人は彼と顔見知りの、十二神《オチフルイ》貝十郎という与力であり、後の二人は知らなかったが、どうやら風俗や態度から見て、貝十郎の輩下にあたる、同心のように思われる。
「や、これは十二神《オチフルイ》氏か」
 新八郎はテレたように云った。声をかけたのは貝十郎であった。
「遊ぶもよろしいが程々になされ」貝十郎は愉快そうに云った。「随分お噂が高うござるぞ。何んにしてもこのような寒い季節に、ブラリブラリとこのような深夜に、お歩きなさるのは考えもので。第一あのような変な物に逢います。『ままごと』や『献上箱』というような物に。……まあ、これもご時世とあればああいうものの跋扈《ばっこ》するのも、仕方ないとは云われましょうがな。全く変なご時世でござる。流行《はやり》唄などにもうたわれております。
『よにあうは、道楽者に驕《おご》り者、転び芸者に山師運上』
『世の中は、諸事ごもっともありがたい、ご前、ご機嫌、さて恐れ入る』
『世の中は、ご無事、ご堅固、致し候、つくばいように拙者その元』
『世にあおう、武芸学門、ご番衆、ただ奉公に律義なる人』……アッハッハッ、変なご時世で。……いや拙者などはその一人で、世にあわぬ者のその一人で、そこで拙者も歌を作ってござる。
『世にあわぬ、与力同心門の犬、権門衆の賄賂番人』……とは云えこれも考えようで、面白いと見れば面白うござる。
『滄浪の水清まばもって吾が纓《えい》を濯《あら》うべく、滄浪の水濁らばもって吾が足を濯《あら》うべし』……融通|無碍《むげ》になりさえすれば、物事かえって面白うござる」
(それ始まったぞ、始まったぞ)
 新八郎は苦笑と共に、こう思わざるを得なかった。
(お喋舌り貝十郎が始まったぞ)
 後世までも十二神《オチフルイ》貝十郎は、宝暦から明和安永へかけての名与力として謳《うた》われて、曲淵甲斐守や依田和泉守や牧野大隅守というような、高名の幾人かの町奉行から「部下」として力にされたばかりでなく「賓客」ないしは「友人」として尊敬されたほどであった。それに彼は学者であった、とは云え天保年間の、大塩中斎というような、ああいう厳《いか》めしい陽明学者ではなく、いうところの軟文学者――いうところの俗学者であった。でその方面の友人には、蜀山人だの宿屋飯盛だの、山東京伝だの式亭三馬だのそう云ったような人達があり、また当時の十八大通、大口屋暁翁だの大和屋文魚だの桂川甫周だのというような、そういう人達とも交際があった。
 後世田沼主殿頭が、まことにみじめに失脚した時、それを諷した阿呆陀羅経が作られ、一時人口に膾炙《かいしゃ》したが、それを作ったのが貝十郎であると、当時ひそかに噂された。
 ※[#歌記号、1-3-28]そもそもわっちが在所は、遠州相良の城にて、七ツ星から、軽薄ばかりで、御側へつん出て、御用をきくやら、老中に成るやら、それから聞きねえ、大名役人役人役替えさせやす。なんのかのとて、いろいろ名をつけ、むしょうに家中の者まで、分限になりやす。あんまりわっちも嬉しまぎれに、とてものついでに、大老なんぞと、これからそろそろむほんと出かけて、出入りの按摩を取り立て、お医者とこしらえ、玉川上水、印旛の新田、吉野の金掘り、む性に上納、御益のおための、なんのかのとて、さまざま名をつけ、おごってみたれば、天の憎しみ、今こそ現われ、てんてこ舞いやら。ヤレまたまたむすこは切られて、孫はくわるる。印旛の水から、関東へ押し出し、新田どころか、五年が間は、皆無になりやす。やれやれ、それから取り立て医者めが、薬が異って、因果とわっちが落度となりやす。御役ははなれて女の老中に、めったに叱られ、これまでいろいろ瞞《だま》して取ったる五万七千、名ばかり名ばかり、七十づらして、こんなつまらぬことこそあるまい。ほんとに今年は、天時つきたる。悲しいことだにほういほうい。
 ――これが彼の作った阿呆陀羅経なのである。辛辣、諷刺、事情通、縦横の文藻、嘲世的態度、とうてい掻《か》い撫《な》での市井人が、いいかげんに作ったものでないことは、おおよそ見当がつくことと思う。殊に一代の名臣ではあったが、その消極的政策と緊縮、節約主義とによって、浮世を暮らしにくく窮屈にした、白河楽翁|事《こと》松平越中守を「女の老中」と喝破したあたりは、彼でなければ出来なかったことで、そうしてこういう点から推して、彼がこの時代の反抗児であり、不平児であったということが、充分推察することが出来る。事実彼はそういう人物であった。そのため彼は後年において、幕府の有司から睨まれて、お役ご免になったばかりでなく、かなり身上を迫害された。そこで彼は江戸を去り、京都西山に閑居したが、所司代から圧迫されたので、名古屋へ移って住むことになったが、武士であっては都合が悪いと云うので、とうとう大小をすててしまい、大須観音の盛り場の――今日いうところの門前町へ、袋物の店を出し、商人として世を終った。
(その屋号を『かみ屋』と云い、今日も子孫が残っていて、同じ門前町に営業している)
 彼が与力であった頃の、風俗というのが粋で渋く、次のようなものだったということである。
 額は三分ほど抜き上げ、刷毛先細い本多髷、羽織は長く、紐は黒竹打ち、小袖は無垢《むく》で袖口は細い、ゆき[#「ゆき」に傍点]も長く紋は細輪、そうして襦袢は五分長のこと、下着は白糸まじりの黒八丈、中着は新形の小紋類、そうして下駄は黒塗りの足駄、大小は極上の鮫鞘《さめざや》で、柄に少し穢《よご》れめをつける、はな紙は利久であった。こういう風俗で十八大通や、蜀山人などと連れ立って、吉原などへ行ったものらしい。
「饒舌《じょうぜつ》にしてわずらわし」――彼についてこう云われている。
「油坊主」「蝉時雨《せみしぐれ》」――などというような綽名《あだな》さえ、彼にはあったということであるが、しかし彼の饒舌《じょうぜつ》は、もちろん天性にもあったろうけれども職掌からも来ているらしかった。と云うのはノベツに能弁に、不得要領のことや洒落《しゃれ》や皮肉や、警句などを連発している間に、容疑者の態度や顔色や、心理の変化を観察したからで、この饒舌が著しく、職業に役立ったということである。
 貝十郎がそのお喋舌りを、新八郎に向かってやり出したのである。
(それ始まったぞ始まったぞ)と、新八郎が苦笑したのは、当然なことと云わざるを得まい。
「とはいえ今日は一月の十五日、貴殿がここへおいでなされて、あの異様な行列をつけて行かれるのは当然とも云えます。が、拙者は、不思議なので。どうしてああいう行列が、今夜あのように練って行くか、お知りなされたかが、不思議なので。探ってお知りなされたかな? それとも恋の念力から……」
 貝十郎は云いつづけて来たが、その間も新八郎の顔を見たり、新八郎の顔を無視し、行列を眼で追ったりした。
 が、俄然として貝十郎は叫んだ。
「ソレ、方々! おやりなされ!」
 同時に喚く声や叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]する声や、太刀打ちの音が行く手から起こり、新八郎の横手を擦り抜け、二人の同心が矢のように、走って行くのが見てとれた。
「新八郎氏、ついて[#「ついて」に傍点]ござれ」
 こう云った時には貝十郎も、行列の方へ走っていた。
 つづいて走り出した新八郎の眼には、朧月の下の往来で、例の女の一団と、例の行列の人数とが、切り合っている姿が見えた。

        

 新八郎の行きつかない前に、これだけの事件が起こっていた。
 まず女の一団が、にわかに刀を抜き揃え、行列の人数へ切り込むや、お勝手箪笥を担いでいた侍と、献上箱を担いでいた侍とが、お勝手箪笥や献上箱を捨てて、これも刀を抜き揃えて、女の一団と切り結んだ。
 しかし女の一団の、鋭い太刀風に切り立てられ、二、三間後へ退いた。と、見てとった女の一団は、侍達を追おうとはしないで、お勝手箪笥と献上箱とを、六人で担いで側に延びていた、横町の中へ走り込んだ。が、しかし侍達も、うっちゃって置こうとはしなかった。同じ横町へ走り込んだ。そうして取り返した二種の品物を、本通りへ持って来た。
 と、女の一団達は、横町から走り出て来て、侍達へ切ってかかった。こうして乱闘が行われた。
 新八郎は走って行った。しかし新八郎が行きついた時には、行列の人数と女の一団とは、別々の道を辿っていた。新八郎の行きつく少し前に、側の露路から二人の侍が現われ、その中の一人が鋭い声で、例の女の一団に向かい、叱りつけるように声をかけると、女の一団は驚いたように、行列の人数に切ってかかるのを止め、例の横町の方角へ逃げ、行列の人数はそれを幸いに、行列を急がせて先へ進んだからである。
 ところが十二神《オチフルイ》貝十郎であるが、その頃その場へ駈けつけていたが、そう声をかけた侍の姿を見ると、一緒に走っていた二人の同心へ、
「よし! 止めろ! 手を出すな!」
 と叫び、これも例の横町の中へ、同心と一緒に走り込んだ。
 がしかし新八郎が貝十郎の後から、貝十郎の後をつけて行ったなら、
「やあこれはどうしたのだ※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 献上箱と『ままごと』とを、向こうへも担いで行く者がある! ご両所、あれを……」
 とこう云ってから、二人の同心へ小さい声で何やら囁いたことを見聞きしたことであろう。しかし後からつけて行かなかった、小糸新八郎にはそのようなことを、見聞きすることは出来なかった。その後はどうなったか?
 行列の人数がずっと先を、今は安心したものと見えて、ゆっくりした足どりで歩いて行き、その後から二人の侍が行き――その一人は声をかけた侍であり、もう一人はその侍の家来らしかったが――その後から小糸新八郎が、疑惑の解けない心持ちで、歩いて行くという結果になった。
 次から次と起こって来る変わった事件に、新八郎の心は、解けない疑惑に充たされていたが、それよりも眼前を歩いて行く、二人の侍の中の一人――声をかけた侍に引きつけられていた。深編笠、無紋の羽織、袴なしの着流しで、きゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]な大小を穏かに差し、塗り下駄を穿いた二十八、九歳の侍で、貴人のような威厳があった。それは評判の「館林様」であった。
 ところで新八郎はその人の評判を、以前から聞いてはいたけれど、姿を見たことは一度もなかった。で、今、館林様が歩いていても、そうだということは知らなかった。
(一言二言鋭い口調で、叱るように何か云ったかと思うと、争闘をしていた二組の者や、有名な十二神《オチフルイ》氏というような人まで、その言葉に驚いて逃げてしまった。よほど偉大なる人物でなければならない)
 いったいどういう人物なのであろう? この疑問が新八郎をして、その人の後をつけさせることにした。
「殿」とその時家来らしい侍が、館林様へそういうように云った。「お止めにならなかった方がよろしゅうございましたのに」
「いや」と館林様はすぐに云った。「もうあれ[#「あれ」に傍点]はあれでよかったのだ」
「ははあさようでございましたか」
「伊豆は第二の人物で、やっつける必要はないのだからな」
「それはさようでございましょうとも」
「元兇の方をかたづけなければ嘘だ」
「それはさようでございましょうとも」

        

「私のお父上のご生存中は、田沼という男も今日のように、ああも僣上《せんじょう》な真似はしなかった」
「それはさようでございましょうとも。殿のお父上右近将監様は、御老中におわすこと三十八年、その間にご加増をお受け遊ばしたこと、わずか六千石でございました。いかにご忠正でご謙謹で、お身をお守り遊ばすことが、お固すぎるほどお固うございましたことか」
「将軍家《うえさま》が田沼をご寵愛のあまり、度々ご加増遊ばされたが、ある時のご加増に田沼は憚《はばか》り、私のお父上に意見を訊いたそうだ。するとお父上は云われたそうだ。『そなたの秩《ちつ》はまだ五万石以下だ。五万石まではよろしかろう。と云うのは徳廟『吉宗』公様が、秩五万に充たざる者は、積労によって増すべきであると、こう仰せ遊ばされたからだ。……今、将軍家《うえさま》よりの命があって、そなたがご辞退致したとあれば、一つには将軍家へ不恭となり、二つには将軍家の過贈の非を、世間へ知らせることになる。だからご加増は受けるがよろしい』と。……その時田沼は感激して、涙を流したということだ。……それだのに私のお父上が、この世を辞してからというものは、千|恣《し》百|怠《たい》沙汰の限りの態だ。売官売勲利権漁り、利慾を喰わしては党を作り、威嚇を行っては異党を攻め、自己を非議する識者や学徒の、言説を封じ刊行物を禁じ、美女を蓄わえて己《おのれ》楽しみ、美女を進めて将軍家を眩まし、奢侈《しゃし》と軟弱と贈収賄と、好色の風潮ばかりを瀰漫《びまん》させておる。……老中、若年寄、大目附、内閣は組織されていても、田沼一人に掣肘《せいちゅう》されて、政治の実は行われていない。……こういう時世には私のような男が、一人ぐらい出る必要がある。お父上が老練と家柄と、穏健と徳望とを基にして、老中筆頭という高官にあって、田沼の横暴を抑えたのを、私は年若と無位無官と、過激と権謀術数と、ある意味における暴力とを基とし、表面には立たず裏面にいて田沼の横暴を膺懲《ようちょう》するのだ。……私のような人間も必要だ」
「必要の段ではございません。大いに必要でございます。でありますから世間では、殿様のことをいつとはなしに『館林様』とこのように申して、恐ろしい、神のような、救世主のような、そういう人物に空想し、尊び敬い懐しんでおります。……がしかし殿にはどう遊ばしましますので? これからどこへいらせられますので?」
「もう用事は済んだのだ。……証拠を捉えようと企んだ仕事が、今、成功したのだからな。で家へ帰ってもいいのだ。がしかし私は笑ってやりたい。で、もう少し行くことにしよう」
「あの行列の後をつけて?」
「そう、行列の後をつけて。そうしてその上であの行列が、あそこの門を何も知らずに、得意気にくぐってはいるのを見て、大声で笑ってやりたいのだ」
「殿らしいご趣味でございます」
「趣味といえばどうにも六人男の連中、あくど[#「あくど」に傍点]過ぎて少しく困る」
「根が不頼漢でございますから」
「云い換えると好人物だからさ」
「無頼漢が好人物で?」
「こんな時世に命を惜しまず、感激をもって事を行う! 気の毒なほどの好人物だよ。……仕事を成功させてからも、伊豆守を討って取ろうとして、横町から本通りへ引っ返して来て、再度の切り込みをしたことなどは、好人物の手本だよ」
「仕事と仰せられ、成功と仰せられる、どのような仕事なのでございますか?」
「家へ帰ってから話してあげよう」
(ふうん、あのお方が『館林様』なのか? 館林様のご本体は、では甲斐の国館林の領主、松平右近将監武元卿――従四位下ノ侍従六万千石の主、遠い将軍家のご連枝の一人、三十八年間も執政をなされた、その右近将監武元卿の公達、妾腹のご次男でおわすところから、本家へはいらず無位無官をもって任じ、遊侠の徒と交わられ、本家では鼻つまみ[#「つまみ」に傍点]だと云われている。松平冬次郎様であられたのか)
 後からつけながら二人の話を、洩れ聞いた小糸新八郎は、そう知って驚かざるを得なかった。
(そういう人物でおわすなら、たった一言二言で、あれだけの争闘をお止めなされた筈だ)
 松平冬次郎の事蹟については、今日相当に知られている。すなわち天明八年の頃、上州武州の百姓が、三千人あまり集まって、五十三ヵ村を鳩合《きゅうごう》して、絹糸改役所という、運上取り立ての悪施政所の、撤廃一揆を起こした事があったが、裏面にあって指揮をした者が、この松平冬次郎であった。明和元年十一月の末に、上州、武州、秩父、熊谷等の、これも百姓数千人が、日光東照宮法会のため、一村について六両二分ずつの、臨時税を課するという誅求《ちゅうきゅう》を怒って、数ヵ月にわたって暴動を起こしたが、この時の蔭の主謀者も、松平冬次郎その人であった。天明七年五月に起こり、関西から関東に波及して、天下の人心を騒がせた、米騒動ぶちこわし[#「ぶちこわし」に傍点]事件! その事件の主謀者も、彼であったということである。
 ところで田沼時代には、天変地妖引きつづいて起こった。その一つは本郷の丸山から出て、長さ六里、広さ二里、江戸の大半を焼き払った火事、その二は浅間山の大爆発、その三は東海道、九州、奥羽に、連発した旱《ひでり》や大暴風雨や洪水、数万の人民はそれがために死に饑《う》え苦しみ流離したが、そういう場合に施米をしたり、人心を鼓舞したり富豪を説いたりして、特別の救助をさせた者があったが、彼であったということである。
 で、一種風変わりの社会政策実行者としては、この、松平冬次郎は、日本裏面史の大立て者なのであった。
 そういう松平冬次郎の「館林様」が供の侍を連れて、今歩いて行くのである。以前にも増して小糸新八郎が、興味と尊敬とに誘われて、後をどこまでもつけて行ったのは、当然のことと云わなければなるまい。早春の深夜の朧月が、江戸の家々と往来と、木立と庭園と掘割と、掘割の船とを照らしている。

        

 ここの往来も月光を受けて、紗のような微光に化粧されている。そうして靄《もや》が立っている。
 ずっと向こうを例の行列が、その月光と靄とを分けて、ずんずん先へ進んで行く。その後から館林様と家来とが、話し合いながら進んで行く。それを新八郎はつけて行った。
 館林様の上品端正な、両の肩が月の光を浴びて、仄《ほの》かに銀のように白っぽくおぼ[#「おぼ」に傍点]めき、肩の上に山形に載っている、編笠があたかも異様に大きい、一片の花の弁のように見えた。こうして町々を通り抜けた。
 と、行く手に余りにも宏壮な、大名の下屋敷が立っていた。
 そこの裏門まで行った時である。例の行列が開いた扉から、呑まれるように吸い込まれた。で、後は静かとなって、人の姿は見られなかった。しかしその時その門の前で、大きく笑う笑声がした。
 見れば館林様とその家来とが、門の前に立っていた。が、やがて引っ返して来た。そうして木蔭に身を隠していた、新八郎の横手を抜けて、元来た方へ帰って行った。
(稲荷堀の田沼侯の屋敷の前で、館林様には大笑なされた。あのお方の目的はとげられたという訳さ。……何故笑ったか知らないが、笑っただけでも痛快だ)
 新八郎はこう思いながら、木蔭から姿を現わした。
(ところで俺はこれからどうしたものだ?)
 家へ帰るより仕方がなかった。
(いろいろと変わった人間に逢い、いろいろ変わった事件に逢った。無駄な一夜だったとは云われない)
 彼は満足した心持ちで、元来た方へ引っ返そうとした。しかしその時木立の蔭から、こう云う声が聞こえて来たので、引っ返すことは出来なかった。
「中へはいってごらんなされ。さよう、田沼侯のお屋敷の中へ! せめてお屋敷の庭へなりと。……貴殿がおはいりになられるようなら、拙者ご案内をいたすでござろう」
 十二神《オチフルイ》貝十郎の声であった。
「十二神《オチフルイ》氏、そこにおられたのか」新八郎はテレたように云った。「田沼侯のお屋敷へはいれと云われる、何んの必要がありましてかな?」
「『ままごと』の中に何があるか、献上箱の中に何があるか、貴殿お知りになりたくはないので?」尚も木蔭から貝十郎は云った。「貴殿の恋人お品殿が、松本伊豆守に引き上げられた。その松本伊豆守が、献上箱と『ままごと』とを仕立てて、たった今田沼侯の屋敷へはいった。二品は賄賂《まいない》の品物でござる。ところで、世上にはこう云う噂がござる。人形と称して生きた美女を献上箱の中へ入れ、好色の顕門へ納《い》れるという噂が。……」
「それでは今の献上箱の中に。……」
「お品殿がはいっておられようも知れぬ」
「行こう!」
「行かれるか?」
「屋敷の中へはいろう!」
「ご案内しましょう。おいでなされ」
 老中田沼侯の下屋敷の庭へ、外から忍んで入るというようなことは、考えにも及ばない不可能事のように、今日では想像されるけれど、あながちそうでもないのであって、鼠小僧というような賊は、田沼以上の大大名、細川侯の下屋敷の、奥方のおられる寝所へさえ、忍び込んだことさえあるのであった。
 貝十郎は風変わりの、しかも素晴らしい技倆を持った、聡明で敏捷な与力であった。田沼家の案内など、知っているのであろう。新八郎の先に立って、木立を抜けて先へ進んだが、やがて田沼家の横手へ出た。ひときわ木立が繁っていて、その繁みに沿いながら、田沼家の土塀が立っていた。
「この辺最も手薄でござる」
 こう囁《ささや》くと貝十郎は、立ち木の一本へ手をかけて、足で土塀を蹴るようにした。と、彼の姿はもうその時には、土塀の上に立っていた。そうしてその次の瞬間には、土塀から邸内へ飛び下りていた。新八郎も同じようにして、田沼家の邸内へ飛び下りた。

        

 大名の下屋敷の庭の構造《つくり》などは、大概似たようなものであって、泉水、築山、廻廊、亭《ちん》、植え込み、石灯籠、幾棟かの建物――などというようなありきたりのものを、小堀流とか遠州流とか、そういった流儀に篏めて、縦横に造ったものに過ぎないのである。
 二人の眼の先にあるものは、やはりそういうものであった。
「ともかくも向こうへ行って見ましょう」
 貝十郎は前に立って、植え込みをくぐって先へ進んだ。築山の裾を右へ廻り、泉水にかけてある石橋を渡り、綿のように白く咲いて見える満開の梅の林の横を、右手の方へ潜行した。と、正面に廻廊をもって繋《つな》いだ、主屋《おもや》と独立した建物があった。
「この建物が大変な物なので」貝十郎は指さしながら、なかば憎さげになかば嘲笑うように、
「云って見れば閨房《けいぼう》なので。同時に拷問室でもあれば、ギヤマン室までありますので。田沼侯お気に入りの平賀源内氏が、奇才を働かせて作った室の由で。四方の壁から天井から、ギヤマンの鏡で出来ているそうで。……いったい田沼という仁《じん》は、変態的の人間でしてな、秘密と公然とを一緒にしたものを、万事に好まれるということでござる。秘密であるべき賄賂というようなものを、ソレ公然とお取りになる。公然であるべき政治というようなものを、わけても人事行政などを、私的|情誼《じょうぎ》的におやりになる。……色情の方もそれと同じに、秘密にすべきを公然とするということでござる。……ええと、ところで今夜の犠牲者の中には、貴殿の恋人のお品殿が。……」
 にわかに貝十郎は黙ってしまった。殺気と云おうか、剣気と云おうか、そう云ったものを感じたからである。彼は新八郎の顔を見た。先刻から無言で終始していた新八郎は今も無言で、貝十郎の左側に立っていたが、木洩れの月光に胸と顔とを、薄い紙のように白めかしていた。顔の表情の狂気じみていることは! 二倍に見開かれた大きな眼は、その建物を見据えている。小鼻から口の側《わき》へかけて、引かれている皺《しわ》は紐のように太い! 歯を食いしばっている証拠である。
(これはいけない、喋舌りすぎたようだ。どうも挑発しすぎたようだ。何をやり出すかわからないぞ!)
 貝十郎はしまった[#「しまった」に傍点]と思った。
「新八郎氏、向こうへ行きましょう」
 なだめるように声をかけた。新八郎は動かなかった。鍔際《つばぎわ》を握った左の手が、ガタガタ顫《ふる》えているらしい。刀の鐺《こじり》が上下して見える。
「新八郎氏、向こうへ向こうへ」
 再度貝十郎が声をかけた時、飛び石づたいに歩きながら、話して来るらしい二人の侍の、話し声がこっちへ近寄って来た。主屋と離れて別棟があり、諸侍達の詰め所らしかったが、そこから小姓らしい二人の侍の、手に何やら持ちながら、二人の方へ歩いて来た。
「殺生な奴はこの道具でござる。この貞操帯という奴で」こう云いながら一人の侍は、手に持っていた長方形の木箱を、ひょいと頭上へ捧げるようにした。
「女が発狂する筈でござる」
「この驢馬仮面に至っては、いっそう殺生な器具でござる」もう一人の侍がそういうように云って、四角の木箱を胸の辺で揺すった。
「これでは女が発狂する筈で」
「我々の役目も厭な役目で」前の侍がさらに云った。「着けたり冠せたりしなければならない」
「お品という女、美しいそうで」
「が、明日は狂女となって、醜くなってしまいましょうよ」
 云い云い二人の小姓らしい侍は、廻廊の方へ歩いて行った。が、蘇鉄《そてつ》の大株があり、それが月光を遮《さえぎ》っている、そういう地点までやって来た時、突然ワッという声を上げ、一人の侍が地に仆れた。
「これどうなされた? 粗忽《そこつ》千万な」
 後の侍が驚きながら、仆れて動かない同僚の側へ、腰をかがめて立ち止まった。
 と、その侍もウーンと唸って、持っていた四角の木箱を落とすと、両手を宙へ伸ばしたが、そのまま仆れて動かなくなった。と、蘇鉄の株の蔭から、抜き身をひっさげた新八郎が、スルスルと現われて二人の横へ立った。
「小糸氏、お切りなされたので?」
 蘇鉄の蔭から貝十郎が訊いた。
「峯打ちに急所をひっ叩いたまででござる」云い云い新八郎は抜き身を鞘に納め、二つの木箱を地上から拾った。
「これから何んとなされるお気かな?」
 貝十郎が不安そうに訊いた。
「可哀そうなお品を助け出すつもりで」
「ギヤマン室へ忍び込んでかな?」
「場合によっては切り込んで!」

        十一

 この頃三人の男女の者が、主屋《おもや》から廻廊の方へ歩いていた。
「伊豆殿、私《わし》はこう思うので、音物《いんもつ》は政治の活力だとな」こう云ったのは六十年輩の、長身、痩躯《そうく》、童顔をした、威厳もあるが卑しさもあり、貫禄もあるが軽薄さもある、変に矛盾した風貌態度を持った、気味のよくない侍であった。主人田沼主殿頭なのである。「私はな、日々登城して、国家のために苦労いたし、一刻として安き時はござらぬ。ただ退朝して我が家へ帰った時、邸の長廊下を埋めるようにして、諸家から届けられた音物類が、おびただしく積まれてあるのを見て、はじめて心の安きを覚え、働こうという勇気が起こりましてござるよ」
「ごもっとも様に存じます」こう合槌を打ったのは、後からついて来た四十年輩の侍で、眉細く口大きく、頬骨の立った狡猾らしい顔と、頑丈な体とを持っていた。他ならぬ松本伊豆守なのである。「音物《いんもつ》はお贈りする人の心の、誠の現われでございますれば、眺めて快く受けて楽しいよろしきものにございます」
「金銀財宝というものは、人々命にも代えがたいほどに、大切にいたすものではござるが、それらの物を贈ってまでも、ご奉公いたしたいという志は、お上に忠と申すもの、褒むべき儀にございますよ」
「御意《ぎょい》、ごもっともに存じます。志の厚薄は、音物の額と比例いたすよう、考えられましてございます」
「彦根中将殿は寛濶でござって、眼ざましい物を贈ってくだされた。九尺四方もあったであろうか、そういう石の台の上へ、山家の秋景色を作ったもので、去年の中秋観月の夜に、私の所へまで届けられたが、山家の屋根は小判で葺いてあり、窓や戸ぼそ[#「ぼそ」に傍点]や、板壁などは、金銀幣をもって装おってあり、庭上の小石は豆銀であり、青茅数株をあしらった裾に、伏させてあったほうぼう[#「ほうぼう」に傍点]は、活きた慣らした本物でござったよ」
「その際私もささやかな物を、お眼にかけました筈にございます」
「覚えておる、覚えておる」主殿頭は笑いながら、いそがしそうに頷いた。「小さな青竹の籃の中へ、大鱚《おおきす》七ツか八ツを入れ、少し野菜をあしらって、それに青|柚子《ゆず》一個を附け、その柚子に小刀を突きさしたものであった」
「その小刀と申しますのが……」
「存じておる、存じておる、柄に後藤の彫刻の、萩や芒をちりばめた、稀代の名作であった筈だ」
 薄縁《うすべり》の敷かれた長廊下には、現在諸家から持ち運ばれた無数の音物が並べられてあった。屏風類、書画類、器類、織物類、太刀類、印籠類、等々の音物であった。そういう音物類を照らしているのは、二人の先に立って歩いている、女の持っている雪洞《ぼんぼり》の火であった。紅裏を取り、表は白綸子《しろりんず》、紅梅、水仙の刺繍《ぬいとり》をした打ち掛けをまとったその下から、緋縮緬《ひぢりめん》に白梅の刺繍をした裏紅絹の上着を着せ[#「着せ」は底本では「記せ」]、浅黄縮緬に雨竜の刺繍の幅広高結びの帯を見せた、眼ざめるばかりに妖艶な、二十歳ばかりの女であって、主殿頭の無二の寵妾、それはお篠の方であった。唇が蜂蜜でも塗ったように、ねばっこく艶々と濡れ光っている。紅で染めた紅い唇であって、淫蕩《いんとう》の異常さを示していた。
「さあ参ろうではございませぬか、妾と同じ顔をした、お品様がお待ちかねでございます」
 お篠の方はこう云ったが、その声には惨忍な響きがあった。

        十二

「お篠、お前には退治られたよ。お前にかかると私《わし》というものは、まるっきり私《わし》でなくなってしまう」
 主殿頭はこう云い云い、廊下をゆるやかに先へ進んだ。
「いいえそうではございません」お篠の方は遮るように云った。「妾《わたくし》と全く同一嗜好《おなじこのみ》を、殿様にはお持ちなされていて、そこへ妾が参りましたので、それがお互いに強くなって、今日に及んだのでございます」
「それにしても伊豆殿へはお礼を云ってよい。次から次とお篠に似た女を、目付けて連れて来てくださるのでな」
「お品と申す今夜の女は、わけてもお篠の方に似ておられます」松本伊豆守は得意そうに云った。「ご満足なさるでございましょう」
「ままごと[#「ままごと」に傍点]というこの遊びを、私《わし》に教えてくだされたのも伊豆殿お前様であった筈だ」
「献上箱へ活きた犠牲《にえ》を入れ、殿へ音物としてお送りしましたのも、私が最初かと存ぜられます」
「さようさようお前様だ」
「抽斗《ひきだし》を引く、皿小鉢が出る。戸棚をあける、ご馳走が出る。抽斗を引く、盃が出る。戸棚をあける、酒が出る。……蒔絵を施した美しい、お勝手箪笥のあの『ままごと』! 酒盛りをひらくにすぐ間に合う、あの『ままごと』を妾《わたし》は好きだ! 『ままごと』をひらいてお酒盛りをする! それから献上箱の蓋《ふた》をあける! と、人形のよそおいをした、初心《うぶ》の未通女《おぼこ》の女が出る。引っ張り出して酌をさせる。それから? それから? それから? それから? ……もう『ままごと』も献上箱も、運ばれている筈でございます! 早く行こうではございませんか! 行ってままごと[#「ままごと」に傍点]をいたしましょうよ!」
 うわ[#「うわ」に傍点]言のように云いながら、お篠の方は先へ進んだ。やがて三人は主屋《おもや》を抜け、ギヤマン室をつないでいる、長い廻廊へ現われた。やがて三人は見えなくなった。
 ギヤマン室へはいったのである。

        十三

「小糸氏さあさあ遠慮はいらない、ここでゆっくりお品殿と、ままごと[#「ままごと」に傍点]をしてお遊びなされ、拙者お相伴いたしましょう」
 ここは神田神保町の、十二神《オチフルイ》貝十郎の邸であった。同じ夜の明け近い一時である。献上箱の蓋があいていたが、その中は空虚になっていた。その代り献上箱の横の方に、そうして小糸新八郎の、端坐している膝の脇に、京人形のよそいをした、お品が青褪めて坐っていた。
 二人の前に貝十郎がいた。
 その貝十郎の傍には、お勝手箪笥の『ままごと』が、抽斗《ひきだし》も戸棚もあけられた姿で、灯火に映えて置かれてあった。そこから取り出された酒や馳走類が、皿や小鉢や徳利に入れられて、三人の前に置かれてあった。
「実は松本伊豆守殿が、今日、一月十五日までに『ままごと』を一個納めるようにと、指物店山大へ命じたということと、お品殿が田沼侯の側室《そばめ》にあたる、お篠の方によく似ていて、そのお品殿が伊豆守によって、引き上げられたということとを、前者は拙者自分で調べ、後者は人伝てに聞きましたので、これは一月の十五日に伊豆守が田沼侯へ音物として、『ままごと』に添えてお品殿を、お贈りするのだと推察し、奪い返すことは出来ないまでも、確かめて見ようとこう思い、今宵伊豆守の邸の傍《ほとり》へ、忍んで様子を窺っていたのでござる。……ところがその果てがあの通りとなり、拙者も悉《ことごと》く胆を潰してござるよ。……それにしてもどうして館林様が、今夜の出来事を同じく察し、似たような『ままごと』と献上箱とを作り、どさくさまぎれ[#「どさくさまぎれ」に傍点]に伊豆守のそれと、すり換えたのか合点が行きませぬ。が、合点は行きませんでしたが、もう一組の『ままごと』と献上箱とが、横町を走って行くのを見た時、館林様が策略をもって、伊豆守の『ままごと』と献上箱とを、すり換えて奪って持って行くのだと、そこは拙者も職掌柄で、直覚的に知りましたので、二人の同心に云いつけて、途中からそれらの二品を、拙者の邸へ運ばせるよう、取り計らわせたという次第でござる。……それはそれとして館林様の仕立てた、『ままごと』や献上箱にはどのような物が、入れられてあるのでございましょうか。ちょっと見たいように思われますよ。実はそいつを見たいがために、拙者わざわざ貴殿の後から、田沼侯の邸へ行ったのでござるが、貴殿がほとんど死を決した様で、田沼侯の邸へ無鉄砲至極にも、切り込みをなさろうとなさるので、ようやくここまでお連れした次第。……敵の兵糧で味方が肥える。さあさああいつらの『ままごと』の中の、ご馳走で我々飲食しましょう。……ソレここに……もござる。構うことはない酒に混ぜて召され。その上で……をな、ハッハッハッ、お尽くしなされよ。お品殿はやつれて青褪めておられる。恢復なされ恢復なされ!」

        十四

 この頃京橋の、館林様の邸内の、奥まった部屋で館林様は、女勘助や神道徳次郎や、紫紐丹左衛門や鼠小僧外伝や、火柱夜叉丸や稲葉小僧新助などと、酒宴をしながら話していた。
「やくざな奴らでございますよ。私の手下ながらあの奴らは!」女の姿をした女勘助が、謝るようにそんなように云った。「同心めいた二人の侍が、後からあわただしく追っかけて来て、館林のお殿様が仰せられた、『ままごと』と献上箱とは神田神保町の、十二神《オチフルイ》貝十郎の邸まで、予定を変えて運んで行くように、と、こう私達に、云いましたので、そこで私達はその通りにしました。と手下《あいつ》ら云うじゃアございませんか、……ところがお殿様に承われば、そんなご命令はなかったとの事、やくざな奴らでございますよ、私の手下ながらあいつらは! 肝心な二品を横取られてしまって」
 女勘助の手下達が、へま[#「へま」に傍点]をやったことを女勘助が、館林様へ詫びているのであった。
「十二神《オチフルイ》貝十郎は与力の中では、風変わりの面白い奴だ。そこの邸へ運んで行ったのなら、まあそれでもよいだろう」
 館林様は案外平然と、怒りもせずにそんなように云った。
「今度の仕事には間接ではあるが、最初から十二神《オチフルイ》貝十郎が、関係をしていたのだからな」
「それはさようでございますとも」
 易者姿をした神道徳次郎が云った。
「田沼の邸前で私達が、ままごと狂女達を雨やどりしながら、何彼と噂をしているのを、あの貝十郎が少し離れた所から、同じように眺めておりまして、大分考えていた様子でしたから、何かやるなとこのように思い、外伝に云いつけて後をつけさせますと、山大という指物店へはいり、『ままごと』のことを訊ねましたそうで、外伝も後からはいって行って訊くと、一月の十五日に『ままごと』を一個、松本伊豆守へ納めるとのこと。……早速お殿様へお知らせすると、『ままごと』を奪ってすり換えろというお言葉、その結果が今夜になりましたので。……貝十郎というあの与力が、最初から関係していたものと、こう云えばこうも申せますとも」
「これは偶然からでありますが。……」女勘助が笑いながら云った。「私は女の姿をしていながら、美しい女が好きなので、水茶屋『東』のお品の顔を見たく、度々あの家へ行っているうちに、お品の顔がお篠に似ていることや、お品の情夫《まぶ》が旗本の伜の小糸新八郎だということや、お品が松本伊豆守に、引き上げられたということなどを知って、これはてっきり伊豆守から、献上箱の人形として、田沼のもとへ届けるなと感付き、気の毒だなあと思いました。ところが今夜その新八郎が、道を歩いておりましたので、言葉をかけて誘って、私達の後からつけ[#「つけ」に傍点]て来させましたが、今頃どうしておりますことやら」
「田沼め、『ままごと』や献上箱を、邸の内でひらいて見て、どんな顔をすることか、その顔が見とうございます」
 こう云ったのは僧侶に扮した、鼠小僧外伝であった。
「ご馳走の代わりにむさい[#「むさい」に傍点]物が、しこたま詰められてあるのだからなあ」
 こう云ったのは、六部姿をした、火柱の夜叉丸その者であった。
「酒の代わりにあれ[#「あれ」に傍点]なんだからなあ」
 こう云ったのは破落戸《ならずもの》に扮した、稲葉小僧新助であり、
「献上箱の中の人形が、飛んだ爺《おやじ》の人形なんだからなあ」
 こう云ったのは紫紐丹左衛門で、武骨な侍の姿をしていた。
「それより人形の持っている、あの書物を田沼が見た時、どんなに恐れおののくことか、それを私は知りたいような気がする」館林様はこう云いながら、盃を含んで微笑した。「田沼退治はこれからだ。次々に彼奴《きゃつ》を怯《おびや》かさなければならない。……だんだんに彼奴の罪悪を、彼奴と世間とへ暴露しなければならない。……暴露戦術というやつがある。大金持ちや権謀術数で、権勢を握っている為政者などを、亡ぼしたり改心させたりするには、一番恰好の戦術だ。一方では心胆を寒がらせ、一方では世間の正しい批評を、仰がせることに役立つのだからだ」

 田沼家へ行った『ままごと』の中には、何がはいっていたのであろうか?
 要するにむさい[#「むさい」に傍点]物であって、飲めも食べも出来ないものであった。では、献上箱にはいっていた物は? 田沼主殿頭その人を、さながらに作った人形であって、しかもその胸には短刀が刺してあり、手には斬奸状が持たされてあった。
 一、その方屋敷内の儀、格別の美麗を尽くし、衣食並びに翫木石に至るまでも、天下比類なき結構にて、居間|長押《なげし》釘隠し等は、金銀無垢にて作り、これは銀座の者どもより、賄賂として取り候ものの由、不届き至極。
 二、諸大名官位の儀は、天聴へ奏達も有之《これあり》、至って重き儀に御座|候処《そうろうところ》、金銀をもって賄賂すれば、容易く取り持ち、世話仕候不届き至極。
 三、近年詮挙進途の権家は、皆その方親族の者ばかりにて、その方の召使いの妾等を願望の媒《なかだち》となし、度々登城仕らせ、殊に数日逗留、その節莫大の金帛相い贈り、内外の親睦を結び置き候儀、不届き至極。
 四、諸事倹約と申す名目を立て、自己のみ奢り、上を虐げ、下を搾取す。不届き至極。
 等々と云ったような条目が、斬奸状には連らねてあった。

 二月が来て春めいた。隅田川に沿った茶屋の奥の部屋で、お品と新八郎とが媾曳《あいび》きをしていた。
「お品、こいつを着けてやろうか」
 新八郎は鉄で作った、刺《とげ》のある不気味の貞操帯を揺すった。
「阿呆らしい」
 とお品は一蹴してしまった。
「そんなもの嫌いでございます」
「お品、こいつを冠せてやろうか」
 新八郎は驢馬仮面を撫でた。
「馬鹿らしい」
 とお品は一蹴してしまった。
「男に冠せるとようございますわ」
「御意《ぎょい》で」
 と男の新八郎は云った。
「こういう刑罰の道具類や、こういう節操保持の機械は、女から男へ進呈すべきものさ。……悪事は男がしているのだからなあ」
「浮世は逆さまでございますわね」
「御意で」
 と新八郎は早速応じた。
「浮世は逆さまでございますとも。そこで大変息苦しい。そこで当分貝十郎式に、韜晦《とうかい》して恋にでも耽るがよろしい」
「でも、勇気がございましたら。……」
「あ、待ってくれ、勇気なんてものは、館林様にお任せして置け。……勇気なんてものを持とうものなら、お前となんか交際《つきあ》う代わりに、ああいう六人の無頼漢どもと、交際《つきあ》わなければならないことになる……」
「では、勇気なんか、棄ててしまいましょう」
 あわててお品は勇気をすててしまった。
 で、二人は幸福なのであった。
 で、二人は平和なのであった。

    現妖鏡

        

 浅草の境内で、薬売りの藤兵衛が喋舌《しゃべ》っていた。
「さあお立ち合いお聞きなされ。ここに素晴らしい薬がある。甲必丹《キャピタン》カランス様が和蘭《オランダ》の国から、わざわざ持って来た霊薬で、一粒飲めば神気が爽か! 二粒飲めば体力が増す。三粒四粒と毎日飲めば、女が一人では足りなくなる。つまり精力が逞《たくま》しくなるのだ。一月つづけて飲んで見なされ、妾を三人も囲いたくなる。生の活力、楽しみの泉、大きな事業を行う源! この薬に如《し》くものはない! 負けてやるから沢山お買い。十粒入りが一両とはどうだ! 何高い? 高いものか! 一粒十両でも安いくらいだ。とは云え大道商いだ、両という値は立てがたかろう。よろしいよろしい負けてやろう、十粒入りを一分にしてやろう。ナニこれでも高いというのか、どうも仕方がないもう少し負けよう、二十粒入り一朱とはどうだ! 何、何んだって、まだ高いって? これは呆れて物が云えない! 楽しみの泉のこの薬が、そうそう安くてたまるものか! とは云え大道商いだ、安く踏まれるのは仕方あるまい。同じ品物でも玄関構えの、ご大層もないお屋敷の中で、取り引きをする段になると、十倍百倍になる世の中だからなあ。とかく虚飾が勝つ時世だ、そういう時世での大道商い、踏み倒されるのは当然だろうて。そこでよろしい悟りをひらいて、ぐっと下値《げじき》に売ることにしよう。二十粒入り十文とはどうだ! もう負けないぞ買ったり買ったり! ……や、それはそうと大変なお方が、お立ち合いの中に雑《まじ》っておられる。日本橋の大町人、帯刀をさえも許されたお方、名は申さぬが屋号は柏屋、ただしご主人は逝くなられた筈だ! お気の毒にもお母様にも、二年前に逝くなられた筈だ! その柏屋の一人娘、これもお名前は云わぬ方がよかろう! ナーニ構うものか云ってしまえ! さようお島様と云われる筈だ! そのお島様が雑っておられる! 顔色がお悪い! ご病気だからだ! お眼が悲しげにすわっておられる! お心に悶えがあられるからだ! ……大家のお嬢様であられるのに、お供も連れられずたったお一人で、悪漢《わる》や誘拐師《かどわかし》がうろついている、夕暮れ時の盛り場などへ、どうしてお越しになったのか? 思案に余ったからであろう! 途方に暮れられたからであろう! ごもっとも様でご同情します! 奇病! 奇病! 何んとも云えない奇病に、取りつかれておいでなされるからだ。……そこで藤兵衛は申し上げます、浅草を出て品川まで、すぐにもお出かけなさいませ! 助けるお方が出て参りましょう! 途中に変わったことがあっても、行った先に変わったことがあっても、決して恐怖《おそれ》なさいますな、救いの前には艱難《かんなん》があり、安心の前には恐怖があるもので! さあさあお出かけなさいませ! 一人の立派なお武家様が、蔭身《かげみ》に添ってあなた様を、お守りなさるでございましょうよ」
 藤兵衛を取り巻いて二十人あまりの、閑そうな人間が立っていた。そういう人達に立ち雑って、お島がやはり立っていた。
 年は十九、美人であった。藤兵衛のお喋舌りが終えると一緒に、お島はフラフラと歩き出した、浅草の境内から誓願寺通りへ抜け、品川の方へ歩いて行く。神田の筋へ来た頃には、町へ灯火が点きはじめた。
 身長《せい》は高かったが痩せていた。苦痛のために痩せたものらしい。眼が眼窩の奥にあった。苦痛のために窪んだのであろう。瞳が曇って力なげであった。歩く足もとが定まらない。放心したように歩いて行く。――これがお島の姿であった。
 ふとお島は振り返って見た。と、一人の侍が、彼女の背後《うしろ》から歩いて来ていた。
(薬売りの言葉は嘘ではなかった)
 そう思ってお島は安心した。
(では一切あの男の言葉を、妾《わたし》は信用することにしよう)
 彼女は溺れかかっているのであった。藁《わら》をさえ掴まなければならないのであった。藤兵衛の言葉は藁と云ってよかった。
 ――どうして自分の身の上と、どうして自分の心の苦痛と、どうして自分の病気のこととを、あの薬売りは知っているのであろう? ……これが彼女には不思議であった。
 不思議ではあったがどうでもよかった。あの男が妾を救ってくれるのなら。で彼女は云われるままに、品川へ行こうとしているのであった。一人の立派なお武家様が、蔭身《かげみ》に添ってあなた様を、お守りなさるでございましょうと、こうあの薬売りの男が云った。
 侍が背後《うしろ》から従《つ》いて来ていた。その立派なお武家様なのであろう。彼女は今安心していた。

        

 京橋の中ほどまで来た時である、彼女はすっかり疲労《つか》れてしまった。こんなに歩いたことがないからである。彼女はだるそうに足を止めた。
 と、彼女の左側に、一挺の駕籠が下ろされた。そこで彼女は振り返って見た。侍が手を上げて駕籠を指している。で、彼女は安心して、駕籠の中へ身を入れた。
 こうしてお島を乗せた駕籠が、三月の月に照らされながら、品川の方へ揺れて行く後から、袴なしの羽織姿の、その立派な侍が、大して屈托もなさそうに、しかし前後に眼を配って、油断を見せずに従いて行った。
 芝まで行った時であった、そこの横町から一人の旅僧が、突然現われて駕籠へ寄ろうとした。
「これ!」と侍が声をかけた。
 旅僧はギョッとした様子であったが、何も云わずに後へ下がった。その間に駕籠と侍とは、先へズンズン進んで行った。
 と、また横町から無頼漢のような、一人の男が飛び出して来た。
「これ!」
 とたった[#「たった」に傍点]それだけであった。駕籠と侍とは先へ進んだ。しかしまたもや横町があって、そこの入り口へまで差しかかった時、一人の武士と売卜者《うらないしゃ》とが、駕籠の行く手を遮《さえぎ》るようにして、その入り口から走り出た。
「これ!」と侍は声をかけた。「駕籠へさわるな! 俺を知らぬか! ……思うに恐らく今度の事件には『館林様』はご関係あるまい! やり方があまりに惨忍に過ぎる!」
 武士と売卜者とは黙っていた。その間に駕籠と侍とは進んだ。その駕籠と侍との遠退くのを、四人の者は一つに塊《かた》まり、残念そうに見送ったが、
「どうも十二神《オチフルイ》に出られたのではね」売卜者風の神道徳次郎が云って、テレ切ったように額を撫でた。
「それにちゃあん[#「ちゃあん」に傍点]と見抜いておる」こう云ったのは武士姿の、紫紐丹左衛門であった。「館林様がご関係ないとね」
「せっかく浅草から狙って来たんだが」鼠小僧の外伝が――旅僧の姿をした男が云った。「ねっからこれでは始まらない」
「諦めるより仕方がないよ」こう云ったのは無頼漢《ならずもの》風の、稲葉小僧新助であった。「相手が十二神《オチフルイ》とあるからには、六人かかったって歯が立たねえ。まして今は四人だからな」

 この間もお島を乗せた駕籠と、与力|十二神《オチフルイ》貝十郎とは、品川の方へ進んで行った。品川の一角、高輪の台、海を見下ろした高台に、宏大な屋敷が立っていて、大門の左右に高張り提灯が、二|棹《さお》威光を示していた。
 その前まで来ると駕籠が止まり、お島が駕籠から下ろされた。
「こっちへ」
 と貝十郎は声をかけたが、潜《くぐ》りの戸を軽く打ち、開くのを待って内へはいった。で、お島も内へはいった。大門から玄関へ行くまでの距離も、かなりあるように思われた。
 宏大な屋敷の証拠である。
 訪《おとな》うと小侍が現われた。
「拙者|十二神《オチフルイ》貝十郎でござる」
 すると小侍はすぐに云った。
「は、お待ちかねでございます。どうぞずっと奥の部屋へ」
 そこで貝十郎はお島を従え、玄関を上がって奥へ通った。長い廊下や鈎手の廊下や、いくつかの座敷が二人を迎え、そうして二人を奥へ送った。
 広い裏庭が展開《ひら》けていて、木立や築山や泉水などがあり、泉水の水が木洩れの月光に、チロチロ一所光っていた。その裏庭の奥まったところに、別棟の一軒の建物があって、長い廊下でつながれていた。
「こっちへ」と貝十郎はまたも云って、お島の先に立って進んで行った。

        

 その建物の内へはいり、座敷の様子を眺めた時、お島は異人館へ来たのかと思った。
 瓔珞《ようらく》を垂らした切子《きりこ》形の、ギヤマン細工の釣り灯籠《どうろう》が、一基天井から釣り下げられていたが、それの光に照らされながら、いろいろの器具、さまざまの織物、多種多様の道具類、ないしは珍らしい地図や模型、または金文字を表紙や背革へ、打ち出したところの沢山の書籍、かと思うと色の着いた石や金属、かと思うと気味の悪い人間の骸骨《がいこつ》、そう云ったものが整然と、座敷の四方に並べられてあり、壁には絵入りの額がかけてあり、柱には円錐形の鳥籠があって、人工で作ったそれのような、絢爛《けんらん》たる鳥が入れてあるからである。
 そうしてそれらの一切の物へは、いちいち札がつけてあった。硝子《ガラス》細工らしい長方形の器具が、天鵞絨《ビロード》のサックへ入れてあったが、それへ附けられた札の面には、テルモメートルと書かれてあり、四尺四方もあるらしい、黒塗りの箱の一所から、筒のようなものがはみ出しており、その先にレンズの嵌まっている器具には、ドンクルカームルと記された札が、その傍らに立ててあった。長さ五尺はあるらしい、太い竹筒を黒く塗ったような、二所ばかりに節のある器具――先へ行くに従って細くなり、その突端にレンズのある器具には、ルーブルと書いた札がつけてあった。
 そういう座敷の一所に、一人の侍が端坐して、それらの物を眺めていたが、貝十郎とお島とを見ると、気軽そうに挨拶をした。
「これはようこそ、まあまあお坐り」
「吉雄殿、お話しのお島という娘で」
 貝十郎はこう云ってから、お島の方へ声をかけた。
「大通辞の吉雄幸左衛門殿じゃ」
 お島は恭《うやうや》しく辞儀をした。それを幸左衛門は軽く受けたが、
「いかさま美しい娘ごじゃな。こういう娘ごの命を取ろうなどとは、いやとんでもない悪い奴らで。……が、もうご安心なさるがよい。今夜で危険はなくなりましょう」
「いつ見てもこの部屋は珍らしゅうござるな」
 貝十郎は見廻しながら云った。
「見物が多うございましょうな」
「さよう」と幸左衛門は微笑した。「応接に暇がないほどでござる」
「平賀源内殿、杉田玄伯殿など、相変わらず詰めかけて参りましょうな」
「あのご両人は熱心なもので。その他熱心の人々と云えば、前野良沢殿、大槻玄沢殿、桂川甫周殿、石川玄常殿、嶺春泰殿、桐山正哲殿、鳥山松園殿、中川淳庵殿、そういう人達でありましょうか。その人々の見物の仕方が、その人々の性格を現わし、なかなか面白うございます」
「ほほう、さようでございますかな。どんな見方を致しますので?」
「前野良沢殿、大槻玄沢殿、この人達と来た日には、物その物を根掘り葉掘り尋ね、その物の真核を掴もうとします」
「それは真面目の学究だからでござろう。あの人達にふさわしゅう[#「ふさわしゅう」に傍点]ござる。蘭医の中でもあのご両人は、蘭学の化物と云われているほどで」
「ところが平賀源内殿と来ると、ろくろく物を見ようともせず、ニヤリニヤリと笑ってばかりおられ、このような物ならこの源内にも、作り出すことが出来そうで――と云いたそうな様子をさえ、時々見せるのでございますよ」
「アッハッハッ、さようでござろう。平賀殿はいうところの山師、山師というのは利用更生家、新奇の才覚、工面をなして、諸侯に招かれれば諸侯を富まし、町人に呼ばれれば町人を富まし、その歩を取って自分も富む――と云う人間でありますからな。このような物を一眼見ると、それを利用してそれに類した物を、なるほどあの仁なら作られるでござろう。……それはそうとカランス殿には」
 貝十郎は改まって訊ねた。
「奥の部屋においででございます」
「では」と貝十郎は立ち上がった。「吉雄殿にもどうぞご一緒に」
「よろしゅうござる」と幸左衛門も立った。
 二人につづいてお島も立ち上がり、二人につづいて奥の部屋の方へ行った。
 お島に取ってはこの部屋も、この部屋にある諸※[#二の字点、1-2-22]の器具も、五十年輩で威厳があって、それでいてどことなく日本人ばなれしている、吉雄幸左衛門という人物も、驚異には値《あたい》していたが、不思議と恐怖には値していなかった。
(この人達なら助けてくださるだろう)
 かえってそんなように思われたのである。

        

 一本の蝋燭《ろうそく》がともっていて、その火を映した巨大な鏡が、部屋の正面の壁にあり、蝋燭の立ててある台の側に、長髪、碧眼、長身肥大、袍《ガウン》をまとった紅毛人が、椅子に腰かけて読書をしてい、それらの物の以外には、ほとんどこれという器具調度はない――と云う部屋は蝋燭の火と、それを映している鏡の反射とで、他界的と云おうか夢幻的と云おうか、そう云ったような言葉をもって、形容しなければならないような、微妙な暗さに色彩《いろど》られている。
 お島と貝十郎と幸左衛門とが、はいって行ったところの奥の部屋は、そう云ったような部屋であった。
 すぐにお島は恍惚《うっとり》となった。その部屋の光景に魅せられたのである。
 紅毛人は立ち上がったが、お島の顔を射るように見た。それから幸左衛門へ何やら云った。異国の言葉で云ったので、一言もお島には解らなかった。
 幸左衛門が異国の言葉で、紅毛人へ何か答えた。それからお島へ囁《ささや》くように云った。
「和蘭《オランダ》の甲必丹《キャピタン》カランス殿じゃ。このお方がお前様を助けてくださる」
 そこでお島は頭を下げ、真心《まごころ》からオドオドとお礼を云った。
「カランス様有難う存じます。どうぞよろしくお願いいたします」
 もちろん日本語で云ったのであるから、カランスには意味は解らなかったが、お島の態度のつつましさが、その好感を招いたらしく、彼は頷いて微笑をした。と、その時貝十郎が、お島の耳もとで囁いた。
「そなたの苦しい境遇と、そなたの不思議な病気につき、私は探って知ったのだ。いや探らせて知ったのだ。その結果を吉雄殿に話し、吉雄殿からカランス殿に話し、カランス殿の力によって、そなたの身の上に振りかかっている、危難を助けていただくことにした。……あの薬売りの藤兵衛という男に、ああいうことを云わせたのも、この十二神《オチフルイ》貝十郎なのだ。安心して一切を委《まか》せるがよい。と云うのはこれからこの部屋の中へ、そなたの胆を奪うような、奇怪な出来事が起こるからだ。驚いて気絶などしないように」
「はい有難う存じます。厚くお礼を申し上げます」
 ――で、お島はまた辞儀をした。もうこの頃は今の時間にして、午前の一時を過ごしていた。お島に病気が起こる頃であった。見ればカランスは両手をもって、大きな黒布《くろぬの》を持っていた。あのスペインの闘牛師が、闘牛に向かって赤い布を、冠せようとして構え込む、ちょうどあのような構え方で、黒布を持ち構えているのであった。と、そういうカランスが、幸左衛門へ向かって云った。それを幸左衛門が通訳した。
「お島殿、カランス殿が仰せられる、鏡を一心にご覧なされと」
「はい」と素直にお島は云って、鏡の面を凝視した。鏡は朦朧《もうろう》と霞んでいた。煙りが凝っていると形容してもよく、朝の湖水の一片が、張り付いていると形容してもよかった。
 物を写してはいなかった。四人立っているその四人の、誰もが写っていなかった。立っている位置のかげんからではあるが、蝋燭も写ってはいなかった。光は受けてはいたけれど、形を写していないのである。しかし間もなくその鏡面へ、仄《ほの》かに物の形が写った。
(妾《わたし》が病気になる時刻が来た)
 そうお島が思った時に、物の形が鏡へ写り出したのである。ぼんやりと見えていた物の形が、次第にハッキリとなって来た。それは立派な部屋であった。
 その部屋に三人の男女がいた。一人は白衣を着た修験者であり、一人は島田に髪を結った、美しい若い小間使いであり、一人は四十を過ごしたらしい、デップリと肥えた男であって、大店《おおだな》の旦那とでも云いたいような、人品と骨柄とを備えていた。
「あッ」とお島は声を上げた。
「妾の……小梅の……寮のお部屋だわ! ……お菊と、叔父様と大日坊とがおられる!」
 その時鏡中に変化が起こった。三人の間に机があったが、その上に一個の人形が、大切そうに立てられたのである。

        

 事件は過去へ帰らなければならない。
 隅田川の畔《ほとり》、小梅の里に、風雅と豪奢《ごうしゃ》とを兼ね備えた、柏屋の寮が立っていた。一人娘のお島というのが、乳母や小間使いに守られて、寂しく清く住んでいた。
 父母に逝《い》かれた孤児であった。が、日本橋の店の方は、古い番頭や手代達によって、順調に経営されていた。お島が柏屋の戸主であった。しかし女であり未婚であり、年若であるところから、叔父の勘三が後見をしていた。
 寮に住居をしているのは、父母に逝かれた悲しさから、気欝の性になったのを、癒《いや》そうとしてに他ならなかった。
 ところが今から一月ほど前から、彼女は不思議な病気となった。真夜中になると唐突にも、胸に痛みを覚えるのである。それも尋常の痛みではなくて、鋭い刃物か針のようなもので、心臓をえぐられるか刺されるかのような、そう云った烈しい痛みなのである。そういう病気を得て以来、彼女は見る見る衰弱した。いろいろの医者にも診て貰ったが、病気の原因《もと》は解らなかった。
 そういう病気の起こる前に、叔父勘三の指金《さしがね》で、お菊という女を小間使いに雇った。美しい若い勝ち気な女で、人もなげに振る舞うこともあったが、それだけ万事に気が付いて、浮世の表裏をよく知っている女、そう云った女に異存はなかった。
「よいお前の話し相手になろう」
 お菊のことをお島へこう勘三は云った。
 しかし事実はそうではなくて、そのお菊の話し相手になるのは、かえって叔父の勘三なのであった。お菊が小間使いにはいって以来、勘三はしげしげこの寮へ来て、お菊を側へ引きつけて、ふざけたり酒の酌をさせたりした。噂によるとお菊と勘三とは、以前から知っている仲であって、それでお菊を小間使いとして、この寮へ入れたのだということであった。いわば勘三はお菊という女を、名義だけをお島の小間使いとし、事実は自分の妾として、この寮へ引き入れたということになる。そのお菊はどうかというに、これは勘三をむしろ嫌って、お島へ好意を寄せていた。姉のように優しい慈愛の眼で、よくお島を見守ったりした。で、お島もお菊に対して、好感を持たざるを得なかった。いやいやむしろ好感以上の、同性の恋というような、ああ云った特殊の感情をさえ、お島は持たざるを得なかった。もっともそれをそそった[#「そそった」に傍点]のは、小間使いのお菊ではあったけれど。
 ある時などは二人の女が、お島の部屋で物も云わず、互いにその手を握り合って、互いに頬を寄せ合って、うっとり[#「うっとり」に傍点]としているようなことがあった。同性ではあるが二人の肌が、着物を通して触れ合って、その接触から来る温《あたた》かみを、味わい合っていると云いたげであった。
 お島の憂欝を祈祷《きとう》によって、快癒させようと心掛けて、大日坊という修験者を、この寮へ出入りさせて、祈祷させるように取り計らったのは、お菊が小間使いとして住み込んで、十日ほど経ってからのことであった。云い出したのは勘三であった。お菊は好まない様子であった。それだのに勘三はある日のこと、お菊に向かってこんなことを云った。
「お前が大日坊を勧めたのじゃアないか。何んだ、それだのに今になって」
 大日坊は物々しい、白の行衣などを一着して、隔日ぐらいにやって来て、お島の前で祈祷をした。
 と、どうだろう、娘のお島は、そういう祈祷が始まった頃から、例の奇病に取りつかれてしまった。しかし勘三も大日坊も云った。
「病気の癒《なお》りかけというものは、かえって苦しみを増すもので、その胸の痛みもやがて癒ろう。それと一緒に気欝性も、綺麗に癒ってしまうだろう」と。
 しかしお島のその奇病は、いよいよ勢力を逞しゅうして、お島は眼に見えてやつれて行った。ところがある日この寮へ、一人の酒屋のご用聞きが来た。出入りの杉屋という酒屋があったが、そこへ来たご用聞きだということである。
「これからは私がご用をききに来ます。どうぞ精々ご贔屓《ひいき》に。へい、私は仙介という者で」
 などお三どんや仲働きや、庭掃きの爺やにまで愛嬌を振り撤いた。三十がらみの小粋な男で、道楽のあげくにそんな身分に、おっこちたといいたそうなところがあった。
「ご用聞きには惜しいわね」などとお三どんは仙介のことを、仲働きへ噂したりして、仙介の評判は来た日から良かった。がしかしお菊だけは、その仙介を胡散《うさん》そうに見た。
「あの男の眼付き、気に食わないよ。それにさ、手の指が白すぎるよ。食わせもののご用聞きだよ」などと云って警戒した。
 こうして今日の日の前日になった。
 この日も大日坊はやって来て、お島の前で祈祷したが、それが終えると奥へ行き、勘三とお菊と三人で、何やらヒソヒソ話し出した。それから酒になったようである。
「大日坊、今日は泊まっておいで」
 などという勘三の声が聞こえた。
「そうねえ、大日坊さん泊まって行くがいいよ」
 お菊の声も聞こえたが、何んとなく不安そうな声であった。
「姉ちゃん、お庭へ行って遊びましょうよ」
 こういう間にお島の部屋では、お島にとっては姪《めい》にあたる、八歳のお京という可愛らしい娘が、お島に向かって甘えていた。

        六

 お島は寂しいところから、一つは姪のお京の家が、貧しい生活をしているところから、お京を寮へ引き取って、玩具《おもちゃ》の人形でも愛するようにして、ずっと以前から育てて来た。お京は愛くるしい性質で、悪戯《いたずら》もしたがその悪戯さえ、可愛らしく見えるという性《たち》であった。
「姉ちゃんお庭へ行って遊びましょうよ」
 しかしお島は黙っていた。いつもよりは今日は気持ちが悪く、返辞をするのさえ大儀だからであった。
「姉ちゃんお庭へ行って遊びましょうよ」
 お京はなおもせがんだが、お島が返辞をしないので、つまらなそうに部屋を出て、一人で庭の方へ行こうとした。と、奥から賑やかな、人々の笑い声が聞こえて来た。お京へ子供らしい好奇心が起こって、奥の方へはいって行った。
 酒盛りをしている次の部屋が勘三の常時《いつも》いる部屋であって、高価な調度などが飾り立ててあった。その部屋までお京がはいって行った時、彼女の心を惹く物があった。手文庫の抽斗《ひきだし》が半ば開いていて、人形の顔が見えていたのである。
「まあ」
 と彼女は嬉しそうに云って、抽斗からそっと人形を取り出し、部屋を出て庭へ走り出た。庭には午後の日があたっていて、遊ぶによくポカポカと暖かかった。
 山吹がこんもりと咲いていて、その叢《くさむら》の周囲《まわり》には青み出した芝生が、茵《しとね》のように展べられていた。山吹の背後《うしろ》には牡丹桜が重たそうに花を冠っていた。お京は芝生へ坐り込んだが、人形を膝の上へ大事そうに乗せると、しばらく熱心にもてあそんだ。
 それは縫いぐるみ[#「いぐるみ」に傍点]の人形であって、派手な振り袖が着せてあった。大きさはおよそ五寸ぐらいで、顔は十八、九の女の顔であった。
 そうやってしばらくもてあそんでいたが、そこは子供のことであった、やがて飽きると抛《ほう》り出して、何やら流行唄《はやりうた》をうたい出した。と、その時一人の男が、こっそりとこっちへ近寄って来た。今まで勝手口でお三どんを相手に、油を売っていた仙介であった。
「おやおやこれはお嬢さんで、……日向《ひなた》ぼっこでございますかな」
 こんなことを云いながら近寄って来たが、抛り出されてある人形を見ると、すぐに取り上げてじっと[#「じっと」に傍点]見た。
「…………」
 何んとも云いはしなかったが、仙介の眼の光ったことは! とにわかに「痛い!」と云った。
 見れば仙介の拇指《おやゆび》から、血がポッツリと吹き出している。人形の胎内に針があって、強く握った時それの先が、拇指の一所を刺したものと見える。
「そうか!」と仙介は思いあたったように云った。
「これですっかり見当が付いた!」
 どうしようかと云ったように、一瞬仙介は考え込んだが、チラリとお京へ眼を移してから、素早く人形を懐中しようとした。が、その時植え込みの背後《うしろ》から、
「お嬢様!」
 と呼ぶ声が聞こえて来たので、あわてて仙介は人形を取り出し、お京の膝の上へ投げるように置き、庭を横切って姿を消した。それと引き違いに姿を現わしたのは、他ならぬ小間使いのお菊であった。
 仙介の後を見送り見送り、お京の側までやって来たが、お京の膝の上の人形を見ると、ギョッとしたように眼を躍らせ、すぐに取り上げて袖の中へ引き入れ、つかつかと家の方へ走って行った。

        

 十二神《オチフルイ》貝十郎の邸の玄関へ、同心の佃三弥と連れ立ち、仙介が姿を現わしたのは、それから間もなくのことであり、二人の姿が邸の中へ消え、やがて邸から現われたのも、それから間もなくのことであり、十二神貝十郎がそれと続いて、邸から出て駕籠に乗り、品川にある和蘭《オランダ》客屋を、訪ねたのも間もなくのことであった。
 こうしてこの日は暮れてしまった。

 さて、いよいよ今日の日である。昨日から泊まり込んでいた大日坊は、この日もお島に祈祷をした。お島の衰弱はいちじるしく、放心状態になっていた。しかも心ではどうともして、この苦しみから遁《の》がれ出たいものと、あえぐがように願っていた。祈祷が終えると部屋から脱け出し、夢心地のように庭へ出たが、庭を脱けると当てもなく、両国の方へ歩いて行った。
(寮は妾《わたし》にはまるで地獄だ。あそこの空気は息苦しい。あそこの空気は寂しくて凄い。賑やかで楽に呼吸のつける、どこかへ妾は行ってしまいたい)
 彼女はこういう心持ちで歩いた。そういう彼女を寮の近くから、後を尾けて来た侍があったが、他ならぬ十二神《オチフルイ》貝十郎であった。
(どうぞして誰にも悟られないように、あの娘を連れ出そうと思っていたところ、幸い自分から脱け出して来た。さてこれからどうしたものだ)
 貝十郎は思案しいしい、お島の後から尾《つ》けて行った。
 両国を渡り浅草へはいり、お島が薬売りの藤兵衛の剽軽《ひょうきん》の口上を放心的態度で、聞きながら佇《たたず》んでいるのを見ると、貝十郎は頷いた。
(一つ暗示を与えてやろう。ああいう娘には暗示がかかる。藤兵衛を利用して暗示をかけてやろう)
 喋舌っている藤兵衛の背後《うしろ》に廻って、貝十郎が藤兵衛の耳へ、立ち合いの群集に気づかれないように、囁きかけたのはそれからであり、藤兵衛がお島へお島のことを、話しかけたのもそれからであった。

 ここで事件は和蘭《オランダ》客屋の、奥の部屋へ帰って行かなければならない。鏡へお菊と大日坊と勘三との姿が写っていて、お島ににせ[#「にせ」に傍点]た人形が、机の上に置いてあった。
 三人は何やら云い争い出した。勘三が最も多く喋舌り、大日坊へ何かを強いているようであった。それをお菊が悩ましそうに、熱心に止めている様子であった。そういう二人の間に立って、大日坊は当惑している様子であったが、やがて何やらお菊に向かって、訓《さと》すがように説き出した。その三人であるが、話し合っている間じゅう、机の上の人形の方へ、たえず瞳を注いでいた。
 そういう光景が黒塗り蒔絵の、額縁を持った大鏡の中で、芝居ででもあるかのように、ハッキリと写っているのである。
 大日坊はお菊を説き伏せたようであった。お菊を説き伏せた大日坊は、やおら人形へ近よると、鋭く人形を凝視した。手に戒刀を握っている。と、その戒刀が頭上へ上がった。思う間もなく切り下ろされた、と、その瞬間鏡中の世界を、佇んで見ていたお島の体へ、頭上からフワリと布が冠《かぶ》された。
 甲必丹《キャピタン》カランスが背後から、手に持っていた黒布《くろぬの》を、その瞬間に冠せたのであった。
「あれ!」
 とお島は意外だったので、黒布《くろぬの》の中で声を上げた。しかしその次の瞬間には、黒布《くろぬの》は既に取り去られていた。お島は鏡中の世界を見た。三人の男女が審《いぶか》しそうに、人形を取り上げて調べている。戒刀で人形を切ろうとしたのらしい。しかるに人形が切れなかったので、驚いているという様子であった。人形が机の上へ置かれた。また大日坊は戒刀を振り上げた。
 その戒刀が鏡の中で、白く横の方へ流れた時、またもお島は背後から、黒い布で全身を包まれた、が、その刹那《せつな》迂濶千万にも、お島は髪を崩すまいとして、片手で黒布を上へ揚げた。その拍子に指の先が布から出た。
「痛い!」とお島は悲鳴を上げた。
 布が体から取り去られた時、お島の右の手の中指の先から、血が掌の方へ流れていた。切り傷がそこについている。と、鏡中の世界の人は、またも人形を取り上げて、奇怪至極だというように、その人形を調べ出した。人形の左の手の中指に、どうやら傷でもついたらしく、そこを三人は調べ出した。
 またもや人形は机の上へ置かれ、またもや大日坊は戒刀を振り冠った。そうしてまたもやお島の全身が、黒布《くろぬの》によって蔽《おお》われた。しかしその布が取り去られた時、お島の体には異変はなかったが、鏡中の人々には異変があった。戒刀が折れて折れた先が、勘三の咽喉を貫いていた。

        

 この頃小梅の柏屋の寮を、取り囲んでいる人影があった。目明し、橋場の仙右衛門が、同心佃三弥に指揮され、乾児《こぶん》十二人と一緒になって、捕り物をすべく囲んだのであった。
 不意に深夜の静寂を破り、男の悲鳴が家の中から聞こえ、つづいて騒がしい人声が起こり、つづいて雨戸を蹴開く音がし、すぐに男女の人影が、裏木戸の方へ走って来た。
「御用!」
「何を!」
「勘助御用だ!」
「仙介か! ……やっぱり……岡っ引だったな!」
「やい、神妙にお縄をいただけ!」
「…………」
「夜叉丸! 手前も……年貢の納め時だ!」
「馬鹿め! 人足! 捕れたら捕れ!」
 小間使いお菊の女勘助と、大日坊の火柱夜叉丸とは、戸を蹴破って飛び出した。
 ご用聞きの仙介に身をやつしていた、目明しの仙右衛門は飛びかかった。ガラガラという錫杖《しゃくじょう》の音! 月光に閃めく匕首の光! ムラムラと寄せ、ガッと引っ組み、バタバタと仆される捕り方の姿! 枕橋の方へ一散に走る、夜叉丸と女勘助との姿が見えた。
「廻れ! 右の方へ! 三囲《みめぐり》の方へ!」同心佃三弥が叫んだ。
「旦那、冗談、そんな方へ行っては! 奴ら、枕橋の方へトッ走っていまさあ!」
 仙右衛門は不審そうにこう叫んだ。
「黙れ! よい、俺の云う通りにしろ!」
 ――で、捕り方はそっちへ走った。
 そのため明和六人男と呼ばれた、六人の盗賊のその中の二人、女勘助と火柱の夜叉丸とは捕縛されることを免れた。

 後日貝十郎は云ったそうである。
「柏屋の主人の六斎殿と、私とは遊里の友達なので、あの仁の死後も遺族については、絶えず注意をしていました。するとお島という一人娘が、変な病気にかかったという。そこで佃という同心に命じ、その様子を調べさせたところ、佃は目明しの仙右衛門という男を、ご用聞きにやつさせて[#「やつさせて」に傍点]調べさせたそうで。すると呪いの人形が、あそこの寮から出て来ました。その前にあの寮へ大日坊という、怪し気な修験者が入り込むことや、日頃から腹のよろしくない、叔父の勘三が入り込むことや、その勘三の妾のような女が、小間使いとして入り込んだという、そういうことが解っていましたので、さてはお島を呪い殺し、勘三が柏屋を乗っ取る気だなと、こう目星をつけたという訳で。一味を引っ捕えて調べるのは、訳のない話ではありますが、それでは柏屋に瑕《きず》がつくし、呪いとあってはお島の命が、その間に取られてしまうかもしれない。これは困ったなと思いましたが、その時フッと考えついたのは、懇意にしている大通辞の、吉雄幸左衛門殿のことでした。この仁《じん》は西洋の学問が出来る。その方面で呪いというようなものを、至急に防ぐことが出来るかもしれない。……で、行ってお話をしたところ、甲必丹《キャピタン》のカランス殿が引き受けたという。……で、安心してお島を連れ出し、和蘭《オランダ》客屋の奥の部屋で、ああいうことをして呪いを破り、その上悪事の元兇の、勘三をあべこべに自滅させた訳で。……しかし、どうしてああいう事が、ああして呪いを破ったのかは、とんと私にも解りません。が、東洋流の精神科学を、西洋流の精神科学が、退治したのだとは云われましょう。……女勘助や夜叉丸は、悪い奴らではありますが、私の敬まっている館林様が、手先にしている奴らでしたから、捕えることだけは止めにしました。佃に旨を云い含めた訳です。嚇しただけで追っ払えと」

 お菊の女勘助が、お島を時々救おうとしたのは、お島に恋を感じたからであった。その勘助を妾のようにして、勘三が小間使いに住み込ませたのは、事実勘助を女だと思い、そうやって住み込ませて置くうちに、物にしようと思ったからであった。
 お島がお菊を恋したのは、結局同性の恋ではなく、異性同士の恋なのであったが、お島はそれを知らなかった。最後まで知らなかったということである。

    海外の歌

        一

「桜月夜で明るいじゃアないか! それを何んだい、ぶつかりゃアがって!」
 無頼漢風の逞しい男が、自分の方からぶつかりながら、こう京一郎へ難題を出した。
「とんだ粗相をいたしました、真《ま》っ平《ぴら》ご免くださいますよう」うるさいと思ったので京一郎は詫びた。
「いけねえいけねえ言葉ばかりじゃアいけねえ、やい何んとか色をつけろ!」
「色をつけろとおっしゃいますと?」
「解らねえ奴だな、いくらか出せ!」
「へええお銭をでございますかな」
「あたりめえよ、膏薬《こうやく》代だ」
「と云うと怪我でもなさいましたので」
「え、怪我? うん、したした! 大変もない怪我をした。だからよ、出しな、膏薬代をさ!」
「ちょっと拝見いたしたいもので」
「ナニ、拝見? 拝見とは何をよ?」
「大変もない怪我という奴を」
「うるせえヤイ! 青瓢箪め!」
 拳が突然空に流れた。素早く京一郎は身をかわしたが、その手には拳が握られていた。
「ただの町人の小伜とは、小伜なりが少し違うぞ」
「痛え痛え人殺しイーッ……やい皆《みん》な出て来てくれ!」すると背後から四人の男が、姿を現わして走って来た。
(しまった!)――で京一郎は逃げた。ここは京橋の一画で、本通りから離れた小路であった。両親に内証で町道場へ通い、一刀流の稽古をしていたが、いつもより今日は遅くなったので、道を急いでの帰るさであった。
 背後から追っかけて来るらしい。京一郎は横へ逸れた。と、運悪く袋露路で、妾宅めいた家によって、見れば行く手をふさがれている。
(どうしたものだ! これは困ったぞ!)――で、当惑して立ち止まったとたんに、眼の前の格子戸が内から開き、
「とんだ事ねえ、さあいらっしゃい」艶《なま》めいた女の声がして、つづいて白い手が伸びて来た。
「いえ、私は……」
「大丈夫なのよ」
 ガラガラと京一郎の背のうしろで、閉ざされる格子戸の音のした時には、京一郎の体は家の中にあった。

 見失ったというように、無頼漢風の男をまじえ、五人の男が露路から出た。本通りの方へ引っかえして行くのを、一軒の家の二階から――細目に開けた障子の隙から、眺めていた一人の武士があったが、
「また彼奴《きゃつ》ら悪いことをやり出したな」
 眉をひそめながら呟いた。与力の十二神《オチフルイ》貝十郎であった。
「旦那、喧嘩ね。気味の悪い」
 ちゃぶ台があってご馳走があって、徳利と盃とが置いてあり、一方の側には貝十郎がおり、一方の側には女がいたが、その女がそんなように云った。
「喧嘩といえば喧嘩だが、性《たち》の悪い喧嘩でな」
「性《たち》のよい喧嘩ってありますかしら」
「出合い頭の間違いで、ぶん撲り合うというような、そういう喧嘩は性のいい喧嘩だ」
「性の悪い喧嘩といえば?」
「計画的に仕掛けた喧嘩さ。……それはそうと、こういうお妾横丁には随分喧嘩はあるだろうな」
「そうですねえ、まあ、ちょくちょく[#「ちょくちょく」に傍点]」
「ところで突きあたりの格子づくりの家だが、やはり妾の巣だろうな?」
「巣とはお口のお悪いことね。でも、ええ、お妾さんの巣のようだわ」
「一、二度見かけたことがあるが、そのお妾さん美《よ》い縹緻《きりょう》だった」
「そこでちょっかい[#「ちょっかい」に傍点]を出そうと云うのね」
「うっかりちょっかい[#「ちょっかい」に傍点]を出そうものなら、あのお妾さんくらいつくよ」
「鬼や夜叉じゃアあるまいし」
「それ以上に凄い玉《たま》かもしれない。顔に険のある女だった……旦那というのはどんな男かな?」
「旦那だか何んだか知らないけれど、時々駕籠で立派なお武家さんが深夜においでなさるようです」
「他にも男が出入りするだろう?」
「よくご存知ね。四、五人の男が……」
「物など持ち運んでは来ないかな?」
「おや、そう云えばそんなことも……でもどうしてご存知なんでしょうね?」
「俺の身分を知っているくせに、何を云うのだ。うっかりした女だ」

        二

「そうそう旦那は与力衆でしたわね」
「今後は殿様と呼ぶがいい」
「結城ぞっきのお殿様ね」
「文句があるなら唐桟《とうざん》でも着るよ」
「いいえ、殿様と云わせたいなら、黒羽二重の紋服で、いらせられましょうとこう申すのさ」
「そういう衣装を着る時もある。が、その時には同心が従《つ》く」
「目明し衆も従くんでしょうね」
「お前なんかすぐふん[#「ふん」に傍点]縛る」
「おお恐々《こわこわ》!」と大仰に云ったが、妾のお蔦は寄り添うようにした。「でも殿様に似合うのは、そういう風じゃアありませんわね」
「河東節の水調子 ※[#歌記号、1-3-28]二人が結ぶ白露を、眼もとで拾うのべ紙の――などと喉《のど》をころがして、十寸《ますみ》蘭洲とどっちがうまい? などと云っている俺の方が仁にあうと云うのだろう」
「そうよ」とお蔦はトロンコの眼をした。「※[#歌記号、1-3-28]梛《なぎ》の枯れ葉の名ばかりにさ。……殿様、今夜は帰しませんよ」
「まてまて」貝十郎は大小を取った。「与多《よた》は与多、仕事は仕事だ。……俺はちょっくら行って来る」
「どちらへ?」
 と驚いて止めるお蔦を、ちょっと尻眼で抑えるようにし、「お前を相手に割白《わりせりふ》か何んかで、茶化したことばかり云っていて、それで暮らして行けるなら、とんだ暮らしいい浮世なんだが、まるっきり逆の世間でな」
「遊んでおいでなされても、役目は忘れないとおっしゃるのね」
「それくらいなら御《おん》の字だ。遊びを役目の助けにしている――と云う荒っぽい時世なのさ」
 妾宅を出ると貝十郎は、露路の突きあたりの家の前まで行った。が、そのまま姿が消えた。

「手頼《たよ》りない身でございますの、これをご縁にどうぞ再々、お遊びにおいでくださいましてお力におなりくださいますよう」
 お蝶はこう云って京一郎の顔を、艶めいた眼でながしめに見た。年は二十一、二でもあろうか高い鼻に切れ長の眼に、彫刻的の端麗さをそなえた、それは妖艶な女であった。
「はい、有難う存じます。妙なことからお目にかかり、飛んだおもてなしにあずかりまして、何んと申してよろしいやら。……ご迷惑でなければこれからも、ちょいちょいお伺いいたします」
 京一郎は恍惚《うっとり》とした心で、こう云って頬を掌で撫でた。五人の男に追いかけられ、それが因になって飛び込んだ家の、女主人にこんなに愛想よく、迎えられようとは思わなかった。
 茶を出され酒を出され、身の上話さえされたのである。両親のない身の上ながら、親が残して行った金があるので、女中と婆やとを二人ほど使い、男気のない女世帯を、このようなひっそりした町の露路で、しばらく前から張り出したが、その男気のないということが、何より寂しいと云うのであった。
 父は生前は長崎あたりの、相当名を知られた海産問屋で、支那や和蘭《オランダ》とも貿易をし、盛大にやった身分であった。――などとお蝶は話したりした。しかしお蝶は身の上については、多く語ろうとはしなかった。隠すというのではなかったが、目下の生活が華やかでない、それだのに過去の華やかであった生活《くらし》を、今さらになって話すのは、面はゆくもあれば笑止でもあると、そんなに思う心から、語らないというような態度を見せた。そういう態度が京一郎には、床《ゆか》しく思われてならなかった。
 表構えは粋であり、目立たぬ様子に作られてあったが、家の内は随分|豪奢《ごうしゃ》であり、それに調度だの器具だのが、日本産というより異国産らしい、舶来の品で飾られてあり、お蝶の締めている帯なども、和蘭《オランダ》模様に刺繍《ぬいとり》されてある――そういう点などがお蝶という女の、父だという人の身分や生活を――昔の身分や生活を、それらしいものに想像させた。
「風変わりの楽器でございましょうが……」
 こう云ってお蝶は手を伸ばして、床の間に置いてある異風の楽器を、取りよせてそっと膝の上へ据えた。胴が扁平で三角形で、幾筋かの絃《いと》で張られていた。
「象牙の爪で弾くのですけれど……」云い云いお蝶は四辺《あたり》を忍ぶように、指の先で絃を弾いた。
「バラードという楽器でございますの。和蘭《オランダ》の若い海員などが甲板《かんぱん》の上などで弾きますそうで」
 バラードの音色は聞く人の心を、強い瞑想に誘って行った。
 聞いている京一郎の心の中へ、海を慕う感情が起こって来た。海! 海外! 自由! 不覊《ふき》! ……そういうものを、慕う感情が、京一郎の心へ起こって来た。不意にお蝶はうたい出した。

        

  かすかに見ゆる
  やまのみね
  はれているさえなつかしし

  舟のりをする身のならい
  死ぬることこそ多ければ
  さて漕ぎ出すわが舟の
  しだいに遠くなるにつれ
  山の裾辺の麦の小田《おだ》
  いまを季節とみのれるが
  苅りいる人もなつかしし
  わが乗る船の行くにつれ
  舟足かろきためからか
  わが乗る船の行くにつれ
  色も姿もおちかたの
  ふかき霞にとざされぬ
  われらの舟路! われらの舟路!

