国枝史郎

鸚鵡蔵代首伝説—— 国枝史郎

仇な女と少年武士
「可愛い坊ちゃんね」
「何を申す無礼な」
「綺麗な前髪ですこと」
「うるさい」
「お幾歳《いくつ》?」
「幾歳でもよい」
「十四、それとも十五かしら」
「うるさいと申すに」
「お寺小姓? それとも歌舞伎の若衆?」
「斬るぞ!」
「ホ、ホ、ホ、斬るぞ、うるさい、無礼、なんて、大変威張るのね、いっそ可愛いいわ。……そうねえ、そんなように厳めしい言葉づかいするところをみると、やっぱりお武士《さむらい》さんには相違ないわね」
 女は、二十五六でもあろうか、妖艶であった。水色の半襟の上に浮いている頤など、あの「肉豊《ししむらゆたか》」という二重頤で、粘っこいような色気を持っていた。それが石に腰かけ、膝の上で銀張りの煙管を玩具にしながら、時々それを喫《す》い、昼の月が、薄白く浮かんでいる初夏の空へ、紫陽花《あじさい》色の煙を吐き吐き、少年武士をからかっているのであった。
 少年武士は、年増女にからかわれても、仕方ないような、少し柔弱な美貌の持主で、ほんとうに、お寺小姓ではないかと思われるような、そんなところを持っていた。口がわけても愛くるしく、少し膨れぼったい唇の左右が締まっていて、両頬に靨が出来ていた。それで、いくら、無礼だの、斬るぞだのと叱咤したところで、靨が深くなるばかりで、少しも恐くないのであった。玩具のような可愛らしい両刀を帯び、柄へ時々手をかけてみせたりするのであるが、やはり恐くないのであった。旅をして来たのであろう、脚絆や袴の裾に、埃《ほこり》だの草の葉だのが着いていた。
「坊ちゃん」と女は云った。
「あそこに見えるお蔵、何だか知っていて?」
 眼の下の谷に部落があり、三四十軒の家が立っていた。農業と伐材《きこり》とを稼業《なりわい》としているらしい、その部落のそれらの家々は、小さくもあれば低くもありして、貧弱《みすぼら》しかった。
 上から見下ろすからでもあろうが、どの家もみんな、地平《じべた》に食い付いているように見えた。信州伊那の郡《こおり》[#ルビの「こおり」は底本では「こうり」]川路の郷なのである。西南へ下れば天龍峡となり、東北へ行けば、金森山と卯月山との大|渓谷《たに》へ出るという郷で、その二つの山の間から流れ出て、天龍川へ注ぐ法全寺川が、郷の南を駛《はし》っていた。川とは反対の方角、すなわち卯月山の山脈寄りに、目立って大きな屋敷が立っていた。高く石崖《いしがき》を積み重ねた上に、宏大な地域を占め、幾棟かの建物が立ってい、生垣や植込の緑が、それらの建物を包んでいるのであった。女の云った蔵というのは、それらの建物の中の一つであって、構内の北の外れに、ポツンと寂しそうに立っていた。白壁づくりではあったが、夕陽に照らされて、見る眼に痛いほど、鋭く黄金色に輝いていた。
 少年武士は、その蔵へ眼をやったが、
「何だか知っているかとは何じゃ、蔵は蔵じゃ」
「鸚鵡《おうむ》蔵よ」
「鸚鵡蔵? ふうん、鸚鵡蔵とは何じゃ?」
「お蔵の前へ行って、何々さーんと呼ぶんですの。するとお蔵が、何々さーんと答えてくれるでしょうよ」
「蔵が答える?」
「ええ、だから鸚鵡蔵……」
「馬鹿申せ」
「それでもようござんす、馬鹿申せッて、呼ぶんですの。するとお蔵が、馬鹿申せと答えてくれるでしょうよ。……納谷《なや》様の鸚鵡蔵ですものねえ」
「納谷様?」と少年武士は驚いたように、
「では、あれが、納谷殿のお屋敷か?」
「そうよ。でもどうしたのさ、親しそうに納谷殿なんて?」
「拙者、納谷殿屋敷へ参る者じゃ」
「まア、坊ちゃんが。……では、坊ちゃんは?」
「納谷の親戚《みより》の者じゃ」
「まあ」
「身共《みども》の姉上が納谷家に嫁しておるのじゃ」
「まあ、それでは、奥様の弟?」
「うむ」
「お姓名《なまえ》は?」
「筧菊弥《かけいきくや》と申すぞ」
「まあまあ、そうでしたかねえ」と云うと女は立ち上った。

首を洗う姉
 それから、草の上へ、さもさも疲労《つかれ》たというように、両脚を投げ出して坐っている、菊弥を見下したが、
「では菊弥様、妾《わたし》もう一度|貴郎《あなた》様にお目にかかることでしょうよ。……そうして一度は、その愛くるしい……」
「斬るぞ!」
 キラリと白い光が、新酒のように漲《みなぎ》っている夕陽の中に走った。菊弥が三寸ほど抜いたのである。とたんに、女は走って、二人を蔽うようにして繁っている、背後の樺の林の中へ走り込んだ。でも、そこから振り返ると、
「醒ヶ井《さめがい》のお綱《つな》は、やるといったこときっとやるってこと、菊弥様、覚えておいで」

 婢《おんな》に案内され、薄暗い部屋から部屋、廊下から廊下へと、菊弥は歩いて行った。
「このお部屋に奥様はお居ででございます」と云いすてて、婢が立ち去った時、菊弥は、古びた襖の前に立っていた。
 菊弥は妙に躊躇されて、早速には襖があけられなかった。姉とはいっても、嬰児《みずこ》の時代に別れて、その後一度も逢ったことのない姉のお篠《しの》であった。
(どんな人だろう?)という懸念が先立って、懐しいという感情は起こらなかった。
(いつ迄立っていても仕方がない)
 こう思って菊弥は襖を開けた。
 しばらく部屋の中を見廻していた菊弥は、「あッ」と叫ぶとベッタリ襖を背にして坐ってしまった。
 この部屋は、宏大な納谷家の主家の、ずっと奥にあり、四方を他の部屋で包まれており、それに襖が閉めきってあるためか、昼だというのに、黄昏《たそがれ》のように暗かった。部屋の中央《まんなか》の辺りに一基の朱塗りの行燈《あんどん》が置いてあって、熟《う》んだ巴旦杏《はたんきょう》のような色をした燈の光が、畳三枚ぐらいの間を照らしていた。
 その光の輪の中に、黒漆ぬりの馬盥《ばたらい》が、水を張って据えてあり、その向こう側に、髪を垂髪《おすべらかし》にし、白布で襷をかけた女が坐っていた。そうして脇下まで捲れた袖から、ヌラヌラと白い腕を現わし、馬盥で、生首を洗っていた。生首はそれ一つだけではなく、その女の左右に、十個《とお》ばかりも並んでいた。いずれも男の首で、眼を閉じ、口を結んでいたが、年齢《とし》からいえば、七八十歳のもあれば、二三十歳、四五十歳、十五六歳のもあった。首たちは、燈火《あかり》の輪の中に、一列に、密着して並んでいた。その様子が、まるで、お互い生存《いき》ていた頃のことを、回想し合っているかのようであった。光の当たり加減からであろうが、十七八歳の武士の首は、鼻の脇からかけて口の横まで、濃い陰影《かげ》を、筋のように附けていたので、泣いてでもいるように見えた。
 女は、菊弥が入って来て、「あッ」と叫んで、ベッタリ坐っても、しばらくは顔を上げずに、額へパッと髪をかけたまま、馬盥に俯向き、左の手で生首の髻《もとどり》を掴み右の手の鬱金《うこん》の巾《きれ》で、その生首を洗っていた。
 菊弥は、全身をワナワナと顫わせ、見まい見まいとしても、生首へ、わけても、女の洗っている生首へ眼を引かれ、物も云えず、坐っていた。
 やがて女は顔を上げ、つくづくと菊弥を眺めたが、
「菊弥かえ」と云った。
「は、はい、菊弥でございます。……あ、あなた様は?」
「お前の姉だよ」
「お、お篠お姉様?」
「あい」
「お、お姉様! それは? その首は?」
「代首《かえくび》だよ」
「か、代首? 代首とは?」
「味方の大将が、敵に首を掻かれ、胴ばかりになった時、胴へ首を継いで葬るのが、戦国時代のこの土地の習慣だったそうな。……その首を代首といって、前もってこしらえて置いたものだそうだよ」
「まあ、では、その首は、本当の首ではないのでございますか?」
「本当の首ではないとも。木でこしらえ、胡粉《ごふん》を塗り、墨や紅で描き、生毛を植えて作った首形なのだよ」
「でも、お姉様、どうしてそんな首形が、いくつもいくつも、お家に?」

不幸な良人の話
「納谷家は、遠い昔から、この土地の武将として続いて来た、由緒のある家なのだよ。だから代首がたくさんあるのだよ」
「では、その代首の方々は?」
「ええ、みんな納谷家の武将方だったんだよ。でも、これらの方々は、幸い首も掻かれず、ご病死なされたので、それで代首ばかりが残ったのだよ」
「でも、どうして代首を、お洗いなさるのでございますか?」
「納谷家の行事なのだよ。年に一度、お蔵から、そう、鸚鵡蔵から、代首を取り出して、綺麗に洗ってあげるというのがねえ。……代首にもしろ、首を残しておなくなりになった方々の冥福をお祈りするためでもあり、残されたお首を、粗末に扱わぬためでもあり……」
「でも、どうしてお姉様が?」
「いいえ、これまでは、妾ではなくて、納谷家の当主――妾の良人《おっと》、そうそうお前さんには義兄《にい》さんの、雄之進様がお洗いになったのだよ」
「おお、そのお義兄《あにい》様は、お健康《たっしゃ》で?」
「いいえ、それがねえ」とお篠は顔を伏せた。
「遠い旅へお出かけなされたのだよ」
「旅へ? まあ、お義兄様が?」
「あい、何時《いつ》お帰りになるかわからない旅へ!」
 またお篠は顔を伏せた。話し話し代首を洗っていた手も止まった。肩にかかっていた垂髪が顫えている。泣いているのではあるまいか。
「お姉様、お姉様」と菊弥もにわかに悲しくなり、
「どうして旅へなど、お義兄様が※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「恐ろしいご病気におかかりなされたからだよ」
「恐ろしいご病気に?」
「あい、血のために」
「血のために? 血のためとは?」
「濁った血のためにねえ」
「…………」
「納谷家は、いまも云ったように、古い古い名家なのだよ。それで代々、親戚《みより》の者とばかり、婿取り嫁取りをしていたのだそうな。身分や財産《しんしょう》が釣り合うように、親戚をたくさん増やさないようにとねえ。……そのあげくが血を濃くし、濁らせて、とうとう雄之進様に恐ろしい病気を。……それでご養生に、つい最近、遠い旅へねえ。……お優しかった雄之進様! どんなに妾を可愛がって下されたことか! お前さんは知らないでしょうが、お前さんがまだ誕生にもならない頃、でも妾が十七の時、雄之進様には江戸へおいでになられ、浅草寺へ参詣に行った妾を見染められ……笑っておくれでない、本当のことなのだからねえ。……財産も身分も違う、浪人者の娘の妾を、是非に嫁にと懇望され、それで妾は嫁入って来たのだよ。その妾を雄之進様には、どんなに可愛がって下されたことか! 恐ろしいご病気になられてからも、どんなに妾を可愛がって下されたことか! でもご病気になられてからの可愛がり方は、手荒くおなりなさいましたけれど。……そう、こう髪を銜《くわ》えてお振りなどしてねえ」
 云い云いお篠は、代首の髻《もとどり》を口に銜え、左右へ揺すった。鉄漿《かね》をつけた歯に代首を銜えたお篠の顔は、――髪の加減で額は三角形に見え、削けた頬は溝を作り、見開らかれた両眼は炭のように黒く、眉蓬々として鼻尖り、妖怪《もののけ》のようでもあれば狂女のようでもあり、その顔の下に垂れている男の首は、代首《かえくび》などとは思われず、妖怪によって食い千切られた、本当の男の生首のようであった。
「お姉様! 恐うございます恐うございます!」
「いいえ」と云った時には、もう首は盥《たらい》の中に置かれ、お篠は俯向いて、鬱金の巾を使っていた。

襖の間に立った男
「菊弥や」とやがてお篠は云った。
「とうとうお母様もお逝去《なくな》りなされたってねえ」
「はい」と菊弥は眼をしばたたいた。
「先々月おなくなりなさいましてございます」
「妾はお葬式《とむらい》にも行けなかったが。……それもこれも婚家《うち》の事情で。……旦那様のご病気のために。……それで菊弥や、妾の所へ来たのだねえ」
「はい、お姉様、そうなのでございます。……お母様が臨終に仰せられました。『お父様は三年前に逝去り、その後ずっと、お篠からの貢ぎで、人並に生活《くらし》て来たわたし達ではあるが、妾が、この世を去っては、年齢《とし》はゆかず、手頼りになる親戚のないお前、江戸住居はむずかしかろう。だからお姉様の許へ行って……』と。……」
「よくおいでだった。そういう書信《たより》が、お前のところから来て以来、どんなに妾は、お前のおいでるのを待っていたことか。……安心おし、安心して何時までもここにお居で。この姉さんが世話《み》てあげます。子供のない妾、お前さんを養子にして、納谷の跡目を継いで貰いましょうよ」
「お姉様、ありがとうございます。万事よろしくお願い申します」
 菊弥は、はじめてホッとした。
 彼は、この部屋へ入って来るや、代首にしろ、首級《くび》を洗っている、妖怪じみた姉を見て、まず胆を潰し、ついで、納谷家の古事《ふるごと》や、当代の主人の不幸の話や、そのようなことばかりを云って、こちらの身の上のことなど、一向に訊いてもくれない姉の様子に接し、うすら寂しく、悲しく思っていたのであったが、ようやく姉らしい優しい言葉や、親切の態度に触れたので、ホッとしたのであった。
 犬ともつかず、何の獣の啼声とも知れない啼声が、戸外《そと》から鋭く聞こえてきた。昼でもこの辺りでは啼くという、※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2-94-68]《むささび》の声であった。
 部屋の中は、寒い迄に静かであった。首を洗うお篠の手に弾かれて、盥の中の水が、幽かに音を立てている。音はといえばそればかりであった。
「お前もほんとうに可哀そうだったねえ」としみじみとした声でお篠は云った。
「お父様やお母様の書信《おたより》で聞いたのだが、いわばお前は、不具《かたわ》者のようにされて育てられて来たのだってねえ。……でもここへ来たからには大丈夫だよ。もうそのような固苦しいみなり[#「みなり」に傍点]などしていなくてもよいのだよ」
「はいお姉様、ありがとう存じます」
「おや」と不意にお篠は左右を見廻した。
「首がない! 妾の首が!」
「お姉様」と菊弥は驚き、
「いいえ首は……お姉様の首は……ちゃんとお姉様の肩の上に……」
「首がない! 妾の首がない! 男ばかりの首の中に、たった一つだけある女の代首! それが妾に似ているところから、旦那様が、お篠、これはお前の首じゃと云われ、日頃いっそう大切にお扱い下された首! その首がないのじゃ!」
 なお左右を見廻したが、
「お蔵へ残して来た覚えはなし……何としたことだろう?」
 じっと眼を据えた。
「奥様」とこの時、菊弥の背後《うしろ》から、濁《だ》みた、底力のある声が聞こえてきた。
 菊弥は振り返って見た。彼がこの部屋へ入って来た時、引き開け、そのまま閉じるのを忘れていた襖の間に、身丈《せい》の高い、肩巾の広い、五十近い男が、太い眉、厚い唇の、精力的の顔を、お篠の方へ向けて立っていた。
「お仕事は、まだお済みではございませんかな」
「チェ」とお篠は舌打ちをした。
「まだ済まぬよ。……向こうへ行っておいで。……お前などの来るところではないよ」
「へい。ちょっとお話を……」
「また! いやらしい話かえ! ……くどい」
「いいえ……よく聞いていただきまして……」
「お黙り!」

飯食い地蔵
 翌日菊弥は庭へ出て陽を浴びていた。
 寛文四年五月中旬のさわやかな日光《ひ》は、この山国の旧家の庭いっぱいにあたっていた。広い縁側を持った、宏壮な主屋を背後にし、実ばかりとなった藤棚を右手にし、青い庭石に腰をかけ、絶えず四辺《あたり》から聞こえてくる、老鶯《うぐいす》や杜鵑《ほととぎす》の声に耳を藉し、幸福を感じながら彼は呆然《ぼんやり》していた。納屋の方からは、大勢の作男たちの濁声《だみごえ》が聞こえ、厩舎《うまごや》の方からは、幾頭かの馬の嘶《いなな》く声が聞こえた。時々、下婢や下男が彼の前を通ったが、彼の姿を眼に入れると、いずれも慇懃に会釈をした。彼を、この家の主婦の弟と知って、鄭重に扱うのであった。
(いいなあ)と菊弥は思った。
(これからわし[#「わし」に傍点]はずっとここで生長《おおきく》なるのだ。そうしてここの家督を継ぐのだ。これ迄は、父親のない、貧しい浪人者の小倅として、どこへ行っても、肩身が狭かったが、もうこれからはそんなことはないのだ)
 こんなことを思った。
 と、この時、昨日《きのう》、主屋の奥の部屋で、姉が代首《かえくび》を洗っていた時、襖の間に立って、姉に話しかけた男が――後から姉から聞いたところによれば、嘉十郎と云って、この納谷家を束ねている、大番頭とのことであるが、――その嘉十郎が片手に、皿や小鉢を載せた黒塗の食膳を持ち、別の手に、飯櫃《めしびつ》を持って、厨屋《くりや》の方から、物々しい様子で歩いて来た。
「嘉十郎や、そんなもの、どこへ持って行くのだえ?」と菊弥は、嘉十郎が自分の前へ来た時声をかけた。
 少年の好奇心からでもあったが、下婢ならともかく大番頭ともある嘉十郎が、そんな物を持って、昼日中物々しく、庭など通って行くので、何とも不思議に堪えられなかったからでもあった。
 嘉十郎は足を止めたが、
「へい、これは菊弥お坊ちゃまで。……これでございますか、これは『飯食い地蔵様』へお供えする昼のお斎《とき》でございますよ」
「飯食い地蔵? 飯食い地蔵って何だい?」
「お坊ちゃまは、江戸から参られたばかりで、何もご存知ないでしょうが、飯食い地蔵と申しますのは、大昔から、この納谷家に祭られておる地蔵様のことでございましてな、お蔵の裏手……」
「お蔵って、鸚鵡蔵のことかい」
「ご存知で。これはこれは。へい、さようでございます、その鸚鵡蔵の、裏の竹藪の中に、安置されてあるのでございますがな、朝、昼、晩と、三度々々お斎を供えなければなりませんので。それが納谷家に伝わる、長い間の習慣《しきたり》で」
「地蔵様がお斎を食べるのかい?」
「さようでございます」
「嘘お云いな」
「あッハッハッハッ。……いずれは野良犬か、狐か狸か、乞食《ものごい》などが食べてしまうのでございましょうが、とにかくお斎は毎日綺麗になくなります」
「飯食い地蔵。……見たいな」
「およしなさいまし。あの方角へは、まずまずおいでにならない方がよろしゅうございます」
「お姉様も、昨日《きのう》、そんなことを云ったよ。鸚鵡蔵の方へは行かない方がいいって」
「さようでございますとも、魔がさしますで」
 行過ぎる嘉十郎のうしろ姿を見送りながら、菊弥は、鸚鵡蔵の由縁《いわれ》を、一番最初に自分へ話してくれた、お綱という女のことを思い出した。その女は、彼が目差す川路の郷を、目の下に見ることの出来る峠まで辿りついたので、安心し、疲労た足を休めているところへ、突然、樺の林の中から出て来て、からかった女であった。
(あの女何者だろう?)
(鸚鵡蔵だけは是非見たいものだ)

鸚鵡蔵
 その夜のことであった。菊弥は、鸚鵡蔵の前に立っていた。
 月のある夜だったので、巾の広い、身長の高い――普通の蔵の倍もありそうな鸚鵡蔵は、何かこう「蔵のお化」かのように、朦朧と照っている月光の中に、その甍《いらか》を光らせ、白壁を明るめて立っていた。白壁づくりではあったが、その裾廻りだけが、海鼠《なまこ》形になっていて、離れて望めば、蔵が裾模様でも着ているように見えた。正面に二段の石の階段があり、それを上ると扉であった。扉は頑丈の桧の一枚板でつくられてあり、鉄の鋲が打ってあり、一所に、巾着大の下錠が垂らしてあった。納谷家にとって一方ならぬ由緒のある蔵なので、日頃から手入れをすると見え、古くから伝わっている建物にも似合わず、壁の面には一筋の亀裂さえなく、家根瓦にも一枚の破損さえもなさそうであった。
 菊弥は、扉の前にしばらく佇んでいたが(声をかけてみようかな?)と思った。でも、姉の眼や家人の眼を盗んで、こっそり見に来たことを思い出し、止めた。知れたら大変だと思ったからである。
(手ぐらい拍ってもいいだろう)
 そこで彼は手を拍った。少年の鳴らす可愛らしい拍手の音が、二つ三つ、静かな夜の空気の中を渡った。と、すぐに全く同じ音が、蔵の面から返って来た。
(あ、ほんとうに、お蔵が返辞をしたよ。まったく鸚鵡蔵だ)
 日光の薬師堂の天井に、狩野|某《なにがし》の描いた龍があり、その下に立って手を拍つと、龍が、鈴のような声を立てて啼いた。啼龍といって有名である。
 が、要するにそれは、天井の構造から来ていることで、幽かな音に対しても木精《こだま》を返すに過ぎないのであって、そうしてこの鸚鵡蔵も、それと同一なのであったが、無智の山国の人達には、怪異《ふしぎ》な存在《もの》に思われているのであった。
 菊弥は鸚鵡蔵が鸚鵡蔵の証拠を見せてくれたので、すっかり満足したが、すぐに、少年の好奇心から、昼間嘉十郎の話した「飯食い地蔵」のことを思い出した。
(どんな地蔵かしら、見たいものだ。嘉十郎の持って行った飯をほんとうに食べたかしら?)
 そこで菊弥は、蔵を巡って、その裏手の方へ歩いて行った。蔵の裏手は、蓬々と草の茂った荒地で、遥か離れたところに、孟宗竹の林が立ってい、無数の巨大な帚でも並べたようなその竹林は、梢だけを月光に薄明るく色づけ、微風《そよかぜ》に靡いていた。そうして暗い林の奥から、赤黄色い、燈明の火が、朱で打ったように見えて来ていた。
(あそこに地蔵様の祠があるんだな)
 そこで菊弥はその方へ足を向けた。と、その時、蔵の右手から人の足音が聞こえてきた。
(しまった)と菊弥は思った。
(手を拍ったのを聞き付けて、誰か調べに来たのだ)
 目つかっては大変と、菊弥は左手の方へ逃げかけた。するとその方からも人の足音が聞こえてきた。
(どうしよう)
 眼《め》を躍《おど》らせて四方を見廻した菊弥の眼に入ったのは、蔵の壁に沿って、こんもりと茂っている漆らしい藪であった。
(あそこへ一時身をかくして……)
 そこで菊弥は藪の陰へ走り込み、ピッタリと壁の面へ身を寄せた。
「あッ」
 菊弥の身は蔵の中へ吸い込まれた。
 壁の一所が切り抜かれてい、菊弥が身を寄せた時、切り抜かれた部分の壁が内側へ仆れ、連れて、菊弥の体が蔵の中へ転がり込んだのであった。
「あッ」
 再度声をあげたのは、蔵の闇の中から手が延びて来て、菊弥の胸倉を掴んだからであった。
「何奴!」と叫ぼうとした口を、別の手が抑えた。
 菊弥の体の上に馬乗りになった重い体の主は、切り抜かれた壁の口から、幽かに差し込んで来た外光に照らした顔を、菊弥の顔の上へ近づけた。
「あッ」と声は出なかったが、菊弥は、抑えられている口の中で叫んだ。その顔が、お綱の顔だったからである。峠で、昨日、自分をとらえて挑戯《からか》った、「醒ヶ井のお綱」の顔だったからである。
「うふ!」とお綱は、薄い、大形の唇から、前歯をほころばせて笑ったが、強い腕の力で、菊弥をズルズルと蔵の奥へ引き摺って行き、依然として馬乗りになったまま、今は、外光さえ届いて来ない闇の中で、囁くように云った。
「菊弥! ナーニ、本名を云やアお菊か菊女だろう! 手前、女だからなア! うふ、いかに男に姿やつしていようと、この綱五郎の眼から見りゃア――そういう俺らア男さ! ナニ『醒ヶ井のお綱』だって! 箆棒めえ、そいつア土蔵破《むすめし》としての肩書だア。……この綱五郎の眼から見りゃア、一目瞭然、娘っ子に違えねえ!」

人か幽鬼か
「ところで俺ら約束したっけなア、もう一度きっとお目にかかるって! さあお目にかかった。どうするか見やがれ! ……女に姿やつしてよ、中仙道から奥州街道、東海道まで土蔵を破らせりゃア、その昔の熊坂長範よりゃア凄いといわれた綱五郎、聞きゃア草深え川路の山奥に納谷という旧家があって、鸚鵡蔵という怪体《けったい》な土蔵があるとのこと、しめた! そういう土蔵《むすめ》の胎内にこそ、とんだ値打のある財宝《はららご》があるってものさ、こいつア割《あば》かずにゃアいられねえと、十日あまりこの辺りをウロツキ廻り、今夜念願遂げて肚ア立ち割り調べたところ、有った有った凄いような孕子があった。現在《いまどき》の小判から見りゃア、十層倍もする甲州大判の、一度の改鋳《ふきかえ》もしねえ奴がザクと有った。有難え頂戴と、北叟笑いをしているところへ、割いた口から今度は娘っ子が転がり込んで来た! 黄金《かね》に女、盆歳暮一緒! この夏ア景気がいいぞ!」
 グーッと綱五郎は抑え込んだ。
(無念!)と菊弥は、抑え付けられた下から刎返そう刎返そうと※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]きながら、
(烈士、別木荘左衛門の一味、梶内蔵丞《かじくらのじょう》の娘の自分が、こんな盗賊に!)
 抑えられている口からは声が出ない! 足で床を蹴り、手を突張り、刎返そう刎返そうと反抗《あらが》った。
 そう、菊弥は娘なのであった。父は梶内蔵丞と云い、承応元年九月、徳川の天下を覆そうとした烈士、別木荘左衛門の同志であった。事あらわれて、一味徒党ことごとく捕えられた中に、内蔵丞一人だけは遁れ終わせ、姓名を筧求馬《かけいもとめ》と改め、江戸に侘住居をした。しかし大事をとって、当歳であった娘のお菊を、男子として育てた。というのは、幕府《おかみ》において、梶内蔵丞には娘二人ありと知っていたからであった。その菊弥も、官吏《かみやくにん》や世間の目を眩ますことは出来たが、土蔵破《むすめし》の綱五郎の目は欺むけず……
 だんだん抵抗力《ちから》が弱って来た。
(何人《どなた》か……来て! 助けてエーッ)
 そういう声も口からは出ない。
 と、この時蔵の中が、仄かな光に照らされて来た。光は、次第に強くなって来た。蔵の奥に、二階へ通っている階段があり、その階段から光は下りて来た。段の一つ一つが、上の方から明るくなって来た。と、白布で包んだ人の足が、段の一つにあらわれた。つづいて、もう一方の足が、その次の段を踏んだ。これも白布につつまれている。
 黒羽二重の着物を着、手も足も白布で包み、口にお篠の生首を銜え、片手に手燭を持った男が、燠のように赤い眼、ふくれ上った唇、額に瘤を持ち、頤に腐爛《くずれ》を持った獅子顔を正面に向け、階段を下り切ったのは、それから間もなくのことであった。髪を銜えられて、男の胸の辺りに揺れているお篠の首は、手燭の光を受けて、閉じた両眼の縁が、涙で潤っているように光っていた。その顔の左右へは、男の、髻の解けた長髪が振りかかり、女の首を抱いているように見えた。
「わッ」という怯えた声が響いた時には、綱五郎は躍り上っていた。刹那、匕首《どす》が閃めいた。綱五郎が抜刀《ぬい》て飛びかかったのである。再度悲鳴が聞こえた時には、生首を銜えた男の手に、血まみれの匕首が持たれ、その足許に綱五郎が斃れていた。その咽喉から迸《ほとばし》っている血に浸り、床の上に散乱しているのは、昨日、お篠が主屋の奥座敷で洗っていた、十個の代首《かえくび》と、その首の切口の蓋が外れ、そこから流れ出たらしい無数の甲州大判であった。
 恐怖から恐怖! ……賊に襲われる恐怖からは危うく助けられたが、殺人《ひとごろし》の悪鬼の出現に、戦慄のどん底へ落とされた菊弥は、床の上へ坐ったまま、悪鬼の姿を、両手を合わせてただ拝んだ。そういう菊弥を認めたのか認めないのか、仮面《めん》のような獅子顔を持った男は、胸の上の女の生首を揺りながら、よろめきよろめき、切り抜かれた壁の方へ歩いて行った。そうして、その男が落とし、落ちた床の上で、なお燃えている手燭の燈に、ぼんのくぼ[#「ぼんのくぼ」に傍点]を照らし、壁の穴から出て行った。
 手燭はまだ燃えていた。代首を利用し、その中へ、先祖より伝わる、幾万両とも知れない大判を隠し入れ、首を洗うに藉口《かこつけ》て、毎年一度ずつ大判を洗い、錆を落とすところから、鋳立《ふきた》てのように新しい甲州大判! それが、手燭の光に燦然と輝いていた。

答えない鸚鵡蔵
 悲劇は、蔵の中ばかりにあるのではなかった。大竹藪の中、飯食い地蔵の祠の前にもあった。
 いわば後家のようになったお篠を手に入れ、二つには納谷家の大|財産《しんしょう》を自分のものにしようと、以前から機会を窺っていた番頭の嘉十郎が、お篠をここへおびき出し――先刻菊弥が蔵の裏手で耳にした足音は、その二人の足音なのであったが、今、くどいていた。
「かりにも主人の妾へ、理不尽な! 無礼な! ……汝《おのれ》が汝が!」
 大竹藪は、この不都合な光景を他人に見せまいとするかのように、葉を茂らせ、幹を寄り合わせ、厚く囲っていた。
「……飯食い地蔵に捧げるといって、世間の眼を眩ませ、こっそり私が持って行く食物を食べ、蔵の中で、生甲斐もなく生きている、あの化物のような旦那様より、まだまだわたしの方がどんなにか人間らしいじゃアありませんか。そう嫌わずに、わたしの云うとおりに。……あんまり強情お張りなさると、わたしは世間へ、納谷家の主人雄之進様が、長旅へ出たとは偽り、実は業病になり、蔵の中に隠れ住んでおりますと云いふらしますぞ。するとどうなります、数百年伝わった旧家も、一ぺん[#「ぺん」に傍点]に血筋の悪い家ということになって、世間から爪はじきされるじゃアございませんか」
 こういう光景を見ているものは、ささやかな家根の下、三方板囲いされた中に、赤い涎れ懸けをかけ、杖を持った、等身大の石地蔵、飯食い地蔵尊ばかりであり、それを照らしているものは、その地蔵尊にささげられてある、お燈明の光ばかりであった。
「痛! 畜生! 指を噛んだな!」と突然嘉十郎は咆哮した。
「ええこうなりゃア、いっそ気を失わせておいて!」と大きな手を、お篠の咽喉へかけた。
「わッ」
 瞬間、嘉十郎はお篠を放し、両手を宙へ延ばした。咽喉に匕首が突立っている。
「う、う、う、う!」
 のめっ[#「のめっ」に傍点]て、地蔵尊へ縋りついた。飯食い地蔵は仆れ、根元から首を折ったが、胴体では、嘉十郎を地へ抑え付けていた。
 お篠はベタベタと地べた[#「べた」に傍点]へ坐った。
(助かった! 助かった!)
 その時、祠の陰から、お篠の代首を、今は口には銜えず、可憐《いとお》しそうに両袖に抱いた、仮面のような獅子顔の男が妖怪《もののけ》のように現われ、お篠の横へ立った。
「雄之進殿オーッ」
 それと見てとったお篠は、縋り付こうとした。
 しかし、納谷雄之進は、自分の悪疾を、愛する妻へ移すまいとしてか、そろりと外して、じっとお篠を見下ろした。盲いかけている眼から流れる涙! 血涙であった!
「旦那様アーッ」
 なおお篠は、雄之進の足へ縋り付こうとした。
 しかしもうその時には、――蔵の中に隠れ住むことにさえ責任《せめ》を感じ、家の名誉と、愛する妻の幸福のために、今度こそ本当に、帰らぬ旅へ出て行こうと決心し、愛し愛し愛し抜いている妻の、俤を備えている代首、それだけを持った雄之進は、竹藪を分けて歩み出していた。
「妾もご一緒に! 雄之進殿オーッ」とお篠は後を追った。竹の根につまずいて転んだ。起き上って後を追った。またつまずいて仆れた。起き上って後を追った。いつか竹藪の外へ出た。茫々と蒼い月光ばかりが、眼路の限りに漲ってい、すぐ眼の前に、鸚鵡蔵が、白と黒との裾模様を着て立っていたが、雄之進の姿は見えなかった。絶望と悲哀とでお篠は地へ仆れた。そこで又愛し憐れみ尊敬している良人《おっと》の名を、声限りに呼んだ。
「雄之進殿オーッ」
 声は鸚鵡蔵へ届いた。
 鸚鵡蔵は、「雄之進殿オーッ」と木精《こだま》を返したか? いや、鸚鵡蔵は沈黙していた。
 しかしどこからともなく、哀切な、優しい声が、
「お篠オーッ」と呼び返すのが聞こえた。
「あ、あ、あ!」とお篠は喘いだ。
「ご病気でお声さえ出なくなった旦那様が、妾の名を、妾の名を、お篠オーッと……」
 嬉しさ! 恋しさ! お篠は又も声限りに呼んだ。
「雄之進殿オーッ」
「お篠オーッ」

 手燭の燈も消えた暗い蔵の中では、菊弥が恐怖で足も立たず、床を這い廻っていた。と、戸外から聞き覚えのある姉の声で、人を呼んでいるのが聞こえた。菊弥は嬉しさに声限り、
「お篠お姉様アーッ」と呼んだ。
 壁を切り抜かれて、鸚鵡蔵の機能を失った蔵は、お篠の呼び声に答えはしなかったが、そう呼んだ菊弥の声を、切り抜かれた穴から戸外《そと》へは伝えた。しかし菊弥は心身ともに弱り切っていたので、語尾の「お姉様アーッ」というのが切れ、戸外へは――お篠の耳へは、
「お篠オーッ」としか聞こえなかった。
 しかしお篠には、その声が、蔵の中で菊弥が呼んでいる声などとは思われなかった。良人が呼び返す声だと思った。
 幾度も幾度も呼んで、そのつど答える良人《おっと》の声に耳を澄ました。
「雄之進殿オーッ」
「お篠オーッ」
 竹藪の中では、首を折って、飯食い地蔵の名に背くようになった石の地蔵尊が、嘉十郎の死骸を、なおその胴体で抑えていた。

 その後の納谷家には、明るい生活がつづいた。先ず菊弥は女として育てられることになり、鸚鵡蔵と飯食い地蔵とは、その名に背くようになったところから、二つながら取り毀《こぼ》され、代首も真の秘密とその効用とが他人に知られた以上――知った綱五郎は殺されたにしても――保存する必要がないというので、これも取り捨られ、甲州大判は尋常の金箱の中に秘蔵されることになった。つまり、古い伝統を持った旧家の納谷家から、三種の悪質《わる》い伝統の遺物が取り去られたのであった。
 雄之進は永久納谷家へは帰らなかったそうな。しかし伝うるところによれば、この人の病気は、天刑病《てんけいびょう》ではなく、やや悪質の脱疽に過ぎなかったということであり、そうしてこの人は、やはり、別木荘左衛門一味の同伴者《シンパ》であり、お篠を娶ったのも、お篠が、別木党の、梶内蔵丞の娘であることを知っていたからだということである。そういう烈士であったればこそ、家のため妻のために、自分の生涯を犠牲にして、行衛不明になるというような、男らしい行為を執ったのであろう。お篠は勿論後半生を未亡人として送った。
 そうしてお篠は、死ぬ迄、「いいえ、あの時、妾の名を、『お篠オーッ』と呼んで下されたのは、蔵の中の菊弥ではなくて、良人、雄之進様でございますとも」と云い張ったということである。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
   1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「冨士」特別増大号
   1937(昭和12)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月10日作成
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国枝史郎

鵞湖仙人—— 国枝史郎

     

 時は春、梅の盛り、所は信州諏訪湖畔。
 そこに一軒の掛茶屋があった。
 ヌッと這入って来た武士《さむらい》がある。野袴に深編笠、金銀こしらえの立派な大小、グイと鉄扇を握っている、足の配り、体のこなし、将しく武道では入神者。
「よい天気だな、茶を所望する」
 トンと腰を置台へかけた。物やわらかい声の中に、凛として犯しがたい所がある。万事物腰鷹揚である。立派な身分に相違ない。大旗本の遊山旅、そんなようなところがある。
「へい、これはいらっしゃいまし」
 茶店の婆さんは頭を下げた。で、恭しく渋茶を出した。
 ゆっくりと取り上げて笠の中、しずかに喉をうるおしたが、その手の白さ、滑らかさ、婦人の繊手さながらである。
 茶を呑み乍ら其の侍、湖水の景色を眺めるらしい。
 周囲四里とは現代のこと、慶安年間の諏訪の湖水は、もっと広かったに違いない。
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信濃なる衣ヶ崎に来てみれば
    富士の上漕ぐあまの釣船
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 西行法師の歌だというが、決して決してそんな事は無い。歌聖西行法師たるもの、こんなつまらない類型的の歌を、なんで臆面も無く読むものか。
 が、併し、衣ヶ崎は諏訪湖中での絶景である。富士が逆さにうつる[#「うつる」に傍点]のである。その上を釣船が漕ぐのである。その衣ヶ崎が正面に見えた。
 水に突き出た高島城、四万石の小大名ながら、諏訪家は仲々の家柄であった。石垣が湖面にうつっ[#「うつっ」に傍点]ている。
「うむ、いいな、よい景色だ」
 武士は惚々と眺め入った。時刻は真昼春日喜々、陽炎《かげろう》が雪消の地面から立ち、チラチラ光って空へ上る。だが山々は真白である。ほんの手近の所まで、雪がつもって[#「つもって」に傍点]いるのである。
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思い出す木曽や四月の桜狩。
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 これは所謂翁の句だ。翁の句としては旨くない。だが信州の木曽なるものが、いかに寒いかということが、此一句で例証はされる。昔の四月は今の五月、五月に桜狩があるのだとすると、これは確に寒い筈だ。ところで諏訪も同じである。矢張り木曽ぐらい寒いのである。
 侍は婆さんへ話しかけた。
「話はないかな? 面白い話は?」
「へえへえ」
 と云ったが茶店の婆さん、相手があまり立派なので、先刻からすっかり萎縮して了って、ロクに返事も出来ないのであった。
「へいへいさようでございますな。……これと云って変った話も……」
「無いことはあるまい。ある筈だ。……それ評判の鵞湖仙人の話……」
 こう云った時、手近の所で、ドボーンという水音がした。
 侍は其方へ眼をやった。
 と、眼下の湖水の中に、老人が一人立泳ぎをしていた。
 寒い季節の水泳! まあこれは[#「これは」に傍点]可いとしても、その老人が打ち見た所、八十か九十か見当が付かない。そんな老齢な老人が、泳いでいるに至っては、鳥渡びっくりせざるを得ない。
「信州人は我慢強いというが、いや何うも実に偉いものだ」
 侍は感心してじっと見入った。
 ところが老人の泳ぎ方であるが、洵《まこと》に奇態なものであった。
 水府流にしても小堀流にしても、一伝流にしても大和流にしても、立泳ぎといえば大方は、乳から上を出すものである。それ以上は出せないものである。にも関らず老人は腰から上を出していた。で、まるで水の上を、歩いているように見えるのである。
 侍はホトホト感心した。
「だが一体何流かしらん? こんな泳ぎ方ははじめてだ、まことに以て珍らしい」
 だが侍の驚きは、間も無く一層度を加えた。と云うのは老人が、愈々でて愈々珍らしい、[#「、」は底本では「。」]不思議な泳ぎ方をしたからであった。
 老人はズンズン泳いで行った。湖心に進むに従って、形が小さくなる筈を、反対にダンダン大きくなった。しかし是は当然であった。老人は泳ぐに従って、益々体を水から抜き出し、二町あまりも行った頃には、文字通り水上へ立って了ったのである。

     

 これでは水を泳ぐのではない。水の上を辷っているのだ。
 スーッと行ってはクルリと振返り、スーッと行ってはクルリと振返る。
 侍は腕を組んで考え込んだ。
「む――」と侍は唸り出して了った。だが軈て呟いた。「南宗流乾術《なんそうりゅうけんじゅつ》第《だい》一|巻《まき》九|重天《ちょうてん》の左行篇《さぎょうへん》だ! あの老人こそ鵞湖仙人だ! ……今に消えるに相違無い!」
 はたしてパッと水煙が上った。同時に湖上の老人の姿が、煙のように消えて了った。
 見抜いた武士も只者では無い。
 むべなる哉この侍は、由井民部介橘正雪。

 南宗流乾術第一巻九重天の左行篇に就いて、説明の筆を揮うことにする。
 これは妖術の流儀なのである。
 日本の古代の文明が、大方支那から来たように、この妖術も支那が本家だ。南宗画は本来禅から出たもので、形式よりも精神を主とし、慧能流派の称である。ところが妖術の南宗派は、禅から出ずに道教から出た。即ち老子が祖師なのである。道教の根本の目的といえば、長寿と幸福の二つである。この二つを得るためには、代々の道教家が苦心したものだ。或者は神丹を製造して、それを飲んで長命せんとし、或者は陰陽の調和を計り、矢張り寿命を延ばそうとした。幸福を得るには黄金が必要だ。それで或者は練金術[#「練金術」はママ]をやって、うんと黄金を儲けようとした。
 神仙説を産んだのも、矢張り長寿と幸福との為めだ。
 だが、併し、妖術の元は、幸福を得るというよりも、長寿を得ると云う方に、重きを置いていたらしい。ところで妖術の著書はと云えば、枹木子を以て根元とする。そこで筆は必然的に、枹木子に就いて揮わなければならない。
 ところが洵に残念なことには、枹木子の著者は不明なのである。これほど素晴らしい本の著者が、不明というのは不思議であるが、しかし一方から見る時は、不明の方が本当かもしれない。屹度神仙が作ったんだろう、と云ってた方が勿体が付いて、却って有難くもなるのだから、尤も一説による時は、葛洪《かっこう》という人の著書だそうだ。
 ところで枹木子は内篇二十篇外篇五十二篇という大部の本だ。詳しい紹介は他日を待ってすることにしよう。
 枹木子は妖術の根本書で、非常に非常に可い本である! ただ是だけでいいでは無いか。
 だが、本当を云う時は、この枹木子は妖術書では無くて、仙術の本という可きである。
 で、真実の妖術書といえば、その枹木子の精粋を取り、更に他方面の説術を加味した「南宗派乾流」という本なのである。

     

 その有名な妖術書の「南宗派乾流」は足利時代に、第一巻九重天だけ、日本へ渡って来たのである。第一巻九重篇だけでも、どうしてどうして素晴らしいもので、それを体得しさえしたら、どんな事でも出来るのだそうだ。
 それを何うして手に入れたものか、鵞湖仙人という老人が、何時の間にか手に入れて、ちゃんと蔵っているのであった。
 それを何うして嗅ぎ付けたものか、由井正雪が嗅ぎ付けて、それを仙人から奪い取ろうと、遙々江戸から来たのであった。

 物語は三日経過する。
 此処は天竜の上流である。
 一宇の宏大な屋敷がある。
 薬草の匂いがプンプンする。花が爛漫と咲いている。
 鵞湖仙人の屋敷である。
 その仙人の屋敷の附近へ、一人の侍がやって来た。他ならぬ由井正雪である。
 先ず立って見廻わした。
「ううむ、流石は鵞湖仙人、屋敷の構えに隙が無い。……戌亥にあたって丘があり、辰巳に向かって池がある。それが屋敷を夾んでいる。福徳遠方より来たるの相だ。即ち東南には運気を起し、西北には黄金の礎《いしずえ》を据える。……真南に流水真西に砂道。……高名栄誉に達するの姿だ。……坤《ひつじさる》巽《たつみ》に竹林家を守り、乾《いぬい》艮《うしとら》に岡山屋敷に備う。これ陰陽和合の証だ。……ひとつ間取りを見てやろう」
 で、正雪は丘へ上った。
「ははあ、八九の間取りだな。……財集まり福来たり、一族和合延命という図だ。……ええと此方が八一の間取り。……土金相兼という吉相だ。……さて此方は一七の間取り。僧道ならば僧正まで進む。……それから此方が八九の間取り。……仁義を弁え忠孝を竭《つく》す。子孫永久繁昌と来たな。……それから此方は七九の間取り。……うん、そうか、あの下に、金銀が蓄えてあると見える。金気が欝々と立っている。……さて、あいつが九六の間取りで庭に明水の井戸がある。薬を製する霊水でもあろう。六四の間取りがあそこ[#「あそこ」に傍点]にある。……公事訴訟の憂いが無い。……戌亥に二棟の土蔵がある。……即ち万代不易の相だ。……戌にもう[#「もう」に傍点]一つの井戸がある。……一家無病息災と来たな。……グルリと土塀で囲まれている。……厩《うまや》が二棟立っている。……母屋の庭は薬草園だ。……」
 由井正雪は感心した。
 正雪は一代の反抗児、十能六芸武芸十八番、天文地文人相家相、あらゆる知識に達していたので、曾て驚いたことが無い。
 それが驚いたというのだから、よくよくのことに相違無い。
「さて、これから何うしたものだ」
 彼は思案に打ち沈んだ。
「路に迷った旅人だと、嘘を云って乗り込もうか。いやいや看破かれるに違いない。では正直に打ち明けて「術書」の譲りを受けようか。なかなか譲ってはくれないだろう。……うん、そうだ。忍び込んでやろう。俺は忍術葉迦流では、これでも一流の境《いき》にある。目付けられたら夫れまでだ。叩っ切って了えばいい。旨く術書が探ぐりあたれば、そのまま持って逃げる迄だ。よし、今夜忍び込んでやろう」

     

 忍術も支那から来たものである。六門遁甲が根本である。「武備志」遁用術も其一つだ。
 しかし忍術は日本に於て、支那以上に発達した。それは日本人が体が小さく、敏捷であったが為である。
 忍術の根本は五遁にある。即ち水火木金土だ。
 ところで葉迦流は水遁を主とし、葉迦良門の開いたもので、上杉謙信の家臣である。
「滴水を以て基となす」
 こう極意書に記されてある。
 一滴の雨滴が地面に落ちる。それをピョンと飛び越すのである。二滴の雨滴が地面へ落ちる。それを復ピョンと飛び越すのである。
 雨滴はだんだん量を増す。地面の水域が広くなる。それをピョンピョン飛び越すのである。
 しまいには池となり沼となる。もう其頃には人間の方も、それを平気で飛び越す程の力量が備わっているのである。
 これ葉迦流の跳躍術の一つ。
 その他水を利用して、さまざまの忍びを行うのが、葉迦流忍術の目的なのである。世の勝れた忍術家なるものは、勿論、科学者ではあったけれど、更に夫れ以上忍術家は、心霊科学で云う所の、「霊媒(ミイジャム)」であったのであった。
 霊媒とは霊魂の媒介者である。
 人間は現在活きている。だが人間はいずれ死ぬ。さて死んだら何うなるか? 勿論肉体は腐って了う。しかし霊魂は存在する。これ霊魂不滅説だ。その霊魂は何処にいるか? 霊魂の世界に住んでいる! そうして夫れ等の霊魂は、活きている人間と通信したがる。しかし普通の人間とは、不幸にも絶体に通信が出来ない。そこで特別の器能を備えた、――霊魂の言葉が解る人間――即ち霊媒を要求する。
 霊媒とは霊魂のどんな言葉をでも、解し得る所の人間なのである。
 のみならず勝れた人間になれば、草木山川の言葉をも――宇宙の生物無生物の言葉。それをさえ知ることが出来るのである。
 そういう人間は此浮世に、極わめて稀に存在する。その中の或者が夫れを利用し、勝れた忍術家となったのである。
 由井正雪は丘を下り、どこへとも無く行って了った。
 こうして深夜五更となった。
 すべて忍術家というものは、五更と三更とを選ぶものである。
 鵞湖仙人の大館は森閑として静まっていた。
 月も無ければ星も無い、どんよりと曇った夜であった。
 と、竹藪から竹の折れる、ピシピシいう音が聞えて来た、風も無いのに竹が折れる、不思議と耳を傾けるのが、普通の人の情である。しかし、そっちへ耳傾けたが最後、心が一方へ偏して了う。偏すれば他方ががら[#「がら」に傍点]空きとなる、そこへ付け入るのが忍術の手だ。
 竹の折れる音は間も無く止んだ。後は寂然と音も無い。
 鵞湖仙人はどうしているだろう? 由井正雪は何処にいるだろう? 勿論竹を折ったのは、正雪の所業に相違無い。
 と、厩で馬が嘶いた。さも悲しそうな嘶き声である。
 だが夫れも間も無く止んだ。そうして後は森閑と、何んの物音も聞えなかった。
 屋敷は益々しずまり返り、人の居るような気勢も無い。
 と、二階の窓が開き、ポッと其処から光が射した。
 そこから一人の若い女が、夜目にも美しい顔を出した。どうやら何かを見ているらしい。仙人の屋敷に美女がいる? 少し不自然と云わざるを得ない。
 と、天竜の川の上に、ポッツリと青い光が見えた。それがユラユラと左右に揺れた。そっくり其の儘人魂である。
 すると窓から覗いていた、若い女が咽ぶように叫んだ。
「おお幽霊船! 幽霊船!」

     

「幽霊船だって? 何んの事だ?」
 こう呟いたのは正雪であった。
 彼は此時|厩《うまや》の背後、竹藪の中に隠れていた。
 で、キラリと眼を返すと、天竜川の方を隙かしてみた。
 いかにも此奴は幽霊船だ。人魂のような青い火が、フラフラ宙に浮いている。……提灯で無し、篝火で無し龕燈で無く松火《たいまつ》で無い。得体の知れない火であった。
 どうやら帆柱のてっぺん[#「てっぺん」に傍点]に、その光物は在るらしい。正雪は何時迄も見詰めていた。次第に闇に慣れて来た。幽霊船の船体が、朧気ながらも見えて来た。
 天竜川は黒かった。闇に鎖ざされて黒いのである。時々パッパッと白い物が見えた。岩にぶつかる浪の穂だ。その真黒の水の上に、巨大な船が浮かんでいた。それは将しく軍船《いくさぶね》であった。二本の帆柱、船首《へさき》の戦楼《やぐら》矢狭間が諸所に設けられている。
 そうして戦楼にも甲板にも、無数の人間が蠢いている。人魂のような青い火が、船を朦朧と照している。
 人々は甲冑を鎧っている。手に手に討物を持っている。槍、薙刀、楯、弓矢。……
 おお然うして夫れ等の人は、鵞湖仙人の屋敷の方へ、挙って指を指している。何やら罵っているらしい。しかし話声は聞えない。
 彼等はみんな[#「みんな」に傍点]痩せていた。
 と、続々甲板から、水の中に飛び込んだ。十人、二十人、三十人。……しかも彼等は溺れなかった。彼等は水の上に立っていた。
 飛ぶように水面を走り乍ら、続々と岸へ上って来た。彼等は岸へ勢揃いした。それから颯っと走り出した。
 鵞湖仙人の屋敷の方へ!
 近寄るままによく[#「よく」に傍点]見れば、彼等はいずれも骸骨であった。眼のある辺には穴があり、鼻のある辺には穴があり、口のある辺には歯ばかりが、数十本ズラリと並んでいた。
 甲冑がサクサク触れ合った。骨と骨とがキチキチと鳴った。
 竹藪の方へ走って来る。
 流石の正雪もウーンと唸った。すっかり度胆を抜かれたのである。
 彼は地面へ腹這いになった。
 サーッと彼等は走って来た。彼等の或者は正雪の背中を、土足のままで踏んで通った。しかし少しの重量も無い。彼等には重量が無いらしい。大勢通るにもかかわらず、竹藪はそよ[#「そよ」に傍点]との音も立て無い。一片の葉さえ戦《そよ》がない。彼等には形さえ無いと見える。
 いやいや併しハッキリと、恐ろしい形が見えるでは無いか! 甲冑をよそった骸骨の形が! そうだ、それは確かに見える! だが夫れは見えるばかりだ。物質としての容積を、只彼等は持っていないのだ!
 即ち彼等は幽霊なのだ!
 幽霊船の幽霊武者! そいつが仙人の屋敷を目掛け、まっしぐら[#「まっしぐら」に傍点]に走って行くのである。
 物凄い光景と云わざるを得ない。
 幽霊武者は一団となり、土塀の裾へ集まった。
 と、彼等は土塀をくぐり、サッと屋敷内へ乱入した。勿論土塀には穴が無い。それにもかかわらず潜ったのだ。
 湧き起ったのは女の悲鳴!
「ヒーッ」という魂消える声! つづいて老人の呶鳴り声! 鵞湖仙人の声らしい。討物の音、倒れる音、ワーッという閧声! ガラガラと物の崩れる音。
「お爺様! お爺様! お爺様!」
「おお娘、しっかりしろ!」
 ドッと笑う大勢の声。
「ヒーッ」と復も女の悲鳴。
 意外! 歌声が湧き起った。
[#ここから2字下げ]
武士のあわれなる
あわれなる武士の将
霊こそは悲しけれ
うずもれしその柩
在りし頃たたかいぬ
いまは無し古骨の地
下ざまの愚なる
つつしめよ。おお必ず
不二の山しらたえや
きよらとも、あわれ浄《きよ》し
不二の山しらたえや
しらたえや、むべも可
建てしいさおし。
[#ここで字下げ終わり]
 訳のわからない歌であった。しかし其節は悲し気であった。くり返しくり返し歌う声がした。そうして歌い振りに抑揚があった。或所は力を入れ或所は力を抜いた。
 由井正雪は腹這ったまま、じっと歌声に耳を澄ました。
 くり返しくり返し聞える歌!
 深夜である。
 山中である。
 その歌声の物凄さ!

     六

 復も土塀から甲冑武者が、恰も大水が溢れるように、ムクムクムクムクと現れ出た。
 彼等は何物かを担いでいた。
 数人が頭上に担いでいた。女である! 女の死骸だ! 窓から顔を差し出して「幽霊船!」と叫んだ女だ! その死骸を担いでいる。
 走る走る甲冑武者が走る。
 竹藪を通って天竜の方へ!
 或者は正雪の頭を踏んだ。或者は彼の足を踏んだ。そうして或者は手を踏んだ。矢張り重量は感じない。
 彼等は川の方へ走って行った。そうして水面を辷るように歩き、船の上へよじ[#「よじ」に傍点]上った。
 と、船が動き出した。天竜川を上るのである。人魂のような光物が、ユラユラと宙でゆらめい[#「ゆらめい」に傍点]た。上流へ上流へと上って行く。
 立ち上った正雪は腕を組んだ。
「深い意味があるに相違無い。彼奴等の歌ったあの歌にはな。……今夜の忍び込みはもう[#「もう」に傍点]止めだ。……ひとつ手段を変えることにしよう」
 彼は竹藪からするすると出た。そうして何処ともなく立ち去った。

 その翌朝のことである。
 鵞湖仙人の屋敷を目掛け、一人の武士が歩いて来た。
 余人ならぬ由井正雪。
 玄関へ立つと案内を乞うた。
「頼もう」と武張った声である。
 と、しとや[#「しとや」に傍点]かな畳障り、玄関の障子がスィーと開いた。婦人がつつましく[#「つつましく」に傍点]坐っている。
 それを見た正雪は「あっ」と云った。
 これは驚くのが、尤である。幽霊武者に担がれて行った、昨夜の娘が坐っているのだ。
「どちらからお越しでございます?」
 その婦人は朗かに云った。幽霊では無い、死骸では無い。将しく息のある人間だ。妙齢十八、九の美女である。ちゃんと三指を突いている。
「驚いたなあ」と心の中。正雪すっかり胆を潰した。しかし態度には現さず「拙者こと江戸の浪人、由井正雪と申す者、是非ご老人にお目にかかり度く、まかり出でましてございます。この段お取次ぎ下さいますよう」
「暫くお待ちを」と娘は云った。それからシトシトと奥へ這入った。間違いは無い足がある。どう睨んでも幽霊では無い。
 正雪、腕を組んで考え込んだ。
 そこへ娘が引き返して来た。
「お目にかかるそうでございます。どうぞお通り下さいますよう」
 で、正雪は玄関を上った。
 通されたのは奇妙な部屋だ。三間四方の真っ四角の部屋、襖も無ければ障子も無い。窓も無ければ出入口も無い。
「はてな」と正雪は復考えた。「俺はたしかに案内されて、たった今此部屋へ這入った筈だ。それだのに一つの出入口も無い。一体どこから這入ったのだろう?」
 どうにも彼には解らなかった。四方同じ肉色の壁で、それが変にブヨブヨしている。そうして無数に皺がある。その皺が絶えず動いている。延びたかと思うと縮むのである。壁ばかりでは無い。天井も然うだ。天井ばかりでは無い床も然うだ。現在坐っている部屋の板敷が、延びたり縮んだりするのである。床の間も無ければ違い棚も無い。一切装飾が無いのである。
 気味が悪くて仕方が無かった。
「ううむ、こいつは遣られたかな」
 正雪は心を落ち着けようとした。彼は眼を据えて板敷を見た。と不思議な筋があった。その筋は三本あった。部屋の一方の片隅から、斜めに部屋を貫いていた。
 それを見た正雪はブルブルと顫えた。しかし恐怖の顫えでは無く、それは怒りの顫えであった。
「巽から始まった天地人の筋、一つは坤兌《こんだ》の間を走り、一つは乾に向かっている。最下の筋は坎を貫く!」彼はバリバリと歯を噛んだ。
 矢庭に抜いた腰の小柄、ブツーリ突いたは板敷の真中! 途端に「痛い!」と云う声がした。
 その瞬間に正雪は、もんどり[#「もんどり」に傍点]打って投げ出された。
 飛び起きた時には其部屋は無く、全く別の部屋があった。
 違い棚もあれば床の間もある。床の間には寒椿が活けてある。棚の上には香爐があり、縷々《るる》として煙は立っている。襖もあれば畳もある。普通の立派な座敷であった。
 床の間を背にして坐っているのは、他でも無い鵞湖仙人、渋面を作って右の掌を、紙でしっかり[#「しっかり」に傍点]抑えている。そこから流れるのは血であった。

     

「ひどい[#「ひどい」に傍点]ことをなさる、由井正雪殿」
 老人は相手を怨むように云った。
「お互いでござるよ、鵞湖仙人殿」
 正雪は哄然と一笑したが「いかがでござる。傷は深いかな?」
「深くは無いが、ちょっと痛い」
「アッハハハ、お気の毒だな。……手中に握った天罰でござる」
「でも宜く心が付かれたな」
「天地人三才の筋からでござる」
「大概な者には解らぬ筈だが」
「なにさ、手相さえ心得て居れば、あんなことぐらいは誰にでも解る。……が、あれは何術でござるな?」
「さよう、あれは、十宮伝」
「南宗派乾流九重天、第一巻の其中に、矢張りあるのでござろうな?」由井正雪は鎌をかけた。
 すると老人はジロリと見たが、
「さあ何うだかな、わし[#「わし」に傍点]は知らぬ」俄《にわか》に用心したものである。「それは然うと正雪殿、昨日[#「昨日」は底本では「明日」]は湖畔でお目にかかったな」
「え、それではご存じか」正雪ちょっとドキリとした。
「それに昨夜はご苦労だった。折竹探法、嘶馬《せきば》探法、いろいろ忍術をおやりのようだが、とうとう諦めて帰られたな。どうやら葉迦流をお学びと見える、が、まだまだ少しお若い。あれでは固めは破れぬよ」
「畜生」と正雪は腹の中「爺め、何んでも知っていやがる」しかし彼は屈しなかった。
 彼は一膝グイと進めた。
「が、流石のご老人も、幽霊船にはお困りのようだな」
「さて、そいつだ」と老人は、繃帯した右手を膝へ置いたが「余人ならぬ正雪殿だ、真実の所をお話しするが、仰せの通り、あれには参った」
「ご老人ほどの方術家にも、どうにもならぬと見えますな」
「天人にも五衰あり、仙人にも七難がござる。……死霊だけには手が出ない」
「歌に就いてのお考えは?」
「え、歌だって? なんの歌かな?」
「彼奴等の歌ったあの歌でござる」
「あああれか[#「あれか」に傍点]、考えて見た。……が、どうも解らない」
「ところが拙者には解って居る」
「ふうん、さようかな、その意味は?」
「不可ない不可ない」と手を振った。「そう安くは明されぬて」
「さようか、それでは聞かぬ迄だ」老人、不快そうに横を向いた。
「ところで一つお聞きしたい」正雪は老人を見詰め乍ら「あのご婦人はお娘御かな?」
「さようでござる、孫娘で」
「どうして活きて戻られたな?」
「いや夫れは毎晩でござる。毎晩彼奴等が征めて来ては、あの娘を死骸とし、船へ運んで虐んだ後、活かして返してよこすのでござる。……可哀そうなのは孫娘でござる。だんだん衰弱いたしてな、……つまりわし[#「わし」に傍点]には祟れぬので、そこで弱い娘に祟り、わし[#「わし」に傍点]を間接に苦しめるのでござるよ」
「老人、何か過去に於いて殺生なことはなされぬかな?」
「いいや、断じて」と老人は云った。「わしはこれでも方術家、一切罪悪は犯していませぬ」
「今後はなんとなされますな?」
「手が出ませぬ。捨てて置きます」
「お娘御のお命は?」
「可哀そうに、死にましょう」
「拙者、退治て進ぜよう」正雪は復も膝を進めた。
「いかがでござろう、褒美として、秘巻はお譲り下さるまいか」
 老人はじっと考え込んだ。それから徐ろに口をひらいた。
「最早秘巻此わし[#「わし」に傍点]には、殆ど必要が無いのでござる。何故と云うに既にわし[#「わし」に傍点]は、秘巻の意味を知り尽したからで、そこで他人に譲りたく、人材を求めたのでござる。その結果四人を目付けました。第一が他ならぬご貴殿でござる。第二が山鹿素行殿、第三が熊沢蕃山殿、第四が保科正之侯。……で、湖畔で貴殿に会いその人物を験めそうものと、例の立泳ぎお目にかけました。が、貴殿には残念にも、心に不軌を蔵して居られる。天下を乱すに相違無い。然るに南宗派乾流は、そういう人物には有害なのでござる。で、貴殿には譲りたくござらぬ。とは云え悪霊を退治して、娘をお助け下さるとあっては、矢張り譲らねばなりますまい。よろしうござる、お譲りしましょう」
 つと老人は立ち上り、隣の部屋へ這入って行った。持って来たのは一巻の巻物、恭しく額に押しあてたがやがて正雪の前へ置いた。
「術譲り! 襟を正されい」
 正雪はピタリと襟を正した。
「さて、秘巻はお譲り致した。……悪霊退散の方法はな?」

     

「不浄場をお取り壊しなさるよう」
 これが正雪の言葉であった。既に秘巻を譲られたからは、老人は彼に執り師匠であった。そこで言葉を慇懃にした。
「先生は博学でございます。それが尠《すくな》くも今度の事件では、失敗の基でございました。何故と申しますに先生には、その博学にとらわれ[#「とらわれ」に傍点]て、つまらない[#「つまらない」に傍点]彼等の歌の意味を、むずかしくお考えになりました。そのため難解に墜落ました。彼等の歌には意味は無く、文字に意味があったのでございます。既ち初の文句では、その頭にある「武」という文字に、意味があったのでございます。そうして其の次の文句ではその最後にある「将」という文字に、意味があったのでございます。そうして三番目の文句では、矢張り頭にある「霊」という文字に意味があったのでございます。そうして四番目の文句では、又最後の「柩」という文字に、意味があったのでございます、このようにして頭と尻との、各一字ずつの文字を取り、そのまま順序よく並べますと、次のような一連の言葉となります。
[#ここから2字下げ]
武将霊柩在地下
必不浄不可建
[#ここで字下げ終わり]
 武将の霊柩地下に在り、必ず不浄を建つ可からず。――このようになるのでございます。ところで何うしてこの私が、それに気が付いたかと申しますに、彼等が歌をうたう時、頭と尻とへ特別に、力を籠めるからでございました。……で、恐らくお屋敷内の便所の下に古武将の柩が、埋めてあるのでございましょう。その上へ便所が立ちましたので、その霊魂が憤慨し、仇をしたものと存ぜられます」
 そこで老人と正雪とは、急いで便所を取り壊し、その地の下を掘って見た。果たして一個の霊柩があり、甲冑を鎧った骸骨が、その附近に散在していた。

底本:「妖異全集」桃源社
   1975(昭和50)年9月25日発行
初出:「ポケット」
   1926(大正15)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本には以下に挙げるように誤植が疑われる箇所がありましたが、正しい形を判定することに困難を感じたので底本通りとし、ママ注記を付けました。
○練金術:「錬金術」の誤記か。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年12月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

鴉片を喫む美少年—- 国枝史郎


(水戸の武士早川弥五郎が、清国|上海《シャンハイ》へ漂流し、十数年間上海に居り、故郷の友人吉田惣蔵へ、数回長い消息をした。その消息を現代文に書きかえ、敷衍し潤色したものがこの作である。――作者附記)

 友よ、今日は「鴉片を喫む美少年」の事について消息しよう。
 鴉片戦争も酣《たけなわ》となった。清廷の譎詐《きっさ》[#「譎詐」は底本では「譎作」]と偽瞞とは、云う迄もなくよくないが、英国のやり口もよくないよ。
 いや英国のやり口の方が、遥かにもっとよくないのだ。
 何しろ今度の戦争の原因が、清国の国禁を英国商人が破り、広東で数万函の鴉片を輸入し――しかも堂々たる密輸入をしたのを、硬骨蛮勇の両広《りょうこう》総督、林則徐《りんそくじょ》が怒って英国領事、エリオットをはじめとして英国人の多数を、打尽して獄に投じたことなのだからね。
 が、まあそんなことはどうでもよいとして「鴉片を喫む美少年」の話をしよう。
 僕といえども鴉片を喫むのだ。他に楽しみがないのだからね。日本を離れて八年になる。△△三年×月□□日、釣りに品川沖へ出て行って、意外のしけ[#「しけ」に傍点]にぶつかって、舟が流れて外海へ出、一日漂流したところを、外国通いの外国船に救われ、その船が上海へ寄港した時、その船から下ろされて、そのまま今日に及んだんだからね。今の境遇では日本の国へ、いつ帰れるとも解《わか》らない。藩籍からも除かれたそうだし、何か国禁でも犯したかのように、幕府の有司などは誤解していると、君からの手紙にあったので、せっかく日本へ帰ったところで、面白いことがないばかりか、冷遇されるだろうから、帰国しようと思っていないのさ。
 しかし一日として日本のことを、思わない日はないのだよ。勿論妻も子供もないから、君侯のことや朋輩のことや――わけても君、吉田惣蔵君のことを、何事につけても思い出すのだがね。
 黄浦《ホアンプー》[#ルビの「ホアンプー」は底本では「ホアシプー」]河の岸に楊柳《ようりゅう》の花が咲いて散って空に飜えり、旗亭や茶館や画舫などへ、鵞毛のように降りかかる季節、四五月の季節が来ようものなら、わけても日本がなつかしくなるよ。
 楊柳の花! 楊柳の花!
 友よ、友よ、楊柳の花のよさは、何と云ったらよいだろう!
 詩人李白が詠《うた》ったっけ。――
[#ここから3字下げ]
楊花落尽子規啼《ようかおちつくしてしきなく》。
聞道竜標過五渓《きくならくりゅうひょうごけいをすぐと》。
我寄愁心与明月《われしゅうしんをよせてめいげつにあたう》。
随風直到夜郎西《かぜにしたがってただちにやろうのにしにいたる》。
[#ここで字下げ終わり]
 詩人王維も詠ったっけ。――
[#ここから3字下げ]
花外江頭坐不帰《かがいこうとうざしてかえらず》。
水晶宮殿転霏微《すいしょうきゅうでんうたたひび》。
桃花細逐楊花落《とうかこまかにようかをおっておつ》。
黄鳥時兼白鳥飛《こうちょうときにははくちょうをかねてとぶ》。
[#ここで字下げ終わり]
 が、今は楊柳の花が、僕の心を感傷的にする、そういう季節ではないのだよ。しかし僕の語ろうとする「鴉片を喫む美少年」の物語の、主人公の美少年と逢ったのは、その今年の楊柳の花が、咲き揃っている季節だった。
 その夜僕は上海城内の、行きつけの鴉片窟「金花酔楼」へ、一人でこっそり入って行った。
 その家は外観《みかけ》は薬種屋なのだ。
 しかしその家の門口をくぐり、ちょっと店員に眼くばせをして、裏木戸から中庭へ出ようものなら、もう鴉片窟の俤《おもかげ》が、眼前に展開されるのさ。
 闇黒の中に石の階段が、斜めに空に延びていて、その外れに廊下があり、廊下の片側全体が、喫煙室と酒場と娯楽室、そういうものになっていて、酒場からは酔っ払った男女の声が、罵るように聞こえてき、娯楽室からは胡弓の音や、笛の音などが聞こえて来るのさ。
 僕は度々来て慣れているので、すぐに石の階段を上り、酒場の入口を素通りし、娯楽室の楽器の音を聞き流し、喫煙室へ入って行った。
 度々来て鴉片を喫《の》む僕にとっては、悪臭と煙と人いきれ[#「いきれ」に傍点]と暗い火影と濁った空気と、幽鬼じみて見える鴉片常用者と、不潔な寝台と淫蕩な枕と、青い焔を立てている、煙燈《エント》の火がむしろ懐かしく、微笑をさえもするのだが、そうでない君のような人間が、突然こんな部屋へやって来たら、その陰惨とした光景に、きっと眼を蔽うことだろうよ。


 僕は入口で金を払い、中へ入って一つの寝台へ上った。そうしてすぐ横|仆《た》わり、先ず煙燈《エント》へ火を点じ、それから煙千子《エンチェンズ》を取り上げた。それから煙筒《エンコ》に入れている液へ――つまり一回分の鴉片液なのだが、その中へ煙千子を入れ、鴉片液を煙千子の先へ着け、それを煙燈の火にかざした。つまり鴉片を煉り出したのだ。
 寝台は二人寝になっているのだ。寝台の三方は板壁で、一方だけが開いていて、そこには垂布《たれぎぬ》がかけてあるのだ。すなわち一つの独立した、小さい部屋を形成しているのさ。
 隣りの部屋も、その隣りの部屋も、その隣りの部屋もそうなっているのさ。
 どの部屋も客で一杯らしかった。
 何という奇怪なことなんだろう!
 政府が鴉片を輸入させまいとして――すなわち支那の人間に、鴉片を喫煙させまいとして、ほとんど一国の運命を賭して、世界の強大国|英吉利《イギリス》を相手に、大戦争をしているのに、肝心の支那の人間は、風馬牛視して鴉片を喫っている。鴉片窟はここばかりにあるのでなく、上海だけにも数十軒あり、その他上流や中流の家には、その設備が出来ているのだよ。
 そんなにも鴉片は美味なものなのか? 勿論! しかしそれについては、僕は何事も云うまいと思う。僕が故国へ帰って行かない理由の、その半分はこの国に居れば、鴉片を喫うことが出来るけれど、日本へ帰ったら喫うことが出来ない。――と云うことにあるということだけを、書き記すだけに止めて置こう。
 やっと鴉片を煉り終えて、煙斗へ詰めてしまった時、一人の少年が垂布をかかげて、僕の部屋へ入って来た。
 僕の部屋と云ったところでこの部屋へは、誰であろうともう一人だけは、自由に入ることが出来るのさ。
 で、その少年はこんな場合の、習慣としている挨拶の、
「大人《たいじん》、私もお仲間になります」
 こういう意味の挨拶をして、同じ寝台の向こう側に寝、ゆっくりと鴉片を煉り出したものだ。
 僕はすっかり驚いてしまった。
 と云うのはその少年の顔と四肢とが、――つまり容貌と、姿勢《すがた》とが、余りに整って美しかったからさ。
 友よ、全くこの国には、人間界の生き物というより、天界の神童と云ったような、美にして気高い少年が、往々にしてあるのだよ。
 勿論同じように素晴らしい天界の天女と云ったような、美にして気高い少女もあるがね。
 僕は無駄な形容なんか、この際使おうとは思わない。
 僕はただこう云おう。――
「僕は同性恋愛者ではない。しかし実のところその時ばかりは、その少年を見た時ばかりは、忽然としてかなり烈しい、同性恋愛者になってしまった程、その少年は美しく、そうして魅惑的で肉感的だった」と。
 その少年がそれだったのだ。この物語の主人公だったのだ。
 名は? さよう、宋思芳《そうしはん》と云ったよ。
(云う迄もなく後から聞いたんだがね)
 宋思芳は鴉片を煉り出した。
 ところがどうだろう、その煉り方だが、問題にもならず下手なのさ。
 君には当然解るまいと思うが、鴉片の煉り方はむずかしく、上手に煉ると飴のようになるが、下手に煉るとバサバサして、それこそ苔のようになってしまって、鴉片の性質を失ってしまい、そうして煙斗へ詰めることが出来ず、従って喫うことが出来ないのだ。
 少年の煉り方がそうだったのさ。で、幾度煉り直しても、苔のようになってしまったのさ。
 僕は思わず吹き出してしまった。
 僕はまだ鴉片を喫っていなかった。喫うのを忘れてその少年の美と、その美しい少年の、不器用極まる鴉片の煉り方とに、先刻から見入って居ったのさ。
「僕、煉ってあげましょうか」
 とうとう僕はこう云った。
「有難う、どうぞお願いします」
 そう云った少年の声の美しさ、そう云った少年の声の優しさ、又もや僕は恍惚《うっとり》としてしまった。
 僕はそれからその少年のために、鴉片を煉りながら話しかけた。


「これ迄喫ったことはないのですか?」
「鴉片を喫うのは今日がはじめてです」
「なるほどそれでは煉れないはずだ。……がそれなら鴉片なんか喫わない方がいいのですがね」
「こんな大戦争を起こす程にも、みんな喫いたがる鴉片なのですから、私も喫いたいと思いましてね」
「そう、誰もがそう云ったような、誘惑を感じて喫いはじめ、喫ってその味を知ったが最後、みすみす廃人となるのを承知で、死ぬまで喫うのが鴉片ですよ。……全く御国の人達と来ては、鴉片中毒患者ばかりです」
「御国の人? 御国の人ですって? ……では貴郎《あなた》は外人なのですか?」
(しまった!)と僕は思ったよ。
 とうとう化けの皮を現わしてしまった。
 友よ! 僕はね、八年もの間、この支那の国に住んでいるので、言葉も風俗も何も彼も、すっかり支那人になりきることが出来、誰にも滅多に疑われなかったのに、自分からこの日は底を割ってしまい「お国の人」なんて云ってしまったのさ。
 これには自分ながら愛想を尽かしたが、たとい身分を宣《なの》ったところで、害になることもなかったので、
「実は僕は日本人なのです」
 こう云ってから漂流したことや、ずっとそのまま支那にとどまり、支那人生活をしていることなどを、すっかりあけすけ[#「あけすけ」に傍点]に話したものさ。
「日本の武士?」と宋思芳は、ひどく好奇心に煽られたように云い、それからそれといろいろのことを――日本の武士は任侠的で、人に頼まれるとどんなことでも、引き受けるというが本当かとか、日本の武士は剣道に達していて、強いというが本当かとか、そんなことを質問した。
 で、僕はみんな本当だと、そう云って宋思芳に答えてやった。
 宋思芳はひどく考え込んだが、
「英国のやり口をどう思いますか?」と訊いた。
「勿論正当のやり口ではないね」
 こう僕は答えてやった。
「グレーという英国人をご存じですか?」
「司令官ゴフの甥にあたる、参謀長のグレーのことなら、戦争以来耳にしています」
「大変もない怪物でしてね、あの男一人を殺しさえしたら、こう迄も清国は負けないのですよ。大胆で勇敢で智謀があって、まだ壮年で好色淫蕩で、女惚れさえするのです。でもエリオットとは仲が悪いのです」
 そう宋思芳少年は云った。
「エリオットはどっちのエリオットなのです?」
 そう僕は訊いて見た。
「水師提督の方のエリオットです」
 水師提督エリオットは、この上海の英国領事の、もう一人のエリオットの親戚なのだが、鴉片戦争が始まるや否や、印度及び喜望峰の兵、一万五千人を引率し、軍艦二十六隻をひきい、大砲百四十門を携え、定海《じょうかい》湾、舟山《しゅうさん》島、乍浦《チャプー》、寧波《ニンポー》等を占領し、更に司令官ゴフと計り、海陸共同して進撃し、呉淞《ウースン》を取り、上海を奪い、その上海を根拠とし、揚子江を堂々溯り、鎮江《チンチャン》を略せんとしている人間なのさ。
 グレーというのは英軍切っての、謂うところの花形で、毀誉褒貶いろいろあるが、人物であることは疑いなく、この男の参謀戦略によって、英軍は連戦連勝し、清国は連戦連敗しているのさ。
 僕達二人は鴉片を喫わず、永いことそんなような話をした。
 その翌夜も翌々夜も、僕達二人は同じ鴉片窟で逢った。
 宋思芳はだんだん鴉片を煉るに慣れ、追々鴉片の醍醐の味に、沈湎《ちんめん》するように思われた。
 僕はしばしば宋思芳に向かって、どういう素性の人間なのか、どこにどんな家に住んでいるのか、家族にどういう人達があるかと、そんなことを訊いて見たが、彼はいつもうまく逃げて、話をしようとはしなかった。
 ところが次第に変な調子になった。
 と言うのは宋思芳が僕に対して、思慕の情愛を示し出したのさ。
 女が男を恋するような情を。
 僕は同性恋愛者ではない。が、宋思芳が前に云った通りの、世にも珍しい美少年だったので、そういう彼のそういう情愛が、僕には不自然に感ぜられなかった。


 さて、それから一月ほど経った。にわかに宋思芳少年が、鴉片窟へ姿を見せなくなった。すると僕は恋しい女と、不意に別れたそれのような、寂寥と悲哀と嫉妬さえも、強く心に燃えるようになった。
(いつか俺もあの女を――女のようなあの美少年を、恋していたものと思われる。)
 そう僕はつくづく感じた。
 そういう心を慰めるため、僕は旅へ出ることにした。
(揚子江でも溯ってみよう!)
 で僕は出発した。もう楊花は散り尽くしてしまい、梨の花が河の岸あたりに、少し黄味を帯びた白い色に、――それも日本の梨の花のような、あんな淡薄な色でなく、あんな薄手の姿でなく、モクモクと盛り上り団々と群れて、咲いているのを散見しながら、岸に添って僕達の船は上った。戎克《ジャンク》、筏、帆をかけた筏――その筏の上で豚を飼い、野菜を作り、子供を産むと、そう云われている筏船などが、僕達の船の傍《そば》を通った。
 今にも鎮江が陥落しそうだとか、北京の清帝が蒙塵するらしいとか、戦争の噂は船中にあっても聞こえ、その噂はいつも支那側にとって、面白くないものだった。
 船は江陰《チャンイン》で碇泊した。で、僕は上陸した。江陰にも英国兵が駐屯していて、戦争気分が漲っていたが、昔から風光明媚として、謡われるところだけに、家の構造《つくり》、庭園の布置に、僕を喜ばせるものがあり、終日町や郊外を、飽かず僕は見て廻った。夕方まで見て廻った。船は三日程碇泊するので、今夜は陸の旅館へ泊まろう、こう僕は最初からきめていた。
 で、気持のよい旅館を探そう、こう思って町の方へ足を向けた。その時洋犬と支那美人とを連れた、中年の英国の将校が、僕を背後から追い越した。
「あ」と僕は思わず声を立てた。
 と云うのは支那美人が宋思芳と、非常に顔が似ていたからであった。
 すると支那美人も僕の顔を見たが、思い做《な》しか表情を変え、驚きと懐しさを現わしたようであった。
 しかしその儘歩み去ってしまった。
 友よ、こんな際、その支那美人の後を、僕がどこまでもつけて[#「つけて」に傍点]行ったところで、不都合だとは云わないだろうね。
 僕はその後をつけて[#「つけて」に傍点]行ったのだよ。
 と、その一行は町の入口の、かなり立派な屋敷へ入った。
 屋敷の門際に英国の兵士が、銃を担いで立っていたので、僕はその一人に訊いてみた。
「今行った将校は誰人《どなた》ですか?」と。
「参謀長グレー閣下」
「ご一緒のご婦人は奥様ですか?」
「奥様ではない、愛人だよ」
 英国兵などは気散じなもので、微笑しながらそう教えてくれた。
 僕はその夜町の中央の、××亭という旅館へ泊まったが、どうにも眠ることが出来なかった。
 そこで町を彷徨《さまよ》った。
 もう明け方に近い頃で、月が町の家並の彼方、平野の涯へ落ちかかっていた。
 と、不意に道の角を廻り、この辺りに珍しい二頭立の、立派な馬車が現われたが、その上に海軍の将校服をつけた、半白の髪をした英国人と、支那少年とが同乗していた。
 僕は以前上海の地で、英国の水師提督エリオットを、一二度見かけたことがあって、容貌風采を知っていたので、馬車中の老将校がエリオットであることを、僕は早くも見て取ることが出来た。
 娼公、俳優とでも云いたいような、艶かしい装いをした支那少年は? エリオットと同乗していた支那少年は? 友よそれこそ宋思芳だったのだ!
 その証拠にはその少年は、僕を見かけると微笑して、軽く一揖《いちゆう》したのだからね。
 では先刻の支那美人は! グレーと同伴していた支那美人は?
 解《わか》らない! 解らない! 解らない!

 僕は上海へ帰って来た。
 鎮江は容易に陥落しなかった。
 いろいろの噂が伝わった。鎮江は揚子江の咽喉で、地勢は雄勝で且つ奇絶、頗《すこぶ》る天険に富んでいる。そこへ清軍の精鋭が集まり、死守しているのでさすがの英軍も、陥落させることが出来ないのだと、そういう人間があるかと思うと、水師提督のエリオットが健康を害し、かつ頭を悪くして、昔日の俤がなくなったので、それが士気に影響して、鎮江が陥落しないのだと、そんなように云う人間もあった。しかし参謀長のグレーの方は、益々壮健で頭脳も明晰だから、早晩彼の策戦で、鎮江は陥落するだろうと、そんなように云う人間もあった。
 さて僕だが上海へ帰るや、例によって例の如く、鴉片窟や私娼窟へ入り浸って、その日その日をくらしたものさ。
 そこで君は不思議に思うだろうね、僕という人間が生活基礎を、どういうものに置いていて、そんな耽溺的生活に、毎日耽ることが出来るのかと?


 それについてはいずれ語ろう。
 そう、いずれ語るとしよう。が、今はそんなことより、その後僕が遭遇した、世にも奇怪な出来事について、消息する方がいいようだ。
 友よ、それから一カ月経った。
 その時僕の家の玄関に、厠で使う紙の面に、
「明後日迎いに参る可《べ》く候」
 こういう意味の文字が書かれてあり、心臓に征矢《そや》を突き刺した絵が、赤い色で描かれたものが、針によって止められていた。
 これには説明がいるようだから、一つ説明することにする。
 上海には上流の女ばかりによって、形成されている秘密倶楽部がある。
「加華荘舎《かかそうしゃ》」と云われている。
 その目的とするところは、性の享楽ということなのだ。
 で、これと[#「これと」に傍点]目星をつけた、美男の住んでいる家の玄関へ、今云ったような張り紙をし、それから轎《かご》で迎いに来るのだ。
 男は絶対に拒絶することが出来ない。もし拒絶しようものなら、その男一人ばかりでなく、その男の一家一族までが、ひどい惨害に遭うのだからね。
 この国における女の勢力! それは到底日本の比でなく、全く恐ろしい程なのだ。今日ばかりではなく事実この国の――支那の、ずっと昔からの、習慣であるということが出来る。則天武后だの呂后《ろごう》だの、褒似《ほうじ》だの妲妃《だっき》だのというような、女傑や妖姫《ようき》の歴史を見れば、すぐ頷かれることだからね。
 しかしそれにしても僕のようなものへ、白羽の矢を立てて召そうとは、尠《すくな》くも僕にとっては以外だったよ。
 と云って何も僕という人間が、醜男だったからと云うのではない。自画自賛で恐縮だが、僕という人間は君も知っている通り、かなりの好男子であるはずだからね。
 僕の云うのはそう云う意味からではなく「僕のような生活を生活[#「僕のような生活を生活」に傍点]している者に、そんな招待をするなんて、何て冒険的な女達だろう」――つまりこういう意味なのだ。
 僕のような生活を生活している者? のような生活[#「のような生活」に傍点]とはどんな生活なのか? おそらく君は知りたいだろうね。よろしい云おう、その中《うち》に云おう。
 とにかくこうして当日となり、その日が暮れて夜となり、その夜が更けて深夜となった。桂華徳街の百○参号、そこが僕の家なのだが、果たしてその処へ一挺の轎《かご》が、数人の者によって担い込まれた。
 僕は新しい衫《さん》を着け、そうして新しい袴《こ》を穿いて、懐中に短刀――鎧通《よろいどおし》[#ルビの「よろいどおし」は底本では「ろよいどおし」]さ、兼定《かねさだ》鍛えの業物だ、そいつを呑んで轎に乗った。
(淫婦どもめ、思い知るがいい!)
 こういう心持を持ちながら、轎に乗ったというものさ。
 さて轎は道を走った。その道筋を細描写しても、君には面白くあるまいと思う。で、一切はぶくことにする。
 轎は目的の館へ着いた。
 そこが「加華荘舎」の在場所なのさ。僕は一室に通された。
 ここで僕はこの館の構造《つくり》を、ほんの簡単にお知らせしよう。
 階段があると思ってくれたまえ。そうだ一筋の階段が。その階段を上り切った所に、一つの小広い部屋があり、その部屋から無数に細い廊下が、四方に通っているのだよ。そうしてその廊下の行き止まりに、一つずつ小さな婦人部屋があり、そこに会員達がいるのだそうだ。又、階段を下り切った所に、同じく小広い部屋があり、その部屋から今度は一筋の廊下が、一方の方へ通じて居り、その行き止まりに風呂場がある。そうしてその風呂場の一方の壁に、秘密の扉《ドア》が出来て居り、そこを出ると廊下となる。この廊下は充分長く、そうして風呂場と平行していて、そうして左右に部屋があるのだ。そうだ、いくつかの寝室が。会員の数だけの寝室が。
 で、召されたミメヨキ男は、先ず風呂に入れられて、すっかり体を洗われて、一つの寝室へ寝かされるのだ。と、互いに籤引きをして、真先に当選した会員の女が、これも最初風呂へ入り、体を洗いお化粧をし、それから男の寝ている部屋へ、導かれて侵入する。
 もうその後は書く必要はあるまい。
 さて、すっかり陶酔してしまうと、又女は風呂へ入り、綺麗に汗と膏《あぶら》とを落とす。そうして自分の部屋へ引き上げて行く。と今度は男の方が、風呂へ入れられて洗われる。それから別の寝室へ送られ、二番目の女を迎えることになる。こういうことが繰り返され、二日でも三日でも五日でも十日でも、男の精力のつづく中は、女達の欲望の消えない中は、無限に繰り返されて行くのだよ。
 友よ、そういう加華荘舎へ、僕は招待にあずかったのだ。そうして今云った手順を経て、一つの寝室へ通された。その寝室には寝台があり、寝台には鴉片の装置があり、酒を飲むようにもなっていた。ほのかな燈火《あかり》もともされていた。僕は寝台に横になり、
(来やがれ、淫婦ども?)と思っていた。
 とうとう女はやって来た。
 外から部屋の錠を外し、内へ入ると錠をかい、平然として近寄って来た。彼女等はすっかり慣れているのだ。男が女を弄ぶことに、すっかり慣れているように、彼女等は男を弄ぶことに、これまたすっかり慣れているのだ。
 僕はかづいていた衾《ふすま》の中で、鎧通の柄を握り――殺そうなどとは夢にも思わず、傷付けようなどとも夢にも思わず、せいぜいのところひっこ抜いて、嚇《おど》してやろうと考えていた。と、衾が捲くられた。つまり女が捲くったのだ。で、僕は女の顔を見た。
「あ」と僕は思わず云った。
 その女が彼女だったからだ。江陰の郊外でグレーと一緒に、散策していた支那美人――宋思芳と似ている支那美人だったからだ。
 僕は鎧通を手から放した。
 そうして寝台の一方を開けた。彼女が寄り添って寝られるように。
 で彼女は僕の側《そば》へ寝た。
 そうして二人は陶酔してしまった。
 満足して彼女が立ち去る時、彼女は僕へ囁いた。
「他の女へ貴郎をお渡しするのは、私大変厭なんですけれど、少なくももう一人の女へだけは、貴郎をお貸ししなければならないのです」と。
 僕はそれから風呂へ入れられ、別の寝室へ案内された。
 扉をあけて中へ入った途端、しかし意外の光景を見た。まぎれもない宋思芳少年が、一人の外人に咽喉を抑えられ、寝台の上へ捻じ仆《たお》され、圧殺されようとしているのだ。
「タ、助けて!」と息も絶え絶えに、その宋思芳が僕へ云った。
 で、僕はほとんど夢中で、その外人へ飛びかかり、持っていた鎧通で一えぐりした。外人――それはグレーだったが、もろくもそのまま死んでしまった。
 友よ、グレーの血に染まった、醜悪な死骸を寝台の側へ置いて、僕と宋思芳とが寝台の上で、再度の陶酔に耽ったことを――再度というのは宋思芳と、先刻の支那美人とが文字通り、同一人だからそういうのだが――友よ、咎めてくれたもうな。こんなことは青幇《チンパン》に嘱している、僕という人間には普通のことだし、又、紅幇《ホンパン》に嘱している、宋思芳にとっても茶飯事なのだからね。
 今日も例の鴉片窟「金華酔楼」で恋人同士として、僕は彼女――彼と云ってもいい。彼女は今日も男装であり、男装の方が似合うのだから。――その宋思芳と逢って来た。鴉片を喫って恍惚として、無我の境地で抱擁し合う、この極度の快感は、日本にいる誰も知らないだろうよ。
 だが彼は――いやいや彼女は……そうだやっぱり僕としては、彼女と云った方がいいようだ。で、彼女は、何者なのか? 事実彼女はその昔は、良家の娘だったということだ。が、今はこの国における、二つの大きな秘密結社――殺人、人買い、掠奪、密輸入、あらゆる悪行をやりながら、不断の貧民の味方として、かつ貧民の防禦団体として、根本においては祖国愛主義の、青幇《チンパン》、紅幇《ホンパン》という秘密結社の、その紅幇に嘱している、女班の利者《きけもの》の一人なのだ。
 そうして僕は青幇会員で、この会員であるがために、生活することが出来ているのだよ。
 今日彼女は僕に云ったっけ。――
「妾《わたし》、グレーとエリオットとの二人へ、女装をしたり男装をしたりして、自由に体を任かせたのも、紅幇の頭から命ぜられたのではなく、自分から進んでやったのよ。そうやって二人をだいなし[#「だいなし」に傍点]にして、殺してやろうと思ったからだわ。でもとうとうエリオットの方は、妾から鴉片を進めたのに乗って、鴉片を喫い出したので頭を悪くし、昔のあいつ[#「あいつ」に傍点]じゃアなくなったし、グレーの方はあんな具合に、貴郎《あなた》に殺して貰ったし、妾の目的は遂げられたってものよ。……これじゃアなかなか鎮江は、英軍の手には落ちないわね。……二人の大将が駄目になったんですもの」
「それにしてもどうしてグレーって男が、あんな所へやって来たんだい?」
「妾からやっぱり、呼んだからよ。例の厠の紙を使って。好奇《ものずき》にあいつ[#「あいつ」に傍点]やって来たのさ。毛唐って奴、好色だからねえ……ところが現われた女ってのが、自分だけの情婦だと自惚れていた、妾だったので嫉妬して、私の咽喉を締めたんだわ」
「じゃア僕を招《よ》んだのは、グレーの奴を殺させるため、……ただ、それだけのためだったんだね」
「それもあったわ、でももう一つ、妾あんたが好きだったからよ」
 ――それなら可《い》いと僕は思ったよ。
 友よ、これでお終《しま》いだ。
 古人《こじん》燭をとって夜遊ぶさ。今人《こんじん》の僕はこんな遊びをしている。あくどい[#「あくどい」に傍点]、刺戟の強い、殺人淫楽的の遊びを!
 しかもそれが生活でもあるのさ。
 さようなら、さよなら。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
   1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「オール読物」
   1931(昭和6)年12月
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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国枝史郎

岷山の隠士——- 国枝史郎


「いや彼は隴西《ろうせい》の産だ」
「いや彼は蜀《しょく》の産だ」
「とんでもないことで、巴西《はせい》の産だよ」
「冗談を云うな山東《さんとう》の産を」
「李広《りこう》[#「李広《りこう》」は底本では「季広《りこう》」]の後裔だということだね」
「涼武昭王※[#「日/高」、第3水準1-85-36]《りょうぶしょうおうこう》の末だよ」
 ――青蓮居士謫仙人《せいれんこじたくせんにん》、李太白の素性なるものは、はっきり解《わか》っていないらしい。
 金持が死ぬと相続問題が起こり、偉人が死ぬと素性争いが起こる。
 偉人や金持になることも、ちょっとどうも考えものらしい。

 李白十歳の初秋であった。県令の下《もと》に小奴となった。
 ある日牛を追って堂前を通った。
 県令の夫人が欄干に倚《よ》り、四方《あたり》の景色を眺めていた。
 穢らしい子供が、穢らしい牛を、臆面もなく追って行くのが、彼女の審美性を傷付けたらしい。
「無作法ではないか、外《よそ》をお廻り」
 すると李白は声に応じて賦《ふ》した。
「素面|欄鉤《らんこう》ニ倚リ、嬌声|外頭《がいとう》ニ出ヅ、若シ是織女ニ非ズンバ、何ゾ必シモ牽牛ヲ問ハン」
 これに驚いたのは夫人でなくて、その良人《おっと》の県令であった。
 早速引き上げて小姓とした。そうして硯席に侍《はべ》らせた。
 ある夜素晴らしい山火事があった。
「野火山ヲ焼クノ後、人帰レドモ火帰ラズ」
 県令は苦心してここまで作った。後を附けることが出来なかった。
「おい、お前附けてみろ」
 県令は李白へこう云った。
 十歳の李白は声に応じて云った。
「焔ハ紅日《こうじつ》ニ隨ツテ遠ク、煙ハ暮雲ヲ逐《お》ツテ飛ブ」
 県令は苦々しい顔をした。それは自分よりも旨いからであった。
 五歳にして六甲を誦し、八歳にして詩書に通じ、百家を観たという寧馨児《ねいけいじ》であった。田舎役人の県知事などが、李白に敵うべき道理がなかった。
 ある日美人の溺死人があった。
 で、県令は苦吟した。
「二八誰ガ家ノ女、飄トシテ来リ岸蘆《がんろ》ニ倚ル、鳥ハ眉上《びじょう》ノ翆《すい》ヲ窺ヒ、魚ハ口傍《こうぼう》ノ朱ヲ弄《ろう》ス」
 すると李白が後を継いだ。
「緑髪ハ波ニ隨《したが》ツテ散リ、紅顔ハ浪ヲ逐《お》ツテ無シ、何ニ因《よ》ツテ伍相《ごしょう》ニ逢フ、応《まさ》ニ是|秋胡《しゅうこ》ヲ想フベシ」
 また県令は厭な顔をした。
 で李白は危険を感じ、事を設けて仕《つかえ》を辞した。
 詩的小人というものは、俗物よりも嫉妬深いもので、それが嵩ずると偉いことをする。
 李白の逃げたのは利口であった。
 剣を好み諸侯を干《かん》して奇書を読み賦《ふ》を作る。――十五歳迄の彼の生活は、まずザッとこんなものであった。
 年二十性|※[#「にんべん+蜩のつくり」、第4水準2-1-59]儻《てきとう》、縦横の術を喜び任侠を事とす。――これがその時代の彼であった。
 財を軽んじ施《し》を重んじ、産業を事とせず豪嘯す。――こんなようにも記されてある。
 ある日喧嘩をして数人を切った。
 土地にいることが出来なかった。
 このころ東巖子《とうがんし》という仙人が、岷山《みんざん》の南に隠棲していた。
 で、李白はそこへ走った。
 聖フランシスは野禽を相手に、説教をしたということであるが、東巖子も小鳥に説教した。彼は道教の道士であった。
 彼が山中を彷徨《さまよ》っていると、数百の小鳥が集まって来た。頭に止まり肩に止まり、手に止まり指先へ止まった。そうして盛んに啼き立てた。
 それへ説教するのであった。
 李白はそこへかくまわれる[#「かくまわれる」に傍点]ことになった。
 ある日李白が不思議そうに訊いた。
「小鳥に説教が解《わか》りましょうか?」
「馬鹿なことを云うな、解るものか。あんなに無暗《むやみ》と啼き立てられては、第一声が通りゃアしない」
「何故集まって来るのでしょうか?」
「俺が毎日餌をやるからさ。小鳥にもてる[#「もてる」に傍点]のもいいけれど、糞を掛けられるのは閉口だ」
 一度彼が外出すると、彼の道服は鳥の糞で、穢ならしい飛白《かすり》を織るのであった。
「一体道教の目的は、どこにあるのでございましょう?」
 ある時李白がこう訊いた。
「つまりなんだ、幸福さ」
「幸福を得る方法は?」
「長命《ながいき》することと金を溜めることさ」
 洵《まこと》にあっさり[#「あっさり」に傍点]した答えであった。


「どうしたら金が溜まりましょう?」
「働いて溜めるより仕方がない」
「その癖先生はお見受けする所、ちっとも働かないじゃありませんか」
「うん、どうやらそんな格好だな」
「働かないで溜める方法は?」
「よくこの次までに考えて置こう」
 一向張り合いのない挨拶であった。
「どうしたら長命が出来ましょう」
「いろいろ方法があるらしい」
「それをお教え下さいませんか」
「俺には解っていないのだよ」
「物の本で読みました所、内丹説、外丹説、いろいろあるようでございますね。枹木子《ほうぼくし》などを読みますと」
「ほほう、それではお前の方が学者だ。ひとつ俺へ話してくれ」
 李白これには閉口してしまった。
 ある日東巖子が李白へ云った。
「天とは一体どんなものだろう?」
「ははあこの俺を験《ため》す気だな」
 すぐに李白はこう思った。
「道教の方で申しますと、天は百神の君だそうで、上帝、旻天《びんてん》、皇天などとも、皇天上帝、旻天上帝、維皇上帝、天帝などとも、名付けるそうでございますが、意味は同じだと存じます。天は唯一絶対ですが、その功用は水火木金土、その気候は春夏秋冬、日月星辰《じつげつせいしん》を引き連れて、風師雨師《ふうしうし》を支配するものと、私はこんなように承《うけたま》わって居ります」
「ふうん、大変むずかしいんだな。俺にはそんなようには思われないよ。色が蒼くて真丸《まんまる》で、その端が地の上へ垂れ下っている。こんなようにしか思われないがな」
 これには李白もギャフンと参った。
「地についてはどう思うな?」
 これは浮雲《あぶな》いと思いながらも、真面目に答えざるを得なかった。
「地は万物の母であって、人畜魚虫山川草木、これに産れこれに死し、王者の最も尊敬するもの、冬至の日をもって方沢《ほうたく》に祭ると、こう書物で読みましたが」
「お前の云うことはむずかしいなあ。俺にはそんなようには見えないよ。変な色の、変に凸凹した、穢ならしいものにしか見えないがね」
 これにも李白は一言もなかった。
「お前は人の性をどう思うね?」
「はい、孔子に由る時は、『人之性直《ひとのせいちょく》。罔之生也《これをくらますはせいなり》。幸而免《さいわいにまぬかれよ》』こうあったように思われます。しかし孟子は性善を唱え、荀子は性悪を唱えました。だが告子は性可能説を唱え、又|楊雄《ようゆう》、韓兪《かんゆ》等は、混合説を唱えましたそうで」
「だがそいつは他人の説で、お前の説ではないじゃアないか」
「あっ、さようでございましたね」
「で、お前はどう思うのだ?」
「さあ、私には解《わか》りません」
「解るように考えるがいい」
「あの、先生にはどう思われますので?」
「俺か、俺はな、そんなつまらない[#「つまらない」に傍点]事は、考えない方がいいと思うのさ。形而上学的思弁といって、浮世を小うるさく[#「うるさく」に傍点]するものだからな」
 これには李白は何となく、教えられたような気持がした。
「不味《まず》[#ルビの「まず」は底本では「まづ」]い物ばかり食っていると、肉放れがして痩せてしまう。美味《うまい》物を食え美味物を」
 こう口では云いながら、稗《ひえ》だの粟《あわ》だの黍《きび》だのを、東巖子は平気で食うのであった。
「綺麗な衣裳《きもの》を着るがいい。そうでないと他人《ひと》に馬鹿にされる」
 こう云いながら東巖子は、一年を通してたった[#「たった」に傍点]一枚の、穢い道服を着通すのであった。
「出世をしろよ、出世をしろよ、いい主人を目つけてな」
 こう云いながら東巖子は、山から出ようとはしないのであった。
 彼は言行不一致であった。
 それがかえって偉かった。
 彼は盛んに逆理を用いた。
 李白は次第に感化された。※[#「にんべん+蜩のつくり」、第4水準2-1-59]儻不羈《てきとうふき》の精神が、軽快洒脱[#「洒脱」は底本では「酒脱」]の精神に変った。
 ある日突然東巖子が云った。
「お前は山川をどう思うな?」
「山は土の盛り上ったもの、川は水の流れるもの、私にはこんなように思われます」
「さあさあお前は卒業した。山を出て世の中へ行くがいい」
 ――で、翌日|岷山《みんざん》を出た。


 開元十二年のことであった。
 李白は出でて襄漢《じょうかん》に遊んだ。まず南|洞庭《どうてい》に行き、西金陵《にしきんりょう》揚《よう》州に至り、さらに汝海《じょかい》に客となった。それから帰って雲夢《うんぽう》に憩った。
 この時彼は結婚した。妻は許相公《きょそうこう》の孫娘であった。
 数年間同棲した。
 さらに開元二十三年、太原《たいげん》方面に悠遊した。
 哥舒翰《かじょかん》などと酒を飲んだ。
 また※[#「言+焦」、第3水準1-92-19]郡《しょうぐん》の元参軍《げんさんぐん》などと、美妓を携えて晋祠《しんし》などに遊んだ。
 やがて去って斉魯《せいろ》へ行き、任城《にんじょう》という所へ家を持った。孔巣父《こうそうほ》、裴政《はいせい》、張叔明《ちょうしゅくめい》、陶※[#「さんずい+眄のつくり」、第4水準2-78-28]《とうべん》、韓準《かんじゅん》というような人と、徂徠山《そらいざん》に集って酒を飲み、竹渓の六逸と自称したりした。
 こうして天宝《てんほう》元年となった。
 この時李白四十二歳、詩藻全く熟しきっていた。
 会稽《かいけい》の方へ出かけて行った。
 ※[#「炎+りっとう」、第3水準1-14-64]中《えんちゅう》に呉※[#「竹かんむり/均」、第3水準1-89-63]《ごいん》という道士がいた。
 二人はひどく[#「ひどく」に傍点]ウマが合った。共同生活をやることにした。
 東巖子《とうがんし》に比べると呉※[#「竹かんむり/均」、第3水準1-89-63]の方は、ちょっと俗物の所があった。それだけにその名は喧伝されていた。
 時の皇帝は玄宗であった。
「※[#「炎+りっとう」、第3水準1-14-64]中の呉※[#「竹かんむり/均」、第3水準1-89-63]を見たいものだ」
 こんなことを侍臣に洩らした。
 呉※[#「竹かんむり/均」、第3水準1-89-63]の許へ勅使が立った。
 出て行かなければならなかった。
「おい、お前も一緒に行きな」
「うん、よし来た、一緒に行こう」
 李白は早速行くことにした。
 やがて二人は長安へ着いた。
 長安で賀知章《がちしょう》と懇意になった。
 賀知章は李白を一見すると、驚いたようにこう云った。
「君は人間なのか仙人なのか?」
「どうもね、やはり人間らしい」
「仙人が誤って人間になると、君のような風采になるだろう。君は謫《たく》[#ルビの「たく」は底本では「てき」]せられた仙人だよ」
「まあさ、見てくれ、謫仙人の詩を」
 李白は旧稿を取り出して見せた。
 賀知章はすっかり[#「すっかり」に傍点]参ってしまった。
「素晴らしい物を作りゃアがる。こいつちょっと人間業じゃアねえ。君のような人間に出られると、僕の人気なんかガタ落ちだ。だがマアマア結構なことだ。御世万歳、文運隆盛、大いに友達に紹介しよう」
「話せる奴でもいるのかい?」
「杜甫という奴がちょっと話せる」
「聞かないね、そんな野郎は」
「だが会って見な、面白い奴だ。だがちっと[#「ちっと」に傍点]ばかり神経質だ」
「そんな野郎は嫌いだよ」
「まあまあそういわずに会って見なよ。君とは話が合うかもしれない。ひょっとか[#「ひょっとか」に傍点]すると好敵手かもしれない」
「幾歳《いくつ》ぐらいの野郎だい?」
「そうさな、君よりは十二ほど若い」
「面白くもねえ、青二才じゃアないか」
「止めたり止めたり食わず嫌いはな」
「どうも仕方がねえ、会うだけは会おう」

 杜甫は名門の出であった。
 左伝癖《さでんへき》をもって称された、晋の杜預の後胤であった。曾祖の依芸《いげい》は鞏県《きょうけん》の令、祖父の審言《しんげん》は膳部員外郎であった。審言は一流の大詩人で、沈※[#「にんべん+全」、第4水準2-1-41]期《ちんせんき》、宋之門《そうしもん》と名を争い、初唐の詩壇の花形であった。
 父の閑《かん》は奉天《ほうてん》の令で、公平の人物として名高かった。
 杜甫は随分傲慢であった。弱い癖に豪傑を気取り、不良青年の素質もあった。ひどく愛憎が劇しかった。それに肺病の初期でもあった。立身出世を心掛けた。その顔色は蒼白く、その唇は鉛色であった。いつもその唇を食いしばっていた。人を見る眼が物騒であった。相手の弱点を見透しては、喰い付いて行くぞというような、変に物騒な眼付であった。威嚇的な物の云い方をした。その癖すぐに泣事を云った。
 決して感《かんじ》のいい人間ではなかった。
 体質から云えば貧血性であったが、気質から云えば多血質であった。
 いつも不平ばかり洩らしていた。
 だが意外にも義理堅く、他人の恩を強く感じた。
 忠義心が深かった。
 義理堅いのをのぞき[#「のぞき」に傍点]さえすれば、彼は実に完全に、近代芸術家型に嵌まった。
 彼の幼時は不明であった。
 が、彼の詩を信じてよいなら――又信じてもよいのであるが――七歳頃から詩作したらしい。
「往昔十四五、出デテ遊ブ翰墨《かんぼく》場、斯文崔魏《しぶんさいぎ》ノ徒、我ヲ以テ班揚ニ比ス、七齡思ヒ即チ壮、九齡大字ヲ書シ、作有ツテ一|襄《のう》ニ満ツ」
 すなわちこれが証拠である。
「七歳ヨリ綴ル所ノ詩筆、四十|載《さい》、向フ矣《い》、約千有余篇」
 こんなことも書いてある。
 開元十九年二十歳の時、呉越方面へ放浪した。
 四年の間を放浪に暮らし、開元二十三年の頃、京兆の貢拳《こうきょ》に応じたものである。
 だが旨々《うまうま》落第してしまった。


 彼はすっかり落胆した。
 奉天の父の許へ帰って行った。泰山《たいざん》を望んで不平を洩らした。
 二年の間ブラブラした。
 それから斉《せい》や趙《ちょう》[#ルビの「ちょう」は底本では「しょう」]に遊んだ。
 それから長安へ遣って来たのであった。

 李白と杜甫との会見は、賀知章が心配したほどにもなく、非常に円滑に行なわれた。
 会後李白が賀知章へ云った。
「彼は頗《すこぶ》る人間臭い。それが又彼のよい所だ。詩人として当代第一」
 また杜甫はこう云った。
「なるほどあの人は謫仙人だ。僕はすっかり面喰ってしまった。詩人としては第一流、とても僕など追っ付けそうもない」
 互いに推重をしあったのであった。
 李適之《りてきし》、汝陽《じょよう》、崔宗之《さいそうし》、蘇晋《そしん》、張旭《ちょうぎょく》、賀知章《がちしょう》、焦遂《しょうすい》、それが杜甫と李白とを入れ、八人の団体が出来上ってしまった。
 飲んで飲んで飲み廻った。
 いわゆる飲中の八仙人であった。
 酒はあんまりやらなかったが、一世の詩宗高適などとも、李白や杜甫は親しくした。
 三人で吹台や琴台へ登り、各自《めいめい》感慨に耽ったりした。
 ※[#「りっしんべん+更」、662-15]慨するのは杜甫であり、物を云わないのは高適であり、笑ってばかりいるのは李白であった。
 高適の年五十歳、李白の年四十四歳、杜甫の年三十二歳であった。
 だがこの時代は李太白が、誰よりも詩名が高かった。
 玄宗皇帝が会いたいと云った。
 で、李白は御前へ召された。
 誰が李白を推薦したかは、今日に至っても疑問とされている。
 ある人は道士呉※[#「竹かんむり/均」、第3水準1-89-63][#「※[#「竹かんむり/均」、第3水準1-89-63]」は底本では「※[#「くさかんむり/均」、662-下-1]」]だと云い、ある人は玉真公主だと云い、又ある人は賀知章だと云った。
 すべて人間が出世すると、俺が推薦した俺が推薦したと、推薦争いをするものであるが、これも将しくその一例であった。
 金鑾《きんらん》殿という立派な御殿で、玄宗は李白を引見した。
 帝、食を賜い、羹《あつもの》を調し、詔あり翰林《かんりん》に供奉《ぐぶ》せしむ。――これがその時の光景であった。非常に優待されたことが、寸言の中に窺われるではないか。
 彼は翰林供奉となっても、出勤しようとはしなかった。長安の旗亭に酒を飲み、いう所の管ばかりを巻いていた。
「李白に会いたいと思ったら、長安中の旗亭を訪ね、一番酔っぱらっている人間に、話しかけるのが手取早い。間違いなくそれが李白なのだからな」
 人々は互いにこんなことを云った。
 その時唐の朝廷に一大事件が勃発した。
 渤海《ぼっかい》国の使者が来て、国書を奉呈したのであった。
 国書は渤海語で書かれてあった。満廷読むことが出来なかった。
 玄宗皇帝は怒ってしまった。
「蕃書を読むことが出来なければ、返事をすることが出来ないではないか。渤海の奴らに笑われるだろう。彼奴《きゃつ》ら兵を起こすかもしれない。国境を犯すに相違ない。誰か読め誰か読め!」
 百官戦慄して言なし矣《い》であった。
 そこへ遣《や》って来たのが李白であった。
 飄々|乎《こ》として遣って来た。
「おお李白か、いい所へ来た。……お前、渤海語が解《わか》るかな?」
「私、日本語でも解ります。まして謂んや渤海語など」
「それは有難い。これを読んでくれ」
 渤海の国書を突き出した。
 李白は一通り眼を通した。
「では唐音に訳しましょう」
 そこで彼は声高く読んだ。
「渤海|奇毒《きどく》の書、唐朝官家に達す。爾《なんじ》、高麗《こうらい》を占領せしより、吾国の近辺に迫り、兵|屡《しばしば》吾|界《さかい》を犯す。おもうに官家の意に出でむ。俺《われ》如今《じょこん》耐《た》うべからず。官を差し来り講じ、高麗一百七十六城を将《もっ》て、俺に讓与せよ。俺好物事あり、相送らむ。太白山の兎、南海の昆布、柵城の鼓、扶余《ふよ》の鹿、鄭頡《ていきつ》の豚、率賓《そつびん》の馬、沃州綿《ようしゅうめん》[#ルビの「ようしゅうめん」は底本では「ようしうめん」]、※[#「さんずい+眉」、第3水準1-86-89]泌河《びんひつが》の鮒、九都の杏、楽遊《がくゆう》の梨、爾、官家すべて分あり。若《も》し高麗を還《かえ》すことを肯んぜずば、俺、兵を起こし来たって厮殺せむ。且《か》つ那家《いずれ》が勝敗するかを看よ」
 皇帝はじめ文武百官は、すっかり顔色を変えてしまった。
「いま辺境に騒がせられては、ちょっと防ぐに策はない。一体どうしたらいいだろう」
 風流皇帝の顔色には、憂が深く織り込まれた。
 誰一人献策する者がなかった。


 すると李白が笑いながら云った。
「文章で嚇《おど》して来たのです、文章で嚇して帰しましょう。蕃使をお招きなさりませ、私、面前で蕃書を認め、嚇しつけてやることに致します」
 翌日蕃使を入朝せしめた。
 皇帝を真中に顯官が竝んだ。
 紗帽《さぼう》を冠り、白紫衣《はくしい》を着け、飄々と李白が現われた。勿論微醺を帯びていた。
 座に就《つ》くと筆を握り、一揮して蕃書を完成した。
 まず唐音で読み上げた。
「大唐天宝皇帝、渤海の奇毒に詔諭す。むかしより石卵は敵せず、蛇龍は闘わず。本朝運に応じ、天を開き四海を撫有し、将は勇、卒は精、甲は堅、兵は鋭なり。頡利《きつり》は盟に背いて擒《とりこ》にせられ、普賛《ふさん》は鵞を鑄って誓を入れ、新羅《しらぎ》は繊錦の頌を奏し、天竺《てんじく》は能言の鳥を致し、沈斯《ちんし》は捕鼠の蛇を献じ、払林《ふつりん》は曳馬の狗を進め、白鸚鵡は訶陵《かりょう》より来り、夜光珠は林邑《りんゆう》より貢し、骨利幹《こつりかん》に名馬の納あり、沈婆羅《ちんばら》に良酢の献あり。威を畏れ徳に懐《なず》き、静を買い安を求めざるなし、高麗命を拒《ふせ》ぎ、天討再び加う。伝世百一朝にして殄滅す。豈《あ》に逆天の咎徴、衝大の明鑒に非ずや。況《いわん》や爾は海外の小邦、高麗の附国、之を中国に比すれば一郡のみ。士馬芻糧万分に過ぎず。螳怒是れ逞《たくまし》うし、鵝驕不遜なるが若《ごと》きだに及ばず。天兵一下、千里流血、君は頡利の俘《とりこ》に同じく、国は高麗の続とならむ。方今聖度汪洋、爾が狂悖を恕す。急に宣しく[#「宣しく」はママ]過を悔い、歳事を勤修し、誅戮を取りて四|夷《い》の笑となる毋《なか》れ。爾其れ三思せよ。故に諭す」
 実にどうどうたるものであった。
 皇帝はすっかり喜んでしまった。
 そこで李白は階を下り、蕃使の前へ出て行った。文字通り蕃音で読み上げた。
 蕃使面色土のごとく、山呼拝舞し退いたというが、これはありそうなことである。
 奇毒、すなわち渤海の王も、驚愕来帰したということである。

「俺は長安の酒にも飽きた」
 で、李白は暇《いとま》を乞うた。
 皇帝は金を李白に賜った。
 李白の放浪は始まった。北は趙《ちょう》魏《ぎ》燕《えん》晋《しん》[#ルビの「しん」は底本では「し」]から、西は※[#「分+おおざと」、664-上-20]岐《ぶんき》まで足を延ばした。商於《しょうお》を歴《へ》て洛陽に至った。南は淮泗《わいし》から会稽《かいけい》に入り、時に魯中《ろちゅう》に家を持ったりした。斉や魯の間を往来した。梁宋には永く滞在した。
 天宝《てんほう》十三年広陵に遊び、王屋山人|魏万《ぎまん》と遇い、舟を浮かべて秦淮《しんわい》へ入ったり、金陵の方へ行ったりした。
 魏万と別れて宣城《せんじょう》へも行った。
 こうして天宝十四年になった。
 ひっくり返るような事件が起こった。
 安祿山が叛したのであった。
 十二月洛陽を陥いれた。
 天宝十五年玄宗皇帝は、長安を豪塵して蜀に入った。
 李白の身辺も危険であった。宣城から漂陽にゆき、更に※[#「炎+りっとう」、第3水準1-14-64]中《えんちゅう》に行き廬山に入った。
 玄宋皇帝の十六番目の子、永王というのは野心家であったが、李白の才を非常に愛し、進めて自分の幕僚にした。
 安祿山と呼応して、永王は叛旗を飜えした。弟の襄成王《じょうせいおう》と舟師《しゅうし》を率い、江淮《こうわい》[#ルビの「こうわい」は底本では「こうれい」]に向かって東下した。
 李白は素敵に愉快だった。
「うん、天下は廻り持ちだ。天子になれないものでもない」
 こんな事を考えた。
 詩人特有の白昼夢とも云えれば、※[#「にんべん+蜩のつくり」、第4水準2-1-59]儻不羈《てきとうふき》の本性が、仙骨を破って迸しったとも云えた。
 意気|頗《すこぶ》る軒昂であった。自分を安石《あんせき》に譬えたりした。二十歳代に人を斬った、その李白の真骨頭[#「真骨頭」はママ]が、この時躍如としておどり出たのであった。
「三川北虜乱レテ麻ノ如シ、四海|南奔《なんぽん》[#ルビの「なんぽん」は底本では「なんぱん」]シテ永嘉ニ似タリ、但東山ノ謝安石《しゃあんせき》ヲ用ヒヨ、君ガ為メ談笑シテ胡沙《こさ》ヲ静メン」
 などとウンと威張ったりした。
「試ミニ君王ノ玉馬鞭《ぎょくばべん》ヲ借リ、戎虜《じゅうりょ》ヲ指揮シテ瓊筵《けいえん》ニ坐ス、南風一掃|胡塵《こじん》静ニ、西長安ニ入ッテ日延ニ到ル」
 凱旋の日を空想したりした。
 ところが河南の招討判官、李銑《りせん》というのが広陵に居た。永王の舟師を迎え[#「迎え」は底本では「迎へ」]討った。
 永王軍は脆く破れた。
 永王は箭《や》に中《あた》って捕えられ、ある寒駅で斬殺された。そうして弟の襄成王は、乱兵の兇刄に斃《たお》された。
 李白は逃げて豊沢に隠れたが、目つかって牢屋へぶち[#「ぶち」に傍点]込まれた。
「どうも不可《いけ》ねえ、夢だったよ」
 憮然として彼は呟いた。
「兵を指揮するということは、韻をふむ[#「ふむ」に傍点]よりむずかしい。そうすると俺より安石の方が、人殺しとしては偉いらしい。もう君王の玉馬鞭なんか、仮にも空想しないことにしよう……。ひょっとか[#「ひょっとか」に傍点]すると殺されるかもしれねえ。何と云っても謀反人だからなあ、もう一度|洞庭《どうてい》へ行って見たいものだ。松江の鱸《すずき》を食ってみたい。女房や子供はどうしたかな? 幾人女房があったかしら? あっ、そうだ、四人あったはずだ」
 李白はちょっと感傷的になった。
 無理もないことだ、五十七歳であった。
 李白は皆に好かれていた。
 新皇帝|粛宗《しゅくそう》に向かって、いろいろの人が命乞いをした。
 宣慰大使《せんいたいし》崔渙《さいかん》や、御史中丞《ぎょしちゅうじょう》宋若思《そうじゃくし》や、武勲赫々たる郭子儀《かくしぎ》などは、その最たるものであった。
 そこで李白は死を許され、夜郎へ流されることになった。
 道々洞庭や三峡や、巫山《ふざん》などで悠遊した。
 李白はあくまでも李白であった。竄逐《さんつい》[#「竄逐《さんつい》」はママ]されても悲しまなかった。いや一層仙人じみて来た。人間社会の功業なるものが全然自分に向かないことを、今度の事件で知ってからは、人間社会その物をまで、無視するようになってしまった。
 乾元《かんげん》二年に大赦があった。
 まだ夜郎へ行き着かない中に、李白は罪を許された。
 そこで江夏岳陽に憩い、それから潯陽《じんよう》へ行き金陵へ行った。この頃李白は六十一歳であった。また宣城や歴陽へも行った。
 あっちこっち歩き廻った。
 到る所で借金をした。九割までは酒代であった。
 のべつ[#「のべつ」に傍点]に客が集まって来た。
 やがて宝応元年になった。
 ある県令に招かれて、釆石江で舟遊びをした。
 すばらしく派手やかな宮錦袍を着、明月に向かって酒気を吐いた。
 波がピチャピチャと船縁を叩いた。
 十一月の月が水に映った。
「ひとつ、あの月を捕えてやろう」
 人の止めるのを振り払い、李白は水の中へ下りて行った。
 水は随分冷たかった。
 彼の考えはにわかに変わった。
 どう変わったかは解らない。
 李白は水中をズンズン歩いた。
 やがて姿が見えなくなった。
 それっきり人の世へ現われなかった。
「李白らしい死に方だ」
 人々は愉快そうに手を拍った。

 東巖子《とうがんし》は岷山《みんざん》にいた。
 相変わらず小鳥の糞にまみれ[#「まみれ」に傍点]、相変らずぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と暮らしていた。
 ある日薄穢い老人が、東巖子を訪れて来た。
「先生しばらくでございます」
「誰だったかね、見忘れてしまった」
 老人は黙って優しく笑った。
 なるほどまさしく薄穢くはあったが、底に玲瓏たる品位があった。人間界のものであり、同時に神仙のものである、完成されたる品位であった。
 で、東巖子は思わず云った。
「おお貴郎《あなた》は老子様で?」
「いえ私は李白ですよ」
「いえ貴郎は老子様です」
 東巖子は云い張った。
「どうぞ上座へお直り下さい」
 李白は平気で上座へ直った。
 数百羽の小鳥が飛んで来た。音を立てて庵の中へ入った。
 そうして東巖子の頭や肩へ……いや小鳥は東巖子へは行かずに、李白の頭や肩へ止まった。すぐに李白は糞まみれになった。

 今でも岷山のどの辺りかに、李白とそうして東巖子とが、小鳥を相手に日向《ひなた》ぼっこ[#「ぼっこ」に傍点]をして、住んでいる事は確かである。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
   1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「大衆文芸」
   1926(大正15)年4月
※漢詩漢文の読み下し文の旧仮名づかいは底本通りです。また促音の大小の混在も底本の通りです。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年10月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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国枝史郎

柳営秘録かつえ蔵—- 国枝史郎


 天保元年正月五日、場所は浅草、日は午後《ひるさがり》、人の出盛る時刻であった。大道手品師の鬼小僧、傴僂《せむし》で片眼で無類の醜男《ぶおとこ》、一見すると五十歳ぐらい、その実年は二十歳《はたち》なのであった。
「浅草名物鬼小僧の手品、さあさあ遠慮なく見て行ってくれ。口を開いて見るは大馬鹿者、ゲラゲラ笑うはなお間抜け、渋面つくるは厭な奴、ちん[#「ちん」に傍点]と穏しく見る人にはこっちから褒美を出してやる。……まず初めは小手調べ、結んでも結べない手拭いの術、おおお立会誰でもいい、一本手拭いを貸してくんな」
「おいよ」と一人の職人が、腰の手拭いをポンと投げた。
「いやこいつア有難え、こう気前よく貸して貰うと、芸を演《や》るにも演り可《い》いってものだ。どうだい親方そのついでに一両がとこ貸してくれないか。アッハハハこいつア嘘だ! さて」と言うと鬼小僧は、手拭いを二三度打ち振ったが、
「たった今借りたこの手拭い、種もなければ仕掛もねえ。さあこいつをこう結ぶ」
 云いながらヤンワリ結んだが、
「おおお立会誰でもいい、片っ方の端を引っ張ってくんな」
「よし来た」と云って飛び出して来たのは、この界隈の地廻りらしい。
「それ引っ張るぜ、どうだどうだ」
 グイと引いたのが自ずと解けて、手拭いには結び玉が出来なかった。
「小手調べはこれで済んだ。お次は本芸の水術だ。……ここに大きな盃洗《どんぶり》がんある。盃洗の中へ水を注《つ》ぐ」
 こう云いながら鬼小僧は、足下《あしもと》に置いてあった盃洗を取り上げ、グイと左手で差し出した。それからこれも足元にあった、欠土瓶《かけどびん》をヒョイと取り上げたが、ドクドクと水を注ぎ込んだ。
「嘘も仕掛けもねえ真清水だ。観音様の手洗い水よ。さてこの中へ砂糖を入れる」
 懐中《ふところ》から紙包みを取り出した。
「さあ誰でもいいちょっと来な。この砂糖を嘗めてくんな」
「ああ俺《おい》らが嘗めてやろう」
 一人の丁稚が飛び出して来た。ペロリと嘗めたがニヤニヤ笑い、
「やあ本当だ、甘《あめ》え砂糖だ」
「べらぼうめエ、あたりめエよ。辛《かれ》え砂糖ってあるものか。……そこで砂糖を水へ入れる。と、出来るのは砂糖水。これじゃア一向くだらねえ。手品でも何でもありゃアしねえ。そこでグッと趣向を変え、素晴しい物を作ってみせる」
 パッと砂糖を投げ込んだ。と盃洗の水面から、一団の火焔が燃え立った。
 ドッと囃す見物の声、小銭がパラパラと投げられた。
 盃洗の水をザンブリと覆《あ》け、鬼小僧はひどく上機嫌、ニヤリニヤリと笑ったが、
「さあ今度は何にしよう? うんそうだ鳥芸がいい。まず鳥籠から出すことにしよう」
 キッと空を見上げたが、頭上には裸体《はだか》の大|公孫樹《いちょう》が、枝を参差《しんし》と差し出していた。
「おお太夫さん下りておいで。お客様方がお待ちかねだ」
 こう云って招くような手附をした。
 と、公孫樹の頂上《てっぺん》から、何やらスーッと下《お》りて来た。それは小さな鳥籠であった。誰が鳥籠を下ろしたんだろう? それでは高い公孫樹の梢に、鬼小僧の仲間でもいるのだろうか? それに洵《まこと》に不思議なのは鳥籠を支えている縄がない。鳥籠は宙にういていた。これには見物も吃驚《びっくり》した。ワーッと拍手喝采が起こった。鳥籠はスルスルと下りて来た。しかし下り切りはしなかった。地上から大方一丈の宙で急に鳥籠は止まってしまった。
「あっ」と驚いたのは見物ではなくて、太夫の鬼小僧自身であった。
「どうしたんだい、驚いたなあ」
 呟《つぶや》いた途端に見物の中から、
「小僧、取れるなら取ってみろ!」
 嘲るような声がした。


 鬼小僧はギョッと驚いて、声のした方へ眼をやった。鶴髪《かくはつ》白髯《はくぜん》長身《ちょうしん》痩躯《そうく》、眼に不思議な光を宿し、唇に苦笑を漂わせた、神々しくもあれば凄くもある、一人の老人が立っていた。地に突いたは自然木の杖、その上へ両手を重ねて載《の》せ、その甲の上へ頤をもたせ[#「もたせ」に傍点]、及び腰をした様子には、一種の気高さと鬼気とがあった。
「小僧」と老人は教えるように云った。
「手品などとは勿体無い。それは『形学《けいがく》』というべきものだ。どこで学んだか知らないが、ある程度までは達している。しかしまだまだ至境には遠い。それに大道で商うとは、若いとはいえ不埒千万、しかし食うための商売《あきない》とあれば、強いて咎めるにもあたるまい。……とまれお前には見所がある。志があったら訪ねて来い。少し手を執って教えてやろう」
 老人はスッと背を延ばした。
「重巌に我|卜居《ぼっきょ》す、鳥道人跡を絶つ、庭際何の得る所ぞ、白雲幽石を抱く……俺の住居《すまい》は雲州の庭だ」
 老人は飄然と立ち去った。つづいてバラバラと見物が散り、間もなく暮色が逼って来た。
 腕を組んだ鬼小僧、考え込まざるを得なかった。
「驚いたなあ」と嘆息した。
「ズバリと見抜いて了《しま》やアがった。全体どういう爺《おじい》だろう? 謎のような事を云やアがった。俺の住居は雲州の庭だ。からきしこれじゃア見当がつかねえ。雲州の庭? 雲州の庭? どうも見当がつかねえなあ。……」
「どうしたのだよ、え、鬼公! 変に茫然《ぼんやり》しているじゃアないか」
 背後《うしろ》で優しく呼ぶ声がした。
「さあ一緒に帰ろうよ」
「うん、お杉坊か、さあ帰ろう」
 こうは云ったが鬼小僧は、身動き一つしなかった。
 お杉は驚いてじっと見た。黒襟の衣装に赤前垂、麻形の帯を結んでいた。驚くばかりのその美貌、錦絵から抜け出した女形《おやま》のようだ。
 笠森お仙、公孫樹《いちょうのき》のお藤、これは安永の代表的美人、しかしもうそれは過去の女で、この時代ではこのお杉が、一枚看板となっていた。身分は水茶屋の養女であったが、その綽名は「赤前垂」……もう赤前垂のお杉と云えば、武士階級から町人階級、職人乞食隠亡まで、誰一人知らないものはなかった。そうしてお仙やお藤のように、詩人や墨客からも認められた。彼女の出ている一葉《いちは》茶屋、そのため客の絶え間がなかった。お杉はこの頃十七であった。
 同じ浅草の人気者同士、鬼小僧とお杉とは仲宜《なかよ》しであった。
「お杉坊」と鬼小僧は物憂そうに、
「今日は一人で帰ってくんな。俺ら偉いことにぶつかってな、考えなけりゃアならないんだよ」
「妾《わたし》も実はそうなのさ。それで相談をしたいんだがね」
「え、それじゃアお前もか? アッハハハ大丈夫だ。養母《おっか》さんと喧嘩したんだろう。お粂婆さんと来たひにゃア、骨までしゃぶろう[#「しゃぶろう」に傍点]っていう強欲だからな。構うものか呶鳴ってやりねえ。俺らも助太刀をしてえんだが、今日は駄目だ、考え事がある」
「お養母《かあ》さんと喧嘩も喧嘩だが、今度はそれが大変なのでね、妾ひょっとすると浅草へは、もう出ないかもしれないよ」
「や、こいつア驚いたなあ。実は俺らもそうなのだ。術を見破られてしまったんだからな。気恥しくって出られやしねえ」
「じゃア一緒には帰られないの」
 お杉は寂しそうな様子をした。肩を縮め首を垂れ、車坂の方へ帰って行った。
「いやに寂しい様子だなア」
 ふと鬼小僧はこう思ったが、もうその次の瞬間には、自分の問題へ立ち返っていた。
 日が暮れて月が出た。寒月蒼い境内には、黙然と考えている鬼小僧以外、人の姿は見られなかった。
 と、鬼小僧は突然云った。
「解《わか》った! 箆棒《べらぼう》! 何のことだ!」


「解った! 箆棒! 何のことだ!」
 こう叫んだ鬼小僧は、尻をからげて走り出した。
 浅草から品川まで、彼は一息に走って行った。浜御殿を筆頭に、大名屋敷下屋敷、ベッタリその辺りに並んでいた。尾張《おわり》殿、肥後《ひご》殿、仙台殿、一ッ橋殿、脇坂殿、大頭《おおあたま》ばかりが並んでいた。その裏門が海に向いた、わけても宏壮な一宇の屋敷の外廻りの土塀まで来た時であった。その土塀へ手を掛けると、鬼小僧はヒラリと飛び上った。土塀の頂上《てっぺん》で腹這いになり、家内《やうち》の様子を窺ったが、樹木森々たる奥庭には、燈籠の燈《ひ》がともっているばかり、人の居るらしい気勢《けはい》もなかった。
「よし」と云うと飛び下りた。そこで地面へ這い這いになり、改めて奥庭を窺った。ある所は深山の姿、又ある所は深林の態《さま》、そうかと思うと谷川が流れ、向うに石橋こちらに丸木橋、更にある所には亭《ちん》があり、寂と豪華、自然と人工、それの極致を尽くした所の庭園は眼前に展開されていたが、これぞと狙いを付けて来た、目的の物はみえなかった。
「おかしいなあ?」と呟《つぶや》いたが、鬼小僧は失望しなかった。そろそろと爪先で歩き出した。と一棟の茶室《みずや》があった。その前を通って先へと進んだ。
「これ小僧」と呼ぶ声がした。
「感心々々よく参った。ここだここだ、こっちへ来い」
 茶室の中から聞こえてきた。
 鬼小僧は度胆を抜かれたが、それでも周章《あわて》はしなかった。足を払うと縁へ上った。と、雨戸が内から開いた。そこで鬼小僧は身を細め、障子をあけて中へ入った。しかし老人は居なかった。
「はてな?」と小首を傾げた時、正面の壁が左右へあいた。
「ここだここだ」と云う声がした。
「これじゃアまるで化物屋敷だ」
 またも度胆を抜かれたが、そこは大胆の鬼小僧、かまわず中に入って行った。地下へ下りる階段があった。それを下へ下りた。畳数にして五十畳、広い部屋が作られてあった。しかも日本流の部屋ではない。阿蘭陀《オランダ》風の洋室であった。書棚に積まれた万巻の書、巨大な卓《テーブル》のその上には、精巧な地球儀が置いてあった。椅子の一つに腰かけているのが、例の鶴髪の老人であった。
 ここに至って鬼小僧は、完全に度胆を抜かれてしまった。で、ベタベタと床の上に坐った。その床には青と黄との、浮模様|絨氈《じゅうたん》が敷き詰められてあった。昼のように煌々と明るいのは、ギヤマン細工の花ランプが、天井から下っているからであった。
「雲州の庭、よく解《わか》ったな」
 老人はこう云うと微笑した。手には洋書を持っていた。
「へえ、随分考えました。……雲州様なら松江侯、すなわち松平|出雲守《いずものかみ》様、出雲守様ときたひには、不昧《ふまい》様以来の風流のお家、その奥庭の結構は名高いものでございます。……雲州の庭というからには、そのお庭に相違ないと、こう目星を付けましたので」
 鬼小僧は正直にこう云った。
「ところで俺を何者と思う?」
「さあそいつだ、見当が付かねえ」
「あれを見ろ」と云いながら老人は壁へ指を指した。洋風の壁へかかっているのは、純日本風の扁額《へんがく》であった。墨痕淋漓匂うばかりに「紙鳶堂《しえんどう》」と三字書かれてあった。
「形学《けいがく》を学んだお前のことだ、紙鳶堂の号ぐらい知っているだろう」
「知っている段じゃアございません。だが紙鳶堂先生なら、安永八年五十七歳で、牢死されたはずでございますが?」
「うん、表て向きはそうなっている。が、俺は生きている。雲州公に隠まわれてな。つまり俺の『形学』を、大変惜しんで下されたのだ。俺は本年百十歳だ」
「それじゃア本当にご老人には、平賀先生でございますか?」
「紙鳶堂平賀源内だ」
「へえ」とばかりに鬼小僧は床へ額をすり[#「すり」に傍点]付けてしまった。


 その翌日から浅草は、二つの名物を失った。一つはお杉、一つは鬼小僧……どこへ行ったとも解《わか》らなかった。江戸の人達は落胆《がっかり》した。観音様への帰り路、美しいお杉の纖手から、茶を貰うことも出来なければ、胆の潰れる鬼小僧の手品で、驚かして貰うことも出来なくなった。
 鬼小僧はともかくも、お杉はどこへ行ったんだろう?
 八千石の大旗本、大久保|主計《かずえ》の養女として、お杉は貰われて行ったのであった。
 大久保主計は安祥《あんしょう》旗本、将軍|家斉《いえなり》のお気に入りであった。それが何かの失敗から、最近すっかり不首尾となった。そこで主計はどうがなして、昔の首尾に復《かえ》ろうとした。微行で浅草へ行った時、計らず赤前垂のお杉を見た。
「これは可《い》い物が目つかった。養女として屋敷へ入れ、二三カ月磨いたら、飛び付くような料物《しろもの》になろう。将軍家は好色漢、食指を動かすに相違ない。そこを目掛けて取り入ってやろう」
 で、早速家来をやり、養母お粂を説得させた。一生安楽に暮らせる程の、莫大な金をやろうという、大久保主計の申し出を、お粂が断わるはずがない。一も二もなく承知した。
 お杉にとっては夢のようで、何が何だか解らなかった。水茶屋の養女から旗本の養女、それも八千石の旗本であった。二万三万の小大名より、内輪はどんなに裕福だかしれない。そこの養女になったのであった。お附の女中が二人もあり、遊芸から行儀作法、みんな別々の師匠が来て、恐れ謹んで教授した。衣類といえば縮緬《ちりめん》お召。髪飾りといえば黄金珊瑚、家内こぞって三ッ指で、お嬢様お嬢様とたてまつる[#「たてまつる」に傍点]、ポーッと上気するばかりであった。
「妾《あたし》なんだか気味が悪い」
 これが彼女の本心であった。二月三月経つ中に、彼女は見違える程気高くなった。
 地上のあらゆる生物の中、人間ほど境遇に順応し、生活を変え得るものはない。で、お杉もこの頃では、全く旗本のお嬢様として、暮らして行くことが出来るようになった。
 そうして初恋にさえ捉えられた。
 主計の奥方の弟にあたる、旗本の次男|力石三之丞《りきいしさんのじょう》、これが初恋の相手であった。三之丞は青年二十二歳、北辰一刀流の開祖たる、千葉周作の弟子であった。毎日のように三之丞は、主計方へ遊びに来た。その中に醸されたのであった。
 今こそ旗本のお嬢様ではあるが、元は盛り場の茶屋女、男の肌こそ知らなかったが、お杉は決して初心《うぶ》ではなかった。男の心を引き付けるコツは、遺憾ない迄に心得ていた。
 美貌は江戸で第一番、気品は旗本のお嬢様、それで心は茶屋女、これがお杉の本態であった。そういう女が初恋を得て、男へ通って行くのであった。どんな男の鉄石心でも、とろけ[#「とろけ」に傍点]ざるを得ないだろう。一方三之丞は情熱家、家庭の風儀が厳しかったので、悪所へ通ったことがない。どっちかと云えば剣道自慢、無骨者の方へ近かった。とは云え旗本の若殿だけに、風貌態度は打ち上り、殊には生来の美男であった。女の心を引き付けるに足りた。
 この恋成就しないはずがない。
 しかし初恋というものは、漸進的のものである。心の中では燃えていても、形へ現わすには時間《とき》が必要《い》る。そうして多くはその間に、邪魔が入るものである。そうして消えてしまうものである。しかし往々邪魔が入り、しかも恋心が消えない時には、一生を棒に振るような、悲劇の主人公となるものである。
 ある日主計と奥方とは、ひそひそ部屋で囁いていた。


「貴郎《あなた》、ご注意遊ばさねば……」
 こう云ったのは奥方であった。
「うむ、お杉と三之丞か」
 主計はむずかしい顔をしたが、
「何とかせずばなるまいな」
「どうぞ貴郎から三之丞へ。……妾《わたし》からお杉へ申しましょう」
「うむ、そうだな、そうしよう」
 翌日三之丞が遊びに来た。
「三之丞殿、ちょっとこちらへ」
 主計は奥の間へ呼び入れた。
「さて其許《そこもと》も二十二歳、若盛りの大切の時期、文武両道を励まねばならぬ。時々参られるのはよろしいが、あまり繁々《しばしば》来ませぬよう」
 婉曲に諷したものである。
「はっ」と云ったが三之丞には、よくその意味が解《わか》っていた。で頸筋を赧《あか》くした。
 その夜奥方はお杉へ云った。
「其方《そなた》も今は旗本の娘、若い男とはしたなく[#「はしたなく」に傍点]、決して話してはなりませぬ」
 こうしてお杉と三之丞とは、その間を隔てられた。隔てられて募らない恋だったら、恋の仲間へは入らない。おりから季節は五月であった。蛍でさえも生れ出でて、情火を燃やす時であった。蛙でさえも水田に鳴き、侶《とも》を求める時であった。梅の実の熟する時、鵜飼《うかい》の鵜さえ接《つ》がう時、「お手討ちの夫婦なりしを衣更《ころもが》え」不義乱倫の行ないさえ、美しく見える時であった。
 二人は恋を募らせた。
 お杉はすっかり憂鬱になった。そうして心が頑固《かたくな》になった。ろくろく物さえ云わなくなった。そうして万事に意地悪くなり、思う所を通そうとした。
 三之丞は次第に兇暴になった。
 恐ろしいことが起こらなければよいが!

 それは夕立の雨後の月が、傾きかけている深夜であった。新吉原の土手八丁、そこを二人の若い男女が、手を引き合って走っていた。
 と、行手から編笠姿、懐手《ふところで》をした侍が、俯向きながら歩いて来た。擦れ違った一刹那、
「待て!」と侍は忍び音に呼んだ。
「ひえッ」と云うと男女の者は、泥濘《ぬかるみ》へペタペタと膝をついた。
「どうぞお見遁し下さいまし」
 こう云ったのは男であった。見れば女は手を合わせていた。
 じっと見下ろした侍は、
「これ、其方《そち》達は駈落だな」
 こう云いながらジリリと寄った。陰森たる声であった。一味の殺気が籠もっていた。
「は、はい、深い事情があって」
 男の声は顫《ふる》えていた。
「うむ、そうか、駈落か。……楽しいだろうな。嬉しいだろう」
 それは狂気染みた声であった。
「…………」
 二人ながら返辞が出来なかった。
「そうか、駈落か」とまた云った。
「うらやましいな。……駈落か、……よし、行くがいい、早く行け……」
「はい、はい、有難う存じます」
 男女は泥濘へ額をつけた。刀の鞘走る音がした。蒼白い光が一閃した。
「むっ」という男の息詰った悲鳴、続いて重い鈍い物が、泥濘へ落ちる音がした。男の首が落ちたのであった。
「ひ――ッ」と女の悲声がした。もうその時は斬られていた。男女の死骸は打ち重なり、その手は宙で泳いでいた。と、女の左手と男の右手とが搦み合った。月が上から照らしていた。血が泥濘へ銀色に流れ、それがピカピカ目に光った。
 茫然と侍は佇んだ。二つの死骸を見下ろした。女の衣装で刀を拭い、ゆるくサラサラと鞘へ納めた。
「可《い》い気持だ」と呟いた。
「お杉様!」と咽ぶように云った。
 それから後へ引っ返した。


 江戸へ「夫婦《めおと》斬り」の始まったのは、実にその夜が最初であった。あえて夫婦とは限らない。男女二人で連れ立って、夜更けた町を通って行くと、深編笠の侍が出て、斬って捨るということであった。江戸の人心は恟々とした。夜間《よる》の通行が途絶え勝ちになった。

 さて一方お杉の身の上には、来べきことが来ることになった。将軍|家斉《いえなり》の眼に止まり、局《つぼね》へ納《い》れられることになった。秋海棠が後苑に咲き、松虫が籠の中で歌う季節、七夕月のある日のこと、葵紋付の女駕籠で、お杉は千代田城へ迎えられた。お杉の局と命名され、寵を一身に集めることになった。もうこうなっては仕方がなかった。下様の眼から見る時は、将軍といえば神様であった。神様の覚し召しとあるからは、厭も応も無いはずであった。
 で、お杉は奉仕した。しかし心では初恋の人を、前にも増して恋い慕った。逢うことも話すことも出来ないと思えば、その恋しさは増すばかりであった。洵《まこと》に彼女の境遇は、女としては栄華の絶頂、夢のようでもあれば極楽のようでもあった。もし彼女に三之丞という、忘られぬ人がなかったなら、満足したに相違ない。恋の九分九厘は黄金《こがね》の前には、脆《もろ》くも挫けるものであった。しかし、後の一厘の恋は、いわゆる選ばれた恋であって、どんな物にも挫けない。選ばれた人の運命は、大方悲劇に終るものであった。それは浮世の俗流に対して、覚醒の鼓を鳴らすからで、たとえば遠い小亜細亜の、猶太《ユダヤ》に産れた基督《キリスト》が、大きな真理《まこと》を説いたため、十字架の犠牲になったように。……で、お杉と三之丞との恋は、選ばれた人の恋であった。反《そら》すことの出来ない恋であった。
 将軍家斉は風流人、情界の機微に精通した、サッパリとした人物であった。お杉に三之丞がなかったなら、恋さないでは居られなかったろう。
 後宮の佳麗三千人、これは支那流の形容詞、しかし家斉将軍には事実五十人の愛妾があった。いずれもソツのない美人揃い、眼を驚かすに足るものがあったが、しかしお杉に比べては、その美しさが及ばなかった。で、家斉は溺愛した。しかるに日を経るにしたがって、家斉はお杉の心の中に、秘密のあることに感付くようになった。相手を愛するということは、相手を占有することであった。愛は完全を要求《もと》める点で、ほぼ芸術と同じであった。占有出来ないということは、愛する人の身にとって、堪え難いほどの苦痛であった。で、家斉はどうがなして、お杉の秘密を知ろうとした。
 ある日お杉は偶然《ゆくりなく》、宿下りをした召使の口から、市中の恐ろしい噂を聞いた。それは「夫婦《めおと》斬り」の噂であった。
「人を殺したその後で、その辻斬りの侍は、さも恋しさに堪えないように『お杉様!』と呼ぶそうでございます」
「お杉様と呼ぶ? お杉様と?」
 お杉は思わず鸚鵡《おうむ》返した。
 彼女には辻斬りの侍の、何者であるかが直覚された。
「三之丞様に相違ない」
 彼女は固くこう思った。恋する女の敏感が、そういう事を感じさせたのであった。お杉様と呼ばれる若い女は、この世に無数にあるだろう。お杉様と呼ぶ侍も、この世に無数にあるだろう。しかしお杉はその「お杉様」が、自分であることを固く信じた。そうしてそう呼ぶ侍が、三之丞であることを固く信じた。
「気の毒なお方。……三之丞様。……そうまで兇暴になられたのか。……妾には解《わか》る、お心持が。……では妾も覚悟しよう。……妾はかつえ[#「かつえ」に傍点]蔵へ入ることにしよう。……あのお方のために。……三之丞様のために」


 浅草の夜は更けていた。馬道二丁目の辻から出て、吾妻橋の方へ行く者があった。子供かと思えば大人に見え、大人かと思えば子供に見える、変に気味の悪い人間であった。
 と一人の侍が、吾妻橋の方からやって来た。深編笠を冠っていた。憂いありそうに俯向いていた。まさに二人は擦れ違おうとした。
「待て」と侍は声を掛けた。
「何でえ」と小男は足を止めた。
「連れはないか? 女の連れは?」
「いらざるお世話だ、こん畜生」
 小男は勇敢に毒吐いた。
「片眼で傴僂《せむし》のこの俺を、馬鹿にしようって云うんだな。誰だと思う鬼小僧だ!」
「何、鬼小僧? それは何だ?」
「うん、昔は手品師さ。だが[#「だが」に傍点]今じゃア形学《けいがく》者だ! 紙鳶堂《しえんどう》主人平賀源内これが俺らのお師匠さんだ。手前なんかにゃア解るめえが、形学と云うなア形而《かたちの》学問だ! 一名科学って云うやつだ。阿蘭陀《オランダ》仕込みの西洋手品! 世間の奴らはこんなように云う。もっと馬鹿な奴は吉利支丹《キリシタン》だと云う。ふん、みんな違ってらい! 本草学にエレキテル、機械学に解剖学、物理に化学に地理天文、人事百般から森羅万象、宇宙を究《きわ》める学問だア! もっとも馬鹿野郎の眼から見たら、手品吉利支丹に見えるかもしれねえ。……おお、侍《さむれえ》それはそうと、お前さん一体何者だね?」
 深編笠の侍は、それには返辞をしなかった。彼は懐中《ふところ》へ手をやった。取り出したのは小判であった。
「これをくれる持って行け。なるほどお前の風貌《かおかたち》なら、美しい女に恋されもしまい。気の毒だな、同情する。俺はそういう人間へ、充分同情の出来る者だ。恋などするな、恋は苦しい。……さあ遠慮なく金を取れ。そうして酒でも飲んでくれ」
「馬鹿にするない! 乞食じゃアねえ」
 鬼小僧はすっかり怒ってしまった。
「だが、おかしな侍だなあ。どう考えてもおかしな野郎だ。ははあ失恋で気がふれたな。……せっかくの好意だが受けられねえ」
「そう云わず取ってくれ。俺はそういう人間なのだ。女連れと見ると斬りたくなる。若い男が一人通ると、俺は金をやりたくなる」
 これを聞くと鬼小僧は、後ろへピョンと飛び退いた。
「それじゃア手前は『夫婦《めおと》斬り』だな! こいつア可《い》い所で邂逅《ぶつか》った。逢いてえ逢いてえと思っていたのだ。ヤイ侍よく聞きねえ。俺はな、今から十日前まで、紙鳶堂先生のお側《そば》に仕え、形学の奥義を究めていたものだ。印可となってお側を去り、これから長崎へ行くところだ。そこでもっと[#「もっと」に傍点]修行するのよ。ところで久しぶりで市《まち》へ出てみると、夫婦斬り噂で大騒ぎだ。そこで俺は決心したのだ。よくよくそういう無慈悲の奴は、俺の形学で退治てやろうとな。で今夜も探していたのさ。ここで逢ったが百年目、さあ野郎観念しろ!」
 云い捨て懐中へ手を入れると一尺ほどの円管《つつ》を出した。キリキリと螺施《ねじ》を捲く音がした。と、円管先から一道の火光が、煌々然と閃めき出た。
「眼が眩んだか、いい気味だ! エレキで作った無煙の火、アッハハハ驚いたか! 古風に云やア火遁《かとん》の術、このまま姿を隠したら、絶対に目つかる物じゃアねえ。……や、刀を抜きゃアがったな! さあ切って来い、来られめえ! おっ、浮雲《あぶね》え!」と鬼小僧は、突然円管先の光を消した。
 光の後の二倍の闇、闇に紛れて逃げたものか、鬼小僧の姿は見えなかった。


 深編笠の侍は、白刃《しらは》をダラリと下げたまま、茫然と往来へ立っていた。
「ここだここだ!」と呼ぶ声がした。一軒の家の屋根の上に、鬼小僧は立って笑っていた。
「やいやい侍|吃驚《びっくり》したか。だが驚くにゃアあたらねえ。飛燕の術というやつさ。日本の武道で云う時はな。……形学《けいがく》で云うと少し違う。物理の法則にちゃんとあるんだ。教えてやろう『槓桿《こうかん》の原理』そいつを応用したまでだ。……さあ今度は何にしよう。水鉄砲がいい! うんそうだ!」
 また懐中から何か出した。
「おおおお侍気を附けろよ! ただの水鉄砲たア鉄砲が異《ちが》う。水一滴かかったが最後、手前の体は腐るんだからな」
 闇に一条の白蛇を描き、シューッと水が迸《ほとばし》り出た。
 危険と知ったか侍は、サッと軒下に身を隠した。
「あっ、畜生、こいつア不可《いけ》ねえ。あべこべに先方《むこう》が水遁の術だ。……中止々々! 水鉄砲は中止。……さてこれからどうしたものだ。ともあれ家根《やね》から飛び下りるとしよう」
 鬼小僧はヒラリと飛び下りた。
 途端に侍が走り出た。
「小僧!」と掛けた血走った声、ザックリ肩先へ切り込んだ。
「どっこい!」という声と共に、辛く身を反《かわ》せた鬼小僧、三間ばかり逃げ延びたが、そこでグルリと身を飜えし、ピューッと何か投げ付けた。それが地へ中《あた》った一刹那、ドーンと凄じい爆音がした。と、火花がキラキラと散り、煙りが濛々と立ち上った。
「へ、へ、へ、へ、どんなものだ。その煙りを嗅いだが最後、手前の鼻はもげ[#「もげ」に傍点]っちまうぜ。気息を抑える発臭剤! 可哀そうだなあ、死《くたば》れ死れ!」
 だが侍は死らなかった。煙りを潜《くぐ》って走って来た。
「わッ、不可《いけ》ねえ、追って来やがった!」
 吾妻橋の方へ逃げかけた時、天運尽きたか鬼小僧は、石に躓《つまず》いて転がった。得たりと追い付いた侍は、拝み討ちの大上段、
「小僧、今度は遁さぬぞ!」
 切り下ろそうとした途端、にわかに侍はよろめい[#「よろめい」に傍点]た。
「お杉様!」とうめくように云った。
 やにわに飛び起きた鬼小僧、侍の様子を窺ったが、
「え、何だって? お杉さんだって? 俺もお杉さんを探しているんだ。赤前垂のお杉さんをな。……お前さんそいつ[#「そいつ」に傍点]を知ってるのか? 俺にとっちゃアお友達、同じ浅草にいたものだ」
「お杉様!」と侍はまた云った。
「貴女《あなた》は死にかけて居りますね。……恋の一念私には解《わか》る。……餓えてかつえ[#「かつえ」に傍点]て死にかけて居られる」
 侍はベタベタと地に坐った。
 驚いたのは鬼小僧で、呼吸《いき》を呑んで窺った。
「細い細い糸のような声! 私を呼んでおいでなさる。三之丞様! 三之丞様と!」
「お前さん三之丞って云うのかい。……そうしてどこのお杉さんだね?」
 鬼小僧は顔を突き出した。


 いかにもこの時お杉の局《つぼね》は、柳営大奥かつえ蔵[#「かつえ蔵」に傍点]の中で、まさに生命を終ろうとしていた。
 かつえ蔵[#「かつえ蔵」に傍点]は柳営の極秘であった。
 そこは恐ろしい地獄であった。地獄も地獄餓鬼地獄であった。
 不義を犯した大奥の女子《おなご》を、餓え死にさせる土蔵であった。幾十人幾百人、美しい局や侍女達が、そこで非業に死んだかしれない。
 その恐ろしい地獄の蔵へ、どうしてお杉は入れられたのだろう?
 自分から進んで入ったのであった。
 お杉は家斉《いえなり》へこう云った。
「まだ大奥へ参らない前から、妾《わたし》には恋人がございました。今も妾は焦れて居ります。その方も焦れて居りましょう。……妾は死骸でございます。恋の死骸でございます。……不義の女と云われましても、妾には一言《いちごん》もございません。……どうぞかつえ蔵[#「かつえ蔵」に傍点]へお入れ下さい」
 これは実に家斉にとって、恐ろしい程の苦痛であった。愛する女に恋人がある。そうして今も思い詰めている。自分からかつえ蔵[#「かつえ蔵」に傍点]へ入りたいと云う。……一体どうしたものだろう?
「しかし大奥へ入ってから、密夫をこしらえたというのではない。決して不義とは云われない。思い切ってくれ、その男を。……かつえ蔵へは入れることは出来ない」
 将軍の威厳も振り棄てて、こう家斉は頼むように云った。
「思い詰めておるのでございます。昔も、今も、将来《これから》も。……」
 これがお杉の返辞であった。
 もうこうなっては仕方がなかった。かつえ蔵[#「かつえ蔵」に傍点]へ入れなければならなかった。
 江戸城の奥庭林の中に、一宇の蔵が立っていた。黒塗りの壁に鉄の扉、餓鬼地獄のかつえ蔵[#「かつえ蔵」に傍点]であった。
 ある夜ギイーとその戸が開いた。誰か蔵へ入れられたらしい。他ならぬお杉の局であった。と、ドーンと戸が閉じた。蔵の中は暗かった。
 燈火《ともしび》一つ点《とも》されていない。それこそ文字通りの闇であった。一枚の円座と一脚の脇息、あるものと云えばそれだけであった。
 お杉は円座へ端座した。
 恋人|力石三之丞《りきいしさんのじょう》、その人のことばかり思い詰めた。
「三之丞様」と心の中で云った。
「どうぞご安心下さいまし。お杉は貴郎《あなた》を忘れはしません。妾は喜こんで貴郎のために、かつえ死に[#「かつえ死に」に傍点]するつもりでございます。思う心を貫いて、自分で死ぬという事は、何という嬉しいことでしょう。……」
 蔵の外では夜が明けた。しかし蔵の中は夜であった。蔵の外では日が暮れた。蔵の中には変化がない。こうして時が経って行った。
 お杉の心は朦朧となった。
 ほとんど餓《うえ》が極まった。
 その時突然お杉が云った。
「妾には解《わか》る、貴男《あなた》のお姿が! おお直ぐそこにお在《い》でなさる。……ああ直ぐにも手が届きそうだ。……左様ならよ、三之丞様! 妾は死んで参ります。……妾は信じて疑いません。こんなに焦れている私達、一緒になれないでどうしましょう。美しい黄泉《あのよ》で、魂と魂と……」
 お杉は脇息にもたれたまま、さも美しく闇の中で死んだ。
 それは力石三之丞が、鬼小僧と邂逅した同じ夜の、同じ時刻のことであった。

10

 一方|吾妻橋《あずまばし》橋畔の、三之丞と鬼小僧とはどうしたろう?
 三之丞は地の上へ坐っていた。
 鬼小僧は上から覗き込んでいた。
 と、突然三之丞が云った。
「小僧、俺は腹を切る。情けがあったら介錯しろ」
 抜身をキリキリと袖で捲いた。
「おっと待ってくれお侍さん。一体どうしたというんですえ? 腹を切るにも及ぶめえ」
 鬼小僧は周章《あわて》て押し止めた。
「辻斬りしたのが悪かったと、懺悔なさるお意《つもり》なら、頭を丸めて法衣《ころも》を着、高野山へお上りなさいませ」
「懺悔と?」
 侍は頬で笑った。
「懺悔するような俺ではない。俺は一心を貫くのだ! お杉様が今死んだ。その美しい死姿《しにすがた》まで、俺にはハッキリ見えている。俺は後を追いかけるのだ」
 グイと肌をくつろげた。左の脇腹へプッツリと、刀の先を突込んだ。キリキリキリと引き廻した。
「介錯」と血刀を前へ置いた。
 気勢に誘われた鬼小僧、刀を握って飛び上った。
「苦しませるも気の毒だ。それじゃア介錯してやろう。ヤッ」と云った声の下に、侍の首は地に落ちた。
「さあこれからどうしたものだ。せめて首だけでも葬ってやりてえ。……それにしても一体この侍、どういう身分の者だろう。何だか悪人たア思われねえ。……お杉様と云ったなア誰の事だろう? まさか浅草の赤前垂、お杉ッ子じゃアあるめえが。……まあそんなこたアどうでもいい。さてこれからどうしたものだ」
 鬼小僧はちょっと途方に暮れた。
 夜をかけて急ぐ旅人でもあろう吾妻橋の方から人が来た。
「うかうかしちゃアいられねえ。下手人と見られねえものでもねえ。よし」と云うと鬼小僧は、侍の片袖を引き千切り、首を包むと胸に抱き、ドンドン町の方へ走っていた。

 数日経ったある日のこと、東海道の松並木を、スタスタ歩いて行く旅人があった。他でもない鬼小僧で、首の包みを持っていた。
「葬り損なって持って来たが、生首の土産とは有難くねえ。そうそうこの辺りで葬ってやろう。うん、ここは興津だな。海が見えていい景色だ。松の根方へ埋めてやろう。……おっと不可《いけ》ねえ人が来た。……ではもう少し先へ行こう」
 で、鬼小僧は歩いて行った。

 爾来十数年が経過した。
 その頃肥前長崎に、平賀|浅草《せんそう》という蘭学者があった。傴僂で片眼で醜かったが、しかし非常な博学で、多くの弟子を取り立てていた。
 彼の書斎の床間に、髑髏《どくろ》が一つ置いてあったが、どんな因縁がある髑髏なのかは、かつて一度も語ったことがない。
 だが彼は時々云った。
「赤前垂のお杉さん、古い昔のお友達、あの人は今でも健康《たっしゃ》かしらん?」

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻五」未知谷
   1993(平成5)年7月20日初版
初出:「国民新聞」
   1926(大正15)年1月5日~15日
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年6月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

名人地獄—— 国枝史郎

    消えた提灯《ちょうちん》、女の悲鳴

「……雪の夜半《よわ》、雪の夜半……どうも上《かみ》の句が出ないわい」
 寮のあるじはつぶやいた。今、パッチリ好《よ》い石を置いて、ちょっと余裕が出来たのであった。
「まずゆっくりお考えなされ。そこで愚老は雪一見」
 立ち上がったあるじは障子を開けて、縁の方へ出て行った。
「降ったる雪かな、降りも降ったり、ざっと三寸は積もったかな。……今年の最後の雪でもあろうか、これからだんだん暖かくなろうよ」
「しかし随分寒うござるな」
 侍客はこういって、じっと盤面を睨んでいたが、「きちがい雪の寒いことわ」
「……雪の夜半、雪の夜半……」あるじは雪景色を眺めていた。
「よい上の句が出ないと見える」
「よい打ち手がめつからぬと見える」
 二人は哄然《こうぜん》と笑い合った。
「これからだんだん暖かくなろう」あるじはまたも呟《つぶや》いた。
「しかし今日は寒うござるな」侍客がまぜっかえす。
「さよう。しかし余寒でござるよ」
「余寒で一句出来ませんかな」「さようさ、何かでっち上げましょうかな。下萠《したもえ》、雪解《ゆきげ》、春浅し、残る鴨などはよい季題だ」「そろそろうぐいすの啼き合わせ会も、根岸あたりで催されましょう」
「盆石《ぼんせき》、香会《こうかい》、いや忙しいぞ」「しゃくやくの根分けもせずばならず」「喘息《ぜんそく》の手当もせずばならず」「アッハハハ、これはぶち壊しだ。もっともそういえば、しもやけあかぎれの、予防もせずばなりますまいよ」
「いよいよもって下《さ》がりましたな。下がったついでに食い物の詮議だ。ぼらにかれいにあさりなどが、そろそろしゅんにはいりましたな。鳩飯《はとめし》などは最もおつで」「ところが私《わし》は野菜党でな、うどにくわいにうぐいすな[#「うぐいすな」に傍点]ときたら、それこそ何よりの好物でござるよ。さわらびときたら眼がありませんな」「さといも。八ツ頭《がしら》はいかがでござる」「いやはや芋類はいけませんな」「万両、まんさく、水仙花、梅に椿に寒紅梅か、春先の花はようござるな」「そのうち桜が咲き出します」「世間が陽気になりますて」――「そこで泥棒と火事が流行《はや》る」
「その泥棒で思い出した。噂に高い鼠小僧《ねずみこぞう》、つかまりそうもありませんかな?」ふと主人《あるじ》はこんな事をいった。
「つかまりそうもありませんな」
「彼は一個の義賊というので、お上《かみ》の方でもお目零《めこぼ》しをなされ、つかまえないのではありますまいかな?」
「さようなことはありますまい」客の声には自信があった。「とらえられぬは素早いからでござるよ」
「ははあさようでございますかな。いやほかならぬあなたのお言葉だ。それに違いはございますまい」
「わしはな」と客は物うそうに、「五年以前あの賊のために、ひどく煮え湯を呑ませられましてな。……いまだに怨みは忘れられませんて」
「おやおやそんな事がございましたかな。五年前の郡上様《ぐじょうさま》といえば、名与力として謳《うた》われたものだ。その貴郎《ひと》の手に余ったといえば、いよいよもって偉い奴でござるな。……おや、堤《つつみ》を駕籠《かご》が行くそうな。提灯の火が飛んで行く」
「水神《すいじん》あたりのお客でしょうよ。この大雪に駕籠を走らせ、水神あたりへしけ[#「しけ」に傍点]込むとは、若くなければ出来ない道楽だ」
「お互い年を取りましたな。私《わし》はもうこれ五十七だ」
「私《わし》は三つ下の五十四でござる」
「あっ」と突然寮のあるじ一|閑斎《かんさい》は声を上げた。「提灯が! 提灯が! バッサリと!」
 その時|墨堤《ぼくてい》の方角から、女の悲鳴が聞こえて来た。
「ははあ何か出ましたな」
 ――与力の職を長男に譲り、今は隠居の身分ながら、根岸|肥前守《ひぜんのかみ》、岩瀬|加賀守《かがのかみ》、荒尾|但馬守《たじまのかみ》、筒井|和泉守《いずみのかみ》、四代の町奉行に歴仕して、綽名《あだな》を「玻璃窓《はりまど》」と呼ばれたところの、郡上平八は呟いたが、急にニヤリと片笑いをすると、
「やれ助かった」と手を延ばし、パチリと黒石《くろ》を置いたものである。「まずこれで脈はある」
「それはわからぬ」とどなったのは、縁の上の一閑斎で、「刃《やいば》の稲妻、消えた提灯、ヒーッという女の悲鳴、殺されたに相違ない!」
「いや私《わし》は碁《ご》の事だ」
「ナニ碁?」と、いかにもあきれたように、「人が殺されたのだ! 人が殺されたのだ! 行って見ましょう。さあさあ早く!」
「いや、それなら大丈夫」平八老人は悠々と、「提灯の消えたのは私にも見えた。が、私にはお前様のいう、刃の稲妻は見えなかった」
「フ、フ、フ、フ、実はそのな。……」
「お前様にも見えなかった筈だ」
「さよう、実は、おまけでござるよ」
「芝居気の抜けぬ爺様だ。刃の稲妻の見えるには、いささか距離が遠過ぎる」
「……が、あの悲鳴は? 消えた提灯は?」
「それがさ、変に間延びしている」
「殺人《ひとごろし》ではないのかえ?」
「ナーニ誰も殺されはしない」

    登場人物はまさしく五人

 しかし主人は不安そうに、「確かかな? 大丈夫かな?」
「三十の歳《とし》から五十まで、寛政七年から文政元年まで、ざっと数えて二十年間、私《わし》はこの道では苦労しています」
「が、そのお偉い『玻璃窓』の旦那も、鼠小僧にかかってはね」
「あれは別だ」と厭な顔をして「鼠小僧は私の苦手だ」
 おりから同じ方角から、鼓《つづみ》の音が聞こえて来た。ポンポン、ポンポン、ポンポンと、堤に添って遠隔《とおざか》って行った。
 すいかけた煙管《きせる》を膝へ取り、平八老人は耳を澄ましたが、次第にその顔が顰《ひそ》んで来た。
 梅はおおかた散りつくし、彼岸の入りは三日前、早い桜は咲こうというのに、季節違いの大雪が降り、江戸はもちろん武蔵《むさし》一円、経帷子《きょうかたびら》に包まれたように、真っ白になって眠っていたが、ここ小梅の里の辺《あた》りは、家もまばらに耕地ひらけ、雪景色にはもってこいであった。その地上の雪に響いて、鼓の音は冴え返るのであった。
「よく抜ける鼓だなあ」思わず平八は感嘆したが、「これは容易には忘れられぬわい。ああ本当にいい音《ね》だなあ。……しかし待てよ? あの打ち方は? これは野暮だ! 滅茶苦茶だ! それにも拘らずよい音だなあ」
 ついと平八は立ち上がった。それからのそり[#「のそり」に傍点]と縁へ出た。
「さて、ご老体、出かけましょうかな」
「ナニ出かける? はてどこへ?」一閑斎は怪訝《けげん》そうであった。
「刃の稲妻……」と故意《わざ》と皮肉に、「消えた提灯、女の悲鳴、雪に響き渡る小鼓とあっては、こいつうっちゃっては置けませんからな」「ははあそれではお調べか?」「玻璃窓の平八お出張《でば》りござる」「鼠小僧がおりましょうぞ」「ううん」とこれには平八老人も、悲鳴を上げざるを得なかった。「八蔵八蔵!」と一閑斎は、下男部屋の方へ声をかけた。「急いで提灯へ火を入れて来い。そうしてお前も従《つ》いておいで。――それでは旦那出かけましょうかな。フ、フ、フ、フ、玻璃窓の旦那」
 そこで皮肉な二老人は、庭の上へ下り立った。下男の提灯が先に立ち、続いて平八と一閑斎、裏木戸を押すと外へ出た。と広々とした一面の耕地で、隅田堤《すみだづつみ》が長々と、雪を冠《かぶ》って横仆《よこたわ》っていた。雪を踏み踏みその方角へ、三人の者は辿《たど》って行った。
 堤へ上《のぼ》って見廻したが、なるほど死骸らしいものはない。血汐一滴|零《こぼ》れていない。ただ無数の足跡ばかりが、雪に印されているばかりであった。「提灯を」と平八はいった。「……で、あらかじめ申して置きます。こればかりが手がかりでござる、足跡を消してくださるなよ」
 八蔵から受け取った、提灯をズイと地面へさしつけると、彼は足跡を調べ出した。もう暢気《のんき》な隠居ではない。元《もと》の名与力郡上平八で、シャンと姿勢もきまって来れば、提灯の光をまともに浴びて、キラキラ輝く眼の中にも、燃えるような活気が充ちていた。一文字に結んだ唇の端《はし》には、強い意志さえ窺《うかが》われた。昔取った杵柄《きねづか》とでもいおうか、調べ方は手堅くて早く、屈《かが》んだかと思うと背伸びをした。膝を突いたかと思うと手を延ばし、何か黒い物をひろい上げた。つと立ち木の幹を撫《な》でたり、なお降りしきる雪空を、じっとしばらく見上げたりした。堤の端を遠廻りにあるき、決して内側へは足を入れない。やがて立ち上がると雪を払ったが、片手で提灯の弓を握り、片手を懐中《ふところ》で暖めると、しばらく佇《たたず》んで考えていた。提灯の光の届く範囲《かぎり》の、茫と明るい輪の中へ、しきりに降り込む粉雪が、縞を作って乱れるのを、鋭いその眼で見詰《みつ》めてはいるが、それは観察しているのではなく、無心に眺めているのであった。
「疑惑」と「意外」のこの二つが、彼の顔に現われていた。
「登場人物は締めて五人だ」彼は静かにやがていった。「二人は駕籠舁《かごか》き、一人は武辺者、そうして一人は若い女……」

    「玻璃窓」平八の科学的探偵

「そうして残ったもう一人は?」一閑斎が側《そば》から聞いた。
「その一人が私《わし》の苦手だ」
「ええお前様の苦手とは?」
「……どうも、こいつは驚いたなあ。……」平八はなおも考え込んだ。
「それじゃもしや鼠小僧が?」
「なに。……いやいや。……まずさよう。……が、一層こういった方がいい。鼠小僧に相違ないと、かつて私《わし》が目星をつけ、あべこべに煮《に》え湯《ゆ》を呑ませられた、ある人間の足跡が、ここにはっきりついているとな。――とにかく順を追って話して見よう。第一番にこの足跡だ。わらじの先から裸指《はだかゆび》が、五本ニョッキリ出ていたと見えて、その指跡がついている。この雪降りに素足《すあし》にわらじ、百姓でなければ人足だ。それがずっと両国の方から、二つずつ四つ規則正しい、隔たりを持ってついている。先に立った足跡は、つま先よりもかがとの方が、深く雪へ踏ん込んでいる。これはかがとへ力を入れた証拠だ。背後《うしろ》の足跡はこれと反対に、つま先が深く雪へはいっている。これはつま先へ力を入れた証拠だ。ところで駕籠舁《かごか》きという者は、先棒担《さきぼうかつ》ぎはきっと反《そ》る。反って中心を取ろうとする。自然かがとへ力がはいる。しかるに後棒《あとぼう》はこれと反対に、前へ前へと身を屈《かが》める。そうやって先棒を押しやろうとする、だからつま先へ力がはいる。でこの四つの足跡は、駕籠舁きの足跡に相違ない。ところで駕籠舁きのその足跡は、ここまでやって来て消えている。……と思うのは間違いで、河に向かった土手の腹に、非常に乱暴についている。これは何物かに驚いて、かごを雪の上へほうり出したまま、そっちへあわてて逃げたがためで、長方形のかご底の跡が、雪へはっきりついている」
 こういいながら雪の積もった、堤の一|所《ところ》を指差した。かご底の跡がついていた。
「こっちへ」といいながら平八は、堤を横切って向こう側《がわ》へ行ったが、「何んと一閑老土手の腹に、乱暴な足跡がついていましょうがな?」
「いかにも足跡がついています。おおそうしてあの跡は?」一閑斎は指差した。その指先の向かった所に、雪に人形《ひとがた》が印《いん》せられていた。
「恐《こわ》い物見たさで駕籠舁きども、あそこへピッタリ体《からだ》を寝かせ、鎌首ばかりを堤から出して、兇行を窺《うかが》っていたのでござるよ。で、人形がついたのでござる」
「何がいったい出たのでござるな?」「白刃をさげた逞《たくま》しい武辺者」「そうしてどこから出たのでござろう?」「あの桜の古木の蔭《かげ》から」
 こういいながら平八は、再び堤を横切って、元いた方へ引き返したが、巨大な一本の桜の古木が、雪を鎧《よろ》って立っている根もとへ、一閑斎を案内した。「ご覧なされ桜の根もとに、別の足跡がございましょうがな」「さよう、たしかにありますな」「すなわち武辺者が先廻りをして、待ち伏せしていた証拠でござる」
「何、待ち伏せ? 先廻りとな? さような事まで分《わか》りますかな?」「何んでもない事、すぐに分ります」平八は提灯を差し出したが、「両国の方からこの根もとまで、堤の端を歩くようにして、人の足跡が大股に、一筋ついておりましょうがな。これは大急ぎで走って来たからでござる。堤の真ん中を歩かずに、端ばかり選んで歩いたというのは、心に蟠《わだかまり》があったからで、他人に見られるのを恐れる人は、定《きま》ってこういう態度を執《と》ります。さて、しかるにその足跡たるや、一刻《しばらく》もやまない粉雪《こゆき》のために、薄く蔽《おお》われておりますが、これがきわめて大切な点で、ほかの無数の足跡と比べて蔽われ方が著しゅうござる。つまりそれはその足跡が、どの足跡よりも古いという証拠だ。すなわち足跡の主人公は、駕籠より先に堤を通り、駕籠の来るのを木の蔭で、待っていたことになりましょうがな」「いかにもこれはごもっとも。そしてそれからどうしましたな?」一閑斎は熱心に訊いた。
「まず提灯を切り落としました」「それは私《わし》にもうなずかれる。提灯の消えたのは私も見た」

    横歩きの不思議な足跡?

「それから駕籠へ近寄りました。その証拠には同じ足跡が、これこのように桜の木蔭から、駕籠の捨ててあった所まで、続いているではござらぬかな」「なるほどなるほど続いておりますな。そうしてそれからどうしましたな?」「駕籠から女を引き出しました」「さっき聞こえたは女の悲鳴、これはいかさまごもっとも。駕籠にいたのは女でござろう」「いやそればかりではございません。女の証拠はこれでござる」
 平八は雪の上を指差した。たびをはいた華奢《きゃしゃ》な足跡が、幾個《いくつ》か点々とついていた。
「ははあなるほど、女の足跡だ。が、子供の足跡ともいえる」一閑斎は呟いた。
「よろしい、それではもう一つ、動かぬ証拠をお目に掛けよう」平八は懐中へ手を入れると、さっき拾った黒い物を、一閑斎の前へ突き出した。
「おやおやこれは女の頭髪《かみのけ》……」
「根もとから一太刀できり落とした、刀の冴えをご覧《ろう》じろ。きり[#「きり」に傍点]手は武辺者に相違ござらぬ。しかも非常な手練の武士だ。……ところでその髪の髷《まげ》の形を、一閑老にはご存知かな?」「勝山《かつやま》でなし島田《しまだ》でなし、さあ何でござろうな」「その髷こそ鬘下地《かつらしたじ》でござる」「鬘下地? ははアこれがな」「したがって女は小屋者《こやもの》でござる。女義太夫か女役者でござる」「で、その女はどうしましたな? 締め殺されて川の中へでも、投げ込まれたのではありますまいかな?」「いや、それにしてはもがいた跡がない。人一人|縊《くび》れて死のうというのに、もがかぬという訳はない」「切られもせず縊られもせず、しかも姿が見えないとは、天へ昇ったか地へ潜ったか、不思議な事があればあるものだ」「駕籠へ乗って水神の方へ急いでひき上げて行ったのでござるよ」郡上平八は自信を持っていった。
「それには証拠がござるかな?」
「さよう、やはり足跡だが、まずこっちへ」といいながら、川に向かった土手の腹を、川の岸まで下りて行ったが、低く提灯を差し出すと、それで雪の上を照らしたものである。二つずつ四つの足跡が、規則正しい間隔を保って、川下の方へついていた。いうまでもなく駕籠舁きの足で、彼らは駕籠を担《かつ》ぎながら、堤の下を川に添い、水神の方へ行ったものと見える。一閑斎と平八とは、川下の方へ足跡を追って、十間余りも行って見た。すると足跡が見えなくなった。しかしそれは消えたのではなく、土手の腹を堤の上へ、同じ足跡がついていた。駕籠を担いだ駕籠舁きが、そこから堤へ上ったものであろう。そこで二人も堤へ上った。はたして同じ足跡が、堤の上を規則正しく水神の方へついていた。
「おや!」と突然一閑斎は不思議そうに声を張り上げた。「ここに見慣れない足跡がござる」
 いかにも見慣れない足跡が、駕籠舁き二人の足跡に添って、一筋水神の方へついていた。
「さよう、見慣れない足跡がござる」平八の声は沈痛であった。「これこそ鼠小僧と想像される、ある一人の足跡でござるよ」「おおこれがそれでござるかな」「よくよくご覧なさるがよい。奇妙な特徴がございましょうがな」「どれ」というと一閑斎は、顔を地面へ近づけた。「や、これは不思議不思議、蟹《かに》のように横歩きだ!」
「その通り」と平八は、やはり沈痛の声でいった。「その横歩きが特徴でござる。……すべて横歩きは縦歩きと比べて――すなわち普通の歩き方と比べて、ほとんど十倍の速さがござる。昔から早足といわれた者は、おおかた横歩きを用いましたそうな」「ほほうさようでございますかな」
「ところで」と平八は力をこめ、「この地点から水神へ向けて、一筋ついている足跡の外に、さらに一筋同じような、横歩きの足跡のついているのが、お解りではあるまいかな」「さようでござるかな、どれどれどこに?」一閑斎は雪の地面を、改めて仔細《しさい》に調べて見た。はたして足跡はついていた。今も降っている雪のために、おおかた消されてはいたけれど、その足跡は水神の方から、こっちへあるいて来たものらしい。
「つまり」と平八は説明した。「鼠小僧と想像される、ある一人の人間が、水神の方から大急ぎで、横歩きでここまで来たところ、十間のあなたで一組の男女が、何やら悶着《もんちゃく》を起こしている。そこでその男はここに佇《たたず》んで、しばらく様子を窺《うかが》ったあげく、やって来た駕籠に付き添って、元来た方へ引き返して行った。……とこう想像を廻《めぐ》らしたところで、さして不自然ではござるまいがな」

    泥棒の嚏《くさめ》も寒し雪の夜半《よわ》

「それに相違ござるまい。細かい観察恐れ入りましたな」一閑斎はここに至って、すっかり感心したものである。
 二人の老人は堤の上を、もと来た方へ引き返して行った。もとの場所へ辿《たど》りつくと、「さて最後にお見せしたい物が、実はここにもう一つござる」こういいながら平八は、巨大な桜樹《おうじゅ》の根もとから、川とは反対に耕地《はたち》の方へ、土手の腹を下って行ったが、提灯で地面を振り照らすと、「ご覧なされ足跡が、土手下の耕地《はたち》を両国の方へ、走っているではござらぬかな。さて何者の足跡でござろう?」
 一閑斎は眼を近づけ、仔細に足跡を調べたが、
「どうやらこれは武辺者の……」「さよう、武辺者の足跡でござる。目的をとげた武辺者は、人に見られるのを憚《はばか》って、堤から飛び下り耕地を伝い、両国の方へ逃げたのでござる」
「そうして、武辺者の目的というは?」
「それがとんと分《わか》らぬのでござるよ」平八の声には元気がない。「五人の人間の行動は、あらかた足跡で分ったものの、その外のことはトンと分らぬ」「お前様ほどの慧眼《けいがん》にも、分らないことがござるかな?」「不可解の点が四つござる」「四つ? さようかな、お聞かせくだされ」
「鼠小僧と想像される男が、この場へ来かかったのは何のためか? 偶然かそれとも計っての事か?」「いかさまこれは分らぬわい」「頭髪《かみ》を切ったは何のためか? 威嚇《いかく》のためか意趣斬りか? これが第二の難点でござる。武辺者はいったい何者か? 浪人か藩士かその外の者か? これが三つ目の難点でござる」「そこで四つ目の難点は?」
「美音の鼓! 美音の鼓!」
「さようさ、鼓が鳴りましたな」
「誰が鼓を持っていたのか? 何のために鼓を鳴らしたのか? 誰が鼓を鳴らしたのか? その鼓はどこへ行ったか?」
「いやはやまるっきり分りませぬかな?」「かいくれ見当がつきませぬ」
 この時下男の八蔵が、突然大きな嚏《くしゃみ》をした。彼はいくらかおろかしいのであった。さっきから一人|茫然《ぼうぜん》と雪中に立っていたのであった。下男の嚏が伝染《うつ》ったのでもあろう、一閑斎も嚏をした。
「これはいけない。風邪をひきそうだ。……そろそろ帰ろうではござらぬかな」
 しかし平八は返辞をしない。ただ一心に考えていた。
「玻璃窓の旦那、いかがでござる、そろそろ帰ろうではござらぬかな」例の皮肉を飛び出させ、一閑斎はまたいった。
 ようやく気がついた平八は、口もとへ苦笑を浮かべたが、「これは失礼、さあ帰りましょう」
 三人は耕地《はたち》を寮の方へ、大急ぎで帰って行った。
 とまた一閑斎は嚏《くしゃみ》をした。
「今夜は嚏のよく出る晩だ」平八は思わず笑ったが、「泥棒も嚏をした事であろう」
「何」というと一閑斎は、そのまま野良路へ立ち止まったが、「出来た! 有難い! 出来ましたぞ!」「ははあ何が出来ましたな」――「まずこうだ。……『泥棒の』と」「ははあなるほど『泥棒の』と」「『嚏も寒し』と行きましょうかな」「『嚏も寒し』と、行きましたかな」「『雪の夜半』」「『雪の夜半』」「何んと出来たではござらぬかな」「泥棒の嚏も寒し雪の夜半。……いかさまこれは名句でござる」「句のよし[#「よし」に傍点]悪《あし》はともかくも、産みの苦しみは遁がれましたよ。ああいい気持ちだ。セイセイした」「私《わし》は駄目だ!」と平八は、憂鬱にその声を曇らせたが、「見当もつかぬ。見当もつかぬ。しかしきっと眼付《めつ》けて見せる。耳についている鼓の音! これを手頼《たより》に眼付けて見せる」
 季節はずれの大雪は、藪も畑もまっ白にして、今なおさんさんと降っていた。

    無任所与力と音響学

 季節はずれの大雪で、桜の咲くのはおくれたが、いよいよその花の咲いたときには、例年よりは見事であった。「小うるさい花が咲くとて寝釈迦かな」こういう人間は別として、「今の世や猫も杓子も花見笠」で、江戸の人達はきょうもきのうも、花見花見で日を暮らした。
 一閑斎の小梅の寮へも、毎日来客が絶えなかった。以前《むかし》の彼の身分といえば、微禄のご家人に過ぎなかったが、商才のある質《たち》だったので、ご家人の株を他人に譲り、その金を持って長崎へ行き、蘭人相手の商法をしたのが、素晴らしい幸運の開く基で、二十年後に帰って来た時には、二十万両という大金を、その懐中《ふところ》に持っていた。利巧な彼は江戸へ帰ってからも、危険な仕事へは手を出さず、地所を買ったり家作を設けたり、堅実一方に世を渡ったが、それも今から数年前までで、総領の吾市に世を譲ってからは、小梅の里へ寮住居、歌俳諧や茶の湯してと、端唄の文句をそのままののんきなくらしにはいってしまった。そこは器用な彼のことで、碁を習えば碁に達し俳句を学べば俳句に達し、相当のところまで行くことが出来、時間を潰すには苦労しなかった。もっともそういう人間に限って、蘊奥《うんのう》を極めるというようなことは、ほとんど出来難いものであるが、そういう事を苦にするような、芸術的人間でもなかったので、結句その方が勝手であり、まずい皮肉をいう以外には、社交上これという欠点もなく、座談はじょうず金はあり、案外親切でもあったので、武士時代の同僚はじめ、風雅の友から書画骨董商等、根気よく彼のもとへ出入りした。
 しかるにこれも常連の、郡上平八だけはあの夜以来、ピッタリ姿を見せなくなった。それを不思議がって人がきくと、一閑斎は下手な皮肉で、こんな塩梅《あんばい》に答えるのであった。「なにさ、あの仁は無任所与力でな、隠居はしてもお忙しい。それに目下は音響学で、どうやら一苦労なすっているらしい。油を売りになど見えられるものか」「何んでござるな、音響学とは?」相手がもしもこうきこうものなら、一閑斎は大得意で、さらに皮肉を飛ばせるのであった。「音響学でござるかな、音響学とは読んで字の如し。もっともあのじん[#「じん」に傍点]の音響学は、ちと変態でござってな、ポンポンと鳴る小鼓の音から、鼠小僧を現じ出そうという、きわめて珍しいものでござるよ」
 これではどうにも聞く人にとっては、なんのことだかわからない。しかし実際郡上平八は、あの晩以来思うところあって、あの時耳にした鼓の音を、是非もう一度聞きたいものと、全身の神経を緊張《ひきし》めて、江戸市中を万遍《まんべん》なく、歩き廻っているのであった。人間の心理や世間の悪事を、玻璃窓を透して見るように、正しく明らかに見るというところから、あざ名を「玻璃窓」とつけられた彼は、老いても体力衰えず、職は引退《のい》ても頭脳は鋭く、その頭脳の働き方が、近代の言葉で説明すると、いわゆる合理的であり科学的であって、在来《ざいらい》の唯一の探偵法たる「見込み手段」を排斥し、動かぬ証拠を蒐集して、もって犯人をとらえようという「証拠手段」をとるのが好きで、若いかいなで[#「かいなで」に傍点]の与力や同心経験一点張りの岡《おか》っ引《ぴき》など、実にこの点に至っては、その足もとへも寄りつけなかった。その彼が何か思うところあって、鼓の音を追うというからには、その鼓の音なるものが、いかに大切なものなるかが、想像されるではあるまいか。
 江戸を飾っていた桜の花が「ひとよさに桜はささらほさらかな」と、奇矯な俳人が咏んだように、一夜の嵐に散ってからは、世は次第に夏に入った。苗売り、金魚売り、虫売りの声々、カタンカタンという定斎屋《じょうさいや》の音、腹を見せて飛ぶ若い燕の、健康そうな啼き声などにも、万物生々たるこの季節の、清々《すがすが》しい呼吸が感ぜられた。春にだらけた人々の心も、一時ピンとひきしまり、溌溂たる[#「溌溂たる」は底本では「溌※[#「さんずい+刺」]たる」]元気をとりかえしたが一人寂しいのは平八老人で、この時までも鼓の音を、耳にすることが出来なかった。そもそも鼓はどこにあるのであろう? 二度と再びあの鼓は、美妙な音色を立てないのであろうか?
 いやいや決してそうではない。鼓はこの時も鳴っていたのであった。思いも及ばない辺鄙《へんぴ》の土地、四時煙りを噴くという、浅間の山の麓《ふもと》の里、追分節の発生地、追分駅路のある旅籠屋で、ポンポン、ポンポンと美しく、同じ音色に鳴っていたのであった。

    浅間の麓《ふもと》追分宿

 いまの地理で説明すると、長野県北佐久郡、沓掛近くの追分宿は、わずかに戸数にして五十戸ばかり、ひどくさびれた宿場であるが、徳川時代から明治初年まで、信越線の開通しないまえは、どうしてなかなか賑やかな駅路で、戸数五百遊女三百、中仙道と北国街道との、その有名な分岐点として、あまねく世間に知れていた。
 まず有名な遊女屋としては、遊女七十人家人三十人、総勢百人と注されたところの、油屋というのを筆頭に、栄楽屋、大黒屋、小林屋、井筒屋、若葉屋、千歳屋など、軒を連ねて繁昌し、正木屋、小野屋、近江屋なども、随分名高いものであった。「追分|女郎衆《じょろしゅ》についだまされて縞の財布がから[#「から」に傍点]になる」「追分宿場は沼やら田やら行くに行かれぬ一足も」「浅間山から飛んで来る烏《からす》銭も持たずにカオカオと」
 こういったような追分文句が、いまに残っているところから見ても、当時の全盛が思いやられよう。
 同勢三千、人足五千、加賀の前田家は八千の人数で、ここを堂々と通って行った。年々通行の大名のうち、主なるものを挙げて見ると尾州大納言、紀州中納言、越前、薩摩、伊達、細川、黒田、毛利、鍋島家、池田、浅野、井伊、藤堂、阿波の蜂須賀、山内家、有馬、稲葉、立花家、中川、奥平、柳沢、大聖寺の前田等が最たるもので、お金御用の飛脚も行き、お茶壺、例幣使《れいへいし》も通るとあっては、金の落ちるのは当然であろう。
 さて、この時分この宿場に、甚三という馬子がいた。きだて[#「きだて」に傍点]はやさしく正直者で、世間の評判もよかったが、特にこの男を名高くしたのは、美音で唄う追分節が、何ともいえずうまかったことで、甚三の唄う追分節には、草木も靡《なび》くといわれていた。

 ある日甚三は裏庭へ出て、黙然《もくねん》と何かに聞き惚れていた。夕月が上《のぼ》って野良《のら》を照らし、水のような清光が庭にさし入り、厩舎《うまごや》の影を地に敷いていた。フーフーいうのは馬の呼吸《いき》で、コトンコトンと音のするのは、馬が破目板を蹴るのでもあろう。パサパサと蠅を払うらしい、かすかな尻尾の音もした。甚三は縁へ腰を掛け、じっと物の音に聞き惚れていた。ポンポン、ポンポン、ポンポンと、美妙な鼓の正調が、あざやかに抜けて来るからであった。
「ああ本当にいい音《ね》だなあ。……本陣油屋の逗留客だというが、何んとマア上手に調べるんだろう。鼓も上等に違えねえ。……『追分一丁二丁三丁四丁五丁目、中の三丁目がままならぬ』とおいら[#「おいら」に傍点]の好きな追分節の、その三丁目の油屋から、ここまで抜けて聞こえるとは、人間|業《わざ》では出来ねえ事だ。追分一杯鳴り渡り、軽井沢まで届きそうだ。それに比べりゃあ俺《おい》らの唄う、追分節なんか子供騙しにもならねえ。ああ本当にいい音だなあ」つぶやきつぶやき聞き惚れていた。
 この時背戸のむしろを掲げ、庭へはいって来た若者があった。「兄貴!」と突然《だしぬけ》に声をかけた。甚三の弟の甚内であった。「何をぼんやり考えているな」「おお甚内か、あれを聞きな。何んと素晴らしい音色じゃねえか」
「ああ鼓か。いい音だなあ」兄と並んで腰を掛け、甚内もしばらく耳を傾《かし》げた。ポンポン、ポンポン、ポンポンと、なおも鼓は鳴っていた。と、鼓は静かに止んだ。恐らく一曲打ちおえたのであろう。甚三は一つ溜息をした。二人はしばらく黙っていた。
「あにき、この頃変ったな」不意に甚内が咎めるようにいった。「お前、どうかしやしないかな」
「何を?」と甚三は不思議そうに、「別に変った覚えもねえ」「いいや変った、大変りだ。この頃|頻《しき》りに考え込むようになった。そうして元気がなくなった。そうかと思うと歌を唄うと、まえにも優《ま》してうめえものだ」

    兄貴、どうだな、思い切っては

「俺《おい》らの追分のうめえのは、今に始まった事じゃねえ」甚三は多少の自負をもって、やや得意らしくこういったが、その声にもいい方にも、思いなしか憂いがあった。「宿一杯知れていることだ」
「ああそうともそれはそうだ。宿一杯は愚かのこと、参覲交代のお大名から、乞食非人の類《たぐい》まで、かりにも街道を通る者で、お前の追分を褒めねえものは、それこそ一人だってありゃしねえ。その追分を聞きてえばっかりに、歩いても行ける脇街道を、わざわざお前の馬に乗る、旅人衆だってあるくれえだ。お前の追分に堪能なことは、改めていうには及ばねえ。おいらのいうのはそれじゃねえ。そのお前の追分節が、近来めっきり変って来たのでね、それが心配でしかたがねえのさ」
 こういう甚内の声の中には、兄弟の愛情が籠《こ》もっていた。兄の甚三は感動しながらも、わざ[#「わざ」に傍点]とさりげない様子を作り、「どんな塩梅《あんばい》に変ったものか、とんとおいらにゃあ解らねえ」「冴えていたのが曇って来た。いかにも山の歌らしく、涼しかったのが熱を持って来た。それでいて途方もなくうまいのだ。聞いていて体中がゾッとする。蒸されるような気持ちになる。そうして何かよくない事でも、起こって来そうな気持ちになる。何かにむちゅうに焦《こが》れていて、その何かに呼びかけていると、こんな工合にも思われる。これはよくねえ変り方だ」「ふうん、こいつは驚いたな」甚三は内心ギョッとしながら、ことさら皮肉な言葉付きで、「お前はこれまで追分は愚か、鼻唄一つ唄えなかった筈だに、よくまあおいらの追分を、そうまで細《こまか》く調べたものだ」「いいや自分で唄うのと他人の歌を聞くのとは、自然に差別がある筈だ。おいらには歌は唄えねえ。まるっきり音《おん》をなさねえのだ。悲しくもなれば愛想も尽きる。そうしてお前が羨ましくもなる。お前の弟と生まれながら、そうしてこの宿に育ちながら、土地の地歌を一句半句、口に出すことが出来ねえとは、何んたら気の毒な男だろうと、時々自分が可哀そうにもなる。そこで俺《おい》らは考えたものだ。『これは俺らが悪いのじゃねえ。これはあにきがよくねえのだ。きっとあにきはおいらの声まで、さらって行ったに違ねえ』とな。アッハハハハこれは冗談だが、それほどおいらには歌は唄えねえ。それにも拘らず他人のを聞くと、善悪《よしあし》ぐらいはまずわかる。それに」と甚内はちょっと考えたが「お前の歌の変ったことは、この宿中での評判だからな」「え?」と甚三は胆を潰し、「何が宿中での評判だって?」「お前の歌の変ったことがよ」「おどかしちゃいけねえ、おどかしちゃいけねえ」小心の甚三は仰天し、顔色をさえかえたものである。
「それにもう一つあにきの事で、宿中評判のことがある」「話してくれ。話してくれ!」甚三はあわててきくのであった。
「それはな」と甚内はいい悪《にく》そうに、「あの油屋の板頭《いたがしら》、お北さんとの噂だが、お前の歌の変ったのも、そこらあたりが原因だろうと、宿中もっぱらの取り沙汰だが、おいらもそうだと睨んでいる。……あにきこいつは考えものだぜ」
 いわれて甚三は黙ってしまった。身に覚えがあるからであった。
「よしお北さんが飯盛りでも、宿一番の名物女、越後生まれの大|莫連《ばくれん》、侍衆か金持ちか、立派な客でなかったら、座敷へ出ぬという権高者《けんだかもの》、なるほどお前も歌にかけたら、街道筋では名高いが、身分は劣った馬方風情、どうして懇意になったものか、不思議なことと人もいえば、このおいらもそう思う。……だがもうそれは出来たことだ、不思議だきたい[#「きたい」に傍点]だといったところで、そいつがどうなるものでもねえ。おいらのいいてえのはこれからの事だ。あにき[#「あにき」に傍点]、どうだな、思い切っては」
 まごころ[#「まごころ」に傍点]をこめていうのであるが、甚三は返辞さえしなかった。ただ黙然と考えていた。
「こいつは駄目かな、仕方もねえ」甚内はノッソリ立ち上がったが、「あにき、おいらにゃあ眼に見えるがな。お前があの女に捨てられて、すぐに赤恥を掻くのがな」行きかけて甚内は立ち止まった。「あにき、おいらは近いうちに、越後の方へ出て行くぜ。おいらの永年ののぞみだからな」

    平手造酒と観世銀之丞

 甚内はじっとたたずんで甚三の様子を窺った。甚三は黙然と考えていた。その足の先に月の光が、幽《かす》かに青く這い上っていた。かじかの啼く音《ね》が手近に聞こえ、稲葉を渡って来た香《こう》ばしい風が、莚戸《むしろど》の裾をゆるがせた。高原、七月、静かな夕、螢が草の間に光っていた。
「お前の様子が苦になって、思い切っておいらは行き兼るのだ」甚内は口説《くど》くようにいい出した。
「でもおいらは近々に行くよ。海がおいらを呼んでいるからな……おいらには山は不向きなのだ。どっちをむいても鼻を突きそうな、この追分はおれには向かねえ。小さい時からそうだった、海がおいらの情婦《おんな》だった。おれは夢にさえ見たものだ。ああ今だって夢に見るよ。山の風より海の風だ。力一杯働いて見てえ! そうだよ帆綱を握ってな。……もう直《じ》きにお前ともおさらばだ。ああ、だが本当に気が揉めるなあ」
 フラリと甚内は出て行った。
 顔を上げて見ようともせず、なお甚三は黙然と、下|俯向《うつむ》いて考えていたが、その時またも清涼とした鼓の音が聞こえて来た。
「ああいいなあ」といいながら、ムックリ顔を上げたかと思うと、体も一緒に立ち上がった。「唄い負かすか負かされるか、かなわぬまでも競って見よう。よし! そうだ!」と厩舎《うまごや》へ走り、グイとませぼう[#「ませぼう」に傍点]をひっ外《ぱず》すと、飼い馬を元気よくひき出した。「さあ確《しっか》り頼むぞよ。パカパカパカと景気よく、ご苦労ながら歩いてくれ。蹄の音に合わせてこそ、追分の値打ちが出るのだからな。乗せるお客も荷もねえが、あると思って歩いてくれ! ハイ、ハイ、ハイ」と声を掛け、自分は手綱を肩に掛け、土間を通って街道へ出た。
 茫々と青い月の光、一路うねうねとかよっているのは、本街道の中仙道で、真《ま》っ直《す》ぐに行けば江戸である。次の宿は沓掛宿で、わずか里程は一里三町、それをたどれば軽井沢、軽井沢まで二里八町、碓井峠の険しい道を、無事に越えれば阪本駅路、五里六町の里程であった。
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西は追分、東は関所
関所越えれば、旅の空
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 咽《むせ》ぶがような歌声が、月の光を水と見て、水の底から哀々と空に向かって澄み通る。甚三の流す追分であった。パカパカパカと蹄の音が街道を東へ通って行った。
「おおまた追分が聞こえるな」
 いうと一緒に肩の鼓を膝の上へトンと置いた。「まるで競争でもするように、俺が鼓を打ちさえすれば、あの追分が聞こえて来る」
 本陣油屋の下座敷、裏庭に向かった二十畳の部屋に、久しいまえから逗留している、江戸の二人の侍のうち、一人がこういうと微笑した。名は観世銀之丞《かんぜぎんのじょう》、二十一歳の若盛りで、柔弱者と思われるほど、華奢《きゃしゃ》な美しい男振りであった。もう一人の武士はこれと異《ちが》い、年もおおかた三十でもあろうか、面擦れのした赭ら顔、肥えてはいるが贅肉《ぜいにく》のない、隆々たる筋骨の大丈夫で、その名を平手造酒《ひらてみき》といった。
 ゴロリと畳へ横になると、「どうも退屈で仕方がない。何をやっても退屈だ。実際世の中っていう奴は、こうも退屈なものか知ら」銀之丞はおはこ[#「おはこ」に傍点]をいうのであった。
「おい観世、また退屈か」造酒はニヤニヤ笑ったが、「何がそんなに退屈かな?」
「何がといって、何もかもさ」
「しかしこの俺の眼から見ると、貴公の退屈は贅沢だぞ」
「なに贅沢? これは聞き物だ」
「まず身分を考えるがいい」
「うん、身分か、能役者よ」
「観世宗家の一族ではないか」
「ああまずそういったところだな」
「観世宗家と来た日には、五流を通じて第一の家柄、楽頭職《がくとうしょく》として大したものだ。柳営お扱いも丁重だ」

    襖を開けた商人客

「なんだつまらない、それがどうしたえ」
「聞けば貴公のご親父《しんぷ》は、宗家当主の兄君だそうだが?」
「ああそうさ、それがどうしたな」
「宗家と貴公とは伯父甥ではないか」「うん、そうだ、伯父甥だよ」「宗家は病身だということだが」「まず余り永くはないな」「そこで貴公を養子として、楽頭職《がくとうしょく》を継がせるというのが、世間もっぱらの評判だ」「世間は案外物識りだな。ああいかにもその通りだよ」
「とすると貴公は観世家にとっては、大事な大事な公達《きんだち》ではないか」
「……公達にきつね化けけり宵の春か……やはり蕪村はうまいなあ」銀之丞はひょいと横へ反《そ》らせた。
「何んだ俳句か、つがもねえ[#「つがもねえ」に傍点]」造酒もとうとう笑い出したが、「真面目《まじめ》に聞きな、悪いことはいわぬ」
「といってあんまりいいこともいわぬ……とこう云うと地口になるかな」
「それそいつがよくない洒落《しゃれ》だ。かりにも観世の御曹司《おんぞうし》が、地口を語るとは不似合だな」
「それ不似合、やれ不面目、家名にかかわる、芸の名折れ、どっちを向いてもアイタシコ。そいつがきつい[#「きつい」に傍点]嫌いでな」「ナール」と造酒はそれを聞くと、ちょっと胸に落ちたらしく、「つまり窮屈が厭なのだな。鬱《ふさ》ぎの虫の原因も、基《もと》をただせばそいつだな」
「やさしくいえばまずそうだ」「ほかにも原因があるのかえ」「万事万端皆|癪《しゃく》だ」「大きく出たな。これはかなわぬ」「今の浮世の有様《ありさま》は、いって見れば蓋をした釜だ。人を窒息させようとする」「おれにははっきり解らないが」「世の縄墨《じょうぼく》に背《そむ》いたが最後、それ異端者だ、切支丹《キリシタン》だ、やれ謀反人《むほんにん》だと大騒ぎをする」「うん、こいつはもっともだ」「今の浮世の有様は、太平無事でおめでたい」「結構ではないか。何が不平だ」「何らの昂奮をも許さない、何らの感激をも許さない、まして何らの革命をやだ」「お前は乱を望んでいるな?」「うん、そうだ、精神的のな。……おれは感激したいのだよ!」「感激をしてどうするのだ?」「おれは創造したいのだ!」「何、創造? 何をつくるのだ?」「何んでもいい、ただ何かを」「勝手につくったらよいではないか」「創造するに感激がいる」「大きに勝手に感激するさ」「ところがひとの世[#「ひとの世」に傍点]が許さない」「なに無理にも感激するさ」「無理にも感激しようとすると、親友なるものが邪魔をする」「え? 親友が邪魔をするって?」「恋も一つの感激だ。せっかく情女《おんな》を見つけると、親友が邪魔をしてひき放してしまう」「それは女が悪党だからよ」「愛する物を捨てるのもまさしく一つの感激だ。すると親友が取りかえして来る」「それも物によりけりだ。伝家の至宝を失っては、先祖に対しても済むまいがな」「みやこに住むということは、おれにとっては感激だ。ところがおせっかいの親友なるものが、山の中へひっ張って来る」「その男が虚弱《よわい》からだ。その男が病気だからだ。そうだ少くとも神経のな」「で、何もかもその親友は、平凡化そうと心掛ける。そうして感激の燃える火へ、冷たい水をそそぎかけ、創造の魂《たましい》を消そうとする。しかも親友の名のもとにな。他はおおかた知るべきのみだ」
「おい!」と造酒は気不味《きまず》そうに、「親切で行《や》った友達のしわざを、そうまで悪い方へ取らないでも、よかりそうなものに思われるがな」
「アッハハハ」と銀之丞は、突然大声で笑ったが、「怒るな、怒るな、怒ってはいけない。鬱《ふさ》ぎの虫のさせるわざだ。ああしかし退屈だな。何もかも面白くない。ああ実際退屈だな」
「ご免ください」
 とそのとたん、襖の蔭から声がした。同時にスーと襖が開き、隣り座敷の商人客《あきゅうどきゃく》が、にこやかに顔を突き出した。
「お武家様のお座敷へ、旅商人の身をもって、差出がましくあがりましたは、尾籠《びろう》千万ではございますが、隣り座敷で洩れ承われば、どうやら大分ご退屈のご様子、実は私も退屈のまま、何か珍しい諸国話でも、お耳に入れたいと存じまして、お叱りを覚悟でまずい面を、突き出しましてござりますよ。真《ま》っ平《ぴら》ご免くださいますよう」
 ていねいにお辞儀をしたものである。

    不思議な商人千三屋

「おお町人か、よく来てくれた。ちょうど無聊に苦しんでいたところだ。さあさあずっと進むがよい」平手造酒は喜んで、歓迎の意を現わした。
「では遠慮なくお邪魔致します」商人《あきゅうど》はうしろで襖を立て擦り膝をして、はいって来た。四十がらみの小男ではあるが、鋭い眼付き高い鼻、緊張《ひきし》まった薄い唇など、江戸っ子らしい顔立ちで、左の頬に幽《かす》かではあるが、切り傷らしいものがつたる。敏捷らしい四肢五体、どこか猟犬を思わせた。藍縦縞《あいたてじま》の結城紬《ゆうきつむぎ》[#「結城紬」は底本では「結城袖」]の、仕立てのよいのをピチリと着け、帯は巾狭の一重|博多《はかた》、水牛の筒に珊瑚の根締め、わに革の煙草入れを腰に差し、微笑を含んで話す様子が、途方もなくいき[#「いき」に傍点]であった。
 こういう場合の通例として身もと調べから話がはずみ、さてそれから商売の方へ、話柄《わへい》が開展するものである。
「町人、お前は江戸っ子だな」造酒がまずこうきいた。
「へい、江戸っ子の端くれで、へ、へ、へ、へ」と世辞笑いをしたがそれが一向卑しくない。
「いったい何をあきなっているな?」
「へい、呉服商でございます」「女子《おなご》に喜ばれる商売だな」「その代り殿方にはいけません」「そう両方いい事はない。江戸はどこだ? 日本橋辺かな?」「なかなかもって、どう致しまして。そんな大屋台ではございません。いえもうほんの行商人で」「それにしては品がいいな」「これはどうも恐れ入りました」「屋号ぐらいは持っているだろう?」「へい、千三屋と申します」「ナニ千三屋? ばかを申せ。そんな屋号があるものか」「アッハハハハ、さようでございますかな、いえ私どもの商売と来ては、口から出任せにしゃべり廻し、千に三つの実《じつ》があれば、結構の方でございます。それそこで千三屋」「たとえ千三屋であろうとも、自分から好んでふいちょうするとは、とんとたわけた男だの」「そこは正直でございましてな。お気に召さずば道中師屋、胡麻《ごま》の蠅屋《はいや》大泥棒屋、放火屋とでもご随意に、おつけなすってくださいまし」「いよいよもって呆れたな。口の軽い男だわい。その口前《くちまえ》で女子をたらし、面白い目にも逢ったであろうな」「これはとんだ寃罪《えんざい》で、その方は不得手でございますよ。第一|生物《なまもの》は断っております」「そのいいわけちと暗いな」「ええ暗うございますって?」「あきゅうど[#「あきゅうど」に傍点]に不似合いな頬の傷、女出入りで受けたのでもあろう」
 すると商人は笑い出したが、「ああこれでございますか。とんだものがお目にさわり、いやはやお恥ずかしゅう存じます。ナーニこれは子供時代に、柿の木の上から落ちましてな、下に捨ててあった鎌の先で、チョン切ったものでございますよ」
「町人!」と造酒は語気を強め、「これこのおれを盲目《めくら》にする気か!」「これはまたなぜでございますな」「鎌傷か太刀傷か、それくらいのけじめが解らぬと思うか」
 すると商人はまた笑ったが、「これはいかさまごもっともで、私のいい間違いでございました。実はな今から十年ほど前に、上州方面へ参りましたが、若気《わかげ》の誤りと申すやつで、博徒の仲間へはいりましたところ忽ち起こる喧嘩出入り、その時受けましたのがこの傷で」「町人!」「ソーラ、おいでなすった」「このおれを盲目にする気か!」「へえ、どうもまたいけませんかな」「十年前の古傷か、ないしは去年の新しい傷か、それくらいのけじめが解らぬと思うか」「へえ、そこまでお解りで?」「五年前の太刀傷であろう?」「恐ろしい眼力でございますなあ。仰せの通りでございますよ」「とうとう泥を吐きおったな」造酒は快然と笑ったものである。
 観世銀之丞は起き上がろうともせず、畳の上へ肘を突き、それへ頭を転がしながら、面白くもないというように、ましらましら[#「ましらましら」に傍点]と上眼《うわめ》を使い、商人の様子を眺めていた。話の仲間へはいろうともしない。
 商人はひょい[#「ひょい」に傍点]と床の間を見たが、そこに置いてある小鼓へ、チラリと視線を走らせると、
「ははあ、あれでございますな。いつもお調べになる小鼓は」
 感心したように声をはずませ、
「よい鼓でございますなあ」

    寂しい寂しい別離の歌

 すると銀之丞は顔を上げたが、「お前のような町人にも、鼓の善悪《よしあし》がわかるかな。いったいどこがよいと思うな?」ちょっと興味を感じたらしく、こうまじめにきいたものである。
 すると商人《あきゅうど》は困ったように、小鬢《こびん》のあたりへ手をやったが、「へいへい、いやもうとんでもないことで、どこがよいのかしこがよいのと、さようなことはわかりませんが、しかし名器と申しますものは、ただ一見致しましただけでも、いうにいわれぬ品位があり、このもしい物でございます」「何んだ詰まらない、それだけか」
 銀之丞はまたもゴロリと寝た。そそられかかったわずかな興味も、商人の平凡な答えによって、忽ち冷めてしまったらしい。無感激の眼つきをして、ぼんやり天井を眺め出した。
「いえそればかりではございません」商人は一膝進めたが、「家内中評判でございます。いえもうこれは本当の事で」「何、評判? 何が評判だ?」「はいその旦那様のお鼓が」「盲目千人に何が判《わか》る」「そうおっしゃられればそれまでですが、一度お鼓が鳴り出しますと、三味線、太鼓、四つ竹までが、一時に音色をとめてしまって、それこそ家中|呼吸《いき》を殺し、聞き惚れるのでございますよ」
「有難迷惑という奴さな。信州あたりの山猿に、江戸の鼓が何んでわかる」かえって銀之丞は不機嫌であった。
「町人町人、千三屋、その男にはさわらぬがよい」
 見かねて造酒が取りなした。「その男は病人だ。狂犬病という奴でな、むやみに誰にでもくってかかる。アッハハハハ、困った病気だ。それよりどうだ碁でも囲《かこ》もうか」「これは結構でございますな。ひとつお相手致しましょう」
 そこで二人は碁を初めた。平手造酒も弱かったが商人も負けずに弱かった。下手《へた》同志の弱碁《よわご》と来ては、興味津々たるものである。二人はすっかりむちゅうになった。

 甚三甚内の兄弟の上へ、おさらば[#「おさらば」に傍点]の日がやって来たのは、それから間もなくの事であった。その朝は靄《もや》が深かった。甚三の馬へ甚内が乗り、それを甚三が追いながら、追分の宿を旅立った。宿の人々はまだ覚めず家々の雨戸も鎖《と》ざされていた。宿の外れに立っているのは、有名な桝形《ますがた》の茶屋であったがそこの雨戸も鎖ざされていた。そこを右すれば中仙道、また左すれば北国街道で、石標《いしぶみ》の立った分岐点を、二人の兄弟は右に取り、中仙道を歩《あゆ》ませた。宿を出ると峠道で、朝陽出ぬ間の露の玉が木にも草にも置かれていた。夜明け前の暁風に、はためく物は芒《すすき》の穂で、行くなと招いているようであった。
「せめて関所の茶屋までも」と、甚三の好きな追分節の、その関所の前まで来ると、二人は無言で佇《たたず》んだ。「あにき、お願いだ、唄ってくれ」「おいら[#「おいら」に傍点]は今日は悲しくて、どうにも声が出そうもねえ」「そういわずと唄ってくれ、今日別れていつ会うやら、いつまた歌が聞けるやら、こいつを思うと寂しくてならぬ。別れの歌だ唄ってくれ」
「うん」というと甚三は、声張り上げて唄い出した。草茫々たる碓井峠《うすいとうげ》、彼方《あなた》に関所が立っていた。眼の下を見れば山脈《やまなみ》で、故郷の追分も見え解《わか》ぬ。朝陽は高く空に昇り、きょうも一日晴天だと、空にも地にも鳥が啼き、草蒸《くさいき》れの高い日であったが、甚三の唄う追分は、いつもほどには精彩がなく、咽《むせ》ぶがような顫《ふる》え声が、低く低く草を這い、風に攫《さら》われて消えて行った。

 弟と別れた甚三が、空馬を曳いて帰りかけた時、
「馬子!」とうしろから呼ぶ者があった。振り返って見ると旅の武士が、編笠を傾けて立っていた。けんかたばみ[#「けんかたばみ」に傍点]の紋服に、浮き織りの野袴を裾短かに穿き、金銀ちりばめた大小を、そりだか[#「そりだか」に傍点]に差した人品は、旗本衆の遊山旅《ゆさんたび》か、千石以上の若殿の、気随の微行とも想われたが、それにしてはお供がない。

    病的に美しい旅の武士

 編笠をもれた頤《あご》の色が、透明《すきとお》るようにあお白く、時々見える唇の色が、べにを注《さ》したように紅いのが気味悪いまでに美しく、野苺に捲きついた青大将だと、こう形容をしたところで、さらに誇張とは思われない。開いたばかりの関所の門を、たった今潜って来たところであろう。
「戻り馬であろう。乗ってやる」こういった声は陰気であった。
「へい有難う存じます」甚三は実は今日一日は、稼業をしたくはなかったのであるが、侍客に呼び止められて見れば、断ることも出来なかった。「どうぞお召しくださいまし」
 シャン、シャン、シャンと鈴を響かせ、馬は元気よく歩き出した。どう、どう、どう、と馬をいたわり、甚三は峠を下って行った。手綱は曳いても心の中では、弟のことを思っていた。でムッツリと無言であった。馬上の武士も物をいわない。これも頻りに考え込んでいた。
 カバ、カバ、カバと蹄の音が、あたりの木立ちへ反響し、空を仰げば三筋の煙りが、浅間山から靡《なび》いていた。と、突然武士がいった。「追分宿の旅籠屋《はたごや》では、何んというのが名高いかな?」「本陣油屋でございます」「ではその油屋へ着けてくれ」「かしこまりましてございます」
 それだけでまたも無言となった。夏の陽射しが傾いて、物影が長く地にしいた。追分宿へはいった頃には、家々に燈火がともされていた。

 両親は去年つづいて死に、十四になった唖《おし》の妹と、甚内を入れて兄弟三人、仲よく水入らずに暮らして来たのが、その甚内が旅へ出た今は、二人ばかりの暮らしであった。……そのさびしい自分の家へ甚三は馬を曳いて帰って来た。
「おい、お霜《しも》、今帰ったよ」厨《くりや》に向かって声を掛けたが、声が掛かっても唖のことで、お霜が返辞をしようもない。いつもの癖で掛けたまでであった。厨《くりや》の中では先刻から、コトコト水音がしていたが、ひょいと小娘が顔を出した。丸顔の色白で、目鼻立ちもパラリとして、愛くるしいきりょう[#「きりょう」に傍点]であった。赤い襷を綾取って、二の腕の上まで袂をかかげ、その腕を前垂れで拭きながら、甚三を眺めて笑った様子には、片輪者らしいところもなく、野菊のような気品さえあった。
「あッ、あッ、あッ」と千切れるような、唖《おし》特有の叫び声を上げ、指で部屋の方を差したのは、夕飯を食えという意味であろう。
「よしよし飯が出来たそうな、どれご馳走になろうかな」つぶやきながら足を洗い、馬へ秣《まぐさ》を飼ってから、家の中へはいったが、部屋とは名ばかりで板敷きの上に、簀子が一枚敷いてあるばかり、煤けて暗い行燈《あんどん》の側に、剥げた箱膳が置いてあった。あぐら[#「あぐら」に傍点]を掻くと箸《はし》を取ったが、給仕をしようと坐っている、妹を見ると寂しく笑い、
「お前もこれからは寂しくなろうよ。兄《あに》やが一人いなくなったからな。それにしても甚内は馬鹿な奴だ。何故海へなぞ行ったのかしら。こんなよい土地を棒に振ってよ。ほんとに馬鹿な野郎じゃねえか。土地が好かない馬子が厭だ、この追分に馬子がなかったら、国主大名も行き立つめえ。馬方商売いい商売、そいつを嫌って行くなんて、ほんとに馬鹿な野郎だなあ。……だがもうそれも今は愚痴だ。望んで海へ行ったからには、立派に出世してもれえてえものだ、なあお霜そうじゃねえか。……おや太鼓の音がするな。四つ竹の音も聞こえて来る。ああ町は賑やかだなあ。あれはどうやら三丁目らしい。さては油屋かな永楽屋かな。いいお客があると見える。油屋とするとお北めも、雑《まじ》っているに相違ねえ」
 甚三はじっと考え込んだ。やがてカラリと箸を置くと、フラリと立って土間へ下り、草履《ぞうり》をはくとのめるように、灯の明るい町へ引かれて行った。
 お霜は茫然《ぼんやり》坐っていたが、やがてシクシク泣き出した。聞くことも出来ずいうことも出来ない、天性の唖ではあったけれど、女の感情は持っていた。可愛がってくれた甚内が、遠い他国へ行ったことも兄の甚三がお北という、宿場女郎に魅入《みい》られて、魂をなくなしたということも、ちゃんと心に感じていた。それがお霜には悲しいのであった。

    出合い頭《がしら》にいきあった二人

 絹|商人《あきんど》の千三屋は、ザッと体へ拭いを掛けると、丸めた衣裳を小脇にかかえ、湯殿からひょいと廊下へ出た。とたんにぶつかった者があった。「これは失礼を」「いや拙者こそ」双方いいながら顔を見合わせた。剣酸漿《けんかたばみ》の紋服を着た、眼覚めるばかりの美男の武士が、冷然として立っていた。
「とんだ粗忽を致しまして、真っ平ご免くださいまし」いい捨て千三屋は擦り抜けたが、十足ばかりも行ったところで、何気ない様子をして振り返って見た。とその武士も湯殿の口で、じろじろこっちを眺めていた。
「こいつ只者じゃなかりそうだ」こう千三屋はつぶやくと、小走りに走って廊下を曲がり、自分の部屋へ帰って来たが、どうも心が落ち着かない。「途方もねえ美男だが、美男なりが気に食わねえ。まるで毒草の花のようだ。よこしまなもの[#「よこしまなもの」に傍点]を持っている。ひょっとするとレコじゃないかな? これまでただの一度でも狂ったことのねえ眼力だ。この眼力に間違いなくば、彼奴《きゃつ》はただの鼠じゃねえ。巻物をくわえてドロドロとすっぽんからせり上がる溝鼠《どぶねずみ》だ」
 腕を組んで考え込んだ。
 剽軽者で名の通っている、女中頭のお杉というのが、夕飯の給仕に来た時である、彼は何気なくたずねて見た。
「下でお見掛けしたんだが、剣酸漿《けんかたばみ》の紋服を召した、綺麗な綺麗なお侍様が、泊まっておいでのご様子だね」「そのお方なら松の間の富士甚内様でございましょう」「おお富士様とおっしゃるか。稀《まれ》に見るご綺麗なお方だな。男が見てさえボッとする」「ほんとにお綺麗でございますね」「店の女郎《こども》達は大騒ぎだろうね」「へえ、わけてもお北さんがね」「ナニお北さん? 板頭《いたがしら》のかえ?」「へえ、板頭のお北さんで」「噂に聞けばお北さんは、馬子でこそあれ追分の名人、甚三という若者と、深い仲だということだが」「へえ、そうなのでございますよ」「可哀そうにその馬子は、それじゃこれからミジメを見るね」「それがそうでないのですよ」「そうでないとはどういうのかえ?」「つまりお北さんはお二人さんを、一しょに可愛がっているのですよ」「へえ、そんな事が出来るものかね」「お北さんには出来ると見えて、甚三さんは捨てられない、富士様とも離れられない、こういっているのでございますよ」「――つまり情夫《いろ》と客色《きゃくいろ》だな」「いいえどっちも本鴨《ほんかも》なので」「ははあ、それじゃお北という女郎は、金箔つきの浮気者だな」「浮気といえば浮気でもあり真実といえば大真実、どっちにしても天井《てんじょう》抜けの、ケタはずれの女でございますよ」「ちょっと面白いきしょう[#「きしょう」に傍点]だな」「面白いどころか三人ながら、大苦しみなのでございますよ」「三人とは誰々だな?」「お北さんと富士様と、甚三さんとでございますよ」「それじゃ何か近いうちに、恐ろしいことが起こって来るぞ」「内所《ないしょ》でもそれを心配して、ご相談中なのでございますよ」

    追分宿の七不思議

「相談とは何を相談かな?」「甚三さんは土地のお方、これはどうも断ることが出来ぬ。金使いも綺麗、人品もよく、惜しいお方ではあるけれど、富士様の方はフリの客、いっそご出立を願おうかってね」「それが一番よさそうだな。そうだ、早くそうした方がいい。しかし素直に行くかしら?」「それはあなた、行きますとも。人柄《ひとがら》のお方でございますもの」「ふうん、あれが人柄かな。人柄のお方に見えるかな。私《わし》には怪しく思われるがな」
 するとお杉はニヤニヤしたが、「その怪しいで思い出した。この追分の七不思議、あなたご存知じゃございませんかね」「ナニ追分の七不思議? いいや一向聞かないね」「それじゃ話してあげましょうか。まず隣室《となり》の観世様」「観世様が何故不思議だ?」「あんまり鼓がお上手ゆえ」「なるほどこれはもっともだ」「それから馬子の甚三さん」「はあて追分がうま過ぎるからか」「それから唖《おし》娘のお霜さん。あんな可愛い様子でいて、物がいえないとは不思議だとね」「うん、そうしてその次は?」「綺麗すぎる富士甚内様」「これは確かに受け取れた」「心の分らないお北さん」「いかにもいかにもこれも不思議だ。さてその次は何者だな?」「このお杉だと申しますことで」「アッハハハハ、これは秀逸《しゅういつ》だ。実際お前は不思議な女だ。見さえすればおかしくなる。ところでしまいのもう一人は?」「他ならぬあなた様でございます」「へえどうしておれが不思議だ?」「絹商人と振れ込み[#「振れ込み」はママ]ながら、毎日毎日商売もせず、贅沢《ぜいたく》に暮らしておいでゆえ」
「ふん、何んだ、そんな事か」吐き出すようにいったものの、千三屋はいやな顔をした。
「で、何かい七不思議は、今宿場で評判なのかい?」
「さあどうでございますか」いいいい膳を片付けたが、「そんな事もございますまいよ。と、いいますのはその七不思議は、このお杉がたった今、即席に拵えたのでございますもの。はいさようなら、お粗相様《そそうさま》」
 いい捨て廊下へすべり出た。後を見送った千三屋は、「馬鹿!」と思わず怒鳴ったが、周章《あわ》ててその口を抑えたものである。
「油断も隙もならねえ奴だ。まさかこのおれを怪しい奴と、感付いたのじゃあるめえな。……こいつ仕事を急がずばなるめえ」
 腕を組み天井を見上げ、じっと何か考え出したが、その眼の中には商人らしくない、不敵な光が充ちていた。と、パラリと腕を解くと、その手でトントンと襖を叩き、
「平手様、平手様、ご都合よくば一面いかがで? おうかがい致してもよござんすかえ?」
「おお千三屋か、平手は留守だ。が構わぬ、はいって来い」観世銀之丞の声であった。
「真っ平ご免くださいまし」
 スルリと千三屋は襖を開けると、隣りの部屋へ入り込んだ。
 相変らず銀之丞は寝転んでいた。無感激の顔であった。しかしその眼の奥の方に、火のようなものが燃えていた。圧迫された魂であった。
「おい千三屋、おれは考えたよ」珍しく銀之丞はしゃべり出した。「禁制の海外へ密行するか、そうでなければ牢へはいるか。この二つより法はないとな。こうでもしたらおれの退屈も、少しぐらいは癒《いや》されるかも知れない。海外密行はむずかしいとしても、牢へはいるのは訳はない。他人の物を盗めばいい。どうだ千三屋賛成しないかな」「へーい」といったが商人は、度胆《どぎも》を抜かれた格好であった。「今日は悪日でございますよ。お杉の奴には嚇《おど》される、あなた様には脅かされる、ゆうべの夢見が悪かった筈だ」「お杉が何を嚇かしたな?」「へい七不思議の講釈で」「ナニ、七不思議だ? 馬鹿な事をいえ。そんな言葉は犬に食わせろ。一切この世には不思議などはないのだ。おれは神秘を信じない。だから、だから、退屈だともいえる」

    後朝《きぬぎぬ》の場所|桝形《ますがた》の茶屋

 千三屋は無意味に笑ったが、その眼をキラリと床の間へ向けた。そこに小鼓が置いてあった。それへ視線が喰い入った。

 北国街道と中仙道、その分岐点を桝形といった。高さ六尺の石垣が、道の左右から突き出ていて、それに囲われた内側が、桝形をなしているからであった。これは一種の防禦堤なので、また簡単な関所でもあった。ここを抜けて左へ行けば、中仙道へ行くことが出来、ここを通って右へ行けば、北国街道へ出ることが出来た。でこの桝形へ兵を置けば、両街道から押し寄せて来る、敵の軍勢をささえることが出来た。大名などが参府の途次、追分宿へとまるような時には、必ずここへ夜警をおいて非常をいましめたものであった。しかし桝形はそういうことによって、決して有名ではないのであった。つるが屋、伊勢屋、上州屋、武蔵屋、若菜屋というような、幾つかの茶屋があることによって、この桝形は名高かった。いつづけの客や情夫《おとこ》などを、宿の遊女《おんな》達はこの茶屋まで、きっと送って来たものであった。つまり桝形は追分における、唯一の後朝《きぬぎぬ》の場所なので、「信州追分桝形の茶屋でホロリと泣いたが忘らりょか」と、今に残っている追分節によっても、そういう情調は伺われよう。大正年間の今日でも、ややそのおもかげは残っていた。一方の石垣は取り壊され、麦の畑となっているが、もう一つの石垣は残っていた。そうして上州屋、つるが屋等の、昔ながらの茶屋もあった。つるが屋清吉の白壁に「桝形」と文字《もんじ》が刻まれてあるのは、分けても懐しい思い出といえよう。なお街道の岐道《わかれみち》には、常夜燈といしぶみとが立っていた。
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右|従是《これより》北国街道 東二里安楽追分町 左従是中仙道
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 こう石標《いしぶみ》には刻まれてあるが、これも懐しい記念物であろう。
 さてある夜若菜屋の座敷に、客と遊女とが向かい合っていた。客は美貌の富士甚内で、遊女は油屋のお北であった。別離《わかれ》を惜しんでいるのであった。二人の他には誰もいない。人を避けて二人ばかりで、酒を汲み交わせているのであった。
「お北、いよいよおさらばだ」甚内は盃を下へ置いた。「いうだけの事はいってしまい、聞くだけの事は聞いてしまった。もう別れてもよさそうだ」
「別れてもよろしゅうございますとも」お北はぼんやりとうけこたえた。「ではお立ちなさりませ」「おれも果報な人間だな。お北そうは、思わぬかな」「それはなぜでございます?」「なぜといってそうではないか、女郎屋の亭主から謝絶《ことわ》られたのだ」「男冥利《おとこみょうり》でございますよ」「おれもそう思って諦めている」「それが一番ようございます。諦めが肝腎でございます」「止むを得ない諦めだ」「ようお諦めなさいました」「ふん、冷淡な女だな」「いいえわたしは燃えております」「ではなぜいうことを聞いてくれない」「もうその訳は先刻から、申し上げておるではございませんか」「ふん、お前はそんなにまで、あんな男に焦《こ》がれているのか」
 するとお北は眼を据えたが、
「解らないお方でございますこと!」「いやおれには解っている」「ではなぜそんなことをおっしゃいます」「愚痴だ」と甚内は息づまるようにいった。
 甚内は堅く眼をつむり、天井の方へ顔を向けた。思案に余った様子であった。お北は盃を握りしめていた。上瞼《うわまぶた》が弓形を作り、下瞼が一文字をなした、潤みを持った妖艶な眼は、いわゆる立派な毒婦型であったが、今はその眼が洞《うつろ》のように、光もなく見開かれていた。盃中の酒を見てはいるが、別に飲もうとするのでもない。
 夜は次第に更けまさり、家の内外静かであった。他に客もないかして、三味線の音締《ねじ》めも聞こえない。銀の鈴でも振るような、涼しい河鹿《かじか》の声ばかりが、どこからともなく聞こえて来た。
「芸の力は恐ろしいものだ」ふと甚内はつぶやいた。
「あの馬子の唄う追分が、そうまでお前の心持ちを、捉えていようとは想像もつかぬ」

    怪しい恋の三|縮《すく》み

「魅入られているのでございます」「魅入られている? いかにもそうだ」「あんな男と思いながら、一度追分を唄い出されると、急に心が騒ぎ立ち、からだじゅう[#「からだじゅう」に傍点]の血が煮え返り狂わしくなるのでございます」「そうして男から離れられぬ」「はいさようでございます」「そうしておれをさえ捨てようとする」「いいえそうではございません。何んのあなたが捨てられましょう」「いやいやおれをさえ捨てようとする」
 お北の眼はまた据わった。
「あなたこそ恋人でございます!」むせぶような声であった。「ああ、あなたこそ妾《わたし》にとって、本当の恋人でございます」
「おれのどこが気に入ったな?」嘲笑うような調子であった。
「ただれたような美しさが!」「おれがもしも悪党なら?」「その悪党を恋します」「おれがもしもひとごろしなら?」「そのひとごろしを恋します」「おれがもしも泥棒なら?」「その泥棒を恋します」「おれがお前を殺したら?」「わたしは喜んで死にましょう」「ではなぜおれについて来ない?」「申し上げた筈でございます」
「お北!」と甚内はさぐるようにいった。「もし追分が未来|永劫《えいごう》、お前の耳へ聞こえなくなったら、その時お前はどうするな?」「その時こそわたし[#「わたし」に傍点]というものはあなた[#「あなた」に傍点]の物でございます」「言葉に嘘はあるまいな」「何んのいつわり申しましょう」「その言葉忘れるなよ」「はいご念には及びませぬ」
 甚内は満足したように、不思議な微笑を頬に浮かべた。……思えば奇怪な恋ではあった。これというさしたる[#「さしたる」に傍点]あてもなく、追分宿へやって来て、本陣油屋へとまった夜、何気なくよんだ遊女に恋し、また遊女にも恋されながら、その女がいうこと[#「いうこと」に傍点]を聞かぬ。殺すといえば殺されようという。それほどの恋を持ちながら、にげようという男の言葉を、すげなく女はことわるのであった。外におとこがあるからでもあろうが、おとこその者には心をひかれず、その歌に心ひかれるのだという。立ち去るといえば立ち去れという。捨てたのかといえば捨てはしないという。そういう言葉には嘘はない。不思議な恋の三すくみ! 女が死ねば恋は終る。どっちか一人男が死ねば、いきた方が女を獲る。所詮一人は死ななければならない。そうでなければ苦しむばかりだ。
「いっそ自分が立ち去ったなら、万事平和に納まろうが、この女ばかりは放されぬ」これが甚内の心持ちであった。「天下の金は自分の物だ。金には何んの苦労もない。有難いことには自分は美貌だ。これまでほとんど至る所で、色々の女を征服もし、また女に征服もされた。女の秘密もおおかたは知った。与《くみ》し易《やす》いは女である。しかるに意外にも意外の土地で、意外の女とでっくわした。類例のない女である。だから自分には珍らしい。珍らしいものはほかへはやれぬ。是非征服しなければならない。ではどうしたらよかろうか? 女の心を引きつけている、不思議な追分の歌い手を、永遠にお北から遠避けなければならない。そのほかには手段はない」
 これが甚内の心持ちであった。「よしそうだ、やっつけよう!」
 冷えた盃を取り上げると、つと唇へ持って行った。
 河鹿の鳴く音《ね》は益※[#二の字点、1-2-22]冴え、夏とはいっても二千尺の高地、夜気が冷え冷えと身にしみて来た。
「お北、それではまたあおう」
「おあいしたいものでございます」
「すぐにあえる、待っているがいい」
「早くお帰りくださいまし」

    いつもと異《ちが》う歌の節

 頼んで置いた甚三が、馬をひいて迎えに来た、それに跨がった甚内がいた。北国街道を北へ向け、桝形の茶屋を出かけたのは、それから間もなくのことであった。
 間もなく追分を出外れた。振り返って見ると燈火《ともしび》が、靄《もや》の奥から幽《かす》かに見えた。
「旦那様」と不意に甚三がいった。「いよいよご出立でございますかな」
「うん」と甚内は冷やかに、「追分宿ともおさらばだ」
「永らくご滞在でございましたな」「意外に永く滞在した」「旦那様と私とは、ご縁が深うございますな」「縁が深い? それはなぜかな?」「宿までご案内致しましたのはこの甚三でございます」「そうであったな。覚えておる」「お送りするのも甚三で」「そういえば縁が深いようだ」「ご縁が深うございます」「ところで甚三われわれの縁は、もっと深くなりそうだな」
「え?」といって振り返った時には、甚内は口を噤《つぐ》んでいた。押して甚三も尋ねようとはしない。カパカパという蹄の音、フーフーという馬の鼻息、二人は無言で進んで行った。
「甚三、追分を唄ってくれ」しばらく経って甚内がいった。
「夜が深うございます」
「構うものか、唄ってくれ」「私の声は甲高で、宿まで響いて参ります」「構うものか、唄ってくれ」「よろしゅうございます、唄いましょう」
 やがて甚三は唄い出した。夜のかんばしい空気を通し、美音朗々たる追分節が、宿の方まで流れて行った。

「甚三の追分が聞こえて来る。はてな、いつもとは唄い振りが異《ちが》う。……うまいものだ、何んともいえぬ。……今夜の節は分けてもよい」
 こういったのは銀之丞であった。
 本陣油屋の下座敷であった。彼は相変らず寝そべっていた。鼓が床の間に置いてあった。
「おい平手、行って見よう」銀之丞は立ち上がった。
「何、行って見よう? どこへ行くのだ?」
 千三屋相手に碁を囲んでいた、平手造酒は振り返った。
「追分を聞きにだ、行って見よう」「今夜に限って酷《ひど》く熱心だな」「いつもと唄い振りが異うからだ」「そいつはおれには解らない」「行って見よう。おれは行くぞ」「何に対しても執着の薄い、貴公としては珍らしいな」「だんだん遠くへ行ってしまう。おいどうする、行くか厭か?」「さあおれはどっちでもいい」「おれは行く。行って聞く。後からこっそりついて行って、堪能するまで聞いてやろう」「全く貴公としては珍らしい。何に対しても興ずることのない、退屈し切ったいつもに似ず、今夜は馬鹿に面白がるではないか」「それがさ、今もいった通り、今夜に限って甚三の歌が、ひどく違って聞こえるからだ」「いつもとどこが違うかな?」「鬱《うっ》していたのが延びている。燃えていたのが澄み切っている。蟠《わだか》まっていたのが晴れている。いつもは余りに悲痛だった。今夜の唄い振りは楽しそうだ。心に喜びがあればこそ、ああいう歌声が出て来るのだろう。めったに一生に二度とは来ない、愉快な境地にいるらしい」「ふうん、そんなに異うかな。どれ一つ聞いて見よう」
 造酒は碁石を膝へ置き、首を垂れて聞き澄ました。次第に遠退き幽《かす》かとはなったが、なお追分は聞こえていた。節の巧緻声の抑揚、音楽としての美妙な点は、武骨な造酒には解らなかった。しかしそれとは関係のない、しかしそれよりもっと[#「もっと」に傍点]大事な、ある気分が感ぜられた。しかも恐ろしい気分であった。造酒はにわかに立ち上がった。
「観世、行こう。すぐに行こう」そういう声はせき立っていた。
「これは驚いた。どうしたのだ?」
「どうもこうもない捨てては置けぬ。行ってあの男を助けてやろう」「ナニ助ける? 誰を助けるのだ?」「あの追分の歌い手をな」「不安なものでも感じたのか?」「陰惨たる殺気、陰惨たる殺気、それが歌声を囲繞《とりま》いている」「それは大変だ。急いで行こう」
 ありあう庭下駄を突っ掛けると、ポンと枝折戸《しおりど》を押し開けた。往来へ出ると一散に、桝形の方へ走って行った。さらにそれから右へ折れ、月|明《あき》らかに星|稀《まれ》な、北国街道の岨道《そばみち》を、歌声を追って走って行った。

    馬上ながら斬り付けた

 こなた甚三は蹄に合わせ、次々に追分を唄って行った。彼の心は楽しかった。彼の心は晴れ渡っていた。……恋の競争者の富士甚内が、追分を見捨てて立ち去るのであった。お北を見捨てて立ち去るのであった。もうこれからは油屋お北は彼一人の物となろう。これまでは随分苦しかった。人知れず心を悩ましたものだ。相手は立派なお侍《さむらい》、殊に美貌で金もあるらしい。それがお北に凝《こ》っていた。そうしてお北もその侍に、心を奪われていたものだ。宿の人達は噂した。いよいよ甚三は捨てられるなと。誰に訴えることも出来ず、また訴えもしなかったが、心では悲しみもし苦しみもした。訴えられない苦しさは、泣くに泣かれない苦しさであった。泣ける苦痛は泣けばよい。訴えられる苦痛は訴えればよい。人に明かされない苦しさは、苦しさの量を二倍にする。宿の人達にでも洩らそうものなら、その人達はいうだろう、街道筋の馬子風情が、油屋の板頭と契るとは、分《ぶん》に過ぎた身の果報だ。捨てられるのが当然だと。では妹にでも訴えようか、妹お霜は唖《おし》であった。苦楽を分ける弟は、遠く去って土地にいない。神も仏も頼みにならぬ。……富士甚内が追分宿の、本陣油屋へ泊まって以来、甚三の心は一日として、平和の時はなかったのであった。……しかし今は過去となった。苦痛はまさに過ぎ去ろうとしていた。富士甚内がお北と別れ、追分宿を立ち去りつつある。すぐに平和が帰って来よう。これまで通り二人だけの、恋の世界が立ち帰って来よう。……
 甚三は声を張り上げて、次から次と唄うのであった。馬上では甚内が腕|拱《こまね》き、じっと唄声に耳を澄まし、機会の来るのを待っていた。
「もうよかろう」と心でいって、四辺《あたり》を窃《ひそ》かに見廻した時には、追分宿は山に隠れ、燈《ともしび》一つ見えなかった。おおかた二里は離れたであろう。左は茫々たる芒原《すすきはら》。右手は谷川を一筋隔て、峨々たる山が聳えていた。甚内は拱いた腕を解くと、静かに柄を握りしめた。知らぬ甚三は唄って行った。今はひとのために唄うのではない。自分の声に自分が惚れ、自分のために唄うのであった。
[#ここから3字下げ]
追分油屋掛け行燈《あんどん》に
浮気ご免と書いちゃない
[#ここで字下げ終わり]
 甚内はキラリと刀を抜いた。

    浅間山さんなぜやけしゃんす
   腰に三宿持ちながら

 甚内は刀を振りかぶった。

    北山時雨で越後は雨か
    あの雨やまなきゃ会われない

 甚内はさっと甚三の、右の肩へ切りつけた。「わっ」と魂消《たまぎ》える声と共に、甚三は右手《めて》へよろめいたが、そのままドタリと転がった時、甚内は馬から飛び下りた。止どめの一刀を刺そうとした。
「まあ待ってくれ、富士甚内! 汝《われ》アおれを殺す気だな!」
「唄の上手が身の不祥、気の毒ながら助けては置けぬ」
「さてはお北も同腹だな!」
「どうとも思え、うぬが勝手だ」
「弟ヤーイ!」と甚三は、致死期《ちしご》の声を振り絞った。「われの言葉、あたったぞヤーイ! おれはお北に殺されるぞヤーイ!」
 よろぼいよろぼい立ち上がるのを、ドンと甚内は蹴り仆した。とその足へしがみ付いた。
 のたうち廻る馬方を、甚内は足で踏み敷いたが、おりから人の足音が、背後《うしろ》の方から聞こえて来たので、ハッとばかりに振り返った。二人の武士が走って来た。「南無三宝!」と仰天し、手負いの馬子を飛び越すと、街道を向こうへ突っ切ろうとした。と、行手から旅姿、菅の小笠に合羽を着、足|拵《ごしら》えも厳重の、一見博徒か口入れ稼業、小兵《こひょう》ながら隙のない、一人の旅人が現われたが、笠を傾けこっちを隙《す》かすと、ピタリと止まって手を拡げた。腹背敵を受けたのであった。ギョッとしながらも甚内は、相手が博徒と見定めると、抜いたままの血刀を二、三度宙で振って見せ、
「邪魔ひろぐな!」
 と叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]した。

    この旅人何者であろう?

 博徒風の旅人は、微動をさえもしなかった。依然両手を広げたまま、地から根生《ねば》えた樫の木のように、無言の威嚇を続けていた。脈々と迸《ほとば》しる底力が、甚内の身内へ逼って来た。強敵! と甚内は直覚した。彼は忽然身を翻《ひるが》えすと、この時間近く追い逼って来た、二人の武士の方へ飛びかかって行った。一人の武士はそれと見るとつと傍《かたわ》らへ身をひいたが、もう一人の武士は足をとめ、グイと拳を突き出した。拳一つに全身隠れ、鵜の毛で突いた隙もない。北辰一刀流直正伝拳隠れの真骨法、流祖周作か平手造酒か、二人以外にこれほどの術を、これほどに使う者はない。「あっ」と甚内は身を締めた。この堅陣破ることは出来ぬ。ジリ、ジリ、ジリと後退《あとしざ》り、またもやグルリと身を翻えすと、窮鼠かえって猫を噛む。破れかぶれに旅人眼掛け、富士甚内は躍り掛かって行った。
「馬鹿め!」と訛《なまり》ある上州弁、旅人は初めて一喝したが、まず菅笠を背後《うしろ》へ刎ね、道中差《どうちゅうざし》を引き抜いた。構えは真っ向大上段、足を左右へ踏ん張ったものである。「あっ」とまたもや甚内は、声を上げざるを得なかった。日本に流派は数あるが、足を前後に開かずに、左右へ踏ん張るというような、そんな構えのある筈がない。
 今は進みも引きもならぬ。タラタラと額から汗を落とし、甚内は総身を強《こわ》ばらせた。
「よしこうなれば相討ちだ。相手を斃しておれも死ぬ。卑怯ながら腹を突こう」外れっこのない相手の腹。突嗟に思案した甚内が、下段に刀を構えたまま、体当りの心組み、ドンとばかりに飛び込んだとたん、「ガーッ」という恐ろしい真の気合いが、耳の側で鳴り渡った。武士が背後《うしろ》からかけたのであった。甚内の意気はくじかれたが、同時に活路が発見《みつか》った。張り詰めた気の弛みから機智がピカリと閃めいたのであった。彼は「えい!」と一声叫ぶと、パッと右手《めて》へ身を逸《いっ》したが、そこは芒の原であった。甚三の馬が悠々と、主人の兇事も知らぬ顔に、一心に草を食っていた。その鞍壺へ手を掛けると甚内は翩翻《へんぽん》と飛び乗った。ピッタリ馬背《ばはい》へ身を伏せたのは、手裏剣を恐れたためであって、「やっ」というと馬腹を蹴った。馬は颯《さっ》と走り出した。馬首は追分へ向いていた。月皎々たる芒原、団々たる夜の露、芒を開き露をちらし、見る見る人馬は遠ざかって行った。草に隠れ草を出で、木の間に隠れ木の間を出で、棒となり点とちぢみ、やがて山腹へ隠れたが、なおしばらくはカツカツという、蹄の音が聞こえてきた。しかしそれさえ間もなく消えた。
 余りの早業《はやわざ》に三人の者は、手を拱ねいて見ているばかり、とめも遮《さえぎ》りも出来なかった。苦笑を洩らすばかりであった。
「素早い奴だ、あきれた奴だ」
 博徒姿の旅人は、こうつぶやくとニヤリとしたが、道中差しを鞘へ納めると、その手で菅笠の紐を結んだ。それから二人の武士の方へ、ちょっと小腰を屈《かが》めたが、追分の方へ足を向けた。
「失礼ながらお待ちくだされ」一人の武士が声を掛けた。拳隠れの構えをつけ、甚内を驚かせた武士であった。他ならぬ平手造酒であった。
「何かご用でござんすかえ」旅人は振り返って足を止めた。
「天晴《あっぱ》れ見事なお腕前、それに不思議な構え方、お差し支えなくばご流名を、お明かしなされてはくださるまいか」
「へい」といったが旅人は、迷惑そうに肩を縮め、「とんだところをお眼にかけ、いやはやお恥ずかしゅう存じます。何、私《わっち》の剣術には、流名も何もござんせん。さあ強いてつけましょうなら、『待ったなし流』とでも申しましょうか。アッハハハ自己流でござんす」
「待ったなし流? これは面白い。どなたについて学ばれたな?」
「最初は師匠にもつきましたが、それもほんの半年ほどで、後は出鱈目でございますよ」
「失礼ながらご身分は?」「ご覧の通りの無職渡世で」「お差しつかえなくばお名前を。……われら事は江戸表……」
「おっとおっとそいつあいけねえ」
 造酒が姓名を宣《なの》ろうとするのを、急いで旅人は止めたものである。
「なにいけない? なぜいけないな?」
 造酒は気不味《きまず》い顔をした。
 それと見て取った旅人は、菅笠《すげがさ》の縁へ片手を掛け、詫びるように傾《かし》げたが、また繰り返していうのであった。
「へいへいそいつアいけません。そいつあどうもいけませんなあ」
 造酒はムッツリと立っていた。しかし旅人はビクともせず
「お見受け申せばお二人ながら、どうして立派なお武家様、私《わっち》ふぜいにお宣《なの》りくださるのは、勿体至極《もったいしごく》もございません。それにお宣《なの》りくだされても、私《わっち》の方からは失礼ながら、宣り返すことが出来ませんので、重ね重ね勿体ない話、どうぞ今日はこのままでお別れ致しとう存じます。広いようでも世間は狭く、そのうちどこかで巡り合い、おお、お前かあなた様かと、宣り合う時もございましょう。今は私《わっち》も忙《せわ》しい体、追い込まれているのでございましてな。兇状持ちなのでございますよ。それではご免くださいますよう」
 こういい捨てると旅人は、二人の武士の挨拶も待たず、風のように走って行った。

    鼓賊《こぞく》江戸を横行す

 馬子の甚三の殺されたことは、追分にとっては驚きであった。驚きといえばもう一つ、油屋のお北が同じその夜にあたかも紛失でもしたように、姿を隠してしまったことで、これは酷《ひど》く宿の人達を、失望落胆させたものであった。さて、ところで、紛失《なくな》ったといえば、もう一つ紛失《なくな》った物があった。他ならぬ銀之丞の鼓であった。それと知ると平手造酒は、躍り上がって口惜《くや》しがり、
「千三屋が怪しい千三屋が怪しい!」と、隣室の呉服商を罵ったが、なるほどこれはいかにも怪しく、同じその夜にその千三屋も、どこへ行ったものか行方が知れなかった。
「おい観世、計られたな」
「いいではないか。うっちゃって置けよ」
「あれは名器だ。何がいい!」
「ナーニこれも一つの解脱《げだつ》だ」銀之丞はのんきであった。
「何が解脱だ。惜しいことをした」「捨身成仏《しゃしんじょうぶつ》ということがある。大事な物を捨てた時、そこへ解脱がやって来る」「また談義か、糞《くそ》でも食らえ」「アッハハハ、面白いなあ」「何が面白い、生臭坊主め!」
 造酒は目茶苦茶に昂奮したが、「ああそれにしても一晩の中に、これだけの事件が起ころうとは、何んという不思議なことだろう」
「おい平手、詰まらないことをいうな」銀之丞はニヤリとし、「不思議も何もありゃしないよ。この人の世には不思議はない。あるものは事実ばかりだ」「事実ばかりだ! ばかをいうな! これだけの事件の重畳《じゅうじょう》を、ただの偶然だと見るような奴には、運命も神秘も感ぜられまい」「運命だって? 神秘だって? 馬鹿な、そんなものがあるものか。それは低能児のお題目だ。無知なるがゆえに判《わか》らない。その無知を恥ずかしいとも思わず、判らないところのその物を差して、不思議だ神秘だ宿命だという。馬鹿馬鹿しくて話にもならぬ。……それはそうと実のところ、おれは少々失望したよ」「それ見るがいい、本音を吐いたな」「これだけの事件の衝突《ぶつか》り合いだ。もう少しこのおれを刺戟して、創造的境地へ引き上げてくれても、よかりそうなものだと思うのだがな」「ふん、何んだ、そんなことか。刺戟、昂奮、創造的境地! 何んのことだか解りゃしない」
「おれは駄目だ!」と観世銀之丞は、悄気《しょげ》たみじめな表情をした。「おれの所へ来るとあらゆる物が退屈そのものに化してしまう」「我《わ》がままだからよ。貴公は我がままだ」「おれの心は誰にもわからない。おれは気の毒な人間だ」「そうだとも気の毒な人間だとも」「この地にもあきた。江戸へ行きたい」「おれもあきた。江戸へ帰ろう」
 翌日二人は追分を立ち、中仙道を江戸へ下った。

 この頃不思議な盗賊が、江戸市中を横行した。鼓を利用する賊であった。微妙きわまる鼓の音が、ポン、ポン、ポンと鳴り渡ると、それを耳にした屋敷では、必ず賊に襲われた。どんなに奥深く隠して置いても、きっと財宝を掠められた。大名屋敷、旗本屋敷、そうでなければ大富豪、主として賊はこういう所を襲った。不思議といえば不思議であった。屋敷を廻って鼓が鳴る。それ賊だと警戒する。無数の人が宿直《とのい》をする。しかしやっぱり盗まれてしまう。鼓賊《こぞく》、鼓賊とこう呼んで、江戸の人達は怖《お》じ恐れた。「何のために鼓を鳴らすのだろう? どういう必要があるのだろう?」こう人々は噂し合ったが、真相を知ることは出来なかった。南町奉行|筒井和泉守《つついいずみのかみ》、北町奉行|榊原主計守《さかきばらかずえのかみ》、二人ながら立派な名奉行であったが、鼓賊にだけは手が出せなかった。跳梁跋扈《ちょうりょうばっこ》に委《まか》すばかりであった。
 この評判を耳にして一人|雀躍《こおどり》して喜んだのは、「玻璃窓《はりまど》」の郡上《ぐじょう》平八であった。今年の春の大雪の夜、隅田堤で鼓の音を初めて彼が耳にして以来、実に文字通り寝食を忘れて、その鼓を突き止めようと、追っ駈け廻したものであった。しかるに不幸にも今日まで、行方を知ることが出来なかった。根気のよい彼も最近に至って、多少絶望を感じて来て、手をひこうかとさえ思っていた。その矢先に鼓賊なるものの、輩出したことを聞いたのであった。

    二人の虚無僧《こむそう》の物語

 そこは玻璃窓の平八であった。あの時の鼓とこの鼓賊とが、関係あるものと直覚した。「よしよし今度こそはのがさぬぞ」堅く心に誓いながら、鼓賊の詮議に着手したが、いわゆる今日での科学的捜索それを尊ぶ彼であったから、むやみと蠢動《しゅんどう》するのをやめ、理詰めで行こうと決心した。
「賊と鼓? 賊と鼓? この二つの間には、何らか関係がなくてはならない」まずここから初めたものである。で彼は何より先に、鼓に関する古い文献を、多方面に渡って調べたが、鼓と賊との関係について、記録したものは見つからなかった。そこで今度は方面を変え、鼓造り師や囃《はや》し方や、鼓の名人といわれている、色々の人を訪問し、この問題について尋ねたが、やはり少しも得るところがなかった。
「昔の有名な大盗で鼓を利用したというようなものは、どうも一向聞きませんな」誰の答えもこうであった。
「一人ぐらいはございましょう!」平八が押してたずねても、知らないものは知らないのであった。
「残念ながらこれは駄目だ」平八老人は失望したものの、
「小梅で聞いた鼓の音、何んともいえず美音であったが、いずれ名器に相違あるまい。それを鼓賊が持っているとすると、盗んだものに違いない。よしよしこいつから調べてやろう」
 また訪問をやり出した。鼓造り師、囃し方、鼓の名人といわれる人、各流能楽の家元《いえもと》から、音楽ずきの物持ち長者、骨董商《こっとうしょう》というような所を、根気よく万遍《まんべん》なく経《へ》めぐって「鼓をご紛失ではござらぬかな?」こういって尋ねたものである。
 しかるに麹町《こうじまち》土手三番町、観世宗家の伯父にあたる、同姓信行の屋敷まで来た時、彼の労は酬いられた。嫡子銀之丞が家に伝わる、少納言の鼓を信州追分で、紛失したというのであった。
「まず有難い」と喜んで、その銀之丞へ面会をもとめ、当時の様子をきこうとした。銀之丞は会いは会ったものの、盗難については冷淡であった。はかばかしく模様も語らなかった。
「これとあなたがご覧になって、怪しく思われた人間が、多少はあったでございましょうな?」
「さよう」といったが銀之丞は、例の物うい表情で、
「一人二人はありましたが、罪の疑わしきは咎めずといいます、お話しすることは出来ませんな」
 こうにべもなくいい切ってしまった。どこに取りつくすべもない。これが役付きの与力なら、押してきくことは出来るのであるが、今は役を退《の》いた平八であった。どうすることも出来なかった。「それにしても変った性質だな」こう思って平八は、つくづく相手の顔を見た。さすがは名門の嫡子である、それに一流の芸術家、銀之丞の姿は高朗として、犯しがたく思われた。
「これで三番手も破れたという訳だ」平八老人は観世家を辞し、本所の自宅へ帰りながら、さびしそうに心でつぶやいた。「さてこれからどうしたものだ。……どうにもこうにも手が出ない。これまで通り江戸市中を、あるき廻るより策はない。いや我ながら智慧のない話さ。むしゃくしゃするなあ、浅草へでも行こう」
 で平八は足を返し、浅草の方へ歩いて行った。
 いつも賑やかな浅草はその日もひどく賑わっていた。奥山を廻って観音堂へ出、階段を上《のぼ》って拝《はい》を済まし、戻ろうとしたその時であった、そこに立っていた虚無僧《こむそう》の話が平八の好奇心を引き付けた。
「小さいご本尊に大きい御堂《みどう》、これには不思議はないとしても、この浅草の観音堂と信州長野の善光寺とは、特にそれが著しいな」こういったのは年嵩《としかさ》の方で、どうやら階級も上らしい。「わしは善光寺は不案内だが、そんなに御堂は大きいかな」年下の虚無僧がきき返した。
「観音堂よりはまだ大きい。一|周《まわ》りももっとも大きいかな」「それは随分大きなものだな」「そうだ、あれは一昨年だった、わしは深夜ただ一人で、その善光寺の廻廊に立って、尺八を吹いたことがある。なんともいえずいい気持ちだった。まるで音色《ねいろ》が異《ちが》って聞こえた」「ナニ尺八のねいろが異った? ふうむ、それは何故だろうな?」「善光寺本堂の天井に、金塊が釣るしてあるからだ」「ナニ金塊が釣るしてある?」「さよう金塊が釣るしてある。つまり火災に遭《あ》った時など、改めて建立しなければならない。その時の費用にするために、随分昔から黄金《きん》の延棒《のべぼう》が、天井に大切に釣るしてあるのだ」「これは私《わし》には初耳だ」「ところで楽器というものは、分けても笛と鼓とはだな、黄金《おうごん》の気を感じ易い。名器になれば名器になるほど、黄金の気を強く感じ、必ずねいろが変化する。つまり一層微妙になるのだ。で鉱脈《こうみゃく》を探る時など、よく鉱山《かなやま》の山師などは、笛か鼓を持って行って、それを奏して金の有無《うむ》を、うまく中《あ》てるということだよ」
 黙って聞いていた平八は、思わずこの時膝を打った。「やれ有難い、いい事を聞いた。これで事情が大略《あらかた》解った。ははあなるほどそうであったか。鼓賊と呼ばれるその泥棒が、少納言の鼓を奪い取ったのは、その鼓を奏する事によって、目星をつけた家々の、金の有無《ありなし》を知るためだったのか。盗みも進歩したものだな。……よしよしここまで見当がつけば、後はほんの一息だ。きっと間違いなく捕えて見せる」
 踏む足も軽くいそいそと、本所|業平《なりひら》町一丁目の、自分の家へ帰って行った。

    千葉道場の田舎者

 北辰一刀流の開祖といえば、千葉周作成政であった。生まれは仙台気仙村、父忠左衛門の時代まで、伊達《だて》家に仕えて禄を食《は》んだが、後忠左衛門江戸へ出で、医をもって業とした。しかし本来豪傑で、北辰無双流の、達人であり、本業の傍ら弟子を取り、剣道教授をしたものであった。その子周作の剣技に至っては、遙かに父にも勝るところから、当時将軍お手直し役、浅利又七郎に懇望され、浅利家の養子となったほどであった。後故あって離縁となり、神田お玉ヶ池に道場を開き、一派を創始して北辰一刀流ととなえ、一生の間取り立てた門弟、三千人と註されていた。水戸藩の剣道指南役でもあり、塾弟子常に二百人に余り、男谷下総守《おたにしもうさのかみ》、斎藤弥九郎、桃井《もものい》春蔵、伊庭《いば》軍兵衛と、名声を競ったものであった。
 ある日、千葉家の玄関先へ、一人の田舎者《いなかもの》がやって来た。着ている衣裳は手織木綿《ておりもめん》、きたないよれよれの帯をしめ冷飯草履《ひやめしぞうり》を穿いていた。丈《たけ》は小さく痩せぎすで、顔色あかぐろく日に焼けていた。
「ご免くだせえ。ご免くだせえ」さも不器用に案内を乞うた。「ドーレ」といって出て来たのは小袴を着けた取り次ぎの武士。
「ええどちらから参られたな」
「へえ、甲州から参りました」そのいう事が半間《はんま》であった。
「して何んのご用かな?」「お目にかかりてえんでごぜえますよ」「お目にかかりたい? どなたにだな?」「千葉先生にでごぜえますよ」「お目にかかってなんになさる?」「へえ立ち合って戴きたいんで」
 取り次ぎはプッと吹き出したが、「では試合に参ったのか」「へえさようでごぜえます」「千葉道場と知って来たのか」「へえへえさようでごぜえます」「ふうん、そうか。いい度胸だな」「へえ、よい度胸でごぜえます」田舎者は臆面がない。
 取り次ぎの武士は面白くなったかからかう[#「からかう」に傍点]ようにいい出した。「で、ご貴殿のご流名は?」「流名なんかありましねえ」「流名がない。それはそれは。してご貴殿のご姓名は?」「姓名の儀は千代千兵衛でがす」「アッハハハ、千代千兵衛殿か。いやこれはよいお名前だ」「どうぞ取り次いでおくんなせえ」「悪いことはいわぬ。帰った方がいい」「へえ、なぜでごぜえますな?」「なぜときくのか。ほかでもない、大先生は謹厳のお方、さようなことはなさらないが、若い血気の門弟衆の中には、悪《わる》ふざけをなさるお方がある。うかうか道場などへ参って見ろ、なぶられたあげく撲《なぐ》られるぞ」「へえ、そいつはおっかないね」「おっかないとも、だから帰れ」「撲られるのは大嫌いだ」「好きな奴があるものか」「だからおいら撲られねえだ。おいらの方から撲ってやるだ」「呆れた奴だ。物もいえぬ」「だから取り次いでおくんなせえまし」「取り次ぐことは罷《まか》りならぬよ」「ではどうしても出来ねえだか」「さようどうしても出来ないな」「ではしかたがねえ、帰るべえ」「その方がいい。安全だ」「その代り世間へいい触らすがいいか」「ナニいい触らす? 何をいい触らすのだ?」「千葉周作だ、北辰一刀流だと、大きな看板は上げているが、その実とんだ贋物《いかさまもの》で、甲州の千代千兵衛に試合を望まれたら、おっかながって逢わなかったと、こういい触らしても文句あるめえな」

    大胆なのか白痴《ばか》なのか?