 それはこういう歌であったが、ここまでうたって来るとうたい止めた。
「この後にもあるそうではございますが、残っていないのでございます。ええこの後にも続く歌が。……妾《わたし》はどんなに後に続く歌を、知りたいと願っているでしょう。……死なれたお父様が死なれる前に、妾にこのように申しました。『後に続く歌を知ることが出来たら、お前は幸福になれるだろう。右のこめかみに大きな痣《あざ》のある男が、一人知っているばかりなのだが』と……」
(右のこめかみに痣のある男? はてな?)と京一郎は首を傾《かし》げた。思いあたることがあったからである。でも(まさか!)と思い返した。あんまり莫迦気ているからである。
 しかし彼はこんなように思った。(この女が幸福になることならわしは何んでもしてやりたい)その時女の云う声が聞こえた。
「お父様の遺伝なのかもしれません、大船に乗って広い海へ、妾は行きたいのでございますの、好きなお方と! わだかまりなく!」
 京一郎がお蝶の家を出て、自分の家へ帰ったのは、それからしばらく経ってからであった。京一郎が出たのと引き違いのように、お蝶の家へはいって来たのは二十八、九歳の威厳のある武士で、貴人のように高尚であった。駕籠に乗って来たのである。
「どうであったか?」とその人は云った。
「はい」とお蝶は微笑したが、「大体うまく参りました」
「歌を聞かせてやったろうな」
「聞かせてやりましてございます」
「今度のことばかりは気永に構え、そろそろとやらなければ成功しがたい。暴力や権威をもってしても、歯の立つことではないのだからな」
「はい、さようでございますとも」
「直接本人にぶつかっても、口を割らない事件ではあるし」
「はい、さようでございますとも」
「それで傍流から手をつけたのが……」
 こう云って来て貴人のような武士は、円行灯《まるあんどん》の黄味を帯びた光に、正しい輪郭を照らしていた顔を、にわかに傾《かし》げて聞き耳を立てたが、急に立ち上がると円窓を開けた。
 窓の外は狭い坪庭《つぼにわ》であって、石灯籠や八手《やつで》などがあった。その庭を囲んでいるものは、この種の妾宅にはつき[#「つき」に傍点]物にしている船板の小高い塀であった。
「これ、誰だ!」と武士は云った。しかし坪庭には人はいなかった。ただ横手の露路へ出られる、切り戸口の傍らに立っている、満開の桜の下枝から、花が散っているばかりであった。
「どなたか?」と、お蝶が不安そうに訊いた。
「さあ、何んとなく気勢《けはい》がしたが……」

 この頃|十二神《オチフルイ》貝十郎は、自分の妾宅へ寄ろうともせず紗を巻いたように霞んで見える、月夜の露路を本通りの方へ、考えながら歩いていた。
(館林様が関係しておられる、大きな仕事に相違ない)
 本通りへ出ても人気がなかった。夜が更けているからであった。肩の辺に散っている桜の花弁を、手で払いながら貝十郎は歩いた。(京一郎という男は塩屋の伜だ。……昔の塩屋と来た日には、盛大もない家であったが……)人気がなくても春の夜は気分において賑やかであった。猫のさかっている声などが聞こえた。
(あの歌? ……あんなもの、何んでもありゃアしない。……しかしあの後を知ることが出来たら……)
(よし、俺は本流へぶつかってやろう!)
「面白いな」と声に出して云った。
「負けても勝っても面白い。大物を相手にして争うのだからな」
 夜警の拍子木の音がした。

        

「ね。お母様。行かせてください。どうしたって行かなければならないのです」
 京一郎は思い詰めた口調で、こうまとも[#「まとも」に傍点]に母親へ云った。ここは本所安宅町の、掘割に近い一所に、大きいが古く立っている、京一郎の家であった。その家の奥の座敷であった。更けた夜だのに五月幟が、風になびいている音が聞こえた。近くの家でうっかりして、取り入れるのを忘れたのであろう。
「京一郎やお前はどうしたのだよ、もうそんなことは云わないでおくれ。妾はそんなこと聞くだけでも厭だよ」
 母親のお才は四十九歳であったが、勝れた美貌であるところから四十ぐらいにしか見えなかった。そう云ってから京一郎の顔を、当惑と不安と親の慈愛と、それらのもののこもった眼付きで、嘆願するように凝視した。(この子はお父様に大変似ている。思い立ったことなら、何んでもやり通す! ほんとにこの子は妾を棄てて家出をしてしまいはしないだろうか)お才は恐ろしくさえ思うのであった。
「ねえ京一郎や」とお才は続けた。「こんなこと妾が云い出しては、お前はバツを悪がるかもしれない。でも妾は云ってしまおう。誰かお前の背後にいて……そう、それも女がいて、お前に云わせるのではないかえ。そんなように妾には思われるがねえ……」
 こう云われて京一郎は横を向いたが、顔がいくらか赧らんだようであった。でも彼が母の方へ向いて、おめもせずにこんなように云い出した時には、そういう赧らみはなくなっていた。
「ええお母様、そうなんですよ。女が背後《うしろ》についております。その人が私へそう云わせるのです。でもそればかりではありません、たといその人が背後《うしろ》にいなくとも、早晩私は同じようなことを、お母様に云い出したに相違ありません。ただ、あの人が私へ来たために、云い出すのが早くなったばかりなのです。……だってそうじゃアありませんか。私達の家は何んていうのでしょう。ガランとしていて寂しくて、陰惨としていて墓場のようです。その辺に沢山幽霊がいて、私達を見守ってでもいるようです。大きな屋台骨、暗い間取り、荒れ果てた庭、煤けた階段、陽の目さえ通さないじゃアありませんか。ここにじっとして坐っていると、私は滅入ってしまいそうです。……いえそれよりもっともっと[#「もっともっと」に傍点]、大事なことがあるのです。それはお母様とお父様なのです。まあどうでしょうお父様と来ては、年が年中|離座敷《はなれ》ばかりにいて一度として主屋《おもや》へはいらっしゃらない。一度として戸外へおいでにならない。庭へさえ出ないじゃアありませんか。その上お母様や私をさえ、はいらせようとしないじゃアありませんか。ええそうです離座敷《はなれ》の中へ。……つまりお父様は狂人なのです。それもひどい人間嫌いの。ところでお母様はどうかというに、猫可愛がりに私を可愛がってお父様へ接近させまいとする。教えることは何かと云うに、じっとしておれ、穏しくしておれ、世間へ出るな、出世など願うな――と云うようなことばかりです。そうしてお母様はおっしゃられる、二十五歳まで待つがよい。その時お前は金持ちになれると! ……そういう私の家庭です。こういう家庭にじっとしていれば、青年としての活気が失われます。出て行かなければなりません。出て行って私は何かしたいのです」
「そういうことを云わせるのも、お前についている女だと思うよ。妾にはその女が憎くてならない」
「悪い女ではございません、お母様誤解してくださいますな」
 ――京一郎にとってはお蝶という女は、悪い女ではないのであった。自分に勇気をつけてくれる、むしろ有難い女なのであった。その上その女は愛してくれた。
 ああいうことからお蝶に逢い、これから後も来てくれと云われたので、京一郎は家を抜け出しては、お蝶の家へ忍んで行った。そのうち自分もいつとはなしに、お蝶に恋をするようになった。
「妾はあの夜お逢いしました時から、あなた様を愛しておりました」
「私もそうなのでございます」
 とうとう互いに打ち明け合った。そうやって親しみを重ねて行くうちに、お蝶という女が覇気に富んでいて、京一郎と連れ立って、遠方へでも走って行ってしまおうと、心巧みをしているような、口吻《こうふん》を洩らすようなことがあった。しまいには露骨に勧めるようになった。
「若い時期《とき》は早く過ぎて行くものです。享楽しようではありませんか。妾はいつでもお供をします。あなたには早く決心なされて、陰気な、無気力な、生き甲斐のない、ご両親の家などお出なさいまし。外にはもっと華々しい、活気に充ちた生活があります。そうして男というものは、何か事業《しごと》をしないことには、男としての真の楽しみを、感じないものでございます。外にはいくらでも事業があります」
 などというような意味のことを、率直に云ってそそのかしたりした。

        

 京一郎は性格として、活動的の人間であって、箱入り息子式に生活させられることを、ひそかに以前《まえ》から嫌っていて、そのため両親へは内密に、町道場へ通って行き、竹刀《しない》の振り方など習うほどであった。
 で、愛するお蝶の口から、そんなように勧められると、一も二もなく家を出て外へ行きたかった。でお蝶へ云うのであった。

「出ましょう、出ますとも、家を出ましょう! お蝶様ご一緒に行ってくださるか」
「行く段ではございません……でも」
 と、すると、どうしたことか、ここで、いつもお蝶は言葉を濁し、暗示めいたことを云うのであった。
「でも、世間へは手ぶら[#「ぶら」に傍点]では、出て行けるものではございません」
「手ぶら[#「ぶら」に傍点]で! 手ぶら[#「ぶら」に傍点]とは? 何んのことでしょう?」
「世間は薄情でございます。薄情の世間と戦うには、戦うだけの用意をしなくては……」
「いえ、私はこう見えても、体は強うございますから……」
「体も体でございます。……それより、何よりお金がないことには……」
「金!」「ええ」
「金なんか」「あって?」
「いいえ。……でも、当座の……少しぐらいの金でしたら……」
「少しぐらいの当座の金などで……」ここで一層お蝶は暗示的に、このようなことを云うのであった。
「あの[#「あの」に傍点]歌の後さえ解りましたら、金はなんぼでも出来るのですが。……あの歌の後を知っている者は右のこめかみに痣《あざ》のある老人ばかりなのでございます」
「私の父の右のこめかみにも、痣があるのでございますよ。……でも私の父などが……」
「後の歌をお聞き出しくださいまし」
(変だな)と京一郎は思うのであった。
(父がそんな歌を知っているだろうか?)――とにかくこういう経緯が、幾度か繰り返されて昨夜となった。そうして昨夜もお蝶と逢った。するとお蝶は嘲笑《あざわら》うような、いつもとは異う口吻で、このような意味のことを云った。
「あなた様とは今晩限り、お逢いすることは出来ますまい」
「何故?」と京一郎は胆を冷やし、うわずった声で訊き返した。
「さあ、何故と申しましても……」
 ここでお蝶は云いよどんだが、けっきょく京一郎が意気地《いくじ》がなくてお蝶の希望を叶わせようとしない、で愛想を尽かしてしまってお蝶一人でどこへとも行こう――そう決心をしたのであると、明瞭《はっきり》とではなかったが云った。
「ふーむ」と京一郎は考え込んだ。もうこの頃の京一郎は、お蝶がないことには一日として、生きて行かれないというほどにもお蝶に心を奪われていた。
 で彼はカッとしてしまった。カッとした心で夢中のように誓った。
「それでは必ず明晩にも……」
「そう」とお蝶は頷いて見せた。
「では妾は明日の晩には、あなた様のお家の裏口の辺でお待ちしていることにいたしましょう」
 その明日の晩が今となった。
 こうして母と話している間も、恋人が家の裏口にいるのだ――そういう気がかりが京一郎の心を、わくわくさせてならなかった。
「お母様!」と京一郎は語気を強めて云った。
「二十五歳になった時に、私は大金持ちになれるのだとよくお母様は申しました。お母様お願いいたします。今、お金持ちにしてくだされ!」
「京一郎や、まあお前は……」お才は声を顫《ふる》えさせて云った。
「そんなお前、勝手なことを!」
「ねえお母様、お金をくだされ!」
「そういうことも背後《うしろ》にいる女が……」
「ねえお母様、お金をくだされ!」

        

 例の歌についてお蝶の云った、あの言葉などは京一郎といえども、信ずることは出来なかった。あの歌の後につづく歌を、聞き出すことが出来たなら、大金を得られるというような言葉は。……まして自分の父親などが、そんな歌を知っていようなどとは、京一郎といえども信じなかった。
 で京一郎はそんな方面から、金を得ようとは思わなかった。が、母親が口癖のように、お前が二十五歳になったら、大金持ちになることが出来ると、そう云ったのを知っていたので、その金を今手に入れようと、母親に迫っているのであった。
「お母様お金をくだされ!」京一郎はお才へ迫った。断乎とした執拗な、兇暴でさえもある、脅迫的の京一郎の態度と、顔色と声とはお才の心を、恐怖に導くに足るものがあった。
 食いしばった歯が唇から洩れ、横手に置いてある行灯の灯に、その一本の犬歯が光った。頸に現われている静脈が、充血のためにふくらんでいる。膝に突いている両の拳の、何んと亢奮《こうふん》で顫えていることか! ――京一郎はそういう姿で、お才へ迫って行くのであった。
「京一郎や、まあお前は!」お才は思わず立ち上がった。
「まるで妾《わたし》を! ……どうしようというのだよ! ……」
「金だ!」と京一郎もつづいて立った。
「今! すぐにだ! ねえお母様!」
「狂人《きちがい》だ! お前は! ……おお恐ろしい! 誰か来ておくれ、京一郎が妾を!」
 ――こんなことがあってよいものだろうか! 母はその子に殺されるかのように、こう大声に助けを呼んで、縁から庭へ遁《の》がれようとした。
「お母様!」と追い縋った。
「誰か来ておくれ!」と障子をひらいた。
「逃げますか! お母様! コ、こんなに……頼んでも頼んでも頼んでも!」
 よーし! と猛然と追い迫った時、自然にまかせて生い茂らせ、長年手入れをしなかったため、荒れた林さながらに見える、庭木の彼方《あなた》に立っている、これはそういう林の中の、廃屋さながらの建物の中から、老人の歌声が響いて来た。


  かすかに見ゆる
  やまのみね
  はれているさえなつかしし
  舟のりをする身のならい
  死ぬることこそ多ければ
  さて漕ぎいだすわが舟の
  しだいに遠くなるにつれ
  山の裾辺の麦の小田
  いまを季節とみのれるが
  苅りいる人もなつかしし
  わが乗る舟の行くにつれ
  舟足かろきためからか
  わが乗る舟の行くにつれ
  色も姿もおちかたの
  深き霞にとざされぬ
  われらの舟路! われらの舟路!
[#ここで字下げ終わり]

 つれてバラードの楽の音が聞こえた。
「あッ!」とその刹那京一郎は、縁に突っ立って動こうともせず、首を伸ばして聞き澄ました。

        七


  (幽暗なる世界なるかな
  蠱物《まにもの》めきしたたずまいなるかな
  ここにある物は「現在」の頽廃、ここにある物は過去への思慕、ここに住める物は生ける亡霊、この部屋へ入る者は襲わるべし)

 こういう箴言《しんげん》が壁の一所に、掲げられていなければ不似合いである。――と、そんなように思われるほど、この部屋は陰気で悲し気で、他界的で気味が悪かった。
 京一郎の父で塩屋の主、お才の良人《おっと》の嘉右衛門が、十数年来孤独に住んでいる、庭の奥の林の中の、廃屋の中の部屋であった。万国地図と海図との懸かった、一方の壁へ背を向けて、背革紫檀の古風で寛濶な、肘掛椅子に腰をかけ、嘉右衛門はバラードを弾いている。六十歳ぐらいの年齢《とし》でもあろうか、頭髪は晒らした麻のように白く、頸《うなじ》にかかるまで長かったが、もう一度世に出る機会が来た時、穢れていては恥であると、そんなように思った心持ちからか、丁寧《ていねい》に手入れされていた。
 鋭い眼、食いしばったような口、大資本家型の猶太《ユダヤ》鼻、嘉右衛門はそういう顔をしていたが、右のこめかみに拇指《おやゆび》大の痣《あざ》が紫がかった黒い色に、気味悪く染め出されているために、不吉な人相をなしていた。長身であり肥大であった。で体格は立派なのであった。
 そういう彼と向かい合って、同じような椅子に腰をかけている、三十五、六歳の武士があったが、他ならぬ十二神《オチフルイ》貝十郎であった。
 その二人を取り巻いて、床の上や壁の面に、雑然と掛けられ置かれてある品の、何んと異様であることか。望遠鏡があり帆綱があり、羅針盤があり櫂《かい》があり、拳銃があり洋刀があり、異国船の模型があり、黄色く色づいている龍骨があり、地球儀があり、天気験器《ウェールガラス》があり、写真器《ドンクルガラス》がありホクトメートルがあった。
 壁に添ってハンモックが釣るされてあったが、そこには、人間が寝ていずに、和蘭《オランダ》あたりの船長でも着そうな、洋服が丸めて置いてあった。
 が、そういう品々は、十数年間人の手によって、手入れをされたことがないと見え、錆《さ》び、よごれ、千切れ、こわれ、塵埃《ちりぼこり》にさえも積もられていた。しかしそれよりもそういう品々やそういう人々を包んでいる、部屋の内部の構造《つくり》の、何んと不思議であることか。天井は黒く塗られている。壁も黒く塗られている。柱も黒く塗られている。壁にあるのは円形の窓で、天井にあるのはこれも円形の、玻璃《はり》で造られた明《あか》り窓《まど》で、そこに灯火《ともしび》が置いてあると見え、そこから鈍い琥珀色の光が、部屋を下様に照らしていた。それにしても天井が蒲鉾《かまぼこ》形に垂れ、それにしても四方の黒い壁が、太鼓の胴のそれのように、中窪みに窪んでいるというのは、いったいどうしたことなのであろう? こういう構造《つくり》は欧羅巴《ヨーロッパ》あたりの、商船のサロンの構造《つくり》ではないか。……まさに、それはそうであった。商船のサロンに則《のっと》ってつくった、部屋に相違なかった。
 思うに嘉右衛門が十数年前、この部屋へ世を避けてこもった時、考えるところあってこういう部屋をひそかに造ったものと見える。
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※[#歌記号、1-3-28]われらが舟路! われらが舟路!
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 最後の歌が終っても、尚バラードは鳴っていた。眼を閉じ追想にふけりながら、嘉右衛門が弾いているからであった。
 その嘉右衛門の顔の上に、天井から光が射していて、額を明るく照らしていた。顔を上向けているからである。閉ざされた眼の下瞼《したまぶた》の辺に――眼窩が老年で窪んでいるのでかなり濃い陰影がついていて、それが彼の顔を深刻にしていたが、尚その後をうたいつづけようとして、なかば開けた唇を、幽《かす》かに顫《ふる》わせている様子と、頬に青年のような血の色が、華やかに注《さ》している様子が、亢奮と感激と思慕と憧憬とに、充たされた顔をなしていた。
(さあもう一息だ! 一息でいい! もう一息で秘密は解けるだろう)
 向かい合って腰かけて嘉右衛門の顔を、熱心に見詰めていた貝十郎は喜びをもってこう思った。
(よし、もう一息駆り立ててやろう)で、彼はそそののかすように云った。
「空にまで届く大龍巻、丘のように浮かぶ大鯨。鰯《いわし》の大軍を追っかけて、血の波を上げる鯱《しゃち》の群れ、海の出来事は総て大きい! 赤い帆が見える! 海賊船だ! 黒い船体が島陰から出た! 真鍮《しんちゅう》の金具、五重の櫓、狭間《はざま》作りの鉄砲|檣《がき》! 密貿易の親船だ! 麝香《じゃこう》、樟脳、剛玉、緑柱石、煙硝、氈《かも》、香木、没薬《もつやく》、更紗、毛革、毒草、劇薬、珊瑚、土耳古《トルコ》玉、由縁ある宝冠、貿易の品々が積んである! さあ、日が落ちた、港へはいれ! 黎明《れいめい》が来たぞ、島へ隠れろ! ……大金がはいった、さあ上陸だ! 酒場、踊り場、寝台のある旅舎《はたご》! どれでも選べ、女を漁《あさ》れ! 飲め、酒だ、歌え! それよりもだ、バラードを鳴らして!」
 絶えようとしていたバラードの音が、この時活気を呈して来た。そうして嘉右衛門の見開かれた眼に、燠《おき》のような光が燃えて来た。
(歌うぞ?)と貝十郎は首を伸ばした。
(いよいよあの歌の次を歌うぞ!)亢奮せざるを得なかった。
 当然と云ってよいのである。彼はその歌を聞きたいがために、この夜ごろこの部屋へ入り込んで来て、なかば放心しなかば狂気し、しかも再び密貿易商として、海外へ雄飛しようとする夢を執念深く夢見していて、そのために気むずかしくなっており、そのために尊大になっており、あつかい悪《にく》くなっている、塩屋の主人の嘉右衛門を、すかしたりなだめ[#「なだめ」に傍点]たりおだて[#「おだて」に傍点]たりして、そうして絶えず亢奮させ、そうして絶えず昔を思い出させ、昔歌ったあの歌のつづきを、歌わせようと苦心をした、その苦心が報いられようとするのであるから。
(歌うぞ!)と貝十郎は耳を澄ました。(あの歌に秘めてある秘密などは、暗号というものの性質を、少しでも知っている人間にとっては何んでもなく解ける種類の秘密だ。一句一句の頭文字と、一句一句の末の文字とを、つなぎ合わせればそれで解ける秘密だ。最初の一句の頭文字は「か」という文字に他ならない。その次の句の末の末字は「ね」という文字に他ならない。こうしてつないで[#「つないで」に傍点]行くことによって、秘密は解けてしまうのだ。そうして俺は秘密を解いた。が、あれだけでは仕方がない。そうさ、「金は石の下、石は川の縁」と云ったところで、その川がどこの川だやら、その縁がどの川のどの辺の縁やら、解らないことには仕方がない。それを説明しているのが、後へ続く歌なのだ)
(歌うぞ!)と貝十郎は耳を澄ました。(後へ続くその歌を!)
 はたして嘉右衛門は歌い出した。
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※[#歌記号、1-3-28]………………
  ………………
[#ここで字下げ終わり]
 しかし言葉をなさない前に、にわかに歌うのを止めてしまい、顔を窓の方へやったかと思うと、
「汝《おのれ》ら、秘密を盗みに来たか!」
 こう叫んで立ち上がった。が、その次の瞬間には、腐った木のように床の上に仆れた。
 ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としてこれも立ち上がり、貝十郎は窓の方を見た。彼の眼に映ったものといえば、この家の伜の京一郎の顔と、お蝶のその実はこの時代の盗賊、六人男といわれている賊の、その中の一人の女勘助の、妖艶をきわめた顔であった。
「馬鹿め! あったら大事なところを!」
 貝十郎は残念そうに叫び、身をかがめて嘉右衛門の手を取った。が、その手には脉《みゃく》がなかった。激情が彼を殺したのである。

 後日、貝十郎は人に語った。
「嘉右衛門は本来密貿易商として、刑殺さるべき人間なのでしたが、財産を田沼侯へ差し上げたので、命ばかりは助けられたのでした。全財産を献じたと云っても、それは実は表向きで、彼は以前から大きな財産を、ひそかに隠して持っていて、その隠し場所を歌へ詠《よ》み込み、機嫌のよい時に一人で歌って、楽しんでいたということです。そうして女房だけへは云ったそうです。『京一郎が二十五にでもなり、俺の事が官から忘れられた頃、その財産を取り出して、昔のような豪快な、海の上の生活をやることにしよう』と。……そういう秘密の歌のことを、どうして館林様が知ったものか――ああいう叡智《えいち》のお方だから、どこからかお知りなされたのであろう。――秘密の歌の前半まで知って、後へつづく歌を知ろうとなされた。と云って嘉右衛門に強いて訊いても、剛愎の嘉右衛門が話すわけはない。伜の京一郎から訊かせたら、親子の情で話すだろう。……そこで手下の六人男と謀り、京一郎を玉にしたのでした。……あの時の喧嘩はカラクリなのでした。お蝶――女勘助の家へ――あの家は彼らの巣だったのでした。……逃げ込ませようためのカラクリだったのでした。それからの事はお話しなくとも推量する事が出来ましょう」

    木曽の旧家

        一

「あれーッ」
 と女の悲鳴が聞こえた。貝十郎は走って行った。森の中で若い美しい娘が、二、三人の男に襲われていた。しかし貝十郎の姿を見ると、その男達は逃げてしまった。
「娘ご、どうかな、怪我《けが》はなかったかな」
「はい、ありがとう存じます。おかげをもちまして」
「それはよかった。家はどこかな、送って進ぜる、云うがよい」
「はい、ありがとう存じます。すぐ隣り村でございまして、征矢野《そやの》と申しますのが妾《わたし》の家で……あれ、ちょうど、家の者が……喜三や、ほんとに、何をしていたのだよ……」
「お嬢様、申しわけございません。道で知人《しりあい》に逢いましてな」
 手代風の若者が小走って来た。こういう事件のあったのは明和二年のことであって、所は木曽の福島であった。

 その翌日のことである。
「どなたか! あれーッ、お助けください!」
 若い女の声がした。で、貝十郎は走って行った。駕籠舁《かごか》きが娘を駕籠へ乗せて、今やさらって行こうとしていた。
「こいつら!」と貝十郎は一喝した。駕籠舁きが逃げてしまった後で、貝十郎は女を見た。
「や、昨日の娘ごではないか」
「まあ」と娘も驚いたようであった。「あぶないところを重ね重ね」
「それはこっちでも云うことだが……」
「あれ、幸い家の者が……」
 三十五、六歳の乳母らしい女が、息をはずませて走って来た。
「お三保様、申しわけございません」

 その翌日のことであった。木曽川の岸で悲鳴がした。
(ひょっとするとあの女だぞ)
 思いはしたが貝十郎は、声のする方へ走って行った。筏師《いかだし》らしい荒々しい男が、お三保を筏へ引きずり込み、急流を下へ流そうとしていた。しかし貝十郎の走って来るのを見ると、筏師と筏とは川下へ逃げた。「娘ご、これで三度だな」「重ね重ね、ほんとうにまあ……」「隣り村はなんという村だ?」「駒ヶ根村でございます。……爺や、お前、何をしていたのだよ」「はいはいお嬢様、申しわけもない……」
 六十近い下僕《しもべ》らしい男が、汗を拭き拭き走って来た。
(あれ、幸い、家の者が――と云う段取りになったという訳か)貝十郎は思い思い別れた。
(俺を釣ろうとの計画とも見えれば、連続的偶然の出来事とも見える)旅籠屋|舛屋《ますや》へ帰ってからも、貝十郎は考え込んだ。
(よし、面白い、探って見よう)で、翌日駒ヶ根村へ出かけた。
 用があって木曽へ来たのではなかった。風流から木曽へ来たのであった。よい木曽の風景と、よい木曽の名所旧蹟と、よい木曽の人情とに触れようために来たのであった。
 与力とは云っても貝十郎は、この時代の江戸の名物男であり、伊達男《ダンデー》であり、風流児であり、町奉行の依田和泉守などとは、そういう点で憚《はばか》りのない、友人|交際《つきあい》をしていたので、そういうわがままは大目に見られていた。
 上松の宿まで来た時である。貝十郎は茶店へ休んだ。
「征矢野という家がこの辺にあるかな?」
 茶店の婆さんへ何気なく訊いた。
「へい、いくらでもございますだ」
「ナニ、一軒で沢山なのだが、美しい娘のある家だ」
「木曽は美人の名所でごわしてな」
「有難う」と貝十郎は笑って受けた。「婆さんなんかもその一人だね」
「へい、御意《ぎょい》で、三十年前には」
「三十年前の別嬪については、いずれ詮索をするとして、三保という娘のいる家だが……」
「あれ、お三保お嬢様のお家でがすか」
「さよう。お前の親戚かな」
「とんでもねえ」と婆さんは撥ねた。「勿体もねえご旧家様でごわす」
「そのご旧家様、どこにあるかな?」

        

 旧家であって財産家ではあったが、主人も主婦も死んでしまい、娘一人が生き残り、主人の弟の隼《はや》二郎という男が、後見人として入り込んでいる。上松の宿から三里あまり、山の方へはいった鷺ノ森という地点に、宏大な屋敷が立っている。――と云うのが茶店の老婆の話した、征矢野という家の輪廓であった。
(もうこれだけでも犯罪の起こる、立派な条件が具備されている)鷺ノ森の方へ歩きながら、貝十郎はそんなように思った。
(隼二郎という男が悪人で、征矢野という家を横領しようとする。後継者の娘が邪魔になる。悪漢《わるもの》に云いつけてお三保という娘を、傷者《きずもの》にするか誘拐《かどわか》させる。……平凡に考えてもこんなような、犯罪の筋道はちゃんと立つ)貝十郎は歩いて行った。
 木曽の五木と称されている、杜松《ねず》や羅漢柏《あすなろ》や椹《さわら》や落葉松《からまつ》や檜《ひのき》などが左右に茂っている。山腹の細道は歩きにくく、それに夕暮れでもあったので、気味悪くさえ思われた。空を仰いでも左右から差し出した木々の枝葉に蔽われて、夕焼けた細い空が帯のように覗かれて見えるばかりであった。足にまつわる草や蔓には、露があって脚絆《きゃはん》を冷たく濡らした。
 かなり歩いたと思った時、行く手の灌木の向こうから、若い男女の話し声が聞こえた。
「ね、いいじゃアありませんか。……いつまで待てとおっしゃるのでしょう。……」
「いいえ、いけませんの、どうぞ勘忍して。……妾《わたし》、辛いのでございますわ。……だって、叔父様が……ね、ですから……」
「叔父様が何んです! そんなもの! ……ああ私はどうしたらいいのだ! ……もう待てないのです、とても私には! ……若さだって過ぎてしまいます! ……逃げましょう、いっそ、ね、二人で! ……」
(ははあ)と貝十郎は微笑した。(野の媾曳《あいびき》っていうやつだな。度を越すと野合という奴になる。……)
「三保子!」と突然荒々しい、男の声が聞こえて来た。「何をしている。家へ帰れ!」
「あれ、叔父様、まあどうしよう! ……鏡太郎さん早く逃げて!」
 鏡太郎の逃げる足音が聞こえた。
(やれやれ)と貝十郎は苦笑をした。(叔父さんという奴は大概の場合、粋な人間に出来ているものだが、ここの叔父様は逆だったわい。待て待て、三保子と呼んだようだった。では女はお三保なのか、とすると叔父と云うのは後見をしている、隼二郎という男だな。隼二郎叔父さんを見てやろう)
 で、貝十郎は灌木を巡り、横手の方から前の方を見た。紅い帯を結んだ初々しいお三保の姿――背後《うしろ》姿が見え、その前に立っている痩躯長身の、四十年輩の男の姿が見えた。蒼白い顔色、黒い頤鬚が、陰険の相をなしていた。落ち窪んだ眼窩の奥の方で、瞳がチロチロ光っていたが、それも人相を深刻にしていた。
(これは大変な怪物だぞ)貝十郎は眉をひそめた。(俺に取っても強敵らしいぞ)
 隼《はや》二郎はお三保に何か云っていた。しかしきわめて低声だったので、貝十郎へは聞こえなかった。と、二人は歩き出した。そうして間もなく見えなくなった。
 行く手に小広い野があって、丘がいくつか連らなっていたが、その丘の向こうに征矢野《そやの》の屋敷が、どうやら立っているようであった。
(さて、これからどうしたものだ)貝十郎は思案した。
(とにかく征矢野家まで行って見ることにしよう)しかし十歩とは歩かなかった。
「もし、お武家様、お待ちなすって」こう背後《うしろ》から呼ばれたからである。振り返った貝十郎の眼の前にいたのは、二十四、五歳の若い男であった。
「何か用かな」と貝十郎は訊いた。
「へい」と若い男はニヤニヤ笑った。「あの娘、別嬪《べっぴん》でございましょうがな」
(厭な奴だな)と貝十郎は思った。で、黙って男を見詰めた。
「三保子様は別嬪でございますとも」自信がありそうに若い男は云った。「云わば花野の女王様で」
(こいつ馬鹿だ!)と貝十郎は思った。(でなかったら色情狂だ)
「それに大層もない財産家で」
(おや、こいつ、慾も深いぞ)貝十郎は降参してしまった。
(山の中へ来ると変な奴に逢うぞ)
「お武家様、あなた見ていましたね」

        

「何を?」と貝十郎は不愉快そうに訊いた。
「私と三保子様との恋三昧をでさあ」
「…………」
「旦那、邪魔をしちゃアいけませんぜ」
「貴様は誰だ!」
「鏡太郎って者だ!」
(ふうん、こいつが鏡太郎なのか)改めて貝十郎は鏡太郎を見た。
 ベロッとした顔、ベロッとした姿、――そういう形容詞が許されるなら、鏡太郎はそういう顔と姿の、持ち主と云わなければならなかった。つまり甞めたような人間なのであった。甞めたように額がテカテカしており、甞めたように頤がテカテカしていた。衣裳などでもテカテカ光っていた。都会の軟派の不良青年――と云ったような仁態であった。しかし太々しい根性は、部厚の頬や三白眼の眼に争い難く現われていた。
(ははあこいつ色悪だな)と貝十郎はすぐに思った。(こいつに比べると隼二郎の方が、まだしも感じがいいと云える。――どっちがいったい悪党なんだろう? ちょっと見当がつかなくなった。江戸にいると俺は見透しなんだが、田舎へ来るとそういかなくなる。田舎は性に合わないと見えるぞ)
「旦那」と鏡太郎が嘲笑うように云った。「ただのお武家さんじゃアなさそうですね。それにお前さんあの女に、特別の興味を持ったようですね。が、ハッキリ云って置く、手を引いた方がようござんしょうと。……鷺ノ森へ来たお前さんだ、征矢野の家のお客なんだろうが、あの女へチョッカイは出さない方がいい」
「うるさい下司《げす》だな、何を云うか!」
「何を、箆棒《べらぼう》、怖いものか」
「行け!」
「勝手だ」
「白痴者《たわけもの》め」
 云いすてて貝十郎は先へ進んだ。
(まるで俺の方が脅されたようなものだ)苦笑せざるを得なかった。(幸先必ずしもよくないぞ)
 その時彼の背後《うしろ》の方から梟《ふくろう》の啼き声が聞こえて来た。つづいて雉《きじ》の啼き声がした。呼び合い答え合っているようである。
(これはおかしい)と思いながら、貝十郎は振り返って見た。灌木の傍らに男女がいた。一人は例の鏡太郎であり、もう一人は見知らない女であって、髷の一所《ひとところ》が夕日を受けて、白く光っているのが見えた。

 征矢野家の客間は賑わっていた。大勢の客がいるのである。その中に貝十郎もいた。
「これはようこそおいでくださいました。ずっとお通りくださいますよう。主人も喜ぶでございましょう。皆様お集まりでございます」
 宏大な征矢野家の表門まで、貝十郎が行きつくや否や、袴羽織の家人が出て来て、こう云って貝十郎を案内しようとした。
「いや、拙者は、何も当家に。……単にこの辺へ参ったもので……」
 当惑して貝十郎はこう云ったが、家人は耳にも入れなかった。待っていた客を迎えるようにして、貝十郎を客間へ通した。
 その客間には貝十郎よりも先に、大勢の客が集まっていたし、貝十郎の後から、幾人かの客が、招じられてはいって来た。
 征矢野家の客間は賑わっていた。
(これまでのところ俺の負けだ)貝十郎はキョトンとした心で、むしろ憂欝と不安とを抱いて、柱へ背をもたせ座布団を敷き、出された酒肴へ手をつけようともせず、彼の左右で雑談している、人々の話をぼんやりと聞き、その合間にそんなことを思った。(これまでのところ俺の負けだ。何から何まで意表に出られる)
「ともかくも先代は人物でしたよ」
 修験者らしい老人が、盃を口から離しながら、隣席《となり》の商人らしい男に云った。「衰微していた征矢野家を、一時に隆盛にしたのですからな。修験道から云う時は『狐狗狸変様蒐珍宝』――と云うことになりますので」
「さようで」と商人はすぐに応じた。「商法の道から申しますと、十ぱい[#「ぱい」に傍点]買った米の相場が、一夜で十倍に飛び上がったようなもので」
 するとその隣りに坐りながら、いいかげんに酔っているところから、相手があったら言葉尻でも取って、食ってかかろうと構えている、博徒《あそびにん》らしい若者がいたが、
「一時に金持ちになるような奴に、善人なんかありませんや。その証拠にはここの先代だって、あんな死に態《ざま》をしてしまった。罪ほろぼしというところで、毎年命日がやって来ると、当代の主人がこんなように諸人接待のご馳走をするが、それだけ引け目があるって訳さね」

        

(そうか)と貝十郎は胸に落ちた。(諸人接待の饗応だったのか。それで俺のような人間をも、有無を云わせず連れ込んだのか。……それはそれとしてこの家の先代には、何か犯罪があるらしいな)
 で、貝十郎は聞き耳を立てて、客人達の話を聞いた。
「一人の老人の旅の者が、何んでもこの家へ泊まったのだそうです」貝十郎のすぐ側《そば》に坐って、肴《さかな》をせせっていた村医者らしい、七十近い老人が、声をひそめて他聞を憚るらしく、自分の前に坐っている、これも六十を過ごしたらしい、寺子屋の師匠とでも云いたげの、品のある老人へ囁いた。「ところがそれっきり旅の者は、この家から姿を隠したそうで。つまりこの家から出ても行かず、またこの家におりもせず、消えてなくなったのだということで」
「さよう私もそんな話を、たしか若い頃に聞きましたっけ。その時以来この征矢野家は、隆盛に向かったということですな」寺子屋の師匠は相槌を打った。「ところがその後ずっと後になって、ごろつき[#「ごろつき」に傍点]のような人間が、この征矢野家へやって来て、先代を強請《ゆす》ったということですな」
「さようさようそうだそうです。親父《おやじ》を生かして返してくれ、それが出来なかったら財産を渡せ――こう云って強請《ゆす》ったということで」
「ところがその男もいつの間にか、姿が失《な》くなってしまったそうで」
「そこで私はこう思いますので」村医者らしい老人は云った。
「ここの屋敷を掘り返したら、浮ばれない無縁の二つの仏が、白骨となって現われようとね」
「まさにね」と寺子屋の師匠が云った。「と思うとここにあるご馳走なども、血生臭くて食えませんよ」
「先代が裏庭の松の木の枝で、首を縊って死んでいたのを、私は検屍をしたのでしたが、厭な気持ちがいたしましたよ」
「私は現在ここの娘の、お三保さんに読書《よみかき》を教えているのですが、どうも性質が陰気でしてな」
(なるほど)と貝十郎はまた思った。(そういう事件があったのか。ここの先代は悪人なのかもしれない)
(しかし)と貝十郎はすぐに思った。(田舎の旧家というような物には、荒唐無稽で出鱈目な事が、伝説のような形を取って、云いつたえられているものだから、そのまま信用することは出来ない)
 ――それにしても主人の隼二郎も、娘のお三保と接待の席へ、何故姿を見せないのだろう? このことが貝十郎を不思議がらせた。
 袴羽織の召使いや、晴衣をまとった侍女などが、出たりはいったりして酒や馳走を、次から次と持ち運び、酌をしたり世辞を振り蒔いたりしたが、隼二郎とお三保とは出て来なかった。燭台が諸所に置かれてあり、それの光が襖や屏風の、名画や名筆を華やかに照らし、この家の豪奢ぶりを示していた。
 客の種類は雑多であった。村の者もいれば隣村の者もおり、通りがかりの旅人もいれば、接待の噂を聞き込んで、馳走にあずかりに来たものもあった。僧侶の隣りに浪人者がいたり、樵夫《きこり》の横に馬子がいたりした。
「お武家様おすごしなさりませ。妾《わたくし》、お酌いたしましょう」不意に横から云うものがあった。
「うむ」と貝十郎はそっちを見た。
 いつの間にそこへ来ていたものか、山深い木曽の土地などでは、とうてい見ることの出来ないような、洗い上げた婀娜《あだ》な二十五、六の女が、銚子を持って坐っていた。三白眼だけは傷であったが、富士額の細面、それでいて頬肉の豊かの顔、唇など艶があってとけそうである。坐っている腰から股のあたりへかけて、ねばっこい蜒《うね》りが蜒っていて、それだけでも男を恍惚《うっとり》させた。
「これは……」と貝十郎は思わず云ったが、釣り込まれて盃を前へ出した。
「はい」と女は上手に注いだ。
 キュッと飲んで置こうとするところを、
「お見事。……どうぞ、お重ねなすって」
 云い云い女は片頬で笑い、上眼を使って流すように見た。
「では……」「はい」
「これはどうも」「駈け付け三杯、もうお一つ」「さようか」「さあさあ」「こぼれましたぞ」
「これは失礼。……ではその分を……」「え?」

        

「いいえさ、今度こそ上手に、ホ、ホ、散らぬようお注ぎいたします」
「うーん、どうもな、大変な女だ」
「まあ失礼な、お口の悪い」
「いやはや、ご免、地金が出ました」
「今度は罰金でございます」
「と云うところでもう一つか」
「それもさ、今度は大きい器《うつわ》で」
「これは敵《かな》わぬ」「敵わぬついでに」
「降参でござる。もういけない」
「では妾《わたくし》が助太刀と出ましょう」
「おお飲まれるか、これは面白い。……さあさあ拙者が注ぎの番か」
「はい、ご返盃」「あい、合点」
「ねえお武家様」と女は云った。「江戸のお方でございましょうね」
「ナーニ、奥州は宮城野の産だ。……そなたこそ江戸の産まれであろうな」
「房州網代村の産でござんす。……ご免遊ばせ」
 とスッと立ち、向こう側の座席へ行ってしまった。
(驚いたなあ)と貝十郎は、胸へ腕を組んで考えた。(どういう素姓の女だろう? ……それにしてもすっかり酔わされたぞ)その時寺子屋の師匠の声がした。
「お豊、あの女が曲者でしてな」
「さようで」と村医者の声がした。「隼二郎殿もお蔭で痩せましょうよ」
 こうして接待は深夜まで続いた。その間に土地の人達は、次々に辞して家へ帰り、旅の者だけが希望《のぞみ》に委せて、別々の座敷で寝ることになった。
 貝十郎の案内された部屋は、十畳敷きぐらいの部屋であって、絹布の夜具が敷かれてあり、酔ざめの水などが用意されてあった。
(さて、これからどうしたものだ)貝十郎は布団の上へ坐り、ぼんやり行燈を眺めやった。したたかに彼は飲まされたので、酔がすっかり廻っていた。(何んにもなすことはないじゃアないか。フラリとやって来てご馳走になって、いい気持ちに酔ったのだからな。このままグッスリ眠ってしまって、翌日になったら顔を洗い、有難うござんしたとお礼を云って、帰ってしまったらいいじゃアないか)彼はこんなことを思い出した。(何も征矢野家の犯罪って奴を、あばき出そうために来たのじゃアない。たかだか酔狂な好奇心から、様子を探るために来たまでだ。探る必要はあるまいよ)トロンとした心でこんなことを思った。(叩いた日にはどんなものからだって、罪悪という埃は立つさ。こういう俺だってひっ[#「ひっ」に傍点]叩かれて見ろ、そりゃア目茶苦茶に埃は立つ)ここまで考えて来ておかしくなった。(二百石取りの与力の俺がさ、蔵前の札差しと対等に、吉原で花魁《おいらん》が買えるんだからな。不思議と云わなければならないよ。そういう贅沢がどうして出来る? と、歯ぎしりをして問い詰められて見ろ、ダーとなって引っ込んでしまわなければならない)

 そこで寝てしまおうと帯を解きはじめた。その時どこからともなく、雉《きじ》の啼き声が聞こえて来た。すぐに続いて梟の啼き声が、――こんな深夜だのにそれに答えて、どこからともなく聞こえて来た。
(いけない)と貝十郎は帯を解く手を止め、その手で大小を手《た》ばさんだ。与力としての良心が、にわかに閃めいたからである。襖をあけて廊下へ出た。しかしすぐによろめいた。(はてな、悪酔いをしたらしいぞ)
 ヒョロヒョロヒョロヒョロと先へ進んだ。

        

 廊下の片側が雨戸になっていて、その一枚が開いていたので、そこから裏庭へ出て行った時にも、貝十郎の酔は醒めていなかった。
 遅い月が出て植え込みの葉が、いぶし銀のように光っている蔭から、男女の話し声が聞こえて来た時には、しかし貝十郎も耳を澄ました。
「おい豊ちゃんどうなんだい」
「鏡ちゃん、駄目だよ、まだなんだよ」
「駄目、へえ、どうして駄目なんで?」
「あの人どうにも固いのでね」
「何んだい、豊ちゃん、意気地《いくじ》がないなあ」
「鏡ちゃんだって意気地がないよ。二度も三度も縮尻《しくじ》ったじゃアないか」
「邪魔がそのつど出やがるのでね。それもさいつも同じ奴が。江戸者らしい侍なんだよ」
「江戸者らしい侍といえば、妾もそういうお侍さんへ、酒を飲ませて酔いつぶしてやったよ」
「邪魔の奴はつぶ[#「つぶ」に傍点]してしまうがいいなあ。……でないといい目が見られないからなあ。……豊ちゃんと俺《おい》らとのいい目がさ」
「そうとも」と女の声が云った。愛を含んだ声[#「含んだ声」は底本では「含ん声」]であった。
「そうとも二人のいい目がねえ。……妾《わたし》アお前さんが可愛くてならない」
 それっきり、声は絶えてしまった。
(オーヤ、オーヤ)と貝十郎は思った。(ここでも媾曳《あいびき》が行われている。悪党同士の媾曳だ。鏡太郎とそうしてお豊とらしい)(悪くないな)としかし思った。(罪悪のあるらしい旧家の裏庭で、美貌の若者と美貌の女とが、月光に浸りながら媾曳をしている。詩じゃアないか! 詩じゃアないか! そいつを与力が立ち聞きしている。詩じゃアないか! 詩じゃアないか! ……厭だよ、こんないい光景を「御用だ!」などという野暮な声を出して、あったらぶち壊してしまうのは。……こっそり逃げて帰ってやろう)
 酔がさせる業であった。与力の方から逃げ出したのである。
 彼は家へははいらなかった。庭を巡ってどこまでも歩いた。
 宏大な建物を囲繞《いにょう》して、林のようにこんもりと、植え込みが茂っている庭であり、諸所に築山や泉水や、石橋などが出来ており、隔ての生垣には枝折戸《しおりど》などがあったが、鍵などはかかってはいなかった。幾個《いくつ》かの別棟の建物があり、厩舎《うまや》らしい建物も、物置きらしい建物も、沢山の夫婦者の作男達のための、長屋らしい建物もあった。夜が更けているところから、どの建物からも灯火《あかり》は射さず、人の声も聞こえなかった。厩舎の前まで行った時、ませ[#「ませ」に傍点]棒を蹴っていた白い馬が、人なつかしそうに首を伸ばし、太い鼻息をして貝十郎を迎えた。横射しに射していた月光が、その長い顔をいよいよ長く見せた。
 貝十郎は彷徨《さまよ》って行った。と、行く手に建物があり、そこから灯火が射していた。主屋と五間ほど離れた所に、独立して建ててある建物であって、二間か三間かそれくらいの座敷を、含んでいる程度の大きさであり、主屋とは幾個かの飛び石をもって、簡単に連絡されていた。風変わりの建物でもなかったが、頑丈にしかして用心堅固に、造られているように見て取られた。三方厚い壁であり、その壁々には明りとりの、鉄格子をはめた窓ばかりが、わずかについているばかりであった。主屋《おもや》に向いた方角に、出入り口がついていた。土蔵づくりの建物なのである。燈火は出入り口から射していた。戸をとざすのを忘れたからであろう。射している光もほんの幽《かす》かで、他の幾棟かの建物から、同じように光が射していたら、紛れて気づかれないほどであった。
 貝十郎はそっちへ進んだ。入り口の前まで歩いて行った時、彼は女の泣き声と、そうして男の叱る声とを、その建物の中から聞いた。
(オーヤ、オーヤ)と彼は思った。(ここでは女が虐められている。反対側のあっちの庭では、男と女とが愛撫し合っていたが)
 彼はしたたかに酔っていた。そうして彼は与力であった。与力としての精神と、酔漢としての戯心《たわむれごころ》とで、彼は真相を知ろうと思った。
 で、足音を忍ばせて、建物の中へはいって行った。泣きながら女の喋舌《しゃべ》る声が、すぐ彼へ聞こえて来た。
「妾《わたし》、もうもう待てません。……これではまるで嫐《なぶ》り殺しです。……今夜こそ……どうしたって……でなかろうものなら……」
 男の叱る声が聞こえた。
「ね、あっちへ行っておいで。……お前の心は解っているよ。……が、しかしそう性急には……物事にはすべて順序がある。あの……娘《こ》を……ね、三保の方を……三保は年頃になっているのだから。……それに私《わし》には仕事がある。……これもどうしたって仕上げなければならない。……だからこそ私《わし》はこんな所へ……ああそうだよ。こんな所へこもって……」
 泣きながら反対する女の声がした。
「ですから三保子様を早くどなたかへ。……鏡太郎さんというあの人へでも。……お仕事! ああ、そのお仕事です! どんなに妾はそのお仕事を、憎んで憎んで憎んでおりますことか! ……そのためあなたは人相までも、変わってしまったではありませんか! ……二つの骸骨! 壊してしまおうかしら!」
「これ、お豊! 何を云うのだ!」
「旦那様! いいえ隼二郎様」
「お豊、私《わし》はお前を愛している。……ね、それだけは信じておくれ」
「妾《わたし》も、ええ妾《わたし》もですの」二人の声はここで切れた。
(さて)と貝十郎は苦笑して思った。(この後は抱擁ということになるのさ)
 彼の足下には二尺幅ぐらいの、狭い廊下が左右に延び、同じくらいの狭い廊下が、前方へ向かっても延びていた。丁字形になっている廊下の中央に、彼は佇んでいるのであった。その前方に延びている廊下の、右側に大きな部屋があり、部屋の扉が開いているので、燈火と人声とが洩れて来るのであった。数歩進んで扉の口まで行き、そこから内を覗いたなら、内の様子は見えるのであった。内部の一部――床の端だけは、ここにいる貝十郎にも見て取れた。畳が敷いてないのである。板張りになっているのである。
(お豊とそうして隼二郎なのか。……いや、腕の凄い女ではある。あっちの庭では年の下の、美少年と媾曳をしたかと思うと、こっちの部屋では年の上の、金持ちの旦那を口説いている、同じ晩にさ、わずかの時間にさ。……あんな女は都会にも少ない。どうにも俺は田舎が嫌いだ)

        

 この時隼二郎の声が聞こえた。
「杉田玄伯殿、前野良沢殿、あの人達と約束したのだよ、私の方が早く仕とげて見せると。……江戸でああいう人達と一緒に、研究していた頃は面白かった。……後見人となってこの家へ入り、木曽山中のこんな所で、くらしをするようになってから、私には面白い日がなくなってしまった。……お前が来てからそうでもなくなったが。……さあ私《わし》はやらなければならない。……さあお前はあっちへ行ってお休み。……あの娘が眼でも醒ますといけない。……私《わし》はあの娘《こ》を愛している。……どうもあの娘には誘惑が多い。……無理はないよああいう身分だから。……あの娘《こ》を幸福にしてやることが、死んだ兄さんへの大切な義務だ。……今日は兄さんの死んだ日だったね。……そうだ諸人接待の日だった。……私はこの日が来る度ごとに、鞭撻されるような気持ちがする。いやいや鞭撻されようために、今日を諸人接待の日に、取り決めたのだと云った方がいい。……兄さんは死ぬ前に私にあてて、気の毒な手紙をよこしたのだよ。悲痛の手紙と云ってもよいが。……お前は向こうへ行っておくれ。……ああ少し待っておくれ。接待に来てくれた人の中に、変わった人があったかしら?」
「いいえ」とお豊の云う声が聞こえた。「でも猪之助が来ていました」
「猪之助? おお猪之助が。……あの破落戸《ごろつき》が! 執念深い! ……兄の悪口を云っていたであろうな」
「ええ申しておりました」
「去年も来た、一昨年《おととし》も来た。……普通の日にもやって来て、私を強請《ゆす》ったことさえある。……あいつは誤解をしているのだ。……いやいやいや、誤解ではないが。……お豊や、私は気持ちが悪くなった。お前は向こうへ行って休むがよい」
 ここでしばらく話が絶え、やがて足音が聞こえて来た。貝十郎は身を翻えしたが、素早く廊下を右の方へ走り、闇に立って窺った。と、すぐにお豊の姿が、戸口から出て庭の方へ行った。と、庭から驚いたような、お豊の声が聞こえて来た。
「ま、猪之助さん! どうしたのです!」
 男の答える声がしたが、兇暴な響きを持っていた。
「退け! 今夜こそ埒《らち》をあけるんだ!」
「いけません! ……おお、誰か来てください!」
「敵《かたき》だ! 畜生め! 親の敵だ! ……待って待って待っていたのだ! ……他国からこの地へやって来て、こんな山の中へ住み込んで! 金……命を取るか、金を取るかと! ……やい、放せ! 埒をあけるのだ!」
「危険《あぶな》い! そんな、刃物なんか! ……誰か来てください! あッ誰か!」
(これはいけない)と貝十郎は、素早く入り口の方へ走って行った。が、こういう瞬間にも彼は疑問を脳裡へ浮かべた。
(俺の耳へさえ聞こえて来たのだ。隼二郎にも聞こえなければならない。どうして助けに行かないのだろう?)――で彼は庭へ飛び出すより先に、隼二郎のいる部屋を覗いて見た。
「いない! ……どうしたのだ、隼二郎はいない!」
 部屋は洋風に出来ていて、巨大な飾り棚や頑丈な卓や、椅子や書架が置いてあり、卓の上には杉田玄伯や、前野良沢や大槻玄沢や、貝十郎にとっては知己にあたる、そういう蘭医達の家々で見かける、外科の道具類が置いてあり、書棚には書物が詰めてあった。
 その部屋に隼二郎がいないのである。では隣室へでも行ったのであろうか? いやその部屋は四方壁で、出入り口は一つしか附いていなかった。窓はあったが閉ざされていた。そうして一つだけの出入り口からは、お豊が出て行ったばかりであって、隼二郎は出ては行かなかった。それは貝十郎も見て知っていた。
(これはいったいどうしたことだ)

        

 しかし貝十郎は部屋の中へはいって、隼二郎を探そうとはしなかった。この時またも庭の方から、女と男の叫び声が、逼迫して聞こえて来たからであった。で、貝十郎は飛び出して行った。月光の中でお豊と猪之助とが――諸人接待の馳走の席で、憎々しい反抗的態度と言葉とで、征矢野家の先代の悪口を、憚らず云っていたごろつき[#「ごろつき」に傍点]のような男――その猪之助とが格闘していた。と、前方から一つの人影が、二人目がけて走って来た。
「鏡ちゃん! いいところへ! 早く来ておくれ!」
「姉さん! あぶない! ……おのれ猪之助!」
「何を、こいつら! 邪魔をするな!」
 二人の格闘が三人となった。貝十郎は走って行こうとした。悪酔いがいまだに醒めなかった。足が云うことを聞かなかった。
「わッ」「斬ったな!」「態《ざま》ア見やアがれーッ」「あれーッ! 皆さん! 来てくださいヨ――!」
 一人が地上へぶっ倒れた。と、つづいてもう一人倒れた。そこから一人が走り出して来た。
「待て!」と貝十郎は身を挺して、走って来た猪之助を遮《さえぎ》ろうとした。体が云うことをきかなかった。
「邪魔だ! こいつも!」
 ドッとぶつかっ[#「ぶつかっ」に傍点]た。よろめいた貝十郎の横をすり抜け、土蔵づくりの建物の中へ、猪之助は一散に走り込もうとした。と、赤い一点の火が、花の蕾のような形を取って、建物の入り口から現われた。扉がその背後《うしろ》で閉ざされている。
「ね、叔父様はお仕事中よ、ですからはいっちゃアいけませんの」
 焔の立っている蝋燭を持ち、その光に顔を輝かせ、佇んでいる娘がそういうように云った。それは他ならぬお三保であった。隣りの部屋に眠っていたところ、庭での騒ぎが起こったので、驚いて様子を見に来たものらしい。処女らしい美しさが驚きのために、純粋性を増して見えた。唇がポッとひらいている。眼が大きくひらいている。
「ああ、あなた猪之助さんね。……どうなさいました、匕首など持って。……」
「…………」
 静が動を制したらしい。猪之助は呆然として突っ立っていた。

 地下室は決して暗くはなかった。
 明るい燈火《ともしび》に照らされて、その地下室の上にある部屋――隼二郎の部屋の舶来の、いろいろの外科の道具よりも、もっといろいろの外科の道具が、卓や棚に備えつけられてあった。そうしてその地下室の一所に、立派な柩が二つ置かれてあり、その中に二つの骸骨が研究材料のように置かれてあった。
 そうしてその側の机によって、庭に騒ぎなどあろうとも知らず、隼二郎が手紙を読んでいた。それは古びた手紙であって、諸人接待の日が来るごとに、読むことに決めている手紙であった。
「弟よ、私は自殺をする。私は家を興そうとして、物質ばかりに齷齪《あくせく》した。そうしてそのため二人の人をさえ殺した。一人は大金を持っていたからだ。一人は私の犯罪を知って、恐喝をしに来たからだ。自責のために私は死ぬ。私が縊死をした松の木の下を、試みに掘って見るがよい。二つの骸骨が出るであろう。私の殺した二人の人の骨だ。……お蔭で私は財を貯えた。お前に善用して貰いたい。私と違って学究のお前だ。その方面で尽くしてくれ。娘を頼む、三保を頼む」

 後日貝十郎は人に語った。「征矢野周圃といえば木曽の蘭医で、骨格の研究では最も早く、よい文献を出している人で、その方面では有名なのだそうです。隼二郎がつまり周圃なのです。例の二つの骸骨で、実地研究をしたのだそうです。お豊という女は悪人ではなく、周圃が江戸にいた頃から、周圃を愛していた女なので、周圃が木曽へはいってからは、家政婦として入り込んで来て、周圃の研究を助けながら、周圃と夫婦になろうとしたのです。ところが周圃は真面目なので、姪のお三保に婿を取るまでは、夫婦にならないと云っていたのです。そこでお豊は弟を呼び寄せ――鏡太郎というのはお豊の弟で、これも大した悪人ではなく、軟派の不良の少年だったのですが、弟とは云わずに附近に住ませ、お三保とくっつけ[#「くっつけ」に傍点]ようとしたのです。お三保が誘惑に応じないので、誘拐しようとまでしたのです。だが可哀そうに鏡太郎もお豊も、猪之助に切られたのが基となって、間もなく死んでしまいました。猪之助ですか、ありゃア解りません。二つの骸骨の縁辺《みより》なのか、秘密を知っていて強請《ゆす》りに来たものか、その辺ハッキリ解りません。素ばしっこく逃げてしまいましてね、その後|行方《ゆくえ》が解らないのです。……どっちみち私は田舎は嫌いだ。田舎へ行くと目違いをします。……征矢野家の先代の罪悪を、あばけば発くことは出来るのですが、そんな必要はありませんでした。隼二郎氏が真面目にやっているのですから、浄罪的な立派な仕事ですよ」

    妖説八人芸

        

 昼の海は賑わっていた。人達が潮を浴びていた。泳ぎ自慢に沖の方へ、ズンズン泳いで行く若者もあった。渚《なぎさ》に近い浅い所で、ボチャボチャやっている老人もあった。そうかと思うと熱い砂の上へ、腹這っている中年者もあった。小舟に乗って漕ぎ出す者もあれば、小舟に乗って帰って来る者もあった。桟橋の上を彷徨《さまよ》いながら、海にいる人達を眺めている、女や子供の群もあり、脱衣場で着物を脱いでいる者もあった。
 岸に近い海は濁っていたが、沖の方へ行くに従って、緑の色を深めていた。波が来た! 大きな波が! 波が崩れて飛沫《しぶき》を上げた。と、そこから笑い声が起こった。
 帆船が遠くの海の上を、野茨のように白く蠢《うごめ》いていれば、浜の背後を劃している、松林が風で揺れてもいた。海は向こうまで七里あり、対岸には桑名だの四日市だのの、名高い駅路《うまやじ》が点在していた。
 よく晴れた日で暑かった。
 と、一人の美しい娘が、島田髷をつやつやと光らせながら、貸し別荘のある林の中から、供も連れず一人で歩いて来たが、ひょいと砂地へかがみ込んだ。彼女の前にある物といえば、脱ぎすてられた潮湯治客の衣裳や、潮湯治客の持ち物であった。
 彼女は間もなく立ち上がった。そうしてソロソロと歩き出した。何んの変わったこともない。とまた彼女はかがみ込んだ。彼女の前にある物といえば、脱ぎすてられた潮湯治客の衣裳や、潮湯治客の持ち物であった。
 彼女は間もなく立ち上がった。そうしてソロソロと歩き出した。何んの変わったこともない。と彼女は脱衣場へ上がり、あたりを見廻して佇んだ。
 派手な模様の白地の振り袖、赤地の友禅の単帯《ひとえおび》、身長《せい》が高く肉附きがよく、それでいて形の整った体へ、垢抜けた様子にまとっている。そういう姿を衆人に見せて、彼女は佇んでいるのであった。またも彼女はかがみ込み、やがて立ち上がって脱衣場を下りた。何んの変わったこともない。
 しかし程経て潮湯治客達は、あっちでもこっちでも騒ぎ出した。
「おや財布を盗まれたぞ」
「俺も印籠を盗まれた」
「掏摸《すり》が入り込んでいるらしい」
「どこにいる、捕えろ、叩きのめせ」
 しかし彼らは例の娘が、犯人であろうとは気がつかなかった。が、たった一人だけ、気がついている者があった。ずっと向こうを彷徨《さまよ》っている、例の娘を見やったが、
「あの[#「あの」に傍点]お方はあんな大きな仕事を、懸命に計画していられるのに、あいつ[#「あいつ」に傍点]はそれに参画していながら、あんなちっぽけな小泥棒を、こんな所でやろうとは。……親の心|児《こ》知らずというやつだな。大きな計画の方へ眼をつけている俺だ、ああいう小仕事は見|遁《の》がして置こう」
 その人物は呟いた。
 潮湯治客を目当てにして、浜の幾所かに出している茶屋の、その一軒の牀几に腰かけ、茶を呑んでいた武士であって、編笠を冠っているところから、その容貌は判らなかったが、黒|絽《ろ》の羽織、蝋塗りの大小、威も品もある立派な武士であった。
「おや、あれは、珠太郎殿ではないか」
 武士は一所《ひとところ》を凝視した。
「あの娘に見とれている」
 富豪の息子とも思われるような、鷹揚《おうよう》で品のある青年が、ずっと向こうの渚の辺で、扇で胸を煽ぎながら、潮湯治場の賑わいを、面白そうに眺めていたが、例の娘が自分の横を、桟橋の方へ歩いて行くのを見ると、ひどく衝《う》たれたというふうに、恍惚《うっとり》とした様子で見送った。
 が、すぐに自分も歩き出し、その娘の後をつけ[#「つけ」に傍点]て行った。
「これは困ったことになったぞ」武士は呟いて考え込んだ。
「おや、二人は話し出したぞ」
 桟橋の上で青年と娘とが、羞《はじ》らいながらぼそぼそと、話しているのが見て取れた。
 ――その日から十日の日が経った。

「いつ?」とお小夜は情熱的に訊ねた。
「いつでも」と珠太郎は熱心に答えた。
 二人の手はしっかりと握られている。それは七月のことであって、十三日の月が懸かっていた。
 媾曳《あいびき》をしている二人の者へも、月光は降りそそいでいた。ここは尾張領知多の郡、大野の宿の潮湯治場(今日のいわゆる海水浴場)で、夜ではあったが賑わっていた。珠太郎は二十歳の青年で、尾張家|御用達《ごようたし》の大町人、清洲越十人衆の一人として、富と門閥とを誇っている、丸田屋儀右衛門の長男であった。
 お小夜はというに十数日前から、潮湯治に江戸からやって来た、筒井屋助左衛門という商人の娘で、年は十九だと云うことであったが、それよりは老けているようであった。珠太郎の家の夏別荘が、大野にあってその別荘へ、珠太郎は潮湯治にやって来ていた。浜で再々お小夜と逢った。並々ならぬその美貌と、洗い上げた江戸前の姿とが、珠太郎を魅さないでは置かなかった。で二人は恋仲となった。
 珠太郎は名古屋という退嬰的の都会の、老舗《しにせ》の丸田屋の箱入り息子なので、初心《うぶ》で純情で信じ易かった。お小夜の性質はそれとは異って、計画的のところがあった。何かを珠太郎に対してたくらんでいる――と云ったようなところがあった。
「江戸へ行きましょう」と云い出したのは、珠太郎でなくてお小夜であった。駈け落ちをしようと云い出したのである。
 最初珠太郎は顫《ふる》えたいほどにも恐れた。でもいつの間にか従うようになった。
 今宵などはお小夜に「いつ?」と訊かれて「いつでも」と云うほどになっていた。
 夏別荘には相違なかったが、大家の丸田屋の別荘なので、お屋敷と云ってもよいほどに、大きくもあれば立派でもあった。
 今二人が媾曳《あいびき》をしている、裏庭なども林かのように、茂っていた木々によって蔽われていた。木々を通して向こうに見える、二階建ての建物から華やかな笑いと、華やかな灯火とが洩れて来ていた。丸田屋の主人が客を招《よ》んで、夜宴をひらいているからである。
 芙蓉の花がにわかに揺れた。お小夜の袖が煽《あお》ったからである。そのお小夜の左右の手が、珠太郎の背に廻っていた。
「それでは明後日《あさって》の夜。……ね、珠太郎様」
「明後日《あさって》の夜? ……ええ、きっと。……」
「まず名古屋まで通し駕籠で。……」
「通し駕籠で、……参りましょうとも」
「詳細《くわし》い手筈は明日の晩に、やはりここで致しましょうよ」
「ええここで、明日の晩に。……」
 珠太郎の頬にお小夜の髪が触れた。と、その時少し離れた、築山のあるほとりから、突然笑う声が聞こえて来、つづいて話す声が聞こえて来た。
「アッハッハッ、どうしたものだ。そんな殺生な真似《まね》はしない方がいい」
「これはこれはとんだ話で、あなた様こそ殺生な真似など、なさいません方がよろしいようで」
「何を馬鹿な、十二神《オチフルイ》め!」
「館林様こそよくございません」

 その後の事を十二神貝十郎は、後日次のように人に話した。
 お小夜と珠太郎の媾曳《あいびき》をだね、築山の蔭から見ていたのは、我輩《わがはい》ばかりではなかったのさ。館林様も見ていたのさ。それを互いに知ったものだから、大声で暴露し合ったのさ。
 お小夜と珠太郎の吃驚《びっくり》したことは! それはほんとに気の毒なほどだった。もちろん二人は逃げてしまったさ。お小夜は外へ、珠太郎は家内《うち》へな。そこで我輩も外へ出た。
 丘を下りると街道で、片側が松林になっている。松林の中からは人声などがしていた。少し行って左へ曲がった。と、明るい燈の光が見え、沢山の人が集まっていた。
 ナーニ何んでもありゃアしない、潮湯治の客を当て込みにした、薦張《こもば》りの見世物の小屋があって、無数の提灯がともっていて、看板を見る人達が、小屋の前に集まっていただけなのさ。

        

 足芸をする若い女太夫、一人で八人分の芸を使う、中年増の女太夫、曲独楽《きょくごま》を廻す松井源水の弟子、――などというような芸人を、一緒に集めて打っている小屋で、都会ではとうてい見ることの出来ない、大変もないイカモノ揃いなのだが、そこは田舎のことなので、毎夜繁昌していたものさ。
 潮湯治というのは海水を浴びて、病気を癒すというのが一つ、水泳自慢に泳ぐことによって夏の暑さを忘れるというのが一つ、……遊山半分の贅沢な人の、贅沢な療治そのものなのだから、夜などは無聊に苦しんでいる。そこでそんなような見世物が掛かって、繁昌をする次第なのさ。
 木戸番の老爺《おやじ》が番台の上に坐って、まねき[#「まねき」に傍点]の口上を述べていた。
「八人芸の真っ最中で、見事なものでございますよ。足で胡弓を弾くかと思うと、口で太鼓の撥《ばち》をくわえ、太鼓を打つのでございますからな。その間に片手で三味線を弾き、片手で鉦《かね》を打つんでさあ。その太夫が年増でこそあれ、滅法美しい仇《あだ》者なのですからなあ。……団十郎の声色であろうと、菊五郎左団次の声色であろうと、声色であったらどんな声色でも、一度耳にしたら使って見せる――と云う器用な太夫さんでもあるので。……八人芸の真っ最中、さあさあはいってごらんなされ。……」
 しかし老爺はすぐ黙ってしまった。その時一人の年増女が、小屋の口から現われて、
「とんちき[#「とんちき」に傍点]、何んだよ、おかしくもない、八人芸は済んだじゃアないか、今は独楽《こま》の曲廻しだよ」
 こう伝法に云ったからさ、その女が八人芸の女太夫の、蔦吉という女なのさ。
「おい、蔦吉」
 と呼びかけてやった。
「ちょっと来てくれ、訊きたい事がある」
「おや、十二神《オチフルイ》の殿様でしたか」
 我輩は蔦吉を物の蔭へ呼んだ。
「どうだ、大概は大丈夫か」
「はい、大丈夫でございます」
「八人芸のお前なんだからな」
「とんだものがお役に立ちまして。……」
「相手は六人だから訳はあるまい」
「癖を取るのは訳はないんですが、六人が一緒に集まって、話しているところへぶつかる[#「ぶつかる」に傍点]のが大骨折りでございました」
「一緒に住んでいないのだからな」
「みよし屋の寮だけがまあまあ[#「まあまあ」に傍点]で」
「だから俺が教えたのさ。三人住んでいるのだからな」
「娘ッ子が難物でございましたよ」
「そうだったろう、大いに察しる」
「いつご用に立てますので?」
「大体明日の晩だろう」
「さようでございますか、よろしゅうございます」
 こんなことで我輩は蔦吉と別れた。
 我輩は好奇《ものずき》の人間なので、こういう蔦吉といったような、やくざ[#「やくざ」に傍点]な芸人には知己《しりあい》があり、手なずけることも出来たのさ。
 それから我輩は浜の方へ行った。海は波が高かった。桟橋などもきしん[#「きしん」に傍点]でいた。で浜には幾艘かの小舟が、引き上げられて置かれてあった。月があったので明るかったが、それだけに波と波とがぶつかり[#「ぶつかり」に傍点]、白泡立つのが物凄く見えた。
 我輩は北の方へ渚《なぎさ》づたいに歩いた。
 渚は湾をなしていて、その行き止まりが岩の岬で、それを廻ると潮湯治場外になり、潮湯治場外の海はわけても荒く、そこで泳ぐ者はめったになかった。我輩はそっちへ歩いて行った。岬を越して向こう側へ下り、しばらく様子を窺った。
 と、松の林の中から、云い争う声が聞こえて来、やがて一人の若い女が、逃げるようにして走り出して来た。
 と、五人の男の姿が、松林の外側へ現われ出た。
「困った奴だなあ、止せばいいのに」
「あんな姿であんなことをして、人に見られたらどうするのだ」
「病気のように好きなんだからなあ、潮湯治っていうやつ[#「やつ」に傍点]をよ。どうにもこうにもやり[#「やり」に傍点]切れない」
「それも毎晩やるんだからなあ」
 五人の男達は話し合っていた。
 松林の中から燈が見えていた。貸し別荘のみよし屋の寮が、その松林の中にあって、そこでともして[#「ともして」に傍点]いる灯火なのさ。
 我輩は娘の様子を見ていた。と、どうだろう女だてらに、渚《なぎさ》まで行くと着物を脱ぎ、全裸体《すっぱだか》になって海へ飛び込み、抜き手を切って泳ぎ出したじゃアないか。
 それも素晴らしい泳ぎぶりなのだ。
 今も云ったとおりこの辺の海は、潮湯治場の外なので、波が荒くて危険なのだ。ところどころに岩さえあって、うっかりすると岩の角へ、叩き付けられることさえある。それだのに娘は恐れ気もなく、島田の髷を濡らさないように、乳から上を波から出し、グングン沖の方へ泳いで行くのだ。
 月がそいつを照らしている。白い肩、白い頸《うなじ》、白い腕、白い脛、時々ムックリと持ち上がって見える。月がそいつを照らすのだ。
 だが間もなく見えなくなった。遙かの沖へ泳いで行ったからさ。五人の男も見えなくなった。みよし屋の寮へ帰って行ったのだ。我輩はしかし帰らなかった。もう少し見てやろうと思ったからだ。
 四半刻ぐらいも経っただろうか、人魚の姿が見えて来た。渚を目がけて例の娘が、沖から泳いで帰って来たのだ。潮から上がって渚《なぎさ》に立って、手拭いで体を拭き出した時、さすがの我輩も変な気持ちがしたよ。
 な、女は全裸体《すっぱだか》なのだ。月がそいつを照らしているのだ。グーッと手拭いで体を拭く。そんな時女は羞《はず》かし気もなく、片足を上へ持ち上げるのだ。とうとう我輩は呟いてしまった。
「この様子をあの男へ見せてやらなければならない」と。
 衣裳をまとうとみよし[#「みよし」に傍点]屋の方へ、娘は走って行ってしまった。

「十二神《オチフルイ》、お前何んに来たのだ」
 翌日の晩のことだったよ、館林様がこんなように云って、我輩の席へやって来られた。
「丸田屋と深い縁故でもあるのか」
「さようで」と我輩は云ってやった。「丸田屋とは趣味の友でございます」
 事実それに相違ないのだ。我輩は役目こそ与力であれ、いわば身勝手自由勤めの身分で、肝心の役より蔵前の札差しなどと、吉原へ行って花魁《おいらん》を買ったり、蜀山人や宿屋飯盛などと、戯作や詩文の話をしたりして、暮らす日の方が多いのだ。ところで丸田屋は俳人なので、かなり以前から懇意にしていて、我輩が名古屋へ来るごとに、立ち寄っては話し合っていた。で今年もやって来たのさ。そうして大野の潮湯治場の、丸田屋の夏別荘へも一再ならず、客としてこれまでも来たことがある。で、今年もやって来たのさ。
「私などよりも館林様こそ、どうして丸田屋の夏別荘などへ、おこしなされたのでございますか!」我輩はこう云って逆襲してやった。
「俺は部屋住みで自由の身分だ。それに天下に知己《しりあい》がある。どこの何者を訪ねようと、少しも不思議はないではないか」
「これは御意《ぎょい》にございます」我輩は心から頷《うなず》いて云った。
 と云うのはこの人は将軍家の遠縁、元の老中の筆頭の、松平右近将監武元卿の庶子で、英俊で豪邁な人物で、隠れた社会政策家で、博徒や無頼漢や盗賊の群をさえ、手下にして使用するかと思うと、御三家や御三卿のご連枝方と、膝組みで話をすることだって出来る――そういう人物であるのだからな。
「これは御意にございます」――で、そう云ったというものさ。
「十二神《オチフルイ》!」
 と、すると館林様は、不意に鋭い口調をもって、こう我輩を呼びかけたものだ。
「この席にいる客人を、お前、何んとか思わないかな?」
「はい、いいえ、別に何んとも。……」
 云い云い我輩は座を見廻した。善美を尽くした丸田屋の、夏別荘の大広間には、二十人あまりの客があって、出された酒肴を前にして、湧くような快談に耽っていたが、その客人はいずれも男で、女は雑っていなかった。
(はい、いいえ、別に何んとも。……)事実我輩はこういうように答えた。がしかしこれは嘘なのだ。何んとも思わないどころではない、いずれもとんでもない客ばかりなのだからな。身分と姓名とを挙げて見よう。
 生駒家の浪人永井忠則(今は大須の講釈師)、最上家の浪人富田資高(今は熱田の寺子屋の師匠)、丹羽家の旧家臣久松氏音(今は片端のにわか神官)、那須家の浪人加藤近栄(今は鷹匠町の町道場の主)、土方家の浪人品川長康(今は虚無僧として一所不住)、大久保家の旧家臣高橋成信(今は七ツ寺の大道売卜者)、青山家の浪人西郷忠英(今は寺町通りの往生寺の寄人)、桑山家の浪人夏目主水(今は大道のチョンガレ坊主)、久世家の旧家臣鳥井克己(今は大須の香具師《やし》の取り締まり)、石川家の浪人佐野重治(今は瑞穂町の祭文かたり)、小笠原家の旧家臣喜多見正純(今は博徒の用心棒)、植村家の浪人徳永隣之介(今は魚ノ棚の料理人)、堀家の旧家臣稲葉甚五郎(今は八事の隠亡の頭《かしら》)、小堀家の浪人笹山元次(今は瀬戸の陶器絵師)、屋代家の旧家臣山口利久(今は常滑《とこなめ》の瓦焼き)、里見家の旧家臣里見一刀(今は桑名の網元の水夫《かこ》)、吉田家の浪人仙石定邦(今は車町の私娼《じごく》宿の主人《あるじ》)

        