 これを聞くと取り次ぎの武士は、にわかにその眼を怒らせたが、「いやはやなんと申してよいか、田舎者と思えばこそ、事を分けて訓《さと》してやったに、それが解らぬとは気の毒なもの。よしよしそれほど撲られたいなら、望みにまかせ取り次いでやろう。逃げるなよ、待っておれ」
 こういい捨てて奥へはいったが、やがて笑いながらひっ返して来た。
「大先生はご来客で、そち[#「そち」に傍点]などにはお目にかかれぬ。しかし道場にはご舎弟《しゃてい》様はじめ、お歴々の方が控えておられる。望みとあらば通るがよい」「へえ、有難う存じますだ」
 で、田舎者は上がり込んだ。長い廊下を行き尽くすと、別構えの道場であった。カチ、カチ、カチ、というしないの音、鋭い掛け声も聞こえて来た。
「さあはいれ」といいながら、取り次ぎの武士がまずはいると、その後に続いて田舎者は、構えの内へはいっていった。見かすむばかりの大道場、檜《ひのき》づくりの真新しさ、最近に建てかえたものらしい。向かって正面が審判席で、その左側の板壁一面に、撃剣道具がかけつらねてあり、それと向かい合った右側には、門弟衆の記名札が、ズラとばかり並んでいた。審判席にすわっているのは、四十年輩の立派な人物、外ならぬ千葉定吉で、周作に取っては実の弟、文武兼備という点では周作以上といわれた人、この人物であったればこそ、北辰一刀流は繁昌し、千葉道場は栄えたのであった。性来無慾|恬淡《てんたん》であったが、その代りちょっと悪戯《いたずら》好きであった。で、田舎者の姿を見るとニヤリと笑ったものである。その左側に控えていたのは、周作の嫡子|岐蘇太郎《きそたろう》、また右側に坐っていたのは、同じく次男栄次郎であって、文にかけては岐蘇太郎、武においては栄次郎といわれ、いずれも高名の人物であった。岐蘇太郎の横には平手造酒が坐し、それと並んで坐っているのは、他ならぬ観世銀之丞であった。打ち合っていた門弟達は、田舎者の姿へ眼をつけると、にわかにクスクス笑い出したが、やがてガラガラと竹刀《しない》を引くと、溜《たま》りへ行って道具を脱ぎ、左右の破目板を背後《うしろ》に負い、ズラリと二列に居流れた。
「他流試合希望の者、召し連れましてござります」
 取り次ぎの武士は披露した。
 すると定吉は莞爾《にっこり》としたが「千代千兵衛とやら申したな」
「へえ、千代千兵衛と申しますだ。どうぞハアこれからはお心易く、願《ねげ》えてえものでごぜえます」田舎者はこういうと、一向平気で頭を下げた。胆《きも》が太いのか白痴《ばか》なのか、にわかに判断がつき兼ねた。
「で、流名はないそうだな?」
「へえ、そんなものごぜえません」
「当道場の掟として門弟二、三人差し出すによって、まずそれと立ち合って見い」
「へえ、よろしゅうごぜえます。どうぞ精々《せいぜい》強そうなところをお出しなすってくだせえまし」
「秋田|氏《うじ》、お出なさい」
「はっ」というと秋田藤作、不承不承に立ち出でた。相手は阿呆の田舎者である、勝ったところで名誉にならず、負けたらそれこそ面汚《つらよご》しだ。一向|栄《はえ》ない試合だと思うと、ムシャクシャせざるを得なかった。そのうっぷんは必然的に、田舎者の上へ洩らされた。「こん畜生め覚えていろ、厭というほどぶん撲ってやるから」で手早く道具を着けると、しない[#「しない」に傍点]を持って前へ出た。これに反して田舎者は、さも大儀だというように、ノロノロ道具を着けだしたが、恐ろしく長目のしない[#「しない」に傍点]を握ると、ノッソリとばかり前へ出た。双方向かい合ってしないを合わせた。
 礼儀だから仕方がない、「お手柔らかに」と藤作はいった。
「へえ、よろしゅうごぜえます」これが田舎者の挨拶であった。まるで頼まれでもしたようであった。
「よろしゅうござるとは呆れたな。悪くふざけた田舎者じゃねえか。よし脳天をどやしつけ、きな臭い匂いでも嗅がせてやろう」藤作は益※[#二の字点、1-2-22]気を悪くしたが、「ヤッ」というと立ち上がり、一足引くと青眼につけた。と相手の田舎者は、同時にヌッと立ち上がりはしたが、うん[#「うん」に傍点]ともすん[#「すん」に傍点]ともいわばこそ、背後《うしろ》へ一足引くでもなく、ぼやっとして立っていた。位取りばかりは上段であった。

    合点のいかない剣脈である

「へ、生意気《なまいき》な、上段と来たな。今に見ていろひっくり返してやるから」じっと様子を窺った。相手の全身は隙だらけであった。「ざまア見やがれ田舎者め。構えも屁ったくれもありゃしない。全身隙とはこれどうだ。といってこれが機に応じて、ヒラリ構えが変るというような、そんなしゃれた玉ではなし、フフン、こいつ狂人《きちがい》かな。他流試合とは恐れ入る。かまうものかひっ叩いてやれ」
 ツト一足進んだ時、どうしたものか田舎者は、ダラリとしない[#「しない」に傍点]を下げてしまった。
「もしもしお尋ね致しますだ」こんな事をいい出した。「ちょっくらお尋ね致しますだよ」
「なんだ?」といったが秋田藤作すっかり気勢を削がれてしまった。試合の最中しないを下ろし、ちょっくら待てという型はない。無作法にも事を欠く、うんざりせざるを得なかった。
「何か用か、早くいえ」
「あのお前様《めえさま》の位所《くらいどころ》は、どこらあたりでごぜえますな?」
「剣道における位置の事か?」「へえ、さようでごぜえます」「拙者はな、切り紙だ」「切り紙というとビリッ尻《けつ》だね」「無礼なことをいうものではない」「さあそれじゃやりやしょう」
 そこで二人はまた構えた。千葉道場の切り紙は、他の道場での目録に当たった。もう立派な腕前であった。その藤作が怒りをなし、劇《はげ》しく竹刀《しない》を使い出したので、随分荒い試合となった。「ヤ、ヤ、ヤ、ヤ……ヤ、ヤ、ヤ、ヤ」こう気合を畳み込んで、藤作は前へ押し出して行ったが、相手の田舎者は微動さえしない。同じ場所に立っていた。一歩も進まず一歩も退かない。盤石のような姿勢であった。そうして全身隙だらけであった。しかも上段に振り冠っていた。
 見当のつかない試合ぶりであった。
「胴!」とばかり藤作は、風を切って打ち込んだ。ポーンといういい音がした。
「擦《かす》った!」と田舎者は嘲笑った。審判席からも声が掛からない。で藤作はツト退いた。じっと双方睨み合った。
「小手!」とばかり藤作は、再度相手の急所を取った。
「擦った」と田舎者はまたいった。嘲けるような声であった。審判席からは声が掛からない。
 またも双方睨み合った。
「面!」と一|声《せい》藤作が、相手の懐中《ふところ》へ飛び込んだとたん、
「野郎!」という劇しい声がした。その瞬間に藤作は、床の上へ尻餅を突いた。プーンときな臭い匂いがして、眼の前をキラキラと火花が飛び脳天の具合が少し変だ。「ははあ、おれは打たれたんだな」……そうだ! 十二分にどやされたのであった。
「勝負あった」と審判席から、はじめて定吉の声がした。
「参った」といったものの秋田藤作は、どうにも合点がいかなかった。いつ撲られたのかわからなかった。
 審判席では定吉が、眉をしかめて考え込んだ。
「これは普通の田舎者ではない。十分腕のある奴らしい。道場破りに来たのかも知れない。それにしても不思議な剣脈だな。動かざること山の如しだ。それにただの一撃で、相手の死命を制するという、あの素晴らしい意気組は、尋常の者には出来ることではない。……迂濶《うかつ》な相手は出されない。……観世氏、お出なさい」
「はっ」というと観世銀之丞は物臭さそうに立ち上がった。

    観世銀之丞引き退く

 観世銀之丞は能役者であった。それが剣道を学ぶとは、ちょっと不自然に思われるが、そこは変り者の彼のことで、一門の反対を押し切って、千葉道場へは五年前から、門弟としてかよっていた。天才にありがちの熱情は、剣道においても英発《えいはつ》し、今日ではすでに上目録であった。千葉道場での上目録は、他の道場での免許に当たり、どうして堂々たるものであった。もっとも近来憂鬱になり、物事が退屈になってからは、剣道の方も冷淡となり、道場へ来る日も稀《まれ》となったが、今日は珍らしく顔を見せていた。
 道具を着けるとしない[#「しない」に傍点]を取り、静かに前へ進み出た。で田舎者もうずくまり、しない[#「しない」に傍点]としない[#「しない」に傍点]とを突き合わせた。と田舎者はまたいい出した。
「へえ、ちょっくらおきき致しますだ」「ああ何んでもきくがいい」「お前様の位所《くらいどころ》はえ?」「おれはこれでも上目録だよ」「へえさようでごぜえますかな。千葉道場での上目録は、大したものだと聞いているだ。さっきの野郎とは少し違うな」「これこれ何んだ。口の悪い奴だ」「それじゃおいらもちっとばかり、本気にならずばなるめえよ」「一ついいところを見せてくれ」
「やっ」と銀之丞は立ち上がった。ヌッと田舎者も立ち上がり、例によって例の如く、しない[#「しない」に傍点]を上段に振り冠ったが、姿勢が何んとなく変であった。「おや」と思って銀之丞は、相手の構えを吟味した。突然彼は、「あっ」といった。それと同時に審判席から、同じく、「あっ」という声がした。声の主は平手造酒だ。二人の驚いたのはもっともであった。千代千兵衛となのる田舎者は、足を前後へ構えずに、左右へウンと踏ん張っていた。銀之丞は考えた。
「ははあ、さてはあいつ[#「あいつ」に傍点]であったか。北国街道の芒原で、甚三殺しの富士甚内を、不思議な構えでおどしつけた、博徒姿の旅人があったが、ははあさてはこいつ[#「こいつ」に傍点]であったか。それにしてもいったい何者であろう?」……で、じっと様子を見た。相変らず全身隙だらけであった。胴も取れれば小手も取れた。決して習った剣道ではなかった。それにもかかわらず彼の体からは、不思議な力がほとばしり、こっちの心へ逼って来た。面《おもて》も向けられない殺気ともいえれば、戦闘的の生命力ともいえた。とまれ恐ろしい力であった。
「業《わざ》からいったら問題にもならぬ。おれの方がずっと上だ。しかし打ち合ったらおれが負けよう。ところで平手とはどうだろう? いや平手でも覚束ない、この勝負はおれの負けだ。負ける試合ならやらない方がいい」こう考えて来た銀之丞は、一足足を後へ引いた。そうして「参った」と声をかけた。道具を解くとわるびれもせず、元の席へ引き上げて行った。
「どうした?」と造酒はそれと見ると、気づかわしそうにささやいた。「お前の手にも合わないのか?」
 すると銀之丞は頷《うな》ずいたが、「恐ろしい意気だ。途方もない気合いだ」「追分で逢った博徒のようだが」「うん、そうだ、あいつだよ」「待ったなし流とかいったようだな」「うん、そうそう、そんなことをいったな」「ポンポンガラガラ打ち合わずに、最初の一撃でやっつける、つまりこういう意味らしいな」「うん、どうやらそうらしい」「足を左右に踏ん張ったでは、進みもひきもならないからな。居所攻《いどころぜ》めという奴だな」「そうだ、そいつだ、居所攻めだ。胴を取られても小手を打たれても、擦《かす》った擦ったといって置いて、敵が急《あせ》って飛び込んで来るところを、真っ向から拝み打ち、ただ一撃でやっつけるのだ」「観世、おれとはどうだろう?」「平手、お前となら面白かろう。しかし、あるいは覚束ないかもしれない」
 いわれて造酒は厭な顔をしたが、田舎者の方をジロリと見た。と田舎者は相も変らず、ノッソリとした様子をして、道場の真ん中に立っていた。たいして疲労《つか》れてもいないらしい。審判席では定吉先生が、さも驚いたというように、長い頤髯《ひげ》を扱《しご》いていた。眉の間に皺が寄っていた。神経的の皺であった。
「秋田藤作は駄目としても、観世銀之丞は上目録だ、それが一合も交わさずに、引き退くとは驚いたな。非常な腕前といわなければならない。しかしどうも不思議だな、そんな腕前とは思われない」

    平手造酒と田舎者

 定吉は思案に余ってしまった。「これはおれの眼が曇ったのかもしれない。どうにも太刀筋が解らない。とまれこやつは道場破りだな。このままでは帰されない。もうこうなれば仕方がない。平手造酒を出すばかりだ」
 で彼は厳然といった。「平手氏、お出なさい」
 平手造酒は一礼した。それから悠然と立ち上がった。
 千葉門下三千人、第一番の使い手といえば、この平手造酒であった。師匠周作と立ち合っても、三本のうち一本は取った。次男栄次郎も名人であったが、造酒と立ち合うと互角であった。しかしこれは造酒の方で、多少手加減をするからで、造酒の方が技倆《うで》は上であった。定吉に至ると剣道学者で、故実歴史には通じていたが、剣技はずっと落ちていた。
 由来造酒は尾張国、清洲在の郷士《ごうし》の伜《せがれ》で、放蕩無頼且つ酒豪、手に余ったところから、父が心配して江戸へ出し、伯父の屋敷へ預けたほどであった。しかしそういう時代から、剣技にかけては優秀を極め、ほとんど上手《じょうず》の域にあった。それを見込んだのが周作で、懇々身上を戒めた上己が塾へ入れることにした。爾来|研磨《けんま》幾星霜《いくせいそう》、千葉道場の四天王たる、庄司《しょうじ》弁吉、海保《かいほ》半平、井上八郎、塚田幸平、これらの儕輩《せいはい》にぬきんでて、実に今では一人武者であった。すなわち上泉伊勢守《こうずみいせのかみ》における、塚原小太郎という位置であった。もしこの造酒が打ち込まれたなら、もう外には出る者がない。厭でも周作が出なければならない。
 それほどの造酒が定吉の指図《さしず》で、不思議な田舎者と立ち合おうため、己が席から立ったのであった。場内しいんと静まり返り、しわぶき一つする者のないのは、正に当然な事であろう。そのおかし気《げ》な田舎者の態度に、ともすれば笑った門弟達も、今は悉くかたずを呑み、不安の瞳を輝かせていた。
 その息苦しい気分の中で、造酒は悠然と道具を着けた。彼の心には今や一つの、成算が湧いていたのであった。「恐ろしいのは一撃だ。そうだはじめの一撃だ。これさえ避ければこっちのものだ」彼は窃《ひそ》かにこう思った。「あせってはいけないあせってはいけない。こっちはあくまで冷静に、水のように澄み返ってやろう。そうして相手をあせらせてやろう。一ときでも二ときでも、ないしは一日でも待ってやろう。つまり二人の根比《こんくら》べだ。根が尽きて気があせり、構えが崩れた一|刹那《せつな》を、一気に勝ちを制してやろう。相手の不思議なあの構えを、突き崩すのが急務である」
 やがて道具を着けおわると、別誂えの太く長く、持ち重《おも》りのするしない[#「しない」に傍点]を握り、静かに道場の真ん中へ出た。両膝を曲げ肘を張り、ズイとしない[#「しない」に傍点]を床上へ置いた。それと見ると田舎者も、肘を張り両膝を曲げ、しない[#「しない」に傍点]の先を食っつけたが、「ちょっくらおたずね致しますだ」例のやつをやり出した。「平手様とおっしゃったようだが、そうすると平手造酒様だかね?」
「さよう、拙者は平手造酒だ」
「へえ、さようでごぜえますか。では皆伝でごぜえますな」「さよう、拙者は皆伝だ」「お前様さえ打ち込んだら、こっちのものでごぜえますな。ほかに出る人はねえわけだね。ヤレ有難い、とうとう漕ぎつけた。それじゃおいらも一生懸命、精一杯のところを出しますべえ」
 二人はしばらくおしだまった。ややあって同時に立ち上がった。造酒はピタリと中段につけ、しない[#「しない」に傍点]の端から真っ直ぐに、相手の両眼を睨みつけた。例によって田舎者は、二本の足を左右へ踏ん張り、しない[#「しない」に傍点]を上段に振り冠ったが、これまた柄頭《つかがしら》から相手の眼を、凝然《ぎょうぜん》と見詰めたものである。

    突き出された一本の鉄扇

 木彫りの像でも立てたように、二人はじっと静まっていた。双方無駄な掛け声さえしない。しない[#「しない」に傍点]の先さえ動かない。息使いさえ聞こえない。
 根気比べだと決心して、さて立ち上がった平手造酒は、水ももらさぬ構えをつけ、相手の様子を窺ったが、さっき銀之丞が感じたようなものを、やはり感ぜざるを得なかった。かつてこれまで経験したことのない、殺気といおうか圧力といおうか、ゾッとするような凄い力が、相手の体全体から、脈々として逼って来た。……「不思議だな」と彼は思った。「何んだろういったいこの力は? いったい何から来るのだろう?」……どうもはっきりわからない。わからないだけに気味が悪い。で、なお造酒は考えた。
「あいつはまるであけっぱなしだ。全身まるで隙だらけだ。それでいてやっぱり打ち込めない。不可解な力が邪魔をするからだ。それに反してこのおれは、あらゆる神経を働かせ、あらゆる万全の策を取り、全力的に構えている。おれの方が歩が悪い。おれの方が早く疲労《つかれ》る。おれの方が根負けする」
 こう思って来て平手造酒は、動揺せざるを得なかった。「あぶない!」と彼はその突嗟《とっさ》、自分の心を緊張《ひきし》めた。「考えてはいけない考えてはいけない。無念無想、一念透徹、やっつけるより仕方がない」
 で彼は自分の構えを、一層益※[#二の字点、1-2-22]かたくした。場内|寂然《せきぜん》と声もない。
 窓からさし込む陽の光さえ、思いなしか暗く見えた。
 こうして時が過ぎて行った。
 造酒にとってはその「時」が、非常に長く思われた。それが彼には苦痛であった。「打ち込んで行くか、打ち込まれるか、どうかしなければいたたまれない。とてもこのままでは持ち耐《こた》えられない……といって向こうからは打ち込んでは来まい。ではこっちから打ち込まなければならぬ」
 で造酒は構えたまま、ジリッと一足前へ出た。そうしてしばらく持ち耐えた。そうして相手の様子を見た。しかるに相手は動かない。凝然として同じ位置に、同じ姿勢で突ったっていた。これが常道の剣道なら、一方が進めば一方が退き、さらに盛り返し押し返すか、出合い頭を打って来るか、ないしはズルズルと押しに押され、つめに詰められて取りひしがれるか、この三つに帰着するのであるが、そこは変態の剣道であった。一足ジリリと詰め寄せられても、田舎者は微動さえしない。そこでやむを得ず造酒の方で、せっかく詰めたのを後戻りした。一歩後へひいたのであった。でまた二人は位取《くらいど》ったまま、木像のように動かない。しかしやはり造酒にとっては、この「動かない」ということが、どうにも苦しくてならなかった。で一足引いて見た。相手を誘《おび》き出すためであった。しかるに相手は動かない。左右に踏ん張った二本の足が、鉄で造られた雁股《かりまた》のように、巌然《がんぜん》と床から生え上がっていた。前へも進まず後へも退かず、真に徹底した居所攻《いどころぜ》めだ。で、やむを得ず造酒の方で、一端ひいたのを寄り戻した。同じ位置に復したのであった。「もうこれ以上は仕方がない。心気|疲労《つか》れて仆れるまで、ここにこうして立っていよう」造酒は捨鉢《すてばち》の決心をした。こうして二人は場の真ん中に、数百人の眼に見守られながら、静まり返って立っていた。
 と気味の悪い幻覚が、造酒の眼に見えて来た。相手が上段に構えている、しない[#「しない」に傍点]の先へポッツリと、真紅《しんく》のしみ[#「しみ」に傍点]が現われたが、それが見る間に流れ出し、しない[#「しない」に傍点]を伝い鍔《つば》を伝い、柄頭まで伝わった。と思うとタラタラと、床の上へ流れ落ちた。他でもない血潮であった。ハッと思って見直す、とそんなしみなどはどこにもない。「何んだ馬鹿な!」と思う間もなく、またもや同じしない[#「しない」に傍点]の先へ、ポッツリ真紅のしみが出来、それがタラタラと流れ下った。プンと生臭い匂いがした。とたんにグラグラと眼が廻った。同時に造酒は、「しまった!」と思った。「打たれる! 打たれる! いよいよ打たれる!」
 果然相手の千代千兵衛の眼が面越しに火のように輝いた。と同時に武者顫いがその全身を突き通った。
「今、打たれる! 今、打たれる!」造酒は我知らず眼を閉じた。しかし不思議にも相手のしない[#「しない」に傍点]が、体のどこへも落ちて来ない。彼はカッと眼を開けた。彼と敵とのその間に、一本の鉄扇が突き出されていた。太い指がガッシリと、鉄扇の柄《え》を握っていた。指に生えている細い毛が、幽かに幽かに顫えていた。造酒は鉄扇の持ち主を見た。

    忽ち崩れた金剛の構え

 中肉中|丈《ぜい》で色白く、眉目清秀で四十一、二、頬にも鼻下にも髯のない、一個|瀟洒《しょうしゃ》たる人物が、黒紋付きの羽織を着、白縞の袴を裾長に穿き、悠然とそこに立っていた。千葉周作成政であった。
「む」というと平手造酒は、構えを崩して後へ引いた。と、周作は造酒に代り、田舎者千代千兵衛へ立ち向かった。
 田舎者の上段は、なお崩れずに構えられた。それへ向けられた鉄扇は、一見いかにも弱々しく、そうして周作の表情には、鋭さを示す何物もなかった。
 静かであり冷ややかであった。しかるに忽然《こつぜん》その顔へ、何かキラリと閃めいた。その時初めて田舎者の金剛不動の構えが崩れ、両足でピョンと背後《うしろ》へ飛んだ。そうしてそこで持ち耐《こら》えようとした。しかしまたもや周作の顔へ、ある感情が閃めいた。とまた千代千兵衛は後へさがった。そうしてそこで持ち耐えようとした。しかし三度目の感情が、周作の顔へ閃めいた時、千代千兵衛の構えは全く崩れ、タ、タ、タ、タ、タ、タと崩砂《なだれ》のように、広い道場を破目板《はめいた》まで、後ろ向きに押されて行った。そうしてピッタリ破目板へ背中をくっつけてしまったのである。
 追い詰めて行った周作は、この時初めて「カッ」という、凄じい気合いを一つ掛けたが、それと同時に鉄扇を、グイとばかりに手もとへひいた。するとあたかも糸でひかれた、繰《あやつ》り人形がたおれるように、そのひかれた鉄扇に連れ、千代千兵衛のからだはパッタリと、前のめりにたおれたが、起き上がることが出来なかった。全く気絶したのであった。
 周作は穏《おだや》かに微笑したが、審判席へ歩み寄った。舎弟定吉が席を譲った。その席へ悠然と坐った時、道場一杯に充ちていた、不安と鬱気とが一時に、快然と解けるような思いがした。
「平手、平手」と周作は呼んだ。「今の勝負、お前の負けだ」
「私もさよう存じました」造酒は額の汗を拭き、「恐ろしい相手でございます」
「これはな、別に不思議はない。実戦から来た必勝の手だ」
「実戦から来た必勝の手? ははあさようでございますかな」
「というのは外でもない」周作はにこやかに笑ったが、「泰平の世の有難さ、わしの門弟は数多いが、剣《つるぎ》の稲妻、血汐の雨、こういう修羅場を経て来たものは、恐らく一人もあるまいと思う。いやそれはない筈だ。しかるにそこにいる千代千兵衛という男、その男だけは経て来ている。恐らくこやつは博徒であろう。それも名のある博徒であろう。彼らの言葉で出入《でい》りというが、百本二百本の長脇差が、縦横に乱れる喧嘩の場を、潜《くぐ》って来た奴に相違ない。それも一回や二回ではない。幾度となく潜って来た奴だ。それは自然と様子で知れる。そこだ、陸上の水練の、役に立たないというところは! 胴をつけ面を冠り、しないを取っての試合など、例えどんなに上手になっても、一端戦場へ出ようものなら、雑兵ほどの役にも立たぬ。残念ではあるが仕方がない、これは実にやむを得ぬことだ」
 こういって周作は、またにこやかに笑ったが、
「もうそろそろよいだろう。どれ」というと立ち上がり、田舎者の側へ寄って行った。この時までも緊《しっか》りと、しないを握っていた十本の指を、まず順々に解いて行き、やがてすっかり解いてしまうと、上半身を抱き起こした。やっ! という澄み切った気合い、ウーンという呻き声が、田舎者の口から洩れたかと思うと、すぐムックリと起き上がった。別にキョロキョロするでもなく、一渡り四辺《あたり》を見廻したが、周作の姿へ眼を止めると、「参った!」といって手を突いた。
「どうだな気分は? 苦しくはないかな?」
 気の毒そうに周作はきいた。
「へい、お肚《なか》が空きやした」これが田舎者の挨拶であった。
「おお空腹か、そうであろう、誰か湯漬《ゆづ》けを持って来い。……さてその間にきく事がある。もう本名を明かせてもよかろう」

    剣《つるぎ》の神様でございます

「へい、もうこうなりゃ仕方がない、何んでも申し上げてしまいますよ」「産まれはどこだ? これから聞きたい」「へい、上州でございます」「うん、そうして上州はどこだ?」「佐位郡《さいごおり》国定村《くにさだむら》で」
 すると周作は頷《うなず》いたが、「ではお前は忠次であろう?」
「へい、図星でございます。国定忠次でございます」
 これを聞くと道場一杯、押し並んでいた門弟の口から、「ハーッ」というような声が洩れた。これは驚いた声でもあり、感動をした声でもあった。当時国定忠次といえば、関東切っての大侠客、その名は全国に鳴り渡っていて、「国定忠次は鬼より怖い、ニッコリ笑えば人を斬る」と唄にまで唄われていたものである。その忠次だというのであるから、ハーッと驚くのももっともであろう。
「おお、そうか、忠次であったか、わしもおおかたその辺であろうと、実は眼星をつけていたが、いよいよそうだと明かされて見ると、妙に懐かしく思われるな。それはそうとさて忠次、よい構えを見つけたな」
「へい、これは恐れ入ります。ほんの自己流でございまして、お恥ずかしく存じます」
「剣の終局は自己流にある。一派を編み出し一流を開く、すべて自己の発揮だからな。いつその構えは発明したな?」
「島の伊三郎を討ち取りました時から、自得致しましてございます」
「しかし忠次その構えでは、お前も随分切られた筈だが?」
「仰せの通りでございます」こういうと忠次は右腕を捲った。五、六ヵ所の切傷《きず》があった。「かような有様でございます」それから彼は左腕を捲った。七、八ヵ所の切傷《きず》があった。「この通りでございます」それから彼はスッポリと、両方の肌を押し脱いだ。胸にも肩にも左右の胴にも、ほとんど無数の太刀傷があった。「ご覧の如くでございます」それから彼は肌を入れた。
「ううむなるほど、見事なものだな」周作は感心してうなずいた。
「へい、わっちが待ったなし流で、じっと構えておりますと、相手の野郎はいい気になって、ちょくちょく切り込んで参ります。それをわっちは平気の平左で、切らして置くのでございますな。ビクビクもので切って来る太刀が、何んできまることがございましょう。皮を切るか肉にさわるか、とても骨までは達しません。そこがつけ目でございます。そうやって充分引きつけて置いて、いよいよ気合いが充ちた時、それこそ待ったなしでございますな、一撃にぶっ潰すのでございます」忠次はここでニヤリとした。
「お前と立ち合った人間の中、これは恐ろしいと思った者が、一人ぐらいはあったかな?」「へい、一人ございました」「おおそうか、それは誰だな?」「そこにいらっしゃる平手様で」「ナニ平手? ふうん、そうか」「何んと申したらよろしいやら、細い鋭い針のようなものが、遠い所に立っている。とてもそこまでは手が届かない。こんな塩梅《あんばい》に思われました。技芸《わざ》の恐ろしさをその時初めて、感じましてございますよ」「しかし試合はお前の勝ちだ」「それはさようかも知れませぬ。わっちの構えは技芸だけでは、破られるものではございません」
 すると周作は莞爾《にっこり》としたが、「ではなぜおれに破られたな?」
 すると忠次はいずまいを正し、「へい、それは先生には、人間でないからでございますよ」「人間でない? それでは何か?」
「剣《つるぎ》のひじりでございます。剣の神様でございます。先生にじっとつけられました時、これまでかつて感じたことのない、畏敬の心が湧きました。そうして先生のお姿も、また鉄扇もなんにも見えず、ただ先生のお眼ばかりが、二つの鏡を懸けたように、わっちの眼前で皎々《こうこう》と、輝いたものでございます。とたんにわっちの構えが崩れ、あの通りの有様に気絶してしまったのでございます」
 忠次ほどの豪傑も、こういってしまうと額の汗を、改めて拭ったものである。

    国定忠次の置き土産

 上州の侠客国定忠次が、江戸へ姿を現わしたのは、八州の手に追われたからで、上州から信州へ逃げ、その信州の追分で、甚三殺しと関係《かかりあ》い、その後ずっと甲州へ隠れ、さらに急流富士川を下り、東海道へ出現し、江戸は将軍お膝元で、かえって燈台|下《もと》暗しというので、大胆にも忍んで来たのであった。千葉道場へやって来たのも、深い魂胆があったからではなく、自分の我無沙羅《がむしゃら》な「待ったなし流」を、見て貰いたいがためであった。
「千葉道場におりさえしたら、八州といえども手を出すまい。忠次ここで遊んで行け」
 千葉周作はこういって勧めた。
「へい、有難う存じます」忠次はひどく喜んで、二十日あまり逗留した。と云っていつまでもおられない、いわゆる忙《せわ》しい体だったので、やがて暇《いとま》を乞うことにした。
「お前達はずんで餞別をやれ」千葉周作がこういったので、門弟達は包み金を出した。それが積もって五十両、それを持って国定忠次は、日光指して旅立って行った。
 さて、これまでは無難であったが、これから先が無難でない。ある日造酒が銀之丞へいった。
「観世、お前はどう思うな?」藪から棒の質問であった。
「どう思うとは何を思うのだ?」銀之丞は変な顔をした。
「国定忠次のあの太刀筋、素晴らしいとは思わぬかな」「うむ、随分素晴らしいものだな」「ところであれは習った技ではない」「それは先生もおっしゃった」「人を斬って鍜えた[#「鍜えた」はママ]技だ」「それも先生はおっしゃった筈だ」「ところが我々はただの一度も、人を斬った経験がない」「幸か不幸か一度もないな」「そこで腕前はありながら、忠次風情にしてやられたのだ」「いやはや態《ざま》の悪い話ではあったぞ」「それというのもこのわれわれが、人を斬っていないからだ」「残念ながら御意《ぎょい》の通りだ」「観世、お前も残念と思うか?」「ナニ、大して残念でもないな」「貴公はそういう人間だ」「アッハハハ、仰せの通り」「張り合いのない手合いだな」「では大いに残念と行くか?」
 すると造酒はニヤリとしたが、
「観世、今夜散歩しよう」
「散歩? よかろう、どこへでも行こう。……が、散歩してどうするのだ?」
 すると造酒はまた笑ったが、
「観世、貴公は知っているかな、当時江戸の三塾なるものを」
「ふざけちゃいけない、ばかな話だ、三児といえども知っているよ。まず第一が千葉道場よ、つづいて斎藤弥九郎塾、それから桃井春蔵塾だ。それがいったいどうしたのだえ?」「その桃井の内弟子ども、吉原を騒がすということだ」「そういう噂は聞いている。無銭遊興をやるそうだな」
「だからこいつらは悪い奴だ」「義理にもいいとはいわれないな」「こんな手合いは叩っ切ってもいい」
 これを聞くと銀之丞は、造酒のいう意味がはじめてわかった。で彼は声をひそめ、
「平手、辻斬りをする気だな」
 すると造酒はうなずいて見せたが、「厭なら遠慮なくいうがいい」
 銀之丞は考え込んだ。「平手、面白い、やっつけようぜ!」
「それじゃ貴公も賛成か」「平手、おれはこう思うのだ。自分が何より大事だとな。おれの根深いふさぎの虫は、容易なことでは癒らない。海外密行か入牢か、そうでなければ人殺し、こんな事でもしなかったら、まず癒る見込みはない。……で、おれは思うのだ、構うものかやっつけろとな。……それも町人や百姓を、金のために殺すのではない。桃井塾の門弟といえば、こっちと同じ剣道家だ。殺したところで罪は浅い。それにうかうかしようものなら、あべこべにこっちがしとめられる。いってみれば真剣勝負だ。構うものかやっつけよう」「いい決心だ。ではやるか」
「うんやろう! 散歩しよう」「アッハハハ、散歩しよう」
 血気にまかせて二人の者は、その夜フラリと家を出た。

    江戸市中人心|恟々《きょうきょう》

 その翌日のことであるが、江戸市中は動揺した。日本堤の土手の上で、恐ろしい辻斬りがあったからであった。殺されたのは二人の武士で、桃井塾の門弟の中でも、使い手の方だということであったが、一人は袈裟掛け一人は腰車、いずれも一刀でしとめられていた。
「桃井塾の乱暴者、結句殺されていい気味だ」と、人々はかえって喜んだが、ただ喜んでいられないような、恐ろしい事件がもう一つ起こった。その同じ夜に谷中の辻で、掛け取り帰りの商家の手代が、これも一刀にしとめられ、金を五十両取られたのであった。
「おい観世、少し変だな」
 その翌日道場の隅で、二人顔を合わせた時、造酒は銀之丞へささやいた。「我々がやったのは二人だけだのに、死人が三人とはおかしいではないか」
「うん、少しおかしいな」銀之丞は首をかしげ、「我々以外にもう一人、辻斬りをやったものがあるらしいな」「そうだ、どうやらあるらしい。それにしても不都合だな。殺したあげく金を取るとは」
 二人はちょっと厭な顔をした。
「それはそうとオイ観世、人を斬ってどんな気持ちがしたな?」「平手、何んともいえなかったよ。まず一刀切りつけたね、するとカッと血が燃えたものだ。と思った次の瞬間には、スーッとそいつが冷え切ったものだ。頭が一時に澄み返り、シーンとあたりが寂しくなった。その時おれは思ったよ、生き甲斐がある生き甲斐があるとな」「ふうむなるほど、面白いな」「で、お前はどうだったな?」「真の手応え! こいつを感じたよ」「ふうむなるほど、面白いな」

 翌晩またも辻斬りがあった。場所は上野の山下で、殺されたのは二人の武士、やっぱり桃井の塾弟子であった。しかるにもう一人隅田堤で、町家の主人が殺されていた。
 それからひきつづいて十日というもの、毎晩三人ずつ殺された。二人はいつも武士であったが、一人はおおかた町人で、そうしてきっと金を取られていた。
 鼓賊の禍いにかててくわえて、辻斬り沙汰というのであるから、江戸の人心は恟々《きょうきょう》として、夜間の通行さえ途絶えがちになった。

 こういう物騒なある晩のこと、面白い事件が勃発した。いやそれはむしろ面白いというより、奇怪な事件といった方がよい。町人一人に武士五人、登場人物は六人であった。素晴らしい事件ではあったけれど、また非常に複雑を極めた、微妙な事件ではあったけれど、秘密の間に行われたためか、市民達はほとんど知らなかった。捕物帳にも載せてなければ、奉行所の記録にも記されてない。これは疎漏《そろう》といわなければならない。
 で、その晩のことであるが、みすぼらしい一人の侍《さむらい》が、下谷池ノ端をあるいていた。登場人物の一人であった。すると向こうから老武士が来た。登場人物の二人目であった。
 二人は事もなく擦れ違おうとした。「あいやしばらくお待ちくだされ」とたんに老武士が声を掛けた。
 すると、みすぼらしい侍は、そのまま静かに足をとめたが、「何かご用でござるかな?」
「用と申すではござらぬが、物騒のおりからかかる深夜に、どこへお越しなされるな?」
「これはこれは異なお尋ね、深夜にあるくが不審なら、なぜそこもともおあるきなさる」みすぼらしい侍はしっぺ返したが、これはいかにももっともであった。
「いやナニそのように仰せられては、角が立って変なもの、とがめ立てしたが悪いとなら、拙者幾重にもおわび致す」老武士は言葉を改めた。

    流名取り上げ破門の宣言《せんこく》

ほどの事でもない」みすぼらしい侍は笑ったが、「実をいえばお言葉通り、世間物騒のおりからといい、かような深夜の一人歩きは、好ましいことではござらぬが、実は拙者は余儀ない理由で、物を尋ねているのでな」
「ははあさようでござるかな。して何をお尋ねかな?」
「ちと変った尋ねものでござる」
「お差し支えなくばお明かしを」
「いやそれはなりませぬ」
「さようでござるかな、やむを得ませぬ。……実はな、拙者もそこもとと同じく、物を尋ねておるのでござるよ。ちと変った尋ねものをな」
「似たような境遇があればあるものだ」
「さよう似たような境遇でござる」
 二人はそっと笑い合った。
「ご免くだされ」「ご免くだされ」事もなく二人は別れたものである。
 で、老武士はゆるゆると、不忍池《しのばずのいけ》に沿いながら、北の方へあるいて行った。二町余りもあるいたであろうか、彼は杭《くい》のように突っ立った。
「聞こえる聞こえる鼓の音が!」
 果然鼓の音がした。ポンポン、ポンポン、ポンポンと、微妙極まる音であった。
「うむ、とうとう見つけたぞ! 今度こそは逃がしはせぬ! 小梅で聞いた鼓の音! おのれ鼓賊! こっちのものだ!」
 音を慕って老武士は、松平出雲守の邸の方へ、脱兎のように走って行った。
 これとちょうど同じ時刻に、例のみすぼらしい侍は、黒門町を歩いていたが、何か考えていると見えて、その顔は深く沈んでいた。
 と、行く手の闇の中へ、二つの人影が現われたが、しずしずとこっちへ近寄って来た。登場人物の三人目と、登場人物の四人目であった。近付くままによく見ると、ふたりながら武士であった。
 双方ゆるゆる行き過ぎようとした。とたんに事件が勃発した。
 と云うのはほかでもない。行き過ぎようとした刹那、その三番目の登場人物が、声も掛けず抜き打ちに、みすぼらしい侍へ切り付けたのであった。その太刀風の鋭いこと、闇をつんざいて紫電一条斜めに走ると思われたが、はたしてアッという悲鳴が聞こえた。しかし見れば意外にも、切り込んで行った武士の方が、大地の上に倒れていた。そうしてみすぼらしい侍が、その上を膝で抑えていた。驚いた四番目の登場人物が、すかさず颯《さっ》と切り込んで行ったが、咄嗟《とっさ》に掛かった真の気合い、カーッという恐ろしい声に打たれ、タジタジと二、三歩後へ退った。間髪を入れず息抜き気合い、エイ! という声がまた掛かった。と四番目の人物は、バッタリ大地へ膝をついた。この間わずかに一分であった。後は森然《しん》と静かであった。と、みすぼらしい侍は、膝を起こして立ち上がったが、それからポンポンと塵を払うと、憐れむような含み声で、
「殺人剣活人剣、このけじめさえ解らぬような、言語に絶えた大馬鹿者、天に代って成敗しようか。いやそれさえ刀の穢れ、このまま見遁がしてやるほどに、好きな所へ行きおろう。……但し、北辰一刀流は、今日限り取り上げる。師弟の誼《よし》みももうこれまで、千葉道場はもちろん破門、立ち廻らば用捨《ようしゃ》せぬぞ」
 そのままシトシトと行き過ぎてしまった。実に堂々たる態度であった。二人の武士は一言もなく、そのあとを見送るばかりであった。
 と、一人が吐息《といき》をした。「オイ観世、ひどい目にあったな?」
「大先生とは知らなかった。平手、これからどうするな?」
「うむ」といって思案したが、「いい機会だ、旅へ出よう。そうして一修行することにしよう」
「武者修行か、それもいいな。ではおれもそういうことにしよう。但しおれは剣はやめだ。おれはおれの本職へ帰る。能役者としての本職へな」

    意外、意外、また意外!

 さて一方老武士は、ポンポンと鳴る鼓を追って、ドンドンそっちへ走って行ったが、松平出雲守の邸前まで来ると、音の有所《ありか》が解らなくなった。はてなと思って耳を澄ますと、やっぱり鼓は鳴っていた。どうやら西の方で鳴っているらしい。でそっちへ走って行った。そこに立派な屋敷があった。松平備後守の屋敷であった。しかしそこまで行った時には、もう音は聞こえない。しかしそれより南の方角で、幽《かす》かにポンポンと鳴っていた。
「素早い奴だ」と舌を巻きながら、老武士は走らざるを得なかった。式部少輔榊原家の、裏門あたりまで来た時であったが、はじめて人影を見ることが出来た。尾行《つ》ける者ありと知ったのでもあろう、もう鼓を打とうとはせず、その人影は走って行った。その走り方を一眼見ると、
「しめた!」と老武士は思わずいった。
「横あるきだ横あるきだ!」
 その横歩きの人影は、見る見る煙りのように消えてしまった。
「よし、あの辺は今生院《こんじょういん》だな。東へ抜けると板倉家、西へ突っ切ると賀州殿、これはどっちも行き止まりだ。さて後は南ばかり、あっ、そうだ湯島へ出たな!」
 考える間もとし[#「とし」に傍点]遅《おそ》しで、老武士は近道を突っ走った。

「これ、ばか者、気をつけるがいい、何んだ、うしろからぶつかって来て」
 こう怒鳴りつける声がした。湯島天神の境内であった。怒鳴ったのは侍で、ほかならぬ観世銀之丞であった。各※[#二の字点、1-2-22]《おのおの》好む道へ行こう、お前は武者修行へ出るがよい、おれは本職の能役者へ帰ると、こういって親友の平手造酒と、黒門町で手を分かつと、麹町のやしきへ戻ろうと、彼はここまで来たのであった。その時やにわにうしろから、ドンとぶつかったものがあった。
「これ何んとか挨拶をせい。黙っているとは不都合な奴だ」
 いいいい四辺《あたり》を見廻した。するとどこにも人影がない。
「あっ」と銀之丞は飽気《あっけ》に取られた。
「これは不思議、誰もいない」
 気がついて自分の手もとを見た。そこでまた彼は「あっ」といった。空身であった彼の手が、変な物を持っていた。
「なんだこれは?」とすかして見たが、三度彼は「あっ」といった。今度こそ本当の驚きであった。彼の持っている変な物こそ、ほかでもない鼓であった。それも尋常な鼓ではない。かつて追分で盗まれた、家宝少納言の鼓であった。
「むう」思わず唸ったが、そのままじっと考え込んだ。
 と、また人の足音がした。ハッと思って振り返った眼前《めさき》へ、ツト現われた老武士があった。
「卒爾《そつじ》ながらおたずね致す」
「何んでござるな、ご用かな?」場合が場合なので銀之丞は、身構えをしてきき返した。
「只今ここへ怪しい人間、確かに逃げ込み参った筈、貴殿にはお見掛けなされぬかな?」
「見掛けませぬな。とんと見掛けぬ」
「それは残念、ご免くだされ」
 いい捨て向こうへ駆け抜けようとしたが、幽かな常夜燈の灯に照らし、銀之丞の持っている鼓を見ると、飛燕のように飛び返って来た。
 銀之丞の手首をひっ掴むと、「曲者|捕《と》った……鼓! 鼓!」
「黙れ!」と銀之丞は一喝した。「鼓がどうした? 拙者の鼓だ!」
「何んの鼓賊め! その手には乗らぬ! 神妙に致せ! 逃《の》がしはせぬぞ!」
「鼓賊とは何んだ! おおたわけ! 拙者は観世銀之丞、柳営おとめ[#「おとめ」に傍点]芸の家門だぞ!」
 これを聞くと老武士は、にわかに後へ下がったが、
「ナニ観世銀之丞とな。誠でござるかな、どれお顔を……あっ、いかにも銀之丞殿だ!」
「掛《か》け値《ね》はござらぬ。銀之丞でござる。……ところで貴殿はどなたでござるな?」

    河中へ飛び込んだその早業《はやわざ》

「拙者は郡上平八でござる」
「おお玻璃窓の平八老か」
「それに致してもその鼓は?」
「家宝少納言の鼓でござる」
「では、ご紛失なされたという?」
「偶然手もとへ戻りましてな」
「ははあ」といったが平八は、深い絶望に墜落《おちい》った。「うむ残念、鼓賊めに、また一杯食わされたそうな」
「ご用がなくばこれで失礼」銀之丞は会釈した。
「ご随意にお引き取りくださいますよう」こういったまま平八は、首を垂れて考え込んだ。

 銀之丞と別れた平手造酒は、両国の方へあるいて行った。
「下総の侠客笹川の繁蔵は、おれと一面の識がある。ひとまずあそこへ落ち着くとしようか」こんな事を考え考え、橋なかばまで歩いて来た。
 と、悲鳴が聞こえて来た。「人殺しい!」と叫んでいた。向こう詰めから聞こえるのであった。造酒は大小を束《そく》に掴むと、韋駄天《いだてん》のように走って行った。
 見ると覆面の侍が、切り斃した町人の懐中から、財布を引き出すところであった。
「わるもの!」と叫ぶと、拳《こぶし》を揮い、造酒はやにわにうってかかった。「おお、さては貴様だな! 辻斬りをして金を奪う、武士にあるまじき卑怯者は!」
 すると覆面の侍は、抜き持っていた血刀を、ズイとばかりに突き出したが、
「貴様も命が惜しくないそうな」……そういう声には鬼気があった。その構えにも鬼気があった。そうして造酒にはその侍に、覚えがあるような気持ちがした。剣技も確かに抜群であった。
 油断はならぬと思ったので、造酒はピタリと拳を付けた。北辰一刀流直正伝拳隠れの固めであった。
 それと見て取った覆面の武士は、にわかに刀を手もとへひいたが、それと同時に左の手が、橋の欄干へピタリとかかった。一呼吸する隙もない、その体が宙へうき、それが橋下へ隠れたかと思うと、ドボーンという水音がした。水を潜ってにげたのであった。
「恐ろしい早業《はやわざ》、まるで鳥だ」造酒は思わず舌を巻いたが、「しかしこれであたりが付いた。ううむ、そうか! きゃつであったか」

 玻璃窓の平八と別れると、観世銀之丞は夜道を急ぎ、邸の裏門まで帰って来た。と、門の暗闇から、チョコチョコと走り出た小男があった。
「観世様、お久しぶりで」その小男はいったものである。
「お久しぶりとな? どなたでござるな?」
「へい、私《わっち》でございます」ヌッと顔を突き出した。
「おお、お前は千三屋ではないか」
「正《まさ》に千三屋でございます」
「なるほどこれは久しぶりだな」
「へい、久しぶりでございます」
「して何か用事でもあるのか?」
「ちと、ご相談がございましてな」
「ナニ相談? どんな相談だな?」
「鼓をお譲りくださいまし」千三屋はいったものである。
 すると銀之丞は吹き出してしまった。それから皮肉にこういった。
「貴様、実に悪い奴だ。鼓を盗んだのは貴様だろう?」「いえ、拝借しましたので」「永い拝借があるものだな」「長期拝借という奴で」「黙って持って行けば泥棒だ」「だからお返し致しました」
「ははあ、湯島の境内で、おれにぶつかったのは貴様であったか?」「その時お返し致しました」
 千三屋はケロリとした。

    捨てるによって拾うがよい

「是非欲しいというのなら、譲ってやらないものでもないが、お前のような旅商人に、鼓が何んの必要があるな?」銀之丞は不思議そうに訊いた。
「是非欲しいのでございますよ」千三屋は熱心であった。「命掛けで欲しいので」
「いよいよもっておかしいな。この鼓で何をする気だ?」
「ちょっとそいつは申されませんなあ」当惑をした様子であった。
「いえないものなら聞きたくもない」銀之丞はそっけなく「その代り鼓も譲ることは出来ぬ」潜《くぐ》り戸を開けてはいろうとした。
「おっとおっと観世様、そいつアどうも困りましたなあ」「ではわけを話すがいい」「ようがす。思い切って話しましょう」「おお話すか、では聞いてやろう」「その代り理由《わけ》を話しましたら、鼓は譲って戴けましょうね」「胸に落ちたら譲ってやろう」「へえなるほど、胸に落ちたらね。……どうもこいつア困ったなあ。胸に落ちる話じゃねえんだから。……ええままよ話しっちめえ、それで譲って戴けなかったら、ナーニもう一度盗むまでだ。……世間の黄金《こがね》を手に入れるために、鼓が必要なのでございますよ」「世間の黄金を手に入れるため?」「ハイ、江戸中の黄金《こがね》をね。ナニ江戸だけじゃ事が小せえ。日本中の黄金《かね》を掻き集めたいんで」「鼓が何んの用に立つな?」「名鼓は金気《きんき》を感じます。ポンポンポンポンと打っていると、自然と黄金のあり場所が、わかって来るのでございますよ」
 これを聞くと銀之丞は、しばらくじっと打ち案じていたが、
「さては貴様は鼓賊だな」忍び音で叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]した。
「へい、お手の筋でございます」
「ううむ、そうか、鼓賊であったか」
「相済みませんでございます」
「おれに謝《あやま》る必要はない」銀之丞は笑ったが、「どうだ鼓賊、儲かるかな?」
「一向不景気でございます」
「そうでもあるまい。もとでいらずだからな」
「が、その代り命掛けで」
「だから一層面白いではないか」
「これはご挨拶でございますな。相変らずの観世様で」
「ところでお前は知っているかな、あの有名な『玻璃窓』が、お前の後を追っかけているのを」
「へい、今夜も追っかけられました」
「貴様、今に取っ捉かまるぞ」
「いい勝負でございます」
「なに、いい勝負だ、これは面白い。で、どっちが勝つと思うな?」
「とにかく今は私の勝ちで。……あすのことは判りませんなあ。……ところで鼓は頂けますまいかな?」
「さあそれだ」と銀之丞は、皮肉な笑を浮かべたが、「鼓賊であろうがあるまいが、おれには何んのかかわりもない。金を盗もうと盗むまいと、それとておれには風馬牛だ。ところで少納言の鼓だが、たとえ名器であるにしても、一旦賊の手に渡ったからは、いわば不浄を経て来たものだ。伝家の宝とすることは出来ぬ。なあ千三屋、そんなものではないか」
「へい、そんなものでございましょうな」
「と云ってお前へ譲ることは出来ぬ」
「え、どうでもいけませんかな」
「ただしおれには不用の品だ。捨てるによって拾うがよい」
 鼓をひょいと地へ置くと、ギーと潜り戸を押し開き、銀之丞は入って行った。

 もう夜は明けに近かった。その明け近い江戸の夜の、静かな夜気を驚かせて、またも鼓が鳴り出したのは、それから間もなくのことであった。ポンポンポンポンと江戸市中を、町から町へと伝わって行った。

    弟を呼ぶ兄の声


     追分油屋掛け行燈に
      浮気ご免と書いちゃない

 清涼とした追分節が、へさき[#「へさき」に傍点]の方から聞こえて来た。
 ここは外海の九十九里ヶ浜で、おりから秋の日暮れ時、天末を染めた夕筒《ゆうづつ》が、浪|平《たいら》かな海に映り、物寂しい景色であったが、一隻の帆船が銚子港へ向かって、駸々《しんしん》として駛《はし》っていた。
 その帆船のへさき[#「へさき」に傍点]にたたずみ、遙かに海上を眺めながら、追分を唄っている水夫《かこ》があった。
[#ここから5字下げ]
北山時雨で越後は雨か
この雨やまなきゃあわれない
[#ここで字下げ終わり]
 続けて唄う追分が、長い尾をひいて消えた時、
「うまい」という声が聞こえて来た。で、ヒョイと振り返って見た。若い侍が立っていた。
「かこ[#「かこ」に傍点]なかなか上手だな」至極《しごく》早速な性質と見えて、その侍は話しかけた。
「どこでそれほど仕込んだな?」
「これはこれはお武家様、お褒めくだされ有難い仕合わせ」かこ[#「かこ」に傍点]は剽軽《ひょうきん》に会釈したが、「自然に覚えましてございますよ」
「自然に覚えた? それは器用だな」こういいいい侍は、帆綱の上へ腰を掛けたが、「実はなわしにはその追分が、特になつかしく思われるのだよ」
「おやさようでございますか」
「というのは他でもない。その文句なりその節なり、それとそっくりの追分を、わしは信州の追分宿で聞いた」
 するとかこ[#「かこ」に傍点]は笑い出したが、「甚三の追分でございましょうが」
「これは不思議、どうして知っているな?」
「信州追分での歌い手なら、私の兄の甚三が、一番だからでございます」
「お前は甚三の弟かな?」
「弟の甚内でございます」
「そうであったか、奇遇だな」侍はちょっと懐かしそうに、「いや甚三の弟なら、追分節はうまい筈だ」
「ところがそうではなかったので、唄えるようになりましたのは、このごろのことでございます」
「というのはどういう意味だな?」侍は怪訝《けげん》な顔をした。
「はい、こうなのでございます。ご承知の通り私《わたし》の兄は、あの通り上手でございますのに、どうしたものかこの私は、音《おん》に出すことさえ出来ないという、不器用者でございましたところ、さああれはいつでしたかな、月の良い晩でございましたが、ぼんやり船の船首《へさき》に立ち、故郷《くに》のことや兄のことを、思い出していたのでございますな。すると不意にどこからともなく、兄の声が聞こえて参りました」
「ふうんなるほど、面白いな」
「いえ面白くはございません。気味が悪うございました。『弟ヤーイ』と呼ぶ声が、はっきり聞こえたのでございますもの」
「弟ヤーイ、うんなるほど」
「『お前のいったこと中《あた》ったぞヤーイ』と、こうすぐ追っ駈けて聞こえて参りました」
「それはいったいどういう意味だ?」
「どういう意味だかこの私にも、解らないのでございますよ。とにかく大変悲しそうな声で、それを聞くと私のからだは、総毛立ったほどでございます。と、どうでしょうそのとたんに、私の口から追分が、流れ出たではございませんか」
「不思議だなあ、不思議なことだ」
「不思議なことでございます。いまだに不思議でなりません。これは冗談にではございますが、よく私は兄に向かって、こういったものでございます。『兄貴はきっとおれの声まで、攫《さら》って行ったに違《ちげ》えねえ。だからそんなにうめえのだ』とね。で、私はその時にも、これは兄貴めがおれの声を、返してくれたに相違ねえと、こう思ったものでございますよ」
「それはあるいはそうかも知れない」若い侍はまじまじと、かこの顔を見守ったが、「いつ頃お前は追分を出たな?」
「今年の夏でございます」
「その後一度も帰ったことはないか?」

    初めて知った甚三の死

「はい一度もございません」
「……だから何んにも知らないのだ。……悪いことはいわぬ一度帰れ。それも至急帰るがいい」
「はい、有難う存じます。実は私は思いたって、故郷《くに》を出て海へ来たからには、海で一旗上げるまでは、追分の土は踏むまいと、心をきめておりましたが、そんな事があって以来、兄のことが気にかかり、どうも心が落ち着きませんので、この頃一度帰ってみようかと、思っていたところでございますよ」「それは至急に帰るがいい。……恐らくお前の驚くようなことが、持ち上がっているに相違ない」
「へえ、さようでございましょうか?」かこ[#「かこ」に傍点]甚内は疑わしそうに、侍の顔を見守った。
「わしはな、事情を知っているのだ。しかしどうも話しにくい。話したらお前はびっくりして、気を取り乱すに違いない。それが気の毒でいい兼ねる」
「それではもしや兄の身の上に、変事でもあったのではございますまいか?」
 甚内はさっと顔色を変えた。
「それそういう顔をする。だからいい悪《にく》いといったのだ。……変事があったら何んとする?」
「変事によりけり[#「よりけり」に傍点]でございますが、もしや人にでも殺されたのなら、そやつ活かして置きません」
「ふうむ、そうか」と若い侍は、それを聞くと眼をひそめたが、「さては予感があったと見える」
「ええ、予感とおっしゃいますと?」
「お前の兄が何者かに、深い怨みでも受けていて、そやつに殺されはしないかと……」
「飛んでもないことでございます。何んのそんなことがございますものか。兄は善人でございます。よい人間でございます。私と異《ちが》って穏《おとな》しくもあり、宿の人達には誰彼となく、可愛がられておりました。……だが、ここにたった一つ……」
「うむ、たった一つ、どうしたな?」
「心配なことがございました」
「恋であろう? お北との恋!」
「おお、それではお武家様には、そんなことまでご存知で?」
「その恋が悪かったのだ」
「ではやっぱり私の兄は……あの女郎のお北めに?」
「無論お北も同腹だが、真の殺し手は他にある」
「それじゃ兄はどいつかに、殺されたのでござんすかえ?」
 甚内はワナワナ顫え出した。
「助けてやろうと我々二人、すぐに後を追っかけたが、一足違いで間に合わなかった」
「嘘だ嘘だ! 殺されるものか!」
「凄いような美男の武士……」
「凄いような美男の武士?」思わず甚内は鸚鵡返《おうむがえ》した。
「定紋は剣酸漿《けんかたばみ》だ。……」
「定紋は剣酸漿!」
「お北の新しい恋男だ。……」
「ううむ、そいつが殺したんだな!」
「その名を富士甚内といった」
「それじゃそいつが敵《かたき》だね!」
「おおそうだ、尋ね出して討て!」
「お武家!」
 というと甚内は、侍の袂《たもと》を引っ掴んだ。
「う、う、嘘じゃあるめえな※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「嘘をいって何んになる!」
「う、う、嘘じゃあるめえな※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「…………」
「嘘じゃねえ、嘘じゃねえ、ああ嘘じゃなさそうだ!」
 ガックリ甚内は首を垂れたが、しばらくは顔を上げようともしない。
 この間も船は帆駛《ほばし》って行った。名残《なごり》の夕筒《ゆうづつ》も次第にさめ、海は漸次《だんだん》暗くなった。帆にぶつかる風の音も、夜に入るにしたがって、次第にその音を高めて来た。

    敵《かたき》が討ちとうござります

 と、甚内は顔を上げた。
「お武家様」といった声には、強い決心がこもっていた。「よく教えてくださいました。厚くお礼を申します。いえもう兄はおっしゃる通り、殺されたに相違ございますまい。可哀そうな兄でございます。死んでも死に切れはしますまい。また私と致しましても、諦めることは出来ません。その侍とお北とを、地を掘っても探し出し、殺してやりとうございます。ハイ、敵《かたき》が討ちたいので。……そこでお尋ね致しますが、そいつら二人は今もなお、追分にいるのでございましょうか?」
「いや」と侍は気の毒そうに、「甚三を殺したその晩に、二人ながら立ち退《の》いた」
「それはそうでございましょうな。人を一人殺したからには、その土地にはおられますまい。じゃそいつらは行方不明《ゆくえふめい》で?」
「さよう、行方《ゆきがた》は不明だな」
「それは残念でございますなあ」見る見る甚内は打ち悄《しお》れた。
 しかし侍は元気付けるように、「恐らくは江戸にいようと思う」
「え、江戸におりましょうか?」
「江戸は浮世の掃き溜《だめ》だ。無数の人間が渦巻いている。善人もいれば悪人もいる。心掛けある悪党はそういう所へ隠れるものだ」「へえ、さようでございますかな」「また自然の順序からいっても、まず江戸から探すべきだ」「へえ、さようでございますかな」「で、江戸から探してかかれ」
「ハイ、有難う存じます。それではお言葉に従いまして、江戸を探すことに致します」
 侍はにわかに気遣《きづか》わしそうに、
「ところで剣道は出来るのか?」
「え?」と甚内は訊き返した。
「剣術だよ。人を切る業《わざ》だ」
「ああ剣術でございますか。いえ、やったことはございません」
「ははあ、少しも出来ないのか。それはどうも心もとない。……おおそうだいいことがある。お前江戸へ参ったら、千葉先生をお訪ね致せ。神田お玉ヶ池においでなさる、日本一の大先生だ。よく事情をお話し致し、是非お力を乞うようしろ。先生は尋常なお方ではない。堂々たる大丈夫だ。場合によっては先生ご自身、助太刀をしてくださるかもしれない」
「何から何まで有難いことで。そういう訳でございましたら、何を置いても千葉先生とやらを、お訪ね致すでございましょう」甚内は嬉しそうに頭を下げた。
「それがよい、是非訪ねろ。……そこでお前に頼みがある。千葉先生におあいしたら、一つこのように伝言《ことづけ》てくれ。大馬鹿者の観世銀之丞も、あの晩以来改心し、真人間になりました。そうして自分の本職を、いよいよ練磨致すため、犬吠崎へ参りました。岸へ打ち寄せる大海の濤《なみ》、それへ向かって声を練り、二年三年のその後には、あっぱれ日本一の芸術家となり、再度お目にかかります。その時までは剣の方は、一切手にも触れませぬと、こう先生へ申し上げてくれ」
「やあ、それじゃあなた様は、観世様でございましたか?」さも驚いたというように、甚内は声を筒抜かせた。
「さよう、わしは観世だが、お前わしを知っているかな?」
「知っているどころじゃございません。本陣油屋でお調べになった、あの素敵もねえ鼓の手を、どんなにか喜んで死んだ兄は、お聞きしたか知れません」

「そういわれれば思い出す」銀之丞はその顔へ、寂しい笑いを浮かべたが、「おれが鼓を調べさえすれば、甚三も追分を唄ったものだ。おれと競争でもするようにな。……もうその追分も聞く事は出来ぬ」
 いつかすっかり夕陽が消え、星が点々と産まれ出た。風は次第に勢いを強め、帆の鳴る音も凄くなった。

    風雨を貫く謡《うたい》の声

「オーイ甚内!」と呼ぶ声がした。「しけが来るぞヨー、帆を下ろせヨー」
「オーイ」と甚内はすぐ応じた。それから銀之丞へ会釈したが、「しけが来るようでございます。ちょっとご免を被ります」
 いい捨てクルリと身を翻《ひるが》えすと、兄の死を痛み悲しんでいた、もう今までの甚内ではない。熟練をした勇敢な、風浪と戦うかこ[#「かこ」に傍点]であった。
 帆綱を握るとグイと引いた。ギーギーという音がして、左右に帆柱が揺《うご》いたかと思うと、張り切った帆が弛んで来た。
「ヨイショヨイショ、ヨイショヨイショ!」
 掛け声と共に手繰《たぐ》り下ろした。
 星が消えたと見る間もなく、ザーッと雨が落として来た。篠突《しのつ》くような暴雨であった。雨脚《あまあし》が乱れて濛気《もうき》となり、その濛気が船を包み、一寸先も見えなくなった。轟々《ごうごう》という凄じい音は、巻立ち狂う波の音で、キキー、キキーと物悲しい、咽《むせ》ぶような物の音は、船の軋《きし》む音であった。空を仰げば黒雲湧き立ち、電光さえも加わった。凄じい暴風雨となったのであった。
「ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ!」
 その荒涼たる光景の中から、十数人のかこ[#「かこ」に傍点]の声ばかりが、雄々しく勇ましく響いて来た。
 乗客は悉く胴の間に隠れ、不安に胸を躍らしていた。ただ一人銀之丞ばかりが、船のへさき[#「へさき」に傍点]に突っ立っていた。
「ああいいな。勇ましいな」彼は呟いたものである。「自然の威力に比べては、何んて人間はちっぽけなんだろう? だがいやいやそうでもないな、かこ[#「かこ」に傍点]はどうだ! あの姿は!」
 銀之丞は武者揮いをした。
「自然の威力を突き破ろうと、ぶつかって行くあの力! 恐ろしい運命にヒタと見入り、刃向かって行くあの態度! これが本当の人間だな! ふさぎの虫も糸瓜《へちま》もない! あるものは力ばかりだ! いいな、実にいい、生き甲斐があるな!」
 嵐は益※[#二の字点、1-2-22]吹き募り、雨はいよいよ量を増した。所は名に負う九十九里ヶ浜、日本近海での難場であった。四辺《あたり》は暗く浪は黒く、時々白いものの閃めくのは、砕けた浪の穂頭《ほがしら》であった。
「ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ!」
 かこ[#「かこ」に傍点]どもの呼ぶ掛け声は、益※[#二の字点、1-2-22]勇敢に響き渡った。しかし人力には限りがあり、自然の暴力は無限であった。
 かこ[#「かこ」に傍点]は次第に弱って来た。船がグルグルと廻り出した。
「もういけねえ! もういけねえ!」
 悲鳴の声が聞こえて来た。
 真っ黒の大浪がうねりをなし、小山のように寄せたかと思うと、船はキリキリと舞い上がった。
「助けてくれえ!」
 と叫ぶのは、胴の間にいる乗客達であった。
 と、この時、朗々たる、謡《うたい》の声が聞こえて来た。
 神か鬼神かこの中にあって、悠々と謡をうたうとは! 暴風暴雨を貫いて、その声は鮮かに聞こえ渡った。
「誰だ誰だ謡をうたうのは!」
「偉《えれ》えお方だ! 偉えお方だ!」
「偉えお方が乗っておいでになる! 船は助かるぞ助かるぞ!」
「ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ!」
 ふたたびかこ[#「かこ」に傍点]の声は盛り返した。その声々に抽《ぬき》んでて、謡の声はなおつづいた。
 船が銚子へ着いたのは、その翌日のことであった。

    「主知らずの別荘」の別荘番

「オイオイ若いの。オイ若いの」
※[#歌記号、1-3-28]かくばかり経高く見ゆる世の中に、羨ましくも澄む月の、出汐をいざや汲もうよ……
「オイオイ若いの。オイ若いの」
※[#歌記号、1-3-28]影はずかしき我が姿、忍び車を引く汐の……
「うなっては困る。うなっては困る」
「誰もうなってはいないではないか」
「お前の事だ。うなっては困る」
「おれは何もうなってはいない」
「今までうなっていたじゃないか」
※[#歌記号、1-3-28]おもしろや、馴れても須磨の夕まぐれ、あま[#「あま」に傍点]の呼び声かすかにて……
「あれ、いけねえ、またうなり出した」
※[#歌記号、1-3-28]沖に小さき漁《いさ》り舟の、影|幽《かす》かなる月の顔……
「やりきれねえなあ、うなっていやがら」
※[#歌記号、1-3-28]仮りの姿や友千鳥、野分《のわき》汐風いずれも実《げ》に、かかる所の秋なりけり、あら心すごの夜すがらやな……
「オイオイ若いの。困るじゃねえか」
「なんだ貴様。まだいたのか」
「お前がうなっているからよ」
「解らない奴だ。うなるとは何んだ。これはな謡をうたっているのだ」
「ははあ、そいつが謡ってものか」
「めったに聞けない名人の謡だ。後学のために謹聴しろ」
「あれ、あんなことをいっていやがる。自分で自分を名人だっていやがる」
「アッハッハッハッそれが悪いか」
「なんと自惚《うぬぼ》れの強いわろ[#「わろ」に傍点]だ」
「アッハッハッハッ、自惚れに見えるか。……さて、もう一度聞かせてやるかな」
「オットオットそいつあいけねえ。勘弁してくんな、おれが叱られる」
「おかしな奴だな。誰に叱られる?」
「旦那によ、旦那殿によ」
「なぜ叱られる。何んの理由で?」
「やかましいからよ。うなるのでな」
「ははあ、それでは謡のことか」
「うん、そうとも、他に何がある」
「我がままな奴だな。こういってやれ。ここは銚子獅子ヶ岩、向こうは荒海太平洋だ。あたり近所に人家はない。謡おうとうなろうと勝手だとな。その旦ツクにいってやれ」
「うんにゃ、駄目だ。おれが叱られる」
「よかろう。勝手に叱られるさ」
「おれが困るよ。だから頼む。……第一声が透《とお》り過ぎらあ。洞間声《どうまごえ》[#「洞間声」はママ]っていう奴だからな」
「洞間声[#「洞間声」はママ]だって? こいつは助からぬ。アッハッハッハッ、いや面白い」
「面白くはねえよ。面白いものか。叱られて何んの面白いものか」
「よっぽど解らずやの旦那だな」
「フン、何んとでもいうがいいや」
「いったい誰だ? お前の旦那は?」
「お金持ちだよ。大金持ちだ」
「金があっても趣味がなければ、馬や牛と大差ないな」

    厳重を極めた別荘普請

「だがお前の主人というのは、いったいどこに住んでるのか?」
「お前さんそいつを知らねえのか」
「知らないとも、知る訳がない」
「だが、やしきは知ってる筈だ」
「お前の主人のやしきをな?」
「うんそうさ、有名だからな」
「いいや、おれはちっとも知らない」
「そんな筈はねえ、きっと知ってる」
「おかしいな。おれは知らないよ」
「獅子ヶ岩から半町北だ」
「獅子ヶ岩から半町北と?」
「近来《ちかごろ》普請に取りかかったやしきだ」
「や、それじゃ『主《ぬし》知らずの別荘』か?」
「そうれ、ちゃアんと知ってるでねえか」
「その別荘なら知ってるとも」
「それがおれの主人の巣だ」
「ふうん、そうか。やっと解った」
「随分有名な邸《やしき》だろうが?」
「銚子中で評判の邸だ」
「それがおれの主人の邸だ」
「そこでお前にきくことがある。何んと思ってあんな普請をした?」
「あんな普請とはどんな普請だ?」
「まるで砦《とりで》の構えではないか」
「…………」
「厚い石垣、高い土塀、たとえ大砲を打ちかけても、壊れそうもない厳重な門、海水をたたえた深い堀、上げ下げ自由な鉄の釣り橋、え、オイまるで砦じゃないか」
「おれの知ったことじゃねえ」
「で、主人はいつ来たのだ?」
「うん、主人はずっと以前《まえ》からよ……そうさ今から二月ほど前から、こっそりあそこへ来ているんだ」
「ほほう、そうか、それは知らなかった」
「ところが他のご家族達も、二、三日中には越して来るのだ」
「それで家族は多いのか?」
「うん、奥様とお嬢様と、坊様と召使い達だ」
「では『主知らずの別荘』が、いよいよ主を迎えた訳だな」
「そうかもしれねえ。うん、そうだ」
「ところで主人の身分は何んだ?」
「主人の身分か? 主人の身分はな……いやおれは何んにも知らねえ」
「ははあ隠《かく》すつもりだな」
「おれは何んにも知らねえよ」
「で、お嬢様は別嬪《べっぴん》かな?」
「おれは何んにも知らねえよ」
「いよいよ隠すつもりだな」
「おれはちっとばかりしゃべり過ぎたからな」
「ところでお前は何者だな?」
「おれは何んにも知らねえよ」
「ふざけちゃいけない、馬鹿なことをいうな」
「ああおれか、別荘番だよ」
「うん、そうか、別荘番か。『主知らずの別荘』の別荘番だな」
「別荘番の丑松《うしまつ》ってんだ」
「噂は以前から聞いていたよ」
「おれは銚子では名高いんだからな」
「そうだ、お前は名高いよ。『主知らずの別荘』と同じにな」
「ところでお前さん、何者だね?」
「おれか、おれは能役者だ」
「ああ役者か、何んだ詰まらねえ」
「口の悪い奴だ。詰まらねえとは何んだ」

    駕籠から覗いた美しい

「姓名の儀は何んていうね?」
「姓名の儀はとおいでなすったな。姓名は観世銀之丞」
「ほほん、銀之丞か。役者らしい名だ。詰めていうと銀公だな。そうじゃアねえ、銀的だ」
「口の悪い奴だ。いよいよ口が悪い。が、まあ銀公でも銀的でもいい」
「お前さん、この土地へはいつ来たね?」
「二十日ほどまえだ。それがどうしたな」
「あッ、やっと思い出した。そうそうお前さんはお品《しな》の婿だね」
「お品の婿だって。何んのことだ?」
「隠したって駄目だ。評判だからな」
「そうか、何んにしても有難い」
「厭な野郎だな、礼をいっていやがる」
「めでたそうな話だからよ」
「だってお前さん評判だぜ。お品の所へ江戸の役者が、入《い》り婿《むこ》となって来たってな」
「お品の家の離れ座敷を、たしかにおれは借りているよ」
「ソーレ見たか、泥を吐きおった」
「そうしてお品はいい娘だ」
「甘え野郎だ、惚気《のろけ》ていやがる」
「銚子小町だということだな」
「鼻持ちがならねえ、いろきちげえ!」
「だが、銚子の小町娘も、田の草を取ったり網を干したり、野良馬の手綱をひいたりしたでは、こいつどうも色消しだな」
「そいつはどうも仕方がねえ。この辺は半農半漁だからな。よっぽどいい所の娘っ子でも、漁にも出れば作もするよ」
「それはそうだ、御意《ぎょい》の通りだ。そうして実はお品にしてからが、その網干しの姿とか、ないしは草取りの姿の方が、ちんと澄ました姿より、よっぽど可愛く見えるからな」
「おやまたかい。また惚気《のろけ》かい」
「どれ、そろそろ帰ろうかな、お品の顔でも見に帰るか」
「変な野郎だ。どう考えても変だ」
 観世銀之丞と丑松とはこんな塩梅《あんばい》に親しくなった。

「銀之丞さま、銀之丞さま!」
 お品が往来で呼んでいた。
「オイ何んだい、お品さん」
「出てごらんなさいよ、通りますよ」
 そこで銀之丞は離れ座敷から、往来の方へ出て行った。
 お品や、お品の両親や、近所の人達が道側《みちばた》に立って、南の方を眺めていた。
 とそっちから行列が、だんだんこっちへ近寄って来た。馬が五頭駕籠が十挺、それから小荷駄を背に負った、十数人の人夫達で、外ならぬ「別荘」の家族連であった。今|移転《ひっこ》して来たのであろう。
「ねえ、随分大勢じゃないか」「そうさね、随分大勢だね」「荷物だって沢山じゃないか」「そうさ随分沢山だなあ」「どんな人達だか見たいものだね」「お生憎様《あいにくさま》、駕籠が閉じている」「これでマア別荘も賑やかになるね」「化物屋敷でなくなるわけさ」「それにしても妙だったね。十年このかたあの別荘には主人《ぬし》って者がなかったんだからね」「ところが主人《ぬし》が来るとなると、この通り大仰だ」「きっと主人はお金持ちで、あっちにもこっちにも別荘があるので、こんな辺鄙《へんぴ》な別荘なんか、今まで忘れていたのかもしれない」「それにしてもおかしいじゃないか、あの厳重な普請の仕方は」「ちょうど敵にでも攻められるのを、防ぐとでもいったような構えだね」「黙って黙って、ソレお通りだ」
 そこへ行列がやって来た。
 すると三番目の駕籠の戸が、コトンと内から開けられて、美しい女の顔が覗いた。

    そそられた銀之丞の心

 銀之丞は何気なくそっちを見た。
 女の視線と銀之丞の視線が、偶然一つに結ばれた。と、女はどうしたものか、幽《かす》かではあるがニッと笑った。「おや」と銀之丞は思いながらも、その笑いにひき込まれて、思わず彼もニッと笑った。
 と、駕籠の戸がポンと閉じ、そのまま行列は行き過ぎた。
 はなれへ戻って来た銀之丞は、空想せざるを得なかった。
「悪くはないな、笑ってくれたんだ! だがいったいあの女は、おれをまえから知っていたのかしら? そんな訳はない知ってる筈はない。……とにかく非常な別嬪《べっぴん》だった。さて、恋が初まるかな。こんな事から恋が初まる? あり得べからざる事でもない」
 その時庭の飛び石を渡り、お品がはなれへ近寄って来た。色は浅黒いが丸顔で、眼は大きく情熱的で、そうして処女らしく清浄な、すべてが初々《ういうい》しい娘であったが、手に茶受けの盆を捧《ささ》げ、にこやかに笑いながら座敷へ上がった。
「お茶をお上がりなさいませ」
「ああお茶かね、これは有難い。旨《うま》そうなお茶受けがありますな」
「土地の名物でございますの」
「ふうむ、なるほど、海苔煎餅《のりせんべい》」
 お品はいそいそと茶を注いだ。
 豪農というのではなかったが、お品の家は裕福であった。主人夫婦も人柄で、しかもなかなか侠気があり、銚子の五郎蔵とも親しくしていた。銀之丞が頼むと快く、すぐにはなれを貸したばかりか、万事親切に世話をした。ひとつは銀之丞が江戸で名高い、観世宗家の一族として、名流の子弟であるからでもあったが、主人嘉介が風流人で、茶の湯|活花《いけばな》の心得などもあり、謡の味なども知っていたからであった。
 お品は一人子で十九歳、肉体労働をするところから、体は発達していたが、心持ちはほんのねんねえ[#「ねんねえ」に傍点]であった。一見銀之丞が好きになり、兄に仕える妹のように、絶えず銀之丞へつきまとった。
 そういう家庭に包まれながら、本職の謡を悠々と、研究するということは、彼にとっては理想的であった。それに彼にはこの土地が、ひどく心に叶《かな》っていた。漁師町であり農村であり、且つ港である銚子なる土地は、粗野ではあったが詩的であった。単純の間に複雑があり、「光」と「影」の交錯が、きわめて微妙に行われていた。もちろん、信州追分のような、高原的風光には乏しかったが、名に負う関東大平原の、一角を占めていることであるから、森や林や丘や耕地や、沼や川の風致には、いい尽くせない美があって、それが彼には好もしかった。
 それに何より嬉しかったのは、太平洋の荒浪が、岸の巌《いわお》にぶつかって、不断に鼓の音を立てる、その豪快な光景で、それを見るとしみじみと「男性美」の極致を感じるのであった。
 そこで彼は毎夜のように、獅子ヶ岩と呼ばれる岩の上へ行って、声の練磨をするのであった。
 彼は本来からいう時は、観世の家からは勘当され、また観世流の流派からは、破門をされた身分であった。でもし彼が凡人なら、そういう自家の境遇を、悲観せざるを得なかったろう。しかるに彼は悲観もせず、また絶望もしなかった。それは彼が天才の上に、一個文字通りの近代人だからで、真の芸術には門閥はないと、固く信じているからであった。
 とはいえ彼とて人間であり、殊には烈々たる情熱においては、人一倍強い芸術家のことで、父母のことや友人のことは、忘れる暇とてはないのであった。わけても親友の平手造酒の、その後の消息に関しては、絶えず心を配っていた。
 それに彼は生まれながら、都会人の素質を持っていて、江戸の華やかな色彩に対しては、あこがれの心を禁じ得なかった。
 ところが今日はからずも、江戸めいた美しい女の顔を、駕籠の中に見たばかりか、その女から笑い掛けられたのであった。
 彼の心が動揺し、それが態度に現われたのは、やむを得ないことであろう。

    紙つぶてに書かれた「あ」の一字

「どう遊ばして、銀之丞様」
 お品が不足そうに声をかけた。「考え込んでおりますのね」
「や、そんなように見えますかな」
「お菓子を半分食べかけたまま、手に持っておいでではありませんか」
「これはこれは、どうしたことだ」
「どうしたことでございますやら」
「おおわかった、これはこうだ」テレ隠しにわざと笑い、「あんまりお品さんが可愛いので、それで見とれていた次第さ」
「お気の毒様でございますこと」
「ナニ気の毒? なぜでござるな?」
「なぜと申してもあなた様のお目は、わたしの顔などご覧なされず、さっきからお庭の石燈籠ばかり、ご覧になっているではございませんか」
「いや、それには訳がある」
「なんの訳などございますものか」
「なかなかもってそうでない。すべて燈籠の据え方には、造庭上の故実があって、それがなかなかむずかしい」
「おやおや話がそれますこと」
「冷《ひや》かしてはいけないまずお聞き、ところでそこにある石燈籠、ちとその据え方が違っている」
「オヤさようでございますか」いつかお品はひき込まれてしまった。
「茶の湯、活花、造庭術、風雅の道というものは、皆これ仏教から来ているのだ」
「まあ、さようでございますか」
「ところが中頃その中へ、武術の道が加わって、大分作法がむずかしくなった」
「まあ、さようでございますか」お品は益※[#二の字点、1-2-22]熱心になった。
「で、そこにある石燈籠だが、これはこの室《へや》と枝折戸《しおりど》との、真ん中に置くのが本格なのだ」
「どういう訳でございましょう?」
「門の外から室の様子を、見られまいための防禦物《ぼうぎょぶつ》だからで、横へ逸《そ》れては目的に合わぬ。ところがこれは逸れている。室の様子がまる見えだ」
「そういえばまる見えでございますね」
 お品はすっかり感心して、銀之丞の話に耳傾けた。
 それが銀之丞には面白かった。もちろん彼の説などは、拠《よ》りどころのない駄法螺《だぼら》なので、それをいかにももっともらしく、真顔《まがお》を作って話すというのは、どうやらお品に弱点を握られ、今にもそこへさわられそうなのが、気恥ずかしく思われたからであった。つまりいい加減の出鱈目《でたらめ》をいって、話を逸《そ》らそうとするのであった。
「だから」と銀之丞はいよいよ真面目《まじめ》に、「もしもここに敵があって、この部屋の主人を討とうとして、あの枝折戸の向こうから、鉄砲か矢を放したとしたら、ここの主人はひとたまりもなく、討たれてしまうに相違ない。すなわち防禦物の石燈籠が、横へ逸れているからだ」
「ほんにさようでございますね」
「しかるによって……」
 といよいよ図に乗り、喋舌《しゃべ》り続けようとした銀之丞は、にわかにこの時「あッ」と叫び、グイと右手を宙へ上げた。間髪を入れずとんで来たのは、紙を巻いたいしつぶて! さすがは武道にも勝れた彼、危いところで受けとめた。
「あれ」
 と驚くお品を制し、銀之丞は紙をクルクルと解いた。
 と、紙面にはただ一字「あ」という文字が記されてあった。

    刎《は》ね橋と開けられた小門

 その翌日のことであったが、銀之丞が一人野をあるいていると、どこからともなくいしつぶてが、例のように飛んで来た。受け取って見ると紙が巻いてあった。そうして紙にはただ一字「い」という文字が書いてあった。
 最初のつぶてには「あ」と書いてあり、次のつぶてには「い」と書いてあった。二つ合わせると「あい」であった。「ハテ『あい』とはなんだろう?」思案せざるを得なかった。「これを漢字に当て嵌《は》めると『鮎《あい》』ともなれば『哀《あい》』ともなる。『間《あい》』ともなれば『挨《あい》』ともなる。そうかと思うと『靉《あい》』ともなる。いずれ何かの暗号ではあろうが、さて何んの暗号だろう? そうしていったい何者が、こんな悪戯《いたずら》をするのだろう?」
 考えてみれば気味が悪かった。とはいえ大剛《たいごう》の彼にとっては、恐怖の種とはなりそうもなかった。
 それはとにかく、銀之丞は、駕籠の中に見た女の俤《おもかげ》を、忘れることが出来なかった。
「女は確かに娘らしい。あの『主知らずの別荘」の、家族の一人に相違ない。それも決して女中などではなく、丑松の話したお嬢さんでもあろう」
 女色《じょしょく》に淡い彼ではあったが、不思議と心をそそられた。
 二度目の暗号を渡された日の、その翌晩のことであったが、彼はフラリと宿を出ると、別荘の方へ足を向けた。それは月影の美しい晩で、そぞろあるきには持って来いであった。少しあるくと町の外《はず》れで、すぐに耕地となっていた。その耕地を左右に見て、一本の野良道を先へ進んだ。土橋を渡るともう荒野で、地層は荒々しい岩石であったが、これは海岸に近いからであった。そういえば波の音がした。
 彼はズンズンあるいて行った。間もなく別荘の前へ出た。
 廻れば五町はたっぷりあろうか、そういう広大な地所の中に、別荘は寂然《せきぜん》と立っていた。三間巾の海水堀、高い厚い巌畳《がんじょう》な土塀、土塀の内側《うちがわ》の茂った喬木、昼間見てさえなかの様子は、見る事が出来ないといわれていた。
 夜はかなり更けていた。堀の水は鉛色に煙り、そとへ突き出した木々の枝葉で、土塀のあちこちには蔭影《かげ》がつき、風が吹くたびにそれが揺《ゆ》れた。前と左右は物寂しい荒野で、そうして背後《うしろ》は岩畳《いわだたみ》を隔てて、海に続いているらしい。
 人っ子一人通っていない。市《まち》の燈火《ともしび》は見えていたが、ここからは遙かに隔たっていた。別荘には一点の火光もなく、人のけはいさえしなかった。
 それは別荘というよりも、荒野の中の一つ家《や》であり、わすれ去られた古砦であり、人の住居《すまい》というよりも、死の古館《ふるやかた》といった方が、ふさわしいように思われた。すでに刎ね橋はひき上げられていた。
「何という寂しい構えだろう」
 呟きながら銀之丞は、堀に沿って右手へ廻った。すると意外にも眼の前に、刎ね橋が一筋かかっていた。そこは別荘の側面で、土塀には小門が作られてあったが、それへ通ずる刎ね橋であった。こういう場合おおかたの人は好奇心に捉われるものであった、で、彼も好奇心に駆られ、刎ね橋を向こうへ渡って行った。そうして小門へさわってみた。と、手に連れて音もなく、小門の戸が向こうへ開いた。
「おや」とばかり驚きの声を、思わず口から飛び出させたが、さらに一層の好奇心が、彼の心を駆り立てた。

    魔法使いの魔法の部屋か

 彼は小門をくぐったものである。
 あたりを見ると鬱蒼《うっそう》たる木立で、その木立のはるか彼方《あなた》に、一座の建物が立っていた、どうやら、別荘のおも屋らしい。さすがに彼もこれ以上、はいり込むには躊躇《ちゅうちょ》された。
「しかし」と彼は思案した。「何んというこれは不用心だ。賊でもはいったらどうするつもりだ。一つ注意をしてやろう」で、彼は進んで行った。やがて建物の戸口へ出た。
「ご免」と小声でまず訪《おとな》い、トントンと二つばかり戸を打った。と、何んたることであろう! その戸がまたも内側へ開き、闇の廊下が現われた。
「おや」とばかり驚きの声を、また出さざるを得なかった。しかし驚きはそれだけではなく、
「おはいり」
 というしわがれた声が、廊下の奥から聞こえて来た。
 これには銀之丞も度胆を抜かれた。でぼんやり佇《たたず》んでいた。するとまたもや同じ声がした。
「待っていたよ、はいるがいい」
 度胆を抜かれた銀之丞は、今度は極度の好奇心に、追い立てられざるを得なかった。
 彼は大胆にはいって行った。三十歩あまりもあるいた時、「ここだ!」という声が聞こえて来た。それは廊下の横からであった。見るとそこに開いた扉《と》があった。で、内《なか》へはいって行った。カッと明るい燈火《ともしび》の光が、真っ先に彼の眼を奪った。そのつぎに見えたのは一人の老人で、部屋の奥の方に腰かけていた。
「オイ若いの、戸を締めな」その老人はこういった。
 いわれるままに戸を閉じた。それから老人を観察した。身長《たけ》が非常に高かった。五尺七、八寸はあるらしい。肉付きもよく肥えてもいた。皮膚の色は銅色《あかがねいろ》でそれがいかにも健康らしかった。ただし頭髪《かみのけ》は真っ白で、ちょうど盛りの卯の花のようで、それを髷《まげ》に取り上げていた。銀《しろがね》のように輝くのは、明るい燈火《ともしび》の作用であろう。高い広い理智的な額、眼窩《がんか》が深く落ち込んでいるため、蔭影《かげ》を作っている鋭い眼……それは人間の眼というより、鋼鉄細工とでもいった方が、かえって当を得るようだ。美術的高い鼻、強い意志を現わした、固く結ばれた大きな口……顔全体に威厳があった。着ている衣裳も美術的であった。しかしそれは日本服ではなく、阿蘭陀風《オランダふう》の服であった。それも船員の服らしく、袖口と襟とに見るも瞬《まば》ゆい、金モールの飾りがついていた。手には変った特色もない。ただ手首がいかにも太く、そうして指がいかにも長く、船頭の手などに見るような、握力の強そうな手であった。さて最後に足であるが、足は最も特色的であった。というのは右の足が、膝の関節《つけね》からなくなっているので、つまり気の毒な跛足《びっこ》なのであった。でズボンも右の分は、左の分よりは短かかった。
 彼は長椅子に腰かけていた。その長椅子も日本の物ではなく、やはりオランダかイスパニヤか、その辺の物に相違なかった。長椅子には毛皮がかけられていた。それは見事な虎の皮で、玻璃製《はりせい》の義眼が燈火に反射し、キラキラ光る有様は、生ける虎の眼そっくりであった。毛皮の上には短銃があった。それとて日本の種子ヶ島ではなく、やはり舶来の品らしかった。
 部屋はかなり広かった。そうして老人を囲繞《いにょう》して、珍奇な器具類が飾られてあった。縅《おどし》の糸のやや古びた、源平時代の鎧甲《よろいかぶと》、宝石をちりばめた印度風《インドふう》の太刀、磨ぎ澄ました偃月刀《えんげつとう》、南洋産らしい鸚鵡《おうむ》の剥製、どこかの国の国王が、冠っていたらしい黄金の冠、黒檀の机、紫檀の台、奈良朝時代の雅楽衣裳、同じく太鼓、同じく笛、大飛出《おおとびで》、小飛出、般若《はんにゃ》、俊寛《しゅんかん》、少将、釈迦などの能の面、黄龍を刺繍《ぬい》した清国の国旗、牧溪《ぼくけい》筆らしい放馬の軸、応挙筆らしい大瀑布の屏風、高麗焼きの大花瓶、ゴブラン織の大絨毯、長い象牙に豺《さい》の角、孔雀《くじゃく》の羽根に白熊の毛皮、異国の貨幣を一杯に充たした、漆塗りの長方形の箱、宝石を充たした銀製の箱、さまざまの形の古代仏像、青銅製の大香炉、香を充たした香木の箱、南蛮人の丸木船模型、羅針盤と航海図、この頃珍らしい銀の時計、忍び用の龕燈提灯《がんどうぢょうちん》、忍術用の黒小袖、真鍮製《しんちゅうせい》の大砲模型、籠に入れられた麝香猫《じゃこうねこ》、エジプト産の人間の木乃伊《みいら》、薬を入れた大小|黄袋《きぶくろ》、玻璃に載せられた朝鮮人参、オランダ文字の異国の書籍、水盤に入れられた真紅の小魚……もちろんいちいちそれらの物が、一巡見渡した銀之丞の眼に、理解されて映ったのではなかったけれど、しかし決して夢ではなく、まさしく「実在」として映ったのであった。

    奇妙な老人の奇妙な話

「いったいこの部屋は何んだろう? この老人は何者だろう?」銀之丞は茫然と、驚き呆れて佇んでいた。
 と、老人が声をかけた。
「待っていたのだ。よく来てくれた。ところでお前は本人かな? それともお前は代理かな?」
 いうまでもなくこの言葉は、銀之丞にはわからなかった。すると老人がまたいった。
「本人なら市之丞と呼ぼう。もし代理なら別の名で呼ぼう。黙っていてはわからない」
「いや」と銀之丞はようやくいった。「市之丞ではございません。そんな者ではございません。……」
「ふん、それなら代理だな。それは困った。代理は困る」
「全然話が違います。……刎ね橋が下ろされてありましたので……」
「そうさ、お前を迎えるために、わざわざ下ろして置いたのだ」
「いえ、それに小門の戸も……」
「いうまでもない、開けて置いたよ。それは最初からの約束だからな」
「……それでうかうか参りましたので」
「ナニうかうか? 不用心な奴だ」
「と、いいますのもその不用心を、ご注意しようと存じましてな。……」
「うん、それがいい、お互いにな。不用心は禁物だ。……で、お前は代理なのだな? やむを得ない、我慢しよう。……で、お前の名は何んというな?」
「さよう、拙者は銀之丞……」
「ナニ銀之丞? よく似た名だな。市之丞代理銀之丞か。なるほど、これは代理らしい。よろしい、話を進めよう」
「しばらく、しばらく。お待ちください!」
「えい、あわてるな! 臆病者め! ははあ、お前は恐れているな。いやそれなら大丈夫だ。家族の者は遠避けてある。そこで話を進めよう。だがその前にいうことがある、なぜお前達は俺を嚇した! あんな手紙を何故よこした! 何故この俺を強迫した!」
「俺は知らない!」と銀之丞は、とうとう怒って怒鳴りつけた。「人違いだよ、人違いなのだ」
「ナニ人違いだ? 莫迦をいえ! 今さら何んだ! 卑怯な奴だ! だがマアそれは過ぎ去ったことだ。蒸し返しても仕方がない。しかし俺はいっとくがな、以後強迫は一切止めろ! そんな事には驚かないからな。もちろん本当にもしないのさ。だがいうだけはいった方がいい。そう思って返辞はやった。何んのこの俺が決闘を恐れる! アッハハハ、莫迦な話だ。しかし話がつくものなら、そんな厭な血など見ずと、そうだ平和の談笑裡に、話し合った方がいいからな。で、返辞はやったのさ。そうして俺から指定した通り、ちゃんと小門も開けて置いたのさ。それでも感心に時間通りに来たな。よろしい、よろしい、それはよろしい。ふん、やっぱりお前達も、血を見るのは厭だと見える。あたりめえだ、誰だって厭だ。お互い命は大事だからな。粗末にしては勿体《もったい》ないからな。……よろしい、それでは話を進めよう。さて、お前達の要求だが、あれは全然問題にならない。あの要求は暴というものだ。まるっきり筋道が立っていない。いわば場違いというものだ。それに時効にもかかっている。オイ、大将、そうじゃないかな! だからあれは肯《き》くことはならぬ! とこうにべもなくいい切ったでは、お前達にしても納まりがつくまい。俺にしても気の毒だ。今夜の会見も無意味になる。後に怨みが残ろうもしれぬ。それではどうも面白くない。そこで少しく色気をつけよう。といってお前達に怖じ恐れて、妥協すると思うと間違うぞ! なんのお前達を恐れるものか! 昔ながらの九郎右衛門だ」

    胸に向けられた短銃の口

「俺には一切恐怖はない。恐怖を知らない人間なのだ。それはお前達も知ってるだろう。人の命を取ることなどは、屁とも思わぬ人間なのだからな。だから、それだから、そこを狙って、……いやいやそれはどうでもいい。お互い気取りや示威運動や、威嚇というような詰まらないものは、封じてしまわなければならないのだからな。……つまりお前達の境遇が――どうやら大分貧しいらしいな――それがおれには気の毒なので、そこで一片の慈悲心から、恵みを垂れるという意味で、俺の財産の幾分かを、分けてやろうとこう思うのだ。よいか、解ったか、解ったかな? アッハハハ、それにしてもだ、お前達の要求は大きかったな。みんなよこせというのだからな。それが正当だというのだからな。オイ大将よく聞くがいい。俺は正直な人間だ。決して仲間など裏切りはしない。嘘もなければ偽《いつわ》りもない。で分配はどこから見ても、一点の不公平もなかったのだ。三人ながら同じように、同じタカに分け合ったのだ。それを俺は上手に利用し、あるが上にもなお蓄《た》めた。それだのに一人藤九郎ばかりは、無考《むかんが》えにも使い果たしてしまった。そうして恐ろしく貧乏して貧乏の中に死んでしまった。それを伜の市之丞めが、何をどこから聞き込んだものか、俺だけ一人余分に取ったの、藤九郎を殺したのは俺だのと、それこそ途方もないいいがかりをつけ、あげくのはてには強迫して俺から財産を取ろうとする! 莫迦な話だ、とんでもないことだ! ……ところで俺の財産だが、大部分この部屋に集めてある。いやこれで一切だ。この外には一文もない。金につもったら大したものだ。五万や八万はあるだろう。で俺はこの中《うち》を、半分だけお前達にくれてやろう。勿体ないが仕方がない。昔の仲間の伜のことだ、貧乏させても置けないからな。……俺のいうことはこれで終えた。代理のお前ではわかるまい。帰って市之丞にいうがいい。そうして急いで返答しろ。どうだ、不足はあるまいがな。……や! 貴様どうしたんだ! 何をぼんやりしているんだ! おや、こいつめが、聞いていないな! いったい貴様は何者だ!」
 老人は突然怒号した。ようやく相手の若者が、怪しいものに見えて来たらしい。
「おれは観世銀之丞だ。おれは江戸の能役者だ」
 銀之丞はひややかにいった。老人の話しでその老人が、善人ではないということを、早くも直感したからであった。「気の毒だが人違いだ」
「ナニ観世だと? 能役者だと?」
 見る見る老人の眼の中へ、凄まじい殺気が現われた。つとその手が毛皮の上の、短銃の方へ延びて行った。
「では貴様は、あいつらではないのか? 市之丞の代理ではなかったのか?」
「その市之丞とかいう男、見たこともなければ聞いたこともない」
「しかし、しかし、それにしても、どうしてここへはいって来た?」
「それはもうさっきいった筈だ。小門が開いていたからよ」
「だが、指定した、こんな時刻に……」
「俺の知ったことではない。恐らくそれは暗合だろう」
「では、いよいよ人違いだな!」
「うん、そうだ、気の毒ながら」
「それだのに貴様は俺の話しを、黙ってしまいまで聞いてしまったな!」
「むやみとお前が話すからよ。俺は幾度もとめた筈だ」
「ふうむ、なるほど」と呻くようにいうと、九郎右衛門は眼を据えた。短銃を持った右の手がソロリソロリと上へ上がった。
「では、貴様は、生かしては帰せぬ!」
「そうか」と銀之丞は冷淡に「よかろう、一発ドンとやれ」
 ピッタリ短銃の筒口が、銀之丞の胸へ向けられた。絶息しそうな沈黙が、分を刻み秒を刻んだ。

    助太刀をしてくださるまいか

 と、ピストルがソロソロと、下へ下へと下ろされた。
「そんな筈はない。能役者ではあるまい」
「何故な?」と銀之丞は平然ときいた。
「素晴らしい度胸だ。能役者ではあるまい」
「嘘はいわぬ。能役者だ」
「そうか」
 と九郎右衛門は考えながら、
「無論剣道は学んだろうな?」
「うん、いささか、千葉道場でな」
「ははあ、千葉家で、それで解った」
 九郎右衛門は眼をとじた。どうやら考えに耽るらしい。と、パッと眼を開けると、にわかに言葉を慇懃《いんぎん》にしたが、
「いかがでござろう今夜のこと、他言ご無用に願いたいが」
 そこで銀之丞も言葉を改め、
「そこもと、それが希望なら……」
「希望でござる、是非願いたい」
「よろしゅうござる。申しますまい」
 二人はまたも沈黙した。
「さて、改めてお願いがござる」一句一句噛みしめるように、九郎右衛門はいい出した。「何んとお聞き済みくださるまいか」
「お話の筋によりましては。……」
「いかさまこれはごもっとも」
 九郎右衛門はまた眼をとじ、じっと思案に耽ったが、
「私、昔は悪人でござった。しかし今は善人でござる。……とこう申したばかりでは、あるいはご信用くださるまいが、今後ご交際くださらば、自然お解りにもなりましょう。ところが先刻不用意の間にうっかりお耳に入れました通り、私には敵がござる」
「どうやらそんなご様子でござるな」
「それがなかなか強敵でござる」
「それに人数も多いようでござるな」
「しかし恐ろしいはただ一人、金子市之丞と申しましてな、非常な小太刀の名人でござる」
「ふうむ、なるほど、さようでござるかな」
「それが徒党を引率して、最近襲撃して参る筈、ナニ私が壮健なら、ビクともすることではござらぬが、何を申すにも不具の躰、実は閉口しておるのでござる。そのため使者《つかい》を遣《つか》わして、今晩参って話し合うよう、その市之丞まで申し入れましたところ、その者は来ずに代りとして、あなたがお見えになられたような次第、もうこうなっては平和の間に折り合うことは不可能でござる。是が非でも戦わねばならぬ。ところで味方はおおかた召使い、太刀取る術さえ知らぬ手合い、戦えばわれらの敗けでござる。お願いと申すはここのこと、何んと助太刀してくださるまいか。侠気あるご仁と見受けましたれば、折り入ってお願い致すのでござる」
「ははあ、なるほど、よくわかってござる」
 銀之丞は腕をくんだ。「さてこれはどうしたものだ。自分は能役者で剣客ではない。それに当分剣の方は、封じることにきめている。それに見たところこの老人、善人とはいうがアテにはならぬ。その上相手の市之丞というは、小太刀の名人だということである。うかうか助太刀して切られでもしたら、莫迦《ばか》を見る上に外聞も悪い。これは一層断わった方がいいな。……だが両刀を手挾《たばさ》む身分だ、見込んで頼むといわれては、どうも没義道《もぎどう》に突っ放すことは出来ぬ。どうもこれは困ったぞ。……いや待てよ、この老人には、美しい娘があった筈だ。こんなことから親しくなり、恋でもうまく醸《かも》されようものなら、こいつとんだ儲けものだ。といって誘惑するのではないが、だが美人と話すのは、決して悪いものではない。第一生活に退屈しない。よしきた、一番ひき受けてやれ」
 そこで彼は元気よくいった。
「よろしゅうござる、助太刀しましょう」

    厳重を極めた邸の様子

「もうこうなりゃア謡なんか、どうなろうとままのかわ[#「ままのかわ」に傍点]だ。面白いのは恋愛だ! 恋よ恋よ何んて素敵だ!」
 これが銀之丞の心境であった。
 つまり彼は九郎右衛門の娘、お艶《つや》というのと恋仲になり、楽しい身の上となったのであった。
 だがしかし恋の描写は、もう少し後に譲ることにしよう。

 助太刀の依頼に応じてからの、観世銀之丞というものは、九郎右衛門の別荘へ、夜昼となく詰めかけた。
 彼の眼に映った別荘は、まことに奇妙なものであった。まずその構造からいう時はきわめて斬新奇異なもので、宅地の真ん中と思われる辺に、平屋造りの建物があった。一番広大な建物で、城でいうと本丸であった。ここには九郎右衛門の肉親と、その護衛者とが住んでいた。その建物の真ん中に、一つの大きな部屋があった。九郎右衛門の居間であった。あらゆる珍奇な器具類が、隙間もなく飾ってあった。すなわち過ぐる夜偶然のことから、銀之丞がこの家を訪れた時、呼び込まれたところの部屋であった。その部屋は四方厚い壁で、襖や障子は一本もなく、壁の四隅に扉を持った、四つの出入り口が出来ていた。そうして四つのその口からは、四つの部屋へ行くことが出来た。
 さてその四つの部屋であるが、東南にある一室には、九郎右衛門の病身の妻、お妙《たえ》というのが住んでいた。またその反対の西南の部屋には、娘のお艶が住んでいた。さらに東北の一室には、これも病身の伜の六蔵が、床についたままで住んでいた。最後の西北の一室には、別荘番の丑松と、護衛の男達が雑居していた。
 以上五つの部屋によって、本邸の一郭は形作られていたが、それら部屋部屋の間には、共通の警鐘《けいしょう》が設けられてあって、異変のあった場合には、知らせ合うことになっていた。
 この本邸を囲むようにして、独立した四つの建物があった。城でいうと出丸に当たった。これも低い平屋づくりで、本邸と比べては粗末であったが、しかし牢固《ろうこ》という点では、むしろ本邸に勝っていた。四つとも同じような建て方で、その特色とするところは、矢狭間《やざま》づくりの窓のあることと、四筋の長い廻廊をもって、本邸と通じていることとであった。そうして本邸との間には、共通の警鐘が設けられてあった。
 別荘の人達はこれらの建物を、四つの出邸《でやしき》と呼んでいた。この四つの出邸には、いずれも屈強な男達が、三十人余りもこもっていた。すなわち警護の者どもであった。
 なおこの他にも厩舎《うまごや》とかないしは納屋とか番小屋とか細々《こまごま》しい建物は設けられていたが目ぼしい物は見当たらなかった……構内を囲んだ堅固な土塀。土塀の外側の深い堀。堀にかけられた四筋の刎ね橋。そうして邸内至る所に、喬木が林のように立っていた。南にあるのが表門で、北にあるのが裏門であった。その裏門を半町ほど行くと、大洋の浪岩を噛む、岩石|峨々《がが》たる海岸であり、海岸から見下ろした足もとには、小さな入江が出来ていた。入江の上に突き出しているのが、象ヶ鼻という大磐石《だいばんじゃく》であった。

    観世銀之丞人数をくばる

「人数は全部で五十人、このうち女が十人いる。非戦闘員としてはぶかなければならない。九郎右衛門殿と六蔵殿とは、不具と病人だからこれも駄目だ。正味働けるのは三十八人だが、このうちはたして幾人が武術の心得があるだろう?」
 それを調べるのが先決問題であった。で、ある日銀之丞は、それらの者どもを庭に集めて、剣術の試合をさせて見た。準太、卓三、千吉、松次郎、そうして丑松の五人だけは、どうやら眼鼻がついていた。
「俺を加えて六人だけは、普通に働けると認めていい。よし、それではこの連中を、ひとつ上手に配置してやろう」
 そこで銀之丞は命令した。
「準太は八人の仲間《ちゅうげん》をつれ東南の出邸《でやしき》を守るがいい。卓三も八人の仲間をつれ東北の出邸を守るがいい。千吉も松次郎も八人ずつつれて、西北と西南の出邸とを、やはり厳重に守るがいい。俺と丑松とは二人だけで、邸の警護にあたることにしよう。……敵の人数は多くつもって[#「つもって」に傍点]、百人内外だということである。味方よりはすこし[#「すこし」に傍点]多い。しかし味方には別荘がある。この厳重な別荘は、優に百人を防ぐに足りる。で油断さえしなかったら、味方が勝つにきまっている。ところで夜間の警戒だが、各自《めいめい》の組から一人ずつ、屈強の者を選び出して、交替に邸内を廻ることにしよう。そうして変事のあったつど、警鐘を鳴らして知らせることにしよう。どうだ、異存はあるまいな?」
「なんの異存なぞございましょう」
 こうして邸内はその時以来、厳重に固められることとなった。
 親しく一緒に暮らして見て、九郎右衛門という人物がはじめの考えとは色々の点で、銀之丞には異《ちが》って見えた。彼には最初九郎右衛門が、足こそ気の毒な不具ではあるが、体はたっしゃのように思われた。ところが九郎右衛門は病弱であった。肥えているのが悪いのであり、血色のよいのがよくないのであった。彼は今日の病名でいえば、動脈硬化症の末期なのであった。いやそれよりもっと悪く、すでに中風の初期なのであった。
 それから銀之丞は九郎右衛門を、最初悪人だと睨んだものであった。しかしそれも異っているらしい。なかなか立派な人物らしい。敢為冒険《かんいぼうけん》の精神にとんだ、一個堂々たる大丈夫らしい。そうして珍奇な器具類や、莫大もない財産は、壮年時代の冒険によって、作ったもののように思われた。とはいえどういう冒険をして、それらの財産を作ったものかは、九郎右衛門が話さないので、銀之丞には解らなかった。
 それからもう一つ重大なことを、銀之丞は耳にした。というのは他でもない、九郎右衛門の財産なるものが、予想にも増して豪富なもので、別荘にあるところの財産の如きは、全財産から比べれば、百分の一にも足りないという、そういう驚くべき事実であって、そうしてそれを明かしたのは、別荘番の丑松であった。
「……つまりそいつをふんだくろうとして、市之丞めとその徒党が、ここへ攻め込んで来るんでさあ。が、そいつは見つかりッこはねえ。何せ別荘にはないんだからね。それこそ途方もねえ素晴らしいところに、しっかり蔵《しま》ってあるんだからね」
 その丑松はこの邸では、かなり重用の位置にいた。九郎右衛門も丑松だけには、どうやら一目置いているらしかった。年は三十とはいっているけれど、一見すると五十ぐらいに見え、身長《たけ》といえば四尺そこそこ、そうして醜いみつくちであった。
 彼はいつも象ヶ鼻の上から、入江ばかりを見下ろしていた。
 この家で一番の不幸者は、お艶の弟の六蔵であった。それは重い心臓病で、死は時間の問題であった。それに次いで不幸なのは、六蔵達の母であった。良人《おっと》の強い意志のもとに、長年の間圧迫され、精も根も尽きたというように、いつもオドオドして暮らしていた。

    妖艶たる九郎右衛門の娘

 この中にあってお艶ばかりは、太陽のように輝いていた。美しい縹緻《きりょう》はその母から、大胆な性質はその父から、いずれも程よく遺伝されていた。そうして彼女の美しさは、清楚ではなくて艶麗であった。もし一歩を誤れば、妖婦になり兼ねない素質があった。肉付き豊かなそのからだは、雪というより象牙のようで、白く滑らかに沢《つや》を持っていた。涼しい切れ長の情熱的の眼、いつも潤おっている紅い唇、厚味を持った高い鼻、笑うたびに靨《えくぼ》の出る、ムッチリとした厚手の頬……そうして声には魅力があって、聞く人の心を掻きむしった。
 いつぞや駕籠から顔を出し、ニッと銀之丞へ笑いかけたのは、このお艶に他ならない。
 そうして丑松をそそのかし、例の「あ」と「い」の紙飛礫《かみつぶて》を、投げさせたのも彼女であった。彼女にいわせるとその「あい」は、「愛」の符牒だということであった。つまり彼女は銀之丞に、一目惚れをしたのであった。そうしてそういう芝居染みた、大胆不敵な口説き方をして、思う男を厭応なしに、引き付けようとしたのであった。
 ところが人々の噂によると、その美しいお艶に対し、醜いみつくちの丑松が、恋しているということであった。これはもちろん銀之丞の心を、少なからず暗くはしたけれど、しかし信じようとはしなかった。「まさか」と彼は思うのであった。
 銀之丞ほどの人物も、お艶の美しさには勝てなかった。近代的の人間だけに、お艶のような変り種には、一層心を引き付けられた。強烈な刺戟、爛《ただ》れた美、苦痛にともなう陶酔的快楽! そういう物にあこがれる彼には、お艶のような妖婦型の女は、何よりも好もしい相手であった。
 で、彼は文字通り、恋の奴隷となり下がってしまった。
 やがて初冬がおとずれて来た。岸に打つ浪が音を高め、沖から吹いて来る潮風が、肌を刺すように寒くなった。銚子港の寂れる季節が、だんだん近寄って来たのであった。
 敵は襲って来なかった。で別荘は平和であった。無為《むい》の日がドンドンたって行った。
 とはいえその間怪しいことが、全然なかったとはいわれなかった。ある朝、どこから投げ込んだものか、一通の手紙が東側の、出邸の畔《ほとり》に落ちていた。書かれた文字は簡単で、「図面を渡せ」とあるばかりであった。でもちろん銀之丞には、なんのことだかわからなかった。だがしかし九郎右衛門には、恐らくその意味がわかったのであろう、さっとばかりに顔色を変えた。それから数日たった時、またも手紙が投げ込まれた。「鍵を渡せ」というのであった。
「いよいよ敵が逼《せま》って来た。警戒警戒、警戒しなければならない」
 九郎右衛門はこういった。しかしその後は変ったこともなく、またも無為に日が経った。と、またもや一通の手紙が邸の内に落ちていた。
「観世銀之丞よ。早く立ち去れ」
 こうその手紙には書いてあった。
 これには銀之丞も仰天したが、しかし恐れはしなかった。
「うん、面白い、張り合いがある」かえってこんなように思ったものであった。
 変な様子をした二、三人の者が、邸の周囲をさまよったり、夜陰堀の中へ石を投げたり、突然大勢の笑い声が、明け方の夢を驚かしたり、そういったような細々しい変事は、幾度となく起こっては消えた。
 だが攻めては来なかった。で、邸内の人々は、次第にそれに慣れて来た。だんだん油断をするようになった。
 お艶とそうして銀之丞との恋は、この間にも進歩した。
 ところで二人のその恋を、快く思わない人間が、邸の内に一人あった。醜い例の丑松で、彼は内々蔭へまわっては、二人の悪口をいうらしかった。しかし恋する二人にとっては、そんなことは苦にもならず、問題にしようともしなかった。
 こうしてまた日が経って、やがて初雪が降るようになった。

    深い深い水の底で重々しく開いた扉の音

 そのうちだんだん銀之丞に、ある疑問が湧くようになった。
「それにしてもゆうちょう[#「ゆうちょう」に傍点]な敵ではないか。いつ攻めて来るのだろう? それに邸内の人達も、変に最近ダレて来た。全体が一向真剣でない」
 一つの疑いは二つの疑いを呼ぶ。
「邸内の構造も不思議なものだ。どうもなんとなく気味がわるい。そういえば主人の九郎右衛門にも、変に隠すようなところがある。それに素晴らしい珍器異具、どうも少々異国的に過ぎる。若い時代の冒険によって、蒐集《しゅうしゅう》したのだといわれてみれば、そんなようにも思われるが、しかしそれにしても怪しいところがある。……わけても最も怪しいのは、象ヶ鼻という大磐石だ。決して人を近寄らせない。そうしていつも丑松めが、恐ろしい様子をして頑張っている」
 こう思って来ると何から何まで、怪しいもののように思われてならない。
「そういえば娘のお艶の恋も、大胆なようでよそよそしい」
 しまいには恋をまで疑うようになった。
「よし、ひとつ心を入れ替え、邸内の様子を探ることにしよう。」
 彼は態度を一変させた。この時までは全力を挙げて、邸のために尽くしたものであった。その時以来はそれとはあべこべに、自分をすっかり邸から放し、第三者として観察することにした。
 するとはたして心得ぬことが、続々として起こって来た。例えば深夜こっそりと、邸内多数の人間が、象ヶ鼻の方へ出て行ったり、ある夜の如きは燈火を点けない、大型の一隻の帆船が、どこからともなく現われて来て、象ヶ鼻の真下の小さい入江へ、こっそり碇《いかり》を下ろしたりした。
「怪しい怪しい」
 と、銀之丞は、いよいよその眼をそばだてた。
 しかしこれらはよい方であった。そのうちとうとう銀之丞は、恐ろしいことを発見した。
 というのは他でもない。四つの出邸を繋いでいる廊下が、十字形をなしていることであった。
「おおこれは十字架の形だ!」
 つづいて連想されたのは、ご禁制|吉利支丹《キリシタン》のことであった。
「ううむ、それではこの邸は、邪教の巣窟ではあるまいか」
 さすがの彼もゾッとした。
「これは大変だ。逃げなければならない」
 しかし逃げることは出来なかった。
 出邸にこもった数十人の者が、夜も昼も警戒していた。
「ああこれこそ自縄自縛だ。出邸に人数を配ったのは、他でもないこの俺だ。その人数に見張られるとは、なんという矛盾したことだろう」
 止どまっていることは破滅であった。しかし脱出は不可能であった。ではいったいどうしたらいいのか?

 銀之丞の様子の変ったことに、彼らが気づかない筈がない。
 ある夜丑松と九郎右衛門とが、九郎右衛門の部屋で囁《ささや》いていた。
 何をいったい囁き合ったのか? 何をいったい相談したのか? それは誰にもわからなかった。とはいえ、いずれ恐ろしいことが、囁きかわされたに相違ない。その証拠にはその夜以来、銀之丞の姿が見えなくなった。空へ消えたのか地へ潜ったのか、忽然姿が消えてしまった。
 しかも邸内誰一人として、それを怪しんだものがない。もっとも彼らはその夜遅く、金属製の大きな戸が、深い深い水の底で、重々しく開くような音を聞いた。
 が、誰一人それについて、噂しようともしなかった。
 で、邸内は平和であった。無為《むい》に日数が経って行った。
 全く不思議な邸ではある。
 だが銀之丞はどうしたのだろう? いずれは恐ろしい運命が、彼を見舞ったに相違ない。はたして生きているだろうか? それとも死んでしまっただろうか? 死んだとしたら殺されたのであろう。
 可哀そうな彼の運命よ!
 だが私の物語は、ここから江戸へ移らなければならない。

    家斉《いえなり》将軍と中野|碩翁《せきおう》


    赤い格子に黒い船
    ちかごろお江戸は恐ろしい

 こういう唄が流行《はや》り出した。
 十数年前にはやった唄で、それがまたもやはやり出したのであった。
 恐ろしい勢いで流行し、柳営にまで聞こえるようになった。
 時の将軍は家斉《いえなり》であったが、ひどくこの唄を気にかけた。
「不祥の唄だ、どうかしなければならない」
 こう侍臣に洩らしさえした。侍臣達はみんな不思議に思った。名に負う将軍家斉公ときては、風流人としての通り者であった。どんなはやり唄がはやろうと、気にかけるようなお方ではない。ところがそれを気にかけるのであった。
「珍らしいことだ。不思議だな」こう思わざるを得なかった。
 ある日お気に入りの中野碩翁《なかのせきおう》が、ご機嫌うかがいに伺候した。
「おお播磨か、機嫌はどうだな」将軍の方から機嫌をきいた。
「変ったこともございませんな」
 碩翁の方でも友人づきあいであった。
 この二人の仲のよさは、当時有名なものであった。というのも碩翁の養女が、将軍晩年の愛妾だからで、もっとも碩翁その人も一個変った人物ではあった。才智があって大胆で、直言をして憚らない。そうして非常な風流人で、六芸十能に達していた。だから家斉とはうま[#「うま」に傍点]があった。で二人の関係は主従というよりも友達であった。
 身分は九千石の旗本で、たいしたものではなかったが、その権勢に至っては、老中も若年寄もクソを喰らえで、まして諸藩の大名など、その眼中になかったものである。
 したがって随分わがままもした。市井の無頼漢《ぶらいかん》を贔屓《ひいき》にしたり、諸芸人を近づけたりした。いわゆる一種の時代の子で、形を変えた大久保彦左衛門、まずそういった人物であった。
 賄賂《わいろ》も取れば請託《せいたく》も受けた。その代わり自分でも施しをした。顕職を得たいと思う者が、押すな押すなの有様で、彼の門を潜ったそうだ。
 悪さにかけても人一倍、善事にかけても人一倍、これが彼の真骨頭であった。恐れられ、憚られ、憎まれもした。とまれ清濁併せ飲むてい[#「てい」に傍点]の、大物であったことは疑いない。
「お前、聞いたろうな、あの唄を」家斉は早速いい出した。
「お前あいつをどう思うな?」
「厄介《やっかい》な唄でございますな」碩翁はこうはいったものの、厄介らしい様子もない。
「十数年前にはやった唄だ」
「そんな噂でございますな」
「海賊赤格子をうたった唄だ」
「ははあさようでございますかな」碩翁はちゃんと知っているくせに、知らないような様子をした。これが老獪なところであった。家斉をしていわせようとするのだ。
「そうだよ赤格子を唄った唄だよ。あの海賊めがばっこ[#「ばっこ」に傍点]した、十数年前にはやった唄だ」
「海賊の上に邪教徒だったそうで」
「うん、そうだ、吉利支丹だったよ」
「ただし噂によりますと、なかなか大豪《だいごう》の人間だったそうで」
「それに随分と学問もあった。吉利支丹的の学問がな」
「つまり魔法でございますかな」
「いいや、違う、その反対だ」
「反対というと? ハテ何んでしょうな?」
「実際的の学問なのさ。うん、そうだ科学とかいった」
「科学? 科学? こいつ解らないぞ」
「建築術なんかうまかったそうだ」
「建築術? これは解る」
「それから色々の造船術」
「造船術? これもわかる」
「それから色々の製薬術」
「製薬術? これもわかる」
「大砲の製造、火薬の製造、そういう物もうまかったそうだ」
「恐ろしい奴でございますな」
「学問があって大豪で、それで海賊というのだから、随分ととらえるには手古摺《てこず》ったものだ」
「それはさようでございましょうとも」
「その上神出鬼没と来ている」
「さすがは名誉の海賊で」
「何しろ船が別製だからな」
「自家製造の船なのでしょうな」
「うん、そうだ、だから困ったのさ。……その上、いつも日本ばかりにはいない」
「ははあ、海外を荒らすので」
「支那、朝鮮、南洋諸島……」
「痛快な人間でございますな」
「海賊係りの役人どもも、これには全く手古摺ったものだ」
「それでもとうとう大坂表で、とらえられたそうでございますな」
「大坂の役人めえらいことをしたよ」
「どうやら万事大坂の方が、手っ取り早いようでございますな」
「莫迦《ばか》をいえ、そんなことはない」
 家斉はここで厭な顔をした。
「で、さすがの大海賊も、処刑されたのでございますな」
「ところが」と家斉は声をひそめ、「それがそうでないのだよ」
「それは不思議でございますな」これは碩翁にも意外であった。
「もっとも訴訟の面《おもて》では、処刑されたことになっている」
「では、事実は異いますので」
「きゃつ[#「きゃつ」に傍点]は今でも生きている筈だ」
「とんと合点がいきませんな」
「というのは外でもない。命乞いをした人間がある」
「しかし、さような大海賊を。……」いよいよ碩翁には意外であった。
「いや、さような海賊なればこそ、命乞いをしたのだよ」
「とんと合点がいきませんな」
「とまれきゃつ[#「きゃつ」に傍点]は生きている筈だ」

    文庫から出した秘密状

「恐ろしいことでございますな」
「ただし南洋にいる筈だ。いや、いなければならない筈だ」
「ははあ、南洋にでございますか」
「国内に置いては危険だからな」
「申すまでもございません」
「しかるにきゃつめ、最近に至って、日本へ帰って来たらしい」
「どうしてお解りでございますな」
「赤い格子に黒い船……こういう唄がはやっているからよ。……それにこの頃犬吠付近で、よく荷船が襲われるそうだ」
「それは事実でございます」
「だから、俺は、そう睨んだのさ」
「こまったことでございますな」
「どうでもこれはうっちゃっては置けぬ」
「なんとか致さねばなりますまい」
「きゃつがこの世に生きているについては、この家斉、責任がある」
「これはこれはどうしたことで」碩翁すっかり面喰らった。
「きゃつの命を助けたのは、他でもない、このおれだ」
「あなた様が? これはこれは!」
「おれはその頃は野心があった。海外に対する野心がな。で、きゃつを助けたのさ。その素晴らしい科学の力、その素晴らしい海外の知識、それをムザムザ亡ぼすのが、おれにはどうにも惜しかったからな」
「これはごもっともでございます」
「で、南洋へ追いやったのさ、ただし、その時約束をした」
 手文庫をあけて取り出したのは、文字を書いた紙であった。
「これがきゃつの書いたものだ」
「ははあ、なんでございますな?」
「民間でいう書証文《かきしょうもん》だ」
「妙なものでございますな」
「これをきゃつに見せてやりたい」
「何かの役に立ちますので」
「きゃつがほんとうの勇士なら、赤面するに相違ない。そうして日本を立ち去るだろう」
「手渡すことに致しましょう」
「だが、どうして手渡したものか」
「きゃつの根拠を突き止めるのが、先決問題かと存じます」
「だが、どうして突き止めたものか」
「海賊係りを督励《とくれい》し……」
「駄目だよ、駄目だよ、そんなことは」
 駄々っ子のように首を振った。
「まさか海賊の張本へ、俺から物を渡すのに、幕府の有司は使えないではないか」
「これはいかにもごもっともで」
「どうだ、民間にはあるまいかな?」
「は、なんでございますか?」
「忍びの術の名人とか、それに類した人物よ」
 碩翁はしばらく考えたが、ポンと一つ手を拍《う》った。
「幸い一人ございます」
「おおあるか、何者だな?」
「郡上平八と申しまして、与力あがりにございます」
「うん、そうか、名人かな」
「探索にかけては当代一人、あだ名を玻璃窓と申します」
「ナニ、玻璃窓? どういう意味だ?」
「ハイ、見とおしの別名で」
「見とおしだから玻璃窓か、なるほど、これは名人らしい」
「命ずることに致しましょう」
「俺からとあっては大仰になる。お前の名義で頼んでくれ」
「その点|如才《じょさい》はございません」
 やがて碩翁は退出した。
 退出はしたが碩翁は、少なからず肝をひやした。いかに我がままが通り相場とはいえ、国家を毒する大賊を、将軍たるものが助けたとあっては、上《かみ》ご一人に対しても、下《しも》万民に対しても、申し訳の立たない曲事であった。
「これが世間へ洩れようものなら、どんな大事が起ころうもしれぬ。早く手当をしなければならない」――で倉皇《そうこう》として家へ帰った。

    ようやくわかった切り髪の女

「旦那お家でござんすかえ」
 ご用聞きの松五郎が、こういいながら訪ねて来たのは、その同じ日の午後のことであった。「おお小松屋か、こっちへはいれ。……どうだ、大分寒くなったな」
 玻璃窓の平八は炬燵の上で、市中図面を見ていたが、物憂そうに声をかけた。
「へい、有難う存じます。ではご免を蒙《こうむ》りまして。おや何かお調べ物で?」
「ナーニ江戸の図面だよ。俺《わし》も近頃は暇だからな、所在なさに見ているやつさ」
「お暇は結構でございますな」「やむを得ない暇なのさ」「やむを得ないはいけませんな」
 すると平八は苦笑したが、「俺もこの頃はヤキが廻ったよ。どうも一向元気がない」「いよいよもっていけませんな」「と、いうのもあの事件|以来《から》だ」「鼓賊からでございますかな?」
 すると平八は頷いたが、「こう目星が外れては、俺もねっから[#「ねっから」に傍点]値打ちがないよ」
「実はね、旦那。その事について、よい耳をお聞かせにあがったんで」小松屋松五郎は膝を進めた。
「ふうん、そうかい、そいつは有難いね」
「旦那、目星がつきましたよ。切り髪女の目星がね」
「ほほう、そいつは耳よりだな」平八の顔は輝いた。「で、もちろん小屋者だろうな?」
「へい、両国の女役者で」
「そいつは少し変じゃないか。両国橋の小屋者なら、とうに悉皆《しっかい》洗ってしまった筈だ」
「ところが最近別の一座が、新規に掛かったのでございますよ」
「ううむ、そうか、そいつは知らなかった」
「旦那としてはちょっと迂濶《うかつ》だ」
「まさに迂濶だ、一言もない。それというのもこの事件では、気を腐らせていたからさ。……ひとつ詳しく話してくれ」
「ところが旦那、詳しいところは、まだわかっていませんので。実はこうなのでございますよ。……それもきのうのひるすぎですが、ちょっと野暮用がありましてね、両国を通ったと覚し召せ。ふと眼についた看板がある。わっち[#「わっち」に傍点]はおや[#「おや」に傍点]と思いやした。その芸題《げだい》が面白いので、『名人地獄』とこういうのですよ……わっちはそこで猶予《ゆうよ》なく、木戸を潜って覗いたものです。あッとまたそこで驚ろかされました。何んとその筋が大変物なので。そっくり鼓賊じゃありませんか」
「ナニ鼓賊? 鼓賊がどうした?」平八はグッと眼を据えた。
「へい、そっくり鼓賊なので、いや全く驚きやした」「頼む、筋立てて話してくれ」「順を追って申しましょう。序幕は信州追分宿、そこに旅籠《はたご》がございます。何んとかいったっけ、うん油屋だ。その油屋に江戸の武士が、二人泊まっているのですね。その一人が能役者で、そうして鼓《つづみ》の名人なので。すると隣室に商人がいます。すなわち鼓賊の張本なので」「ふうん、なるほど。それからどうした?」「いろいろ事件があった後で、鼓を盗むのでございますよ。そこで幕が締まります」「ふうん、なるほど、それからどうした?」「で、また幕がひらきます。すると大江戸の夜景色で」「まだるっこいな。それからどうした?」「さあそれからは話し悪《にく》い」松五郎は妙にこだわった。
「どうしたんだ? 何が話しにくい。気取らずにサッサと話してくれ」「ようがす、思い切って話しましょう。つまりなんだ、その鼓賊と、あるやくざな与力あがりとが、競争するのでございますな。ところでいつも与力あがりの方が、カスばかり食わされるのでございますよ。それがまた途方もなく面白いので」「なるほど、そいつは面白そうだな」
 こうはいったが平八は、苦く笑わざるを得なかった。

    名人地獄! 名人地獄!

「ふん、それからどうしたな?」平八は先をうながした。
「……で、おおかた筋といえば、そういったものでございますがね、どうもつくりがあくどいので。へへへへ、全くあくどいや」「なんだい、いったいつくりとは?」「へい役者のつくりなので」
「役者のつくりがどうしたんだ?」「こればっかりは申されません。旦那ご自分でごらんなすって」
 小松屋松五郎はこういうと、何かひどく気の毒そうに、クックックッと含み笑いをした。
「で、座頭《ざがしら》は何んというんだ?」
「阪東米八といいますので」
「そいつが切り髪の女なのか?」「へい、さようでございます。滅法《めっぽう》仇《あだ》っぽい美《い》い女で、阪東しゅうかの弟子だそうです」
「鬘《かつら》を着けていたひにゃア、切り髪なんかわかるまいに、どうしてお前は探ったな?」「いえ、そいつはこうなので、見物の中に見巧者がいて、噂をしたのでございますよ」「ほほう、なるほど、どんな噂だな?」「なんでも今年の春のこと、旦那というのに髪を切られ、世間に顔向けが出来ないので、それでずっと休んでいたのが、今度旦那から金を取り、自分が座頭で一座を作り、打って出たのだとこういうので」「これは筋道が立っているな。いかさまこいつはいい[#「いい」に傍点]耳で、知らせてくれて有難い。ゆっくり茶でも飲んで行きな」
 一つ二つ世間話があって、やがて松五郎は帰って行った。その後から平八も、仕度《したく》をして家を出た。
 さすがの玻璃窓の平八も、鼓賊ばかりには手古摺っていた。鼓の音を目あてとして、尋ねあぐんだそのあげく、うまく池ノ端で探りあてたはいいが、湯島天神へ追い込んで、さていよいよ捉えてみると、何んのことだ観世銀之丞! それ以来方針を一変し、髪を切られた小屋者はないかと、その方面から探ることにしたが、ねっから目星しい獲物もなかった。で、すっかり悄気《しょげ》返り、「鼓賊はどうでも俺の苦手だ。ひどい間違いのないうちに、手を引いた方がよさそうだ」などと思いあぐんでいたところであった。
 で、松五郎の話にも、大して気乗りしてはいないのであった。「どうせアブレるに違いない、今度アブレたらそれを機会に、一切探索にはたずさわるまい。頭を丸めて法衣を着て、高野山へでも登ってやろう。ああああ浮世は面白くねえ」
 こんなことを思いながら、彼はポツポツ歩いて行った。
 阪東米八の掛け小屋は、かなり立派で大きかった。絵看板も美しく、「名人地獄」と記した文字も、躍り出しそうに元気がよい。
 しばらく見ていた平八は、木戸を潜って内へはいった。
 ギッシリ見物が詰まっていた。そうして幕が開いていた。上野山下池ノ端、美しい夜景が展開されていた。と、一人の人物が、鼓を打ちながら現われた。縦縞の結城紬《ゆうきつむぎ》、商人じみた風采であった。
「ははあこいつが鼓賊だな」
 平八は口の中で呟いた。と、もう一人の人物が、それを追いながら走り出た。古ぼけた紋服、古ぼけた袴、年の頃は五十四、五、皺の寄った痩せた顔、郡上平八そっくりであった。
「ううん、さてはこいつだな、松五郎めがいいにくそうに、あくどいつくりだといったのは! いかにもこれはあくど過ぎる。だが、それにしても不思議だな。どうして俺と鼓賊とが、あの晩湯島と池ノ端とで、追いつ追われつしたことを、この役者達は知っているのだろう? これではまるでこの俺を、からかっているとしか思われない」
 奥歯を噛みしめ、こぶしを握り、平八はブルブル身ぶるいをした。
 と、その時、鼓の音が、一きわ高く打ち込まれた。

    さすがの玻璃窓行きづまる

 聞き覚えある鼓であった。忘れられようとしても忘れない、例の鼓の音であった。
 ポンポンポン! ポンポンポン!
 あたかも彼を嘲笑うように、舞台一杯に鳴り渡った。
「これはいけない」と平八は、思わず耳を手で抑えた。「こんな筈はない。こんな筈はない。こんなところで、あの鼓が、こんなにおおっぴらに鳴る筈がない! どうかしている、俺の耳は!」
 いやいや決して彼の耳が、どうかしているのではないのであった。間違いもなくあの鼓が、元気よく鳴り渡っているのであった。
 もう見ているに耐えられなかった。で、平八は小屋を出た。これは実際彼にとっては、予期以上の痛事《いたごと》であった。
 打ち拉《ひし》がれた平八は、両国橋の方へ辿って行った。雪催《ゆきもよ》いの寒い風が、ピューッと河から吹き上がった。「おお寒い」と呟いたとたん、彼の理性が回復された。橋の欄干へ体をもたせ、河面へじっと眼をやりながら、彼は考えをまとめようとした。
「何んでもない事だ、何んでもない事だ」彼は自分へいい聞かせた。「あらゆる浮世の出来事は、成るようにして成ったものだ。不合理のものは一つもない。よし、一つ考えてみよう。……最初に鼓を聞いたのは、今年の春の雪の夜で、そうしてその場に落ちていたのは、鬘下地の切り髪であった。で、切り髪と鼓とは、深い関係がなければならない。さて、ところで、鼓の音を、二度目に俺が聞いたのは、池ノ端の界隈であった。そうしてその時は鼓賊めが、確かに鼓を打っていた筈だ。しかしいよいよとらえてみれば、能役者観世銀之丞であった。ううむ、こいつが判らない」
 ここまで考えて来て平八は、行きづまらざるを得なかった。
 彼の考えを押し詰めて行けば、能役者観世銀之丞が、鼓賊でなければならなかった。
「いやいや断じてそんなことはない」
 ぼやけた声でこういうと、彼はトボトボとあるき出した。彼はスッカリまいってしまった。精も根も尽きてしまった。

 その日も暮れて夜となった時、彼は自宅へ帰って来た。と、全く意外なことが、彼の帰りを待ちかまえていた。
 碩翁様からの使者であった。
「はてな?」
 と彼は首を傾《かし》げた。
 役付いていた昔から、碩翁様には一方ならず、彼は恩顧を蒙っていた。役目を引いた今日でも、二人は仲のよい碁敵《ごがたき》であった。
「わざわざのお使者とは不思議だな」
 怪しみながら衣服を改め、使者に伴われて出かけて行った。

 彼が自宅へ帰ったのは、夜もずっと更けてからであったが、彼はなんとなくニコツイていた。ひどく顔にも活気があった。
 彼は家の者へこんなことをいった。
「俺はあすから旅へ出るよ。鼓賊なんか七里けっぱい[#「けっぱい」に傍点]だ。もっともっと大きな仕事が、この俺を待っているのだからな。」

    南無幽霊頓証菩提

 隅田のほとり、小梅の里。……
 十一月の終り頃。弱々しい夕陽が射していた。
 竹藪でしずれる[#「しずれる」に傍点]雪の音、近くで聞こえる読経の声、近所に庵室《あんしつ》でもあるらしい。
 古ぼけた百姓家。間数といっても二間しかない。一つの部屋に炉が切ってあった。
 雪を冠った竹の垣、みすぼらしい浪人のかり住居。……
 美男の浪人が炉の前で、内職の楊枝《ようじ》を削っていた。あたりは寂然《しん》と静かであった。
「少し疲労《つか》れた。……眼が痛い。……」
 茫然と何かを見詰め出した。
「ああきょうも日が暮れる」
 また内職に取りかかった。
 しずかであった。
 物さびしい。
 ポク、ポク、ポク、と、木魚の音。……
 夕暮れがヒタヒタと逼って来た。
 隣りの部屋に女房がいた。昔はさこそと思われる、今も美しい病妻であった。これも内職の仕立て物――賃仕事にいそしんでいた。
 ふと女房は手を止めた。そうして凝然と見詰め出した。あてのないものを見詰めるのであった。……が、またうつむいて針を運んだ。
 サラサラと雪のしずれる音。すっかり夕陽が消えてしまった。ヒタヒタと闇が逼って来た。
 浪人は一つ欠伸《あくび》をした。それから内職を片付け出した。
 と、傍らの本を取り、物憂そうに読み出した。あたりは灰色の黄昏《たそがれ》であった。
「何をお読みでございます?」
「うん」といったが元気がない。「珍らしくもない、武鑑《ぶかん》だよ」
 二人はそれっきり黙ってしまった。
 と、浪人が誰にともつかず、
「どこぞへ主取りでもしようかしらん」
 しかし女房は返辞をしない。
 浪人は武鑑をポンと投げた。
「だが仕官は俺には向かぬ」
「それではおよしなさりませ」女房の声には力がない。むしろ冷淡な声であった。
「やっぱり俺は浪人がいい」浪人の声にも元気がない。
 女房は黙って考えていた。
 また雪のしずれる音。……
「その仕立て物はどこのだな?」
「お隣りのでございます」
「隣りというと一閑斎殿か」
 女房は黙って頷《うなず》いた。
 すると浪人は微笑したが、それから物でも探るように、
「あのお家は裕福らしいな?」
「そんなご様子でございます」
「ふん」と浪人は嘲笑った。「昔の俺なら見遁がさぬものを……」
 ――意味のあるらしい言葉であった。気味の悪い言葉であった。
 ここで二人はまた黙った。
 と、浪人は卒然といった。
「俺はすっかり変ってしまった」嘆くような声であった。
「妾《わたし》も変ってしまいました」女房の声は顫えていた。
「俺は自分が解らなくなった。……それというのもあの晩からだ」
 女房は返辞をしなかった。返辞の代りに立ち上がった。
「これ、どこへ行く。どうするのだ」
「灯でもとも[#「とも」に傍点]そうではございませんか」
 やがて行燈がともされた。茫《ぼう》っと立つ黄色い灯影《ほかげ》に、煤びた天井が隈取《くまど》られた。
 と、女房は仏壇へ行った。
 カチカチという切り火の音。……
 ここへも燈明が点《とも》された。
「南無幽霊頓証菩提《なむゆうれいとんしょうぼだい》。南無幽霊頓証菩提」
 ブルッと浪人は身顫いをした。
「陰気な声だな。俺は嫌いだ」
「南無幽霊頓証菩提」
「その声を聞くと身が縮《すく》む」
「どうぞどうぞお許しください。どうぞどうぞお許しください」
「止めてくれ! 止めてくれ!」
「妾はこんなに懺悔しています。どうぞ怨んでくださいますな」
 ザワザワと竹叢《たけむら》の揺れる音。……
 どうやら夜風が出たらしい。

    悪人同志の夫婦仲

「俺の心は弱くなった。それというのもあの晩からだ。……憎い奴は平手造酒だ!」
 なお女房は祈っていた。
 ザワザワと竹叢の揺れる音。……
 次第に夜が更けて行った。
「天下の金は俺の物だ。斬り取り強盗武士の習い。昔の俺はそうだった。……両国橋の橋詰めで、あいつに河へ追い込まれてからは、何彼《なにか》につけて怖じ気がつき、やることなすこと食い違い……」
 なお女房は祈っていた。
 やがてそろそろと立ち上がると、おっと[#「おっと」に傍点]の側へ膝をついた。
 そうして何かを聞き澄まそうとした。しかし何んにも聞こえない。
「ああ」と襟を掻き合わせたが、「まだ今夜は聞こえて来ない。どうぞ聞こえて来ないように」
 チェッと浪人は舌打ちをした。
「毎晩きこえてたまるものか。なんの毎晩きこえるものか」
「毎晩きこえるではございませんか。ゆうべも、おとついも、その前の晩も。……」
「あれは……あれはな……空耳だ」
「なんの空耳でございましょう。あなたにも聞こえたではございませんか」
 二人は顔をそむけ合った。
「……あれはな、亡魂の声ではない。……たしかに人間の声だった」
 しかし女房は首を振った。
「あの人の声でございました。何んの妾《わたし》が聞き違いましょう。……」
 近くに古沼でもあるとみえて、ギャーッと五位鷺《ごいさぎ》の啼く声がした。
 と、それと合奏するように、シャーッ、シャーッという狐の声が、物さびしい夜を物さびしくした。ホイホイホイ、ホイホイホイ、墨堤《つつみ》を走る駕籠であった。
 二人はもはや物をいわない。
 物をいうことさえ恐れているのだ。
 行き詰まった二人の心持ち! しかも生活までも行き詰まっていた。
 二人はいつまでも黙っていた。黙っていても不安であった。物をいっても不安であった。いったいどうしたらいいのだろう?
 と、浪人はうめくようにいった。
「それにしても俺には解らない。……あんなものが! 馬方が! ふん、あんな馬子の唄が、そうまでお前の心持ちを……」
「魅入られているのでございます」
「魅入られていると? いかにもそうだ! ああそれも、昔からだ!」
「あんな男と思いながら……それも死んでいる人間だのに……一度あの唄が聞こえて来ると、急に心が狂わしくなり、体じゅうの血が煮えかえり……生きている空とてはございません」
 女は髪を掻きむしろうとした。
「因果な俺達だ。救いはない」
 憐れむような声であった。
 ふと、笑い声が聞こえて来た。この場に不似合いな笑い声であった。それを耳にすると二人の心は、一瞬の間晴々しくなった。
「なにか取り込みでもあるらしいな」
「ご客来だそうでございます。……能面をおもとめなされたそうで」
「ふん、それを見せるのか」
「お知り合いのお方をお呼びして」
「勝手なものだ。金持ちは」ギラリと浪人は眼を光らせた。「お北!」と相手の眼を見ながら、
「昔のお前に返る気はないかな?」
 女房は凝然と動こうともしない。
「たかが相手はオイボレだ。……お前にぞっこん参っているらしい。……女中が去った、手伝いに来い。……などとお前をよぶではないか……急場のしのぎだ。格好な口だ」

    亡魂のうたう追分節

「妾はイヤでございます」
「今の俺達は食うにも困る。それはお前も知っている筈だ。……なにもむずかしいことはない。ただ、笑って見せてやれ」
「昔の妾でございましたら……」
「俺から頼む、笑って見せてやれ」
「妾には出来そうもございません」
「そこを俺が頼むのだ」
「…………」
「ではいよいよ不承知か! そういうお前は薄情者か!」
 ポキリポキリと枯れ枝を折り、それを炉の火へくべ[#「くべ」に傍点]ながら、美男の浪人はいいつづけた。
「落ち目になれば憐れなものだ。女房にさえも馬鹿にされる。その女房とはその昔、殺すといえば殺されましょうと、こういい合ったほどの仲だったのに。が、それも今は愚痴か」
 浪人はムッツリと腕をくんだ。
「俺はお前と別れようと思う」浪人は憎々《にくにく》しくやがていった。「くらしが変れば心持ちも変る。……俺は成りたいのだ、明るい人間にな」
 女は肩をすくませた。
「それがあなたに出来ましたら……」
「別れられないとでも思うのか」
「あなたも妾も二人ながら、のろわれている身ではございませんか。二人一所におってさえ、毎日毎夜恐ろしいのに。……それがあなたに出来ましたら」
 夜がふけるにしたがって、隣家の騒ぎもしずまった。笑い声もきこえない。
 ボーンと鐘が鳴り出した。諸行無常の後夜《ごや》の鐘だ。
「酒はないか?」と浪人はいった。
「なんの酒などございましょう」
 きまずい沈黙が長くつづいた。耳を澄ませば按摩の笛。それに続いて夜鍋うどんの声……。
「こんな晩には寝た方がよい。ああせめてよい夢でも。……」
 枕にはついたが眠れない。
 犬の遠吠え、夜烏の啼《な》く音《ね》、ギーギーと櫓を漕ぐ音。……隅田川を上るのでもあろう。
 寂しいなアと思ったとたん、
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西は追分東は関所……
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 追分の唄が聞こえて来た。
「あッ」
 というと二人ながら、ガバと夜具の上へ起き上がった。
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関所越えれば旅の空
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「あなた!」と女房は取り縋った。
「うむ」といったが、耳を澄ました。
「あの唄声でございます!」
「いやいやあれは……人間の声だ!」
「甚三の声でございます!」
「そっくりそのまま……いや異う!」
「亡魂の声でございます!」
「待て待て! しかし似ているなア」
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碓井《うすい》峠の権現さまよ……
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 だんだんこっちへ近寄って来た。
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わしがためには守り神
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 もう門口へ来たらしい。
 浪人は刀をツト握った。そっと立つと夜具を離れ、足を刻むと戸口へ寄った。
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追分、油屋、掛け行燈に
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 聞き澄まして置いて浪人は、そろそろと雨戸へ手をかけた。
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浮気ごめんと書いちゃない
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「うん」というとひっ外した。抜き打ちの一文字、横へ払った気合いと共に、跣足《はだし》[#「跣足」は底本では「洗足」]で飛び下りた雪の中、ヒヤリと寒さは感じたが、眼に遮る物影もない。

    忽然響き渡る鼓の音

 今年の最初の雪だというに、江戸に珍らしく五寸も積もり、藪も耕地も白一色、その雪明りに照らされて、遠方《おちかた》朦朧《もうろう》と見渡されたが、命ある何物をも見られなかった。
 行燈の灯が消えようとした。
 その向こう側に物影があった。
「誰!」
 といいながら隙《す》かして見たが、もちろん誰もいなかった。で、女房は溜息をした。
 鼬《いたち》が鼠を追うのであろう、天井で烈しい音がした。バラバラと煤が落ちて来た。
 すると今度は浪人がいった。
「肩から真っ赤に血を浴びて、坐っているのは何者だ!」
 そうして行燈の向こう側を、及び腰をして透かして見たが、
「ハ、ハ、ハ、何んにもいない」
 空洞《うつろ》のような声であった。
 二人はピッタリ寄り添った。しっかり手と手が握られた。二人に共通する恐怖感! それが二人を親しいものにした。
 冬なかばの夜であった。容易なことでは明けようともしない。丑満《うしみつ》には風さえ止むものであった。鼠も鼬も眠ったらしい。塵の音さえ聞こえそうであった。
 と、その時、ポン、ポン、ポンと、鼓《つづみ》の音が聞こえて来た。
 聞き覚えのある音であった。追分で聞いた鼓であった。江戸の能役者観世銀之丞が、追分一杯を驚かせて、時々調べた鼓の音だ。いいようもない美音の鼓、どうしてそれが忘られよう。
 しかし打ち手は異うらしい。正調でもなければ乱曲でもない。それは素人の打ち方であった。
 しかも深夜の静寂を貫き、一筋水のように鳴り渡った。
 誰が調べているのだろう? 何んのために調べているのだろう? それも厳冬の雪の戸外で!
 ポン、ポン、ポン!
 ポン、ポン、ポン!
 一音、一音が一つ一つ、冬夜の空間へ印を押すように、鮮やかにクッキリと抜けて響いた。
 と、鼓は鳴り止んだ。
 二人はホーッと溜息をした。
 鼓の鳴り止んだその後は、鳴る前よりも静かになった。鳴る前よりも寂しくなった。
 そうして凄くさえ思われた。
 二人はビッショリ汗をかいていた。
 その凄さ、その寂しさ、その静かさを掻き乱し、「泥棒!」という声のひびいたのは、それから間もなくのことであった。
 戸のあく物音、走り廻る足音。「こっちだ」「あっちだ」「逃げた逃げた」詈《ののし》る声々の湧き上がったのも、それから間もなくのことであった。
「そうか」
 と浪人ははじめていった。「噂に高い鼓賊であったか」
「お気の毒に、一閑斎様は、能面でも取られたのでございましょう」
「ふん、それもいいだろう。金持ちの馬鹿道楽、あらいざらい盗まれるがいい」
 賊は首尾よく逃げたらしい。
 やがて人声もしずまった。
 また静寂が返って来た。
 サラサラと崩れる雪の音。……
「俺は鼓賊が羨《うらや》ましい」
 呟《つぶや》くと同時に浪人は、刀を提げて立ち上がった。
「どちらへお越しでございます?」
「俺か」というと浪人は、顔に殺気を漂わせたが、「仕事に行くよ。仕事にな。……今夜は仕事が出来そうだ」
「どうぞお止めくださいまし」
「ふん、何故な? なぜいけない」
「後生をお願いなさいませ」
「うん後生か。それもよかろう。が、どうして食って行くな」
「饑《う》え死のうではございませんか」
「死ぬには早い。俺はイヤだ」
「妾は死にそうでございます。……殺されそうでございます。……自分で縊《くび》れて死のうもしれぬ。……」
「死にたければ死ぬもよかろう」
「あなた!」といって取り縋った。「ひと思いに殺してくださいまし」
「そんなに俺の手で死にたいか」
 浪人は鼻でセセラ笑ったが、「そうさ、いずれはそうなろうよ」縋られた手を振り払い、「俺は行くのだ。行かなければならない。鼓賊が俺をそそのかしてくれた。鼓賊が俺を勇気づけてくれた」
「悪行《あくぎょう》はおやめくださいまし」
「どうしてきょうの日を食って行く」
「ハイ、この上は、この妾が……」
 女房は袂《たもと》で顔を蔽うた。
「うん、やるつもりか! 美人局《つつもたせ》!」
「ハイ、夜鷹《よたか》でも、惣嫁《そうか》でも」
「そんなことではまだるッこいわい!」
 ポンと足で蹴返すと、浪人はツト外へ出た。
 ……開けられた門口《かどぐち》から舞い込んだのは、風に捲かれた粉雪であった。
 女房は門の戸を閉じようともしない。
 遠くで追分が聞こえていた。
 今の雪風に煽られたのか、炉の埋《うず》み火が燃え上がった。
 サラサラと落ちる雪の音。……
「身を苦しめるが罪障消滅。……もうあの人は帰って来まい。……ああまた追分が聞こえて来る」
 耳を澄まし眼を据えた。
 木立ちに風があたっていた。
 どこぞに遠火事でもあると見えて、ひとつばんが鳴っていた。カーンと一つ聞こえて来ては、そのまましんと静まり返り、ややあってまたもカーンと鳴った。
 女房はヨロヨロと立ち上がった。
 そうして部屋の中を廻り出した。
「お前に習った信濃追分、お前が唄うなら妾も唄う。……『信州追分桝形の茶屋で』……妾が悪うございました。どうぞかんにんしてくださいまし。……『ほろりと泣いたが忘らりょか』……妾が悪うございました。そんなに怨んでくださいますな。……おおおおだんだん近寄って来る!」
 振り乱した髪、もつれた裳《もすそ》、肋《あばら》の露出したあお白い胸。……懊悩地獄《おうのうじごく》の亡者であった。
 手を泳がせ、裾を蹴り、唄いながら女房は部屋を廻った。
 富士甚内とお北との生活。……

    鋭利をきわめた五寸釘の手裏剣

「あッあッあッ、あッあッあッ」
「おおよしよし、解った、解った」
「あッあッあッ、あッあッあッ」
「もういいもういい、解った解った。あッハハハハ、びっくりしていやがる。いや驚くのがあたりめえだ。信州追分とは違うからな。名に負う将軍お膝元、八百万石のお城下だからな。土一升金一升、お江戸と来たひにゃア豪勢なものさ。しかも盛り場の両国詰め、どうだいマアマアこの人出は! ペンペンドンドンピーヒャラピーヒャラ、三味線太鼓に笛の音、いや全く景気がいいなあ。ははあ、あいつは女|相撲《ずもう》だな。こっちの小屋掛けは軽業《かるわざ》一座。ええとあれは山雀《やまがら》の芸当、それからこいつは徳蔵手品、いやどうも全盛だなあ」「あッあッあッ。あッあッあッ」「うんよしよし、解った解った、あんまりあッあッといわねえがいい。人様がお笑いなさるじゃねえか。きりょうは結構可愛いのに、ふふんなアんだ唖娘《おしむすめ》か、こういってお笑いなさるからな」「あッあッあッ、あッあッあッ」「あれまたあッあッていやアがる。あッハハハ、どうも仕方がねえ。じゃ勝手にいうがいいさ。いう方がこいつ本当かも知れねえ。追分宿からポッと出の、きょうきのう江戸へ来たんだからな。見る物聞く物といいてえが、お前は唖だから聞くことは出来ねえ。そこで見る物見る物だが、その見る物見る物が、珍しいなあ無理はねえ。うん、精々いうがいい。あッあッあッていうがいい」
 こんなことをいいながら、雪解けでぬかる往来を、ノッソリノッソリやって来たのは、甚三の弟の甚内と、その妹のお霜とであった。
 ここは両国の盛り場で、興行物もあれば茶屋もあり、武士も通れば町人も通り、そうかと思えばおのぼりさんも通る。色と匂いと音楽と、……雑沓と歓楽との場であって、大概|変梃《へんてこ》な田舎者でも、ここではたいして目立たなかった。
 急にお霜が立ち止まり、じっと一点を見詰め出したので、甚内も連れて立ち止まった。
「どうしたどうした、え、お霜、オヤ何か見ているな。ははあ芝居の看板か」
 坂東米八の掛け小屋が、旗や幟《のぼり》で飾られて、素晴らしい景気を呼んでいたが、そこに懸けられた、絵看板に、宿場女郎らしい美女の姿が、極彩色《ごくさいしき》で描かれていた。その顔の辺へお霜の眼が、しっかり食いついて離れない。
「奇態だな、見たような顔だ」
 呟きながら甚内も、その絵看板へ見入ったが、思わずポンと膝を叩いた。
「ううん、こいつア油屋お北だ!」
 兄甚三を殺害した、富士甚内と油屋お北、そのお北に看板の絵が、そっくりそのままだということは、それら二人を敵《かたき》と狙う、甚内兄妹の身にとっては、驚くべき発見といわざるを得ない。
 しばらく見詰めていた甚内の眼へ、一抹の殺気の漂ったのは、当然なことといわなければならない。「チェ」と彼は舌打ちをした。「看板にゃ罪はねえ。が、お北にゃ怨みがある。幸か不幸か看板の絵が、こうもお北に似ているからにゃ、こいつうっちゃっちゃ[#「うっちゃっちゃ」に傍点]置けねえなあ」
 彼はあたりを見廻した。人通りは繁かったが、彼ら二人を見ている者はない。木戸に番人は坐っているものの、これまた二人などに注意してはいない。
「イラハイイラハイ、今が初まり、名人地獄、鼓賊伝、イラハイイラハイ、今が初まり!」大声でまねいているばかりであった。
「よし」というと甚内は、右手で懐中をソロソロと探った。そうしてその手がひき抜かれた時には、五寸釘が握られていた。ヤッともエイとも掛け声なしに、肩の辺で手首が閃めいたとたん、物をつん裂く音がした。
「態《ざま》ア見やがれ」と捨てゼリフ、甚内はお霜の手を曳くと、橋を渡って姿を消した。
 いったい何をしたのだろう? 絵看板を見るがいい。宿場女郎の立ち姿の、その右の眼が突き抜かれていた。それも尋常な抜き方ではない。看板を貫いたその余勢で、掛け小屋の板壁を貫いていた。小柄を投げてもこうはいかない。

    甚内の喧嘩の得手

 これには当然な理由があった。というのはその師匠が、千葉周作だからであった。
 千葉道場へ入門してから、すでに三月経っていた。
 初め敵討ちの希望をもって、千葉道場を訪《おと》ずれて、武術修行を懇願するや、周作はすぐに承知した。
「どうやら話の様子によると、富士甚内というその人間、武術鍛練の豪の者のようだ。ところでお前はどうかというに、以前は馬方今は水夫《かこ》、太刀抜く術《すべ》も知らないという。ちとこれは剣呑《けんのん》だな。なかなか武術というものは、二年三年習ったところで、そう名人になれるものではない。しかるに一方敵とは、いつなん時出逢うかもしれぬ。今のお前の有様では返り討ちは必定だ。……そこでお前に訊くことがある。どうだ、喧嘩などしたことがあろうな?」
「へえ」といったが甚内は、びっくりせざるを得なかった。「喧嘩なら今でも致しますので。馬方船頭お乳《ち》の人と、がさつな物の例にある、その馬方なり船頭なりが、私の稼業でございますので。」
「そこで喧嘩は強いかな?」
「へえ」といったが甚内は、いよいよ変な顔をした。「強いつもりでございます」
「得手は何んだな? 喧嘩の得手は?」「へえ、得手とおっしゃいますと?」「突くとか蹴るとか撲るとか、何か得意の手があろう」「ああそのことでございますか。へえ、それならございます。石を投げるのが大得意で」「石を投げる? 石飛礫《いしつぶて》だな。いやこれは面白い。どうだタマにはあたるかな?」
 すると甚内は不平顔をしたが、
「へえ、なんでございますかね?」「石飛礫だよ、タマにはあたるかな」「いえ、タマにはあたりません」「ナニあたらないと、それは困ったな」「へえタマにはあたらないので、その代りいつもあたります」「アッハハハ、そういう意味か」
 千葉周作は笑い出してしまった。
「ところでどういうところから、そういう変り手を発明したな?」「それには訳がございます。つまり撲られるのがイヤだからで」「それは誰でもイヤだろう」「私は特別イヤなので。撲られると痛うございます」「うん、そういう話だな」「それに撲られると腹が立ちます」「礼をいって笑ってもいられまい」「ところが取っ組んでしまったら、一つや二つは撲られます。それが私にはイヤなので。そこでソリャコソ喧嘩だとなると、二間なり三間なりバラバラと逃げてしまうのでございますな。それから小石を拾うので。そうして投げつけるのでございますよ。へえ、百発百中で、それこそ今日まで、一度だって、外れたことはございません」「おおそうか、それは偉いな」
 こういうと周作は立ち上がった。「甚内、ちょっと道場へ来い。……これ誰か外へ行って小石を二、三十拾って来い」
 で、道場へやって来た。
「さて、甚内、お前の足もとに、小石が二、三十置いてある。それを俺に投げつけるがいい」
「へえ」といったが甚内は、困ったような顔をした。
「それは先生様いけません」
「なぜな?」と周作は笑いながら訊いた。
「もってえねえ話でございますよ」
「そうさ、一つでも中《あた》ったらな」「では中《あた》らねえとおっしゃるので?」「ひとつお前と約束しよう。お前の投げた石ツブテが、一つでも俺に中ったら、この道場をお前に譲ろう」「こんな立派な道場をね。……そうして先生はどうなされます」「俺か、アッハハハ、そうしたら、武者修行へでも出るとしようさ」「それはお気の毒でございますな」「そうきまったら投げるがいい」

    北辰一刀流手裏剣用の武器

「へえ」といったが甚内は、なお何か考えていた。「で、どこを目掛けましょう?」「人間の急所はまず眉間《みけん》だ。眉間を目掛けて投げてこい」「それじゃ思いきって投げますべえ」
 二人は左右へス――ッと離れた。あわい[#「あわい」に傍点]はおおかた十間もあろうか、一本の鉄扇を右手に握り、周作は笑って突っ立った。
「はじめの一つはお毒見だ」
 こういいながら甚内は、手頃の小石を一つ握った。
「それじゃいよいよやりますだよ」叫ぶと同時にピュ――ッと投げた。恐ろしいような速さであった。と周作の鉄扇が、チラリと左へ傾いたらしい。カチッという音がした。つづいてドンという音がした。石が鉄扇へさわった音と、板の間へ落ちた音であった。
「やり損なったかな、こいつアいけねえ。が、二度目から本式だ」
 甚内は二つ目の石を取った。とまたピュ――ッと投げつけた。今度は鉄扇が右に動き、カチッという音がして、石は右手へ転がり落ちた。
「ほう、こいつも失敗か」甚内は呆れたというように、口をあけて突っ立ったが、「よし」というと残りの石を、一度に掬《すく》って懐中へ入れた。
「ようござんすか、先生様、今度は続けて投げますぞ」
「うん、よろしい、好きなようにせい」
 その瞬間に甚内の左手《ゆんで》が、懐中の中へスルリとはいり、石を握った手首ばかりを、襟からヌッと外へ出した。と、その石を右手《めて》が受け取り、取った時には投げていた。そうして投げた次の瞬間には、左手《ゆんで》に握っていた送り石を、すでに右手《めて》が受け取っていた。するともうそれも投げられていた。最初の石の届かないうちに、二番目の石が宙を飛び二番目の石が飛んでいるうちに、三番目四番目の石ツブテが、次から次と投げられた。
 石は一本の棒となって、周作目掛けて飛んで行った。自慢するだけの値打ちのある、実に見事な放れ業《わざ》であった。
 しかし一方それに対する、周作の態度に至っては、子供に向かう大人といおうか、まことに悠然たるものであって、ただ端然と正面を向き、突き出した鉄扇を手の先で、右と左へ動かすばかり、微動をさえもしなかった。
 カチカチと鉄扇へさわる音、トントンと板の間へ落ちる音、それが幾秒か続いたらしい。
「もういけねえ。元が切れた」
 甚内の叫ぶ声がした。
 周作は微笑を浮かべたが、
「どうだ、甚内、少しは解ったか」
「一つぐらい中《あた》りはしませんかね?」
「道場は譲れぬよ、気の毒だがな」
「へえ、さようでございますかね」
「こっちへこい。いうことがある」
 元の座敷へ戻って来た。
「さて甚内」と改まり、「思ったよりも立派な業だ。周作少なからず感心した。稽古して完成させるがいい。しかし小石では利き目が薄い、小石の代りに五寸釘を使え」
 それから周作は説明した。
「というのは剣道の中に、知新流の手裏剣といって、一個独立した業がある。俺も多少は心得ている。それをお前に伝授するによって、お前の得手のツブテ術に加えて、発明研究するがいい。以前から俺はそれについて、一つの考えを持っていた。……武士は平常《へいぜい》護身用として、腰に両刀をたばさんでいる。で剣術さえ心得ていたら、まずもって体を守ることが出来る。しかるに町人百姓や、なおそれ以下の職人などになると、大小は愚か匕首《あいくち》一本、容易なことでは持つことがならぬ。これは随分危険な話だ。そこで俺は彼らのために、何か格好な護身具はないかと、内々研究をした結果、見つけ出したのが五寸釘だ。ただし普通の五寸釘では、目方が軽くて投げにくい。そこで特別にあつらえてみた」
 こういいながら周作は、手文庫から釘を取り出した。
「見るがいいこの釘を。先が細く頭部が太く、そうして全体が肉太だ。ちょっと持っても持ち重りがする。しかし形や寸法は、何ら五寸釘と異《かわ》りがない。で幾十本持っていようと、官に咎められる気遣いはない。これ北辰一刀流手裏剣用の五寸釘だ」

    急拵えの大道芸人

 周作は優しく微笑した。
「どうだ甚内、この五寸釘を、練磨体得する所存はないか」
「なんのないことがございましょう。習いたいものでございます」勇気を含んで甚内はいった。
「おお習うか、それは結構。この一流に秀でさえしたら、敵《かたき》に逢ってもおくれは取るまい。なまじ剣術など習うより、これに専念をした方がいい」「そういうことに致します」「実はな、俺は案じていたのだ。剣術槍術弓薙刀、一流に達していたところで、一撃で相手を斃すことは出来ない。例えば鎌倉権五郎だ、十三|束《ぞく》三|伏《ぶせ》の矢を、三人張りで射出され、それで片目射潰されても、なお堂々と敵を斬り、生命には何んの別状もなかった。剣豪塚原卜伝でさえ、一刀では相手を殺し兼ねたという。まして獲物が五寸釘とあっては、機先を制して投げつけて、精々《せいぜい》相手を追い散らすぐらいが、関の山であろうと思っていた。ところがお前の精鋭極まる、ツブテの手並みを見るに及んで、俺の不安は杞憂となった。一本二本では討ち取れないにしても、三本目には斃すことが出来よう」「へえ、大丈夫でございましょうか」「大丈夫だ。保証する」「有難いことでございます」
 こうして甚内はこの日以来、千葉道場の内弟子となり、五寸釘手裏剣の妙法を周作から伝授されることとなった。教える周作は天下一の剣聖、習う甚内には下地がある。これで上達しなかったら、それこそ面妖といわざるを得ない。
 ところで一方甚内は、武芸を習う余暇をもって、江戸市中を万遍《まんべん》なくあるき、目差す敵《かたき》を探すことにした。しかし直接の用事もないのに、広い市中をブラブラと、手ぶらであるくということは、かなり退屈なことであった。そこでいろいろ考えた末、「追分を唄って合力を乞い、軒別に尋ねてあるくことにしよう」こういうことに心をきめた。
 既に以前《まえかた》記したように、元来甚内は追分にかけては、からきし唄えない人間であった。それが一夜奇怪な理由から、唄えるようになってからは、彼はにわかに興味を覚え、ない歌詞までも自分で作って、折にふれては唄い唄いした。しかるにまことに不思議なことには、彼の唄の節たるや、兄甚三そっくりであった。ちょうど甚三その人が、甚内の腹にでも宿っていて、その甚三の唄う唄が、甚内の口から出るのではないかと、こう疑われるほどであった。で、誰か追分宿あたりで、甚三のうたう追分を聞き、さらに大江戸を流して歩く、甚内の追分を耳にしたとしたら、その差別に苦しんで、恐らくこういうに違いない。
「いやいやあれは甚三の唄だ。もし甚三が死んでいるとすれば、甚三その人の亡魂の唄だ」
 とまれ甚内は追分を唄って、江戸市中をさまよった。しかし敵の手がかりはない。そこでまた彼は考えた。
「油屋お北は知っている。だが肝腎の富士甚内を、俺は一度も見たことがない。彼奴《きゃつ》について聞き知ってることは、非常な美男だということと、着物につけた定紋が、剣酸漿《けんかたばみ》だということだけだ。これではよしや逢ったところで、彼奴《きゃつ》が紋服を着ていない限りは、敵だと知ることが出来ないだろう。これはどうも困ったことだ」
 これは実際彼にとって、何よりも辛い事柄であった。しかしとうとう考えついた。
「うん、そうだ、いいことがある。唖者《おし》ではあるが、妹のお霜は、富士甚内を見知っている筈だ。妹を江戸へ連れて来て、一緒に市中を廻ったら、よい手引きになろうもしれぬ」

    復讐の念いよいよ堅し

 そこで周作に暇を乞い、故郷の追分へ帰ることにした。
 この頃お霜は油屋にいた。
 一人の兄は非業《ひごう》に死し、もう一人の兄は他国へ行き、二、三親類はあるとはいえ、その日ぐらしの貧乏人で、片輪のお霜を引き取って、世話をしようという者はない。で甚三が殺されてからの、お霜の身の上というものは、まことに憐れなものであったが、捨てる神あれば助ける神ありで、油屋本陣の女中頭、剽軽者《ひょうきんもの》の例のお杉が、気の毒がって手もとへ引き取り、台所などを手伝わせて、可愛がって養ったので、かつえ[#「かつえ」に傍点]て死ぬというような、そんな境遇にはいなかったが、さりとて楽しい境遇でもなかった。自分はといえば唖者《おし》であった。周囲といえば他人ばかり、泣く日の方が多かった。自然兄弟を恋い慕った。
 そこへ甚内が現われたのであった。
 お霜の喜びも大きかったが、お杉もホッと安心した。
「おお甚内さん、よう戻られたな。お前さんの兄さんの甚三さんは、お前さんと同じ名の富士甚内に、むごたらしい目に合わされてな、今は石塔になっておられる」
 お杉をはじめ近所の人達に、こんな具合に話し出されて、甚内は悲しみと怨みとを、またそこで新たにした。
 貧しい二、三の親類や、近所の人達の情《なさけ》によって、営まれたという葬式の様子や、形ばかりの石塔を見聞きするにつれ、故郷の人々の厚情を、感謝せざるを得なかった。
「これから甚内さんどうなさる?」
 こう宿の人に訊かれた時、甚内は正直に打ち明けた。
「草を分けても探し出し、敵を討つつもりでございます」
「おおおお、それは勇ましいことだ」宿の人達は驚きながらも、賞讃の辞を惜しまなかった。
 追分宿で七日を暮らし、いよいよ江戸へ立つことになった。心づくしの餞別も集まり、宿の人達は数を尽くして、関所前まで見送った。妹お霜を馬に乗せ、甚内自身手綱を曳き、関所越えれば旅の空、その旅へ再び出ることになった。
 見れば三筋の噴煙が、浅間山から立っていた。思えば今年の夏のこと、兄甚三に送られて、この曠野まで来た時には、緑が鬱々《うつうつ》と茂っていた。その時甚内の乞うに委《まか》せ、甚三の唄った追分節は、今も耳に残っていた。しかるに今は冬の最中《もなか》、草木山川|白皚々《はくがいがい》、見渡す限り雪であった。自然はことごとく色を変えた。しかし再び夏が来れば、また緑は萌え出よう。だが甚三は帰って来ない。遠離茫々《えんりぼうぼう》幾千載。たとえ千載待ったところで、死者の甦えった例《ためし》はない。如露《にょろ》また如電《にょでん》これ人生。命ほどはかないものはない。
 人は往々こういう場合に、宗教的悟覚に入るものであった。しかし甚内は反対であった。
「この悲しさも、このはかなさも、富士甚内とお北とのためだ。討たねば置かぬ! 討たねば置かぬ! 敵の名前は富士甚内、富士に対する名山と云えば、俺の故郷の浅間山だ。それでは今日から俺が名も、浅間甚内と呼ぶことにしよう。聞けば昔京師の伶人、富士と浅間というものが、喧嘩をしたということだが、今は天保|癸未《みずのとひつじ》ここ一年か半年のうちには、どうでも敵を討たなければならぬ」
 いよいよ復讐の一念を、益※[#二の字点、1-2-22]ここで強めたのであった。

 二人が江戸へ着いたのは、それから間もなくのことであった。
 子柄がよくて不具というので、かえってお霜は同情され、千葉家の人達から可愛がられ、にわかに幸福の身の上となった。
 爾来二人は連れ立って、時々市中を彷徨《さまよ》ったが、甚内が唄う追分たるや、信州本場の名調なので、忽ち江戸の評判となった。ひとつは歌詞がいいからでもあった。
[#ここから2字下げ]
日ぐれ草取り寂してならぬ、鳴けよ草間のきりぎりす
親の意見と茄子《なすび》の花は、千に一つのむだもない
めでた若松|浴衣《ゆかた》に染めて、着せてやりましょ伊勢様へ
思いとげたがこの投げ島田、丸く結うのが恥ずかしい
かあいものだよ鳴く音《ね》をとめて、来たを知らせのくつわ虫
百日百夜《ももかももよ》をひとりで寝たら、あけの鶏《とり》さえ床《とこ》さびし
浅間山風吹かぬ日はあれど、君を思わぬ時はない
よしや辛かれ身はなかなかに、人の情の憂やつらや
見る目ばかりに浪立ちさわぎ、鳴門船《なるとぶね》かや阿波で漕ぐ
月を待つ夜は雲さえ立つに、君を待つ夜は冴えかえる
君と我とは木框《きわく》の糸か、切れて離れてまたむすぶ
山で小柴をしむるが如く、こよいそさまとしめあかす
[#ここで字下げ終わり]
 多くは甚内自作の歌詞で、情緒|纏綿《てんめん》率直であるのが、江戸の人気に投じたのであった。
 深編笠《ふかあみがさ》で二人ながら、スッポリ顔を隠したまま、扇一本で拍子を取り、朗々と唄うその様子は、まさしく大道の芸人であったが、いずくんぞ知らんその懐中に、磨《と》ぎ澄ましたところの釘手裏剣が、数十本|蔵《ぞう》してあろうとは。

    お船手頭《ふなてがしら》向井|将監《しょうげん》

 赤格子九郎右衛門の本拠を突き止め、何かを入れた封じ箱を、その九郎右衛門に手渡せというのが、碩翁様からの命令であった。
 郡上平八は名探偵、すぐに品川から船に乗り出し、日本の海岸をうろつくような、そんなへまはしなかった。
 市中の探索から取りかかった。
 翌朝早く家を出ると、駕籠を京橋へ走らせた。
「ここでよろしい」
 と下り立ったところは、新船松町の辻であった。
 そこに宏壮な邸があった。
 二千四百石のお旗本、お船手頭《ふなてがしら》の首位を占める、向井将監《むかいしょうげん》の邸であったが、つと平八は玄関へかかり、一封の書面を差し出した。碩翁様からの紹介状であった。
「殿様ご在宅でございましたら、お目通り致しとう存じます」
「しばらく」
 と取り次ぎは引っ込んだが、すぐに引っ返して現われた。
「お目にかかるそうでございます。いざお通りくださいますよう」
「ご免」
 というと玄関へ上がり、そこで刀を取り次ぎへ渡し、郡上平八は奥へ通った。
 待つ間ほどなく現われたのは、大兵肥満威厳のある、五十年輩の武士であったが、すなわち向井将監であった。
「おおそこもとが郡上氏か、玻璃窓の高名存じておる。碩翁殿よりの紹介状、丁寧《ていねい》でかえって痛み入る。くつろぐがよい、ゆっくりしやれ」
 濶達豪放な態度であった。
「早速お目通りお許しくだされ、有難き仕合わせに存じます」
「大坂表で処刑された、海賊赤格子九郎右衛門について、何か聞きたいということだが」
「ハイ、さようにございます。お殿様には先祖代々、お船手頭でございまして、その方面の智識にかけては、他に匹儔《ひっちゅう》がございませぬ筈、つきましては赤格子九郎右衛門が、乗り廻したところの海賊船の、構造ご存知ではございますまいか?」
「さようさ、いささかは存じておる」
「やっぱり帆船でございましたかな?」
「さよう、帆船ではあったけれど、帆の数が非常に多かったよ」
「ははあ、さようでございますか」
「それにその帆の形たるや、四角もあれば三角もあり、大きなのもあれば小さなのもあった」
「ははあ、さようでございますか」
「日本の型ではないのだそうだ。南蛮の型だということだ」
「それは、さようでございましょうとも」
「で、船脚《ふなあし》が恐ろしく速く、風がなくても駛《はし》ることが出来た。ヨット型とか申したよ」
「ははあ、ヨット型でございますな」
 平八は手帳へ書きつけた。
「それから」と将監はいいつづけた。
「櫓《やぐら》の格子が朱塗りであったな。それが赤格子の異名ある由縁だ」
「ははあ、さようでございますか」平八は手帳へ書きつけた。
「ええと、それから大砲が二門、船首《へさき》と船尾《とも》とに備えつけてあった。それも尋常な大砲ではない。そうだ、やっぱり南蛮式であった」
「南蛮式の大砲二門」
 平八はまたも書きつけた。
「まず大体そんなものだ」
「よく解りましてございます。……ええと、ところで、もう一つ、その赤格子の襲撃振りは、いかがなものでございましたかな?」
「襲撃ぶりか、武士的であったよ」
「は? 武士的と申しますと?」
「決して婦女子は殺さなかった。そうして敵対をしない限りは、男子といえども殺さなかった」

    町奉行所の与力たち

「それは感心でございますな」
 こういいながら平八は、またも手帳へ書きつけた。
「つまり彼は威嚇をもって、相手を慴伏《しょうふく》させたのだ」将監は先へ語りつづけた。「こいつと目差した船があると、まずその進路を要扼《ようやく》し、ドンと大砲をぶっ放すのだ。だがそいつは空砲だ。つまり停まれという信号なのだ。それで相手が停まればよし、もしそれでも停まらない時には、今度は実弾をぶっ放すのだ。が、それとてもあてはしない。相手の前路へ落とすのだ。これが頗《すこぶ》る有効で、大概の船は顫えあがり、そのまま停まったということだ。しかしそれでも強情に、道を転じて逃げようとでもすると、その時こそは用捨《ようしゃ》なく、三発目の大砲をぶっ放し、沈没させたということだ」
「一発は空砲、二発は実弾、ただしそのうち一発は、わざとあてずに前路へ落とす、つまりかようでございますな」
 平八は四たび書きつけた。
「もはや充分でございます」
 お礼をいって邸を出ると、平八はふたたび駕籠へ乗った。
「駕籠屋、急げ! 数寄屋町だ!」
「へい」
 と駕籠屋は駈け出した。
「よろしい、下ろせ」
 と駕籠を出たところは、南町奉行所の門前であった。
 裏門へ廻ると平八は、ズンズン内《なか》へはいって行った。
 与力詰所までやって来ると、顔見知りの与力が幾人かいた。
「いよう、これは郡上氏」
「いよう、これは玻璃窓の旦那」
「いよう、これは無任所与力」
 などといずれも声を掛けた。それほどみんなと親しいのであった。
「玻璃窓の爺《おやじ》の出張だ。大事件が起こったに違いない、うかつにノホホンに構えていて、抜かれでもしたら不面目、あぶねえあぶねえ、用心用心」
 なかにはこんなことをいう者もあった。
 平八はニヤリと笑ったばかり、一人の与力へ眼をつけると、
「石本氏、ちょっとお顔を」
「なんでござるな」
 と立って来るのを、平八は別室へ誘《いざな》った。
「秘密に書き上げを拝見したいが」
「ははあ、書き上げ? どうなされるな?」
「いやちょっと、ご迷惑はかけぬ」
「貴殿のこと、よろしゅうござる」
 持って来た書き上げをパラパラめくると、二、三平八は書きとめた。
「そこで、もう一つお願いがござる。……貴殿のお名を拝借したい」
「いと易いこと、お使いなされ」
 また平八は駕籠へ乗った。
「日本橋だ、河岸へやれ」
 下りたところに廻船問屋、加賀屋というのが立っていた。
「許せよ」
 と平八はズイとはいった。
「これはおいでなさいませ。ええ、何か廻船のご用で?」
 店の者は揉み手をした。
「いやちょっと主人に逢いたい」
「どんなご用でございましょう?」迂散《うさん》らしく眼をひそめた。
「逢えば解る、主人にそういえ」
「失礼ながらあなた様は?」
「南町奉行所吟味与力、石本勘十郎と申す者だ」
「へーい」
 というと二、三人、奥へバタバタと駈け込んだ。それほどまでに吟味与力は、権勢のあったものである。
「どうぞお通りくださりますよう」
「そうか」というと郡上平八はズイと奥の間へ通って行った。

    廻船問屋を歴訪す

 茶と莨盆《たばこぼん》と菓子が出て、それから主人が現われた。
 額をピッタリ畳へつけ、
「当家主人、卯三郎《うさぶろう》、お見知り置かれくだされますよう」
「早速ながら訊くことがある」
「は、は、何事でござりましょうか?」
「今月初旬、七里ヶ浜沖で、そちの持ち船|琴平丸《こんぴらまる》、賊難に遭ったということだな。書き上げによって承知致しておる」
「御意《ぎょい》の通りにございます」
「で、水夫《かこ》どもは今おるかな?」
「二、三人おりますでござります」
「ちょっと訊きたいことがある。多人数はいらぬ、一人出すよう」
「かしこまりましてござります」
 やがてそこへ現われたのは、八助という水夫《かこ》であった。
「八助というか、恐れなくともよい。遭難の様子を話してくれ。……で、賊船は幾隻あったな?」
 八助はオドオド顫えながら、
「へえ、親船が一隻で」
「櫓《やぐら》の格子は赤かったかな?」
「いえ、黒塗りでございました」
「ナニ、黒塗り? ふうむ、そうか」平八は小首を傾げたが、「無論、帆船であったろうな?」
「へえ、さようでございます」
「異《かわ》ったところはなかったかな?」
「へ? なんでございますか?」
「帆の形だ。帆の形だよ」
「へえ、べつに、これといって……」
「普通の型の帆船であったか?」
「へえ、さようでございます」
「ふうむ、そうか。……ちょっと変だな」
 考えざるを得なかった。
「で、大砲でも打ちかけたか?」
「なかなかもって、そんなこと」
「大砲二門、備えている筈だ。そんなものは見かけなかったかな?」
「なんであなた、大砲など……」
「ふうむ、そうか、これもいけない」
 平八はまたも考え込んだ。
「で、どうだな、海賊どもは、穏《おとな》しかったかな、乱暴だったかな?」
「仲間が五人殺されました」
「いずれ抵抗したのだろうな?」
「敵は大勢、味方は小人数、争ったところで追っ付きません」
「……これもいけない」
 と平八は、呟《つぶや》かざるを得なかった。
 加賀屋を出るとその足で、尚二、三軒廻船問屋を、郡上平八は訪問した。いずれも諸方の近海で、海賊に襲われた手合いであった。しかるに答えはどれも同じで、櫓格子《やぐらごうし》は黒塗りであり、帆の形も尋常であり、大砲などは備えていず、海賊どもは乱暴で、武士的などとはいわれない。――と、こういう返辞であった。
「解った」
 と平八は自分へいった。「この海賊は赤格子ではない。手口を見れば明らかだ。他の奴らに相違ない。……さて、では肝腎の赤格子は、いったいどこにいるのだろう?」
 かえって見当がつかなくなった。
「それはとにかく、腹が減った。きょうは少々動き過ぎたからな」
 で、平八は駕籠を返し、手近の縄暖簾《なわのれん》へ飛び込んだ。
 こんなことは彼にとって、ちっとも珍らしいことではない。
 彼の前に職人がいた。威勢のいい江戸っ子で、扮装《みなり》の様子が船大工らしい。
「おお初公、変じゃないか、どう考えても変梃《へんてこ》だよ」
 一人の職人がこういった。
 と、もう一人が、それに応じた。
「うん、まったく変梃だなあ。なんと思って選《よ》りに選って、船大工ばかりを攫《さら》うのだろう」

    二人の職人の耳寄りな話

「はてな」
 と平八は胸でいった。「おかしな話だ。なんだろう?」
 で、捨て耳を働かせ、職人の話に聞き入った。
「喜公《きいこう》も消えたっていうじゃねえか」
「それから松ヤンもなくなったそうだ」
「平河町の政兄イ、あそこでは一時に五人というもの、姿がなくなったということだぜ」
「ところがお前《めえ》、石町では、親方がどこかへ行っちゃったそうだ」
「天狗様かな? お狐様かな?」
「天狗様にしろお狐様にしろ、船大工ばかりに祟《たた》るなんて、どうでも阿漕《あこぎ》というものだ」
「見ていや、今に、江戸中から、船大工の影がなくなるから」
「亭主、いくらだ?」
 と代を払って、郡上平八は外へ出た。
「おい駕籠屋、本所へやれ」
 新しくやとった駕籠へ乗り、平八は自宅へ引き返した。
「おい、松五郎を呼びにやりな」
 間もなくご用聞きの松五郎が、きのう見せた顔と同じ顔を、平八の前へ突きつけた。
「旦那、なにかご用でも?」
「うん、訊きたいことがある」
「へい、やっぱり切り髪女の?」
「いや、あれは打ち切りだ」
「え、なんですって? 打ち切りですって?」
 松五郎は驚いて眼を見張った。「おどろいたなあ、どうしたんですい? いよいよヤキが廻りましたかね」
「いやいやそういう訳ではない。実はな、もっと重大な事件を、あるお方から頼まれたのだ」
「おおさようで、それはそれは」
「ところでお前に訊くことがある。この江戸の船大工が、姿を消すっていうじゃないか」
「ええ、もう、そりゃあズッと以前《まえ》からで」
「どうして話してくれなかった?」
 ちょっと平八は不機嫌そうにいった。
「だって旦那、この事件は、鼓賊とは関係ありませんよ」
「うん、そりゃそうだろう」
「で、黙っておりましたので」
「そういわれりゃあそれまでだな」平八は止むを得ず苦笑したが、「幾人ほど攫《さら》われたな?」
「さあ、ザッと五十人」
「ナニ、五十人? それは大きい」
「ええ、大きゅうございます」
「ところで、いつ頃から始まったんだ?」
「秋口からポツポツとね」
「どんな塩梅《あんばい》になくなるのだ?」
「どうもそれがマチマチで、こうだとハッキリいえませんので」
「まず一例をあげて見れば?」
「神田の由太郎でございますがね、随分有名な棟梁《とうりょう》で、それが羽田へ参詣したまま、行方《ゆくえ》が知れないじゃありませんか」
「おお、そうか。で、その次は?」
「業平町《なりひらちょう》の甚太郎、これも相当の腕利きですが、品川へ魚釣りに行ったまま、家へ帰って来ないそうで」
「おお、そうか。で、その次は?」
「龍岡町の鋸安《のこぎりやす》は、仕事場から姿が消えたそうで」
「ふうん、なるほど、面白いな」
「まったく変梃《へんてこ》でございますよ」
「で、見当はついてるのか?」
「なんの見当でございますな?」
「当たりめえじゃねえか、人攫いのよ」
「それならついていませんそうで」
「呆れたものだ。無能な奴らだ」
「へえ、さようでございますかね」
「たった今耳にしたばかりだが、俺には目星がついている」
 これには松五郎も驚いた。
「旦那、そりゃあ本当のことで?」
「嘘をいって何んになるかよ」

    玻璃窓の平八江戸を離れる

「聞きてえものだ。教えてくだせえ」
「どこかで大船《おおぶね》を造っているのさ」
「へへえ、ナーンだ、そんなことですかい」
「なんだとはなんだ。なんだではないよ」
「だがね、旦那、少しおかしいや。なにも大船を造るのに、大工を攫わなくてもよさそうなものだ」
「いやいや、それがそうでない。造り主が大変者《たいへんもの》なのだ」
「大変者って、何者なので?」
 松五郎はいくらか熱心になった。
「一口にいうと日蔭者《ひかげもの》だ」
「どうも私《わっち》には解らねえ」
 すると平八は声を落としたが、
「教えてやろう。海賊だ」
「ははあ、海賊? ナール、日蔭者だ」
「しかも一通りの海賊ではない。やはりこれは赤格子だ。そうでなければその余党だ。そいつがどこかでご禁制の船を、建造しているに相違ない」
 益※[#二の字点、1-2-22]声を落としたが、
「小松屋、そこで頼みがある。あすかないしはあさって頃、船脚が遅くて小さな船で、そうして金目《かねめ》を積み込んでいる、つまり海賊に襲われそうな船が、どこかの問屋から出はしないか、そいつを調べて来て貰いたい」
「変なご注文でございますね」
「是非今夜中に知りたいのだ」
「ようございます。すぐ行って来ましょう」
 松五郎はとつかわ[#「とつかわ」に傍点]出て行ったが、真夜中になって戻って来た。
「旦那、一隻みつかりました」
「それはご苦労。どこの船だな」
「へい、淀屋の八|幡丸《わたまる》で」
「あ、そうか、それは有難い。……いいから帰って休んでくれ」
 松五郎が帰ると平八は、すぐに変装にとりかかった。髯を剃り、髪を結い変え、紺の腹がけに同じ股引《ももひき》、その上へ革の羽織を着たが、まさに一カドの棟梁であった。
 夜のひきあけに家を出ると、深川の淀屋まで歩いて行った。
「許せ」
 と声だけは武士のイキで、
「俺はな、南町奉行所吟味与力の石本だ、仔細あって犬吠へ行く。ついては八幡丸へ乗せてくれ」
「よろしい段ではございません。ご苦労様に存じます」
 淀屋では異議なく承知した。

 こうして名探索玻璃窓は、江戸から足を抜いたのであった。

    阪東米八と和泉屋次郎吉

 ここは両国の芝居小屋、阪東米八の楽屋であった。
 午後の陽《ひ》が窓からさしていた。あけ荷、衣桁《いこう》、衣裳、鬘《かつら》、丸型朱塗りの大鏡台、赤を白く抜いた大入り袋、南京繻子《なんきんじゅす》の大座布団、ひらいたままの草双紙、こういった物が取り乱されてあったが、女太夫の部屋だけに、ひときわ光景がなまめかしい。
「ねえ、お前さん、ねえ吉っあん、ほんとに気色が悪いじゃないか。妾《わたし》アつくづく厭になったよ」
 燃え立つばかりの緋縮緬《ひぢりめん》、その長襦袢《ながじゅばん》をダラリと引っかけ、その上へ部屋着の丹前を重ね、鏡台の前へだらしなく坐り、胸を開けて乳房を見せ、そこへ大きな牡丹刷毛で、ヤケに白粉《おしろい》を叩きつけているのは、座頭《ざがしら》阪東米八であった。年はおおかた二十五、六、膏《あぶら》の乗った年増盛り、大柄で肉付きよく、それでいて姿のぼやけないのは、踊りで体を鍛えたからであろう。肉太の高い鼻、少し大きいかと思われたが、それがかえって役者らしい。紅《べに》をさした玉虫色の口、それから剃り落とした青い眉、顔の造作は見事であったが、とりわけ眼立つのはその眼であって、上瞼《うわまぶた》が弓形をなし、下瞼が一文字を作った、びっくりするほど切れ長の眼は、妖艶|婀娜《あだ》たるものであった。※[#「白+光」、204-4]々《こうこう》という形容詞が、そっくりそのままあてはまるような、光沢を持った純白な肌は、見る人の眼をクラクラさせた。
「妾アつくづく厭になったよ」くり返して彼女はこういった。
「いや俺も驚いた」
 こう合い槌を打ったのは、彼女にとっては旦那でもあり、且つは嬉しい恋人でもある、魚屋の和泉屋《いずみや》次郎吉であった。唐棧《とうざん》ずくめの小粋ななり、色の浅黒い眼の鋭い、口もとのしまった好男子で、年はそちこち四十でもあろうか、小作りの体は敏捷らしく、五分の隙もない人品であったが、座布団の上へ腹這いになり、莨《たばこ》をプカプカ吹かしていた。
「つぶてでなし手裏剣でなし、なんでいったいぶち抜いたものかな。看板と板壁とを突き通すなんて、ほんとにこいつ素晴らしい芸だ」
「そんなことどうでもよござんすよ。それより、妾|癪《しゃく》にさわるのは、選《よ》りに選って妾の顔へ、あんな大きな穴をあけて……」
「ナーニそれとて曰《いわ》くはないのさ。あんまりお前が綺麗なので、それでいたずらをしたってやつさ」
「ヘン、おっしゃいよ、おためごかしを」
 米八は横目で睨む真似をした。
「そうはいうものの惜しいことをした。あれは俺から五|渡亭《とてい》に頼んで、わざわざ描かせた看板だからな」
「そんなことどうでもよござんすよ」まだ米八は機嫌が悪い。「それに妾にはこの芝居、なんだか小気味が悪くってね」
「へえ、どうしてだい、おかしいね。いり[#「いり」に傍点]だってこんなにあるじゃないか」今度は次郎吉が不満そうにした。
「だって、あんまりなまなましいんですもの」
「なまなましいって? どうしてかい?」
「だってお前さんそうじゃないか。泥棒芝居の鼓賊伝、ところで主人公の鼓賊ときては、現在江戸を荒し廻っていて、お上に迷惑をかけてるんでしょう」
「うん、そうさ、だからいいのさ。つまり何んだ、はしりだからな。そうとも素敵もねえ際物《きわもの》だからな。……もっとも他にも筋はある」
「ええ、そりゃありますとも。追分唄いの甚三馬子だの、宿場女郎のお北だの、あくどい色悪《いろあく》の富士甚内だの。……」
「それから肝腎の探索がいらあ」
「ええ、見透しの平七老人」
「で、素晴らしくいい芝居さ」次郎吉はツルリと顎《あご》を撫でたが、にわかにズンと声を落とし、「実はおいらの道楽から行くと、その『見透しの平七』を『玻璃窓の平八』にしたかったのさ。だが、それじゃあんまりだからな。で、平七に負けてやったやつさ」
「おや変ですね、玻璃窓といえば、郡上の旦那じゃありませんか」米八は不思議そうに見返った。
「うん、そうさ、その旦那さ。あけすけにいえばこの芝居はだ、その玻璃窓に見せたいばっかりに、おいら筋立てをしたんだからな」

    深い怨みの敵討ち

「その玻璃窓の旦那なら、おとつい観《み》に来たじゃありませんか」
「百も承知だ。待っていたんだからな。そこで早速秀郎の野郎に例の鼓を打たせたのさ。アッハハハ、いい気味だった。あの鼓を聞いた時の玻璃窓の爺《だんな》の顔といったら、今思い出しても腹がよじれる。いいみせしめ[#「みせしめ」に傍点]っていうやつさな」さもおかしいというように、揺《ゆ》り上げ揺り上げ笑ったものである。
 米八には意味がわからなかった。
「でもどうして玻璃窓の旦那に、こんどの芝居を見せたいんでしょう?」
「それか、それには訳がある。……ひらったくいうとまずこうだ。彼奴《きゃつ》、としよりの冷水《ひやみず》で、鼓賊を追っかけているんだよ。ところがさすがの名探索も、こんどばかりは荷が勝って、後手ばかり食らっているやつさ。それを俺は知ってるんだ。うん、そうさ、ある理由からな。ところで俺はあの爺《じじい》に五年前から怨みがあるんだ。で、そこで敵討ちよ。つまり彼奴《きゃつ》のトンマぶりを、そっくり芝居に仕組んだあげく、彼奴《きゃつ》の眼の前にブラ下げたって訳さ。胸に堪《こた》える五寸釘! そいつがこれだ。『名人地獄』だ!」
「どんな怨みだか知らないけれど、つまらない事をしたものね」米八は浮かない顔をした。
「それはそうと、ねえお前さん、秀郎さんの鼓賊のつくり、何から何までお前さんじゃないか」
「俺が注文したからよ」次郎吉はそこでニタリとした。
「どうしてだろう? ねえお前さん」
「それも玻璃窓に見せたかったからさ」
「なんだか妾《わたし》にゃあ解らない」きまずそうに眉をひそめ、「とにかく妾にゃあこの芝居は、気になることばかりで面白くないよ」
「それじゃ明日から芸題《げだい》替えだ」次郎吉は煙管《きせる》のホコを払い、「もう玻璃窓に見せたんだから、俺の目的はとげられたってものさ。いつ替えたって惜しかあねえ」
「アラそう、それじゃ替えようかしら」
「それがいい、つき替えねえ」
 米八はいくらか愁眉をひらき、チラリと鏡を覗いてから、次郎吉の方へ膝を向けた。
「まだあるのよ、気になることが」
「文句の多い立《たて》おやまさね」次郎吉はちょっとウンザリしたが、「おおせられましょう、お姫様、とこう一つ行くとするか」
「真面目にお聞きよ、心配なんだからね」
「おい、どうするんだ、邪慳《じゃけん》だなあ。煙管《きせる》ならそっちにあるじゃねえか」
「お前さんの煙管でのみたいのさ」
「へん、安手《やすで》な殺し文句だ」
「でも、まんざらでもないでしょうよ」
「こんどは押し売りと来やがったな。あッ、熱い! なにをしやがる!」
 左の頬を抑えたのは、雁首《がんくび》の先をおっつけられたからで。
「いい気味いい気味、セイセイしたよ」
「地震の後はどうせ火事だ。諦めているからどうともしなよ」
 ゴロリと次郎吉はあおむけになった。
「節穴《ふしあな》の多い天井だなあ。暇にまかせて数えてやるか。七ツ八ツ九ツ十」
「莫迦《ばか》にしているよ、呆れもしない」
「そのまた莫迦が恋しくて、離れられないというやつさ」
「いい気なものさ、しょってるよ」
「あっ、畜生、五十八もあらあ」
 とうとうみんな数えたらしい。

    腑に落ちない色々の事

「ほんとにそうだよ」と米八は、何をにわかに考え出したものか、しみじみとしていい出した。
「どこがよくって惚れたのか、妾にゃまるっきり見当がつかない」
「オヤ、今度は恩にかけるのかい」
 次郎吉はもっけな顔をした。
「なあに、そうじゃないけれどね、お前さんのためにゃほんとにほんとに、髪まで切られているんだからね」
「おっと、そいつアいいっこなしだ」
 こうはいったが次郎吉も、これには多少こたえたらしい。
「どうだ、それでもすこしは伸びたか?」
「三月や半年で女の髪が、なんでそうそう伸びますかよ」米八は額で睨むようにした。
「あれは一生の失敗だった」むしろ次郎吉は慨然《がいぜん》と、「厭がるお前を無理にすすめ、一幕うったほどでもねえ、たいした儲けもなかったんだからな」
「罪もない観世様をそそのかし、色仕掛けで巻き上げたまでは、まあまあ我慢をするとして、ご親友だとかいう平手さんに、駕籠から雪の中へ引き出され、鼓を取られたあげくのはてに、ブッツリ髷を切られたんだもの、悪い役ったらありゃしない」
「あんまり来ようが遅いので、心配をして迎えに出たら、アッハハハ、あの活劇さ」
「助けにも来ず、薄情者! 思い出すと腹が立つよ」
「そっと仕舞《しま》って置くことさな。だが全くあの時は、見ていた俺さえ冷汗《ひやあせ》をかいた」
「今こそ笑って話すけれど、あの時|妾《わたし》は殺されるかと思った」
「だがな、あんな時俺が出たら、騒ぎは大きくなるばかりさ。そこでゆっくり拝見し駕籠が来たので付き添って、茶屋へ行ってからは思う存分、可愛がってやったからいいじゃねえか」
「だがね」と米八は探るように、「どうしてお前さんはあの鼓を、そうまで苦心して欲しがったのだろう?」
「なに、そんなことはどうでもいい」
 次郎吉はヒョイと横を向いた。
「妾ア気がかりでならないんだよ」
「ふふん」というと舌なめずりをした。
「そうかと思うと今年の夏中、フイと姿を消したりしてさ」
「旅へ行ったのさ、信州の方へな」
「その旅から帰ったかと思うと、例の鼓を持っているんだもの」
「ナーニ、そいつあ観世さんから、相談ずくで譲って貰ったのさ」
「そりゃあそうだろうとは思うけれど、それから間もなく起こったのが、鼓泥棒の鼓賊なんだもの……」
「ふん、それがどうしたんだい?」
 次郎吉はギロリと眼をむいた。
「だから気が気でないんだよ」
 その時チョンチョンと二丁が鳴った。
「おやもう幕が開くんだよ。それじゃ妾は行かなけりゃならない」
「では俺もおいとまとしよう」
 次郎吉はポンと立ち上がった。
「オイ、はねたら飲みに行こうぜ」
「ええ」
 というと部屋を出た。
 チェッと次郎吉は舌打ちをしたが、
「あぶねえものだ、火がつきそうだ」
 ちょっとあたりを見廻してから、部屋を出ると廊下へかかり、裏梯子《うらばしご》を下りると裏口から、雪のたまっている往来へ出た。
 プーッと風が吹いて来た。
「寒い寒い、ヤケに寒い」
 チンと一つ鼻をかみ、
「さあて、どっちへ行ったものかな」
 あてなしにブラブラ歩き出した。がその眼には油断がない。絶えず前後へ気をくばっていた。

    バッタリ遭ったは河内山

「おお和泉屋、和泉屋ではないか!」
 こう背後《うしろ》から呼ぶ者があるので、次郎吉はヒョイと振り返って見た。剃り立て頭に頭巾をかむり、無地の衣裳にお納戸色《なんどいろ》の十徳、色の白い鼻の高い、眼のギョロリとした凄味《すごみ》のある坊主、一見すると典医であるが、実は本丸のお数寄屋《すきや》坊主、河内山宗俊《こうちやまそうしゅん》が立っていた。
「おや、これは河内山の旦那で」
 こうはいったが和泉屋次郎吉、たいして嬉しそうな顔もしない。むしろ酸っぱい顔をした。
「どこへ行くな、え、和泉屋」
 黒塗りの足駄で薄雪を踏み、手は両方とも懐中手《ふところで》、大跨《おおまた》にノシノシ近寄って来たが、
「穴ッぱいりか、え、和泉屋、羨ましいな、奢《おご》れ奢れ」
「えッヘッヘッヘッ、どう致しまして。ちょっとそこまで野暮用で」
「冗談だろう、嘘をいえ。野暮用というなりではない。ここは浅草雷門、隅田を越すと両国盛り場。聞いたぞ聞いたぞその両国に、新しい穴を目つけたそうだな。羨ましいな一緒に行こう」
 始末につかない坊主であった。
「それはそうと、オイ和泉屋、近来ちっとも顔を出さないな」
「へえ、ちょっと、稼業の方が……」
「ナニ稼業? そんなものがあるのか」そらっ呆《とぼ》けてやり込めた。
「やりきれねえなあ、魚屋で」
「いや、それなら知ってるよ。だが、そいつあ表向き、お上を偽《あざむ》く手段じゃねえのか」
「とんでもないこと、どう致しまして」次郎吉はいやアな顔をした。
「ほんとに魚を売るのかえ」
「売る段じゃございません」
「塩引きの鮭でも売るのだろう」
「ピンピン生きてるたい[#「たい」に傍点]やこち[#「こち」に傍点]をね」
「おお、そうだったか、それは気の毒。アッハハハ、面白いなあ」
 益※[#二の字点、1-2-22]厭味に出ようとした。
「なにの、俺は、お前の稼業は、こいつだろうと思っていたのさ」壺を振るような手付きをし、
「ソーレどうだ、袁彦道《えんげんどう》!」
「そいつあ道楽でございますよ」
「ふふん、なるほど、道楽だったのか。それはそれはご結構なことじゃ。……それにしても思い切ったものだ。ちっとも賭場《とば》へ顔を出さないな」
「なあにそうでもございませんよ」気がなさそうに笑ったが、「やっぱりチョクチョク出かけているので」
「それにしては逢わないな」
「駆け違うのでございましょうよ」
「ちげえねえ、そうだろう。……だが細川へは行くまいな」こういうと宗俊はニヤリとした。これには意味があるのであった。
 はたして次郎吉は厭な顔をしたが、
「七里けっぱい[#「けっぱい」に傍点]でございますよ」
「ハッハッハッハッ、そうだろうて。……そこでいいことを聞かせてやる。気に入ったらテラを出せ」
「へえ、何んでございましょう?」
「玻璃窓の平八がいなくなったのさ」
「おっ、そりゃあほんとですかい?」思わず次郎吉は首を伸ばした。
「どうして旦那、ご存知で?」
「碩翁様からお聞きしたのさ」
「ははあなるほど、さようでございますか」
「どうだどうだ、いい耳だろう。十両でいい、十両貸せ」
「お安いご用でございますがね、……ようございます、では十両」
 紙に包んで差し出した。
「安いものさ、滅法《めっぽう》安い」チョロリと袖へ掻き込んだが、「オイ和泉屋、羽根が伸ばせるなあ」
 しかし次郎吉は返事をしない。
「お前にとっては苦手の玻璃窓、そいつが江戸から消えたとあっては、ふふん、全く書き入れ時だ。盆と正月が来たようなものだ。なあ和泉屋、そんなものじゃねえか」
 宗俊はネチネチみしみしとやった。

    鼓賊と鼠小僧は同一人

「旦那」と次郎吉は探るように、「いったいどこへいったんですい?」
「え、誰が? 玻璃窓か?」
「あの好かねえじじく玉で」
「どうやら大分気になるらしいな。聞かせてやろうか、え、和泉屋」
「ききてえものだ。聞かせておくんなせえ」
「が、只じゃあるめえな」
「十両あげたじゃありませんか」
「これか、こいつあさっきの分だ。一話十両といこうじゃねえか」
「厭なことだ、ご免|蒙《こうむ》りましょう」
「よかろう、それじゃ話さねえまでだ」
「旦那も随分あくどいねえ」とうとう次郎吉は憤然とした。「悪党のわりに垢抜けねえや」
「お互い様さ、不思議はねえ」
 宗俊はノコノコ歩き出した。
「旦那旦那待っておくんなさい」
 未練らしく呼び止めた。
「何か用か、え、和泉屋、止まるにも只じゃ止まらねえよ」
「出しますよ、ハイ十両」
「感心感心、思い切ったな」
「で、どこへ行ったんですい?」
「海へ行ったということだ」
「え、海へ? どこの海へ?」
「そいつはどうもいわれねえ」
「へえ、それじゃそれだけで、私《わっち》から二十両お取んなすったので?」
「悪いかな、え、和泉屋、悪いようなら、ソレ返すよ」
「ナーニ、それにゃ及ばねえ。それにしても阿漕《あこぎ》だなあ。……ようごす、旦那、もう十両だ、詳しく話しておくんなさい」
「莫迦《ばか》をいえ」と宗俊は、苦笑いをして首を振り、「いかに俺があくどいにしろ、そうそうお前から取る気はねえ。……詳しく話してやりたいが、実はこれだけしか知らねえのさ。いかに中野碩翁様が、俺《おい》らの親分であろうとも、秘密は秘密、お堅いものだ。実はこれだけ聞き出すにも、たいてい苦労をしたことじゃねえ。……だが、この俺の考えでは、お前もとうから聞いていよう、ひんぴんと起こる海賊沙汰、それと関係があるらしいな」
「へへえ、なるほど、海賊にね。いや有難うございました。そこでついでにもう一つ、いつ江戸をたったので?」
「今朝のことだよ。あけがたにな」
「いつ頃帰って参りましょう」
「仕事の都合さ、俺には解らねえ」
「それはそうでございましょうな」
 次郎吉はじっと考え込んだ。
「オイ和泉屋」と宗俊は、にわかにマジメな顔をしたが、「気をつけろよ気をつけろよ。あいつのことだ、じき帰って来よう。そうしたらやっぱりこれまで通り、お前をつけて廻そうぜ。あの細川の下屋敷以来、お前は睨まれているんだからな」
「ほんとに迷惑というものだ」次郎吉は変に薄笑いをしたが、「人もあろうに私《わっち》のことを、鼠小僧だっていうんですからね」
「そいつあどうともいわれねえ」宗俊も変に薄笑いをし、「鼠小僧だっていいじゃねえか。俺ア鼠小僧が大好きだ。腐るほど持っている金持ちの金を、ふんだくるなあ悪かあねえよ」
「ほんとに迷惑というものだ」パチリと頬を叩いたが、「この片頬の切り傷だって、あの爺《じじい》に付けられたんでさあ」
「あれはたしか五年前だったな」
「ほんとに迷惑というものだ」
「ところがことしの秋口から、鼠小僧は影をかくし、代りに出たのが評判の鼓賊、オイ和泉屋、玻璃窓はな、その鼓賊と鼠小僧を、同じ人間だといってるぜ」
「ふふん、どうだって構うものか。私《わっち》の知ったことじゃねえ」
「おおそうか、それもいいだろう。が宗俊は苦労人だ。よしんばお前がなんであろうと、洗い立てるような野暮はしねえ。だからそいつあ安心しねえ。……長い立ち話をしたものさ。どれ、そろそろ行こうかい。和泉屋、それじゃまた逢おう」
 宗俊はノシノシ行ってしまった。
 後を見送った和泉屋次郎吉、
「ふん、あれでもお直参か」吐き出すように呟いたが、「だがマアそれでもいいことを聞いた。鬼のいぬ間の洗濯だ。あばれて、あばれて、あばれ廻ってやろう」

 その夜、江戸の到る所で、鼓の音を聞くことが出来た。そうして市内十ヵ所に渡って、大きな窃盗が行われた。

    気味の悪い不思議な武士

 品川を出た帆船で、銚子港へ行こうとするには、ざっと次のような順序を経て、航海しなければならなかった。
 千葉、木更津《きさらづ》[#ルビの「きさらづ」は底本では「きさらず」]、富津《ふっつ》、上総《かずさ》。安房《あわ》へはいった保田《ほた》、那古《なご》、洲崎《すさき》。野島ヶ岬をグルリと廻り、最初に着くは江見《えみ》の港。それから前原港を経、上総へはいって勝浦、御宿《おんじゅく》。その御宿からは世に名高い、九十九里の荒海で、かこ[#「かこ」に傍点]泣かせの難場であった。首尾よく越せば犬吠崎。それからようやく銚子となり、みちのりにして百五十里、風のない時には港へ寄って、風待ちをしなければならなかった。
 で、玻璃窓の平八の乗った、淀屋の持ち船八幡丸も、この航路から行くことにした。海上風波の難もなく、那古の港まで来た時であったが、一人の武士が乗船した。
 本来八幡丸は貨物船で、客を乗せる船ではないのであったが、やはり裏には裏があり、特に船頭と親しいような者は、こっそり乗ることを許されていた。
 武士の年齢は四十五、六、総髪の大|髻《たぶさ》、見上げるばかりの長身であったが、肉付きはむしろ貧しい方で、そのかわりピンと引き締まっていた。着ている衣裳は黒羽二重。しかし大分年代もので、紋の白味が黄ばんでいた。横たえている大小も、紺の柄絲《つかいと》は膏《あぶら》じみ、鞘の蝋色は剥落《はくらく》し、中身の良否はともかくも、うち見たところ立派ではない。それにもかかわらずその人品が、高朗としてうち上がり、人をして狎《な》れしめない威厳のあるのは、学か剣か宗教か、一流に秀でた人物らしい。
 船尾《とも》の積み荷の蔭に坐り、ぼんやりあたりを見廻していた、郡上平八の傍《そば》まで来ると、ふとその武士は足を止めた。
「職人職人よい天気だな」声をかけたものである。
「へい、よい天気でございます」平八はちょっと驚きながらも、こう慇懃《いんぎん》に挨拶をした。
「どこへ行くな? え、職人?」ひどくきさくな調子であった。
「へい、銚子まで参ります」
「うん、そうか、銚子までな」こういうと武士は坐り込んだが、それからじっと平八を眺め、「なんに行くな、え、銚子へ?」
「へい、いえちょっと、仕事の方で。……それはそうとお武家様も、やはり銚子でございますかな?」
「いやおれはすこし違う」武士は変に笑ったが、「ところでお前は何商売だな?」
「へい、船大工でございます」こうはいったが平八は、気味が悪くてならなかった。
「なに船大工? 嘘をいえ」武士はいよいよ変に笑い、「これ、大工というものはな、物を見るのに上から見る。ところがお前は下から見上げる。アッハハハ、これだけでも異《ちが》う。どうだ、これでも大工というか?」
 これを聞くと平八は「あっ、しまった」と胸の中でいった。武士の言葉に嘘はない。すべて大工というものは、棟《むね》の出来栄《できばえ》へまず眼をつけ、それからずっと柱づたいに、土台の仕組みまで見下ろすものであり、それが万事に習慣づけられ、人を見る時には頭から眺め、足に及ぼすものなのであった。これに反して与力、同心、岡っ引きなどというようなものは、何より先に足もとを見、その運びに狂いがないかを、吟味するのに慣らされていた。しかるに平八は思うところあって棟梁《とうりょう》風にやつしてはいたが、ついうっかりとその点へまで、心を配ることをうち忘れ、武士を見る時にも与力風に、まず足から見たものであった。
「それにしてもこの侍、いったいどういう人物であろう?」改めて平八はつくづくと、武士を見守ったものである。
 その混乱した平八の様子が、武士にはひどく面白いと見え、奥歯をかむようにして笑ったが、
「どうだ、これでも船大工かな」
「へい、大工でございますとも、だってそうじゃございませんか、旦那に嘘を申し上げたところで、百も儲かりゃあしませんからね」いわゆるヤケクソというやつで、こう平八はつっぱねた。

    たたみ込んだ船問答

「おお、そうか、これは面白い、ではお前へ訊くことがある。どうだ、返辞が出来るかな」
「へい、わっちの知っていることなら、なんでもお答えいたしますよ」「知ってることとも、知ってることだよ、お前がほんとに船大工なら、いやでも知らなければならないことだ」
 こういうと武士は懐中から、一葉の紙を取り出した。見れば絵図が描かれてあった。船体横断の図面であった。
「さあ、これだ、よく見るがいい」武士は一点を指差したが、「ここの名称は何というな?」
「へい、腰当梁《こしあて》でございましょうが」平八は笑って即座にいった。己が姿を船大工にやつし、敵地へ乗り込もうというのであるから、忙しいうちにも平八は、一通り船のことは調べて置いた。
「それならここだ、ここは何というな?」「へい、赤間梁《あわち》と申しやす」「うん、よろしい、ではここは?」「三|間梁《のま》でございますよ」「感心感心よく知っている。ではここは? さあいえさあいえ」「下閂《したかんぬき》でございまさあ」「ほほう、いよいよ感心だな。ここはなんという? え、ここは?」
「なんでもないこと、小間《こま》の牛で」「いかにもそうだ、さあここは?」「へい、横山梁《よこやま》にございます」「うん、そうだ、さあここは?」「ヘッヘッヘッヘッ、蹴転《けころ》でさあ」「ではここは? さあわかるまい?」「胴《どいがえ》じゃございませんか。それからこいつが轆轤座《ろくろざ》、切梁《きりはり》、ええと、こいつが甲板の丑《しん》、こいつが雇《やとい》でこいつが床梁《とこ》、それからこいつが笠木《かさぎ》、結び、以上は横材でございます」
 ポンポンポンといい上げてしまった。
「ふうむ、感心、よく知っている。さては多少しらべて来たな。……よし今度は細工で行こう。……縦縁《たてべり》固着はどうするな?」
「まず鉋《かんな》で削りやす。それからピッタリ食っつけ合わせ、その間へ鋸《のこぎり》を入れ、引き合わせをしたその後で、充分に釘を打ち込みやす。漏水のおそれはございませんな」
「上棚中棚の固着法は?」
「用いる釘は通り釘、接合の内側へ漆《うるし》を塗る。こんなものでようがしょう」
「釘の種類は? さあどうだ?」
「敲《たた》き釘に打ち込み釘、木釘に竹の釘に螺旋《らせん》釘、ざっとこんなものでございます」
「螺旋釘の別名は?」
「捩《ね》じ込み釘に捩じ止め釘」
「船首《とも》の材には何を使うな?」
「第一等が槻材《けやきざい》」
「それから何だな? 何を使うな?」
「つづいてよいのは檜材《ひのきざい》、それから松を使います」
「よし」というと侍は、またも懐中へ手を入れたが、取り出したのは精妙を極めた、同じ船体の縦断面であった。
「さあここだ、なんというな?」
 航《かわら》と呼ばれる敷木《しき》の上へ、ピッタリ指先を押しあてた。
「なんでもないこと、それは航で」「いかにも航だ。ではここは?」「へい、弦《つる》でございます。そうしてその下が中入れで、そうしてその上が弦押しで」「矧《は》ぎ付きというのはどのへんだな?」
「弦押しの上部、ここでございます」「では、ここにある一文字は?」「船の眼目、すなわち船梁《ふなばり》」
「もうよろしい」といったかと思うと、武士は図面を巻き納めた。と、居住居《いずまい》を正したが、にわかに声を低目にし、「正直にいえ、職人ではあるまい」
「くどいお方でございますな」平八は多少ムッとしたが「なにを証拠にそんなことを。……わっちは船大工でございますよ」
「そうか」というとその武士は、平八の右手をムズと掴んだ。
「これは乱暴、なにをなされます」

    ご禁制の二千石船

 不意に驚いた平八が、引っ込めようとするその手先を、武士は内側へグイと捻った。逆手というのではなかったので、苦痛も痛みも感じなかったが、なんともいえない神妙の呼吸は、平八をして抗《あらが》わせなかった。
「さて、掌《てのひら》だ、ここを見ろ!」いうと一緒に侍は、小指の付け根へ指をやったが、「よいか、ここは坤《こん》という。中指の付け根ここは離《り》だ。ええと、それから人差し指の付け根、ここを称して巽《そん》という。ところで大工の鉋《かんな》ダコだが、必ずこの辺へ出来なければならない。しかるにお前の掌を見るに、そんなものの気振りもない。これ疑いの第一だ。それに反して母指《おやゆび》の内側、人差し指の内側へかけて、一面にタコが出来ている。これ竹刀《しない》を永く使い、剣の道にいそしんだ証拠だ。……が、まずそれはよいとして、ここに不思議なタコがある。と、いうのは三筋の脉《みゃく》、天地人の三脉に添って、巽《そん》の位置から乾《けん》の位置まで斜めにタコが出来ている。さあ、このタコはどうして出来た?」武士はニヤリと一笑したが、「お前、捕り縄を習ったな! アッハハハ、驚くな驚くな、すこし注意をしさえしたら、こんなことぐらい誰にでも解る。……さて次にお前の足だが、心持ち内側へ曲がっている。そうしてふくらはぎに馬擦れがある。これ馬術に堪能の証拠だ。ところで、捕り縄の心得があり、しかも馬術に堪能とあっては、自ら職分が知れるではないか。これ、お前は与力だろうがな! いや、しかし年からいうと、今は役目を退いている筈だ。……与力あがりの楽隠居。これだこれだこれに相違ない! どうだ大将、一言もあるまいがな」
 武士は哄然と笑ったものである。
「おい」と武士はまたいった。「変装をしてどこへ行くな? しかも大工のみなりをして。いやそれとてこのおれには、おおかた見当がついている。そこでお前へ訊くことがある、いま見せてやった図面の船、何石ぐらいかあたりがつくかな?」
「へえ」といったが平八には、その見当がつかなかった。それに度胆を抜かれていた。で、眼ばかりパチクリさせた。
「解らないかな」と冷やかに笑い、フイと武士は立ち上がったが、「お前の目的とおれの目的と、どうやら同じように思われる。……それはとにかくこの船はな、二千石船だよ! ご禁制の船だ!」いいすてると武士は大跨に歩き、胴の間の方へ下りていった。
 後を見送った平八が、心の中で、「あっ」と叫んだのは、まさに当然というべきであろう。彼はウーンと唸り出してしまった。「武術が出来て手相が出来、そうしてご禁制の大船の図面を、二葉までも持っている。……みなりは随分粗末ながら、高朗としたその風采、一体全体何者だろう?」
 しかし間もなく武士の素性は、意外な出来事から露見された。
 それは上総の御宿の沖まで、船が進んで来た時であったが、忽ち海賊におそわれた。その時はもう夕ぐれで、浪も高く風も強く、そうしてあたりは薄暗かったが、忽然一せきの帆船が行く手の海上へあらわれた。べつに変ったところもない、普通の親船にすぎなかったが、しずかにしずかに八幡丸を、あっぱくするように近寄ってきた。ちょうどこの時平八は、船のへさきに胡坐《あぐら》をかき、海の景色をながめていたが、その鋭い探偵眼で、賊船であることを見てとった。
「ははあ、いよいよおいでなすったな」
 ニヤリとほくそ笑んだものである。
 正直のところ平八は、海賊を待っていたのであった。そうして彼は十中八九、現われてくるものと察していた。というのは八幡丸は、船脚が遅くかこ[#「かこ」に傍点]が少なく、しかも船としては老齢なのに、某《なにがし》大名から領地へ送る、莫大《ばくだい》もない黄金を、無造作《むぞうさ》に積みこんでいるからで、こういう船を襲わなかったら、それこそ海賊としては新米であった。

    武士の剣技精妙を極む

 八幡丸のかこ[#「かこ」に傍点]どもが、海賊来襲に気がついたのは、それから間もなくのことであったが、しかしその時は遅かった。賊船から下ろされた軽舟が、すでに周囲《まわり》をとりまいていた。と、投げかけた縄梯子をよじ、海賊の群がなだれこんで来た。
 怒号、喚声、呻吟、悲鳴、おだやかであった船中が、みるまに修羅場と一ぺんしたのは悲惨というも愚かであった。賊は大勢のそのうえに手に手に刀を抜き持っていた。勝敗の数は自《おのずか》ら知れた。最初はけなげに抵抗もしたが、あるいは傷つけられまたは縛られ、悉くかこ[#「かこ」に傍点]たちは平げられてしまった。
 船腹へ飛び込んだ海賊どもが、黄金の箱をかつぎだしたり、積み荷の行李を持ちだしたりする、不気味といえば不気味でもあり、壮快といえば壮快ともいえる、掠奪の光景が演じられたのも、それから間もなくのことであった。
 海上を見ればすぐ手近に、その櫓《やぐら》を黒く塗った、海賊船の親船が、しずまりかえって横たわり、こっちの様子をうかがっていた。あたりを通る船もなく、煙波は茫々と見渡すかぎり、夕暮れの微光に煙っていた。
 では不幸な八幡丸は、そのまま海賊の掠奪にあい、全部積み荷を奪われたのであろうか? いやいやそうではなかったのであった。胴の間に眠っていた例の武士が、その眠りから覚めた時、形勢は逆転したのであった。
 まず胴の間から叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]する、武士の声が響いて来た。と、つづいてウワーッという、海賊どもの喚き声が聞こえ、忽ち田面《たのも》の蝗《いなご》のように、胴の間口から七、八人の、海賊どもが飛び出して来た。と、その後ろから現われたのが、怒気を含んだ例の武士で、両手に握った太い丸太を、ピューッピューッと振り廻した。が、振り方にも呼吸があり、決してむやみに振り廻すのではない。急所急所で横に縦に、あるいは斜めに振り下ろすのであった。
 しかし一方賊どもも、命知らずの荒男《あらおとこ》どもで、危険には不断に慣れていた。ことには甲板には二十人あまりの、味方の勢がいたことではあり、一団となって三十人、だんびら[#「だんびら」に傍点]をかざし槍をしごき、ある者は威嚇用の大まさかりを、真《ま》っ向《こう》上段に振りかぶり、さらにある者は破壊用の、巨大な槌を斜めに構え、「たかが三ピンただ一人、こいつさえ退治たらこっちのもの、ヤレヤレヤレ! ワッワッワッ」と、四方八方から襲いかかった。
 が、武士の精妙の剣技たるや、ほとんど類を絶したもので、人間業とは見えなかった。まず帆柱を背に取ったのは、後ろを襲われない用心であった。握った丸太はいつも上段で、じっと敵を睥睨《へいげい》した。静かなること水の如く、動かざること山の如しといおうか、漣《さざなみ》ほどの微動もない。と、ゆっくり幾呼吸、ジリジリ逼る賊の群を一間あまり引きつけて置いて、「カッ」と一|声《せい》喉的破裂《こうてきはれつ》、もうその時には彼の体は敵勢の中へ飛び込んでいた。ピューッという風鳴りの音! 丸太が斜めに振られたのであった。生死は知らずバタバタと、三人あまり倒れたらしい。「エイ」という引き気合い! まことに軟らかに掛けられた時には、彼のからだは以前の場所に、以前と同じに立っていた。と、ワッと閧《とき》を上げ、バラバラと逃げる賊の後を、ただ冷然と見るばかり、無謀に追っかけて行こうとはしない。帆柱を背に不動の姿勢、そうして獲物は頭上高く、やや斜めにかざされていた。と、また懲りずにムラムラと、海賊どもが集まって来た。それを充分引きつけておいて、ふたたび喉的破裂の音、「カッ」とばかりに浴びせかけた時には、どこをどのようにいつ飛んだものか、長身|痩躯《そうく》の彼の体は、賊勢の只中に飛び込んでいた。またもやピューッという風を切る音、同時にバタバタと倒れる音、「エイ」と軟らかい引き呼吸、もうその時には彼の体は、帆柱の下に佇んでいた。それからゆるやかな幾呼吸、微塵|労疲《つか》れた気勢《けはい》もない。で、また賊はムラムラと散ったが、それでも逃げようとしないのは、不思議なほどの度胸であった。彼らは口々に警《いまし》め合った。
「手強《てごわ》いぞよ手強いぞよ!」「用心をしろよ用心をしろよ!」

    秋山要介と森田屋清蔵

 そこで遠巻きにジリジリと、またも賊どもは取り詰めて来た。しかし武士は動かない。ただ凝然《じっ》と見詰めていた。口もとの辺にはいつの間にか、憐れみの微笑さえ浮かんでいた。
 と、また同じことが繰り返された。賊どもがまたも押し寄せて来た。忽ち掛けられた喉的破音《こうてきはおん》。同時に武士の長身は、敵の中へ飛び込んでいた。ピューッという風鳴りの音、続いて賊どもの倒れる音、そうして軟らかい気合いと共に、武士の姿は帆柱のもとに、端然冷然と立っていた。
 判で押したように規則正しい、その凄烈の斬り込みは、なんと形容をしていいか、言葉に尽くせないものがあった。
 帆綱の蔭に身をひそめこの有様を眺めていた、玻璃窓の郡上[#「郡上」は底本では「那上」]平八が、感嘆の溜息を洩らしたのは、まさに当然なことであろう。
「人間ではない天魔の業だ。それにしてもいったいこの人は、どういう身分のものだろう? 無双の剣客には違いないが、はて、それにしても誰だろう? 当時江戸の剣豪といえば、千葉周作に斎藤弥九郎、桃井春蔵に伊庭親子、老人ながら戸ヶ崎熊太郎、それから島田虎之助、お手直し役の浅利又七郎、だがこれらの人々は、みんな顔を知っている。武州練馬の樋口十郎左衛門、同じく小川の逸見《へんみ》多四郎、それから、それからもう一人! うん、そうだ、あの人だ!」
 その時、ボ――ッという竹法螺《たけぼら》の音が、賊の親船から鳴り渡った。それが何かの合図と見え、武士を取り巻いていた海賊は、一度に颯《さっ》と引き退いたが、ピタピタと甲板へ腹這いになった。びっくりしたのは平八で、「はてな、おかしいぞ、どうしたのだろう?」グルリと海の方を振り返って見た。と、賊の親船が、数間の手前まで近寄っていた。そうして船の船首《へさき》にあたり、一個の人物が突っ立っていた。どうやら海賊の首領らしく、手に一丁の種子ヶ島を捧げ、じっとこっちを狙っていた。武士を狙っているのであった。
「あっ、飛び道具だ! こいつはいけない!」平八は思わず絶叫した。「種子ヶ島だア! 飛び道具だア! お武家あぶねえ! あぶねえあぶねえ!」そうして両手を握り締めた。武士はと見れば、冷然と、帆柱の下に立っていた。ただ上段に構えていたのを、中段に取り直したばかりであった。
 風もやみ、浪も静まり、海賊どもは腹這いを続け、四辺|寂《せき》として声もなく、ただ平八の声ばかりが、こだまも起こさぬ大洋の上を、どこまでもどこまでも響いて行った。と、薄闇を貫いて、パッと火縄の火花が散り、ドンと一発鳴り渡ろうとした時、武士が大音《だいおん》に呼ばわった。
「おお貴様は、森田屋じゃねえか!」
「えっ」といったらしい驚きの様子が、鉄砲の持ち主から見て取られたが、「やあそうおっしゃるあなた様は、秋山先生じゃございませんか!」
「いかにも俺は秋山要介、貴様を尋ねてやって来たのだ!」
「あっいけねえ、そいつあ大変だ! わっちも先生のおいでくださるのを、一日千秋で待っていやした。いやどうもとんだ間違いだ! 取り舵イイ」とばかり声を絞った。ギ――と軋《きし》る艫櫂《ろかい》の音、見る見る賊船は位置を変え、八幡丸の船腹へ、ピッタリ船腹を食っつけてしまった。
 この二人の問答を聞き、はっと思ったのは平八で、剣技神妙の侍が、秋山要介であろうとは、たった今し方感づいたところで、これには別に驚かなかったが、海賊船の頭領が、森田屋清蔵であろうとは、夢にも思わなかったところであった。
 天保六花撰のその中でも、森田屋清蔵は宗俊に次いで、いい方の位置を占めていた。しかも人物からいう時は、どうしてどうして宗俊など、足もとへも寄りつけないえらもの[#「えらもの」に傍点]なのであった。気宇《きう》の広濶希望の雄大、任侠的の精神など、日本海賊史のその中でも、三役格といわなければならない。産まれは駿州江尻在、相当立派な網持ちの伜で、その地方での若旦那であり、それが海賊になったのには、いうにいわれぬ事情があったらしい。

    海賊船は梵字丸《ぼんじまる》

 郡上平八が隠居せず、立派な与力であった時分、その豪快な性質を愛し、二、三度|目零《めこぼ》しをしたことがあった。で清蔵からいう時は、まさしく平八は恩人なのであり、また平八からいう時は、恩を施してやった人間なのであった。
 しかるに清蔵はここ七、八年、全く消息をくらましていた。もう死んだというものもあり、南洋へいったというものもあり、日本近海からは彼の姿は、文字どおり消えてなくなっていた。で、今度の海賊沙汰についても、彼の噂はのぼらなかった。したがって平八の心頭へも、清蔵の名は浮かんで来なかった。しかるにいよいよぶつかってみれば、その海賊は森田屋なのであった。
「俺はまたもや目違いをした」
 思うにつけても平八は、憮然たらざるを得なかった。
 この時|船縁《ふなべり》を飛び越えて、森田屋清蔵がやって来た。と見て取った平八は、つと前へ進み出たが、
「おお森田屋、久しぶりだな!」
「え?」といって眼を見張ったが、
「やあ、あなたは郡上の旦那!」
「ナニ、郡上?」といいながら、ツカツカやって来たのは武士であったが、
「うむ、それでは世に名高い、玻璃窓の郡上平八老かな」
「そうして、あなたは秋山殿で」「いかにも拙者は秋山要介、名探索とは思っていたが、郡上老とは知らなかった」「奇遇でござるな。奇遇でござる」二人はすっかりうちとけた。
「ヤイヤイ野郎どもトンデモない奴だ! 秋山先生と郡上の旦那へ、手向かいするとは不量見、あやまれあやまれ、大馬鹿野郎!」森田屋清蔵は手下の者どもを、睨み廻しながら怒鳴りつけた。
「ワーッ、こいつあやりきれねえ。強いと思ったが強い筈だ。だが、お頭は水臭いや。掛かれといったから掛かったんで。ぶん撲られたそのあげく、あやまるなんてコケな話だ」
「みんな手前《てめえ》達がトンマだからさ。文句をいわずとあやまれあやまれ」――で、賊どもがあやまるという、滑稽な幕がひらかれた。

 森田屋清蔵の海賊船は梵字丸《ぼんじまる》と呼ばれていた。その梵字丸の胴の間に、苦笑いをして坐っているのは、他でもない平八で、それと向かい合って坐っているのは、すなわち森田屋清蔵であった。四十五、六の立派な仁態《じんてい》、デップリと肥えた赧ら顔、しかもみなりは縞物ずくめで、どこから見ても海賊とは見えず、まずは大商店《おおどこ》の旦那である。側《そば》に大刀をひきつけてはいるが、それさえ一向そぐわない。
 掠奪を終えた梵字丸は、しんしんと駛《はし》っているらしい。轟々という浪の音、キ――キ――という帆鳴りの音、板と板とがぶつかり合う、軋り音さえ聞こえて来た。
「旦那がおいでと知っていたら、けっして掛かるんじゃなかったのに、とんだドジをふみやした。どうぞマアごかんべんを願います」森田屋清蔵は手を揉んだが、「それに致してもそのおみなりで、どちらへお出かけでございましたな。」
「うん、これか」といいながら、平八は自分を見廻したが「どうだ森田屋、似合うかな」「そっくり棟梁でございますよ」「アッハハハ、それは有難い。実はな、森田屋、この風で、海賊を釣ろうとしたやつさ」意味ありそうにきっといった。
「ええ、海賊でございますって? おお、それじゃわっちたちを?」さすがにその眼がギラリと光った。
「うん、まずそうだ。そうともいえる。がまたそうでないともいえる」謎めいたことをいいながら、一膝グイと進めたが、「森田屋、正直に話してくれ。船を造っちゃいないかな?」「ええ、船でございますって?」森田屋はあっけにとられたらしく「それはなんのことでございますな?」「ご禁制の船だよ。ご禁制のな」「へえ、それじゃ千石船でも?」「どうだ、造っちゃいないかな?」
「とんでもないことでございますよ」森田屋清蔵は否定した。
「ふうむ、そうか、造っちゃいないのだな。……いやそれを聞いて安心した。それじゃやっぱり他にあるのだ。……まるまる目違いでもなかったらしい」どうやら安心をしたらしい。

    莫大もない赤格子の財産

 森田屋清蔵には平八の言葉が、どういう意味なのか解らなかった。で、ちょっとの間だまっていた。
 が、やがて意味がわかると、
「ええええ、お目違いじゃございませんとも」急に森田屋は乗り出して来た。
「ご禁制の二千石船を、こしらえている者がありますので」
「それをお前は知ってるのか?」平八は思わず乗り出した。
「知ってる段じゃございません。私《わっち》らはそいつらと張り合ってるので」「誰だな? そいつは? え、誰だな?」「赤格子九郎右衛門でございますよ」
 これを聞くと平八は、しばらく森田屋を見詰めていたが、「うん、それでは赤格子は、日本の土地にいるのだな」「ハイ、いる段じゃございません。赤格子本人がやって来たのは、今年の秋のはじめですが、手下の奴らはずっと前から、日本へ入りこんでいたのですな。そうして連絡を取っていたので」「で、今はどこにいるのだ?」「へい、銚子におりますので」「ううむ、そうか、銚子にな……そこで大船《おおぶね》を造っているのだな? ……なんのために造っているのだろう?」「莫大もない財産を、持ち運ぶためでございますよ」森田屋は居住居を正したが、「実はこうなのでございます。十数年前大坂表で、赤格子九郎右衛門一味の者が、刑死されたと聞いたとき、そこはいわゆる蛇《じゃ》の道は蛇《へび》で、眉唾《まゆつば》ものだと思いました。はたしてそれから探ってみると、刑死どころかお上の手で、丁寧に船で送られて、南洋へ渡ったじゃございませんか。そこでわたしたちは考えたものです。彼奴《きゃつ》が永年密貿易によって、集めた財産は莫大なものだが、どこに隠してあるだろうとね。南洋へ移した形跡はない。ではどうでも日本のうちにある。ソレ探せというところから、随分手を分けてさがしましたが、ねっから目っからないではございませんか。そうこうしているうち年が経ち、ある事情でこのわたしは、海賊の足を洗いました。……」
「ううむ、そうか、それじゃやっぱり、お前は海から足を洗い、素人《しろと》になっていたのだな」
 平八はうなずいて言葉を※[#「插」のつくり縦棒を下に突き抜ける、第4水準2-13-28]んだ。「で、どこに住んでいたな?」「へい、江戸におりました」「ナニ江戸に? 江戸はどこに?」「日本橋は人形町、森田屋という国産問屋、それが私の隠れ家でした」「人形町の森田屋といえば、江戸でも一流の国産問屋だが、それがお前の隠れ家だとは、今が今まで知らなかった。……世に燈台《とうだい》下《もと》くらしというが、これは少々暗すぎたな。いや、どうも俺も駄目になった」またも平八は憮然《ぶぜん》として嘆息せざるを得なかった。「そのお前がどうしてまた、荒稼ぎをするようになったのかな?」「それには訳がございます。どうぞお聞きくださいますよう。ある日ヒョッコリ訊《たず》ねて来たのが、義兄弟の金子市之丞で、父の仇が討ちたいから、どうぞ助太刀をしてくれと、こう申すではございませんか。仇は誰だと訊きましたところ、赤格子九郎右衛門だというのです。その赤格子なら南洋にいる、どうして討つ気かと訊ねましたところ、最近日本へ帰って来て、銚子にいるというのです。そこでわたしも考えました。相手が赤格子九郎右衛門なら、持って来いの取り組みだ。それにおりから商売にも飽き、平几帳面《ひらきちょうめん》の素人ぐらしにも、どうやら面白味を失って来た。河育ちは河で死ぬ。よし一生の思い出に、それでは、もう一度海賊となり、赤格子めと張り合ってやろう。それがいいというところから、数隻の廻船を賊船に仕立て、昔の手下を呼び集め、なにしろ赤格子と戦うには、兵糧もいれば武器もいる。やれやれというので近海を、荒らしまわったのでございますよ」さすがにそれでも気が咎《とが》めると見え、こういうと森田屋は俯向《うつむ》いた。

    ムーと絶望した郡上平八

「なるほど」といったが平八は、しばらくじっと打ち案じた。「どうだろう森田屋、この俺を、船からおろしてはくれまいかな」「船をおりてどうなされます?」「実は」というと平八は、森田屋の側へズイと寄り、「さるお方に頼まれて、大事の密書を預かっているのだ。渡す相手は赤格子、そこでこんな変装までして、彼奴《きゃつ》の行方をさがしていたのさ。銚子にいると耳にしては、どうも一刻もうっちゃってはおけない。頼む、小船を仕立ててくれ。そうして銚子へ着けてくれ」
 これを聞くと森田屋は、にわかに当惑の表情をした。「旦那、せっかくのお頼みですが、どうもそいつだけは出来かねますなあ」「なぜ出来かねる? え、なぜだ?」「秋山先生のおいでを待って、赤格子攻めをやろうというのが、私達の計画なのでございますよ。その先生がおいでなされた今は、一刻も急がなければなりませんので。で今船は根拠地へ向けて、走っているのでございますよ。それだのに旦那をお送りして、うっかり小船を陸へでも着け、もし役人にでも感づかれたら、それからそれと足がつき、一網打尽に私達は、召し捕られないものでもありません。大事な瀬戸際なのでございますよ。ですからどうもこればかりは、おひきうけすることはできませんなあ」「だが俺はどうしても、赤格子攻めのその前に、九郎右衛門に行き会わなかったら、頼まれたお方に申し訳が立たぬ。ぜひとも小船を仕立ててくれ」「残念ながらそればかりは……」「では、どうしても駄目なのだな」「どうぞお察しを願います」「ううむ」と唸ると平八は、絶望したように腕を組んだ。と、この時甲板の方から陽気な笑い声がドッと起こった。秋山要介を賓客《ひんきゃく》とし、森田屋の手下の海賊どもが、酒宴をひらいているのであった。

 ここは梵字丸の甲板であった。
 十七日あまりの冴えた月が、船をも海をもてらしていた。船はしんしんとはしっていた。根拠地をさしてはしっているのだ。
 大杯で酒をあおりながら、談論風発しているのが、他ならぬ秋山要介であった。武州|入間郡《いるまごおり》川越の城主、松平大和守十五万石、その藩中で五百石を領した、神陰《しんかげ》流の剣道指南役、秋山要左衛門勝重の次男で、十五歳の時には父勝重を、ぶんなぐったという麒麟児《きりんじ》であり、壮年の頃江戸へ出て、根岸お行《ぎょう》の松へ道場を構え、大いに驥足《きそく》を展《の》ばそうとしたが、この人にしてこの病《やま》いあり、女は好き酒は結構、勝負事は大好物、取れた弟子も離れてしまい、道場は賭場《とば》と一変し、門前|雀羅《じゃくら》を張るようになった。こいつはいけないというところから、道場をとじて武者修行に出たが、この武者修行たるや大変もので、どこへ行っても敬遠された。秋山要介の名を聞くと、「いやもう立ち会いは結構でござる。些少ながら旅用の足しに」こういってわらじ銭を出すのであった。というのは試合ぶりが世にも、荒っぽいものであって、小手を打たれると小手が折れる、横面を張られると耳がつぶれる、胴を取られると肋骨が挫《くじ》ける、もしそれお突きでやられようものなら、そのまま冥途へ行かなければならない。で、敬遠するのであった。彼の流儀は神陰流ではあったが、事実は流儀から外れていた。むりに名付けると秋山流であった。「飛込《とびこみ》一刀」といわれたところの、玄妙な一手を工夫して、ほとんどこればかり用いていた。遠く離れてじっと構え、飛び込んで行ってただ一刀! それだけでカタをつけるのであった。あんまり諸方で敬遠されるので、彼もいいかげん閉口してしまった。そこで博徒を訪問しては、そいつらに武芸を教えることにした。大前田英五郎、国定忠治、小金井小次郎、笹川繁蔵、飯岡助五郎、赤尾林蔵、関八州の博徒手合いで、彼に恩顧を蒙《こうむ》らないものは、一人もないといってもよい。ある時は高級用心棒として、賭場を守ったこともあり、またある時はなぐりこみへ出張り、直々武勇を現わしたこともあった。ただしなぐりこみへ出た時は、剣を用いなかったという事であった。
 さて秋山要介は、そういう人物であったので、取り立てた弟子も多くなかったが、しかし一面関東の侠客は、全部弟子だということが出来た。その間特に可愛がった弟子に金子市之丞という若者があった。下総国|葛飾郡《かつしかごおり》流山在の郷士の伜で、父藤九郎は快男子、赤格子九郎右衛門と義兄弟を結び、密貿易を企てたが、その後ゆえあって足を洗い、酒造業をいとなんだところ、士族の商法で失敗した。そこで昔の縁故を手頼《たよ》り、度々九郎右衛門へ無心をしたが、そのうち行方が知れなくなった。そこで市之丞は前後の関係から、九郎右衛門が無心を恐れ、父をあやめたに相違ないと、かたく心に信ずるようになった。そうして復讐をしたいというので、秋山要介に従って、武術の修業をするようになった。ところで彼も父に似て、海を愛したところから、いつか森田屋と義を結び、海賊の仲間にはいってしまった。
 そこへ赤格子が帰って来た。そこで一方森田屋を説き、ふたたび海へひっぱり出し、一方諸国漫遊中の、秋山要介へ使いを出し、助太刀を依頼したのであった。そういう間にも赤格子の屋敷へ、威嚇の手紙を投げ込んだり、あるだけの財産を引き渡せという、不可能の難題を持ちかけたりまたは不時に上陸し、鬨《とき》の声をあげておびやかしたり、さらにある時は使者をもって、無理に会見を申し込みながら、先方が承知して待ち構えているのに、わざと行かずにじらしたりして、敵をして奔命《ほんめい》に疲労《つか》れさせようとした。そうしていよいよ今日となり、師匠秋山も来たところから、一旦根拠地へ引き上げた上、急速にしかし堂々と、赤格子攻めをしようというので、今や勇んでいるのであった。

    鼓賊旅へ出立する

 船は白波を高く上げ、九十九里ヶ浜の沖中を、北へ北へと走っていた。
 いま酒宴は真っ盛りであった。
 秋山要介の左側には、金子市之丞が坐っていた。総髪の大髻《おおたぶさ》、紋付きの衣裳に白袴、色白の好男子であった。その二人を取り巻いて、ガヤガヤワイワイ騒いでいるのは、さっきまで、要介を向こうへ廻し、切り合っていた海賊どもで、白布で手足を巻いているのは、いずれも要介に船板子で、打ち倒された者どもであった。いわゆる山海の珍味なるものが、あたりいっぱいに並んでいた。眼まぐるしく飛ぶは盃《さかずき》で、無茶苦茶に動くのは箸であった。牛飲馬食という言葉は、彼らのために出来ているようだ。
「どうやら最近赤格子めは、散在していた手下どもを、大分集めたということだが、ちと手強《てごわ》いかもしれないぞ。だが俺がいるからには、五十人までは引き受ける。後はお前達で片づけるがいい。年頃指南した小太刀の妙法、市之丞うんと揮うがいいぞ」こう要介は豪快にいった。
「先生さえいれば千人力、いかに赤格子が豪傑でも、討ち取るに訳はございません」市之丞は笑《え》ましげに、「それはそうと先生には、どうしてそのような船図面を、お手に入れたのでございますな?」「これか」というと要介は、膝の上へひろげていた例の図面へ、きっと酔眼を落としたが「いやこれは偶然からだ。……実は便船を待ちながら、木更津の海辺をさまよっていると、細身蝋塗りの刀の鞘が、波にゆられて流れ寄ったものだ。何気なく拾い上げて調べてみると、口もとに粘土が詰めてある。ハテナと思って掘り出して見ると、中からこれが出て来たのさ」「それは不思議でございますな」「不思議だといえば全く不思議だ」「では赤格子めが造っているという、素晴らしく大きなご禁制船のたしかな図面ともいえませんな?」「うん、たしかとはいえないな」「しかしそれにしてもそんな図面を、なんで刀の鞘などへ入れ、海へ流したのでございましょう?」「わからないな、トンとわからぬ。しかし、赤格子めを退治てみたら、案外真相がわかるかもしれない。……さあ貴様達酒ばかり飲まずと、景気よく唄でもうたうがいい!」「へえ、よろしゅうございます」海賊どもは手拍子をとり、声を揃えてうたい出した。月が船縁《ふなべり》を照らしていた。海は真珠色に煙っていた。その海上を唄の声が、どこまでもどこまでも響いて行った。

 ある時は千三屋、またある時は鼠小僧、そうして今は鼓賊たるところの、和泉屋次郎吉はこの日頃、ひどく退屈でならなかった。「チビチビ江戸の金を盗んだところで、それがどうなるものでもない。どうかしてドカ儲けをしたいものだ」こんなことを思うようになった。
「気が変っていいかもしれない、ひとつ旅へでも出てみよう」……で鼓を風呂敷へ包み、そいつをヒョイと首っ玉へ結び、紺の腹掛けに紺の股引き、その上へ唐棧の布子を着、茅場町の自宅をフラリと出た。「東海道は歩きあきた、日光街道と洒落のめすか。いや、それより千葉へ行こう。うん、そうだ、千葉がいい。酒屋醤油屋の大家ばかりが、ふんだんに並んでいるあの町は、金持ちで鼻を突きそうだ。千葉へ行ってあばれ廻ってやろう。しかし海路は平凡だ。陸地《くがじ》を辿って行くことにしよう」

    腹へ滲みわたる鼓の音

 亀戸《かめいど》から市川へ出、八幡を過ぎ船橋へあらわれ、津田沼から幕張を経、検見川《けみがわ》の宿まで来た時であったが、茶屋へ休んで一杯ひっかけ、いざ行こうと腰を上げた時、ふと眼についたものがあった。というのは道標《みちしるべ》で、それには不思議はなかったが、その道標の真《ま》ん中所《なかどころ》に、十文字の記号が石灰で、白く書かれてあるのであった。「婆さん」と次郎吉は話しかけた。「ありゃあ何だね、あの印は?」「あああの十文字でございますかな」茶店の婆さんは興もなさそうに、「さあ、なんでございますかね。妾にはトンとわかりませんが。なんでも今から一月ほど前から、あっちにもこっちにもああいう印が、書いてあるそうでございますよ」「あっちにもこっちにもあるんだって? ヘエ、そいつあ不思議だね」「それもあなた成東街道を、銚子まで続いているそうで」「ふうむ、なるほど、銚子までね」次郎吉は腕を組んで考え込んだ。
「ははあわかった。これはこうだ。人寄せの符号に相違ねえ。仲間へ知らせる人寄せ符号だ。……なんだかちょっと気になるなあ。……よし、ひとつ突き止めてやろう。とんだいい目が出ようもしれぬ」そこで婆さんへ茶代をやると、街道を東へ突っ切った。さて川野辺へ来てみると、なるほどそこの道標《みちしるべ》にも同じ十文字が記してあった。「こいつあいよいよ面白いぞ」そこで例の横歩き、風のように早い歩き方で、グングン東南へ走り下った。吉岡の関所の間道を越え、田中、大文字、東金宿、そこから街道を東北に曲がった。成東、松尾、横芝を経、福岡を過ぎ干潟を過ぎ、東足洗《ひがしあしあらい》から忍阪、飯岡を通って、銚子港、そこの海岸まで来た時には、夕陽が海を色づけていた。と見ると海岸の小高い丘に、岩《いわお》のように厳《いか》めしい、一宇の別荘が立っていたが、そこの石垣にとりわけ大きく、例の十文字が記されてあった。
「ははあ、こいつが魔物だな」そこは商売みち[#「みち」に傍点]によって賢く、次郎吉は鋭い「盗賊眼」で早くもそれと見て取った。あたりを見廻すと人気がなく、波の音ばかりが高く聞こえた。「よし」というと岩の根方に、膝を正して坐ったが、まず風呂敷の包みを解き、取り出したのは少納言の鼓、調べの紐をキュッと締め、肩へかざすとポンと打った。とたんにアッといって飛び上がったのは、思いもよらず鼓の音が、素晴らしく高鳴りをしたからであった。「こんな筈はない。どうしたんだろう?」そこでもう一度坐り直し、ポンポンポンと続け打ってみた。と、その音は依然として、素晴らしい高鳴りをするのであった。「どうもこいつは解せねえなあ」こう次郎吉は呟いたが、そのまま鼓を膝へ置くと、眉をひそめて考えこんだ。「千代田城の大奥へ、一儲けしようと忍び込み、この鼓を調べたとき、ちょうどこんなような音がしたが、名に負う柳営とあるからは、八百万石の大屋台、腹のドン底へ滲み込むような、滅法な音がしようとも、ちっとも驚くにゃあたらねえが、いかに構えが大きいといっても、たかが個人の別荘から、こんな音色が伝わって来るとは、なんとも合点がいかねえなあ」……じっと思案にふけったが「三度が定《じょう》の例えがある。よし、もう一度調べてみよう。それでも音色に変りがなかったら、十万二十万は愚かのこと、百万にもあまる黄金白金《こがねしろがね》が、あの別荘にあるものと、見究めたところで間違いはねえ。いよいよそうなら忍び込み、奪い取って一|釜《かま》起こし、もうその後は足を洗い、あの米八でも側へ引き付け、大尽《だいじん》ぐらし栄耀栄華、ううん、こいつあ途方もねえ、偉い幸運にぶつかるかもしれねえ。犬も歩けば棒というが、鼠小僧が田舎廻りをして、こんなご馳走にありつこうとは、いや夢にも思わなかったなあ。どれ」というと鼓を取り上げ、一調子ポ――ンと打ち込んだ。やっぱり同じ音色であった。
「こいつあいよいよ間違いはねえ。驚いたなあ」と呟いた時、
「オイ、千三屋!」
 と呼ぶ声がした。
「え!」と驚いた次郎吉が、グルリ背後《うしろ》を振り返って見ると、一人の武士が岩蔭から、じっとこっちを見詰めていた。
「おっ、あなたは平手様!」ギョッとして次郎吉は叫んだものである。

    地下二十尺救助を乞う

「おおやっぱり千三屋か。妙なところで逢ったなあ。これは奇遇だ、いや奇遇だ」こういいながら近寄って来たのは、他ならぬ平手造酒であった。今年の真夏追分宿で、仲よく(?)つきあった頃から見ると、多少やつれてはいたけれど、尚精悍の風貌は、眉宇《びう》のあいだに現われていた。「オイ千三屋」と叱るように、「実に貴様は悪い奴だな。観世の小鼓をなぜ盗んだ」「ああこいつでございますか」次郎吉はテレたように笑ったが、「へい、いかにも追分では、無断拝借をいたしやした。だがその後観世様へ、一旦ご返却いたしましたので」「嘘をいえ、悪い奴だ」造酒は一足詰めよせたが「一旦返した観世の小鼓を、どうしてお前は持っている?」「それには訳がございます」気味が悪いというように、小刻みに後へ退りながら、「実はこうなのでございますよ。一旦お返ししたあとで、是非に頂戴いたしたいと、お願いしたのでございますな。すると観世様はこうおっしゃいました。盗まれてみれば不浄の品、もう家宝にすることはできぬ。往来へ捨てるから拾うがよいと。……で往来へお捨てなされたのを、わっちが急いで拾ったので。嘘も偽《いつわ》りもございません。ほんとうのことでございますよ」次郎吉は額の汗を拭いた。
 造酒は迂散《うさん》だというように、黙って話を聞いていたが、不承不承に頷いた。
「貴様も相当の悪党らしい。問い詰められた苦しまぎれに、ちょっと遁《の》がれをいうような、そんなコソコソでもなさそうだ。それに観世の精神なら、そんな態度にも出るかもしれない。お前のいいぶんを信じることにしよう」「へえ、ありがとう存じます。ヤレヤレこれで寿命が延びた、抜き打ちのただ一刀、いまにバッサリやられるかと、どんなにハラハラしたことか。……それはそうと平手様、どうしてこんな辺鄙《へんぴ》な土地に、おいでなさるのでございますな?」……聞かれて造酒は気まずそうに、寂しい笑いをうかべたが、「銚子港ならまだ結構だ。もっと辺鄙な笹川にいるのだ」「おやおやさようでございますか」「おれも江戸をしくじってな。道場の方も破門され、やむを得ずわずかの縁故を手頼《たよ》り、笹川の侠客繁蔵方に、態のいい居候《いそうろう》、子分どもに剣術を教え、その日をくらしているやつさ」「そいつはどうもお気の毒ですなあ。……それで今日はこの銚子に、何かご用でもございまして?」「うん」といったが声を落とし、「実は騒動が起こりそうなのだ」「へえ、なんでございますな?」「飯岡の侠客助五郎が、笹川繁蔵を眼の敵《かたき》にして、だんだんこれまでセリ合って来たが、いよいよ爆発しそうなのさ。そこでおれは今朝早く、笹川を立って飯岡へ行き、それとなく様子を探って見たが、残念ながら喧嘩となれば、笹川方は七分の負けだ。なんといっても助五郎は、老巧の上に子分も多く、それにご用を聞いている。こいつは二足の草鞋といって、博徒仲間では軽蔑するが、いざといえば役に立つからな。……喧嘩は負けだと知ってみれば、気がむすぼれて面白くない。そこで大海の波でも見ようと、この銚子へやって来たのさ。それに銚子ははじめてだからな。……おや、あれはなんだろう? おかしなものが流れ寄ったぞ」
 つと渚《なぎさ》へ下りて行き、泡立つ潮へ手を入れると、グイと何かひき出した。それは細身の脇差しの鞘で、渋い蝋色に塗られていた。
「はてな?」と造酒は首をかしげたが、
「この鞘には見覚えがある」……で、鞘口へ眼をやった。と粘土が詰められてあった。粘土を取って逆に握り、ヒューッとひとつ振ってみた。すると、中から落ちて来たのは、小さく畳んだ紙であった。「これは不思議」と呟きながら、紙をひらくと血で書いたらしい、一行の文字が現われた。読み下した造酒の顔色が、サッと変ったのはどうしたのであろう? これは驚くのが当然であった。紙には次のように書かれてあった。
「主知らずの別荘。地下二十尺。救助を乞う。観世銀之丞」
 差し覗いていた次郎吉も、これを見ると眼をひそめた。
「こいつあ平手さん大変だ。文があんまり短くて、はっきりしたことは解らねえが、なんでも観世銀之丞さんは、悪い奴らにとっ掴まり、主知らずとかいう別荘へ、押し込められているのです。地下二十尺というからには、恐ろしい地下室に違えねえ。救助を乞うと血で書いてあらあ。まごまごしちゃいられねえ」「だが、どうして助け出す?」造酒は呻くように訊きかえした。「主知らずの別荘だって、どこにあるのかわからないではないか」「ナーニ、そんなことは訳はねえ。刀の鞘の鞘口へ、粘土が詰められてありましたね。そいつが崩れていなかったのは、永く海にいなかった証拠だ。いずれ手近のこの辺に、別荘はあるに違えねえ。銚子からはじめて付近の港を、これからズッと一巡し、人に訊いたら解りましょうよ」「いかさまこれはもっともだ。では一緒に尋ねようか」「いうにゃ及ぶだ。参りましょう!」そこで二人は手をたずさえ、町の方へ走って行った。

    造酒と次郎吉別荘へ忍ぶ

 次郎吉とそうして平手造酒とが「主知らずの別荘」のあり場所について、最初に尋ねた家といえば、好運にもお品の家であった。そこで二人は一切を聞いた。銀之丞が銚子へ来たことも、お品の家に泊まっていたことも、主知らずの別荘へ行ったきり、帰って来なかったということも。
「だからきっと銀之丞様は、いまでもあそこの『主知らずの別荘』に、おいでなさるのでございましょうよ」こういってお品は寂しそうにした。そこで二人はあすともいわず、今夜すぐに乗り込んで行って、造酒としては銀之丞を救い、次郎吉としては莫大もない、別荘の中の財宝を、盗み取ろうと決心した。
 別荘へ二人が忍び込んだのは、その夜の十二時近くであった。不思議なことに別荘には、何の防備もしてなかった。刎《は》ね橋もちゃんと懸かっていたし、四方の門にも鍵がなかった。で、二人はなんの苦もなく、広い構内へ入ることが出来た。中心に一宇の館があり、その四方から廊下が出ていて、廊下の外れに一つずつ、四つの出邸のあるという、不思議な屋敷の建て方には、二人ながら驚いた。しかし、それよりもっと驚いたのは、その屋敷内が整然と、掃除が行き届いているにも似て、闃寂《げきじゃく》[#「闃寂」は底本では「※[#「闃」の「目」に代えて「自」]寂」]と人気のないことで、あたかも無住の寺のようであった。
 しかしじっと耳を澄ますと、金《かつ》と金と触れ合う音、そうかと思うと岩にぶつかる、大濤《おおなみ》のような物音が、ある時は地の下から、またある時は空の上から、幽《かす》かではあったけれど聞こえて来た。
「平手さん、どうも変ですね」次郎吉は耳もとで囁いた。「気味が悪いじゃありませんか」
「うむ」といったが平手造酒は、じっと出邸へ目をつけた。「とにかくあれは出邸らしい。ひとつあそこから探るとしよう」
 土塀の内側に繁っている、杉や檜の林の中に、二人は隠れていたのであったが、こういうと造酒は歩き出した。
「まあまあちょっとお待ちなすって。そう簡単にゃいきませんよ。なにしろここは敵地ですからね。いかさまあいつが出邸らしい。と、するといっそうあぶねえものだ。人がいるならああいう所にいまさあ。つかまえられたらどうします」「いずれ人はいるだろうさ。これほどの大きな屋敷の中に、人のいない筈はない。が、おれは大丈夫だ。五人十人かかって来たところで、粟田口《あわたぐち》がものをいう。斬って捨てるに手間ひまはいらぬ」「それはマアそうでございましょうがね。君子は危うきに近寄らず、いっそそれより本邸の方から、さがしてみようじゃございませんか」「いやいやそんな余裕はない。観世から来た鞘手紙、危険迫るとあったではないか。一刻の間も争うのだ」「なるほどこいつあもっともだ。だがあっしは気が進まねえ。うん、そうだ、こうするがいい。あなたは出邸をお探しなせえ。あっしは本邸を探しやしょう」「おお、こいつはいい考えだ。それではそういうことにしよう」
 ここで二人は左右へ別れ、次郎吉は本邸へ進んで行った。木立ちを出ると小広い空地で、戦いよさそうに思われた。左手を見れば長廊下で、出邸の一つに通じていた。右手を見ても長廊下で、また別の出邸に通じていた。空地を突っ切ると本邸で、戸にさわると戸が開いた。と眼の前に長い廊下が、一筋左右に延びていた。耳を澄ましたが人気はなく、ただ薄赤い燈火《ともしび》が、どこからともなくさしていた。「ともしがさしているからには、どこかに人がいなけりゃあならねえ」で次郎吉はその廊下の、右手の方へと忍んで行った。すぐに一つの部屋の前に出た。これぞお艶の部屋なのであったが、今夜は誰もいなかった。で次郎吉は引き返そうとした。
 しかし何んとなく未練があった、で、しばらく立っていた。

    森田屋一味の赤格子|征《ぜ》め

 しかるにこの頃暗い暗い、銚子の海の一所に数隻の親船が現われた。森田屋一味の海賊船で、赤格子ぜめに来たのであった。すなわち彼らの根拠地から、用意万端ととのえて、総勢すぐって二百人、有司の鋭い警戒網をくぐり、ここまでやって来たのであった。……親船は岸へ近づいて来た。やがて碇《いかり》を下ろしたとみえ、ゆたかに海上へ漂った。と小船《はしけ》が無数に下ろされ、それが一斉に岸へ向かって、さながら矢のように漕ぎ寄せられた。と、ヒラヒラと人が下りた。すると小船《はしけ》は帰って行った。と、またその船が岸へ漕がれ、ヒラヒラと人が岸へ飛んだ。これが数回繰り返され、一百人あまりの人数が、海から岸へ陸揚げされた。森田屋の部下の海賊どもであった。
 賊どもは一団に固まった。真っ先に立った人影は、秋山要介正勝で、櫂《かい》で造った獲物を提《ひっさ》げ、一巡一同を見廻したが、重々しい口調でいい出した。
「森田屋は船へ残すことにした。海路を断たれると危険だからな。……さて市之丞前へ出ませい」声に連れて一つの人影が、ツト前へ現われた。「赤格子九郎右衛門はそちにとり、不倶戴天《ふぐたいてん》の父の仇だ。で五十人の部下を率い、東の門から乱入し、赤格子一人を目掛けるよう。さて次に郡上殿!」呼ばれて一つの人影は、立ったままで一礼した。「貴殿には尊いお方から、密書を預かっておられる由、十人の部下をお貸し致す。それに守られてご活動なされ。行動は一切ご自由でござる。次に小頭小町の金太!」「へい」というと一つの人影が、群を離れて進み出た。「お前は二十人の部下を連れて、西の門から乱入しろ。そうして出邸へ火を掛けろ。さて、最後にこの俺だが、残りの二十人を引率し、表門から向かうことにする。一世一代の赤格子|征《ぜ》めだ、命限り働くがいい」
 全軍|粛々《しゅくしゅく》と動き出した。
 玻璃窓の郡上平八としては、ここが名誉と不名誉との、別れ際《ぎわ》ともいうべきであった。赤格子が殺されてしまったら、せっかくの密書が役に立たぬ。これはどうでも戦いの前に、是非赤格子に渡さなければならない。で、つと群から駈け抜けると、付けられた十人の部下も連れず、大手の門へ走っていった。自由行動を許されていたので、誰も咎める者はない。来て見れば刎ね橋が下ろされてあった。それを渡って表門にかかり、試みに押すとギーと開いた。さて構内へはいって見ると、まことに異様な建築法であった。一渡り素早く見廻したが、中央に立っている建物へ、目を付けざるを得なかった。で、彼は足音を忍ばせ、空地を横切って本邸へ走った。手に連れて扉が開き、長い廊下が眼の前を、左右にズッと延びていた。彼はちょっとの間思案したが、つと廊下へ踏み入った。そうしてすぐに左へ廻った。
 この時和泉屋次郎吉は、反対側の廊下の上に、考え込んで立っていたが、誰やら人の来たらしい、軽い足音が聞こえて来たので、ハッとして耳を引っ立てた。
「いずれ屋敷の者だろう。逢ってもみたし逢いたくなし。少し様子を探ってやれ」
 で彼は西へ廻った。
 この本邸の建て方は、中央に九郎右衛門の部屋があり、その部屋の四面を囲繞《いにょう》して、廊下がグルリと作られてあり、その廊下の隅々に、四つの部屋が出来ている。
 で、次郎吉の立っていた所は、その北側の廊下であって、それを今西の方へ歩き出した。また平八の立っていた所は、南側の廊下であったが、それを今東へ歩き出した。
 九郎右衛門の居間たるや、四方厚い石壁で、各※[#二の字点、1-2-22]《おのおの》の四隅に戸口はあったが、石壁の色と紛らわしく、発見することは不可能であった。
 玻璃窓の平八は足を止めた。それは自分の反対側で、誰かこっそり歩いているとみえ、幽かな足音がしたからであった。しかしもちろん足音の主が、鼓賊だなどとは夢にも思わず、邸内の者だろうと想像した。

    追いつ追われつ鼓賊と玻璃窓

「九郎右衛門には逢わなければならない。その他の者には逢いたくない。深夜に他家へ忍び込み、ウソウソ歩いているところを、とっ捉まえられたらそれっきりだ。泥棒といわれても仕方がない。しかし誰かに聞かないことには、九郎右衛門のありかは解らない。歩いているのは誰だろう? 九郎右衛門なら有難いが? いやいや恐らく召使いだろう。とまれ様子をうかがってみよう」そこで彼は歩いて行った。行く手に一つの部屋があった。九郎右衛門の病身の妻、お妙の住んでいた部屋なのであるが、今は誰もいなかった。で、平八はその部屋へ素早くからだを辷《すべ》り込ませ、扉《と》の隙間から廊下の方を息を凝らしてうかがった。こなた鼓賊の次郎吉は、西へ西へと歩を運んだが、かつて丑松の住んでいた、そうして今はガラ空きの、一つの部屋の前まで来た時反対側を歩いていた、忍ぶがような足音が、にわかにピッタリ止まったので、これもピッタリ足を止めた。そうして彼は考えた。
「銀之丞様も銀之丞様だが、俺の真の目的は、この家の巨財を奪うことだ。鼓に答えた億万の巨財! いったいどこにあるのだろう? ポンポンと鼓を調べさえしたら、音色を通して、感じられるのだが、まさかここでは打たれない。眼を覚まさせるようなものだからな。……おや足音が止《や》んでしまったぞ。いずれはこの家の召使いだろうが、ちょっと様子を見たいものだ。……待ったり待ったりあぶねえあぶねえ、泥棒とでも呼ばれたものなら、百日の説法何とやらだ。……おおここに部屋がある。ここに少し忍んでいてやろう」
 丑松の部屋へはいり込み、廊下の様子をうかがった。しんしんと四辺《あたり》は静かであった。物寂しく人気がない。
 お妙の部屋へ忍び込み、様子をうかがっていた平八は、向こう側の足音が絶えたので、小首を傾けざるを得なかった。
「さてはこっちの木精《こだま》かな? 奇妙きわまる館の造り、俺の歩く足音が、向こうの壁へ響くのかもしれない。名代の赤格子九郎右衛門だ、建築学でも大家だそうな。これは木精《こだま》に相違ない。どれソロソロ歩いてみようか」
 首につるした密書箱を、懐中《ふところ》の中でしっかりと握り、平八は部屋から廊下へ出た。そうしていっそう足音を忍ばせ、東側の長廊下を北へ辿った。
 和泉屋次郎吉は名誉の盗賊、相手がいかに足音を忍ばせ、空を踏むように歩いたところで、聞きのがすようなことはない。
「ははあ、そろそろ歩き出したな。待てよ、こいつは家人ではないぞ。召使いでもなさそうだ。この歩き方は忍術《しのび》の骨法だ。……これはおかしい。不思議だな。まさか俺《おい》らと同じように、金を目掛けて忍び込んだ、白浪《しらなみ》の仲間でもあるまいが。……いや全くこれは不思議だ。浮かぶような足取りで歩いている。よし、一つ驚かせてやろう。……エヘン!」と一つ咳をした。それから部屋から廊下へ出、西側の廊下を南の方へ、お艶の部屋までツツ――と走った。これも忍術《しのび》の一秘法、電光のような横歩きであった。
 胆を潰したのは平八であった。これも空っぽの六蔵の部屋の、まず正面でピタリと止まり、思わず「ムー」と呻き声を上げた。
「木精《こだま》ではない、木精ではない! やはり人間が歩いているのだ。ううむ、咳までしたんだからな。ではやっぱり召使いかな? いや待てよ、あの歩き方は?」彼はそこで考え込んだ。「これは普通の歩き方ではない。エヘンと咳をしておいて、ツツ――と辷って行ったあの呼吸。何んともいえない身の軽さ。……だがしかし俺はこんなところで、まごまごしてはいられない。至急赤格子に逢わなければならない。グズグズしていると秋山が、兵を率いて攻めて来る。もし赤格子が殺されたら、俺の使命は無駄になる。碩翁様《せきおうさま》にも合わす顔がない。……さんざ鼓賊に翻弄《ほんろう》され、尚その上に今度の使命まで、無駄にされては活きてはいられぬ。……だが、どうも気になるなあ誰がいったい歩いているのだろう? 俺が歩けば向こうも歩き、俺が止まれば向こうも止まる。俺をからかってでもいるようだ。館の造りもまことに変だ。真ん中に四角な石壁があって、その周囲に廊下があり、廊下の隅々に部屋がある。だが、どれも空っぽだ。いったい四角な石壁は、なんの必要があって出来ているのだろう? 部屋にしては戸口がない。打《ぶ》っても叩いてもビクともしない。……おや、畜生歩き出したかな?」平八はじっと耳を澄まし、向こう側の様子を聞き澄ました。

    丑松短銃で玻璃窓を狙う

 しかし足音はきこえなかった。
「では俺の方から歩いてやれ」丹田《たんでん》の気を胸へ抜き、ほとんど垂直に爪先を立て、これも一種の忍術《しのび》骨法、風を切って一息に、北側の廊下を丑松の部屋まで、電光のように走って行った。やっぱりその部屋も空であった。そうして憎い相手の者も、それに劣らぬ早足をもって、一瞬に位置を変えたとみえ、西側の廊下一帯には、人の姿は見えなかった。
 勃然《ぼつぜん》と平八の胸の中へ、怒りの燃えたのは無理ではなかろう。「よし、こうなれば意地ずくだ。どんなことをしても捉えてみせる!」
 彼は四角の石壁に添い、四筋の廊下を猟犬のように、追い廻してやろうと決心した。
 で、彼はそれをやり出した。風が烈しくぶつかって来た。独楽《こま》のようにぶん廻った。しかも少しも音を立てない。十回あまりも繰り返した。しかし憎むべき嘲弄者《ちょうろうしゃ》を、発見することは出来なかった。やはり相手も彼と同じく、彼と同じ速力で、四筋の廊下を廻ったらしい。そうしていつも反対側に、その位置を占めているらしかった。平八は五十を過ごしていた。いかに鍛えた体とはいえ、疲労せざるを得なかった。彼は今にも仆れそうになった。ハッハッハッハッと呼吸《いき》が逸《はず》んだ。で彼は北側の廊下で、しばらく休むことにした。と、その時形容に絶した、恐ろしい事件が勃発した。しかしそれは彼以外の者には、痛痒を感じない出来事なのであった。ただし平八の身の上にとってはまさしく悪鬼のまどわしであった。ポンポンポン! ……ポンポンポン! と、例の鼓が反対側から、ハッキリ聞こえて来たのであった。最初彼は茫然として、棒のように突っ立った。それから左へよろめいた。それから両手で顔を蔽うと、廊下の上へつっ伏した。彼の全身は顫え出した。彼の理性は転倒し、考えることが出来なくなった。彼は悪夢だと思いたかった。しかし決して悪夢ではない。
「これはいったいどうしたことだ! ……俺は鼓賊に憑かれている。行く所行く所で鼓が鳴る! ここは銚子だ江戸ではない! ……」彼には起きる元気もなかった。
 と、この時、もう一つ、驚くべきことが行われた。石壁へ縞が出来たのであった。それは一筋の光の縞で、だんだん巾が広くなった。そうしてそこから一道の光が、廊下の方へ射し出でた。そうしてそれがうずくまっている、平八の背中を明るくした。と、その石壁の明るみへ、短い棒切れが浮き出した。つづいて人の手が現われた。それから半身が現われた。種子ヶ島を握った一人の子供が――子供のような片輪者が――すなわち赤格子の腹心の、醜い兇悪な丑松が、秘密の扉を窃《ひそ》かにあけて、様子をうかがっているのであった。
 顔を蔽い、背中を向け、うずくまっている平八には、光の縞も丑松も、見て取ることが出来なかった。……種子ヶ島の筒口が、ジリジリと下へ下がって来た。そうして一点にとどまった。その筒口の一間先に、平八の背中が静止していた。今、丑松の母指《おやゆび》が、引き金をゆるゆると締め出した。
 この時和泉屋次郎吉は、南側の廊下に立っていた。彼は愉快でたまらなかった。彼は相手の人間が、平八であるとは知らなかった。彼と同じ稼ぎ人が、彼と同じ目的のもとに、忍び込んでいるものと推量した。そうしてそやつは忍術《しのび》にかけては、名ある奴であろうと想像した。そいつをうまうま翻弄《ほんろう》したことが、彼にはひどく愉快なのであった。

    美しいかな人情の発露

 しかしにわかに静かになったのが、彼には怪訝《けげん》に思われた。「疲労《つか》れたかな、可愛そうに」で彼は耳を澄ました。次第に好奇心に駆られて来た。行って見たくてならなかった。そこで彼はソロソロと、南側の廊下を西にとり、お艶の部屋まで行って見た。そうしてそこから見渡される、西側の廊下を隙《す》かして見た。しかし誰もいなかった。で、今度は西側の廊下を、北の方へ歩いて行った。そうして丑松の部屋まで行った。そうしてそこから見渡される、北側の廊下を隙かして見た。と、驚くべき光景が、彼の眼前に展開されていた。一人の老人がうずくまっていた。一人の小男が種子ヶ島で、その老人を狙っていた。石壁から火光《ひかり》が射していた。……その老人が思いもよらず、玻璃窓の平八だと見て取った時、彼はドキリと胸を打った。そうして彼はクラクラとした。「それじゃ今まで玻璃窓めと、追いつ追われつしていたのか!」彼はブルッと身顫いした。
「江戸から追っかけて来たんだな! 恐ろしい奴だ。素早い奴だ!」彼は身の縮む思いがした。
「だが小男は何者だろう! そうして何のために種子ヶ島で玻璃窓を狙っているのだろう? 玻璃窓はなんにも知らないらしい。顔を抑えてうずくまっている。泣いてるのじゃあるまいかな? なんでもいい、いい気味だ! 殺されてしまえ! 消えてなくなれ!」
 彼は嬉しさにニタニタ笑った。と、そのとたんに彼の心へ、別の感情が湧き出した。「ああ、だがしかし玻璃窓めは、俺にとっちゃ好敵手だった。あいつの他にこの俺を、鼓賊だと睨んだものはねえ。あの玻璃窓に縛られるなら、俺も往生して眼をつぶる。その玻璃窓めが殺されようとしている。……うん、こいつあうっちゃっちゃ置けねえ! こいつあどうしても助けなけりゃあならねえ。あっ、引き金を締めやがった! いけねえいけねえ間に合わねえ! 畜生!」
 と怒鳴ると持っていた鼓を、種子ヶ島目掛けて投げ付けた。瞬間にド――ンと発砲された。
 それから起こった格闘は、真に劇的のものであった。
 少納言の鼓は種子ヶ島にあたり、鼓と種子ヶ島とは宙に飛んだ。で、鉄砲の狙いは外れた。玻璃窓の平八は飛び上がった。そうして丑松へ組み付いた。それを外した丑松は、逃げ場を失って北側の廊下を、西の方へ走って行った。そこへ飛び出したのが次郎吉であった。撲る、蹴る、掴み合う! やがて一人が「ウ――ン」と呻き、バッタリ仆れる音がした。二人の人間は立ち上がり、はじめて顔を見合わせた。
「玻璃窓の旦那、お久しぶりで」
「おっ、貴様は和泉屋次郎吉!」
「あぶないところでございましたなあ」
「それじゃ貴様が何かを投げて……」
「走って行っちゃ間に合わねえ。そこで鼓を投げやした」「ううん、そうして俺を助けた!」「へん、敵を愛せよだ!」「眼力たがわず和泉屋次郎吉、わりゃあやっぱり鼓賊だったな!」「だが鼓はこわれっちゃった」「捕《と》った!」というと平八は、次郎吉の手首をひっ掴んだ。
「見事捕る気か! さあ捕れ捕れ! だが命の恩人だぞ!」
「ううん」というと平八は、とらえた次郎吉の手を放した。
 森然《しん》と更けた夜の館、二人は凝然と突っ立っていた。

 一方こなた平手造酒は、次郎吉と別れるとその足で、出邸の一つへ走って行った。出邸には全く人気がなく、矢狭間《やざま》造りの窓から覗くと、内部は整然と片付けられていた。で、内へはいってみた。ここへ七人立てこもったなら、五十人ぐらいは防げようもしれぬと、そう思われるほど厳重をきわめた砦《とりで》のような構造であったが、しかしどこにも隠れ戸もなければ、地下へ通う穴もなかった。で、造酒はそこを出て、次の出邸へ行ってみた。そこも全く同じであった。構造は厳重ではあったけれど、人気というものがさらになかった。

    お艶と造酒一室に会す

 こうして順次四つの出邸を、平手造酒は訪ね廻った。その結果彼の得たところは、疲労とそうして空虚とであった。親友の観世銀之丞については、全く知ることが出来なかった。
「ふうむ、それでは本邸に、観世は隠されているのだな」こう考えると猶予《ゆうよ》ならず、彼は本邸へ走って行った。戸にさわるとすぐに開き、廊下が眼前に展開された。すなわち北側の廊下であった。正面に巨大な石壁があった。それについて西の方へ歩いた。と、廊下がそこで曲がった。西側の廊下が真《ま》っ直《す》ぐに、彼の足もとから延びていた。その廊下の一所に、三人の人影が集まっていた。一人は床の上に仆れているし、二人は向かい合って突っ立っていた。造酒はハッと胸を躍らした。しかしそれよりももう一つのことが、彼の心を引き付けた。それは石壁の一角が、扉のように口をあけ、そこから火光が洩れていることで、どうやら部屋でもあるらしい。
 つと造酒は踏み込んでみた。そこははたして部屋であった。かつていつぞや観世銀之丞が、偶然のことから呼び込まれた、赤格子九郎右衛門の部屋であった。しかしその頃とは異《ちが》っていた。金銀財宝珍器異類、夥《おびただ》しかったそれらのものが、今は一つも見られない。ガランとした灰色のだだっぴろい部屋が、味も素《そ》っ気《け》もなく広がっていた。そうして天井から飾り燈火が、明るい光を投げていた。その光に照されて、一人の女が浮き出ていた。女は床の上に仆れていた。そうして荒縄で縛られていた。口には猿轡《さるぐつわ》が嵌められていた。それは妖艶たる若い女で、他ならぬ九郎右衛門の娘であった。
 造酒は意外に驚きながらも、女の側へ走り寄り、縄を解き猿轡《さるぐつわ》を外した。するとお艶は飛び上がったが、扉の側へ飛んで行き、ガッチリ内側から鍵を掛けた。
「態《ざま》ア見やがれ丑松め!」あたかも凱歌《がいか》でも上げるように、男のような鋭い声で、こう彼女は叫んだが、そこで初めて造酒を眺め、気高い態度で一礼した。
「お娘《むすめ》ご、お怪我はなかったかな?」
 造酒はその美に打たれながら、こういう場合の紋切り型、女の安否を気遣った。
「あぶないところでございました。でも幸い何事も。……あれは丑松と申しまして、父の家来なのでございます。ずっと前から横恋慕をし、今日のような大事の瀬戸際《せとぎわ》に、こんな所へおびき出し、はずかしめようとしたのでございます。……失礼ながらあなた様は?」お艶は気が付いてこう訊いた。造酒はそれには返辞をせず、
「お見受けすればあなたには、どうやらこの家のお身内らしいが、しかとさようでござるかな?」
「ハイ、さようでございます。別荘の主人九郎右衛門の娘、艶と申す者でございます」「有難い!」と叫ぶと平手造酒はツカツカ二、三歩近寄ったが、「しからばお訊きしたい一義がござる。江戸の能役者観世銀之丞、当家に幽囚されおる筈、どこにいるかお明かしください!」勢い込んで詰め寄せた。
 と、お艶の眼の中へ、活々《いきいき》した光が宿ったが、
「仰せ通り銀之丞様は、当家においででございます」「おお、そうなくてはならぬ筈だ。で、今はどこにいるな? おおよそのところは解っている。地下にいるだろう、数十尺の地下に!」「ハイ」といったがニッコリと笑い、「ああそれではあなた様は、鞘に封じたあの方の文を、お拾いなされたのでございますね。それでここへあの方を、助けにおいでなされたので。……そうですあれは十日ほど前に、空洞内の土牢から、海へ投げたものでございます」「空洞内の土牢だと※[#感嘆符疑問符、1-8-78] これ、なんのためにそんな所へ、あの観世を入れたのだ! お前では解らぬ主人を出せ! なんとかいったな九郎右衛門か、その九郎右衛門をここへ出せ!」造酒は威猛高《いたけだか》に怒号した。しかしお艶は恐れようともせず、水のように冷然と立っていた。

    その後の観世銀之丞

「父はこの世にはおりません」やがてお艶が咽ぶようにいった。「父さえ活きておりましたら。……中風で斃れたのでございます。……つづいて母が死にました。そうしてそれ前に可愛い弟の六蔵が死んでしまいました。心臓で死んだのでございます。そうして母の死んだのは、悲しみ死になのでございます。……名に謳《うた》われた赤格子も、妾《わたし》一人を後に残し、死に絶えてしまったのでございます。永い年月苦心に苦心し、ようやく出来あがった黒船へも、乗ることが出来ずに死にましたので。……それはそうとあなた様は、平手造酒さまでございましょうね?」
 図星を指されて平手造酒は、思わず大きく眼を見開いた。
「お驚きになるには及びません」お艶は微笑を含んだが、「観世さまからこの日頃、お噂を承まわっておりました。それとそっくりでございます。それに鞘文《さやぶみ》をご覧になり、この『主知らずの別荘』へ、すぐに踏み込み遊ばすような、そういう勇気のあるお方は、平手様以外にはございません。……それはとにかく観世さまは、只今はご無事でございます。そうして現在は黒船の上に、妾達一統の頭領として、君臨しておられるのでございます。……いえいえ嘘ではございません。どうぞお聞きくださいまし。みんなお話し致しましょう。でも時間がございません。出帆しなければなりませんので。妾の行衛《ゆくえ》が知れないので、騒いでいることでございましょう。……それではほんの簡単に、申し上げることに致しましょう。……今年の秋の初め頃、妾達はこの地へ参りました。妾達の本当の国土といえば、南洋なのでございます。そうして妾はその南洋で成長したものでございます。ボルネオ、パプア、フィリッピン諸島に、とりまかれているセレベス海に、妾達の国土はございますので。どうして日本に参りましたかというに、父の財産がそっくりそのまま日本に残してございましたからで。それを南洋へ移したいために、やって参ったのでございます。……この地へ参ったその日のうちに、妾はあの観世様を愛するようになりました。どうぞおさげすみくださいますな。妾のような異国育ちのものは、愛とか恋とかいうようなことを、憚からず申すものでございますから。……するとある晩観世様が、別荘へ迷って参られました。そうして父と逢いました。そうして父の依頼を諾《き》かれ、この別荘へお止どまりくだされ、妾達を狙うある敵から、妾達を守ってくださるように、お約束が出来たのでございます。……どんなに妾が喜んだか、どうぞご推察くださいますよう。妾達二人はその時から、大変幸福になりました。妾達は恋の旨酒《うまざけ》に酔いしれたのでございます。けれどそういう幸福には、きっとわざわいがつきやすいもので、一人の恋仇が現われました。あの丑松でございます。丑松は父に讒《ざん》をかまえ、観世様を地の底の、造船工場へ追いやりました。――妾達の秘密を観世様が、探り知ったという罪条でね。で、それからの観世様は、多くの大工と同じように、暗い寒い空洞内で、働かなければなりませんでした。するとそのうち丑松は、また父にこんなことを申しました。それは観世様が二葉の図面を――ご禁制船の図面なので、それを妾達は地下の空洞で、拵えていたのでございますが、それをこっそり奪い取り、刀の鞘へ封じ込み、外海へ流したというのです。そうしてこれは事実でした。ほんとに観世様は二葉の地図を、海へ流したのでございます。幕臣である観世様としては、無理のないことと存じます。ご禁制船の建造は、謀反罪なのでございますもの。それをあばいて官に知らせるのは、当然なことなのでございますもの。でもそれは妾達にとり、特に父にとりましては、大打撃なのでございます。うっちゃって置くことはできません。処分しなければなりません。それでとうとう観世様を、妾達仲間の掟通りに、空洞内の土牢へ入れ、飢え死にさせることにいたしました。けれど観世様は死にませんでした。妾が毎日こっそりと、食物を差し入れたからでございます。……そのうちに船が出来上がり、つづいて父が死にました。そうして妾は申し上げましたように、一人ぼっちとなりました。するとそこへ付け込んで、丑松が口説くのでございます。妾は途方にくれました。その結果妾は観世様へお縋りしたのでございます。妾をお助けくださいまし。妾はあなたを愛しております。どうぞどうぞ丑松から、妾をお助けくださいまし。そうしてどうぞ妾達のために、頭領となってくださいまし。そうしてどうぞ妾達と一緒に、南洋へおいでくださいまし。美しい島でございます。椰子《やし》、橄欖《かんらん》、パプラ、バナナ、いちじくなどの珍らしい木々、獅子《しし》だの虎だの麒麟《きりん》だのの、見事な動物も住んでおります。妾の領地でございます。経営の手を待っております。男子一生の仕事として、これほど愉快で華々《はなばな》しいことは、他にあろうとは思われません。そこへ君臨してくださいましと。……すると最初観世様は、妾の恋をお疑いなされ、信じようとはなさいませんでした。でもとうとうお信じくだされ、やがてこのように仰せられました。『よし、お艶、俺は信じる。お前と一緒にその島へ行こう。俺は前から望んでいたのだ! 牢屋へはいるか海外へ行くか、この二つを選びたいとな! 俺は退屈で仕方なかったのだ。その退屈は慰められよう。さあ俺を牢から出せ。俺はお前達の大将となろう。そうしてお前を妻にしよう』――で、あの方は只今では、妾の良人《おっと》でございます。南洋へ参るのでございます」
 この時別荘の四方にあたって、鬨の声がドッと上がった。秋山要介の軍勢が、赤格子征めに取りかかったのであった。

    堂々浮かび出た赤格子の巨船

 お艶はニコヤカに微笑したが、
「あれは敵でございます。妾達の敵でございます。あの人達の征めて来ることは、解っていたのでございます。父が活きてさえおりましたら、蹴散らしてしまうでございましょう。妾は嫌いでございます。血を見るのが嫌いなので。そうして妾の恋しいお方も、お嫌いなのでございます。で、別荘はあの人達に明け渡してやるつもりでございます。決して逃げるのではございません。大きなものへ向かうために、小さいものを見棄てますので。あの人達にも神様のめぐみが、どうぞどうぞありますよう。そうして、あなた、平手様には、さらにさらにもっともっと、神様のおめぐみがございますように! 妾はクリスチャンでございます。そうして只今は観世様も。――あなたの厚いご友情は、観世様へ伝えるでございましょう。どんなにかお喜びでございましょう。……もう行かなければなりません。待ちかねていることでございましょう。……ごめんください平手さま! さようならでございます。神の恩寵《おんちょう》あなたにありますよう。……一間ほどお下がりくださいまし。それではあぶのうございます。……ああそれからもう一つ、船出をご覧遊ばしたいなら、別荘の北、海の岸、象ヶ鼻へお駈けつけくださいまし。岩は人工でございます。開閉自由でございます。大きな湾がありますので。この別荘は湾の上に、造られてあるのでございます。父が造ったのでございます。父は科学者でございました。どんなことでも出来ましたので。……いよいよお別れでございます」
 再びドッと鬨の声! 館へ乱入する足の音! 石壁を破壊する槌《かけや》の音!
「さようならよ! さようならよ!」
 叫びながらお艶は手を上げて、石壁の一点へ指を触れた。と、お艶の足の下、一間四方の石床が、音もなくスーと下へ下がった。今日のエレベーター、そういう仕掛けがあったのであった。その時洞然と音を立てて、さすが堅固の石壁も、槌《かけや》に砕かれて飛び散った。ムラムラと込み入る賊の群、それと引き違いに飛び出した造酒、敵と間違えて追い縋る賊を、刀を抜いて切り払い、象ヶ鼻へ走って行った。

 ここは絶壁象ヶ鼻、太平洋の荒浪が、岩にぶつかり逆巻いていた。と、ゴーゴーと音がした。蝶つがいで出来た大扉が、あたかも左右にひらくように、今、岩が濤《なみ》を分け、グ――と左右へ口をあけた。と、濛々《もうもう》たる黒煙り。つづいて黒船の大船首。胴が悠々と現われた。一本|煙突《チムニイ》二本マスト、和船洋風取りまぜた、それは山のような巨船であった。船首に篝《かがり》が燃えていた。その横手に一人の武士が、牀几に端然と腰かけていた。他ならぬ観世銀之丞であった。その傍らにお艶がいた。と、象ヶ鼻の岩上から、
「観世!」と呼ぶ声が聞こえて来た。平手造酒の声であった。闇にまぎれて立っているのだ。銀之丞は牀几から立ち上がった。
「おお平手!」と彼はいった。「おさらばだ、機嫌よく暮らせ!」
「航海の無事を祈るばかりだ!」
「有難う! お礼をいう! 遠く別れても友情は変らぬ!」「お互い愉快に活きようではないか!」
「新天地! 新天地! それが俺を迎えている! 生活は力だ! 俺は知った!」「ふさぎの虫など起こすなよ!」「過去の亡霊! 大丈夫!」「おさらばだ! おさらばだ!」
「平手様、さようなら!」お艶の声が聞こえて来た。
「お艶どの、さようなら!」
 船は沖へ駛《はし》って行った。
 間もなく大砲の音がした。森田屋の賊船が襲ったのであった。それを二発の大砲で、苦もなく追っ払ってしまったのであった。
 恋の船、新生活の船、銀之丞とお艶の黒船は、明けなんとする暁近《あけちか》い海を、地平線下へ消えて行った。

    因果応報悪人の死

 物語りは三月経過する。
 桜の花が咲き出した。春が江戸へ訪ずれて来た。この物語りの最初の日から、ちょうど一年が過ぎ去った。「今の世や猫も杓子《しゃくし》も花見笠」の、そういう麗かの陽気となった。隅田川には都鳥《みやこどり》が浮かび、梅若塚には菜の花が手向《たむ》けられ、竹屋の渡しでは船頭が、酔っぱらいながら棹《さお》さしていた。
 一閑斎の小梅の寮へは、相変らず人が寄って来た。ある日久しぶりで訪ねて来たのは、玻璃窓の郡上平八であった。
「これはこれは珍しい。それでも生きていたのかえ」「裾を見な、足があるから。へ、これでも幽霊じゃないのさ」皮肉な二老人は逢うと早々、双方で皮肉をいい合うのであった。「一局|囲《かこ》もうかね、一年ぶりだ」「心得た。負かしてやろう」「きつい鼻息だ、悲鳴をあげるなよ」
 パチリパチリと打ち出した。最初の一局は一閑斎が勝ち、次の一局は平八が勝った。で一|服《ぷく》ということになった。
「そこでちょっとおききするが、もう鼓賊はお手に入れたかな?」ニヤニヤ笑いながら一閑斎は訊いた。もちろんいやがらせの意味であった。
「うむ」といったが平八は、不快な顔もしなかった。「さよう実は捕えたがな、捕えてみれば我が子なり。……恩愛の糸がからまっていて、どうにもならなかったという訳さ」「へえ、本当に捕えたのか? ふうむ、どこで捕えたな?」「銚子だよ、去年の冬」「で、鼓賊の素性はえ?」「それだ」いうと平八は、会心の笑みを浮かべたが、「わしの眼力は狂わなかった。鼠小僧と同一人だった」「ふうん、そいつあほんとかね?」一閑斎は眼を見張った。
「嘘をいってなんになる。ほんとだよ、信じていい。……だがどうしてもショビケなかったのさ。しかしその時約束した。『天運尽きたと知った時は、わしの手から自首しろ』とな。『あっしの娑婆も永かあねえ。その時はきっと旦那の手で、送られることに致しましょう』こうあいつもいったものだ。それでおれは待ってるのさ。……ところでどうだこの二、三ヵ月、鼓賊の噂を聞かないだろうな?」「さようさよう、ちっとも聞かない」「それは鼓がこわれてしまって、もう用に立たないからだ。投げた拍子にこわれたのさ。そうしてそのためこのわしは、命びろいをしたというものさ。いや全く世の中は、なにが幸いになるか解りゃしない」感慨深そうに平八はいった。もちろんそれがどういう意味だか、一閑斎にはわからなかった。しかし平八は日頃から、嘘をいわない人物であった。で一閑斎は平八の言葉を、是認せざるを得なかった。
 そこへ下男の八蔵が、眼の色を変えて飛んで来た。「旦那様、大変でございますよ。あの綺麗な浪人の内儀が、しごきを梁《はり》へ引っかけて、縊《くび》れているじゃありませんか」
「おっ、ほんとか、そりゃあ大変だ!」一閑斎は仰天した。
「郡上氏、行ってみましょう」あわてて庭下駄を突っかけた。二人がその家へ行った時には、見物が黒山のようにたかっていた。病《や》みほうけても美しい。油屋お北の死骸《なきがら》は、赤いしごきを首に纏《まと》い、なるほど梁《はり》から下がっていた。
 壁に無数の落書きがあった。「ゆるしてください。恐ろしい」「馬子甚三」「信濃追分」「南無幽霊頓証菩提」「もう、わたしは生きてはいられない」「あの人、あの人、あの人、あの人」
 意味のわからない落書きであった。
 検死の結果は自害となった。乱心して死んだということになった。ただしどうして乱心したかは、誰も知ることは出来なかった。
「春になると自殺者が多い」平八は憮然として呟いた。
「いい女だったのに惜しいことをした」こういって一閑斎は苦笑したが、「亭主の浪人はどうしたかな?」
 その浪人は殺されていた。それの解ったのは翌朝のことで、隅田堤の桜の幹へ、五寸釘の手裏剣で、両眼と咽喉《のど》とを縫いつけられていた。
 奇抜といおうか惨酷といおうか、その不思議な殺され方は、江戸市中の評判となった。
「いったい誰が殺したのだろう?」人々はこういって噂した。
 もちろん甚内が殺したのであった。兄の敵の富士甚内を、浅間甚内が殺したのであった。

    浅間甚内復讐を語る

 どんな具合に巡り会い、どんな塩梅《あんばい》に立ち合って、兄の敵を討ったかについては、彼は恩師たる千葉周作へ、次のように話したということである。
「……とうとう本望をとげました。先生のお蔭でございます。一生忘れはいたしません。兄もどんなにか草葉の蔭で、喜んでいることでございましょう。おそらく修羅《しゅら》の妄執《もうしゅう》も、これで晴れたことでございましょう。……では、どうして敵と出会い、どんな具合に討ち止めたか、お話しすることに致します。なかばは偶然でございました。そうして後の半分は妹のおかげでございます。……追分をうたい、市中を流し、敵を目付けておりますうち、ふと隅田の片ほとり、小梅の里のみすぼらしい家に、お北によく似た若い女を、見掛けたことがございました。でもそれはたった一度だけで、後はいつもその家は、雨戸がしまっておりましたので、見かけることは出来ませんでした。それでも気になるところから、毎夜のようにそのあたりを、彷徨《さまよ》ったものでございます。そのうち秋が冬となり、年が明けて春となり、昨夜となったのでございますが、いつもの通りお霜を連れて、信濃追分をうたいながら、隅田の方へ参りました。そうしてその家の前に立ち、しばらく様子をうかがってから、堤を歩いて行きました。と、ご承知のようによい月夜で、おりから桜は満開ではあり、つい私はよい気持ちになり、次々にうたいながら歩いて行きますと、後の方から何者か、つけて来るではございませんか。ふと振り返って見ましたが、それらしい人の影もない。不思議なことと思いながら、また歩いて行きますと、やっぱり足音が致します。春の月夜にうかれ出た。狐か狸のいたずらであろうと、そのまま歩いて参りますと、ピタピタピタピタと足音が、近付いて来るではございませんか。で、振り返ってみましたところ、山岡頭巾で顔を包んだ、一人の武士が一間の背後《うしろ》に、追い逼っているではございませんか。ハッと思ったものでございます。と、いうのはその武士が、刀の柄をシッカリと、握っていたからでございます」

    光風霽月大団円

「『ははあこいつが噂に高い、辻斬り強盗の張本だな』と、私は突嗟《とっさ》に思いましたが、よい気持ちはいたしませんでした。で、自然と右の手が、懐中へ忍ばせた手裏剣へ、つと走ったものでございます。すると突然妹のお霜が、千切れるような声を上げ、私の袖をグイグイと、三度引くではございませんか! 『うん』と私は呻きました。合図だったからでございます。……富士甚内を目っけたら、三度袖を引くようにと、教え込んで置いたからでございます。素早《すばや》くこいつが敵かと、躍り立った一|刹那《せつな》『亡霊追分、正体見た! 二つになれ!』とその武士が、サッと斬り込んで参りました。その太刀風の物凄さ、なんで私に避けられましょう。真っ二つにされた筈でございます。ワッ、やられた! と叫びながら、足もとを見ると妹のお霜が、真《ま》っ向《こう》から胸板まで、切り割られて仆れておりました。身代りになったのでございます。私をかばう一心から、飛び込んで来たのでございます。可哀そうなことをいたしました。でも妹はああいう片輪《かたわ》、なまじ活きておりますより、死んだ方がよかったかもしれません。いえいえそんなことはございません。やっぱり活きておりましたら、何彼《なにか》につけて頼みにもなり、嬉しいことも楽しいことも、分け合うことが出来ますのに。……可哀そうなことをいたしました。もう取り返しがつきません。でも妹が死んでくれたため、私は敵《かたき》の第一の太刀を、避けることが出来ました。そうして敵が第二の太刀を、私に向けて来ました時には、もう私は二間のあなた[#「あなた」に傍点]に、飛びしさっていたのでございます。もうこうなればこっちのもの、ビューッと繰り出した釘手裏剣、狙いたがわず敵の右眼へ、叩き込んだものでございます。これは全く敵にとっては、予期しなかったことでございましょう。アッと叫ぶとヨロヨロと、桜の老木へ寄りかかりました。そこを狙ってもう一本、左眼へぶち込んだものでございます。これで勝負はつきました。敵は盲目《めくら》になりましたので。そこで初めて私は、宣《なの》りを上げたものでございます。『富士甚内よっく聞け、俺は汝《おのれ》に殺された馬方甚三の実の弟、追分産まれの浅間甚内だ! 兄の敵妹の仇、思い知ったかこん畜生め! 口惜しくば立ち上がってかかって来い! どうだどうだ富士甚内!』……敵は身顫いをいたしました。動くことは出来ません。そこで私は止どめとして三本目の釘を投げつけて、咽喉《のど》を貫いたのでございます。それから妹を肩へかけ、帰って参ったのでございます。……聞けばお北もあの家で、首を縊《くく》ったと申すこと。因果応報なのでございましょう。恨みはこれで晴れました。ああいい気持ちでございます。でも寂しゅうございます。一人ぼっちでございますもの。……お手数恐縮ではございますが、どうか私を召し連れて、お上《かみ》へお訴えくださいますよう。人殺しをしたのでございます。兄の敵とはいいながら、武士を殺したのでございます。おしおきになりとうございます」
 周作が甚内を召し連れて、西町奉行[#「西町奉行」はママ]へ訴えたのは、その翌日のことであった。
 そこで奉行は取り調べた。敵討《かたきう》ちに相違なく、それに相手の富士甚内は、辻斬りの張本というところから、甚内はかえって賞美され、なんのお咎めも蒙らなかった。
 喜んだのは周作で、甚内を屋敷へ引き取るや、今後の方針を訊ねてみた。
「追分へ帰りとう存じます。故郷はよい所でございます。兄の墓場もございますし、妹お霜も同じ土地へ、葬ってやりとう存じます。そうして私は追分で、兄の代りに馬を追い、馬子で暮らしとう存じます」
 これが甚内の意志であった。
 そこで周作もそれに同じ、諸方から集まった同情金へ、さらに周作が金を足し、門弟達にも餞別を出させ、三百両の大金とし、これを甚内へ送ることにした。
 江戸で需《もと》めた馬の前輪《まえわ》へ、妹お霜の骨をつけ、
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信州出た時ゃ涙で出たが
今じゃ信州の風もいや
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 それとは反対の心持ち――その信州の風を慕い、江戸を立ってふるさとの、追分宿へ向かったのは、それから一月の後であった。
 こうして江戸の人々は、信州本場の追分を、永久聞くことが出来なくなったが、その代り恐ろしい辻斬りからは、首尾よく遁《の》がれることが出来た。で、私の物語りも、この辺で幕を下ろすことにしよう。

底本:「名人地獄」国枝史郎伝奇文庫7、講談社
   1976(昭和51)年5月20日第1刷発行
初出:「サンデー毎日」
   1925(大正14)年7月5日~10月25日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「鬨」と「閧」の混在は、底本通りです。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

娘煙術師——- 国枝史郎

楽書きをする女

 京都所司代の番士のお長屋の、茶色の土塀《どべい》へ墨《すみ》黒々と、楽書きをしている女があった。
 照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧《おぼろ》月夜にしくものはなしと、歌人によって詠ぜられた、それは弥生《やよい》の春の夜のことで、京の町々は霞《かすみ》こめて、紗《しゃ》を巻いたように朧《おぼろ》であった。
 寝よげに見える東山の、円《まろ》らの姿は薄墨《うすずみ》よりも淡く、霞の奥所にまどろんでおれば、知恩院《ちおんいん》、聖護院《しょうごいん》、勧修寺《かんじゅじ》あたりの、寺々の僧侶たちも稚子《ちご》たちも、安らかにまどろんでいることであろう。鴨《かも》の流れは水音もなく、河原の小石を洗いながら、南に向かって流れていたが、取り忘れられた晒《さら》し布が、二|筋《すじ》三筋河原に残って、白く月光を吸っていた。
 祇園の境内では昔ながらの、桜の老木が花を咲かせて、そよろと吹き過ぎる微風につれられ、人に知られず散っていたが、なやましくも艶《なま》めかしい眺めであった。
 更《ふ》けまさっても賑《にぎ》やかであると、いいつたえられている春の夜ではあったが、しかし丑満《うしみつ》を過ごした今は、大路にも小路にも人影がまばらで、足の音さえもまれまれ[#「まれまれ」に傍点]である。
 二条のお城を中心にして、東御奉行所や西御奉行所や、所司代などのいかめしい官衙《かんが》を、ひとまとめにしているこの一画は、わけても往来の人影がなくて、寂しいまでに静かであった。
 と、拍子木《ひょうしぎ》の音がしたが、非常を警《いまし》めているのでもあろう。丸太《まるた》町あたりと思われる辺から、人をとがめる犬の吠え声が、猛々《たけだけ》しくひとしきり[#「ひとしきり」に傍点]聞こえて来たが、拍子木の音の遠のいたころに、これも吠え止めてひっそり[#「ひっそり」に傍点]となった。
 一軒のお長屋の土塀を越して、白木蓮《しろもくれん》の花が空に向かって、馨《かん》ばしい香《にお》いを吐いている。
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くもるとも
なにかうらみん
つき今宵《こよい》
はれを待つべき
みにしあらねば
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 紅色のかった振り袖を着て、髪を島田に取り上げている、まだ十八、九の年ごろの娘が、一軒一軒お長屋の土塀へ、楽書きをして行く文字といえば、このような一首の和歌なのであった。
 京都所司代の役目といえば、禁闕《きんけつ》を守衛し、官用を弁理《べんり》し、京都、奈良、伏見《ふしみ》の町奉行を管理し、また訴訟《そしょう》を聴断《ちょうだん》し、兼ねて寺社の事を総掌《そうしょう》する、威権|赫《かく》々たる役目であって、この時代の所司代は阿部伊予守《あべいよのかみ》で、世人に恐れはばかられていた。したがってこれに仕えている、小身者の番士なども、主人の威光を笠に着て、威張り散らしたものであった。
 そういう番士のお長屋の土塀へ、若い女の身空《みそら》をもって、いかに人目がないとはいえ、楽書きを書いて行こうとは、白痴でなければ狂人《きちがい》でなければならない。
 しかし娘は白痴でもなければ、また狂人でもなさそうであった。書く手に狂いがないばかりか、書かれた文字にも乱れがない。
 こうして同一の一首の和歌を、五軒あまりのお長屋の土塀へ、しだいしだいに書いて行ったが、六軒目のお長屋の土塀の面へ、同じその和歌を書こうとした時に、
「女子《おなご》よ」と呼ぶ声が背後から聞こえた。
 無言で振り返った娘の眼の前に、一人の供侍《ともざむらい》を従えて、おおらか[#「おおらか」に傍点]にたたずんでいる人物があったが、道服《どうふく》の下から括《くく》り袴《ばかま》の裾が、濃《こい》紫に見えているところから推して、公卿《くげ》であることがうかがわれた。
「およびになりましたのは妾《わたし》のことで? 何かご用でござりますかしら?」
 りっぱな公卿にとがめられても、娘はたいして驚こうともしないで、平然として訊き返した。
 と、呼びかけた公卿のほうでも、あえて突っ込んでとがめようとはせずに、これも平然たる態度と口調で、
「なんと思うてそのような所へ、そのような和歌を楽書きするぞ? 風流にしては邪《よこしま》である。悪戯《いたずら》にしては度が過ぎる。そち[#「そち」に傍点]の思惑を聞きたいものだ」こういって相手の返辞を待った。

疑問の問答

 と、娘は月の光の中で、大胆に艶《つや》めいた笑い方をしたが、
「決して風流ではござりませぬ。さりとて悪戯《いたずら》でもござりませぬ。ただ書きたくなりましたので、楽書きをいたしましてござります」
 こういって依然として大胆に、艶めいた笑い方を公卿へ見せた。
 しかしどうやら公卿のほうでは、それを諾《うべな》おうとはしないようであった。
「麿《まろ》にはそのようには思われぬよ。何らか深い思惑があって、楽書きをしたものと思われるよ。麿に遠慮をすることはない。そちの思惑を話すがよい」こういって娘の顔をのぞいた。
 しかし娘は同じように、大胆な艶めいた笑い方を、顔一杯に漂わせるばかりで、答えようとはしなかった。
 と、そういう娘のようすが、公卿にはいよいよ審《いぶ》かしくも、疑わしくも思われたらしい、胸と胸とが合わさるばかりに、近々と娘へ近づいたが、
「そも、そちの名は何というぞ?」
「はい、粂《くめ》と申します」
「で、年は幾歳《いくつ》であるか?」
「はい、十九にござります」
「ここの長屋をいずこと思うぞ?」
「所司代様のご番士方の、組お長屋と存じます」
「それと知っていて楽書きをしたか?」
「はいはい、さようにござります」
「恐ろしいとは思わずにな?」
「なんの恐ろしいことがござりましょう。この妾《わたし》にとりまして、恐ろしくも尊くも思われますお方は、お一方《ひとかた》のほかにはござりませぬ」
「それが聞きたい、申してみやれ?」
「はい、禁裡《きんり》様にござります」
「…………」
 りっぱな公卿はその言葉を聞くと、襟を正して粛然《しゅくぜん》としたが、
「改めてそちに訊《き》くことがある。『くもるとも、なにか怨《うら》みん、月|今宵《こよい》、晴れを待つべき、身にしあらねば』――この和歌の意味を存じておるかな?」
「存じておりますでござります」
「和歌の詠者《よみて》も存じておるか?」
「存じておりますでござります」
「どのような場合に詠《うた》ったものか、その点もそちは存じておるかな?」
「存じておりますでござります」
「では改めてもう一度訊くが、そちとこの和歌の詠者とは、有縁のものと思われるが、それに間違いはあるまいな」
「有縁のものにござります」
「さようか」といったがりっぱな公卿は、顔をゆすってうなずいてみせた。「所司代の番士の長屋の土塀へ、楽書きをした心持ちも、これでおおよそ[#「おおよそ」に傍点]わかって来た。反抗的に書いたのであろう?」
「御意《ぎょい》の通りにござります」
「うむ」というとりっぱな公卿は、また顔をゆすってうなずいてみせたが、「そち、この麿《まろ》を存じているかな?」
「徳大寺《とくだいじ》様と存じまする」
「いかにも」と徳大寺|大納言《だいなごん》家は、それを聞くとまたもやうなずいてみせたが、「麿とその歌の詠者とは、昔多少の縁があった。自然そちとも有縁といえよう。……麿の別邸は烏丸にある。いつなりと訪ねて参るがよい。そちの力にもなるであろう。麿にも頼みたいことがある」
「お訪ねいたしますでござります」
 娘はうやうやしく一礼したが、そのまま顔を上げなかった。感泣《かんきゅう》をしているのかも知れない。
「くわしいそちの身分なども、まいった時に訊《たず》ねるとしよう」
 こういいすてると徳大寺大納言は、供侍を見返ったが、「青地《あおち》、青地、清左衛門《せいざえもん》!」
「は」と身近く寄り添ったのは、公卿侍の青地清左衛門であって、二十八、九歳の優《やさ》男であった。「何ご用にてござりまするか?」
「今夜のことは秘密にいたせ」
「かしこまりましてござります」
 青地清左衛門を従えて、霞《かすみ》の中へ悠々と、徳大寺大納言家の歩み去った後は、お粂《くめ》という娘一人だけとなった。
「徳大寺様を手の中へ入れた。金ちゃんに話したら嬉しがるだろう。その金ちゃんが何をしているやら。いまだに姿を見せやしない」
 いやこのころ金ちゃんは、千本お屋敷とご用地との露路で、片耳のない大男と、妙な立ち話をやっていた。

片耳の大男と変面の小男

「で、お前さんの名はなんというんで?」こう訊いたのは金ちゃんである。醜男《ぶおとこ》で小兵で敏捷《びんしょう》らしい。
「へい、私の名は鴫丸《しぎまる》というんで」こう答えたのは片耳のない、大兵だが魯鈍《ろどん》らしい男であった。年|格好《かっこう》は二人ながら、二十七、八歳と思われる。
「へー、鴫丸? いい名だなあ、が、柄とは釣り合わないよ」
「皆様もそうおっしゃいます。――が、これは芸名なので」
「フーッ、芸名? これは呆《あき》れた。ではお前さんは芸人なので?」
「芸人衆様でございますよ」
「ふざけちゃアいけない、何が『様』だ。がまあまあそれはどうでもいい。何を商《あきな》っているんだい?」
「え? 商い? これはどうも、私は芸人衆様でございますよ」
「だからよ、訊いているじゃアないか。どんな芸を商っているのかってね」
「あッ、なるほど、そういう意味なので。……へいへい軽業《かるわざ》を商っております」
「ハーン、そうか、軽業か」
「それから手品も商っております」
「おや、二色《ふたいろ》もやるのかい」
「それからお芝居もいたします」
「凄《すご》い芸人があったものだ」
「ええと、それから女相撲なども」
「フーッ、とほうもない芸人衆様だ」
「ええとそれから猿芝居なども」
「おい、いい加減で許してくれ」
「長崎渡りの奇術なども、幕間《まくま》幕間に演じます」
「で、お前さんは何役なので?」
「口上いいでございますよ」
「そんなものだろうと思っていた。舞台へ上がる柄じゃアない」
「ところがこれが大切な役で」
「面妖《めんよう》だね。なぜだろうね」
「へい、お客様を笑わせます」
「悪ふざけをしてくすぐる[#「くすぐる」に傍点]んだろう」
「軽い口上を申し上げまして、お上品に笑わせるのでござりますよ」
「お妻さんというのはどういうお方で?」
「女太夫さんでございますよ」
「ははあお前さんの一座にいなさる?」
「へいへいさようでございますよ」
「で、どうしてお前さんには、『お妻さんお妻さん』と泣き声を上げて、うろつき[#「うろつき」に傍点]まわっていなすったので?」
「へい、お客さんに連れられまして、京へ来たからでございますよ」
「ははあ逃げたと、こう思って、それで探しに来なすったので?」
「へいへいさようでございますよ」
「が、大丈夫帰りましょうよ。女太夫がお客さんと一緒に、どこかへしけ[#「しけ」に傍点]込むというようなことは、ざら[#「ざら」に傍点]にあることでござりますからな。いずれは戻るでござりましょうよ。そいつをいちいち追っかけていたでは、女太夫はやりきれますまい」
「それがそうではございませんので」
「へー、なぜだね、そうでないとは?」
「お妻太夫さんは情女《いろ》なので」
「情女《いろ》? へー、誰の情女なので?」
「この鴫丸《しぎまる》めの情女なので」
 とうとう金兵衛は吹き出してしまった、「ひどい[#「ひどい」に傍点]目に逢えば逢うものだ。こんなことなら親切気を出して、声など決して掛けるのじゃアなかった」
 仲間のお粂《くめ》に逢おうという、そういう約束があったがために、車屋町の隠れ家を出て、烏丸、室《むろ》町、新町、釜座《かまんざ》、西洞院《にしのとういん》の町々を通って、千本お屋敷とご用地との間の、露路まで急いで歩いて来たところが、そういう道々を相前後して、片耳の大きな図体《ずうたい》の男が、泣くような声を響かせて、「お妻さんお妻さん」と呼んでいるので、なんだか不思議な気持ちもしたし、またいじらしく[#「いじらしく」に傍点]も思われたところから、ついつい声をかけたところ、惚気《のろけ》を聞かされてしまったのであった。
「が、それにしてもよくしたものだ、こんな片耳の醜男にも、情女《いろ》があるというのだからな」――忙しいのも打ち忘れて、金兵衛は心をノンビリとさせた。「よしよし根掘《ねほ》って訊いてやろう」――で金兵衛は真面目《まじめ》顔をして訊いた。

不具者の片恋

「いずれお妻さんという女太夫さんは、美しいお方でございましょうね」
 こう加工的の真面目顔をもって、金兵衛に訊かれて鴫丸という男は、相好《そうごう》を崩してニタニタ笑いをしたが、
「素晴らしい美人でございますよ。たとえば吉祥天女《きっしょうてんにょ》様のようで」
「いやいやそうではありますまい」
 いよいよ金兵衛は面白くなった。で、揶揄的《やゆてき》になろうとする、そういう心持ちを苦心しておさえて、ますます加工的に真面目顔をしたが、
「吉祥天女様というような、仏くさいお方ではありますまい。松浦佐用姫《まつらさよひめ》様というような、仇《あだ》っぽい色っぽいお方のはずで」
「はいはいそうでございますとも、佐用姫様のように仇っぽい女で」
 油をかけられていることも知らずに、鴫丸という男は嬉しそうに、それこそ真面目に答えるのであった。
 それがどうにも金兵衛にとっては、面白くもあればおかしくもある。で、いよいよ図に乗った口調で、
「やつがれ[#「やつがれ」に傍点]の思うところによれば、そのお妻さんという女太夫さんは、佐用姫様のように色っぽいと一緒に、佐用姫様のように操《みさお》が正しいはずで」
 すると片耳の鴫丸という男は、うなだれ[#「うなだれ」に傍点]て足もとを睨《にら》みつけた。なんとなく悄気《しょげ》たようすである。
「おや」と金兵衛は意外に思ったが、揶揄《やゆ》を止めようとはしなかった。「で、やつがれ[#「やつがれ」に傍点]の思惑によれば、お前さん一人だけを大切に守って、決してほかへは仇《あだ》し男などは、お妻太夫さんはこしらえないはずで」
 しかし片耳の鴫丸という男は、依然として足もとを睨みつけているばかりで、返辞をしようとはしなかった。図抜けて大柄な男だけに、悄気返っているそういう姿が、おかしみと憐《あわ》れさを二倍にして見せる。
「ところで」と金兵衛は吹き出しそうになる心を、大変な努力で制しながら、「お妻太夫さんとお前さんとは、いつごろから深い仲になりましたので?」こう訊いてしばらく間を置いて、相手の男の返辞を待った。
 と、鴫丸という片耳の男は、ようやく臆病そうな顔を上げたが、「私のほうだけで想っているばかりで、お妻太夫さんのほうでは想っていないので」
「え?」と、それを聞くと金兵衛は、わざと大仰《おおぎょう》に驚いて見せたが、
「なんですかい、それでは、片恋なので」――しかしもちろん心の中では、「そんなことだろうと思っていたよ」とこんなように思っているのであった。と、鴫丸は意外に順直《すなお》に、
「へー、さようで、そんな塩梅《あんばい》なので」
 それからまたも首を垂れて、じっと足もとを睨みつけた。
 揶揄《やゆ》しようという心持ちが、そういう鴫丸のようすを見たために、にわかに金兵衛の心から消えた。「もうひやかすのは止めにしよう。正直な順直《すなお》な好人物らしい。そうしてとうてい[#「とうてい」に傍点]及ばない恋に、夢中になっているらしい。こういう男が思い詰めると、どんな事をやり出すかわからない」つまりこんなように思ったからであった。で、ひょいと話を変えた。
「で、只今はお前さんの一座は、どこで興行をしておりますので」
「大津の宿《しゅく》でございますよ」
「それじゃア大津からこの京都へまで、お妻太夫さんを探しに来たので?」
「どこへでも探しにまいりますよ」
「大変な執心《しゅうしん》でございますなあ」
「死ぬまで私は思い詰めます。そうして私の死ぬ時には、お妻太夫さんも殺します」
 金兵衛は急に寒気がした。「白痴《ばか》の一念というのでもあろう。思い込まれたお妻という太夫にも、俺《おれ》は大いに同情するよ」――もう金兵衛は別れようと思った。
「では鴫丸さんご免なすって、これでお別れをいたしましょう」
「これでお別れをいたしましょう。いろいろ有難うございました」
 朧《おぼろ》の月光と紗《しゃ》のような霞《かすみ》とで、練《ね》り合わされているがために、千本お屋敷とご用地との露路は、煙りの底のように眺められたが、その中をトボトボと鴫丸の姿が、人間の殻《から》のように歩いて行く。と、曲がって見えなくなった。小堀《こぼり》屋敷のほうへ行ったようである。
「とんだ道草を食ってしまった。どれ急いで走って行こう。お粂姐《くめあね》ごが待っているだろうに」
 金兵衛は小刻みに走り出したが、下立売《しもたてうり》から丸太《まるた》町を抜けて、所司代の番士のお長屋の、塀の側まで間もなく来た。と、お粂が立っていた。

開けられた窓

「金ちゃん、どうしたんだよ、遅かったじゃないか」
 息せき[#「息せき」に傍点]切って走って来た、金兵衛の姿を迎え取るようにして、このように声をかけたのは、徳大寺卿を送ってから、半|刻《とき》あまりもたたずんで、じれ[#「じれ」に傍点]切っていたお粂《くめ》であった。
 と、金兵衛はお粂の前へ、ピョコリと一つお辞儀をしたが、「姐《あね》ご済みません、あやまります。実は道草を食いましてね」
「道草?」と聞き返したがお粂の声は、不安なものを持っていた。
「それではなにかい、てき[#「てき」に傍点]らの一人と?」
「なんのなんの」とそれを聞くと、金兵衛は手を振って払うようにしたが、「そんなたいした道草の種なら、済みませんなんて謝罪《あやま》りはしません。ただ道化《どうけ》者に逢っただけで」
「道化者? ふうん、どんな道化にさ?」やはりお粂は不安らしい。
「へい、こういう道化者なので」思い出してもおかしいというように、金兵衛は一件を話し出した。
「お妻さんという綺麗な女太夫さんに、片耳で大男で縹緻《きりょう》の悪い、鴫丸《しぎまる》さんという口上いいが、片恋なるものをしていましてね、深夜の京都の町々を『お妻さんお妻さん』と呼び歩きますので、惻隠《そくいん》の情を起こしましてね、私が事情をたずねましたところ……」
「およしよ」とお粂は止めてしまった。「相変わらず暢気《のんき》な金ちゃんじゃアないか。お前さんそんなもの[#「そんなもの」に傍点]にかかりあっていたのかい」
「ざっとそういった塩梅《あんばい》で。もしなんならもっと[#「もっと」に傍点]詳しいところを……」
「よしておくれよ、聞きゃアしないよ」
 お粂はなんとなく不快そうであった。と、そういう不快そうなお粂の、浮かない気分が感ぜられたらしい、金兵衛もいくらかてれ[#「てれ」に傍点]たように、しばらくの間無言でいたが、
「それはそうと姐ごどうしたんで、今夜ここへ来るようにと、私に伝言《ことづて》をなすったので、そこでやっては来たんですが、どういうご用がおありなさるので?」
「ああそう、そう、話してあげよう」
 ようやく機嫌をなおしたらしい、お粂は気軽そうにこういったが、かたわらに立っていた長屋の土塀へ、ヒョイとばかりに指をさした。
「ね、ご覧よ、楽書きがあるから」
 ――で、金兵衛は土塀を見た。
「おッ、これは例の和歌《うた》だ」
「そうともそうとも例の和歌だよ」
「で誰が楽書きをしたんですい?」
「つい[#「つい」に傍点]お前さんの鼻の先の人さ」
「あッ、それじゃお前さんだ」
「あいよあいよ妾が書いたのさ」
「なんで?」と金兵衛は怪訝《けげん》そうにした。
「ああさ、大物を手に入れるためにさ」
「大物? へーい。どなた[#「どなた」に傍点]のことで?」
「徳大寺大納言|公城《こうき》様さ」
「え?」
「そうなのさ!」
「そいつア本当で?」
「どうだい細工《さいく》は?」
「りゅうりゅう[#「りゅうりゅう」に傍点]ですなあ」で、二人は寄り添ったが、互いにひそひそ[#「ひそひそ」に傍点]とささやき合った。とお粂が声を上げた。
「……といったようなやり口で、徳大寺様のご注意を引いて、わざとお声をかけさせて、そうしてお心を引き付けて、妾というものを植えつけたのさ」
「そうした結果というものが……」
「出入りを許す、訪ねて参れ! というところへまで漕《こ》ぎつけたのさ」
「姐ご、明日にもお訪ねしましょう」ここで金兵衛は嘆息を洩《も》らした。「いろいろの芸当を持っているので、姐ごは全く幸せだよ」
「さあ帰ろうよ」
「お供しましょう」
 依然として四辺《あたり》は月の光と、紗のような霞の世界とであったが、そういう世界を分けるようにして、お粂と金兵衛とが立ち去った時に、木蓮の花の咲いている、一軒のお長屋の窓の扉《とびら》が、――その時まで細目に開いていたが、この時一杯に押しあけられて、主人の矢柄源兵衛《やがらげんべえ》の顔が、戸外へ黒く突き出された。
「すっかり見もし聞きもしたよ。組頭《くみがしら》へさっそく言上《ごんじょう》しよう」
 ――で、お粂と金兵衛との二人が、立ち去ったほうを見送ったが、以上を物語の発端《ほったん》として、次回から序曲にはいることにしよう。

奉書取り

 三回ばかり足《テンポ》を早めて書こう。
 ここは京都の烏丸通りの、徳大寺別邸の裏庭である。植え込みがしげく繁っていて、一宇《いちう》の亭《ちん》が立っている。時刻は夜で星がある。
 亭で話している二人がある。一人は主人の徳大寺卿で、一人は公卿|武士《ざむらい》の清左衛門であった。
「これこそ大切の巻き奉書だ、留書《とめが》き奉書といってもよい。大先生へお渡しするよう」
「かしこまりましてござります」
「で、すぐにも出立するよう」
「かしこまりましてござります」で、清左衛門は植え込みをくぐって、どことも知れず立ち去ってしまった。
 と、その時一所で、物のうごめく気配がしたが、夜鳥か? それとも風の音であろうか? いやいや人間がいたのである。
 番士の矢柄源兵衛であった。
「青公卿《あおくげ》どもが懲りようとはせずに、またも陰謀を企てているそうな。ご城代様にはお心にかけられ、この俺を隠密《おんみつ》に仕立て上げて、ここの邸へ入り込ませたが、大変な話を聞いてしまった。……よしよしこれから追っかけて行って、叩っ切って奉書を奪い取ってやろう」
 で、庭から忍び出た。
 徳大寺卿は知る由《よし》もない。亭に腰をかけて黙念としている。
 と、二つの人影が、植え込みをくぐって現われて来た。
 一人は美しい娘であって、一人は変面《へんめん》の小男であった。
「ああ参ったか、ご苦労ご苦労、用というのはほかでもない、今大切の巻き奉書を、青地清左衛門へつかわして、大先生へもたらせた[#「もたらせた」に傍点]が、道中のほどが心もとない。で、そのほうたち二人へ命ずる、それとなく清左衛門を警護するよう。なお江戸の地へ着いたならば、大先生の指揮の下に、何かと事を運ぶよう。これだけの用事だ、さあさあ行け」で、娘と小男とは、一礼をして立ち去ったが、後は徳大寺卿一人となった。「万端うまく行けばよいが」心にかかるようすである。
 卯木《うつぎ》の花が咲いている。石榴《ざくろ》の花が咲いている。泉水に水|禽《どり》でもいるのであろう、ハタ、ハタ、ハタと羽音がする。
「皇室の衰微もはなはだしい。王覇《おうは》の差別もなくなってしまった。どうともして本道へ返さなければならない」徳大寺卿は微吟《びぎん》をした。
 忠怠於宦成、病加於小愈。禍生於懈惰、孝衰於妻子。
 細い美しいその声が、花木で匂う夜気の中を、絹糸のように漂って行く。

 さてその日から数日たった。
 ここは箱根の山中である。
 一人の武士が急いで行く。と、背後から一人の武士が、小走って来てすれ違ったが、抜き討ちに一刀に叩ッ切った。
 悲鳴、血汐、それっきりであった。叩っ切った武士は手をのばすと、死骸の懐中から巻き奉書を出した。
「うむ、これでいい。……お届けしよう」で、その武士の走り去った後は、死骸ばかりが残っていた。
 日がテラテラと照っている。木々の新葉が光っている。老鶯《ろうおう》の声が聞こえている。が、一人の人通りもない。血溜《ちだま》りの中で幾匹かの蟻《あり》が、もがき苦しんで這いまわっている。
 と、二つの人影が、峠の道へ現われた。
「しまった、姐ご、殺されている。清左衛門様が殺されている」それは変面の小男であった。
「しらべてご覧よ、巻き奉書を」こう叫んだのは娘であった。二人で死骸をしらべたが、巻き奉書のあるはずがない。
「切られたはほんの今し方らしい。切った野郎を追っかけて行こう」
「合点《がってん》! 姐ご、追っかけやしょう」で、二人ははせ下ったが、追いつくことができるだろうか?

 江戸の本郷の一画にりっぱな邸が立っていた。潜《くぐ》り戸をトントンと打つ者がある。
「どなたでござるな、かかる深夜に……」

二隻の屋形船

「京都所司代よりまいりましたるもの、大切の文書をたずさえてござる。至急ご主人にお目にかかりたく、この段お取次ぎくださいますよう」門番のとがめた声に答えて、表の声がこう答えた。
「で、ご姓名はなんといわれる」
「番士の矢柄源兵衛と申す」
「よろしゅうござる。おはいりなされ」で、潜り戸がギーとあいて、源兵衛の姿の吸い込まれた後は、ひっそりとして寂しかった。拍子木の鳴る音がする。遠くで犬の吠え声がする。
 で、要するにそれだけであった。

 こういう事件のあってから、数日たったある日の夜、大川の流れを屋形船が、二隻音もなくすべっていた。
 その一隻の屋形船には、不思議にも燈火《ともしび》がついていない。で、真っ暗な船である。漕《こ》いでいる船頭の姿さえ、陰影のように真っ黒だ。
 が、お客が一人あった。どうやらみすぼらしい浪人らしい。屋形の中に端坐して、物音を聞いているらしい。
 船は下流へすべって行く。
 が、もう一隻の屋形船には、行燈《あんどん》が細々とともっている。三人の客の影法師が、屋形の障子へうつっている。
 その面《おも》ざしがよく似ている。どうやら三人は兄弟らしい。その中の二人は武士であったが、一人は前髪を立てたままの、十七、八歳の少年であった。
「私には兄上のご行動が、奔放《ほんぽう》に過ぎるように存ぜられます。不安で不安でなりませぬ。少しご注意くださいますよう。少なくも石置き場の空《あき》屋敷などへは、あまりお行きになりませぬよう、願わしいものに存じます」
 誠実を面《おもて》に現わして、諌《いさ》めるようにそういったのは、その前髪の少年武士であった。
 が、兄上と呼ばれた武士は、物にかかわらない性質と見えて、聞き入れるようすも見えなかった。
「一つの仕事を仕とげようとするには、相当の危険を冒《おか》さなければならない。あの石置き場の空屋敷などは、たいして危険な場所ではないよ。集まってくる連中のなかには、なかなか面白い手合いがある。ああいう手合いと交際《まじわ》るのも、必要があろうというものだよ。それより俺《わし》はお前へいいたい、お前こそもう[#「もう」に傍点]少し元気を出して、ことを大胆に振る舞うがよい。お前の姉の鈴江などは、女ながらも心得たものだ、俺と行動を一にして、いつも俺を助けてくれる。空屋敷などへも一緒に行く。お前にもそのようになってほしい」
 兄上と呼ばれた青年の武士は、このようにいくらか[#「いくらか」に傍点]たしなめるようにいったが、憎く思っていったのではなくて、弟に覇気《はき》を持たせようとして、むしろ慈愛的にいったようであった。
 が、弟の少年武士には、かえってそれが不安そうであった。「その姉上のご行動も、私には心配でなりませぬ。やはり女子は女子らしく、おとなしくご行動なさいますほうが、およろしいように存ぜられます」こういってかたわらを振り返った。
 そこに娘がすわっていた。二十歳《はたち》ぐらいの年|格好《かっこう》である。快活で無邪気で大胆らしい。
 顔の表情や態度でわかる。さっきから黙って微笑をして、二人の話を耳にしていたが、行燈の前へ左手を差し出し、掌《てのひら》に載《の》っている数十本の針の、数を右の指でかぞえ出した。「これが雄針《おばり》、これが雌針《めばり》、これが雄針、これが雌針……五十本の針さえ持っていたら、妾《わたし》にはなんだって怖《こわ》くはない。……鷲津七兵衛《わしずしちべえ》、泥子土之助《どろこつちのすけ》、根岸兎角《ねぎしとかく》、逸見無車《へんみむしゃ》、妾は吹き針の業《わざ》にかけたら、この人たちにだって負けない気だよ」
 で、弟を振り返ったが、
「小次郎や、お前さんは優《やさ》し過ぎるよ。もっとやんちゃ[#「やんちゃ」に傍点]になるがいいよ。この妾のようにお転婆《てんば》におなり」またもや針を数え出した。この船も下流へすべって行く。
 一間あまりの距離をおいて、二隻の屋形船がすべって行く。
 と、小次郎が気がかりそうに訊《たず》ねた。「兄上、どちらへ参られますので?」
「石置き場の空屋敷へ行くのだよ」二隻の船は船首《へさき》を揃えた。

宣戦の小柄

「石置き場の空屋敷へ行くのだよ」と、兄なる武士に明かされて、小次郎は仰天したらしかった。
 で、何かいおうとした。
 と、それをおさえるように、兄なる武士はいいつづけた。「鈴江と相談をしたのだよ。小次郎へ勇気をつけてやろう、小次郎へ歓楽を味わせてやろう。それには二人でおびき[#「おびき」に傍点]出して、石置き場の空屋敷へ連れて行くのが、一番手早くてよろしかろうとな。……何もいわずについておいで、そこにはいいものがあるのだから。……そうしてお前は聞くがよい。俺《わし》が巷《ちまた》へ呼びかけた声が、どんなに大勢の口々によって、叫ばれているかということを」
 しかしどうにも小次郎にとっては、空屋敷へ行くということが、恐ろしくも不快にも思われるらしい。
「いやでござります、いやでござります」身もだえをしていうのであった。
 それが鈴江にはおかしかったらしい。明るいあけっぱなしの笑い方をしたが、
「まあまあ一度は行ってごらんよ。悪い所ではないのだから。一度あそこの味を知ったら、私たち二人が誘わないでも、たいがい一人でお前さんから進んで、しげしげ通うようになるだろうよ。……白粉《おしろい》の匂い、口紅の色、カランカランという賽《さい》コロの音、お酒、ご馳走、いい争い、悪口、組打ち、笑い声……それでいてみんな[#「みんな」に傍点]が仲がよくて、そのくせみんなが仲が悪くて、しかも元気で活気があって、そうして全体が平和なのだよ」
「そうだよ」
 といったのは兄にあたる武士で、莞爾《かんじ》という言葉にうってつけ[#「うってつけ」に傍点]の笑いを、その口|端《ばた》に漂わせたが、鈴江の話の後をつづけた。
「そこへ集まって来る人間こそは、人間の中の人間なのだよ。虚飾《かざり》だの見得《みえ》だの外聞だの、ないしは儀礼《ぎれい》だのというようなものを、セセラ笑っている人間なのさ。が、他面からいう時には、浮世の下積みになっている、憐れな人間だということができる。で、彼らは怒っているのだ。浮世と浮世の人間とをな。……そうしてそういう人間こそ、本当の人間だということができる。本当の人間とは交際《つきあ》ったほうがいい。いざという場合に役に立つ」
 しかしやっぱり小次郎としては、石置き場の空屋敷へ行くということが、どうにも心に染まないらしい。で、頑固にいうのであった。
「いやでござります、いやでござります」しかし小次郎の思惑などに、船はかかわろう[#「かかわろう」に傍点]とはしなかった。
 下流へ下流へとすべって行く。
 大川の流れはかなりゆるやか[#「ゆるやか」に傍点]で、そうして水上は暗かった。
 しかし対岸の西両国には、華やかな光がともっていた。船宿だの料理屋だの水茶屋だのが、岸に並んでいるからである。水へ向いた室々《へやべや》の窓や障子に、燈火《ともしび》の光が橙色《だいだいいろ》にさして、それが水面に映ってもいた。
 三味線の音などもまれまれ[#「まれまれ」に傍点]に聞こえる。
 二隻の屋形船はすべって行く。
 石置き場のほうへ行くのである。
 大川を右へそれたならば、一ツ目橋となるであろう。一ツ目橋の袂《たもと》から、水戸様石置き場へ上がることができる。
 こうして三人を乗せたところの、燈影《ほかげ》の暗い屋形船が、一ツ目橋のほうへそれようとした時に、一つの意外な珍事が起こった。
 浪人者の乗っている、燈火のついていない屋形船から、一本の小柄が投げ出されて、三人の兄弟の乗っている、屋形船の障子をつらぬいて、薄縁《うすべり》の上へ落ちたことである。
 その柄に紙片が巻きつけてある。
「私情から申しても怨《うら》みがござる。公情から申せば主義の敵でござる。貴殿に闘《たたか》いを宣するしだい、ご用心あってしかるべく候《そうろう》。――桃《もも》ノ井《い》久馬《きゅうま》の息《そく》兵馬《ひょうま》より山県紋也《やまがたもんや》殿へ」
 紙片に書かれた文字である。兄上と呼ばれた青年の武士は、さすがにその眼を険《けわ》しくはしたが、躊躇《ちゅうちょ》しようとはしなかった。同じ小柄へ紙片を巻きつけ、相手の屋形船へ投げ返したが、紙片には文字をこう書いた。「心得て候。山県紋也より」と。
 以上の三回を序曲として、いよいよ本筋へはいることにする。
 その翌日のことであったが、ニヤリニヤリと笑いながら、西両国の広小路《ひろこうじ》を、人をつけて行く人物があった。

武士ばかりを狙う

 ニヤリニヤリと笑いながら、人をつけ[#「つけ」に傍点]て行く人物があった。藍微塵《あいみじん》の袷《あわせ》に、一本|独鈷《どっこ》の帯、素足に雪駄《せった》を突っかけている。髷《まげ》の形が侠《きゃん》であって、職人とも見えない。真面目に睨んだら鋭かろう。だが、現在はニヤリニヤリと、笑《えみ》をたたえているがために優しく見える大形眼の、鼻は高いが節《ふし》があるので、十分りっぱということはできない。特徴のあるのは薄手の口で、これまた真面目に引きしめたならばさぞ酷薄に見えるだろう。ところが今は笑っているので、愛嬌あふれるばかりである。年の格好は四十一、二で、精悍らしく小兵である。
「あ、やりおった、またやりおった。ずいぶん上手にはたく[#「はたく」に傍点]なあ」
 口の中でつぶやいてつけて行く。
 この人物は何者であろう? 誰かが懐中《ふところ》をのぞいたならば、すこしふくらんだふところの中に鼠色《ねずみいろ》をした捕縄《ほじょう》と白磨き朱総《しゅぶさ》の十手とが、ちゃんと隠されてあることに、きっと感づいたに相違ない。そうしてその人はいうだろう「ははそうか、目明《めあか》しなのか」と。
 この人物こそ目明しなのであった。住居は神田代官町で、そうしてその名を松吉といった。そこで綽名《あだな》して代官松――などと人は呼んだりした。乾児《こぶん》も七、八人持っていて、目明し仲間での腕っこきであった。
「あ、やりおった、またやりおった、ずいぶんりっぱにはたく[#「はたく」に傍点]なあ」
 またも口の中でつぶやいたが、依然としてニヤリニヤリと笑い、悠々としてつけて行く。
 つけられているのは二人の掏摸《すり》で、これがまた変わった風采《ふうさい》であった。すなわち一人は女であり、町娘ふうにやつしている。水色かった振り袖を着、鹿子《かのこ》をかけた島田髷へ、ピラピラの簪《かんざし》をさしている。色が白くて血色がよくて、眼醒《めざ》めるばかりに縹緻《きりょう》がよい。古い形容《いいぐさ》だが鈴のような眼つき、それがきわめて仇《あだ》っぽい。で、この眼で笑われたならば、たいがいの男はグンニャリとなろう。
 ところで鼻だがオンモリと高く、そうして上品になだらかである、口はというにまことに小さく、その上いうところの受け口でこれがまた非常に色っぽい。ニッと笑って前歯でも見せたら、おそらく男はフラフラとなろう。その年ごろは十八、九で、二十歳《はたち》までは行ってはいないだろう。身長《せい》が高くて痩《や》せぎすである。首なんか今にも抜けそうに長い。
 その女|掏摸《すり》と並びながら、手代《てだい》ふうの若い男が行く。相棒であることはいうまでもない。どこか道化《どうけ》た顔つきである。薄くて細くて短い眉毛、それと比較して調和のとれた、細くて小さくてショボショボした眼つき、獅子鼻《ししばな》ではないが似たような鼻、もうこれだけでも贔屓目《ひいきめ》に見ても、美男であるとはいわれない。その上に口が大変物である。俺は自信のある雄弁家だとそう披露《ひろう》でもしているように、やけに大きく薄いばかりか反歯《そっぱ》でさえもあるのである。年はそちこち二十八、九か、色浅黒く肥えている。
 で、二人を一見すれば、相当大家の商人の娘を、醜い手代がお供して、歩いているということができる。が、二人へ接近して、その会話を聞いたならば、胆を冷すに相違ない。
「姐《あね》ご、あいつは関東方で」「そうかい、それじゃア引っこ抜いてやろう」「おっとおっと今度はいけない、あのお侍さんは京師《けいし》方で」
「そうかいそうかい止めにしよう」などといっているのだから。
 さてそのすり方だが見事であった。つまりこんなようにする[#「する」に傍点]のである。向こうから武士がやって来る。と、人波に押されたかのように、ヒョロヒョロと女掏摸がよろめいて行って、武士の胸もとへポンとぶつかる[#「ぶつかる」に傍点]。
「とんだ粗相《そそう》をいたしました。ホッ、ホッ、ホッ、ごめんあそばせ」例の眼で笑い例の口で笑う。と、ぶつかられた[#「ぶつかられた」に傍点]武士であるが、ぶつかられた[#「ぶつかられた」に傍点]瞬間にはちょっと怒る。
「注意しゃっしゃい! 粗忽《そこつ》千万な!」よくよく見ると美形である。で、ガラリと調子が変わる。「これはこれは娘ごで。大事ござらぬ、ハッ、ハッ、ハッ。もしなんならもう一度でも」それから同僚を振り返って、「拙者非常に幸福でござる」
 だが非常にお気の毒である。もうこのころには懐中物は、とうにすられているのだから。
 そういう掏摸《すり》をつけながら、代官松は捕えようともせずに、悠々と歩いて行くのであった。
「武士ばかりをするのが不思議だよ」これが松吉には不思議なのであった。

偉いお方をすりゃアがった

「武士ばかりをするのが不思議だよ。いったいどうしたというのだろう? それにさ、も一つ変なことがある。関東方だの京師方だのと、妙な符牒《ふちょう》をつけている。どうも俺にはわからないよ。――と、こういうと穏当《おんとう》なのだが、ナーニ俺にはわかっている。だからいっそう眼が放されない」
 目前に男女の二人の掏摸が、ボンボン仕事をやっているのを、目明したるところの代官松が、引っ捕えようともしないのは、そういう疑念があるからであった。すなわち二人の男女の掏摸が「関東方だ、京師方だ」と、符牒をつけて分けへだてをして、関東方の武士ばかりを、狙《ねら》ってするということが、ひどく疑わしく思われるからであった。
「どうやらきゃつらの残党どもが、最近に江戸へ入り込んで来て、何やら策動をしているそうだ。……こいつら二人の男女の掏摸も、なんとなくきゃつらの残党らしい。……取っておさえるのは訳はないが、それよりももう少しつけて行って、はたしてきゃつらの残党なのか、そうでないかを確かめてやろう。そのほうが俺には大事なのだからな」でニヤリニヤリ笑って、二人の後をつけるのであった。
 処は名に負う江戸一番の盛り場の両国の広小路である。で、往来の両側には、女芝居や男芝居の、垢離場《こりば》の芝居小屋が立っている。軽業《かるわざ》、落語、女義太夫――などの掛け小屋もかかっている。木戸銭はたいがい十六文で、芝居の中銭も十六文、――といったような安物である。
 野天芸人《のてんげいにん》の諸※[#二の字点、1-2-22]《もろもろ》も、葦簾《よしず》を掛けたり天幕《テント》を張って、その中で芸を売っている。「蛇使い」もあれば「鳥娘《とりむすめ》」もある。「独楽《こま》廻し」もあれば「籠《かご》抜け」もある。「でろでろ祭文《さいもん》」や「居合抜き」「どっこいどっこい」の賭博《かけもの》屋から「銅の小判」というような、いかもの屋までも並んでいる。そういう間に介在《かいざい》して、飲食店ができている。卵の花[#「卵の花」はママ]|寿司《ずし》、鰯《いわし》の天麩羅《てんぷら》、海老《えび》の蒲焼《かばや》き、豆滓《まめかす》の寿司――などというような飲食店で、四文出せば口にはいろうという、うまくて安い食物ばかりを、選んで出している飲食店なのである。
 大川に添った川岸には、水茶屋がビッシリと並んでいる。軒を並べているところから、これを一名|並《なら》び茶屋《ちゃや》ともいう。
「梅本」「嬉《うれ》し野」「浮舟《うきぶね》」「青柳《あおやぎ》」など、筆太《ふでふと》に染め出した、浅黄《あさぎ》の長い暖簾《のれん》などが、ヒラリヒラリとなびいている。店の作りが変っていて、隣りの店とのへだてがない。隣り同士で話ができる。「柳原《やなぎはら》へ出る夜|鷹《たか》のひととせ[#「ひととせ」に傍点]、そりゃアとほうもない別嬪《べっぴん》で。ためしに買ってご覧なさい」「へいへい昨晩こころみました」「ああさようか、お早いことで」などというような会話もできる。銀ごしらえではあるまいか? そんなようにも思われるほどに、ピカピカ光る大きな茶釜《ちゃがま》が、店の片隅に置いてある。そこから白湯《さゆ》を汲み出しては、桜の花をポッチリ落とし、それを厚手《あつで》の茶碗などへ入れて、お客の前へ持って来る。持って来る茶屋女が仇者《あだもの》であって、この土地の名物である。抜けるような綺麗な頸足《えりあし》をして、冷《ひや》つくような素足をして、臆面もなく客へ見せて、「おや、近来《ちかごろ》お見限《みかぎ》りね」――はじめてのお客へ向かってさえ、こんなお世辞を振りまくのであった。
 そういう建物にはさまれて、広々と延びている往来には、今や人が出盛っていた。勤番者らしい武士が行けば、房州出らしい下女も行く。職人も通れば折助も通る。宗匠《そうしょう》らしい老人から、侠《いなせ》な鳶《とび》らしい若者も通る。ごった返しているのである。時刻からいえば夕暮れ近くで、カッと明るい日の光が、建物にも往来にもみなぎっている。その中で幟《のぼり》がハタハタとひらめき、その中で絵看板が毒々しく輝き、そうしてその中で太鼓の音が、オデデコオデデコと鳴っている。万事が明るく花やかで、そうして陽気で賑やかであった。そういう境地を縫いながら、二人の掏摸がすってまわる、そうしてそれを代官松が、笑いながらつけて歩いて行く。
「あ、またやった[#「やった」に傍点]なあ、またはた[#「はた」に傍点]いた。ずいぶん綺麗にはたく[#「はたく」に傍点]なあ。ああも綺麗に仕事をされると、俺といえども感心するよ」感心しながらつけて行く。が、その直後に代官松は、感心してばかりはいられないような、一つの事件にぶつかることになった。というのは群衆を分けるようにして、一人の威厳のある大身らしい武士が、二人の家来を供に連れて、行く手のほうから歩いて来たのを娘姿の例の掏摸が、例のごとくにしてすったからである。
「ありゃア『本郷の殿様』だ! 偉いお方をすりゃアがった。こいつアうっちゃってはおかれない!」

追う者と追われる者

「本郷の殿様」と呼ばれた武士は、まことに威厳のある風采であった。年の格好は五十歳あまりで、鬢髪《びんぱつ》に塩をまじえている。太くうねっている一文字の眉は、臥蚕《がさん》という文字にうってつけ[#「うってつけ」に傍点]である。眼は細くて切れ長で、眼尻が耳まで届いていると、そうもいいたいほどである。その眼の光の鋭いことは! まさしく剃刀《かみそり》の刃であった。鼻の附け根には窪味《くぼみ》がなくて、額からすぐに、盛りあがっている。小鼻が小さくて食い上がっている。で、そのために高い鼻が、完全の鉤鼻《かぎばな》をなしている。鼻の下から唇《くちびる》へつづく、人中の丈が短くて、剣先形《けんさきがた》をなしている。すなわち貴人の相である。ところが口はどこにあるのだろう? そんなにもいわなければならないほどにも、唇が薄くて引き締っていた。で、一見酷薄に見える。が、左右の端に、深い笑窪《えくぼ》ができているので酷薄の味を緩和している。顎《あご》の中央を地閣《ちかく》というが、そこの窪味がきわだって深い。これは剣難の相である。がそういう欠点も、広い額、厚い垂《た》れ頬《ほお》、意志強そうないかめしい顎、そういうものが救っている。驚くべきは顔色であって、白皙《はくせき》に赤味を加えている、二十歳時代の、青年の顔の色そっくり[#「そっくり」に傍点]というべきであった。鉄色の羽織を着ていたが、それは高価な鶉織《うずらおり》らしく、その定紋は抱茗荷《だきみょうが》である。はいている袴《はかま》は精好織《せいこうおり》で仕立上がりを畳へ立てたら、崩れずにピンと立つでもあろうか、高尚と高価と粋《すい》と堅実とを、四つ備えた織物として、この時代の少数の貴人たちが、好んで用いた品である。さて帯びている大小であるが、鞘《さや》は黒塗りで柄糸《つかいと》は茶で、鍔《つば》に黄金《こがね》の象眼《ぞうがん》でもあるのか、陽を受けて時々カッと光る。
 そういう風采の人物であったが決して四辺など見廻そうとはせずに、グッと正面へ眼をつけたままで歩調《あしなみ》正しく歩いて来る。まさかに円光《えんこう》とはいわれないけれど、異様に征服的の雰囲気とはいえる、そういう雰囲気が立っているかのように、その人物が進むにつれてみなぎり流れている群衆が、自然と左右へ道をよける。で、掻き分ける必要はなく、歩いて来ることができるのであった。そうしてシトシトと歩いて来て垢離場《こりば》の芝居小屋の前まで来て、通り過ぎようとした時に、娘姿の例の掏摸が、例によって人波に押されたかのように、ヒョロヒョロとよろめいて出たが、ポンと「本郷の殿様」の胸へ、美しい身体《からだ》をぶっつけたのであった。
「とんだ粗相《そそう》をいたしました。ホッ、ホッ、ホッ、ご免あそばせ」――で、スルリと抜けたのである。だがその瞬間に右の手が上がって、真白い腕が肘《ひじ》の辺まで現われ、それが夕陽にひらめいた。どうやら何かを投げたらしい。それを受け取った者がある。手代ふうをした相棒の掏摸で、両手をヒョイと腹の前へ出すと、落ちて来た何かをチョロリと受け、スーッと袖の中へ入れてしまった。眼にも止まらない早わざである。で、男女の二人の掏摸は、人波をくぐって歩き出した。
 すられた「本郷の殿様」は、すられたことに気づかなかったらしい。変わらぬ歩き方で歩いて行く。しかしぶつかられ[#「ぶつかられ」に傍点]た一刹那には、さすがにちょっとばかり驚いたらしく、いくらか胸を反らすようにしたが、切れ長の細い眼をパッと開いた。と、夕陽の加減ばかりではなくて、本来が鋭い眼だからでもあろう、瞳のあたりに燠《おき》のような光が、チラ、チラ、チラと燃えるように見えた、妖精じみた光である。が、それとてほんの一瞬間で、上|眼瞼《まぶた》がすぐに瞳をおおうて、もとの通りの細い眼となった。そうしてあえて叱ろうともせず、ましていわんや振り返ろうともせず変らぬ歩き方で歩き出した。で、すった者はすったまま、すられた者はすられたまま何の事件も起こらずにすれ違ってそのまま別れようとした。
 しかし目明しの代官松だけは見過ごしておくことはできなかった。「ありゃア『本郷の殿様』だ、偉いお方をすりゃアがった。こいつアうっちゃってはおかれない!」はじめて捕《と》る気になったらしい。裾を捲《ま》くると人波をひらいて、二人の掏摸を追っかけた。と、二人の掏摸であるが、いち早く気配を感じたらしい、一緒に背後を振り返ったが、「姐ご、いけない、目つけられた」「お逃げよ、急いで……まいてやろうよ」これも人波を押しひらき、裾を蹴ひらいて走り出した。

死んだはずの老儒者が?

 二人の掏摸が逃げて行くのを、目明しの代官松が追って行く。所は両国の広小路で、人が出盛ってうねっている。逃げるには慣れている掏摸であった。掻いくぐり掻いくぐり逃げて行く。令嬢姿の女掏摸の、衣裳の裾がひるがえり、深紅の蹴出しが渦を巻き、石榴《ざくろ》の花弁《はなびら》そっくりである。それを洩れて脛《はぎ》がチラチラしたが、ピンと張り切った脛であり、脂肪《あぶら》づいてもいるらしく、形のよいこともおびただしい。で、行人が眼を止めたが、「悪くないなあ」と眼でささやく。
 女掏摸は相棒を見返ったが、
「素晴らしい物をすったんだよ。目的の獲物をすったのさ、取り返されたら大変だ、どうでもこうでも逃げおわせなければならない。……あ、いけない、追いせまって来た」
「え、本当で、そいつア偉い、へえ、あいつ[#「あいつ」に傍点]をはたい[#「はたい」に傍点]たんで、偉いなあ、大できだ! たまるかたまるか取り返されてたまるか! ナーニ大丈夫だ、逃げおわせますとも」それから人波を掻きわけたが、「ご免ください、ご免ください、忘れ物をしたのでございますよ。急いで取りに行きますので」それから背後を振り返ったが、「あ、いけない、とっ[#「とっ」に傍点]捕まりそうだ」
 二人は懸命にひた走る。女掏摸の髪の簪《かんざし》が夕陽をはねてピラピラとひらめき、眼のふちのあたりが充血をして、美しさと凄さとを見せている。前こごみにのばした上半身の、胸が劇《はげ》しく揺れているのは、乳房が踊っているからであろう。引き添って走っている男掏摸の、醜い顔には殺気がある。唇を漏れてはみ出している、反歯《そっぱ》が犬の歯を想わせる。陽がたまって光っているからである。
 で、二人は素早く走る。
 二人の逃げ方は素早かったが、代官松の追い方は、さらにいっそう素早かった。これは当然というべきであろう。稼業が目明しというのであるから。追うのには慣れているはずである。
「『本郷の殿様』と承知の上で、懐中物をすったのであろうか? それとも知らずにすったのであろうか? きゃつらがきゃつらの残党なら承知ですったと見なさなければならない。何をいったいすったのだろう? 大事な物をすったかもしれない。とっ捕まえて絞り上げて、取った物をこっちへ取り返さなければならない」
 左手で衣裳の裾をたぐり、右手で人波を左右へ分け、「どけ! 寄るな! 御用の者だ!」で、ヒタヒタと追っかけた。
 こうして十間とは走らなかったであろう、二人の掏摸へ追いついた。
「待て! こいつら! 悪い奴らだ!」
 女掏摸の振り袖が風になびいて、眼の前へ流れて来たところを、グッと握った代官松は、こう怒声をあびせかけたが、にわかにその手をダラリと下げると、あらぬ方へ驚きの眼を投げた。
「よッ、これはどうしたのだ、あの老人が歩いている。あの老人に相違ない! 背後《うしろ》姿だが見覚えがある。だがどうにもおかしいなア、あの老人なら去年の四月に、三宅《みやけ》の島で死んだはずだ」
 茫然といったような形容詞は、まさにこの時の代官松の、表情にかぶせるべき[#「かぶせるべき」は底本では「かぶせべき」]ものであろう。そんなようにも茫然と――掏摸のことなどは忘れたかのように――代官松は眼を据えた。
「あの老人があの老人なら、とほうもない獲物《えもの》といわなければならない。こいつアしっかり見届けてやろう」
 小刻みに忍びやかに走り出した。
 両国橋の橋詰めをめがけて、歩いて行く一人の老人があった。編笠《あみがさ》をいだいている上に、向こうを向いているところから、顔の形はわからなかったが、半白の切下げの長髪が、左右の肩へ振りかかって、歩調につれて揺れるのが、一種の特色をなしていた。人波の上をぬきんでて、五寸あまりも身丈《たけ》が高い。非常な長身といわなければならない。清躯《せいく》あたかも鶴《つる》のごとしと、こうもいったら当たるであろうか、そんなにも老人は痩せていて、そうしてそんなにも清気《きよげ》であった。無紋の黒の羽織を着して、薄茶色の衣裳をまとっている。袴を避けた着流しである。大小はどうやら短いらしい、羽織の裾をわずかに抜いて鐺《こじり》の先だけを見せている。儒者といったような風采である。これが目明しの代官松が、疑心を差しはさんだ老人なのであったが、このほかにもう一人の人が、この老人へ眼をつけて、そうして同じように疑心をはさんだ。
「本郷の殿様」その人なのであった。で、立ち止まって見守った。

]この陰謀は大きいぞ

 両国橋の橋詰めのほうへ、歩いて行く儒者ふうの老人を、「本郷の殿様」と呼ばれた武士は、疑念を差しはさんで見守ったが、足を止めるとつぶやいた。「おッ、これはどうしたのだ、あの老人が歩いている。あの老人に相違ない。背後《うしろ》姿だが見覚えがある。……だがどうにもおかしなことだ、あの老人なら去年の四月に、三宅の島で死んだはずだ」――代官松のつぶやきと、同じつぶやきをつぶやいたのである。だがその次につぶやいた言葉は、かなり恐ろしいものであった。「あの老人があの老人なら、とうてい活《い》かしてはおかれない。幕府にとっての一敵国だ、俺にとっても一敵国だ。……これはぜひとも確かめなければならない」
「本郷の殿様」と呼ばれた武士と、代官松という目明しとに、疑念を持たれて見守られているとは、儒者ふうの老人は知らぬ気《げ》であった。いわれぬ気高さと清らかさとを、やや前こごみの姿勢に保たさせ、おおらか[#「おおらか」に傍点]として歩いて行く。円光《えんこう》などとはいわれなかったが、一種の雰囲気とはいうことができよう。そういう一種の雰囲気を、儒者ふうの老人もまとっていた。で、群衆が自然と分かれて、老人の行く手をひらくようにした。が、儒者ふうの老人のまとっているところの雰囲気は、「本郷の殿様」と呼ばれている武士のまとっているところの雰囲気とは、全然別趣のものであって、穏和と清浄と学者的の真面目さ――そういうものを合わせたような、限りない奥ゆかしい雰囲気であった。「本郷の殿様」に対しては、人は威圧を感ずるのであろう、儒者ふうの老人に対しては、尊敬を払うに相違ない。
 往来の片側に大道|売卜者《ばいぼくしゃ》が、貧しい店を出していたが、そこまで行くと儒者ふうの老人は、ほんのわずかに顔を向けた。と、編笠から洩れていた髪が、ゆるやかにうねって襞《ひだ》を作って、半白の色が真珠色に光った。が、すぐ前通りに正面を向いて、おおらか[#「おおらか」に傍点]として歩いて行った。
「本郷の殿様」はうなずいたが、「矢柄、矢柄」と声をかけた。
「は」といいながら腰をかがめたのは、三十七、八の供の武士であったが、京都所司代の番士をしていた、ほかならぬ矢柄源兵衛であった。
 と、「本郷の殿様」は、心持ち顎をしゃくって[#「しゃくって」に傍点]見せたが、「見覚えはないかな、あの老人に?」
「は」というと矢柄源兵衛は、儒者ふうの老人へ眼をつけた。
「殿、あの仁《じん》は……これは不思議……」
「うむ、お前にも合点が行かぬか」
「合点が行きませんでござります、死なれたはずのあの仁が……」
「そち走れ! たしかめ[#「たしかめ」に傍点]て参れ」
「は。たしかめ[#「たしかめ」に傍点]ると申しますと?」
「編笠から顔をのぞいて見い!」
「かしこまりましてございます」こういった時には矢柄源兵衛は、すでに幾足か踏み出していた。群衆を排して老儒者を追って、橋詰めのほうへ走って行く。
 見送った「本郷の殿様」は、ヒョイと懐中へ手を入れたが、「あの老人があの老人なら、京都から送られた留書《とめが》き奉書が、いよいよ重大なものとなる。……はてな?」というと愕然《がくぜん》とした。
「ない! 失われた! 先刻の娘!」
 で四辺をキラキラと見た。と、誰かに追われてでもいるのか、さっき胸もとへぶつかって[#「ぶつかって」に傍点]来た振り袖姿の町娘が、人波を分けてあわただしそうに、これも両国の橋詰めのほうへ走って行く姿が眼についた。
「掏摸《すり》だな! 女め! 一大事だ……下坂《しもさか》下坂」と声をかけ、もう一人の供の侍の、下坂源次郎の寄って来るのへ、「追え捕《とら》えろ! あの娘を!」
 もちろん下坂源次郎には何の理由だかわからなかったが、烈《はげ》しい主人の気合に打たれて、思わず自分も意気込んだ。「は」というと身をひるがえして、「どけ! どけ! どけ!」と人波を割って娘の後を追っかけた。
 ガチガチと歯音の聞こえたのは、「本郷の殿様」が口の中で、歯叩きをしたがためであろう。
「今回の陰謀は大きいぞ! しかも連絡があるらしい! 女の掏摸! あの老人!」
「本郷の殿様」は顫《ふる》える左手で、刀の鍔際《つばぎわ》をひっつかんだ。眼では老儒者を睨んでいる。
 しかるに儒者ふうの老人を合点が行かないというように、みつめているもう一人の人物があった。貧しい店を出していたところの、大道売卜者の老人であった。

切り合うぞ!

 大道売卜者の老人が、儒者ふうの老人へ気づいたのは、決して自分のほうからではなかった。呼びかけられて気づいたのである。その左は並び床であり、その右は矢場であり、二軒にはさまれて空地があったが、そこに売卜者の店があった。算木《さんぎ》、筮竹《ぜいちく》、天眼鏡、そうして二、三冊の易《えき》の書物――それらを載せた脚高《あしだか》の見台《けんだい》、これが店の一切であった。葦簾《よしず》も天幕も張ってない。見台には白布がかかっていて、「人相手相家相|周易《しゅうえき》」などという文字が書かれてあって、十二宮殿の人相画や、天地人三才の手相画が、うまくない筆勢で描かれてもいた。それさえひどく[#「ひどく」に傍点]墨色が褪《あ》せて白がよごれて鼠色をなした掛け布の面ににじんでいた。が、そういう店を控えて、牀几《しょうぎ》に腰をかけている老売卜者の、姿や顔というものは、いっそうによごれて褪せていた。黒の木綿《もめん》の紋付きの羽織、同じく黒の木綿の衣裳、茶縞《ちゃしま》の小倉のよれよれの小袴。でも大小は帯びていた。といって名ばかりの大小で、柄糸《つかいと》はゆるく[#「ゆるく」に傍点]ほぐれているし、鞘の塗りなどもはげていた。老年になって知行《ちぎょう》に離れた、みじめな浪人の身の上だとは、一見してわかる姿であった。
 地の薄くなった胡麻塩《ごましお》の髪を、小さい髷に取り上げている。顔は小さくて萎《しな》びていて、そうして黄味を帯びていた。古びた柑橘《かんきつ》を想わせる。にもかかわらず顔の道具は、いかめしいまでに調《ととの》っていた。高くて順直《すなお》でのびやかな鼻には、素性のよさが物語られているし、禿げ上がった広い額には、叡智的《えいちてき》のところさえある。が、大きくて厚手の口には、頑固らしいところがうかがわれる。心の窓だといわれている眼こそは、何より特色的であった。何物をか怒り何物をか呪い、何物をか嘲笑しているぞ――といっているような眼つきなのである。しかしそういう眼つきのために、表情は穢《けが》されてはいなかった。むしろそのために老売卜者の顔は、悲壮にも見え純真にも見えた。
 往来を人波はうねっていたが、店へ立ち寄る者はなかった。で売卜者は鼻の先を黒表紙の易書であおぎながら――すなわち塵埃《ほこり》を払いながら、無心に人波を眺めていた。
 その時呼び声が聞こえて来たのである。
「お気をおつけなされ、今日があぶない[#「あぶない」に傍点]! お手前の人相をご覧なされ!」
 で、ギョッとして老売卜者が、声の来たほうへ眼をやった時に、儒者ふうの老人を目つけたのである。「おお!」という声が筒抜けた。老売卜者が漏らしたのである。「おおこれはどうしたのだ、大先生が歩いておられる。大先生に相違ない。背後姿だが見覚えがある。……とはいえどうにもおかしなことだ、大先生なら去年の四月に、三宅の島で逝去《なく》なられたはずだ!」
 つぶやきながらも老売卜者は、懐しさ類《たぐ》うべきものもない――牀几《しょうぎ》から、腰を上げると立ち上がって、両手を見台の上へつくと、毛をむし[#「むし」に傍点]られた鶏《とり》の首のような細いたるんだ[#「たるんだ」に傍点]筋だらけの首を、抜けるだけ長く襟から抜いて、儒者ふうの老人を見送った。
「本郷の殿様」と呼ばれた武士や、代官松がつぶやいたところの、つぶやきと同じようなつぶやきを、老売卜者もつぶやいたのであった。が、その後のつぶやきは、二人とは反対なものであった。
「大先生がお丈夫なら、こんな嬉しいことはない。また私は浮世へ出ることができる」
 感情が昂《たか》ぶったがためでもあろう、見台へついていた左右の手の、指の先がピリピリと顫《ふる》え出した。と、うっすりと眼の中へ、涙のようなものが浮かみ出た。
「お確かめしようお確かめしよう。たしかに大先生であられるか、それとも全くの人違いか」
 で、牀几から踏み出した。追って行こうとしたのである。しかしその時意外の事件が、老売卜者の足を止めた。
「お爺《じい》さん頼むよ、預かっておくれよ!」
 優《やさ》しくはあったがあわただしそうな、女の声がこう聞こえて、それと同時に見台の上へ、厚手に巻かれた奉書の紙が、音を立てて落ちて来たことである。
 反射運動とでもいうのであろう、老売卜者はそれと見ると、ドンと牀几へ腰を下ろして、片袖を上げると巻き奉書を、その袖の下へ隠したが、眼を返すと声の来た方角を見た。と、往来の人波を分けて、誰かに追われてでもいるように、さもあわただしく走って行く、娘と手代とが眼にはいった。「はてな?」とつぶやきはしたものの、それよりも大切なものがあった。儒者ふうの老人の行方である。で、ふたたび眼で追ったが、「おッ危険だ! 切り合うぞ!」老売卜者は体をこわばら[#「こわばら」に傍点]せた。

落ちて来た巻き奉書

「おッ、危険だ、切り合うぞ」老売卜者が体をこわばら[#「こわばら」に傍点]せたのは、次のような事件が起こったからである。目明しふうの壮漢が、人波を分けて泳ぐように、儒者ふうの老人に近寄って行く。と、もう一人の若い武士が、これも人波を押し分けて儒者ふうの老人へ近寄って行くその態度でおおよそは知れる、二人ながら儒者ふうの老人へ、禍《わざわい》を加えようとしているらしい。しかしそのために老売卜者が、「おッ、危険だ、切り合うぞ」と、驚きの声をあげたのではなかった。五人の中年の逞《たくま》しい武士が、目明しふうの壮漢と、若い武士とへ立ち向かうように、にわかに足を止めて振り返って、刀にソリを打たせたからであった。
 五人の武士は何者なのであろう? 儒者ふうの老人の護衛らしかった。どこにこの時までいたのであろう? 往来の人たちに気づかれないように、儒者ふうの老人を囲繞《いにょう》して、さっきから歩いていたのであった。つまりそれとなく方陣を作って、真ん中へ儒者ふうの老人を入れて、互いに関係がありながら、関係ないというように、さっきから歩いていたのであった。それがにわかに足を止めて目明しと若い武士とへ向かったのである。
 距離が少しくへだたっていたので、五人の中年の逞しい武士の姿は仔細にはわからなかったが、いずれも目立たぬ扮装《いでたち》をして、いずれも編笠を真深にかぶって、そうして袴を裾短かにはいて、意気込んでいるということだけは十分に看取《かんしゅ》することができた。で、じっと静まっている。で、もし目明しと若い武士とが、執念《しゅうね》く儒者ふうの老人へ、追いすがってでも行こうものなら、五人の中年の逞しい武士は、いっせいに抜いて叩っ切るであろう。
 そこで老売卜者が声を上げたのである。「おッ、危険だ! 切り合うぞ!」と。
 が事件は案じたほどにもなく、呆気《あっけ》なく無事に終わりをつげた。すなわち目明しと若い武士とが、五人の中年の逞しい武士の、不意の敵対に胆を奪われたように、ギョッとした塩梅に立ちすくんだが、駄目だと観念をしたのであろう、人波をくぐってもと来たほうへ、引っ返してしまったからである。
「ああ安心、これでよかった」声を漏らした老売卜者は、のばした首をもとの座へ据えたが、眼では儒者ふうの老人を、なおも熱心に見守った。
 そういう事件のあったことを、少しも知らないというように、儒者ふうの老人は変らぬ姿勢で、おおらか[#「おおらか」に傍点]に足を運んでいた。むしろ神々《こうごう》しい姿である。と、まもなく両国橋の、橋詰めの擬宝珠《ぎぼし》の前まで行った。そうしてそれを渡りかけた時に、逞しい中年の五人の武士が、追いついてすぐ囲繞した。六人が橋を渡って行く、河風が吹き上げて来たからでもあろう、身の長《たけ》の高い儒者ふうの老人の、編笠を洩れた長髪が、二、三度斜めになびいたが、それさえ気高く思われた。
 こうして一行が見えなくなった時に、太い溜息を一つ吐《つ》いたが、老売卜者は腕を組んだ。
「いよいよ大先生に相違ない。護衛の人たちを連れておられる……では大先生には三宅の島で、おなくなりなされたのではなかったのか? ……それにしてもこのような江戸の土地などへ、いつからお乗り込みなされたのであろう? ……どうともしてお住まいを突きとめたい、そうしてお預かりの品を、どうともしてお手へ渡したい」
 瞑目《めいもく》をして考えている。陰惨《いんさん》としていた顔の上に、歓喜の色が浮かんだのは、明るい希望が湧いたからでもあろう。が、まことに不思議なことには、その歓喜の色なるものが、にわかに顔から影を消して、反対のもの[#「もの」に傍点]が現われた。疑惑と不安との色なのである。それは老売卜者の心の中へ、儒者ふうの老人の呼びかけた言葉が、この時|甦生《よみがえ》って来たからであった。「お気をつけなされ、今日があぶない[#「あぶない」に傍点]! お手前の人相をご覧なされ!」それはこういう言葉なのであった。「私に呼びかけたに相違ない!」で、老売卜者は刀を抜いた。こしらえ[#「こしらえ」に傍点]は粗末ではあったけれども中身は十分に磨かれていた。三寸あまりも抜いた時に、夕陽がぶつかった[#「ぶつかった」に傍点]からでもあろう、虹のような光を放ったが、それの面《おもて》へ顔を写して見た。人相を写して見たのである。
「ああ、なんだ! この人相は!」で、ガックリと見台の上へ両手をつくと沈み込んだ。その手に触れたものがあった。
「うむ、さっきの巻き奉書だな!」夢中でスルスルと解いて見たが、グーッと懐中へねじ込んでしまった。「死なれない! 死なれない! 死なれない!」で、茫然《ぼうぜん》と空を見た。いつまでもいつまでも眺めている。が、その空もすっかりと暮れて、夜が大江戸を包んだ時に、上野に向かう下谷の道を、一つの人影が歩いていた。浪人ふうの若い武士である。

つけて行く浪人者

 浪人ふうの若い武士が、下谷の通りを歩いている。今しがた降った雨が止んで、雲切れがして月が出たが、往来の左右は寺々で、燈火一筋さしていない。で、四辺が暗闇で姿がハッキリわからなかった。しかしどうやら尾羽《おは》打ち枯らした、みすぼらしい浪人のようすである。少しばかり酒気も帯びているらしくて、歩く足つきが定まらない。高台寺、常林寺、永昌寺、秦宗《しんそう》寺を通れば広徳寺で、両国についでの盛り場であったが、今夜は妙にうら[#「うら」に傍点]寂しい。おでん、麦湯、甘酒などの屋台店が出ているばかりである。と家蔭から一人の女が白い手拭いを吹き流しにかぶって、菰《こも》を抱いてチョロチョロと現われたが、「もしえ、ちょいと」と声をかけた。「ふん」と浪人は鼻を鳴らしたが、「二十四文も持ってはいないよ」錆《さび》のあるドスのきく声であった。「いやはや俺も夜鷹《よたか》風情《ふぜい》に声をかけられる身分となったか。どこまでおっこち[#「おっこち」に傍点]て行くことやら」でヒョロヒョロと先へ進んだ。往来が突きあたると常照寺になる。向かい合ってタラタラと並んでいるのはお筒持《つつも》ちの小身の組屋敷であったが、そこを右へとって進んで行けば、寂しい寂しい鶯谷《うぐいすだに》となる。そっちへ浪人は歩いて行く。と、にわかに足を止めたが、グッと前方を睨むようにした。
「うむ、ありゃ爺《おやじ》めだ!」わずかばかり思案をしたようであったが、すぐに足音を忍ばせて、シタシタシタシタと追っかけた。「私情からいっても恨みがある。公情からいえば主義の敵だ。どうせ生かせてはおけない奴だ」――でシタシタと追っかけた。そういう恐ろしい浪人者につけられているとは感づきもせずに一人のわびし気な老人が、二間あまりの先を歩いている。両国にいた大道売卜者であった。いつものように店の道具を、一軒の懇意な水茶屋へ預けて、深い考えに沈みながら、ここまで歩いて来たのであった。
「準頭《じゅんとう》に赤色が現われていた。赤脈《せきみゃく》が眸《ひとみ》をつらぬいていた。争われない剣難の相であった」先刻方自分の人相を、刀の平へ写して見た時、それが現われていたことを、今改めて思い出したのであった。「それでは俺は殺されるのか。誰がこの俺を殺すのだろう? ……ああ死にたくない死にたくない! ……大先生にお遭《あ》いしなければならない。お遭いするまでは死なれない。……お遭いして品々をお渡ししたい。……ああそして巻き奉書を!」ツト懐中へ手を入れると巻き奉書をしっかりとつかんだ。
「恐ろしい恐ろしい巻き奉書だ、幕府の有司《ゆうし》の手に渡ったら、上は徳大寺大納言様から、数十人の公卿方のお命が消えてしまわないものでもない。のみならず下は俺のような廃者《すたりもの》さえも憂目《うきめ》を見る」――それにしても老売卜者は巻き奉書があんな偶然の出来事から、自分の手へはいったということについて、一面この上もなく不思議に思い、他面感謝をしたくなった。「町娘ふうのあの娘と、手代ふうをしたあの男とは、俺という人間を知っていて、それであのように預けたのであろうか? それとも二人は俺というものの、素性も身分も少しも知らずに、ほんの偶然に預けたのであろうか? ……誰やらに追われていたようであったが、誰に追われていたのであろう?」
 群集を掻き分けてあわただしそうに、逃げて行った二人の男女の姿が、老売卜者の眼に見えて来た。
「どっちみち恐ろしい巻き奉書が、俺の手へはいったということは、天佑というよりいいようがない。有難いことだ」
 老売卜者は歩いて行く。そのうなだれたぼんのくぼ[#「ぼんのくぼ」に傍点]あたりへ、月の光が落ちていて、抜き衣紋《えもん》になっている肩の形が、いかにも寂しく見受けられる。歩き方にも力がなくて、素足の踵が裾をはねて、よろめくように動くのは、心の乱れている証拠ともいえよう。帯びている大小も重そうである、羽織の裾をかかげるようにして、はみ出している鞘のひと所が、時々生白く光るのは、月の光の加減でもあろう。と、老売卜者はつぶやいた。
「佐幕党の手へは渡されない。大先生へお目にかかって、どうでもお渡ししなければならない。……死なれない死なれない死なれない!」
 しかしまもなく傷《いた》ましい事件が老売卜者の身の上に起こった。筆法を変えて描写しよう。冴えた腕だ! 背後袈裟《うしろげさ》に切った!

一本の小柄

 冴えた腕だ、うしろ袈裟に切った。悲鳴をあげて倒れたのは、例の売卜者の老人であったが、ガリガリと土を引っ掻いた。
「た、たれだ――ッ」と引き声でいう。
 血刀を下げて突っ立ったのは、例のつけて来た浪人であったが、裾を高々と端折《はしょ》っていた。
「武左衛門殿、拙者でござる」
「むッ、わりゃア……」
「拙者だよ」
「悪人!」
「くたばれ」
「に、人畜生《にんちくしょう》!」
 傷手《いたで》にも屈せず起き上がって、浪人の腰へむしゃぶりついた。その武左衛門を蹴返すと、またもや一太刀あびせかけた。
 もう、武左衛門は動かれない。かすかに呻《うめ》きをあげながら、背に波を打たせるばかりである。
 しばらく浪人は見ていたが、ゆるゆると武左衛門へまたがると、そろそろと切っ先をこめかみへ下ろした。プッツリと止どめを刺そうとしたとき足早に歩いて来る足音がした。チェッと舌打ちをひとつしたが、身をひるがえすと浪人者は、いずこへともなく走り去った。
 やがて来かかった人影がある。誰か迎いにでも来たのだろう、傘を二本持っている。みなりの粗末な二十歳ぐらいの女で、ぬかるみを踏み踏み近よって来た。
「おや」とつぶやいてたたずんだのは、武左衛門の姿を見かけたからであろう。月あかりでじっと見守ったが、
「お父様」と叫ぶとベタベタとすわった。
 と、武左衛門は顔を上げたが、「君江か……敵《かたき》は……」それっきりであった。いやいや最後にもう一声いった。「渡すな、文書を頼んだぞよ」まったく息が絶えてしまった。君江は死骸を抱くようにしたが、死骸へ額を押しあてた。あまりに意外な出来事なので気がボーッとしたのらしい、泣き声をさえも立てようとはしない。うずくまっているばかりである。その時君江の肩を、うしろからおさえるものがあった。ハッとして君江は振り返ったが、
「ま、あなたは竹之助様!」
「君江か。ふうむ、どうしたことだ! ……おッこれは武左衛門殿が……」
「はい何者かにむごたらしく殺されましてござります」
 胸へ腕を組んで見下ろしているのは、着流し姿の武士であった。感慨に堪えないというように、しばらく武士は黙っていたが、つぶやくように声を洩らした。
「頑固なお方でございましたゆえ恨みをうけたのでござりましょうよ。……子さえできている二人の仲を生木《なまき》をさくように割《さ》かれたお方だ」
 不意に君江が声を上げた。「小柄《こづか》が一本、落ちております!」
「小柄?」と武士は手をのばしたが、「なんだ、こいつは、俺の小柄だ」それから寒いように笑ったが、「浪人ぐらしも久しくなる。刀の鞘などガタガタだ。で、今しがた落としたのだろうよ。……それはとにかくうっちゃってはおけない、届ける所へ届けずばなるまい。俺は一走り行って来る」
 南条《なんじょう》竹之助という若い武士が、こういいすてて走り去った、後には一つの死骸と一人の娘とが、凄《すご》く寂しく只《ただ》に残った。と雨が降って来た。さっき方あがった雨である。ふたたび下ろして来たのである。死骸の上に降りかかる。君江は傘をひらいたが、死骸の上へおおいかざした。
「お気の毒なお父様、お可哀そうなお父様、君江はこんなに泣いております。成仏《じょうぶつ》なすってくださいまし。そうしてどうぞこの妾《わたし》を、お許しなすってくださいまし。妾は一人になりました。みよりのないものになりました。で、お父様がお嫌いでも、子まである仲でございますゆえ、竹之助様と一緒になりまする。お許しなすってくださいまし」
 片手で傘の柄《え》を握りしめて、片手をひらいて額へあてて拝むような形をしたが、泣きながら君江はいうのであった。傘の破れ目から雨が漏って、それが傘の柄を伝わって、ボタボタと死骸の上へ落ちる。それが君江には悲しいらしい。ひた泣きに泣いて掻《か》き口説《くど》くのであった。

疑いの心

 泣いても泣いても泣ききれなければ、口説《くど》いても口説いても口説ききれない。これが君江の心らしかった。
「雨におぬれにならないようにと、傘を持ちましてわざわざと、お迎えに参ったのでございます。傘はお役に立ちませんでした。いえいえお役に立ちました。このようにお父様をおおうております。でもわたくしといたしましては、傘で死なれたお父様をおおうてあげようとは思いませんでした。ほんとに夢のようでございます。悲しい悲しい悲しい夢! ……ああボタボタと雨が漏る。雨までがお父様をさいなむ。不幸な不幸なお父様!」
 木立ちを通して田圃《たんぼ》を越して、雨に漉《こ》されて色を増したはるかの町に燈火が見える。
 自分は傘をさそうともせずに、しとどに[#「しとどに」に傍点]雨にぬれながら、ひた泣きに君江は泣くのであった。
「上州|甘楽郡《かんらぐん》小幡《こはた》の城主、織田美濃守|信邦《のぶくに》様と申せば、禄《ろく》はわずかに二万石ながら、北畠内府常真《きたばたけないふつねさね》様のお子、兵部大輔信良《ひょうぶだいすけのぶよし》様の後胤《こういん》、織田一統の貴族として、国持ち城持ちのお身柄でもないのに、世々|従《じゅ》四位下|侍従《じじゅう》にも進み、網代《あじろ》の輿《こし》に爪折《つまお》り傘を許され、由緒《ゆいしょ》の深いりっぱなお身分、そのお方のご家老として、世にときめいた吉田|玄蕃《げんば》様の一族の長者として、一藩の尊敬の的になられた妾のお父様が事もあろうに、みすぼらしい売卜者の姿として、所もあろうに夜の往来で、誰にともなく闇討ちにされて、このようにあえなく亡くなられようとは、妾には本当には思われません。その上に敵の手がかりはなく、怨みを晴らす術《すべ》もない。成仏なすってくださいましと、どのように妾が申しましたところで、成仏なされてはくだされますまい。また妾にいたしましても、憎い敵を見つけ出して、一太刀なりと怨みませねば、この心が落ちつきませぬ。……どこかに手がかりはないものであろうか?」
 闇をあてもなく見廻したが、雨や枝や葉を顫《ふる》わせている藪畳《やぶだたみ》が茂っているばかりであった。と、君江の心の中へ、ピカリとひらめくものがあった。で「小柄!」とつぶやいた。殺された父の死骸の横に、落ち散っていた小柄のことが、瞬間に思い出されたからである。
「でも、あの小柄は竹之助様が、自分の小柄だと仰せられた。では敵《かたき》の小柄ではない」
 で、君江は考え込んだ。と、にわかに身を固くした。闇の中で君江は眼を閉じた。
「あの竹之助様とお父様とは、婿舅《むこしゅうと》でありながら、恐ろしいまでに不和であられた。……子まである仲を引き裂いて、竹之助様をおいだされた。……そのくせはじめはお父様のほうから、婿として竹之助様を望まれたのに。……何がお二人を不和にしたのやら、いまだに妾にはわからない。……不和! 憎しみ! 舅と婿! ……それではもしや竹之助様が?」
 この疑いは君江にとっては、悲しくもあれば恐ろしくもあった。
「そんなことがあってよいものか。こんな疑いはやめよう」しかし悲しくも恐ろしい、この疑いは君江の心から消え去ろうとはしなかった。
 この間も雨は降りつづいて、柄漏《えも》れの滴《しずく》がいよいよ繁く、武左衛門の死骸へ降りかかる。ふと君江は腕をのばしたが、死骸の懐中へ手を入れた。
「臨終《いまわ》にお父様が仰せられた――渡すな、文書を、懐中の文書を! ――どのような文書があるのやら」で、ソロソロとひき出した。
「たしかにお預かりいたしました。誰にも渡すことではござりませぬ。ご安心なすってくださいまし」自分の懐中へ巻き奉書を、大事そうに手早く納めた時に、町の方角から提灯《ちょうちん》の火が、点々とこちらへ近寄って来た。
 こういう事件の起こったのは、明和六年の晩春初夏の、ようやく初夜へはいったころのことで、所は下谷の車坂から、根岸の里へ下りようとする、上野の山の裾の辺で、人家がとだえて藪畳があったが、その藪畳での出来事である。
 日数がたってその月が暮れて、翌月の中旬となった時に、本郷の高台の一郭で、ひとつの変った事件が起こった。というのは女|煙術師《えんじゅつし》が、煙術を使っていたのである。

煙りの文字

 一人の女煙術師が、往来で煙術を使っている。赤い手甲《てこう》に赤い脚絆《きゃはん》、鬱金《うこん》の襷《たすき》をかけている。編笠をかぶっているところから、その顔形はわからなかったが、年の格好は十八、九でもあろうか、小づくりではあるが姿がよくて、たしかに美人に思われる。手に持ったは煙管《きせる》であったが、長さ五尺はありそうである。羅宇《らお》に蒔絵《まきえ》が施してある。
 ところで煙術とはどういうものなのであろう? 支那から渡って来たもので、煙草《たばこ》の煙りを口へ吸って、それを口から吐き出して、柳《やなぎ》に蹴毬《けまり》とか、仮名《かな》文字とか、輪廓だけの龍虎《りゅうこ》とかそういうものを空へかいて、見物へ見せる芸なのである。小規模のお座敷の芸としても、きわめて小規模のものであって、とうてい嵐の吹くような、往来などでは演ずることができない。元禄年間に一時|流行《はや》って、それからしばらく中絶したが、明和年間にまた流行《はや》った。というのは一人の美人が出て、上手にそれを使ったからでもあったが、それよりむしろその美人が、目立つような派手やかな風俗をして、その風俗とその美貌とを、売り物にしたがためである。
 で、今一人の女煙術師が、往来で煙術を使っている。まず煙管《きせる》をポンと上げたが吸い口を口へ持って来た。深く呼吸《いき》を吸ったかと思うとモクモクと煙りを吐き出した。首を左右前後に振る。それで調子をとるのであろう、はたして空へ文字ができた。幾個《いくつ》か幾個《いくつ》かできたのである。が、なんと書かれたものか、それはほとんどわからなかった。というのは空に月こそあれ、そうして月光が満ちてこそおれ、今日の時刻でいう時は、十二時を過ごした夜だからである。夜の暗さにぼかされて、煙りの文字がわからないのである。
 とはいえ女煙術師が、すきとおるような綺麗な声で、その口上を述べ出したので書かれた文字も明らかになった。
「ただ今書きました煙りの文字は、和歌の一首でござります。『くもるともなにか怨みん月|今宵《こよい》晴れを待つべき身にしあらねば』こういう和歌なのでござります。どういう意味かと申しますことは、いまさらわたくしが申さずとも、ご承知のことと存ぜられます。辞世の和歌なのでござります。こういう和歌を作った後で、その人は不幸にも切られました。そうして獄門にかけられました。では悪人かと申しますに、決してそうではございません。よいお方だったのでござります。そうしてよいお方でありましたので、そんな目にあったのでございます。全く全く浮世には、そういうことがございますねえ。よいお方であったがために、かえって不幸にお逢いなさる――というそんな変なことが……」
 だがいったい女煙術師は、誰に向かって煙術を使って、口上を述べているのだろう。一人も見物はいないではないか。またいないのが当然でもある。時刻は深い夜であり、所は本郷の一画で、大名屋敷が並んでいる。下町と違って昼間でも、人通りの少ない地点である。
 で、見物はいなかった。それでは女煙術師は、いない見物を相手にして、そんなことをいっているのであろうか? ――と思うと少し違う。一人だけ見物はいたのである。
 夜だからこれもハッキリとは、その風貌はわからなかったが、袴を着けない着流し姿で、たしかに蝋塗《ろうぬ》りと思われるが、長目の大小を帯びている。京都あたりの武士ではあるまいか? とそんなように思われるほどにも、身体《からだ》全体は優しかったが、腰の構えがドッシリとしていて、いわゆる寸分の隙もない。どっちかというと身長《せい》は高く、胸などのびやかに張っている。鼻が端麗だということは、斜めに受けている月光のために、際《きわ》立っている陰影《かげ》によって、受け取ることができそうである。
 そういう若い武士《さむらい》が女煙術師の、二間あまりの背後に立って、煙術を眺めているのであった。
「どうもな俺には不思議だよ」ふと若い武士はつぶやいた、「どうしてあの和歌を知っているのであろう。それにどうしてあのような和歌を、ああも大っぴらに喋舌《しゃべ》るのであろう? うっかり口に出すとあぶない和歌だ。それにさ、あの[#「あの」に傍点]和歌はこの俺にとっては、縁故の深い和歌なのだ。おかしいなあ、どうしたのだろう!」――だがその次の瞬間には、もっとおかしな事件が起こった。

すられた印籠

 そのおかしな事件というのはクルリと身を返した女煙術師が、小走りに走って来たかと思うと、ボンと若い武士へぶつかって、
「とんだ粗相をいたしました」
 こういって謝ったことである。
「いや拙者こそ。……どういたしまして」
 かえって気の毒だというように、若い武士は笑って挨拶をした。
「粗忽《そこつ》な妾《わたし》でございますこと。ホッ、ホッ、ホッご免あそばせ」
 女煙術師は行き過ぎた。
 だがぶつかられた[#「ぶつかられた」に傍点]若い武士は、どうやらテレたらしい。女煙術師を見送ったが、口の中でつぶやいた。
「油断をしているとこんな目に逢う。一刀流では皆伝の技倆、起倒流《きとうりゅう》では免許の技倆、などと自慢をしていながら、真正面から女の子のためにポンとばかりにぶつかられて、かわすことさえできなかったんだからなあ。油断をしているとこんな目に逢う」
 どうやら苦く笑ったらしい、顔の一所へ白々と、一列の歯が現われた。
「そうはいってももっともともいえるさ」また口の中でつぶやいた。「こんな深夜にこんな所で、見物もないのに煙術を使って、迂濶《うかつ》にはいえないあのような和歌を、あんなにも大っぴらに喋舌《しゃべ》っていたのだからなあ。見とれていたのは当然だよ。……いったいどういう女なのだろう!」
 左側は十五万石榊原式部大輔、そのお方のお屋敷で、海鼠《なまこ》壁が長く延びている。その海鼠壁をぬきんでて、お庭の植え込みが繁ってい、右側は普門院《ふもんいん》常照寺で、白壁が長く延びている。それの間にはさまれている道を、松平備後守のお屋敷のほうへ、女煙術師は小走っていた。白くひらめくものがある。月夜を海にたとえたならば、その中で魚がひらめくように、女煙術師の足の踵が、チロチロと白くひらめくのであった。
「立っていたところでしかたがない。どれソロソロ帰ろうか」
 女煙術師の行ったほうとは、全く反対の方角へ、若い武士はゆるゆると方向を変えたが、雪駄《せった》の音を響かせて二足三足歩き出した。
 と、どうしたのか立ち止まったが、「しまった、すられた、印籠をすられた」
 腰のあたりへ片手をあてている。で、クルリと振り返ったが、女煙術師を眼で追った。
「あの女がすったに相違ない。さっきまであった印籠だ。どこへも落とす気遣《きづか》いはない。あの女がすったに相違ない。そういえばちょっとおかしかったよ。肩を少しく前へかしげて、顔を地面へうつむけて、小走るように走って来て、ポンとこの俺へぶつかったんだからなあ。粗忽でぶつかったぶつかり[#「ぶつかり」に傍点]方ではないよ。すり取る手段としてぶつかったものさ。こいつうっちゃっては[#「うっちゃっては」に傍点]おかれないなあ」
 で、若い武士は小戻りに戻って「待て!」と声をかけようとしたが「待ったり」と自分で自分をおさえた。「これは迂濶《うかつ》には呼べないよ」ニヤリと苦く笑ったらしい。また顔へ白く歯が見えた。「さて呼び止めて調べてみて、もし印籠がなかろうものなら、引っ込みのつかない不態《ぶざま》となる。それにさ、疑いというようなものは、むやみと人にかけるものではない。困った困った困ったことになったぞ」
 女煙術師を眼で追った。
 女煙術師の後ろ姿は、月光を浴びているところから、見えていることは見えていたが、今は小さくなっていた。まもなく右へ曲がるだろう。すると松平備後守の、宏大な屋敷の前へ出る、そこをまた右へ曲がるかもしれない。と不忍《しのばず》の池畔《いけのはた》へ出る。それから先は町家町で露路や小路が入り組んでいる、自由にまぎれて隠れることができる。
 追っかけるなら今であった。
「印籠のことはともかくとして、ずいぶん変っている女煙術師だ、こっそり後をつけて行って、住居だけでも突きとめてやろう」
 これが若い武士の本意であった。でシトシトと追っかけた。
 もうこれだけの事件でも、変った事件といわなければならない。ところが同じこの一郭で、またもや変った事件が起こった。二人の姿の消えた時に、それと反対の方角から、一人の武士が現われて、こっちへ近寄って来たのである。

現われた敵

 現われた武士は浪人らしくて、尾羽《おは》打ち枯らした扮装《みなり》であって、月代《さかやき》なども伸びていた。朱鞘《しゅざや》の大小は差していたが、鞘などはげちょろけているらしい。が時々光るのは、月光が宿っているからであろう。
 地上へ細っこい影を曳《ひ》いて、だんだんこちらへ近寄って来る。足もと定まらず歩いて来る。どうやら酒にでも酔っているらしい。痩せてはいるが身長《せい》は高く、肩が怒って凛々《りり》しいのは、武道に深い嗜《たしな》みを持っている証拠ということができる。
 と、月を振り仰いだ。まさしくりっぱな顔であった。が、気味の悪い顔ともいえる。はね上がった眉、切れ長の眼、高くて細い長い鼻、いつも苦い物をふくんでいるぞと、そういっているような食いしばった口、顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》は低く頬骨は高く、頤《あご》はずっこけ[#「ずっこけ」に傍点]てはいたけれど、頤の骨は張っていた。年はおよそ二十三、四で、五までは行っていないらしい。
 そういう浪人がヒョロヒョロと、足もと定まらず歩いて来た。
 こうして榊原式部大輔のお屋敷の外側を通り抜けて、松平備後守のお屋敷の外壁の近くまでやって来た時に、一つの事件が湧き起こった。そこは丁字形《ていじがた》をなしていたが、右手の道から遊び人ふうの男が、これも酒にでも酔っているのであろう、千鳥足をして現われて来たがドーンと浪人にぶつかった。
 が、その時には浪人者は、酔ってはいても正気であるぞと、そういったような塩梅《あんばい》に、スルリと体を右へそらして、そのぶつかりを流してしまった。と遊び人ふうの人間は、自分の力に自分が負けて、グーッとのめると地へ倒れた。
「気をつけろよ、なんという態《ざま》だ」
 声をかけておいて浪人者は、丁字形の道を曲がりかけた。
 するとまたもや同じような、遊び人ふうの人間が、行く手にあたって現われたが、ドーンと浪人へぶつかって来た。
 が、その時には浪人者は、すでに左手へ避けていた。で、同じように遊び人ふうの男は、自分の力に自分が負けて、グーッとのめると地へ倒れた。
「気をつけろよ、なんという態だ」
 いいすてると浪人は丁字形を曲がった。
 しかしまたもや行く手にあたって、三人のこれも遊び人ふうの男が、抜いた匕首《あいくち》に相違ない、それを月光にキラつかせながら、のっそりと立っているのを見た時、浪人はちょいと足を止めた。
 それから「ふうん」と鼻を鳴らしたが、ゆっくりと背後を振り返って見た。
 地に倒れていた遊び人ふうの、二人の男が立ち上がっていて、これも抜いた匕首を、月の光にキラつかせている。
 腹背に敵を受けたのである。はさみ打ちの位置に置かれたのである。
「ははあそうか、あいつら[#「あいつら」に傍点]の仲間か」
 口に出して浪人はつぶやいたが、たいして驚いたようすもなかった。
「どうせ撲《なぐ》り合いにはなるだろうよ。切り合いになんかなるものか」
 セセラ笑いを洩らしたが、それでも左手を鍔際《つばぎわ》へやると軽く鯉口をくつろげた。
「さてこれからどうしたものだ?」
 小首を傾《かし》げはしたものの、逃げようかなどと思ったのではなく、こちらから先方へ進んで行こうか、それとも先方からやってくるのをたたずんでここで待ち受けようかと、一瞬間思案をしたものらしい。
「どっちみちたいした相手ではない。俺のほうから行ってやろう。なにさ自宅《うち》へ帰るのさ」
 で、浪人は無造作《むぞうさ》に、三人のほうへ歩き出した。その結果起こったのが乱闘であった。
 遊び人ふうの一人の男は、匕首を月光にひらめかすと、毬《まり》のように弾《はず》んで突いて来た。とそれよりも少しばかり早く、同じく月光をひらめかして、水平に流れる光物があった。すぐに悲鳴が起こったが、同時に一つの人の影が、往来のはずれへケシ飛んだ。浪人が腰の物を素破《すっぱ》抜いて、斬ろうともせず、突こうともせず柄頭《つかがしら》で喰らわしたのを眉間へ受けて、遊び人ふうの人間が、往来のはずれへケシ飛んだのである。が、そういう一刹那に、今度は遊び人ふうの人間が、前後から二人突いて来た。

呼び止めた声

 前後から浪人へ突いてかかった二人の遊び人の運命も、きわめて簡単に片づけられた。
 斜めにぶっつけた体当たりで、まず一人の遊び人の、腰の構えを砕いておいて、さっと振り返った浪人は、片手|撲《なぐ》りの峰打ちで、もう一人の遊び人の肩を打った。
 と、背後へ下がったが、背後に海鼠壁が立っていた。それへ背中をあてるようにしたが、あたかも威嚇《いかく》でもするように、片手下段にのびのびと、頭上へ刀を捧げたのである。
「まだ来る気かな。……今度は切るぞ!」
 で順々に五人を見た。左の腕を肘《ひじ》から曲げて、掌《てのひら》を腰骨へあてている。右足を半歩あまり前へ踏み出し、左足の踵を浮かせている。で、いくばくか上半身が、前方に向かって傾いている。のっかかった[#「のっかかった」に傍点]ような姿勢なのである。捧げた刀は月光をまとって、鯖《さば》の腹のように蒼白く光り、柄の頭が額にかかって、その影が顔を隈《くま》どっている。で両眼が穴のように、黒くそうして深く見える。しかも浪人はそういう姿勢で、静まり返っているのである。ただし刀身は脈々と、漣《ささなみ》[#ルビの「ささなみ」はママ]のように顫えている。で、月光がはねられて、顔の隈がたえまなく移動する。居つかぬように軟かく、刀をゆすっているのである。
 静まり返っているだけ、かえって凄く思われる。もしも本当に斬る気になって、翻然《ほんぜん》と飛び出して来たならば、そんな五人の遊び人などは、一|薙《な》ぎ二薙ぎで斃されるであろう。
 ところが一方遊び人たちも、武道のほうはともかくとして、喧嘩《けんか》の骨法《こっぽう》は知っているとみえて、そうしてとうてい浪人に対して、勝ち目はないと思ったものとみえて、眉間を突かれた遊び人は、その眉間を両手でおさえ、肩を打たれた遊び人は、その肩を片手でしっかりとつかみ、体当たりを喰らった遊び人は、横腹のあたりを両手で抱き、二人の無傷の遊び人と一緒に、脛を月光にチラチラと見せて、右手のほうへ一散に、素ばしっこい呼吸で逃げ出した。
 と、浪人は捧げていた刀を、ダラリと垂直に引っ下げたが、
「これ」と遊び人たちを呼び止めた。
「お前たちの姐ごのお粂《くめ》にいえ! 浪人こそはしているが、まだまだ芸人ごろん棒[#「ごろん棒」に傍点]などに、拙者めったにヒケは取らぬと! ハッ、ハッ、ハッ、しっかりといえ! そうしてさらにこういいたせ、あくまでお前たちに張り合ってみせると! お前たちは大勢、俺は一人、それで十分張り合ってみせると! さらにこうもいってくれ! お粂よ、おおかたお前の素性と、そうしてお前のやり口とを、俺はおおよそ探り知ったと! そうして俺とは一切合財《いっさいがっさい》、あべこべであり逆であると!」
 だが浪人の最後の言葉が、まだすっかりとはいいきらないうちに、五人の遊び人の逃げて行く姿は、小さくなって消えてしまった。
 で、ひっそりとなったのである。
 と、浪人は左手を上げたが、刀身へ袖を軽くかけた。それからゆるゆると拭《ぬぐ》ったが、単に塵埃《ほこり》をふいたまでである。すぐにささやかな鍔音《つばおと》がした。無造作に刀を納めたのであろう。胸のあたりへ手をやったが、乱れた襟を直したのである。と、シトシトと歩き出した。
 さすがに酔いだけは醒めたらしい。踏んで行く足に狂いがない。おちついて歩いて行くのである。だがなんとなくその姿は、浮世の裏道を、人目を憚《はばか》り人目を恐れ、そうして自分でも人を呪い、そうして自分でも浮世を呪い、こそこそ通って行くところの、気の毒な陰惨な廃人の、姿を思わせるものがあった。
 その左側に海鼠壁《なまこかべ》を持って、その背後に影法師を曳いて、そうして半身を月光にさらして、腰から下を茫《ぼう》とぼかして、浪人は先へ歩いて行く。
 しかし十間とは歩かなかった。
「お武家、お待ち、ちょっとお待ち!」
 一種の素晴らしい威厳を持った男の声が背後《うしろ》のほうから、こういって浪人を呼んだからである。で、浪人は足を止めた。
「また変な物が出たらしい。今夜はよくよくおかしな晩だ、いろいろの役者が登場するよ」
 つぶやいて浪人は振り返ったが、「ふうん こいつは素敵もない鴨《かも》だ」
 頭巾で面を包んでいるので、容貌は少しもわからなかったが、大名のように貫禄のある、一人のりっぱな侍が、二人の武士を供につれて眼の前に立っていたのである。

いわれぬ圧迫

 浪人の眼の前に立っている大名のような貫禄のある武士は、身体《からだ》つきや声のようすから見て、年はそちこち五十ぐらいでもあろうか身長《せい》は高く肥えてもいた。折り目正しく袴をはいて、長目の羽織を着ていたが、おかしなことには定紋がない。無紋の羽織を着ているのであった。で、胸高《むなだか》に大小をたばさみ、その柄頭を右手の扇で、軽く拍子どって叩いているが、それはその武士の癖《くせ》のようであった。そうしてそういう癖にさえ、一種のいわれぬ威厳があった。しかし向かい合って立っている浪人にとって苦痛なのは、その武士全体から逼《せま》って来る、陰森《いんしん》とした圧力で、それが浪人の心持ちを、理由なしに圧迫するのであった。頭巾に包まれている眉深《まぶか》の顔は、月にそむいているがために、ほとんど見ることはできなかったが、刺すように見ている眼ばかりが、陰影の奥に感ぜられて、それがまた浪人の心持ちを、恐怖的に圧迫するのであった。
 武士は浪人をみつめている。というよりも浪人のようすを、検査しているといったほうがよい。そんなにも執念《しゅうね》くおちつき払って、無言で浪人を見ているのであった。
「なんだこいつは無礼な奴だ」浪人は思わざるを得なかった。「呼び止めておいて物をいわない。なめるようにいつまでもジロジロ見る」
 で、皮肉をいおうとした。しかしいうことはできなかった。例の理由のない圧迫が、浪人の口を封ずるからである。
「なんの素敵な鴨なものか、うっかりすると酷《ひど》い目に逢うぞ」何となく浪人には思われた。「これは躊躇なく逃げたほうがいい」しかし逃げることもできそうもなかった。例の理由のない圧迫が、浪人の足を止めるからである。「叩っ切ろうかな? 叩っ切ろうかな?」
 だがこう思った瞬間に、そう思ったことが相手の武士へ、どうやら直感されたらしい。
 つと武士は一足前へ出たが、
「むやみと刀など揮《ふる》わぬがよい」
「は」
「よいか」「は」「よいか」
 といつか浪人はうなだれていた。
 と、武士は刀の柄頭を、右手の白扇で拍子づけて、軽く二、三度叩いたが、
「通りかかって、見たというものさ。そちの素晴らしい手並みをな。で、呼び止めたというものさ。何も恐れるにおよばない。俺《わし》は決して役人ではないよ」ここで口調を優《やさ》しくしたが、「見受けるところ、浪人らしいの」
「は、さようにございます」浪人の本当の心としては「そち」と下目に呼ばれたり、「何も恐れるにおよばない」などと、威嚇的に物をいわれたこと不快でもあれば業腹《ごうはら》でもあったが、例の理由のない圧迫に押されて、そういう本心を出すことができず、つい和《おとな》しく慇懃《いんぎん》にそんなように口から出したのであった。
 と、武士は肩でうなずいてみせたが、
「俺の屋敷へ遊びに参れ」不意にこんなことをいい出した。
 浪人は意外に感じたのであろう、ぼんやりとして黙っている。
「俺はな、久しく探していたのだよ」そういう浪人のようすなどには、かかわりがないというように武士は後をいいつづけた。「お前のような人間をな。浪人でそうして腕が立って、人を殺した経験のある。……俺にはわかるよ、殺したことがあろう?」
 今度は浪人は怯《おびや》かされたらしい、思わず二、三歩後へ下がった。
「で、姓名はなんというな?」
 ――いったいこれはどうなるんだ? これが浪人の心持ちであった。追っかけ追っかけ訊かれることが、いちいち浪人には恐怖だからである。
「は、私の姓名は……」
「おいい、これ、何というな?」
 どうしたものかそれに応じて、浪人は宣《なの》ろうとはしなかった。足もとをみつめて黙っている。しかし心ではいっているのであった。「名を宣《なの》ることはいやなのだ。俺の本名を聞いたが最後、たいがいの武士は俺に対して、憎むか嘲るかするのだからな」
 で、宣《なの》ろうとはしなかった。そういう浪人の困惑した態度を、相手の武士は訝《いぶか》しそうに、しばらくの間見守っていたが、にわかに笑声をほころばせた。
「やはり恐れているようだの。俺《わし》を恐れているようだの。では俺から宣るとしよう」

恐ろしい惑星

 では俺から宣ることにしよう。――大名のような貫禄のある武士は、さも無造作にこういったが、すぐに無造作に名を宣った。
「俺は北条美作《ほうじょうみまさか》だよ」
 しかし無造作には宣ったけれども、その北条美作という名は、恐ろしい姓名《なまえ》だと思われる。
 というのはそれを聞いた浪人が、まるで雷にでも打たれたかのように、おかしいほどにも飛び上がって、そうして背後へ引き下がったが、すぐに土下座をしたからである。
「北条の殿様でござりましたか、さようなこととは少しも存ぜず、まことにご無礼をいたしました。お許しおかれくださいますよう」
 慇懃に丁寧に挨拶をした。
 ところで北条美作とは、どういう身分の武士なのであろう?
 九千石の旗本なのであった。がそれだけではなんでもない、たかが旗本にすぎないのだから。ところが北条美作は、ある者には、一世の豪傑として、恐れ敬われ尊ばれていた。が、一方では奸物《かんぶつ》として憎まれ嫌われはばかられていた。何がいったいそうさせるのであろう? 時の老中の筆頭で、松平|左近将監武元《さこんしょうげんたけもと》なる人の、遠縁にあたっているばかりか、その武元に取り入って切れ味の鋭い懐中刀《ふところがたな》として、その武元を自在に動かす、――というのが理由の一つであった。そうして京都の貧しい公卿の、美しい姫を養女として養い、巧みに時の将軍に勧《すす》めて、その側室としたことによって、将軍家のお覚えがいともめでたい。――というのが理由の一つであった。いやいやそういう美しい女を一人将軍家へ勧めたばかりではなくて、いろいろの手蔓《てづる》を求めては、美しい女を狩り集めて来て、利《き》き所《どころ》利き所の諸侯へ勧めて、その側室とすることによって、一種の閨閥《けいばつ》を形成《かたちづ》くった。――というのが理由の一つでもあった。
 で賄賂請託《わいろせいたく》が到る所から到来した。それに密《ひそ》かに佐渡の金山の、山役人と結托[#「結托」はママ]をしていた。で美作は暴富であった。そうして美作はその暴富を、巧妙に活用することによって、自分の勢力を布衍《ふえん》した。というのはこれも利き所利き所の諸侯へ金子を貸すことによって、金権を手中に握ったのである。
 これを要約していう時は、金と女とを進物にして、閥《ばつ》をつくったということになる。
 で、若年寄をはじめとして、大目附であろうと町奉行であろうと、北条美作に対しては一目置かざるを得なかった。
 その上に美作は人物としては、胆力が大きく機智が縦横で、それにすこぶる執拗であって、かつ用心深かった。そうして性質からいう時は、この上もなく陰性で、黒幕的性質にできていた。もし美作が望んだならば、五万石以上の大名ともなれるし、役付くこともできるのであったが、それも望もうとはしなかった。表面に立つことを嫌ったからである。
 もう一つ美作の特徴として、挙《あ》げなければならない一事がある。徹底したる佐幕思想――ということがそれである。したがって美作は同じ程度に、勤王思想を嫌忌《けんき》した。で、有名な宝暦事件、すなわち竹内式部なる処士が、徳大寺卿をはじめとして、京都の公卿に賓師《ひんし》となって、勤王思想を鼓吹《こすい》した時に、左近将監武元に策して、断然たる処置をとらせたり、その後ほどを経て起こったところの、山県大弐《やまがただいに》、藤井右門の、同じような勤王事件に際して、これも将監武元に策して苛酷《かこく》な辛辣《しんらつ》な処置をとらせた。
 幕府方にとっては力強い味方で、京都方にとっては恐ろしい敵――というのが北条美作なのであった。
 どっちみち北条美作なる武士は、この当時一個の惑星として、諸人に凄《すさ》まじく思われていたことは、争われない事実であった。
 その美作だというのである。浪人が飛び下がって土下座をして慇懃に丁寧に挨拶をしたのは、当然なことといわなければなるまい。
 しかし北条美作にとっては、そうも慇懃に丁寧に、その浪人に土下座までされて、挨拶をされたということは、ちょっとおかしく思われたらしい。声を立てるようにして笑ったが、「さあさあ俺は宣りを上げたよ、今度はお前が宣るがいい」
「桃ノ井兵馬と申します」これが浪人の宣りであった。
「桃ノ井? ふうむ、兵馬というか?」美作は何やら考え込んだ。

浪人者の素性

「桃ノ井? ふうむ、兵馬というか」こういって考え込んだ北条美作は、月光を浴びながら土下座をしている浪人の姿をあらためて見たが、理由ありそうにうかがうように訊《たず》ねた。
「桃ノ井の姓が気にかかる。そちの父の名はなんというぞ?」
 ――と、兵馬はいよいよますます、慇懃の度を強めたが、「桃ノ井|久馬《きゅうま》と申します」
「何?」とこれを訊くと北条美作は、あたかも物にでも引かれたかのように――いやいやむしろ懐しそうに、二、三歩前へツカツカと出たが、
「桃ノ井久馬ならば存じている。神田小柳町に住居していたはずだ」
「はい、さようでござります」
「そうであったか、そうであったか、桃ノ井久馬の伜《せがれ》であったか。では俺とは縁の深い者だ」
「ご縁深き者にござります」
「…………」美作はここで沈黙をした。探るように兵馬を見下ろしている。それを兵馬が下のほうから顔をあお向けて見上げている。異様な沈黙となったのである。が、その沈黙が破られた時に、二人の間に次のような、意味深い問答が取り交わされた。
「お前の父は忠義者であったよ」
「が、お咎めを受けまして、日本橋において三日間晒らされ、遠島されましてござりまする」
「宮崎|準曹《じゅんそう》、佐藤源太夫、禅僧|霊宗《れいそう》らの忠義者とな」
「はい、同罪とありまして、遠島されましてござります」
「気の毒な身の上となったものよ。助けようと俺も手を尽くしてはみたが、そこまでは力がおよばなかった」
「口惜しい儀にござりました」
「そち、この俺を怨んではいまいな?」
「なかなかもちましてそのような事、もったい至極もござりませぬ」
「久馬は怨んでいたであろうか?」
「いえいえ反対にござります。遠島まぎわに父の口より承《うけたま》わりましてござります。北条の殿様があったればこそ、死罪にも行なわれず軽い遠島と! ご恩のほどを忘れるなよと……」
「怨まれれば怨まれる節《ふし》もあるが、怨んでいないと耳にすれば、やはり俺には有難い」
「なんのお怨みなどいたしましょう。怨みは他の人にござります」
「他の人?」と美作は首を伸ばしたが、「さあ何者であろうやら?」
「山県大弐にござります。藤井右門にござります」
「が、彼は殺されたはずだ。死罪獄門になったはずだ。で、この世にはいない者どもだ」
「しかし後胤《こういん》や一味の者が、残っているはずにござります」
「なるほど」という北条美作は、兵馬へ身近く進んだが、「そち、消息を知っていると見える?」
「さぐり知りましてござります。よりより彼らの後胤や一味が、京都から江戸をさしまして、いろいろのものに姿をやつして、入り込みました由《よし》にござります」
「しかもな」という北条美作は、前こごみに体をこごませたが、「恐ろしい大物も入り込んだらしい」
「は?」と訊き返した桃ノ井兵馬は、合点がいかないというようにしたが、「と仰せられる大物の意味は?」
「いずれは話す。今日はいうまい」しかし兵馬は押し返した。「三宅の島でなくなられたはずの、あの恐ろしい人物が、江戸入りされたものと存じますが?」
「そこまでそちは知っておるのか?」北条美作は驚いたらしい。「よくもあくまできわめたものだ」
 ――と、兵馬はヌッとばかりに、顔を月光に上向けたが、沈痛の口調でいい出した。
「この私という人間が世間の者に嫌われまして、裏切り者の子であるとか、不義の人間の子であるとか、噂を立てられます根本は、その三宅の島で死なれたところの、あの恐ろしい人物に、端を発しておりますゆえ、あの人物に関しましては、詳しく詳しく詳しく詳しく従来も探っておりました。で、その結果知りましたことは……」しかしここまでいって来ると、兵馬は憂鬱のようすになったが、突然話の方向を変えて、全くあらぬこと[#「あらぬこと」に傍点]をいい出した。

十分に怨め

 兵馬はこのようにいい出したのである。
「……其方共儀《そのほうどもぎ》、一途《いちず》ニ御為ヲ存ジ可訴出《うったえいずべく》候ワバ、疑敷《うたがわしく》心附候|趣《おもむき》、虚実《きょじつ》ニ不拘《かかわらず》見聞《けんぶん》ニ及《およ》ビ候|通《とおり》、有体《ありてい》ニ訴出《うったえいず》ベキ所、上モナク恐《おそれ》多キ儀ヲ、厚ク相聞《あいきこ》エ候様|取拵申立《とりこしらえもうしたて》候儀ハ、都《すべ》テ公儀ヲ憚《はばか》ラザル致方、不届ノ至《いたり》、殊ニ其方共ノ訴《うったえ》ヨリ、大勢無罪ノモノ迄《まで》入牢イタシ、御詮議ニ相成リ、其上無名ノ捨訴状《すてそじょう》、捨文《すてぶみ》等|有之《これあり》、右|認《したため》方全ク其方共ノ仕業《しわざ》ニ相聞エ、重科《じゅうか》ノ者ニ付死罪|申付《もうしつく》ベキ者ニ候|処《ところ》、大弐《だいに》、右門|企《くわだて》ノ儀ハ、兵学雑談、或《あるい》ハ堂上方ノ儀、其《その》外恐入候不敬ノ雑談|申散《もうしちらし》候ハ、其方共|申立《もうしたて》ヨリ相知レ候、大弐ハ[#「大弐ハ」は底本では「大弐は」]死罪、右門儀ハ獄門|罷《まかり》成、御仕|置《おき》相立候ニ付、不届ナガラ訴《うったえ》人ノ事故此処ヲ以テ、其方共|助命《じょめい》申付、日本橋ニ於テ、三日|晒《さらし》ノ上、遠島之ヲ申付ル」
 兵馬の口調は暗誦的であった。永らくの間心の中にあって、しばしば繰り返していた文章を、暗誦《そらんじ》たというようなところがあった。
「これは私の父をはじめ、宮崎準曹、佐藤源太夫、禅僧霊宗に下されました、断罪の文にござります。つまり私の父などは、幕府《おかみ》のおためを存じまして、謀叛人企てを明らさまに、お訴えを致しました結果としてかえってお叱りを受けましたしだいで、逆《さか》しま事のようには存じますが、こういう結果になりましたのも山県大弐や藤井右門の、恐るべく憎き陰謀にその端を発しておりまする。しかるに大弐や右門なるものの、その陰謀の源泉は、三宅島において逝《な》くなられましたはずの、あの恐るべき人物から流れ出ているはずにござります。したがって私にとりましては、三宅島において逝くなられたはずの、その恐るべき人物こそ、怨みの的にござります」
 なお兵馬はいいつづけようとしてか、片膝を立てて胸を反らせたが、感情がにわかにたかぶったからでもあろう、言葉切れがして絶句した。と見てとった北条美作は、なだめるように片手を伸ばすと、おさえつけるように上下したが、
「詳しいことは屋敷で聞こう。明日にも訪ねて来るがよい」
 立てた片膝を地へ敷くと、兵馬はつつましく頭を下げた。
「参上いたしますでござります」
「隠し扶持《ぶち》なども進ぜよう。生活《くらし》に事を欠かぬように、この美作が世話をしてやろう」
「は、忝《かたじ》けのう存じます」
「十分に怨め! 猟《か》って取れ!」
「…………」
 この意味は兵馬にはわからなかったらしい、無言で美作の顔を見た。と、美作は笑ったが、
「例の恐るべき人物と、大弐や右門の後胤や一味を怨んで猟《か》り取れと申しておるのだ」
「それこそ私にとりましては……」兵馬は一種の武者振るいをしたが、「唯一の目的でござります」
「同時に幕府《おかみ》のためにもなる」
「何よりのことに存じます」
「同時に俺のためにもなる」
「お殿様のお為《ため》でござりましたら……」
「粉骨砕身してくれるか?」
「愚かのことにござります。命《いのち》一つさえ捧げまする」
「ああよい片腕が俺にはできた」
「いえこの私にこそ力強い後ろ楯《だて》ができましてござります」
「では」というと北条美作は、鷹揚《おうよう》に顎《あご》をしゃくった[#「しゃくった」に傍点]が、「今夜はこれで別れよう」
 二人の供を従えると、シトシトと美作は足を運んだ。
「大大名や大旗本が、この本郷にはたくさんあるが『本郷の殿様』と一口にいえば、すぐにも北条美作のご前と、誰も彼もがいちように、納得するほどにも有名なお方だ。そのお方に俺が見いだされたのだ。世に出ることができるかも知れない」
 大名屋敷の海鼠壁《なまこかべ》に添って、肩のあたりを月光に濡らして、二人の供に前後を守らせ、歩いて行く美作の背後《うしろ》姿が、曲がって見えなくなった時まで目送をしていた桃ノ井兵馬は、こうつぶやくと立ち上がった。「俺も寝倉《ねぐら》へ帰るとしよう」
 無人となった境地には、月光ばかりが零《こぼ》れていた。しかるにこのころ一人の武士が、下谷《したや》の町の一所に、腕を組みながらたたずんでいた。「こんなりっぱな屋敷の中へ、はいって行ったとは不思議でならない。たかが女の煙術師ではないか」――眼の前に宏壮な屋敷があったが、眺めながら考えているのであった。

怪しの屋敷

 武士の眼の前にそびえている、宏壮な屋敷の構造は、大旗本の下屋敷ふうで、その正面には大門がありそれと並んで潜り門があり、土塀がグルリと取り巻いていた。おびただしいまでに庭木があって、いずれも年を経た常磐木《ときわぎ》と見えて、土塀の甍《いらか》から高くぬきんでて、林のように繁っていた。幾棟《いくむね》か建物もあることであろうが、しかし庭木におおわれて、その一棟さえ見えなかった。大門の瓦《かわら》屋根にさえぎられて、門の扉が裾のあたりで、月の光からのがれていたが、その薄暗い門の扉の上にいかめしい大|鋲《びょう》が打ってあるのが、少しく異様に見てとられた。用心堅固に守っているぞと、威嚇しているように感ぜられる。
 いやいや用心堅固といえば、庭木の形にも見られるのであった。すなわち内側から土塀の方へ、鉄よりも堅く思われるような老木をビッシリ植え込んで、枝や葉を網のように参差《しんし》させて防禦《ぼうぎょ》の態を造っているからである。何者か屋敷内へ入り込もうとして、たとえ土塀を乗り越したところで庭木の塀にさえぎられて、目的をとげることはできないであろう。屋敷の大きさは一町四方もあろうか、周囲《まわり》の家々から独立をして、ひとりそびえているのである、あえてこの辺は屋敷町ではなくてむしろ町家町というべきであった。もっともはるか東北の方には藤堂|和泉守《いずみのかみ》や酒井|左衛門尉《さえもんのじょう》や佐竹左京太夫や宗対馬守《そうつしまのかみ》の、それこそ雄大な屋敷屋敷が、長屋町家を圧迫して月夜の蒼白い空を摩《ま》して、そそり立ってはいたけれど……。
 で、この辺は町家町であった。しかもいうところの片側《かたがわ》町であった。反対の側は神田川で、今、銀鱗《ぎんりん》を立てながら、大川のほうへ流れている。下流に橋が見えていたがそれはどうやら和泉橋《いずみばし》らしい。とするとここは佐久間町の三丁目にあたっているのかもしれない。
「こんなりっぱな屋敷の中へ、はいって行ったとは不思議でならない、たかが女の煙術師ではないか」たたずんで見ていた若い武士は、今度は声に出してつぶやいたが、いかにも腑に落ちないというようすであった。本郷の往来で煙術を見ていて、うっかり油断をしていたところを女煙術師に印籠をすられた、――その若い武士であった。で、若い武士の思惑《おもわく》としては、たかが安手の芸人である。どこかみすぼらしい露路の奥の、棟割《むねわり》長屋の一軒へでも、はいって行くものと思っていた。しかるにどうやら期待は裏切られて、堂々たる構えのりっぱな屋敷へ女煙術師は入り込んだのである。
 で、武士としてはこの事実は、化かされたようにも思われるのであった。
「他人の屋敷へはいったのではない。自分の家へはいったのだ。少なくもあの女の懇意な者の屋敷へはいったということはできる。……スタスタと道を歩いて来て、この屋敷の前まで来て、トン、トン、トンと潜り門を打って、二声三声物をいったかと思うと、すぐに内から潜り門の扉があいて、あの女を内へ入れたのだからな。……自分の屋敷か懇意な人の屋敷さ」眼の前に立っている屋敷の中へ、女煙術師がはいった時の、――そのはいり方の無造作だったことを、あらためて回想することによって武士の疑惑は深まったらしい。
「女煙術師も曲者《くせもの》らしいが、この屋敷も怪しく思われる」
 で、しばらくは見まわしていた。屋敷内は寝静まっているらしい。人声もしなければ足音もしない。繁っている庭木の一所で、ねぐらをつくっていた雀でもあろうか、ひとしきり羽音が聞こえたが、それとてもすぐ止んでしまって、まったく物音が聞こえなくなった。
「いつまで眺めていたところで、別に得をすることもあるまい。思い切りよく帰るとしよう」
 ――で若い武士は立ち去ろうとしたが、立ち去ることはできなかった。
「印籠に未練がございますなら、お返しすることにいたしましょう」
 潜り門の内側からの女の声が、悪戯《いたずら》ッ児らしい語調をもって、揶揄《やゆ》するように呼んだからである。
「ほう」という若い武士は、ちょっと度胆を抜かれたように、潜り門の前まで寄って行ったが、
「それではやはり拙者の印籠を、あなたにはおすりなされたので?」どうという訳ともなかったが、こんなような丁寧な言葉使いで若い武士は訊き返した。と、すぐに女の声がした。

本職は放火商売

「妾《わたし》にとりましては印籠などは、どうでもよかったのでございますよ。欲しいと思ったのではございませんよ」依然としてその声は悪戯《いたずら》ッ児らしい、揶揄的の調子を帯びていた。潜り門の扉をへだてておりながら、声がハッキリと聞こえて来るのは、扉の合わせ目へ近々と口を寄せて物をいっているからであろう。追っかけて女の声がした。
「妾の本当に欲しいものは、ほかにあるのでございますよ」
「ほう、さようかな、なんでございましょう?」
 どうやら若い武士の性質は、磊落《らいらく》で放胆で明るいらしい、叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]も浴びせずに訊き返した。
 と、女の声がした。
「誠心《まごころ》なのでございますよ」
「誠心? ほほう誠心がお好きか。風変りのものがお好きと見える」
 またもや女の声がした。「鉄石心《てっせきしん》と申しましても、よろしいようでございますよ」
「だんだんヘチ物を望まれるようで」若い武士は興味を感じたらしい、面白そうにこういったが、「忠魂義胆《ちゅうこんぎたん》などはいかがなもので?」――で、女の言葉を待った。
「何より結構でございますよ。ぜひとも頂戴いたしたいもので」だがこういった女の声には、今まであったような揄揶的のところや、悪戯ッ児らしいところなどは、おおよそ封ぜられてなくなっていた。真面目な語調となったのであった。
 しかし若い武士はなんと思ったか、道化た口調で押し切った。「忠魂義胆がご入用なら、これからせいぜい骨を折って仕入れることにいたしましょう」
 ――と、女の声がした。「それにはおよぶまいと存ぜられます。ずっと昔から今日まで、変らずお持ちつづけておいでになる、その忠魂義胆だけで、もうもう十分でございますよ」
「どうもな、いよいよ変な女だ。俺のことをいくらか[#「いくらか」に傍点]知っているらしい」若い武士はいささか気味が悪くなった。で、打ち案じて黙っていた。潜り門の向こう側でも黙っている。で、しばらくはひそか[#「ひそか」に傍点]であった。
 神田川を越した向こう側の、市橋下総守《いちはししもうさのかみ》の屋敷の辺から、二声三声犬の声がしたが、つづいてギャッという悲鳴が起こった。往来の者に蹴られたのでもあろう。佐久間町の二丁目の方角から、駕籠が一挺来かかったが、相生町のほうへ曲がってしまった。
 で、この境地は静かであった、霜でも置いたような月光が、往来を一杯に満たしている。
 と、その時女の声が、潜り門の向こう側から呼びかけた。「妾は掏摸《すり》ではございません。でも掏摸かもしれません。妾は煙術師ではございません。でも煙術師かもしれません。……いえいえ本当の商売はそんなものではございません。放火《ひつけ》商売なのでございますよ。……ちょうどあなた様と同じように!」
 こんな妙なことをいい出したのである。
「ナニ拙者と同じように、放火《ひつけ》商売だとおっしゃいますので?」さもさも驚いたというように、若い武士は胸を背後《うしろ》へ引いたが、「拙者は決して放火などはしませぬ」
 しかし女はうべなわ[#「うべなわ」に傍点]なかったらしい。同じ口調でいいつづけた。「神田の雉子《きじ》町の四丁目で、一刀流の剣道指南の、道場をひらいておいでなされる、山県紋也というお方の本当のご商売は、放火商売なのでございますとも」
 もしもこの時が昼であったならば、若い武士が心から仰天して、その眼を大きくみはったことに、恐らく感づいたことであろう。
「ほう」と若い武士はまたもいったが、「拙者の姓名をご存じとみえる」
「はいはい存じておりますとも。お名前ばかりではござりませぬ。ご素性からご行動から目的まで存じておるのでございますよ。で申し上げるのでございますよ、放火商売が本職だと。……そうして妾は幾度となく、あなた様とお逢いいたしました。そうしてお話をいたしました。ご懇意のはずでございますよ」
 若い武士の山県紋也にとっては女のいうことが何から何まで意表に出るように思われた。「お逢いした覚えはござりませぬが、どこでお逢いしましたかしら?」
「はいはい石置き場のお屋敷で」
 女はクスクスと笑ったようである。

活殺の問答

 石置き場の空屋敷で逢ったという。しかしそういう記憶はなかった。で、紋也はそれをいった。「その石置き場の空屋敷へは、私もたびたびまいりましたよ。しかし一度もあなたらしい、女煙術師などには逢いませんでした」
 するとまたもや笑い声が、潜門扉《くぐりど》の内側から聞こえて来たが、「それでは今度は女煙術師として、お目にかかることにいたしましょう」
「ほう」と紋也はそれを聞くと、声を洩らさざるを得なかった。
「それではあなたは女煙術師のほかに商売を持っておられますので?」
「はいはい、さようでございますとも」女の声は愉快そうであった。
「娘師《むすめし》、邯鄲師《かんたんし》、源氏追い、四ツ師、置き引き、九官引き、攫浚付《かっさらいつけ》たり天蓋《てんがい》引き、暗殺《あんさつ》組の女|小頭《こがしら》、いろいろの商売を持っております」
「うーん」とそれを聞くと山県紋也はこういわざるを得なかった。「参った!」という意味なのである。事実紋也は女のお喋舌《しゃべり》に、かなり参ってしまったのであった。しかし紋也は思い返した。「どこまでもこの俺を嬲《なぶ》る気なのだな」と――で、こだわらず[#「こだわらず」に傍点]に話しかけた。
「それでは石置き場の空屋敷では娘師、邯鄲師、源氏追い、四ツ師、置き引き、九官引き、攫浚付たり天蓋引き、暗殺組の女小頭――といったような商売の中の、その一つの商売人として、私とお逢いくださいましたので?」
 とまた女の笑い声が、潜門扉《くぐりど》の内側から聞こえて来たが、つづいてこういう声がした。「たった今し方も申しました、妾の本当の商売は放火《ひつけ》商売なのでございますよ。で、石置き場の空屋敷では、その本職の放火商売人として、あなたにお目にかかりましたはずで」ここでプツリと話を止めたが、どうやら考え込んでいるようであった。と、後をいい継いだ。奇妙にも声が真面目である「ご回想なすってくださいまし、お思い出しなすってくださいまし、きっとお思い出されましょう。部屋の片隅の卓に倚《よ》って、醜い小男と肩を並べて、あなた様のお話に耳を澄まして、誰よりも先に手を拍《たた》き、誰よりも先に喝采《かっさい》をし、誰よりも先に賛成をする、一人の女がありました事を。……それが妾なのでございますよ」
「ああそれではあの私娼《じごく》か!」山県紋也は思い出した。いかさまそういう女があった。が、紋也には合点がいかなかった。年齢《とし》とそうして風貌との相違が、著るしいがためであった。
「いかさま」と紋也は声をかけた。「そういう女とはあの空屋敷で、行くたびごとに逢いましたよ。しかし、その女は三十五、六で、風采《なり》もいやらしく容貌も醜く、態度も荒《すさ》んで淫蕩《いんとう》で、あなたとは似ても似つかないような、そういう女でありましたよ。たしか私娼《じごく》でありましたはずで」
 すぐに女の声がした。
「顔や姿を変えることなどは、妾にはなんでもありません。年や態度を変えることなども、妾には何でもありません」
「では」と紋也はとがめるようにいった。「数あるあなたの商売の中には私娼《じごく》という商売もありますので」
「はいはい私娼もいたしますとも」
「穢《きたな》い女だ! いやな女だ!」
「でもお信じくださいまし、妾は処女でございますよ」
「何を莫迦《ばか》な! 私娼だというのに!」
「でもお信じくださいまし。一歩手前で踏み止まります」
「一歩手前で?」と鸚鵡《おうむ》返した。
「許さないのでございますよ」
「ああなるほど。……ああなるほど」
「で、処女でございますよ」
 二人はしばらく沈黙した。月がわずかばかり西へまわった。で、紋也が地へ敷いている影法師が少し東へ移った。
「妾の名はお粂《くめ》と申します」潜門扉《くぐりど》の内側の女の声が、沈黙を破ってこういったのを、いうところのキッカケとして、驚くばかりに能弁にお粂という女はいい出した。

恋人同士に

「さっきも妾は申し上げましたが、なんの妾が印籠などに、眼をくれることがございましょう。印籠など欲しくはございません。さっそくお返しいたします。――と、このように申しましたならば、あなた様はおっしゃるでございましょう、では何ゆえ印籠をすったのかと。……それには訳がございます。この妾という人間を、強く強くあなた様に印象づけたく思いましたからで。……これが一つでございます。だがもう一つございます。このお屋敷をあなた様へ強く強く強く強く印象づけたいがためだったので。……つまりあなた様をここの屋敷へ、引っ張って来たかったためだったので……するとあなた様はおっしゃいましょう。ここは何者の屋敷なのかと? どういう性質の屋敷なのかと? ……今はお答えいたしかねます。でもこれだけは申し上げられます。あなた様と同じような考えを持って、あなた様と同じような仕事をしている、そういう人たちの籠《こも》っている、そういう屋敷でございますと。……で、妾は申し上げます。もしもあなた様が何かの事件で、危険が迫ってまいりましたならば決してご遠慮にもご斟酌《しんしゃく》にもおよばず、ここの屋敷へおいでなされましと。ご保護いたすでござりましょう。また私たちにいたしましても、あなた様のようなおりっぱなお方に、保護をしていただきたいのでございますよ。妾は思うのでございますよ。あなた様には敵がありましょうと。表立った敵も、隠れた敵も! ……私たちもそうなのでございますよ、たくさんに敵がございます。表立った敵も隠れた敵も! ……で、妾は申し上げましょう。同盟しなければいけませんと! ……はいはいあなた様と私たちとは! ……だがあなた様はおっしゃいましょう、お前は全体何者なのかと? お前の素性はなんであるかと? お答えすることにいたしましょう」
 潜門扉《くぐりど》の内側から聞こえていた、お粂という女の話し声が、ここでにわかにプッツリと絶えた。が、それもほんのわずかの間で、すぐ声が聞こえて来た。しかしそれは歌声であった。
「くもるとも……何か恨みん……月今宵……晴れを待つべき……身にしあらねば……」朗詠めいた節であった。「ね」とお粂の声がした。
「この和歌を作られた人物と、深い深い関係が、妾にはあるのでございますよ。そうしてこの和歌を作られた人と、あなた様のお父様にあたられる方とも、深い深い関係が、やはりあったはずでございますよ。したがってあなた様と妾とも、深い関係があるものと、こう申し上げてもよろしいようで。ああ……」という一種の嘆息めいた声が、潜門扉の内側から聞こえて来た。「父上同士は師弟で親友! ではお互いの息子と娘は師弟以上に親友以上に……ああ」とまたもや声がした。「恋人同士になったところで、不思議ではないではありませんか! ……恋し合い愛し合い助け合って、そうして同じ道へ向かう! ……なんていいことでございます。……妾はあなた様を恋しております。……でもこれ以上は申し上げられません。……さようならよ、さようならよ! でもまたすぐにお逢いできましょう。……印籠をお返しいたしますよ」
 月光に水のように濡れて見える土塀の甍《いらか》を躍り越えて、石塊のような小さな物が、紋也の頭上へ落ちて来たのは、そういった声の終えたころであった。で紋也は右手を伸ばして、宙で受け止めて握ったが、それはすられた印籠であった。で、手早く腰へつけたが、
「お粂《くめ》殿。お粂殿」と声をかけた。が、お粂は立ち去ったのでもあろうか、潜門扉の内側から返事がなかった。
「はーン」と紋也は笑ったが、自分へ向かって笑ったのである。「これではまるっきり[#「まるっきり」に傍点]化《ば》かされたようなものだ。いつまでもまごまごしていようものなら、どんな目に逢わされるかわからない。帰ろう、帰ろう、家へ帰ろう」――で、紋也は二丁目のほうへ、片側町の家並みに添って、足を早めて歩き出した。しかし十間とは歩かないうちに、足を止めざるを得なかった。異様の行列が行く手のほうからこちらへ歩いて来たからである。

妖艶の姫

 一挺の女駕籠を取り巻いて、数人の男女が歩いて来る。――これが行列の大体であった。異様なことではないではないか。――と、こういう事もいえばいえる。しかしやっぱり異様なのであった。駕籠が第一に異様である。大大名のお姫様が、外出の場合に使用するような、善美をきわめた女駕籠であって、塗りは総体に漆黒《しっこく》で、要所要所に金銀の蒔絵《まきえ》が、無比《むひ》の精巧をもってちりばめ[#「ちりばめ」に傍点]られてある。引き扉《ど》には朱総《しゅぶさ》が飾られてあって、駕籠の動揺に従って、焔《ほのお》のようにユラユラと揺れる。駕籠を取り巻いている男女の姿も、かなり異様なものであった。駕籠の前に立って二人の武士が、足音を盗んで歩いていたが、かぶっているところの覆面頭巾も、着ているところの無地の衣裳も、一様《いちよう》に濃厚な緑色であった。駕籠の後からつき従って来る、二人の武士の服装も、すなわち覆面も無地の衣裳も、同じように濃厚な緑色であった。
 が、まだこれらはよいとしても、駕籠の左右を取り巻いている四人の女たちが揃《そろ》いも揃って、同じように濃厚な緑色の被衣《かつぎ》を深々とかぶっている姿は、どうにも異様といわなければならない。以上を簡単に形容すれば、濃緑《こみどり》の立ち木に取り巻かれて、黒塗りの朱総《しゅぶさ》金銀|蒔絵《まきえ》の駕籠が、ゆらめき出たということができよう。歩き方がいかにもしとやかで、誰も彼も物をいおうとはせず、咳《しわぶき》一つ立てようともしない。しとやか[#「しとやか」に傍点]に進んで来るのである。いやいや異様なのはこればかりではなかった。四人の武士が揃いも揃って、若くてそうして美貌だのに、四人の女が揃いも揃って、老年でそうして醜いのも、異様なことといわなければなるまい。
 こういう異様な行列が、昼間でもあることか深い夜を、田舎《いなか》でもあることか大江戸の町を、辻番などにも咎められずに、しとやか[#「しとやか」に傍点]に練って来るということは、異様以上に奇怪ともいえよう。そういう行列に出会ったのである、山県紋也が足を止めたのは、当然のことというべきであろう。
「いったい何者の行列なのであろう? 駕籠には誰がいるのだろう?」――で、茫然と眺めやった。そういう紋也を驚かせて、異様以上の、怪奇以上の、凄いような事件の起こったのは、それからまもなくのことであった。駕籠が紋也の前まで来て、宙に舁《か》かれたままで静止して、駕籠の扉が内から開けられて、女の顔がのぞいたのが、凄いような事件のはじまりであった。
 月光がさえぎられているがために駕籠の中は闇に閉ざされていたが、その闇をさえ押しのけるほどにも、女の顔色は白かった。年が若いということと、高貴の女性だということと、艶麗の容貌だということと、姫君姿だということが、感覚的にではあったけれど、山県紋也には感じられた。濃緑《こみどり》の衣裳、濃緑の裲襠《かいどり》、それを着ているということも感ぜられた。衣裳の襟から花の茎のように、白く細々しく鮮かに、頸足《えりあし》が抜け出していることも、紋也の眼には見てとれた。
 が、何よりも紋也の瞳に、強く印象されたのは、うつむけた顔の額越しに、凝然《じっ》とみつめている女の眼つきで、よくいえば二粒の宝石であり、悪くいえば蝮《まむし》の眼であるといえた。つまりそのように[#「そのように」に傍点]も光が強くて魅力を持っているのであった。でその眼でみつめられた者は、一種の恍惚とした陶酔境に、墜落しなければならないであろう。闇の中に一輪の白|芙蓉《ふよう》が咲き出て、そこへ二滴の露が溜って、その露が光を放っていると、こうも形容をしたならば、駕籠の中の容貌を、描き出すことができるかも知れない。と、その女が声をかけた。
「この若侍は凛々《りり》し過ぎるよ。接吻《くちづけ》をしても駄目かもしれない。でも妾《わたし》はこういう男も好きだよ。妾はこの男を手に入れてみせる。……でもこの男は拒絶《ことわ》るだろうよ。あの北条左内様のように。でも左内様は妾の物さ。……今夜から妾の物になるのさ。……今夜はこの男には用はないよ。だから今夜は帰るがいいよ。でも妾を覚えておいで。妾のほうでも覚えておくから。……一度|接吻《くちづけ》をしてあげよう。お前はフラフラになるだろう。いいえ一|呼吸《いき》をかけてあげよう。お前はフラフラになるだろう。……一呼吸なのよ! 一呼吸なのよ!」

忽然と消えた駕籠

 高貴の姫君に相違ないのに、駕籠の中の女のそういった声の、なんと荒《すさ》んでいることぞ! そうしてそういった言葉つきの、なんとはしたなく[#「はしたなく」に傍点]下卑《げび》ていることぞ! たたずんで見ていた山県紋也は驚きと一緒にいわれぬ憎悪を胸に持たざるを得なかった。
「それにしてもこの女は何者なのであろう? 白痴でなければ狂人《きちがい》だ。何をいいかけているのだろう? 意味をなさない言葉ではないか……それにしてもこれはどうしたのだ? 胸を掻き乱す芳香は!」
 ※[#「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40]物《たきもの》を※[#「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40]《た》いているのでもあろうか? 香料を身につけているのでもあろうか? 駕籠の中から形容に絶した、馨《かんば》しい匂いが匂って来た。いやいやそうではなさそうであった。※[#「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40]物を※[#「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40]いているのでもなければ香料を身につけているのでもなくて、全く別の何物かから匂いは匂って来るようであった。では女の体臭であろうか? いやいやそうでもなさそうであった。もしも体臭であったならば、駕籠の扉をあけたその時から、匂いは匂って来なければならない。しかるに馨しいその匂いは、女が物をいい出した時から、忽然と匂い出して来たのである。
「もしこの芳香をたてつづけ[#「たてつづけ」に傍点]に、四半刻《しはんとき》というものをきいていたならば俺はそれこそ色情狂《いろきちがい》になろう」山県紋也がこう思ったほどにもその匂いは催情的のものであった。そういう匂いを漂わせながら、なおも女はみつめていた。その女を蔽うているものといえば、黒塗り蒔絵の駕籠である。その駕籠を護っているものといえば、被衣《かつぎ》をかぶった四人の老女と、覆面姿の四人の若武士と、脛《すね》を出した二人の駕籠|舁《か》きとである。そうしてそれらを見下ろしているのは、白けた晩《おそ》い大輪の月で、燐のような光をこぼしている。
 この一群をほかにしては人ッ子一人も通っていない。で、往来は空っぽであった。往来の片側に軒を並べて、無数の家々は立っていたが雨戸も窓もとざされているので、一筋の燈火さえ洩れて来ない。屋根ばかりを月光に化粧させて、地の上へ一列の家影を引いて、静まり返っているばかりである。この光景は幽鬼的といえる。そういう幽鬼的の光景を前にあたかも釘づけにでもされたかのように山県紋也は突っ立っていたが、それは動くことができないからであった。魅せられ麻痺されているからであった。
「匂いはいったいどこから来るのだ。……駕籠の中の女は何者なのだ。……なぜ老女たちも若い武士たちも、黙って無表情で突っ立っているのだ。……こいつらは俺を莫迦《ばか》にしている」
 いかさま四人の被衣をかぶった老女と、覆面姿の四人の武士とは、無表情のままで立っていた。顔が無表情というよりも、躯と態度とが無表情なのであった。すなわち老女も若い武士も、そこに紋也がいるということを、勘定に入れていないかのように、紋也のほうを見ようともせずに、空を見上げているのであった。
「こういう事件には慣れている」
「俺たちは毎々の出来事なのだ」
 ――こう語ってでもいるような、それは無視した態度でもあれば、冷淡をきわめた態度でもあった。
 無表情でもなければ冷淡でもなく、まして無視していないものといえば、駕籠の中の女の眼であった。これは反対に執拗に、あたかも検査でもするかのように、紋也をいつまでもみつめている。
 こういう両様の態度の中へ、紋也ははさまれているのである。しだいに怒りの感情が、胸の中へ盛り上がり昂《たか》まって来たのは、当然のことといってよかろう。「莫迦にしているのだ。嬲《なぶ》っているのだ」紋也はそろそろと右手を上げた。「叩き斬ってやろう! 叩き斬ってやろう!」で刀の柄を握った。と、その時駕籠の中で、ゆるゆると持ち上がる白い物があった。女が腕を上げたのである。と、コトリと音がした。見れば駕籠の扉がとざされている。女が内からとざしたのであろう。すぐに女の声がした。
「さあ駕籠をやるがよい」
 駕籠がユラユラと動き出して、それを取り巻いた男女の者が長く往来へ影を曳《ひ》いて、佐久間町三丁目の方角へ、シトシトシトシトと歩き出したのは、それからまもなくのことであって、そのために紋也は殺生沙汰から、あやうく救われることができたが、どうしたものか、にわかに「あッ」といった。駕籠の一団が三間足らずの先で、忽然とばかりに消えたからである。
 駕籠の一団が紋也の眼の前の、三間足らずの先において、忽然とばかりに消えてしまったのは争われない事実ではあったけれど、さりとて地の中へ潜《くぐ》ったのでもなければ天へ上って行ったのでもなかった。一軒の家の中へはいったのである。
 片側町の家並みが、月の光に染められもせずに、黒々と線を引いていたが、その一所に小さい門を持った、二階建ての家が立っていた。その造りは貧しげで、かつ小さくて狭そうであった。これという特色も備えていない、隠居家めいた家といえよう。
 と、駕籠の一団であるが、その家の小門の前まで行くと予定の行動だというかのように、歩みをとどめて静まった。と、一人の若い武士であったが、群れから離れて小門の前まで行くと、ホトホトと小門を叩いたようであった。中からは声がしたらしい、まもなく小門が一杯に開いたが、それが再び閉ざされた時には、駕籠の一団は見えなくなっていた。小門の中へはいったのである。
 だからこういう順序からいえば、駕籠の一団の見えなくなったのを、「忽然とばかりに消えてしまった」と、こういうことはいえないかもしれない。しかし紋也からいう時には、「忽然とばかりに消えてしまった」と、やはりいわなければならなかった。というのは駕籠の一団が、さも物々しく思われたがために、いずれは駕籠の一団は、ゆるゆると往来を進んで行って、厳《いかめ》しい立派な大きな屋敷へ、はいるものと思っていたのである。しかるに予想は裏切られて、すぐ眼の前の貧しげの家へ無造作にはいり込んでしまったのである。
「あやかし[#「あやかし」に傍点]のように忽然と、眼の前へ現われて来た駕籠の一団は、あやかし[#「あやかし」に傍点]のように忽然と、眼の前から消えてなくなってしまった」
 こう紋也には思われたのである。
 自然紋也の心の中へ、駕籠の一団を吸い込んだ小門を持った貧しげの家が、どういう性質の家であるのか、そうしてその家へはいり込んだ、駕籠の一団の正体と、そうしてこれからの行動とを思い切って見きわめてやりたいという、好奇的情熱が燃え上がったことは、至極のことというべきであろう。
 いまだに流れている額の汗を、紋也は手の甲で拭《ぬぐ》いながら、しばらくは立ったままで考え込んだ。「まだまだ俺の心や躯は麻痺陶酔をしているようだ」しかし紋也は歩き出した。そうして小門の前へまで行った。耳を澄ましたが物音もしない。屋内はひたすら森閑としている。「こうなると俺は俺の眼を疑わざるを得なくなった。はたして駕籠の一団は、この家の中へはいったのであろうか? はいったように思われる。が、それにしては静かすぎるではないか」なおも耳を傾けたが、依然として屋内は静かであった。「ひとつ裏口へでもまわってみようか」屋内が静かだということが、いっそうに好奇的情熱を、紋也の心へ燃え立たせたらしい。
 紋也はその家の壁に添って、横手の露路を裏へまわった。裏は小広い空地ではあったが、地面には雑草がぼうぼうと生えて、ところどころに木立ちがあって、切り石などが置いてあった。建築用の空地のようである。一所に生白く光るものがあった。地面には水が溜っていて、月が接吻《くちづ》けているからであろう。紋也は少しく距離を置いて、家のようすを一渡り見た。黒い板塀がかかっていて、その上へ家の二階だけが、月明の空を押し分けて、黒々と輪郭をつけていた。雨戸が引かれているからでもあろうか、一筋の燈火さえ洩れていない。依然として屋内は静かである。
「こうなると俺は俺の耳を、疑わなければならないようだ。あれだけの人数がはいり込んだのだ。人声のしないはずがない。それだのに人声がしないばかりか、咳《しわぶき》の声さえ聞こえない。……聾者《つんぼ》になったのではあるまいかな?」
 紋也は少しく莫迦《ばか》らしくなった。で、家へ帰ろうとした。で、塀に添って露路のほうへ、二足三足歩き出した。だが、その次に起こったのが第二段の恐ろしい出来事であった。塀の内側から足の音がしたが、ややあって塀の一所へ、ポッカリと四角の穴があいた。切り戸が内側からあけられたのらしい。と、その切り戸から黒い物体が、無造作に塀の外へ転がし出されたが、またすぐに切り戸は閉ざされてしまった。
「はて、なんだろう?」と怪しみながら、紋也は物体へ近寄ったが「若い男の死骸だ!」――と、数人の足音がした。

怪異連続

 塀の切り戸

になりましたようで。ハッ、ハッ、ハッ、これも結構。……それではご免をこうむります。……あなた様もお帰宅なさりませ」
「※[#歌記号、1-3-28]うらに来いとの笛の音、うら道来いとの笛の音……いや、いや、いや、来てはなりませぬ」
 嘉門はクルリと振り返ったが、例の蹣跚《まんさん》とした足どりで、馬酔木の叢の裾をまわって、今度こそ左内とお菊とを見すてて、家のほうへ引き返した。
 このように泉嘉門のために、あけすけに拒絶をされてみれば、情熱家の北条左内としても、立ち去るよりほかに手段はなかった。悲しみと絶望とに顫えながら、それでも左内は取り乱そうとはせずに、
「お菊殿お暇《いとま》をいたします」と、このように声をかけておいて、捨て石につっぷし[#「つっぷし」に傍点]て泣きじゃくっているお菊へ背中を向けたかと思うと百日紅《さるすべり》の立ち木の幹をまわって、その向こうに立っている裏木戸から抜けて、左内は姿を消してしまった。
 で、その後のここの庭には、白々と頸《うなじ》を日にさらして、その頸へかかった後ろ髪を、細《こま》かく細かく細かく、顫わせて泣いているお菊のほかには、人の姿は見られなかった。
 が、お菊の悲しい心を、慰めようとでもするかのように、一人の女が現われて来た。ほかでもないそれは山県紋也の、妹にあたる鈴江であったが、泉嘉門の屋敷の玄関へ、小走るように駆け込んで来た。
 と、玄関の左の側に、裏庭へ通う小門があったが、そこから嘉門が顔をのぞかせた。
「おおこれは鈴江様で」
「お師匠様でござりますか。今日は稽古日でございますので、兄とともどもまいりました」
「稽古? ははあ、お狂言のな。……が、今日は駄目でござる。このように酔いしれて[#「しれて」に傍点]おりますのでな。……ああそうそうちょうど幸い、お菊が泣いておりますので、あなた様の明るいご気象で、慰めてやってくださりませ。……さあさあこちらへおいでなされ。裏庭の片隅で泣いております。※[#歌記号、1-3-28]柳の下のお稚子《ちご》様は、朝日に向こうて、お色が黒い――おいでくだされ、おいでくだされ」
 小門をあけて引き入れたので、鈴江は胆をつぶしながらも、裏庭へはいって行った時、兄の紋也が笑《えみ》をふくみながら、往来から玄関へはいって来た。
「ご免くだされ、ご免くだされ」
 声をかけたが返辞がない。ただし裏庭の方角から、酔っているらしい嘉門のうた[#「うた」に傍点]声が、むしろ悲壮に聞こえて来た。「今日もお酒を召されたと見える」つぶやいて小門をくぐろうとした時に、またもや一人の侍が、往来から玄関へはいって来た。
「うむ、貴殿は山県氏か」
「ほほう、これはどなたでござるな?」
「拙者は桃ノ井兵馬でござる」

顔を合わせた讐敵《しゅうてき》

 一歩進んだ桃ノ井兵馬は、激怒に燃えるするどい[#「するどい」に傍点]瞳を、紋也の顔へ注いだが、どうしたのかにわかに笑い出した。
「貴殿の生活《くらし》向きはいかがでござる」
「え?」とこれには紋也のほうが、度胆を抜かれた格好となったが、「ご親切は感謝、心配はござらぬ、裕福にくらしておりますよ」
「アッハッハッ、そうでもあるまい」兵馬はまたもや笑ったが、「道場の主の浪人ぐらし、仕官の拙者とは相違がござろう」
「いらぬ斟酌《しんしゃく》、ご無用ご無用」
「拙者の主人をご存知かな?」――なぜこんなことをいい出したのであろう? 兵馬はこういって紋也を見た。
「知りもいたさねば知ろうとも思わぬ」紋也の冷淡な声というものは!
 が、兵馬は後をつづけた。「お明かしいたそう、拙者の主人を。権臣《けんしん》北条美作殿よ」
「ほほう」という山県紋也は、のぞくようにして兵馬を見たが、すぐにその眼へ冷笑を浮かべた。
「結構なご主人、似つかわしゅうござる。まことに貴殿に似つかわしゅうござる」
「貴殿もご仕官をなされてはいかが?」兵馬の笑殺的な声というものは!
「誰にな?」と紋也は怪訝《けげん》そうにした。
「美作殿へよ、いうまでもござらぬ」
「ふん」と紋也は突っぱねたが、「まずご免、いやでござる」
「何ゆえな?」と兵馬は毒々しい。
「一世の奸物! 彼《かれ》美作! なんの拙者が! 穢《けが》らわしいわい!」
「それに貴殿には讐敵《しゅうてき》のはずで」
「まさしくさよう、讐敵でござる」
「さてそこだ、不思議なことがある」罠《わな》にでも落とそうとするのであろうか、兵馬はネチネチといって来たが、「一世の奸物で貴殿の讐敵の、その北条の美作のご前の、ご子息の北条左内殿と、貴殿はお仲がよろしいそうで。不思議だの、なぜでござろう?」
 ここへ搦《から》ませようとしたものと見える。こういうと小気味よさそうに、ニヤリニヤリとほくそえんだ。「申し分ござらば、承るとしましょう」
 しかし紋也はこういわれても、さして動揺しなかった。かえって愉快そうに笑いたくなるのである。
「美作殿は一世の奸物、これに相違はござらぬよ。が、ご子息の左内様は、それに反して潔白のご気象、……で、交《まじわ》りを結んでおるばかりで」
「ナーニそうではござるまい」兵馬は狡猾な笑い方をしたが、「取り入ろうと思っていられるのでござろう」
「誰にな?」と紋也は不審そうにした。
 と、兵馬はどうしたものか、話を横にそらしたが、不意にこんなことをいい出した。
「ここの主人《あるじ》の嘉門殿には、美しい娘がいられるはずで」
 ――おやおや妙なことをいい出したぞ――紋也は見当を失ったが、
「いかにもござる、お菊殿と申す、それがなんとかいたしましたかな?」
 ――と、また兵馬はニヤリニヤリとしたが、
「駄目でござるよ、駄目でござるよ」
 いよいよ紋也にはわからなくなった。で黙ってみつめやった。そういう山県紋也のようすが、兵馬にはおかしく思われたのであろう、例によって、唇をまくり上げて、犬歯を出して笑ったが、
「いけないいけない、取り持ってはいけない!」
 しかしどうにもこの言葉も紋也には意味がわからなかった。で、黙然とみつめている。
「というわけはこういうわけで」兵馬は紋也のようすが、ますますおかしく思われるのであろう、嵩《かさ》にかかった能弁で、まくし立てるように喋舌り出した。
「な、ご貴殿、そうでござろう。やはり浪人は辛《つら》いもので。そこで誰かに仕官をしたい。北条のご前は権臣だ。そこでご前に仕えようと思う。が、いかんせん伝手《つて》がない。考えたのが左内様のことよ。将を獲《え》ようとする者は、まずその馬を射よというので美人の娘のお菊をけしか[#「けしか」に傍点]け、巧く左内様に取りもって、そいつの縁で北条のご前へ……ハッハッハッ、いかがでござる! 拙者の眼力は狂うまいがな」しかしここまでいってくると、兵馬はまたもや話をそらせた。「紋也殿、紋也殿、紋也殿そういえば貴殿の俤《おもかげ》も、よくご尊父に似ていられますな」
 すると今度は紋也のほうが、ヌッとばかりに前へ出た。

父の怨みを繰り返す

 ヌッとばかりに前へ出た、山県紋也の心持ちには、いいたいことがたくさんあったが、紋也はいっさいそれを封じて、逆手で相手を圧伏しようとした。「やはりな」とまずもって軽《かろ》らかにいった。「美作殿と左内殿との、父子の関係は別なものとして、親と子は万事が似ているものと見えます。心も似るでござりましょうよ」
「心も?」といった兵馬の声にはなんとなく不安なものがあったが、
「心? いわっしゃい! なんの心か!」
「さればさ」紋也は嘲《あざけ》るようにしたが、「裏切る心よ! ……伝わっておろうよ!」
「裏切る心! ふふんばか[#「ばか」に傍点]な!」こうはいったものの桃ノ井兵馬はいよいよ不安に堪えないようであった。
 と、そういう兵馬の心を、早くも紋也は見抜いたらしく、紋也のすがすがしい性質としては、少しく大人気ないほどにも、突っ込んだ調子で繰り返した。
「美作殿と左内殿との、父子の関係は別なものとして、親や子は万事が似ているものと見えます。心も似るでござりましょうよ」
 で、相手の返辞を待った。
 紋也の言葉は兵馬に痛いもののように思われた。ブルッと一つ身顫《みぶる》いをしたが、噛みつきたげの兇猛の眼つきで、紋也の顔を見上げ見下ろした。
「なるほど」と突然に兵馬はいったがその声は憤懣《ふんまん》に満たされていた。「裏切る心が拙者にあると、こう貴殿にはいわれる気か!」相手の言葉の出よう一つで、すぐにでも切ろうとでもいうように、柄頭を拳でトントンと打った。と、目貫《めぬき》の象篏《ぞうがん》が、黄金無垢《きんむく》でできていたのでもあろう。陽をはねてキラキラと輝いた。
「さようさ」と紋也はうそぶくようにいったが、これもいつしか右の掌《てのひら》を、刀の柄へ掛けていた。「貴殿の父上の久馬殿は、拙者の父を裏切ったはずで」ひとしく刀の柄を打った。「裏切りこそは卑怯の卑怯、男子として恥ずべきことでござる。血統的にそういう心が、ご尊父より伝わっておられるなら、ご注意なされ、ご注意なされ」で右肩をそびやかして見せた。その肩の上には日があたっていて、一種の日溜りをなしていたが、そびやかした拍子に位置が変って、日溜りは紋也の首へ移った。
 と、紋也は考えた。「少しく俺は焦心《あせ》り出したぞ。いけないいけない冷静になろう」――で、柄から手を放して、静まった姿勢で相手を見た。
 それが兵馬にも感ぜられたと見える。これも柄から手を放して、冷やかな態度で立ち向かったが、その冷やかな態度の中には、吸血鬼的の凄味《すごみ》があって、相手を怯《おびや》かすに足るものがあった。
 しかしこういう故意《わざ》とらしく作った、加工的の冷静というものは、すぐに破られるものであった。
 はたして兵馬は焦心《あせ》り込んで来たが、叩きつけるように毒吐いた。
「何を白痴《たわけ》め! 何を申すか! なんの我が父が裏切るものか! 考えの相違だ! それだけだ!」
「違う!」と紋也は抑えるようにした。「議論に負けた憂さ晴らしよ!」
「藤井右門か! 単純な奴め!」
「が、我が父の同志ではあった」
「そ奴と我が父とが議論をしたのだ」
「さよう、そうして負けられたそうだ」
「意見の相違だ! 考えの相違だ! 勝敗はなかったということだ!」
「王覇の別さえ心得られずに、野心ばかりを逞《たくま》しゅうされた、貴殿の父上が鮮かにその際負けたということでござるよ。拙者父より承ってござる!」
「ふむ、その貴殿の父上であるが、その際仲裁をしようともせずに、黙っていたということでござる! いやいや藤井右門の説へ、片贔屓《かたひいき》をしたということでござる。拙者父より承った」
「あまりに明らかな勝敗ゆえ仲裁しようにもする術《すべ》がなく、父は黙っていたそうにござる。それを根にもって卑怯にも貴殿の父上におかれては、我が父大弐と藤井殿とを、反謀の企てあるように、官へ密告されたそうな! 裏切りでござろう! 卑怯千万!」
 明和年間の尊王事件の、その立て者の山県大弐の、遺児《わすれがたみ》の山県紋也は、尊王事件をあばき[#「あばき」に傍点]立てたところの、裏切り者の張本人の、桃ノ井久馬の遺児の、桃ノ井兵馬とこのようにして、今や露骨に向かい合った。

鍔《つば》ぜり合い!

 明和尊王事件というのは「柳子《りゅうし》新論」「院政記略」「省私録《せいしろく》」等の名著を著わし、諸子百家の学に通じ、わけても兵学に堪能であった甲州の処士の山県大弐と、その友の藤井右門とによって、企てられた事件であって、小幡《おばた》の城主織田|信邦《のぶくに》の家老の、吉田|玄蕃《げんば》をはじめとして、数百人の門弟があずかった[#「あずかった」に傍点]。まず大弐と右門とであるが、江戸の地へ出て塾をひらいて、大義名分尊王|抑覇《よくは》の、堂々とした学説を立てて、兵学を論ずるにあたっては、諸国の城地を引例して、攻取の策を示したりした。すなわち朝権の衰微《すいび》を憤り、尊王の精神を鼓吹《こすい》して事を挙げようと企てたのであった。しかるにここに意外のことから計画は画餅《がべい》に帰することになった。
 織田家の用人松原郡太夫が家老の玄蕃の勢力を妬《ねた》んで、玄蕃に異図のあるということを、藩主信邦に讒言《ざんげん》をしたため、玄蕃は疑獄の人物となったが、調べが進むにしたがって、大弐と右門との企てが暗《やみ》から明るみに出たのである。
 しかるに一方大弐の門弟に、神田小柳町に住居《すまい》をしている桃ノ井久馬という浪人があったが、一日右門と議論を戦わせたところ、右門のために説伏《せっぷく》されて、面目を失ったところから、逆怨みをして同門弟の中の、宮崎|準曹《じゅんそう》、佐藤源太夫、禅僧|霊宗《れいそう》を語らって、大弐と右門との企てを、官に向かって密告した。
 ここに至って幕府の有司は、一大事とばかり狼狽して、大弐と右門とを搦《から》め取って、大弐を死罪に、右門を獄門に、それぞれ行ない処分をしたが、密告をした三人の者も、密告に誇張があったというので、遠島の刑に行なわれ、さらに織田家は国換えをされた。吉田玄蕃に至っては、お構いなしと放免にはなったが、その一族の幾人かは、主家を離れて浪人した。
 以上が明和尊王事件の、きわめて荒い輪郭なのであるが、この余波を受けて偉大ともいうべき、もう一人の人物が処分された。ほかならぬ竹内式部である。式部は徳大寺大納言家の家臣で、垂加流《すいかりゅう》の神道の鼓吹者で、かつ兵学の大家であったが、宝暦年間に京都において主人の徳大寺大納言家をはじめ、正親町《おおぎまち》三条|公積卿《きみのりきょう》などに、同じく尊王抑覇の説を述べて、門弟を集めること一千人に及び、まさに大事を企てようとしたが、時の京都の所司代たる松平|輝高《てるたか》に搦め捕られて、追放の刑に処せられた。そうして明和事件の際には、八丈島へ流されることになった。しかるに八丈島へ到着しない先に、三宅島において逝去《せいきょ》して、尊王主義の人々を悲しませた。
 が、何ゆえ式部は流されたのであろうか? それは大弐や右門の人々と、縁のつながり[#「つながり」に傍点]があったからである。というよりむしろこういったほうがよい。大弐と右門とは式部の思想を、受け継いで大事を企てたのであって、大弐と右門との背後には、竹内式部がいたのであると。とまれこうして竹内式部の宝暦尊王事件なるものも、大弐と右門の明和尊王事件も、幕府の手によって破壊されたが、表だって破壊をした者といえば、時の老中の筆頭であった松平左近将監武元であった。が、その将監の懐中刀《ふところがたな》として、縦横に策略を振るった者は梟雄《きょうゆう》北条美作であった。で、もし大弐や右門などに、遺児があったとしたならば、当然に将監と美作と、裏切り者の桃ノ井久馬とを、恨まないわけにはいかなかったろう、果然、大弐には遺児があった。紋也と鈴江と小次郎とである。
 またもし裏切り者の桃ノ井久馬に、遺児があったとしたならば、大弐や右門の遺児に遺恨を持たざるを得なかったろう。果然久馬には遺児があった。ほかならぬ桃ノ井兵馬である。
 今その紋也と兵馬とが、お狂言師の泉嘉門の玄関の前において互いに顔を合わせたのである。とうてい無事には済まされまい。
 問答は無益と思ったのであろう。「まいるゾーッ」とばかりに声を掛けたが、桃ノ井兵馬は飛び込みざまに、天道流での乱軍刀だ、片手なぐりに切り込んだ。と、鏘然《しょうぜん》たる大刀[#「大刀」はママ]の音がしたが、見れば二本の白刃が、縞《しま》を織っている日光の中に、鍔迫《つばぜ》り合いをなしていた。すなわち紋也も同時に抜いて相手の太刀を横っ払い、つけ込んで、セメて、ひた押しとなり、鍔と鍔とを合わせたのである。睨み合って凄い四ツの眼! 顔と顔との中央にあたって、交叉をなした二本の氷柱《つらら》! 抜き身だ! 輝く! ブーッと殺気!

天道流と一刀流

 鍔迫《つばぜ》り合いの姿勢となった、山県紋也と桃ノ井兵馬とは、交叉された二本の太刀をへだてて、互いに眼と眼とで睨み合った。片側には泉嘉門の屋敷の、古びた障子の玄関があって、一匹の虻《あぶ》が障子の桟へ唸り立てながらぶつかっていた。玄関と反対の片側には、板塀と門とが立っていたが、門の口を通して白茶気た往来が、日の光に鈍《にぶ》く照らされながら、その一部分を見せていた。好天気の初夏の日盛りだのに、山の手の往来であるがためか、人の通って行く姿も見えない。と、一羽の雌鶏《めんどり》であったが、小さい鶏冠《とさか》を傾けながら、近所の犬にでも追われたのであろう。啼《な》きながら門内へ駆け込んで来た。が、切り合いに怯《おび》えたかのようにまた啼きながら往来のほうへ駆け出し、そのまま姿を消してしまったが、高い険しい啼き声ばかりは、なおしばらくは聞こえていた。
 植え込みの枝や葉をくぐって、横ざしにさしている日の光が、かすかの顫えを持ちながら一瞬間には右へ傾き次の瞬間には左へよじれる[#「よじれる」に傍点]二本の太刀の刀身を、氷柱のように輝かせている。
 二人は押し合っているのである。
 呼吸が合して離れたならば、二合目の太刀が合わされるであろう、どっちか一人の呼吸が乱れて、もしも構えが崩れたならば、離れた刹那に切られるであろう。
 今はひたすら[#「ひたすら」に傍点]に押し合っているが、紋也は考えた。「師匠の屋敷の玄関先を、血で穢《けが》しては申し訳がない。悪い悪い。場所が悪い」
 こういう場合にこれだけのことを、ハッキリ考えたということは心に余裕のある証拠であった。
「憎い桃ノ井兵馬であるが、斬って捨ててはこちらの身もあぶない。捕えられて咎めを受けるであろう。それに俺には志がある。兵馬ごときはどうでもよい。討つのは危険で討たれるのはいやだ。どうぞして難関をくぐりぬけたいものだ。それにしても思ったより手強い敵だ、天道流だな、太刀捌きでわかる」
 考えがグルグルと渦を巻く。
 と、その時遠々しくはあったが裏庭のほうから酔いしれているらしい、嘉門のうた声が聞こえて来た。どうやら泉水の岸の辺をめぐって、謡《うた》って彷徨《さまよ》っているらしい。
「うむ、そうだこれがよい、師匠に仲へはいってもらおう」
 で、紋也は力を橈《よわ》めた。
 すぐにつけ込んで押して来る。その兵馬の押し手を受け受け、紋也はしだいに下がって行く。
 こうして小門の前まで来た。とたんに紋也は押し返したが、一刀流での寄り身捨て身だ、交叉した太刀の交叉をといて、ハッと柔かに上へ上げて、兵馬がそれへのっかかって[#「のっかかって」に傍点]、袈裟《けさ》掛けに切り込んで来たところを、左のほうへ体形を捨てた。で相手の太刀が流れた。間一髪に身を寄せたが、紋也は兵馬へぶつかろう[#「ぶつかろう」に傍点]とした。が、兵馬に油断があろうか。体あたり[#「あたり」に傍点]と感じて飛びのきざまに、またも斯流《しりゅう》での乱軍刀だ、片手なぐりに胴を払った。きまれ[#「きまれ」に傍点]ば紋也は胴輪切りだ。が、紋也は未然に察しその裏をかいて飛びのくや、小門を肩でグッーと押して、開いた隙から裏庭へはいった。背後《うしろ》下がりの刻み足で、太刀は中段真の構え、兵馬の眉間へ、鋩子《ぼうし》先をさしつけ、居つかぬ用意にシタシタと動かし、ジリリ、ジリリ、ジリリ、ジリリと、庭の奥へと下がって行く。
 引き手に釣られて追い迫るのは、危険至極の業であった。剣鬼のような桃ノ井兵馬が、それを知らないはずがない。それでは知っていてやるのであろうか? それとも激怒をしているがために、危険を忘れてしまったのであろうか? これは斯道《しどう》の平青眼、鋩子先を紋也の肩口へさしつけ、引くままに引かれて庭の奥へ、ジリリ、ジリリ、ジリリ、ジリリ、これも刻み足をして追って行く。
「卑怯だ! 山県! 逃げるか! 来い!」
「…………」
 ジリリジリリと後へ下がる。ジリジリと追い迫る。と、カチカチと鋩子先が、互いに触れ合って音を立てた。と思ったまもないように一本の太刀がはね上がったが、日の光を斜めに叩き割った。勝負! どちらだ※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 切られたのは誰だ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
 悲鳴か太刀の音か斃《たお》れる音か、いずれかが起こらなければならないだろう? その窒息的の空気を通して、華やかに笑う女の声が、裏庭の奥から聞こえて来た。

吹き針の稽古

「そのようにお泣きなさいますな。赤ちゃんのようではございませんか。さあさあお笑いなさりませ。涙をお拭きなさりませ。……おやおやさようでございましたか。あの左内様がお怒りになって、帰っておしまいなさいましたので。それでは泣かずにはおられますまい。でも先方からあなた様に対して、愛想づかしをなされたのではなくて、一刻者《いっこくもの》のお師匠様が、邪魔をなされたのでございますから、訳はないはずでございますよ。その内にはお師匠様も思案変えをされて、左内様とあなた様との想い合った仲を、お許しになることでござりましょう。また妾にいたしましても、兄ともどもにお師匠様へ、上手に吹き込んであげましょう。二人をご一緒になさいますようにと。……たとえ左内様が機嫌を害されて、今日はお帰りになりましたところで、きっと明日はおいでになりましょうよ。……お泣きなさいますな、お泣きなさいますな。……せっかく綺麗にしたお化粧が、涙で崩れてしまいますよ。涙をお拭きなさいませ。――それに、今日はよいお天気で、蜂《はち》や小鳥や虻《あぶ》までが、面白そうに唄っております。トコトコトコと泉水の音まで、笑っているではございませんか。お笑いなさりませ、お笑いなさりませ。……おやおやお笑いなさいましたね。おやおや涙を拭きましたね。それでこそよろしゅうござります。それでこそ綺麗なお菊様に、立ち帰ったということができましょう。……さあさあ捨て石から立って、ここへおいでなさりませ。妾とお並びなさりませ。そうして吹き針を習いましょう。お伝授することに致します。……むずかしいことなどございますものか。練習一つで覚えられますよ。もっとも二十本三十本の針を、つづけて吹くようになりますのには、こつ[#「こつ」に傍点]もあれば、術もあって、容易に上達はいたしませんけれど、一本一本吹くことなどは、すぐにも覚えられるでござりましょうよ」
 少しく片寄った頭上の辺には、紫の色の花房を垂れた、藤棚が小高くかかっているし、裾をグルリとめぐるようにしては、馬酔木《あせび》の叢《くさむら》や百日紅《さるすべり》の老木や、灌木などの飛び散っている、この裏庭の奥まった所に、一つの捨て石を横手に据えて、たたずみながら愉快そうに、元気よく軽く喋舌っているのは、紋也の妹の鈴江であった。
 と、その気持ちのよい話ぶりのために、今し方左内と別れたことによって、捨て石の一つへつっ[#「つっ」に傍点]伏して、肩をふるわして泣きじゃくっていたお菊も、一時悲しみを忘れたと見えて、泣き顔を袖で蔽うようにしながら、いわれるままに立ち上がって、鈴江と肩を並べるようにした。
 二人の娘の並んだ姿は、好もしい一幅の絵のようであった。身長《せい》が高くて、肉付きがよくて、肩などまるまると肥えてはいるが、女の美しさを失ってはいない。その眼鼻だちはおおまか[#「おおまか」に傍点]で、※[#「臣+頁」、第4水準2-92-25]など二重にくくれている。眼は過ぎるほどにも大きくて、やんちゃ[#「やんちゃ」に傍点]らしいおどけた[#「おどけた」に傍点]表情が、絶えずチラチラと動いている。――これが鈴江の姿であった。吹き針に得意なところから、不断に稽古をするからでもあろう、唇がボッと膨《ふく》らんでいたが、しかし卑《いや》しくは見えなかった。仲のよい娘というものは、今も昔も同じように、揃いの衣裳を着合うものと見えて、鈴江もお菊と同じように、緑色がかった友禅の衣裳に、水玉を白く染め抜いた帯を、キリリと形よく締めていた。
 そういう鈴江と並んでいるお菊は、身長も二寸ほど低ければ、肉付きもずっと劣ってはいたが、そのためにかえって優しくも見えれば、また別様に美しくも見えた。お菊の髪の簪《かんざし》が、日の光を吸って光っている。そのすぐ横手にあるものといえば、ふっくりとした厚手の薄桃色の、鈴江の左の耳であった。
 と、日の光をはね返して、宙で輝く物があった。伸ばした鈴江の右の掌《てのひら》に、載っている五十本の雌雄《しゆう》の針で、掌を埋ずめて盛り上がっている。
「さあさあお稽古をいたしましょう。妾《わたし》から吹いてお目にかけます。その後であなたがなさりませ。女子の護身用の武器としては、吹き針が一等でございますよ」――にわかに吹き針が消えてしまった。鈴江が掌を閉ざしたからである。その握られた掌が鈴江の口もとまで上げられたが、口の中へ針を一杯にふくんだ、的は向こうの桐の木らしい。で、今や吹こうとした。

精妙の吹き針

 ボッと膨らませた鈴江の口から、銀の線でも延ばされたかのように、針が凄《すさま》じい速さをもって、引き続き引き続き吹き出されたのは、それからまもなくのことであった。五間あまりのかなたにあたって、桐の木が一本立っていたが茶色がかった花の蕾が、空へ向かって群れ立っていた。相当に年を経た桐の木と見えて、幹などは太く頑丈であって、茶緑の鎧《よろい》でも着ているようであったが、その前に丈の高い八手《やつで》の木があって、その広い葉で桐の木の幹の、下半分を蔽うていた。
 と、その八手の群葉《むらば》をくぐって、銀の線が奥へ流れて行く、日の光を貫いた吹き針の針で、五間の空間を一直線に飛んで、空にあるうちは燦々《さんさん》と輝き、八手の葉の蔭に流れ込むや、葉と葉とでできている陰影に溺れて、瞬間光を消してしまった。
 ゆっくりと十は数えられなかったであろう、それほどにもわずかな時間の間に、鈴江は見事に五十本の針を綺麗にすっかり吹いてしまった。と小走りに走って行って、八手の木の前へ立ったかと思うと、群葉を上へかかげるようにしたが、
「お菊様ご覧なさりませ。ここに桐の木の枝折れの痕が、瘤《こぶ》のようにできておりましょう。一ツ目小僧の眼のようで。これを狙ったのでございますよ。この眼のような瘤の周囲に、五十本の針が一本残らずこの通り真っ直ぐに突き刺さっております。……すべて吹き針と申しますものは、眼とか眉間とかいうような急所を狙って吹きつけるのが、大切の業とされております。で、私はこの幹の瘤を、敵方の眼だと心得て、吹きつけてやったのでございますよ。まあまあほんとに可哀そうに、これでこの眼は潰《つぶ》れてしまいました。ハッハッハ、可哀そうな桐の眼!」
 なるほど桐の木の一所の幹に、瘤のような枝折れの痕があったが、見ればその瘤をグルリと囲んで、無数に針が突っ立っていた。鈴江の手によってかかげられた、八手の群葉の間を分けて、日の光が一筋に投げ込まれていたが、その日の光に照らされて、突き刺さっている針が光って、キラキラキラと耀《かがよ》うようすは、ゾッとするほどにも凄く見えた。
 と、鈴江は右の手を延ばすと、無造作に針をさらうようにしたが、抜き取った五十本の針を握ると、お菊の傍《そば》へ飛び返って来た。
「もう一度妾がいたしましょう。今度は桐の木の下枝の蕾へ吹きつけることにいたしましょう」
 いいいい鈴江は掌《てのひら》を開いた。
「これが雌針《めはり》、これが雄針《おはり》、これが雌針、これが雄針、長さは同じでございますが、太さが違うのでございます。同じ太さでありましたら、息が籠って吹かれません」
 いいいい鈴江は左の手の指で、針の穂先を揃えるようにした。その針が薄紅《うすあか》い掌の肉の、円い窪《くぼ》みに充たされていて、水銀が溜っているように見えたが、反射する光沢が交叉し合って、それが掌から二寸ばかりの上で、虹《にじ》のような色彩を織っている。と、水銀のような針の光も消えてしまった。鈴江が掌を閉じたからである。
「息使いがむずかしいのでございますよ。長く続けなければなりませんので。……こう胸を張って、こう首を延ばして、腹一杯に息を吸って、それから針を口へふくんで、それから吹くのでございますよ」で、右手を口もとまで上げた。
 泉水のほうから嘉門の声で※[#歌記号、1-3-28]裏道来いとの笛の音……と、かすかではあるが聞こえて来た。酔いの醒めない謡声《うたいごえ》である。
 と、微風が渡ったのでもあろう、藤の棚から垂れ下がっている、花の房が左右へなびき出した。
「では吹くことにいたしましょう、口もとへご注意なさりませ」
 鈴江が針をふくもうとした時に、裏庭のかなたの小門の辺から、鏘然《しょうぜん》と太刀音が聞こえて来た。
「おや」と鈴江は声を上げたが、馬酔木《あせび》の叢の裾の辺まで、小走りに走ってうかがった。
「あッ、お兄様が! あッ、大変だ!」
 左の手で小|褄《づま》を取り上げたが、赤い物を纒《まと》った白い脛が、裾からあらわ[#「あらわ」に傍点]に現われるを、恥ずかしく思わなければ気にも掛けないで、鈴江は一散に走り出した。

恋を裂く男

 鈴江の耳へ聞こえて来た鏘然とした太刀の音は、ジリ、ジリ、と後へ退く山県紋也を

になりましたようで。ハッ、ハッ、ハッ、これも結構。……それではご免をこうむります。……あなた様もお帰宅なさりませ」
「※[#歌記号、1-3-28]うらに来いとの笛の音、うら道来いとの笛の音……いや、いや、いや、来てはなりませぬ」
 嘉門はクルリと振り返ったが、例の蹣跚《まんさん》とした足どりで、馬酔木の叢の裾をまわって、今度こそ左内とお菊とを見すてて、家のほうへ引き返した。
 このように泉嘉門のために、あけすけに拒絶をされてみれば、情熱家の北条左内としても、立ち去るよりほかに手段はなかった。悲しみと絶望とに顫えながら、それでも左内は取り乱そうとはせずに、
「お菊殿お暇《いとま》をいたします」と、このように声をかけておいて、捨て石につっぷし[#「つっぷし」に傍点]て泣きじゃくっているお菊へ背中を向けたかと思うと百日紅《さるすべり》の立ち木の幹をまわって、その向こうに立っている裏木戸から抜けて、左内は姿を消してしまった。
 で、その後のここの庭には、白々と頸《うなじ》を日にさらして、その頸へかかった後ろ髪を、細《こま》かく細かく細かく、顫わせて泣いているお菊のほかには、人の姿は見られなかった。
 が、お菊の悲しい心を、慰めようとでもするかのように、一人の女が現われて来た。ほかでもないそれは山県紋也の、妹にあたる鈴江であったが、泉嘉門の屋敷の玄関へ、小走るように駆け込んで来た。
 と、玄関の左の側に、裏庭へ通う小門があったが、そこから嘉門が顔をのぞかせた。
「おおこれは鈴江様で」
「お師匠様でござりますか。今日は稽古日でございますので、兄とともどもまいりました」
「稽古? ははあ、お狂言のな。……が、今日は駄目でござる。このように酔いしれて[#「しれて」に傍点]おりますのでな。……ああそうそうちょうど幸い、お菊が泣いておりますので、あなた様の明るいご気象で、慰めてやってくださりませ。……さあさあこちらへおいでなされ。裏庭の片隅で泣いております。※[#歌記号、1-3-28]柳の下のお稚子《ちご》様は、朝日に向こうて、お色が黒い――おいでくだされ、おいでくだされ」
 小門をあけて引き入れたので、鈴江は胆をつぶしながらも、裏庭へはいって行った時、兄の紋也が笑《えみ》をふくみながら、往来から玄関へはいって来た。
「ご免くだされ、ご免くだされ」
 声をかけたが返辞がない。ただし裏庭の方角から、酔っているらしい嘉門のうた[#「うた」に傍点]声が、むしろ悲壮に聞こえて来た。「今日もお酒を召されたと見える」つぶやいて小門をくぐろうとした時に、またもや一人の侍が、往来から玄関へはいって来た。
「うむ、貴殿は山県氏か」
「ほほう、これはどなたでござるな?」
「拙者は桃ノ井兵馬でござる」

顔を合わせた讐敵《しゅうてき》

 心に大望を抱いている、山県紋也ではあったけれども、風雅の道は忘れなかった。狂言を好むところから、泉嘉門へ弟子入りをしたのは、この時から半年ほど以前のことで、北条左内と親しくなったのも、相弟子であるという関係からであった。妹の鈴江も濶達《かったつ》の気象で、かつは風雅を好んだので、兄と一緒に弟子入りをしたが、女同士のことであって泉嘉門の娘お菊と、すぐに親しい仲となった。
 で、紋也も妹の鈴江も、嘉門の屋敷を訪ねることが、このごろでは無二の楽しみとなった。
 今日は稽古日というところから兄妹が揃って来たのであった。
 兄妹の来たことはよいとしても、なんの理由から桃ノ井兵馬は嘉門の家を訪ねて来たのであろうか?
 兵馬も嘉門の弟子なのであろうか?
 いやいや決してそうではなかった。嘉門の狂言の弟子でもないのに、この日ごろ兵馬は嘉門の屋敷を、しげしげとして訪ねるのであった。
 何らかたくらみ[#「たくらみ」に傍点]がなければならない。
 とまれこうして紋也と兵馬とは、嘉門の屋敷の玄関の前で、ゆくりなく顔を合わせたのであった。
 ところで紋也からいう時には、兵馬の姓名だけは知っていたが、人物を見るのは今日がはじめてでそれとても兵馬から宣《なの》られたればこそ、それを知ることができたのであった。もっともいつぞや大川の上へ、屋形船を浮かべて漕がせていた時に、並んで浮かんでいた屋形船の中から紙片を捲《ま》きつけた一本の小柄を、こっちの屋形船へ投げ込んだので、こっちからも小柄へ紙片を捲きつけて向こうの屋形船へ投げ返して、挑戦に応じたことがあったが、その小柄を投げてよこした男が、すなわち桃ノ井兵馬であって紙片に書いてあった文字といえば、「私情から申しても怨みがござる。公情から申せば主義の敵でござる。貴殿に闘いを宣するしだい、ご用心あってしかるべく候。――桃ノ井久馬の遺子兵馬より、山県紋也殿へ」――そうして紋也から応じた文字といえば「心得て候」という四文字であった。
 まさにそういう出来事はあった。が、出来事はそれだけであって、桃ノ井兵馬という人物を、眼に見たことはなかったのであった。
「ははあこの男が兵馬なのか」
 で、紋也は相手を見た。
 古びた玄関が一方にある。その前に前庭がひろがっている。その小広い前庭を囲んで、黒い板壁がめぐらされてあって、その板壁に近く寄せて、常磐木《ときわぎ》が丈高く植え込まれていたが、その枝と葉を漉《こ》して来る、飛白《かすり》のような日の光を浴びて、突っ立っている兵馬の風采といえば、痩せてはいるが身長《せい》は高くて、肩が怒って凛々《りり》しかった。はね上がった眉に切れ長の眼に、高くて細い長い鼻に、残忍らしい薄手の口などずいぶんと険《けわ》しい人相であった。顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》が低くて頬骨が高くて、頤がずっこけ[#「ずっこけ」に傍点]ているところなども人を威嚇するに十分でもあった。しかし帯びている大小や、着ている衣裳はりっぱなもので、浪人などとは思われない。年は二十三、四らしい。
「これは手強《てごわ》い相手らしいぞ」紋也にはこんなように感じられたのでおのずと姿勢の構えがついた。「ひょっとかすると切り合いになるぞ」で――紋也は眼を配った。つまり足場を計ったのである。
 と、そういう紋也のようすを、兵馬は刺すようにみつめていたが、ヒョイと右手を柄頭へかけると、
「ご所望しだいに素《す》ッ破《ぱ》抜《ぬ》きましょうか」こういって口もとを曲げて見せた。左の唇が癇《かん》のためでもあろうか、斜めに上へまくれ上がって、そこから犬歯が尖《とが》って見える。
「さようさ」と紋也はすぐに応じた。が、刀へは手はかけずに、相手の瞳の動きを睨んだ。「ご所望しだいに切り合いましょうよ」
「が、おいやなら後日に譲る」いよいよ左の上唇を、上へまくって犬歯を見せて、兵馬は譏笑的《きしょうてき》にこういったが、柄から右手は放さなかった。「しかしあらかじめ申し上げておく、今日は切り合いをやめといたしても他日にはきっと討って取るとな」
「よかろう」と紋也もビクツカなかった。「すでにいつぞや大川の上で互いに戦いは宣したはずで。……再度の宣言くどうござるよ。……が、それにしても兵馬氏とやら俤《おもかげ》がご尊父とそっくりでござるな」
 すると兵馬は一歩進んだ。
                        

 
  兵馬ののしる

一歩進んだ桃ノ井兵馬は、激怒に燃えるするどい[#「するどい」に傍点]瞳を、紋也の顔へ注いだが、どうしたのかにわかに笑い出した。
「貴殿の生活《くらし》向きはいかがでござる」
「え?」とこれには紋也のほうが、度胆を抜かれた格好となったが、「ご親切は感謝、心配はござらぬ、裕福にくらしておりますよ」
「アッハッハッ、そうでもあるまい」兵馬はまたもや笑ったが、「道場の主の浪人ぐらし、仕官の拙者とは相違がござろう」
「いらぬ斟酌《しんしゃく》、ご無用ご無用」
「拙者の主人をご存知かな?」――なぜこんなことをいい出したのであろう? 兵馬はこういって紋也を見た。
「知りもいたさねば知ろうとも思わぬ」紋也の冷淡な声というものは!
 が、兵馬は後をつづけた。「お明かしいたそう、拙者の主人を。権臣《けんしん》北条美作殿よ」
「ほほう」という山県紋也は、のぞくようにして兵馬を見たが、すぐにその眼へ冷笑を浮かべた。
「結構なご主人、似つかわしゅうござる。まことに貴殿に似つかわしゅうござる」
「貴殿もご仕官をなされてはいかが?」兵馬の笑殺的な声というものは!
「誰にな?」と紋也は怪訝《けげん》そうにした。
「美作殿へよ、いうまでもござらぬ」
「ふん」と紋也は突っぱねたが、「まずご免、いやでござる」
「何ゆえな?」と兵馬は毒々しい。
「一世の奸物! 彼《かれ》美作! なんの拙者が! 穢《けが》らわしいわい!」
「それに貴殿には讐敵《しゅうてき》のはずで」
「まさしくさよう、讐敵でござる」
「さてそこだ、不思議なことがある」罠《わな》にでも落とそうとするのであろうか、兵馬はネチネチといって来たが、「一世の奸物で貴殿の讐敵の、その北条の美作のご前の、ご子息の北条左内殿と、貴殿はお仲がよろしいそうで。不思議だの、なぜでござろう?」
 ここへ搦《から》ませようとしたものと見える。こういうと小気味よさそうに、ニヤリニヤリとほくそえんだ。「申し分ござらば、承るとしましょう」
 しかし紋也はこういわれても、さして動揺しなかった。かえって愉快そうに笑いたくなるのである。
「美作殿は一世の奸物、これに相違はござらぬよ。が、ご子息の左内様は、それに反して潔白のご気象、……で、交《まじわ》りを結んでおるばかりで」
「ナーニそうではござるまい」兵馬は狡猾な笑い方をしたが、「取り入ろうと思っていられるのでござろう」
「誰にな?」と紋也は不審そうにした。
 と、兵馬はどうしたものか、話を横にそらしたが、不意にこんなことをいい出した。
「ここの主人《あるじ》の嘉門殿には、美しい娘がいられるはずで」
 ――おやおや妙なことをいい出したぞ――紋也は見当を失ったが、
「いかにもござる、お菊殿と申す、それがなんとかいたしましたかな?」
 ――と、また兵馬はニヤリニヤリとしたが、
「駄目でござるよ、駄目でござるよ」
 いよいよ紋也にはわからなくなった。で黙ってみつめやった。そういう山県紋也のようすが、兵馬にはおかしく思われたのであろう、例によって、唇をまくり上げて、犬歯を出して笑ったが、
「いけないいけない、取り持ってはいけない!」
 しかしどうにもこの言葉も紋也には意味がわからなかった。で、黙然とみつめている。
「というわけはこういうわけで」兵馬は紋也のようすが、ますますおかしく思われるのであろう、嵩《かさ》にかかった能弁で、まくし立てるように喋舌り出した。
「な、ご貴殿、そうでござろう。やはり浪人は辛《つら》いもので。そこで誰かに仕官をしたい。北条のご前は権臣だ。そこでご前に仕えようと思う。が、いかんせん伝手《つて》がない。考えたのが左内様のことよ。将を獲《え》ようとする者は、まずその馬を射よというので美人の娘のお菊をけしか[#「けしか」に傍点]け、巧く左内様に取りもって、そいつの縁で北条のご前へ……ハッハッハッ、いかがでござる! 拙者の眼力は狂うまいがな」しかしここまでいってくると、兵馬はまたもや話をそらせた。「紋也殿、紋也殿、紋也殿そういえば貴殿の俤《おもかげ》も、よくご尊父に似ていられますな」
 すると今度は紋也のほうが、ヌッとばかりに前へ出た。

父の怨みを繰り返す

 ヌッとばかりに前へ出た、山県紋也の心持ちには、いいたいことがたくさんあったが、紋也はいっさいそれを封じて、逆手で相手を圧伏しようとした。「やはりな」とまずもって軽《かろ》らかにいった。「美作殿と左内殿との、父子の関係は別なものとして、親と子は万事が似ているものと見えます。心も似るでござりましょうよ」
「心も?」といった兵馬の声にはなんとなく不安なものがあったが、
「心? いわっしゃい! なんの心か!」
「さればさ」紋也は嘲《あざけ》るようにしたが、「裏切る心よ! ……伝わっておろうよ!」
「裏切る心! ふふんばか[#「ばか」に傍点]な!」こうはいったものの桃ノ井兵馬はいよいよ不安に堪えないようであった。
 と、そういう兵馬の心を、早くも紋也は見抜いたらしく、紋也のすがすがしい性質としては、少しく大人気ないほどにも、突っ込んだ調子で繰り返した。
「美作殿と左内殿との、父子の関係は別なものとして、親や子は万事が似ているものと見えます。心も似るでござりましょうよ」
 で、相手の返辞を待った。
 紋也の言葉は兵馬に痛いもののように思われた。ブルッと一つ身顫《みぶる》いをしたが、噛みつきたげの兇猛の眼つきで、紋也の顔を見上げ見下ろした。
「なるほど」と突然に兵馬はいったがその声は憤懣《ふんまん》に満たされていた。「裏切る心が拙者にあると、こう貴殿にはいわれる気か!」相手の言葉の出よう一つで、すぐにでも切ろうとでもいうように、柄頭を拳でトントンと打った。と、目貫《めぬき》の象篏《ぞうがん》が、黄金無垢《きんむく》でできていたのでもあろう。陽をはねてキラキラと輝いた。
「さようさ」と紋也はうそぶくようにいったが、これもいつしか右の掌《てのひら》を、刀の柄へ掛けていた。「貴殿の父上の久馬殿は、拙者の父を裏切ったはずで」ひとしく刀の柄を打った。「裏切りこそは卑怯の卑怯、男子として恥ずべきことでござる。血統的にそういう心が、ご尊父より伝わっておられるなら、ご注意なされ、ご注意なされ」で右肩をそびやかして見せた。その肩の上には日があたっていて、一種の日溜りをなしていたが、そびやかした拍子に位置が変って、日溜りは紋也の首へ移った。
 と、紋也は考えた。「少しく俺は焦心《あせ》り出したぞ。いけないいけない冷静になろう」――で、柄から手を放して、静まった姿勢で相手を見た。
 それが兵馬にも感ぜられたと見える。これも柄から手を放して、冷やかな態度で立ち向かったが、その冷やかな態度の中には、吸血鬼的の凄味《すごみ》があって、相手を怯《おびや》かすに足るものがあった。
 しかしこういう故意《わざ》とらしく作った、加工的の冷静というものは、すぐに破られるものであった。
 はたして兵馬は焦心《あせ》り込んで来たが、叩きつけるように毒吐いた。
「何を白痴《たわけ》め! 何を申すか! なんの我が父が裏切るものか! 考えの相違だ! それだけだ!」
「違う!」と紋也は抑えるようにした。「議論に負けた憂さ晴らしよ!」
「藤井右門か! 単純な奴め!」
「が、我が父の同志ではあった」
「そ奴と我が父とが議論をしたのだ」
「さよう、そうして負けられたそうだ」
「意見の相違だ! 考えの相違だ! 勝敗はなかったということだ!」
「王覇の別さえ心得られずに、野心ばかりを逞《たくま》しゅうされた、貴殿の父上が鮮かにその際負けたということでござるよ。拙者父より承ってござる!」
「ふむ、その貴殿の父上であるが、その際仲裁をしようともせずに、黙っていたということでござる! いやいや藤井右門の説へ、片贔屓《かたひいき》をしたということでござる。拙者父より承った」
「あまりに明らかな勝敗ゆえ仲裁しようにもする術《すべ》がなく、父は黙っていたそうにござる。それを根にもって卑怯にも貴殿の父上におかれては、我が父大弐と藤井殿とを、反謀の企てあるように、官へ密告されたそうな! 裏切りでござろう! 卑怯千万!」
 明和年間の尊王事件の、その立て者の山県大弐の、遺児《わすれがたみ》の山県紋也は、尊王事件をあばき[#「あばき」に傍点]立てたところの、裏切り者の張本人の、桃ノ井久馬の遺児の、桃ノ井兵馬とこのようにして、今や露骨に向かい合った。

鍔《つば》ぜり合い!

 明和尊王事件というのは「柳子《りゅうし》新論」「院政記略」「省私録《せいしろく》
  兵馬ののしる 」等の名著を著わし、諸子百家の学に通じ、わけても兵学に堪能であった甲州の処士の山県大弐と、その友の藤井右門とによって、企てられた事件であって、小幡《おばた》の城主織田|信邦《のぶくに》の家老の、吉田|玄蕃《げんば》をはじめとして、数百人の門弟があずかった[#「あずかった」に傍点]。まず大弐と右門とであるが、江戸の地へ出て塾をひらいて、大義名分尊王|抑覇《よくは》の、堂々とした学説を立てて、兵学を論ずるにあたっては、諸国の城地を引例して、攻取の策を示したりした。すなわち朝権の衰微《すいび》を憤り、尊王の精神を鼓吹《こすい》して事を挙げようと企てたのであった。しかるにここに意外のことから計画は画餅《がべい》に帰することになった。
 織田家の用人松原郡太夫が家老の玄蕃の勢力を妬《ねた》んで、玄蕃に異図のあるということを、藩主信邦に讒言《ざんげん》をしたため、玄蕃は疑獄の人物となったが、調べが進むにしたがって、大弐と右門との企てが暗《やみ》から明るみに出たのである。
 しかるに一方大弐の門弟に、神田小柳町に住居《すまい》をしている桃ノ井久馬という浪人があったが、一日右門と議論を戦わせたところ、右門のために説伏《せっぷく》されて、面目を失ったところから、逆怨みをして同門弟の中の、宮崎|準曹《じゅんそう》、佐藤源太夫、禅僧|霊宗《れいそう》を語らって、大弐と右門との企てを、官に向かって密告した。
 ここに至って幕府の有司は、一大事とばかり狼狽して、大弐と右門とを搦《から》め取って、大弐を死罪に、右門を獄門に、それぞれ行ない処分をしたが、密告をした三人の者も、密告に誇張があったというので、遠島の刑に行なわれ、さらに織田家は国換えをされた。吉田玄蕃に至っては、お構いなしと放免にはなったが、その一族の幾人かは、主家を離れて浪人した。
 以上が明和尊王事件の、きわめて荒い輪郭なのであるが、この余波を受けて偉大ともいうべき、もう一人の人物が処分された。ほかならぬ竹内式部である。式部は徳大寺大納言家の家臣で、垂加流《すいかりゅう》の神道の鼓吹者で、かつ兵学の大家であったが、宝暦年間に京都において主人の徳大寺大納言家をはじめ、正親町《おおぎまち》三条|公積卿《きみのりきょう》などに、同じく尊王抑覇の説を述べて、門弟を集めること一千人に及び、まさに大事を企てようとしたが、時の京都の所司代たる松平|輝高《てるたか》に搦め捕られて、追放の刑に処せられた。そうして明和事件の際には、八丈島へ流されることになった。しかるに八丈島へ到着しない先に、三宅島において逝去《せいきょ》して、尊王主義の人々を悲しませた。
 が、何ゆえ式部は流されたのであろうか? それは大弐や右門の人々と、縁のつながり[#「つながり」に傍点]があったからである。というよりむしろこういったほうがよい。大弐と右門とは式部の思想を、受け継いで大事を企てたのであって、大弐と右門との背後には、竹内式部がいたのであると。とまれこうして竹内式部の宝暦尊王事件なるものも、大弐と右門の明和尊王事件も、幕府の手によって破壊されたが、表だって破壊をした者といえば、時の老中の筆頭であった松平左近将監武元であった。が、その将監の懐中刀《ふところがたな》として、縦横に策略を振るった者は梟雄《きょうゆう》北条美作であった。で、もし大弐や右門などに、遺児があったとしたならば、当然に将監と美作と、裏切り者の桃ノ井久馬とを、恨まないわけにはいかなかったろう、果然、大弐には遺児があった。紋也と鈴江と小次郎とである。
 またもし裏切り者の桃ノ井久馬に、遺児があったとしたならば、大弐や右門の遺児に遺恨を持たざるを得なかったろう。果然久馬には遺児があった。ほかならぬ桃ノ井兵馬である。
 今その紋也と兵馬とが、お狂言師の泉嘉門の玄関の前において互いに顔を合わせたのである。とうてい無事には済まされまい。
 問答は無益と思ったのであろう。「まいるゾーッ」とばかりに声を掛けたが、桃ノ井兵馬は飛び込みざまに、天道流での乱軍刀だ、片手なぐりに切り込んだ。と、鏘然《しょうぜん》たる大刀[#「大刀」はママ]の音がしたが、見れば二本の白刃が、縞《しま》を織っている日光の中に、鍔迫《つばぜ》り合いをなしていた。すなわち紋也も同時に抜いて相手の太刀を横っ払い、つけ込んで、セメて、ひた押しとなり、鍔と鍔とを合わせたのである。睨み合って凄い四ツの眼! 顔と顔との中央にあたって、交叉をなした二本の氷柱《つらら》! 抜き身だ! 輝く! ブーッと殺気!

天道流と一刀流

 鍔迫《つばぜ》り合いの姿勢となった、山県紋也と桃ノ井兵馬とは、交叉された二本の太刀をへだてて、互いに眼と眼とで睨み合った。片側には泉嘉門の屋敷の、古びた障子の玄関があって、一匹の虻《あぶ》が障子の桟へ唸り立てながらぶつかっていた。玄関と反対の片側には、板塀と門とが立っていたが、門の口を通して白茶気た往来が、日の光に鈍《にぶ》く照らされながら、その一部分を見せていた。好天気の初夏の日盛りだのに、山の手の往来であるがためか、人の通って行く姿も見えない。と、一羽の雌鶏《めんどり》であったが、小さい鶏冠《とさか》を傾けながら、近所の犬にでも追われたのであろう。啼《な》きながら門内へ駆け込んで来た。が、切り合いに怯《おび》えたかのようにまた啼きながら往来のほうへ駆け出し、そのまま姿を消してしまったが、高い険しい啼き声ばかりは、なおしばらくは聞こえていた。
 植え込みの枝や葉をくぐって、横ざしにさしている日の光が、かすかの顫えを持ちながら一瞬間には右へ傾き次の瞬間には左へよじれる[#「よじれる」に傍点]二本の太刀の刀身を、氷柱のように輝かせている。
 二人は押し合っているのである。
 呼吸が合して離れたならば、二合目の太刀が合わされるであろう、どっちか一人の呼吸が乱れて、もしも構えが崩れたならば、離れた刹那に切られるであろう。
 今はひたすら[#「ひたすら」に傍点]に押し合っているが、紋也は考えた。「師匠の屋敷の玄関先を、血で穢《けが》しては申し訳がない。悪い悪い。場所が悪い」
 こういう場合にこれだけのことを、ハッキリ考えたということは心に余裕のある証拠であった。
「憎い桃ノ井兵馬であるが、斬って捨ててはこちらの身もあぶない。捕えられて咎めを受けるであろう。それに俺には志がある。兵馬ごときはどうでもよい。討つのは危険で討たれるのはいやだ。どうぞして難関をくぐりぬけたいものだ。それにしても思ったより手強い敵だ、天道流だな、太刀捌きでわかる」
 考えがグルグルと渦を巻く。
 と、その時遠々しくはあったが裏庭のほうから酔いしれているらしい、嘉門のうた声が聞こえて来た。どうやら泉水の岸の辺をめぐって、謡《うた》って彷徨《さまよ》っているらしい。
「うむ、そうだこれがよい、師匠に仲へはいってもらおう」
 で、紋也は力を橈《よわ》めた。
 すぐにつけ込んで押して来る。その兵馬の押し手を受け受け、紋也はしだいに下がって行く。
 こうして小門の前まで来た。とたんに紋也は押し返したが、一刀流での寄り身捨て身だ、交叉した太刀の交叉をといて、ハッと柔かに上へ上げて、兵馬がそれへのっかかって[#「のっかかって」に傍点]、袈裟《けさ》掛けに切り込んで来たところを、左のほうへ体形を捨てた。で相手の太刀が流れた。間一髪に身を寄せたが、紋也は兵馬へぶつかろう[#「ぶつかろう」に傍点]とした。が、兵馬に油断があろうか。体あたり[#「あたり」に傍点]と感じて飛びのきざまに、またも斯流《しりゅう》での乱軍刀だ、片手なぐりに胴を払った。きまれ[#「きまれ」に傍点]ば紋也は胴輪切りだ。が、紋也は未然に察しその裏をかいて飛びのくや、小門を肩でグッーと押して、開いた隙から裏庭へはいった。背後《うしろ》下がりの刻み足で、太刀は中段真の構え、兵馬の眉間へ、鋩子《ぼうし》先をさしつけ、居つかぬ用意にシタシタと動かし、ジリリ、ジリリ、ジリリ、ジリリと、庭の奥へと下がって行く。
 引き手に釣られて追い迫るのは、危険至極の業であった。剣鬼のような桃ノ井兵馬が、それを知らないはずがない。それでは知っていてやるのであろうか? それとも激怒をしているがために、危険を忘れてしまったのであろうか? これは斯道《しどう》の平青眼、鋩子先を紋也の肩口へさしつけ、引くままに引かれて庭の奥へ、ジリリ、ジリリ、ジリリ、ジリリ、これも刻み足をして追って行く。
「卑怯だ! 山県! 逃げるか! 来い!」
「…………」
 ジリリジリリと後へ下がる。ジリジリと追い迫る。と、カチカチと鋩子先が、互いに触れ合って音を立てた。と思ったまもないように一本の太刀がはね上がったが、日の光を斜めに叩き割った。勝負! どちらだ※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 切られたのは誰だ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
 悲鳴か太刀の音か斃《たお》れる音か、いずれかが起こらなければならないだろう? その窒息的の空気を通して、華やかに笑う女の声が、裏庭の奥から聞こえて来た。

吹き針の稽古

「そのようにお泣きなさいますな。赤ちゃんのようではございませんか。さあさあお笑いなさりませ。涙をお拭きなさりませ。……おやおやさようでございましたか。あの左内様がお怒りになって、帰っておしまいなさいましたので。それでは泣かずにはおられますまい。でも先方からあなた様に対して、愛想づかしをなされたのではなくて、一刻者《いっこくもの》のお師匠様が、邪魔をなされたのでございますから、訳はないはずでございますよ。その内にはお師匠様も思案変えをされて、左内様とあなた様との想い合った仲を、お許しになることでござりましょう。また妾にいたしましても、兄ともどもにお師匠様へ、上手に吹き込んであげましょう。二人をご一緒になさいますようにと。……たとえ左内様が機嫌を害されて、今日はお帰りになりましたところで、きっと明日はおいでになりましょうよ。……お泣きなさいますな、お泣きなさいますな。……せっかく綺麗にしたお化粧が、涙で崩れてしまいますよ。涙をお拭きなさいませ。――それに、今日はよいお天気で、蜂《はち》や小鳥や虻《あぶ》までが、面白そうに唄っております。トコトコトコと泉水の音まで、笑っているではございませんか。お笑いなさりませ、お笑いなさりませ。……おやおやお笑いなさいましたね。おやおや涙を拭きましたね。それでこそよろしゅうござります。それでこそ綺麗なお菊様に、立ち帰ったということができましょう。……さあさあ捨て石から立って、ここへおいでなさりませ。妾とお並びなさりませ。そうして吹き針を習いましょう。お伝授することに致します。……むずかしいことなどございますものか。練習一つで覚えられますよ。もっとも二十本三十本の針を、つづけて吹くようになりますのには、こつ[#「こつ」に傍点]もあれば、術もあって、容易に上達はいたしませんけれど、一本一本吹くことなどは、すぐにも覚えられるでござりましょうよ」
 少しく片寄った頭上の辺には、紫の色の花房を垂れた、藤棚が小高くかかっているし、裾をグルリとめぐるようにしては、馬酔木《あせび》の叢《くさむら》や百日紅《さるすべり》の老木や、灌木などの飛び散っている、この裏庭の奥まった所に、一つの捨て石を横手に据えて、たたずみながら愉快そうに、元気よく軽く喋舌っているのは、紋也の妹の鈴江であった。
 と、その気持ちのよい話ぶりのために、今し方左内と別れたことによって、捨て石の一つへつっ[#「つっ」に傍点]伏して、肩をふるわして泣きじゃくっていたお菊も、一時悲しみを忘れたと見えて、泣き顔を袖で蔽うようにしながら、いわれるままに立ち上がって、鈴江と肩を並べるようにした。
 二人の娘の並んだ姿は、好もしい一幅の絵のようであった。身長《せい》が高くて、肉付きがよくて、肩などまるまると肥えてはいるが、女の美しさを失ってはいない。その眼鼻だちはおおまか[#「おおまか」に傍点]で、※[#「臣+頁」、第4水準2-92-25]など二重にくくれている。眼は過ぎるほどにも大きくて、やんちゃ[#「やんちゃ」に傍点]らしいおどけた[#「おどけた」に傍点]表情が、絶えずチラチラと動いている。――これが鈴江の姿であった。吹き針に得意なところから、不断に稽古をするからでもあろう、唇がボッと膨《ふく》らんでいたが、しかし卑《いや》しくは見えなかった。仲のよい娘というものは、今も昔も同じように、揃いの衣裳を着合うものと見えて、鈴江もお菊と同じように、緑色がかった友禅の衣裳に、水玉を白く染め抜いた帯を、キリリと形よく締めていた。
 そういう鈴江と並んでいるお菊は、身長も二寸ほど低ければ、肉付きもずっと劣ってはいたが、そのためにかえって優しくも見えれば、また別様に美しくも見えた。お菊の髪の簪《かんざし》が、日の光を吸って光っている。そのすぐ横手にあるものといえば、ふっくりとした厚手の薄桃色の、鈴江の左の耳であった。
 と、日の光をはね返して、宙で輝く物があった。伸ばした鈴江の右の掌《てのひら》に、載っている五十本の雌雄《しゆう》の針で、掌を埋ずめて盛り上がっている。
「さあさあお稽古をいたしましょう。妾《わたし》から吹いてお目にかけます。その後であなたがなさりませ。女子の護身用の武器としては、吹き針が一等でございますよ」――にわかに吹き針が消えてしまった。鈴江が掌を閉ざしたからである。その握られた掌が鈴江の口もとまで上げられたが、口の中へ針を一杯にふくんだ、的は向こうの桐の木らしい。で、今や吹こうとした。

精妙の吹き針

 ボッと膨らませた鈴江の口から、銀の線でも延ばされたかのように、針が凄《すさま》じい速さをもって、引き続き引き続き吹き出されたのは、それからまもなくのことであった。五間あまりのかなたにあたって、桐の木が一本立っていたが茶色がかった花の蕾が、空へ向かって群れ立っていた。相当に年を経た桐の木と見えて、幹などは太く頑丈であって、茶緑の鎧《よろい》でも着ているようであったが、その前に丈の高い八手《やつで》の木があって、その広い葉で桐の木の幹の、下半分を蔽うていた。
 と、その八手の群葉《むらば》をくぐって、銀の線が奥へ流れて行く、日の光を貫いた吹き針の針で、五間の空間を一直線に飛んで、空にあるうちは燦々《さんさん》と輝き、八手の葉の蔭に流れ込むや、葉と葉とでできている陰影に溺れて、瞬間光を消してしまった。
 ゆっくりと十は数えられなかったであろう、それほどにもわずかな時間の間に、鈴江は見事に五十本の針を綺麗にすっかり吹いてしまった。と小走りに走って行って、八手の木の前へ立ったかと思うと、群葉を上へかかげるようにしたが、
「お菊様ご覧なさりませ。ここに桐の木の枝折れの痕が、瘤《こぶ》のようにできておりましょう。一ツ目小僧の眼のようで。これを狙ったのでございますよ。この眼のような瘤の周囲に、五十本の針が一本残らずこの通り真っ直ぐに突き刺さっております。……すべて吹き針と申しますものは、眼とか眉間とかいうような急所を狙って吹きつけるのが、大切の業とされております。で、私はこの幹の瘤を、敵方の眼だと心得て、吹きつけてやったのでございますよ。まあまあほんとに可哀そうに、これでこの眼は潰《つぶ》れてしまいました。ハッハッハ、可哀そうな桐の眼!」
 なるほど桐の木の一所の幹に、瘤のような枝折れの痕があったが、見ればその瘤をグルリと囲んで、無数に針が突っ立っていた。鈴江の手によってかかげられた、八手の群葉の間を分けて、日の光が一筋に投げ込まれていたが、その日の光に照らされて、突き刺さっている針が光って、キラキラキラと耀《かがよ》うようすは、ゾッとするほどにも凄く見えた。
 と、鈴江は右の手を延ばすと、無造作に針をさらうようにしたが、抜き取った五十本の針を握ると、お菊の傍《そば》へ飛び返って来た。
「もう一度妾がいたしましょう。今度は桐の木の下枝の蕾へ吹きつけることにいたしましょう」
 いいいい鈴江は掌《てのひら》を開いた。
「これが雌針《めはり》、これが雄針《おはり》、これが雌針、これが雄針、長さは同じでございますが、太さが違うのでございます。同じ太さでありましたら、息が籠って吹かれません」
 いいいい鈴江は左の手の指で、針の穂先を揃えるようにした。その針が薄紅《うすあか》い掌の肉の、円い窪《くぼ》みに充たされていて、水銀が溜っているように見えたが、反射する光沢が交叉し合って、それが掌から二寸ばかりの上で、虹《にじ》のような色彩を織っている。と、水銀のような針の光も消えてしまった。鈴江が掌を閉じたからである。
「息使いがむずかしいのでございますよ。長く続けなければなりませんので。……こう胸を張って、こう首を延ばして、腹一杯に息を吸って、それから針を口へふくんで、それから吹くのでございますよ」で、右手を口もとまで上げた。
 泉水のほうから嘉門の声で※[#歌記号、1-3-28]裏道来いとの笛の音……と、かすかではあるが聞こえて来た。酔いの醒めない謡声《うたいごえ》である。
 と、微風が渡ったのでもあろう、藤の棚から垂れ下がっている、花の房が左右へなびき出した。
「では吹くことにいたしましょう、口もとへご注意なさりませ」
 鈴江が針をふくもうとした時に、裏庭のかなたの小門の辺から、鏘然《しょうぜん》と太刀音が聞こえて来た。
「おや」と鈴江は声を上げたが、馬酔木《あせび》の叢の裾の辺まで、小走りに走ってうかがった。
「あッ、お兄様が! あッ、大変だ!」
 左の手で小|褄《づま》を取り上げたが、赤い物を纒《まと》った白い脛が、裾からあらわ[#「あらわ」に傍点]に現われるを、恥ずかしく思わなければ気にも掛けないで、鈴江は一散に走り出した。

恋を裂く男

 鈴江の耳へ聞こえて来た鏘然とした太刀の音は、ジリ、ジリ、と後へ退く山県紋也を追い詰めながら、ジリ、ジリ、と前へ進む桃ノ井兵馬が気をいらって、翻然《ほんぜん》として飛び込んで太刀を上げて、袈裟掛《けさが》けに日の光を割ったのを、ひっぱず[#「ひっぱず」に傍点]した紋也が突きを入れたのを、今度は兵馬が体形を流して取り直した太刀で横へ払った時に、響き渡った太刀の音なのであった。
「…………」
「…………」
 相青眼だ! 同じ位だ!
 紋也と兵馬とは構えをつけたままで、依然として一人は後へ退き、依然として一人は追い迫った。
「秘密も知ってる、大望も知ってる、行動も知ってる、みんな知ってる! 水戸様石置き場の空屋敷、そこでの企みも知っている! 貴様のことなら一切合財、調べ上げてみんな知っている! ……機会を待っていたばかりだ! どうせ討って取る貴様だったのだ! ……ここで貴様を討って取る、その後で余党を燼《つく》してみせる! ……俺ばかりではない、敵は多いぞ! 北条のご前に用心しろ! 岡っ引の松吉に用心しろ! 貴様にとってはみんな敵だ! が、今では必要もないか! この場で貴様を討つのだからな! 退くな! かかれ! 切り込んで来い! 怖いか、山県、兵馬が怖いか!」
 喚《わめ》きを上げ出した桃ノ井兵馬は、相手の紋也の冷静な態度に、自分自身の冷静な心が、掻き立てられてしまったらしい。喚きながらグッグッと詰めて行く。太刀先がしだいに顫えを加えて細かく細かく日の光を刻む。襟が開けて胸もとがのぞいて、青白い皮膚の肋骨《あばら》の窪みに、膏汗《あぶらあせ》がにじみ出て光っている。
 圧せられて後へ引くのではなかった。策があって後へ引くのではあったが、しかし紋也には兵馬の殺気が、腥《なまぐさ》いまでに感じられた。
「人の心身へ喰い込んで、生血を吸って相手を殺して、自分自身を生かすという、吸血鬼のような凄い奴だ! 心からの怨みと執念とを、俺に注いでいるらしい。それに剣技も素晴らしい! いってみれば復讐鬼だ! うむ、うむ、うむ、手強い敵だ! おッ、来るな!」
 と山県紋也は、少し乱れた鬢のほつれ[#「ほつれ」に傍点]毛を、これも汗ばんだ額へかけて、ともすれば忙《せわ》しくなろうとする、呼吸を調え調えながら、刻み足をして下がったが、忽然サーッと左転した。と、あたかもつんのめる[#「つんのめる」に傍点]ように、兵馬がその間へ飛び込んで来た。横へ一|揮《き》だ! 片手切りだ! が、その時には紋也の体は、小門のほうへ飛んでいた。すなわち位置が変ったのである。が、それとても一瞬間で、またもや兵馬は爪立つ気勢に、身長高々とのす[#「のす」に傍点]ようにしたが、紋也の真っ向へ太刀を下ろした。が、その太刀もひっ[#「ひっ」に傍点]ぱずされて、いささか体形の崩れたのを、グッと引き止めて立ち直って、兵馬は太刀を振りかむったが、これはどうしたというのであろう。
「おッ」と叫ぶと柄を下げて、鍔《つば》を眼もとまで引きつけたが、さながら太刀を御幣《ごへい》かのように、左右へピューッと振り立てた。で、刀身が綯《な》われるように、頭上で入れ違って綾を織って、そこに怪しい気味の悪い光り物が踊っているように見えた。がもし誰かが眼をそばめ[#「そばめ」に傍点]て、仔細に観察を下したならば、細い細い一本の銀の線が、兵馬の左の眼を狙って、流れ込んで行くのを見たことであろう。
 が、その次に起こったことといえば、兵馬が抜き身をひっさげ[#「ひっさげ」に傍点]たままで、小門をくぐって一散に逃げて、その姿が庭から消えてしまった時に、牡丹桜の老木の幹の蔭から、五十本の針を吹き終えた鈴江が小走って来たことであった。
「うむ鈴江か、役に立てたな」
「はい、お兄様、どうやらこうやら」
 紋也と鈴江とが向かい合ったときに、酔いを醒ました泉嘉門が、しっかり[#「しっかり」に傍点]とした足どりで歩み寄った。
「あのお方なのでございますよ、左内様とお菊の仲を裂こうと、このごろしげしげとお越しになって、この私めを嚇《おど》しますのは」思案にあまったというように、こういうと嘉門は腕を組んだが、首をめぐらすと庭の奥を見た。その眼界に立っているのは、恐怖に怯《おび》えて眼をみはって、顫えているお菊の姿であった。馬酔木の叢を背後にして、倒れそうにして立っている。

日数が重なって初秋が来た。

紋也の道場

 日数が重なって初秋が来て、江戸へ涼気が訪れて来た。
 とりあつめたる秋の憐れは、芒《すすき》がなびいて、萩《はぎ》がこぼれて、女郎花《おみなえし》の花が露にしおれて、虫の鳴きしきる郊外よりも、都会の片隅にあるものである。微禄の旗本屋敷の塀の、崩れた裾などに藤袴《ふじばかま》の花が、水引きの紅をひいて、空色に立っている姿などは、憐れみ深いものである。そうかと思うといっそうに微禄の、ご家人などのみすぼらしい邸の、こわれ垣根に寄り添いながら、木芙蓉の純白の大輪の花が行人に見られて咲いていてその奥の朽ちた縁の上に、主人の内職の唐傘《からかさ》などが、張られたばかりの白地を見せて、幾本か置かれてあるようすなどは、凄じいまでの憐れさといえよう。
 霧の立つのもこの頃であれば蜻蛉《とんぼ》の飛ぶのもこの頃であり、名月の深夜を怯《おび》やかしながら、雁の啼き渡るのもこのごろである。で、八百屋の店先などへは、唐芋《とういも》や八つ頭《がしら》や蓮根などが、牛蒡《ごぼう》や青蕪《あおかぶ》と位置を争ってその存在を示すようになり、魚屋の店先へはかれい[#「かれい」に傍点]やひしこ[#「ひしこ」に傍点]が、かじき[#「かじき」に傍点]鮪《まぐろ》や鯊《はぜ》などと並んで、同じように存在を示すようになる。
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葛《くず》の葉のうらみ貌《がお》なる細雨かな
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 バラバラと細雨が降ったかと思うと、すぐにあがって陽がこぼれるのも、この季節での出来事である。とまれ寂しい季節といえようが、一面には潔《いさぎよ》い。
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投げられて坊主なりけり辻相撲
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 勇ましい男らしい辻相撲などがあそこにもここにも行なわれるからである。
 町道場の道場の中で、打ち合う竹刀の冴えざえとした音が、往来の人の注意を引いて、足をとどめるもこのごろであって、これとても潔いということができよう。
 そういう潔い竹刀の音が、神田|雉子《きじ》町の一所から、朝に夕に聞こえて来た。山県紋也の道場である。
 さてある日のことであったが、面籠手《めんこて》を着けた山県紋也が、弟子に稽古をつけていた。黒の紋付きに黒の袴、朱色の胴をゆるやかにつけ、一刀流の流儀に準じて造られた鉢白の面をかむり、これも同じように流儀に準じた二段染めの籠手をはめた手で、握り太にして三尺五寸|鞣《なめ》し革《がわ》で包んだ竹刀を引っ下げ、おりから武者窓から棒縞《ぼうじま》をなして、幾筋か場内へ流れ込んで来た午後の日の光に半身を染めて、悠々然として突っ立った態度は、まことに凛々しいものであった。
 と、羽目板を背後にして、タラタラと並んでいる弟子たちのほうへ、面越しに視線を送ったが、
「さあさあどなたでもおいでなされ。今日は特別をもちまして、一刀流の型通りに、拙者、貴殿方をお相手として、真剣に立ち合ってお目にかけます。打つ太刀一本、引く足一足、ことごとく型にはめましょう。……ええと最初は負け退きとして、一人ずつ代わっておいでなされ。一人が負けたらすぐに一人、間髪を入れず飛び込んでござれ。ええとそれからその後においては、三人なり五人なり十人なりいかほど大勢でも構いません。一度にかかっておいでなされ。これとて当流の型通りに、立ち合って切ってお目にかけます。……さあさあどなたでもおいでなされ」
 で、ピューッと竹刀を振った。と、チラチラと光る物が、道場の空間へ躍ったが、日の光が竹刀にはねられたのである。
「お稽古お願いいたします」
 並んでいた列の一所から、こういう声が聞こえたかと思うと、面籠手をつけた一人の若者が、竹刀を引っ下げてすべり出た。
「おおこれは菰田《こもだ》氏か。さあさあおいでなさるがよい」で、中段にピタリと構えた。
 菰田と呼ばれた若い男は、旗本の三男で重助といったが、これも構えを中段につけて、相手の瞳へ眼をつけた。
 が、勝負にはならなかった。あせって打ち込んで来た菰田の竹刀を叩き落としたのが第一の太刀で、二の太刀で肩を袈裟に切った。
「参りましてござります」
「脇構えより奔出して、太刀を払って肩を切る! これがすなわち当流での『妖剣』。さあさあ代わっておいでなされ」
 と、一人が飛び込んで来た。

三段の撃ち

 飛び込んで来た大兵の武士は、庄田といって浪人であったが、腕は相当にすぐれていた。
「庄田氏か、さあ来られい」
 また中段に竹刀を構えて、紋也は相手を凝視した。腕は相当にすぐれてはいたが、要するに紋也の門弟であった。師匠の紋也には及ぶべくもない。庄田内記も中段に構えて、同じように紋也を凝視したが、眼の先から放れない紋也の竹刀の、切っ先の気合に圧せられて、突くことも打つこともできなかった。そういう庄田を前に置きながら、紋也は子供でもあしらうように、のべつに愉快そうに喋舌《しゃべ》りたてる。
「さあ来られいさあ来られい。ははあなるほど籠手を取る気らしい。が、お止めなされ、看破してござる。拙者看破をいたしてござる。ほほうさようか、今度は突きで。咽喉をねらっておりますようで。が、それとても無駄でござる。拙者看破をいたしてござる。ふうんさようか今度は面で。横面を取られるお意《こころ》なので。が、それとても駄目でござる。拙者看破いたしてござる……どうもな貴殿はまだまだ未熟だ。『観見《かんけん》』の業が定まっていませぬ。『観』とはなんぞや? 答えましょうかな。『鑑《かんが》みる』ということでござる。『見』とはなんぞや? 答えましょうかな。『直ちに見る』ということでござる。で、二つを合わせる時には、洞察直観ということになります。『観見』の業にさえ達しておれば、相手の心の動き方や、業の変化は自然とわかります。そうして自己の心の動きや、業の変化は反対に、相手に決して悟られません。貴殿のようすを見ていると、貴殿の心の動き方が、拙者にはいちいち歴々《ありあり》と見えます。先刻は拙者の籠手をねらい、その次には拙者の咽喉をねらい、その次には横面をねらわれたはずで。『心片寄れば業片寄る』――『観見』の業に達していない証拠で」
 こういいながらも山県紋也は竹刀の切っ先に気合をこめて、ともすると打ち込んで来ようとする、庄田内記の竹刀の切っ先を、グッ、グッ、グッとおさえるのであった。むかい合って立っている庄田内記は焦燥を覚えざるを得なかった。
「今日は普通の稽古ではなくて、一刀流の型通りに、先生には相手をされるという。実戦の意気込みでかかって来いと、いわば挑戦をされたようなものだ。先生といえども鬼神ではあるまい。真の力を出し合っている本当の試合に一本でもよい、先生の籠手でも取ってみたいものだ」――で、気合に圧せられて、崩れようとする体形を、持ちこたえ持ちこたえて飛び込もうとした。
 間隔は一間離れていた。武者窓からさしている日の光に、袋竹刀の片側が光って、半面が薄黒くぼけている。夕暮れの迫った時刻なのである。そういう竹刀がむかい合って、空間に二本泳いでいる。と、一本の竹刀であるが――すなわち庄田の竹刀であるが――切っ先が上へ上がろうとした。と、それよりも少しく早く、その切っ先をおさえるように、もう一本の竹刀の先が、すぐにグッと上へあがった。紋也は竹刀でおさえたのである。その鋭い気合に押されて萎縮をしたというように庄田の竹刀が左へまわった。と、その行く手に紋也の竹刀がすでにまわっていておさえつけた。とまた庄田の竹刀であるが、鋭い気合を避けかねたかのように今度は顫えを帯びながら、逃げるがように右へまわった。が依然と一本の竹刀が先まわりをして押えつけた。山県紋也の竹刀なのである。
 剣法における三|挫《くじ》きの一つの、「太刀を殺す」の法である。切っ先をもって敵を攻めて、出《い》ずれば突くぞ退けば追うぞ、避けたら踏んでぶっ[#「ぶっ」に傍点]放すぞと、竹刀先をもって挫くのである。一刀流の一巻書にいわく「気はあたかも大納言のごとく、業はさながら小者のごとし」と。その大納言の気合をもって、切っ先挫きに挫くのであった。
 で、庄田はしだいにあせって、手も足も出なくなった時に、一つの事件が行なわれた。
「庄田氏十分にご用心召され。三段の撃ちで負かしてあげます。……庄田氏が負けて引き退がると同時に、方々決して遠慮はいらない、一度にかかっておいでなされ」こういって声をかけて置いて、紋也はドンと飛び込んだが、瞬間にカツ然《ぜん》と音がした。いやいや音は一つではなくて、間髪を入れずに続けざまに、竹刀の音が三度響いた。すなわち最初に面をとり、籠手を取り胴を取ったのである。
 と、ド、ド、ドッと音がした。道場の羽目板を背後にして、道具をつけて居並んでいた十数人の門弟が、一度に立ち上がってかかって来たのである。

まわし者

 が、一つの事件というのは、師匠の紋也一人を相手に、十数人の門弟たちが竹刀の先をいっせいに揃えて、一種の半円を形どって、ジリジリと紋也へ攻め寄せて行って、ちょっとの隙でもあろうものなら、打ち込もうとひしめき合っているのを、平然として前へ据えて「八方分身|須臾転化《しゅゆてんか》」敵の一人へは眼をつけずに、八方へ向かって眼を配って、しかも構えは中段を嫌って、上段に竹刀を振りかぶって、居付かぬように竹刀先を揺すぶり、前に在らんと欲して忽然として後に在り――変化自在に足拍子を取って、十数人の門弟を威嚇しながら、「さあ真っ先に誰を打とうか、うむ、よろしい佐藤氏としよう。型は当流での向卍《むこうまんじ》だ。面を取って縦、胴を取っては横、防げるものなら防いでみられい」
 叫ぶと同時に紋也の姿が、武者窓からさしていた夕陽を散らして、奔然として飛び出したが、同前に続けざまに竹刀の音が、二つ小気味よく響き渡った。半円の最左翼に構え込んでいた、佐藤|志津馬《しずま》という門弟が、向卍で打ち込まれたのであった。で、志津馬は引き下がったが、もうその時には紋也の姿は師範台の前の元の位置に、同じ姿勢で立っていた。上段にかぶられた竹刀の先が小さな渦を巻いている。柄を握っている左右の拳の、右の甲の辺が光っている。夕陽があたっているからである。と、紋也は声をかけた。
「次は誰だ、字喜多《うきた》氏にしよう。型は当流での鷹《たか》の片羽《かたは》だ。右肩を胸板まで切り下げる呼吸だ。用心! 行くぞ! 防いでごらん」
 またもや紋也は飛び込んだが、同時に竹刀が空を割って、すぐに洞然《どうぜん》たる音がした。最右翼にいた門弟の一人の、字喜多文吾が打たれたのである。
「さあさあ今度は誰にしよう。五十嵐《いがらし》氏がよい、五十嵐氏がよい。型は当流での虎尾剣《こびけん》だ。竹刀をはね上げて突きを上げましょう。行くぞ! よろしいか! さあ用心!」
 字喜多文吾を打ち込むや否や、元の位置に飛び返った山県紋也は、こういうとまたまた飛び込んで、真ん中にいた門弟の一人の、五十嵐駒雄という若侍を、その虎尾剣で突きやった。が、一つの事件というのは、このようにいちいち注意を与えておいて、飛び込むごとに一人一人を、一刀流での型通りに、さも鮮かに打ち込んで、またたく間に三人の門弟を退治たことをいうのではない。全くほかのことなのである。
 というのは大勢の門弟を相手に、山県紋也が実戦的の型を、そうやって示している間中、道場の左側の羽目板を背負って、町人とも見えれば遊び人とも見え、浪人とも見える一人の若人が、陰険らしい眼つきをして、紋也の一挙手一投足を、心ありそうに眺めていたが、不意に飛び上がると手をのばして、板壁に幾本かかけられてある、型の練習に使用する赤樫蛤刃《あかがしはまぐりば》の木剣の一つを、やにわに握ると矢のように飛び出し、四人目の門弟を打ち込もうとして、突き進んだ紋也の背後へまわるや、卑怯といおうか無礼といおうか、黒地の袴を裾長にはいた、紋也の諸足《もろあし》を力まかせに、ヒューッとばかりに薙《な》ぎ払った。――そういうことをいうのである。
 精巧に作られた蛤刃の赤樫の木剣ときたひには、鋭さ真剣にも劣らない。それで十分に薙がれたのである。剣豪の山県紋也といえどもひとたまりもなく倒されなければならない。
 はたして呻きの声がして、つづいて倒れる音がした。
 しかし武者窓からさし込んでくる夕陽のたまった床の上に、顔を上向けて、口を食いしばって、その口から白い泡を吹いて、胸の上で両手を握りしめて、長くのびている人間の姿は、意外にも山県紋也ではなくて、紋也の足を薙いだ若者であった。左のこめかみ[#「こめかみ」に傍点]から頬へかけて太い黒痣《くろあざ》ができている。みるみる黒痣はふくれ上がる。竹刀で喰らわされた痕である。
「おおこれは友吉殿だ」
「これはいったいどうしたのだ」
「悶絶している」
「いや気絶だ」立ち合っていた門弟たちも、見物していた門弟たちも、一度に驚きの声を洩らして、倒れている友吉を取り巻いた。
 が、その時声がした。
「大事はござらぬ、捨てておおきなされ。……こやつは敵方の間者でござる」紋也が静かにいったのである。

目明しの輩下

 取り巻いている門弟たちを分けて、山県紋也は気絶している友吉という男の、倒れている姿を見下ろしたが、
「方々」と門弟たちへ声をかけた。
「こやつを何者と思いますかな?」――で順々に門弟たちを見た。
 下げている竹刀を顫わせたり、着けている胴の面を撫でたり、袴の襞《ひだ》をこすったりして、門弟たちはたたずんでいたが、答えようとはしなかった。というのは師匠の紋也の言葉を、意味取ることができなかったからで、それにはもっともの理由があった。友吉という男が一月ほど前から師匠の山県紋也の邸へ、内弟子として住み込んで、家事には忠実に働くし、剣道の稽古には精を出すしするので、内でも外でも評判がよかった。ただし決して武士ではないし、といって真面目の町人でもなくて、素性という点では疑わしくはあったが、町道場の習慣として素性の知れないそういったような男が弟子入りをするというようなことはあながちめずらしいことでもなかった。で、問題にしなかった。「友吉という男はよくできている」――というのが一般の評判であった。ところがこんな[#「こんな」に傍点]事件が起こって、そうして紋也に訊ねられたのであった。「こやつを何者と思いますかな?」と。……で、どうにも答えようがない。で、門弟たちは黙っていた。
 と、紋也は門弟たちの、当惑したようなそういったようすを、笑止らしい眼つきで見まわしたが、下げていた竹刀をヒョイとのばすと、胸の上でしっかりと握っている友吉の両手をコツコツと打った。
「右の掌の小指の下と左の掌の人差し指の下に、縄胼胝《なわだこ》ができておりますはずで。つまり不断に捕り縄の稽古を規則正しくやっている証拠で。こやつは目明しの輩下でござるということはずっと以前に、こやつが入門を願って来た時から、拙者にはハッキリとわかっておりました。にもかかわらず内弟子として、邸へ入り込ませて自由にさせたのには、少しく意味がありましたので、ようすを見ようとしたのでござる。するとはたして思った通り、表面ではまめまめしく働きながら、蔭へまわると陰険至極にも、拙者の書面をひらいて見たり、拙者の書き物をあけて読んだり、不都合のことばかりをいたしてござる。『ははあいよいよ間者だな』――と、このように見きわめましたので、近日に懲《こ》らしめて追いやろうものと、思案を凝らしておりましたしだいで。……すると今日の仕儀でござる。……しかしそれにしてもなんのために、拙者の足を薙ごうとしたか、この点ばかりは拙者にも疑問で。……が、どっちみちそのようなことはよろしい。とにかくこやつを介抱して、呼び生かして邸から追い出しくだされ」
 フッと武者窓から外を見たが、
「おうおう、とうとう日が暮れてござる。稽古も今日はこれまでといたそう。さあさあお帰りなさるがよい。拙者はこれから例の所へ参る。庄田氏、菰田氏一緒にござれ」
 こういいすてて面籠手をはずして衣裳を着換えて門弟をつれて、山県紋也が邸を出たのは、初夜を過ごしたころであったが、そうやって紋也が出て行った後の紋也の邸の奥の座敷で、しめやかに語っている男女の者があった。
 一人は紋也の妹の鈴江で、もう一人は弟の小次郎であった。

強気の姉弱気の弟

「水戸様の石置き場の空《あき》屋敷へ、今夜も兄上にはまいられましたようで。私には不安でなりませぬ」
 十七歳の小次郎は、まだ前髪を立てていた。紫の振り袖でも着せたいようなきゃしゃな美貌の少年武士である。肩などはなだらかで女の肩のようで、細い首の上へ面長の顔が、あぶなっかしそうにのっている。
 燭台の灯がまたたいて、襖《ふすま》の引き手の円い金具が、そのつどしらじらと光って見える。で、部屋の中は静かであった。
 と、サラサラと音がした。秋の夜風が出たのでもあろう。庭の木立ちが騒ぐのでもあろう。
 と、コトコトと音がした、下女が台所で洗い物をしていて、器《うつわ》と器とをぶっつけたのでもあろう。しかし部屋の中は静かであった。
 燈火に右の頬を明るく光らせて、キチンとすわっている小次郎の影が、左側の畳の上へ落ちている。と、その影法師を揺するようにして、小次郎は一|膝《ひざ》一膝を進めたが、
「姉上そうではござりませぬか。私には不安でなりませぬ」――で、姉の鈴江を見た。
 弟小次郎の平素着《ふだんぎ》らしい、浅黄色の無地の袷《あわせ》の袖を、しなやかに縫っていた姉の鈴江は、うつむけていた額を軽く上げたが、
「ほんとに小次郎は弱気だねえ。そうも心配をするものではないよ。兄上には兄上の思惑があって、あそこへおいでになるのだからね」
 ――で顔をうつむけたが、しなやかに縫う手を進めて行く。布をくぐったり布に隠れたり、虫でもはって行くがように、針が銀色にチカチカと輝く。二人はしばらく黙り込んだ。
 庭の草むらで露を吸いながら啼きしきっている虫でもあろう、虫の音が部屋まで届いて来た。
 と、ポツンと音がした。昼間の間に部屋の中へ、こっそり忍び込んでいたのでもあろう、一匹の蟋蟀《こおろぎ》が飛んで来た。長い触鬚《しょくしゅ》をピラピラと揺すって、巨大な蚤《のみ》のような形をして燭台の脚の下にうずくまっている。いかにも初秋の夜らしかった。
「わけてもこのごろは私たちの一家は、つけ狙われておりますのに、あのような物騒な空屋敷などへ、しげしげおでかけなさいますのは不安至極に存じますよ」同じようなことをいいながら、小次郎は蟋蟀へ眼をやった。「あの石置き場の空屋敷は、いやなところでございます。恐ろしい所でございます。娼婦とゴロン棒と食い詰め者と、悪党どもの巣でございますもの」
 しかし鈴江は微笑したばかりで、顔も上げなければ返辞もしない。針の手を進めて行くばかりである。
「私も二、三度は参りました。自分から進んで参ったのではなくて、兄上や姉上に無理|強《じ》いをされて、やむを得ず参ったのではございますが。……行けば行くほど私にとりましてはあの石置き場の空屋敷は、いやなところでございます。何があそこにはあるでしょう? 腐った夜気、淫蕩の音色《ねいろ》、麻痺した良心、不義悪徳、そのようなものばかりではございませんか。とうてい真面目な人間などが、行くところではございません」
 またポツンと音がした。蟋蟀がひとはね元気よくはねて、燭台の燈火へ飛びつこうとしたが、そこまで力が及ばなかったからか、黒塗りの燭台の脚を越して、向こう側の畳の上へ落ちたがために、醸《かも》されたささやか[#「ささやか」に傍点]な音であった。
 畳の上へ兀然《こつぜん》と立って、まるで怒ってでもいるように、飛び脚を高く鉤《かぎ》のように曲げて、蟋蟀は気勢をうかがっている。
 姉が返辞をしないので、小次郎は寂しさを感じたらしい。独り言のようにつぶやいた。
「いつぞや泉嘉門殿の屋敷で、桃ノ井兵馬とかいう悪侍を、兄上と姉上とでお懲《こ》らしなされて以来《このかた》、私たち一家の身の上へは、いつも物騒な脅迫の手がのばされているはずでございますよ。先刻方屋敷から追い出してやった、あの友吉という内弟子なども、どうやら敵方の間者とかいうことで。恐ろしいことにござりますよ」
 しかし鈴江は依然として、しなやかに指を運ばして、袖を縫って行くばかりであった。まだ蟋蟀は動かない。触鬚で空間を探っている。
「姉上」と小次郎は声を強めた。

園子の噂

「姉上!」と小次郎は声を強めたが、姉の鈴江が縫う手も止めなければ、うつむいた額も上げなかったので、小次郎は意気込みを砕かれてしまって、気の弱い萎縮したおどおどした声で、独語《ひとりごと》のようにいい出した。
「どうやらこのごろ兄上のもとへ、京都の青地園子《あおちそのこ》様から、いかにも思い余ったような、お気の毒なご書面がまいりましたようで。兄上から内情を承りました。そのご書面によりますと、園子様の兄上の青地清左衛門様は、徳大寺様の密使を受けまして、江戸へ密行をなされる途中、箱根の峠路で何者とも知れず、殺害なされてお逝《な》くなりなされたそうで。お気の毒でお気の毒でなりませぬ。……私たち兄弟と同じように、園子様にはご両親がなくて、お一人のはずでござりますよ。それでぜひともこの土地へ参って、兄上とご一緒におなりになりたいような、お心持ちだとか承りました。これはまことにごもっとものことと、この小次郎には存ぜられます。おやさしいお美しい園子様と、兄上とは許婚《いいなずけ》でございますもの。で、私は兄上に向かって、すぐにも京都から園子様を、お呼びしてご一緒におなりなさいますようにと、おすすめしたのでございますよ。するとどうでしょう兄上には、『武家の堅苦しい娘などよりも、砕けた市井の女のほうが、わし[#「わし」に傍点]の嗜好《このみ》に一致する。水戸様石置き場の空屋敷に出入りをしている女どものほうが、私にはうってつけ[#「うってつけ」に傍点]に恰好だよ』――などとこのようにおっしゃいまして、ご返辞さえも差し上げなかったようで。……で、私には思われました。兄上はお心が変られたのだと。大義という言葉をかこつけ[#「かこつけ」に傍点]にして、その実は放蕩に溺れられたのだと。……よくないことでございます、よくないことでございます!」
 園子という名がいわれ出した時から、鈴江は動揺を現わしはじめた。縫う手を止めて顔を上げたが、見れば眼の中に涙のようなものが、うっすらとして流れていた。
「実はね妾《わたし》もお兄様から、園子様のご書面を見せられたのだよ。なんで妾が園子様へ、同情をしないことがありましょう。それこそ園子様というお方は、神様といおうか仏様といおうか、慈悲深くてご親切で犠牲的で、邪気というものの一点もない、お美しいお方ですものね。……でも妾はお兄様へ向かって、全くお前さんとは反対のことを、その時押し切っていったのだよ」こういってから姉の鈴江は、また縫い物の針を運ばせて、顔をそっとうつむけた。前髪にかぎられ[#「かぎられ」に傍点]て燭台の灯が、眉まで影をつけている。
「反対のこととおっしゃいますと?」案外らしく小次郎が訊いた。切れ長の眼がパッとひらいて、一瞬間つぶらになったのは、驚いた証拠ということができよう。と、鈴江は顔を上げたが、
「まだまだ当分は園子様を、江戸へお呼び寄せなさいますなと、つまりこのようにいったのだよ」――で、またうつむいて縫って行った。
「それはまた何ゆえでございますか?」小次郎の声は急込《せきこ》んでいる。
「園子様があまりにもよいお方だからだよ」
「そのようによいお方でございますから、お呼び寄せなさればよろしいのに」
「園子様があまりにも清浄だからだよ」
「それではいよいよ園子様を、お呼び寄せなさればよろしいのに」
「園子様があまりにもお弱いからだよ」
「ではますますお呼び寄せになって、お助けなさればよろしいのに」するとにわかにすわり直すように、鈴江は厳然たる態度をとったが、
「小次郎!」と鋭く声をかけた。
「そういう園子様のよいご性質が江戸へおいでになることによって、悪くなられると思われるからだよ」
「私にはハッキリとわかりかねますが」
「というのは今の私たちのくらしが、秘密が多くて陰惨で、そうして殺伐で危険だからだよ」
「お言葉の通りでございますよ」小次郎は膝を乗り出すようにしたが、「私どもの只今のくらし方は秘密が多くて陰惨で、そうして殺伐で危険でござります。ですから私は申し上げましたので、もう少しく兄上におかれまして、ご自重なされてくださればよいにと」
「小次郎やお前は若死にしそうだねえ」どうしたものか姉の鈴江は、不意にこういって、小次郎を見据えた。

蟋蟀《こおろぎ》の身の上

「小次郎やお前は若死にしそうだねえ」と、意外なことをいわれたので、小次郎は怪訝《けげん》そうに姉をみつめた。と、鈴江はそういう小次郎の顔を鋭く見据えつづけたが、にわかに顔色を寂しそうにした。
「私たち三人の兄弟のうちで、お前さん一人だけが心配性で、物事にひどく屈托《くったく》をして、悪いほうへ悪いほうへと、考えまわして行くということは、ずっと以前からわかってはいたが、このごろはそういった傾きが、だんだんひどくなって来たよ。で、このままで行こうものなら自分で自分へ病いをこしらえて斃《たお》れてしまいそうに思われるのだよ。……なんとなくお前さんは影が薄いねえ。それで妾はお前さんへいいたい。お兄様のことはお兄様にまかせ、妾のことは妾にまかせ、園子様のことなども心にかけないで、お前さんはお前さん一人だけのことを、考えるようになさるがよいとね。なるほどお前さんの眼から見れば、水戸様石置き場の空屋敷などへ、お兄様や妾が出かけて行くのは、物騒にも見えれば危険にも見え、また自堕落《じだらく》にも見えるかもしれない。でも、こういうことも思うがいいよ。お兄様にしてからが妾にしてからが決して決してそういった所ばかりへ出入りをしているのではないということをね。お前さんにしてからが知っているはずだよ。土屋|采女正《うねめのしょう》様のお屋敷へも牧野遠江守様のお屋敷へも、中川修理太夫様のお屋敷へも、水野豊後守様のお屋敷へも、いいえいいえそれどころではない、光圀《みつくに》様以来勤王の家として、柳営の方々にさえ恐れられていられる、水府お館へさえ招かれて、時々私たちは行くではないかえ。……敵は私たちに多いかもしれない。でも味方も多いのだよ。めったに乗ぜられるものではないよ。それにまだまだ私たちの素性や、目的や手段や後ろ楯については、ハッキリ気取られてはいないのだからね。心配するほどのことはないよ。……水戸様石置き場の空屋敷などへ、たとい私たちが出入りをしたにしても、それはほんの[#「ほんの」に傍点]憂さ晴らしでもあり、いい換えれば息抜きでもあるのだよ。もっともあそこにいるああいう人たちへ、私たちの思惑を伝えるのも、大切なことには相違ないがね。……どっちみちお前さんが心配するように、お兄様にしてからが妾にしてからが、自堕落にもなっていなければ、危険にさらされてもいないのだよ。……」
 こう鈴江はいって来たが、膝の上へ置いていた縫いかけの袖を、しずかに取り上げると畳の上へ敷いて、縫い目を爪先でこするようにした。
「上等の袷が仕立て上がります。明日から着せてあげましょう。くよくよせずと向島へでもいって、秋草の花でも見て来るがよいよ。……でもほんとにお前さんはこのごろ影が薄くなったねえ。妾にはなんとなく心がかりだよ。よくないことでも起こらなければよいが」
 ――と、その時ポツンという、ささやかな音がしたかと思うと、今まで燭台の向こう側にいた蟋蟀が近くへ飛んで来た。と、そろそろと歩き出したが、黒い羽根を燭台の灯に光らせて、鈴江の指の先まで来た。
「…………」無言で鈴江は手をのばすと、素早く蟋蟀を指の先でつまんだ。「ねえ小次郎やこれをご覧、可愛らしいけれども弱々しいではないかい。ちょうどお前さんのようだよ」眼の前へ蟋蟀をかざすようにしたが、「ちょっとでも指の先へ力を入れて、ほんの心持ち押えただけでも、弱い虫は死んでしまうだろうよ。お前さんもそんなように思われるねえ。ちょっとでも荒くあたろうものなら、お前さんは死んでしまいそうだよ」二本の指をヒョイといらった。「おいでおいで安全なところへ」――と、蟋蟀はひとはねはねたが、指の間から畳の上へ飛んで、そこでようすでも窺《うかが》うかのように、例によって触角を空でふるわせた。
 戸外では風の音がする。
 風の音を縫って虫の声がする。
 が、部屋の中は静かであった。
 畳から取り上げた、袷の袖を、鈴江は無言で縫って行く。
 そういう鈴江と対座をして、小次郎は腕を組んでいる。
 で、部屋の中はしずかであった。
 しかしそういう静けさを破って、小次郎の溜息が聞こえて来た。

姉の慈愛

「小次郎やお前溜息をついたの」
「…………」
「妾には見当がついているよ」
「…………」
「お前さんはいやになったんでしょうね」
「…………」
「巷《ちまた》で働くということが。……ねえお前さんにはいやになったんでしょうね」
「…………」
「そうねえ、お前さんの性質としては、それも無理ではないかもしれない」
「…………」
「お前さんは結局書斎の人だよ。……学者としてのお父様の、一面ばかりを受けついだ人だよ。……でも私たちのお父様には、巷に立って号令をして、世を動かそう清めようとなさる、そういう一面もおありになされたのだよ。……でもそういう一面は、お前さんには伝わっていないねえ」
「…………」
「お兄様とそうして妾とへは、色濃く伝わっているけれど」
「…………」
「でも妾はお前さんにいうよ。せめて剣道でもお稽古なさいってね、よそほかの道場へ通って行って、お稽古をしていただくのではなし、内の道場でお兄様から、お稽古をしていただけばよいのだからね。……以前はそうでもなかったけれど、この頃ではお前さんは道場へも出ず、竹刀を取り上げようともしないではないかえ。どうもそれではよくないねえ。だんだん体だって弱くなりましょうよ。……」
「…………」
「でも妾はお前さんが好きだよ。妾と性質が似ていないので、それでかえって好きなのかも知れない。……お兄様はあの通りに磊落《らいらく》で、快活で剽軽《ひょうきん》で大胆だから、やはり好きには相違ないけれども、でも妾にはお兄様は、兄弟などというよりも、同志といったほうがふさわしい[#「ふさわしい」に傍点]のだよ。……そこへ行くとお前さんは反対だよ。兄弟らしい気がするよ。行き届いた細かい愛情で、お兄様や妾の身の上などを、いろいろに案じてくれるのだからねえ。可愛い可愛い弟と、妾には心から思われるのだよ。……だからもしお前さんの身の上などにもしものことがあろうものなら、妾にはどんなに悲しいだろう」
「…………」
「体を大切にしておくれよ。心をのびのびと持っておくれよ」
「…………」
「私たちの使命が片づいたら、さっそく江戸を引き払って、お前さんのすきな京都へ帰って、長閑《のどか》なくらしをすることにしましょう」
「…………」
「京都! ああ、いい所だわねえ。――平和にまどろんでいる東山、鷹揚《おうよう》に流れている鴨《かも》の川、寂《さ》びた由縁《ゆかり》のあるたくさんの寺々、秋に美しい嵯峨《さが》の草の野、春に美しい白河の郷《さと》、人の心も落ちついていて、険《けわ》しい所などどこにもない。……妾だって京都は大好きなのだよ。ね、帰って行きましょう。そうしておちついた[#「おちついた」に傍点]邸に住んで、お前さんは好きなご書物《ほん》を読んで、みやびやかな公卿方のお邸へ参ってご講義などをなさるがよいよ。……私たち三人をずっと昔から、可愛がってくだされた正親町様の、清らかで質素なお邸などへね。……でも小次郎や、京都へ帰るには、帰って行けるだけの功《いさお》をして帰って行かなければならないのだよ。でなかろうものなら笑われるのだからねえ。そうして申し訳がないのだからねえ」
「…………」
「だから妾はお前さんへいうのよ。辛抱をおしとね。今のくらし[#「くらし」に傍点]に辛抱をおしとね。じっ[#「じっ」に傍点]としていればよいのだからね。働かないでもよいのだからね。働くのはお兄様と妾とだけで、今のところよさそうに思われるからね。でもお前さんが元気を出して、お兄様や妾と一緒になって、同じように働こうとなされるなら、お兄様にも妾にも嬉しいのだけれど……」
 そういって鈴江は小次郎を見た。
 と、小次郎は腕を組んだままで、さっきから黙って聞いていたが、この時にわかに小次郎としては、意外なほどにもハッキリとした語気で、こうしたした[#「したした」に傍点]と意見をいった。

本当の人間と世間

「はい姉上の仰せられましたように、結局私という人間は、書斎の人間でございましょう。単なる学究でございましょう。でも私といたしましては、体が弱くて元気がなくて、巷へ出て行って事を行なおうにも、行なうことのできないほどにも、柔弱の性質《たち》であるがために学究となったのではございません。ええそれはいうまでもなく、兄上や姉上に比べましては、柔弱には相違ございませぬが、しかし身体からいいましても、これと申して病気はないし、また心から申しましても、たいして卑怯でもありませんし、たいして臆病でもございませぬ。にもかかわらず巷へ出て行って、兄上や姉上と力を合わせて、事を行なおうと致しませぬのには、理由があるからでございます。……人間嫌いだからでございますよ、世間嫌いだからでございますよ。でもどうして私のような、このような若い身そら[#「身そら」に傍点]をもってそのように人間が嫌いになり、そのように世間が嫌いになったのか? 不思議に思われるかも存じませぬ。聞いていただくことにいたします。私がこのように若いがために、かえって鋭敏に人間や世間の、本当がわかるからなのでございます。私から見ますると人間というものは徹頭徹尾嘘ばかりに、終始しているように思われます。で、ある人が『こういった』とします。すると私には思われますので『あああの人の本当の心は、あの反対をいいたかったのだ』と。またある人が『こうした』とします。すると私には思われますので『あああの人の本当の心は、あの反対をしたかったのだ』と。……私には人間というものが信じられないのでございます、世間はどうかと申しますに、一人一人の人間などの、思惑などには頓着をせずに、自分勝手に勝手のほうへ、盲目的に進んで行きます。ですから一人の人間などが、世間の進みを自分の力でかえてみようなどといたしましても、なしとげられるものではございません。……どっちみち私にとりましては、人間も世間も嫌いでございます。ですから自然人間や世間の、渦巻の中へ出て行って、事を行なおうなどとは思いません。しかし私は思っております。本当の人間というものや、本当の世間というものは、決してそのようなものではない。もっともっとよいものだ。そうして私は思っております、そういう本当の人間や世間は、私たちの周囲には決してないと、それではどこにあるのでしょう? 申し上げることにいたします。高い所にございます。心の中にございます。決して見ることはできませんが、考えの中へは入れることができます。すると姉上は仰せられましょう。何にたよって考えられるのかと、申し上げることにいたします。古聖賢の書《ふみ》を読むことによって、本当の人間や本当の世間を、感じ見ることができるのだと。……書斎の人間になりましたのは、こういう意味からでございます。……だがなんて俺は馬鹿なんだ!」
 こういうと小次郎は突然に立ったが、さも悩ましいとでもいうように、両手を上げると頭を抱えた。
「つまらないことを申し上げました。姉上が無知の人間かのように! 私が悟った人間かのように!」
 フラフラと小次郎は歩き出した。「偽りのないところを申し上げます。私とて美しい娘を見れば、恋しくも愛らしくも思われます。いえいえもっともっと酷《ひど》いことを、空想することさえもございます! 乳房を! 脛を! 抱擁をさえも!」
 フラフラと小次郎は部屋をまわった。
「なんだか苦しくなりました。戸外へ出て歩いて参ります」
 で、燭台の横を通って、クルリと鈴江に背中を向けて、小次郎は襖を引きあけたが、すぐに姿は消えてしまった。
 と、履物《はきもの》でもはくらしい、あわただしそうなものの[#「ものの」に傍点]音が、玄関のほうから聞こえて来たが、歩いて行く音がつづいて聞こえ、門の潜り戸をあけたらしい音が、聞こえてそうして消えてしまった後は、なんの物音も聞こえなくなった。
「あの子はほんとに可哀そうだよ」縫い物の手を止めたままで、鈴江は口へ出してつぶやいた。
「いちず[#「いちず」に傍点]に思い詰める性質《たち》だからねえ。……よくないことでも起こらなければよいが」鈴江の心配は杞憂《きゆう》ではなかった。
 というのは小次郎が月夜の町を、代官町まで彷徨《さまよ》って来た時、その代官町の露路の口から、数人の人影が現われて、次のような話をしたからである。その結果大事件が起こったからである。

代官松の乾児たち

 山県紋也の邸を出て、雉子《きじ》町の通りを東南へ下れば、吹矢町、本物町、番場町となって、神田川の河岸へ出る。――今日の地理とはだいぶ違う。その区域に立っている大名屋敷といえば、酒井|若狭守《わかさのかみ》、松平|左衛門尉《さえもんのじょう》、青山|下野守《しもつけのかみ》、土井|能登守《のとのかみ》、――といったような人々の屋敷屋敷で、その間に定火消《じょうびけ》しの番所もあれば、町家も無数に立っている。そこを行き過ぎれば代官町となる。――すなわち今日の連雀《れんじゃく》町の辺で、町家ばかりが並んでいる。
 さて邸を出た小次郎であるが、たっぷりと月光につかりながら、代官町まで彷徨って来た。と、小広い露路があったが、そこから四人の人影が出た。
「おやきゃつは友吉ではないか」たしかに一人は友吉であった。
「おおそうそう、この露路の奥に代官松の住居があったはずだ。ははアそれでは友吉という男は、あの目明しの代官松の乾児《こぶん》の一人であったのか」小次郎には胸に落ちて来た。「代官松が我々一家を目の敵《かたき》にしてずっと以前から付け狙っていると聞いていたが、さては友吉というあの乾児を、狡猾にも間者として入り込ませて、家の秘密を探らせたものとみえる」
 それにしても四人も打ち揃ってどこへ何をしに行くのであろうか? ――これが小次郎の気にかかった。
「後をつけてようすを見てやろう」――で、小次郎は後をつけた。
 友吉をはじめとして四人の者は小次郎につけられているとも知らずに、広い往来へ肩を並べて、話しながら先へ進んで行った。
 と、友吉の声が聞こえた。「……ふっと[#「ふっと」に傍点]打てるような気がしたのさ、よしひっぱたいて[#「ひっぱたいて」に傍点]片輪にしてやろう、こう思って足を払ったってものさ。……だがさすがは山県紋也だ、あべこべに俺《おい》らを打ち据えおった……左の横面が痛んでいけない」左手を上げると横面をおさえた。「ズキンズキンと痛みおる」四人は先へ進んで行く。
 と、一人の男がいった。「苦心をした甲斐はあったってものさ。きゃつの背後楯《うしろだて》の人間が正親町様だということが、お前の探索でわかったんだからな」
「うん」と友吉はうなずくようにしたが、「たいして手間暇はかからなかったってわけさ。京都から来る飛脚の状箱を、こっそりあけるだけでよかったのだからな」四人は先へ進んで行く。と、もう一人の男がいった。
「親分、うまくやってくれればよいが」
「そうさ」とこれは友吉であった。
「普通の捕り物とは違うのだからな」
「こっそり引っくくるか叩っ殺してしまえ――というのが狙いどころなんだからな」
 しばらく四人は黙り込んだが、先へズンズン進んで行く。深夜というのでなかったけれども、道の両側の家々では、雨戸を引いて静まっていた。月光ばかりが道や屋根を照らして、霜のような色を見せている。
 と、もう一人の男がいった。「だが佐久間町の屋敷には、何者が籠っているのだろうな」
「さあそいつ[#「そいつ」に傍点]はわからない。親分が何ともいわないんだからな」こういったのは友吉であった。
「俺らの役目は楽なものさ。あの屋敷を厳重に見守っている。そうして人数が出るようだったら、急いで走って行って親分に知らせる――というだけのことなんだからな」
「それじゃ何かい、あの屋敷には大勢の侍でもいるのかい」四人の中の一人であった。
「親分が何ともいわなかったから俺《おい》らにはどうなのかわかりゃアしないよ。……でも親分はこんなことはいった。幾人かの大名や旗本衆が、あの屋敷の老人を助けているとな」
「老人?」と一人が怪訝《けげん》そうに、「老人なんかがいるのかい?」
「死んだ老人だということだ。去年伊豆の三宅島でな。……痛いなあ、ズキズキすらあ」また友吉は横面をおさえた。
「大きな鯨《くじら》だともいわれていたっけ」
「死んだ年寄りの鯨なのかい?」
「じゃア人間じゃアないのだな」二人の男が笑いながら訊いた。
 と、友吉も笑い声を立てたが、「老人で、鯨で、大学者だそうだ。そうして北条のお殿様にとっては、恐ろしい敵だということだ」

空屋敷焼き討ち

「北条の殿様の敵だとすれば、左近将監《さこんのしょうげん》様にも敵にあたるわけだな」誰とも知れずに一人がいった。「お二人はグルだということだからな」
 と「オイ」という声がした。友吉は急いでたしなめたのである。「ご老中様のお名前なんかを、大きな声でいうものじゃアないよ……だがお前のいった通り、糸をたぐるとそういうことになるなあ」
「左近将監様や北条の殿様の、敵にあたるというからには、自然代官松の親分にも、敵にあたるということになるな」――誰とも知れずもう一人がいった。「親分は北条のお殿様から、内々眼をかけられているのだからなあ」
「ということであってみれば、大学者で鯨で死んだ老人というのは、京師方の奴に相違ないなあ」誰とも知れずまた一人がいった。「将監様にしても美作様にしても、幕府のご権臣やお歴々で京師方の公卿衆の妄動ってやつを、敵として憎んでいられるのだからなあ」
「そうだよ」と友吉はうなずいてみせた。「大学者で鯨で死んだ老人というのが、京師方の人間だということだけは親分の口ぶり[#「ぶり」に傍点]で確からしいよ。ところでその老人は老人として、左近将監様や北条美作様を、幕府方の元兇として敵としているし、また将監様や美作様は、その老人を京師方における、ちからのある陰謀の大立て者として、敵として憎んでいられるらしいのだよ」
 いつか友吉をはじめとして、四人の乾児たちは往来を行きつくして、神田川にかけてある橋の上へその姿を現わした。
 橋の欄干が月の光に濡れて、これも霜でも下りたかのように見える。おだやかに、流れている川の水の上にも、霜のように月の光が降りそそいでいて、水明りをボッと立てている。対岸には水谷町だの鞘町だのの、ゴチャゴチャとした小さい家ばかりを持った、町家町が黒々と横たわっていたが、屋根を抜いて高い火の見|櫓《やぐら》が、星を頂きに飾りながら、四方を見まわして立っているのが、夜空に風情を添えて見せた。鞘町の向こうが佐久間町なのである。
「そこで水戸様石置き場の、空屋敷へ親分と俺たちの仲間が、今夜乱入しようとするので、大学者で鯨で死んだ老人って奴が、人数を出そうというのだな」
「とすると紋也とその老人とは、一味徒党というわけだな」
「そりゃア一味徒党だとも。でなかったら紋也を助けようとして、人数を出す気づかいはないからなあ」
「紋也も京師方の人間なら、老人も京師方の人間なのだからなあ」
 橋を向こう側へ渡り越した時に、こう三人の仲間がいって、友吉のほうへ顔を向けた。
 と、友吉はどうしたものか、そうではないというがように、首を二、三度左と右へ振ったが、
「どうも親分の口ぶりからみると、そうではないように思われるのさ。二人ながら京師方の人間ではあるが、働きはなんとなく別ッこらしいそうだ」
「連絡ってものもないのかな」
「うむ、どうもそうらしい」
「ではなぜ人数を出すのだろう?」
「部下が入り込んでいるからだそうだ」
「ほう、どんな部下なんだろう?」
「一人は綺麗な女煙術師で、一人は相棒の小男だそうだ」
「綺麗な女煙術師が、水戸様石置き場の空屋敷へ、出入りをしていると知っていたら、俺《おい》らそれこそ張りに行ったものを」
「どうだこれから出かけて行っては」
「焼き討ちにされるのはまっぴらだよ」ここで四人は一緒に笑った。
 水谷町まで四人はやって来たが、やがて鞘町へ抜けようとした。
「届けて捕り物をするのではなし、焼き討ちなんかしてもいいものだろうかな」ふと一人が不安そうにいった。
「うん、そいつは大丈夫だよ」友吉はその一人へ顔を向けたが、「北条の殿様へ親分のほうから、申し上げてあるということだ」
「焼き討ちを今夜と定めたのは、どういうところから来ているのだろう?」
「それだってなんでもありゃアしない」いいながら友吉は四方を見たが、「おい、そろそろ佐久間町だぜ」
 そこは佐久間町の一丁目であった。

注進に走る小次郎

 友吉をはじめとして四人の者はこうして佐久間町の一丁目まで来たが、不思議な老人の籠もっているという、佐久間町二丁目の屋敷へまでは、少しく距離があったのでなおもヒソヒソ話しながら、ひそやかに先へ進んで行った。
 月が四人を照らしている。四人の影が地へ曳いて見える。せわしそうに二、三人の往来の人が、四人とすれ違って歩いて行ったが、その後は一時人通りが絶えた。ここは片側の町である。一方の側には町家が並んで、家々は屋根を月光にさらして、灰白《かいはく》色にぼかしていたが反対の側には川があって、水が音も立てずに流れていた。すなわち神田川の流れである。四人は先へと進んで行く。
「なにの、それはこういうわけだ」友吉は含んだ笑い声で、一度に三人へ聞かせるようにいった。「第一に紋也の後ろ楯が、正親町様だとわかったので、それで遠慮も会釈もないやっつける[#「やっつける」に傍点]ことに定めたのさ。第二紋也が今日という今日|俺《おい》らをひどい[#「ひどい」に傍点]目に会わせたので、親分が俺らを気の毒がって、敵《かたき》を取ってやろうというので、それでやっつける[#「やっつける」に傍点]ことに定めたってものさ。ああそうだよ、今夜やっつける[#「やっつける」に傍点]ことにな」得意そうに肩をそびやかすようにしたが、「親分は人情が厚いからなあ」
「全く親切で人情に厚いや」三人の中の一人がいった。「その親分だがやりそこなわなければよいが。全体幾人で出かけたんだろう?」
「四十人近くの人数だとよ」友吉の声に不安はなかった。「兄弟分の橋場《はしば》の大将と、河岸の親分とがよろしいというので、一緒に行ってくれたそうだ」
「なるほど」と三人の中の一人がいった。「人数に不足はなさそうだな。……ところで火の手は上がらないかな」で、空を仰ぐように見た。
「そうさ、そろそろ上がるかもしれない。……少し急いで行くとしよう」
 こうして四人は足を早めたが、まもなく佐久間町の二丁目の、土塀のいかめしい、植え込みの繁った、大門の厳重な屋根の前へ揃って姿を現わした。
「おいこの屋敷だ」
「さてどうする」
「四方へ散って見張ることにしよう」
「よかろう」
 という声がしたかと思うと、友吉をはじめとして四人の男の姿が消えて見えなくなった。露路や裏手や物の蔭などへ、素早く姿をかくしたのであろう。で、ひとしきり静かとなって、人の姿は見えなくなった。が、一つの人影はあった。
「これはこうしてはいられない。代官松の連中が、水戸様石置き場の空屋敷を襲って、兄上に危害を加えようとしている。急いで走って行ってお知らせしなければならない」
 その人影こそは他でもない、友吉をはじめとして四人の男を、代官町の露路から、ここまで後をつけて来て、四人の話を断片的にではあったが、耳にした山県小次郎であった。
「何が幸いになるかしれない。家を出て彷徨っていたばかりに、兄上の一大事を知ることができた! ……焼き討ち! 恐ろしい話! ……お知らせしよう! 近道はどっちだ! ……ああ間にあってくれればよいが! ……だが老人とは何者であろう? いやそんなことはどうでもよい! ……この屋敷は? どうでもよい! ……北条美作が承知だという! あぶないあぶない、いよいよあぶない! 女煙術師? その相棒? そんな人間はどうで……もよい! 危険だ危険だ兄上が危険だ!」考えがグルグル渦を巻く。
 が、取る道は一つしかなかった。焼き討ちのはじまらないその以前に、水戸様石置き場の空屋敷へ行って、危険の迫っているということを兄に知らせるよりほかにはなかった。
 で、小次郎は腰の大小を束に両手で握りしめると、佐久間町の通りを両国のほうへ、疾風のように走り出したが、このころ覆面をした忍び姿の、二人のりっぱな侍が、佐久間町二丁目の方角をめざして話しながらしとしとと歩いて来た。

兵馬の眼

 両国橋を日本橋のほうへ渡って、さらに神田川を下谷のほうへ渡れば、平左衛門町の通りとなって、それを西のほうへたどって行けば、自然と佐久間町の通りへ出る。
 月の光を故意《わざ》と避けて、大小の鐺《こじり》ばかりを薄白くぼかして、北条美作と桃ノ井兵馬とが、今悠々と歩いて行く。
 と、美作は振り返ったが、「まだ火の手は上がらないと見える」
 すると兵馬も振り返って見たが、「まもなく上がるでござりましょう」
 ――で、二人は歩いて行く。道の片側の家々は、窓も雨戸も閉ざしていた。家の影が往来に落ちていて、そこだけは黒々と闇であったが、闇からはずれた往来の上には、月の光が敷き充ちていて、霜でも置いたように白々と見えた。
 美作と兵馬とは闇を縫って進む。人目を恐れているかららしい。
「松吉から知らせのあった時には、俺もちょっと不安に思ったが、行って見てすっかり安心したよ」美作の声は愉快そうであった。
「水戸様石置き場の空屋敷も、松吉の一味にああ囲まれましては、山県紋也をはじめとして、集まっている男女のヤクザ者たちは、一人として囲みを突破して、逃げ出すことはできますまい」
 話しながら先へ進んで行く。どうやら二人の話から推《お》せば、今夜水戸様石置き場の空屋敷を焼き討ちにかけようという、そういう知らせを代官松の手から、北条美作方へもたらされたので、そこで美作は兵馬を連れて焼き討ちが成功をするか、ないしは失敗に終わりはしまいかと不安に思って空屋敷へまで行って、ようすを見ての帰りらしい。
 二人は先へ進んで行く。どこへ二人は行くのであろうか? 安心して本郷の美作の屋敷へ、引っ返して行く途中なのであろうか? いやいやそうではなさそうであった。こう美作がいい出したのであるから。
「紋也のほうはあれで片付く。松吉が仕止めてしまうであろう。……心にかかるはあの老人を助けている連中どもだ」
「は、さようでござります」
「人数を出さないとも限らないからな」
「は、さようでござります」
「厳重に見張りをすることにしよう」
「厳重に見張ることにいたしまする」
 果然二人の行く先はわかった。例の佐久間町の二丁目の、不思議な老人の籠っている屋敷へ、見張りをするがために行くのであった。しばらく二人は沈黙をつづけて、先へ先へと歩いて行く。と、桃ノ井兵馬であるが、闇から月光の中へ出た。覆面をつけているがために、ハッキリとは顔はわからなかったが、一方の眼を白い布で、グルグルと包帯しているのが、黒い頭巾の間から洩れて、気味悪く月光に照らされて見えた。
「眼はどうだな? まだ痛むか?」
「はい」というと桃ノ井兵馬は、無意識のように片手を上げて、その包帯をした片眼をおさえた。「痛みは癒《なお》りましてござりますが……」
「視力のほうは恢復しないか」
「失明いたしましてござります」
「気の毒だな。気の毒に思う」すると兵馬は腰をかがめたが、「怨みが三重となりました」
「…………」美作には意味がわからなかったらしい。無言で闇から兵馬のほうをすかした。
「怨みが三重になりました」兵馬の声は顫《ふる》えている。「主義の敵に親同士の怨みに、失明されました私自身の怨みに……」
「いかさま」――とそれを聞くと北条美作は、納得したように肩を揺すったが、「復讐の念も強まったであろう」
「いうまでもない儀にござります」ますます桃ノ井兵馬の声は、憤《いか》りと怨みとに顫えを帯びて来た。「大弐の遺児の兄弟三人、紋也と小次郎と鈴江を嬲《なぶ》り殺しにいたさないことには、胸の中が晴れませんでござります」
 兵馬はまたもや片眼をおさえた。いつぞや泉嘉門の屋敷で、山県紋也と切り結んでいた際に、突然に紋也の妹の鈴江の、吹き針の鋭い針に射られて、潰されてしまった片眼なのであった。二人は先へ進んで行く。と、美作が声をひそめていった。「そちの女房の君江とかいう女子が、発狂したとは本当のことかな?」

君江とお粂の噂

「そちの女房の君江とかいう女子が、発狂したとは本当のことなのかな?」こう美作に訊ねられて、兵馬は明るい月の光の中で、苦いような寂しそうな笑い方をした。
「発狂というところへまではまいりませぬが、時々精神を昂奮《こうふん》させましたり、常規を逸した行動に出たり、言葉に出ることはござります」
「お前があまりに虐《いじ》めたからであろう」こういいいい北条美作は、月の光のみちていて明るい、往来の中央へ歩み出して、兵馬と肩を並べるようにした。
「あまり女房などは虐めないがよいぞ」たしなめるような声であった。
 が兵馬には美作の言葉が、いくら[#「いくら」に傍点]か気に入らないようすであった。
「いえいえ決して理由もないのに、女房などを虐めは致しませぬ。ご前におかれてもご必要のはずの例の重大な秘密の書類を、女房の手より奪い取ろうものと、あるいは押し強く尋ねましたり、時には打擲《ちょうちゃく》いたしましたり、嚇したりいたしますのでございます」
「いやそのことならばわかっているよ。再々お前が話してくれたからな」美作は今度はなだめるようにいったが、「しかしはたしてお前の女房が、重大な秘密の書類などを、隠して所持をしているだろうかな。……お前は確かだとはいってはいるが」少し怪しいというように、美作は小首を傾けて見せた。
「間違いなく確かにござります」こういうと兵馬は自信がありそうに、月の光でほの白く見える右の肩を心持ちそびやかすようにしたが、「竹内式部の高弟としまして、信用の誰よりも厚くありました者が、私の女房の父親にあたる吉田武左衛門にござります。で式部は罪を受けます以前に、重大な秘密の書類のいっさいを、その武左衛門に預けましたはずで。……さようでなければなんで私が、姓名を騙《かた》り身分を偽り、佐幕思想とは反対の勤王思想家と偽ってまで、武左衛門の家に近寄りまして、入り婿などになりましょうぞ」兵馬はいささか得意そうであった。二人は先へ進んで行く。
 右手に流れている神田川の水が、にわかに微光を失ったのは、月が雲の中を通ったからであろう。が、ふたたび微光を放って、東へ東へと流れ出した。月が雲から現われたのである。
「兵馬!」と美作が声をかけた。
「そちの素性とそちの本名とを、女房はいまだに感づかないのかな」
「感づきませぬように存ぜられます」兵馬の声は笑止らしく、「佐幕方の浪人武士の、南条竹之助と思い込みまして、おりますようにござります」
「素性と本名とが知れた暁にはそちの女房はどうするであろうな?」
「本物の狂人になりましょう」
「狂人になっては可哀そうだの」
「敵方の女にござります」
「気が狂っても構わぬというのか」
「敵方の女にござります」
「が、連れ添う女房ではないか」
「女房などはさておきまして、たとえ実子でありましょうとも……」
「悪人だの! 極悪人だの」
「しかしご前と比べましては! ……」
「俺《わし》か、俺はな、善人だよ」
「は」と兵馬胆をつぶしたように、美作の顔をすかすように見たが、「ご前が善人にございますかな」
「いや善人とも善人とも」美作としては不似合いなほどにも、明るい道化た口調でいったが、
「なんなら証拠をあげてもよい」
「承りたいものにござります」
「懐中物を女の掏摸《すり》めに、すられたほどのうつけ者[#「うつけ者」に傍点]だよ、善人といってもよいではないか。……しかも大切な懐中物だった」
「巻き奉書のことでござりますか」
「うむ、両国の広小路ですられた」
「すりましたはお粂という女掏摸とのことで」
「うむ、松吉が話してくれたよ」
「女煙術使いでもありますそうで」
「うむ、松吉が話してくれたよ」
「例の老人の一味の由で」
「それも松吉が話してくれたよ」
「が、ご前にはお粂と申す女の、誠の素性につきましては、ご存知ないように存ぜられますが」兵馬はそれを知っているようであった。

お粂の体を

 自分はそれを知っていると、そういったような自信のある語調で、
「が、ご前にはお粂と申す女の、誠の素性につきましては、ご存知ないように存ぜられますが」と、兵馬が美作にいったのに答えて、
「京師方の女に相違ないと、松吉が話してくれたによって、それだけは俺《わし》も知ってはいるが、その他のことは何も知らぬよ。松吉にも詮索が届いていないらしい」こういって美作は兵馬のほうを見た。「お前は素性を知っているのかな?」
 すると兵馬は覆面した顔を、上下へ二、三度上げ下げして「さよう」という意味を現わしたが、「私にとりましてはお粂という女は、山県兄弟と同じように、主義の敵でもありますれば、父以来の敵にもござります、いやいやそればかりではござりませぬ。お互い同士に敵でもあります。あの女はあの女と致しまして、この私に対しまして、敵対行動をとっております」
「女の身そらで大胆な奴だの」美作は意外に感じたらしい。「いつどのような手段をもって、あの女はそちに敵対したのか?」
 興味深そうに美作は訊いた。と兵馬は苦々しそうに、左右の肩をそびやかしたが、
「ご前にはじめて本郷の通りで、お目通り致しましたあの夜のことで、お粂は手下の芸人ゴロを数人私にけしかけまして、討って取ろうといたしました」
「ははあそうか、あの夜であったか。……お粂の素性は何か?」
「さあ」といったが桃ノ井兵馬は、奇妙にもお粂の素性を、美作に語るのをはばかるようであった。
「ご前」と兵馬は笑い声でいった。
「あの女のことにつきましては、一切合財をこの私めに、おまかせくださるようお願い致したいもので」
「はてな」――とそれを訊くと北条美作は、解《げ》せないというように首を振ったが、「まかせるというのは何をまかせるのか?」「主として体躯《からだ》にござります」――いよいよ兵馬は笑い声でいう。
「あの女は美しゅうございますので」
「ほほう」と美作にはわかったようであった。「そちはあの女を好いていると見える」
「いえ私は憎んでおります」兵馬は美作をさえぎるようにしたが、「とはいえあの女が美人であると、そういう点につきましては、なんの異存もござりませぬ」
「さようか。……しかし、……どうしようというのか?」
「あの女を私ひっ[#「ひっ」に傍点]捕えまして、その美しさを味わいます。と、そのことは私にとりましては二重の得となりましょう。……一つは復讐となりまするし、一つは享楽になりますので」
「凄いの」と美作は驚いたようにいったが、「その凄さが俺《わし》には好きだよ。よしよしお粂というあの女のことは、いっさいそのほうにまかせることにしよう。素性も聞かないことにしよう。……それにしても火の手はまだ上がらぬかな」
 ふと立ち止まって北条美作は両国の方面と思われるほうへ、覆面頭巾の顔を向けた。空には真珠色の月の光が、海原の潮を想わせるように、茫々《ぼうぼう》として満ちている。込み入った都会の建物は、あるいは高くあるいは低く、あるいは尖《とが》りあるいは扁平に、その空の下からささえている。巨大な箒木《ははきぎ》のそれのように、建物の屋根をぬきんでて、空を摩している形があったが、薬研堀《やげんぼり》不動の森の木であった。その森の木から北東の一帯に、両国の盛り場はあるのであったが、水戸様石置き場の空屋敷も、そこの付近になくてはならない。で、もし石置き場の空屋敷が、焼き討ちにかかったとしたならば、その辺の空がいったいに、深紅に染められなければならなかった。まだ焼き討ちは行なわれないのであろう。その辺の空は月の光で同じ真珠色にぼかされていた。
 ふと止めた足をまた運んで、北条美作が歩き出したので、これも同じように足を止めていた桃ノ井兵馬も歩き出した。肩を並べて先へ進む。
「お粂という女の一身については、いっさいをお前へまかせることにするが、あの女にすられた巻き奉書だけは、どうともしてこちらへ取り返さなければならぬ」こういった美作の声の中には、断乎とした決心がこもっていた。
「取り返すことには致しまするが、その巻き奉書にはどのようなことが、記《しる》されてあるのでござりましょうか?」ぜひに聞きたいというように、兵馬は好奇心と熱心とで訊ねて、美作の顔をすかして見た。

巻き奉書と秘密文書

 巻き奉書の内容は何か? ――なるほどこれは兵馬にとっては、聞いて知りたいことであろう。で、兵馬は訊いたのであったが、美作の答えは曖昧《あいまい》であった。
「もちろん俺《わし》は知っているよ。京都所司代の番士の一人の、矢柄源兵衛が京都表から、わざわざ俺に持って来たのだからな。ただし本来は巻き奉書は、矢柄源兵衛の手によって、俺の所へ持ち来たされる文書では決してなかったのだ。京師の徳大寺大納言から、例の屋敷の老人のもとへ送られて来たところの文書なのだ。使者は徳大寺家の公卿侍《くげざむらい》の青地清左衛門という武士であったそうな。その清左衛門を矢柄源兵衛めが、箱根の山の中で討ち取って、奪って俺の所へ持って来たものだ。……さあ中身だが何といおうかな。俺は熟読したのであるから中身の有りようは存じてはいるが、ちとお前へはいいにくい。……しかしこういうことだけはいえる。――お前が奪おうと心掛けているお前の女房の持っているところの秘密文書の内容には『金子のあり場所』が記されてあるし、巻き奉書の中身には『人間の数』が記されてあるとな。いやいやそれ以上に大切なものが、血によって記されてあるのだよ。よいか、血汐で! それも無数に! どうもこれ以上はいわれないよ。……が、もう一言こういうことはいえる。お前の女房の隠して持っている秘密の文書を手に入れた上に、巻き奉書を手に入れたならば、あの老人をはじめとして、京師方の『一味』と『動力』とを根こそぎ刈り取ってしまうことができると。……もうこれ以上に話すことはできない」
 こういうと美作は口をつぐんで、正面を睨んだままで歩きつづけた。
 この美作の説明は、兵馬にとっては不足でもあれば、また不満でもあったけれども、いわないといったんいったからには、金輪際口を開こうとはしない、剛情我慢で英雄的の美作の性質を熟知しているので、強《し》いて訊ねようとはしなかった。とはいえ口の中ではつぶやいたのである。
「君江が隠して保存している、秘密の文書の中身には『金子のあり場所』が示してあるという。『金子のあり場所?』『金子のあり場所?』だがいったいなんのことであろう? 俺はそんなことは知らなかった。あの老人が罪を受ける前に、秘密の文書を取り揃えて、君江の父親の武左衛門の手へ、ひそかに預けたということばかりを、探って知ったばかりなのだ。秘密の文書の内容が、なんであるかは知らなかったのだ。……金子のあり場所が示してあるという。さてはそういう文書なのかな。……ではいよいよ君江をせめて、秘密の文書を手に入れなければならない! もう一息だ! もう一息だ! もう一息君江をさいなんだ[#「さいなんだ」に傍点]ならば、君江のほうから苦しくなって、進んで持ち出して来るだろう。……巻き奉書の中身には、人の数が示してあるという。なんのことだかわからない。血によって記されてあるという。しかも血汐で! しかも無数に! なんのことだかわからない。……が、どっちみちこの巻き奉書も、どうでも手中に入れなければならない。……お粂がすって奪ったという。今でもお粂が持っているかしら? それとも例の老人の手へ、すでに渡してしまったかしら? ……水戸様石置き場の空屋敷へ、お粂は今夜も行っているはずだ。松吉がうまく捕えてくれればよいが」
 考えながら桃ノ井兵馬は、北条美作と肩を並べて、先へと足を運んで行く。
 人の往来が稀《まれ》で、ここの通りは静かである。依然として左側に流れている神田川の水の面には、月の光が降りそそがれているし、右側に並んで軒を揃えている町家の門口は月の光にそむいて、暗く寂しく静もっている。川と家並みとにはさまれて、長くのびている往来の面には、月の光が蒼白く注がれ、そこへ家の影が筋を引いて、明るさと暗さとのハッキリした縞をこれも依然としてつけていた。
 そこを二人は進むのであった。
「泉嘉門の近況はどうか?」こう美作が声をかけたのは、しばらく歩いた後のことであった。
「今日もようすを見ようものと、嘉門の屋敷へ参りましたところ、嘉門は不在でござりました。が、娘がおりましたので……」こういって来て桃ノ井兵馬は、荒淫《こういん》らしい笑い声を洩らした。