 ざっとこういう輩《やから》なのだ。取り潰された大名達の遺臣、つまり浪人ばかりなのだ。
(昨夜は名古屋の富豪連を招いて、その席で館林様は話をされた。訓諭と懇願とを雑えたような話を。しかるに今夜は浪人連を招いて、慰撫と激励の話をされた。仲介役が丸田屋の主人だ。……警戒しないでいられるものか)我輩は心からそう思ったよ。
「十二神《オチフルイ》!」と館林様がまた言われた。「お前浪人をどう思うな?」
「は、どう思うとおっしゃいますと?」
「社会的に見てどう思うか?」
「…………」
「浪人とは失業知識階級の謂《いい》だ。……社会の中間に浮動している群だ」
「…………」
「一番危険な連中だ」
「…………」
「時代の宗教、時代の道徳、幕府の強圧や迫害に屈せず、食って行けないという事実の下に、浪人という浪人の、あるいは潜行的にあるいは激発的に、押し進んで行く目標といえば、政治的革命という一点なのだ。由井正雪の謀反事件も、天草島原の一揆事件も、その指導者は浪人群だった。別木、林戸の騒擾事件から、農村に起こった百姓一揆の、指導者もおおかた浪人者なのだ。そういう危険の浪人者が、今非常に多くなっている。将来益※[#二の字点、1-2-22]多くなるだろう。何故というに大名取り潰し政策を、幕府が固執しているからだ。徳川が天下を取って以来、二百年近くになっているが除封減禄された大名の数、三百をもって数えることが出来る。石高にして二千万石、一万石の大名から、二百人の浪人は出る。と、これまでに四十万人の、浪人が出ていることになる。さてこれらの浪人に対して、幕府はどういう処置をとっているか?『他所ヨリ牢人者(浪人者の事)参リ所有度由申候ハバ吟味ノ上、御断申可シ』――追っ払ってしまえと達《たっし》を出している。『近年村々ヘ浪人体ノモノ参、合力ヲ乞、ネだりヶ間敷儀申モノ数多有之候間、右体ノモノ召捕候ハバ、直ニ訴可』――合力もするな、捕えて突き出せ、こう残酷に命じているのだ。こう残酷にあつかわれては、浪人といえどもたまらない。とはいえどうしても生きて行かなければならない。そこでとうとう対抗上『近来浪人体ノ者所々ヘ大勢|罷越《まかりこし》、村方ノ手ニ難及《およびがたく》、会難儀候段相聞候』というように、多勢が一緒にかたまって、押し借りをするようになってしまい、『近年諸国在々浪人体ノモノ多ク徘徊イタシ、頭分、師匠分抔ト唱、廻場、留場ト号シ、銘々、私ニ持場ヲ定、百姓家ヘ参リ合力ヲ乞』というように、合力を乞う持ち場をさえ、定めるようになってしまい、甚しいのに至っては『近来浪人共、槍鉄砲等ヲ大勢シテ持歩、在々所々ニ於テ及狼藉』――と云うようになってしまった。……槍鉄砲を持ち歩くに至っては、内乱の萠《きざし》と云ってもよい。が、それはそれほどまでに、失業知識階級の――浪人者の心境が、荒《すさ》んで来ているという証拠であり、それほどまでに浪人者の、生活が苦しくなって来た。――と云うことの証拠でもある。……ではそういう浪人者の群を、少なくとも安全に生活させてやる、そういう政策を立つべきではないか。どうだな十二神《オチフルイ》、そうは思わぬかな?」
 云われて我輩は一言もなかった。それに相違ないのであるから。我輩は閉口して黙ってしまった。
「十二神《オチフルイ》!」と館林様は叱るように云われた。「お前、このわし[#「わし」に傍点]を尾行《つ》けて来たのだろう。江戸から尾張へ! つけて[#「つけて」に傍点]来たのだろう」
「…………」
「邪魔をするな、このわし[#「わし」に傍点]の仕事を!」
「…………」
「お前も掻《か》い撫《な》での与力ではなく、物の解った人間の筈だ。邪魔をするな、わし[#「わし」に傍点]の仕事を!」

 よい時刻だと思ったので、館林様に挨拶をして、酒宴の席を脱け出して、我輩は庭の方へ忍んで行った。と、木蔭に人影が見えた。我輩は故意《わざ》と咳をしてやった。と、一つの人影が、周章《あわ》てて向こうへ逃げて行った。後に残ったもう一つの影が、家の中へ走って行こうとするのへ、「珠太郎殿」と声をかけて、我輩はそっちへ寄って行った。
「お小夜殿と相談がまとまりましたかな」
 珠太郎は黙ってうな[#「うな」に傍点]垂れてしまった。
「浜の方へでも行って見ましょう」
 で、我輩は先に立って歩いた。
 もう話してやってもいいだろう――こう我輩は思ったので、それから思い切ってぶちまけ[#「ぶちまけ」に傍点]てやった。
「そうです私がこの土地へ来た、最初の日のことでありましたよ、あなたのとこの夏別荘へ、まだお訪ねをしない前でした。潮湯治の様子を見ようと思って、浜へ行って茶店へ立ち寄ったものです。すると一人の美しい娘が、潮湯治客の金や持ち物を、巧みに抜き取るじゃアありませんか。ひどい娘だと睨んでおりますとね、一人の若者がその娘を、見初めてしまったじゃアありませんか。これは困ったと思いましたよ。と云うのは不幸なその若者を、元から私が知っていたからです。……他でもありませんあなたなのです。そうして娘はお小夜なのです」
 珠太郎がにわかに興奮して、恐ろしい勢いで食ってかかるのを、我輩は笑いながら黙殺してやった。
(もうこれ以上云うことはない。これからはただ見せるまでだ)つまりこんなように思ったからだ。
 浜へ出ると風が吹きつけて来た。わけても強い風であって、波頭が次々に無数に砕けて、見渡す限り月の海上は、白衣の亡者が踊っているようであった。
 我々は北の方へ歩いて行った。そうして岩の岬を越えた。珠太郎は恐ろしく不機嫌でもあれば、どうしてこんな変な方角へ、連れて来られたのか不可解だと、そう思っているようなところがあった。が、我輩には考えがあるので、説明してもやらなかった。
 海の方へ少し突き出して、その裾が窪んで穴をなしている、そういう岩があったので、その穴の入り口へ腰を下ろし、我々はしばらく休むことにした。と云っても我輩から云う時は、ここで休むということが、予定の行動になっていたのだが。……
 真夏ではあったが夜は涼しく、それに馨《かぐ》わしい磯の香はするし、この辺に多く住んでいる鵜が、なまめかしく啼いたり羽搏きをしたりして、何んとも云えない風情であった。
 が、我輩は待っていた。早く彼女が来ればよいと。すると松林の方角から、砂を踏む音を幽《かす》かに立てて、こっちへ走って来る足音がした。足音は岩の辺で止まったが、またすぐに聞こえて来た。どうやら岩の上へ上るらしい。ややあって衣摺《きぬず》れの音がした。
「珠太郎殿、海の方をご覧」
 放心したように考え込んでいる、珠太郎へ我輩は小声で云った。
「素晴らしいものが見られますよ」
 不承不承に珠太郎は、海の方へ眼をやった。もちろん我輩も海の方を見た。と、その二人の視界の中へ、真っ白の物が躍り込んで来た。我々の頭上の岩の頂から、素裸体《すっぱだか》のお小夜が海へ向かって飛び込みをやった形なのさ。
 水音! 飛沫《しぶき》! 水底へ消えた彼女! が、すぐに浮き出して、泳いで行く島田髷と肩と腕!
「あッ、お小夜だ! お小夜だお小夜だ!」
「さよう、お小夜です。大変なお小夜です。……帰って来るまで見ていましょう」
 かなりの時間が経った時、彼女、お小夜は帰って来た。ヌックリと海から陸へ上がり、ノシノシと岩へ上がって行こうとした。
「オイ勘介! 女勘介!」
 隠れ場所から身を現わしながら、こう我輩は声をかけてやった。
「ここにお前の情夫がいるんだ。何んて馬鹿な真似をやらかすんだ。……素裸体《すっぱだか》とは呆れたなあ。……珠太郎殿、お解りですか、あいつは女ではありませんよ。……オイ――勘介、女勘介、他の連中にも云ってやれ、まごまごみよし屋の寮なんかにいるなと! ……」

 同じ夜我輩は館林様を連れ出し、月夜を賞しながら彷徨《さまよ》った。
「誰かが先駆者にならなければいけない」
 館林様は我輩に説いた。
「貝を吹き旗差し物をかざし、進む者がなければいけないのだ。でなければいつまでも悪い浮世は悪い浮世のままで居縮《いすく》んでしまう」
「そこであなた様が先駆者となって、事を起こそうとなさいますので?」
「うん」と館林様は仰せられた。「まずそう云ってもいいだろう」

        四

「結構なことではございますが。……」我輩は故意《わざ》と皮肉に云った。「先に立って進むはよろしゅうございますが、さて背後《うしろ》を振り返って見て、従《つ》いて来る者のないのを見た時、寂しさ一層でございましょう」
「馬鹿な」と館林様は一笑した。「裏切られたらと云うのだろうが、わし[#「わし」に傍点]の部下にはそんな者はいない。裏切り者など一人もいない」
 振り返って見ると灯火の光が、まだ丸田屋の夏別荘の、大広間から射していた。浪人達は飲んでいるのである。一晩飲み明かすに相違ない。
 私達は丘を下りた。それから街道を左へ曲がり、さらに左へ空地を横切った。月見草の花が咲いていて、早生まれの松虫が鳴いていた。少し行くと松林であり、松林の中に家があった。みよし屋の賃貸しの寮なのである。寮には灯火《ともしび》が点いていなかった。が、人声は聞こえていた。
「館林様なんかいいかげんなものさ」不意に声高に云う者があった。「甘いお方さ、大甘者さ!」
 館林様は足を止めた。すぐに我輩は館林様へ云った。
「あなた様のお噂をしております。つまらない手合でございましょう、お気にかけてはいけません。さあさあ先へ参りましょう」
 しかし館林様は動かなかった。と、別の声が聞こえて来た。
「要するにあのお方は人形なのさ。看板と云ってもいいかもしれない。俺らを使っているなどと、あのお方は思っていられるようだが、その実あのお方こそ俺達六人に、あやつられ[#「あやつられ」に傍点]ておいでなさるんだからなあ」
「そうとも」と別の声がした。「あのお方が俺達を贔屓《ひいき》にしている、――と云うことが知れているので、俺ら相当悪事をしても、お官《かみ》では目こぼし手加減をしてくれる」
「そうだそうだ」と別の声がした。「要するにあのお方は丸袴《がんこ》の子弟さ。自惚《うぬぼれ》の強い貴公子なのさ。自分の力を自分で過信し、勝手に幻影を描いている方さ。……名古屋の富豪を呼びつけて金を出せと偉そうに仰せられたが、出す奴なんかありゃアしないよ」
「今夜集まって来た浪人者なんか、食いも慣らわないご馳走を食い、かつてなかった待遇を受け、いい気持ちに大言壮語して館林様を讃美しているが、明日になって自分の古巣へ帰ると、古巣の生活を後生大事に守り、館林様が事を挙げたって、一人だって従いて行きはしないよ」
「俺らにしてからがそうだろう、神道徳次郎、火柱夜叉丸、鼠小僧外伝、いなば[#「いなば」に傍点]小僧新助、女勘介、紫紐丹左衛門、こう六人揃っていたって、心からあのお方に従いて行こうと、そう思っている者はないのだからなあ。……女勘介、お前はどうだ? お前の方の仕事はどうなっている?」
「ああ俺らの例の仕事か、俺らあいつは止めてしまった。丸田屋が寝返りを打った場合、苦しめてやる手段として、一人息子の珠太郎を、誘拐して監禁してしまえという、館林様の吩咐《いいつ》けだったので、そのつもりで骨を折ったんだが、こういう仕事には飽き飽きしている俺だ。投げ出してしまったよ、止めてしまったよ」
 館林様の体が顫え、片手が刀の柄にかかった。で、我輩は急いで云った。
「浜の方へでも参りましょう、海など見ようではございませんか」
「うん」
 と館林様は云われたが、尚体は顫えていた。それでもとうとう歩き出した。浜にも海にも変わったことはなかった。ただ寂しいばかりだった。

 翌朝《あくるあさ》とも云わずその夜のうちに、館林様は大野を去られた。一人で、寂しく、飄然と、裏切られた先駆者の悩みを抱いて。

 翌日の晩みよし屋の本店で、蔦吉を招んで我輩は飲んだ。
「お前の八人芸、巧いものだな」
「お役に立って何よりでした」
「よく六人の無頼漢《ならずもの》どもの、声の特徴を真似したものだ」
「それでも妾《わたし》はハラハラしました。殿様から教えられた白《せりふ》といえば、あそこ[#「あそこ」に傍点]までしかなかったのですから。あれから先が入用《いる》ようなら、どうしたものかと思いましてね」
「あれはあれだけでよかったのだった」
「それにしても妾には不思議でならない。誰もいないあんなみよし屋の寮で、六人の声色を使うなんて」
「お前にあそこへ行って貰う前に、三人の男が住んでいたのだ。そうして他にもう三人の男が――そいつらは人目に立たないように、他の貸し別荘にバラバラになって、めいめい住んでいたのだが、時々あそこへ集まって、よくないことを企んでいたのさ。が、そいつらはお前が行く前に、あわてて引き上げて行ってしまった。引き上げさせたのは俺なのだがな」
「妾、芸当をやりながら、障子の隙から見ていました、大変品のあるお武家様が、あなた様と連れ立っておいでなさいましたのね」
「あのお方へお聞かせしたかったのさ、そのお前の芸当をな」

 これは後から聞いたことだが、富豪と浪人とを呼び寄せて、館林様が事を起こそうとした、――その事というのは謀反などではなく、穏かな政策に過ぎなかったそうだ。
 荻生徂徠が云っている。
「浪人は元来武士なれば町人百姓の業もならず、渡世すべき様なければ、果ては様々の悪事を仕出すものなり、これを生かす法は、その浪人仕官の頃百石取り以上なれば、たとい幾千石に至るとも、地方にて知行五十石ずつ下され、やはりその土地に差し置かれ郷士とすべき也、されば十万石の家潰れても、公儀へ八万石ほど奉りて余の二万石を件《くだん》の郷士の領とすべし。五十石を不足と思い、他所へ立ち去る人は心次第たるべし。ただ、諸士の流浪を不憫に思し召して如此《かくのごとく》なし給わば、莫大のご仁政なるべし」
 こう徂徠は云っている。しかし公儀では採用しなかった。そこでそれだけの金や米を、大富豪から出させることによって、浪人の生活を安穏にしてやろう――その実行を名古屋からやろう。と云うのが館林様の計画だったそうだ。
 そうとは我輩は知らなかったので、それにお町奉行の依田様から、館林様が名古屋へ行かれて、何やら大事をやられるらしい。尾張は御三家の筆頭で、公儀にとっては恐ろしいお家だ。そこで大事を起こされてはたまらぬ。と云って他領だから江戸町奉行としては、どうにも策の施しようがない。ついてはその方個人として出かけて館林様の行動を監視し、もし出来たら邪魔をするがよいと、こういう吩咐《いいつけ》を受けたので、ああいう行動をとったのだが、今ではかえって後悔している。そういう館林様の目的だったら、邪魔をするどころか賛成をして、あべこべにお助けしたものを。
 が、我輩としては館林様から、あの六人の無頼漢どもを、離間させたことだけはよかったと今でも心を安んじている。頭領とも云うべき館林様が、それだけの大事業をしておられるのに、潮湯治客の金や持ち物を、こそこそ盗むというような、小さい盗心を蔵している輩を、附けて置くのはよくないからな。
 館林様には六人男どもが、本当に自分を裏切ったものと思い、爾来彼らを近付けなかったそうだよ。

底本:「十二神貝十郎手柄話」国枝史郎伝奇文庫17、講談社
   1976(昭和51)年9月12日第1刷発行
初出:「文芸倶楽部」
   1930(昭和5)年1月~6月
※誤植の確認には「国枝史郎伝奇全集 巻4」(未知谷)を用いました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「不頼漢」と「無頼漢」、「女勘助」と「女勘介」、の混在は底本の通りです。
入力:阿和泉拓
校正:小林繁雄、門田裕志
2005年5月8日作成
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国枝史郎

秀吉・家康二英雄の対南洋外交 ——国枝史郎

 仏印問題、蘭印問題がわが国の関心事となり、近衛内閣はそれについて、満支、南洋をつつむ東亜新秩序を示唆する声明を発した。
 これに関連して想起されることは、往昔に於ける日本の南洋政策のことである。
      ×     ×      ×
 日本と南洋諸国、即ち呂宋《ルソン》、媽港《マカオ》、安南、東京、占城《チャンパ》、柬埔塞《カンボジア》、暹羅《シャム》、太泥《パタニ》等と貿易をしたのは相当旧くからであるが、それらの国々へ渡航する船舶に対し、官許の免許状(朱印)を与えて、公に貿易を許可したのは豊臣秀吉で、それは我国の文禄元年、西暦の一五九二年のことであり、爾来御朱印船は、呂宋《ルソン》のマニラ市を中心として、南洋貿易を営み、平和の裡《うち》に巨利を博し、朱印を許した秀吉は、それらの船の持来たした珍奇の器物を購《あがな》って心を喜ばせていた。
 然るに、その秀吉が、南洋、主として呂宋《ルソン》に対し、経略の手を延ばしたのは、原田孫七郎の進言があったからである。孫七郎は、その兄、喜右衛門と共にマニラに住み、貿易を業とし、盛大をきわめていたが、機智に富み、胆略あり、イスパニア語に通じ、呂宋《ルソン》のみならず比律賓《フィリピン》群島全体の事情に精通していたが、日本に帰朝するや秀吉に謁し、比律賓《フィリピン》の現状を語った上「その本国イスパニアは、宗教政策を利用し、他国を侵略することを常套手段といたしおりまして今にして比律賓《フィリピギン》を、日本に於て攻略いたしませねば、イスパニアによって、かえって日本こそ侵略されるでございましょう」と進言した。折柄《おりから》秀吉は征韓の志を起し、武備兵糧を充実させた時であったから、天性の豪気いよいよ盛んに、直ちに右筆をして、呂宋《ルソン》総督マリニャス宛ての勧降の書を認《した》ためしめ、末段に「来春、九州肥前に営すべし、時日を移さず、降幡を偃《ふ》せて来服すべし、もし匍匐膝行遅延するに於ては、速かに征伐を加うべきや必せり」と記させた。何という恫喝的な、強硬な外交文書であることか。
 ところでその結果はどうかというに、マニラに戻った孫七郎の手によって、この文書を渡された総督のマリニャスは、憤慨したものの、折柄本国のイスパニアが、和蘭《オランダ》と事を構えていて国家存亡の際だったので、日本と抗争状態に入ることを惧《おそ》れ、僧侶コボスと船長リヤノという者を使者とし、日本に遣わし、秀吉懐柔の策を講ぜしめた。一応秀吉の強硬外交は成功したのであった。しかしマニラ総督が貢を入れるとも降服するとも申出たのでなかったから、更に第二の文書を、孫七郎の兄喜右衛門の手からマニラ総督に致させた。「もし今後年|毎《ごと》に貢進するに於ては、出征を見合わすも可なり」という意味の文書であった。マニラ総督はこの文書を見ると又憤慨したものの、矢張《やは》り本国イスパニアの事情が事情だったので、又も懐柔手段を執《と》り、喜右衛門に、船長カルバリコ、及び宣教師三名を附け、返書と土産物とを添え、日本へ遣わした。その使者が日本へ渡り、秀吉に謁しての発言は、降伏のことではなくて、通商同盟の問題であった。そこで秀吉は通詞をして云わしめた。
「予の母は日輪胎に入ると夢見て予を産んだ。占者は之《これ》を占ってこの児長じて世界を一統するであろうと。しかし我国には万世一系の天皇が在《お》わす。よって予は先に朝鮮を戡定し、支那また和を請い、王女をわが皇室に献ぜんと約した。しかも彼はこの盟約を実行せざるによる、ふたたび兵を出して是《これ》を征服しようとしている。楼船海に浮んで路次|呂宋《ルソン》に入るは容易のことである。呂宋《ルソン》の大守はよろしく早く予に降服せよ。然らざれば遠からず討伐を受けるであろう」
 しかしマニラ総督の使者は、
「私どもは国交を修めるために参りましたものでありますから殿下のご要求にお答えするには改めて総督からの訓令を待たなければなりません。使者を出し回答の参りますまで私どもを人質として日本におとどめおき下さいますよう」と云った。
 尤《もっとも》の言葉であったので秀吉はその乞いを許したが、その後そのマニラの使者の中の三人の宣教師[#「宣教師」は底本では「宜教師」]が、人質として日本にとどまったのは、その実、吉利支丹《キリシタン》布教のためであり、布教の真の目的は、日本侵略のためであることを探知し、宣教師と、日本の信徒二十六人とを刑戮し、その後、そのことに就いて、マニラ総督より抗議の使者が来るや「治外法権の設定なき以上、各国の在留人は、日本の法律に従うべきである」と突刎《つっぱ》ね、あくまで強硬外交の実を示した。
 しかし秀吉は、その後間もなく慶長三年に薨《こう》じたので、折角の対|呂宋《ルソン》強硬外交も、実利的の実は結ばなかった。
 しかし、その後に天下を治めた徳川家康の南洋政策に対し、その秀吉の対|呂宋《ルソン》強硬外交は[#「対|呂宋《ルソン》強硬外交は」は底本では「封|呂宋《ルソン》強硬外交は」]、日本の武威を示しておいてくれたという点で大変役に立った。

 徳川家康の南洋政策は、豊臣秀吉の強硬な、むしろ恫喝的、侵略的の夫《そ》れとは事変り、きわめて穏健で、親和的で、実利的であった。つまり、ひとえに貿易を興し、国益を図ろうとする経済的な画策だったのである。
 秀吉が九通しか許さなかった御朱印を、家康は、慶長九年に一挙二十九通許可し、盛んに貿易させたのであった。しかし家康が南洋諸国に政策の手を延ばし、外交を開始したのは、それより少し早く、慶長六年のことであり、安南都統の阮敬という者が「日本人、当国海岸に漂流し来たり、当国人を妄《みだ》りに殺戮す」と申し来たに対し「凶徒は貴国の法律に照して処罰されたし」と返書を与えたことから始まり、翌七年、又安南の大都統、瑞国公より、通商に関する来書があった時「風波は天なればご注意ありたく、凶賊は人にして、その凶賊は既に日本の近海より姿を消したれば、安んじて通商に従事ありたし」という意味の返書をした。そうして同年に柬捕塞《カンボジア》国王より同じく通商に関する文書来たるや「遠く信書を伝えられ、之を抜き、之を読むこと、蓮華床にして雹雪の語を聴くが如し」という、至極巧妙な外交辞令を用いて相手を喜ばせ、尚《なお》、日本よりの貿易船は朱印を以《もっ》て信牌とした故、これを所持している船は優遇信用してほしいと希望し、同じ年に、また同じ王から来書があるや、両国の交際のいよいよ厚くなることを喜ぶと云い、更に同国に内乱があって干戈の常に動くことに同情し「黎民の情に願うて能く慈愍を加えなば、国家は自然に安泰ならんも、已《や》むを得ずんば即ち戦闘に及ぶまた可なり」と大戦術家であると共に大政治家である家康らしい注意などを与え、更に、兵器などは日本産のもの極めて鋭利なれば、所要に随《したが》って供給してもよいと、何時《いつ》の時代にもある、戦闘国に対して、第三国が行う武器売込みの手を早速用いたりした。
 そうして秀吉時代に一時杜絶した呂宋《ルソン》との通商も家康時代に入って再び復活させた。
 慶長六年のことであったが、マニラの大守テイヨから久しぶりに来翰あり、日本人が支那人と共同して暴動をするが何《ど》うしたらよかろうかと処置を乞うて来た。これが秀吉であったならわが神州の男子は、異域に於て何んぞ暴動せんや、などと高飛車に出て嚇《おど》しつけたことであろうが、家康は然《そ》うでなく至極《しごく》国際公法的に、凶徒は容赦なく貴国の法律に照らして処罰せられたしと返書し、更に、メキシコと交通したいが、貴下に於てその斡旋の労を執らるれば幸甚であると依頼したりした。
 翌七年、またテイヨから文書が来ると、家康はいよいよ親和外交の奥の手を発揮し「容額を拝せず、辞語を聴かざるも、交情は四海一家の思いをなせり」などと、およそ秀吉が、わしは太陽の申し子じゃ、お前、まごまごして早く降参しないことには、征伐を受けること必せりじゃ、などという傍若無人の言辞とは似ても似つかない、嬉しがらせの辞令を与え、さて、その後から、再度自分の希望のメキシコ通商の斡旋方を依頼し「日本がメキシコと交通しようとするのは、単に日本のためばかりでなく、貴国の為でもあるのです。というのは、今回そのため関東の浦賀を碇泊所としますがこれは貴国にとっても便利のことと思います。
 尚、日本の現在は、国の内外静謐であって寇賊の心配なければ安心して船舶を通ぜられよ」と云い送った。そこで呂宋《ルソン》は意を安んじて、同年船を浦賀に向け、書状及び贈物を献じ、爾来盛んに通商貿易をした。しかしメキシコと日本との通商交通の斡旋をしようとはしなかったが、それは家康に悪意を以って反抗したのではなく、それとは寧《むし》ろ反対に日本とメキシコが交通貿易をするようになったなら、折角復活した日本と呂宋《ルソン》との貿易が、メキシコのために妨害されるかもしれないことを惧《おそ》れた結果なのであった。つまり自分一人日本の寵児になろうとしたのであって、秀吉のために横面を撲《なぐ》られて恐怖した彼が、家康によって撫でられたので、そこまで懐《なつ》いて来たのであり、秀吉、家康の硬軟二道の外交術が、南洋諸国を、よく日本に馴染ませた一例ということが出来る。
 兎《と》まれ秀吉と家康との南洋政策は、その硬軟両様の外交によって、その時代に於ては成功していたのである。

底本:「国枝史郎歴史小説傑作選」作品社
   2006(平成18)年3月30日第1刷発行
底本の親本:「外交」
   1940(昭和15)年8月19日、26日
初出:「外交」
   1940(昭和15)年8月19日、26日
※「柬埔塞」と「柬捕塞」の混在は底本の通りです。
入力:門田裕志
校正:阿和泉拓
2010年11月15日作成
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国枝史郎

首頂戴—— 国枝史郎

     

 サラサラサラと茶筌の音、トロリと泡立った緑の茶、茶碗も素晴らしい逸品である。それを支えた指の白さ! と、茶碗が下へ置かれた。
 茶を立てたのは一人の美女、立兵庫にお裲襠《かいどり》、帯を胸元に結んでいる。凛と品のある花魁《おいらん》である。
 むかいあっているのは一人の乞食、ひどい襤褸《ぼろ》を纏っている。だが何んと顔は立派なんだろう! ムッと高い鼻、ギュッと締まった口、眼に一脈の熱気がある。年輩は二十七、八らしい。
 茶碗を取り上げるとキューッとしごき、三口半に飲んで作法通り、しずかに膝の先へ押しやった。
 茶釜がシンシンと音立てている。香爐から煙が立っている。だがその上を蔽うているのは、莚張りの蒲鉾小屋、随分穢い、雨露にうたれたのだ。
 春三月、白昼《まひる》である。
「ここへ住んで一月になる、大分評判も高まったらしい」こういったのはその乞食。
「其方にも再々厄介になった」
「よい保養を致しました。妾《わたし》こそご厄介になりました」こういったのは花魁である。
「保養か、成ほど、そういえるな。いや全くいい景色だ。菜の花、桜、雲雀の唄、街道を通る馬や駕籠、だがこの景色とも別れなければなるまい」
「あの然うして妾とも」
「うむマァざっと然ういうことになる」
「お名残りおしゅうございます」
「泣きもしまいが、泣いては不可ない」
「泣けと有仰るなら泣きますとも、泣くなと有仰れば耐えます」
「祝って貰わなければならないのだよ」
「では笑うことにいたしましょう」
「ナニサ故意とらしく笑わないでもよい」
「では無表情でおりましょう」
「そいつだ」と乞食微笑した。「ああそいつだよ。無表情がいい。……墨をお摩り、何か書こう」
 蒔絵の硯箱が側にある。その横に短冊が置いてある。
 乞食スラスラと認《したた》めた。
「読んでごらん唐詩《からうた》だ」
「風蕭々易水寒シ」
「壮士一度去ッテ復還ラズ」
 膝元に青竹が置いてある。取り上げた乞食、スッと抜いた。
「怖くはないかな、村正だ」
 春陽にぶつかって刀身から、ユラユラユラユラと陽炎が立つ。
「怖いお方もございましょう、妾は怖くはございません」
 乞食、刀を見詰めている。
「鍛えは柾目、忠の先細く、鋩子《ぼうし》詰まって錵《にえ》おだやか、少し尖った乱れの先、切れそうだな、切れてくれなくては困る」
 ソロリと納めると膝元へ置いた。
「華やかな行列が通るのだ。ああ然うだよ、江戸へ向かってな。が、ナーニ見たようなものだ。遣り損なうに相違ない。相手はあれ程の人物だからな。そこへこの俺が付け込むのだ。と、村正が役立つのよ」
 春の日がだんだん暮れようとする。
 街道を通る旅人の足が、泊りを急ぐのかあわただしい。

     二

「ほほう不思議な乞食だの」こういったのは総髪の武士。「淀川堤の蒲鉾小屋でな?」
「茶を立て香を焚き遊女を侍らせ、悠々くらしておりますそうで」こういったのは頬髯の濃い武士。「しかも素晴らしい名刀を所持しておるとかいうことで」
 大坂心齋橋松屋という旅籠、奥まった部屋での話しである。
「で、貴公、どう思うな?」
 こう訊いたのは総髪の武士、相手を験《ため》すらしい口調である。
「さよう」といったのは頬髯の濃い武士。「由縁ある武士が乞食に窶し……」
「親の仇でも討とうというので?」
「いかがかな、この見立ては?」
「どういうところから思い付かれたな?」
「名刀所持とあってみれば……」
「だが時々その名刀を、スッパ抜いて見るというではないか」
「それが何とか致しましたかな?」
 総髪の武士笑ったが、「目付かる敵でも逃げてしまうよ」
「ははあ」といったが解らないらしい。
「俺は敵討ちだ敵討ちだ、披露目をしているようなものだからの。だって貴公そうではないか」総髪の武士ニヤニヤと揶揄《やゆ》するようにいい出した。「蒲鉾小屋に住んで、襤褸を着て、名刀を所持してスッパ抜く、ちゃァんと敵討ちに出来ている。そんな噂を耳にしてごらん、狙われている敵は飛んでしまうよ。そうでなかったら衆を率い返討ちにして殺してしまうだろう」
「成程」と今度は判ったらしい。「敵討ちでないとしますると、何処かの大通が酔興のあまり……」
「その見立ても中《あた》らないな」総髪の武士蹴飛ばしてしまった。「いかさま茶を立て遊女を侍らせ、香を焚きながら蒲鉾小屋にいる。――という風流にもなろうけれど、どうもその後が似合わしくない」
「何んでござるな、その後とは?」
「矢っ張り夫れさ、名刀さ」
「ははあ名刀が邪魔しますかな」
「どだい風流というやつは、人間をノンビリさせ茫然《ぼんやり》させ、生鼠にするのに役立つものでな、そこに風流のよい所がある。ところが刀というやつは、人間を頑張りにし意地っ張りにし、肘を張らせるに役立つものさ。このまるっきり反対のものを、一緒に引っかかえている以上、大通の酔興とはいわれないよ」
「これはご尤」と頬髯の濃い武士、照れたように苦笑を浮かべたが「貴殿のお見立て伺い度いもので」
「何んでもないよ、名を売りたがっているのだ。いい換えると評判を立てたがっているのさ」
「あああ評判を? 何んのために?」
「高く売ろうとしているのさ、彼奴の持っている何かをな?」
「ああ夫れでは名刀を?」
 するとクスリと総髪の武士、酸性の笑いを浮べたが「そうそうこだわっ[#「こだわっ」に傍点]ては不可《いけ》ないよ、ああ然うだよ。名刀ばかりにな」
「ははあ左様で、名刀め、今度は役に立ちませんでしたな。……夫れでは一体どんなものを?」
「うむ」という総髪の武士、俄《にわか》に真面目の顔になったが「彼奴自身、そのもの[#「そのもの」に傍点]であろう」
「あッ、成程、わかりました。太公望を気取っているので?」
「この見立は狂うまいよ」
「では武王が無ければならない」
「その武王こそ我々なのさ」
 ここで二人共黙って了った。
 ひっそり部屋内静かである。
 と、俄に声をひそめ、総髪の武士いい出した。
「大坂城代土岐丹後守、東町奉行井上駿河守、西町奉行稲垣淡路守、この三人を抑えつけた今日、我々の企て八分通りは成就したものと見てよかろう。後の二分とてこの順で行けば、先ず先ず無難と睨んでいい。さて所で我々の企て、いよいよ成就となった日には、お互大変なことになる。浪人から一躍大名になれる。そこでだ」といって来て総髪の武士、例の酸性の笑い方をしたが「いろいろの武士ども仕官したがっているなあ。そこで其奴も……その乞食も、仕官亡者と目星をつけても、大概外れることはないではないか。仕官亡者に相違ないよ。しかも奇矯な振舞いをして、世間にパッと評判を立て、その評判を我々に聞かせ、迎いに来るのを待っている奴だ。で、二通りに解釈出来る。山師かそれとも骨のある武士か? どっちにしてからが面白い。そこでこの俺は思うのだ。彼奴の投込んだ餌無しの針へ、ひとつ好んで掛かってやろうとな。我々にしてからがよい味方はほしい。で甚だ足労ながら、貴公即刻蒲鉾小屋へ行き、其奴の人物確めて下され」
 こういわれたので頬髯の濃い武士、深く頷いてノッソリと立った。
「但し」と総髪の武士が止めた。「セチ辛い浮世だ、そうでもないヤクザが、僅の餬口《ここう》にあり付こうと、柄にもない芝居を打つこともある。もしも其奴がそんな玉なら構うことはござらぬ、叩っ切りなさい」

     

 松屋の玄関に列べられたは、鉄砲二十挺に槍十五筋、門の入口に造られた番所、そこに役人が詰めている。門の右手には紅白の幔幕、突棒刺叉捩など、さも厳しく立て並べてある。門を離れた左手にあるは、青竹で作った菱垣で、檜逆目のございません[#「ございません」に傍点]板へ、徳川天一坊殿御旅館と、墨色鮮かに書いてある。正面一杯に張り廻された、葵御紋の紫地の幕に、高張提燈の火が映じ、荘厳の気を漂わせている。
 ヌッと現われた頬髯のある武士。
「赤川大膳様ご外出でござる。駕籠を!」
 と呼ぶやつを手で制し、
「供は不用ぬよ」
 と抜出した。
 二、三町行くと懐中から、頭巾を取り出したものである。と見ると一軒の駕籠屋がある。つと這入った赤川大膳、
「駕籠一挺、早いところを」
 ポンと乗ると駆け出させた。本陣から駕籠に乗らなかったのは、秘密を尚《たっと》んだからであろう。
「山内伊賀殿はさすがに知恵者、旨いところを見抜かれたものだ。世間に評判を立てて置いて、迎えに来るのを待っている! 成程な噂に高い乞食、その辺に目星をつけているのだろう。そこで俺が迎いに行く。さあて何んな応待で其奴の本性見破ろうかな? 意外に偉い人物で、恥でも掻かされたら耐らない。ヤクザ者なら叩っ切る。こっちの方から手間暇は不可ぬ。野武士時代の蛮勇を揮い、スポリと一刀に仕止めるだけさ。……それは然うと此処は何処だ?」
 駕籠の戸をあけて覗いたが、
「よろしい、ここで下ろしてくれ」駕籠から出ると
「それ酒手だ」
「これは何うも、莫大もない」
 喜んで帰る駕籠|舁《かき》を見すて、赤川大膳先へ進んだ。
 薄墨のように淀川堤、眼の前に長く横仆わっている。人家も無ければ人気もない。見下ろせば河原で枯れ蘆が、風に吹かれて揺れている。暁近い月の下に生白く光るは川水らしい。
「たしか此方の方角のはずだ」
 上流の方へ歩いて行く。
 と、果して蒲鉾小屋が、ハタハタと裾を風に吹かせ、生白く月光に濡れながら、ションボリとして立っていた。
「うむ、これだな」と立ち止まったが「さあ何んといって声をかけたものか?」思案せざるを得なかった。「乞食と呼ぶのも変なものだ。御免というのも変なものだ。まさかに許せなどともいわれまい。……はてな?」
 というと深呼吸をした。芳香が馨って来たからである。
「香を焚くという噂だが、成程な、香の匂いだ。しかも非常な名香らしい」
 とはいえ勿論野武士育ちの、ガサツな赤川大膳には、何んの香だか分らなかった。
 そういう赤川大膳にさえ、無類の名香に感ぜられたのだから、高価なものには相違あるまい。
 それが大膳を尊敬させて了った。
「御浪士!」と大膳呼んだものである。
 ところが内から返辞がない。で復《また》「御浪士」と呼んでみた。矢っ張り内からは返辞がない。
「眠っているのかな、留守なのかな?」
 耳を澄ましたが寝息がない。
「失礼、ごめん」と声を掛け、大膳、小屋のタレを上げた。
 落ちかかった月の蒼白い光が横からぼんやり射し込んでいたが、見れば誰もいなかった。
 だが白々と一葉の紙が莚の上に落ちていた。
 取り上げて見ると短冊であった。
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風蕭々易水寒シ
壮士一度去ッテ復還ラズ
[#ここで字下げ終わり]
「ははあ夫れでは立ち去ったのか?」赤川大膳考え込んでしまった。「では山内伊賀之助殿の、仕官亡者という観察は、狂ったものと見なさなければならない。伊賀殿の観察を狂わせる程の乞食、いよいよ只者では無さそうだな。……焚きすてられた香の香が、残って立ち迷っているところを見ると、つい今し方立ち去ったのだろう。寒い! どっちみち帰るとしよう」

     

 御先供は赤川大膳、先箱二つを前に立て、九人の徒士、黒積毛の一本道具、引戸腰黒の輿物に乗り、袋入の傘、曳馬を引き、堂々として押し出した。後から白木の唐櫃が行く、空色に白く葵の御紋、そいつを付けた油単を掛け、黒の縮緬の羽織を着た、八人の武士が警護したが、これお証拠の品物である。それから熨斗目《のしめ》麻上下、大小たばさんだ山岡|主計《かずえ》、お証拠お預かりの宰領である。白木柄の薙刀一振を、紫の袱紗で捧げ持ち、前後に眼を配っている。つづいて血祭坊主が行く。つづいて行くのは島村左平次、戸村次郎左衛門、石川|内匠《たくみ》、石田典膳、古市喜左衛門、山辺勇助、中川蔵人、大森弾正、齋藤一八、雨森静馬、六郷六太郎、榎本金八郎、大河原八左衛門、辻五郎、秋山七左衛門、警衛として付いて行く。つづいて行くのが天一坊の輿物、飴色網代蹴出造、塗棒朱の爪折傘、そいつを恭々しく差しかけている。少し離れて行くものは、天忠坊日親で、これまた先箱を二つ立て、曳馬一頭を引かせている。つづいて行くのは藤井左京、抑えの人数を従えている。最後に馬上で行くものは、即ち山内伊賀之助、熨斗目麻上下を着用し、総髪にして蒼白い顔、鷲のように鋭く澄み切った眼、広い額に善謀を現し、角ばった※[#「臣+頁」、第4水準2-92-25]に果断を示し、高い頬骨に叛気を漂わせ、キッと結んだ唇に、揶揄、嘲笑をチラツカせている。これも片箱一本道具、曳馬無しに従えている。下座触制止の声を掛け、同勢すべて二百人、大坂を立って江戸へ入る。徳川天一坊の行列である。
 淀川堤へかかった時だ、山内伊賀之助上流を見た。
 蒲鉾小屋が立っている。
「ははあきれだ[#「きれだ」に傍点]な」と呟いたが、何となく不安の表情が、チラチラチラと眼に射した。
「荊軻《けいか》の賦した易水の詩、そいつを残して立ち去った乞食、鳥渡《ちょっと》心にかかる哩《わい》。荊軻は失敗したのだからな。そうだ刺客を心掛けて。秦の始皇帝を刺そうとして。……勿論我々の企ては、将軍を刺そうというのではない。いやむしろあべこべ[#「あべこべ」に傍点]だ。将軍になろうとしているのだ。しかし危険という点では、荊軻の企ての夫れよりも、より一層いちじるしい。……易水の詩! 失敗の詩! どうも幸先がよくないなあ」
 こんな気持を感じたのは、伊賀之助としては始めてであった。
「ナーニ何うだって構うものか、どうせヤマカンでやっていることだ。成功しようと思うのが、元々間違いといっていい。だがそれにしてもその乞食に、逢えなかったのが心残りとはいえる」
 下座触制止堂々と、行列は先へ進んで行く。
「九分九厘成就と思っていたが、何んだかあぶなっかしく[#「あぶなっかしく」に傍点]なって来た。弱気というやつだな、こいつは不可ない! どうでも追っ払ってしまわなければならない……一番俺にとって致命的なのは、曾て一度も狂わなかった、自信のある眼力の狂ったことさ。一つ狂うと二つ狂う、二つ狂うと三つ狂う。どうして最後まで狂わないといえよう。……仕官亡者と思っていた奴が、仕官亡者でなかったばかりか、不可解の謎を投げかけて、姿をかくしてしまったんだからな」
 追っ払おうと思えば思うほど、伊賀之助の心には乞食のことが、こだわり[#「こだわり」に傍点]となって残るのであった。
 伊賀之助ズラリと行列を見た。「これほどの行列を押し立てて江戸入りするという事だけでも、正しく男子の本懐ではないか。しかし思えば気の毒なものだ、誰も彼も成功を信じている。誰も彼も俺を信じている。立身するものと思っている。誰も彼も肝腎のこの俺が迷っているとは感付かない」
 自信が強ければ強いほど、それを破ったその物が、その者を傷つけるものである。
「何者だろう、是非逢い度い。そうして易水の詩を残した、乞食の心持ちを聞いてみたい」
 執着狂の夫れのように、伊賀之助はそればかりを思うようになった。
 そうして夫れは事が破れて、江戸は品川八ツ山下の御殿で、多くの捕吏《ほり》[#「捕吏」は底本では「捕史」]に囲繞《とりかこ》まれ、腹を掻っ切ったその時まで、彼の心を捉えたのである。

     

「オイ赤川、もう駄目だよ」
 こういったのは伊賀之助。
「どうにか成りませんかな、伊賀之助殿」
 こういったのは赤川大膳。
 八ツ山下の御殿である。
「どうなるものか、海上を見な、すっかりあの通り手が廻っている」
 窓をひらくと品川の海、篝火《かがりび》を焚いた数十隻の船が、半円をつくって浮かんでいる。
「漁船のようには見えるけれど、捕方の船に相違ない。海上でさえあの通りだ。陸上の警固は思いやられる。蟻の這い出る隙間もない――ということになっているのだ」
「それに致しても」と赤川大膳さも不思議そうに伊賀之助へいった。「大事露見と見抜かれながら、天一坊はじめ天忠、左京まで町奉行所へ遣られたは、如何の所存でございますかな?」
「うむ、そいつか」と伊賀之助、苦々しそうに眉をひそめた。「あいつらみんな悪党だからよ。まず天一坊からいう時は、師匠の感応院を殺したばかりか、お三婆さんをくびり殺し、まだその外に殺人をした。また常楽院天忠となると、坊主の癖に不埓《ふらち》千万、先住の師の坊を殺したあげく、天一という小坊主をさえ殺したのだからな。藤井左京も十歩百歩、神部要助という伯母の亭主を、これまた殺しているのだからな。事もあろうにこれらの三人、目上の者を殺している。天人共に許さざる奴等、そこで刑死をさせてやろうと、大岡越前の手の中へ、わざわざ捕らせにやったのさ。そこへ行くとお前は少し違う。野武士時代にはあばれもしたろうが、恩顧を蒙った目上の者を、殺したことはないのだからな。そうして俺に至っては、人を殺《あや》めたことはない。で多少は許されるだろう。そこでお前に贋病《けびょう》を使わせ、そうして俺も贋病を使い、二人だけ此処へ残ったってものさ。……さあさあ大膳腹を切ろう。まごまごしていると捕方が来る。それにしても」と伊賀之助、苦渋の色を顔に浮べた。「淀川堤に住んでいた、乞食のことが気にかかる。……彼奴見抜いていたのだな! 今日のことを、露見のことを!」
 ドッとその時戸外にあたり、閧《とき》を上げる声が聞えて来た。つづいて乱入する物の音!
「いよいよ不可ねえ、さあ大膳、捕方が向かった、腹を切ろう!」
 差添を抜いた伊賀之助、腹へ突っ込もうとした途端、捕方ムラムラと込み入って来た。
「おのれ?」
 と飛び上がった赤川大膳、太刀を揮うと飛びかかった。
「御用々々!」
 と叫びながら、大膳の殺気に驚いたか、サーッと後へ引っ返した。
「どうせ駄目だよ、追うな追うな!」
 呼び止める伊賀之助の声を残し、遁《のが》れられるだけは遁れてみよう、こう思ったか追っかけた。
「御用々々!」
 と遠退く声!
「ワッ」と二、三度悲鳴がした。
 大膳が捕方を切ったのらしい。
「よせばよいのに殺生な奴だ! どうせ捕れるに決っている。覚悟の出来ていない人間は、最後の土壇場で恥を掻く。……が、俺には却って幸い、どれこの隙に腹を切ろう」
 左の脇腹へブッツリと、伊賀之助刀を突き立てた時、
「お見事!」
 という声が隣室でした。
 襖をひらいて現れたのは、青竹の杖をひっさげた、容貌立派な乞食であった。
「やッ、汝は!」と伊賀之助。
「淀川堤におりました者」
「汝が然うか? どうして此処へ?」
「御|首級《しるし》頂戴いたしたく……」
「俺の首をか、何んにする?」
「或お方のお屋敷へ参り、或お方へ近寄って、一太刀なりとも恨みたい所存……」
「ううむ」と唸ったが伊賀之助「身分をいわっしゃい! 名をいわっしゃい!」
「或お方の差金により、取潰された西国方の大名、その遺臣にござります」
「淀川における風流は?」
「ただ拙者という人間を、貴殿のお耳に入れようとな」
「うむ矢っ張り然うだったか。易水の詩を残したは? 我等の企ての失敗を、未然において察しられたか」
「正しく左様、一つには! ……が、同時にもう一つ、拙者の心境を御貴殿へ、お知らせ到そうと存じましてな」
「成程」
 といったが伊賀之助、次第々々に苦しくなった。顔は蒼白、血は流れる。「成程……貴殿は……荊軻の身の上! ……が、今度は拙者より申そう、その或お方は無雙の人物、失敗致そう、貴殿の計画!」
 だが乞食は悠然と「運は天にござります。ただ人力を尽したく……」
「立派なお心」と伊賀之助、首をグーッと突き出した。「ご用に立たば首進上! 死花が咲きます! いっそ光栄!」
 その時であった、戸外から、
「赤川大膳、捕った捕った!」
 捕方の声が聞えて来た。
「未熟者めが」と伊賀之助、嘲りの色を浮かべたが
「とうとう死恥を晒しおる! それに反して俺は立派だ! 義士の介錯受けて死ぬ。死後なお首が役に立つ! ……いざ首討たれい!」
 と引き廻わした。
「ご免」
 というと奇怪な乞食、仕込んだ太刀を引き抜いた。ピカリと一閃、スポリと一刀、ゴロリと落ちたは首である。
「伊賀之助、御用!」
 と捕方の声々、間間近く迫ったが、奇怪な乞食驚かなかった。
 死骸の形を綺麗に整え、傍の屏風を引き廻すと、伊賀之助の首級《くび》を抱きかかえた。
 と、スルスルと廻廊へ出た。
 襖を蹴仆《けたお》す音がして、踏み込んで来たのは捕方である。
 チラリと振り返った奇怪な乞食、ヒョイと右手を宙へ上げたが、恰も巨大な暁の星が、空から部屋へ飛び込んだように、一瞬間室内輝いた。
 眼を射られて蹣跚《よろめ》いた捕手が、正気に返って見廻した時には、首の無い山内伊賀之助の、死骸が残っているばかりで、乞食の姿は見えなかった。

     

 さてそれから一年がたった。
 淀川堤に春が来た。
 例の穢い蒲鉾小屋に、例の乞食が住んでいた。そうして例の女がいた。だが女の風俗は、きらびやか[#「きらびやか」に傍点]な花魁の風ではなく、男と同じ乞食姿であった。
 茶も立ててはいなかった。香も焚いてはいなかった。蒔絵の硯箱も短冊もない。で勿論茶釜もなかった。名刀を仕込んだ青竹ばかりが、乞食の膝元に置いてあった。
 白木の箱が置いてある。
 どうやら大事の品らしい。
 春陽が小屋の中へ射し込んでいる。街道を通る旅人が見える。淀川の流れが流れている。
 白帆が上流へ帆走っている。
「流石は山内伊賀之助、眼力に狂いがなかったよ」
 こういったのは乞食である。寂しい苦笑が口許に浮かび、顔全体を憂欝に見せる。
「けっく妾にとりましては、その方がよろしゅうございました。ご一緒に住めるのでございますもの」
 こういったのは女である。嬉しそうにその眼を輝かせている。
「大岡越前と来た日には、煮ても焼いても食えない奴さ。伊賀之助の首を持参したら、俺の真意を早くも察し、乞食姿の俺を招じ、途方もなくご馳走をした揚句、政治というもののむずかしいことと、役人というものの苦衷とを、いろいろ話して聞かせた上、紋服を一|襲《かさね》くれたのだからな」チラリと長方形の箱を見たが「アッハハハ何んという態だ、ひどくその時の俺と来たら、しんみり[#「しんみり」に傍点]とした気持になり、切ってかかろうともしなかったのだからな」
「でもその時越前守様が、おっしゃったそうではございませんか『一年の間考えるがよい』と」
「ああ然うだよ、そういったよ。そうして今日が一年目だ」
「どう考えがつきました?」鳥渡不安そうに女が訊いた。
「俺はこんなように考えて了った。「一年考えるということが、もう抑々間違いだった」とな。……一年の間考えてごらん、張り切った精神なんか弛んでしまう。復讐なんていうものは、一種の熱気でやる可きものさ。考えたら熱気が覚めてしまう」
「それではせめて紋服なりと、刀でお突きなさりませ」
「そうさなあ、紋服をお出し」
 立ち上がった女箱を取ると、ポンとばかりに箱の蓋をあけた。
 差し延ばした乞食の手につれて、現れたのは一襲の紋服。
 スラリ刀を引き抜いて、グッとばかりに突くかと思ったら、刀も抜かず突きもせず、紋服をヒラリと着たものである。
「どんなように見える? 似合うかな?」
「ちっともお似合い致しません」
「そうだろうとも然うだろうとも、矢っ張り町奉行の品格がないと、町奉行の衣裳は似合わないと見える」
「お脱ぎなさりませ、そんな衣裳」
「うむ」というと脱ぎすててしまった。
「お怨みなさりませ一刀」
「馬鹿をおいい」と笑い出した。「予譲にまでは成り下がらないよ」
 菜の花の匂いが匂って来た。遠くで犬の吠声がする。草の間からスルスルと、小蛇が一匹這い出して来た。啓蟄《けいちつ》の季節が来たのだろう。土手の向う側へ隠れてしまった。
「これから何んとなされます?」
「そうよなァ、泥棒になろう」
 女、さすがに沈黙した。
「どうだな?」と乞食微笑した。「怖いかな? お前は厭か?」
「花魁から乞食、乞食から泥棒、その辺がオチでございましょう」
「武士から乞食、乞食から泥棒、まずこの辺が恰好さ」
 春昼《ひる》である。暖かい。雲雀がお喋舌りをつづけている。
「これもな」と乞食物憂そうにいった。「彼奴、越前へのツラアテさ。手にあまるほどの大盗となり、一泡吹かせてやるつもりさ」

 暁星五郎という大盗が、関東関西を横行したのは、それから間もなくのことであった。火術を使うという評判であった。影の形に添うように、美人が付いているという評判でもあった。

(緑林黒白ニ曰ク)大盗暁星五郎、ソノ本名白須庄左衛門、西国某侯遺臣ニシテ、幕府有司ニ含ム所アリ、主トシテ大名旗本ヲ襲フ、島原ノ遊女花扇、是ト馴染ンデ党中トナリ、変幻出没ヲ同ジウス、星五郎強奪度無シト雖モ、ヨク散ジテ窮民ヲ賑ス、云々。

 兎まれ大岡越前守が、この暁星五郎なる賊を、幾度か捕えようとして躊躇《ちゅうちょ》したことは、事実らしいということである。

底本:「妖異全集」桃源社
   1975(昭和50)年9月25日発行
※「到」と「致」の混在は底本通りにしました。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年12月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

支那の思出 国枝史郎

 私が支那へ行ったのは満洲事変の始まった年の、まだ始まらない頃であった。
 上海、南京、蘇州、杭州、青島、旅順、大連、奉天と見て廻った。約一ヶ月を費した。
 汽船は秩父丸であった。船がウースン河へ這入《はい》り、岸の楊柳が緑青のような色に萌え、サンパンだのジャンクだのが河の上をノンビリと通っている風景は美しかった。
 デッキに立ってそういう風景を見ていると、同伴の妻が突然声を上げて河の一所を指さしたので私は其方を見た。
 一隻の小船が、日傘をさした男と船夫とを乗せて、ノタノタと動いていたが、その横を通った大きな汽船の余波を食って、転覆しかかっているのであった。とうとう転覆して、日傘の男も船夫も河中へ落ちた。
 ところが日傘の男は片手で依然として日傘をかざし、片手で船縁へ取付いて悠然として流されてい、船夫の方は、これも船縁に取付いたまま悠然と流されているではないか。悲鳴も上げなければ助けも乞わない。そうしてその附近を上下している沢山の小船の人も、別にあわてて助けようともしない。
 そのうちに私の秩父丸は行過ぎて了《しま》ったので、難破した二人の人間の運命がどうなったかしらないが、あんな場合にも周章《あわ》てず騒がず、日傘を大切そうに空へかざして、船と共に流されて行った支那人の姿は、いつ迄《まで》も私の眼底に残っていた。
 大陸に生きる人間の一つのポーズを見たと思った。
      ×     ×      ×
 杭州の西湖の岸を散策した時、私は道端で、埃だらけになっている大根の、漬物を買った。この道端で売っている支那の大根漬ほど美味の漬物を、まだ私は他で味わったことが無い。しかも又廉価であるのにも驚かされた。そうして、それを売っている老人や、老婆の不潔なのにも驚かされたものだ。
 私は、その大根漬売りの老人を相手に、通弁を通して話してみた。
「息子はあるかね?」
「有ります」
「孫は?」
「有ります」
「そんな商売をしていて金持になる見込みがあるかね?」
「私が金持に成らなければ伜が成るでしょう。伜が成らなければ孫が成るでしょう。私たちは、三代先のことを考えて生活しております」
「…………」
 私は、自分が負けたような気がしてその老人から離れ、そうして、此処《ここ》も大陸に生きる人間の心構えの一つを見せられたような気がした。
      ×     ×      ×
 南京では中山陵も見た。いうまでもなく、中山陵は、ヤングチャイナ建設の偉人孫逸仙を祀った陵である。
 私は陵の中へ這入り、神祀に対して、心からの黙祷をした。長く長く十分間もした。
 それは私が孫逸仙に対して、尊敬と親愛とを持っているからである。親愛というのは私が早稲田の英文科の予科生として、鶴巻町の下宿にいた頃、孫逸仙も、同志の黄興や宋教仁と共に、矢張《やは》り鶴巻町の旅舎にいて、大隈侯邸などへ出入していた姿を見かけたことがあるからである。
 さて、黙祷を終えて、陵を出ると、守衛の兵士が私の顔をマジマジと見ていたが、急に捧銃《ささげつつ》をして敬意を表してくれた。
 私は吃驚《びっく》りしながらも脱帽して守衛に礼を返した。
(何《ど》うしたことだろう?)と私は道々考えた、が、
(これは私が孫中山の霊に対し、心からなる黙祷を捧げたのを、孫中山をヤングチャイナ建設の父と仰ぐ守衛を喜ばせ、それで私に敬意を表したに相違ない。私たちだって、外人などが二重橋前に立って宮城に対し、恭《うやうや》しく遥拝している姿を見ると、その外人に対し、感謝したくなるではないか)
 と思った。

底本:「国枝史郎歴史小説傑作選」作品社
   2006(平成18)年3月30日第1刷発行
底本の親本:「東方公論」
   1939(昭和14)年12月
初出:「東方公論」
   1939(昭和14)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿和泉拓
2010年11月15日作成
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国枝史郎

三甚内—— 国枝史郎

        一

「御用! 御用! 神妙にしろ!」
 捕り方衆の叫び声があっちからもこっちからも聞こえて来る。
 森然《しん》と更けた霊岸島の万崎河岸の向こう側で提灯の火が飛び乱れる。
「抜いたぞ! 抜いたぞ! 用心しろ」
 口々に呼び合う殺気立った声。ひとしきり提灯が集まって前後左右に揉み合ったのは賊を真ん中に取りこめたのであろう。しかし再びバラバラと流星のように散ったのは、取り逃がしたに相違ない。
「あッ」――と悲鳴が響き渡った。捕り方が一人|殺《や》られたらしい。
「逃げた逃げた、それ追い詰めろ!」
 ドブン! ドブン! と、水の音。捕り方が河へ投げ込まれたのだ。
 一つ消え二つ消え、御用提灯が消えるに連れて呼び合う声も遠ざかり、やがて全くひっそりとなり、寛永五年|極月《ごくげつ》の夜は再び静けさを取り返した。
 河岸《かし》の此方《こなた》の川口町には材木問屋ばかり並んでいたが、これほどの騒ぎも知らぬ気《げ》に潜《くぐ》り戸を開けようとする者もなく、森閑として静かであったが、これは決して睡っているのではなく、係合《かかりあ》いを恐れて出合わないのである。
 おりから一人の老人がひしと胸の辺を抱きながら追われたように走って来た。と、スルリと家の蔭から頭巾を冠った着流しの武士が、擦れ違うように現われたがつと[#「つと」に傍点]老人をやり過ごすと、クルリと振り返って呼び止めた。
「卒爾《そつじ》ながら物を訊く。日本橋の方へはどう参るな?」
「わっ!」
 と老人はそれには答えずこう悲鳴をあげたものである。
「出たア! 泥棒! 人殺しイ!」
 これにはかえって武士の方がひどく仰天したらしく、老人の肩をムズと掴んだが、四辺《あたり》を憚る忍び音《ね》で、
「拙者は怪しい者ではない。計らず道に迷ったものじゃ。人殺しなどとは何んの痴事《たわごと》。これ老人気を静めるがよい」
 努めて優しく訓《さと》すように云っても、捕り方の声に驚かされて転倒している老人の耳へは、それが素直にはいりようがない。
「出合え出合え人殺しだア!」
 咽喉《のど》を絞って叫ぶのであった。
「えい、これほどに申しても理不尽に高声を上げおるか! 黙れ黙れ黙れと申すに!」
 首根ッ子を引っ掴みグイグイ二、三度突きやった。
「ひ、ひ、人殺しイ……」
 まだ嗄れ声で喚《わめ》きながら両手を胸の辺で泳がせたが、にわかにグタリと首を垂れた。
 驚いて武士は手を放す。と、老人は俯向けに棒を倒すように転がった。
「南無三……」
 と云うのも口のうち、武士は片膝を折り敷いて、老人の鼻へ手をやったが、
「呼吸がない」と呟いた。グイと胸を開けて鳩尾《みぞおち》を探る。その手にさわった革財布。そのままズルズルと引き出すと、まず手探りで金額《たか》を数え、じっとなって立ち縮《すく》む。
「ふふん」
 と鼻で笑った時には、ガラリ人間が変わっていた。
「飛び込んで来た冬の蠅さな。死《くたば》ったのは自業自得だ。押し詰まった師走《しわす》二十日に二十両たア有難え」
 ボーンと鐘の鳴ろうと云うところだ。凄く笑ったか笑わないか、おりから悪い雪空で、そこまでは鮮明《はっき》り解らない。
 スタスタと武士は行き過ぎようとした。
「お武家様!」
 と呼ぶ声がする。ギョッとして武士は足を早める。
「お待ちなせえ!」と――また呼んだ。
 無言で振り返った鼻先へ、天水桶の小蔭からヒラリと飛び出した男がある。頬冠《ほおかぶ》りに尻端折《しりはしょ》り、草履は懐中へ忍ばせたものか、そこだけピクリと脹れているのが蛇が蛙を呑んだようだ。
「身共《みども》に何ぞ用事でもあるかな?」
 しらばっくれて[#「しらばっくれて」に傍点]武士は訊いた。
「ふてえ[#「ふてえ」に傍点]分けをおくんなせえ」頬冠りの男は錆《さび》のある声でまず気味悪く一笑した。
「なるほど」
 と武士もそれを聞くと軽い笑いを響かせたが、
「いや見られたとあるからは、仲間の作法捨てては置けまい」
 云い云い懐中へ手を入れると、しばらく数を読んでいたが、ひょいと抜き出した左手には、十枚の小判が握られていた。
「怨恋《うらみこい》のないようにと二つに割って十両ずつさあやるから取るがいい」
「え、十両おくんなさる?」さもさも感心したように、「いやもくれっぷりのよいことだの。それじゃ余《あんま》り気の毒だ」
 さすがに尻込みするのであった。

        

「なんのなんのその斟酌《しんしゃく》、どうでものした[#「ものした」に傍点]他人《ひと》の金だ」
「いかさまそれには違えねえ、では遠慮なく頂戴といくか」
「さあ」
 と云って投げた小判は、初雪白い地へ落ちた。
「ええ何をする勿体《もってえ》ねえ」
 男は屈んで拾おうとした。そこを狙って片手の抜き打ち。その太刀風の鋭さ凄さ。起きも開きも出来なかったかがばとそのままのめった[#「のめった」に傍点]が、雪を掬《すく》って颯《さっ》と掛けた。これぞ早速の眼潰しである。
 武士は初太刀を為損《しそん》じて心いささか周章《あわ》てたと見え備えも直さず第二の太刀を薙《な》がず払わず突いて出た。
「どっこい、あぶねえ」
 と、頬冠りの男は、この時半身起きかかっていたが、思わず反《そ》り返った一刹那、足を外ずしてツルリと辷った。
 して[#「して」に傍点]やったりと大上段、武士は入り身に切り込んだ。と、一髪のその間にピューッと草履を投げ付けた。束《つか》で払って地に落とし、追い逼る間にもう一個を、またも発止と投げ付ける。それが武士の額に当たった。
「フーッ」
 と我知らず呼吸《いき》を吹く。その間にパッと飛び立った男は右手を懐中《ふところ》へ突っ込むと初めて匕首《あいくち》を抜いたものである。
「さあ来やあがれこん畜生!」――こう罵った声の下からハッハッハッと大息を吐くのは体の疲労《つか》れた証拠である。しかも彼は罵りつづける。
「……おおかたこうだろうとは思っていたが騙《だま》し討ちとは卑怯な奴だ。俺で幸い他の者なら、とうに初太刀でやられる[#「やられる」に傍点]ところだ。……さてどこからでも掛かって来い! 背後《うしろ》を見せる俺じゃねえ。おや、こん畜生黙っているな。何んとか云いねえ気味の悪い野郎だ」
 云い云いジリジリと付け廻す。相手の武士は片身青眼にぴたり[#「ぴたり」に傍点]と付けたまま動こうともしない。
 しかし不動のその姿からは形容に絶した一道の殺気が鬱々《うつうつ》として迸《ほとば》しっている。どだい[#「どだい」に傍点]武道から云う時はまるで勝負にはならないのであった。武士の剣技の精妙さは眼を驚かすばかりであって名人の域には達しないにしても上手の域は踏み越えている。絶えず左手は遊ばして置いて右手ばかりを使うのであるが、それはどうやら円明流らしい。空掛け声は預けて置いて肉を切らせて骨を切るという実質一方の構えである。
 相手の男はそれに反してまるで剣術など知らないらしい。身の軽いを取り柄にしてただ翩翻[#「翩翻」は底本では「翻翩」]《へんぽん》と飛び廻るばかり[#「ばかり」は底本では「だかり」]だ。ただし真剣白刃勝負の、場数はのべつ[#「のべつ」に傍点]に踏んでいるらしい。その証拠には勝ち目のないこの土段場に臨んでもびく[#「びく」に傍点]ともしない度胸で解る。
 じっと[#「じっと」に傍点]二人は睨み合っている。
 初太刀の袈裟掛け、二度目の突き、三度目の真っ向拝み打ち、それが皆《みんな》外されたので武士は心中驚いていた。
「世間には素早い奴があるな。それにやり方が無茶苦茶だ。喧嘩の呼吸《いき》で来られては見当が付かず扱かいにくい。草履を眉見に投げ付けられたでは俺の縹緻《きりょう》も下がったな。……不愍《ふびん》ながら今度は遁がさぬぞ」
 独言《ひとりご》ちながらつと[#「つと」に傍点]進んだ。相変わらず左手は遊ばせている。
「へ、畜生、おいでなすったな」
 此方《こなた》、男は握った匕首《あいくち》を故意《わざ》と背中へ廻しながら、ひょいと[#「ひょいと」に傍点]一足退いた。
「いめえましい三ぴんだ。隙ってものを見せやがらねえ。やい! 一思いに切ってかからねえか!」
「えい!」
 と初めて声を掛け、右手寄りにツツ――と詰める。
「わっ、来やがった、あぶねえあぶねえ」
 これは左手へタタタと逃げる。逃がしもあえず踏み込んだが同時に左手が小刀へ掛かると掬い切りに胴へはいった。血煙り立てて斃《たお》れたか! 非ず、そこに横たわっていた老人の死骸へ躓《つまず》いて頬冠りの男は転がったのである。
「まだか!」と武士は気を焦《いら》ち右剣を延ばして切り下ろした、溺れる者は藁《わら》をも握《つか》む。紙一枚の際《きわ》どい隙に金剛力を手に集め寝ながら抱き起こした老人の死骸。すなわち楯となったのである。
「えい、邪魔だ!」
 と足を上げ武士は死骸をポンと蹴る。二つばかり転がったが、ゴロゴロと河岸の石崖伝い河の中へ落ちて行った。パッと立つ水煙り。底へ沈むらしい水の音。……その間に男は起き上がると二間余りも飛び退ったが、手には印籠を握っている。倒れながら拾った印籠である。
 その時であったが水の上から欠伸《あくび》する声が聞こえて来た。続いて吹殻《ほこ》を払う煙管《きせる》の音。驚いた武士が首を延ばして河の中を見下ろすと、苫船《とまぶね》が一隻|纜《もや》っている。とその苫が少し引かれて半身を現わした一人の船頭。じっと[#「じっと」に傍点]水面を隙かしているのは老人の死骸を探すらしい。
 とたんに寒月が雲を割り蒼茫たる月光が流れたが、二人はハッと顔を見合わせた。船頭の頬には夜目にも著《しる》く古い太刀傷が印されている。

        

 寛永といえば三代将軍徳川家光の治世であったが、この頃三人の高名の賊が江戸市中を徘徊した。庄司甚内《しょうじじんない》、勾坂《こうさか》甚内、飛沢《とびさわ》甚内という三人である。姓は違っても名は同じくいずれも甚内と称したので、「寛永三甚内」とこう呼んで当時の人々は怖《お》じ恐れた。
 無論誇張はあるのであろうが「緑林黒白」という大盗伝には次のような事が記されてある。
[#ここから1字下げ]
「庄司甚内というは同じ盗賊ながら日本を回国し、孝子孝女を探し、堂宮の廃《すた》れたるを起こし、剣鎗に一流を極わめ、忍術に妙を得、力量三十人に倍し、日に四十里を歩し、昼夜ねぶらざるに倦む事なし。
飛沢甚内というは同列の盗賊にして、剣術、柔術は不鍛錬なれど、早業に一流を極わめ、幅十間の荒沢を飛び越える事は鳥獣よりも身体軽《みがる》く、ゆえに自ら飛沢と号す。
勾坂甚内の生長は、甲州武田の長臣高坂弾正が子にして、幼名を甚太郎と号しけるに、程なく勝頼亡び真忠の士多く討ち死にし、または徳川の御手《みて》に属しけるみぎり甚太郎幼稚にして孤児となるを憐れみ、祖父高坂|対島《つしま》甚太郎を具して摂州芥川に遁がれ閑居せし節、日本回国して宮本武蔵この家に止宿《とま》る。祖父の頼みにより甚太郎を弟子とし、その後武蔵武州江戸に下向し、神田お玉ヶ池附近に道場を構え剣術の指南もっぱらなり。ここに甚太郎は十一歳より随従して今年二十二歳、円明流の奥儀悉く伝授を得て実に武蔵が高弟となれり。これによりて活胴《いきどう》を試みたく、窃《ひそ》かに柳原の土手へ出で往来の者を一刀に殺害しけるが、ある夜飛脚を殺し、鉾《きっさき》の止まりたるを審《あやし》み、懐中を探れば金五十両を所持せり。これより悪行面白く、辻斬りして金子《きんす》を奪いぬ。その頃鎌倉河岸に風呂屋と称するもの十軒あり。湯女《ゆな》に似て色を売りぬ。この他江戸に一切売色の徒なし、甚太郎悪行して奪いし金銀みなここにて使い捨てぬ。この事師匠武蔵聞いて、破門し勘当しけり。これより諸国を遍歴し、武州高尾山に詣で、飯綱権現《いいずなごんげん》に祈誓して生涯の安泰を心願し、これより名を甚内と改め、相州平塚宿にしばらく足を止どめて盗賊の首領となり、後また豆州箱根山にかくれて、なお強盗の張本たり。
後再び江戸に入る。云々」
[#ここで字下げ終わり]
 で、その勾坂甚内が二度目に江戸へはいって来た時から作者《わたし》の物語は展開するのである。

「箱根の山砦《さんさい》を手下に渡して江戸へ足を入れたというのも、江戸の様子が見たかったからだ。……ところで今俺は江戸にいる。が、別に嬉しくもない」
 赤坂溜他の浪宅で、剣道を弟子に教えたり、博徒と博奕《ばくち》を開帳したり、飯より好きな辻斬りをしたり、よりより集まって来た旧手下どもと大名屋敷へ忍び込みお納戸金を奪ったり、あらゆる悪行を働きながらも彼は満足しないと見えて、こんな嘆息を洩らすのであった。
「いや昔は面白かった。それに立派な稼ぎ人もいた。庄司甚内、飛沢甚内、俺を加えて三甚内よ。江戸中の心胆を寒からせたものだ。ところがそれから五年経った今日この頃はどうかというに、目星い稼ぎ人は影さえもない」
 などと不平を云ったりした。
「そうは云っても五年前よりよくなったことも若干《いくら》かはある。散在していた風呂屋女を吉原の土地へ一つに集め、駿府の遊女町を持って来たなどは確かに面白い考えだ」
 こんなことを云いながら、その吉原の遊女屋へ、自身根気よく通うのであった。
 福岡の城主五十二万石、松平美濃守のお邸は霞ヶ関の高台にあったが、勾坂甚内は徒党を率い、新玉《あらたま》の年の寿《ことぶき》に酔い痴れている隙を窺い、金蔵を破って黄金《かね》を持ち出した。
「いや春先から景気がよいぞ。さあ分配金《わけまえ》をくれてやるから、どこへでも行って遊んで来い」
 手下どもを追いやってから、自分も重い財布を握り、いつもの癖の一人遊び、ブラリと吉原へやって来た。大門をはいれば中之町、取っ付きの左側が山田宗順の楼《ろう》、それと向かい合った高楼はこの遊廓の支配役庄司甚右衛門の楼《いえ》である。
 遊里の松の内と来たひにはその賑やかさ沙汰の限りである。その時分から千客万来、どの楼《いえ》も大入叶《おおいりかな》うである。
 庄司の姓も懐しく甚右衛門の甚にも心を引かれ、勾坂甚内はずっと以前《まえ》から甚右衛門の楼の馴染《なじみ》とし、この里へ来るごとに立ち寄っていたが、心中では一度甚右衛門に逢って見たいと思っていた。
「庄司甚内と庄司甚右衛門。どうも非常に似ている名前だ。と云って泥棒の庄司甚内が足を洗って遊女屋になり廓中支配役になるようなことは絶対にあるべき筈はないし、もしまたそれがあったにしても、自分は賊であった庄司甚内をかつて一度も見たことがないから、たとえ顔を合わせたところでそれと知ることは出来そうもない」――勾坂甚内はこう思いながらも折りがあったら逢って見たいとやはり思ってはいるのであった。

        

 長い暖簾《のれん》をひらりと刎《は》ね甚内は土間へはいって行った。
「いらっしゃいまし」と景気のよい声、二、三人バラバラと現われたが、
「お、これは白須賀様、ようおいでくだされました。さあさあ常時《いつも》のお座敷へな、お米さんがお待ち兼ねでござんすに」
 白須賀は甚内の変名である。盗んだ金だけに糸目をつけず惜し気なくパッパッと使うのでどこへ行ってもモテルのであった。通された常時《いつも》の座敷というは、この時代に珍らしい三層楼で、廓内の様子が一眼に見える。
 やがて山海の珍味が並ぶ。
 山海の珍味と云ったところで、この時分の江戸の料理と来ては京大坂に比べて、不味《まず》さ加減が話にもならぬ。それでも渦高《うずたか》く鉢皿に盛られて、ズラリと前へ並べられたところは決して悪い気持ちではない。
 山本|勾当《こうとう》の三絃に合わせて美声自慢のお品女郎が流行《はやり》の小唄を一|連《くさり》唄った。新年にちなんだめでたい唄だ。
「お品。相変わらずうまいものだな……どれそれでは肴せずばなるまい」
 甚内は機嫌よくこう云うと懐中《ふところ》から財布を取り出した。それから座にある誰彼なしに小判を一枚ずつ分けてやった。
「お大尽様! お大尽様!」
 みんな喜んで囃し立てた頃には短かい冬の日がいつか暮れて座敷には燭台が立て連らねられた。
 この時ようやく甚内の馴染のお米女郎が現われた。
 いつも淋しげの女ではあるが分けても今夜は淋しそうに、坐ると一緒に首垂《うなだ》れたが、細い首には保ち兼ねるようなたっぷり[#「たっぷり」に傍点]とした黒髪に、瓜実顔《うりざねがお》をふっくり[#「ふっくり」に傍点]と包ませ、パラリと下がった後《おく》れ毛を時々掻き上げる細い指先が白魚のように白いのだけでも、男の心を蕩《とろ》かすに足りる。なだらかに通った高い鼻、軽くとざされた唇がやや受け口に見えるのが穏《おとな》しやかにも艶《あで》やかである。水のように澄んだ切れ長の眼が濃い睫毛に蔽われた態《さま》は森に隠された湖水とも云えよう。年はおおかた十七、八、撫で肩に腰細く肉附き豊かではあるけれど姿のよいためか痩せて見える。
 お米が座中に現われると同時に、そこに並んでいた女子供は一時に光を失った。ひどく見劣りがするのである。
「お米、機嫌が悪いそうな。盃ひとつ差してもくれぬの」
 甚内は笑いながらこう云った。
「…………」お米は何んとも云わなかったが、その代わり静かに顔を上げ、幽かに微笑《ほおえみ》を頬に浮かべた。
「毎年初雪の降る日にはいつも[#「いつも」に傍点]お米さんはご機嫌が悪く浮かぬお顔をなされます」――お島というのが取りなし顔にこう横から口を出す。
「ふうむ、それは不思議だの。初雪に怨みでもあると見える」――無論何気なく云ったのではあったが、その甚内の言葉を聞くとお米は颯《さっ》と顔色を変えた。
「あい、怨みがありますとも。――初雪に怨みがあるのでござんす」こう意気込んで云ったものである。
 あまりその声が異様だったので一座の者は眼を見合わせた。一刹那座敷が森然《しん》となる。
「ホホ、ホホ、ホホ、ホホ」
 気味の悪いお米の笑い声が、すぐその後から追っかけて、こう座敷へ響き渡った時には、豪雄の勾坂甚内さえ何がなしにゾッと戦《おのの》かれたのである。
 夜が更け酒肴が徹せられた、甚内は寝間へ誘《いざな》われたが、容易にお米の寝ないのを見るとちと不平も萠《きざ》して来る。で、蒲団の上へ坐り、不味《まず》そうに煙草を喫い出した。
「お米」と甚内はやがて云った。「心に蟠《わだか》まりがあるらしいの。膝とも談合ということがある。心を割って話したらどうだ。日数は浅いが馴染は深い。場合によっては力にもなろう。それとも他人には明かされぬ大事な秘密の心配事ででもあるかな?」
「はい」――とお米は親切に訊かれてついホロホロと涙ぐんだが、
「お父様の敵《かたき》が討ちたいのでございます」
 一句凄然と云って退けた。
「む」と、甚内もこれには驚き、思わず声を詰まらせたが、
「おおそれは勇ましいことだな。……で、敵は何者だな?」
「さあそれが解っておりさえしたら、こんな苦労は致しませぬ」
「父を討たれたはいつ頃だな?」
「五年前の極月《ごくげつ》二十日、初雪の降った晩のこと、霊岸島の川口町で無尽に当たった帰路《かえりみち》を、締め殺されたそのあげく河の中へ投げ込まれ、死骸の揚がったはその翌日、その時以来家運が傾き質屋の店も畳んでしまい、妾《わたし》はこうして遊女勤め、悲しいことでござります」
 涙の顔を袖で抑えお米は甚内の膝の上へとん[#「とん」に傍点]と体を投げかけたが、とたんに襖が断りもなくスルリと外から開けられた。

        

「誰だ!」
 と甚内が振り返る。
「声も掛けず開けましたはとんだ私の不調法、真っ平ご免くださいますよう」
 こう云いながら坐ったのは、甚内よりも十歳ほど更けた四十五、六の立派な人物、赧ら顔でデップリと肥え、広袖姿がよく似合う。
「ま、お前はご主人さん。それでは妾《わたし》は座を外し」
「うん、そうさな、では少しの間、座を外して貰おうか」
「はい」と云って出て行くお米、主人庄司甚右衛門はスルスルと前へ膝行《いざ》ったが、
「客人、いやさ勾坂甚内、大泥棒にも似合わねえドジな真似をするじゃねえか」
 両手を袖へ引っ込ませると、バラバラと落ちて来た小判|幾片《いくひら》。甚内が蒔いたさっきの小判だ。
「黒田様の刻印が打ち込んであるのが解らねえか」
「え?」
 と甚内は今さら驚きムズと小判をひっ[#「ひっ」に傍点][#「小判をひっ[#「ひっ」に傍点]」は底本では「小判をひ[#「をひ」に傍点]っ」]掴んだ。いかにも刻印が押してある。
「むう」と唸るばかりである。
「なんと一言もあるまいがな。さあ早く仕度をするがいい。大門口は出られめえ。家《うち》の裏木戸を開けて進ぜる」
「そう急《せ》き立てるところを見ると、さてはもう手が廻ったか!」
「徒党を組んだ盗賊が黒田様の宝蔵を破り莫大の金子を奪ったについては、晩《おそ》かれ早かれここら辺りを徘徊するに相違ないから、怪しい者の目付かり次第届け出るようにと布告《ふれ》の廻ったはつい[#「つい」に傍点]今日の昼のこと、したがってこの辺一円は同心目明しの巣のようなものだ。のっそり[#「のっそり」に傍点]迂濶《うかつ》に出ようものなら、すぐに御用の声を聞こう。まあ俺に従《つ》いて来な、悪いようにはしねえ意《つもり》だ」
「ふうむ、それにしてもこの俺を、勾坂甚内と見抜いたは?」
「黒田の邸へ押し込んで、宝蔵でも破ろうというものは三甚内の他にはねえ。……ところで三人の甚内のうち二人までは足を洗い今は素人になっている筈だ。残るは勾坂甚内だけ。その勾坂こそすなわちお前よ。宝蔵破りのその翌晩、盗んだ金を懐中にして、遊里へ姿を晒そうとする大胆不敵のやり口は、その他の奴には出来そうもねえ」
「ううむ、そうか、いや当たった。いかにも俺は勾坂だ。勾坂甚内に相違ねえ。さあこう清く宣《なの》ったからには、お前も素性を明かすがいい」
「もうおおかたは察していよう。俺こそ庄司甚内だ」
「それじゃやっぱりそうだったか。もしやもしやと思ってはいたが、そう明瞭《はっきり》と宣られると、なんだか変な気持ちがするなア。――これが懐しいとでも云うのだろうよ」
「おい勾坂の」と声を忍ばせ、一膝進み出た甚右衛門は、グイと顔を突き出したが、「この顔見覚えがあろうがの?」
「え?」と甚内は眼を見張る。と、彼は愕然とした。「……うむ、そういえば頬の上に古い一筋の太刀傷がある! ……お、あの時の船頭だ」
「それでもどうやら気が付いたらしい。いかにもあの時の船頭だ。……お前あの時罪もねえ可哀そうな老人《としより》を締め殺したっけのう」
「殺すつもりはなかったが時のはずみ[#「はずみ」に傍点]で力がはいり殺生なことをしてしまった」
「その老人の一人娘がお前の馴染のあのお米よ」
「それとも知らぬお米の口からたった今聞いて驚いたところさ」
「枕交わすが商売とは云え、親の敵と馴染むとは……」
「知らぬが因果の畜生道さ」
「お米にとっては尽きぬ怨み……」
「俺にとっては勿怪《もっけ》の幸い」
「おい、勾坂の、どうするつもりだ?」
「お米が俺を討つ気なら宣《なの》って殺されてやるつもりよ。が、討つ気はよもあるめえ。二世さえ契った仲だからの。二世を契れば未来も夫婦! 俺を殺せば良人《おっと》殺しだ!」
「あっ!」
 と魂消《たまげ》る女の声が隣りの部屋から聞こえて来た。
 二人一緒に立ち上がり颯と開けた襖の彼方《かなた》に伏し転《まろ》んでいるのはお米であった。
「や、お米、咽喉《のど》突いたな!」
「傷は浅い! しっかりしろ!」
 左右から抱かれて眼をひらき、
「親方さん、おさらばでござんす」
 甚内の顔を見詰めながら、
「怨めしいはお前。……恋しいもお前。……二筋道に迷った妾《わたし》。……冥土へ行ってお父様へ何んとお詫びを申そうぞ。……生きてはおれず、死んでも死なれぬ。……南無阿弥陀仏。夢でござんした。……」
 そのまま呼吸《いき》は絶えたのである。
 トントントントンとその刹那、表戸を続けて打つものがある。
「開けろ開けろ」と野太い声。
「南無三宝! 手が廻った!」
 悲嘆から醒めて飛び上がる甚内。それを制して甚右衛門はフッと行燈《あんどん》を吹き消したが、ツツーと窓へ忍んで行き、そっと見下ろす戸外には、積もって解けぬ初雪白く、ポッと明るいここかしこに、一団、二団、三団、と捕り手の黒い影が見える。
「とても表へは出られねえ。こっちへこっちへ」
 と梯子を下る。