火の手あがる

 桃ノ井兵馬の荒淫らしい、笑い声を聞くと北条美作は、さすがに不快になったらしく、手に持っていた扇の先で、刀の柄を烈しく打った。と、カッカッと音がして、すぐに白い物が胸の前で躍った。カッカッと柄を打った拍子に、扇が開いて白い地紙が、月の光をはねたからである。
「嘉門が不在で娘がいたとか? その娘をお前はどうかしたのか?」――すると、兵馬はまた笑ったが、
「お菊と申す嘉門の娘は、高貴の姫君にも劣らないほどにも、美しくて上品にござります。で、……」というとまた笑ったが、心ありそうに黙ってしまった。
 その心ありそうな兵馬の沈黙が、いよいよ美作を不快にしたらしく、
「嘉門の娘のお菊という女子の、美しくて上品だということについては、伜《せがれ》の左内から聞き及んでいるよ。であればこそ伜の左内めが妻にしようなどと悩んでいるのだ」
「娘お菊の心持ちも、いまだにご子息左内様から、離れられないように見受けられました」――それが俺には面白くないのだ――といいたげの口吻が、兵馬の言葉の節にあった。それがまた北条美作には、不快なものに響いたらしい。
「だからお前へいいつけたのではないか。左内とお菊との仲を裂いて、双方をしてあきらめさせるようにと」
「はいさようでござりますとも」――どうしたのかここで桃ノ井兵馬は、残忍な笑い声をひとしきり立てたが、「で、私は本日も参って、嘉門の留守をうかがいまして、ズカズカ家の中にはいって行きまして、娘お菊の柔かい腕を……」
「莫迦《ばか》者!」と突然それを聞くと、美作は怒声を筒抜かせた。「辱《はずか》しめたのか! なぜそのようなことをしたか!」
 しかし兵馬は驚かなかった。
「私が穢《けが》したとお聞きになりましたら、いかほど左内様がご執心でも、おあきらめなさろうと存じましてな」
「うむ」
「しかるに」
「何?」
「失敗で」
「失敗? ふうむ、何ゆえであったか?」
「相手があまりにも清浄で、神々しいほど初心《うぶ》でありましたので、おのずからひけ[#「ひけ」に傍点]ましてござります」
「ほほうそんな[#「そんな」に傍点]にもよい娘か」こういうと美作は打ち案じるがように、にわかに首を足もとへ向けた。黙々として歩いて行く。と、不意に美作はいった。「嘉門は悶《もだ》えているであろうな?」
「酒びたりとなって、不平不満をいいつづけて、悶えているそうにござります。……今日も朝から酔いしれまして、フラフラとなんのあて[#「あて」に傍点]もなく、外出しましたそうにござります。暁方に帰宅をいたしましたり、二日も三日も家を外に、泊まってまいることもありますそうで」
 しかし兵馬はこういって来て、急に口をつぐんでしまった。というのは肝腎の北条美作が、兵馬の言葉を聞こうともせずに、上の空でいるように見えたからである。が、必ずしも北条美作は、上の空で歩いているのではなかった。突然このようにいったのであるから。
「左近将監武元様には、最近にとりわけ[#「とりわけ」に傍点]ご寵愛であった、年若い側室《そばめ》を失われたはずだ。……お菊という娘がそれほどにも……」
「は?」と兵馬は迎えるようにいった。「奪い取りまして左近将監様へ……」
「さようさ」と美作は思案しいしいいったが、「そちに依頼をするかもしれない」
「いと易《やす》いことにござります」
 こうして互いに話しながら、佐久間町の町の入り口まで、美作と兵馬とが歩いて来た時に、一つの事件が行なわれた。というのは一人の若衆武士が、佐久間町のほうから風のように、二人のほうへ走って来たが、美作の身体へぶつかっ[#「ぶつかっ」に傍点]たのであった。
「無礼者めが! 粗忽千万!」
「火急の場合、お許しのほどを……」
「おっ、貴様は山県小次郎か!」
「どなたでござるな?」
「桃ノ井兵馬だ!」
「斬れ!」と美作の声がした。
 が、この時火事の光が、両国の空を深紅に染めた。水戸様石置き場の空屋敷が、今や焼き討ちをされたのである。

石置き場の空屋敷

 水戸様石置き場の空屋敷などといえば、化物屋敷めいて聞こえはするが、決してそのようなものではなくて、一種の下賤の歓楽境なのであった。水戸様の建築の用材の石を、積み重ねておく置き地があったが、空地《あきち》は凄いほどにも広かった。で全然必要のない、無駄な空地もあるわけである。そういう無駄な空地の所へ、いつからともなく家が建ったが、これが大変な家なのであった。というのは今日の言葉でいえば、バラック建てとでもいうべきであろうか、ろくろく鉋《かんな》も掛けないような、粗末な薄っぺらな板を集めて、きわめてやにっこく[#「やにっこく」に傍点]造られたもので、家の内で灯《とぼ》されている燈火の光が、板の隙間から見えようという、そういう大変な家なのであったが、しかし本当の「大変さ」は、そういう家の造りよりも、その家へ集まって来るところの、人間のほうにあるのであった。
 まず夜鷹《よたか》が集まって来た。というのは家を建てたものが、四谷の夜鷹宿の親方の、喜六という老人であったので、そうして家を建てた目的というのが、変った夜鷹宿を設けようという、そういう目的であったからでもある。夜鷹がその家へ集まるので、当然に嫖客《ひょうきゃく》が集まって来る。その嫖客たるや大変物で、折助《おりすけ》や船頭や紙屑買いや、座頭や下職や臥煙《がえん》などで最下等の部に属している、そういったような人間どもであった。で夜鷹と嫖客とが集まる。人間であるから飲み食いしたい。――という要求をいち[#「いち」に傍点]早く見抜いた、これも下等な屋台店などの主人が、こっそりそこへ店をひらいた。と、意外にそれがあたった。
「負けているものか」というところで、居酒屋の主人が酒店を開いた。とまたこれが大きにあたった。「負けているものか」というところで、駄菓子屋が店をひらいてみた。ところでこれも大きにあたった。「負けているものか」というところで――さよう続々と店ができた。「ああも店々が繁昌するのは、夜鷹宿が嗜好に合ったからだ。それ夜鷹宿をもっとふやせ」――というのであちこち[#「あちこち」に傍点]に巣食っていた夜鷹宿の主人が出張《でば》って来て、空地へ夜鷹宿を建てたところ、予期したように繁昌する。夜鷹宿が増築されたので、飲食店も数を増し、嫖客の数も数を増し、大いに盛るところから、それ地代などが騰貴して、縄張りなどの争いも起こる。と、元締《もとじ》めというようなものが、自然とできて世話をやいたり、頭をはねたりカスリを取ったり、うまいことをして贅《ぜい》をつくしたりする。
 女を買って飲み食いをする――そればかりでは面白くない。勝負勝負! これに限る! というので賭博が行なわれる。そこで博徒が入り込んで来て、「これはなんだ、渡りをつけろ! ……テラ銭をよこせ!」などと嚇《おど》す。そんなことには驚かないで、「お前さん貸元《かしもと》になってください」「うむ、そうか、それもよかろう」――嚇しに来た人間が大将になって、駒箱《こまばこ》を膝へ引き寄せて、「さあ客人張りなせえ」などといって商売をする。
 こうして成立をとげたのが、水戸様石置き場空屋敷なのであるが、しかしどうして空屋敷などというのか? というのは簡単な理由からで、昼間はいっさい商売をしない。で建物という建物が、空屋のようにガランとしている。そこで空屋敷というのであった。
 しかしそのような歓楽境が、そのような径路で成り立ったことについて、官では制裁を加えないのであろうか? 水戸様の用地だという事と、夜だけの商売だという点とで、いうところの、「見ていて見ない振りをする」――大目に見ていたということである。が、それとても一面のことで、役人などは元締めの手から賄賂《わいろ》を貰ってはいたそうである。
 繁昌するので美人も集まる。ちょっとりっぱな客なども来る。若い武士なども来るようになって、高尚めいた取りあつかいを、三、四軒の家ではしたそうである。
 ところがこのごろいつとはなしにここへ集まって来る男女の間へ、一つの流行唄《はやりうた》が流行《はやり》だした。「葵《あおい》の花はまもなく凋《しぼ》もう、しかしその代わりに菊の花が、全盛をきわめて咲くであろう。夏の次には秋が来るものだ」――こういう意味の流行唄《はやりうた》なのであった。流行《はやら》したは山県紋也であって、今宵も紋也は一軒の家の、土間の床几《しょうぎ》へ腰をかけながら、チビリチビリと酒を飲んでいた。

魔窟の紋也

「献酬《けんしゅう》などはまどろっこしい[#「まどろっこしい」に傍点]。酒は手酌に限るようだ。さて手酌で一杯飲もう。……しかし何かを祝おうではないか」
 こう紋也がいった時に、奥の座敷の方角から、女の笑い声が聞こえて来た。
「よろしい飲もう、女の笑い声のために!」で、紋也は盃を干した。
 すぐに徳利《とくり》を取り上げると、手酌で盃へ酒をついだが、徳利を置くと盃を取った。
「さて、何かを祝おうではないか」で、四辺《あたり》へ眼を配った。裸蝋燭《はだかろうそく》が焔を上げて、卓袱台《しっぽくだい》の一所に立っていた。
「よろしい飲もう、裸蝋燭のために!」で、紋也は盃を干した。
 すぐに徳利を取り上げると、手酌で盃へ酒をついだが、徳利を置くと盃を取った。
「さて何かを祝おうではないか」で、四辺へ眼を配った。正面に外への出入り口があって、暖簾《のれん》が夜風になびいていた。
「よろしい飲もう。暖簾のために」で、紋也は盃を干した。
 すぐに徳利を取り上げると、手酌で盃へ酒をついだが、徳利を置くと盃を取った。
「さて何かを祝おうではないか」で、四辺へ眼を配った。暖簾をくぐって嫖客の群れが、二、三人土間にはいって来た。
「よろしい飲もう、お客さんたちのために」
 で、紋也は盃を干した。すぐに徳利を取り上げると、手酌で盃へ酒をついだが、徳利を置くと盃を取った。
「さて何かを祝おうではないか」で四辺へ眼を配った。土間へはいって来た嫖客の群れが、賑やかに女たちに迎えられて、奥の部屋のほうへ通って行った。
「よろしい飲もう、享楽のために」で、紋也は盃を干した。
 すぐに徳利を取り上げると、手酌で盃へ酒をついだが、徳利を置くと盃を取った。
「さて何かを祝おうではないか」で、四辺へ眼を配った。
 三尺幅に一間ぐらいの長さの、足高の卓袱台《しっぽくだい》が四、五台がところ、土間に位置よく置かれてあったが、その一台を前に控えて、紋也は飲んでいるのであった。空の徳利が五、六本がところ、左の側に片寄せられてある。三皿ばかりの酒の肴《さかな》が卓袱台の上に置かれてあったが、一皿だけが荒らされていた。一見柔弱に思われるほどにも、紋也は美男でもあり、きゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]でもあったが、酒にはきわめて強かった。そうして酔っても崩れなかった。軽快な言葉つきや態度などが、いよいよ軽快になるばかりであった。そうして得意の冗談口や、洒落や滑稽や逆説などが口を突いてほとばしり出るばかりであった。
 十分に紋也は酔っているらしい。白皙《はくせき》の顔に紅潮がさし、眼の色が少しく据わっている。しかし姿勢は崩れていない。背後に奥の部屋へ通って行かれる、上がり框《がまち》の障子を背負い、右手に料理場の暖簾口を持ち、正面に外への出入り口を控えた、そういう位置へ腰を下ろしながら、一人で喋舌《しゃべ》って手酌で飲んで、眼につく物や耳に聞こえるものを、いちいち祝福して乾盃するのであった。ここは家号を「笹家《ささや》」といって、水戸様石置き場の空屋敷の中では、かなりに大きい私娼宿なのであった。
 それにしても紋也は一人だけで、そうやって飲んでいるのであろうか? 紋也の供をしてここへ来たはずの、庄田《しょうだ》、菰田《こもだ》の二人の門弟の、姿の見えないのはどうしたのだろう? 二人の門弟は土間から上がって、奥の小座敷の屏風《びょうぶ》の蔭あたりで、白首を相手に遊んでいるのかもしれない。しかし紋也は一人だけで、酒を飲んで喋舌っているのではなかった。
 女煙術師のみなり[#「みなり」に傍点]をした、お粂が同じ卓袱台を前に――もっとも少しく片隅へ寄って、山県紋也を見守りながら、両手の肘を卓袱台の上へ突いて、両の掌で頤をささえて、いたずらっ[#「いたずらっ」に傍点]児らしい顔付きをして、床几に腰をかけていた。
「さて何かを祝おうではないか」こう紋也が五度目にいって、四辺へ眼を配った時に、不意にお粂が声をかけた。
「妾《わたし》をお祝いなさいまし」それから右の手を前へ出したが、「一ついただこうではございませんか」

恋のお粂

 ――妾をお祝いなさいまし。……ひとついただこうではございませんか――こういってお粂が右の手を出して、紋也から盃を貰おうとしたが、紋也は素気《そっけ》なく首を振った。
「いやいや盃は差し上げますまい。付け込まれる恐れがありますのでな。……あなたを祝うこともいたしますまい。付け込まれる恐れがありますのでな」――で紋也は酒の満ちている盃を口まで持って行ったが、グッと一息に飲み干してしまった。と、盃を台の上へ置いた。それから少しく据わっている眼を真っ直ぐにお粂の顔へ注いだ。「うっかり好意を見せようものなら、すぐさま付け込んで来るというのが、今の世の人間でございますからな」
 で、唇をゆがめて見せた。裸蝋燭の光があたって顔の半面は明るく見えたが、反対側の半面は、影をなして暗かった。で、唇をゆがめた時に、明るい半面に隷属《れいぞく》している、前歯の四本だけが光って見えたが、その表情には用心深いところがあった。「どのように我輩《わがはい》を誘惑したところで、我輩は決して誘惑されはしないよ」――といったようなところがあった。
 結局お粂は拒絶《ことわ》られたのである。差し出した右手を所在なさそうに――やり場に困るといったように、差し出したままで迷わしていたが、にわかに侮辱でもされたかのように、ヒョイとひっ込ませると頤の下へやった。
「なんの妾がそのようなことを……」それからお粂はいらいらしながらいった。「付け込むことなどいたしましょう。付け込ませるあなた様でもございますまいに」
「いや」と紋也はそれを聞くと、ゆがめていた唇を食いしめるようにしたが、「あなたこそ私にとりましては、恐ろしい侵入者でございますよ。……正気の心を奪おうとされます」――で、徳利を取り上げると、手酌で盃へ酒をついだ。
「…………」お粂は返辞をしなかったが、頤をささえていた両の手を下ろすと、卓袱台《しっぽくだい》の上を無意識にこすった。思い惑っているようすといえよう。何かいおうかいうまいかと思って、思案にあまっているようすでもあった。と、にわかに横を向いたが、「恋しているからでござりましょうよ。……恋されている殿方というものは、恋している女をあつかましい[#「あつかましい」に傍点]者にも、付け込む人間にも見なさいますもので」こういってお粂は柄にも似合わず、台の上で指をもてあそび出した。
「誰が誰を恋しておりますのやら」今度はいささか気の毒そうに、そうして真相を知っていながら、わざと知るまいと努めるかのように、余事《よそごと》のようないいまわし方をしたが、「触れたくないものでござりますな。恋というような言葉などには」――で、盃を取り上げたが、濡れている縁を蝋燭の火に光らせ、つと[#「つと」に傍点]口まで持って行って、すぐと紋也は一息に干した。
 しばらく四辺《あたり》は静かであった。二人とも黙っているからである。
 嫖客の群れの往来する姿が、出入り口の暖簾《のれん》の隙から見える。と、時々チュッチュッという艶《なま》めかしい私娼《おんな》の口を鳴らす音が、嫖客の駄洒落や鼻唄もまじって、二人の耳へまで届いて来た。
 だがここの土間はしずかであった。と、その静けさを破壊しない程度の、悩ましいようなつぶやきの声が、こうお粂の口から出た。
「ずっと以前からでございますよ、一度しみじみ[#「しみじみ」に傍点]としたお話などを、いたしたいものと存じまして、変ないいまわし方ではございますが、あなた様の後を今日が日まで、どのように追いかけたことでしょう。するとどうでしょうあなた様には妾が悪女ででもあるかのように、逢うまい逢うまい、話をしまいと、そういうごようすをお見せになられて、避けてばっかりおいでなされた。……」怨情《えんじょう》とでもいうのであろう。眼には痛々しい光をたたえて、お粂は紋也をみつめたのであった。
 そういうお粂のようすを見ては、恬淡《てんたん》で磊落《らいらく》な紋也といえども、釣り込まれて優しい言葉ぐらいは掛けてやらなければならないだろう。しかるに紋也は逆に出た。
「しみじみとしたお話などを、あなたと取りかわせておりましょうものなら、あのいつぞや[#「いつぞや」に傍点]の晩のように、印籠をすられるでござりましょうよ」それから笑い声を高く立てた。

愛してはいるが

 なぜそのように山県紋也は、しおらしいお粂の言葉に対して、まるでお粂を冷かすかのような返辞と笑い声とを立てたのであろうか?
 紋也はお粂を嫌っているのであろうか? それともそのほかに訳があるのであろうか? それは今のところわからなかった。
 そんなような挨拶を紋也にされて、お粂はしおれ[#「しおれ」に傍点]てしまったであろうか? それとも怒って席を立ったであろうか? いやいや結果は反対であった。そういう紋也の挨拶ぶりが、お粂の心をして自由にさせ、また軽快にさせたらしい。同じように笑い声を高く立てたが、「あの印籠のことでござりますか。でもすり取りはいたしましたものの、お返ししたはずでございますよ。……そうして印籠をすり取りましたわけは、もうあの晩にあなた様に、申し上げたはずでござりますよ。妾という女のあるということと、佐久間町二丁目の土塀のあるお屋敷を、あなた様へ強くお知らせしたい。――というのがわけでありましたはずで」
 こういってはお粂はもう一度笑ったが、急に真面目な表情を作って、教えるかのようにいい継いだ。
「同志のはずでございますよ。はいはいあなた様とこの妾とは。……同じ一つの目的へ向かって、進んでいる同志でございますよ」
 で、紋也の返辞を待った。と、紋也はうなずいて見せたが、すぐに次のように意外のことをいった。
「同じ一つの目的に向かって、進んで行く同志ではありましょう。――しかしお互いにたのうだ[#「たのうだ」に傍点]お方は、別々のはずでございますよ」――で、盃へ酒をついだが、今度はすぐに飲もうとはせずに、盃中の酒に映っている燈火の影を凝視した。
「たのうだ[#「たのうだ」に傍点]お方?」と紋也の言葉を、お粂は口へ出してなぞる[#「なぞる」に傍点]ようにしたが、やがて意味がわかったものと見える。雌蕊《しずい》のようにも白い頸《うなじ》を、抜けるほど前へ伸ばすようにしたが、
「ええええ、さようでございますとも。妾のほうのたのうだ[#「たのうだ」に傍点]お方は、徳大寺様でござります」
「私のほうのたのうだ[#「たのうだ」に傍点]お方は、正親町《おおぎまち》様にござりますか」こういって紋也は意味ありそうに、お粂の近々と迫っている情熱的の美しい顔へ、鋭く視線をぶっつけた。「目的が同じでありましょうとも、たとえ同志でありましょうとも、たのうだ[#「たのうだ」に傍点]お方が別であってみれば、やはり我々二人の者は、やはり別々に別れ別れに、働くのが本当でござりますよ」
「そのようなことがござりますものか」どうしたのかこういったお粂の声には、叱りつけるような響きがあった。「たのうだ[#「たのうだ」に傍点]お方が別々であろうと、目的は同じでござります。一心同体になりまして、力を合わせて働くのが、本当でもあれば強くもあります」
 しかし紋也はうけがわ[#「うけがわ」に傍点]なかった。フト横を向いて眼をつむった。燈火のほうへ向けられた顔は、一杯に燈火の光を浴びて、明るく華やかに見られたが、つむっている両眼の下の眼瞼《まぶた》が、目立つほどにも痙攣《けいれん》を起こしているので、不安気な顔ともいうことができた。不意に紋也は眼をあけたが、その眼でお粂を睨むように見た。
「本当のことを申し上げましょう」紋也の声には情熱があった。「みんな嘘だったのでございますよ。これまで私があなたに対して、申し上げたことも振る舞って来たことも、みんな嘘だったのでござりますよ。本当のことを申し上げましょう」ここで紋也はためらう[#「ためらう」に傍点]ようにしたが、たたきつけるように一句いった。「私には毒なのでござります! そのあなたの美しい姿が!」
 これはお粂の身にとっては、嬉しくもあれば苦しくもあり、魘《うな》されるような言葉でもあった。なんといって応じたらよいだろうかお粂には咄嗟《とっさ》にはわからなかった。で黙って紋也をみつめた。
 と、今度は紋也の口から、お粂にとっては恐ろしい言葉が、たたきつけるように洩らされた。
「私にはあるのでござりますよ。あなたの美しさに捉えられたり、あなたの情熱に溺れたりしては、申し訳のない一人の女が!」
「恋人※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」とお粂は上気していった。
「京師方の娘! 私の許婚《いいなずけ》!」――するとお粂は狂人のように、胸の前で両手を叩き合わせたが、憑《つ》かれた女のように口説き出した。

女煙術師の嘆き

「あなたに許婚がありましょうとも、よしんば恋人がありましょうとも、なんで妾がそのようなことで、あなたを断念いたしましょう。妾はかえって勇気づきます。妾はきっとあなたの許婚を、この妾の燃えるような心で、あなたから離してお目にかけます。この妾という人間は、そういう性質なのでございます。競争相手が一人でもあると、勇気づくのでございますよ。……そうして一旦思い込んだことは、よしんば悪い事でもありましょうとも、いつかはきっとやりとげて見せます。ええええ妾という人間は、そういう性質なのでございますよ。……妾はあなたを愛しております。ですからどのような邪魔があろうと、きっとあなたを手の中へ入れて、妾のものにしてお目にかけます。……さああなたの許婚とやらはどのようにお美しく、おしとやか[#「おしとやか」に傍点]で、どのようにお利口かは存じませぬが、そのようなこととて妾にとりましては怖《こわ》くも恐ろしくもございません。競争相手が優れている、苦手であれば苦手であるほど、妾には力がはいりますし、勇気づいても参ります。……いずれはあなたの許婚ゆえ、お上品でお人柄でお嬢様でご身分もよろしゅうございましょう。でも妾にはそのようなことも、怖くも恐ろしくもございません。……こう思うのでございますよ。そういうお上品なお嬢様ならば、かえって妾にはよい幸いだと! 苦労などなすってはおりますまい。ねんねえ[#「ねんねえ」に傍点]様でございましょう。策もなければ手管もない、箱入り人形でございましょう。……妾は反対でございます。上品でもなければ人柄でもなく、箱入り人形でもありませねば、ねんねえ[#「ねんねえ」に傍点]様でもありません。苦労をした人間でございます。……掏摸で芸人でございます。浮世の垢《あか》をなめております。……ねんねえ[#「ねんねえ」に傍点]のあなたのお許婚などを、虐《いじ》めておさえつけて追い出すことぐらいは朝飯前の仕事でございます。……あなたを必ず捉えて見せます! あなたをきっと溺らせて見せます!」
 すわっていた床几から腰を上げて、赤い手甲を甲斐甲斐しくはめた、両の手を台の上へしっかりと突いて、肩を前のめりに前へ傾けて顔を紋也の顔へ差しつけ、物をいうごとに頬の後《おく》れ毛を、耳の後ろまでひるがえして、こう口説き立てたお粂のようすは、毒婦とも見れば妖婦とも見え、淫婦にさえも見えるのであった。
 しかるにそういうお粂と対して、向かい合って腰をかけている、山県紋也の態度というものは冷然として静かであった。みつめている眼にもこれといって、怒りを宿しているのでもなければ、閉じている心にも表情がなく、先刻方|眼瞼《まぶた》に現われていた痙攣さえも今はなかった。がもし誰かが注意をして紋也の膝の上を見やったならば、その膝の上で両の手の指を、握ったり放したり揉んだりして、心の内の烈しい動揺を、押さえつけているということを、見のがすことはできなかったであろう。紋也はお粂の言葉によって、事実は感情を嵐のように、掻き立てられ乱され荒らされたのであった。そうしてそれを見せまいとして、強い意志でおさえつけているのであった。
 で、二人は黙っている。顔と顔とを突き合わせて、怨み合ってでもいるように、憎み合ってでもいるように、喰らい付きそうにして見合っている。
 で、四辺《あたり》は静かであった。戸外を人の通る足音がする。音締《ねじ》めの悪い三味線の音が、座敷のほうから聞こえても来た。
[#ここから1字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]葵は枯れても
 ああ、ああ、
 菊は栄える
[#ここで字下げ終わり]
 唄って通る声がしたが、門口でフッと消えてしまった。と、一人の職人ふうの男が、暖簾《のれん》を分けて顔を出したが、皮肉めいたことをいったかと思うと、顔を引っ込ませて行ってしまった。
 土間を設けて卓袱台《しっぽくだい》を置いて、裸蝋燭をあかり[#「あかり」に傍点]として、陰惨とした暗い中で、酒を飲ませるというやり方は、水戸様石置き場の空屋敷の、私娼宿でやるやり方なのであった。ここだけで女を相手にして酒を飲むだけで帰って行く――といったような客もあれば、奥の座敷へ女と一緒に寝に行くというようなお客もあった。そうかと思うとよその女を、こっそりとここへ引っ張って来て、ここの私娼をまじえないで、媾曳《あいびき》をして帰るという、そういったような客もあった。紋也とお粂との関係などは、最後のものに当たるらしい。で、私娼もやって来なければ、他の客も避けて行くのであった。――と、咽《むせ》び泣く声がした。お粂が突っ伏して泣き出したのである。

不安の一時

 鬱金色《うこんいろ》の縮緬《ちりめん》の襷《たすき》をかけて、派手やかな模様の振り袖を着て、深紅の手甲と脚絆とをつけた、妖艶な女の煙術師姿の、若いお粂が台へ突っ伏して、髪の簪《かんざし》の銀のビラビラを、後れ毛と一緒に顫わせて、咽び泣いている向こう側に、美男で若くて凛々しい風貌の、山県紋也が冷然として、時々盃をなめながら、無言でお粂を見守っているようすは、水戸様石置き場の空屋敷という、特殊の私娼窟であるがために何となく凄味《すごみ》に眺められた。土間の中は陰森として薄暗い。蝋燭の火が揺らめいて、土間の上の男女の二つの影を物の怪《け》のように顫わしている。気象の勝った男勝りのお粂が何ゆえにそのように弱々しそうに咽び泣きなどをはじめたのであろう? 磊落《らいらく》で豪放で親切な紋也が、何ゆえに冷然としているのであろう?
 とまれお粂は咽び泣いているし紋也は冷然として無言でいる。でこの土間の中は物寂しくて、鬼気にこめられているようにさえ見えたが、もし紋也にしろお粂にしろ、戸外のほうへ注意をむけて戸外のようすをうかがったならば、歩いている人々の足の音が、にわかにせわしく乱れて聞こえ、口々に何事かをいい合いながら、すれ違ったりぶつかったり[#「ぶつかったり」に傍点]して、露路のほうへ走って行く者もあれば、水戸様石置き場の空屋敷という、この一画から遠のく者もあって、混雑を呈していることにきっと感づいたに相違ない。
「喧嘩!」「人殺しか!」「賭場の手入れ?」「……いや変な奴が歩きまわっているのだ」「うそうそ家のまわりをまわっている」「あそこの露路には五人いた」「あそこの空地には十人いた」――などといったようなささやき声などが、ささやかれてもいるのであった。「捕り物かな?」「そうかもしれない」「だが風態《ふうてい》がそれらしくないよ」――などという声も聞こえなされた。「なんだか知らないが気味が悪いよ」「よくないことが起こりそうだ」「怪我をしないうちに引き上げよう」――という声なども聞こえるのであった。
 何が戸外では起こっているのであろう?
 あの目明しの代官松が、兄弟分と乾分《こぶん》とを率《ひき》いて、水戸様石置き場の空屋敷へ、焼き討ちをかけて、混乱させて、ドサクサまぎれに山県紋也や、同志の者を片付けようとして、入り込んで来たに過ぎないのであった。
 水戸様石置き場の空屋敷というのは、一方は隅田の川に面し、反対の側は寺院《てら》通りに面し、いうところの鰻《うなぎ》の寝所《ねどこ》のような、南北に長い空地であって、北のはずれには一ツ目橋があって、渡れば相生町や尾上河岸へ出られ、南のはずれを少し行けば、有名な幕府のお舟蔵《ふなくら》となる。そういう空地へ貧民窟のような、穢《きたな》らしい小家がゴチャゴチャと立ち、狭い露路が無数に通っているかと思うと、草の生えた小広い空地などが、随所にできていたりした。そうしてそういう草の空地には、おでん燗酒《かんざけ》の屋台店だの、天幕《テント》張りや菰《こも》張りの食物店などが群れをなして建っていたり、ポツポツと離れて建っていたりした。官許を得ての盛り場ではないので、燈火などは乏しく灯ってようやく人の顔の見える程度の、明るさを保っているばかりであった。
 でもし誰かが高い所へ上がって、夜この一画を見下ろしたならば、異形なものに見えたことであろう。大地にへばり付いている小さい家々は、――ある一所には数をなしてかたまり[#「かたまり」に傍点]、ある一所にはバラバラに立って無秩序をなしている小さい家は、――襤褸《ぼろ》でもかたまっ[#「かたまっ」に傍点]ているように見え、その家々の集合によって、無数に織られている露路という露路を、ウネウネと歩いている嫖客たちの列は、虫けら[#「虫けら」に傍点]のように見えることであろう。ところどころからあるかなしかの、薄明るい光が茫《ぼう》と立って、それが四辺を明るめているようすは、全然光のないよりも、かえって気味悪く見えるかもしれない。一ツ目橋のほうへやや近く、家のない空地がひらけていたが、そこに比較的に明るい燈火が、四方菰張りの小屋の隙を通して、幾筋となく漏れ出て見えたが、それは賭博小屋の火の光であった。その賭博小屋から隅田川のほうへ寄った、土地の低い一所に木立ちがあったが、そこに三人の人の影がささやきもせずに立っていた。と、一つの人の影が、賭博小屋の前をすべるようにして、三人の人影へ走り寄ってきた。
「親分、とうとう目付け出しました。紋也は笹家におりますので」
「そうか」という声がすぐ応じたが、三人の中の一人であって、代官松の声であった。

代官松の指図

「そうか」というと代官松は、知らせに来た乾児《こぶん》の猪吉《いのきち》という男を、迎え取るがように一足出たが、
「そうか、紋也は笹家にいたか。いいことをした、よく目付けた。この界隈を焼き討ちにかけても、肝腎の紋也をのがしてしまっては、何の役にも立たないのだからな。で、まあ手を分けて探したんだが、おり場所がわかって安心した。……え、なんだって? ふうんそうか! お粂も一緒にいるというのか? いやそいつは好都合だ、一緒にやっつけることができるのだからな。……構うものか、さあ押し出せ、そうして四方から火を掛けろ! 官許を得ていない盛り場だ、焼き払ったところで咎《とが》にはならない。その上に渡りがついている、美作様や左近将監様から、それとなくお町奉行の依田《よだ》様のほうへ、ご内意が行っているはずだ。何をやろうと後難は受けない。笹家を中心にして四方八方へ、構わないから火をつけてしまえ! さぞマア私娼やお客野郎などが、泡を食って逃げ出すことだろう。そこがこっちの付け目なのだ! ドサクサまぎれに紋也の野郎を、みんなでめちゃめちゃに叩き殺してしまえ! さあ行け行け早く行け! ……いけない、いけない、ちょっと待ってくれ! 紋也の野郎をねむらせ[#「ねむらせ」に傍点]るはいいが、お粂の阿魔を殺してはいけない。どうともして引っかついで連れて来るがいい。というのは桃ノ井兵馬様が、そういって俺に頼んだからさ。それにあの女は美作様から、大事な物をすっているはずだ。あいつをたたいて[#「たたいて」に傍点]口を割って、あり場所をいわせて取り返さなけりゃアならない。だからよお粂は殺しちゃアいけない。さあ行け行け、早く行け! ……おッといけない待った待った。兄弟分に知らせなけりゃアいけない! ……これこれ文三前へ出な。お前は東へ飛んで行くがいい。橋場の卯之《うの》さんが野郎どもをつれて、そっちを固めていなさるはずだ。で、大将にこういってくれ。紋也の在家がわかりました。笹家にいるそうでございます。これから退治にとりかかりますので、万端よろしく願いますとな。――これこれ勘八前へ出な。お前は西へ飛んで行くがいい。河岸の源さんが野郎どもを連れて、そっちを固めていなさるはずだ。で、源さんにこういってくれ。紋也の在家がわかりました。笹家にいるそうでございます。これから退治にとりかかりますので、万端よろしく願いますとな。……さあこれでいい早く行け! いや待て待て、いうことがある。紋也は素晴らしい手利きなのだ。そのうえおそらくあいつの贔屓《ひいき》が、この界隈にはたくさんいよう。で、うっかりして下手なことをすると、こっちに怪我人ができるかもしれない。だからよ。十分に用心してかかりな。……さあこれでいい早く行け! いや待て待ていうことがある。揃えて隠してある捕り物道具だ! あいつをうまく使うようにしな。……今度こそいい、早く行きな。……おっとおっとまだいけない。そうだもう一言いうことがある。正規の召し捕りじゃアないのだから、『御用』の声も『神妙』の声も、かけないようにするがいい。そうしてなんだ、紋也の贔屓が紋也に贔屓をしてかかって来たら、遠慮はいらないから叩きのめしてしまえ! 喧嘩でございますといってしまえば、後難もなければ咎めも受けまい。……さあ行け、行け、今度こそいい!」
 立ち木が月の光をさえぎっているので、代官松と三人の乾児の、姿も顔もぼんやりとしている。が、正面には賭場があって、燈火の光が隙間からさしている。そうして右手にも左手にも、私娼窟の小家がゴチャゴチャと、固まって地面にへばりついている。そこからも燈火の光が見える。が、この境地は暗かった。
 その暗い境地に身を隠して紋也のおり場所を目付けたというそういう報知《しらせ》を待ちかまえていた、目明かしの代官町の松吉が乾児の一人の猪吉の口から今やおり場所を聞いたのであった。で、指図を下したのであった。と、二つの人の影が、木立ちを離れて東と西とへ、礫《つぶて》のように走り出したが、親分の代官松の指図通りに、橋場の卯之吉と河岸の源介のもとへ、伝言《ことづけ》をするために走って行く、文三と勘八との姿であった。
「猪吉、お前は一緒に来な。笹家の前でようすを見よう」こういったのは代官松で、いうと同時に木立ちから離れて、家のあるほうへ歩き出したが、二人の姿が遠のいた時に、
「偉いことになったぞ、大変だア!」と、木立ちの背後で声を上げて、地団太を踏む人の影があった。

金兵衛走る

「偉いことになったぞ、大変だあ!」と、代官松と乾児の猪吉とが、立ち去った後の木立ちの背後で、声を上げて地団太を踏み出したのはお粂の相棒の金兵衛であった。いつのまにそこへ来ていたのであろうか? 今日の夕方お粂と一緒に水戸様石置き場の空屋敷へ、常連として来たのであったがまもなく姿を現わしたのが、お粂の恋している山県紋也で、それと見るとお粂は金兵衛のことなど、見返りもしないというように、むしろ金兵衛を邪魔のようにして、紋也とばかり親しそうにした。で、金兵衛には面白くなかった。
「へ、山県様、山県様、へ、紋也様、紋也様、紋也様ばかりを追いまわすがいい。お粂さんには面白かろうが、金兵衛さんにはおかしくもないて。……それもさ、山県紋也さんのほうでも、姐ごを想っているのならいいが紋也さんのほうではさほどでもなくて、どっちかといえば逃げまわっている。それだのに姐ごはカラ夢中だ。紋也様、紋也様、紋也様! まるで紋也様が福の神で、札の束でもくわえて来るように、追っかけおんまわしひっ捉えようとしている。気に入りませんね! 気に入りませんとも」
 ――で金兵衛は一人離れて、屋台店をのぞいたり、私娼宿の女をからかったり、賭場に立ち入って見物をしたり、ここの境地をずっと以前から、あてもなしに歩きまわっていたところ、にわかに四方が騒がしくなって、殺気立った気分が醸《かも》されたばかりか、なんとなく場近い[#「場近い」はママ]と思われるような、幾群れかの人間が物でも探すように、露路や小路へ入り込んだり、家々の門をのぞいたりするので、「はてな?」と思わざるを得なかった。と、そのうちに眼に付いたのが、目明しの代官町の松吉であった。「いよいよこいつははてな[#「はてな」に傍点]になったぞ」――で金兵衛は見え隠れして、代官松の後をつけて[#「つけて」に傍点]この木蔭へまで来たのであった。そうして立ち聞きをしたのであった。
「偉いことになったぞ、大変だあ!」で金兵衛は地団太を踏んだ。「さあこうしてはいられない! 紋也さんとお粂さんとがしめられて[#「しめられて」に傍点]しまう! どうしたらいいのだ! どうしたらいいのだ!」――外に策のあるはずがない。笹家という家へ駆けつけて行って、紋也とお粂とへ事情を話して、逃がしてしまうより策はない。「まに合ってくれ! まに合ってくれ……」で、金兵衛は走り出した。
 木立ちを出ると空地である。行く手に一群の家がある、が、そこには笹家はない。南のはずれにたむろしている、私娼窟の中の一所に、都合悪く笹家はあるのであった。で、笹家まで駆けつけるには、空地をトッ走って家の群れへはいって、露路から露路をくぐりぬけて、二所ばかりの小空地を越して、ふたたび家の群れの中へはいって、さらに露路から露路を縫い入って、はじめて達することができるのであった。金兵衛は空地を走っている。頭が大きく体《なり》が小さくて、子供のような格好の彼だ。裾をたくし上げて脛を出して、その脛を雑草の露に濡らして、月の光に生白く光らせ、家の群れのほうへ走って行く。
「焼き討ち! 困った! 凄いことになったぞ! ……目明し! 畜生! 代官松め!」
 とぎれとぎれに口の中で、連絡のないことをつぶやきながら懸命に金兵衛は走って行く。「いけない、お粂さんしめられ[#「しめられ」に傍点]るんだぜ! お逃げよ、お逃げよ、お逃げよ! ……まだ大丈夫だ! 火の手があがらない! ……山県の先生! オイ紋也さん! いけない、いけない、殺されるんだぜ!」
 金兵衛は懸命に走って行く。こうして空地を走り抜けて、最初の家の群れが彼の前へ立って、彼の行く手をさえぎった時に、その家の群れの露路や小路から、人の群れがゾロゾロと現われて来た。まだ焼き討ちははじまってはいない。焔も煙りも立ってはいない。しかしなんとなく不安と殺気とが、この盛り場へみなぎり出したので、嫖客《ひょうきゃく》の群れが恐怖心を抱いて、家路に向かって帰り出した、その人たちの群れなのであった。
「ご免ください、ご免ください!」こう金兵衛は声を掛けながら、群衆を掻き分けて進もうとしたが、あふれ出る群衆に押し戻されて先へ進むことが難儀となった。が、躊躇してはいられない。無理にも掻き分けて進まなければならない。

なだれ出る人波

「ご免ください、ご免ください! ……やい畜生! どけ、どけ、どけ! ……へい、お願いでございます、急ぎの用事でございます、ちょっとどうぞ道をおあけなすって! ……わからねえ奴らだな、邪魔をしちゃアいけない! 通せ、通せ、通してくれ! ……何がなんでえ、このべらぼう! 人二人の命にかかわることだ! むやみやたらとぶつかって来るない! 素直に通せ! 片寄れ、片寄れ! ……え、なるほど、これは失礼、まっぴらご免くださいまし。とんだぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]を申しました。いかさま大変な混雑で。一人掻き分けて先へ行くのは、よくないことではございましょうが、りっぱな若いお侍さんと、途方もなく別嬪のお嬢さんとが、ひどい目に逢いかかっておりますのでね。助けにまいるのでございますよ。……雑言《ぞうこん》はまっぴらご免なすって。はいはいいくらでもあやまりますとも。はいはいいくらでもあやまりますから、どうぞ通しておくんなさい! ……やい、馬鹿者、気を付けやがれ! ぶつかって来る奴があるものか! あッ痛い! 悪い奴だ! わざと横から胴を突きゃアがる! いけねえ、ご免だ! ひどいなあ、背後《うしろ》から背中を小突きゃアがる! ……」
 あやまったり怒鳴ったり毒吐《どくつ》いたり、悲鳴をあげたり、呪ったりしながら、金兵衛は先へ進むのであったが、露路はといえば一間たらずの幅で、群衆はといえば後から後から、うねるようにして歩いて来るので、早く走ることは困難であった。その上に一方群衆のほうは何物とも知れない不安の空気に、漠然と怯《おび》やかされているのである。で、急いでここを出て、家へ帰ろうとしているのである。一足でも余計に先へ出ようと、足を早めているのである。
 その群衆と逆行して、群衆の行くほうとは反対のほうへ、傍若無人に乱暴に、人を掻き分けたり突きのけたりして、がむしゃらに行こうとする金兵衛の態度は、群衆には小憎らしく見えたらしい。で、わざと背後から小突いたり、横から拳で突いたりした。しかし金兵衛は群衆から、突かれようが撲《なぐ》られようが邪魔をされようが、そんなことには頓着をしないで依然として人を掻き分けたり、また突きのけたりして先へ進んだ。が、道程《みちのり》の遠く思われることは! そうして歩きにくく思われることは! そのくせ平素《いつも》の夜であったら、今もがいて[#「もがいて」に傍点]いるこの位置から、紋也とお粂のいる笹家などへは、一走りに行きつくことができるのであった。すなわち実際の距離からいえば、たいして遠くはないのであった。ただ群衆がみなぎっている。露路を一杯にしてうねって来る。で平素の夜のように、早く走ることができないのであった。で、距離が遠く思われるのであった。
 でもとうとう四つ辻まで来た。角々に立っている小さな私娼宿は、戸外のなんとない恐迫観念[#「恐迫観念」はママ]の、そのあおり[#「あおり」に傍点]をいつのまにか感じたものと見えて、門口に出して置いた行燈をしまい、門の戸をガタガタと閉《た》てはじめていた。辻を中心にして三方の露路から、辻に向かって人の群れが、例によってうねって押し寄せて来た。いずれも口々につぶやいている。何をいっているのかはわからなかったが、その声々が一つになって一種の恐怖を醸《かも》し出してはいた。そうして群衆は足を早めて、今、金兵衛がたどって来た露路を、金兵衛と逆行して進み出した。
 三方から群衆は集まったのである。辻は人間で泡立つように見えた。と、その人間の泡をくぐって、頭の大きな体の小さな、不具《かたわ》じみた男が喚きながら、両手を宙に打ち振ったり、両手で人の群れを押しひらいたりして、一つの露路へ進もうとしていたが、まもなく姿が見えなくなった。金兵衛が人の波に溺れたのである。金兵衛を溺らせた人の波は、その金兵衛の溺れたあたりで、ひとしきり雑音を立てたようであったが、すぐに一方へ進み出した。溺れた金兵衛の体の上を無慈悲な波が――群衆の足が、踏みにじって越していったのでもあろう。が、まもなく辻から離れた、一筋の露路の一所へ、金兵衛の姿が現われた。溺らした人波から体を救って、そこまで泳いで来たのであろう。髪が顔へ乱れている。衣裳が所々破れている。手足に生血がにじみ[#「にじみ」に傍点]出しているのを、側の私娼宿の燈火の光が、黒い色に照らしている。
「山県の先生、お逃げなすって! お粂の姐ご、逃げなせえ!」――人波を分けて無二無三に、なおも金兵衛は進んで行く。

南無三! 火の手!

 いく筋かの露路をくぐりにくぐって、それでも金兵衛は空地へ出た。空地には幾つかの屋台店が、点々として立っていたが、漠然とした恐怖に怯やかされたからであろう、屋台店の主人はあわただしそうに、店の道具を片付けていた。いつもなら空地は比較的に、人の姿がまばらなのであったが、今夜はそうはいかなかった。
 漠然とした恐怖に怯やかされて、家路へ帰って行く人の群れが、四方の露路から現われいで、ここの空地へ集まって、それからさらに露路を通って、水戸様石置き場の空屋敷の、この気味の悪い境地から、外へ出ようとしているのであるから、空地は人の群れで充たされていた。で、金兵衛は同じように、詫びをいったり毒吐《どくつ》いたり、人に突きあたったり突きあたられたり、もがいたり喘《あえ》いだり、押し返されたりしながら、突き進まざるを得なかった。空地はたいして広くはなかった。しかしこの時の金兵衛には、一里もあるように思われたが、それでもようやくのことで、金兵衛は空地を横切って、空地の向こうにたむろしている私娼窟の露路へはいることができた。
 この露路を抜ければ、今と同じような小広い第二の空地となり、その空地を抜ければ一番に大きな、私娼窟の一廓へ出ることができる。そこまで駆けつけなければならなかった。その私娼窟の一廓に、山県紋也とお粂とのいる笹家という家があるのであるから。が彼ははたしてそこまで駆けつけ得られたか? 不幸にも金兵衛は駆けつけられなかった。
 第二の空地までたどりついた時に、笹家の立っている方角から、突然に悲鳴と叫喚とが起こって、つづいてカッと火の光がさして、見る見る月の夜が紅色に染められ、すぐに屋根を抜いて焔の束が、煙りをともなって上がったからである。
「しまった! 焼き討ちだ! まに合わなかった!」
 呻きながら突っ立った金兵衛の周囲を、「火事だーッ」と喚《わめ》き、「助けてくれーッ」と叫んで、逃げて来る男と女との群れが、荒々しい渦となって捲き立った。
「…………」
 金兵衛は無言で突き進んだ。一人の女がぶつかって来た。髪が乱れて裾が崩れて、白い脛が股まで現われている。かわして金兵衛が突き進む横から、一人の坊主がよろけかかって来た。かわして金兵衛は突き進む。火光で空地は真昼かのように、明るく華やかに輝いては見えたが、凄い華やかさといわなければなるまい。火の粉が八方へ散って行く。その中に月が浮かんでいる。なんと妖怪じみた酸漿色《ほおずきいろ》の月だ! 火の粉と月との真下の地上を、押し合い突き合いぶつかり合って、人の群れがあたかも野犬かのように吠えて呻《うめ》いて走り廻る。
 と、一所に穴ができた。数人の人間が地に倒れたところへ、十数人の人間が襲いかかって倒れている人間へつまずいて、折り重なって倒れたために、穴があいたように見えたのである。が、その穴はすぐに埋まった。倒れている人間を踏み越え踏み越え、無数の人間が後から後からと、波のように寄せて来たからである。
 掻き分け掻き分け金兵衛は進む。しかし少しもはかどらない。ともすれば後へ追われようとする。
「どうしたものだ! どうしたものだ!」
 とうとう金兵衛は絶望の声を上げた。が、その時に一人の武士が抜けかかっている大小を抜けかけたままで、あわてふためいて走って来て、正面から金兵衛にぶつかったがために、金兵衛は活路をひらくことができた。というのは金兵衛はそれと見てとると、「借りるぜ!」というや右手をのばして、武士の刀を引っこ抜いたが、それを頭上に振りかぶると、火事の光をはね飛ばすように、左右にピューッと振りまわし、「やい、どけどけ! 道をあけろ!」――で群衆が胆をつぶして、左右へダラダラ開いたからである。
「有難い!」と金兵衛が叫んだ時には、すでに数間を走っていた。しかしこうして空地を駆け抜けて、露路の一つへ飛び込もうとした時に「待て!」と呼び止める声がした。で、ギョッとして眼を走らした、金兵衛の前に突っ立っていたのは、五人の乾児を周囲に持った、代官町の松吉であった。
「手はじめにこいつからやっつけてしまえ! そうしてその後で紋也とお粂だ!」
 金兵衛を包んで揉み立てたのは、代官松の乾児であったが、紋也とお粂との運命は?
 この頃紋也とお粂との二人は、一つの露路で戦っていた。

追い詰められた二人

「さあお粂殿ついておいでなされ! 決して拙者と離れぬようになされ! ……敵がかかれば用捨をしないで、突くとも切るともご自由になされ! 必ず彼らに捕えられぬように! ……これは尋常の火事ではござらぬ! 放火でござる、放火でござる! ……しかも我々を仕止めようとして企らんでいたした放火でござる!」
 血にぬれた抜き身を右手に下げて乱れた髪を額へかけて、はだけた胸へ返り血を浴びて、棒にでもうたれたのか脛の一所へ、紫色の大きな痣《あざ》をつけた山県紋也はこう叫びながら、露路の向こうを睨みつけた。ここは火事元の笹家からは、少しく離れた露路ではあったが、しかし空からは火の粉が降り、黒煙が強い臭気とともに、四方八方から渦巻いて来た、で、左右に幾十軒とない、小箱のような私娼宿を持ち、前後に狭い道を持ったこの露路の中は燃えるほどにも熱く、呼吸《いき》づくことのできがたいほどにも、煙りと熱とに充たされていた。だが露路内には人影がなかった。
 みんな逃げ出してしまったからであろう。家々の戸障子は蹴放されて、出しかけてとうとうまに合わなかったらしい、荷物の群れが家々の門や、露路に雑然として捨てられてある。火事が起これば火事につれて、嵐の起こるものであったが、今や嵐が起こっていた。轟々《ごうごう》という嵐の音が、焼けて崩れる物の音やいまだに四方八方の露路で、逃げてまわっているらしい人間の悲鳴や叫喚や足の音とともに、地獄の音楽のそれかのように、露路の周囲や空の上から、紋也の耳へ伝わって来た。周囲がそれほどにも騒がしいのにここの露路だけに人の声がなく、人の姿の見えないのはいったいどうしたというのであろう? 紋也には理由がわからなかった。火事だという声に驚いて、お粂をうながして山県紋也が、笹家から外へ飛び出した時には、笹家を包んで三方から、すでに火の手が上がっていた。
「火事でござるぞ、お逃げなされ! 庄田氏、菰田氏お逃げなされ!」奥の部屋で私娼《おんな》と飲んでいるはずの、二人の門弟へ声を掛けておいてお粂を背後に従えて、露路を一方へ突っ走って、丁字形の一所へ現われるや、紋也とお粂とは七、八人の者に、取り捲《ま》かれて打ってかかられた。
「人違いをするな! あわて者め!」――人違いであると思ったので、こう声をかけた山県紋也は、刀も抜かないで駈け抜けようとした。が、どうしたのか七、八人の者は、長脇差や棍棒をふるって、そうしてなんとも物をいわずに、無二無三に打ちかかって来た。「はてな、さては人違いではないのか! 俺たちを打ち取ろうとしているのか? ――とするとこやつらは何者であろう?」それは紋也にはわからなかったとはいえ紋也はこう思った。「俺たちには敵があるはずだ。それも無数にあるはずだ。代官松の一味から桃ノ井兵馬の一味から。……佐幕方の奴らは一人残らず敵だ! ……こやつらはその中のどれかなのであろう」――紋也には躊躇できなかった。決心をして刀を引っこ抜くと、やにわに一人を叩き切って、それに怯えて後へ退く、敵方の隙をうかがって、脇差しのほうを素早く抜くと、ついて来たお粂の手へ渡した。
「お粂殿、拙者へついてござれ!」――で、まっしぐらに突き進んだ周囲を群衆が走って行く、火の舌がなぐれ[#「なぐれ」に傍点]て襲って来る。ドーッと火柱が燃え落ちて来た。そういう境地を突破して、一つの十字路まで走って来た。と、その三方に人数を分けて、脇差しや棍棒や匕首を握った敵らしい人影が十数人もいた。で紋也とお粂との二人は、敵のいない一方の露路をめざして、疾風《はやて》のように突ッ走った。するとまたもや交叉点へ出たが、そこにも敵が待ちかまえていた。ただし一方の露路だけには、敵の姿は見えなかった。で、そっちへひた[#「ひた」に傍点]走った。と、またまた十字路へ出た。そうしてその結果は同じであった。三方だけに敵の群れがいて、一方だけにいなかった。当然二人は敵のいない露路へ走り込まざるを得ないだろう。牽制《けんせい》されて、牽制されて、最後に逃げ込んだ露路というのが、今、二人のいる露路なのであった。あらかじめこの露路へ追い詰めて、打っ取ろうと企らんでいたのかもしれない。この露路ばかりが他の露路と違って、群衆の姿がないのであるから、誰にも邪魔されないで、捕るにも斬るにも格好の露路だ! 紋也とお粂とはどうするであろうか?

屋根の上から

「ともかく急いで歩きましょう」背後に従っているお粂のほうへ、こう紋也は声をかけたが、露路を一方へ歩き出した。
 ――何らか奸策が行なわれているらしい。彼らのいないという理由はない。突然どこからか現われて来て、我ら二人を襲うのであろう。だから動くのは危険なのではあるが、動かないことには救われない。この熱さ! この息苦しさ! 火の粉! 煙り! 焼け落ちる火柱! ……火元の笹家には近いらしい。いまにも焔がまわって来よう。いやもう四方へまわっているかもしれない。よしんば火が四方へまわらなくとも、右側に並んでいる私娼宿へは、まもなく火が移って焼けなければならない。その私娼宿の背後にあたって、火元の笹家があるのであるから。で、こうやっているうちにも焔が私娼宿の屋根を越して、空へ猛然と上がるかもしれない。そうして私娼宿の門や窓から黒煙と一緒に束のような焔が、ドッと噴き出して来るかもしれない。
「どうともして露路から出なければならない。手近に空地があったはずだ。いそいでそこへ行くことにしよう」抜き身を背後へかくすようにして、火光で深紅に輝いている、細い露路を一方へ歩き出した。だが三間とは歩かなかったであろう、その時左側に並んでいる、私娼宿の家々の屋根の上へ、夜ではあったが火事の光で、猩々緋《しょうじょうひ》のように輝いている、凄くて美しい明るい空を背景として人の姿が、七、八人陰影のように現われた。と見てとった山県紋也は、「きゃつらだ!」と叫ぶと抜き身を引き付け、屋根から飛び下りてかかってでも来たら、叩き切ってやろうと上を仰いだ。が紋也のその考えは、より惨酷の所業によって、すぐに裏切られてしまうことになった。
 と、いうのは屋根の上の人間どもが、何やらいっせいに叫んだかと思うと、突然に彼らの両手が上がって、つづいて両手が下げられた時|礫《つぶて》や丸太や火のついている棒が、紋也の頭上へ恐ろしい勢いで、唸りながら落ちて来たからである。
「卑怯者め!」と紋也は叫んだ。がその声は次の瞬間には消えて、細い露路の一所を埋めるようにして礫や丸太や火のついている棒が、うずたかいまでに塊《かた》まった。火のついている棒からは焔があがって、丸太のほうへ移って行った。
 紋也の姿はどこにもない。お粂の姿も見当たらない。二人はどこへ行ったのであろう? 打ち倒されてしまったのであろうか? 礫や丸太や火のついている棒の、それらの下にいるのであろうか? いやいや二人は別の所にいた。左側に並んでいる私娼宿の壁へ、ピッタリと背中を平めかしてつけて、投げ落とされる丸太や礫や、火のついている棒の災《わざわ》いから、巧みにのがれているのであった。
 幸いに負傷《けが》もしなかったらしい。
 紋也は抜き身を脇構えに構えて、その切っ先をピリつかせながら、いまもなお屋根から投げ落とされて来る、礫や丸太や火のついている棒が、露路へたまるのを睨んでいた。が、紋也は考えた。「ぐずぐずしてはいられない。いよいよきゃつらはこの露路の中で、我々を殺そうとしているらしい。このあんばいで察する時には、次々に彼らは奸策を設けて、二人を進退きわまらせるらしい。突破突破、突破しよう! 空地へ出よう、群衆とまざろう、そうして混雑に身をまぎらせて、水戸様石置き場の空屋敷から、のがれて市中へはいることにしよう」――敵であろうとなかろうと行く手をさえぎる人間があったら、用捨なく切って切り崩して、活路をひらこうと決心をした。で、お粂を見返ったが、
「お粂殿拙者へついてござれ! 拙者活路をひらきましょう。寄る者があったら遠慮会釈なく、斬るなり突くなりなさるがよろしい。今はお互いの身が大事でござる。……いざ!」というと山県紋也は、露路の真ん中へ飛び出したが一方へ向かって走り出した。
 と、一軒の家の中から、二人の人間が現われたが、走って来る紋也に狙いをつけて、巨大な物をガラガラと投げた。左右には家が立ち並んでいる。作られている露路は帯のように狭い、その狭い露路の宙を飛んで、捕り物用特殊の投げ梯子《ばしご》が、二挺風を切って飛んで来たが、悲鳴は起こらなかった。紋也もお粂も身をかがめて、梯子の下をくぐったからである。が、その次の瞬間において、火光を叩き割る光り物があって、すぐにすさまじい悲鳴が起こった。一人の人間が倒れている。一人の人間が逃げて行く。男女二人が追いかけて行く。

腹背に敵

 敵の一人を真っ向にかけて、一刀に切り倒した山県紋也は、新しく血に濡れた抜き身を引っ下げ、逃げて行くもう一人の敵の後を、お粂を背後に従えて、今やまっしぐらに走って行く。露路は狭い! 帯のようだ。露路は明るい! 昼のようだ。その中を黒煙が渦巻いている、バラバラバラバラと火の粉が降る。金の箔《はく》でも撒いたようである。家々を越して束のような焔と、髪の毛のような黒煙とが、うねりにうねって上がっている。走る走るその境地を走る。と、逃げて行く敵の一人が、一軒の家の前まで行くや、合図めいた大きな声を上げた。
 とその敵は駆け抜けたが、気の付かぬ紋也が走って来て、その家の前まではせつけた時に、その家の門から一人の男が、はずんだ毬《まり》のように飛び出して、反対側の家の前まで行った。と、露路を横に一直線に、グーッと一筋の縄が張られた。足を掬《すく》おう張り縄である。かかったが最後山県紋也は、もんどり打って倒れなければならない。が、紋也は倒れなかった。察した刹那にサーッと一|揮《ふ》り! 縄を真ん中から切り払った。力に負けたというのでもあろう、縄の端を握って立っていた敵が、ヨロヨロとよろめいて前へ出た。
「くたばれ!」一刀! ドーッと血煙り!
「いざお粂殿!」
「はい紋也様!」
 火元の笹家が燃え尽くして、この時横倒しに倒れたのでもあろうか、ゴーッというすさまじい物音がしたが、見る見る瞬間に露路の上から煙りと火の粉との厚衾《あつぶすま》が、紋也とお粂とを圧して来た。烈しい臭気だ、呼吸が詰まる! 恐ろしい煙りだ、眼があかれない! 火の粉が鬢《びん》を焼き袖を焼く! 嵐に飛ばされる屋根や板木片が、肩を打ち頭を打ち腕を打つ! にわかに窒息しようとした。火事場に起こる現象である。一所に真空ができたのである。「ムーッ」と紋也は呻《うめ》いたが、猛然として走り出した。しかしにわかに足を止めて、振り返らざるを得なかった。背後にあたって十数人の、荒々しい男のののしる声が、お粂らしい女の叫び声にまじって、紋也の耳へ聞こえて来たからである。
 いつのまにどこから現われ出たのであろう、得物《えもの》を持った十二、三人の男がお粂を真ん中に取りこめて、得物得物を打ち振って、お粂を叩き倒そうとしている。狭い明るい露路の一所に、黒い物がグルグルと渦を巻いて、その渦巻の上のあたりを、白光を放って一本の刀が、素早く左右前後にひらめき、そのつど赤い色が渦巻を縫って、花弁のようにひるがえって見える。赤い手甲の手へ脇差しを握って十数人の敵を相手にして、捕えられまい捕えられまいとして、お粂が苦闘をしているのであった。が、お粂は一人であった。しかるに敵は多勢であった。まもなく地上へ叩き倒されて、やがてかつがれて行くことであろう。
 ところが結果は反対となった。お粂を真ん中へ取りこめて、渦巻のようにグルグルとまわって、揉《も》みに揉んでいた十二、三人の男の、その中の一人が悲鳴を上げて、持っていた棒を地へ落として、渦巻の中から一人離れてよろめくと見るまにぶっ倒れて肩からタラタラと血を流して、のた打ったのをキッカケにして、渦巻の一角が崩れ立った。
 見れば一人の武士《さむらい》が血刀を揮《ふる》って立っていた。お粂があぶないと見てとって、引っ返して来た山県紋也が、敵の一人を袈裟掛《けさが》けに斃《たお》し、第二の犠牲を目付けようと、刀を揮っているのであった。
「紋也だ!」「野郎!」「叩き伏せろ!」
 お粂を見すててかかって来たが、露路が狭いので多勢が一度に、かかって行くことはできなかった。そこを付け目に山県紋也は、「お粂殿お粂殿まわりなされ! 拙者の背後へまわりなされ! ……カーッ!」とばかりに気合を掛けたが、掛けた時には飛び込んでいた。そうして飛び込んだその時には、真っ先立って来た敵の一人の、頬から頤まで割り付けていた。
 刀が上がった! 火光をはねた。刀が引かれた! 横へ走った。と、悲鳴! 血の匂いだ! ダッダッダッと引き退く足音! 三人目を腰車にぶっ放して、青眼に構えをつけたままの、紋也の眼前三間の間には、二つの死骸がころがっているばかりで、敵の姿は見られなかったが、三間のかなたには群らがっていた。そこまで敵は逃げたのである。紋也の背後にお粂がいる。
「さあこの隙に、お粂殿!」「あい!」――一散! 走り出した時だ! 行く手に人影が現われた。

門弟の助太刀

 行く手に現われた人の影は、その数、十人はあるであろうか、得物得物をひらめかして、煙りと火の粉の狭い露路を一ぱいにして寄せて来た。まさしく敵の同勢なのである。その同勢の現われたのを合図に、一旦退いた背後の敵勢が、これも露路を一ぱいにして、二人のほうへ押し寄せて来た。結局紋也とお粂との二人は、前後腹背に敵を受けて、退路を断ち切られてしまったのである。
「やられた!」という心持ちは、この時の紋也の心持ちであった。「あらかじめ計ってやったことだ! 引っ包んで、討ち取ろうと計っていたのだ! 左右は人家で逃げ路がない。前後は敵にさえぎられてしまった。どうしたらいいのだ! どうしたらいいのだ!」
 走っていた足を釘づけにして、紋也は露路へ突っ立ったが、その間も前後の敵の勢いは、威嚇的の喊声《かんせい》を上げながら、二人のほうへ寄せて来た。
「お粂殿お粂殿、もういけませぬ。覚悟をなされ、覚悟をなされ! ……いや、まだまだ大丈夫でござる。なんとかして活路を開きましょう。……うむお粂殿こうおしなされ! 二人の背中を合わせましょう。背後から来る敵の勢を、あなたにおいてお防ぎくだされ! 拙者は前の敵に向かって、一人二人切って落としましょう。崩れ立ったところを駆け抜けましょう!」
 ――で二人は背中を合わせた。
 すると不思議にも押し寄せて来た、前方の敵の勢が足を止めたがすぐにバラバラと崩れ立ち、ドーッと後ろへ引っ返した。が、一間とは引っ返さないうちに、今度は紋也のほうへ走って来た。しかし一間とは走って来ないうちに、またまた背後のほうへ引っ返した。つまり一所で寄せつ返しつ、揉み合いひしめき合っているのである。
 と、これはどうしたのであろう、二人ばかり地上へ倒れたではないか。と、これはどうしたのであろう、お互い同士が得物得物を、火光にキラキラとひらめかして、煙りの一ぱいに渦巻いている、露路で、打ちつ打たれつしているではないか。怒声と悲鳴と喚声とが、焼け落ちる物の音を貫いて、すさまじいまでに聞こえて来る。いったいどうしたというのであろう? 同士打ち喧嘩をはじめたのであろうか? いやいやそれはそうではなかった。彼らの群れの後方からこういう呼び声が聞こえて来たのであるから。
「先生先生山県先生、もはや大丈夫にござります。お助けにはせつけて参りました」
 庄田内記の声であった、つづいて別の声が聞こえて来た。
「先生先生山県先生、我ら血路をひらきます、おのがれくだされおのがれくだされ!」
 菰田重助の声であった。すなわち石置き場の空屋敷へ、宵の間に紋也が連れて来て、笹家の奥の間で遊ばせておいた、二人の内弟子が火事だと知って、笹家を外へ飛び出したところ、師匠の紋也の姿が見えない、怪我でもさせたら大変だというので、あちこち探しているうちに、この露路の中へまぎれ込み、紋也の危急に逢ったところから切り立てたのであった。
 勇気百倍という心持ちは、この時の紋也の心持ちであろう。
「庄田と菰田とが助けに来てくれたか! 有難い! 有難い! 有難い!」で大音に声をかけた。「ご両所であったか、ご助勢感謝! こやつらは悪漢で破落戸《ごろつき》でござる! 切って切って切りまくりくだされ!」で背後を振り返って見た。と、前方の味方の勢が、崩れ立ったのを見たからであろう、背後から寄せて来た敵の勢も、こちらへ寄せて来ようとはせずに、一つ所のようすを見守っていた。
「うむ、この隙にこの露路を出よう」でお粂へ声をかけた。
「ご覧の通りに二人の門弟が、前方から助けにまいりました。我らも切り込んではさみ討ちとし、ともかくも露路からのがれましょう。背後は大丈夫でござりますよ。寄せて来る気づかいはござりませぬ。いざ!」
 というと紋也は太刀をかざし、お粂を背後へ従えると疾風のように走り出した。が、しかし見よ、その瞬間に、すさまじい音が轟《とどろ》いて露路が火の海に一変したことを! 右手に並んでいた家並みが、焼けて崩れて落ちたからであった。

露路を縫って

 焼け落ちた家並みが露路をおおうて、焔々として焔を上げて、黒煙と火の粉とを八方へ吹いて、反対側の家並みをさえ、まもなく同じように焼き落とそうとしている。その露路の中で戦っていた紋也やお粂や二人の門弟や、代官松の乾児たちは、どういう運命になったことであろうか。焼け落ちた家並みの下敷きとなったら、潰されたあげくに焼き殺されなければならない。それともうまくのがれたであろうか? しかし猛火はそういう人間の運命などには関係なく、ますます焔を上げ煙りを吹き、火の粉を八方へ散らしている。
 いやいや露路にいた人間どもは、下敷きにもならなければ焼き殺されもしないで、別の露路を走っていた。先に立って走って行く二人の武士があった。庄田とそうして菰田なのである。すぐその後に引きつづいて、一人の武士と一人の女とが、乱れた姿で走っていた。紋也とそうしてお粂とであった。その後から多勢の人間が、得物をかざして追って行った。代官松の乾児たちであった。その露路にも火の光はみなぎっていて、火の粉や煙りは流れ込んで来たが、焔は入り込んではいなかった。住人はおおかた逃げ去ったものと見えて、人影はきわめてまれまれであった。
 その人影だが光の加減からでもあろう、人間のようには見えないで、気味の悪い人間の影法師のように見えた。と、多勢の影法師が、その先のほうを走って行く男と女との影法師へ、かぶさるようにして走りかかった。と、男の影法師であろうが、翩翻《へんぽん》と背後へ飛び返ると、二度ばかり白光をひらめかした。と、同時に走りかかって来た多勢の影法師の先頭に立った二つは、もんどり[#「もんどり」に傍点]打って地へ倒れた。紋也の太刀に二人の敵が見事に切られて倒されたのであった。で、多勢の影法師が、ムラムラと後へ引きしりぞき、それを見捨てた一つの影法師は、女の影法師と前後して、一散に先へ走って行く。その先を二つの影法師が走る。庄田とそうして菰田なのであったが、多勢の影法師も、一時は退いたが盛り返して、ふたたび後を追っかけた。
 火光は赤く、煙りは黒く、火の粉が金箔のようにキラキラする。両側の家々の屋根は明るく、門口は煙りでぼやけている。走る! 走る! 走る! 走る! そういう露路を影法師の群れが走る。と、先に立った二人の武士姿の、影法師がまず消えてしまった。露路が丁字形をなしていたが、角を曲がって右手のほうへ、その影法師が走ったからである。つづいて男女の影法師が、同じ角から消えてしまった。少しまをおいて大勢の影法師が同じ角から消えてしまった。で、この境地に残っているものといえば、火光と煙りと火の粉と家並みと、逃げおくれてウロウロうごめいている可哀そうな幾人かの住人たちであった。
 が、この時別のほうの露路で、同じようなことが行なわれていた。すなわち白刃をひっさげて時々それを打ち振って、行く手の人間を払うようにして、武士姿の二つの影法師が、一散に走って行く後から、これも血刀をひっさげた、男女二つの影法師が、同じく一散に走って行く。と、その後から一団となった多勢の影法師が得物を揮《ふる》って、先へ走る影法師を追っかけて行く。が、この露路と以前《まえ》の露路との、ちがうところも少しはあった。
 火光も煙りもみちていたが、そうして火の粉も散っていたが、以前の露路のそれらと比較する時、稀薄であるということである。以前の露路よりも火元の笹家に、遠ざかっている証拠といえよう。いやそれよりも以前の露路より、いっそうちがっているところがあった。家財をまとめたり家財を運んだり、老幼を助けて避難しようとしている住人の群れが相当にあって、そのため逃げて行く影法師も、また追って行く影法師も、ともすると行動をさえぎられる――というそういうことであった。
 しかしまたもや同じような順序で、――まず武士姿の二つの影法師から、つづいて男女の影法師となり、最後に多勢の影法師が、丁字形をなしている一角から、次々に消えてしまった後は、ここの露路も火光と避難する人と、煙りと火の粉との世界となった。が、この時別のほうの露路では、同じようなことが行なわれていた。二人の武士の影法師が走って行く、男女の影法師が走って行く。多勢の影法師が追って行く。火光、煙り、逃げ迷う人々! そうして逃げ迷う人々の数は、その露路においていちじるしかった。空地に近い証拠である。
 とうとう影法師の一行は、空地の入り口へまで走って来た。

空地へは出たが

 庄田内記と菰田重助とに、先を走らせて血路をひらかせ、幾筋かの露路をくぐりくぐって、お粂を助け介抱して、それでも空地の入り口まで、ようやくたどりついた山県紋也は、「さぞ空地は火事を避ける人で、ごったがえしているだろう、そこを取りえに人の群れにまぎれて、この場の危険をまぬがれよう」と、こう思って空地へ眼を走らせた。紋也の想像には狂いがなく、火事の光に照らされている、空地をうずめて人の群れが、大波のようにうねっていた。が、これはどうしたことであろう? この入り口に接近した、眼の前の空地の一所だけに、群衆の姿が見えないとは。とはいえ全然いないのではなかった。脇差しをめちゃめちゃに振りまわしている、一人の小男を包囲して、捕えよう捕えようとしているらしい、六人の男がグルグルグルグルと、渦巻のようにまわっていた。その一団を遠巻きにして、避難の人たちが走ったり倒れたり、人を突きのけたり人に突かれたり、波のようにうねっているのであった。
「はてな?」と紋也はとっさに思った。
「あの小男は何者だろう?」見覚えがあるように思ったからである。
 と、その時紋也と引き添い、左側のほうを走っていた、お粂が甲《かん》高くこう叫んだので、小男の素性が紋也に知れた。
「金ちゃん、金ちゃん、金ちゃんじゃアないか……」
 小男はお粂の相棒にあたる、金ちゃんこと金兵衛であった。と、金兵衛だがお粂のほうを見た。
「やア姐《あね》ごか! お粂の姐ごか! おッ山県先生も! 有難い有難い、助かりましたかい! ……さあ野郎ども、もういけまい! 姐ごと先生とがいらっしゃったんだ! 金ちゃんだって随分強い! 三人だぜ三人だぜ! 一人の俺にだってかなわなかったお前らだ! そいつが三人になったんだ! どうだかなうまい、顫えろ顫えろ! どうだーッ」
 と一はねはねるようにして、脇差しを揮《ふる》って前へ飛び、敵の一人を袈裟《けさ》がけにしたが、敵に素早くかわされたらしい。で金兵衛も飛び返った。そうして、そこで声をかけた。
「こいつらはあいつらでござりますよ。例の目明しの代官松の、乾児たちなのでございますよ。先生と姐ごとをやっつけようというので人数を入れて放火《ひつけ》をして、どさくさ[#「どさくさ」に傍点]まぎれにお二人さんを、討って取ろうともくろん[#「もくろん」に傍点]だので。……そこにおりますそこにおります! 代官松めがそこにおります! ……私は偶然立ち聞きしたんで。そこでお知らせしようとしたんで。で、走って来ましたんで。そこをこいつらに取り巻かれたんで。……もう大丈夫だ、ビクビクするものか! 見やがれ!」と喚《わめ》くと今のように脇差しを揮って前へ飛び、敵の一人を真っ向から切った。しかし今度もはずれてしまった。で、金兵衛も飛び返ったが、「先生、姐ご、油断はできません。こいつらばかりじゃアありませんので、橋場の卯之吉とかいう奴や、河岸の源吉[#「源吉」はママ]とかいう奴が、多勢の乾児を引き連れてはいり込んでいるということでいずれ現われるでございましょう。討ってかかるでございましょう。……おのれ!」と叫ぶとまたまた金兵衛は、例によって脇差しを打ち振って、はねるように前へ飛び出して行って、敵の一人を横薙《よこな》ぎにかけた。が、しかしこれもはずされたらしい。一人も敵は倒れなかったのだから。
 火事は一ヵ所ばかりでなく、どうやら諸方に起こったらしい。東にも西にも火の手が見える。ここの空地も明るさを加え、熱さを加え混乱を加えた。で、あっちこっちの露路口から、ここの空地へ逃げ込んで来る、無数の幼老男女によって、今まで一団体をつくっていた金兵衛と代官松と乾児との組も、その団体を崩されかかった。避難の人の群れが無我夢中に、彼らへ殺到して来たからである。と、その混乱の間を割って、紋也とお粂とが走って来る前へ、一人の男が突き進んだ。
「山県の先生、お粂の姐ご! もういけませんぜ、覚悟をしてくだせえ! 四方八方を取り囲んだんだ! 逃げようたって逃がしはしない! ……おい野郎ども方向を変えろ! 金兵衛なんかうっちゃっておけ! 紋也とお粂とへかかって行け! 一人は眠らせろ! 一人はさらえ!」代官松こと松吉であった。

乱闘! 乱闘!

「そうか」と紋也は代官松の言葉や、金兵衛の喚いた言葉によって、この出来事がハッキリとわかった。
「代官松の乾児どもが、我々に害を加えようと、放火や襲撃を企てたのか。おぼろげながらもそう感じてはいたが、これで事情がすっかりとわかった。が、どのような理由のもとに我々へ害を加えようとするのか? いやこれとてもおおよそはわかる。上に立っている大物が、我々の主義と行動とを押さえつけよう苅り取ろうと、代官松を使嗾《しそう》したのだ。……さあ、では、これからどうしたものだ? どうしようもこうしようもありはしない、斬って斬って斬りまくって、この一廓からのがれ出て、市中へはいり込んで身を隠すより、他に手段がありようはない。……」
 で紋也はせわしそうに、お粂のほうへ眼を走らせたが、「ごらんの通りのありさまでござる。敵は代官松の一味の由で、目的は我々を害そうとの事で、容易ならぬ危難にござります。ついては何よりの手段として、一刻も早くこの境地から離れ市中へはいることにいたしましょう。拙者の後よりついてござれ! 拙者血路をひらきましょう! 一ツ目橋のほうへ! 一ツ目橋のほうへ!」それから四方へ眼をやったが、
「庄田氏はおらぬか! 菰田氏はおらぬか!」すると二人の声が聞こえた。
「庄田でござります! ここにおります!」
「菰田でござります! ここにおります!」
 見れば二人の内門弟は、血ぬられた刀を引きそばめ、乱れた鬢髪に崩れた衣裳で、代官松らの背後のあたりに、平めかした姿勢で立っていた。指揮さえ下したなら一議にも及ばず、斬って入ろうの構えであった。
「こんな奴とは問答は無益だ」このように思ったがためであろう、代官松の挑戦の言葉へ、紋也は返辞を投げつけようともせず「やれ!」と叫ぶと自分自身、血刀を揮って突き進んだ。「まず金兵衛殿を助け出せ!」
 髪は乱れて頸《うなじ》に垂れ簪《かんざし》は脱《ぬ》けて散乱し、紅い掛け布はよれよれ[#「よれよれ」に傍点]となり、襟をはだけて、返り血を浴びた――そのために凄愴[#「凄愴」はママ]の美を加えた、肉付きのよい胸を現わし、赤い手甲の両の手に脇差しをしっかりと握ったお粂が、すぐにその後から突き進んだ。と挟撃《きょうげき》でもするように、その瞬間に二人の門弟が、背後からドッと斬り込んだ。
 火事の光で地上は明るく、明るい地上を人間の波が、うねりで泡立ち沸き立っている。と、その一所が急湍《きゅうたん》のように、物すさまじく渦巻いたが、悲鳴と喚き声と刃音とが、周囲の雑音を貫いて、ひときわ高く轟《とどろ》くや、バタバタと倒れる人の姿が見え、つづいて一組の人間が、周囲の群衆を左右に割って一ツ目橋の方角へ、走って行くのが見てとられた。が、数間とは走らなかったであろう、その一ツ目橋の方角から、一団の人数が現われいでこれも周囲の群衆を割ってこちらをさして走って来た。と、思うまもあらばこそであった。河岸の方角からまたも一団の得物を持った人数が現われたが、同じようにこちらへ走って来た。と、思うまもあらばこそであった、たった今急湍のように人の渦が渦巻いていたその所から、四人の人数が走り出て、同じようにこちらへ走って来た、そうして三組の人の群れが、一ツ目橋のほうへ走って行く、一組の人数をおっ取り囲んだ時に、ふたたび乱闘が行なわれた。
「代官町の兄貴か!」「河岸の兄弟か!」「代官町の兄貴か!」「橋場の兄弟か!」こういう声々が取り交わされ、つづいてこういう声が聞こえた。「そいつが紋也だ! こいつがお粂だ! いいところへ来た! さあやってくれ!」
 一ツ目橋の方角から駈け付けて来た一団の人数は、河岸の源介の勢であり、河岸の方角から走って来た一団は、橋場の卯之吉の勢であり、背後から追って来た四人の人数は、代官松と乾児とであった。
 三方に敵を引き受けたのは、紋也とお粂と金兵衛と、庄田と菰田との五人であった。宙に上がる棍棒、空にうねる捕り縄、紅色の火事の遠照りを縫って、霰《あられ》のように飛ぶ無数の目潰し! が、それらを四方に受けて、八方へ斬り返す五本の刀! 空は深紅だ! 周囲は人波だ! と紋也たちの一団であったが、さっきからの乱闘に疲れていた。しだいしだいに弱って来た。

起こった歌声

 もしも天上に人がいて、眼の下の光景を眺めたならば、こういう光景を見たことであろう、一人の娘が脇差しを揮って、数人の男と戦っていたが、脇差しを地上へ叩き落とされてしまった。と、数人の男たちであるが、すぐに飛びかかって揉み立てたあげく、娘をかついで走り出した。かつがれて行くのはお粂なのである。と、見てとった一人の小男が、これも脇差しを揮いながら、数人の男と戦っていたが、お粂を誘拐から救おうとして、かつがれて行くほうへ走り出した。が、そのとたんに一人の敵に、棍棒で足を払われたため、モンドリ打ってぶっ[#「ぶっ」に傍点]倒れた。と、数人の敵であったが、倒れた小男へ――金兵衛の体へ、一度にドッと襲いかかって、グルグルと縄で縛り上げようとした。
 が、金兵衛も縛られようとはしない。起き上がろう起き上がろうと手足をもがかせる。それと見てとった一人の若い武士が、ギョッとしたように立ちすくんだが、十数人の敵を相手にして切り捲くっていた血に濡れた刀を、脇構えに構えて突き進んだ。ほかならぬ山県紋也である。金兵衛を助けようとして突き進んだのである。が、その時少し離れた処から、女の叫び声が聞こえて来たので、またギョッとして声の来たほうを見た。お粂がかつがれて行こうとしている。
「しまった!」というように一瞬間、また紋也は立ちすくんだが、これは金兵衛を助けようか、それともお粂を救おうかと、躊躇したものと見てよかろう。しかし紋也はお粂のほうへ走った。
 こういう境地から数間離れた、ほかの一画では二人の武士が――庄田内記と菰田重助とであったが、これも刀を打ち揮い、十数人の敵を相手にして、苦しい戦いをつづけていた。
 火事の光は深度を加えて、今は地上は昼よりも明るく、地を這っている小虫をさえも、数え取ることができそうであり、そういう明るい地面を埋ずめて、逃げ迷っている無数の男女が、そういう乱闘の修羅《しゅら》の場をめぐって、うねり、波立ち、崩れ、集まり、また押し寄せたり退いたりしていた。
 お粂はかつがれて行くであろうか? 金兵衛は縛られて捕えられるであろうか? 紋也にお粂が助けられるであろうか? 苦戦している庄田と菰田とは、結局どうなることだろう? と、これはなんということだ! この地獄の光景の中へ、
[#ここから1字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]葵は枯れても
 ああああ
 菊は栄える
[#ここで字下げ終わり]
 と、多勢のうたう歌の声が、忽然と響いて来たではないか!
 と、これはなんということだ! 賭場の立っている方角から、十人、二十人、三十人、続々と異形の人の影が、得物得物を振りかざしてこちらへ走って来るではないか! 香具師《やし》、博徒《ばくと》、遊芸人、破落戸《ごろつき》たちの群れであった。
 と、これはなんということだ! その一団の走るにつづいて、今まで夢中で逃げまわっていた、避難の人々が逃げまわるのを止めて、
[#ここから1字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]葵は枯れても
 ああああ
 菊は栄える
[#ここで字下げ終わり]
 と、これも同音に歌いながら、その一団にはせ加わって、こちらへ走って来るではないか!
「山県先生をお助けしろ!」誰いうとなく叫ぶものがあった。
「お助け申せ! お助け申せ!」一団が同音に声を合わせた。
 かつて紋也が弟の小次郎へ、「俺《わし》が巷へ呼びかけた声が、どんなに多勢の口々によって、叫ばれているかを聞くがよい」と、こういう意味のことをいったことがあったがその[#「その」に傍点]叫びこそこの[#「この」に傍点]叫びなのであった。
 水戸様石置き場の空屋敷という、この境地へ入り込んで、潜行的に山県紋也が、下賤と見なされている人たちへ、どれほど恩をほどこしたかどれほど思想を吹き込んだか、その証跡が今や挙《あ》がった。紋也急難と伝え聞くや、自分の危険を打ち忘れて、こぞって救いにはせ向かったのである。その一団が襲いかかった時、以前にもました大乱闘が、空地の中で行なわれたが、やがて集団的の乱闘が、ここに一組、そこに一組と、分立的の乱闘と変った。と、一散に一人の武士が乱闘の場《にわ》から走り出た。

助けつ助けられつ

 乱闘の場《にわ》から走り出たのは、これまでの戦いに薄手ではあるが、数ヵ所に傷《て》を負った紋也であった。髪は乱れて顔へかかり、衣裳の袖はちぎれて取れ、手にも足にも血を流し、引っ下げた刀をピリつかせている。代官松の一団からいえば、紋也を討って取ることが、この夜の襲撃の主なる目的で、逃がしてはならない獲物なのであった。が、思いもおよばなかった、意外の敵が現われて、「葵は枯れても、ああああ、菊は栄える」と、歌いながら攻めてかかられたので、一団はことごとく気を呑まれて、この新手の敵に向かい、紋也が乱闘の場から抜けて、一ツ目橋の方角へ、走って行くのに気が付かなかった。で、紋也ははずむ[#「はずむ」に傍点]息をおさえ、ともすると定まらずよろめこうとする、疲労《つか》れた足を踏みしめ踏みしめ、絶えずぶつかって来る群衆の波を、血刀を振って左右へ払い、一ツ目橋のほうへ突き進んだ。が、半町とは走らなかったであろう、紋也はにわかに足を止めたが、振り返ると乱闘の場を眺めた。
「お、お粂殿! ……うっちゃってはおけない!」――のがれようと思う一心から、遮二無二《しゃにむに》ここまで走っては来たが、お粂が敵に取りこめられて、乱闘の場に残っていることを、フッとこの時思い出したのであった。「女を捨ててはおかれない」――で、紋也は取って返した。取って返して戦ったならば、疲労れ切っている躯である、おおかた斃《たお》されてしまうだろう。……そういう予感はあったけれども、見捨てて自分だけ助かろうという、卑怯な心にはなれなかった。
「お粂殿! お粂殿! お粂殿!」と、人の声、足音、物の破壊《こわ》れる音、火事に付き物の嵐の音、声や音に一ぱいに充たされている、ここの修羅場の騒音を通して、紋也は大音に呼んでみた。と、どうだろうその声に答えて、数間の先からお粂の声が「紋也様!」とすぐ答えたではないか。意外な結果に驚いて、声の来たほうへ紋也は向いた。そこにあるものといえば群衆であったが、その群衆を脇差しで払って、お粂がこちらへ走って来るのが見えた。
「おお、お粂殿か、お怪我はなかったか」安心した紋也は走り寄りながら、こう叫んでお粂を抱えるようにした。「金兵衛殿は? 門弟どもは?」
 紋也の腕に抱えられて、お粂は荒いあえぎ[#「あえぎ」に傍点]声を上げた。「ご、ご安心なさりませ、金兵衛もお二人のご門弟衆も、道を変えておのがれなさいました」――で、紋也にひしとすがった。「意外の助けが出ましたので……みんなそのほうへかかりまして……隙のできたのを見てとって……めいめいのがれたのでございます。……あなたをお探しいたしました。……やっと、……お声が……聞こえましたので……」
「有難い……」と紋也は腕にこめた力で、お粂の肩を引き締めたが、「さあ一緒に! 見付けられないうちに!」
「はい」とお粂も立ち直った。「お屋敷にお帰りなされては、危険至極でございます。……それよりも妾の屋敷のほうへ! 私たちのおります屋敷のほうへ! ……あそこは安全でござります!」
「まずこの空地を! ……一ツ目橋から! ……」
 で、二人は走り出した。なおも群衆がぶつかって来て、二人の間をへだてようとする。それを払って突き進む。一ツ目橋を向こうへ越すと、相生町の一画へ出る。それを北のほうへ走って行けば尾上町の河岸へ出る。河岸について走って左へ曲がれば、九十八間の両国橋となる。両国橋を渡り越せば、吉川町となり柳橋となる。そこの町筋を西へ走れば、久左衛門町となり佐久間町となり、儒者ふうの老人の籠っている、例のいかめしい屋敷となる。いつか二人は久左衛門町まで来た。火事を見る人が往来の上や、屋根の上などに立っていたが、その人影とてまれまれであって、町筋はむしろ寂しかった。
 紋也もお粂も疲れ切っていた、今にも二人ながら倒れそうであった。それに紋也には心配があった。自分を討ち漏らした代官松の徒が、あくまで自分を討って取ろうとして、自分の屋敷へ討ち入りはしまいか? 討ち入られたが最後、妹も弟も、難を受けなければならないだろう。妹には吹き針の武芸がある。あるいは難をのがれるかもしれない。が、弟は柔弱者だ。討って取られてしまうだろう。
「小次郎! 小次郎! 小次郎!」と、思わず紋也は声を上げたが、その小次郎は紋也の行く手の、佐久間町の入り口の往来で、難を受けているはずである。

小次郎の生死?

 一人の若衆武士が佐久間町のほうから、疾風《はやて》のように走って来て、おりから佐久間町の入り口へまで来た、北条美作と桃ノ井兵馬とへ、――いや先に立っていた美作の胸へ、ドンとばかりにつきあたり、
「無礼者めが! 粗忽《そこつ》千万!」
「火急の場合、お許しのほどを」
「おっ、貴様は山県小次郎か!」
「どなたでござるな?」
「桃ノ井兵馬だ!」
「切れ!」という美作の声がしてつづいて兵馬が抜き討ちざまに、小次郎の胴へ切りつけたのは、水戸様石置き場の空屋敷にある笹家から火の手の上がった時で、小次郎の兄の山県紋也が受難の時刻と同じ時刻であった。
 小次郎は柔弱ではあったけれども、ともかくも兄に仕込まれて、多少とも武術の心得はあった。抜き討ちに兵馬に切り付けられたが、その一刀を胴へ受けて、そのまま斃れてしまうというほどにも、不鍛錬未熟の人間ではなかった。こういう場合に自然と出る「あッ」という驚きの声を上げたが、声を上げた時には小次郎は、反射的運動とでもいうべきであろうか、パッと背後へ両足で飛び、これとても反射的運動といえよう、左手で刀の鯉口を握り、右手で柄を握りしめ眼前に刀を上段にかぶり、刀身を月光にひらめかし、黒頭巾の中から白々と、左の一眼を繃帯した、白い布を気味悪くのぞかせて、開いている右眼で睨んでいる殺気に充ちた兵馬の姿を、絶体絶命の心持ちで怯えながらみつめていた。
 両足で背後へ飛んだ時に、おのずからそうなった位置なのであろう、家々の屋根が月の光をさえぎり、そのためにできた蔭があって、往来の左側を暗めていたが、そこに小次郎は立っていた。で兵馬には小次郎の姿は暗さに包まれて不分明であったが、兵馬の姿は月の光に、青白く照らされて明らかであった。兵馬の姿が明らかに見える! ということが小次郎にとっては、即《そく》恐ろしいことであった。前後に踏んでいる兵馬の足が、衣裳から洩れて現われていたが、その足がジリリ、ジリリ、ジリリと、小次郎のほうへ寄って来る。柄の頭を握っている兵馬の拳《こぶし》が、月光の加減か、尋常ならず大きく見えたが、同じくジリリ、ジリリ、ジリリと、小次郎のほうへ寄って来る。
 が、何よりも恐ろしいのは、拳の下にすわっている穴のように見える一眼で、それは人間の眼というよりも、一個の独立した奇怪な生物――というように見なされた。その眼が同じく小次郎のほうへ、ジリリ、ジリリと寄って来る。兵馬その者の姿勢から、全体的に感ぜられるものは、兎《うさぎ》を捕えるにも全力を注ぐといい伝えられている獣王の獅子《しし》で、どうあろうとよし、こうあろうとよし、あくまでも小次郎を討って取ろうと、深く決心をしているような、真に物凄い殺気であった。そういう兵馬を前に置いて、何ゆえ小次郎は刀を抜かずに、みつめたままで立っているのであろう。小次郎には刀が抜けないのであった。
 桃ノ井兵馬という名は聞いていたが、そうして兵馬が自分たち一族の、敵であるということも聞いていたが、そうしていつぞや兄の紋也と、姉の鈴江とが泉嘉門の屋敷で、その兵馬を懲らしたという、そういうことも知ってはいたが、しかし逢うのははじめてであった。剣技の素晴らしいということも、以前から小次郎は聞いていた。が、どのくらい素晴らしいのか、それは今までは知らなかった。しかるに今や逢ったのである。剣技の素晴らしい一族の敵に! と、想像をしていたよりも、なんと恐ろしい敵なんだろう! 刀を抜こうにも抜くことができない。抜くとたんに隙ができるだろう。そこを一刀にやられるだろう。――で、小次郎は棒か杭《くい》のように、ただに立っているばかりであった。
 両国の方面の霧の深かった空がしだいに紅色に染まって来た。水戸様石置き場の空屋敷が、焼き討ちのために焼けているからである。しだいに大火になるらしい。空の紅色が月の光を奪って、見る見るうちに濃くなって来た。
「兄上!」と小次郎は紋也のことを思った。「お身があぶない、お身があぶない!」
 ――心の隙といわなければなるまい! この息詰まるような闘争の間に、兄の安危へ心を移したのであるから。果然! 一刀真っ向へ来た! つづいて「ワッ」という悲鳴が起こって、小次郎の姿が地へ倒れたが、同時に刀光が地上五寸の、空間を横へ一流れした。

この凄惨!

 しかし小次郎は切られたのではなくて、兵馬が切ってかかった時に、行動したというよりも無我夢中に、これもいい得べくんば反射運動的に、前方へ向かって飛び出して行き、兵馬の体へぶつかった[#「ぶつかった」に傍点]ところ、自分の力に自分が負けて、ドッと地上へ倒れたが、その瞬間に心が開けて、刀を抜くだけの余裕ができた。で、引き抜くや倒れたままで、兵馬の足を薙《な》いだのであった。「ワッ」という悲鳴をあげたのも、真っ向を切られたがためではなくて、真っ向を切られたと思ったからであった。
 月光が道の上に敷いていて、霜のような色を見せている。その道の上を素速い早さで、コロコロと転がって行く物の形があった。起きよう起きようと努めてみても、恐怖のために足が立たないで、転がって行く小次郎の体なのであった。と、一本の氷柱《つらら》のようなものが、小次郎の体の転がって行くつど、月光をはねたり飛ばしたりした。そこは小次郎も武士であった、転んでも刀を放さなかった。握っている刀が光るのである。
 火事の遠照りがここまでも届いて、ここの空間は薄紅い色に、ボッと気味悪くぼかされていたが、その空間の一所に、腰を落として右の足を曲げて、股の中所に太刀柄をあてて、天道流の下段に構えて、転がって行く小次郎の転がって行く姿を、睨み付けている武士があったが、いうまでもなく兵馬であった。月光と火光とに練り合わされて、微妙な色と光とが、曲げたためにかえって釣り上がった衣裳の裾の下から出ている脛《すね》の一所を照らしていた。と、なんだろう紐《ひも》のようなものが、脛を伝わって足の甲のほうへ、ズルズルとたぐられて行くではないか。昼間見たらその紐は赤く見えよう。夜である今は蒼黒い色に見えた。小次郎に刀で薙がれた時に、迂濶《うかつ》に受けた傷口から、流れてしたたって[#「したたって」に傍点]いる血汐なのであった。
 柔弱者の小次郎を一刀に仕止めることができず、その上にあべこべに傷を負わされたので、兵馬はカッとのぼせてしまった。がしかし小次郎が立ちあがって、構えているのであったならば、すぐにこの太刀を下すことができたが、あたかも転がって行く俵《たわら》のように、小次郎は地上を転がっていた。柔道《やわら》に寝業《ねわざ》というものがあって、これにかかると練達の士でも意外に不覚を取るものである。剣道の外伝にも寝業はある。同じく迂濶にかかろうものなら、同じく不覚を取るものであった。兵馬ほどの腕利きの武士である、小次郎が取るにも足らないような、武道未熟の武士であるという、そういうことはわかっていた。が、寝業をされた日には、多少とも用心をしなければならない。そこで下段に構えをつけて、はやる心を押し静めて、小次郎のコロコロと転んで行くようすをグッとみつめているのであった。
 その兵馬の心持ちといえば、山県の一族は自分にとって、主義の敵であり父の仇であり、片眼を潰された怨みから、自分自身の仇でもあって、なぶり[#「なぶり」に傍点]殺しにしてやらなければ、心の晴れない怨敵であった。その一人の怨敵小次郎が、眼の前に地上に転がっている。
「うむ、うむ、うむ、有難いぞ! 一太刀切って自由を奪って、その後でさんざんになぶってやろう。耳を剃《そ》り落とし眼をクリ抜き、鼻をえぐり取り指を折り、綺麗な艶々しい前髪を、一本一本むしり取ってやろう」
 感情が極度に昂奮すると、人間は物がいえなくなる。むしろ能弁家で、毒舌家で人をさいなむ[#「さいなむ」に傍点]場合にも、喋舌《しゃべ》りまくる兵馬ではあったけれど、感情が極度に昂奮していた。で、石のように黙ったままで、左へ転がれば左のほうへ、右へ転がれば右のほうへ、小次郎の体の転んで行くほうへ、鉾子《ぼうし》を角立てて差し向けて、ジリリ……ジリリ……と刻み足で進んだ。
 で、この二人のたたずまい[#「たたずまい」に傍点]は、凄惨なものといわなければなるまい。しかるにそういう二人から、三間あまりへだたった、家の影の濃い道の上に、寂然としてたたずんで、その二人の凄惨なたたずまい[#「たたずまい」に傍点]を、見守っている一人の武士があった。北条美作その人であった。黒頭巾の中から剃刀のような眼で、二人を眺めていることであろうが、影の暗さにおおわれて、ただ一様に黒く見えた。刀の柄へ手さえ掛けていない。が、これはどうしたのであろう、ゆるゆると右の肘を張り、右足をそろりと前へ出した。と、手が刀の柄へかかった。見れば美作の立っている前へ、小次郎の体がころがって来る。

夢中の恐怖

 北条美作のたたずんでいるほうへ、小次郎が転がって行くといっても、地上をコロコロと俵のように、今は転がって行くのではなくて、立ち上がろうとしても腰が立たず、起き上がろうとしても足が利かない、それでいてやはり立ち上がろうとし、それでいてやはり起き上がろうとする。そこである時には半ば立ち、またある時には全く転がり、そうかと思うと片膝だけで立つ。そういうありさまで転がって行くのであった。で、そのようすは重い傷《て》を負って、もがきまわっている人間のように見えた。が、なぜ美作の立っているほうへ、好んで転がって行くのであろう?
 いやいや決して小次郎は、好んでそのほうへ転がって行くのではなくて、落とした石が転落するや、いやでも同じ方向へ向かって、加速度に転落して行くのと同じに、小次郎も最初に転がったほうへ、加速度に転がって行くまでであった。そうして小次郎には自分の行く手に、ゆるゆると右の肘を張って、右足をそろりと前へ出して、柄頭へ手をかけて狙いすましている北条美作という人間が、たたずんでいる姿なるものがまことは眼にはいっていないのであった。
「桃ノ井兵馬! 我々の敵だ! 凄い人間だ! 恐ろしい剣技だ! そいつに俺はぶつかったのだ! 俺は殺される殺される! が、俺はどうしても殺されるのはいやだ! といって兵馬を討ち取ることはできない! 俺は剣道が未熟なのだから! ではいったいどうしたらいいのだ? 逃げよう逃げよう、どうぞして逃げよう」転がりながらも心の中で、ハッキリと考えていることといえば、それ以外の何物でもなかった。同時に小次郎はこう思っていた。「水戸様石置き場の空屋敷で、兄上が苦闘しておられるだろう。行ってお力にならなければならない。少なくも兄上を焼き討ちにかけた敵の素性と手配りとだけは、どうしてもお聞かせしなければならない」
 火事は大きくなったらしい。ここ佐久間町と両国とはかなりの距離を持っているのに、ここまで届いている遠照りの光が、しだいに色を濃くして来て、今にも火の粉の幾片かが、降って来はしないかとさえ思われた。で、付近の幾軒かでは、表戸をあけてのぞいたり、屋根の上へ昇って見たようであったが、大川をへだてた両国の地点が、火元であると知ったからか、まもなく人影は消えてしまった。擦半《すりばん》が鳴って寺の鐘が鳴って、火消しのはせて行く足の音なども、聞こえて来たことは来たけれども、この佐久間町の往来ばかりは、ただに寂しくて人通りもなかった。このことは美作と兵馬にとっては、好都合のことではあったけれども、小次郎にとっては不幸であった。もしも人通りがあったならば、美作も兵馬も気を兼ねて、小次郎を討つことを控えたであろうから。
 と、一つの黒い形が、ムックリと地上から持ち上がった。小次郎が辛うじて立ち上がったのである。と、一つの黒い形が、すぐに地上へくず折れた。小次郎が膝を突いたのである。と、同じ黒い一つの形がズルズルと地上を這って行った。小次郎が地を這ったのである。と、這っていた小次郎であったが、反射的に何物かを感じたらしい、グイと顔を上向けた。と、その顔を見下ろしながら、頭巾をかぶった威厳のある武士が、今にも斬り下ろそう構えの下に、刀の柄へ手をかけていた。
「ハーッ」と小次郎は気を呑んだ、恐怖が昂《こう》ずると夢中になる。美作の姿を眼に入れて、敵が二人だと知った瞬間、立てなかった足がにわかに立って、美作と二尺とは離れなかったであろう、そのようにも美作と接近した位置へ、グーッと小次郎は突っ立った。これは美作にも意外であったらしい。「おっ!」というような声を立てたが、抜き討ちにかけるには近すぎた。で、後ろざまに飛びさがり、無言の気合でサーッと斬った。どうだ! いや! 斃れなかった! ただ鏘然《しょうぜん》たる音ばかりがした。夢中で小次郎が持っていた刀を、頭上へ高く捧げたため、斬り付けた北条美作の刀が、鍔で意外にも受けられたのである。が、その次の瞬間において、横様に小次郎へ飛びかかる魔のようにすさまじい人影があった。両手を上げて刀を捧げて、今も小次郎は美作の刀を、棒立ちになってささえている。まる[#「まる」に傍点]見えになった胴を割るべく、兵馬が飛びかかって行ったのであった。

現われた一団の者

 しかし兵馬はあせっていた。というのは小次郎が起き上がるのを待って、討ち取ろうとようすを見ていたところ、小次郎は起き上がりは起き上がったものの、その時にはすでに北条美作が、真っ向を割るべく刀を下ろしていた。で、兵馬は切ることができなかった。が、これだけならまだよかったが、美作の切り下ろした刀を受けて、小次郎が棒立ちに立ってしまった。と、その姿勢が兵馬の眼には、小次郎のために美作のほうが、今にも切って斃されそうに見えた。で、美作を助けようとして、まる[#「まる」に傍点]見えに見えている小次郎の胴を、割ろうとして飛びかかって行ったのである。しかし飛び切った瞬間に、しまった[#「しまった」に傍点]と思わざるを得なかった。小次郎と美作とがくっつき合って、ほとんど一個の群像のように、向かい合って立っていたからであって、小次郎を切ろうとして薙《な》いだ刀が、美作を切ろうも知れないからであった。で兵馬は飛びかかったが、急に刀を手もとへ引くと、にわかに足を踏み固めて、すぐに小次郎の背後を目掛けて、飛鳥のように斜めに走った。兵馬の眼の前に見えているのは、小次郎の細い頸足《えりあし》と、刀を捧げているがために、怒《いか》って見える両肩と、頭の上にこちらに向かって切っ先だけを突き出して、その切っ先を燐《りん》かのように、蒼白く月光にさらしている、受けられている美作の刀とであった。「切りよい姿勢だ!」「胴を輪切ろう」と思ったのではない感じたのである。感じた時には切っていなければならない。兵馬の刀が左横へ流れて返るや小次郎の後胴へはいった! ――という手はずになるべきであったが、またもや兵馬はスカされてしまった。美作の刀を夢中でささえて、放心したように立っていた、非力の小次郎がささえる力に負けてヒョロヒョロヒョロヒョロと後ろへさがり、もたれるように兵馬の胸へ、体当たりめいた[#「めいた」に傍点]ものをくれたからであった。
「チェッ」という舌打ちの声がした。二度の失策に業を湧かして、兵馬の鳴らした舌打ちであった。しかるに舌打ちを鳴らした時には、再度の舌打ちを鳴らさなければ、どうにも我慢のできないような、意外な出来事が起こっていた。兵馬の足もとに小次郎の体が、倒れて独楽《こま》のようにまわっていたが、振りまわした小次郎の刀の先に触れて、また兵馬が脛《すね》を切られたからである。
「こやつ! 猪口才《ちょこざい》! ううむ、切ったな!」
 しかし兵馬がわめいた時には、二間あまりのかなたの道を、両国のほうへ無二無三に、――どういう理由でそうもにわかに、走るだけの度胸が出たのであろうか――小次郎は黒々と走っていた。
「ご前!」と兵馬は美作を呼んだ。「残念……拙者……傷を負うてござる! ……ご前ご前、小次郎めを!」
「傷は重傷か! 兵馬兵馬」
「ご心配ご無用! かすり傷でござる! ……が、いささか、出血が多く! ……ご前ご前、小次郎めを!」
「うむ」と美作がいった時には、すでに小次郎を追っかけていた。
 美作が小次郎を追っかけて行くのを、眼で追いながら大地にすわって、兵馬は結んでいた帯を解いて、一方の端を歯で噛んだが、ビリビリと細く引き裂いた。と、脛へ捲き付けたが、受けた傷を繃帯したのであった。その間も兵馬は眼で追った。
「おッ、しめた! 追い付いた! うむ、ご前が切り付けた! あッ、いけない! 切りそこなった! 小次郎め小次郎めまだ走りおる! ……いよいよしめたぞ! 追いついたぞ! やッ、ご前が手をのばした! 生《い》け擒《ど》りにするおつもりらしい。……お偉い! ご前! 捕えましたな! ……なんだなんだ、どうしたのだ! 小次郎め振り切って逃げて行く! ……なんだろうご前の持っておられるのは※[#感嘆符疑問符、1-8-78] ……袖だ袖だ小次郎めの袖だ! ……今度はよかろう、追い付いた! 大丈夫だ大丈夫だ、今度は切るぞ!」
 しかし兵馬は口をつぐむと、裂き残りの帯を腰へ巻いて、刺されたかのように飛び上がったが、美作と小次郎の走って行ったほうへ、足の傷などは忘れたように、身体をひらめかして一散に走った。何かに仰天したようすである。
 三度目に美作が小次郎へ追いつき、ぶっ放さんとした時、松永町のほうと通じている、小広い横丁から一団の者が、忽然として現われて来て、小次郎を保護でもするかのように、小次郎を人数の真ん中へ包んで、美作をさえぎってしまったからである。

肉魔のまどわし

 小次郎を中へ包むようにして、美作をさえぎって往来《みち》の中央へ、たむろするようにたたずんでいる、十人の一団は武士が四人に駕籠舁《かごか》きが二人に女が四人という、まことに変わった一団であって、武士はいずれも年が若く、健《すこや》かで美貌であるらしく、頭巾で顔をこそ包んでいるがお小姓じみたところがあった。緑色の小袖を一様に着て、羽織なしに袴をはいていた。四人の女はこれに反して、いずれも醜い老女らしく、これも緑色の衣裳を纒《まと》い、緑色の被衣《かつぎ》をかぶっていた。
 と、二人の駕籠舁きによって、舁《かつ》がれている女駕籠が一挺あったが、塗りは総体に黒色で金銀の蒔絵《まきえ》がほどこしてあって、扉のあたりに深紅の総《ふさ》が、焔の束のように下がっていた。その駕籠の扉《と》に引き添って、地に膝を突いて、小次郎が烈しくあえぎながら、それでも刀は手から放さず、握ったままで静まっていた。
 なんという不思議な一団なのであろう? が、この不思議な一団はいつぞやも佐久間町の往来へ、このような姿で現われて出て、小次郎の兄の山県紋也を、驚かせたことがあったはずであり、北条美作の子息にあたる左内をおびき寄せたはずである。が、あの時には駕籠の扉があいて、姫君姿の妖艶な女が顔をのぞかせたはずであった。今夜もそういうことにならなければなるまい。
 はたして駕籠の扉が内側からあいて、女が顔をのぞかせた。夕顔の花のそれのように、なんという白い顔であろう。二|顆《か》の宝石でも懸けたように、なんという光の強い眼であろう。いつぞやの夜の姫君姿の女と同じ女であった。いつぞやの夜にはその女が物いうごとに形容に絶した、愛欲をそそる馨《かんば》しい匂いが、息苦しいまでに匂って来て、紋也を恍惚の境地へまで墜落させたはずであったが、はたして今夜はどうであろうか?
 今夜もいつぞやの夜と同じであった。女の顔は駕籠の中で月光に隠されているがために、一様にほの白く見えるばかりであったが、その顔の一所に黒い※[#「やまいだれ+比」、51-11]《きず》ができて――女が唇をあけたからであろう――こう小次郎へいった時に小次郎の心を恍惚とさせてほとんど絶息させるまでの馨しい匂いが、言葉と一緒に匂って来た。
「このお若い衆は気に入ったよ、ああ妾の気に入ったよ。この人へ接吻《くちづけ》をして上げよう。この人は嬉しがるに相違ない。妾がこの人を嬉しがるように。……まだこの人は童貞らしいよ。まだこの人は女子の肌の、胸から下を見ていないよ。この人の心は顔立ちでわかる。冷やかなものや堅い物や、寂しい物や静かなものに、ずっと養われて来たらしいよ。では妾が見せて上げよう、それとはまるっきり別なものを。……そうしてこの人へ教えて上げよう、それとはまるっきり別の物のほうに、生き甲斐のある物のあるということを。……半分しかこの人は知らないのだよ。だから妾は後の半分を、この人へ知らせて上げることにしよう」
 で、馨しい匂いが、香料のように匂って来たのであった。と、飼い犬でも甘やかすような命令的ではあるけれども、優しい声が駕籠の中から聞こえた。
「おいで、さあ、ここへおいで。お出し、さあ、お前の手を」
 ――と、その声のいい終えられた時に、二本の細い白い線が、暗い駕籠の中から差し出されて、小次郎のほうへのばされた。袖が捲くれて二の腕までも露出された女の腕であった。必死の闘いの直後において、この光景に接したばかりか、例の芳香に燻《くゆ》らされたのであった。小次郎に何の意識があろう。差し出された女の手の先に磁気でも起こっているかのように、連れて小次郎も手を出した。刃物の地に落ちた音がしたが小次郎が刀を落としたのであろう。四本の腕がからみ合い、二つの顔が近寄って行く。
 と、この怪しくも肉欲的の、それでいて静的のたたずまい[#「たたずまい」に傍点]を破って、叱咤するようないかめしい声が、一所から聞こえて来た。
「姫! 穢《けが》らわしい! 狂気なされたか!」
 抜き身をひっさげて戦慄しながら立っていた北条美作であった。

顔が合わさる!

 最初は切って捨てようとし、二度目は生け擒《ど》りしようとし、三度目にはまたもや切り捨てようとして、刀を高く振りかむった時に、松永町へ通う横丁から、駕籠の一団が現われ出て、殺そうとした小次郎を、瞬間に中へ取りこめて、切ろうとして追って来た美作を、恐れげもなくさえぎったのであったが、この時の美作の心持ちといえば、行列が異様であったがために「気を呑まれた」というあの心持ちであった。が、彼ほどの人物である。いつまでも気を呑まれてはいなかった。ましてや彼はこの時代における、梟雄《きょうゆう》であって権臣であって、大目附であろうと若年寄であろうと、はばかったほどの勢力家であった。で、そのような行列などが、彼の所業などをさえぎろうものなら、有無をいわせず切り払ったところで、咎《とが》められるような心配はなく、切り捨てご免というような、好都合に計らわれるのは知れていた。そうして美作自身においても、そういうことは知悉《ちしつ》していた。
 で、気を呑まれた心持ちから、恢復するや突き進んで、その行列を誰何《すいか》した上で、小次郎をこなたへ取り戻すか、きかない時には行列の人数を、切り払った上で取り戻そうと、ヌッとばかりに進み出たのであった。がしかし、美作はそのとたんにさらに意外な物を見た。内側から駕籠の扉がひきあけられて、浮かび出た女の顔であった。
「おッ、これは姫君ではないか! 何ということだ! 何ということだ!」――で、またまた気を呑まれて、茫然として突っ立ったのである。どうして彼ほどの人物が、たかが女の顔を見て、そうまで気を呑まれたのであろうか? 駕籠の中にいる姫君姿の女が、美作にとっての苦手であるか、ないしはその女の父母か縁辺《みより》に美作にとっての苦手があるか、どっちかでなければならなかった。とまれ美作は茫然として、抜き身をダラリと下げたままで、一団の前にたたずんでいた。しかるに駕籠の中の女であったが、美作がそこにいることなどを、知っていても知らないというように、小次郎に向かって話しかけ、小次郎に向かって手をのばし、これものばした小次郎の手を、恥ずかし気もなく握りしめて、駕籠へ近々と引き寄せて、そうして自分では駕籠から外へ、胸から上を傾けて、そうして顔を下げて行って、上向いている小次郎の顔へ、今や落としかけようとした。
「姫! 穢らわしい! 狂気なされたか!」
 ――で、美作は声をかけたのであった。
 美作ほどの人物に、辛辣《しんらつ》に声をかけられたのである。姫君姿の駕籠の中の女はハッとして態度を変えなければなるまい。しかるに女は変えなかった。同じ態度を保っていた。これはなんたる好奇的な形か! 緑色の衣裳と緑色の被衣《かつぎ》を、一様に着ている女たちを、四本の常磐木にたとえたならば、緑色の小袖に覆面姿の、四人の武士たちも同じように、四本の常磐木にたとえることができよう。その常磐木に囲繞《いにょう》されて、黒塗りの駕籠が中央にあるのは、岩といってもよさそうであった。その岩から外へはみ出して、一叢《ひとむら》の花が咲いていたがその中の純白の大輪の花が、得ならぬ芳香をあげながら、ゆるゆると下へうつむいて行く。真下にも一輪の白い花があって――華奢《きゃしゃ》で美男で色白の、小次郎の顔とて花ではないか――うつむいて来る雌花を受けようとしている。
 火事は大火となったと見えて、空に赤味が加わって来た。が、地上には月の光がおだやかに蒼白く敷かれている。木々の静まっていることは――四人の女も四人の武士も、このような出来事には慣れているぞと、そういってでもいるように、姫君姿の女のほうへも、小次郎のほうへも見向こうとさえしない。――木々の静まっていることは! ――いずれも冷然とたたずんで、保護をするのが役目であると、心を定めているかのように、駕籠の周囲を守っている。と、白々と二輪の花が、今や一つになろうとした。しかしその時地を蹴るような、荒々しい音が手近で起こった。駕籠の一団から一間ほど離れて、立っていた美作が驚きと怒りで、思わず地団太を踏んだからであった。
「お噂はお噂ばかりでなく、誠のことでありましたか! ご乱行にも程がござる! ご自分にお恥じなさりませ! 左内を、左内を、いかがなされるお気か! 穢らわしゅうござるぞ! 穢らわしゅうござるぞ!」
 片手にひっさげた抜き身を顫わせ、美作は駕籠へ近よろうとした。
 と、女は顔を上げたが、美作のほうをすかして見た。

原始的な愛欲生活

「左内様なら知っているよ。あの人は妾の可愛い人さ。でもまだあの人は駄目なのだよ。妾の自由にならないのだから。……誰なの、お前は、そこに立っている人は?」
 駕籠を取り巻いて守っている老女と武士とは木立ちのようであったが、木と木との間に隙があるように、そこにも隙ができていて、その隙の向こう側に北条美作が、依然として抜き身をひっさげて、駕籠のほうをみつめて立っていた。その美作の顔を見るべく、姫君姿の駕籠の中の女は、顔を上げて隙から隙の向こう側を見たが、現《うつつ》の人間とは思われないような――いい得べくんば他界的の声で、こう美作へ声をかけた。
 お前は誰であるかと訊ねたのである。
 これには美作も驚いたようであった。隙間から女を睨むように見えたが、
「私儀は北条美作でござる。左内の父の美作でござる」――で、老女たちと武士たちとを分けて、駕籠へ接近しようとした。が、接近することはできなかった。
「北条美作? 妾は知らぬよ。見れば穢《きた》ならしいお侍さんだが、一度もこれまで見たことがないよ」――こういう言葉が女の口から例の他界的の響きのある声で、すぐに聞こえて来たからであった。これはどうやら美作にとっては、意外の意外であるらしかった。接近しようとして踏み出した足を、釘づけにして突っ立ったが、
「姫君には何を仰せられる。お屋敷へ参上いたすごとに、お目にかかっているではござりませぬか、ましてこのごろでは伜の左内の事で……」しかし美作にはいい切れなかった。重なった激情的の出来事のために、気絶をしたらしい小次郎の体の肩のあたりへ腕を巻いて、小次郎の片頬へ自分の片頬を重たそうにのせた姫君姿の女が、美作の言葉など聞こうともせず、美作のほうなど見ようともせず、いよいよ赤味を加えて来た火事の遠照りの空の一所に、張りつけたようにかかっている銅色《あかがねいろ》の月へ眼をやり、例の他界的の響きのある声で、あこがれるように歌うように、
「……大森林がうねっているよ。大きな滝が落ちているよ。古沼に蛟《みずち》が泳いでいるよ。ご覧よ、豹《ひょう》を追っかけて裸体《はだか》の人間が走って行くから。おおとうとう追い付いた。口へ手を掛けて引き裂いてしまった……ごらんよ、裸体の人間たちが大きな大きな歯朶《しだ》の蔭へ、獣皮の天幕を張ったから。篝火《かがりび》が幾つとなく燃えているよ。照らされているのは何だろう? 弓だよ、矢だよ、石器だよ。壺で何かを煮ているではないか! 矢に塗りつける毒液だよ。……遠くで狼《おおかみ》が吠えている。近くで栗鼠《りす》がはねている。月が雲を割って現われた。はるかのむこうで銀箔のように、平らに何か光っている。山椒魚《さんしょううお》の棲《す》んでいる湖なのさ。……お聞きよお聞きよ閧《とき》の声が聞こえる。大森林の向こう側にある、他部落の敵勢が征《せ》めて来たのさ。……ご覧よ、獣皮の天幕の中から、裸体の人たちが武器を持って、蝗《いなご》のように飛び出したから! ……大森林の中へ消えてしまった……閧の声が聞こえる、打ち合う音が聞こえる、悲鳴が聞こえる、喚き声が聞こえる。……静かになったよ。静かになったよ。……どうしたのだろう、歌声が聞こえる! ……大森林から人が出た。みんな裸体の人たちだ。さっき出て行った人たちだ。いくさ[#「いくさ」に傍点]に勝って帰って来たのだ。……踊る踊る裸体の人たちが踊る! 歌う歌う裸体の人たちが歌う! ……篝火が足の裏を照らしている。篝火が盾《たて》を照らしている。輪になってみんな踊っている。……おお楽の音がする! 手太鼓の音が! 角笛《つのぶえ》の音が! ……ご覧よご覧よ大きな乳房を! ご覧よご覧よ太い股を! ご覧よご覧よ逞しい腕を! 髪を束ねて垂らしている! 女だ女だ女王様だ! ……月が隠れた、深夜になった。寝所を調えている男がある。とりわけ大きな天幕の中で! ……ご覧よご覧よ女王様が寝たから! 裸体の男が捲いている逞しい腕で捲いている。……でもその男は追い出された。別の裸体の男が来た。乳房が男の胸を受けた。でもこの男も追い出された。別の裸体の男が来た。やがては追い出されることだろう。でも今は女王様に抱かれている。……沼では水牛が水を飲み、林では猿猴《えんこう》が眠っている。そうして荒野の洞窟では、魔女が十三の髑髏《どくろ》を並べて、人の生命《いのち》を占っている……また女王様は別の男を召された」――夢のようなことをいい出したからである。

殿の息女

「その女王様が妾なのだよ」気絶したらしい小次郎の身体の、肩のあたりへ腕を捲いて、小次郎の片頬へ自分の片頬を、重たそうにのせた姫君姿の女は、駕籠から半身を外へ現わし、守護の老女たちと武士たちとに、周囲をグルリと厳重に守らせ、その向こうに立っている美作などは、眼中にないというように、視線をさえも送ろうとはせず例の他界的の響きを持った、あこがれるような声でいいつづけた。
「その女王様が妾なのだよ。……妾はいろいろの男を知っている。あの男は町人の伜だったが、鞣《なめ》した皮のように滑《なめ》らかだったよ。あの男は若いご家人だったが、足の力が強かったよ。あの男は下等な船夫《かこ》だったが、胸が広くて厚かったよ。そうしてあの男は歌舞伎役者だったが、じき泣きだしたよ。妾より五つも年の下の、旗本の三男を手に入れた時には、弟のように可愛がってやったよ。……犬のように這わせたり、魚のように裸体《はだか》にしたり、牡丹の花弁を一枚一枚、はいでやったあげくに太い蕊《しべ》を、むき出しにするように男の衣裳を、一枚一枚はいでもやったよ。妾の髪の毛で男の咽喉首《のどくび》を、蛇《くちなわ》のように巻いてもやったし、重い衾《ふすま》を幾枚も重ねて、その中で男を蒸《む》してもやったよ。……ご覧よ、女王様が別の男を召した。ご覧よ水牛が沼から上がって、獣皮の天幕の裾の下から、顔を入れて閨《ねや》をうかがっているから。お聞きよ、たくさんの天幕の中から、男のうなされている声が聞こえる。……洞窟では魔女が占っているよ。『まだ宜《よろ》しいまだ宜しい』と。魔女は思っているのだよ。『この生活は血によって伝わり、夜の間において現われる』と。……駕籠をおやり! 若衆武士をお連れ!」――と、変化が行なわれた。
 二人の武士が身をかがめたが、気絶をしている小次郎の体の、肩と足をささえ持ち、自分で扉を閉じて内へ隠れた、姫君姿の女を乗せた黒塗り蒔絵の女駕籠が、ユラユラと揺れて進み出した、そのかたわらに引き添って、ほかの武士たちと老女たちとによって、その周囲を守らせて、すでに深紅の色と変った、火事の遠照りの空の下を佐久間町の二丁目の方角をさして、粛々《しゅくしゅく》としかし傍若無人に、美作を後にして歩み出したのである。一団はしだいに遠のいて行く。
 若年寄から大目附、町奉行にさえも一目を置かせる、美作ほどの人物にも、去って行く駕籠の一団を、止どめることはできないものと見えて、しだいに小さくしだいに朦朧《もうろう》と、やがては消えるであろう駕籠の一団を、ただに茫然と見送っていた。と、気抜けでもしたように一つ大きく溜息をついたが、一軒の家の門の柱へ、背をもたせかけてうなだれた。先刻方小次郎を追い詰めて、その片袖をもぎ取ったがその片袖を左手に持ったまま、捨てることさえも忘れたようであった。諸方で擦半《すりばん》や寺々の鐘が、いまだに鳴ってはいたけれど、この往来ばかりは静かなことよ! ――、少なくも美作にはめいりそうなほどにも身のまわりが静寂に思われているらしい。と、かたわらから呼ぶ声が聞こえた。
「ご前ご前、いかがなさいました」――繃帯をしていない一眼を頭巾の奥でしばたたきながら、傷を負った足を爪先立てて、両腕を胸へ物々しく組んで、美作の正面へたたずみながら、さもいぶかしいというように、美作のようすを眺め見ていた、それは桃ノ井兵馬であった。
「あれは何者にござりますか? 駕籠の中におられた姫君姿の女は?」
 美作の後を追って来て、美作の背後にたたずんで、姫君姿の駕籠の中の女の、言葉や所業を美作と一緒に兵馬もすっかり見聞いたのであった。そうして兵馬には姫君姿の女が、美作が怪しく思った以上に、怪しく思われてならなかったのである。
「ご前」と兵馬はややあっていった。「化生《けしょう》の物とも思われませぬが、あの女は何者にござりますか?」
「あれか」と美作ははじめて答えた。が、その後をいいつづけようとはしないで、柱から離れると酔漢かのように、ヒョロヒョロと前へ歩み出した。
「あれか」と美作は先へ進んだ。
「あれか……あれはな……殿の息女だ! ……左内が……いかさま……諾《うべな》わないはずだ。……」ヒョロヒョロヒョロヒョロと先へ進んだ。
 と、二つの人の影が、背後からこちらへ走って来た。

鈴江走る

「火事は両国だということだ! 水戸様石置き場の空屋敷だそうだ!」
 往来を人々が走りながら、こういう叫び声を立てた時、鈴江は居間で針仕事をしていた。
「まあ」とつぶやいたが立ち上がって鈴江は雨戸をあけて見た。なるほど両国の方角から、火の手がカッとあがっていた。
「水戸様石置き場の空屋敷へは、今宵も兄上には行っていられるはずだ。火事のためにお怪我でもなさらなければよいが」――で、たたずんでしばらく見ていた。火事は盛んになるらしくて火の手が見る見る大きくなった。
「隙のない兄上であられるから、お怪我などなされる気づかいはないが、でもなんだか心配だねえ」――しかし鈴江は女の身空で、たとえ火事場へ駆け付けたところでなんの役にも立ちはしまい。……こう思って出かけようとはしなかった。がいうところの予感でもあろうか、何となく兄の紋也の身の上に、変事があるような気持ちがして、しだいに心持ちがいらいらして来た。「そうだ誰かにようすを見て来て貰おう」――で、鈴江は内門弟を呼んだ。
「代地様代地様ちょっと来てくだされ」――と、玄関に近い部屋から、男の答える声がしたが、すぐに襖をあける音がして、二十八、九歳の質朴《しつぼく》らしい、代地という武士が姿を現わした。
「お嬢様ご用でございますかな。……や、これはこれは火事でござるか」この時まで勉強をしていたのでもあろう、青表紙の本を持っていた。
「あのね」と鈴江はすぐにいった。
「兄上が行っていられるのだよ。水戸様石置き場の空屋敷へね。ところで火事が起こったのだよ。その水戸様石置き場の空屋敷にね」
「ほほうさようでございますか。これは心配でございますなあ」
「でね」と鈴江はいいつづけた。
「ちょっとようすを見て来ておくれ」
「かしこまりましてござります」こういうと代地はあわただしそうに、玄関のほうへ小走って行ったが、まもなく潜《くぐ》り戸の開く音がした。
 ますます大火になると見えて、空が赤味を加えて来て、擦半《すりばん》の音や鐘の音が、いらだたしそうに聞こえて来た。
 鈴江は縁の上にたたずんだままで、いつまでも不安そうに眺めていると、その時玄関のほうから、あわただしく呼ぶ声が聞こえて来た。
「お嬢様お嬢様大変でござる! 水戸様石置き場の空屋敷を……」
 みなまで聞かないで縁から離れて、鈴江は玄関まで走って行った。両国に屋敷を持っていて、毎日道場へ通って来る五十嵐駒雄《いがらしこまお》という門弟が、大急ぎで走って来たからでもあろう、荒い呼吸をハッハッとつきながら、沓脱《くつぬ》ぎの上に立っていたが鈴江の姿を眼に入れると、
「代官松の一味の輩《やから》が、先生に危害を加えようと、水戸様石置き場の空屋敷へ、只今焼き討ちをかけましたそうで。……」
「まあ」と鈴江は胸をそらせた。
「代官松めが……兄上に対して……でもどうしてあなたにおかれては?」
 すると駒雄は手の甲をもって、額の汗を押しぬぐったが、「自宅に近うございますので、両国一帯の盛り場は――妙ないい方ではございますが、私の縄張りにございます。で、今宵もブラブラと水戸様石置き場の空屋敷を、……すると火事ではござりませぬか。はてなと注意をして見ていましたところ、『焼き打ちだ焼き打ちだ! 放火《つけび》だ! 放火だ!』とそういう声がまず聞こえて、『代官松めが乾児をひきいて、はいり込んで来た!』という声々が――これはどうやらあそこの賭場にいた博徒どもが傷持つ自分の脛《すね》から、目ざとく目付けたところから、叫び出したものと存じますが、そういう声々がつづいて聞こえて……いえもうこれだけで結構なので、一散に走ってお嬢様へお知らせに参上いたしました。……で、今ごろは先生におかれましては……」
 鈴江はその後を聞こうとはしないで、裾をひるがえすと居間のほうへ走った。が、すぐさま現われた。
「五十嵐様ご一緒においでくだされ!」
 五十本の吹き針を右の手に握って左の手では褄《つま》を引き上げ、はきものもはかない足袋跣足《たびはだし》で、こう駒雄へ声を掛けた時には、鈴江は門外へ走り出していた。

「まあ?」

「常日頃から代官松が、兄上をはじめ私たちに、狙いをつけていたことは、私たちにもわかっていた。その代官松が乾児《こぶん》をひきいて、放火焼き討ちを企てながら、水戸様石置き場の空屋敷へ、はいり込んだというからには、五十嵐様のいわれたように、もうこれだけで結構だ、兄上に危害を加えようとして、出張って行ったに相違ない。うっちゃってはおけない! お助けに行こう!」――で、鈴江は走るのであった。火事とはいっても雉子町の往来は、火元とへだたっているがために、立ち騒ぐような人の群れもなく、時々門に出て眺める人や、屋根の上へのぼってようすを見る人が、まれまれにあるばかりであった。しかし火事には付きものの火事見物の弥次馬らしいものが、五人七人かたまって、走って行く姿は見てとれた、空は赤かったが地は蒼かった。
 火事の遠照りと月の光とが、おのおのを色づけているからであろう。吹き針を握った右の手を、乳房のあたりへしっかりとあて、褄《つま》を取った左の手を下腹部へつけ、裾から洩れる友禅《ゆうぜん》の襲衣《したぎ》を、白い脂肪《あぶら》づいた脛にからませ、走るにつれてぶつかる[#「ぶつかる」に傍点]風に、鬢《びん》の毛を乱して背後へなびかせ、これもぶつかる[#「ぶつかる」に傍点]風に流れる、振り袖を長くひらめかして、走って行く鈴江のようすというものは、美女であるだけに凄味《すごみ》があって、狂女を思わせるものがあった。で、まれまれではあったけれども、門に出ている人や道を歩いている人は、眼を見張って鈴江を見送った。雉子町の通りを両国をさして、東南に向かって走って行けば、吹矢町となり、番場町となり、神田川の河岸へ出る。渡って先へ走って行けば、代官町となり水谷町となり、鞘町となって佐久間町となる。
 頸《えり》を抜けるほど衣紋《えもん》から抜いて薄白く月光に浮き出させて、前こごみに体を傾けて、足のもどかしさに焦心《あせ》りながらも、しかし武術のたしなみはある、決して口で呼吸をしないで、唇をかたく引き結び不安と殺気とで眼を輝かせ、そういう町通りを人目も恥じず、鈴江は走りに走って行ったが、「焼き討ちにかけられたその上に、大勢の者に襲われたでは、武道すぐれた兄上といえども、難儀をされないものでもない。もしもの事があろうものなら自分たちの企てた一大事も、水の泡になって消えてしまうし、父上のご意志も建てられない。自分たち一族にしてからが、みじめな身の上になってしまう……兄上! 兄上! 兄上! 兄上! ご無事でおいでくださいまし!」と、念じに念じているのであった。
 そういう鈴江を守るようにして、鈴江とすれすれに肩を並べ、大小の鍔際《つばぎわ》をおさえながら五十嵐駒雄は走っていた。出来事が出来事であるがために、無駄な駄弁などを弄《ろう》そうともしない。鈴江と一緒に走って行く。不意に鈴江は小次郎のことを思った。
「さっき方、家を出て行ったが小次郎はどこへ行ったものであろう? 町を歩いているうちに、火事の噂を聞いてくれたかしら? 聞いたならあの子も駈けつけるであろう。柔弱な弟ではあるけれども、こんな場合には駈けつけてくれて、助けになってもらいたいものだ、小次郎! 小次郎! 小次郎! 小次郎!」
 懸命に走る! 懸命に走る! 吹矢町を走り抜け、本物町も走り抜けた。番場町も走り抜け、神田川の河岸へ出た。と、橋を渡り越して、なおも鈴江と駒雄とは、東南のほうへ走り下った。こうして佐久間町の二丁目まで来たが、その時鈴江は行く手にあたって、黒塗り蒔絵《まきえ》らしい一挺の駕籠を、四人の武士と四人の老女とが、警護をするように引きつつみ、若侍の死骸らしい物を、その中の二人の武士が釣って、粛々《しゅくしゅく》とこちらへ進んで来るのを見た。火事場へ駆けつけて兄を助けようと、息せいている場合ではあったけれども、行列があまりにも異様であって、妖気にさえも充ちていたので、「まあ」とばかりに声を上げて、鈴江は足を釘づけにした。と、なんということであろう? その行列は消えたではないか。いやいや実は消えたのではない、傍らに立っていたりっぱでもない、小門を持った二階屋へ、消えてしまったといってもよいほどに、※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2-1-57]忽《しゅっこつ》とはいり込んでしまったのである。
「五十嵐様、あれは?」と息をのみながら、鈴江は駒雄へ顔を向けた。「さあ」と駒雄はいいはしたが、後へ継ぐべき言葉はなかった。

はさみ討ちか

 武士たちがいずれも頭巾をかむって、緑色の小袖を着ていたことと老女たちがこれも緑色をした、衣裳と被衣とを着けていたことが、鈴江の眼には残っていたが、二人の武士が前後に立って、若衆髷《わかしゅうまげ》の武士の死骸らしい物の、肩と足とをささえ持って、真ん中にして歩いていた姿が、わけても眼の底に残っていた。「死骸? 死骸? 若衆武士の死骸!」――すると、鈴江にはその死骸に、見覚えがあるような気持ちがした。「誰だったろう? 誰だったろう?」――今にも記憶に浮かびそうであったが、浮かびそうで容易に浮かばなかった。「誰だったろう? 誰だったろう?」――と、この時駒雄の声が、追い立てるように聞こえて来た。
「火の手が盛んになりましたぞ! 鈴江殿お急ぎなさりませ」
「火の手? ……盛ん? ……あっそうだった! 兄上をお助けに行くのだった!」鈴江は気がついて空を見た。火元の両国へ近づいたためと、火事が大きくなったためとこの二つの原因からであろう、遠照りなどとはいわれないほどにも、両国のほうの空はいうまでもなく真上の空までカッと明るく、珊瑚《さんご》を砕いて塗りつけたように見えた。
「さあ五十嵐様、急ぎましょうぞ!」
 またも鈴江は褄を取り、足袋跣足《たびはだし》の足で裾を蹴り、吹き針を握った右の手を、乳のあたりへしっかりと当てて、頸足をのばして前こごみにこごんで往来を一散に走り出した。が、鈴江と駒雄とが、こうして走って行ったならば、こちらへ歩いて来る二人の仇敵に――北条美作と桃ノ井兵馬とに、邂逅《かいこう》しなければならないだろう。
 しかし鈴江も五十嵐駒雄も、そのようなこととは知らなかった。で、一散に走って行った。と、その時数個の人の姿が、儒者ふうの老人の籠っているはずの、例のいかめしい屋敷の蔭からスルスルと姿を現わしたが、
「おい」とその中の一人の男が、鈴江の後ろ姿を見送りながらいった。「紋也の妹の鈴江という娘だ。吹き針にかけては達者なものだ。もう一人の武士は五十嵐といって、紋也の門弟でも腕利きの男だ。揃ってあわただしく走って行くのは、火事が水戸様石置き場の空屋敷だということを聞いたので、紋也のことが心配になって、そこでようすを見に行くのだろう。腕利きだけにやっては不味《まず》い! そっと追っかけてしめて[#「しめて」に傍点]しまえ!」代官松の乾児の友吉であった。
「よかろう」と、後の数人がいったが、そういった時には足音を盗んで、友吉を先頭に走り出していた。
 しかし鈴江も五十嵐駒雄も、そのようなこととは知らなかった。で、一散に走って行く。ところでこの頃美作と兵馬は、火事の光を背と肩とへ浴びて、佐久間町の入り口から鈴江たちのほうへ、変った足どりで歩いていた。美作は酔漢のそれかのように、現心《うつつごころ》もないように、依然として抜き身を下げたままで、ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと歩いて来る。と、その後から不安そうに、兵馬が胸へ腕を組みながら、美作が左へよろめけば、自分もつれて左のほうへ歩き、美作が右へよろめけば、自分もつれて右のほうへ歩き、もしも倒れたら抱き起こそうものと、心構えをしてついて来た。
「美作様ほどの人物が、手を下すことさえできなかった、姫君姿の駕籠の中の女は、どのような素性の女性なのであろう?」これが兵馬には不可解であった。
「惜しいことをした惜しいことをした、すんでに敵の片割れの、小次郎を討つことができたのに、意外な邪魔が現われて、討ち損じた上にさらわれてしまった」――何ゆえあの女がああいう態度で、小次郎をさらって行ったのか、これも兵馬には不可解であった。ヒョロヒョロと左右へよろめきながら、美作は先へ進んで行く。つれて左右へ足を運びながら、兵馬が後をつけて行く。と、この時背後のほうから、二つの人の影が走って来たが、しだいに二人へ近づいて来た。「お屋敷は眼の先となりました。……ようやく危難をまぬがれました。もう大丈夫でござります。お苦しゅうともご辛抱なさりませ」
 一つの人影がこういったが、若い女の声であった。

讐敵同志

「大丈夫でござる、お案じなさるな。……が、少しばかり傷《て》を負うてござる。……ちと苦しい。……いや大丈夫!」
 一つの男の声が答えて、かえって女をいたわる[#「いたわる」に傍点]ようにしたが、事実は少なからず苦しいようであった。
 と、この男女の二人の者が、美作と兵馬へ追い付いて、そうして駆け抜けて行こうとした時に、「紋也か!」と凄愴《せいそう》[#「凄愴《せいそう》」はママ]な声が響いて、「お粂も一緒か!」と次いで響いた。
「汝は兵馬か!」鏘然《しょうぜん》と太刀音!
 二組の人数がガッと塊《かた》まり、サッと開いた瞬間において、砂塵がムーッと月夜に立った。月夜にムーッと立ち上がった砂塵は、時ならぬ煙りの壁と見てよかろう。半透明の煙りの壁をへだてて、紋也と兵馬とが向かい合い、美作とお粂とが向かい合っている。が、一呼吸をする隙もなかった、小次郎を討ち損じたばかりでなく、薄手さえ負わされて激怒している兵馬は、仇敵の的である紋也と逢って、激怒を二倍に高めたらしい。天道流での「軍|捨利《しゃり》払い」だ! すくむがように肩をちぢめたが、中段に構えている紋也の刀を、自分の額へ受ける覚悟で、縮めた肩で躍りかかった。払い上げた刀の切っ先二寸が、相手の右腕へはいったが最後、腕を落として頤を払い、相手の顔を下から逆に、斜めに半分割りつけたであろう。が、またもや太刀の音がして、一所から砂塵が上がったが、二つの人影が入れ違った。兵馬の刀を右へおさえて、左足を飛ばすとさながら飛燕だ、紋也が前方へ飛んだのである、とその次の一髪の間に、紋也の右側に人があって、上段にかぶった刀のままで、スルスルと前方へ走るのが見えた。
「お逃げ! お粂殿! ……真っ向があぶない!」
 スルスルと前方へ走って行く者が、美作であるということと美作の正面にお粂がいて、脇差しをあぶなさそうに青眼に付けて、立っているのとを突嗟《とっさ》に感じて、紋也がお粂へ注意をしたのであった。が、そう呼びかけた自分の言葉が、わずかにいい終えた直後において、紋也は頭上に刀気を感じ、自分の正面に一つの眼が、獣《けだもの》の眼のように燃えながら、迫っているのを眼に入れた。太刀音! 砂塵! からみ合った人影! ……しかし……別れて……二間をへだてた! ……山形をなした相青眼の、二本の刀が宙に浮かんで、砂塵の壁を刻んでいる。
「依然として凄いの! 凄い技倆だ!」兵馬の刀の切っ先を、二間のかなたに据えながら、兵馬の一眼を頭巾の奥の、繃帯の間にみつめながら、自分も青眼に構えをつけて紋也は思わざるを得なかった。
「さあこれからどうしたものだ、兵馬は敵の一人ではあるが、退治るにも及ばない小敵だ。このような人間を退治たところで、自分が久しく企てている、一大事を仕とげる足しにもならず、かえって障害《さわり》になるくらいだ。……さわりたくないのだ、さわりたくないのだ」
 ――で、紋也の希望としては、この闘いを切り上げて、お粂の住んでいる例の屋敷へ、入り込んで休息したかった。が、すさまじい剣技を持った兵馬が、「やわかのがすものか」と、吸血鬼のような陰々たる殺気を、刀の切っ先にただよわせて一分を刻み二分を刻み、そろりそろりと刻み足で、真正面から迫って来ていた。紋也にもそれを引っぱずして、のがれ去ることはできなかった。その紋也はどうかというに、乱闘の際に幾箇所となく、薄手を受けているばかりでなく、全身ことごとく疲労していた。のがれ去ることができないばかりか、しだいしだいに、しだいしだいに、兵馬に圧迫されるのであった。
「屋敷は手近だ、駆け込みたいものだ! お粂殿と一緒に! お粂殿を助けて!」――そのお粂であるがどうしているであろう? 刹那、紋也はお粂のことを思った。と、そのとたんに太刀の音が、兵馬の立っている背後のほうの、数間のかなたから響いて来た。
 と、そこにもつれ[#「もつれ」に傍点]合っている、男女の人影が見られたが、美作とお粂とが切り合っているのであった。

小唄の声

 太刀音はしたが男女の人影の、男のほうも女のほうも、どっちも倒れはしなかった。美作もお粂も切られなかったのであろう。
「いかにお粂が女丈夫でも、北条美作にはかなうべくもない。よくこれまで持ちこたえていたものだ」――紋也にとっては北条美作は、一面主義の大敵であり、一族の仇の元兇であったが、親友の左内の父でもあった。で、従来も美作については、十分に研究を届かせておき、風貌態度も調べておいた。で、今こうしてぶつかった[#「ぶつかった」に傍点]時にも、すぐに美作だと知ったのであった。「よくこれまで持ちこたえていたものだ。しかしあぶない[#「あぶない」に傍点]! もうあぶない[#「あぶない」に傍点]!」――心をお粂へ運ばせたがために、気合がゆるんで隙ができた。なんの兵馬が見のがすことがあろうぞ。
 風を起こして真っ向へ刀を下ろした。四度烈しい太刀音がしたが、紋也の疲労はいちじるしく、受けは受けたものの兵馬に押されて、タジタジと後へ引きさがった。「しめた!」という心持ちは、この時の兵馬の心持ちであろう。合わせていた刀を引っ払うと、瞬間に左脇へ流したが、返すとあの手[#「あの手」に傍点]と全く同じだ! 天道流での「軍捨利払い」だ! うん[#「うん」に傍点]と上斜めに払い上げた。刀の切っ先二寸がところ、紋也の右腕へはいったが最後、腕を落として頤を払い、紋也の顔を下から逆に、斜めに半分割り付けたであろう。
 運命? どうだ? 紋也の運命は?
 いちじるしく疲労《つか》れてはいたものの、むざむざ討たれるような紋也ではなかった。かろうじて受けて身をかわしたが、ヒョロヒョロヒョロヒョロとまた後へ下がって、一軒の家の雨戸へもたれ、ハッハッハッと大息をついた。が、それとても間《ま》ともいえない、短い分秒の間であった。
「…………」無言ながらも掛け声よりも凄く、殺気に充ちた兵馬の刀が、咽喉を狙って突き出されて来た。
「…………」紋也になんの声が出よう、同じく無言で力も弱く、中段に構えていた刀を揮って、捲き落とす心組で横へ払ったが、合わさった刀の音とともに、一本の刀が宙へ飛び、数尺のかなたの地の上へ落ちた。兵馬の刀を捲き落とそうとして、かえって兵馬の剛刀にはねられ、紋也が刀を飛ばしたのである。紋也はハーッと息を呑んだが、窮して通ずるさっそくの気転で、必ず今度こそは討って取ると、大上段に刀を上げて、切り下ろそうとしてのし[#「のし」に傍点]かかって来た兵馬の肩へガッとばかりに、自分の頭で頭突きをくれた。が、結果どうなったろう? 疲労をしている紋也の頭突きが、猛気に精一杯燃えている、兵馬にどうして感じようぞ! はね返されて地へ倒れて、地上に石があったと見える。後脳をしたたか打ち付けたが、そのまま意識を失ってしまった。
 が、意識を失う際に、兵馬の刀が蒼光って、顔の上へ落ちて来ようとしたのと、妹の鈴江らしい「兄上!」という声が近くで聞こえ、つづいて「先生!」と呼んだらしい、男の声が同じほうから聞こえ同時に落ちかかって来た兵馬の刀が落ちかからずに横へそれて、「鈴江か! 南無三! ううむ吹き針!」こういう兵馬の声が聞こえ、「ご前ご前! お逃げなされ!」と、美作にでも呼びかけているらしい、これも兵馬らしい声が聞こえ、それに応じて美作らしい声で、「うむ走れ!」と答える声が――、つづいてお粂らしい女の声で、「すってやったぞ! すってやったぞ!」と嘲《あざけ》るような声がして、そうしてバタバタと走って行く音や、走って来る音が乱雑に聞こえ、ちょっとの間しずかになったかと思うと、ワーッという四、五人の人間の、閧の声らしいものが聞こえて来て、「友吉でございます! 友吉でございます!」とそういう声が聞こえて来たかと思うと、またもや大勢の足音が、こちらへ向かって走って来るようであったが、「やッ屋敷から人数が出た! 逃げろ! 身をかくせ! 捕えられないようにしろ!」と、誰ともなく呼ぶ声が聞こえて来た。――そこで紋也の意識は絶えた。

 ずっと下火にはなったけれども、火事の光は空に薄赤く、地には月光が蒼澄んでいた。戦いの後の寂しさよ、佐久間町入り口の往来には、人の子一人いなかった。踏み荒らされた地面の土は、ところどころ穴をなしていて、血汐のにじんだような所もあった。片側町の家々では、太刀音や悲鳴や閧の声に、怯やかされたか、雨戸をあけて外を見ようとする者さえなかった。と、その時|静寂《しじま》を破って、謡《うた》う声が横丁から聞こえて来た。
 ※[#歌記号、1-3-28]柳の下のお稚子《ちご》様は、朝日に向こうてお色が黒い……

子守唄

 ※[#歌記号、1-3-28]お色が黒くば笠を召せ、笠も笠、いつきようとがり笠、おそり笠、じょに吹く笛がふもとにきこゆる……
 謡いつづけて横丁の口から、佐久間町の通りへ現われて来たのは、お狂言師の泉嘉門であった。不平を酒でまぎらわしはじめたのは、久しい前からのことであったが、このごろではいっそう烈しくなって、家で連日飲むばかりでなく、外へ出ては暴飲をし、往来へ倒れては夜を明かし、居酒屋で眠っては帰宅しようともしない。今日も朝から酒を飲んで、昼ごろになって家を出て、どこでこれほどにも飲んだのであろうか、足もとが定まらないというよりも、身体全体が定まらないように、手で空を泳ぐような格好をしたり、肩で家々の小門や柱へ、痣《あざ》のできるほどぶつかった[#「ぶつかった」に傍点]りして蹣跚飄々《まんさんひょうひょう》として歩いて来た。
 いかに窶《やつ》れたことであろう! 高い鼻は尖って棘《とげ》のようになり顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》は槌で叩かれたかのように、痩せてくぼんでへっこん[#「へっこん」に傍点]で、広がった額が狭《せば》まって見える。月の光がみなぎっているので、空へ向かって顔を仰向けた時には、細まった頬やずっこけ[#「ずっこけ」に傍点]た頤が、際立って蒼白く眺められたが、落ちくぼんだ眼窩《がんか》がその代わりに、髑髏《どくろ》のそれ[#「それ」に傍点]のように黒く見えた。ひえびえと寒い秋の夜だのに酔いのために身体が熱いのか、襟をはだけて肋骨《あばらぼね》の見える、胸を腹まで現わしている。左の脚が膝の上まで、裾から捲くれて見えているのは、裾を端折《はしょ》っているからであろう。
 ※[#歌記号、1-3-28]おおさては推《すい》した。裏に来いとの笛の音、裏道来いとの笛の音……
 うたいながら先へ歩いて行く。やがて佐久間町の三丁目へ来た。儒者ふうの老人の籠っているはずの、いかめしい屋敷の門の前まで来たが、屋敷に籠っている人たちにも、またこの屋敷そのものにも、嘉門は全然無関係であった。で、先へ進んで行った。
 ※[#歌記号、1-3-28]柳の下のお稚子《ちご》さまは……
 うたいながら先へ進んで行く。
 水戸様石置き場の空屋敷を、今はことごとく燃やしつくしたのでもあろうか、空を染めていた火事の紅色は、この時おおかた褪《さ》めてしまって、夜がふけたので冴え冴えしさを加えた、月光ばかりが空にみなぎり、家々の甍《いらか》の屋根を白め、往来の片側を流れている神田川の水に銀箔を踊らせ、往来《みち》を霜のように色づけていた。と、その往来の上に縮んだり延びたり、大きくなったり小さくなったりする、異様な黒い形があって、嘉門を追いながらついて行ったが、なんでもない嘉門の影法師なのであった。その影法師の一所から、細っこい枯れたような枝が出た。
 嘉門が月でも捉《とら》えようとするのか、空へ向かって手を上げたのである。と、影法師が地上から、全然形を消してしまった。疲労《つかれ》たのか酔って苦しいのか、嘉門が地上へうずくまったからである。と、にわかに影法師が、地上へ現われて動き出した。しかも元気よく延び縮みする。嘉門が元気よく歩き出したからで、どことなくようすが浮き浮きとしている。と、嘉門はうたい出した。
「太郎冠者、おじゃるかや」「は、おん前に」「何がな面白いことはないか」「権門衆のおやりになることは、ことごとく面白うおじゃります」「たとえばどんな面白いことがある」「私利私欲にふけりながら、お国のためじゃと申しております」「いかさまこれは面白い」「公平公平と申すことによって、不公平ばかりをいたします」「いかさまこれは面白い」「何をやっても一方の人は当たり、何をやっても一方の人ははずれる、肥《ふと》って行く人と痩せて行く人と、ハッキリ分かれおりまする」「これはどうも面白くないが」「にもかかわらず肥って行く人は、泰平な浮世じゃと申しております」「なるほどこれは面白い。が、お前のいっていることは、誰も彼も知っていることばかりじゃ。あえて珍しいことでもない。珍しいことがどこかにないか?」「珍しい人間ならおじゃります」「聞きたいものじゃ、なんという男じゃ」「お狂言師の泉嘉門という、穢《きたな》らしい老人におじゃります」「聞いたような名だがどこが珍しい」――「※[#歌記号、1-3-28]泉嘉門の珍しさは、なんにたとえん唐衣《からごろも》、錦の心を持ちながらも、襤褸《つづれ》に劣る身ぞと、人目に見ゆる情けなや、ころは神無月《かんなづき》の夜なりしが、酒をとうべてヒョロヒョロと……」でたらめの謡《うたい》をうたいながら、佐久間町二丁目まで彷徨《さまよ》って来た。と、女の声であったが、子守唄をうたう声が聞こえて来た。
 ※[#歌記号、1-3-28]あの山越えて行く時は、里の土産に何持たむ。……

狂女と子供

 佐久間町の二丁目と三丁目との境いは、儒者ふうの老人の籠っている例の宏大な屋敷であって、その屋敷から東南の方が、佐久間町の三丁目となっていて、それと反対の西北のほうが、佐久間町の二丁目となっていた。で、怪しい四軒の空家《あきや》は、二丁目のほうに属しているのであった。あの山越えて行く時は里の土産に何持たむ……と、今しもこういう子守唄の声が、女の声で細々と聞こえて来たが、それは四軒の怪しい空家の、西北のはずれの一軒から、さらに西北へ数軒離れた横町へ通ずる狭い横丁の、一所から聞こえて来るのであった。その横丁は狭い上に家並みが不揃いで凸凹があった。で、あまねく照らしている月の光もこの横丁へは、あまねく落ちては来なかった。が、あたかも水たまりかのように、道の上へ蒼白い一たまりほどの、水のようなものがたまっていたが凹《くぼ》んでいる家の屋根の上にある月がそこへだけ光をこぼしてそこだけを明るめているのであった。
 と、その一つの月の光の圏《けん》へ一人の女が現われた。痩せ細った身体、痩せ細った顔、髪は乱れて肩へかかり、裾は崩れて脛《はぎ》を現わし、見る影もなく窶《やつ》れている。しかも背中へは子供を背負って、枝のように細い両手をまわし、子供の尻の辺を抱きかかえ、自然と前へこごんでいる胸から、夜目にも蒼い乳房を出し、酒に酔ってでもいるかのように、足もとさだまらず歩いて来る。と、無心に空を仰いだ、落ちくぼんだ眼窩の底に沈んで、正気の人間の眼とは見えない、異様に鋭く、異様に痴呆的の狂人じみた眼が光っていたが、その二つの眼を縦断して険しい高い鼻があり、その下に前歯を食いしめて、唇ばかりをポッカリとあけた小さな口がついていた。
 で、もしこの女が貧しくなくて、正気で肥えていて着飾っていたなら、十分に美人として通りそうであった。かさ[#「かさ」に傍点]張った物でも入れているのであろう、両方の袂がふくれていてダラリと下へ下がっていて、歩くごとに股のあたりで揺れ動いた。虐待《ぎゃくたい》と貧しさとに発狂をした、可哀そうな若妻とは一眼でわかった。が、それにしても母の肩の上へ、これも痩せこけた頤をのせて、眠りにはいっている二歳ばかりの、男の子の可憐《いじらし》さというものは! 栄養が不足しているからでもあろう、首は抜けそうに痩せているし母親の肩でおさえつけられている、頬などにも肉はついていなかった。が、その面立は母親に似ていて、美しい輪郭を持っていた。片手を無心に上へのばして母親の肩の上へ掛けていたが、月光に磁器のように白く脆《もろ》く見えた。母親がおぼつかなく歩くにつれて、子供の顔は母の肩の上で、ガクリガクリと動揺した。それでも眼ざめようとしないのは泣き疲れて眠りにはいったからであろう。と、眼の下の頬の上に何やら水のように濡れているものが、今、母親がフラリフラリと歩き、そのため子供の顔が揺れて、ちょっとばかり空のほうへ向いた時に、月の光で照らし出された。子供の流した涙らしい。
 と、子を背負った女の姿が、闇に呑まれて見えなくなった。月光のたまりからそれたからである。が、まもなく狭い横丁の、闇に埋められている暗い中から、子守唄の声が流れて来た。
 ※[#歌記号、1-3-28]あの山越えて行く時は、里の土産に何持たむ。……
 すぐに女の声が聞こえた。
「坊や、お眠り、よい子だねえ。……竹太郎はよい子でございます、泣きもむずかりもいたしませぬ。鉦《かね》に太鼓に笙《しょう》の笛、赤い鼻緒の下駄持たむ……」
 ――と、子を背負った女の姿が月の光に照らし出された。凹んでいる家がそこにあって、そこだけの空地へ空の月が、光をこぼしているがために、できている月光のたまりの圏内へ、女がはいって行ったからであった。負われている子のぼんのくぼ[#「ぼんのくぼ」に傍点]が、妙に痛々しく蒼白く見え、裾からはみ出されている女のふくら[#「ふくら」に傍点]脛が蛇の腹のようにヌラヌラして見えた。
「お父様を探しに行きましょうねえ。そうしてお渡しいたしましょうねえ。あのお方があのようにもほしがるのだから……。坊や、お笑い、竹太郎や」
 しかしまもなく女の姿は、ふたたび闇に呑まれてしまって、横丁から佐久間町の通りへ出られる、出口の辺で唄う声が聞こえた。あの山越えて行く時は……と、その声の絶えた時に、誰かに向かって話しかけるような、同じ女の話し声が佐久間町の通りから聞こえて来た。
「お爺《じい》様、ご存知ではござりませぬか? 妾の大事な竹之助様の行方を?」

狂女と酔漢

 すると老人の声が聞こえた。
「竹之助様? 存じませぬなあ」
「可愛いお方なのでございますよ」また女の声がいった。
「可愛いお方でございますかな」答えて老人の声がいった。
「それはそれは結構なことで」
「妾の良人《おっと》なのでございます」
「ああさようで。お前様の良人で。で、可愛いお方なので」
「妾を大変可愛がってくれます」
「ご夫婦仲がよろしいそうな」
「ピシャピシャ叩くのでございますよ」
「叩く? ほう! 何を叩くので?」
「顔や手足を叩きますので」
「どなた様がどなた様を叩きますので」
「竹之助様が叩くのでございますよ。はい妾を! 君江さんを!」
「ああお前様は君江さんというので」
「はいはいさようでございます……で娘なのでございます」
「娘? ほう、どなた様の娘で」
「武左衛門の娘なのでございますよ」
「武左衛門? どうもな存じませんて」
「りっぱなお方でございました」
「あッ、これはごもっともさまで。お前様には孝行と見えますなあ。お父様を大変|褒《ほ》めていられる」
「玄蕃《げんば》様の一族なのでございます」
「さあ、また一人わからないお方ができた。玄蕃様? 玄蕃様? さあわからないぞ」
「でも殺されてしまいました」
「やれやれ玄蕃様はお気の毒な」
「お父様なのでございますよ」
「…………」
「小柄が落ちておりました」
「…………」
「臨終《いまわ》にお父様がおっしゃいました。『渡すな! 文書を! 頼んだぞよ!』と」
「…………」
「文書は二通でございます」
「…………」
「一本は巻き奉書でございます。お父様の懐中にございました」
「…………」
「一通は綴《と》じ紙でございます。ずっと前からお父様が、こっそり妾にお預けなされて、このようにおっしゃってでございます。『老人の俺《わし》だからいつ死ぬかもしれない。敵のある身だからいつ殺されるかもしれない。で、お前に預けておく。誰にも決して渡してはいけない。竹内式部様の一味のほかには』……でも、竹之助様はおっしゃいます。『持っているだろうから渡せ渡せ!』って。……で、叩くのでございます。……ピチャ、ピチャ、ピチャ! ――ピチャ、ピチャ、ピチャ!」突然老人の笑い声が起こった。
「何がなんだかわからない。ワッワッ! ワッハッハッ! ……どうやらお前様は気が狂っているようだ」すると女の声が聞こえた。
「気など狂ってはおりませぬ。こんなに幸福なのでございますもの。でも妾は申し上げます、お酒には酔っておりますようで。……お爺様も酔ってでございますな」すると老人の声が聞こえた。
「俺《わし》が酔っている? 何をいうことやら! 俺はな発狂しているのだよ! ……虐める奴があるのでな」
「妾はお酒に酔っております」女の声はなおつづいた。「お爺様お願いいたします。二品をお渡しくださいまし」
「二品? 何かな? 二品というのは?」
「巻き奉書と綴じ紙とでございますよ」
「で、どなたに渡しますので?」
「竹之助様へでございますよ」
「ああお前様の可愛いご良人《しゅじん》に?」
「でも近来は寄り付きませぬ」
「なるほど、お家へ寄り付かないので」
「お爺様お探ししてくださいまし」
「どうもな、それは、ちとむずかしい」
「探してお渡ししてくださいまし」
「どうもな、それは、ちとむずかしい。俺《わし》は竹之助様を存じませんのでな」
「竹之助様は美男でございます」
「まことに有難う存じます」
「でも片眼なのでございます」
「片眼? はてな? それで美男で?」
「今年の夏頃に潰されました」
「それじゃ兵馬という武士に似ている――桃ノ井兵馬とはおっしゃいませぬかな?」

二品を!

 しかし女の声は否定した。
「いいえいいえ妾の良人は、南条竹之助様といいまして、そのような桃ノ井兵馬などという、いやらしい名前ではございません」
「さようかな、それはそれは」老人の声はいぶかしそうであった。「が、片眼をつぶされたといえば」
「いいえいいえそれに妾の良人は、禁裡《きんり》様方のお味方で、忠義なお方なのでございます」
「ははさようで、では人違いだ。兵馬と申すお武士は、幕府の犬でございますからな」
「それを好んでお父様が、夫婦にしたのでございます」
「よいお心掛けでございますよ。そうでなければなりませぬ」
「でも離縁してしまいました」
「離縁? はてな、変なことで。どういう理由からでございましょう?」
「偽り者だ! 贋《にせ》者だ! 憎い敵方の一味だと申して!」
「とするとやっぱり幕府方の犬かな」しかし老人の言葉に対して、女の声は答えなかった。全くあらぬことをいい出した。
「敵《かたき》を討ってくださりませ!」これには老人も驚いたようであった。
「敵を? が、どなた様の敵を?」
「何者かに殺されましたお父様の敵を」
「これはどうも迷惑千万!」老人の声はあわてていた。「俺はな、泉嘉門と申してお狂言師なのでございますよ。で、武芸などはできませぬ。でな、お許しを願いたいもので」
「申しているのでございます。お願いしているのでございます」
「金輪際ご辞退を申します」
「すると竹之助様が申されました」
「…………」
「秘密の文書を手渡したら、喜んで敵を討ってやろうと」
「アッハッハッ、なんのことだ」老人の声はノンビリとした。「俺にお頼みしているのではないので」
「で、お爺様、渡してくだされ」
「さあ、また渡せが始まったが、これもご辞退いたしますよ。私、竹之助様を存じませんでな」
「ここにあるのでございますよ」女は何かを取り出したようであった。「両袖へ入れて参りました。巻き奉書と綴じ紙とを」
「ちとな、どうもな、これは乱暴! そう手を引っ張ってはいけませぬ! 無理に握らせてはいけませぬ!」さも困ったというような老人の声が聞こえて来た。「あッとうとう押し付けてしまった」
 と、女の声がした。
「よいお月夜でございますねえ」
「…………」
「川で水鳥が羽搏《はばた》いております」
「…………」
「お爺様、お遊びにおいでくだされ」
「…………」
「妾と竹之助様とのささやかな住居は、根岸にあるのでございますよ」
 しかし老人の答える声は、応とも否とも聞こえなかった。巻き奉書と綴じ紙とを、無理に女に預けられて当惑をしているからでもあろう。
 と、女の声がした。
「竹太郎は可愛らしゅうございますねえ」
「やれやれ」といよいよ当惑したらしい、老人の声が聞こえて来た。
「またわからない人が一人できた。竹太郎様とはどなた様なので?」
「坊やはおねんね[#「おねんね」に傍点]でございます」
「ははは背負っていらっしゃる坊ちゃんなので」
「ピチャ、ピチャ、ピチャ! ――ピチャ、ピチャ、ピチャ! 坊やを叩くのでございます」
「それはよろしくございませんなあ。お前様、お叩きなさらぬがよい」
「竹之助様がいとしがって[#「いとしがって」に傍点]、ピチャ、ピチャ、ピチャ! ――ピチャ、ピチャ、ピチャ! 坊やを叩くのでございます」
「どうもな、お前様、俺にはわからぬ」老人の声が興醒めたようにいった。「お前様をピチャピチャお叩きになり、坊ちゃんをピチャピチャお叩きになる。それで可愛がりいとしがる[#「いとしがる」に傍点]という。とんと、俺にはわかりませぬなあ。いやいや反対でございましょう。竹之助様というお武家様は、邪慳《じゃけん》なお方なのでございましょう」
「ねえ。お爺様お聞きくだされ、二日も三日も竹之助様は、食べさせないのでございますよ。ええええご飯を、坊やや妾へ」
「…………」
「それでいて今年の初夏のころから、竹之助様はご仕官なされて、ご裕福なのでございますよ」

別れ別れて

 老人の声は聞こえなかった。返辞をしないでいるのであろう。で、佐久間町の夜の通りには、なんの物音も聞こえないで、いかにも秋の深夜らしく、ひっそりとして寂しかった。が、ややあって女の声がした。
「どこへご仕官なさいましたのやら、明してくださいませんので、妾は心細うございますけれど、でも心強うございます。浪人ぐらしのころから見ますと、竹之助様にはおりっぱになられて、大小から衣裳からお持ち物まで、きらびやかにおなりなされたのですから。……でも、妾と坊やとには、なんのかかわりもござりませぬ。……いえいえかえって悪くなりました。……『出て行け!』などと申しますし『見るもいやだ』などと申しますし『敵同士だ』などと申しますし『渡せ渡せ文書を渡せ!』と、以前《まえ》よりも執拗《しつこく》申しますし、それにちっとも寄り付きませぬ。家へ帰ってまいりませぬ……お爺様なぜでございましょう。……」
 しかし返辞は聞こえなかった。老人は黙っているのであろう。
 と、また女の声が聞こえた。
「竹太郎が可哀そうでございます。妾にお乳が出ませぬゆえ、お乳を飲むことができませぬ。で、泣くのでございますよ。妾も竹太郎も声を合わせて。……」なお老人は黙っているらしい。返辞が聞こえて来なかった。
 と、突然に歌の声が聞こえた。
 ※[#歌記号、1-3-28]|鉦《かね》に太鼓に笙《しょう》の笛、赤い鼻緒の下駄持たむ。……
「坊や、行こうねえ、お父様を探しに」
 ※[#歌記号、1-3-28]あの山越えて行く時は……
「さようならよ、お爺様」
 ※[#歌記号、1-3-28]里の土産に何持たむ……
「お爺様、お願いいたしました二品をお渡しくださいまし、あのご親切な竹之助様へ! ……おや、水鳥が羽搏いたよ! 水がお月様へ笑いかけているよ。……坊や、お眠り、よい子の坊や。……萩《はぎ》の花は少し凋《しお》れましたが、まだ美しゅうございます。お遊びにおいでくださいまし。……吉田玄蕃様の一族で、筋目正しいお父様も、根岸に近い藪畳《やぶだたみ》で、初夏の雨の降る寂しい晩に、人手にかかって殺されました。せっかく妾がお傘を持って、お迎えに道までまいりましたのに。……傘からは雨が洩りましたよ。遠くで町の灯が見えていました。……小柄が落ちてはおりましたが、竹之助様の小柄でした」どうやら女は歩き出したらしい、声がしだいに離れて行く。
「妾を忘れないでくださいまし」女の声が離れた所から聞こえた。「よいお爺様でございました。……袂が軽くなりました。二品をお渡ししたからです。心が軽くなりました。二品を竹之助様が受けとられましたら、坊やや妾を可愛がりましょう。そう思うと心が軽くなります」
 声がだんだん遠のいて行く。
「おや、貸家札《かしやふだ》が張ってあるよ。四軒揃って空家だそうな。幸福にお暮らしなさりませ! 空家に住んでおられる方へ!」
 さらに声が遠ざかった。
「おや、りっぱなお屋敷があるよ。庭木がこんもりと繁っているねえ。幸福にお暮らしなさりませ! お屋敷へ住んでおられる方へ!」
 その時老人の声が聞こえた。
「いったいここはどこなんだ!」すっかり酔いのまわり切った、ろれつ[#「ろれつ」に傍点]のまわらない濁声《だみごえ》であった。
「誰かと話をしたはずだが、誰と話をしたのやら」
 老人も少しずつ歩き出したらしい。声が少しずつ移って行く。
「酔っぱらいの若い女とだった。……が、どんなことを話したやら。……」
 少しずつ歩いて行くらしい。声がしだいに移って行く。
「なんだこいつ[#「こいつ」に傍点]は? 巻き奉書だ! ……おや、こんな綴じ紙がある! ……どこでどうして手に入れたのかな?」しだいに声が遠のいて行く。
「誰かに何かを渡してくれと、誰かに頼まれたはずだったが、誰が誰なのか誰が知るものか」
 ここは佐久間町の往来で、月が明るく照らしている。泉嘉門はよろめきながら、往来を西北のほうへ歩いて行く。

君江を追って

 と、子守唄の声が聞こえた。
「おや」と嘉門はつぶやいたが、ゆるゆると背後を振り返って見た。夜がふけて月が傾いたからか、落ちていた往来の片側の、家並みの蔭がなくなっていて、往来はことごとく霜の降ったように、白く幅広く縦の帯をなして月光を浴びて延びていた。と、その往来を一個の人影があやつり人形を想わせるように、たよりなげに先へ進んでいた。子供を背負った女であった。
 ※[#歌記号、1-3-28]あの山越えて行く時は……
 無心といえば無心であり、憐れといえば憐れであり、愚かしいといえば愚かしいともいえる、しみ入るような子守唄は、その女がうたっているらしかった。女の歩いて行くあたりから嘉門に届いて来たのであるから。
「ああそうだったあの女子だった」と転ばないように両足を踏ん張り、両膝へ両手をいかめしく突き、突いた手の甲と差し出した顔の、頤《あご》ばかりを薄白く月の光に照らさせ、見送っていた嘉門はこうつぶやいたが、「君江様とこういったっけ。なんでもご亭主は竹之助様だった。その君江様とお話をして、その竹之助様へ手渡すようにと、この巻き奉書と綴じ紙とを、無理往生に預けられたのだっけ。……と、ここまでは思い出したが、さあその後がわからなくなったぞ……ええと竹之助様! 竹之助様! ……ええ竹之助様! 竹之助様! ……と、こう繰り返していったところで、おいよ[#「おいよ」に傍点]と竹之助様が返辞をして、立ち現われるものでもなし。さりとてまるッきり[#「まるッきり」に傍点]宛《あて》がないのに日本の国中を探しもならず。……これは困ったことになったぞ」
 酔いはなかなか醒めないばかりか、かえって深まさって行くとみえて、巻き奉書と綴じ紙を、ねじ込んだがために膨《ふく》れ上がっている、懐中のあたりをブルブルブルと、蒟蒻《こんにゃく》のように顫わせている。とにわかにヒョロヒョロヒョロヒョロと、嘉門は二、三歩前へ出た。
「君江殿あぶない、そこは川じゃ!」――で、両手を突き出したがそれでささえようとしたのでもあろう。
 なるほど、これはあぶなかった。人影――すなわち君江なのであるが、神田川が家並みと反対の側に、たっぷりと水をたたえた姿で、月光を浮かべて流れているのに、狂った心から気が付かなかったのだろう、落ち込もうとして寄って行ったのであるから。がようやく気が付いたらしいので、岸で辛うじて踏みとどまって、今度は川とは反対のほうへ、フラリフラリと歩いて行った。
「まずよかった、命びろいをなされた」安堵をしたというように、嘉門はまたも両足を踏んばり、膝の上へ両手をいかめしく突いた。が、それとても一瞬間で、またもやヒョロヒョロと飛び出して行った。「あぶない! 君江殿! そこは石垣じゃ!」
 いかさまこれもあぶなかった。家並みの一所に石の垣が、少しく往来へ突き出して、荒々しく築かれて延びていたが、それへ君江が背負った子の、竹太郎の頭を打ち付けようばかりに、フラフラとよろめいて行ったのであるから。が、もう一足というところで、どうやら心付いたと見えて、足を踏みたえて姿勢を直し、それから先へ歩き出した。
「まずよかった、これで安心」――で、嘉門は吐息をしたが、「打ち付けたら最後坊やの頭は、石榴《ざくろ》のように割れたところさ」――でしばらく見送った。しかしどうにも君江の姿が、嘉門には不安にもあぶなっかしく[#「あぶなっかしく」に傍点]も、また憐れにも見えたようであった。
「それにさ、こんな厄介な預り物を持っていたでは、俺といえども迷惑じゃ。追い付いて返してあげたほうがいい」――で、嘉門は小走りながら、「巻き奉書と綴じ紙! 君江様お返し致しますぞ!」と、酔った濁声《だみごえ》を張り上げた。しかし君江には聞き取れないと見えて、先へ先へと歩いて行く。
 と、不意に消えてしまった。
「ヤッ」と嘉門は胆を潰したように、こういって小走る足を止めたが、止めた拍子によろめいて、一方の側へヒョロヒョロと寄った。とその嘉門を背後から、グッとささえるものがあった。
「誰じゃい! 邪魔な!」と怒り声を上げて、嘉門は邪見に振り返ったが、振り返った嘉門を見下ろしていたのは、男でもなければ女でもなく、儒者ふうの老人の籠っている宏大な屋敷の大門であった。

棄てられた二品

「門かよ……」と嘉門は確かにてれ[#「てれ」に傍点]て鼻白んだ声で怒鳴ったが、ますます酔いは深まったと見える。もはや君江を追って行こうともせずに門へ背中をあてたままで抱き膝をしてかがみ込んだ。
「それにしても君江さまはどうしたものか?」
 そう思った嘉門を笑うかのように、横町らしいところから……里の土産に何もろた……
 子守唄の声が聞こえて来た。
「不意に消えたと思ったのにそれでは横町へまがったのか」いよいよ嘉門は鼻白んだらしい、自分を嘲笑《あざ》けるようにつぶやいたが、「どうでも返さなければいけないのだがナア……といって追っかけるには疲れすぎた……厄介なのは巻き奉書さ……迷惑なのは綴じ紙さ……眠い……と」しかし嘉門はいった、「眠い――とはいえ返さなければならない」
「鉦《かね》に太鼓に……笙の笛」君江の唄う子守唄がまた遠々しく聞こえて来たが、まもなく消え、聞こえなくなった、遠くへ行ってしまったからであろう。でこの境地はひっそり[#「ひっそり」に傍点]となって神田川の水音と水鳥でもあろうその川の中で羽搏《はばた》く音が眠い嘉門の眼を誘うてさらさらと聞こえ、はたはたと響いた、大門の鋲《びょう》が光っていてその下に膝を抱いてうずくまって、顔を膝頭におしあてて眠りにはいっている、嘉門の全身も明るすぎるほどに明るんで見えた。なんのさえぎるものもなく月が差し込んでいるからであった。
 風がひとしきり吹き渡った、と、その風に誘われて空のほうから月光を縫って、無数に落ちて来る細いものがあった。広大な屋敷の土塀の裏に生い繁っている樹々の葉のうち、秋の季節にしおれ[#「しおれ」に傍点]た葉がもろくも散って来たのであった、嘉門の頸《くび》へも散りかかり背へも散りかかり嘉門の肩へも散りかかった。そして嘉門のうずく[#「うずく」に傍点]まっているその正面の往来へも散り落ちて小黒い点をこしらえた。と、その点が動き出した、落ち葉が風にあお[#「あお」に傍点]られたからであろうが、それとても、ひとしきりでたまった落ち葉が静まった、風が吹き止んだからであろう、しかし再び落ち葉が動いて一身に体を躍り上がらせ、一めぐりぐるぐるとめぐったのは旋風が吹いて来たからであろう、と渦まいた落ち葉であったか、嘉門の顔へ襲いかかった、風がそのほうへ吹いたからであろう、にわかに嘉門は顔を上げたが、
「寒い!」とつぶやくと膝を抱いたまま両方の手をふところへ入れた。
「なんだ?」嘉門はまたもつぶやいた。同時にふところから手を抜いたが、白いものが両手にもたれていた。「巻き奉書と綴じ紙だなア」――で無心に膝の前の地面の上へ二品を置いて嘉門はボンヤリと眺めやった。がしばらく間をおいてから右手を伸ばすと巻き奉書をとりあげ一種の好奇心にかられたからでもあろうさらさらと一方へ開いて見た。人の名がごじゃごじゃと書いてある、その下へ赤いものがついている――面白くもないようにつぶやいたがそのままポイと投《ほ》り出して、右手をのばすと地に置いてある綴じ紙を取り上げてめくり出した、「いろいろな図面が描いてあるがこれには用はない」――でまたポイと投《ほ》り出したが、いまだに酔いが醒めないと見えて再度両手で膝を抱き膝頭の上に顔をあて、すぐにうとうと[#「うとうと」に傍点]と眠りにはいった。
 で地上には落ち葉のほかはあけられたままの綴じ紙とほぐ[#「ほぐ」に傍点]されたままの巻き奉書が月の光で巨大な蛾《が》の死骸かのように白々と光を浴びてすてられてあった。時々二品がふるえる[#「ふるえる」に傍点]のは依然として風が吹くからであろう。
 何事も知らない泉嘉門はただにいつまでも眠っている。
 がまことにこの出来事は重大きわまる出来事であると断言しなければならないだろう。
 巻き奉書は徳大寺家が公卿侍青地清左衛門の手から「あのお方」の手に渡すように命じて江戸へ上《のぼ》したもので非常に大切な、かつ危険な意味深い品物といわなければならない。
 しかも箱根の山中で矢柄源兵衛という武士によって、――京都所司代の番士であっていまは北条美作の手に養われている武士であったが――その武士によって奪われた上に美作の手にはいった品で、これにつき美作は桃ノ井兵馬へ今宵次のようにいったはずである。

重大な二品

「巻き奉書の内容には『人間の数』が記されてある。いやいやそれ以上に大切なものが血によって記されてあるのだよ。よいか血汐で! それも無数に!」――では、あるいは巻き奉書は、徳大寺家を盟主とした倒幕の志士の連判状かもしれない。ところで美作は同じく今宵、綴じ紙についてもいっている。「秘密文書の内容には、金子のあり場所が記されてある」と。では、宝暦尊王事件――竹内式部が大義を企てたその時の軍資金というようなものの、あり場所が記されてあるものと、解釈をしてもよいかもしれない。なお美作は二品について「――で、この二品を手に入れたならば、京師方の『一味』と『動力』とを、根こそぎ苅り取ることができる」とこういうこともいっている。
 で、この二品は幕府方にとっては、きわめて重大なものであり、ぜひとも手中に入れなければ、安心のできない品であるとともに、京師方にとっても重大なもので、やはりぜひとも手に入れなければ、安心のできない品なのであった。
 しかるに一品の巻き奉書のほうは、いったん美作の手へははいったが、お粂と金兵衛とにすり取られた。がその次の瞬間には、武左衛門の手へはいってしまい、またその次の機会には――武左衛門が惨殺された結果、娘の君江の手にはいり、最後に嘉門の手にはいり、今や往来に投げ出されている。
 他の一品の秘密文書のほうは――紙に綴《つづ》られているところから、綴《と》じ紙といってもよいだろう――久しい前から武左衛門が、深く蔵して世に現わさず、娘の君江に預けておいた。ところがそれも嘉門の手にはいり同じく往来に投げ出されている。
 で、何者であろうとも、取ろうと思えばこの二品を、今はすぐにも取ることができる。
 北条美作と桃ノ井兵馬とが、この二品を手に入れようと、苦心しているのは事実であり、またお粂と金兵衛とが綴じ紙のほうはともかくとして、巻き奉書を手に入れようとして探しているのも事実であった。
 で、敵味方四人のうち、誰かがここへ来合わせたならば、易々として二品を手に入れることができよう。
 ところで今宵煙術師のお粂は、気を失った紋也を助けて、紋也の妹の鈴江ともども、今嘉門がうずくまっている宏大な屋敷へはいったはずである。でもしお粂が何かの機会で一足門外へ出たならば、二品を手中に入れることができよう。
 いやいやお粂一人だけではない――京師方の人であるお粂や金兵衛をかくまっ[#「かくまっ」に傍点]ている屋敷であるからには、例の儒者ふうの老人をはじめ、屋敷にいるほどの人々は、京師方の人々と見てよかろう。だからそれらの人々の誰かが、何かの機会で門外へ出て、この二品を見たならば、即座に手中に入れることができる。
 これに反して美作や兵馬が、さっきの乱闘で、一旦は逃げても、屋敷のようすをうかがおうとして、ここらあたりへ立ち現われ、もしも二品を眼に入れたならば、手もなく奪って行くことができる。しかし屋敷からは人も出ず、誰もが来かかろうとはしなかった。
 屋敷の門にうずくまって、眠っている嘉門の正面の、月光に明るい往来の上に、その月光を白々と受けて、微風に顫えながら巻き奉書と、綴じ紙とが置かれてある。
 一番|鶏《どり》の啼き声がして、夜の深さを教えたが、まもなく啼きやんでひっそり[#「ひっそり」に傍点]とした。
 と、その時一個の人影が、佐久間町の入り口の方角から、こなたをめざして歩いて来た。酒にでも酔っているのであろうか? それとも怪我でもしているのであろうか? 右へよろめき左へよろめき、立ち止まったり小走ったりして、さもたよりなげに歩いて来る。女ではなくて男であった。杖でも持っているのであろうか棒のようなものを地に突いて、それにすがって休むこともあった。が時々杖が光った。杖ではなくて抜き身らしい。
 と屋敷の前へまで来た。で、その男は潜《くぐ》りへ行き、潜りの戸を打とうとして手を上げた。
 しかしそのとき気が付いたらしい、嘉門の前へ眼をやった。その眼が二品へ移った時、男はそろそろ寄って行った。

取りつ取られつ

 男は金ちゃんの金兵衛であった。
 水戸様石置き場の空屋敷で、代官松の一味の者に襲われて金兵衛は苦闘をした。意外な助けが現われたので、ようやく一方の血路を開いて、危険な境内からのがれたものの、すぐに屋敷へは帰れなかった。棍棒で幾所か叩かれたり、倒された時に幾所か打ったり、重傷や深傷《ふかで》はなかったが、しかし無数に傷を受けて、歩行が自由にできなかったからで、で、あちこちで身体を休めたり、井戸水などを飲んだりした。
 その上金兵衛はお粂に対しては、この上もなく忠実だった。はたしてお粂が危険な境内から、のがれ出ることができたかどうかとどうにも心配であったので、一旦かなり遠のきながらも、引っ返して石置き場へ行って見もした。お粂ものがれたようすだったのに、安心をして引き上げたが、衣裳はズタズタに裂けているし、手足からは血汐が流れているし、乱れた髪は顔へかかっているし、それに途中の用心として、脇差しは持って行かなければならない、その脇差しは血に塗られている――、金兵衛の姿は物凄かった。で、大通りなどを通ったならば、人に咎《とが》められる恐れがあり、咎められては危険であった。で、あちこちとまわり道をして、露路や横丁をくぐり抜けて意外に時を費して、今ようやくこの屋敷の前へ、たどりつくことができたのであった。
 見れば一人の老人が、門の裾のあたりにうずくまって、抱き膝をして眠っている。「酒にでも酔っているらしい。それにしても道端で眠るとは、のん気至極の老人ではある」こう思って金兵衛はおかしかったが、その老人の眠っている前の、往来の上に白々と月の光に照らされている、巻いた紙と綴《つづ》った紙が、風にあおられて置かれてあるのを見るや、疑念を起こさざるを得なかった。「なんだろう?」と口の中でつぶやいたが、老人の正面へ歩いて行って、老人との間へ二品をはさんで、金兵衛はそっとかがみ込んだ。巻き奉書の一部分が解けていて面を月が明るめていた。と、金兵衛の眼に付いたのは「徳大寺公城」という署名であり、その下におされた血判であった。
「…………」
 金兵衛の胸は動悸をうった。
「こりゃア例の巻き奉書だ!」ムズと金兵衛は巻き奉書を握った。「目付けた目付けた巻き奉書を目付けた!」――否、口に出していったのではない、口の中で歓喜して叫んだまでであった。で、ヌッと立ち上がって、潜りのほうへ走ろうとした。が、金兵衛はもう一品の、綴じ紙に心を引きつけられ、そろそろと立ち帰ったが、またも老人の前へかがんで、綴じ紙の頁をめくって見た。いくつかの図面を幾枚かの紙に、順序を追って描かれてあり、最後の頁に「竹内式部、可蔵者也《ぞうすべきものなり》」と記されてあった。
「…………」
 もちろん金兵衛にはこの綴じ紙の、性質も価値もわかっていなかった。しかし、竹内式部という、この署名こそは金兵衛にとっては、何物よりも権威があった。
「竹内式部可蔵者也と、ハッキリと記されている以上は、式部先生の持ち品とみてよい。では『あの[#「あの」に傍点]お方』へ捧ぐべきものだ」金兵衛は突嗟にこう思った。「巻き奉書と往来側に、一緒に置かれてあるからには、連絡のある物かもしれない。いずれは重大な品なのだろう」それにしても金兵衛には不思議でならなかった。「眠りこけている穢《きた》ならしい、この老人の膝の前に、置かれてある以上はこの二品は、この老人が所持していたものと解釈してもよさそうだ。この老人は何者なのであろう? どうして持っているのであろう?」
 ――が、老人を前に据えて、ゆるゆる考えていたのではなくて、瞬間にそのように思ったまでであった。右手に抜き身を持っていたので、金兵衛は左の手をのばすと、すでに持っていた巻き奉書と、一束にして綴じ紙を、ギュッとばかりにひっ[#「ひっ」に傍点]つかんだ。が、そのとたんに何者かが、金兵衛の左手を打つ者があった。
「あッ」と金兵衛は声を上げたがもうその時には二つの品は、他人の手によって持たれていた。
「賊め!」と叫んで金兵衛の前へ立ち上がったのは泉嘉門であったが、二品はその手に持たれていた。
「これはある人からの預かり物じゃ! 何をなされる! 奪うことはならぬよ!」

金兵衛迫る

 一流に秀でた名人には、隙というのはないという。泉嘉門においては、したたかに酔ってはいたけれども、また眠ってはいたけれども、預かり物の二つの品を奪い取られようとした時に、一種の感覚で知ったのでもあろう。咄嗟《とっさ》に眼をあけると手をのばして、金兵衛の小手をピッシリと打った。武道には門外漢ではあったけれども、お狂言師としては無双の名人、物事の気合には達していた。で、打った手に、狂いはなく、おのずと急所へはまったものと見える。
 しかるに一方金兵衛のほうでは、相手が酔いしれて眠っていたので、油断をして心の構えさえもせず、それに久しく探し求めていた、大切な品物が目付かったので、嬉しさにあわただしく握ったのであった。そこをピッシリと打たれたので、取り落としたのは当然といえよう。と、取り落とした次の瞬間には、嘉門は二品を拾っていた。そうして拾った次の瞬間には、すでに嘉門は立ち上がっていた。
 宏大な屋敷の門の扉を背後に、取り返した二品を背のほうへ隠し、酔っていたがこれもお狂言によって、鍛えたがためにガッシリとしている、腰を引き加減にこごませて、真っ向から射している月の光を、額から足の爪先へまで浴びて嘉門は金兵衛を睨み付けた。額越しに見るというあの見方で、金兵衛を睨み付けているところから、落ちくぼんだ眼窩《がんか》一帯が、陰をなして暗くなっていた。が、その中で黒い露のように、チラチラと輝き動くものがあった。まばたき[#「まばたき」に傍点]をしない両眼なのである。
 その嘉門と二間の距離をおいて、右手に抜き身をひっさげて、左手を握ったり解いたりして、心の驚きをあからさまに示して、突っ立っている男があったが、頭が人並みより大きくて、体が人並みより小さくて、片輪者らしいところがあった。いうまでもなく金兵衛なのであった。薄くて細くて短い眉毛、細くて小さくてショボショボした眼付き、獅子鼻ではないが似たような鼻、唇の薄い歯の反《そ》った大きな口、――で、顔は醜いのであったが、幸い月が背後にあって、光にそむいているがために、嘉門の眼には見えなかった。が、もし月が前にあって、顔を照らしておったならば、そういう金兵衛の醜い顔が、困惑と絶望と驚愕とで、ゆがんで[#「ゆがんで」に傍点]行くのを見たことであろう。
 しばらくの間二人は黙っていた。
「お爺さん!」とゴックリと唾を飲みながら、とうとう金兵衛はいい出した。「ごもっとも様でございます。私が悪うございました。どんなに欲しい品物だろうと、お前さんという持ち主があって、その持ち主が眠っていなさる隙に、取ろうとしたのは悪うございました。あやまります、あやまります。で、堪忍しておくんなさい」いいいい金兵衛は二つも三つも、つづけさまに丁寧に頭を下げた。と、そのつどに抜き身が揺れて、ギラギラとすさまじい光を放ち、嘉門と金兵衛の間の地面へ、落ちている影法師の頭の所が、のびたり縮んだりしてうごめくように見えた。
「が、お爺さん、お願いします! お前さんの持っている品物だが、私たちにとっては大切なものなので、どうぞ渡してくださいまし」で、またゴックリと唾を飲んで、二つも三つも頭を下げた。と、抜き身がそのつど揺れて、ギラギラとすさまじい光を放ち、取りようによっては口ではあやまるが、聞かない時には叩き切るぞと、威嚇しているようにも思われた。
 はたして嘉門にはそう思われたらしい。
「ならぬ!」といかめしく答えたが、横歩きにそろそろと右手のほうへ、――すなわち佐久間町の二丁目のほうへ、蟹が歩くように位置を移した。「どういうお方かは知りませぬが、抜き身を引っ下げておいでなさる。しかも私の眠っている隙に、二品を黙って持って行こうとなされた。善《よ》いお方でないということだけは、私にもハッキリとわかりますよ。今、なんとかおっしゃいましたな、『お前さんの持っている品物だが、私たちにとっては大切なものなので、どうぞ渡してくださいまし!』ならぬ! 渡さぬ! 決して渡さぬ! お前様たちにとって大切な品なら、この品を私にお預けなされた、さっきの酔っぱらいの女子にとっても、大切な品物でありましょうよ。で、渡さぬ! 決して渡さぬ! さっきの女子を探し出して、女子の手へお返ししなければならない」――で、いよいよ横歩きをして、門扉から離れて往来へ出た。と、その鼻先へすさまじく光る、抜き身の先が差し付けられた。

構えから構えへ

 二品を持たれて逃げられた日には、一大事であると焦慮されたので、金兵衛は夢中で抜き身を差し付け、嘉門のほうへジリジリと寄ったが、しかし切る気ではなかったので差し付けながらも丁寧な言葉で、願いを繰り返すばかりであった。
「はいはいお爺さん、ごもっとも様で、みんなごもっとも様でございますよ。……が、ごもっとも様はごもっとも様として、その品物ばかりはどうでもこうでも、頂戴いたさなければなりませぬ。お渡しなすってくださいまし。どうやら只今のお言葉によれば、元からお前様の品ではなくてどなたからかお預かりなされた品のようで。ではおそらくお前様にはその品物の中身や値打ちが、わかっておいでではありますまい。だからこそそのようにおっしゃって、頑固にお断わりなさいますので。で、申し上げることに致します。大変な品物なのでございますよ。もしその品物が敵方の手に――という敵の何者であるかは、申し上げることはできませぬが――恐ろしい人たちなのでございますよ。……その人たちへ渡ろうものなら、大事件が起こるのでございますよ。というのは官位の高いお方や、身分のりっぱな人たちや、私どものようなやくざ[#「やくざ」に傍点]者までが、一網打尽に猟《か》り取られて、流されもすれば押し込められもし殺されもするのでございますよ。そうしてそのあげくに国中が乱れないとも限りませんので。……とこのように申し上げましたら、なるほどこれは重大な品だ、手渡してやらなければ気の毒だと、必ずや思われるでございましょうね。さあさあお渡しくださいまし」――で、いよいよジリジリと寄って、抜き身の切っ先を差しつけた。
 しかるに嘉門には金兵衛のそういう言葉と、そういう態度とが、金兵衛の予想とは正反対に、悪く聞こえもすれば見えもしたらしい。「黙らっしゃい!」と怒り声を上げた「なんだなんだ、不届き千万! 人に頼みごとをしようというのに抜き身の切っ先を差しつけて、嚇《おど》すということがあるものか! 物を頼むには頼みようがある。腰をかがめるなり手を下げるなり、ひざまずくなりすべきものだ! それをなんぞや血に濡れた抜き身を、臆面もなく差しつけおる! 抜き身を捨てろ! これを捨てろ!」――いいいい嘉門は背後のほうへ、一歩一歩小刻みに下がった。と、嘉門の正面に、小長い物が差し出されて、それが月光に白々と浮いて、差し付けられている抜き身の切っ先を、迎えるように上下へ動いた。武道には全く門外漢の、お狂言師の嘉門ではあったが、こういう場合にはおのずからに、こういう姿勢を取るものと見えて、綴じ紙と一緒に右の手に、握り持っていた巻き奉書を、剣道でのいわば平青眼の形に、グッと前のほうへ差し出して、金兵衛が差しつけている血に濡れた抜き身に、ヒタとばかりに向かい合わせたのであった。
「抜き身?」と金兵衛は不思議そうにいったが、「あッ、いかさま、これはこれは、抜き身を差しつけておりましたなあ」こういうとはじめて気付いたように、――事実はじめて気がついたのでもあるが――ヒョイと抜き身を左の脇腹の、袖の下へ隠すように押し隠した。「これでよろしゅうございますかな?」――で、グッと眼を据えて、眼の前の空間に浮かんでいる、巻き奉書を凝視した。
 しかし金兵衛のそういう姿勢は剣道でいうところの脇構えであって、構えの中でも特に陰険な、殺気に充ちたものとして、相手を恐れさせる構えであった。武道に門外漢の嘉門には、もちろん金兵衛のそういう姿勢が、脇構えであるかなんの構えであるかは、知るところではなかったけれども、姿勢そのものの持っている、殺気ばかりは感ぜられた。で、嘉門は同じように、ジリジリと小刻みに下がったが、「抜き身を捨てろと申しているのだ! なぜ捨てぬか、なぜ持っている! 袖の下へこっそりと隠しておいて、機を見て払い上げて俺の胴を、斜《はす》に切ろうとしているのだな! 抜き身を捨てろ! これ捨てろ!」
 すると金兵衛は、「へい」といったが、二品はぜひとも手に入れなければならない。そのためにはどのようないい分でも聞こう。――という心持ちが動いたものと見えてガタガタと地上へひざまずくと、抜き身を膝の前へ真っすぐに置き、両手を柄頭の後方へ置いた。「これでよろしゅうございましょうな。……二品をお渡しくださりませ」
 しかしそういう金兵衛の姿勢は剣道でいうところの「伏叉《ふくしゃ》の構え」に、おのずからはまっているのであって「脇構え」より恐ろしい構えなのであった。

賊呼ばわり

 刀の切っ先を相手に向けて、突然に地上へひざまずいて、刀を膝の前へ置き、両の拳《こぶし》を柄頭から、五寸あまりこちらの地上へ据える。と突然にひざまずかれたので、相手がギョッとして動揺する。その隙を狙って電光のように、柄を両手にひっつか[#「ひっつか」に傍点]み、身をのし[#「のし」に傍点]上げると前方へ飛び出し、相手の胸へ突きを入れる――「伏叉の構え」の恐ろしさは、こういう変化にあるのであった。武道には不鍛錬の金兵衛であった。「伏叉の構え」などは知らなかった。抜き身を捨てろ、ひざまずけと、そう嘉門にいわれたので抜き身を捨ててひざまずいて、嘉門のいいつけに従ったまでであった。ところが一方嘉門においても、武道には全然門外漢であって、「伏叉の構え」というようなものは知ってもいなければ聞いてもいなかった。がそこは感覚である、金兵衛のそういう構え方が、恐ろしく感ぜられてならなかった。で、差しつけた巻き奉書を、いよいよ夢中で差しつけながら、またもジリジリと後へ下がった。
「うむ、さようか、ひざまずかれたか! ふん、なるほど、抜き身を捨てられたか。……それで一通り物を頼む、作法はできたということにはなる。……が、いけない、まだいけない。切っ先がこっちへ向いているではないか。これ横へやれ、横へやれ!」いいいいさらに幾足となく嘉門は小刻みに背後へ下がった。
 と、金兵衛は、「へい」といったが、抜き身の柄へ片手をかけると、おとなしく抜き身の位置を変えた。すなわち、切っ先を横にしたのである。
「これでよろしゅうございますかな?」
「さようさ」と嘉門はしぶしぶといった。が、巻き奉書を差しつけたままで、またも小刻みに背後へ下がった。「さようさ、うむ、それはよろしい。……だがお前さん後へお下がり! 抜き身の前にすわっていて、飛びかかろうとでもするように、柄頭の側へ両手を据えて、私《わし》を恐《こわ》い眼で睨んでいたでは、人に物を頼む作法にはならない。お下がりお下がり、二、三尺お下がり」いいいい嘉門は自分でも、ソロリと背後へまた下がった。
 どうもしかたがなかったので、いわれるままに金兵衛は、抜き身から二尺ほど背後へ下がった。
「これでよろしゅうございましょうかな?」――で、いかにも手に入れたそうに、月光の明るい空間に、おいでおいでをしているがように、上下へ揺れている眼の先の、嘉門の差しつけている巻き奉書へ、金兵衛はグッと眼を注いだ。
「さようさ、うむ、それでよろしい」
 こういいながらまたもや背後へ、ソロリと嘉門は引き下がった。で、二人の間隔は、相当の開きを持って来た。
 と、嘉門はいかめしくいった。
「これ、そこな人よ、よくお聞き、お前さんはこの二品について、たった今しがた恐ろしいほどの、話を話してくだされた。聞けば聞くほどこの二品は、重大な値打ちのある品物らしい。ところでお前さんも今いったように、この二品は私の物ではなくて、若い女子から預けられた品じゃ。もしこの二品が値打ちのない、つまらない品であろうなら、私はお前さんへ渡したかもしれない。ところがそうではなさそうだ。……で、はっきりといっておく! この品物はお前さんへは渡さぬ! 預け主を探し出してお返しする! ……恨むならこの品の重大な値打ちを、私に精々教えてくれた、お前さんの口を恨むがよい」こういって来て泉嘉門は、嘲るように笑ったが、クルリと金兵衛へ背を向けると、一散に走って逃げ出した。
 しかしその次の瞬間に、嘉門は意外な言葉を聞いた。
「待て! 爺《おやじ》! 待て! 泥棒!」
「なに、泥棒! こやつ、無礼!」で、裏門は振り返った。「賊は汝《おのれ》じゃ! 猛々《たけだけ》しい奴め! ……場合によっては大音を上げて、町の人々を起こすぞよ!」
「大音を上げる? 面白い上げろ!」――すでに抜き身をひっさげて、嘉門の前まで追い迫っていた金兵衛はこういうとゲラゲラと笑った。
「大音を上げろ! 人を呼べ! 汝が呼ばねば俺が呼ぶ! 汝のような老耄《おいぼれ》の声より、俺の声が大きいぞ!」
 事実金兵衛は大音を上げた。
「お粂の姐ご! お屋敷の方々! お出合いくだされ、お出合いくだされ!」
「あッ」と嘉門の驚くまいことか!

救助を呼ぶ!

 てっきり[#「てっきり」に傍点]賊と思い込んでいた金兵衛のほうからあべこべ[#「あべこべ」に傍点]に、「泥棒!」と声をかけられたばかりか、「お出合いくだされ!」と大音に、四方に向かって声を上げられたのである。泉嘉門は仰天したが、どうすることもできなかった。差し出した巻き奉書をあわただしく、綴じ紙と一緒に懐中の奥へ、ねじ込むと茫然たたずんだ。
 が、嘉門にはもう一つほかのことが感ぜられた。宏大な屋敷が立っていたが、そこから人が出て来ようともせず、屋敷と並んで二階建ての、小家が四軒立っていたが、そこからも人は出て来ないで、静まっていることであった。四軒の小家は空家なのであるから、人の出て来ないのは当然としても、宏大な屋敷には儒者ふうをした例の老人をはじめとして、多勢の人がいるはずである。金兵衛の上げた大音につれて、何人か屋敷から走り出なければ、不自然なことといわなければならない。にもかかわらず屋敷からは誰もが走り出て来なかった。金兵衛にとってもこの事実は、意外なことであったと見えて、抜き身を嘉門へ突きつけながら、そうして隙を見て叩っ斬ろうとして、グッグッと前へ進みながら、
「お粂の姐ご、どうしたんですい! 来てくださいまし! 来てくださいまし! ……お屋敷の方々、どうしたのですい! 来てくださいまし! 大変もない獲物が逃げるのでござんす! 早く取り押えておくんなさい! 私はあちこち怪我をして、身体が不自由でございます! 取りにがすかもしれません! 来てくださいまし! 来てくださいまし!」と、いよいよ大音を上げるのであった。
「やい!」と金兵衛は人を呼ぶ一方、嘉門へ向かっても威嚇の声をかけた。「渡せ! さあさあ、二品を渡せ! いやか、老耄《おいぼれ》、いやというなら斬るぞ! ……これ、俺様はな、強い男だ! その上途方もなく敏捷《すばし》っこい男だ! 皆さまも大変怖がってくださる。俺から見れば、汝などは物の数にもはいらない奴だ! 取ろうと思えばそんな二品、すぐにもすって取ることができる! するぞよ、老耄、さあするぞ! ……が、いけない、今夜は参った! あちこちへ傷を受けている……あッ、足が攣《つ》る! おやよろける! が、きっとする! 用心しろよ! ……待ったり、どうも今夜はいけない! それ、な、そうだろう、肝腎の手がさ、こうもフラフラしているんだからな! 掏摸《すり》に大切なは手なんだぜ! 指の先だといってもいいが。……その手がお前フラフラなんだよ。やっとまア[#「まア」に傍点]刀を持っているという訳さ! だから今夜はすりにくいのだ! ……が、きっとする! すって見せる! ……それとも汝から渡してくれるか! お礼はいうぜ、おい、お渡し! ……いやか? いやなら声を上げるぜ! お粂の姐ご! 来てくださいまし!」
 金兵衛は無数に傷を受けていた。その上に道を歩いて来た。その上に嘉門の持っている、巻き奉書と綴じ紙とを、手に入れようと心掛けて、嘉門のいうなりに従って、ひざまずいたり後へ下がったり、苦しい呼吸で物をいったりした。その上に今は大音を上げたり、嘉門の後を追っかけたり、能弁に威嚇の言葉をさえ発した。で、体は疲労《つか》れ切っていた。見れば抜き身を差しつけて、時々空で振りまわしたが、持つ手もだる[#「だる」に傍点]そうに力がなかった。振りまわされるつど月光を散らして、抜き身は燐のように光ったものの、人に迫る殺気は見られなかった。
 左の半身に月光を浴び、右の半身に蔭を持ち、前に立っている嘉門を目掛けて、これも月光を一杯に浴びて生白く見えている往来の中央を、突き進んではいたけれども、一足ごとに左右へよろけ[#「よろけ」に傍点]たり、前と後へよろけたりした。ハッハッと大息をついているので、口がポカリとあいていて反歯《そっぱ》が唇から飛び出して見えたが、左の側の上の歯の、二本ばかりがどうした加減か、ひときわ白く眺められて、獣《けだもの》の歯を連想させた。
 と、これはなんとしたのであろうか、金兵衛はにわかに身をひるがえすと屋敷の門のほうへよろめき走った。
「お粂の姐ご、来てください! 獲物が逃げる! 取り押さえてください! 俺には駄目だ! 疲労《つか》れ切ってしまった!」
 同時に門の扉へ手を上げたが、ひらめかすと一緒に乱打した。ドン! ドン! ドン! ……ドン! ドン! ドン!
 と、内側から声が答えた。「どなた! 金ちゃんかい? 待ちかねていたよ!」

潜り門の内外

 門の内側から答えた声が、お粂の声だと知ったので、金兵衛は喜びに飛び上がって、門の扉から離れると、潜り戸へつかまってピョンピョンとはねた。で、裾がひるがえってふくら脛が月光を蹴るように見えた。
「有難い! 姐ごか! おいでなすって! 潜り門をあけて来てください! ……姐ご、あいつ[#「あいつ」に傍点]だ! 目付かりましたんで! ……が、逃げて行ってしまいます! とっ[#「とっ」に傍点]捕まえなければなりません! ……足があるのでござんすからね! 何さ、そいつ[#「そいつ」に傍点]を持っている爺《おやじ》に!」
 しかし門の内のお粂の声は、驚いてもあわててもいなかった。喜んでいるようにも聞こえなかった。
「妾、金ちゃんを待っていたのだよ。……心配のことがあってね」
 その声はむしろ深い愁《うれ》いと、深い悲しみとに放心をした、洞然《どうぜん》とした声であった。
「金ちゃん大変遅かったのねえ。でもよく殺されもしなかったのねえ。妾は随分心配したよ。水戸様石置き場の空屋敷から逃げ出したことは知っていたが、あんまり帰りが遅いので、途中で悪漢にでも襲われて、大怪我でもしなけりゃよいがってねえ」
「姐ご、有難い! お礼をいいます。……だがお礼はお礼として、ゆっくりいわせていただきましょう。今はそれどころじゃアありません。ね、あれ[#「あれ」に傍点]が、京都からのあれ[#「あれ」に傍点]が――徳大寺様からご依頼をされた、おわかりでしょうな、あの獲物が、たった今目付かったじゃアありませんか! 取り返さなければいけません! ……姐ご、お願いだ! 来ておくんなさい! 助太刀! そうなんで! 助太刀をしてください! ……私は駄目なんで! 力がないんで! 受けてね、傷です! めちゃくちゃに受けて!」
「傷? おおいやだ! 金ちゃんもかい? ……ねえ、あのお方もそうなんだよ」
「じれったいなあ、何をいっているので! ……姐ご、巻き奉書だ! 目付かったんだ!」
「金ちゃん、紋也さんが危篤《あぶな》いんだよ」
「紋也※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 知らない! 知りませんねえ!」
「途中で悪者に襲われてねえ」
「爺が巻き奉書を持って行こうとするんだ!」
「後脳をひどく打ったのだよ」
「打とうにも俺には力がない」
「いまだに正気がつかれないのだよ」
「爺もだいぶ酔っている」
「妾は心配で心配でねえ……」
「やい! 姐ご! たいがいにしろ!」とうとう金兵衛は怒鳴りつけた。「一人のための物じゃアない、多勢のためのものなのだ! しかも命にかかわるものだ! 姐ごも俺も一生懸命に今日まで探していた大切なものだ! そいつが目付かったといっているのだ! 俺一人では取り返せない姐ごに助けてもらいたい! こういってお願いをしているのだ! まごまごしているとなくなってしまう! というのは変に強情な、頑固な老人《としより》が持って行って、渡してくれようとしないばかりか、持って行ってしまおうとしているのだ! 姐ご、あけな! 潜り戸をあけな!」で金兵衛は手を上げると、夢中のように潜り戸を叩いた。
 しかし、内側からは依然として放心したようなお粂の声が、このように聞こえて来た。
「はいって来ればよいではないかい。お前さんが帰って来なかったんだよ、誰が潜り門など閉《た》てておこう。さっきからあいているのだよ、鍵なんかかかってはいないのだよ」
 ――その時ずっと奥のほうから――屋敷の玄関と思われるあたりから山県紋也の妹の鈴江の、声らしい声で呼ぶのが聞こえた。
「お粂様! 兄が! ……眼を! ……呼吸《いき》を!」
「呼吸を! あッ」というお粂の声が、魂消《たまぎ》るように聞こえたかと思うと、玄関のほうへ走り返る、狂気じみた足の音がした。
「チェッ、潜り門はあいていたのか!」ドンと押した金兵衛の手につれて潜り門はバックリと口をあけた。
「しめた! 方々! お屋敷の方々!」
 潜り門の口から顔を差し入れ、こう金兵衛は声をかけたが、ハッと気が付いて振り返って見た。月に白々と往来はあったが、嘉門の姿は見えなかった。

金兵衛さがす

「いない! ううーん、爺はいない!」
 金兵衛は思わず声を上げたが、しかしよくよく考えてみれば、泉嘉門のいなくなったのは、当然のことであるかもしれない。潜り門の内外でお粂を相手に押し問答をしていた間中、夢中になっていた金兵衛は、一度も振り返って嘉門のほうを、眺めたことがなかったのであるから。だからその間に一散に走って、身を隠そうと思ったら、身を隠すことができたはずである。で、おそらく泉嘉門は、そうやって身を隠したのであろう。が、しかし金兵衛には、こう思われざるを得なかった。
「お粂の姐ごと話していた時間はほんのわずかな間であった。その上に爺は酔っていた。で、走って逃げて行ったところで、そう遠くへは行っていまい! よし、追っかけて捉《とら》えてやろう!」
 で、金兵衛は走り出した。薄傷《うすで》を無数に受けていて、全身が綿のように疲労《つか》れていて、自分だけでは爺の手から、例の巻き奉書と綴じ紙とを、奪い取ることはむずかしいと、このように思ったところから屋敷の人やお粂を呼んで、助けを乞うた金兵衛なのであったが、どうしたものか屋敷の中からは誰一人として現われては来ず、お粂までが放心をしたような声であらぬ[#「あらぬ」に傍点]事をいったそのあげくに、屋内へはいってしまったので、どうしても自分一人だけで、重大な二品を取り返さなければならない――という立場に立ったので、奇蹟的の勇気が金兵衛に出た。
「のがしてなろうか! 取り返さないでおこうか!」――で、金兵衛はひた[#「ひた」に傍点]走った。
 しかし勇気は勇気であり、躯の衰弱は衰弱であった。左に神田川の流れを持ち、右に町家の家並みを持った、月に明るい佐久間町の往来を、前へのめったり[#「のめったり」に傍点]後へよろけたり[#「よろけたり」に傍点]、下げている抜き身を杖のように突いたり、そうかと思うと肩へかついだりして、走って行く金兵衛の姿というものは、凄惨というよりも滑稽であり、恐ろしいというよりも道化ていた。身長《せい》が人並みよりきわ立って低く、頭が人並みよりとりわけ[#「とりわけ」に傍点]大きく、侏儒《しゅじゅ》か佝僂《せむし》かを想わせた。そういう金兵衛がそういったようすで、あえぎあえぎ走って行くのである。で、もし人が前から来て、金兵衛を見たならばこう思うであろう。
「玩具の刀を偉そうに持って、縹緻《きりょう》の悪い卑しい家の子供が、こんな夜中に悪戯《わるあがぎ》をしている」と。しかし本人の金兵衛にとっては悪戯《わるあがき》どころの騒ぎではなかった。命がけの真剣な働きなのであった。と、かついでいた抜き身を下げると、だるそう[#「だるそう」に傍点]に地上へ突き立てたが、もたれかかったら[#「もたれかかったら」に傍点]刀身が折れよう、で、縋《すが》るように身を寄せると、金兵衛は足を止めて右のほうを睨んだ。そこに一筋の露路があって、犬の吠え声がしたからであった。露路の入り口から二、三間ばかりの地点は、横ざしにさし込んでいる月の光のために、かなりハッキリと見えていたが、それから先は暗かったので、見きわめることができなかった。まもなく犬の吠え声もやんだ。
「爺め、この露路へ逃げ込みはしなかったかな?」ふと金兵衛には思われたので、露路口に立ってすかして見たのであったが、やはり真っすぐに佐久間町の往来を、先へ追って行くことにした。こうして佐久間町の通りをはせ過ぎ、代官町の入り口まで来た、しかしその間に老人らしい男の姿らしいものさえ見なかった。「ではやっぱりさっきの爺は、この大通りは通らずに、どこかの露路へでも逃げ込んだのかな?」こう思って金兵衛は力を落としたが、それと一緒に堪《こら》え堪えていた、体の衰弱が一時に出て、立っていることさえできなくなった。
「残念だがもうしかたがない。これ以上は俺には追って行かれない」――で、金兵衛はグタグタになって、往来《みち》の上へ両膝をついて、首をうなだれ[#「うなだれ」に傍点]て太い息をついた。が、その時人の気勢《けはい》が行く手にあたって感ぜられたので、首を上げて行く手をすかして見た。すると一人の大兵の男が、こちらをさして歩いて来るのが、月の光に鮮やかに見えた。「有難い、あの人に訊ねて見よう。この先で老人を見かけなかったかと?」――で、少しばかり元気づいて、金兵衛は地上から立ち上がった。と、大兵の男であったが、金兵衛の前まで来たかと思うと、
「今晩は」と泣くような声をかけた。「お妻さんをご存知ではございますまいか? 私の大事なお妻太夫さんを?」

懐旧の人

「お妻太夫さんですって? 知りませんね」――老人を見かけはしなかったかと、こっちから訊ねようと思っていたのに、来かかった大兵の男のほうから、「お妻さんをご存知ではございますまいか? 私の大事なお妻太夫さんを」などと、泣くような声で訊ねられたので、金兵衛はムッとしてそういったが「お妻さん」という女太夫の名にも、そういった泣くような男の声にも、何となく聞き覚えがあったので、大兵の男をつくづくと見た。年は二十七、八で、片耳のない大男で、魯鈍《ろどん》そうにズングリと肥えていた。
「おい、お前さんは鴫丸《しぎまる》さんじゃアないか※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」こう金兵衛は声を掛けたが、この時その男を思い出したのであった。
 と、大男は金兵衛の顔へ、愚かしい瞳を押し据えたが、「へい、さようでございます。鴫丸様でございます」
「フーッ」と金兵衛は笑いを吹いた。「鴫丸様の『様』はあるまい。相変わらずのお前さんだ。あの時はたしか自分のことを芸人衆様といっていたっけ」
「へいさようでございます。芸人衆様の鴫丸様が、わたくしなのでございますよ。で、役目といいますれば……」
「わかっているよ、こうなんだろう。『軽い口上を申し上げまして、お上品にお客様衆を笑わせる』途方もなくりっぱな口上いいなんだろう?」
「よくご存知でございますな」こういうと鴫丸は不審《いぶか》しそうに、金兵衛の顔へ押し据えた眼を、パチリパチリとしばたたいたが、「あなた様はどなた様でございますかな?」
「見忘れたかね、無理はない、お前さんと逢って話をしたのは、今年の春の霞《かすみ》の深かった晩で、今は霧《きり》の立つ秋の夜だからなあ。半年以上もたっているだろうよ。が、俺は覚えているよ。京都で逢って話をしたはずだ。千本お屋敷のご用地の露路でね。ね、そうだろう思い出すだろうがね」
 すると鴫丸の魯鈍そうな眼へ、喜びの色がかすかにさした。
「あッ、さようでございました。そうそう私も覚えております。あの時にはたいそうご親切に、私をお呼び止めくださいまして、いろいろお言葉をくださいましたはずで、まことに有難う存じました」――で鴫丸はお辞儀をした。
「ナーニお礼には及びませんよ」金兵衛はテレて苦笑いをしたが、「思い出してくれて有難い。で、何かね」といって来たが、金兵衛には思われてならなかった。「あの時にもお粂の姐ごに逢おうと、急いで走って来たのであったが、この鴫丸という男に逢うと、妙に心持ちがノンビリとして、急がしい用事など忘れてしまって、無駄話をしたりからかったり[#「からかったり」に傍点]したが、今夜の俺というものは、あの時の俺よりも倍も二倍も、急がしくもあれば大事な身の上で、道の真ん中へ突っ立って、無駄話などをしていることは、許されていないにもかかわらず、こうやってこの男と話していると、やはり心持ちがノンビリとして来る。それにさいつも急がしい時に限って、この男とぶつかる[#「ぶつかる」に傍点]のも変な因縁だ。どうやら俺とこの男とは、縁のつながりがあるらしいぞ」――金兵衛は苦笑いをつづけたままで、鴫丸へノンビリと話しかけた。
「あの時もたしかお前さんには、お妻太夫さんを血眼になって、探しておいでなすったようだが、今夜も探していらっしゃいますので?」
「へい」と鴫丸はうなずいて見せた。
「探しているのでございます」
「すると、お前さんはあの時以来、ずっと京から江戸へかけて、お妻太夫さんを探していられるので」
「いんね」と鴫丸はかぶり[#「かぶり」に傍点]を振った。「あの時は目付かってでございます」
「で、またお紛失《なく》しなすったので?」
「へい」と鴫丸はまたうなずいた。「今夜も紛失《なく》してしまいました。いえいえ今夜ばかりではなく、その後ずっといろいろの土地で、お妻太夫さんを紛失しまして、心配をいたしましてございます」
「それはもうもうご心配ですとも」金兵衛はともすると吹き出そうとする笑いを、前歯で噛み殺したが、「で、ただ今はお前さんの一座は、江戸においででござんすかね?」
「いんね」と鴫丸は首を振った。
「鮫洲《さめず》にいるのでございますよ。でも……」と鴫丸は後をつづけた。

名所案内

「でも」といいつづけた鴫丸の声には、愚かしい得意さが籠っていた。「今こそ鮫洲にはおりまするが、近いうちに一座は打ち上げまして、東海道を大津まで、上って参るはずにございます。はいはい私ども一座の者は、東海道の宿や駅《うまやじ》を、お得意にしておりまして、ご贔屓《ひいき》様もたくさんにあります。江戸や浪華《なにわ》や京などという、そのような繁華な都などは、物の数にも入れておりませぬ」
「ほう」と金兵衛は眼をみはった。「お前さんのお話を聞いておりますと、どうやら繁華な都よりも、街道筋の宿や駅《うまやじ》のほうに、権威を認めておりますようで。少し変ではございませんかな。物の数にも入れないなどとは?」
「はいはいさようでございますとも、そのような繁華な都などは、物の数にも入れませぬし、権威も認めておりませぬ」
「大変な見識でございますな。だがしかしそれはどういう訳で?」
「繁華な都で打ちましても、ご見物衆が来てくれませぬ」
「あッ、なるほど、そういう訳がらで、これでスッパリとわかりました」
「したがいまして私の口上も、聞いてくださらないのでございますよ」
「不届きな見物でございますな」
「で、権威を認めません」
「物の数にも入れませんかな」
「宿や駅のほうがよろしゅうございますよ」
「それにしてもなぜに都の方々が、お前さんの一座を見物に来ないか、研究《しらべ》たことはございませんかな?」
「それはいろいろに研究《しらべ》てみました」
「おわかりになったでございましょうな?」
「よくわかりましてござります」
「それはさようでございましょうとも」
「あまりに中身のよすぎる物は、かえって都の方々には、受けないものだと申しますことを、その結果知りましてございますよ」
「中身?」と金兵衛は訊き返した。「何の中身でござんすかえ?」
「へい、私ども一座の中身で」
「それがよすぎるとおっしゃるので?」
「はいはいさようでございます」――ひどい自信家があったものだ! 金兵衛には笑いもできなかった。
「では」と金兵衛はからかう[#「からかう」に傍点]ように訊いた。
「よすぎる中身の一座をひきいてお前さんにはあの時以来――京でお逢いしたあの時以来、東海道を順々に打って、鮫洲まで来たのでござんすかね」
「へーい、さようでございますよ」鴫丸《しぎまる》はまたも得意そうなようすを、間延びした声に籠らせたが、「あの時は大津で打っていました。お妻太夫さんが目付かりましたので私は大変に喜びまして、さっそく戻っていただきまして、翌日に大津を立ちました。大津はよい所でございます。瀬多の蜆《しじみ》が名物で……」
 ――おや! と金兵衛は毒気を抜かれた。「話が瀬多蜆へ移って行ったぞ! とはいえ俺も瀬多蜆は好きだ」
「さようさよう瀬多の蜆は、結構な名物でございますとも」
「草津でも打ちましてございますが、あそこの名物と申しますれば……」
「はいはい姥《うば》ヶ|餅《もち》でござんすとも」――俺だって食い物には、少しは通だ! 負けているものかという心持ちで、先まわりをして金兵衛がいった。
「姥ヶ餅が名物でございますとも」鴫丸は鷹揚にうなずいて見せた。
「で、たくさんいただきまして、それから関《せき》へ参りまして、打ちましたところが大人気で、一座喜びましてございますが、あそこの名物と申しますれば……」
「地蔵さんじゃアあるまいね」
「いんね、地蔵さんも名物であります」
「といって食べはしますまいね」
「はい、あなた様、お地蔵様は堅い石でできておりますので、食べようものなら歯を欠きます」
 ――まるでこれでは俺のほうが、教えられてでもいるようだ! 金兵衛はかえって鼻白んだが、
「それから順々に東海道を、打って下って来たんですね。もう結構よくわかりました。名所案内のお話はいずれゆっくり伺うとして、おい鴫丸さん、聞きたいことがある! この先で老人と逢わなかったかね?」金兵衛は引き締ってグッと訊いた。

塀の上の人影

 金兵衛は引きしまって訊いたけれども、鴫丸のほうでは引きしまろうとはしないで、相も変わらぬノソッとしたようすで、
「お老人《としより》にでございますかな? へい、お逢い致しました」
「逢ったか!」と金兵衛は声をはずませて[#「はずませて」に傍点]、「おい、話してくれ! どの辺で逢った!」
「へい、この先でございますよ」こういうと鴫丸は首を返して、今来たほうを振り返った。代官町のふけた通りには、人っ子一人いなかった。半町ほど先から道が曲がって、見通すことはできなかったが、その曲がり角にかなり大きな、薬種屋らしい家があって、廂《ひさし》にかかげてある看板のあたりに、鋭く白く光る物があった。金具に月光がさしているのであろう。その薬種屋と向かいあった、反対側の家の前に巨大の払子《ほっす》を想わせるような、柳が一本立っていたが、頂きの辺がほの白く光り、裾のあたりが黒く見えた。月が上にあるからであろう。
「おおそうか! この先で逢ったか! しめた! 有難い、さっきの爺だろう!」元気づいた金兵衛はこういうと、杖がわりについていた血に濡れた抜き身を、小脇に引っさげて走り出した。が、その足を不意に止めると、「おい鴫丸さん、その爺は、酒に酔ってフラフラしていたろうね」
「へい、フラフラしておりました」月光にギラツク金兵衛の抜き身へ、この時はじめて気がついたらしく、怯えたような顫え声で、こう鴫丸は返辞をしたが、眼では抜き身をみつめていた。
「箒《ほうき》と塵取《ちりと》りとを持っていました」
「何を!」と意外な鴫丸の返辞に、金兵衛は毒気を抜かれたらしく、走って行く代わりに走り返り、こういうと抜き身を前へ突き出し、鴫丸の鼻の先で振りまわし、「箒と塵取り? なんだそれは!」
「へい」と鴫丸はジタジタと下がった。「往来《みち》を掃いていたのでございますよ。へい、家の前の往来なので」
「違う!」と金兵衛は怒鳴りつけた。「持っていたのは巻き奉書だ! そうして糸で綴《つづ》った紙だ! ……そうだろうがな? その爺はどうした?」
「家の内へはいってしまいました」どうにも抜き身が怖いと見えてまたジタジタと背後へ下がり、隙を見て逃げようとしているらしく、鴫丸は四辺をキョロキョロと見た。
「いつ逢ったのだ? どこで逢ったのだ?」
「今日の夕方でございます。品川の通りでございます。お妻太夫さんをお探ししながら、来かかった時でございます」
「やい!」
「…………」
「馬鹿者!」
「…………」
「何をいいおる!」
「…………」
「チェッ」
「…………」
「鈍物《どんぶつ》!」
「…………」
「叩っ切るぞ!」
「…………」
「これ、たった今なんといった! この先で逢ったといったではないか!」
「へい、確かに申し上げました。……来る道中で逢いましたので、この先で逢ったと申し上げました」
「先は先だが遠過ぎるわい!」
「でもあなた様、やっぱり先で……」
「まだいうつもりか! この化け物めが!」
 腹に据えかねたというように、金兵衛は抜き身を振りかぶると、鴫丸を目掛けて飛びかかった。と、ワッという声が起こって、佐久間町の方角へ転がるように、走って行く牛のような形が見えた。「お助けなすって! 人殺しだアーッ」
 それは逃げて行く鴫丸であったが、やがて姿は見えなくなった。月光の充ちている往来の上へ、で、しょんぼりと残ったのは、落胆をした金兵衛一人であった。「とんだ鈍物《のろま》にかかりあって、大事な時を潰してしまった。さてこれからどうしたものだ」――まだ未練があると見えて、屋敷へ引っ返して行こうとはしないで、衰弱した体を引きずるようにして、金兵衛は先へ進んで行った。と、数十人の人影が、行く手にあたって現われた。水戸様石置き場の空屋敷から、引き揚げて来た代官松の一味らしい。で、金兵衛は立ちすくんだが、このころ佐久間町二丁目の、例の空家の一軒の、小門の塀上へ人の姿が、一つポッツリと現われた。

塀の内側へ

 真っ向から月光がさし込んでいるので、小門の塀の上へ姿をあらわした人物の姿がよく見えた。意外にも泉嘉門であった。君江という見も知らない女子の手から、無理に二品を預けられたところ不具《かたわ》者のような小男のために、その二品の内容の重大であることを語られたあげくに、その小男に抜き身で迫られて、その二品を取られようとした。で、やるまいと争っているうちに、宏大な屋敷の門の扉を、その小男が親しそうに、叩いた上で人を呼んだ。すると門内から返事があった。で、嘉門は驚いてしまった。
「では、この小男と屋敷の人とは、連絡のある一味なのか。では屋敷から人が出て来て、小男に加勢をした上で、俺を襲って二つの品物を奪い取るに相違ない。これはこうしてはいられない。逃げて行かなければならないだろう」――で、嘉門は逃げかけたが、「俺の酔っているこの足で、逃げたところで、逃げおおせられまい。それよりもどこかへ身を隠して、急場のしのぎ[#「しのぎ」に傍点]をしたほうがいい」――不意に嘉門にはこう思われたので、素早く四辺《あたり》へ眼を配った。と、眼についたのは四軒の空家で西北のはずれの一軒が、最も間近に立っていた。そこはお狂言師の身も軽く門の一所へ手を掛けると、塀を越して空家の庭へ下り、外のようすをうかがった。すると宏大な屋敷からは、人数の出て来るようすもなく例の小男一人だけが、佐久間町の往来を西北のほうへ、空家の前を駆け抜けて、走って行ったのを聞き知った。
「やれ有難い、これでのがれた」――こう思いながらも泉嘉門は、なおしばらくようすをうかがったが、依然として宏大な屋敷からは、人の出て来る気配もなく、また走って行った小男の、帰って来る気配もなかったので、「急いで家へ帰るとしよう」――で、またもや塀へ手をかけ、身をひるがえして塀の上へ、今や姿を現わしたのであった。塀の上へ体を据えながら、月に明るい往来の左右へ嘉門はせわしく眼を配った。明るい往来の明るさは、落ちている小石さえわかるほどであったが、人の姿は見えなかった。往来の向こう側を流れている神田川の水の音ばかりが、寂寥《せきりょう》の中での音であった。
「よし」と嘉門は口の中でいうと塀をすべって下りかけた。真っ向からさし込んでいる月光によって、嘉門の姿はよく見える。懐中の辺のふくらんでいるのは、巻き奉書と綴じ紙とが、そこに蔵されてあるからであろう。と、あらわに[#「あらわに」に傍点]痩せた脛《すね》が膝の上まで捲くれ上がり衣裳の裾から洩れて見えたが、その脛が一本塀の上から、塀の面へのばされて、拇指《おやゆび》の先が鈎《かぎ》のように曲がって、塀の面の一所へ疣《いぼ》のように吸い付いた。拇指をぬかした四本の指の爪が貝のように光っている、月光があたっているからであろう。それは嘉門の右の足であって、塀の面を伝って、往来へ下りようとしているのであった。「えいッ」と口の中で声をかけて、嘉門はやがて飛び降りようとした。
 すると意外にも背後のほうから、「誰じゃい!」と嗄《しゃが》れた声が聞こえた。「…………」――で、嘉門はギョッとして、声の来たほうを振り返って見た。小広い前庭の奥にあたって、この家の玄関が立っていたが、今まで閉ざされていた玄関の戸が、一方へ細くあけられていて、その隙から手燭を携えた緑色の被衣《かつぎ》をかずいた女の、物の化《け》じみた姿が見えた。砂金色をした手燭の光が、被衣の中に納まっている女の顔へあたっていたので、女の顔は鮮やかに見えたが、醜い老女の顔であった。「あッ」と嘉門は声を上げた。空家だと思っていた家の中から、そのような大奥の老女めいた女が現われて来たのであるから、驚いて声をあげたのである。
「誰じゃ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」と老女はまた声をかけた。と、背後を振り返った。「方々どうやら賊のようでござる!」
「あッ」と嘉門はまた声を上げた。手燭をかかげている老女の背後に、同じように緑色の被衣をかぶった、幾人かの老女がいるばかりでなく、緑色の小袖をまとっている若い美男らしい侍が、幾人かいて戸の隙間から、こなたをのぞいたからであった。
 ダ、ダダ、ダ、ダーッと烈しい音がした。嘉門が塀の上から往来の上へ、転落をした音であった。と、白々と紙らしい物が、塀の内側の庭の上へ落ちた。

巻き奉書の行方

 塀の上から転落をした拍子に、懐中の中にあった二品の中の、綴じ紙のほうが懐中から飛び出し、塀の内側の庭の上へ、蛾《が》のように白く落ちたのをも、嘉門は少しも知らなかった。
「ああ空家ではなかったのか! み、醜い妖怪じみた老女! び、美男のお侍たち! 化け物屋敷だアーッ、化け物屋敷だアーッ」――嘉門は夢中で往来を走った。どちらの方角へ走っているのかそれさえ嘉門にはわかっていないようであった。足にまかせて走って行く。しかし嘉門は佐久間町の通りを、代官町の方角へ、今や走っているのであった。酔いなどとうに醒めてしまって、恐怖ばかりが心にあった。
 しかしそれにしても厳密にいえば、空家と思っていた家の中から、老女と若侍とが現われて、誰何《すいか》したというそればかりのことでおちつき[#「おちつき」に傍点]のある芸匠の身分の泉嘉門ほどの人物が、こうも恐怖を感ずるとは、ちょっと受け取れないことではあった。想うに嘉門は見えた事実よりも、事実の奥に秘められている、見えなかった事実や聞こえなかった事実――そういうものから放射される、鬼気ないしは魔気というようなものに、襲われた結果恐怖したのかもしれない。敏感な芸匠であるだけに、鬼気ないしは魔気というようなものを感ずる力は大きいはずである。
 左側に流れている神田川の水が、月の光に踊っているのも、嘉門には美しく見えないばかりか、物すさまじく見えるようであり、右手に並んでいる家々の雨戸や、塀や柱などが、影を往来へ引こうとはせずに、さし込まれている月の光によって、蒼白く鮮やかに見えているのさえ、白い巨大な墓のように、恐ろしく嘉門には思われるようであった。さっき方まで大事にしていた、預かり物のことなども、今は忘れているらしく、手では懐中を抑えてもいない。いやいや手では衣裳の裾を、下等な人間のやるように、高々と持って捲くり上げていた。で、諸足《もろあし》が股の上まで見える。
 嘉門は夢中で走って行く。
 と、この時行く手にあたって、一つの人影が現われたが、これも何物かに怯《おび》やかされたかのように、奔牛《ほんぎゅう》のような速さで走って来た。
「お助けなすって! 人殺しだアーッ」
 二人の距離が近よって、すれ違おうとした時に、奔牛のように走って来た男が、こう叫ぶと嘉門へしがみ付いた。
「ワッ」と嘉門は叫び声を上げたが、力をこめて振りもぎった。
「お助けなすって! 人殺しだアーッ」
 ――が、こう再度叫んだ時には、嘉門の姿は遠のいていて、嘉門に強く振りもぎられたために、地へ倒れた鴫丸《しぎまる》ばかりが、往来の真ん中に残っていた。
「ホーッ」
 と鴫丸は太い息をついた。と、そのことが鴫丸の恐怖を、かえって心から消したと見えて、もう叫ぼうとも走ろうともしないで、トホンと地上へすわったままでいた。しかしすぐに「おや」といって、ノッソリと片手を前へ伸ばした。月光に薄白い往来の色を一所きわ立てて白く染めて、巻かれた小長い奉書紙が、膝の前にころがっていたからであった。
「何かな?」と鴫丸は巻き奉書を取り上げ、無心にスルスルとひろげて見た。
「たくさんの字が書いてある。赤い色が付いている」
 しかし鴫丸の身にとっては、なんの値打ちもない品物であった。で無心に捲き納めると、無心に片手に握り持った。
 鴫丸はガックリと首をたれて、何やら茫然《ぼんやり》と考え出した。
 しかしにわかに立ち上がると、
「お妻太夫さん! お妻太夫さん」と泣き出しそうな憐れっぽい声で、あくがれるように呼ばわったが、佐久間町のほうへ歩き出した。
 手に持たれている巻き奉書が――嘉門の懐中に蔵されていて、鴫丸を強く振りもぎった時に、落としたところの巻き奉書であるが――ダラリと下げられているがために、その先が鴫丸の足の甲を、かすったり打ったりしてひらめいて見えた。
 宏大な屋敷の前まで来た。しかし鴫丸には関係がなかった。で、先へ歩いて行った。
「お妻太夫さん! お妻太夫さん!」――しかしその声も遠ざかって、呼び主の姿も朧《おぼろ》となり、やがて見えなくなった後は、この一郭は静まり返った。とはいえ宏大な屋敷の奥の、一つの部屋からは声がしていた。
「奉公心得の事! ……」神々《こうごう》しい老人の声であった。

講義の声

「それ大君は、上古|伊弉冊尊《いざなみのみこと》[#「伊弉冊尊《いざなみのみこと》」はママ]、天日を請受《こいう》け、天照大神《あまてらすおおみかみ》を生み給い、この国の君とし給いしより、天地海山よく治《おさ》まりて、民の衣食住不足なく、人の人たる道も明らかになれり。されば、代々の帝の御位《みくらい》に即《つ》かせ給うは、天の日を嗣《つ》ぐということにて、天津日嗣《あまつひつぎ》といい、また宮仕えし給う人を、雲の上人《うえびと》といい、都を天といい、四方の国、東国よりも、西国よりも、京へ上るといえり。たとえば今|床《ゆか》の下に、物の生ぜざるにて見れば、天日の光及ばぬ処には、いっこう草木生ぜず。しかればおよそ万物、天日のお蔭|蒙《こうむ》らざるものなければ、そのご子孫の大君は君なり、父なり天なれば、この国に生きとし生けるもの、人間はもちろん、鳥獣草木に至るまで、みなこの君を敬い尊び、各品物の才能をつくしてご用に立て、二心なく奉公し奉る!」こう説いている老人の声が、神々しく部屋から聞こえて来た。
 日本に君臨したもう皇室の淵源に遡《さかのぼ》って説いているのであって、大義名分を正すにはここから説き出さなければならないのであった。が何者が説いているのであろう? どこの部屋で説いているのであろう?
 ある時には遠いはるかの部屋で、説いているようにも聞こえて来るし、ある時にはほんの手近の所で――隣りの部屋というような、そのようなほんの手近の部屋で、説いているようにも聞こえて来る。
 神々しい声には相違なかったが単なる神々しい声ではなくて、その底にすさまじい覇気を持ち、熱を持ち闘争性を持ち、革命心を持った、溌溂とした声であった。
 あの広い深い大洋をめざして、大渓谷を流れて行く、一筋の谷川があったとしたならば、岩に激して響きを上げ、淵にたたえて沈潜し、滝と落下して音を立て、他の細流を収容しては、睦まじそうなささやきを交わし、しかも谷川の谷川らしい清浄を保って流れて行くであろう! ――そういう谷川の流れの音を、連想させるに足るような、それは神々しい声でもあった。
 誰に向かって説いているのであろう? 説いている人の姿が見えない。なんで聞いている人々の姿が見えることがあろう。
 しかし多くの人に向かって、説いているのだということは、老人の講義の音で知れた。
 時々老人の講義の隙に、講義のさまたげにならないようにと、十分に注意をしているらしいつつましい咳《せき》の音もすれば、幾人かの人たちが衣紋《えもん》を直すらしいささやかな音も聞こえて来た。
 ここは儒者ふうの老人の、籠っている宏大な屋敷であって、深夜であることには疑いない。
 戸外には嵐が出たと見える。
 木立ちの騒ぐ音がした。
 老人の声がしばらくとだえて、嵐の音の吹き絶えた時に、二、三尺離れた所から、嘆くような願うような若い女の声で、こういっているのが聞こえて来た。
「眼をお開きなされてくださいまし! お心をお取り返しなされてくださいまし! あなた! あなた! あなた! あなた! ……このお額の冷たいことは! ……もしもあなたのお身の上に、もしものことがありましょうものなら私は生きてはおりませぬ! ……ご一緒に死にます、ご一緒に死にます!」つづいて泣く声が聞こえて来たが額へ滴の落ちたのを感じた。
 と、その額をおおうようにして、熱い柔かい物が触れた。
「誰かどこかで講義をしている。誰かどこかで泣いている。……ここはどこだ? 俺はどうしたのだ?」
 部屋の一所に燭台があって、燈火が部屋を明るめていた。その燈火に淡く照らされながら、床の上に寝ている武士があり、その枕もとにすわっている若い美しい娘があった。山県紋也とお粂とであった。
「頭が痛む。……体が痛む。……訳がわからない。……どうしたのだろう?」半分《なかば》意識を恢復《とりかえ》した中で山県紋也はこう思った。
 講義の声が聞こえて来た。

接吻

「故に大君に背《そむ》くものあれば、親兄弟たりといえども、すなわちこれを誅《ちゅう》して君に帰すること、我国の大義なり。いわんや官禄いただく人々は世にいう三代相伝の主人などという類にあらず。神代より先祖代々の臣下にして、父母兄弟に至るまで、大恩を蒙むるなれば、その身はもちろん、紙一枚、糸一筋、みな大君のたまものなり。あやまりて我身のものと思い給うべからず。わけてお側近く奉公したまう人々は、天照大神の冥加にかない、先祖神霊の御恵《みめぐ》みに預かりたまう身なれば、いよいよ敬いかしずき奉る心、しばらくも忘れたもうべからず」
 ここで老人の声が絶えて、四辺《あたり》が森然《しん》と静かになった。が、すぐに老人の声がした。
「これこそは臣道の大綱《たいこう》でござって、上は将軍家より下は庶民にまで、一様に行ない違うべからざる、一大事の道でござりますぞ! 三代相伝というごときは、将軍と旗本、大名と侍、この関係にはあてはまりましょうが、君と民草《たみくさ》との関係には、あてはまらざる義にござりますぞ!」――で、またも声が絶えて、四辺が森然と静かになったが、戸外の嵐は吹きまさったと見えて、庭木の枝が枝とすれ、葉が葉とすれ合う音がして、遠波が寄せて来るかのように、紋也の耳へ聞こえて来た。
「あれは奉公心得書だ! 奉公心得書を講義していられる」……半ば意識の朦朧《もうろう》とした状態の中で、こう紋也は一瞬間思った。「先年三宅島でご逝去された竹内式部先生が、堂上方のためにお書きになった、あれは奉公心得書だ!」
 誰が何者へなんのために、どこで講義をしているのか、紋也は知りたいと努力した。しかし後脳が重く痛み、全身が燃えるように熱をもって痛み、意識がしだいに失われて行った。
「俺《おれ》はいったい生きているのか? それとも俺は死んでいるのか? 死んではいけない! 死んではいけない! 誰でもいいから俺を介抱してくれ!」紋也は大声に声を上げた。しかし声は出なかった。出したと思ったばかりであった。しかしその次の瞬間に、聞き覚えのある女の声で、「紋也様が口を動かしなされた!」歓喜に顫えているようにいう者があって、つづいて同じその声が、「紋也様お粂でございます! 正気づかれてくださりませ! 傷は浅いのでございます。正気づかれてくださいまし! 私をご覧くださいまし! お眼を開かれて! 一眼私を!」いいつづける声が聞こえて来た。
「お粂?」と紋也は半意識の中で繰り返すように考えてみた。「お粂? 俺は知っているようだ。どこかで確かに聞いた名だ」で紋也は努力をしてお粂という女を見ようとして、あけにくい両眼をしゃにむにあけた。と、最初に見えたのは橙黄色《だいだいいろ》の燈火の光で、つづいて橙黄色の光の中に、夕顔の花を想わせるような、ぼっと白い女の顔であった。が、見えたのはそれだけであって、すぐに世界が暗くなって、何もかも一切見えなくなった。せっかくあけた眼を閉じたからである。しかし紋也は女の声を聞いた。
「紋也様にはお眼をおあけなされた! だんだん正気を取り返される! もう大丈夫だ! もう大丈夫だ!」
 つづいて紋也は温く柔かく――それが額にのせられた時から、一種のなつかしさと物恋しさと、心の平和とを覚えたところの――温い柔かい物を額へ感じた。
「ああ、いいな、心が和《なご》む!」――紋也は半意識の中で、こう思って涙ぐみたくなった。「だがこれはなんだろう?」
 燭台の燈火がまばたきながら、下へのばされて白く細く、抜け出ている女の頸足《えりあし》と、それへ崩れてもつれかかって、揺れている女の後れ毛とを、惨《いたま》しくも見えれば艶《なまめ》かしくも見える、そういうように照らしていて、その下に蒼白の色をした、男の顔のあることを、これも橙黄色に照らしていた。いやいや燈光は、その男の額へ、接吻《くちづけ》している女の唇の初々《ういうし》しい顫えをも照らしていた。
 と、襖が静かに開いた。

お粂と鈴江

 襖をあけてはいって来たのは、紋也の妹の鈴江であった。
「容態はいかがでございましょうか?」
 ささやくように訊ねながら、寝ている紋也の足のほうへ、鈴江はしずかにすわったが、不安そうに顔を差しのばすと、紋也の顔をのぞき込んだ。
「口をお動かしなされました。ほんのかすかではありましたが、眼もお開きなさいました。もう大丈夫でございます」
 襖が開いたので驚いて、紋也の額にあてていた唇をあわてて離すと顔を上げて、急いでお粂はすわり直したが、こういうと鈴江をまぶしそうに見た。
「さきほども口をにわかにあけ眼を苦しそうにあけましたが、いまにも呼吸を引き取りそうなほどにも、危険《あやう》く見えましてございますのであなた様をお呼び致しましたが……あの時にはどうやらあなた様には、門の内外でどなた様かと、お話ししておいでなさいましたようで」
「金兵衛殿とでございました」こうお粂は答えたが、金兵衛の名を口へ出したので、その金兵衛が門の外で話しかけた言葉を思い出した。
 ――巻き奉書といったようであった! 誰かが持って行くといったようであった! 妾に出て来て加勢をしてくれと、たしかにこうもいったようであった! ――
「巻き奉書、巻き奉書※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」にわかにお粂はハッと思った。「私たちが以前から探している、あの巻き奉書のことかしら?」
 ――それにしても金兵衛はどうしているのであろう? なぜ屋敷へ帰って来ないのであろう? ――
 お粂は急に気がかりになった。で、放心したように、部屋の一所へ眼をやった。
 お粂は衣裳を着かえていた。いかにも武家の娘らしい、凛々しい姿となっていた。しかし全体が弱々しく、だる気《げ》でもあれば苦しそうでもあった。膝を崩してすわってさえいた。水戸様石置き場の空屋敷や、佐久間町の入り口で行なわれた、烈しい戦いに薄手ではあったが、幾箇所か傷を受けたからであった。崩している膝をおおうている、衣裳の裾をかかげたならば、傷を包んでいる白い布を、脛《はぎ》のあたりに見ることができよう。
 左手を畳へささえるように突いて、右手をなるたけ動かさないように、膝の上へそっとのせていたが、その右の手のその腕あたりにも、繃帯は結ばれているのであった。島田|髷《まげ》も今は崩されていて、髪は無造作に束ねられていた。燈火を受けている右の頬の、耳の下辺に黒い痣《あざ》が、大きくむごたらしく[#「むごたらしく」に傍点]できていたが、棍棒などでうたれた痕であろう。
 しかし負傷ということになれば、紋也のほうがいちじるしかった。燭台の燈火を横から受けて、しとね[#「しとね」に傍点]の上に仰臥して、その上へ絹夜具を引きかけて、咽喉と顔とを夜具の襟から出して、静まっている紋也から、夜具を取りのけて見たならば、手といわず足といわず胴といわず白布で一面にグルグルと、捲き立てられてあることに、驚かされるに相違ない。水戸様石置き場の空屋敷でこうむったところの傷なのである。
 しかしいずれも致命傷ではなくて、ほんの浅い切り傷であり、骨にまで達しない打ち傷であった。しかし佐久間町の入り口で、桃ノ井兵馬と闘って、体あたり[#「あたり」に傍点]をしてくれたのが失敗して、自分で自分をあおのけに倒して、大地で後脳を打ったのが一番に重い傷といえよう。で、気絶してしまった。その気絶した紋也をになって、ここの屋敷へ連れて来るや否や、ここの屋敷に詰めている、医師によって手あて[#「あて」に傍点]を加えられ、さっきから寝かされているのであった。正気づくことはわかっていたが、一刻も早く正気づくようにと、お粂も鈴江も願っているのであった。
 いかに紋也の憔悴《しょうすい》したことか! 眼窩がくぼんで蔭をなしている。頬の肉がゲッソリと落ち込んで、頬骨が高く立っている。髷はほぐれて乱れた髪を、枕の外へはみ出させている。
 この部屋ははたして広いのであろうか? 病《や》める人の神経をいら[#「いら」に傍点]立てないように、燭台の燈火を細ませているので、お粂と鈴江と寝ている紋也との、三人の姿を照らしているばかりで、部屋を一杯には照らしていなかった。燈火の光の圏内に水を張った小桶だの薬の壺だのがにぶく光って置いてある。
「お粂様、お休みなさりませ」ややあって鈴江はお粂にいった。

せめてもの介抱

「いえ」とお粂はすぐにいった。「妾がお看護《みとり》いたします。あなたこそお休みくださりませ」「いえ」と鈴江は押し返した。「妾は疲労《つか》れてもおりませねば、怪我をいたしてもおりませぬ。それだのにあなた様はお疲労れでもあれば、お怪我もいたしておられますことゆえどうぞお休みくださりませ。兄は大丈夫でございます。妾が看護《みと》ることに致しましょう」
 しかしお粂はどういわれても、この部屋から出ようとはしなかった。そうして紋也の介抱を、ほかの人にまかせようとしなかった。
 お粂にとって山県紋也は、何物にも変えられない恋人であった。その恋人と難を受けて、その恋人と共に戦い、そうして共に怪我を受け、しかも恋人はそれがために、意識を失っているのであった。怪我をしたということと意識を失っているということとは、お粂には悲しくはあったけれども、そのためにこうやってその恋人を、自分で介抱をすることができる。――ということは喜びであった。自分も幾箇所か怪我をしている。しかしそれとても恋人と一緒に、受けたところの怪我であると、こう思えば苦痛にも感じなかった。
 自分が介抱に堪えられないほどにも深傷《ふかで》を負っているのであったらほかならぬ恋人の妹である、鈴江に恋人の介抱を、こだわらず[#「こだわらず」に傍点]に依頼するであろう。現在の自分はそうではない。で、介抱がしたかった。それに! ――とお粂は思うのであった。京都の土地に紋也様には、許婚《いいなずけ》のお方がおありなさるそうな。ではどれほどに焦心《こが》れても、自分の恋心を紋也様には、将来受け入れてくださらないかもしれない。また自分にしてからが、水戸様石置き場の空屋敷の、笹家の土間で感情のままに、――亢《たか》ぶった感情の流れるままに、あなたに恋人がありましょうとも、よしんば許婚がありましょうとも、そのようなことは数にも入れず、きっとあなたを妾の手に必ず入れてお目にかけるなどといいはったものの、紋也様を心から恋している自分にはかえってできがたいことかもしれない。
 二人の目的は同じでも、たのうだ[#「たのうだ」に傍点]お方が別なのであるから紋也様にはご恢復をなされたらば、この屋敷から立ち去られて、妾などには眼もくれないで、お働きなされることであろう。ではこうやって自分の手で、紋也様の介抱のできるのは、今夜一晩だけであるかもしれない。とげられない恋の思い出に、どこまでも自分で介抱したい。――
 で、お粂はすわったままで、鈴江に紋也の介抱をまかせて、他の部屋へ行って休もうなどとは、思いもしなければしもしなかった。
 と、そういう優しい悲しい、お粂の心持ちが感ぜられたからでもあろうか、今鈴江は休むようにと、強いてお粂に勧めもしないで、向かい合って黙ってすわっていた。
 細めておいた燭台の燈火が、にわかに焔を太くした。で、鈴江のくくれている、逞しいほどの頤のあたりに、ほつれている鬢の毛がテラテラと光り、お粂が膝へ置いている右手の爪を桃色に染め、二人の女に見守られている、紋也の乾いている唇から、洩れて見える前歯を白く浮き立たせた。しかし焔はすぐに細まって、以前よりも部屋の中が暗くなったので、二人の女と一人の武士との、姿が茫《ぼう》とぼけてしまい、焔が太くなった時に一枚の襖の一つの引き手が、妙にキラキラ輝いて見えたが、今は反対に見えなくなった。
 二人の女は黙っている。と、その時襖の外から、鈴江を呼ぶ男の声がした。
「鈴江殿、行って参りました。お邸にはこれという異変もなく、代官松の一味の者の、襲ったようすもござりませぬ。しかしいまだに小次郎殿には、ご帰宅されてはおりませぬ……」
 五十嵐駒雄《いがらしこまお》の声であった。邸のようすが案じられ、小次郎の身の上も気にかかったので、鈴江が心配して五十嵐駒雄に、雉子町にある自分の邸の、ようすを見てもらいに行ってもらったところ、こういう返辞をもたらせ、駒雄が帰って来たのであった。
「静かに!」と鈴江は注意をして、紋也のようすをうかがった。駒雄の声が高かったからである。
「そちらへ参ってお聞きいたしましょう」
 鈴江は部屋を出たが、その時例の老人の、神々しい声が聞こえて来た。

甦った紋也

「しかれどもただ、業《わざ》のみ敬いて、誠の心うすければ、君に諂《へつら》うに近うして、君を欺くにも至るべし。本心より二心なく敬うを忠といえり、忠は己《おの》が心を尽くすの名にして、如才なき本心を、業と共に尽くすことなり。そのお側近うつこうる身は、はじめのほどは、恐れ慎むの心もっぱらなれども、慣れては衰うるものにや。古《いにしえ》より忠は宦成に怠《おこた》り病いは小|癒《ゆ》に加わり、禍《わざわ》いは懈惰《けだ》に生じ孝は妻子に衰うという、また礼記《らいき》にも、狎《な》れてしかしてこれを愛すといえり」
 講義をしている老人の位置が、おそらく接近をしたのではなくて、紋也の意識が以前よりも、恢復されたがためであろう、そういう老人の講義の声が、紋也の耳へ粒立《つぶだ》って、今は聞こえて来るようになった。
「どうでもこれは誤まりではない、竹内式部先生が、堂上方のおためを計って、お書きになった奉公心得書を、どなたかが講じておられるのだ」で、紋也はどうぞして自分も、講義の席へ連らなって、講義を聞きたい欲望にとらわれざるを得なかった。
「あの奉公心得書を講義する人があるとすれば、竹内式部先生か、そうでなければ自分の父上の山県大弐でなければならない。そうでなければ父上の同志の藤井右門殿でなければならない。しかしそれらの三人の方々は、とうに死なれてしまわれたはずだ」――それだのに講義をする者がある! これがどうにも紋也にとっては、不思議に思われてならなかった。したがって講義をしている人の何者であるかということを確かめたい欲望にとらわれもした。まず紋也は眼をあけた。
 と燈火の光なのであろう、橙黄色《だいだいいろ》のほのかな光が、以前《まえ》のようにすぐに眼に映り、つづいてその中に浮いている白い女の顔が見えた。
「女がいる、誰であろう?」――紋也は女を確かめようとして、できるだけ強く視力を凝らした。すると白い女の顔が、静かに上へ昇って行った。「はて、これはなんということだ!」――こう紋也が思った時、女の顔がユラユラと揺れて、橙黄色の光が、ぼんやりと輪形を作っている天井の下を一方へ動いた。
「女は、どこかへ行くのだとみえる」――紋也は、漠然とそう思った。
 事実それに相違なかった。
「金ちゃんはどうしているのだろう? なぜ帰って来ないのだろう? ……金ちゃんのいった巻き奉書という言葉! これも妾には気にかかる」――こう思ったお粂が我慢できなくなって、門外へ行ってようすを見ようと今そっと立って歩き出したのであった。
 襖があいて半分閉じた、そのあわさり目からほの白い形が、紋也の寝姿に向けられた。
 部屋の外の廊下へは出たものの、紋也のことが心にかかって、のぞいているお粂の顔であった。
 が、その顔が引っ込んで、襖が全く合わさって、廊下を小走って行くらしいお粂の足音がしばらくの間聞こえやがて聞こえなくなった時には、この部屋には仰臥したままの山県紋也一人となった。
 と、神々しい老人の講義の声がまた聞こえて来た。
「わけても君のご寵愛に預かる人は、幸いに天地万民のために君を正しき道にいざない奉り、ご前に進みては、道ある人を進め、善をのべ、邪《よこし》まなる人はもちろん話をも防ぎ、ただ善《よ》き道に導き奉り、共に天神|地祇《ちぎ》の冥助を、永く蒙り給わんことを願い給うべし。しからば若き人のあまりに行き過ぎたるは、憎ましきものなれば、言葉を慎み、時を計り給うべし……」ここで講義の声が切れたが、すぐにあたかも叱咤《しった》するような、同じ老人の声が聞こえて来た。
「山県大弐、藤井右門、この人々の行ないこそは、あまりに行き過ぎたる行ないでござって、芽生《めば》えんとした尊王|抑覇《よくは》の大切の若芽を苅り取りたるものでござる!」
「何を!」と紋也は思わず叫んだ。と、その拍子に全身に怒りと気力とがみなぎって、意識が完全に甦《よみがえ》った。
 夜具が最初に一方へはねられ、次に紋也の起き上がった姿がしとね[#「しとね」に傍点]の上へ現われた。
 と、紋也は立ち上がった。しかし痛みに堪えられないように、すぐに横倒しに倒れかかったが、そのかたわらに両刀のあるのを、手に引っつかむと脇差しを帯び、刀を杖にまた立ち上がるや、スルスルと部屋を襖のほうへ歩き襖を蹴開くと廊下へ出た。

講義をしている部屋

 廊下へ立ちいでた山県紋也は、まず四辺《あたり》を見まわして見た。廊下は長くのびていたが、ところどころに金網をかぶせた、網行燈が置かれてあるので、廊下はどこまでも見渡されて、その一方がずっとかなたで、突然に絶えているのが見え、そこに階下へ行く降り口の、設けられてあることが見受けられ、したがってここがこの屋敷の、二階にあたっていることが、おのずから紋也に感ぜられた。が、そっちからは講義の声が、聞こえて来るとは思われなかった。
 廊下の左右は部屋部屋と見えて襖が一つづきに並んでいた。その襖へ背中をもたせかけてともすれば衰弱で倒れようとする、体をようやくこらえ、刀を杖に突くようにして、紋也はしばらくたたずんだが、ほかの一方の廊下のほうへ、おぼつかない眼を走らせた。
 と、数間離れた距離の、廊下の一所へ蒼々と、月光らしいものがさし込んでいて、木立ちの影とも思われる物が、同じ廊下の一所の、月光らしい光の中に、躍っているのが見て取られ、その方角から講義の声が、聞こえて来るように感ぜられた。
「父上の所業や藤井殿の所業を、行き過ぎた所業だとののしりおった! この言葉ばかりは許されない!」――と、こういう憤《いきどお》りが、半意識の中に伏せっていた紋也をして、意識を恢復させ床から起こし部屋を出させ、廊下へ今や立たせたのであったが、同じ憤りが紋也を駆って、講義の声の聞こえるほうへ、夢中に足を運ばせた。
 と、すぐかたわらに網行燈が、片寄せられて置かれてあったが、その前を紋也が通った時、よろめく足の右の足首に、巻かれてある繃帯が赤黄色く染まった。網行燈の燈火が照らしたからである。
 しかしその足のすぐ前に、水のようにテラテラ濡れ光る物が、廊下から縦に上のほうへ、延びているのはなんであろう? 杖にしている刀の鞘が、網行燈の燈火に照らされ、同じように光っているのであった。と、その刀の鞘が動いて、前方へ向かって歩き出した時、繃帯をした足も歩き出した。と、今まで廊下の右に、落ちていた紋也の影法師が、前方の廊下の面へ落ちた。網行燈を背後に見すてて、紋也が先へ進んだからである。
 しかしまもなく紋也の姿が、蒼白く半身照らされて見えた。月の光のさし込んでいる、その一所まで行ったからである。
 で、紋也は月の光の、さし込んで来るほうへ眼をやった。
 廊下を中にしてその左右に、部屋部屋が二列に立ち並び、襖を二列に並べていたが、そこばかりには部屋がなくて、部屋のある所には欄干があり、その向こうに広大な中庭があり、月がその向こうの空にあって、植え込みの枝や葉をくぐって廊下へまでも蒼白い光を、水のように注ぎ込んでいるのが見られた。
 中庭はきわめて広かった。が、その広い中庭へ二棟の部屋が向かい合って、翼のように突き出されているので、その二棟の部屋によって、包まれている中庭の一部は、これはきわめて狭かった。その二棟の部屋のうち、左側にあるのがたった今し方、紋也が寝ていた部屋であり、向かい合った右側の部屋から、講義の声が聞こえて来た。
 この屋敷は宏大であり、その上に厚い土塀によって、外界と境をなしていた。その土塀の内側には、常磐木《ときわぎ》が鬱々《うつうつ》と籠《こも》っている。で、屋敷の構内の、どの部屋で講義をしようとも、声は外界へは聞こえないであろう。
 という安心から来ているのでもあろう、今、講義の行なわれている、右側の部屋にはたった一枚の、雨戸さえ引かれてはいなかった。で、その部屋で灯《とも》されている、燈火の光が塗り骨障子の、障子の紙を赤黄色く染め、中庭の一部を明るめていた。見ればその部屋と向かい合っている、紋也が今までいた左手の部屋の、雨戸も一枚も引かれてなかった。
 なるほど、老人の講義の声が、寝ていた紋也の耳へまで、筒抜けに届いて来たはずである。
 やがて紋也の立ち姿が、月光の上から突然に消えて、廊下の先のほうへ現われた。が、その次には紋也の姿は、廊下のどこにも見えなくなった。しかし廊下が鉤の手に曲がって、老人が講義をしている部屋の、入り口のほうへつづいていたが、その廊下の先へヒョロリヒョロリと進んで行く紋也の姿は見られた。

彷徨《さまよ》う紋也

 鉤の手のように曲がっている廊下を、先へたどるにつれて、神々しい老人の講義の声や、多勢の人たちの衣紋《えもん》を直す音や、しわぶきの声などが聞こえて来た。続いている廊下の左側に、一面に立てられてある襖があったが、広い部屋だということは、その襖の数がおびただしいので知れた。数間の先にあるのであったが、衰弱をしている紋也には、そこまでたどるのがたいてい[#「たいてい」に傍点]でなかった。
 例によって刀を鞘ぐるみ突いて、それを唯一の杖として、よろめく足を踏みしめ踏みしめ、この廊下にも置いてある、網行燈のかたわらを過ぎ、過ぎる時繃帯した右の足首の、白い繃帯を赤黄色く染め、刀の鞘を水に濡らしたように、テラテラと艶々しく光らせて、わずかにする[#「する」に傍点]ようにして進むのであった。
 これほど宏大な屋敷であるのに今歩いて来た廊下にも、今歩いている廊下にも、廊下の左右の部屋部屋にも、人の姿の見えないのは――人のいる気勢《けはい》のしないのは、いったいどうしたことなのであろう? 屋敷中の人が出払って、一つの部屋に集まって、老人の講義を聞いているのであろうか? が廊下を通る者のないのはその者にとって幸いであり紋也にとっても幸いであった。誰かが廊下を歩いて来て紋也の姿を見かけたならば、必ずや誰何《すいか》するであろう。と、紋也は気が立っている。一刀に切って捨てるかもしれない。ただちに血の雨が降らされる。屋敷中の人々が現われ出て紋也を取りこめて惨殺するかもしれない。
 しかし人は通らなかった。で、今はひそやか[#「ひそやか」に傍点]であった。
 それにしても対照の変わっていることよ! 一室においては大義名分の、おだやかな講義が行なわれていていずれは衣紋を正しゅうした、多勢の武士たちがかしこまって、その講義を粛然と聞いているであろうに、廊下では刀を杖に突いた乱髪の負傷した山県紋也が、よろめきながら歩いている。
 その紋也の心持ちといえば、竹内式部先生が、書き記した奉公心得書を、講義している老人が、竹内式部先生の、衣鉢《いはつ》を継いで勤王|抑覇《よくは》の、運動を起こした紋也の父の山県大弐や、その同志の藤井右門の行なった業を、行き過ぎた所業だとこのようにいって、非難を加えていることに、憤りを抱いているのであった。
「では父上の遺業を継いで、事を謀《はか》っているこの紋也の今日まで行なって来たことも、行き過ぎた行ないといわなければなるまい!」
「いや、そのようなはずはない!」
 不意に紋也は歩みを止めた。見れば講義の行なわれている広いらしい部屋の襖の前に、この時たどりついていた。
 少し紋也の姿勢がのび、突いていた刀がヒョイと上がり、鐺《こじり》が左の脇の下から、背後のほうへ突き出された。すぐその鐺の光ったのは紋也の背後の廊下の一所に、網行燈が置かれてあって、その光が鐺を照らしたからであった。
 紋也の姿勢ののびたのは、全身に力を入れたからであって、刀を小脇に抱《か》い込んだのは、襖をあけた瞬間に、部屋の中にいる武士たちの群れが、斬り付けて来ないものでもない、その時抜き合わせて戦おうと構えをつけたがためであった。
 背後に置いてある網行燈のかたわらに人が立っていて、紋也の姿を見ていたならば、一旦のばされた紋也の姿勢が、やがて反対に前へ傾き腰から上が暗くなり、頸足《えりあし》ばかりが暗い中で、妙に生白く見えたことと、腰から下が網行燈の光で、ほのかに明るんで見えていて、右の足が前へ踏み出され、左足が背後へ踏み引かれ、踵を上げたその左足の踵が網行燈の光に染まって、際立って赤黄色く見えたことと、左の手がそっとのばされて襖の引き手へ掛けられたこととを、見て取ることができたであろう。そうして次の瞬間、襖が一枚引きあけられ、あけられた隙から燈火の洪水が、一部屋からドッと流れ出て、紋也の姿を光に溺らせ、その紋也をしてのけぞらせ[#「のけぞらせ」に傍点]たことを見てとることができたであろう。

四人の醜女

 講義の行なわれている部屋の襖を、引きあけた紋也は、何を見たか? 燈火の洪水に溺れながら、体をのけぞらせたばかりであった。紋也の考えでは襖をあけて、部屋へ踏み込もうと思っていたのである。それが部屋へ踏み込まないばかりでなく、あべこべに背後へのけぞったのである。意外な光景を見たものと、こういわざるを得ないだろう。
 しかし意外な光景は、その部屋ばかりにあるのではなくて、全然別の場所にもあった。女駕籠をにない小次郎を吊るした例の異形な行列が、入り込んだ二階屋がその場所であった。

 被衣《かつぎ》はかぶってはいなかったが、緑色の小袖を一様に着た、四人の老女が半円を作って、半円の切れ目へ燭台を置いて、その光で綴じ紙を眺めながら、顔を寄せ合ってささやき合っていた。
 一方の仕切りは襖であったが、立てつけの悪い安物と見えて、襖と襖との合わさり目が、よく合わされずに隣りの部屋の、燈火も見えればささやく声なども、細かくこちらへ聞こえて来た。
 と、一人の老女がいった。
「りっぱなお屋敷でございますな」――で、図面を指さした。片眼の上瞼がダラリと下がって、ほとんど瞳をおおうていて、隻眼《せきがん》のように見えている。それは醜い老女であった。「りっぱなお屋敷でございますわい」こう応じたのは鼻柱が曲がった――それは性的の悪い病い、中年のころに曲がったものらしい。――同じく醜い老女であったが、「このお屋敷には見覚えがある。これは水戸様のお下屋敷でござるよ」ともう一人の老女へいった。「あなた様にもお見覚えがありましょうがな」
 するともう一人のその老女がいった。
「妾にも見覚えがございますとも。水戸様のお下屋敷でございますとも」――そういった老女の醜さも、他の老女に負けなかった。上の歯茎がこれも悪病でほとんど腐って取れていた。で、言葉が不明瞭であった。
「よくまあこれだけ詳しく正しくあの水戸様のお下屋敷を、写したものでございますなあ」
 後につづけてこういったのは、これも三人の老女に劣らず、醜いもう一人の老女であった。眉毛が左右ともなくなっている。
 隻眼に見える老女がいった。
「なんの符牒でございましょう、赤い色で十文字が記されてあります。ほんの小さく図面の一所に……」
 そこで、四人の老女たちは、白髪の頭を寄せ合った。と、燭台の燈火が映《は》えた。で、あたかも老女たちの頭は、小長い無数の銀の線を、綯《な》い合わせてできた畸形《きけい》な球が、四つ塊《かた》まっているように見えた。
 そういう四つの球の下に、これも燭台の燈火を浴びて、橙黄色《だいだいいろ》に映えている、綴じ紙の最初の一枚が、広げられたままで置かれてあったが、いかさま見ればその面に、大門、玄関、客間、寝室、別館、大書院、亭《ちん》、廻廊、控えの間、宿直《とのい》の間、廐舎《うまごや》、婢女《はしため》の間、家士たちの溜《たま》り、調理の場所、無数の建物が描かれてあり、そういう建物をグルリと取り巻いた、前庭後庭中庭などの、変化縦横の庭園の様が、同じく精巧に描かれてあった。と、一所に築山があり、裾をめぐって流れがあり、巨大な池がその末にあり、池に石橋が渡されてあり、石橋を渡った一所に、石燈籠が立っていたが、その石燈籠の台石のほとりに、朱色で十文字が記されてあった。
 と、皺《しわ》だらけの手がのばされ、枝のようにコチコチとひからびている、二本の指がひょいと動いた。鼻柱の曲がっている一人の老女が綴じ紙を一枚めくったのである。
 と、そこにも大名衆の、下屋敷らしい宏大な、建物と庭園との絵図面がこれも精巧に描かれてあった。一所に竹の林があり、その竹林の根もとのあたりに、同じく朱色の十文字の符牒が、あるかなしかに描かれていた。しかも数は二個であった。
「これはどうやら土屋|采女正《うねめのしょう》様の、お下屋敷のようでございますな」歯茎の取れている老女がいった。が、すぐに紙がめくられた。

図面の数々

 めくられた綴じ紙の面には、またも図面が描かれてあった。しかし大名の下屋敷などの、庭を取り入れた図面ではなくて、四面を小丘で囲ませて、その中央の低い所へ、豪農らしい堅固質素の、しかし十分宏壮な家が、作られたところの図面であった。
 眉毛のない老女がつぶやくようにいった。
「よい家相でございますな。――四面高くして中央|平坦《へいたん》、ここに家宅を構えるものは、富貴延命六|畜《ちく》田|蚕《さん》、加増されて名誉の達人起こり、君には忠、親には孝、他に類少なき上相となす――家相にピッタリとはまっております。どこの農家でございましょうやら?」
 ――で、三人の老女たちを見た。
「どこの農家でございましょうやら」
 隻眼の老女はこう答えておいて、こごませ[#「こごませ」に傍点]ていた体を上へのばすと、投げるように頭を背後へやった、と、すぐその顔を燭台の燈火が照らした。額にも頬にも紐のような、太い皺が幾うねかうねっていて、乏しい燭台の燈火の光に、陰をなすまでに深くもあった。「江戸の界隈に建てられた、農家のようではございませぬな。建て方がいかにも田舎《いなか》じみております」
「美濃《みの》あたりの建て方でございます」
 ややあってこのようにいったのは、鼻柱の曲がっている老女であった。「それにしても不思議でございますな、小丘の麓に赤い色で、十文字が三つ記されてあります」
 その十文字の赤い符牒を、たしかめようとするかのように、その鼻柱の曲がっている老女は、いよいよ体をこごませ[#「こごませ」に傍点]て、顔を図面へ押しつけるようにした。
 すぐに抜け出た頸足《えりあし》が、燭台の燈火に照らされたが、脂肪《あぶら》気がなくてカサカサとしていて、折れそうに細っこくて穢《きた》ならしかった。それでいて腫物《しゅぶつ》でもあるのであろう、角に切った膏薬が貼ってあった。
 いかにもその老女がいった通り、東側に立っている小丘の麓に、朱色の十文字が小さくはあったが、たしかに三つ記されてあった。と、一本の腕が出て指が綴じ紙を一枚めくった。横から歯茎の取れている老女が、次の図面を見ようとして、綴じ紙をめくったのであった。
 また図面が描かれてあった。
 とはいえそこに描かれてある図面は、大名衆の下屋敷でもなく、田舎の豪農の家でもなく、一宇の寺院の仁王門であって、その仁王門の礎《いしずえ》のあたりに、例によって朱色の十文字の符牒が、このたびは四つ記されてあった。
「どこの仁王門でございましょう?」
 こういったのは歯茎のない老女で、こういうと片方の膝を崩し、体をいやらしくクネクネとさせた。少し拡がった胸もとのへんを、燭台の燈火が光らせたが、一つ家の鬼女を想わせるように、皮膚がたるんでいて茶色をなしていた。
 誰も返事をしなかった。誰もが知っていないからであろう。
「どれどれ次をめくって見ましょう」
 こういって体をいざらせて来たのは、両方の眉毛のない老女であったが、少しく燭台へ接近したため、禿《は》げている眉の痕がテラテラと光って、癩患《らいかん》の人間を連想させた。と、その老女が綴じ紙をめくった。と、すぐに声々がいった。
「これは珍しゅうございますな」「大河があります。岩があります?」「信濃《しなの》あたりの地図でもあろうか?」「ここには十文字の符牒がない」
 いかさまめくられた紙の面には、山岳と森林と大きな河と、突兀峨々《とっこつがが》としてつらなっている岩とによって形作られている所の広汎《こうはん》の地図が描かれてあった。一人の老女がいったように、朱色で記された十文字の、例の符牒は付いていなかった。
 が、その代わりに大河の流れに、これはなんという美しい色だ! 燃え立つばかりの深紅の色で、牡丹の花が描かれてあった。
 この謎めいた牡丹の花には、醜い四人の老女たちも、特に好奇心をそそられたと見えて、無言で一所へ視線を集めた。
 で、しばらく静かであった。しかしその時隣りの部屋から、
「枕をおかい[#「おかい」に傍点]なさりませ! おいやならば……そう、おいやならば……」と、そういう艶《なま》めかしい女の声が、そそのかすように聞こえて来たので、老女たちはニッと笑い合った。

若侍の心

 隣りの部屋の女の声を聞いて、笑ったのは女たちばかりではなくて、ほかに四人の男があった。女の声の聞こえて来た、その部屋を中にはさむようにして、老女たちのいる部屋からいえば、反対側にあたる所に、同じような部屋ができていたが、そこに置かれてある一基の燭台の橙黄色《だいだいいろ》の燈火に照らされ、端坐をしたり、肘枕《ひじまくら》をしたり、横になったり、胡坐《あぐら》をかいたりして、武士にあるまじい自堕落な態度で、緑色の衣裳を一様に着た、四人の美貌の若い武士がいたが、この武士たちが笑ったのであった。一人の武士がいった。
「ちと今夜のの[#「の」に傍点]は手|剛《ごわ》いと見える」肘枕をしている武士なのであったが、こういうと荒淫の女の唇を、連想させるに足るような赤い薄手の受け口めいた唇を、いよいよ上へそらすようにした。枕にしている左の腕が、肘のあたりから露出していて滑《なめ》らかそうな柔かそうな蒼白い皮膚が燈火に映《は》えて見えた。睫毛《まつげ》がとりわけ濃いためか、眼が隈《くま》取られているように見える。「が、どのように我を張っても、しまいにはきっと退治られる奴さ! 我を張るだけが馬鹿というものさ。それに苦痛の事ではなし」
「そうだ」とすぐに答えるものがあった。端坐している武士であって、この武士の特色ともいうべきものは、女などよりも髪の毛が多く、女などよりも髪の毛が黒く、艶々と光っていることであった。
「そうとも、苦痛のことではないよ。いや苦痛の反対だ」ここでその武士は腕を組んで、考えるように首を傾《かし》げた。で、左の半面が、燈火《ひ》の光にそむくようになった。そのためでもあろう、端麗の鼻が、一方の側へ濃い陰をつけて、その端麗さを浮き彫りにした。「ああ、だがあれはどこだったろう? 俺が夢をむさぼったのは?」ここでその武士は左へ傾げていた首を、右のほうへ傾げ変えた。で、鼻の反対側に同じように陰が濃くついて、同じように端麗さを浮き彫りにした。
「めっきり記憶がなくなってしまった。俺の頭はどうかしている。いやいや頭ばかりではない、身体全体がどうかしている。精力がない! 虚茫《うつ》けてしまった。……はっきり覚えていることといえば、その時の痙攣《しびれ》一つだけだ」
「俺といえどもそうなんだよ」ややあってこのようにいうものがあったが、それは燭台に遠く離れて胡坐《あぐら》をかいている武士であった。三日も四日も日の目を見ずに、寝部屋ばっかりに伏せっていて、異性の匂いばかりを嗜《たしな》んでいたため衰弱し切った若い男に、往々見られるそれのような、怪しい淫《みだら》な病的な、赤味を頬に持っていて、それがかえって美しい、――といったような武士であった。「俺といえどもそうなんだよ、痙攣《しび》れるような思い出ばかりが、頭の一所に残っているばかりで、そのほかのことは覚えていない。……しかし俺はどうしても求める! あの恍惚《うっとり》とした夢を求める!」
 ――間! しばらくは静かであった。燭台に丁字ができたと見える。燭台の燈火が細まって、部屋の中がおもむろに薄暗くなった。その薄暗い部屋の中で、絶望したような声が聞こえた。
「俺だけは出たい! この境地から出たい! そうして昔の俺になりたい!」胡坐をかいている武士のかたわらに、長々と身体をのばした姿で、横になっていた武士があったが、その武士が悲痛にそういったのであった。「四人の中では最初だった! 俺が一番最初だった! あの、痲痺《しびれ》と陶酔とを味わったのは!」ここでその武士は仰臥した。と、その富士型の秀でた額を、燭台の燈火が橙黄色に照らした。
「一人であるように願ったものだ! あの餌食《えじき》になるものが、この俺一人であるようにと! ……ところがそこへお前たちが来た! そのほか毎晩外来のものが幾人となくやって来た! どんなに俺は嫉妬《しっと》したか! どんなに俺は悩んだか! それこそ俺は発狂しそうだった! でも俺は待っていた! どうぞもう一度来るようにと! ああ、そうなのだよ、しかし今では諦めてしまった! 昔にかえりたい! この境地から出たい!」
 ――間! しばらくは静かであった。戸外で吹く風の音ばかりが聞こえる。しかし隣り部屋から女の声が聞こえた。
「……屏風へかけるがよいよ!」

隣りの部屋

 その声を聞くと四人の武士は、眼を見合わせてまたも笑った。
 その中の一人の武士がいった。
「屏風へかけるがよいよ、か、……うむとうとうそこまで行ったか」――で、じっと耳を澄ませた。
「俺にもそういうことがあった」もう一人の武士がややあっていった。「で、俺は帯を屏風の上へかけたものだ」ここでその武士は考えるようにしたが、「その時俺の献上の帯が、キューキューと鳴ったのを覚えている。そうしてあの縮緬《ちりめん》の帯が、先に枝垂《しだ》れた花のように、屏風の上にかけられてあって、なかば眩《くら》んでいた俺の瞳に、焼きついたのも覚えている」――この武士もじっと耳を澄ませた。しかし隣りの部屋からは、何の物音も聞こえなかった。
 仕切られているところの襖の桟《さん》の、隙間がかなりあいているので、隣りの部屋をのぞこうとしたら、十分のぞくことはできるのであった。いやいやのぞくことができるばかりではなくて、むしろそこからのぞかせようとして、意識して桟をあけてあるのだと、そう思われる節さえあった。
 こう一人の武士がいったのである。
「なぜ我々に見させようとするのか? なぜ我々に聞かせようとするのか」
 桟は黒く塗られていた。黒い二筋の縦の縞の中に、橙黄色の一筋の縞が、光をなして引かれていた。隣りの部屋の燈火の光が、桟の隙間からさしているのであろう。と一瞬間橙黄色の縞が、真紅の色にカッと燃えた。緋の縮緬でも横切ったのであろう。
「なぜだろう俺にはわからない」眉毛の濃い武士が肘枕をしたまま、こういって軽くその眼を閉じた。
「獣の匂いがしたのだからなあ」
「俺には古沼の匂いがしたよ。そうして大森林の匂いがしたよ」病的に怪しい赤味を頬に持っている武士がいった。「そうしてその匂いをかいだ時に、遠い太古の歌のようなものが聞こえた。あのお方の肌が歌ったのでもあろうよ?」――それから組んでいた胡坐をとくと、二本の足を畳の上へ這わせた。と、燭台の燈火がすぐに照らして、くるぶし[#「くるぶし」に傍点]のあたりからうねっている静脈を黒く浮き立たせた。
「俺は外来の男を羨む」つぶやくようにいったものがあった。富士型の秀でた額を持った、横様に寝ていた武士であったが、こういうとグルリと寝返りを打った。女の腰を想わせるような、ねばっこい[#「ねばっこい」に傍点]細いきゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]な腰が、それにつれて軟らかくうねったので、爬虫類でもうごめいたように見えた。
「彼らは一度で抛《ほう》り出されるのだ。死骸のようにグダグダにされて、裏木戸から外へ抛《ほう》り出されるのだ。が、彼らも一生涯、そのことは忘れられまい。そのため癈人になるだろう。とはいえ毎夜見聞きしなければならない、俺たちよりは幸福だろう」
 間! またも静かになった。しかし隣り部屋から女の声が聞こえた。
「誰よりもお前が気に入ったよ」
 どうやらこういった女の声は、若い美貌の武士たちを、驚きと絶望とへ陥入《おとしい》れたらしい。四人一度に寄り添ってしまった。でおのずから四人の姿は、燭台の燈火を中央にして、一種の円陣を形作った。眉毛の濃い武士の切れの長い眼は、いつもの倍ほどに見ひらかれているし、富士型の額を持った武士の、鬢の後《おく》れ毛は顫《ふる》えているし、端麗な鼻をした武士の頬は、いちじるしく痙攣を起こしているし、薄手の受け口めいた唇の武士は、ガチガチと奥歯を噛むようにした。と、富士型をした額を持った武士が、にわかにヨロヨロと立ち上がった。すると、腰から裾へかけて、燭台の燈火がからみ[#「からみ」に傍点]ついて、裾から出ている足の革足袋の、紫色を藤色に染めた。と、その武士はよろめくように歩いて、襖の前まで寄って行ったが、あたかも襖へ食いつくようにして、その襖の合わさり目から、隣りの部屋をのぞいて見た。

永遠の男性

 すると端麗な鼻を持った武士が、不安そうに声をかけた。
「貴殿ばかりは見てはいけない。よくないことが起こるだろう」すると受け口の武士もいった。
「そうだ、なるたけ見ないほうがいい。貴殿は一番苦しんでいる。だからなるたけ見ないほうがいい。……窒息して死ななければ、自分で自分を殺すようになろう」するともう一人の武士がいった。
「我々四人は仲間なのだ。一人欠けても寂しくなろう。なるたけ大事を取ってもらいたい! 貴殿見るのは止めたほうがいい」
 しかし富士型の額を持った武士は、隙見をすることをやめなかった。
「今、あのお方は頤を両手でささえておられる。蝮《まむし》の眼が若衆武士を狙っている」隙見をしながらそういった。
 四人の武士が集まって、燭台の燈火を取り巻いていたのが、富士型の額を持った武士が、一人だけ円陣から抜け出して、襖の面へくっついたので、円陣の一所へ空所《あき》ができてそこからさし出ている燈火の光が、襖のほうへ届いて行って、そこにくっついている例の武士の腰から踵までを光らせている。腰にたばさんでいる小刀の鐺が、生白く光って見えるのは、そこへ燭台の燈火が、止まっているがためであろう。
 と、その武士がうなされる[#「うなされる」に傍点]ようにいった。ずっとその先に若衆武士がいる……蒼白な顔! 食いしばった口! 若衆武士は半身を縮ませている! 狙われている蝶《ちょう》のようだ! あのお方の頸足が象牙の筒のようにのびた。象牙の玉を半分に割って、伏せたように滑らかで白い肩だ! 焔が二片畳の上を嘗めた! だんだん距離がせばまって来た。でも五尺はあるだろう。
 そういっている武士の後ろ姿を、三人の武士は不安そうに、凝視しながらささやき合った。
「昔へかえりたい! この境地から出たい! ……こう、あの男はいったではないか、その男が隣りの部屋を見ている。諦めから猛然と反対のほうへ行こう!」
「嫉妬のためにいたたまらずに、のがれようとしているあの男だ! それが隣り部屋を見ているのだ! 兇暴になろうぞ、血を見ることになろうぞ!」
「お聞き、あのお方の声が聞こえる」はたして声が聞こえて来た。
「こういうことはこれまでになかった! お前は妾には不思議に見える! 優しい顔や姿には似で、おごそかで清らかな心を持ってる。だから妾には好ましいのだよ。妾はぜひともその心を食べて、噛み砕いて呑んでしまいたい! お前は『永遠の男性』らしい。だから妾は食べてやりたい! そうしてお前を変えてやりたい!」
 女の声の絶えた時に、例の富士型の額を持った武士が、顫える声でいいつづけた。
「今、若衆武士が右手を上げた。だがあの眼は何といったらよいのだ! 悲しみの涙をたたえていて、怒りの焔を燃やしている。……だが背後へ引こうとしていながら、同じ所から動かない。とうとう距離は三尺ばかりになった」
 そういう武士の後ろ姿を、仲間の三人の美貌の武士たちは、恐怖しながら見守った。
「すぐにあの男は悶絶するぞ!」――その時女の声が笑った。

永遠の女性

 笑い声をまじえた女の声が、四人の美貌の武士たちのいるこなたの部屋へまで聞こえて来た。
「もがいても駄目なら忍耐《こら》えても駄目だよ。どうせはそこへ落ち込むんだから。みんなの男がそうであったように。でも暁方《あけがた》の鐘が鳴ったら、あるいはそうでなくなるかもしれない。とはいえ結局はのがれられないのだよ。夜は今夜だけではないのだから明日の夜もあれば明後日の夜もある。夜は永遠につづくのだよ。昼が永遠につづくように。……夜は女の領分なのだよ! 歯朶《しだ》の葉が人間の丈よりも高く、獣皮の天幕で女王様が、男を召《め》したころから! 夜になるとそのころの荒野の洞窟に、住居《すまい》をしていた占術家《うらない》の魔女が十三の髑髏《どくろ》の盃の中へ、いろいろさまざまの草や木や石や、生物から採ったお酒を盛って、妾の所へ来るのだよ。何で妾が飲まないことがあろう。飲むと妾は甦《よみがえ》るのだよ。呼吸に身体に心持ちに、太古の女王様が甦るのだよ。誰であろうと妾を止めることはできない。止めた人へは笑ってやる。するとその人はのがれてしまう。誰であろうと妾をさえぎることはできない。さえぎった人へは睨んでやる。するとその人は逃げてしまう。お父上であろうと母上であろうと、兄弟であろうと役人であろうと! だが妾はさえぎらないのだよ。どうして、そうなのか知らないのだよ。魔女が教えてくれただけだよ。『誰も彼もが持っているものをお前へ強くくれたばかりだ』と。『お前は永遠の女性《おんな》なのだから、永遠の男性《おとこ》を見付け出すまでは、そういうことをしてもよい』と。おいで! さあ、ここへおいで! なんだか妾には思われるよ! お前こそ妾の見付けていた魔女のいった永遠の男なのだと! おいで、さあここへおいで!」
 ここで女の声は絶えた。麻痺《まひ》されるような沈黙が来た。何がその次に起こったろうか?
「今、あのお方が飛びかかった! なんだ! ああ! 腰刀が抜かれた!」
 しかしその次にはその武士は、喜びと恐怖とで飛び上がって、襖から離れて畳の上へ倒れた。
「突いた! 股を! 自分の股を! とうとう忍耐《こらえ》た! 若衆武士は忍耐《こらえ》た!」
 何がその次に起こったであろうか? 四人の醜い老女たちの、控えている部屋へ行って見たならば、何が起こったか知ることができよう。
 四人の醜い老女たちは、その時一度に立ち上がった。というのは隣り部屋を仕切っている、襖が向こう側から蹴放されて、抜き身を握った山県小次郎が、股から下を血に染めて、よろめきながら出たからである。
 が、小次郎はすぐに倒れた。倒れながら小次郎は夢中のように、畳の上にひろげられていた、綴じ紙を片手で引っつかみ、股の一所へ押しあてた。流れ出る血汐をおさえたのである。
 そういう小次郎を見守っているのは、茫然とした四人の老女であったが、その老女たちの背後にあたって、すなわち蹴放された襖の奥の、隣りの部屋の敷居際にあたって、皓々《こうこう》とした発光体のような、純白な生物が佇立《ちょりつ》していた。これも小次郎を見守っている。
 洞然《どうぜん》と開かれていた小次郎の眼が、しだいしだいに細まって来た。と、睫毛が下眼瞼をおおうた。俄然身体が傾いた。で、小次郎は横へ倒れた。股のあたりが、だんだんと赤く染まって行く。綴じ紙が血汐を吸うからであった。しかも小次郎は綴じ紙を、握ったままで放そうとはしない。――で、部屋の中は陰惨として、限りない静寂に充たされていた。
 と、そういう静寂を破って、佐久間町の往来からわめく声が、ここの部屋まで届いて来た。
「お粂の姐ご、一大事だ! お屋敷の方々、大変でござんす! 代官松の一味の者が、多勢押し寄せて参ります!」
 それは金兵衛の声であった。

金兵衛の苦痛

 金兵衛が往来を走っていた。いやいや走っているのではなくて、這いまわってうごめいているのであった。その片側に神田川の、ゆるやかに流れる川を持ち、反対の側に家並みを持った、この佐久間町の往来には、例によって月光が敷き満ちていて、蒼白い明るさを保っていたが、行人の姿は見られなかった。で、うごめいている形といえば、金兵衛以外には一個もなかった。その金兵衛の姿と来ては、さながら襤褸《ぼろ》の塊りのようであった。髻《もとどり》がちぎれて髪が乱れて、顔へかかっているがために、金兵衛の顔はわからなかったが、時々一所が白く光った。犬の歯のような反歯《そっぱ》であった。
 地に突いている左右の手が肩までムキ出しに見えていて、脇の下から翼《つばさ》のような物が時々ひるがえって宙に泳ぐのは、両方の袖が半分ちぎれてブラブラになっているかららしい。今、金兵衛は先方へ躄《いざ》った。がその次には横へ倒れた。すると右の手が空へ向かって、棒のように突き出された。何かその手が握っている、抜き身を持っているはずであって抜き身なら月光に光らなければならない、ところが光ろうとはしなかった。何を握っているのだろう? 刀身の折れた柄ばかりを、依然抜き身であるかのように懸命に握っているのであった。体を起こすと躄《いざ》って進んだ。
「お粂の姐ご、一大事だ! お屋敷の方々、大変でござんす!」ここでまた金兵衛は横倒しになったが、起きると先へ躄って進んだ。「代官松の一味の者が、多勢押し寄せて参ります!」何を金兵衛はどうしたのだろう? 巻き奉書と綴じ紙とを、逃げて行った泉嘉門の手から奪い取ろうと追って行ったところを、嘉門と逢うことはできなかったが、その代わりに鴫丸と久しぶりに会い鴫丸の駄弁を聞いているうちに、いくばくかの時間を潰してしまった。で、鴫丸を嚇《おど》しつけて、抜き身を揮《ふる》って追い払って、金兵衛は嘉門に追い付こうと、なおも先のほうへ走って行ったところ、代官町へいつか出た。
 と、目明しの代官松が、乾児や兄弟分を引き連れて、水戸様石置き場の空屋敷から、自分の家へ帰るのと逢った。ギョッとはしたがさすがは金兵衛で、そのまま引っ返して逃げようとはしないで、こっそりと体を忍ばせて、代官松の住居へ近寄り、彼らのようすをうかがったところ、水戸様石置き場の空屋敷で、紋也やお粂を取り逃がしたことに、怒りをなした代官松が、兇暴となり自暴自棄となって、衆をひきいて佐久間町の、儒者ふうの老人の籠っている、屋敷に乱入をした上で、儒者ふうの老人を退治てしまえと、荒々しく命じている声を聞き、それの用意に取りかかった、兄弟分や乾児の行動を、見届けて金兵衛は胆をつぶした。そこで素早く走り帰って、この一大事を屋敷の人々へ、至急注進しようとした。
 で、走って来たのであった。しかし金兵衛は傷を負ってはいたし、おびただしく疲労をしていたので、佐久間町の通りまで来たころには、走ろうにも走ることができなくなった。そこで這ったり躄《いざ》ったり、うごめいたりして二尺三尺と、儒者ふうの老人の籠っている、屋敷のほうへ進んでいるのであった。辛うじて躄って進むばかりでなく喚きの声を上げるのさえ、今はほとんど絶え絶えであった。それでも四軒並んでいる、空家の前を通り抜けて、目的の屋敷の土塀近くまで来た。それだのに眼の前に見えている、大門まで一気に行けないのは、疲労と衰弱とが極端に、金兵衛を虐《さいな》んでいるからであろう。
「来るのだ! 姐ご! 大勢来るのだ! 今度こそあぶない! がむしゃら[#「がむしゃら」に傍点]になってる! 代官松めががむしゃら[#「がむしゃら」に傍点]になってる! ……俺《おい》らだ! 金兵衛だ! 誰か来てくれ! ……苦しい! ナニ糞《くそ》! だが苦しい! 水だ! 水をくれ! 舌がつるんだ……足がつるんだ! 歩かれねえ! ……うッ、うッ、うッ」といったかと思うと、ようやく大門の前まで行き、手を伸ばして潜り戸に触れたが、全く気絶をしたと見えて、伸ばした両手の腕の上へ、額を押しあてると動かなくなった。と、この時往来の一方の金兵衛がたどって来た方角から、黒い雲でも湧き出したかのように、一群の人数が現われ出て、こちらをさして寄せて来た。代官松の一味であった。しかしこの時潜り戸の内側で、二人の女の話し声がした。
「お粂様、どちらへ参られます?」
「はい、妾、金兵衛殿を探しに……鈴江様、どちらへ参られます?」
「はい、妾、小次郎を探しに」――で、潜り戸をあける音がしたが……。

案じる鈴江

 お粂と鈴江との話し声が、潜り戸の内側から聞こえて来て、潜り戸をあける音がしたが、そのまま潜り戸があけられて、気絶をしている金兵衛や、はるかの往来に姿を現わした代官松の一味の者を、お粂と鈴江とが認めたならば、事件は大波瀾となったことであろう。
 が、事件を少しく後へ戻して、儒者ふうの老人の籠っているこの宏大な屋敷の裏の、月の光のさし込んでいる庭の一所へ鈴江を置いてその心持ちを探ることにしよう。
 弟の小次郎の安否を気づかい、五十嵐駒雄を走らせて、神田雉子町の自分の家の、ようすを見させにやったところ、家には変わったこともなく、小次郎の消息は不明であると、駒雄が報告を持って来たのは、鈴江が兄の紋也の寝ているここの屋敷の二階の部屋に、お粂と話していた時であったが、詳しくようすを訊ねようとしてその部屋を出て駒雄と一緒に、鈴江は裏庭へ出て行った。しかし、そうやって裏庭へ出て、駒雄に詳しく訊ねたが詳しく知ることはできなかった。というのはきわめて※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]卒《そうそつ》の間に、駒雄は雉子町の紋也の家を見まわして調べたに過ぎないのであるから。で、代官松の一味の者が襲っては来なかったということと、小次郎がいなかったということと二つ以外にはいうことはなかった。そこで鈴江は駒雄へ頼んだ。
「どうぞ雉子町の私たちの家で、留守居していただきとう存じます。そうして小次郎が帰りましたならば、今夜の事情をお話しくだされて、ここのお屋敷へあなたともども、ぜひともおいでくださいますよう」――そこで駒雄は意を体して、雉子町の紋也の家へ行き、鈴江ばかりが裏庭へ残った。裏庭の土塀の内側に添って、木立ちが深く茂っていたが、それの一本へ背をもたせかけて、鈴江は考えに打ち沈んだ。うな[#「うな」に傍点]だれた顔は暗かったが、頸足と肩とが木立ちを通してさしている月の光にあたって、水にでも濡れているかのように、蒼白い色におぼめいて[#「おぼめいて」に傍点]見え、裾からわずかばかりはみ[#「はみ」に傍点]出している足の爪先がわけ[#「わけ」に傍点]ても白く見えた。月光がたまっているからであろう。
「北条美作の印籠で、妾があの時にすりましたと、お粂様がおっしゃって渡してくだされたが、抱き茗荷《みょうが》の定紋が、金|蒔絵《まきえ》をなして付いている。美作の印籠に相違あるまい」
 こう鈴江がつぶやきながら、眼の前へ差し出した掌《てのひら》の上に、一つの印籠がのっていて、月光が灰色にけぶらせていた。
 さっき方佐久間町の入り口で、美作と兵馬とを相手にして、紋也とお粂とは切り合っていたが、そこへ鈴江と駒雄とが、駆け付けて行って助勢をした。で、美作と兵馬とは、驚いて一散に走って逃げた。が、その時佐久間町のほうから、鈴江と駒雄とを尾行《つ》けて来た、友吉の一団が走って来て、美作と兵馬とへ味方をした。そこで美作と兵馬とは、盛り返して来て引っ返して、気絶をしている紋也をはじめ、お粂や鈴江や駒雄などを、一挙に討って取ろうとした。が、成功しなかった。儒者ふうの老人が籠っている宏大な屋敷の潜りの戸があいて、騒がしい往来のようすを見るべく、武士たちが現われて来たからである。この武士たちにかかられては、勝ち目のあろうはずはなかった。で美作をはじめとして、兵馬も友吉の一団も、そのまま逃げて姿を隠した、その混乱の間を縫ってお粂が印籠をすったのである。
 今、月光をためている、鈴江の開いた掌の上に、静もりのっている印籠こそは、その時にすった印籠なのであった。
「印籠も印籠ではあるけれども、佐久間町の入り口の往来の上に捨てられてあった片袖が、妾にはどうにも心配でならない」こう鈴江がつぶやいて、印籠をのせていない一方の手に、かたく握っていた男物の片袖を月にすかすようにして、鈴江は額の上へかざした。「妾が小次郎へ縫ってあげた、平《ふだん》着の衣裳の片袖なのだからねえ」――で、鈴江は不安そうに、いつまでもいつまでも片袖をみつめた。
 その片袖にあたって[#「あたって」に傍点]いた、これも蒼白い月の光の、一所がチラチラと乱れたのは、夜風が木立ちの枝葉を揺すって、月の光のさし込んでいた、隙間穴を崩したからであろう。
「あの佐久間町の入り口で、小次郎が誰かに何らかの害を、受けたように思われて心配でならない」――で、また、鈴江は考え込んだ。

片袖

 美作と兵馬と友吉との勢が、逃げて姿を隠したので、鈴江や駒雄は安堵して、気絶をして地上に倒れている、紋也をまずもって抱き上げて、微傷と疲労とで気落ちをしている、お粂をも助けて一同揃って、儒者ふうの老人の籠っている、屋敷へ向かって引き上げかけた時、ふと鈴江は往来の上に、男衣裳の片袖らしいものが、ふみにじられて[#「ふみにじられて」に傍点]いるのを見た。で、思わず取り上げて見た。そうしてそれが弟の小次郎の、衣裳の片袖にまぎれ[#「まぎれ」に傍点]ないことに、思い至って愕然とした。で、感じられたことといえば、弟の小次郎がこの界隈を、歩いていたということと、自分で袖をもぐ[#「もぐ」に傍点]はずがないので、誰かにもがれ[#「もがれ」に傍点]たに相違がなく片袖をもがれたとあるからには、何者かと小次郎が争って、もがれ[#「もがれ」に傍点]たものに相違がない!
 誰と何のために争ったのだろう? その結果小次郎はどうしたであろう? 大怪我などをしなかったであろうか? 惨殺などされはしなかったであろうか? ――とそういうことであった。二度までも駒雄に依頼をして、自分の家のようすを見させ、小次郎の安否を確かめさせたのは、そういう不安と心配とが、鈴江の心にあったからであった。
 無心に木立ちから離れたが、考えに深く沈みながら、鈴江は庭を歩きまわった。木立ちの作っている暗い影から、今や鈴江は外へ出た。女としては肥え過ぎるほどにも肥えていた頬や頤のあたりが、にわかに痩せたように見受けられたのは月の光の加減ばかりでもあるまい。
「お粂様のお話による時には、兄上やお粂様が走って来て、美作や兵馬とぶつかった[#「ぶつかった」に傍点]時、いやその前から北条美作は、抜き身を引っ下げていたそうである。ではその前に北条美作には、誰かをあの辺で切ったのかもしれない」
 月の光を体に浴びて、細身に見える鈴江の姿が、不意に一方へよろめいたのは、不吉の予感に顫えたからであろう。
「小次郎の片袖があそこ[#「あそこ」に傍点]にあって美作が抜き身をひっ下げながら、あそこ[#「あそこ」に傍点]を歩いていたのであるから、あそこで小次郎を虐《さいな》んで、片袖をもぐほどにも虐んで、そのあげく[#「あげく」に傍点]に切って殺したものと、こう考えれば考えられる」――で、また鈴江は一方へよろけた。
「恐ろしいことだ! 恐ろしいことだ!」
 木立ちと反対の方角には、幾棟かに別れて建っている、宏大な屋敷の建物が、黒くおごそかに見えていたが、突き出されてできている一軒の部屋から華やかな燈火の橙黄色《だいだいいろ》の光が、雨戸を閉ててない障子一面に、栄《は》えて鈴江の眼に映《うつ》った。講義の声がまれまれに聞こえる。
 その部屋とわずかな距離をおいて、これも突き出された部屋があったが、内の燈火が暗いと見えて、障子は華やかでも明るくもなかった。その部屋になかば[#「なかば」に傍点]無意識のままに、寝ているはずの紋也のことを、チラリと鈴江は考えたが、お粂様が看護《みとり》をしていてくださる、だから心配はなさそうである。それに兄上は時さえ経てば、きっと意識を取り返し、そうして意識をさえ取り返したならば、後は養生一つだけで、昔通りに健康になられる――と、確信されているので、鈴江にはたいした不安ではなかった。小次郎の安危へ心を移した。
「家を出かけて行く時から、小次郎のようすは寂しそうだったよ。兄上や妾の行動について、優しい弱々しい清浄な、小次郎らしい心持ちから、いろいろと心配をしてくれたが、心配をされた私たちは、危難を受けは受けたものの、こうやって二人ながら生きていて、同じこの屋敷におちついているのに、心配をしてくれた小次郎のほうが、行方の知れない身の上となった。……ひょっとかするとあの時の言葉が、別れの言葉ではなかったかしら?」
 一軒建物が建っていて、その影が地上に落ちていた。その影の中へ一時はいって、姿を黒めて見えなくなったが、その影からやがて現われて、鈴江の姿が月光に照らされ、顔が明るく見えた時、眼が大きく見開かれた。
「あれは!」と声に出して鈴江はいった。「異様だった駕籠の行列の中に、釣るされていた若衆武士は!」――で、鈴江は棒立ちになった。

空家へ行こう

 眼を大きく見開いて、鈴江が棒立ちに立ったのは、思いあたることがあったからであった。紋也の危難を救おうとして、雉子町の自分の家から出て、五十嵐駒雄を伴って佐久間町の二丁目まで来た時であった。緑色の衣裳を一様に着た、四人の若い侍と緑色の被衣《かつぎ》を一様にかぶった、四人の老女たちに囲繞されて、黒塗り蒔絵《まきえ》らしい女駕籠が一挺行く手から現われて来て、四軒並んでいた空家の一軒へ、忽然としてはいってしまったが、その時鈴江は二人の侍が、死骸らしい若衆武士の肩と足とを、釣るすがようにささえ持ってやはり空家の一軒へ、はいり込んだのを見て取った。
 その時は意外であり、あわただしい場合であったので、その若衆武士の何者であるかに思い及ぶことができなくてただ何となく若衆武士に、見覚えがあるというように思いなされたばかりであった。
「どうも妾にはあの若衆武士が、小次郎に似ているように思われるよ」
 今になって鈴江にはそう思われて来た。
「とはいえあのような得体の知れない、気味の悪い行列の人たちに、小次郎が連れられて行くはずはない」
 鈴江は思案にふけりながら、庭をそろそろと歩き出した。
 広大な武家屋敷の庭なのであるから、築山があったり泉水があったり、亭があったり石橋があったり、風雅の構えを持っているのが当然でなければならないのに、ここの庭にはそういったような構えらしいものは見られなかった。一様に平坦になら[#「なら」に傍点]されていた。何者か敵に攻め込まれた時、駆け引き自在であろうことを希望《のぞ》んで、昔はそうした風雅な構えをたしかに構えてはいたけれども、このごろになって手を入れて、ならしたようなところがあった。
 で、鈴江は歩き出したが、何物にもさえぎられることなく、建物の陰影《かげ》へはいった時と、木立ちの陰影《かげ》へはいった時以外は月光に照らされて明らかであった。今は月光に背を向けているので、顔と爪先とが暗く見えた。
「でも」と鈴江は思案した。「釣るされて行った若衆武士が、とにかく小次郎に似ていたのではあるし、小次郎に似た武士を連れ込んだ家が、このお屋敷からほんの手近のすぐこの先にあるのであるから、こっそりその家へ忍び込んで確かめて見る必要はどうしてもあるよ」
 しかし鈴江には躊躇された。
「小気味の悪い行列だったよ。その行列がはいり込んだのだよ。小気味の悪い事件などが、あの家の中で起こっているかもしれない。忍び込むのは妾にはいやだ」
 後へ引っ返して彷徨《さまよ》った。で、月光が正面を照らして、今はかえって細めている愁《うれい》を持った眼のあたりを、睫毛の見えるまでに明るめた。「でも」と鈴江はさらに思った。「そういう小気味の悪い行列が、事実あの家へ小次郎を連れて、はいり込んだのだとあってみればそれこそ打ち捨てておかれない」で、鈴江は引っ返した。
「探すあてのない小次郎なのだよ。少しでも小次郎に似通っている、そういう武士が手近の家に連れ込まれているとあるからには、何を差しおいても探さなければならない」ここに鈴江の考えがのびた。
「とはいえあの時の若衆武士は、死骸そっくりのようすをしていたよ。あれが小次郎であったならば? 小次郎の死骸であったならば?」
 ふとこの一事に思いが到って、鈴江は肌に粟《あわ》を生じた。
 持っていた小次郎の片袖と美作の印籠とを夢中のように懐中へ押し入れると褄《つま》を取り上げ、建物の一面に添いながら、鈴江は表門のほうへ走り出した。こうして裏庭から鈴江の姿が、消えて見えなくなった時、玄関側へ姿が現われ、その玄関側から鈴江の姿が消えて見えなくなった時、潜り戸の内側へ現われた。
 そうしてそこで金兵衛を探しに紋也の寝ている部屋から出て来た、お粂とバッタリ顔を合わせた。で、二人はいったのである。
「お粂様、どちらへ参られます?」
「はい、妾、金兵衛殿を探しに、……鈴江様、どちらへ参られます?」「はい、妾、小次郎を探しに」――で、潜り戸をあけかけた。

薩、長、土、肥、佐賀、水戸、越前

 お粂と鈴江との二人の娘が、潜りの内側で話し合って、それから潜りをあけかけたが、そのまま潜りがあけられて、気絶をしている金兵衛の姿や、はるかの往来に姿を現わした、代官松の一味の者を、そのお粂と鈴江とが認めたならば、事件は大波瀾となったことであろう。
 が、事件をまた後へ戻して、山県紋也の身の上について、調べを届かせることにしよう。威厳のある神々しい老人の声で、講義をしている部屋の襖を引きあけた時に山県紋也は、いかにも驚いたというように、棒立ちになって胸をそらせたが、これは予想と全然反した光景を眼の前に見たからではなくて、こうもあろうかと想像をしていた、そういう光景を見た上に、空想することさえできなかった、珍しい物を見たからであった。
 部屋の大きさは五十畳敷もあろうか、武家の屋敷の部屋としては、尋常をきわめた構造であったが、一方の壁ばかりは奇をきわめていた。というのは天井へまで届くほどにも、高い幾層かの黒塗りの棚が壁をおおうて立てられてあって、その層々とした棚の上に、無数の書籍をはじめとして、大砲の模型、小銃の模型、地雷の模型、巨大な地球儀、城砦《じょうさい》の模型、軍船の模型、洋刀の模型、背嚢《はいのう》の模型、馬具の模型、測量器、靴や軍帽や喇叭《ラッパ》や軍鼓や、洋式軍服や携帯テントや望遠鏡というようなものが、整然として置かれてあり、その大棚を背後に背負って、二十人あまりのりっぱな武士が、袴羽織を折り目正しく着て、端然としてすわっていた。
 いやいや端然としてすわっているのはそれら二十人余の武士ばかりではなくて、部屋の中央と思われる辺にも、七人の武士が端坐していた。いやいや端然としてすわっているのは、決してそれらの武士ばかりではなくて、壮麗な床の間を背後にして、七人の武士と二十人余の武士と、そうして異国ふうの大棚とに、向かい合いながら部屋の奥に溜塗《ためぬ》りの小型の見台を据えて、端坐している儒者ふうの、神々しいような老武士があった。
 身長が人並みより高いのと、総髪に切り下げて両肩へ垂らしたたっぷり[#「たっぷり」に傍点]とある髪が白いのとが人の眼を引くに十分であったが、青年のように血色のよい顔肌、総《ふさ》のように厚い漆黒の眉毛、山根のあたりから高く盛り上がって、準頭《じゅんとう》が豊かに円《まろか》な鼻、左右の隅がやや上にあがり、形の大きい厚手の口等は、貴人の相を想わせて、同じく人の眼を引くに足りた。しかし最も特色的なのは、黒白の色がハッキリとしていて、瞳に人を射る光があり、眼頭細く下に傾き、眼尻が上がってこれも細く、上の瞼は尋常であるが、下の瞼は弧形をなし、白味少なく黒味の多い、世にいうところの君子眼であろう。人を射る眼光は鋭いけれども、征服的のところはなくて、懐《なつか》し味さえ持っていた。見台を前に控えているからには、講義をしていたものと見てよく、紋也の耳にした講義の声はこの老儒者の唇から発せられた声と見てよかろう。黒羽二重の紋服の上に、同じ紋付の羽織をはおり、白|綸子《りんず》の下着を襟からのぞかせ、白い絹の太紐を――それは羽織の紐なのであるが、胸もと高く結んで垂れ、折り目の高い袴の膝に、両手の掌《てのひら》を開いてのせ、正面に顔を向けていた。
 部屋の四隅に大燭台があって、橙黄色《だいだいいろ》の華やかな光を、互いに部屋の中に交叉させて、明るさと暖かさとを充たせていたが、老儒者の左側にも燭台があって、老儒者の姿とその周囲とを、とりわけ明るく明るめていた。懐紙が開いたまま座の一所にあった。講義を聞いていた武士たちの一人が、ひそかに取り出して使ったが、講義を聞くのに気を取られて、懐中へ入れるのを忘れていたのであろう。青々とした畳の上に、純白の懐紙が置いてあるのであるから、あるだけの燭台の燈火の光が、それへ吸収されたかのように、いやが上にも白く見えた。と、その懐紙がパッとめくれて、二、三葉が部屋の中を歩いた。
 紋也が襖をあけたので、あけられた隙から風が吹き込み、そのように懐紙を歩かせたのであろう。と、いっせいに部屋の武士たちは、紋也のほうへ顔を向けた。
「薩、長、土、肥に水戸に越前か!」とたんに紋也が呻《うめ》くようにいった。「佐賀藩の重臣もおいでなさる!」

七ヵ国の七権臣

「薩、長、土、肥に水戸に越前か! 佐賀藩の重臣もおいでになる!」こう紋也の呻いたのには、もっともの理由があるのであった。紋也が襖をあけた瞬間に、紋也の眼に見えたものといえば、例の異国ふうの大棚と、神々しい儒者ふうの老武士とすわっている二十人余の武士と、これも端然とすわっている部屋の中央の七人の武士と、大きな五基の燭台と――そういうもののいっさいであって、それも別々にハッキリと、見えて来たのでは決してなくて、そういうものが一つに塊《かた》まって一度に見えて来たのであった。しかるに紋也がそういうようにして部屋の襖をあけたがために、部屋の人たちは驚いたように、揃っていっせいに紋也のほうを見た。と、紋也の引きあけた襖が、その部屋の中央にあたっている襖の一枚であったがために、おのずからその部屋の中央の辺に並んでいる七人の武士の顔を、正視しなければならないことになった。で、紋也は正視した、するとどうだろう、その七人の武士に紋也は見覚えがあるではないか。
 すなわち一人は薩摩《さつま》の大領、島津|修理《しゅり》太夫のお側用人、猪飼市之進《いかいいちのしん》その人であり、もう一人は毛利|大膳太夫《だいぜんだゆう》の家老、宍戸備前《ししどびぜん》その人であり、もう一人は山内土佐守の家老、桐間蔵人《きりまくらんど》その人であり、もう一人は鍋島《なべしま》家の重臣の、諫早益千代《いさはやますちよ》その人であり、もう一人は松平三河守の智謀、永見文庫介《ながみぶんこのすけ》その人であり、もう一人は水戸家の若年寄、渡辺半蔵その人なのであった。そうしてこれらの人々は、日ごろから紋也が接近しようとして苦心して手蔓《てづる》を求めていた相手で、これらの人々と懇親となり、これらの人々へ己《おの》が思想を、吐露《とろ》したあげくにこれらの人々が、その思想に共鳴をしてくれたならば、主家を動かすことさえできる。そういう素晴らしい大大名の、威権|嚇々《かくかく》たる重臣方なのであったが、ところがそういう重臣方が、さもつつましく膝を揃えて眼の前に端坐しているのであった。紋也が呻《うめ》いたのは当然といえよう。
 さてその七人をはじめとして、正面の儒者ふうの老武士も、二十人余の武士たちも、そうやっていっせいに紋也のほうを向いたが、これはなんということであろう! 叫びの声も立てなければ、咎《とが》め立てする声も立てず、ましてや立ち上がって来る者もなく、寂然と眺めているばかりであった。で、紋也も立ったままでいた。その紋也はどうかというに、髪は乱れて顔へかかり顔は血の気を失って、葱《ねぎ》の茎のように蒼白く、体中を白布で捲き立てていて、しかも刀を杖ついていた。真っ向から部屋の中の大燭台の明るい燈火を浴びたがために、落ちくぼんだ眼窩の底のほうで、ギラギラと輝いている血走った眼の、その血走りがいよいよよく見え、意外の光景に接したがために、アングリとあけた口の中の、舌の色さえ見えるほどであって、そのためにいよいよ紋也の姿は、すさまじく恐ろしく物騒に見えた。で、どのように沈着《おちつい》た人でも、この紋也の姿を眼に入れたならば、動揺しないではいられないであろう。にもかかわらず部屋の中にいる、二十人余の人たちは、動じようとはしないのであった。
 このことが今度は紋也の心へ、いわれぬ不思議を産み出したようであった。七人の武士たちから眼を放すと、見台を前に控えながら、床の間に近く端坐している老儒者のほうへ視線を送った。これは当然のことであろう。紋也が見てもって重要人物としている七人の有名な武士たちをはじめ、二十人余の武士たちを、眼の前に置いて悠々然と、しかも威厳と権威とをもって教えるがよう講義をしている、そういう老儒者は紋也にとっては、驚異でなければならないのであるから。
「どういうご身分のお方なのであろう?」で、老儒者をつくづくと見た。
 と、その威厳のある老儒者であるが、右の手を胸へ軽く上げたかと思うと、ホトホトと見台の縁《ふち》を打った。諸人の注意を呼んだのである。
「力ある大国の大名を、打って一|丸《がん》となし、その連合の大勢力をもって、尊王|抑覇《よくは》の大業を企《くわだ》つべきをあえてなさず、ただに民間市井の衆に、説を説《と》いて事を図ろうとなされた山県大弐殿と藤井右門殿との、行ない方は率直に申せば、遺憾ながら少しく軽率でござった」――今は紋也から眼を放して、ひたすら老儒者をみつめている、部屋中の武士たちに向かいながら老儒者の説き出した言葉といえば実にこのような言葉であった。

忠義の本道

「忠義の道は一筋でござる!」突然に老儒者の講義の方角が、この一句によって一変した。
「今まで主として講じましたは、帝に仕え奉る、庶民の具体的の方法でござって、京師方の公卿や殿中人を、標準といたしたものでござるが、ただちに関東の武家方にも、あてはまる[#「あてはまる」に傍点]べき方法でござる、いやいや武家方ばかりでなく、浜に塩を焼く海人乙女《あまおとめ》にも、山に木を伐《き》る山賤《やまがつ》にも、あてはまるべき方法でござる。で、奉公心得の件は、以上で大略尽くしましたるはず、しからば説を一転して、忠義の道のいかなるものかの本道について説くことにしましょう」
 老儒者の顔が一段と輝き、頬の赤味が色を増し、眼の光が鋭さを増し両肩に波を打っていた切り下げた総髪の髪の先が、白い泡でも湧いたかのように、その肩の上で湧き立ったが、これは老儒者の精神が、緊張したがためであろう。
 と、おごそかな声が響いた。
「一目瞭然のことであり、一句万世に通ずべき、簡単にしてしかも揺るがぬ、一大真理でござるによって、某《それがし》、くどう[#「くどう」に傍点]は説きませぬ。一言をもって申し上げまする。ゆえに方々におかれましても、十分にお聞きくだされた上、日夜|反覆《はんぷく》熟慮して、簡単の言葉の奥にひそむ、深くして広く鋭くして正しい、真理について思案をめぐらされ、言葉の意味の真核を、ムズと握って放さざるとともに、それを実行に現わすことによって、帝の尊厳仁慈《そんげんじんじ》の大御心に、専心|帰依《きえ》をおなしくだされ。同時におのおのの心と肉体とを、健《すこや》かに清々《すがすが》しくお保ちくだされ! 一言とはなんぞや! 一言とはなんぞや!」
 ――と、この時老儒者の横手の、燭台の燈火が鳥の翼《はね》にでも、あおられたかのようにヒラヒラと、焔を一方へ傾《かし》がせたが、これは老儒者が気概の充ちたままに、左右の腕を高く上げて、それを振り下ろして見台の縁を、打ってそうしてグッとつかんで、前こごみに体を先方へのばして、正面につつましく端坐している、多くの武士をみつめるようにした時、両方の袖がひるがえって、風を起こして燭台の燈火を、一あおりあおったがためであった。
「いわく!」と老儒者は前こごみにしていた、体の半分を後へ引くと、改めてグッとすわり直し、恭謙《きょうけん》そのものを形に現わしたならば、こうもあろうかと思われるような、――そういう恭謙な態度となったが「いわく!」ともう一度言葉をなぞっ[#「なぞっ」に傍点]た。
「まことに日の本の実の姿と申せば、皇位に即して主権存し、皇統に即して皇位存し、連綿《れんめん》として二千幾百年、不純の物を一|毫《ごう》もまじえず、今日に及んだものでござって、かくのごときは世界万国、いずこにも見られざる国の姿でござって、尊《たっと》むべく崇《あが》むべく誇るべき、真個奇蹟的の事実でござる。方々!」と老儒者は首を突き出した。が、その首を後へ引くと、再び恭謙の態を作ったが「ああ諸人が究極において、持ちたきものは『純粋性』でござる! もろもろの思想《おもい》、もろもろの学、さまざまの生活《くらし》、無数の経験! 学び、考え、触れ、行なうの、究極の目的はそれ一つでござる。しかも悲しいかな諸人にあっては、学び、考え、触れ、行なう――さよう行なうことによって、いよいよ純粋性に遠ざかり、混迷の度を強めてござる! かるがゆえにあえて某《それがし》は申す! 我らには唯一に純粋性の、動かぬ大柱の帝がおわす! 尊み、崇《あが》め、誇り、仕えよと! 結果はいかに? 明らかでござる! 上は帝の徳を増し、国を盛んにし民を富ませ、下は仕うる個々の人々の心を統一純粋に帰せしめ、和楽内にあり平和四周にあり、幸福と安心との殿堂に、住居《すまい》することができるでござろう! よろしゅうござるかな! よろしゅうござるかな! これこそ忠義の本道でござる!」
 ここで老儒者は言葉を切って、端坐をしている武士たちを見たが、にわかにその眼を遠くへ走らせると、異国の武具の精巧の模型を、置き並べてある正面の、大棚へ瞳を据えるようにした。と、優しい声でいった。
「よく集めたのう、見事なものじゃ! ……大業をとげるには進んだ武器を、こう集めるのが本当でござる」――いいいい視線を返したが、紋也に向かって声をかけた。

やはりあなた様には

「山県紋也殿おすわりなさるがよろしい。だいぶ衰弱をいたしているようでござる。しかし衰弱を致しておられても、そのようにここまで来られるようでござれば、まずまず大丈夫でござりましょう。お粂殿に詳しく承わってござる、水戸様石置き場空屋敷とやらで、随分ひどい[#「ひどい」に傍点]目に逢われましたそうで。がそれとても貴殿のお父上や、藤井右門殿の遭遇なされた、悪い運命に比べられては、それこそ数にもはいりますまい。……とはいえ大変お気の毒でござった。しかしこの際申し上げる、今後はあのような下々の場所などへは、あまり繁々《しげしげ》と参られぬがよろしい」ここまでいって来て、老儒者は不意に言葉を切った。
 それまで刀を杖について、それにすがってたたずんでいた、紋也がヒョロヒョロと座敷の中へよろめきながらはいって来たからであった。その姿のすさまじいことは! 顔色といえば蒼白であり、眼といえば玉のようにむき[#「むき」に傍点]出され、口といえば椀のように開かれて、上の前歯が唇から洩れ喰《くら》いつきそうにもけわしく見える。そういう顔をバッとおおうて簾《すだれ》のようにかかっているのは、髷のない乱れた髪の毛であって、歩むにつれてなびくように揺れる。はだけた襟から見えているのは胸に巻いた痛々しい白布であり、崩れた裾から見えているのは、これも脛を巻いた痛々しい、少し血のにじんでいる白布であった。
 畳の数にして十畳あまり、それでも前へ進んだであろうか、ついていた刀をだる[#「だる」に傍点]そうにあげると、グーッと前へ差し出して、左の手で鞘を上向きに握り、右の手に柄の頭を握り、紋也はその時足を止めた。玉のようにむき出された血走った眼の、なんと鋭く老儒者の顔を睨みつづけていることか! と、また二、三歩前へ進んだ。老儒者を切ろうとでもするのであろうか? もしもそうならば部屋の中に端坐をしている二十人余の、武士たちがいっせいに立ち上がってさえぎらなければならないではないか。武士たちは寂然と静まっていた。
 と、また紋也は二、三歩進んだ。なぜ武士たちはさえぎらないのであろう?
 紋也の顔の表情に、殺気らしいものが一抹もなく、驚きの表情ばかりがあるからであった。すなわち玉のようにむき出された眼も、椀のようにワングリと開かれた口も、驚きの表情にほかならないのであった。
 不意に部屋の中を明るめていた橙黄色《だいだいいろ》の燭台の燈火が、まばたき[#「まばたき」に傍点]をしたように見てとれたが、紋也が投げ出した刀の鞘が、燈火をはねたに過ぎなかった。投げ出した刀が音を立てて落ちて、のびたように畳の上へおちついた時、その横に膝を突き手を揃えて、かしこまっている武士があった。紋也以外の誰であるものか。
「……やはり……あなた様におかれましては……」胸が苦しく息づきかねたか、こういって来て紋也は絶句した。が、つつましく後をつづけた。
「……父より詳しく承わりました。……ご容貌なり……お姿なり……」また紋也は絶句したが、その代わりにスルスルと膝を進めた。
「たしかあなた様におかれましては……三宅の島でご逝去なされた、大先生に相違ござりませぬ! しかし……どうして……あなた様が……不思議でござります! 不思議でござります!」
 そういった紋也の言葉に答えて、老儒者は何かいおうとしたらしく、見台から躯《からだ》をのり出すようにしたが、にわかに躯を元の位置に直すと、耳傾けるように首を傾けた。
 屋敷の門のある方角から、お粂と鈴江との叫ぶ声が、甲《かん》高に聞こえて来たからであった。
「お屋敷の方々ご用心あそばせ! 代官松の一味の者が!」
 つづいて潜り戸へ錠をおろす音が、かなりあわただしく響いて聞こえ、すぐに玄関から屋敷の中へ、駆け込んで来る足の音がしたが、金兵衛らしい男の声で、弱々しく叫ぶのが聞こえて来た。「自暴自棄《やけ》になってるからあぶないんだ! 乱入して来るぜ! 思慮分別なく! ……美作も兵馬もまじっているのだ!」

簡単なカラクリ

 この物語も後数回で、大団円とすることにしよう。
 お粂と鈴江と金兵衛とが、北条美作や桃ノ井兵馬や、代官松の一味の者が、襲って来るぞと叫んだ直後は、ここの宏大な屋敷の中にあるいちじるしい変化が起こった。
 第一は屋敷内のあらゆる燈火が一度に消えたことであり、第二は屋敷の土塀の内側に、生い繁っていた立ち木の枝葉が、大暴風雨にでも襲われたように、気味悪く揺すれたことであった。
 で、襲って来た代官松や、美作や兵馬の輩《ともがら》は、しばらくの間気を飲まれて、乗り込んで行くことができなかった。
 それにしても美作というような身分の重い権臣が、代官松というような、目明しなどの中にまじって、軽率に襲って来たのであろう?
 いやいや襲って来たのではなくて、代官松をして襲わせて、ようすを見ようとしたのであった。
 それにしても美作ともあろう者が、代官松の家などに、どうしてこの時までいたのであろう?
 佐久間町の入り口の往来で美作はさんざんな目にあった。で、体なども疲労した。それで兵馬がこういって進めた。
「代官町の松吉の家で、しばらくご休息なさりませ」と。
 で美作は休息した。そこへ続々と引き揚げて来たのが、代官松の一味であった。で、襲わせることにした。
「大物の正体を見きわめてやろう、後難があったらあった時のことだ。なんとか始末をすることができよう」
 権臣だという自負もあり、さんざんの目に合わされた、うっ[#「うっ」に傍点]憤《ぷん》もあったところから、美作は決行したのであった。
 屋敷を襲ったとはいうものの、市中ではあり屋敷そのものが、旗本の持ち物であったので、かん[#「かん」に傍点][#「かん[#「かん」に傍点]」は底本では「かん[#「ん」に傍点]」]声をあげたり門を破ったりして、まさかに乱入はできなかった。なるたけ人目に立たないように、屋敷の周囲を取り巻いて、しばらくのあいだ見守っていた。
 そのうちに揺れていた木々もしずまり、ざわざわとなんとなく騒がしかった屋敷の中が、しずまったので美作は傍にいる兵馬へいった。
「松吉を屋敷へいれてみろ」
 兵馬は松吉へ意を伝えた。
 で、代官松の松吉は、数人の子分を従えて、土塀を越してはいって行った。
 相当の時間がたったようであった。
 その時屋敷の潜り戸が、内側からおおっぴらにあけられて、代官松が顔を出した。
「皆様おはいりくださいまし。屋敷は無人でございます」
 で、一同は中へはいった。
 なるほど、どの部屋を見まわって見ても、人っ子一人いなかった。
「ははあ」
 と美作は苦笑いをした。
「立ち木など揺すって子供だましをして、我々がちゅうちょしている隙に、どこぞへ立ち去って行ったものと見える」
 それにしても不思議でならなかった。屋敷の周囲を固めていたのに、どこからのがれて行ったのであろう。
 しかし間もなく代官松が、秘密のカラクリを探して来た。
 屋敷の土べいの一所が、長方形にくり抜けると露路であり、その向こう側に空家《あきや》があり、空家の塀もくり抜かれていて、開閉自在となっていた。四軒並んでいた空家の塀が、ことごとくそうなっていたのであった。思うに最初から屋敷の人たちは、そういう間道《かんどう》を作ろうために、四軒の家を買収して、わざと空家にしていたのであろう。
 そうして屋敷の人たちは、三方だけの立ち木を揺すって、美作たちをそのほうへ集め、その隙にここから立ち去ったのであろう。
 美作たちは四軒の空家を、一軒ずつ順々に調べて行った。
 はずれの一軒へ来た時に、一同は意外なものを見た。

巻き奉書は?

 一様に縁色の衣裳を着た、四人の老女と四人の武士とに、そのまわりを守られて、姫君姿の一人の美女が、白痴のようにぼう然と、一つの部屋にすわっているのを、美作たちは見たのであった。
「先刻の女子《おなご》でござりますな」
 驚いて兵馬が美作へいった。
 と、美作はうなずいたが、
「右近将監|武元《たけもと》殿の、お屋敷へ丁寧にお送りいたせ」
「は。……しかし女子の身分は?」
 いぶかしそうに兵馬は訊いた。
「武元殿の妾腹《しょうふく》の姫よ。満知《まち》姫様と申し上げるお方だ。……せがれ、左内の婚約の主《ぬし》だ」
「それに致してもこのありさまは?」
「夜な夜なご乱行をなされるという、おうわさがあったがうそと思うていた。……しかし、やっぱり事実であった。……左内がほかの女子のほうへ心を傾けたのはもっともだ。……左内もずいぶん苦しんだらしい。……今後は彼の思うままにさせよう」
「ご正気のようには見えませぬが?」
「どういう訳かわしは知らぬが、夜の暗《やみ》が襲うてくるごとに、満知姫様にはごようすが変わり、獣《けだもの》のようになられるそうだ」
 元始《げんし》の人間の血液が、ある特質の人間だけに間けつ[#「けつ」に傍点]的に遺伝《つたわ》って、夜になるごとに、その人間は、その元始の人間の、生活を如実にするという――これについては米国の作家ジャック・ロンドンなども書いている。
 思うに満知姫がそれなのであろう。その不幸な人間なのであろう。それにしても満知姫が物をいうごとに、かおって来た芳香は何なのであろう。
 愛欲生活に充たされていた元始の人間はおのずからに催情的の芳香を、呼吸の中に持っていたと、碩《せき》学エロイスが説いている。その芳香を夜の間だけ、満知姫も持っていたのであろう。それにしても満知姫の犠牲になって、絶息するまでに衰弱をしたいろいろの人間をこの空家の、塀の切り戸から運び去った、武士たちはそもそも何者なのであろう。やはり満知姫の家臣であったと解釈すべきが至当であろう。
 老女や若い美男の武士に、緑色の衣裳をなぜ着せたか? きわめて容易に説明できる。姫が元始の森林の、縁の色を愛したからである。老女に醜女《しこめ》をなぜ選んだか? 美しさを引き立てようためだったのだ。満知姫自身の美しさを。
 満知姫の犠牲になろうとした山県小次郎はどうしたか?
 四辺に姿が見えなかった。屋敷の人々がこの空家を通って、去って行く時に小次郎を見付けて、連れて立ち去ったものであろう。では小次郎が血をおさえていた、図面の描いてあった綴じ紙も、屋敷の人に発見されて、持ちさられたものと見てよかろう。空家を見終わった美作たちは、ふたたび屋敷へ引き返して、二階のほうへ上がって行った。
 と、広々とした部屋があって、一方の壁に巨大な棚が、からっぽ[#「からっぽ」に傍点]のままで据えてあった。しかしながらここには様々のものが――精巧をきわめた武器などの模型が――置かれてあったはずである。なくなっているのはどうしたのであろう?
 立ち去る時に屋敷の人々が、いっさい運んで行ったのであろう。さて、こうして美作たちが屋敷を見まわっている時に、一人の大男がお茶の水あたりを、
「お妻太夫さん、お妻太夫さん」と、呼びながら淋しそうにさまよっていた。鴫丸《しぎまる》以外の誰でもなかった。
 行く手に小橋がかかっていて、そこまで行った時鴫丸は、疲労と眠気とに襲われたからか、欄干へよってうとうとと眠った。と、女の声がした。
「竹之助様をご存知ではありますまいか?」
 突然に声かけられたので、驚いて鴫丸は眼をさましたが、無心に持っていた巻き奉書を、この時川の中へ落としてしまった。
「存じませんでござります」いいいい鴫丸は眼をみはった。子を負った女が立っていた。

天龍川に沿って

 子を負った女は君江であった。この時まで市中に良人をたずねて、さまよい歩いていたものと見える。
「あなたご存知ではござりますまいか、私の大事なお妻太夫さんを?」今度は鴫丸が愚《おろ》かしく訊いた。
 と、君江は首をかしげたが、「存じませんでござります」
 そこで二人は黙り込んだ。川の中へ落とされた巻き奉書は、水へ沈んだのか流されたのか、川の面には見られなかった。秘密を包んで永遠に、人の世へ二度とは現われまい。不意に鴫丸が愚かしくいった。
「ではご一緒にお妻太夫さんと竹之助様とをお探ししましょう」君江には否やがなかったと見える。
「一緒にお探しいたしましょうよ」
 こういって小橋を一方へ渡った。鴫丸も並んで歩いて行った。狂女と白痴との二人であった。どこまで歩いて行くことであろう。
 これは後日のことであるが、大津の駅路《うまやじ》にお妻太夫の、小屋掛けの見世物がかかった時、その菰《むしろ》張りの楽屋の中に、君江とその子の竹太郎とが、一座の人たちに可愛がられながら無邪気に平和に暮らしていて、鴫丸がいつも竹太郎を、膝の上へ乗せてあやしたり、背に負ってあやしていたそうである。鴫丸が君江に同情して、自分の座へ連れて来たものと見える。
 仇敵である桃ノ井兵馬と、虐《いじ》められながら住んでいるより、お妻太夫の座中にいて、可愛がられていたほうが、君江にとっても竹太郎にとっても、幸福なことといわなければならない。

 さて、こうして日がたって、秋の終わりが迫って来た。そのころ一団の旅人が、信濃《しなの》の国は伊那《いな》の郡天龍川の岸に沿って、下流《しも》へ下流《しも》へと歩いていた。一挺の駕籠をとりまいた、男と女との一団であって、その中には山県紋也もいれば、その弟の小次郎もいれば、その妹の鈴江もいれば、藤井右門の遺女《わすれがたみ》の女煙術師のお粂もいれば、その仲間の金兵衛もいた。駕籠の中には誰がいるのであろう?
 日あたりのよい丘の上へ、その一団がさしかかった時、しばらく休息することになった。と、下ろされた駕籠の中から一人の老人が現われたが、例の宏大な屋敷にいた、儒者ふうの老人その人であった。
 枯れ草を敷いて一同の者は、長閑《のどか》そうに四辺《あたり》の風景を見た。眼の下につらなりそびえている奇岩の裾を天龍の流れが、南に向かって流れていて、岩に激して上がる飛沫《しぶき》が岩の間に錦を拡げている紅葉を艶々しく濡らしていた。
 老儒者は懐中へ手を入れたが、綴じ紙を取り出すと膝の上へ拡げた。
「目的の地も近くなった。京丸の地はもう間近だ」いいいい老儒者は綴じ紙の面に描かれてある細密の地図のその一所に記されてある牡丹《ぼたん》の符牒《しるし》へ眼を注いだ。
「はじめには水戸様のお下屋敷へ、その次には土屋|采女正《うねめのしょう》様のこれも同じお下屋敷へ、次には美濃《みの》の豪農の関重左衛門の屋敷のほとりへ、その次には石山の仁王門の下へ、あばかれる[#「あばかれる」に傍点]を恐れて地を変えて埋め、最後の京丸の秘密境へ埋めておいた莫大の金子は、この綴じ紙が手にはいったので、我々の所有《もの》となることになった。……そのために苦労をした吉田武左衛門はどうしたことやら?」
 憮然《ぶぜん》とした老儒者の眼尻のあたりに涙がにじんで露のように見えた。と、側にいた紋也が訊いた。
「吉田武左衛門と仰せられる仁と、綴じ紙との間には関係があるのでござりましょうか?」
「金子を転々と埋め変えて、そのつど符牒《しるし》をつけたのが、ほかならぬ吉田武左衛門なのだよ。……俺《わし》の門下の中にあっても、信用のおける人物であった」
 丘をめぐって雑木林があり、小鳥が飛び来たり飛び去っては、紅葉を散らし、紅葉を散らした。
「俺はな、一度だけ武左衛門を見かけた」思い出したように老儒者はいった。

回想の数々

「代官松とかいう目明しが、俺の正体を見きわめようとして、追って来た日の両国の往来で、俺は、売卜者に尾羽打ち枯らした、吉田武左衛門の姿を見かけた。剣難の相が現われていたので俺は注意を与えておいて、翌日から人を市中へ配って、武左衛門の住居を探させたが、今もって発見することができない。あるいはこの世にいないのかもしれない……それでいて武左衛門の預かっていた、この大切な綴じ紙ばかりは、小次郎殿の手によって、あのような変な空家から、偶然発見することができた。いずれいろいろの事情の下に、めぐりめぐってあちこちの人へ渡り、あげくにあそこ[#「あそこ」に傍点]から目付けられたのであろう」いよいよ老儒者は憮然とした。と、側にいたお粂がいった。
「先生がお見掛けなされました、両国にいた売卜者には、妾も縁がござります。徳大寺様から清左衛門様へ預け、先生へお手渡し致しますはずの、例の重大な巻き奉書。――それにしても巻き奉書をお持ちになって、江戸へ下られた清左衛門様には、お気の毒にも箱根の山中で、誰にともなく討ち果たされ、この世を去られてしまいまして巻き奉書も奪われました。――で妾と金兵衛殿とは、巻き奉書を奪った者は幕府方の武士に相違ないと、このように見当を付けまして、専心探索に取りかかりました。……でもなぜ私たち二人の者が、巻き奉書を取り返そうと、苦心いたしたのでございましょう? 徳大寺様からこのように命ぜられましたからでございます。『今大切の巻き奉書を、青地清左衛門へつかわして、大先生へもたらせたが、道中のほどが心もとない。で、そのほうたち二人へ命ずる。それとなく清左衛門を警護するように』と。……その警護に失策をしまして、巻き奉書を他人《ひと》の手へ、奪い取られたのでございます。どのように苦心を致しましても、こちらへ奪い返しませねば、徳大寺様に対しまして、私ども申し訳が立ちませぬ。……ところがあの日両国の往来で、北条美作の懐中から奪い取ることができました。……でもすぐ目明しの代官松に、目付けられて烈しく追いかけられました。巻き奉書を持っていて、取り押さえられては一大事と、このように咄嗟《とっさ》に思いましたので、一時預かっていただこうものと、大道売卜者の老人の店へ、投げるようにしておきましたが、その売卜者の老人が、お話の吉田武左衛門様とは、思いも及ばないでおりました」
 その日のことを回想するように、こういうお粂は感慨深そうに、張りのある大型の眼を細めた。
「ところがどうだろう、その巻き奉書を、お狂言師のような老人があの晩綴じ紙と一緒くた[#「くた」に傍点]にしてお屋敷の前でひろげていたではないか」
 お粂の横につつましやかに、すわっていた金兵衛がこのようにいった。
「取り返そうと手を尽くしてみたが、とうとう持って逃げられてしまった。……思い出してもムカムカする。あの晩は俺たちには悪い晩だった。……水戸様石置き場の空屋敷のあの惨酷な焼き討ちから、お狂言師の老人に、なぶられたあげくに逃げられたことから、美作や兵馬や代官松めに、屋敷を囲まれて襲われたことから……そうして屋敷から引き上げたことから。……思い出してもムカムカする」――で金兵衛はジリジリしたようすで、小|鬢《びん》のあたりを指で掻いた。しかし老儒者は微笑しながらいった。
「あれは予定の引き上げだったのだよ。ここの屋敷もめざされております、水戸様のお下屋敷へお移りなされと、勧められていたおりだったのだから。……むしろよい晩だったといったほうがいい。探していた綴じ紙を引き上げの際に、手に入れることができたのだからな」――といいいい老儒者は綴じ紙をたたむと、深く懐中へ入れた。
 天龍川の水音が、秋晴れの空気を顫わせている。栗色《くりいろ》の兎《うさぎ》が草むら[#「むら」に傍点]から出た。が、逃げようともしなかった。
「どのようなことが巻き奉書には、書かれているのでござりますか?」――ややあって紋也が慇懃に訊ねた。

京丸をさして

「存ぜぬ」と老儒者は言下に答えた。「手に入れることができなかったのだからな。ああそうだよ、巻き奉書を。……しかし推量をすることはできる」
「…………」紋也は無言で老儒者を見た。
「血判をした連判状であろうよ」
「…………」
「徳大寺卿をはじめとして京師の勤王の公卿方が、集められた衆人の血判状であろうよ」
「…………」
「とはいえ徳大寺公城卿は、尊きご身分でおわします。ご自身血判などされるはずはない。集められた衆人の血判状であろうよ」
「それを先生へもたらせ[#「もたらせ」に傍点]ました?」
「わからぬ」と老儒者はふたたびいった。
「が、これとても推量はできる。俺《わし》を引き出そうとされたのであろう。しかし俺としては出なかったであろうよ。たとえ巻き奉書がまいったところで」
「それは何ゆえでござりまするか?」
「宝暦の事件に懲りているから」
「公卿方は賢明にはおわしますが、武力も金力もお持ちでない。再度ご計画なされようとも、成功なされる気づかいはない。それに」
 と老儒者は紋也を見た。
「公卿方の間にも党派があって、結束がおぼつかなく思われるからでもあるよ」
「党派などおありでござりましょうか?」
「そなたは確か正親町卿《おおぎまちきょう》から、お心を受けて江戸へ出て、志士を募《つの》っておられたはずだが?」
「仰せ通りにござります」
「それが党派のある証拠だ。徳大寺卿と正親町卿とが、別々に企てておられるではないか」
「胸に落ちましてござります」
「俺《わし》はな」と老儒者は意味深くいった。「島をのがれて江戸へはいって以来、武力と金力の充実《みち》ている、大名衆へ眼をつけて、ひたすら思想を吹き込んだものだ」
「薩、長、土、肥に水戸、佐賀、越前※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「さよう」と老儒者はうなずいて見せた。「彼らはそれぞれ立つであろう」ここで老儒者はお粂にいった。「くもるとも何か怨みん月|今宵《こよい》晴れを待つべき身にしあらねば……そなたのお父上の藤井右門殿の、この悲壮な辞世の和歌が、間もなく世人に崇《あが》められて、うたわれるようになりましょうよ」
「…………」お粂は無言で頭を下げた。と、その時紋也がいった。
「京丸に埋めました金子と申すは?」
「あれか、宝暦の事件の際に、同志が諸方から集めた金子だ。……これを活用して事を挙げるのが、我々の今後の仕事なのだ。さて、そろそろ出かけるとしよう」
 老儒者の乗った駕籠を取り巻き、一団は先へ歩き出した。荷物を背負っている人足などもあった。何がはいっているのであろう? 新しい軍器の模型かもしれない。

 年が代わって春となった。お狂言師の泉嘉門の、花の咲いている裏庭で、恋語りをしている男女があった。北条左内とお菊とである。
「父も性質が変わりました」といいいい左内は微笑をした。
「去年の初秋からでございますよ。にわかにおだやかになりまして私の申す意見などにも、耳を傾けるようになりました。よく口癖に申したりします。『事というのは齟齬《そご》するものだ。俺《わし》はこれからは我は張らぬよ』このように申すのでございますよ」
 鶯《うぐいす》の啼き声が聞こえて来た。小舞《こまい》物をうたう声などもした。
「父もおだやかになりましたし、元気にもなりましてござります。お聞きなさりませ『柳の下』を、あのように朗《ほが》らかにうたっております。……このごろ破門を許されまして、舞台に立つことができましたので、元気になったのでござります」――で、お菊は聞こえて来る嘉門のうた[#「うた」に傍点]声に耳を澄ました。
 すると、左内がささやくようにいった。

神仙境

「嘉門殿を舞台に立たせますよう、宗家《そうけ》へ申し入れましたのが、私の父なのでございますよ」
「まあ」とお菊は眼をみはったが、感謝にたえないというように、左内へ初々しく頭を下げた。
 二人をおおうている彼岸桜《ひがんざくら》が、陽に蒸《む》されて今にも崩れそうに見えた。ふとお菊は不安そうに訊いた。
「桃ノ井兵馬と申される恐ろしいお侍さまがございましたが。……」
「兵馬でござるか、どうしておるやら。『あの男はあまりに惨忍に過ぎる』このように父が申しまして、出入りを止めてしまいました。……が、いやらしい人間のことなど、考えないことに致しましょう」泉水で鯉のはねるらしい、清々しいかすかな音がした。
「あのう」とお菊は口籠るようにいった。
「あなた様にはお許婚のお方が……」
「ああありました、満知《まち》姫様といいます」どうしたのか左内はこの言葉をいうと、妙に憂鬱《ゆううつ》の顔をした。
「が、お命はありますまい」
「…………」
「ひどくご衰弱なされましてな、骨と皮ばかりになりました」
「…………」
「お気の毒なお方なのでございますよ。……いささか狂質《きょうしつ》がありますので。……が、もう何も申しますまい。不快な他の人の身の上などは。……」
 二人の恋はかなうであろうか?
 身分の相違はいちじるしいが、しかし左内の情熱と、すがすがしい心境からそん[#「そん」に傍点]度《たく》すれば。……
 とにかくここにあるものといえば、恋以外の何物でもなかった。

(山重なって森深く、岩たたなわって谷をなし、天龍の川の流るる所、古昔《こせき》より神仙|住居《すまい》して、深紅のぼたんの花を養う。大いさかさ[#「かさ」に傍点]を凌《しの》ぐものあり、ひょうひょうとして水に浮かび、流れに従って海に入る。神仙の住地を京丸と称し、花を京丸ぼたんという。地名あれども所在《ところ》を知らず。云々)
 これが京丸という別天地について、いい伝えられて来たうわさであって、天龍峡あたりにあったものと見える。
 ところが明和《めいわ》のある時代から、すなわち老儒者の一団が、その地を目ざしてはいり込んだころから、京丸のあるらしい地点へ向かって、諸国から武士たちがはいり込んだり、武士たちが諸国へ出て行ったりするのを、天龍川の沿岸に住む村人たちは眼に止めた。
 あるそま[#「そま」に傍点]などはこういうことをいった。
「ある日私は道に迷って、谷深くはいってゆきました。するとどうでしょう木の香の新しい、幾棟かの家々が建っていて、武士たちがおるではありませんか。講義をしている声もすれば、武芸を習っている音もすれば、何か機械でも造っているらしい、つちの音などもいたしました。で私は驚いて、急いで横へそれましたところ、一軒の家から神々《こうごう》しいような、長身の老人が出て来られまして、川のほうへ歩いてゆきました。引きつけられたとでもいうのでしょう。歩いてゆく老人の後へついて、私も歩いてゆきました。と、天龍の岸へ出ました。私はそこで胆をつぶしました。四方山のような岩にかこまれ、一方だけに口をあけた、二町四方もあるであろうか――そんなにも広い平《たい》らの土地に、ひもうせん[#「ひもうせん」に傍点]とでもいいましょうか、深紅の敷き物が敷いてあったからです。で、私はすくんでしまいました。そのまに老人はひもうせん[#「ひもうせん」に傍点]の上を、先に歩いてゆきました。ところがどうにも不思議なのは、ひもうせん[#「ひもうせん」に傍点]が老人の歩くにつれて、左右へユラユラと揺れるばかりでなく、その老人の腰から下を、見えないように隠すのです。で、私はよくよく見ました。なんと意外ではありませんか、ひもうせん[#「ひもうせん」に傍点]だと思っていたのは、深紅のぼたんの花だったのです。そのうちに老人が出て来ましたので、私は恐る恐るお訊ねいたしました。『あなた様はどなた様でございますか?』と。

太陽を掲げる人々

 するとその老人が申されました『わしは天龍道人だよ』と。
 ――で私はまた訊きました。
『ここはどこなのでございますか?』と。
 すると老人は申されました。
『ああここは京丸だよ』と。
 それから私は京丸から出て、ようやく家へ帰りましたが、もう一度行って見ようなどとは、夢にも思っておりません。こうなんともいえないような、強い力が一方にあって、そうして一方には仙境じみた、尊気の力があるのですから、ちょっと私などには寄りつきかねます」
 天龍道人だと称した老人が例の老儒者であろうなら、その老儒者は宝暦事件の立て者、垂加流《すいかりゅう》の神道の祖述者であり、兵法学者であり、勤王家《きんのうか》であった竹内式部その人だと、こう想像してよさそうである。
 何ゆえかというに信濃《しなの》の人々は「竹内式部先生は、奇跡的に三宅島からのがれ出て、天龍河畔に隠せいして、みずから天龍道人と称して、晩年を平和に送った」と、今日も固く信じており、証拠もある点まで挙げているのであるから。
 老儒者は竹内式部としても、決して平和に平凡に、京丸へ隠せいしたのではなくて、一方ではぼたんの花を養い、「自然」の美しさを称《たた》えながら、他方では例の金子を用いて、諸国の志士や義人たちを集め、あるいは尊王抑覇の講義に、または新兵器の製造に、専心したものと断じてよい。
 京丸に住む人たちの中には、紋也や、お粂や、小次郎や、鈴江や、金兵衛などがいるはずである。
 これらの人々も竹内式部、天龍道人の指揮の下に、京丸にあっては事業を助け、諸国へ出ては説を述べ、明治維新の大変革の、原動力となったことであろう。
 とまれ竹内式部といい山県大弐といい、藤井右門といい、近世における尊王主義の士は明治維新の大業に対して、暁鐘《ぎょうしょう》をついた人たちであった。
 で、その次に来たるものは、太陽を掲げるものでなければならない。
 薩、長、土、肥に、水戸、佐賀、越前の憂国の志士たちがそれである。
 そうしてそういう人たちを、養い教えた人物が、竹内式部だということができる。
 それにしても紋也とお粂との恋は、その後どうなったことであろう?
 紋也には許婚《いいなずけ》の娘があったはずだ。お粂との恋はとげられなかったかもしれない。
 しかし大業の前にあっては、二人ながら恋などは問題にしないで働いたものと解釈してよかろう。
 昭和四年の今日においても、京丸という神秘境は、名はあるがあり場所はわからない。
 しかし今日も時あって、ぼたんの花の咲く候《こう》になると、かさ[#「かさ」に傍点]ほどの大いさのぼたんの花が、天龍川の上流から、流れてくるということである。

東海道を敵と敵

 いやいや物語は以上だけで、完結することはできなかった。
 素晴らしい重大な出来事が、まもなく起こったのであるから。
 それは初夏のことであったが、一人の武士と一人の娘とが、旅よそおいをりり[#「りり」に傍点]しくして、京丸のある地点から京都に向かって発足した。
 山県紋也と鈴江とであった。
「園子《そのこ》様おたっしゃでおいでなさればよいが」
「さようさ、たっしゃでおいでなさればよいが」
「兄上を慕って江戸表などへ、おいでなさらなければよろしゅうございますが」
「わしもその事が心配なのだよ。江戸表へ出たいというような事を書面にしたためてよこされたのは、去年の初秋のことであってその後仕事に取りまぎれて、わしは消息さえしなかった。……江戸表へなどおいででなければよいが」
「園子様のお兄様の青地清左衛門様を、箱根の山中で討ち取りましたは、何者なのでございましょう?」
「これだけはいまだにわからない。いずれは北条美作などの、一味の者と思われるが」
「さぞ園子様におかれましては、敵《かたき》が討ちとうございましょうな」
「わしにしてからが討ってあげたい」
「京丸へお呼び寄せなさいましてから、園子様のお心を伺って、敵の素性を突き止めて、兄上がお助太刀なさいまして、敵討ちをおさせなさりませ」
「そうさ、わしもそう思っている」
 兄妹が歩みを運びながら、話し合っている話といえば、おおよそこのようなものであった。
 京丸での仕事のだいたいの形《かた》が、この初夏までにでき上がったので、紋也にとっては許婚の青地園子を京丸へ呼び寄せ、安全に保護を加えようと、二人が迎えに行くところなのであった。
「お粂様、お可哀そうでございますな」
 悪戯《いたずら》ッ子らしいからかい声で、ややあって鈴江が紋也へいった。
「なぜな?」と紋也は訊き返した。
「元気よく江戸へ旅立たれたではないか」
「お許婚の園子様を、京丸へお迎え取りなされようと、兄上がおいいだしなされた日に、不意にお粂様にはさびしそうになされて『私は江戸表へ参ります。そうして江戸の同志の方々と、江戸で仕事をいたします』と、このようにいわれて金兵衛殿と、京丸を出られたではございませぬか」
「江戸で働くのも大いによろしい」
「それにしてもにわかにあのように。……」
「まあまあそれはいわないほうがよかろう」
「園子様とお逢いなされるのが、お苦しいからでございましょうよ」
 紋也は返辞をしなかった。ただ、黙々と歩いて行った。飯田の城下も通り過ぎ、日数を重ねて浜松へ出た。この浜松から東海道となる。東海道を京に向かって、二人の兄妹は歩いてゆく、編がさで二人ながら顔を隠し、人目につかぬように歩いてゆく。旅人や、旅かごや、乗りかけ馬などが、街道筋を通っていた。武士も通れば商人も通り、道中師らしい人物も通り、女連れの群れなども往来していた。
 松並木は青く海も青く、海にはかもめが白々と飛び、並木の土手には草の花が、松の根を美しく飾っていた。
 で、賑やかで長閑《のどか》そうであった。
 しかるにいっこう長閑そうになく、憂《ゆう》うつ[#「うつ」に傍点]らしいようすをした、浪人者らしい二人の武士が、京都のほうへ歩いていた。
 深編がさをいただいているので顔を見ることはできなかったが、一人は桃ノ井兵馬であり、もう一人は矢柄源兵衛なのであった。
「どうやらとうとう見失ったらしい。矢柄氏なんと思われるかな?」
「さようさ」と矢柄源兵衛はいった。
「見失ったようでございますな。……一人は男一人は女、その取り合わせが面白うござる、根よく探したら見つかりましょうよ」
 で、二人は歩いて行った。

三組の道中

 北条美作の心持ちが変わっておだやかな態度となって以来、桃ノ井兵馬は出入りを止められ、またも浪人の身の上となり、妻の君江にさえ逃げられて、江戸に住むことが苦痛となった。
 矢柄源兵衛も同じであった。青地清左衛門を箱根の山中で討ち取ったあげくに巻き奉書を奪い、北条美作へもたらせるや、北条美作に愛せられ、美作から京都の所司代の、阿部伊予守へ懇望して、源兵衛を番士の籍から抜かせ、自分の家臣へ加えたが、美作の心が変わるとともに、源兵衛は冷遇されるようになった。
 で、源兵衛は浪人した。
 浪人はしたが食うことができない。
 そこで食えない兵馬をかたらい、切り取りなどを行なったが、いよいよますます食えなくなった。
 そこで二人はこう考えた。「京都へ行ってよい運をつかもう」――で、旅をして来たのであった。
 しかるに掛川まで来た時であったが、意外な人間を発見した。旅よそおいをした一人の娘が、旅よそおいをした若い男を、供のようにして引き連れて、街道をたどって行くのである。二人ながら編がさ[#「がさ」に傍点]をかぶっているので、顔を見る事はできなかったが、姿や物腰で知ることができた。女はお粂であり男は金兵衛であった。
 見て取るや兵馬は、「しめた!」と思った。
「藤井右門の遺児《わすれがたみ》としては、お粂は己《おれ》には怨敵だが、しかし己《おれ》はあの女が好きだ。手に入れて自由《まま》にした上で、息の根を止めてやることにしよう」――で源兵衛にも旨《むね》を含め、見え隠れに二人の後をつけた。
 が、袋井を通り抜けて、見付の駅路《うまやじ》へはいった時、どうしたものか見失ってしまった。
 で、今、街道を歩きながら、兵馬と源兵衛とは残念そうに、その事について話しているのであった。
 紋服ではあるがあかじみた単衣《ひとえ》を、二人ながらだらりと着流している。はいているたび[#「たび」に傍点]も切れていれば、はいている雪駄も切れていた。歩くごとにかわいている地面から、バッバッとほこりが舞い上がって、裾をまみれさせた。
 二人は先へたどって行く。
 事実二人の思っているように、お粂と金兵衛とがこの街道を、京へ旅しているのであろうか。
 二人は事実旅していた。
 しかしこのころ二人の者は、見付の駅路の棒鼻《ぼうばな》のあたりを、話しながら先へ進んでいた。
「お許婚の園子様を、紋也様には京から呼び寄せ、京丸へこさせてお住居《すまい》なさるという。当然のことではあろうけれど、私には悲しくも口惜しい。私は園子様とお逢いしたくない」――で金兵衛を誘って、江戸表へ出て働こうという、そういう口実で京丸を出て、事実江戸へ出たのであったが、江戸にはいろいろの思い出があって、住居をすることが苦しかった。「京都にも同志の人たちはある。その人たちと働くことにしよう。それにその後の出来事を、徳大寺様にお目にかかって、お話をする義務もある」――で、京都へ出かけることにした。
 見付の駅路まで来た時であったが、その駅路から一里ばかり離れた、妙塚という小さい里に、縁結びの地蔵尊のあるということに、ふと気がついたところから、参詣をすることにした。
 で、金兵衛と参詣して、時をつぶして見付まで帰って、今、棒鼻の辺を歩いているのであった。
 編がさをかぶって、道行《みちゆき》を着て、手甲脚半に手足をよそおい、お粂はスタスタと歩いてゆく。尻端折りをして道中差しを差して、並んで金兵衛が歩いてゆく。
 夕暮れに近い時刻であって、旅宿《はたご》の門では留女《とめおんな》が、客を呼ぶ声を立てはじめていた。
 こうなっては事件が起こらなければなるまい! 紋也の組と、兵馬の組と、お粂の組とが同じ街道を、同じ日に同じ方角へ向かって、同じ時刻に歩いているのであるから。

四組の客が同じ宿に

 案外に事件は起こらなかった。
 三組の人数は歩いていたが、距離がへだたっていたがために、顔を合わせることがなかったからである。幾日か幾日か泊まりを重ねて、三組の人たちは大津の駅路《うまやじ》へはいった。しかるに同じ日にもう一組の男女が京都から大津の駅路へはいった。
 旅よそおいをした若い娘を乳母《うば》らしい老女と下僕《しもべ》らしい男とが、守護でもするように前後にはさんで、入り込んで来た一組であった。すげ[#「すげ」に傍点]のかさ[#「かさ」に傍点]をかぶって道行を着て、かいき[#「かいき」に傍点]の手甲脚半をつけて、たび[#「たび」に傍点]に付けひものぞうり[#「ぞうり」に傍点]をはき、杖をついた娘の旅の姿は、上品で清らかで美しくて、処女の気高ささえ持っていた。引いたように細い三ヵ月形の眉、その下にうるおっている切れ長の眼、鼻の形の高尚さは、人に頭を下げさせるに足りた。長目のあご[#「あご」に傍点]にかさのひもが、結ばれて赤く見えていたが、唇の赤さと似たものがあった。
「園子お嬢様は旅ははじめて、さぞお疲れでござりましょう。少しばかり早くはござりますが、旅宿《はたご》を取ることにいたしましょう」――四十歳あまりでたくましくて、忠実らしい下僕はいったが、「お咲殿そのほうがよろしかろうな」乳母らしい老女へ顔を向けた。
「そのほうがよろしゅうございますとも。江戸までは長旅にございます。今から足など痛めましては、それこそ大変でございます。旅宿を取ることにいたしましょう」――乳母のお咲はこういうようにいった。
「私のことなら大丈夫だよ。私はちっとも疲れてはいない。一日でも早くお江戸へゆきたい。ね、もう一宿ゆくことにしようよ。……でもお前たち小平やお咲が、疲れているようなら泊まってもよいが」――娘はかさの中でこういうようにいった。
 徳大寺卿のくげ[#「くげ」に傍点]侍の、青地清左衛門の妹であり、山県紋也の許婚である、それは青地園子であった。どうして旅などしているのであろう? 許婚の紋也を恋慕って、江戸表を差して行く途中なのであった。
「山県様に一日も早く、お逢いなさろうと思《おぼ》し召《め》して、先をお急ぎなさいますそうな」下僕の小平はからかうようにいった。「がお嬢様それはいけませぬ。逢わない内の楽しみにも、よいところがあるものでござりますよ」
「まあ小平は……何をいうことやら」
 しかし三人は泊まることにして、千代古《ちよこ》屋という旅宿屋へはいって行った。
「お早いお着きでございます」
 ――で、三人は奥へ通された。
 しだいに夜が迫って来て、続々《ぞくぞく》と旅人は旅宿の門《かど》をくぐった。と、その時二人の浪人が、千代古屋の門をくぐったが、そのみすぼらしい風さいから、どうやら帳場から断わられたらしい。が、二人の浪人は、そのようなことには慣れていると見えて、番頭と押し問答をしたあげくに、ズカズカと奥へ通って行った。
「はい千代古屋でございます。お泊まりなさいまし、お泊まりなさいまし」――留女は門口でなおも呼んだ。と、その声に引かれたかのように、前後して二組の男女の旅人が、千代古屋の門の土間へはいった。一組は紋也と鈴江であり、一組はお粂と金兵衛とであった。が、一足違ったためか、双方とも心づかなかった。別れ別れて別々の部屋へ、案内されて通ったのである。
「お泊まりなさいまし、お泊まりなさいまし」
 なおも留女は門口で呼んだ。
「お妻太夫さんの見世物を見に、お島さん行って見たいねえ」
「こっそりごまかして見にゆこうか」
 留女たちは客を招く合間に、こんな話を話し合っていたが、この大津の駅路《うまやじ》のはずれの、水無神社の境内に、事実この時お妻太夫の一座が、見世物の小屋をかけていた。――が、千代古屋の奥の部屋の、出来事について語ることとしよう。
「兵馬氏、飯を持って来ぬの」
「虐待《ぎゃくたい》しおる。アッハハハハッ。ただし珍しいことでもない。源兵衛殿、気永く待つことにしましょう」――二人の浪人が話しあっていた。

敵討ちはどうなるか?

 さっき方番頭と押し問答をしてむしろ脅かして千代古屋の奥へ、通って行った浪人は、桃ノ井兵馬と矢柄源兵衛とであった。
 暗い行燈の光を前に、二人は腹立たしそうに話していた。
「こう虐待をされるような、こんな身分におちぶれるほどなら、何も人一人たたっ切って、巻き奉書など奪わなければよかった」
「青地清左衛門を叩っ切ったことかな」
「うん」と源兵衛は不気味そうにいった。箱根の山中で背後から、声をかけずに叩っ切ったが、今ではいやな気持ちがしている。
「ナーニ人間の一人や二人、叩っ切ったところでなんでもありゃアしない。……それはそれとして飯が遅いな。……おや、廊下で足音がした。下女めが夕飯を持って来たのかな」
 で、二人は耳をすました。しかし廊下での足音は、部屋の前から立ち去ってしまった。
「なんだなんだ面白くもない」
 しかしもし二人の浪人者が、廊下に足音を立てた主の、素性を知ることができたならば「面白くもない」というような、そのような比較的のん気な気持ちで、話し合っていることはできなかったであろう。というのは廊下での足音の主が、源兵衛が箱根の山中で、討ち果たした青地清左衛門の妹の、園子その人であったからである。
 園子であるが自分の部屋を出て、かわやへ行って用をたして、廊下を何気なく帰って来た。と、部屋の中で話し声が聞こえた。兄清左衛門のうわさが出た。そこで足を止めて聞き耳を立てて、源兵衛の話をいっさい聞いた。
「この部屋にいる源兵衛という武士が、さては兄上の下手人なのか! これで敵《かたき》を知ることができた。逃がしはしない! 兄上の敵だ!」――で、たしなみの懐剣を、引き抜いて部屋へ躍《おど》り込んで、敵を討とうと思ったが、小平やお咲に知らせなかったら、後になって怨まれることであろう。それに部屋には敵の他に、連れの侍がいるらしい。気をはやらせて飛び込んで行ったら、あべこべに返り討ちにされようもしれぬ。一旦自分の部屋へ帰って、小平とお咲とへ事情を話して、三人で切ってはいることにしよう。――で、自分の部屋へ引っ返したが、その部屋というのは源兵衛の部屋から、三|間《ま》ほど離れた所にあった。
 部屋へ飛び込むと園子はいった。
「さあ助太刀をしておくれ! 兄上を討ち果たしたにくい敵《かたき》が、同じ宿に泊まっているのだよ。かなわぬまでも切り込んで。……」
「お嬢様!」とそれを聞くと下僕《しもべ》の小平が、まずたくましい顔の上へ、敵がい心をムラムラとだした。
「お咲殿、そなたも守り刀で!」
「あい!」とお咲も懐剣を握った。
「どんな武士《さむらい》か知らないがナーニ! ナーニ! ナーニ! ナーニ!」小平は傍へ引きつけておいた、道中差しを取りあげたが、「ご主人様もお守りくださりょう。三人かかって討って取り、かなわぬ時は切り死にするばかりだ」――で、ヌッと突っ立った。
「ではお嬢様」
「小平や頼むよ」
「私も命限り根限り!」
 ――で、三人は勢い込んで、部屋から出ると廊下づたいに、源兵衛と兵馬のこもっている、部屋のほうへ足音を忍んで進んだ。
 はたして敵討ちはできるであろうか。討つほうはかよわい娘であり、助太刀をするのは下僕と乳母だ。武道には未熟の連中である。しかるに一方討たれるほうは、人を殺したことのある、兇悪の矢柄源兵衛である。のみならず源兵衛には剣鬼のような、桃ノ井兵馬がついている。
 この敵討ちはあぶないあぶない!
 そういう気分がその一郭で、醸《かも》されているということを、なんで紋也が鈴江が知ろう。
 二人は五、六|間《ま》へだたった、一間の中に向かい合って、夕飯の終えた後の時間を、寝もせず静かに話していた。と、突然|一所《ひとところ》から、ののしり合う声が聞こえて来た。
「兄上の敵!」
「何を女郎《めろう》が!」
 ――で、紋也と鈴江とは、ハッとしたように眼を見合わせたが、次の瞬間には二人ながら――一人は刀を引っ下げて、一人は吹き針を手に持って、立ち上がって廊下へ走り出していた。

悲惨な再会

 しかるにこの頃もう一組の者が、一つの部屋で話し合っていたが、「おや」といって顔を見合わせた。紋也たちのいた部屋の正面の、小綺麗の部屋にいた一組であって、他ならぬお粂と金兵衛とであった。
「兄上の敵《かたき》といったようだね。しかもうら若い女の声で」
「へい、姐ご、そういったようで」
「行ってみようよ、ねえ、金ちゃん」
「行ってみましょう!」と金兵衛は立った。
 ふすまをあけたが二人一緒だ! スルスルと廊下へ走り出て、声のしたほうへ小走った。と、その二人のすぐ行く手を、一人の武士と一人の娘とが、やはり先のほうへ小走っていた。
「あッ」とお粂が声をあげた。
「山県さんだよ! 紋也さんだよ!」
「よッ、妹ごの鈴江様もおられる!」
 しかし金兵衛がそういった時には、紋也の姿も鈴江の姿も、曲がり角を曲がって見えなくなっていた。とはいえすぐに叫び声がした。
「おッ、これは園子様か!」
 つづいて女の喜び声が聞こえた。
「あッ、紋也様! 鈴江様にも!」
 つづいて紋也の声が聞こえた。
「おのれは兵馬か! 桃ノ井兵馬か!」
「うーむ、貴様は山県兄妹か!」
 つづいて女の声がした。
「兄の敵でござります! そこにいる矢柄源兵衛という男が!」
 ――たちまち太刀音が数合したが、すぐに人間の倒れる音がし、
「園子様! とどめをお刺しなされ!」紋也の声が響き渡り、「おのれ! 逃げるか! 卑きょうだ! 兵馬!」こう同じ声がつづいて起こった。
 しかしその次の瞬間において、廊下をはせてゆく足音がした。

 まだ浅夜《あさよる》であったので、大津の町は賑わっていた。と、その往来を一人の浪人が、抜き身をさげて走って来た。千代古屋から逃れ出た兵馬であった。と、その後から大勢の者が、棒などを持って追っかけて来た。千代古屋の若い衆を先に立てて近所の人々が訳わからずに群衆心理に支配されて、兵馬を追って来たのであった。
「食い逃げだ!」「賊だ!」「敵討ちだ!」――で、一同追って来た。
 ――紋也に逢おうとは思わなかった。鈴江に逢おうとは思わなかった。その上廊下の曲がり角のあたりで、お粂と金兵衛の姿を見た! いったいどうしたというのだろう? ……とうとう源兵衛は討たれてしまった……なぜ己《おれ》もあの時紋也を相手に、切り死にをしてしまわなかったのか! 尾羽打ち枯らした浪人の己だ! 今後の立身などおぼつかない! 切り死にすればよかったではないか!
 走りながら兵馬はこんなことを思った。
 ――仇敵の山県紋也に討たれて死ぬのが口惜しく思ったからだろう。それで夢中で逃げたのだろう! 追って来おる! 追って来おる! 追って来おる! 食い逃げ、賊だと叫んでおる! ……町人どもに追い詰められて捕えられては恥の恥だ! ……腹を切りたい! 死に場所を得たい!
 兵馬は走りながらこう思った。で、兵馬は横道へそれた。しかし群集は追って来た。兵馬は露路露路をくぐって逃げた。しかし群集は追って来た。と、兵馬は駅路《うまやじ》のはずれの、神社の広い境内へ出た。そこにかけ小屋が立っていて、赤い提灯が釣るされてあり、人々が木戸から出入りしていた。
「よし」と兵馬は咄嗟《とっさ》に思った。
「まぎれて小屋へはいってやろう」――抜き身を鞘に納めるや、素早く木戸から中へはいった。
 お妻太夫の見世物小屋であって、その舞台裏の楽屋の中に、一人の女が子供を膝にし、さも平和そうにうたっていた。
「あの山越えてゆく時は……」
「竹太郎やお笑い、よい子の竹太郎や! お父《とう》様を目付けにゆきましょうねえ」
 しかしその時見物席のほうから、どよめく人々の声が聞こえ、こっちへ走ってくる足の音がし、楽屋へ何者か飛び込んで来た。
「お前は君江! うーむ、竹太郎も!」

京丸の所在地

 飛び込んで来たのは桃ノ井兵馬で、この結末は簡単であった。女房の君江の前へすわると、
「お前の父親武左衛門殿を、殺害したのはこの己《おれ》だ、己はお前には父の仇だ! さあこの刀で怨みを晴らせ」と、刀を抜くと桃ノ井兵馬は、君江へ渡して討たれようとした。が、君江は発狂していた。で、ただぼう然とみつめてばかりいた。そこで兵馬はいったそうである。「親の敵ではあるけれども、お前にとっては己は良人だ。まさか討つことはできないだろう。……よしよしこうして討たれよう」――抜き身の柄を君江に持たせ、手を持ち添えて自分から、兵馬は切っ先を胸もと深く、突き込んでこの世を辞したそうである。
「竹太郎を頼む! これだけは頼む! 死に場所を得た! せめてもの慰め!」これが最後の言葉であったそうな。
 しかるにこのころ千代古屋では、お粂とそうして園子との間に、こういうしおらしいすがすがしい話が取り交わされていたそうである。
「おうわさは承わっておりました。あなた様が園子様でござりましたか。お若い娘ごの身空をもって、よう仇討《あだう》ちをなされました。見ればお優しくて気高くて、それでいて勇気もおありなさる。紋也様とはよいお配偶《つれあい》、私などおよびもつきませぬ」これはお粂がいったのであった。
「藤井右門様のお嬢様の、あなた様はお粂様でござりましたか。お見受けしますればかん[#「かん」に傍点]難辛苦を、数々お重ねなされましたごようす、私などおよびもつきませぬ。何とぞ今後は妹とも覚《おぼ》し召して、万事お教えくださいますよう」これは園子がいったのであった。
 もうこれだけでよいではないか。お粂は活動的婦人であって、園子の気品に打たれたのであった。紋也に対する恋心を、いさぎよく園子へ譲ったものと、こう解釈してよいばかりか、事実自分の恋を捨てて、その後は江戸や京都の地や、京丸などへ往来して、得意の煙術を種にして、同じ志の義人や志士を、京丸へきゅう[#「きゅう」に傍点]合したそうである。矢柄源兵衛を切り倒したのは、山県紋也に他ならなかったが、とどめを刺したのは園子であって、兄にあたる青地清左衛門の敵を討ち取ったものということができる。

 園子を加えた京丸の地へ、その後続々と志士や義人が、集まって来て倒幕の策を講じたということに関しては、詳説するにもあたるまい。

 ここで作者は顔を出す。
 百五十七回を書いた時、読者の一人から次のような、親切な手紙を受け取った。
[#ここから1字下げ]
前略貴作「娘煙術師」拝読仕候、京丸の所在ご不明の由お記載に候えども、右は交通|甚《はなは》だ不便の地なるも、確かに現存し、現に小生叔母の娘が嫁《か》しおり候、小生は京丸より東南約十里の土地の産に候、ただし京丸へは未到に候
                               鈴木 享
 では作者は読者に約する、明日にも新舞子を発足して、京丸の別天地へ行ってみよう。そうして竹内式部をはじめ、この物語へ出た多くの人々の、その後の生活を調べてみよう。おそらく意外にして有意味の歴史を、発見することができるだろう。その発見した歴史をもとに、近い将来にこの物語の続篇を書くのも面白いではないか。
 作者は信州諏訪の産で、京丸についても京丸ぼたんについても、京丸で晩年を送ったという、天龍道人竹内式部――この偉大なる人物についても、いわれぬ愛着を持っていて、以前にも「京丸ぼたん」と題して、長篇物語を書いたことがあった。実地踏査をすることによって、さらに新しい物語を、作ることができようかと思われる。
「娘煙術師」の物語にしても、あえて作者はいっておく。「決してでたらめの空想のみによって、作ったものではないということを」

底本:「娘煙術師(上、下)」国枝史郎伝奇文庫(十四、十五)、講談社
   1976(昭和51)年6月12日第1刷発行
初出:「朝日新聞」
   1928(昭和3)年8月26日~1929(昭和4)年2月22日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本では、一般的に読点「、」とする数箇所に終止符「.」が使われていますが、すべて読点に統一しました。
※底本での「頤」と「※[#「臣+頁」、第4水準2-92-25]」、「鬨」と「閧」、「盾」と「楯」、「痲痺《しびれ》」と「麻痺《まひ》」、それぞれの混在は、いずれも底本通りにしました。
入力:阿和泉拓
校正:六郷梧三郎
2010年11月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

北斎と幽霊—– 国枝史郎

        一

 文化年中のことであった。
 朝鮮の使節が来朝した。
 家斉《いえなり》将軍の思《おぼ》し召しによって当代の名家に屏風を描かせ朝鮮王に贈ることになった。
 柳営|絵所《えどころ》預りは法眼|狩野融川《かのうゆうせん》であったが、命に応じて屋敷に籠もり近江八景を揮毫《きごう》した。大事の仕事であったので、弟子達にも手伝わせず素描から設色まで融川一人で腕を揮《ふる》った。樹木家屋の遠近濃淡漁舟人馬の往来坐臥、皆狩野の規矩に準《のっと》り、一点の非の打ち所もない。
「ああ我ながらよく出来た」
 最後の金砂子《きんすなご》を蒔《ま》きおえた時融川は思わず呟《つぶや》いたが、つまりそれほどその八景は彼には満足に思われたのであった。
 老中若年寄りを初めとし林《はやし》大学頭《だいがくのかみ》など列座の上、下見の相談の催おされたのは年も押し詰まった師走《しわす》のことであったが、矜持《きんじ》することのすこぶる高くむしろ傲慢《ごうまん》にさえ思われるほどの狩野融川はその席上で阿部《あべ》豊後守《ぶんごのかみ》と争論をした。
「この八景が融川の作か。……見事ではあるが砂子が淡《うす》いの」
 ――何気なく洩らした阿部豊後守のこの一言が争論の基で、一大悲劇が持ち上がったのである。
「ははあさようにお見えになりますかな」融川はどことなく苦々《にがにが》しく、「しかしこの作は融川にとりまして上作のつもりにござります」
「だから見事だと申している。ただし少しく砂子が淡《うす》い」
「決して淡くはござりませぬ」
「余の眼からは淡く見ゆるぞ」
「はばかりながらそのお言葉は素人評かと存ぜられまする」
 融川は構わずこういい切り横を向いて笑ったものである。
「いかにも余は絵師ではない。しかしそもそも絵と申すものは、絵師が描いて絵師が観る、そういうものではないと思うぞ。絵は万人の観るべきものじゃ。万人の鑑識《めがね》に適《かな》ってこそ天下の名画と申すことが出来る。――この八景砂子が淡い。持ち返って手を入れたらどうじゃな」
 満座の前で云い出した以上豊後守も引っ込むことは出来ない。是が非でも押し付けて一旦は自説を貫かねば老中の貫目《かんめ》にも係わるというもの、もっとも先祖|忠秋《ただあき》以来ちと頑固に出来てもいたので、他人なら笑って済ますところも、肩肘張って押し通すという野暮な嫌《きら》いもなくはなかった。
 狩野融川に至っては融通の利かぬ骨頂で、今も昔も変わりのない芸術家|気質《かたぎ》というやつであった。これが同時代の文晁ででもあったら洒落《しゃれ》の一つも飛ばせて置いてサッサと屏風を引っ込ませ、気が向いたら砂子も蒔こう厭なら蒔いたような顔をして、数日経ってから何食わぬ態《てい》でまた持ち込むに違いない。いかに豊後守が頑固でも二度とは決してケチもつけまい。
「おおこれでこそ立派な出来。名画でござる、名画でござる」などと褒めないものでもない。
「オホン」とそんな時は大いに気取って空《から》の咳《せき》でもせい[#「せい」に傍点]て置いてさて引っ込むのが策の上なるものだ。
 それの出来ない融川はいわゆる悲劇の主人公なのでもあろう。
 持ち返って手入れせよと、素人の豊後守から指図《さしず》をされ融川は颯《さっ》と顔色を変えた。急《せ》き立つ心を抑えようともせず、
「ご諚《じょう》ではござれどさようなこと融川お断わり申し上げます! もはや手前と致しましては加筆の必要認めませぬのみかかえって蛇足と心得まする」
「えい自惚《うぬぼれ》も大抵にせい!」豊後守は嘲笑《あざわら》った。「唐《もろこし》徽宗《きそう》皇帝さえ苦心して描いた牡丹の図を、名もない田舎の百姓によって季節外れと嘲られたため描き改めたと申すではないか。役目をもって申し付ける。持ち返って手入れ致せ!」
 老中の役目を真っ向にかざし豊後守はキメ付けた。しかし頑《かたく》なの芸術家はこうなってさえ折れようとはせず、蒼白の顔色に痙攣する唇、畳へ突いた手の爪でガリガリ畳目を掻きながら、
「融川断じてお断わり。……融川断じてお断わり。……」
「老中の命にそむく気か!」
「身|不肖《ふしょう》ながら狩野宗家、もったいなくも絵所預り、日本絵師の総巻軸、しかるにその作入れられずとあっては、家門の恥辱にござります!」
 彼は俄然笑い出した。
「ワッハッハッハッこりゃ面白い! 他人《ひと》に刎ねられるまでもない。自身《みずから》出品しないまでよ。……何を苦しんで何を描こうぞ。盲目《めくら》千人の世の中に自身《みずから》出品しないまでよ!」
 融川はつと[#「つと」に傍点]立ち上がったが見据えた眼で座中を睨む……と、スルスルと部屋を出た。
 一座寂然と声もない。
 ひそかに唾を呑むばかりである。
 その時日頃融川と親しい、林大学頭が膝行《にじ》り出たが、
「豊後守様まで申し上げまする」
「…………」
「狩野融川儀この数日来頭痛の気味にござりました」
「ほほうなるほど。……おおそうであったか」
「本日の無礼も恐らくそのため。……なにとぞお許しくだされますよう」
「病気とあれば是非もないのう」
 ――ちと云い過ぎたと思っていたやさきとりなす者が出て来たので早速豊後守は委せたのであった。――
 しかしそれは遅かった。悲劇はその間に起こったのである。

        

 ちょうど同じ日のことであった。
 葛飾北斎は江戸の町を柱暦《はしらごよみ》を売り歩いていた。
 北斎といえば一世の画家、その雄勁の線描写とその奇抜な取材とは、古今東西に比を見ずといわれ、ピカソ辺《あた》りの表現派絵画と脈絡通ずるとまで持て囃《はや》されているが、それは大正の今日のことで、北斎その人の活きていた時代――わけても彼の壮年時代は、ひどく悲惨《みじめ》なものであった。第一が無名。第二が貧乏。第三が無愛想で人に憎まれた。彼の履歴を見ただけでも彼の不遇振りを知ることが出来よう。
「幕府|用達《ようたし》鏡師《かがみし》の子。中島または木村を姓とし初め時太郎|後《のち》鉄蔵と改め、春朗、群馬亭、菱川宗理、錦袋舎等の号あれども葛飾北斎最も現わる。彫刻を修めてついに成らず、ついで狩野融川につき狩野派を学びて奇才を愛せられまさに大いに用いられんとしたれど、不遜をもって破門せらる。これより勝川春章に従い設色をもって賞せられたれども師に対して礼を欠き、春章怒って放逐す。以後全く師を取らず俵屋宗理の流風を慕いかたわら光琳の骨法を尋《たず》ね、さらに雪舟、土佐に遡《さかのぼ》り、明人《みんじん》の画法を極むるに至れり」
 云々というのが大体であるが、勝川春章に追われてから真のご難場《なんば》が来たのであった。要するに師匠と離れると共に米櫃《こめびつ》の方にも離れたのである。
 彼はある時には役者絵を描きまたある時には笑絵《わらいえ》をさえ描いた。頼まれては手拭いの模様さらに引き札の図案さえもした。それでも彼は食えなかった。顔を隠して江戸市中を七色唐辛子を売り歩いたものだ。
「辛い辛い七色唐辛子!」
 こう呼ばわって売り歩いたのである。彼の眼からは涙がこぼれた。
「絵を断念して葛飾《かつしか》へ帰り土を掘って世を渡ろうかしら」――とうとうこんなことを思うようになった。
 やがて師走《しわす》が音信《おとず》れて来た。
 暦が家々へ配られる頃になった。問屋《といや》へ頼んで安くおろして貰い、彼はそれを肩に担ぎ、
「暦々、初刷り暦!」
 こう呼んで売り歩いた。
「暦を売って儲けた金でともかくも葛飾へ行って見よう。名主の鹿野紋兵衛様は日頃から俺《わし》を可愛がってくださる。あのお方におすがりして田地を貸して頂こう。俺には小作が相応だ」
 ひどく心細い心を抱いて、今日も深川の住居から神田の方までやって来たが、ふと気が付いて四辺《あたり》を見ると、鍛冶橋狩野家の門前である。
「南無三宝、これはたまらぬ」
 あわてて彼は逃げかけた。しかし一方恋しさもあって逃げ切ってしまうことも出来なかった。向かいの家の軒下へ人目立たぬように身をひそめ、冠った手拭いの結びを締め、ビューッと吹き来る師走の風に煽られて掛かる粉雪を、袖で打ち払い打ち払いじっ[#「じっ」に傍点]と門内を隙《す》かして見たが、松の前栽に隠されて玄関さえも見えなかった。
「別にご来客もないかして供待ちらしい人影もない。……お師匠様にはご在宅かそれとも御殿へお上がりか? 久々でお顔を拝したいが破門された身は訪ねもならぬ。……思えば俺もあの頃は毎日お邸へ参上し、親しくご薫陶を受けたものを思わぬことからご機嫌を損じ、宇都宮の旅宿から不意に追われたその時以来、幾年となくお眼にかからぬ。身から出た錆《さび》でこのありさま。思えば恥ずかしいことではある」
 述懐めいた心持ちで立ち去り難く佇《たたず》んでいた。
 寛政初めのことであったが、日光廟修繕のため幕府の命を承わり狩野融川は北斎を連れて日光さして発足した。途中泊まったのは蔦屋《つたや》という狩野家の従来の定宿であったが、余儀ない亭主の依頼によってほん[#「ほん」に傍点]の席画の心持ちで融川は布へ筆を揮《ふる》った。童子《どうじ》採柿《さいし》の図柄である。雄渾の筆法閑素の構図。意外に上出来なところから融川は得意で北斎にいった。
「中島、お前どう思うな?」
「はい」と云ったが北斎はちと腑に落ちぬ顔色であった。「竿が長過ぎはしますまいか」
「何?」と融川は驚いて訊く。
「童子は爪立っておりませぬ。爪立ち採るよう致しました方が活動致そうかと存ぜられます」憚《はばか》らず所信を述べたものである。
 矜持《きんじ》そのもののような融川が弟子に鼻柱を挫かれて嚇怒《かくど》しない筈がない。
 彼は焦《いら》ってこう怒鳴った。
「爪立ちするは大人の智恵じゃわい! 何んの童子が爪立とうぞ! 痴者《たわけもの》めが! 愚か者めが!」

        

 しかし北斎にはその言葉が頷き難く思われた。「爪立ち採るというようなことは童子といえども知っている筈だ」――こう思われてならなかった。でいつまでも黙っていた。この執念《しゅうね》い沈黙が融川の心を破裂させ、破門の宣告を下させたのである。
「それもこれも昔のことだ」こう呟いて北斎は尚もじっと[#「じっと」に傍点]佇んでいたが、寒さは寒し人は怪しむ、意を決して歩き出した。
 ものの三町と歩かぬうちに行く手から見覚えある駕籠が来た。
「あああれは狩野家の乗り物。今御殿からお帰りと見える。……どれ片寄って蔭ながら、様子をお伺がいすることにしよう」
 ――北斎は商家の板塀の蔭へ急いで体を隠したがそこから往来を眺めやった。
 今日が今年の初雪で、小降りではあるが止む時なくさっきから隙《ひま》なく降り続いたためか、往来《みち》は仄《ほの》かに白み渡り、人足絶えて寂しかったが、その地上の雪を踏んでシトシトと駕籠がやって来た。
 今北斎の前を通る。
 と、タラタラと駕籠の底から、雪に滴《したた》るものがある。……北斎の見ている眼の前で雪は紅《くれない》と一変した。
「あっ」
 と叫んだ声より早く北斎は駕籠先へ飛んで行ったが、
「これ、駕籠止めい駕籠止めい!」
 グイと棒鼻を突き返した。
「狼藉者!」
 と駕籠|側《わき》にいた、二人の武士、狩野家の弟子は、刀の柄へ手を掛けて、颯《さっ》と前へ躍り出した。
「何を痴《たわけ》! 迂濶者めが! お師匠の一大事心付かぬか! おろせおろせ! えい戸を開けい」
 北斎の声の凄じさ。気勢に打たれて駕籠はおりる。冠った手拭いかなぐり捨て、ベッタリと雪へ膝を突き、グイと開けた駕籠の扉。プンと鼻を刺すは血の匂いだ。
「お師匠様。……」
 と忍び音に、ズッと駕籠内へ顔を入れる。
 融川は俯向き首垂《うなだ》れていた。膝からかけて駕籠一面飛び散った血で紅斑々《こうはんはん》、呼息《いき》を刻む肩の揺れ、腹はたった[#「たった」に傍点]今切ったと見える。
「無念」
 と融川は首を上げた。下唇に鮮やかに五枚の歯形が着いている。喰いしばった歯の跡である。……額にかかる鬢の乱れ。顔は藍《あい》より蒼白である。
「そ、そち誰だ? そち誰だ?」
「は、中島めにござります。は、鉄蔵めにござります……」
「無念であったぞ! ……おのれ豊後!」
「お気を確かに! お気を確かに!」
「……一身の面目、家門の誉れ、腹切って取り止めたわ! ……いずれの世、いかなる代にも、認められぬは名匠の苦心じゃ!」
「ごもっともにござります。ごもっともにござります!」
「ここはどこじゃ? ここはどこじゃ?」
「お屋敷近くの往来中……薬召しましょう。お手当てなさりませ」
「無念!」
 と融川はまた呻いた。
「駕籠やれ!」
 と云いながらガックリとなる。
 はっ[#「はっ」に傍点]と気が付いた北斎は駕籠の戸を立てて飛び上がった。それから静かにこう云った。
「狩野法眼様ご病気でござる。駕籠ゆるゆるとおやりなされ」
 変死とあっては後がむつかしい。病気の態《てい》にしたのである。
 ちらほら[#「ちらほら」に傍点]と立つ人影を、先に立って追いながら、北斎は悠々と歩いて行く。
 この時ばかりは彼の姿もみすぼらしい[#「みすぼらしい」に傍点]ものには見えなかった。

 その夜とうとう融川は死んだ。
 この報知《しらせ》を耳にした時、豊後守の驚愕は他《よそ》の見る眼も気の毒なほどで、怏々《おうおう》として楽しまず自然|勤務《つとめ》も怠《おこた》りがちとなった。
 これに反して北斎は一時に精神《こころ》が緊張《ひきし》まった。
「やはり師匠は偉かった。威武にも屈せず権力にも恐れず、堂々と所信を披瀝したあげく、身を殺して顧《かえりみ》なかったのは大丈夫でなければ出来ない所業《しわざ》だ。……これに比べては貧乏などは物の数にも入りはしない。荻生徂徠《おぎゅうそらい》は炒豆《いりまめ》を齧って古人を談じたというではないか。豆腐の殻を食ったところで活きようと思えば活きられる。……葛飾へ帰るのは止めにしよう。やはり江戸に止どまって絵筆を握ることにしよう」
 ――大勇猛心を揮い起こしたのであった。

        

 こういうことがあってからほとんど半歳の日が経った。依然として北斎は貧乏であった。
 ある日大店の番頭らしい立派な人物が訪ねて来た。
 主人の子供の節句に飾る、幟《のぼ》り絵を頼みに来たのである。
「他に立派な絵師もあろうにこんな俺《わし》のような無能者《やくざもの》に何でお頼みなさるのじゃな?」
 例の無愛相な物云い方で北斎は不思議そうにまず訊ねた。
「はい、そのことでございますが、私|所《ところ》の主人と申すは、商人《あきゅうど》に似合わぬ風流人で、日頃から書画を好みますところから、文晁先生にもご贔屓《ひいき》になり、その方面のお話なども様々承わっておりましたそうで、今回節句の五月幟《さつきのぼ》りにつき先生にご意見を承わりましたところ、当今浮世絵の名人と云えば北斎先生であろうとのお言葉。主人大変喜ばれまして早速私にまかり越して是非ともご依頼致せよとのこと、さてこそ本日取急ぎ参りました次第でござります」
「それでは文晁先生が俺《わし》を推薦くだされたので?」
「はいさようにござります」
「むう」
 とにわかに北斎は腕を組んで唸り出した。
 当時における谷文晁は、田安中納言家のお抱え絵師で、その生活は小大名を凌ぎ、まことに素晴らしいものであった。その屋敷を写山楼《しゃざんろう》と名付け、そこへ集まる人達はいわゆる一流の縉紳《しんしん》ばかりで、浮世絵師などはお百度を踏んでも対面することは困難《むずか》しかった。――その文晁が意外も意外自分を褒めたというのだからいかに固陋《ころう》の北斎といえども感激せざるを得なかった。
「よろしゅうござる」
 と北斎は、喜色を現わして云ったものである。
「思うさま腕を揮いましょう。承知しました、きっと描きましょう」
「これはこれは早速のご承引《しょういん》、主人どれほどにか喜びましょう」
 こういって使者《つかい》は辞し去った。
 北斎はその日から客を辞し家に籠もって外出せず、画材の工夫に神《しん》を凝らした。――あまりに固くなり過ぎたからか、いつもは湧き出る空想が今度に限って湧いて来ない。
 思いあぐんである日のこと、日頃信心する柳島《やなぎしま》の妙見堂へ参詣した。その帰路《かえりみち》のことであったがにわかに夕立ちに襲われた。雷嫌いの北斎は青くなって狼狽し、田圃道を一散に飛んだ。
 その時眼前の榎《えのき》の木へ火柱がヌッと立ったかと思うと四方一面深紅となった。耳を聾《ろう》する落雷の音! 彼はうん[#「うん」に傍点]と気絶したがその瞬間に一個の神将、頭《かしら》は高く雲に聳え足はしっかりと土を踏み数十丈の高さに現われたが――荘厳そのもののような姿であった。
 近所の農夫に助けられ、駕籠に身を乗せて家へ帰るや、彼は即座に絹に向かった。筆を呵《か》して描き上げたのは燃え立つばかりの鍾馗《しょうき》である。前人未発の赤鍾馗。紅《べに》一色の鍾馗であった。
 これが江戸中の評判となり彼は一朝にして有名となった。彼は初めて自信を得た。続々名作を発表した。「富士百景」「狐の嫁入り」「百人一首絵物語」「北斎漫画」「朝鮮征伐」「庭訓往来」「北斎画譜」――いずれも充分芸術的でそうして非常に独創的であった。
 彼は有名にはなったけれど決して金持ちにはなれなかった。貨殖《かしょく》の道に疎《うと》かったからで。
 彼は度々|住家《いえ》を変えた。彼の移転性は名高いもので一生の間に江戸市中だけで、八十回以上百回近くも転宅《ひっこし》をしたということである。越して行く家越して行く家いずれも穢ないので有名であった。ひとつは物臭い性質から、ひとつはもちろん家賃の点から、貧家を選まざるを得なかったのである。
 それは根岸|御行《おぎょう》の松に住んでいた頃の物語であるが、ある日立派な侍が沢山の進物を供に持たせ北斎の陋屋《ろうおく》を訪ずれた。
「主人阿部豊後守儀、先生のご高名を承わり、入念の直筆頂戴いたしたく、旨《むね》を奉じてそれがし事本日参上致しましてござる。この儀ご承引くだされましょうや?」
 これが使者の口上であった。
 阿部豊後守の名を聞くと、北斎の顔色はにわかに変わった。物も云わず腕を組み冷然と侍を見詰めたものである。
 ややあって北斎はこう云った。
「どのような絵をご所望かな?」
「その点は先生のお心次第にお任せせよとのご諚にござります」
「さようか」
 と北斎はそれを聞くと不意に凄く笑ったが、
「心得ました。描きましょう」
「おおそれではご承引か」
「いかにも入念に描きましょう。阿部様といえば譜代の名門。かつはお上のご老中。さようなお方にご依頼受けるは絵師冥利にござります。あっ[#「あっ」に傍点]とばかりに驚かれるような珍しいものを描きましょう。フフフフ承知でござるよ」

        

 その日以来門を閉じ、一切来客を謝絶して北斎は仕事に取りかかった。弟子はもちろん家人といえども画室へ入ることを許さなかった。
 彼の意気込みは物凄く、態度は全然|狂人《きちがい》のようであった。……こうして実に二十日間というもの画面の前へ坐り詰めていた。何をいったい描いているであろう? それは誰にも解らなかった。とにかく彼はその絵を描くに臨本《りんぽん》というものを用いなかった。今日のいわゆるモデルなるものを用いようとはしなかった。彼はそれを想像によって――あるいはむしろ追憶によって、描いているように思われた。
 こうして彼は二十日目にとうとうその絵を描き上げた。
 彼は深い溜息をした。そうしてじっと[#「じっと」に傍点]画面を見た。彼の顔には疲労があった。疲労《つか》れたその顔を歪めながら会心の笑《えみ》を洩らした時には、かえって寂しく悲しげに見えた。
 クルクルと絵絹を巻き納めると用意して置いた白木の箱へ、静かに入れて封をした。
 どうやら安心したらしい。
 翌日阿部家から使者が来た。
「このまま殿様へお上げくだされ」
 北斎は云い云い白木の箱を使者の前へ差し出した。
「かしこまりました」
 と一礼して、使者はすぐに引き返して行った。
 ここで物語は阿部家へ移る。
 阿部家の夜は更けていた。
 豊後守は居間にいた。たった今柳営のお勤め先から自宅へ帰ったところであってまだ装束を脱ぎもしない。
「北斎の絵が描けて参ったと? それは大変速かったの」
 豊後守は満足そうに、こう云いながら手を延ばし、使者に立った侍臣金弥から、白木の箱を受け取った。
「どれ早速一見しようか。それにしても剛情をもって世に響いた北斎が、よくこう手早く描いてくれたものじゃ。使者の口上がよかったからであろうよ。ハハハハハ」
 とご機嫌がよい。
 まず箱の紐を解いた。つづいて封じ目を指で切った。それからポンと葢《ふた》をあけた。絵絹が巻かれてはいっている。
「金弥、燈火《あかり》を掻き立てい。……さて何を描いてくれたかな」
 呟きながら絵絹を取り出し膝の前へそっと置いた。
「金弥、抑えい」
 と命じて置いて、スルスルと絵絹を延べて来たが、延べ終えてじっと[#「じっと」に傍点]眼を付けた。
「これは何んだ?」
「あっ。幽霊!」
 豊後守と金弥の声とがこう同時に筒抜けた。
「おのれ融川!」
 と次の瞬間に、豊後守の叫び立てる声が、深夜の屋敷を驚かせたが、つづいて「むう」という唸《うな》り声、……どん[#「どん」に傍点]と物の仆れる音。……豊後守は気絶したらしい。

 幽霊といえば応挙を想い、応挙といえば幽霊を想う。それほど応挙の幽霊は有名なものになっているが、しかし北斎が思うところあって豊後守へ描いて送った「駕籠幽霊」という妖怪画はかなり有名なものである。
 白皚々《はくがいがい》たる雪の夕暮れ。一丁の駕籠が捨てられてある。駕籠の中には老人がいる。露出した腸《はらわた》。飛び散っている血汐。怨みに燃えている老人の眼! それは人間の幽霊でありまた幽霊の人間である。そうしてそれは狩野融川である。

「そうです私は商売道具で、つまり絵の具と筆と紙とで、師匠の仇を討とうとしました。豊後守様が剛愎でも、あの絵を一眼ごらんになったら気を失うに相違ないと、こう思ってあの絵を描いたのでした。
 私の考えはあたりました。思惑《おもわく》以上に当たりました。あれから間もなく豊後守様はお役をお退きになられたのですからね。
 私は溜飲を下げましたよ。そうして私は自分の腕を益※[#二の字点、1-2-22]信じるようになりましたよ。しかし私は二度と再び幽霊の絵は描きますまい。何故《なぜ》とおっしゃるのでございますか? 理由《わけ》はまことに簡単です、たとえこの後描いたところで到底あのような力強い絵は二度と出来ないと思うからです」
 これは後年ある人に向かって北斎の洩らした述懐である。

底本:「怪しの館 短編」国枝史郎伝奇文庫28、講談社
   1976(昭和51)年11月12日第1刷発行
初出:「サンデー毎日」
   1925(大正14)年1月1日号
入力:阿和泉拓
校正:多羅尾伴内
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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国枝史郎

八ヶ嶽の魔神—— 国枝史郎

   邪宗縁起

         

 十四の乙女《おとめ》久田姫は古い物語を読んでいる。
(……そは許婚《いいなずけ》ある若き女子《おなご》のいとも恐ろしき罪なりけり……)
「姫やどうぞ読まないでおくれ。妾《わたし》聞きたくはないのだよ」
「いいえお姉様お聞き遊ばせよ。これからが面白いのでございますもの。――許婚のある佐久良姫《さくらひめ》がその許婚を恐ろしいとも思わず恋しい恋しい情男《おとこ》のもとへ忍んで行くところでございますもの」
「姫やどうぞ読まないでおくれ。妾は聞きたくはないのだよ」
「お姉様それでは止めましょうね。……」
 姫は静かに書《ふみ》を伏せた。
「ああ、もう今日も日が暮れる。お部屋が大変暗くなった……お姉様|灯火《あかり》を点《つ》けましょうか」
「妾はこのような夕暮れが一番気に入っているのだよ……もう少しこのままにしておいておくれ……お前はそうでもなかったねえ」
「お姉様|妾《わたし》は嫌いですの。妾の好きなのはお日様ですの」
「幼《ちいさ》い時からそうだったよ。明るい華やかの事ばかりをお前は好いておりましたよ。夏彦様のご気象のようにねえ」
「陰気な事は嫌いですの。このお部屋も嫌いですの。いつも陰気でございますもの。お姉様灯火を点けましょうか」
 姉の柵《しがらみ》は返辞をしない。で室《へや》の中は静かであった。柵は三十を過ごしていた。とはいえ艶冶《えんや》たる風貌《ふうぼう》は二十四、五にしか見えなかった。大変|窶《やつ》れていたけれど美しい人の窶れたのは芙蓉《ふよう》に雨が懸《か》かったようなものでその美しさを二倍にする。几帳《きちょう》の蔭につつましく坐り開け放された窓を通して黄昏《たそがれ》の微芒《びぼう》の射し込んで来る中に頸垂《うなだ》れているその姿は、「芙蓉モ及バズ美人ノ粧《ヨソホ》ヒ、水殿風来タッテ珠翠|香《カンバ》シ」と王昌齢が詠《うた》ったところの西宮《せいきゅう》の睫※[#「女+予」、第3水準1-15-77]《はんにょ》を想わせる。
 幼い妹の久田姫がこのお部屋も嫌いですのと姉に訴えたのはもっともであった。館造《やかたづく》りの古城の一室、昔は華やかでもあったろう。今は凄《すさま》じく荒れ果てて器具も調度も頽然《たいぜん》と古び御簾《みす》も襖《ふすま》も引きちぎれ部屋に不似合いの塗りごめの龕《がん》に二体立たせ給う基督《キリスト》とマリヤが呼吸《いきづ》く気勢に折々光り、それと向かい合った床の間に武士を描いた二幅の画像が活けるがように掛けてあるのが装飾《かざり》といえば装飾である。
 久田姫は立ち上がった。静かに画像の前へ行き二人の武士を見比べたが、
「ねえお姉様、何故このお二人は、こうも恐ろしいお顔をして向かい合っているのでございましょう。お互いの眼から毒でも吹き出しお互いの眼を潰《つぶ》し合おうとして睨《にら》み合っているようではございませぬか。そうかと思うとお互いの口は古い城趾《しろあと》にたった二つだけ取り残された門のように固く鎖《と》ざされておりますのねえ。……深い秘密を持っていながらそれを誰にも明かすまいとして苦しんでいるように見えますこと」
 柵《しがらみ》は几帳《きちょう》を押しやってふと[#「ふと」に傍点]立ち上がる気勢を見せたが、
「ほんとにお前の云う通りその画像のお二人は不思議なお顔をしているのねえ」
「お姉様」と云いながら久田姫はつと[#「つと」に傍点]近寄り柵の膝《ひざ》へ手を置いたが、「この画像のお二人のうちどちらか一人|妾《わたし》のお父様に似ておいでになるのではございますまいか?」
「それこそ妄想というものですよ」柵はこうは云ったものの、その声は際立って顫《ふる》えている。
「お前はいつぞや[#「いつぞや」に傍点]も画像を見て同じような事を云ったのねえ。……ああお前のその妄想がどんなに妾を苦しめるでしょう……いいえお前のお父様はどちらにも似てはおいでなさらないのですよ」妹の顔をつくづく見守り重い溜息《ためいき》をそっと吐いたが、「……お前がこの世に産まれた時――もう十四年の昔になる――お前のお父様とお母様とはこのお城からお出ましになり諏訪《すわ》の湖水の波を分け行衛《ゆくえ》知れずにおなりなされたのだよ」
「いいえ妾には信じられませぬ」久田姫は遮《さえぎ》った。「信じられないのでございますわ。何故《なぜ》と申しますにそうおっしゃる時いつもお姉様のお眼の中に涙が溜《た》まるではございませぬか。偽りの証拠でございますわ」
 こう云うと久田姫は眼を抑えた。指と指との隙を洩れて涙が一筋流れ出た。彼女は泣いているのである。
 窓を透して射し込んでいた幽《かす》かな夕暮れの光さえ今は全く消えてしまって室内はようやく闇《やみ》となった。その闇の中で聞こえるものは妹の泣き声ばかりである。
 その時静かに襖が開いて尼《あま》が一人はいって来た。黒い法衣に白い被衣《かつぎ》。キリスト様とマリヤ様に仕えるそれは年寄りの尼であった。
「まあこのお部屋の暗いことは。灯火《あかり》を点《つ》けないのでござりますね。……お祈りの時刻が参りました。灯火をお点けなさりませ」

         二

「はい」
 と久田姫は立ち上がった。そろそろと龕《がん》の前まで行きカチカチと切り火の音をさせ火皿へつつましく火を移した。黄金の十字架は燦然《さんぜん》と輝きキリストのお顔もマリヤのお顔も光を受けて笑《え》ましげに見える。
 年寄りの尼を真ん中にして久田姫と柵《しがらみ》とは龕の前にひざまずいた。
 尼は恭《うやうや》しくお祈りを上げる――「悩み嘆く魂のために安らけき時を与え給え。犯せる罪を浄《きよ》めるために浄罪の時を与え給え。――神の怒りは火となりて我らの五体を焼き給うとも我らは永劫《えいごう》に悔いざらん。アーメン」
「アーメン」
「アーメン」
 と二人の姉妹もそれに続いてさも恭しくこう云った。
「お祈りはもう済みました。お休みなさりませ、お休みなさりませ」
 尼は云い捨てて立ち去った。室内は再び静かになった。と、遠くから祈祷《きとう》の声が讃歌《うた》のように響いて来る。尼達が合唱しているのであろう。
 久田姫は立ち上がり何気なく窓へ近寄って行ったが、
「……おお湖は真っ暗だ。どうやら嵐が出たらしい。濤《なみ》の音が高く聞こえる……ああ湖の上に灯が見える。あそこに船がいるのかも知れない。だんだんこっちへ動いて来る。路案内の灯でもあろう。……」
 姉の柵《しがらみ》は龕の前に尚《なお》つつましくひざまずいていた。熱心にお祈りをしているのであった。すすりなきの声がふと洩れる。
「お姉様」
 と云いながら久田姫は窓を離れ姉の後ろへ寄り添った。
「何をお泣きなされます。妾《わたし》がくどく[#「くどく」に傍点]あのような事をお尋ねしたからでございますか? ……もう妾はお父様のことは何んにもお尋ね致しませぬ。どうぞお許しくださいまし」
 隣りの部屋へ歩きながら、
「妾はこれからはただ一人で考えることに致しましょう。お休みなさりませお姉様。夜はまだ早いのではございますが、妾は悲しくなりましたゆえ、いつものように夜の床の上でご本を読むことに致します。お休みなさりませお姉様」
 彼女の立ち去ったその後は遠くから聞こえる祈祷の声ばかりが寂《さび》しい部屋をいよいよ寂しくいよいよ味気なく領《りょう》している。
 ふと[#「ふと」に傍点]柵は顔を上げたがその眼には涙が溢れている。
「可哀そうな久田姫や、お前は何一つこの妾《わたし》に詫びることはないのだよ。妾こそお前に詫びねばならぬ。可哀そうなお前の身の上は妾の淫《みだ》らな穢《けが》れた血で醜《みにく》く彩《いろど》られているのだからねえ」
 彼女はよろよろと立ち上がり画像の前まで行ったかと思うと二幅の画像を交互《かわるがわる》に眺め、
「ほんとに姫が云ったように何んとマアこの二人の人は悲しそうな顔をしているのであろう。云えば恥となり云わねば怨《うら》みとなる。そう云ったような深い秘密をじっと噛みしめているようだ。けれど妾にはその秘密がどのようなものだか解っている。それが解っているために妾の声はお祈祷《いのり》に顫《ふる》え妾の眼は涙に濡れ……そうして妾の生涯は……」
 その時一人の老人が影のように部屋の中へはいって来た。乱れた白髪|穢《よご》れた布衣《ほい》、永い辛苦《しんく》を想わせるような深い皺《しわ》と弱々しい眼、歩き方さえ力がない。
「お姫様《ひいさま》」と老人は声を掛けた。深みのある濁った声である。
「おお、お前は島太夫……何か妾にご用なの?」
「もうお休みでござりますか?」
「お祈祷《いのり》も済んだし懺悔《ざんげ》もしたし今日のお勤行《つとめ》はつとめてしまったからそろそろ妾は寝ようかと思うよ」
「それがよろしゅうござります。不吉の晩はなるだけ早くお休み遊ばすに限ります」
「え、不吉の晩というのは?」
 老人は窓を指さしたが、
「ご覧あそばせ闇の湖に一つ点《とも》された赤い灯を……」
 云われて柵《しがらみ》はスルスルと窓の方へ寄って行った。後から老人もつづきながら、
「十四年前のある晩のこと、ちょうどあのような赤い灯が湖水を越えて行きましたが、よもや[#「よもや」に傍点]お忘れではござりますまいな? その時あなた様は今夜のようにやはりその窓でそのように湖水を眺めておられました。……お顔の色もお体も今夜のように蒼褪《あおざ》めて顫《ふる》え、そしてお眼からも今夜のように涙が流れておられました。ただ今夜と違っておられます事は尼様達のお祈祷《いのり》の代りに猛《たけ》りに猛る武士《もののふ》のひしめきあらぶ[#「あらぶ」に傍点]声々《こえごえ》が聞こえていたことでござります」
 柵《しがらみ》は物にでも襲われたように両手で顔を抑えたが、「何も彼《か》も妾《わたし》は覚えている。あああの晩の恐ろしかったことは……」
「……その夜お城から乗り出した軍装《いくさよそお》いした二隻の船には互いに剣《つるぎ》を抜きそばめ互いに相手を睨み合った若い二人の武士《もののふ》が乗っておられた筈でござりますな。……それこそ他ならぬあのお二方。画像のお方達でござります」
「それも妾は覚えている。一人は橘宗介《たちばなむねすけ》様! おお妾の許婚《いいなずけ》!」
「はい、そうしてそのお方様こそこの城の主《あるじ》でござりました。そうしてもう一人のお方様は宗介様のおん弟夏彦様でござりました」
「夏彦様! 夏彦様!」

         

 突然思慕に堪《た》えないようにこう柵《しがらみ》は叫んだが、そのままぐるりと窓の方へ向いた。そうして両手を差し出して遥《はる》か湖水の彼方《かなた》の方にその恋人が立っているのを招くかのように打ち振った。
「不吉の夜でござります」――老いたる従者はまた云った。「何故と申しますに、十四年前の古い思い出が甦《よみがえ》り蝮《まむし》に噛《か》まれた昔の傷がちょうどズキズキ痛むように痛んで参ったからでござります。――ご覧遊ばせ、赤い船の灯が次第次第にこのお城へ近寄って参るではござりませぬか。……次第次第にこのお城から遠ざかって行った十四年前の二隻の軍船とは反対に。……お休みなさりませお姫様。不吉の晩でござりますから」
 影のように現われた老人は、影のようにこの部屋から去ろうとしたが、ふと戸口で振り返った。
「思い出したことがござります。と申するは他《ほか》でもござりませぬ。三点鐘《さんてんしょう》のことでござります」老人は回想にふけるように、「十四年前二隻の船が湖水を渡って立ち去りました時、宗介様と夏彦様とがこのようにあなた様とお約束なされ、お誓い遊ばしたではござりませぬか――いつの日いかなる時を問わず闇の夜赤き灯火《ともしび》を点じ湖水を漕《こ》ぎ来る船にしてもし三点鐘を打つ時は……」
「私の許婚《いいなずけ》の帰った証拠!」
「また二点鐘を打つ時は……」
「夏彦様が帰った合図!」
「その通りでござります。今夜のような不吉の晩にはその鐘が不意に湖上から鳴らないものでもござりませぬ。よくよくご用心遊ばしませ」
 足音を消して老人は廻廊の方へ出て行った。
 後は寂然《しん》と静かである。
 と、柵《しがらみ》は身顫《みぶる》いをし物におびえた[#「おびえた」に傍点]というように部屋の中を怖そうに見廻したが、ツト画像の前まで行き、夏彦の画像へ両手を投げ掛け譫言《うわごと》のように叫ぶのであった。
「夏彦様夏彦様、果たし合いにお勝ちくださりませ! そうしてどうぞ一刻も早くお城へお帰りくださりませ! 三点鐘の鳴らぬよう二点鐘の鳴りますように神様お加護くださりませ!」
 とたんに湖上から鐘の音が窓を通して聞こえて来た。赤い灯火のついている軍船で鳴らす鐘に相違ない。
 ボーンと、一つ鮮明《はっき》りと最初の鐘が鳴らされた。続いて二つ目の鐘の音が殷々《いんいん》として響いて来た。
「二点鐘!」と柵は聞き耳をたてながら呟いた。しかし間もなく三つ目の鐘が鮮かに尾を曳いて鳴り渡った。そしてそのまま絶えたのである。三点鐘が鳴ったのだ。恋しい夏彦は帰らずに、名ばかり許婚の宗介が果たし合いに勝って帰って来たのだ。
 柵の顔は蒼白となり眼ばかりギラギラと輝いたが、その眼で夏彦の画像を見詰め物狂わしくこう叫んだ。
「夏彦様夏彦様! あなたは永久にこのお城へはお帰りなさらないのでござりますね。十四年の間、恋と嘆《なげ》きに明かし暮らした妾《わたし》の胸へ二度とお帰りなさらないのだ」
 彼女はにわかに冷ややかな眼で宗介の画像に見入ったが、
「あなたがこのお城へ帰ったとて何が待っておりましょうぞ。お祈祷《いのり》をする尼様と、あなたにとっては敵の子と、そして冷たい許婚の屍《むくろ》ばかり……あなたの希望《のぞみ》はこれこのように消えてしまったのでござりますぞ」――云いながら龕《がん》の前へ行き点《とも》された灯火を吹き消した。
 それから彼女はそろそろと歩いて姫の寝間の前まで来た。
「可哀そうな久田姫や、お前の恋しがっているお父様は、もうこの世にはおいでなさらぬのだよ。お前はこれからは一生をちょうど陽蔭《ひかげ》の花のように寂《さび》しく咲かなければならないのだよ。おお可哀そうな久田姫や! そしてお前のお母様は……そしてお前のお母様は……」
 そこに立ててある几帳《きちょう》の蔭へ彼女は静かにはいって行った。と、一瞬間「あっ」という声が几帳の蔭から聞こえて来たが、ただ一声聞こえただけで後は寂然《しん》と静かになった。
 あわただしい足音を響かせて、島太夫が部屋へ飛び込んで来たのはそれから間もなくのことであった。
「お姫様《ひいさま》! 柵《しがらみ》様!」
 と彼は四辺《あたり》を見廻したが、
「お、これは灯が消えている。それにお休みなされたらしい。……お姫様! お姫様! お起き遊ばさねばなりませぬ! 三点鐘が鳴りました!」
 しかしどこからも返辞がない。几帳の蔭はひそやかである。

         四

「寝息も聞こえぬとはどうしたことだ。よくよくご熟睡遊ばしたと見える。がどうしてもお起こし申さねばならぬ」彼は几帳へ手を掛けたが、「ごめんくださりませお姫様……あっ! これは! 南無三宝《なむさんぼう》!」
 思わず膝をついた一刹那《いっせつな》、タッタッタッと階段を登る逞《たくま》しい足音が聞こえて来たが、闇にもそれと見分けのつく鎧冑《よろいかぶと》に身をよそった一個長身の武士《もののふ》が颯《さっ》と蝙蝠《こうもり》でも舞い込んだように老人の眼前へ現われた。
「誰だ!」と島太夫は声を掛ける。「何用あって参ったぞ! 身分を明かし名をなのれ!」
 すると不思議な侵入者は葬式に鳴らす太鼓のような深い不気味な濁った声で、
「命令するのだ! 灯火《ひ》をつけろ!」ツト一足進んだが、「……年頃闇には慣れておれど久々で見るこの部屋がこう暗くては面白くない。さあすぐに灯火《ひ》をつけろ!」
「そういうお声は? ……あなた様は?」
「俺はこの城の持ち主だ! 俺は橘宗介だ!」
「お殿様でござりましたか」
「何より先に灯《ひ》をつけろ。――そちはたしかこの城で物見の役をつとめていた島太夫と云った老人であろう。幽《かす》かに声に覚えがある。もしその島太夫であるならば忠義一図の男の筈《はず》だ。そちの主人が命ずるのだ、早く灯火《あかり》を点《つ》けるがよい」
 島太夫は恭《うやうや》しく一揖《いちゆう》したが、そろそろと龕《がん》まで歩いて行き燭台に仄《ほの》かに灯をともした。部屋の中が朦朧《もうろう》と明るんで来る。
 宗介は部屋の中を見廻したが、
「……これが昔の俺の城か。あの華美《はなやか》だった部屋だというのか。熊の毛皮を打ち掛けた黒檀《こくたん》の牀几《しょうぎ》はどこへ行った。夜昼絶えず燃えていた銀の香炉もないではないか。……や、ここに十字架《クルス》がある! 誰がここへ置いたのだ? 何んのためにマリヤを飾ったのだ! 俺は昔から天帝《ゼウス》に対して何んの尊敬も払っていなかった。ましてマリヤや基督《キリスト》に対しては頭を下げたことさえない。天帝《ゼウス》の教えを信じたのは俺ではなくて夏彦であった。……島太夫お前は覚えていような。十四年前のある晩に俺と夏彦とは部下を従え三隻の軍船に打ち乗って湖水を分け天竜川を下り一人の女の愛を得ようと阿修羅《あしゅら》のように戦ったことを! ああある時は二つの船は舷《ふなばた》と舷とを触れ合わせて白刃と白刃で切り合った。またある時は二つの船は互いに遠く乗り放し矢合わせをして戦った。闇の夜には篝《かがり》を焼《た》き、星明りには呼子《よびこ》を吹き、月の晩には白浪《しらなみ》を揚げ、天竜の流れ遠州《えんしゅう》の灘《なだ》を血にまみれながら漂《ただよ》った。永い間の戦いに夏彦の部下も俺の部下も一人残らず死に絶えた。俺の弓矢は朽《く》ちて折れ夏彦の弓矢も朽ちて折れた。しかも二人の怨みばかりは綿々《めんめん》として尽きぬのだ」
「その間中このお城にもいろいろの出来事がござりました」
 老いたる家来《けらい》島太夫は眼をしばたたき[#「しばたたき」に傍点]ながら云うのであった。
「お城に止どまった武士《もののふ》達がお殿様方と夏彦様方と明瞭《はっき》り二派に立ち別れ、切り合い攻め合い致しましたため次第次第に人は減り、やがて死に絶えてしまいました。その寂しさに堪えられず、お姫様の柵《しがらみ》様は天帝《ゼウス》の恩寵《おんちょう》にお縋《すが》りして安心を得ようとなされました。それをどうして知ったものか九州|天草《あまくさ》や南海の国々から天帝を信じる尼様達が忍び忍びにおいでなされ、お姫様と力を合わせ殺伐《さつばつ》であったこのお城を祈祷十字架《きとうクルス》聖灯の光で隈々隅々《くまぐますみずみ》まで輝いている教団と一変させました。つまりお城は十四年の間に亡びてしまったのでござります」
「城は亡びても武士は死んでも俺の許婚《いいなずけ》の柵は活きてここに住んでいような?」
「はい、ご無事でござります」
「俺はあの女を愛していた。あの女は俺の許婚だ。俺は死ぬほど愛していた。それだのに柵は俺のことを糸屑《いとくず》ほどにも愛していなかった。あの女の恋人は夏彦であった。俺の弟を愛していたのだ。世にも憎い奴輩《やつばら》め! 虹《にじ》のようなはかないそんな歓楽がいつまでつづくと思っていたのか!」小脇に抱えていた丸い包物《つつみ》を島太夫の前へ突き出したが、「島太夫、十字架《クルス》の前へ行け、この包物《つつみ》を開けて見ろ!」
「…………」――老人は無言で包物を受け取り龕の前まで歩み寄ったが、そろそろと包物をほどいて見た。男の生首が現われた。既《すで》に予期したことである。島太夫は驚きもしなかった。
「見たか。首を。夏彦の首級《くび》だ! ……あの晩は天竜の河の面《も》を燐の光が迷っていた。星さえ見えぬ大空を嵐ばかりが吹いていた。湧き立つ浪は鬣《たてがみ》を乱した白馬のように崩れかかり船を左右にもてあそんだ。俺と夏彦とは二人きりで船の船首《へさき》に突立ちあがり、互いに白刃を抜き合わせ思うままに戦った。天運我にあったと見え、颯《さっ》と突いた突きの一手に夏彦は胸の真ん中を刺され帆柱の下《もと》に倒れたが、そのまま呼吸《いき》は絶えてしまった。――十四年という永い年月互いに怨んだその怨みはこうしてとうとう晴らされたのだ。そうして俺は夏彦の首級を手に提《ひっさ》げて帰って来た。そして今ここに立っている。……ここにこうして立ちながら一人の女を待っているのだ。俺の許婚|柵《しがらみ》の現われて来るのを待っているのだ。さて、島太夫お前に命ずる。早く柵を連れて来い」
「…………」

         

「何も恐れることはない。何も憚《はばか》ることはない。十四年ぶりで城の主《あるじ》が腰に血染めの剣を佩《は》き、手に敵の首級を持ちその首級を女に見せようと思って約束通り帰って来たのだ。さあ柵を連れて来い! 島太夫、柵にこう云ってくれ。……戦いに倦《あ》きた宗介《むねすけ》が生血《なまち》に倦きたこの俺が美しい許婚に邂逅《ゆきあ》って恋の甘酒《うまざけ》に酔いしれ[#「しれ」に傍点]たくそれで帰って来たのだとな。そしてまたこうも云ってくれ、そなたの恋人の夏彦を大事にかけて連れて来たとな、その夏彦は世にも穏《おとな》しく笑いもせず物も云わずただ悲しそうに無念気に黙っていると云ってくれ。早く行け島太夫! そうして柵《しがらみ》を連れて来い! 俺は女を見たいのだ。殺された恋人の首級《くび》を見てどんなに女が悶《もだ》え苦しむか俺はそれが見たいのだ。その悲しみとその悶えとを俺に見せまいと押し隠し空々《そらぞら》しい笑《え》みを顔に湛《たた》えて俺の方へ手を延ばすその柵を見たいのだ。早く柵を連れて来い!」
「お連れ致さずともお姫様《ひいさま》はすぐお殿様のお目の前においで遊ばすのでござります」島太夫は顫《ふる》えながら手を上げて几帳《きちょう》の蔭《かげ》を指差した。「静かな睡眠《ねむり》永遠の睡眠《ねむり》……お姫様は几帳の蔭で眠っておられるのでござります」
 聞くと一緒に宗介はつかつかと几帳の前まで行った。
「柵、柵、眼を醒《さ》ませ。そなたの許婚宗介が今こそここへ戻って来たのだ。さあ早くそこから出て俺《わし》の贈り物を見るがよい。やッ……」
 とにわかに仰天《ぎょうてん》し宗介は几帳を掻いやったがぐたり[#「ぐたり」に傍点]と膝を床に突いた。
 と、灯火の仄《ほの》かの光に淡くおぼろに照らし出されたのは血に染んだ柵の屍骸《なきがら》である。
 思わず宗介は両手を延ばし彼女の躯《からだ》を抱き起こしたとたんに、襖《ふすま》がサラリと開いて走り出た一人の乙女。
「お姉様!」
 と叫びながら柵の屍骸へ取り縋《すが》る。
「誰だ!」
 と宗介は眼を見張りその乙女を見詰めたが、何んに驚いたか抱えていた柵をはたと床へ取り落とした。
 と、島太夫は沈痛にむしろ厳《おごそ》かに云うのであった。
「お姫様でござります。柵様が十四年前にお産み遊ばしたお姫様の久田姫でござります」
「十四年前に産んだというか? ふうむ、確かに十四年前だな? ……これ娘顔を上げろ! おおいかにも酷似《そっく》りだ! 夏彦の容貌《かお》と酷似《そっく》りだ! 因果な娘よ不義の塊《かたまり》よ、立って十字架《クルス》の前へ行け! そこにある首級《くび》がお前の親父《おやじ》だ。そうしてここに自害している柵こそはお前の母親だ」
 宗介は腰の太刀を抜き、躍《おど》り上がり躍り上がり打ち振ったが、
「栄えに栄えた城は亡び仇も恋人も等《ひと》しく死んだ! 俺は彼らに裏切られた。俺の怨恨《うらみ》は永劫《えいごう》に尽きまい。俺は一切を失った。俺には何一つ希望《のぞみ》はない! 俺はいったいどうしたらいいのだ※[#感嘆符疑問符、1-8-78] ああ俺は恋を呪《のろ》う! 俺はあらゆる幸福を呪う! 俺は人間を呪ってやる! 俺は生きながら悪魔になろう! 山へ山へ八ヶ嶽へ行こう! 水の上の生活《くらし》には俺は飽きた。俺は山の上の魔神になり下界の人間を呪ってやろう!」
 叫び狂い罵《ののし》る声は窓を通し湖水を渡り、闇の大空に聳《そび》えている八つの峰を持った八ヶ嶽の高い高い頂上《いただき》まで響いて行くように思われた。

 ここまで語って来た杉右衛門は岩の上に突っ立ったまま静かに四辺《あたり》を見廻した。
 文政《ぶんせい》元年秋の事でここ八ヶ嶽の中腹の笹の平と呼ばれている陽当りのよい大谿谷には真昼の光が赭々《あかあか》と今一杯に射《さ》し込んでいる。既に八つの峰々には薄白く初雪が見えているが、ここまでそれが下りて来るには一月余りの余裕があろうか。見渡す限りの山々谷々には黄に紅に色を染めた幾億万葉の紅葉《もみじば》が錦を織って燃え上がっている。眼の下|遥《はる》かの下界に当たって、碧々《あおあお》と湛《たた》えられた大湖水、すなわち諏訪《すわ》の湖水であって、彼方《かなた》の岸に壁白く石垣高く聳《そび》えているのは三万石は諏訪|因幡守《いなばのかみ》の高島城の天主である。
 天《てん》晴れ気澄み鳥啼きしきり長閑《のどか》の秋の日和《ひより》である。
「さて」と杉右衛門は語りつづけた。「我らのご先祖|宗介《むねすけ》様が正親町《おおぎまち》天皇|天正《てんしょう》年間に生きながら魔界の天狗となりこの八ヶ嶽へ上られてからは総《あらゆ》る下界の人間に対して災難をお下しなされたのだ。そしてご自分の生活方《くらしかた》も下界の人間とは差別を立てられ家には住まず窩《あな》に住まわれた。そのうち四方から宗介様を慕って多くの人間が登山して参ったが、それらはいずれも人界《ひとのよ》において妻を奪われ子を殺され財宝を盗まれた不幸の者どもで、下界の人間|総《すべ》てに対して怨恨《うらみ》を持っている人間どもであった。こうして魔神宗介様は多数の眷族《けんぞく》を従えられ、いよいよ益※[#二の字点、1-2-22]《ますます》人間に向かって惨害をお下しなされるうち、世はやや治《おさ》まって信長《のぶなが》時代となりさらに豊臣《とよとみ》時代となりとうとう徳川時代となった。宗介様の肉体はとうにこの世を辞したけれど、魂|尚《なお》神となってこの谿谷《たに》に残っておられる筈だ。そうして我々眷族の子孫は窩に住むため窩人《かじん》と呼ばれ人界の者どもに恐れられ、今日までここに住んで来た。ところが……」
 と窩人の長《おさ》の、杉右衛門は屹《きっ》と眼を瞋《いか》らせ、彼の前にずらりと並んでいる五百に余る窩人の群を隅から隅まで睨み廻したが、
「ところがこの頃どこから来たものか白法師と自分から名を宣《なの》る奇怪な法師がこの山へ来て、『敵を愛せよ』というようなことを熱心に説法し出した。そうだ、これとて不届き千万ではあるが、それにも増して許し難いのは窩人の身分でありながら、その白法師めの説法を窃《ひそ》かに信じる者があり、宗介天狗を勧請《かんじょう》した天狗の宮の境内《けいだい》で毎夜毎夜|集会《つどい》をなし、その白法師を呼び迎え説法を聞く者があるということじゃ。これは我々の宗教《おしえ》から見て許し難い罪悪じゃ! 見出《みいだ》してこの山から追い出さねばならぬ。何んとそうではあるまいかな?」
「そうだそうだ!」
 と叫ぶ声が集まった窩人の口々から雷のように轟《とどろ》いた。
「さて」と一段声を高め杉右衛門はさらに云い出そうとしたが、にわかに棒のように立ちすくみ山の峰の方を見詰め出した。群がった窩人達は怪しみながら彼の眼を追って峰の方を見た。と同音に「わっ!」と叫び大事な評定《ひょうじょう》も忘れたかのように四方に向かって逃げ出した。
 峰は今や山火事なのである。
 涸《か》れ乾いた木の葉に火が点《つ》いたのである。濛々《もうもう》たる黒煙のその中から焔《ほのお》の舌が閃《ひらめ》いて見え嵐に煽《あお》られて次第次第に火勢は麓《ふもと》の方へ流れて来る。
 窩人の部落は今やまさに焼き払われようとしているのである。

         

 窩人の頭領杉右衛門の娘の今年十九の山吹《やまぶき》は家の一間で泣いていた。
 父は寄り合いに出かけて行き弟の牛丸もどこへ行ったものか家の内にはいなかった。
 彼女は泣き喋舌《しゃべ》っているのであった。
「あの人|憤《おこ》って行ってしまったわ。どうしよう、どうしよう、どうしよう! よくまだ妾《わたし》が云わないうちにあの人憤って行ってしまったんだもの。そりゃ妾だって悪かったけれどあの人だってあんまりだわ。……でも妾ほんとにあんな事を何故あの人に云ったんだろう。――妾が都会《みやこ》へ行って見たいと云ったら、あの人にわかに妙な顔をして『何故行きたい』って訊《き》くものだから、『妾もうこんな山の上の部落なんかには飽き飽きした』って、ついうっかり云ってしまうと、あの人恐ろしい顔をして、『山吹、お前は、山の中に住むこの俺の顔にも飽きたろうな。弁解《いいわけ》したって通らねえよ。聞けば高島の城下(今の上諏訪町)から、多四郎とかいう生《なま》っ白《ちろ》い男が、お前を張りに来るそうだが、これ、気を付けねえといけねえぞ。かりにも窩人部落の女で、下界の人間と契《ちぎ》ったが最後天狗の宮の岩の上から深い谷底へ投げ下ろされ必ず生命《いのち》を失うのだからな』と声の調子まで恐ろしく変えて、こうあの人が云ったかと思うと自分の頭の毛を掻き※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《むし》り、『ああ俺はお前に騙《だま》された。俺は意気地《いくじ》のねえ人間だ。俺はお前に見捨てられた! もう俺はこれっきりお前とは逢わねえ! その多四郎とかいう下界の奴と手に手を取って部落を出るがいい。そうして下界の真人間となってうんと[#「うんと」に傍点]出世をするがいいや! だがな、山吹、よく覚えていろよ。お前が下界で出世している時俺はやっぱり窩人部落の八ヶ嶽の中腹の笹の平で、お前の事を恋い焦《こが》れながら猪《しし》熊猿を相手にして憐れに暮らしているってことをな!』……こういうと妾を振り切ってズンズン行ってしまったんだよ。誰があの人を騙《だま》したって云うの。妾《わたし》騙しなんかしやしないわ」
 彼女の前に誰かいて、その人に訴えてでもいるかのように彼女はいつまでも泣き喋舌《しゃべ》っている。
 秋の真昼のことであって黄味の勝った陽の光が家の内まで射し込んでいる。家造作《やづくり》は窩人の風俗通り大岩を掘り抜き柱を立てたいわゆる古代穴居族の普通の家造作と同じであったが、杉右衛門は一族の頭領だったので、したがってその住居は特別に広く半分《なかば》以上は岩窟から外へ喰《は》み出して造られているのであった。
 山吹は窩人族の乙女としてはほとんど類なく美しかった。やはり頭領の一人娘だけに衣裳などでも他の娘などより立派な物を着ているので自然引っ立ちもするのであろうが、下界高島の城下における立派な武士の令嬢と云っても充分通る容姿《ようす》であった。
 その美しい山吹が秋陽に半顔を照らしながらシクシク泣いているのであるから、ちょっと形容出来がたいほど可愛《かわい》らしく見えるのであった。
 その時、手近かの林の中から雉笛《きじぶえ》の音が聞こえて来たが、のっそり[#「のっそり」に傍点]草を分けて出て来たのは彼女の弟の牛丸であったが年はおおかた十四ぐらいでもあろうか、ひょいと[#「ひょいと」に傍点]家の前まで来ると、姉の様子を覗《のぞ》き込んだ。
「うわア、姉さん泣いてらあ。こいつアほんとに面白いや」
 林の中で捕ったのでもあろう雉を一羽|提《さ》げていたが、それを土間の方へ抛《ほう》り出すと縁側へどん[#「どん」に傍点]と腰を掛け、
「今ね、姉さん、多四郎さんがね、姉さんを訪ねてここへ来るよ」
「え、まあ本当! 多四郎さんが?」
「林の中から坂路の方を見たら素晴らしく洒落《しゃれ》込んだ多四郎さんがね、こっちへ上って来るじゃないか。で俺《おい》ら急いで走って行って色々あの人と話したがね……」
「まあそれじゃ本当なんだね」
 山吹は思わず手を上げて髪の乱れを掻き上げた。
 牛丸はそれを見るとニヤニヤして、
「ふうんこいつア妙だなあ、多四郎さんのこととなると姉さん変にソワソワするんだもの」
「そんな事云うもんじゃありませんよ。お前さんはまだ子供じゃないの。……それで多四郎さんは何んと云って?」
「ああ尋《たず》ねたよ姉さんの事を。『あなたの姉さんお幾歳《いくつ》?』てね。厭《いや》に気取った云い方でね」
「そうしてお前さんは何んて答えて?」心配そうに訊くのであった。
 牛丸はまたもニヤニヤしながら、「二十二だって云ってやったよ。つまり三つ懸け値をしてね」
「まあ」と呆《あき》れて山吹は思わず両手を打ち合わせたが、
「どうしようどうしよう悪戯《いたずら》っ子《こ》! 妾あの方に自分の年を十八だって云って置いたのよ!」
 二人の姉弟《きょうだい》は腹を抱え面白そうに笑ったが、その心地よい笑い声は森や林へ反響し二人の耳へ返って来た。

         

 牛丸は部屋の中を見廻したが盆に高く積まれてある秋栗の山を見付けると、
「姉さん誰かお客さんがあったの?」
「ああ、あったよ岩太郎さんがね……」
「ああそう、あの人はいい人だねえ。俺《おい》らあの人大好き。多四郎さんのようにお洒落《しゃれ》でなく、それに部落の人だからね。……何故《なぜ》早く岩さん帰ったんだろう?」
「憤《おこ》って帰って行ったんだよ」
 二人はちょっと眼を見合わせたがそのまましばらく黙っていた。
 林から林へ移って行く小鳥の群が幾度となく二人の前を過ぎて行った。風もないのにホロホロホロホロと紅葉《もみじ》が庭へ降って来る。草叢《くさむら》からピョンと飛び出して峰の方へ颯《さっ》と走って行ったのは栗色をした兎《うさぎ》である。ケーンケーンと森の奥から雉の啼き声が聞こえて来る。時々|雹《ひょう》でも降るかのように林の中から聞こえて来るのははぜ[#「はぜ」に傍点]た大栗が転がり落ちるのである。
 事のない時の部落の光景はまことに平和なものである。
「や、来たらしい。足の音がするよ。多四郎さんが来たんだよ」
 牛丸はこう云って坂の方を首をのばして見やったが、
「下界の奴なんか意気地なしさね、あんな坂を上るのに大息を吐いているんだからな。――俺らはそれでは林へ行って今度は山鳥でも捕ってやろう」
 牛丸はそのまま走り出したが、やがて林に隠れてしまった。同時にひょっこり[#「ひょっこり」に傍点]坂の登り口へ形のよい姿を現わしたのは問題の主の多四郎であった。
 彼は年の頃二十四、五、都風《みやこふう》に髪を結《ゆ》い当世風の扮装《みなり》をし色白面長の顔をした女好きのする男であったが、眼に何んとなく剣があり、唇が余りに紅いのは油断の出来ない淫蕩者《いんとうもの》らしい。肩に振り分けにして掛けているのは麓の城下から持って来るところの色々の珍らしい器具《うつわ》や食物《たべもの》で、つまり彼は山と城下とを往来している行商人なのであった。
「お、これは山吹様、あなたお一人でございますかな? お父様はどこへ参られましたかな? え、寄り合いにおいでなされたと?」
 多四郎は愛想よく笑いながら山吹の側《そば》へやって来たが上がり框《がまち》へ腰を下ろした。
 山吹は何んとなく狼狽して思わず顔を赤らめたりしたが、
「はい、お父様は寄り合いで天狗の宮まで参りました。白法師様を縛《から》め取るための相談なのでございましょうよ」
「あっちへ行っても白法師こっちへ来ても白法師。どうやらお山は白法師のために荒らされているようでございますなあ」
 諂《へつら》うように微笑したが、
「私のためには結句《けっく》幸い。何んとそうではございませぬかな」彼はそろそろと手を延ばして山吹の方へ近寄って行く。
「それはまた何故でございますの」
「だってそうではございませんか。こうしてたった二人きりで差し向かっていることの出来ますのもその白法師様のお蔭ですからな」
 云いながら素早く山吹の手をギュッと握ったが、そこは初心《うぶ》の娘である。「あれ!」と仰山《ぎょうさん》な金切り声を上げ握られた手を振り解《ほど》いた。
「エヘヘヘヘ」
 と笑ったものの多四郎は少なからずテレたものか、テレ隠しに盆の上の栗を摘《つま》んだ。
「ほほう大きな栗ですなあ」わざとらしく眼を見張る。
「よかったらお食《あが》りなさりませ」笑止らしく山吹はこう云った。「余り物ではございますけれど」
「へ、余り物とおっしゃると?」
「あの、お客がありましたのよ」
「あなた一人の所へね?」もう嫉妬《しっと》からの詮索《せんさく》をする。
「ええ心やすい人ですもの。岩さんという方ですわ」
 彼女は無邪気《むじゃき》に云うのであった。
「妾《わたし》の従姉兄《いとこ》に当たりますの」
「それじゃ部落の人ですね」さも嘲《あざ》けった様子をして、
「へ、熊猪《くまじし》のお仲間か! ところで先日の話の続きを今日はお話ししましょうかな」
「どうぞ」
 と山吹は乗り出して来たがもうその眼は恍惚《うっと》りとなり胸をワクワクさせているらしい。
「それジワジワとおいでなすったぞ。この大江戸の話ばかりが資金《もとで》いらずの資金というものさ。田舎《いなか》の女を誑《たら》すにはこれに上越《うえこ》すものはないて」
 ――多四郎はこんなことを思いながら上唇をペロリとなめ、
「……何が美しいと云ったところで江戸の祭礼《まつり》に敵《かな》うものはまず他にはありませんな。揃いの衣裳。山車《だし》屋台。芸妓《げいしゃ》の手古舞《てこま》い。笛太鼓。ワイショワイショワイショワイショと樽《たる》天神を担《かつ》ぎ廻ります。それはたいした[#「たいした」に傍点]景気でさあね。……大名行列もふんだん[#「ふんだん」に傍点]に見られ、河開《かわびら》きにはポンポンと幾千の花火が揚がるんですよ。それより何より面白いのは歌舞伎《かぶき》狂言|物真似《ものまね》でしてね。女役《おやま》、実悪《じつあく》、半道《はんどう》なんて、各自《めいめい》役所《やくどこ》が決まっておりましてな、泣かせたり笑わせたり致しやす。――春の花見! これがまた大変だ!」

         八

「え、大変とおっしゃると?」
 山吹は顔を上気させ眼をうるませて聞き惚れていたが吃驚《びっくり》したようにこう云った。
「何、大変と申したところで悪い意味じゃありませんよ。つまり素晴らしいと云ったまで。――そりゃア素晴らしゅうござんすよ。この辺に咲く山桜、あんなものじゃあありませんね。桃色大輪の吉野桜、それが千本となく万本となく、隅田《すみだ》の堤《どて》、上野の丘に白雲のように咲き満ちています。花見|衣《ごろも》に赤|手拭《てぬぐ》い、幾千という江戸の男女が毎日花見に明かし暮らします。酒を飲む者。踊りを踊る人。伽羅《きゃら》を焚いて嗅《か》ぐものもある。……」
「まあ」――と山吹は感嘆の声を思わず口から洩らしたが、「そういう江戸には美しいお方が沢山《たくさん》おいででございましょうねえ」
「それは沢山おりますとも。それに扮装《みなり》が贅沢《ぜいたく》ですよ。衣裳はお召し。帯は西陣。長襦袢《ながじゅばん》は京の友禅縮緬《ゆうぜんちりめん》。ご婦人方はお化粧をします。白粉《おしろい》に紅《べに》に匂いのある油……」
「まあ」
 とまたも感嘆して山吹は溜息《ためいき》を洩らしたが、
「ああ妾《わたし》行って見たい。ああ妾行って見たい!」と夢見るような声で云った。若い娘の好奇心と若い娘の虚栄心とから迸《ほとばし》り出た声である。
「しめた!」と多四郎は思ったがそういう様子は※[#「口+愛」、第3水準1-15-23]《おくび》にも出さず至極《しごく》真面目の顔付きで、
「江戸へ行きたいとおっしゃるので? おいでなさりませご案内しましょう。ですから私はお逢いするたびに申しておるではありませんか。あなたのような美しい方が何んでこのような山の中の、しかも窩人《かじん》の部落などにいつまでもおいでなさるかとね」
「でも……」と山吹は云いよどんだ。「何んにも知らない田舎者がそのような繁華の土地へ出てあちこち[#「あちこち」に傍点]で恥を掻くよりもいっそやっぱりここにいて兎や猿と暮らした方が身のためになりはしますまいか」
「その心配はご無用です。この多四郎が付いておりやす」彼はポンと胸を叩いたがこういう気障《きざ》なやり口も浮世を知らぬ山の娘にはかえって頼《たの》もしく思われるらしい。で、彼女は莞爾《にっこ》りした。
「あの、そうしてあなたのお家も、お江戸にあるのでございましょうねえ?」
「お江戸? そうそう江戸にあります」
 こう多四郎は云ったものの心中ギクリとしたのであった。彼は城下の人間で江戸などに邸はないからである。
「広いお家でございましょうねえ?」
 山吹はまたも恍惚《うっと》りと訊く。
「え、私の家ですかな? ……ええまあ随分広うごすなあ」――その実多四郎は家ときたら一間《ひとま》しかない裏店《うらだな》なのである。
「ご家内も随分多いんでしょうねえ?」
「家内ええと、二、二十人」――彼は思わず額《ひたい》を拭いた。汗が滲《にじ》んで来たからである。その筈である。彼の家族は彼と母親との二人きりなのだから。
「ああ、駄目だわ! 妾なんか!」
 突然絶望の声を上げ、山吹が両眼を抑《おさ》えたので多四郎はギョッとして腰を浮かせたが、何が駄目なのか解らない。
「ああ、妾なんか及ばないわ!」
 再び彼女は叫んだものである。
「及ばない? 何が? どうしてですな?」
 云いながら好機|逸《いっ》すべからずと彼は山吹の手をとった。それからそっと腰をかける。
 山吹も今度はとられた手を振り放そうとはしなかった。じっとそのままとらせている。
「でもやっぱり行きたいわ。……」
 囈語《うわごと》のようにこう云って彼女は多四郎の顔を見たが、
「あなたはどういうご身分のお方? お侍《さむらい》さんではありませんわねえ」
「違いますとも。そうではありませんとも」
「では、お百姓? ああ商人ね! 大きな大きな商人ね! でもどうしてそんなお方が行商などをなさいますの?」
「さあ、そこです。……」
 と、多四郎は、また額を磨《こす》ったが、
「つまり、見習いをしているので。……」
「ああそう、それで解りました」
 山吹はそこで押し黙って何か空想にふけり出した。と、多四郎は彼女の手を自分の口まで持って来てつと[#「つと」に傍点]唇を着けようとする。その手を山吹はちょっと引いたがそれは無心でしたことであった。そんな事より今や彼女は自分が江戸へ出て行って立身出世をした時の事を空想に浮かべているのであった。
 で、多四郎は懲《こ》りずにまた山吹の手をとったがやはり彼女はそのままでいた。
 と、山吹は囈語《うわごと》のようにまたもこんなことを叫んだのであった。
「ああ妾《わたし》厭だ! 山の中は!」
「では参ろうじゃありませんか。花の大江戸の真ん中へね」
 多四郎は山吹の手を引いた。彼女は彼に引かるるままに彼の胸の上に顔を埋ずめた。
「連れて行ってください! 連れて行ってください! 妾どうしたって江戸へ行きます!」

         九

 凄《すさま》じい微笑が一刹那《いっせつな》多四郎の頬に浮かんだが、山吹の顔をジリジリと上の方へ向けようとする。二人の顔が合った時多四郎は突然自分の顔を山吹の顔へ落としかけた。
 とたんに笑い声が聞こえて来た。ハッとして二人が顔を上げると牛丸が門口に立っている。
「ヤーイ、何をベチャクチャしてるのだい! 岩さんに云い付けるぞ!」憎悪《ぞうお》の光を眼に湛《たた》え、「オイ岩さんがやって来るぞ! 妙な人と一緒にな!」
「馬鹿! 悪戯《いたずら》っ児《こ》! 厭な餓鬼《がき》!」
 そこは部落の女である。猛烈の感情を一時に出して山吹は弟を罵《ののし》った。
「岩さんが何んだ! 岩太郎が何んだよ! 来たら追い出してやるばかりさ!」
「ふん」と牛丸も喧嘩腰《けんかごし》になり、「多四郎の奴が来ないうちは岩さんで大騒ぎをしたくせに!」グルリと森の方へ向きを変えたが、「やあもうそこまでやって来た。……妙な人が従《つ》いて来るよ……」
 山吹も多四郎もそれを聞くと首を差し出して森の方を見た。
「あら、ほんとに岩さんが来る」山吹は周章《あわ》てて叫んだが、「来たら返してやるばかりだね」
「ははあ、不格好なあの男がそれじゃ岩という男ですな」多四郎は鼻を鳴らしながら、「私の家の庭男にも当たらぬ」
 牛丸はさもさも[#「さもさも」に傍点]嬉しそうに、「俺《おい》ら岩さんを迎いに出てやろう」彼はそとまで走って行った。
「おや」
 とにわかに多四郎は不安の様子を現わした。
「何んて恐ろしい顔付きだろう。あの妙な人の顔付きは!」
 彼は両掛けを取り上げた。そうして横手の潜《くぐ》り戸《ど》から坂の方へパタパタと逃げ出した。
「あら、多四郎さんどうなすったの※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
 山吹は驚いて叫んだが、「妾《わたし》も、妾も、妾も一緒に!」
 ――周章《あわ》てて潜り戸から飛び出した。
 後には、部屋の中には誰もいない。黄色い秋陽がしらしら[#「しらしら」に傍点]と敷物の上を照らしている。小鳥が一羽戸惑いしてツト部屋の中へ飛び込んで来たが、すぐ驚いたように飛び出して行った。しん[#「しん」に傍点]と四辺《あたり》は静かである。
 と、戸外《いえのそと》で話し声がする。
「牛丸さん、今日は」
「ああ、岩さん、今日は」
「姉さん家においでかね?」
「ええいますよ家の中に」
「どなたかお客さんでもありますか?」
「…………」
「とにかくはいって見ましょうかね」
 すぐと土間へはいって来たのは、牛丸と岩太郎と白衣《びゃくえ》を着たすなわち「妙な人」とであった。
 岩太郎は多四郎と同年輩であった。人柄はまるで反対であった。真面目で熱烈で堅実でいかにも部落の若者らしい。縞《しま》の筒袖《つつそで》に山袴《やまばかま》を穿《は》き獣皮の帯を締めている。
 白衣の人物はそれとは異なり真に神のように神々《こうごう》しい。抜けるほど白い皮膚の色。髪を肩まで切り下げているのがかえって一種の尊厳を添える。白衣を長く裳《すそ》まで垂れ足の先を隠しているが、その足には何んにも穿《は》いていない。秀《ひい》でた額、高い鼻。形のよい口には微笑が湛《たた》えられ一見|赤児《あかご》さえ懐《なつ》きそうである。彼の眼は全く不思議なものである。つまり威厳の象徴であって、ある時は玲瓏《れいろう》珠の如くに見え、ある時は猛獣をも尻ごみさせるほどの恐ろしい眼にも見えるのであった。しかもそれが一瞬の休みもなく自由自在に変化するのであった。
 岩太郎は四辺を見廻したが、
「おや誰も家にはいないじゃないか」
「やあ姉さんはどこへ行ったんだろう」牛丸は部屋部屋を探し歩いたが、
「いないいないどこにもいない。ああそれじゃ逃げたんだな。岩さんと逢うのが恥ずかしくて。ようし俺ら探して来よう」
 飛び出そうとするのを抑えたのは白衣の妙な人であった。
「探さずともそのうち帰って来よう。巣のある鳥は巣へ帰るものじゃ。……で、お前さんが牛丸さんかね?」
 親しそうに妙な人は尋ねたが、その声はちょうど岩を走る清水のように清らかであった。
 悪戯者《いたずらもの》の牛丸もにわかに態度を改めたが、
「悪戯者の牛丸とは私のことでございます」
 と、さも丁寧《ていねい》に云ったものである。
「ハッハッハッ。悪戯者とは面白いね。自分から云うのは正直でよい。――ところでたった[#「たった」に傍点]今ここから出て坂の方へ逃げた者がある。あれはどういう人間だね?」
「若い男じゃございませんか? もしそうなら多四郎の奴です」

         一〇

「なに多四郎?」
 と、それを聞くと岩太郎は颯《さっ》と顔色を変えたが、妙な人のために制せられた。
「私《わし》もそうだと思いました」妙な人は威厳をこめ、「あの男はよくない人間ですぞ。あの人間はある目的をもって天狗の宮の絶壁の下に木小屋を造って住んでいます。そうして城下へ下りて行っては色々の物を買って来ます。それを持って行商に来るのです。城下から山へ来るのではなく自分は木小屋に住んでいて絶えず部落の動静をうかがい乗ずべき隙を狙《ねら》っているのです。……」
「へえ、さようでございますか。悪い奴でございますなあ」岩太郎はひどく驚いたが、「それにしてもどうしてあなた様はそれをご存知なのでございましょう?」
「ああそれは何んでもない。私は寸刻の隙さえ惜しんでこの山中を見廻っている者じゃ。で、私はある日の事、その木小屋を見付けたのじゃ。……おや、誰か戸口にいるな。私の話を盗み聞きしている」
 なるほど、そう云った瞬間に山吹が戸口からはいって来た。さすがに頬を赤く染め呼吸《いき》をはげしく吐いているのは恋人多四郎を追っかけて行って追いつくことが出来なかったからであろう。
「ああ姉さん」
「おお山吹!」
 二つの声が同時に呼んだ。山吹と呼んだのは岩太郎である。
 岩太郎はツト進み出たが、
「山吹、俺《わし》は何んにも云わぬ。俺は偉い人をお連れした。どうぞこのお方に礼を云っておくれ」
 云われて山吹は眼をあげてその妙な人を眺めたが、にわかにその眼は光を増した。敬虔《けいけん》の情が起こったのである。で、彼女は無言ながら恭《うやうや》しく頭を下げたのである。
 妙な人は神々しい顔に穏《おだや》かな微笑を湛《たた》えたが、
「あああなたが山吹さんで? お目にかかれたのを喜んでおります」
「妾《わたし》も嬉しく存じます」
「山吹!」と岩太郎は情熱をこめ、「山吹、俺は安心している。ここにおられるこのお方がきっと俺達二人の者を和睦《わぼく》させてくださるに相違ない。――さっき俺達は喧嘩したねえ。そしてもう俺は逢わぬと云ってお前の所から飛び出して行った。……しかし俺はまた来たよ。それは他の理由《わけ》でもない。このお方をお前に紹介《ひきあわ》せたいためだ。山吹! このお方はお偉い方だ!」
 頸垂《うなだ》れていた顔を上げ山吹はまたその人を見た。とその人はまた微笑し、さも謙遜《けんそん》に堪《た》えないように、
「いやいや私《わし》は偉い人でも勝《すぐ》れた人間でもありませんよ。俺《わし》は平凡な人間です。しかし俺は真実《ほんと》を語りそして真実《ほんと》を行っています。あるいはこの点が普通の人物《ひと》と違っている点かもしれませんな。……それはとにかく今日|先刻《いましがた》俺はこの方と逢いました。そうです向こうの林の中で岩太郎さんと逢ったのです。そうして俺はこの方と暫時《しばらく》無駄話をしましたっけ」
「そうです」
 と岩太郎は感謝の眼《まなこ》を上げ、
「……恋を失った口惜しさに俺《わたし》は頭の毛を掻《か》き※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《むし》りながら林の中を走っていました。その時ヒョッコリあなた様にお目にかかることが出来ました。俺《わたし》は一眼あなた様を見た時すぐに懐かしく存じました。それで俺は何も彼も――山吹との恋のことや、その恋が今日破れたことまでお話ししたのでございます」
「そうそうあの時のあなたというものはまるで狂人のようでしたね」
 妙な人は打ち案じながら、
「けれど暫時《しばらく》俺《わし》を相手に無駄話をしておられるうちに次第に心が和《なご》みましたな。……さて、話は変わりますが、ひとつ俺《わし》は山吹さんに物語を聞かせてあげようと思う。それは決してあなたにとって損の話ではありません。いかがです、お聞きなさいますか?」
「どうぞおきかせくださいますよう」
 柔順《すなお》に山吹は云ったものである。
「……第一番に云って置きたいことは俺《わし》が旅行家だということです。――俺は肥前の長崎にもおりまた大坂にもおりました。また京師《けいし》にも名古屋にもあらゆる所におりました。もちろん江戸にもおりました。――さて、そこで山吹さん、どこの話をしましょうかな?」
「はい」と山吹は活気づき、
「それではどうぞ江戸の話をお聞かせなされてくださいまし」
「よろしゅうござる、江戸の話をそれではお聞かせ致すとしましょう」
 妙な人は瞑目《めいもく》し何かじっと[#「じっと」に傍点]考えていたが、
「江戸は悪魔の巣でござるよ!」
 一句鋭く喝破《かっぱ》した。
「いえ違います違います!」
 と嘲《あざ》けるように叫び出したのは充分多四郎の甘言によって江戸の華美《はなやか》さを植え付けられた彼女山吹に他ならなかった。
「いいえ江戸は美しい人達の華美《はなやか》に遊びくらしている極楽だということでござります!」
「聞け!」と再び鋭い声が妙な人の口から迸《ほとばし》ったが、一座その声に威圧され一度にしん[#「しん」に傍点]と静かになった。
 さて、そもそも妙な人は何を語ろうとするのであろう? しかし少なくも妙な人は、虚栄虚飾に憧憬《あこが》れている山の乙女山吹の心をその本来の質朴の心へ返そうとしているのは確からしいが、はたして山吹は彼の言を聞き元の乙女に立ち返るか、それとも多四郎に誘惑されるか? これこそ作者が次において語らんとする眼目である。

         一一

 岩太郎と山吹とを前に据えて白衣《びゃくえ》長髪の妙な人は江戸の話を話し出した。
「……江戸は将軍家おわす所、それはそれはこの上もなく派手な賑やかな所です。上は大名旗本から下は職人商人まで身分不相応に綺羅《きら》を張り、春は花見秋は観楓《かんぷう》、昼は音曲夜は酒宴……競って遊楽《あそび》に耽《ふけ》っております。山海の珍味、錦繍《きんしゅう》の衣裳、望むがままに買うことも出来、黄金《こがね》の簪《かんざし》※[#「王+毒」の「毋」に代えて「母」、第3水準1-88-16]瑁《たいまい》の櫛《くし》、小判さえ積めば自分の物となる。そうです。実に小判さえ出せば万事万端|己《おの》が自由《まま》――これが江戸の習俗《ならわし》です。したがってそこには『静粛《せいしゅく》』もなければ『謙遜』というような美徳もなく、あるものは『虚偽』と『偽善』ばかりです。……実際そこには小鳥も啼かず緑の美しい林もなく穀物の匂いも流れて来ず、嫉妬《しっと》、猜疑《さいぎ》、朋党異伐、金銭《かね》に対する狂人《きちがい》のような執着、そのために起こる殺人兇行――あるものと云えばこんなものばかりです。しかも、そのくせ表面《うわべ》はと云えば、いかにも美しくいかにも華麗《はなやか》に、質朴で正直な田舎の人を誘惑するように出来ております。……それに反してこの笹の平は何んという結構な所でしょう」
 云いながら静かに身を廻《めぐ》らし戸外《そと》の景色を指差したが、
「畑を耕す男、車を押す女。楽しそうに叫んでいる子供や犬。……何んと長閑《のどか》ではありませんか。……真昼の光に照らされて紅葉の林が燃え立っております。雑草に雑《まじ》った野菊の花。風に揺れなびく葛《くず》の花。花から花へ蜜をあさる白い蝶《ちょう》や黄色い蝶、峰から丘、丘から谷、谷から麓《ふもと》へ群を作《な》して渡って行く渡り鳥。……何んと平和ではありませんか。――谷川の音は自然の鼓、松吹く風は天籟《てんらい》の琴、この美妙の天地のなかに胚胎《はぐく》まれた恋の蕾《つぼみ》に虫を附かせてはなりません。――幸福というものは破れ易くまた二度とは来ないものです」
 こう云いながら妙な人は二人の方へ手を延ばした。と、山吹も岩太郎も思わずその手へ縋《すが》り付く。その二人の手を繋《つな》ぎ合わせ、妙な人は云うのであった。
「美しい衣服《きもの》は裁縫師《さいほうし》が製し位《くらい》や爵《しゃく》は式部寮が造る。要するにみんなつまらない物です。尊いものは人の愛だ! いつまでもいつまでも愛し愛さなければなりません。二人のうちの誰か一人がもしこの愛を破ったならその人は恐らく底の知れない不幸の淵へ沈むでしょう」
「はい」
 と岩太郎は涙を流し、つつましく丁寧《ていねい》に頭を下げたが、
「たとえ殺すと云われましても今日のお教えに背《そむ》くようなことは必ず私は致しませぬ。……山吹! お前はどうする気だな?」
「岩さん、妾《わたし》が悪かった。もうどこへも行く気はないから悪く思わずに堪忍《かんにん》しておくれ」
「おおそうか、有難てえなア。何んの許すも許さぬもねえ。俺《わし》の方から礼を云うよ」
 二人はひしと抱き合った、すすりなきの声が聞こえて来る、岩太郎の胸へ顔を埋めたそれは山吹の泣き声である。すなわち甘い誘惑のために危うく足を踏みはずそうとして、わずかに助けられた悲喜の情が泣き声となってほとばしったのである。
 誰もじっと黙っている。
 秋の真昼は静かである。
 さっきから門口に佇《たたず》んで様子を見ていた牛丸は、この時つかつか[#「つかつか」に傍点]とはいって来たがさもさも感嘆したように妙な人へ話しかけた。
「あなたは偉い方ですねえ、あなたはどういう方なんです?」
 すると白衣の妙な人は穏かな微笑を頬に湛《たた》えながら牛丸の方へ進み寄り軽く頭を撫《さす》った。
「私《わし》かね、私は坊さんだよ。……総《すべ》ての人よ愛し合えよ! こういう宗旨を拡めようとこの部落へ来た坊さんだよ」
「坊さん? ううん、坊さんじゃないよ。だって頭に髪があるじゃないか」
「だから私は有髪《うはつ》の僧じゃ。したがって私の説教は普通の坊さんとは少し違う」
「あなたの名は何んて云うの?」
「私には本来名はないのじゃ。……私は白衣を纏《まと》っている。だから部落の人達は、白法師と呼んでいる」
「えっ」
 と牛丸は驚いたが、驚いたのは牛丸ばかりではなく山吹も岩太郎も仰天して、妙な人をつくづくと見た。
「何も驚くことはない」
 白法師は悠然《ゆうぜん》と説き出した。
「部落の人達が憎み嫌う白法師とは私のことじゃ。しかし私は悪魔ではない。私はかえって天使の筈《はず》じゃ……この部落はよい部落じゃ。ここの人達はよい人達じゃが、一つだけ悪いことがある。窩人《かじん》以外の下界の人達を忌《い》み嫌うということはどう考えてもよいことではない。私はそういう思想《かんがえ》を打ち破るために来た者じゃ」
 白法師の眼はこう云った時|焔《ほのお》のように輝いた。法師はやがて一揖《いちゆう》すると敷居を跨《また》いで戸外《そと》へ出た。林の中へはいって行く。間もなく姿は木に隠れたが、その神々しい白衣姿は、三人の眼に残っていた。そうして「愛の宗教」を説いた慈愛の言葉も三人の耳に、尚|明瞭《はっき》りと残っていた。
 二人の恋人は抱き合ったまま白法師の後を見送っている。

         一二

 こういうことがあってから一月ほどの日が経《た》った。万山を飾って燃えていた紅葉《もみじ》の錦は凋落《ちょうらく》し笹の平は雪に埋《う》ずもれた。冬|籠《ごも》りの季節が来たのである。
 冬という季節は窩人達にとっては狩猟《しゅりょう》と享楽《きょうらく》との季節であった。彼らは弓矢を携《たずさ》えては熊や猪を狩りに行く。捕えて来た獲物を下物《さかな》としては男女打ち雑《まじ》っての酒宴を開く。恋の季節肉欲の季節また平和の季節でもあった。そしてまた怠惰《たいだ》の季節でもあった。
 雪は毎日降りに降る。
 火を焚《た》いて暖を取りみんな集まって無駄話をする。それ以外には用はない。
 彼らの話の題材と云えば「宗介天狗」の事ばかりで、彼らにとって「宗介天狗」は誰よりも尊い守り本尊であった。
 もちろん白法師の噂も出た。
「部落の平和を破る者だ」
 こう云って人々は憎むのであった。――しかし概《がい》して冬の間は彼らの部落は平和であった。

 深山の夜は更けていた。
 空に幽《かす》かに月がある。
 見渡す限り雪に蔽《おお》われ森も林も真っ白である。
 と、一点黒い影が雪の上へ浮かび出た。熊か? いやいや人間らしい。しかもどうやら重い物を背中に背負っているらしい。ノロノロ蠢《うごめ》きながら近寄って来る。
 ここは八ヶ嶽の中腹である。窩人の部落からは真下に当たる「鼓《つづみ》ヶ|洞《ほら》」という谷間である。正面に絶壁が聳《そび》えている。
 その絶壁の下まで来ると黒い人影は立ち止まった。
「おい」
 と、不意に呼びかけた。
「俺だ俺だ早く戸を開けてくれ」――囁《ささや》くような声である。
 誰をいったい呼んでいるのであろう。誰もその辺にはいないではないか。それに戸を開けろと云ったところでどこにも家などないではないか。
 森然《しん》と四辺《あたり》は静かである。
 と、不思議にもどこからともなく答える声が聞こえて来た。
「おい、誰だ? 権九郎か?」
 すると黒い人影は寒そうに声を顫《ふる》わせながら、
「声音《こわね》でおおかた解りそうなものだ。こんな所へこんな夜中に俺の他に誰が来るものか」
「誂《あつら》え物《もの》は持って来たろうな?」
「へ、ご念にゃ及ばねえ。数々の売品《ばいひん》持って参って候《そうろう》だ、寒くていけねえ早く開けてくんな」
「お前一人で来たんだろうな?」
「こいついよいよ関所だわえ。安宅《あたか》の関なら富樫《とがし》だが鼓ヶ洞だから多四郎か。いや睨《にら》みの利《き》かねえ事は。……あいあい某《それがし》一人にて候」
「よし。それじゃ戸を開けるぜ」
 声と一緒にガチンという錠を外す音が聞こえて来たがすぐその後からギーという戸の軋《きし》る音が幽かにして、雪で蔽われた雑木林にボーと一所《ひとところ》火影が射《さ》した。
 木々で隠され雪で蔽われ外見からはほとんど見えないけれど絶壁の裾の灌木《かんぼく》の繁みにどうやら木小屋でも出来ているらしい。火影もそこから来るらしい。
 再び戸の軋る音がして火影が一時に消えたのは、その小屋の戸が閉ざされたからで、権九郎の姿の見えなくなったのは、その小屋の中へはいったからであろう。
 後は寂しく静かである。白無垢《しろむく》のような雪の色と蒼澄んだ月光とが映じ合い冬の深山の夜でなければ容易に見ることの出来ないような神秘の光景を展開している。
 バサッと大きな音がした。群竹《むらたけ》が雪を落としたのである。その後は一層静かである。
 その時、突然峰の方から鬨《とき》の声《こえ》が聞こえて来た。犬の吠え声、女の笑い声。――窩人の部落から来るらしい。

 灌木に囲《かこ》まれた木小屋の中では焚火《たきび》が赤々と燃え上がっている。
 焚火を中にして二人の男が茶碗で酒を呑んでいる。
 五味多四郎と権九郎とである。
 色魔らしい美しい多四郎の顔は、酒と火気とで紅色を呈し、馬鹿に機嫌がよいと見えてのべつ[#「のべつ」に傍点]幕なしに喋舌《しゃべ》っている。
 権九郎の方は四十過ぎらしく、肥えた髯《ひげ》だらけの丸顔はやはり赤く色付いているが、これも負けずに喋舌るのであった。
 小屋の中は陽気である。

         一三

「おや、いったいどうしたんだろう? やけ[#「やけ」に傍点]に部落では騒いでるじゃねえか」
 権九郎はちょいと[#「ちょいと」に傍点]耳を傾《かし》げた。
「そうさ。馬鹿に賑やかだの。宴会でも開いているのだろうよ」ニヤニヤ笑いながら多四郎は云う。「計画いよいよ図に当たりかね」
「え、何んだって? 計画だって? 定《きま》り文句を云ってるぜ、お前の計画も久しいもんだからの」
「まあサ権九、そうは云わねえものだ。大きな仕事をしようとするには長い用意がいるからの」
「そいつア俺にも解っているが、さてその計画というやつがな、どうも俺には呑み込めねえ。たかが城下の味噌や米をこの俺《おい》らに中継ぎさせて、部落の奴らへ売り込んで高い分銭《ぶせん》を儲《もう》けるにしてもあぶく[#「あぶく」に傍点]儲けというほどでもねえ」
「こうこう権九、拝むぜ拝むぜ。蚊の涙にも足りねえようなそれっぱかりの儲けを目当にこんな小屋まで造ると思うか。俺ののぞみはもっと[#「もっと」に傍点]大きい」
「豪勢強気に出やがったな。こいつア大きに話せるわえ。それじゃ頼む聞かせてくんな。お前の計画っていうやつをな」
「うふ、とうとう降参か、智恵のねえ奴は気の毒なものさね。……よしか、話すから聞きねえよ。俺の目差す御敵《おんてき》は第一が黄金第二が女よ」
「何んだ詰《つま》らねえそんなことか。何がその他にいい物がある? とかく浮世は色と金、ちゃアんと昔から云っているじゃねえか」
「だからどうだって云うのだえ?」
「珍らしくもねえとこう云うのさ」
「お前は玉を見ねえからだ」
「たとえどんなに上玉でもものの[#「ものの」に傍点]千両とは売れもしめえ」
「何んだ金が欲しいのか。金なら別口が控えていらあ……女の話はお預けか?」
「いやさ順序で聞きやしょう」権九郎はニタリと苦笑する。
「ほほう滅法《めっぽう》穏《おとな》しいの。ところで女は部落者さ」
「そいつア聞くにも当たるめえ」
「しかも杉右衛門の一人娘よ」
「部落の頭の杉右衛門のな?」
「うん」と多四郎は大きく頷く、「年は十九、縹緻《きりょう》よしだ」
「へ、そいつもご同様改めて聞くにも当たりますめえ」
「そこは順序だ。黙って聞きねえよ。よしか。素晴らしい別嬪《べっぴん》よ。で、私《わし》に惚れておりやす」
「厭《いや》な野郎だな。変な声を出して。……ふうん、それからどうしたんだえ」
「江戸へ駈け落ちと評定一決。……」
「へえ、そいつア強気だのう」
「ところがどうも後が悪い」
「……と、来るだろうと思っていた。本文通り邪魔《じゃま》がはいったな」
「偉《えら》い! お手の筋! ついでに人相を。……」
「見たくもねえ人相だの。まず女難は云うまでもなしか」
「うわア、辻占《つじうら》が悪いのう。ところでどこまで話したっけ?」
「ええ物覚えの悪い野郎だ。邪魔がはいったところまでよ」
「うん。違えねえ、その邪魔だが、相手もあろうに坊主とけつかる」
「ウワッハハハ、ウワッハハハ」
「おい笑うのは酷《ひど》かろうぜ、何んとか挨拶《あいさつ》がありそうなものだ」
「でもお前坊主丸儲けよ。お前に勝ち目はねえじゃねえか」
「だから俺《おい》ら悄気《しょげ》てるのさ」
「え、悄気てるって? その面《つら》で?」
「引き戻す工夫《くふう》はあるめえかな?」
「智恵を貸さねえものでもねえが、女の様子はどうなんだえ」
「俺らに逃げを張っているのだ」
「ふうん、そいつア困ったのう」
「何んだ! それで智恵面があるか! 人に貸そうも凄じい。……ちゃアんと目算は出来てるのよ。そうよここだ、胸三寸」
「それじゃ早く云えばいいに」
「お前をちょっと験《ため》したところよ。おい、風呂敷《ふろしき》を解いてくんな、誂《あつら》え物を見てえからの」
「合点《がってん》」
 と云いながら権九郎は城下からここまで背負って来た包み物を解き出した。
 美しい塗《ぬ》り下駄《げた》、博多の帯、縮緬《ちりめん》の衣裳、綸子《りんず》の長襦袢、銀の平打ち、珊瑚《さんご》の前飾り、高価の品物が数々出る。
「男が見てさえ悪かあねえ。若い女に見せようものなら、それこそ飛びついて来るだろう」
「ははあ、それじゃその獲物《えもの》で、ワナへ落とそうと云うのだな」――権九郎は唇を嘗《な》める。
「坊さんの説教と俺の術とどっちが娘っ子によく利くか、験して見るのも悪かあねえ、何んと権九そうじゃねえか」

         一四

 焚火はどんどん景気よく燃える、小屋の中は暖かい。
 畳なら十枚は敷けるであろう、一間しかない小屋の中には、味噌桶《みそおけ》、米俵、酒の瓶《かめ》、塩鮭の切肉《きりみ》、醤油《しょうゆ》桶、帚《ほうき》、埃《ちり》取り、油壺《あぶらつぼ》、綿だの布だの糸や針やで室一杯に取り乱してあり、弓だの鉄砲だの匕首《あいくち》だの、こうした物まで隠されてあるが、すべてこれらは売品であって、すなわち山上の窩人《かじん》部落へ高価に売り込む品物であった。
「さて」
 と権九郎は舌なめずりをし、茶碗の酒をグッと干したが、
「女の話はそれで打ち止めか、金の話はどうなんだい?」
「こいつあちょっと話せねえの。計画|半《なか》ばと云うところさ」
「へ、云ってるぜ、ちゃらっぽこ[#「ちゃらっぽこ」に傍点]を、その計画が怪しいものさ」
「おやおや変梃《へんてこ》に疑ぐるね。まあ精々《せいぜい》かんぐる[#「かんぐる」に傍点]がいい。今にアッと云わせてやらあ」
「まあそう云わずと聞かせてくんな、一人占めは阿漕《あこぎ》でやす」
「へ、またお決まりの芝居もどきか。うん一人占めと云われちゃ俺も何んだか気持ちが悪い。よしきたそれじゃ明かしてやろう、まず金高から聞かせようかの」
「千両かな? 二千両かな?」
「千や二千の端《はし》た金で何んの大騒ぎするものか」
「うわあ、大きく出やがったぞ」
「俺の睨みがはずれなけりゃ小判で数えて一万両か」
「何、一万? 正気の沙汰かな?」
「なんと吃驚《びっく》り仰天かな?」
「そうしてそりゃあどこにあるのだ?」
「鼓《つづみ》ヶ|洞《ほら》の絶壁の上に」
「ふうん、それじゃ窩人部落か?」
「天狗の宮の内陣にな。……そこに大きな木像がある。身の長《たけ》二丈で鎗《やり》を持っている。……宗介天狗の木像よ。……つまり彼奴《きゃつ》らの守り本尊だ」
「それがいったいどうしたんだい?」
「木像は甲冑《かっちゅう》を着ているのよ」
「それは大きに勇ましいことで」
「その甲冑が一万両だ!」
「どうも俺にゃ解らねえ」
「甲《かぶと》も冑《よろい》も黄金細工よ、小判に鋳直《いなお》せばまず一万だ」
「……が、どうして盗む気だな? まさか部落も通れめえ」
 すると多四郎はひょいと[#「ひょいと」に傍点]立ったが、そこに置いてある松明《たいまつ》を取ると焚火へくべ[#「くべ」に傍点]て火を移した。
「おお権九、ちょっと来ねえ、胆《きも》の潰《つぶ》れるものを見せてやろう」
 先に立って小屋を出た。
 で、権九郎も続いて出る。
 戸外の雪は松明に照らされボッとそこだけ桃色に明るみ凄愴《せいそう》として美しい。
 多四郎は雪を踏み砕き絶壁の方へ歩いて行ったが、急に立ち止まって振り返った。
「おお権九、ここを見るがいい」
 云いながら松明を差し付けた。
 氷雪に蔽《おお》われた絶壁の面に明瞭《はっき》りそれとは解らないけれど、どうやら鑿《のみ》ででも掘ったらしい一筋の道が付いている。絶壁を斜めに上の方へ向け階段型に付いている。
「ううむ」
 と権九郎は唸り出した。この根気強い丹念仕事にすっかり感心したのであった。
「どうだ」と多四郎は気負った声で、「これでも俺を馬鹿にするか。……これは俺が拵《こしら》えた道だ。おおかた半年もかかったろう。天狗の宮の真後《まうし》ろまでこの崖道《がけみち》は続いている。いや随分苦労したよ。もうここまでやりとげれば後は的物《てきもの》を盗むだけだ」
「一言もねえ、感心した。そうだここまで捗《はか》が行けば後は的物を盗むだけだ」
「名に負うそいつが重いと来ている」
「一万両の金目だからの」
「ところで俺は蒲柳《ほりゅう》の質《たち》だ」
「いや飛んだ銀流しよ」
「そこでお前を見立てたのよ」
「これじゃまるで据え膳だ、出来上がったところでさあ一口か」
「厭か」
「何んの」
「では承知か」
「是非片棒かつぎやしょう」
 ドッとまたもや山上から賑やかな笑い声が聞こえて来た。
「あれだ、あれだよ、あの笑い声だよ、俺達にとっての福音《ふくいん》はね」
「はてね、俺には解らねえ」
「何さ、雪のある間だけは部落はいつもお祭りだってことよ。その隙に仕事をしようって事よ」

         一五

 こういうことがあってからまた幾月かの日が経った。
 一月となり二月となり、暖かい江戸では梅が散り桜の花が咲こうというのに、窩人部落の笹の平は深い雪に包まれていた。
 そうして大変平和であった。
 いつも唄声と笑い声とが点々と散らばって立っている家々の中から聞こえて来た。
 彼らは歓楽に耽《ふけ》っているのだ。
 しかしそういう平和な部落にも時あって禍《わざわ》いが起こるものである。
 ある日、大声で喚《わめ》きながら雪の部落を駈け廻るものがあった。それは他でもない岩太郎である。
 人々は驚いて彼を引き止めて、どうしたのかと訳《わけ》を聞いた。
「杉右衛門の娘の俺の許婚《いいなずけ》、あの美しい山吹が、部落を捨て俺を見限り下界の虚栄に憧憬《あこが》れて多四郎めと駈け落ちした」
 これが岩太郎の返辞であった。
「罰当《ばちあた》りめ!」
 と、人々は、それを聞くとまず云った。
「この結構な住居《すまい》を捨て、先祖代々怨み重なる下界の人間と一緒になるとは神罰を恐れぬ馬鹿な女だ。恐らく将来《ゆくすえ》よい事はあるまい、後悔するに相違ない」
 こう云って彼らは部落を去った女を、あるいは憎みあるいは憐れんだ。
 しかし今は早春であり部落は雪に包まれている。彼らにとっての享楽時代である。で、彼らは平素《ふだん》であったならもっともっと大騒ぎでもっともっと非難攻撃すべきこの重大の裏切り事件をも案外|暢気《のんき》に見過ごした。そういう他人の事件に関係《かかわ》り大事な時間を費やすより、自分自身快楽に耽《ふけ》り、いわゆる年中での遊び月を充分に遊んで暮らした方が幸福であると思ったからであろう。
 とは云え、許婚《いいなずけ》の岩太郎と山吹の父の杉右衛門とは他人のようにそう簡単に見過ごすことは出来なかった。
 まず岩太郎の心持ちから云えば、嫉妬、憤怒、そして悲哀。――この三つの感情が胸の中で取っ組み合い一時の平和さえ得られないのであった。
 で、せめて身体《からだ》を疲労《つか》らせ、それによって心の苦痛悲哀を痲痺《まひ》させようと思い付いて、白|皚々《がいがい》たる八ヶ嶽を上へ上へと登って行き、猪を見付ければ猪と闘い熊を見付ければ熊と争い、狐を殺し猿を生け捕りあらゆる冒険をやるのであった。
 杉右衛門の心持ちも悲惨であった。彼は部落の長《おさ》だけに深く責任を感じていた。そうして長となるだけあって宗介天狗を尊ぶ情と部落を愛する心持ちとは人一倍強かった。
「部落の長たる自分の娘が宗介天狗のお心持ちに背《そむ》き下界の若者と契《ちぎ》るさえ言語道断の曲事《くせごと》だのに、部落を捨ててどことも知れず姿を隠してしまうとは何んという不心得の女であろう」
 しかし、そう思う心の端から、
「身分違いの部落の女が、下界の男と契ったところでやがて捨てられるは知れたことだ、一旦山を下りたからは二度と再び帰って来ることは出来ぬ。人里にも住めず山にも帰れず、その時いったいどうするぞ? 首を縊《くく》るかのたれ[#「のたれ」に傍点]死にをするか? どっちにしても可哀そうなものだ」
 惻隠《そくいん》の情が起こるのであった。
 爾来《じらい》杉右衛門は憂欝《ゆううつ》になった。自分の家の囲炉裡《いろり》の側からめったに離れようとはしなかった。薪《たきぎ》を燃やし焔《ほのお》を見詰めじっ[#「じっ」に傍点]と思案にふけるばかりで、楽しい酒宴の座へも出ず好きな狩猟《かり》さえ止めてしまった。
 十年前に妻を死なせ、女気といえば娘ばかり、その娘に逃げられた今は家には杉右衛門ただ一人。時々同じ愁《うれ》いを抱いた岩太郎が訪ねて来るばかりである。

 今日も烈《はげ》しい吹雪《ふぶき》であった。
 どうやら熊でも捕れたらしい。いわゆる恐ろしい「熊吹雪」である。
 杉右衛門はじっと考えている。自在鉤《じざいかぎ》には薬缶《やかん》が掛かり薬缶の下では火が燃えている。
 もう夕暮れに近かった。部屋の中はほとんど暗い。しかし行灯《あんどん》は灯してない。が杉右衛門の姿だけは焚火の光で明瞭《はっき》り見える。
 その時表の戸が開いて若者がノッソリはいって来た。
「おお岩か」
 とそれと見ると、物憂《ものう》そうに杉右衛門が声をかけた。
「ああそうだよ。俺《おい》らだよ」
 こう云いながら岩太郎は囲炉裡の側へ近寄って来たが杉右衛門に向かい合って胡座《あぐら》を掻いた。見ると手に白鳥《はくちょう》を下げている。
「爺《とっ》つぁんと一杯《いっぺえ》飲《や》ろうと思ってな、酒を二升ばかりさげて来たよ」
 白鳥をドサリと囲炉裡|傍《ばた》へ置く。
「なに酒か済まねえなア」
 それから焚火でかん[#「かん」に傍点]をして二人はグイグイやり出した。
 しばらく二人とも黙っている。
 それが二人には胸苦しいのである。

         一六

「岩」
 と不意に杉右衛門は云った。
「お前ちっとも酔わねえじゃねえか」
「そういう爺つぁんだって酔ってねえようだな」
「どうしたのか俺はちっとも酔えねえ」
「俺もそうだ、ちっとも酔えねえ」
 そこで二人は沈黙した。その沈黙は長かった。そうして息苦しい沈黙である。
 戸の隙間から吹き込むと見えて雪が二人の肩へ掛かった。嵐の名残りが迷い込んだものかパッと焚火が横になぐれ[#「なぐれ」に傍点]たが、またすぐスッと立ち直った。
 まだ二人は黙っている。
 と、突然岩太郎が云った。
「どうも俺には解らねえ! どう考えても解らねえ!」
「何が!」
 と杉右衛門が突っ込んで行く。
「何がってお前女の心がよ!」
「女と云わずに山吹と云え!」
「おお云うとも! おお云うとも! 俺にはどうしても解らねえ。あの山吹の心持ちがよ!」
「あいつは悪魔に憑《つ》かれたのだ。その他に何がある!」
「そう云ってしまえばそれまでだが、俺はもっと知りてえのだ、何が山吹を誑《たぶら》かしたか?」
「そんな事を聞いて何んになる」
「なんにもならねえが聞いてみてえのよ」
「ふん、つまらねえ詮索《せんさく》だ」
 そこでまた二人は黙り込んだ。二升の酒が尽きかかった。
「そうだ。あいつがよくなかった」
 今度は杉右衛門が呻くように云った。「あの時うんと[#「うんと」に傍点]叱って置いたらこんな騒動にはなるめえものを」
「え?」と岩太郎は聞き咎める。「爺つぁん何かあったのかな?」
「あいつがいなくなる少し前よ、珍らしくあの男がやって来た」
「あの男? 多四郎かな?」
「そうだ行商のあいつがな、そうしてそこの縁先で色々の物を拡げたっけ。俺が見てさえ眼が眩《くら》みそうな綺麗《きれい》な帯や駒下駄をな。……するとその時まで座敷の奥で素気《そっけ》ない様子で坐っていたあの山吹めが立ち上がって縁先へ行ったというものさ。――俺はその時何かの用で確か家を出た筈だ。帰って来て見ると山吹めが嬉《うれ》しそうな顔で笑っている。見ると下駄を持っている。多四郎に貰ったということだ。ちょっと小言は云ったものの大して叱りもしなかったが、今から思えば縮尻《しくじり》だった……と、翌《あく》る日《ひ》は帯を貰う。その翌る日は簪《かんざし》を貰う。……」
「もう解った。ふうむ、そうか。……それでやっと胸に落ちた。爺つぁん!」――と岩太郎は声を逸《はず》ませた。
「おいよ」と杉右衛門は眼を見張る。
「俺アいよいよ思い切るよ」
「うん。その方がよさそうだ」
「思い思われた男を捨てて帯や簪へ眼を移すようなそんな女には用はねえ」
「うん。いかにももっともだ。……俺もとうから心の中では親子の縁を切っているのだ」
「白法師様も呆《あき》れるだろうよ。……こんな始末になろうとは夢にも思っていなさるめえからな」
「え、何んだって? 白法師だって?」
「なあにこっちの話だよ」
 そこでまたもや黙り込んだ。酒はおつもりになったらしい、二人は何んとなく手持ち無沙汰にじっ[#「じっ」に傍点]と火ばかり見詰めている。
「爺つぁん、それじゃ俺は帰るよ」
 岩太郎は立ち上がった。
「そうか。それじゃまた来るがいい」
 岩太郎は表の戸を開けて吹雪の中へ出て行った。
 杉右衛門は炉側《ろばた》に坐ったまま、いつまで経っても動こうともしない。やがて薪《たきぎ》が尽きたと見えて焚火が漸次《だんだん》消えて来た。
 杉右衛門はそれでも身動きさえしない。
 間もなく夜がやって来た。嵐の勢いが強まったと見えてヒューッヒューッと鞭《むち》を振るような物凄い唸り声が聞こえて来る。
 杉右衛門はにわかに立ち上がり、表の方へよろめき行くとガラリと戸を開けて飛び出した。
 轟《ごう》ッと、凄じい風音と共に吹雪が眼口をひっ[#「ひっ」に傍点]叩く。山の姿も林の影も一物も見えない闇の空間を、小鬼のような亡霊のような雪片ばかりが躍っている。
 杉右衛門はグルリともんどりを打つと、雪の上へ転がった。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる彼はあたかも狂人《きちがい》のように丘と云わず谷と云わず雪の中を転げ廻る。
 いかにも窩人《かじん》の長《おさ》らしい、こういう惨酷《ざんこく》の方法をもって、彼は自分の肉体を苦しめ、娘に対する思慕の情と同じ者に対する憎悪《ぞうお》の念とを痲痺《まひ》させようとするのであった。

         一七

「ヨイショ」「ドッコイ」「ヨイショ」「ドッコイ」
 こういう掛け声が聞こえて来た。それは二人の声であって、重い物でも持っているらしい。しかし姿は見えなかった。と云うのは夜だからで、しかも所は八ヶ嶽の天狗の宮の真後ろの崖で、早春のことであったから氷雪が厚く積もっている。雪は今し方止んだばかりで、雲間を洩れた月光が斜めに崖を照らしている。
 その崖には斜めに高く人工の道が出来ている。半年の月日を費《つい》やして根気よく多四郎が造ったもので、今、その道を上の方から二人の男が下りて来る。
「ヨイショ」「ドッコイ」と忍び音に互いに声を掛け合いながらソロリソロリと下りて来る。
 それは多四郎と権九郎とで、菰《こも》に包んだ太短い物をさも重そうに担《かつ》いでいる。
 すっかり崖を下りきった所で二人はホッと吐息をして、
「もう一息だ、やってしまおうぜ」
「合点」と権九郎が合槌《あいづち》を打つ。
 で、また二人は荷物を担いで、そばに立っている木小屋の前を足音を立てずに通り過ぎ、雪を冠《かぶ》って聳《そび》えている森の方へ歩いて行った。
 間もなく森へはいったが、大きな杉の根方から犬の啼き声が聞こえて来た。
「これ! 畜生!」と叱りながら二人はそっちへ近寄って行く。そこに一台の犬橇《いぬぞり》があって人の乗るのを待っていた。
「どっこいしょ」と云いながら、二人は荷物を重そうに橇の上へズシリと置いたが続いて自分達も飛び乗った。権九郎が手綱を取り多四郎が荷物の側へ寄る。ピシッと一鞭くれながら権九郎は振り返った。
「おい多四郎どうしたものだ。せめてお別れの挨拶でもしねえ、振り返って小屋ぐらい見たがよかろう。……ヒューッ」
 と口笛で犬をあやす[#「あやす」に傍点]。すると巨大な三頭の犬はグイと頭を下へ垂れ後脚へ力をウンと入れた。とたんにスルリと前へ出る。パッと立つ雪煙り、静かに橇は辷《すべ》り出た。
「へ」
 と多四郎は鼻で笑ったが、「俺《おい》らアそんな甘いんじゃねえよ。……部落の女《あま》がどうしたって云うんだい」
「おおおお偉そうに云ってるぜ。へ、どうしたが呆れ返らあ。お前一時はあの女で血眼《ちまなこ》になっていたじゃねえか」
「うん、そうよ、一時はな。……窩人窩人で城下の奴らが鬼のように恐れているその窩人の娘とあっては、ちょっと好奇心《ものずき》も起ころうというものだ。それに容貌《そっぽ》だって相当踏める。変わった味だってあるだろう。当座の弄《なぐさ》みにゃ持って来いだ。お前だってそう思うだろう」
「ところで味はよかったかな」
「俺にとっちゃ初物だった。第一体がよかったよ。色の白さと柔かさとに羽二重《はぶたえ》というより真綿だね。それに情愛の劇《はげ》しさと来たら、ヒヒヒヒ、何んと云おうかな」
「畜生!」
 と権九郎は叫びながらヒューと鞭《むち》を空に振り一匹の犬を撲《なぐ》りつけたが、「へ、うまくやりやがったな。人里離れた山奥の木小屋の中で二人っきりでよ、何をしたか知れたものじゃねえ、飽きるほどふざけたに違えねえ」
「当たらずといえども遠からずさ」
「それだけの女を振りすてて何んでまたお前は逃げるんだい。こいつが俺にゃ解らねえ」
「そいつあ今も云った筈だ。たかが窩人の娘じゃねえか。まさか一生|添《そ》うことも出来めえ」
「ふん、それじゃ飽きたんだな」
「正直のところまずそこだね」
「それにしては智恵がねえな」権九郎は嘲笑《あざわら》った。
「智恵がねえ? この俺がな?」
 多四郎はにわかに眼を丸くする。
「捨ててしまうとは勿体《もったい》ねえ話だ。瞞《だま》して城下へ連れて来てよ、女衒《ぜげん》へ掛けて売ったらどうだ」
「へん、なんだ、そんな事か、孔明の智恵も凄《すさま》じいや。そんなことなら迅《と》くより承知よ」
「ナニ承知? ……何故しねえ」
「つまり玉なり[#「なり」に傍点]が異《ちが》うからさ」
「聞きてえものだ、どう異うね?」
「里の女ならそれもよかろう。思い込んだが最後之助、どんな事でもやり通そうという窩人の娘にゃ向かねえね」
「ふん、どうして向かねえんだい?」
「そんな気振りでも見せようものなら、こっちが寝首を掻かれるくらいよ」
「へえ、そんなに凄いんかい」
「何しろ向こうは夢中だからな」
「こら、畜生! 道草を食うな」
 権九郎は自棄《やけ》に怒鳴りながら横へ逸《そ》れる犬を引き締めた。「雪の降ってる冬の夜中だ。道草食うにも草はあるめえ、トットットットッ。走れ走れ!」
 権九郎はむやみと鞭を振る。

         一八

 雪で蔽《おお》われた森や林が蒼い月光に照らされて幽霊のように立っている。橇が走るに従ってだんだんそれが近寄って来る。やがて橇が行き過ぎるとそれもだんだん後《あと》の方へ小さく小さく消えて行く。白無垢《しろむく》を着た険しい山や巨大《おおき》な獣の口のようにワングリと開いた谿《たに》なども橇が進むに従って次第次第に近寄って来、橇が行き過ぎるに従って後へ後へと飛び去って行く。そうして空の朧月《おぼろづき》は、橇が進もうが走ろうがそんなことには頓着せず、高い所から茫々《ぼうぼう》と橇と人とを照らしている。
 橇の上の人間は――五味多四郎と権九郎とは、少しの間黙っていた。権九郎は手綱を弛《ゆる》められるだけ弛め、犬を自由に走らせながら、早く城下へ帰って行き暖かい居酒屋で酒をあおりながら素晴らしい獲物の分け前を取れるだけ沢山取ってやろうと、こんな事を腹の中で考えていた。それに反して多四郎は、この素的《すてき》もない黄金を自分一人でせしめ[#「せしめ」に傍点]たいものだと魂胆《こんたん》を巡らしているのであった。多四郎は四方を見廻したがグイと懐中《ふところ》へ手を入れた。
「しかし待てよ」と呟くとそっとその手を抜き出した。「急《せ》いては事を仕損ずる。あぶねえあぶねえ」
 と腕を拱《く》み、権九郎の様子をじっ[#「じっ」に傍点]と窺う。
 権九郎は多四郎へ背を向けたまま無心に手綱を操っていた。隙だらけの姿勢である。多四郎は四方を見廻した。戦いには地の利が肝心だ。……こう思ったからでもあろう。この時橇は山と谿との狭い岨道《そばみち》を走っている。
 いつの間にか空が曇り、一旦止んでいた牡丹雪が風に連れて降って来た。見る見る月影は薄れて行きやがて全く消えてしまった。
 雪明りで仄々《ほのぼの》とわずかに明るい。
 この時、多四郎は右の手をまた懐中《ふところ》へ差し込んだが何か確《しっか》りと握ったらしい。と、じっ[#「じっ」に傍点]と眼を据えて権九郎の背中を睨んだものである。
 岨道《そばみち》を曲がると眼の前へ広漠たる氷原が現われた。吹雪は次第に勢いを加え吠えるようにぶつかって[#「ぶつかって」に傍点]来る。犬が苦しそうに喘《あえ》ぎ出した。そうして度々逃げようとして繋《つな》ぎの紐《ひも》へ喰い付いた。とそのつど権九郎の鞭がしたたか[#「したたか」に傍点]背中を打つのであった。
「さあ今だ! さあ今だ!」
 多四郎は自分で自分の胸へこう口の中で云い聞かせながらジリジリと前へ寄って行った。その時、岩にでも乗り上げたものか不意に橇が傾いた。とたんに多四郎は懐中からヌッと腕を引き抜いたが、その手が空へ上がったかと思うとキラリと何か閃《ひら》めいた。と権九郎は「あッ」と叫びバラリ手綱を放したが次の瞬間にはゴロリとばかり雪の中へ転げ落ちた。
「多四郎! わりゃ、俺を斬ったな」
 血に塗《まみ》れた肩先を片手で確《しっか》り抑えながら、権九郎は体をもがいたものである。
 多四郎は短刀を逆手に握り悠然と橇から下り立ったが、冷ややかに権九郎を睨み付け、
「どうだ権九、苦しいか」
「仲間を斬ってどうする気だ! さては手前血迷ったな。あ、苦しい。息が詰まる」
「何んで俺が血迷うものか。ずんとずんと正気の沙汰だ」
「なに正気? むうそうか。それじゃ汝《われ》アあの獲物を……」
「今やっと気が付いたか。……一人占めにする気だわえ」
「そうはいかねえ!」
 と云いながら権九郎はヒョロヒョロ立ち上がったが、肩の傷手《いたで》に堪えかねたものか、そのままドシンと尻餅《しりもち》をついた。
「そっちがその気ならこっちもこうだ、さあ小僧覚悟しろ!」
 これも呑んでいた匕首《あいくち》を抜くと、逆手に握って構えながら、立て膝をして詰め寄った。
 馭者《ぎょしゃ》を失った犬どもがこの時烈しく吠え出した。三頭ながら空を仰ぎ降りしきる雪に身を顫《ふる》わせさも悲しそうに吠えるのである。
 最初の傷手で権九郎は次第次第に弱って来た。肩からタラタラ滴《したた》る血は雪を紅《くれない》に染めるのであったが夜のこととて黒く見える。立とう立とうと焦心《あせ》っては見たがどうしても足が云うことを聞かない。膝でキリキリ廻りながらわずかに多四郎を防ぐのであった。
「それ行くぞ」
 と多四郎は嘲けりながら飛び廻った。彼は余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》たるもので、右から襲い左から飛びかかりグルリと廻って背後から襲う。鼠《ねずみ》を捕えた猫のように最初に致命的の一撃を加え、弱って次第に死ぬのを待ち最後に止《とど》めを差そうとするのだ。
 多四郎は莫迦《ばか》にお喋舌《しゃべ》りになった。
「おい権九、いやさ権九郎、何んと俺様は智恵者であろうがな。産まれながら蒲柳《ほりゅう》の質《たち》で力業には向き兼ねる。そこでお前を利用してよ、途方もねえ獲物を盗み出したところで、相棒のお前を殺してしまえば濡れ手で粟の掴み取り、一粒だって他へはやらねえ。……そのまた獲物が予想にも増し小判に直して四万両いや五万両は確かにあろう。へ、こう見えても多四郎様は、今日から大したお金持よ、贅沢《ぜいたく》のし放題。綺麗な女に旨《うま》い酒に不自由はねえというものさ」

         一九

「……おお苦しいか苦しいか。さぞ痛かろう痛かろう。肩からドクドク血が出ているなア。その苦しみもほんの一時、後は往生観念仏、楽になろうというものだ」
「む、むううう」
 と権九郎は口を利くことさえ出来なくなった。それでもいわゆる最後の一念、全身の力を足にこめ俄然《がぜん》スックと立ち上がった。間髪を入れず斬り下ろした匕首。油断していた多四郎の腕へ切っ先鋭くはいったが冬の事で着物が厚く裏掻《うらか》くことはなかったものの、多四郎の周章《あわ》てたことは云うまでもない。「あっ」と叫んで後ろ様にパタパタと五、六歩逃げたほどである。
 手の匕首をまず落とし、それから枯木が倒れるように権九郎は雪の上へ仰向《あおむ》けに仆《たお》れた。そしてそのまま長くなりもう動こうとはしなかった。彼は全く息絶えたのである。雪はさんさんと降っている。憐れな権九郎の死骸《しがい》の上へも雪は用捨なく積もるのである。黒く見えていたその死骸は見ているうちに白くなった。やがてすっかり見えなくなった。雪の墓場へ埋められたのだ。
 多四郎はヒラリと橇へ乗った。
 一言も云わず見返りもせず彼は橇を走らせた。間もなく彼と橇の影とは吹雪に紛《まぎ》れて見えなくなった。森然《しん》と後は静かである。
 ウォーとその時森の方から狼《おおかみ》の声が聞こえて来た。それに答えてどこからともなくウォーウォーと狼の声が二声三声聞こえて来た。と、純白の雪の高原へ一点二点、三、四点、黒い形が浮かび出たがだんだんこっちへ近寄って来る。すなわち数匹の狼である。
 四方に散っていた狼がさっ[#「さっ」に傍点]と集まって一団となるや、その一団の狼は鼻面を低く地へ垂れて人間の血を恋うようにこっちへノシノシと走って来たが、死骸の埋ずまっている場所まで来るとグルグルグルグル廻り出した。廻りながらパッパッと雪を掻く。掻かれた雪は嵐《あらし》に煽《あお》られ濛々《もうもう》と空へ立ち昇る。その下から現われたのは無慙《むざん》な権九郎の死骸である。颯《さっ》と狼は飛びかかった。
 死骸は狼に喰い裂かれ、後へ残ったのは襤褸《ぼろ》ばかりであった。しかしそれさえ雪に蔽われ瞬間《またたくま》に消えて行った。

 小屋の中は暖かった。焚火《たきび》が元気よく燃えている。
 山吹はじっ[#「じっ」に傍点]と坐っていた。
 その眼は焚火を見詰めていたが心は別のことを考えていた。良人《おっと》の帰りを待っているのだ。多四郎の帰るのを待っているのだ。
 多四郎は容易に帰って来ない。――帰らないのが当然《あたりまえ》である。彼は彼女を振りすてて城下へ帰って行ったのだから。
 しかし彼女はそんなこととは夢にも考えはしなかった。で、熱心に待っていた。
 戸外《そと》では吹雪が荒れていると見えて、枝の折れる荒々しい音が風音に雑《まじ》って聞こえて来た。
 不意に彼女は顔を上げ窓の方へ眼をやった。
 コトンコトンと音がする。
 彼女は物憂《ものう》そうに立ち上がり窓の戸を引き開けた。口の尖った、眼の優しい熊の顔が現われた。窓から覗いているのである。
 山吹は寂しそうに笑ったが、
「おおおお今日も大雪で山には食物《くいもの》がないと見える」
 こう云いながら鍋を取り上げ食べ残りの雑炊《ぞうすい》を投げてやった。と、熊の顔はすぐ引っ込みやがて雑炊を食べるらしい舌打ちの音が聞こえて来た。それが止むと同じ顔がまた窓へ現われた。
「もうないよ。あっちへお行き」
 こう云いながら手を振ると、熊は二、三度|頷《うなず》いたが、スッと窓から消えてしまった。
 そこで山吹は窓を閉じ元の場所へ帰って来た。じっと焚火を見詰めながら、また物思いにふけるのである。
 夜は次第に更けて行った。
 彼女はいつまでも待っていた。身動きさえしないのである。
 その時足音が聞こえて来た。しかし人の足音ではない。シトシトシトシトと小屋の周囲《まわり》をその足音は廻り出した。しかも多勢の足音である。それはどうやら犬らしい。甘えるような泣き声がクーン、クーンと聞こえて来た。
「おや来たんだよ、お爺さん達が」
 呟きながら山吹はまただるそう[#「だるそう」に傍点]に立ち上がると入口の戸を開けてやった。その戸口からはいって来たのは五匹の凄じい狼であった。全身、雪で白かったが鼻面ばかりは赤かった。生血《なまち》に塗《まみ》れているのである。
 権九郎の死骸を食い荒らしたその五匹の狼達であった。
 しかも一匹の狼は肉の着いた骨をくわえていた。それは権九郎の骨なのである。しかしもちろん山吹はそんなことは夢にも知らない。で、彼女はこう云った。
「おおおお、お前達も寒かろう。さあさあ遠慮なく火にあたるがいいよ」

         二〇

 五匹の狼は尾を振りながら彼女の体へじゃれ[#「じゃれ」に傍点]ついた。すぐに突き飛ばされ意気地《いくじ》なくよろめいたが、一緒に小屋の片隅へ集まりそこへ穏《おとな》しく跪座《つくば》った。そうしてそこから焚火越しに山吹の顔を見守った。一人の女と五匹の狼。――それが一つの部屋にいる。……何んと恐ろしいことではないか。ところがちっとも恐ろしくない。それは山吹が窩人《かじん》だからで、窩人と獣とは親類なのである。
 熊も狼も狐狸も山吹にとっては友達であった。窩人部落にいた頃から彼女と獣達とは仲がよかったが、この木小屋へ来てからは一層両者は仲良くなり、多四郎の留守を窺《うかが》っては彼らは遊びに来るのであった。
 その夜一晩待ったけれど多四郎は帰って来なかった。
 翌る朝、彼女は小屋を出てそれとなくあっちこっち探してみたが恋しい良人《おっと》の姿は見えない。声を上げて呼んでも見たが答えるものは嵐ばかりだ。やがて夜がやって来た。夜中彼女は待ってみたがやはり帰って来なかった。また味気ない夜が明ける。朝の日光《ひかり》が射して来た。で、彼女は小屋を出て雪の高原を彷徨《さまよ》いながら狂人《きちがい》のように探してみたが結果は昨日と同じであった。で、また寂しい夜となる。……
 夜が日に次ぎ日が夜につづき、恐怖、不安、疑惑、憤怒、嫉妬の月日が経って行った。
 春がおとずれ初夏が来た。山の雪はおおかた消え欝々《うつうつ》たる緑が峰に谷に陽に輝きながら萌えるようになった。辛夷《こぶし》、卯の花が木《こ》の間《ま》に見え山桜の花が咲くようになった。鶯《うぐいす》の声、駒鳥《こまどり》の声が藪《やぶ》の中から聞こえて来る。
 山吹はこの頃|懐妊《みごも》っていた。多四郎の種を宿していたのだ。
 彼女はようやくこの頃になって、自分が多四郎に捨てられたことをはっきり[#「はっきり」に傍点]心に悟るようになった。
「復讐!」――と彼女は心に誓った。あたかも執着《しゅうじゃく》そのもののような窩人の娘の復讐がいかに物凄いかということを薄情な男に思い知らせてやろう! こう決心したのであった。
「でも子供には罪はない、何も彼も子供が産まれてからだ」
 で、彼女は小屋の中で産み落とす日を待っていた。
 やがて真夏がおとずれて来た。

 笹の平の窩人達は祭りの用意に忙しかった。
 宗介天狗《むねすけてんぐ》の祭礼《まつり》なのである。
 これは毎年の慣例《しきたり》で七月十五日の早朝《あさまだき》にご神体の幕屋《まくや》がひらかれるのである。そうして黄金の甲冑《かっちゅう》で体を鎧《よろ》った宗介様を一同謹んで拝するのであった。
 窩人達は元気よく各自《めいめい》の仕事にいそしんでいた。旗を作る者、幟《のぼり》を修繕《なお》す者、提灯《ちょうちん》を張る者、幕を拵《こしら》える者――笑い声、話し声、唄う声が部落中から聞こえていた。
 やがて祭りの当日が来た。
 天狗の宮の境内は旗や幟で飾られた。盛装を凝らした窩人達は夜のうちから詰めかけて来て、暁《あけ》の明星の消えた頃には境内は人で埋ずもれた。その時一群の行列が粛々《しゅくしゅく》と境内へ練り込んで来た。神事を執行《とりおこな》う人達で、先頭には杉右衛門が立っている。跣足《はだし》、乱髪、白の行衣《ぎょうえ》、手に三方《さんぼう》を捧げている。後につづいたは副頭領で岩太郎の父の桐五郎であった。手に松明《たいまつ》を持っている。
 騒がしかった境内が一時に森然《しん》と静かになった。群集は左右に身を開いてその行列を迎え入れた。行列は粛々と歩いて行く。神殿の前で立ち止まる。ギーと神殿の戸が開く。と、杉右衛門と桐五郎とがシズシズと階段《きざはし》を上って行く。
 桐五郎の持っている松明が、内陣の奥でチラチラと火花を散らして燃えているのが神秘めいて厳かである。
 ギーとまたも軋《きし》り音《ね》がした。
 群集はにわかに緊張した。神聖の幕屋がひらかれたからだ。群集の眼は一斉に内陣の奥へ注がれた。突然《いきなり》叫び声が響いて来た。内陣の奥から響いたのである。ザワザワと群集はざわめき[#「ざわめき」に傍点]出した。
 その群集の眼前へ杉右衛門と桐五郎とが飛び出して来た。
「恐ろしい事じゃ! 勿体《もったい》ない事じゃ!」
 杉右衛門が、嗄声《しゃがれごえ》で叫んだものである。
「宗介天狗は裸身《はだかみ》でござる!」
 桐五郎が続いて叫んだ。二人ながらガタガタ顫《ふる》えている。そしてその顔は蒼白《まっさお》である。
 群集は一刹那《いっせつな》静かであった。思いもよらない出来事のために物を云うことさえ出来なかったのだ。
 が、次の瞬間には恐ろしい混乱が勃発《ぼっぱつ》した。彼らは口々に叫び出した。

         二一

 ある者はこれを神罰だと云った。
「我らの不忠実を怒らせられ神が奇蹟《ふしぎ》を下されたのだ」
 またある者はこうも叫んだ。「泥棒が盗んだに相違ない。黄金《こがね》で作られた鎧冑《よろいかぶと》には莫大《ばくだい》な値打ちがあるからな。――城下の泥棒が盗んだのだ」
 またある者は次のように云った。
「白法師の所業《しわざ》に相違ない。我々の部落、我々の信仰を日頃から彼奴《きゃつ》は譏《そし》っていた。我々の神聖な神を穢《けが》し、我々の霊場を踏み躙《にじ》った者は彼奴《きゃつ》以外にある筈《はず》がない!」
「そうだそうだ」
 と群集は挙《こぞ》ってこの言葉に雷同した。
「白法師をひっ[#「ひっ」に傍点]とらえろ!」――「草を分けても探し出せ!」――「白法師を狩れ白法師を狩れ!」
 群集は興奮して境内を出た。祭りは一変して白法師狩りとなった。

 この日の真昼頃白法師は大岩の上に坐っていた。白衣、長髪、裸の足――昔に変わらぬ優しい微笑。
 彼の前には岩太郎がいた。彼は仲間の隙を窺い、危急を白法師へ告げに来たのだ。
「悪いことは申しませぬ。早くお逃げ遊ばすよう。白法師狩りの者どもが間もなくやって参りましょう。どうぞどうぞ、一時も早く山をお立ち去り遊ばすよう」
 云っているうちも気遣わしそうに岩太郎は四辺を見廻した。
「いや」
 と白法師は静かに云った。「私《わし》は何者をも恐れない。私は決して逃げはしない」
「危険でございます白法師様!」
「いや」とまたもしずかに云った。「いや私には危険はない。私には深い自信がある。……これまでも彼らは幾度となくこの私を捉《とら》えようとした。しかしいつも失敗であった」
「はいさようでございます。仰《おお》せの通りでございます。しかし今度は、今度ばかりは安閑としてはおられませぬ」
「それも私には解っておる。彼らは彼らの守り本尊を私に穢されたと思っているらしい。がそれは間違っている。……黄金の甲冑《かっちゅう》を盗んだものは私ではなくて他にある」
「おっしゃるまでもござりませぬ」
 岩太郎は頭を下げた。「尊い尊いあなた様がなんでさようなことをなされましょう。とは云え部落の者達は甲冑を盗んだはあなた様だと思い詰めておるのでござります。草を分け枝を切っても今度こそは逃がしはせぬと、部落の男女子供まで一人残らず馳せ集まり、人数おおよそ五百人余り山を囲んでさっきから探しておるのでござります」
「なるほど」
 と法師は眼をとじてしばらくじっと考えていたが、「断じて私《わし》は逃げはせぬ。――しかし山は去ることにしよう」
「それが安全でござります。何より安全でござります」
「いや、私には危険はない。このままこの山におるとしても、私には神の恩寵《おんちょう》がある。窩人達にも捕われもしまい。一度《ひとたび》私が手を上げたなら忽然《こつぜん》と山火事が起こるであろう。もしまた足を上げたなら雪崩《なだれ》が落ちても来よう。……以前《まえかた》私は山火事を起こし彼らの集会《あつまり》を妨《さまた》げたことがある。もっとも真実《まこと》の山火事ではない。ただそう思わせたばかりであっていわば幻覚《まぼろし》に過ぎなかったが彼らは恐れて逃げてしまった。……私は彼らを恐れてはいない。私の恐れるのは自分自身だ。……私はこの山へ一年前に来た。最初は数十人の信者があった。しかし今はただ一人――ただ一人お前が残ったばかりだ。なんとはかない私の力であろう! 人を説くにはまだ早い、人を教えるのは僭越《せんえつ》である。それで山を去ろうというのだ。去ってそうして尚一層自分自身を磨《みが》こうというのだ」
 この時ドッと鬨《とき》の声が眼の下の林から湧き起こった。得物を引っさげた窩人の群が雪を蹴立てて駈け上って来る。
 しまった! と岩太郎は心で叫び、
「もう遅いかも知れませぬが、いそいでお隠れなさいまし! 一刻も早く、白法師様!」
 しかし岩太郎がこう云った時にはもうそこにはいなかった。と見ると遥かの山の峰に何やら動くものがある。そうしてそこから風に伝わってこういう声が聞こえて来た。
「おさらばじゃ岩太郎! またお前達とも逢うだろう。それまではおさらばじゃ」
「ああ、あれが白法師様だ」
 岩太郎は呟《つぶや》いて岩の上から幾度も頭を下げたものである。

         二二

 宗介天狗のご神体が無慙《むざん》に傷つけられ穢《けが》されたことは、笹の平の窩人達にとっては正に青天の霹靂《へきれき》であり形容も出来ない恐怖であった。白法師さえ取り逃がしたので、彼らはすっかり絶望した。絶望に次いで混乱が来た。平和であった窩人部落は一朝にして土崩瓦壊《どほうがかい》した。
 十人二十人組を組んで笹の平を去る者が出来た。「黄金の甲冑を取り戻すまでは俺達はここへは帰って来まい」――「黄金の甲冑を探しに行こう。日本の国の隅々《すみずみ》隈々《くまぐま》を、幾年かかろうと関《かま》わない。探して探して探して廻ろう」
 こう云って彼らは出て行くのであった。
 一月二月と経つうちに笹の平の窩人の数はわずか二百人となってしまった。こうして秋が去り冬が来た頃には、笹の平は無人境となった。最後に残った二百人を杉右衛門自ら引卒《ひきつ》れて放浪の旅へ登ったからである。
 天狗の宮には祀《まつ》る者がなく窩人の住家《すみか》には住む者がなく、従来《いままで》賑やかであっただけにこうなった今はかえって寂しく蕭殺《しょうさつ》の気さえ漂うのであった。
 ある日、一匹の野狐が恐らく猟師にでも追われたのであろう、天狗の宮の拝殿へ一目散に駈け込んで来たが、幾日経っても出て行かなかった。そこを住家としたのである。次第に眷属《けんぞく》が集まって来て、荘厳を極めた天狗の宮は、獣の糞や足跡で見る蔭もなく汚されてしまい、窩人達の家々には狸《たぬき》や狢《むじな》が群をなして住み子を産んだり育てたりした。
 こうして再び春となった。
 野生えの梅が花を点じ小鳥が楽しそうに鳴くようになった。
 この時、崖下の小屋の中で逞《たくま》しい赤児《あかご》の泣き声がした。山吹が子供を産み落としたのである。産まれた子供は男であった。で、猪太郎《ししたろう》と名付けられた。産婦の山吹は小屋の中で藁《わら》に埋まって横になっていた。介抱《かいほう》する者は誰もいない。ただ一匹の小さい猿がキョトンとしたような顔をして寝かせてある赤児の枕もとに行儀よくチョコンと坐っているのがせめてもの[#「せめてもの」に傍点]山吹の心やりであった。
 宇宙のあらゆる動物のうち人間と名付くる生物が一番順応性を持っている。
 こんなに苦しい境遇にあっても山吹は不思議に肥立《ひだ》って行った。わずかに残っている米と味噌、大事にかけて貯《たくわ》えておいた去年の秋のいろいろの果実《このみ》、食物《たべもの》と云えばこれだけであったが乳も出れば立って歩くことも出来た。赤児も元気よく育って行った。
 こうして幾月か月が経ちまた幾年か年が経った。
 五年の歳月が飛び去ったのである。
 五年に渡る辛労《しんろう》が山吹の体を蝕《むしば》んだと見えとうとう山吹は病気になった。五歳になった猪太郎が必死となって看病はしたが、定命《じょうみょう》と見えて日一日と彼女の体は衰えて行き死が目前に迫るように見えた。
 ある日彼女は猪太郎を枕もとへ呼び寄せた。そうして彼女は云ったのである。
「……妾《わたし》の云うことをよくお聞き。お前のお父様は城下の人で五味多四郎というのだよ。……妾はその人に欺瞞《だま》されたのだよ。――じきに妾は死ぬだろう。ああこの怨《うら》みこの呪詛《のろい》を返すことも出来ずに死ぬのだよ。妾は死んでも死にきれない! 猪太郎や妾にはお願いがある。お母さんに代って憎い多四郎へ、お前から怨みを返しておくれ! それが何よりの孝行だよ! ……おいでおいで猪太郎や妾の側《そば》へ来るがいいよ。腕をお出し右の腕をね。口の側へ持っておいで。さあお母さんの口の側へね」
 山吹は猪太郎の右の腕へ確《しっか》り喰い付いて歯形を付けた。「その歯形は永久消えまい。お母さんの形見だよ。その歯形を見る度にお母さんの怨みを思い出しておくれ。そうして憎い多四郎へお母さんの怨みを返しておくれ」
 こう云ってしまうと山吹はいかにも安心したようにさも平和《やすらか》に眼をとじた。そうしてそれから二日ばかり活きたが三日目の朝には息絶えていた。
 五歳の猪太郎はその日以来全く孤児《みなしご》の身の上となった。しかし彼は寂しくはなかった。猿や狼や鹿や熊が彼を慰めてくれるからである。
 こうして彼の生活は文字通り野生的のものとなり、食物《くいもの》と云えば小鳥や果実《このみ》、飲料《のみもの》と云えば谷川の水、そうして冬季餌のない時は寂しい村の人家を襲い、鶏や穀物や野菜などを巧みに盗んで来たりした。
 こうしてまたも五年の月日が倏忽《しゅっこつ》として飛び去った。そうして猪太郎は十歳《とお》となったがその体の大きさは十八、九歳の少年よりももっと[#「もっと」に傍点]大きくもあり逞《たくま》しくもあり、その行動の敏活とその腕力の強さとは真に眼覚《めざ》ましいものであった。且つ彼の頭脳《あたま》のよさ! これも正しく驚くべきもので、まことに彼は窩人の血と城下の人間の血とを継ぎ、荒々しい自然界に育てられたところの不思議な生物《いきもの》と云うべきであったが、この猪太郎こそこの物語すなわち「八ヶ嶽の魔神」というこの物語の主人公なのである。
 いでや作者《わたし》は次回においては、この猪太郎の身の上について描写の筆を進めると共に、全然別種の方面に当たって別様の事件を湧き起こさせ、波瀾重畳幾変転《はらんちょうじょういくへんてん》、わが親愛なる読者をして手に汗を握らしめようと思う。
 これまで書き綴《つづ》った物語はほんの全体の序曲に過ぎぬ。次回から本題へ入るのである。

   高遠城下の巻

         一

「先生、いかがでございましょう? すこしはよろしいのでございましょうか?」
「さよう、よいかも知れませんな」
「よろしくないのでございましょうか?」
「さよう、よくないかも知れませんな」
「では、どちらなのでございましょう?」
「さよう」
 と云ったまま返辞をしない。
 奥方お石殿は不安そうにじっ[#「じっ」に傍点]とその様子を見守っている。それからまたも聞くのであった。
「先生、いかがでございましょう? すこしはよろしいのでございましょうか?」
「さよう、よろしいかもしれませんな」
「よろしくないのでございましょうか」
「奥!」
 と良人《おっと》弓之進は見兼ねて横から口を出した。
「先生には先生のお考えがある。そういつまでもお尋ねするはかえって失礼にあたるではないか」
「はい。失礼致しました」お石はそっと涙を拭きつつましく[#「つつましく」に傍点]後《あと》へ膝を退《の》けた。
 部屋の中がひとしきり寂然《しん》となる。
「ちょっとお耳を……」
 と云いながら蘭医《らんい》北山《ほくざん》が立ったので続いて弓之進も立ち上がった。二人は隣室へはいって行く。
「あまり奥方がご愁嘆《しゅうたん》ゆえ申し上げ兼ねておりましたが、とても病人は癒《なお》りませんな」
「ははあ、さようでございますかな。定命《じょうみょう》なれば止むを得ぬこと」
「蘭学の方ではこの病気を急性肺炎と申します。今夜があぶのうございますぞ」
「今夜?」とさすがに弓之進も胆《きも》を冷やさざるを得なかった。
「いずれ後刻、再度来診」
 こう云って北山の帰った後は火の消えたように寂しくなった。
 二人の中の一粒種、十一歳の可愛い盛り、葉之助は大熱に浮かされながら昏々《こんこん》として眠っている。
「もし、ほんとに死にましょうか?」お石はほとんど半狂乱である。
「天野北山は蘭医の大家、診察《みたて》投薬神のような人物、死ぬと云ったら死ぬであろう」弓之進も愁然と云う。
 二人は愛児の枕もとからちょっとの間も離れようとはしない。
「それでもあなた、この葉之助は、授《さずか》り児《ご》ではございませぬか」お石は咽《むせ》びながらまた云い出す。「ご一緒になってから二十年、一人も子供が出来ないところから、荒神様《あらがみさま》ではあるけれど、諏訪八ヶ嶽の宗介天狗様へ、申し児をせいと人に勧められ、祈願をかけたその月から不思議に妊娠《みごも》って産み落としたのが、この葉之助ではございませぬか。授り児でございます。その授り児が十や十一でどうして死ぬのでございましょう? いえいえ死には致しませぬ、いえいえ死には致しませぬ」
 お石は畳へ突っ伏した。
 すると不意に葉之助がムックリ床の上へ起き上がった。
「代りが来るのだ、代りが来るのだ! 次に来る者はさらに偉い!」
 叫んだかと思うとバッタリ仆《たお》れそのまま呼吸《いき》を引き取ってしまった。

 こうしてが六月《むつき》が過ぎて行った。
「あなた、元気をお出し遊ばせ」
「奥、お前こそ元気をお出し」
 などと夫婦で慰め合うようになった。
「江戸から大歌舞伎が来たそうだ。どうだなお前|観《み》に行っては」
「はい、有難う存じます。それより秋になりましたゆえお好きの山遊びにおいで遊ばせ」
「うん、山遊びか、行ってもよいな」
「明日にもお出掛け遊ばすよう」
「北山殿もお好きであった。ひとつ誘って見ようかな」
「それがよろしゅうございます」
 そこで使いを立ててみると喜んで同行《ゆく》という返辞であった。
 その翌日は秋日和《あきびより》、天高く柿赤く、枯草に虫飛ぶ上天気であった。
 まだ日の出ないそのうちから三人の弟子を引き連れて天野北山はやって来た。
「鏡氏、お早うござる」
「北山先生、お早いことで」
 双方機嫌よく挨拶する。
 若党|使僕《こもの》五人を連れ他に犬を一頭曵き、瓢《ひさご》には酒、割籠《わりご》には食物、そして水筒には清水を入れ、弓之進は出《い》で立った。
 奥様は玄関へ手をつかえ、
「ごゆっくり」と云って頭《つむり》を下げる。
「奥、それでは行ってくるぞ」
 で、一行は門を出た。
 間もなく野良路へ差しかかる。ザクザクと立った霜柱、それを踏んで進んで行く。

         

 的場、野笹、長藤村、それから目差す鉢伏山だ。
 鉢伏山の中腹で一同割籠をひらくことになった。見渡す限りの満山の錦、嵐が一度《ひとたび》颯《さっ》と渡るや、それが一度に起き上がり億万の小判でも振るうかのように閃々燦々《せんせんさんさん》と揺れ立つ様はなんとも云われない風情《ふぜい》である。
「よろしゅうござるな」
「いや絶景」
 と、弓之進も北山も満足しながら瓢の酒を汲み合った。
 その時突然供の者どもが一度にワッと立ち上がった。
「熊! 熊!」と騒ぎ立つ。
「何、熊?」と弓之進は、若党の指差す方角を見ると横手の谷の底に当たって真っ黒の物が蠢《うごめ》いている。いかさま熊に相違ない。あっ[#「あっ」に傍点]と見るまに大熊はこっちを目掛けて駈け上がって来る。
「金吾、弓を!」と弓之進は若党を呼んで弓を取った。名に負う鏡弓之進は、高遠《たかとお》の城主三万三千石内藤|駿河守《するがのかみ》の家老の一人、弓は雪河流《せっかりゅう》の印可《いんか》であるが、小中黒《こなかぐろ》の矢をガッチリとつがえキリキリキリと引き絞ったとたん、
「待った待った射っちゃいけねえ!」
 鋭い声が聞こえて来た。
 何者とばかり放す手を止め声のした方をきっと見ると、ひと群《むら》茂った林の中から裸体《はだか》の壮漢が飛び出して来た。信濃《しなの》の秋は寒いというに腰に毛皮を纏《まと》ったばかり、陽焼けて赤い筋肉を秋天の下に露出させ自然に延ばしたおどろ[#「おどろ」に傍点]の髪を房々と長く肩に垂れ、右手《めて》に握ったは山刀、年はおよそ十七、八、足には革草鞋《かわわらじ》を穿いている。
「射《や》っちゃアいけねえ射っちゃいけねえ! ここで射《や》られてたまるものか。せっかく俺《おい》らが骨を折って八ヶ嶽から追い出して来た熊だ。他人《ひと》に取られてたまるものか……さあ野郎観念しろ! いいかげん手数をかけやがって! 猪太郎様の眼を眩《くら》ませうまうま他領へ逃げようとしたってそうは問屋でおろさねえ!」
 詈《ののし》り詈り熊を追い、追い縋《すが》ったと思ったとたんパッと背中へ飛び乗った。
「オーッ」と熊も一生懸命、後脚で立って振り落とそうとする。
「どっこいどっこいそうはいかねえ! これでも喰らって斃《くたば》りゃあがれ!」
 キラリ山刀が閃《ひらめ》いたかと思うと月《つき》の輪《わ》の辺から真っ赤な血が滝のように迸《ほとばし》った。
「オーッ」と熊はまた吠えたがこれぞ断末魔の叫びであったかドタリと横へ転がった。
「どうだ熊公驚いたか。一度俺に睨まれたが最後トドの詰まりはこうならなけりゃならねえ。アッハハハ、いい気持ちだ。どれ皮でも剥《は》ごうかい」
 熊の死骸を仰向けに蹴り返しその前へむずと膝を突くとブッツリ月の輪へ山刀を刺した。と、その時、どうしたものか俄然《がぜん》空を仰いだが、
「お母様!」
 と一声叫ぶとそのままグッタリ仆れてしまった。
 余り見事な格闘振りに弓之進や北山を初めとし弟子若党|使僕《こもの》までただ茫然と眺めていたがこの時バラバラと駈け寄った。
「北山殿、脈を早く!」
「心得たり」と北山は若者の手首をぐいと握ったが、
「大丈夫、脈はござる」
「それで安心。よい塩梅《あんばい》じゃ」
「あまりに精神を感動させその結果気絶をしたのでござるよ」
「手当の必要はござらぬかな?」
「このままでよろしい大丈夫でござる。や! なんだ! この痣《あざ》は!」
 云いながら北山は若者の手をグイと前へ引き寄せた。いかさま右の二の腕に上下|判然《はっき》り二十枚の歯形が惨酷《むごたら》しく付いている。
「人間の歯ではござらぬかな?」
「さよう、人間の歯でござる」
 この時、気絶から甦《よみがえ》ったと見え、若者はにわかに動き出した。まず真っ先に眼をあけて四方《あたり》を不思議そうに見廻したが、
「ああ恐ろしい夢を見た」
 こう云うとムックリ起き上がった。それから弓之進をじっと[#「じっと」に傍点]見た。その逞《たくま》しい顔の面《おもて》へ歓喜の情があらわれたと思うと突然若者は両手を延ばし、
「お父様!」
 と呼んだものである。それからまたも気を失い、熊の死骸へ倚《よ》りかかった。
 この時、忽然《こつぜん》弓之進は、以前《まえかた》死んだ葉之助が、「代りが来るのだ! 代りが来るのだ! 次に来る者はさらに偉い!」と末期《いまわ》に臨んで叫んだことを偶然《ゆくりなく》も思い出した。
「うむ、そうか! こいつだな!」
 ……ポンと膝を叩いたものである。

 翌年の秋、鏡家へ飯田の城下から養子が来た。
 堀|石見守《いわみのかみ》の剣道指南南条右近の三男で同苗《どうみょう》右三郎《うさぶろう》というのであったが、鏡家へ入ると家憲に従い葉之助と名を改めた。

         

「鏡家の養子葉之助殿は十二歳だということであるが一見十八、九に見えますな」
 家中の若侍達寄るとさわると葉之助の噂をするのであった。
「ノッソリとしてズングリとしてまるで独活《うど》の大木だ」
 などと悪口する者もある。
「ノッソリの方は当たっているがズングリの方はちと相応《そぐ》わぬ。どうしてなかなか美少年だ」
 なあんて中には褒《ほ》めるものもある。
「ところでどうだろう剣道の方は?」
「無論駄目駄目。大下手《おおへた》とも」
「いやいやまんざらそうでもあるまい。飯田の南条右近というは小野派一刀流では使い手だそうだ。その方の三男とあって見れば見下《みくだ》すことは出来ないではないか」
「論より証拠立ち合ったら解る」
「いやいや相手はご家老のご養子、無下《むげ》に道場へ引っ張って行って打ち据《す》えることもなりがたい」
「武芸には身分の高下はない」
「しかし相手はまだ子供だ、十二歳だというではないか。我々は立派な壮年でござる」「と云ってあの仁とて十八、九には、充分見えるではござらぬか」「たとえ幾歳《いくつ》に見えようと年はやはり年でござる」「よろしいそれでは注意して柔かくあしらって[#「あしらって」に傍点]やりましょう」「さようさ、それならよろしかろう」
 ある日、これらの若侍どもが、立川町に立っている中条流《ちゅうじょうりゅう》の道場でポンポン稽古《けいこ》をやっていた。主人の松崎清左衛門はきわめて温厚の人物であったがちょうど所用で留守のところから、代稽古の石渡三蔵が上段の間に控えていた。
 通りかかったのが葉之助で、若党の倉平を供に連れ、ふと武者窓の前まで来ると小気味のよい竹刀《しない》の音がする。
「ちょっと待て倉平」
 と声をかけて置いてひょい[#「ひょい」に傍点]と窓から覗いていた。
 早くも見付けた若侍ども、「おや」と一人が囁《ささや》くと、「うん」と一人がすぐに応じる。バラバラと二、三人飛び出して来た。
「これはこれは葉之助殿、そこでは充分に見えません。内《なか》にはいってご覧ください」
「さあさあ内へ、さあさあ内へ」
 まるで車掌が電車の中へ客を追い込もうとするかのようにむやみに内へを連発する。
「これはどうもとんだ失礼、覗きましたは私の誤《あやま》り、なにとぞご勘弁くださいますよう」葉之助はテレて謝った。
「いやいやそんな事は何んでもござらぬ。ポンポン竹刀の音がすればつい覗きたくもなりますからな。外からでは充分見えません。内へはいってゆっくりと」
「それにこれまで駈け違いしみじみ御意《ぎょい》を得ませんでした。今日はめったに逃がすことではない」
「おい近藤何を云うんだ」白井というのが注意する。
「何はともあれおはいりくだされ」
「倉平、どうしたものだろうな?」
「若旦那、お帰りなさいませ」事態|剣呑《けんのん》と思ったので主人を連れて帰ろうとする。
 そこへまたもや二、三人若侍どもが現われた。
「葉之助殿ではござらぬか。これはこれは珍客珍客! 近藤、白井、何をしている。早く葉之助殿をご案内せい」
「何んとでござる葉之助殿、おはいりくだされおはいりくだされ」
「せっかくのお勧め拝見しましょう」
「しめた!」「おい!」「ハハハ」
 そこで葉之助はノッソリと道場の内へはいって行く。
「おい、はいって行くぜはいって行くぜ」
「可哀そうに殴られるともしらず」「知らぬが仏という奴だな」「それにしても大きいなあ」「十二とは思われない」「十九、二十、二十一、二には見える」「随分力もありそうだぞ」「あの力でみっちり[#「みっちり」に傍点]殴られたら」「そりゃ随分に痛かろうさ」
 そろそろ怖気《おぞけ》を揮《ふる》う奴もある。
 葉之助の姿がノッソリと道場の中へ現われると、集まっていた門弟どもまたひとしきり噂をした。よせばよいのに気の毒な――こう思う者も多かったが大勢《たいせい》いかんともしがたいので苦い顔をして控えている。
「こちらへこちらへ」と云いながら、白井というのが案内した席は皮肉千万にも正座《しょうざ》であった。すなわち稽古台の横手である。
「これはご師範でござりますか」葉之助は初々《ういうい》しく恭《うやうや》しく石渡三蔵へ一礼し、「私、鏡葉之助、お見知り置かれくだされますよう。また本日はお稽古中お邪魔《じゃま》にあがりましてござります」
「おお鏡のご養子でござるか」
 煙草《たばこ》の煙りを口からフワリ……これが三蔵の挨拶《あいさつ》である。さすが代稽古をするだけに腕前は勝《すぐ》れてはいたものの、その腕前を鼻にかけ、且《か》つ旋毛《つむじ》の曲がった男、こんな挨拶もするのであった。
 あちこちでクスクス笑う声がする。

         四

 しかし葉之助は気にも掛けず端然と坐って膝に手を置いた。それからジロリと構内を見る。どうして沈着《おちつ》いたものである。
 葉之助が現われるとほとんど同時にバタバタと稽古は止めになったので、構内には竹刀の音もない。変に間の抜けた様子であったが、つと[#「つと」に傍点]進み出たのは近藤|司気太《しきた》、
「鏡氏、一本お稽古を」
「いや」と葉之助は言下に云った。「二、三本どうぞお見せくだされ」
「へへえ、さようで」
 と近藤司気太妙な顔をして引っ込んだが、これは正に当然である。ご覧なされと引っ張り込んで置いて誰も一本も使わないうちにさあ[#「さあ」に傍点]立ち合えと云うのであるからポンと蹴るのは理の当然だ。
「偉いぞさすがは鏡家の養子」葉之助|贔屓《びいき》の連中はさもこそ[#「さもこそ」に傍点]とばかり溜飲《りゅういん》を下げた。
「ふん、チョビスケの近藤め、出鼻から赤恥をかかされおって」
 しかし一方若侍どもは悠々|逼《せま》らざる葉之助の態度を面憎《つらにく》いものに思い出した。
「誰か出て二、三本使ったらどうだ」
「しからば拙者」「しからば某《それがし》」
 五組あまりバラバラと出た。
「お面」「お胴」「参った」「まだまだ」
 ポンポンポンポン打ち合ったが颯《さっ》とばかりに引き退いた。
「おい近藤、行ってみるがいい」
「あいよあいよ」と厭《いや》な奴またノコノコ出かけて行き、「鏡氏、一本お稽古を」
「アッハハハハ」と大きな声で突然葉之助は笑い出した。
 近藤司気太驚くまいことか! 眼ばかりパチクリ剥《む》いたものである。
「剣術のお稽古とは見えませぬな。まるで十二月《ごくげつ》の煤掃《すすはら》いのようで、アッハハハ」とまた笑ったが、
「真剣のお稽古拝見したいもので」
「へへえ、さようで」と器量の悪い話、近藤司気太引き退ったが、「いけねえいけねえ拙者は止めだ。どうも俺には苦手と見える」
「生意気至極《なまいきしごく》、その儀なれば」と、若侍ども本気で怒り十組ばかりズカズカと進み出たが、烈《はげ》しい稽古が行われた。それが済むと白井誠三郎ツカツカ葉之助の前へ行き、
「あいや鏡氏、葉之助殿、ご迷惑でござりましょうが、承《うけたま》わりますれば貴殿には小野派一刀流、ご鍛錬とか。一同の希望《のぞみ》にもござりますれば一手ご教授にあずかりたく、いかがのものにてござりましょうや」
「本来私はこの場にはお稽古拝見に上がりましたもの、仕合の儀は幾重にも辞退致さねばなりませぬが剣道は私も好むところ、且つは再三のお勧めもあり……」
「それではお立ち合いくださるか?」
「未熟の腕ではござりまするが……」
「それは千万|忝《かたじ》けない」
 してやったり[#「してやったり」に傍点]とニタリと笑い、「して打ち物は?」
「短い竹刀を……」
「しからばご随意にお選びくだされ」
 ワッと一同これを聞くと思わず声を上げたほどである。
 つと[#「つと」に傍点]立ち上がった葉之助はわずか一尺二寸ばかりの短い竹刀を手に握ると仕度《したく》もせず進み出た。
「あいや鏡氏、お仕度なされ」
 見兼ねたものかこの時初めて石渡三蔵が声を掛けた。
「私、これにて充分にござります」
「面も胴も必要がない?」
「一家中ではござりまするが流儀の相違がござります。他流試合真剣勝負、この意気をもって致します覚悟……」
「ははあさようかな。いやお立派じゃ……ええとしからば白井氏も、面胴取って立ち合いなされ」
「これはどうもめんどう[#「めんどう」に傍点]なことで」
 白井誠三郎不承不承に面や胴を脱いだものの、ここで三分の恐れを抱いた。
 居流れていた門弟衆も、これを聞くと眼を見合わせた。
「何んと思われるな佐伯氏? この試合どう見られるな?」「ひょっと[#「ひょっと」に傍点]するとアテが外れますぞ。相手の勢いがあまりに強い」「藪《やぶ》をつついて蛇を出したかな」
 葉之助贔屓の連中はこれに反して大喜びだ。
「見ておいでなされ白井誠三郎、一堪《ひとたま》りもなくやられますぜ」「全体あいつら生意気でござるよ。こっぴどい[#「こっぴどい」に傍点]目に合わされるがよい」
「静かに静かに、構えましたよ」
「どれどれ、なるほど、青眼ですな……おや白井め振り冠りましたな」
「葉之助殿の位取り、なかなか立派ではござらぬか。あれがヒラリと変化すると白井誠三郎|刎《は》ね飛ばされます」

         

 今や葉之助は中段に付けて、相手の様子を窺《うかが》ったが問題にも何んにもなりはしない。で、葉之助は考えた。
「かまうものか、ひっぱたいて[#「ひっぱたいて」に傍点]やれ」
 トンと竹刀を八相に開く。誘いの隙でも何んでもない。まして本当の隙ではない。それにもかかわらず誠三郎は、「ヤッ」と一声打ち込んで来た。右へ開いて、入身《いりみ》になり右の肩を袈裟掛《けさが》けに軽く。そうして置いてグルリと廻り、
「小野派一刀流五点の序、脇構えより敵の肩先ケサに払って妙剣と申す!」
 ちゃあん[#「ちゃあん」に傍点]と手口を説明したものだ。鮮かとも何んとも云いようがない。ひっぱたいて[#「ひっぱたいて」に傍点]置いてひっぱたいた[#「ひっぱたいた」に傍点]順序をひっぱたいた[#「ひっぱたいた」に傍点]人間が説明する。もうこれ以上はない筈《はず》である。
「参った」
 と誠三郎は声を掛けたが、声を掛けるにも及ばない話。溜《たま》りへコソコソと退いた。
「わっ!」とどよめきが起こったが、拍子抜けのしたどよめきである。
「山田左膳。お相手|仕《つかまつ》る!」
「心得ました。お手柔かに」
 ピタリと二人は睨み合った。左膳は目録《もくろく》の腕前である。しかし葉之助には弱敵だ。「かまうものか。やっつけろ。ええと今度は絶妙剣、そうだこいつで片付けてやれ」
 形が変わると下段に構えた。誘いの隙を左肩へ見せる。
「ははあこの隙は誘いだな」切紙《きりかみ》の白井とは少し違う。見破ったから動かない。はたして隙は消えてしまった。と、今度は右の肩へチラリと破れが現われた。
「エイ!」と一声。それより早く、一足飛びこんだ葉之助、ガッチリ受けて鍔元《つばもと》競《せ》り合い、ハッと驚くその呼吸を逆に刎ねて体当り! ヨロヨロするところを腰車、颯《さっ》と払って横へ抜け、
「小野派一刀流五点の二位、下段より仕掛け隙を見て肩へ来るを鍔元競り合い、体当りで崩《くだ》き後は自由、絶妙剣と申し候《そうろう》!」
 またもちゃあん[#「ちゃあん」に傍点]と説明されたものだ。
「参った!」これも紋切り型。
 今度は誰も笑わなかった。人々はちょっと凄くなった。二太刀を合わせたものはない。実に葉之助の強さ加減は人々の度胆を抜くに足りる。
「天晴れの腕前感心致してござる。未熟ながら拙者がお相手」
 こう云ったのは石渡三蔵で、上段の間からヒラリと下りると壁にかけてあった赤樫《あかがし》の木剣、手練《てだれ》が使えば真剣にも劣らず人の命を取るという蛤刃《はまぐりば》の太長いのをグイと握って前へ出た。
「拙者木剣が得意でござればこれをもってお相手致す。貴殿もご随意にお取りくだされい」
「いえ、私は、これにて結構」
「ほほう、短いその竹刀でな?」
「はい」と云ってニッと笑う。
「さようッ」と云ったが憎々しく、「拙者の仕合振り、荒うござるぞ!」
「はい、充分においでくだされ」
「ふん」と三蔵は鼻で笑い、「いざ!」
 と云って木剣を下ろした。
「いざ」と葉之助も竹刀を下ろす。一座|森然《しいん》と声もない。
 とまれ三蔵は免許の腕前、血気盛んの三十八歳、代稽古をする身分である。いかに葉之助が巧いと云っても年齢ようやく十二歳、年の相違だけでも甚《はなは》だしい。それを木剣であしらうとは?
「大人気《おとなげ》ござらぬ石渡氏、おやめなされおやめなされ!」
 と、二、三人の者が声を掛けたが、既《すで》にその時は立ち上がっていた。「もういけない!」と呼吸《いき》を呑む。
 双方ピッタリ合青眼《あいせいがん》、相手の眼ばかり睨み付ける。
「うん、どうやら少しは出来る」葉之助は呟いた、「が俺には小敵だ」
「エイ!」
 と珍らしく声をかけつと[#「つと」に傍点]一足前へ出た。
「ヤッ!」
 と三蔵も声をかけたがつと[#「つと」に傍点]一足|後《あと》へ引いた。
 双方無言で睨み合う。
「さて、どうしたものだろうな。思い切って打ち込むかとにかく相手は代稽古、俺に負けては気不味《きまず》かろう。と云ってこっちも負けられない。ええ構うものかひっぱたいて[#「ひっぱたいて」に傍点]やれ。エイ!」
 と云って一足進む。「ヤッ」と云って一足下がる。「エイ!」「ヤッ」「エイ!」「ヤッ」
 押され押されて三蔵はピッタリ羽目板へへばりついて[#「へばりついて」に傍点]しまった。額からはタラタラ汗が流れる。ぼーッと眼の前が霞んで来た。ハッハッハッと呼吸《いき》も荒い。
 当たって砕けろ! と三蔵は、うん[#「うん」に傍点]と諸手《もろて》で突いて出た、そこを小野派の払捨刀《ふっしゃとう》、ピシッと横から払い上げ、体の崩れへ付け込んで、真の真剣で顎《あご》へ発止《はっし》!
「カーッ」
 ととたんにどこからともなく物凄い気合が掛かって来た。

         六

 アッと驚いた葉之助、一足後へ引き退がる。そこを狙って石渡三蔵左の肩を真っ向から……
「遅い!」
 とまた同じ声がどこからともなく響いて来た。
「勝負なし!」
 と声は続く。
 その時正面の切り戸から悠然と立ち出でた小兵の人物、年格好は五十五、六、木綿の紋付に黄平《きひら》の袴《はかま》、左手《ゆんで》に一刀を引っさげてスッスッと刻《きざ》み足に進んで来る。
「石渡氏、何事でござる! 子供を相手に木剣の立ち合い、不都合千万、控えさっしゃい! あいや鏡葉之助殿、拙者は松崎清左衛門、当道場の主人《あるじ》でござる。お幼年にもかかわらず驚き入ったるお手のうち、いざこれよりは拙者お相手、お下がりあるな下がってはならぬ」
 大小を置くと鉄扇《てっせん》を握り、場《じょう》の真ん中へ突っ立った。
 場内シーンと静まり返り咳《しわぶき》一つするものはない。武者窓から射し込む陽の光。それさえ妙に澄み返っている。
 葉之助もさすがに顔色を変えた。
 名に負う松崎清左衛門といえば当時日本でも一流の剣客、彼《か》の将軍家お手直し役浅利又七郎と立ち合って互角無勝負の成績を上げ、男谷下総守《おだにしもうさのかみ》と戦っては三本のうち二本取り、さらに老後に至っては、北辰一刀流を編み出した千葉周作を向こうへ廻し、羽目板へまで押し付けてしまった。名利に恬淡《てんたん》出世を望まず、そのため田舎へ引っ込んではいるが剣客中での臥竜《がりょう》である。
 今その人が鉄扇を構え、さあ来い来たれと云うのである。いかに葉之助が小天狗でもこれには圧倒されざるを得ない。
 しかし今さら逃げも出来ぬ。
「先生ご免」
 と竹刀を握り、小野派における万全の構え、両捨一用卍《りょうしゃいちようまんじ》に付けた。
「ははあ感心、守勢に出たな」
 清左衛門は頷《うなず》きながら東軍流|無反《むそり》の構え、鉄扇を立てずに真っ直ぐに突き出しじっ[#「じっ」に傍点]と様子を窺《うかが》った。
「エイ!」
 と一つ誘って見る。葉之助は動かない。
「ははあ、益※[#二の字点、1-2-22]堅くなったな……うむ、それにしても偉い覇気だ。構えを内から突き崩そうとしている。待てよ。ふうむ、これは驚いた。産まれながらの殺気がある。どうもこいつは剣呑《けんのん》だ。エイ!」
 とまたも誘ってみたがやはり凝然《じっ》と動かない。
 清左衛門は一歩進んだ。と葉之助は一歩下がる。間。じっとして動かない。と葉之助は一歩進んだ。と清左衛門が一歩退く。
「偉い。俺を押し返しおる。どうも恐ろしい向こう意気だ、しかも守勢を持ち耐《こた》えている。まごまごすると打ち込まれるぞ……これが十二の少年か? いや全く恐ろしい話だ。産まれながらの武辺者。まずこうとでも云わずばなるまい……とは云え余りに野性が多い。いわゆる磨かぬ宝玉じゃ……南条右近の三男と云うがこれは少々|眉唾物《まゆつばもの》だ。都育ちの室咲《むろざ》き剣術、なかなかもってそんなものではない……山から切り出した石材そっくり恐ろしく荒い剣法じゃ……そろそろ呼吸《いき》が荒くなって来たぞ、あまりに神気を凝《こ》らし過ぎどうやらこれは悶絶《もんぜつ》しそうだ。参った!」と云って鉄扇を引いた。
「はっ」と驚いた葉之助、トントンと二足前へ出たが、「参りましてござります!」
「前途有望、前途有望、将来益※[#二の字点、1-2-22]お励みなされ!」
「はい、有難う存じます」葉之助は汗を拭く。
「誰に従《つ》いて学ばれたな?」
「はい、父右近に従きまして」
「ははあ、そうしてそれ以外には?」
「師は父だけにござります」
「それは不思議、しかとさようかな?」
「何しに偽《いつわ》りを申しましょう」
「それにしては解《げ》せぬことがある」
 清左衛門は首を捻った。
「未熟者ではござりまするが、今日よりご門弟にお加えくだされませ」
「いや」と、不思議にも清左衛門は、それを聞くと冷淡に云った。「少しく存ずる旨《むね》もあれば、門に加えることなり兼ねまする」
「……存ずる旨? 存ずる旨とは?」葉之助は気色《けしき》ばんだ。
「存ずる旨とは、読んで字の如しじゃ」

         

「葉之助、ちょっと参れ……聞けばお前は立川町の松崎道場で大勢を相手に腕立てしたと云うことであるが、よもや本当ではあるまいな?」
「は……本当でございます」
「なぜそのようなことをしたか」
「止むを得ない仕儀に立ち至りまして……」
「止むを得ない仕儀? どういう訳かな?」
「あらかじめ企《たくら》んだものと見え、道場の前へ差しかかりますと、ご門弟衆バラバラと立ち出で、無理|無態《むたい》に私を連れ込み、是非にと試合を望みましたれば……」
「おおさようか、是非に及ばぬの……噂によれば近藤、白井、山田等という門弟衆を、苦もなく打ち込んだということだが?」
「はい、相手が余り弱く……」
「うん、それで勝ったというか」
「つい勝ちましてございます」
「松崎殿とも立ち合ったそうだの」
「一手ご指南にあずかりました」
「松崎殿はお強いであろうな」
「まるで鬼神《きじん》でござります」
「そうであろうとも、あのお方などは古《いにしえ》の剣聖にも勝るとも劣らぬ、立派な腕前を持っておられる」
「ほとほと驚嘆致しました」
「お前の技倆《うで》も立派なものだな」
「いえ、お恥ずかしゅう存じます」
「さすがはご親父南条殿は小野派一刀流では天下の名人、松崎殿にも劣るまいが、その三男に産まれただけあって十二歳の小腕には過ぎた技倆《うでまえ》、私も嬉しく頼もしく思う」
「お褒めにあずかり、有難う存じます」
「しかし天下には名人も多い」
「は、さようでございます」
「決して慢心致してはならぬ」
「慢心は愚《おろ》か、今後は益※[#二の字点、1-2-22]、勉強致す意《つも》りにござります」
「他人との立ち合いも無用に致せ」
「心得ましてござります」
「負ければ恥、勝てば怨まれる、腕立てせぬが安全じゃ」
「仰《おお》せの通りにござります」
「松崎道場でのお前の振る舞い、家中もっぱら評判じゃ」
「恐縮の至りに存じます」
「今のところお前の方が評判もよければ同情者も多い」
「ははあさようでございますか」
「評判がよいとて油断は出来ぬ」
「いかにも油断は出来ませぬ」
「よい評判は悪くなりたがる」
「お言葉通りにござります」
「落ちた評判は取り返し悪《にく》い」
「落とさぬよう致したいもので」
「そこだ」
 と弓之進は膝を打った。
「よく気が付いた。そうなくてはならぬ。ついては今後は白痴《ばか》になれ」
「は?」
 と云って葉之助は思わずその眼を見張ったものである。
「今後は白痴になりますよう」
 弓之進は再びこう云うとじっ[#「じっ」に傍点]と葉之助を見守った。
「どうだ葉之助、まだ解らぬかな?」
「お言葉は解っておりますが……」
「うむ、その意味が解らぬそうな。それでは一つ例を引こう。武士の亀鑑《きかん》大石良雄は昼行灯《ひるあんどん》であったそうな」
「お父上! ようやく解りました!」
「おお解ったか。それは重畳《ちょうじょう》」
「私昼行灯になりましょう」
「ハッハハハ、昼行灯になれよ」
「きっとなってお目にかけます」
「昼の行灯は馬鹿気たもの、人は笑っても憎みはしない」
「御意《ぎょい》の通りにござります」
「我が家は内藤家の二番家老、門地高ければ憎まれ易《やす》い。お前の性質は鋭ど過ぎ、これまた敵を作り易い。それを避けるには昼行灯に限る」
「昼行灯に限ります」
「お、白痴《ばか》になれよ白痴になれよ」
 その時襖が静かに開いて、茶を捧げたお石殿が部屋の中へはいって来た。
「徒然《つれづれ》と存じお茶を淹《い》れました」
「お母様」
 と葉之助は、甘えた声で呼んだかと思うと、足を投げ出し横になった。「お菓子くだされお菓子くだされ!」
 腕を延ばすと菓子鉢の菓子をやにわに摘んで頬張った。
「まあこの子は」
 とお石は驚き、「平素《いつも》に似ない行儀の悪さ、お前|白痴《ばか》におなりだね」
「アッハハハ、その呼吸《いき》呼吸《いき》!」
 弓之進は手を拍《う》った。
「これで我が家も葉之助もまずは安全というものじゃ。めでたいめでたい! アッハハハ」

         

 内藤駿河守正勝は初老を過ごすこと五つであったが、性|濶達《かったつ》豪放で、しかも仁慈《じんじ》というのだから名君の部に属すべきお方、しかし、欠点は豪酒にあった。今日も酒々、明日も酒……こう云ったような有様である。
 ある日弓之進が伺候《しこう》すると、
「そちの養子葉之助、今年十二の弱年ながら珍らしい武道の達人の由、部屋住みのまま百石を取らせる、早々殿中へ差し出すよう、近習《きんじゅう》として召し使い遣《つか》わす」
「これはこれは分に過ぎたる有難きご諚《じょう》ではござりますが、葉之助儀は脳弱く性来いささか白痴にござりますれば……」
「これこれ弓之進、痴《たわ》けたことを申すな!」
 濶達の性質を露出《まるだ》しにして駿河守は怒鳴るように云った。
「性来白痴の葉之助が、近藤司気太、白井誠三郎、山田左膳というような武道自慢の若者どもを打ち込むほどの技倆《うでまえ》になれるか!」
「恐らく怪我勝ちにござりましょう」
「石渡頼母の三男などは代稽古の技倆ということだが、葉之助とは段違いだそうだ。そんな白痴なら白痴結構。是非明日より出仕をさせろ」
 こう云われてはしかたがない。それに有難いご諚である。弓之進はお受けをした。
 で、翌日から葉之助はご前勤めをすることになった。
 艶々した前髪立ち、年は十二というけれど一見すれば十八、九、鼻高く眼涼しく、美少年であって且《か》つ凛々《りり》しい眼の配り方足の運び方、武道の精髄に食い入ったものである。
「何んのこれが白痴なものか」
 駿河守は一眼見るとひどく葉之助が気に入った。
 しかし葉之助は往々にして度外れた事をするのであった。例えばご前で足を延ばしたり、歩きながら居睡りをしたり、突然大きな欠伸《あくび》をしたり、そうしていつも用のない時にはうつらうつらと眼をとじて、よく云えば無念無想、悪く云えば茫然《ぼんやり》していた。
「武道の麒麟児《きりんじ》と思ったに葉之助殿はお人好しだそうだ」「食わせ物だ食わせ物だ」
「ぼんやりとしてノッソリとして、ヌッと立っている塩梅《あんばい》は独活《うど》の大木というところだ」
「何をやっても一向冴えない。ボーッとしたところは昼の行灯《あんどん》かな」
「昼行灯昼行灯、よい、これはよい譬喩《たとえ》じゃ」
「昼行灯様! 昼行灯様!」
 朋輩どもは葉之助の事を間もなく昼行灯と綽名《あだな》した。
「はてな?」
 と駿河守は首を傾げた。「あれほど利口な葉之助が、時々心を取り失うとはちょっとどうも受け取れないことだ。事実脳が弱いのかそれとも明哲保全《めいてつほぜん》の策か? ……これは一つ試して見よう」
 ある日にわかの殿の仰せで、弓射の試合を始めることになった。
 駿河守は馬に乗り近習若侍を後に従え、矢場を指して走らせて行く。
 矢場には既《すで》に弓道師範|日置《へき》流に掛けては、相当名のある佐々木源兵衛が詰めかけていたが、殿のお出《い》でと立ちいでて恭《うやうや》しく式礼した。
「おお源兵衛か今日はご苦労」駿河守は頷いたが、「すぐに射手《いて》に取りかかるよう」
「かしこまりましてござります」
 源兵衛がご前を退くと、忽《たちま》ち法螺《ほら》貝が鳴り渡った。
 射手が十人ズラリと並ぶ。
 ヒューッ、ヒューッと弦音《つるおと》高く的を目掛けて切って放す。弦返りの音も冴えかえり、当たった時には赤旗が揚がる。
 鉦《かね》の音で引き退き法螺の音で新手《あらて》が出る。
 番数次第に取り進んだ。
 最後に現われた三人の射手は、印可《いんか》を受けた高弟で、綿貫紋兵衛、馬谷庄二、そうして石渡三蔵であったが的も金的できわめて小さい。一人で五本の矢を飛ばすのであった。
 甲乙なしに引き退いた。
 後には誰も出る者がない。今日の射法は終わったのである。
「これ葉之助」と駿河守は傍《かたわら》の葉之助へ声を掛けた。
「そちは剣道では一家中並ぶ者のない達人と聞くが、弓と馬とは弓馬と申して表芸の中の表芸、武士たる者の心得なくてはならぬ。そちにも心得あることと思う。立ち出でて一矢《ひとや》仕《つかまつ》れ」
「は」
 と云ったが葉之助、こう云われては断わることは出来ない。未熟と申して尻込みすれば家門の恥辱、身の不面目となる。白痴を気取ってはいられなくなった。
「不束《ふつつか》ながらご諚《じょう》なれば一矢仕るでござりましょう」
 謹んでお受けすると列を離れ、ツツーと設けの座に進んだ。屹《きっ》と金的を睨んだものである。
「葉之助殿おやりなさるかな。貴殿何流をお習いかな」
 佐々木源兵衛は莞爾《にこやか》に訊いた。
「はい、竹林派をほんの少々」
 云いながら無造作に弓を握る。

         

 これを見ると若侍達は互いにヒソヒソ囁《ささや》き出した。
「行灯殿が弓を射るそうな。はてどこへぶち[#「ぶち」に傍点]こむやら」「土壇《どたん》を飛び越し馬場の方へでも、ぶっ[#「ぶっ」に傍点]飛ばすことでござりましょう」
「それはよけれど弾《は》ね返って座席へでも落ちたら難儀でござるな」
「いやいやそうばかりも云われませぬよ」
 中には贔屓《ひいき》をする者もある。「松崎道場では石渡殿を、手こずらせたという事です」
「いやそれも怪我勝ちだそうで」
「では今度ももしかすると[#「もしかすると」に傍点]怪我勝ちするかもしれませんな」
「そう再々怪我勝ちされてはちとどうも側《はた》が迷惑します」
「黙って黙って! 矢をつがえました」
「あれが竹林派の固めかな」
「いやいやあれは昼行灯流で」
「ナール、これはよう云われました」
 この時葉之助は矢を取るとパッチリつがえてキリキリキリ、弦《いと》一杯に引き絞ると、狙いも付けず切って放した。
「どうだ?」
 と侍達は眼を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》った。外《はず》れたと見えて旗が出ない。
「おやおや最初から仕損じましたな」
「二本目は与一も困る扇《おうぎ》かな……さあどうだ昼行灯殿!」
 急《せ》かず周章《あわ》てず葉之助はすかさず二の矢を飛ばせたが、これも外れたか旗が出ない。
「ウワーッ、いよいよ昼行灯だ! 一の矢二の矢を仕損じながら、沈着《おちつき》ようはマアどうだ」
「恥なければ心安し。一向平気と見えますな」
「殿も小首を傾げておられる」「いったい殿がお悪いのだ。あんなものを召使うばかりか贔屓にさえもしておられる」「あれは殿の酔狂さ」
「それまた射ますぞ。静かに静かに」
 しかし葉之助は益※[#二の字点、1-2-22]|泰然《たいぜん》と構え、姿勢に揺るぎもなく、三の矢四の矢五の矢まで、呼吸《いき》も吐けない素早さで弦音高く射放したが、旗はついに出なかった。
 ガッチリ弓を棚に掛け、袴《はかま》両袖《りょうそで》をポンポンと払うと、静かに葉之助は射場を離れ、端然と殿の前へ手を支《つか》えた。
「未熟の弓勢《ゆんぜい》お目にかけお恥ずかしゅう存じます」
「うむ」
 と云ったが駿河守は牀几《しょうぎ》に掛けたまま動こうともしない。何やら考えているらしい。
「源兵衛、源兵衛」
 と急に呼んだ。弓道師範の佐々木源兵衛小腰を屈《かが》めて走って来た。
「的をここへ持って来い」
「はっ」と云うと源兵衛は、扇を上げて差し招いた。旗の役の小侍は、それと見ると的を捧げ、矢場を縦に走って来たが、謹《つつし》んで的を源兵衛へ渡す。源兵衛から殿へ奉《たてまつ》る。
 的を眺めた駿河守は、
「おお」と思わず声を洩らした。「どうだ源兵衛これを見い!」
「はっ」と云って差し覗くと、思わずこれも「うむ」と唸った。矢は五本ながら中《あた》ってはいないが、しかしその矢は五本ながら同じ間隔と深さとをもって的の縁《へり》を擦《こす》っている。
「なんと源兵衛、どう思うな!」
「恐れ入ってござります」
「中《あ》てようと思えば中《あた》る矢だ」
「申すまでもございません」
「どうだ、印可《いんか》は確かであろうな」
「いやもう印可は抜いております」
「三蔵とはどっちが上手だ?」
「これは段が違います」
「そうであろう」と頷いたが、葉之助の方へ眼をやると、「さて、お前に聞くことがある。中《あ》てずに縁を擦《こす》ったは、竹林派に故実あってかな?」
「いえ、一向存じませぬ」
 葉之助は空|呆《とぼ》けた。
「知らぬとあってはしかたもないが、そちの学んだ竹林派について、詳しく来歴を語るよう」
「はっ」
 と云ったが葉之助、これはどうも知らぬとは云えない。そこで形を改めると、
「竹林派の来歴申し上げまする。そもそも、始祖は江州《ごうしゅう》の産、叡山《えいざん》に登って剃髪《ていはつ》し、石堂寺竹林房|如成《じょせい》と云う。佐々木入道|承禎《しょうてい》と宜《よ》く、久しく客となっておりますうち、百家の流派を研精し、一派を編み出し竹林派と申す。嫡男《ちゃくなん》新三郎水没し、次男弥蔵|出藍《しゅつらん》の誉《ほま》れあり、江州佐和山石田三成に仕え、乱後身を避け高野山に登り、後吉野の傍《そば》に住す。清洲少将忠吉公、その名を聞いてこれを召す。後、尾張|源敬公《げんけいこう》に仕え、門弟多く取り立てしうち、長屋六兵衛、杉山三右衛門、もっとも業に秀《ひい》でました由《よし》――大坂両度の合戦にも、尾張公に従って出陣し、一旦|致仕《ちし》しさらに出で、晩年|窃《ひそ》かに思うところあり、長沼守明《ながぬまもりあき》一人を取り立て、伝書工夫|悉《ことごと》く譲る。子孫相継ぎ弟子相受け今日に及びましてござりますが、三家三勇士の随一人、和佐大八郎は竹林派における高名の一|人《にん》にござります」
 弁舌さわやかに言上した。

         一〇

「昼行灯どころの騒ぎではない。これは素晴らしい麒麟児《きりんじ》だ。まるで鬼神でも憑《つ》いていて言語行動させるようだ……ははあ、それで弓之進め、この少年の行末《ゆくすえ》を案じ、朋輩先輩の嫉視《しっし》を恐れ、俄《にわ》か白痴《ばか》を気取らせたのであろう。弓之進め用心深いからな……そういう訳ならそれもよかろう。せっかくの目論見《もくろみ》だ、とげさせてやろう」
 駿河守は頷いた。
「今日の競技はこれで終わる。者ども続け!」
 と云い捨てると駿河守は馬に乗った。タッタッタッタッと帰館になる。近習若侍に立ち雑《まじ》り葉之助も後を追う。

 松崎清左衛門は何が不足で葉之助の入門を拒絶《ことわ》ったのであろう? それは誰にも解らない。しかし当の葉之助にとっては無念千万の限りであった。
「そういう訳なら師を取らずに己《おのれ》一人工夫を凝らし、東軍流にて秘すところの微塵《みじん》の構えを打ち破り清左衛門めを打ち据えてくれよう」
 間もなく葉之助は心の中でこういう大望を抱くようになった。彼はご殿から下がって来るや郊外の森へ出かけて行き、八幡宮の社前に坐って無念無想に入ることがあり、またある時は木刀を揮《ふる》って立ち木の股を裂いたりした。
「一にも押し、二にも押し、これが相撲の秘伝だそうだ。一にも突き二にも突き、これが剣道の極意である。しかし極意であるだけに誰も学んで珍らしくない……さてそれでは突き以外に必勝の術はあるまいか」
 来る夜も来る夜も葉之助はこの点ばかりを考えた。しかし容易には考え付かない。
「突きを止めれば斬《き》る一方だが、さてどこが一番斬り易いかな?」
 こう押し詰めて来て葉之助は、「肩だ!」と叫ばざるを得なかった。
「肩ほど斬りよいものはない。相手の右の肩先から左の肋《あばら》へ斜《はす》に斬る。すなわち綾袈裟掛《あやけさが》けだ! 右へ逸《そ》れても腕を斬る。左へ逸れれば頸《くび》を斬る、どっちにしても急所の痛手だ。うんこれがいい」
 と思い付いてからは、彼は何んの躊躇《ちゅうちょ》もせず袈裟掛けばかりを研究した。腕は既に出来ている、加うるに珍らしい天才である、それに一念が籠もっているのでその上達の速《すみや》かさ、半年余り経った頃にはかなり太い生の立ち木を股から斜めに幹をかけてサックリ木刀で割ることが出来た。
「宮本武蔵の十字の構えを、有馬喜兵衛は打ち破ろうと、木の股ばかりを裂いたというが、よも木の幹は割れなかったであろう――いかに松崎が偉いと云っても武蔵に比べては劣るであろう。もう一年、もう二年、練磨に練磨を積んだ上、松崎に試合を申し込み、清左衛門めを打ち据えてくれよう」
 仮想の敵があるために、彼の技倆は一日一日と上達をするばかりであった。
 こうして六年は経過した。葉之助は十八歳となり、一人前の男となった。
「おお葉之助か近う参れ」
 ある日、それは夕方であったが、駿河守はこう云って鏡葉之助を膝近く呼んだ。
「は」と云って辷《すべ》り寄る。「何かご用でござりますか?」
「そちに吩咐《いいつ》けることがある」
 駿河守は真面目《まじめ》に云う。
「は、何ご用でござりましょう?」
「今宵《こよい》妖怪《あやかし》を退治て参れ」
「して、妖怪と仰せられますは?」さすがの葉之助も不安そうに訊き返さざるを得なかった。
「そちも噂は聞いていよう。永く当家の金《かね》ご用を勤めるあの大鳥井紋兵衛の邸《やしき》へ、最近|繁々《しげしげ》妖怪|出《い》で紋兵衛を悩ますということであるが、当家にとっては功労ある男、ただし少しく強慾に過ぎ不人情の仕打ちもあるとかで、諸人の評判はよくないが、打ち棄《す》てて置くも気の毒なもの、そち参って力になるよう」
「は」
 とは云ったが葉之助は、躊躇《ためら》わざるを得なかった。
 いかにも彼はその噂を世間の評判で知っていた。久しい前から紋兵衛の邸へ異形《いぎょう》の怪物が集まって来て、泣いたり嚇《おど》したり懇願《こんがん》したり、果ては呪詛《のろい》の言葉を吐いたり、最後にはきっと声を揃え、「返してくだされ! 返してくだされ!」と、喚《わめ》き立てるというのである。世間の人の評判では、その異形な怪物こそは、紋兵衛のために苦しめられたいわゆる可哀そうな債務者の霊で、家や屋敷を取り上げられたのを死んだ後までも怨恨《うらみ》に思い、それで夜な夜な現われては、「返してくだされ! 返してくだされ!」と、喚き立てるのだというのであった。