        

 今は火急の場合である。甚内は本意ではなかったが、投げ合掌と捨て念仏、お米の死骸へ義理を済ますと、すぐ甚右衛門の後へ従《つ》いて幾個《いくつ》かの梯子段を下りて行った。
 裏の木戸口には人影もない。
「さあこの隙に。……ちっとも早く……」
 そっと甚右衛門は囁いた。
「兄貴、お礼の言葉もねえ」
「なんの昔は同じ身の上、足は洗っても義理は捨てねえ」
「それじゃ兄貴」
「たっしゃで行きねえよ」
 勾坂甚内は身を飜えすと、小暗い家蔭へ消えてしまった。

 寂然《しん》と更けた富沢町。人っ子一人通ろうともしない。
 サ、サ、サ、サ、サッと、爪先で歩く、忍び足の音が聞こえて来たが、一軒の家の戸蔭からつと[#「つと」に傍点]浮かび出た一人の武士。辷るように走って来る。と、その行く手の往来へむらむら[#「むらむら」に傍点]と現われた一群の捕り手。
「御用!」と十手を宙に振った。「遁がれぬところだ勾坂甚内、神妙にお縄を頂戴しろ!」
「…………」甚内はそれには答えずに、かえってそっちへ駈け寄せて行く、その勢いに驚いたものか、捕り手はパッと左右へ開いた。その真ん中を馳せ抜けようとする。ピュ――ッと響き渡る呼子の笛。これが何かの合図と見えて、甚内を目掛けて数十本の十手が雨霰と降って来た。これには甚内も驚いたが、そこは武蔵直伝の早業、十手の雨を突っ切った。大小の鍔際《つばぎわ》引っ抱え十間余りも走り抜ける。この時またも呼子の音《ね》が背後《うしろ》に当たって鳴り渡ったが、とたんに両側の人家《いえ》の屋根から大小の梯子幾十となく、甚内目掛けて落ちかかって来た。
「これまで見慣れぬ不思議な捕縛法《とりかた》。これはめった[#「めった」に傍点]に油断はならぬ」
 肩をしたたか[#「したたか」に傍点]梯子で打たれ、甚内は内心胆を冷したが、また少からず感心もした。
 彼は街の四辻へ出た。
「あっ」――と思わず仰天し、甚内は棒のように突っ立ったのである。
 どっちを見ても無数の捕り手がぎっしり[#「ぎっしり」に傍点]詰まっているではないか。
「もういけねえ」と呟きながらもどこかに活路はあるまいかと素早く四方を見廻した。と、正面に立っている古着屋らしい一軒の家の、裏戸が幽かに開けられたが、その際間から手が現われ甚内を二、三度手招いた。
 これぞ天の助くるところと、甚内は突嗟《とっさ》に思案を決めると、パッと雨戸へ飛びかかり、引きあける間ももどかしく家内《なか》へはいって戸を立てた。
 はいった所が土間である。土間の向こうが店らしい。店の奥に座敷があってそこに行燈が点っている。そうして四辺《あたり》には人影もない。
 甚内はちょっと躊躇《ためら》ったが、場合が場合なので案内も乞わず燈火《ひ》のある座敷へつかつか[#「つかつか」に傍点]と行った。
 座敷の真ん中に文台がある。文台の上には甚内にとって見覚えのある印籠がある。そしてその側には添え状がある。
「進上申す印籠の事。
  旧姓、飛沢。今は、今日の捕手頭《とりかたがしら》[#地から2字上げ]富沢甚内より

  勾坂甚内殿へ」
「あっ」思わず声を上げた時。
「御用!」と鋭い掛け声がしたと同時にどこからともなく投げられた縄。甚内はキリキリと縛り上げられた。
「ワッハッハッハッ」
 と、哄笑する声が続いて耳もとで起こったが、それと一緒に天井の梁《はり》からドンと飛び下りたものがある。
 細い縞の袷を着、紺の帯を腰で結び、股引きを穿いた足袋跣足《たびはだし》、小造りの体に鋭敏の顔付き。――商人《あきんど》にやつした目明しという仁態。それがカラカラと笑っている。
 それは紛れもない五年以前に川口町の天水桶の蔭から、ヌッと姿を現わして勾坂甚内を呼び止めたあげく、その甚内に切り立てられ危く命を取られようとした匕口《あいくち》を持った若者であった。
 そうと知った甚内は心中覚悟の臍《ほぞ》を決めた。
「いよいよいけねえ」と思ったのである。
「瞞《だま》して捕えるとは卑怯な奴、何故|宣《なの》って掛かって来ねえ」
 甚内は口惜しそうに詈った。
「瞞そうとまた騙《たばか》ろうと目差す悪人を縛《しょぴ》きさえすればそれで横目の役目は済む。卑怯呼ばわりは場違いだ!」男は寛々と云い放したが、そこで少しく居住居を直し、「おい甚内、それはそうと、あの時は酷《ひど》い目に合わせやがったな」
「それじゃやっぱりあの時の……」
「ふてえ[#「ふてえ」に傍点]分けをせびった野郎よ」
「それが今ではお上の目明し?」
「それも改心したからさ。……駿河台の大久保様、彦左衛門のご前に縋り、罪障|悉《ことごと》く許されたところから、表向きは古着|商売《あきない》、誠は横目ご用聞き、姓も飛沢を富沢と変え、昔は自分が縛られる身、今は他人を縛るが役目、富沢流取り縄の開祖、富沢甚内とは俺がこと、何んと胆が潰れたか!」
「ふふんそうか、いや面白え。……昔は同じ夜働き、三甚内と謳われた我ら、今は散々《ちりぢり》バラバラの、目明しもあれは女郎屋もある。これが浮世か誰白浪の俺一人が元のままの泥棒様とは心細いが、それもこうして縛られたからには二度と日の目は見られめえ。すなわち往生観念仏、三甚内はこの世からつまり消えたも同じ事、江戸は今からご安泰だ。アッハッハッハッ」と揺すり上げて勾坂甚内は笑ったが、それは悲壮な笑いであった。
 戸外《そと》では雪が降り出した。遅い今年の初雪で、一旦さっき止んだのがまたしめやかに降り出したのである。
 間もなく浅草鳥越において勾坂甚内は磔刑《はりつけ》に処せられ無残の最後をとげたそうであるが、庄司、富沢の二甚内はめでたく天寿を全うし畳の上で往生をとげ、一は吉原の起源を造り一は今日の富沢町の濫觴《らんしょう》を作《な》したということである。

底本:「銅銭会事変 短編」国枝史郎伝奇文庫27、講談社
   1976(昭和51)年10月28日第1刷発行
初出:「ポケット」
   1925(大正14)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年2月21日作成
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国枝史郎

沙漠の古都—— 国枝史郎

    第一回 獣人

        

「マドリッド日刊新聞」の記事……
[#ここから4字下げ]
怪獣再び市中を騒がす。
[#ここから1字下げ]
 去月十日午前二時燐光を発する巨大の怪獣|何処《いずこ》よりともなく市中に現われ通行の人々を脅かし府庁官邸の宅地附近にて忽然消滅に及びたる記事は逸速《いちはや》く本社の報じたるところ読者の記憶にも新たなるべきがその後怪獣の姿を認めずあるいは怪獣の出現も通行の人々の幻覚に過ぎず事実上かかる怪獣は存在せざりしには非ざるやと多少の不安と危惧とをもって両度の出現を待ちいたるところ……。
[#ここで字下げ終わり]
「ホホオそれじゃまた怪獣が出現したというのだね?」
 民間探偵のレザールが全部新聞を読んでしまわないうちに、傍らで聞いていた友人の油絵画家のダンチョンが、驚いたようにこう云った。
「どうやら再び現われたらしい――ところが今度はこの前と違って、顔ばかりに……むしろ眼の縁《ふち》だけに燐光を帯びている獣《けだもの》だそうだ。まあ聞きたまえ読むからね」
 南欧桜の咽せ返るような濃厚な花の香が窓を通して室の中いっぱいに拡がっていた。その室でレザールとダンチョンとは肘掛椅子に腰かけたまま軽い朝飯をしたためた後、おりから配達された新聞をこうして読んでいるのであった。
「いいかい読むぜ。聞きたまえよ」
 そこでレザールは読みつづけた。その要点はこうである。
 ――昨夜、すなわち三月十日、時刻もちょうど午前二時頃、両眼の縁に燐光を纒った、犬のような形の動物が、忽然街路に現われたが、府庁官邸の宅地まで行くと、そのまま姿が見えなくなり、それと同時に一軒の家から、恐怖に充ちた男の声が、一瞬間鋭く響き渡ったが、それもそのまま静かになった。そして不思議にも怪獣の姿は、どこにも見えなかったと云うのである。
「燐光を放す動物なんて、実際そんなものがあるのだろうか?」
「さあ」とレザールは考え深く、「全然ないとも云われない。魚には確かにあるのだからね」
「そりゃ魚にはあるだろうけれど――例えば烏賊《いか》などはその通りだが、眼の縁だけに燐光を放すそんな獣ってあるものだろうか――それはそれとしてもう一つこの新聞記事で見るとどうやら奇怪な動物なるものは、二匹いるように思われるね」ダンチョンはレザールの顔を見て審《いぶ》かしそうに云ったものである。
 と、レザールは微笑を浮かべたが、
「つまり眼の縁だけ燐光を放す昨夜あらわれた怪獣と、去月十日にあらわれた全身に燐光を放す獣と、都合二匹というのだろうね……君もなかなか眼敏《めざと》くなった。僕も新聞を見た時からこいつをおかしく思ったんだ――燐光を放った獣なんか一匹いるさえ不思議だのに、二匹もいるということはどう考えてもちと腑に落ちないね……なあにやっぱり一匹だろう」
「記事からいくと二匹だがね」
「往来の人の錯覚でこの前は全身が光るように見え、昨夜は眼瞼《まぶた》だけ光るように見え、それで驚いたに違いないよ……で僕は一匹だと思う……だがあるいは、あるいはだね、一匹もいないのかもしれないよ」レザールは微妙に云ったものである。
「全部を錯覚にするのだね?」ダンチョンは首を横に振って、「一度ならず二度までも一人ならず数人の者が、そういう獣を見たのだから、錯覚とばかりは云えないね」
「君の云うのが本当かあるいは僕の説が正しいか、探って見なければ解らないが、ただ怪獣が出たというばかりで世間の害にならないのだから、探って見ようという興味もない……依頼者でもあればともかくだが」
「しかし」とダンチョンは遮《さえぎ》って、「無害ということも云われないね。現にその獣に脅されて悲鳴をあげた者があるといって、この新聞にも書いてあるんだからね」
「無理に難癖をつけるとして秩序紊乱という奴かな。怪獣の秩序紊乱かな……どうも獣じゃ仕方がない――それとももしやその獣の……オヤ誰か来たようだ。こんなに朝早く来るからには火急の事件に相違あるまい」
 コツコツと扉を打つ音がした。
「おはいり」とレザールは声をかけた。扉が開いて一人の貴婦人があわただしげにはいって来たが、レザールとダンチョンの二人を見ると当惑したように立ち停まった。
 レザールは恭※[#二の字点、1-2-22]《うやうや》しく立ち上がったが、
「私がお尋ねのレザールで――これは友人でございます。きわめて気の置けない友人で……ええと、ところで市長の奥様、どういうご用件でございましょうな?」
 きわめてなれなれしく云ったものである。
「オヤまあ私をご存知で?」
 市長夫人は手を差し出しレザールにそれを握らせながら、
「いかにも私はおっしゃる通り市長の家内でございます」といくらか驚いた様子である。
「マドリッド市民は誰にしましても自分の町の首脳者の――つまり市長でございますね――内助者たるところの奥様を知りたいと思わないものはございません」
 恭※[#二の字点、1-2-22]しくレザールは微笑した。
「でも」と夫人は首を振り、「体がひどく弱いものですから、こちらへずっと参りましてからも、毎日たれ込めておりまして、それこそ町へなどは一度も出ず、重大な社交にさえ顔を出しませんのに……」
「おっしゃる通り奥様はあの米国の大統領のハージング夫人とそっくりで、社交嫌いだとか申しますことで――けれどたった一度だけ招待会には出られました筈で」
「そうそうたった一度だけ――主人が印度《インド》から当地へ参り市長の職に着きました時、きわめて少数の知人でしたが、お招きしたことがございました。きっとあの時でございましょう?」
「さよう、あの時でございます。あの時私は舞踏室で、奥様をお見かけいたしました」
「それは少し変じゃございませんか――あの時およびした人達の中に、あなたのお名前はなかった筈で」
「レザールという名はございませんでした。しかしマドリッド日刊新聞の社長の名前はありました筈で」
 夫人はしばらく考えてから、
「ポンピアド様という名前の六十過ぎた立派な方?」
「獅子のような頬髯を生やした人で」
「たしかにお招き致しました」
「それが私でございます」
「まあ」
 と夫人は呆れ返り、
「でも、お見かけ申しましたところ、あなたはやっと三十ぐらい、それだのに一方ポンピアド様は……」
「ですから奥様尚一層化け易いのでございますよ。三十男のこの私がやっぱり他の三十男に化けるということは困難ですが、六十の老人に化けることはいと[#「いと」に傍点]易いことでございます……もしもご不審におぼしめすなら、五分間ご猶予を頂いて、化け直してお目にかけましょうか」愛想よく軽快に云い放した。
 しかし夫人は手を振って、淋しく美しく笑いながら、「いいえそれには及びません。なるほどそうかも知れません。名誉の探偵でいらっしゃいますもの……それにしても本物のポンピアド様は、どうしていらっしゃらなかったのでございましょう?」
「たしか旅行中でございました」
「それではあなたはポンピアド様に断わらずにおやりなすったので?」軽く夫人は非難した。
「毎々のことでございますよ」レザールは愉快そうに微笑した。
「そんな権利がございまして?」と夫人の声はやや鋭い。
「さよう」とレザールは真面目になり、「私と、それにもう一人、私にとっては大先輩で、かつまた非常に仲のよい――奥様もあるいは名前ぐらいはご存知でいらっしゃるかもしれませんが――ラシイヌという探偵だけには、そういう権利がございますので。どうしてと申しますに我々二人は、政府の機密に参加したり、皇室のご依頼に応じたり、これまで数度その方面で働いたことがございますので、政府は我々二人の者へ特権を与えてくれました」
 すると夫人は頷いて、
「そうでございましょうね、よくわかりました。――ただ今お話しのラシイヌ様、知っているどころではございません。ただ今お逢いして参りましたので」
「ああそれじゃもうお逢いでしたか」
「そうしまするとラシイヌ大探偵が私にこのように申しました――レザールにもご依頼なさるようにって」
 レザールは苦笑を浮かべたが、ダンチョンの方を振り返り、
「ラシイヌが僕を験《ため》すらしいね」
 それから夫人の方へ頭を下げて、「それではどうぞお話しを――ラシイヌへおっしゃったと同じように、私にもお話しを願いたいもので」
 椅子に寄ったまましばらくじっと市長夫人は黙っていた。それから静かに話し出した。

        

「……どこからお話し致しましょう? やっぱりずっと最初からお話しした方がよさそうです――先月十日の真夜中でした。午前二時頃ででもございましたでしょうか、突然|良人《おっと》の居間の方から呻くような声が聞こえましたので、しばらく聞き澄ましておりましたところ、それっきり物音が致しません。きっと夢でも見たのだろうと、そのまま眠ろうと致しますと、庭の方へ向いた室の窓が不意に明るくなりましたので吃驚《びっくり》して起きようと致しました。さようでございますね、その光は銀のような光でございました――ところが窓のその光も次の瞬間には消えましたので、起きかかった床へまたはいり夜の明けるのを待ちました。朝のお茶の時に食堂で良人の顔を見ましたところ、大変蒼いじゃございませんか。どこかお体でもお悪くて? 私が訊きますと首を振って、いいやと一言云ったきり、黙ってお茶をのむのでした。そこへ新聞が来ましたので何気なく取り上げて見ましたところ、思いあたる記事がございました。燐光を放す巨大な獣が、昨夜市中にあらわれて、府庁官邸の宅地まで来ると消えてしまったという記事です。私はハッと思いました。それでは昨夜窓に映った銀色をしたあの光は、さては怪獣の光だったのかと……。
『あなたは昨夜変な光を窓からごらんになりませんでして?』私は良人に訊いてみました。すると良人はひどく顫《ふる》えて蒼白《まっさお》になったじゃありませんか! けれど変化したその表情は、すぐに良人の強い意志で抑えられてしまったのでございますね。良人は冷静にこう云ったものです。
『いいや、そんな光は見なかったよ』
 それで私は新聞の記事を良人の方へ向けまして、
『昨夜二時頃この町へ怪獣が出たそうでございますね』
『ふうむ、怪獣? どんな怪獣?』良人は益※[#二の字点、1-2-22]冷静に、『町の人達の錯覚だろう。燐光を放す獣なんかこの世にある筈はないからな』
『でもねあなた、その光を、昨夜私も見たのですよ』
『お前が見たって、その光を? それじゃお前も錯覚党の仲間入りをしたって云うものさ』
 こう云って良人が笑いましたので、私もそのまま安心して黙ってしまったのでございます。
 けれどどうやらそれからというもの、良人の様子が沈んでしまって、考え込むようになりました。そんな時私が話しかけましても、ろくろく返辞さえ致しません。そうかと思うと何んでもない時に、お前今何んとか云わなかったかい、などと訊く事がございます。一体の様子が何かこう遠い昔の思い出事に耽ってでもいるように見えまして、気味が悪いのでございます――こんな塩梅《あんばい》でつい昨日まで日を送って来たのでございます……ところが昨夜、いえ今朝です、それも午前の二時頃です、私は再度室の窓が燐の光に反射して、銀色に輝くのを認めました。そこで私は飛び起きて窓の側まで走って行って、首を出して戸外《そと》を覗きましたところ……」
 夫人はここで声を呑んだ。
「恐ろしい恐ろしい何んて恐ろしいんでしょう! 私は今でも思い出すと夢ではないかと思いますの。どうでしょうほんとに眼の縁《ふち》だけ燐のような光に輝いている大きな犬のような動物が、良人《おっと》の居間の窓の枠へ前足を二本しっかりと掛けて、硝子《ガラス》戸越しに主人の居間を覗き込んでいるではございませんか。あやうく叫び声をあげようとしてやっと私は声を呑み、狂人《きちがい》のように手を揉みながら、じっと聞き耳を立てました。良人の室から嗄《しわが》れた良人の言葉が洩れましたからで……
 ―― ROV《ロブ》! 湖! ――埋もれた都会! ……帰ってくれ帰ってくれ恐ろしいコ……マ……イ……ヌ――。
 嗄れた良人の声の中から私に聞き取れた言葉と云えばただこれだけでございました。それとて私には何んのことだかちっとも意味が解りませんでしたけれど――主人が喋舌《しゃべ》っている間中、怪獣は身動き一つせず、じっと聞き澄ましているのでした。主人の声が途切れた時突然怪獣は飛び上がりました。そうして一本の前足を硝子戸の枠へ掛けたかと思うと、どうでしょうスルスルと硝子戸が、横へ開いたではございませんか。良人は叫び声をあげました。そうして床へ倒れたと見えて、ドシンという音が聞こえて来ました。その後の記憶はございません。私も気絶致しましたので」
 市長夫人は沈黙した。室がにわかに寂然《しん》となった。
「大体事情は解りました」レザールがその時静かに云った。「そこで奥様のご心配は――何よりも奥様のご心配は、市長閣下の健康が以前《まえ》からあまり勝れていず、現在あまり質《たち》のよくない心臓病にかかられている、その点にあるのでございましょうね? ところで閣下のご容態はどんな塩梅でございましょう?」
「おや!」
 と夫人はまた呆れて、
「どうしてそんな事ご存知でしょう? 良人の心臓のよくないことは、私以外どなたも知らない筈ですのに」
「しかし探偵というものはこれと思う人と逢った時、ただぼんやりとその人を見守っているものではございません――顔の特徴、体の様子、そしてまた握手などする場合には、その人の脈膊をさえ計ります……市長閣下にお目にかかった時、さすがは有名な探検家として阿弗利加《アフリカ》を初め印度《インド》、南洋、中央|亜細亜《アジア》、新疆省《しんきょうしょう》と、蕃地ばかりを経巡《へめ》ぐられて太陽の直射を受けられたためか、お顔の色の見事さは驚くばかりでありましたが、さてかんじんの脈膊はというと、どうやら乱れ勝ちでございました。ハハア心臓がお悪いな。その時私は思いましたので」
「おっしゃる通りでございます」夫人は憂わし気に云ったものである。「印度から故郷へ帰りましたのも、その病気のためでございました」
「ところで目下のご容態は?」
「危険というほどではございませんけれど……医者が私に申しますには、もう一度こんなような驚愕《おどろき》を――神経と心臓とをひどく刺戟する病気に大毒な驚愕《おどろき》を最近に経験するとなると、生命《いのち》のほども受け合われないなどと――あるいは脅かしかも知れませんけれど……」
「ははあそのように申しましたかな?」
 レザールは黙って考え込んだ。わずかに開けられた窓の隙から春の迅風《はやて》に巻きあげられた桜の花弁《はなびら》が渦を巻いて、洋机《テイブル》の上へ散り乱れていたが、ふたたび吹き込んだ風に飛ばされどこへともなく舞って行った。
 隣室で時計が十一時を報じ、なま暖かい春陽《はる》の光が洪水のように室に充ち窓下の往来を楽隊が、笛や喇叭《ラッパ》を吹きながら通って行くのも陽気であった。
 夫人は深い吐息をして、
「そういう訳でございますので、燐光を放す怪獣が二度と窓の辺へ来ないように、致したいのでございますけれど、しかしこれを警視庁へ届け、警官の方に来て戴いて邸宅《やしき》を守ってなどいただいては、事があんまり大仰になり、世間一般に知れましたら良人が意気地なしに見えますし……」
「いかにもさようでございますね――世間一般に知れますより、敵党の連中に知られることが閣下にとっては不得策の筈で」
 レザールは片眼をつむり[#「つむり」に傍点]ながら、少し皮肉に云ったものである。
「はいその通りでございます……良人《おっと》が市長になるに付いては大分反対者がございまして、選挙も苦戦でございました……ですから良人が今になって心臓の悪い病人だなどと敵党の人達に知られましたら、乗ぜられないものでもなし、それに犬のようなそんな獣に脅かされたなどと思われましたら、市長の威厳に関しますので」
「それで私達民間探偵にご依頼なさろうとなすったので? いやよく事情はわかりました。出来るだけお力になりましょう」
「どれほど費用はかかりましても、その点はご心配くださいませんように」
 夫人は云って口ごもった。レザールは頷いたばかりである。でまた二人は黙り込んだ。
「それで」とレザールは重々しく、「ご依頼の件は怪物が今後一切窓の側へ現われないように警戒する――ただそれだけでございましょうか?」
 夫人はちょっと躊躇《ちゅうちょ》したが、
「はい、ただそれだけでございます」
「怪物の正体は何であるか? 何故窓の側へあらわれたか? 閣下が怪物を見られた時、何故独り言を洩らしたか? そして何故卒倒なされたか? 調べる必要はございますまいか?」
 夫人はまたも躊躇したが、
「いいえ必要はございません」
 レザールはその眼をグルグルと廻し、彼独特の悪戯児《いたずらっこ》のような、無邪気だけれど意地の悪い、微妙な笑いを洩らしたものの、夫人の悄《しお》れた様子を見るとすぐその笑いを引っ込ませた。
 彼は母指《おやゆび》の爪を噛み――彼の一つの癖である――天井の方へ眼をやりながら、かなり長い間考えていた。それから夫人へ質問した。
「奥様、あなたはご良人《しゅじん》といつ頃結婚なさいましたな?」
「はい、今から一年前、印度に主人がおりました時に……私も印度におりましたので」
「それでは奥様はそれ以前の閣下の行動に関してはご存知ないわけでございますな?」
「良人が話してくれませんので」
「そこでもう一つ最近において――先月十日以前において、誰か様子の怪しいような訪問客はございませんでしたかな? 閣下に対する訪問客で……」
「いいえ、一人もございませんでした。素性の解った方達ばかり他にはどなたも参りませんでした」
「そこでもう一つ閣下におかれては、どなたと一番お親しいので?」
「私と違いまして良人は誰とでも快よく逢いますので来客も多うございますが、探検好きでございますから、やっぱりこれも探検好きのエチガライさんとは特別に親しいようでございます」
「ははあエチガライさんでございますか? 動物園長のエチガライさん?」
「はい、さようでございます」

        

「これは重大のことですが」レザールはにわかに重々しく、「エチガライさんが来られた場合《とき》の閣下の態度はどんなようでしょう?」
「大変親しいのでございます。すぐと書斎へ引っ込んで内から扉へ錠を下ろし、一時間でも二時間でも話し合うのでございます。良人《おっと》がこれまで探検したいろいろの地方から発掘した動物の骨とか瓦とかそんなものを二人で研究したり、それについて二人で議論したり、そしてどうやら二人して著述にでもかかっておりますようで」
「いいことを聞かしてくださいました。大変参考になりそうで」
 レザールは親しそうにこう云ったが、
「ところで園長のエチガライさんは、たしか閣下のご周旋で今の位置につかれたということですが?」
「さようでございます。私達が印度を引き揚げて当地へ参り、ものの一月と経たない頃訪ねていらしったのでございまして……」
「どちらから来たのでございましょうな?」
「あの方は良人の友人で、私とは関係がございませんし良人も私にあの方については何とも話してくれませんので、どちらから参られたか存じません――けれど良人にとりましては、大事な人と見えまして、ただ今の地位も見つけてあげるし、金銭上の援助なども、時々するようでございます」
「もう一つお訊ね致しますが、印度から当地へ参られてから、盗難とかまたは紛失とか、そういう種類の災難におかかりなすったことはございますまいか?」
「さあ」と夫人は首を傾《かし》げ、しばらくじっと考えていたが、「いいえ、なかったようでございます……けれど、たった一度だけ――いいえ恐らくこんな事は参考になんかなりますまい」
「それはいったいどんなことで?」レザールはかえって熱心に訊いた。
「先月の初めでございましたが、新米の女中が誤まって良人の書斎を掃除しながら、捨ててはならない紙屑を掃きすててしまったとかいうことで、良人が大変な権幕で叱りつけたことがございました」
「すててはならない紙屑を女中が掃きすてたというのですな? ハハアこいつは問題だ! 閣下が憤慨なさる筈だ! そして女中はどうしました? もちろんお宅にはおりますまいが?」
「短気な女中でございまして、叱られたのが口惜しいと云って暇を取って帰ってしまいました」
「行衛《ゆくえ》は不明でございましょうな?」
「女中の行衛でございますか。いいえ判っておりますので」
「え、何んですって? わかっている? そうしてどこにおるのですかな?」
「エチガライ様のお宅ですの――エチガライ様がその女中を最初にお世話してくださいましたので」
 レザールは元気よく立ち上がった。そうして夫人へ頭を下げ、例の微妙な微笑をして、
「奥様、ご安心なさいまし――もう怪獣はこの市中へは、決して姿は出しますまい。出さないようにいたしましょう」
 夫人もスラリと立ち上がった。
「それで安心いたしました」こう云って右手《めて》を差し出して、レザールにその手を握らせてから、レザールに扉口まで送られて、夫人は室から出て行った。
 レザールは椅子まで帰って来たが、さっきから黙って聞いていたダンチョンへその眼をふと注いで、
「どうだなダンチョン、この事件は? 面白い事件とは思わないかな?」
「面白そうな事件だね、どうやら怪物の正体が君には解っているようだね」
「まあそういったところだろう」レザールは腕を組みながら、独り言のように云いつづけた。「市長は有名な探検家で……新疆省へも行った筈だ… ROV《ロブ》 の沙漠……埋もれた都会……それからそうだ湖だった……エチガライという変な男……それ前に狛犬があったっけ……怪しい女中……紛失した紙片……燐光の怪獣に市長の気絶……そして市長は心臓病だ……巨万の富を有している――どうだなダンチョン、これだけの事実がこれだけ順序よく揃っていたら、君にだって真相は解るだろう?」
「ところが僕には解らない」
「よっぽど君は鈍感だよ。しかし素人だから仕方がない。……ところで夫人の話しの中で、怪しいと思った人間が君には一人もなかったかな?」
「エチガライという男が怪しいね」
「すなわち動物園長だ! 動物園長が怪しいと見たら君はどういう処置をとるね?」
「何より先に動物園へ行って、園長の様子をうかがうね」
「まずそれが順序だろう……ところで既にラシイヌさんが動物園へは行ってる筈だ……もうすぐ電話のかかる頃だ」
 そういう言葉の終えないうちに、卓上電話のベルが鳴った。
「そうら見たまえ! 云った通りだ」
 レザールはいそいで受話器を取った。
「モシモシ」と彼は呼びかけた。「ラシイヌさんでございますか? ……私はレザールでございます。あなたから電話のかかるのを待ちかねていたのでございますよ……え、何んですって? 市長夫人? 市長夫人でございますか? 市長夫人はさっき参って今帰ったばかりでございます。大分心配しておりました……それで、事件の真相は、解決なすったのでございましょうね? ……今まで手がけた事件のうちでこんな楽な事件はございませんので。全く一目瞭然です……ところで、ところで……え、何んですって? 私を馬鹿だとおっしゃるので?」レザールはひどく驚いて耳へあてた受話器を下へ置いた。がまたあわてて耳へあてた。ラシイヌの声が聞こえて来る……。
「……今まで手がけた事件のうちでこんな楽な事件はございませんて? 箍《たが》が弛んだぞ、おい、レザール! 君はまるっきりこの事件の性質というものを知ってないな! 表面きりしか見ていないな! だから暢気《のんき》でいられるんだ! 君はほんとにおめでたいよ! 君はまるっきり赤ん坊だ! 事件の奥の奥の方をちょっとでも君が覗いたら君はおそらく恐ろしさにそれこそ気絶してしまうだろう! 君はこの事件の根本をいったい何んだと思っているんだ? 恋愛でもなければ金でもない! もっと執念深い、もっともっと破天荒な人種と人種との争いなんだぜ! そうして、いいかい、しかも今夜、僕達がうっかりしていようものなら、このマドリッドの市民達の数百人は殺されるのだ! そうして、いいかい、この市中は、猛獣毒蛇の巣になるのだ――で君に命令する! 今夜二時にどうあっても動物園まで来てくれたまえ。いいかいレザール、忘れるなよ。僕の命令と云うよりもマドリッド市民の命令なのだ! 命令というより懇願なのだ!」
 ラシイヌの電話はここで切れた。レザールは両腕を組んだまま、深い疑惑に陥入《おちい》った。

        

 動物園は市の中央、H公園の中にあった。公園の周囲《まわり》は目抜きの街路《とおり》で、十二時を過ぎても尚人通りが賑やかにゾロゾロ続いていた。しかしさすがに二時となると、商店では窓々の扉を鎖ざし電車の軋りも間遠となり、時々疾走する自動車の音が、人々の眠りを醒ますばかりであった。
 公園は樹木に囲まれていた。百年また数百年、年を重ねた大木が、枝を交え葉を重ね、その下を深い闇にして夜空にすくすくと聳えていた。H公園は一周するとほとんど二里にも達しよう。森に林に丘に池、所々に建物が立っていて、到る所にベンチがあった。四辺は厳重な煉瓦の壁で、壁を蔽って内と外に鬱々と樹木が繁っていた。昼間のあいだに騒ぎつかれて夜は静かな鳥や獣の深い眠りを驚かすのは、近頃|阿弗利加《アフリカ》から送られて来た二匹の牝牡《めすおす》の獅子であった。
 檻《おり》に馴れない沙漠の王は格子の間から空を眺め、初めは悲し気な呻り声、それから次第に高くなり、やがてその声を聞いただけでも気の弱い獣は血を吐いて死んでしまうと云われている雷のような吠え声をあげるのであった。
 その雷のような吠え声がだんだん嘆くような呻きとなり、そしてプッツリ絶えた時、夜は一層深くなり闇が一層濃くなったように思われる。……
 今その声が絶えたばかりで、あたりは死んだように静かであった。
 その時一つの人影が闇の中から産まれたようにどこからともなく現われて正面の横の潜戸《くぐり》の前で、戸に身を寄せて立ち止まった。内部《なか》を窺っているらしい。
 すると忽然潜戸の戸が内の方から開けられて、そこから一人の園丁が上半身を突き出した。
「レザール君かい?」と園丁は闇をすかして声をかけた。
「ラシイヌさんですか? レザールです」闇の中の人影は前へ出た。
「ちょうど時計が鳴ったとこだ。確かに今は午前二時だ……さあすぐ内へはいりたまえ」
 レザールは潜戸《くぐり》から忍び込んだ。忽ち潜戸の戸が閉まる。
 二人は暗い園内をそろそろと先へ歩いて行く。ラシイヌは一言も云わなかった。それが一層レザールには物凄いことに思われた。
 二人はなるたけ木下闇《このしたやみ》の人目にたたない闇の場所を、選《よ》りに選って歩いて行く。
「止まって」
 と突然ラシイヌは鋭い忍び音《ね》で注意した。で、レザールは立ち止まって前方の闇をすかして見た。窓々へ鎧戸《よろいど》を厳重に下ろして、屋内の燈火を遮断した、小柄の洋館《いえ》が立っている。園長の住んでいる官舎らしい。
 闇に馴れた眼をじっと据えてレザールは官舎を注視した。すると意外にも官舎の前の芝生の上に一団の、蠢《うご》めくものの形があった。よくよく見ると人間で、十人に近い人数である。円く芝生に胡坐《あぐら》をかき、額を土へ押しあてて何事か祈ってでもいるらしい。ブツブツといういとも小さい呟きの声が聞こえて来る。祈祷《きとう》の声ででもあるらしい。
 すると突然その中から一人の男が立ち上がった。やや明瞭《はっき》りと云うのを聞けば、それは回教《ふいふいきょう》の祈祷《いのり》であった。
「アラ、アラ、イル、アラ……唯一にして絶対なる吾らの神よ……吾らをして強くあらしめたまえ! 吾らをして敵を殺さしめたまえ! ……何物をも吾らより奪うなく、何物をも吾らに与えたまう神よ!」
 その男は両手を空へ上げ、手をあげたまま腰を曲げ、地面へその手の届くまで、上半身を傾むけた。それから再び腰を延ばし、両手で空を煽ぎ立てた。それからまたも腰を曲げ、地面へ両手を届かせた。そうしては延ばし、そうしては曲げ、幾十回となく繰り返した。
 その時かすめた太鼓の音が――鈴の音のする手太鼓の音が、円座を作った真ん中から、夢のように微妙に聞こえて来た。とそれへ銀笛の音が混った。幽《かす》かに幽かに鉦《かね》の音も――その不思議な調和というものは! 人をして深い眠りを誘い、夢中で人を歩かせるような、また、この欧州のどこへ行ったとて、到底聞く事の出来ないような、東洋式のその調和! 単調で物憂い太鼓の音。人間の霊魂を地の底から引き出して来るような笛の音。聞く人の心をせき立てて犯罪の庭へでも追いやるような、惨酷な調子の鉦の音……小声で唱える合唱の祈祷《いのり》。そうしていつまでもいつまでも同じ礼拝をつづける男! 時刻は深夜の二時である。
 レザールは物凄さに身顫いした。
 物凄さはそれだけではすまなかった。次の瞬間に起こった事件の物凄さと不思議さとはレザールにとって生涯忘れられないものであった。
 見よ、正面の石造りの、洋館の扉が徐々に開いて、そこから静々とあらわれた、燐光を纒った動物を! 動物の全身は白金が朝の太陽に照らされたようにカッと凄まじく輝いている。怪獣は石段を一飛びに飛んで、回教徒の円座へ近寄って来た。そうして四本足を折り、彼らの前へ蹲《うずく》まった。
 教徒の唱える讃美の声はその時ひときわ高くなり、深沈と寂しい音楽の音は次第に急速に鳴り渡った。空間に手を上げ手を下げて何物かを熱心に招いていた彼らの中の一人が、その時その手を怪獣の背へ、電光のように触れたかと思うと、燐光の怪獣は一躍しちょうど火焔の球のように、広大な園内を一文字に門のある方へ走り出した。とその門が大きく開いて怪獣はそのまま街の方へ矢よりも速く走って行き見る見るうちに見えなくなった。
 怪獣の姿が見えなくなるや音楽の音色は急に止み、十人の教徒は立ち上がった。そして動物の檻の方へ足を早めて歩き出した。手を上げて何物かを招いていたその男が先頭《さき》に立ちながら。
 ラシイヌは急にしっかりとレザールの手を握ったものである。
「見たまえ、先頭のあの男を! 女中に化けて市長の家へ住み込んだのが彼奴《きゃつ》だよ」
「それでは女ではないのですね?」
 レザールは驚いて訊き返した。
「なんの彼奴が女なものか。それに決して西班牙《スペイン》人でもない」
「ではいったい何者なので?」
「長く欧羅巴《ヨーロッパ》にはいたらしいが、たしかに彼奴は東洋人だよ。回鶻《ウイグル》人という奴さ」
「回鶻《ウイグル》人ですってあの男が? しかし現代の社会には回鶻《ウイグル》人という奴はいない筈じゃありませんか」
「歴史上では滅びているが、しかしあの通りいるのだよ」
「いったいどこから来たのでしょう?」
「新疆省の羅布《ロブ》の沙漠、羅布湖のある辺の流沙に埋められた昔の都会! そこから彼奴らはやって来たのだ!」
「で、どこへ行くのでしょう?」
「檻を開放しに行くのだよ。猛獣や毒蛇を檻から出して、マドリッドの市中へ追い放し、深夜の市中を騒がすためにね」
「いずれ理由《わけ》があるのでしょうな?」
 レザールは髪を掻きむしった。
「理由はつまり復讐だ!」
「マドリッドへ復讐するのですか?」
「マドリッドの住人のある一人が、彼らを憤怒させたからさ」
「どんな悪いことをしたのでしょう? そうしてそれは何者です?」レザールは益※[#二の字点、1-2-22]いらいらした。
「マドリッド市長が彼らの宝の、経文の一部を取ったのだ――つまり発掘したんだね。そこで彼らはその経文を取り返すために出て来たのさ」
「ふうむ」とレザールは呻くように、「市長の書斎を掃きながら、贋物《にせもの》の女中が掃きすてたという、例の紙屑という奴が、その経文の一部ですな?」
「その紙屑を取り返すために、女中に化けて住み込んだり、燐光を放す狛犬を、人工で拵えておっ放し、市長を脅したってものさ」ラシイヌは悠々と説明した。
「私も贋物だと思いました」レザールはいくらか昂奮したが、「……つまり私はこの事件を、こんなように解釈しましたので……」
「話はゆっくり後で聞くが……君はいったい怪物を――燐光を放す怪獣を――何の贋物だと思ったかね?」
「恐らく犬か狼へ、燐光を放す薬品類を塗ったものだと思いました」
「犬か狼かいずれ直《じ》きに彼奴《きゃつ》の正体は解るだろう。……見たまえ見たまえ回鶻《ウイグル》人が、猛獣の檻を開いたから」
 見ると彼らは四方に分かれ五つの檻の前へ立ち、パッと一斉に戸を開けた。そして烈しく叱咤した。
「シーッ、シーッ、シーッ、シーッ、シーッ、シーッー」
 しかし猛獣は――獅子も虎も、容易に現われては来なかった。
 が、その次の瞬間には、五つの檻から猛獣が――猛獣のような真っ黒のもの[#「もの」に傍点]が、吼《ほ》えながら一時に現われて、回鶻人を取り囲み、彼らを捕えようとひしめいた。
 園内は回教徒と警官との格闘の庭と一変した。檻から出たのは警官であった。
「帰ろう」
 とラシイヌはゆっくりと門の方へ足を向けた。
「これでもう万事片づいた。後は警官に任せて置こう」
 レザールは何んとも云わなかった。ただ黙々と蹤《つ》いて歩く。
 警官の叱咤、回教徒の怒号、鳥獣の吠え声や啼き声で戦場のような動物園を、見返りもせず二人の者は正面の門から街へ出た。街には何んの異状もない。市民は眠っているらしい。
 その時、一台の自動車が、突然横手からあらわれた。警官が数人乗っている。
「とまれ!」とラシイヌは立ち止まって、片手を上げて合図をした。
「どこで怪獣は捕らえたな?」
 ラシイヌが笑いながらこう云うと、警官達も笑い出し、
「府庁へ行く道の中央《まんなか》で。……いや飛んでもない怪獣だ」
「レザール君、見るがいい。これが怪物の正体よ」
 ラシイヌはレザールを押しやった。
 自動車の中には東洋犬の毛皮を冠った人間が、昏々として眠っていた。
 レザールはその顔を見詰めたが、
「こりゃ園長のエチガライだ!」
「すなわち怪獣の正体さ――よろしい、諸君、では怪獣を病院へかまわず運んでくれたまえ」
 自動車は再び爆音をたて、街路を辷るように走り去った。
「行こう、レザール、じゃさようなら……明日君の家を訪問しよう。その時君の話しを聞こう。今夜は眠いから失敬する」
 ラシイヌはクルリと体を向け、横町へズンズンはいって行った。

        

 その翌日のことである、ラシイヌとレザールと美術家とが、レザールの室で落ち合った。やっぱり麗《うらら》かな春の陽が、南欧桜の香と一緒に室の中へいっぱいに射していた。
「……夫人の話を聞いているうちに、動物園長のエチガライが、疑わしいと思いましたので……」
 レザールはいくらか恥ずかしそうな、思い違いを恥じるような、感激の伴なわないぼやけた声で、自分の解釈を一通り、ラシイヌに説明するのであった。
「さぐって見ようと思いましたけれど、ラシイヌさんのことですから、私より先に動物園へ行っていらっしゃるに違いないとこの友人のダンチョン君とも噂していたのでございます。するとはたしてあなたから電話がかかったというものです――しかし私はエチガライが、自分で犬の皮を着てマドリッド市中を駆け廻って市長の窓まで行ったとは夢にも想像しませんでした。私はこのように思いましたので――市長もエチガライも探検家だ。ところが市長は財産家で選ばれて市長の職にもついた。そこへエチガライが訪ねて来ると市長は熱心に周旋して園長の職につけてやった。時々金銭の援助もする。普通の友人の情誼《じょうぎ》としては少しく親切に過ぎるようだ。あるいは二人の間には他人に云われない利害関係が……つまり市長が探検先で不正財宝の発掘でもしてそれで財産家になったのを、あのエチガライが知っていて、世間へ発表しない代りに動物園の園長という立派な位置を得たのではないか? こう思っているとまた夫人が、市長の書斎の紙屑を、エチガライの世話した新米の女中が、掃き出してしまったと云ったのですから、ハハアそれではその紙屑は、不正財宝と関係のある、地図か証書かに相違ない。それを女中に盗ませたのはそれを種にしてきっと市長を脅迫して金でも取ろうとしたのだろう――そうして例の怪獣は、動物園の犬か狼へ人工で燐光を纒わせたもので、それを市長の眼前へ出して、驚かせたというのも、やっぱり脅迫の意味からで、すなわち燐光の怪獣と、不正財宝の間には何らかの脈絡があるのだろう。それを市長が見た以上厭でも応でも脅迫者の自由にならなければならないという、奇怪な弱点であるのかも知れない。そして市長が怪獣を見るや、ROV《ロブ》、湖、埋もれた都会と絶叫したということだから、不正財宝を発掘したのは、支那新疆の羅布《ロブ》の沙漠の、羅布湖のほとりに相違ない。そして市長は尚叫んで、恐ろしい狛犬といったというから、燐光を纒った怪獣はあるいは羅布湖の岸の辺に住民の尊敬する神殿でもあって、そこの社頭の狛犬と深い関係でもあるのかも知れない。とにかく事件の張本は園長エチガライに相違ないとこう睨んだのでございますが、しかしまさか園長自身が怪獣であるとは思いませんでした」
「夫人の話を聞いただけでそこまで看破したところに君の天才が窺われるね」
 ラシイヌは愉快そうに頷いたが、
「実はね、僕も、正直のところ、動物園で調べるまでは、やっぱり君と同じようにエチガライを疑っていたものさ。あいつが犯人に違いないとね。ところで僕は君の考えより、一つだけ余分に考えたってものさ。それは燐光の怪獣だが、これには必ず何らかの迷信がからまっているだろうと――そこで図書館へ飛んで行って、回鶻《ウイグル》辺に拡がっている土人の迷信を調べて見ると、あったあった大ありだ。あの辺にわずかに残っている、回鶻人の後裔達は――土耳古《トルコ》人との混血児《あいのこ》だが――燐光を纒った狛犬を彼らの神の本尊とし、狛犬を祭った神殿に対し、もしも無礼を加えたものは恐ろしい神罰を蒙《こう》むるだろうと、こう書いてあるその後へ、神罰の例が二つ三つ記してあったというものさ。神社の財宝を盗める者――狛犬の吠え声を耳に聞き、悪性の熱病にかかるべし。神殿の経文を盗めるもの――狛犬の姿を三度認め、三度目に命を失うべし云々……。
『それでは園長のエチガライは回鶻《ウイグル》人の後裔かな?』僕はその時疑ったものだ。とにかく僕は大急ぎで、動物園へ行ったものだ。真っ先に園長に逢って見ると、どうして立派な西班牙人だ。そして可哀そうに大病だ。しかも病気は神経病だ。脅迫観念に捉らわれている。それから女中に逢って見ると、一見|土耳古《トルコ》の女だけれど支那人のようなところもある。しかしどのみち混血児《あいのこ》だ。僕は何気なく遠くから金貨を一つ投げてやった。すると女中は両足を開けて、腰を曲げながら受け取った。で男だとわかったのさ。投げられた物を受ける時女なら両足を閉じるからね。それから後は君が昨夜、親しく見た通りというものだ。回鶻《ウイグル》人という奴は――彼らだけではないけれど、一体に無智の人間ほど不思議な力を持っているもので、彼奴らはつまり妖術者なのだ。催眠術かも知れないが、とにかく一種の法力で、人間の心や体付きまで獣類に一変させるのだよ。……見込まれたのが園長だ。園長は決して悪人ではない。一個の学究に過ぎないのさ。学者という者は馬鹿のようなものだ。融通が利かないで正直だ。そこへ彼奴らはつけ込んだのさ。その上園長は市長の友で市長の家の案内を知り抜いているから好都合だった訳さ。そこで彼奴らは法術で――いわば一種の呪縛《じゅばく》だね。園長の意志を縛ってしまって、彼奴らの意志を代わりに注ぎ込み、かねて用意をして置いた細工を凝らした獣の皮をスッポリ園長へ着せてしまって、そこでおっ[#「おっ」に傍点]放したというものだ。こうして市長を脅かしたのさ。経文を盗んだくらいだから、もちろん市長はその狛犬の迷信も知っていたに違いない。燐光を放す狛犬を見てハッと思ったのは当然さ。それに市長は心臓病だ。一度ならず二度三度、そんな狛犬を見たとすると、心臓麻痺を起こすかも知れない。そうしてほんとに死んだかも知れない……ほんとにあぶないところだったよ。それで彼奴らは昨夜を最後に、引き上げようとしていたものさ。行きがけの駄賃に猛獣を放し、憎いマドリッドの市民達を――つまり彼らは東洋人で、あらゆる欧羅巴《ヨーロッパ》の人間を人種的に憎んでいるのだからね――食い殺させようと計ったものさ。幸い僕が気がついてすぐ警視庁へ電話をかけ、警官をひそかに呼び寄せておいて、園丁達に云いふくめ、あらかじめ猛獣を檻の中から出しておいたからよかったものの、そうでなかったら市民達の円《まど》かな眠りは醒まされたろう」
「しかしどういう方便で回鶻《ウイグル》人のあの男が園長と知るようになったのでしょう?」
「そんなことどうだっていいじゃないか。そこが学究の馬鹿な点さ。実はね、ここへ来る前に病院へちょっと寄ったものさ。エチガライ氏にいき逢ってその点について訊いて見ると、その説明が面白い――それはある時エチガライ氏が町を散歩していると、若い女の乞食《こじき》が来て手の中を乞うたというものだ。と見ると女の容貌が微妙な雑種を呈していて氏の好奇心をそそったので、そのまま家へ連れて来て女中に使っているうちに、友人の市長に懇望され譲ってやったということだった」
「聞いてみれば何んでもありませんなあ」
 レザールは思わず呟いた。
「どうです」とラシイヌは画家を見て、「あなたがもしも小説家ならよい小説が出来ますな」
「神秘でそして幽幻で大変面白い材料です。空想画として面白い。燐光を放って走って行く、獣のような人間を、一つ油《オイル》絵で描きましょうかな」
「獣人というような題にしてね」
 ラシイヌは笑って云ったものである。
 麗《うらら》かな春の午後である。

    第二回 沙漠の古都

        

[#天から4字下げ](以下は支那青年張教仁の備忘録の抜萃である)
 夕暮れは室へも襲って来た。卓上のクロッカスの鉢植えの花は、睡むそうに首を垂れ初《そ》めた。本棚の上に置かれてあるバスコダガマの青銅像《ブロンズ》の額の辺へも陰影がついた。隣室を劃《くぎ》った垂帳《たれまく》のふっくりとした襞の凹所《くぼみ》は紫水晶のそれのような微妙な色彩《いろあい》をつけ出した。
 壁にかけられた油絵のけばけばしい金縁の光輝《ひかり》さえ、黄昏《たそがれ》時の室の中の、鼠紫の空気の中では毒々しく光ることは出来ないらしい。あちこちに置かれた玻璃《はり》の道具、錫の食器、青磁の瓶――燈火《ともしび》の点《つ》かない一刻を仮睡《うたたね》の夢でも結んでいるように皆ひそやかに静まっている。
 月はもう空に懸かってはいるがしかし太陽は没していない。昼でもなければ夜でもない。夜と昼との溶け合った真に美しい一刻である。
 薄暮時《たそがれどき》のこの一刻を、私はしばらく味わおうとして食堂の椅子へ腰かけていた。
 耳を澄ませば窓の外の芭蕉や蘇鉄の茂みから孔雀の啼き声が聞こえて来る。名残の太陽を一杯に浴びてまだまだ戸外は明るいと見える。孔雀の啼き声と競うように高い鋭い金属性の鸚鵡《おうむ》の啼き声も聞こえて来る。窓外の壁板に纒っている冬薔薇の花が零《こぼ》すのであろう、嗅ぐ人の心を誘って遠い思い出へ運んで行くような甘い物憂いまた優しい花の香が開け放された窓を通して馨って来る。その花の香に誘われて私の心は卒然と三年前に振りすてた故国の我が家へ帰って行く。……
 夕の鐘が鳴り出した。回教寺院《モスク》で鳴らす祈祷の鐘だ。冬といってもこの西班牙《スペイン》のマドリッドの暖さはどうだろう! 秋の初めと変りがない。雪は愚か雨さえもこの一ヵ月降ろうともしない。乾き切った十二月の空を通して鳴り渡る回教寺院《モスク》の鐘の音の音色の高いのは当然だ。しかし神々しい鐘の音ももう明日からは聞かれまい。明日はこの国ともおさらばだ。東洋と西洋とを一つに蒐《あつ》めて亜弗利加《アフリカ》の風土を取り入れたような、異国情調のきわめて深い世にも懐しい西班牙《スペイン》を立って明日は沙漠へ向かわねばならぬ。支那の西域|羅布《ロブ》の沙漠! そこへ私は出かけるのだ。沙漠は私を呼んでいる。その呼び声を聞く時は西班牙《スペイン》を懐かしむ心などは跡方もなく消えてしまう! 私は今日までまあどんなにその呼び声を待ちかねたろう……冬薔薇の匂いがまた匂う。三年前に立ち去った故国の我が家の面影がまたもわが眼に映って来る。私の思い出はその家へ今なつかしく帰って行く。

 支那広東裳花街。そこに私の家がある。家といっても父も母も遠い昔に死に絶えてたった一人の妹だけが老婆の召使いと二人きりで寂しく暮らしているばかりだ。父母は革命の犠牲となって袁世凱《えんせいがい》の軍に殺された。そして家財は没収され家の大半は焼き払らわれてしまった。その時私は十五歳であった。そうして妹は十一であった。忠義な召使い夫婦の者に私達兄妹は救われた。焼け残った家へ立ち帰って父母の屍《なきがら》を葬ってからの私達兄妹の生活は昔の栄華に引き代えて世にも貧しいものであった。南支那切っての貿易商、南支那切っての名門の家――その家の形見の私達兄妹は世間の人達からは嘲笑され生き残った召使い達には逃げられて、私達兄妹を助けてくれた老召使い夫婦の者だけにかしずかれてわずかに生きていた。そのうち召使いの老人は弾傷が原因《もと》でこの世を去り私達二人の孤児《みなしご》は良人を失った老婆一人を手頼《たよ》りにしなければならなかった。私は実際その時まではただ可哀そうな名門の児――意気地のない貴公子に過ぎなかったがこの時慨然と震い立った。私は剣をとったのだ。革命党に参じたのだ。孫逸仙の旗下に従《つ》いたのである。
「黄蓮!」と私はある日のこと――慨然と立ったその日のこと妹に決心を打ち明けた。「私を自由にさせておくれ。私を戦《いくさ》に行かせておくれ。父母の仇敵は袁世凱だ。あいつを生かしては置かれない。あいつは民国の仇なのだ! あいつをこのまま放抛《うっちゃ》って置いたらきっと皇帝になるだろう。あんな匹夫を皇帝に戴いて私達は生きていられるかい。あいつは匹夫で姦賊なのだ! 曹操のような人間だ。なんの曹操にも当たらない。あいつはむしろ王※[#「くさかんむり/奔」、34-12]《おうもう》なのだ! 王※[#「くさかんむり/奔」、34-12]を皇帝に戴いた時の漢の天下はどうだったろう? 酷《ひど》い塗炭の苦しみに人民はどんなにもがいたかしれなかった。王※[#「くさかんむり/奔」、34-14]よりももっと袁世凱は匹夫なのだ。その上父母の仇敵だ。私はあいつを討つために革命軍に投じようと思う。どうぞ私を行かせておくれ。私が行ってしまったらお前はきっと寂しいだろう。お前の寂しさを思いやると私の決心は弛むけれど、国の大事には代えられない。たとえ戦に出て行っても時々家へ帰って来よう。そうしてお前を慰めてあげよう。私は決心したのだよ。私を自由にさせておくれ」
 すると妹は微笑して――眼には涙を溜めてはいたが――私の言葉に頷いた。
「私に心配はいりません」妹は優しく云ったものである。「私は老婆《ばあや》とお留守をしていつまでもここにおりましょう。そして兄さんのご決心がとげられるように神様へお祈りをしておりましょう」
 優しい妹のこの言葉で決心は一層堅くなった。そこで充分妹のことを老婆に頼んだその後で私は家を出たのであった。孫文元帥の陣中では私は最初旗手であった。しかし間もなく自分から望んで軍事探偵の任務を帯び窃《ひそ》かに北京へ忍び込み讐敵の動静を窺った。袁総統の権勢は飛んでいる鳥を落とすほどで容易に接近出来なかった。それでも私は根気よく彼の身辺を窺《うかが》った。こうして星移り物変り幾星霜が飛び去って行った。果然|王※[#「くさかんむり/奔」、35-7]《おうもう》は頭巾を脱いでその野望をあらわした。袁皇帝と称えようとした。釜で煮られる湯のように中国はにわかに騒ぎ立ち袁討伐の呪いの声が津々浦々にまで鳴り渡った。国民の輿望を一身に負って袁討伐の征皷を四百余の州に響かせたのは孫文先生その人で、漢の代の王※[#「くさかんむり/奔」、35-10]を滅ぼした劉秀がこの世へ現われたかのように、先生の態度は勇ましく先生の人望は目覚ましかった。
 その頃私は名を変じ身分を変え、軽奴となって袁総統宮殿の門衛の一人に住み込んでいた。そうして機会を窺って国と父母の仇を刺そうとした。

 ある夜深更のことであった。おりから春の朧月が苑内の樹立《こだち》や湖を照らし紗の薄衣《うすもの》でも纒ったように大体の景色を※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]《ろう》たけて見せ、諸所に聳えている宮殿の窓から垂帳《たれまく》を通して零《こぼ》れる燈火《ひ》が花園の花木を朧ろに染め、苑内のありさまは文字通り全く幻しの園であった。私は詰め所からうかうか出て苑内深く逍遙《さまよ》って行った。あたりは森《しん》と静かである。誰も咎める者もない。
「寂々タル孤鶯ハ杏園ニ啼キ、寥々タル一犬ハ桃源ニ吠ユ――」
 自分はその時劉長卿の詩を何気なく中音に吟じながら奥へ奥へと歩いて行った。そういえばほんとに花園の中で鶯が寝とぼけて啼いている。犬も遠くの方で吠えている。
「顛狂スルノ柳絮ハ風ニ随ツテ舞ヒ、軽薄ノ桃花ハ水ヲ逐フテ流ル――」
 杜工部の詩を吟《うな》った時には湖水に掛けた浮き橋を島の方へいつか渡っていた。橋を渡って島へ上り花木の間に設けられてある亭《ちん》の方へ静かに歩いて行った。
 その時嗄がれた老人の声が亭《ちん》の中から聞こえて来た。
「そこへ来たのは何者じゃ? いや何者でも構わない。話し相手になってくれ――さあここへ来て腰をかけろ」
 私はちょっと驚いたが構わず中へはいって行った。でっぷり肥えた小作りの、粗末な衣裳を身に纒った老人が縁に腰かけている。大輪の木蘭の花の影が老人の顔の上に落ちているのでハッキリ輪廓は解らなかったが、老人はじっと眼を閉じて何か考えているらしく、身動き一つしなかった。私も縁へ腰かけた。こうして二人はしばらくの間ものも云わずに向かい合っていた。
 と、老人は眼を開き、その眼を私に注いだが、
「お前はこの景色をどう思うな? 林泉、宮殿、花園、孤島、春の月が朧ろに照らしている。横笛の音色が響いて来る……美しいとは思わぬかな? ――もっともお前は打ち見たところまだ大変若いようだ。自然の風景の美しさなどには無関心かも知れないが」
「美しい景色だと思います。雄大ではありませんが華麗です。自然というよりも人工的で技巧の極致を備えています」
「君はなかなか批評家だ。いかにも君の云う通り技巧に富んだ風景じゃ。君はこういう庭園を所有したいとは思わぬかな?」
「所有《も》ってみたいとも思いますし、所有《も》ってみたくないとも思います」
 私が云うと老人は嗄がれた声で笑ったが、
「君はなかなか皮肉屋だね。ところで君のその言葉の、意味の説明を聞きたいものじゃ」
「これという意味もありませんが、こういう庭園を持つ者は王侯以外にはございません。こういう庭園を持つという意味は王侯になることでございます。男子と生まれて王侯となるのは目覚ましいことでもございますし願わしい限りでもございますが、さて王侯になって見たら側目《わきめ》で見たほどには楽しくもなく嬉しくもないかも知れません。楽しくも嬉しくもないのならこんな庭園を所有するような王侯になっても仕方がない。こう思うからでございます」
 すると老人は忍び音に面白そうに笑ったが、
「君は老子の徒輩と見える、虚無|恬淡《てんたん》の男と見える。二十《はたち》そこそこの若い身空でそう恬淡では困るじゃないか。どうやら君はここへ来る時詩を微吟していたらしいが、無慾の君のことだから、『|贈[#レ]僧《そうにおくる》』という杜荀鶴の詩でも、暗誦していたんじゃあるまいかな?」
「いいえ」と私は笑いながら、「杜荀鶴のその詩は存じません。私の吟じたのは杜工部です」
「知らぬというのなら教えてやろう――私《わし》には思い出の詩じゃからの」
 老人の言葉には威厳がある。底知れないような深みもあり聴いている人を押しつけるような圧力さえも持っていた。私は次第にこの老人に敬服するようになって来た。そして私は疑った。
「この老人は何者だろう? 官人かそれとも府の役人か? ただ者のようには思われない」しかし老人の顔の上には依然として木蘭の花の影が黒々と落ちているために確かめることは出来なかった。
 その時老人は感慨をこめて杜荀鶴の詩を微吟した。
「利門名路両ナガラ何ゾ憑ラン、百歳ハ風前短焔ノ燈、只恐ラクハ僧ト為テ心了セザルコトヲ、僧ト為テ心了セバ総テ僧ニ輸セン――どうじゃな、これが杜荀鶴の詩じゃ。上手の作とは思わぬが私にとっては思い出の詩じゃ。只恐ラクハ僧ト為テ心了セザルコトヲ、私《わし》は若い時この詩を読んで一生の目的を定めたのじゃ。実はこの私《わし》も若い時にはちょうどお前と同じように名利の念に薄かった。布衣《ほい》であろうと王侯であろうと人間の一生は同じことじゃ。王侯などになったならかえって苦労が多かろう。布衣の方がなかなか気楽らしいなどと思っていたものじゃ。しかるにこの詩を見た時に私はほんとにこう思った。浮世を捨てて僧に成ってさえ決して心了せないものを布衣でいたなら尚のこと心は満足しないだろう。どのような位置にいたところで人の心は安まらない。同じく心が安まらないものなら、人と産まれた果報には、思い切ってこの身を働かせて大事業をするのも面白かろう。それが男子の本懐じゃ! つまりこのように思ったのじゃ。そこで私《わし》は考えた。富貴に向かおうか王侯に成ろうかとな、私《わし》は両方を征服しよう! 慾深くこのように考えた。それから私は努力《つと》めたものだ。二十年三十年四十年、馬車馬のように突き進んだ。そして美しかった青年の私《わし》が、いつの間にかこんな老人となり死病にさえもとりつかれて余命少くなってしまった。なるほど私《わし》は人間として得べきだけの福禄は得たけれど、得れば得るほど尚得たいという望蜀の念に攻められて安穏の日とては一日もない。そして私《わし》には敵がある。兇刃、鴆《ちん》毒、拳銃の類が四方八方から取り巻いている。そして私には死んだ人々の怨霊が日夜憑ついていて安らかな眠りを妨げる。私は金持ちだが金持ちだけにもっと大金が欲しいのじゃ。小さな野心は大野心を孕《はら》み大きな野心は最大の野心を産む。あらゆる人間は野心のために自分の身心を切りきざむ。私はその例のよい標本じゃ。そこで私はこう思った。杜荀鶴の詩《うた》を読んだ時に何故こんな決心をしたのだろう。こんな決心をする代りにいっそ出家をしていたら多少の安心は出来たろうと。今になっては返らぬ愚痴じゃ。もうどうしようにも仕方がない境遇が私を引っ張って行く。今さら出家はもう出来ぬ。私は境遇の傀儡《かいらい》となって盲目《めくら》滅法に進むまでじゃ。こういう憐れな境遇にいる私《わし》のせめてもの慰めといえば、夜な夜なこのように姿を変えてあらゆる人間から遠ざかり、一人自然の懐中《ふところ》へはいって悠々と逍遙することじゃ。しかし唯一のその楽しみも長く味わう事は出来ないだろう。私は死病に憑かれていてじきに死ななければならないからの」
 老人はしばらく考えたが重々しい調子で云いつづけた。
「明日にも私《わし》は死ぬかもしれぬ。こう云っているうちにも死ぬかもしれぬ。そこでお前に頼みがある。いいや頼みというよりもむしろお前に慫慂《すすめ》るのだ。そうだ慫慂るのだ」
 こう云って老人は懐中から小さな手箱を取り出したが、それを私の前へ置き、
「これをお前に進呈する。家へ帰って開くがいい。お前の今後の運命はこれによってきっと定まるだろう。もし手に余ると思ったら謹んで土に埋めるがいい。これは天から授かったものじゃ。最初は私に授かった。私は天からの授かりものを自分のものにしようとした。しかし今ではもう遅い。私の命数は定まっていて、どうすることも出来ないのじゃ。それで私への福運を改めて私からお前へ譲る。天から授かったと同じことじゃ。しかしどのような幸福でもそれを得ようと思うにはまず艱難を冒《おか》さねばならぬ。手箱の中にある幸福を完全に握ろうとするからにはやはり艱難を冒さねばならぬ。その艱難が恐かったらその幸福を捨てるがいい、手箱を土中へ埋めるがいい……しかしお前はこの私が初めて逢った他人のお前へこんな大切な幸福の箱を何故易々と渡すのかと不思議に思うかもしれないが、それは決して不思議ではない。正直のところこの私は手箱を譲ってやりたいような味方を一人も持っていない。私《わし》の周囲《まわり》にいる者は一人残らず皆敵じゃ。衣を纒った狼じゃ。で私は素晴らしい幸運を他人のお前へ渡すのじゃ」
 不思議な老人はこう云うと縁からスラリと立ち上がった。そして私へは構わずに亭《ちん》を離れて歩き出した。私はしばらく呆気《あっけ》にとられ老人の姿を見送っていたが気がついて背後《うしろ》から声をかけた。
「ご老人!」と私は忍び音で、「お名前をおきかせくださいまし、いったいどなたでございます?」
 すると老人は振り返ったが、
「この国で一番不幸な男! それがすなわちこの私《わし》じゃ」
「この国で一番不幸な男? それがご老人だとおっしゃいますか?」
「世間の人達は反対にこの国で一番|幸福者《しあわせもの》がこの私《わし》じゃなどと云っている」
「どうも私にはわかりません……」私は老人を見守った。
「ここにある宮殿や庭園はみんなこの私《わし》の所有物《もちもの》じゃ……四百余州の天も地も今では私の自由になる。私はそういう人間じゃ」
 私は尚も老人をおりから雲を出た月に照らして、じっと仔細に見廻したが、吃驚《びっくり》して飛び上がった。
「あなたは! そうだ! わかりました!」
「わしは寂しい人間だよ! 一人の味方もない人間だよ」
 老人は低く呟いたがそのまま静かに歩き出した。そして浮き橋を渡って行った。私はその後を見送った。いつまでもいつまでも見送った。民国の仇の後ろ姿、父母の敵の後ろ姿。袁世凱の後ろ姿を手を拱《こまぬ》いて見送った。何故飛びかかって行かなかったのか? 手箱を貰った恩義のためか? いいや決してそうではない。総統の威厳に打たれたからか? 何んの何んのその反対だ! 私は全く袁世凱の寂しい姿に打たれたのであった。
 ……私は手箱を取り上げた。鉄で造られた粗末な手箱! 私は月光に照らして見た。何んの奇もなく変もないけれども、ほんとに奇もなく変もないこの貧弱の手箱から私の運命を左右するような世にも奇怪な羊皮紙が忽然として出て来ようとは……
 果然、その夜から間もないある日、袁世凱の突然の死が、世界中の新聞に発表されて世の中の人を駭《おどろ》かせた。あまり突然であったため、世人は死因に疑いを抱き暗殺ではなかろうかと噂した。暗殺か自殺か自然の死か私だけには解っていた。彼は寂しさに堪えられず寂しさに食われて死んだのだ。
 その後私はどうしたかというに、孫文先生の旗下を離れ一旦|自家《いえ》へ立ち帰って妹や婆やと邂逅した。それから再び家を出て世界の旅へ上ったのである。旅へ出かけた目的は? 恐らく私が説明しても誰も信用しないだろう。余りに荒唐な話しだから。つまり私は手箱の中の羊皮紙に書いてある文字を手頼《たよ》りに雌雄二つの水晶の球を探し当てようそのために世界の旅へ上ったのである。こうしてその球を見つけた時こそ私の運の開ける時で、実に私は一朝にして巨億の財産家になれる筈であった。
 ほんとに私は三年の間世界の国々を経巡《へめぐ》った。金がなくなれば労働をし、金が出来ると先へ進み、亜細亜《アジア》と亜米利加《アメリカ》と欧羅巴《ヨーロッパ》とをほとんど皆尋ね廻り三月前から西班牙《スペイン》のこのマドリッドへ来たのであった。多くの支那人がそうであるように料理にかけてはこの私もかなり自信を持っていた。いよいよ金がなくなって労働をしなければならない時には私はいつも料理人《コック》になった。おんなじでん[#「でん」に傍点]でマドリッドへ来るや伝《つて》を求めてこの旅館の料理人《コック》に私はなったのである。そして機会を待ったのである。阿弗利加《アフリカ》へ渡るその機会を……がしかし今では阿弗利加などは全く眼中になくなってしまった。球は手近で発見された。そして私はその球を追って西域の沙漠へ向かうのだ。彼らと一緒に向かうのだ。彼ら探険隊の一行と――
 私は喜びと不安とのためにドキドキ心臓が動悸をうつ。しかし勇気が衰えない。何んの勇気が衰えるものか。何がいったい不安なのか? 彼ら探険隊の一行の中の頭領とも云うべきラシイヌ探偵、副頭領とも云うべきレザール探偵、二人を恐れるそのためにか? ほんとに二人は抜け目のない鋭い人間には相違ないがしかし私は恐れない。何んの私が恐れるものか、先方でこっちを恐れるがいい。
 卿ら、探険隊の諸君達! 卿らの守っている運命の球を出来るだけ大切にするがいい。隙を見てその球を奪おうとする支那の青年がいるのだから。料理人《コック》として卿らが雇い入れた張という支那の青年に眼を離さない方がよいだろうと敢て僕は諸君に警告する……
 ――孔雀の啼き声が聞こえて来る。鸚鵡の啼き声が聞こえて来る。冬薔薇の匂いが匂って来る。陽の落ちた後の夕空を夕映えが赤く染めている。明日は恐らく天気だろう。この食堂ともおさらばだ。そろそろ料理人《コック》部屋へ帰って行って荷造りの真似でもやることにしよう。
 明日は沙漠へ向かうのだ。沙漠が私を呼んでいる……(備忘録下略)

        

「あの女を君はどう思うね?」
 ラシイヌは小声で囁《ささや》いた。
「前から気がついてはいましたが、土耳古《トルコ》型の素晴らしい美人ですね――あれをモデルにして描きたいものだ」
「描かざる画家」のダンチョンはこれも小声で囁いた。ラシイヌはちょっと舌打ちをしたが、ニヤリと苦笑したものである。
「君の描きたいねも久しいものだ。描きたい描きたいというばかりで何一つ君は描かないじゃないか。だから皆が君のことを描かざる画家のダンチョンだなんて下らない綽名《あだな》をつけたのさ――あれほど君が意気込んでいた『獣人』の絵だってまだ描かない。ほんとに君はなまけ者だ……それはそうと向こうのあの女だが、君は変だとは思わないかね?」
「変だって何が変なんです?」
「そういう返辞が出るようなら君には向こうのあの女の変なところが解らないと見える。いいかいよっく見てみたまえ、今あの女は下を向いて熱心に新聞を見てはいるが、その実新聞を見ているのではなく僕らの様子を見ているのだよ」
「なんで僕らを見るのでしょう?」
「さあね、そいつは解らない。わからないから不思議なのさ。いったいどこからあの女はこの列車へ乗り込んだのだろう?」
「チェリアビンスクからだと思います」
「よく君はそんなことを知っているね?」ラシイヌはちょっと不審そうに訊いた。
「知ってるわけがあるんです」ダンチョンは何んでもなさそうに、「絵葉書を買おうと思いましてね、チェリアビンスクで汽車が止まると僕は早速下りました。プラットホームへ下りたんです。下りた拍子に僕の胸へぶつかって来た者があったのでヒョイと顔をあげて見るとですね、土耳古《トルコ》美人が立っているのです。『ごめん遊ばせ』と仏蘭西語《フランスご》で云って顔を赧らめたというものです。見ると女の荷物を担いだ赤帽が背後《うしろ》に立っていました。だからあの駅で乗車《の》ったんですよ」
「ふうん、あの女がぶつかった? たしかに君にぶつかったんだね? 実は僕にもぶつかったのさ。クルガンの停車場へ停車《つ》く前に煙草《たばこ》を喫《の》もうと思ってね、喫煙室へ出かけたものさ。あの女の前を通った時だ。不意に女が立ち上がって僕の腰の辺へぶつかったよ。その時僕は敏捷に働く手の触覚を感じたものだ。ズボンのポケットの辺にだね」
「きっと偶然にさわったんでしょう。あんなに美しい若い女がまさかに掏摸《すり》はやりますまい」
「…………」ラシイヌは返辞をしなかった。見て見ないような様子をして、列車の片隅に腰かけながら新聞を見ている疑問の女へじっとその眼をやったものである。
 十二月極寒の西伯里《シベリア》を、巨大なインターナショナル・ツレーンは、吹きつける吹雪を突き破り百足《むかで》のような姿をしてオムスク指して駛《はし》っている。しかし室内は暖かい。暖かい室内には乗客達が各自《めいめい》好みの外套を着て毛皮の襟をしっかりと合わせ座席に腰かけて話している。一等客室のことであるから、誰を見ても大概はカルチュアされた立派な紳士や淑女達で話している言葉も上品であった。モスクバ訛りの鼻声で声高に話している夫婦者、病身らしい十八、九の蒼ざめた娘はその横の方でじっと黙って聞いている。恐ろしいほどによく肥《ふと》った宝石商らしい老人は、自分の前に腰かけている貴公子風の美男子をとらえて、パミール高原で見つけたという黒|金剛石《ダイヤ》の話しを話している。その横の方では支那商人が、あたりの様子には無関心に、琥珀《こはく》のパイプで雲南煙草をポカリポカリと喫っている。見廻りのボーイがやって来ると周章《あわ》ててパイプを隠すのであった。小露西亜《ウクライナ》あたりの地主らしいむんずりと肥えた四十男は先刻から熱心に玻璃窓を通して日没の曠野の光景を一人黙って眺めていたが、やがてポケットから骨牌《かるた》を出して一人で占ないをやり出した。蒙古の豪族とも思われる五人の伴《とも》を連れた老人は、卵型をした美貌を持った妙齢の支那美人を側へ引き寄せ仲よく菓子を食べている。五人の従者はその様子を東洋流の無表情の眼でむしろ慇懃《いんぎん》に眺めている。トルキスタン人の一団はずっと向こうの客車の隅で、何か間違いでも起こったと見えて、口やかましく論じている。そのトルキスタン人の一団を左手に見た片隅に、土耳古《トルコ》型の美貌の持ち主の問題の女がいるのであった。きわめて豪奢な狐の毛皮の大型の外套をふっくりと着て体全体を隠してはいるが、強靱な、それでいてスラリとした、きゃしゃではあるが弾力のある、素晴らしく優秀な肉体が外套を通してうかがわれる。いちじるしく目立つのはその帽子だ。それは深紅の土耳古《トルコ》帽で、帽子を洩れて漆黒の髪が頸《うなじ》へ幾筋かかかっている。匂うばかりの愛嬌を持った。それでいて鋭い鋼鉄の眼、羅馬《ローマ》型ではない希臘《ギリシア》型の、顫《ふる》えつきたいような立派な鼻、その口は――平凡な形容だが――全く文字通り薔薇のようだ。可愛らしく小さい紫色の靴、形のよい細っそりとした黄色い手袋……
 彼女は新聞を膝へ置いてちょっと小首を傾げた後、側のバスケットの蓋をあけて中から林檎《りんご》を取り出した。それから彼女は手袋を脱いで林檎の皮をむき出した。露出した手首が陽に焼けて鳶色を呈していることは!
「ね」とラシイヌはダンチョンに云った。「どうしても怪しい女だよ。あれだけの美貌とあれだけの服装。どう踏み倒しても命婦《めいぶ》だね。土耳古《トルコ》皇帝の椒房《ハレム》にいる最も優秀なる命婦だよ。皇妃と云ってもいいかも知れない。ところがどうだい、あの手の色は! まるっきり労働者の手の色だ……でそこで僕は思うのだ。あいつは唯の女じゃないよ」
「それじゃ掏摸《すり》だとおっしゃるので? あの素敵もない別嬪を?」ダンチョンは不平そうに云ったものである。「僕には怪しいとは思われませんね。彼女はきっと旅行家でしょう。だから陽に焼けているんですよ」
「手首だけ陽に焼けるわけがないよ」
「土耳古《トルコ》婦人はいつの場合でも面紗《ヴェール》で顔を隠すそうです。顔や頸《うなじ》が焼けなくて手首だけ焼けるのはそのためでしょう」
「なるほど」とラシイヌは微笑して、「その解釈はよいとしても、どうして常時《しょっちゅう》僕らの方へああも視線を向けるのかね。あいつの注意を引くような好男子は一人もいない筈だ」
「視線を向けると思うのは恐らくあなたの眼違いでしょう。僕にはそうは見えませんものね」
「よし」とラシイヌは語気を強め、「レザールの意見を聞くとしよう」
 彼は車中を見廻したが、同業であり後輩である私立探偵レザールは、どこの腰掛けにも見えなかった。はるか向こうの窓際にこの一行の立て役者の博言博士マハラヤナ老が――世界を挙げて探しても十五人しかいないという回鶻《ウイグル》語の学者とは思われないほどの好々爺然とした微笑を含んでコクリコクリ居眠りをしている横に、これもやっぱり同行の冒険好きの医学士で一行の衛生を担任しているカルロス君がいるばかりで、レザールの姿はどこにも見えない。
 ラシイヌはいくらか不安になった。というのは一行の守り本尊の水晶の球を密封した鉄の手箱をそのレザールが体に着けているからである。
 ラシイヌは席から立ち上がった。しかしその時連結されている隣りの客車の扉があいて、レザールがそこから現われたのでラシイヌは安心して腰かけた。
 レザールは何故か眉をひそめラシイヌの側へやって来たが、耳へ口をつけると囁いた。
「あなたは料理人《コック》をどう思います? あの張という支那人を?」
「変ったことでもあるのかね?」ラシイヌは不思議そうに訊き返した。
「地図を持っているのですよ」
「地図※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」とラシイヌは眼を見張った。その眼でレザールを見守って、「もっと詳細《くわし》く話したまえ」
「今……」とレザールは話し出した。「オムスクへ着くのも間もないので一応道具類を見て置こうと三等の客車へはいって行きますと、監視を命じておいたあの張が道具の積み重ねを前にして熱心に何かを見ているのです。近寄って肩越しに見るとですね。西域の地図じゃありませんか。『張!』と私が声をかけるとバネ仕掛けのように飛び上がって地図を懐中《ふところ》へ隠しました。『地図を見せろ!』と嚇してもどうしても見せようとしないのです。『何んのために地図を持ってるか?』とかまわず詰問しましたところ、『幸いに縁あって皆様の探険隊の一員となって西域に向かうことが出来る以上は極力私も骨を折って皆様のお手伝いが致したいと思い西域の地図を求めました』とこういう彼の云い草です。『どこでその地図を手に入れたか?』尚も私が尋ねますと、『西域は支那の領地ですし私は支那人の事ですから地図などは容易に手に入ります』と何んでもないように云うのです。なるほど理窟にはかなっていますが、それほど理窟にかなっているなら尚の事地図を見せればよいのにどうしても見せようとしないのです」レザールはちょっと云い淀んだが、「こんな具合であの支那人は胡乱《うろん》な人間だと思いますので、いっそ思い切ってオムスク辺で解雇いたしたらいかがでしょう?」
「解雇するのもよかろうが旨い料理が食えなくなるね」ラシイヌはニヤニヤ笑いながら、「ところで張のその地図と僕らの持っている西域の地図とは全く同一のものだろうかね?」
「私は瞥見《べっけん》しただけで正確のところは云われませんが同一のものらしく見えました」
「僕らの持っている西域の地図はヘジン博士の著わした実地踏査の写生地図《スケッチマップ》で他に類例のないものだがそれを持ってるというからには料理人《コック》は確かに怪しいね。僕らの地図を模写したかもしくは瑞典《スエーデン》まで出かけて行ってヘジン博士に邂逅《いきあ》って手ずから地図を貰ったか、どっちみち尋常じゃなさそうだね……僕ら一行の行動は――つまり僕らが組織的に人跡未踏の羅布《ロブ》の沙漠を徹底的に探るというこの著しい行動は、『第二「獣人」の事件』と一緒に世界的に評判されていて秘密を包んだ水晶の球のいかに尊いかということも世間の人は知っている。そして尊いその球を僕らが守護していることも世間の人は知っている。だから僕らは僕らの球を世間の悪い人間どもに盗まれまいと用心して、毎晩持ち主を代えているほどだ……こうまで用心をするというのもただ盗人が恐ろしいからさ。怪しい人間は遠慮なくドシドシ遠ざけるがいいだろう」
「明日は早朝五時頃にオムスクへ汽車がつきますからそこで解雇を云い渡しましょう」
「よかろう」
 とラシイヌは頷いた。そうして改めて土耳古《トルコ》美人を胡散《うさん》くさそうに眺めた後、レザールにそっと囁いた。しかしレザールにはその美人が怪しい曲者とは見えなかった。そんなことよりも張コックが先刻持っていた西域の地図を、明日解雇を云い渡してからどうしたら取り上げることが出来るかとそればかりを懸命に考えていた。
 ……しかし実際には、張料理人を解雇することは出来なかった。解雇することが出来ないばかりか彼らは彼に助けられた。と云うのはオムスクへ着かない前、その夜のちょうど十二時頃に、車中に恐ろしい事件が起こって彼らを全滅させようとしたのを張がいちはやく助けたのであった。
 事件というのはこうである――
 夜が更けるに従って天候は益※[#二の字点、1-2-22]悪くなって怒濤《おおなみ》のような音を立てて吹雪が車窓へ吹きつけて来た。車内の乗客は玻璃窓を閉じ鎧戸までも堅く下ろして、スチームの暖気を喜びながら賑やかにお喋舌《しゃべ》りをつづけていた。するとそのうち人々は次第に談話《はなし》を途切らせた。そうして皆睡気を感じて寝台へ行く人が多くなった。ラシイヌも睡気を感じたので立ち上がって寝台へ行こうとした。不思議とどうにも体が弛《だる》い。「変だぞ」と彼は呟きながら室の内をいそいで見廻した。マハラヤナ博士もレザールもダンチョンさえも昏々と壁板へ頭をもたせかけて人心地もなく眠っている。よく見ると乗客全部のものが皆他愛なく眠っている。たしかに眠っているらしい。しかし誰も彼もおかしなことにはその眼を大きく明けている。それでは眼醒めているのだろうか? それにしても彼らは身動きをしない。その時ラシイヌはふとさっきから、東洋でくゆらす抹香《まっこう》のような、死を想わせるような、「物の匂い」が、閉じこめた車内を一杯にして、匂っているのに気がついた。彼はある事を直感した。で彼は危難から遁《の》がれようと急いで窓へ手をかけたが、もうその時は遅かった。見る見る身内の精力が消え、四肢が棒のように硬直し眼だけ大きく見開らいたまま腰掛けの上へ転がった。しかし意識は明瞭であった。あらゆるものがよく見えた。乗客も手荷物も窓|硝子《ガラス》も。しかし一本の指さえも動かすことは出来なかった。尚、物音もよく聞こえた。列車の突進する轍《わだち》の音、窓に吹きつける雪の音……ラシイヌはその時室の隅で女の笑う声を耳にした。笑い声の起こった室の隅を彼は辛うじて眺めて見た。口と鼻とへマスクを掛けた一人の女が立っている。赤い土耳古《トルコ》帽に黄色い手袋、狐の毛皮の外套を着て紫の靴を穿いている。そして右手に青銅で造った日本の香爐を捧げている。大変小さい香爐ではあるがそこから立ち昇る墨のような煙りは強い匂いを持っていた。女は室内を見廻した。それから香爐を腰掛けへ置いてツカツカとこっちへ近寄って来た。少しも躊躇することなしに彼女はレザールへ走り寄った。同じようにちっとも躊躇せずに彼女はレザールの上着を剥いだ。それからチョッキをまた剥いだ。そして下着を引き破り胴巻に包んだ鉄の手箱をそこからズルズルと引き出した。彼女は胴巻を床へ棄て手箱を眼の前へ持って来てしばらく仔細に見ていたがようやく納得したと見えて外套の内隠《うちかく》しへしっかりと蔵《しま》いホッと初めて吐息をしてそのまま隣室の扉へ行ってドアの取手《とって》に手をかけた。しかし女が捻らない先に鉄の取手がガチャリと鳴って扉が向側《むこう》から押し開らいた。女は二、三歩よろめいた。その鼻先へ突き出されたものは自動拳銃の銃口《つつさき》である。女はまたもよろめいた。すると扉口から一人の男――料理人姿の東洋人――張教仁が現われた。
「手をお上げなさいお嬢さん!」立派な仏蘭西《フランス》語で張は云った。女の顔は蒼褪めた。そして神妙に手をあげた。張は片手で拳銃を握り空いている片手を働かせて女の外套を探ったが、素早く鉄箱を取り出した。
「さあもうこれで用はない――ねえお嬢さん、さぞあなたは残念にお思いなさるでしょうが、それは少々気がよすぎます。しかしあなたのやり口は全く上手なものでした。支那西域の庫魯克格《クルツクタツク》の淡水湖に限って住んでいる、※[#「蚌のつくり」、第3水準1-14-6]々《ぼうぼう》という毒ある魚の小骨の粉末《こな》を香に焚いてそれで人間を麻痺させるなんて実際あなたはお怜悧《りこう》でした。そういう秘伝を知っている者は支那の道教の信仰者か西域地方を踏破した人か、どっちかに限られている筈です。どうしてあなたがそれを知っているか、そんなことはお尋ねしますまい。私という人間がいなかったらあなたのやられた方法は立派に成功したでしょう。私のいたのはあなたにとってはとんだ災難というものです……汽車が徐行を始めましたね。まだオムスクへは着かない筈だ。さては石炭の供給かな。とにかくあなたには好都合です。さあさあ早くお下りなさい。警察官へ渡すにはあなたは余りに美しすぎる。それにあなたは東洋人だ。そして私も東洋人だ。同情し合おうじゃありませんか」
 張は一方へ身を除けながら、出口の扉《ドア》を開けてやった。すると女は猫のようにプラットホームへ飛び下りた。そしてそのままその姿を吹雪の闇へまぎれ込ませた。
 闇の中から女の笑う美しい声が聞こえて来た。
「美しい支那の貴公子よ! 今日はお前が勝ったけれどいつかは私が勝って見せる。沙漠で逢おうねまたお前さんと……私は沙漠の娘だよ。沙漠ではお爺さんが待っています。ではさようなら、さようなら!」
 ほんとにその声は美しい。張は石のように佇んだままその声の後を追っていた。恋愛《こい》を覚えた人のように。
 まだ車中では眠っていた。香爐からは煙りが上がっていた。