         一一

 相手が兇悪な盗賊とかまたは殺人《ひとごろし》の罪人とか、そういうものを退治るなら一も二もなくお受けしようが、亡魂《ぼうこん》とあっては有難くない――これが葉之助の心持ちであった。
「主命を拒《こば》むではござりませぬが、私如き若年者より、他にどなたか屈強《くっきょう》なお方が……」
「いや」と駿河守は遮《さえぎ》った。「お前が一番適当なのだ。拒むことはならぬ、是非参るよう……新刀なれども堀川国広、これをそちに貸し与える。退治致した暁《あかつき》にはそちの差料《さしりょう》として遣わそう」
「そうまで仰せられる殿のお言葉をお受け致《いた》さずばかえって不忠、参ることに致します」
「おお参るか。それは頼もしい」
「ご免くだされ」
 と座を辷《すべ》る。
「大事をとって行くがいいぞ」
「お心添え忝《かたじ》けのう存じます」
 国広の刀をひっさげて葉之助はご前を退出した。

 富豪大鳥井紋兵衛の邸《やしき》は、二本|榎《えのき》と俗に呼ばれた、お城を離れる半里の地点、小原村に近い耕地の中に、一軒ポッツリ立っていたが、四方に林を取り巡らし、濠《ほり》に似せて溝を掘り、周囲を廻れば五町もあろうか、主屋《おもや》、離室《はなれ》、客殿、亭《ちん》、厩舎《うまや》、納屋《なや》から小作小屋まで一切を入れれば十棟余り、実に堂々たる構造《かまえ》であったが、その主屋の一室に主人紋兵衛は臥《ふ》せっていた。
「灯火《あかり》が暗い。もっと点《とも》せ」
 夜具からヒョイと顔を出すと、譫語《うわごと》のように紋兵衛は云った。年は幾歳《いくつ》か不明であったが、頭髪白く顔には皺《しわ》があり、六十以上とも見られたが、どうやらそうまでは行っていないらしい。大きい眼に高い鼻、昔は美男であったらしい。
「灯火は十も点っております」
 附き添っている十人の中には、剣客もあれば力士もあり柔術《やわら》に達した浪人もあり、手代、番頭、小作頭もある。それらさまざまの人物がギッシリ一部屋に集まった。四方に眼を配っていたが、番頭の佐介はこう云うと紋兵衛の顔を覗き込んだ。
「ご覧なさいませ部屋の中には行灯《あんどん》が十もござります。なんの暗いことがございましょう」
「いいや暗い、真っ暗だ。早く灯心を掻《か》き立ててくれ」
「それじゃ卯平《うへい》さん掻き立ててくんな」
「へい」と云うと手代の卯平は、静かに立って一つ一つ行灯の火を掻き立てた。いくらか部屋が明るくなる。
「時に今は何時《なんどき》だな?」
 気遣《きづか》わしそうに紋兵衛は訊く。
「はい」と佐介はちょっと考え、「初夜《しょや》には一|刻《とき》(二時間)もございましょうか」
「まだそんなに早いのか」
「宵《よい》の口でございます」
「ああ夜が早く明ければよい……俺は夜が大嫌いだ。……俺には夜が恐ろしいのだ」
 ザワザワと吹く春風が雨戸を通して聞こえて来た。と、コトンと音がした。
「あれは何んだ? あの音は?」
「さあ何んでござろうの」剣術使いの佐伯|聞太《ぶんた》は、大刀を膝の辺へ引き付けながら、「鉢伏山《はちぶせやま》から狐《きつね》めが春の月夜に浮かされてやって来たのでもござろうか」
「ナニ狐?」と紋兵衛は、恐怖の瞳を踴《おど》らせたが、「追ってくだされ! 俺は狐が大嫌いだ!」
「よろしゅうござる」
 と大儀そうに、聞太はスックリ立ち上がったが襖《ふすま》を開けると隣室へ行った。障子《しょうじ》を開ける音がする。雨戸をひらく音もする。
「アッハハハハ」
 と笑い声がすると、雨戸や障子が閉《た》てられた。
 聞太は部屋へはいって来たが、
「狐ではなくて犬でござった。黒めが尾を振っていましたわい」
「犬でござったのかな。それで安心」紋兵衛はホッと溜息をした。
 暫時《ざんじ》部屋は静かである。
 と、紋兵衛は悲しそうな声で、
「ああ私《わし》は眠りたい。眠って苦痛を忘れたい……北山《ほくざん》先生、薬くだされ!」
 天野北山は黙っていた。
 長崎仕込みの立派な蘭医《らんい》、駿河守の侍医ではあったが、客分の扱いを受けている。江戸へ出しても一流の先生、名聞《みょうもん》狂いを嫌うところからこのような山間にくすぶってはいるがどうして勝れた人物であり、いかに相手が金持ちであろうと人格の卑しい紋兵衛などの附き人などに成る人物ではない。しかし礼を厚うしてほとんど十回も招かれて見れば放抛《うっちゃ》って置くことも出来なかったので時々見舞ってやっていた。しかしもちろん急抱えの剣術使いや浪人とは違う。否だと思えばサッサと帰り、いけないと思えば投薬もしない。
「北山先生薬くだされ!」
「ならぬ!」
 と北山は抑《おさ》え付けた。

         一二

「あなたの病気は薬でも癒《なお》らぬ。懺悔《ざんげ》なされ懺悔なされ。そうしたらすぐにも癒るであろう」
「懺悔?」と紋兵衛は恐ろしそうに、「何もございません、何もございません! 懺悔することなどはございません!」
「嘘《うそ》を云わっしゃい!」
 と北山は嘲《あざけ》るようにたしなめた。「懺悔することのないものが何んでそのように神経を起こし、何んでそのように恐れるか。……そなた、無分別の若い頃に悪いことでもしはしないかな?」
 膝《ひざ》に突いていた黒塗りの扇《おうぎ》をパチリパチリとやりながら、北山はグングン突っ込んで訊く。
「いいえ、そんな事はございません。正直な人間でございます。人に恨まれる覚えもなく、人に憎まれる覚えもない正直な人間でございます」
「どうも私《わし》には受け取れない。どうでもあなたの心の中には不安なものがあるらしい。ひどく神経を痛めておる……で、私は改めて訊くが、貴公どこの産まれだな?」
「はい、江戸でございます」
「江戸はどこだな? どの辺だな?」北山は遠慮なく押し詰める。
「はい」と紋兵衛は狼狽しながら、「江戸は芝でございます」
「おおさようか、芝はどこだ?」
「はい、芝は錦糸堀で……」
「何を痴《たわ》けめ!」と北山はカラカラとばかり哄笑《こうしょう》した。
「芝にはそんな所はない、錦糸堀は本所《ほんじょ》だわえ!」
「おお、そうそうその本所で、私は産まれたのでございます」
「うん、そうか、では聞くが、錦糸堀は本所のどの辺にあるな?」
「はい、本所のとっつき[#「とっつき」に傍点]に」
「アッハハハハ、まるで反対だ。錦糸堀は本所の外《はず》れにある……貴公江戸は不案内であろう? ……云いたくなければ云わないでもよい。産まれ故郷の云えないような、そういう胡散《うさん》な人物には今後薬は盛らぬまでだ……ところでもう一つ訊きたいのは、十万に余る貴公の財産、いったい何をして儲《もう》けたのか?」
 北山はじっ[#「じっ」に傍点]と眼を据えて紋兵衛の顔を見守った。しかし紋兵衛はもの[#「もの」に傍点]を云わない。
「どうやらこれも云えないと見える……後ろ暗いことでもあるのであろう」
「黙れ!」
 と突然狂気|染《じ》みた声で、大鳥井紋兵衛は怒鳴《どな》ったものである。彼はムックリと起き上がった。
「黙れ! 藪医者《やぶいしゃ》め! 何を吐《ぬ》かす!」
「何?」
 と北山も眼を瞋《いか》らせた。
「俺は正直の人間だ!」紋兵衛は大声で怒鳴りつづける。「後ろ暗えこととは何事だ! 俺は正直に働いて正当に金を儲けたのだ! それが何んで悪いのか!」
「うんそうか、それが本当なら、貴公はなかなか働き者だ。この北山|褒《ほ》めてやる……さほど正直に儲けた金なら何も隠すには及ぶまい。何をして儲けたか云うがいい」
「いいや云わねえ、云う必要はねえ! 何んで貴様に云う必要がある! それから云え、それから云え!」
「云ってやろう、俺は医者だ!」
「医者だからどうしたと云うのだい!」
「病いの基《もと》を調べるのよ」
「病いの基を調べるって? いいやそんな必要はねえ」
「貴公、可哀そうに血迷っているな」
「血迷うものか! 俺は正気だ!」
「病気の基を極《きわ》めずにどうして病いを癒すことが出来る」
「癒すにゃア及ばねえうっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]置いてくれ!」
「おお、そうか、それならよい」
 ズイと北山は立ち上がった。「今後招いても来てはやらぬぞ」
「…………」
「貴公、死相が現われておる。取り殺されるも長くはあるまい」
「わッ」と突然紋兵衛は畳の上へ突っ伏したが、
「お助けくだされ北山様! お願いでござります天野先生! 殺されるのは嫌でございます! 申します申します、何んでも申します!」
「おお云うか。云うならよい。天野北山聞いて遣わす。そうして病気も癒してやる……何をやって金を儲けた?」
「はいそれは……」
 と云いかけた時奥の襖がスーと開いて若い女が現われた。紋兵衛の娘のお露である。
「お父様」と手を支《つか》え、「只今お城のお殿様からお使者が参りましてござります」
「お使者?」
 と紋兵衛は不思議そうに、「ハテなんのお使者であろう?」
「ご病気見舞いだとおっしゃられました」
「どんなご容子《ようす》のお方かな?」
「はい」とお露は面羞《おもは》ゆそうに、「お若いお美しいお侍様で」
「さようか、そうしてお名前は?」
「鏡葉之助様と仰《おお》せられました」

         一三

 妖怪《あやかし》退治の命を受け、城を退出した葉之助は、小原村二本榎、大鳥井紋兵衛の宏大な邸を、供も連れず訪れた。取次ぎに出た若い女――それは娘のお露であったが、そのお露の姿を見ると、彼の心は波立った。
「美しいな」と思ったからである。しかしそれとて軽い意味なので、一眼惚れと云うようなそんなところまでは行っていない。
 一旦引っ込んだその娘が再びしとやかに現われた時、また「美しいな」と思ったものである。
 お露は夜眼にも知れるほど顔を赧《あか》らめもじもじ[#「もじもじ」に傍点]したが、
「むさくるしい処《ところ》ではございますが、なにとぞお通りくださいますよう」
「ご免」と云うと葉之助は、刀を提げて玄関を上がる。
 間《ま》ごと間ごとを打ち通り、奥まった部屋の前へ出たが、飾り立てた部屋部屋の様子、部屋を繋《つな》いだ廻廊の態《さま》、まことに善美を尽くしたもので、士太夫の邸と云ったところでこれまでであろうと思われた。それにも拘《かかわ》らず邸内が陰森《しん》として物寂しく、間ごとに点《とも》された燭台の灯も薄茫然《うすぼんやり》と輪を描き、光の届かぬ隅々には眼も鼻もない妖怪《あやかし》が声を立てずに笑っていそうであり、人は沢山にいるらしいが暖かい人気《ひとけ》を感じない。
「妖怪邸《ばけものやしき》と云われるだけあって、不思議に寂しい邸ではある」
 こう心で呟いた時、お露がスーと襖を開けた。
「父の病室にござります」
「さようでござるか」とツトはいる。
 北山はじめ附き人達は遠慮して隣室へ退ったので部屋には紋兵衛一人しかいない。病人というので褥《しとね》は離れず、彼は恭《うやうや》しく端座《かしこ》まっていたが、それと見て畳へ手を支《つか》えた。
 殿の使いとは云うものの表立った使者ではなく、きわめて略式の訪問なのだ。
「いやそのまま」と云いながら葉之助は座を構え、「邸に妖怪《あやかし》憑《つ》いたる由、殿にも気の毒に覚し召さるる。拙者《せっしゃ》今日参ったはすなわち妖怪|見現《みあら》わしのため。殿のご厚意|疎略《そりゃく》に思ってはならぬ」
「何しに疎略に思いましょうぞ。ハイハイまことに有難いことで……あなた様にもご苦労千万、まずお休息《いこい》遊ばしますよう」
 紋兵衛は静かに顔を上げた。名は互いに知ってはいたが顔を合わせるのは今日が初めて、二人の顔がピッタリ合った。
 と、俄然紋兵衛の顔へ恐怖が颯《さっ》と浮かんだが、
「わッ、幽霊!」と喚《わめ》いたものである。
「これこれどうした? 幽霊とは何んだ?」
 驚いたのは葉之助で、紋兵衛の様子をじっ[#「じっ」に傍点]と眺める。
「堪忍《かんにん》してくれ! 堪忍してくれ! 俺が悪かった! 俺が悪かった! ……山吹! 山吹! 堪忍してくれ」
 蛇に魅入られた蛙《かえる》とでも云おうか、葉之助の顔から眼を放さず、紋兵衛は益※[#二の字点、1-2-22]喚くのであった、が額からタラタラ汗を流し、全身を劇《はげ》しく顫《ふる》わせているのは、恐怖の度合のいかに大きいかを無言のうちに説明している。
「これこれ紋兵衛殿どうしたものだ。拙者は鏡葉之助でござる。山吹などとは何事でござる。心を確《しっか》りお持ちなさるがよい」
 こう云いながら葉之助は、気の毒そうに苦笑したが、「ははあこれも妖怪《あやかし》の業《わざ》だな。さてどこから手を付けたものか?」
「何、鏡葉之助殿とな?」
 逆立った眼で葉之助を見据《みす》え、紋兵衛は瞬《まじろ》ぎもしなかったが、ようやくホッと溜息を吐《つ》くと、「人違いであった。山吹ではなかった。そうだあなたは葉之助様だ……が、それにしてもあなたのお顔があの山吹に酷似《そっくり》とは? おお酷似《そっくり》じゃ酷似じゃ! やっぱりお前は山吹だ! 汝《おのれ》どこからやって来たぞ!」
 また狂わしくなるのであった。
「殿の命で、城中から」
「いいや違う。そうではあるまい。八ヶ嶽から来たのであろう?」
「殿の命で、城中から」
「嘘だ嘘だ! 嘘に相違ない! 八ヶ嶽の窩人《かじん》部落! 汝《おのれ》そこから来たのであろう! 怨《うら》まば怨め! 祟《たた》らば祟れ! 捨てられたが口惜しいか! ……睨《にら》むわ睨むわ! おお睨むがいい。俺も睨んでやる俺も睨んでやる!」
 血走って眼をカッと開け、紋兵衛は葉之助を睨んだものである。
 その時、遥《はる》か戸外《おもて》に当たって咽《むせ》ぶがような泣くがような哀々《あいあい》たる声が聞こえて来た。それは大勢の声であり、あたかも合唱でもするかのように声を合わせて叫んでいるらしい。しかし叫びと云うよりも、むしろそれは嘆願なので、細い細い糸のような声から高い高い叫びになり、それが悲しい笛の音のように尾を引いて綿々と絶えぬのであった。
「お返しくだされ。お返しくだされ。宗介天狗《むねすけてんぐ》の鎧冑《よろいかぶと》、どうぞどうぞお返しくだされ」
 こう叫んでいるのであった。

         一四

 ムックリ刎《は》ね起きた紋兵衛は、血走った眼をおどおど[#「おどおど」に傍点]させ、痙攣《ひきつ》った唇を思うさま曲げ、手を胸の辺で掻き捲《まく》り、肩に大波を打たせたかと思うと、
「あ、あ、あ、あ」とまず喘ぎ、「来たア!」と叫ぶとヒョロヒョロ立ち、「来てくれ! 来てくれ! 誰か来てくれ! 人殺しだア! 誰か来てくれ! ……おお鏡様葉之助様! あいつらが来たのでござります! お助けなされてくださりませ! 人助けでござります、お助けなされてくださりませ! ……返せと云って何を返すのだ! 鎧冑? そんなものは知らぬ! おおそんなものを何んで知ろう! よしんば[#「よしんば」に傍点]知っていようとも、みんな過ぎ去った昔の事だ! ならぬ、ならぬ、返すことはならぬ! いやいや俺は知らぬのだ!」
「五味多四郎様! 五味多四郎様! どうぞお返しくださりませ、宗介天狗の黄金《こがね》の甲冑《かっちゅう》、どうぞお返しくださりませ!」戸外《おもて》の声は尚《なお》叫ぶ。
「知らぬ知らぬ俺は知らぬ! 俺は何んにも知らぬのだ! ……葉之助様! 鏡様! どうぞお助けくださりませ! や、貴様は山吹だな! おお山吹だ山吹だ! おのれ貴様まで怨みに来たか! おお恐ろしい恐ろしい、睨んでくれるな睨んでくれるな! 堪忍してくれ俺が悪かった! あ、あ、あ、あ、胸苦しや! 冷たい腕が胸を掴《つか》むわ!」
 急に紋兵衛は虚空《こくう》を掴《つか》むと枯木のようにバッタリ仆《たお》れた。そのまま気絶したのである。
 その時|忽然《こつぜん》部屋の隅から女の笑い声が聞こえて来た。ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、というような一種異様な笑い声である。
 鏡葉之助はそれを聞くと何がなしにゾッとした。聞き覚えのある笑い声だからだ。
「遠い昔に、幼年時代《ちいさいとき》に、確かにどこかで聞いたことがある。誰の声だかそれは知らない。どこで聞いたかそれも知らない……いったいどこで笑っているのだろう?」
 声の聞こえる部屋の隅へ屹《きっ》と葉之助は眼をやったが、笑い主の姿は見えぬ。しかし笑い声は間断《ひっきり》なしにヒ、ヒ、ヒ、ヒと聞こえて来る。
「不思議な事だ。何んという事だ。どう解釈をしたものだろう? さも心地よいと云ったような、憎い相手の苦しむのがさも嬉しいと云ったような、惨忍《ざんにん》極まる笑い声! 悪意を持った笑い声! ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、まだ笑っている。俺も何んだか笑いたくなった。俺の心は誘惑《そそ》られる。ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、まだ笑っている……。俺も笑ってやろう。ヒ、ヒ、ヒ、ヒ……ヒ、ヒ、ヒ、ヒ」
 葉之助は笑い出した。不思議な笑いに誘惑《そそ》られて彼もとうとう笑い出した。
 と、さらに不思議なことには、姿の見えない笑い声が、漸次《だんだん》こっちへ近寄って来る。部屋の隅と思ったのが、畳の上から聞こえて来る。畳の上と思ったのが、葉之助の膝の辺からさも[#「さも」に傍点]鮮かに聞こえて来る。やがてとうとうその声は彼の腕から聞こえるようになった。
「奇怪千万」と葉之助は、やにわに袂《たもと》を捲り上げた。肉附きのよい白い腕がスベスベと二の腕まで現われたが、そこに上下二十枚の人間の歯形が付いている。これには別に不思議はない。幼年時《ちいさいとき》から葉之助の腕にはこういう歯形が付いていたからで、驚く必要はないのであるが、その歯形が今見れば女の顔と変わっている。眉《まゆ》を釣り上げ眼をいからせ唇を左右に痙攣《けいれん》させ、憤怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》を現わしている様子が、奇病|人面疽《にんめんそ》さながらである。ヒ、ヒ、ヒという笑い声はその口から来るのであった。
 そうして何より気味の悪いことは、人面疽の眼が気絶している紋兵衛の顔に注がれていることで、その眼には憎悪《にくしみ》が満ち充ちている。
 余りのことに葉之助は自分の視覚を疑った。
「こんな筈《はず》はない、こんな筈はない!」
 叫ぶと一緒に眼を閉じたのは、恐ろしいものを見まいとする本能的の動作でもあろうか。しかしその時断ち切ったように気味の悪い笑い声が消えたので、彼はハッと眼を開けた。
 人面疽《にんめんそ》は消えている。後には歯形があるばかりだ。
「さてはやはり幻覚であったか」ホッと溜息をした葉之助は、額の汗を拭ったものの、その恐ろしさ気味悪さは容易の事では忘られそうもない。
 その時またも戸の外から嘆願するような大勢の声が咽《むせ》ぶがように聞こえて来た。
「お返しくだされお返しくだされ。宗介天狗の黄金の甲冑、どうぞお返しくださいませ」
「これはいったいどうしたことだ」葉之助は呟いた。「あれは妖怪の声だというに、俺には懐《なつか》しく思われてならぬ。懐しいといえば人面疽の顔さえ妙に懐しく思われる。……妖怪の声を聞いていると故郷《ふるさと》の人の話し声でも聞いているような気持ちがする。そうして、人面疽の女の顔は、母親の顔ででもあるかのように、慕《した》わしく恋しく思われる」
 葉之助は茫然《ぼうぜん》と坐ったままで動こうともしない。

         一五

 ここで物語は一変する。
 大正十三年の今日でも、甲信の人達は信じ切っているが、武田信玄の死骸《なきがら》は、楯無《たてな》しの鎧《よろい》に日の丸の旗、諏訪法性《すわほうしょう》の冑《かぶと》をもって、いとも厳重に装われ、厚い石の柩《ひつぎ》に入れられ、諏訪湖の底に埋められてあり、諏訪明神がその柩を加護しているということである。
 これはどうやら歴史上から見ても、真実《ほんと》のことのように思われる。その証拠には近古史談に次のような史詩が掲載されてある。
[#ここから1字下げ]
驚倒《きょうとう》す暗中銃丸跳るを、野田城上|笛声《てきせい》寒し、誰か知らん七十二の疑塚《ぎちょう》、若《し》かず一棺湖底の安きに
[#ここで字下げ終わり]
 最後《しまい》の二句を解釈すると、昔|支那《シナ》に悪王があって、死後塚の発《あば》かれんことを恐れ、七十二個の贋塚《にせづか》を作ったが、それでもとうとう発《あば》かれてしまった。武田信玄はそんなことはせずに、死骸を湖底に埋めさせた。この方がどんなに安心だか知れない――つまりこういう意味なのである。
 いかにもこれは七十二の疑塚より確かに安心には相違ないが、しかし絶対に安心とは云えない。諏訪湖の水の乾く時が来たら、死骸は石棺のまま現われなければならない。そうでなくとも好奇《ものずき》の者が、金に糸目を付けることなく、もし潜水夫を潜らせたなら、信玄の死骸のある場所が知れたなら、それから後はどんなことでも出来る。だから絶対に安心とは云えない。
 果然《かぜん》、文政年間に好奇《ものずき》の人間が現われて、信玄の石棺を引き上げようとした。
 成功したか失敗したか? その人間とは何者か? それは物語の進むにつれて自《おの》ずと了解されようと思う。
 そうして実にこの事件は、この「八ヶ嶽の魔神」という、きわめて伝奇的の物語にとってもかなり重大な関係がある。したがって物語の主人公、鏡葉之助その人にとっても重大な関係がなくてはならない。
 鏡葉之助の消息を一時途中で中絶させ、事件を他方面へ移したのもこういう関係があるからである。

 信州諏訪の郡《こおり》高島の城下は、祭礼のように賑わっていた。
 ※[#「水/(水+水)」、第3水準1-86-86]々《びょうびょう》と湛《たた》えられた湖の岸には町の人達、老若男女が湖水を遥《はる》かに見渡しながら窃々《ひそひそ》話に余念がない。
「船が沢山出ましたな」
「二十隻あまりも出ましたかな」
「漁船と異《ちが》って立派ですな」
「諏訪家の幔幕が張り廻してある」
「乗っておられるのはお武家様ばかりだ」
「お武家様と漁師とは遠目に見ても異いますな」
「しかし今度のお企《くわだ》てはちとご無理ではないでしょうかな」
「さあそれは考えものだ」
「いや全く考えものだ」
「噂によると神宮寺の巫女《みこ》が大変怒っているそうですよ」
「あいつらが怒るとちょっと恐い」
「名に負う水狐族《すいこぞく》の手合ですからな」
「今度は若殿も失敗かな」
「立派なお方には相違ないが、どうも血気に急《はや》らせられてな」
「それもこれもお若いからよ」
「ちと好奇心《ものずき》が過ぎるようだ」
「今度の企ても好奇心からよ」
「巫女達はきっと祟《たた》ろうぞ」
「これまで水狐族に祟られたもので、難を免れたものはない」
「恐ろしいほど執念深いからな」
「先祖代々執念深いのさ」
「それにあいつらは妖術を使う」
「切支丹《キリシタン》の秘法だそうな」
「切支丹ではない陰陽術《おんようじゅつ》だ」
「日本固有の陰陽術かな」
「そうだ中御門《なかみかど》の陰陽術だ」
「おや」と一人が指差した。「いよいよ若殿のご座船が出るぞ」
「どれどれ? なるほど、ご座船らしいな」
「若殿自らお指図《さしず》と来た」
「もしも水狐族が祟《たた》るなら、きっと若殿へ祟るであろうぞ」
「無論水狐族も恐ろしいが、それより私には明神のお罰が一層恐ろしく思われるよ」
「日本第一大軍神、健御名方《たけみなかた》のご神罰かな」
「これは昔からの云い伝えだが、諏訪法性の冑《かぶと》には、諏訪明神のご神霊が附き添いおられるということだ」
「ちゃあんと浄瑠璃《じょうるり》にも書いてある奴さ」
「二十四孝のご殿かね」
「……こんな殿ごと添い臥《ふ》しの身は姫御前《ひめごぜ》の果報ぞとツンツンテンと、つまりここだ」
「冗談じゃねえ、助からねえな。口三味線とは念入りだ」
「それからお前奥庭になってよ、白狐《しろぎつね》めが業《わざ》をするわさ。明神様の使姫《つかいひめ》は白狐ということになっているんだからね」

         一六

「だんだんご座船が近寄って来る。だんだんご座船が近寄って来る」こう云って一人が指差した。
「船首《へさき》に立たれたのが若殿らしい」
「皆紅《みなくれない》の扇をば、手に翳《かざ》してぞ立ち給うかね」
「ほんとに扇を持っておられる」
「オーイオーイと差し招けば……」
「どっちだどっちだ、熊谷《くまがい》かえ? それとも厳島《いつくしま》の清盛かえ」
「どうも不真面目でいけないね。静かに静かに」と一人が云った。
 で、人達は口を噤《つぐ》み、湖上を颯々《さっさつ》と進んで来る若殿のご座船を見守った。
 今、ご座船は停止した。
 諏訪|因幡守《いなばのかみ》忠頼の嫡子、頼正君は二十一歳、冒険|敢為《かんい》の気象《きしょう》を持った前途有望の公達《きんだち》であったが、皆紅の扇を持ち、今|船首《へさき》に突っ立っている。
 そのご座船を囲繞《いにょう》して二十隻の小船が漂っていたが、この日|天《てん》晴れ気澄み渡り、鏡のような湖面にはただ一点の曇りさえなく、人を恐れず低く飛ぶ小鳥の、矢のように早い影をさえ、鮮かに映《うつ》して静まり返り、昇って間もない朝の陽が、赤味を加えた黄金色に水に映じて輝く様など、絵よりも美しい景色である。
 東の空には八ヶ嶽が連々として聳《そび》え連なり、北には岡谷の小部落が白壁の影を水に落とし、さらに南を振り返って見れば、高島城の石垣が灰色なして水際《みぎわ》に峙《そばだ》ち、諏訪明神の森の姿や、水狐族と呼ばれる巫女の一団が、他人《ひと》を雑えず住んでいる神宮寺村の丘や林などあるいは遠くあるいは近く、山に添ったり水に傾いたり、朝霧の中に隠見《いんけん》して、南から西へ延びている。
 しかし頼正は景色などには見とれようとはしなかった。じっと水面を見詰めている、いやそれは水面ではなく、水を透して水の底を、見究《みきわ》めようとしているのであったが、幾《いく》十|丈《じょう》とも知れないほど深く湛えた蒼黒い水は、頼正の眼を遮《さえぎ》って水底を奥の方へ隠している。
 と、頼正は眼を上げて、二十隻の供船《ともぶね》を見廻したが、扇を高く頭上へ上げると、横へ一つ颯《さっ》と振った。
 すると、ご座船に一番近い一隻の船の船首から、裸体《はだか》の男が身を躍らせ湖水の中へ飛び込んだ。パッと立つ水煙り! キラキラと虹《にじ》が射したのは日がまだ高く昇らないからであろう。
 若殿頼正を初めとし、船中の武士は云うまでもなく、岸に群がっている町人百姓まで、固唾《かたず》を呑んで熱心に水の面を眺めている。
 飛び込んだ男は灘兵衛《なだべえ》と云って、わざわざ安房《あわ》から呼び寄せたところの水練名誉の海男《あま》であったが、飛び込んでしばらく時が経つのに水の面へ現われようともしない。しかし間もなく湖水の水が最初モクモクと泡立つと見る間に、忽《たちま》ちグイと左右に割れ、その割目から灘兵衛が逞《たくま》しい顔を現わした。プーッと深い呼吸《いき》をすると、水が一筋銀蛇のようにその口から迸《ほとばし》る。片手で確《しっか》り船縁《ふなべり》を掴み。しばらく体を休めたものだ。
 血気の頼正は物に拘《こだわ》らず、じかに灘兵衛へ言葉をかけた。
「どうだ灘兵衛、石棺はあったか?」
「なかなかもって」
 と灘兵衛は、潮焼けした顔へ笑《えみ》を浮かべ、
「泥は厚し、水草はあり、湖水の底を究めますこと、容易な業ではござんせん」
「いかさまそれは理《もっと》もである……しかし、どうだな、ありそうかな?」
「二日、三日ないしは五日、どのように水を潜ったところで、※[#「水/(水+水)」、第3水準1-86-86]々《びょうびょう》と広い湖のこと、そんな小さな石の棺、あるともないとも解りませぬ。が、私《わっち》の感覚《かん》から云えば、まずこの辺にはござんせんな」
「うん、この辺にはなさそうか。ではどの辺に埋もれていような?」
「それが解れば占めたもの、心配する事アござんせん」
「ではそれも解らぬかな」頼正の顔は顰《ひそ》んで来た。
「確かなところは解りませんな。……とにかくもう少し西南寄り、神宮寺の方で潜って見やしょう」
「そうか。よし、船を廻せ!」
 頼正は漕ぎ手に命を下す。
 ギーと艪《ろ》の軋《きし》る音がして、船隊は船首《へさき》を西南に向けた。若殿のご座船を先頭にして神宮寺の方へ進んで行く。
 見ていた湖岸の連中は、ここでまたひそひそと噂し出す。
「神宮寺の方へ行くようだね」
「これはどうも物騒《ぶっそう》千万、死地へ乗り入《い》ると同じようなものだ」
「死地に乗り入るは大袈裟だが、どうも少々心なしだな」
「水狐部落の巫女どもに悪い悪戯《いたずら》でもされなければよいが」
「あいつらと来たら無鉄砲だからな。ご領主であろうと将軍様であろうと、そんな物には驚きはしない」
「何か事件が起こらなければよいが」
「そうだ、何か悪い事件がな」
「あの濶達《かったつ》な若殿様が、そのためご苦労するようではお気の毒というものだ」
 船隊はその間に岬を廻り、すっかり視野から消えてしまった。

         一七

 若殿のご座船を先頭に、二十隻の船は駸々《しんしん》と、湖水の波を左右に分け、神宮寺の方へ進んで行ったが、やがて目的の地点まで来ると、頼正は扇で合図をした。二十隻の船はピタリと止まる。
 ここ辺りは入江であって、蘆《あし》や芒《すすき》が水際に生《お》い、陸は一面の耕地であり、所々に森があったが、諏訪明神の神の森が、ひとり抽《ぬき》んで、聳《そび》えているのは、まことに神々《こうごう》しい眺めである。
 その神の森を遠く囲繞し、茅葺《かやぶき》小屋や掘立小屋や朽葉色《くちばいろ》の天幕《テント》が、幾何学的の陣形を作り、所在に点々と立っているのは、これぞ水狐族と呼ばれるところの、巫女どもの住んでいる部落であった。炊《かし》ぎの煙りが幾筋か上がり、鶏犬の啼き声が長閑《のどか》に聞こえ、さも平和に見渡されたが、しかし人影が全く見えず、いつもは聞こえる人の声が、今日に限って聞こえないのは、決して平和の証拠ではない。
 船の上から頼正は水狐族の部落を眺めていたが、たちまちその眼を湖上へ返すと、颯《さっ》と扇を頭上に上げた。とたんにドブンという水の音。灘兵衛が水中へ飛び込んだのである。見る見る湖面へ波紋が起こりそれが次第に拡がって行く。
「さて今度はどうであろう? 石棺の在所《ありか》は解らずとも、手懸りでもあってくれればよいが」
 頼正は船首《へさき》に突っ立ったままじっと水面を窺《うかが》った。
 突然彼は「あっ」と叫んだ。彼の視線の落ちた所、蒼々《あおあお》と澄んでいた水の面がモクモクモクモクと泡立つと見る間に牡丹の花弁《はなびら》さながらの、血汐がポッカリと浮かんで来た。と、次々に深紅の血汐が、ポカリポカリと水面へ浮かび、その辺一面見ている間に緋毛氈《ひもうせん》でも敷いたように、唐紅《からくれない》と一変した。
 侶船《ともぶね》の武士達はこれを見ると、いずれも蒼褪《あおざ》めて騒ぎ立て、
「ご帰館ご帰館!」と叫ぶ者もある。
「灘兵衛が殺されたに相違ない」「悪魚の餌食となったのであろう」「いや巫女どもの復讐じゃ!」「水狐族めの復讐じゃ!」
「ご帰館ご帰館!」「船を廻せ!」互いに口々に詈《ののし》り合う。
「待て!」とこの時頼正は、凛然《りんぜん》として抑え付けた。「帰館する事|罷《まか》り成らぬ! 誰かある、湖中へ飛び入り灘兵衛の生死を見届けるよう!」
「…………」
 これを聞くと船中の武士ども一度にハッと吐胸《とむね》を突いた。誰も返事をする者がない。互いに顔を見合わせるばかりだ。
「誰かある誰かある、灘兵衛の生死確かめよ!」
 船首《へさき》に立った頼正は地団駄《じだんだ》踏んで叫ぶのであったが、しかし進み出る者はない。
「臆病者め! 卑怯《ひきょう》者め! それほど悪魚が恐ろしいか! それほど湖水が恐ろしいか! 三万石諏訪家の家中には、真の武士は一人もいないな! 止むを得ぬ俺が行く! 俺が湖中へ飛び込んで灘兵衛の生死確かめて遣わす!」
 云うと一緒に頼正は羽織を背後へかなぐり[#「かなぐり」に傍点]捨てた。仰天《ぎょうてん》したのは侍臣である。バラバラと左右に取り付いたが、
「こは何事にござります! 千金の御身《おんみ》にござりまする! こは何事にござります!」
「放せ放せ! 放せと云うに!」
「殿!」とこの時進み出たのは諏訪家剣道指南番宮川武右衛門という老人であった。「殿、私が参りましょう」
「おお武右衛門、そち参るか」頼正は初めて機嫌を直したが、
「しかしそちは既に老年、この難役しとげられるかな?」
「は」と云うと武右衛門は膝の上へ手を置いて慎ましやかに一礼したが、「勝つも負けるも時の運。とは云え相手は妖怪か悪魚。それに安房の海男《あま》とは云え勇力勝れた灘兵衛さえ不覚を取りました恐ろしい相手、十に九つこの老人も不覚を取るでござりましょう」
「不覚を取ると知りながら、尚その方参ると云うか」審《いぶ》かしそうに頼正は訊く。
「はい、行かねばなりませぬ」「行かねばならぬ? それは何故か?」「他に行く者ござりませぬ」
「いかさま……」と云うと頼正は憤《いきどお》らし気に四方を見た。
「いえ、たとえ他にござりましても、この老人|遮《さえぎ》ってでもお役を勤めねばなりませぬ」
「はて、それはまた何故であろうな?」
「私、指南番にござります。剣道指南番にござります。しかるにこの頃私は老朽、役に立ちませぬ。それにも拘《かかわ》らず大殿様はじめ若殿様におかれましても、昔通りご重用《ちょうよう》くだされ、家中の者もこの老人を疎《おろそ》かに扱おうとは致しませぬ。これ皆君家のご恩であること申し上げるまでもござりませぬ。かかる場合にこそこの老人、ご恩をお返し致さねばいつ酬《むく》うこと出来ましょうや……さて」
 と武右衛門はこう云って来てにわかに一膝いざり[#「いざり」に傍点]出たが、「お願いの筋がござります」

         一八

「願いの筋とな? 申して見るがよいぞ」――頼正は優しく云ったものである。
「もしも私不幸にして、悪魚の餌食となりました際には、なにとぞ今回のお企て、すぐにお取り止めくださいますよう。これがお願いにござります」
「それは成らぬ」と頼正は気の毒そうに頭を振った。
「そちは今回の企てを何んのためと思っておるな?」
「お好奇心《ものずき》の結果と存じまする」「それが第一の考え違いだ。決して好奇心の結果ではない。諏訪家の恥辱を雪《そそ》ぎたいためよ」「これはこれは不思議なご諚《じょう》、私胸に落ちませぬ」「胸に落ちずば云って聞かせる、武田の家宝と称されおる諏訪法性の冑《かぶと》なるもの元は諏訪家の宝であったが、信玄無道にしてそれを奪い、死後尚自分の死骸に着け、所もあろうに諏訪湖の底へ、石棺に封じて葬《ほうむ》るとは、あくまで諏訪家を恥ずかしめた振る舞い、これは怒るが当然だ! 我《われ》石棺を引き上げると云うも、法性の冑を奪い返し、家宝にしたいに他ならぬ。何んとこれでもこの企て、好奇心《ものずき》の結果と考えるかな」
「いや」と武右衛門は顔を上げた。
「さようなご深慮とも弁《わきま》えず、賢《さか》しらだって[#「しらだって」に傍点]諫言《かんげん》仕《つかまつ》り今さら恥ずかしく存じまする」
「解ってくれたか。それで安心」
「ご免」と云うと武右衛門はスックとばかり立ち上がった。クルクルと帯を解《と》く。
「いよいよ武右衛門湖水へ入る気か」
「殿、二言はござりませぬ」
「勇ましく思うぞ。きっと仕れ」
「は」
 と云うと衣裳を脱ぎ、下帯へ短刀を手挟《たばさ》むと、屹《きっ》と水面を睨み詰めた。両手を頭上へ上げると見る間に、辷《すべ》るがように飛び込んだ。水の音、水煙り、姿は底へ沈んで行く。
 頼正を始め家臣一同、歯を喰いしばり眦《まなじり》を裂き、じっと水面に見入ったがしばらくは何んの変ったこともない。
 と、忽然《こつぜん》と浮き上がって来たのは、南無三宝! 血汐であった。
「あっ、武右衛門もやられたわ!」
 頼正、躍り上がつて叫んだ時、水、ゴボゴボと湧き上がり、その割れ目から顔を出したのは、血にまみれた武右衛門である。
「それ、者ども、武右衛門を助けい!」
「あっ」と云うと二、三人、衣裳のまま飛び込んだが忽《たちま》ち武右衛門を担《かつ》ぎ上げる。
「腕! 腕!」と誰かが叫んだ。無残! 武右衛門の右の腕が肩の付け根から喰い取られている。
「負傷《ておい》と見ゆるぞ、介抱《かいほう》致せ! ……武右衛門! 武右衛門! 傷は浅い! しっかり致せ! しっかり致せ!」
「殿、湖底は地獄でござるぞ!」武右衛門は喘《あえ》ぎ喘ぎ云うのであった。「巫女姿の一人の老婆……」
「巫女姿の一人の老婆?」頼正は思わず鸚鵡《おうむ》返す。
「苔蒸《こけむ》した石棺に腰をかけ」
「苔蒸した石棺に腰をかけ?」
「口に灘兵衛の生首をくわえ……」
「ううむ、灘兵衛の生首をくわえ?」
「私を見ると笑いましてござる。あ、あ、あ、笑いましてござる。……あ、あ、あ」
 と云ったかと思うとそのままグッタリ首を垂れた。武右衛門は気絶をしたのである。
 船中一時に寂然《しん》となる。声を出そうとする者もない。湖底! 湖底! 湖水の底! 生首をくわえた水狐族の巫女が、苔蒸した石棺に腰かけている! ああこの恐ろしい光景が、自分達の乗っている船の真下に、まざまざ存在していようとは。
 息苦しい瞬間の沈黙を、頼正の声がぶち[#「ぶち」に傍点]破った。
「帰館帰館! 船を返せ!」
 ギー、ギー、ギー、ギー、二十隻の船から艪《ろ》の音が物狂わしく軋《きし》り出す。
 今はほとんど順序もない、若殿のご座船を中に包み、後の船が先になり、先の船が後になり、高島城の水門を差し右往、左往に漕いで行く。
 石棺引き上げの第一日目はこうして失敗に終わったのである。
 爾来《じらい》若殿頼正の心は怏々《おうおう》として楽しまなかった。第二回目を試みようとしても応ずる者がないからである。
 ある夜、一人城を出て、湖水の方へ彷徨《さまよ》って行った。それは美しい明月の夜で湖水は銀のように輝いている。ふと、その時、頼正は、女の泣き声を耳にした。
 湖水の岸に柳があり、その根方《ねかた》に一人の女が、咽《むせ》ぶがように泣いている。
 頼正は静かに近寄って行った。
「見ればうら[#「うら」に傍点]若い娘だのに、何が悲しくて泣いておるぞ?」こう優しく云ったものである。
 女はハッと驚いたように、急に根方から立ち上がったが、その女の顔を見ると、今度は頼正が吃驚《びっく》りした。
 月の光に化粧された、その女の容貌《きりょう》が、余りにも美しく余りにも気高《けだか》く、あまりにも※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]《ろう》たけていたからである。

         一九

 照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜《おぼろづきよ》にしくものはなし。
 敢《あえ》て春の月ばかりではない、四季を通じて月の光は万象《ばんしょう》の姿を美しく見せる。
 湖水を背にしてスラリと立ち、顔を両袖に埋めながらすすりなきする乙女の姿は、今、月光に化粧されていよいよ益※[#二の字点、1-2-22]美しく見える。諏訪家の若殿頼正にはそれがあたかも天上から来た霊的の物のように見えるのであった。
「このような深夜にこのような処で若い女子《おんな》がただ一人何が悲しくて泣いておるぞ」
 こう云いながら頼正は乙女の側へ寄って行った。
「私《わし》は怪しい者ではない。相等《そうとう》の官位のある者だ。心配するには及ばない。私に事情を話すがよい。そなたはどこから参ったな?」
 すると乙女は泣く音《ね》を止め、わずかに袖から顔を上げたが、
「京都《みやこ》の産まれでございます」
「ナニ京都《みやこ》? おおさようか。京都は帝京《ていきょう》、天子|在《いま》す処、この信濃からは遠く離れておる。しかしよもやただ一人で京都から参ったのではあるまいな」
「京都から参ったのでございます」
「うむ、そうしてただ一人でか?」
「誘拐《かどわか》されたのでございます」
「誘拐された? それは気の毒。で、何者に誘拐されたな?」
「ハイ、今から二十日ほど前、乳母を連れて清水寺に参詣に参った帰路、人形使いに身を※[#「にんべん+峭のつくり」、第4水準2-1-52]《やつ》した恐ろしい恐ろしい人買《ひとか》いに誘拐されたのでございます」
「おおさようか、益※[#二の字点、1-2-22]気の毒、さぞ両親《ふたおや》が案じていよう、計らず逢ったも何かの縁、人を付けて帰して遣わす」
「はい有難うはございますが、母と妾《わたくし》とは継《まま》しい仲、たとえ実家へ帰りましても辛《つら》いことばかりでございます」乙女はまたも※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]たけた顔を袖へ埋めて泣くのであった。
「かえすがえすも不幸な身の上、はてこれは困ったことだ」頼正はその眼を顰《ひそ》めたが、「ところで誘拐《かどわかし》の人買いは今どこに何をしておるぞ?」
「どこにどうしておりますやら、和田峠とやら申す山で、ようやく人買いの眼を眩《くら》ませ、夢中でここまで逃げては来ましたが、知人《しりびと》はなし蓄《たくわ》えもなし、うろうろ徘徊《さまよ》っておりますうちには乞食非人に堕《お》ちようとも知れず、また恐ろしい人買いなどに捕えられないものでもなし、それより綺麗《きれい》なこの湖水へいっそ身を投げ死んだなら、黄泉《あのよ》の実の母様にお目にかかることも出来ようかと……」
「それでここで泣いていたのか?」
「はい」と云って身を顫わせる。
 月は益※[#二の字点、1-2-22]|冴《さ》え返って乙女の全身は透通《すきとお》るかとばかり、蒼白い光に煙《けぶ》っている。その肩の辺に縺《もつ》れかかった崩れた髪の乱らがましさ、顔を隠した袖を抜けてクッキリと白い富士額《ふじびたい》、腰細く丈《たけ》高く、艶《えん》と凄《せい》とを備えた風情《ふぜい》には、人を悩ますものがある。二十一歳の今日まで無数の美女に侍《かしず》かれながら、人を恋したことのない武道好みの頼正も、この時はじめて胸苦しい血の湧く思いをしたのである。
「そうしてそちの名は何んと云うぞ?」
「はい、水藻《みずも》と申します」
「水藻、水藻、しおらしい名だ。これからそちはどうする気だな?」
「はい、どうしたらよろしいやら、いっそやっぱり湖水の底へ……どうぞ死なしてくださりませ! どうぞ死なしてくださりませ!」物狂わしく身をもがく。
「この頼正がある限りは決してそちは死なしはせぬ。何故そのように死にたいぞ?」
「憐れな身の上でございますゆえ……」
「この頼正がある限りはお前は不幸に沈ませては置かぬ。それともそちは私《わし》が嫌いか?」
 云い云い肩へ手を置いた。水藻はそれを避けようともしない。堅く身を縮めるばかりである。
「返辞のないは厭《いや》と見える」
 水藻《みずも》は無言で首を振る。
「それともそちは恥ずかしいか?」
 乙女は黙って頷いた。
「まだそちは死にたいか?」
「死ぬのが厭になりました」
「楽しく二人で生きようではないか」
 水藻は袖から顔を上げたが涙に濡れた星のような眼が、この時かすかに微笑《ほほえ》んだ。
「おお笑ったな。そうなくてはならぬ。私《わし》も寂しい身の上だ。不足のない身分ながら、いつも寂しく日を送って来た。だがこれからは慰められよう。私は事業を恋と換えた。恋の美酒《うまざけ》に酔い痴《し》れよう。ほんとに男と云うものは、身も魂も何物かに打ち込まなければ生き甲斐《がい》がない。私はこれまで荒々しい武道と事業とで生きて来た。それがいよいよ行き詰まったところで計らずも女の恋を得た。これで楽しく生きることが出来る。お前は私の恩人だ。そうして私の恋人だ。私はお前を放しはせぬ」彼の顔からは憂欝《ゆううつ》が消え、新しく希望が現われたのである。

         二〇

 こういう事があってから十日余りの日が経った。その時諏訪の家中一般に一つの噂が拡まった。
 ――若殿が毎夜城を出てどこかへ行かれるというのである。――
 ――それから間もなく若殿に関してもう一つの噂が拡まった。若殿にはこの頃隠し女が出来てそこへ通われるというのである。――
 で、人達は取り沙汰した。
「武道好みの若殿に女が出来たとは面白いな」
「さて、どんな女であろうぞ?」「いったい何者の娘であろうな?」「家中の者の娘であろうか?」「それとも他国の遊女売女かな?」「湖水の石棺を引き上げようというあの乱暴な計画《もくろみ》がどうやらお蔭で止めになったらしい。これだけでも有難い」「女大明神と崇《あが》めようぞ」「それにしてもその女はどこに囲われているのであろう?」「どうぞ一眼見たいものだ」「いずれ美人に相違あるまい」「石部金吉の若殿をころりと蕩《たら》した女だからの、それは美人に相違ないとも」「いやいや案外そうではあるまい。奇抜好みの若殿だ、人《にん》三|化《ばけ》七の海千物《うみせんもの》を可愛がっておられるに違いない」「ははあこれももっともだな」「轆轤《ろくろ》ッ首ではあるまいかな」「夜な夜な行灯《あんどん》の油を嘗《な》めます」「一つ目の禿《かむろ》ではあるまいかな」「信州名物の雪女とはどうだ」「ところが今は冬ではない」「ううん、それじゃ夏女か」「そんな化物聞いたこともない」「河童《かっぱ》の化けたんじゃあるまいかな」「永明寺山《えいめいじやま》の狸かも知れぬ」「唐沢山《からさわやま》の狐であろう」「いや狢《むじな》だ」「いや河獺《かわうそ》よ」「いやいや※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2-94-68]鼠《むささび》に相違ない」――噂は噂を産むのであった。
 そのうち、家中の人達の眼に、当の若殿頼正が、日に日に凄《すご》いように衰弱するのが、不思議な事実として映るようになった。
 ――そこでまた噂が拡まった。
「これは魅入られたに違いない。いよいよ相手は怪性《けしょう》の物だ」「狢かな河童かな。きっと岡谷の河童であろう」「いや違う。そうではあるまい、これは水狐族に相違ない」
「あッ、なるほど!」
 と人々は、この意見に胆《きも》を潰《つぶ》した。
「いかさまこれは水狐族であろう。水狐族なら祟《たた》る筈だ」
「そうだこれは祟る筈だ。彼奴《きゃつ》らが永い間守り本尊として守護をして来た湖水の石棺を引き上げようとしたのだからな」「彼奴らの仲間には眼の覚めるような美しい女がいるという事だ」「しかもあいつらは魔法使いだ」「その上恐ろしく執念深い」「偉い物に魅入られたぞ」「若殿のお命もあぶなかろう」「お助けせねば義理が立たぬ」「臣下として不忠でもあろう」「しかしいったいどうしたらいいのだ?」「何より先に行《や》ることは女の在家《ありか》を突き止めることだ」
「しかしどうして突き止めたものか?」
「誰が一番適任かな?」
「拙者突き止めてお眼にかける!」
 こう豪然と云った者がある。佐分利流の槍術指南|右田運八《みぎたうんぱち》無念斎であった。
「お、右田殿か、これは適任」
「さよう、これは適任でござる」
 人々は同音に煽《あお》り立てた。「是非ともご苦労願いたいもので」
「よろしゅうござる、引き受け申した。たかが相手は水狐族の娘、拙者必ず槍先をもって悪魔退散致させましょう」
 ――で、運八はその日の夜、手慣れた槍を小脇に抱え、城の奥殿若殿のお部屋の、庭園の中へ忍び込み、様子いかにと窺った。
 深夜の風が植え込みに当たり、ザワザワザワザワと音を立て、曇った空には星影もなく、城内の人々寝静まったと見え森閑として物凄い。その時雨戸が音もなく開き人影がひらり[#「ひらり」に傍点]と下り立った。他ならぬ若殿頼正である。
 眼に見えぬ糸に曳かれるように、傍目《わきめ》もふらず頼正は、スーッ、スーッと歩いて行く。
 すると裏門の潜《くぐ》り戸が、これも人あって開けるかのように、音も立てずスーッと開いた。それを抜けて城外へ出る。犬を吠えず鶏も啼かぬ寥々寂々《りょうりょうせきせき》たる屋敷町を流星のように走り過ぎる。向かう行手は神宮寺であろう。その方角へ走って行く。
「さてこそ」と運八は思いながら、二間あまりの間隔を取りこれも負けずに直走《ひたはし》る。
 町を抜けると野良《のら》である。野良の細道を二個の人影が、足音も立てずに走って行く。間もなくこんもり[#「こんもり」に傍点]とした森へ出た。頼正は森の中へ走り込む。で、運八も走り込み、やがてその森を抜けた時には、頼正の姿は見えなかった。
「これはしまった[#「しまった」に傍点]」と呟いた時、一人の老婆が向こうから来た。何やら思案をしていると見えて、首を深く垂れている。
「ご老婆ちょっと物を尋ねる」
 運八は切急《せっきゅう》に声を掛けた。「立派な若いお侍がたった[#「たった」に傍点]今この道を行った筈。そなた見掛けはしなかったかな?」

         二一

 老婆は返辞をしなかった。何やら音を立てて食っている。そうしてクスクス笑っているらしい。
「年寄りの分際《ぶんざい》で無礼な奴! これ返辞を何故しない」
 右田運八は怒鳴りながら老婆の肩をムズと掴んだ。しかし老婆は返辞をしない。やはり俯向《うつむ》いて笑っている。そうして何か食っている。クックッと云うのは笑い声であり、ビチャビチャと云うのは物を食う音だ。
 運八はいよいよ激昂《げっこう》し肩へ掛けた手へ力を入れた。と、その手がにわかに痲痺《しび》れ不意に老婆が顔を上げた。白金のような白髪を冠った朱盆のような赭《あか》い顔が暗夜の中に浮いて見えたが、口にも鼻にも頬顎にもベッタリ生血が附いている。両手でしっかり抱えているのは半分食いかけた生首である。切り口から血汐が滴《したた》っている。それは灘兵衛の首であった。
 はっ[#「はっ」に傍点]と思ったその瞬間運八はグラグラと眼が眩《まわ》った。それから彼はバッタリ倒れ、そのまま気絶をしたのである。
 数人の百姓に介抱《かいほう》され、彼が気絶から甦生《よみがえ》った時には、その翌日の朝の陽が高く空に昇っていた。
 この運八の失策は忽《たちま》ち城下の評判となり武士と云わず町人と云わずすっかり怖気《おぞけ》を揮《ふる》ってしまい、日の暮れるのを合図にして人々は戸外へ出ようともしない。頓《とみ》に城下は寂《さび》れ返り諏訪家の武威さえ疑われるようになった。
 しかるに若殿頼正は依然として城を抜け出してどこへともなく通って行く。そうして日に夜に衰弱する。祟《たた》り! 祟り! 水狐族の祟り! いったいどうしたらよいのであろう!

 この奇怪な諏訪家の噂は、伊那の内藤家へも聞こえて来た。
 ある日、駿河守正勝は鏡葉之助をお側へ召したが、
「気の毒ながら諏訪家へ参り、妖怪《あやかし》見現わしてはくれまいかな」さも余儀なげに頼んだものである。
「は」と云ったが葉之助は迷惑そうな顔をした。
「諏訪家と当家とは縁辺である。聞き捨て見捨てにもなるまいではないか」
「他に人はござりますまいか?」
「そちに限る。そちに限る。何故と申すに他でもない大鳥井紋兵衛を苦しめた得体の知れなかった妖怪も、一度そちが見舞って以来姿を潜めたというではないか。そちに威徳があればこそだ。私《わし》から頼む、参ってくれ」
「いかなる名義で参りましょうや?」
「当家からの使者としてな。若殿頼正の病気見舞いとしてな」
「やむを得ませぬ、ご諚《じょう》かしこみ、ともかくも参ることに致しましょう」
「首尾よくやれば当家の名誉。諏訪家においても恩に着よう。さていつ頃《ごろ》出立するな?」
「事は急ぐに限ります。明早朝お暇《いとま》を賜《たま》わり、諏訪へ参るでござりましょう」
「供揃い美々しく致すよう」
 ――で、その翌朝、大供を従え、鏡葉之助は発足した。玲瓏《れいろう》たる好風貌、馬上|手綱《たづな》を掻い繰って、草木森々たる峠路を伊那から諏訪へ歩ませて行く。進物台、挿箱《はさみばこ》、大鳥毛、供奴《ともやっこ》、まことに立派な使者振りである。
 中一日を旅で暮らし、その翌日諏訪へ着いたが既《すで》に飛脚《ひきゃく》はやってある。使者の行くことはわかっている、諏訪家では態々《わざわざ》人を出し、国境まで迎えさせたが、まず休息というところから城内新築の別館へ丁寧《ていねい》に葉之助を招待《むかえいれ》た。
 翌日が正式の会見日である。
 その夜諏訪から重役が幾人となく挨拶《あいさつ》に来たが、千野兵庫《ちのひょうご》が来た時であった、葉之助は卒然と訊いた。
「お家は代々文学のお家柄、蔵書など沢山ござりましょうな?」
「さよう、相等《そうとう》ござります」
「文庫拝見致したいもので」
「いと易《やす》いこと、ご案内致しましょう」
 兵庫は葉之助を導いて書籍蔵へ案内した。実に立派な文庫である。万巻に余る古今の書が整々然として並べられてある。
 葉之助は心中感に耐えながら「ス」の部を根気よく調査したが、その結果ようやく探し当てたのは「水狐族縁起」という写本であって、部屋に戻ると葉之助は熱心にそれを読み出した。
 水狐族なるものの発生とその宗教の輪廓《りんかく》とが朧気《おぼろげ》ながらも解って来た。
 ――平安朝時代のことであるが、この諏訪の国の湖水の岸に一個の城が聳《そび》えていた。城の主人《あるじ》を宗介《むねすけ》と云いその許婚《いいなずけ》を柵《しがらみ》と云ったが柵は宗介を愛さずに宗介の弟の夏彦を命を掛けて恋した果て、その夏彦の種を宿し産み落とした娘を久田姫と云った。これぞ悲劇の始まりで、宗介と夏彦とは兄弟ながら恋敵《こいがたき》として闘った。

         二二

 諏訪湖《すわこ》にまたは天竜川に、二人の兄弟は十四年間血にまみれながら闘ったが、その間|柵《しがらみ》と久田姫とは荒廃《あれ》た古城で天主教を信じ佗《わび》しい月日を送っていた。十四年目に宗介は弟夏彦の首級《くび》を持ち己《おの》が城へ帰っては来たがもうその時には柵は喉《のど》を突いて死んでいた。
「俺はあらゆる人間を呪う。俺は浮世を呪ってやる!」こう叫んだ宗介が八ヶ嶽へ走って眷属《けんぞく》を集めあらゆる悪行を働いた後、活きながら魔界の天狗となりその眷属は窩人《かじん》と称し、人界の者と交わらず一部落を造ったということは、この物語の冒頭において詳しく記したところであるが、一人残った久田姫こそ、いわゆる水狐族の祖先なのであって、父夏彦の首級を介《かか》えた憐れな孤児《みなしご》の久田姫は、その後一人城を離れ神宮寺村に住居《すまい》して、聖母マリヤと神の子イエスとを、守り本尊として生活《くら》したが、次第に同志の者も出来、窩人部落と対抗しここに一部落が出来上がり、宗教方面では天主教以外に日本古来の神道の一派|中御門派《なかみかどは》の陰陽術を加味し、西洋東洋一味合体した不思議な宗教を樹立したのである。そうして彼らの長《おさ》たる者は必ず久田の名を宣《なの》り、若い時には久田姫、老年となって久田の姥《うば》と、こう呼ぶことに決っていた。そうして彼らの長となる者は必ず女と決っていた。
 彼ら部落民全体を通じて最も特色とするところは、男女を問わず巫女《みこ》をもって商売とするということと、部落以外の人間とは交際《まじわ》らないということと、窩人を終世の仇とすることと、妖術を使うということなどで、わけても彼らの長《おさ》となるものは、今日の言葉で説明すると、千里眼、千里耳、催眠術、精神分離、夢遊行《むゆうこう》、人心観破術というようなものに、恐ろしく達しているのであった。……
「ふうむ、そうか」
 と葉之助は、写本を一通り読んでしまうと、驚いたように呟いた。
「容易ならない敵ではある。それに人数が多すぎる。一部落の人間を相手としては、いかほど武道に達した者でも、討ち果たすことは困難《むずかし》かろう。これは充分考えずばなるまい。……いや待てよ、そうでもない。彼らの長さえ討ち取ったなら、諏訪家に纏《まつ》わる禍《わざわ》いだけは断ち切ることが出来ようも知れぬ。うむ、そうだ、この一点へ、ひとつ心を集めて見よう」
 森閑と更けた城内の夜、別館客座敷の真ん中に坐り葉之助はじっと考え込んだが、
「考えていても仕方がない。味方を知り敵を知るは必勝の法と兵学にもある。これから窃《こっそ》り出かけて行き、水狐部落の様子を見よう」
 スッと立って廻廊へ出、雨戸を開けると庭へ出た。城の裏門までやって来ると一人の番人が立っていた。
「どなたでござるな? どこへおいでなさる?」
「拙者は内藤家より使者の者、所用あって城下へ出ます。早々小門をお開けくださるよう」
「はっ」と云って式体《しきたい》したが、「たとえいかなるご仁《じん》に致せ、刻限過ぎにござりますれば開門いたすことなりませぬ」
「ほほう、いかなる人といえども刻限過ぎにはこの小門を通行致すことなりませぬとな」
「諏訪家の掟《おきて》にござります」
「しかるに毎夜その掟を破り他出する者がござるとのこと、何んと不都合ではござらぬかな」
「いやいや決してさような者、諏訪家家中にはおりませぬ」
「いやいや家中の侍衆《さむらいしゅう》ではない。ご一門中の立派なお方だ」
「はて、どなたでございましょうや?」
「すなわち若殿頼正公」
「あッ、なるほど!」と思わず云って門番はキョトンと眼を丸くした。
「何んとでござるな。一言もござるまい」
 葉之助は笑ったものである。
「いや一言もござりませぬ」
「しからば開門なさるよう」
「やむを得ぬ儀、いざお通り」
 ギーと門番は門を開けた。ポンと潜った葉之助は、昼間あらかじめ調べて置いた、野良の細道をサッサッと神宮寺村の方へ歩いて行く。遅い月が出たばかりで野面《のづら》は蒼茫《そうぼう》と光っている。微風に鬢《びん》の毛を吹かせながら急《せ》かず焦心《あせ》らず歩いて行くものの心の中ではどうしたものかと、策略を巡らしているのであった。
 間もなく遥かの行手に当たって水狐族の部落が見渡された。家数にして百軒余り、人数にして三百人もあろうか、今はもちろん寝静まっていて人影一つ見えようともしない。夜眼にハッキリとは解らないが、家の造り方も尋常《なみ》と異《ちが》い、きわめて原始的のものらしく、ひときわ眼立つ一軒の大厦《たいか》は、部落の長の邸であろう。あたかも古城のそれのように、千木《ちぎ》や勝男木《かつおぎ》が立ててある。そうして屋根は妻入式《つまいりしき》であり、邸の四方に廻縁《かいえん》のある様子は、神明造りを想わせる。
 と、忽然《こつぜん》その辺から音楽の音《ね》が聞こえて来た。
「はてな?」と呟いて葉之助は思わず足を止めたものである。

         二三

 音楽の音は幽《かす》かではあるが美妙《びみょう》な律呂《りつりょ》を持っている。楽器は羯鼓《かっこ》と笛らしい。鉦《かね》の音も時々聞こえる。
 葉之助はしばらく聞いていたがやがて忍びやかに寄って行った。木蔭に隠れて向こうを見ると、神明造りの館の庭に数人の女が坐っていたが、いずれも若い水狐族の女で、一人は笛、一人は羯鼓、一人は鉦を叩いている。そうして一人の老年《としより》の女が、その中央《まんなか》に坐っていたが何やら熱心に祈っているらしい。チン、チン、チンと鉦の音、カン、カン、カンと羯鼓の音、それを縫って笛の音がヒュー、ヒュー、ヒューと鳴り渡る。それが睡気《ねむたげ》な調和をなし、月夜を通して響き渡る。
 静かに老婆は立ち上がった。それから両手を差し出した。それを上下へ上げ下げする。何かを招いているらしい。
 と、城下の方角から、一つの黒点があらわれたが、それが風のように走って来る。魔法使いの老婆の手が遥かに犠牲《いけにえ》を呼んだのでもあろう。チン、チン、チン、カン、カン、カン、ヒュー、ヒューと音楽の音は次第次第に調子を早め、上げ下げをする老婆の手がそれに連れて速くなる。黒点は次第に近寄って来る。点が棒になり棒が人形となり、月の光を全身に浴びた一人の若い侍の姿が、やがて眼前へ現われた。諏訪家の若殿頼正である。
 三人の女と老婆とは、にわかにスーッと立ち上がった。そうして音楽を奏しながら階段を悠々と昇り出した。やはり老婆は左右の手を上へ下へと上げ下げする。やがて屋内へ姿を消した。
 頼正の眼は見開かれている。凝然《じっ》と前方へ注がれている。しかし眠っているらしい。ただ足ばかりが機械的に動く。階段の前へ来たかと思うともう階段を昇っている。あたかも物に引かれるように、躯《からだ》を斜めに傾《かし》げたかと思うとスーッと屋内へ辷《すべ》り込んだ。
 後は森然《しん》と静かである。音楽の音も聞こえない。
 木蔭で見ていた葉之助は何がなしにゾッとした。
「……水狐族の妖術だな。あの老婆が長《おさ》なのであろう。人を音楽で引き寄せる。不思議なことがあればあるものだ。……家の中で何をしているのだろう?」
 強い好奇心に誘われて静かに葉之助は木蔭を立ち出で、階段へ足をそっと掛け一階二階と昇って見た。とたんにヒューと空を切って一本の投げ棒が飛んで来たが、葉之助の足を払おうとする。ハッと驚いた葉之助は、身を躍らせて階段からヒラリと地上へ飛び下りた。しかしどこにも人影はない。月の光が蒼茫と前庭一杯に射し込んでいた。木立や家影《いえかげ》を黒々と地に印《しる》しているばかりである。
 葉之助はまたもゾッとした。「帰った方がよさそうだ」こう思わざるを得なかった。そこで彼は身を忍ばせ水狐部落を抜け出し、野良の細道をスタスタと湖水の岸まで引き返して来た。
 一人の女が湖水の岸の柳の蔭に立っている。どうやら泣いているらしい。
「これ女中どうなされたな?」
 葉之助は怪しんで近寄って行った。見れば美しい娘である。
「このような深夜《よふけ》にこのような所で、何を泣いておられるな?」
「はい」と云ったがその娘は顔から袖を放そうとはしない。白い頸、崩れた髪、なよなよとした腰の辺《あた》り、男の心を恋に誘い、乱らがましい心を起こさせようとする。
「どこのお方で何んと云われるな?」
 葉之助は優しくまた訊いた。
「産まれは京都《みやこ》、名は水藻《みずも》、恐ろしい人買《ひとか》いにさらわれまして……」
「いやいやそうではござるまい」鏡葉之助は静かに云った。
「生れは神宮寺、名は久田……」
「え?」と娘は顔を上げる。
「馬鹿!」と一喝、葉之助は、抜き打ちに颯《さっ》と切り付けた。と、娘は狼狽しながらも、ピョンと背後へ飛び退くと、袖を手に巻きキリキリと頭上高く差し上げたが、それをグルグルグルグルと、渦巻きのように廻したものである。
 心に隙はなかったが、相手の不思議の振る舞いを怪しく思った葉之助は、じっと[#「じっと」に傍点]その手へ眼を付けた。次第に精神が恍惚となる。すなわち今日の催眠術だ。葉之助はそれへ掛かったのである。「あ、やられた」と思った時には、身動きすることさえ出来なかった。月も湖水も柳の木も、娘の姿ももう見えない。グルグルグルグルと渦巻き渦巻く奇怪な物象が眼の前で、空へ空へ空へ空へ、高く高く高く高く、ただ立ち昇るばかりである。
 彼は刀を握ったまま湖水の岸へ転がった。彼は昏々と眠ったのである。そうして翌朝百姓によって呼び覚まされたその時には、腰の大小から衣裳まで悉《ことごと》く剥ぎ取られていたものである。

         二四

 これは武士たる葉之助にとっては云いようもない恥辱であった。
 彼は城内の別館で、爾来《じらい》客を避けて閉じ籠もった。そうして病気を口実に、正式の使者の会見をさえ延期しなければならなかった。
 しかし忽《たちま》ちこの噂は城の内外へ拡まった。
「内藤家より参られた病気見舞いの使者殿が不思議なご病気になられたそうな」
「さよう不思議なご病気にな。一名|仮病《けびょう》とも云われるそうな」「不面目病とも申されるそうな」「恥晒《はじさ》らし病とも申されるそうな」――などと悪口を云う者もある。どう云われても葉之助にはそれに反抗する言葉がない。
「噂によれば葉之助という仁《ひと》は、内藤殿のご家中でも昼行灯と異名を取った迂濶《うかつ》者だということであるが、それが正しく事実ならさような人間を使者によこされた内藤家こそ不届き千万」こう云う者さえ出て来るようになった。
「いやいやそれは中傷で、葉之助殿は非常な武芸者、高遠城下で妖怪《もののけ》を退治し、武功を現わしたということでござる」稀《まれ》にはこう云って葉之助を、弁護しようとする者もあった。
「何さ、高遠の妖怪は諏訪の妖怪と事|異《かわ》り意気地《いくじ》がないのでござろうよ」などと皮肉を云う者もある。一方若殿頼正は、誰がどのように警護しても、時刻が来れば忽然《こつぜん》と抜け出し、城から姿を隠すのであった。そうして日夜衰弱し、死は時間の問題となった。
 しかも、葉之助は寂然《せきぜん》と、別館に深く籠もっていて、他出しようともしないのである。
 ある日葉之助はいつも通り別館の座敷に端座してじっと[#「じっと」に傍点]思案に耽《ふけ》っていた。彼の前には、「水狐族縁起」が、開いたままで置いてある。彼は今日までに幾度となくこの写本を読み返した。そうしてこの中から何らかの光明何らかの活路を発見《みつけだ》そうとした。しかし不幸にも今日までは見出すことが出来なかった。
 彼はカッと眼を開けた。それから改めて読み出した。と、にわかに彼の眼は一行の文字に喰い入った。
「八ヶ嶽山上窩人に対しては、深讐《しんしゅう》綿々|尽《つ》く期《とき》無《な》けん、これ水狐族の遺訓たり」
 こうそこには記されてある。
「うん、これだ!」
 と葉之助はポンとばかりに膝を叩いた。
「なんという俺は迂濶者《うかつもの》だ。これほど立派な活路があるのに、それに今まで気が付かなかったとは……八ヶ嶽山上の窩人に対し水狐族が深讐とみなすからには、窩人の方でも水狐族を深讐と見ているに相違ない。したがって窩人の連中は、水狐族に対して敵対の手段を考えているに相違ない。ではその窩人と邂逅《いきあ》って水狐族に対する敵対の手段を尋ねたとしたらどうだろう! 恐らく彼らは喜んで教えてくれるに違いない。八ヶ嶽に行って窩人と逢おう!」
 日没《ひぐれ》を待って葉之助は窃《こっそ》り城を抜け出した。
 途中で充分足|拵《ごしら》えをし、まず茅野宿《ちのじゅく》まで歩いて行き、そこから山路へ差しかかった。薬沢《くすりさわ》、神之原、柳沢。この柳沢で夜を明かし翌朝は未明に出発した。八手まで来て北に曲がったが、もうこの辺は高原で、これより奥には人家はない。阿弥陀ヶ嶽の山骨を上へ上へと登って行く。途中一夜野宿をした。
 三日目の昼頃|辿《たど》り着いたのは「鼓《つづみ》ヶ|洞《ほら》」の谿谷《たにあい》で、見ると小屋が建っていた。幾年風雨に晒《さ》らされたものか屋根も板囲いも大半崩れ見る影もなく荒れていたが、この小屋こそは十数年前に窩人の娘山吹と城下の商人《あきゅうど》多四郎とがしばらく住んでいた小屋なのである。二人の間に儲けられた猪太郎と呼ぶ自然児もかつてはここに住んでいた筈だ。それらの人達はどこへ行ったろう? 山吹は既に死んだ筈である。しかし多四郎や猪太郎は今尚|活《い》きている筈だ。
 鏡葉之助は小屋の前にやや暫時《しばらく》立っていた。不思議にも彼の心の中へ、何んとも云われない懐かしの情が、油然《ゆうぜん》として湧いて来た。遠い昔に度々聞きそうして中頃忘れ去られた笛の音色が卒然と再び耳の底へ響いて来たような、得《え》も云われない懐かしの情! 思慕の情が湧いて来た。しかしそれは何故だろう? そうだそれは何故だろう? 葉之助にとって「鼓ヶ洞」は何んの関係もないではないか、今度が最初《はじめて》の訪問ではないか。鏡葉之助は鏡葉之助だ。他の何者でもないではないか。
 それとも葉之助と「鼓ヶ洞」とは何か関係があるのであろうか?
「これは不思議だ」と葉之助は声に出して呟いた。「遠い遠い遠い昔に、私《わし》は何んだかこの小屋に住んでいたような気持ちがする。……しかしそんなことのありようはない!」忽然、この時絶壁の上から、人の呼び声が聞こえて来た。
「おいでなさい! おいでなさい! おいでなさい!」慈愛に充ちた声である。

         二五

「おいでなさい、おいでなさい、おいでなさい!」
 慈愛に溢れた呼び声がまた山の上から聞こえて来た。
 鏡葉之助はそれを聞くと何んとも云われない懐かしの情が油然《ゆうぜん》と心へ湧き起こった。
「誰かが俺を呼んでいる。行って見よう、行って見よう」
 忙しく四辺《あたり》を見廻した。正面に当たって崖がある。崖には道が付いている。その道は山上へ通っている。
 で葉之助はその道から山の上へ行くことにした。苔《こけ》に蔽《おお》われ木の葉に埋もれ、歩き悪《にく》い道ではあったけれど、葉之助にとっては苦にならなかった。で、ズンズン登って行く。
 こうしてようやく辿《たど》りついた所は、いわゆる昔の笹の平、すなわち窩人《かじん》の部落であって、諸所に彼らの住家があったが、人影は一つも見られなかった。
 見られないのが当然である。十数年前に窩人達は漂泊《さすらい》の旅へ上ったのだから。
 しかしもちろん葉之助にはそんな消息は解っていない。で、窩人の廃墟ばかりあって、窩人その者のいないということが、少なからず彼を失望させた。
「だがさっきの呼び声は決して自分の空耳《あだみみ》ではない。確かに人間の呼び声であった。その人間はどこにいるのであろう?」
 そこで彼は何より先にその人間を探すことにした。
 一軒一軒根気よくかつては窩人の住家であり、今は狐狸の巣となっている、窟《いわや》作りの小屋小屋を丁寧に彼は探したが、人間の姿は見られなかった。
「さては空耳《あだみみ》であったのかしら?」
 ようやく疑わしくなった時、またもや同じ呼び声がどこからともなく聞こえて来た。
「いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい!」と。
 声は山の方からやって来る。
 で葉之助は元気付き声のする方へ走って行った。荒野を上の方へ越した時、丘の上に森があり、森の中に神殿があり、内陣の奥に槍を持ったさも[#「さも」に傍点]厳《いか》めしい木像が突っ立っているのを見付けたが、これぞ天狗の宮であり、厳めしい武人の木像こそ宗介天狗のご神体なのであった。しかしこれとて葉之助には何が何んであるか解ってはいない。
 とは云え何んとなくその木像が尊く懐かしく思われたので、葉之助は手を合わせて恭《うやうや》しく拝した。と、その時人声がした。
「おお猪太郎、よく戻ったな」
 ギョッと驚いた葉之助が思わずその眼を見張った時、木像の蔭からスルスルと、白衣長髪の人影が、彼の眼の前へ現われた。まことに神々しい姿である。慈愛に溢れた容貌である。人と云うより神に近い。
 その神人はまた云った。
「おお猪太郎、よく戻ったな」
 意外の人物の出現に、胆を潰した葉之助はしばらく無言で佇《たたず》んでいたが、この時にわかに一礼し、
「これはどなたか存じませぬが、お人違いではございませぬかな。私事は高遠の家中、鏡葉之助と申す者、猪太郎ではございませぬ」
「さようさよう只今の名は葉之助殿でござったな。しかしやっぱり猪太郎じゃ。さよう少くも幼名はな」神々しい姿のその人はこう云うと莞爾《にこやか》に微笑んだが、「何んとそうではござらぬかな」
「いえいえそれも違います。私の幼名は右三郎、このように申しましてございます」
「さようさようそんな時代もあった。しかしそれはわずかな間じゃ。しかもそれは仮りの名じゃ。方便に付けた名であったがしかしその事はやがて自然に解るであろう。そうしてそれが解った時から、お前は悲惨《みじめ》な人間となろう。恐ろしい恐ろしい『業《ごう》』の姿がまざまざお前に見えて来よう。世にも不幸な人間とは、他《ほか》でもないお前の事じゃ。お前は産みの母親の呪詛《のろい》の犠牲《いけにえ》になっているのじゃ。そうしてお前は実の父親をどうしても殺さなければならないのじゃ。しかしそれは不可能のことじゃ。子として実の父親を殺す! これは絶対に出来ないことじゃ。出来ないからこそ苦しむのじゃ。そこにお前の『業』がある……お前は不幸な人間じゃ。母の怨みを晴らそうとすればどうでも父親を殺さねばならぬ。子としての道を歩もうとすれば、母親の臨終《いまわ》の妄執《もうしゅう》を未来|永劫《えいごう》解《と》くことが出来ず、浮かばれぬ母親の亡魂をいつまでも地獄へ落として置かねばならぬ」
 すると葉之助は笑い出したが、
「これは何をおっしゃることやらとんと[#「とんと」に傍点]私には解りませぬ。私の実の父も母も飯田の城下に健《すこや》かに現在《ただいま》も生活《くら》しておりますものを、臨終《いまわ》の妄執だの亡魂だのと、埒《らち》もないことを仰《おお》せられる。お戯《たわむ》れも事によれ、程度《ほど》を過ごせば無礼ともなる。もはやお黙りくださるよう。私、聞く耳持ちませぬ!」
 果ては少しく怒りさえした。

         二六

 すると神々しいその人は、さも気の毒と云うように、慈愛の眼差しで葉之助を見たが、
「お前の父母は何んと云うな?」
「父は南条右近と申し、信州飯田堀石見守の剣道指南役にござります。母は同藩の重役にて前川頼母の第三女お品と申すものにございます」
「さようさようそうであったな。それは私《わし》も知っておる。しかしそれは仮り親じゃ」
「ナニ、仮り親でございますと? 奇怪な仰せ、その仔細は?」葉之助は気色ばむ。
「いやいやそれは明かされぬ。しかしそのうち自然自然|明瞭《あきらか》になる時節があろう。その時節を待たねばならぬ」
「先刻より様々の仰せ、不思議なことばかりでございますが、そもそもあなたにはいかなるご身分、いかなるお方でございましょう?」
「私はお前の産まれない前に、この山中にいた者じゃ」
「ははあ、さようでございますか」
「そうしてお前の実の親とは深い関係のあるものじゃ。殊《こと》に死なれた母親とはな」
「……?」
「善、平等、慈悲、平和、私はこれらの鼓吹者《こすいしゃ》じゃ」
「ははあさようでございますか」
「お前の産まれる少し前に私《わし》はこの山を立ち去った。徳の不足を感じたからじゃ。しかし私にはこの山の事がいつも心にかかっていた。で私は四六時中お前の傍《そば》に付いていた。いやいや敢《あえ》てお前ばかりではなくあらゆる不幸な人間にはいつも私《わし》は付いているのだ。ある人のためには涙であり、ある人のためには光である、これが私の本態だ。……で私にはお前の事なら何から何までわかっている」
「そうしてあなたのお名前は?」
「この山では私の事を白法師と呼んでいた」
「白法師様でございますな」
「困った事にはこの浮世には、私と反対な立場にいて私に反対する悪い奴がいる。悪、不平等、呪詛《じゅそ》、無慈悲、こういう物の持ち主で、やはり私と同じように総《あらゆ》る人間に付きまとっている」
「それは何者でございましょう?」
「黒法師とでも云って置こう。また悪玉と云ってもよい。したがって私は善玉で。……三世を貫く因果なるものはこの善玉と悪玉との勝負闘争に他《ほか》ならない。……しかしこれは事新しく私が説くには当たるまい。とは云えお前の身の上に降りかかっている悪因縁はその黒法師の為《な》す業じゃ。そうして少くも現在《いま》のところでは私の力ではどうにもならぬ。時節を待つより仕方がない。……しかもお前は産みの母の呪詛《のろい》の犠牲になっているばかりか、今や新しく種族の犠牲にその身を抛擲《なげう》とうと心掛けている」
「種族? 種族? 種族とは?」
「お前の属する種族の事じゃ」
「私は士族でございます」
「さよう、今はな、今は武士じゃ」
「元から武士でございました」
「そうではない、そうではない」
「では何者でございましょう?」
「それは云えぬ。今は云えぬ。それをお前へ教える者は他でもない黒法師じゃ」
「その黒法師はどこにおりましょう?」
「あらゆる人間に付きまとっている。だからお前にも付きまとっている」
「私の眼には見えませぬ」
「間もなくお前にも見えて来よう」
「種族の犠牲? 黒法師? ああ私には解らない!」
「水狐族! 水狐族!」白法師は卒然と云った。「これをお前は滅ぼそうとしてこの山中へ来たのであろうな?」
「仰せの通りでございます」
「窩人にとっては水狐族こそは祖先以来の仇なのじゃ」
「そのように聞いておりました」
「だからお前の仇でもある」
「それはなぜでございましょう?」
「やがて解る、やがて解る。……とまれお前はお前の属するある一つの種族のため、他の種族と戦わねばならぬ。水狐族どもと戦わねばならぬ。そうしてお前は久田の姥《うば》をお前の手によって殺さねばならぬ。これはお前の宿命だ」
「しかしどうしたら憎い妖婆を討ち取ることが出来ましょうか?」こう葉之助は不安そうに訊いた。
「あれを見るがいい。あれを見ろ」
 こう云いながら白法師は内陣の木像の持っている平安朝型の長槍を、手を上げて指差した。
「あの木像こそ他ならぬ窩人族の守護神《まもりがみ》じゃ。彼らの祖先宗介じゃ。窩人どもの族長じゃ。族長の持っている得物《えもの》をもって、他の族長を討つ以外には、妖婆を討ち取る手段はない」
 云われて葉之助は躍り上がったが、神殿へ颯《さっ》と飛び込んで行くと、木像の手から長槍をグイとばかりに※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]《も》ぎ放した。

         二七

 ……「久田の姥を殺した刹那《せつな》、お前はまたも呪詛《のろい》を受けよう。恐ろしい呪詛! 恐ろしい呪詛! 不幸なお前! 不幸なお前!」
 背後の方から白法師がこう云って呼びかけるのを聞き流し、鏡葉之助が勇躍して山を里の方へ馳《は》せ下ったのはそれから間もなくの事であった。
 彼はただただ嬉しかった。
「憎い妖婆を討つ事が出来る。堕ちた名誉を取り返すことが出来る。呪詛が何んだ、呪詛が何んだ!」
 これが葉之助の心持ちであった。
「有難いのはこの槍だ。槍よどうぞ俺のために霊妙な力を現わしてくれ。魔法使いの久田の姥めをただ一突きに突き殺させてくれ!」
 これが葉之助の願いであった。
 足を早めてドンドン下る。
 途中で一夜野宿をし、その翌日の真昼頃、高島の城下に帰り着いたが、故意《わざ》と城中へは戻らずに、城下外れの旅籠屋《はたごや》で夜の来るのを待ち設けた。
 やがて日が暮れ夜となり、その夜が更けて深夜となった。審《いぶ》かる家人を尻目に掛け、葉之助は宿を出た。
 湖水に添って田圃路《たんぼみち》を神宮寺村の方へ歩いて行く。
 間もなく水狐族の部落へ来たが、以前《このまえ》来た時と変わりなく家々は森然《しん》と寝静まり、犬の声さえ聞こえない。
「よし」
 と呟くと葉之助は、木蔭家蔭を伝いながら、久田の姥の住居の方へ、足音を忍んで寄って行った。
 広い前庭までやって来た時彼はハッとして立ち止まった。
 幽《かす》かな空の星の光にぼんやり姿を照らしながら四、五人の人影が蠢《うごめ》いている。コンコンという釘《くぎ》を打つ音、シュッシュッという板を削《けず》る音、いろいろの音が聞こえて来る。何やら造っているようである。
「はてな?」
 と葉之助は怪しんだ。で、一層足音を忍ばせ、暗い物蔭を伝い伝い、彼らの話し声を聞き取ろうと、そっちの方へ寄って行った。
 何やら彼らは話し合っている。
「どうしたどうした、まだ出来ないか」
「節があるので削り悪《にく》い」
「いいかげんでいい、いいかげんでいい」
 シュッシュッという板を削る音。
「釘をよこせ、釘をよこせ」
「おっとよしきた、それ釘だ」
 コンコンという釘を打つ音が、夜の静寂《しじま》を貫いて変に陰気に鳴り渡る。
 何を造っているのであろう。
 とまた彼らは話し出した。
「莫迦《ばか》にゆっくりしているじゃないか」
「それは、最後のお別れだからな」
「齧《かじ》り付いているんだな」
「うん、そうとも、几帳《きちょう》の中で」
「百歳過ぎたお婆とな」
「どう致しまして、十七、八、水の出花のお娘ごとよ」
「アッハハハ、違えねえ」
 彼らは小声で笑い合い、ひとしきりコンコンと仕事をした。
「思えばちょっとばかり可哀そうだな」また一人が云い出した。
「若い身空を水葬礼か」
「それも皆んな心がらだ」
「俺らに逆らった天罰だ」
「湖水を渫《さら》った天罰だ」
「諏訪家の若殿頼正なら、若殿らしく穏《おとな》しくただ上品に構えてさえいれば、こんな目にも逢うまいものを」
「いい気味だよ、いい気味だよ」
 そこで彼らはまた笑った。
「……さて、あらかた棺も出来た」
「早く死骸《なきがら》が来ればいい」
 そこで彼らは沈黙した。
 これを聞いた葉之助はゾッとせざるを得なかった。
 彼らは頼正の死骸を納める棺を造っていたのであった。そうして若殿頼正は、今夜もこの家へ引き寄せられ、美しい娘の水藻《みずも》に化けた百歳の姥《おうな》久田のために誑《たぶら》かされているらしい。しかも若殿頼正の生命《いのち》は寸刻に逼《せま》っているらしい。棺! 棺! 水葬礼! 彼らは頼正の死骸を棺の中へぶち[#「ぶち」に傍点]込んでそれを湖水へ沈めるのらしい。それが目前に逼っている!
「これはこうしてはいられない」
 葉之助は足擦りした。とたんにガチャンと音がした。彼は何物かに躓《つまず》いたのである。ハッと思ったが遅かった。棺造りの水狐族が四人同時に立ち上がり、ムラムラとこっちへ走って来る。
「もうこうなれば仕方がない。一人残らず討ち取ってやろう」
 突嗟に思案した葉之助は、そこに立っていた杉の古木の驚くばかり太い幹へピッタリ体をくっ付けた。
 それとも知らず水狐族は四人|塊《かた》まって走って来る。

         二八

 眼前三尺に逼った時、葉之助の手はツト延びた。真っ先に進んだ水狐族の胸の真ん中を裏掻《うらか》くばかり、平安朝型の長槍が、電光のように貫いた。ムーと云うとぶっ[#「ぶっ」に傍点]倒れると、もう槍は手もとへ引かれ、引かれたと思う隙もなく、颯《さっ》と翻《かえ》った石突きが二番目の水狐族の咽喉《のど》を刺す。ムーと云ってこれも倒れる。敵ありと知った後の二人が、踵を返して逃げようとするのを追い縋《すが》って横撲り、一人の両足を払って置いて、倒れるのを飛び越すと、最後の一人を背中から田楽刺しに貫いた。
 眼にも止まらぬ早業である。声一つ敵に立てさせない。
 ブルッと血顫《ちぶる》いした葉之助、そのまま前庭を突っ切ると、正面に立っている古代造り、久田の姥の住む館へ、飛燕《ひえん》のように飛び込んで行った。
 階段を上がると廻廊で、突き当たりは杉の大戸、手を掛けて引き開けると灯火のない闇の部屋、そこを通って奥へ行く。と、一つの部屋を隔てて仄《ほの》かに灯影が射して来た。
 窺い寄った葉之助、立ててある几帳の垂《た》れ布《ぎぬ》の隙から、内の様子を覗いて見たが、思わずゾッと総毛立った。
 艶《あでや》かな色の大振り袖、燃え立つばかりの緋の扱帯《しごき》、刺繍《ぬい》をちりばめた錦の帯、姿は妖嬌たる娘ではあるが頭を見れば銀の白髪、顔を見れば縦横の皺《しわ》、百歳過ぎた古老婆が、一人の武士を抱き介《かか》えている。他ならぬ若殿頼正で、死に瀕した窶《やつ》れた顔、額の色は藍《あい》のように蒼《あお》く唇の色は土気を含み、昏々として眠っている。
 老婆は口をカッと開けたがホーッ、ホーッ、ホーッ、ホーッと、頼正公の顔の辺へ息をしきりに吹きかける。そのつど頼正は身悶《みもだ》えする。
 じっ[#「じっ」に傍点]と見定めた葉之助は、几帳をパッと蹴退《けの》けるや、ヒラリと内へ躍り込んだ。
 ピタリと槍を構えたものである。
 さすがに老婆も驚いたが、抱いていた頼正を投げ出すと、スックとばかり立ち上がつた。身の長《たけ》天井へ届くと見えたが、これはもちろん錯覚である。
 二人は眼と眼を見合わせた。
「小僧推参!」
 と忍び音《ね》に、久田の姥《うば》は詈ったが、右手に振り袖をクルクルと巻くと高く頭上へ差し上げた。すなわち彼女の慣用手段、眠りを誘う催眠秘術、キリキリキリキリと廻し出す。
 あわやまたもや葉之助は、恐ろしい係蹄《わな》へ落ちようとする。
 と、奇蹟が現われた。
 平安朝型の長槍が、すなわち窩人の守護本尊宗介天狗の木像から借り受けて来た長槍が、葉之助の意志に関係《かかわり》なく自ずとグルグル廻り出した事で、頭上に翳《かざ》した妖婆の手が左へ左へと廻るに反し、右へ右へ右へと廻る。すなわち彼女の催眠秘術を突き崩そうとするのである。
 葉之助は驚いたが、それにも増して驚いたのは実に久田の姥《うば》であった。
 彼女はじっ[#「じっ」に傍点]と槍を見た。見る見る顔に苦悶が萌《きざ》し、眼に恐怖が現われたが、突然口から呻き声が洩れた。
「宗介の槍! 宗介の槍! ……おおその槍を持っているからは、汝《おのれ》は窩人の一味だな!」
 しかし葉之助は返辞さえしない。ジリジリジリジリと突き進む。それに押されて久田の姥は一足一足後へ退がる。
 やはり二人は睨み合っている。
 頭上に高く翳《か》ざしていた久田の姥の右の手が、この時にわかに脇へ垂れた。一髪の間に突き出した槍! したたか鳩尾《みぞおち》を貫いた。
 しかし久田は倒れなかった。
 両手を掛けて槍の柄をムズとばかり握ったものである。
「……呪詛《のろ》われておれ窩人の一味! お前には安穏《あんのん》はあるまいぞよ! お前は永久死ぬことは出来ぬ! お前は永久年を取らぬ! 水狐族の呪詛《のろい》妾《わし》の呪詛! 味わえよ味わえよ味わえよ!」
 こう妖婆は叫んだが、それと一緒に息絶えた。
 初めてホッとした葉之助は、昏倒している頼正を片手を廻して背中に負い、片手で血まみれの槍を突き、階段を下りて庭へ出た。
 部落は幸いにも寝静まっている。これほどの騒動も知らないと見える。
 で、葉之助は静々と水狐族の部落を引き上げて行く。
 部落を抜け田圃へ出《い》で湖水に添って引き上げて行く。
 妖婆の呪詛《のろい》の言葉など、彼にとっては何んでもなかった。若殿頼正を救ったこと、禍《わざわ》いの根を断ったこと、堕ちた名誉を恢復《かいふく》したこと、これらが彼には嬉しかった。
 こうして彼はその夜の暁方《あけがた》、高島城の大手の門へ、血まみれの姿を現わした。

   怨念復讐の巻

         

 鏡葉之助の槍先に久田の姥が退治られて以来、諏訪家の若殿頼正は、メキメキと元気を恢復した。
 使命を果たした葉之助は、非常な面目を施した。彼の武勇は諏訪一円、武士も町人も賞讃した。彼に賜わった諏訪家の進物は、馬五頭でも運び切れなかった。
 いよいよ諏訪家に暇《いとま》を告げ、彼は高遠へ帰ることになった。諏訪家では一流の人物をして、彼を高遠まで送らせた。
 さて高遠へ着いて見ると、彼の功名は注進によって既《すで》に一般に知れ渡っていた。だから大変な歓迎であった。
 いかに阿呆《あほう》を装っても、もう誰一人葉之助を愚《おろ》か者とは思わなかった。彼は高遠一藩の者から、偶像とされ亀鑑《きかん》とされた。
「葉之助様がお帰りなされたそうで」
「おお、お帰りなされたそうだで」
「大変にご功名をなされましたそうで」
「そういうお噂だ。結構なことだ」
「お偉いお方でございますのね」
「まず高遠第一であろうな」
「あの、それに私達には、ご恩人でございますわ」
「そうともそうとも、恩人だとも」
「あのお方がおいでくだされて以来、妖怪《あやかし》が出なくなりましたのね」
「おおそうだ、有難いことにな」
「お礼申さねばなりませんわ」
「私もとうからそう思っているのさ」
「どうしたらご恩が返されましょう」
「さあ、そいつが考えものだて」
「まさかお金も差し上げられず……」
「相手はご家老のご子息様だ、そんな事は断じて出来ない」
「では、品物も差し上げられませんのね」
「とてもお納めくださるまいよ」
「ではお父様いっそのこと、お招待《まね》きしたら、いかがでしょう?」
「うん、そうしてご馳走《ちそう》するか」
「それがよろしいかと存じます」
「なるほどこれはよいかもしれない」
 大鳥井紋兵衛と娘お露とは、ここでようやく相談を極《き》めた。
 翌日紋兵衛は袴羽織《はかまはおり》で、自身鏡家へ出掛けて行った。
 帰国以来葉之助は、いろいろの人から招待されて、もう馳走には飽き飽きしていた。で、紋兵衛に招かれても心中大して嬉しくもなかった。と云って断われば角が立つ。そこでともかくも応ずることにした。もっとも娘のお露に対しては淡々《あわあわ》しい恋を感じていた。
「あの娘は美しい。そうして大変|初々《ういうい》しい。父親とは似も似つかぬ。会って話したら楽しいだろう」こういう気持ちも働いていた。
 中一日日を置いて彼は大鳥井家へ出掛けて行った。
 心をこめた種々の馳走はやはり彼には嬉しかった。誠心《まごころ》のこもった主人の態度や愛嬌《あいきょう》溢れる娘の歓待《もてなし》は、彼の心を楽しいものにした。殊にお露が機会《おり》あるごとに彼へ示す恋の眼使いは、彼の心を陶然《とうぜん》とさせた。さすがは豪家のことであって書画や骨董《こっとう》や刀剣類には、素晴らしいような逸品《いっぴん》があったが、惜し気なく取り出して見せてくれた。これも彼には嬉しかった。
 お露とたった二人だけで、数奇を凝らした茶室の中で、彼女の手前で茶をよばれたのは、分けても彼には好もしかった。
 石州流の作法によって造り上げられた庭園を、お露の案内で彷徨《さまよ》った時、夕月が梢《こずえ》に差し上った。
「綺麗なお月様……」
「おお名月……」
 二人は亭《ちん》に腰掛けた。
 葉籠りをした小鳥の群が、にわかに騒がしく啼き出した。あまりに明るい月光に、朝が来たと思ったのであろう。
 いつか二人は寄り添っていた。互いの体の温《ぬくも》りが、互いの体へ通って行く。二人の心は恍惚となった。
 ふとお露は溜息をした。
 と、葉之助も溜息をした。
 ピチッと泉水で魚が跳ねた。
 後はひっそり[#「ひっそり」に傍点]と静かである。
 互いに何か話そうとして、なんにも話すことが出来なかった。話そうと思えば思うほど口が固く結ばれた。
 で二人は黙っていた。二人とも若くて美しい。二人とも恋には経験がない。これが二人には初恋であった。
 二人は漸次《だんだん》恥ずかしくなった。で顔を反向《そむ》け合った。しかし体はその反対に相手の方へ寄って行った。胸が恐ろしく波立って来た。そうして手先が幽《かす》かに顫え、燃えるように身内が熱くなった。

         二

 やっぱり二人は黙っていた。
 もし迂濶《うかつ》に物でも云って、そのため楽しいこの瞬間が永遠に飛び去ってしまったなら、どんなに飽気《あっけ》ないことだろうと、こう思ってでもいるかのように、二人はいつまでも黙っていた。
 若さと美貌と勇気と名声、これを一身に兼備している葉之助のような人物こそは、お露のような乙女にとっては、無二の恋の対象であった。ましてその人は家のためまた大事な父のためには疎《おろそ》かならぬ恩人である。――で、一眼見たその時から、お露は葉之助に捉《とら》えられた。時が経つにしたがってその恋心は募って行った。葉之助を家へ招くように父に勧めたというのも、この恋心のさせた業であった。
 今こそ心中を打ち明けるにはまたとない絶好の機会である。場所は庭の中の亭《ちん》である。すぐ側に恋人が坐っている。美しい夕月の宵《よい》である。二人の他には誰もいない。……しかし、彼女は処女であった。そうして性質は穏《おとな》しかった。無邪気に清潔《きよらか》に育てられて来た。どうして直接《うちつけ》に思う事を思う男へ打ち明けられよう。
 葉之助にとってはこれまでは、このお露という美しい娘は淡い恋の対象に過ぎなかった。ただ時々思い出し、思い出してはすぐ忘れた。しかるにこの日招かれて来て、そうして彼女に会って見て、そうして彼女から卒直《いっぽんぎ》の恋の素振《そぶ》りを見せられて、始めて彼は身を焼くような恋の思いに捉えられた。彼は彼女に唆《そそ》られたのである。恋の窓を開かれたのである。
 彼のような性質の者が、一旦恋心を唆られると坂を転がる石のように止どまるところを知らないものである。……欝勃《うつぼつ》たる覇気、一味の野性、休火山のような抑えられた情火、これが彼の本態であった。しかし彼は童貞であった。どうして直接《うちつけ》に思うことを思う女へ打ち明けられよう。
 で、二人は黙っていた。しかし二人は二人とも、相手の心は解っていた。不満ながらも満足をして二人は黙っているのであった。

「これ葉之助、ちょっと参れ」
 ある日父の弓之進が、こう葉之助を部屋へ呼んだ。
「は、ご用でございますか?」
「お前近頃大鳥井家へ、足|繁《しげ》く参るということであるが、何んと思って出かけるな?」
 云われて葉之助は顔を赧《あか》らめたが、
「はい、いえ、別に、これと申して……」
「もちろん、行って悪いとは云わぬ。また先方としてみればいわばお前は恩人であるから、招いて饗応《もてなし》もしたかろう。呼ばれてみれば断わりもならぬ。だから行くのは悪くはないが、どうも少し行き過ぎるようだ」
「注意することに致します」
「そうだな。少し注意した方がいい。家中の評判も高いからな」
 これには葉之助も驚いた。
「家中の評判とおっしゃいますと?」
「何さ、別に心配はいらぬ。お前は今では家中の花、悪いに付け善いに付け噂をされるのは当然だよ」
「どんな噂でございましょう?」
「ちと、そいつが面白くない。……大鳥井家は財産家それに美しい娘がある。で、その二つを目的として、繁々通うとこう云うのだ」
「…………」
「アッハハハハ、莫迦な話だ。不肖なれど鏡家は当藩での家老職、まずは名門と云ってよい。たとえ財産はあるにしても大鳥井家はたかが[#「たかが」に傍点]百姓、そんなものに眼が眩《く》れようか。それに紋兵衛は評判も悪い」
「はい、さようでございます」
「強慾者だということである」
「そんな噂でございます」
「お露とかいう娘の方はそれに反して評判がよい。だが私《わし》は見たことはない。美しい娘だということだな?」
「ハイ、よい娘でございます」
 葉之助は顔を赧らめた。
「たとえどんなによい娘でも、家格の相違があるからは嫁としてその娘《こ》を貰うことは出来ぬ。ましてお前を婿《むこ》として大鳥井家へやることは出来ぬ」
「参る意《つも》りとてございません」
「そうであろうな。そうなくてはならぬ。……さてこう事が解って見れば痛くない腹を探られたくもない」
「ハイ、さようでございます」
「で、繁々行かぬがよい」
「気を付けることに致します」
「お前の武勇聡明にはまこと私も頭を下げる。これについては一言もない。ただ将来注意すべきは、女の色香これ一つだ。これを誡《いまし》むる色にありと既に先賢も申されておる」
「その辺充分将来とも気を付けるでございましょう」
 葉之助は手を支《つか》え、謹んで一礼したものである。

         

 淡々しいように見えていてその実地獄の劫火《ごうか》のように身も心も焼き尽くすものは、初恋の人の心である。それを彼は抑えられた。
 鏡葉之助はその時以来|怏々《おうおう》として楽しまなかった。自然心が欝《うっ》せざるを得ない。
 欝した心を欝しさせたままいつまでも放抛《うっちゃ》って置く時は、おおかたの人は狂暴となる。
 葉之助の心が日一日、荒々しいものに変わって行ったのは、止むを得ないことである。彼は時に幻覚を見た。また往々「変な声」を聞いた。
「永久安穏はあるまいぞよ!」その変な声はどこからともなくこう彼に呼び掛けた。気味の悪い声であった。主のない声であった。
 そうしてそれは怨恨《うらみ》に充ちた哀切|凄愴《せいそう》たる声でもあった。
 そうして彼はその声に聞き覚えあるような気持ちがした。
 この言葉に嘘はなかった。実際彼は日一日と心に不安を覚えるようになった。心の片隅に小鬼でもいて、それが鋭い爪の先で彼の心を引っ掻くかのような、いても立ってもいられないような変な焦燥《しょうそう》を覚えるのであった。事実彼の心からいつか安穏は取り去られていた。
「どうしたのだろう? 不思議な事だ」
 彼にとっても、この事実は不思議と云わざるを得なかった。
 で、意志の力をもって、得体の知れないこの不安を圧伏しようと心掛けた。しかしそれは無駄であった。
「何物か俺を呪詛《のろ》っているな」
 ついに彼はこの点に思い到らざるを得なかった。
「たしかに、あの[#「あの」に傍点]声には聞き覚えがある。……おおそうだ、久田の声だ!」
 正にそれに相違なかった。水狐族の長《おさ》の久田の姥《うば》の怨念の声に相違なかった。
 久田の姥の怨念は、ただこれだけでは済まなかった。
 間もなく恐ろしい事件が起こった。そうしてそれが葉之助の身を破滅の淵へぶち[#「ぶち」に傍点]込んだ。

 ある夜、書見に耽《ふけ》っていた。
 と例の声が聞こえて来た。
 にわかに心が掻き乱れ坐っていることが出来なくなった。
 で、戸を開けて外へ出た。秋の終り冬の初めの、それは名月の夜であったが、彼はフラフラと歩いて行った。
 主水町《かこまち》を過ぎ片羽通りを通り、大津町まで来た時であったが、一個黒衣の大入道が彼の前を歩いて行った。
 どうしたものかその入道を見ると、葉之助はゾッと悪寒《おかん》を感じた。
「いよいよ現われたな黒法師めが! こいつ悪玉に相違ない!」こう思ったからであった。
 ムラムラと殺気が萌《きざ》して来た。で彼は足音を盗み、そっと入道へ近寄った。
 声も掛けず抜き打ちに背後からザックリ斬り付けたのはその次の瞬間のことであった。と、ワッという悲鳴が起こり、静かな夜気を顫わせたが、見れば地上に一人の老人が、左の肩から右の胴まで物の見事に割り付けられ、朱《あけ》に染まって斃《たお》れていた。
「や、これは黒法師ではない。これは城下の町人だ」
 葉之助はハッと仰天《ぎょうてん》したが、今となってはどうすることも出来ない。
 しかるにここに奇怪な事が彼の心中に湧き起こった。……老人を斬った瞬間に、彼の心中にトグロを巻いていた不安と焦燥が消えたことである。……彼の頭は玲瓏《れいろう》と澄み、形容に絶した快感がそれと同時に油然と湧いた。
 飼い慣らされた猛獣が、血の味を知ったら大変である。原始的性格の葉之助が殺人《ひとごろし》の味を知ったことは、それより一層危険な事である。
 のみならずここにもう一つ奇怪な現象が行われた。
 それは彼が殺人をしたその翌朝のことであったが、床から起き出た彼を見ると、母親のお石が叫ぶように云った。
「お前、いつもと顔が異《ちが》うね」
「本当ですか? どうしたのでしょう」
 で、葉之助は鏡を見た。なるほど、いささか異っている。白い顔色が益※[#二の字点、1-2-22]白く、黒い瞳がいよいよ黒く、赤い唇が一層赤く、いつもの彼よりより[#「より」に傍点]一層美しくもあれば気高くもある、一個|窈窕《ようちょう》たる美少年が、鏡の奥に写っていた。
 思わず葉之助は唸ったものである。それから呟いたものである。
「不思議だ、不思議だ、何んということだ」
 ……が、決して不思議ではない。何んのこれが不思議なものか。
 美しい犬へ肉をくれると、より一層美しくなる。死骸から咲き出た草花は、他の草花より美しい。
 人を殺して血を浴びた彼が、美しくなったのは当然である。

         

 二度目に人を斬ったのは、陽の当たっている白昼《まひる》であった。
 その日彼は山手の方へ的《あて》もなくブラブラ歩いて行った。茂みで鳥が啼いていた。野茨《のいばら》の赤い実が珠をつづり草の間では虫が鳴《すだ》いていた。ひどく気持ちのよい日和《ひより》であった。
 と行手の峠道へポツリ人影が現われたが、長い芒《すすき》の穂をわけて次第にこっちへ近寄って来た。見るとそれは黒法師であった。それと知った葉之助は思案せざるを得なかった。
「幻覚かな? 本物かな?」
 その間もズンズン黒法師は彼の方へ近寄って来た。やがてまさに擦れ違おうとした。
 その時例の声が聞こえて来た。
「永久安穏はあるまいぞよ」
 ゾッと葉之助は悪寒を感じ、それと同時に心の中へ不安の念がムラムラと湧いた。
 で、刀を引き抜いた。そうして袈裟掛けに斬り伏せた。
 陽がカンカン当たっていた。その秋の陽に晒《さ》らされているのは若い女の死骸であった。
「うむ、やっぱり幻覚であったか」
 憮然《ぶぜん》として葉之助は呟いたもののしかし後悔はしなかった。気が晴々しくなったからである。

 三人目には飛脚《ひきゃく》を斬り四人目には老婆を斬り五人目には武士を斬った。しかも家中の武士であった。
 高遠城下は沸き立った。恐怖時代が出現し、人々はすっかり胆を冷やした。
「いったい何者の所業《しわざ》であろう?」
 誰も知ることが出来なかった。
 家中の武士が隊を組み、夜な夜な城下を見廻ろうという。そういう相談が一決したのは、それから一月の後であった。
 で、その夜も夜警隊は粛々《しゅくしゅく》と城下を見廻っていた。
 円道寺の辻まで来た時であったが、隊士の一人が「あっ」と叫んだ。素破《すわ》とばかりに振り返って見ると、白井誠三郎が袈裟に斬られ朱に染まって斃《たお》れていた。そうして彼のすぐ背後に鏡葉之助が腕を拱《こまぬ》き黙然として立っていた。
 誰がどこから現われ出て、どうして誠三郎を斬ったものか、皆暮《かいく》れ知ることが出来なかった。
 こうしてせっかくの夜警隊も解散せざるを得なかった。
 心配したのは駿河守である。例によって葉之助を召した。
「さて葉之助、また依頼《たのみ》だ。そちも承知の辻斬り騒ぎ、とんと曲者《くせもの》の目星がつかぬ。ついてはその方市中を見廻り、是非とも曲者を捕えるよう」
「は」と云ったが葉之助は、苦笑せざるを得なかった。
「この事件ばかりは私の手には、ちと合《あ》い兼ねるかと存ぜられます」
「それは何故かな? 何故手に合わぬ」
「別に理由《わけ》とてはございませぬが、ちと相手が強過ぎますようで……」
「いやいやお前なら大丈夫だ」
「しかし、なにとぞ、他のお方へ……」
「ならぬならぬ、そちに限る」
 そこで止むを得ず葉之助は、殿の命に従うことにした。
 ご前を下がって行く彼の姿を、じっと見送っていた武士があったが、他ならぬ剣道指南役、客分の松崎清左衛門であった。
「なんと清左衛門、葉之助は、若いに似合わぬ立派な男だな」
 駿河守は何気なく云った。
「御意《ぎょい》の通りにございます」清左衛門は物憂《ものう》そうに、
「しかし、いささか、心得ぬ節が。……」
「心得ぬ節? どんな事か?」
「最近にわかに葉之助殿は、器量を上げられてございます」
「いかにもいかにも、あれは奇態だ」
「まことに奇態でございます」
「しかし、元から美少年ではあった」
「ハイ、美少年でございました。それに野性がございました。それも欝々《うつうつ》たる殺気を持った恐ろしい野性でございました。飯田や高遠で成長《ひととな》ったとはどうしても思われぬ物凄《ものすご》い野性! で、気の毒とは思いましたが私の門弟に加えますことを、断わったことがございました」
「そういう噂もチラリと聞いた」
「しかるに最近に至りまして、さらにその上へより[#「より」に傍点]悪いものが加わりましてございます」
「ふうむ、そうかな? それは何かな?」
「ハイ、妖気でございます」自信ありげに清左衛門は云った。
「ナニ、妖気? これは不思議!」
「まことに不思議でございます」
「しかし私《わし》にはそうは見えぬが。……」
「しかし、確かでございます」
「どういう点が疑わしいな?」
「これは感覚でございます。そこを指しては申されません」
 駿河守は首|傾《かし》げたが、「どうも私《わし》には信じられぬ」
「やがてお解りになりましょう」

         

 殺人の本人、葉之助へその捕り方を命じたのは、笑うべき皮肉と云わざるを得ない。
 辻斬りが絶えないばかりでなく反対にその数の増したのは当然過ぎるほど当然である。
 こうして真の恐怖時代、こうして真の無警察時代が高遠城下へ招来された。
 冬の夜空の月凍って、ビョービョーと吠える犬の声さえ陰に聞こえる深夜の町を、捕り方と称する殺人鬼が影のように通って行く! おお人々よ気を付けたがよい。その美しい容貌に、その優雅な姿態《すがたかたち》に、またその静かな歩き方に! 彼は人ではないのだから! 彼は呪われたる血吸鬼《バンプ》なのだから!
 しんしんと雪が降って来た。四辺《あたり》朦朧《もうろう》と霧立ちこめ、一間先さえ見え分かぬ。しかし人々よ気を付けなければならない! その朦朧たる霧の中を雪の白無垢《しろむく》を纏《まと》ったところの殺人鬼が通って行くのだから。
 いやいや決して嘘ではない! 信じられない人間は、翌朝早く家を出て、城下を通って見るがよい。あっちの辻、こっちの往来、向こうの門前、こっちの川岸に袈裟に斬られた男女の死骸が、転がっているのを見ることが出来よう。殺人鬼の通った証拠である。

「どうも今度の曲者ばかりは、葉之助の手にも合わないらしい」
 父、弓之進は呟いた。「ひとつ助太刀をしてやるかな」
 事情を知らない弓之進がこう思うのはもっともである。
 しかしそれだけは止めた方がいい。毛を吹いて傷を求める悲惨な羽目に堕ちるばかりだから!

「もう捨てては置かれない」
 こう呟いた人があった。「やむを得ずば俺が出よう」
 それは松崎清左衛門であった。
 当時天下の大剣豪、立身出世に意がないばかりに、狭い高遠の城下などに跼蹐《きょくせき》してはいるけれど、江戸へ出ても三番とは下がらぬ、東軍流の名人である。――いかさまこの人が乗り出したなら、殺人鬼といえども身動き出来まい。
 しかしはたして出るだろうか?
 その夜も雪が降っていた。
 傘《からかさ》を翳《さ》した一人の武士が静々と町を歩いていた。と、その後から覆面《ふくめん》の武士が、慕うように追って行った。
 角町から三筋通り、辻を曲がって藪小路、さらに花木町緑町、聖天《しょうでん》前を右へ抜け、しばらく行くと坂本町……二人の武士は附かず離れず半刻《はんとき》あまりも歩いて行った。
 その間、覆面の侍は、幾度か刀を抜きかけたが、前を行く武士の体から光物《ひかりもの》でも射すかのように気遅れして果たさなかった。
 尚二人は歩いて行った。
 木屋町の角まで来た時であった。もう一人武士が現われた。羅紗《らしゃ》の合羽《かっぱ》を纏《まと》っている。
 羅紗合羽のその武士は、傘の武士と覆面の武士との、その中間に挟まった。
 それと見て取った覆面の武士は、さりげなくそっちへ寄って行った。
 一道の殺気|迸《ほとばし》ると見えたが、覆面の武士の両腕には早くも刀が握られていた。
「待て!」
 と云う周章《あわ》てた声! 合羽の武士が叫んだのであったが、それを聞くと覆面の武士は、一歩後へ退いた。
「おお、あなたはお父上!」
「おのれ、葉之助! さては汝《なんじ》が!」
「ご免!」
 と叫ぶと覆面の武士すなわち葉之助は踵を返し、脱兎《だっと》のように逃げ出した。とたんに「かっ」という気合が掛かり、傘の武士の右手から雪礫《ゆきつぶて》が繰り出された。
 手練の投げた雪礫は砲弾ほどの威力があり、それを背に受けた葉之助はもんどりうって倒れたが、そこは必死の場合である。パッと飛び起きて走り去った。あまりに意外な事実に、呆然とした弓之進はただ、棒のように立っていた。その時彼を呼ぶ者がある。
「鏡氏、お察し申す」
 弓之進は眼を上げた。傘の武士が立っていた。
「そういう貴殿は? ……おお松崎氏!」
「捕えて見れば我が子なり。……鏡氏、驚かれたであろうな?」
「葉之助めが曲者《くせもの》とは。……ああ何事も夢でござる」
 弓之進は※[#「さんずい+玄」、第3水準1-86-62]然《げんぜん》と泣いた。
「拙者断じて他言致さぬ。家に帰られ葉之助殿を、何んとかご処分なさるがよかろう」
 雪は次第に烈《はげ》しくなった。弓之進は返辞さえしない。
 返辞をしようと思っても口に出すことが出来ないのであった。
 彼は内藤家の家老であった。その立派な家柄の子が、こんな大事を惹《ひ》き起こし、こんな動乱を醸《かも》すとは、当人ばかりの罪ではない。連なる父母も同罪である。すなわち監督不行届きとして罪に坐さなければならないだろう。

 葉之助へ一封の遺書《かきおき》を残し、弓之進が屠腹《とふく》して果てたのはその夜の明方《あけがた》のことであった。

         

 弓之進の死は変死であった。が、内藤家にとっては由緒ある功臣、絶家させることは出来ないというので、病死ということに取りつくろわせ、盛んな葬式が終えると同時に家督は葉之助に下された。
 ひとしきり弓之進の死について家中ではいろいろ取り沙汰したが、生前非常な人望家でみんなの者から敬われていたので、非難の声は聞かれなかった。そうしてついに誰一人として自殺の原因を知るものがなかった。
 わずかにそれを知っている者といえば、松崎清左衛門と葉之助だけであった。
 その葉之助は父の死後自分に宛《あ》てられた遺書を見て恥じ、泣かざるを得なかった。
「……辻斬りの本人がお前だと知っては、私《わし》は活きてはおられない。子の罪を償うため父は潔《いさぎよ》く切腹する。で、お前の罪は消えた。父の後を追うことはならぬ。決してお前は死ぬことはならぬ。さて私は死に臨んでお前の身上《みのうえ》にかかっているある秘密の片鱗を示そう。お前の実父は飯田の家中南条右近とはなっているが、しかし誠はそうではない。お前の実の両親は全然別にある筈だ。とは云えそれが何者であるかはこの私さえ知らないのである。ただし南条右近の子として鏡家へ養子に来たについては、来ただけの理由はある。また立派な経路もある。そうしてそれを知っている者は、私の親友、殿の客分|天野北山《あまのほくざん》一人だけである。就《おもむ》いて訊ねるもよいだろう。私は今死を急ぐ、それについて語ることは出来ない。下略」
 これが遺書の大意であった。
 で、ある日葉之助は北山方を訪れた。
 一通り遺書を黙読すると北山は静かに眼をとじた。
「弓之進殿は悪いことを書いた」やがて北山はこう云った。
「それはまた何故でございましょう?」葉之助は訝《いぶか》しそうに訊いた。
「何故と云ってそうではないか。しかし……」
 と云って北山はまたそこで考え込んだが、
「そこがあの仁のよいところかも知れぬ。いつまでもそなたを瞞《だま》して置くことが、あの仁には苦痛だったのであろう」
「私は誰の子でございましょう?」
「それはこれにも書いてある通り、私《わし》にも解っていないのだ。強《し》いて云うなら山の子だ」
「え、山の子とおっしゃいますと?」
「山の子といえば山の子だ、他に別に云いようもない。が、順を追って話すことにしよう。……弓之進殿にはその時代葉之助という子供があった」
「ハハアさようでございますか」
「ところが病気で早逝《そうせい》された。その臨終の時であるが、『代りが来るのだ、代りが来るのだ、次に来る者はさらに偉い』と、こう叫んだということだ」
「不思議な言葉でございますな」
「ある日私と弓之進殿と、鉢伏山へ山遊びに行った、おりから秋の真っ盛りで全山の紅葉は燃え立つばかり、実に立派な眺めであったが、突然一頭の大熊が谷を渡って駈け上って来た。するとその熊のすぐ後から一人の子供が走って来た。信濃の秋は寒いのに腰に毛皮を纏っているばかり他には何んにも着ていない。もっとも足には革足袋《かわたび》を穿《は》き手には山刀を握っていた。その子供と大熊とは素晴らしい勢いで格闘した。そうして子供は熊を仕止めた。仕止めると一緒に気絶した」
「死んだのではありますまいね」葉之助は不安そうに訊ねた。
「死んだのではない気絶したのだ。ところで不思議にも気絶から醒《さ》めると、弓之進殿をじっと見て、『お父様!』と叫んだものだ。そうしてまたも気絶した。またその気絶から醒めた時には、子供は過去を忘れていた」
「不思議なことでございますな」
「不思議と云えば不思議だが、そうでないと云えばそうでないとも云える。西洋医学ではこの状態を精神転換と云っている。すなわち過去をすっかり忘れ、気絶から醒めたその時から新規に生活《くらし》が始まるのだ。……それと見て取った弓之進殿は、こう私《わし》に云われたものだ。『これこそ葉之助が予言した、代りに来る者でございましょう、その証拠には私を見ると、お父様と云いました。で私はこの子を養い養子とすることに致しましょう』そこで私はこう云った。『それは結構なお考えです。しかしこのまますぐに引き取り養い育てるということは、鏡家のためにもこの子のためにも将来非常に不幸です。素姓も知れない山の子とあっては殿の思惑《おもわく》もいかがあろうか、これはいっそ知人に預け、その知人の子供として貰い受けるのがよろしかろう』とな。……その結果として弓之進殿は南条右近殿へ事情を話し、その子供を預けることにした。とこうここまで話して来たらそなたにも見当が付くであろうが、その山の子供こそ、他ならぬ葉之助殿そなたなのだ」

         七

 この北山《ほくざん》の説明は葉之助にとっては驚異であった。彼は疑いもし悲しみもした。しかし結局は北山の言葉を信ぜざるを得なかった。だがそれにしても素姓の知れない彼のような山の子を、慈愛《いつくし》み育てた養父の恩は誠に深いものである。しかるに彼はその養父を非業《ひごう》に死なせてしまったのである。済まない済まない済まないと彼は衷心《ちゅうしん》から後悔した。
「他にお詫びのしようもない。ただ、立派な人物になろう。それが何よりのご恩返しだ」
 それからの彼と云うものは、武事に文事に切磋琢磨《せっさたくま》し、事ごとに他人《ひと》の眼を驚かせた。
 この彼の大勇猛心には、乗ずべき隙もなかったか、黒法師も現われず、「永久安穏はあるまいぞよ」という奇怪な声も聞こえて来なかった。
 で、彼の生活はその後平和に流れたのであった。しかしたった一度だけ、不思議が彼を襲ったことがあった。
 それは逝《ゆ》く春のある日であったが、例の大鳥井紋兵衛から、花見の宴に招かれた。で、彼は出かけて行った。久々で娘のお露とも逢い、心のこもった待遇《もてなし》を受け、欝していた彼の心持ちも頓《とみ》に開くを覚えたりして、愉快に一日を暮らしたが、客もおおかた散ったので彼もそろそろ帰ろうとして、尚夕桜に未練を残し、フラリと一人庭へ出て亭《ちん》の方へ行って見た。
 すると誰やら若い女が亭《ちん》の中で泣いていた。
 近寄って見ればお露であった。
 亡き父の訓《いまし》めで、お露との恋は避けてはいたが、それはただ表面《おもてむき》だけで、彼の内心は昔と変らず彼女恋しさに充ち充ちていた。その彼の眼の前に、その恋人の泣き濡れた姿が、夢ではなく現実《まざまざ》と、他に妨げる者もなく、たった一人で現われたのであった。彼の心が一時に燃え立ち、前後も忘れて走り寄り、お露の肩を抱きしめたのは、当然なことと云わなければならない。
「何が悲しくてお泣きなさる」
 こう云う声は顫《ふる》えていた。
 お露は何んとも云わなかった。ただじっと抱かれていた。
 こういう場合の沈黙ほど力強いものはない。こういう場合の沈黙はそれは実に雄弁なのである。
「お露は俺を愛している。その愛のために泣いている」
 葉之助はこう思った。
 そうしてそれは本当であった。
 一時よく来た葉之助が、ピッタリ姿を見せなくなって以来、お露の恋は悲しみと変った。月日が経つに従って、その悲しみは深くなった。ある種類の女にとっては恋人の姿の見えないことは、その恋をして忘れしめる。少くも恋をして薄からしめる。しかしある種の女にとっては、反対の結果を持ち来たらせる。
 お露は不幸にも後者であった。
 葉之助の姿が見えなくなってから、本当の恋が始まったのであった。
 その恋人が久しぶりで今日姿を現わしたのである。耐え忍んでいた恋しさが――持ち堪《こら》えていた悲しさが、一時に破れたのは無理もない。しかし彼女は処女であった。その恋しさ悲しさを、恋しい男にうちつけ[#「うちつけ」に傍点]に打ち明けることは出来なかった。そこで彼女は人目を避け、亭《ちん》へ泣きに来たのであった。
 葉之助の手がしっかりとお露の肩を抱いていた。彼女にとってこの事は全く予期しない幸福であった。それこそ全世界の幸福が一度に来たように思われた。彼女の心から一刹那《いっせつな》悲しみの影が消え去った。身も心も痲痺《しび》れようとした。「死んでもよい」という感情が、人の心へ起こるのは、実にこういう瞬間である。
 と、葉之助の一方の手が、やさしくお露の顎にかかった。しずかに顔を持ち上げようとする彼女の顔は手に連れて、穏《おとな》しく上へ持ち上げられ、情熱に燃えた四つの眼が互いに相手を貪《むさぼ》り見た。次第次第に葉之助の顔がお露の顔へ落ちて行った。お露は歓喜に戦慄《せんりつ》した。彼女は唇をポッと開け、そこへ当然落ちかかるべき恋人の唇を待ち構えた。
 母屋《おもや》の方から人声はしたが、こっちへ人の来る気配はない。二人は文字通り二人きりであった。すぐに来るのだ恋の約束が!
 とたんに嗄《かす》れた女の声が、二人の身近から聞こえて来た。「畜生道! 畜生道!」それはこういう声であった。
 ハッと驚いた葉之助は、無慈悲に抱いていた手を放した。
 素早く四辺を見廻したがそれらしい人の影も見えない。
「はてな?」と彼は呟いたが、やにわに袖を捲《まく》り上げた。歯形のあるべきこの腕に、二十枚の歯形は影もなく、それより恐ろしい女の顔が、眼を見開き唇を歪め嘲笑うように現われていた。
「人面疽《にんめんそ》」
 と叫ぶと一緒に、葉之助は小柄を引き抜いたが、グッとその顔へ突き通した。飛び散る血汐、焼けるような痛み、それと同時に人顔は消え二十枚の歯形が現われた。

         

 それから間もなく引き続いて、怪しいことが起こって来た。それはやはり二の腕にある二十枚の歯形に関することで、そうして対象は紋兵衛であった。
 つまり紋兵衛と顔を合わせるごとに、二十枚の歯形が人面疽と変じ、そうしてこのように叫ぶのであった。
「お殺しよその男を!」
 すると不思議にも葉之助は、その紋兵衛が憎くなりムラムラと殺気が起こるのであった。しかしさすがに刀を抜いて討ち果たすところまでは行かなかった。
「歯形といい人面疽といい、恐ろしいことばかりが付きまとう。俺は呪詛《のろ》われた人間だ」
 そうして尚もこう思った。
「大鳥井一家とこの俺とは、何か関係《かかりあい》があるのかも知れない。いったいどんな関係なのだろう? よくない関係に相違ない。いわゆる精神転換前の俺というものを知ることが出来たら、その関係も解るかも知れない」
 しかし彼には精神転換前の、自分を知ることが出来なかった。
「とにかく俺は大鳥井家へは絶対に足踏みをしないことにしよう。お露との恋も忘れよう」
 そうして彼はこの決心を強い意志で実行した。
 春が逝《ゆ》き尽くして初夏が来た。そうして真夏が来ようとした。
 参覲交替《さんきんこうたい》で駿河守は江戸へ行かなければならなかった。
 甲州街道五十三里を、大名行列いとも美々《びび》しく、江戸を指して発足したのは五月中旬のことであった。江戸における上屋敷は芝三田の四国町にあったが予定の日取りに少しも違《たが》わず一同首尾よく到着した。
 一行の中には葉之助もいた。彼にとっては江戸は初《はつ》で、見る物聞く物珍らしく、暇を見てはお長屋を出て市中の様子を見歩いた。
 夏が逝って初秋が来た。その頃紋兵衛とお露とが江戸見物にやって来た。芝は三田の寺町へ格好な家を一軒借りてこれも市中の見物に寧日《ねいじつ》ないという有様であった。しかし二人が江戸へ来たのには実に二つの理由があった。
 ふたたび葉之助が遠退《とおの》いてからのお露の煩悶《はんもん》というものは、紋兵衛の眼には気の毒で見ていることは出来なかった。葉之助が殿に従って江戸へ行ってしまってからは、彼女は病《やま》いの床についた。そうしてこのままうっちゃ[#「うっちゃ」に傍点]って置いたら死ぬより他はあるまいと、こう思われるほどとなった。
「葉之助殿のお在《い》でになる、江戸の土地へ連れて行ったら、あるいは気の晴れることもあろうか。そうして時々お目にかかったなら、病いも癒《なお》るに違いない」
 こう思って紋兵衛はお露を連れてこの大江戸へは来たのであった。
 それにもう一つ紋兵衛は、五千石の旗本で、駿河守には実の舎弟、森家へ養子に行ったところから、森|帯刀《たてわき》と呼ばれるお方から、密々に使者《つかい》を戴《いただ》いていたので、上京しなければならないのであった。
 この二人の上京は、実のところ葉之助にとっては、痛《いた》し痒《かゆ》しというところであった。彼は依然としてお露に対しては強い恋を感じていた。出逢って話すのは、もちろん非常に楽しかった。しかし同時に苦痛であった。呪詛《のろい》の言葉をどうしよう? 「畜生道! 畜生道!」「お殺しよその男を!」こう二の腕の人面疽《にんめんそ》が、嘲笑い囁《ささや》くのをどうしよう?

 それは非番の日であったが、葉之助は市中を歩き廻り、夜となってはじめて帰路についた。
 愛宕《あたご》下三丁目、当時世間に持て囃《はや》されていた、蘭医|大槻玄卿《おおつきげんきょう》の屋敷の裏門口まで来た時であったが、駕籠《かご》が一|挺《ちょう》下ろしてあった。と裏門がギーと開いて、中老人が現われた。見れば大鳥井紋兵衛であった。
「これは不思議」と思いながら、葉之助は素早く木蔭に隠れじっと様子を窺《うかが》った。
 それとも知らず紋兵衛は、手に小長い箱を持ち、フと[#「フと」に傍点]駕籠の中へはいって行った。と駕籠が宙に浮き、すぐシトシトと歩き出した。
「どんな用があって紋兵衛は、こんな深夜に裏門から蘭医などを訪ねたのであろう」
 こう思って来て葉之助は合点の行かない思いがした。そこで彼は駕籠の後をつけ[#「つけ」に傍点]て見ようと決心した。
 駕籠は深夜の江戸市中を東へ東へと進んで行った。これを今日の道順で云えば、愛宕町から桜田本郷へ出て内幸町《うちさいわいちょう》から日比谷公園、数寄屋橋から尾張町へ抜けそれをいつまでも東南へ進み、日本橋から東北に取り、須田町から上野公園、とズンズン進んで行ったのであった。さらにそれから紋兵衛の駕籠は根岸の方へ進んで行き、夜も明方と思われる頃、一宇《いちう》の立派な屋敷へ着いた。
「これはいったいどうしたことだ? 帯刀《たてわき》様の下屋敷ではないか」後をつけ[#「つけ」に傍点]て来た葉之助は、驚いて呟いたものである。

         九

 もう夜は明方ではあったけれど、しかし秋の夜のことである。なかなか明け切りはしなかった。
 駿河守の下屋敷は森帯刀家の下屋敷と半町あまり距《へだた》った同じ根岸の稲荷小路《いなりこうじ》にあったが、そこには愛妾のお石の方と、二人のご子息とが住居《すまい》していた。総領の方は金一郎様といい、奥方にお子様がないところから、ゆくゆくは内藤家を継ぐお方で、今年数え年十四歳、武芸の方はそうでもなかったが学問好きのお方であった。
 廊下をへだてて裏庭に向かった。善美を尽くしたお寝間には、仄《ほの》かに絹行灯《きぬあんどん》が点《とも》っていた。その光に照らされて、美々しい夜具《よのもの》が見えていたが、その夜具の襟《えり》を洩れて、上品な寝顔の見えるのは金一郎様が睡っておられるのであった。
 と、その時、きわめて幽《かす》かな、笛の音《ね》が聞こえて来た。いや笛ではなさそうだ。笛のような[#「ような」に傍点]物の音であった。耳を澄ませばそれかと思われ、耳を放せば消えてしまう。そういったような幽かな音で、それが漸次《だんだん》近寄って来た。しかしどこからやって来たのか、またどの辺へ近寄って来たのか、それは知ることが出来なかった。とまれ漸次その音は寝間へ近寄って来るらしい。
 金一郎様は睡っていた。お附きの人達も次の部屋で明方の夢をむさぼっていた。で、幽かな笛のような音を耳にした者は一人もなかった。
 ではその笛のような不思議な音を、耳にすることの出来たものは、全然一人もなかったのであろうか?
 下屋敷の内には一人もなかった。
 しかし一人下屋敷の外で、偶然それを聞いたものがあった。
 他でもない葉之助であった。
 その葉之助は駕籠をつけ[#「つけ」に傍点]てこの根岸までやって来たが紋兵衛の乗っているその駕籠が、森家の下屋敷へはいるのを見ると、しばらく茫然《ぼうぜん》と立っていたが、やがて気が付くと足を返し、主君駿河守の下屋敷の方へ何心なく歩いて行った。
 駿河守の下屋敷と森帯刀家の下屋敷との、ちょうど真ん中まで来た時であったが、幽かな幽かな笛のような[#「ような」に傍点]音が、彼の眼の前の地面を横切り、駿河守の下屋敷の方へ、走って行くのを耳にした。
「なんであろう?」と怪しみながら、彼はじっ[#「じっ」に傍点]と耳を澄ませ、その物の音に聞き入った。音は次第に遠ざかって行った。そうして間もなくすっかり消えた。
 なんとなく気味悪く思いながら彼は尚しばらく佇《たたず》んでいた。
「お、これは?」と呟くと、彼はツカツカ前へ進み、顔を低く地面へ付けた。と、地面に何物か白く光る物が落ちていた。そうしてそれは白糸のように一筋長く線を引き、帯刀家の下屋敷と、駿河守の下屋敷とを、一直線に繋《つな》いでいた。
「石灰《いしばい》かな?」と呟きながら、指に付けて嗅いで見て、彼はアッと声を上げた。強い臭気が鼻を刺し、脳の奥まで滲《し》み込んだからで、嘔吐《はきけ》を催させるその悪臭は、なんとも云えず不快であった。
 何か頷くと葉之助は、懐中《ふところ》から鼻紙を取り出したが指で摘《つま》んで白い粉を、念入りにその中へ摘《つま》み入れた。それから静かに帰路についた。

 その夜が明けて朝となった。
 いつも早起きの金一郎様が、その朝に限って起きて来ない。お附きの者は不審に思い、そっと襖《ふすま》を開けて見た。金一郎様は上半身を夜具の襟から抜け出させ、両手を虚空《こくう》でしっかり握り、眼を白く剥《む》いて死んでいた。
 これは実に内藤家にとって容易ならない打撃であった。世継ぎの若君が変死したとあっては、上《かみ》に対しても面伏《おもぶ》せである。
「何者の所業《しわざ》! どうして殺したのか?」
「突き傷もなければ切り傷もない」
「血一滴こぼれてもいない」
「毒殺らしい徴候もない」
「絞殺らしい証拠もない」
「奇怪な殺人、疑問の死」
 上屋敷でも下屋敷でも人々は不安そうに囁き合った。
 葉之助は自宅の一室で、鼻紙の中の白い粉を、睨むように見詰めていたが、
「若君|弑虐《しいぎゃく》の大秘密は、この粉の中になければならない」こう口の中で呟いた。
「笛のような美妙《びみょう》な音《ね》! 不思議だな、全く不思議だ! 何者の音であったろう?」

         一〇

 信州伊那郡高遠の城下、三の曲輪《くるわ》町の中ほどに、天野北山の邸があったが、ある日、北山とその弟子の、前田一学とが話し合っていた。
「先生、不思議ではございませんか」こう云ったのは一学で、「突き傷も斬り傷もないそうで」
「うん」と北山は腕を組んだが、「毒殺の嫌疑もないのだそうだ」
「心臓|痲痺《まひ》でもないそうで」
「絞殺の疑いもないのだそうだ」
「ではどうして逝去《なくな》られたのでしょう?」
「解らないよ。俺には解らぬ」
「不思議なことでございますな」
「不思議と云えば不思議だが、しかし本来世の中には不思議ということはないのだがな。科学の光で照らしさえしたら、どんなことでも解る筈だ」
「ではどうして金一郎様は、お逝去《なくな》りなされたのでございましょう?」
「さあそれは、今は解らぬ」
「でも只今先生には、科学の光で照らしさえしたら、何んでも解るとおっしゃいましたが……」
「うん、そうとも、そう云ったよ。……金一郎様のお死骸《なきがら》を、親しく見ることが出来たなら、俺の奉ずる蘭医学をもって、きっと死因を確かめて見せる。だが俺は見ていない。変事の起こったのは江戸のお屋敷で、俺はお噂を聞いたまでだ。千里眼なら知らぬこと、江戸の事件は高遠では解らぬ」
「これはごもっともでございますな」一学はテレて苦笑をした。
「だが」とにわかに北山は、四辺を憚《はばか》る小声となったが、
「だが、俺には解ることがある」
「ははあ、何事でございますな?」
「この事件の目的だがな」
「金一郎様殺しの目的が?」
「一学! これはお家騒動だよ!」
「よく私には解りませんが」
「当家のお世継ぎはどなたであったな?」
「それは逝去《なくな》られた金一郎様で」
「金一郎様|逝去《な》き今は?」
「ご次男金二郎様でございましょうが?」
「金二郎様が逝去《なく》なられたら?」
「先生先生何をおっしゃるので! 甚《はなは》だもって不祥《ふしょう》なお言葉で」
「まあさ、これは仮定だよ。……金二郎様なき[#「なき」に傍点]後は誰が内藤家を継がれるな?」
「もう継ぐお方はございません」
「と云う意味は駿河守様には、お二人しかお子様がないからであろうな?」
「そういう意味でございます」
「しかしお世継ぎがないとあっては、内藤家は断絶する」
「大変なことでございますな」
「大変なことさ。とんでもないことさ。だからどうしても他の方面から、至急お世継ぎを持って来なければならない」
「ははあ、ご養子でございますかな?」
「うん、そうだ、ご近親からな。一番近しいご親戚からな」
「これは、ごもっともでございますな」
「ところがどなたが内藤家にとって一番近しいご親戚かな?」
「さあ」と云って考えたが、「森|帯刀《たてわき》様でございましょう」
「そうだよそうだよ、森帯刀様だよ」
 こう云うと北山は微妙に笑ったが、
「どうだ」とやがて促《うなが》すように云った。「解ったかな? お家騒動の意味が?」
「はい。しかし、どうも私には……」
「おやおや、これでも解らないのか?」
「とんと合点《がてん》がゆきません」
「頭が悪いな。え、一学」
「私の馬鹿は昔からで」
「それが今日は特に悪い」
「いやはやどうも、お口の悪いことで」
「お前、今日は、便秘だろう?」
「いえ、そうでもございません」
「なあに、そうだよ、便秘に相違ない」
「これはまたなぜでございますな」
「便秘だと頭が悪くなる」
「あッ、やっぱり、そこへ行きますので」
「ひまし[#「ひまし」に傍点]油を飲めよ。ひまし[#「ひまし」に傍点]油を」
「仕方がありません、飲むことにしましょう」
「アッハハハ、それがいい」
 面白そうに笑ったが、にわかに北山は真面目になり、
「これは少しく秘密だが、お前にだけ話すことにしよう。この前の参覲交替の節、俺も殿のお供をして、江戸へ参ったことがある。するとある日帯刀様から、使いが来て招かれた」
「ははあ、さようでございますか」
「で早速|伺候《しこう》した」
「面白いお話でもございましたかな?」
「ところが一人相客がいた」
「ははあどなたでございましたな?」
「江戸の有名な蘭学医、お前も名ぐらいは知っていよう、大槻玄卿という人物だ」

         一一

「はい、よく名前は承知しております」
「帯刀様のご様子を見ると、大分《だいぶ》玄卿とはご懇意らしい。だがマアそれはよいとして、さてその時の話だが、物騒な方面へ及んだものさ。と云うのは他《ほか》でもない、毒薬の話に花が咲いたのさ。どんな毒薬で人を殺したら、後に痕跡《きずあと》が残らないかなどとな」
「なるほど、これは物騒で」
「で俺はいい加減にして、お暇《いとま》をして帰ったが、いい気持ちはしなかったよ」北山はしばらく黙ったが、「俺の云うお家騒動の意味、どうだこれでも解らないかな」
「ハイ、どうやら朧気《おぼろげ》ながらも解ったようでございます」一学は初めて頷いた。
「で俺は案じるのだ、どうぞご次男金二郎様に、もしも[#「もしも」に傍点]のことがないようにとな」
「これは心配でございますな」
「今度の江戸の事件について、誰かもっと詳しいことを知らせてくれるものはあるまいかと、心待ちに待っているのだがな」
 その時、襖が静かにあき小間使いが顔を現わした。
「江戸からのお飛脚《ひきゃく》でございます」
「江戸からの飛脚? おおそうか。いや有難い。待っていたのだ。すぐ裏庭へ通すよう」
「かしこまりましてございます」
 小間使いが去ったその後で、天野北山は立ち上がった。さて裏縁へ来て見ると、見覚えのある鏡家の若党山岸佐平がかしこまって[#「かしこまって」に傍点]いた。
「佐平ではないか。ご苦労ご苦労」
「はっ」と云うと進み寄り、懐中《ふところ》から書面を取り出したが、
「私主人葉之助より、密々先生に差し上げるようにと、預かり参りましたこの書面、どうぞご覧くださいますよう」
「おおそうか、拝見しよう」
「次に」と云いながら山岸佐平は、また懐中へ手をやると小さい包みを取り出したが、「これも主人より預かりましたもの、共々《ともども》ご披見くださいますよう」
「そうであったか、ご苦労ご苦労、疲労《つか》れたであろう、休息するよう」
 云いすてて置いて北山は、自分の部屋へつと[#「つと」に傍点]はいった。
 書面をひらいて読み下すと、次のような意味のことが書いてあった。


「前略、とり急ぎしたため申し候《そうろう》、さて今回金一郎様、不慮のことにてご他界遊ばされ、君臣一同|愁嘆至極《しゅうたんしごく》、なんと申してよろしきや、適当の言葉もござなく候、しかるに当夜私事、偶然のこととは云いながら、二、三怪しき事件に逢い、疑惑容易に解《と》き難きについては、先生のご意見承わりたく、左に列記|仕《つかまつ》り候。
 当日、私非番のため、家を出でて市中を彷徨《さまよ》い、深夜に至りて帰路につき、愛宕下まで参りしおりから、蘭医大槻玄卿邸の、裏門にあたって一挺の駕籠、忍ぶが如くに下ろされおり、何気なく見れば一人の老人まさにその駕籠に乗らんとす。しかるに全く意外にも該《がい》老人こそ余人ならず、先生にもご存知の大鳥井紋兵衛、これは怪しと存ぜしまま後を慕って参りしところ、紋兵衛の駕籠は根岸に入り我らが主君には実のご舎弟、帯刀様のお屋敷内へ、姿を隠し申し候、誠に奇怪とは存じながら、せんすべなければ立ち帰らんと、歩みを移せしそのおりから、忽《たちま》ち前面の草原にあたり、あたかも笛を吹くがようなる美妙《びみょう》な音色湧き起こり、瞬間にして消え候さえ、合点ゆかざる怪事なるに、草原を見れば白粉《おしろい》ようなる純白の粉長々と、帯刀様のお屋敷より、我らがご主君の下屋敷まで、一筋筋を引きおり候。
 いよいよ怪しと存ぜしまま、その白粉《はくふん》を摘み取り、自宅へ持ち帰り候が、別封をもってお眼にかけし物こそ、その白粉にござ候。
 かくて翌日と相成るや、金一郎様の変死あり、何んとももって合点ゆかず、異様の感に打たれ候ものから、貴意を得る次第に候が、白粉《おしろい》ようなる白粉《はくふん》につき、厳重なるお調べ願いたくいかがのものに候や。下略」

「ふうむ、いかさま、これは怪しい」
 読んでしまうと北山は、じっと思案の首を傾げた。それからやおら[#「やおら」に傍点]立ち上がると、実験室へはいって行った。
 まず部屋の戸をしっかりと閉じ、次に火器へ火を点じた。それから葉之助から送って来た油紙包みの紐を切り、ついで取り出した白粉を、鼻にあてて静かに嗅いだ。
「匂いがする。変な匂いだ」そこでしばらく考えたが、「なんの匂いとも解らない」
 それから立ち上がると棚へ行き、試験管を引き出した。白粉を入れて水を注ぎ、さらにその中へ入れたのは紫色をした液体であった。
 で、試験管を火にあてた。
 しかし何んの反応もない。
「これはいけない。ではこっちだな」
 こう云うと彼は他の薬品を、改めて試験管へ注ぎ込んだ。
 で、またそれ[#「それ」に傍点]を火にかけた。
 やはり何んの反応もない。
 北山の顔には何んとも云えない、疑惑の情が現われたが、どうやら彼ほどの蘭学医でも、白粉の性質が解らないらしい。

         一二

 しかし天野北山としては、解らないと云ってうっちゃる[#「うっちゃる」に傍点]ことは、どうにもこの際出来難かった。
「お家騒動の張本人を、森帯刀様と仮定すると、その連累《れんるい》が大鳥井紋兵衛、それから大槻玄卿なる者は、日本有数の蘭学医、信州の天野か江戸の大槻かと呼ばれ、俺と並称《へいしょう》されている。いずれここにある白粉《はくふん》も、その大槻が呈供して金一郎様殺しの怪事件に、役立てたものに相違あるまい。毒薬かそれとも他の物か、とまれ尋常なものではあるまい。しかるにそれが解らないとあっては、この北山面目が立たぬ。これはどうでも目付け出さなければならない」
 しかしあせれ[#「あせれ」に傍点]ばあせる[#「あせる」に傍点]ほど、白粉の見当が付かなかった。
「これはこうしてはいられない。江戸へ出よう江戸へ出よう。そうして大槻と直《じ》かに逢うか、ないしは他の手段を講じて、是が非でも白粉の性質を、一日も早く目付け出さなければならない。……一学一学ちょっと参れ!」
「はっ」と云うと前田一学は、もっけ[#「もっけ」に傍点]な顔をしてはいって来た。
「江戸行きだ、用意せい」
「江戸行き? これは、どうしたことで?」
「お前も行くのだ。急げ急げ!」
 主人の性急な性質は、よく一学には解っていた。で、理由を訊ねようともせず、旅行の用意に取りかかり、明日とも云わずその日のうちに、二人は高遠を発足した。
 一方、鏡葉之助は、北山へ飛脚を出してからも、根岸にある主君の下屋敷を念頭から放すことは出来なかった。で、非番にあたる日などは、ほとんど終日下屋敷の附近を、ブラブラ彷徨《さまよ》って警戒した。
 ちょうどその日も非番だったので、彼はブラリと家を出ると、根岸を差して歩いて行った。下屋敷まで来て見たが別に変ったこともない。で、その足で浅草へ廻った。
 いつも賑やかな浅草は、その日も素晴らしい賑《にぎ》わいで、奥山のあたりは肩摩轂撃《けんまこくげき》、歩きにくいほどであった。
 小芝居、手品、見世物、軽業《かるわざ》、――興行物の掛け小屋からは、陽気な鳴り物の音が聞こえ、喝采《かっさい》をする見物人の、拍手の音なども聞こえて来た。
「悪くないな。陽気だな」
 など、彼は呟きながら、人波を分けて歩いて行った。
 と、一つの掛け小屋が、彼の好奇心を刺戟《しげき》した。「八ヶ嶽の山男」こう看板にあったからで、八ヶ嶽という三文字が、懐しく思われてならなかった。
 で彼は木戸を払いつと[#「つと」に傍点]内へはいって行った。大して人気もないと見えて、見物の数は少かった。ちょうど折悪く幕間《まくあい》で、舞台には幕が下ろされていた。で彼は所在なさに見物人達の噂話に、漫然と耳を傾けた。
「……で、なんだ、山男と云っても、妖怪変化じゃないんだな」職人と見えて威勢のいいのが、こう仲間の一人へ云った。
「そいつで俺《おい》らも落胆《がっかり》したやつさ。あたりめえ[#「あたりめえ」に傍点]の人間じゃねえか。俺ら、山男というからにゃ、頭の髪が足まで垂れ、身長《せい》の高さが八尺もあって、鳴く声|鵺《ぬえ》に似たりという、そういう奴だと思ってたんだが、篦棒《べらぼう》な話さ、ただの人間だあ」
「そうは云ってもまんざら[#「まんざら」に傍点]じゃねえぜ」もう一人の仲間が口を出した。「間口五間の舞台の端から向こうの端へ一足飛び、あの素晴らしい身の軽さは、どうしてどうして人間|業《わざ》じゃねえ」
「あいつにゃ俺《おい》らも喫驚《びっく》りした。こう全然《まるで》猿猴《えてこう》だったからな」
「そう云えば長さ三間もある恐ろしいような蟒《うわばみ》を、細工物のように扱った、あの腕だって大したものさ」
「それに武術も出来ると見えて、棒を上手に使ったがあれだって常人にゃ出来やしねえ」
「だがな、眼があって耳があって鼻があって口があって、どうでもあたりめえ[#「あたりめえ」に傍点]の人間だあ、化物でねえから面白くねえ」
 その時チョンチョンと拍子木の音が、幕の背後《うしろ》から聞こえて来た。やがてスーッと幕が引かれ、舞台が一杯に現われたが、見れば舞台の真ん中に大きな鉄の檻《おり》があり、その中に巨大な熊がいた。
「ウワーッ、荒熊だ荒熊だ!」「熊と相撲を取るんだな」「見遁《みの》がせねえぞ見遁がせねえぞ!」見物は一度に喝采した。
 と異様な風采をした一人の老人が現われた。
「あれいけねえ、お爺《とっ》つぁんだぜ」「いえ、あんな年寄りが、熊と相撲を取るのかね」「やめなよ爺つぁんあぶねえあぶねえ!」
 などとまたもや見物は、大声をあげて喚き出した。

         一三

 しかし老人はビクともせず、悠然《ゆうぜん》と正面へ突っ立ったが、猪《しし》の皮の袖無しに、葛《くず》織りの山袴、一尺ばかりの脇差しを帯び、革足袋《かわたび》を穿《は》いた有様は、粗野ではあるが威厳あり、侮《あなど》り難く思われた。
 で見物は次第に静まり、小屋の中は森然《しん》となった。
「ええ、ご見物の皆様方へ、熊相撲の始まる前に、お話ししたいことがございます」
 不意の、錆《さび》のある大きな声で、こうその老人が云い出した時には、見物はちょっとびっくりした。
「他のことではございません」老人はすぐに後をつづけた。
「我々山男の身分について申し上げたいのでございます。私の名は杉右衛門、一座の頭でございます。一口に山男とは申しますが、これを正しく申しますと、窩人《かじん》なのでございます。そうして住居は信州諏訪、八ヶ嶽山中でございます。そうして祖先は宗介《むねすけ》と申して平安朝時代の城主であり、今でも魔界の天狗《てんぐ》として、どこかにいる筈でございます。本来我々窩人なるものは、あなた方一般の下界人達と、交際《まじわ》りをしないということが掟《おきて》となっておりますので、何故というに下界人は、悪者で嘘吐きでペテン師で、不親切者で薄っぺら[#「薄っぺら」に傍点]で、馬鹿で詐欺師《さぎし》で泥棒で、下等だからでございます……」
「黙れ!」
 と突然|桟敷《さじき》から、怒鳴り付ける声が湧き起こった。
「何を吐《ぬ》かす、こん畜生! ふざけた事を吐かさねえものだ! あんまり酷《ひど》い悪口を云うと、この掛け小屋をぶち壊すぞ!」
「そうだそうだ!」と四方から、それに和する声がした。
「そんな下界が嫌いなら何故下界へ下りて来た!」
「それには訳がございます。それというのも下界人の、憎むべき恐ろしいペテンから、湧き起こった事でございまして、一口に云うと私の娘が、多四郎という下界の人間にかどわかさ[#「かどわかさ」に傍点]れたのでございます。それのみならず、その人間は私どもが尊敬する宗介天狗のご神体から黄金《こがね》の甲冑《かっちゅう》を奪い取り、私どもをして神の怒りに触れしめたのでございます。そのため私達は山を下り、厭《いや》な下界を流浪し歩き、こんな香具師《やし》のような真似までして、厭な下界人の機嫌を取り、生活《くら》して行かなければならないという、憐れはかない身の上に成り下ってしまったのでございます」
「態《ざま》あ見ろ! いい気味だ!」
 また群集は湧き立った。
「しかし」と杉右衛門は手で抑え、「しかし、憎むべき多四郎の、盛んであった運命も、いよいよ尽きる時が参りました。しかも彼は我が子によって命を断たれるのでございます。因果応報天罰|覿面《てきめん》、恐ろしいかな! 恐ろしいかな! で、復讐をとげると同時に、私どもは下界を棄《す》て、再び魔人の住む所、八ヶ嶽山上へ取って返し、平和と自由の生活を、送るつもりでございます。自然下界の皆様方とも、お別れしなければなりません。そのお別れも数日の間に逼《せま》っているのでございます。アラ嬉しやアラ嬉しや! ついては今日は特別をもって、我ら窩人がいかに勇猛で、そうしていかに野生的であるかを、お眼にかけることに致しましょう。我らにとって熊や猪は、仲のよい友達でございます。その仲のよい友達同士が、相《あい》搏《う》ち相《あい》戯《たわむ》れる光景は必ず馬鹿者の下界人にも、興味あることでございましょう。実に下界人の馬鹿たるや、真に度しがたいものであって……」
「引っ込め、爺《じじい》」
 と見物は、今や総立ちになろうとした。
 と突然杉右衛門は、楽屋に向かって声をかけた。
「さあ出て来い、岩太郎!」
「応!」
 と返辞《いらえ》る声がしたが、忽《たちま》ち一個の壮漢が、颯《さっ》と舞台へ躍り出た。年の頃は四十五、六、腰に毛皮を巻きつけたばかり、後は隆々たる筋肉を、惜し気もなく露出《むきだ》していたが、胸幅広く肩うずたかく、身長《せい》の高さは五尺八寸もあろうか、肌の色は桃色をなし、むしろ少年を想わせる。
「や!」
 と叫ぶと檻《おり》の戸をムズと両手でひっ[#「ひっ」に傍点]掴《つか》んだ。

   江戸市中狂乱の巻

         一

 浅草奥山の見世物小屋から、葉之助は邸へ帰って来た。
 意外の人が待っていた。
 蘭医天野北山と弟子の前田一学とが客間に控えていたのであった。
「おお、これは北山先生」
 葉之助は喜んで一礼した。
「前田氏にもよう見えられた」
「葉之助殿、出て来ましたよ」北山はいつに[#「いつに」に傍点]なく性急に、「さて早速申し上げる、先日はお手紙と不思議の白粉《はくふん》、よくお送りくだされた。まずもってお礼申し上げる。しかるにお送りの該《がい》白粉、とんと性質が解らなくてな」
「ははあ、さようでございますか」葉之助は案外だというように、「先生ほどの大医にも、お解りにならないとは不思議千万」
「いや私《わし》もガッカリした。そうしてひどく[#「ひどく」に傍点]悲観した。と云ってどうもうっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]は置けない。で、私は一学を連れ、倉皇《そうこう》として出て来たのだ。……そこで私は一学を玄卿《げんきょう》の邸へ住み込ませようと思う」
「ははあ、それでは先生には、大槻玄卿が怪しいと、こう覚《おぼ》し召し遊ばすので?」
「さよう、怪しく思われてな」北山はしばらく打ち案じたが、「卒直に云うとまずこうだ。……金一郎様のご他界は、内藤家におけるお家騒動の、犠牲というに他ならぬ。そうして騒動の元兇は、これは少しく畏《おそ》れ多いが殿のご舎弟|帯刀《たてわき》様だ。……いやいやこれには理由がある。しかしそれはゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]と云おう。ところで二人の相棒がある。玄卿と大鳥井紋兵衛だ。紋兵衛が相棒だということは、実はお前さんの手紙によって想像をしたに過ぎないが、いやあいつの性質から云えばそんなこと[#「そんなこと」に傍点]もやり兼ねない。どだいあいつの素姓なるものが甚《はなは》だもって怪しいのだからな。どうしてあれほど[#「あれほど」に傍点]金を作ったかも、疑えば疑われる節《ふし》がある。それに第一そんな深夜に、ひとりこっそり[#「こっそり」に傍点]駕籠に乗って、大槻の屋敷を訪ねた帰路、帯刀様のお屋敷に寄り、その晩若君金一郎様が、ご変死なされたとあって見れば、相棒と見てよろしかろう、相棒というのが不穏当《ふおんとう》なら、関係があると云ってもよい。ところで肝腎《かんじん》の白粉だが、これはどうやら[#「どうやら」に傍点]毒薬らしい。もっとも森家と内藤家とは相当距離がへだたっているのに、その二軒の屋敷を繋いでこの白粉が一直線に、地面に撒《ま》かれてあったということから、ちと毒薬にしては変なところもある。うん、どうもこれは少し変だ。毒薬を地面へふり[#「ふり」に傍点]撒いたところで人の命は取られるものでない。が、どっちみちこの白粉が怪しいものには相違ない。そうしてお前さんの手紙によると、この白粉の筋道に添って、ちょうど美妙《びみょう》な笛のような音が聞こえて来たということであるが、それは今のところ解らない。だがしかしそれらのことも白粉の性質さえ解ったなら、自《おのずか》ら明瞭になるだろう。とまれこういう不思議な白粉を、造り出すことの出来る者は、大槻玄卿以外には、少くも江戸にはない筈だ。と云うことであって見れば、何をおいても玄卿の家へ、人を入れて様子を探らせ、薬局を調べる必要がある。ところで私と玄卿とは同業であり顔見知りだ。だから到底住み込むことは出来ない。幸い一学は玄卿とはこれまで一面の識もない。そこで一学を住み込ませ、至急様子を探らせようと思う。グズグズしてはいられない、うっかりノホホンでいようものなら、ご次男様がまたやられる」
「えっ?」
 と葉之助は眼を見張った。
「ご次男と申せば金二郎様、それがやられる[#「やられる」に傍点]とおっしゃるのは?」
「やられるともやられるとも。油断をすると今夜にもやられる」北山はキッと眼を据えたが、「あいつらの目的とするところは、内藤家乗っ取りの陰謀だからな、ご長男様ご次男様、お二人がなくなられるとお世継ぎがない。そこで帯刀様が乗り込んで来られる。どうだ、これで胸に落ちたろう」
 云われて葉之助は「ムー」と呻いた。
「いやそれほどの陰謀とは、私夢にも存じませなんだ。これは一刻の油断も出来ない。恐ろしいことでございますな。……」
「人の世は全く恐ろしいよ。さて今度は私《わし》の番だが、殿にはお目通りをしないつもりだ。と云うのは他でもない。私が出府をしたと聞いたら真っ先に玄卿めが用心をしよう。連れて紋兵衛も帯刀様も、手控えするに違いない。そうなったらお終いだ。陰謀の手証《てしょう》を掴むことができない」
「これはごもっともでございますな。それでは手狭でも私の家に、こっそりお在《い》で遊ばしては」
「いやいやそれも妙策でない。人の出入りもあろうから、どうで知れずには済まされぬ。それより私《わし》は町方に住んで、自由に活動するつもりだ。ところでお前さんに頼みがある。ご迷惑でも今夜から、下屋敷の方へ出張ってくだされ。そうして例の白粉がもしも地面に撒いてあったら、用捨なく足で蹴散らしてくだされ。これは非常に大切なことだ」
「かしこまりましてござります。毎晩出張ることに致しましょう」
 葉之助は意気込んで引受けた。

         

 北山と一学とは人目を憚《はばか》り、駕籠でこっそり帰った。そうしてどこへ行ったものか、しばらく消息が解らなかった。

 さてここで物語は少しく別の方へ移らなければならない。
 ここは寂しい宇田川町、夜がしんしん[#「しんしん」に傍点]と更けていた。
 源介という駕籠舁《かごか》きが、いずれ濁酒《どぶろく》でも飲んだのであろう、秋だというのに下帯一つ、いいご機嫌で歩いていた。
「金は天下の廻りもの、今日はなくても明日はある。アーコリャコリャ。アコリャコリャ」
 こんなことを云いながら歩いていた。
 と、手近の行手から女の悲鳴が聞こえて来た。
「へへへ、どいつかやってやがるな。アレーと来りゃこっちのものだ。こいつ見|遁《の》がしてたまるものか。どれどれ」と云うとよろめく足で、声のした方へ走って行った。
 はたして小広い空地の中で、二人の男が一人の女を、中へ取りこめて揉み合っていた。
「やい、こん畜生! 悪い奴だ!」
 源介は濁声《だみごえ》で一喝した。「ところもあろうに江戸の真ん中で、女|悪戯《てんごう》とは何事だ、鯨《くじら》の源介が承知ならねえ! 俺の縄張りを荒らしやがって、いいかげんにしろ、いいかげんにしろ!」
 この気勢に驚いたものか、ワーッというと二人の男は、空地を突っ切って逃げ出した。
「態《ざま》ア見やがれ意気地《いくじ》なしめ! 驚いたと見えて逃げやがった」
 云い云い女に近付いて行った。
 と、倒れていた若い女は、周章《あわ》ててムックリ起き上ったが、源介の胸にすがり付いた。髪の毛が頬に乱れている。帯が緩《ゆる》んで衣裳が崩れ、夜目にも燃え立つ緋《ひ》の蹴出《けだ》しが、白い脛《すね》にまつわっている。年の頃は十八、九、恐怖で顔は蒼褪《あおざ》めていたが、それがまた素晴らしく美しい、お屋敷風の娘であった。
 しばらくは口も利けないと見えて、ワナワナ体を顫わせるばかり、源介の胸へしがみ付いている。
 源介の魂は宙へ飛んだ。で、むやみと口嘗《くちな》めずりをした。「こ、こ、こいつア悪かあねえなあ。ううん偉いものが飛び込んで来たぞ。まず俺の物にして置いて、品川へでも嵌《は》めりゃあ五十両だ」
 こう思ったそのとたん、女はヒョイと胸から離れ、まず衣裳の乱れを調《ととの》え、それから丁寧《ていねい》に辞儀をした。
「あぶないところをお助けくだされ、何んとお礼を申してよいやら、ほんとに有難う存じました」
 切り口上で礼を云った。
「へえ、ナーニ、どう致しやして。でもマア怪我《けが》もなかったようで、いったいどうしたと云うんですえ?」
 相手に真面目に出られたので、つい源介も真面目に云った。
「はい、ちょっと主人の用事で、新銭座の方まで参りましたところ後から従《つ》けて来た悪者に、……」
「ナール、空地でとっ[#「とっ」に傍点]捉まえられたんだね。で、お家はどこですえ?」
「はいツイそこの愛宕下で。……あのまことに申し兼ねますが、お助けくだされたおついで[#「おついで」に傍点]に、お送りなされてはくださいますまいか」
「またさっきの悪い奴が追っかけて来ねえものでもねえ、ようごす、送ってあげやしょう」
 こうは云ったが源介は、腹の中では舌打ちをした。「どうもこいつア駄目らしいぞ。これが下町の娘っ子なら、たらし[#「たらし」に傍点]て宿へも連れ込めるが、山の手のお屋敷風、さようしからばの切り口上じゃ、ちょっとどうも手が出ねえ。物にするなあ諦めて、お礼でもしこたま[#「しこたま」に傍点]貰うとしよう」
「じゃ姐《ねえ》さん行こうかね」こう云って源介は歩き出した。
「それではお送りくださいますので、それはマア有難う存じます」云い云い女は並んで歩いた。
 柴井町から露月町、日蔭町まで来た時であったが、
「まあいいお体格でございますこと」不意に女がこう云った。
「え?」と源介は女を見たが、早速には意味が解らなかった。「なんですえ、体格とは?」
「あなたのお体でございますわ」
「ナーンだ篦棒《べらぼう》、体のことか」源介は変に苦笑したが、
「体が資本《もとで》の駕籠屋商売、そりゃあ少しはよくなくてはね」
「ずいぶんお目方もございましょうね?」
「へえ」と云ったが源介は、裏切られたような気持ちがした。
「ほんとに何んだいこの女は! あぶなく酷い目に逢いかかったのに、もう洒々《しゃあしゃあ》してこの通りだ。人の目方まで量《はか》りゃあがる。――十七貫はございましょうよ」
「ずいぶん骨太でいらっしゃいますことね」
「あれ、あんな事云やあがる。厭になっちまうなこの女は。――ヘイヘイ骨太でございますとも」
「ホ、ホ、ホ、ホ、結構ですわ」
「ワーッ、今度は笑いやがった。変に気に入らねえ女だなあ」源介はすっかりウンザリした。
 すると、女がまた云った。
「妾《わたくし》、さっき、あなたの胸へ、一生懸命|縋《すが》り付きましたわね。その時よっく計りましたのよ。ええあなたのお体をね」
 源介はピタリと足を止めた。そうして女をじっ[#「じっ」に傍点]と見た。ズーンと何物かで脳天を、ぶち抜かれたような気持ちがした。
 と、女は手を上げて、そこに立っていた巨大な屋敷の、黒板塀をトントンと打った。それが何かの合図と見えて、そこの切り戸がスーと開いた。
「主人の屋敷でございますの、お礼を致したいと存じます。どうぞおはいりくださいまし」
 云いすてて女ははいって行った。
 何んとも云われない芳香が、切り戸口から匂ってきた。源介にとっては誘惑であった。彼はその匂いに引き入れられるように、ブラブラと内へはいって行った。
 間もなく彼の叫び声がした。
「やあ綺麗な花園だなあ」
 それから後は寂然《しん》となった。
 そうして源介はその夜限り、この地上から消えてしまった。彼の姿は未来|永劫《えいごう》、ふたたび人の眼に触れなかった。
「やあ綺麗な花園だなあ」
 この彼の叫び声はいったいどういう意味なのであろう?

         

 ここで再び物語は、鏡葉之助の身の上に返る。
 ある日葉之助はいつものように、四国町の邸を出て、殿の下屋敷を警護するため、根岸の方へ歩いて行った。増上寺附近まで来た時であったが、「ヒーッ」という女の悲鳴がした。同時に山門の暗い蔭から、裾を乱した若い女が、彼の方へ走って来た。そうしてその後から二人の男が何か喚《わめ》きながら走って来たが、葉之助の姿を見て取ると元来た方へ引っ返した。
「ははあ、さては狼藉者《ろうぜきもの》だな」
 呟いたとたんに若い女は犇《ひし》と葉之助へ縋り付いた。衣裳も髪も乱れてはいたが、薄月の光に隙《す》かして見ると、並々ならぬ美しさをその女は持っていた。
「お助けくださりませ、お助けくださりませ!」喘《あえ》ぎながらこう云うと、女は葉之助を撫で廻した。
「しっかりなされ、大丈夫でござる」葉之助は女を慰めた。「狼藉をされはしませぬかな?」
「あぶないところでございました。ちょうどお姿が見えましたので、やっとモギ放して逃げましたものの、そうでなかったら今頃は、……おお恐ろしい恐ろしい!」女はブルブル身を顫わせたが、「お送りなされてくださりませ! お送りなされてくださりませ! いまの悪者が取って返し、襲って参ろうも知れませぬ。つい近くでございます。お送りなされてくださりませ!」取り付いた手を放そうともしない。
「よろしゅうござる、お送りしましょう」葉之助は女を掻いやった。「で、家はどの辺かな?」
「愛宕下でございます」女は髪をつくろっ[#「つくろっ」に傍点]た。
「愛宕下ならツイ眼の先、さあ、おいでなさるがよい」云い云い葉之助は先に立ち、その方角へ足を向けた。
「それはマアマア有難いことで、もう大丈夫でございます」
「若い女子がこんな深夜に、一人で歩くということは、無考えの上にちと[#「ちと」に傍点]大胆、今後は注意なさるがよい」
 若い女を助けながら、家まで送るということが、葉之助にはちょっと得意であった。まして女は美人である。そうしてひたすら[#「ひたすら」に傍点]縋り付いてくる。彼は多少快感さえ感じた。
 しかし女が立ち止まり、「ここが邸でございます。主人からもお礼を申させます。どうぞお立ち寄りくださいまし」と、一軒の屋敷を指さした時には、喫驚《びっく》りせざるを得なかった。と云うのはその屋敷が、敵と目差している蘭学医の玄卿の屋敷であったからである。
「おおこれは玄卿殿の住居、それではそなたはこの屋敷の……」
「ハイ小間使いでございます。どうぞどうぞお立ち寄りを」女は袖を放さなかった。
 そこで葉之助は考えた。
「この屋敷へ入り込むのは、虎穴《こけつ》へ入ると同じだが、そういう冒険をしなかった日には、虎児を獲《え》ることはむずかしい[#「むずかしい」に傍点]。それにこっちでは玄卿めを、敵と目差してはいるものの、先方ではまだまだ知らない筈だ。こういう機会に敵地へ入り込み、様子を探っておいたならまたよいこともあるだろう。それに俺《わし》は玄卿をこれまで一度も見たことがない。これをしお[#「しお」に傍点]に行き会って、人物を見抜くのも一興である」
 そこで葉之助は云われるままに、木戸を潜ることにした。

         

 女がコツコツと戸を叩くと、内側へスーと切り戸があいた。プーッと匂って来る快い匂い、まず葉之助の心をさらった[#「さらった」に傍点]。
 はてな[#「はてな」に傍点]と思いながらはいったとたん、思わずあっ[#「あっ」に傍点]と声を上げた。
 黒い高塀に囲まれているので、往来からは見えなかったが、庭一面に草花が爛漫《らんまん》と咲き乱れているのであった。
「これは綺麗な花園でござるな」感嘆して立ち止まった。
 するとその時|園丁《えんてい》と見えて、鋤《すき》を担いだ大男が花を分けて現われたが、二人の姿をチラリと見ると逃げるように隠れ去った。
「咽《む》せ返るようなよい匂いだ」葉之助は幾度も深呼吸をしたが、「これは何んという花でござるな?」
「大茴香《おおういきょう》でございます」
「おおこれが茴香《ういきょう》か。ふうむ、実に見事なものだ。茴香といえば高価な薬草、さすが大槻玄卿殿は、当代名誉の大医だけあって、立派な薬草園を持っておられる」
 さすがの葉之助も感心して、園に添って歩いて行った。すると一箇所一間四方ぐらい、その茴香の花園が枯れ凋《しぼ》んでいる箇所へ来た。
「これはどうも勿体《もったい》ない。茴香が枯れておりますな」葉之助は立ち止まった。
「はい主人も心配して、恢復策を講じますものの、一旦枯れかかった茴香は、容易なことでは生き返らず、こまっておるのでございます」女はこう云いながら耳を澄ました。どこかで地面を掘っている。鋤にあたる小石の音が、コチンコチンと聞こえて来る。
 薬草園を通り過ぎると、館の裏座敷の前へ出た。明るい灯火《ともしび》が障子に映え、人の話し声も聞こえている。
「さあどうぞお上がり遊ばしませ」
 云いながら女が先に上がり、スラリと障子を引きあけた。何んとなく身の締まる思いがして、葉之助は一瞬間|躊躇《ちゅうちょ》したが、覚悟をして来たことではあり、性来無双の大胆者ではあり云われるままに座敷へ上がった。
「しばらくご免を」と挨拶をし女は奥へ引き込んだ。
 敷物の上へ端然と坐り、葉之助は部屋の中を見廻した。床に一軸が懸かっていた。それは神農の図であった。丸行灯《まるあんどん》が灯《とも》っていた。火光が鋭く青いのは在来の油灯とは異《ちが》うらしい。待つ間ほどなく現われたのは、剃り立ての坊主頭の被布《ひふ》を纏《まと》った肥大漢で、年は五十を過ぎているらしく、銅色をした大きな顔は膏切《あぶらぎ》ってテカテカ光っている。
「愚老、大槻玄卿でござる」こう云って坐って一礼したが、傲岸不遜《ごうがんふそん》の人間と見え、床の間を背にして坐ったものである。
「家人をお助けくだされた由《よし》、あれは小間使いとはいうものの、愚妻の縁辺でござってな、血筋の通った親類|端《はじ》、ようお助けくだされた。玄卿お礼を申しますじゃ」それでも一通りの礼は云った。
「拙者は鏡葉之助、内藤駿河守の家臣でござるが。ナニ助けたと申し条、ただちょっと通りかかったまで、そのご挨拶では痛み入る」葉之助も傲然と云った。「こんな坊主に負けるものか!」こういう腹があったからである。
「ほほう、内藤家の鏡氏、いやそれはご名門だ。お噂は兼々《かねがね》存じております。実は愚老は内藤様ご舎弟、森帯刀様へはお出入り致し、ご恩顧《おんこ》を蒙《こうむ》っておりますもの、これはこれはさようでござったか」
 玄卿も相手が葉之助と聞いて、にわかに慇懃《いんぎん》な態度となった。
 その時小間使いが現われたが、それは別の小間使いであった。片手に錫《すず》製の湯差しを持ちもう一つの手に盆を持っていたが、その盆の上には二つの茶碗と、小さな茶漉《ちゃこ》しとが置いてあった。そうして砂糖|壺《つぼ》とが置いてあった。
「うん、よろしい、そこへ置け」こう云って玄卿は頤《あご》をしゃくった[#「しゃくった」に傍点]。
「いやナニ鏡葉之助殿、これは南蛮茶と申しましてな、日本ではめった[#「めった」に傍点]に得られないもの、たいして美味でもござらぬが、珍らしいのが取柄《とりえ》でござる」
 こう云いながら玄卿は、湯差しを手ずから取り上げると、茶漉しの上から茶碗の中へ深紅の液を注ぎ込んだ。それから匙《さじ》で砂糖を入れた。
「まず拙者お毒味を致す」
 こう云うと一つの茶碗を取り上げ、半分ばかりグッと呑んだ。
「温《ぬる》加減もまず上等、いざお験《ため》しくださいますよう」
「さようでござるかな、これは珍味」
 葉之助は茶碗を取り上げたが、そこでちょっとためらった[#「ためらった」に傍点]。

         五

 茶碗を取り上げた葉之助が、急に飲むのを躊躇《ちゅうちょ》したのは、当然なことと云わなければならない。
「評判のよくない大槻玄卿、どんなものをくれるか解るものか」つまり彼はこう思ったのであった。
 玄卿はすると[#「すると」に傍点]ニヤリと笑った。
「いや鏡葉之助殿、愚老毒などは差し上げません。どうぞ安心してお試《ため》しくだされ」
 図星を差されたものである。
「とんでもないこと、どう致しまして」
 葉之助は苦笑したが、今はのっ[#「のっ」に傍点]引きならなかった。で、一息にグーと飲んだ。日本の緑茶とは趣きの異った、強い香りの甘渋い味の、なかなか結構な飲み物であった。
「珍味珍味」と葉之助は、お世辞でなくて本当に褒《ほ》めた。
「産まれて初めての南蛮紅茶舌の正月を致してござる」
「お気に叶《かな》って本望でござる。いかがかな、もう一杯?」
「いや、もはや充分でござる」
 葉之助は辞退した。
「さようでござるかな。お強《し》いは致さぬ」
 で玄卿は茶器を片付けた。
 それから二つ三つ話があった。
 と、葉之助は次第次第に引き入れられるように眠くなった。
「これはおかしい」とこう思った時には、全身へ痲痺《まひ》が行き渡っていた。
「ううむ、やっぱり毒であったか!」
 葉之助は切歯した。それから刀を抜こうとした。ただ心があせる[#「あせる」に傍点]ばかりで手が云うことを聞かなかった。
「残念!」と彼は喚くように云った。しかし言葉は出なかった。ただそう云ったと思ったばかりで、その実言葉は舌の先からちょっとも外へは出なかった。
 彼は前ノメリに倒れてしまった。
 しかしそれでも意識はあった。
 それから起こった出来事を、彼はぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]覚えていた。
 ……まず二、三人の男の手が、彼を宙へ舁《か》き上げた。……縁から庭へ下ろされたらしい。……穴を掘るような音がした。……と、提灯《ちょうちん》の灯が見えた。……茴香《ういきょう》畑が見えて来た。……花が空を向いていた。……一人の男が穴を掘っていた。……大きな穴の口が見えた。……彼はその中へ入れられた。……バラバラと土が落ちて来た。……おお彼は埋められるのであった。……もう何んにも見えなかった。サーッと土が落ちて来た。……顔の上へも胸の上へも、手へも足へも土が溜った。……次第に重さを感じて来た。……そうして次第に呼吸《いき》苦しくなった。……「俺は死ぬのだ! 俺は死ぬのだ!」葉之助は穴の中で、観念しながら呟いた。そうしてそのまま気を失った。
    ……………………
    ……………………
 新鮮な空気がはいって来た。
 葉之助は正気附いた。
 そうして自由に息が出来た。
 だが身動きは出来なかった。
 彼はやはり穴の中にいた。
 土が一杯に冠さっていた。
 しかし痲痺からは覚めていた。毒薬の利《き》き目《め》が消えたのであろう。
 どうして息が出来るのだろう? どこかに穴でも開いたのであろうか?
 そうだ、穴があいたのであった。
 ちょうど彼の口の上に、穴があいているのであった。
 しかし普通の穴ではなかった。
 竹の筒が差し込まれているのであった。
 誰がそんなことをしたのだろう? もちろん誰だか解らなかった。
 とまれそのため葉之助は、一時死から免《まぬ》がれることが出来た。
 彼は充分に息をした。どうかして穴から出ようとした。しかしそれは絶望であった。
 で、じっ[#「じっ」に傍点]として待つことにした。
 するとその時竹筒を伝って、人の声が聞こえて来た。
 彼に呼びかけているのであった。
「鏡殿、葉之助殿」
 それは男の声であった。
 そうして確かに聞き覚えがあった。
 そこで葉之助は返辞をした。
「どなたでござるな。え、どなたで?」
「一学でござる。前田一学で」
「おっ」と葉之助はそれを聞くと、助かったような気持ちがした。「さようでござるか、前田氏でござるか。……それにしてもこれはどうしたことで」
「生き埋めにされたのでございますよ」
「生き埋め? 生き埋め? なんのために?」
「枯れかけた茴香《ういきょう》を助けるために」
「ナニ、茴香を? 枯れかけた茴香を?」
「さよう」と一学の声が云った。「肥料にされたのでございます。……あなた[#「あなた」に傍点]ばかりではございません。十数人の人間が。……人が来るようでございます。……しばらくお待ちくださいますよう」

         六

 そこでしばらく話が絶え、後はしばらく寂然《しん》となった。
 と、また話し声が聞こえて来た。
「葉之助殿、お苦しいかな?」
「苦しゅうござる。早く出してくだされ」
「それが、そうは出来ませんので」
「ナニ出来ない? なぜでござるな?」
「まだ人達が目覚めております」
「ではいつここから出られるので?」葉之助はジリジリした。
「間もなく寝静まるでございましょう、もう少々お待ちくだされ」
「それにしても前田氏には、どうしてこんな処におられるな」
「玄卿の秘密を発《あば》くため、飯焚《めした》きとなって住み込んだのでござる」
「で、秘密はわかりましたかな?」
「さよう、おおかたはわかりました」
「それでは白粉の性質も?」
「さよう、おおかたは突き止めてござる」
「さようでござるかそれはお手柄。で、いったい何んでござるな?」
「茴香《ういきょう》から製した薬品でござる」
「ううむ、なるほど、茴香のな。やはり毒薬でござろうな?」
「さよう、さよう、毒薬でござる」
「おおそれでは金一郎様には、毒殺されたのでございますな」
「ところが、そうではございません」
「そうではないとな? これは不思議?」
「茴香剤は毒薬とは云え、後に痕跡を残します。……しかるに若殿の死骸《なきがら》には、なんの痕跡もなかったそうで」
「さようさよう、痕跡がなかった。……だが、毒殺でないとすると……」
「全く不思議でございます」
「白粉の性質が解っても、それでは一向仕方がないな」
「だが前後の事情から見て、茴香剤の白粉が、金一郎様殺害に、関係のあることはたしかにございます」
「で、白粉の特性は?」
「刺戟剤でございます。まず、しばらくお待ちください。客があるようでございます。……誰か裏門を叩いております。……男奴《おとこめ》が潜《くぐ》り戸をあけました。……や、紋兵衛でございます、大鳥井紋兵衛が参りました。……これはうっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]は置けません。……ちょっと様子をうかがって来ます。……」
 前田一学は立ち去ったらしい。
 後はふたたび静かになった。
 葉之助はだんだん苦しくなった。
 湿気が体へ滲み通った。
 呼吸もだんだん苦しくなった。ひどく衰弱を感じて来た。
 次第に眠気を催して来た。
 一学は帰って来なかった。
「眠ってはいけない、眠ってはいけない」
 こう思いながらウツラウツラした。
 これは恐ろしい眠りであった。ふたたび覚めない眠りであった。眠ったが最後葉之助は、生き返ることは出来ないだろう。
 はたして彼の運命は?

 ちょうど同じ夜のことであった。
 神田の諸人宿の奥まった部屋に、天野北山は坐っていた。
 薬箱が置いてあった。
 アルコールランプが置いてあった。
 試験管が置いてあった。
 そうして彼は蘭語の医書を、むずかしい顔をして読んでいた。
 そこには次のように書いてあった。
「……茴香には三種の区別あり、野茴香、大茴香、小茴香、しかして茴香の薬用部は、枝葉に非ずして果実なり。大きさおよそ二分ばかり、緑褐色長円形をなす。一種強烈なる芳香を有し、駆虫《くちゅう》、※[#「ころもへん+去」、第3水準1-91-73]痰《きょたん》、健胃剤となる。また芳香を有するがため、嬌臭《きょうしゅう》及び嬌味薬となる、あるいは種子を酒に浸し、飲用すれば疝気《せんき》に効あり。茴香精、茴香油、茴香水を採録す」
 北山はここで舌打ちをした。
「どうもこれでは仕方がない。だがしかし例の白粉が、茴香剤に相違ないと、前田一学から知らせて来たからには、それに相違はあるまいが、しかしどうも疑わしいな」
 腕を組んで考え込んだ。
 気がムシャクシャしてならなかった。
 で、宿を出て歩くことにした。
 他に行くところもなかったので、浅草の方へ足を向けた。
 観音堂へ参詣《さんけい》した。
 相当夜が深かったので、他に参詣の人もなかった。

         

 観音堂の裏手の丘に、十数人の男女がいた。寝そべっているもの、坐っているもの、立っているもの、横になっているもの、雑然として蒐《あつ》まっていたが、暗い星月夜のことではあり、顔や姿は解らなかった。
「星が流れた」
 と誰かが云った。
「ふん、明日も天気だろう」
 すぐに誰かがこう答えた。
 で、ちょっとの間しずかであった。
 微風が木立を辷《すべ》って行った。
 赤児のむずかる[#「むずかる」に傍点]声がした。と、子守唄が聞こえて来た。その子の母が唄うのであろう。美しい細々とした声であった。
 虫が草叢《くさむら》で鳴いていた。
 微風がまたも辷って行った。
「ああいいな。どんなにいいか知れねえ。……土の匂いがにおって来る。……枯草の蒸《む》れるような匂いもする」
 老人の声がこう云った。
「八ヶ嶽! 八ヶ嶽! おお懐《なつか》しい八ヶ嶽! 八ヶ嶽を思い出す」
 一人の声がそれに応じた。やはり老人の声であったが。
「見捨ててから久しくなる。そろそろ八ヶ嶽を忘れそうだ」
「俺は夢にさえ思い出す」以前の老人が云いつづけた。「笹の平! 宗介神社! 天狗の岩! 岩屋の住居! 秋になると木の実が熟し、冬になると猪が捕れた。そうして春になると山桜が咲き、夏になると労働した。……平和と自由だったあの時代! 俺は夢にさえ思い出す」
「漂泊《さすらい》の旅の二十年! 早く故郷へ帰りたいものだ」
「星が飛んだ!」
 とまた誰かが云った。
 虫の声が鳴きつづけた。
 夜烏《よがらす》がひとしきり[#「ひとしきり」に傍点]梢で騒いだ。おおかた夢でも見たのだろう。
 窩人達は眠ろうとした。
 しかし彼らは眠られないらしい。
 そこで彼らは話し出した。
 彼らは浅草奥山の、見世物小屋の太夫達であった。
「八ヶ嶽の山男」
 ――こういう看板を上げている、その掛け小屋の太夫達であった。
 しかし彼らは窩人であった。
 彼らは小屋内に眠るより、戸外《そと》で寝る方を愛していた。それは彼らが自然児だからで、人工の屋根で雨露をしのぎ[#「しのぎ」に傍点]、あたたかい蒲団《ふとん》にくるまるより、天工自然の空の下《もと》で、湿気と草の香に包まれながら地上で眠る方が健康にもよかった。で、暴風雨でない限り、いつも彼らは土の上で眠った。
 二十年近い過去となった。その頃彼らは八ヶ嶽を出て、下界の塵寰《じんかん》へ下りて来た。それは盗まれた彼らの宝――宗介天狗のご神体に着せた、黄金細工の甲冑《かっちゅう》を、奪い返そうためであった。
 漂泊《さすらい》の旅は長かった。
 到る所で迫害された。
 山男! こういう悪罵《あくば》を投げつけられた。
 長い漂泊の間には、死ぬ者もあれば逃げるものもあった。しかし、子を産む女もあった。
 で、絶えず変化した。
 しかし目的は一つであった。
 復讐をするということであった。
 丘の近くに池があった。パタパタと水鳥の羽音がした。
「水鳥だな」
 と誰かが云った。それは若々しい声であった。
「鳥はいいな。羽根がある」
 もう一つの若々しい声が云った。
「飛んで行きたいよ。高い山へ!」「飛んで行きたいよ深い森へ!」「信州の山へ! 八ヶ嶽へ!」「そうだ俺らの古巣へな」
 三、四人の声がこう云った。
 愉快そうな笑い声が聞こえて来た。
 枯草の匂いが立ち迷った。
 で、またひとしきり[#「ひとしきり」に傍点]静かになった。
 都会《まち》の方から笛の音がした。按摩《あんま》の流す笛であった。
 観音堂は闇を抜いて、星空にまで届いている。と、鰐口《わにぐち》の音がした。参詣する人があるのだろう。
「また白蛇を盗まれたそうで」
 突然こういう声がした。
「では二匹盗まれたんだな」
 もう一人の声がこう云った。「毒蛇だのに、誰が盗んだかな」
「八ヶ嶽だけに住んでる蛇だ」
「毒蛇だのに、誰が盗んだかな」
「いずれ馬鹿者が盗んだんだろう」
 ここで再び笑い声がした。
 それが消えると静かになった。カラカラと駒下駄の音がした。横に曲がってやがて消えた。
 また微風が訪れて来た。
 興行物の小屋掛けが、闇の中に立っていた。ギャーッと夜烏《よがらす》が啼き過ぎた。
「冬になるまでには帰りたいものだ」
 老人の声がこう云った。
「帰れるともきっと帰れる」もう一人の老人の声が云った。
「そう長く悪運が続くわけがない」
「多四郎め! 思い知るがいい!」
「だが葉之助は可哀そうだ」突然誰かがこう云った。
「仕方がない、贖罪《しょくざい》だ!」もう一人の声がこう云った。
「母の罪を償うのだ」
「あれ[#「あれ」に傍点]の母の山吹は、部落きっての美人だった。お頭杉右衛門の娘だった。若大将岩太郎の許婚《いいなずけ》だった。……ほんとに気前のいい娘だった」
「ところが多四郎めに瞞《だま》された。そうして怨《うら》み死にに死んでしまった。可哀そうな可哀そうな女だった。……山吹とそうして多四郎との子! 可哀そうな可哀そうな葉之助!」

         八

 観音堂への参詣を済まし、偶然《ふと》来かかった北山は、窩人達の話を耳にして「オヤ」と思わざるを得なかった。
「葉之助葉之助と云っているが、鏡葉之助のことではあるまいかな?」
 これは疑うのが当然であった。
 と、木蔭に身を隠し、次の話を待っていた。
「だが葉之助は偉い奴だ」老人の声がこう云った。「俺らの敵の水狐族部落を、見事に亡ぼしてくれたんだからな」
「そうだ、あの功は没せられない」合槌を打つ声が聞こえて来た。「あの一事で母親の罪は、綺麗《きれい》に償われたというものだ」
「噂によると水狐族めも、さすらい[#「さすらい」に傍点]の旅へ上ったそうだ」
「江戸へ来ているということだ」
「どこかでぶつからない[#「ぶつからない」に傍点]ものでもない」
「ぶつかった[#「ぶつかった」に傍点]が最後、戦いだ」
「そうだ戦いだ、腕が鳴るなあ」
「種族と種族との戦いだからな」
「種族の怨みというものは、未来|永劫《えいごう》解《と》けるものではない」
「だが、水狐族の部落の長《おさ》、久田の姥《うば》めが殺された今は、戦ったが最後こっち[#「こっち」に傍点]の勝ちだ」
「姥を殺したのは葉之助だ」
「葉之助は俺らの恩人だ」
「だが気の毒にも呪われている」
「永久安穏はないだろう」
「眠い」
 と女の声がした。
 するとみんな[#「みんな」に傍点]黙ってしまった。
 彼らは睡眠《ねむり》にとりかかった。
 やがて鼾《いびき》の声がした。
 木蔭を立ち出で北山は、町の方へ足を向けた。
「ふうむそれでは葉之助は、山男の血統を引いてるのか」
 彼は心で呟いた。
「久田の姥を殺したのは、鏡葉之助の他にはない。……彼らの噂した葉之助は、鏡葉之助に違いない……これを聞いたら葉之助はどんな気持ちになるだろう……明かした方がいいだろうか? 明かさない方がいいだろうか? ……だが多四郎とは何者だろう?」
 上野の方へ足を向けた。
「大胆不敵な葉之助のことだ、素姓の卑しい山男達の、たとえ血統を引いていると聞いても、よもやひどい[#「ひどい」に傍点]失望はしまい。……やはりこれは明かした方がいい……そうだ、今夜も葉之助は、根岸の殿の下屋敷附近を、警戒しているに違いない。行き逢って様子を見ることにしよう」
 根岸の方へ足を向けた。
 根岸は閑静な土地であった。夜など人一人通ろうともしない。
 間もなく下屋敷の側まで来た。
 葉之助の姿は見えなかった。
 で、裏の方へ廻って行った。
 すると、広い空地へ出た。空地の闇を貫いて、一筋白い長い線が、一文字に地面へ引かれていた。
 それと知った時北山は、思わず「アッ」と声を上げた。「白粉! 白粉! 例の白粉だ!」
 とたんに笛の音が聞こえて来た。
 銀笛のような音であった。白粉の上を伝わって来た。その白粉は白々と、森帯刀家の下屋敷まで、一直線につづいた。
 笛の音は間近に逼《せま》って来た。もう数間の先まで来た。
 北山は再び「アッ」と云った。
 それからあたかも狂人《きちがい》のように、白粉を足で蹴散らした。
 そうして笛の音を聞き澄ました。
 笛の音は足もとまで逼って来た。しかしそこから引っ返して行った。
 だんだん音が遠ざかり、やがて全く消えてしまった。
 北山は全身ビッショリと冷たい汗を掻いていた。と、地面へ手を延ばし、一|摘《つま》みの白粉を摘み上げた。
「解った!」と呻くように叫んだものである。

         九

 地下に埋められた葉之助は、さてそれからどうなったろう?
 奇々怪々たる出来事が引き続き起こったのであった。
 ちょっと待てと云って立ち去ったまま、一学は帰って来なかった。で葉之助は待っていた。待っているのはよいとしても、呼吸《いき》の苦しいのは閉口であった。名に負う地下にいるのであった。気味の悪さは形容も出来ない。湿気は体を融かそうとした。身内を蛆虫《うじむし》が這うようであった。一寸も動くことが出来なかった。もし体を動かしたら、竹筒の位置が狂うだろう。そうしたら呼吸が出来なくなろう。そうなったらお陀仏であった。死んでしまわなければならなかった。
「死ぬかも知れない! 死ぬかも知れない! だがいったいそれにしても、一学氏はどうしたのだろう? どうして助けに来ないのだろう? 逃げてしまったのではあるまいか? いやいやそんな人物ではない。では何か危険なことでも、あの人の身の上に起こったのであろうか? ……とにかくこうしてはおられない。生きている人間が生きながら、地下に埋められているなんて、どう考えたって恐ろしいことだ! 出なければならない! 出なければならない! おお俺の体の上には、土がいっぱい[#「いっぱい」に傍点]に冠さっているのだ。茴香《ういきょう》の花が咲いているのだ。そうしてもしも俺が死んだら、その茴香の肥料《こやし》になるのだ。……死! 肥料! 恐ろしいことだ! これはどうしても逃げなければならない。だがどうしたら逃げられるのか? そうだ土を刎《は》ね退ければいい。だがどうして刎ね退けたものか? 重い厚い石のように、一面に冠《かぶ》さっているではないか? 駄目だ駄目だ! 助かりっこはない。……前田氏! 一学氏! 助けてくだされ、助けてくだされ!」
 しかし、四辺《あたり》は森閑として、ただ暗く寒かった。
「せめて手だけでも動かせないかしら?」
 彼は右手を動かそうとした。土が重く冠さっていた。容易に動かすことは出来なかった。しかし非常な努力の後、それでも少しずつ動かせるようになった。
「よし。有難い。大丈夫だ」
 で、土を掻き退けようとした。すると指先に何かさわった[#「さわった」に傍点]。石ではない固いものであった。そこでそれを引っ掴んだ。その感触が鉄らしかった。しかもそれは環《わ》のようであった。
「鉄の環があろうとは、これはいったいどうしたことだ?」葉之助には不思議であった。
 溺れる者は藁《わら》をも掴む。で、葉之助は環を掴み、力まかせに引いてみた。
 その瞬間に起こったことは、彼にとっては奇蹟よりも、もっと驚くべきことであった。
 忽然《こつぜん》彼の体の下へ、四角の穴が開いたのであった。ザーッと落ちる土とともに、彼の体は下へ落ちた。
 狼穽《おとしあな》かそれとも他の何か? とにかくそこには人工の穴が、以前《まえ》から掘られていたのであった。
 そこへ落ち込んだ葉之助は、あまりの意外に茫然とした。が、幸い怪我《けが》はしなかった。穴も深くはないらしかった。で、手探りに探ってみた。
「やや、ここに横穴がある」彼は思わず声を上げた。そうだ、そこには横穴があった。考えざるを得なかった。
「この縦穴を這い出したなら、玄卿の屋敷へ出ることが出来る。幸い両刀は持っている。憎い玄卿めを討ち取ることも出来る。しかし俺は衰弱《よわ》っている。これほどの姦策《かんさく》をたくらむ奴だ、どんな用意がしてあろうも知れぬ。あべこべ[#「あべこべ」に傍点]に討たれたら悲惨《みじめ》なものだ。……さてここにある横穴だが、何んとなく深いように思われる。いっそこれを辿《たど》って行って、一時体を隠すことにしよう。もっともあるいはこの横穴も、あいつの拵《こしら》えたものかもしれない。では何んのために拵えたのか、そいつを探るのも無駄ではない。もしこれがそうでなくて、誰か他の人が拵えたものなら、――もしくは天然に出来たものなら、地上へ通じているかもしれない。では助かろうというものだ。どっちみち縦穴を上るより、横穴を辿った方が安全らしい」
 そこで彼は手探りで、横穴を奥の方へ辿って行った。
 思った通りその横穴は、深く奥へ続いていた。一間行っても、二間行っても突きあたろうとはしなかった。天井は低く横も狭く、非常に窮屈な穴ではあったが、空気もそれほど濁ってはいず、水なども落ちては来なかった。
 やがて五間行き十間行き、半町あまりも辿って行ったが、依然横穴は続いていた。
 少しずつ、葉之助は不安になった。
「いったいどこまで続くのだろう?」彼は立ち止まって考え込んだ。しかし後へ戻ることは、かえって危険のように思われた。やはり進むより仕方なかった。

         一〇

 で、彼は進んで行った。一町あまりも行った頃であったが、彼は何かに躓《つまず》いた。そこで手探りに探ってみた。どうやら石の階段らしい。
「いよいよ戸外《そと》へ出られるかな」こう思うと彼は嬉しかった。一つ一つ石段を上って行った。二十段近くも上った頃、木の扉へぶつかっ[#「ぶつかっ」に傍点]た。
「人家へ続いているのだな」意外に思わざるを得なかった。
 彼は扉を押してみた。すると案外にもすぐ開いた。はたしてそこは人の家であった。人の家の一室であった。
 そうだそれは部屋であった。しかも普通の部屋ではなかった。
 それは非常に広い部屋で、畳を敷いたら百畳も敷けよう、行灯《あんどん》が細々と灯っていた。そうして縛られた女や男が、あっちにもこっちにも転がっていた。
 呻く者、泣く者、喚く者、縛られたまま転げ廻る者、呪詛《のろ》いの声を上げる者、……部屋の内はそれらの声で、阿鼻《あび》地獄を呈していた。
 人の類も様々であった。まず女から云う時は、町家の娘、ご殿女中、丸髷《まるまげ》に結った若女房、乞食《こじき》女、いたいけな少女、老いさらばった年寄りの女、女郎らしい女、芸妓らしい女、見世物小屋の太夫らしい女、あらゆる風俗の女達が、もだえ苦しんでいるのであった。
 男の方も同じであった。商家の手代、商家の丁稚《でっち》、役者、武士、職人、香具師《やし》、百姓、手品師、神官、僧侶……あらゆる階級の男達が、狂いあばれているのであった。
 そうしてそれらの人々の上を、行灯の微光が照らしていた。
 低い天井《てんじょう》、厳重な壁、出入り口の戸はとざされていた。
 これを見た葉之助は驚くよりも、恐怖せざるを得なかった。彼は棒のように突っ立った。
「いったいここはどこだろう? いったいどういう家だろう? この人達は何者だろう? いったい何をしているのだろう?」
 しかし彼の驚きは――いや彼の恐怖心は、しばらく経つと倍加された。彼は一層驚いたのであった。
 さらにさらに恐怖したのであった。
 と云うのはそれらの人々が、決して苦しんでいるのではなく、そうして何者かに幽囚されて、呪詛《のろ》い悲しんでいるのではなく、否々《いないな》それとは正反対に、喜び歌い、褒《ほ》め讃《たた》え――すなわち何者かに帰依《きえ》信仰し、欣舞《きんぶ》しているのだということが、間もなく知れたからであった。
 呪詛《のろい》の声と思ったのは、実に讃美の声なのであった。
「光明遍照! 光明遍照! 喜びの神! 幸いの神! 男女の神! 子宝《こだから》の神! おおおお神様よ子宝の神様よ! どうぞ子宝をお授けください!」こう讃美する声なのであった。
 ここは邪教の道場なのであった。ここは淫祠《いんし》の祭壇なのであった。
 おお大江戸の真ん中に、こんな邪教があろうとは!
 と、その時、忽然《こつぜん》と、音楽の音《ね》が響いて来た。
 まず篳篥《ひちりき》の音がした。つづいて笙《しょう》の音がした。搦《から》み合って笛の音がした。やがて小太鼓が打ち込まれた。
 ……それは微妙な音楽であった。邪教に不似合いの音楽であった。神聖高尚な音色であった。
 俄然道場は一変した。男は女から飛び離れ、女は男から身を退けた。いずれも一斉にひざまずいた[#「ひざまずいた」に傍点]。そうして彼らは合掌した。
「ご来降! ご来降!」と同音に叫んだ。
「教主様のお出まし! 教主様のお出まし!」
 異口同音にこう云った。
 次第に音楽は高まって来た。それがだんだん近寄って来た。やがて戸口の外まで来た。
 しずかにしずかに戸が開いた。
 深紅《しんく》の松明《たいまつ》の火の光が、その戸口から射し込んだ。
 つと[#「つと」に傍点]二人の童子が現われ、続いて行列がはいって来た。童子が松明を捧げていた。光明が一杯部屋に充ちた。
 教主は男女二人であった。いずれも若く美しかった。普通に美しいと云っただけでは、物足りないような美しさであった。女は年の頃十八、九であろうか、緋《ひ》の袴《はかま》を穿いていた。そうして上着は十二|単衣《ひとえ》であった。しかも胸には珠をかけ、手に檜扇《ひおうぎ》を持っていた。
 男の年頃は二十一、二で、どうやら女の兄らしかった。その面が似通っていた。胸には同じく珠をかけ、足には大口を穿いていた。だがその手に持っているものは、三諸山《みむろやま》の神体であった。

         一一

 教主の後から老女が続き、そのまた後ろから幾人かの、美しい男女が続いた。
 部屋の中は皎々《こうこう》と輝いた。今まで見えなかった様々の物が――壁画や聖像や龕《がん》や厨子《ずし》が、松明の光で見渡された。それはいずれも言うも憚《はばか》り多い怪しき物のみであった。
 行列は部屋を迂廻した。
 信者の群は先を争い、二人の教主へ触れようとした。
 男の信者は女の教主へ、女の信者は男の教主へ、とりわけ触れようとひしめいた。
 男の教主の怪しき得物《えもの》と、女の教主の檜扇とは、そういう信者の一人一人へ、一々軽く触れて行った。
 こうして行列は静々と、広い部屋を迂廻した。
 そうして葉之助へ近付いて来た。
 葉之助は茫然《ぼんやり》と立っていた。
 どうしてよいか解らなかった。もちろん彼は邪教徒ではなかった。で、教主を拝することは、良心に咎《とが》めて出来なかった。と云って茫然《ぼんやり》立っていたら、咎められるに相違なかった。そうなったら事件が起こるだろう。信者でもない赤の他人が、道場へ入り込んでいたとすれば、教団にとっては打撃でなければならない。きっと憤慨するだろう。恐らく乱暴をするかもしれない。道場にいる全部の信徒が、刃向かって来ないとも限らない。
「いったいどうしたらいいだろう?」
 焦心せざるを得なかった、狼狽《ろうばい》せざるを得なかった。
 その間も行列は進んで来た。
 しかしてやがて葉之助の前へ二人の教主は立ち止まった。
 葉之助は絶体絶命となった。で、昂然《こうぜん》と顔を上げ、教主の顔を睨み付けた。
 二人の教主の胸の辺に、不思議な刺繍《ぬいとり》が施されてあった。それを見て取った葉之助は「あっ」と叫ばざるを得なかった。
 それは恐ろしい刺繍《ぬいとり》であった。彼に縁のある刺繍であった。彼はそれによってこの教団のいかなるものかを知ることが出来た。そうしてそれを知ったがために、彼は現在の自分の位置が、予想以上に危険であることを、はっきり[#「はっきり」に傍点]明瞭に知ることが出来た。
 俄然《がぜん》形勢は一変した。そうしてそれは悪化であった。
「あっ」という声に驚いて二人の教主は眼を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》った。
 そうしてその眼は必然的に、声の主へ注がれた。
 教主二人の四つの眼と、葉之助の眼とはぶつかっ[#「ぶつかっ」に傍点]た。
 それは火のような睨み合いであった。
 が、それは短かった。
 男の教主がまず叫んだ。
「教法の敵! 教法の敵!」
 女の教主が続いて叫んだ。
「鏡葉之助だ! 鏡葉之助だ!」
「この男を搦《から》め取れ!」
 ――つづいて起こったのが混乱であった。
 こんな順序で行われた。
 一斉に信徒達が立ち上がった。
 グルリと葉之助を取り囲んだ。
 行列は颯《さっ》と後へ引いた。信徒の中の武士達は、揃《そろ》って一度に刀を抜いた。女信徒達は逃げ迷った。
 喚き声! 怒鳴り声! 泣き叫ぶ声!
「教法の敵!」「搦め取れ!」「切って棄てろ! 切って棄てろ!」
 松明《たいまつ》の火が数を増した。キラキラと抜き身が輝いた。出入り口が固められた。
 群集がヒタヒタと逼《せま》って来た。
 殺気が場中に充《み》ち充ちた。
 予期したことではあったけれど、葉之助の心は動揺した。突嗟《とっさ》に思案が浮かばなかった。と云って落ち着いてはいられなかった。防がなければならなかった。そうしなければ、捕えられるだろう。捕えられたら殺されるだろう。
 世の中で何が恐ろしいと云って、狂信者ほど恐ろしいものはない。彼らには一切反省がない。あるものは迷信ばかりだ。おおそうして迷信たるや、一切の罪悪の根本ではないか! 「迷信」は笑いながら人を殺す! 笑って人を殺す者は宇宙において迷信者ばかりだ!
 その迷信者が充ち充ちているのだ。それが挙《こぞ》って刃向かって来るのだ。
「もうこうなればヤブレカブレだ! 切って切って切り捲くるばかりだ! 遁《の》がれられるだけは遁がれてやろう!」そこで葉之助は刀を抜いた。
 小野派一刀流真の構え! 中段に付けて睨み付けた。

         一二

 背後《うしろ》へ廻られてはたまらない。彼は羽目板を背に背負《しょ》った。
 眼に余る大勢の相手であった。八方へ眼を配るべきを彼は逆に応用した。正一眼一心前方ただ正面をひたすら[#「ひたすら」に傍点]に睨んだ。飛び込んで来る敵を切ろうとするのだ。
「横竪上下遠近の事」一刀流兵法十二ヵ条のうち、六番目にある極意であった。
 正面をさえ睨んでいれば、横竪上下遠近の敵が、自ら心眼に映ずるのであった。と云ってもちろん初学者には――いやいや相当の使い手になっても、容易にそこまでは達しられない。ただ奥義の把持者《はじしゃ》のみが、その境地に達することが出来る。そうして鏡葉之助は、その奥義の把持者であった。剣にかけては天才であった。だが彼は疲労《つか》れていた。毒薬を飲まされた後であり、地下に埋められた後であった。しかし非常な場合には、超人間的勇気の出るものであった。
 構えた太刀には隙がなかった。
 と、一人飛び込んで来た。
 大兵肥満《だいひょうひまん》の武士であった。もちろん信者の一人であった。
 鏡葉之助は美少年、女のような優姿《やさすがた》。しかも一人だというところから、侮《あなど》りきって構えもつけず、颯《さっ》と横撲りにかかって来た。そこを自得の袈裟掛《けさが》け一刀、伊那高遠の八幡社頭で、夜な夜な鍛えた生木割り! 右の肩から胸へ掛け、水も堪《た》まらず切り放した。
 武士は「わっ」と悲鳴を上げた。そうして畳へころがった。プーッと吹き出す血の泡沫《しぶき》が、松明の光で虹《にじ》のように見えた。と、もうその時には葉之助は、ピタリ中段に付けていた。
「えい」とも「やっ」とも、声を掛けない。水のように静かであった。返り血一滴浴びていない。
 一瞬間ブルッと武者顫いをした。全身に勇気の籠もった証拠だ。
 ワーッと叫んで信者どもはバラバラと後へ退いた。しかしすぐに盛り返した。迷信者は何物をも恐れない。
 左右から二人かかって来た。
「やっ! やっ! やっ!」
「やっ! やっ! やっ!」
 心掛けある武士であった。二人は気合を掛け合った。左右へ心を散らせようとした。が、それはムダであった。葉之助は動かなかった。凝然《じっ》と正面を見詰めていた。
[#ここから2字下げ]
敵をただ打つと思うな身を守れ
    おのずから洩る賤家《しずがや》の月
[#ここで字下げ終わり]
 仮字書之口伝《かじしょのくでん》第三章「残心」を咏《うた》った極意の和歌、――意味は読んで字の如く、じっと一身を守り詰め、敵に自ずと破れの出た時、討って取れという意味であった。
 葉之助の心組みがそれであった。
 金剛不動! 身じろぎもしない。
「やっ! やっ! やっ!」
「やっ! やっ! やっ!」
 二人の武士はセリ詰めて来た。尚、葉之助は動かなかった。
 場内は寂然《しん》と静かであった。松明の火が数を増した。火事場のように赤かった。後から後からと無数の信者が、出入り口からはいって来た。みんな得物《えもの》を持っていた。
 出番の来るのを待っていた。まさに稲麻竹葦《とうまちくい》であった。葉之助よ! どうするつもりだ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
 その時|鏘然《しょうぜん》と太刀音がした。
 一人の武士が頭上を狙い、もう一人の武士が胴を眼がけ、同時に葉之助へ切り込んだのを、一髪の間に身を翻《ひるがえ》し、一人を例の袈裟掛けで斃《たお》し、一人の太刀を受け止めたのであった。
 受けた時には切っていた。
 他流でいうところの「燕返《つばめがえ》し」、一刀流で云う時は、「金翅鳥王剣座《きんしちょうおうけんざ》」――そいつで切って棄てたのであった。
 金翅鳥片羽九万八千里、海上に出でて竜を食う、――その大気魄に則《のっと》って、命名したところの「五点之次第」で、さらに詳しく述べる時は、敵の刀を宙へ刎ね、自刀セメルの位置をもって、敵の真胴《しんどう》を輪切るのであった。敵を斃すこと三人であった。ワーッと叫ぶと信者の群は、ムラムラと後へ退いた。しかしすぐに盛り返した。迷信者は何物をも恐れない。得物得物を打ち振り打ち振り、十数人がかかって来た。

         一三

 鏡葉之助は三人を切った。大概の者ならこれだけで、精気消耗する筈であった。葉之助の精気も無論|疲労《つか》れた。しかし彼は恐ろしい物を見た。いやいやそれは恐ろしいというより、むしろ憎むべきものであった。彼を不断に苦しめている「悪運命」を見たのであった。讐敵《しゅうてき》の象徴を見たのであった。二人の教主の着物の胸に刺繍《ししゅう》されてあった奇怪な模様! それを彼は見たのであった。憎むべき、憎むべき憎むべき模様!
 彼の勇気は百倍した。そうして彼は決心した。「殺されるか殺すかだ! これは生優《なまやさ》しい敵ではない! 助かろうとて助かりっこはない! 生け捕られたら嬲《なぶ》り殺しだ。……相手を屠《ほふ》るということは、俺の体に纏《まつ》わっている、呪詛《のろい》を取去《のぞ》くということになる。相手に屠られるということは、呪詛に食われるということになる。……生きる意《つも》りで働いては駄目だ! 死ぬ決心でやっつけてやろう! こうなれば肉弾だ! 生命を棄てて相手を切ろう! ……おおおお集まって来おった[#「おった」に傍点]な。……とてもまとも[#「まとも」に傍点]では叶わない。こうなれば手段を選ばない。あらゆる詭計《きけい》を施してやれ」
 十人の武士が逼《せま》って来た。
 やにわに飛び込んだ葉之助は、切りよい左手の一人の武士を、ザックリ袈裟に切り倒した。とたんに自分もツルリと辷り、バッタリ俯向《うつむ》けに床へ倒れた。
 ワッと叫んだ残りの九人、乱刃を葉之助へ浴びせかけた。一髪の間に葉之助は寝ながら刀で足を払った。一刀流の陣所払い! 負けたと見せて盛り返し、一挙に多勢を屠る極意、しかし普通の場合には、卑怯《ひきょう》と目《もく》して使わない。死生一如と解した時、止むなく使う寝業であった。
 果然九人は一時に、足を薙《な》がれてぶっ倒れた。
 飛び上がった葉之助、なだれる信徒の後を追い戸口の方へ突撃《ひたはし》った。そうして「面部斬り」――で斬り立てた。
 胆を冷やさせる「面部斬り」――相手の生命を取るのではなく、獅子《しし》が群羊を駆るように、大勢の中へ飛び込んで、柄短《つかみじ》かの片手斬り、敵の顔ばかりを中《あた》るに任せ、颯々《さっさつ》と切る兵法であった。伊藤一刀斎景久が、晩年に工夫した一手であって、場合によっては刀を返し、柄頭で敵の鼻梁《はなばしら》を突き、空いている方の左手で、敵の人中《じんちゅう》を拳《こぶし》当て身! ただしこの術には制限があって、誰にも出来るというものではなかった。すなわち片手で自由自在に、大刀を揮《ふる》うだけの膂力《りょりょく》あるもの、そうして軽捷《けいしょう》抜群の者と自《おのずか》ら定《き》められているのであった。
 で、もちろん封じ手で、印可以上に尊ばれ、人を見て許すことになっていた。
 また一名「木の葉返し」とも云った。風に吹き立つ枯葉のように、八方分身十方隠れ、一人の体を八方に分《わ》かち、十方に隠れて出没し! 敵をして奔命《ほんめい》に疲労《つか》れしめ、同士討ちをさせるがためであった。
 はたして信徒達は騒ぎ立った。風に木の葉が翻《ひるがえ》るように、百畳敷の大広間を、右往左往に逃げ惑った。
「裏切り者がいる! 裏切り者がいる!」
「一人ではない! 敵は多勢だ!」
「謀反人がいる! 謀反人がいる!」
 信徒同士組打ちをした。互いに斬り合う者もあった。松明《たいまつ》の火が吹き消された。ヒーッと女達は悲鳴を上げた。バタバタと倒れる音がした。器類がころがっ[#「ころがっ」に傍点]た。画像がべりべりと引き裂かれた。
「助けてくれーエッ」
 と叫ぶ者があった。倒れた信徒の体の上を、無数の人が踏んで走った。ムクムクと戸口から逃げはじめた。
 葉之助の策略は成功した。
 混乱に次いで混乱が起こり、収拾することが出来なかった。
「静まれ静まれ敵は一人だ!」
 心掛けある信徒でもあろう。一人の者が大音に叫んだ。ツ[#「ツ」に傍点]と葉之助は走り寄り、その叫び主を斬り落とした。
「灯火《あかり》を点けろ! 灯火を点けろ!」
 一人の信徒が叫び声を上げた。が、すぐにその信徒は、虚空を掴んでぶっ[#「ぶっ」に傍点]倒れた。肩から大袈裟に斬られたのであった。
 尚二、三本松明は、大広間を茫《ぼう》と照らしていた。
 その一本がバサリと落ちた、松明の持ち主が「ムー」と呻き、床へ倒れてのたうっ[#「のたうっ」に傍点]た。見れば片手を斬り落とされていた。
 と、もう一本の松明が消えた。つづいてもう一本の松明が消えた。
 部屋の中は闇となった。その暗々たる闇の中で、信徒達は揉み合った。
 互いに相手を疑ぐった。手にさわる者と掴み合った。
 そうしてドッと先を争い、戸口から外へ逃げ出した。
 その中に葉之助も交じっていた。部屋の外は広い廊下で、左右にズラリと部屋があった。その部屋の中へ信徒達は、蝗《いなご》のように飛び込んだ。

         一四

 葉之助は廊下を真っ直ぐに走った。
 廊下が尽きて階段となり、階段の下に中庭があった。
 そこへ下り立った葉之助は、ベッタリ地の上に坐ってしまった。そうして丹田《たんでん》へ力をこめ、しばらくの間|呼吸《いき》を止めた。それから徐々に呼吸をした。と、シーンと神気が澄み、体に精力が甦《よみがえ》って来た。一刀流の養生《ようじょう》法、陣中に用いる「阿珂術《あかじゅつ》」であった。
 もしもこの時葉之助が、バッタリ地の上に倒れるか、ないしは胡座《こざ》して大息を吐いたら、そのまま気絶したに相違ない。彼は十分働き過ぎていた。気息も筋肉も疲労《つか》れ切っていた。一点の弛《ゆる》みは全身の弛みで、一時に疲労《つかれ》が迸《ほとばし》り出て、そのまま斃れてしまったろう。
 今日|流行《はや》っている静座法なども、その濫觴《らんしょう》は「阿珂術」なので、伊藤一刀斎景久は、そういう意味からも偉大だと云える。
 気力全身に満ちた時、彼は刀を持ちかえようとした。さすがに腕にはシコリが来て、指を開くことが出来なかった。で、左手《ゆんで》で右手《めて》の指を、一本一本|解《と》いて行った。と、切っ先から柄頭《つかがしら》まで、ベッタリ血汐で濡れていた。
「息の音を止めたは八人でもあろうか。傷《て》を負わせたは二十人はあろう」
 彼は刃こぼれ[#「こぼれ」に傍点]を見ようとした。グイと切っ先を眼前《めのまえ》へ引き寄せ、一寸一寸送り込み、じいいっ[#「じいいっ」に傍点]と刃並みを覗いて見た。空には星も月もなく、中庭を囲繞《いにょう》した建物からは、灯火《ともしび》一筋洩れていない。で、四方《あたり》は真の闇であった。それにも関らず白々と、刀気が心眼に窺われた。
「うむ、有難い、刃こぼれはない」
 これは刃こぼれはない筈であった。それほど人は切っていたが、チャリンと刀を合わせたのは、二、三合しかないからであった。
「よし」と云うと左の袖を、柄へキリキリと巻きつけた。それからキューッと血を拭った。
 耳を澄ましたが物音がしない。そこでユラリと立ち上がった。
「どのみち[#「どのみち」に傍点]地理を調べなければならない」
 で、そろそろと歩いて行った。
 一つの建物の壁に添い、東の方へ進んで行った。
 行手《ゆくて》にポッツリ人影が射した。で、足早に寄って行った。
 その人影は家の角を廻った。
「ははあ角口に隠れていて、居待《いま》ち討ちにしようというのだな」
 葉之助は用心した。足音を忍んで角まで行った。じっと物音を聞き澄ました。
 コトンと窓の開く音がした。ハッと彼は飛び退《すさ》った。同時に何物か頭上から、恐ろしい勢いで落ちて来た。それは巨大な鉄槌《てっつい》であった。上の窓から投げた物であった。一歩|退《の》き方が遅かったなら、彼は粉砕されたかもしれない。
 彼はキッと窓を見上げた。しかしもう窓は閉ざされていた。そこで彼は角を曲がった。どこにも人影は見られなかった。そうして行手は石垣であった。
 そこで彼は引き返した。
 で、以前《まえ》の場所へ帰って来た。いつか戸口は閉ざされていた。石段を上って戸に触れてみた。閂《かんぬき》が下ろされているらしい。引いても押しても動かない。で、彼はあきらめ[#「あきらめ」に傍点]た。
 同じ建物の壁に添い、西の方へ歩いて行った。やがて建物の角へ来た。サッと刀を突き出してみた。向こう側に誰もいないらしい。で、遠廻りに弛く廻った。
 すぐ眼の前に亭《ちん》があった。亭の縁先に腰をかけ、葉之助の方へ背中を向け、二人の男女が寄り添っていた。一基の雪洞《ぼんぼり》が灯されていた。二人の姿はよく見えた。恋がたりでもしているらしい、淫祠邪教徒の本性をあらわし、淫《みだ》らのことをしているらしい。
「斬りいい形だ。叩っ斬ってやろう」
 葉之助は忍び寄った。掛け声なしの横撲り、男の肩へ斬り付けた。と思った一刹那、女がクルリとこっちを向き、ヒューッと何か投げつけた。危うく避けたその間に、二人の姿は掻き消えた。投げられた物は紐であった。紐が彼へ飛び掛かって来た。それは一匹の毒蛇であった。
 で、三つに斬り払った。
 行手は厳重の石垣であった。越して逃げることは出来なかった。
 でまた彼は引き返した、こうして以前の場所へ来た。
 反対の側にも建物があった。地面から五、六階の石段があり、それを上ると戸口であった。もちろんその戸は閉ざされていた。そこで彼は石段を上がり、その戸をグイと引っ張って見た。と、意外にも戸があいた。とたんに彼は転がり落ちた。転がったのが天佑《てんゆう》であった。戸が開くと同時に恐ろしい物が、彼を目掛けて襲いかかって来た。それを正面《まとも》に受けたが最後、彼は微塵《みじん》にされただろう。

         一五

 円錐形の巨大な石が――今日で云えば地均轆轤《じならしろくろ》が、素晴らしい勢いで落下したのであった。
 ドーンと戸口は締められた。後は寂然《しん》と音もしない。しかし無数の邪教徒が、四方八方から彼を取りこめ、討ち取ろう討ち取ろうとしていることは、ほとんど疑う余地はなかった。
 人声のないということは、その凄さを二倍にした。立ち騒がないということは、その恐ろしさを二倍にした。
 今は葉之助は途方に暮れた。
「どうしたものだ。どうしてくれよう。どこから、逃げよう。どうしたらいいのだ」
 混乱せざるを得なかった。
 とまれじっ[#「じっ」に傍点]としてはいられなかった。その建物を東の方へ廻った。と、建物の角へ来た。
 曲がった眼前に大入道が、雲突くばかりに立っていた。
「えい!」一声斬りつけた。カーンという金の音がした。そうして刀が鍔《つば》もとから折れた。
 大入道は邪神像であった。
「しまった!」と彼は思わず叫び、怨《うら》めしそうに刀を見た。折れた刀は用に立たない。で彼は投げ棄てた。そうして脇差しを引き抜いた。
 こうしてまたも葉之助は、後へ帰らざるを得なかった。さて元の場所へ帰っては来たが、新たにとるべき手段はない。茫然《ぼんやり》佇《たたず》むばかりであった。勇気も次第に衰えて来た。だがこのまま佇んでいたのでは、遁がれる道は一層なかった。
 そこで無駄とは知りながら、西の方へ廻って行った。例によって角へ来た。用心しながらゆるゆる曲がった。と行手に石垣があり、立派な門が建っていた。
「ははあ門があるからには、門の向こう側は往来だろう。よしよしあの門を乗り越してやれ」
 門の柱へ手を掛けた。ひらり[#「ひらり」に傍点]と屋根へ飛び上がった。そうして向こう側を隙《す》かして見た。
 思わず彼は「あっ」と云った。そこに大勢の人影が夜目にも解る弓姿勢で、タラタラと並んでいたからであった。弓を引き絞り狙《ねら》っているのだ。
 彼は背後《うしろ》を振り返って見た。そこでまた彼は「あっ」と叫んだ。十数人の人影が、鉄砲の筒口を向けていた。
 彼はすっかり[#「すっかり」に傍点]計られたのであった。腹背敵を受けてしまった。もう助かる術《すべ》はない。飛び道具には敵すべくもない。
 が、しかし彼の頭を、その時一筋の光明が、ピカリと光って通り過ぎた。
「ここは江戸だ。しかも深夜だ、よもや鉄砲を撃つことは出来まい。撃ったが最後世間へ知れ、有司《ゆうし》の疑いを招くだろう。邪教徒の教会はすぐに露見だ。一網打尽に捕縛《ほばく》されよう。……断じて鉄砲を撃つ筈はない……弓手《ゆみて》の方さえ注意したら、まず大丈夫というものだ」
 で、彼は屋根棟へ寝た。
 一筋の矢が飛んで来た。パッと刀で切り払った。つづいて二本飛んで来た。幸いにそれは的を外れた。
 寝たまま葉之助は考えた。
「高所に上って矢を受ける。まるで殺されるのを待つようなものだ。身を棄ててこそ浮かぶ瀬もあれ。一刀流の極意の歌だ。弓手の真ん中へ飛び下りてやろう」
 四本目の矢が飛んで来た。それを二つに切り折ると共に、ヤッとばかりに飛び下りた。
 計略たしか図にあたり、弓手は八方へ逃げ散った。しかし葉之助の思惑は他の方面で破られた。そこは決して往来ではなかった。いっそう広い中庭であった。
 隙《す》かして見れば所々に、幾個《いくつ》か檻《おり》が立っていた。「はてな?」と葉之助は不思議に思った。
 一つの檻へ近寄って見た。三匹の熊が闇の中で爛々とその眼を怒らせていた。
 これには葉之助もゾッとした。もう一つの檻へ行って見た。十数頭の狼が、グルグルグルグル檻に添ってさもいらいら[#「いらいら」に傍点]と走っていた。ここでも葉之助はゾッとした。さてもう一つの檻の前へ行った。一匹の猪が牙《きば》を剥き、何かの骨を噛み砕いていた。と、その時一点の火光が、門の屋根棟へ現われた。それは松明《たいまつ》の火であった。つづいて一点また一点、松明の火が現われた。
 大勢の人が屋根の上に、一列に並んで立っていた。
 そうしてその中には教主もいた。男女二人の教主がいた。
 何かが始まろうとしているらしい。何かを始めようとしているらしい。
 何をしようとするのだろう? と、ガチンと音がした。「ウオーッ」と唸る熊の声がした。檻を誰かが開けたらしい。三頭の熊がしずしずと檻から外へ現われ出た。それが松明の火で見えた。続いてガチンと音がした。
 無数の狼が先を争い、檻の中から走り出た。

         一六

 教徒達の意図は証明された。彼らは葉之助を惨酷《ざんこく》にも、猛獣に食わせようとするのであった。
 邪教徒らしいやり方であった。敢《あえ》て葉之助ばかりでなく、これまで幾人かの人間が、猛獣の餌食《えじき》にされたのであった。裏切り者と目星を付けるや、彼らは用捨なくその者を捕えて、人知れず檻の中へ入れたものであった。猪の食っていた何かの骨! それは人間の骨なのであった。ただし葉之助は手強《てごわ》かった。捕えることが出来なかった。そこで猛獣の檻をひらき、四方を囲んだ広い空地で、食い殺させようとしたのであった。
 そうして教主をはじめとし、大勢の教徒達が屋根の上から、それを見ようとしているのであった。
 羅馬《ローマ》にあったという演武場! 西班牙《スペイン》に今もある闘牛場! それが大江戸にあろうとは!
 信じられない事であった。信じられない事であった。
 が、厳たる事実であった。現に猛獣がいるではないか。ジリジリ逼《せま》って来るではないか。
 そうだ猛獣は逼って来た。
 狼群は円い輪を作り、葉之助の周囲《まわり》を廻り出した。しかし決して吠えなかった。訓練されているからであった。吠えたら世間に知られるだろう。世間に知られたら露見の基であった……で、かすかに唸るばかりであった。
 もちろん熊も吠えなかった。ただ「ウオーッ」と唸るだけであった。
 さすがの鏡葉之助も、頭髪逆立つ思いがした。
「もう駄目だ、もういけない」
 彼は悲惨にも観念した。人間同士の闘いなら、まだまだ遁がれる道はあった。相手は群狼と熊とであった。遁がれることは出来なかった。葉之助は脇差しを投げ出した。それから大地へ端座した。眼を瞑《つ》むり腕を組んだ。猛獣の襲うに任せたのであった。
 グルグルグルグル狼の群は、彼の周囲を駈け廻った。その輪をだんだん縮めて来た。
 熊は三頭鼻面を揃えジリジリと前へ押し出して来た。
 が、熊も狼も、容易に飛び付こうとはしなかった。
 その時突然奇蹟が起こった。
 まず一匹の大熊が、葉之助の前へゴロリと寝た。そうして葉之助の足を嘗《な》めた。さも親しそうに嘗めるのであった。つづいて二匹の熊が寝た。そうしてこれも親しそうに、葉之助の手をベロベロ嘗めた。と、狼が走るのを止めて、葉之助の周囲《まわり》へ集まって来た。そうして揃って後脚《あとあし》で坐り、前脚の間へ鼻面を突っ込み、上眼を使って葉之助を見た。それは親し気な様子であった。これはいったいどうしたのだろう? どういう魔術を使ったのだろう? 魔術ではない。奇蹟でもない。これには理由があるのであった。
 葉之助自身は知らないのではあったが、彼は窩人《かじん》の血を受けていた。彼の母は山吹であった。山吹は杉右衛門の娘であった。杉右衛門は窩人の長《おさ》であった。里の商人《あきんど》多四郎と、窩人の娘の山吹とが八ヶ嶽山上|鼓《つづみ》ヶ|洞《ほら》で、恋の生活を営んでいるうちに、孕《みごも》り産んだのが葉之助であった。すなわち幼名猪太郎というのが、彼葉之助に他ならないのであった。
 ところで窩人と山の獣とは、ほとんど友人《ともだち》の仲であった。決して両個は敵同士ではなかった。
 そこでこういう奇蹟めいたことが、切羽《せっぱ》詰まったこんな場合に、両個の間に行われたのであった。
 足を嘗められた葉之助は、ブルッと顫《ふる》えて眼を開いた。そうして奇怪な光景を見た。
 もちろん彼には何んのために、獣達が親《した》しみを見せるのか、解《かい》することが出来なかった。しかしそれらの獣達に、害心のないことは見て取られた。彼は憤然と飛び上がった。瞬間に彼は自分自身に、神力のあることを直感した。奇蹟を行い得る偉大な威力! それがあることを直感した。で、彼は叫び出した。
「熊よ狼よ俺の味方だ! さああいつらをやっつけ[#「やっつけ」に傍点]てくれ! 俺が命ずる。やっつけ[#「やっつけ」に傍点]てしまえ!」
「ウオーッ」と熊は初めて吠えた。そうして門の方へ突進した。
「ウオーッ」と狼群も吠え声を上げた。そうして門の方へ突進した。
 葉之助は猪の檻《おり》を開いた。猪は牙を噛んで突進した。
 尚、いくつかの檻があった。土佐犬の檻、猛牛の檻、そうして、どうして手に入れたものか、一つの檻には豹《ひょう》がいた。しかも雌雄の二頭であった。葉之助はその檻を引きあけた。悲鳴が門の屋根から起こった。
 熊が門を揺すぶった。狼が屋根へ飛び上がった。喚き声、叫び声、泣き声、怒声! 人獣争闘の大修羅場《おおしゅらば》がこうして、邸内に展開された。形勢は一変したのであった。
 読者諸君よ、この争闘を、単に邪教の教会ばかりで演ぜられると思っては間違うであろう。江戸市中一円に向かって、恐ろしい騒動を引き起こしたのである。
 いかに次回が血腥《ちなまぐさ》く、いかに素晴らしい大修羅場が次々に行われ演ぜられるか? いよいよ物語は佳境に入った。

         一七

 奇蹟を行う力があると、葉之助は自分を信ずることが出来た。
 彼は猛獣をけしかけ[#「けしかけ」に傍点]た。
「さあ勇敢にあばれ廻れ! 永い間檻へ入れられて、苦しめられたお前達だ、苦しめた奴を苦しめてやれ! 復讐《ふくしゅう》だ! 念晴らしだ!」
 猛獣は咆吼《ほうこう》した。
 豹は門の屋根へ飛び上がった。
 屋根の上から悲鳴が起こった。
 人のなだれ[#「なだれ」に傍点]落ちる音がした。恐らく男女二人の教主も、なだれ落ちたに相違ない。
 松明の火が瞬間に消えた。
 どこにも人影が見られなかった。
 もう一頭の豹が屋根を越した。
 門の向こう側で悲鳴がした。喚声、罵声、叫声、ヒーッと泣き叫ぶ声がした。
 逃げ迷う人々の足音がした。
 ウオーッという豹の吠え声がした。
 三頭の熊が門の柱を、その強い力で揺すぶった。グラグラと門が揺れ出した。と、屋根の瓦が落ち、扉が砕けて左右に開いた。
 そこから熊が飛び出して行った。
 十数頭の狼が、つづいて門から飛び出した。その後から駈け出したのが、巨大な五頭の猛牛であった。と、三十頭の土佐犬が、葉之助の周囲を囲みながら、後陣《しんがり》として駈け出した。
 入り込んだ所は中庭であった、すなわち第一の中庭であった。
 そこで格闘が行われていた。
 それは人獣の格闘であった。
 人間の死骸が転がっていた。
 食い殺された人間であった。
 半死半生の人間もいた、ある者は掌《て》を合わせ、ある者は跪《ひざまず》き、助けてくれと喚《わめ》いていた。
 葉之助は用捨しなかった。
 猛獣が用捨する筈がない。
 ムラムラと土佐犬は走り掛けた。忽《たちま》ち格闘が行われた。人間は見る見る引き裂かれた。一匹の犬は腕をくわえ、一匹の犬は首をくわえ、一匹の犬は足をくわえ、嬉しそうに尻尾を振った。
 向こうに一団、こっちに一団、取り組み合っている人影があった。熊と、豹と、狼と、取っ組み合っている人間であった。
 みるみる死骸が増えて行った。
 投げ捨てられた松明が、メラメラと焔《ほのお》を上げていた。
 百人余りの一団が、建物の方へ走っていた。教主を守護した信者達が、そこに開いている戸口から、屋内へ逃げ込もうとしているのであった。
 二頭の豹が飛び掛かって行った。数人の者が引き仆《たお》された。が、団体は崩れなかった。遮二無二《しゃにむに》戸口の方へ走って行った。三頭の熊が飛び掛かった。二頭の豹と力を合わせ、信者達を背中から引き仆した。
 殺された者は動かなかった。負傷《ておい》の者は刎《は》ね起きた。そうして団体と一緒になった。
 宗教的信仰の力強さが、そういうところでも窺《うかが》われた。教主を守れ! 教主を守れ! 食い付かれても仆されても、団体から離れようとはしなかった。
 猛獣の群は襲い掛かった。
 十頭の狼が飛びかかった。
 瞬間に十人が食い仆された。しかしみんな[#「みんな」に傍点]飛び起きた。
 教主を守れ! 教主を守れ! 教主を守った一団は、だんだん戸口へ近寄って行った。
 猛獣の群れの襲撃は、益※[#二の字点、1-2-22]惨酷の度を加えた。十二、三人が死骸となった。
 だがとうとう石段まで来た。
 その時牛が走りかかった。
 一団の只中へ角を入れた。
 バラバラと信徒は崩れ立った。
 しかし次の瞬間には、またムラムラと集まった。とまた牛が突き崩した。バラバラと信徒達は崩れ立った。しかし次の瞬間には、またムラムラと集まった。
 教主を守れ! 教主を守れ!
 狼はヒュー、ヒューと宙を飛んだ。豹は人間の頭を齧《かじ》った。猛犬は足へ喰い付いた。
 教主を守れ! 教主を守れ!
 一団は石段を上って行った。
 とうとう彼らは戸口まで来た。
 彼らは家の中へ崩《なだ》れ込んだ。
 熊も豹も狼も、つづいて家の中へ飛び込んだ。土佐犬が続いて飛び込んだ。
 つづいて葉之助も踊り込んだ。
 こうして格闘は中庭から、家の中へ移された。
 蜘蛛手《くもで》に造られてある廊下の諸所で、人獣争闘が行われた。
 猛獣は部屋の中へ混み入った。
 そこでも格闘が行われた。
 鏡葉之助は切って廻った。
 落ちていた刀を拾い取った。右手《めて》に刀|左手《ゆんで》に脇差し、彼は二刀で切り捲くった。彼の周囲には狼や犬が、いつも十数頭従っていた。

         一八

「教主はどこだ、教主をやっつけろ」
 葉之助は探し廻った。
 急に廊下が左へ曲がった。
 と、教主の一団が見えた。真っ黒に塊《かた》まって走っていた。
 葉之助は追い詰めた。
 手近の一人を切り仆した。ワーッという悲鳴が起こり、パッと血汐が左右に飛んだ。
 彼らの中の数人が、にわかに健気《けなげ》にも取って返した。
 葉之助は右剣を斜めに振った。バッタリ一人が床の上へ仆れた。そこへ一人が飛び込んで来た。と、葉之助は左剣で払った。一つの首が床の上へ落ち、ドンという気味の悪い音を立てた。
 後の二人は逃げ出した。すぐに狼が飛びついた。そうして喉笛《のどぶえ》を噛み切った。虚空《こくう》を掴《つか》む指が見えた。
 教主の一団は遠ざかった。
 葉之助は後を追った。
 狼と犬とが従った。
 ふたたび彼らへ追いつこうとした。
 にわかに彼らが立ち止まった。
 彼らの顔は笑っていた。走って来る葉之助を凝視した。悪意を持った嘲笑であった。
 つと[#「つと」に傍点]一人が前へ進み、廊下の壁へ手を触れた。とたんに廊下の板敷が外れ、葉之助は床下へ落ち込んだ。
 彼らはドッと笑声を上げ、そのままドンドン走って行った。
 と、数匹の狼が、ヒュウヒュウと床下へ飛び込んだ。間もなく次々に飛び出して来た。巨大な一匹の狼の背に、葉之助はしがみついていた。彼は左の手を挫《くじ》いていた。動かすことが出来なかった。劇《はげ》しい痛みに堪えられなかった。で、彼は転げ廻った。土佐犬が悲しそうに吠え立てた。
 しかし狼は吠えなかった。葉之助の周囲へ集まって来た。挫いた左の腕の附け根を暖かい舌で嘗め廻した。
 獣には獣の治療法があった。彼ら特色の治療法であった。彼らの唾液《だえき》は薬であった。暖かい舌で嘗め廻すことは、温湿布に当たっていた。鏡葉之助の体には、窩人の血汐が混っていた。
 窩人と獣とは友達であった。
 獣特色の治療法は、一面窩人の治療法でもあった。
 葉之助の痛みは瞬間に止んだ。腕の運動も自由になった。
 彼の勇気は恢復《かいふく》した。
 彼は猛然と立ち上がった。
 それから彼は追っかけた。
 教主達の姿は見えなかった。どうやら廊下を曲がったらしい。葉之助と狼と土佐犬とは、廊下を真っ直ぐに走って行った。と、廊下は右へ曲がった。葉之助も右へ曲がった。彼らの姿は見えなかった。廊下をズンズン走って行った。すると廊下は突き当たった。頑固な石壁が立っていた。
「はてな?」
 と葉之助は途方に暮れた。
「行き止まりだ。途《みち》がない。あいつらはどこへ行ったのだろう?」
 突然一匹の土佐犬が、一声高く咆吼《ほうこう》した。壁に向かって飛び掛かった。
 果然壁に穴が開いた。
 そこに開き戸があったのであった。
 犬はヒラリと飛び込んだ。
 同時にギャッという悲鳴が聞こえた。
 首を切られた犬の死骸が、ピョンと廊下へ刎ね返って来た。
 向こう側に誰かいるらしい。待ち伏せをしているらしい。
 犬達は喧騒《けんそう》した。つづけて二、三匹飛び込もうとした。
「叱《しっ》!」
 と葉之助は手で止めた。
 犬の死骸を抱き上げた。それを戸口から投げ込んだ。つづいて自分も飛び込んだ。
 二人の武士が立っていた。
 颯《さっ》と二人切り込んで来た。チャリンと葉之助は両刀で受けた。一人の刀をポンと刎ね、もう一人の刀を巻き落とした。寄り身になって横へ払った。ワッと一人が悲鳴を上げた。刀を落とされた武士であった。額から鼻まで切り下げられていた。
 ドンと武士はぶっ[#「ぶっ」に傍点]仆れた。狼と犬とが群がりたかっ[#「たかっ」に傍点]た。見る間に寸々に引き裂いた。
「えい」と葉之助は声を掛けた。すぐワッという声がした。もう一人の武士が切り仆された。
 犬と狼とが引き裂いた。

         一九

葉之助は部屋を見廻した。
 それはまさしく閨房《けいぼう》であった。垂《た》れ布《ぎぬ》で幾部屋かに仕切ってあった。どの部屋にも裸体像があった。いずれも男女の像であった。
 多くの男女の信者達は、この部屋でお恵みを受けたのだろう。
 あちこちに脱ぎ捨てた衣裳があった。
 信者達は裸体で逃げ出したと見える。
 部屋部屋には一個ずつ香炉《こうろ》があった。香炉から煙りが立っていた。催淫薬《さいいんやく》の匂いがした。
 反対の側に戸口があった。
 葉之助はそこから出た。
 長い一筋の廊下があった。
 彼はそれを向こうへ渡った。狼と犬とが従った。
 と、独立した塔へ出た。
 教主達はその内へ逃げ込んだらしい。ガヤガヤ騒ぐ声がした。
 葉之助は入り込んだ。
 階段が上へ通じていた。上の方から人声がした。
 で、葉之助は駈け上がった。犬と狼とが従った。
 上り切った所に部屋があった。が、誰もいなかった。階段が上へ通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。で、葉之助は上がって行った。
 上り切った所に部屋があった。しかし誰もいなかった。階段が上へ通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。で、葉之助は上がって行った。
 その結果は同じであった。上り切った所に部屋があった。しかし誰もいなかった。階段が上へ通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。そこで葉之助は勇を鼓《こ》し、それを上へのぼることにした。
 だがその結果は同じであった。上り切った所に部屋があり、部屋には誰もいなかった。
 階段が上に通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。で、葉之助は上ることにした。
 上り切った所に部屋があった。やはり誰もいなかった。階段が上に通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。
 で、またも葉之助は上へ上らなければならなかった。
 上り切った所に部屋があった。そこが頂上の部屋らしかった。上へ通じる階段がなく、頭の上には天井裏があった。
 しかし彼らはいなかった。
 ではどこから逃げたのだろう?
 裏口へ下りる階段口があった。表と裏とに階段が、二条《ふたすじ》設けられていたものらしい。表の階段から逃げ上がり、裏の階段から逃げ下りたらしい。
「莫迦《ばか》な話だ。何んということだ。無駄に体を疲労《つか》れさせたばっかりだ」
 呟きながら葉之助は、裏の階段口へ行って見た。
 彼は思わず「あっ」と云った。肝心の階段が取り外《はず》されていた。
 表の階段口へ行ってみた。またも彼は「あっ」と叫んだ。たった今上って来た階段が、いつの間にか取り外されていた。
「ううむ、さては計られたか!」
 切歯《せっし》せざるを得なかった。
 飛び下りることは出来なかった。階段口は一直線に土台下から最上層まで、真っ直ぐに垂直に穿《うが》たれてあった。で、もし彼が飛び下りたなら、最上層から土台下まで、一気に落ちなければならないだろう。どんなに体が頑丈でも、ひと[#「ひと」に傍点]たまりもなく粉砕されよう。
 彼はゾッと悪寒を感じた。
 急いで窓を開けて見た。
 地は闇にとざされていた。下へ下りるべき手がかりはなかった。
「計られた! 計られた! 計られた!」
 彼は思わず地団駄を踏んだ。
 まさしく彼は計られたのであった。上へ上へと誘《おび》き上げられ、最上層まで上ったところで、彼は一切の階段を、ひっ外されてしまったのであった。
 これは恐るべき運命であった。
 いったいどうしたらよいだろう?
 犬と狼とは騒ぎ出した。彼らは葉之助の後を追い、一緒にここまで上って来た。彼らも恐ろしい運命を、動物特有の直感で、早くも察したものらしい。
 階段口を覗いたり、葉之助の顔を見上げたりした。
 やがて憐れみを乞うように、悲しそうな声で唸り出した。
 葉之助は狼狽した。
 その時一層恐ろしいことが、彼と獣達とを脅《おびや》かした。
 と云うのは階段口から、黒い煙りが濛々《もうもう》と、渦巻き上って来たのであった。

         二〇

 焼き打ち! 焼き打ち! 焼き打ちなのであった!
 邪教徒が塔へ火を掛けたのだ。
 遁がれることは出来なかった。
「残念!」と葉之助は呻《うめ》くように云った。
 窓から外を覗いて見た。カッと外は赤かった。火は四辺《あたり》を照らしていた。今まで夜闇《よやみ》に閉ざされていた真っ黒の大地が明るんで見えた。
 無数の人間の姿が見えた。
 塔の上を振り仰ぎ、指を差して喚《わめ》いていた。踊り廻っている人姿もあった。
「残念!」と葉之助はまた呻いた。
 煙りがドンドン上って来た。物の仆れる音がした。メリメリという音がした。火の粉がパラパラと降って来た。
 塔は土台から焼けているのであった。
 間もなく塔は仆れるだろう。
 そうなったら万事休《おしまい》であった。
 と、その時、狼達が、不思議な所作《しょさ》をやり出した。
 次々に窓際へ飛んで行き、窓から外へ鼻面を出し、「ウオー、ウオー、ウオー、ウオー」と長く引っ張って吠え出した。
 これぞ狼の友呼び声で、深山幽谷で聞く時は、身の毛のよだつ[#「よだつ」に傍点]声であった。
「これは不思議」と葉之助は、窓から下を見下ろした。
 奇怪な事が行われた。いや、それが当然なのかもしれない。
 友呼びの声に誘われたように、あっちからもこっちからも狼が――いや、熊も土佐犬も、そうして豹までも走り出して来た。
 パッと人の群は八方へ散った。
 猛獣の群は塔を見上げ、ウオーッ、ウオーッと咆吼《ほうこう》した。
 そうして体を寄せ合った。
 突然一匹の狼が、葉之助の横顔を斜めに掠《かす》め、窓からヒラリと飛び下りた。
 葉之助はハッとした。
「可哀そうに粉微塵《こなみじん》だ」
 いや、粉微塵にはならなかった。体を寄せ合った獣の上へ、狼の体が落下した。蒲団の上へでも落ちたように、狼の体は安全であった。
 すぐに狼は飛び起きた。そうして仲間の狼へ、自分の体をピッタリと付けた。そうして塔上の侶《とも》を呼んだ。ウオーッ、ウオーッと侶を呼んだ。
 と、葉之助の横顔を掠め、次々に狼が窓から飛んだ。
 みんな彼らは安全であった。
 飛び下りるとすぐに起き直り、仲間の体へくっ付いた。そうして誘うようにウオーッと吠えた。
 塔内の狼は一匹残らず、窓から地上へ飛び下りた。
 葉之助とそうして土佐犬ばかりが、塔の中へ残された。
「よし」
 と葉之助は頷いた。
 一匹の土佐犬を抱き抱《かか》え、窓から下へ投げ下ろした。中途で一つもんどり[#「もんどり」に傍点]打ち、キャンと一声叫んだが、犬は微傷さえしなかった。群がり集まっている仲間の上へ安全に落ちて起き上がった。
 次々に犬を投げ下ろした。
 彼らはみんな安全であった。
 とうとう葉之助一人となった。
 煙りは塔を立ちこめた。
 ユサユサ塔が揺れ出した。
 すぐにも塔は崩れるだろう。
 獣達は彼を呼んだ。飛び下りろ飛び下りろと彼を呼んだ。
 葉之助は決心した。窓縁へ足をかけ、両刀を高く頭上へ上げ、キッと下を見下ろした。
「ヤッ」と彼は一声叫び、窓から外へ身を躍らせた。
 熊の背中が彼を受けた。彼はピョンと飛び上がった。綿の上へでも落ちたようであった。
 とたんに塔が傾いた。火の粉がパラパラと八方へ散った。幾軒かの建物へ飛び火した。あちこちから火の手が上がった。
 大門の開く音がした。
 人の走り出る音がした。
 町の火の見で半鐘《はんしょう》が鳴った。
 四方《あたり》は昼のように明るかった。男女の信者が火の中で、右往左往に逃げ廻った。
 猛獣がそれを追っかけた。
 ふたたび人獣争闘が、焔の中で行われた。
 葉之助は両刀を縦横に揮《ふる》い、当たるを幸い切り捲くった。
 猛獣が彼を警護した。
 彼は大門の前まで来た。門の外は往来であった。それは大江戸の町であった。
 一団の人影が走って行った。教主の一団と想像された。
「それ!」
 と葉之助は声をかけた。猛獣の群が追っかけた。葉之助は直走《ひたはし》った。
 火消しの群が走って来た。町々の人達が駈け付けて来た。
 ワーッ、ワーッと鬨《とき》の声を上げた。
 猛獣の群が走るからであった。
 返り血を浴びた葉之助が、血刀を提げて走るからであった。
 獣の群は狂奔《きょうほん》した。
 おりから空は嵐であった。火が隣家へ燃え移った。

         二一

 教主の一団が走って行った。その後を猛獣が追っかけた。そうしてその後から葉之助が走った。
 深夜の江戸は湧き立った。邪教の道場は燃え落ちた。火が八方へ燃え移った。町火消し、弥次馬、役人達が、四方八方から駈けつけて来た。
 悲鳴、叫喚、怒号、呪詛。……ここ芝《しば》の一帯は、修羅の巷《ちまた》と一変した。

 その同じ夜のことであった。
 遠く離れた浅草は、立ち騒ぐ人も少かった。しかしもちろん人々は、二階や屋根へ駈け上がり、遥かに見える芝の火事を、不安そうに噂した。
「芝と浅草では離れ過ぎていらあ。対岸の火事っていう奴さ。江戸中丸焼けにならねえ限りは、まず安泰というものさ。風邪でも引いちゃあ詰まらねえ、戸締りでもして寝るがいい」
 こんなことを云って引っ込む者もあった。神経質の連中ばかりが、いつまでも芝の方を眺めていた。
 観音堂の裏手の丘から、囁く声が聞こえて来た。
「おい、芝が火事だそうだ」
「江戸中みんな焼けるがいい」
「そうして浮世の人間どもが、一人残らず焼け死ぬがいい」
「そうして俺ら窩人ばかりが、この浮世に生き残るといい」
 夜の闇が四辺《あたり》を領していた。窩人達の姿は朦朧《もうろう》としていた。立っている者、坐っている者、歩いている者、木へ上っている者、ただ黒々と影のように見えた。
 遥か彼方《あなた》の境内《けいだい》の外れに、菰《こも》張りの掛け小屋が立っていた。興行物《こうぎょうもの》の掛け小屋であった。窩人達の出演《で》ている掛け小屋であった。その掛け小屋の入り口の辺に、豆のような灯火《ともしび》がポッツリと浮かんだ。それが走るように近寄って来た。火の玉が闇を縫うようであった。窩人達の側まで来た。それは龕灯《がんどう》の火であった。龕灯の持ち主は老人であった。窩人の長《おさ》の杉右衛門で、杉右衛門の背後に岩太郎がいた。
「時は来た!」と杉右衛門が云った。「水狐族めと戦う時が!」
 窩人達は一斉に立ち上がり、杉右衛門の周囲を取り巻いた。「おい岩太郎話してやれ」杉右衛門が岩太郎にこう云った。
 つと岩太郎は前へ出た。
「みんな聞きな、こういう訳だ。火事だと聞いて見に行った。烏森《からすもり》の辻まで行った時だ、真ん丸に塊まった一団の人数が、むこうからこっちへ走って来た。誰かに追われているようだった。武士《さむらい》もいれば町人もいた。男もいれば女もいた。その時俺は変な物を見た。若い女と若い男だ。人の背中に背負われていた。衣裳の胸に刺繍《ぬいとり》があった。それを見て俺は仰天《ぎょうてん》した。青糸で渦巻きが刺繍《ぬいと》られていたんだ。白糸で白狐が刺繍られていたんだ。水狐族めの紋章ではないか。そいつら二人は孫だったのだ。水狐族の長《おさ》久田の姥《うば》のな! さあ立ち上がれ! やっつけてしまえ! 間もなくこっちへやって来るだろう。敵の人数は二百人はあろう。だが、味方も五十人はいる。負けるものか! やっつけてしまえ! ……俺は急いで取って返した。一人で切り込むのはわけ[#「わけ」に傍点]がなかったが、だがそいつはよくないことだ! あいつらは種族の共同の敵だ! だから皆んなしてやっつけなけりゃあならねえ。掛け小屋へ帰って武器を取れ! そうして一緒に押し出そう」
 窩人達はバラバラと小屋の方へ走った。
 現われた時には武器を持っていた。
 長の杉右衛門を真ん中に包み、副将岩太郎を先頭に立て、一団となって走り出した。
 彼らは声を立てなかった。足音をさえ立てまいとした。妨害されるのを恐れたからであった。
 境内を出ると馬道であった。それを突っ切って仲町へ出た。田原町の方へ突進した。清島町、稲荷町、車坂を抜けて山下へ出、黒門町から広小路、こうして神田の大通りへ出た。
 神田辺りはやや騒がしく、町人達は門へ出て、芝の大火を眺めていた。
 その前を逞《たくま》しい男ばかりの、五十人の大勢が、丸く塊まって通り抜けた。刀や槍を持っていた。
 町の人達は仰天した。だが遮《さえぎ》ろうとはしなかった。その威勢に恐れたからであった。
 芝の火事は大きくなったと見え、火の手が町の屋根越しに、天を焼いて真っ赤に見えた。
 窩人の一団は走って行った。室町を経て日本橋を通って京橋へ出た。
 こうして一団は銀座へ出た。
 と、行手から真っ黒に塊まり、大勢の人影が走って来た。
 それは水狐族と信者とであった。
 こうして二種族は衝突した。
 初めて鬨《とき》の声が上げられた。

         二二

 鏡葉之助はどうしたろう?
 この時鏡葉之助は、裏町伝いに根岸に向かい、皆川町の辺を走っていた。
 彼はたった[#「たった」に傍点]一人であった。獣達の姿は見えなかった。豹も狼も土佐犬も、道々火消しや役人や、町の人達に退治られた。たまたま死からまぬかれ[#「まぬかれ」に傍点]た獣は、山を慕って逃げてしまった。
 だがどうして葉之助は、水狐族の群に追い縋り、討って取ろうとはしないのだろう?
 彼は途中で思い出したのであった。
「殿の根岸の下屋敷を警戒するのが役目だった筈《はず》だ」
 で彼は道を変え、根岸を指して走っていた。雉子《きじ》町を通り、淡路《あわじ》町を通り、駿河台へ出て御茶ノ水本郷を抜けて上野へ出、鶯谷《うぐいすだに》へ差しかかった。
 左右から木立が蔽《おお》いかかり、この時代の鶯谷は、深山《みやま》の態《さま》を呈していた。
 と行手から来る者があった。ひどく急いでいるようであった。空には月も星もなく、その空さえも見えないほどに、木立が頭上を蔽うていた。で四辺は闇であった。
 闇の中で二人は擦れ違った。
「はてな、何んとなく知った人のようだ」
 葉之助は背後《うしろ》を振り返って見た。
 すると擦れ違ったその人も、どうやらこっちを見たようであった。
 が、その人も急いでいれば、葉之助も心が急《せ》いていた。そのまま二人は別れてしまった。
 葉之助は根岸へ来た。
 殿の下屋敷の裏手へ行った。
「あっ」と彼は仰天した。地面に一筋白々と、筋が引かれているではないか。
「しまった!」と彼はまた云った。
 しかし間もなくその筋が、一所《ひとところ》足で蹴散らされ、白粉《はくふん》が四散しているのを見ると、初めて胸を撫で下ろした。
 それと同時に不思議にも思った。
「いったい誰の所業《しわざ》だろう?」
 首を傾げざるを得なかった。
「この白粉の重大な意味は、俺と北山《ほくざん》先生とだけしか知っている者はない筈だ。俺は蹴散らした覚えはない。では北山先生が、今夜ここへやって来て、蹴散らしたのではあるまいか。……おっ、そう云えば鶯谷で、知ったような人と擦れ違ったが、そうだそうだ北山先生だ」
 ようやく葉之助は思い中《あた》った。
「危険が去ったとは云われない。今夜はここで夜明かしをしよう」
 葉之助は決心した。
 体が綿のように疲労《つか》れていた。彼は草の上へ横になった。引き込まれるように眠くなった。
「眠ってはいけない、眠ってはいけない」
 こう思いながらもウトウトと、眠りに入ってしまいそうであった。
 夜風が空を渡っていた。木立に中って習々《しゅうしゅう》と鳴った。それが彼には子守唄に聞こえた。
 彼はとうとう眠ってしまった。

 鶯谷の暗闇で、葉之助と擦れ違った人物は、谷中の方へ走って行った。
 芝の方にあたって火の手が見えた。
「や、これは大きな火事だ」吃驚《びっく》りしたように呟《つぶや》いた。
 それは天野北山であった。
「殿のお屋敷は大丈夫かな?」
 走り走りこんなことを思った。
「葉之助殿はどうしたろう? 殿の下屋敷を警戒するよう、あれほどしっかり[#「しっかり」に傍点]頼んでおいたのに、今夜のような危険な時に、その姿を見せないとは、甚《はなは》だもってけしからぬ[#「けしからぬ」に傍点]次第だ。だがあるいは病気かもしれない。……
 だんだん火事は大きくなるな。行って様子を見たいものだ。だが俺の出府した事は、殿にも家中にも知らせてない。顔を出すのも変な物だ」
 谷中から下谷へ出た。
「さてこれからどうしたものだ。葉之助殿には至急会いたい。窩人の血統だということを教えてやる必要があるようだ」
 火事は漸次《だんだん》大きくなった。下谷辺は騒がしかった。人々は門に立って眺めていた。
「とにかくこっそり[#「こっそり」に傍点]駕籠《かご》へでも乗り、葉之助殿の屋敷を訪ねてみよう。頼みたいこともあるのだからな」
 駕籠屋が一軒起きていた。
「おい、芝までやってくれ」
「へい、よろしゅうございます」
 威勢のいい若者が駕籠を出した。で北山はポンと乗った。
 駕籠は宙を飛んで走り出した。
 銀座手前まで来た時であった。前方にあたって鬨の声が聞こえた。大きな喧嘩《けんか》でも起こったようであった。
「旦那旦那大喧嘩です」
 駕籠|舁《か》きはこう云って駕籠を止めた。
「裏通りからやるがいい」
 駕籠の中から北山が云った。
 そこで駕籠は木挽町《こびきちょう》へ逸《そ》れた。

         二三

 火元はどうやら愛宕下らしい。木挽町あたりも騒がしかった。かてて大喧嘩というところから、人心はまさに兢々としていた。
「火消し同士の喧嘩だそうだ」「いや浅草の芸人と、武士との喧嘩だということだ」「いや賭場が割れたんだそうだ」「いや謀反人だと云うことだ」「いや、一方は芸人で、一方は神様だということだ」「神様が喧嘩をするものか」
 往来に集まった人々は、口々にこんなことを云っていた。
 駕籠はズンズン走って行った。芝口へ出、露月町《ろげつちょう》を通り、宇田川町、金杉橋、やがて駿河守の屋敷前へ来た。
 この辺もかなり騒がしかった。
「ここで下ろせ」
 と北山は云った。
 駕籠から下りた北山は、葉之助の屋敷の玄関へ立った。
 案内を乞うと声に応じ、取り次ぎの小侍が現われた。
「これはこれは北山先生で」
「葉之助殿ご在宅かな」
「いえ、お留守でございます」気の毒そうに小侍は云った。
「ふうむ、お留守か、どこへ行かれたな」
「はいこの頃は毎晩のように、どこかへお出かけでございます」
「ははあさようか、毎晩のようにな」
 ――それではやはり葉之助は、下屋敷へ警戒に行くものと見える。今夜も行ったに相違ない。きっと駈け違って逢わなかったのだろう。
 天野北山はこう思った。
「葉之助殿お帰りになったら、俺《わし》が来たとお伝えくだされ。改めて明朝お訪ね致す」
「大火の様子、ご注意なされ」
 で北山は往来へ出た。
 そうして新しく駕籠を雇い、神田の旅籠屋《はたごや》へ引っ返した。
 葉之助は草の上に眠りこけていた。決して不覚とせめる[#「せめる」に傍点]ことは出来ない、彼は実際一晩のうちに、余りに体を使い過ぎた。これが尋常の人間なら、とうに死んでいただろう。
 だが眠ったということは、彼にとっては不幸であった。
 黒々と空に聳えている森帯刀家の裏門が、この時音もなくスーと開いた。
 忍び出た二つの人影があった。一人は立派な侍で、一人はどうやら町人らしかった。
 地上に引かれた筋に添い、葉之助の方へ近寄って来た。
 間もなく葉之助の側まで来た。
 二人は暗中《あんちゅう》で顔を見合わせた。
「紋兵衛、これで秘密が解った」こう云ったのは武士であった。「ここに眠っているこの侍が、俺《わし》達の計画の邪魔をしたのだ」
「はい、どうやらそんな[#「そんな」に傍点]ようで」
「ここで白粉が蹴散らされている」
「以前にも一度ありました」
「こいつの所業に相違ない」
「莫迦《ばか》な奴だ、眠っております」
「いったいこいつ何者であろう?」
 そこで町人は覗き込んだ。
「おっ、これは葉之助殿だ!」
「何、葉之助? 鏡葉之助か?」
「はい、帯刀様、さようでございます」
「そうか」
 と武士は腕を組んだ。
「鏡葉之助とあってみれば斬ってすてることも出来ないな」
「とんでもないことで。それは出来ません」
「と云って捨てては置かれない」
「私に妙案がございます」
 町人は武士の耳の辺で、何かヒソヒソと囁《ささや》いた。
「うむ、こいつは妙案だ」
「では」と云うと町人は、懐中《ふところ》へスッと手を入れた。取り出したのは白布であった。それを葉之助の顔へ掛けた。
 しばらく二人は見詰めていた。
「もうよろしゅうございましょう」
 町人はこう云うと白布を取った。それから葉之助を抱き上げた。葉之助は死んだように他愛がなかった。
 武士が葉之助の頭を抱え、町人が葉之助の足を持った。
 森帯刀の屋敷の方へ、二人はソロソロと歩いて行った。上野の山に遮《さえぎ》られて、火事の光も見えなかった。根岸一帯は寝静まっていた。
 葉之助を抱えた二人の姿は、文字通り誰にも見られずに、森帯刀家の裏門から、屋敷の中へ消えてしまった。
 闇ばかりが拡がっていた。習々《しゅうしゅう》と夜風が吹いていた。

         二四

 この頃江戸の真ん中では、窩人と水狐族との闘争《たたかい》が、凄《すさま》じい勢いで行われていた。
 種族と種族との争いであった。宗教と宗教との争いであった。先祖から遺伝された憎悪と憎悪とがぶつかり[#「ぶつかり」に傍点]合った争いであった。
 火事の光はここまでも届き、空が猩々緋《しょうじょうひ》を呈していた。家々の屋根が輝いて見えた。
 幾群《いくむれ》かに別れて切り合った。槍、竹槍、刀、棒、いろいろの討ち物が閃めいた。悲鳴や怒号が反響した。
 一群がパタパタと逃げ出した。他の群がそれを追っかけた。逃げた群は路地へ隠れた。他の群はそれを追い詰めた。逃げた群が盛り返して来た。路地で格闘が行われた。
 数人が人家へ逃げ込もうとした。その家では戸を立てた。家人は内からその戸を抑えた。数人がそこへ追っかけて来た。そこでも切り合いが始まった。
 人家の屋根へ上がる者があった。その屋根の上に敵がいた。取っ組んだまま転がり落ちた。
 一人の武士《さむらい》が竹槍で突かれた。それは迷信者の一人であった。他の武士が突進した。竹槍を持った窩人の一人が、武士のために手を落とされた。
 石が雨のように降って来た。額を割られて呻く者があった。
 二、三人パタパタと地へ斃れた。窩人だか水狐族だか解らなかった。死骸を乗り越えて進む者があった。
 岩太郎の武者振りは壮観《みもの》であった。
 藤巻柄の五尺もある刀を、棒でも振るように振り廻した。またたく間に数人を切り斃した。一人の敵が飛びかかって来た。横撲りに叩き伏せた。ムラムラと四、五人が掛かって来た。大廻しに刀を振り廻した。四、五人が後へ逃げ出した。彼は突然振り返った。一人の敵が狙っていた。
「畜生!」と叫ぶと肩を切った。プーッと霧のように血が吹いた。
 杉右衛門は窩人に守られていた。往来の真ん中へ突っ立っていた。声を嗄《か》らして彼は叫んだ。
「大将を討ち取れ! 大将を討ち取れ!」
 彼の顔は光っていた。火事の光が照らしたからであった。彼は槍を提《ひっさ》げていた。その穂先から血が落ちていた。
 水狐族の男女の教主達も、信者に守られて立っていた。二人ながら大声で叫んだ。
「教法の敵! 教法の敵!」
「一人も遁《の》がすな! 一人も遁がすな」
 窩人の群は教主を目掛け、大波のように寄せて行った。しかし途中で遮《さえぎ》られた。
 水狐族の群が杉右衛門を目掛け、あべこべにドッと押し寄せて行った。これも途中で遮られた。
 火事は容易に消えなかった。空は益※[#二の字点、1-2-22]赤くなった。
 火事を眺める群集と、格闘を眺める群集とで、往来は人で一杯になった。
 死骸がゴロゴロ転がった。流された血で道が辷《すべ》った。その血へ火の光が反射した。
 ワーッ、ワーッ、という鬨《とき》の声!
 その時見物が叫び出した。
「それお役人のご出張だ!」
 御用提灯《ごようぢょうちん》が幾十となく、京橋の方から飛んで来た。八丁堀の同心衆が、岡っ引や下っ引を連れて、この時走って来たのであった。
 瞬間に格闘は終りを告げた。
 窩人も水狐族も死骸を担ぎ、八方に姿を隠してしまった。
 しかし二種族の憎悪と復讐心は、決して終りを告げたのではなかった。明治大正の今日に至っても尚二種族は田舎に都会に、あらゆる複雑の組織の下に、復讐し合っているのであった。

 旅籠へ帰って来た北山は、むさくるしい部屋にムズと坐り、何かじっと考え込んだ。
 やおら立ち上がって襖《ふすま》を開けた。押し入れに薬棚《くすりだな》が作られてあった。非常な大きな薬棚で、無数の薬壺が置かれてあった。彼は薬壺を取り出した。
「いや、ともかくも明日にしよう」
 思い返して寝ることにした。
 で、薬壺を棚へ載せ、襖を立てて寝る用意をした。
 翌朝早く眼を覚ました。
 旅籠を出ると駕籠へ乗り、葉之助の屋敷へ急がせた。
 玄関へ立って案内を乞うた。すぐに小侍が現われた。
「葉之助殿ご在宅かな」
「は、昨晩出かけましたきり、いまだにお帰りございません」
「ふうん」と云ったが北山は、小首を傾げざるを得なかった。

         二五

 旅籠へ帰って来た北山は考え込まざるを得なかった。
「葉之助殿はどうしたろう?」
 何んとなく不安な気持ちがした。手を膝《ひざ》へ置いて考え込んだ。
「鶯谷で擦れ違った、昨夜の若い侍は、葉之助殿に相違ない。あれからきっと葉之助殿は、下屋敷警護に行かれたのだろう。さてそれから? さてそれから?」
 ――それからのことは解らなかった。
 だが何んとなく下屋敷附近で、変事があったのではあるまいかと、気づかわれるような節《ふし》があった。
「まさかそんなこともあるまいが、帯刀様のお屋敷へでも誘拐《かどわか》されたのではあるまいか」
 ふとこんなことも案じられた。
「絶対にないとは云われない。彼らの陰謀を偶然のことから、俺が目付けて邪魔をした。白粉を足で蹴散らした。と、その後へ葉之助殿が行った。陰謀組の連中が、どうして陰謀を破られたか。それを調べにやって来る。双方が広場で衝突する。ううむ、こいつはありそうなことだ」
 北山はじっくりと考え込んだ。
「だが鏡葉之助殿は、武道にかけては一種の天才、大概《たいがい》の者には負けない筈だ。しかし多勢に無勢では……無勢も無勢一人では、ひどい[#「ひどい」に傍点]目に合われないものでもない」
 彼は益※[#二の字点、1-2-22]不安になった。
「だがまさか[#「まさか」に傍点]に殺されはしまい」
 とは云えそれとて絶対には、安心することは出来なかった。
「そうだ、これから出かけて行き、広場の様子を見てやろう! 格闘したものなら痕跡《あと》があろう。殺されたものなら血痕があろう」
 で、彼は行くことにした。
 しかしその前に仕事があった。
 薬を調合しなければならない。
 襖を開けると薬棚があった。いろいろの薬を取り出した。薬研《やげん》に入れて粉に砕いた。幾度も幾度も調合した。黄色い沢山の粉薬が出来た。棚から黄袋を取り出した。それへ薬を一杯に詰めた。五合余りも詰めたろう。それをさらに風呂敷に包んだ。それからそれを懐中した。
 編笠を冠って旅籠《はたご》を出た。辻待ちの駕籠へポンと乗った。
「根岸まで急いでやってくれ」
「へい」と駕籠は駈け出した。
「よろしい」と云って駕籠を出た。
 それからブラブラ歩いて行った。
 内藤家のお下屋敷、それを廻って広場の方へ行った。広場の彼方に屋敷があった。帯刀様の屋敷であった。北山は地上へ眼を付けた。一筋引かれた白粉の痕は、もうどこにも見られなかった。その辺は綺麗に平《なら》されていた。格闘したらしい跡もなかった。血の零《こぼ》れたような跡もなかった。
「後片付《あとかたづ》けをしたそうな。これではたとえ格闘をしてもまた斬り合っても証拠は残らぬ……これはいよいよ心配だ」
 北山は佇《たたず》んで考えた。
「思い切って森家へ乗り込もうか、乗り込んで乗り込めないこともない。とにかく一度ではあったけれど、帯刀様にお呼ばれして、おうかがいしたこともあるものだからな」
 だが表向き乗り込んだのでは、葉之助の消息を訊ねることが、不可能のように思われた。
「では乗り込んでも仕方がない」
 彼は思案に余ってしまった。
「この方はもう少し考えることにしよう……もう一つの方を探って見よう」
 浅草の方へ足を向けた。
 奥山は例によって賑わっていた。
「八ヶ嶽の山男」それを掛けている小屋掛けの前で、北山はピタリと足を止めた。
 見れば看板が外されてあった。木戸にも人がいなかった。小屋の口は閉ざされていた、どうやら興行していないらしい。
 と、一人の若者が、戸口を開けて現われた。元気のないような顔をして、ぼんやり外を眺めていた。小屋者であるということは、衣裳の様子ですぐ解った。
 北山はそっちへ寄って行った。
「今日は興行はお休みかね?」何気ないように声を掛けた。
 すると若者は北山を見たが、
「へえ、まあそんな[#「そんな」に傍点]恰好《かっこう》で」云うことが変に煮《に》え切らなかった。
「天気もよければ人も出ている。こんないい日にどうして休んだね?」北山は尚も何気なさそうに訊いた。
 若者はちょっと眉をひそめた。いらざるお世話だと云いたげであった。でも、渋々とこんなことを云った。
「何もね、休みたかあなかったんで……太夫が一人もいないんでね……で、仕方なく休んだんでさあ」

         二六

「ほほう、山男達はいないのかい」失望もし驚きもし、こう北山は大声で云った。「じゃあ山へ帰ったんだね」
「山へ帰ったか里へ行ったか、何んで私が知りますものか」
「で、いつからいないのかな?」
「昨夜《ゆうべ》からでさあ、火事のあった頃から」
「では無断で逃げたんだな」
「逃げたには相違ありませんがね。道具をみんな[#「みんな」に傍点]置いて行ったので、いずれ帰っては来ましょうよ」
「道具?」と北山は眼を光らせた。「で、動物はどうなっている」
「つまりそいつが道具なんで……熊や猿や狼などを、ほったらかし[#「ほったらかし」に傍点]たまま行っちまったんで」
「たしか蛇もいたようだが?」こう探るように北山は訊いた。
「ええおりますよ、幾通りもね」
 北山は懐中へ手を入れた。紙入れを取り出し小粒を摘《つま》み、クルクルとそれを紙へ包んだ。
「少いけれど取ってお置き」
「これは旦那、済みませんねえ」
 小屋者はヒョロヒョロ辞儀をした。
「ところでちょいと頼みがある。動物を見せてはくれまいか」
「へえへえお易いご用です」
 若者は小屋の中へはいって行った。北山は後から従いて行った。
 小屋の中は薄暗く、妙にジメジメと湿っていた。小屋を抜けて庭へ出た。そこに幾個《いくつ》かの檻《おり》があった。いろいろの動物が蠢《うごめ》いていた。
 一つの小さな檻があった。
 その中に五、六匹の小蛇がいた。卯の花のように白い肌へ、陽の光がチラチラとこぼれ[#「こぼれ」に傍点]ていた。一尺ほどの小蛇であった。みんな穏《おとな》しく眠っていた。
 北山はその前で足を止めた。
 それから蛇を観察した。
「ねえ、若衆、綺麗な蛇だね」
 北山は若者へ話しかけた。
「綺麗な蛇でございますな。だが、大変な毒蛇だそうで」若者は恐《こわ》そうに檻を覗いた。
「何んという蛇だか知っているかね」
「山男達が云っていました。信州の国は八ヶ嶽、そこだけに住んでいる宗介蛇《むねすけへび》だってね」
「宗介蛇とは面白いな」北山はちょっと微笑した。
「蘭語でいうとエロキロスというのだ」
「へえ、エロキロス、変な名ですなあ」
「蛇は六匹いるようだね」
「昔は十匹おりましたが、今じゃあ六匹しかおりません。山男達の話によると、三匹がところ、盗まれたそうで」
「十匹で三匹盗まれりゃあ、後七匹いる筈だが、ここには六匹しかいないじゃあないか。後の一匹はどうしたね」
「ああ後の一匹ですか、さっき人が来て買って行きました」
「え?」
 と北山は眼を見張った、「ふうむ、この蛇をな、買って行ったんだな」「へえさようでございますよ」「どんな様子の人間だったな?」「五十恰好の商人風、江戸の人じゃあありませんな。贅沢《ぜいたく》な様子をしていましたよ。田舎の物持ちと云った風で」
 北山は黙って考え込んだ。腹の中で呟《つぶや》いた。
「今夜が危険だ。うっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]は置けない」で彼は卒然と云った。「私《わし》にも蛇を売ってくれ」
「おやおやあなたもご入用なので」
「で、一匹幾らかな」
「さっきのお方は一匹一両で……」
「よし、私《わし》も一両で買おう」
 北山は紙入れを取り出した。小判六枚を掌《てのひら》へ載せた。
「さあ六両、受け取ってくれ」
「へえ、六両? どうしたので?」
「六匹みんな買い取るのさ」
「そいつあどうも困りましたねえ」
 若者は小判と北山の顔とをしばらくの間見比べていた。
「どうして困るな? 困る筈はあるまい」
 しかし若者は頭をかいた。
「どうもね、旦那困りますので。だってそうじゃありませんか、この白蛇は山男の物で、私の物じゃあございません」
「では何故一匹売ったんだ?」北山は叱るように声を強めた。「一匹も六匹も同じじゃあないか」
「いいえ、そんな事はありません。一匹や二匹なら逃げたと云っても、云い訳が立つじゃあありませんか」
「六枚の小判が欲しくないそうな」北山は小判を掌の上で鳴らした。「……死んだと云えばいいじゃないか」
「でも死骸がなかったひには」尚若者は躊躇《ちゅうちょ》した。しかしその眼は貪慾《どんよく》らしく、小判の上に注がれた。
「いや死骸ならくれてやるよ」
 北山は小判を突き付けた。「それなら文句はないだろう」

         二七

 若者は小判を手に受けた。
「どうしてご持参なさいます?」
「持って帰るには及ばないよ」
 北山は懐中から黄袋を出した。「食い合いっ振りが見たいのさ」
 黄袋の口を檻の上へ傾《かし》げた。粉薬をサラサラと檻の中へこぼし[#「こぼし」に傍点]た。だが全部《みんな》はこぼさ[#「こぼさ」に傍点]なかった。半分がところで止めてしまった。
 粉薬が六匹の蛇へかかった。蛇は一斉に鎌首を上げた。プーッと頬を膨《ふく》らせた。全身をウネウネと蜒《うね》らせた。真っ直ぐに体を押っ立てた。長い蝋燭《ろうそく》が立ったようであった。俄然六匹は食い合いを始めた。
 ゾッとするような光景であった。
 まず一匹が咽喉《のど》を咬まれた。白い体が血にまみれ[#「まみれ」に傍点]た。と、グンニャリと倒れてしまった。長く延びて動かなくなった。死骸の上をのたくり[#「のたくり」に傍点]ながら、五匹の蛇は格闘をつづけた。また二匹目が食い殺された。つづいて三匹目が食い殺された。尚三匹は戦っていた。だが次々に死んで行った。最後の一匹も死んでしまった。
 若者は拳を握りしめていた。
 北山は気味悪く微笑した。
「まずこれで安心した……悪人の媒介《ばいかい》も根絶やしになった……そうして薬の利き目も解った……それじゃあご免よ。私は帰る」
 黄袋を懐中《ふところ》へ押し入れて、北山は小屋から外へ出た。

 やがてこの日の夜が来た。
 鏡葉之助は眼を覚ました。
 そこは真っ暗の部屋らしかった。
 葉之助の全身は弛《だる》かった。ひどく頭が茫然《ぼんやり》していた。手足の節々が痛かった。
「いったいここはどこだろう? 確かに自分の家ではない。……いつから俺は眠ったんだろう? ……一年も眠ったような気持ちがする」
 彼は四辺《あたり》を見廻した。灯火《ともしび》のない部屋の中には、人のいるらしい気勢《けはい》もなかった。彼はじっと考え込んだ。
「……それでも漸次《だんだん》思い出す……俺は最初に女を助けた。女を送って屋敷へ行った。大槻玄卿《おおつきげんきょう》の屋敷だった。それから毒を飲まされた。それから地下へ埋められた。それから地下の横穴を通った。それから水狐族の怪殿へ行った。それからウント奮闘した。それから町へ飛び出した。それから根岸へ警護に行った。地上に例の白粉があった。それから俺は広場で眠った。ではここは広場なのか?」
 彼は掌《てのひら》で探って見た。地面の代りに畳が触れた。
「いややはり家の中だ……それにしてもいったい何者が、いつ俺をこんな家の中へ、俺に知らせずに担ぎ込んだのだろう? ……人に担がれても知らないほど、眠っていたとは呆れ返るな……とにかく屋敷の様子を見よう」
 葉之助は立ち上がった。
 まず正面へ歩いて行った。そこには正しく床の間があった。ズッと右手へ歩いて行った。と、手先に襖がさわった。それをソロソロと引き開けた。出た所に廊下があった。その廊下を左手へ進んだ。幾個かの部屋が並んでいた。と、丁字形の廊下となった。網を掛けた雪洞《ぼんぼり》があった。
「大名か旗本の下屋敷だな」
 葉之助は直覚した。
 廊下の行き詰まりに庭があった。で、庭へ下りて行った。植え込みが隙間なく植えてあった。それを潜って忍びやかに歩いた。
 深夜と見えて人気がなかった。時々|鼾《いびき》の声がした。
 黒板塀がかかっていた。その根もとに蹲《うずく》まり、二人の人間が囁き合っていた。
 葉之助は素早く身を隠した。二人の話を聞こうとした。
 間が遠くて聞こえなかった。で、植え込みの間を潜り、ソロソロと二人へ近寄った。月が二人の真上にあった。二人の姿は朦朧《もうろう》と見えた。二人ながら覆面《ふくめん》をし、目立たない衣裳を纏《まと》っていた。一人は大小を差していた。しかし一人は丸腰であった。
 断片的に話し声が聞こえた。
「……恐らく今夜は邪魔はあるまい」
 武士の方がこう云った。
「……今夜は大丈夫でございましょう」
 町人の方がこう答えた。
「……ではソロソロ放そうか」
「それがよろしゅうございましょう」
「……薬は確かに撒いたろうな」
「その辺如才はありません」
 ここでしばらく話が絶えた。
 町人が棒を取り上げた。側に置いてあった棒であった。どうやら太い竹筒らしい。
 武士は二、三歩後へ退がった。町人は注意深く及び腰をした。
 町人はソロソロと手を延ばし、竹筒の先の臍《ほぞ》を取った。素早く竹筒を地上へ置いた。そうしてサッと後へ退がった。
 二人の前から白粉が、一筋塀裾へ引かれていた。塀の一所に穴があった。穴を通って白粉が、戸外《そと》の方まで引かれていた。
 と、微妙な音がした。口笛でも吹くような音であった。竹筒の中からスルスルと、一筋の白い紐が出た。白粉の上を一散に、塀の外へ走り出した。
「あっ」
 と葉之助は声を上げた。植え込みから飛び出した。そうして町人へ組み付いた。

         二八

「あっ」
 と今度は町人が叫んだ。
「誰だ?」
 と武士が叱咤《しった》した。
 町人は葉之助を突き飛ばそうとした。が、葉之助は頸首《えりくび》を捉え、ギューッと地面へ押し付けた。
 突然武士が刀を抜いた。ヒョイと葉之助は後へ退いた。刀は町人の首を切った。ヒーッと町人が悲鳴を上げた。
「しまった!」と武士は刀を引いた。
 その時笛の音が帰って来た。塀の口から白い蛇が、荒れ狂って飛び込んで来た。手近の武士へ飛びかかった。
「ワッ」
 と武士は悲鳴を上げた。ヨロヨロと塀へもたれかか[#「もたれかか」に傍点]った。白蛇も精力が尽きたと見え、体を延ばして動かなくなった。
 ガックリ武士は首を垂れた。前のめり[#「のめり」に傍点]に地に斃れた。
 町人と武士、そうして白蛇、三つの死骸を月が照らした。
 不意に女の笑い声がした。
「多四郎! 多四郎! 思い知ったか! 妾《わたし》の怨みだ! 妾の怨みだ!」
 葉之助は四辺を見廻した。女の姿は見えなかった。だが声は繰り返した。
「猪太郎! 猪太郎! よくおやりだ! お礼を云うよ、お母さんからね」
 声はそのまま止んでしまった。
 気が附いて葉之助は腕を捲くった。二の腕に出来ていた二十枚の歯形――人面疽《にんめんそ》が消えていた。
 屋敷の中が騒がしくなった。人の走って来る気勢《けはい》がした。
 葉之助は塀へ手を掛けた。身を翻《ひるがえ》すと塀を越した。
 広場を横切って町の方へ走った。
 と、誰かと衝突した。
「これは失礼」「これは失礼」
 云い合い顔を隙《す》かして見た。
「や、これは北山先生!」
「おお、これは葉之助殿!」
「先生には今時分こんな所に?」
「万事は後で……ともかく一緒に……」
 二人は町の方へ走って行った。

 その翌日のことであった。神田の旅籠屋《はたごや》北山の部屋で、北山と葉之助とが話していた。
「……窩人《かじん》に云わせると宗介蛇、蘭語で云うとエロキロス、これは珍らしい毒蛇で、これに噛まれると、一瞬間に死んでしまう。しかも少しも痕跡《あと》を残さない。この毒蛇の特徴として、茴香剤《ういきょうざい》をひどく[#「ひどく」に傍点]好む。そいつを嗅《か》ぐと興奮する。で、例の白粉だが、云うまでもなく茴香剤なのさ、大槻玄卿が製したものだ。
 ところが一昨日《おとつい》の晩のことだ。浅草観音の境内へ行き、偶然窩人達の話を聞いた。毒蛇を盗まれたと云っていた。はてな[#「はてな」に傍点]と俺は考えた。考えながら根岸へ行った。と、白粉が引かれてあった。口笛のような音がして、紐《ひも》のようなものが走って来た。そこで初めて感附いたものさ……エロキロスは、茴香剤を嗅がされると、喜びの余り音を立てる、一種歓喜の声なのだ……つまり三人の悪党どもは、森家から内藤家の寝所まで、茴香剤の線を引き、その上をエロキロスを走らせて、若殿を咬ませたのさ……ところで毒蛇エロキロスは、一度|丹砂剤《たんしゃざい》を嗅がされると、発狂をして死んでしまう。それを私《わし》は利用した。で昨夜根岸へ行った。すると白粉が引いてあった。そこで俺はその一所《ひとところ》へ、丹砂剤をうんと振り撒いたものさ。案の定エロキロスは走って来たが、そこまで来ると発狂し、元来た方へ引き返して行った」
「いかにもさようでございました。馳せ返って来た毒蛇は、帯刀様へ食い付きました」葉之助は頷いた。
「帯刀様の刃《やいば》で、紋兵衛も殺されたということだな」
「まずさようでございます。だが本来帯刀様は、私を切ろうとなすったので。それを私が素早く紋兵衛を盾に取ったので、いわば私が殺したようなもので」
「それはそうと葉之助殿、貴殿の幼名は猪太郎という、どうやら窩人の血統を受け継いでいるように思われる。母は、窩人の長《おさ》の杉右衛門の娘、山吹であったということだ。父は里の者で、多四郎という若者だそうだ……そのうち窩人と逢うこともあろう、よく聞き訊《ただ》してご覧なされ。これも一昨夜浅草で、山男、すなわち窩人どもから、偶然聞いた話でござるよ」
「母は山吹、父は多四郎、そうして私の幼名が、猪太郎というのでございますな? そうして八ヶ嶽の窩人の血統? ううむ」と葉之助は腕を組んだ。

         二九

 翌日鏡葉之助は、蘭医大槻玄卿の、悪逆非道の振る舞いにつき、ひそかに有司《ゆうし》へ具陳《ぐちん》した。
 その結果町奉行の手入れとなり、玄卿邸の茴香畑は、人足の手によって掘り返された。はたして幾人かの男女の死骸が、土の下から現われた。で玄卿は召し捕られ、間もなく磔刑《はりつけ》に処せられた。
 だが邪教水狐族の、秘密の道場へつづいていた、地下の長い横穴については、事実大槻玄卿も、知っていなかったということである。では恐らくその穴は、ずっと昔の穴居時代などに、作られたところの穴かも知れない。
 だがマアそれはどうでもよかろう。
 さて鏡葉之助は、それからどんな生活をしたか?
「いつまでも年を取らないだろう。……永久安穏はあるまいぞよ」
 水狐族の長《おさ》久田の姥《うば》が、末期に臨んで呪った言葉――この通りの生活が、葉之助の身には繰り返された。
 彼はいつまでも若かった。心がいつも不安であった。
 今日の言葉で説明すれば、強迫観念とでも云うのであろう。絶えず何者かに駈り立てられていた。
 そうしてかつて高遠城下で、夜な夜な辻斬りをしたように、またもや彼は江戸の市中を、血刀を提げて毎夜毎夜、彷徨《さまよ》わなければならないようになった。
 八山下《やつやました》の夜が更《ふ》けて、品川の海の浪も静まり、高輪《たかなわ》一帯の大名屋敷に、灯火一つまばたいてもいず、遠くで吠える犬の声や、手近で鳴らす拍子木の音が、夜の深さを思わせる頃、急ぎの用の旅人でもあろう、小田原提灯《おだわらぢょうちん》で道を照らし、二人連れでスタスタと、東海道の方へ歩いて行った。
 と、木陰から人影が出た。
 無紋の黒の着流しに、お誂《あつら》い通りの覆面頭巾、何か物でも考えているのか、俯向《うつむ》きかげんに肩を落とし、シトシトとこっちへ歩いて来た。
 と、双方行き違おうとした。
 不意に武士は顔を上げた。
 つづいて右手《めて》が刀の柄へ、……ピカリと光ったのは抜いたのであろう。「キャッ」という悲鳴。「ワーッ」と叫ぶ声。つづいて再び「キャッ」という悲鳴。……地に転がった提灯が、ボッと燃え上がって明るい中に、斃れているのは二つの死骸。……斬り手の武士は数間の彼方《あなた》を、影のようにションボリと歩いていた。
 他ならぬ鏡葉之助であった。
 浅草の観世音、その境内の早朝《あさまだき》、茶店の表戸は鎖《と》ざされていたが、人の歩く足音はした。朝詣《あさまい》りをする信者でもあろう。
 一本の公孫樹《いちょう》の太い幹に、背をもたせ[#「もたせ」に傍点]かけて立っているのは、編笠姿《あみがさすがた》の武士であった。
 一人の女がその前を、御堂《みどう》の方へ小走って行った。
 武士がヒョロヒョロと前へ出た。居合い腰になった一瞬間、日の出ない灰色の空を切り、紫立って光る物があった。とたんに「キャッ」という女の悲鳴。首のない女の死骸が一つ、前のめりに転がった。ドクドクと流れる切り口からの血! 深紅の水溜りが地面へ出来た。
 だが斬り手の武士は、公孫樹の幹をゆるやかに廻り、雷門の方へ歩いて行った。鳩の啼き声、賽銭《さいせん》の音、何んの変ったこともない。
 両国橋の真ん中で、斬り仆された武士があった。
 笠森の茶店の牀几《しょうぎ》の上で、脇腹を突かれた女房があった。
 千住の遊廓《くるわ》では嫖客《ひょうかく》が、日本橋の往来では商家の手代が、下谷池之端《したやいけのはた》では老人の易者が、深川木場では荷揚げ人足が、本所|回向院《えこういん》では僧が殺された。
 江戸は――大袈裟な形容をすれば、恐怖時代を現じ出した。
 南北町奉行が大いに周章《あわ》てて、与力同心岡っ引が、クルクル江戸中を廻り出した。
 どうやら物盗りでもなさそうであり、どうやら意趣斬りでもなさそうであり、云い得べくんば狂人《きちがい》の刃傷、……こんなように思われるこの事件は、有司にとっては苦手であった。
 で容易に目付からなかった。
 まさか内藤家の家老の家柄、鏡家の当主葉之助が、辻斬りの元兇であろうとは、想像もつかないことである。
 だがやがてパッタリと、辻斬り沙汰がなくなった。
 内藤駿河守が江戸を立って、伊那高遠へ帰ったからであった。
 だが内藤家の行列が、塩尻の宿へかかった時、一つの事件が突発した。と云っても表面から見れば別に大したことでもなく、鏡葉之助が供揃《ともぞろ》いの中から、にわかに姿を眩《くら》ましただけであった。
 鏡家は内藤家では由緒ある家柄、その当主が逃亡したとあっては、うっちゃって置くことは出来なかった。
 八方へ手を分けて捜索した。しかし行方は知れなかった。

         三〇

 彼はいったいどうしたのだろう? いったいどこへ行ったのだろう?
 彼は八ヶ嶽へ行ったのであった。
 彼は母山吹の故郷《さと》! 彼《か》の血統窩人の部落! 信州八ヶ嶽笹の平へ、夢遊病者のそれのように、フラフラと歩いて行ったのであった。
 塩尻から岡谷へ抜け、高島の城下を故意《わざ》と避け、山伝いに湖東村を通り、北山村から玉川村、本郷村から阿弥陀ヶ嶽、もうこの辺は八ヶ嶽で、裾野《すその》がずっと開けていた。
 三日を費やして辿《たど》り着いた所は、笹の平の盆地であった。
 以前《まえかた》訪ねて来た時と、何んの変わったこともない。窩人達の住居《すまい》には人気なく、宗介天狗の社殿《やしろ》には裸体の木像が立っていた。
 まじまじ[#「まじまじ」に傍点]と照る陽の光、こうこう[#「こうこう」に傍点]と鳴く狐の声、小鳥のさえずり、風の音、深山の呼吸《いき》が身に迫った。
 しかし一人の窩人達も、そこには住んでいなかった。
 葉之助は拝殿へ腰をかけ、四辺の風物へ眼をやった。
 と、その時聞き覚えのある、男の声が聞こえて来た。
「猪太郎、猪太郎、よく参った」
 拝殿の奥の木像の蔭から、一人の人物が現われた。白衣長髪の白法師であった。
「おおあなたは白法師様」葉之助は立って一揖《いちゆう》した。
「大概《たいがい》来るだろうと思っていたよ」
 葉之助と並んで白法師は、拝殿の縁へ腰をかけた。
「どうだ葉之助、昔の素姓が、ようやくお前にも解ったろう」
「はい、ようやくわかりました。……母は窩人で山吹と云い、父は里の商人で、多四郎と云うことでございます」
「だが多四郎の後身が、大鳥井紋兵衛だとは知るまいな」
「えっ」と葉之助は眼を瞠《みは》った。「あの紋兵衛が私の父で?」
「そうだ」と白法師は頷いた。「詳しく事情を話してやろう」
 そこで白法師は話し出した。
 多四郎が山吹を瞞《だま》したこと、山吹が猪太郎を産んだこと、多四郎に怨みを返そうと、山吹が猪太郎の二の腕へ、二十枚の歯形を付けたこと、多四郎の真の目的は、宗介天狗の木像の、黄金の甲冑を盗むことで、それを盗んだ多四郎は、それを鋳潰《いつぶ》して売ったため、にわかに富豪になったこと、その甲冑を取り返すため、窩人達が人の世へ出て行ったこと、こうして多四郎の紋兵衛は、間接でもあり偶然でもあるが、とにかく葉之助に殺されたこと。さて窩人は葉之助の手で、多四郎の命は絶ったけれど、宗介天狗の甲冑を、取り返すことは出来なかったので、故郷八ヶ嶽へは帰ることが出来ず、今も諸国を流浪していること。――
 これが白法師の話であった。
「久田の姥《うば》の執念は、私の力でもどうすることも出来ない。で、お前はいつまでも若く、いつまでも不安でいなければならない。……だがこれだけは教えることが出来る。お前はお前の力をもって久田の姥の執念を、あべこべに利用することが出来る」
「あべこべに利用すると申しますと?」葉之助は反問した。
「それは自分で考えるがいい」

 白法師と別れ、八ヶ嶽を下り、人里へ出た葉之助は、高遠城下へは帰らずに、何処《いずこ》とも知れず立ち去った。
 爾来《じらい》彼の消息は、杳《よう》として知ることが出来なかった。
 時勢はズンズン移って行った。
 天保が過ぎて弘化となり、やがて嘉永となり安政となり、万延、文久、元治、慶応、そうして明治となり大正となった。
 この物語に現われた、あらゆる人達は一人残らず、地球の表から消えてなくなり、その人達の後胤《こういん》ばかりが、残っているという事になった。
 しかし本当に久田の姥の、あの恐ろしい呪詛の言葉が、言葉通り行われているとしたら、主人公の鏡葉之助ばかりは、依然若々しい容貌をして、今日も活《い》きていなければならない。
 だがそんな[#「そんな」に傍点]事があり得るだろうか?
 あらゆる不合理の迷信を排斥《はいせき》している科学文明! それが現代の社会である。スタイナッハの若返り法さえ、怪しくなった今日である。天保時代の人間が、活きていようとは思われない。

         三一

 大正十三年の夏であった。
 私、――すなわち国枝史郎は、数人の友人と連れ立って、日本アルプスを踏破した。
 三千六百〇三尺、奥穂高の登山小屋で、愉快に一夜を明かすことになった。
 案内の強力《ごうりき》は佐平と云って、相当老年ではあったけれど、ひどく元気のよい男であった。
「こんな話がありますよ」
 こう云って佐平の話した話が、これまで書きつづけた「八ヶ嶽の魔神」の話である。
「ところで鏡葉之助ですがね、今でも活きているのですよ。この山の背後蒲田川の谿谷《たにあい》、二里四方もある大盆地に、立派な窩人町を建てましてね、そこに君臨しているのです。決して嘘じゃあありません。もし何んならご案内しましょう。もっとも町までは行けません。四方が非常な断崖で、下って行くことが出来ないのです。せいぜいその町を眼の下に見る、十石ヶ嶽の中腹ぐらいしか、ご案内することは出来ますまい。……とても立派な町でしてね、洋館もあれば電灯もあり、人口にして一万以上、ただし外界とは交通遮断、で、自然詳しいことは、知れていないという訳です」
「だが」と私は訊いて見た。「いつどうして葉之助が、そんな所へ行ったんだね」
「明治初年だということです。漂浪している窩人の群と、甲州のどこかで逢ったんだそうです。もちろんその時は窩人達は、幾度か代が変わっていて、杉右衛門も岩太郎も死んでしまい、別の杉右衛門と岩太郎とが、引率していたということですがね。そこで葉之助は云ったそうです。ありもしない宗介の甲冑など、いつまでも探すには及ぶまい。窩人――もっともその頃は、山窩《さんか》と云われていたそうですが、――山窩、山窩と馬鹿にされ、世間の人から迫害され、浮世の裏ばかり歩くより、いっそ一つに塊まって、山窩の国を建てた方がいいとね。……そこで皆んなも賛成し、鏡葉之助の指揮に従い、奥穂高へ行ったのだそうです」
 私の好奇心は燃え上がった。で、翌日案内され、十石ヶ嶽まで行くことにした。
 道は随分|険《けわ》しかったが、それでもその日の夕方に、十石ヶ嶽の中腹まで行った。
 眼の下に広々とした谿谷《たに》があり、夕べの靄《もや》が立ちこめていた。しかしまさしくその靄を破って、無数の立派な家々や、掘割に浮かんでいる船が見えた。そうして太陽が没した時、電灯の輝くのが見て取れた。
 夢でもなければ幻でもなかった。
 彼らの国があったのである。
 噂によれば、金木戸川《きんきどがわ》の上流、双六谷《すごろくだに》にも人に知られない、相当大きな湖水があり、その周囲には、水狐族の、これも立派な町があり、そうして依然二種族は、憎み合っているということである。
 いつまでも活きている鏡葉之助、人間の意志の権化《ごんげ》でもあり、宇宙の真理の象徴でもある。
 永遠に活きるということは、何んと愉快なことではないか。
 しかし永遠に活きるものは、同時に永遠の受難者でもある。
 そうしてそれこそ本当の、偉大な人間そのもの[#「そのもの」に傍点]ではないか。
 それはとにかく私としては、自分自身へこんなように云いたい。
「ひどく浮世が暮らしにくくなったら、構うものか浮世を振りすて、日本アルプスへ分け上り、山窩国の中へはいって行こう。そうして葉之助と協力し、その国を大いに発展させよう。そうして小うるさい[#「うるさい」に傍点]社会と人間から、すっかり逃避することによって、楽々と呼吸《いき》を吐《つ》こうではないか」と。
 私の故郷は信州諏訪、八ヶ嶽が東南に見える。
 去年の秋にたった[#「たった」に傍点]一人で、笹の平へ行って見た。天保時代の建物たる宗介天狗の拝殿も、窩人達の住居もなかったが、その礎《いしずえ》とも思われる、幾多の花崗石《みかげいし》は残っていた。
 その一つへ腰を下ろし、瞑想《めいそう》に耽《ふけ》ったものである。
 秋の日射しの美しい、小鳥の声の遠く響く、稀《まれ》に見るような晴れた日で、枯草の香などが匂って来た。
「静かだなあ」と私は云った。
 不幸な恋をした山吹のことが、しきり[#「しきり」に傍点]に想われてならなかった。
 多四郎の不純な恋に対する、憤りのようなものが湧いて来た。
「浮世の俗流というものは全くもって始末が悪い。天狗の甲冑を盗むばかりか、乙女の心臓をさえ盗むんだからなあ」などと感慨に耽ったりした。
                                (完)

        

   高遠城下の巻

         一

「先生、いかがでございましょう? すこしはよろしいのでございましょうか?」
「さよう、よいかも知れませんな」
「よろしくないのでございましょうか?」
「さよう、よくないかも知れませんな」
「では、どちらなのでございましょう?」
「さよう」
 と云ったまま返辞をしない。
 奥方お石殿は不安そうにじっ[#「じっ」に傍点]とその様子を見守っている。それからまたも聞くのであった。
「先生、いかがでございましょう? すこしはよろしいのでございましょうか?」
「さよう、よろしいかもしれませんな」
「よろしくないのでございましょうか」
「奥!」
 と良人《おっと》弓之進は見兼ねて横から口を出した。
「先生には先生のお考えがある。そういつまでもお尋ねするはかえって失礼にあたるではないか」
「はい。失礼致しました」お石はそっと涙を拭きつつましく[#「つつましく」に傍点]後《あと》へ膝を退《の》けた。
 部屋の中がひとしきり寂然《しん》となる。
「ちょっとお耳を……」
 と云いながら蘭医《らんい》北山《ほくざん》が立ったので続いて弓之進も立ち上がった。二人は隣室へはいって行く。
「あまり奥方がご愁嘆《しゅうたん》ゆえ申し上げ兼ねておりましたが、とても病人は癒《なお》りませんな」
「ははあ、さようでございますかな。定命《じょうみょう》なれば止むを得ぬこと」
「蘭学の方ではこの病気を急性肺炎と申します。今夜があぶのうございますぞ」
「今夜?」とさすがに弓之進も胆《きも》を冷やさざるを得なかった。
「いずれ後刻、再度来診」
 こう云って北山の帰った後は火の消えたように寂しくなった。
 二人の中の一粒種、十一歳の可愛い盛り、葉之助は大熱に浮かされながら昏々《こんこん》として眠っている。
「もし、ほんとに死にましょうか?」お石はほとんど半狂乱である。
「天野北山は蘭医の大家、診察《みたて》投薬神のような人物、死ぬと云ったら死ぬであろう」弓之進も愁然と云う。
 二人は愛児の枕もとからちょっとの間も離れようとはしない。
「それでもあなた、この葉之助は、授《さずか》り児《ご》ではございませぬか」お石は咽《むせ》びながらまた云い出す。「ご一緒になってから二十年、一人も子供が出来ないところから、荒神様《あらがみさま》ではあるけれど、諏訪八ヶ嶽の宗介天狗様へ、申し児をせいと人に勧められ、祈願をかけたその月から不思議に妊娠《みごも》って産み落としたのが、この葉之助ではございませぬか。授り児でございます。その授り児が十や十一でどうして死ぬのでございましょう? いえいえ死には致しませぬ、いえいえ死には致しませぬ」
 お石は畳へ突っ伏した。
 すると不意に葉之助がムックリ床の上へ起き上がった。
「代りが来るのだ、代りが来るのだ! 次に来る者はさらに偉い!」
 叫んだかと思うとバッタリ仆《たお》れそのまま呼吸《いき》を引き取ってしまった。

 こうしてが六月《むつき》が過ぎて行った。
「あなた、元気をお出し遊ばせ」
「奥、お前こそ元気をお出し」
 などと夫婦で慰め合うようになった。
「江戸から大歌舞伎が来たそうだ。どうだなお前|観《み》に行っては」
「はい、有難う存じます。それより秋になりましたゆえお好きの山遊びにおいで遊ばせ」
「うん、山遊びか、行ってもよいな」
「明日にもお出掛け遊ばすよう」
「北山殿もお好きであった。ひとつ誘って見ようかな」
「それがよろしゅうございます」
 そこで使いを立ててみると喜んで同行《ゆく》という返辞であった。
 その翌日は秋日和《あきびより》、天高く柿赤く、枯草に虫飛ぶ上天気であった。
 まだ日の出ないそのうちから三人の弟子を引き連れて天野北山はやって来た。
「鏡氏、お早うござる」
「北山先生、お早いことで」
 双方機嫌よく挨拶する。
 若党|使僕《こもの》五人を連れ他に犬を一頭曵き、瓢《ひさご》には酒、割籠《わりご》には食物、そして水筒には清水を入れ、弓之進は出《い》で立った。
 奥様は玄関へ手をつかえ、
「ごゆっくり」と云って頭《つむり》を下げる。
「奥、それでは行ってくるぞ」
 で、一行は門を出た。
 間もなく野良路へ差しかかる。ザクザクと立った霜柱、それを踏んで進んで行く。

         二

 的場、野笹、長藤村、それから目差す鉢伏山だ。
 鉢伏山の中腹で一同割籠をひらくことになった。見渡す限りの満山の錦、嵐が一度《ひとたび》颯《さっ》と渡るや、それが一度に起き上がり億万の小判でも振るうかのように閃々燦々《せんせんさんさん》と揺れ立つ様はなんとも云われない風情《ふぜい》である。
「よろしゅうござるな」
「いや絶景」
 と、弓之進も北山も満足しながら瓢の酒を汲み合った。
 その時突然供の者どもが一度にワッと立ち上がった。
「熊! 熊!」と騒ぎ立つ。
「何、熊?」と弓之進は、若党の指差す方角を見ると横手の谷の底に当たって真っ黒の物が蠢《うごめ》いている。いかさま熊に相違ない。あっ[#「あっ」に傍点]と見るまに大熊はこっちを目掛けて駈け上がって来る。
「金吾、弓を!」と弓之進は若党を呼んで弓を取った。名に負う鏡弓之進は、高遠《たかとお》の城主三万三千石内藤|駿河守《するがのかみ》の家老の一人、弓は雪河流《せっかりゅう》の印可《いんか》であるが、小中黒《こなかぐろ》の矢をガッチリとつがえキリキリキリと引き絞ったとたん、
「待った待った射っちゃいけねえ!」
 鋭い声が聞こえて来た。
 何者とばかり放す手を止め声のした方をきっと見ると、ひと群《むら》茂った林の中から裸体《はだか》の壮漢が飛び出して来た。信濃《しなの》の秋は寒いというに腰に毛皮を纏《まと》ったばかり、陽焼けて赤い筋肉を秋天の下に露出させ自然に延ばしたおどろ[#「おどろ」に傍点]の髪を房々と長く肩に垂れ、右手《めて》に握ったは山刀、年はおよそ十七、八、足には革草鞋《かわわらじ》を穿いている。
「射《や》っちゃアいけねえ射っちゃいけねえ! ここで射《や》られてたまるものか。せっかく俺《おい》らが骨を折って八ヶ嶽から追い出して来た熊だ。他人《ひと》に取られてたまるものか……さあ野郎観念しろ! いいかげん手数をかけやがって! 猪太郎様の眼を眩《くら》ませうまうま他領へ逃げようとしたってそうは問屋でおろさねえ!」
 詈《ののし》り詈り熊を追い、追い縋《すが》ったと思ったとたんパッと背中へ飛び乗った。
「オーッ」と熊も一生懸命、後脚で立って振り落とそうとする。
「どっこいどっこいそうはいかねえ! これでも喰らって斃《くたば》りゃあがれ!」
 キラリ山刀が閃《ひらめ》いたかと思うと月《つき》の輪《わ》の辺から真っ赤な血が滝のように迸《ほとばし》った。
「オーッ」と熊はまた吠えたがこれぞ断末魔の叫びであったかドタリと横へ転がった。
「どうだ熊公驚いたか。一度俺に睨まれたが最後トドの詰まりはこうならなけりゃならねえ。アッハハハ、いい気持ちだ。どれ皮でも剥《は》ごうかい」
 熊の死骸を仰向けに蹴り返しその前へむずと膝を突くとブッツリ月の輪へ山刀を刺した。と、その時、どうしたものか俄然《がぜん》空を仰いだが、
「お母様!」
 と一声叫ぶとそのままグッタリ仆れてしまった。
 余り見事な格闘振りに弓之進や北山を初めとし弟子若党|使僕《こもの》までただ茫然と眺めていたがこの時バラバラと駈け寄った。
「北山殿、脈を早く!」
「心得たり」と北山は若者の手首をぐいと握ったが、
「大丈夫、脈はござる」
「それで安心。よい塩梅《あんばい》じゃ」
「あまりに精神を感動させその結果気絶をしたのでござるよ」
「手当の必要はござらぬかな?」
「このままでよろしい大丈夫でござる。や! なんだ! この痣《あざ》は!」
 云いながら北山は若者の手をグイと前へ引き寄せた。いかさま右の二の腕に上下|判然《はっき》り二十枚の歯形が惨酷《むごたら》しく付いている。
「人間の歯ではござらぬかな?」
「さよう、人間の歯でござる」
 この時、気絶から甦《よみがえ》ったと見え、若者はにわかに動き出した。まず真っ先に眼をあけて四方《あたり》を不思議そうに見廻したが、
「ああ恐ろしい夢を見た」
 こう云うとムックリ起き上がった。それから弓之進をじっと[#「じっと」に傍点]見た。その逞《たくま》しい顔の面《おもて》へ歓喜の情があらわれたと思うと突然若者は両手を延ばし、
「お父様!」
 と呼んだものである。それからまたも気を失い、熊の死骸へ倚《よ》りかかった。
 この時、忽然《こつぜん》弓之進は、以前《まえかた》死んだ葉之助が、「代りが来るのだ! 代りが来るのだ! 次に来る者はさらに偉い!」と末期《いまわ》に臨んで叫んだことを偶然《ゆくりなく》も思い出した。
「うむ、そうか! こいつだな!」
 ……ポンと膝を叩いたものである。

 翌年の秋、鏡家へ飯田の城下から養子が来た。
 堀|石見守《いわみのかみ》の剣道指南南条右近の三男で同苗《どうみょう》右三郎《うさぶろう》というのであったが、鏡家へ入ると家憲に従い葉之助と名を改めた。

         

「鏡家の養子葉之助殿は十二歳だということであるが一見十八、九に見えますな」
 家中の若侍達寄るとさわると葉之助の噂をするのであった。
「ノッソリとしてズングリとしてまるで独活《うど》の大木だ」
 などと悪口する者もある。
「ノッソリの方は当たっているがズングリの方はちと相応《そぐ》わぬ。どうしてなかなか美少年だ」
 なあんて中には褒《ほ》めるものもある。
「ところでどうだろう剣道の方は?」
「無論駄目駄目。大下手《おおへた》とも」
「いやいやまんざらそうでもあるまい。飯田の南条右近というは小野派一刀流では使い手だそうだ。その方の三男とあって見れば見下《みくだ》すことは出来ないではないか」
「論より証拠立ち合ったら解る」
「いやいや相手はご家老のご養子、無下《むげ》に道場へ引っ張って行って打ち据《す》えることもなりがたい」
「武芸には身分の高下はない」
「しかし相手はまだ子供だ、十二歳だというではないか。我々は立派な壮年でござる」「と云ってあの仁とて十八、九には、充分見えるではござらぬか」「たとえ幾歳《いくつ》に見えようと年はやはり年でござる」「よろしいそれでは注意して柔かくあしらって[#「あしらって」に傍点]やりましょう」「さようさ、それならよろしかろう」
 ある日、これらの若侍どもが、立川町に立っている中条流《ちゅうじょうりゅう》の道場でポンポン稽古《けいこ》をやっていた。主人の松崎清左衛門はきわめて温厚の人物であったがちょうど所用で留守のところから、代稽古の石渡三蔵が上段の間に控えていた。
 通りかかったのが葉之助で、若党の倉平を供に連れ、ふと武者窓の前まで来ると小気味のよい竹刀《しない》の音がする。
「ちょっと待て倉平」
 と声をかけて置いてひょい[#「ひょい」に傍点]と窓から覗いていた。
 早くも見付けた若侍ども、「おや」と一人が囁《ささや》くと、「うん」と一人がすぐに応じる。バラバラと二、三人飛び出して来た。
「これはこれは葉之助殿、そこでは充分に見えません。内《なか》にはいってご覧ください」
「さあさあ内へ、さあさあ内へ」
 まるで車掌が電車の中へ客を追い込もうとするかのようにむやみに内へを連発する。
「これはどうもとんだ失礼、覗きましたは私の誤《あやま》り、なにとぞご勘弁くださいますよう」葉之助はテレて謝った。
「いやいやそんな事は何んでもござらぬ。ポンポン竹刀の音がすればつい覗きたくもなりますからな。外からでは充分見えません。内へはいってゆっくりと」
「それにこれまで駈け違いしみじみ御意《ぎょい》を得ませんでした。今日はめったに逃がすことではない」
「おい近藤何を云うんだ」白井というのが注意する。
「何はともあれおはいりくだされ」
「倉平、どうしたものだろうな?」
「若旦那、お帰りなさいませ」事態|剣呑《けんのん》と思ったので主人を連れて帰ろうとする。
 そこへまたもや二、三人若侍どもが現われた。
「葉之助殿ではござらぬか。これはこれは珍客珍客! 近藤、白井、何をしている。早く葉之助殿をご案内せい」
「何んとでござる葉之助殿、おはいりくだされおはいりくだされ」
「せっかくのお勧め拝見しましょう」
「しめた!」「おい!」「ハハハ」
 そこで葉之助はノッソリと道場の内へはいって行く。
「おい、はいって行くぜはいって行くぜ」
「可哀そうに殴られるともしらず」「知らぬが仏という奴だな」「それにしても大きいなあ」「十二とは思われない」「十九、二十、二十一、二には見える」「随分力もありそうだぞ」「あの力でみっちり[#「みっちり」に傍点]殴られたら」「そりゃ随分に痛かろうさ」
 そろそろ怖気《おぞけ》を揮《ふる》う奴もある。
 葉之助の姿がノッソリと道場の中へ現われると、集まっていた門弟どもまたひとしきり噂をした。よせばよいのに気の毒な――こう思う者も多かったが大勢《たいせい》いかんともしがたいので苦い顔をして控えている。
「こちらへこちらへ」と云いながら、白井というのが案内した席は皮肉千万にも正座《しょうざ》であった。すなわち稽古台の横手である。
「これはご師範でござりますか」葉之助は初々《ういうい》しく恭《うやうや》しく石渡三蔵へ一礼し、「私、鏡葉之助、お見知り置かれくだされますよう。また本日はお稽古中お邪魔《じゃま》にあがりましてござります」
「おお鏡のご養子でござるか」
 煙草《たばこ》の煙りを口からフワリ……これが三蔵の挨拶《あいさつ》である。さすが代稽古をするだけに腕前は勝《すぐ》れてはいたものの、その腕前を鼻にかけ、且《か》つ旋毛《つむじ》の曲がった男、こんな挨拶もするのであった。
 あちこちでクスクス笑う声がする。

         四

 しかし葉之助は気にも掛けず端然と坐って膝に手を置いた。それからジロリと構内を見る。どうして沈着《おちつ》いたものである。
 葉之助が現われるとほとんど同時にバタバタと稽古は止めになったので、構内には竹刀の音もない。変に間の抜けた様子であったが、つと[#「つと」に傍点]進み出たのは近藤|司気太《しきた》、
「鏡氏、一本お稽古を」
「いや」と葉之助は言下に云った。「二、三本どうぞお見せくだされ」
「へへえ、さようで」
 と近藤司気太妙な顔をして引っ込んだが、これは正に当然である。ご覧なされと引っ張り込んで置いて誰も一本も使わないうちにさあ[#「さあ」に傍点]立ち合えと云うのであるからポンと蹴るのは理の当然だ。
「偉いぞさすがは鏡家の養子」葉之助|贔屓《びいき》の連中はさもこそ[#「さもこそ」に傍点]とばかり溜飲《りゅういん》を下げた。
「ふん、チョビスケの近藤め、出鼻から赤恥をかかされおって」
 しかし一方若侍どもは悠々|逼《せま》らざる葉之助の態度を面憎《つらにく》いものに思い出した。
「誰か出て二、三本使ったらどうだ」
「しからば拙者」「しからば某《それがし》」
 五組あまりバラバラと出た。
「お面」「お胴」「参った」「まだまだ」
 ポンポンポンポン打ち合ったが颯《さっ》とばかりに引き退いた。
「おい近藤、行ってみるがいい」
「あいよあいよ」と厭《いや》な奴またノコノコ出かけて行き、「鏡氏、一本お稽古を」
「アッハハハハ」と大きな声で突然葉之助は笑い出した。
 近藤司気太驚くまいことか! 眼ばかりパチクリ剥《む》いたものである。
「剣術のお稽古とは見えませぬな。まるで十二月《ごくげつ》の煤掃《すすはら》いのようで、アッハハハ」とまた笑ったが、
「真剣のお稽古拝見したいもので」
「へへえ、さようで」と器量の悪い話、近藤司気太引き退ったが、「いけねえいけねえ拙者は止めだ。どうも俺には苦手と見える」
「生意気至極《なまいきしごく》、その儀なれば」と、若侍ども本気で怒り十組ばかりズカズカと進み出たが、烈《はげ》しい稽古が行われた。それが済むと白井誠三郎ツカツカ葉之助の前へ行き、
「あいや鏡氏、葉之助殿、ご迷惑でござりましょうが、承《うけたま》わりますれば貴殿には小野派一刀流、ご鍛錬とか。一同の希望《のぞみ》にもござりますれば一手ご教授にあずかりたく、いかがのものにてござりましょうや」
「本来私はこの場にはお稽古拝見に上がりましたもの、仕合の儀は幾重にも辞退致さねばなりませぬが剣道は私も好むところ、且つは再三のお勧めもあり……」
「それではお立ち合いくださるか?」
「未熟の腕ではござりまするが……」
「それは千万|忝《かたじ》けない」
 してやったり[#「してやったり」に傍点]とニタリと笑い、「して打ち物は?」
「短い竹刀を……」
「しからばご随意にお選びくだされ」
 ワッと一同これを聞くと思わず声を上げたほどである。
 つと[#「つと」に傍点]立ち上がった葉之助はわずか一尺二寸ばかりの短い竹刀を手に握ると仕度《したく》もせず進み出た。
「あいや鏡氏、お仕度なされ」
 見兼ねたものかこの時初めて石渡三蔵が声を掛けた。
「私、これにて充分にござります」
「面も胴も必要がない?」
「一家中ではござりまするが流儀の相違がござります。他流試合真剣勝負、この意気をもって致します覚悟……」
「ははあさようかな。いやお立派じゃ……ええとしからば白井氏も、面胴取って立ち合いなされ」
「これはどうもめんどう[#「めんどう」に傍点]なことで」
 白井誠三郎不承不承に面や胴を脱いだものの、ここで三分の恐れを抱いた。
 居流れていた門弟衆も、これを聞くと眼を見合わせた。
「何んと思われるな佐伯氏? この試合どう見られるな?」「ひょっと[#「ひょっと」に傍点]するとアテが外れますぞ。相手の勢いがあまりに強い」「藪《やぶ》をつついて蛇を出したかな」
 葉之助贔屓の連中はこれに反して大喜びだ。
「見ておいでなされ白井誠三郎、一堪《ひとたま》りもなくやられますぜ」「全体あいつら生意気でござるよ。こっぴどい[#「こっぴどい」に傍点]目に合わされるがよい」
「静かに静かに、構えましたよ」
「どれどれ、なるほど、青眼ですな……おや白井め振り冠りましたな」
「葉之助殿の位取り、なかなか立派ではござらぬか。あれがヒラリと変化すると白井誠三郎|刎《は》ね飛ばされます」

         五

 今や葉之助は中段に付けて、相手の様子を窺《うかが》ったが問題にも何んにもなりはしない。で、葉之助は考えた。
「かまうものか、ひっぱたいて[#「ひっぱたいて」に傍点]やれ」
 トンと竹刀を八相に開く。誘いの隙でも何んでもない。まして本当の隙ではない。それにもかかわらず誠三郎は、「ヤッ」と一声打ち込んで来た。右へ開いて、入身《いりみ》になり右の肩を袈裟掛《けさが》けに軽く。そうして置いてグルリと廻り、
「小野派一刀流五点の序、脇構えより敵の肩先ケサに払って妙剣と申す!」
 ちゃあん[#「ちゃあん」に傍点]と手口を説明したものだ。鮮かとも何んとも云いようがない。ひっぱたいて[#「ひっぱたいて」に傍点]置いてひっぱたいた[#「ひっぱたいた」に傍点]順序をひっぱたいた[#「ひっぱたいた」に傍点]人間が説明する。もうこれ以上はない筈《はず》である。
「参った」
 と誠三郎は声を掛けたが、声を掛けるにも及ばない話。溜《たま》りへコソコソと退いた。
「わっ!」とどよめきが起こったが、拍子抜けのしたどよめきである。
「山田左膳。お相手|仕《つかまつ》る!」
「心得ました。お手柔かに」
 ピタリと二人は睨み合った。左膳は目録《もくろく》の腕前である。しかし葉之助には弱敵だ。「かまうものか。やっつけろ。ええと今度は絶妙剣、そうだこいつで片付けてやれ」
 形が変わると下段に構えた。誘いの隙を左肩へ見せる。
「ははあこの隙は誘いだな」切紙《きりかみ》の白井とは少し違う。見破ったから動かない。はたして隙は消えてしまった。と、今度は右の肩へチラリと破れが現われた。
「エイ!」と一声。それより早く、一足飛びこんだ葉之助、ガッチリ受けて鍔元《つばもと》競《せ》り合い、ハッと驚くその呼吸を逆に刎ねて体当り! ヨロヨロするところを腰車、颯《さっ》と払って横へ抜け、
「小野派一刀流五点の二位、下段より仕掛け隙を見て肩へ来るを鍔元競り合い、体当りで崩《くだ》き後は自由、絶妙剣と申し候《そうろう》!」
 またもちゃあん[#「ちゃあん」に傍点]と説明されたものだ。
「参った!」これも紋切り型。
 今度は誰も笑わなかった。人々はちょっと凄くなった。二太刀を合わせたものはない。実に葉之助の強さ加減は人々の度胆を抜くに足りる。
「天晴れの腕前感心致してござる。未熟ながら拙者がお相手」
 こう云ったのは石渡三蔵で、上段の間からヒラリと下りると壁にかけてあった赤樫《あかがし》の木剣、手練《てだれ》が使えば真剣にも劣らず人の命を取るという蛤刃《はまぐりば》の太長いのをグイと握って前へ出た。
「拙者木剣が得意でござればこれをもってお相手致す。貴殿もご随意にお取りくだされい」
「いえ、私は、これにて結構」
「ほほう、短いその竹刀でな?」
「はい」と云ってニッと笑う。
「さようッ」と云ったが憎々しく、「拙者の仕合振り、荒うござるぞ!」
「はい、充分においでくだされ」
「ふん」と三蔵は鼻で笑い、「いざ!」
 と云って木剣を下ろした。
「いざ」と葉之助も竹刀を下ろす。一座|森然《しいん》と声もない。
 とまれ三蔵は免許の腕前、血気盛んの三十八歳、代稽古をする身分である。いかに葉之助が巧いと云っても年齢ようやく十二歳、年の相違だけでも甚《はなは》だしい。それを木剣であしらうとは?
「大人気《おとなげ》ござらぬ石渡氏、おやめなされおやめなされ!」
 と、二、三人の者が声を掛けたが、既《すで》にその時は立ち上がっていた。「もういけない!」と呼吸《いき》を呑む。
 双方ピッタリ合青眼《あいせいがん》、相手の眼ばかり睨み付ける。
「うん、どうやら少しは出来る」葉之助は呟いた、「が俺には小敵だ」
「エイ!」
 と珍らしく声をかけつと[#「つと」に傍点]一足前へ出た。
「ヤッ!」
 と三蔵も声をかけたがつと[#「つと」に傍点]一足|後《あと》へ引いた。
 双方無言で睨み合う。
「さて、どうしたものだろうな。思い切って打ち込むかとにかく相手は代稽古、俺に負けては気不味《きまず》かろう。と云ってこっちも負けられない。ええ構うものかひっぱたいて[#「ひっぱたいて」に傍点]やれ。エイ!」
 と云って一足進む。「ヤッ」と云って一足下がる。「エイ!」「ヤッ」「エイ!」「ヤッ」
 押され押されて三蔵はピッタリ羽目板へへばりついて[#「へばりついて」に傍点]しまった。額からはタラタラ汗が流れる。ぼーッと眼の前が霞んで来た。ハッハッハッと呼吸《いき》も荒い。
 当たって砕けろ! と三蔵は、うん[#「うん」に傍点]と諸手《もろて》で突いて出た、そこを小野派の払捨刀《ふっしゃとう》、ピシッと横から払い上げ、体の崩れへ付け込んで、真の真剣で顎《あご》へ発止《はっし》!
「カーッ」
 ととたんにどこからともなく物凄い気合が掛かって来た。

         

 アッと驚いた葉之助、一足後へ引き退がる。そこを狙って石渡三蔵左の肩を真っ向から……
「遅い!」
 とまた同じ声がどこからともなく響いて来た。
「勝負なし!」
 と声は続く。
 その時正面の切り戸から悠然と立ち出でた小兵の人物、年格好は五十五、六、木綿の紋付に黄平《きひら》の袴《はかま》、左手《ゆんで》に一刀を引っさげてスッスッと刻《きざ》み足に進んで来る。
「石渡氏、何事でござる! 子供を相手に木剣の立ち合い、不都合千万、控えさっしゃい! あいや鏡葉之助殿、拙者は松崎清左衛門、当道場の主人《あるじ》でござる。お幼年にもかかわらず驚き入ったるお手のうち、いざこれよりは拙者お相手、お下がりあるな下がってはならぬ」
 大小を置くと鉄扇《てっせん》を握り、場《じょう》の真ん中へ突っ立った。
 場内シーンと静まり返り咳《しわぶき》一つするものはない。武者窓から射し込む陽の光。それさえ妙に澄み返っている。
 葉之助もさすがに顔色を変えた。
 名に負う松崎清左衛門といえば当時日本でも一流の剣客、彼《か》の将軍家お手直し役浅利又七郎と立ち合って互角無勝負の成績を上げ、男谷下総守《おだにしもうさのかみ》と戦っては三本のうち二本取り、さらに老後に至っては、北辰一刀流を編み出した千葉周作を向こうへ廻し、羽目板へまで押し付けてしまった。名利に恬淡《てんたん》出世を望まず、そのため田舎へ引っ込んではいるが剣客中での臥竜《がりょう》である。
 今その人が鉄扇を構え、さあ来い来たれと云うのである。いかに葉之助が小天狗でもこれには圧倒されざるを得ない。
 しかし今さら逃げも出来ぬ。
「先生ご免」
 と竹刀を握り、小野派における万全の構え、両捨一用卍《りょうしゃいちようまんじ》に付けた。
「ははあ感心、守勢に出たな」
 清左衛門は頷《うなず》きながら東軍流|無反《むそり》の構え、鉄扇を立てずに真っ直ぐに突き出しじっ[#「じっ」に傍点]と様子を窺《うかが》った。
「エイ!」
 と一つ誘って見る。葉之助は動かない。
「ははあ、益※[#二の字点、1-2-22]堅くなったな……うむ、それにしても偉い覇気だ。構えを内から突き崩そうとしている。待てよ。ふうむ、これは驚いた。産まれながらの殺気がある。どうもこいつは剣呑《けんのん》だ。エイ!」
 とまたも誘ってみたがやはり凝然《じっ》と動かない。
 清左衛門は一歩進んだ。と葉之助は一歩下がる。間。じっとして動かない。と葉之助は一歩進んだ。と清左衛門が一歩退く。
「偉い。俺を押し返しおる。どうも恐ろしい向こう意気だ、しかも守勢を持ち耐《こた》えている。まごまごすると打ち込まれるぞ……これが十二の少年か? いや全く恐ろしい話だ。産まれながらの武辺者。まずこうとでも云わずばなるまい……とは云え余りに野性が多い。いわゆる磨かぬ宝玉じゃ……南条右近の三男と云うがこれは少々|眉唾物《まゆつばもの》だ。都育ちの室咲《むろざ》き剣術、なかなかもってそんなものではない……山から切り出した石材そっくり恐ろしく荒い剣法じゃ……そろそろ呼吸《いき》が荒くなって来たぞ、あまりに神気を凝《こ》らし過ぎどうやらこれは悶絶《もんぜつ》しそうだ。参った!」と云って鉄扇を引いた。
「はっ」と驚いた葉之助、トントンと二足前へ出たが、「参りましてござります!」
「前途有望、前途有望、将来益※[#二の字点、1-2-22]お励みなされ!」
「はい、有難う存じます」葉之助は汗を拭く。
「誰に従《つ》いて学ばれたな?」
「はい、父右近に従きまして」
「ははあ、そうしてそれ以外には?」
「師は父だけにござります」
「それは不思議、しかとさようかな?」
「何しに偽《いつわ》りを申しましょう」
「それにしては解《げ》せぬことがある」
 清左衛門は首を捻った。
「未熟者ではござりまするが、今日よりご門弟にお加えくだされませ」
「いや」と、不思議にも清左衛門は、それを聞くと冷淡に云った。「少しく存ずる旨《むね》もあれば、門に加えることなり兼ねまする」
「……存ずる旨? 存ずる旨とは?」葉之助は気色《けしき》ばんだ。
「存ずる旨とは、読んで字の如しじゃ」

         

「葉之助、ちょっと参れ……聞けばお前は立川町の松崎道場で大勢を相手に腕立てしたと云うことであるが、よもや本当ではあるまいな?」
「は……本当でございます」
「なぜそのようなことをしたか」
「止むを得ない仕儀に立ち至りまして……」
「止むを得ない仕儀? どういう訳かな?」
「あらかじめ企《たくら》んだものと見え、道場の前へ差しかかりますと、ご門弟衆バラバラと立ち出で、無理|無態《むたい》に私を連れ込み、是非にと試合を望みましたれば……」
「おおさようか、是非に及ばぬの……噂によれば近藤、白井、山田等という門弟衆を、苦もなく打ち込んだということだが?」
「はい、相手が余り弱く……」
「うん、それで勝ったというか」
「つい勝ちましてございます」
「松崎殿とも立ち合ったそうだの」
「一手ご指南にあずかりました」
「松崎殿はお強いであろうな」
「まるで鬼神《きじん》でござります」
「そうであろうとも、あのお方などは古《いにしえ》の剣聖にも勝るとも劣らぬ、立派な腕前を持っておられる」
「ほとほと驚嘆致しました」
「お前の技倆《うで》も立派なものだな」
「いえ、お恥ずかしゅう存じます」
「さすがはご親父南条殿は小野派一刀流では天下の名人、松崎殿にも劣るまいが、その三男に産まれただけあって十二歳の小腕には過ぎた技倆《うでまえ》、私も嬉しく頼もしく思う」
「お褒めにあずかり、有難う存じます」
「しかし天下には名人も多い」
「は、さようでございます」
「決して慢心致してはならぬ」
「慢心は愚《おろ》か、今後は益※[#二の字点、1-2-22]、勉強致す意《つも》りにござります」
「他人との立ち合いも無用に致せ」
「心得ましてござります」
「負ければ恥、勝てば怨まれる、腕立てせぬが安全じゃ」
「仰《おお》せの通りにござります」
「松崎道場でのお前の振る舞い、家中もっぱら評判じゃ」
「恐縮の至りに存じます」
「今のところお前の方が評判もよければ同情者も多い」
「ははあさようでございますか」
「評判がよいとて油断は出来ぬ」
「いかにも油断は出来ませぬ」
「よい評判は悪くなりたがる」
「お言葉通りにござります」
「落ちた評判は取り返し悪《にく》い」
「落とさぬよう致したいもので」
「そこだ」
 と弓之進は膝を打った。
「よく気が付いた。そうなくてはならぬ。ついては今後は白痴《ばか》になれ」
「は?」
 と云って葉之助は思わずその眼を見張ったものである。
「今後は白痴になりますよう」
 弓之進は再びこう云うとじっ[#「じっ」に傍点]と葉之助を見守った。
「どうだ葉之助、まだ解らぬかな?」
「お言葉は解っておりますが……」
「うむ、その意味が解らぬそうな。それでは一つ例を引こう。武士の亀鑑《きかん》大石良雄は昼行灯《ひるあんどん》であったそうな」
「お父上! ようやく解りました!」
「おお解ったか。それは重畳《ちょうじょう》」
「私昼行灯になりましょう」
「ハッハハハ、昼行灯になれよ」
「きっとなってお目にかけます」
「昼の行灯は馬鹿気たもの、人は笑っても憎みはしない」
「御意《ぎょい》の通りにござります」
「我が家は内藤家の二番家老、門地高ければ憎まれ易《やす》い。お前の性質は鋭ど過ぎ、これまた敵を作り易い。それを避けるには昼行灯に限る」
「昼行灯に限ります」
「お、白痴《ばか》になれよ白痴になれよ」
 その時襖が静かに開いて、茶を捧げたお石殿が部屋の中へはいって来た。
「徒然《つれづれ》と存じお茶を淹《い》れました」
「お母様」
 と葉之助は、甘えた声で呼んだかと思うと、足を投げ出し横になった。「お菓子くだされお菓子くだされ!」
 腕を延ばすと菓子鉢の菓子をやにわに摘んで頬張った。
「まあこの子は」
 とお石は驚き、「平素《いつも》に似ない行儀の悪さ、お前|白痴《ばか》におなりだね」
「アッハハハ、その呼吸《いき》呼吸《いき》!」
 弓之進は手を拍《う》った。
「これで我が家も葉之助もまずは安全というものじゃ。めでたいめでたい! アッハハハ」

         

 内藤駿河守正勝は初老を過ごすこと五つであったが、性|濶達《かったつ》豪放で、しかも仁慈《じんじ》というのだから名君の部に属すべきお方、しかし、欠点は豪酒にあった。今日も酒々、明日も酒……こう云ったような有様である。
 ある日弓之進が伺候《しこう》すると、
「そちの養子葉之助、今年十二の弱年ながら珍らしい武道の達人の由、部屋住みのまま百石を取らせる、早々殿中へ差し出すよう、近習《きんじゅう》として召し使い遣《つか》わす」
「これはこれは分に過ぎたる有難きご諚《じょう》ではござりますが、葉之助儀は脳弱く性来いささか白痴にござりますれば……」
「これこれ弓之進、痴《たわ》けたことを申すな!」
 濶達の性質を露出《まるだ》しにして駿河守は怒鳴るように云った。
「性来白痴の葉之助が、近藤司気太、白井誠三郎、山田左膳というような武道自慢の若者どもを打ち込むほどの技倆《うでまえ》になれるか!」
「恐らく怪我勝ちにござりましょう」
「石渡頼母の三男などは代稽古の技倆ということだが、葉之助とは段違いだそうだ。そんな白痴なら白痴結構。是非明日より出仕をさせろ」
 こう云われてはしかたがない。それに有難いご諚である。弓之進はお受けをした。
 で、翌日から葉之助はご前勤めをすることになった。
 艶々した前髪立ち、年は十二というけれど一見すれば十八、九、鼻高く眼涼しく、美少年であって且《か》つ凛々《りり》しい眼の配り方足の運び方、武道の精髄に食い入ったものである。
「何んのこれが白痴なものか」
 駿河守は一眼見るとひどく葉之助が気に入った。
 しかし葉之助は往々にして度外れた事をするのであった。例えばご前で足を延ばしたり、歩きながら居睡りをしたり、突然大きな欠伸《あくび》をしたり、そうしていつも用のない時にはうつらうつらと眼をとじて、よく云えば無念無想、悪く云えば茫然《ぼんやり》していた。
「武道の麒麟児《きりんじ》と思ったに葉之助殿はお人好しだそうだ」「食わせ物だ食わせ物だ」
「ぼんやりとしてノッソリとして、ヌッと立っている塩梅《あんばい》は独活《うど》の大木というところだ」
「何をやっても一向冴えない。ボーッとしたところは昼の行灯《あんどん》かな」
「昼行灯昼行灯、よい、これはよい譬喩《たとえ》じゃ」
「昼行灯様! 昼行灯様!」
 朋輩どもは葉之助の事を間もなく昼行灯と綽名《あだな》した。
「はてな?」
 と駿河守は首を傾げた。「あれほど利口な葉之助が、時々心を取り失うとはちょっとどうも受け取れないことだ。事実脳が弱いのかそれとも明哲保全《めいてつほぜん》の策か? ……これは一つ試して見よう」
 ある日にわかの殿の仰せで、弓射の試合を始めることになった。
 駿河守は馬に乗り近習若侍を後に従え、矢場を指して走らせて行く。
 矢場には既《すで》に弓道師範|日置《へき》流に掛けては、相当名のある佐々木源兵衛が詰めかけていたが、殿のお出《い》でと立ちいでて恭《うやうや》しく式礼した。
「おお源兵衛か今日はご苦労」駿河守は頷いたが、「すぐに射手《いて》に取りかかるよう」
「かしこまりましてござります」
 源兵衛がご前を退くと、忽《たちま》ち法螺《ほら》貝が鳴り渡った。
 射手が十人ズラリと並ぶ。
 ヒューッ、ヒューッと弦音《つるおと》高く的を目掛けて切って放す。弦返りの音も冴えかえり、当たった時には赤旗が揚がる。
 鉦《かね》の音で引き退き法螺の音で新手《あらて》が出る。
 番数次第に取り進んだ。
 最後に現われた三人の射手は、印可《いんか》を受けた高弟で、綿貫紋兵衛、馬谷庄二、そうして石渡三蔵であったが的も金的できわめて小さい。一人で五本の矢を飛ばすのであった。
 甲乙なしに引き退いた。
 後には誰も出る者がない。今日の射法は終わったのである。
「これ葉之助」と駿河守は傍《かたわら》の葉之助へ声を掛けた。
「そちは剣道では一家中並ぶ者のない達人と聞くが、弓と馬とは弓馬と申して表芸の中の表芸、武士たる者の心得なくてはならぬ。そちにも心得あることと思う。立ち出でて一矢《ひとや》仕《つかまつ》れ」
「は」
 と云ったが葉之助、こう云われては断わることは出来ない。未熟と申して尻込みすれば家門の恥辱、身の不面目となる。白痴を気取ってはいられなくなった。
「不束《ふつつか》ながらご諚《じょう》なれば一矢仕るでござりましょう」
 謹んでお受けすると列を離れ、ツツーと設けの座に進んだ。屹《きっ》と金的を睨んだものである。
「葉之助殿おやりなさるかな。貴殿何流をお習いかな」
 佐々木源兵衛は莞爾《にこやか》に訊いた。
「はい、竹林派をほんの少々」
 云いながら無造作に弓を握る。

         

 これを見ると若侍達は互いにヒソヒソ囁《ささや》き出した。
「行灯殿が弓を射るそうな。はてどこへぶち[#「ぶち」に傍点]こむやら」「土壇《どたん》を飛び越し馬場の方へでも、ぶっ[#「ぶっ」に傍点]飛ばすことでござりましょう」
「それはよけれど弾《は》ね返って座席へでも落ちたら難儀でござるな」
「いやいやそうばかりも云われませぬよ」
 中には贔屓《ひいき》をする者もある。「松崎道場では石渡殿を、手こずらせたという事です」
「いやそれも怪我勝ちだそうで」
「では今度ももしかすると[#「もしかすると」に傍点]怪我勝ちするかもしれませんな」
「そう再々怪我勝ちされてはちとどうも側《はた》が迷惑します」
「黙って黙って! 矢をつがえました」
「あれが竹林派の固めかな」
「いやいやあれは昼行灯流で」
「ナール、これはよう云われました」
 この時葉之助は矢を取るとパッチリつがえてキリキリキリ、弦《いと》一杯に引き絞ると、狙いも付けず切って放した。
「どうだ?」
 と侍達は眼を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》った。外《はず》れたと見えて旗が出ない。
「おやおや最初から仕損じましたな」
「二本目は与一も困る扇《おうぎ》かな……さあどうだ昼行灯殿!」
 急《せ》かず周章《あわ》てず葉之助はすかさず二の矢を飛ばせたが、これも外れたか旗が出ない。
「ウワーッ、いよいよ昼行灯だ! 一の矢二の矢を仕損じながら、沈着《おちつき》ようはマアどうだ」
「恥なければ心安し。一向平気と見えますな」
「殿も小首を傾げておられる」「いったい殿がお悪いのだ。あんなものを召使うばかりか贔屓にさえもしておられる」「あれは殿の酔狂さ」
「それまた射ますぞ。静かに静かに」
 しかし葉之助は益※[#二の字点、1-2-22]|泰然《たいぜん》と構え、姿勢に揺るぎもなく、三の矢四の矢五の矢まで、呼吸《いき》も吐けない素早さで弦音高く射放したが、旗はついに出なかった。
 ガッチリ弓を棚に掛け、袴《はかま》両袖《りょうそで》をポンポンと払うと、静かに葉之助は射場を離れ、端然と殿の前へ手を支《つか》えた。
「未熟の弓勢《ゆんぜい》お目にかけお恥ずかしゅう存じます」
「うむ」
 と云ったが駿河守は牀几《しょうぎ》に掛けたまま動こうともしない。何やら考えているらしい。
「源兵衛、源兵衛」
 と急に呼んだ。弓道師範の佐々木源兵衛小腰を屈《かが》めて走って来た。
「的をここへ持って来い」
「はっ」と云うと源兵衛は、扇を上げて差し招いた。旗の役の小侍は、それと見ると的を捧げ、矢場を縦に走って来たが、謹《つつし》んで的を源兵衛へ渡す。源兵衛から殿へ奉《たてまつ》る。
 的を眺めた駿河守は、
「おお」と思わず声を洩らした。「どうだ源兵衛これを見い!」
「はっ」と云って差し覗くと、思わずこれも「うむ」と唸った。矢は五本ながら中《あた》ってはいないが、しかしその矢は五本ながら同じ間隔と深さとをもって的の縁《へり》を擦《こす》っている。
「なんと源兵衛、どう思うな!」
「恐れ入ってござります」
「中《あ》てようと思えば中《あた》る矢だ」
「申すまでもございません」
「どうだ、印可《いんか》は確かであろうな」
「いやもう印可は抜いております」
「三蔵とはどっちが上手だ?」
「これは段が違います」
「そうであろう」と頷いたが、葉之助の方へ眼をやると、「さて、お前に聞くことがある。中《あ》てずに縁を擦《こす》ったは、竹林派に故実あってかな?」
「いえ、一向存じませぬ」
 葉之助は空|呆《とぼ》けた。
「知らぬとあってはしかたもないが、そちの学んだ竹林派について、詳しく来歴を語るよう」
「はっ」
 と云ったが葉之助、これはどうも知らぬとは云えない。そこで形を改めると、
「竹林派の来歴申し上げまする。そもそも、始祖は江州《ごうしゅう》の産、叡山《えいざん》に登って剃髪《ていはつ》し、石堂寺竹林房|如成《じょせい》と云う。佐々木入道|承禎《しょうてい》と宜《よ》く、久しく客となっておりますうち、百家の流派を研精し、一派を編み出し竹林派と申す。嫡男《ちゃくなん》新三郎水没し、次男弥蔵|出藍《しゅつらん》の誉《ほま》れあり、江州佐和山石田三成に仕え、乱後身を避け高野山に登り、後吉野の傍《そば》に住す。清洲少将忠吉公、その名を聞いてこれを召す。後、尾張|源敬公《げんけいこう》に仕え、門弟多く取り立てしうち、長屋六兵衛、杉山三右衛門、もっとも業に秀《ひい》でました由《よし》――大坂両度の合戦にも、尾張公に従って出陣し、一旦|致仕《ちし》しさらに出で、晩年|窃《ひそ》かに思うところあり、長沼守明《ながぬまもりあき》一人を取り立て、伝書工夫|悉《ことごと》く譲る。子孫相継ぎ弟子相受け今日に及びましてござりますが、三家三勇士の随一人、和佐大八郎は竹林派における高名の一|人《にん》にござります」
 弁舌さわやかに言上した。

         一〇

「昼行灯どころの騒ぎではない。これは素晴らしい麒麟児《きりんじ》だ。まるで鬼神でも憑《つ》いていて言語行動させるようだ……ははあ、それで弓之進め、この少年の行末《ゆくすえ》を案じ、朋輩先輩の嫉視《しっし》を恐れ、俄《にわ》か白痴《ばか》を気取らせたのであろう。弓之進め用心深いからな……そういう訳ならそれもよかろう。せっかくの目論見《もくろみ》だ、とげさせてやろう」
 駿河守は頷いた。
「今日の競技はこれで終わる。者ども続け!」
 と云い捨てると駿河守は馬に乗った。タッタッタッタッと帰館になる。近習若侍に立ち雑《まじ》り葉之助も後を追う。

 松崎清左衛門は何が不足で葉之助の入門を拒絶《ことわ》ったのであろう? それは誰にも解らない。しかし当の葉之助にとっては無念千万の限りであった。
「そういう訳なら師を取らずに己《おのれ》一人工夫を凝らし、東軍流にて秘すところの微塵《みじん》の構えを打ち破り清左衛門めを打ち据えてくれよう」
 間もなく葉之助は心の中でこういう大望を抱くようになった。彼はご殿から下がって来るや郊外の森へ出かけて行き、八幡宮の社前に坐って無念無想に入ることがあり、またある時は木刀を揮《ふる》って立ち木の股を裂いたりした。
「一にも押し、二にも押し、これが相撲の秘伝だそうだ。一にも突き二にも突き、これが剣道の極意である。しかし極意であるだけに誰も学んで珍らしくない……さてそれでは突き以外に必勝の術はあるまいか」
 来る夜も来る夜も葉之助はこの点ばかりを考えた。しかし容易には考え付かない。
「突きを止めれば斬《き》る一方だが、さてどこが一番斬り易いかな?」
 こう押し詰めて来て葉之助は、「肩だ!」と叫ばざるを得なかった。
「肩ほど斬りよいものはない。相手の右の肩先から左の肋《あばら》へ斜《はす》に斬る。すなわち綾袈裟掛《あやけさが》けだ! 右へ逸《そ》れても腕を斬る。左へ逸れれば頸《くび》を斬る、どっちにしても急所の痛手だ。うんこれがいい」
 と思い付いてからは、彼は何んの躊躇《ちゅうちょ》もせず袈裟掛けばかりを研究した。腕は既に出来ている、加うるに珍らしい天才である、それに一念が籠もっているのでその上達の速《すみや》かさ、半年余り経った頃にはかなり太い生の立ち木を股から斜めに幹をかけてサックリ木刀で割ることが出来た。
「宮本武蔵の十字の構えを、有馬喜兵衛は打ち破ろうと、木の股ばかりを裂いたというが、よも木の幹は割れなかったであろう――いかに松崎が偉いと云っても武蔵に比べては劣るであろう。もう一年、もう二年、練磨に練磨を積んだ上、松崎に試合を申し込み、清左衛門めを打ち据えてくれよう」
 仮想の敵があるために、彼の技倆は一日一日と上達をするばかりであった。
 こうして六年は経過した。葉之助は十八歳となり、一人前の男となった。
「おお葉之助か近う参れ」
 ある日、それは夕方であったが、駿河守はこう云って鏡葉之助を膝近く呼んだ。
「は」と云って辷《すべ》り寄る。「何かご用でござりますか?」
「そちに吩咐《いいつ》けることがある」
 駿河守は真面目《まじめ》に云う。
「は、何ご用でござりましょう?」
「今宵《こよい》妖怪《あやかし》を退治て参れ」
「して、妖怪と仰せられますは?」さすがの葉之助も不安そうに訊き返さざるを得なかった。
「そちも噂は聞いていよう。永く当家の金《かね》ご用を勤めるあの大鳥井紋兵衛の邸《やしき》へ、最近|繁々《しげしげ》妖怪|出《い》で紋兵衛を悩ますということであるが、当家にとっては功労ある男、ただし少しく強慾に過ぎ不人情の仕打ちもあるとかで、諸人の評判はよくないが、打ち棄《す》てて置くも気の毒なもの、そち参って力になるよう」
「は」
 とは云ったが葉之助は、躊躇《ためら》わざるを得なかった。
 いかにも彼はその噂を世間の評判で知っていた。久しい前から紋兵衛の邸へ異形《いぎょう》の怪物が集まって来て、泣いたり嚇《おど》したり懇願《こんがん》したり、果ては呪詛《のろい》の言葉を吐いたり、最後にはきっと声を揃え、「返してくだされ! 返してくだされ!」と、喚《わめ》き立てるというのである。世間の人の評判では、その異形な怪物こそは、紋兵衛のために苦しめられたいわゆる可哀そうな債務者の霊で、家や屋敷を取り上げられたのを死んだ後までも怨恨《うらみ》に思い、それで夜な夜な現われては、「返してくだされ! 返してくだされ!」と、喚き立てるのだというのであった。

         一一

 相手が兇悪な盗賊とかまたは殺人《ひとごろし》の罪人とか、そういうものを退治るなら一も二もなくお受けしようが、亡魂《ぼうこん》とあっては有難くない――これが葉之助の心持ちであった。
「主命を拒《こば》むではござりませぬが、私如き若年者より、他にどなたか屈強《くっきょう》なお方が……」
「いや」と駿河守は遮《さえぎ》った。「お前が一番適当なのだ。拒むことはならぬ、是非参るよう……新刀なれども堀川国広、これをそちに貸し与える。退治致した暁《あかつき》にはそちの差料《さしりょう》として遣わそう」
「そうまで仰せられる殿のお言葉をお受け致《いた》さずばかえって不忠、参ることに致します」
「おお参るか。それは頼もしい」
「ご免くだされ」
 と座を辷《すべ》る。
「大事をとって行くがいいぞ」
「お心添え忝《かたじ》けのう存じます」
 国広の刀をひっさげて葉之助はご前を退出した。

 富豪大鳥井紋兵衛の邸《やしき》は、二本|榎《えのき》と俗に呼ばれた、お城を離れる半里の地点、小原村に近い耕地の中に、一軒ポッツリ立っていたが、四方に林を取り巡らし、濠《ほり》に似せて溝を掘り、周囲を廻れば五町もあろうか、主屋《おもや》、離室《はなれ》、客殿、亭《ちん》、厩舎《うまや》、納屋《なや》から小作小屋まで一切を入れれば十棟余り、実に堂々たる構造《かまえ》であったが、その主屋の一室に主人紋兵衛は臥《ふ》せっていた。
「灯火《あかり》が暗い。もっと点《とも》せ」
 夜具からヒョイと顔を出すと、譫語《うわごと》のように紋兵衛は云った。年は幾歳《いくつ》か不明であったが、頭髪白く顔には皺《しわ》があり、六十以上とも見られたが、どうやらそうまでは行っていないらしい。大きい眼に高い鼻、昔は美男であったらしい。
「灯火は十も点っております」
 附き添っている十人の中には、剣客もあれば力士もあり柔術《やわら》に達した浪人もあり、手代、番頭、小作頭もある。それらさまざまの人物がギッシリ一部屋に集まった。四方に眼を配っていたが、番頭の佐介はこう云うと紋兵衛の顔を覗き込んだ。
「ご覧なさいませ部屋の中には行灯《あんどん》が十もござります。なんの暗いことがございましょう」
「いいや暗い、真っ暗だ。早く灯心を掻《か》き立ててくれ」
「それじゃ卯平《うへい》さん掻き立ててくんな」
「へい」と云うと手代の卯平は、静かに立って一つ一つ行灯の火を掻き立てた。いくらか部屋が明るくなる。
「時に今は何時《なんどき》だな?」
 気遣《きづか》わしそうに紋兵衛は訊く。
「はい」と佐介はちょっと考え、「初夜《しょや》には一|刻《とき》(二時間)もございましょうか」
「まだそんなに早いのか」
「宵《よい》の口でございます」
「ああ夜が早く明ければよい……俺は夜が大嫌いだ。……俺には夜が恐ろしいのだ」
 ザワザワと吹く春風が雨戸を通して聞こえて来た。と、コトンと音がした。
「あれは何んだ? あの音は?」
「さあ何んでござろうの」剣術使いの佐伯|聞太《ぶんた》は、大刀を膝の辺へ引き付けながら、「鉢伏山《はちぶせやま》から狐《きつね》めが春の月夜に浮かされてやって来たのでもござろうか」
「ナニ狐?」と紋兵衛は、恐怖の瞳を踴《おど》らせたが、「追ってくだされ! 俺は狐が大嫌いだ!」
「よろしゅうござる」
 と大儀そうに、聞太はスックリ立ち上がったが襖《ふすま》を開けると隣室へ行った。障子《しょうじ》を開ける音がする。雨戸をひらく音もする。
「アッハハハハ」
 と笑い声がすると、雨戸や障子が閉《た》てられた。
 聞太は部屋へはいって来たが、
「狐ではなくて犬でござった。黒めが尾を振っていましたわい」
「犬でござったのかな。それで安心」紋兵衛はホッと溜息をした。
 暫時《ざんじ》部屋は静かである。
 と、紋兵衛は悲しそうな声で、
「ああ私《わし》は眠りたい。眠って苦痛を忘れたい……北山《ほくざん》先生、薬くだされ!」
 天野北山は黙っていた。
 長崎仕込みの立派な蘭医《らんい》、駿河守の侍医ではあったが、客分の扱いを受けている。江戸へ出しても一流の先生、名聞《みょうもん》狂いを嫌うところからこのような山間にくすぶってはいるがどうして勝れた人物であり、いかに相手が金持ちであろうと人格の卑しい紋兵衛などの附き人などに成る人物ではない。しかし礼を厚うしてほとんど十回も招かれて見れば放抛《うっちゃ》って置くことも出来なかったので時々見舞ってやっていた。しかしもちろん急抱えの剣術使いや浪人とは違う。否だと思えばサッサと帰り、いけないと思えば投薬もしない。
「北山先生薬くだされ!」
「ならぬ!」
 と北山は抑《おさ》え付けた。

         一二

「あなたの病気は薬でも癒《なお》らぬ。懺悔《ざんげ》なされ懺悔なされ。そうしたらすぐにも癒るであろう」
「懺悔?」と紋兵衛は恐ろしそうに、「何もございません、何もございません! 懺悔することなどはございません!」
「嘘《うそ》を云わっしゃい!」
 と北山は嘲《あざけ》るようにたしなめた。「懺悔することのないものが何んでそのように神経を起こし、何んでそのように恐れるか。……そなた、無分別の若い頃に悪いことでもしはしないかな?」
 膝《ひざ》に突いていた黒塗りの扇《おうぎ》をパチリパチリとやりながら、北山はグングン突っ込んで訊く。
「いいえ、そんな事はございません。正直な人間でございます。人に恨まれる覚えもなく、人に憎まれる覚えもない正直な人間でございます」
「どうも私《わし》には受け取れない。どうでもあなたの心の中には不安なものがあるらしい。ひどく神経を痛めておる……で、私は改めて訊くが、貴公どこの産まれだな?」
「はい、江戸でございます」
「江戸はどこだな? どの辺だな?」北山は遠慮なく押し詰める。
「はい」と紋兵衛は狼狽しながら、「江戸は芝でございます」
「おおさようか、芝はどこだ?」
「はい、芝は錦糸堀で……」
「何を痴《たわ》けめ!」と北山はカラカラとばかり哄笑《こうしょう》した。
「芝にはそんな所はない、錦糸堀は本所《ほんじょ》だわえ!」
「おお、そうそうその本所で、私は産まれたのでございます」
「うん、そうか、では聞くが、錦糸堀は本所のどの辺にあるな?」
「はい、本所のとっつき[#「とっつき」に傍点]に」
「アッハハハハ、まるで反対だ。錦糸堀は本所の外《はず》れにある……貴公江戸は不案内であろう? ……云いたくなければ云わないでもよい。産まれ故郷の云えないような、そういう胡散《うさん》な人物には今後薬は盛らぬまでだ……ところでもう一つ訊きたいのは、十万に余る貴公の財産、いったい何をして儲《もう》けたのか?」
 北山はじっ[#「じっ」に傍点]と眼を据えて紋兵衛の顔を見守った。しかし紋兵衛はもの[#「もの」に傍点]を云わない。
「どうやらこれも云えないと見える……後ろ暗いことでもあるのであろう」
「黙れ!」
 と突然狂気|染《じ》みた声で、大鳥井紋兵衛は怒鳴《どな》ったものである。彼はムックリと起き上がった。
「黙れ! 藪医者《やぶいしゃ》め! 何を吐《ぬ》かす!」
「何?」
 と北山も眼を瞋《いか》らせた。
「俺は正直の人間だ!」紋兵衛は大声で怒鳴りつづける。「後ろ暗えこととは何事だ! 俺は正直に働いて正当に金を儲けたのだ! それが何んで悪いのか!」
「うんそうか、それが本当なら、貴公はなかなか働き者だ。この北山|褒《ほ》めてやる……さほど正直に儲けた金なら何も隠すには及ぶまい。何をして儲けたか云うがいい」
「いいや云わねえ、云う必要はねえ! 何んで貴様に云う必要がある! それから云え、それから云え!」
「云ってやろう、俺は医者だ!」
「医者だからどうしたと云うのだい!」
「病いの基《もと》を調べるのよ」
「病いの基を調べるって? いいやそんな必要はねえ」
「貴公、可哀そうに血迷っているな」
「血迷うものか! 俺は正気だ!」
「病気の基を極《きわ》めずにどうして病いを癒すことが出来る」
「癒すにゃア及ばねえうっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]置いてくれ!」
「おお、そうか、それならよい」
 ズイと北山は立ち上がった。「今後招いても来てはやらぬぞ」
「…………」
「貴公、死相が現われておる。取り殺されるも長くはあるまい」
「わッ」と突然紋兵衛は畳の上へ突っ伏したが、
「お助けくだされ北山様! お願いでござります天野先生! 殺されるのは嫌でございます! 申します申します、何んでも申します!」
「おお云うか。云うならよい。天野北山聞いて遣わす。そうして病気も癒してやる……何をやって金を儲けた?」
「はいそれは……」
 と云いかけた時奥の襖がスーと開いて若い女が現われた。紋兵衛の娘のお露である。
「お父様」と手を支《つか》え、「只今お城のお殿様からお使者が参りましてござります」
「お使者?」
 と紋兵衛は不思議そうに、「ハテなんのお使者であろう?」
「ご病気見舞いだとおっしゃられました」
「どんなご容子《ようす》のお方かな?」
「はい」とお露は面羞《おもは》ゆそうに、「お若いお美しいお侍様で」
「さようか、そうしてお名前は?」
「鏡葉之助様と仰《おお》せられました」

         一三

 妖怪《あやかし》退治の命を受け、城を退出した葉之助は、小原村二本榎、大鳥井紋兵衛の宏大な邸を、供も連れず訪れた。取次ぎに出た若い女――それは娘のお露であったが、そのお露の姿を見ると、彼の心は波立った。
「美しいな」と思ったからである。しかしそれとて軽い意味なので、一眼惚れと云うようなそんなところまでは行っていない。
 一旦引っ込んだその娘が再びしとやかに現われた時、また「美しいな」と思ったものである。
 お露は夜眼にも知れるほど顔を赧《あか》らめもじもじ[#「もじもじ」に傍点]したが、
「むさくるしい処《ところ》ではございますが、なにとぞお通りくださいますよう」
「ご免」と云うと葉之助は、刀を提げて玄関を上がる。
 間《ま》ごと間ごとを打ち通り、奥まった部屋の前へ出たが、飾り立てた部屋部屋の様子、部屋を繋《つな》いだ廻廊の態《さま》、まことに善美を尽くしたもので、士太夫の邸と云ったところでこれまでであろうと思われた。それにも拘《かかわ》らず邸内が陰森《しん》として物寂しく、間ごとに点《とも》された燭台の灯も薄茫然《うすぼんやり》と輪を描き、光の届かぬ隅々には眼も鼻もない妖怪《あやかし》が声を立てずに笑っていそうであり、人は沢山にいるらしいが暖かい人気《ひとけ》を感じない。
「妖怪邸《ばけものやしき》と云われるだけあって、不思議に寂しい邸ではある」
 こう心で呟いた時、お露がスーと襖を開けた。
「父の病室にござります」
「さようでござるか」とツトはいる。
 北山はじめ附き人達は遠慮して隣室へ退ったので部屋には紋兵衛一人しかいない。病人というので褥《しとね》は離れず、彼は恭《うやうや》しく端座《かしこ》まっていたが、それと見て畳へ手を支《つか》えた。
 殿の使いとは云うものの表立った使者ではなく、きわめて略式の訪問なのだ。
「いやそのまま」と云いながら葉之助は座を構え、「邸に妖怪《あやかし》憑《つ》いたる由、殿にも気の毒に覚し召さるる。拙者《せっしゃ》今日参ったはすなわち妖怪|見現《みあら》わしのため。殿のご厚意|疎略《そりゃく》に思ってはならぬ」
「何しに疎略に思いましょうぞ。ハイハイまことに有難いことで……あなた様にもご苦労千万、まずお休息《いこい》遊ばしますよう」
 紋兵衛は静かに顔を上げた。名は互いに知ってはいたが顔を合わせるのは今日が初めて、二人の顔がピッタリ合った。
 と、俄然紋兵衛の顔へ恐怖が颯《さっ》と浮かんだが、
「わッ、幽霊!」と喚《わめ》いたものである。
「これこれどうした? 幽霊とは何んだ?」
 驚いたのは葉之助で、紋兵衛の様子をじっ[#「じっ」に傍点]と眺める。
「堪忍《かんにん》してくれ! 堪忍してくれ! 俺が悪かった! 俺が悪かった! ……山吹! 山吹! 堪忍してくれ」
 蛇に魅入られた蛙《かえる》とでも云おうか、葉之助の顔から眼を放さず、紋兵衛は益※[#二の字点、1-2-22]喚くのであった、が額からタラタラ汗を流し、全身を劇《はげ》しく顫《ふる》わせているのは、恐怖の度合のいかに大きいかを無言のうちに説明している。
「これこれ紋兵衛殿どうしたものだ。拙者は鏡葉之助でござる。山吹などとは何事でござる。心を確《しっか》りお持ちなさるがよい」
 こう云いながら葉之助は、気の毒そうに苦笑したが、「ははあこれも妖怪《あやかし》の業《わざ》だな。さてどこから手を付けたものか?」
「何、鏡葉之助殿とな?」
 逆立った眼で葉之助を見据《みす》え、紋兵衛は瞬《まじろ》ぎもしなかったが、ようやくホッと溜息を吐《つ》くと、「人違いであった。山吹ではなかった。そうだあなたは葉之助様だ……が、それにしてもあなたのお顔があの山吹に酷似《そっくり》とは? おお酷似《そっくり》じゃ酷似じゃ! やっぱりお前は山吹だ! 汝《おのれ》どこからやって来たぞ!」
 また狂わしくなるのであった。
「殿の命で、城中から」
「いいや違う。そうではあるまい。八ヶ嶽から来たのであろう?」
「殿の命で、城中から」
「嘘だ嘘だ! 嘘に相違ない! 八ヶ嶽の窩人《かじん》部落! 汝《おのれ》そこから来たのであろう! 怨《うら》まば怨め! 祟《たた》らば祟れ! 捨てられたが口惜しいか! ……睨《にら》むわ睨むわ! おお睨むがいい。俺も睨んでやる俺も睨んでやる!」
 血走って眼をカッと開け、紋兵衛は葉之助を睨んだものである。
 その時、遥《はる》か戸外《おもて》に当たって咽《むせ》ぶがような泣くがような哀々《あいあい》たる声が聞こえて来た。それは大勢の声であり、あたかも合唱でもするかのように声を合わせて叫んでいるらしい。しかし叫びと云うよりも、むしろそれは嘆願なので、細い細い糸のような声から高い高い叫びになり、それが悲しい笛の音のように尾を引いて綿々と絶えぬのであった。
「お返しくだされ。お返しくだされ。宗介天狗《むねすけてんぐ》の鎧冑《よろいかぶと》、どうぞどうぞお返しくだされ」
 こう叫んでいるのであった。

         一四

 ムックリ刎《は》ね起きた紋兵衛は、血走った眼をおどおど[#「おどおど」に傍点]させ、痙攣《ひきつ》った唇を思うさま曲げ、手を胸の辺で掻き捲《まく》り、肩に大波を打たせたかと思うと、
「あ、あ、あ、あ」とまず喘ぎ、「来たア!」と叫ぶとヒョロヒョロ立ち、「来てくれ! 来てくれ! 誰か来てくれ! 人殺しだア! 誰か来てくれ! ……おお鏡様葉之助様! あいつらが来たのでござります! お助けなされてくださりませ! 人助けでござります、お助けなされてくださりませ! ……返せと云って何を返すのだ! 鎧冑? そんなものは知らぬ! おおそんなものを何んで知ろう! よしんば[#「よしんば」に傍点]知っていようとも、みんな過ぎ去った昔の事だ! ならぬ、ならぬ、返すことはならぬ! いやいや俺は知らぬのだ!」
「五味多四郎様! 五味多四郎様! どうぞお返しくださりませ、宗介天狗の黄金《こがね》の甲冑《かっちゅう》、どうぞお返しくださりませ!」戸外《おもて》の声は尚《なお》叫ぶ。
「知らぬ知らぬ俺は知らぬ! 俺は何んにも知らぬのだ! ……葉之助様! 鏡様! どうぞお助けくださりませ! や、貴様は山吹だな! おお山吹だ山吹だ! おのれ貴様まで怨みに来たか! おお恐ろしい恐ろしい、睨んでくれるな睨んでくれるな! 堪忍してくれ俺が悪かった! あ、あ、あ、あ、胸苦しや! 冷たい腕が胸を掴《つか》むわ!」
 急に紋兵衛は虚空《こくう》を掴《つか》むと枯木のようにバッタリ仆《たお》れた。そのまま気絶したのである。
 その時|忽然《こつぜん》部屋の隅から女の笑い声が聞こえて来た。ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、というような一種異様な笑い声である。
 鏡葉之助はそれを聞くと何がなしにゾッとした。聞き覚えのある笑い声だからだ。
「遠い昔に、幼年時代《ちいさいとき》に、確かにどこかで聞いたことがある。誰の声だかそれは知らない。どこで聞いたかそれも知らない……いったいどこで笑っているのだろう?」
 声の聞こえる部屋の隅へ屹《きっ》と葉之助は眼をやったが、笑い主の姿は見えぬ。しかし笑い声は間断《ひっきり》なしにヒ、ヒ、ヒ、ヒと聞こえて来る。
「不思議な事だ。何んという事だ。どう解釈をしたものだろう? さも心地よいと云ったような、憎い相手の苦しむのがさも嬉しいと云ったような、惨忍《ざんにん》極まる笑い声! 悪意を持った笑い声! ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、まだ笑っている。俺も何んだか笑いたくなった。俺の心は誘惑《そそ》られる。ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、まだ笑っている……。俺も笑ってやろう。ヒ、ヒ、ヒ、ヒ……ヒ、ヒ、ヒ、ヒ」
 葉之助は笑い出した。不思議な笑いに誘惑《そそ》られて彼もとうとう笑い出した。
 と、さらに不思議なことには、姿の見えない笑い声が、漸次《だんだん》こっちへ近寄って来る。部屋の隅と思ったのが、畳の上から聞こえて来る。畳の上と思ったのが、葉之助の膝の辺からさも[#「さも」に傍点]鮮かに聞こえて来る。やがてとうとうその声は彼の腕から聞こえるようになった。
「奇怪千万」と葉之助は、やにわに袂《たもと》を捲り上げた。肉附きのよい白い腕がスベスベと二の腕まで現われたが、そこに上下二十枚の人間の歯形が付いている。これには別に不思議はない。幼年時《ちいさいとき》から葉之助の腕にはこういう歯形が付いていたからで、驚く必要はないのであるが、その歯形が今見れば女の顔と変わっている。眉《まゆ》を釣り上げ眼をいからせ唇を左右に痙攣《けいれん》させ、憤怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》を現わしている様子が、奇病|人面疽《にんめんそ》さながらである。ヒ、ヒ、ヒという笑い声はその口から来るのであった。
 そうして何より気味の悪いことは、人面疽の眼が気絶している紋兵衛の顔に注がれていることで、その眼には憎悪《にくしみ》が満ち充ちている。
 余りのことに葉之助は自分の視覚を疑った。
「こんな筈《はず》はない、こんな筈はない!」
 叫ぶと一緒に眼を閉じたのは、恐ろしいものを見まいとする本能的の動作でもあろうか。しかしその時断ち切ったように気味の悪い笑い声が消えたので、彼はハッと眼を開けた。
 人面疽《にんめんそ》は消えている。後には歯形があるばかりだ。
「さてはやはり幻覚であったか」ホッと溜息をした葉之助は、額の汗を拭ったものの、その恐ろしさ気味悪さは容易の事では忘られそうもない。
 その時またも戸の外から嘆願するような大勢の声が咽《むせ》ぶがように聞こえて来た。
「お返しくだされお返しくだされ。宗介天狗の黄金の甲冑、どうぞお返しくださいませ」
「これはいったいどうしたことだ」葉之助は呟いた。「あれは妖怪の声だというに、俺には懐《なつか》しく思われてならぬ。懐しいといえば人面疽の顔さえ妙に懐しく思われる。……妖怪の声を聞いていると故郷《ふるさと》の人の話し声でも聞いているような気持ちがする。そうして、人面疽の女の顔は、母親の顔ででもあるかのように、慕《した》わしく恋しく思われる」
 葉之助は茫然《ぼうぜん》と坐ったままで動こうともしない。

         一五

 ここで物語は一変する。
 大正十三年の今日でも、甲信の人達は信じ切っているが、武田信玄の死骸《なきがら》は、楯無《たてな》しの鎧《よろい》に日の丸の旗、諏訪法性《すわほうしょう》の冑《かぶと》をもって、いとも厳重に装われ、厚い石の柩《ひつぎ》に入れられ、諏訪湖の底に埋められてあり、諏訪明神がその柩を加護しているということである。
 これはどうやら歴史上から見ても、真実《ほんと》のことのように思われる。その証拠には近古史談に次のような史詩が掲載されてある。
[#ここから1字下げ]
驚倒《きょうとう》す暗中銃丸跳るを、野田城上|笛声《てきせい》寒し、誰か知らん七十二の疑塚《ぎちょう》、若《し》かず一棺湖底の安きに
[#ここで字下げ終わり]
 最後《しまい》の二句を解釈すると、昔|支那《シナ》に悪王があって、死後塚の発《あば》かれんことを恐れ、七十二個の贋塚《にせづか》を作ったが、それでもとうとう発《あば》かれてしまった。武田信玄はそんなことはせずに、死骸を湖底に埋めさせた。この方がどんなに安心だか知れない――つまりこういう意味なのである。
 いかにもこれは七十二の疑塚より確かに安心には相違ないが、しかし絶対に安心とは云えない。諏訪湖の水の乾く時が来たら、死骸は石棺のまま現われなければならない。そうでなくとも好奇《ものずき》の者が、金に糸目を付けることなく、もし潜水夫を潜らせたなら、信玄の死骸のある場所が知れたなら、それから後はどんなことでも出来る。だから絶対に安心とは云えない。
 果然《かぜん》、文政年間に好奇《ものずき》の人間が現われて、信玄の石棺を引き上げようとした。
 成功したか失敗したか? その人間とは何者か? それは物語の進むにつれて自《おの》ずと了解されようと思う。
 そうして実にこの事件は、この「八ヶ嶽の魔神」という、きわめて伝奇的の物語にとってもかなり重大な関係がある。したがって物語の主人公、鏡葉之助その人にとっても重大な関係がなくてはならない。
 鏡葉之助の消息を一時途中で中絶させ、事件を他方面へ移したのもこういう関係があるからである。

 信州諏訪の郡《こおり》高島の城下は、祭礼のように賑わっていた。
 ※[#「水/(水+水)」、第3水準1-86-86]々《びょうびょう》と湛《たた》えられた湖の岸には町の人達、老若男女が湖水を遥《はる》かに見渡しながら窃々《ひそひそ》話に余念がない。
「船が沢山出ましたな」
「二十隻あまりも出ましたかな」
「漁船と異《ちが》って立派ですな」
「諏訪家の幔幕が張り廻してある」
「乗っておられるのはお武家様ばかりだ」
「お武家様と漁師とは遠目に見ても異いますな」
「しかし今度のお企《くわだ》てはちとご無理ではないでしょうかな」
「さあそれは考えものだ」
「いや全く考えものだ」
「噂によると神宮寺の巫女《みこ》が大変怒っているそうですよ」
「あいつらが怒るとちょっと恐い」
「名に負う水狐族《すいこぞく》の手合ですからな」
「今度は若殿も失敗かな」
「立派なお方には相違ないが、どうも血気に急《はや》らせられてな」
「それもこれもお若いからよ」
「ちと好奇心《ものずき》が過ぎるようだ」
「今度の企ても好奇心からよ」
「巫女達はきっと祟《たた》ろうぞ」
「これまで水狐族に祟られたもので、難を免れたものはない」
「恐ろしいほど執念深いからな」
「先祖代々執念深いのさ」
「それにあいつらは妖術を使う」
「切支丹《キリシタン》の秘法だそうな」
「切支丹ではない陰陽術《おんようじゅつ》だ」
「日本固有の陰陽術かな」
「そうだ中御門《なかみかど》の陰陽術だ」
「おや」と一人が指差した。「いよいよ若殿のご座船が出るぞ」
「どれどれ? なるほど、ご座船らしいな」
「若殿自らお指図《さしず》と来た」
「もしも水狐族が祟《たた》るなら、きっと若殿へ祟るであろうぞ」
「無論水狐族も恐ろしいが、それより私には明神のお罰が一層恐ろしく思われるよ」
「日本第一大軍神、健御名方《たけみなかた》のご神罰かな」
「これは昔からの云い伝えだが、諏訪法性の冑《かぶと》には、諏訪明神のご神霊が附き添いおられるということだ」
「ちゃあんと浄瑠璃《じょうるり》にも書いてある奴さ」
「二十四孝のご殿かね」
「……こんな殿ごと添い臥《ふ》しの身は姫御前《ひめごぜ》の果報ぞとツンツンテンと、つまりここだ」
「冗談じゃねえ、助からねえな。口三味線とは念入りだ」
「それからお前奥庭になってよ、白狐《しろぎつね》めが業《わざ》をするわさ。明神様の使姫《つかいひめ》は白狐ということになっているんだからね」

         一六

「だんだんご座船が近寄って来る。だんだんご座船が近寄って来る」こう云って一人が指差した。
「船首《へさき》に立たれたのが若殿らしい」
「皆紅《みなくれない》の扇をば、手に翳《かざ》してぞ立ち給うかね」
「ほんとに扇を持っておられる」
「オーイオーイと差し招けば……」
「どっちだどっちだ、熊谷《くまがい》かえ? それとも厳島《いつくしま》の清盛かえ」
「どうも不真面目でいけないね。静かに静かに」と一人が云った。
 で、人達は口を噤《つぐ》み、湖上を颯々《さっさつ》と進んで来る若殿のご座船を見守った。
 今、ご座船は停止した。
 諏訪|因幡守《いなばのかみ》忠頼の嫡子、頼正君は二十一歳、冒険|敢為《かんい》の気象《きしょう》を持った前途有望の公達《きんだち》であったが、皆紅の扇を持ち、今|船首《へさき》に突っ立っている。
 そのご座船を囲繞《いにょう》して二十隻の小船が漂っていたが、この日|天《てん》晴れ気澄み渡り、鏡のような湖面にはただ一点の曇りさえなく、人を恐れず低く飛ぶ小鳥の、矢のように早い影をさえ、鮮かに映《うつ》して静まり返り、昇って間もない朝の陽が、赤味を加えた黄金色に水に映じて輝く様など、絵よりも美しい景色である。
 東の空には八ヶ嶽が連々として聳《そび》え連なり、北には岡谷の小部落が白壁の影を水に落とし、さらに南を振り返って見れば、高島城の石垣が灰色なして水際《みぎわ》に峙《そばだ》ち、諏訪明神の森の姿や、水狐族と呼ばれる巫女の一団が、他人《ひと》を雑えず住んでいる神宮寺村の丘や林などあるいは遠くあるいは近く、山に添ったり水に傾いたり、朝霧の中に隠見《いんけん》して、南から西へ延びている。
 しかし頼正は景色などには見とれようとはしなかった。じっと水面を見詰めている、いやそれは水面ではなく、水を透して水の底を、見究《みきわ》めようとしているのであったが、幾《いく》十|丈《じょう》とも知れないほど深く湛えた蒼黒い水は、頼正の眼を遮《さえぎ》って水底を奥の方へ隠している。
 と、頼正は眼を上げて、二十隻の供船《ともぶね》を見廻したが、扇を高く頭上へ上げると、横へ一つ颯《さっ》と振った。
 すると、ご座船に一番近い一隻の船の船首から、裸体《はだか》の男が身を躍らせ湖水の中へ飛び込んだ。パッと立つ水煙り! キラキラと虹《にじ》が射したのは日がまだ高く昇らないからであろう。
 若殿頼正を初めとし、船中の武士は云うまでもなく、岸に群がっている町人百姓まで、固唾《かたず》を呑んで熱心に水の面を眺めている。
 飛び込んだ男は灘兵衛《なだべえ》と云って、わざわざ安房《あわ》から呼び寄せたところの水練名誉の海男《あま》であったが、飛び込んでしばらく時が経つのに水の面へ現われようともしない。しかし間もなく湖水の水が最初モクモクと泡立つと見る間に、忽《たちま》ちグイと左右に割れ、その割目から灘兵衛が逞《たくま》しい顔を現わした。プーッと深い呼吸《いき》をすると、水が一筋銀蛇のようにその口から迸《ほとばし》る。片手で確《しっか》り船縁《ふなべり》を掴み。しばらく体を休めたものだ。
 血気の頼正は物に拘《こだわ》らず、じかに灘兵衛へ言葉をかけた。
「どうだ灘兵衛、石棺はあったか?」
「なかなかもって」
 と灘兵衛は、潮焼けした顔へ笑《えみ》を浮かべ、
「泥は厚し、水草はあり、湖水の底を究めますこと、容易な業ではござんせん」
「いかさまそれは理《もっと》もである……しかし、どうだな、ありそうかな?」
「二日、三日ないしは五日、どのように水を潜ったところで、※[#「水/(水+水)」、第3水準1-86-86]々《びょうびょう》と広い湖のこと、そんな小さな石の棺、あるともないとも解りませぬ。が、私《わっち》の感覚《かん》から云えば、まずこの辺にはござんせんな」
「うん、この辺にはなさそうか。ではどの辺に埋もれていような?」
「それが解れば占めたもの、心配する事アござんせん」
「ではそれも解らぬかな」頼正の顔は顰《ひそ》んで来た。
「確かなところは解りませんな。……とにかくもう少し西南寄り、神宮寺の方で潜って見やしょう」
「そうか。よし、船を廻せ!」
 頼正は漕ぎ手に命を下す。
 ギーと艪《ろ》の軋《きし》る音がして、船隊は船首《へさき》を西南に向けた。若殿のご座船を先頭にして神宮寺の方へ進んで行く。
 見ていた湖岸の連中は、ここでまたひそひそと噂し出す。
「神宮寺の方へ行くようだね」
「これはどうも物騒《ぶっそう》千万、死地へ乗り入《い》ると同じようなものだ」
「死地に乗り入るは大袈裟だが、どうも少々心なしだな」
「水狐部落の巫女どもに悪い悪戯《いたずら》でもされなければよいが」
「あいつらと来たら無鉄砲だからな。ご領主であろうと将軍様であろうと、そんな物には驚きはしない」
「何か事件が起こらなければよいが」
「そうだ、何か悪い事件がな」
「あの濶達《かったつ》な若殿様が、そのためご苦労するようではお気の毒というものだ」
 船隊はその間に岬を廻り、すっかり視野から消えてしまった。

         一七

 若殿のご座船を先頭に、二十隻の船は駸々《しんしん》と、湖水の波を左右に分け、神宮寺の方へ進んで行ったが、やがて目的の地点まで来ると、頼正は扇で合図をした。二十隻の船はピタリと止まる。
 ここ辺りは入江であって、蘆《あし》や芒《すすき》が水際に生《お》い、陸は一面の耕地であり、所々に森があったが、諏訪明神の神の森が、ひとり抽《ぬき》んで、聳《そび》えているのは、まことに神々《こうごう》しい眺めである。
 その神の森を遠く囲繞し、茅葺《かやぶき》小屋や掘立小屋や朽葉色《くちばいろ》の天幕《テント》が、幾何学的の陣形を作り、所在に点々と立っているのは、これぞ水狐族と呼ばれるところの、巫女どもの住んでいる部落であった。炊《かし》ぎの煙りが幾筋か上がり、鶏犬の啼き声が長閑《のどか》に聞こえ、さも平和に見渡されたが、しかし人影が全く見えず、いつもは聞こえる人の声が、今日に限って聞こえないのは、決して平和の証拠ではない。
 船の上から頼正は水狐族の部落を眺めていたが、たちまちその眼を湖上へ返すと、颯《さっ》と扇を頭上に上げた。とたんにドブンという水の音。灘兵衛が水中へ飛び込んだのである。見る見る湖面へ波紋が起こりそれが次第に拡がって行く。
「さて今度はどうであろう? 石棺の在所《ありか》は解らずとも、手懸りでもあってくれればよいが」
 頼正は船首《へさき》に突っ立ったままじっと水面を窺《うかが》った。
 突然彼は「あっ」と叫んだ。彼の視線の落ちた所、蒼々《あおあお》と澄んでいた水の面がモクモクモクモクと泡立つと見る間に牡丹の花弁《はなびら》さながらの、血汐がポッカリと浮かんで来た。と、次々に深紅の血汐が、ポカリポカリと水面へ浮かび、その辺一面見ている間に緋毛氈《ひもうせん》でも敷いたように、唐紅《からくれない》と一変した。
 侶船《ともぶね》の武士達はこれを見ると、いずれも蒼褪《あおざ》めて騒ぎ立て、
「ご帰館ご帰館!」と叫ぶ者もある。
「灘兵衛が殺されたに相違ない」「悪魚の餌食となったのであろう」「いや巫女どもの復讐じゃ!」「水狐族めの復讐じゃ!」
「ご帰館ご帰館!」「船を廻せ!」互いに口々に詈《ののし》り合う。
「待て!」とこの時頼正は、凛然《りんぜん》として抑え付けた。「帰館する事|罷《まか》り成らぬ! 誰かある、湖中へ飛び入り灘兵衛の生死を見届けるよう!」
「…………」
 これを聞くと船中の武士ども一度にハッと吐胸《とむね》を突いた。誰も返事をする者がない。互いに顔を見合わせるばかりだ。
「誰かある誰かある、灘兵衛の生死確かめよ!」
 船首《へさき》に立った頼正は地団駄《じだんだ》踏んで叫ぶのであったが、しかし進み出る者はない。
「臆病者め! 卑怯《ひきょう》者め! それほど悪魚が恐ろしいか! それほど湖水が恐ろしいか! 三万石諏訪家の家中には、真の武士は一人もいないな! 止むを得ぬ俺が行く! 俺が湖中へ飛び込んで灘兵衛の生死確かめて遣わす!」
 云うと一緒に頼正は羽織を背後へかなぐり[#「かなぐり」に傍点]捨てた。仰天《ぎょうてん》したのは侍臣である。バラバラと左右に取り付いたが、
「こは何事にござります! 千金の御身《おんみ》にござりまする! こは何事にござります!」
「放せ放せ! 放せと云うに!」
「殿!」とこの時進み出たのは諏訪家剣道指南番宮川武右衛門という老人であった。「殿、私が参りましょう」
「おお武右衛門、そち参るか」頼正は初めて機嫌を直したが、
「しかしそちは既に老年、この難役しとげられるかな?」
「は」と云うと武右衛門は膝の上へ手を置いて慎ましやかに一礼したが、「勝つも負けるも時の運。とは云え相手は妖怪か悪魚。それに安房の海男《あま》とは云え勇力勝れた灘兵衛さえ不覚を取りました恐ろしい相手、十に九つこの老人も不覚を取るでござりましょう」
「不覚を取ると知りながら、尚その方参ると云うか」審《いぶ》かしそうに頼正は訊く。
「はい、行かねばなりませぬ」「行かねばならぬ? それは何故か?」「他に行く者ござりませぬ」
「いかさま……」と云うと頼正は憤《いきどお》らし気に四方を見た。
「いえ、たとえ他にござりましても、この老人|遮《さえぎ》ってでもお役を勤めねばなりませぬ」
「はて、それはまた何故であろうな?」
「私、指南番にござります。剣道指南番にござります。しかるにこの頃私は老朽、役に立ちませぬ。それにも拘《かかわ》らず大殿様はじめ若殿様におかれましても、昔通りご重用《ちょうよう》くだされ、家中の者もこの老人を疎《おろそ》かに扱おうとは致しませぬ。これ皆君家のご恩であること申し上げるまでもござりませぬ。かかる場合にこそこの老人、ご恩をお返し致さねばいつ酬《むく》うこと出来ましょうや……さて」
 と武右衛門はこう云って来てにわかに一膝いざり[#「いざり」に傍点]出たが、「お願いの筋がござります」

         一八

「願いの筋とな? 申して見るがよいぞ」――頼正は優しく云ったものである。
「もしも私不幸にして、悪魚の餌食となりました際には、なにとぞ今回のお企て、すぐにお取り止めくださいますよう。これがお願いにござります」
「それは成らぬ」と頼正は気の毒そうに頭を振った。
「そちは今回の企てを何んのためと思っておるな?」
「お好奇心《ものずき》の結果と存じまする」「それが第一の考え違いだ。決して好奇心の結果ではない。諏訪家の恥辱を雪《そそ》ぎたいためよ」「これはこれは不思議なご諚《じょう》、私胸に落ちませぬ」「胸に落ちずば云って聞かせる、武田の家宝と称されおる諏訪法性の冑《かぶと》なるもの元は諏訪家の宝であったが、信玄無道にしてそれを奪い、死後尚自分の死骸に着け、所もあろうに諏訪湖の底へ、石棺に封じて葬《ほうむ》るとは、あくまで諏訪家を恥ずかしめた振る舞い、これは怒るが当然だ! 我《われ》石棺を引き上げると云うも、法性の冑を奪い返し、家宝にしたいに他ならぬ。何んとこれでもこの企て、好奇心《ものずき》の結果と考えるかな」
「いや」と武右衛門は顔を上げた。
「さようなご深慮とも弁《わきま》えず、賢《さか》しらだって[#「しらだって」に傍点]諫言《かんげん》仕《つかまつ》り今さら恥ずかしく存じまする」
「解ってくれたか。それで安心」
「ご免」と云うと武右衛門はスックとばかり立ち上がった。クルクルと帯を解《と》く。
「いよいよ武右衛門湖水へ入る気か」
「殿、二言はござりませぬ」
「勇ましく思うぞ。きっと仕れ」
「は」
 と云うと衣裳を脱ぎ、下帯へ短刀を手挟《たばさ》むと、屹《きっ》と水面を睨み詰めた。両手を頭上へ上げると見る間に、辷《すべ》るがように飛び込んだ。水の音、水煙り、姿は底へ沈んで行く。
 頼正を始め家臣一同、歯を喰いしばり眦《まなじり》を裂き、じっと水面に見入ったがしばらくは何んの変ったこともない。
 と、忽然《こつぜん》と浮き上がって来たのは、南無三宝! 血汐であった。
「あっ、武右衛門もやられたわ!」
 頼正、躍り上がつて叫んだ時、水、ゴボゴボと湧き上がり、その割れ目から顔を出したのは、血にまみれた武右衛門である。
「それ、者ども、武右衛門を助けい!」
「あっ」と云うと二、三人、衣裳のまま飛び込んだが忽《たちま》ち武右衛門を担《かつ》ぎ上げる。
「腕! 腕!」と誰かが叫んだ。無残! 武右衛門の右の腕が肩の付け根から喰い取られている。
「負傷《ておい》と見ゆるぞ、介抱《かいほう》致せ! ……武右衛門! 武右衛門! 傷は浅い! しっかり致せ! しっかり致せ!」
「殿、湖底は地獄でござるぞ!」武右衛門は喘《あえ》ぎ喘ぎ云うのであった。「巫女姿の一人の老婆……」
「巫女姿の一人の老婆?」頼正は思わず鸚鵡《おうむ》返す。
「苔蒸《こけむ》した石棺に腰をかけ」
「苔蒸した石棺に腰をかけ?」
「口に灘兵衛の生首をくわえ……」
「ううむ、灘兵衛の生首をくわえ?」
「私を見ると笑いましてござる。あ、あ、あ、笑いましてござる。……あ、あ、あ」
 と云ったかと思うとそのままグッタリ首を垂れた。武右衛門は気絶をしたのである。
 船中一時に寂然《しん》となる。声を出そうとする者もない。湖底! 湖底! 湖水の底! 生首をくわえた水狐族の巫女が、苔蒸した石棺に腰かけている! ああこの恐ろしい光景が、自分達の乗っている船の真下に、まざまざ存在していようとは。
 息苦しい瞬間の沈黙を、頼正の声がぶち[#「ぶち」に傍点]破った。
「帰館帰館! 船を返せ!」
 ギー、ギー、ギー、ギー、二十隻の船から艪《ろ》の音が物狂わしく軋《きし》り出す。
 今はほとんど順序もない、若殿のご座船を中に包み、後の船が先になり、先の船が後になり、高島城の水門を差し右往、左往に漕いで行く。
 石棺引き上げの第一日目はこうして失敗に終わったのである。
 爾来《じらい》若殿頼正の心は怏々《おうおう》として楽しまなかった。第二回目を試みようとしても応ずる者がないからである。
 ある夜、一人城を出て、湖水の方へ彷徨《さまよ》って行った。それは美しい明月の夜で湖水は銀のように輝いている。ふと、その時、頼正は、女の泣き声を耳にした。
 湖水の岸に柳があり、その根方《ねかた》に一人の女が、咽《むせ》ぶがように泣いている。
 頼正は静かに近寄って行った。
「見ればうら[#「うら」に傍点]若い娘だのに、何が悲しくて泣いておるぞ?」こう優しく云ったものである。
 女はハッと驚いたように、急に根方から立ち上がったが、その女の顔を見ると、今度は頼正が吃驚《びっく》りした。
 月の光に化粧された、その女の容貌《きりょう》が、余りにも美しく余りにも気高《けだか》く、あまりにも※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]《ろう》たけていたからである。

         一九

 照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜《おぼろづきよ》にしくものはなし。
 敢《あえ》て春の月ばかりではない、四季を通じて月の光は万象《ばんしょう》の姿を美しく見せる。
 湖水を背にしてスラリと立ち、顔を両袖に埋めながらすすりなきする乙女の姿は、今、月光に化粧されていよいよ益※[#二の字点、1-2-22]美しく見える。諏訪家の若殿頼正にはそれがあたかも天上から来た霊的の物のように見えるのであった。
「このような深夜にこのような処で若い女子《おんな》がただ一人何が悲しくて泣いておるぞ」
 こう云いながら頼正は乙女の側へ寄って行った。
「私《わし》は怪しい者ではない。相等《そうとう》の官位のある者だ。心配するには及ばない。私に事情を話すがよい。そなたはどこから参ったな?」
 すると乙女は泣く音《ね》を止め、わずかに袖から顔を上げたが、
「京都《みやこ》の産まれでございます」
「ナニ京都《みやこ》? おおさようか。京都は帝京《ていきょう》、天子|在《いま》す処、この信濃からは遠く離れておる。しかしよもやただ一人で京都から参ったのではあるまいな」
「京都から参ったのでございます」
「うむ、そうしてただ一人でか?」
「誘拐《かどわか》されたのでございます」
「誘拐された? それは気の毒。で、何者に誘拐されたな?」
「ハイ、今から二十日ほど前、乳母を連れて清水寺に参詣に参った帰路、人形使いに身を※[#「にんべん+峭のつくり」、第4水準2-1-52]《やつ》した恐ろしい恐ろしい人買《ひとか》いに誘拐されたのでございます」
「おおさようか、益※[#二の字点、1-2-22]気の毒、さぞ両親《ふたおや》が案じていよう、計らず逢ったも何かの縁、人を付けて帰して遣わす」
「はい有難うはございますが、母と妾《わたくし》とは継《まま》しい仲、たとえ実家へ帰りましても辛《つら》いことばかりでございます」乙女はまたも※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]たけた顔を袖へ埋めて泣くのであった。
「かえすがえすも不幸な身の上、はてこれは困ったことだ」頼正はその眼を顰《ひそ》めたが、「ところで誘拐《かどわかし》の人買いは今どこに何をしておるぞ?」
「どこにどうしておりますやら、和田峠とやら申す山で、ようやく人買いの眼を眩《くら》ませ、夢中でここまで逃げては来ましたが、知人《しりびと》はなし蓄《たくわ》えもなし、うろうろ徘徊《さまよ》っておりますうちには乞食非人に堕《お》ちようとも知れず、また恐ろしい人買いなどに捕えられないものでもなし、それより綺麗《きれい》なこの湖水へいっそ身を投げ死んだなら、黄泉《あのよ》の実の母様にお目にかかることも出来ようかと……」
「それでここで泣いていたのか?」
「はい」と云って身を顫わせる。
 月は益※[#二の字点、1-2-22]|冴《さ》え返って乙女の全身は透通《すきとお》るかとばかり、蒼白い光に煙《けぶ》っている。その肩の辺に縺《もつ》れかかった崩れた髪の乱らがましさ、顔を隠した袖を抜けてクッキリと白い富士額《ふじびたい》、腰細く丈《たけ》高く、艶《えん》と凄《せい》とを備えた風情《ふぜい》には、人を悩ますものがある。二十一歳の今日まで無数の美女に侍《かしず》かれながら、人を恋したことのない武道好みの頼正も、この時はじめて胸苦しい血の湧く思いをしたのである。
「そうしてそちの名は何んと云うぞ?」
「はい、水藻《みずも》と申します」
「水藻、水藻、しおらしい名だ。これからそちはどうする気だな?」
「はい、どうしたらよろしいやら、いっそやっぱり湖水の底へ……どうぞ死なしてくださりませ! どうぞ死なしてくださりませ!」物狂わしく身をもがく。
「この頼正がある限りは決してそちは死なしはせぬ。何故そのように死にたいぞ?」
「憐れな身の上でございますゆえ……」
「この頼正がある限りはお前は不幸に沈ませては置かぬ。それともそちは私《わし》が嫌いか?」
 云い云い肩へ手を置いた。水藻はそれを避けようともしない。堅く身を縮めるばかりである。
「返辞のないは厭《いや》と見える」
 水藻《みずも》は無言で首を振る。
「それともそちは恥ずかしいか?」
 乙女は黙って頷いた。
「まだそちは死にたいか?」
「死ぬのが厭になりました」
「楽しく二人で生きようではないか」
 水藻は袖から顔を上げたが涙に濡れた星のような眼が、この時かすかに微笑《ほほえ》んだ。
「おお笑ったな。そうなくてはならぬ。私《わし》も寂しい身の上だ。不足のない身分ながら、いつも寂しく日を送って来た。だがこれからは慰められよう。私は事業を恋と換えた。恋の美酒《うまざけ》に酔い痴《し》れよう。ほんとに男と云うものは、身も魂も何物かに打ち込まなければ生き甲斐《がい》がない。私はこれまで荒々しい武道と事業とで生きて来た。それがいよいよ行き詰まったところで計らずも女の恋を得た。これで楽しく生きることが出来る。お前は私の恩人だ。そうして私の恋人だ。私はお前を放しはせぬ」彼の顔からは憂欝《ゆううつ》が消え、新しく希望が現われたのである。

         二〇

 こういう事があってから十日余りの日が経った。その時諏訪の家中一般に一つの噂が拡まった。
 ――若殿が毎夜城を出てどこかへ行かれるというのである。――
 ――それから間もなく若殿に関してもう一つの噂が拡まった。若殿にはこの頃隠し女が出来てそこへ通われるというのである。――
 で、人達は取り沙汰した。
「武道好みの若殿に女が出来たとは面白いな」
「さて、どんな女であろうぞ?」「いったい何者の娘であろうな?」「家中の者の娘であろうか?」「それとも他国の遊女売女かな?」「湖水の石棺を引き上げようというあの乱暴な計画《もくろみ》がどうやらお蔭で止めになったらしい。これだけでも有難い」「女大明神と崇《あが》めようぞ」「それにしてもその女はどこに囲われているのであろう?」「どうぞ一眼見たいものだ」「いずれ美人に相違あるまい」「石部金吉の若殿をころりと蕩《たら》した女だからの、それは美人に相違ないとも」「いやいや案外そうではあるまい。奇抜好みの若殿だ、人《にん》三|化《ばけ》七の海千物《うみせんもの》を可愛がっておられるに違いない」「ははあこれももっともだな」「轆轤《ろくろ》ッ首ではあるまいかな」「夜な夜な行灯《あんどん》の油を嘗《な》めます」「一つ目の禿《かむろ》ではあるまいかな」「信州名物の雪女とはどうだ」「ところが今は冬ではない」「ううん、それじゃ夏女か」「そんな化物聞いたこともない」「河童《かっぱ》の化けたんじゃあるまいかな」「永明寺山《えいめいじやま》の狸かも知れぬ」「唐沢山《からさわやま》の狐であろう」「いや狢《むじな》だ」「いや河獺《かわうそ》よ」「いやいや※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2-94-68]鼠《むささび》に相違ない」――噂は噂を産むのであった。
 そのうち、家中の人達の眼に、当の若殿頼正が、日に日に凄《すご》いように衰弱するのが、不思議な事実として映るようになった。
 ――そこでまた噂が拡まった。
「これは魅入られたに違いない。いよいよ相手は怪性《けしょう》の物だ」「狢かな河童かな。きっと岡谷の河童であろう」「いや違う。そうではあるまい、これは水狐族に相違ない」
「あッ、なるほど!」
 と人々は、この意見に胆《きも》を潰《つぶ》した。
「いかさまこれは水狐族であろう。水狐族なら祟《たた》る筈だ」
「そうだこれは祟る筈だ。彼奴《きゃつ》らが永い間守り本尊として守護をして来た湖水の石棺を引き上げようとしたのだからな」「彼奴らの仲間には眼の覚めるような美しい女がいるという事だ」「しかもあいつらは魔法使いだ」「その上恐ろしく執念深い」「偉い物に魅入られたぞ」「若殿のお命もあぶなかろう」「お助けせねば義理が立たぬ」「臣下として不忠でもあろう」「しかしいったいどうしたらいいのだ?」「何より先に行《や》ることは女の在家《ありか》を突き止めることだ」
「しかしどうして突き止めたものか?」
「誰が一番適任かな?」
「拙者突き止めてお眼にかける!」
 こう豪然と云った者がある。佐分利流の槍術指南|右田運八《みぎたうんぱち》無念斎であった。
「お、右田殿か、これは適任」
「さよう、これは適任でござる」
 人々は同音に煽《あお》り立てた。「是非ともご苦労願いたいもので」
「よろしゅうござる、引き受け申した。たかが相手は水狐族の娘、拙者必ず槍先をもって悪魔退散致させましょう」
 ――で、運八はその日の夜、手慣れた槍を小脇に抱え、城の奥殿若殿のお部屋の、庭園の中へ忍び込み、様子いかにと窺った。
 深夜の風が植え込みに当たり、ザワザワザワザワと音を立て、曇った空には星影もなく、城内の人々寝静まったと見え森閑として物凄い。その時雨戸が音もなく開き人影がひらり[#「ひらり」に傍点]と下り立った。他ならぬ若殿頼正である。
 眼に見えぬ糸に曳かれるように、傍目《わきめ》もふらず頼正は、スーッ、スーッと歩いて行く。
 すると裏門の潜《くぐ》り戸が、これも人あって開けるかのように、音も立てずスーッと開いた。それを抜けて城外へ出る。犬を吠えず鶏も啼かぬ寥々寂々《りょうりょうせきせき》たる屋敷町を流星のように走り過ぎる。向かう行手は神宮寺であろう。その方角へ走って行く。
「さてこそ」と運八は思いながら、二間あまりの間隔を取りこれも負けずに直走《ひたはし》る。
 町を抜けると野良《のら》である。野良の細道を二個の人影が、足音も立てずに走って行く。間もなくこんもり[#「こんもり」に傍点]とした森へ出た。頼正は森の中へ走り込む。で、運八も走り込み、やがてその森を抜けた時には、頼正の姿は見えなかった。
「これはしまった[#「しまった」に傍点]」と呟いた時、一人の老婆が向こうから来た。何やら思案をしていると見えて、首を深く垂れている。
「ご老婆ちょっと物を尋ねる」
 運八は切急《せっきゅう》に声を掛けた。「立派な若いお侍がたった[#「たった」に傍点]今この道を行った筈。そなた見掛けはしなかったかな?」

         二一

 老婆は返辞をしなかった。何やら音を立てて食っている。そうしてクスクス笑っているらしい。
「年寄りの分際《ぶんざい》で無礼な奴! これ返辞を何故しない」
 右田運八は怒鳴りながら老婆の肩をムズと掴んだ。しかし老婆は返辞をしない。やはり俯向《うつむ》いて笑っている。そうして何か食っている。クックッと云うのは笑い声であり、ビチャビチャと云うのは物を食う音だ。
 運八はいよいよ激昂《げっこう》し肩へ掛けた手へ力を入れた。と、その手がにわかに痲痺《しび》れ不意に老婆が顔を上げた。白金のような白髪を冠った朱盆のような赭《あか》い顔が暗夜の中に浮いて見えたが、口にも鼻にも頬顎にもベッタリ生血が附いている。両手でしっかり抱えているのは半分食いかけた生首である。切り口から血汐が滴《したた》っている。それは灘兵衛の首であった。
 はっ[#「はっ」に傍点]と思ったその瞬間運八はグラグラと眼が眩《まわ》った。それから彼はバッタリ倒れ、そのまま気絶をしたのである。
 数人の百姓に介抱《かいほう》され、彼が気絶から甦生《よみがえ》った時には、その翌日の朝の陽が高く空に昇っていた。
 この運八の失策は忽《たちま》ち城下の評判となり武士と云わず町人と云わずすっかり怖気《おぞけ》を揮《ふる》ってしまい、日の暮れるのを合図にして人々は戸外へ出ようともしない。頓《とみ》に城下は寂《さび》れ返り諏訪家の武威さえ疑われるようになった。
 しかるに若殿頼正は依然として城を抜け出してどこへともなく通って行く。そうして日に夜に衰弱する。祟《たた》り! 祟り! 水狐族の祟り! いったいどうしたらよいのであろう!

 この奇怪な諏訪家の噂は、伊那の内藤家へも聞こえて来た。
 ある日、駿河守正勝は鏡葉之助をお側へ召したが、
「気の毒ながら諏訪家へ参り、妖怪《あやかし》見現わしてはくれまいかな」さも余儀なげに頼んだものである。
「は」と云ったが葉之助は迷惑そうな顔をした。
「諏訪家と当家とは縁辺である。聞き捨て見捨てにもなるまいではないか」
「他に人はござりますまいか?」
「そちに限る。そちに限る。何故と申すに他でもない大鳥井紋兵衛を苦しめた得体の知れなかった妖怪も、一度そちが見舞って以来姿を潜めたというではないか。そちに威徳があればこそだ。私《わし》から頼む、参ってくれ」
「いかなる名義で参りましょうや?」
「当家からの使者としてな。若殿頼正の病気見舞いとしてな」
「やむを得ませぬ、ご諚《じょう》かしこみ、ともかくも参ることに致しましょう」
「首尾よくやれば当家の名誉。諏訪家においても恩に着よう。さていつ頃《ごろ》出立するな?」
「事は急ぐに限ります。明早朝お暇《いとま》を賜《たま》わり、諏訪へ参るでござりましょう」
「供揃い美々しく致すよう」
 ――で、その翌朝、大供を従え、鏡葉之助は発足した。玲瓏《れいろう》たる好風貌、馬上|手綱《たづな》を掻い繰って、草木森々たる峠路を伊那から諏訪へ歩ませて行く。進物台、挿箱《はさみばこ》、大鳥毛、供奴《ともやっこ》、まことに立派な使者振りである。
 中一日を旅で暮らし、その翌日諏訪へ着いたが既《すで》に飛脚《ひきゃく》はやってある。使者の行くことはわかっている、諏訪家では態々《わざわざ》人を出し、国境まで迎えさせたが、まず休息というところから城内新築の別館へ丁寧《ていねい》に葉之助を招待《むかえいれ》た。
 翌日が正式の会見日である。
 その夜諏訪から重役が幾人となく挨拶《あいさつ》に来たが、千野兵庫《ちのひょうご》が来た時であった、葉之助は卒然と訊いた。
「お家は代々文学のお家柄、蔵書など沢山ござりましょうな?」
「さよう、相等《そうとう》ござります」
「文庫拝見致したいもので」
「いと易《やす》いこと、ご案内致しましょう」
 兵庫は葉之助を導いて書籍蔵へ案内した。実に立派な文庫である。万巻に余る古今の書が整々然として並べられてある。
 葉之助は心中感に耐えながら「ス」の部を根気よく調査したが、その結果ようやく探し当てたのは「水狐族縁起」という写本であって、部屋に戻ると葉之助は熱心にそれを読み出した。
 水狐族なるものの発生とその宗教の輪廓《りんかく》とが朧気《おぼろげ》ながらも解って来た。
 ――平安朝時代のことであるが、この諏訪の国の湖水の岸に一個の城が聳《そび》えていた。城の主人《あるじ》を宗介《むねすけ》と云いその許婚《いいなずけ》を柵《しがらみ》と云ったが柵は宗介を愛さずに宗介の弟の夏彦を命を掛けて恋した果て、その夏彦の種を宿し産み落とした娘を久田姫と云った。これぞ悲劇の始まりで、宗介と夏彦とは兄弟ながら恋敵《こいがたき》として闘った。

         二二

 諏訪湖《すわこ》にまたは天竜川に、二人の兄弟は十四年間血にまみれながら闘ったが、その間|柵《しがらみ》と久田姫とは荒廃《あれ》た古城で天主教を信じ佗《わび》しい月日を送っていた。十四年目に宗介は弟夏彦の首級《くび》を持ち己《おの》が城へ帰っては来たがもうその時には柵は喉《のど》を突いて死んでいた。
「俺はあらゆる人間を呪う。俺は浮世を呪ってやる!」こう叫んだ宗介が八ヶ嶽へ走って眷属《けんぞく》を集めあらゆる悪行を働いた後、活きながら魔界の天狗となりその眷属は窩人《かじん》と称し、人界の者と交わらず一部落を造ったということは、この物語の冒頭において詳しく記したところであるが、一人残った久田姫こそ、いわゆる水狐族の祖先なのであって、父夏彦の首級を介《かか》えた憐れな孤児《みなしご》の久田姫は、その後一人城を離れ神宮寺村に住居《すまい》して、聖母マリヤと神の子イエスとを、守り本尊として生活《くら》したが、次第に同志の者も出来、窩人部落と対抗しここに一部落が出来上がり、宗教方面では天主教以外に日本古来の神道の一派|中御門派《なかみかどは》の陰陽術を加味し、西洋東洋一味合体した不思議な宗教を樹立したのである。そうして彼らの長《おさ》たる者は必ず久田の名を宣《なの》り、若い時には久田姫、老年となって久田の姥《うば》と、こう呼ぶことに決っていた。そうして彼らの長となる者は必ず女と決っていた。
 彼ら部落民全体を通じて最も特色とするところは、男女を問わず巫女《みこ》をもって商売とするということと、部落以外の人間とは交際《まじわ》らないということと、窩人を終世の仇とすることと、妖術を使うということなどで、わけても彼らの長《おさ》となるものは、今日の言葉で説明すると、千里眼、千里耳、催眠術、精神分離、夢遊行《むゆうこう》、人心観破術というようなものに、恐ろしく達しているのであった。……
「ふうむ、そうか」
 と葉之助は、写本を一通り読んでしまうと、驚いたように呟いた。
「容易ならない敵ではある。それに人数が多すぎる。一部落の人間を相手としては、いかほど武道に達した者でも、討ち果たすことは困難《むずかし》かろう。これは充分考えずばなるまい。……いや待てよ、そうでもない。彼らの長さえ討ち取ったなら、諏訪家に纏《まつ》わる禍《わざわ》いだけは断ち切ることが出来ようも知れぬ。うむ、そうだ、この一点へ、ひとつ心を集めて見よう」
 森閑と更けた城内の夜、別館客座敷の真ん中に坐り葉之助はじっと考え込んだが、
「考えていても仕方がない。味方を知り敵を知るは必勝の法と兵学にもある。これから窃《こっそ》り出かけて行き、水狐部落の様子を見よう」
 スッと立って廻廊へ出、雨戸を開けると庭へ出た。城の裏門までやって来ると一人の番人が立っていた。
「どなたでござるな? どこへおいでなさる?」
「拙者は内藤家より使者の者、所用あって城下へ出ます。早々小門をお開けくださるよう」
「はっ」と云って式体《しきたい》したが、「たとえいかなるご仁《じん》に致せ、刻限過ぎにござりますれば開門いたすことなりませぬ」
「ほほう、いかなる人といえども刻限過ぎにはこの小門を通行致すことなりませぬとな」
「諏訪家の掟《おきて》にござります」
「しかるに毎夜その掟を破り他出する者がござるとのこと、何んと不都合ではござらぬかな」
「いやいや決してさような者、諏訪家家中にはおりませぬ」
「いやいや家中の侍衆《さむらいしゅう》ではない。ご一門中の立派なお方だ」
「はて、どなたでございましょうや?」
「すなわち若殿頼正公」
「あッ、なるほど!」と思わず云って門番はキョトンと眼を丸くした。
「何んとでござるな。一言もござるまい」
 葉之助は笑ったものである。
「いや一言もござりませぬ」
「しからば開門なさるよう」
「やむを得ぬ儀、いざお通り」
 ギーと門番は門を開けた。ポンと潜った葉之助は、昼間あらかじめ調べて置いた、野良の細道をサッサッと神宮寺村の方へ歩いて行く。遅い月が出たばかりで野面《のづら》は蒼茫《そうぼう》と光っている。微風に鬢《びん》の毛を吹かせながら急《せ》かず焦心《あせ》らず歩いて行くものの心の中ではどうしたものかと、策略を巡らしているのであった。
 間もなく遥かの行手に当たって水狐族の部落が見渡された。家数にして百軒余り、人数にして三百人もあろうか、今はもちろん寝静まっていて人影一つ見えようともしない。夜眼にハッキリとは解らないが、家の造り方も尋常《なみ》と異《ちが》い、きわめて原始的のものらしく、ひときわ眼立つ一軒の大厦《たいか》は、部落の長の邸であろう。あたかも古城のそれのように、千木《ちぎ》や勝男木《かつおぎ》が立ててある。そうして屋根は妻入式《つまいりしき》であり、邸の四方に廻縁《かいえん》のある様子は、神明造りを想わせる。
 と、忽然《こつぜん》その辺から音楽の音《ね》が聞こえて来た。
「はてな?」と呟いて葉之助は思わず足を止めたものである。

         二三

 音楽の音は幽《かす》かではあるが美妙《びみょう》な律呂《りつりょ》を持っている。楽器は羯鼓《かっこ》と笛らしい。鉦《かね》の音も時々聞こえる。
 葉之助はしばらく聞いていたがやがて忍びやかに寄って行った。木蔭に隠れて向こうを見ると、神明造りの館の庭に数人の女が坐っていたが、いずれも若い水狐族の女で、一人は笛、一人は羯鼓、一人は鉦を叩いている。そうして一人の老年《としより》の女が、その中央《まんなか》に坐っていたが何やら熱心に祈っているらしい。チン、チン、チンと鉦の音、カン、カン、カンと羯鼓の音、それを縫って笛の音がヒュー、ヒュー、ヒューと鳴り渡る。それが睡気《ねむたげ》な調和をなし、月夜を通して響き渡る。
 静かに老婆は立ち上がった。それから両手を差し出した。それを上下へ上げ下げする。何かを招いているらしい。
 と、城下の方角から、一つの黒点があらわれたが、それが風のように走って来る。魔法使いの老婆の手が遥かに犠牲《いけにえ》を呼んだのでもあろう。チン、チン、チン、カン、カン、カン、ヒュー、ヒューと音楽の音は次第次第に調子を早め、上げ下げをする老婆の手がそれに連れて速くなる。黒点は次第に近寄って来る。点が棒になり棒が人形となり、月の光を全身に浴びた一人の若い侍の姿が、やがて眼前へ現われた。諏訪家の若殿頼正である。
 三人の女と老婆とは、にわかにスーッと立ち上がった。そうして音楽を奏しながら階段を悠々と昇り出した。やはり老婆は左右の手を上へ下へと上げ下げする。やがて屋内へ姿を消した。
 頼正の眼は見開かれている。凝然《じっ》と前方へ注がれている。しかし眠っているらしい。ただ足ばかりが機械的に動く。階段の前へ来たかと思うともう階段を昇っている。あたかも物に引かれるように、躯《からだ》を斜めに傾《かし》げたかと思うとスーッと屋内へ辷《すべ》り込んだ。
 後は森然《しん》と静かである。音楽の音も聞こえない。
 木蔭で見ていた葉之助は何がなしにゾッとした。
「……水狐族の妖術だな。あの老婆が長《おさ》なのであろう。人を音楽で引き寄せる。不思議なことがあればあるものだ。……家の中で何をしているのだろう?」
 強い好奇心に誘われて静かに葉之助は木蔭を立ち出で、階段へ足をそっと掛け一階二階と昇って見た。とたんにヒューと空を切って一本の投げ棒が飛んで来たが、葉之助の足を払おうとする。ハッと驚いた葉之助は、身を躍らせて階段からヒラリと地上へ飛び下りた。しかしどこにも人影はない。月の光が蒼茫と前庭一杯に射し込んでいた。木立や家影《いえかげ》を黒々と地に印《しる》しているばかりである。
 葉之助はまたもゾッとした。「帰った方がよさそうだ」こう思わざるを得なかった。そこで彼は身を忍ばせ水狐部落を抜け出し、野良の細道をスタスタと湖水の岸まで引き返して来た。
 一人の女が湖水の岸の柳の蔭に立っている。どうやら泣いているらしい。
「これ女中どうなされたな?」
 葉之助は怪しんで近寄って行った。見れば美しい娘である。
「このような深夜《よふけ》にこのような所で、何を泣いておられるな?」
「はい」と云ったがその娘は顔から袖を放そうとはしない。白い頸、崩れた髪、なよなよとした腰の辺《あた》り、男の心を恋に誘い、乱らがましい心を起こさせようとする。
「どこのお方で何んと云われるな?」
 葉之助は優しくまた訊いた。
「産まれは京都《みやこ》、名は水藻《みずも》、恐ろしい人買《ひとか》いにさらわれまして……」
「いやいやそうではござるまい」鏡葉之助は静かに云った。
「生れは神宮寺、名は久田……」
「え?」と娘は顔を上げる。
「馬鹿!」と一喝、葉之助は、抜き打ちに颯《さっ》と切り付けた。と、娘は狼狽しながらも、ピョンと背後へ飛び退くと、袖を手に巻きキリキリと頭上高く差し上げたが、それをグルグルグルグルと、渦巻きのように廻したものである。
 心に隙はなかったが、相手の不思議の振る舞いを怪しく思った葉之助は、じっと[#「じっと」に傍点]その手へ眼を付けた。次第に精神が恍惚となる。すなわち今日の催眠術だ。葉之助はそれへ掛かったのである。「あ、やられた」と思った時には、身動きすることさえ出来なかった。月も湖水も柳の木も、娘の姿ももう見えない。グルグルグルグルと渦巻き渦巻く奇怪な物象が眼の前で、空へ空へ空へ空へ、高く高く高く高く、ただ立ち昇るばかりである。
 彼は刀を握ったまま湖水の岸へ転がった。彼は昏々と眠ったのである。そうして翌朝百姓によって呼び覚まされたその時には、腰の大小から衣裳まで悉《ことごと》く剥ぎ取られていたものである。

         二四

 これは武士たる葉之助にとっては云いようもない恥辱であった。
 彼は城内の別館で、爾来《じらい》客を避けて閉じ籠もった。そうして病気を口実に、正式の使者の会見をさえ延期しなければならなかった。
 しかし忽《たちま》ちこの噂は城の内外へ拡まった。
「内藤家より参られた病気見舞いの使者殿が不思議なご病気になられたそうな」
「さよう不思議なご病気にな。一名|仮病《けびょう》とも云われるそうな」「不面目病とも申されるそうな」「恥晒《はじさ》らし病とも申されるそうな」――などと悪口を云う者もある。どう云われても葉之助にはそれに反抗する言葉がない。
「噂によれば葉之助という仁《ひと》は、内藤殿のご家中でも昼行灯と異名を取った迂濶《うかつ》者だということであるが、それが正しく事実ならさような人間を使者によこされた内藤家こそ不届き千万」こう云う者さえ出て来るようになった。
「いやいやそれは中傷で、葉之助殿は非常な武芸者、高遠城下で妖怪《もののけ》を退治し、武功を現わしたということでござる」稀《まれ》にはこう云って葉之助を、弁護しようとする者もあった。
「何さ、高遠の妖怪は諏訪の妖怪と事|異《かわ》り意気地《いくじ》がないのでござろうよ」などと皮肉を云う者もある。一方若殿頼正は、誰がどのように警護しても、時刻が来れば忽然《こつぜん》と抜け出し、城から姿を隠すのであった。そうして日夜衰弱し、死は時間の問題となった。
 しかも、葉之助は寂然《せきぜん》と、別館に深く籠もっていて、他出しようともしないのである。
 ある日葉之助はいつも通り別館の座敷に端座してじっと[#「じっと」に傍点]思案に耽《ふけ》っていた。彼の前には、「水狐族縁起」が、開いたままで置いてある。彼は今日までに幾度となくこの写本を読み返した。そうしてこの中から何らかの光明何らかの活路を発見《みつけだ》そうとした。しかし不幸にも今日までは見出すことが出来なかった。
 彼はカッと眼を開けた。それから改めて読み出した。と、にわかに彼の眼は一行の文字に喰い入った。
「八ヶ嶽山上窩人に対しては、深讐《しんしゅう》綿々|尽《つ》く期《とき》無《な》けん、これ水狐族の遺訓たり」
 こうそこには記されてある。
「うん、これだ!」
 と葉之助はポンとばかりに膝を叩いた。
「なんという俺は迂濶者《うかつもの》だ。これほど立派な活路があるのに、それに今まで気が付かなかったとは……八ヶ嶽山上の窩人に対し水狐族が深讐とみなすからには、窩人の方でも水狐族を深讐と見ているに相違ない。したがって窩人の連中は、水狐族に対して敵対の手段を考えているに相違ない。ではその窩人と邂逅《いきあ》って水狐族に対する敵対の手段を尋ねたとしたらどうだろう! 恐らく彼らは喜んで教えてくれるに違いない。八ヶ嶽に行って窩人と逢おう!」
 日没《ひぐれ》を待って葉之助は窃《こっそ》り城を抜け出した。
 途中で充分足|拵《ごしら》えをし、まず茅野宿《ちのじゅく》まで歩いて行き、そこから山路へ差しかかった。薬沢《くすりさわ》、神之原、柳沢。この柳沢で夜を明かし翌朝は未明に出発した。八手まで来て北に曲がったが、もうこの辺は高原で、これより奥には人家はない。阿弥陀ヶ嶽の山骨を上へ上へと登って行く。途中一夜野宿をした。
 三日目の昼頃|辿《たど》り着いたのは「鼓《つづみ》ヶ|洞《ほら》」の谿谷《たにあい》で、見ると小屋が建っていた。幾年風雨に晒《さ》らされたものか屋根も板囲いも大半崩れ見る影もなく荒れていたが、この小屋こそは十数年前に窩人の娘山吹と城下の商人《あきゅうど》多四郎とがしばらく住んでいた小屋なのである。二人の間に儲けられた猪太郎と呼ぶ自然児もかつてはここに住んでいた筈だ。それらの人達はどこへ行ったろう? 山吹は既に死んだ筈である。しかし多四郎や猪太郎は今尚|活《い》きている筈だ。
 鏡葉之助は小屋の前にやや暫時《しばらく》立っていた。不思議にも彼の心の中へ、何んとも云われない懐かしの情が、油然《ゆうぜん》として湧いて来た。遠い昔に度々聞きそうして中頃忘れ去られた笛の音色が卒然と再び耳の底へ響いて来たような、得《え》も云われない懐かしの情! 思慕の情が湧いて来た。しかしそれは何故だろう? そうだそれは何故だろう? 葉之助にとって「鼓ヶ洞」は何んの関係もないではないか、今度が最初《はじめて》の訪問ではないか。鏡葉之助は鏡葉之助だ。他の何者でもないではないか。
 それとも葉之助と「鼓ヶ洞」とは何か関係があるのであろうか?
「これは不思議だ」と葉之助は声に出して呟いた。「遠い遠い遠い昔に、私《わし》は何んだかこの小屋に住んでいたような気持ちがする。……しかしそんなことのありようはない!」忽然、この時絶壁の上から、人の呼び声が聞こえて来た。
「おいでなさい! おいでなさい! おいでなさい!」慈愛に充ちた声である。

         二五

「おいでなさい、おいでなさい、おいでなさい!」
 慈愛に溢れた呼び声がまた山の上から聞こえて来た。
 鏡葉之助はそれを聞くと何んとも云われない懐かしの情が油然《ゆうぜん》と心へ湧き起こった。
「誰かが俺を呼んでいる。行って見よう、行って見よう」
 忙しく四辺《あたり》を見廻した。正面に当たって崖がある。崖には道が付いている。その道は山上へ通っている。
 で葉之助はその道から山の上へ行くことにした。苔《こけ》に蔽《おお》われ木の葉に埋もれ、歩き悪《にく》い道ではあったけれど、葉之助にとっては苦にならなかった。で、ズンズン登って行く。
 こうしてようやく辿《たど》りついた所は、いわゆる昔の笹の平、すなわち窩人《かじん》の部落であって、諸所に彼らの住家があったが、人影は一つも見られなかった。
 見られないのが当然である。十数年前に窩人達は漂泊《さすらい》の旅へ上ったのだから。
 しかしもちろん葉之助にはそんな消息は解っていない。で、窩人の廃墟ばかりあって、窩人その者のいないということが、少なからず彼を失望させた。
「だがさっきの呼び声は決して自分の空耳《あだみみ》ではない。確かに人間の呼び声であった。その人間はどこにいるのであろう?」
 そこで彼は何より先にその人間を探すことにした。
 一軒一軒根気よくかつては窩人の住家であり、今は狐狸の巣となっている、窟《いわや》作りの小屋小屋を丁寧に彼は探したが、人間の姿は見られなかった。
「さては空耳《あだみみ》であったのかしら?」
 ようやく疑わしくなった時、またもや同じ呼び声がどこからともなく聞こえて来た。
「いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい!」と。
 声は山の方からやって来る。
 で葉之助は元気付き声のする方へ走って行った。荒野を上の方へ越した時、丘の上に森があり、森の中に神殿があり、内陣の奥に槍を持ったさも[#「さも」に傍点]厳《いか》めしい木像が突っ立っているのを見付けたが、これぞ天狗の宮であり、厳めしい武人の木像こそ宗介天狗のご神体なのであった。しかしこれとて葉之助には何が何んであるか解ってはいない。
 とは云え何んとなくその木像が尊く懐かしく思われたので、葉之助は手を合わせて恭《うやうや》しく拝した。と、その時人声がした。
「おお猪太郎、よく戻ったな」
 ギョッと驚いた葉之助が思わずその眼を見張った時、木像の蔭からスルスルと、白衣長髪の人影が、彼の眼の前へ現われた。まことに神々しい姿である。慈愛に溢れた容貌である。人と云うより神に近い。
 その神人はまた云った。
「おお猪太郎、よく戻ったな」
 意外の人物の出現に、胆を潰した葉之助はしばらく無言で佇《たたず》んでいたが、この時にわかに一礼し、
「これはどなたか存じませぬが、お人違いではございませぬかな。私事は高遠の家中、鏡葉之助と申す者、猪太郎ではございませぬ」
「さようさよう只今の名は葉之助殿でござったな。しかしやっぱり猪太郎じゃ。さよう少くも幼名はな」神々しい姿のその人はこう云うと莞爾《にこやか》に微笑んだが、「何んとそうではござらぬかな」
「いえいえそれも違います。私の幼名は右三郎、このように申しましてございます」
「さようさようそんな時代もあった。しかしそれはわずかな間じゃ。しかもそれは仮りの名じゃ。方便に付けた名であったがしかしその事はやがて自然に解るであろう。そうしてそれが解った時から、お前は悲惨《みじめ》な人間となろう。恐ろしい恐ろしい『業《ごう》』の姿がまざまざお前に見えて来よう。世にも不幸な人間とは、他《ほか》でもないお前の事じゃ。お前は産みの母親の呪詛《のろい》の犠牲《いけにえ》になっているのじゃ。そうしてお前は実の父親をどうしても殺さなければならないのじゃ。しかしそれは不可能のことじゃ。子として実の父親を殺す! これは絶対に出来ないことじゃ。出来ないからこそ苦しむのじゃ。そこにお前の『業』がある……お前は不幸な人間じゃ。母の怨みを晴らそうとすればどうでも父親を殺さねばならぬ。子としての道を歩もうとすれば、母親の臨終《いまわ》の妄執《もうしゅう》を未来|永劫《えいごう》解《と》くことが出来ず、浮かばれぬ母親の亡魂をいつまでも地獄へ落として置かねばならぬ」
 すると葉之助は笑い出したが、
「これは何をおっしゃることやらとんと[#「とんと」に傍点]私には解りませぬ。私の実の父も母も飯田の城下に健《すこや》かに現在《ただいま》も生活《くら》しておりますものを、臨終《いまわ》の妄執だの亡魂だのと、埒《らち》もないことを仰《おお》せられる。お戯《たわむ》れも事によれ、程度《ほど》を過ごせば無礼ともなる。もはやお黙りくださるよう。私、聞く耳持ちませぬ!」
 果ては少しく怒りさえした。

         二六

 すると神々しいその人は、さも気の毒と云うように、慈愛の眼差しで葉之助を見たが、
「お前の父母は何んと云うな?」
「父は南条右近と申し、信州飯田堀石見守の剣道指南役にござります。母は同藩の重役にて前川頼母の第三女お品と申すものにございます」
「さようさようそうであったな。それは私《わし》も知っておる。しかしそれは仮り親じゃ」
「ナニ、仮り親でございますと? 奇怪な仰せ、その仔細は?」葉之助は気色ばむ。
「いやいやそれは明かされぬ。しかしそのうち自然自然|明瞭《あきらか》になる時節があろう。その時節を待たねばならぬ」
「先刻より様々の仰せ、不思議なことばかりでございますが、そもそもあなたにはいかなるご身分、いかなるお方でございましょう?」
「私はお前の産まれない前に、この山中にいた者じゃ」
「ははあ、さようでございますか」
「そうしてお前の実の親とは深い関係のあるものじゃ。殊《こと》に死なれた母親とはな」
「……?」
「善、平等、慈悲、平和、私はこれらの鼓吹者《こすいしゃ》じゃ」
「ははあさようでございますか」
「お前の産まれる少し前に私《わし》はこの山を立ち去った。徳の不足を感じたからじゃ。しかし私にはこの山の事がいつも心にかかっていた。で私は四六時中お前の傍《そば》に付いていた。いやいや敢《あえ》てお前ばかりではなくあらゆる不幸な人間にはいつも私《わし》は付いているのだ。ある人のためには涙であり、ある人のためには光である、これが私の本態だ。……で私にはお前の事なら何から何までわかっている」
「そうしてあなたのお名前は?」
「この山では私の事を白法師と呼んでいた」
「白法師様でございますな」
「困った事にはこの浮世には、私と反対な立場にいて私に反対する悪い奴がいる。悪、不平等、呪詛《じゅそ》、無慈悲、こういう物の持ち主で、やはり私と同じように総《あらゆ》る人間に付きまとっている」
「それは何者でございましょう?」
「黒法師とでも云って置こう。また悪玉と云ってもよい。したがって私は善玉で。……三世を貫く因果なるものはこの善玉と悪玉との勝負闘争に他《ほか》ならない。……しかしこれは事新しく私が説くには当たるまい。とは云えお前の身の上に降りかかっている悪因縁はその黒法師の為《な》す業じゃ。そうして少くも現在《いま》のところでは私の力ではどうにもならぬ。時節を待つより仕方がない。……しかもお前は産みの母の呪詛《のろい》の犠牲になっているばかりか、今や新しく種族の犠牲にその身を抛擲《なげう》とうと心掛けている」
「種族? 種族? 種族とは?」
「お前の属する種族の事じゃ」
「私は士族でございます」
「さよう、今はな、今は武士じゃ」
「元から武士でございました」
「そうではない、そうではない」
「では何者でございましょう?」
「それは云えぬ。今は云えぬ。それをお前へ教える者は他でもない黒法師じゃ」
「その黒法師はどこにおりましょう?」
「あらゆる人間に付きまとっている。だからお前にも付きまとっている」
「私の眼には見えませぬ」
「間もなくお前にも見えて来よう」
「種族の犠牲? 黒法師? ああ私には解らない!」
「水狐族! 水狐族!」白法師は卒然と云った。「これをお前は滅ぼそうとしてこの山中へ来たのであろうな?」
「仰せの通りでございます」
「窩人にとっては水狐族こそは祖先以来の仇なのじゃ」
「そのように聞いておりました」
「だからお前の仇でもある」
「それはなぜでございましょう?」
「やがて解る、やがて解る。……とまれお前はお前の属するある一つの種族のため、他の種族と戦わねばならぬ。水狐族どもと戦わねばならぬ。そうしてお前は久田の姥《うば》をお前の手によって殺さねばならぬ。これはお前の宿命だ」
「しかしどうしたら憎い妖婆を討ち取ることが出来ましょうか?」こう葉之助は不安そうに訊いた。
「あれを見るがいい。あれを見ろ」
 こう云いながら白法師は内陣の木像の持っている平安朝型の長槍を、手を上げて指差した。
「あの木像こそ他ならぬ窩人族の守護神《まもりがみ》じゃ。彼らの祖先宗介じゃ。窩人どもの族長じゃ。族長の持っている得物《えもの》をもって、他の族長を討つ以外には、妖婆を討ち取る手段はない」
 云われて葉之助は躍り上がったが、神殿へ颯《さっ》と飛び込んで行くと、木像の手から長槍をグイとばかりに※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]《も》ぎ放した。

         二七

 ……「久田の姥を殺した刹那《せつな》、お前はまたも呪詛《のろい》を受けよう。恐ろしい呪詛! 恐ろしい呪詛! 不幸なお前! 不幸なお前!」
 背後の方から白法師がこう云って呼びかけるのを聞き流し、鏡葉之助が勇躍して山を里の方へ馳《は》せ下ったのはそれから間もなくの事であった。
 彼はただただ嬉しかった。
「憎い妖婆を討つ事が出来る。堕ちた名誉を取り返すことが出来る。呪詛が何んだ、呪詛が何んだ!」
 これが葉之助の心持ちであった。
「有難いのはこの槍だ。槍よどうぞ俺のために霊妙な力を現わしてくれ。魔法使いの久田の姥めをただ一突きに突き殺させてくれ!」
 これが葉之助の願いであった。
 足を早めてドンドン下る。
 途中で一夜野宿をし、その翌日の真昼頃、高島の城下に帰り着いたが、故意《わざ》と城中へは戻らずに、城下外れの旅籠屋《はたごや》で夜の来るのを待ち設けた。
 やがて日が暮れ夜となり、その夜が更けて深夜となった。審《いぶ》かる家人を尻目に掛け、葉之助は宿を出た。
 湖水に添って田圃路《たんぼみち》を神宮寺村の方へ歩いて行く。
 間もなく水狐族の部落へ来たが、以前《このまえ》来た時と変わりなく家々は森然《しん》と寝静まり、犬の声さえ聞こえない。
「よし」
 と呟くと葉之助は、木蔭家蔭を伝いながら、久田の姥の住居の方へ、足音を忍んで寄って行った。
 広い前庭までやって来た時彼はハッとして立ち止まった。
 幽《かす》かな空の星の光にぼんやり姿を照らしながら四、五人の人影が蠢《うごめ》いている。コンコンという釘《くぎ》を打つ音、シュッシュッという板を削《けず》る音、いろいろの音が聞こえて来る。何やら造っているようである。
「はてな?」
 と葉之助は怪しんだ。で、一層足音を忍ばせ、暗い物蔭を伝い伝い、彼らの話し声を聞き取ろうと、そっちの方へ寄って行った。
 何やら彼らは話し合っている。
「どうしたどうした、まだ出来ないか」
「節があるので削り悪《にく》い」
「いいかげんでいい、いいかげんでいい」
 シュッシュッという板を削る音。
「釘をよこせ、釘をよこせ」
「おっとよしきた、それ釘だ」
 コンコンという釘を打つ音が、夜の静寂《しじま》を貫いて変に陰気に鳴り渡る。
 何を造っているのであろう。
 とまた彼らは話し出した。
「莫迦《ばか》にゆっくりしているじゃないか」
「それは、最後のお別れだからな」
「齧《かじ》り付いているんだな」
「うん、そうとも、几帳《きちょう》の中で」
「百歳過ぎたお婆とな」
「どう致しまして、十七、八、水の出花のお娘ごとよ」
「アッハハハ、違えねえ」
 彼らは小声で笑い合い、ひとしきりコンコンと仕事をした。
「思えばちょっとばかり可哀そうだな」また一人が云い出した。
「若い身空を水葬礼か」
「それも皆んな心がらだ」
「俺らに逆らった天罰だ」
「湖水を渫《さら》った天罰だ」
「諏訪家の若殿頼正なら、若殿らしく穏《おとな》しくただ上品に構えてさえいれば、こんな目にも逢うまいものを」
「いい気味だよ、いい気味だよ」
 そこで彼らはまた笑った。
「……さて、あらかた棺も出来た」
「早く死骸《なきがら》が来ればいい」
 そこで彼らは沈黙した。
 これを聞いた葉之助はゾッとせざるを得なかった。
 彼らは頼正の死骸を納める棺を造っていたのであった。そうして若殿頼正は、今夜もこの家へ引き寄せられ、美しい娘の水藻《みずも》に化けた百歳の姥《おうな》久田のために誑《たぶら》かされているらしい。しかも若殿頼正の生命《いのち》は寸刻に逼《せま》っているらしい。棺! 棺! 水葬礼! 彼らは頼正の死骸を棺の中へぶち[#「ぶち」に傍点]込んでそれを湖水へ沈めるのらしい。それが目前に逼っている!
「これはこうしてはいられない」
 葉之助は足擦りした。とたんにガチャンと音がした。彼は何物かに躓《つまず》いたのである。ハッと思ったが遅かった。棺造りの水狐族が四人同時に立ち上がり、ムラムラとこっちへ走って来る。
「もうこうなれば仕方がない。一人残らず討ち取ってやろう」
 突嗟に思案した葉之助は、そこに立っていた杉の古木の驚くばかり太い幹へピッタリ体をくっ付けた。
 それとも知らず水狐族は四人|塊《かた》まって走って来る。

         二八

 眼前三尺に逼った時、葉之助の手はツト延びた。真っ先に進んだ水狐族の胸の真ん中を裏掻《うらか》くばかり、平安朝型の長槍が、電光のように貫いた。ムーと云うとぶっ[#「ぶっ」に傍点]倒れると、もう槍は手もとへ引かれ、引かれたと思う隙もなく、颯《さっ》と翻《かえ》った石突きが二番目の水狐族の咽喉《のど》を刺す。ムーと云ってこれも倒れる。敵ありと知った後の二人が、踵を返して逃げようとするのを追い縋《すが》って横撲り、一人の両足を払って置いて、倒れるのを飛び越すと、最後の一人を背中から田楽刺しに貫いた。
 眼にも止まらぬ早業である。声一つ敵に立てさせない。
 ブルッと血顫《ちぶる》いした葉之助、そのまま前庭を突っ切ると、正面に立っている古代造り、久田の姥の住む館へ、飛燕《ひえん》のように飛び込んで行った。
 階段を上がると廻廊で、突き当たりは杉の大戸、手を掛けて引き開けると灯火のない闇の部屋、そこを通って奥へ行く。と、一つの部屋を隔てて仄《ほの》かに灯影が射して来た。
 窺い寄った葉之助、立ててある几帳の垂《た》れ布《ぎぬ》の隙から、内の様子を覗いて見たが、思わずゾッと総毛立った。
 艶《あでや》かな色の大振り袖、燃え立つばかりの緋の扱帯《しごき》、刺繍《ぬい》をちりばめた錦の帯、姿は妖嬌たる娘ではあるが頭を見れば銀の白髪、顔を見れば縦横の皺《しわ》、百歳過ぎた古老婆が、一人の武士を抱き介《かか》えている。他ならぬ若殿頼正で、死に瀕した窶《やつ》れた顔、額の色は藍《あい》のように蒼《あお》く唇の色は土気を含み、昏々として眠っている。
 老婆は口をカッと開けたがホーッ、ホーッ、ホーッ、ホーッと、頼正公の顔の辺へ息をしきりに吹きかける。そのつど頼正は身悶《みもだ》えする。
 じっ[#「じっ」に傍点]と見定めた葉之助は、几帳をパッと蹴退《けの》けるや、ヒラリと内へ躍り込んだ。
 ピタリと槍を構えたものである。
 さすがに老婆も驚いたが、抱いていた頼正を投げ出すと、スックとばかり立ち上がつた。身の長《たけ》天井へ届くと見えたが、これはもちろん錯覚である。
 二人は眼と眼を見合わせた。
「小僧推参!」
 と忍び音《ね》に、久田の姥《うば》は詈ったが、右手に振り袖をクルクルと巻くと高く頭上へ差し上げた。すなわち彼女の慣用手段、眠りを誘う催眠秘術、キリキリキリキリと廻し出す。
 あわやまたもや葉之助は、恐ろしい係蹄《わな》へ落ちようとする。
 と、奇蹟が現われた。
 平安朝型の長槍が、すなわち窩人の守護本尊宗介天狗の木像から借り受けて来た長槍が、葉之助の意志に関係《かかわり》なく自ずとグルグル廻り出した事で、頭上に翳《かざ》した妖婆の手が左へ左へと廻るに反し、右へ右へ右へと廻る。すなわち彼女の催眠秘術を突き崩そうとするのである。
 葉之助は驚いたが、それにも増して驚いたのは実に久田の姥《うば》であった。
 彼女はじっ[#「じっ」に傍点]と槍を見た。見る見る顔に苦悶が萌《きざ》し、眼に恐怖が現われたが、突然口から呻き声が洩れた。
「宗介の槍! 宗介の槍! ……おおその槍を持っているからは、汝《おのれ》は窩人の一味だな!」
 しかし葉之助は返辞さえしない。ジリジリジリジリと突き進む。それに押されて久田の姥は一足一足後へ退がる。
 やはり二人は睨み合っている。
 頭上に高く翳《か》ざしていた久田の姥の右の手が、この時にわかに脇へ垂れた。一髪の間に突き出した槍! したたか鳩尾《みぞおち》を貫いた。
 しかし久田は倒れなかった。
 両手を掛けて槍の柄をムズとばかり握ったものである。
「……呪詛《のろ》われておれ窩人の一味! お前には安穏《あんのん》はあるまいぞよ! お前は永久死ぬことは出来ぬ! お前は永久年を取らぬ! 水狐族の呪詛《のろい》妾《わし》の呪詛! 味わえよ味わえよ味わえよ!」
 こう妖婆は叫んだが、それと一緒に息絶えた。
 初めてホッとした葉之助は、昏倒している頼正を片手を廻して背中に負い、片手で血まみれの槍を突き、階段を下りて庭へ出た。
 部落は幸いにも寝静まっている。これほどの騒動も知らないと見える。
 で、葉之助は静々と水狐族の部落を引き上げて行く。
 部落を抜け田圃へ出《い》で湖水に添って引き上げて行く。
 妖婆の呪詛《のろい》の言葉など、彼にとっては何んでもなかった。若殿頼正を救ったこと、禍《わざわ》いの根を断ったこと、堕ちた名誉を恢復《かいふく》したこと、これらが彼には嬉しかった。
 こうして彼はその夜の暁方《あけがた》、高島城の大手の門へ、血まみれの姿を現わした。

   怨念復讐の巻

         一

 鏡葉之助の槍先に久田の姥が退治られて以来、諏訪家の若殿頼正は、メキメキと元気を恢復した。
 使命を果たした葉之助は、非常な面目を施した。彼の武勇は諏訪一円、武士も町人も賞讃した。彼に賜わった諏訪家の進物は、馬五頭でも運び切れなかった。
 いよいよ諏訪家に暇《いとま》を告げ、彼は高遠へ帰ることになった。諏訪家では一流の人物をして、彼を高遠まで送らせた。
 さて高遠へ着いて見ると、彼の功名は注進によって既《すで》に一般に知れ渡っていた。だから大変な歓迎であった。
 いかに阿呆《あほう》を装っても、もう誰一人葉之助を愚《おろ》か者とは思わなかった。彼は高遠一藩の者から、偶像とされ亀鑑《きかん》とされた。
「葉之助様がお帰りなされたそうで」
「おお、お帰りなされたそうだで」
「大変にご功名をなされましたそうで」
「そういうお噂だ。結構なことだ」
「お偉いお方でございますのね」
「まず高遠第一であろうな」
「あの、それに私達には、ご恩人でございますわ」
「そうともそうとも、恩人だとも」
「あのお方がおいでくだされて以来、妖怪《あやかし》が出なくなりましたのね」
「おおそうだ、有難いことにな」
「お礼申さねばなりませんわ」
「私もとうからそう思っているのさ」
「どうしたらご恩が返されましょう」
「さあ、そいつが考えものだて」
「まさかお金も差し上げられず……」
「相手はご家老のご子息様だ、そんな事は断じて出来ない」
「では、品物も差し上げられませんのね」
「とてもお納めくださるまいよ」
「ではお父様いっそのこと、お招待《まね》きしたら、いかがでしょう?」
「うん、そうしてご馳走《ちそう》するか」
「それがよろしいかと存じます」
「なるほどこれはよいかもしれない」
 大鳥井紋兵衛と娘お露とは、ここでようやく相談を極《き》めた。
 翌日紋兵衛は袴羽織《はかまはおり》で、自身鏡家へ出掛けて行った。
 帰国以来葉之助は、いろいろの人から招待されて、もう馳走には飽き飽きしていた。で、紋兵衛に招かれても心中大して嬉しくもなかった。と云って断われば角が立つ。そこでともかくも応ずることにした。もっとも娘のお露に対しては淡々《あわあわ》しい恋を感じていた。
「あの娘は美しい。そうして大変|初々《ういうい》しい。父親とは似も似つかぬ。会って話したら楽しいだろう」こういう気持ちも働いていた。
 中一日日を置いて彼は大鳥井家へ出掛けて行った。
 心をこめた種々の馳走はやはり彼には嬉しかった。誠心《まごころ》のこもった主人の態度や愛嬌《あいきょう》溢れる娘の歓待《もてなし》は、彼の心を楽しいものにした。殊にお露が機会《おり》あるごとに彼へ示す恋の眼使いは、彼の心を陶然《とうぜん》とさせた。さすがは豪家のことであって書画や骨董《こっとう》や刀剣類には、素晴らしいような逸品《いっぴん》があったが、惜し気なく取り出して見せてくれた。これも彼には嬉しかった。
 お露とたった二人だけで、数奇を凝らした茶室の中で、彼女の手前で茶をよばれたのは、分けても彼には好もしかった。
 石州流の作法によって造り上げられた庭園を、お露の案内で彷徨《さまよ》った時、夕月が梢《こずえ》に差し上った。
「綺麗なお月様……」
「おお名月……」
 二人は亭《ちん》に腰掛けた。
 葉籠りをした小鳥の群が、にわかに騒がしく啼き出した。あまりに明るい月光に、朝が来たと思ったのであろう。
 いつか二人は寄り添っていた。互いの体の温《ぬくも》りが、互いの体へ通って行く。二人の心は恍惚となった。
 ふとお露は溜息をした。
 と、葉之助も溜息をした。
 ピチッと泉水で魚が跳ねた。
 後はひっそり[#「ひっそり」に傍点]と静かである。
 互いに何か話そうとして、なんにも話すことが出来なかった。話そうと思えば思うほど口が固く結ばれた。
 で二人は黙っていた。二人とも若くて美しい。二人とも恋には経験がない。これが二人には初恋であった。
 二人は漸次《だんだん》恥ずかしくなった。で顔を反向《そむ》け合った。しかし体はその反対に相手の方へ寄って行った。胸が恐ろしく波立って来た。そうして手先が幽《かす》かに顫え、燃えるように身内が熱くなった。

         

 やっぱり二人は黙っていた。
 もし迂濶《うかつ》に物でも云って、そのため楽しいこの瞬間が永遠に飛び去ってしまったなら、どんなに飽気《あっけ》ないことだろうと、こう思ってでもいるかのように、二人はいつまでも黙っていた。
 若さと美貌と勇気と名声、これを一身に兼備している葉之助のような人物こそは、お露のような乙女にとっては、無二の恋の対象であった。ましてその人は家のためまた大事な父のためには疎《おろそ》かならぬ恩人である。――で、一眼見たその時から、お露は葉之助に捉《とら》えられた。時が経つにしたがってその恋心は募って行った。葉之助を家へ招くように父に勧めたというのも、この恋心のさせた業であった。
 今こそ心中を打ち明けるにはまたとない絶好の機会である。場所は庭の中の亭《ちん》である。すぐ側に恋人が坐っている。美しい夕月の宵《よい》である。二人の他には誰もいない。……しかし、彼女は処女であった。そうして性質は穏《おとな》しかった。無邪気に清潔《きよらか》に育てられて来た。どうして直接《うちつけ》に思う事を思う男へ打ち明けられよう。
 葉之助にとってはこれまでは、このお露という美しい娘は淡い恋の対象に過ぎなかった。ただ時々思い出し、思い出してはすぐ忘れた。しかるにこの日招かれて来て、そうして彼女に会って見て、そうして彼女から卒直《いっぽんぎ》の恋の素振《そぶ》りを見せられて、始めて彼は身を焼くような恋の思いに捉えられた。彼は彼女に唆《そそ》られたのである。恋の窓を開かれたのである。
 彼のような性質の者が、一旦恋心を唆られると坂を転がる石のように止どまるところを知らないものである。……欝勃《うつぼつ》たる覇気、一味の野性、休火山のような抑えられた情火、これが彼の本態であった。しかし彼は童貞であった。どうして直接《うちつけ》に思うことを思う女へ打ち明けられよう。
 で、二人は黙っていた。しかし二人は二人とも、相手の心は解っていた。不満ながらも満足をして二人は黙っているのであった。

「これ葉之助、ちょっと参れ」
 ある日父の弓之進が、こう葉之助を部屋へ呼んだ。
「は、ご用でございますか?」
「お前近頃大鳥井家へ、足|繁《しげ》く参るということであるが、何んと思って出かけるな?」
 云われて葉之助は顔を赧《あか》らめたが、
「はい、いえ、別に、これと申して……」
「もちろん、行って悪いとは云わぬ。また先方としてみればいわばお前は恩人であるから、招いて饗応《もてなし》もしたかろう。呼ばれてみれば断わりもならぬ。だから行くのは悪くはないが、どうも少し行き過ぎるようだ」
「注意することに致します」
「そうだな。少し注意した方がいい。家中の評判も高いからな」
 これには葉之助も驚いた。
「家中の評判とおっしゃいますと?」
「何さ、別に心配はいらぬ。お前は今では家中の花、悪いに付け善いに付け噂をされるのは当然だよ」
「どんな噂でございましょう?」
「ちと、そいつが面白くない。……大鳥井家は財産家それに美しい娘がある。で、その二つを目的として、繁々通うとこう云うのだ」
「…………」
「アッハハハハ、莫迦な話だ。不肖なれど鏡家は当藩での家老職、まずは名門と云ってよい。たとえ財産はあるにしても大鳥井家はたかが[#「たかが」に傍点]百姓、そんなものに眼が眩《く》れようか。それに紋兵衛は評判も悪い」
「はい、さようでございます」
「強慾者だということである」
「そんな噂でございます」
「お露とかいう娘の方はそれに反して評判がよい。だが私《わし》は見たことはない。美しい娘だということだな?」
「ハイ、よい娘でございます」
 葉之助は顔を赧らめた。
「たとえどんなによい娘でも、家格の相違があるからは嫁としてその娘《こ》を貰うことは出来ぬ。ましてお前を婿《むこ》として大鳥井家へやることは出来ぬ」
「参る意《つも》りとてございません」
「そうであろうな。そうなくてはならぬ。……さてこう事が解って見れば痛くない腹を探られたくもない」
「ハイ、さようでございます」
「で、繁々行かぬがよい」
「気を付けることに致します」
「お前の武勇聡明にはまこと私も頭を下げる。これについては一言もない。ただ将来注意すべきは、女の色香これ一つだ。これを誡《いまし》むる色にありと既に先賢も申されておる」
「その辺充分将来とも気を付けるでございましょう」
 葉之助は手を支《つか》え、謹んで一礼したものである。

         

 淡々しいように見えていてその実地獄の劫火《ごうか》のように身も心も焼き尽くすものは、初恋の人の心である。それを彼は抑えられた。
 鏡葉之助はその時以来|怏々《おうおう》として楽しまなかった。自然心が欝《うっ》せざるを得ない。
 欝した心を欝しさせたままいつまでも放抛《うっちゃ》って置く時は、おおかたの人は狂暴となる。
 葉之助の心が日一日、荒々しいものに変わって行ったのは、止むを得ないことである。彼は時に幻覚を見た。また往々「変な声」を聞いた。
「永久安穏はあるまいぞよ!」その変な声はどこからともなくこう彼に呼び掛けた。気味の悪い声であった。主のない声であった。
 そうしてそれは怨恨《うらみ》に充ちた哀切|凄愴《せいそう》たる声でもあった。
 そうして彼はその声に聞き覚えあるような気持ちがした。
 この言葉に嘘はなかった。実際彼は日一日と心に不安を覚えるようになった。心の片隅に小鬼でもいて、それが鋭い爪の先で彼の心を引っ掻くかのような、いても立ってもいられないような変な焦燥《しょうそう》を覚えるのであった。事実彼の心からいつか安穏は取り去られていた。
「どうしたのだろう? 不思議な事だ」
 彼にとっても、この事実は不思議と云わざるを得なかった。
 で、意志の力をもって、得体の知れないこの不安を圧伏しようと心掛けた。しかしそれは無駄であった。
「何物か俺を呪詛《のろ》っているな」
 ついに彼はこの点に思い到らざるを得なかった。
「たしかに、あの[#「あの」に傍点]声には聞き覚えがある。……おおそうだ、久田の声だ!」
 正にそれに相違なかった。水狐族の長《おさ》の久田の姥《うば》の怨念の声に相違なかった。
 久田の姥の怨念は、ただこれだけでは済まなかった。
 間もなく恐ろしい事件が起こった。そうしてそれが葉之助の身を破滅の淵へぶち[#「ぶち」に傍点]込んだ。

 ある夜、書見に耽《ふけ》っていた。
 と例の声が聞こえて来た。
 にわかに心が掻き乱れ坐っていることが出来なくなった。
 で、戸を開けて外へ出た。秋の終り冬の初めの、それは名月の夜であったが、彼はフラフラと歩いて行った。
 主水町《かこまち》を過ぎ片羽通りを通り、大津町まで来た時であったが、一個黒衣の大入道が彼の前を歩いて行った。
 どうしたものかその入道を見ると、葉之助はゾッと悪寒《おかん》を感じた。
「いよいよ現われたな黒法師めが! こいつ悪玉に相違ない!」こう思ったからであった。
 ムラムラと殺気が萌《きざ》して来た。で彼は足音を盗み、そっと入道へ近寄った。
 声も掛けず抜き打ちに背後からザックリ斬り付けたのはその次の瞬間のことであった。と、ワッという悲鳴が起こり、静かな夜気を顫わせたが、見れば地上に一人の老人が、左の肩から右の胴まで物の見事に割り付けられ、朱《あけ》に染まって斃《たお》れていた。
「や、これは黒法師ではない。これは城下の町人だ」
 葉之助はハッと仰天《ぎょうてん》したが、今となってはどうすることも出来ない。
 しかるにここに奇怪な事が彼の心中に湧き起こった。……老人を斬った瞬間に、彼の心中にトグロを巻いていた不安と焦燥が消えたことである。……彼の頭は玲瓏《れいろう》と澄み、形容に絶した快感がそれと同時に油然と湧いた。
 飼い慣らされた猛獣が、血の味を知ったら大変である。原始的性格の葉之助が殺人《ひとごろし》の味を知ったことは、それより一層危険な事である。
 のみならずここにもう一つ奇怪な現象が行われた。
 それは彼が殺人をしたその翌朝のことであったが、床から起き出た彼を見ると、母親のお石が叫ぶように云った。
「お前、いつもと顔が異《ちが》うね」
「本当ですか? どうしたのでしょう」
 で、葉之助は鏡を見た。なるほど、いささか異っている。白い顔色が益※[#二の字点、1-2-22]白く、黒い瞳がいよいよ黒く、赤い唇が一層赤く、いつもの彼よりより[#「より」に傍点]一層美しくもあれば気高くもある、一個|窈窕《ようちょう》たる美少年が、鏡の奥に写っていた。
 思わず葉之助は唸ったものである。それから呟いたものである。
「不思議だ、不思議だ、何んということだ」
 ……が、決して不思議ではない。何んのこれが不思議なものか。
 美しい犬へ肉をくれると、より一層美しくなる。死骸から咲き出た草花は、他の草花より美しい。
 人を殺して血を浴びた彼が、美しくなったのは当然である。

         

 二度目に人を斬ったのは、陽の当たっている白昼《まひる》であった。
 その日彼は山手の方へ的《あて》もなくブラブラ歩いて行った。茂みで鳥が啼いていた。野茨《のいばら》の赤い実が珠をつづり草の間では虫が鳴《すだ》いていた。ひどく気持ちのよい日和《ひより》であった。
 と行手の峠道へポツリ人影が現われたが、長い芒《すすき》の穂をわけて次第にこっちへ近寄って来た。見るとそれは黒法師であった。それと知った葉之助は思案せざるを得なかった。
「幻覚かな? 本物かな?」
 その間もズンズン黒法師は彼の方へ近寄って来た。やがてまさに擦れ違おうとした。
 その時例の声が聞こえて来た。
「永久安穏はあるまいぞよ」
 ゾッと葉之助は悪寒を感じ、それと同時に心の中へ不安の念がムラムラと湧いた。
 で、刀を引き抜いた。そうして袈裟掛けに斬り伏せた。
 陽がカンカン当たっていた。その秋の陽に晒《さ》らされているのは若い女の死骸であった。
「うむ、やっぱり幻覚であったか」
 憮然《ぶぜん》として葉之助は呟いたもののしかし後悔はしなかった。気が晴々しくなったからである。

 三人目には飛脚《ひきゃく》を斬り四人目には老婆を斬り五人目には武士を斬った。しかも家中の武士であった。
 高遠城下は沸き立った。恐怖時代が出現し、人々はすっかり胆を冷やした。
「いったい何者の所業《しわざ》であろう?」
 誰も知ることが出来なかった。
 家中の武士が隊を組み、夜な夜な城下を見廻ろうという。そういう相談が一決したのは、それから一月の後であった。
 で、その夜も夜警隊は粛々《しゅくしゅく》と城下を見廻っていた。
 円道寺の辻まで来た時であったが、隊士の一人が「あっ」と叫んだ。素破《すわ》とばかりに振り返って見ると、白井誠三郎が袈裟に斬られ朱に染まって斃《たお》れていた。そうして彼のすぐ背後に鏡葉之助が腕を拱《こまぬ》き黙然として立っていた。
 誰がどこから現われ出て、どうして誠三郎を斬ったものか、皆暮《かいく》れ知ることが出来なかった。
 こうしてせっかくの夜警隊も解散せざるを得なかった。
 心配したのは駿河守である。例によって葉之助を召した。
「さて葉之助、また依頼《たのみ》だ。そちも承知の辻斬り騒ぎ、とんと曲者《くせもの》の目星がつかぬ。ついてはその方市中を見廻り、是非とも曲者を捕えるよう」
「は」と云ったが葉之助は、苦笑せざるを得なかった。
「この事件ばかりは私の手には、ちと合《あ》い兼ねるかと存ぜられます」
「それは何故かな? 何故手に合わぬ」
「別に理由《わけ》とてはございませぬが、ちと相手が強過ぎますようで……」
「いやいやお前なら大丈夫だ」
「しかし、なにとぞ、他のお方へ……」
「ならぬならぬ、そちに限る」
 そこで止むを得ず葉之助は、殿の命に従うことにした。
 ご前を下がって行く彼の姿を、じっと見送っていた武士があったが、他ならぬ剣道指南役、客分の松崎清左衛門であった。
「なんと清左衛門、葉之助は、若いに似合わぬ立派な男だな」
 駿河守は何気なく云った。
「御意《ぎょい》の通りにございます」清左衛門は物憂《ものう》そうに、
「しかし、いささか、心得ぬ節が。……」
「心得ぬ節? どんな事か?」
「最近にわかに葉之助殿は、器量を上げられてございます」
「いかにもいかにも、あれは奇態だ」
「まことに奇態でございます」
「しかし、元から美少年ではあった」
「ハイ、美少年でございました。それに野性がございました。それも欝々《うつうつ》たる殺気を持った恐ろしい野性でございました。飯田や高遠で成長《ひととな》ったとはどうしても思われぬ物凄《ものすご》い野性! で、気の毒とは思いましたが私の門弟に加えますことを、断わったことがございました」
「そういう噂もチラリと聞いた」
「しかるに最近に至りまして、さらにその上へより[#「より」に傍点]悪いものが加わりましてございます」
「ふうむ、そうかな? それは何かな?」
「ハイ、妖気でございます」自信ありげに清左衛門は云った。
「ナニ、妖気? これは不思議!」
「まことに不思議でございます」
「しかし私《わし》にはそうは見えぬが。……」
「しかし、確かでございます」
「どういう点が疑わしいな?」
「これは感覚でございます。そこを指しては申されません」
 駿河守は首|傾《かし》げたが、「どうも私《わし》には信じられぬ」
「やがてお解りになりましょう」

         

 殺人の本人、葉之助へその捕り方を命じたのは、笑うべき皮肉と云わざるを得ない。
 辻斬りが絶えないばかりでなく反対にその数の増したのは当然過ぎるほど当然である。
 こうして真の恐怖時代、こうして真の無警察時代が高遠城下へ招来された。
 冬の夜空の月凍って、ビョービョーと吠える犬の声さえ陰に聞こえる深夜の町を、捕り方と称する殺人鬼が影のように通って行く! おお人々よ気を付けたがよい。その美しい容貌に、その優雅な姿態《すがたかたち》に、またその静かな歩き方に! 彼は人ではないのだから! 彼は呪われたる血吸鬼《バンプ》なのだから!
 しんしんと雪が降って来た。四辺《あたり》朦朧《もうろう》と霧立ちこめ、一間先さえ見え分かぬ。しかし人々よ気を付けなければならない! その朦朧たる霧の中を雪の白無垢《しろむく》を纏《まと》ったところの殺人鬼が通って行くのだから。
 いやいや決して嘘ではない! 信じられない人間は、翌朝早く家を出て、城下を通って見るがよい。あっちの辻、こっちの往来、向こうの門前、こっちの川岸に袈裟に斬られた男女の死骸が、転がっているのを見ることが出来よう。殺人鬼の通った証拠である。

「どうも今度の曲者ばかりは、葉之助の手にも合わないらしい」
 父、弓之進は呟いた。「ひとつ助太刀をしてやるかな」
 事情を知らない弓之進がこう思うのはもっともである。
 しかしそれだけは止めた方がいい。毛を吹いて傷を求める悲惨な羽目に堕ちるばかりだから!

「もう捨てては置かれない」
 こう呟いた人があった。「やむを得ずば俺が出よう」
 それは松崎清左衛門であった。
 当時天下の大剣豪、立身出世に意がないばかりに、狭い高遠の城下などに跼蹐《きょくせき》してはいるけれど、江戸へ出ても三番とは下がらぬ、東軍流の名人である。――いかさまこの人が乗り出したなら、殺人鬼といえども身動き出来まい。
 しかしはたして出るだろうか?
 その夜も雪が降っていた。
 傘《からかさ》を翳《さ》した一人の武士が静々と町を歩いていた。と、その後から覆面《ふくめん》の武士が、慕うように追って行った。
 角町から三筋通り、辻を曲がって藪小路、さらに花木町緑町、聖天《しょうでん》前を右へ抜け、しばらく行くと坂本町……二人の武士は附かず離れず半刻《はんとき》あまりも歩いて行った。
 その間、覆面の侍は、幾度か刀を抜きかけたが、前を行く武士の体から光物《ひかりもの》でも射すかのように気遅れして果たさなかった。
 尚二人は歩いて行った。
 木屋町の角まで来た時であった。もう一人武士が現われた。羅紗《らしゃ》の合羽《かっぱ》を纏《まと》っている。
 羅紗合羽のその武士は、傘の武士と覆面の武士との、その中間に挟まった。
 それと見て取った覆面の武士は、さりげなくそっちへ寄って行った。
 一道の殺気|迸《ほとばし》ると見えたが、覆面の武士の両腕には早くも刀が握られていた。
「待て!」
 と云う周章《あわ》てた声! 合羽の武士が叫んだのであったが、それを聞くと覆面の武士は、一歩後へ退いた。
「おお、あなたはお父上!」
「おのれ、葉之助! さては汝《なんじ》が!」
「ご免!」
 と叫ぶと覆面の武士すなわち葉之助は踵を返し、脱兎《だっと》のように逃げ出した。とたんに「かっ」という気合が掛かり、傘の武士の右手から雪礫《ゆきつぶて》が繰り出された。
 手練の投げた雪礫は砲弾ほどの威力があり、それを背に受けた葉之助はもんどりうって倒れたが、そこは必死の場合である。パッと飛び起きて走り去った。あまりに意外な事実に、呆然とした弓之進はただ、棒のように立っていた。その時彼を呼ぶ者がある。
「鏡氏、お察し申す」
 弓之進は眼を上げた。傘の武士が立っていた。
「そういう貴殿は? ……おお松崎氏!」
「捕えて見れば我が子なり。……鏡氏、驚かれたであろうな?」
「葉之助めが曲者《くせもの》とは。……ああ何事も夢でござる」
 弓之進は※[#「さんずい+玄」、第3水準1-86-62]然《げんぜん》と泣いた。
「拙者断じて他言致さぬ。家に帰られ葉之助殿を、何んとかご処分なさるがよかろう」
 雪は次第に烈《はげ》しくなった。弓之進は返辞さえしない。
 返辞をしようと思っても口に出すことが出来ないのであった。
 彼は内藤家の家老であった。その立派な家柄の子が、こんな大事を惹《ひ》き起こし、こんな動乱を醸《かも》すとは、当人ばかりの罪ではない。連なる父母も同罪である。すなわち監督不行届きとして罪に坐さなければならないだろう。

 葉之助へ一封の遺書《かきおき》を残し、弓之進が屠腹《とふく》して果てたのはその夜の明方《あけがた》のことであった。

         

 弓之進の死は変死であった。が、内藤家にとっては由緒ある功臣、絶家させることは出来ないというので、病死ということに取りつくろわせ、盛んな葬式が終えると同時に家督は葉之助に下された。
 ひとしきり弓之進の死について家中ではいろいろ取り沙汰したが、生前非常な人望家でみんなの者から敬われていたので、非難の声は聞かれなかった。そうしてついに誰一人として自殺の原因を知るものがなかった。
 わずかにそれを知っている者といえば、松崎清左衛門と葉之助だけであった。
 その葉之助は父の死後自分に宛《あ》てられた遺書を見て恥じ、泣かざるを得なかった。
「……辻斬りの本人がお前だと知っては、私《わし》は活きてはおられない。子の罪を償うため父は潔《いさぎよ》く切腹する。で、お前の罪は消えた。父の後を追うことはならぬ。決してお前は死ぬことはならぬ。さて私は死に臨んでお前の身上《みのうえ》にかかっているある秘密の片鱗を示そう。お前の実父は飯田の家中南条右近とはなっているが、しかし誠はそうではない。お前の実の両親は全然別にある筈だ。とは云えそれが何者であるかはこの私さえ知らないのである。ただし南条右近の子として鏡家へ養子に来たについては、来ただけの理由はある。また立派な経路もある。そうしてそれを知っている者は、私の親友、殿の客分|天野北山《あまのほくざん》一人だけである。就《おもむ》いて訊ねるもよいだろう。私は今死を急ぐ、それについて語ることは出来ない。下略」
 これが遺書の大意であった。
 で、ある日葉之助は北山方を訪れた。
 一通り遺書を黙読すると北山は静かに眼をとじた。
「弓之進殿は悪いことを書いた」やがて北山はこう云った。
「それはまた何故でございましょう?」葉之助は訝《いぶか》しそうに訊いた。
「何故と云ってそうではないか。しかし……」
 と云って北山はまたそこで考え込んだが、
「そこがあの仁のよいところかも知れぬ。いつまでもそなたを瞞《だま》して置くことが、あの仁には苦痛だったのであろう」
「私は誰の子でございましょう?」
「それはこれにも書いてある通り、私《わし》にも解っていないのだ。強《し》いて云うなら山の子だ」
「え、山の子とおっしゃいますと?」
「山の子といえば山の子だ、他に別に云いようもない。が、順を追って話すことにしよう。……弓之進殿にはその時代葉之助という子供があった」
「ハハアさようでございますか」
「ところが病気で早逝《そうせい》された。その臨終の時であるが、『代りが来るのだ、代りが来るのだ、次に来る者はさらに偉い』と、こう叫んだということだ」
「不思議な言葉でございますな」
「ある日私と弓之進殿と、鉢伏山へ山遊びに行った、おりから秋の真っ盛りで全山の紅葉は燃え立つばかり、実に立派な眺めであったが、突然一頭の大熊が谷を渡って駈け上って来た。するとその熊のすぐ後から一人の子供が走って来た。信濃の秋は寒いのに腰に毛皮を纏っているばかり他には何んにも着ていない。もっとも足には革足袋《かわたび》を穿《は》き手には山刀を握っていた。その子供と大熊とは素晴らしい勢いで格闘した。そうして子供は熊を仕止めた。仕止めると一緒に気絶した」
「死んだのではありますまいね」葉之助は不安そうに訊ねた。
「死んだのではない気絶したのだ。ところで不思議にも気絶から醒《さ》めると、弓之進殿をじっと見て、『お父様!』と叫んだものだ。そうしてまたも気絶した。またその気絶から醒めた時には、子供は過去を忘れていた」
「不思議なことでございますな」
「不思議と云えば不思議だが、そうでないと云えばそうでないとも云える。西洋医学ではこの状態を精神転換と云っている。すなわち過去をすっかり忘れ、気絶から醒めたその時から新規に生活《くらし》が始まるのだ。……それと見て取った弓之進殿は、こう私《わし》に云われたものだ。『これこそ葉之助が予言した、代りに来る者でございましょう、その証拠には私を見ると、お父様と云いました。で私はこの子を養い養子とすることに致しましょう』そこで私はこう云った。『それは結構なお考えです。しかしこのまますぐに引き取り養い育てるということは、鏡家のためにもこの子のためにも将来非常に不幸です。素姓も知れない山の子とあっては殿の思惑《おもわく》もいかがあろうか、これはいっそ知人に預け、その知人の子供として貰い受けるのがよろしかろう』とな。……その結果として弓之進殿は南条右近殿へ事情を話し、その子供を預けることにした。とこうここまで話して来たらそなたにも見当が付くであろうが、その山の子供こそ、他ならぬ葉之助殿そなたなのだ」

         

 この北山《ほくざん》の説明は葉之助にとっては驚異であった。彼は疑いもし悲しみもした。しかし結局は北山の言葉を信ぜざるを得なかった。だがそれにしても素姓の知れない彼のような山の子を、慈愛《いつくし》み育てた養父の恩は誠に深いものである。しかるに彼はその養父を非業《ひごう》に死なせてしまったのである。済まない済まない済まないと彼は衷心《ちゅうしん》から後悔した。
「他にお詫びのしようもない。ただ、立派な人物になろう。それが何よりのご恩返しだ」
 それからの彼と云うものは、武事に文事に切磋琢磨《せっさたくま》し、事ごとに他人《ひと》の眼を驚かせた。
 この彼の大勇猛心には、乗ずべき隙もなかったか、黒法師も現われず、「永久安穏はあるまいぞよ」という奇怪な声も聞こえて来なかった。
 で、彼の生活はその後平和に流れたのであった。しかしたった一度だけ、不思議が彼を襲ったことがあった。
 それは逝《ゆ》く春のある日であったが、例の大鳥井紋兵衛から、花見の宴に招かれた。で、彼は出かけて行った。久々で娘のお露とも逢い、心のこもった待遇《もてなし》を受け、欝していた彼の心持ちも頓《とみ》に開くを覚えたりして、愉快に一日を暮らしたが、客もおおかた散ったので彼もそろそろ帰ろうとして、尚夕桜に未練を残し、フラリと一人庭へ出て亭《ちん》の方へ行って見た。
 すると誰やら若い女が亭《ちん》の中で泣いていた。
 近寄って見ればお露であった。
 亡き父の訓《いまし》めで、お露との恋は避けてはいたが、それはただ表面《おもてむき》だけで、彼の内心は昔と変らず彼女恋しさに充ち充ちていた。その彼の眼の前に、その恋人の泣き濡れた姿が、夢ではなく現実《まざまざ》と、他に妨げる者もなく、たった一人で現われたのであった。彼の心が一時に燃え立ち、前後も忘れて走り寄り、お露の肩を抱きしめたのは、当然なことと云わなければならない。
「何が悲しくてお泣きなさる」
 こう云う声は顫《ふる》えていた。
 お露は何んとも云わなかった。ただじっと抱かれていた。
 こういう場合の沈黙ほど力強いものはない。こういう場合の沈黙はそれは実に雄弁なのである。
「お露は俺を愛している。その愛のために泣いている」
 葉之助はこう思った。
 そうしてそれは本当であった。
 一時よく来た葉之助が、ピッタリ姿を見せなくなって以来、お露の恋は悲しみと変った。月日が経つに従って、その悲しみは深くなった。ある種類の女にとっては恋人の姿の見えないことは、その恋をして忘れしめる。少くも恋をして薄からしめる。しかしある種の女にとっては、反対の結果を持ち来たらせる。
 お露は不幸にも後者であった。
 葉之助の姿が見えなくなってから、本当の恋が始まったのであった。
 その恋人が久しぶりで今日姿を現わしたのである。耐え忍んでいた恋しさが――持ち堪《こら》えていた悲しさが、一時に破れたのは無理もない。しかし彼女は処女であった。その恋しさ悲しさを、恋しい男にうちつけ[#「うちつけ」に傍点]に打ち明けることは出来なかった。そこで彼女は人目を避け、亭《ちん》へ泣きに来たのであった。
 葉之助の手がしっかりとお露の肩を抱いていた。彼女にとってこの事は全く予期しない幸福であった。それこそ全世界の幸福が一度に来たように思われた。彼女の心から一刹那《いっせつな》悲しみの影が消え去った。身も心も痲痺《しび》れようとした。「死んでもよい」という感情が、人の心へ起こるのは、実にこういう瞬間である。
 と、葉之助の一方の手が、やさしくお露の顎にかかった。しずかに顔を持ち上げようとする彼女の顔は手に連れて、穏《おとな》しく上へ持ち上げられ、情熱に燃えた四つの眼が互いに相手を貪《むさぼ》り見た。次第次第に葉之助の顔がお露の顔へ落ちて行った。お露は歓喜に戦慄《せんりつ》した。彼女は唇をポッと開け、そこへ当然落ちかかるべき恋人の唇を待ち構えた。
 母屋《おもや》の方から人声はしたが、こっちへ人の来る気配はない。二人は文字通り二人きりであった。すぐに来るのだ恋の約束が!
 とたんに嗄《かす》れた女の声が、二人の身近から聞こえて来た。「畜生道! 畜生道!」それはこういう声であった。
 ハッと驚いた葉之助は、無慈悲に抱いていた手を放した。
 素早く四辺を見廻したがそれらしい人の影も見えない。
「はてな?」と彼は呟いたが、やにわに袖を捲《まく》り上げた。歯形のあるべきこの腕に、二十枚の歯形は影もなく、それより恐ろしい女の顔が、眼を見開き唇を歪め嘲笑うように現われていた。
「人面疽《にんめんそ》」
 と叫ぶと一緒に、葉之助は小柄を引き抜いたが、グッとその顔へ突き通した。飛び散る血汐、焼けるような痛み、それと同時に人顔は消え二十枚の歯形が現われた。

         

 それから間もなく引き続いて、怪しいことが起こって来た。それはやはり二の腕にある二十枚の歯形に関することで、そうして対象は紋兵衛であった。
 つまり紋兵衛と顔を合わせるごとに、二十枚の歯形が人面疽と変じ、そうしてこのように叫ぶのであった。
「お殺しよその男を!」
 すると不思議にも葉之助は、その紋兵衛が憎くなりムラムラと殺気が起こるのであった。しかしさすがに刀を抜いて討ち果たすところまでは行かなかった。
「歯形といい人面疽といい、恐ろしいことばかりが付きまとう。俺は呪詛《のろ》われた人間だ」
 そうして尚もこう思った。
「大鳥井一家とこの俺とは、何か関係《かかりあい》があるのかも知れない。いったいどんな関係なのだろう? よくない関係に相違ない。いわゆる精神転換前の俺というものを知ることが出来たら、その関係も解るかも知れない」
 しかし彼には精神転換前の、自分を知ることが出来なかった。
「とにかく俺は大鳥井家へは絶対に足踏みをしないことにしよう。お露との恋も忘れよう」
 そうして彼はこの決心を強い意志で実行した。
 春が逝《ゆ》き尽くして初夏が来た。そうして真夏が来ようとした。
 参覲交替《さんきんこうたい》で駿河守は江戸へ行かなければならなかった。
 甲州街道五十三里を、大名行列いとも美々《びび》しく、江戸を指して発足したのは五月中旬のことであった。江戸における上屋敷は芝三田の四国町にあったが予定の日取りに少しも違《たが》わず一同首尾よく到着した。
 一行の中には葉之助もいた。彼にとっては江戸は初《はつ》で、見る物聞く物珍らしく、暇を見てはお長屋を出て市中の様子を見歩いた。
 夏が逝って初秋が来た。その頃紋兵衛とお露とが江戸見物にやって来た。芝は三田の寺町へ格好な家を一軒借りてこれも市中の見物に寧日《ねいじつ》ないという有様であった。しかし二人が江戸へ来たのには実に二つの理由があった。
 ふたたび葉之助が遠退《とおの》いてからのお露の煩悶《はんもん》というものは、紋兵衛の眼には気の毒で見ていることは出来なかった。葉之助が殿に従って江戸へ行ってしまってからは、彼女は病《やま》いの床についた。そうしてこのままうっちゃ[#「うっちゃ」に傍点]って置いたら死ぬより他はあるまいと、こう思われるほどとなった。
「葉之助殿のお在《い》でになる、江戸の土地へ連れて行ったら、あるいは気の晴れることもあろうか。そうして時々お目にかかったなら、病いも癒《なお》るに違いない」
 こう思って紋兵衛はお露を連れてこの大江戸へは来たのであった。
 それにもう一つ紋兵衛は、五千石の旗本で、駿河守には実の舎弟、森家へ養子に行ったところから、森|帯刀《たてわき》と呼ばれるお方から、密々に使者《つかい》を戴《いただ》いていたので、上京しなければならないのであった。
 この二人の上京は、実のところ葉之助にとっては、痛《いた》し痒《かゆ》しというところであった。彼は依然としてお露に対しては強い恋を感じていた。出逢って話すのは、もちろん非常に楽しかった。しかし同時に苦痛であった。呪詛《のろい》の言葉をどうしよう? 「畜生道! 畜生道!」「お殺しよその男を!」こう二の腕の人面疽《にんめんそ》が、嘲笑い囁《ささや》くのをどうしよう?

 それは非番の日であったが、葉之助は市中を歩き廻り、夜となってはじめて帰路についた。
 愛宕《あたご》下三丁目、当時世間に持て囃《はや》されていた、蘭医|大槻玄卿《おおつきげんきょう》の屋敷の裏門口まで来た時であったが、駕籠《かご》が一|挺《ちょう》下ろしてあった。と裏門がギーと開いて、中老人が現われた。見れば大鳥井紋兵衛であった。
「これは不思議」と思いながら、葉之助は素早く木蔭に隠れじっと様子を窺《うかが》った。
 それとも知らず紋兵衛は、手に小長い箱を持ち、フと[#「フと」に傍点]駕籠の中へはいって行った。と駕籠が宙に浮き、すぐシトシトと歩き出した。
「どんな用があって紋兵衛は、こんな深夜に裏門から蘭医などを訪ねたのであろう」
 こう思って来て葉之助は合点の行かない思いがした。そこで彼は駕籠の後をつけ[#「つけ」に傍点]て見ようと決心した。
 駕籠は深夜の江戸市中を東へ東へと進んで行った。これを今日の道順で云えば、愛宕町から桜田本郷へ出て内幸町《うちさいわいちょう》から日比谷公園、数寄屋橋から尾張町へ抜けそれをいつまでも東南へ進み、日本橋から東北に取り、須田町から上野公園、とズンズン進んで行ったのであった。さらにそれから紋兵衛の駕籠は根岸の方へ進んで行き、夜も明方と思われる頃、一宇《いちう》の立派な屋敷へ着いた。
「これはいったいどうしたことだ? 帯刀《たてわき》様の下屋敷ではないか」後をつけ[#「つけ」に傍点]て来た葉之助は、驚いて呟いたものである。

         

 もう夜は明方ではあったけれど、しかし秋の夜のことである。なかなか明け切りはしなかった。
 駿河守の下屋敷は森帯刀家の下屋敷と半町あまり距《へだた》った同じ根岸の稲荷小路《いなりこうじ》にあったが、そこには愛妾のお石の方と、二人のご子息とが住居《すまい》していた。総領の方は金一郎様といい、奥方にお子様がないところから、ゆくゆくは内藤家を継ぐお方で、今年数え年十四歳、武芸の方はそうでもなかったが学問好きのお方であった。
 廊下をへだてて裏庭に向かった。善美を尽くしたお寝間には、仄《ほの》かに絹行灯《きぬあんどん》が点《とも》っていた。その光に照らされて、美々しい夜具《よのもの》が見えていたが、その夜具の襟《えり》を洩れて、上品な寝顔の見えるのは金一郎様が睡っておられるのであった。
 と、その時、きわめて幽《かす》かな、笛の音《ね》が聞こえて来た。いや笛ではなさそうだ。笛のような[#「ような」に傍点]物の音であった。耳を澄ませばそれかと思われ、耳を放せば消えてしまう。そういったような幽かな音で、それが漸次《だんだん》近寄って来た。しかしどこからやって来たのか、またどの辺へ近寄って来たのか、それは知ることが出来なかった。とまれ漸次その音は寝間へ近寄って来るらしい。
 金一郎様は睡っていた。お附きの人達も次の部屋で明方の夢をむさぼっていた。で、幽かな笛のような音を耳にした者は一人もなかった。
 ではその笛のような不思議な音を、耳にすることの出来たものは、全然一人もなかったのであろうか?
 下屋敷の内には一人もなかった。
 しかし一人下屋敷の外で、偶然それを聞いたものがあった。
 他でもない葉之助であった。
 その葉之助は駕籠をつけ[#「つけ」に傍点]てこの根岸までやって来たが紋兵衛の乗っているその駕籠が、森家の下屋敷へはいるのを見ると、しばらく茫然《ぼうぜん》と立っていたが、やがて気が付くと足を返し、主君駿河守の下屋敷の方へ何心なく歩いて行った。
 駿河守の下屋敷と森帯刀家の下屋敷との、ちょうど真ん中まで来た時であったが、幽かな幽かな笛のような[#「ような」に傍点]音が、彼の眼の前の地面を横切り、駿河守の下屋敷の方へ、走って行くのを耳にした。
「なんであろう?」と怪しみながら、彼はじっ[#「じっ」に傍点]と耳を澄ませ、その物の音に聞き入った。音は次第に遠ざかって行った。そうして間もなくすっかり消えた。
 なんとなく気味悪く思いながら彼は尚しばらく佇《たたず》んでいた。
「お、これは?」と呟くと、彼はツカツカ前へ進み、顔を低く地面へ付けた。と、地面に何物か白く光る物が落ちていた。そうしてそれは白糸のように一筋長く線を引き、帯刀家の下屋敷と、駿河守の下屋敷とを、一直線に繋《つな》いでいた。
「石灰《いしばい》かな?」と呟きながら、指に付けて嗅いで見て、彼はアッと声を上げた。強い臭気が鼻を刺し、脳の奥まで滲《し》み込んだからで、嘔吐《はきけ》を催させるその悪臭は、なんとも云えず不快であった。
 何か頷くと葉之助は、懐中《ふところ》から鼻紙を取り出したが指で摘《つま》んで白い粉を、念入りにその中へ摘《つま》み入れた。それから静かに帰路についた。

 その夜が明けて朝となった。
 いつも早起きの金一郎様が、その朝に限って起きて来ない。お附きの者は不審に思い、そっと襖《ふすま》を開けて見た。金一郎様は上半身を夜具の襟から抜け出させ、両手を虚空《こくう》でしっかり握り、眼を白く剥《む》いて死んでいた。
 これは実に内藤家にとって容易ならない打撃であった。世継ぎの若君が変死したとあっては、上《かみ》に対しても面伏《おもぶ》せである。
「何者の所業《しわざ》! どうして殺したのか?」
「突き傷もなければ切り傷もない」
「血一滴こぼれてもいない」
「毒殺らしい徴候もない」
「絞殺らしい証拠もない」
「奇怪な殺人、疑問の死」
 上屋敷でも下屋敷でも人々は不安そうに囁き合った。
 葉之助は自宅の一室で、鼻紙の中の白い粉を、睨むように見詰めていたが、
「若君|弑虐《しいぎゃく》の大秘密は、この粉の中になければならない」こう口の中で呟いた。
「笛のような美妙《びみょう》な音《ね》! 不思議だな、全く不思議だ! 何者の音であったろう?」

         一〇

 信州伊那郡高遠の城下、三の曲輪《くるわ》町の中ほどに、天野北山の邸があったが、ある日、北山とその弟子の、前田一学とが話し合っていた。
「先生、不思議ではございませんか」こう云ったのは一学で、「突き傷も斬り傷もないそうで」
「うん」と北山は腕を組んだが、「毒殺の嫌疑もないのだそうだ」
「心臓|痲痺《まひ》でもないそうで」
「絞殺の疑いもないのだそうだ」
「ではどうして逝去《なくな》られたのでしょう?」
「解らないよ。俺には解らぬ」
「不思議なことでございますな」
「不思議と云えば不思議だが、しかし本来世の中には不思議ということはないのだがな。科学の光で照らしさえしたら、どんなことでも解る筈だ」
「ではどうして金一郎様は、お逝去《なくな》りなされたのでございましょう?」
「さあそれは、今は解らぬ」
「でも只今先生には、科学の光で照らしさえしたら、何んでも解るとおっしゃいましたが……」
「うん、そうとも、そう云ったよ。……金一郎様のお死骸《なきがら》を、親しく見ることが出来たなら、俺の奉ずる蘭医学をもって、きっと死因を確かめて見せる。だが俺は見ていない。変事の起こったのは江戸のお屋敷で、俺はお噂を聞いたまでだ。千里眼なら知らぬこと、江戸の事件は高遠では解らぬ」
「これはごもっともでございますな」一学はテレて苦笑をした。
「だが」とにわかに北山は、四辺を憚《はばか》る小声となったが、
「だが、俺には解ることがある」
「ははあ、何事でございますな?」
「この事件の目的だがな」
「金一郎様殺しの目的が?」
「一学! これはお家騒動だよ!」
「よく私には解りませんが」
「当家のお世継ぎはどなたであったな?」
「それは逝去《なくな》られた金一郎様で」
「金一郎様|逝去《な》き今は?」
「ご次男金二郎様でございましょうが?」
「金二郎様が逝去《なく》なられたら?」
「先生先生何をおっしゃるので! 甚《はなは》だもって不祥《ふしょう》なお言葉で」
「まあさ、これは仮定だよ。……金二郎様なき[#「なき」に傍点]後は誰が内藤家を継がれるな?」
「もう継ぐお方はございません」
「と云う意味は駿河守様には、お二人しかお子様がないからであろうな?」
「そういう意味でございます」
「しかしお世継ぎがないとあっては、内藤家は断絶する」
「大変なことでございますな」
「大変なことさ。とんでもないことさ。だからどうしても他の方面から、至急お世継ぎを持って来なければならない」
「ははあ、ご養子でございますかな?」
「うん、そうだ、ご近親からな。一番近しいご親戚からな」
「これは、ごもっともでございますな」
「ところがどなたが内藤家にとって一番近しいご親戚かな?」
「さあ」と云って考えたが、「森|帯刀《たてわき》様でございましょう」
「そうだよそうだよ、森帯刀様だよ」
 こう云うと北山は微妙に笑ったが、
「どうだ」とやがて促《うなが》すように云った。「解ったかな? お家騒動の意味が?」
「はい。しかし、どうも私には……」
「おやおや、これでも解らないのか?」
「とんと合点《がてん》がゆきません」
「頭が悪いな。え、一学」
「私の馬鹿は昔からで」
「それが今日は特に悪い」
「いやはやどうも、お口の悪いことで」
「お前、今日は、便秘だろう?」
「いえ、そうでもございません」
「なあに、そうだよ、便秘に相違ない」
「これはまたなぜでございますな」
「便秘だと頭が悪くなる」
「あッ、やっぱり、そこへ行きますので」
「ひまし[#「ひまし」に傍点]油を飲めよ。ひまし[#「ひまし」に傍点]油を」
「仕方がありません、飲むことにしましょう」
「アッハハハ、それがいい」
 面白そうに笑ったが、にわかに北山は真面目になり、
「これは少しく秘密だが、お前にだけ話すことにしよう。この前の参覲交替の節、俺も殿のお供をして、江戸へ参ったことがある。するとある日帯刀様から、使いが来て招かれた」
「ははあ、さようでございますか」
「で早速|伺候《しこう》した」
「面白いお話でもございましたかな?」
「ところが一人相客がいた」
「ははあどなたでございましたな?」
「江戸の有名な蘭学医、お前も名ぐらいは知っていよう、大槻玄卿という人物だ」

         一一

「はい、よく名前は承知しております」
「帯刀様のご様子を見ると、大分《だいぶ》玄卿とはご懇意らしい。だがマアそれはよいとして、さてその時の話だが、物騒な方面へ及んだものさ。と云うのは他《ほか》でもない、毒薬の話に花が咲いたのさ。どんな毒薬で人を殺したら、後に痕跡《きずあと》が残らないかなどとな」
「なるほど、これは物騒で」
「で俺はいい加減にして、お暇《いとま》をして帰ったが、いい気持ちはしなかったよ」北山はしばらく黙ったが、「俺の云うお家騒動の意味、どうだこれでも解らないかな」
「ハイ、どうやら朧気《おぼろげ》ながらも解ったようでございます」一学は初めて頷いた。
「で俺は案じるのだ、どうぞご次男金二郎様に、もしも[#「もしも」に傍点]のことがないようにとな」
「これは心配でございますな」
「今度の江戸の事件について、誰かもっと詳しいことを知らせてくれるものはあるまいかと、心待ちに待っているのだがな」
 その時、襖が静かにあき小間使いが顔を現わした。
「江戸からのお飛脚《ひきゃく》でございます」
「江戸からの飛脚? おおそうか。いや有難い。待っていたのだ。すぐ裏庭へ通すよう」
「かしこまりましてございます」
 小間使いが去ったその後で、天野北山は立ち上がった。さて裏縁へ来て見ると、見覚えのある鏡家の若党山岸佐平がかしこまって[#「かしこまって」に傍点]いた。
「佐平ではないか。ご苦労ご苦労」
「はっ」と云うと進み寄り、懐中《ふところ》から書面を取り出したが、
「私主人葉之助より、密々先生に差し上げるようにと、預かり参りましたこの書面、どうぞご覧くださいますよう」
「おおそうか、拝見しよう」
「次に」と云いながら山岸佐平は、また懐中へ手をやると小さい包みを取り出したが、「これも主人より預かりましたもの、共々《ともども》ご披見くださいますよう」
「そうであったか、ご苦労ご苦労、疲労《つか》れたであろう、休息するよう」
 云いすてて置いて北山は、自分の部屋へつと[#「つと」に傍点]はいった。
 書面をひらいて読み下すと、次のような意味のことが書いてあった。


「前略、とり急ぎしたため申し候《そうろう》、さて今回金一郎様、不慮のことにてご他界遊ばされ、君臣一同|愁嘆至極《しゅうたんしごく》、なんと申してよろしきや、適当の言葉もござなく候、しかるに当夜私事、偶然のこととは云いながら、二、三怪しき事件に逢い、疑惑容易に解《と》き難きについては、先生のご意見承わりたく、左に列記|仕《つかまつ》り候。
 当日、私非番のため、家を出でて市中を彷徨《さまよ》い、深夜に至りて帰路につき、愛宕下まで参りしおりから、蘭医大槻玄卿邸の、裏門にあたって一挺の駕籠、忍ぶが如くに下ろされおり、何気なく見れば一人の老人まさにその駕籠に乗らんとす。しかるに全く意外にも該《がい》老人こそ余人ならず、先生にもご存知の大鳥井紋兵衛、これは怪しと存ぜしまま後を慕って参りしところ、紋兵衛の駕籠は根岸に入り我らが主君には実のご舎弟、帯刀様のお屋敷内へ、姿を隠し申し候、誠に奇怪とは存じながら、せんすべなければ立ち帰らんと、歩みを移せしそのおりから、忽《たちま》ち前面の草原にあたり、あたかも笛を吹くがようなる美妙《びみょう》な音色湧き起こり、瞬間にして消え候さえ、合点ゆかざる怪事なるに、草原を見れば白粉《おしろい》ようなる純白の粉長々と、帯刀様のお屋敷より、我らがご主君の下屋敷まで、一筋筋を引きおり候。
 いよいよ怪しと存ぜしまま、その白粉《はくふん》を摘み取り、自宅へ持ち帰り候が、別封をもってお眼にかけし物こそ、その白粉にござ候。
 かくて翌日と相成るや、金一郎様の変死あり、何んとももって合点ゆかず、異様の感に打たれ候ものから、貴意を得る次第に候が、白粉《おしろい》ようなる白粉《はくふん》につき、厳重なるお調べ願いたくいかがのものに候や。下略」

「ふうむ、いかさま、これは怪しい」
 読んでしまうと北山は、じっと思案の首を傾げた。それからやおら[#「やおら」に傍点]立ち上がると、実験室へはいって行った。
 まず部屋の戸をしっかりと閉じ、次に火器へ火を点じた。それから葉之助から送って来た油紙包みの紐を切り、ついで取り出した白粉を、鼻にあてて静かに嗅いだ。
「匂いがする。変な匂いだ」そこでしばらく考えたが、「なんの匂いとも解らない」
 それから立ち上がると棚へ行き、試験管を引き出した。白粉を入れて水を注ぎ、さらにその中へ入れたのは紫色をした液体であった。
 で、試験管を火にあてた。
 しかし何んの反応もない。
「これはいけない。ではこっちだな」
 こう云うと彼は他の薬品を、改めて試験管へ注ぎ込んだ。
 で、またそれ[#「それ」に傍点]を火にかけた。
 やはり何んの反応もない。
 北山の顔には何んとも云えない、疑惑の情が現われたが、どうやら彼ほどの蘭学医でも、白粉の性質が解らないらしい。

         一二

 しかし天野北山としては、解らないと云ってうっちゃる[#「うっちゃる」に傍点]ことは、どうにもこの際出来難かった。
「お家騒動の張本人を、森帯刀様と仮定すると、その連累《れんるい》が大鳥井紋兵衛、それから大槻玄卿なる者は、日本有数の蘭学医、信州の天野か江戸の大槻かと呼ばれ、俺と並称《へいしょう》されている。いずれここにある白粉《はくふん》も、その大槻が呈供して金一郎様殺しの怪事件に、役立てたものに相違あるまい。毒薬かそれとも他の物か、とまれ尋常なものではあるまい。しかるにそれが解らないとあっては、この北山面目が立たぬ。これはどうでも目付け出さなければならない」
 しかしあせれ[#「あせれ」に傍点]ばあせる[#「あせる」に傍点]ほど、白粉の見当が付かなかった。
「これはこうしてはいられない。江戸へ出よう江戸へ出よう。そうして大槻と直《じ》かに逢うか、ないしは他の手段を講じて、是が非でも白粉の性質を、一日も早く目付け出さなければならない。……一学一学ちょっと参れ!」
「はっ」と云うと前田一学は、もっけ[#「もっけ」に傍点]な顔をしてはいって来た。
「江戸行きだ、用意せい」
「江戸行き? これは、どうしたことで?」
「お前も行くのだ。急げ急げ!」
 主人の性急な性質は、よく一学には解っていた。で、理由を訊ねようともせず、旅行の用意に取りかかり、明日とも云わずその日のうちに、二人は高遠を発足した。
 一方、鏡葉之助は、北山へ飛脚を出してからも、根岸にある主君の下屋敷を念頭から放すことは出来なかった。で、非番にあたる日などは、ほとんど終日下屋敷の附近を、ブラブラ彷徨《さまよ》って警戒した。
 ちょうどその日も非番だったので、彼はブラリと家を出ると、根岸を差して歩いて行った。下屋敷まで来て見たが別に変ったこともない。で、その足で浅草へ廻った。
 いつも賑やかな浅草は、その日も素晴らしい賑《にぎ》わいで、奥山のあたりは肩摩轂撃《けんまこくげき》、歩きにくいほどであった。
 小芝居、手品、見世物、軽業《かるわざ》、――興行物の掛け小屋からは、陽気な鳴り物の音が聞こえ、喝采《かっさい》をする見物人の、拍手の音なども聞こえて来た。
「悪くないな。陽気だな」
 など、彼は呟きながら、人波を分けて歩いて行った。
 と、一つの掛け小屋が、彼の好奇心を刺戟《しげき》した。「八ヶ嶽の山男」こう看板にあったからで、八ヶ嶽という三文字が、懐しく思われてならなかった。
 で彼は木戸を払いつと[#「つと」に傍点]内へはいって行った。大して人気もないと見えて、見物の数は少かった。ちょうど折悪く幕間《まくあい》で、舞台には幕が下ろされていた。で彼は所在なさに見物人達の噂話に、漫然と耳を傾けた。
「……で、なんだ、山男と云っても、妖怪変化じゃないんだな」職人と見えて威勢のいいのが、こう仲間の一人へ云った。
「そいつで俺《おい》らも落胆《がっかり》したやつさ。あたりめえ[#「あたりめえ」に傍点]の人間じゃねえか。俺ら、山男というからにゃ、頭の髪が足まで垂れ、身長《せい》の高さが八尺もあって、鳴く声|鵺《ぬえ》に似たりという、そういう奴だと思ってたんだが、篦棒《べらぼう》な話さ、ただの人間だあ」
「そうは云ってもまんざら[#「まんざら」に傍点]じゃねえぜ」もう一人の仲間が口を出した。「間口五間の舞台の端から向こうの端へ一足飛び、あの素晴らしい身の軽さは、どうしてどうして人間|業《わざ》じゃねえ」
「あいつにゃ俺《おい》らも喫驚《びっく》りした。こう全然《まるで》猿猴《えてこう》だったからな」
「そう云えば長さ三間もある恐ろしいような蟒《うわばみ》を、細工物のように扱った、あの腕だって大したものさ」
「それに武術も出来ると見えて、棒を上手に使ったがあれだって常人にゃ出来やしねえ」
「だがな、眼があって耳があって鼻があって口があって、どうでもあたりめえ[#「あたりめえ」に傍点]の人間だあ、化物でねえから面白くねえ」
 その時チョンチョンと拍子木の音が、幕の背後《うしろ》から聞こえて来た。やがてスーッと幕が引かれ、舞台が一杯に現われたが、見れば舞台の真ん中に大きな鉄の檻《おり》があり、その中に巨大な熊がいた。
「ウワーッ、荒熊だ荒熊だ!」「熊と相撲を取るんだな」「見遁《みの》がせねえぞ見遁がせねえぞ!」見物は一度に喝采した。
 と異様な風采をした一人の老人が現われた。
「あれいけねえ、お爺《とっ》つぁんだぜ」「いえ、あんな年寄りが、熊と相撲を取るのかね」「やめなよ爺つぁんあぶねえあぶねえ!」
 などとまたもや見物は、大声をあげて喚き出した。

         一三

 しかし老人はビクともせず、悠然《ゆうぜん》と正面へ突っ立ったが、猪《しし》の皮の袖無しに、葛《くず》織りの山袴、一尺ばかりの脇差しを帯び、革足袋《かわたび》を穿《は》いた有様は、粗野ではあるが威厳あり、侮《あなど》り難く思われた。
 で見物は次第に静まり、小屋の中は森然《しん》となった。
「ええ、ご見物の皆様方へ、熊相撲の始まる前に、お話ししたいことがございます」
 不意の、錆《さび》のある大きな声で、こうその老人が云い出した時には、見物はちょっとびっくりした。
「他のことではございません」老人はすぐに後をつづけた。
「我々山男の身分について申し上げたいのでございます。私の名は杉右衛門、一座の頭でございます。一口に山男とは申しますが、これを正しく申しますと、窩人《かじん》なのでございます。そうして住居は信州諏訪、八ヶ嶽山中でございます。そうして祖先は宗介《むねすけ》と申して平安朝時代の城主であり、今でも魔界の天狗《てんぐ》として、どこかにいる筈でございます。本来我々窩人なるものは、あなた方一般の下界人達と、交際《まじわ》りをしないということが掟《おきて》となっておりますので、何故というに下界人は、悪者で嘘吐きでペテン師で、不親切者で薄っぺら[#「薄っぺら」に傍点]で、馬鹿で詐欺師《さぎし》で泥棒で、下等だからでございます……」
「黙れ!」
 と突然|桟敷《さじき》から、怒鳴り付ける声が湧き起こった。
「何を吐《ぬ》かす、こん畜生! ふざけた事を吐かさねえものだ! あんまり酷《ひど》い悪口を云うと、この掛け小屋をぶち壊すぞ!」
「そうだそうだ!」と四方から、それに和する声がした。
「そんな下界が嫌いなら何故下界へ下りて来た!」
「それには訳がございます。それというのも下界人の、憎むべき恐ろしいペテンから、湧き起こった事でございまして、一口に云うと私の娘が、多四郎という下界の人間にかどわかさ[#「かどわかさ」に傍点]れたのでございます。それのみならず、その人間は私どもが尊敬する宗介天狗のご神体から黄金《こがね》の甲冑《かっちゅう》を奪い取り、私どもをして神の怒りに触れしめたのでございます。そのため私達は山を下り、厭《いや》な下界を流浪し歩き、こんな香具師《やし》のような真似までして、厭な下界人の機嫌を取り、生活《くら》して行かなければならないという、憐れはかない身の上に成り下ってしまったのでございます」
「態《ざま》あ見ろ! いい気味だ!」
 また群集は湧き立った。
「しかし」と杉右衛門は手で抑え、「しかし、憎むべき多四郎の、盛んであった運命も、いよいよ尽きる時が参りました。しかも彼は我が子によって命を断たれるのでございます。因果応報天罰|覿面《てきめん》、恐ろしいかな! 恐ろしいかな! で、復讐をとげると同時に、私どもは下界を棄《す》て、再び魔人の住む所、八ヶ嶽山上へ取って返し、平和と自由の生活を、送るつもりでございます。自然下界の皆様方とも、お別れしなければなりません。そのお別れも数日の間に逼《せま》っているのでございます。アラ嬉しやアラ嬉しや! ついては今日は特別をもって、我ら窩人がいかに勇猛で、そうしていかに野生的であるかを、お眼にかけることに致しましょう。我らにとって熊や猪は、仲のよい友達でございます。その仲のよい友達同士が、相《あい》搏《う》ち相《あい》戯《たわむ》れる光景は必ず馬鹿者の下界人にも、興味あることでございましょう。実に下界人の馬鹿たるや、真に度しがたいものであって……」
「引っ込め、爺《じじい》」
 と見物は、今や総立ちになろうとした。
 と突然杉右衛門は、楽屋に向かって声をかけた。
「さあ出て来い、岩太郎!」
「応!」
 と返辞《いらえ》る声がしたが、忽《たちま》ち一個の壮漢が、颯《さっ》と舞台へ躍り出た。年の頃は四十五、六、腰に毛皮を巻きつけたばかり、後は隆々たる筋肉を、惜し気もなく露出《むきだ》していたが、胸幅広く肩うずたかく、身長《せい》の高さは五尺八寸もあろうか、肌の色は桃色をなし、むしろ少年を想わせる。
「や!」
 と叫ぶと檻《おり》の戸をムズと両手でひっ[#「ひっ」に傍点]掴《つか》んだ。

   江戸市中狂乱の巻

         一

 浅草奥山の見世物小屋から、葉之助は邸へ帰って来た。
 意外の人が待っていた。
 蘭医天野北山と弟子の前田一学とが客間に控えていたのであった。
「おお、これは北山先生」
 葉之助は喜んで一礼した。
「前田氏にもよう見えられた」
「葉之助殿、出て来ましたよ」北山はいつに[#「いつに」に傍点]なく性急に、「さて早速申し上げる、先日はお手紙と不思議の白粉《はくふん》、よくお送りくだされた。まずもってお礼申し上げる。しかるにお送りの該《がい》白粉、とんと性質が解らなくてな」
「ははあ、さようでございますか」葉之助は案外だというように、「先生ほどの大医にも、お解りにならないとは不思議千万」
「いや私《わし》もガッカリした。そうしてひどく[#「ひどく」に傍点]悲観した。と云ってどうもうっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]は置けない。で、私は一学を連れ、倉皇《そうこう》として出て来たのだ。……そこで私は一学を玄卿《げんきょう》の邸へ住み込ませようと思う」
「ははあ、それでは先生には、大槻玄卿が怪しいと、こう覚《おぼ》し召し遊ばすので?」
「さよう、怪しく思われてな」北山はしばらく打ち案じたが、「卒直に云うとまずこうだ。……金一郎様のご他界は、内藤家におけるお家騒動の、犠牲というに他ならぬ。そうして騒動の元兇は、これは少しく畏《おそ》れ多いが殿のご舎弟|帯刀《たてわき》様だ。……いやいやこれには理由がある。しかしそれはゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]と云おう。ところで二人の相棒がある。玄卿と大鳥井紋兵衛だ。紋兵衛が相棒だということは、実はお前さんの手紙によって想像をしたに過ぎないが、いやあいつの性質から云えばそんなこと[#「そんなこと」に傍点]もやり兼ねない。どだいあいつの素姓なるものが甚《はなは》だもって怪しいのだからな。どうしてあれほど[#「あれほど」に傍点]金を作ったかも、疑えば疑われる節《ふし》がある。それに第一そんな深夜に、ひとりこっそり[#「こっそり」に傍点]駕籠に乗って、大槻の屋敷を訪ねた帰路、帯刀様のお屋敷に寄り、その晩若君金一郎様が、ご変死なされたとあって見れば、相棒と見てよろしかろう、相棒というのが不穏当《ふおんとう》なら、関係があると云ってもよい。ところで肝腎《かんじん》の白粉だが、これはどうやら[#「どうやら」に傍点]毒薬らしい。もっとも森家と内藤家とは相当距離がへだたっているのに、その二軒の屋敷を繋いでこの白粉が一直線に、地面に撒《ま》かれてあったということから、ちと毒薬にしては変なところもある。うん、どうもこれは少し変だ。毒薬を地面へふり[#「ふり」に傍点]撒いたところで人の命は取られるものでない。が、どっちみちこの白粉が怪しいものには相違ない。そうしてお前さんの手紙によると、この白粉の筋道に添って、ちょうど美妙《びみょう》な笛のような音が聞こえて来たということであるが、それは今のところ解らない。だがしかしそれらのことも白粉の性質さえ解ったなら、自《おのずか》ら明瞭になるだろう。とまれこういう不思議な白粉を、造り出すことの出来る者は、大槻玄卿以外には、少くも江戸にはない筈だ。と云うことであって見れば、何をおいても玄卿の家へ、人を入れて様子を探らせ、薬局を調べる必要がある。ところで私と玄卿とは同業であり顔見知りだ。だから到底住み込むことは出来ない。幸い一学は玄卿とはこれまで一面の識もない。そこで一学を住み込ませ、至急様子を探らせようと思う。グズグズしてはいられない、うっかりノホホンでいようものなら、ご次男様がまたやられる」
「えっ?」
 と葉之助は眼を見張った。
「ご次男と申せば金二郎様、それがやられる[#「やられる」に傍点]とおっしゃるのは?」
「やられるともやられるとも。油断をすると今夜にもやられる」北山はキッと眼を据えたが、「あいつらの目的とするところは、内藤家乗っ取りの陰謀だからな、ご長男様ご次男様、お二人がなくなられるとお世継ぎがない。そこで帯刀様が乗り込んで来られる。どうだ、これで胸に落ちたろう」
 云われて葉之助は「ムー」と呻いた。
「いやそれほどの陰謀とは、私夢にも存じませなんだ。これは一刻の油断も出来ない。恐ろしいことでございますな。……」
「人の世は全く恐ろしいよ。さて今度は私《わし》の番だが、殿にはお目通りをしないつもりだ。と云うのは他でもない。私が出府をしたと聞いたら真っ先に玄卿めが用心をしよう。連れて紋兵衛も帯刀様も、手控えするに違いない。そうなったらお終いだ。陰謀の手証《てしょう》を掴むことができない」
「これはごもっともでございますな。それでは手狭でも私の家に、こっそりお在《い》で遊ばしては」
「いやいやそれも妙策でない。人の出入りもあろうから、どうで知れずには済まされぬ。それより私《わし》は町方に住んで、自由に活動するつもりだ。ところでお前さんに頼みがある。ご迷惑でも今夜から、下屋敷の方へ出張ってくだされ。そうして例の白粉がもしも地面に撒いてあったら、用捨なく足で蹴散らしてくだされ。これは非常に大切なことだ」
「かしこまりましてござります。毎晩出張ることに致しましょう」
 葉之助は意気込んで引受けた。

         

 北山と一学とは人目を憚《はばか》り、駕籠でこっそり帰った。そうしてどこへ行ったものか、しばらく消息が解らなかった。

 さてここで物語は少しく別の方へ移らなければならない。
 ここは寂しい宇田川町、夜がしんしん[#「しんしん」に傍点]と更けていた。
 源介という駕籠舁《かごか》きが、いずれ濁酒《どぶろく》でも飲んだのであろう、秋だというのに下帯一つ、いいご機嫌で歩いていた。
「金は天下の廻りもの、今日はなくても明日はある。アーコリャコリャ。アコリャコリャ」
 こんなことを云いながら歩いていた。
 と、手近の行手から女の悲鳴が聞こえて来た。
「へへへ、どいつかやってやがるな。アレーと来りゃこっちのものだ。こいつ見|遁《の》がしてたまるものか。どれどれ」と云うとよろめく足で、声のした方へ走って行った。
 はたして小広い空地の中で、二人の男が一人の女を、中へ取りこめて揉み合っていた。
「やい、こん畜生! 悪い奴だ!」
 源介は濁声《だみごえ》で一喝した。「ところもあろうに江戸の真ん中で、女|悪戯《てんごう》とは何事だ、鯨《くじら》の源介が承知ならねえ! 俺の縄張りを荒らしやがって、いいかげんにしろ、いいかげんにしろ!」
 この気勢に驚いたものか、ワーッというと二人の男は、空地を突っ切って逃げ出した。
「態《ざま》ア見やがれ意気地《いくじ》なしめ! 驚いたと見えて逃げやがった」
 云い云い女に近付いて行った。
 と、倒れていた若い女は、周章《あわ》ててムックリ起き上ったが、源介の胸にすがり付いた。髪の毛が頬に乱れている。帯が緩《ゆる》んで衣裳が崩れ、夜目にも燃え立つ緋《ひ》の蹴出《けだ》しが、白い脛《すね》にまつわっている。年の頃は十八、九、恐怖で顔は蒼褪《あおざ》めていたが、それがまた素晴らしく美しい、お屋敷風の娘であった。
 しばらくは口も利けないと見えて、ワナワナ体を顫わせるばかり、源介の胸へしがみ付いている。
 源介の魂は宙へ飛んだ。で、むやみと口嘗《くちな》めずりをした。「こ、こ、こいつア悪かあねえなあ。ううん偉いものが飛び込んで来たぞ。まず俺の物にして置いて、品川へでも嵌《は》めりゃあ五十両だ」
 こう思ったそのとたん、女はヒョイと胸から離れ、まず衣裳の乱れを調《ととの》え、それから丁寧《ていねい》に辞儀をした。
「あぶないところをお助けくだされ、何んとお礼を申してよいやら、ほんとに有難う存じました」
 切り口上で礼を云った。
「へえ、ナーニ、どう致しやして。でもマア怪我《けが》もなかったようで、いったいどうしたと云うんですえ?」
 相手に真面目に出られたので、つい源介も真面目に云った。
「はい、ちょっと主人の用事で、新銭座の方まで参りましたところ後から従《つ》けて来た悪者に、……」
「ナール、空地でとっ[#「とっ」に傍点]捉まえられたんだね。で、お家はどこですえ?」
「はいツイそこの愛宕下で。……あのまことに申し兼ねますが、お助けくだされたおついで[#「おついで」に傍点]に、お送りなされてはくださいますまいか」
「またさっきの悪い奴が追っかけて来ねえものでもねえ、ようごす、送ってあげやしょう」
 こうは云ったが源介は、腹の中では舌打ちをした。「どうもこいつア駄目らしいぞ。これが下町の娘っ子なら、たらし[#「たらし」に傍点]て宿へも連れ込めるが、山の手のお屋敷風、さようしからばの切り口上じゃ、ちょっとどうも手が出ねえ。物にするなあ諦めて、お礼でもしこたま[#「しこたま」に傍点]貰うとしよう」
「じゃ姐《ねえ》さん行こうかね」こう云って源介は歩き出した。
「それではお送りくださいますので、それはマア有難う存じます」云い云い女は並んで歩いた。
 柴井町から露月町、日蔭町まで来た時であったが、
「まあいいお体格でございますこと」不意に女がこう云った。
「え?」と源介は女を見たが、早速には意味が解らなかった。「なんですえ、体格とは?」
「あなたのお体でございますわ」
「ナーンだ篦棒《べらぼう》、体のことか」源介は変に苦笑したが、
「体が資本《もとで》の駕籠屋商売、そりゃあ少しはよくなくてはね」
「ずいぶんお目方もございましょうね?」
「へえ」と云ったが源介は、裏切られたような気持ちがした。
「ほんとに何んだいこの女は! あぶなく酷い目に逢いかかったのに、もう洒々《しゃあしゃあ》してこの通りだ。人の目方まで量《はか》りゃあがる。――十七貫はございましょうよ」
「ずいぶん骨太でいらっしゃいますことね」
「あれ、あんな事云やあがる。厭になっちまうなこの女は。――ヘイヘイ骨太でございますとも」
「ホ、ホ、ホ、ホ、結構ですわ」
「ワーッ、今度は笑いやがった。変に気に入らねえ女だなあ」源介はすっかりウンザリした。
 すると、女がまた云った。
「妾《わたくし》、さっき、あなたの胸へ、一生懸命|縋《すが》り付きましたわね。その時よっく計りましたのよ。ええあなたのお体をね」
 源介はピタリと足を止めた。そうして女をじっ[#「じっ」に傍点]と見た。ズーンと何物かで脳天を、ぶち抜かれたような気持ちがした。
 と、女は手を上げて、そこに立っていた巨大な屋敷の、黒板塀をトントンと打った。それが何かの合図と見えて、そこの切り戸がスーと開いた。
「主人の屋敷でございますの、お礼を致したいと存じます。どうぞおはいりくださいまし」
 云いすてて女ははいって行った。
 何んとも云われない芳香が、切り戸口から匂ってきた。源介にとっては誘惑であった。彼はその匂いに引き入れられるように、ブラブラと内へはいって行った。
 間もなく彼の叫び声がした。
「やあ綺麗な花園だなあ」
 それから後は寂然《しん》となった。
 そうして源介はその夜限り、この地上から消えてしまった。彼の姿は未来|永劫《えいごう》、ふたたび人の眼に触れなかった。
「やあ綺麗な花園だなあ」
 この彼の叫び声はいったいどういう意味なのであろう?

         三

 ここで再び物語は、鏡葉之助の身の上に返る。
 ある日葉之助はいつものように、四国町の邸を出て、殿の下屋敷を警護するため、根岸の方へ歩いて行った。増上寺附近まで来た時であったが、「ヒーッ」という女の悲鳴がした。同時に山門の暗い蔭から、裾を乱した若い女が、彼の方へ走って来た。そうしてその後から二人の男が何か喚《わめ》きながら走って来たが、葉之助の姿を見て取ると元来た方へ引っ返した。
「ははあ、さては狼藉者《ろうぜきもの》だな」
 呟いたとたんに若い女は犇《ひし》と葉之助へ縋り付いた。衣裳も髪も乱れてはいたが、薄月の光に隙《す》かして見ると、並々ならぬ美しさをその女は持っていた。
「お助けくださりませ、お助けくださりませ!」喘《あえ》ぎながらこう云うと、女は葉之助を撫で廻した。
「しっかりなされ、大丈夫でござる」葉之助は女を慰めた。「狼藉をされはしませぬかな?」
「あぶないところでございました。ちょうどお姿が見えましたので、やっとモギ放して逃げましたものの、そうでなかったら今頃は、……おお恐ろしい恐ろしい!」女はブルブル身を顫わせたが、「お送りなされてくださりませ! お送りなされてくださりませ! いまの悪者が取って返し、襲って参ろうも知れませぬ。つい近くでございます。お送りなされてくださりませ!」取り付いた手を放そうともしない。
「よろしゅうござる、お送りしましょう」葉之助は女を掻いやった。「で、家はどの辺かな?」
「愛宕下でございます」女は髪をつくろっ[#「つくろっ」に傍点]た。
「愛宕下ならツイ眼の先、さあ、おいでなさるがよい」云い云い葉之助は先に立ち、その方角へ足を向けた。
「それはマアマア有難いことで、もう大丈夫でございます」
「若い女子がこんな深夜に、一人で歩くということは、無考えの上にちと[#「ちと」に傍点]大胆、今後は注意なさるがよい」
 若い女を助けながら、家まで送るということが、葉之助にはちょっと得意であった。まして女は美人である。そうしてひたすら[#「ひたすら」に傍点]縋り付いてくる。彼は多少快感さえ感じた。
 しかし女が立ち止まり、「ここが邸でございます。主人からもお礼を申させます。どうぞお立ち寄りくださいまし」と、一軒の屋敷を指さした時には、喫驚《びっく》りせざるを得なかった。と云うのはその屋敷が、敵と目差している蘭学医の玄卿の屋敷であったからである。
「おおこれは玄卿殿の住居、それではそなたはこの屋敷の……」
「ハイ小間使いでございます。どうぞどうぞお立ち寄りを」女は袖を放さなかった。
 そこで葉之助は考えた。
「この屋敷へ入り込むのは、虎穴《こけつ》へ入ると同じだが、そういう冒険をしなかった日には、虎児を獲《え》ることはむずかしい[#「むずかしい」に傍点]。それにこっちでは玄卿めを、敵と目差してはいるものの、先方ではまだまだ知らない筈だ。こういう機会に敵地へ入り込み、様子を探っておいたならまたよいこともあるだろう。それに俺《わし》は玄卿をこれまで一度も見たことがない。これをしお[#「しお」に傍点]に行き会って、人物を見抜くのも一興である」
 そこで葉之助は云われるままに、木戸を潜ることにした。

         四

 女がコツコツと戸を叩くと、内側へスーと切り戸があいた。プーッと匂って来る快い匂い、まず葉之助の心をさらった[#「さらった」に傍点]。
 はてな[#「はてな」に傍点]と思いながらはいったとたん、思わずあっ[#「あっ」に傍点]と声を上げた。
 黒い高塀に囲まれているので、往来からは見えなかったが、庭一面に草花が爛漫《らんまん》と咲き乱れているのであった。
「これは綺麗な花園でござるな」感嘆して立ち止まった。
 するとその時|園丁《えんてい》と見えて、鋤《すき》を担いだ大男が花を分けて現われたが、二人の姿をチラリと見ると逃げるように隠れ去った。
「咽《む》せ返るようなよい匂いだ」葉之助は幾度も深呼吸をしたが、「これは何んという花でござるな?」
「大茴香《おおういきょう》でございます」
「おおこれが茴香《ういきょう》か。ふうむ、実に見事なものだ。茴香といえば高価な薬草、さすが大槻玄卿殿は、当代名誉の大医だけあって、立派な薬草園を持っておられる」
 さすがの葉之助も感心して、園に添って歩いて行った。すると一箇所一間四方ぐらい、その茴香の花園が枯れ凋《しぼ》んでいる箇所へ来た。
「これはどうも勿体《もったい》ない。茴香が枯れておりますな」葉之助は立ち止まった。
「はい主人も心配して、恢復策を講じますものの、一旦枯れかかった茴香は、容易なことでは生き返らず、こまっておるのでございます」女はこう云いながら耳を澄ました。どこかで地面を掘っている。鋤にあたる小石の音が、コチンコチンと聞こえて来る。
 薬草園を通り過ぎると、館の裏座敷の前へ出た。明るい灯火《ともしび》が障子に映え、人の話し声も聞こえている。
「さあどうぞお上がり遊ばしませ」
 云いながら女が先に上がり、スラリと障子を引きあけた。何んとなく身の締まる思いがして、葉之助は一瞬間|躊躇《ちゅうちょ》したが、覚悟をして来たことではあり、性来無双の大胆者ではあり云われるままに座敷へ上がった。
「しばらくご免を」と挨拶をし女は奥へ引き込んだ。
 敷物の上へ端然と坐り、葉之助は部屋の中を見廻した。床に一軸が懸かっていた。それは神農の図であった。丸行灯《まるあんどん》が灯《とも》っていた。火光が鋭く青いのは在来の油灯とは異《ちが》うらしい。待つ間ほどなく現われたのは、剃り立ての坊主頭の被布《ひふ》を纏《まと》った肥大漢で、年は五十を過ぎているらしく、銅色をした大きな顔は膏切《あぶらぎ》ってテカテカ光っている。
「愚老、大槻玄卿でござる」こう云って坐って一礼したが、傲岸不遜《ごうがんふそん》の人間と見え、床の間を背にして坐ったものである。
「家人をお助けくだされた由《よし》、あれは小間使いとはいうものの、愚妻の縁辺でござってな、血筋の通った親類|端《はじ》、ようお助けくだされた。玄卿お礼を申しますじゃ」それでも一通りの礼は云った。
「拙者は鏡葉之助、内藤駿河守の家臣でござるが。ナニ助けたと申し条、ただちょっと通りかかったまで、そのご挨拶では痛み入る」葉之助も傲然と云った。「こんな坊主に負けるものか!」こういう腹があったからである。
「ほほう、内藤家の鏡氏、いやそれはご名門だ。お噂は兼々《かねがね》存じております。実は愚老は内藤様ご舎弟、森帯刀様へはお出入り致し、ご恩顧《おんこ》を蒙《こうむ》っておりますもの、これはこれはさようでござったか」
 玄卿も相手が葉之助と聞いて、にわかに慇懃《いんぎん》な態度となった。
 その時小間使いが現われたが、それは別の小間使いであった。片手に錫《すず》製の湯差しを持ちもう一つの手に盆を持っていたが、その盆の上には二つの茶碗と、小さな茶漉《ちゃこ》しとが置いてあった。そうして砂糖|壺《つぼ》とが置いてあった。
「うん、よろしい、そこへ置け」こう云って玄卿は頤《あご》をしゃくった[#「しゃくった」に傍点]。
「いやナニ鏡葉之助殿、これは南蛮茶と申しましてな、日本ではめった[#「めった」に傍点]に得られないもの、たいして美味でもござらぬが、珍らしいのが取柄《とりえ》でござる」
 こう云いながら玄卿は、湯差しを手ずから取り上げると、茶漉しの上から茶碗の中へ深紅の液を注ぎ込んだ。それから匙《さじ》で砂糖を入れた。
「まず拙者お毒味を致す」
 こう云うと一つの茶碗を取り上げ、半分ばかりグッと呑んだ。
「温《ぬる》加減もまず上等、いざお験《ため》しくださいますよう」
「さようでござるかな、これは珍味」
 葉之助は茶碗を取り上げたが、そこでちょっとためらった[#「ためらった」に傍点]。

         

 茶碗を取り上げた葉之助が、急に飲むのを躊躇《ちゅうちょ》したのは、当然なことと云わなければならない。
「評判のよくない大槻玄卿、どんなものをくれるか解るものか」つまり彼はこう思ったのであった。
 玄卿はすると[#「すると」に傍点]ニヤリと笑った。
「いや鏡葉之助殿、愚老毒などは差し上げません。どうぞ安心してお試《ため》しくだされ」
 図星を差されたものである。
「とんでもないこと、どう致しまして」
 葉之助は苦笑したが、今はのっ[#「のっ」に傍点]引きならなかった。で、一息にグーと飲んだ。日本の緑茶とは趣きの異った、強い香りの甘渋い味の、なかなか結構な飲み物であった。
「珍味珍味」と葉之助は、お世辞でなくて本当に褒《ほ》めた。
「産まれて初めての南蛮紅茶舌の正月を致してござる」
「お気に叶《かな》って本望でござる。いかがかな、もう一杯?」
「いや、もはや充分でござる」
 葉之助は辞退した。
「さようでござるかな。お強《し》いは致さぬ」
 で玄卿は茶器を片付けた。
 それから二つ三つ話があった。
 と、葉之助は次第次第に引き入れられるように眠くなった。
「これはおかしい」とこう思った時には、全身へ痲痺《まひ》が行き渡っていた。
「ううむ、やっぱり毒であったか!」
 葉之助は切歯した。それから刀を抜こうとした。ただ心があせる[#「あせる」に傍点]ばかりで手が云うことを聞かなかった。
「残念!」と彼は喚くように云った。しかし言葉は出なかった。ただそう云ったと思ったばかりで、その実言葉は舌の先からちょっとも外へは出なかった。
 彼は前ノメリに倒れてしまった。
 しかしそれでも意識はあった。
 それから起こった出来事を、彼はぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]覚えていた。
 ……まず二、三人の男の手が、彼を宙へ舁《か》き上げた。……縁から庭へ下ろされたらしい。……穴を掘るような音がした。……と、提灯《ちょうちん》の灯が見えた。……茴香《ういきょう》畑が見えて来た。……花が空を向いていた。……一人の男が穴を掘っていた。……大きな穴の口が見えた。……彼はその中へ入れられた。……バラバラと土が落ちて来た。……おお彼は埋められるのであった。……もう何んにも見えなかった。サーッと土が落ちて来た。……顔の上へも胸の上へも、手へも足へも土が溜った。……次第に重さを感じて来た。……そうして次第に呼吸《いき》苦しくなった。……「俺は死ぬのだ! 俺は死ぬのだ!」葉之助は穴の中で、観念しながら呟いた。そうしてそのまま気を失った。
    ……………………
    ……………………
 新鮮な空気がはいって来た。
 葉之助は正気附いた。
 そうして自由に息が出来た。
 だが身動きは出来なかった。
 彼はやはり穴の中にいた。
 土が一杯に冠さっていた。
 しかし痲痺からは覚めていた。毒薬の利《き》き目《め》が消えたのであろう。
 どうして息が出来るのだろう? どこかに穴でも開いたのであろうか?
 そうだ、穴があいたのであった。
 ちょうど彼の口の上に、穴があいているのであった。
 しかし普通の穴ではなかった。
 竹の筒が差し込まれているのであった。
 誰がそんなことをしたのだろう? もちろん誰だか解らなかった。
 とまれそのため葉之助は、一時死から免《まぬ》がれることが出来た。
 彼は充分に息をした。どうかして穴から出ようとした。しかしそれは絶望であった。
 で、じっ[#「じっ」に傍点]として待つことにした。
 するとその時竹筒を伝って、人の声が聞こえて来た。
 彼に呼びかけているのであった。
「鏡殿、葉之助殿」
 それは男の声であった。
 そうして確かに聞き覚えがあった。
 そこで葉之助は返辞をした。
「どなたでござるな。え、どなたで?」
「一学でござる。前田一学で」
「おっ」と葉之助はそれを聞くと、助かったような気持ちがした。「さようでござるか、前田氏でござるか。……それにしてもこれはどうしたことで」
「生き埋めにされたのでございますよ」
「生き埋め? 生き埋め? なんのために?」
「枯れかけた茴香《ういきょう》を助けるために」
「ナニ、茴香を? 枯れかけた茴香を?」
「さよう」と一学の声が云った。「肥料にされたのでございます。……あなた[#「あなた」に傍点]ばかりではございません。十数人の人間が。……人が来るようでございます。……しばらくお待ちくださいますよう」

         

 そこでしばらく話が絶え、後はしばらく寂然《しん》となった。
 と、また話し声が聞こえて来た。
「葉之助殿、お苦しいかな?」
「苦しゅうござる。早く出してくだされ」
「それが、そうは出来ませんので」
「ナニ出来ない? なぜでござるな?」
「まだ人達が目覚めております」
「ではいつここから出られるので?」葉之助はジリジリした。
「間もなく寝静まるでございましょう、もう少々お待ちくだされ」
「それにしても前田氏には、どうしてこんな処におられるな」
「玄卿の秘密を発《あば》くため、飯焚《めした》きとなって住み込んだのでござる」
「で、秘密はわかりましたかな?」
「さよう、おおかたはわかりました」
「それでは白粉の性質も?」
「さよう、おおかたは突き止めてござる」
「さようでござるかそれはお手柄。で、いったい何んでござるな?」
「茴香《ういきょう》から製した薬品でござる」
「ううむ、なるほど、茴香のな。やはり毒薬でござろうな?」
「さよう、さよう、毒薬でござる」
「おおそれでは金一郎様には、毒殺されたのでございますな」
「ところが、そうではございません」
「そうではないとな? これは不思議?」
「茴香剤は毒薬とは云え、後に痕跡を残します。……しかるに若殿の死骸《なきがら》には、なんの痕跡もなかったそうで」
「さようさよう、痕跡がなかった。……だが、毒殺でないとすると……」
「全く不思議でございます」
「白粉の性質が解っても、それでは一向仕方がないな」
「だが前後の事情から見て、茴香剤の白粉が、金一郎様殺害に、関係のあることはたしかにございます」
「で、白粉の特性は?」
「刺戟剤でございます。まず、しばらくお待ちください。客があるようでございます。……誰か裏門を叩いております。……男奴《おとこめ》が潜《くぐ》り戸をあけました。……や、紋兵衛でございます、大鳥井紋兵衛が参りました。……これはうっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]は置けません。……ちょっと様子をうかがって来ます。……」
 前田一学は立ち去ったらしい。
 後はふたたび静かになった。
 葉之助はだんだん苦しくなった。
 湿気が体へ滲み通った。
 呼吸もだんだん苦しくなった。ひどく衰弱を感じて来た。
 次第に眠気を催して来た。
 一学は帰って来なかった。
「眠ってはいけない、眠ってはいけない」
 こう思いながらウツラウツラした。
 これは恐ろしい眠りであった。ふたたび覚めない眠りであった。眠ったが最後葉之助は、生き返ることは出来ないだろう。
 はたして彼の運命は?