        

(以下は支那青年張教仁の備忘録の抜萃である)
 私達はオムスクで一泊した。翌朝早くホテルを出てイルチッシ河の河岸へ出た。流程二千三百|哩《マイル》、広々と流れる大河の態《さま》は大陸的とでも云うのであろう。一行は汽船へ乗り込んだ。セミパラチンスクまで行くのである。両岸はキルギスの大平原で煙りの上がるその辺には彼らの部落があるのであろう。セミパラチンスクで二泊した。これからは陸路を行くのである。塔爾巴哈《タルパカ》台までの行程にはただ禿げ山があるばかりだ。一望百里の高原は波状をなしてつづいている。ところどころに湖水があって湖水の水は凍っていた。馬と駱駝《ラクダ》と荷車の列――私達の一行はその高原をどこまでもどこまでも行くのであった。塔爾巴哈《タルパカ》台からは支那領で、それから先はどことなく沙漠の様子を呈していた。ノガイ人種を幾人か頼み彼らに駱駝《ラクダ》をあつかわせ、烏魯木斎《ウルマチ》指して進んで行った。烏魯木斎《ウルマチ》の次が土魯番《トロバン》で私達はウルマチとトロバンとで完全に旅行の用意をした。悉皆《しっかい》馬を売り払い駱駝を無数に買い込んだ。氷の塊を袋に詰め充分に食料を用意した。探検用の専門の器具は木箱に入れて厳封した。ノガイ族キルギス族|土耳古《トルコ》族、それらの幾人かをまた雇った。同勢すべて三十人。いよいよ沙漠へ打ち入った。
 幾日も幾日も一行は沙漠を渡って行く。……

 もうここで十日野営を張る。いつまで野営をするのだろう。いつまでも野営をするがいい。私はそれを希望する。私はこの地を離れまい。美しい謎の土耳古《トルコ》美人を自分のものにするまでは断じて私は離れまい。
 阿勒騰塔格《アルチンタツク》の大山脈と庫魯克格《クルツクタツク》の小山脈とに南北を劃《かぎ》られた羅布《ロブ》の沙漠のちょうどこの辺は底らしい。どっちを見ても茫々とした流れる砂の海ばかりだ。遙かに見える丘陵もやっぱり砂の丘であって一夜の暴風で出来たものだ。ところどころに沼がある。しかしその水は飲めなかった。多量に塩分を含んでいる。立ち枯れの林が一、二ヵ所白骨のように立っていて野生の羊がその周囲《まわり》を咳をしながら歩いている。遠くの砂丘で啼いている獣はやっぱり野生の駱駝である。私達を恐れているのだろう。夜な夜な無数に群をなして草原狼が現われたが、火光に恐れて近寄らない。一発銃を撃ちはなすと慌てて姿を隠すのであった。
 河の流れも幾筋かあった。しかしその水は飲めなかった。やっぱり塩を含んでいる。これらの河や沼や池は、全く不思議な化物で絶えずその位置が変るのであった。動く湖、移動《うつ》る沼、姿を消してしまう河や池――全くこの辺のすべてのものは神秘と奇怪とに充ちていた。ある夜突然空の上から微妙な音楽が聞こえて来た。多数の男女の笑う声も。しかしもちろん姿は見えなかった。音楽も風のように消滅した。そうかと思うとまたある晩は氷塊と駱駝とを盗まれた。氷塊も駱駝も私達にとっては命と同じに大事なものだ。みんなはすっかり恐怖した。そうして厳しく警戒した。またある晩は木片の面へ不思議な文字を書きつけたものが天幕《テント》の中へ投げ込まれた。博言博士はそれを見ると顔色を変えて説明した。
「これがすなわち回鶻《ウイグル》語じゃ。誰がいったい書いたんだろう。まだ墨痕は新らしいが」それからその語を翻訳した。
「――沙漠の霊を穢《けが》すなかれ。汝らの最も尊敬する貢物を捧げて立ち去らざれば、沙漠の霊汝らを埋ずむべし――」
 突然ラシイヌが笑い出した。
「これで正体がほぼわかった! もう心配をする必要はない。黙って放抛《うっちゃ》っておくんだね。そのうちに僕が悪戯者《いたずらもの》の沙漠の霊を捉らまえてやる」
 しかし博士のマハラヤナは印度《インド》人の常として迷信深く不安そうにしばらくの間考えていたが、
「あらゆる物には霊魂がある。沙漠にも霊魂はある筈だ――そこで思うにこの霊は数千年のその昔にこの地へ国を立てていた楼蘭という土耳古《トルコ》族の家国の霊かも知れません。もしそうなら祀らねばならん」
「何をいったい祀るんです」ラシイヌは益※[#二の字点、1-2-22]笑いながら、「決してご心配には及びません。まあご覧なさいその霊めをきっと捉えて見せますから」
 自信の籠もったこの言葉はそれまで不安に襲われていた土人達の心を一掃した。

 回鶻《ウイグル》語で記した木片が天幕《テント》へ投げ込まれたそれ以前から、誰が入れるのか解らないが、私の服のポケットへは女文字で記した仏蘭西《フランス》語の紙が一再ならずはいっていた。最初の紙にはこう書いてあった。

 同じ東洋人なる支那の貴公子よ、妾《わらわ》を固く信じ給え、西班牙《スペイン》の愚人の守りおる彼の水晶球を奪い取り妾の住居へ来たりたまえ。

 第二の手紙にはこう書いてあった。

 早く決心なさりませ。奪い取った球を手に握って沙漠を東北へお逃げなさい。里程《みちのり》にして約二里半を足に任せてお逃げなさい。そうしたら村落《むら》に行きつくでしょう。沙漠に立っている羅布《ロブ》人の村! 人口は約二百人、飲まれる泉が湧いています。青々と常磐木《ときわぎ》が茂っています。沼には魚が住んでいて葦《あし》の間には水禽《みずとり》がいます。住民はみんなよい人です。音楽と盗みとが上手です。沢山の伝説を持っています。彼らの中の頭領は七十に近い老人です。綽名《あだな》を沙漠の老人と云って幾個《いくつ》かの伝説と幾個かの予言と幾個かの迷信とに養われている魔法使いのような翁《おきな》です。住民の家は灰色で土で造ってありますけれど老人の家だけは木造りでしかも真紅に塗られています。真紅な家へいらっしゃい。そこに私がいるのです。
 可愛らしい支那の貴公子よ。妾《わたし》の言葉を信じなさい。東洋人同志ではありませんか。

 第三の手紙は昨夜来た。次のような文句が記してあった。

 私はあなたに命じます! 今度こそ実行なさいましと。しかしあなたはこのわたしをきっと疑っておいででしょう。あなたの疑いを晴らすためわたしの素性を申し上げましょう。私は土耳古《トルコ》の将軍でピナンという者の二番目の娘のエルビーという女です。私は宮廷で育ちました。皇后の侍女頭をしていました。ある夜新しい命婦《めいぶ》のために皇帝は夜会をひらかれました。諸国から献ぜられた五人の命婦はいずれも憂欝な顔をして席に控えておりました。五人のうちで一番若い――十七位の波斯《ペルシャ》乙女はわけても悲しそうな様子をして眼を泣き脹らしておりましたので妾の注意をひきました。宴会が終えて命婦達が各自の椒房《ハレム》へ帰った時、私は皇后の許しを受けて命婦達を慰問に行きました。例の十七の可哀そうな命婦の華麗な椒房《ハレム》へ行って見ると、可憐の乙女は寝台の上でシクシク泣いておりました。私は侍女を遠ざけてから乙女に慰めの言葉をかけてその身の上を尋ねました。乙女の言葉によりますと、乙女は波斯《ペルシャ》でも由緒正しい絹|商人《あきんど》の愛娘で、その時からちょうど一月前、父母に連れられてコンスタンチノーブルへ観光に来たのだそうでございます。ところが白昼|誘拐《かどわ》かされ朝廷の大官に売られたのをその大官がさらにそれを皇帝に献じたということです。娘は私に云うのでした。「どうぞここから逃げられるようにお取り計らいくださいまし。ここに手箱がございます。幾代前からか知りませんが私の家に伝わった鉄の手箱でございまして中には解らない昔の文字で何かを記した羊皮紙があると父母が申しておりました。そしてこの箱さえ持っていればどんな危難でも遁がれられると云って幼少《ちいさい》時から肌身放さず持たせられていたのでございますが、これをあなたに差し上げますからどうぞお助けくださいまし」と。私は可哀そうになりました。で私は娘に云いました。「私が助けてあげますからちっとも心配はいりません」と。そして私はその翌日乙女を私の馬車に乗せて堂々と王宮からつれ出しました。幸い誰にも咎められず英国大使館へ馬車を着け大使に乙女を任せて置いて妾は王宮へ取って返して乙女から貰った鉄の手箱を何気なく開けて見ますると、古代|回鶻《ウイグル》語で記された羅布《ロブ》の沙漠の秘密の謎があらわれて来たではありませんか。そこで私はその箱を握ってすぐに宮中を抜け出しました。皇帝の命婦を逃がしてやった罪の発覚を恐れたよりも、羊皮紙に書かれた秘密の謎のその価値のあまりに大きいのに驚いたからでございます。それから回鶻《ウイグル》語の暗示に任かせ沙漠へ来たというものです。そして私はこの沙漠の雌《めん》の水晶球を手に入れました。ですからもしももう一つの雄《おん》の水晶球を手に入れましたら二つの球を携《たずさ》えて、羊皮紙に記してあるように私達の村から十里へだてたロブノール湖へ船を浮かべて地下に建てられた都会へまで流れて行くことが出来るのです。そしてその都会へ着いた時二つの球は奇蹟をあらわし巨億の宝の隠れ場所を私達に示すことになっております。
 同じ東洋人なる支那の貴公子よ! 雄《おん》の珠を奪っていらっしゃい。妾と土耳古《トルコ》の民族の最初の祖先の回鶻《ウイグル》人が国家の亡びるその際にひそかに隠したそれらの富を一緒にさがそうではありませんか。雌《めん》の玉の持ち主である沙漠の「老人」が、私達のために湖水まで案内をするそうです。
 あなたは難解な回鶻《ウイグル》語を――羊皮紙に書いてあった回鶻《ウイグル》語を、どうして妾が読み得たかきっと不思議に思われるでしょう、がそれには理由がございます。今も手紙に書きました通り回鶻《ウイグル》人は土耳古《トルコ》民族の最初の祖先なのでございます。土耳古《トルコ》宮廷にいるほどの者は必ず回鶻《ウイグル》語の初歩ぐらいは大概読めるのでございます。羊皮紙に書かれたあの文字はきわめて簡単でございました

 三回目の密書を読んだ時私はようやく決心した。球を盗もうと決心した。汽車中の出来事があって以来ラシイヌ達はこの私を極度にまでも信用して球の入れてある鉄の箱をついには私に預けさえもした。つまり彼らはこの私を同志の一人に加えたのであった。球を奪うことは容易であった。一夜、満月の明るい晩ついに私は目的をとげ、土耳古《トルコ》美人の住んでいる緑地《オアシス》へまで落ち延びた。常磐木、泉、土人の小屋、他には魚が泳いでいるし木々には小鳥が啼いている。緑地は住みよさそうに思われた。常磐木の間に祠《ほこら》がある。石の狛犬《こまいぬ》がその社頭に二匹向かい合って立っている。「沙漠の老人」と土耳古《トルコ》美人とは私を祠へつれて行って私に拝めと云った。無宗教の私は云われるままに祠に向かって三拝した。
 と老人が私に云った。「若者よ、これは吾らの神じゃ。吾ら羅布《ロブ》人の神なのじゃ。そして羅布《ロブ》人は回鶻《ウイグル》人じゃ。数千年の昔から今日まで他人種の血液を混じえずに純粋に残った回鶻《ウイグル》人は吾ら羅布《ロブ》人ばかりなのじゃ。吾ら純粋の羅布《ロブ》人はここの緑地《オアシス》に集まって吾らの唯一の守り本尊アラなる神を祠に祭りアラ大神の使者の燐光を纒った狛犬を神の権化と懼《おそ》れ恭い、数千年住んで来た。しかるに今から数年前|西班牙《スペイン》人の探検隊が羅布《ロブ》の沙漠へ襲って来て神の祠を破壊して経文の一部と羊皮紙と箱に納めた雄の球とを何処《いずこ》ともなく奪い去った。吾らの怒りは頂点に達し神に復讐の誓いをして、西班牙《スペイン》人の探検隊の頭目の行衛を探索した。そして計らずもその頭目が西班牙《スペイン》の首府のマドリッドの市長の要職にいると聞き吾らは雀躍して喜んだ。そこで一隊の暗殺団をマドリッドへ向けて送ってやった。そして巧妙なる手段をもって最初に経文を取り返した。そしてその次には他の一団が――それも沙漠から送ったのだが――その二回目の暗殺団が市長の胸へ短刀の切尖《きっさき》を深く突きさした。市長はしかし死ななんだ。死なないばかりか決心して、ラシイヌなどという私立探偵へ水晶の球と羊皮紙を託し沙漠の秘密を探らせようと探検隊を組織させた。――ラシイヌ達の一行はこの二回目の暗殺を「第二獣人事件」と云っている――探検隊を組織したという噂を知ったので、途中に迎えて水晶球を奪い取ろうと思いつきエルビーを汽車まで向かわせたのじゃ。お前の邪魔でこの企ては到頭失敗したけれど、邪魔をしたお前が味方となり、白人達の奪い取った水晶球をまた奪って緑地《オアシス》へもたらせてくれたからには、恩こそあれ恨みはない……ところでお前は支那人だのにどういう理由《わけ》で白人達の探検隊に加わったのか?」
 老人は不思議そうに私を見た。それで私は私自身のこれまでの経歴を物語った。老人は黙って聞いていたが、
「お前は回鶻《ウイグル》語が読めるのか? 袁世凱《えんせいがい》のくれたという手箱の中の羊皮紙をどうしてお前は読んだのじゃ?」
「鉄の手箱には原文と一緒に訳文がはいっておりました。袁世凱の勢力で回鶻《ウイグル》語の学者を呼びよせてひそかに訳させたのかもしれません」
 老人はなるほどと頷いて、それっきり何んにも云わなかった。

 翌日私達は家を出た。十里の道を二日かかってロブノール湖まで歩いて行った。既に土人が用意して置いた獣皮の小船が湖の岸に音もなく静かに浮いていた。三人はそれへ飛び乗った。巧みに老人が櫂《かい》を漕ぐ。
 老人は漕ぎながら話し出した。老人の言葉をエルビーが仏蘭西《フランス》語に訳して話してくれる。私は傾聴するばかりだ。
「伝説によれば」と老人は云った。「数千年の昔において今度の事件は予言されていた。水晶球の雄《おん》の球は白人によって奪い去られ黄色人によって取り返さるべしと。そしてもう一つ伝説によれば一旦白人に渡った球は後に残っている雌《めん》の球と共にロブノール湖の水で洗浄されると。だから球を二つとも箱に入れてここへ持って来た。もう一つ最後の伝説によると、失われた球を取り返した人は、アラ大神の祝福を受けて地下に尚生きて働いている回鶻《ウイグル》人を見ることが出来、彼らの都会へ行くことが出来、そして都会へ行きついた時雌雄の球の奇蹟によって古代|回鶻《ウイグル》人の埋没した巨財の所在《ありか》を知ることが出来ると。で今吾らは伝説通りロブノール湖に浮いている。奇蹟があらわれるに違いない」
 老人は厳かに云い放すとじっと湖水を眺めやった。
 冬の真昼の陽に輝いて、周囲一里ほどの湖は波穏かに澄んでいる。空を行く雲も鳥影も鏡のように映って見え、日光を吸って水の中は黄金のように輝いている。
 老人は二つの箱を出して、湖水の水を注ぎかけた。そして大神を讃え出した。
「アラ、アラ、イル……」と熱心に。
 動くともない湖水の水がその時渦を巻き出した。渦の中心に船がある。船が急速に廻り出した。と、砂山の一方の岸が見る見る崩れてその跡へ洞窟のような穴があいた。水がその洞へ流れ込む。いつしか船も流れ込んだ。忽然と四辺《あたり》が暗くなり一筋の陽の光も見えなくなった。エルビーが私に縋りつく。老人は闇の中で祈っている。
「アラ、アラ、アラ、アラ、アラ、アラ、イル……」
 船はずんずん流れて行く、地下の水道を矢のように……(備忘録下略)

        

「張の姿が見えないぞ!」
 朝早くレザールが叫び出した。マハラヤナ博士もラシイヌもその声に驚いて飛び起きた。沙漠の暁の薄光が天幕《テント》の中へ射している。彼らは真っ先に球を納《い》れた鉄の手箱をさがしたが、その影さえも見えなかった。一行三十人の人々は手を分けて張を探したがどこにも姿は見えなかった。みんな絶望して溜息をついてそして沈黙に落ち入った。
「信用したのが悪かったね。今さら云っても返らないが」ラシイヌの声は憂欝だ。
「彼奴《きゃつ》はいったい何者だろう? 仏蘭西《フランス》語が出来て英語が出来て料理が上手で度胸がある。西域の地図を持っていた――ただの鼠じゃなかったんだ」レザールの声は泣きそうだ。ひょうきん者のダンチョンさえ黙って地面を見つめている。
 しかしいつまでそうやっていても張の出て来るきづかいはないので、またも一同立ち上がって彼の行衛をさがしだした。今度は幾組かに組を分け四方へ一度に出て行った。
 ラシイヌと博士との一行は同勢八人が一団となり東北をさして探しに出た。わずか一里ほど行った時意外にも一つの村へ出た。常磐木《ときわぎ》が青々と茂っている、泉が地面から湧き出ている。村には一つの祠《ほこら》があって狛犬が二匹並んでいる。
「ははあ市長が水晶の球と羊皮紙とを発見《みつけ》た祠というのは、ここにあるこの村の祠だな。しかしこんなに手近な所に緑地《オアシス》があろうとは思わなかった。恐らく張の逃げ込んだのもこの緑地《オアシス》に違いない」ラシイヌは心でこう思ったので土人を無理に引っ捕らえ博士の通弁で質問した。
「はい逃げ込んで参りました」冷笑しながら土人は云った。
「そしてたった今湖水を指して発足したばかりです」
「湖水というのはどこにある?」
「南方十里の彼方です」
 ラシイヌも博士もこれを聞くと顔を見合わせて微笑した。手掛かりを握ったからである。土人を二、三人案内にしてすぐ南方へ足を向けた。途中で一夜、夜を明かし翌日の正午《ひる》ごろそこへ着いた。湖水は波も平らかに凍りもせずに澄んでいる。岸に一艘の獣皮の船が水に軽々と浮かんでいる。ラシイヌと博士は船へ行って中の様子を調べて見た。鉄の手箱が空のままで船の中に二つ置いてある。そしてその横に手帳がある。表紙に書いてある六個の文字――「備忘録、張教仁」と鮮かに……
 マハラヤナ博士は声を立てて備忘録の文章を読んで行った。張という人物のいかなる者かを二人は初めて了解した。湖水の岸の洞穴が開いて流れ込む水に連れられて三人を乗せた獣皮の船が同じく洞穴へ流れ込んだと記してあるあたりの文章は、博士とラシイヌとを驚かせた。二人は手帳から眼を放して湖岸を見廻したほどである。しかしもちろんどの岸にもそんな洞穴は開いていない。備忘録の最後の頁にはこんな意味のことが書いてあった。
 沙漠の地下にこんなに大きい、こんなに賑やかな古代都市が、そっくりそのまま建っていて歴史上既に亡びている回鶻《ウイグル》人が生きていて元気に働いていようとは、何という文明の驚異だろう。驚異ではあるが夢ではない。私達三人はその都会で市民達によって、今、現在、未曽有の歓迎を受けている。ああその都会の美しさ――それは現代の美ではない。それは天国の美しさだ――ああその都会の不思議さは文字や言葉ではあらわせない。そしてついに我々は水晶の球にからまっている巨財についての不思議な謎をいとも容易に解くことが出来た。市民達が教えてくれたのだ。吾らはその富を獲るために近日地下の都会を出て南の方[#「南の方」に傍点]へ行こうと思う。新しい船の用意も出来、新しい手帳の準備も出来た。もうこの古い獣皮の船、もうこの穢れた備忘録、私には不用のものとなった。地下水道を逆流するロブノール湖の水に託して沙漠にいる人々へ送ろうと思う。博言博士にラシイヌ閣下、ダンチョン君にレザール氏、さようならさようなら!
 不思議と暖かい日であった。そのくせ空は曇っている。そしてそよとの風もない。探検隊の一行は沙漠にいる必要がなくなったので、出発の準備にとりかかった。
 博士とラシイヌとは肩を並べ沙漠を的《あて》なく逍遙《さまよ》いながら、感慨深そうに話し合った。
「あなたを印度《インド》からお呼びしてわざざわざ参った甲斐もなく探検は失敗に終りました。あなたに対してもお気の毒で済まないことに思っています」
「いやいや」と博士は打ち消した。「私《わし》に斟酌《しんしゃく》は無用じゃよ。かえってあんたにお気の毒じゃ。さぞまあ落胆したろうが、これも一つの運命じゃ」
「それにしても博士、地下などに、ほんとに都会があるものでしょうか?」
「沙漠のことじゃ、そんなことも、全然ないとは云われまい」博士はちょっと考えてから、「つまり沙漠は文明の墓じゃ。死んだ者ばかり住んでいるところで、人界でもあることだが仮死の状態の人間をうっかり死んだと誤認して墓に持ってくることがある。それとそっくり同じで沙漠の暴風が一晩吹いて、砂上に出来ている大都会を一夜に葬ることがあるが、葬られながら尚地下で生きていないとも限らない」
「そうかと思うと一夜のうちに、暴風が砂を吹き上げて、埋没した都会を一瞬間に地上へ出すということを何かの本で見ましたが、そういうこともあるのでしょうね?」
「そういうこともあるそうだ」博士は幾度も頷いた。
 この言葉が讖《しん》をなしたのか、果然、その晩、季節はずれの暴風が一夜吹きつのった。そして眼の前の砂丘の上へ石の標柱を現出した。それに刻まれた回鶻《ウイグル》語を博士が朗々と読んだ時、ラシイヌもレザールもダンチョンも息をひそめて傾聴した。
 我らの国家亡びんとす。キリスト教徒は我が敵なり。
 巨財を砂中に埋ずむべからず。南方|椰子《やし》樹の島国に送る。形容は逆蝶。子孫北方に多し。
 三羊皮紙に内容を書し亜細亜《アジア》の天地にこれを送り、一柱二晶に解釈を記す。
「形容は逆蝶、子孫北方に多しか……」しばらく経ってからこう云ってラシイヌはじっと考えた。と不意にクルリと身を翻えして天幕《テント》の方へ馳せ帰った。万国地図を取り出して彼は仔細に調べだした。
「諸君、解った。濠州だ」ラシイヌは元気よく云い放った。
「見たまえ濠州のこの形を、逆にした蝶にそっくりだ。北方の海中に島が多い。だからすなわち子孫多しだ。思うに古代の回鶻《ウイグル》人は国家の亡びるその際に財産をあげて南洋へ送り濠州のどこかへ隠したと見える。そしてその事を水晶の球と石の標柱とに記したのだ。それから三枚の羊皮紙へ暗示的の文章を書き記して亜細亜《アジア》方面へ送ったと見える。それで後世智恵者があって羊皮紙の文字に疑いを起こし沙漠へ探検にやって来てあの標柱を掘り出すか、二つの水晶球を得るかすれば、巨億の財産を隠匿《いんとく》した場所を発見することが出来るという、そういう寸法にして置いたらしい。恐らく張というあの支那人も、羊皮紙の一枚を手に入れた幸運な智恵者の一人なんだろう。そして運よくあの男は水晶の球を二つながらここで手に入れたに違いない。しかし僕らも天の助けで、あの標柱をさがし当てた。僕らと張は五分五分だ。沙漠には用がなくなった。舞台は南洋に移ったのだ――それでは僕らも沙漠を横切り支那の本土へ一旦出てさらに南洋へ行こうではないか」
 いかにも愉快そうにこう云ってラシイヌはみんなを見廻した。みんなの顔にも歓喜の情があふれるほどに漲《みなぎ》っている。
 沙漠はその間も、キラキラと幻のように輝いている。
 秘密! 秘密! あらゆる秘密を蔽い隠しているように沙漠は朝陽に輝いていた。

    第三回 世界征服の結社

        

 北京《ペキン》の春は逝きつつあった。世はもう青葉の世界である。胡沙吹く嵐にもろもろの花がはかなく地上に散り敷いた後は、この世から花は失なわれた。ただ紫禁城の内苑に、今を盛りの芍薬《しゃくやく》の花が黄に紅に咲いているばかり。大総統邸の謁見室に、わずかに置かれた鉢植えの薔薇《ばら》さえ、その色も艶も萎れていた。
 中央停車場に程近い燕楽街の十番地に、木立の青葉に蔽われて巍然と聳《そび》えている燕楽ホテルの、三階の一室に久しい前から逗留している客があった。
 客は男女の二人であったが、男の方は、その顔立ちから、南方支那の産まれと覚しい三十歳足らずの貴公子で、起居振る舞いに威厳があった。しかるに一方女の方は、東洋人には相違ないが、支那の産まれとは思われない。むしろ近東|土耳古《トルコ》辺の貴婦人のような容貌で、態度はきわめて優美ではあるが、北京《ペキン》の生活に慣れないと見えてどこかにギゴチないところがある。口さがないホテルの使童《ボーイ》達は奇妙な取り合わせの二人を評して、広東産の鶏と土耳古《トルコ》産まれの孔雀とを交接《かけあわ》せたようだと云うのであった。
 二人は大変仲がよくて、室にいる時も一緒にいるし戸外《そと》へ出る時も一緒に出た。しかしおおかたは室に籠もって相談事でもしているらしく、室の錠はいつもおろされていた。
 この頃|北京《ペキン》は物騒であった。政府の高官顕職が頻々として暗殺《ころ》された。そして犯人はただの一度も捕縛されたことがないのであった。
 そのまた殺し方が巧妙であった。巧妙というよりも奇怪であった。その一例を上げて見れば、ある白昼のことであったが、警務庁の敏腕の班長が、二人の部下を従えて、繁華な灘子《だんす》街を歩いていた。街路の両側の小屋からは、幕開きの銅鑼《どら》の賑やかな音が笛や太鼓や鉦《かね》に混じって騒々しいまでに聞こえて来る。真紅の衣裳に胸飾り、槍を提《ひっさ》げた怪美童を一杯に描いた看板が小屋の正面に懸かっている。外題はどうやら、「収紅孩」らしい。飯店に出入りする男子の群、酒店から聞こえる胡弓の音、「周の鼎《かなえ》、宋の硯」と叫びながら、偽物を売る野天の売り子、雑沓の巷を悠々と班長と部下とは歩いて行った。
 すると突然班長が苦しそうな声で叫び出した。
「どいつか俺を引っ張って行く! どいつか俺を引っ張って行く! 眼には何んにも見えないけれど、どいつか俺を引っ張って行く! ……遠くで俺を呼んでいる! どいつが呼ぶのか解からないけれど!」
 叫びながら班長は、真白昼《まっぴるま》の、灘子《だんす》街の盛り場を一散に、電光のように走るのであった。
 不思議なことには、そうやって、班長は走って行きながら、全身をちょうど弓のように思うさま後方《うしろ》へ彎曲させて、彼を引き摺る眼に見えぬ力に、抵抗するようではあるけれど、先の力が強いと見えて、見る見るうちに彼の姿は、人波の中に消えて行った。
 しかも翌日彼の姿は屍骸となって皮肉にも警務庁の玄関に捨ててあった。屍骸には一つの傷もない。圧殺したような気振りもない。と云って毒殺の痕跡《あと》もなく、自殺したらしい証拠もない。ただそれは一個の屍体であった。傷がないばかりかその屍骸は掠奪されてもいなかった。官服《ふく》はもちろん懐中の金も一文も盗まれてはいなかった。そして屍骸の死に顔には「驚《おどろ》き」の表情はあったけれども「無念」の表情は少しもない。
 こういう不思議な殺され方で大道へ屍骸《むくろ》を晒らした者は班長ばかりではないのであった。先刻も云った通り政府筋の高位顕官が殺されたのみならず南方は広東でも民党の有力者が殺された。そうかと思うと北方では、張作霖《ちょうさくりん》の将士が殺された。
 誰も彼も全く同一の、不思議な殺され方で死ぬのであった。すなわち眼に見えない何者かが、眼に見えない人の呼ぶ方へ、眼に見えない力で引っ張って行く。そして行衛《ゆくえ》が失われる。そして翌日は九分九厘まで大道へ屍骸を晒らすのであった。
 こういう奇怪の殺人が、頻々と行われるそのうちに、北京童《ペキンわらべ》の口からして次のような詩《うた》がうたわれるようになった。
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古木天を侵して日|已《すで》に沈む
天下の英雄寧ろ幾人ぞ
此の閣何人か是れ主人
巨魁来巨魁来巨魁来
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 北京を振り出しに、この詩は、田舎へまでも拡がった。中華民国の津々浦々で、唄うともなく童の口から、口癖のように唄われるのであった。
 古事に詳しい老人達は、訳の解らないこの詩の意味を、昔に照らして考えては見たがどういう意味だか解らなかった。

        十一

 それは明月の夜であった。金雀子街の道に添うてすくすくと立っている梧桐の木には、夜目にも美しい紫の花が、梵鐘《ぼんしょう》形をして咲いている。家々の庭園には焔のような柘榴《ざくろ》の花が珠をつづり槎※[#「木+牙」、第4水準2-14-40]《さが》たる梅の老木の蔭の、月の光の差し入らない隅から、ホッ、ホッと燃え出る燐の光は、産まれ出た螢が飛ぶのであった。
 粋な、静かな、金雀子街の、その穏かな月光の道を、体を寄せ合った男女《ふたり》の者が、今、ひそやかに通って行く。
 何か囁いてはいるらしいが、この初夏の名月の夜の、あたりの静寂《しずかさ》を破るまいとしてか、その話し声はしめやかであった。時刻は十二時に近かった。そのためでもあろうか、この平和な屋敷町の往来を行き交う人は男女《ふたり》以外にはいなかった。二人の歩く靴の音だけが、規則正しく響いている。
 この時、往来の遙か向こうから、酒に酔っているらしい男の声で、詩《うた》を唄うのが聞こえて来た。しかもその声は近づくに従って詩の文句がややはっきりと聞き取れた

 古木天を侵して日已に沈む
  …………
  巨魁来巨魁来巨魁来

 詩は北京《ペキン》で流行している例の不可解のそれであった。酔漢はその詩を唄いながら、だんだん二人へ近づいて来た。見れば、酔漢は、苦力《クーリー》と見えて、纒った支那服のあちこちに泥が穢ならしく着いている。五十を過ごした老人で、酒に酔った顔は真っ赤である。
「いよう、ご両人お揃いで」
 酔った苦力《クーリー》は、男女を見ると、こう頓狂に叫びながら、道の真ん中に突っ立ったものの、別に悪態を吐くでもなく、自分の方で二人を避けて、そのままヒョロヒョロと行き過ぎたが、擦れ違う時に、自分の肩を男の肩へぶっ付けた。
 とたんに苦力は囁いた。
「気をつけるがいいぞ張教仁!」
 囁かれた男はそれを聞くと、ピクリと体を痙攣《けいれん》させ、そのまま往来へ足を止めた。
「気を付けるがいいぞ、張教仁! 十歩。二十歩。いや三十歩かな……」
 苦力はまたも囁いたが、そのままヒョロヒョロと歩いて行く。張教仁は突っ立ったまま苦力の姿を見詰めている。彼の頭は混乱し、彼の眼は疑惑に輝いている。
「何をあなたにおっしゃったの? あの気味の悪い支那人は?」伴《つれ》の女はこう云って、不思議そうに男を見守った。
 張教仁は黙ったまま、尚も疑惑の眼を据えて苦力の姿を見送ったが、やがてクルリと振り返り女の顔をじっと見て、「気を付けるがいいぞ、張教仁! こうあの苦力は云ったのです」張教仁は眼を顰《ひそ》め、「気を付けるがいいぞ、張教仁[#「いいぞ、張教仁」は底本では「いいぞ 張教仁」]! 十歩。二十歩。いや三十歩かな。こうあの苦力は云ったのです」
「それはどういう意味でしょうね? そうしてどうしてあの苦力《クーリー》は、あなたの本名を知っているのでしょうね?」
「どうして本名を知っているか、全く合点が行きません。私の本名を知っている限りは、恐らくあなたの本名だって知っているに違いありませんよ」
「紅玉《エルビー》、紅玉《エルビー》、これが本名ね。私は名ぐらい知られたって、何んとも思やしませんよ」
「本名を知られたということは、あまり苦痛ではありませんけれど、どうして本名を知られたか、本名を知っているあの苦力《クーリー》はいったいどういう身分の者か、それが私には不思議です。不思議といえば、苦力の云った、十歩。二十歩。いや三十歩かな。この言葉の意味こそ不思議です」
「ほんとにどういう意味でしょうね」紅玉《エルビー》はしばらく打ち案じたが、「歩いて見ようではありませんか。十歩。二十歩。三十歩。その通り歩いて見ましょうよ」
 そこで二人は肩を並べ、螢火の飛んでいる静かな道を、十歩、二十歩、三十歩、と、先へズンズン歩いて行った。そしてとうとう数え数えて、三十歩の所まで来た時に、はたして事件が起こったのであった。事件というのは他でもない。ちょうどそこまで来た時に、紅玉《エルビー》が突然苦しそうな声で、
「誰か私を引っ張って行く! 眼には何んにも見えないけれど、誰か私を引っ張って行く! 遠くで私を呼んでいる! 誰が呼ぶのか解らないけれど!」
 こう叫びながら矢のように、往来を一散に走り出したのである。
 張教仁の驚きは形容することが出来なかった。しばらくは往来に立ったまま、紅玉《エルビー》の姿を見送っていたが、やがて一声叫ぶと一緒に、彼女の後を追っかけた。その走って行く男女の者を、見失うまいとその後から、もう一人追っかけて行く男がある。
 それはさっきの苦力であった。海の中のように蒼白い、月光の巷を三人の者は、マラソン競走でもするように、走り走り走り走り、とうとう姿が見えなくなった。

        十二

 紅玉《エルビー》を失った張教仁の、その後の生活は悲惨《みじめ》であった。燕楽ホテルの自分の室で、じっと悲嘆に暮れるのでなければ、北京《ペキン》の市街を夜昼となく、紅玉《エルビー》を探して彷徨《さまよ》うのであった。紅玉《エルビー》の行衛をさがすためには、彼はもちろん警務庁へもすぐに保護願いを出したのではあったが、警務庁では相手にしない。相手にしないばかりでなく、こんな事をさえ云うのであった。
「事件の性質が性質ですから、屍骸を見つけるのならともかくも、生きている女を見つけようとしても、それは不可能のことですよ。この警務庁の庁内にもそういう事件がありまして、班長が命を失いました」
 こんなような訳で、警務庁では、事件を冷淡に扱かって、行衛をさがそうともしなかった。
 張教仁の身にとっては、紅玉《エルビー》は仕事の相棒でもあり、二人とない大事な恋人でもあった。その紅玉《エルビー》を失ったということは、精神的にも物質的にも、大きな打撃と云わなければならない。そしてもちろん彼にとっては、物質的の打撃よりも、精神的の打撃の方が遙かに遙かに大きかった。もしも紅玉《エルビー》が永久に、彼の手に戻らないとしたならば、彼の性格はそのことのために、一変するに相違ない。
「忽然として現われて来て、私の心を捉えた女は、また忽然と消えてしまった。しかし彼女は消えたにしても、彼女が残した胸の傷は容易のことでは消えはしない。それにしても本当に紅玉《エルビー》という女は、何んという不思議な女であろう。そういう女に逢ったということは、なんという私の不運であろう」
 こう思うにつけても、張教仁は、どうしてももう一度|紅玉《エルビー》を手に入れたいと焦《あせ》るのであった。彼はそれから尚|頻繁《はげし》く、北京《ペキン》の内外をさがし廻った。
 こうしていつか月も経ち夾竹桃や千日紅が真っ赤に咲くような季節となり、酒楼で唄う歌妓の声がかえって眠気を誘うような真夏の気候となってしまった。
 張教仁はある夜のこと、何物にか引かれるような心持ちで、かつて愛人を見失なった金雀子街の方角へ、足を早めて歩いて行った。わずか一月の相違ではあるが、薄紫の桐の花も、焔のような柘榴《ざくろ》の花も、おおかた散って庭園には、芙蓉の花が月に向かって、薄白くほのかに咲いている。
「花こそ変ったれ樹木も月も、あの時とちっとも変っていない。それだのに私の心持ちは、何んとまあ変ったことだろう」
 張教仁は支那流に、このように感慨に沈みながら、トボトボと道を歩いて行った。こうしてしばらく歩いてから、何気なく彼は顔を上げて、行手を透かして眺めると、五間ほどの先を男女の者が、親しそうに肩を並べながら、ずんずん先へ歩いて行く。
 後ろ姿ではあるが、夜目ではあるが、先へ歩いて行く男女のうち、女の方はどう見直しても、紅玉《エルビー》の姿に相違ない。
 張教仁はうしろから、思わず声高に呼びかけた。
「紅玉《エルビー》、紅玉《エルビー》、おお紅玉《エルビー》!」
 すると女は振り返った。そして歯を見せて笑ったが、そのままずんずん歩いて行く。振り返って笑った女の顔は、やっぱり紅玉《エルビー》に相違ない。張教仁はそれと知ると、嬉しさに胸をドキドキさせ、女に追い付こうと走り出した。しかしどのように走っても、不思議なことには双方の距離はいつも五間余りを隔てている。しかも先方の男女の者は、どのように張教仁が走っても、それに対抗して走ろうともせず、いつも悠々と歩くのであった。
 張教仁の肉体は次第次第に疲労《つか》れて来た。今は呼吸《いき》さえ困難である。それだのに尚も張教仁は全力を挙げて走っている。そうして連呼をつづけている。
「紅玉《エルビー》、紅玉《エルビー》、紅玉《エルビー》!」と……
 しかし、女はもう二度とは、振り返ろうとはしなかった。支那服を纒った肥大漢の、しかも老人に寄り添ったまま、その老人に手を引かれ、悠々と歩いて行くのであった。
 すると、その時、行手から、巨大な一台の自動車が、老人の前まで走って来た。それと見た老人は手を挙げて止まれと自動車に合図をした。そして自動車が止まるのを待って、女を助けて乗らせて置いて、やがて自分も乗り移った。
 その時ようやく張教仁は、自動車の側まで馳せ寄ったが、そのままヒラリと飛び乗った。
 自動車はすぐに動き出した。扉がハタと閉ざされた。
「紅玉《エルビー》!」
 と息づまる大声で、張教仁は呼びながら、自動車の中を見廻した。
 車内には人影は一つもない!
「こりゃいったいどうしたんだ!」
 彼は魘《うな》された人のように、押し詰められた声で叫ぶと共に、やにわに扉《ドア》へ飛び付いたが、外から鍵をかけたと見えて、一寸も動こうとはしなかった。
 その時、今まで点もっていた、車内の電燈がフッと消えて、忽ち車内は暗黒になった。
 暗黒の自動車は月光の下を、どこまでもどこまでも走って行く。

        十三

 暗黒の自動車は月光の下を、どこまでもどこまでも走って行く。
 張教仁は暗い車内の、クッションへ腰を掛けたまま、事の意外に驚きながらも、覚悟を極わめて周章《あわ》てもせず、眼を閉じて運命を待っていた。どこをどのように走るのか、自動車は駸々《しんしん》と走って行く。いつか二つの窓をとざされ、外の様子はどんなにしても窺《うかが》うことは出来なかった。
「成るようにしか成りはしない。命をくれてやる覚悟でいたら何も驚くことはない。さあどこへでも連れて行け」
 彼はこのように思っていたが、このように思っている彼をして、尚且つ魂を戦《おのの》かせるような、奇怪な事件が起こって来た。しかも他ならぬ自動車の内で。
 と云うのは彼が、そう覚悟して、クッションに腰かけているうちに、どうやら暗黒のこの車内に、誰かいるような気配がした。すなわち彼と向かい合った、向こう側のクッションに、何者か腰かけているらしい。張教仁は慄然《ぞっ》とした。そして思わず声をあげた。
「いったい誰だ、そこにいるのは!」
 するとはたして、向こう側から、含み笑いの声がして、
「張教仁君、怖《こわ》いかね」と、嘲笑《あざわら》いながら訊く者がある。
「怖くもなければ驚きもしない。いったい君は何者だね?」
「怖くないとは豪勢だね。が、しかしすぐに怖くなるよ。何者かと僕に訊くのかね。さあ僕はいったい何者だろう。僕が何者かはどうでもいい。僕は僕より偉大な者の使命を帯びて来たのだから、使命さえ果たせばいいのだよ」
 姿の見えない向こう側の男は、こう云ってまたも笑うのであった。張教仁は恐怖よりも怒りの方がこみ上げて来た。
「使命を帯びて来たんだって!」張教仁は怒鳴り出した。
「そんならご大層のその使命をさっさと果たすがいいじゃないか!」
「それなら、そろそろ果たそうかね。君のためには急ぐよりも、ゆっくりした方がいいのだがね」
 相手の男はまた笑った。
「その斟酌《しんしゃく》には及ぶまいて。君の方でゆっくりするようなら、僕の方で事件《こと》を急がせるまでだ!」
「事件を急がせるってどうするんだね?」
「君に飛びかかるということさ! 君を撲るという事さ!」
「なるほど、君は勇敢だね」
 眼に見えぬ男は、こう云うと、また例の厭な笑い方を、臆面もなくやり出したが、ちょっと改まった言葉つきで、
「張教仁君、手を延ばして、君の真正面へ出すがいい、真正面の空間に、何かブラ下がっている筈だ。そいつが僕の使命なのだ」
 張教仁は無言のまま、両手をズウと出して見た。はたして正面の空間に、一筋の糸で支えられた二振りの抜き身の短刀が、上の方から下がっていた。張教仁はヒヤリとしたが、度胸に狂いは生じなかった。反抗心がムラムラと彼の胸中に起こって来た。
「こいつが使命だって云うんだな。つまり人殺しの使命だな。そんな事だろうと思っていた」
「殺人の使命と云うよりも、決闘の使命と云った方が、紳士らしくてよさそうだね」
 眼に見えぬ男の言葉である。同じ言葉がまた云った。
「張教仁君、二振りのうち、君の好いた方を取りたまえ。残ったのを僕の武器《えもの》としよう。そして二人で自動車の中で、切り合おうじゃあるまいか」
「理由の知れない決闘を、僕はしようとは思わないよ」張教仁は云い放した。
「がしかしそいつは不可能だ!」相手の男は威圧した。
「僕は使命に従って、君と決闘せにゃならぬ」
「君は使命に従って、それじゃ僕を殺したまえ。そうして君の親玉に、決闘して殺したと云いたまえ。僕はこうして坐っているから、その短刀で斬るがいい。理由の知れない決闘は、僕は断じてやらないからね」
 張教仁の言葉には断乎《だんこ》たる決心が見えていた。その決心に押されたのか、相手の男も沈黙した。車内は寂然《ひっそり》と物凄い。物凄い車内に二人を乗せて巨大な自動車は、深夜の道をどこまでもどこまでも走って行く。

        十四

 その時、眼に見えぬ男の声が、慇懃《いんぎん》な調子で云い出した。
「張教仁君、さようなら、君の決心は見えました。それは立派な決心です。大概の人間はここまで来ると、気を失なってしまいます。そうでなければ短刀を持ってむやみに斬ってかかります。そうしたあげく恐怖のために、やはり気絶してしまうのです。そしてそのまま死んでしまうのです。屍骸はやむを得ず自動車から往来へ棄ててしまいます。あの警務庁の班長なども、屍骸になった一人です。それだのにあなたは堂々と私の要求を拒絶した上に、そこに平然と坐っています。あなたは一個の英雄です。あなたの胆力はこの私をすっかり感心させました。そして私の大事の使命もそのため自然果たされました。あなたはまことに堂々と第一の関門を過ぎたのです。第二第三の関門については、私は与《あずか》り知りません。張教仁君、さようなら! いずれどこかで逢うことでしょう」
 慇懃な声が消えると一緒に、闇中にほのかに浮いていた男の姿も全く消え、車内も森然《しん》と静まった。
 空には蒼白い月光が真昼のように照っている。月光を受けて銀のように、自動車の幌《ほろ》は光っている。往来には一人も人がいない。無人の街路をまっしぐらに、自動車は走って行く。
「世界の涯《はて》へでも行くがいい! 俺はどうなっても構わない」
 張教仁は闇の中で、こう不機嫌に呟いた。すると、その時、走りに走った怪物のような自動車はさすがに疲れたというように、徐々に速度を弛《ゆる》め出した。
 するとその時、行手の方で、厳《いか》めしい門でも開くような、ギギ――という音が聞こえて来た。そして、どうやら自動車は、その門の中へはいったらしく、一層速度が弛やかになった。やがて間もなく停まったのである。
 突然自動車の扉が開いた。車外《そと》もやっぱり真っ暗である。
 張教仁は躊躇《ちゅうちょ》もせずヒラリと自動車から飛び出した。
 こうして物凄い「死の自動車」から、張教仁は遁《の》がれたけれど、その後も彼の身の上には、死の自動車よりも恐ろしい、奇怪な事件が頻出した。しかも、同じその夜のうちに。そしてその事件に対しては、張教仁は次のように、自分の備忘録へ書き記した。
(張教仁の備忘録)[#「(張教仁の備忘録)」は底本では1字下げ]……私は自動車から下りたけれど、あたりが余り暗いので、どうすることも出来なかった。ここは建物の中らしい。その証拠にはどっちを見ても、月影も星影も見えようともしない。そして建物は大きいらしい。どっちへ向いていくら歩いても、板にも壁にも触ろうともしない。どんなに寂しく、建物の中で、私は立っていたことだろう。私を乗せて来た自動車は、どこへ行ったか影もない。よしまたそこにいたにしても、この暗さでは解るまい。涯《は》てしも知れない真の闇が、恐怖を知らない私の心を、ようやく乱すように思われて来た。私はどんなに陽の光と、人間の声とに憧れたことか! 私は戦慄を感じながら根強く闇に立っていた。すると、意外にも、幽《かす》かではあるが、薔薇色の火光がどこからともなく、流れて来るのに気がついた。私はあたりを見廻した。何んという不可解のことだろう! ほんの今までは闇であった私の足もとの地の上に、一間足らずの円い穴が、薔薇色の光を吐きながら、口をひらいているではないか。好奇心に駆られて私の胸は烈しくドキドキと動悸を打つ。私はそっと近寄って行って、穴の上へ首を突き出した。螺旋《らせん》階段が垂直に、穴の口から下りている。その階段の尽きる辺に、一つの室があるらしく、華やかな燈火《ともしび》が煌々と真昼のように灯っている。そしてそこには愉快そうな沢山な人がいると見えて、唄声なども聞こえて来る……。
 私はすっかり驚いて、眼を離すことが出来なかった。何んという不思議な対照だろう! 何んという信じられない光景だろう! 私の今いるこの位置は、暗黒で、人気《ひとけ》がなくて、物凄い。それだのに地下のあの室には、燈火と歌声と歓楽とが、一杯に充ちているらしい。
 私はしばらく考えた後、その室へ行こうと決心した。暗黒の恐怖に蝕《むしばま》れながら、ぼんやり地上に立っているより、たとえそれ以上の恐ろしいことが、あの地下の室にあるにしても、自分から行ってその恐ろしさを、経験した方が有意味であると、心に思ったからである。
 そこで私は身を起こし、螺旋階段へ足をかけた。そして垂直の階段をズンズン下へ降りて行った。十分ほど時間を費した時、とうとう私は地下の室へ、自分が来た事を発見した。
 室の三方は壁であった。天井の中央からはシャンデリアが無数の電球を下へ向けて、室を明るく照らしている。飾りらしいものはないけれど、室の中央に一脚の丸卓子が置いてあって、その上に一葉の紙があり、紙には設計図が書かれてある。それにもう一つ、巨大の像――支那服を纒った老人の、巨大の像が室の口に、居然と置かれてあるのであった。

        十五

 私はその像を見ているうちに、誰の銅像だか解って来た。すなわちそれは既に死んだ袁世凱の像である。どういう訳で袁爺《えんや》の像が、ここに置かれてあるのだろうかと、私はしばらく考えて見たが、それの解ろう道理がない。袁爺の像はここばかりでなく、十字形をなした長廊下のその真ん中にも置いてあった。廊下の真ん中に置いてある袁爺の像を発見《みつけ》る前に、私は奇怪な地下の館の、あらゆる場所を見歩いたのであった。蜘蛛手《くもで》に延びている無数の廊下! 廊下の左右には室の扉がズラリと一列に並んでいた。私は室の扉を叩いて見た。誰も中から返辞をしない。返辞こそしないが室の中には沢山の人達がいると見えて、賑やかな声が聞こえていた。しかも賑やかなその声は、何かに酔ってでもいるように、濁った、だらしのない喉音《こうおん》である。
 それから私は尚懲りずに、二、三の室の扉を叩いて見たがやっぱり返辞をするものがない。濁った、だらしのない、喉音だけがガヤガヤ聞こえて来るばかりである。一つの室からはハッキリと詩《うた》を唄うのが聞こえて来た。
[#ここから1字下げ]
古木天を侵して日已に沈む
天下の英雄寧ろ幾人ぞ
此の閣何人か是れ主人
巨魁来巨魁来巨魁来
[#ここで字下げ終わり]
「あの詩をうたっているんだな」
 私は別に気にもかけず、先へズンズン歩いて行った。そして廊下の十字路のその中央に置いてある袁爺の銅像の前まで来て、像を見上げて佇んだ。
 すると、忽然と、像の影から、一人の支那人があらわれた。見れば、意外にも、その男は、金雀子街で姿を見せた、穢い年寄りの苦力《クーリー》であった。今日もやっぱり酔っている。ヒョロヒョロとあぶなそうに歩いている。
「おや!」
 と、私は仰山に、驚きの声を洩らしたのである。しかし老人は見向きもせず、右の方へユラユラと行きかけたが、その時、またも、囁いた。
「ズンズン行くがいいぞ! 張教仁! 左へ左へ左へとな! 突き当りの帳《とばり》をかかげるがいい……」
 云ってしまうと、老苦力は銅像の影へ身を寄せた。ともうどこへ行ったものか、どう見ても姿は見えなかった。
 冒険を覚悟のこの私は、苦力の言葉に従って、左へ左へ左へと、足を早めて歩いて行った。二十分あまりも歩いた時、長い廊下が行き詰まり、そこに一つの室があった。しかも扉は半ば開き、内側に垂れた錦繍の帳の色さえ見分けられた。私は少しの躊躇もせず、グッと帳をかかげると共に、室へスルリとはいったのである。
 ああ、夢のような室の態《さま》よ!
 ほんとに夢のような小さい室! その室を仄かに馨《かお》らせるものは、甘い阿片《アヘン》の匂いである。室を朦朧と照らしているのは、薄紫の燈火である。それは天井から来るらしい。天井から来る薄紫の燈火の光に照らし出されて、幽かに見える一つの寝台。白衣の乙女がその上で、のどかに阿片を飲んでいる。
 乙女の顔を見た時の、私の驚きと喜びとは、筆にも言葉にも尽くされない。乙女は尋ねる紅玉《エルビー》であった。……私は寝台に走り寄った。そして紅玉《エルビー》を抱きしめた。
「お前は紅玉《エルビー》! ああ紅玉《エルビー》!」
 私の洩らした言葉と言えば、たった二言のこれだけであった。これだけを洩らすと私の眼から滝のように涙が流れ出た。
 すると、彼女は――紅玉《エルビー》は、眠げにその眼をひらいたが、私の顔をじっと見て、そして異様に微笑した。それからまたも眼を閉じたが、やがて静かに語り出した。夢見るようなその言葉つき……。
「……私あなたを知っています。張教仁さんね。そうでしょう……かすかに覚えておりますわ。沙漠であなたと逢ったことも! そして、そうそう、金雀子街で不意にあなたと別れたことも――遠い遠い昔のことよ! 五年も十年も二十年も――そして私はその頃は、あなたを愛しておりましたわ! そして、あなたも、私をね……でももう駄目よ! そうでしょう! 私は他人の物ですもの。ですから二人は諦めて赤の他人になりましょうね……泣いては厭よ、ねえあなたや……それよりも阿片でも飲みましょうよ。阿片を飲んで、飲んで、飲んで、涙を忘れましょうね」
「紅玉《エルビー》! 紅玉《エルビー》! ああ紅玉《エルビー》! お前は阿片に酔っているよ! お前の本心は麻痺している! それとも本当に無垢のお前を、穢した人間があるというなら、そいつを私に明かしておくれ! そうだ、そいつを明かしておくれ!」
 私はほとんど半狂乱のうろうろ声で云い迫った。
 しかし紅玉《エルビー》はそう云われても、尚|譫言《うわごと》をつづけるのであった。

        十六

「きっとあなたは知っていらっしゃるわね。近頃|北京《ペキン》から田舎まで、妙な詩《うた》が流行《はや》っているでしょう。あの詩の意味を知っていて? 『古木天を侵して日已に沈む』こう真っ先にあるでしょう。あの意味はこうよ、こうなのよ――天のように偉かった支那の国に、古い大木が蔓延《はびこ》って、支那の国を蔽うたので、日光を透すことが出来なかった。そのうちにその日が沈んでしまった。つまり日というのは文明のことよ……『天下の英雄寧ろ幾人ぞ』こうその次にあるでしょう。この意味は読んで字の通りよ。つまりそうなった支那の国には、英雄などというものは、一人もないと云っているんだわ。『此の閣何人か是れ主人』これが三番目の文句ですわね。閣というのは他でもない、地下に出来ている館のことよ。私達のいるここのことよ。そうしてここは阿片窟よ。阿片窟ではあるけれど、同時にここは秘密結社の一番大事な本部なのよ。こういうとあなたは訊くでしょう。いったい何の秘密結社かってね。私教えてあげますわ。世界征服を心掛けている恐ろしい秘密の結社ですの……そして結社の首領というのは――そうよ、結社の首領というのは、大変偉い人ですの、私をここへ呼び寄せたのも秘密結社のその首領よ――そして私はその人に、愛情を捧げておりますの!」
「いったいそいつは何者だ! いったいそいつはどこにいる!」私は思わず怒鳴りつけた。それほど紅玉《エルビー》の譫言《うわごと》は私の心を傷つけたのであった。
 すると彼女は同じ調子で、私にそれを物語った。
「あなたはその人を知っている筈よ。少くもあなたはその人の銅像を知っている筈よ」
「銅像だって※[#感嘆符疑問符、1-8-78] どんな銅像?」
「廊下に立っていたでしょう」
「あれは袁世凱の銅像だ!」
「昔はそういう名でしたわね」
「袁世凱は、とうの昔、この世から死んでしまった筈だ!」
「世人はそう云っていますけれど、ほんとは生きているのですよ」
「夢だ夢だ! くだらない、夢だ!」
「いいえそんな事はありません! いいえそんな事はありませんわ!」
 私は怒って烈しい声で、紅玉《エルビー》を叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]しようとしたが、しかしそれは不可能であった。何ぜかというにその一刹那、遙かに遠く警笛の音が地下室の静寂を破ったからで。続いて二笛! また三笛! 忽ちどよめく声がする。怒声、哀願、女の泣き声……それから拳銃の鋭い音! 剣の鞘のガチャつく音! 警官が襲い込んだらしい。
 私は一言も物を云わず、紅玉《エルビー》を肩に引っ担いだ。それから室を走り出た。長い廊下を一散に、右へ左へ走り廻る。カッと燃え上がる火の光が、行手の廊下を隘《ふさ》いでいる。地下室は焔々と燃えているらしい。煙りに咽せて私は思わず廊下へ倒れようとした。その時私を呼ぶ者がある。
「左手の壁のボタンを押せ! そこから上へ登って行け! 躊躇せず走れ張教仁!」
 私はハッと刎ね起きて、声のする方へ眼をやった。煙りに包まれ火を踏んで、一人の支那人が立っている。両手に二挺の拳銃をもち、正面を睨んだその姿! それは意外にも金雀子街と、銅像の前とで邂逅した、穢い老人の苦力《クーリー》であった。しかし姿は苦力であるが、付け髯と付け眉とをかなぐり棄てた、生地《きじ》の容貌をよく見れば、思いきや、それは、羅布《ロブ》の沙漠で、私が裏切って捨てて逃げた、西班牙《スペイン》の花形、ラシイヌ大探偵! 私に何んの言葉があろう! ただもう恥じ入るばかりである。やにわに私は頓首した。それから左手の壁を見た。はたしてボタンが一つある。そいつを押すと、壁の一部が、そのまま一つの扉となり、ギーと内側へ開いた隙から、紅玉《エルビー》を抱えて飛び込むと、扉はハタと閉ざされた。
 暗中にかかった階段を、私は紅玉《エルビー》を抱えたまま、上へと、命の限りに登って行った。
 こうして階段を行き尽くし、ようやく地上へ出て見れば、そこは案外にも金雀子街の、他人の家の庭の空井戸であった。そしてもう夜は明けていた。……(備忘録終り――)

 その翌日のことである。中華民国警務庁の、保安課の室に十四、五人のかなり重大な人々が、ラシイヌ探偵を取り囲んで、じっと話に聞き惚れていた。
「……まあそう云った塩梅《あんばい》で、いろいろ研究をした結果、形の見えない何者かが形の見えない糸をもって引っ張って行くという、その事実は、催眠術に過ぎないと、このように目星をつけてからは、その方針で進みました。ところがはたしてある晩のこと、金雀子街を歩いていると、貴公子風の支那青年と、土耳古《トルコ》美人とが月に浮かれて、向こうから歩いて来ましたが、二人のうちのどっちかが暗示状態に落ち入っていると、早くも私は見て取ったので、何気なく警告を与えました。それというのも、その貴公子を私が知っていましたからで。するとはたして土耳古《トルコ》美人が、ものの三十歩ほども歩いた頃、例の調子で、例のように、走り出したというものです。驚いて貴公子は追って行く。もちろん私も追って行く。貴公子は中途で倒れましたが私は最後まで追いかけました。するとどうでしょうその美人は、北京《ペキン》中散々駈け廻った後、やっぱり同じ金雀子街へ帰って来たじゃありませんか。そうして、その街の街端れの、陶器工場の廃屋の中へ走り込んだという訳です。私もそこまで行きました。忽ち地上へ穴が開く、地下室へ通う階段がある、それを二人は下りました。すると恐ろしく広い立派な阿片窟へ来たというものです。私はいろいろ調べました。その阿片窟の設計図さえ私は手に入れたというものです。そして阿片窟の経営者が誰であるかを突き止めました。袁更生という男です。そして自分では袁世凱の後身だと云っているのです。そして世界の各国へ阿片窟の支部を設立し、世界中の人間を堕落させて、そして自分が全世界を征服するのだなどと高言して、愚民を騙《たぶら》かしていたそうです。それほど大がかりの阿片窟が、どうして今日まで知れなかったかというに阿片窟へ出入りする人間を、よく吟味して加入させたからで、今云った首領の袁更生が例の催眠術で誘拐して来ても、途中でその人間の強弱を試し、臆病な奴はそのまま途中で、自己催眠で自殺させ、街路で容捨なく捨ててしまい、大胆な者だけを連れて来たので、秘密が保たれていたのです」
 ラシイヌ探偵は云ってしまうと、葉巻を出して火を点けて、さも旨そうにふかし出した。
「残念な事には」とラシイヌはちょっと片眼をひそめたが、「かんじんの首領の袁更生だけを、まんまと取り逃がしてしまったので、こいつは私の失敗でした」
 こう云ってニヤリと苦笑した。

    第四回 上海夜話

        十七

 上海《シャンハイ》、英租界の大道路、南京路《ナンキンルー》の中央《なかほど》のイングランド旅館《ホテル》の一室で、ラシイヌ探偵と彼の友の「描かざる画家」のダンチョンと葉巻《シガー》を吹かしながら話している。
「……ほほう、そんなに美人かね。ところで君はその美人をモデルにしたいとでも云うのかね。モデルにするのもいいけれど、これまでの君の態度を見れば、どんなに良いモデルがあったところで、『描かざる画家』ダンチョンたる君は、それを描かないんだからつまらないよ。それとも今度からは描くのかね?」
「それはもちろん描きますとも。あんな素晴らしい美人がですね、モデル台の上へ立ってくれたら、自然とブラシだって動きますよ」
「美人美人と云うけれど、君の言葉を聞いていれば、美人は面紗《ヴェール》に隠れていて、顔を見せないって云うじゃないか」
「顔は一度も見ませんけれど、美人であるということはその体付きで解ります。飛び離れて優秀《すぐれ》たあの体には、飛び離れて美しい容貌が着いていなければ嘘と云うものですよ。美人に相違ありませんな」
「なるほど、君は画家だから、そういうことには詳しいだろう。ところで素晴らしいその美人が君に手紙を手渡したというが、少し変だとは思わないかね?」
「無論変だと思います。つまり変だと思えばこそ、あなたにお話したのですが……」
「君の様子をおかしいと見て僕が質問したればこそ、君はその事を打ち明けたので、そうでなければ、君は黙って、美人の手紙に誘惑されて今夜一人で公園の音楽堂へ行ったに相違ないよ。全く今日の君の様子は、変梃《へんてこ》と云わざるを得なかったよ。蛮的の君がお洒落《しゃれ》をする。頭髪《かみ》を香油で撫でつけるやら、ハンカチへ香水をしめすやら、そしてむやみにソワソワして腕時計ばかり気にしている。正気の沙汰じゃなかったね……平素《ふだん》の日ならそれでもいいさ。君も充分知っている通り、埋もれた宝庫《たから》を尋ねようと、西域の沙漠を横断して支那の首府まで来て見れば、一行での一番大事な人のマハラヤナ博士が風土病にかかって北京《ペキン》から一歩も出ることが出来ず、それの看病をしているうちに、北京警務庁に頼まれて、袁更生の事件に関係して、むだに日数を費してしまった。それでもようやく博士の病気が曲がりなりにも癒ったので、陸路を上海《シャンハイ》まで来たところで博士がまたも悪くなった。それもようやく恢復したので、明日はいよいよ南洋を指して出帆という瀬戸際じゃないか。そいつを君にソワ付かれちゃ、誰だって質問《き》かずにゃいられないよ。訊いたからこそ話したのさ。君が進んで自分から、僕に話したんじゃない筈だよ」
 こう云うラシイヌの口もとにはさすがに微笑が漂ってはいるが、鋭いその眼には非難の光がギラギラ輝いているのであった。
 ダンチョンは次第に首を垂れ、小児《こども》のように頬を赭らめ、いつまでも無言で聞いていたが、この時フッと眼を上げた。その眼にはいかにも困ったような、嘆願の表情が浮かんでいて、それが滑稽で無邪気なので、ラシイヌは思わず笑いかけた。それを危く取り留め彼は厳然と云い渡した。
「それでは君はその別嬪《べっぴん》が、手紙で君に指定した通り、今夜公園の音楽堂へ音楽を聞きに行きたまえ。しかし一人では行かせないよ。もちろん見え隠れではあるけれど、僕も一緒に行くことにしよう。そうして君がその美人を、モデルに頼むことに成功するか、それとも美人が君を捕らえて、逆さに釣るして泥を吐かせるか、恋の争闘を見ることにしよう。こいつはとんだ見世物だよ」
 ラシイヌは云って立ち上がった。
「たしか音楽の始まるのは午後八時からだということだね。それまでは君も辛棒して、博士の室へでも行っていて、八時になったら出て行くさ。それまでに僕も僕の用を片付けて置くことにしようかね。もっとも僕の用というのは、街をブラツクことだけれど」
 ラシイヌは室を出て行った。それから彼はホテルを出て、県城指して歩いて行った。

        十八

 あるいは「東洋の紐育《ニュウヨーク》」もしくは「東洋の桑港《サンフランシスコ》」――こう呼ばれている上海《シャンハイ》も、昔ながらの支那街としての県城城内へ足を入れれば、腐敗と臭気と汚穢《おわい》とが、道路《そと》にも屋内《うち》にも充ち満ちていて、鋭い神経を持った人は近寄ることさえ忌み嫌った。
 そういう不潔の城内を差してラシイヌは歩いて行くのであった。しかしラシイヌは目的地へすぐに行こうとはしなかった。彼は自分のいる英租界を、黄浦河に沿って悠々と、仏租界の方へ歩いて行った。彼の道順には租界中での一番賑やかな街筋が――すなわち黄浦河の岸上の街《まち》と、蘇州渓の街とが軒を並べ、街路整斉と立っている。街には人が出盛っていた。馬車、自動車は鈴を鳴らし、広い車道を馳《はし》って行く。三層五層の大厦の窓は、悉《ことごと》く扉を開け放され忙しそうに働く店員達の小綺麗な姿が見えている。上海棉花公司とか、広徳泰|軋《れき》花廠とか、難解の文字の金看板が、家々の軒にかかっていて、夕陽にピカピカ光っている。九江路《キウキャンルー》を右に曲がり、福建路《フウキンルー》を行き尽くし、それから初めて仏租界へ、ラシイヌはゆっくり足を入れた。
 英租界の繁華に比較しては、仏租界の方はやや寂しく、その代り上品で粋であった。紳士と連れ立った淑女達や、大きな金剛石《ダイヤ》の指輪を飾った俳優じみた青年や、翡翠《ひすい》の帽子を戴いて、靴先に珠玉《たま》をちりばめた貴婦人などの散歩するのに似つかわしい街の姿である。
 ラシイヌは静かに歩きながらも、左右に鋭く眼を配って、全身の注意を耳に蒐《あつ》め、ある唄声を聞こうとした。しかし唄声は聞こえない。足音や話し声や笑い声や、器物の動く音などは、行く先々で聞こえてはいたが、聞こうと願う唄はどこからも聞こえては来なかった。ラシイヌは仏租界を歩き尽くし、しばらくそこで躊躇したが、やがてグルリと大迂回をして米租界の中へ進んで行った。
 仏租界ほどの品もなく、英租界だけの規律もなく、ただ米租界は紛然として、繁昌[#「繁昌」は底本では「繁晶」]を通り越して騒がしかった。街々を歩いている人々には、印度《インド》人もあれば、土耳古《トルコ》人もある。煙草《たばこ》ばかり吹かしている洪牙利《ハンガリー》人や、顔色の黒いヌビヤ人や、身長《せい》の高くない日本人や、喧嘩早い墨西哥《メキシコ》の商人などが、黄金《かね》の威力に圧迫され、血眼《ちまなこ》になって歩いている。各国の領事館や銀行の立派な建築《たてもの》が街々に並び、倉庫、桟橋、郵便局などが、到る所に並んでいる。上海の本当の持ち主の支那の商人は米租界でも最も狡猾なるあきゅうどとしてどこへ行ってもうよついている。
 ラシイヌはゆるゆる歩きながら、左右の光景を眼で眺め、湧き起こる音響を耳で聞き、先へ先へ進んで行った。
 しかしやっぱり聞きたいと願う、その唄声は聞こえなかった。こうして彼は米租界をも、失望をもって通り過ぎた。そして今度は足を早めて、いよいよ目的の県城の方へ、彼はズンズン進んで行った。
 街《まち》は次第に寂しくなる。そして道路の不潔さは、ラシイヌの眼を顰《ひそ》めさせる。
 城内と城外とを距てている城壁の前まで来た時に、いつもながら彼は感嘆してしばらく立って眺めていた。城壁の周囲三十支那里、磚瓦《せんが》をもって畳み重ね、壁の上には半町ごとに厳しい扶壁が作られている。長髪賊の乱の時初めて備えられた大砲が、扶壁に残ってはいるけれど、ほとんど使用に堪えないまでに青黒く砲身が錆びている。城壁に沿うて丈なす草が、人に苅られず生い茂り、乏しい紅白の草花が咲いているのも野趣がある。昔、戦国の世の時代に、養う食客三千人と、世上の人に謳《うた》われた、春申君と申す人の、長く保った城である。城には七つの郭門《もん》がある。郭門《もん》は城内の旧市街にいずれも通じているのであって、道台衙門のある所はすなわち東大門内である。知県衙門のあるところは小東門内の中央である。
 日没を合図に内外の市街《まち》は――県城内の旧市街と県城外の新市街とは、交通を遮断する掟《おきて》であってその日没も近づいているので、ラシイヌは郭門の一つから城内へ急いではいって行った。城内の街の狭隘《せま》さは、二人並んで歩くことさえ出来ぬ。凸凹の激しいその道には豚血牛脂流れ出しほとんど小溝をなしている。下水の桶から発散する臭気や、葱《ねぎ》や、山椒《さんしょう》や、芥子《けし》などの支那人好みの野菜の香が街に充ち充ちた煙りと共に人の嗅覚を麻痺させる。小箱のような陋屋《ろうおく》からは赤児の泣き声や女の喚き声や竹の棒切れで撲る音などが、巷に群れている野良犬の声と、殺気立った合唱《コーラス》を作っている。
 街には人が出盛っていて、あっちでもこっちでも支那人らしい誇張した声音と身振りとで「負けろ」「まけない」の掛け合い事――つまり、商売をやっている。誰も彼もみんな忙がしそうだ。そういう忙がしい人達を縫って、さも隙そうな若者どもが、小唄を唄いながらぶらついている。仔細に見るとそれらの者はいずれも逞《たくま》しい体をした働き盛りの若者である。しかも彼らは働こうともせず、唄を唄って歩いている。彼らのうたうその唄こそは、ラシイヌの聞きたがっている唄である。
[#ここから1字下げ]
古木天を侵して日已に沈む
天下の英雄寧ろ幾人ぞ
此の閣何人か是れ主人
巨魁来巨魁来巨魁来
[#ここで字下げ終わり]
 この唄をうたうに若者どもは「巨魁来巨魁来巨魁来」と、最終の一連に力をこめ、いかにも今にもその巨魁がどこからか堂々と乗り込んで来て、姿を現わすのを待っているかのように、勢い込んで唄うのであった。
 ラシイヌはゆるやかに歩みながら、捨て目捨て耳を働かせて、彼らの様子を窺った。そうして心で罵った。
「フン、いくらでも唄うがいい、巨魁来巨魁来巨魁来か! どんな巨魁だかこの俺にはちゃあんと解っておいで遊ばすのだ。どんな野郎が来たところでこの鼻ちゃんは驚かない。どんな野郎でもとっ捕えて見せる。俺達の目的を妨げる奴は張三李四のお構いなく地獄の釜の中へたたき込んで見せる?」
 ラシイヌはそれから尚しばらく、城内をブラブラ彷徨《さまよ》ってから、黄浦河の岸へ出て行った。
 県城とそして三つの租界を、東の岸に立たせたまま北へ流れる黄浦河は、水こそ黄色に濁ってはいるが、その河幅は二百間、無数の商船や軍艦や支那船《サンパン》を満々たる水に浮かべ、揚子江に向かって流れている。目星い大きな工場は、いずれも河の東岸にあって、巨大の煙突、急傾斜の屋根が、空を蔽うて林立し、重い起重機を動かす音や猛獣のような汽笛の音や、のんびりした支那流の掛け声などが、煤煙《ばいえん》の空に響いている。オリエンタル船渠《ドック》の工場からは鉄槌の音が聞こえてくるし、対岸に孤立して立っている董家造船所のドックからは汽罐の音が聞こえて来る。
 ラシイヌは河岸を米租界の方へ耳を傾《かし》げながら歩いて行った。そのうちに焼け爛《ただ》れた砲弾のような太陽がグルグル廻りながら、平野の地平《はて》へ没してしまって、間もなく四辺《あたり》は暗くなった。遙か県城の方角に当たって、関門を鎖ざす軋り音が、一日の終りを告げるかのようにさも重々しく響いたが、その音と一緒に諸所の工場から蟻の群でも出るように職工達が現われた。疲労《つか》れた声音で挨拶をしてちりぢりに四方へ散って行く。その後は森然《しん》と静まり返り夜業をすると見えてある工場の、二つの窓から火の光が戸外にカッと洩れて来るのさえかえって寂しく思われた。
 四辺《あたり》は森然と静かである。
 その時、ラシイヌが歩いている河岸の下の水面から、元気のよい唄声が聞こえて来た。それは、やっぱりあの[#「あの」に傍点]詩である。

  古木天を侵して日已に沈む
  …………
 …………
  巨魁来巨魁来巨魁来

 ラシイヌはちょっと眉をひそめ、足下の水面をすかして見た。巨大の支那船《サンパン》が浮いていて、燈火《あかり》も点《つ》けてない船の中で、二、三十の人影がボンヤリとうごめいているのが眼に付いた。ラシイヌの心臓は動悸を打ち、その眼は急に見開らかれた。彼は楊柳の蔭へこっそり姿をひそませて、じっと様子を窺った。船中の唄声はやがて絶えて、また四辺は寂静《ひっそり》となった。すると今度は反対の岸――二百間あまりもかけ隔てた対岸《むこうぎし》の方から幽《かす》かに幽かに同じ唄声が水を渡ってラシイヌの耳へまで聞こえて来た。やがてその詩も途絶えたが、詩の途絶えた方角から、青色の光がただ一点、闇の中へポッツリ浮かび出た。あたかも人魂が迷うようにその青色の|燈の灯《ともしび》は、右に左に静かに動くとまた闇の中へ消えて行った。すると、今度は、彼の足もとの、支那船《サンパン》の中から同じような青色の燈火《あかり》が浮かび出たが、空中で五、六回揺れた後でそのままフッと消え去った。
「フフン、何かの合図だな」
 楊柳の蔭でラシイヌは思わずこのように呟いて尚もそのまま彳《たたず》んで、支那船《サンパン》の様子を窺った。
 すると支那船は動くともなく、幽かに船体を動かした。闇の河面《かわも》が静かに動いて、一町あまり隔たっている小さい桟橋の方角へ、人眼を忍ぶように辷って行く。
 そうして桟橋へ着いた時、船の中にいた支那人どもは、一人一人桟橋へよじ登った。二十人あまりの人影が、墨のように橋の上へ塊《かた》まった時、一個《ひとつ》の大きな黒い箱が船の中から持ち上げられた。桟橋の上の人影が、揃って前へ手を突き出し、その黒い箱を受け取った。するとまたもや船の中から、ゾロゾロ人影が現われて桟橋の上へよじ登ったが、一個の箱を肩に支え、その箱をみんなで取り巻いて、神前へ捧げる御輿《みこし》のように、敬虔《けいけん》な態度で歩いて行く。
「さあどうもこいつは解らない」
 ラシイヌは胸へ腕を組んで、渋面を作って呟いた。それから楊柳の蔭を出て、御輿の後を追いかけたが、思い出して腕時計を眺めると、彼は追うのを中止した。
 もう十分で八時である!
 彼は御輿と腕時計とを代わる代わるに見比べてしばらくじっと考えていたが、決心がついたというように、グルリと体の方向を変え、大速力で走り出した。
 公園へ向かって走るのである。
 黄浦河とそして呉松《ロウソン》江とが、相合流する一角に、居留地の公園は立っていた。北と東が水に臨み、西が英租界に向いている。水に向かった園内の芝の丘に、音楽堂は立っていた。眩《くらめ》くばかりの電燈が、楽堂の周囲《まわり》に照り渡り、そこへ集まった聴衆のほくろさえ鮮かに見えるほどである。

        十九

 もう已《とう》に音楽は始まっていた。それは伊太利《イタリア》の音楽隊で、モールをちりばめた服装から指揮者《コンダクター》の風姿《スタイル》から、かなり怪しげな一団であったが、「伊太利人」という吹聴のためか、聴衆《ききて》は黒山のように集まっていた。聴衆は全部|欧羅巴《ヨーロッパ》人で支那人は一人もいなかった。それは公園の入口に「華人不可入」と書いた建札が、厳めしく立っているからだ。
 ラシイヌは聴衆の間に交って、彼の鋭い観察眼であたりを静かに見廻した。「描かざる画家」ダンチョンを発見《みつけ》出そうためである。ダンチョンの姿はラシイヌの左手、十間ほどの彼方にいた。新しい帽子に白のネクタイ、思い切ってめかしたその姿は、ラシイヌには滑稽に思われた。性来どこかにおかしみを持った田舎者じみたダンチョンが、神経質な眼付きをして、音楽などはうわの空で、例の美人を発見《みつ》けようと、四辺をキョロキョロ見廻す様子は、それは全く珍であった。
 ラシイヌはおかしさを堪えながら、ダンチョンの様子を見守った。
 その時、きょとついたダンチョンの眼がある一所《ひとところ》に据わったので、ラシイヌは「オヤ」と呟きながら、その方角へ眼をやった。はたしてそこには婦人がいた。すなわち楽堂の柱に寄って、黒い面紗《ヴェール》で顔を隠した水色の服の欧州美人が、スラリと彳《たたず》んでいるのであった。
「おや」とラシイヌは婦人を見ると、またも思わず呟いた。というのは面紗《ヴェール》のその女が確かに見覚えがあるからであった。
「ハテナ、いったいあの女とどこで知人《しりあい》になったろう?」
 ラシイヌは一瞬間心の中で記憶の糸を手繰《たぐ》ったけれど思い出すことが出来なかった。
 その間も楽堂の舞台では、拙《まず》い音楽が続けられていた。そして聴衆《ききて》は根気よく静かに耳を傾けている。
 しめやかな、静かな、いと平和な、異国情緒の光景である。
 ラシイヌは尚も眼をそばだて、面紗の女とダンチョンの様子を代わる代わるに眺めやった。そして怪しい素振りでもあったら、追っ駈けて行こうと用意した。
 するとその時、どこからともなく、獣の鳴き声が聞こえて来た。「キキーキキー」と鋭い声! 音楽に夢中の群集達は、鋭い獣の鳴き声に注意しようともしなかった。静かに音楽を聞いている。一人の面紗《ヴェール》の女だけがその鳴き声を聞くか否や、烈しく体を顫《ふる》わせた。そして獣の鳴き声に促がされでもしたように、急にスルスルと、群集を分けてダンチョンの方へ近寄った。
 面紗《ヴェール》の女とダンチョンとはそのまま体を寄せ合って聴衆の圏から出ようとした。それと見て取ったラシイヌは、これも素早く聴衆を分けて燈火《あかり》の明るい広場へ出た。そうして真っ直ぐに前方を見ると、面紗の女とダンチョンとが木立の繁った暗所《くらがり》の方へ、側目《わきめ》もふらず歩いて行く。程よい間隔を中に保って、ラシイヌはその後を追って行った。
 鋭い獣の鳴き声は――それは猩々《しょうじょう》の鳴き声であるが――樹立《こだち》の彼方《かなた》、鉄柵の向こうの公園の外の人道から、またもその時間に聞こえて来た。面紗の女とダンチョンとはその鳴き声に導かれるように公園の裏門を辷り出た。そして人道を南の方へ足を早めて走って行く。三度も四度も行手の方から猩々の鳴き声が聞こえて来る。ラシイヌはこれも駈け足で二人の後を追っかけた。
 こうして幾分走ったろう? 暗い大きな建物の蔭から、獲物を狙う豹のようにひらりと走り出た支那人がある。血気盛んの若者らしく筋骨なども逞しく、走って行く脚も軽々と、二人の男女を追って行く。
 ラシイヌはちょっと驚いて、その支那人を見詰めたが、
「ほほう、彼奴か、あの男か!」
 思わずもこう呟いた。こう呟いたそれと同時に、面紗の婦人の何者であるかを、閃めくように理解した。
 面紗《ヴェール》の女とダンチョンとは、次第に速力を速め出した。まるで舞うように走って行く。二人の走るのを誘うかのように、幾度も幾度も猩々の声が行手の方から聞こえて来た。その鳴き声は、不思議なことには、手近の所から聞こえることもあり、遙かなあなたから来ることもある。
 疲労《つかれ》を知らないラシイヌの体も、さすがにいくらか疲労《つか》れて来た。しかし、もちろん、この追跡を止めようなどとは思わなかった。彼らの走るに従って彼も風のように走って行った。
 こうしてどれだけ走ったろう? 黄浦河の河上に浮かんでいる、無数の商船や帆船の、マストや煙突が遙かあなたにボンヤリ聳《そび》えて見える所――その辺は闇のように暗かったが――そこまで一団が来た時に思いもよらない活劇が、電光《いなずま》のように湧き起こった。

        二十

 ちょうどそこまで来た時に、支那青年は走り寄り、さも憧憬に耐えないように、また心配に耐えないように、何か一声叫びながら面紗《ヴェール》の女を引っ抱え、その口に烈しくキッスをした。すると女は驚きのあまりあたかも気絶したように――見ようによっては悪夢から醒めて傍らの保護者に縋りついたかのように、支那青年に抱えられたまま微動をさえもしなくなった。驚いたのはダンチョンで、彼は甘い自分達の恋を妨げられでもしたかのように、平常《いつも》の彼に似もやらずやにわに拳を揮り上げて支那青年に跳び掛かった。こうしていまにも二人の間に格闘が演ぜられようとした時に、鋭く咆哮する猩々の声がすぐ耳もとで聞こえて来た。
 と、闇の中からムラムラと二、三十人の人影が現われて、三人を中に取り込めた。そしてその時走り寄ったラシイヌをさえも包囲した。
 こうしてそこに訳の解らない争奪戦が行われた。
 二、三十人の人影は一言も物を云わなかった。彼らは一切無言のまま彼らの仕事を続けて行った。支那青年の腕の中から彼らは女を奪い取った。怒って飛びかかる青年を、五、六人がかりで押さえつけた。その時大きな真っ黒の箱が彼らによって運び出され、面紗《ヴェール》の女は彼らの手でその箱の中へ入れられた。それと見たダンチョンはその箱へ飛鳥のように飛びかかった。すると彼らは十人あまりでダンチョンを箱から引き離した。その拍子に箱の蓋《ふた》が取れた。と、見よ! 箱の内部には、仔牛ほどもある猩々が、堅く鉄鎖で縛られながら、気絶したまま倒れている面紗の婦人の枕もとに居然と坐っているではないか!
 蓋はすぐに蔽われた。その箱を彼らは引っ担ぎ、黄浦河の方へ走って行く。往来に無残に打ち倒された支那の青年はそれを見ると、よろめきよろめき立ち上がったが、
「紅玉《エルビー》、紅玉《エルビー》、おお紅玉《エルビー》!」
 こう叫びざままた倒れて、そのままぐったり動かなくなった。どうやら気絶したらしい。気絶した彼のすぐ傍《そば》には、これも気を失ったダンチョンが、無態《ぶざま》の姿《なり》をして倒れている。
 さて、ラシイヌはどうしたろう? 彼もやっぱり気絶して往来の上に倒れていたが、しかし彼の気絶だけは本当の気絶ではないのであった。彼は不思議の一団が黒い箱を担ぎ出すと見るや否や、彼らの様子を探るため故意《わざ》と彼らに乱打されて地上へ倒れてしまったのであった。で彼は、彼らが立ち去ったと見るや忽然と往来へ立ち上がった。そして一瞬の躊躇もせずダンチョンの側へ駈け寄ったが、危険がないと見て取ると、支那青年の側へ走って行って、その耳もとへ口を当て、「オイ、しっかりせい張教仁!」と大きな声で呼ばわった。そうして青年の手を取ってその脈搏をしらべて見た。脈は幽《かす》かに搏《う》っている。
「まずまずこれも危険はない」
 ラシイヌは呟いて立ち上がり、ほんの一瞬考えたが、次の瞬間には足を早めて、黄浦河の方へ走って行った。

 黄浦河の岸まで来た時にラシイヌは木蔭に身を隠し、驚異の瞳を輝かせて河中の奇蹟を凝視した。
 水面には支那船《サンパン》が浮かんでいる。その甲板には柩のような例の黒箱が置いてある。それを囲んで群像のように彼らの一団が彳《たたず》んでいる。船尾には血のような火光を放す燈火《あかり》が一つ据えてある。彼らは寂然と静まり返り、河の下流へ眼を注いで何物かを待っているらしい。遙か彼方の対岸の方にも血のように赤い燈光がさも物凄く点っている。その物凄い燈光とこっちの赤い燈光とは合図し合っているらしい。
 四辺《あたり》は寂然《さびしく》ひそまり返り、諸所《あちこち》の波止場《はとば》や船渠《ドック》の中に繋纜《ふながか》りしている商船などの、マストや舷頭に点《とも》されている眠そうな青い光芒も、今は光さえ弱って見えた。どこやらの時計台で幽《かす》かに午後九時の時刻《とき》を報じている。
 支那船《サンパン》の中の一団は依然として静かで無言である。やっぱり下流を眺めている。木蔭に隠れているラシイヌも位置から動こうともしなかった。彼らの様子を眺めている。
 こうして幾時間経たろうか、時計台の時計はその度ごとに陰気な音を響かした。こうして時計が午前三時を物憂く三つ打ち終えた時、下流の方から闇を分けて一隻の船があらわれた。小型ではあるがその代わり速力の速やそうな商船《ふね》である。その商船の速力はやがて徐々に緩るくなった。緩るい船脚を続けながら支那船《サンパン》を凌《しの》いで行き過ぎたが、ほんの五、六間行き過ぎた時一つの不思議が行われた。と云うのはそれは他でもない。その商船が進むに連れて支那船も静かに動き出し、商船の船腹へ近付いて行く。しかも二隻の支那船が、すなわち、先刻まで遙か彼方に、燈火ばかりを見せていたその支那船も近付いて行く。
 二隻の支那船《サンパン》が商船の腹へピタリと横付けにくっつくや否や素早く縄梯子は投げられた。猿のような早さでその商船へ彼らの一団は乱れ入った。
 忽ち起こる怒号叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]! 七、八発の拳銃《ピストル》の音! 入り乱れて闘かう人の影! 五分足らずの格闘で掠奪戦は終局した。珠数繋ぎにされた船員が甲板の上に倒れている。それらを眼下に見おろして、大勢の部下に囲まれながら、白髪の貴人が立っている。部下達の翳《か》ざす燈火の光で、その風采が鮮かに見える。丸龍を刺繍した支那服を纒い、王冠を頭に戴いている。小肥《こぶと》りの体にやや低い身長《せい》。鋭い眼光に締まった口。ああそれはかつての大統領、またそれはかつての支那の皇帝、袁世凱《えんせいがい》の姿ではないか!
 商船は船尾を翻《ひるが》えした。そして異常の速力で元来た方へ引き返した。こうして一隻の運送船は闇に姿を隠したのである。
 程経て水上を巡邏している水上警察署のモーターが何気なくその辺へ差しかかった時、主のない二隻の支那船《サンパン》が波に漂々浮いているのを不思議に思って調べて見たが、目ぼしい物は何もなかった。もちろん例の黒い箱も、もはやそこにはなかったのである。

        二十一

 一切を見届けたラシイヌは、すぐにそこから引き返して、格闘の場所へ帰って来た。すると依然としてダンチョンだけは、気絶したまま倒れていたが、張教仁の姿は見えなかった。
「それでは彼奴だけ甦えって、どこかへ姿を隠したと見える」
 ラシイヌは心でこう思って飽気《あっけ》ないような表情をしたが、ダンチョンを抛擲《うっちゃ》っても置けないので、彼を旅宿《やど》まで運ぶための自動車を探しに街の方へ、大速力で走って行った。

 ボルネオ航路の英国汽船の一等船室の寝台には、体中を繃帯で包まれた「描かざる画家」ダンチョンが情けなさそうな顔をして、彼の正面に腰かけながら愉快そうに喋舌《しゃべ》っているラシイヌの口もとばかりを見詰めていた。
 ラシイヌは説明を続けて行く。
「……何ね、僕は、それ前から――描かざる画家のダンチョン君を、誘惑している貴婦人《レディ》があると君から明かされないそれ前から、君のみならず僕ら皆んなが、袁更生の一団から狙いをつけられているという事を、ちゃあんと知っていたのだよ。どうして僕が知ったかと云うに、教えてくれた人があったからさ。誰かというに他でもない北京《ペキン》警務庁の連中さ。つまり彼らは僕のために暗号電報を打ってよこして、北京《ペキン》警務庁の依頼によって、袁更生の阿片窟を僕が暴露《あば》いたのを怨みに思って僕に怨みを晴らすため袁更生の一味徒党が僕の行先に着きまとい上海に渡ったということを知らしてくれたというものさ。その電報を見た時に僕は直覚的にこう思ったね。いやいや彼らが僕らを追って事実|上海《シャンハイ》へ来ているなら、その目的は僕なんかに危害を加えようというのではなくて、僕らが抱いているある目的――云うまでもなく南洋へ行って埋もれている宝を探そうという、その目的を僕らの手から奪い取ろうということがすなわち彼らの目的であって、僕に向かっての復讐などは眼中にあるまいとこう思ったのさ。何故そう思ったかというにだね、南洋に埋もれている宝について、彼らは僕らとおんなじくらいの知識の所有者だということを、僕が発見したからさ。どこで発見したかというに他ならぬ彼らの阿片窟《アヘンくつ》さ。どうして阿片窟で知ったかというに意外にも阿片窟の女部屋で、沙漠の娘と自称している紅玉《エルビー》という美しい土耳古《トルコ》娘を発見したからに他ならない。どうして紅玉《エルビー》がそんな所に捕虜になっていたかというに袁更生の魔術によって引き寄せられたものと思われるね。一旦魔術にかかったからは、紅玉《エルビー》といえども袁更生の意志のまにまに動かなければならん。で僕は紅玉《エルビー》は問われるままに例の埋もれた宝の所在を袁更生に話したと思う。さてそれが事実だとすればだね、爾余のことは自《おのず》と解釈出来る。真っ先に彼らは僕らの中の誰かをうまく捕虜にして、宝物の所在をもっと詳しく聴き取りたいとこう思って、君に白羽を立てたのさ。君が、モデルにしようとした面紗《ヴェール》の女は囮《おとり》なのさ」
「それにしても面紗のあの女が紅玉《エルビー》であろうとは思いませんでした」
「僕だって最初《はじめ》は知らなかった……本来なれば紅玉《エルビー》は、阿片窟征伐のあの晩に張教仁に助けられて安全の所にいる筈だが、その後袁更生の魔術の手にまた奪い返されたものと思われるね」
「紅玉《エルビー》ばかりか張教仁まで飛び出して来ようとは思いませんでした」
 ダンチョンは今でも痛そうに頭の辺を抱えながら呻くような声で云うのであった。
「ほんとにあの男も可哀そうだ。しかし憎めない人間だよ。支那人に似合わない勇気もあって、なかなか面白いところがある」ラシイヌは微笑を含みながら、「いずれあそこへ飛び出したのは紅玉《エルビー》を奪い返すためだったろう。どうやら張と紅玉《エルビー》とは恋人同志のように思われるじゃないか。しかしそんな事はどうでもいい、とにかくこのまま張教仁だって黙って引っ込んではいないだろう。いずれ南洋へ押し渡って僕らと競争するだろう。張の競争は恐ろしくはないが、ちょっと手強いのは袁更生だ。暗夜とは云っても黄浦河の上で堂々と汽船を奪った手並みは敵ながら天晴《あっぱれ》のものだったよ。しかも手段が支那式で滑稽味を帯びていて面白かった」
「どんな手段を使いました?」
「二隻の支那船《サンパン》を綱で繋いで、その綱を水中に張り渡したまま獲物の掛かるのを待つという、これが彼らの手段だったのさ。はたして汽船が引っかかったね。汽船は綱を引っかけたままずんずん先へ進んで行く。汽船が進むに従って二隻の支那船は近寄って来る。とうとう汽船の横腹へ二隻の支那船がピッタリと左右から寄って来てくっついたものさ。一旦くっついた支那船は綱に引かれて容易のことでは汽船の腹から離れようとしない。そこで縄梯子を引っかける。それを伝たわって甲板《かんぱん》の上へ螽斯《ばった》のように躍り込む。拳銃を五、六発ぶっ[#「ぶっ」に傍点]放す。これで仕事は終えたのさ。どうやら僕の見たところでは、敵の大将袁更生殿は、僕の立っていた反対の側の支那船の中にいたらしかった」
「それにしても猩々《しょうじょう》は何んのために箱の中になんかいたんでしょう!」ダンチョンはにわかに眼を丸くして恐ろしそうに叫んだものだ。
「あれか」とラシイヌは頷いて、「あれには僕も驚いた。しかし後になって気が付いたが、魔法化された猩々なのさ。そして袁更生の身代りなのさ。つまり紅玉《エルビー》の監視者なのさ」
「どうも私には解りません」
「どうやら僕の袁更生観は最初とは多少変ったらしい。最初は僕はあの男を催眠術師と思っていた。しかしそいつは違っていた。彼は道教の方士らしい。方士は自分の身代りに悪獣を使うということだ。その悪獣に法術を加えて獣の本性を失わせ、反対に自分の意志を注いで自己化した獣にするということだ。そうして自己化したその獣を※[#「馬/中」、第4水準2-92-79]※[#「くさかんむり/(歹+昜)」、105-2]《ちゅうちょう》と名付けるとかいうことを本国の図書館で見たことがある。あの猩々は※[#「馬/中」、第4水準2-92-79]※[#「くさかんむり/(歹+昜)」、105-3]《ちゅうちょう》なのさ。だから猩々は袁更生に代わって袁更生の役目を務めたのさ。紅玉《エルビー》を操《あや》つっていたのさ」

    第五回 宝庫を守る有尾人種(上)

        二十二

「皆さんの船がラブアン島辺で、支那の海賊に沈められたと、新聞で読んだ時の驚きと云ったら、いまだに心臓が躍っております。ところが当のあなたから一同無事に上陸したと入電した時の嬉しさは言葉で説明なんか出来ません。それで取る物も取り敢えず駈けつけて来たのでございますよ……」
 ――この一行の探検隊の先乗《さきの》りとしてずっと前から、南洋へ渡っていたレザール探偵は、ラシイヌ探偵からの電報を見て、ほんとに取る物も取り敢えず、ラシイヌの一行を待ち構えながら滞在していたボルネオの首府の、サンダカンから自動車を走らせ、ラシイヌ達が避難しているここクック村の護謨園《ゴムえん》へ、たった今|到着《つ》いたところであった。
「早速来てくれて有難い」
 疲労の様子などはどこにも見えない相変らず元気のよい言葉つきで、ラシイヌはまず礼を云った。それからラシイヌ一流の事務的の口調で今度の事件の大体の経過を物語った。
「……いずれ詳細《くわし》くは後から云うがラブアン島の沖合まで僕らの船が来た時にだね、突然島蔭から現われて発砲しかけた船がある。船の形は商船だが船首と船尾に一門ずつ大砲の筒口が光っているので海賊船とすぐ知れたよ。大砲を二、三発打ちかけて置いて停まれの信号をしたものさ。逃げようと思っても向こうの船が素晴らしく船脚が速そうだから逃げおおせることが不可能だ。やむを得ず船は停まってしまった。賊船はドンドン近寄って来る。船客達は騒ぎ出す。号泣、怒号、神に祈る声! 愉快な航海が一瞬のうちに修羅の巷と変ったのさ。いずれ海賊と云ったところで黙って穏なしくしてさえいれば命まで取ろうとは云わないだろう。有金財産みんなやったらまさか船は沈めないだろうとこう僕は心で覚悟を決めて、博士やダンチョン君にも意を伝えて静かに甲板へ立ったまま近寄る賊船を見ていたところ、どうも近寄るその賊船に見覚えがあるような気がしたので双眼鏡で眺めたものさ。すると見覚えがある筈だ! 袁更生の一団が黄浦河の上で掠奪した例の和蘭《オランダ》の汽船じゃないか! しまった! と僕は叫んだね。まごまごしてはいられない! みんなの生命《いのち》に関することだ。僕は博士とダンチョン君とマーシャル医学士とを従えて船尾の短艇《ボート》へ走って行った。遁がれるだけは遁がれて見よう。こう思ってみんなを短艇へ乗せてそれを海上へ下ろして置いて僕もそいつへ飛び込んだ。それ漕げ! と、僕の命令と一緒に力任せに漕ぎ出したね。海賊どもはそのうちにこっちの船へ乱れ入ってあらゆる掠奪を行ったあげく暴逆なる撃沈を実行して悠々と引き上げて行ったんだが、天の佐《たす》けというものか僕らの乗っている短艇の姿を彼らは発見しなかったらしい。追撃される心配もなく僕らは短艇を漕ぎ進めた。しかしどこまで漕いで行っても陸らしいものの影も見えない。そのうちに夜がやって来た。その夜が明けても陸が見えない。その時の僕らの失望と云ったら……空腹と熱さと喉の乾きとで誰も彼もみんなへばったものさ。やがてまたもや夜となった。みんなは漕ぐのを止めてしまって仰向《あおむ》けに船の中へ寝たものだ。僕だってご多分に洩れはしない。じっと空の星を見詰めながらあぶなく涙を落とそうとしたね。陸の上ならともかくも鰐《わに》の住む南洋の波の上では腕の振るいようもないからね。そのうち僕はうとうととした。幾時間寝たか覚えはないがかなり眠ったことだろう。ハッと眼が覚めて前方《まえ》を見ると朝陽に照らされた護謨《ゴム》林が壁のように立っているじゃないか! 思わず僕は飛び起きたね。そうしてみんなを揺り起こして船をその岸へ着けたものさ。護謨の林があるからには護謨園があるに相違ない。護謨園があるなら人間がいよう。その人間を探すことが何より急務だということになって、林の中を分けて行くとはたして護謨園の前へ出た。その時の嬉しさというものは思わず閧《とき》の声をあげたくらいだ。こんな事情で今日まで護謨園の主人に保護されて生活していたというものさ。聞けば護謨園とサンダカンとは、三十|哩《マイル》足らずの道程で自動車も通うということだったので、園の事務員にお願いして君の所へ昨日遅く電報を打ってやったんだが、こんなに早く来て貰ってみんなも心強く思うだろう」
 ラシイヌはやおら立ち上がって、窓へ行って戸外《そと》を覗いたが、
「護謨林の様子を見るとか云ってさっきみんな戸外へ出て行ったが、そのうち帰って来るだろう」
 こう云うと長椅子へ腰を下して前途の冒険を考えるかのように軽くその眼を閉じたのであった。
 木小屋《バンガロー》式の建物の内はしばらくの間静かであった。窓を通して真昼の陽が護謨林の頂きから射して来るのが室の板壁へ斑点を着けそこだけ黄金色に輝いている。聞いたこともないような南洋の鳥が林から広場へ飛んで来て、窓の方を横目で見やりながら透明の声で唄っているのが、室の中に寝ている病人達を慰めているようにも思われる。林の中のあちこちから護謨液採りの土人乙女の鄙《ひな》びた唄声も響いて来る。亡国的の哀調を含んだ、しかものびやかな調べである……。

        二十三

 その時正面の扉をあけてマハラヤナ博士がはいって来たが、レザールのいるのも気がつかないようにセカセカとラシイヌに云うのであった。
「唄を聞きたまえ! 土人乙女の唄を!」
「さっきから聞いてはおりますがね……」
 ラシイヌは鷹揚に返辞《うけこた》える。
「で、君はあの唄をどう思うね?」
 博士の口調は真面目である。
「どう思うと訊かれても困りますな。私は西班牙《スペイン》の人間でボルネオ土人ではありませんから、唄の文句さえ解りませんよ」
「なるほど」と博士は顔を顰《ひそ》め、「これはこの私の誤まりじゃ……それでは私が訳してあげよう。文句はきわめて簡単じゃからの」
 それから博士はうたうような調子で土人の唄を訳して行った。


 昔、昔、大昔に
 二羽の巨鳥《おおどり》が住んでいた
 「人間を作ろうじゃあるまいか」
 一羽の巨鳥がこう云うと
 「そいつはおおきにいいだろう」
  他の一羽もこう云った

 いちばん最初《はじめ》に作ったのは
 巨《おお》きな巨きな樹であった
 二番目に彼らの作ったのは
 堅い堅い石であった

 「樹から人間は作れないよ」
 「石からも人間はつくれないよ」
 「水と土とで作ろうか」
  「おおきにそいつはいいだろう」

 水と土とで作られたのは
 私達の先祖、人間様!
  土が積もって山となり
 水が溜まって湖《うみ》となる

 山と湖とに守られて
 私達の先祖が住んでいる
  湖と山とに囲まれて
  先祖の宝が秘蔵《かく》されてある

 訳してしまうと老博士はラシイヌの顔を真っ直ぐに見て熱心な口調で云うのであった。
「山と湖とに守られて私達の先祖が住んでいる。湖と山とに囲まれて先祖の宝が秘蔵《かく》されてある。……この唄の意味をどう思うね? 僕らがこれから向かおうとする宝庫探検の目的とこの唄の文句に含まれている一つの暗示的の意味との間に脈があるとは思わないかね? ……」
 すると、その時まで博士の横に黙って立っていたレザールが、横の方から口を出した。
「大いにあると思いますな……実は私もこの唄の意味とそっくり同じ意味のことをボルネオ土人から幾度となく話して聞かされたものですよ。つまりそのために濠州の方を探検するのを後に廻してボルネオから先に探検《しら》べようと、数回手紙や電報でラシイヌさんと打ち合わせて、濠州のメルボルンへ行く途中、サンダカンへ先に上陸して、ともかくもボルネオの奥地の方を、探検しようと二人の間だけでは決定していたのでございますよ。どうしてどうして私達に取っては土人の唄や伝説は決して馬鹿には出来ません。第一私の目的が、数千年前に生きていた沙漠の住民の羅布《ロブ》人が国家の滅びるその際に隠匿したという大財宝を、発見しようというのですから既に立派な昔噺《むかしばなし》式で伝説的でもあるのです。まして今では発見についてのこれぞという手懸かりもないのですからせめて、土人の伝説か俚謡《うた》でも、手懸かりの一つにしなかったら取っ付き場所がありません……」
 マハラヤナ博士は驚いたようにレザールの顔を眺めたが、
「おお、君はレザール君か!」
「博士ご無事で結構でした」
「君は濠州の方にいる筈だが?」
「さよう、濠州の方にもおりました。ただし只今申し上げたようなああいう事情がありましたので少し前からこのボルネオのサンダカン市に来ていました」
「なるほど」と博士は眉をしかめ、「それじゃ何かね、濠州より先にこのボルネオを探るのかね……僕は少しも知らなかったが」
「絶対の秘密を保つため今まで申し上げないでおりました」
「それじゃ僕らが海賊に襲われてこのボルネオへ避難したのはあまり損でもなかったのだね」
「天の祐《たす》けというものでしょう」
 三人は愉快そうに哄笑した。林の中からは乙女の唄が尚のどやかに聞こえて来る。真昼の光で樹々の梢《こずえ》は黄金のように輝いている。

        二十四

 ボルネオ政庁の玄関には山のように人々が集まっていた。南国の空はよく晴れて朝陽がキラキラと輝いている。椰子《やし》の葉隠れに啼いている鳥も今日の門出を祝うようだ。一台の自動車が見物を分けて静かに前へ辷《すべ》り出た。車内にはラシイヌとダンチョンとマハラヤナ博士とマーシャル氏とが元気の溢れた顔をして悠然と坐席に着いている。この勇敢な探検隊をよく見ようとして群集は自動車の周囲《まわり》へ寄って来た。政庁の露台《バルコニー》には州知事をはじめサンダカン市の名誉職達が花束を持ちながら並んでいる。道路には警官が立ち並んで大声で群集を制している。家々の門には国旗が立てられ、街の四辻の天幕《テント》張りからは楽隊の音色が聞こえて来る。
 その時知事は露台《バルコニー》の上から、その探検の成功と隊員の無事とを祈りながら花束を自動車へ投げ込んだ。それに続いて名誉職達は手に手に持っていた花束を雨のように下へ投げ下ろした。楽隊は進行曲《マーチ》を奏し出す。見物の群集は閧《とき》を上げる。響きと色彩《いろ》と人の顔とが入り乱れている雑沓《ざっとう》の間をそろそろと自動車は動き出した。やがて市中を出外れると一時間二十|哩《マイル》の速力で自動車は猛然と走り出した。目差すところは森林である。その森林には探検用のさまざまの道具を守りながらレザールが待ち受けているのである。こうして自動車は進みに進みその日の正午を過ごした頃、遙か彼方の護謨林の中に幾個か張られた天幕《テント》の姿が白く光るのを見るようになった。自動車が近付くに従って林の中から一行を迎える歓呼の声が聞こえて来た。純白の天幕を囲繞《とりま》いて銅色の肌をした土人どもが蠅《はえ》のようにウヨウヨ集まっている。その中に一人白々と夏服姿の若紳士が小手をかざして見ているのは無論レザールに相違ない。
 自動車は警笛を吹き鳴らし次第次第に速力を弛めだんだん林に近寄って行った。そして全く停まった時には自動車の周囲《まわり》は土人の群で身動きもならないほど取り巻かれた。彼らは一斉に手を上げて無事の到着を祝すための奇妙な叫び声を挙げるのであった。
 ラシイヌの一行は自動車を降りて土人の中を掻き分けながらレザールの後に従って天幕の方へ歩いて行った。林の中の有様はちょうど軍隊が野営したかのように、活気と混雑とに充たされている。馬や水牛は草を喰《は》みながら絶えず尻尾を振っている。小虫の集まるのを防ぐためだ。火を焚いている土人がある。いずれもほとんど半裸体で足に藁靴《わらぐつ》を穿きながら、その足でパタパタ地面をたたいてボルネオ言葉で話し合い時々大声で笑い出す。弓を引いている土人もある。護謨《ゴム》の林の奥を目がけてヒューッとその矢を放すと同時に、木立の上から南洋鷹が弾丸のように落ちて来た。武器の手入れをする土人もある。銅笛を吹いている土人もある。競走《マラソン》をしている土人もある。
 十数《いくつか》の天幕《テント》を支配するかのように、巨大の天幕がその中央に棟高く一張張られてあったが、ラシイヌ達の一行はその天幕へはいってきた。
 ラシイヌは四辺《あたり》を見廻してから事務的口調で質問《きき》だした。
「土人は一人も逃げないかね?」
「そのうちポツポツ逃げ出すでしょうが、今のところ一人も逃げません」事務的口調でレザールも云った。
「それでは総勢百人だね?」ラシイヌは軽く頷《うなず》いて、「探検用の道具類は一つも盗まれはしないだろうね?」
「一応調べることに致しましょう」
 天幕二つに満たされてある道具類の検査が始まった。一つの天幕には武器の類が順序よく並べて置かれてある。七十挺の旋条銃、一万個入れてある弾薬箱、五十貫目の煙硝箱、小口径の砲一門、五個に区劃した組立て船、二十挺の自動銃、無数の鶴嘴《つるはし》、無数の斧、シャベル、鋸《のこぎり》、喇叭《らっぱ》、国旗、その他|細々《こまごま》しい無数の道具……もう一つの天幕には食料品が山のようにうず高く積まれてある。それに蒙昧《もうまい》の野蛮人を帰服させるための道具として数千粒の飾り玉やけばけばしい色の衣服《きもの》類や無数の玩具やを箱に入れてこの天幕に隠して置いたが、それら一切の武器や食料は少しも盗まれてはいなかった。
 その夜はそこで一泊して翌日いよいよ奥地を目掛けて探検隊は出発した。河幅おおよそ二町もあるバンバイヤ河の岸に沿って元気よく出発したのである。アチン人種、馬来《マレー》人種、ザンギバール人種、マホメダ人種、さまざまの人種が集まって出来た土人軍の五十人が先頭に立って、進む後から、白人の一団が進んで行く、その後を小荷駄の一隊が五十人の土人軍に守られて粛々として歩をすすめる。数百年来人跡未踏の大森林は空を蔽うて昼さえ夕暮れのように薄暗く、雑草や熊笹や歯朶《しだ》や桂が身長より高く生い茂った中を人馬の一隊は蠢《うご》めいて行く。先頭の一団は斧や鋸で生木を払って道を造り岩を砕いて野を開き川を埋めて橋を掛け後隊の便を計るようにすれば、後隊の方では眼を配ってダイヤル人種、マキリ人種などの食人種族の襲撃から免れしめるように心掛ける。先頭の隊で太鼓を打てば後方《うしろ》の隊でも太鼓を打つ、白人隊で喇叭《らっぱ》を吹けば土人軍でも喇叭を吹く。そして時々喊声を上げて猛獣の襲来を防ぐのであった。白人は全部馬に乗り土人軍でも酋長だけはボルネオ馬に騎《また》がった。暁を待って軍を進め陽のあるうちに野営した。斥候《ものみ》を放し不眠番《ねずのばん》を設けて不意の襲撃に備えるのであった。一日の行程わずかに二里、目的《めざ》す土地までは一百里、約二ヵ月の旅行である。しかも最後の目的地にはたして宝庫があるや否やそれさえ今のところ不明である。それに、もう一つラシイヌ達にとって、心にかかることがある。袁更生一派の海賊がやはりこの島に上陸していて、やはり土人達の唄を聞きまた土人達の伝説を聞いて宝庫の所在《ありか》に見当を付けて、その宝庫を発《あば》くため探検隊を組織して奥地に向かって行きはしないか? もしも彼らが行ったとしたら我々白人の探検隊よりも遙かに便宜がある筈である。ボルネオ土人の風習として亜細亜《アジア》人に好意を尽くすからである。土人の好意を利用して彼ら亜細亜《アジア》人の海賊どもは捷径《ちかみち》を撰んで奥地に分け入り、我々よりも一足先に宝庫の発見をとげはしないか? ――これがラシイヌ達の心配であった。それで彼らは一刻も早く奥地地帯へ踏み込もうと土人軍どもを鞭韃した。しかしどのように鞭韃しても荊棘《いばら》に蔽われた険阻の道をそう早く歩くことは出来なかった。

        二十五

 行く行く彼らは土人の部落――すなわち部落へ到着《ゆきつ》くごとに飾り玉や玩具を出して見せて彼らの食料と交換した。米や野菜や鶏や卵や唐辛《とうがらし》または芭蕉の実やココアなどと貿易したのである。部落《コホン》の土人は想像したより彼らに敵意を示さなかった。貯蔵《ため》ていた食料を取り出して来て惜し気もなく彼らと交換した。そして一行を歓待して土人流の宴会を開催《ひら》いてもくれた。羽毛を飾った兜《かぶと》を冠って人間の歯の頸飾りをかけ、磨ぎ澄ました槍を手に提げ宴会の庭へ下り立って戦勝祝いの武者踊りをさも勇猛に踊ってくれた。もっとも時には一行に向かって敵意を現わす部落もあった。バンバイヤ河の水源のバンバイヤ湖へ来た時に突然|葦《あし》の繁みから毒矢を射出す者があった。味方の土人が五、六人それに当たって地に倒れた。それに驚いた味方の土人は一度に後に退いたが旋条銃の狙いをよく定めてやがて一斉にぶっ放した。次第に消えて行く煙りの間から湖水の方を眺めて見ると独木舟《まるきぶね》がおよそ十五、六隻|周章《あわ》てふためいて逃げて行く。多数の死傷者があるらしい。味方の土人は勢いを得て岸に沿うて敵を追おうとしたがラシイヌはそれを許さなかった。伏兵のあるのを恐れたからだ。味方の負傷者を調べて見るといずれも傷は浅かったが、鏃《やじり》に劇毒が塗りつけてあるので負傷者はのた打って苦しがる。そしてだんだんに弱って行く。マーシャル医学士は智恵を絞って負傷者のために尽くしたけれど、二人だけはその夜息が絶えた。土人の死骸を埋葬してから一行は尚進んで行った。一つの部落へ着いた時、不思議にも部落は空虚《から》であった。一人の土人の姿もない。そこで一行は安心して部落の空地へ天幕を張って、その夜の旅宿をそこに定め各※[#二の字点、1-2-22]眠りにつこうとした。ちょうど真夜中と覚しい頃、突然部落の家々から一斉に焔《ほのお》を吐き出したので、一同は初めて土人達の計略に落ちたことを感付いた。焔はその間も天幕を包んで四方から刻々に襲って来る。立ち昇る火の粉を貫いて雨のように毒矢が降って来る。無智の土人達は火を怖れて消そうともせず顫《ふる》えている。馬や水牛やボルネオ犬は――いずれも荷物を運ばせるために市《まち》から連れて来た家畜であるが――火光に恐れて手綱を切って焔を目掛けて飛び込もうとする。味方は火薬を持っているだけに危険の程度が大きいのであった。火焔が天幕を焼くようになったら自《おのず》と火薬は爆発しよう。五十貫の火薬箱がもし一時に爆発したら、一行百余人の生命《いのち》は粉な粉なになって飛んでしまうだろう!
 ラシイヌもレザールもマハラヤナ博士も、ダンチョンもマーシャル氏も手を束《つか》ねて茫然と火勢を見ているばかりでどうすることも出来なかった。椰子や護謨の樹に燃え移る焔が樹油《あぶら》にパチパチ刎ねる音や、燃え崩れる小屋の地響きや、敵方の上げる閧の声が、千古斧を入れない森林の夜を戦場のように掻き立てる。
 その時、四人の酋長の中、ザンギバール人の酋長が息せき切って走って来たが、マハラヤナ博士を捉らまえて何か早口に話し出した。
 それを博士が通弁する……
「飾り玉を百個くれるなら敵の土人と和睦《わぼく》して、火事を消し止めてお目にかけるとこの酋長が云っているのです」
「飾り玉で和睦が出来るなら二百でも三百でもくれてやりましょう」
 ラシイヌは喜んでこう叫んだ。博士がそれを通弁する。すると酋長は身を翻えして側《そば》の椰子の樹へよじ上り敵の土人を見下ろしたが、そこから大声で怒鳴り出した。と、不思議にもそれっきり敵の方から矢が来なくなった。間もなく焔の勢いが弱って次第次第に消えて行った。危険は全く去ったのである。危険が立ち去ったばかりでなく、新たに五十人の味方が出来た。今まで敵であった部落の土人が、五十人の壮丁を選《え》りすぐって従軍させたいと云い出したからで、ラシイヌはそれをすぐ許した。彼ら部落の土人どもはザンギバール人であるのであった。それでこっち方のザンギバール人の酋長の提議をすぐに入れて容易《たやす》く和睦をしたのであった。
 百五十人の探検隊は翌日部落を発足して奥地への旅を続けて行った。無限に続く大森林! 森林の中の山と川! 底なしの沼や鰐《わに》の住む小川! それを越えて奥へ奥へ既に一月も進み進んで英国領もいつか越え、和蘭《オランダ》領へはいり込んだ。こうして尚も追撃を続け、目差す奥地も間近くなった。その時精悍なダイヤル種族の大部落と衝突したのであった。
 幾度かの小戦闘《こぜりあい》が行われた。食人人種ダイヤル族は噂に勝って猛悪であった。味方の土人は彼らを恐れて前進しようとはしなかった。彼らの姿を一目でも見ると手の武器を捨てて逃げるのであった。それを叱ると罰を恐れて隊から逃亡するのであった。十人あまりも既に逃げた。逃げる時土人は銃を盗んだり飾り玉を盗んだりして逃げるのであった。
 ある夜、敵方の陣地から不意に唄声が聞こえて来た。それは意外にもあの[#「あの」に傍点]詩《うた》であった。
[#ここから1字下げ]
古木天を侵して日已に沈む
天下の英雄寧ろ幾人ぞ
此の閣何人か是れ主人
巨魁来巨魁来巨魁来
[#ここで字下げ終わり]
 この詩を聞くとラシイヌはいまいましそうにこう云った。
「心配した通り袁更生めがダイヤル族を手なずけて旨く味方に引き入れたらしい。海賊の一味が加わったからには、ダイヤル族のあの陣地は容易に抜くことは出来ないだろう。仕方がないから僕らの方でも堅固な砦《とりで》を築くことにしよう」
 こうしていよいよ両軍の間には持久戦の準備が始められた。

        二十六

(張教仁備忘録)……どこから私は書いて行こう? 私の頭は乱れている。何んと云って私は説明をしよう? 私は全く五里霧中だ……ラシイヌ探偵の親切で一旦奪われた紅玉《エルビー》を阿片窟から奪い返して燕楽ホテルへ連れ戻ったのもほんの一時の喜びであった。ある日私の目の前で彼女は窓から飛び出して再び行衛《ゆくえ》を晦《くら》ましてしまった。袁更生の邪教に誘われてふたたび犠牲になったのだ。それからの私は狂人であった。袁更生の行衛を追って北京《ペキン》から上海《シャンハイ》へ下って来たのも紅玉《エルビー》を取り返したいためであった。しかしどのように探しても紅玉《エルビー》の行衛は解らない。私はとうとう諦らめて南洋に向かって去ろうとした。宝庫を探しに行こうとした。私は費用を使い果たしてこの時全くの無一文であった。そこで私はいろいろに考え私のいつもの十八番の手で南洋航路の英国船の料理人として雇われた。明日はいよいよ出航というその前の日の宵の中を私は公園の柵の外の海岸通りを歩いていた。公園の中の楽堂では管の音が聞こえている。青葉を渡る風の音が公園の並木に当たっている。大変和やかな夜であった。私は何気なく前を通ると面紗《ヴェール》を冠った若い女が足早に向こうへ歩いて行く。姿こそ変っているけれど何んで彼女を忘れよう! それは紅玉《エルビー》に相違ない。それからの私の行動は自分ながら愚劣に思われる……やにわに私は走りかかって紅玉《エルビー》を腕に引っ抱えた。紅玉《エルビー》の背後から追跡《つ》けて来た一人の大きな欧羅巴《ヨーロッパ》人が突然私の邪魔をした。……不意にその時闇の中から無数の人間が飛び出して来て私と欧羅巴《ヨーロッパ》人とを打ち倒し紅玉《エルビー》を箱の中へ入れようとした。……箱から現われ出た大猩々《おおしょうじょう》! 私はそのまま気絶して再び呼吸《いき》を吹き返した時には四辺は寂然《しん》と静まり返り、一人さっきの欧羅巴《ヨーロッパ》人が死んだように倒れているばかりだ。私の負傷は軽かったので疲労《つか》れた足を引きずり引きずり、汽船の料理人《コック》部屋へはいり込んで深い眠りに墜ちてしまった。
 航海は大変無事であった。台湾海峡も事なく通りやがて香港《ホンコン》へ到着した。南支那海を南東に向けて再び航海は続けられた。フィリッピン群島を左に見て英領ボルネオの首府サンダカンへ次第次第に近寄って行った。航海はこれまでは無事であった。しかし偶※[#二の字点、1-2-22]《たまたま》ラブアン島辺へ正午頃船が差しかかった時突然大難が起こったのであった。すなわち、海賊――袁更生の船が汽船を沈没させたのであった。
 私は海へ飛び込んだ。鮫《さめ》や悪魚の住んでいる海へ。それでも私は喰われもせずしばらくの間泳いでいた。その時|短艇《ボート》がどこからともなく私の側へ漂って来た。疲労《つか》れた手足を働かせて私はボートへ這い上がった。人影はなくて肉の砕片が真紅に船底を濡らしている。そしてそこには一本の櫂と一挺の短銃と若干《すこしばかり》の弾丸と万年筆と手帳とが血に穢れて散らばっている。恐らく誰かが短艇《これ》に乗って、賊から遁がれようとしたのだろう。しかるに不幸にも賊に見つかって鉄砲で撃たれて海へ落ちたのだろう。――死んでその人は不幸ではあるがおかげでこっちは大助りだ! こう思いながら四辺《あたり》を見ると既に賊船の姿はなくて今まで乗って来た汽船の影さえどこの波間にも見えなかった。私はホッと安堵してそれからボートを漕ぎ出した。間もなく日が暮れて夜が来た。激しい空腹と疲労とは私を昏睡《ねむり》に引っ張り込む。今眠っては危険である! 死に誘惑される眠りであると、心の中では思いながらいつか眠りに捕えられた。
 ……幾時間私は眠ったろう……
 何者か私の全身を摩擦している者がある。嫋《しなや》かではあるが粗《あら》い手で私の全身《からだじゅう》を擦《さす》っている。その快い触覚が疲労と苦痛とで麻痺している私の肉体《からだ》を労《いた》わってくれる。私の意識は次第次第に恢復するように思われた。どうかして一目眼を開こう、眼を開いて私を労わってくれる親切な人を見ようとしても重い眼瞼《まぶた》は益※[#二の字点、1-2-22]重くどうすることも出来なかった。それでも私は努力した。そしてようやく薄目を開けてあたりの様子を見ようとした。するとその時私の体を撫で廻していた手が止まった。いくらあたりを見廻してもそれらしい人の姿もない。ただここに一つ不思議なことには日光から私を防ぐため棕櫚《しゅろ》で拵えた大きな笠が私の体を蔽うている。そして砂地に足跡がある。跣足《はだし》の人間の足跡である。その足跡は海岸の背後《うしろ》の大森林まで続いている。岸辺を見ると繋ぎ止められたボートが水に浮かんでいて舟の中には元通り短銃《ピストル》や万年筆が置いてある。私はそこまで這って行ってそれらの物を取って来たが、もう這うことも出来なくなった。私は腹を砂の上へ丸太のように転ってそのまま昏々と眠りに入った。そうして再び目覚めた時には私の側に椰子の果実《このみ》と呑み水とが一椀置いてあった。果実《このみ》を食って水を飲むと私はようやく元気づいた。棕櫚笠を頭に戴いて短銃と弾丸帯を腰に着けて手帳と万年筆とは下衣に隠して林の方へはいって行った。何より先に蘇生させてくれた恩人の姿を見つけようと足跡を手頼《たよ》りに進んで行ったが、林へはいると雑草に蔽われ見出すことが出来なかった。雑草は丈《たけ》延びて身丈《せい》よりも高く林の中は夜のように暗い。喬木はすくすくと空に延し上がり葉と葉は厚く重なり合い数町あるいは数里に渡って緑の天蓋を造っている。太古のままの静けさが森林の中に巣食っている。鳥も啼かず人影もなく風さえ葉の壁に遮《さえぎ》られて林の中までは吹いて来ない。
 自然の厳粛に打ち拉《ひし》がれて私は茫然と立ち尽くした。いったいどうしたらいいのだろう? これから俺はどうしよう? こう思って来て自分ながら恐ろしい運命に戦慄した。

        二十七

 どっちへ行こうかと森林の中を途方に暮れて見廻した時、またも奇蹟が発現《あら》われた。こっちへ来いというように丈なす草が苅り取られ小径が出来ているではないか!
「足跡の主に相違ない」
 私はすぐにこう思った。それで少しも躊躇せずに小径を奥へ歩いて行った。私は幾時間歩いたろう? 体が綿のように疲労《つか》れて来た。私は一歩も進めなくなった。ここでこのまま倒れたなら猛獣毒蛇の恐ろしい牙がすぐにも噛みつくと思いながらどうすることも出来なかった。歯朶《しだ》の葉の茂っている地面の上へ私はパッタリ腰を下ろした。すぐに睡眠《ねむり》が襲って来る。私は眠りに落ちたらしい。眠りながら私は手の触覚を体の全体に感じていた。嫋《しなや》かではあるが粗い掌の絶え間ない触覚を感じていた。
 どれだけ眠ったか私には一向見当がつかなかった。眼を開いて見ると朝だと見えて厚く重なった葉の天蓋から二筋三筋日光の縞が黄金《きん》線のように射していた。林の中の諸※[#二の字点、1-2-22]の葉は朝風に揺れてさも嬉しそうに上下に舞踏《ダンス》を踊っている。そして私の枕もとには新鮮な果実《このみ》が置かれてある。私は朝飯をそれで済ますと体に勇気が充ちて来た。やおら私は立ち上がって森林の旅を続けようとした。その時何気なく四辺を見ると私のすぐ側の雑草の中に巨大な一匹のボルネオ虎が毒矢に貫かれて死んでいる。私は思わず飛び上がった。身の毛の慄立《よだ》つ思いをしながら死骸の側に彳《たたず》んだ。
「昨夜こいつがこの俺を餌食にしようと襲って来たのを、例の眼に見えない恩人が毒矢で射殺してくれたのだろう」
 私の心は感謝の念ではち切れそうに思われた。そして私はどんなことをしてもその恩人を発見《みつけ》だして思うさま感謝を捧げないことにはどうにも気がすまなく思われて来た。私は毒矢を抜き取って仔細にそれを調べて見た。土人の使う弓矢である。鏃《やじり》の先には飴色をした毒液がたっぷり塗りつけてある。記念のためにその弓の矢を私は大事に手に持って先へ的《あて》なしに進んで行った。昨日のように雑草の中に一筋径が出来ている。朝風が止むと林の中はまた音もなく静まり返って陽の光さえ幽《かす》かになった。草の丈は益※[#二の字点、1-2-22]高くなる。喬木はいよいよ生い茂ってどこで尽きるとも想像がつかない。今の私の境地ほど寂しい境地はないだろう。しかし私は私を守る例の恩人が絶えずどこかで見張っていてくれると思うので寂しくも恐ろしくも思わなかった。私は私の恩人についていろいろ想像を廻《めぐ》らして見た。毒矢を使う上からはこの島の土人に相違ない。しかし私を撫《さ》すった時の嫋かな手付きを考えて見るに男のようには思われない。それでは土人の女だろうか?
「土人の女がこの俺のような支那の若者をこう熱心に保護してくれる所以《いわれ》がない」
 こう思うにつけてもいよいよ私はその恩人を一目なりとも見たい希望に燃え立った。
 その日も林で一日暮らして三日目の昼頃になった時少し林がまばらになって空の蒼味と陽の光とがいくらか仰がれる小丘へ出た。見るとその丘の頂きに三本の樫の木が立っていて、二丈あまりの高い所に風雨に曝《さ》らされた木小屋が一ついかにも厳重に造られてあって、丈夫な縄梯子が掛かっていた。小屋の古さに比らべて縄梯子はまだ新らしい。私は丘へ上って行って注意深く小屋を見上げて見た。その構造でその小屋が猛獣狩りに用立てるためずっと昔に造られたもので、今はもう誰もその小屋には住んでいないという事が感じられた。猛獣狩りの小屋だけに素晴らしく厳重に造られてある。四方の板壁には規則正しく三つずつの銃眼が造られてあるし正面の扉などは錆びてこそおれ鉄の一枚板でつくられてある。
 私は念のため小屋に向かって幾度も呼んで見た。もちろん答えるものもない。そこで私は決心してそろそろと縄梯子を上って行った。小屋の内には予想した通り人間の住んでいる気配もない。ガランとして空虚である。熱帯|蜘蛛《ぐも》の大きな網が到る所にかかっている。床には塵埃《ほこり》が積もっている。そして木椅子や卓子が五人前ちゃんと揃っている。室は二つに仕切られてあった。奥の小部屋は寝室と見えてボロボロの寝具が敷かれてある。
「五人の勇敢な猟師どもがボルネオ虎や猩々や馬来《マレー》種の猪を獲るためにこの小屋の中に閉じこもって銃眼から猟銃を発《う》ったものらしい。沢山獲物が出来たので小屋をそのまま放擲《うっちゃ》ってどこかへ立ち去って行ったのだろう。風雨に曝らされた板壁の様子や床に積もった塵埃《ごみ》から推すと、三年、五年、もっと以前《まえ》から小屋は造られてあったものらしい」
 こう思いながら尚私は室の様子を見廻した。すると今まで気が付かなかったが室の片隅のテーブルの上に、果実《このみ》がうず高く積んであって椰子の実で拵えた椀の中に飲料水さえ盛ってある。ちょっと驚いて眼を見張ったがそれでもすぐに感付いた――
「眼に見えない例の恩人」が昼食を送ってくれたのだろう。
 そこで木椅子へ腰掛けて味の好い賜り物を頂戴した。それから小屋に別れを告げて縄梯子を伝って下りようとした。その縄梯子が見当らない。ほんの先刻まで掛かっていた棕櫚縄の梯子が見当らない。私は呆然と突っ立ったまま考えることさえ出来なかった。
「これはいったいどうしたんだ!」私は声を筒抜かせて無意味に室の中を見廻した。ほんとにこれはどうしたんだ! 棕櫚縄の梯子は私の足もとに手繰《たぐ》られて置かれてあるではないか! いったい誰が手繰ったんだろう? 云うまでもなく「恩人」だ! どういう意味で手繰ったんだろう?
「ほんとにどういう意味だろう?」
 私はしばらく考えた。
 私の胸へ光明が一筋しらしらと白んで来た。
「そうだ!」と私は膝を打った。「小屋に住めという謎なんだろう! 雑草を苅って径をつけてここまで私を導いて来て梯子を外ずしたというのだからこれより他に考えようはない……住めというなら住むことにしよう。住みよさそうな小屋でもあるし猛獣の害から遁がれることも出来る。的《あて》なしに林を彷徨《さまよ》うよりここにいた方がよさそうだ」
 私はにわかに決心して室の掃除に取りかかった。それから自分で縄梯子を掛けて林の方へ枯草を採りに――それで寝床を拵えるつもりで――雑草を分けてはいって行った。
 その日とそしてその翌日と二日かかって小屋の中を規則正しく片附けた。今のところ食料と飲料水とは「見えぬ恩人」が持って来てくれるので心配する必要はなかったけれど、いつそれが中止《やめ》になるかもしれぬ。自分で食物と飲料水とを供給することに心掛けなければ困難な目を見るだろう……このように私は考え付いたので果実《このみ》の所在と泉の出場所とを毎日熱心に探し廻った。
 私はこんなように考えた……。
「こんな厳重な小屋を造って猛獣狩りをした位だから、十日か二十日で小屋を見捨てて立ち去って行った筈はない。一月や二月は小屋に籠もって生活していたに相違ない。あるいは半年も一年もここに籠もっていたかもしれない。それではその間を猟師達は市《まち》から持って来た食料や水で、生活をしていたろうか? 五人の猟師の一年間の食料! それは随分大したものだ。とてもそれだけの大量の物をこの小屋へ貯えては置かれない。それでは彼らはどうしたろう? 自分の思うところでは恐らく彼らは食料や水を小屋の附近の林の中で求めていたに違いない! だからそいつをこの俺も林の中で見つけよう」
 幸いにも私のこの考えは間もなく事実になって裏書きされた。半|哩《マイル》と離れない林の中で二つとも私は見つけたのであった。すなわち、泉と果物の樹とを……

    第六回 宝庫を守る有尾人種(中)

        二十八

 私の見つけた果樹園には椰子《やし》や檳榔樹《びんろうじゅ》やパインアップルやバナナの大木が枝も撓《たわ》わに半ば熟した果実《このみ》をつけて地に垂れ下がっているのであって、その果樹園の中央所に四方を石で畳み上げた人工の泉が湧き出ていた。苔や木の葉に蔽われてはいたが、玉のような水は濁りもせず掌に掬《すく》って飲んで見ると一種の香味と甘味とを備えて大変軟らかな水である。
 果樹園と泉とを見つけてからは私は急に心強くなって生活にも不安が伴わなくなった。菜食人種の私にとっては、魚肉や獣肉の食われないということもさして苦痛とは思われない――このように私が果樹園を発見したということを例の「眼に見えぬ恩人」はどこかで見ていて知ったと見えて、もはや果物や清水の類を持って来ることをしなくなった。その代りある日土人用の弓と矢とをこっそり持って来てくれた。それにもう一つ火打ち石と火打ち鎌とを持って来てくれた。おかげで私はそれ以来鳥や獣を獲ることが出来て、それらの肉を火で炙《あぶ》って賞味することが出来るようになった。私はその時まあどんなに一|摘《つま》みの塩を欲しく思ったろう! 塩を持たないこの私は果物を絞ってその液に浸してわずかに肉を食うのであった。
 私の日々の生活はロビンソン・クルーソーそっくりであった。小屋で備忘録を認める。朝食として食べるものはバナナ三個に無花果《いちじく》に、椰子の果実を四分の一。昼までは私は腰かけたまま種々のことを考える。それから私は猟に行く、腰へ拳銃と弾丸帯をつけて手に土人用の弓を持って背中へ矢筒を背負った姿で林の中へ行くのであった。私は猟をしながらも例の「眼に見えぬ恩人」を探し出そうと苦心した。そして私はその恩人がどんな所に住んでいるか、彼の住んでいる土人部落を発見したいものだと思いながら林中を縦横に歩くのであった。半日林中を狩りくらして陽のあるうちに小屋に帰って夕飯の仕度にかかるのであった。夜は獣油に燈心を浸して乏しい光をそれで取った。
 燈火《ともしび》は点けても心を慰める書物一冊手もとにはない! この寂しさは何んと云おう! 寂しいと云えば万事万端寂しくないものは一つもない。林を渡る嵐の音、丘で嘯《うそぶ》く豹の声、藪で唸っている狐の声。……
 ある夜銃眼から覗いて見ると一匹の豹が小屋の扉を一生懸命で掻いている。この辺は木立がまばらなので月光が隙から射して来る。その月光に照らし出された豹の姿の美しさ、軟かな毛並み鮮かな斑点、人の児のような優しい手つきでセッセと爪を磨《と》いでいる。私はしばらく見ていたが内側から扉を足で蹴ると扉を掻く音をヒタと止めて、少しの間考えていたがやがて抜き足して小屋を離れて幹を伝って丘へ下りた。そして林へはいって行った。
 林に住んでいる獣のうち山羊や小猿はよく慣れて毎日小屋の辺へ集まって来た。そして私から餌を貰っては喜んでそれを食べるのであった。最初は恐れていた小鳥達も次第次第に慣れて来て終いには銃眼から小屋の内へまで恐れ気もなく舞い込んで来て小鳥らしい可愛い悪戯《いたずら》をして――たとえば糞を落としたり椅子のもたれ[#「もたれ」に傍点]をつついたりして――そしてまた同じ銃眼から林の方へ帰るのであった。ある日私は山羊を捉らえて試みに乳を絞って見た。すると純白の不透明の乳液《ちち》が、椰子の実の椀に三杯取れた。それは大変味がよくてきわめて立派な飲料であった。煙草《たばこ》には不自由しなかった。野生の煙草の木がどこにでもあって立派な刻煙草《きざみ》になるからである。手製のパイプへそれを詰めて惜し気なくそれを吹かす時私は真に幸福であった。小憎らしいのは猩々である。遠くの木の股から顔を出して二日でも三日でも見守っている、弓を向けると仰天して周章《あわ》てて葉蔭へ隠れるけれど少し経つとやっぱり覗いている。嫉妬深い獣の習慣《つね》として私と戯れている小猿達を見ると、彼は猛烈に岡焼きして気味の悪い声で吠え立てて威嚇《おどか》そうとするのであった。
 一|哩《マイル》ほど林を行くと蘆《あし》の茂っている川がある。そこには幾匹かの鰐《わに》がいて、獲物の来るのを待っている。ある日私は友人と一緒に――すなわち山羊や小猿を連れてその川の方へ猟に行った。間もなく川の岸へ出た。その岸を私と友人達とは喧騒《さざめ》きながら歩いて行った。すると私の目の前にいた一匹の元気のよい青年の山羊が、水を飲もうとして川へ下りた。とその瞬間褐色をした一本の材木が首を上げた。カッとその口を開けたかと思うと山羊の半身は鞠のようにその口の中へ飛び込んだ。材木と思ったのは鰐であって鰐はそのまま水音を立てて水底深く沈んでしまってどうすることも出来なかった。またある時のことであるが、やはり私は友人を連れて沼沢地方を歩いていた。蘆や薄《すすき》が生い茂ってそれが身長の倍ほども延びて空に向かって靡いている。私の友人の猿や山羊は沼沢地方が珍らしいと見えて、私より先に走って行って騒がしくお喋舌りを交《かわ》せている。ところが突然そのお喋舌りが糸を切ったように断ち切れた。

        二十九

 それと一緒に沼の方角で悲しそうな獣の吠え声がする。そして何物か薄を分けて沼の方へ辷って行くらしい。私はちょっと躊躇したが次の瞬間には沼を目がけて夢中のように走っていた。いずれまたきっと鰐のために友達を取られたと思ったからだ。しかし私は十間と走らず思わずギョッと立ち止まった。あまりの恐ろしさに私の体は一時にゾッと鳥肌立って頭の髪さえ逆立った。私の体で役立つものは見開いた二つの眼ばかりで手も足も力を失ってしまった。
 一頭の大鹿を横に喰わえた一匹の蟒蛇《うわばみ》が蜿蜒と目の前の雑草を二つに分けて沼の方へ駛《はし》っているではないか! 私の友達の山羊や小猿がお喋舌りを止めた筈である。私さえ一声も出せなかった。蟒蛇の姿が沼の中へ全く沈んでしまった時やっと魂を取り返した。私は初めて悲鳴を上げ沼とは反対の方角へ足を空にして走り出した。すると一度に山羊も猿も私の後から叫びながら気狂いのように走って来た。
 私のその時の恐怖と云ったらその夜全身発熱して二日というもの小屋の中から一歩も戸外へ出られなかったというそういう事実に徴しても知れる。全くそれは私にとっては産まれて初めての恐怖であった。
 しかし間もなくその次に起こった「あり得べからざる奇怪の事件」「人類学上の一大奇蹟」その怪事件に比較してはほとんど恐怖とは云えないかもしれない。
「人類学上の一大奇蹟」! それはいったいいつ起こったのかというに、鹿を呑む大蛇を眼に見てから十日ほど経ったある日のことで、その日私は小屋に籠もって煙草ばかりポカポカ吹かしていた。小屋の外では山羊や猿や独唱好きの小鳥などが、私を呼び出そうとするかのように賑やかに絶え間なく喋舌っている。風もないかして林の中は森然《しん》と静まり返っている。
 彼らの呼び出しに応じようともせず私はいつまでも室にいた。
 するとにわかに彼らの声が糸を切ったように断ち切れた。糸を切ったように絶えた時にはいつでも恐ろしい彼らの敵が彼らを襲う時である。何物が襲って来たのだろうと私は耳を傾けた。その時|遙《はる》か林の方から不思議の叫び声が聞こえて来た。林に住むようになって以来かつて一度も聞いたことのない得体の知れない声である。悪漢に襲われた若い女が必死の場合に上げるような物凄い断末魔の叫び声に似てそれより一層悲しそうな声だ。私は腰掛けから飛び上がって林に向いている銃眼から声のする方を眺めて見た。私の見たものは何んであったろう? 巨大漢《ジャイアント》! 巨大漢! 否|怪物《モンスター》だ! 漆黒の毛に蔽われた身丈《みのたけ》ほとんど八尺もある類人猿《ピテカントロプス》がただ一匹樹枝を雷光のように伝いながら血走る両眼に獲物を見すえ黄色い牙を露出《まるだ》しにしてその牙をガチガチ噛み合わせながらこっちに向かって飛んで来る。彼の著しい特色というのは長い尻尾を持っていることでその尾はちょうど手のように自由の運動《はたらき》をするらしい。すなわちその尾を枝に巻きつけて全身《からだ》の重みを支えるばかりか時にはその尾を振り廻して行手を遮《さえぎ》る雑木を叩くと丈夫の生木さえその一撃で脆《もろ》くも二つに千切れて飛んであたかも鋭い鉞《まさかり》なんどで立ち割ったようになるのであった。尾を持っている類人猿《ピテカントロプス》! その有尾人猿に追いかけられて悲鳴を上げながら逃げて来るのは土人の若い女であった。長髪を背後へ吹きなびかせて恐怖に見開いた大きな眼を小屋の方へ高く向けながら足を空にして走って来る。赤銅《しゃくどう》色の逞《たくま》しい四肢は陽に輝いて白く光り腰の辺に纒った鳥の羽根は棕櫚の葉のように翻えり胸を張って駈けるその姿は土人とは云え美しい。追われるものも追うものも忽ち林を駈け抜けて丘を巡った空地へ出た。有尾人猿は樹の枝から巻いていた尻尾を放すと一緒に鞠《まり》のように地上へ飛び下りたが、両の拳を握ったり開いたり拳の先を時々地につけ牛のような肩を前のめり[#「のめり」に傍点]に出して踊るようにして追って来る。疲労《つか》れを知らない有尾人猿に次第次第に追い詰められて土人乙女は恐怖のため走る足がだんだん鈍くなった。そして小屋の中にこの私が住んでいることを知っているかのように、両手を小屋の方へ差し上げて例の悲しそうな断末魔の声を繰り返し繰り返し叫ぶのであった。乙女の叫びに誘われて私の心は揮い立った。麻痺していた手が自由になった。私は拳銃を取り上げて小屋の扉を蹴開いて縄梯子を伝わって丘へ下りた。それから少しの躊躇《ちゅうちょ》もせず乙女の方へ走って行った。こうして乙女を背後へ囲い有尾人猿の猛悪な姿へヒタと拳銃を向けた時私の勇気は挫けなかった。
 不意に私が現われたことが尾のある人間を驚かせたと見えて彼は一瞬間立ち止まった。しかしその次の瞬間には雷のような嘯きを上げながら疾風のように飛びかかった。彼の両手が私の体へまさに触れようとした時に私の拳銃は鳴り渡った。しかも続けざまに三発まで。

        三十

 有尾人猿の山のような体がもんどり打って地に倒れると、それまで隠れていた山羊や小鳥や小猿の群が林の中からやかましく喋舌りながら現われて来た。人猿の周囲《まわり》を取り巻いて彼らは一斉に廻り出した。ちょうど凱歌でも奏するように廻りながら叫び声を上げるのであった。
 土人乙女はどこにいるかと私は背後《うしろ》を振り返った。すると乙女は今までの恐怖が一度になくなったためでもあろうが、両手をダラリと脇へ垂れて人猿の姿を見守っていたが、振り返った私の顔を見ると南洋土人の熱情を現わし、いきなり私へ飛びついて逞しい腕で私を抱えて私の胸へ顔を押し当て全身を顫わせて絞めつけた。感謝の抱擁には相違ないが余りに強い腕の力で無二無三に絞め付けられ思わず悲鳴を上げようとした。乙女はそれに気がついたと見えて腕の力を弛めたがその代り今度は私の体を隙間なく唇で吸うのであった。乙女のやるままに体を委かせて私はじっと立っていたが夢中で接吻する乙女の顔へ思わず瞳を走らせた。どうして蛮女の顔だなどと軽蔑することが出来ようぞ! 何んという調った輪廓であろう! 土人特有の厚い唇もこの乙女だけには恵まれていない。欧羅巴《ヨーロッパ》人のそれのように薄く引き締まっているではないか。そしてその色の紅いことは! 珊瑚を砕いて塗りつけたようだ。高く盛り上がった厚い鼻も情熱的の大きな眼も南洋の土人というよりも欧州人に似ているのであった。
 彼女の情熱が和んでから手真似《てまね》でいろいろ話して見た。その結果私の知ったことは、「眼に見えない私の恩人」というのは彼女であったということと、四|哩《マイル》を隔てた森林の中に土人の部落があるということと、今その部落は合戦最中で敵の軍中には白人がいるので手剛《てごわ》いなどということであった。
 そこで私は彼女に従いて彼女達の部落まで行って見ようと早くも決心したのであった。

 その日私と土人乙女とは部落を差して出立した。道々私は尚手真似でいろいろのことを聞き出した。私を一番驚かせたのは土人部落に私と同じような支那人がいるということであった。しかも大勢の人数であって、その大勢の支那人達は部落の土人に味方して白人達に引率《ひき》いられている侵入軍を向こうに廻して戦っているということであった。
 とにかく部落へ行って見たら万事|明瞭《はっき》りするだろうと歩きにくい道を急ぐのであった。この美しい土人乙女が縁も由緒《ゆかり》もないこの私を、どうして助けたかということも手真似によって知ることが出来た。彼女は私を一目見ると――すなわち海岸のボートの中に命も絶え絶えに気絶していた私の姿を一目見ると、南洋熱帯の乙女らしく憐れな姿の私に対して恋を覚えたということである。だから私を助けたので、そうでなければかえって私の肉を食ったろうということである。こんな恐ろしい事件《こと》を彼女は率直の手真似をもって一向平然として語るのであった。人の肉を食うダイヤル族! いかに彼女が美しくとも土人の血統は争われない。私はつくづくこう思った。そして恐ろしい蛮女によって恋い慕われるということがこの上もなく苦痛に思われた。しかし一方私にとって彼女は命の親である。燃えている彼女の熱情に向かって、無下に冷水を注ぐということも義理として私には出来なかった。しかし私には紅玉《エルビー》がある。紅玉《エルビー》! 紅玉《エルビー》! ああ紅玉《エルビー》! 紅玉《エルビー》はどこにいるのだろう? 森林の中に生死も知らずこうやって暮らしている間も一度として忘れたことはない! 息のある限りはどんなことをしてもきっと必ず探し出して見せる! ……
 それにしても蛮女が私に対する熱情と誠実とをどうしよう! 彼女はいつでも私の前を用心しいしい歩いて行く。毒蛇や猛獣の襲撃から私を防ごうためである。鰐のおりそうな川まで来ると彼女は私を背に負って素早く水を渡るのであった。
 わずか四|哩《マイル》の道程をほとんど十時間も費して土人の部落へ着いた時には既に真夜中に近づいていた。
 夜中の満月は空にかかりその蒼茫とした月光の下に、茅葺きの小屋が幾百となく建て連らなっている一劃がすなわち土人の部落であった。侵入軍を相手として合戦中であるからでもあろう部落の中は騒がしかった。私は木蔭に身を隠しながら部落の様子を窺った。諸所で焚火をしていると見えて薔薇色の火光が天に上り蒼白い煙りが立ち上っている。土人達の叫び声や矢を放す音や小銃の音さえ聞こえて来る。
 この私の驚いたことはそれらの雑音に打ち混って立派な支那語の話し声が明瞭《はっき》り聞こえて来ることであった。尚一層私を驚かせたのは北京《ペキン》で聞いた例の詩《うた》があざやかに聞こえて来ることであった。
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古木天を侵して日已に沈む
…………
巨魁来巨魁来巨魁来
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「袁更生一味の海賊どもがあすこにいるに違いない!」
 私はすぐにこう思った。体中の血汐が復讐の念に思わずカッと燃え上がった。

        三十一

 その時土人の部落を越えた遙か向こうの森の中から閧《とき》の声がドッと上がったかと思うと、それに答えて部落からも太鼓を打つ音が鳴り響き、凱旋踊りでもするように女子供までが広場へ出て薔薇色の火光を浴びながら足を空へ上げて踊り出した。
 土人乙女はその時まで私の側に立っていたが、部落の光景《ありさま》を眺めるや否や、やはり足を空へ上げて狂気《きちがい》のように踊り出した。そして私を引っ張りながら部落の方へ走り出した。部落に近附くに従って、何が広場で行われているかそれを明瞭《はっき》り知ることが出来た。
 広場に一本の杭があって一人の人間が縛られている。たった今向こうの森の中で捕虜《いけどり》にされたものと見えて、頬の辺に生々しい切り傷の跡がついていてそこから生血が流れている。純白の服はズタズタに千|切《ぎ》れ肌さえ露骨《あらわ》に現われている。蛮人どもはそれを巡って凱旋踊《おどり》を踊っているのであった。私は捕虜の顔を見た。ダンチョン氏の顔であろうとは! 紛《まご》う方もないその捕虜は一緒に沙漠を探検した西班牙《スペイン》の画家のダンチョン氏だ! そう感付くとすぐ私は土人らが敵として戦っている白人に率いられた侵入軍とは、ラシイヌ探偵やレザール探偵達の探検隊に相違ないとこのように忽ちに連想した。
「それでは西班牙《スペイン》の探検隊はすぐ向こうまで来ているのか。それにしてもどうしてダンチョン氏は土人の捕虜になんかなったんだろう? 捕虜になったということをラシイヌ探偵達は知らないのだろうか? 探検隊の人達には私は恩を受けている。殊にラシイヌ探偵には生命をさえ助けられている。袁更生達の阿片窟に紅玉《エルビー》を尋ねて迷い入った時、私に逃げ路を教えたのは他ならぬラシイヌ大探偵だ。ラシイヌ探偵の仲間の一人のダンチョン画家が、土人のために今や生命を取られようとしている。それを目前に見ている以上義理としてでも救わなければならない。しかしどうして助けよう? どうしたら救うことが出来るだろう?」
 私は立ったまま考え込んだ。土人乙女はそれを見ると、踊っていた手を急ぎ止めて手真似《てまね》で私へ話しかけた。
「心配することは何んにもない。あなたは私を有尾人猿から救ってくれた恩人ですから、私達部落の人達はあなたを歓迎するでしょう」
 彼女が熱心に話しかける手真似の意味はこうであった。しかし私は動かない。やっぱりじっと考えている。すると彼女はまた手真似でこのように私へ話しかけた。
「あなたが不安に思うなら私が先に部落へ行ってあなたのことを話しましょう」
 それでも私は黙っていた。
 乙女は小首を傾けて私の顔を見守ったが、急に体を翻えして部落の方へ走っていった。私がここにいることを部落の人達に告げるためであろう。
 彼女の姿が綿の木の花でしばらく蔽われて見えなくなった時、私は咄嗟《とっさ》に決心してもと来た方へ走り出した。袁更生の一団が土人部落にいる以上は捕まったが最後私の生命《いのち》は失われるに決まっている。それが恐ろしく思われたからだ。
 しかし私の逃げた時は既に機会を失っていた。部落の方から追っかけて来る土人達の叫び声が刻一刻背後の方から聞こえて来る。私は方角を取り違えてただ無茶苦茶に逃げ廻った。突然行手の藪地《ジャングル》の中から支那語の叫び声が聞こえて来た。袁更生の一味の者が先廻りをしていたに相違ない。背後からは土人が追っかけて来る。彼らの持っている槍の穂先が月光にキラキラ光って見え鳥の羽根を飾った兜の峰が雑木の上から覗いて見える。
 私は進退きわまった。それからの私というものは無茶というよりも夢中であった。腰の拳銃を抜き出して土人軍に向かって連発した。確かに二、三人射殺したらしい。驚いて逃げ出す土人を見捨てて藪の中へ兎のように潜ぐり込んだ。どこをどのように歩いたものか、ほのぼのと四辺が明るいのでハッと驚いて前方を見ると、何んということだ、眼の前に土人部落の例の広場が篝《ひ》に照らされて拡がっている。そして不幸なダンチョン氏は杭にやっぱり縛られていたが四方には土人の姿もない。
 私は義侠心に揮い立った。
「ダンチョン氏を助けるのはこの機会だ!」
 そこで私は雑草を分けて広場の方へ近寄って行った。しかしその時私の心を他へ振り向けるものがあった。……私の横手の遙か向こうの木立の蔭から女の声が、夢にも忘れない恋人の、紅玉《エルビー》によく似た笑い声がさも楽しそうに聞こえて来た。それに続いて獣の鳴き声がこれも楽しそうに聞こえて来た。
 私は雷にでも打たれたように今いる位置に突っ立ったままその笑い声を聞き澄ました。繰り返し繰り返し女の声と獣の声とは聞こえて来る。どうやら女は獣を相手に戯れてでもいるらしい。
 私は四方へ注意を向け踊る心臓をしっかり抑えて声のする方へ忍び寄った。

        三十二

 明るい満月に照らされて、土人の小屋の裏庭の様子が手に取るように眺められた。霜の降ったように白く見える庭の地面に銀毛を冠った巨大な猩々《しょうじょう》が空に向かって河獺《かわうそ》のように飛んでいる。その猩々をあやすように、両手を軽く打ち合わせているのは白衣を纒った少女である。振り仰ぐ顔に月光が射して輪廓があざやかに浮かび出た。まごう方なき紅玉《エルビー》である!
 前後の事情をも打ち忘れて私は前へ走り出た。
「紅玉《エルビー》!」
 と私は絶叫して彼女を両手で抱こうとした。すると猩々が走って来て二人の仲を遮《さえぎ》った。鈴のような眼で私を睨み紅玉《エルビー》を背後へ庇《かば》おうとする。
「どなた!」
 と紅玉《エルビー》は、聞くも慕わしい昔通りの声で訊いた。
「どなたって俺に訊くのかい。張教仁だ! 張教仁だ!」
 しかし紅玉《エルビー》は感動もせずに、私の顔を見守ったが、
「張教仁さんて! どなたでしょうね? ……そうそうやっと思い出しました。そういうお方がありましたわ、ずっとずっと昔にね……羅布《ロブ》の沙漠で逢いましたっけ、芍薬《しゃくやく》の花の咲く頃まであなたと一緒におりましたわ……そして桐の花の咲く頃にあなたの所から逃げましたわ。けれどとうとう発見《みつか》って好きな好きな阿片窟からあなたの所へ連れ帰られてどんなに悲しく思ったでしょう……それからまたも逃げました。そうよ、あなたの所からよ……私には恋人がありますのよ。可愛い可愛い恋人がね! さあ銀毛や飛んでごらん! 私の恋人はお前なのよ! さあ銀毛や飛んでごらん!」
 すると彼女の命ずるままに魔性の獣の猩々は空に向かって幾回となくヒラリヒラリと飛ぶのであった。
 空には満月、地には怪獣、女神のような恋人が白衣を纒って立っている……所は蕃地で人食い人種のダイヤル族の部落である……
 ……私はグラグラと目が眩んだ。発狂するんじゃあるまいか! 一方でこんなことを思いながら片手で拳銃を握りしめ銃口を猩々に差し向けた……

 ……それから私は何をしたか判然《はっき》り自分でも覚えていない。とにかく私はダンチョンと一緒に土人に追われながら逃げていた。ダンチョンの縄を誰が解いたのか(もちろん私には相違ないが)どうして解くことが出来たのか、それさえ判然とは覚えていない――私の覚えていることは拳銃を射ったことである。いったい誰に射ったのか? 猩々に向かって射ったらしい? 何のために猩々を射ったのか? 紅玉《エルビー》を誑《たぶら》かす悪獣であるとこのように思ったからである。何故そのように思ったのかどうして説明出来ようぞ! ただ直感で思っただけだ! 私の射った拳銃の弾は不幸にも悪獣には当らなかった。ただ驚かせたばかりである。驚いた悪獣は一躍すると紅玉《エルビー》の体を引っ抱えた。そしてスルスルと立ち木に上ぼった。大事そうに紅玉《エルビー》を抱いたままヒラリと他の木へ飛び移った。こうして次々に梢を渡って林の中へ隠れ去った。それっきり彼らとは逢わないのである……。
 私とダンチョンとは物をも云わず土人の声の聞こえない方へ力の続く限り走って行った。そして全く力が尽きて二人一緒に倒れた時には夜が白々と明けていた。猛獣の害も毒蛇の害も疲労《つか》れた私達には怖くもない。そこでグッスリ寝込んだのである。
 その日の昼頃ようやく私は小屋を探し当てた。しばらく二人とも無言である。木椅子へグッタリ腰かけたままダンチョンも私も黙っている。幾時黙っていただろう? それでもやっとダンチョンは懶《ものう》い声で話し出した。
 私はダンチョンの話によって探検隊の一行が土人部落から一|哩《マイル》離れた護謨林の中に戦闘のための砦を造って立て籠もっていて、今日かもしくは明朝あたり焼き打ちの計で土人部落の総攻撃をやる筈だと、そういう事を知ることが出来た。それにもう一つその探検隊の目的というのを知ることが出来た。話によればこの小屋から西南の方角へ十|哩《マイル》行けばそこに険しい山があって山の麓《ふもと》には湖がある。その湖の底にこそ私達が長らく探していた彼の羅布《ロブ》人の一大宝庫が隠されてあるということであった。
「これは最近の発見だが、博言博士のマハラヤナ老がダイヤル土人の捕虜の口からこういうことを聞いたそうだ――それは湖底のその宝庫を有尾人という原始人が守っているという事だがね。それが獰猛《どうもう》の人種でね、さすが兇暴のダイヤル族も有尾人にだけは恐れていて接近することを忌むそうだ」
「有尾人なら僕は見たよ」
 私は先日《このあいだ》の出来事を掻《か》いつまんで彼に物語った。それから私は彼に訊いた。
「全体どうして土人になんか君は捕虜《とりこ》になったんです?」
「それがね」とダンチョンは苦笑して、「ラシイヌさんやレザール君が(描かざる画家ダンチョン)だなんて僕に綽名をつけるので、一つこの島の風景でも描いて名誉恢復をしようと思って、それで昨日もカンヴァスを持って林をブラブラ歩いているうちに土人の部落へ出てしまったのさ」
 ダンチョンは暢気《のんき》そうに笑うのであった。

 その日の夕方、林の彼方に噴煙が高く上がるのを見た。焼き打ちに遇った土人部落が火事を起こしているのであろう。夜に入ると焔《ほのお》の舌が、空にヒラヒラ現われた。
 林の鳥獣は火光に恐れて小屋の根もとへ集まって来た。猪は鼻面で土を掘ってその中へ自分を隠そうとする。栗鼠《りす》は木の幹を上り下りしてキイキイ声で鳴きしきる。山鳩は空を輪のように舞って一斉に下へ落として来てもすぐまた空へ翔け上がる。豹は岩蔭で唸っているし水牛は萱《かや》の中で顫《ふる》えている。
 火光は益※[#二の字点、1-2-22]拡がった。部落を悉く焼きつくしてどうやら林へ移ったらしい。
 南洋原始林の大山火事!
 鹿や兎や馴鹿《となかい》は自慢の速足を利用して林から林へ逃げて行く。小鳥の群は大群を作って空の大海を帆走って行く。斑馬の大部隊は鬣《たてがみ》を揮って沼の方角へ駈けて行く。
 火足は次第に近付いて来る。煙りは小屋を引き包んだ。
 私は拳銃《ピストル》をひっ掴み、土人乙女が置いて行った弓矢をダンチョンに手渡すや否や二人は小屋から飛び下りて、走る獣の中に混って風下の方へ逃げ出した。

        三十三

 恐怖に充ちた人間の叫びが背後《うしろ》の方から聞こえて来た。振り返る間もなく、私達の横を飛鳥のように駈け抜けて行くのはダイヤル部落の土人達で武器さえ手には持っていない。もちろん私達を認めても襲って来ようともしなかった。火足から遁がれよう遁がれようとそればかり焦せっているようだ。
 火足は間近に迫って来た。ちょうど紅でも流したように深林の中は真紅である。熱に蒸されて私の背中は滝のように汗が流れている。この大危険の最中にも私はこんなことを考えた。
「土人と一緒に逃げてはならん。土人の行く方へ行ってはならん。彼ら蛮人の常としていつ心が変るかもしれん。幸いに深林を出外れてたとえ草原へ出たところで、そこで土人に襲われたらやっぱり命を失ってしまう。土人の逃げて行く反対の方へどうしても俺達は逃げなけりゃならん」
 私はダンチョンへ呼びかけた。
「西南の方へ! 西南の方へ!」
 するとダンチョンが叫び返した。
「そっちへはもう火が廻っている!」
「黙って従いて来い! 黙って従いて来い!」
 そう云って西南へ方向《むき》を変えて狂人のように走り出した。ダンチョンも後からついて来る。
 見渡せばなるほど西南一帯一面に焔の海である。しかし焔の海の中にあたかも一筋の水脈《みお》のように暗黒の筋が引かれてある。どうやら一筋の谿らしい。そこまで行くには私達は大迂廻をしなければならなかった。大迂廻をするもよいけれど、向こうの谿まで行きつかない前に火事に追いつかれはしないだろうか?
 と云って、他には方法がない。
 運に任かせて私達はその大迂廻をやり出した。天の佑けとでも云うのだろう、私達が谿まで行きついた時火事もやっぱり行きついた。
 谿には河が流れていた。何より先に私達は河へ体を浸したのであった。
 こうして岸に沿いながら静かに下流へ泳いで行ったが、行手は昼のように明るくてお互いの顔の睫毛《まつげ》まで見えた。幾時間私達は流れ泳いだろう。かなり急流の河の水が全く水勢をなくなした時私達は河から這い上がって四辺を急いで見廻した。火事の光は射してはいるが、火事場からは既に遠退いている。薔薇色の火光に暈《おぼめ》かされて人間界《このよ》ならぬ神秘幽幻の気が八方岩石に囲繞された湖の面に漂っているようだ。目前に鏡のように湖が拡がっているではないか!
「湖!」
 と私は呟いた。その声は恐ろしく顫えていた。
 するとダンチョンも云うのであった。
「湖! 違いない、あの湖だろう!」
 到頭私達は来たのであった。宝庫を秘している湖へ!

    第七回 宝庫を守る有尾人種(下)

        三十四

 蕃界の夜は明け始めた。私とそしてダンチョンとは黙って湖畔に立っていた。暁の寒さが身を襲うので私達はブルブル身顫いをした。空は次第に色着いて来た。鼠色、薄黄色、薔薇色……と湖水を囲繞《とりま》いている原始林は夢から醒めて騒ぎ出した。葉は葉と囁き枝は枝と揺れ幹と幹とは擦れ合って化鳥のような声を上げる。風が征矢《そや》のように吹き過ぎる。雲のように塊《かた》まった鳥の群が薔薇色の空を右に左に競争するように翔け廻る。湖水もだんだん色着いて来た。鉛色、鯖色、淡黄色、そして次第に桃色になり原始林に太陽が昇った時には深紅の色に輝いた。
 高原に囲まれ林に蔽われ湖水を湛えたこの別天地は、こうして夜が明け太陽が出て全く昼となったのであった。恐ろしい昨夜の大山火事はどっちの方角へ燃えて行ったものか、そんな恐ろしい山火事[#「山火事」は底本では「火山事」]などは全然どこにもなかったようにこの別天地は静かであった。
 しかし私にはこの別天地があまり静かであるがためにかえって物凄く思われて来た。豹の鳴き声でも聞こえるといい、猪が林から出て来るといい、そうしたら若干南洋のボルネオの島にいるのだという境地に対する安心の念が自然に心に起こるだろうに。あまりに四辺が静かであるためかえって恐怖心が起こるのであった。
 私と同じ恐怖の念がダンチョンの心にも起こっていると見えて、疑惑に充ちた眼付きをして彼はあたりを見廻していたが、突然私の肱を突いて嗄れた声で囁いた。
「見たまえあれを! あの顔を!」
 何故か私は「顔」という言葉がこの時ゾッと身に沁みた。それで私は眼を躍らせ彼の指差す方向へ周章《あわ》てて視線を走らせた。
 顔! 顔! 人間の顔! しかも一つや二つではない。ほとんど幾十という人間の顔が藪地《ジャングル》の木《こ》の間《ま》から私達の方を瞬きもせずに瞶《みつ》めている。それは確かに人間の顔だ。人間の顔には相違ないが、それが人間の顔だとすると何んという奇怪な顔だろう! 普通の人間の顔から見るとほとんど二倍の大きさはある。そしてその顔の五分の三はセピア色の毛で蔽われていて、巨大な鉄槌で打たれたかのように低く額は落ち窪み無智の相貌を現わしている。それに反して唇は感覚的に膨《ふく》れ上がり鼻より先に突き出ている。鼻翼ばかりが拡がって全然鼻梁のない畸形の鼻は眼と口の間に延び縮みして護謨細工の玩具でも見るようである。
 私は、余りの恐ろしさに、思わずダンチョンへ縋ろうとした。
「妖怪だ妖怪だ! いや蕃人だ!」
 私は思わず呻いたが、妖怪だと思ったその蕃人の、一番前にいた一匹が藪地からヒラリと飛び上がって喬木の幹へ抱き付きスルスルと梢へ昇るのを見て、それが妖怪でも蕃人でもなく思いもよらない類人猿の有尾人種であることを知った。
「ピテカントロプスだ! 有尾人種だ!」
 私はまたもこう呻いて、にわかに失望した眼を見張って、どこかに救い主はあるまいかと前後左右を見廻した。すると同じ恐怖のために気絶しかかっているダンチョンは、私の手を堅く握りながら怯えた声で叫び出した。
「百匹! 五百匹! 一千匹! ※[#「けものへん+非」、145-9]々めが四方から押し寄せて来る!」
 なるほど、そう云えば私達を囲んで、木間や藪の蔭や丘の上から黒雲のように叢《むら》がって、蛇のような尻尾を頭の上へピンと押し立てた人猿どもが、私達へジリジリと迫って来た。
 緑の森林、澄み切った湖水、絵のように美しいこの世界は、一度に人猿の出現によって恐怖の地獄と変ったのであった。しかし私はどんな事をしても恐ろしい人猿の爪と牙から遁がれなければならないと決心した。とは云えどうして遁がれたものか? 彼らの群へ飛び込んで行って人猿どもと格闘して彼らの群から脱しようか? しかし体量五十貫もある森林の原人と闘かって打ち勝つ希望《のぞみ》があるだろうか? そんな希望は絶対にない! それでは湖水へ飛び込んで泳いで対岸へ逃げようか? しかし対岸へ行き着いたところで、その対岸の森林にはやはり人猿が住んでいるだろう! それではどうして遁がれよう? どうしたら逃げることが出来るだろう?
 一瞬の時間も無駄にせず私はここまで考えて来た。そして到頭行き詰まった。その間も兇暴の有尾人種は蕃人特有の狡猾さをもって一歩一歩私達に近寄って来た。こうして彼我の間隔が十間余になった時、彼らは一斉に立ち上がった。何んという立派な体格であろう! もしも彼らに尾がなかったなら、そして全身に毛がなかったなら勇ましい立派な武人であろう……彼らは私達を取り巻いて忽然と踊りを踊り出した。私達二人を中心にして最初グルグルと左へ廻りそれから今度は右へ廻り、またもグルグルと左へ廻りそれからまたも右へ廻る、あたかも大水が渦巻くようにいつまでもいつまでも廻るのであった。

        三十五

「こいつが彼奴らの策戦だな!」
 こう思った時にはもう私達は彼らの渦に巻き込まれて催眠状態に墜ちていた。
 ……緑……大空……人猿の顔……そして彼らの叫び声……湖水……日光……毛だらけの手……沢山の沢山の毛だらけの手が私達を地上から持ち上げた。そして緑の林を縫ってどこかへ私達を運んで行く……緑がだんだん深くなる。日光が次第に薄くなる……忽然、一人の老人が私達の前に現われた。何んという智識的の顔だろう。何んという立派な白髪《しらが》だろう。人猿達の先に立ってその老人は走って行く。人猿を指揮しているのだろう。神か? 予言者か? 救世主か? 神よ我らを助けたまえ! ……林の中は闇になった。再び日光が射して来た。緑の壁が揺れ動く。どこへ運ばれて行くのだろう? ……

 それは昔のことであった。今からざっと三十年も遡《さかのぼ》らなければならなかった。その頃一人の青年がボルネオの島を歩いていた。それは英国の動物学者で兼ねて考古学にも通じていた、青年の名はジョンソンと云ってさすが英人であるだけに冒険心に富んでいた。彼は考古学と動物学とのこの両様の学説を深く研究した結果によって、どうしても南洋のボルネオかイラン高原の大森林中に巨大な尾を持った人間が棲息しているに違いないという一つの確信を持つようになった。で彼は自分の学説がはたして確証を得るや否やを実検しようと決心した。そこで数人の同志を募り最初はペルシャの方面からイラン高原を探検した。しかしそこではそれらしい有尾人種にも逢わなかった。数人の同志は失望してそのまま英国へ帰ってしまったが、ジョンソンだけは決心を変えずに単身ボルネオへ渡ったのであった。
 彼は蕃人の襲撃や猛獣毒蛇の難を避けて長い日数を費したあげく、ようやく奥地までやって来たが有尾人種の影も見えない。自信の強いジョンソンももうこうなっては自分の説を押し通すことは出来なくなった。有尾人種などというものは浅墓《あさはか》な自分の妄想であって、世界のどこを探し廻ったところでそんなものは実際には存在しないとこう諦めざるを得なかった。
 彼はすっかり失望してどうしてよいか解らなくなった。猛獣の難を避けるため高い護謨の樹の頂きへ小屋を造ってその中で彼は幾日も考えたが、どうもこのままここを見棄てて立ち去ることが残念に思われ、やはりこのままこの地にとどまり、有尾人種はいないにしても他に珍らしい動物どもが沢山群れ住んでいるによって、せめてそれらを研究しようとようやく彼は決心した。で彼は真っ先に自分の住む小屋の修繕に着手した。それから食物と飲料水とを小屋の近くに発見してそれに改良を加えたりした。体を保護する武器としては拳銃一挺に弾薬若干とそして一振りの洋刀《ナイフ》だけで他には何にも持っていない――虎の啼き声、豹の呻き、月影蒼い夜な夜な群れて襲って来る狼などの物凄い吠え声に怯《おびや》かされながら、こうして蕃界奥地の生活がジョンソンの上に始まったのであった。
 一年二年――三年四年――五年の月日が経過した。森林に住んでいる鳥や獣のほとんど総《すべ》てと親しくなりほとんど総てを研究した。彼にとっては虎も豹も恐ろしいものではなくなった。性来《もとより》壮健の肉体が蕃地の気候に鍛練され猛獣と格闘することによって一層益※[#二の字点、1-2-22]壮健になり猿族と競争する事によって彼は恐ろしく敏捷となった。そうして彼はもうこの時には有尾人種の存在については全く前説を否定して考えさえもしなかったが、彼、すなわち、ジョンソン自身がちょうど人猿そのもののように完全の野人になり切っていた。森林を走るに、枝から枝幹から幹を伝わって風のように速く走ることも出来た。高い梢の頂上から藪地《ジャングル》の上へ飛び下りても少しも怪我をしないほど軽くその身を扱いもした。
 何んという愉快な生活だろう。何んという原始的の生活だろう。これがすなわち我らの祖先――人猿そのものの生活なのだ! 自然の食物、自然の飲料、自然の遊戯、自然の睡眠、ここには何らの虚栄もない。そして何らの褥礼もない。過去において自分が生きていたあの欧羅巴《ヨーロッパ》の社会生活もこれに比べたら獄屋のようなものだ。自分は心から謳歌する。この森林の生活を……
 ジョンソンは実際こう思ってこの蕃界の生活を恐れるどころか愛していた。そして再び欧羅巴《ヨーロッパ》などの虚飾に充ちた社会生活へは帰って行くまいと決心した。
 彼は鳥獣を愛《いつく》しみ鰐魚《わに》をさえも手《て》なずけた。彼には鳥獣の啼き声やあるいはその眼の働きやもしくは肢体の蜒《うね》らし方によってその感情を知ることが出来た。そして彼らが何を要求し何を嫌うかを察することが出来た。で彼は彼らの要求する事を飽きもせずに彼らにしてやった。その代り彼らも彼のためにいろいろの用事を足してやった。

        三十六

 ある天気のよい日であったが、彼はその時小屋を出て小丘の上に坐っていた。
 突然前方の森林の中から鳥獣の悲鳴が聞こえたが、それと一緒に藪地《ジャングル》を分けて虎が一匹走り出した。その虎の跡を追っかけて同じ藪地《ジャングル》から出て来たのは――思いもよらない有尾人猿で、それと知った彼の驚きは形容することも出来なかった。彼はやにわに飛び上がり、その人猿に向かって行った。鋭い咆哮! 烈しい叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]! ……さしもの人猿もジョンソンのために胸を蹴られて転がった。
 こういう出来事があってから数日経過したある日のこと、いつも小屋にいたジョンソンの姿がどこへ行ったものか見えなくなった。そしてジョンソンと慣れ親しんでいた無数の鳥獣を悲しませた。
 既にこの時は、ジョンソンは、生け捕った人猿を案内にして原始林と湖水とで飾られた太古のままなる神仙境へ足を踏み入れた時であった。
 幾年か幾年か時が経った。
 巴里《パリ》や倫敦《ロンドン》では幾万の人がこの世から死にまた産まれた。……
 もちろん、蕃地の南洋でも、鳳梨《あななす》の実が幾度か熟し無花果《いちじく》の花が幾度か散った。そして老年の麝香猫や怪我をした鰐が死んだりした。
 幾度か年は過ぎ去った。青年も老人になる頃である。金髪も白髪となる頃である。若い英国の動物学者がボルネオの奥地へ小屋を造って、鳥や獣を相手にして自由の生活をしていた時から既に三十年も経っていた。それでもやっぱり護謨の樹の上には木で造った小屋が立っていた。
 ……この頃、湖水と原始林とで美しく飾られた神仙境――すなわち人猿の住居地《すみか》には、有尾人以外に老人が――紛れもない欧羅巴《ヨーロッパ》の人間があたかも人猿の王かのように彼らの群に奉仕されて、いとも平和に住んでいた。
 岩窟の内は暗かった。獣油で造った蝋燭《ろうそく》が一本幽かに燈もっていて私達二人と老人とをほのかに照らしているばかりで、戸外《そと》から射し込む陽光《ひのひかり》はここまでは届いて来なかった。
 私とそしてダンチョンとは有尾人猿の王だという不思議な老人の捕虜となって岩窟の中へ連れて来られ、老人の伝奇的の経歴を老人の口から聞かされてどんなに不思議に思ったろう。しかし私達は疲労《つか》れていた。それで老人の話の間にいつか昏々《すやすや》と眠ったらしい。
 やがてようやく目覚めた時には翌日の真昼になっていた。私達は老人の許しを得て岩窟の外へ出る事にした。
 日光の洪水! 青葉の輝き! そして紺青の湖の底の知れない深い色! それらの色彩に眩惑されて私達はしばらく佇んだ。藪地の中から聞こえるものは人猿達の声である。それさえ今日は穏しい人間の声のように思われる。
 私達二人は湖岸へ行ってそこでまたもや彳んだ。
「神秘の湖水! 神秘の湖水!」
 私は思わずこう呟いてダンチョンの顔を見返った。「そうだ」とダンチョンも呟いて私の顔を見返した。
「私達二人が真っ先に神秘の湖水を見付けたのだ。だから今度は真っ先に湖底を探る権利がある……羅布《ロブ》人の宝庫、巨億の宝が底に隠されてある筈だ」
 ダンチョンの声は感激のために弓の絃《つる》のように戦慄した。私はそれを手で制して無言で湖水を見守っていた。その時、眼前の湖水の水が左右に山のように盛り上がり見る見る崩れたその中から丘のようなものが現われた。と見て取った一瞬間、水中の丘から十間も離れた水藻の浮いている水面から水沫《しぶき》を颯《さっ》と上げながら空中にヒラヒラと閃めいたのは、蟒蛇《うわばみ》に似た顔である。
「雷龍《プロントザウルス》!」と私の口から驚異の声が飛び出した。
 その時ダンチョンは遙か向こうの森林を指で差しながら、
「大きな蜥蜴《とかげ》が飛んでいる!」
 と恐怖に充ちた声で云った。
 全く彼の云う通り、二十尺もある大蜥蜴[#「大蜥蜴」は底本では「大蜥蝪」]が肩に付いた翼を羽搏きながら木から木へ龍のように飛んでいる。そしてその側の藪を分けて、豺《さい》と象とを合わせたような八、九間もある動物が二本の角を振り立て振り立て野性の鼠を追っかけている。それは確かに恐龍である。雷龍といいまた恐龍と云いいずれも今から数十万年前、地球に住んでいた動物で、それは人猿と同じように数十万年前のその昔に悉《ことごと》く滅びた筈である。それだのに人猿と相伴なってボルネオの奥地に棲息し二十世紀の今日まで生存《いきながら》えていようとは正に世界の驚異である。
 私とダンチョンとはこの驚異にすっかり魂を怯かされて湖水の岸から逃げ出した。
 そして岩窟《いわや》へ帰ったのである。

        三十七

 猛悪の人猿の社会にも幾個かの不文律が行われていた。自分の所有でない雌性《めす》に対しては決して乱暴をしない事。人猿以外の敵に対しては一同団結して対《むか》うこと、食物は一時に貪らず一ヵ所に集めて貯える事……これらが主なるものであった。この不文律の執行者が彼らの王たる老人で、老人の課する刑罰をば人猿どもは怯じ怖れた。
 人猿達の生活は極端に自由で快活であった。彼らは木の上で生活しまた木の上で睡眠《ねむり》を取りそして木を渡って遊戯した。彼らの日常の食物は木《こ》の実《み》、草の根、鳥獣などで、彼らは勤勉によく働いて沢山の食物を漁るのであった。湖水を中心に原始林は十里四方に拡がっていたが十里四方の大森林こそ人猿達の王国であった。彼らは広大のこの森林で数十万年の昔から数十万年後の今日まで、子を産み、育て、繁殖し、ダーイニズムより超越して、原始的生活の範疇《はんちゅう》内でその生活を存続し、今日にまで至ったのであった。それにしてもどうして長く逞《たくま》しい尻尾を持っているのだろう? それは格別不思議でもない。恐らくは彼らはあの尻尾を数十万年の昔から数十万年後の今日まで、盛んに使用して来たのだろう。そのため尻尾があのように立派に発達したのであろう。利用即発達の大真理が、ここで用立った訳である。
 ある日、私とダンチョンとは森林の中を彷徨《さまよ》っていた。私達の跡を追いながら沢山の人猿が木を渡っていつまでもいつまでも従《つ》いて来た。森林の案内に通じていない私達を警戒するのでもあろう時々私達の先へ立って、方角を指で差したりした。行くに従って森林は益※[#二の字点、1-2-22]厚く繁茂して陽光《ひのひかり》さえ通らない。私達の足音に驚いて狐や兎が逃げ出したり、臭猫《くさねこ》が茨を潜りながら狐猿《レムール》の隠れた同じ穴へ周章《あわ》てふためいて飛び込んだり、群れて遊んでいた手長猿が一度にギャッと叫びながら枝から枝へ遁がれたりした。
 不意に私達の面前へ大猩々《ゴリラ》が姿を現わした時には恐怖のために足を止めた。しかし危険はちっともない。人猿が[#「ちっともない。人猿が」は底本では「ちっともない人猿が」]私達を守っている……はたして私達の頭上からヒラヒラとちょうど蝙蝠《こうもり》のように人猿達が下りて来た。そして悲壮な格闘が大猩々との間に行われたが、ものの十分も経たないうちにゴリラは三つに引き千切られた。
 森林が開けて陽が射している大きな沼へ来た時にまたも私達は前世紀の怪獣の一つに遭《ゆきあ》った。十間もあるらしい長身の背中一面に角の生えた尾と頸の長い動物で、その尾と後脚とを利用して立ったままヨチヨチ歩いている。私達の姿を見付けるや否や一躍して水中へ飛び込んだがそのまま姿は見えなくなった。私達二人は沼の岸を静かに歩いて進んで行った。キキ! キキと木の梢で悲しそうな声で鳴くものがあるので何気なく仰いで梢を見た。眼玉の飛び出た鰭《ひれ》の長い八尺あまりの鯊《はぜ》のような魚が鰭《ひれ》で木の幹を攀《よ》じながら悲しそうに鳴いているのであった。
 私達は尚も彷徨《さまよ》って行った。鰐の住む濁った河を渉り鴨嘴《かものはし》の群れている湿地を越えて足に任せて彷徨った。
 またも森林が途絶えて、前方遙かに砂丘が見え、熱帯の太陽が赧々《あかあか》と光の洪水を漲らせている何んとなく神々しい別天地が私達の前へ展開した。
 光の洪水に洗礼されたその前方の砂丘の上には一個の祠《ほこら》が安置されてあってあたかもそれを守るかのように石で刻まれた狛犬が、肩に焔を纒いながら祠の前に坐っている――その光景を眺めた時、私は卒然と羅布《ロブ》の沙漠の緑地《オアシス》で見た同じ祠を頭の中に描き出した。
「おお何んと同一ではあるまいか! ……ロブの沙漠のあの祠《ほこら》とボルネオの奥地のこの祠《ほこら》とは!」
 私は感激に胸を顫わせ釘付けのように突っ立ったままじっと祠を眺めていた。すると私のこの感激を一層高潮に誘うような不思議な事件が突発した。それは、今まで梢の上で私達を守っていた人猿達が、祠の姿を見るや否やバラバラと梢から飛び下りて人間のようにひざまずいて祠を遙拝することであった。
 ああその熱心さと敬虔《けいけん》さとは何んに例《たと》えたらよいだろう? 古代、仏教の信者達が仏陀の尊像を堅く信じて祈願をこめた熱心さと敬虔さとに例えようか。それにしてもどうして人猿達が遙拝の仕方などを知っているのであろう? 誰か彼らに教えたのか。それとも、自然に覚えたのか。そしていったいあの祠には何が祭ってあるのだろう! 彼らの神か? 宝物か? そして大きなあの丘はただ砂の堆積《つも》ったものだろうか? それとも何かがあの丘の中に隠されてあるのではあるまいか?
「神秘! 神秘! 要するに神秘! 湖水と同じくただ神秘!」
 私は心で呟いて四辺の様子を見廻した。すると私はこの辺一体――もちろん砂丘も引っ包《くる》めて土地の低いのに気が付いた。

        三十八

 人猿と老人とに養われて私達は十日を経過した。ある朝、人猿の騒ぐ声が物々しく岩窟《いわや》まで響いて来た。そして意外にも大砲の音が湖水の向こうから聞こえて来た。
 私達はハッと飛び起きた。
 そして岩窟から走り出た。私達は何を見つけたろう? ……
 朝陽に輝く湖水を越え、原始林の緑を背中にして遙か向こうの湖水の岸に五、六十人の人間が、大砲の筒口をこっちへ向けて群像のように立っている。
「ラシイヌ探偵の一行だ!」
 ダンチョンが嬉しそうにこう叫んだ。
「しかし」
 と私は躊躇《ちゅうちょ》した。
「袁更生かもわからない」
 二人は熱心に眺めやった。
 危険に対して敏感な、人猿どもは大砲の音に、すっかり度胆を抜かれたと見えて森林の奥へ逃げ込んで一匹も姿を見せなかった。私とダンチョンとは佇んだままなお熱心に眺めやった。距離が距たっているために袁更生の一味ともラシイヌ探偵達の一隊とも見分けることが出来なかった。
 しかし間もなくその一群がもう一度空砲を打ち放しこっちの様子を窺ってから、危険がないと思ったものか徐々にこっちへ近寄って来たので、その一群が何者であるかを私達はやっと知ることが出来た。
 ――彼らは私達の味方であった……

 情熱的の挨拶が双方の間に取り交わされ不思議の奇遇が言祝《ことほ》がれた。それから双方争うようにして今日までの経験を物語った。彼らの話す話によってあの恐ろしい山火事がどうして起こったか知ることが出来た。蛮人のために捕虜になったダンチョンの命を助けようため彼らが放した砲弾が蛮人の部落に命中して萱葺き小屋を[#「萱葺き小屋を」は底本では「萱葦き小屋を」]焼いたのがその原因だということである。そして彼らはあの素晴らしい焦熱地獄の火の中で土人と戦ったということであった。そしてとうとう土人どもを全く屈服させたあげく、袁更生の一団をボルネオ島の北の端れへ息も吐《つ》かせず追いかけて行って、そこで鏖殺《みなごろし》にしたそうである。しかし残念にも袁更生だけは取り逃がしたということであった。
 この惨酷な屠殺戦では、かなり味方も傷ついたので重い負傷者の若干《いくらか》を土人の部落に預けて置いて、負傷《きずつ》かない壮健の者ばかりがここまで来たということであった。

「君の方で僕らを裏切っても、どんなに僕らから逃げ廻っても、僕らの方では君のことをちっとも悪くは思っていない。そうじゃないかね張教仁君……」
 いつも寛大なラシイヌ探偵が、こう云って快活に笑いながら、力強く私の手を握った。その時は実際私の顔は恥ずかしさのために赧くなった。
「そればかりでなく……」と大探偵は私の顔をつくづく見て、「僕らの友人ダンチョン君を蛮人の毒手から救ってくれた君の義侠心に対しては心からお礼を申し上げる」
 こう云って彼は叮嚀《ていねい》に頭を私に下げさえした。私達二人は湖水の岸の倒木《たおれぎ》の上に腰かけて互いに話し合っているのであった。ダンチョンはレザールやマハラヤナ博士に人猿と老人を紹介しようと、皆んなを引き連れて森林の中へ先刻はいって行ったままいまだに帰って来ないらしい。
 それで四辺は静かである。
 湖水は平らに輝いている。
 恐龍も雷龍もトラコドンも大砲の音に驚いたと見えて水から姿を出そうともしない。樹々の倒影、雲の往来《ゆきき》、みんな水中に映っている。
 風が窃《ひそ》かに渡ったと見えて水面に漣《さざなみ》がもつれ合った。
 しかし再び静かになり湖水は黄金色に輝いている。神秘! 神秘! 正に神秘! この平和らしい湖水の底にこの平凡な湖の中に、羅布《ロブ》人の宝が、巨億の富が、はたして埋もれているとしたら何んというそれは神秘であろう! 神秘! 神秘! 正に神秘! しかも価値のあるこの神秘を今や我らは開こうとして湖水の畔に集まっている。
 神秘が神秘であったなら、我々は財産家になれるだろう。そうだ素晴らしい財産家に!
 私は湖水を眺めながらこんな空想にふけっていた。
 すると、ラシイヌ探偵が、何か口の中で唄い出した。
[#ここから1字下げ]
…………
山と湖とに守られて
我らの先祖が住んでいる
湖と山とに囲まれて
先祖の宝が秘蔵《かく》されてある
[#ここで字下げ終わり]
 突然ラシイヌは立ち上がった。そして厳《おごそ》かにこう云った。
「湖水へ船を浮かべよう! 皮で作った船がある! そして湖水の底を見よう! 湖水の秘密の第一歩をとにかく探って見ようではないか!」

        三十九

 探検隊の一行は私を蕃地へ残したまま元来た方へ引き返した。探検隊の人達は――わけてもラシイヌ探偵は自分達と一緒に来るようにと熱心に私に勧めたけれど私は同意しなかった。どうして同意しなかったかというに、それには私だけの理由があった。
 一行がいよいよ湖畔を去って深い原始林へはいって行くや、今まで姿を見せなかった有尾人どもは木や草の中から醜悪の顔を覗かせて賑やかにお喋舌《しゃべり》をやり出した。そして人猿とほとんど一緒にどこかへ姿を隠してしまった動物学者の老人もいつの間にか岩窟に帰っていた。私は今まではダンチョンと一緒に蕃地に停まっていたのであったが、そのダンチョンも一行と一緒に原始林の中へ消えて行って私は文字通り一人ぼっちになった。だから私の友達と云えば予言者のような老人と尾を持っている原始人と湖底の怪物トラコドンなどで、友達と云えば友達ではあるが、いずれも縁遠い者どもであった。
 私はやはり以前《もと》の通りに老人と一緒に老人の岩窟で朝夕日を送っているのであったが、今度の事件が起こってからは、その老人も以前《まえ》のようには私に好意を示さなくなった。それで私は自分の住家を岩窟の外へ求めようとした。老人は長い間考えてからようやく私の希望を容れて小屋を造ることを許してくれた。老人の命令に従って有尾人達は私の小屋を湖水の見える林の中の高い木の上へ造ってくれた。人猿達は腕力に任かせて巨大の生木をピシピシ折ったり鉄より強い藤の蔓を糸でも切るように引き千切ったりして、ものの半日と経たないうちに私の小屋は出来上がった。何より私の喜んだことは老人にも人猿にも妨げられずにたった一人で小屋の中で熟考することが出来ることで、私は終日そこに坐って是非ともこれから行なって見ようと思う計画について考えた。この計画があったればこそ、ラシイヌ探偵の勧めにも応ぜず一人蕃地へ残ったのである。
 しかし私の計画についてこの備忘録へ記すより先に、何故探検隊の一行がこの土地を見捨てて立ち去ったかを書き記す方が順序らしい。

 探検隊の一行が私達の面前へ現われた日のその翌日のことであったが、ラシイヌ探偵の指揮の下に革船を一隻湖水に浮かべて湖底の様子を探ろうとした。折り畳み式の革船で八人乗りの大きさであった。湖水に浮かべる船としてはこれ以上勝れた船はない。軽く漂々と水に浮かんで燕のように軽快である。
 ラシイヌ探偵とレザール氏とマハラヤナ博士と医学士とダンチョン画家と二名の土人、そして私とが船に乗った。湖底の雷龍が首でも上げて船を覆さないものでもないとラシイヌ探偵は心配して、岸に集まっている土人軍に命じて時々大砲を撃たせることにした。もちろんそれは空砲で、ただ臆病の雷龍をその音響で威嚇していつまでも湖底に止どまらせるのがラシイヌ探偵の望みであった。
 殷々と鳴り渡る大砲の音に私達の船は送られて湖水に向かって漕ぎ出した。行く行く私達は水眼鏡で湖水の中を覗いたが、珍奇な水草と畸形の魚とで水中はあたかも人の世における五月の花盛りそっくりである。
 原始林が風を遮《さえぎ》るので湖水の面は漣《さざなみ》も立たずちょうど胆礬《たんばん》でも溶かしたように蒼くどろり[#「どろり」に傍点]と透き通っている。岸に近い水面は木立を映して嵐に騒ぐ梢の様子がさながらに水に映って見えている。船の進むに従って水尾《みお》が一筋水面に走りそこだけキラキラと日光に輝き銀色をなして光っている。無数の水禽《みずとり》が湖心の辺《ほとり》に一面に浮かんで泳いでいたが、船が近付くのも知らないようにその場所から他へ移ろうともしない。
 私達は湖水の中心へ来た。そこでしばらく船を留めて湖底の様子を窺った。しかし到底水眼鏡などでは幾丈と深い水の底を突き止めることなどは出来なかった。靡《なび》く水草、泳ぐ魚、わずかにそれらが見えるばかりだ。
 そこで今度は岸に添うて湖水の周囲を調べようと土人軍達が屯《たむ》ろしているその岸を指して船を漕いだ。土人達はほとんど間断なく空砲を空に向けて撃っている。その陰森たる大砲の音は人跡未踏の神秘境のあらゆる物に反響して木精《こだま》となって返って来る。
 こうして私達の革船が岸から十間ほどに近付いた時、にわかに船が動かなくなった。そしてその次の瞬間には、反対《あべこべ》に船は速く走って後方《あと》へ後方へと戻るのであった。
 思いがけないこの出来事はどんなに私達を驚かせたろう! 半分飽気にとられながらそれでも腕力を櫂にこめて岸へ近付こうと漕ぎつづけた。すると今度は後方《あと》へも戻らず勝《ま》して前方《まえ》へは進もうともせず岸から十間の距離をへだててただ岸姿《きしなり》に横へ横へとあたかも湖水を巡るかのように急速に革船は廻り出した。
 その時ラシイヌの鋭い声が私達の耳を貫いた。
「水を見ろ! 水を見ろ! 水を見ろ!」と。
 私達は一斉に湖上を見た。湖水は湧き立っているのではないか!

        四十

 今までは小さな漣さえなかった碧玉の湖水が白泡を浮かべて奔馬のように狂っている。そして不思議にも湖上の水は巨大な渦巻を形造って湖心を中心にして廻っている。私達の船はその渦巻の一番外側の輪の中にあった。船はその輪の水勢に連れて湖岸に添うて走って行く。
 船が走るに従って岸上の土人軍は驚嘆の声を口々に鋭く叫びながら船の後から追っかけた。しかし水勢には及びもつかず見る見る船と彼らとの距離は遠く遠く隔った。
 湖水を一周した頃には船は渦巻の第二の輪をいくらか渦巻の中心の方へ傾きながら走っていた。私達はあらゆる努力をして渦巻の外へ出ようとしたが、蟻地獄へ落ちた蟻のようにどうすることも出来なかった。船は岸上に屯ろしている土人軍の前を過ぎようとした。その時土人達は口々に叫んで棕櫚縄を一筋投げてくれたが船首をわずかに掠めたばかりで空しく水中へ落ちてしまった。いつか私達は渦巻の輪の第三番目にはいっていた。水は輪なりに走りながら時々高く盛り上がり次の瞬間には波を立てて低く落ち窪んだ。私達の船が波に乗って高く空中へ盛り上がった時、私は素早く眼をやって渦巻の中心を見たのであった。その辺一体は白泡に閉ざされ数千の白馬が鬣《たてがみ》を振って踊りを躍っているように見えたが、その白泡の真ん中所に直径半町もあろうかと思われる蒼黒い穴が開いていて、湖中の水はそこを目掛けてただ直向《ひたむ》きに押し寄せていた。穴はあたかも漏斗《じょうご》のように円錐形を呈していて、落ち込む水がそこへはいる滝のようにすぐに落下せずにやはり漏斗形に廻り廻って静かに地底へ潜《くぐ》るのであった。
 私は船が波の頂きに一瞬間とどまっている時にこれだけのことを見て取ったので、波が崩れて谷が開けその水の谷へ真一文字に私達の船が突き入った時にはもう水穴は見えなくなった。
 この間も船は水穴を目掛けて刻々に進む水勢に引かれて湖水をグルグル廻っている。
 何気なく岸の方を眺めて見ると遙か彼方に断崖のように赭黒い色をして聳えている。いつもは岸に擦れ擦れになって湖水の水が湛えているのに、今は一丈余の断崖となって森林を背負って立っている。つまりそれだけ湖水の水が地下に吸い込まれてしまったのである。
 こうして私達はどれほどの時間湖水の面に漂っていたか考えて見ることも出来なかったが、とうとう船が渦に巻かれて湖心に出来ている水穴の中へ正に落ち込もうとした時に、天佑とでも云うのであろうか、忽然と水穴が閉ざされ大渦巻が運動を止め湖面は再び鏡のように日光を吸って輝き出した。
 私達は初めて元気付いて力を極めて船を漕いだ。そして土人軍の屯ろしている湖水の岸へよじ[#「よじ」に傍点]登った時、蘇生したような気持ちがした。
 湖水の水はその容積の三分の二余りを減じていた。水草が水面に旗のように流れ、幾匹かの恐龍と雷龍とが巨大の首を水から出して私達の方を眺めている。水禽は一羽もいなかった。岸に近い水は森林を映し、岸に遠い水は空をひたしていとも平和に澄んでいる。
 あの素晴らしい渦巻の恐ろしかった光景はどこを眺めても見当らない。水はいかにも減じてはいるが、太古のままの夢を孕《はら》んで森然《しん》と静まり湛えている。
 私達は互いに眼を見合わせ一言も物を云わなかった。豪雄のラシイヌ探偵さえ空しく湖水を眺めるばかりで、陽に焼けて黒いその顔には驚異の情ばかりが浮かんでいる。
 こうして私達は湖水の岸にしばらくの間佇んでいた。
 その時、またも湖水の面に以前《まえ》と同じ奇蹟が行われた。湖心のあたりに蒼黒い穴が忽然と一つ現われたが、そこを目がけて湖中の水が渦巻きながら押し寄せて行く。
 何んという奇観! なんという壮大! 湖中に流されて眺めるのと湖岸に立って見渡すのと、こうまで相違があるものであろうか!
 ……見渡す眼下の湖水の水は何物にか引かれてでもいるかのように渦の外輪は大波を立て、渦の内輪は独楽《こま》のように澄み切った速さで廻っている……名も知らぬ畸形の海獣や巨大な水牛やトラコドンは、その渦巻に巻かれまいと水沫《しぶき》を立てて狂い廻りながらしかも水勢には争い難くやはり渦巻に巻かれたまま蒼黒い水穴――死の漏斗《じょうご》へ、一刻一刻近寄って行く、……死の水穴の縁のあたりには落ち込む水が斬り合って水蒸気の雲を濛々と立て陽に輝いて眼も眩むような鮮かな虹を懸けている……虹の花輪に飾られた蒼黒い漏斗、死の水穴は、落ち込む水をすぐ捉らえて、漏斗に入れられた酒や水が漏斗形にグルグル廻りながら下の容器《いれもの》にしたたるように捉えられた水は穴の内面を眼にも止まらぬ勢いで漏斗形に駸々《しんしん》と馳せ廻り、次第に下へ次第に下へグングン廻って落ちて行く……。

        四十一

 ……今、水牛が穴の中へもんどり[#「もんどり」に傍点]打って投げ込まれた。水勢は忽ちそれを捉らえて穴の内面を漏斗形にグルグルグルグルとぶん[#「ぶん」に傍点]廻した。もがく事さえ出来ないと見えて四足を高く持ち上げたまま余りに水勢が劇しいため水中に深く沈むことも出来ず全身を水面へ露出したまま虹の花輪のその真下で死の輪舞を続けていたがやがて次第に水勢に巻かれて下の方へ下の方へと落ちて行き忽ち姿は見えなくなった。次から次と様々の獣が今の水牛と同じように渦巻に散々揉まれたあげく例外なしに水穴へ落ちると、同じように漏斗形に廻り廻ってやがて地底へ引き込まれて行く……そして水穴の縁の辺には水蒸気の雲が立ち迷い虹がキラキラと輝いている。……見る見るうちに水は減り周囲の岸が高く峙立《そばだ》ち、湖底が徐々に露出《あらわ》れて来た。
 ――私の書き記す備忘録には少しの偽りも記してない。偽りを書かない備忘録へ私はこの後の光景を実に次のように書いたのである。……

 やがて湖水は全く涸れて、いつか渦巻も消えてしまった。そしてその後へ残ったものは欝々《うつうつ》たる原始林に取り囲まれた火山岩で造られた大穴である。所々の水溜には小魚がピチピチ刎ねているし水草が岩石にからまっている。底には砂礫が溜まってはいるが泥はほとんど見あたらない。砂礫に埋もれて恐龍の死骸が幾個もあちらこちらに転がっている。
 私達始め土人達は湖水の跡へ下りて行って各※[#二の字点、1-2-22]勝手の探検をした。
 私達は渦巻の起こったほとりの湖水の底とも覚しい辺へ急いで足を向けて行ったがそこには直径一町もあるような大磐石があるばかりで穴らしいものの影もない。ダイナマイトを取り寄せて念のため大石を砕いて見たが岩の破片が飛ぶばかりで大磐石は動こうともしない。
 それからいったい湖水の水はどこへ流れて行ったのであろう? そして巨大な獣はどこへ行衛を眩ましたのであろう?
 空は蒼々と照り渡り森林は粛然と立っているが、私達の疑問は解けようともしない。誰も彼も黙然と押し黙って四辺を見廻すばかりである。
 マハラヤナ博士は印度人らしい迷信深い眼付きをして、天地を交替交替《かわるがわる》見廻していたが、卒然としてこう云った。
「神の怒りじゃ! 神の奇蹟じゃ! 霊地を我々が穢したため天帝が恐ろしい奇蹟を現わし我々に怒りを示されたのじゃ!」
 するとラシイヌは科学的の冷やかな声でこう答えた。
「神の怒りではありますまい。恐らく奇蹟でもありますまい。彼らが――すなわち、人猿どもが、悪戯《いたずら》をしたのだと思われます。奇蹟ではなくトリックです」
「いやいや決してそんな筈はない」博士は躍起となりながら、「奇蹟でなくて何んだろう? あの大水が見ているうちに行衛知れずになったのは正しく神の奇蹟なのじゃ! 人猿どもに、あんな動物に、これだけの奇蹟が何んでやれよう、――それとも君は水の行衛を説明することが出来るかな?」
「岩です、岩です、この大磐石です! この中へ水は落ち込みました」
「それでは君は岩を砕いて水の在所《ありか》を示すがよい」
「ご覧の通りダイナマイトを掛けても大磐石は砕けようともしない。この大岩さえ砕けましたら水の在所はすぐに知れます」
「いやいや、岩の砕けないのがすなわち神の御心《みこころ》なのじゃ!」
 二人の議論は土人達の間に電光のように拡がった。迷信深い土人達は迷信深い博士の説に一も二もなく同意した。
 そして土人のこの行動が結局大勢を左右してラシイヌ探偵も一行と一緒にこの土地を去らなければならなくなった。そして最初の計画通り濠州を指して第三番目の探検旅行を試みようとサンダカンに向かって引き返した。

 私は蕃地へとどまったが、私の蕃地の生活はかなり不自由で寂しかった。
 私は終日小屋に籠もって計画について考えた。計画というのは他でもない。ラシイヌ探偵の意見と同じく水の行衛《ゆくえ》を探すことであった。
 私は次のように考えた――
 湖水の水が涸れたのは涸らすだけの仕掛けがあったからで決して神秘でも奇蹟でもない。それならいったい何んの理由で湖水の水を干したのか? それは思うに、羅布《ロブ》人の巨財が湖水に隠されてはいないということを、探検隊の人達に証明するためのトリックである。
 それではいったい湖水の水はどこに湛えられてあるのであろう? それこそ私がどんなことをしても探し出そうと決心している大事な計画の一つであって水の行衛が知れると一緒にあるいは羅布《ロブ》人の巨財の在所《ありか》も自ずと知れるようにも思われる。
 私はとにかく何より先に有尾人達の住んでいる森林の中へ分け入って私の疑問を試みようとした。しかし不思議にも人猿どもは、私を絶えず監視して森の奥を訪《おとの》うのを拒絶した。そしてもちろん岩窟《いわや》の老人も私が森林へ分け入ることを非常に嫌っているらしかった。
 そこで私はこう思った――
「何より先に人猿どもを自分の味方に慣《なつ》けなければならない」
 とは云えどうしてなつけ[#「なつけ」に傍点]たものか最初は考えにも及ばなかったがその内一策を考え出した。私は美味《うま》い食物によって彼らを釣ろうとしたのであった。彼らは半分《なかば》人間ではあったが煮焚《にた》きの術を知らなかった。それを私は利用したのである。
 ある日私はいつものように自分の小屋の石のストーブで兎の肉を燻《い》ぶしていた。それがすっかり出来上がった時|果実《このみ》の絞り汁に充分浸して小屋から外へ出て行った。

        四十二

 森林には大勢の人猿どもが彼らの生活を営んでいたが、私を見ると警戒するように互いに何か叫び合った。私は老人に教わった人猿どもの言葉のうち、簡単な単語だけを知っていたので、最初に行き逢った人猿に向かって、
「焼き肉。食え!」
 と彼らの言葉でまず元気よく云って置いて持って来た燻肉を投げてやった。その人猿は最初のうちは地に落ちている肉の片を審《いぶか》しそうに見ていたが、とうとう片手で取り上げて口へ持って行って噛み付いたが、生肉の味とは似ても似つかぬ微妙な味に驚いたか、その肉片を握ったまま彼の仲間へ飛んで行き、忙がしく何か喋舌り出した。と一斉に人猿どもは私の方へ眼を向けたが爛々と光るその眼に打たれて私は思わず戦慄した。
 次の瞬間には私の周囲《まわり》を幾百という人猿どもが三重にも四重にも取り巻いて、両手を私へ突き出してじっと私を見守っていた。手に持っただけの肉片を彼らの群の中へ投げ込んで置いて、私は恐怖に襲われながら木の上の小屋へ逃げ込んだ。
 私の計画は成功してその時以来人猿どもは私の姿を見掛けさえすれば、両手を前へ突き出して燻肉を請求するのであった。
 ある時私は蔓《つる》で編んだ大きな籠を拵えたがその中へ燻肉を一杯に充たして最初の旅行を企てた。しかし十町と行かないうちに籠の中の肉は悉《ことごと》く尽き、肉が尽きると人猿どもは歯をむき[#「むき」に傍点]出して威嚇した。そして私を小屋の方へ遠慮会釈なく追い立てた。それで私はまた空しく小屋へ帰らなければならなかった。
 こうして幾日か日が経った。
 湖水は依然として空である。水溜りの水も悉く干《ひ》て水草などは大概枯れた。
 無尽蔵にいる兎や狐を狩り取ることもいと容易《や》すければ、その肉を燻《あ》ぶることも焼くことも大して手間は取らなかったが、私の目指す森林の奥まで持ち運ぶ方法に苦しんだ。途中で餌物がなくなろうものなら、あの兇暴な人猿どもはまたもや遠慮会釈なく小屋へ追い返すに違いない。これが自分には苦痛であった。
 しかし窮すれば通ずという古い諺にもある通り、間もなく私はその困難に打ち勝つ方法を発見した。
 荷車を製造《つく》るということである。
 なんという容易なことだろう! しかしこうやって思い付いて見ればきわめて容易のことではあるが、思い付くまでの苦心と云ったらまたひと通りのものではない。私はこの事を思い付くや否や嬉しさのあまり雀躍した。
 私は焼き肉を褒美にして人猿どもを使用した。彼らは私の命令通りどんなことでもするのであった。彼らの爪は鋸《のこぎり》であり彼らの犬歯《きば》は斧であった。そして素晴らしいその腕力はモーターとでも云うべきであろう。やはり半日とはかからないうちに立派な一個の荷車が出来た。思う仔細があったので、その他に私は一人乗りの筏《いかだ》を一隻|製造《つく》らせた。二本の櫂《かい》も……
 それは天気のよい朝であったが、焼き肉を荷車にウンと積み込み筏をその上に引き冠ぶせ、筏の上へは私が乗って、一匹の人猿に車を押させて二度目の旅へ出発した。

 人猿は四方から集まって来てひしひしと荷車を取り囲み胡散臭《うさんくさ》い眼付きで私を見た。その時私は一掴みの焼き肉を後方目掛けて投げつけた。これと同時に人猿の群から鋭い叫び声が湧き起こり、続いて格闘が始まった。落ちて来た焼き肉を拾おうとして互いに争っているのである。元来彼らは食物については仲間同志争った例がない。それは彼らの世界とも云うべきこの広大なる原始林の中に無尽蔵に食物があるからであって、彼らは自分の要求に応じて何んでも自由に得ることが出来た。自然競争の必要もなく格闘することもなかったのである。それだのに一度私が現われこれまで一度も味わったことのない、不思議な食物――焼き肉が、私の手によって投げられた。しかもその肉はきわめて美味でその上制限されていて無尽蔵に食うことは出来ないのである。だからどうしても必然的に食物競争が行われる。そこが私の付け目であって、彼らが競争しているうちに荷車を前方へ進めるのであった。
 焼き肉――競争――格闘――前進!
 日光も透さぬ大森林を荷車はグングン進んで行った。そして朝が昼となりやがて夕暮れが近付く頃、大森林の涯《はて》まで来た。
 この森林の果てへ来るのが私の唯一の目的であった。そして森林のこの果てはかつて前方《まえかた》ダンチョンと一緒に道に迷って来た事があった。そしてその時私は見た!
 代赭《たいしゃ》色をした平原を! その代赭色の沙漠の中に一筋堤防のあったことを! そして堤防のその上に二頭の狛犬に守られて神の社があったのを!

        四十三

 そして私は再び同じ所に社《やしろ》んで沙漠を見ようとしているのだ。
 しかし私が森林を出て眼を前方に走らせた時、沙漠も堤も狛犬も悉く水に埋ずもれてわずかに社の屋根ばかりが水を抜け出て輝いているのがハッキリ両眼に焼き付いた。まことにそこには沙漠の代りに湖水が漲っているのであった。
 しかし私は驚かない、むしろ予期していたことである。
 私は荷車へ飛び上がってあるだけの焼き肉をひっ[#「ひっ」に傍点]掴み四方八方へ投げ散らした。そして人猿の叫び声や格闘の響きを後にして筏《いかだ》を湖水へ浮かべたが、二挺の櫂を手に持ってヒラリと筏へ躍り上がり櫂をあやつって辷《すべ》り出た。
 筏はずんずん進んで行く。人猿どもは岸に並んで物凄い叫びを上げながら拳を揮《ふる》って打つ真似《まね》をするが、間を大水が隔てているのでどうすることも出来ないらしい。筏はずんずん水を切って社頭の方へ進んで行く。私の胸は期待に充たされ心臓が劇しく鼓動する。
 夕陽、微風、波の囁き――湖水の上は涼しくてどのように漕いでも疲労《つか》れない。
 筏は社に近寄った。
 湖上に出ている屋根の側まで筏が流れて来た時に、そこに一隻丸木舟が纜《もや》ってあるのに気が付いた。それに不思議にも社の屋根に人間が一人はいれるくらいの四角な穴が開いていて垂直に梯子がかかっている。
 私はこれを眺めた刹那《せつな》、既に秘密の十分の九まで解決したような気持ちがした。私に何んの躊躇《ちゅうちょ》があろう! 独木舟《まるきぶね》の船尾《とも》へ筏を纜《つな》ぎそれから屋根へ這い上がった。
 それから梯子を下ったのである。
 下へ下るに従って射し込む日光が薄くなり全く暗黒になってからも尚下へ下りなければならなかった。私はこっそり心の中でおおよその間数を数えながら下へ下へと下りて行った。
「十間、二十間、三十間……」
 と、ここまで数えて来た時に梯子は既に尽きていた。それとも知らず私の足は次の桟木を踏もうとしてハッと空間に足を辷らせ真っ逆様に墜落した。
 そして気絶をしたのであった。

 私の意識が次第次第に恢復するように思われた。一人の老人が私の前に蝋燭《ろうそく》を持って立っている――しかし恐らく幻覚であろう――その老人を囲繞して宝石が無数に輝いている。黄金の兜、黄金の鎧、蝋燭の光に照らされて天上の虹が落ちたかのように燦々奕々《さんさんえきえき》と光を放し香の匂いさえ漂っている。
「何んという美しい幻覚であろう」
 私は半分正気付いてこう口の中で呟いた。
「なんという立派な老人であろう――岩窟に住んでいる動物学者のあの老人にそっくりだ……幻覚よ、永く消えないでくれ」
 私はまたも呟きながら体を起こそうともがくのであった。
 気高い老人が重々しく髯だらけの口を動かした。
「気が付いたかな、張教仁!」
 私は辛うじて返辞をした。
「あなたはどなたでございます?」
「わし[#「わし」に傍点]は岩窟の老人じゃ」
「動物学者のご老人?」
「そうだ。そうして人猿国の国王と云ってもよいだろう」
 私は四辺を見廻した。何も彼も尊げに光っている向こうの隅には黄金の板、櫃《ひつ》の上には波斯絨毯《ペルシャじゅうたん》。黄金で全身をちりばめられた等身大の仏の像はむきだしに壁に立てかけてある。その仏像の左右の眼には金剛石が嵌められてあって蝋燭の光に反射して菫色《すみれいろ》の光を澪《こぼ》している。
「ここはいったいどこなのです?」
「ここは水底の地下室じゃ!」
「宝物庫でございますな?」
「いかにもさようじゃ。羅布《ロブ》人のな」
「え、羅布《ロブ》人でございますって!」
「回鶻《ウイグル》人と云ってもよい」
「回鶻《ウイグル》人でございますって? ――それでは私はようやくのことで目的をとげたというものだ! 羅布《ロブ》人の宝庫! 羅布《ロブ》人の宝庫!」
「しかしお前が発見《みつ》けるより先に私がいち[#「いち」に傍点]早く見付けていた。危険の多い湖底から沙漠の地下室へ人猿と一緒に宝を移したのもこのわしじゃ」
「それでは渦巻を起こしたのも湖水の水を涸らしたのも皆あなたでございますか?」
 老人は黙って微笑した。
「それにしてもあなたはこの宝庫を何故世の中へ発表して用に立てないのでございます?」
「ただわし[#「わし」に傍点]がそれを欲しないからだ。地下には四十の部屋があってあらゆる宝石貴金属が一杯そこに詰まっている。何億あるか何十億あるか、現代の貨幣に換算したらそれこそ大陸の二つや三つは優に買うことが出来るだろう……」

        四十四

 老人は静かに云いつづけた。
「凄まじいほどの巨財なのじゃ。ところで今日の世界と云えば物質一方の世界ではないか。そういう世界へこれだけの巨財を仮りに提供したとなったら、その財宝の所有争いで国々で戦争さえするであろう。それを私は恐れるのじゃ」
 老人はこう云って沈黙した。私には老人のその言葉がいかにも真理に聞こえたのでそれからは何んにも云わなかった。
 老人は自分で蝋燭を取って私の前を歩きながら、地下に造られた四十の部屋をいちいち私に見物させた。
 お伽《とぎ》の世界にでもあるような幽幻神秘の宝物庫が、私の眼前に展開されて、見て行く私の眼を奪い計り知られぬその価値に私は思わず溜息をした。
 私は発見したのである! 探し廻っていたその宝庫を! 数千年前支那の西域|羅布《ロブ》の沙漠に国を建てた回鶻《ウイグル》人の一大国家が、基督《キリスト》教徒に征《せ》められて国家の滅びるその際に南方椰子樹の島に隠した計量を絶した巨億の財を私は今こそ発見《みつ》けたのだ!
 老人と一緒に船に乗って私は森林へ帰って来た。そして人猿に守られて老人の岩窟へはいったのである。
 こうして再び老人と一緒に岩窟《いわや》で生活するようになった。
 老人が彼らに命じたのでもあろう、それ以来私は人猿達に監視されることがなくなった。私は文字通り森林の中を自由自在に歩くことが出来て、老人をこの国の国王とすれば私は副王の位置にあった。
 私の生活は安全であり前途は希望《のぞみ》に充ちていた。と云うのは老人が口癖のようにこのように私に語るからであった。
「わしは大変年老いている。わしは間もなく死ぬだろう。そうしたら君こそここの王じゃ。ここの国王に成ったからには、あの水底の地下室の一切の財宝の所有者じゃ! 君の随意にすることが出来る」
 しかし老人は容易のことではこの世を去りそうにも見えなかった。钁鑠《かくしゃく》として壮者を凌《しの》ぎ森林などを駈け歩いても人猿などより敏捷であった。私も老人の真似をしてよく森林を駈け歩き彼らに負けまいと努力した。
 こうして半年が経過した。そして一年が過ぎ去った。
 ある日老人が私を呼んで、種々の鍵を手渡してくれた。そしてどうして一日のうちに大水を自由に動かし得るかそういうことまで話してくれた。それは老人の科学思想がいかに発達しているかを証明するに足るところの霊妙を極わめた装置であって、それを私が知った時にはこの老人を敬う念が以前《まえ》よりは一層加わっていた。
 老人は私の手を握った。
「君は明日からここの王じゃ。彼らを愛してやりたまえ。私は少しく休息しよう」
 こう云って優しく目を閉じた。その日が暮れて夜となり月が天上に輝いている時老人は安らかに死んで行った。
 翌日私達は老人のために新らしい柩《ひつぎ》を拵えた。夜になるのを待ち構えて小丘の上へ葬った。いつも賑やかな人猿達も今宵に限って静粛であった。空には月が照っている。森林では夜鳥が鳴いている。人猿どもは墓標を囲んで夜が更けるまで蠢《うごめ》いている。
 墓場の前で人猿達に、私はこのように宣言した。
「老人に代わって張教仁がこの森林の王となる! それはお前達の誰よりも私が一番利口だからだ!」
 人猿どもは首を垂れて私の言葉を傾聴した。私はそこで丘を下りた。人猿達は私を守って虔《つつま》しやかに歩いて行く。
 こうして私はこの日を初めに完全にこの国の王となった。人猿どもはこれまで通りに森林の中で楽しげに暮らして老人のことは忘れたらしい。私の言葉の命ずるままに彼らは怡々《いい》として従った。
 私は新らしく授けられた自分の力を試みようと、老人の教えに従って一つの鍵を使用した。するとその時まで乾いていた湖水の跡の大磐石が音もなく静かに刎ね上がり、その後へ出来た大穴から沸々と水が盛り上がった。見る見るうちに漲り渡り再び洋々たる湖水《みずうみ》の態《さま》が私達の眼前に拡がっていた。
 人猿たちはそれを見ると森林の中から走り出て、湖岸に立って奇怪至極の彼らのダンスをやり出した。
 ここに再び人猿国には昔ながらの平和が帰り、巨財を貯えた四十の地下室は沙漠の砂丘を頭に戴き肩のほとりに秘密の入り口――すなわち狛犬《こまいぬ》に守られたところの不思議な社《やしろ》を保ったまま落ちる夕陽、昇る朝陽に燦《まばゆ》くキラキラと輝きながら永遠の神秘を約束して私の支配下に眠っている。

底本:「沙漠の古都」国枝史郎伝奇文庫26、講談社
   1976(昭和51)年7月12日第1刷発行
初出:「新趣味」博文館
   1923(大正12)年3月~10月
※「探検」と「探険」の混在は底本の通りです。
※「烏魯木斎《ウルマチ》」「庫魯克格《クルツクタツク》」は、それぞれ「烏魯木斉《ウルマチ》」「庫魯克塔格《クルクタク》」が正しい形であると思われますが、底本の通りとしました。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年12月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

今昔茶話—— 国枝史郎

今昔茶話
国枝史郎

 一 風見章さんのこと

 前司法大臣風見章閣下、と、こう書くと、ずいぶん凄いことになって、僕など手がとどかないことになる。しかし、前大阪朝日新聞記者風見章、と、こう書くと、僕といえども気安くもの[#「もの」に傍点]が云える。そこで、その頃の風見さんのことを書く。
 その頃僕はその大阪朝日新聞社の社会部の記者であった。その時の同僚といえば、この記事を掲載する「外交」の社長の竹内夏積(本名は、克己だ)や、画家の幡恒春や、今は無き橋戸頑鉄や、水島爾保布や、釈瓢斉などであり、社会部長は長谷川如是閑先生であった。通信部には支那通の波多野乾一がいた。
 そうして風見さんは、社会部で無くて、外報部の副部長格であったような気がする。
 さて或日、その風見さんが、頭を白い布で捲《ま》いて、和服姿で、ヌッと編集室へ入って来たことがあった。
「オーイ、風見、どうした?」
「喧嘩して、頭、割られたのか」
 などと、あちこちから、悪童どもが声をかけた。
 すると風見さんは、山ヌケが起こって、俺を埋めようとしたって、俺、ビクともしないよ、といったような、よく云えば剛胆、素直に云えば胆汁質のボーッとした態度で、
「禿頭病にかかったんだ」
 と云って、ノンビリと椅子へ腰をかけた。
 禿頭病といえば、かなりウルサイ病気で、わけても風采や面子を気にする性格者にとっては致命的に苦痛の病気の筈だのにそれにかかった本人がノホホンだったので、それを取巻いた、編集室の悪童どももノホホンで。
「禿頭病! フーン、そうかい」
「なおる見込みあるのかい?」
 などと、自分の席から、対岸の火事でも見るような態度で声をかけた。
「時の問題だそうだ」
 ――これが、その時の風見さんの返事であった。
「時の問題でね。――つまり、この病気には二種類あるんだそうだ。一つは神経性、一つは黴菌性――ところで俺ののは神経性禿頭病なのだそうだ。だからボーッとしているとなおるんだそうだ」
 果して、その後、六ヶ月ばかり経つと、以前よりも、もっと濃い、厚い髪が生えた。
 さて、その髪も、内閣書記官長だの、司法大臣だの、翼賛会の産婆役だのという、ウルサイ役目を、次々と担任された現在ではどうなっていることやら。
 だいぶ白くなったということも聞いているが、三十年近くもお逢いしない僕には真偽のほどはわからない。

二 小林商相の昔

 商工大臣小林一三閣下といえば、僕など三歩さがってお辞儀をしなければならない。
 だから然《そ》ういう偉い小林さんのことはお預けとしておいて、ざっと三十年もの昔、阪神鉄の社長であった頃のことを書く。
 その頃僕は大阪朝日新聞の記者をしていて、前項に書いたように、風見章さんなどと一緒に上福島の下宿屋にコロガッていた。
 その頃の或日、小林さんの経営しておられる宝塚の少女歌劇を見に行った。僕が演芸と文芸とを担任していたからである。案内役は、その頃の小林さんの秘書、今の東宝の重役吉岡重三郎さんであった。
 ノンビリした格好で、その頃のスターの雲井浪子の歌舞を見ていると、背広姿の小兵の人が吉岡さんに連れられて現われ、
「国枝先生ですか、ようこそ」と云われた。それが小林さんであった。
 ここで註を加えておくが、いかに如才のない小林さんといえども、国枝史郎の人間に対して、先生という敬語を使われたのでは無くて、その肩書の大阪朝日新聞記者に対して使われたのであることは云う迄《まで》も無い。
 これが小林さんとの初対面であった。
 その後僕は朝日をやめて松竹会社の脚本部員となったが、芝居の空気が僕に会わず退社しようとし、小林さんへ、
「何かいい仕事はありませんかな」
 と、漠然とした態度で相談すると、漠然とした態度で何やら返事をされた。
 ところが数日経った時、小林さんから手紙が来た。見ると、逢いたいから来訪するようにとのことであって、ご丁寧にも阪神電車の切符が同封してあった。
 そこで僕はお訪ねした。
「ねえ国枝君、松竹を出るのは考えものだよ、松竹は今でも大したものだが、将来はもっと大したものになるのだから、わがままを起こさずに辛棒《しんぼう》したらどうかね」
 ――これが小林さんの言葉でつまり小林さんは大多忙の時間を僕のために裂いて、わざわざ僕を訓《いまし》められたのであった。
 小林さんは、それから、じゅんじゅんと訓められた。
 僕はポカンとして聞いていた。そうして、小林さんの話の切れた時、
「私は昨日松竹の方はやめて了《しま》ったんですがねえ」
 と云った。
 その通りだったからである。
 小林さんは、これには呆れ返ったらしかった。
 でも、怒りもしないで、
「そうかね、やめて了ったのかね。それじゃア浪人だね。では、東京へ行った方がいいね。大阪は、浪人に住み心地のよい所では無いのだから――そこへ行くと東京は、浪人の掃溜めのようなもので、大臣の古手なんかウザウザいるからね」
 と云われた。
 その小林さんもとうとう大臣になられた。いずれは大臣の古手になることであろうが、東京に居られるのであるから、大臣の古手になったところで住み心地はよいに相違ない。

三 白い糸

 徳冨蘆花に、『外交綺談』という著書がある。翻訳の短篇集であったような気がする。その中の一つに、白い糸をテーマにした物語があった。何んでも、ある外交官が、夜会帰りの外套の背中に、白い糸がついていたのを、ある婦人が「あなた、糸がついておりますよ」といって、取りすててくれた。さて、会場を出て、その外交官が、モスコーの通りを歩いてゆくと(この物語の舞台はロシアなのである)うしろから、人が近よって来て、その外交官を刺そうとしたが「おや、白い糸が無い」と云って外交官を刺すのをやめて立去った。……つまり、白い糸を外套につけた外交官を殺せという指令をうけた虚無党員が、それとめざした外交官を刺殺《さしころ》そうとしたところ、白い糸が無かったので、刺殺さずに立去ったというだけの話なのである。
 僕がこの物語を読んだのは、中学の初年生ごろのことであって、その後、繰返えして読んだことはない。だから、おそらく物語の筋も、原作とは違っているかもしれない。
 白い糸を取りすてた婦人は、あるいは、外交官の恋人であったかもしれない。又、その外交官は、――今の僕には記憶はないが、何か重大な使命を持った人物だったかもしれない。
 それに、第一、それだけの筋では、探偵小説にはならない(その『外交綺談』は、探偵小説集なのであった)
 それにもかかわらず、この物語が、三十年以上も、僕のアタマにつき[#「つき」に傍点]纏っていて、何か小説でも書こうとすると、きっと、アタマの隅へ浮んでくる。
 何故だろう?
 そんなに、僕の創作の圏内へ顔を出す物語なら、その著書をもう一度手に入れて、読返しもっとハッキリとその筋を掴んだらよいではないか!
 ところが、幾度となく、その『外交綺談』を、神田辺の古本屋や、夜店の見切物の古本屋で見かけるのであるが、買おうともせず、読返そうともしない。
 何故だろう?
 思うに、これは、少年時代に楽しく経験した、遊戯や、風景や、初恋などを、大人になってから、もう一度経験することによって、幻滅することを恐れるあの心理と似ているのであろう。
 さて、これはこれでよいとして、こう書いて来た順序として何か尤《もっと》もらしいことを云って、この茶話のしめくくり[#「しめくくり」に傍点]をつけたいものだ。
 こんなことを云おう。――
「外交官などというものは、天下国家に関する、重大なことばかりに、日夜、アタマを使っていて、案外、こまかい[#「こまかい」に傍点]ことには不注意らしい。昔はそれでよかったろう。しかし、国際情勢がこう複雑怪奇になった今日ではそれではいけない。やはり、一筋の白い糸にも注意していただいて、婦人に取りすてて貰う前に、自分から取りすてて貰いたい。まして、赤い糸などはね」と。――

四 骨牌の打ちかた

 ベルリン会議のはじまる前の、ある夜、ビスマルクは、露西亜《ロシア》の宰相ゴルチャコフと、私的の夜会をひらき、その席で骨牌をした。
 ビスマルクとゴルチャコフとは、それ以前から親交があったというのは、ビスマルクが露西亜駐剳の独逸《ドイツ》大使としてペテルスブルグにいた時、ゴルチャコフは、その露西亜《ロシア》の宰相であり、皇帝の無二の寵臣であり、欧洲最大の政治家、且《かつ》、大外交家として、国内にありては飛鳥をおとすような勢力を持ち、国外に於ては「政治外交の神様」とまで謳われていたところから、ビスマルクは、ほとんど師事するような態度で、ゴルチャコフに接し、その政治ぶりと外交ぶりとを自家の薬籠にとり入れ、ゴルチャコフも、その真摯な若きビスマルクの態度に好感を寄せ、何かと世話をしてやったからである。
 さて夫《そ》れから長い年月が経ち、今回のベルリン会議が開催されることになり、ゴルチャコフは露西亜《ロシア》を代表して、会議に列するため、ベルリンへ来たのであった。
 ベルリン会議とは、露西亜《ロシア》とトルコとが戦い、ステファノ条約によって平和となったところ、英国が、その条約に不安をいだき、抗議を申入れたのを、独逸《ドイツ》のビスマルクが仲裁に入り、その相談をするための会議であって、これへは、ゴルチャコフやビスマルクのほか、オーストリアの宰相のアンドラシイ、英吉利《イギリス》の宰相ジスレーリ、仏蘭西《フランス》のワジントン、伊太利《イタリー》のコルチ等、当時欧洲の堂々たる政治家たちが列することになっていた。
 ところで、ゴルチャコフは、むかし、自分の門下であったビスマルクが、この会議を主催するというので、気をよくし[#「よくし」に傍点]、充分頑張ることが出来るものと安心していた。
 しかし、この頃のビスマルクは、もう昔のビスマルクではなく、ナポレオン三世を屈伏させその鉄血外交の手腕を発揮しつつあった時であった。
 さて、夜会の席で、ビスマルクとゴルチャコフとは骨牌をした。その時のビスマルクの傍若無人ぶりはどうだったか?
 骨牌を一々たたきつけて打つ、唾を吐く、はな[#「はな」に傍点]をかむ、歯をせせる、豪然と笑う、相手を睥睨する、足踏みをして喚く、……非社交的の限りをつくしたことであった。
 ゴルチャコフの驚くまいことか!(変わったなあ)と先ず思い(まるでタイラントだ)と思い、不愉快から次第に嫌悪となり、やがて恐怖となった。何故ビスマルクは、そんな非社交的の行動をしたのであろう?
 それは、(昔は昔、今は今さ、現在の僕は、むかし、ペテルスブルグで、君の靴の紐をといた時代の僕とは違うのだよ。そのつもり[#「つもり」に傍点]でね!)
 という意味を、あらかじめゴルチャコフに知らせ、その胆を奪ったのであった。
 この事前の、ビスマルクの外交手段が功を奏し、ベルリン会議では、ゴルチャコフは、終始、意気銷沈し、ビスマルクに牛耳られた。
 その結果、ステファノ条約は破棄され、露西亜《ロシア》に不利の新条約が締結された。
 どうも是《これ》によると、外交官というものは、骨牌一つ打つにも、細心の注意をしなければいけないものらしい。

五 縦横家

 いま、支那に関する、ちょいとした著述をしているので、支那の現在と過去のことをしらべている。
 戦国時代の七国の興亡が両白い。
 戦国の七雄――秦、楚、斉、燕、韓、魏、趙、これらの国のうち六国が亡《ほろ》びて、秦に併呑されたのは、けっきょく、縦横の説を説いた蘇秦と張儀とのためだということになる。
 蘇秦という男は、最初は、連衡の策を、秦に説いたのであった。
 連衡の策というのは、秦を頭にして、楚や斉等の六国を、これに服従せしめて、天下を統一しようという策なのであった。
 ところが秦の王がその手にのらなかったので、蘇秦は、それでは合従の策を講じて秦をとっちめてやろうと、楚をはじめとして、六国の王に、その策を説いた。
 合従の策というのは、六国が同盟して、六国の力で秦を亡ぼそうという策なのであった。
 これは成功して、蘇秦は六国同盟の盟主となった。
 ところが、秦が、その切崩しに着手し、これが成功して、間もなく合従は破れ、蘇秦は逃出した。
 その後に又起こったのが、連衡の策で、それを成功させたのは蘇秦の友人の張儀という男であった。
 張儀は、友人蘇秦の合従策が成功している間は、ノンビリと構えて、秦王に仕えて、何《いず》れにも仕事をしなかった。しかし、合従策が破れるや、僕の出場所だと云って、六国を順々に廻わって連衡策を説き成功させた。
 ところが、これも間もなく破れ、六国は秦から離れて、バラバラとなった。
 面白いのは、秦をはじめ、支那の六大強国が、そんなように合従したり連衡したりしたのは蘇秦と張儀の弁舌一つにかかわっていることである。
 いかに、この二人の弁舌がすぐれていて、いかに、各国の王侯がそれに幻惑されたか。
 ところで、この二人の説の根本をなすものは、孔子や孟子のように、先《ま》ず人間個々の身を修め、それから家を治め、しかる後に天下を大平にする――などという迂遠なものでは無く、のっけに、楚なら楚の王に逢い、楚国の得点をもち上げたり、欠点を突いたりして、かくかくの楚国であるから、とても一国だけでは国家を保つことが出来ませんから、他の国々と同盟したらよいでしょう、と、説くのであった。この二人にとっては、個々の人間の道徳問題など問題でなく、国そのものの富強その他物質的方面のみが問題だったのである。
 だから、各国の王にはわかりよく、一時的ではあったが、その説は行われ、その策は具体化し、本人たちは宰相となり、父母兄弟、妻君、アニヨメ等に威張ることが出来たのである。
 これに反して、孔子や孟子などは、個々の人間が、ほんとうの人間にならなければ、天下国家は治まらないなどと、あんまり本当のことを説いたため、一生貧乏をして、時には餓死しようとした。
 さて、ところがである。蘇と張との二人が出て、その縦横の説(後世の人は、二人の説を縦横の説と呼んだ)を振《ふる》い、六国をして、合従させたり連衡させたりしたため、六国は奔命につかれ、互いに疑い合い、とうとう秦のために、次々に亡ぼされて了った。
 六国を亡ぼしたのは、秦では無くて、成上がり者の、法螺《ほら》吹きの、便乗家の、口舌の雄ばかりで真理の把持者で無い蘇秦と張儀という縦横家だったのである。

六 ウエルスの予言

 H・G・ウエルスは、現代英国の文豪というよりも、世界の文豪であることは、周知のことであり、その彼の科学小説が、単なる科学小説にとどまらず、宇宙の将来を予言している「予言文学」であることも、周知のことである。
 僕は、コーナンドイルの探偵小説と、イブセンの戯曲と、ウエルスの科学小説――この三つだけは、全部読んでいる。
 そこで、此処《ここ》では、ウエルスの科学小説のことについて、ほんの寸感を洩らすことにするが彼の『火星人の来襲』の一篇を諸君よしっかりと肚をしめて読んでみたまえ。
 それは、現在、独逸《ドイツ》が試みて成功を納めつつある「火焔砲」なるものを、ウエルスは、その『火星人の来襲』という小説に於て、二十数年前に百倍千倍にもして予言しているからである。
 その小説の筋のあらましは、一人の火星人が、地球へ降りて来て、殺人光線放射器を使い、世界中――地球全部を征服するというのである。
 不幸にしてこの火星から地球へ天下った生物は地球の気候や温度の研究におろそかだったため、細菌に食われて死んで了い地球征服は不成功に終ったのである。
 ここで注意すべきことは、火星人の持って来たような、あんな発達した殺人光線放射器が発明されたら、まったく、一人で地球を征服することが出来ることである。軍隊も、政治家も外交官も必要なくなることである。
 ところで、今度の欧洲戦争でドイツ軍は、火焔砲なる新武器を用いて、ずいぶん凄い効果をあげているらしい。
 その火焔砲は、勿論、殺人光線放射器ではなくて、単に、強烈の火焔を筒口から放射して、人間や鋼鉄やペトン等を焼きとろかすだけのものであるらしくウエルスが頭脳で創造した火星人の殺人光線放射器とは、比較すべくもない低い程度の新兵器ではある。
 しかし僕の思うところでは、ドイツの科学者は、この火焔砲発明あたりから発足して、そのうちには、おそるべき、殺人光線放射器を発明しはしまいかということである。
 まったく、ドイツの火焔砲はウエルスが頭脳の中で創造した殺人光線放射器に可成《かな》り似ているのである。
 数十年の過去に於て、飛行機や潜水艦の、今日の発達を、幾人予想したろうか?
 ところが、文学方面に於ては飛行機や潜水艦の今日の発達をちゃんと予想して、小説に書いているのである。仏蘭西《フランス》のユール・ベルヌの諸作など夫れであり、日本の押川春浪の諸作も、程度こそ幼稚ではあるが、矢張《やは》り夫れである。
 文学の或るものは予言の書といってよい。
 そうして、文学に於て予言されたことは、後年、九分九厘迄具体化されている。
 では、ウエルスの予言小説『火星人の来襲』の中に書かれてある殺人光線放射器が、やがて発明されないと誰がいい得よう。

七 後詰め

 後詰め(ゴズメ)というのは、日本の昔の戦争に於ける専門語であって、それは、Aという国がBという国を征《せ》める時、Cという友邦に向い、
「どうぞ兵を出して、私たちの軍隊の後衛をして下さい」
 と申しやる。
「よろしい」と云って、C国がA国軍を助ける意味で兵を出した時、その兵を後詰めという。
 その後詰めの兵は、ただ出兵して、ぼんやりしているのではなく、同盟軍のA国兵が不利の時には、勿論合戦に加わって力戦するのである。
 秀吉が高松城を水攻めにした時、薩摩の島津が高松城を救おうとし、出兵し、水に遮られてどうにも救うことが出来なかったが、しかしこの時の島津の兵は後詰めの兵なのである。又、尼子氏の上月城を毛利の兵が攻めた時、秀吉が上月城を助けようとして出兵した、それも後詰めの兵なのである。
 ところで、現在行われつつある欧洲大戦で、英国が、
「わしらの国が味方をするからドイツと戦いなさい、大丈夫勝ちますよ」
 とすすめて、ノールエイだのベルギイだの、ポーランドだのチェックだの、オランダだの、フランスだの、ユゴだのギリシャだの出兵したのも、後詰めの兵なのである。
 但《ただし》、これは、英国の方から、それらの国々へ、押売りをした後詰めの兵で、頼まれたから、義侠心で出した後詰めの兵ではない。だから、それらの国々が負けはじめると、そりゃこそ、とばかり、マラソン競争のような勇敢さで撤兵し、あたらしく又、後詰めの兵を押売りして、その国を地図の上から消し、そうして、その都度いくらかでもドイツの兵と物資とを消モーさせようと、キョロキョロあたりをネメ廻わす。
 およそ、世界に歴史あって以来、アングロサクソンの後詰めの兵ほど薄ッ気味のわるい、悪質の狡猾な戦略というものはない。
 兵こそ出さないが、重慶政権に対する英国のやり口が、後詰めの兵と同じである。
「わしらの国が附いている、武器でも食糧でも金でもドンドン送《お》くる、頑強に抗日をつづけなさいよ」
 と云って、ビルマルートを閉じたり、開けたりカー大使を自動車でマゴマゴさせたり、香港と重慶との空を飛行機を行ったり来させたりする。
 ところが、この頃は、英本土が、ドイツのためにあぶなくなったところから、
「わしらの方はもうアカン、そこで亜米利加《アメリカ》へ肩代りじゃ」
 と、どうやら冷淡の素振りを見せはじめた。
 後詰めの兵を、そろそろ繰引きに引き出したと同じである。
 目下、最大級に、英国の、その後詰め戦術に引っかかっているのが米国である。
 ドンキホーテ、アンクルトムは、自由主義というイスラエリズムをお題目にして、
「英国がドイツに負けたら、同じ自由主義国の我米国もあぶない」
 とばかり、今度は米国の方から、英国を後詰めしている。
 しかし、これは、老獪英国がもう後詰めの手で、自国防衛が出来なくなったので、その手をさえ、たくみに米国へ肩代りさせたまでで、カラクリの糸のあやつり主は、依然として英国なのである。

八 天才

 十九世紀には随分すぐれた外交家が出たが、そのうちでも墺国のメッテルニッヒはわけても傑物であったと思う。
 もっとも愉快に思うことは、彼が十五歳の時、ストラスブルグの大学へ入ったところ、ナポレオンが同じ学校にいて、同じ教師から数学を学んだことである。
 その後、長い年が経って、ナポレオンは仏国の皇帝となり、メッテルニッヒは墺国の駐仏大使としてパリに駐在した。
 この頂、仏国と墺国とは犬と猿のように仲がわるく、そうして墺国はそれ以前ナポレオンによって連戦連敗させられていた。そればかりでなく、ナポレオンは、この頃、大挙して墺国に侵入し、墺国をして城下の誓いをさせようと企てていたのであった。
 ところで、墺国の方はどうかというに、そのナポレオンの侵略を食い止める手段として、当時勃興の途にあった普魯西《プロシア》と同盟しようと策していた。
 ところが、その普国と墺国とは、それ以前から、隣国というところから、却《かえ》って反目嫉視し合っていた仲であった。
 そういう国際関係の渦中にあって、しかも敵国ともいうべき仏蘭西《フランス》の首府パリに在って、外交手段を揮《ふる》わなければならないのであるから、メッテルニッヒの位置は、きわめて困難であったといわなければならない。
 しかるに、後世、権謀術数の権化のようにいわれているメッテルニッヒは、その高い家柄と勝れた教養と、まれに見る美貌と、端麗な風采とを以って、堂々と振舞い、談笑の間に折衝し着々と自国の利益を計りながら各国使臣の間に嶄然《ざんぜん》頭角をあらわし、尊敬のマトとなった。仏国外相のタレーランの如きは、もっとも彼を敬重し、何彼と好意を寄せた。
 彼の堂々たる、又、円転滑脱たる外交ぶりは、ざっと次のような有様だったのである。
 難問題に就いて、彼はナポレオンと差向かいで話さなければならないことがあった。
 そうして、その難問題を、ナポレオンは容易に解決しようとしなかった。
 全欧洲が、獅子のように恐れ憚《はばか》る大皇帝と、マキャベリズムの実行者のような三十三歳の大外交官とは、そこで、しばらく沈黙した。千両役者同志の腹芸なのである。
 卒然とメッテルニッヒはいった。
「陛下は、ストラスブルグの大学におられた頃から、数学の天才として有名でございましたな」
 すると、ナポレオンは、眼へ水でもはじき込まれたような顔をして、
「そういえば貴官もその頃、同じ大学にいたように思うが……」
「さようでございます。……ですから私は、陛下とは同校のよしみある者でございます」
 皇帝ナポレオンの態度は、俄《にわか》に、十五六歳の、イタズラ小僧のような、昔懐かしい態度にかわり、
「さようさよう同校生じゃ」
「陛下は、数学の天才の他に、もう一つ天才があるというので評判でございました」
「何かな?」
「陛下が、乳屋の娘へおやりになりました恋文が、たいへん名文だというので……」
 この時のナポレオンの顔を、なぜ当時の宮廷画家はスケッチして置かなかったのであろう。
 メッテルニッヒは云いつづけた。
「陛下は、数学の他に、文章の天才だという大評判だったのでございます。……特に婦人におつかわしになる文章が……」
「もうその辺でよろしい」
 難問題は、数日後、墺国に有利に解決したそうである。

九 裏の事情

 今度の独ソ戦争で、常識的に思い出されるのは、ナポレオンのモスコー遠征であろう。
 ナポレオンがモスコーを遠征したのは、即ち、露国を征伐したのは、勿論、ナポレオンの英国に対する封鎖政策に、露国が協力しなかったのが大きな原因なのであるが、それ以外に、小さないくつかの感情問題があったのである。
 そうして夫れは、女と外交官に関係あることなのである。
 第一には、ナポレオンが、皇后ジョセヒンに子がないところから、これを離別し、露国皇帝の皇妹を皇后として迎えようとしたところ、露帝アレキサンダー一世は、大体承諾したが、皇太后が反対して成立せず、それをナポレオンが心よく思わなかったことである。
 第二は、その露国皇太后が音頭取りで、国内に排仏熱を高め、駐露仏国公使サバリーに対し、皮肉な、陰険な、女性的迫害を加え、首都ペテルブルグ中で、泊るに旅館の一室をも貸与しないような酷遇をしたことである。
 ところが、このサバリーが、又、めずらしい、女性的な、愚痴っぼい外交官で、そういう自分に対する私的の迫害を一々本国へ通知し、それがナポレオンの感情を害した。
 その結果、仏国内には、露国懲すべしの声が、徐々に起った。
 これに対して心痛したのが、駐仏露国公使のクラキンで、クラキンは、本国に向い、仏国内の排露熱を報じ、今に於て、ナポレオンの増長慢の心を砕かなかったならば、露国に対して何をやりだすかわからないと警告した。
 そこで、アレキサンダー一世は、剛頑の大官チェルニシェフを特派大使として仏国へ派遣した。
 世界征服を心掛けているナポレオンと、剛頑のチェルニシェフが逢ったのである、事々に折合わなかったのは当然で、為めにナポレオンの露国に対する悪感情は倍加した。
 このナポレオンの心情を洞察して、ナポレオンを駆って、露国征伐の暴挙をさせようと、裏から策動したのが、墺国の大外交家で、梟雄ともいうべきメッテルニッヒであった。
 彼は、これ以前に、ナポレオンが露国皇妹をめとり損なったと見るや、ナポレオンに、墺国の皇女マリア・ルイゼをめとるよう慫慂《しょうよう》し、墺国皇帝に対しても、政策上、ルイゼ姫をナポレオンへ人身御供とすべきよう進言し、これが成功して、欧洲第一の名家、ハプスブルグ家の姫君は、コルシカ島の成上がり者の配偶となったのである。
 曠世の英雄ナポレオンも、マリアを皇后に迎え一子、羅馬王を儲けてからは、わが秀吉が淀君を妾とし、秀頼を儲けて以来、いささか凡人に還ったように凡人化し、マリア皇后の歓心を買うためには、どんなことでもやろうという心持ちになっていた。
 それへ付けこんだのがメッテルニッヒで、
「新皇后のお心をよろこばせるためにも、一つ、はなばなしく露国をたたきつけて……」などと焚きつけた。
 こうして起ったのが露西亜《ロシア》遠征で、その結果は失敗した。

十 残心

 剣道に於て、残心(ザンシン)ということは重大のことになっている。私もすこし剣道のことを知っているので、残心のことに就いて書こう。そうして残心は、剣道ばかりでなく、人生いっさいのことに有用である。だから、一国の運命を背負っている外交官などには特に必用なのである。それで、残心のことを書く。
 宮本武蔵が、佐々木岸柳を、木刀で真向を打って斃《たお》した。「それから、しばらく様子を見ていたが、やがて、ソロソロと進み岸柳の鼻へ、手をかざし、その生死をたしかめ」それから、はじめて、検分の人々へ一礼し、船に乗って立去った。
「 」この記しのある間が、残心なのである。
 今度は、残心の無かった外交問題に就いて書く。その一つは……
 日清戦争後に、露、仏、独の三国が連合して、日本に対し、遼東半島を支那へ還附すべく、理不尽の交渉をして来たのに対し、日本が寝耳に水の如くに驚き、その意に従った事。
 第二は、日露戦争が終了し、小村侯が米国で、ウイッテ相手に講和談判をやっている時、米国の鉄道王ハリマンが日本へやって来て、日本の元老連を説き折角日本国民が血を流して取った満鉄を、買い取ろうとした。元老連はそれを承知して、仮調印をした此事である。(幸いに、この事はその直後に帰朝した、小村侯によって、覆《くつが》えされたが)
 さて。こう書いて来て、残心とは何んぞやということに就いて説明しよう。
 残心とは――
 一つの事を遂行し(即ち、武蔵が、岸柳を打殺した事や、日清、日露の戦争に於て、日本が勝った事や)の後に於て、果たして、打殺したか、果たして勝ったか? と、たしかめる事、是である。
 これが残心である。然り、これが残心の一つである。
 もう一つは――
 打殺したにしても、又、勝ったにしても、その後から、その反動が来はしまいかと、よく周囲を見廻わして、その反動に対して用心をする事。
 是である。
 然り、是が、残心の第二である。
 わが国民のホープ、日本外交界の獅子、松岡さんは、一面、大布呂敷を拡げながら、他面、細心、緻密の人として定評がある。残心に就いても特に留意しておられることとは思うが、独ソ戦争の惹起した今日に於ては、一層の戒心をわずらわしたい。
 但し、残心のみに心を止めれば、臆病となって、革新も進取も不可能のこととなる。

底本:「国枝史郎歴史小説傑作選」作品社
   2006(平成18)年3月30日第1刷発行
底本の親本:「外交」
   1941(昭和16)年3月1日、3月11日、3月21日、4月1日、5月1日、5月21日、6月1日、6月21日、7月1日、7月11日
初出:「外交」
   1941(昭和16)年3月1日、3月11日、3月21日、4月1日、5月1日、5月21日、6月1日、6月21日、7月1日、7月11日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿和泉拓
2010年11月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

高島異誌—– 国枝史郎

妖僧の一泊

「……ええと、然らば、匁という字じゃ、この文字の意義ご存知かな?」
 本条純八はやや得意気に、旧《ふる》い朋友の筒井松太郎へ、斯う改めて訊いて見た。二人は無聊のつれづれから、薄縁《うすべり》を敷いた縁側へ、お互にゴロリと転りながら、先刻から文字の穿鑿《せんさく》に興じ合っているのであった。
「匁という文字の意義でござるか? いやいや拙者不案内でござるよ」
 松太郎は指で額を叩き、苦笑しながら左様云った。
「然らばご教授申そうかの――匁と申す此文字はな、何文の目という意義でござるよ。つまり文〆《えみじめ》と書くべきを略して此様に書き申す」
「ははあ、文〆の略字かの。如何様、是は尤じゃ」
「何んと古義通ではござらぬかな」
「天晴古義通、古義通じゃ」
 仲の宜い二人は笑い合い、何んの邪気も無く褒め合った。
 先刻から門前に佇んで、鈴を鳴らしていた托鉢僧――頭髪白く銀《しろがね》のように輝き、皮膚の色も白く鞣革のように光った、老いた威厳のある托鉢僧は、其時何んと思ったか、つかつかと門の内へ這入って来たが、
「失礼ながら匁の穿鑿、ちと曖昧でござり申すよ」
 斯う云うと縁側へ腰をかけた。
「これはこれは旅の僧、匁の字に異議ござるとの?」
 純八はヒョイと起き直り、老僧の顔をまじまじと見た。
「いやいや決して異議ではござらぬ、誤りを正てあげるのじゃ」
 僧は優しく笑ったが、
「匁は文〆の略字では無うて、銭という字の俗字でござる。これは篇海にも出て居ります哩。又、説文長箋には泉という字の草書じゃと、此様に記してもござります哩。而て泉は銭に通ず、即ち、匁は銭と同じじゃ」
 傍引該博のこの説明には、純八も松太郎も一言も無く、すっかり心から感心した。
 で、純八は座敷へ請じて、茶を淹れ斎《とき》を進めたりして、懇《ねんごろ》に僧を待遇したが、
「偖、ご老僧、承わり度いは、歳の字と才の字の異弁でござるが、拙者、先日迄、才の字こそは、所謂歳の字の当字であろうと、斯う思い込んで居りましたところ、頃日、名家の墨跡を見、歳の字の件《くだり》まで参りました所、才の字が書かれてございました」
「それとて当字ではござらぬよ。即ち、才は哉の古字、而て哉は戴に通じ、尚又戴は歳の字と同意義、自然才の字は歳の字に通じ、二者は全く同一字でござる」
 そこで純八は復《また》訊いた[#「復《また》訊いた」は底本では「復|訊《また》いた」]。
「拙者は此土地の郷士でござって祖父の代までは家も栄え、地方の分限者でござりましたが、父の世に至って家道衰え、両親此世を逝って後は、愈々赤貧洗うが如く、ご覧の通り此拙者、妻帯の時節に達し居り乍ら、妻も娶《めと》れぬ[#「娶《めと》れぬ」は底本では「聚《めと》れぬ」]境遇ながら、文武の道のみは容易に捨てず、学ぶ傍子供を集めて、古えの名賢の言行などを、読み聞かせ居る次第にござりますが、「童子教」という、古来よりの著書《ふみ》、覚え易く又教え易き為、子供に読ましめ居ります所、内容余りに僧家の事のみ多く、且、如何わしい説なども有って、聖賢の名著とは思われず、此儀如何にござりましょうか?」
「左様、名著ではござらぬの。取るにも足らぬ俗書でござる」
 僧は言下に弁えたが、
「とは云え此書著名と見え、早く唐土にも渡り居り経国大典巻の三に「倭学に在りては童子教庭訓往来こそ最も優れ……」と、既に申して居るとこを見ると、俗間の書としては久しい間、行われて居たものと思わるるよ」
 純八、松太郎の二人の者は愈々心に驚いて、益々僧を尊敬したが、分けても純八は学問好きの為めか僧を懐しくさえ思うようになった。
 で、松太郎の帰った後、尚何時迄も引き止めて、更に様々問答したが、永い六月の日も暮れて点燈《ひともし》頃になったので、俄に僧は立ち上がり謝辞を述べて帰えろうとした。と、困難の修行の旅が老齢の彼を弱らせてたものか、我破と縁先へ転って、口から夥しく穢物を吐いた。
「や、これはご病気と見える。まずまず座敷へお這入りなされて暫くご安臥なさりませ」
 純八は老僕に手伝わせ、急いで褥を設けると、老僧を中へ舁き入れたが、是ぞ本条純八をして、数奇の運命へ陥らしむる、最初の恐ろしい緒《いとぐち》なのであった。

山なす財物

 純八は老僕の八蔵を、医師千斎の許へ走らせた。
 間も無く遣って来た千斎は、静かに老僧の脈を数え、暫くじっと考えていたが、
「鳥渡お耳を」
 と囁いて、隣室まで純八を誘った。
「何んと本条殿、あのご老僧は、貴殿のご縁辺ででもござるかな?」――声を窃《ひそ》めて先ず訊いた。
「いや縁者でも知己でもござらぬ。しかも今日|邂逅《おめにかか》ったばかりの、赤の他人でござりまするがな……」――純八は幽《かすか》に眉をひそめ「何か老僧のご病気に就き不審の点でもござりまするかな?」
「左様、些不審ではござるが、夫れは又夫れとして何れ千斎、研究致す事として、兎に角至急あの御僧を門外へお移しなさりませ」
「それは又何故でござるかな?」
「いやいや何故も兎角も不用、一刻も早く追い出しめされ」
「それは不仁と申すもの、理由の説明無いからには、左様な不親切は出来ませぬ」
 純八は首を振るのであった。すると千斎は気の毒そうに、
「御身の上に恐ろしい災難が振りかかっても宜しゅうござるか?」
「他人に好意を尽くすことが、何んの災難になりましょうぞ!」
「その好意もよりきり[#「よりきり」に傍点]じゃ」――千斎はいとも苦々しく「悪虫妖狐|魑魅魍魎《ちみもうりょう》に、何んの親切が感じられようぞ。寸前尺魔、危険千万、愚老は是でお暇申す。貴殿もご注意なさるがよい」
 気にかかる言葉を後に残して、医師千斎は帰って行った。
「悪虫妖狐魑魅魍魎に何んの親切が感じられようぞ? ハテ、これは何ういう意味であろう?」――純八は口の中で呟いて、多少心にもかかったが、再び病室へ取って返えし、今はスクスクに睡っている気高い老僧の顔を見ると、からり[#「からり」に傍点]と心が澄み返えり、何時かそんな言葉を忘れて了《しま》った。
 その翌日のことであったが、僧は褥から起き上がり、昨夜からの介抱の礼を述べたが、縁側へ出て草鞋を穿こうとした。
 驚いたのは純八で、周章《あわ》てて衣の袖を引き、
「是は何んとなされます? よもやご出立ではござりますまいな?」
「いやいや是でお暇でござる」僧は微妙な笑い方をし、「是非発足たねばなりませぬ。と申すのは此辺に愚僧の敵がござるからじゃ。いやいや長袖と申す者は、変に意地くね[#「くね」に傍点]の悪いものじゃ。貴殿もご用心なさるがよい。あの千斎とか申す薬師、ろく[#「ろく」に傍点]な者ではござらぬ依って……が貴殿のご親切は愚僧決して忘れは致さぬ。恐らく直ぐにも好いご運が御身に巡って参ろうと存ずる。ご免下されい。おさらばでござる」
 斯う云うとスックと立ち上がり、スタスタ往来の方へ足を運んだが又口から穢物を吐き出した。併《しか》し老僧は見返りもせず、門から外へ出て行った。と最う姿は見えないのである。
「お気の毒にもご老僧は未お体が悪いと見える」――斯う云い乍ら門の方を暫く純八は見送ったが、軈て僕《しもべ》の八蔵を呼んで其穢物を掃除させた。
 八蔵は何か口の中でぶつぶつ不平を云っていたが、主人の命令に従って鍬で其辺の土を掻いた。カチリと鍬の刄に当たるものがある。見ると手頃の銀環である。その銀環をぐい[#「ぐい」に傍点]と引くと、革袋の口が現れた。
「これは不思議」と縁から下りて、純八も八蔵へ手を貸して、共に銀環を引っ張った。二人の力を合わせても、革袋は動こうともしないのである。つまり夫《そ》れ程重いのである。
「何が這入って居るのであろう?」
 純八は好奇心に促され、引くのを止めて短刀を抜き、袋の口を切り払ったが、その瞬間に鋭い悲鳴が「が――ッ」と切口から聞えて来た。併し不思議は夫ればかりで無く、見よや巨大の袋の中には黄金ばかりが張ち切れる程に一杯に充ち満ちているではないか!
「偖こそ昨日の老僧は仏菩薩の化身であったよの! 我の貧困を憐み給い巨財をお授け下されたのであろうぞ! 南無阿弥陀仏」
 と思わず知らず、純八は念仏を申したが、果して彼の思った通り、数えもされぬ程の其財宝は仏菩薩よりの贈物であったろうか?
「いや!」
 と医師の千斎だけは、その好運を否定《うべなわ》なかった。
「それこそ妖怪の誘惑でござるよ。すべて災難の参る時は、多くは最初には夫れと反対に、好運めいたものが参るものでござる。お気の毒な、純八殿じゃ。妖魔に魅入られて居られやす哩。が夫れにしても彼の老僧抑々何物の変化であろう」

蟇の池の怪

 斯ういうことのあったのは、元禄十五年六月のことで、諏訪因幡守三万石の城下、高島に於ける出来事である。
 偖《さて》、斯うして巨財を贈わった。本条純八は、是迄の貧しい生活を捨てて、栄誉栄華に日を送る事を、何より先に心掛けた。
 この物語の原本たる「異譚深山桜」には、其時の事を次のように、美しい文章で書いてある。
「(前略)……彼の歓喜限り無く宛《さなが》ら蚊竜時に会うて天に向かつて舞《のぼ》るが如く多年羨み望みたる所の家財調度を買求め、家の隣の空地を贖ひ、多くの工匠を召し集めて、数奇を凝らせる館を築けば、即ち屏障光を争ひ、奇樹怪石後園に類高く、好望佳類類うもの無し。婢僕多く家に充ち、衆人を従へて遊燕すれば、昔日彼の貧を嫌つて、接近を忌みたる一門親族も[#「一門親族も」は底本では「一門親も」]後に来つて媚を呈す。云々……(下略)」
 要するに、彼は一朝にして、王侯の生活に達したのであった。で成金の常として幾人もの妾を蓄えたが、笹千代という二十歳の美婦を専《もっぱ》ら彼は寵愛した。
 斯うして彼の好運は、先拡りに益々拡り、容易に崩れそうにも見えなかった。併し老医師千斎ばかりは、あの時以来足踏みをせず、純八の噂の出る毎に、
「いやいや誠の栄華ではござらぬ。魑魅魍魎の妖術でござるよ」
 斯う苦々しそうに云い放し、彼の運命を気遣うのであった。幼馴染の筒井松太郎は、以前《むかし》に変らぬ友情を以って絶えず彼の許を訪れたが、是も時々小首を傾げ、
「ハテ、此素晴らしい好運は、一体何時まで続くのであろう?」と、不安そうに呟く事があった。
 斯うして一年は経過ったが、其時大きな喜が復も純八に訪れて来た。それは笹千代が男の子を儲けたことで、早速吉丸と名を付けて、宝の様に慈愛《いつくし》んだ。美しい女、不足無い衣食、そうして子さえ出来たので[#「ので」は底本では「の族で」]、心ゆくまでの大栄華に、彼は浸る[#「浸る」は底本では「侵る」]ことが出来たのである。
 彼の館の庭園に古い広い池があった。以前空地であった頃から其池は其処に在ったので、其頃から其池は人達によって、「蟇の池」と呼ばれていた。夫れは巨大な無数の蟇が其処を住家にして住んでいるからで、そう云えば本当に初夏の候になると、水草の蔭や浮藻の間に、疣々のある土色の蟇や、蒼白い腹を陽にさらして、数え切れない程の沢山の蟇が住んでいるのが、彼にも見えた。
「蟇というものは一見すると無気味じゃが、よく見ると仲々雅致がある。決して池の蟇は殺してはならぬ」
 純八は家人へ斯う云い渡して、却って蟇の保護をした。
 然るに此処に困った事には、その池の蟇を捕えようとしてか何処からとも無く無数の蛇が、庭園の中へ集まって来て、女子供を驚かせたり、縁や柱へ巻き付くので、尠《すくな》からず純八は当惑し、見付ける端から殺させたけれど、蛇は益々増るばかりであった。
 と云って蟇を殺すことは、純八は何うしても許さない。
 斯うして三年目の夏が来た。
 其時事件が起ったのである。
 それは夕立の晴れた後の、すがすがしい午後のことであったが、三歳になった吉丸は母の笹千代に連れられて、池の畔《みぎわ》を歩いていた。すると草叢から一匹の蛇が、紐のようにスルスルと走り出たが、ハッと思う暇も無く吉丸の足へ巻き付いた。
「あっ」
 と驚いた笹千代は、自分も長虫を嫌う所から、消魂く人を呼び乍ら、一間余りも飛び退ったが、どぶん[#「どぶん」に傍点]という水音に驚いて、ギョッとばかりに振り返って見ると、吉丸の姿が見当らぬ。
 池の岸まで走り返えり、じっと水面を隙かして見れば、どこよりも蒼い水の面に、一に小さい波紋があって、次第々々に大きくなり、やがて幽に消え失せたが、正しく波紋の真中には、いたいけ[#「いたいけ」に傍点]な吉丸の死骸が沈んでいるに相違ない。
 彼女の声に驚いて、純八を初め家婢下男共は、周章てて其場へ駈けつけて来たが、早速には何うする事も出来なかった。
 これぞ最初の不幸なのである。

妖僧再び出現

 併し最初の此不幸は、意外な物の救助《たすけ》に依って、不思議にも恢復《とりかえ》す事が出来た。
 それは、其夜の事であるが、嘆き疲れた純八が、思わず睡眠《まどろ》んだ其際に、一つの夢を見たのである。
 夢の主人は蟇であった。蟇は大きさ人間ほどもあったが、前脚二本で溺れ死んだ筈の吉丸を、さも大事そうに抱いていたが、幾度も幾度も辞儀をして、偖夫れから斯う云った。
「私事は〈蟇の池〉に住む多くの蟇の主でございますが、貴郎様には此年頃、大方ならぬ保護を受け、有難く存じて居りました所、今日計らずも若様が、水に溺れようとなされましたので、ご恩報じは此時と思い、お助け申しましてござります。いざお受け取り下さいますよう……尚又もしお館様に此後ご災難などござりました際には、私の力の及ぶ限りは、必ずお力になりましょう程に、お心安く覚し召せ」
 云って了うと蟇の姿は、幻のように消えて失せ、スヤスヤと眠っている吉丸ばかりが、布団の上に置いてあった。
 二度目の災難の起こったのは、それから十日程経った時で、厨《くりや》の方から火が起こり、館を灰燼に為ようとした。其時不思議や池の水、忽ち条々と噴き上がり、焔に向かって降りかかったので、さしもの劫火も[#「劫火も」は底本では「却火も」]瞬間に其勢力を失って、無事に館は助かった。斯うして不安の夏も逝き、秋の初めになった時、遂々恐ろしい没落が純八の身の上に落ちて来た。
 それは後園の藤袴が空色の花を枝頭に着け、築山の裾を女郎花が、露に濡れながら飾るという如何にも秋めいた日のことであったが、純八は一人池の周囲をのんびり[#「のんびり」に傍点]した気持で歩いていた。
 と、裏門がギーと開いて、三年前に初めて逢い、彼に福徳を授けて呉れた白髪|皓膚《こうふ》[#ルビの「こうふ」は底本では「こうひ」]の托鉢僧が、そこから忽然と這入って来た。
「お、これはご老僧。ようこそお出で下されました」
 と、死んだ親にでも逢ったように、大袈裟に純八は喜び乍ら、手を拡げて其方へ走り寄った。
 併し老僧は挨拶もせず、只凝然と立っている。昔の俤と変りが無いが頸の辺に太刀傷が一筋細く付いているのが、些昔と異っている。
「どうじゃな?」
 と僧はやがて云った。
「今の境遇は楽しいかな」
「はい」と純八は慇懃に、
「此上も無く結構でござります」
「成程」
 と僧は笑い乍ら「何時迄も今の境遇に坐っていたいと思うかな?」
「何時迄も居り度うござります」
「成程」
 と僧は復笑って「併し私にはそうは見えぬ、お前は何うやら厭飽《あき》たらしい」
「いえいえ、そんな事はございません」
「では何故善根を積まぬのじゃ?」
「え、善根と仰有いますと?」
「殺生などをしない事じゃ」
「決して殺生などは致しませぬ」
「お前は蛇を殺すじゃないか」
「あれは悪虫でございます故……」
「ふん」と僧は嘲笑った。「それが大変な間違いじゃ。蛇は決して悪虫では無い。……ましてお前の身の上に執っては大変為になる虫なのじゃ!」
 僧は暫く考えていたが、
「お前の好運は尽きたのじゃぞ!」
 と不意に鋭く叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]した。
「栄枯盛衰の移り変りの如何に劇《はげ》しく恐ろしいかという事を、汝其処に居て見るがよいわ!」
 僧がポンポンと手を拍った。
 と其刹那高楼の四方から焔々たる大火燃え上ったが、忽ち館は烏有に帰した。
「異譚深山桜」には、其時の事を次のように、哀れ深く書いてある。
「(前略)妖火静まつて後を見れば、寂寥《せきりよう》として一物無く、家屋広園悉く潰え、白骨塁々雑草離々人語鳥声聞ゆるもの無し。而て白骨は彼の家人、即ち妾婢幼児なりき。
 彼唖然として心茫々、回顧すれば老僧の姿、又|※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2-1-57]忽《しゅっこつ》[#るびの「しゅっこつ」は底本では「しょこつ」]として消亡す。(下略)」
 つまり恋しい笹千代も恩愛限り無い吉丸さえ、彼は失って了ったのであった。如何に彼が驚いたか、どんなに彼が悲しんだか、敢てそんな事は筆を改めて説明するにも及ぶまい。――斯うして彼は一切の栄華、総ての物を失ったのであった。

美人と童子

 一朝にして王侯の生活、再転して乞食の境遇。昨日の繁栄は今日の没落、本条純八は暫くの間は夢|現《うつつ》の境に彷徨したが、此の著しい変転は却って彼には良薬となり、俄然精神が一変し、現世の悦楽を求むる代りに、虚無融通の神仙道に、憧憬の心を運ぶようになった。
 昔のままに残っている先祖から譲られた廃屋《あばらや》に住み、再び近所の子供を集めて、名賢の教えを説く傍山野の間を跋渉して、努めて心胆《こころ》を鍛錬した。
 喜んだのは医師千斎で、
「これこそ誠の生活というものじゃ」
 斯う云って彼は元通り繁々足を運ぶようになった。筒井松太郎は云う迄も無く無邪気な仲のよい友達として、毎日のように訪れて来る。一度魔道に入り乍ら、よく改心した賢者だというので却って人々は尊敬する。
 で、一年も経った頃には、彼も何時しか昔の事を忘れて、村風子の身の上を喜ぶようになった。
 斯うして復も一年経ち、梅の花の咲く春となった。千里鶯啼いて緑紅に映ず、水村山郭酒旗の風――郊外の散策に相応い、斯う云ったような季節になったのである。
 で彼は或日一瓢をたずさえ、湖水の岸に添い乍ら小坂の観音の方へ彷徨って行った。
 目指す境内へ着いたは、日暮に近い頃であって数百年を経たらしい梅の老木が、千孕万孕の花を着け、夕陽に皓々と照り栄えている様子は、例ようも無く美しかったが、参詣の人も花見の人も悉く絶えて影も無かった。
 純八に執っては人の居ない事が、却って好都合で有難く、飽かず其辺を逍遙しながら、静かに歌を考えたりした。
 斯うして今の時間にして二時間余りも経った時、既に充分興を尽くしたので、彼は家路に就こうとした。
 すると、忽どこからとも無く、
「純八殿、純八殿」と呼ぶ者がある。
「何人《どなた》でござる?」
 と怪しみ乍ら、純八は四辺を見廻わした。人の居るような気配も無い。で復彼は歩き出した。と復同じ声がして、
「純八殿、純八殿」と呼び掛ける。夫れはどうやら梅の古木の洞穴の中から来るようである。
 彼は不思議に思い乍ら、洞穴の方へ近寄って行った。そして其前に立ち乍ら、
「何人でござるな? 呼びなされたは?」
 斯う云って声を掛けて見た。すると、其時、見覚えのある、例の老僧が洞穴の中から、ヒョイと半身を現したが、
「愚老でござるよ。お忘れかな?」
「や、これはあの時のご僧※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「いかがでござるな、ご気嫌は?」僧はニヤリと笑い乍ら「どうやらお変りも無いようじゃの?」
「爾来、平穏無事でござる」
「それは何より結構じゃ。……どうじゃな、拙宅へ参られては?」
「ご庵室は何処にござりますな?」
「此洞穴の根方にござるよ。どうじゃな直ぐに参られては?」
「珍らしい事でもござりますかな?」
「其方の妻子にお引合せ致そう」
「え?」と純八は思わず叫び、一足僧の方へ近寄ったが、「ナニ、笹千代と吉丸とが、尚生きて居ると仰せられますか?」
「其方を待ち兼ねて居られるのじゃ」
「ご案内下されい! 妻子の許まで!」
 純八は斯う云うと身を躍らせて、洞穴の中へ飛び込んだ。
「此方じゃ、此方じゃ」
 と、老僧は、純八の前に立ち乍ら、足を早めて走り出した。其後の事は「異譚深山桜」に、次のような文章で記されてある。
「……白光仄々たる一条の路を、僧に従つて走り行けば、十町余にして一天地に出づ。天蒼々と快く晴れ、春日猗々として風暖く、河辺、山傍、又田野には、奇花芳草欝乎として開き、風景秀麗画図の如し。行く行く一座の高楼を見る。巍々たる楼門、虹の如き長廊、噴泉玉池珍禽異獣、唱歌の声は天上より起こり、合唱の音は地上より湧く、忽ち、美人と童子とありて、遙かに望見して一揖す。即ち、笹千代と吉丸のみ。云々(下略)」
「あっ」
 と純八は夫れを見ると、喜びの声を上げ乍ら、二人の居る方へ走り出した。笹千代も吉丸も夫れと見ると、是も喜んで走り寄って来たが、俄に足を止めて指さした。そして大声で斯う叫んだ。
「お逃げなさい! お逃げなさい!」と。
 純八はハッと気が付いて、背後の方を振り返った。
 見よ! 背後には僧は居ずに、皓々と輝く一匹の巨蟒《うわばみ》、数間に延びたる蛇体の一部に、可笑くも墨染の法衣を纏い、純八を目掛けて一文字に、矢のように飛び掛かって来るではないか!

歯の無い口

「偖こそ妖怪!」
 と純八は、腰の太刀に手を掛けると、キラリとばかりに抜き放した。途端に飛びかかる蟒《うわばみ》の胴を颯と斜めに切り付ける刹那、太刀は三段にバラバラと折れた。
「南無三宝!」
 と飛び退いた折しも、
「お逃げなさい!」
 と叫ぶ声が、背後の方から聞えて来た。
「もう逃げるより仕方が無い」
 純八は一散に走り出した。元来た方へ走るのである。走り乍ら振り返えると[#「振り返えると」は底本では「振り退えると」]、シューッ、シューッと音を立て乍ら、蟒は後から追っかけて来る。「追い付かれては一大事!」と、彼は今は見返えりもせず、命限り走って行く。行手に梅の古木があり、根元に一箇の洞穴がある。洞穴へ飛び込んだ。と、その瞬間、月の光の、ほのかに地上を照らしている、小坂観音の境内が、彼の眼前へ現れた。
「あら有難や、魔界を遁がれたは!」
「恐ろしいか! 本条純八!」――嗄れた声が背後から呼ぶ。
「何を!」
 と彼は振り返った。梅の古木の洞穴から、僧が半身を現しながら、歯の無い口を大きく開けて、声を立てずに笑っている。
「己れ妖僧!」と小刀を抜き「覚えたか!」と切り付けた。
 夥しい臭気が洞穴の中から、煙のように噴き出したかと思うと、妖僧の姿は既に消えて、斯う叫ぶ声ばかりが聞えて来た――
「……俺との縁は是で切れた! 安心しやれ安心しやれ!」嗄れた笑声を響かせたが「女の切髪気を付けよ、気を付けよ!」
 その後は森然《しん》と物寂しく、何んの音も聞えない。ただ月明に梅花ばかりが白く匂っているばかりである。

「それはさぞ恐ろしゅうござったろう」医師千斎は純八の口から、以上の物語を聞かされると、身の毛も[#「身の毛も」はママ]慄立てて驚いた。そうして暫時考えていたが、
「今後は充分注意なされて、二度と再び妖怪共に魅入られぬようなさりませ。今度魅入られたら一大事、二つ無い命を取られようも知れぬ」
「いや充分に気を付けましょう」
「当分外出などはなさらぬがよい」
「仰せに従い此処一、二ヶ月は、家に籠ることに致しましょう」
 其処へ松太郎も訪ねて来たが話を聞くと斯う云った。
「小坂の観音の梅の古木こそ、ちと怪しいではござらぬかな」
「左様、恐らく洞穴にこそ、妖怪は籠って居るのでござろう」千斎老医も頷いて云った。
「調べて見ようではござらぬかな。その梅の木の洞穴の中を」松太郎は千斎に斯う云った。千斎は手を揮《ふ》り、顔色を変えたが、
「滅相も無い事仰せられるな。迂濶にそんな事為ようものなら、それこそ悪神の怒りに触れて、どのような兇変を受けようも知れぬ。お止めなされい! お止めなされい!」
 すると松太郎はカラカラと笑い、
「たかが妖怪ではござらぬか。何んの兇変など受けますものか」
「いやいや夫れは広言というもの。現に此処に純八殿が災難を受けられたではござらぬか」
「拙者の言葉が広言とな?」松太郎は苦い顔をしたが、自然言葉も荒くなり、「広言か否かは試した上の事! 憚ながら此松太郎には、五分の隙もござらねば、妖怪の魅入る可き道理ござらぬ!」
 すると今度は純八が、ムッとしたような顔をしたが、
「これは筒井殿お言葉じゃ、然らば拙者には魅入られるような、武道の隙間ござったのかの?」
「左様」
 と、売言葉に買言葉、つい松太郎は云い切った――
「左様、隙間があったればこそ、魅入られたのでござろうがの」
「益々以って異なお言葉、親友とて聞捨てならぬ! 先ず聞かれい筒井殿、これが人間と人間との、相対太刀討又は議論に、打ち敗かされたと申すなら、いかにも武道不鍛錬の隙間と申されても為方ござらぬが、名に負う相手は妖怪でござる。しかも神変不思議の術を自在に使う恐ろしき奴! 魅入られるのは不可抗力じゃ! なんと左様ではござらぬかな?」
 併し松太郎は嘲笑って益々自説を固執した。
「いやいや人間であろうとも乃至は鬼畜であろうとも相手としては、同じ事じゃ! 不可抗力などとは卑怯な云い分……」
「黙れ!」
 と、突然喝破して、ムックリ純八は立ち上がり、刀の束へ手を掛けた。

仲秋三五の月

「おお、果たし合いか! 心得たり!」
 時の逸《はず》みで松太郎も、刀を執らざるを得なかった。
「卑怯な云い分とは無礼至極! いざ庭へ出よ、討ち果して呉れよう!」
「そう云う頬げた[#「頬げた」に傍点]、いで此方こそ!」
 二人はあわや[#「あわや」に傍点]一足飛びに座敷から庭へ飛び下りようとした。
「ま、ま、暫く、お待ちなされい!」
 驚いたのは千斎で、しっか[#「しっか」に傍点]と二人の裾を握りいかな[#「いかな」に傍点]放そうとしなかった。
「驚き果てた振舞いな! 太刀持たれて何んとなされるぞ! 昨日今日の友垣では無し、幼馴染ではござらぬか! 卑怯と云われたとて恥しゅうも無いし討ち果たして呉れようと云われたとて、怒る可き筋がござろうか! まずまず笑って水に流されい! さあさあニッコリとお笑いなされい」
 成程、このように云われて見れば、如何にもそれに相違無かったので、二人は無言で刀を置いた。そうして間も無く松太郎は辞し去り、事は穏便に治ったが、その時以来|蟠《わだかまり》が二人の間には出来たのであった。
 斯うして春去り夏来たり、その夏も去って凉風の吹く秋の季節とはなったのである。

 それは仲秋三五の月が、玲瓏たる光を地上に投げ薄尾花の花の蔭で、降るように虫の鳴きしきる、一年に一度の良夜であったが、長い間の物忌から、すっかり欝気した純八は、その籠もった気を晴らそうものと、一人ブラリと家を出て、山手の方へ歩いて行った。
 小さい峠を一つ越して、杉林の中へ這入って見た。
 と、一つの辻堂がある。
 辻堂の縁へ腰を掛け、彼は無心で月を見乍ら、低声で小唄を唄っていた。人気が無いので四辺は静かで枯葉の落ちる些かの音さえ、はっきり[#「はっきり」は底本では「はっかり」]耳に聞えて来る。
 すると、其時、スタスタと、立木の間を潜りながら近付いて来る人影がある。見れば美しい手弱女《たおやめ》で、髪豊に頸足白く、嬋娟《せんけん》たる姿、※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]たける容貌、分けても大きく清らかの眼は、無限の愁いを含んでいて見る人の心を悩殺する。年は凡そ十九ぐらい、高価の衣裳を着ている様子は、良家の令嬢と思われた。
 純八の居るのに気が付かぬかして、辻堂の前まで歩いて来ると、うずくまり乍ら合掌し、熱心に何事かを祈っていたが、その声はどうやら泣いているらしい。
 やがて彼女は立ち上がった。が復直ぐに地面に坐り、また其処で暫く歔欷《きょき》したが、遂に懐中から懐剣を取り出し、あわや[#「あわや」に傍点]喉へ突き立てようとした。
 始終を見ていた純八は、此時思わず身を乗り出し懐剣持つ手をつと抑[#「つと抑」に傍点]えたが[#「つと抑[#「つと抑」に傍点]えたが」はママ]、
「この短刀まずまずお放しなされい! 見れば浦若い娘の身で、このような所へ来るさえあるに、自害なさろうとは心得ぬ。死ぬ程の苦痛ござるなら、一応拙者にお話しなされい。及ばず乍らお力にもなり、ご相談にも乗り申そう」――無理に懐剣を奪い取り、尚優しくいたわった。彼の誠心に感じたものか、娘は軈て乱れをつくろい[#「つくろい」に傍点]、顔に涙を掛けながら、自分の身の上を話し出したが、夫れは人の家に有勝の継母と継子の争いであった。
「家を出た事は出ましたけれど、手頼って行く所も無く、と云うて家へ帰るも厭、それを若し無理に帰りましたならば、継母様は屹度|妾《わたし》を責殺しなさるに違い無い。それより、一層自分から死んでほんとの母様のおいでになる幽冥《あのよ》へ参って暮らそうものと、それで覚悟を極ました所……」――「成程」と純八は仔細を聞くと、弱い一本気の娘心を、憐れまざるを得なかった。「成程、死のうと思われるのも、決して無理とは思われぬが、併し死んでは実も花も無い。それより何時迄も生き永らえて、立派な身分に成り上がり、継母殿の憎い鼻柱をヘシ折る思案をなさるがよい。……手頼るべき縁者ござらぬなら、兎に角拙宅へおいでなされい。どうじゃな。参る気はござらぬかな?」
「はい有難う存じます」――「それでは愈々参られるか?」――「はい、ご迷惑でございませぬなら……」――「他人の難儀を助けるが男子、何んの迷惑致しますものか。――では斯うおいでなさるがよい」
 月の光から抜け出たような、美しい乙女をたずさえて、純八は何となく心嬉しく、林を抜けて家へ帰ったが、これぞ再び妖怪に憑かれて、身命を失う糸口であった。

奇怪の光景

 若い男と若い女が、同じ家に起居し、同じ食物を食べ合っていては、その結果も大方は知れている。深山と名を呼ぶ其乙女と、本条純八とは一月経たぬ中に、切っても切れない由縁《えにし》の糸を、結び合わした身の上となった。
 で、純八は其時以来復も幸福の人間になり、生き甲斐ある身の上となったのであるが、今度も老医千斎ばかりは、彼の幸福を喜ばず、深山《みやま》という女を怪んだ。そうして或時こんな事を云った。「人間は勿論|総《あらゆ》る生物には、その[#「その」に傍点]生物としての脈がござる。以前奇怪な托鉢僧を人間ならずと見極めたのも、人間ならぬ不思議な脈を其奴が持っていたからでござる。果して其奴は人間では無うて恐ろしい白蛇でござったわ。――ところで総の生物には、又その各自の生物に応じた一種の呼吸法《いきづかい》が有る物でござる。そこで今度の深山という女じゃが、誠に審《いぶかし》い呼吸法を再々致して見せるでの。どうやらお気の毒にも本条殿は復も妖怪に憑かれたらしい」
 で、千斎は其時以来ピタリと足踏みをしなくなった。
 それに反し、幼馴染の、筒井松太郎は以前よりも、一層繁く出入りをしたが、併し夫れには或る何等かの邪《よこしま》の目算《もくろみ》が胸にあって、その目算を果そう為、接近いているのではあるまいかと、疑われるような節があった。とは云え夫れが何であるかは勿論誰にも解らなかった。併し兎に角松太郎があの[#「あの」に傍点]議論以来純八に対して怨みを抱いているということは、疑いの無い事実である。
 斯うして半年が過ぎ去った。果然その時案じていたような惨しい悲劇が湧き起こった。そうして夫れは松太郎に依って、計画されたものであった。で、作者はもう一度「深山桜」を引例して、その恐ろしい最後の悲劇を読者のお耳に入れようと思う。
「……旧友筒井松太郎は、議論の怨みを晴さんものと、窃に機会を窺い[#「窺い」は底本では「窮い」]居たるが、深山と純八との仲宜きを見て、己その仲を裂き呉れんと、或ひは口を以て深山を説き、又は艶書を送りなどして、彼女の心を乱さんとせり、然るに純八遇然の事より早くも松太郎の奸策を知り、勃然として怒りを発し、久しく交わること兄弟の如きに、己が恋人を横取りせんとは不義とや云はん無道人とや云はん、このままには捨て置かれじと、或日彼の来たるを待ちて、互に刀を抜き合はせ、止める者なければ充分に戦ひ、遂に松太郎を切り斃し、留を刺し血を拭ひ、最早此地には居られずと、深山を連れて落ち延びける。此処に筒井松蔵といふは、松太郎の実の弟なりしが、兄の仇を討たんずものと、主君因幡守に暇を乞ひ、ただ一人にて出立せしが、巡り巡つて三年越し、更科の郡|姨捨《うばすて》山の、月見堂の傍まで来かかる折柄、人住めるとも思はれぬ荒れ廃たれたる茅屋ありて、人の呻く声の聞ゆるに、こは怪しと覗き見れば二人の男女籠もり居たり。男は意外にも純八なりしが、顔色蒼褪め死せるが如く、髪髭自在に生い茂り、身体痩せて枯木に似、而も昏々と眠れるなり。女の方は深山なりしが、純八を犇と抱き抱へ、長き舌を口より吐き、男の頭をヒラヒラと舐る。奇怪の光景に驚き乍らも、素破敵を見付けたわと、戸を蹴破つて押し入りつ松蔵は大音に呼ばはるやう「今は天命遁れ難し、いで立ち上がつて勝負せよ!」と、声に驚き逃げ出す女を「汝も敵の片割ぞ!」と、一刀サツと切り付けるに、女はキーツと悲鳴を上げ、壁を伝つて天井裏へ、鼠のやうに隠れたり。この物音に眼を醒ましたる本条純八は只茫然と、松蔵の顔を眺めるのみ。精神脱楽人事を弁ぜず、まして言葉を出す由も無し、今は是迄と松蔵は、純八の頭を打ち落し、尚女めを仕止めんものと、落ち散る丸木をおつ取つて、ハツと天井を突き上ぐれば、板目破れて其隙間より、五尺あまりの真黒の物ドツと落ちたるを好く見れば、四つの手脚人間に似たる、守宮なり[#「守宮なり」は底本では「宮守なり」]、松蔵も流石に驚き、思はず呼吸を呑みたるも、やがて刀を持ち直し、グサと背骨を突き通し、弱る所を足で踏まへ、直ちに首を落したり。云々。(下略)」

底本:「妖異全集」桃源社
   1975(昭和50)年9月25日発行
初出:「講談雑誌」
   1924(大正13)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:地田尚
校正:小林繁雄
2002年2月18日公開
2011年2月6日修正
青空文庫作成ファイル:
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国枝史郎

高島異誌—— 国枝史郎

妖僧の一泊

「……ええと、然らば、匁という字じゃ、この文字の意義ご存知かな?」
 本条純八はやや得意気に、旧《ふる》い朋友の筒井松太郎へ、斯う改めて訊いて見た。二人は無聊のつれづれから、薄縁《うすべり》を敷いた縁側へ、お互にゴロリと転りながら、先刻から文字の穿鑿《せんさく》に興じ合っているのであった。
「匁という文字の意義でござるか? いやいや拙者不案内でござるよ」
 松太郎は指で額を叩き、苦笑しながら左様云った。
「然らばご教授申そうかの――匁と申す此文字はな、何文の目という意義でござるよ。つまり文〆《えみじめ》と書くべきを略して此様に書き申す」
「ははあ、文〆の略字かの。如何様、是は尤じゃ」
「何んと古義通ではござらぬかな」
「天晴古義通、古義通じゃ」
 仲の宜い二人は笑い合い、何んの邪気も無く褒め合った。
 先刻から門前に佇んで、鈴を鳴らしていた托鉢僧――頭髪白く銀《しろがね》のように輝き、皮膚の色も白く鞣革のように光った、老いた威厳のある托鉢僧は、其時何んと思ったか、つかつかと門の内へ這入って来たが、
「失礼ながら匁の穿鑿、ちと曖昧でござり申すよ」
 斯う云うと縁側へ腰をかけた。
「これはこれは旅の僧、匁の字に異議ござるとの?」
 純八はヒョイと起き直り、老僧の顔をまじまじと見た。
「いやいや決して異議ではござらぬ、誤りを正てあげるのじゃ」
 僧は優しく笑ったが、
「匁は文〆の略字では無うて、銭という字の俗字でござる。これは篇海にも出て居ります哩。又、説文長箋には泉という字の草書じゃと、此様に記してもござります哩。而て泉は銭に通ず、即ち、匁は銭と同じじゃ」
 傍引該博のこの説明には、純八も松太郎も一言も無く、すっかり心から感心した。
 で、純八は座敷へ請じて、茶を淹れ斎《とき》を進めたりして、懇《ねんごろ》に僧を待遇したが、
「偖、ご老僧、承わり度いは、歳の字と才の字の異弁でござるが、拙者、先日迄、才の字こそは、所謂歳の字の当字であろうと、斯う思い込んで居りましたところ、頃日、名家の墨跡を見、歳の字の件《くだり》まで参りました所、才の字が書かれてございました」
「それとて当字ではござらぬよ。即ち、才は哉の古字、而て哉は戴に通じ、尚又戴は歳の字と同意義、自然才の字は歳の字に通じ、二者は全く同一字でござる」
 そこで純八は復《また》訊いた[#「復《また》訊いた」は底本では「復|訊《また》いた」]。
「拙者は此土地の郷士でござって祖父の代までは家も栄え、地方の分限者でござりましたが、父の世に至って家道衰え、両親此世を逝って後は、愈々赤貧洗うが如く、ご覧の通り此拙者、妻帯の時節に達し居り乍ら、妻も娶《めと》れぬ[#「娶《めと》れぬ」は底本では「聚《めと》れぬ」]境遇ながら、文武の道のみは容易に捨てず、学ぶ傍子供を集めて、古えの名賢の言行などを、読み聞かせ居る次第にござりますが、「童子教」という、古来よりの著書《ふみ》、覚え易く又教え易き為、子供に読ましめ居ります所、内容余りに僧家の事のみ多く、且、如何わしい説なども有って、聖賢の名著とは思われず、此儀如何にござりましょうか?」
「左様、名著ではござらぬの。取るにも足らぬ俗書でござる」
 僧は言下に弁えたが、
「とは云え此書著名と見え、早く唐土にも渡り居り経国大典巻の三に「倭学に在りては童子教庭訓往来こそ最も優れ……」と、既に申して居るとこを見ると、俗間の書としては久しい間、行われて居たものと思わるるよ」
 純八、松太郎の二人の者は愈々心に驚いて、益々僧を尊敬したが、分けても純八は学問好きの為めか僧を懐しくさえ思うようになった。
 で、松太郎の帰った後、尚何時迄も引き止めて、更に様々問答したが、永い六月の日も暮れて点燈《ひともし》頃になったので、俄に僧は立ち上がり謝辞を述べて帰えろうとした。と、困難の修行の旅が老齢の彼を弱らせてたものか、我破と縁先へ転って、口から夥しく穢物を吐いた。
「や、これはご病気と見える。まずまず座敷へお這入りなされて暫くご安臥なさりませ」
 純八は老僕に手伝わせ、急いで褥を設けると、老僧を中へ舁き入れたが、是ぞ本条純八をして、数奇の運命へ陥らしむる、最初の恐ろしい緒《いとぐち》なのであった。

山なす財物

 純八は老僕の八蔵を、医師千斎の許へ走らせた。
 間も無く遣って来た千斎は、静かに老僧の脈を数え、暫くじっと考えていたが、
「鳥渡お耳を」
 と囁いて、隣室まで純八を誘った。
「何んと本条殿、あのご老僧は、貴殿のご縁辺ででもござるかな?」――声を窃《ひそ》めて先ず訊いた。
「いや縁者でも知己でもござらぬ。しかも今日|邂逅《おめにかか》ったばかりの、赤の他人でござりまするがな……」――純八は幽《かすか》に眉をひそめ「何か老僧のご病気に就き不審の点でもござりまするかな?」
「左様、些不審ではござるが、夫れは又夫れとして何れ千斎、研究致す事として、兎に角至急あの御僧を門外へお移しなさりませ」
「それは又何故でござるかな?」
「いやいや何故も兎角も不用、一刻も早く追い出しめされ」
「それは不仁と申すもの、理由の説明無いからには、左様な不親切は出来ませぬ」
 純八は首を振るのであった。すると千斎は気の毒そうに、
「御身の上に恐ろしい災難が振りかかっても宜しゅうござるか?」
「他人に好意を尽くすことが、何んの災難になりましょうぞ!」
「その好意もよりきり[#「よりきり」に傍点]じゃ」――千斎はいとも苦々しく「悪虫妖狐|魑魅魍魎《ちみもうりょう》に、何んの親切が感じられようぞ。寸前尺魔、危険千万、愚老は是でお暇申す。貴殿もご注意なさるがよい」
 気にかかる言葉を後に残して、医師千斎は帰って行った。
「悪虫妖狐魑魅魍魎に何んの親切が感じられようぞ? ハテ、これは何ういう意味であろう?」――純八は口の中で呟いて、多少心にもかかったが、再び病室へ取って返えし、今はスクスクに睡っている気高い老僧の顔を見ると、からり[#「からり」に傍点]と心が澄み返えり、何時かそんな言葉を忘れて了《しま》った。
 その翌日のことであったが、僧は褥から起き上がり、昨夜からの介抱の礼を述べたが、縁側へ出て草鞋を穿こうとした。
 驚いたのは純八で、周章《あわ》てて衣の袖を引き、
「是は何んとなされます? よもやご出立ではござりますまいな?」
「いやいや是でお暇でござる」僧は微妙な笑い方をし、「是非発足たねばなりませぬ。と申すのは此辺に愚僧の敵がござるからじゃ。いやいや長袖と申す者は、変に意地くね[#「くね」に傍点]の悪いものじゃ。貴殿もご用心なさるがよい。あの千斎とか申す薬師、ろく[#「ろく」に傍点]な者ではござらぬ依って……が貴殿のご親切は愚僧決して忘れは致さぬ。恐らく直ぐにも好いご運が御身に巡って参ろうと存ずる。ご免下されい。おさらばでござる」
 斯う云うとスックと立ち上がり、スタスタ往来の方へ足を運んだが又口から穢物を吐き出した。併《しか》し老僧は見返りもせず、門から外へ出て行った。と最う姿は見えないのである。
「お気の毒にもご老僧は未お体が悪いと見える」――斯う云い乍ら門の方を暫く純八は見送ったが、軈て僕《しもべ》の八蔵を呼んで其穢物を掃除させた。
 八蔵は何か口の中でぶつぶつ不平を云っていたが、主人の命令に従って鍬で其辺の土を掻いた。カチリと鍬の刄に当たるものがある。見ると手頃の銀環である。その銀環をぐい[#「ぐい」に傍点]と引くと、革袋の口が現れた。
「これは不思議」と縁から下りて、純八も八蔵へ手を貸して、共に銀環を引っ張った。二人の力を合わせても、革袋は動こうともしないのである。つまり夫《そ》れ程重いのである。
「何が這入って居るのであろう?」
 純八は好奇心に促され、引くのを止めて短刀を抜き、袋の口を切り払ったが、その瞬間に鋭い悲鳴が「が――ッ」と切口から聞えて来た。併し不思議は夫ればかりで無く、見よや巨大の袋の中には黄金ばかりが張ち切れる程に一杯に充ち満ちているではないか!
「偖こそ昨日の老僧は仏菩薩の化身であったよの! 我の貧困を憐み給い巨財をお授け下されたのであろうぞ! 南無阿弥陀仏」
 と思わず知らず、純八は念仏を申したが、果して彼の思った通り、数えもされぬ程の其財宝は仏菩薩よりの贈物であったろうか?
「いや!」
 と医師の千斎だけは、その好運を否定《うべなわ》なかった。
「それこそ妖怪の誘惑でござるよ。すべて災難の参る時は、多くは最初には夫れと反対に、好運めいたものが参るものでござる。お気の毒な、純八殿じゃ。妖魔に魅入られて居られやす哩。が夫れにしても彼の老僧抑々何物の変化であろう」

蟇の池の怪

 斯ういうことのあったのは、元禄十五年六月のことで、諏訪因幡守三万石の城下、高島に於ける出来事である。
 偖《さて》、斯うして巨財を贈わった。本条純八は、是迄の貧しい生活を捨てて、栄誉栄華に日を送る事を、何より先に心掛けた。
 この物語の原本たる「異譚深山桜」には、其時の事を次のように、美しい文章で書いてある。
「(前略)……彼の歓喜限り無く宛《さなが》ら蚊竜時に会うて天に向かつて舞《のぼ》るが如く多年羨み望みたる所の家財調度を買求め、家の隣の空地を贖ひ、多くの工匠を召し集めて、数奇を凝らせる館を築けば、即ち屏障光を争ひ、奇樹怪石後園に類高く、好望佳類類うもの無し。婢僕多く家に充ち、衆人を従へて遊燕すれば、昔日彼の貧を嫌つて、接近を忌みたる一門親族も[#「一門親族も」は底本では「一門親も」]後に来つて媚を呈す。云々……(下略)」
 要するに、彼は一朝にして、王侯の生活に達したのであった。で成金の常として幾人もの妾を蓄えたが、笹千代という二十歳の美婦を専《もっぱ》ら彼は寵愛した。
 斯うして彼の好運は、先拡りに益々拡り、容易に崩れそうにも見えなかった。併し老医師千斎ばかりは、あの時以来足踏みをせず、純八の噂の出る毎に、
「いやいや誠の栄華ではござらぬ。魑魅魍魎の妖術でござるよ」
 斯う苦々しそうに云い放し、彼の運命を気遣うのであった。幼馴染の筒井松太郎は、以前《むかし》に変らぬ友情を以って絶えず彼の許を訪れたが、是も時々小首を傾げ、
「ハテ、此素晴らしい好運は、一体何時まで続くのであろう?」と、不安そうに呟く事があった。
 斯うして一年は経過ったが、其時大きな喜が復も純八に訪れて来た。それは笹千代が男の子を儲けたことで、早速吉丸と名を付けて、宝の様に慈愛《いつくし》んだ。美しい女、不足無い衣食、そうして子さえ出来たので[#「ので」は底本では「の族で」]、心ゆくまでの大栄華に、彼は浸る[#「浸る」は底本では「侵る」]ことが出来たのである。
 彼の館の庭園に古い広い池があった。以前空地であった頃から其池は其処に在ったので、其頃から其池は人達によって、「蟇の池」と呼ばれていた。夫れは巨大な無数の蟇が其処を住家にして住んでいるからで、そう云えば本当に初夏の候になると、水草の蔭や浮藻の間に、疣々のある土色の蟇や、蒼白い腹を陽にさらして、数え切れない程の沢山の蟇が住んでいるのが、彼にも見えた。
「蟇というものは一見すると無気味じゃが、よく見ると仲々雅致がある。決して池の蟇は殺してはならぬ」
 純八は家人へ斯う云い渡して、却って蟇の保護をした。
 然るに此処に困った事には、その池の蟇を捕えようとしてか何処からとも無く無数の蛇が、庭園の中へ集まって来て、女子供を驚かせたり、縁や柱へ巻き付くので、尠《すくな》からず純八は当惑し、見付ける端から殺させたけれど、蛇は益々増るばかりであった。
 と云って蟇を殺すことは、純八は何うしても許さない。
 斯うして三年目の夏が来た。
 其時事件が起ったのである。
 それは夕立の晴れた後の、すがすがしい午後のことであったが、三歳になった吉丸は母の笹千代に連れられて、池の畔《みぎわ》を歩いていた。すると草叢から一匹の蛇が、紐のようにスルスルと走り出たが、ハッと思う暇も無く吉丸の足へ巻き付いた。
「あっ」
 と驚いた笹千代は、自分も長虫を嫌う所から、消魂く人を呼び乍ら、一間余りも飛び退ったが、どぶん[#「どぶん」に傍点]という水音に驚いて、ギョッとばかりに振り返って見ると、吉丸の姿が見当らぬ。
 池の岸まで走り返えり、じっと水面を隙かして見れば、どこよりも蒼い水の面に、一に小さい波紋があって、次第々々に大きくなり、やがて幽に消え失せたが、正しく波紋の真中には、いたいけ[#「いたいけ」に傍点]な吉丸の死骸が沈んでいるに相違ない。
 彼女の声に驚いて、純八を初め家婢下男共は、周章てて其場へ駈けつけて来たが、早速には何うする事も出来なかった。
 これぞ最初の不幸なのである。

妖僧再び出現

 併し最初の此不幸は、意外な物の救助《たすけ》に依って、不思議にも恢復《とりかえ》す事が出来た。
 それは、其夜の事であるが、嘆き疲れた純八が、思わず睡眠《まどろ》んだ其際に、一つの夢を見たのである。
 夢の主人は蟇であった。蟇は大きさ人間ほどもあったが、前脚二本で溺れ死んだ筈の吉丸を、さも大事そうに抱いていたが、幾度も幾度も辞儀をして、偖夫れから斯う云った。
「私事は〈蟇の池〉に住む多くの蟇の主でございますが、貴郎様には此年頃、大方ならぬ保護を受け、有難く存じて居りました所、今日計らずも若様が、水に溺れようとなされましたので、ご恩報じは此時と思い、お助け申しましてござります。いざお受け取り下さいますよう……尚又もしお館様に此後ご災難などござりました際には、私の力の及ぶ限りは、必ずお力になりましょう程に、お心安く覚し召せ」
 云って了うと蟇の姿は、幻のように消えて失せ、スヤスヤと眠っている吉丸ばかりが、布団の上に置いてあった。
 二度目の災難の起こったのは、それから十日程経った時で、厨《くりや》の方から火が起こり、館を灰燼に為ようとした。其時不思議や池の水、忽ち条々と噴き上がり、焔に向かって降りかかったので、さしもの劫火も[#「劫火も」は底本では「却火も」]瞬間に其勢力を失って、無事に館は助かった。斯うして不安の夏も逝き、秋の初めになった時、遂々恐ろしい没落が純八の身の上に落ちて来た。
 それは後園の藤袴が空色の花を枝頭に着け、築山の裾を女郎花が、露に濡れながら飾るという如何にも秋めいた日のことであったが、純八は一人池の周囲をのんびり[#「のんびり」に傍点]した気持で歩いていた。
 と、裏門がギーと開いて、三年前に初めて逢い、彼に福徳を授けて呉れた白髪|皓膚《こうふ》[#ルビの「こうふ」は底本では「こうひ」]の托鉢僧が、そこから忽然と這入って来た。
「お、これはご老僧。ようこそお出で下されました」
 と、死んだ親にでも逢ったように、大袈裟に純八は喜び乍ら、手を拡げて其方へ走り寄った。
 併し老僧は挨拶もせず、只凝然と立っている。昔の俤と変りが無いが頸の辺に太刀傷が一筋細く付いているのが、些昔と異っている。
「どうじゃな?」
 と僧はやがて云った。
「今の境遇は楽しいかな」
「はい」と純八は慇懃に、
「此上も無く結構でござります」
「成程」
 と僧は笑い乍ら「何時迄も今の境遇に坐っていたいと思うかな?」
「何時迄も居り度うござります」
「成程」
 と僧は復笑って「併し私にはそうは見えぬ、お前は何うやら厭飽《あき》たらしい」
「いえいえ、そんな事はございません」
「では何故善根を積まぬのじゃ?」
「え、善根と仰有いますと?」
「殺生などをしない事じゃ」
「決して殺生などは致しませぬ」
「お前は蛇を殺すじゃないか」
「あれは悪虫でございます故……」
「ふん」と僧は嘲笑った。「それが大変な間違いじゃ。蛇は決して悪虫では無い。……ましてお前の身の上に執っては大変為になる虫なのじゃ!」
 僧は暫く考えていたが、
「お前の好運は尽きたのじゃぞ!」
 と不意に鋭く叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]した。
「栄枯盛衰の移り変りの如何に劇《はげ》しく恐ろしいかという事を、汝其処に居て見るがよいわ!」
 僧がポンポンと手を拍った。
 と其刹那高楼の四方から焔々たる大火燃え上ったが、忽ち館は烏有に帰した。
「異譚深山桜」には、其時の事を次のように、哀れ深く書いてある。
「(前略)妖火静まつて後を見れば、寂寥《せきりよう》として一物無く、家屋広園悉く潰え、白骨塁々雑草離々人語鳥声聞ゆるもの無し。而て白骨は彼の家人、即ち妾婢幼児なりき。
 彼唖然として心茫々、回顧すれば老僧の姿、又|※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2-1-57]忽《しゅっこつ》[#るびの「しゅっこつ」は底本では「しょこつ」]として消亡す。(下略)」
 つまり恋しい笹千代も恩愛限り無い吉丸さえ、彼は失って了ったのであった。如何に彼が驚いたか、どんなに彼が悲しんだか、敢てそんな事は筆を改めて説明するにも及ぶまい。――斯うして彼は一切の栄華、総ての物を失ったのであった。

美人と童子

 一朝にして王侯の生活、再転して乞食の境遇。昨日の繁栄は今日の没落、本条純八は暫くの間は夢|現《うつつ》の境に彷徨したが、此の著しい変転は却って彼には良薬となり、俄然精神が一変し、現世の悦楽を求むる代りに、虚無融通の神仙道に、憧憬の心を運ぶようになった。
 昔のままに残っている先祖から譲られた廃屋《あばらや》に住み、再び近所の子供を集めて、名賢の教えを説く傍山野の間を跋渉して、努めて心胆《こころ》を鍛錬した。
 喜んだのは医師千斎で、
「これこそ誠の生活というものじゃ」
 斯う云って彼は元通り繁々足を運ぶようになった。筒井松太郎は云う迄も無く無邪気な仲のよい友達として、毎日のように訪れて来る。一度魔道に入り乍ら、よく改心した賢者だというので却って人々は尊敬する。
 で、一年も経った頃には、彼も何時しか昔の事を忘れて、村風子の身の上を喜ぶようになった。
 斯うして復も一年経ち、梅の花の咲く春となった。千里鶯啼いて緑紅に映ず、水村山郭酒旗の風――郊外の散策に相応い、斯う云ったような季節になったのである。
 で彼は或日一瓢をたずさえ、湖水の岸に添い乍ら小坂の観音の方へ彷徨って行った。
 目指す境内へ着いたは、日暮に近い頃であって数百年を経たらしい梅の老木が、千孕万孕の花を着け、夕陽に皓々と照り栄えている様子は、例ようも無く美しかったが、参詣の人も花見の人も悉く絶えて影も無かった。
 純八に執っては人の居ない事が、却って好都合で有難く、飽かず其辺を逍遙しながら、静かに歌を考えたりした。
 斯うして今の時間にして二時間余りも経った時、既に充分興を尽くしたので、彼は家路に就こうとした。
 すると、忽どこからとも無く、
「純八殿、純八殿」と呼ぶ者がある。
「何人《どなた》でござる?」
 と怪しみ乍ら、純八は四辺を見廻わした。人の居るような気配も無い。で復彼は歩き出した。と復同じ声がして、
「純八殿、純八殿」と呼び掛ける。夫れはどうやら梅の古木の洞穴の中から来るようである。
 彼は不思議に思い乍ら、洞穴の方へ近寄って行った。そして其前に立ち乍ら、
「何人でござるな? 呼びなされたは?」
 斯う云って声を掛けて見た。すると、其時、見覚えのある、例の老僧が洞穴の中から、ヒョイと半身を現したが、
「愚老でござるよ。お忘れかな?」
「や、これはあの時のご僧※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「いかがでござるな、ご気嫌は?」僧はニヤリと笑い乍ら「どうやらお変りも無いようじゃの?」
「爾来、平穏無事でござる」
「それは何より結構じゃ。……どうじゃな、拙宅へ参られては?」
「ご庵室は何処にござりますな?」
「此洞穴の根方にござるよ。どうじゃな直ぐに参られては?」
「珍らしい事でもござりますかな?」
「其方の妻子にお引合せ致そう」
「え?」と純八は思わず叫び、一足僧の方へ近寄ったが、「ナニ、笹千代と吉丸とが、尚生きて居ると仰せられますか?」
「其方を待ち兼ねて居られるのじゃ」
「ご案内下されい! 妻子の許まで!」
 純八は斯う云うと身を躍らせて、洞穴の中へ飛び込んだ。
「此方じゃ、此方じゃ」
 と、老僧は、純八の前に立ち乍ら、足を早めて走り出した。其後の事は「異譚深山桜」に、次のような文章で記されてある。
「……白光仄々たる一条の路を、僧に従つて走り行けば、十町余にして一天地に出づ。天蒼々と快く晴れ、春日猗々として風暖く、河辺、山傍、又田野には、奇花芳草欝乎として開き、風景秀麗画図の如し。行く行く一座の高楼を見る。巍々たる楼門、虹の如き長廊、噴泉玉池珍禽異獣、唱歌の声は天上より起こり、合唱の音は地上より湧く、忽ち、美人と童子とありて、遙かに望見して一揖す。即ち、笹千代と吉丸のみ。云々(下略)」
「あっ」
 と純八は夫れを見ると、喜びの声を上げ乍ら、二人の居る方へ走り出した。笹千代も吉丸も夫れと見ると、是も喜んで走り寄って来たが、俄に足を止めて指さした。そして大声で斯う叫んだ。
「お逃げなさい! お逃げなさい!」と。
 純八はハッと気が付いて、背後の方を振り返った。
 見よ! 背後には僧は居ずに、皓々と輝く一匹の巨蟒《うわばみ》、数間に延びたる蛇体の一部に、可笑くも墨染の法衣を纏い、純八を目掛けて一文字に、矢のように飛び掛かって来るではないか!

歯の無い口

「偖こそ妖怪!」
 と純八は、腰の太刀に手を掛けると、キラリとばかりに抜き放した。途端に飛びかかる蟒《うわばみ》の胴を颯と斜めに切り付ける刹那、太刀は三段にバラバラと折れた。
「南無三宝!」
 と飛び退いた折しも、
「お逃げなさい!」
 と叫ぶ声が、背後の方から聞えて来た。
「もう逃げるより仕方が無い」
 純八は一散に走り出した。元来た方へ走るのである。走り乍ら振り返えると[#「振り返えると」は底本では「振り退えると」]、シューッ、シューッと音を立て乍ら、蟒は後から追っかけて来る。「追い付かれては一大事!」と、彼は今は見返えりもせず、命限り走って行く。行手に梅の古木があり、根元に一箇の洞穴がある。洞穴へ飛び込んだ。と、その瞬間、月の光の、ほのかに地上を照らしている、小坂観音の境内が、彼の眼前へ現れた。
「あら有難や、魔界を遁がれたは!」
「恐ろしいか! 本条純八!」――嗄れた声が背後から呼ぶ。
「何を!」
 と彼は振り返った。梅の古木の洞穴から、僧が半身を現しながら、歯の無い口を大きく開けて、声を立てずに笑っている。
「己れ妖僧!」と小刀を抜き「覚えたか!」と切り付けた。
 夥しい臭気が洞穴の中から、煙のように噴き出したかと思うと、妖僧の姿は既に消えて、斯う叫ぶ声ばかりが聞えて来た――
「……俺との縁は是で切れた! 安心しやれ安心しやれ!」嗄れた笑声を響かせたが「女の切髪気を付けよ、気を付けよ!」
 その後は森然《しん》と物寂しく、何んの音も聞えない。ただ月明に梅花ばかりが白く匂っているばかりである。

「それはさぞ恐ろしゅうござったろう」医師千斎は純八の口から、以上の物語を聞かされると、身の毛も[#「身の毛も」はママ]慄立てて驚いた。そうして暫時考えていたが、
「今後は充分注意なされて、二度と再び妖怪共に魅入られぬようなさりませ。今度魅入られたら一大事、二つ無い命を取られようも知れぬ」
「いや充分に気を付けましょう」
「当分外出などはなさらぬがよい」
「仰せに従い此処一、二ヶ月は、家に籠ることに致しましょう」
 其処へ松太郎も訪ねて来たが話を聞くと斯う云った。
「小坂の観音の梅の古木こそ、ちと怪しいではござらぬかな」
「左様、恐らく洞穴にこそ、妖怪は籠って居るのでござろう」千斎老医も頷いて云った。
「調べて見ようではござらぬかな。その梅の木の洞穴の中を」松太郎は千斎に斯う云った。千斎は手を揮《ふ》り、顔色を変えたが、
「滅相も無い事仰せられるな。迂濶にそんな事為ようものなら、それこそ悪神の怒りに触れて、どのような兇変を受けようも知れぬ。お止めなされい! お止めなされい!」
 すると松太郎はカラカラと笑い、
「たかが妖怪ではござらぬか。何んの兇変など受けますものか」
「いやいや夫れは広言というもの。現に此処に純八殿が災難を受けられたではござらぬか」
「拙者の言葉が広言とな?」松太郎は苦い顔をしたが、自然言葉も荒くなり、「広言か否かは試した上の事! 憚ながら此松太郎には、五分の隙もござらねば、妖怪の魅入る可き道理ござらぬ!」
 すると今度は純八が、ムッとしたような顔をしたが、
「これは筒井殿お言葉じゃ、然らば拙者には魅入られるような、武道の隙間ござったのかの?」
「左様」
 と、売言葉に買言葉、つい松太郎は云い切った――
「左様、隙間があったればこそ、魅入られたのでござろうがの」
「益々以って異なお言葉、親友とて聞捨てならぬ! 先ず聞かれい筒井殿、これが人間と人間との、相対太刀討又は議論に、打ち敗かされたと申すなら、いかにも武道不鍛錬の隙間と申されても為方ござらぬが、名に負う相手は妖怪でござる。しかも神変不思議の術を自在に使う恐ろしき奴! 魅入られるのは不可抗力じゃ! なんと左様ではござらぬかな?」
 併し松太郎は嘲笑って益々自説を固執した。
「いやいや人間であろうとも乃至は鬼畜であろうとも相手としては、同じ事じゃ! 不可抗力などとは卑怯な云い分……」
「黙れ!」
 と、突然喝破して、ムックリ純八は立ち上がり、刀の束へ手を掛けた。

仲秋三五の月

「おお、果たし合いか! 心得たり!」
 時の逸《はず》みで松太郎も、刀を執らざるを得なかった。
「卑怯な云い分とは無礼至極! いざ庭へ出よ、討ち果して呉れよう!」
「そう云う頬げた[#「頬げた」に傍点]、いで此方こそ!」
 二人はあわや[#「あわや」に傍点]一足飛びに座敷から庭へ飛び下りようとした。
「ま、ま、暫く、お待ちなされい!」
 驚いたのは千斎で、しっか[#「しっか」に傍点]と二人の裾を握りいかな[#「いかな」に傍点]放そうとしなかった。
「驚き果てた振舞いな! 太刀持たれて何んとなされるぞ! 昨日今日の友垣では無し、幼馴染ではござらぬか! 卑怯と云われたとて恥しゅうも無いし討ち果たして呉れようと云われたとて、怒る可き筋がござろうか! まずまず笑って水に流されい! さあさあニッコリとお笑いなされい」
 成程、このように云われて見れば、如何にもそれに相違無かったので、二人は無言で刀を置いた。そうして間も無く松太郎は辞し去り、事は穏便に治ったが、その時以来|蟠《わだかまり》が二人の間には出来たのであった。
 斯うして春去り夏来たり、その夏も去って凉風の吹く秋の季節とはなったのである。

 それは仲秋三五の月が、玲瓏たる光を地上に投げ薄尾花の花の蔭で、降るように虫の鳴きしきる、一年に一度の良夜であったが、長い間の物忌から、すっかり欝気した純八は、その籠もった気を晴らそうものと、一人ブラリと家を出て、山手の方へ歩いて行った。
 小さい峠を一つ越して、杉林の中へ這入って見た。
 と、一つの辻堂がある。
 辻堂の縁へ腰を掛け、彼は無心で月を見乍ら、低声で小唄を唄っていた。人気が無いので四辺は静かで枯葉の落ちる些かの音さえ、はっきり[#「はっきり」は底本では「はっかり」]耳に聞えて来る。
 すると、其時、スタスタと、立木の間を潜りながら近付いて来る人影がある。見れば美しい手弱女《たおやめ》で、髪豊に頸足白く、嬋娟《せんけん》たる姿、※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]たける容貌、分けても大きく清らかの眼は、無限の愁いを含んでいて見る人の心を悩殺する。年は凡そ十九ぐらい、高価の衣裳を着ている様子は、良家の令嬢と思われた。
 純八の居るのに気が付かぬかして、辻堂の前まで歩いて来ると、うずくまり乍ら合掌し、熱心に何事かを祈っていたが、その声はどうやら泣いているらしい。
 やがて彼女は立ち上がった。が復直ぐに地面に坐り、また其処で暫く歔欷《きょき》したが、遂に懐中から懐剣を取り出し、あわや[#「あわや」に傍点]喉へ突き立てようとした。
 始終を見ていた純八は、此時思わず身を乗り出し懐剣持つ手をつと抑[#「つと抑」に傍点]えたが[#「つと抑[#「つと抑」に傍点]えたが」はママ]、
「この短刀まずまずお放しなされい! 見れば浦若い娘の身で、このような所へ来るさえあるに、自害なさろうとは心得ぬ。死ぬ程の苦痛ござるなら、一応拙者にお話しなされい。及ばず乍らお力にもなり、ご相談にも乗り申そう」――無理に懐剣を奪い取り、尚優しくいたわった。彼の誠心に感じたものか、娘は軈て乱れをつくろい[#「つくろい」に傍点]、顔に涙を掛けながら、自分の身の上を話し出したが、夫れは人の家に有勝の継母と継子の争いであった。
「家を出た事は出ましたけれど、手頼って行く所も無く、と云うて家へ帰るも厭、それを若し無理に帰りましたならば、継母様は屹度|妾《わたし》を責殺しなさるに違い無い。それより、一層自分から死んでほんとの母様のおいでになる幽冥《あのよ》へ参って暮らそうものと、それで覚悟を極ました所……」――「成程」と純八は仔細を聞くと、弱い一本気の娘心を、憐れまざるを得なかった。「成程、死のうと思われるのも、決して無理とは思われぬが、併し死んでは実も花も無い。それより何時迄も生き永らえて、立派な身分に成り上がり、継母殿の憎い鼻柱をヘシ折る思案をなさるがよい。……手頼るべき縁者ござらぬなら、兎に角拙宅へおいでなされい。どうじゃな。参る気はござらぬかな?」
「はい有難う存じます」――「それでは愈々参られるか?」――「はい、ご迷惑でございませぬなら……」――「他人の難儀を助けるが男子、何んの迷惑致しますものか。――では斯うおいでなさるがよい」
 月の光から抜け出たような、美しい乙女をたずさえて、純八は何となく心嬉しく、林を抜けて家へ帰ったが、これぞ再び妖怪に憑かれて、身命を失う糸口であった。

奇怪の光景

 若い男と若い女が、同じ家に起居し、同じ食物を食べ合っていては、その結果も大方は知れている。深山と名を呼ぶ其乙女と、本条純八とは一月経たぬ中に、切っても切れない由縁《えにし》の糸を、結び合わした身の上となった。
 で、純八は其時以来復も幸福の人間になり、生き甲斐ある身の上となったのであるが、今度も老医千斎ばかりは、彼の幸福を喜ばず、深山《みやま》という女を怪んだ。そうして或時こんな事を云った。「人間は勿論|総《あらゆ》る生物には、その[#「その」に傍点]生物としての脈がござる。以前奇怪な托鉢僧を人間ならずと見極めたのも、人間ならぬ不思議な脈を其奴が持っていたからでござる。果して其奴は人間では無うて恐ろしい白蛇でござったわ。――ところで総の生物には、又その各自の生物に応じた一種の呼吸法《いきづかい》が有る物でござる。そこで今度の深山という女じゃが、誠に審《いぶかし》い呼吸法を再々致して見せるでの。どうやらお気の毒にも本条殿は復も妖怪に憑かれたらしい」
 で、千斎は其時以来ピタリと足踏みをしなくなった。
 それに反し、幼馴染の、筒井松太郎は以前よりも、一層繁く出入りをしたが、併し夫れには或る何等かの邪《よこしま》の目算《もくろみ》が胸にあって、その目算を果そう為、接近いているのではあるまいかと、疑われるような節があった。とは云え夫れが何であるかは勿論誰にも解らなかった。併し兎に角松太郎があの[#「あの」に傍点]議論以来純八に対して怨みを抱いているということは、疑いの無い事実である。
 斯うして半年が過ぎ去った。果然その時案じていたような惨しい悲劇が湧き起こった。そうして夫れは松太郎に依って、計画されたものであった。で、作者はもう一度「深山桜」を引例して、その恐ろしい最後の悲劇を読者のお耳に入れようと思う。
「……旧友筒井松太郎は、議論の怨みを晴さんものと、窃に機会を窺い[#「窺い」は底本では「窮い」]居たるが、深山と純八との仲宜きを見て、己その仲を裂き呉れんと、或ひは口を以て深山を説き、又は艶書を送りなどして、彼女の心を乱さんとせり、然るに純八遇然の事より早くも松太郎の奸策を知り、勃然として怒りを発し、久しく交わること兄弟の如きに、己が恋人を横取りせんとは不義とや云はん無道人とや云はん、このままには捨て置かれじと、或日彼の来たるを待ちて、互に刀を抜き合はせ、止める者なければ充分に戦ひ、遂に松太郎を切り斃し、留を刺し血を拭ひ、最早此地には居られずと、深山を連れて落ち延びける。此処に筒井松蔵といふは、松太郎の実の弟なりしが、兄の仇を討たんずものと、主君因幡守に暇を乞ひ、ただ一人にて出立せしが、巡り巡つて三年越し、更科の郡|姨捨《うばすて》山の、月見堂の傍まで来かかる折柄、人住めるとも思はれぬ荒れ廃たれたる茅屋ありて、人の呻く声の聞ゆるに、こは怪しと覗き見れば二人の男女籠もり居たり。男は意外にも純八なりしが、顔色蒼褪め死せるが如く、髪髭自在に生い茂り、身体痩せて枯木に似、而も昏々と眠れるなり。女の方は深山なりしが、純八を犇と抱き抱へ、長き舌を口より吐き、男の頭をヒラヒラと舐る。奇怪の光景に驚き乍らも、素破敵を見付けたわと、戸を蹴破つて押し入りつ松蔵は大音に呼ばはるやう「今は天命遁れ難し、いで立ち上がつて勝負せよ!」と、声に驚き逃げ出す女を「汝も敵の片割ぞ!」と、一刀サツと切り付けるに、女はキーツと悲鳴を上げ、壁を伝つて天井裏へ、鼠のやうに隠れたり。この物音に眼を醒ましたる本条純八は只茫然と、松蔵の顔を眺めるのみ。精神脱楽人事を弁ぜず、まして言葉を出す由も無し、今は是迄と松蔵は、純八の頭を打ち落し、尚女めを仕止めんものと、落ち散る丸木をおつ取つて、ハツと天井を突き上ぐれば、板目破れて其隙間より、五尺あまりの真黒の物ドツと落ちたるを好く見れば、四つの手脚人間に似たる、守宮なり[#「守宮なり」は底本では「宮守なり」]、松蔵も流石に驚き、思はず呼吸を呑みたるも、やがて刀を持ち直し、グサと背骨を突き通し、弱る所を足で踏まへ、直ちに首を落したり。云々。(下略)」

底本:「妖異全集」桃源社
   1975(昭和50)年9月25日発行
初出:「講談雑誌」
   1924(大正13)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:地田尚
校正:小林繁雄
2002年2月18日公開
2011年2月6日修正
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