 ちょうど同じ夜のことであった。
 神田の諸人宿の奥まった部屋に、天野北山は坐っていた。
 薬箱が置いてあった。
 アルコールランプが置いてあった。
 試験管が置いてあった。
 そうして彼は蘭語の医書を、むずかしい顔をして読んでいた。
 そこには次のように書いてあった。
「……茴香には三種の区別あり、野茴香、大茴香、小茴香、しかして茴香の薬用部は、枝葉に非ずして果実なり。大きさおよそ二分ばかり、緑褐色長円形をなす。一種強烈なる芳香を有し、駆虫《くちゅう》、※[#「ころもへん+去」、第3水準1-91-73]痰《きょたん》、健胃剤となる。また芳香を有するがため、嬌臭《きょうしゅう》及び嬌味薬となる、あるいは種子を酒に浸し、飲用すれば疝気《せんき》に効あり。茴香精、茴香油、茴香水を採録す」
 北山はここで舌打ちをした。
「どうもこれでは仕方がない。だがしかし例の白粉が、茴香剤に相違ないと、前田一学から知らせて来たからには、それに相違はあるまいが、しかしどうも疑わしいな」
 腕を組んで考え込んだ。
 気がムシャクシャしてならなかった。
 で、宿を出て歩くことにした。
 他に行くところもなかったので、浅草の方へ足を向けた。
 観音堂へ参詣《さんけい》した。
 相当夜が深かったので、他に参詣の人もなかった。

         

 観音堂の裏手の丘に、十数人の男女がいた。寝そべっているもの、坐っているもの、立っているもの、横になっているもの、雑然として蒐《あつ》まっていたが、暗い星月夜のことではあり、顔や姿は解らなかった。
「星が流れた」
 と誰かが云った。
「ふん、明日も天気だろう」
 すぐに誰かがこう答えた。
 で、ちょっとの間しずかであった。
 微風が木立を辷《すべ》って行った。
 赤児のむずかる[#「むずかる」に傍点]声がした。と、子守唄が聞こえて来た。その子の母が唄うのであろう。美しい細々とした声であった。
 虫が草叢《くさむら》で鳴いていた。
 微風がまたも辷って行った。
「ああいいな。どんなにいいか知れねえ。……土の匂いがにおって来る。……枯草の蒸《む》れるような匂いもする」
 老人の声がこう云った。
「八ヶ嶽! 八ヶ嶽! おお懐《なつか》しい八ヶ嶽! 八ヶ嶽を思い出す」
 一人の声がそれに応じた。やはり老人の声であったが。
「見捨ててから久しくなる。そろそろ八ヶ嶽を忘れそうだ」
「俺は夢にさえ思い出す」以前の老人が云いつづけた。「笹の平! 宗介神社! 天狗の岩! 岩屋の住居! 秋になると木の実が熟し、冬になると猪が捕れた。そうして春になると山桜が咲き、夏になると労働した。……平和と自由だったあの時代! 俺は夢にさえ思い出す」
「漂泊《さすらい》の旅の二十年! 早く故郷へ帰りたいものだ」
「星が飛んだ!」
 とまた誰かが云った。
 虫の声が鳴きつづけた。
 夜烏《よがらす》がひとしきり[#「ひとしきり」に傍点]梢で騒いだ。おおかた夢でも見たのだろう。
 窩人達は眠ろうとした。
 しかし彼らは眠られないらしい。
 そこで彼らは話し出した。
 彼らは浅草奥山の、見世物小屋の太夫達であった。
「八ヶ嶽の山男」
 ――こういう看板を上げている、その掛け小屋の太夫達であった。
 しかし彼らは窩人であった。
 彼らは小屋内に眠るより、戸外《そと》で寝る方を愛していた。それは彼らが自然児だからで、人工の屋根で雨露をしのぎ[#「しのぎ」に傍点]、あたたかい蒲団《ふとん》にくるまるより、天工自然の空の下《もと》で、湿気と草の香に包まれながら地上で眠る方が健康にもよかった。で、暴風雨でない限り、いつも彼らは土の上で眠った。
 二十年近い過去となった。その頃彼らは八ヶ嶽を出て、下界の塵寰《じんかん》へ下りて来た。それは盗まれた彼らの宝――宗介天狗のご神体に着せた、黄金細工の甲冑《かっちゅう》を、奪い返そうためであった。
 漂泊《さすらい》の旅は長かった。
 到る所で迫害された。
 山男! こういう悪罵《あくば》を投げつけられた。
 長い漂泊の間には、死ぬ者もあれば逃げるものもあった。しかし、子を産む女もあった。
 で、絶えず変化した。
 しかし目的は一つであった。
 復讐をするということであった。
 丘の近くに池があった。パタパタと水鳥の羽音がした。
「水鳥だな」
 と誰かが云った。それは若々しい声であった。
「鳥はいいな。羽根がある」
 もう一つの若々しい声が云った。
「飛んで行きたいよ。高い山へ!」「飛んで行きたいよ深い森へ!」「信州の山へ! 八ヶ嶽へ!」「そうだ俺らの古巣へな」
 三、四人の声がこう云った。
 愉快そうな笑い声が聞こえて来た。
 枯草の匂いが立ち迷った。
 で、またひとしきり[#「ひとしきり」に傍点]静かになった。
 都会《まち》の方から笛の音がした。按摩《あんま》の流す笛であった。
 観音堂は闇を抜いて、星空にまで届いている。と、鰐口《わにぐち》の音がした。参詣する人があるのだろう。
「また白蛇を盗まれたそうで」
 突然こういう声がした。
「では二匹盗まれたんだな」
 もう一人の声がこう云った。「毒蛇だのに、誰が盗んだかな」
「八ヶ嶽だけに住んでる蛇だ」
「毒蛇だのに、誰が盗んだかな」
「いずれ馬鹿者が盗んだんだろう」
 ここで再び笑い声がした。
 それが消えると静かになった。カラカラと駒下駄の音がした。横に曲がってやがて消えた。
 また微風が訪れて来た。
 興行物の小屋掛けが、闇の中に立っていた。ギャーッと夜烏《よがらす》が啼き過ぎた。
「冬になるまでには帰りたいものだ」
 老人の声がこう云った。
「帰れるともきっと帰れる」もう一人の老人の声が云った。
「そう長く悪運が続くわけがない」
「多四郎め! 思い知るがいい!」
「だが葉之助は可哀そうだ」突然誰かがこう云った。
「仕方がない、贖罪《しょくざい》だ!」もう一人の声がこう云った。
「母の罪を償うのだ」
「あれ[#「あれ」に傍点]の母の山吹は、部落きっての美人だった。お頭杉右衛門の娘だった。若大将岩太郎の許婚《いいなずけ》だった。……ほんとに気前のいい娘だった」
「ところが多四郎めに瞞《だま》された。そうして怨《うら》み死にに死んでしまった。可哀そうな可哀そうな女だった。……山吹とそうして多四郎との子! 可哀そうな可哀そうな葉之助!」

         

 観音堂への参詣を済まし、偶然《ふと》来かかった北山は、窩人達の話を耳にして「オヤ」と思わざるを得なかった。
「葉之助葉之助と云っているが、鏡葉之助のことではあるまいかな?」
 これは疑うのが当然であった。
 と、木蔭に身を隠し、次の話を待っていた。
「だが葉之助は偉い奴だ」老人の声がこう云った。「俺らの敵の水狐族部落を、見事に亡ぼしてくれたんだからな」
「そうだ、あの功は没せられない」合槌を打つ声が聞こえて来た。「あの一事で母親の罪は、綺麗《きれい》に償われたというものだ」
「噂によると水狐族めも、さすらい[#「さすらい」に傍点]の旅へ上ったそうだ」
「江戸へ来ているということだ」
「どこかでぶつからない[#「ぶつからない」に傍点]ものでもない」
「ぶつかった[#「ぶつかった」に傍点]が最後、戦いだ」
「そうだ戦いだ、腕が鳴るなあ」
「種族と種族との戦いだからな」
「種族の怨みというものは、未来|永劫《えいごう》解《と》けるものではない」
「だが、水狐族の部落の長《おさ》、久田の姥《うば》めが殺された今は、戦ったが最後こっち[#「こっち」に傍点]の勝ちだ」
「姥を殺したのは葉之助だ」
「葉之助は俺らの恩人だ」
「だが気の毒にも呪われている」
「永久安穏はないだろう」
「眠い」
 と女の声がした。
 するとみんな[#「みんな」に傍点]黙ってしまった。
 彼らは睡眠《ねむり》にとりかかった。
 やがて鼾《いびき》の声がした。
 木蔭を立ち出で北山は、町の方へ足を向けた。
「ふうむそれでは葉之助は、山男の血統を引いてるのか」
 彼は心で呟いた。
「久田の姥を殺したのは、鏡葉之助の他にはない。……彼らの噂した葉之助は、鏡葉之助に違いない……これを聞いたら葉之助はどんな気持ちになるだろう……明かした方がいいだろうか? 明かさない方がいいだろうか? ……だが多四郎とは何者だろう?」
 上野の方へ足を向けた。
「大胆不敵な葉之助のことだ、素姓の卑しい山男達の、たとえ血統を引いていると聞いても、よもやひどい[#「ひどい」に傍点]失望はしまい。……やはりこれは明かした方がいい……そうだ、今夜も葉之助は、根岸の殿の下屋敷附近を、警戒しているに違いない。行き逢って様子を見ることにしよう」
 根岸の方へ足を向けた。
 根岸は閑静な土地であった。夜など人一人通ろうともしない。
 間もなく下屋敷の側まで来た。
 葉之助の姿は見えなかった。
 で、裏の方へ廻って行った。
 すると、広い空地へ出た。空地の闇を貫いて、一筋白い長い線が、一文字に地面へ引かれていた。
 それと知った時北山は、思わず「アッ」と声を上げた。「白粉! 白粉! 例の白粉だ!」
 とたんに笛の音が聞こえて来た。
 銀笛のような音であった。白粉の上を伝わって来た。その白粉は白々と、森帯刀家の下屋敷まで、一直線につづいた。
 笛の音は間近に逼《せま》って来た。もう数間の先まで来た。
 北山は再び「アッ」と云った。
 それからあたかも狂人《きちがい》のように、白粉を足で蹴散らした。
 そうして笛の音を聞き澄ました。
 笛の音は足もとまで逼って来た。しかしそこから引っ返して行った。
 だんだん音が遠ざかり、やがて全く消えてしまった。
 北山は全身ビッショリと冷たい汗を掻いていた。と、地面へ手を延ばし、一|摘《つま》みの白粉を摘み上げた。
「解った!」と呻くように叫んだものである。

         

 地下に埋められた葉之助は、さてそれからどうなったろう?
 奇々怪々たる出来事が引き続き起こったのであった。
 ちょっと待てと云って立ち去ったまま、一学は帰って来なかった。で葉之助は待っていた。待っているのはよいとしても、呼吸《いき》の苦しいのは閉口であった。名に負う地下にいるのであった。気味の悪さは形容も出来ない。湿気は体を融かそうとした。身内を蛆虫《うじむし》が這うようであった。一寸も動くことが出来なかった。もし体を動かしたら、竹筒の位置が狂うだろう。そうしたら呼吸が出来なくなろう。そうなったらお陀仏であった。死んでしまわなければならなかった。
「死ぬかも知れない! 死ぬかも知れない! だがいったいそれにしても、一学氏はどうしたのだろう? どうして助けに来ないのだろう? 逃げてしまったのではあるまいか? いやいやそんな人物ではない。では何か危険なことでも、あの人の身の上に起こったのであろうか? ……とにかくこうしてはおられない。生きている人間が生きながら、地下に埋められているなんて、どう考えたって恐ろしいことだ! 出なければならない! 出なければならない! おお俺の体の上には、土がいっぱい[#「いっぱい」に傍点]に冠さっているのだ。茴香《ういきょう》の花が咲いているのだ。そうしてもしも俺が死んだら、その茴香の肥料《こやし》になるのだ。……死! 肥料! 恐ろしいことだ! これはどうしても逃げなければならない。だがどうしたら逃げられるのか? そうだ土を刎《は》ね退ければいい。だがどうして刎ね退けたものか? 重い厚い石のように、一面に冠《かぶ》さっているではないか? 駄目だ駄目だ! 助かりっこはない。……前田氏! 一学氏! 助けてくだされ、助けてくだされ!」
 しかし、四辺《あたり》は森閑として、ただ暗く寒かった。
「せめて手だけでも動かせないかしら?」
 彼は右手を動かそうとした。土が重く冠さっていた。容易に動かすことは出来なかった。しかし非常な努力の後、それでも少しずつ動かせるようになった。
「よし。有難い。大丈夫だ」
 で、土を掻き退けようとした。すると指先に何かさわった[#「さわった」に傍点]。石ではない固いものであった。そこでそれを引っ掴んだ。その感触が鉄らしかった。しかもそれは環《わ》のようであった。
「鉄の環があろうとは、これはいったいどうしたことだ?」葉之助には不思議であった。
 溺れる者は藁《わら》をも掴む。で、葉之助は環を掴み、力まかせに引いてみた。
 その瞬間に起こったことは、彼にとっては奇蹟よりも、もっと驚くべきことであった。
 忽然《こつぜん》彼の体の下へ、四角の穴が開いたのであった。ザーッと落ちる土とともに、彼の体は下へ落ちた。
 狼穽《おとしあな》かそれとも他の何か? とにかくそこには人工の穴が、以前《まえ》から掘られていたのであった。
 そこへ落ち込んだ葉之助は、あまりの意外に茫然とした。が、幸い怪我《けが》はしなかった。穴も深くはないらしかった。で、手探りに探ってみた。
「やや、ここに横穴がある」彼は思わず声を上げた。そうだ、そこには横穴があった。考えざるを得なかった。
「この縦穴を這い出したなら、玄卿の屋敷へ出ることが出来る。幸い両刀は持っている。憎い玄卿めを討ち取ることも出来る。しかし俺は衰弱《よわ》っている。これほどの姦策《かんさく》をたくらむ奴だ、どんな用意がしてあろうも知れぬ。あべこべ[#「あべこべ」に傍点]に討たれたら悲惨《みじめ》なものだ。……さてここにある横穴だが、何んとなく深いように思われる。いっそこれを辿《たど》って行って、一時体を隠すことにしよう。もっともあるいはこの横穴も、あいつの拵《こしら》えたものかもしれない。では何んのために拵えたのか、そいつを探るのも無駄ではない。もしこれがそうでなくて、誰か他の人が拵えたものなら、――もしくは天然に出来たものなら、地上へ通じているかもしれない。では助かろうというものだ。どっちみち縦穴を上るより、横穴を辿った方が安全らしい」
 そこで彼は手探りで、横穴を奥の方へ辿って行った。
 思った通りその横穴は、深く奥へ続いていた。一間行っても、二間行っても突きあたろうとはしなかった。天井は低く横も狭く、非常に窮屈な穴ではあったが、空気もそれほど濁ってはいず、水なども落ちては来なかった。
 やがて五間行き十間行き、半町あまりも辿って行ったが、依然横穴は続いていた。
 少しずつ、葉之助は不安になった。
「いったいどこまで続くのだろう?」彼は立ち止まって考え込んだ。しかし後へ戻ることは、かえって危険のように思われた。やはり進むより仕方なかった。

         一〇

 で、彼は進んで行った。一町あまりも行った頃であったが、彼は何かに躓《つまず》いた。そこで手探りに探ってみた。どうやら石の階段らしい。
「いよいよ戸外《そと》へ出られるかな」こう思うと彼は嬉しかった。一つ一つ石段を上って行った。二十段近くも上った頃、木の扉へぶつかっ[#「ぶつかっ」に傍点]た。
「人家へ続いているのだな」意外に思わざるを得なかった。
 彼は扉を押してみた。すると案外にもすぐ開いた。はたしてそこは人の家であった。人の家の一室であった。
 そうだそれは部屋であった。しかも普通の部屋ではなかった。
 それは非常に広い部屋で、畳を敷いたら百畳も敷けよう、行灯《あんどん》が細々と灯っていた。そうして縛られた女や男が、あっちにもこっちにも転がっていた。
 呻く者、泣く者、喚く者、縛られたまま転げ廻る者、呪詛《のろ》いの声を上げる者、……部屋の内はそれらの声で、阿鼻《あび》地獄を呈していた。
 人の類も様々であった。まず女から云う時は、町家の娘、ご殿女中、丸髷《まるまげ》に結った若女房、乞食《こじき》女、いたいけな少女、老いさらばった年寄りの女、女郎らしい女、芸妓らしい女、見世物小屋の太夫らしい女、あらゆる風俗の女達が、もだえ苦しんでいるのであった。
 男の方も同じであった。商家の手代、商家の丁稚《でっち》、役者、武士、職人、香具師《やし》、百姓、手品師、神官、僧侶……あらゆる階級の男達が、狂いあばれているのであった。
 そうしてそれらの人々の上を、行灯の微光が照らしていた。
 低い天井《てんじょう》、厳重な壁、出入り口の戸はとざされていた。
 これを見た葉之助は驚くよりも、恐怖せざるを得なかった。彼は棒のように突っ立った。
「いったいここはどこだろう? いったいどういう家だろう? この人達は何者だろう? いったい何をしているのだろう?」
 しかし彼の驚きは――いや彼の恐怖心は、しばらく経つと倍加された。彼は一層驚いたのであった。
 さらにさらに恐怖したのであった。
 と云うのはそれらの人々が、決して苦しんでいるのではなく、そうして何者かに幽囚されて、呪詛《のろ》い悲しんでいるのではなく、否々《いないな》それとは正反対に、喜び歌い、褒《ほ》め讃《たた》え――すなわち何者かに帰依《きえ》信仰し、欣舞《きんぶ》しているのだということが、間もなく知れたからであった。
 呪詛《のろい》の声と思ったのは、実に讃美の声なのであった。
「光明遍照! 光明遍照! 喜びの神! 幸いの神! 男女の神! 子宝《こだから》の神! おおおお神様よ子宝の神様よ! どうぞ子宝をお授けください!」こう讃美する声なのであった。
 ここは邪教の道場なのであった。ここは淫祠《いんし》の祭壇なのであった。
 おお大江戸の真ん中に、こんな邪教があろうとは!
 と、その時、忽然《こつぜん》と、音楽の音《ね》が響いて来た。
 まず篳篥《ひちりき》の音がした。つづいて笙《しょう》の音がした。搦《から》み合って笛の音がした。やがて小太鼓が打ち込まれた。
 ……それは微妙な音楽であった。邪教に不似合いの音楽であった。神聖高尚な音色であった。
 俄然道場は一変した。男は女から飛び離れ、女は男から身を退けた。いずれも一斉にひざまずいた[#「ひざまずいた」に傍点]。そうして彼らは合掌した。
「ご来降! ご来降!」と同音に叫んだ。
「教主様のお出まし! 教主様のお出まし!」
 異口同音にこう云った。
 次第に音楽は高まって来た。それがだんだん近寄って来た。やがて戸口の外まで来た。
 しずかにしずかに戸が開いた。
 深紅《しんく》の松明《たいまつ》の火の光が、その戸口から射し込んだ。
 つと[#「つと」に傍点]二人の童子が現われ、続いて行列がはいって来た。童子が松明を捧げていた。光明が一杯部屋に充ちた。
 教主は男女二人であった。いずれも若く美しかった。普通に美しいと云っただけでは、物足りないような美しさであった。女は年の頃十八、九であろうか、緋《ひ》の袴《はかま》を穿いていた。そうして上着は十二|単衣《ひとえ》であった。しかも胸には珠をかけ、手に檜扇《ひおうぎ》を持っていた。
 男の年頃は二十一、二で、どうやら女の兄らしかった。その面が似通っていた。胸には同じく珠をかけ、足には大口を穿いていた。だがその手に持っているものは、三諸山《みむろやま》の神体であった。

         一一

 教主の後から老女が続き、そのまた後ろから幾人かの、美しい男女が続いた。
 部屋の中は皎々《こうこう》と輝いた。今まで見えなかった様々の物が――壁画や聖像や龕《がん》や厨子《ずし》が、松明の光で見渡された。それはいずれも言うも憚《はばか》り多い怪しき物のみであった。
 行列は部屋を迂廻した。
 信者の群は先を争い、二人の教主へ触れようとした。
 男の信者は女の教主へ、女の信者は男の教主へ、とりわけ触れようとひしめいた。
 男の教主の怪しき得物《えもの》と、女の教主の檜扇とは、そういう信者の一人一人へ、一々軽く触れて行った。
 こうして行列は静々と、広い部屋を迂廻した。
 そうして葉之助へ近付いて来た。
 葉之助は茫然《ぼんやり》と立っていた。
 どうしてよいか解らなかった。もちろん彼は邪教徒ではなかった。で、教主を拝することは、良心に咎《とが》めて出来なかった。と云って茫然《ぼんやり》立っていたら、咎められるに相違なかった。そうなったら事件が起こるだろう。信者でもない赤の他人が、道場へ入り込んでいたとすれば、教団にとっては打撃でなければならない。きっと憤慨するだろう。恐らく乱暴をするかもしれない。道場にいる全部の信徒が、刃向かって来ないとも限らない。
「いったいどうしたらいいだろう?」
 焦心せざるを得なかった、狼狽《ろうばい》せざるを得なかった。
 その間も行列は進んで来た。
 しかしてやがて葉之助の前へ二人の教主は立ち止まった。
 葉之助は絶体絶命となった。で、昂然《こうぜん》と顔を上げ、教主の顔を睨み付けた。
 二人の教主の胸の辺に、不思議な刺繍《ぬいとり》が施されてあった。それを見て取った葉之助は「あっ」と叫ばざるを得なかった。
 それは恐ろしい刺繍《ぬいとり》であった。彼に縁のある刺繍であった。彼はそれによってこの教団のいかなるものかを知ることが出来た。そうしてそれを知ったがために、彼は現在の自分の位置が、予想以上に危険であることを、はっきり[#「はっきり」に傍点]明瞭に知ることが出来た。
 俄然《がぜん》形勢は一変した。そうしてそれは悪化であった。
「あっ」という声に驚いて二人の教主は眼を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》った。
 そうしてその眼は必然的に、声の主へ注がれた。
 教主二人の四つの眼と、葉之助の眼とはぶつかっ[#「ぶつかっ」に傍点]た。
 それは火のような睨み合いであった。
 が、それは短かった。
 男の教主がまず叫んだ。
「教法の敵! 教法の敵!」
 女の教主が続いて叫んだ。
「鏡葉之助だ! 鏡葉之助だ!」
「この男を搦《から》め取れ!」
 ――つづいて起こったのが混乱であった。
 こんな順序で行われた。
 一斉に信徒達が立ち上がった。
 グルリと葉之助を取り囲んだ。
 行列は颯《さっ》と後へ引いた。信徒の中の武士達は、揃《そろ》って一度に刀を抜いた。女信徒達は逃げ迷った。
 喚き声! 怒鳴り声! 泣き叫ぶ声!
「教法の敵!」「搦め取れ!」「切って棄てろ! 切って棄てろ!」
 松明《たいまつ》の火が数を増した。キラキラと抜き身が輝いた。出入り口が固められた。
 群集がヒタヒタと逼《せま》って来た。
 殺気が場中に充《み》ち充ちた。
 予期したことではあったけれど、葉之助の心は動揺した。突嗟《とっさ》に思案が浮かばなかった。と云って落ち着いてはいられなかった。防がなければならなかった。そうしなければ、捕えられるだろう。捕えられたら殺されるだろう。
 世の中で何が恐ろしいと云って、狂信者ほど恐ろしいものはない。彼らには一切反省がない。あるものは迷信ばかりだ。おおそうして迷信たるや、一切の罪悪の根本ではないか! 「迷信」は笑いながら人を殺す! 笑って人を殺す者は宇宙において迷信者ばかりだ!
 その迷信者が充ち充ちているのだ。それが挙《こぞ》って刃向かって来るのだ。
「もうこうなればヤブレカブレだ! 切って切って切り捲くるばかりだ! 遁《の》がれられるだけは遁がれてやろう!」そこで葉之助は刀を抜いた。
 小野派一刀流真の構え! 中段に付けて睨み付けた。

         一二

 背後《うしろ》へ廻られてはたまらない。彼は羽目板を背に背負《しょ》った。
 眼に余る大勢の相手であった。八方へ眼を配るべきを彼は逆に応用した。正一眼一心前方ただ正面をひたすら[#「ひたすら」に傍点]に睨んだ。飛び込んで来る敵を切ろうとするのだ。
「横竪上下遠近の事」一刀流兵法十二ヵ条のうち、六番目にある極意であった。
 正面をさえ睨んでいれば、横竪上下遠近の敵が、自ら心眼に映ずるのであった。と云ってもちろん初学者には――いやいや相当の使い手になっても、容易にそこまでは達しられない。ただ奥義の把持者《はじしゃ》のみが、その境地に達することが出来る。そうして鏡葉之助は、その奥義の把持者であった。剣にかけては天才であった。だが彼は疲労《つか》れていた。毒薬を飲まされた後であり、地下に埋められた後であった。しかし非常な場合には、超人間的勇気の出るものであった。
 構えた太刀には隙がなかった。
 と、一人飛び込んで来た。
 大兵肥満《だいひょうひまん》の武士であった。もちろん信者の一人であった。
 鏡葉之助は美少年、女のような優姿《やさすがた》。しかも一人だというところから、侮《あなど》りきって構えもつけず、颯《さっ》と横撲りにかかって来た。そこを自得の袈裟掛《けさが》け一刀、伊那高遠の八幡社頭で、夜な夜な鍛えた生木割り! 右の肩から胸へ掛け、水も堪《た》まらず切り放した。
 武士は「わっ」と悲鳴を上げた。そうして畳へころがった。プーッと吹き出す血の泡沫《しぶき》が、松明の光で虹《にじ》のように見えた。と、もうその時には葉之助は、ピタリ中段に付けていた。
「えい」とも「やっ」とも、声を掛けない。水のように静かであった。返り血一滴浴びていない。
 一瞬間ブルッと武者顫いをした。全身に勇気の籠もった証拠だ。
 ワーッと叫んで信者どもはバラバラと後へ退いた。しかしすぐに盛り返した。迷信者は何物をも恐れない。
 左右から二人かかって来た。
「やっ! やっ! やっ!」
「やっ! やっ! やっ!」
 心掛けある武士であった。二人は気合を掛け合った。左右へ心を散らせようとした。が、それはムダであった。葉之助は動かなかった。凝然《じっ》と正面を見詰めていた。
[#ここから2字下げ]
敵をただ打つと思うな身を守れ
    おのずから洩る賤家《しずがや》の月
[#ここで字下げ終わり]
 仮字書之口伝《かじしょのくでん》第三章「残心」を咏《うた》った極意の和歌、――意味は読んで字の如く、じっと一身を守り詰め、敵に自ずと破れの出た時、討って取れという意味であった。
 葉之助の心組みがそれであった。
 金剛不動! 身じろぎもしない。
「やっ! やっ! やっ!」
「やっ! やっ! やっ!」
 二人の武士はセリ詰めて来た。尚、葉之助は動かなかった。
 場内は寂然《しん》と静かであった。松明の火が数を増した。火事場のように赤かった。後から後からと無数の信者が、出入り口からはいって来た。みんな得物《えもの》を持っていた。
 出番の来るのを待っていた。まさに稲麻竹葦《とうまちくい》であった。葉之助よ! どうするつもりだ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
 その時|鏘然《しょうぜん》と太刀音がした。
 一人の武士が頭上を狙い、もう一人の武士が胴を眼がけ、同時に葉之助へ切り込んだのを、一髪の間に身を翻《ひるがえ》し、一人を例の袈裟掛けで斃《たお》し、一人の太刀を受け止めたのであった。
 受けた時には切っていた。
 他流でいうところの「燕返《つばめがえ》し」、一刀流で云う時は、「金翅鳥王剣座《きんしちょうおうけんざ》」――そいつで切って棄てたのであった。
 金翅鳥片羽九万八千里、海上に出でて竜を食う、――その大気魄に則《のっと》って、命名したところの「五点之次第」で、さらに詳しく述べる時は、敵の刀を宙へ刎ね、自刀セメルの位置をもって、敵の真胴《しんどう》を輪切るのであった。敵を斃すこと三人であった。ワーッと叫ぶと信者の群は、ムラムラと後へ退いた。しかしすぐに盛り返した。迷信者は何物をも恐れない。得物得物を打ち振り打ち振り、十数人がかかって来た。

         一三

 鏡葉之助は三人を切った。大概の者ならこれだけで、精気消耗する筈であった。葉之助の精気も無論|疲労《つか》れた。しかし彼は恐ろしい物を見た。いやいやそれは恐ろしいというより、むしろ憎むべきものであった。彼を不断に苦しめている「悪運命」を見たのであった。讐敵《しゅうてき》の象徴を見たのであった。二人の教主の着物の胸に刺繍《ししゅう》されてあった奇怪な模様! それを彼は見たのであった。憎むべき、憎むべき憎むべき模様!
 彼の勇気は百倍した。そうして彼は決心した。「殺されるか殺すかだ! これは生優《なまやさ》しい敵ではない! 助かろうとて助かりっこはない! 生け捕られたら嬲《なぶ》り殺しだ。……相手を屠《ほふ》るということは、俺の体に纏《まつ》わっている、呪詛《のろい》を取去《のぞ》くということになる。相手に屠られるということは、呪詛に食われるということになる。……生きる意《つも》りで働いては駄目だ! 死ぬ決心でやっつけてやろう! こうなれば肉弾だ! 生命を棄てて相手を切ろう! ……おおおお集まって来おった[#「おった」に傍点]な。……とてもまとも[#「まとも」に傍点]では叶わない。こうなれば手段を選ばない。あらゆる詭計《きけい》を施してやれ」
 十人の武士が逼《せま》って来た。
 やにわに飛び込んだ葉之助は、切りよい左手の一人の武士を、ザックリ袈裟に切り倒した。とたんに自分もツルリと辷り、バッタリ俯向《うつむ》けに床へ倒れた。
 ワッと叫んだ残りの九人、乱刃を葉之助へ浴びせかけた。一髪の間に葉之助は寝ながら刀で足を払った。一刀流の陣所払い! 負けたと見せて盛り返し、一挙に多勢を屠る極意、しかし普通の場合には、卑怯《ひきょう》と目《もく》して使わない。死生一如と解した時、止むなく使う寝業であった。
 果然九人は一時に、足を薙《な》がれてぶっ倒れた。
 飛び上がった葉之助、なだれる信徒の後を追い戸口の方へ突撃《ひたはし》った。そうして「面部斬り」――で斬り立てた。
 胆を冷やさせる「面部斬り」――相手の生命を取るのではなく、獅子《しし》が群羊を駆るように、大勢の中へ飛び込んで、柄短《つかみじ》かの片手斬り、敵の顔ばかりを中《あた》るに任せ、颯々《さっさつ》と切る兵法であった。伊藤一刀斎景久が、晩年に工夫した一手であって、場合によっては刀を返し、柄頭で敵の鼻梁《はなばしら》を突き、空いている方の左手で、敵の人中《じんちゅう》を拳《こぶし》当て身! ただしこの術には制限があって、誰にも出来るというものではなかった。すなわち片手で自由自在に、大刀を揮《ふる》うだけの膂力《りょりょく》あるもの、そうして軽捷《けいしょう》抜群の者と自《おのずか》ら定《き》められているのであった。
 で、もちろん封じ手で、印可以上に尊ばれ、人を見て許すことになっていた。
 また一名「木の葉返し」とも云った。風に吹き立つ枯葉のように、八方分身十方隠れ、一人の体を八方に分《わ》かち、十方に隠れて出没し! 敵をして奔命《ほんめい》に疲労《つか》れしめ、同士討ちをさせるがためであった。
 はたして信徒達は騒ぎ立った。風に木の葉が翻《ひるがえ》るように、百畳敷の大広間を、右往左往に逃げ惑った。
「裏切り者がいる! 裏切り者がいる!」
「一人ではない! 敵は多勢だ!」
「謀反人がいる! 謀反人がいる!」
 信徒同士組打ちをした。互いに斬り合う者もあった。松明《たいまつ》の火が吹き消された。ヒーッと女達は悲鳴を上げた。バタバタと倒れる音がした。器類がころがっ[#「ころがっ」に傍点]た。画像がべりべりと引き裂かれた。
「助けてくれーエッ」
 と叫ぶ者があった。倒れた信徒の体の上を、無数の人が踏んで走った。ムクムクと戸口から逃げはじめた。
 葉之助の策略は成功した。
 混乱に次いで混乱が起こり、収拾することが出来なかった。
「静まれ静まれ敵は一人だ!」
 心掛けある信徒でもあろう。一人の者が大音に叫んだ。ツ[#「ツ」に傍点]と葉之助は走り寄り、その叫び主を斬り落とした。
「灯火《あかり》を点けろ! 灯火を点けろ!」
 一人の信徒が叫び声を上げた。が、すぐにその信徒は、虚空を掴んでぶっ[#「ぶっ」に傍点]倒れた。肩から大袈裟に斬られたのであった。
 尚二、三本松明は、大広間を茫《ぼう》と照らしていた。
 その一本がバサリと落ちた、松明の持ち主が「ムー」と呻き、床へ倒れてのたうっ[#「のたうっ」に傍点]た。見れば片手を斬り落とされていた。
 と、もう一本の松明が消えた。つづいてもう一本の松明が消えた。
 部屋の中は闇となった。その暗々たる闇の中で、信徒達は揉み合った。
 互いに相手を疑ぐった。手にさわる者と掴み合った。
 そうしてドッと先を争い、戸口から外へ逃げ出した。
 その中に葉之助も交じっていた。部屋の外は広い廊下で、左右にズラリと部屋があった。その部屋の中へ信徒達は、蝗《いなご》のように飛び込んだ。

         一四

 葉之助は廊下を真っ直ぐに走った。
 廊下が尽きて階段となり、階段の下に中庭があった。
 そこへ下り立った葉之助は、ベッタリ地の上に坐ってしまった。そうして丹田《たんでん》へ力をこめ、しばらくの間|呼吸《いき》を止めた。それから徐々に呼吸をした。と、シーンと神気が澄み、体に精力が甦《よみがえ》って来た。一刀流の養生《ようじょう》法、陣中に用いる「阿珂術《あかじゅつ》」であった。
 もしもこの時葉之助が、バッタリ地の上に倒れるか、ないしは胡座《こざ》して大息を吐いたら、そのまま気絶したに相違ない。彼は十分働き過ぎていた。気息も筋肉も疲労《つか》れ切っていた。一点の弛《ゆる》みは全身の弛みで、一時に疲労《つかれ》が迸《ほとばし》り出て、そのまま斃れてしまったろう。
 今日|流行《はや》っている静座法なども、その濫觴《らんしょう》は「阿珂術」なので、伊藤一刀斎景久は、そういう意味からも偉大だと云える。
 気力全身に満ちた時、彼は刀を持ちかえようとした。さすがに腕にはシコリが来て、指を開くことが出来なかった。で、左手《ゆんで》で右手《めて》の指を、一本一本|解《と》いて行った。と、切っ先から柄頭《つかがしら》まで、ベッタリ血汐で濡れていた。
「息の音を止めたは八人でもあろうか。傷《て》を負わせたは二十人はあろう」
 彼は刃こぼれ[#「こぼれ」に傍点]を見ようとした。グイと切っ先を眼前《めのまえ》へ引き寄せ、一寸一寸送り込み、じいいっ[#「じいいっ」に傍点]と刃並みを覗いて見た。空には星も月もなく、中庭を囲繞《いにょう》した建物からは、灯火《ともしび》一筋洩れていない。で、四方《あたり》は真の闇であった。それにも関らず白々と、刀気が心眼に窺われた。
「うむ、有難い、刃こぼれはない」
 これは刃こぼれはない筈であった。それほど人は切っていたが、チャリンと刀を合わせたのは、二、三合しかないからであった。
「よし」と云うと左の袖を、柄へキリキリと巻きつけた。それからキューッと血を拭った。
 耳を澄ましたが物音がしない。そこでユラリと立ち上がった。
「どのみち[#「どのみち」に傍点]地理を調べなければならない」
 で、そろそろと歩いて行った。
 一つの建物の壁に添い、東の方へ進んで行った。
 行手《ゆくて》にポッツリ人影が射した。で、足早に寄って行った。
 その人影は家の角を廻った。
「ははあ角口に隠れていて、居待《いま》ち討ちにしようというのだな」
 葉之助は用心した。足音を忍んで角まで行った。じっと物音を聞き澄ました。
 コトンと窓の開く音がした。ハッと彼は飛び退《すさ》った。同時に何物か頭上から、恐ろしい勢いで落ちて来た。それは巨大な鉄槌《てっつい》であった。上の窓から投げた物であった。一歩|退《の》き方が遅かったなら、彼は粉砕されたかもしれない。
 彼はキッと窓を見上げた。しかしもう窓は閉ざされていた。そこで彼は角を曲がった。どこにも人影は見られなかった。そうして行手は石垣であった。
 そこで彼は引き返した。
 で、以前《まえ》の場所へ帰って来た。いつか戸口は閉ざされていた。石段を上って戸に触れてみた。閂《かんぬき》が下ろされているらしい。引いても押しても動かない。で、彼はあきらめ[#「あきらめ」に傍点]た。
 同じ建物の壁に添い、西の方へ歩いて行った。やがて建物の角へ来た。サッと刀を突き出してみた。向こう側に誰もいないらしい。で、遠廻りに弛く廻った。
 すぐ眼の前に亭《ちん》があった。亭の縁先に腰をかけ、葉之助の方へ背中を向け、二人の男女が寄り添っていた。一基の雪洞《ぼんぼり》が灯されていた。二人の姿はよく見えた。恋がたりでもしているらしい、淫祠邪教徒の本性をあらわし、淫《みだ》らのことをしているらしい。
「斬りいい形だ。叩っ斬ってやろう」
 葉之助は忍び寄った。掛け声なしの横撲り、男の肩へ斬り付けた。と思った一刹那、女がクルリとこっちを向き、ヒューッと何か投げつけた。危うく避けたその間に、二人の姿は掻き消えた。投げられた物は紐であった。紐が彼へ飛び掛かって来た。それは一匹の毒蛇であった。
 で、三つに斬り払った。
 行手は厳重の石垣であった。越して逃げることは出来なかった。
 でまた彼は引き返した、こうして以前の場所へ来た。
 反対の側にも建物があった。地面から五、六階の石段があり、それを上ると戸口であった。もちろんその戸は閉ざされていた。そこで彼は石段を上がり、その戸をグイと引っ張って見た。と、意外にも戸があいた。とたんに彼は転がり落ちた。転がったのが天佑《てんゆう》であった。戸が開くと同時に恐ろしい物が、彼を目掛けて襲いかかって来た。それを正面《まとも》に受けたが最後、彼は微塵《みじん》にされただろう。

         一五

 円錐形の巨大な石が――今日で云えば地均轆轤《じならしろくろ》が、素晴らしい勢いで落下したのであった。
 ドーンと戸口は締められた。後は寂然《しん》と音もしない。しかし無数の邪教徒が、四方八方から彼を取りこめ、討ち取ろう討ち取ろうとしていることは、ほとんど疑う余地はなかった。
 人声のないということは、その凄さを二倍にした。立ち騒がないということは、その恐ろしさを二倍にした。
 今は葉之助は途方に暮れた。
「どうしたものだ。どうしてくれよう。どこから、逃げよう。どうしたらいいのだ」
 混乱せざるを得なかった。
 とまれじっ[#「じっ」に傍点]としてはいられなかった。その建物を東の方へ廻った。と、建物の角へ来た。
 曲がった眼前に大入道が、雲突くばかりに立っていた。
「えい!」一声斬りつけた。カーンという金の音がした。そうして刀が鍔《つば》もとから折れた。
 大入道は邪神像であった。
「しまった!」と彼は思わず叫び、怨《うら》めしそうに刀を見た。折れた刀は用に立たない。で彼は投げ棄てた。そうして脇差しを引き抜いた。
 こうしてまたも葉之助は、後へ帰らざるを得なかった。さて元の場所へ帰っては来たが、新たにとるべき手段はない。茫然《ぼんやり》佇《たたず》むばかりであった。勇気も次第に衰えて来た。だがこのまま佇んでいたのでは、遁がれる道は一層なかった。
 そこで無駄とは知りながら、西の方へ廻って行った。例によって角へ来た。用心しながらゆるゆる曲がった。と行手に石垣があり、立派な門が建っていた。
「ははあ門があるからには、門の向こう側は往来だろう。よしよしあの門を乗り越してやれ」
 門の柱へ手を掛けた。ひらり[#「ひらり」に傍点]と屋根へ飛び上がった。そうして向こう側を隙《す》かして見た。
 思わず彼は「あっ」と云った。そこに大勢の人影が夜目にも解る弓姿勢で、タラタラと並んでいたからであった。弓を引き絞り狙《ねら》っているのだ。
 彼は背後《うしろ》を振り返って見た。そこでまた彼は「あっ」と叫んだ。十数人の人影が、鉄砲の筒口を向けていた。
 彼はすっかり[#「すっかり」に傍点]計られたのであった。腹背敵を受けてしまった。もう助かる術《すべ》はない。飛び道具には敵すべくもない。
 が、しかし彼の頭を、その時一筋の光明が、ピカリと光って通り過ぎた。
「ここは江戸だ。しかも深夜だ、よもや鉄砲を撃つことは出来まい。撃ったが最後世間へ知れ、有司《ゆうし》の疑いを招くだろう。邪教徒の教会はすぐに露見だ。一網打尽に捕縛《ほばく》されよう。……断じて鉄砲を撃つ筈はない……弓手《ゆみて》の方さえ注意したら、まず大丈夫というものだ」
 で、彼は屋根棟へ寝た。
 一筋の矢が飛んで来た。パッと刀で切り払った。つづいて二本飛んで来た。幸いにそれは的を外れた。
 寝たまま葉之助は考えた。
「高所に上って矢を受ける。まるで殺されるのを待つようなものだ。身を棄ててこそ浮かぶ瀬もあれ。一刀流の極意の歌だ。弓手の真ん中へ飛び下りてやろう」
 四本目の矢が飛んで来た。それを二つに切り折ると共に、ヤッとばかりに飛び下りた。
 計略たしか図にあたり、弓手は八方へ逃げ散った。しかし葉之助の思惑は他の方面で破られた。そこは決して往来ではなかった。いっそう広い中庭であった。
 隙《す》かして見れば所々に、幾個《いくつ》か檻《おり》が立っていた。「はてな?」と葉之助は不思議に思った。
 一つの檻へ近寄って見た。三匹の熊が闇の中で爛々とその眼を怒らせていた。
 これには葉之助もゾッとした。もう一つの檻へ行って見た。十数頭の狼が、グルグルグルグル檻に添ってさもいらいら[#「いらいら」に傍点]と走っていた。ここでも葉之助はゾッとした。さてもう一つの檻の前へ行った。一匹の猪が牙《きば》を剥き、何かの骨を噛み砕いていた。と、その時一点の火光が、門の屋根棟へ現われた。それは松明《たいまつ》の火であった。つづいて一点また一点、松明の火が現われた。
 大勢の人が屋根の上に、一列に並んで立っていた。
 そうしてその中には教主もいた。男女二人の教主がいた。
 何かが始まろうとしているらしい。何かを始めようとしているらしい。
 何をしようとするのだろう? と、ガチンと音がした。「ウオーッ」と唸る熊の声がした。檻を誰かが開けたらしい。三頭の熊がしずしずと檻から外へ現われ出た。それが松明の火で見えた。続いてガチンと音がした。
 無数の狼が先を争い、檻の中から走り出た。

         一六

 教徒達の意図は証明された。彼らは葉之助を惨酷《ざんこく》にも、猛獣に食わせようとするのであった。
 邪教徒らしいやり方であった。敢《あえ》て葉之助ばかりでなく、これまで幾人かの人間が、猛獣の餌食《えじき》にされたのであった。裏切り者と目星を付けるや、彼らは用捨なくその者を捕えて、人知れず檻の中へ入れたものであった。猪の食っていた何かの骨! それは人間の骨なのであった。ただし葉之助は手強《てごわ》かった。捕えることが出来なかった。そこで猛獣の檻をひらき、四方を囲んだ広い空地で、食い殺させようとしたのであった。
 そうして教主をはじめとし、大勢の教徒達が屋根の上から、それを見ようとしているのであった。
 羅馬《ローマ》にあったという演武場! 西班牙《スペイン》に今もある闘牛場! それが大江戸にあろうとは!
 信じられない事であった。信じられない事であった。
 が、厳たる事実であった。現に猛獣がいるではないか。ジリジリ逼《せま》って来るではないか。
 そうだ猛獣は逼って来た。
 狼群は円い輪を作り、葉之助の周囲《まわり》を廻り出した。しかし決して吠えなかった。訓練されているからであった。吠えたら世間に知られるだろう。世間に知られたら露見の基であった……で、かすかに唸るばかりであった。
 もちろん熊も吠えなかった。ただ「ウオーッ」と唸るだけであった。
 さすがの鏡葉之助も、頭髪逆立つ思いがした。
「もう駄目だ、もういけない」
 彼は悲惨にも観念した。人間同士の闘いなら、まだまだ遁がれる道はあった。相手は群狼と熊とであった。遁がれることは出来なかった。葉之助は脇差しを投げ出した。それから大地へ端座した。眼を瞑《つ》むり腕を組んだ。猛獣の襲うに任せたのであった。
 グルグルグルグル狼の群は、彼の周囲を駈け廻った。その輪をだんだん縮めて来た。
 熊は三頭鼻面を揃えジリジリと前へ押し出して来た。
 が、熊も狼も、容易に飛び付こうとはしなかった。
 その時突然奇蹟が起こった。
 まず一匹の大熊が、葉之助の前へゴロリと寝た。そうして葉之助の足を嘗《な》めた。さも親しそうに嘗めるのであった。つづいて二匹の熊が寝た。そうしてこれも親しそうに、葉之助の手をベロベロ嘗めた。と、狼が走るのを止めて、葉之助の周囲《まわり》へ集まって来た。そうして揃って後脚《あとあし》で坐り、前脚の間へ鼻面を突っ込み、上眼を使って葉之助を見た。それは親し気な様子であった。これはいったいどうしたのだろう? どういう魔術を使ったのだろう? 魔術ではない。奇蹟でもない。これには理由があるのであった。
 葉之助自身は知らないのではあったが、彼は窩人《かじん》の血を受けていた。彼の母は山吹であった。山吹は杉右衛門の娘であった。杉右衛門は窩人の長《おさ》であった。里の商人《あきんど》多四郎と、窩人の娘の山吹とが八ヶ嶽山上|鼓《つづみ》ヶ|洞《ほら》で、恋の生活を営んでいるうちに、孕《みごも》り産んだのが葉之助であった。すなわち幼名猪太郎というのが、彼葉之助に他ならないのであった。
 ところで窩人と山の獣とは、ほとんど友人《ともだち》の仲であった。決して両個は敵同士ではなかった。
 そこでこういう奇蹟めいたことが、切羽《せっぱ》詰まったこんな場合に、両個の間に行われたのであった。
 足を嘗められた葉之助は、ブルッと顫《ふる》えて眼を開いた。そうして奇怪な光景を見た。
 もちろん彼には何んのために、獣達が親《した》しみを見せるのか、解《かい》することが出来なかった。しかしそれらの獣達に、害心のないことは見て取られた。彼は憤然と飛び上がった。瞬間に彼は自分自身に、神力のあることを直感した。奇蹟を行い得る偉大な威力! それがあることを直感した。で、彼は叫び出した。
「熊よ狼よ俺の味方だ! さああいつらをやっつけ[#「やっつけ」に傍点]てくれ! 俺が命ずる。やっつけ[#「やっつけ」に傍点]てしまえ!」
「ウオーッ」と熊は初めて吠えた。そうして門の方へ突進した。
「ウオーッ」と狼群も吠え声を上げた。そうして門の方へ突進した。
 葉之助は猪の檻《おり》を開いた。猪は牙を噛んで突進した。
 尚、いくつかの檻があった。土佐犬の檻、猛牛の檻、そうして、どうして手に入れたものか、一つの檻には豹《ひょう》がいた。しかも雌雄の二頭であった。葉之助はその檻を引きあけた。悲鳴が門の屋根から起こった。
 熊が門を揺すぶった。狼が屋根へ飛び上がった。喚き声、叫び声、泣き声、怒声! 人獣争闘の大修羅場《おおしゅらば》がこうして、邸内に展開された。形勢は一変したのであった。
 読者諸君よ、この争闘を、単に邪教の教会ばかりで演ぜられると思っては間違うであろう。江戸市中一円に向かって、恐ろしい騒動を引き起こしたのである。
 いかに次回が血腥《ちなまぐさ》く、いかに素晴らしい大修羅場が次々に行われ演ぜられるか? いよいよ物語は佳境に入った。

         一七

 奇蹟を行う力があると、葉之助は自分を信ずることが出来た。
 彼は猛獣をけしかけ[#「けしかけ」に傍点]た。
「さあ勇敢にあばれ廻れ! 永い間檻へ入れられて、苦しめられたお前達だ、苦しめた奴を苦しめてやれ! 復讐《ふくしゅう》だ! 念晴らしだ!」
 猛獣は咆吼《ほうこう》した。
 豹は門の屋根へ飛び上がった。
 屋根の上から悲鳴が起こった。
 人のなだれ[#「なだれ」に傍点]落ちる音がした。恐らく男女二人の教主も、なだれ落ちたに相違ない。
 松明の火が瞬間に消えた。
 どこにも人影が見られなかった。
 もう一頭の豹が屋根を越した。
 門の向こう側で悲鳴がした。喚声、罵声、叫声、ヒーッと泣き叫ぶ声がした。
 逃げ迷う人々の足音がした。
 ウオーッという豹の吠え声がした。
 三頭の熊が門の柱を、その強い力で揺すぶった。グラグラと門が揺れ出した。と、屋根の瓦が落ち、扉が砕けて左右に開いた。
 そこから熊が飛び出して行った。
 十数頭の狼が、つづいて門から飛び出した。その後から駈け出したのが、巨大な五頭の猛牛であった。と、三十頭の土佐犬が、葉之助の周囲を囲みながら、後陣《しんがり》として駈け出した。
 入り込んだ所は中庭であった、すなわち第一の中庭であった。
 そこで格闘が行われていた。
 それは人獣の格闘であった。
 人間の死骸が転がっていた。
 食い殺された人間であった。
 半死半生の人間もいた、ある者は掌《て》を合わせ、ある者は跪《ひざまず》き、助けてくれと喚《わめ》いていた。
 葉之助は用捨しなかった。
 猛獣が用捨する筈がない。
 ムラムラと土佐犬は走り掛けた。忽《たちま》ち格闘が行われた。人間は見る見る引き裂かれた。一匹の犬は腕をくわえ、一匹の犬は首をくわえ、一匹の犬は足をくわえ、嬉しそうに尻尾を振った。
 向こうに一団、こっちに一団、取り組み合っている人影があった。熊と、豹と、狼と、取っ組み合っている人間であった。
 みるみる死骸が増えて行った。
 投げ捨てられた松明が、メラメラと焔《ほのお》を上げていた。
 百人余りの一団が、建物の方へ走っていた。教主を守護した信者達が、そこに開いている戸口から、屋内へ逃げ込もうとしているのであった。
 二頭の豹が飛び掛かって行った。数人の者が引き仆《たお》された。が、団体は崩れなかった。遮二無二《しゃにむに》戸口の方へ走って行った。三頭の熊が飛び掛かった。二頭の豹と力を合わせ、信者達を背中から引き仆した。
 殺された者は動かなかった。負傷《ておい》の者は刎《は》ね起きた。そうして団体と一緒になった。
 宗教的信仰の力強さが、そういうところでも窺《うかが》われた。教主を守れ! 教主を守れ! 食い付かれても仆されても、団体から離れようとはしなかった。
 猛獣の群は襲い掛かった。
 十頭の狼が飛びかかった。
 瞬間に十人が食い仆された。しかしみんな[#「みんな」に傍点]飛び起きた。
 教主を守れ! 教主を守れ! 教主を守った一団は、だんだん戸口へ近寄って行った。
 猛獣の群れの襲撃は、益※[#二の字点、1-2-22]惨酷の度を加えた。十二、三人が死骸となった。
 だがとうとう石段まで来た。
 その時牛が走りかかった。
 一団の只中へ角を入れた。
 バラバラと信徒は崩れ立った。
 しかし次の瞬間には、またムラムラと集まった。とまた牛が突き崩した。バラバラと信徒達は崩れ立った。しかし次の瞬間には、またムラムラと集まった。
 教主を守れ! 教主を守れ!
 狼はヒュー、ヒューと宙を飛んだ。豹は人間の頭を齧《かじ》った。猛犬は足へ喰い付いた。
 教主を守れ! 教主を守れ!
 一団は石段を上って行った。
 とうとう彼らは戸口まで来た。
 彼らは家の中へ崩《なだ》れ込んだ。
 熊も豹も狼も、つづいて家の中へ飛び込んだ。土佐犬が続いて飛び込んだ。
 つづいて葉之助も踊り込んだ。
 こうして格闘は中庭から、家の中へ移された。
 蜘蛛手《くもで》に造られてある廊下の諸所で、人獣争闘が行われた。
 猛獣は部屋の中へ混み入った。
 そこでも格闘が行われた。
 鏡葉之助は切って廻った。
 落ちていた刀を拾い取った。右手《めて》に刀|左手《ゆんで》に脇差し、彼は二刀で切り捲くった。彼の周囲には狼や犬が、いつも十数頭従っていた。

         一八

「教主はどこだ、教主をやっつけろ」
 葉之助は探し廻った。
 急に廊下が左へ曲がった。
 と、教主の一団が見えた。真っ黒に塊《かた》まって走っていた。
 葉之助は追い詰めた。
 手近の一人を切り仆した。ワーッという悲鳴が起こり、パッと血汐が左右に飛んだ。
 彼らの中の数人が、にわかに健気《けなげ》にも取って返した。
 葉之助は右剣を斜めに振った。バッタリ一人が床の上へ仆れた。そこへ一人が飛び込んで来た。と、葉之助は左剣で払った。一つの首が床の上へ落ち、ドンという気味の悪い音を立てた。
 後の二人は逃げ出した。すぐに狼が飛びついた。そうして喉笛《のどぶえ》を噛み切った。虚空《こくう》を掴《つか》む指が見えた。
 教主の一団は遠ざかった。
 葉之助は後を追った。
 狼と犬とが従った。
 ふたたび彼らへ追いつこうとした。
 にわかに彼らが立ち止まった。
 彼らの顔は笑っていた。走って来る葉之助を凝視した。悪意を持った嘲笑であった。
 つと[#「つと」に傍点]一人が前へ進み、廊下の壁へ手を触れた。とたんに廊下の板敷が外れ、葉之助は床下へ落ち込んだ。
 彼らはドッと笑声を上げ、そのままドンドン走って行った。
 と、数匹の狼が、ヒュウヒュウと床下へ飛び込んだ。間もなく次々に飛び出して来た。巨大な一匹の狼の背に、葉之助はしがみついていた。彼は左の手を挫《くじ》いていた。動かすことが出来なかった。劇《はげ》しい痛みに堪えられなかった。で、彼は転げ廻った。土佐犬が悲しそうに吠え立てた。
 しかし狼は吠えなかった。葉之助の周囲へ集まって来た。挫いた左の腕の附け根を暖かい舌で嘗め廻した。
 獣には獣の治療法があった。彼ら特色の治療法であった。彼らの唾液《だえき》は薬であった。暖かい舌で嘗め廻すことは、温湿布に当たっていた。鏡葉之助の体には、窩人の血汐が混っていた。
 窩人と獣とは友達であった。
 獣特色の治療法は、一面窩人の治療法でもあった。
 葉之助の痛みは瞬間に止んだ。腕の運動も自由になった。
 彼の勇気は恢復《かいふく》した。
 彼は猛然と立ち上がった。
 それから彼は追っかけた。
 教主達の姿は見えなかった。どうやら廊下を曲がったらしい。葉之助と狼と土佐犬とは、廊下を真っ直ぐに走って行った。と、廊下は右へ曲がった。葉之助も右へ曲がった。彼らの姿は見えなかった。廊下をズンズン走って行った。すると廊下は突き当たった。頑固な石壁が立っていた。
「はてな?」
 と葉之助は途方に暮れた。
「行き止まりだ。途《みち》がない。あいつらはどこへ行ったのだろう?」
 突然一匹の土佐犬が、一声高く咆吼《ほうこう》した。壁に向かって飛び掛かった。
 果然壁に穴が開いた。
 そこに開き戸があったのであった。
 犬はヒラリと飛び込んだ。
 同時にギャッという悲鳴が聞こえた。
 首を切られた犬の死骸が、ピョンと廊下へ刎ね返って来た。
 向こう側に誰かいるらしい。待ち伏せをしているらしい。
 犬達は喧騒《けんそう》した。つづけて二、三匹飛び込もうとした。
「叱《しっ》!」
 と葉之助は手で止めた。
 犬の死骸を抱き上げた。それを戸口から投げ込んだ。つづいて自分も飛び込んだ。
 二人の武士が立っていた。
 颯《さっ》と二人切り込んで来た。チャリンと葉之助は両刀で受けた。一人の刀をポンと刎ね、もう一人の刀を巻き落とした。寄り身になって横へ払った。ワッと一人が悲鳴を上げた。刀を落とされた武士であった。額から鼻まで切り下げられていた。
 ドンと武士はぶっ[#「ぶっ」に傍点]仆れた。狼と犬とが群がりたかっ[#「たかっ」に傍点]た。見る間に寸々に引き裂いた。
「えい」と葉之助は声を掛けた。すぐワッという声がした。もう一人の武士が切り仆された。
 犬と狼とが引き裂いた。

         一九

 葉之助は部屋を見廻した。
 それはまさしく閨房《けいぼう》であった。垂《た》れ布《ぎぬ》で幾部屋かに仕切ってあった。どの部屋にも裸体像があった。いずれも男女の像であった。
 多くの男女の信者達は、この部屋でお恵みを受けたのだろう。
 あちこちに脱ぎ捨てた衣裳があった。
 信者達は裸体で逃げ出したと見える。
 部屋部屋には一個ずつ香炉《こうろ》があった。香炉から煙りが立っていた。催淫薬《さいいんやく》の匂いがした。
 反対の側に戸口があった。
 葉之助はそこから出た。
 長い一筋の廊下があった。
 彼はそれを向こうへ渡った。狼と犬とが従った。
 と、独立した塔へ出た。
 教主達はその内へ逃げ込んだらしい。ガヤガヤ騒ぐ声がした。
 葉之助は入り込んだ。
 階段が上へ通じていた。上の方から人声がした。
 で、葉之助は駈け上がった。犬と狼とが従った。
 上り切った所に部屋があった。が、誰もいなかった。階段が上へ通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。で、葉之助は上がって行った。
 上り切った所に部屋があった。しかし誰もいなかった。階段が上へ通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。で、葉之助は上がって行った。
 その結果は同じであった。上り切った所に部屋があった。しかし誰もいなかった。階段が上へ通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。そこで葉之助は勇を鼓《こ》し、それを上へのぼることにした。
 だがその結果は同じであった。上り切った所に部屋があり、部屋には誰もいなかった。
 階段が上に通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。で、葉之助は上ることにした。
 上り切った所に部屋があった。やはり誰もいなかった。階段が上に通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。
 で、またも葉之助は上へ上らなければならなかった。
 上り切った所に部屋があった。そこが頂上の部屋らしかった。上へ通じる階段がなく、頭の上には天井裏があった。
 しかし彼らはいなかった。
 ではどこから逃げたのだろう?
 裏口へ下りる階段口があった。表と裏とに階段が、二条《ふたすじ》設けられていたものらしい。表の階段から逃げ上がり、裏の階段から逃げ下りたらしい。
「莫迦《ばか》な話だ。何んということだ。無駄に体を疲労《つか》れさせたばっかりだ」
 呟きながら葉之助は、裏の階段口へ行って見た。
 彼は思わず「あっ」と云った。肝心の階段が取り外《はず》されていた。
 表の階段口へ行ってみた。またも彼は「あっ」と叫んだ。たった今上って来た階段が、いつの間にか取り外されていた。
「ううむ、さては計られたか!」
 切歯《せっし》せざるを得なかった。
 飛び下りることは出来なかった。階段口は一直線に土台下から最上層まで、真っ直ぐに垂直に穿《うが》たれてあった。で、もし彼が飛び下りたなら、最上層から土台下まで、一気に落ちなければならないだろう。どんなに体が頑丈でも、ひと[#「ひと」に傍点]たまりもなく粉砕されよう。
 彼はゾッと悪寒を感じた。
 急いで窓を開けて見た。
 地は闇にとざされていた。下へ下りるべき手がかりはなかった。
「計られた! 計られた! 計られた!」
 彼は思わず地団駄を踏んだ。
 まさしく彼は計られたのであった。上へ上へと誘《おび》き上げられ、最上層まで上ったところで、彼は一切の階段を、ひっ外されてしまったのであった。
 これは恐るべき運命であった。
 いったいどうしたらよいだろう?
 犬と狼とは騒ぎ出した。彼らは葉之助の後を追い、一緒にここまで上って来た。彼らも恐ろしい運命を、動物特有の直感で、早くも察したものらしい。
 階段口を覗いたり、葉之助の顔を見上げたりした。
 やがて憐れみを乞うように、悲しそうな声で唸り出した。
 葉之助は狼狽した。
 その時一層恐ろしいことが、彼と獣達とを脅《おびや》かした。
 と云うのは階段口から、黒い煙りが濛々《もうもう》と、渦巻き上って来たのであった。

         二〇

 焼き打ち! 焼き打ち! 焼き打ちなのであった!
 邪教徒が塔へ火を掛けたのだ。
 遁がれることは出来なかった。
「残念!」と葉之助は呻《うめ》くように云った。
 窓から外を覗いて見た。カッと外は赤かった。火は四辺《あたり》を照らしていた。今まで夜闇《よやみ》に閉ざされていた真っ黒の大地が明るんで見えた。
 無数の人間の姿が見えた。
 塔の上を振り仰ぎ、指を差して喚《わめ》いていた。踊り廻っている人姿もあった。
「残念!」と葉之助はまた呻いた。
 煙りがドンドン上って来た。物の仆れる音がした。メリメリという音がした。火の粉がパラパラと降って来た。
 塔は土台から焼けているのであった。
 間もなく塔は仆れるだろう。
 そうなったら万事休《おしまい》であった。
 と、その時、狼達が、不思議な所作《しょさ》をやり出した。
 次々に窓際へ飛んで行き、窓から外へ鼻面を出し、「ウオー、ウオー、ウオー、ウオー」と長く引っ張って吠え出した。
 これぞ狼の友呼び声で、深山幽谷で聞く時は、身の毛のよだつ[#「よだつ」に傍点]声であった。
「これは不思議」と葉之助は、窓から下を見下ろした。
 奇怪な事が行われた。いや、それが当然なのかもしれない。
 友呼びの声に誘われたように、あっちからもこっちからも狼が――いや、熊も土佐犬も、そうして豹までも走り出して来た。
 パッと人の群は八方へ散った。
 猛獣の群は塔を見上げ、ウオーッ、ウオーッと咆吼《ほうこう》した。
 そうして体を寄せ合った。
 突然一匹の狼が、葉之助の横顔を斜めに掠《かす》め、窓からヒラリと飛び下りた。
 葉之助はハッとした。
「可哀そうに粉微塵《こなみじん》だ」
 いや、粉微塵にはならなかった。体を寄せ合った獣の上へ、狼の体が落下した。蒲団の上へでも落ちたように、狼の体は安全であった。
 すぐに狼は飛び起きた。そうして仲間の狼へ、自分の体をピッタリと付けた。そうして塔上の侶《とも》を呼んだ。ウオーッ、ウオーッと侶を呼んだ。
 と、葉之助の横顔を掠め、次々に狼が窓から飛んだ。
 みんな彼らは安全であった。
 飛び下りるとすぐに起き直り、仲間の体へくっ付いた。そうして誘うようにウオーッと吠えた。
 塔内の狼は一匹残らず、窓から地上へ飛び下りた。
 葉之助とそうして土佐犬ばかりが、塔の中へ残された。
「よし」
 と葉之助は頷いた。
 一匹の土佐犬を抱き抱《かか》え、窓から下へ投げ下ろした。中途で一つもんどり[#「もんどり」に傍点]打ち、キャンと一声叫んだが、犬は微傷さえしなかった。群がり集まっている仲間の上へ安全に落ちて起き上がった。
 次々に犬を投げ下ろした。
 彼らはみんな安全であった。
 とうとう葉之助一人となった。
 煙りは塔を立ちこめた。
 ユサユサ塔が揺れ出した。
 すぐにも塔は崩れるだろう。
 獣達は彼を呼んだ。飛び下りろ飛び下りろと彼を呼んだ。
 葉之助は決心した。窓縁へ足をかけ、両刀を高く頭上へ上げ、キッと下を見下ろした。
「ヤッ」と彼は一声叫び、窓から外へ身を躍らせた。
 熊の背中が彼を受けた。彼はピョンと飛び上がった。綿の上へでも落ちたようであった。
 とたんに塔が傾いた。火の粉がパラパラと八方へ散った。幾軒かの建物へ飛び火した。あちこちから火の手が上がった。
 大門の開く音がした。
 人の走り出る音がした。
 町の火の見で半鐘《はんしょう》が鳴った。
 四方《あたり》は昼のように明るかった。男女の信者が火の中で、右往左往に逃げ廻った。
 猛獣がそれを追っかけた。
 ふたたび人獣争闘が、焔の中で行われた。
 葉之助は両刀を縦横に揮《ふる》い、当たるを幸い切り捲くった。
 猛獣が彼を警護した。
 彼は大門の前まで来た。門の外は往来であった。それは大江戸の町であった。
 一団の人影が走って行った。教主の一団と想像された。
「それ!」
 と葉之助は声をかけた。猛獣の群が追っかけた。葉之助は直走《ひたはし》った。
 火消しの群が走って来た。町々の人達が駈け付けて来た。
 ワーッ、ワーッと鬨《とき》の声を上げた。
 猛獣の群が走るからであった。
 返り血を浴びた葉之助が、血刀を提げて走るからであった。
 獣の群は狂奔《きょうほん》した。
 おりから空は嵐であった。火が隣家へ燃え移った。

         二一

 教主の一団が走って行った。その後を猛獣が追っかけた。そうしてその後から葉之助が走った。
 深夜の江戸は湧き立った。邪教の道場は燃え落ちた。火が八方へ燃え移った。町火消し、弥次馬、役人達が、四方八方から駈けつけて来た。
 悲鳴、叫喚、怒号、呪詛。……ここ芝《しば》の一帯は、修羅の巷《ちまた》と一変した。

 その同じ夜のことであった。
 遠く離れた浅草は、立ち騒ぐ人も少かった。しかしもちろん人々は、二階や屋根へ駈け上がり、遥かに見える芝の火事を、不安そうに噂した。
「芝と浅草では離れ過ぎていらあ。対岸の火事っていう奴さ。江戸中丸焼けにならねえ限りは、まず安泰というものさ。風邪でも引いちゃあ詰まらねえ、戸締りでもして寝るがいい」
 こんなことを云って引っ込む者もあった。神経質の連中ばかりが、いつまでも芝の方を眺めていた。
 観音堂の裏手の丘から、囁く声が聞こえて来た。
「おい、芝が火事だそうだ」
「江戸中みんな焼けるがいい」
「そうして浮世の人間どもが、一人残らず焼け死ぬがいい」
「そうして俺ら窩人ばかりが、この浮世に生き残るといい」
 夜の闇が四辺《あたり》を領していた。窩人達の姿は朦朧《もうろう》としていた。立っている者、坐っている者、歩いている者、木へ上っている者、ただ黒々と影のように見えた。
 遥か彼方《あなた》の境内《けいだい》の外れに、菰《こも》張りの掛け小屋が立っていた。興行物《こうぎょうもの》の掛け小屋であった。窩人達の出演《で》ている掛け小屋であった。その掛け小屋の入り口の辺に、豆のような灯火《ともしび》がポッツリと浮かんだ。それが走るように近寄って来た。火の玉が闇を縫うようであった。窩人達の側まで来た。それは龕灯《がんどう》の火であった。龕灯の持ち主は老人であった。窩人の長《おさ》の杉右衛門で、杉右衛門の背後に岩太郎がいた。
「時は来た!」と杉右衛門が云った。「水狐族めと戦う時が!」
 窩人達は一斉に立ち上がり、杉右衛門の周囲を取り巻いた。「おい岩太郎話してやれ」杉右衛門が岩太郎にこう云った。
 つと岩太郎は前へ出た。
「みんな聞きな、こういう訳だ。火事だと聞いて見に行った。烏森《からすもり》の辻まで行った時だ、真ん丸に塊まった一団の人数が、むこうからこっちへ走って来た。誰かに追われているようだった。武士《さむらい》もいれば町人もいた。男もいれば女もいた。その時俺は変な物を見た。若い女と若い男だ。人の背中に背負われていた。衣裳の胸に刺繍《ぬいとり》があった。それを見て俺は仰天《ぎょうてん》した。青糸で渦巻きが刺繍《ぬいと》られていたんだ。白糸で白狐が刺繍られていたんだ。水狐族めの紋章ではないか。そいつら二人は孫だったのだ。水狐族の長《おさ》久田の姥《うば》のな! さあ立ち上がれ! やっつけてしまえ! 間もなくこっちへやって来るだろう。敵の人数は二百人はあろう。だが、味方も五十人はいる。負けるものか! やっつけてしまえ! ……俺は急いで取って返した。一人で切り込むのはわけ[#「わけ」に傍点]がなかったが、だがそいつはよくないことだ! あいつらは種族の共同の敵だ! だから皆んなしてやっつけなけりゃあならねえ。掛け小屋へ帰って武器を取れ! そうして一緒に押し出そう」
 窩人達はバラバラと小屋の方へ走った。
 現われた時には武器を持っていた。
 長の杉右衛門を真ん中に包み、副将岩太郎を先頭に立て、一団となって走り出した。
 彼らは声を立てなかった。足音をさえ立てまいとした。妨害されるのを恐れたからであった。
 境内を出ると馬道であった。それを突っ切って仲町へ出た。田原町の方へ突進した。清島町、稲荷町、車坂を抜けて山下へ出、黒門町から広小路、こうして神田の大通りへ出た。
 神田辺りはやや騒がしく、町人達は門へ出て、芝の大火を眺めていた。
 その前を逞《たくま》しい男ばかりの、五十人の大勢が、丸く塊まって通り抜けた。刀や槍を持っていた。
 町の人達は仰天した。だが遮《さえぎ》ろうとはしなかった。その威勢に恐れたからであった。
 芝の火事は大きくなったと見え、火の手が町の屋根越しに、天を焼いて真っ赤に見えた。
 窩人の一団は走って行った。室町を経て日本橋を通って京橋へ出た。
 こうして一団は銀座へ出た。
 と、行手から真っ黒に塊まり、大勢の人影が走って来た。
 それは水狐族と信者とであった。
 こうして二種族は衝突した。
 初めて鬨《とき》の声が上げられた。

         二二

 鏡葉之助はどうしたろう?
 この時鏡葉之助は、裏町伝いに根岸に向かい、皆川町の辺を走っていた。
 彼はたった[#「たった」に傍点]一人であった。獣達の姿は見えなかった。豹も狼も土佐犬も、道々火消しや役人や、町の人達に退治られた。たまたま死からまぬかれ[#「まぬかれ」に傍点]た獣は、山を慕って逃げてしまった。
 だがどうして葉之助は、水狐族の群に追い縋り、討って取ろうとはしないのだろう?
 彼は途中で思い出したのであった。
「殿の根岸の下屋敷を警戒するのが役目だった筈《はず》だ」
 で彼は道を変え、根岸を指して走っていた。雉子《きじ》町を通り、淡路《あわじ》町を通り、駿河台へ出て御茶ノ水本郷を抜けて上野へ出、鶯谷《うぐいすだに》へ差しかかった。
 左右から木立が蔽《おお》いかかり、この時代の鶯谷は、深山《みやま》の態《さま》を呈していた。
 と行手から来る者があった。ひどく急いでいるようであった。空には月も星もなく、その空さえも見えないほどに、木立が頭上を蔽うていた。で四辺は闇であった。
 闇の中で二人は擦れ違った。
「はてな、何んとなく知った人のようだ」
 葉之助は背後《うしろ》を振り返って見た。
 すると擦れ違ったその人も、どうやらこっちを見たようであった。
 が、その人も急いでいれば、葉之助も心が急《せ》いていた。そのまま二人は別れてしまった。
 葉之助は根岸へ来た。
 殿の下屋敷の裏手へ行った。
「あっ」と彼は仰天した。地面に一筋白々と、筋が引かれているではないか。
「しまった!」と彼はまた云った。
 しかし間もなくその筋が、一所《ひとところ》足で蹴散らされ、白粉《はくふん》が四散しているのを見ると、初めて胸を撫で下ろした。
 それと同時に不思議にも思った。
「いったい誰の所業《しわざ》だろう?」
 首を傾げざるを得なかった。
「この白粉の重大な意味は、俺と北山《ほくざん》先生とだけしか知っている者はない筈だ。俺は蹴散らした覚えはない。では北山先生が、今夜ここへやって来て、蹴散らしたのではあるまいか。……おっ、そう云えば鶯谷で、知ったような人と擦れ違ったが、そうだそうだ北山先生だ」
 ようやく葉之助は思い中《あた》った。
「危険が去ったとは云われない。今夜はここで夜明かしをしよう」
 葉之助は決心した。
 体が綿のように疲労《つか》れていた。彼は草の上へ横になった。引き込まれるように眠くなった。
「眠ってはいけない、眠ってはいけない」
 こう思いながらもウトウトと、眠りに入ってしまいそうであった。
 夜風が空を渡っていた。木立に中って習々《しゅうしゅう》と鳴った。それが彼には子守唄に聞こえた。
 彼はとうとう眠ってしまった。

 鶯谷の暗闇で、葉之助と擦れ違った人物は、谷中の方へ走って行った。
 芝の方にあたって火の手が見えた。
「や、これは大きな火事だ」吃驚《びっく》りしたように呟《つぶや》いた。
 それは天野北山であった。
「殿のお屋敷は大丈夫かな?」
 走り走りこんなことを思った。
「葉之助殿はどうしたろう? 殿の下屋敷を警戒するよう、あれほどしっかり[#「しっかり」に傍点]頼んでおいたのに、今夜のような危険な時に、その姿を見せないとは、甚《はなは》だもってけしからぬ[#「けしからぬ」に傍点]次第だ。だがあるいは病気かもしれない。……
 だんだん火事は大きくなるな。行って様子を見たいものだ。だが俺の出府した事は、殿にも家中にも知らせてない。顔を出すのも変な物だ」
 谷中から下谷へ出た。
「さてこれからどうしたものだ。葉之助殿には至急会いたい。窩人の血統だということを教えてやる必要があるようだ」
 火事は漸次《だんだん》大きくなった。下谷辺は騒がしかった。人々は門に立って眺めていた。
「とにかくこっそり[#「こっそり」に傍点]駕籠《かご》へでも乗り、葉之助殿の屋敷を訪ねてみよう。頼みたいこともあるのだからな」
 駕籠屋が一軒起きていた。
「おい、芝までやってくれ」
「へい、よろしゅうございます」
 威勢のいい若者が駕籠を出した。で北山はポンと乗った。
 駕籠は宙を飛んで走り出した。
 銀座手前まで来た時であった。前方にあたって鬨の声が聞こえた。大きな喧嘩《けんか》でも起こったようであった。
「旦那旦那大喧嘩です」
 駕籠|舁《か》きはこう云って駕籠を止めた。
「裏通りからやるがいい」
 駕籠の中から北山が云った。
 そこで駕籠は木挽町《こびきちょう》へ逸《そ》れた。

         二三

 火元はどうやら愛宕下らしい。木挽町あたりも騒がしかった。かてて大喧嘩というところから、人心はまさに兢々としていた。
「火消し同士の喧嘩だそうだ」「いや浅草の芸人と、武士との喧嘩だということだ」「いや賭場が割れたんだそうだ」「いや謀反人だと云うことだ」「いや、一方は芸人で、一方は神様だということだ」「神様が喧嘩をするものか」
 往来に集まった人々は、口々にこんなことを云っていた。
 駕籠はズンズン走って行った。芝口へ出、露月町《ろげつちょう》を通り、宇田川町、金杉橋、やがて駿河守の屋敷前へ来た。
 この辺もかなり騒がしかった。
「ここで下ろせ」
 と北山は云った。
 駕籠から下りた北山は、葉之助の屋敷の玄関へ立った。
 案内を乞うと声に応じ、取り次ぎの小侍が現われた。
「これはこれは北山先生で」
「葉之助殿ご在宅かな」
「いえ、お留守でございます」気の毒そうに小侍は云った。
「ふうむ、お留守か、どこへ行かれたな」
「はいこの頃は毎晩のように、どこかへお出かけでございます」
「ははあさようか、毎晩のようにな」
 ――それではやはり葉之助は、下屋敷へ警戒に行くものと見える。今夜も行ったに相違ない。きっと駈け違って逢わなかったのだろう。
 天野北山はこう思った。
「葉之助殿お帰りになったら、俺《わし》が来たとお伝えくだされ。改めて明朝お訪ね致す」
「大火の様子、ご注意なされ」
 で北山は往来へ出た。
 そうして新しく駕籠を雇い、神田の旅籠屋《はたごや》へ引っ返した。
 葉之助は草の上に眠りこけていた。決して不覚とせめる[#「せめる」に傍点]ことは出来ない、彼は実際一晩のうちに、余りに体を使い過ぎた。これが尋常の人間なら、とうに死んでいただろう。
 だが眠ったということは、彼にとっては不幸であった。
 黒々と空に聳えている森帯刀家の裏門が、この時音もなくスーと開いた。
 忍び出た二つの人影があった。一人は立派な侍で、一人はどうやら町人らしかった。
 地上に引かれた筋に添い、葉之助の方へ近寄って来た。
 間もなく葉之助の側まで来た。
 二人は暗中《あんちゅう》で顔を見合わせた。
「紋兵衛、これで秘密が解った」こう云ったのは武士であった。「ここに眠っているこの侍が、俺《わし》達の計画の邪魔をしたのだ」
「はい、どうやらそんな[#「そんな」に傍点]ようで」
「ここで白粉が蹴散らされている」
「以前にも一度ありました」
「こいつの所業に相違ない」
「莫迦《ばか》な奴だ、眠っております」
「いったいこいつ何者であろう?」
 そこで町人は覗き込んだ。
「おっ、これは葉之助殿だ!」
「何、葉之助? 鏡葉之助か?」
「はい、帯刀様、さようでございます」
「そうか」
 と武士は腕を組んだ。
「鏡葉之助とあってみれば斬ってすてることも出来ないな」
「とんでもないことで。それは出来ません」
「と云って捨てては置かれない」
「私に妙案がございます」
 町人は武士の耳の辺で、何かヒソヒソと囁《ささや》いた。
「うむ、こいつは妙案だ」
「では」と云うと町人は、懐中《ふところ》へスッと手を入れた。取り出したのは白布であった。それを葉之助の顔へ掛けた。
 しばらく二人は見詰めていた。
「もうよろしゅうございましょう」
 町人はこう云うと白布を取った。それから葉之助を抱き上げた。葉之助は死んだように他愛がなかった。
 武士が葉之助の頭を抱え、町人が葉之助の足を持った。
 森帯刀の屋敷の方へ、二人はソロソロと歩いて行った。上野の山に遮《さえぎ》られて、火事の光も見えなかった。根岸一帯は寝静まっていた。
 葉之助を抱えた二人の姿は、文字通り誰にも見られずに、森帯刀家の裏門から、屋敷の中へ消えてしまった。
 闇ばかりが拡がっていた。習々《しゅうしゅう》と夜風が吹いていた。

         二四

 この頃江戸の真ん中では、窩人と水狐族との闘争《たたかい》が、凄《すさま》じい勢いで行われていた。
 種族と種族との争いであった。宗教と宗教との争いであった。先祖から遺伝された憎悪と憎悪とがぶつかり[#「ぶつかり」に傍点]合った争いであった。
 火事の光はここまでも届き、空が猩々緋《しょうじょうひ》を呈していた。家々の屋根が輝いて見えた。
 幾群《いくむれ》かに別れて切り合った。槍、竹槍、刀、棒、いろいろの討ち物が閃めいた。悲鳴や怒号が反響した。
 一群がパタパタと逃げ出した。他の群がそれを追っかけた。逃げた群は路地へ隠れた。他の群はそれを追い詰めた。逃げた群が盛り返して来た。路地で格闘が行われた。
 数人が人家へ逃げ込もうとした。その家では戸を立てた。家人は内からその戸を抑えた。数人がそこへ追っかけて来た。そこでも切り合いが始まった。
 人家の屋根へ上がる者があった。その屋根の上に敵がいた。取っ組んだまま転がり落ちた。
 一人の武士《さむらい》が竹槍で突かれた。それは迷信者の一人であった。他の武士が突進した。竹槍を持った窩人の一人が、武士のために手を落とされた。
 石が雨のように降って来た。額を割られて呻く者があった。
 二、三人パタパタと地へ斃れた。窩人だか水狐族だか解らなかった。死骸を乗り越えて進む者があった。
 岩太郎の武者振りは壮観《みもの》であった。
 藤巻柄の五尺もある刀を、棒でも振るように振り廻した。またたく間に数人を切り斃した。一人の敵が飛びかかって来た。横撲りに叩き伏せた。ムラムラと四、五人が掛かって来た。大廻しに刀を振り廻した。四、五人が後へ逃げ出した。彼は突然振り返った。一人の敵が狙っていた。
「畜生!」と叫ぶと肩を切った。プーッと霧のように血が吹いた。
 杉右衛門は窩人に守られていた。往来の真ん中へ突っ立っていた。声を嗄《か》らして彼は叫んだ。
「大将を討ち取れ! 大将を討ち取れ!」
 彼の顔は光っていた。火事の光が照らしたからであった。彼は槍を提《ひっさ》げていた。その穂先から血が落ちていた。
 水狐族の男女の教主達も、信者に守られて立っていた。二人ながら大声で叫んだ。
「教法の敵! 教法の敵!」
「一人も遁《の》がすな! 一人も遁がすな」
 窩人の群は教主を目掛け、大波のように寄せて行った。しかし途中で遮《さえぎ》られた。
 水狐族の群が杉右衛門を目掛け、あべこべにドッと押し寄せて行った。これも途中で遮られた。
 火事は容易に消えなかった。空は益※[#二の字点、1-2-22]赤くなった。
 火事を眺める群集と、格闘を眺める群集とで、往来は人で一杯になった。
 死骸がゴロゴロ転がった。流された血で道が辷《すべ》った。その血へ火の光が反射した。
 ワーッ、ワーッ、という鬨《とき》の声!
 その時見物が叫び出した。
「それお役人のご出張だ!」
 御用提灯《ごようぢょうちん》が幾十となく、京橋の方から飛んで来た。八丁堀の同心衆が、岡っ引や下っ引を連れて、この時走って来たのであった。
 瞬間に格闘は終りを告げた。
 窩人も水狐族も死骸を担ぎ、八方に姿を隠してしまった。
 しかし二種族の憎悪と復讐心は、決して終りを告げたのではなかった。明治大正の今日に至っても尚二種族は田舎に都会に、あらゆる複雑の組織の下に、復讐し合っているのであった。

 旅籠へ帰って来た北山は、むさくるしい部屋にムズと坐り、何かじっと考え込んだ。
 やおら立ち上がって襖《ふすま》を開けた。押し入れに薬棚《くすりだな》が作られてあった。非常な大きな薬棚で、無数の薬壺が置かれてあった。彼は薬壺を取り出した。
「いや、ともかくも明日にしよう」
 思い返して寝ることにした。
 で、薬壺を棚へ載せ、襖を立てて寝る用意をした。
 翌朝早く眼を覚ました。
 旅籠を出ると駕籠へ乗り、葉之助の屋敷へ急がせた。
 玄関へ立って案内を乞うた。すぐに小侍が現われた。
「葉之助殿ご在宅かな」
「は、昨晩出かけましたきり、いまだにお帰りございません」
「ふうん」と云ったが北山は、小首を傾げざるを得なかった。

         二五

 旅籠へ帰って来た北山は考え込まざるを得なかった。
「葉之助殿はどうしたろう?」
 何んとなく不安な気持ちがした。手を膝《ひざ》へ置いて考え込んだ。
「鶯谷で擦れ違った、昨夜の若い侍は、葉之助殿に相違ない。あれからきっと葉之助殿は、下屋敷警護に行かれたのだろう。さてそれから? さてそれから?」
 ――それからのことは解らなかった。
 だが何んとなく下屋敷附近で、変事があったのではあるまいかと、気づかわれるような節《ふし》があった。
「まさかそんなこともあるまいが、帯刀様のお屋敷へでも誘拐《かどわか》されたのではあるまいか」
 ふとこんなことも案じられた。
「絶対にないとは云われない。彼らの陰謀を偶然のことから、俺が目付けて邪魔をした。白粉を足で蹴散らした。と、その後へ葉之助殿が行った。陰謀組の連中が、どうして陰謀を破られたか。それを調べにやって来る。双方が広場で衝突する。ううむ、こいつはありそうなことだ」
 北山はじっくりと考え込んだ。
「だが鏡葉之助殿は、武道にかけては一種の天才、大概《たいがい》の者には負けない筈だ。しかし多勢に無勢では……無勢も無勢一人では、ひどい[#「ひどい」に傍点]目に合われないものでもない」
 彼は益※[#二の字点、1-2-22]不安になった。
「だがまさか[#「まさか」に傍点]に殺されはしまい」
 とは云えそれとて絶対には、安心することは出来なかった。
「そうだ、これから出かけて行き、広場の様子を見てやろう! 格闘したものなら痕跡《あと》があろう。殺されたものなら血痕があろう」
 で、彼は行くことにした。
 しかしその前に仕事があった。
 薬を調合しなければならない。
 襖を開けると薬棚があった。いろいろの薬を取り出した。薬研《やげん》に入れて粉に砕いた。幾度も幾度も調合した。黄色い沢山の粉薬が出来た。棚から黄袋を取り出した。それへ薬を一杯に詰めた。五合余りも詰めたろう。それをさらに風呂敷に包んだ。それからそれを懐中した。
 編笠を冠って旅籠《はたご》を出た。辻待ちの駕籠へポンと乗った。
「根岸まで急いでやってくれ」
「へい」と駕籠は駈け出した。
「よろしい」と云って駕籠を出た。
 それからブラブラ歩いて行った。
 内藤家のお下屋敷、それを廻って広場の方へ行った。広場の彼方に屋敷があった。帯刀様の屋敷であった。北山は地上へ眼を付けた。一筋引かれた白粉の痕は、もうどこにも見られなかった。その辺は綺麗に平《なら》されていた。格闘したらしい跡もなかった。血の零《こぼ》れたような跡もなかった。
「後片付《あとかたづ》けをしたそうな。これではたとえ格闘をしてもまた斬り合っても証拠は残らぬ……これはいよいよ心配だ」
 北山は佇《たたず》んで考えた。
「思い切って森家へ乗り込もうか、乗り込んで乗り込めないこともない。とにかく一度ではあったけれど、帯刀様にお呼ばれして、おうかがいしたこともあるものだからな」
 だが表向き乗り込んだのでは、葉之助の消息を訊ねることが、不可能のように思われた。
「では乗り込んでも仕方がない」
 彼は思案に余ってしまった。
「この方はもう少し考えることにしよう……もう一つの方を探って見よう」
 浅草の方へ足を向けた。
 奥山は例によって賑わっていた。
「八ヶ嶽の山男」それを掛けている小屋掛けの前で、北山はピタリと足を止めた。
 見れば看板が外されてあった。木戸にも人がいなかった。小屋の口は閉ざされていた、どうやら興行していないらしい。
 と、一人の若者が、戸口を開けて現われた。元気のないような顔をして、ぼんやり外を眺めていた。小屋者であるということは、衣裳の様子ですぐ解った。
 北山はそっちへ寄って行った。
「今日は興行はお休みかね?」何気ないように声を掛けた。
 すると若者は北山を見たが、
「へえ、まあそんな[#「そんな」に傍点]恰好《かっこう》で」云うことが変に煮《に》え切らなかった。
「天気もよければ人も出ている。こんないい日にどうして休んだね?」北山は尚も何気なさそうに訊いた。
 若者はちょっと眉をひそめた。いらざるお世話だと云いたげであった。でも、渋々とこんなことを云った。
「何もね、休みたかあなかったんで……太夫が一人もいないんでね……で、仕方なく休んだんでさあ」

         二六

「ほほう、山男達はいないのかい」失望もし驚きもし、こう北山は大声で云った。「じゃあ山へ帰ったんだね」
「山へ帰ったか里へ行ったか、何んで私が知りますものか」
「で、いつからいないのかな?」
「昨夜《ゆうべ》からでさあ、火事のあった頃から」
「では無断で逃げたんだな」
「逃げたには相違ありませんがね。道具をみんな[#「みんな」に傍点]置いて行ったので、いずれ帰っては来ましょうよ」
「道具?」と北山は眼を光らせた。「で、動物はどうなっている」
「つまりそいつが道具なんで……熊や猿や狼などを、ほったらかし[#「ほったらかし」に傍点]たまま行っちまったんで」
「たしか蛇もいたようだが?」こう探るように北山は訊いた。
「ええおりますよ、幾通りもね」
 北山は懐中へ手を入れた。紙入れを取り出し小粒を摘《つま》み、クルクルとそれを紙へ包んだ。
「少いけれど取ってお置き」
「これは旦那、済みませんねえ」
 小屋者はヒョロヒョロ辞儀をした。
「ところでちょいと頼みがある。動物を見せてはくれまいか」
「へえへえお易いご用です」
 若者は小屋の中へはいって行った。北山は後から従いて行った。
 小屋の中は薄暗く、妙にジメジメと湿っていた。小屋を抜けて庭へ出た。そこに幾個《いくつ》かの檻《おり》があった。いろいろの動物が蠢《うごめ》いていた。
 一つの小さな檻があった。
 その中に五、六匹の小蛇がいた。卯の花のように白い肌へ、陽の光がチラチラとこぼれ[#「こぼれ」に傍点]ていた。一尺ほどの小蛇であった。みんな穏《おとな》しく眠っていた。
 北山はその前で足を止めた。
 それから蛇を観察した。
「ねえ、若衆、綺麗な蛇だね」
 北山は若者へ話しかけた。
「綺麗な蛇でございますな。だが、大変な毒蛇だそうで」若者は恐《こわ》そうに檻を覗いた。
「何んという蛇だか知っているかね」
「山男達が云っていました。信州の国は八ヶ嶽、そこだけに住んでいる宗介蛇《むねすけへび》だってね」
「宗介蛇とは面白いな」北山はちょっと微笑した。
「蘭語でいうとエロキロスというのだ」
「へえ、エロキロス、変な名ですなあ」
「蛇は六匹いるようだね」
「昔は十匹おりましたが、今じゃあ六匹しかおりません。山男達の話によると、三匹がところ、盗まれたそうで」
「十匹で三匹盗まれりゃあ、後七匹いる筈だが、ここには六匹しかいないじゃあないか。後の一匹はどうしたね」
「ああ後の一匹ですか、さっき人が来て買って行きました」
「え?」
 と北山は眼を見張った、「ふうむ、この蛇をな、買って行ったんだな」「へえさようでございますよ」「どんな様子の人間だったな?」「五十恰好の商人風、江戸の人じゃあありませんな。贅沢《ぜいたく》な様子をしていましたよ。田舎の物持ちと云った風で」
 北山は黙って考え込んだ。腹の中で呟《つぶや》いた。
「今夜が危険だ。うっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]は置けない」で彼は卒然と云った。「私《わし》にも蛇を売ってくれ」
「おやおやあなたもご入用なので」
「で、一匹幾らかな」
「さっきのお方は一匹一両で……」
「よし、私《わし》も一両で買おう」
 北山は紙入れを取り出した。小判六枚を掌《てのひら》へ載せた。
「さあ六両、受け取ってくれ」
「へえ、六両? どうしたので?」
「六匹みんな買い取るのさ」
「そいつあどうも困りましたねえ」
 若者は小判と北山の顔とをしばらくの間見比べていた。
「どうして困るな? 困る筈はあるまい」
 しかし若者は頭をかいた。
「どうもね、旦那困りますので。だってそうじゃありませんか、この白蛇は山男の物で、私の物じゃあございません」
「では何故一匹売ったんだ?」北山は叱るように声を強めた。「一匹も六匹も同じじゃあないか」
「いいえ、そんな事はありません。一匹や二匹なら逃げたと云っても、云い訳が立つじゃあありませんか」
「六枚の小判が欲しくないそうな」北山は小判を掌の上で鳴らした。「……死んだと云えばいいじゃないか」
「でも死骸がなかったひには」尚若者は躊躇《ちゅうちょ》した。しかしその眼は貪慾《どんよく》らしく、小判の上に注がれた。
「いや死骸ならくれてやるよ」
 北山は小判を突き付けた。「それなら文句はないだろう」

         二七

 若者は小判を手に受けた。
「どうしてご持参なさいます?」
「持って帰るには及ばないよ」
 北山は懐中から黄袋を出した。「食い合いっ振りが見たいのさ」
 黄袋の口を檻の上へ傾《かし》げた。粉薬をサラサラと檻の中へこぼし[#「こぼし」に傍点]た。だが全部《みんな》はこぼさ[#「こぼさ」に傍点]なかった。半分がところで止めてしまった。
 粉薬が六匹の蛇へかかった。蛇は一斉に鎌首を上げた。プーッと頬を膨《ふく》らせた。全身をウネウネと蜒《うね》らせた。真っ直ぐに体を押っ立てた。長い蝋燭《ろうそく》が立ったようであった。俄然六匹は食い合いを始めた。
 ゾッとするような光景であった。
 まず一匹が咽喉《のど》を咬まれた。白い体が血にまみれ[#「まみれ」に傍点]た。と、グンニャリと倒れてしまった。長く延びて動かなくなった。死骸の上をのたくり[#「のたくり」に傍点]ながら、五匹の蛇は格闘をつづけた。また二匹目が食い殺された。つづいて三匹目が食い殺された。尚三匹は戦っていた。だが次々に死んで行った。最後の一匹も死んでしまった。
 若者は拳を握りしめていた。
 北山は気味悪く微笑した。
「まずこれで安心した……悪人の媒介《ばいかい》も根絶やしになった……そうして薬の利き目も解った……それじゃあご免よ。私は帰る」
 黄袋を懐中《ふところ》へ押し入れて、北山は小屋から外へ出た。

 やがてこの日の夜が来た。
 鏡葉之助は眼を覚ました。
 そこは真っ暗の部屋らしかった。
 葉之助の全身は弛《だる》かった。ひどく頭が茫然《ぼんやり》していた。手足の節々が痛かった。
「いったいここはどこだろう? 確かに自分の家ではない。……いつから俺は眠ったんだろう? ……一年も眠ったような気持ちがする」
 彼は四辺《あたり》を見廻した。灯火《ともしび》のない部屋の中には、人のいるらしい気勢《けはい》もなかった。彼はじっと考え込んだ。
「……それでも漸次《だんだん》思い出す……俺は最初に女を助けた。女を送って屋敷へ行った。大槻玄卿《おおつきげんきょう》の屋敷だった。それから毒を飲まされた。それから地下へ埋められた。それから地下の横穴を通った。それから水狐族の怪殿へ行った。それからウント奮闘した。それから町へ飛び出した。それから根岸へ警護に行った。地上に例の白粉があった。それから俺は広場で眠った。ではここは広場なのか?」
 彼は掌《てのひら》で探って見た。地面の代りに畳が触れた。
「いややはり家の中だ……それにしてもいったい何者が、いつ俺をこんな家の中へ、俺に知らせずに担ぎ込んだのだろう? ……人に担がれても知らないほど、眠っていたとは呆れ返るな……とにかく屋敷の様子を見よう」
 葉之助は立ち上がった。
 まず正面へ歩いて行った。そこには正しく床の間があった。ズッと右手へ歩いて行った。と、手先に襖がさわった。それをソロソロと引き開けた。出た所に廊下があった。その廊下を左手へ進んだ。幾個かの部屋が並んでいた。と、丁字形の廊下となった。網を掛けた雪洞《ぼんぼり》があった。
「大名か旗本の下屋敷だな」
 葉之助は直覚した。
 廊下の行き詰まりに庭があった。で、庭へ下りて行った。植え込みが隙間なく植えてあった。それを潜って忍びやかに歩いた。
 深夜と見えて人気がなかった。時々|鼾《いびき》の声がした。
 黒板塀がかかっていた。その根もとに蹲《うずく》まり、二人の人間が囁き合っていた。
 葉之助は素早く身を隠した。二人の話を聞こうとした。
 間が遠くて聞こえなかった。で、植え込みの間を潜り、ソロソロと二人へ近寄った。月が二人の真上にあった。二人の姿は朦朧《もうろう》と見えた。二人ながら覆面《ふくめん》をし、目立たない衣裳を纏《まと》っていた。一人は大小を差していた。しかし一人は丸腰であった。
 断片的に話し声が聞こえた。
「……恐らく今夜は邪魔はあるまい」
 武士の方がこう云った。
「……今夜は大丈夫でございましょう」
 町人の方がこう答えた。
「……ではソロソロ放そうか」
「それがよろしゅうございましょう」
「……薬は確かに撒いたろうな」
「その辺如才はありません」
 ここでしばらく話が絶えた。
 町人が棒を取り上げた。側に置いてあった棒であった。どうやら太い竹筒らしい。
 武士は二、三歩後へ退がった。町人は注意深く及び腰をした。
 町人はソロソロと手を延ばし、竹筒の先の臍《ほぞ》を取った。素早く竹筒を地上へ置いた。そうしてサッと後へ退がった。
 二人の前から白粉が、一筋塀裾へ引かれていた。塀の一所に穴があった。穴を通って白粉が、戸外《そと》の方まで引かれていた。
 と、微妙な音がした。口笛でも吹くような音であった。竹筒の中からスルスルと、一筋の白い紐が出た。白粉の上を一散に、塀の外へ走り出した。
「あっ」
 と葉之助は声を上げた。植え込みから飛び出した。そうして町人へ組み付いた。

         二八

「あっ」
 と今度は町人が叫んだ。
「誰だ?」
 と武士が叱咤《しった》した。
 町人は葉之助を突き飛ばそうとした。が、葉之助は頸首《えりくび》を捉え、ギューッと地面へ押し付けた。
 突然武士が刀を抜いた。ヒョイと葉之助は後へ退いた。刀は町人の首を切った。ヒーッと町人が悲鳴を上げた。
「しまった!」と武士は刀を引いた。
 その時笛の音が帰って来た。塀の口から白い蛇が、荒れ狂って飛び込んで来た。手近の武士へ飛びかかった。
「ワッ」
 と武士は悲鳴を上げた。ヨロヨロと塀へもたれかか[#「もたれかか」に傍点]った。白蛇も精力が尽きたと見え、体を延ばして動かなくなった。
 ガックリ武士は首を垂れた。前のめり[#「のめり」に傍点]に地に斃れた。
 町人と武士、そうして白蛇、三つの死骸を月が照らした。
 不意に女の笑い声がした。
「多四郎! 多四郎! 思い知ったか! 妾《わたし》の怨みだ! 妾の怨みだ!」
 葉之助は四辺を見廻した。女の姿は見えなかった。だが声は繰り返した。
「猪太郎! 猪太郎! よくおやりだ! お礼を云うよ、お母さんからね」
 声はそのまま止んでしまった。
 気が附いて葉之助は腕を捲くった。二の腕に出来ていた二十枚の歯形――人面疽《にんめんそ》が消えていた。
 屋敷の中が騒がしくなった。人の走って来る気勢《けはい》がした。
 葉之助は塀へ手を掛けた。身を翻《ひるがえ》すと塀を越した。
 広場を横切って町の方へ走った。
 と、誰かと衝突した。
「これは失礼」「これは失礼」
 云い合い顔を隙《す》かして見た。
「や、これは北山先生!」
「おお、これは葉之助殿!」
「先生には今時分こんな所に?」
「万事は後で……ともかく一緒に……」
 二人は町の方へ走って行った。

 その翌日のことであった。神田の旅籠屋《はたごや》北山の部屋で、北山と葉之助とが話していた。
「……窩人《かじん》に云わせると宗介蛇、蘭語で云うとエロキロス、これは珍らしい毒蛇で、これに噛まれると、一瞬間に死んでしまう。しかも少しも痕跡《あと》を残さない。この毒蛇の特徴として、茴香剤《ういきょうざい》をひどく[#「ひどく」に傍点]好む。そいつを嗅《か》ぐと興奮する。で、例の白粉だが、云うまでもなく茴香剤なのさ、大槻玄卿が製したものだ。
 ところが一昨日《おとつい》の晩のことだ。浅草観音の境内へ行き、偶然窩人達の話を聞いた。毒蛇を盗まれたと云っていた。はてな[#「はてな」に傍点]と俺は考えた。考えながら根岸へ行った。と、白粉が引かれてあった。口笛のような音がして、紐《ひも》のようなものが走って来た。そこで初めて感附いたものさ……エロキロスは、茴香剤を嗅がされると、喜びの余り音を立てる、一種歓喜の声なのだ……つまり三人の悪党どもは、森家から内藤家の寝所まで、茴香剤の線を引き、その上をエロキロスを走らせて、若殿を咬ませたのさ……ところで毒蛇エロキロスは、一度|丹砂剤《たんしゃざい》を嗅がされると、発狂をして死んでしまう。それを私《わし》は利用した。で昨夜根岸へ行った。すると白粉が引いてあった。そこで俺はその一所《ひとところ》へ、丹砂剤をうんと振り撒いたものさ。案の定エロキロスは走って来たが、そこまで来ると発狂し、元来た方へ引き返して行った」
「いかにもさようでございました。馳せ返って来た毒蛇は、帯刀様へ食い付きました」葉之助は頷いた。
「帯刀様の刃《やいば》で、紋兵衛も殺されたということだな」
「まずさようでございます。だが本来帯刀様は、私を切ろうとなすったので。それを私が素早く紋兵衛を盾に取ったので、いわば私が殺したようなもので」
「それはそうと葉之助殿、貴殿の幼名は猪太郎という、どうやら窩人の血統を受け継いでいるように思われる。母は、窩人の長《おさ》の杉右衛門の娘、山吹であったということだ。父は里の者で、多四郎という若者だそうだ……そのうち窩人と逢うこともあろう、よく聞き訊《ただ》してご覧なされ。これも一昨夜浅草で、山男、すなわち窩人どもから、偶然聞いた話でござるよ」
「母は山吹、父は多四郎、そうして私の幼名が、猪太郎というのでございますな? そうして八ヶ嶽の窩人の血統? ううむ」と葉之助は腕を組んだ。

         二九

 翌日鏡葉之助は、蘭医大槻玄卿の、悪逆非道の振る舞いにつき、ひそかに有司《ゆうし》へ具陳《ぐちん》した。
 その結果町奉行の手入れとなり、玄卿邸の茴香畑は、人足の手によって掘り返された。はたして幾人かの男女の死骸が、土の下から現われた。で玄卿は召し捕られ、間もなく磔刑《はりつけ》に処せられた。
 だが邪教水狐族の、秘密の道場へつづいていた、地下の長い横穴については、事実大槻玄卿も、知っていなかったということである。では恐らくその穴は、ずっと昔の穴居時代などに、作られたところの穴かも知れない。
 だがマアそれはどうでもよかろう。
 さて鏡葉之助は、それからどんな生活をしたか?
「いつまでも年を取らないだろう。……永久安穏はあるまいぞよ」
 水狐族の長《おさ》久田の姥《うば》が、末期に臨んで呪った言葉――この通りの生活が、葉之助の身には繰り返された。
 彼はいつまでも若かった。心がいつも不安であった。
 今日の言葉で説明すれば、強迫観念とでも云うのであろう。絶えず何者かに駈り立てられていた。
 そうしてかつて高遠城下で、夜な夜な辻斬りをしたように、またもや彼は江戸の市中を、血刀を提げて毎夜毎夜、彷徨《さまよ》わなければならないようになった。
 八山下《やつやました》の夜が更《ふ》けて、品川の海の浪も静まり、高輪《たかなわ》一帯の大名屋敷に、灯火一つまばたいてもいず、遠くで吠える犬の声や、手近で鳴らす拍子木の音が、夜の深さを思わせる頃、急ぎの用の旅人でもあろう、小田原提灯《おだわらぢょうちん》で道を照らし、二人連れでスタスタと、東海道の方へ歩いて行った。
 と、木陰から人影が出た。
 無紋の黒の着流しに、お誂《あつら》い通りの覆面頭巾、何か物でも考えているのか、俯向《うつむ》きかげんに肩を落とし、シトシトとこっちへ歩いて来た。
 と、双方行き違おうとした。
 不意に武士は顔を上げた。
 つづいて右手《めて》が刀の柄へ、……ピカリと光ったのは抜いたのであろう。「キャッ」という悲鳴。「ワーッ」と叫ぶ声。つづいて再び「キャッ」という悲鳴。……地に転がった提灯が、ボッと燃え上がって明るい中に、斃れているのは二つの死骸。……斬り手の武士は数間の彼方《あなた》を、影のようにションボリと歩いていた。
 他ならぬ鏡葉之助であった。
 浅草の観世音、その境内の早朝《あさまだき》、茶店の表戸は鎖《と》ざされていたが、人の歩く足音はした。朝詣《あさまい》りをする信者でもあろう。
 一本の公孫樹《いちょう》の太い幹に、背をもたせ[#「もたせ」に傍点]かけて立っているのは、編笠姿《あみがさすがた》の武士であった。
 一人の女がその前を、御堂《みどう》の方へ小走って行った。
 武士がヒョロヒョロと前へ出た。居合い腰になった一瞬間、日の出ない灰色の空を切り、紫立って光る物があった。とたんに「キャッ」という女の悲鳴。首のない女の死骸が一つ、前のめりに転がった。ドクドクと流れる切り口からの血! 深紅の水溜りが地面へ出来た。
 だが斬り手の武士は、公孫樹の幹をゆるやかに廻り、雷門の方へ歩いて行った。鳩の啼き声、賽銭《さいせん》の音、何んの変ったこともない。
 両国橋の真ん中で、斬り仆された武士があった。
 笠森の茶店の牀几《しょうぎ》の上で、脇腹を突かれた女房があった。
 千住の遊廓《くるわ》では嫖客《ひょうかく》が、日本橋の往来では商家の手代が、下谷池之端《したやいけのはた》では老人の易者が、深川木場では荷揚げ人足が、本所|回向院《えこういん》では僧が殺された。
 江戸は――大袈裟な形容をすれば、恐怖時代を現じ出した。
 南北町奉行が大いに周章《あわ》てて、与力同心岡っ引が、クルクル江戸中を廻り出した。
 どうやら物盗りでもなさそうであり、どうやら意趣斬りでもなさそうであり、云い得べくんば狂人《きちがい》の刃傷、……こんなように思われるこの事件は、有司にとっては苦手であった。
 で容易に目付からなかった。
 まさか内藤家の家老の家柄、鏡家の当主葉之助が、辻斬りの元兇であろうとは、想像もつかないことである。
 だがやがてパッタリと、辻斬り沙汰がなくなった。
 内藤駿河守が江戸を立って、伊那高遠へ帰ったからであった。
 だが内藤家の行列が、塩尻の宿へかかった時、一つの事件が突発した。と云っても表面から見れば別に大したことでもなく、鏡葉之助が供揃《ともぞろ》いの中から、にわかに姿を眩《くら》ましただけであった。
 鏡家は内藤家では由緒ある家柄、その当主が逃亡したとあっては、うっちゃって置くことは出来なかった。
 八方へ手を分けて捜索した。しかし行方は知れなかった。

         三〇

 彼はいったいどうしたのだろう? いったいどこへ行ったのだろう?
 彼は八ヶ嶽へ行ったのであった。
 彼は母山吹の故郷《さと》! 彼《か》の血統窩人の部落! 信州八ヶ嶽笹の平へ、夢遊病者のそれのように、フラフラと歩いて行ったのであった。
 塩尻から岡谷へ抜け、高島の城下を故意《わざ》と避け、山伝いに湖東村を通り、北山村から玉川村、本郷村から阿弥陀ヶ嶽、もうこの辺は八ヶ嶽で、裾野《すその》がずっと開けていた。
 三日を費やして辿《たど》り着いた所は、笹の平の盆地であった。
 以前《まえかた》訪ねて来た時と、何んの変わったこともない。窩人達の住居《すまい》には人気なく、宗介天狗の社殿《やしろ》には裸体の木像が立っていた。
 まじまじ[#「まじまじ」に傍点]と照る陽の光、こうこう[#「こうこう」に傍点]と鳴く狐の声、小鳥のさえずり、風の音、深山の呼吸《いき》が身に迫った。
 しかし一人の窩人達も、そこには住んでいなかった。
 葉之助は拝殿へ腰をかけ、四辺の風物へ眼をやった。
 と、その時聞き覚えのある、男の声が聞こえて来た。
「猪太郎、猪太郎、よく参った」
 拝殿の奥の木像の蔭から、一人の人物が現われた。白衣長髪の白法師であった。
「おおあなたは白法師様」葉之助は立って一揖《いちゆう》した。
「大概《たいがい》来るだろうと思っていたよ」
 葉之助と並んで白法師は、拝殿の縁へ腰をかけた。
「どうだ葉之助、昔の素姓が、ようやくお前にも解ったろう」
「はい、ようやくわかりました。……母は窩人で山吹と云い、父は里の商人で、多四郎と云うことでございます」
「だが多四郎の後身が、大鳥井紋兵衛だとは知るまいな」
「えっ」と葉之助は眼を瞠《みは》った。「あの紋兵衛が私の父で?」
「そうだ」と白法師は頷いた。「詳しく事情を話してやろう」
 そこで白法師は話し出した。
 多四郎が山吹を瞞《だま》したこと、山吹が猪太郎を産んだこと、多四郎に怨みを返そうと、山吹が猪太郎の二の腕へ、二十枚の歯形を付けたこと、多四郎の真の目的は、宗介天狗の木像の、黄金の甲冑を盗むことで、それを盗んだ多四郎は、それを鋳潰《いつぶ》して売ったため、にわかに富豪になったこと、その甲冑を取り返すため、窩人達が人の世へ出て行ったこと、こうして多四郎の紋兵衛は、間接でもあり偶然でもあるが、とにかく葉之助に殺されたこと。さて窩人は葉之助の手で、多四郎の命は絶ったけれど、宗介天狗の甲冑を、取り返すことは出来なかったので、故郷八ヶ嶽へは帰ることが出来ず、今も諸国を流浪していること。――
 これが白法師の話であった。
「久田の姥《うば》の執念は、私の力でもどうすることも出来ない。で、お前はいつまでも若く、いつまでも不安でいなければならない。……だがこれだけは教えることが出来る。お前はお前の力をもって久田の姥の執念を、あべこべに利用することが出来る」
「あべこべに利用すると申しますと?」葉之助は反問した。
「それは自分で考えるがいい」

 白法師と別れ、八ヶ嶽を下り、人里へ出た葉之助は、高遠城下へは帰らずに、何処《いずこ》とも知れず立ち去った。
 爾来《じらい》彼の消息は、杳《よう》として知ることが出来なかった。
 時勢はズンズン移って行った。
 天保が過ぎて弘化となり、やがて嘉永となり安政となり、万延、文久、元治、慶応、そうして明治となり大正となった。
 この物語に現われた、あらゆる人達は一人残らず、地球の表から消えてなくなり、その人達の後胤《こういん》ばかりが、残っているという事になった。
 しかし本当に久田の姥の、あの恐ろしい呪詛の言葉が、言葉通り行われているとしたら、主人公の鏡葉之助ばかりは、依然若々しい容貌をして、今日も活《い》きていなければならない。
 だがそんな[#「そんな」に傍点]事があり得るだろうか?
 あらゆる不合理の迷信を排斥《はいせき》している科学文明! それが現代の社会である。スタイナッハの若返り法さえ、怪しくなった今日である。天保時代の人間が、活きていようとは思われない。

         三一

 大正十三年の夏であった。
 私、――すなわち国枝史郎は、数人の友人と連れ立って、日本アルプスを踏破した。
 三千六百〇三尺、奥穂高の登山小屋で、愉快に一夜を明かすことになった。
 案内の強力《ごうりき》は佐平と云って、相当老年ではあったけれど、ひどく元気のよい男であった。
「こんな話がありますよ」
 こう云って佐平の話した話が、これまで書きつづけた「八ヶ嶽の魔神」の話である。
「ところで鏡葉之助ですがね、今でも活きているのですよ。この山の背後蒲田川の谿谷《たにあい》、二里四方もある大盆地に、立派な窩人町を建てましてね、そこに君臨しているのです。決して嘘じゃあありません。もし何んならご案内しましょう。もっとも町までは行けません。四方が非常な断崖で、下って行くことが出来ないのです。せいぜいその町を眼の下に見る、十石ヶ嶽の中腹ぐらいしか、ご案内することは出来ますまい。……とても立派な町でしてね、洋館もあれば電灯もあり、人口にして一万以上、ただし外界とは交通遮断、で、自然詳しいことは、知れていないという訳です」
「だが」と私は訊いて見た。「いつどうして葉之助が、そんな所へ行ったんだね」
「明治初年だということです。漂浪している窩人の群と、甲州のどこかで逢ったんだそうです。もちろんその時は窩人達は、幾度か代が変わっていて、杉右衛門も岩太郎も死んでしまい、別の杉右衛門と岩太郎とが、引率していたということですがね。そこで葉之助は云ったそうです。ありもしない宗介の甲冑など、いつまでも探すには及ぶまい。窩人――もっともその頃は、山窩《さんか》と云われていたそうですが、――山窩、山窩と馬鹿にされ、世間の人から迫害され、浮世の裏ばかり歩くより、いっそ一つに塊まって、山窩の国を建てた方がいいとね。……そこで皆んなも賛成し、鏡葉之助の指揮に従い、奥穂高へ行ったのだそうです」
 私の好奇心は燃え上がった。で、翌日案内され、十石ヶ嶽まで行くことにした。
 道は随分|険《けわ》しかったが、それでもその日の夕方に、十石ヶ嶽の中腹まで行った。
 眼の下に広々とした谿谷《たに》があり、夕べの靄《もや》が立ちこめていた。しかしまさしくその靄を破って、無数の立派な家々や、掘割に浮かんでいる船が見えた。そうして太陽が没した時、電灯の輝くのが見て取れた。
 夢でもなければ幻でもなかった。
 彼らの国があったのである。
 噂によれば、金木戸川《きんきどがわ》の上流、双六谷《すごろくだに》にも人に知られない、相当大きな湖水があり、その周囲には、水狐族の、これも立派な町があり、そうして依然二種族は、憎み合っているということである。
 いつまでも活きている鏡葉之助、人間の意志の権化《ごんげ》でもあり、宇宙の真理の象徴でもある。
 永遠に活きるということは、何んと愉快なことではないか。
 しかし永遠に活きるものは、同時に永遠の受難者でもある。
 そうしてそれこそ本当の、偉大な人間そのもの[#「そのもの」に傍点]ではないか。
 それはとにかく私としては、自分自身へこんなように云いたい。
「ひどく浮世が暮らしにくくなったら、構うものか浮世を振りすて、日本アルプスへ分け上り、山窩国の中へはいって行こう。そうして葉之助と協力し、その国を大いに発展させよう。そうして小うるさい[#「うるさい」に傍点]社会と人間から、すっかり逃避することによって、楽々と呼吸《いき》を吐《つ》こうではないか」と。
 私の故郷は信州諏訪、八ヶ嶽が東南に見える。
 去年の秋にたった[#「たった」に傍点]一人で、笹の平へ行って見た。天保時代の建物たる宗介天狗の拝殿も、窩人達の住居もなかったが、その礎《いしずえ》とも思われる、幾多の花崗石《みかげいし》は残っていた。
 その一つへ腰を下ろし、瞑想《めいそう》に耽《ふけ》ったものである。
 秋の日射しの美しい、小鳥の声の遠く響く、稀《まれ》に見るような晴れた日で、枯草の香などが匂って来た。
「静かだなあ」と私は云った。
 不幸な恋をした山吹のことが、しきり[#「しきり」に傍点]に想われてならなかった。
 多四郎の不純な恋に対する、憤りのようなものが湧いて来た。
「浮世の俗流というものは全くもって始末が悪い。天狗の甲冑を盗むばかりか、乙女の心臓をさえ盗むんだからなあ」などと感慨に耽ったりした。


[#地付き](完)

底本:「八ヶ嶽の魔神」大衆文学館、講談社
   1996(平成8)年4月20日第1刷発行
底本の親本:「八ヶ嶽の魔神」国枝史郎伝奇文庫、講談社
   1976(昭和51)年4月12日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:六郷梧三郎
2008年8月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

日置流系図—— 国枝史郎

    帷子姿の半身

 トントントントントントン……トン。
 表戸を続けて打つ者がある。
「それまた例のお武家様だ……誰か行って潜戸《くぐり》を開けてやんな」
 こう忠蔵は云いながらズラリと仲間を見廻したが俺が開けようというものはない。
 トントントントンとそう云っている間も戸外《そと》では続けざまに戸を叩く、森然森然《しんしん》と更けた七月の夜の所は本所錦糸堀でひたひた[#「ひたひた」に傍点]と並んでいる武家屋敷から少し離れた堀添いの弓師左衛門の家である。家内の者は寝てしまったが宵っ張りの職人達は仕事場に集まり、団扇《うちわ》でパタパタ蚊を追いながら、浮世小路の何丁目で常磐津《ときわず》の師匠が出来たとか柳風呂《やなぎぶろ》の娘は婀娜《あだ》だとか噂話に余念のないさなか、そのトントントンが聞こえて来たのである。
「小六、お前開けてやんな」
 職人|頭《がしら》の忠蔵は中で一番若輩の小六というのへ顎をしゃくったがいっかな小六が聞かばこそ泣きっ面をして首を縮めた。
「チェッ」と忠蔵は舌打ちをしたが、「由さんお前お輿《みこし》を上げなよ」
「へ、どうぞあなたから」――由蔵はこう云うと舌を出したが、にわかにブルッと身顫《みぶる》いをした。さも恐ろしいというように。
「松公、お前立つ気はないか?」
「どうぞお年役にお前さんから……私はどうも戸を開けるのが昔から不得手でございましてね」
「つまらない事云わねえものだ。戸を開けるに得手も不得手もねえ。みんな厭なら仕方がねえ」忠蔵はひょい[#「ひょい」に傍点]と立ち上がったがどこか腰の辺が定《き》まらない。土間へ下りると下駄を突っかけそこから仕事場を振り返り、
「おい確《しっか》り見張っていねえ」
 こう云ったのは忠蔵自身がやはり恐い証拠でもあろう。それでも足音を忍ばせてそっと表戸へ近寄ると潜戸《くぐり》の閂《かんぬき》へ両手を掛けた。
 とたんにトントンと叩かれたのでハッと一足退いたが、連れて閂がガチリと外れ、その音にまたギョッとしながら忠蔵は店へ飛び上がった。と、潜戸がスーと開いて、まず痩せこけた蒼白い手が指先ばかりチラリと見え、それから古ぼけた帷子《かたびら》姿を半身ぼんやりと浮かばせるとツト片足が框《かまち》を跨ぎ続いて後の半身がヨロヨロと土間へはいって来た。
 顔は胸まで俯向《うつむ》いている。雪のように白い頭髪《かみのけ》を二房たらりと額際《ひたいぎわ》から垂らし、どうやら髻《もとどり》も千切れているらしく髷《まげ》はガックリと小鬢へ逸《そ》れ歩くにつれて顫えるのである。身長《みたけ》勝《すぐ》れて高くはあるが枯木のように水気がなく動くたびに骨が鳴りそうである。左の肩をトンと落とし腕はだらり[#「だらり」に傍点]と脇に下げ心持ち聳《そび》やかした右の肩を苦しそうな呼吸《いき》の出し入れによって小刻みに波のように動かすのである。所々|剥《は》げた蝋鞘《ろざや》の大小を見栄もなくグッタリと落とし差しにして、長く曳いた裾で踵《かかと》を隠し泳ぐようにスースーと歩いて来る。
 ほとんどどこにも生気がない。老武士《おいぶし》その人にないばかりでなくその老武士がはいって来ると共に総《あらゆ》る物が生気を失い陰々たる鬼気に襲われるのであった。店に飾ってある弓や矢や点《とも》されてある行燈《あんどん》までぼっ[#「ぼっ」に傍点]と光を失ってしまう。
 老武士は顔を埋ずめたまま店先までスーと寄って来たが余韻のない嗄《しわが》れた低い声で、
「弓弦《ゆづる》を一筋……」と咽《むせ》ぶように云った。
「へーい」
 と忠蔵は応じたが何がなしに総身ゾッとして、木箱《はこ》を探る手が顫えたのである。それでも弓弦を差し出すと、また同じ声同じ調子で、
「小中黒の征矢《そや》三筋……」
「…………」今度は忠蔵は言葉もなく云われた矢を取って差し出した。と老武士は小手を振ったがこれは鳥目《ちょうもく》を投げたので、投げたその手で二品を掴むとクルリと老武士は方向《むき》を変え、そのスースーと泳ぐような足で開いたままの潜戸《くぐり》から煙りのように闇夜の戸外《そと》へ消えて行った。

 その翌日のことである――
「ほんとかな? それは? その噂は? ふうむ、不思議な老人じゃの……」
 誂《あつら》えた弓をわざわざ見に来た旗本の次男|恩地主馬《おんちしゅめ》は声をはずませてこう訊いた。
「ほんとも本当、昨夜《ゆうべ》で十日、きまって参るのでござりましてな……」
 こう云って忠蔵は居住いを正し、真っ昼間ながら四辺《あたり》を見廻し、
「それで家中《うちじゅう》もうすっかり怖気《おぞけ》を揮《ふる》っておりますので」
「で何かな、その老人は、どこから来るのか解らぬのかな?」
「へい、それがあなた解るくらいなら……」
「そうさな、恐ろしくもないわけだな……でそれでは今日まで後を尾行《つけ》た事もないのだな?」
「そんな事、かりにも出来ますようなら家内一同夜になるとああまでしょげ[#「しょげ」に傍点]返りは致しませぬので……」

    本所の七不思議

 主馬はちょっと頷《うなず》いてそれから小声で笑ったが、
「忠蔵、安心するがよいわ。それがし今夜朋輩と参って曲者の正体見現わしてくりょうに」
「どうぞお願い致します」忠蔵は喜んで頭を下げた。
「弓の方は期日までに頼んだぞ」
「それはもう承知でございます」
「化物《ばけもの》沙汰に心を奪われ商売の方を疎《おろそ》かにしては商人《あきゅうど》冥利に尽きるというものだ――それでは今夜参ると致そう」
「よろしくお願い致します」
 主馬はそのまま立ち去って行ったがはたして夜になると、朋輩二人を連れ、弓師左衛門の家へやって来た。
 左衛門夫婦も挨拶に出て雑談に時を費したがいつもの時刻に近付くと怱々《そうそう》夫婦は引き退り後には主馬と朋輩の武士と忠蔵達が五、六人店を通して土間の見える職人部屋に残っていた。
 夜はしんしんと更けて来た。何となく物凄く思われるかして主馬を初め集まっている者は、次第に言葉数が少くなった。とその時表戸をトントントントンと叩く音がする。ハッと皆は眼を見合わせむっ[#「むっ」に傍点]と一時に呼吸《いき》を呑んだ。
 それでもさすがは武士だけに主馬は躊躇《ちゅうちょ》もせず立ち上がり、がちり[#「がちり」に傍点]と閂《かんぬき》を取り外した。まず細い手があらわれる。それから半身が浮き出して来る。泳ぐような歩き方ではいって来るとその老武士は云うのであった。
「弓弦《ゆづる》を一筋……」と消えるような声で、
「ヘーイ」
 と忠蔵は顫えながら云った。
「小中黒の征矢三筋……」
「ヘーイ」
 と忠蔵はまた応じた。
 くるり[#「くるり」に傍点]と老武士は方向《むき》を変えると吸われるように潜戸《くぐり》の隙から戸外《そと》の夜の闇にまぎれ込んだ。
「方々」と主馬は声をかけた。どうやらその声には生気がない。それでも自身真っ先に立って同じ潜戸から戸外へ出た。首うな[#「うな」に傍点]垂れた老武士は星月夜の道をスースーと三間ばかり彼方《かなた》を歩いている。主馬と朋輩と三人の武士は穿いている雪駄《せった》の音さえ忍ばせ着かず離れず慕い寄った。
 ものの半町も行った頃、その老武士は右へ曲がった。で三人も右へ曲がった。右へ曲がってまた半町老武士はスースーと歩いたが、そこでピタリと足を止めた。と門の開く音がして左側の家並の一所からふと人声が聞こえたかと思うと老武士の姿は見えなくなった。
「…………」
 三人は黙って顔見合わせた。それから静かに足を運び老武士の姿の消えた辺まで用心しながら近付いた。
 道場構えの一宇の屋敷がそこに広々と立っている。森然《しん》と四辺《あたり》は物寂しくもちろん燈火《ともしび》の影さえもない。三人はしばらく彳《たたず》んだまま余りの不思議さに言葉も出ない。彼ら三人は三人ながらこの辺の地理には慣れている。そしてほとんど毎日のようにこの往来も通っているのである。それにもかかわらずこんな所にこんな立派な道場屋敷の建っているということを一度もこれまで見たことがない。
「どうも不思議だ」とまず主馬が朋輩の一人へ話しかけた。「たしかここには柏屋という染め物店があった筈だのに……」
「さようさ、全く不思議だの」話しかけられた主馬の朋友の南条紋太郎が頷《うなず》きながら、「しかも拙者は今日昼頃たしかにこの前を通った筈じゃ。そしてその時はその柏屋がちゃんと店を開いていたのじゃ。いかに大江戸は素早いと云ってもものの一日と経たないうちに格子造りの染め物店が黒門|厳《いか》めしい武家屋敷となるとはちとどうも受け取れぬ話じゃわい」
「さては狐狸にでもつままれたかの」――もう一人の朋輩荒木内記は呻くような声でこう云った。
「全体どうも本所という土地が化物《ばけもの》には縁の近い土地での。それ本所の七不思議と云って狸囃しにおいてけ[#「おいてけ」に傍点]堀片葉の芦《あし》に天井の毛脛、ええとそれから足洗い屋敷か……どうもここにあるこの屋敷もそのうちの一つではあるまいかの?」
「馬鹿を云わっしゃい、臆病千万」
 と主馬は一口に打ち消したが、その実やはり心のうちではそいつ[#「そいつ」に傍点]を考えていたのであった。
「主馬殿、ともかくも帰った方が泰平無事ではござらぬかの」――紋太郎は小声で誘って見た。
「君子|危《あやう》きに近寄らずじゃ」
「とは云えこのまま帰っては弓師左衛門や忠蔵へ対してちと面目がござらぬではないか」主馬は煮《に》え切らずこんな事を云った。それから門へ近寄って何気なくトンと押して見た。すると門はゆらゆらと揺れギーという寂しい音を立てて内側へ自然と開いたのであった。

    静寂を破る弦音

「や、門が開きましたな」
「これはこれは不用心至極」
 三人の者は事の意外に胆《きも》を潰してこう呟《つぶや》いた。
「門が開いたを幸いに案内を乞い内《なか》へはいり様子を見ようではござらぬか」
 主馬はこう云って二人を見た。
「よかろう。案内を乞うことにしよう」こう紋太郎はすぐ応じた。内記は少からず躊躇したがそれでもやがて決心して二人の朋輩の後を追った。
 三人は玄関の前まで来た。
「頼む」と主馬が声を掛けたが誰も返辞をする者がない。家内は森然《しん》と静かである。
「深夜まことに恐縮ながら是非にご面会致したければどなたかご案内くだされい」
 再び主馬は声を掛けたがやはり家内からは返辞がない。人のいない空屋のようで陰々として物凄い。三人はにわかに気味悪くなった。
 とたんに、ヒェーッと絹を裂くような鋭い掛け声が奥の方から沈黙《しじま》を破って聞こえたかと思うと、シューッ空を切る矢音がして、すぐ小手返る弦《つる》の音がピシッと心地よく響き渡った。「あッ」と三人はそれを聞くとほとんど同時に叫びを上げたが、それは驚くのが理《もっとも》である。掛け声、矢走り、弦返《つるがえ》り、それが寸分の隙さえなく日置流《へきりゅう》射法の神髄にピタリと箝《は》まっているからである。
 主馬が真っ先に逃げ出したのはよくよく驚いたのに相違ない。三人往来へ走り出るとホッと額の汗を拭った。
「我ら日置流の射法を学びここに十年を経申すがこれほど凄じい弓勢にはかつて逢ったことございませぬ」
「全く恐ろしい呼吸でござったのう」
「妖怪でござるよ。妖怪でござるよ」
 三人が口々にこう云ったのは不思議な屋敷の門前から五町あまりも逃げのびた時で、三人の胸は早鐘のように尚この時も脈打《みゃくう》っていた。
 翌日三人は打ち揃って改めてその屋敷まで行って見たが、そこにはそんな屋敷はなくて柏屋という染め物店が格子造りに紺の暖簾《のれん》を風にたなびかしているばかりであった。
 この弓屋敷の不思議の噂は間もなく江戸中に拡がった。本所七不思議はさらに一つ「弓屋敷の矢声」の怪を加えて本所八不思議と云われるようになった。弓道自慢の幾人かの武士は自分こそ妖怪の本性をあばいて名を当世に揚げようと屋敷の玄関までやっては来たが、大概一矢で追い返されよほど剛胆な人間でも二筋の矢の放されるを聞いては、その掛け声その矢走りの世にも鋭く凄いのに怖気《おぞけ》を揮って逃げ帰った。

「ごめん」
 とある日一人の男が柏屋の店を訪ずれた。年の頃は二十五、六、田舎者まる出しの仁態《じんてい》で言葉には信州の訛《なま》りがあった。
「へい、染め物でございますかね」
 柏屋の手代はこう云いながら、季節は七月の夏だというに盲目縞《めくらじま》の袷《あわせ》を一着なし、風呂敷包みを引っ抱えた、陽焼けた皮膚に髯だらけの顔、ノッソリとした山男のようなそのお客様を見守った。
「いんね、そうじゃごぜえません。噂で聞けばお前《めえ》さんの所へ化物が出るということで。ひとつ俺《おい》らがその化物を退治してやろうと思いましてね」
「ああさようでございますか。それはどうも大変ご親切に」手代はおかしさを堪《こら》えながら、
「失礼ながらご身分は?」
「信州木曽の猟師《かりゅうど》でごわす」
「え、猟師《かりゅうど》でございますって?」
「ああ俺《おい》ら猟師だよ。一丁の弓で猪《しし》猿熊を射て取るのが商売でね。姓名の儀は多右衛門でごわす」
「へいさようでございますか。どうぞしばらくお待ちくだすって」
 手代は奥へ飛んで行ったが引き違いに出て来たのは柏屋の主人の弥右衛門という老人であった。
 弥右衛門は多右衛門の様子を見て思う事でもあると見えて丁寧に奥へ案内した。幽霊の噂が立って以来実際柏屋染め物店は一時に寂れてしまったので、たといどのような人間であろうと、その化物を見現わしてくれて、厭《いや》な噂を消してくれる人なら、喜んで接待しようというのが弥右衛門の今頃《このごろ》の心なのであった。
 まず茶菓を出し酒肴を出し色々多右衛門をもてなし[#「もてなし」に傍点]た。多右衛門は別に辞退もせずさりとて卑《いや》しく諂《へつら》いもせず平気で飲みもし食いもしたがやがてゴロリと横になった。
「やれやれとんだご馳走になって俺ハアすっかり酔いましただ。どれ晩まで一休み。ごめんなんしょ、ごめんなんしょ」
 こういう端《はじ》から多右衛門はグーグー鼾《いびき》をかくのであった。
 暑い夏の日もやがて暮れ、涼風《すずかぜ》の吹く夕暮れとなった。それから間もなく夜となった。その夜が次第に更けてゆく。

    帛を裂く掛け声

 こうして子《ね》の刻も過ぎた時ようやく多右衛門は起き上がった。
「あ、お目覚めでございますかな」
 じっとそれまで多右衛門の側《そば》にかしこまっていた[#「かしこまっていた」に傍点]弥右衛門はこうこの時声を掛けた。
「ハア、どうやら目がさめ申した。今、何時《なんどき》でごぜえますな?」
「丑《うし》の刻に間近うございましょうかな」
「へえもうそんなになりますかな。が、ちょうど時刻はようごわす。どれ用意をしようかな」
 多右衛門は持って来た風呂敷包みを不器用の手付きで拡げたが、中には桑の木で作ったらしい手垢でよごれた半弓と征矢《そや》が三本入れてあった。
「どっこいしょ」
 と掛け声と一緒に彼はヒョロヒョロと立ち上がった。雨戸を開けて中庭の方へそのままスーと消えてしまったのである。
 後は森然《しん》と静かであった。弥右衛門はじっと耳を澄まして中庭の様子を聞こうとしたが何の物音も聞こえない。そのうち次第に眠くなった。これは毎晩のことである。劇《はげ》しい睡眠に襲われて家内一同眠っている間《うち》にいろいろの事がおこるのであった。
「眠ってはいけない、眠ってはいけない」
 こう弥右衛門は呟《つぶや》きながら傍の火鉢から火箸を抜き取りそれを股へ突き立てた。これで眠気は防ぐことが出来る。
 この間も夜は更けて行った。と鳴り出した鐘の音。回向院で撞く鐘でもあろうか。陰々として物寂しい。
 とたんに「ヒェーッ」と帛《きぬ》を裂くような凄じい掛け声が掛かったかと思うとピューッと空を抜く矢走りの音に続いて聞こえる弦返《つるがえ》りの響き! しかしそれより驚いたのは、その次に起こった笑い声であった。
「ワッハッハッ」と暢気《のんき》そうに馬鹿にしたようにまず響いたが、「そんな事じゃ駄目だ、駄目だ。それじゃ獣は殺されねえ。ワッハッハッ」とまた笑う。それは多右衛門の声である。
 その笑い声が途絶えた刹那またも裂帛《れっぱく》の掛け声がした。矢走りの音、弦返りの響き。
「ワッハッハッハッまだ駄目駄目!」と、多右衛門の声がまた聞こえた。三度《みたび》凄まじい掛け声が起こり続いて矢走りと弦返りの音が深夜の沈黙《しじま》を突裂《つんざ》いたがやはり多右衛門の笑い声が同じような調子に聞こえて来た。
「ワッハッハッハッ、まだ駄目じゃ。人間を射ることは出来ようが獣を射ることは出来そうもねえ。お前《めえ》さんの持ち矢はもう終えたのか。それじゃ今度は俺の番だ……俺の弓には作法はねえ。そうして掛け声も掛けねえのさ。黙って引いて黙って放す。これが猟夫《かりゅうど》の射方《いかた》だあね」
 こういう声が消えたかと思うと、忽ち何物か空を渡る声がグーングーン、グーンと聞こえて来た。矢が三筋《みすじ》弦《つる》から放されたのであろう。
 その後は何の音もない。と雨戸が外から開かれ多右衛門がそこからはいって来た。左の手に弓を持ち右の手に巻物を載せニタニタ笑いながら座敷へはいると、遠慮なく高胡坐《たかあぐら》をかいたのである。
「明晩から幽霊は出ますめえ。よく云い聞かして来ましたからの。いや面白い幽霊でね。俺《わし》にこんなものくれましただ」
 とん[#「とん」に傍点]と巻物を下へ置いて。その巻物こそ他ならぬ弓道|日置流《へきりゅう》の系図であった。
 そして系図には習慣《しきたり》として流儀の奥義が記《しる》されてあり、それを与えられた武芸者は流儀の本家家元となれる。
 果然、信州は木曽山中の猟師、姓も氏《うじ》もない多右衛門は爾来《じらい》江戸に止どまって弓道師範となったのであった。
 日置弾正を流祖とした日置流弓道は後世に至って、露滴《ろてき》派、道雪《どうせつ》派、花翁《かおう》派、雪荷《せっか》派、本心《ほんしん》派、道怡《どうたい》派の六派に別れ、いわゆる日置流六派として武家武術の表芸となり長く人々に学ばれたがこの六派の他に尚八迦流という一流があり武芸を好む町人や浪人達に喜ばれたがこの八迦流の流祖こそすなわち猟師多右衛門なのである。
 それにしても、不思議な妖怪沙汰を起こし日置流系図を多右衛門に与え別に一派を立てさせたのはいったい何者であったろう?
 それについて多右衛門はこんなことを云った。
「今こそ染め物店にはなっているが戦国時代にはあの辺に大きな館があったのだ。日置弾正様のお館がな。――で、亡魂が残っておられ、日置流の頽廃《たいはい》を嘆かせられ夜な夜な怪異を示されて勇士をお求めになられたのだ。そこへこの俺がぶつかったのさ。で、系図を頂戴し極意を許されたというものよ。毎晩|弦《つる》と矢を買いに出た者は弾正様の使僕《めしつかい》なのさ」

底本:「怪しの館 短編」国枝史郎伝奇文庫28、講談社
   1976(昭和51)年11月12日第1刷発行
入力:阿和泉拓
校正:多羅尾伴内
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

二人町奴—— 国枝史郎


「それ喧嘩だ」
「浪人組同志だ」
「あぶないあぶない、逃げろ逃げろ」
 ワーッ[#「ワーッ」は底本では「ワーツ」]と群衆なだれを打ち、一時に左右へ開いたが、遠巻きにして眺めている。
 浪人組の頭深見十左衛門、その子息の十三郎、これが一方の喧嘩頭、従うもの二三十人、いずれも武道鍛練の、度胸の据わった連中である。
 その相手は土岐《とき》与左衛門と、その一味の浪人組、その数およそ三四十人。
 おりから春、桜花の盛り、所は浅草観世音境内、その頃にあっても江戸一の盛り場、しかも真昼で人出多く、賑わいを極めている時であった。
「あいや土岐氏」と十三郎、ヌッ[#「ヌッ」は底本では「ヌツ」]とばかりに進み出た。
 年この時二十八歳、色白く美男である。その剣道は一刀流、免許の腕を備えている。
「過日我らが組下の一人、諸戸《もろと》新吾と申す者、貴殿の部下たる矢部藤十殿に、鞘当てのことより意趣となり、双方果し合い致したるところ、卑怯にも矢部殿には数人を語らい、諸戸新吾を打ち挫き、恥辱を、与えなされたため、諸戸は無念を書き残し、数日前に腹切ってござる。以来我ら貴殿に対し、矢部殿お引き渡し下さるよう、再三使いをもって申し入れましたが、今になんのご返事もない。組下の恥辱は頭の恥辱、今日ここで偶然お目にかかった以上、貴殿を相手にこの十三郎単身お掛け合い致しとうござる。土岐氏、即座にお答え下され。さあ矢部殿を渡されるか? それともビッシリお断わりなさるか? 渡されるとあればそれでよい。当方にて十分成敗致す、渡されぬとあっては止むを得ぬ。貴殿と拙者この場において、尋常の勝負、抜き合わせましょう! いかがでござるな、さあ、ご返答!」
 凜とばかりに云い入れた。
「お気の毒ながらお断わりじゃ」
 こう云ったのは与左衛門。年の頃は四十五六、頬髯の濃い赤ら顔、上背があって立派である。
「いかにも我等組下の者矢部藤十儀、貴殿の組下、諸戸殿と果し合いは致しましたが、卑怯の振舞いは決して致さぬ。傍らに引き添った同僚が、仲間の誼み自分勝手に、助太刀の刀を揮った迄、これとて考えれば当然のこと、志合って組をつくり、一緒の行動とる以上、助け助けられるに不思議はござらぬ、矢部を渡さば成敗する。かよう云われる貴殿の言葉を、承知致したその上で、矢部を貴殿に渡したが最後、拙者の面目丸潰れじゃ。お断わりお断わり、決して渡さぬ!」
 これも立派に云い切った。
「なるほど」と云ったは十三郎、
「お言葉を聞けばごもっとも、よもやムザムザ矢部殿を、我々の手へはお渡しあるまい。止むを得ぬ儀、貴殿と拙者、ここで果し合い致しましょう」
「左様さ」と云ったが土岐与左衛門、承知するより仕方なかった。
「よろしゅうござる、お相手致そう」
 それから部下をジロリと見たが、
「これ貴殿方、助太刀無用、我ら二人だけで立ち会い致す。よろしいかな、お心得なされ」
 こうは云ったが眼使いは、その反対を示していた。一同刀を抜き連らね、一斉に引っ包んで打って取れ。よいかよいかと云っているのである。
「いざ」と云うと土岐与左衛門、大刀[#「大刀」はママ]サッと鞘ばしらせた。
 グーッと付けたは大上段、相手を呑んだ構えである。
「いざ」と同時に十三郎、鞘ばしらせたが中段に付けた。
 シ――ンと二人とも動かない。
 春陽を受けて二本の太刀、キラキラキラキラと反射する。
 それへ舞いかかるは落英である。
 ワ――ッと群集は鬨を上げた。だが直ぐに息を呑んだ。と、にわかに反動的に、浅草の境内ひっそりとなり、昔ながらに居る鳩の啼声ばかりが際立って聞こえる。
 土岐与左衛門これも免許、その流儀は無念流しかも年功場数を踏み、心も老獪を極めている。
 相手の構えを睨んだが、
「油断はならぬ。立派な腕だ。しかし若輩、誘ってやろう」
 ユラリと一歩後へ引いた。
 果して付け込んだ深見十三郎、
「むっ」と喉音《こうおん》潜めた気合。掛けると同時に一躍した。ピカリ剣光、狙いは胸、身を平《ひら》めかして片手突き!
 だが鏘然と音がした。
 すなわち与左衛門太刀を下ろし、巻き落とすイキで三寸の辺り、瞬間に払ったのである。
 十三郎、刀を落としたか?
 落とさばそこへ付け込んで、無念流での岩石落とし、肩をはねよう一刀にカッ! と与左衛門は[#「与左衛門は」は底本では「与左衛門を」]見張ったが、期待外れて十三郎、飛び退って依然同じ構え、中段に付けて揺がない。
 と、思ったも一刹那、年若だけに精悍の気象、十三郎スルスルと進み出た。


 据わった腰、見詰めた眼、溢れようとする満腹の覇気スルスルと進み出た十三郎に押され、土岐与左衛門圧迫を感じ、タッタッと三足ほど退いたが、やや嗄声《かれごえ》で、
「さあ方々!」
 声に応じて三四十人、与左衛門の部下一斉に、刀を抜いたがグルグルグル、深見十三郎を引っ包んだ。
「卑怯《ひきょう》!」と叫んだは十三郎の部下、これも一斉にすっぱ抜くと、与左衛門の部下を押しへだて、ジ――ッと、一列に構え込んだ。
 まさに太刀数六七十本向かい合わせてぴたりと据わり、真剣の勝負、無駄声もかけずただ、位取った刀身が、春陽をはねて白々と光り、殺気漂うばかりである。
 旗本奴《はたもとやっこ》と町奴《まちやっこ》、それと並び称された浪人組、衣裳も美々《びび》しく派手を極め、骨柄いずれも立派である。その数合わして六七十人、真昼間の春の盛り場で、華やかに切り合おうというのである。
 凄くもあれば美しくもある。
 遠巻きにした群集達。一時に鬨作って逃げ出したが、さらに一層遠くへ離れ、勝敗はどうかと眺めている。
 気の毒なのは店屋である。バタバタと雨戸を引いてしまった。側杖を恐れたからである。役人も幾人かいたけれど、うかと手を出したら怪我しよう! で茫然と見守っている。
 仲裁する者はないのだろうか? なければ血の雨が降るだろう、死人も怪我人も出るだろう。
 群集のどよめき[#「どよめき」に傍点]治まると、深刻な静寂が寺域を領し、その中に立っている観音堂、宏大な図体を頑張らせてはいるが、恐怖に顫えているようにも見える。
 と、この時仁王門の方から、修羅場にも似合わぬ陽気な掛け声が、歌念仏の声をまじえ、ここの場所まで聞こえてきた。
 次第々々に近寄って来る。
 見れば飾り立てただし[#「だし」に傍点]であった。巨大な釣鐘が乗っている。
 吉原十二街から寄進をした。釣鐘を運んで来たのである。
 にわかにだし[#「だし」に傍点]が止まってしまった。浪人組が構え込んでいる。白刃がタラタラと並んでいる。そこを押し通って行くことは出来ない。
 賑やかな囃も急に止み、それを見物の人々も息を呑んだ。
 この間も二手の浪人組、太刀を構えてせり[#「せり」に傍点]詰めて行く、やがて白刃が合わされるだろう、境内は血潮で染められるだろう、負けた方は逃げるに相違ない。勝った方はきっと追っかけるだろう。乱闘となったら見物にも、善男善女にも怪我人が出来よう。奉納の釣鐘にも穢れがつき、大勢の寄進者も、傷付くかもしれない。
「逃げろ逃げろ」と云う者もある。
「一まずだし[#「だし」に傍点]を引っ返せ」と喚き立てる者もある。
 あぶないあぶない折柄であった。
「どいた、どいた、ご免下せえ」
 ドスの利く声を掛けながら、群集を左右に掻き分け、だし[#「だし」に傍点]に近寄った人物がある。
 三十がらみで撥髪《ばちびん》頭、桜花を散らせた寛活《かんかつ》衣裳、鮫鞘《さめざや》の一腰落し差し、一つ印籠、駒下駄穿き、眉迫って鼻高く、デップリと肥えた人物である。
 丁寧ではあるが隙のない態度、ジロリと一同を見廻したが、
「大変な騒動になりましたな。さぞ皆様もお困りでしょう、ケチな野郎ではございますが、私《わっち》がちょっと仲裁役、一肌脱ぐことに致しましょう、と云いたいんだがどう致しまして、すっぱだか[#「すっぱだか」に傍点]になって踊ってみせます。ついては釣鐘を借りますよ。傷は付くかもしれませんが、まずまず血では穢されますまい。まっぴらご免」と云ったかと思うと、白の博多の帯をとき、クルクルと衣裳を脱ぎ捨たが下帯一つの全裸体、何と堂々たる体格だ、腕には隆々たる力瘤、胴締まって腰ガッシリ、黒々と胸毛が生えている。そのくせ肌色皓々と白い。
 腕をのばすと釣鐘の龍頭、グッと掴んで引き下ろした。見る間に双手を鐘の縁、そいつへ掛けると大力無双、頭上へ差し上げたものである。
 と、投げ込んだは浪人組の中、地響と共にゴ――ンと鳴り、音が容易に消えて行かない。
 仰天した二派の浪人組、サ――ッと左右へ引いたが付け目、ヒラリと飛び込んだ裸体の男、鐘を引き起こすとカッパと伏した。龍頭を踏まえて突っ立ったが、左右を見比べると両手を拡げ、さてそれから云いだした。
「お見受けすれば浪人組、今世上に名も高い、土岐与左衛門様に深見様、どんな意趣かは存じませぬが、賑わう浅草の境内で時は桜の真っ盛り、喧嘩沙汰とは気の知れぬ話、其角宗匠が生きていたら、花見る人の長刀、何事だろうと申しましょう。喧嘩貰った、お預け下せえ。そういう私は人入れ家業、芝浜松町に住居《すまい》する富田家清六の意気地のない養子、弥左衛門といってほんの三下だが、親分は藩隨院長兵衛兄弟分には唐犬《とうけん》権兵衛、放駒四郎兵衛、夢の市郎兵衛、そんな手合もございます。お預け下せえお預け下せえ。それとも」と云うと腕を組んだ。
「仲裁役には貫禄が不足、預けられぬと仰言《おっしゃ》るなら、裸体《はだか》で飛び込んだが何より証拠、とうに体は張って居りやす。切り刻んで膾《なます》とし、血祭りの犠に上げてから、喧嘩勝手におやり下せえ。息ある限りは一歩ものかねえ、そこは男だ、一歩ものかねえ。さあさあ預けて下さるか、それとも、膾に切り刻むか、ご返事ご返事、聞かせて下せえ!」
 男を磨く町奴。ドギつく白刃の数十本の中で、小気味よく大音を響かせた。
 ワ――ッと群集のどよめいたのは、その颯爽たる男振りに、思わず溜飲を下げたのであろう。


 気を奪われた浪人組、互いに顔を見合わせたが、そこは老功の与左衛門である。けっく[#「けっく」に傍点]幸いと考えた。
「こいつはいっそ[#「いっそ」に傍点]任せてしまえ」
 そこで抜身をダラリと下げ、ツト進み出ると、云ったものである。
「これはこれは弥左衛門殿か、お名前はとうから存じて居ります。争いの仲裁まずお礼、いや何原因も知れたことで、折れ合おうとすれば折り合います。またお顔を立てようとなら、無理にも折り合わなければなりますまい。それにしても実に大力無双、殊には裸体で突っ立たれたご様子、洵《まこと》に洵に立派なもので、そういうお方にお任せし、事を穏便に治めるは、我々にとっても光栄というもの、但し果して深見氏の方で」
 すると十三郎もズット出た。
「いや拙者とて同じでござる。弥左衛門殿のお扱いなら、なんの不足がございましょう。白柄組とか吉弥組とか、旗本奴の扱いなら、とかく何かと言っても見たいが、長兵衛殿のお身内なら、我々にとってはむしろ味方、弥左衛門殿のご高名も、かねがね承知致して居ります。土岐氏においてそのおつもりなら、スッパリ何事もあなた任かせ!」
「ま、任せて下さるか……」
 弥左衛門喜んで辞儀をした。
「それでは何より真っ先に、抜いた白刃を元の鞘へ」
「よろしゅうござる」と土岐与左衛門、部下の一同を見廻したが、
「な、方々聞かれるような次第、さあさあ刀をお納め下され」と自身パッチリ鞘に納める。
「貴殿方にも」と十三郎「刀をお納めなさるがよろしい」――で、パッチリと鞘に納める。
 血の雨の降るべき大修羅場は、こうして平和に治まったのである。
「こうなったのもこの釣鐘が私に役立たせてくれたからで、目出度い釣鐘、有難い釣鐘、さあさあそれでは元の座へ」
 龍頭を掴むとグ――ッと引き上げ、肩へ[#「肩へ」は底本では「肩え」]担ぐと弥左衛門、だし[#「だし」に傍点]の上へそっと置いた。
「さあさあ皆さん景気よく、奉納寄進しておくんなせえ」
 声を掛けると美しい女や男達、ドッと喜びの声を上げ、すぐに続けて賑やかな囃、それからだし[#「だし」に傍点]を引き出した。無事に寄進が出来たのである。
 見ていた群集も賞讃し、
「釣鐘様! 弥左衛門様!」
「釣鐘の親分! 釣鐘弥左衛門!」
 ――爾来人々弥左衛門を、釣鐘弥左衛門と称したが、それ程の釣鐘弥左衛門も、兄分と立てなければ[#「なければ」は底本では「なけれは」]ならなかった[#「ならなかった」は底本では「ならなっかた」]のは、緋鯉《ひごい》の藤兵衛という町奴であった。


 ある日と云ってもずっと後だ――寛文年間のことである。
「兄貴おいでか」と云いながら、訪ねて来たのは釣鐘弥左衛門。
「これは釣鐘、珍らしいの」
 こう言ったのは緋鯉の藤兵衛、長火鉢の前に坐っている。
 向かいあって坐った釣鐘弥左衛門、今日は一向元気がない。
 そういえば緋鯉の藤兵衛にも、さっぱり元気がないのである。二人、しばらく物も云わない。
「近頃浮世が面白くないよ」
 やがて云ったのは弥左衛門である。
「うん、そうだろうな俺もそうだ」
 緋鯉の藤兵衛もものうそうである。
「長兵衛親分がああなって以来、俺ア眼の前が真っ暗になった」
「相手の水野一統は、ピンシャンあの通り生きていて、なんのお咎めもないんだからなあ」
 これが弥左衛門には心外らしい。
「それにさ唐犬《とうけん》の兄貴達が、水野を討とうと切り込んで、手筈狂って遣り損なってからは、いよいよお上の遣り口が、片手落|偏頗《へんぱ》に見えてならねえ」
 これにも弥左衛門は不平らしい。
「うん、そいつだよ、偏頗だなあ」
 緋鯉の藤兵衛も不平らしく、
「爾来お上では俺達を、眼の敵にして抑えるんだからなあ」
「兄弟分の大半は、遠島の仕置にされてしまった」
「町奴の勢力も地に落ちたよ」
「そいつも水野をはじめとし白柄組の連中のお蔭だ」
「その連中がよ、どうかというに、近来益々のさばり[#「のさばり」に傍点]居る」
「夜ふけて通るは何者ぞ、加賀爪甲斐《かがづめかい》か泥棒か、さては坂部の三十か……江戸の人達は唄にまで作り、恐れおびえているのになあ」
「お上の片手落ちも甚しいものさ」
 緋鯉の兄貴と、釣鐘弥左衛門、にわかに調子を強めたが、
「それにしても俺たちには不思議でならねえ、唐犬の兄貴一統が水野の屋敷へ切り込んだ時、俺らは旅へ出ていたから、加わることも出来なかったが、兄貴はその時江戸にいたはずだ、それだのに一味に加わらずに、一人仲間から外れたのは、一体どういう訳だろうね? 他ならぬ兄貴のことだから、卑怯の結果とは思われねえが、俺らには訳がわからねえ」
 本心を聞きたいというようにグッと弥左衛門眼を据えた。
「うむ、それか」と云ったものの藤兵衛はしばらくは物を云わない。
「やり損なうに相違ないと、俺らハッキリ睨んだからさ」
 それから少し間を置いたが、
「相手がああいう相手だけに、一度で片づくと思っては早すぎる。一番手が失敗した場合、二番手の備えをしておかないとの」
「なるほど」と釣鐘弥左衛門、こいつを聞くと頷いた。
「それじゃア兄貴は二番手をもって任じ、長兵衛どんや唐犬の兄貴の、敵を討とうとするのだね?」
「とにかく憎いは旗本奴、わけても水野十郎左衛門、白柄組の一党だよ。この儘のさばら[#「のさばら」に傍点]せちゃア置かれねえ」
「ところで兄貴、その手段は?」
「ここにあるよ」と胸を打った。
「胸三寸、誰にも言わねえ」
「俺らにも明かせてくれねえのか」
 気色ばむ弥左衛門を慰めるように、
「俺一人で出来る仕事なのさ、無駄なたくさんな殺生は俺らにとっちゃア好ましくない。だがな」と藤兵衛しんみり[#「しんみり」に傍点]となった、「もしも[#「もしも」に傍点]のことが俺にあったら、それ、お前とは縁の深い、あの浅草の鐘でもついて、回向というやつをやってくれ。そうしてなんだ俺が死んだら、いよいよ町奴は衰微するだろう、そこでお前だけは生きながらえて、町奴の意気をあげてくれ、こいつが何より肝心だ、それはそうと、しめっぽく[#「しめっぽく」に傍点]なった。さあさあこれから一杯飲もう」


 藤兵衛は谷中に住んでいた。そこで谷中の藤兵衛とも云う。彼は金魚組の頭領であった。そこで緋鯉の藤兵衛とも云う。躯幹長大色白く、凜々たる雄風しかも美男、水色縮緬の緋鯉の刺繍《ぬいとり》、寛活伊達の衣裳を着、髪は撥髪《ばちびん》、金魚額、蝋鞘の長物落し差し洵《まこと》に立派な風采であった。
 そうして彼は名門でもあった。その実姉に至っては、春日局《かすがのつぼね》に引き立てられ、四代将軍綱吉の乳母《めのと》、それになった矢島局であり、そういう縁故があるところから、町奉行以下の役人達も二目も三目も置いていた。但しそのためにそれを利用し、藤兵衛決して威張りはしない。覇気の中にも謙遜を保ち、大胆の中にも細心であった。
 だが親分藩隨院長兵衛、水野十郎左衛門のために騙り討たれた。そればかりか唐犬権兵衛、夢の市郎兵衛、出尻《でっちり》清兵衛、小仏小兵衛、長兵衛部下の錚々たる子分が、復讐の一念懲りかたまり、水野屋敷へ切り込んだが、不幸にも失敗をした揚句、一同遠島に処せられても、徳川直参という所から、水野一派にはお咎めもなく、依然暴威を揮っているのが、勘にさわってならなかった。
「どうともして、水野に腹切らせ、白柄組を瓦解させ、一つには親分の恨みを晴らし、二つには兄弟分の怒りを宥め、三つには市民の不安を除き、旗本奴と町奴との長い争いを止めたいものだ」
 これは日頃の念願であった。
 ところがとうとうその念願が遂げられる機会がやって来た。
「旗本に楯つく町奴というもの、是非とも一度見たいものだ」
 将軍綱吉が云い出したのである。
「それでは」と云ったのは松平伊豆守、かの有名な智慧伊豆であった。
「矢島局様実弟にあたる、谷中住居の藤兵衛という者、今江戸一の町奴とのこと。大奥に召すことに致しましょう」
「おおそうか、それはよかろう」
 そこで藤兵衛召されることになった。
 雀躍《こおどり》したのは藤兵衛である。
「ああ有難え、日頃の念願、それではいよいよ遂げられるか、将軍様を眼の前に据え、思うまんまを振舞ってやろう」
 さてその藤兵衛だがその日の扮装《いでたち》、黒の紋付に麻上下、おとなしやかに作ったが、懐中《ふところ》に呑んだは九寸五分、それとなく妻子に別れを告げ、柳営大奥へ伺候した。
 町人と云っても矢島局の実弟、立派な士分の扱いをもって丁寧に席を与えられたが、見れば正面には御簾があり、そこに将軍家が居るらしい。諸臣タラタラと居流れている。言上役は松平伊豆、面目身にあまる光栄である。
 と、伊豆守声をかけた。
「まず聞きたいは町奴の意気、即座に簡単に答えるがよい」
「はっ」と云ったが緋鯉の藤兵衛、
「強きを挫き弱きを助ける! 町奴の意気にございます」
 その言い方や涼しいものである。
「が、噂による時は、放蕩無頼の町奴あって、強きを挫かず弱きを虐げ、市民を苦しめるということだの」
「末流の者でございます」
 藤兵衛少しも驚かない。
「言葉をかえて申しますれば、真の町奴にあらざる者が、ただ町奴の面を冠り悪行をするものと存ぜられます」
 返答いよいよ涼しいものである。
「町奴風という異風あって、風俗を乱すということであるが、この儀はなんと返答するな?」
 伊豆守グット突っ込んだ。
「これは我々町奴が、自制のためにございます。と申すは他でもなく、異風して悪事をしますれば、直ちに人の目に付きます。自然異風を致しますれば、しようと致しましても悪事など、差し控えるようになりましょうか」
「なるほど」と伊豆守頷いたが、
「その方達町奴の家業はな?」
「お大名様や、金持衆へ、奉公人を入れますのが、おおよその商売にございます」
「では大名や金持共の、よくない頼み事も引き受けて、旗本ないし、貧民どもに、刃向かうようになろうではないか」
「とんでもない儀にございます」
 藤兵衛ピンと胸を反らせた。
「ご贔屓さまはご贔屓さま、なにかとご用には立ちますが、儀に外れたお頼みは、引き受けることではござりませぬ」
 立派に言い切ったものである。
「さようか」と伊豆守打ち案じたが、
「では町奴と申すもの、世上の花! 仁侠児だの」
「御意の通りにございます」
「で近世名に高い、町奴といえば何者かの?」
 声に応じて緋鯉の藤兵衛、ここぞとばかり大音に言った。
「近世最大の町奴、藩隨院長兵衛にございます」
「ふふん、さようか、藩隨院長兵衛?」
 伊豆守、首を傾げた。
「その藩隨院長兵衛[#「藩隨院長兵衛」は底本では「藩隨長兵衛」]というもの、町人の身分でありながら旗本水野十郎左衛門に、無礼の振舞い致した由にて、水野十郎左衛門無礼討にしたはず、さような人間が偉いのか」
「申し上げます」と緋鯉の藤兵衛、この時ズイと膝を進めた。
 それから云い出したものである。
「藩隨院長兵衛事一代の侠骨、町奴の頭領にございました。江戸に住居する数百数千、ありとあらゆる町奴、みな長兵衛を頭と頼み、命を奉ずる手足の如く、違《たが》う者とてはございませんでした。さてところでその長兵衛、どのような人物かと申しますに、素性[#「素性」は底本では「素情」]は武士、武術の達人、心は豪放濶達ながら、一面温厚篤実の長者、しかも侠気は満腹に允ち生死はつとに天に任せ悠々自適の所もあり、子分を愛する人情は、母の如くに優しくもあれば、父の如くに厳しくもあり、洵に緩急よろしきを得、財を惜しまずよく散じ、極めて清廉でございました。然るに」と言うと緋鯉の藤兵衛、またも一膝進めたが、
「一方水野十郎左衛門、天下のお旗本でありながら、大小神祇組、俗に申せば、白柄組なる組を作られ、事々に我々町奴を、目の敵にして横車を押され、町中においても、芝居小屋においても、故なきに喧嘩口論をされ、難儀致しましてござります。自然私共におきましても、自衛の道を講ぜねばならず、それがせり合っていつも闘争、案じましたのが長兵衛で、なんとか和解致したいものと、心を苦しめて居りました折柄、水野様より参れとの仰せ、これ必ず長兵衛をなきものにしよう魂胆と、子分一同諫止しましたところ、この長兵衛一身を捨て、それで和解が成り立つなら、これに上越す喜びはないと、進んで参上致しました結果が、案の定とでも申しましょうか。水野十郎左衛門様をはじめとし、白柄組の十数人、一人の長兵衛を切り刻み、その上死骸を荒菰に包み、むご[#「むご」に傍点]たらしくも川に流し、ご自身方は今に繁昌、なんのお咎もなきご様子、殿!」と云うと今度は藤兵衛スルスルスルスルと下ったが、額を畳へ押し付けてしまった。


 畳へ押し付けた額を上げると、藤兵衛云い出したものである。
「長兵衛は男にございます。それに反して、水野様は、卑怯なお侍にござります」
 グッとばかりに唾を呑んだが、
「天下のお政治と申すものは、公平をもって第一とする、かよう承《うけたま》わって居りましたところ男の長兵衛が犬死をし、卑怯者の水野殿は、お咎なし! 伊豆守様!」
 凄まじい眼、臆せず伊豆守を睨みつけた。
「御身ご老中でおわしながら、それでよろしゅうござりましょうか! さあご返答! お聞かせ下され!」
 なんと云う大胆、なんという覇気、将軍の面前老中を前にこれだけのことを云ったのである。
「うむ」とは云ったが伊豆守、なんと返答したものか当惑したように黙ってしまった。
 と、その時一人の近習、伊豆守の側へ進み寄ったが何やら伊豆守へ囁いたらしい。
「は」と言うと伊豆守、一つ頷くと微笑した。
「藤兵衛」と呼んだが愛嬌がよい。
「町奴の勇ましい心意気、上様にも悉くお喜びであるぞ。ついては」と云うと居住居を正し、
「上様御諚、町奴としての、何か放れ業を致すよう」
 こいつを聞くと緋鯉の藤兵衛、さも嬉しそうに言上した。
「お庭拝借致しまして、町奴に似つかわしい放れ業、致しますでござります」
「おうそうか、隨意に致せ」
 そこで藤兵衛庭へ下り、素晴らしい一つの放れ業をした。そうして、それをしたために、公平な政治が行なわれ、水野は切腹、家は断絶、白柄組一統の者、減地減禄されることになった。
 その放れ業とはなんだろう。
 藤兵衛、腹切って死んだのである。
「町奴の肝玉ごらん下され!」
 叫ぶと一緒に臓腑を掴み出し、地上へ置くと、
「藩隨院長兵衛と黄泉において、水野の滅亡、白柄組の瓦解、お待ち受け致すでございましょう!」
 そのまま立派に死んだのである。

 緋鯉の藤兵衛の葬式が、非常に盛大に行なわれた日、浅草寺で鳴らす鐘の音が一種異様の音を立てた。
 手慣れた寺男のつく鐘とは、どうにも思われない音であった。
 それは当然と云ってよい、ついたのは釣鐘弥左衛門なのだから。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
   1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「少年倶楽部」
   1927(昭和2)年4月
※「藩隨院長兵衛」は、底本どおりとしました。
※「ズット」「グット」は底本の通りです。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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国枝史郎

南蛮秘話森右近丸—- 国枝史郎

 「将軍|義輝《よしてる》が弑《しい》された。三好|長慶《ちょうけい》が殺された、松永|弾正《だんじょう》も殺された。今は下克上の世の中だ。信長が義昭を将軍に立てた。しかし間もなく追って了《しま》った。その信長も弑されるだろう。恐ろしい下克上の世の中だ……明智光秀には反骨がある。羽柴秀吉は猿智慧に過ぎない。柴田|勝家《かついえ》は思量に乏しい。世は容易に治まるまい……武田家は間もなく亡びるだろう。波多野秀治は滅亡した。尼子勝久は自刃した。上杉|景勝《かげかつ》は兄を追った。荒木|村重《むらしげ》は謀反した。法燈暗く石山城、本願寺も勢力を失うだろう。一向一揆も潰されるだろう、天台の座主《ざす》比叡山も、粉砕されるに相違ない。世は乱れる。世は乱れる! だが先《ま》ずそれも仕方がない、日本国内での争いだ。やがて、誰かが治めるだろう、恐ろしいのは外国《とつくに》だ! 恐ろしいのは異教徒だ! 憎むべきは吉利支丹《きりしたん》だ! ザビエル、ガゴー、フロエー、オルガンチノこれら切支丹の伴天連《ばてれん》共、教法に藉口《しゃこう》し耳目を眩し、人心を誘い邪法を用い、日本の国を覬覦《きゆ》している。唐寺が建った、南蛮寺が建った、それを許したのは信長だ! なぜ許したのだ! なぜ許したのだ! 危険だ、危険だ、非常に危険だ! 国威が落ちる、取り潰すがよい! 日本には日本の宗教がある、かんながらの道、神道だ! それを讃えろ、それを拝め!」
 ここは京都二条通、辻に佇んだ一人の女、凜々《りり》として説いている。年の頃は二十歳《はたち》ぐらい、その姿は巫女、胸に円鏡をかけている。頭髪《かみ》を束《つか》ねて背中に垂らし、手に白綿《しらゆう》を持っている。その容貌の美しさ、洵《まこと》に類稀である。眉長く顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》まで続き、澄み切った眼は凄いまでに輝き、しかも犯しがたい威厳がある。その眼は時々微笑する。嬰児のような愛らしさがある。高すぎる程高い鼻。男のそれのように、肉太である。口やや大きく唇薄く、そこから綻《ほころ》びる歯の白さ、象牙のような光がある。秀た額、角度《かど》立った頤、頬骨低く耳厚く、頸足《えりあし》長く肩丸く、身長《せい》の高さ五尺七八寸、囲繞《とりま》いた群集に抽出《ぬきんで》ている。垢付かぬ肌の清らかさは、手にも足にも充分現われ、神々しくさえ思われる。男性の体格に女性の美、それを加えた風采である。
 だが何という大胆なんだろう! 夕暮時とは云うものの、織田信長の管理している、京都の町の辻に立ち、その信長を攻撃し、その治世を詈《ののし》るとは!
 驚いているのは群集である。
 市女《いちめ》笠の女、指抜《さしぬき》の若者、武士、町人、公卿の子息、二十人近くも囲繞いていたが、いずれも茫然《ぼんやり》と口をあけ、息を詰めて聞き澄ましている。反対をする者もない、同意を表する者もない。
 不思議な巫女の放胆な言葉に、気を奪われているのである。
「唐寺の謎こそ奇怪である」巫女はまたもや云い出した。
「唐寺の謎を解《と》くものはないか! 唸《うな》っているのだ、恐ろしいものが! 日本の国は買われるだろう、日本の国は属国となろう。解くものはないか、南蛮寺《なんばんじ》の謎! いや恐らくあるだろう、解くがいい解くがいい! 幸福が来る、解いた者へは! だが受難も来るだろう! だが受難を避けてはならない! どんなものにも受難はある。受難を恐れては仕事は出来ない……ここに集まった人達よ!」
 ここで俄《にわか》に巫女の言葉は嘲笑うような調子になった。
「どんなに妾《わたくし》が説きましても、皆様方には解《わか》りますまい。解っているのは日本で数人、信長公にこの妾に、香具師《こうぐし》の頭に弁才坊、そんなものでございましょう。さあ其の中の何者が、最後に得を取りますやら、ちょっと興味がございます。オヤオヤオヤ」と巫女の調子はここで一層揶揄的になった。
「馬に念仏申しても、利目《ききめ》がなさそうでございます。そこでおさらばと致しましょう。もう日も大分《だいぶ》暮れて来た。塒《ねぐら》へ帰ったら夜になろう。ご免下され、ご免下され」
 群集を分けて不思議な巫女はスタスタ北の方へ歩き出した。
 と、その時一人の若武士《わかざむらい》が先刻《さっき》から群集の中にまじり、巫女の様子をうかがっていたが、思わず呟いたものである。
「洛外《らくがい》北山に住んでいて、時々|洛中《らくちゅう》に現われては、我君を詈り時世を諷する、不思議な巫女があるという、困った噂は聞いていたが、ははあさてはこの女だな。よしよし後をつけ[#「つけ」に傍点]てみよう。場合によっては縛《から》め捕り、検断所の役人へ渡してやろう」
 そこで後を追っかけた。
 町を出外ずれると北野になる。大将軍から小北山、それから平野、衣笠山、その衣笠山まで来た時には、とっぷりと日も暮れてしまい、林の上に月が出た。巫女はズンズン歩いて行く。若武士もズンズン歩いて行く。

 もうこの辺りは山である。鬱々と木立が繁っている。人家もなければ人気もない。夜の闇が四辺《あたり》を領している。ズンズン恐れず巫女が行く。着ている白衣《びゃくえ》が生白く見える。時々月光が木間を洩れ、肩のあたりを淡《うす》く照らす。
 鹿苑院《ろくおんいん》金閣寺、いつかその辺りも通ってしまった。だんだん山路が険しくなる。いよいよ木立が繁り増さり、気味の悪い夜鳥《よどり》の啼声がする。
 巫女はズンズン歩いて行く。
「一体どこまで行くのだろう?」若武士はいささか気味悪くなった。だが断念はしなかった。足音を忍んでつけて[#「つけて」に傍点]行く。
 一際こんもり[#「こんもり」に傍点]した森林が、行手にあたって繁っている。ちょうどその前まで来た時であった。巫女は突然足を止め、グルリと振り返ったものである。
「若い綺麗なお侍さん、お見送り有難うございました。もう結構でございます。どうぞお帰り下さいまし。これから先は秘密境、迷路がたくさんございます。踏み込んだが最後帰れますまい」それから不意に叱るように云った。「犯してはならぬよ我等の領地を! 宏大な「処女造庭」境を!」
「おっ」と若武士は驚いたが、同時に怒りが湧き起こった。「何を女め! 不埒《ふらち》な巫女! 二条通りで我君の雑言、ご治世を詈ったそればかりか、拙者を捉えて子供扱い、許さぬぞよ。縛め捕る!」ヌッと一足踏み出した。
「捕ってごらんよ」とおちついた[#「おちついた」に傍点]声、それで巫女はまた云った。「悪いことは云わぬよ。帰るがいい、お前が穢《きたな》い侍なら、北野あたりで殺しもしたろう、可愛い綺麗な侍だったから、ここまで送らせて来たのだよ。だが今夜はお帰りよ。そうして妾を覚えておいで、もう一度ぐらいは会うだろう、お帰りお帰り、さあ今夜は」
 馬鹿にしきった態度である。
 本当に怒った若い武士は、手捕りにしようと思ったのだろう、「観念!」と叫ぶと躍りかかった。
 それより早く、不思議な巫女は、サ――ッと後へ飛び退いたが、「お馬鹿ちゃんねえ」と云ったかと思うと、片手をヌーッと頭上へ上げた。キラキラ光る物がある。巨大な星でも捧げたようだ。カーッと烈しい青光る焔《ほのお》、そこから真直ぐに反射して、若い武士の眼を射た。魔法か? いやいやそうではない。胸にかけていた円鏡そいつを右手に捧げたのである。
 だがそれにしても不思議である、いかに月光が照らしたとは云え、そんな鏡がそんなにも強い、焔のような光芒をどうして反射したのだろう?
「あッ」と呻《うめ》いた若い武士は、二三歩|背後《うしろ》へよろめいたが、ガックリ地面へ膝をついた。しかし勇気は衰えなかった。立ち上ると同時に太刀を抜き、
「妖婦!」と一|躍《やく》切り込んだ。
「勇気があるねえ、いっそ[#「いっそ」に傍点]可愛いよ。だが駄目だよ、お止めお止め」
 沈着《おちつ》き払った巫女の声が、同じ場所から聞こえてきた。いぜん鏡を捧げている。キラキラキラキラと反射する。それが若武士の眼を射る。どうにも切り込んで行けないのである。
 とはいえ若武士も勇士と見える。両眼|瞑《つむ》ると感覚だ。柄を双手に握りしめ「ウン」とばかりに突き出した。
 だが何の手答えもない。ギョッとして眼を開いた眼の前に、十数本の松火《たいまつ》が、一列にタラタラと並んでいた。
 異様の扮装をした十数人の男が、美々《びび》しい一挺の輿《こし》を守り、若武士の眼前《めのまえ》にいるではないか。
 いつの間にどこから来たのだろう? 森の奥から来たらしい。町人でもなければ農夫でもない。庭師のような風俗である。そのくせ刀を差している。その立派な体格風貌、その点から云えば武士である。
 若武士などへは眼もくれず、巫女の前へ一斉に跪坐《ひざまず》いたが、「いざ姫君、お召し下さりませ」
「ご苦労」と家来に対するように、巫女は鷹揚に頷いたが、ユラリとばかりに輿に乗った。
「さようならよ、逢いましょうねえ、いずれは後日、ここの森で……綺麗で若くて勇しい、妾の好きなお侍さん」[#「妾の好きなお侍さん」」は底本では「妾の好きなお侍さん」。」]
 それから巫女は意味ありげに笑った。
「さあお遣りよ、急いで輿を!」
 松火で森を振り照らし、スタスタと奥へ行ってしまった。

 信長の居城|安土《あづち》の城、そこから乗り出した小舟がある。
 春三月、桜花《おうか》の候、琵琶の湖水静かである。
 乗っているのは信長の寵臣、森右近丸《もりうこんまる》と云って二十一歳、秀でた眉、鋭い眼、それでいて非常に愛嬌がある。さぞ横顔がよいだろう、そう思われるような高い鼻、いわゆる皓歯《こうし》それを蔽て、軽く結ばれている唇は、紅を注したように艶がよい。笑うと左右にえくぼ[#「えくぼ」に傍点]が出来る。色が白くて痩せぎすで、婦人を想わせるような姿勢ではあるが、武道鍛錬だということは、ガッシリ据わった腰つきや、物を見る眼の眼付で解《わか》る。だが動作は軽快で、物の云い方など率直で明るい。どこに一点の厭味もない。まずは武勇にして典雅なる、理想的|若武士《わかざむらい》ということが出来よう。
 かの有名な森|蘭丸《らんまる》。その蘭丸の従兄弟《いとこ》であり、そうして過ぐる夜衣笠山まで、巫女を追って行った若武士なのである。信長の大切の命を受け、京へ急《いそ》いでいるところであった。
 天正七年春の午前、湖水の水が膨らんでいる。水藻の花が咲いている。水鳥が元気よく泳いでいる。舟が通ると左右へ逃げる。だがすぐ仲よく一緒になる。よい天気だ、日本晴れだ、機嫌よく日光が射している。
 舟はズンズン駛《はし》って行く。軽舟《けいしゅう》行程半日にして、大津の宿まで行けるのである。
 矢走《やばせ》が見える、三井寺が見える、もう大津へはすぐである。
 とその時事件が起こった。どこからともなく一本の征矢《そや》が、ヒュ――ッと飛んで来たのである。舟の船首《へさき》へ突っ立った。
「あっ」と仰天する水夫《かこ》や従者、それを制した右近丸は、スルスルと近寄って眺めたが、
「ほほうこいつは矢文だわい」
 左様、それは矢文であった。矢羽根から二三寸下ったところに、畳んだ紙が巻き付けてある。
 矢を引き抜いた右近丸はクルクルと紙を解きほぐすと、スルスルと開いて見た。
「南蛮寺の謎手に入れんとする者信長公|一人《いちにん》にては候《そうろう》まじ、我等といえども虎視耽々、尚その他にも数多く候」
 これが記された文字であった。
「成程」と呟いたが右近丸は些少《いささか》驚いた様子であった。「俺の用向きを知っていると見える。俺を嚇そうとしているらしい。これは用心をしなければならない。何者がどこから射たのだろう」四辺《あたり》を見廻したが解《わか》らなかった。たくさん舟が通っている。帆船もあれば漁船もある。商船《あきないぶね》も通っている。だがどの舟から射たものやら、少しも見当が付かなかった。
「さあ、舟遣れ、水夫《かこ》ども漕げ」
 そこで小舟は駛《はし》り出した。

 その同じ日の夕方のこと――ここは京都四条坊門、南蛮寺が巨然と聳えている。その周囲は四町四方、石垣の中に作られたは、紅毛ぶりの七堂伽藍。金銀を惜まぬ立派なものだ。
 夕《ゆうべ》の鐘が鳴っている。讃美歌の合唱が聞こえている。
 「アベ マリア! ……アベ マリア!」
 美しい神々しい清浄な声!
 ボーン! 梵鐘! 神秘的の音!
 それらが虚空へ消えて行く。
 この南蛮寺の傍らに、こんもり庭木にとりかこまれた、一軒の荒れた屋敷があった。
 この頃|京都《みやこ》で評判の高い、多門兵衛《たもんひょうえ》という弁才坊(今日のいわゆる幇間《たいこもち》)と、十八になる娘の民弥《たみや》、二人の住んでいる屋敷である。
 今日も二人は縁《えん》に腰かけ、さも仲よく話している。
 だが本当に多門兵衛という老人、そんな卑しい弁才坊だろうか?
 どうもそうとは思われない。深い智識を貯えたような、聡明で深味のあるその眼付、高貴の血統を暗示するような真直ぐで、正しい高い鼻、錠を下ろしたような緊張《ひきし》まった口、その豊かな垂頬から云っても、卑しい身分とは思われない。民弥の方もそうである。その大量な艶のよい髪、二重瞳の切長の眼、彫刻に見るような端麗な鼻梁、大きくもなければ小さくもない、充分調和のよい受口めいた口、結んでいても開いていても、無邪気な微笑が漂よっている。身長《せい》も高く肉附もよく、高尚な健康美に充たされている。行儀作法を備えているとともに、武術の心得もあるらしく、その「動き」にも無駄がない。
 親子であることには疑いない。万事二人はよく似ている。そうして二人ながら貧しいとみえ、粗末な衣裳を着ているが、しかし大変清らかである。

「ねえ民弥さん民弥さん、よい天気でございますねえ」
 こう云ったのは弁才坊で、自分の娘を呼びかけるのに、民弥さんとさん[#「さん」に傍点]の字を付けている。ひどく言葉が砕けている。
「はいはい本当によいお天気で、春らしい陽気になりました。こんな日にお出かけになりましたら、お貰いもたくさんありましょうに、弁才坊さん弁才坊さん、町へお出かけなさりませ」
 民弥は民弥でこんなことを云っている。自分の父親を呼びかけるのに、弁才坊さんと云っている。
 だがこいつ[#「こいつ」に傍点]は常時《いつも》なのである。真実の親子でありながら、お友達のような調子なのである。とても二人ながら剽軽《ひょうきん》なのである。
「お貰いに行くのも結構ですが、今日は二人で遊びましょう。色々の花が咲きました、桜に山吹に小手毬《こてまり》草に木瓜《ぼけ》に杏《すもも》に木蘭《もくらん》に、海棠《かいどう》の花も咲きました」こう云ったのは弁才坊。
「ほんとにほんとにこのお庭は、お花で一杯でございます。往来さえ見えない程で」こう云ったのは民弥である。
「今日はお花見を致しましょう。お酒を一口戴きたいもので」
「お合憎様でございます。一合の酒さえございません」民弥は笑って相手にしない。
「ははあ、左様で、ではお茶でも」
「お茶もお合憎様でございます。久しく切れて居りますので」
「おやおやそいつは困りました。では白湯《さゆ》なりと戴きましょう」
「差し上げたくはございますが、お湯を沸かす焚物《たきもの》がございません」民弥はやっぱり相手にしない。
 これにはどうやら弁才坊も少しばかり吃驚《びっくり》したらしい。
「ははあ焚物もございませんので」
「明日の朝いただく御飯さえ、実はないのでございます」
「随分貧乏でございますな」
「今に始まりは致しません。昔から貧乏でございます」
「これはいかにも御尤《ごもっとも》、昔から貧乏でございます」こうは云ったが弁才坊は意味ありそうに云い続けた。「だが大丈夫でございますよ。苦の後には楽が来る、明日《あした》にでもなると百万両が、ころげ込むかも知れません」
「はいはい左様でございますとも。百万両は愚かのこと、大名になれるかも知れません」
「そうなった日の暁《あかつき》には、この弁才坊城を築き、兵を財《たくわ》え武器を調《ととの》え威張って威張って威張ります」
「そうなった日の暁には、この民弥さんも輿《こし》に乗り、多くの侍女を従えて、都|大路《おおじ》を打たせます」
「どうやらそういう栄華の日が、すぐ間近く迫ったようで」
「結構なことでございます」
「これまでは苦労を致しました」
「ほんとにお気の毒でございました」
「いえいえ私《わたし》より民弥さんの方が、一層お気の毒でございました」
「何の何のどう致しまして、弁才坊様あなたの方が、一層ご苦労なさいました」
「苦は楽の種、苦は楽の種、アッハハハ楽になったら、この三年間の苦しみが、笑い話になりましょう」
「そうしたいものでございます」
「きっとなります。きっとなります」
「お父様!」とここで娘の民弥は俄《にわか》に調子を改めたが、四辺《あたり》を憚った鋭い声で「遂げられたのでございましょうか? 年月重ねられたご研究が?」
「うむ」とこれも弁才坊、がぜん態度を一変したが「民弥、遂げたぞ、ようやくのことで!」
「で、その旨信長公へ?」
「うむ、昨日《きのう》云ってやった!」
「では追っつけお使者が参り?」
「そうだ、この私《わし》の研究材料をお買い上げ下さるに相違ない」
「ああそうなったら私達は……」
「昔の身分に返《かえ》れるのだ」
 ここで親子は沈黙し、その眼と眼とを見合せた。
 まだ梵鐘が鳴っている。
 讃美歌の声も聞こえている。
 庭の桜が夕風に連れ、ホロホロホロホロと散ってくる。
 ヌッと立った弁才坊は、「民弥!」とじっと[#「じっと」に傍点]娘を見た。「秘密の一端明かせてやろう、部屋へおいで、来るがよい」
 縁《えん》を上って行く後から、従《つ》いて行ったのは娘の民弥で、二人家の内へ隠《かく》れた時、老桜の陰からスルスルと忍び出た一人の人物があった。

 人物と云っても少年である。年の頃は、十四五歳、刳袴《くくりばかま》に袖無を着、手に永々と糸を付けた幾個《いくつ》かの風船を持っている。狡猾らしい顔付である。だが動作は敏捷である。辻に立って風船を売り、生活《くらし》を立てている少年|商人《あきゅうど》、だがそれにしても何のために、こっそり弁才坊の屋敷などへ、人目を憚り忍び込んだのだろう?
「うむ、あそこに窓がある、あそこから様子を見てやろう」
 呟《つぶや》くと木立を縫いながら、屋敷の横手に付いている小窓の下へ走り寄った。人差指へ唾を付け、窓の障子へ押え付けたのは、小穴を開ける為なのだろう。窓が高いので覗きにくい。
「困ったなア困ったなア」
 こんなことを云い出した。
「よし」と云うと一|刎《は》ね刎ね、木間へスポリと飛び込んだかと思うと、苔蒸した石を抱えて来た。
「こいつを足場にしてやろう」
 そっと窓下へ石を置いたが、やがてその上へヒョイと乗ると、背延びをして小穴から覗き出した。
「ワーッ、有難《ありがて》え、よく見えらあ」
 それから熱心に覗き出した。
「ワーッ、姐ごめ、嘘は云わなかった。ほんとにほんとに弁才坊め、いろいろの機械を持ってやがる……ははああいつが設計図、ははああいつが測量機、ははああいつが鑿孔機《せんこうき》、うんとこさ[#「うんとこさ」に傍点]書籍《ほん》も持っていやがる……オヤオヤオヤ人形もあらあ、やアいい加減|爺《じじい》の癖に、あんな人形をいじって[#「いじって」に傍点]いやがる。待てよ待てよ、そうじゃアねえ。ありゃア娘の人形なんだろう。だって娘だっていい年じゃアないか。そうそう確か十八のはずだ。ええとそうして民弥と云ったっけ……おかしいなあ、おかしいや、弁才坊と民弥とが、人形を挿《はさ》んで話し込んでいるぜ。民弥め別嬪だなあ。家の姐ごよりずっと[#「ずっと」に傍点]綺麗だ。俺《おい》らの姉さんならいいんだけれど、そうでないんだからつまんねえ[#「つまんねえ」に傍点]。俺らの嫁さんにならねえかな。あっちの方が年上だから、どうもこいつ[#「こいつ」に傍点]も駄目らしい……え、何だって? 何か云ってるぜ! ……「この人形を大事にしろ」……ウフ、何でえ面白くもねえ、つまらねえ事を云っていやがる……え何だって何か云ってるぜ! ……『秘密の鍵は第三の壁』……何だか些少《ちっと》も解《わか》らねえ……何でもいいや、一切合切、みんな姐ごに話してやろう」
 こんなことを口の中で呟きながら、風船売の少年は、障子の穴から覗いている。
 日がだんだん暮れてきた。南蛮寺の鐘も今は止み、合唱の声も止んでしまった。
 庭木の陰が次第に濃くなり、夜が間近く迫ってきた。
 と、突然家の内から、「これ、誰だ。覗いているのは!」弁才坊の声がした。
「ワッ、いけねえ、目つかっちゃった」
 石から飛び下りた風船売の少年、庭木の陰へ隠れたが、その素早さというものは、人間よりも猿に近い。
 と内から窓があき、顔を出したは弁才坊で、グルグルと庭を見廻したが、神経質の眼付、ムッと結んだ口、道化た俤など少しもない。眼を付けたは窓下の石!
「石を足場にして覗いたな、さして高くもない窓だのに……とすると子供に相違ない。が、子供でも油断は出来ない……民弥々々!」と声をかけた。
「はい」と民弥が顔を出した。「近所の子供でございましょう。無邪気に覗いたのでございましょう」
 そういう民弥こそ無邪気であった。
「さあそいつ[#「そいつ」に傍点]が解らない」いぜん弁才坊は不安らしい。「私の探った秘密というものは、一通りならぬものだからな。いろいろの人間が狙っていよう」
「申す迄もございません」――だが民弥は苦にもしないらしい。
「で、ちょっとの油断も出来ない」
「物騒な浮世でございますから」だが民弥はやっぱり無邪気だ。
「全くどうも物騒だよ、北山辺りにも変な人間がいるし、洛中にも変な人間がいる」
「そうして諸方の国々では、今日も戦争、明日も戦争、恐ろしいことでございます」これだけは民弥も真剣であった。
「そればかりではない紅毛人までが、ユサユサ日本へやって来て、南蛮寺などを建立してしまった」弁才坊はひどく不満そうである。
「でもお父様」と娘の民弥は、どうしたものか微妙に笑った。
「その南蛮寺が建ったればこそ、お父様には今回のご研究が出来たのではございませんか」
「それはそうだよ」と云ったものの、やはり弁才坊は不満らしい。だがにわかに態度を変えた。
「どうやら宵も過ぎたらしい。さあさあ民弥さん寝るとしよう」剽軽の態度に帰ったのである。
「かしこまりました、弁才坊さん、おねんねすることに致しましょう」
 二人窓から引っ込んだが、つづいて雨戸が閉ざされた。後はシーンと静かである。
 とガサガサと庭木が揺れ、現われたのは先刻《さっき》の少年、「これからが俺の本役《ほんやく》さ」とまたもや窓へ近よったが、手を延ばすと窓を開け、そこから一つの風船を、家内《やない》へ飛ばせたものである。

 その風船はユラユラと部屋の中へ入って行った。
 さてその部屋の中であるが、弁才坊ただ一人、床を延べて伏せっていた。
 うとうと眠っているらしい。部屋の中には燈火《ともしび》がない。で、闇ばかりが領している。その闇の部屋をユラユラと、白い風船が漂っている。スーッと天井まで上ったかと思うと、スーッと下へ下って来る。妖怪《もののけ》のようにも思われるし、肉体から脱け出た魂のようでもある。
 しかし少年は何のために、そんな風船を飛ばせたのだろう? どんな役目をするために、風船は部屋の中へ入り込んだのだろう?
 だがそいつ[#「そいつ」に傍点]は風船が、弁才坊の真上まで、ユラユラユラユラとやって来た時、ハッキリ了解することが出来た。
 風船がパッと二つに割れ、闇の部屋の中へバラバラと、白粉《おしろい》のような粉を蒔き、それが寝ている弁才坊の顔へ、音もなく一面に降りかかるや否や、ムーッと弁才坊呻き声を上げ、両手を延ばすと苦しそうに、胸の辺りを掻き毟ったが、それもほんの僅かな間で、そのまま動かなくなったのである。
 と、どうやら風船には、糸でも付けてあったらしい、そうしてそれが手繰《たぐ》られたらしい、窓から戸外《そと》へ出てしまった。
 後はひっそりと静かである。
 コトンと窓も閉ざされてしまった。
 春の夜風が出たのだろう、花木の揺れる幽かな音が、サラサラサラサラと聞こえてくる。
 弁才坊は寝たままである。弁才坊は微動さえしない。
 だんだん夜が更けて行く。
 とまたコトンと窓が開き、一本子供の腕が出た。続いて子供の顔が出た。風船売の少年である。今まで窓の外に立ち、様子をうかがっていたらしい。
 と、窓から飛び込んで来た。例によって敏捷猿のようである。足音一つ立てようとはしない。窓から射し込む月の光で、部屋中薄蒼く暈《ぼ》かされている。
「さあてどの辺りにあるんだろう? 手っ取り早く探さなけりゃアならねえ」こんな事を呟いている。「隣部屋に寝ている民弥めに、眼を覚まされては大変だ」こんなことも呟いている。
 部屋の一所に書棚がある。で、書棚を探し出した。部屋の一所に机がある。で、机を探し出した。壁に図面が張り付けてある。それを素早く探り出した。部屋の一所に測量機がある。その周囲《まわり》を探し出した。部屋の一所に鑿孔機《せんこうき》がある。それを両手で探り出した。
「ないなあ、ないなあ、どうしたんだろう? どこに隠してあるんだろう? こんなに探しても目つからないなんて、どう考えたって箆棒だよ。もっとも途法もなく大事なもので、それこそうんとこさ[#「うんとこさ」に傍点]値打のあるもので、いろいろの人が狙っているもので、そいつを一つさえ手に入れたら、大金持になれるんだそうだ。だからチョロッカにその辺りに、うっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]あろうとは思われないが、盗みにかけちゃ俺らは天才、その俺様が克明に、こうも手順よく探すのに、目つからないとは箆棒だよ。……何だこいつあ? 人形か?」
 部屋の片隅の卓の上に、二尺あまりの身長《たけ》を持った、人形が一つ置いてある。奈良朝時代の貴女風俗、そういう風俗をした人形である。
 ヒョイと取り上げた風船売の少年、ちょっと小首を傾げたが、そこはやっぱり子供である、小声で節を付けて唄い出した。
「可愛い可愛い人形さん、綺麗な綺麗な人形さん、物を仰有《おっしゃ》い、物を仰有い、貴郎《あなた》に焦れて居りまする。――などと喋舌《しゃべ》ると面白いんだがな。喋舌らないんだからつまらない[#「つまらない」に傍点]よ。もっとも人形が喋舌り出したら、俺ら仰天して逃げ出すだろうが。……が、待てよ」
 と考え込んだ。
「そうだ先刻《さっき》がた弁才坊めが、こんなことを民弥へ云っていたっけ『この人形を大事にしろ』……とすると何か人形に、秘密があるのじゃアあるまいかな? もしも秘密があるとすると、あの秘密に相違ない」ここでまたもや考え込んだ。
「そうだそうだひょっとかするとこの人形のどの辺りかに、あいつが隠してあるのかもしれない。あの素晴らしい秘密の物が」
 で、少年は窓口へ行き、仔細に人形を調べ出した。人形は随分貫目がある。少年の手には持ち重りがする。顔は非常に美しい。眼などまるっきり[#「まるっきり」に傍点]活きているようだ。紅を塗られた口からは、今にも言葉が出そうである。着ている衣裳も高価なもので、唐来もののように思われる。
 だがこれといって変わった所もない、単純な人形に過ぎなかった。
「何だちっとも[#「ちっとも」に傍点]面白くもない、ただのありきたり[#「ありきたり」に傍点]の人形だアね」
 不平らしく呟いた風船売の少年、卓の上へ人形を返そうとした時、驚くべき一つの事件が起こった。

 と云うのは突然人形が、鋭い高い金属性の声で、次のようにハッキリ叫んだのである。
「南蛮寺の謎は胎内の……」
 それだけであった! たった一声!
 よし一声であろうとも、確かに人形は叫んだのである。しかも驚くべき大きな声で。
 風船売の少年が、どんなに吃驚仰天したか、想像に余ると云ってよい。自分が泥棒だということも、忍び込んだ身だということも、何も彼も忘れて声を上げた。
「ワーッ、いけねえ、化物だあ!」
 この結果は悪かった。隣部屋に寝ていた娘の民弥《たみや》が、声に驚いて眼覚めたのである。
「どうなされましたお父様」
 まずこう呼ぶ声が聞こえてきた。つづいて起き上る気勢《けはい》がした。こっちの部屋へ来るらしい。
「いよいよいけねえ、逃げろ逃げろ!」
 人形を卓の上へ抛り出すと、窓へ飛びついた風船売の少年、ヒラリと外へ飛び出した。
 と、それと引違いに、部屋へ現われたのは娘の民弥で、開けてある窓へ眼をつけたが、「まあお父様の不用心なことは。窓をあけたままで寝ておいでなさる。その上寝言など仰有《おっしゃ》って」娘らしく明るく笑ったが、例の道化た調子となった。
「弁才坊さん弁才坊さん、民弥さんを嚇してはいけません。『ワーッ、いけねえ、化物だあ……』などと仰有ってはいけません。さあさあお眼覚めなさりませ。さあさあお話し致しましょう」佇んだまま見下ろしたが、窓から射し込む月光に照らされ、寝ている父の寝姿が、何となく異様に見えたらしい。「おや」と云うと跪坐《ひざまず》いた。
「お父様!」と声をかけ、額へ指をふれて見た。「あっ!」と叫びを上げたのは、父の額が水のように、冷々《ひやひや》と冷《ひ》えていたからである。
「お父様!」と物狂わしく、もう一度叫ぶと両手を延ばし、父の体を抱き上げた。脈もなければ温気もない、全身すでに硬直している。父はこの世の人ではなかった。父は死んでいるのであった。
 これが気弱の娘なら、取り乱したに相違ない。泣き喚いたに相違ない。気絶ぐらいはしただろう。しかし民弥は強かった。眼から涙を流しながらも、しっかり奥歯を噛みしめていた。ブルブル全身を顫わせながらも、気の遠くなるのを我慢した。
 しばらく心をしずめたのである。
「誰が、どうして、何の為に、お父様のお命を絶ったのだろう?」
 ズーッと部屋の中を見廻してみた。
「窓が一杯に開いている。用心深いお父様、開けたままお寝になるはずはない。誰かが開けたに相違ない。その誰かが下手人なのだ。……部屋の中が乱暴に取り散らしてある。どうやら何かを探したらしい。とするとあれ[#「あれ」に傍点]だ! 唐寺の謎!」
 父の殺された原因は、これでどうやら解ってきた。
「お父様が苦心して研究された、唐寺の謎の材料を、盗み取ろうとしたものが、お父様のお命を絶ったのだ」
 そこで死骸を調べ出した。切り傷もなければ突き傷もない。絞め殺された跟跡《あと》もない。
「ああ妾には解《わか》らない」
 ハッキリ解っていることは、可愛がってくれたお父様が、死んでしまったということであった。一人の父! 一人の娘! 母もなければ兄弟もない。親戚《みより》もなければ知己《しりびと》もない。で、お父様の死んだ今は、民弥は文字通り一人ぼっち[#「ぼっち」に傍点]であった。その上|生活《くらし》は貧しかった。明日の食物さえないのである。
 どうするだろう? 可哀そうな民弥?
「お父様!」と叫ぶと新しく涙、澪すと同時に泣き倒れた。
 どんなに民弥が気丈でも、その程度には限りがある。泣き倒れたのは当然と云えよう。父の冷たい額の上へ、熱で燃えるような額を宛て、民弥はいつ迄もいつ迄も泣く。
 どんどん春の夜は更けていく。咽び泣く民弥の声ばかりが、その春の夜へ糸を引く。泣き死んでしまうのではないだろうか? いつ迄もいつ迄もいつ迄も泣く。
 だがこのとき、庭の方から、厳かに呼びかける声がして、それが悲しめる民弥の心を、一瞬の間に慰めた。
「悲しめる者よ、救われなければならない。……民弥よ民弥よ嘆くには及ばぬ。……父の死骸は南蛮寺へ葬れ!」
 それはこういう声であった。
 窓の向こうに人影がある。月光の中に立っている。輪廓だけが朦朧と見える。痩せてはいるが身長《たけ》高く、黒の法衣を纏っている。日本の僧侶の法衣ではない。吉利支丹《きりしたん》僧侶の法衣である。胸に何物か輝いている。銀の十字架が月光を吸い、キラキラ輝いているらしい。非常な老人と思われる。肩に白髪が渦巻いている。胸に白髯《はくぜん》が戦《そよ》いでいる。
「ああ貴郎《あなた》様はオルガンチノ僧正!」
 その神々しさに打たれたのだろう、民弥は思わず合掌したが、ちょうどこの頃京は八条四ツ塚の辺りの一軒の家で、風変わりの二人の男女によって、こんな会話が交わされていた。

「随分遅いな、猿若は」
 こう云ったのは男である。四十格好、大兵肥満、顔はというにかなり凄い。高い段鼻、二重顎、巨大な出眼、酷薄らしい口、荒い頬髯《ほほひげ》を逆立てている。その上額に向こう傷がある。これが人相を険悪に見せる。広袖《ひろそで》を着、胸を寛《くつろ》げ、頬肘を突いて寝ころんでいる。一見|香具師《やし》の親方である。
「そりゃアお前さん遅いはずさ、あれだけの仕事をするんだからね」
 こう云ったのは女である。二十八九か三十か、ざっと[#「ざっと」に傍点]その辺りの年格好、いやらしく仇《あだ》っぽい美人である。柄小さく、痩せぎすである。で顔なども細長い。棘のように険しくて高い鼻、小柄の刃先とでも云いたげな、鋭い光ある切長の眼、唇は薄く病的に赤く、髪を束ねて頸《うなじ》へ落とし、キュッと簪《かんざし》で止めてある。額は狭く富士形である。その顔色に至っては白さを通り越して寧ろ蒼く、これも広袖を纏《まと》っている。一見香具師の女親方、膝を崩してベッタリと、男の前に坐っている。
 男の名は猪右衛門《ししえもん》、そうして女の名は玄女《げんじょ》である。
 夫婦ではなくて、相棒だ。
 家は玄女の家である。
「全く仕事の性質から云えば、かなりむずかしい[#「むずかしい」に傍点]仕事だからな、うまく仕遂《しと》げて来ればいいが、早く結果を聞きたいものさ」こう云ったのは猪右衛門、「まごまごすると夜が明ける。宵の口から出て行って、いまだに帰って来ないなんて、どうもいつも[#「いつも」に傍点]のあいつらしくないよ。やりそこなって恥かしくなって、どこかへ逃げたんじゃアあるまいかな」不安だという様子である。
「そんな心配はご無用さ」
 玄女には自信があるらしい。
「百人二百人|乾児《こぶん》もあるが、度胸からいっても技倆《うで》からいっても、猿若以上の奴はないよ。年といったらやっとこさ[#「やっとこさ」に傍点]十五、それでいて仕事は一人前さ」
「だが相手の大将も、尋常の奴じゃアないんだからな」やっぱり猪右衛門は不安らしい。
「そりゃア云う迄もありゃアしないよ。昔は一国一城の主、しかも西洋の学問に、精通している人間だからね」
「だからよ、猿若やりそこない、とっ[#「とっ」に傍点]捕まりゃアしないかな」
「なあに妾《わたし》から云わせると、相手がそういう偉者《えらもの》だから、かえって猿若成功し、帰って来るだろうと思うのさ」玄女には心配がなさそうである。
「へえおかしいね、何故だろう?」猪右衛門には解《わか》らないらしい。
「だってお前さんそうじゃアないか、相手がそういう偉者だから、なまじっか[#「なまじっか」に傍点]大人《おとな》などを差し向けると、すぐ気取られて用心され、それこそ失敗しようじゃアないか」
「うん、成程、そりゃアそうだ」今度はどうやら猪右衛門にも、胸に落ちたらしい様子であった。
 二人しばらく無言である。
 部屋の片隅に檻がある。幾匹かの猿が眠っている。彼等の商売の道具である。壁に人形が掛けてある。やっぱり商売の道具である。いろいろの能面、いろいろの武器、いろいろの衣裳、いろいろの鳴物、部屋のあちこち[#「あちこち」に傍点]に取り散らしてある。いずれも商売道具である。紙燭《ししょく》が明るく燈《とも》っている。その光に照らされて、そういう色々の商売道具が、あるいは光りあるいは煙り、あるいは暈《ぼ》かされている様が、凄味にも見えれば剽軽《ひょうきん》にも見える。
 コン、コン、コンと山羊の咳がした。庭に檻でも出来ていて、そこに山羊が飼ってあって、それが咳をしているのだろう。
 だが何より面白いのは、隣部屋から聞こえてくる、いろいろの香具師の口上の、その稽古の声であった。
「耳の垢《あか》取りましょう、耳の垢!」
「独楽は元来|天竺《てんじく》の産、日本へ渡って幾千年、神代時代よりございます。さあさあご覧、独楽廻し!」
「これは万歳と申しまして、鶴は千年の寿《よわい》を延べ、亀は万年《まんねん》を経《ふ》るとかや、それに則った万歳楽《まんざいらく》、ご覧なされい、ご覧なされい」
「仰々《そもそも》神楽《かぐら》の始まりは……」
「これは都に名も高き、白拍子《しらびょうし》喜瀬河《きせがわ》に候[#「候」は底本では「侯」]なり……」
「ヤンレ憐れは籠の鳥、昔ありけり片輪者……」
 ――などと云う声が聞こえてくる。
 隣に香具師の稽古場があって、玄女の率《ひき》いている乾児《こぶん》たちが、それの稽古をしているのらしい。
「それはそうと、ねえお前さん」
 玄女は猪右衛門へ話しかけた。
「例の恐ろしい粉薬《こぐすり》だが、どこからお前さん手に入れたのさ?」

「あああいつ[#「あいつ」に傍点]か」とニヤニヤ笑い、猪右衛門は得意らしく話し出した。「南蛮寺すなわち唐寺だが、そこから俺ら盗み出したのさ」
「へえ、なるほど、唐寺からね」
「十日ばかり前のことだったよ。俺ら信者に化け込んで、南蛮寺へ入り込んだというものさ。礼拝なんかには用はない、そこで寺内のご見物だ、ズンズン奥の方へ入って行くと、一つへんてこの部屋があった。いろいろの機械が置いてある、二人の坊主が話している。鼠のような獣がいる。と、どうだろう坊主の一人が、罐の中から粉薬を出して、鼠のような獣へ、ちょいとそいつを嗅がしたじゃアないか。するとコロリと斃《くたば》ったってものさ、鼠のような獣がな。恐ろしい恐ろしい恐ろしい魔法! 吉利支丹《きりしたん》の魔法に相違ない! こう最初には思ったが、直ぐその後で感付いたものさ、ナーニあいつ[#「あいつ」に傍点]は毒薬だとな。そこで盗もうと決めっちゃった[#「決めっちゃった」はママ]のさ。そうして隙をうかがって、うまうま盗んだというものさ」
「大成功、褒めてあげるよ」玄女は図々しく笑ったが、「でもそいつを風船へ仕込み、弁才坊殺しを巧んだのは、この妾だからね、威張ってもよかろう」
「いいともいいとも、威張るがいいや。だが成功不成功は、猿若が帰って見なけりゃアね」
「ナーニきっと成功だよ」
「うまく秘密を盗んだかしら?」
「あいつのことだよ、やりそこないはないさ」
 恐ろしい話を平然と、二人の男女は話している。
 と、猪右衛門はニヤニヤした。
「うまくいったら大金持になれる」
 すると玄女もニコツイたが、
「そうなった日には妾なんか、こんな商売はしていないよ」
「俺だってそうさ、香具師《やし》なんかしない。大きな御殿を押し建ててやるさ」
「つまらないことを云ってるよ」
「アッハハ、つまらないかな」
 苦く笑ったが猪右衛門はにわかに聞耳を引き立てた。
「どうやら帰って来たらしい」
 なるほどその時|門《かど》の戸が、ギーッと開くような音がした。
「おや本当だね、帰ったようだよ」
 二人同時に起き上った時、部屋へ駈け込んで来た少年がある。例の風船売の少年である。
「おお猿若か、どうだった?」先ず訊《たず》ねたのは猪右衛門。
「どうだもこうだもありゃッしないよ、うまくいったに相違ないさ」引き取ったのは玄女である。
「そうだろうね、え、猿若?」
「待ったり」と云うと猿若少年、走って来たための息切れだろう、苦しそうに二つ三つ大息を吐き、胸を叩いたがベッタリと坐った。それから喋舌《しゃべ》り出したものである。
「まずこうだ、聞きな聞きな、『秘密の鍵は第三の壁』『この人形を大事にしろ』弁才坊めが云っていたってものさ。ああそうだよ民弥にね。綺麗な綺麗な娘によ。全くあいつア別嬪だなあ。姐ごなんかよりゃアずっと[#「ずっと」に傍点]いいや。……ええとそれから風船だ、飛ばして置いて引いたってものさ、云う迄もないや、糸をだよ。するとパッチリ二つに割れ、パラパラこぼれたのは毒薬だ。と、ムーッと弁才坊……」
「そうかそうか、斃《くたば》ったのか?」こう訊いたのは猪右衛門。
「云うにゃ及ぶだ」と早熟《ませ》た口調、猿若はズンズン云い続ける。「で、窓から忍び込み……」
「偉い偉い、探したんだね」今度は玄女が褒めそやす。
「そうともそうとも探したのさ。目に付いたは人形だ」
「人形なんかどうでもいい、手に入れたかな、唐寺の謎?」
 猪右衛門短気に声をかける。
「急くな急くな」と猿若少年、例によって早熟た大人の口調、そいつで構わず云い続けた。
「驚いちゃアいけねえ、喋舌ったのさ。うんにゃうんにゃ呶鳴《どな》ったのさ。喚《わめ》いたと云った方が中《あた》っている。『唐寺の謎は胎内の……』――人間じゃアねえ人形だ! 人形がそう云って喚いたのさ。すると隣室《となり》から民弥さんの声だ。『どうなさいました、お父様』――つまりなんだな、目を覚ましたのさ。『ワーッ、いけねえ、化物だあ!』『いよいよいけねえ、逃げろ逃げろ!』――スタコラ逃げて来たってものさ。ああ驚いた、腹も空いた、一杯おくれよ、ねえご飯を」
「ご飯は上げるが唐寺の謎は?」訳がわからないと云うように、訊き返したのは玄女である。
「唐寺の謎? 俺ら知らねえ」
「馬鹿め!」と立ち上る猪右衛門。
 そいつを止めたのは玄女であった。
「まあまあお待ちよ、怒りなさんな。それだけ働きゃアいいじゃアないか。それにさ随分いろいろの為になる言葉を聞いて来たじゃアないか。『秘密の鍵は第三の壁』『この人形を大事にしろ』『唐寺の謎は胎内の……』――ね、どうだい面白いじゃアないか。ひとつ二人で考えてみよう。三つの言葉をくっ付けたら、唐寺の謎だって解けるかも知れない」
 玄女は考えに分け入ったが、その間も春の夜が更け、次第に暁《あけ》に近付いた。
 そうして全然《すっかり》夜が明けた時、一人の立派な若武士が、弁才坊の家を訪れた。他ならぬ森右近丸であった。

10

 信長の居城安土の城、そこから船で乗り出したのは、昨日《きのう》の昼のことであった。琵琶湖を渡って大津へ着き、大津から京都へ入ったのは、昨日の夜のことであり、明けるを待って従者《ずさ》もつれず、一人でこうやって訪ねて来たのは、密命を持っているからであった。
 庭に佇むと右近丸はまず見廻したものである。
「春の花が妍《けん》を競っている。随分たくさん花木がある。いかにも風流児の住みそうな境地だ。だがそれにしてもこの屋敷は、何と荒れているのだろう。廃屋《あばらや》と云っても云い過ぎではない。世が世なら伊勢の一名族、北畠氏の傍流の主人《あるじ》、多門兵衛尉教之《たもんひょうえのじょうのりゆき》殿、その人の住まわれる屋敷だのに。……貧しい生活《くらし》をして居られると見える」
 深い感慨に耽ったようである。
 玄関とも云えない玄関へ立ち、「ご免下され」と声をかけた。
「はい」と女の声がして、現われたのは民弥《たみや》であった。
 恭しく一礼した右近丸。
「私ことは織田家の家臣、森右近丸と申す者、弁才坊殿にお目にかかりたく、まかりこしましてござります。何とぞお取次下さいますよう」
 粗末な衣裳は着ているが、又お化粧もしていないが、自然と備わった品位と美貌、案内に出たこの娘、稗女《はしため》などとは思われない、民弥という娘があるということだ、その娘ごに相違あるまい――こう思ったので右近丸は、こう丁寧に云い入れたのである。
「ようこそお越し下されました。織田様お使者おいでに就《つ》き、父に於きましても昨日《きのう》以来、お待ち致しましてござります。然《しか》るに……」
 と云うと娘の民弥は三指をついて端然と坐り、頸《うなじ》を低く垂れていたが、静かに顔を振り上げた。
「一夜の違い、残念にも、お目にかかれぬ身の上に、成り果てましてござります」
「ははあ」と云ったが右近丸には、どうやら意味が解《わか》らないらしい。「それは又何故でござりますな?」
「逝去《なくな》りましてござります」
「死《なく》なられた※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 誰が※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」と右近丸。
「父、多門兵衛尉」
「真実かな※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」一歩進んだ。
「真実! 昨夜! 弑《しい》せられ!」
「何!」と叫んだが右近丸は、心から吃驚《びっくり》したらしい。「弑せられたと仰有《おっしゃ》るか※[#感嘆符疑問符、1-8-78] そうして誰に※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 何者に※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「下手人不明にござります」
「ム――」と云ったが右近丸は思わず腕を組んでしまった。
 朝風に桜が散っている。老鶯が茂みで啼いている。
 それを背景にして玄関には、父を失い手頼《たよ》りのない、美しい民弥が頸垂《うなだ》れている。その前に右近丸が立っている。若くて凜々しい右近丸が。
 まさに一幅の絵巻物だ。
 さてその日から数日経った。
「物買いましょう、お払い物を買いましょう」
 こういう触声《ふれごえ》を立てながら、京を歩いている男があった。他ならぬ香具師《やし》の猪右衛門《ししえもん》である。古道具買《こどうぐか》いに身をやつし[#「やつし」に傍点]、ノサノサ歩いているのである。
 足を止めたのは南蛮寺の裏手、民弥の家の前であった。
「家財道具やお払い物、高く買います高く買います」一段と声を張り上げて、こう呼びながら眼を光らせ、民弥の家を覗き込んだ。

11

 民弥の家の一つの室《へや》では二人の男女が話していた。
 その一人は民弥であり、もう一人は右近丸であった。
 父を失い孤児《みなしご》となった、民弥の身の上を気の毒がり、右近丸は見舞いに来たのである。しかし勿論一方では、殺された不幸の弁才坊が、生前研究した唐寺の謎の、研究材料を探し出し、主君信長公の命令通り、高価の金で買い求めようと、そうも考えて来たのであった。
 窓から昼の陽が射し込んでいる。室《へや》が明るく輝いている。生前の弁才坊の研究室であり、また殺された室でもあった。秘密を保とうためなのだろう、四方板壁でかこまれた、紅毛振の室である。その一方に扉がある。紅毛振の扉である。扉と向かい合った一方の壁には、巨大な書棚が据えてある。書棚には本が積んである。巻軸もあれば帙入《ちついれ》もある。西班牙《スペイン》文字の本もある。いずれも貴重な珍書らしい。扉を背にして左の壁に、穿いているのが窓である。扉を背にして右の壁に、懸けてあるのは製図である。室の広さ十五畳敷ぐらい、そこに置かれてある器物といえば、測量機、鑿孔機《さくこうき》、机、卓、牀几《しょうぎ》というような類である。窓から投げ込まれる春の陽に、それらのものが艶々と光り、また陰影《かげ》を印《つ》けている。
 極めて異国趣味の室である。
 牀几に腰かけた二人の男女、民弥《たみや》とそうして右近丸《うこんまる》、清浄な処女と凜々しい若武士《わかざむらい》、この対照は美しい。
「秘密の鍵は第三の壁、こう確かに弁才坊殿には、仰せられたのでございますな?」いずれ話の続きだろう、こう訊いたのは右近丸。
「はい、さようでございます」こう答えたのは民弥である。直ぐに後を云いつづけた。「弑《しい》せられる日の夕暮方、父が申しましてございます。秘密の一端明かせてやろう、室へおいで、来るがよいと……で、この室へ参りましたところ、父が申しましてございます。『秘密の鍵は第三の壁』それから更に申しました。『この人形を大事にしろ』ただそれだけでございました。どうやら父と致しましては、もっともっと何か詳しいことを、話したかったのでございましょう、そう申してからもしばらくの間考え込んで居りましたが、その中《うち》日が暮れて宵となり、そこの窓から何者か――近所の子供だとは存じますが、覗いているのを目つけますと、フッツリ黙り込んでしまいました。あの時子供さえ覗かなかったら、きっときっとお父様は、もっともっと詳しいお話を、お話し下されたことと思われます。詳しく聞いてさえ居りましたら、研究材料の有場所など、直ぐにも知ることが出来ますのに、ほんとに惜しいことをいたしました。憎らしいは子供でございます。つまらない[#「つまらない」に傍点]はお父様でございます。ほんとにつまらない[#「つまらない」に傍点]お父様! そんな子供の立聞などに、神経を立てなければようございましたのに。ほんとにつまらない[#「つまらない」に傍点]お父様!」
 民弥はこんなことを云い出した。「ほんとにつまらない[#「つまらない」に傍点]お父様だ」などと……これでは死んだ自分の父を、攻撃《せ》めているようなものである。しかも民弥の云い方には、楽天的の所がある。また快活な所がある。父の死んだということを、悲しんでいるような様子がない。道化てさえもいるのである。一体どうしたというのだろう? 民弥はそんな不孝者なのだろうか? いやいやそうとは思われない。民弥と父の弁才坊とは、真実の親子でありながら、まるで仲のよいお友達のように、道化た軽口ばかり利き合っていた。それが全然習慣となって、父の逝くなった今日でも、そんなに快活で楽天的で、道化てさえもいるのだろうか? もしそうなら民弥という娘は、不真面目な女といわなければならない。否々そうでもなさそうである。では何かその間に、云われぬ秘密がなければならない。どっちみち民弥の言葉や態度には、道化たところがあるのであった。
 そういう民弥の様子に対し、森右近丸は不審を打った。しかし不審は打ったもののメソメソ泣かれたり悲しまれたり、訴えられたりするよりは、却って気持はよいのであった。「勿論心中では悲しみもし、又嘆いてもいるのだろうが、非常にしっかりした性質なので、努めて抑え付けているのだろう。そうして故意《わざ》と快活に、そうして故意と道化たように、振舞っているに相違ない。ではこっちもその意《つもり》で、それに調子を合わせて行こう」――これが右近丸の心持であった。
 で右近丸は云ったものである。
「いや全く弁才坊殿は、つまらない[#「つまらない」に傍点]お方でございましたよ。訳のわからない暗号のような、変な謎語を残しただけで、死んでしまったのでございますからな。……先ずそれはそれとして、せっかく残された二つの謎語、うっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]置く事も出来ますまい。解いてみることにいたしましょう。ひょっとすると[#「ひょっとすると」に傍点]この謎語に、唐寺の謎を解き明かせた、研究材料の有場所が語られてあるかもしれません」
 で右近丸は考え込んだ。

12

 考え込んでいた右近丸が、ヒョイと牀几《しょうぎ》から立ち上り、室《へや》の真中へ出て行ったのは、やや経ってからの後の事であった。
 と右近丸は云い出した。
「第三の壁という言葉の意味、どうやら解《わか》ったようでございますよ。物の方角を現わすに、東西南北という言葉があります。そこでこの室《へや》の真中に立ち、東西南北を調べてみましょう。そうして東西南北を、一二三四に宛て嵌めてみましょう」ここで右近丸は片手を上げ、一方の壁を指さした。「そっちが東にあたります。で、そっちにあるその壁を、第一の壁といたしましょう」右近丸はグルリと振り返えり、反対の壁を指さした。「そっちが西にあたります。で、そっちにあるその壁を、第二の壁といたしましょう」ここで右近丸は身を翻えし、書棚のある壁を指さした。「そっちが南にあたります。で、そっちにあるその壁を、第三の壁といたしましょう。即《すなわ》ち」と云うと右近丸は、民弥へ向かって笑いかけた。「書棚の置いてある南側の壁が、第三の壁でございます」
 こう云われたので娘の民弥はなるほどとばかり頷いた。
「よいお考えでございますこと、大方《おおかた》その通りでございましょう。ではその壁の。……その書棚の……書棚の中の書物《ほん》のどこかに、唐寺の謎を解き明かせた、研究材料の有場所が、記されてあるかもしれません」
「さよう即ち秘密の鍵が、隠くされてあるかもしれません。どれ」と云うと右近丸は、ツカツカ書棚の前へ行き、一渡り書物を眺めてみた。が書物の数は非常に多く、いずれも整然と並べてあり、一々取り上げて調べていた日には、手数がかかって遣りきれそうもなかった。だがその中の一冊の書物が、特に右近丸の眼を引いた。何の変わったところもない、帙入《ちついれ》の書物ではあったけれど、その書物だけが奇妙にも、逆さに置かれてあるのであった。即ち裏表紙を上へ向けて、特に置かれてあるのであった。
「はてな?」と呟いた右近丸ツトその書物を取り上げたが、まず帙《ちつ》からスルリと抜き出し、それからパラパラと翻《めく》ってみた。と、どうだろう、何にも書いてない。全体がただの白紙なのである。――と思ったのは間違いで、書物の真中《まんなか》と思われる辺りに、次のような仮名文字が記されてあった。
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「くぐつ、てんせい、しとう、きようだ」
[#ここで字下げ終わり]
 何のことだか解《わか》らない。どういう意味だか解らない。呪文のような文句である。
「おかしいなあ、何のことだろう?」
 文字を見詰めて右近丸は、しばらく熟慮したけれど、意味をとることは出来なかった。
 で、そのまま書物を閉じ、帙へ入れると書棚へ返し、それから改めて卓《たく》の上の、人形を取り上げて調べたが、奈良朝時代の風俗をした、貴女人形だというばかりで、これと云って変わったところもない。
 悉皆目算は外れたのである。
 失望をした右近丸は、佇んだまま考えている。
 同じように失望した娘の民弥は、これも佇んで考えている。
 唐寺の鐘の鳴る頃である。夕の祈りをする頃である。永い春の日も暮れかかってきた。
「明日また参るでございます」
 別れを告げた右近丸が、民弥の屋敷を立ち出でたのは、それから間もなくのことであった。心にかかるは謎語であった。
「『くぐつ、てんせい、しとう、きようだ』……何のことだろう? 何のことだろう?」
 南蛮寺の横を歩いて行く。
 森右近丸が帰ってしまうと、やっぱり民弥は寂しかった。そこで一人で牀几《しょうぎ》に腰かけ、窓から呆然《ぼんやり》と外を眺め、行末のことなどを考えた。
 窓外の春は酣《たけなわ》であった。桜はなかば散ってはいたが、山吹の花は咲きはじめていた。紫蘭《しらん》の花が咲いている。矢車の花が咲いている。九|輪草《りんそう》[#ルビの「りんそう」は底本では「りんさう」]が咲いている。そこへ夕陽が射している。啼いているのは老鶯である。と、駒鳥の啼声もした。
 それらの物を蔽うようにして、高々と空に聳えているのは、南蛮寺の塔であった。夕陽を纏っているからであろう、塔の頂が光っている。
「これからどうしたらいいだろう?」ふと民弥は呟いた。「お父様は南蛮寺へお送りした。だからその方の心配はない。でもお父様がおいでなされない以上、誰も稼いでくれ手はない。妾《わたし》のお家は貧乏だ。食べるものにさえ事欠いている。どうしてこれから食べて行こう? 妾が町へ出て行って物乞いしなければならないかしら? でも妾は恥かしい。妾にはそんな事出来はしない。でも稼がなければ食べられない。お裁縫でもしようかしら? でも頼み手があるだろうか? ……南蛮寺の謎を解き明かせた、研究材料さえ目つかれば、安土に居られる信長卿が、高価にお買い取り下さると、右近丸様は仰有《おっしゃ》ったけれど、何時になったら研究材料が目付かるものやら見当がつかない。……これから毎日右近丸様が、お訪ね下さるとはいうけれど、生活《くらし》のことまでご相談は出来ない。ああどうしたらいいだろう?」
 民弥はこれからの生活について心を傷めているのであった。
 その民弥の苦しい心を、見抜いて現われて出たかのように、窓からヒョッコリ顔を出したのは、古道具買に身を※[#「にんべん+肖」、第4水準2-1-52]《やつ》した、香具師《やし》の親方|猪右衛門《ししえもん》であった。
 ジロジロ室《へや》の中を覗いたが、声を張り上げると云ったものである。
「家財道具やお払い物、高く買います高く買います」諂《へつら》うように笑ったが「これはこれはお嬢様、綺麗な人形がございますな。お売り下さい買いましょう。小判一枚に青差一本、それで買うことに致しましょう」ここでヒョッコリとお辞儀をしたが、その眼では卓の上の人形を、じっと睨んでいるのであった。

13

 小判一枚に青差一本! これは実際|民弥《たみや》にとっては、大変もない誘惑であった。それだけの金が今あったら、相当永く生活《くらす》ことが出来る。そこで民弥は考えた。
「この人形を大事にしろ!」こうお父様は仰有ったけれど、どういう意味だか解《わか》らない。元々あれは妾《わたし》の物だ。逝くなった妾のお母様が、妾に買って下されたものだ。それを中頃お父様が、どうしたものかお取り上げになった。そうしてどうやら人形のどこかへ、何か細工をなされたようだ。でも真逆《まさか》に人形の中に、南蛮寺の謎を解き明かせた秘密の研究材料など、隠してあろうとは思われない。売っても大事はないだろう。第一背に腹は代えられない。よしやどんなに人形が大事なものであろうとも、食べられなければ売らなければならない。売ってしまおう売ってしまおう。そうして当座の中《うち》だけでも、生活を楽にすることにしよう。
 そこで、民弥は切り出した。
「大事な人形ではございますが、小判一枚に青差一本、それでお買い取り下さるなら、お売りすることに致しましょう」
 すると猪右衛門は頷いたが、やがてこんなことを云い出した。
「実はな」と薄っぺらな能弁である。「こういう訳でございますよ。ナーニ商売の道から云えば、奈良朝時代の貴女人形、大した値打もありませんので。精々がところ青差二本……ぐらいな物だと思いますので。ところが小判を一枚はずみ、そこへ青差を一本付け、相場違いの大高値で、譲っていただこうというのには、他に目的がありますからで。と云うのは人形のその中に、南蛮寺の謎を解き明かせた……オットドッコイ口が辷《すべ》った。ナニサナニサそうではない。つまり人形がよいからで。と云うのはそいつが喋舌《しゃべ》るからで。さようでございます。人形がね。何と喋舌るかと云いますと、『唐寺の謎は胎内の』オットいけねえ、軽はずみな、またまた口が辷ってしまった。アッハハハ馬鹿な話で、何のお嬢様、人形などが、何の物など云いましょう。へいへい物など云いませんとも、いえナニ物でも云いそうな程、さも活々とよく出来た、結構な人形でございますので、そこで高値にいただこうと、こういう次第なのでございますよ。では」と云うと猪右衛門は懐中《ふところ》へ腕を差し込んだが、ヒョイと抜き出すと掌《てのひら》の上に、小判を一枚のっけている。「まず小判、お取りなすって」もう一度懐中へ手を入れたが、取り出したのは青差である。「これは青差、お取りなすって」
「はいはい確かに受け取りました」
 こう云うと民弥は窓越しに、小判と青差とを受け取ったが、引き返すと卓の側《そば》へ行き、卓に載せてある人形を、優しく胸へ抱きかかえた。
 と、窓から人形を、猪右衛門へ渡したものである。
 両手で受け取った猪右衛門は謂うところの北叟笑《ほくそえみ》、そいつを頬へ浮かべたが、「これで取引は済みました。ではお嬢様え、ご免なすって」
「可愛い人形でございます、大切に扱って下さいまし」
 永年の間傍へ置き、慣れ馴染んで来た人形である。それが売られて行くのである。それが人手へ渡るのである。二度と持つことは出来ないだろう。二度と逢うことは出来ないだろう。――こう思うと民弥には悲しいのだろう、こう寂しそうに声をかけた。
「かしこまりましてございますよ。大切に扱かうでございましょう。ヘッヘッヘッヘッ帰るや否や、腹を立ち割り胎内の……アッハッハッハッ嘘でございますよ。ナーニ早速よいお家へ、売り渡すことにいたします。と、綺麗なお姫様の、玩具《おもちゃ》になることでございましょう。いや人形にとりましても、こんな廃屋《あばらや》にいるよりは、どんなにか出世というもので、オット又もや口が辷った。ご免下さい。ご免下さい」
 駄弁を弄して猪右衛門は花木の間を大跨に歩き、往来の方へ出て行ったが、ちょうどこの頃森右近丸は、南蛮寺を出外れた四条通り[#「四条通り」は底本では「四条り通」]を、考えに耽りながら歩いていた。

14

 四条通りは寂しかった。人の往来《ゆきき》も稀であった。右近丸は歩いて行く。夕陽が明るく射している。家々の蔀《しとみ》が華やかに輝やき、その代り屋内が薄暗く見え、その屋内にいる人が、これも薄暗く暈《ぼ》かされて見える。焚香《ふんこう》[#ルビの「ふんこう」は底本では「ふんかう」]の匂いなどもにおってくる。
 右近丸は歩いて行く。
 と、俄《にわか》に足を止めた。「解《わか》った!」と呻くように云ったものである。「『くぐつ』とは人形の別名だ。傀儡《くぐつ》だ傀儡だ! 人形のことだ! 『てんせい』というのは眼のことだろう。画龍点睛《がりゅうてんせい》という言葉がある。龍を画《えが》いて眼を点《てん》ずる! この点睛に相違ない。『しとう』というのは『指頭《しとう》』のことだろう。指先ということに相違ない。『きようだ』というのは『強打』なんだろう。強く打てということなんだろう。――人形の眼を指の先で、強く打てという意味なのだ。そうしたら例の唐寺の謎の、研究材料の有場所が、自ずと解るということだ。うむ、そういえば弁才坊殿には『この人形を大事にしろ』と民弥殿に云ったということだ。これで解った、すっかり解った! 奈良朝時代の貴女人形、あの人形の眼さえ打ったら、唐寺の謎の研究材料、その有り場所が解るのだ。……これはこうしてはいられない。すぐ引っ返して民弥殿と逢い、あの人形を調べてみよう!」
 身を翻えすと右近丸は元来た方へ引っ返した。
 ちょっとの躊躇も許されない。見得も外聞も構っていられぬ。で右近丸は走り出した。
 が、どんなに急いでも、人形は売られた後である。人手に渡った後である。どうすることも出来ないだろう。
 まさしくそれはそうであった。息せき切った右近丸が、民弥の屋敷へ駈け込んで、例の室で民弥と逢い、人形の行方を尋ねた時、民弥の口から右近丸は、残念な報告を聞かされたのである。
 小判と青差を卓の上へ載せ、それに見入っていた娘の民弥は、右近丸が入って来るのを見ると、驚いたように云ったものである。
「まあそのあわただしい御様子は、どうなされたのでございます?」
 それには碌々挨拶もせず、右近丸は室を見廻したが、「民弥殿! 民弥殿! 人形を! ……ちょっと人形をお見せ下され!」
 すると民弥は赤面したが、小判と青差とを指さした。
「小判とそうして青差とに、人形は変わってしまいました」
「え?」と云ったものの右近丸には、何のことだか解らなかった。で直ぐに云い続けた。「帙入《ちついれ》の書物《ほん》に記されてあった、『くぐつ、てんせい、しとう、きようだ』……この謎語の意味解ってござる! 人形の眼を指の先で、強く打てという意味なのでござる。そうしたら逝《な》くなられた弁才坊殿が、苦心をされて調べあげた、唐寺の謎の研究材料、その有場所が解るのでござる! 奈良朝時代の貴女人形、あの人形に一切合財、秘密が籠っているのでござる。お見せ下され、貴女人形を!」
「まあ」と叫ぶと娘の民弥は仰天して立ち上ったが、見る見る顔色を蒼白くした。と、グッタリと牀几の上へ、腰を下ろすと喘ぎ出した。
「一足違い! 一足違い!」
「何?」とばかり右近丸。
「売り渡しましてございます」
「誰に※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」と右近丸は胸をそらせた。
「今しがた来た古道具買に……」
「誠か※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」と云ったが嗄声《かれごえ》である。「で、そやつ、どの方角へ?」
「はい……一向……その辺りの所は……」
「ご存じないと云われるか?」
「存じませんでございます」
 ここに至って右近丸は落胆したというように、牀几にべッタリ腰かけてしまった。苦心が水泡に帰したのである。又九|仭《じん》の功名を、一|簣《き》に虧《か》いてしまったのである。落胆するのは当然である。
 しばらく二人とも物を云わない。互いに顔さえ見合わさない。溜息を吐くばかりである。
 すっかり夕《ゆうべ》の陽も消えた。窓外がだんだん暗くなる。花木の陰が紫から、次第に墨色に移って行く。
 と、俄《にわか》に右近丸は勢い込んで飛び上ったが、「うっちゃって置くことは出来ません、たとえ京の町は広くとも、探して探されないものでもなし、立ち去って間もないというからには、あるいはこの辺りに古道具買徘徊して居るかも知れません。すぐに参って目付け出し、奈良朝時代の貴女人形買い戻すことにいたしましょう」
「それでは」と民弥も意気込んだ。「妾《わたし》もお供いたします!」
「おお、そなたも参《まい》られるか」
「参りますとも参りますとも! 妾ご一緒に参らなければ、人形を買った古道具買の、人形風俗わかりますまい!」
「これは如何にもご尤も! それでは一緒に!」
「右近丸様!」
「おいでなされ!」
 と走り出た。続いて民弥も女ながら、一所懸命の場合である。小褄《こづま》を取ると嗜《たしなみ》の懐刀、懐中《ふところ》へ入れるのも忙しく、後に続いて走り出た。

15

 ここは五条の橋である。
 今、宵月に照らされて、フラフラ歩いて来る人影がある。古道具買に身を※[#「にんべん+肖」、第4水準2-1-52]《やつ》した、香具師の親方の猪右衛門である。両手に人形を持っている。非常に非常に機嫌がよい。独り言を云っている。
「こんなに楽々と苦労もなく、唐寺の謎を持っている。奈良朝時代の貴女人形を、手に入れようとは思わなかったよ。運がよかったというよりも、俺に才智があったからさ。……さて所で人形だが、物を云うということだが、どうしたら物を云うだろう?」
 人形の手を引っ張って見た。が、人形は物を云わない。そこで足を引っ張って見た。が、人形は黙っている。今度は首を捻ってみた。しかし人形は音を出さない。
「不思議だな、どうしたんだろう? あんなことを猿若は云ったけれど、物なんか云わないのじゃアあるまいかな。人形が物を云うなんて、どう考えたってへんてこだからなあ。でもし物を云わないとすると、弁才坊めが苦心して、唐寺の謎を解き明かせた、研究材料の有場所を、発見することが出来なくなる。困ったことだ、困ったことだ。……ナーニ、ナーニ、そんなことはないさ。どうかしたら物だって云うだろう。もし又物を云わないようなら、人形の腹を立ち割ればいい。そうしたら秘密は解けるだろう。『この人形を大事にしろ』弁才坊めが民弥めに、こんなように云ったというからな。大事な秘密が人形の中に、隠されているのは確からしい。……どっちみち早く帰るとしよう」
 五条の橋を渡って行く。
 渡り切った所に柳がある。ちょうどそこまで来た時であった。一つの人影が現われた。柳の陰から現われたのである。
「オイどうだったい猪右衛門さん」
 その人影が声をかけた。同じ香具師の女親方、猪右衛門と相棒の玄女であった。
「ヨー、これは玄女さんか」
「首尾はどうかと思ってね、ここ迄様子を見に来たのさ。お迎えに来たと云ってもいい」
 玄女はニヤニヤ笑っている。
「首尾は上々この通りさ。うまうま人形を手に入れたよ」
 こう云うと猪右衛門は人形を、ヒョイとばかりに突き出した。
「おやマァ大きな人形だねえ。そうして随分立派じゃアないか。どれどれ妾《わたし》に抱かせておくれよ」
「オッとよしよし抱くがいい」
 玄女は人形を受け取ったが、月光に隙かしてつくづく見た。
 人形は精巧に出来ている。顔など活きているようだ。今にも物を云いそうである。
「成程ねえ、この人形なら、物を云うかもしれないねえ」
 玄女は感心したらしい。で、猪右衛門のやったように、人形の手を引っ張ったり、足を引っ張ったりしたけれども、人形は物を云わなかった。
「とにかくここに突っ立って、人形いじりをしていたって、どうも一向はじまらないよ。家へ帰ってゆっくりと、人形いじりをすることにしよう」と玄女はスタスタ歩き出した。
「それがいいいい」と猪右衛門も、玄女と並んで歩き出した。しかし十間とは行かなかったろう、背後《うしろ》から呼びかける声がした。
「古道具買さん古道具買さん、ちょっとお待ち下さいまし」
 それは女の声であった。
 驚いた玄女と猪右衛門が足を止めて振り返ると、いずれ走って来たのだろう。息を切らせた若い娘と、若い武士とが立っていた。
 娘は民弥、武士は右近丸、うまく二人を目つけたのである。
 民弥を見ると猪右衛門は、これは! というような表情をしたが、「オヤオヤこれは先刻方、人形をお売り下された、お嬢さんではございませんか。何かご用でございますかな」こう云いながら猪右衛門は素早く玄女へ眼配せをした。用心しろと云ったのである。
「はい」と云うと娘の民弥は気の毒そうに云い出した。「少し都合がございますので、お売りいたした人形を、買い戻しとう存じます。どうぞお返し下さいまし」
「成程」と云ったものの猪右衛門はどうしてどうして返すことではない。鼻の先でフフンと笑った。「がどうもそいつはいけますまいよ」
「それは又何故でございますか」民弥も後へ引こうとはしない。
「一旦買い取った上からは、この人形は私の物、お返しすることではございません」
「そう仰有《おっしゃ》らずに是非どうぞ……」
「駄目だあアーッ」とがぜん猪右衛門は兇悪の香具師の本性を、露骨に現わして一喝した。「帰れ帰れ! 返しゃアしねえ!」
「これ!」と叱るように声をかけ、進み出たのは右近丸で見れば両眼を怒らせて、刀の柄へ手をかけている。

16

「売りは売ったが金を返し、買い戻そうと申すのだ、何が不足で返さぬと云うぞ! 返辞によっては用捨せぬ! 懲しめるぞよ、どうだどうだ!」
 こう云ったが右近丸は感付いた。「ははあ儲けが欲しいのだな」そこで今度は穏しく、「成程なるほど考えて見れば、お前は商人《あきんど》古道具買、せっかく手に入れた品物を、元価《もとね》で返しては商売になるまい。よろしいよろしい増金をしよう。青差一本余分につける。これでよかろう、さあさあ返せ」
 だが香具師の猪右衛門は相手にしようとはしなかった。
「駄目だアーッ」と再び呶鳴《どな》ったが、思量なくベラベラ喋苦《しゃべ》り出した。「これお侍に娘っ子、聞け聞け聞け、聞くがいい、奈良朝時代の貴女人形、返しゃアしねえよ、返すものか! 青差一本は愚かのこと、黄金幾枚つけようと、返すものかア、返すものかア! オイ!」と云うとヒョイと進み、白歯を剥いて笑ったが、それから尚も云い続けた。「と云うのは他でもねえ、この人形の胎内に、大事な秘密があるからよ。唐寺の謎! 唐寺の謎!」
「おっ!」と叫んだは右近丸である。「ううむ、汝《おのれ》どうしてそれを?」
「知っているのが不思議かな!」猪右衛門はいよいよ嘲笑的に、憎々しく首を突き出したが、「まず云うまいよ、明かすまいよ。が、ハッキリと云って置く、それさえ解いたら素晴らしいもの[#「もの」に傍点]が、手に入ることになっている、南蛮寺の謎――唐寺の謎が、籠っているのだ、人形にはな! だからよ小判一枚と、青差一本というような、破格な高価で買ったのさ! そうでなかったらこんな人形、そんな高価で買うものか! オッと待ったり」と猪右衛門は迂散《うさん》らしく右近丸と民弥とを、かたみがわりに見やったが。「ははあそうか、ははあそうか、一旦売った人形を、取り返そうとするからには、さては汝等《うぬら》も人形の、胎内の謎に感付いたな。と云うことであってみれば、人形はいよいよ返されねえ。オイ玄女さん」と猪右衛門は玄女の方を見返ったが、「お聞きの通りだ、この連中、人形の秘密に感付いたらしい。まごまごしてはいられない、行こう行こう、急いで行こう」
「それがいいねえ、そうしよう」
 こう云ったのは玄女である。胸にしっかり人形を抱き、猪右衛門と右近丸の問答を、面白そうに見ていたが、こうこの時云ったのである。
「それじゃア走って行くとしよう、お前さんも急いで来るがいいよ。さあさあおいでよ、猪右衛門さん!」
「よし来た、急ごう、それ走れ」
 そこで玄女と猪右衛門は右近丸と民弥を尻目にかけ、サーッと四ツ塚の方へ走り出した。怒りをなしたのは右近丸である。
「待て!」と一声呼びかけたが、すぐに民弥を振り返った。
「ご覧の通りの彼等の有様、人形の秘密を知った上で、ペテンにかけて買い取った様子、とうてい尋常では返しますまい。もうこうなっては止むを得ませぬ、腕を揮うは大人気ないが、今は揮わねばなりますまい。貴女《あなた》にもご用意、玄女とやらいう女へ、掛かって人形をお取り返し下され、拙者は一方猪右衛門とやらへ、掛かって懲らすことに致しましょう」
 腰の長太刀《ながたち》を引き抜いた。
「はい、それではこの妾《わたし》も」云うと同時に娘の民弥はグッと懐中《ふところ》へ手を入れたが、キラリと抜いたは懐刀である。
「待て!」ともう一度声を掛け、逃げて行く猪右衛門の背後《うしろ》から、颯《さっ》と一刀浴びせかけた。
「ワッ」と云う喚き! 猪右衛門だ! もんどり[#「もんどり」に傍点]打って倒れたが、不思議と血潮は流れなかった。当然である。右近丸がこんな下人を切ったところで、無駄な殺生と考えて、ピッシリ峯打に後脳を、一つ喰らわせたに過ぎなかったのだから。
 香具師の頭の猪右衛門は、しかし右近丸が思ったより、獰猛な性質の持主であった。打たれて地上へは倒れたが、隠し持っていた一腰を、引き抜くと翻然飛び上った。
「こんなものだアーッ」と凄じい掛声! 右近丸を目掛けて猪右衛門は一本「突き」を突っ込んだ。立派な腕前、油断のならぬ気魄、右近丸思わずギョッとしたが、さてその右近丸ときたひには、この時代の剣聖塚原卜伝、その人に仕込まれた無双の達人、香具師の頭猪右衛門などに、突かれるようなヤクザではない。横っ払いに払い捨てた。と、チャリーンと太刀の音! 人通りの絶えた寂しい五条、そこの夜の気に響いたが、さすがに気味の悪い音であった。
 と、一方この時分、民弥は懐刀を振りかざし、玄女の行手へ突っ立っていた。

17

 行手へ突っ立った娘の民弥、
「玄女《げんじょ》さんとやら、改めて、貴女《あなた》へお願い致します。人形をお返し下さいまし」
 言葉は優しいが態度は強く、厭と云ったら用捨しない、懐刀で一|揮《き》、片付けてやろうと、決心しながら詰め寄せた。素性は名流北畠家の息女、いつの間にか父親|多門兵衛尉《たもんひょうえのじょう》に、武術の教を受けたものと見え、体の固め眼の配り、寸分際なく神妙である。
 しかし一方香具師の頭、玄女も決して只者ではなかった。
「民弥さんとやら、断わりましょう」にべもなくポンと付っ刎ねたが、「この人形の返されない訳は、今も仲間の猪右衛門《ししえもん》さんが、お話ししたはずでございますよ。……いわば私達にとりましては、貴女方お二人というものは、唐寺の謎を孕んでいる、この人形の取り遣りの、競争相手でございます。なんのそういう競争相手に、人形をお返し致しましょう。お断わりお断わり、断わります。……オヤオヤ見受ければまだお若い、無邪気な娘さんでありながら、物騒千万懐刀などを、振り冠って何となされるやら、ほほうそれでは腕ずくで、人形を取ろうとなされるので? 怪我をしましょう、お止しなされ! どうでも刃物を揮われるなら、妾も香具師の女親方、二十三十の荒くれ男を、使いこなしている商売柄、何のビクともいたしましょう、お相手しましょう、さあおいでよ!」
 胸に抱いていた人形を、左の脇下へ掻《か》い込むと、右手を懐中《ふところ》へ捻じ込んだ。グッと引抜き振り冠った途端、頭上にあたって、キラキラと月光を刎ね返すものがあった。すなわち長目の懐刀である。すなわち玄女が懐刀を抜き、同じく頭上へ振り冠ったのである。
 と、玄女飛び込んだ。民弥の肩へズーンと一刀! 刀の切先を突き立てたのである。
 なんの民弥が突かれるものか、右へ流すとひっ[#「ひっ」に傍点]外《ぱず》しどんと飛び込んで体あたり[#「あたり」に傍点]! 流されたのでヨロヨロと泳いで前へ飛び出して来た玄女の胴へ喰らわせた。それが見事に決まったと見える、玄女は地上へ転がったが、金切声で喚き出した。
「さあさあみんな出ておくれよ!」
 するとどうだろう、声に応じ、家の陰やら木の陰やら、橋の下やら、土手の下から、二十人あまりの人影が、獲物々々を打ち振って、黒々として現われた。
 こういうこともあろうかと、予《あらかじ》め玄女が伏せて置いた、彼女の手下の香具師共らしい。
 グルグルと民弥を引っ包んだ。
「さあさあお前達力を合わせ、この娘を手取にするがいい」
 飛び起きた玄女は声を掛けた。「仲々綺麗な娘だよ、捕らえて人買へ売り込んだら、相当の金になるだろう。切ってはいけない、傷付けてもいけない、お捕らえお捕らえ捕らえるがいい!」
「合点々々それ捕らえろ!」
「ソレ引っ担げ引っ担げ!」
 香具師の面々声掛け合わせ、ムラムラと民弥へ押し逼《せま》った。
 仰天したのは民弥である。こんな伏勢《ふせぜい》があろうとは、夢にも想像しなかった。
「これは大変なことになった。……もうこうなっては仕方がない。血を流すのは厭だけれど、切り散らさなければならないだろう」
 そこで一躍右へ飛び、ヒューッと懐刀を打ち振った。「ワッ」という悲鳴! 倒れる音! 香具師の一人切られたらしい。
 しかし香具師共は二十人以上、しかもその上命知らず、兇暴の精神の持主である。一時サーッと退いたが、すぐまた民弥を取り巻いた。
「女の手並だ、知れたものだ、組み敷け組み敷け、取り抑えろ!」
 棒を投げ付ける者もある。足を攫おうとするのである。縄を飛ばせる者もある。引っくく[#「くく」に傍点]ろうとするのである。
 今は民弥も必死である。サーッと一躍左へ飛び、「エイ!」と掛声! 裂帛《れっぱく》の呼吸《いき》! 懐刀をまたもや一揮した。と同時に「ワッ」という悲鳴! そうして続いて倒れる音! 民弥に切られて香具師の一人、ぶっ倒れたに相違ない。
 またもや香具師共はサーッと引き、遠巻きにして取り巻いたが、「強いぞ強いぞ、案外強い! と云ったところでたかが女、蹴倒せ蹴倒せ踏み倒せ!」
 そこでまたもや寄せて来た。
 民弥武道には勝れても、若い女のことである、敵を二人迄切っている。呼吸《いき》切れせざるを得なかった。ハッ、ハッ、ハッと大息を吐き、疲労《つかれ》て萎る両足を、グッと構えて姿勢を正し、振り冠った懐刀月光に顫わせ、ムーッと香具師共を睨み付けた。しかし以前《まえ》程の元気はない。
「一度に寄せろ、占めた占めた! 女は疲労た、からめ[#「からめ」に傍点]捕れ! この機を外すな、からめ[#「からめ」に傍点]捕れ!」
 香具師共ドッと押し寄せた。
 以前程の元気はないのである。民弥は疲労ているのである。そこを狙って多勢の香具師共、一度に寄せて来たのである。危険だ危険だ捕らえられるかも知れない。
 だがこの時声がした。
「強いぞ強いぞ侍めは! あぶないあぶない一時逃げろ!」
 他ならぬ猪右衛門の声である。
 つづいて右近丸の声がした。「お助けいたす、民弥殿!」
 バタバタバタバタと足の音! 右近丸のために切り立てられ、逃げて来た猪右衛門の足音である。それに続いてまた足音! 猪右衛門の後を追っかけて、走って来た右近丸の足音である。
 と、「ワッ」という数声の悲鳴! 民弥をグルグルと取り巻いていた香具師の群から起こったが、これは馳せ付けた右近丸が、太刀を揮って背後《うしろ》から、二三人を切って倒したのである。
 当然香具師の円陣が崩れ、バラバラと四方へ別れたが、四ツ塚の方へ走り出した。
 つと[#「つと」に傍点]現われたは右近丸、「おお民弥殿!」
「右近丸様!」
「どこもお怪我は?」
「ございませんでした」
 力が抜けたのか娘の民弥が、グッタリと右近丸へもたれる[#「もたれる」に傍点]のを、胸で支えて左手で抱き、右手に握った血刀を、グーッと高くかざしたが、右近丸大音に呼ばわった。
「人形を返せ! 人形を返せ!」
 しかし玄女も猪右衛門も、手下と雑って逃げるばかりで、返辞をしようともしなかった。
「残念々々、人形をみすみす取られる、みすみす取られる!」
「右近丸様!」と血走った声! 民弥は元気を取り返したらしい。
「追っかけましょうどこまでも! 取り返しましょう人形を!」
「しかし」と躊躇《ためらっ》た右近丸、「走れますかな、貴女には?」
「無理にも走って参ります! 途中で血を吐き死にましても、きっと走って参ります! 永年の間お父様が、苦心して調べた唐寺の謎、それを解き明かした研究材料、それを持っている人形を、妾《わたし》の粗相でなくなしては、父に申し訳ございません! どこどこ迄も追い詰めて、取り返さなければなりません」
「立派な決心!」と右近丸は感激した声で叫んだが「それでは一緒に!」
「追っかけましょう!」
「汝等《おのれら》待てーッ」と右近丸は叫びを上げながら走り出した。
 負けずに民弥もひた[#「ひた」に傍点]走った。
 右近丸の持った血染めの太刀、民弥の持った血染めの懐刀、走るに連れて月光を弾き、凄じくキラキラ反射する。朧《おぼろ》の月夜である。四辺《あたり》がボッと仄明《ほのあかる》い。薄い紗布《しゃきぬ》を張ったようだ。
 不意に、玄女は振り返った。
「オイいけないよ。猪右衛門さん、あいつ等どこ迄も追っかけて来るよ」
 猪右衛門も背後《うしろ》を見返ったが「成程々々追っかけて来る。構うものかい、逃げろ逃げろ!」
「だがねえ」と玄女は思量《しりょう》深く「私達の四ツ塚の隠家を、突き止められたら大変だよ、あの見幕なら家の中へ、きっと切り込んで来るからねえ」
「おっ、なるほど、それはそうだ! どうしたらよかろう、よい智慧はないか?」
「道を違えて走ろうよ、そうして途中でまく[#「まく」に傍点]としよう」
「そいつァよかった、是非まこ[#「まこ」に傍点]う」
 そこでにわかに玄女と猪右衛門は部下の香具師共と引き別かれ、北山の方へ走り出した。
 早くも見て取った右近丸と民弥は、見失っては一大事と、すぐにそっちへ道を取り、ヒタヒタヒタと追い迫る。
 逃げて行く玄女と猪右衛門と、追って行く民弥と右近丸、どっちも足弱連れである。一方まく[#「まく」に傍点]ことも出来なければ、一方まか[#「まか」に傍点]れもしなかった。
 四人いつの間にか町を出て、北野の方へ走っていた。二十人あまりの香具師の群は、とうに四方へ散ってしまい、四辺《あたり》には一つの姿さえ見えぬ。
 北野を過ぐれば大将軍、それを過ぐれば小北山、それを過ぐれば平野《ひらの》となる、それを過ぐれば衣笠山! そっちへドンドン走って行く。道は険しい、森林がある、夜鳥の羽搏《はばた》き、風の音、光景次第に凄くなった。
 四人が四人とも疲労した。だが逃げなければならなかった。だが追わなければならなかった。

 ちょうどこの頃のことである、鹿苑院《ろくおんいん》金閣寺、そこから離れた森林の中に、一人の女が坐っていた。

18

 地上に鏡が置いてある。坐っている女が覗いている。月光が鏡を照らしている。魚の横腹を思わせるような、仄かな煙った光芒が、その鏡から射している。
「いよいよ時期が近付いた。妾《わたし》には解《わか》る。妾には解る。唐寺の謎を孕んでいる、ある何物かが手許《てもと》へ来る。向こうから来るのだ、飛び込んで! こっちで呼びもしないのに、向こうから来るのだ、飛び込んで! 捕らえなければならない、捕らえなければならない!」
 独り言を云っている。だがどうしてその女には、そういうことが解るのだろう? そうして一体この女は、どういう身分の女なのだろう?
 年の頃は二十歳《はたち》ぐらい、頭髪《かみ》を束《つか》ねて背中へ垂らし、白の衣裳を纏っている。すなわち巫女の姿である。
 いつぞや京都二条通りで、時世を諷し、信長を譏り、森右近丸を飜弄した、あの時の巫女とそっくり[#「そっくり」に傍点]である。そっくり[#「そっくり」に傍点]どころかその女なのである。
 だがどうしてその女が、こんな寂しい森の奥に、一人で住《す》んでいるのだろう? まったく寂しい森である。巨木が矗々《すくすく》と聳えている。枝葉がこんもり[#「こんもり」に傍点]と繁っている。非常に大きな苔むした岩や、自然に倒れた腐木《くちき》などが、森のあちこちに転がっている。
 女の坐っている後方にあたって、一点の燈火《ともしび》がともっている。ぼっと[#「ぼっと」に傍点]その辺りが明るんで見える。何でもなかった、燈明《とうみょう》なのであった。そこに一|宇《う》の社があり、そこの神殿に燈されている、それは一基の燈明なのであった。
 何という古風な社だろう! その様式は神明造《しんめいづくり》、千木《ちぎ》が左右に付いている。正面中央に階段がある。その階段を蔽うようにして、檜皮葺《ひはだぶき》の家根《やね》が下っている。すなわち平入《ひらいり》の様式である。社の大いさ三間二面、廻廊があって勾欄《こうらん》が付き、床が高く上っている我等が祖先大和民族の、最古の様式の社なのである。
 社に添って家がある。おおかた似たような様式である。やはり階段がついている。その正面に扉がある。出入口に相違ない。勾欄を巡らした廻廊が、家の周囲《まわり》を囲繞《とりま》いている。これは恐らく社務所なのだろう。
 月がそれらを照らしている。で、一切の建物が、紗布《しゃぎぬ》に包まれているようである。社を中心に空地がある。その空地の一所に、女は坐っているのであった。
 と、女は背後《うしろ》を向き、社務所へ向かって声をかけた。
「乳母《ばあや》々々、ちょっとおいで」
「はい御姫様」と云う声がした。社務所の中からしたのである。と、社務所の戸が開いて、一つの人影が現われた。廻廊を渡り階段を下り、月光の中へ現われたのを見れば、白髪を結んで肩へ垂らした、六十余りの老女であった。質素なみなり[#「みなり」に傍点]はしているが、上品で柔和で慈悲深そうな容貌、立派な素性を現わしている。
「宵も更けましてございます、もうお休みなさりませ」云い云い老女は近寄ったが「これはこれは唐姫《からひめ》様、またお占いでございますか」
 並んで鏡を覗き込んだ。
「ね」と巫女は――唐姫は、またもや鏡に見入ったが、「ね、人影がしかも四人、私達の住居《すまい》の処女造庭境へ、あんなにも走って来るではないか。荒らさせてはならない、入らせてはならない、追い払わなければならないのだが、先に立って来る二人の男女、あれだけは是非とも捕らえることにしよう」
「まあまあ左様でございますか」こうは云ったが老女には、鏡に映っているという、人間の姿など解《わか》らないと見え、不安らしく白髪の首を振った。「お姫様には神通力、お鏡を通して浮世の相を、ご覧になることが出来ましょうが、この浮木《うきぎ》はほんの凡人、何にも見えませんでございます。ほんとにそんな人達が、走って来るのでございましょうか?」
「ああそうとも走って来るよ、一人は若武士、一人は娘、後の二人は香具師らしいよ。卑しい服装《みなり》をしているからね」
 じっと鏡に見入ったが、尚も唐姫は云い続けた。
「それも普通の人達ではないよ、私達|一同《みんな》が以前《まえまえ》から手に入れようと望んでいた、唐寺の謎を解き明かした、研究材料を持っている、そういう好都合の人達なのだよ」尚も熱心に見入ったが、「もう北野も通り過ぎた、大将軍まで走って来た、もう直ぐにも小北山へ来る。……ああもう[#「もう」に傍点]小北山も通り過ぎた、いよいよ平野へやって来た。……衣笠山! 衣笠山! 衣笠山の裾まで来た!」
 ほんとにどうしてそんなこと[#「そんなこと」に傍点]が、この唐姫には解るのだろう? 月光に反射して朦朧と、鏡は光っているばかりである。そんな人影など映《うつ》っていない。
 それにもかかわらず唐姫にだけに、そういうことが解るのなら、唐姫という女には、特別に違った感覚が、備わっているものと見なければならない。
 と、唐姫は立ち上った。
「もう間もなく遣って来よう! 私達の住居《すまい》の秘密境、処女造庭境の入口へ! 乳母!」と云ったが威厳がある。「お呼びお呼び、家来達を!」
「はい」と云うと老女の浮木は逞しい声で呼ばわった。「姫君お呼びでございますぞ! 方々お集りなさるよう!」
 声に応じて数十人の人影が森の四方から現われた。刳袴《くくりばかま》に一刀を帯び、織人|烏帽子《えぼし》を額へ載せ、黒の頭巾で顔を包んだ、異形の風采ではあったけれど、これこの時代の庭師なのであった。
 唐姫の前方数間の手前で、膝折敷いて下坐をした。慇懃を極めた態度である。
 唐姫はスッと見廻したが、
「銅兵衛《どうべえ》、銅兵衛」と声をかけた。
「は」と答えると一人の庭師が坐ったままで辞儀をした。
「大儀ではあるが衆を率い、其方《そち》造庭境の入口へ参り、潜入者を堅く防ぐよう。……四郎太、四郎太!」と声をかけた。
「は」と答えたが一人の庭師が同じく坐ったまま一礼した。
「大儀ではあるが衆を率い、同じく造庭境の入口へ参り、香具師風の男女をひっ捕らえ、ここまで連れて参るよう」
「かしこまりましてございます」こう云ったのは銅兵衛《どうべえ》である。ヌッと立ったが仲間を見た。「いざ方々、おつづき下され!」
「では某《それがし》も」と四郎太も同じく仲間を見廻したが「拙者におつづきなさるよう」
 二派に別れた数十人の庭師、スタスタと歩くと森へ入り、すぐに姿を隠したが、あたかもこの頃猪右衛門と玄女が右近丸と民弥に追いかけられ、衣笠山の坂道を、上へ上へと上っていた。

19

 一際こんもり[#「こんもり」に傍点]した森林が、行手にあたって聳えている。ちょうどその辺りまで来た時である。傍らの灌木の茂みを抜き、ガラガラと何物か投げ出された。
「あッ」と叫んだは猪右衛門、でもんどり[#「もんどり」に傍点]打って転がったが、鎖で足を巻かれている。
 同時に叫んだは玄女である。同じくドッタリ倒れたが、是も鎖で巻かれている。
「先ずは捕った」という声がして、灌木の陰から現われたのは、六七人の庭師であった。
「有無を云わすな、猿轡をかけろ、それから担いで引き上げろ!」一人の庭師が囁いたが、これ他ならぬ四郎太であった。
 ※[#「足+宛」、第3水準1-92-36]《もが》く玄女と猪右衛門を担いで庭師の去った後は、月光が木の葉を照すばかり、沈々《ちんちん》として静かである。が、次の瞬間には、驚くべき事件が行なわれた。と云うのは玄女と猪右衛門を、追って来た民弥と右近丸が、ちょうどここまで辿りついた時、荒々しい男の叫び声が、こう聞こえてきたからである。
「帰れ帰れ、巷の者共、穢してはならぬよ、処女造庭境を! そこから一歩踏み込んだが最後、迷路八達岐路縦横、再び人里へは出られぬぞよ!」
 続いてドッと笑う声が天狗倒しの風のように、物凄じく聞こえてきた。「おっ」と云ったは右近丸で、ピッタリ足を止めたが、声のした方へ眼をやった。
 大森林が聳えている。月光もその中へは射し込まない。宏大な城の鉄壁のように、ただ黒々と聳えている。
 気強《きじょう》とは云っても女である、民弥は思わず身顫いをしたが、「右近丸様!」と寄り添った。「妖怪《もののけ》などではございますまいか」「なんの!」と右近丸は一笑した。「妖怪ではござらぬ、人間でござる。思いあたることがございます! 不思議な巫女を頭とした、奇怪な庭師の群でござる。かつてこの場でそれ等の者と、邂逅《いきあ》ったことがございます。詳しいことはお後で申す。せっかくここ迄追い詰めて来て、猪右衛門と玄女を逃がしては、これ迄の苦心も無になります! 進む以外に法はない! いざ民弥殿手を取り合い!」
 恐れぬ二人、右近丸と民弥は、サーッと森の方へ駈け上った。
「汝等《おのれら》来るか!」と物凄い声がふたたび森林から聞こえたが、すぐにバラバラバラと飛礫《つぶて》が雨のように降って来た。
 だが恐れない二人であった。サーッと上へ駈け上る。
 と、一つの辻へ出た。森林の中に八本の道が、全く同じ形をとり、八方へ延びているのである。
 と、一方から声がした。「こっちだこっちだ、こっちへ来い!」
 そこで二人はひた走った。とまた一方から声がした。
「こっちだこっちだ、こっちへ来い!」
 そこで二人は方向《むき》を変え、声のする方へひた[#「ひた」に傍点]走った。
 とまた一方から声がした。「こっちだこっちだ、こっちへ来い!」
 そこで二人は方向を変え、声のする方へひた[#「ひた」に傍点]走った。
 すると今度は八方から、嘲ける声が聞えてきた。「こっちだこっちだ、こっちだこっちだ!」
 怒りを発した右近丸は今は平素の思慮も忘れ、ひたむきに一本の道を辿り、サーッばかり[#「サーッばかり」はママ]にひた走ったが、ハッとばかりに気が付いて立止まって背後《うしろ》を振り返ったが、「南無三宝! 民弥殿が見えぬ」
 ――民弥とはぐれて[#「はぐれて」に傍点]しまったのである。
 さてその翌日のことである、一人の女が物思わしそうに、京都の町を彷徨《さまよ》っていた。

20

 ほかでもない民弥《たみや》である。
 どうしてさまよっているのだろう?
 右近丸《うこんまる》を探しているのであった。
 それは昨夜《ゆうべ》のことであったが、洛外北山の山の中で、不思議な迷路へ迷い込み、気が付いた時には右近丸の姿は、どこへ行ったものか見えなかった。で苦心して道を辿り、京都の町へ帰って来て、自分の家へ戻ったが、右近丸のことが気にかかってならない。
 が、ああいう親切なお方だ、今日は訪ねて下さるだろうと、心待ちに待っていたのであったが、今迄待っても姿を見せない。そこで目当てはなかったが、とにかく町へ出てお探ししてみようと、今彷徨っているのであった。
 ここは室町の通りである。午後の日が華やかに射している。道も明るく、家々も明るく、歩いている人も明るかったが、民弥の心は暗かった。
 全く宛がないのであった。
 どこへ行ってよいか解《わか》らないのである。
 まるで放心したように、歩く足さえ力なく、ただフラフラと歩いて行く。
 先刻《さっき》から民弥のそういう姿を、狙うように見ている男があった。
 年の頃は六十前後、半白《はんぱく》の頭髪《かみのけ》、赭ら顔、腰を曲げて杖を突いているが、ほんとは腰など曲がっていないらしい。鋭い眼、険しい鼻、兇悪な人相の持主である。
 それが民弥へ話しかけた。
 が、話しかけたその瞬間、老人の顔は優しくなった。故意《わざ》と優しく作ったのである。
「これはこれはお嬢様、よいお天気でございますなあ」こんな調子に話しかけた、親切らしい猫撫声である。
「はい」と云ったが吃驚《びっくり》して、民弥は老人の顔を見た。「よいお天気でございます」
「お寺参りでございますかな」こんなことを云いながら、老人は並んで歩き出した。
「あの、いいえ、人を尋《たず》ねて」
「おやおや左様でございましたか、どなたをお尋ねでございますな」
「はい、若いお侍様を」
「ほほう、成程、お侍様をな、で、どういうお方なので?」
 何となく老人は訊くのであるが、勿論心中ではよくないことを、きっと巧らんでいるのだろう。
「大事なお方なのでございますの」民弥は釣《つ》られて話して行く。
 平素の民弥なら迂闊《うかうか》と、こんな見知らぬ老人などと、話しなどするのではなかったが、今は心が茫然《ぼんやり》している。で、うかうかと話すのであった。
 お腹《なか》の減《へ》っている者は、決して食物を選ばない。水に溺れている者は一筋の藁さえ掴もうとする。民弥の心は手頼《たよ》りなかった。誰であろうとかまわない[#「かまわない」に傍点]、親切に話してくれさえしたら、その人に縋って助けて貰おう、そんなように思っているのであった。
「成程々々、大事なお方で。……何というお名前でございますかな?」
「森右近丸様と申します」
「おやおや左様でございましたか。それはまことに幸いで、そのお方ならこの老人が居場所を存じて居りますよ」
「まあ」と云ったが娘の民弥は、驚きもすれば喜びもした。
「それでは本当にお爺様には森右近丸様の居場所を、ご存じなされて居りますので?」
「はいはい存じて居りますとも。実はな、お嬢様、こういう訳で」

21

 それからベラベラと喋舌《しゃべ》り出したが、云う迄もなく出鱈目らしい。
「いや全く右近丸様ときては、立派なお方でございますなあ。……へいへい私の親類なので、甥にあたるのでございますよ。ええと年は三十五で……え? 何ですって、違いますって? アッハッハッ、さようさよう、三十五になんかなるものですか。ええと数え年十九歳で。……え、何ですって? 違いますって? さようさよう大違いで、アッハッハッ、ごもっとも。二十三歳でございますよ。……非常な美男で、剣道も達者で、浪人の身分ではありますが。……え何ですって、違ったというので? さようさよう、大違いで、間違いますなあ、よく間違う! アッハッハッハッ、こう間違っても困る。……左様でございますともご家臣で、信長公のご家臣で。蘭丸《らんまる》様の兄様で。……オットいけないまた違ったか。従兄弟《いとこ》でございますよ、従兄弟々々々……ところで昨日でございますがな、午後から参ったのでございますよ。ハイハイ私の屋敷へな。……え、違うと仰有《おっしゃ》るので? いかさまいかさま、これも間違い。間違いに相違ありませんとも。昨日《きのう》は一日お嬢様のお家で、くらしたはずでございますからなあ。……実は先刻《さっき》方参りましたので。へいへい私の屋敷へな。で、只今も居りますので、そうして右近丸が申しました、貴女《あなた》に是非とも逢いたいとな。……ええと所でお嬢様、何と仰有いますな、お名前は? へい貴女のお名前なので? お菊さんかな? お京さんかな? ……何々民弥? 民弥さんというので? そうそう民弥さんに相違ない。……云っているのでございますよ。是非民弥さんに逢いたいとな。そこで私が来ましたんで、ハイハイ貴女をお迎いにな。……さあさあ急いで参りましょう。私の家へ! 私の家へ!」
 間違ったことばかり云っている。
 でもし民弥が冷静だったら、当然疑いを挿んだろう。ところが民弥は冷静ではなかった。心がとうから茫《ぼうっ》としていた。で老人の出鱈目が、出鱈目でないように思われた。
 そこで民弥は夢中のように、老人の腕へ縋ったが、
「お爺様! お爺様! お爺様! さあさあ連れて行って下さいまし! さあさあ、逢わせて下さいまし、右近丸様は大事なお方、お逢いしなければなりません! 逢いとうございます、逢いとうございます! どうぞ逢わせて下さいまし! 貴郎《あなた》のお家へ! 貴郎のお家へ! さあさあお連れ下さいまし!」
「うむ、しめた!」と云ったように、老人は凄く笑ったが、「合点《がってん》々々お連れしますとも! さあさあ急いで参りましょう。私の家は柏野で。そこにあるのでございますよ。少し遠いが元気を出し、走って行きましょう、走って行きましょう!」
 そこで二人は走り出した。
 往来の人が振り返る。さも不思議そうに二人を見る。一人は兇相の老人である。一人は無邪気な娘である、それが走って行くのである。不思議そうに見るのは当然だろう。
 だが民弥は夢中であった。人に見られようが笑われようが、心に掛けようとはしなかった。一刻も早く右近丸様に、逢いたい逢いたいと思うのであった。
 二人はズンズン走って行く。

22

 ここは柏野の一画である。
 そこに一軒の家があった。
 見掛けは極めて陰気ではあったが内は反対に陽気であった。
 その陽気な奥の部屋に、十五六人の男がいた。
 歌をうたっている者、酒を飲んでいる者、詈っている者、議論している者、取っ組み合っている者もある。いずれも兇相の連中である。その風俗も様々である。神主風の者もある。商人風の者もある。坊主風の者もある。武士姿をした者もあれば、香具師《やし》風をした者もある。老人もいれば若者もいる。女も二三人雑っている。
 ガヤガヤみんな喋舌《しゃべ》っている。
「近来は思わしい仕事がない」
「こう不景気では仕方がない」
「地方へ行かなければならないだろう。都に仕事がないのだから」
「今日も戦、昨日《きのう》も戦、地方へ行くと戦ばかりだ、若武者の鎧を引っ剥いでも、相当の儲けはあるだろう」
「逃げまどう落城の女どもを引っ攫うのもいいだろう」
 突然一人が歌い出した。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]人買船の恐ろしや
[#ここで字下げ終わり]
 するともう一人が後を続けた。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]どうせ、売らるる身じゃほどに
[#ここで字下げ終わり]
 するともう一人が後を続けた。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]しずかに漕ぎやれ船頭殿
[#ここで字下げ終わり]
 人買船の歌なのである。
 とその時奥の部屋から女の泣声が聞こえてきた。
「まだあの女は泣いているわい」
「どうせ売られて行く女だ、思うさま勝手に泣くがいい」
 昼だというのに部屋の隅に、幾本か紙燭《ししょく》が燈《とも》されている。話声を戸外へ洩らすまいと、雨戸を閉ざしているからである。壁には影法師が映っている。床の上では狼藉《ろうぜき》とした、銚子や皿小鉢が光っている。
 綺麗な娘を攫って来て、遠い他国へ売り渡す、恐ろしい恐ろしい人買共の、此処は巣であり会所なのであった。
 そうしてここにいる人間どもは、その恐ろしい人買なのであった。
 と、部屋の片隅に、壁へ背中をもたせかけ、考え込んでいる少年があった。刳袴《くくりばかま》に袖無《そでなし》を着、鬱金《うこん》の頭巾を冠っている。他でもない猿若《さるわか》である。悪人には悪人の交際《まじわり》があり、人買の一味と香具師の一味とは、以前《まえ》から交際を結んでいた。で猿若も前々から、よくここへは遊びに来た。
 だがどうしたのだろう猿若少年、今日はいつも程に元気がない。深い考えに沈んでいる。
「おい猿若よ、はしゃげはしゃげ!」
 こう一人が声をかけた。片腕のない小男であった。勘八という人買であった。
「それどころじゃアありませんて」猿若の声は物憂《ものう》そうだ。
「親方の行方《ゆくえ》が知れないんで」
「へえ、そいつは不思議だね」もう一人の人買が声をかけた。
 片眼が潰れた大男で、その綽名を一ツ目と云い、この仲間での小頭であった。「玄女《げんじょ》さんが居ないというのかい?」
「玄女姐さんも居なければ、猪右衛門《ししえもん》親方も行方不明なのさ」いよいよ猿若は物憂そうである。
「おかしいなあ、どうしたというのだ?」こう訊いたのは勘八である。
「どうして行方が知れないのか、俺らには訳がわからないよ。二人ながら昨日《きのう》からいないのさ」
「親方紛失とは気の毒だなあ」こう云ったのは一ツ目である。「どうだ猿若香具師なんか止めて俺達の仲間へ入らないか」
「真平ご免だ、厭なことだ」猿若は早速|刎《は》ね飛《と》ばしてしまった。
「若い女を攫って来て、遠い他国へ売るような、殺生な商売は嫌いだよ」
「何だ何だこのチビ公、利いたようなことを云っているぜ。そういうお前達の商売だって、立派なものではないではないか」
「せいぜい盗みをするぐらいさ」
「それ、それ、それ、そいつがいけない」
「娘なんかは盗まないよ」
「金か品物を盗むんだろう」
「人形、人形、綺麗な人形!」
「え?」と一ツ目は訊き返した。
「人形を盗もうとしたってことさ」
「アッハッハッ、馬鹿にしているなあ、一人前の口は利くようだが、やっぱり子供は争われない、人形を盗もうとは可愛らしいや」
 一ツ目が大声で笑ったので、人買共も一斉に、面白そうに笑い出した。
 と、その笑声の終えない中《うち》に、門口の戸が外から開き、二人の人間が入って来た。
 先に立ったは老人であり、後に続いたは娘であった。
 それと見て取るや人買共は、一度にタラタラと辞儀をしたが、「これはお頭、お帰りなさいまし」こう云ったのは一ツ目であった。
 続いて勘八が声をかけた。「素敵な玉でございますなあ」
「ざっと[#「ざっと」に傍点]した所がこんなものさ」老人は凄じく笑ったが、娘の方を振り返った。「何とか云ったね、民弥さんか! 大概は見当が付いたろうが、ここに居るのは人買だ。そうしてここは人買宿、そうして私は人買の頭、柏野の里の桐兵衛《きりべえ》だよ。……もう、いけない観念おし、どんなに泣こうが喚こうが、ここへ一旦来たからには、一足も外へは出られない。と云って殺すというのではない。当分大事に飼って置き、行儀作法を教えてから、遠国の大名や金持や、廓の主人へ売り渡す。……ナーニ大して心配はいらない。ちょっと心さえ入れ変えたら、案外立身出世もする。だからよ、万端、委《ま》かして置きな。……オイ野郎共!」と手下を見た、「二階へ連れて行くがいい、手に余るほどあばれ[#「あばれ」に傍点]たら、体に傷の付かぬよう、革の鞭で手足を引っ叩け!」
「合点《がってん》」と云って立ち上ったは、例の小男の勘八であった。
「さあ娘ッ子、二階へ行こう」
 むっと民弥の手を取ったが、その結果は意外であった。あべこべに民弥に腕を取られ、グッと逆手に返されたのである。
「さてはお前達は悪人だね!」
 いわゆる裂帛の声である! 勘八を向うへ突き倒し、その手を帯へ差し入れたが、抜いて握ったは嗜《たしな》みの懐刀、振り冠ると凜々しく叱咤した。
「そうとも知らず連れ込まれたは、妾《わたし》の油断には相違ないが、ムザムザ手籠に逢うものか! 武士の娘だ、あなどってはいけない!」
 壁を背後《うしろ》にピッタリと背負《しょ》い、褄《つま》を片手にキリキリと取り上げ、振り冠った懐刀に波を打たせ、荒くれ男の十数人を、睨んだ様子というものは、若くて美しい娘だけに、凄くもあれば立派でもあった。
 驚いたのは人買共である。

23

 一整《いっせい》に立ち上ったが呶鳴り出した。
「油断をするな、大変な娘だ!」
「一度にかかって手捕りにしろ!」
「相当武芸も出来るらしい。甘く見込んで怪我するな」
 そこで一同ダラダラと並び、隙を狙って飛びかかろうと、民弥の様子をうかがった。
 飛び込んで来い! 叩っ切る! 敵《かな》わぬまでも防いで見せる! そうして一方の血路《けつろ》をひらき、この屋敷から逃げて見せる! ――民弥は民弥で決心を固め、四方へ眼を配ったが、敵は大勢、民弥は一人、多少武芸の心得はあるが、腕力では弱い女である、助太刀する者がなかったら、ついには手取りにされるだろう。そうなった日には最後である。他国へ売られてしまうだろう。
 父は何者かに殺されてしまった。手頼りに思った右近丸は、どこへ行ったか行方が知れない。それだけでさえ不幸なのに、その上他国へでも売られたら、いよいよ不幸と云わなければならない。
 助ける者はないだろうか?
 人買共は逼《せま》って来る。
 助ける者はないだろうか?
 だがこの時何者だろう、家から飛び出した者がある。
 例の猿若少年であった。
 門口から民弥へ声をかけた。
「おい民弥さん民弥さん、往生して捕虜になるがいい。ジタバタ騒ぐと怪我をするぜ。捨てる神があれば助ける神がある。機会をお待ちよ機会をお待ちよ。宣《なの》って上げよう猿若だよ!」
 ポイと往来へ飛び出したが、数十間走ると足を止め、腕組みをすると考え込んだ。
「気の毒だなあ、民弥さんは。……どうも大変なことになった。……あの人の人形を盗もうとしたり、お父さんを殺しはしたものの、本心からやったことではない。親分の指図でやった事だ。……俺らの本心から云う時は、綺麗な民弥さんは好きなのだ、人買の奴等に捕らえられ、他国へ売られては可哀そうだなあ。多勢に一人、殊には女、捕らえられるは知れている。……どうぞして助《たす》けてやりたいものだ」
 この猿若という少年は、元から悪童ではなさそうである。境遇が悪童にしたようである。
 そこで民弥の不幸を見るや、本来の善心が甦えり、真から民弥を助けようと、どうやら考えに沈んだらしい。
 ここら辺りは郊外である。人家もまばらで人通りも少い。木立があちこちに茂っている。その木立へ背をもたせ、夕暮の陽に染まりながら、猿若はいつ迄も考えた。
「……他に手段はなさそうだ。うまく忍び込んで連れ出してやろう。……家の案内は知っている。……裏庭へ入り込み壁をよじ、二階の雨戸をコジ開けてやろう。……と云って日中は出来そうもない。宵闇にまぎれ[#「まぎれ」に傍点]てやってやろう。ナーニ目つかったら目つかった時だ、何とかごまかしが付くだろう、付かなかったら仕方がない、戦うばかりだ、戦うばかりだ。……だがそれにしても今日の日は、どうしていつ迄も暮れないんだろう。同情のないお日様だよ」
 呟いて空を見上げたが、決して決して今日に限って、日が永いのではなさそうである。
 次第に夕空が暮れてきた。
「もうよかろう、さあ仕事だ」
 木立を離れると猿若少年はもと来た方へ引っ返した。

 ところが同じ日のことであったが、鴨川の水を溯り、一隻の小舟が駛《はし》っていた。
 四五人の男が乗り込んでいる。
 いずれも不逞の面魂で、善人であろうとは思われない。
 夕陽が川水を照らしている。今にも消えそうな夕陽である。
「久しくよい玉にぶつからない。……今日はそいつ[#「そいつ」に傍点]にぶつかりたいものだ」
 顔に痣のある男である。
「桐兵衛爺と来た日には、人攫いにかけては名人だ、いずれ上玉の三つや四つは、仕込んでいるに相違ない。真っ先に桐兵衛を訪ねよう」
 兎唇《みつくち》の若い男である。
 ひそやかに小舟は進んで行く。
 この時代における鴨川は、水量も随分たっぷり[#「たっぷり」に傍点]とあり、小舟も自由に往来した。
 夕陽が次第に薄れてきた。
 まばらの両側の家々や、木立に夜の色が滲んできた。
 櫓《ろ》の音を盗んで忍びやかに、小舟は先へと進んで行く。
 これは人買の舟なのであった。乗っている四五人の人間は、諸国廻りの人買なのであった。
「この辺りでよかろう、舟を纜《もや》え」
 で小舟は岸へ寄せられ、傍らの杭に繋がれてしまった。
「さあさあ桐兵衛の隠家《かくれが》へ行こう」
 夕暗の逼ってきた京の町を、柏野の方へ歩き出した。
 しかるにこの頃北山の方から、異形の人数が五人揃って、京都の町の方角へ、陰森とした山路を伝いストストストストと下っていた。

24

 一人は上品な老女であった。すなわち他ならぬ浮木《うきぎ》であった。
 後の四人は武士であった。が風俗は庭師である。その一人は銅兵衛《どうべえ》であり、もう一人は三郎太であった。その他の武士は部下らしい。
 そうしてこれ等は云う迄もなく、処女造庭境を支配している唐姫《からひめ》という女の家来なのであった。
「民弥という娘を捕らまえて、唐姫様のお言葉を、是非ともお伝えしなければならない」
 こう云ったのは浮木である。
「しかしくれぐれも云って置くが、決して手荒くあつかってはいけない。丁寧に親切にあつかわなければならない」
「かしこまりましてございます」
 こう云ったのは三郎太である。「丁寧にあつかう[#「あつかう」に傍点]でございましょう」
「南蛮寺の裏の貧しい家に、住居《すまい》をしているということだ」
 またも浮木は云い出した。
「で慇懃に訪れて、事情を詳しく話すがいい」
「承知いたしましてございます」こう答えたのは銅兵衛である。
「唐姫様が仰せられた、お前達ばかりをやった[#「やった」に傍点]日には、人相が悪く荒くれてもいる、恐らく民弥という若い娘は怯えて云うことを聞かないだろうと。で妾《わたし》も行くことになったが、憎い信長の管理している、京都の町を見ることは、この妾としては好まないのだよ」
「ご尤も千万に存じます」頷いたのは三郎太で「しかし我々が長い年月、心掛けていました南蛮寺の謎が、解かれることでございますから……」
「そうともそうともその通りだよ。だから妾も厭々ながら、京都の町へ行くというものさ。……が民弥という娘ごが、この私達の云うことを、順直《すなお》に聞いてくれないことには、その謎も解くことは出来ないだろう」
「もし民弥という娘ごが、不在でありましたら如何《いかが》したもので」不安そうに聞いたのは銅兵衛であった。
「さあそれが心配でね」浮木の声は心配そうである。
「だが大概は大丈夫だろう。若い娘のことであり、父に死なれたということではあり。それにもう今日も夜になった、町など歩いてはいないだろう、大方は家にいるだろう」
 で一同は歩いて行く。
 どうやら話の様子によれば娘の民弥に用があって、民弥の家へ行くのらしい。
 しかし肝心のその民弥が、家にいないことは確かである。桐兵衛という人買の家に、捕らえられている事は確かである。
 一同は山を下って行く。ズンズンズンズン歩いて行く。
 誰が民弥を手に入れるだろう?
 うまく猿若が助け出すかしら?
 遠国廻りの人買共が、それより先に買い取るだろうか?
 それとも浮木の一団が、民弥の居場所を探し出すかしら?
 とにかく一人の民弥を挿んで、三方から三通の人達が、競争をしているのであった。
 ところで肝心のその民弥であるが、この頃どうしていただろう。
 恐ろしい人買の桐兵衛の家の、真暗な二階の一室に厳重に監禁されていた。
 雨戸がビッシリと閉ざされている。出入口も厳重に閉ざされている。逃げ出すことは絶対に出来ない。その上両手は縛られている。開けようとしても開けることが出来ない。
 彼女は格闘したのであった。しかし一人に大勢であった。先《ま》ず懐刀を奪い取られ、続いて足を攫われた。悲鳴を上げたが駄目であった。
 縛られてこの部屋へ入れられたのである。
「ああどうしたらいいだろう?」
 民弥はじっと[#「じっと」に傍点]考え込んだ。
 人買共の話声が、階下から遠々しく聞こえてくる。
 隣部屋から泣声がする。やはり民弥と同じように捕らえられた不幸な娘たちが、監禁されているのだろう。
「ああどうしたらいいだろう」
 またも民弥は呟いた。
 と、にわかに笑声が、階下の座敷から聞こえてきた。続いて人買の親方の桐兵衛の喋舌《しゃべ》り声が聞こえてきた。
「ヨーこいつはいい所へ来た、遠国廻りのお仲間か。さあ上るがいい上るがいい。ちょうど上玉が一人ある。早速売り渡すことにしよう」
 ――どうやら鴨川から上陸した、遠国廻りの人買が、桐兵衛の家へ着いたらしい。
 だがその時一枚の雨戸が音もなく戸外からスルスルと開けられ、顔を覗かせた子供があった。
 誰なのか、猿若である。
 しかしその時階段を上る、人の足音が聞こえてきた。桐兵衛の手下の人買が、民弥を連れに来たのらしい。

25

 最初に部屋へ入り込んだは、幸いにも猿若少年であったが、こう民弥《たみや》へ囁いた。
「声を立てちゃあいけませんよ。俺らは怪しい者ではない。お前さんを助けに来たものだ。さあさあ逃げたり、お逃げお逃げ! オッとそうそう縛られていたっけ。これでは逃げるにも逃げられめえ。よしきた俺らが解《と》いてやろう。……いやいやそれでは間に合わない。切ってしまおう切ってしまおう!」
 常時《いつも》懐中《ふところ》に用意している小刀を引き抜くと、バラバラと縄を切り払ったが、「さあさあこっちだ、裏から逃げよう、まごまごしていると取っ捉まる。……お聞きよお聞きよ、足音がする! 人買共の足音だ! 入って来られたら大変だ! 目つけられたら大事になる! ……俺らの身分は後から云う! ……心配はいらない心配はいらない! ……黙って付いて来るがいい」
 こうして民弥を裏口から下ろし、自分も裏庭へ飛び下りたとたん、人買共がドヤドヤと、戸口から部屋の中へ入って来た。
「おっ、どうした、居ないではないか!」こう呶鳴《どな》ったのは例の一ツ目。
「やっ、裏口が開いていらあ」続いて叫んだのは勘八であったが、直ぐに裏口へ飛んで行った。
「大変だ大変だ。逃げて行く! ……おっ、一人は小僧ッ子だ!」
「どれどれ」と一ツ目も覗いたが、「一人は民弥だ! 一人は猿若!」
「それじゃア猿若が裏から忍んで、助け出したに違いない! とんでもない小僧だ、うっちゃっては置けない」
 バタバタと駈け下りた人買共は階下へ下りると叫び立てた。
「親方、やられた、攫われた!」こう云ったのは勘八である。

「何を!」と立ち上ったは柏野の里の桐兵衛、「何だ何だどうしたんだ?」
「何だじゃない、大変だ、あの小僧ッ子の猿若めが、民弥を攫って行ったんだよ!」
「え、ほんとうか、途方もねえ話だ! あんな素晴らしい上玉を、あんな小倅に横取られた日にゃア、俺らの商売は成り立たない! さあさあ皆な追っかけろ!」
「それ!」と云うと人買共は親方の桐兵衛を真先に、裏口から一散に走り出したが、もうこの頃には民弥と猿若は、数町のあなたを走っていた。
「さあさあ民弥さん、お走りお走り! ぐずぐずしていると取っ捉まる。取っ捉まったらもういけない。それこそ酷い目に逢わされる。売られるだろう売られるだろう。それも遠くへ売られるのだ。二度と都へは帰れない。……おやいけない。足音がする。あッいけない追っかけて来る。力一杯逃げたり逃げたり!」
 で、二人は走って行く。
 この辺りは郊外で人家に乏しく、林や藪が立っている。すなわち小北山の山脈で、道らしい道も出来ていない。たとえ助けを呼んだところで、助けにやって来る人はない。でどうしてもひた走って、町の方へ出なければならないのである。
 おりから月夜で物の影が見え、逃げて走るには不便であった。隠れることもむずかしく、横へ反れることもむずかしい。でどこ迄も逃げなければならない。
 南へ走れば町へ出られる。東へ走っても町へ出られる。だがもし北の方へ走ろうものなら、南鷹ヶ峰の山地となり、そうして西の方へ走ろうものなら、小北山から衣笠山となり、同じく町へは出られない。

26

 ところが人買の追手達は、東の方から走って来る。だから東へは逃げられない。どうでも南へ逃げなければならない。ところがそっちへも逃げられなかった。と云うのは人買の追手共が、にわかに同勢を二つに分け、一手が南へ廻ったからである。で二人は残念ながら、西へ西へと逃げることになった。
 一人は子供で一人は娘、足の弱いのは知れている。とはいえ命がけの場合である。いつもの二倍も走ることが出来る。
 一所懸命走って行く。走りながら猿若は喋舌《しゃべ》るのである。
「ねえ民弥さん民弥さん、俺らを疑っちゃアいけないよ。安心して俺らに委《まか》せるがいい。もっとも俺らも悪いことをした。人形を盗もうとしたんだからなあ。もっともそいつは失敗したが。……ええとそれからもう一つ、もっとよくないこともした。と云うのは民弥さんのお父《とう》さんを……どうもこいつだけは云えないなあ。あんまり酷いことをしたんだからなあ。……だってそれだって本心からじゃアない。みんな親方に云い付けられたんだ。そりゃア悪事には相違ないが、だって親方の云い付けなら、厭だと云うことは出来ないからなあ。……オヤオヤ足音が近くなったぞ! どれどれこの辺りで振り返ってみよう……あッいけない追い逼って来た。ナーニ大丈夫だ、逃げ通してみせる。一町とは逼っていないんだからなア。……そりゃア俺らは善人ではない。が、今では善人だよ。悪戯《いたずら》小僧には相違ないが、だって今ではいい子供だ。だからよ民弥さん堪忍しておくれよ。ね、ね、ね、昔の罪はね! ……そりゃアそうとどうもいけない。だんだん足音が近くなって来る」
 民弥は無言で走って行く。民弥には全く不思議であった。
 何が何だか解《わか》らなかった。猿若というこの小供が、何故自分を助けたのか? そうしてどうしてこの小供が、自分の名などを知っているのか? いやいや決してそればかりではない、逝くなった父の弁才坊のことや、そうして人形のことなどを、どうして口へ出すのだろう? ――何も彼も民弥には解らなかった。だがただ一つ解っていることがあった。それは自分のあぶない所を、助けてくれたということである。で民弥は心から、有難く思ってはいるのであったが、口へ出しては云わなかった。と云うのはうっかり声を出して、そのため呼吸《いき》でも乱れたら、そのまま倒れてしまうだろうと――こういう不安があったからである。
 で、黙ったままひた走る。
 だが精力には限りがある。だんだん二人は疲労《つかれ》てきた。足の運びも遅くなり、胸が苦しく呼吸が逸《はず》む。
「ああもう妾《わたし》は走れない」
 民弥がこう云って足を止めた時、人買の追手が追い逼った。
 すぐに民弥と猿若とを、グルグルと包囲したのである。
「これ」と喚《わめ》いて進み出たのは、人買の頭の桐兵衛であった。
「民弥、猿若、もう駄目だ! 穏《おとなし》く従いて来るがいい。アッハッハハ飛んでもない奴等だ、そんな小供や小娘に、裏掻かれるような俺達なら、とうの昔に縛られている……さあさあ帰れ従いて来い。……民弥にはおりよく買手が付いた。売るからその意《つもり》でいるがいい、……ところでチビの猿若だが、呆れた真似をしおったなあ。香具師と人買とは仲間のようなものだ。その仲間を裏切ってよ、仕事の邪魔をやるなんて、交際《つきあい》を知らねえにも程がある。そういう悪い小倅には、それだけの仕置をしなけりゃアならねえ。佐渡か沖の島か遠い所へ、こいつも小僕《こもの》として売ってやる。……さあお前達!」と云いながら、手下の人買を見廻したが、「こいつら二人を引っ担いで行け!」
「さあ来やアがれ!」と五六人の人買が民弥と猿若とへ飛びかかった。
「何だい何だい悪者め!」こう呶鳴《どな》ったのは猿若である。
「来やがれ来やがれ、叩っ切って見せる」
 そこで懐刀を振り廻したが、疲労てはいるし敵は大勢、到底勝目はなさそうであった。
 民弥に至っては尚更である。立っているさえ苦しい程に、心も休も疲労切っていた。
「何人《どなた》かお助け下さいまし!」
 救いの声を立てながら、ヒョロヒョロ逃げ廻るばかりである。
 こうして民弥と猿若とは、せっかくここ迄は逃げて来たが、またもや人買の手にかかり、連れ戻されなければならなかった。
 だがその時|松火《たいまつ》の燈《ひ》が、手近の森陰から現われて、五人の人影が足を早め、近づいて来たのは何者であろう?
 見て取ったのは民弥である。追い廻す人買を突きのけて、一散にそっちへ走り出した。
「民弥めが逃げるぞ、追っかけろ!」
 人買が後を追っかける。

27

 しかしその時には娘の民弥は、松火をかかげた一団の中へ、身を躍らせて飛び込んでいた。
「これは娘ごどうなされた」
 こう云いながら見守ったのは、一人の立派な老女であった。他でもない浮木《うきぎ》である。そうして現われたこの一団こそ、例の庭師の一群であった。
「はい」と云うと娘の民弥は、クタクタと土へ崩折れたが、「妾《わたし》は京の片隅《かたほとり》に住む民弥と申す者にござります。人買の手にかかりまして……」
「なに、民弥? ほほう左様か、これは幸、よい所で逢った。実はな、お前さまに逢おうと思うて、わざわざ山から下ったものでござるよ、……と云うのは他でもない、南蛮寺の謎につきましてな、お訊《たず》ねしたいことがあるからでござるよ。……がそれは後でお訊ねするとして、大丈夫でござるお助けいたす」
 ここで浮木は庭師達を見たが、「あいや方々お聞きの通り、人買共が民弥殿を、誘拐《かどわか》そうと致したそうな。そうでなくてさえ世を乱す悪者、用捨はいらない討って取りなされ!」
「心得てござる」と答えたのは、庭師の一人の銅兵衛《どうべえ》である。
「さあ方々」とその銅兵衛は味方の三人を見廻したが、「一度に抜き連れ、叩っ切りましょうぞ!」
 声に応じて四本の大刀[#「大刀」はママ]がキラキラと松火に反射した。四人腰の物を抜いたのである。
 庭師の扮装はしているが、決して尋常な庭師ではなく、いずれも名ある武夫《もののふ》が何か世を忍ぶ理由《わけ》があって、そんな姿にやつしているのであろう。構え込んだ態度に隙がなく、素晴らしい手練を示している。
 だが人買の連中には、どうやらそんなことは解《わか》らないらしい。民弥の後を追っかけて、十人余り走って来たが、「これ汝《おのれ》ら何者だ、娘を返せ、さあ渡せ!」呶鳴ったは親方の桐兵衛である。
 嘲笑ったは銅兵衛で、「黙れ! 鼠賊! 何を云うか! 民弥殿は我らが守護いたす、金輪際《こんりんざい》汝らに渡すことではない、取りたくば腕ずくで取って見ろ! 見れば人買、浮世の毒虫! 根絶やししてくれよう、観念しろ」
 ヌッと踏み出した気塊というものは、凄じい迄に高かった。
 ギョッとはしたが人買の桐兵衛、こいつも甲斐撫での悪党ではなかった。後へ退がると引き抜いた。「やあ手前達邪魔が入った、邪魔な奴から退治《やっ》つけて、民弥をこっちへ取り返せ! 多少の腕はあるらしいが、人数は四人だ、知れたものだ、おっ取り囲んで鏖殺《みなごろし》にしろ!」
 手下に向かって声をかけた。
「云うにゃ及ぶだ」と人買共は一斉に抜き連れ飛びかかった。
「命知らずめ!」と一喝くれ、真っ先立って飛び込んで来た、人買の一人を大袈裟に、一刀にぶっ放した庭師の銅兵衛、「幾人でも来い、さあさあ来い! 一度にかかれ! さあさあかかれ!」
 血刀を揮って切込んだ。続いて三人が躍り込む。それを人買がおっ取り巻く。キラキラ! 太刀だ! 月光に映じ、十数本の太刀が閃めいたのである。悲鳴! つづいて仆れる音! 人買が切られて仆れたのであろう。
 むこうに一群、こっちに一群、庭師と人買とが切り合っている。バラバラと逃げる一群がある。それを追って行く一群もある。
 と、一方では猿若少年が、二三人の人買を相手にして、懐刀を縦横に揮っている。
「しめたぞしめたぞ味方が出た! 敗けっこはない敗けっこはない! さあさあこいつらめ鏖殺だ! まるかって[#「まるかって」に傍点]来い、まるかって[#「まるかって」に傍点]来い!」
 庭師の群が現われて、助太刀をすると見て取ったので、疲労《つかれ》も忘れ勇気も加わり、軽快敏捷に立ち廻るのである。
 月光が上から照らしている。地上に捨てられた松火が、焔を上げて照らしている。四辺《あたり》は荒野! 点々と木立! そういう中での乱闘である。
 と、その時意外の事件が、忽然勃発することになった。
 浮木の姥の傍に立って、乱闘を見ていた娘の民弥が、何と思ったか身を飜すと、町の方を目掛けて一散に、野草を蹴散らして走り出したのである。
 一体どうしたというのだろう? 乱闘に驚いて逃げたのであろうか? それとも何かそれ以外に、逃げて行かなければならないような、大事な理由があるのだろうか?
 大事な理由《わけ》があったのである。
「山から下って来た庭師風の人達、南蛮寺の謎を解こうとして、妾《わたし》を尋ねて来たという、ではやっぱり敵なのだ。うかうかしてはいられない。危難を救われた恩はあるが、いつ迄も縋っていようものなら、難題を出されないものでもない。逃げよう逃げよう逃げて行こう!」
 で、民弥は逃げ出したのである。
 仰天したのは浮木の姥で、「民弥殿、民弥殿、逃げてはいけない。何も恐ろしいことはない。戦いは我らの勝でござる。そうして我らは悪者ではござらぬ。お帰りなされ、お帰りなされ」――で後を追っかけた。
 何で民弥が帰るものか。民弥は懸命に走って行く。
 木間を潜《くぐ》り、坂道を転《まろ》び、月光を蹴散らし、町へ町へ! 町の方へと走って行く。
 しかし民弥は逃げられなかった。
 行手に盛り上った森があり、そこの前まで駈けて行った時、五六十人の同勢に、グルグルと取り囲まれてしまったのである。

28

 洵《まこと》に異風な人達であった。
 大方の者は赤裸で、茜《あかね》の下帯をしめている。小玉裏の裏帯を、幾重にも廻して腰に纏い、そこへ両刀を差している。
 つかみ乱した頭の髪、それを荒縄で巻いている。黒波《くろは》の脚絆で脛を鎧い、武者|草鞋《わらじ》をしっかりと穿いている。そうして或者は熊手を持ち、そうして或者は鉞《まさかり》を舁《かつ》ぎ、そうして或者は槌《かけや》をひっさげ、更に或者は槍を掻い込み、更に或者は斧をたずさえ、龕燈《がんどう》を持っている。
「あっ」と仰天した娘の民弥は、ベッタリ地上へ坐り込んでしまった。
 極度に胆を潰したのである。
 胆の潰れたのは当然といえよう、一難が去れば一難が来る。そうして新しい災難は、以前の災難よりより[#「より」に傍点]以上、恐ろしいものであるのだから。
 気丈の民弥も顫え上り、茫然として見守った。
 が、それにしてもこの連中は、どういう身分の者だろう?
 浮木の姥が走って来て、その連中とぶつかった[#「ぶつかった」に傍点]時、大体身分の見当が付いた。
「おっ、汝《おのれ》らは茨組《いばらぐみ》か!」こう云ったのは浮木である。
「珍らしいの、浮木の姥か」
 こう云って進み出た壮漢は、この一党の頭と見え、荒々しい顎鬚を顎に貯《たくわ》え、手に鉄棒をひっさげている。年の頃は四十五六、腹巻で胴を鎧っている。星影左門《ほしかげさもん》という人物である。
「唐姫《からひめ》殿はご無事かの?」嘲笑うように訊き返した。
「うむ」と云ったが浮木の姥は、かなり周章《あわて》た様子であった。「いつ其方《そち》達は上洛したぞ?」
「ご覧の通りさ、たった今さ」
「で、何のために上洛したな?」
「京師《みやこ》を掠めようその為さ」
「が、そいつはよくあるまい」浮木はその眼をひそめたが、
「あの信長めが京師を管理し、威令行なわれているからの」
「そんなことには驚かないよ」星影左門は笑ったが「何の検断所の役人どもに、指一本でもささせるものか」
「が、それにして何のために、五六十人ばかりの同勢で、いまごろ上洛して来たな?」
「唐姫殿が欲しいからよ」
「ふふん」と浮木は嘲笑った。「お前のような人間は、唐姫様にはお気に召さぬそうな」
「それは昔から解《わか》って居るよ」星影左門も負けてはいない。
「が、腕ずくでも手に入れて見せる」
 浮木の姥はまた笑ったが、「我等の勢力を知らぬと見える」
 すると左門も笑ったが、「そういうことを云うお姥こそ、我々の勢力を知らぬと見える。……と云うのはここにいる人数こそ、六十人にも不足だが、なお後から続々と、大勢の者が上洛《のぼ》るのだ、のみならず土右衛門《つちえもん》も槌之介《つちのすけ》も、衆をひきいて上洛るのだ。いやいやその上に筑右衛門《ちくえもん》までが、衆をひきいて来るのだよ」
「ふふん」と云ったものの浮木の姥はいささか胆を奪われたらしい。「よかろうよかろう幾百人でも来い。しかし我等が固めている、処女造庭の境地へは、一歩たりとも入れぬからの」
「入れぬと云っても入ってみせる。がそれは後日の問題だ。今夜はこれで別れよう」
「これ」と浮木は声を強めた。「娘をこちらへ引き渡せ」
 すると左門は民弥を見たが「随分美しい娘だの。酌などさせたら面白かろう。……お気の毒だが渡されぬよ」
「是非とも渡せ! 大事な娘だ!」
「ほほうそんな[#「そんな」に傍点]にも大事かな?」
「大事な娘だ、さあさあ渡せ!」
「では」と云うと星影左門は一層意地の悪い顔をしたが、「では尚更渡されぬよ。と云うのはこいつを囮にして、我等の望みを遂げたいからさ」
 ここでグルリと手下を見たが、
「さあさあ汝《おのれ》らこの娘をつれて、目的の地へ行くがよい」
 もうこうなっては仕方がない、浮木はたった[#「たった」に傍点]一人である、左門の一党は多勢である。
「娘を渡せ! 娘を渡せ!」
 浮木の叫ぶのを意にも介せず、
「どうぞお許し下さいまし、家へ帰らして下さいまし」
 こう云う民弥の言葉も聞かず、大盗茨組の一党は、民弥を数人で宙につるし、悠々として山路を下り、京都の町へ入ったが、そのまま行方《ゆくえ》をくらませてしまった。

29

 が再びそれが現われた時には、南蛮寺の前に立っていた。
 ところが茨組の一党の後から、ひそかに歩いて来た少年があった。他ならぬ猿若である。その猿若は小北山における、例の乱闘の場《にわ》から遁れ、京都の町へ入り込んだが、民弥のことが気にかかってならない。で、その消息を知ろうとして、この時洛中を歩いていたのであったが、見れば異様な野武士たちの中に、民弥が捕らえられているではないか。これは大変と思いながら、民弥の安否を見届けようと、その後からつけて来たのであった。
「これが有名な南蛮寺か」
「いや立派な伽藍ではある」
「作《つくり》も随分変わっているなあ」
「莫大な費用がかかっているらしい」
 賊どもは互いに呟いている。
 蒼白くひろがった月光の中に、尖塔を持ち円家根《まるやね》を持ち、矗々《すくすく》と聳えている南蛮寺の姿は、異国的であって神々しい。
 夜が相当深いので、往来を通る人もなく、夜警にたずさわる検断所の武士も、他の方面でも巡っているのであろう。ここら辺りには見えなかった。
「噂によれば南蛮寺には、大変もない値打ちのあるものが、貯えられているということだが、どうぞして内《なか》へ忍び込み、そいつをこっちへ奪いたいものだ」
 こう考えたは一党の頭、すなわち星影左門であったが、手下の者を見廻した。
「誰でもよいから囲《かこい》を乗り越し、内の様子を探って来い」
 つまり命令を下したのである。
 いつもは我武紗羅《がむしゃら》で命知らずで、どんな処へでも出かけて行く――そういう手下ではあったけれど、今度ばかりはどうしたものか、左門の云い付けを聞こうともしない。顔を見合わせて黙っている。
 それには理由があるのである。
 始めて眼にした南蛮寺、構造《つくり》がまるで異っている。うかうか内へ入った処で、内の様子を探ることが、覚束ないように思われる。それに第二に何と云っても、神々しい宗教的建物である。じっ[#「じっ」に傍点]と見ていると敬虔の念が、自然と心に湧くのである。
 で、どうにも入り込みにくい。
 で、一同黙っている。
「ふん」と云ったのは星影左門で、改めて手下を見廻したが、「行くものがないのか、臆病な奴等だ。よしよしそれなら頼まない。この俺が自分で出かけて行こう」
 そこで鉄棒を小脇にかかえ、スルスルと門際へ歩み寄ったが、その星影左門さえ、結局寺内へは踏み入ることが出来ず、その上娘の民弥をさえ、捨ててしまわなければならないような、意外な事件にぶつかってしまった。
 と云うのは突然門の内から、かつて一度も聞いたことのない、微妙な不思議な音楽の音色が、さも荘厳に湧き起こり、続いて正面の門が開き、そこから数本の松火を持った、数人の男が現われたが、それに守られた一人の老人が、「民弥よ民弥よ、恐れるには及ばぬ、悩《なやみ》ある者は救われるであろう、悲しめる者は慰められるであろう」
 まずこう云ってから賊どもを見廻し、「ああ汝等も救われるであろう。改心をせよ、改心をせよ、一切悪事というものは、改心によって償われる、まず手はじめにすることは、捉えている娘を離すことだ、そうしてこっちへ手渡すがよい! そうして坐れ、土の上へ! そうして拝め、唯一なる神を!」
 こう云って威厳のある眼を以て、次々に賊共を睨んだので、賊共は等しく胆を潰し、民弥を放すと一同揃って、大地へひざまずいたからである。
 で、民弥は小走ったが、その老人の袖へ縋った。
「ああ貴郎《あなた》様はオルガンチノ[#「オルガンチノ」は底本では「オンガンチノ」]様!」
「民弥か、おいで、怖れることはない」
「はい有難うございます。どうぞお助け下さいまし」
 で、民弥とオルガンチノとは、門を潜《くぐ》って寺内へ入った。
 と、すぐにその後から、猿若少年が飛び込んだ。民弥を慕って飛び込んだのである。
 やがて門は内から閉ざされ、松火も隠れ音楽も消え、あたりは全く寂静《ひっそり》となった。
 だがもし誰か民弥達と一緒に、南蛮寺の寺内へ入って行ったなら、その寺内の一室から、民弥とそうしてオルガンチノとが、次のように話していることを、耳にすることが出来たろう。
「おお、まアそれではお父様が!」
「見られる通りの有様でござる」
「お父様! お父様! お父様!」
「静かになされ、静かになされ!」と。……

30

 処女造庭境とは何物であろう?
 衣笠山から小北山、鷹ヶ峰から釈迦谷山、瓜生山から白妙山、その方面の山林地帯へ、種々様々の迷路を設け、またいろいろの防禦物を作り、都の人間を入れないように、造を構えた地域であって、特に男性を入れないようにしたのと、それを作った頭なるものが、美しい処女であったのとで、処女造庭境というような、物々しい名をつけたまでで、特別の境地ではなかったのである。つまり自然を利用した、一個の広い砦なのであった。
 その頭は何という女か? 唐姫《からひめ》という女である。その唐姫とは何物であるか? 織田信長に滅ぼされたところの、某《なにがし》大名の息女なのである。で、父の仇を討とうがため、すなわち信長を討とうがため、都近くのそんな所へ、そのような自然的砦を設け、旧《もと》の家臣を庭師風に仕立て、一緒に住んで虎視眈々、様子を窺っていたのである。
 で、ここは処女造庭境の神明づくりの社の前である。
 二人の男女が縛られて、大地の上に据えられている。
 猪右衛門《ししえもん》とそうして玄女《げんじょ》である。
 森右近丸《もりうこんまる》に追いかけられ、処女造庭境まで逃げて来て、処女造庭境の人達に、捉えられて縛られてしまったのである。
 ところで今はいつかというに、民弥が南蛮寺へ入り込んだ、そのおんなじ夜なのである。
「いつ迄縛って置くのだろう。どうにもこうにもやりきれないなあ」こう云ったのは猪右衛門。
「ほんとにほんとにどうする気だろう」こう云ったのは玄女である。
「とうとう人形も取られてしまった」
「犬さんが骨を折りまして、鷹さんに取られたというものさ」
「取った鷹さんはよかろうが、取られた犬さんはつまらない」
「その犬さんが私達さ」
「酷《ひど》い目にこそ逢いにけり」
「もっと酷い目に逢うかもしれない」
「もうこれ以上は御免だよ」
「どだいお前が悪いのだよ」玄女が猪右衛門をやっつけた。
「ううんお前がよくないのさ」
「ナーニお前がよくないのさ、と云うのは道草を食っていたからさ、人形を盗んだら大急ぎで、飛び帰ってくればよかったのに」
「と云うことが云えるなら、俺の方にだって云分《いいぶん》はある。人形はお前へ渡したはずだ、あの時サッサと逃げ帰ったら、こんな不態《ぶざま》には逢わなかったはずだ」
「何だか知らないがお前が悪い!」
「何だか知らないがお前が悪い!」
「いいえさ、お前だ!」
「何のお前だ!」
 人間が逆境に落ち込むと、仲好し迄が喧嘩をする。例えに洩れずというのでもあろう、玄女と猪右衛門とは争い出した。
 やがて二人は掴み合いをはじめ、互いに咽喉を締め合った。そうして二人ながら死んでしまった。
 ところがこの頃社務所の中の、燈火《ともしび》の明るい部屋の一つで、三人の男女が話し合っていた。
 唐姫と右近丸と浮木である。
「……と云うわけでございまして、民弥殿を目付けはしましたが、惜しいところで茨組共に、奪い去られましてございます。使命をお果しすることが出来ず、何とも申しわけござりませぬが、事情が事情ゆえ特別を以て、何卒お許し下さいますよう。……それはそれとして民弥殿は、お可哀そうにも茨組共に、連れて行かれたのでございます。ところで茨組と来た日には、ご存知の通りのあばれもの[#「あばれもの」に傍点]。で、民弥殿のお身の上、心元のう存ぜられます。と云ってはたして茨組共は、どこに根城を構えていて、どこへ民弥殿を連れて行ったものやら、これさえ今のところ一向わからず、いよいよ心元のうございます」
 こう云ったのは浮木である。
 民弥を探して探しそこなった、その事情を話しているのである。
「困ったことになりましたねえ」
 こう云ったのは唐姫で、チラリと右近丸の顔を見た。
 右近丸は黙ってうつ向いている。その顔色は蒼白い。頬が痙攣を起こしている。感動をしている証拠である。民弥が賊に奪われたと、そう聞いたので心配し、それが痙攣を起こしたのであろう。
 部屋の中は清らかである、だがたくさんの武器がある。鉄砲、刀、槍、弓矢、……紙燭《ししょく》の光に照らされて、その一所はキラキラと輝き、一所は陰影《かげ》をつけている。
 三人しばらくは無言であった。
 で、部屋の中は静かであった。

31

 だが唐姫《からひめ》が口をひらき、次のようなことを云い出したためその静けさは破られた。
「茨組と云う賊共は、父の旧家臣にございます。その頭の名は星影左門《ほしかげさもん》、以前から妾《わたくし》を妻にしようと、狙っていたものにございます。で、左門の目的は、民弥《たみや》殿でなくてこの妾《わたし》。で、民弥殿の御身上は、まず大丈夫と思われます。それはそれとして唐寺の謎は、半分解くことは出来ましたが、後の半分は解けませぬ。そこで貴郎《あなた》様にお願い致します。山を下り京都《みやこ》へ行き、南蛮寺へおいでになり、多聞兵衛殿の死骸を掘り出し、その左右の胸を調べ、唐寺の謎をお解き下さいまし」
 そこで右近丸は立ち上ったが、そのまま社務所から外へ出た。
 月のあきらかな山路を、京都の方へ下って行く。
 案内役は銅兵衛である。松火を持って先へ立った。
 造庭境の出口へ来た。
「これでお別れいたしましょう」
「ご苦労でござった。では御免」
 一人となった右近丸は、京都の方へ下って行く。
「酷《ひど》い目に逢えば逢ったものだ」心の中で考えた。「処女造庭境の連中まで、唐寺の謎を解こうものと、苦心していたとは知らなかったよ」
 いろいろのことを思い出した。
 玄女と猪右衛門とを追っかけて、処女造庭境へ入り込んだこと、そこの住民に捉えられたこと、今日迄監禁されたこと、しかし優待されたこと、玄女や猪右衛門の手許から、処女造庭境の連中が、例の人形を奪ったこと、そこで自分が申し出て、人形の眼を押させたこと、すると人形が叫んだこと、
「唐寺の謎は胎内の、肺臓の中に蔵してあろうぞ」と、
 そこで人形を断ち割って、その肺臓をしらべた処、一葉の紙のあったこと、そうしてその紙に次のような、数行の文字が書いてあったこと、
「多聞兵衛《たもんひょうえ》死せる場合、決して死骸を焼く可《べか》らず、左右の胸を調ぶ可《べ》きこと、一切の謎おのずから解けん」
「その肝心の多聞兵衛殿は、気の毒な変死をした上に、南蛮寺へ葬られてしまった。左右の胸を調べるとなると、なるほど土から掘り出さなければならない。大変な役目を引き受けたものだ」
 右近丸は都へ下って行く。
 都へ入ったのは間もなくであった。
 夜分は南蛮寺はとざされている。
 翌朝行かなければならなかった。
 そうして翌朝行った時、驚くべきことが発見された。
 死んだと思っていた多聞兵衛が、死なずに活きていたのである。
 のみならず娘の民弥までいた。
「おお民弥殿!」
「右近丸様!」
 抱き合ったのは云う迄もない。

 唐寺の謎は解かれたか? いや解くことは出来なかった。多聞兵衛が拒否したからで、こう兵衛は云ったそうである。
「わしは南蛮寺の教義について、とんでもない誤解をしていたよ。だが南蛮寺に数日いて、その誤解を知ることが出来た。よい教えだ、立派なものだ。そうしてオルガンチノ司僧をはじめ、寺中の人達も立派なものだ。で、わしは帰依をする。わしもこの宗旨の信者になる。で、秘密は明かされない」
 そうして絶対に多聞兵衛は、胸を見せなかったということである。いやいや見せないばかりではなく、その胸の上へ焼金をあて、火傷《やけど》をさせたということである。でそこに何かが書いてあったとしても、今は全く解《わか》らない。
 で南蛮寺の謎なるものは、遂に世人には知れなかったのである。
 で、唐姫も信長も、けっきょく南蛮寺から何物をも、奪い取ることが出来なかった。
 風船仕込みの毒薬は、強烈な催眠剤であったそうな。
 しかしそれにしても唐寺の謎とは、どういう性質のものなのであろう?
 天文《てんもん》十八年|西班牙《スペイン》僧ザビエル、この者が日本へ渡来して、吉利支丹《きりしたん》宗教を拡めようとした。その際ザビエルは今日の価値《あたい》にして、五億円に近い黄金を、持参したということであり、その金ははたして布教一方に用いる、浄財と認めてよいだろうか? それとも宗教に名を藉《か》りて、日本侵略を心掛け、その工作に用いる金! そういう金ではあるまいか? これが一つの謎であった。
 更にその後《のち》京都の地に、南蛮寺、即ち唐寺が建てられ、その五億円の黄金が、その唐寺の内に秘蔵されたそうだが、唐寺の何処に秘蔵してあるか[#「唐寺の何処に秘蔵してあるか」に傍点]? これが二つ目の謎であった。
 そうしてこれら二つの謎を集め、総称して「唐寺の謎」と云い、その謎をひそかに解いた上、その黄金を手に入れようとして、織田信長や唐姫の徒や、香具師《やし》の猪右衛門や玄女たちが、苦心惨憺したのであった。
 弁才坊事多聞兵衛は、吉利支丹そのものを邪法と認め、五億円の黄金は日本侵略の金と信じ、その金の在り場所を発見し、それを信長に告げ知らせ、その功によって家を再興しよう――こう思って唐寺の附近に住み、唐寺へ絶えず出入し、その才智と胆略とで、その黄金の在り場所を探り、謎をすっかり解いたのであった。しかしその秘密を紙などへ書いては、盗まれる憂いがあるというので、唐寺から窃取した薬品を以て、自分の胸へ焼きつけて、身を以て秘密を保ったのであった。
 しかるに弁才坊は猿若によって、一時仮死の状態にされた。
 それを唐寺のオルガンチノ僧正が、唐寺へ引取り介抱し、その間吉利支丹宗旨なるものの、邪宗でないことを説明したので、弁才坊は翻然悟り、黄金の在場所を未来永劫、他人に知らせないようにしたのであった。
 その翌年の春が来た時、右近丸と民弥との結婚式が、織田信長の仲人の下に、安土城内において行なわれた。その客の中には改心をした猿若が、可愛らしいお小姓の姿をして、嬉しそうに雑っていた。栄達を嫌い隠遁をし、吉利支丹宗徒となった弁才坊も、この日は特に美々しく着飾って、出席したことは云う迄もない。
 洛中洛外にはびこっていたところの、姦悪の人買の連中を、信長が指揮して根絶やしにしたのは、それから間もなくのことであり、その中には桐兵衛一味がいて、いずれも捕らえられて殺された。
「処女造庭境」に蟠踞《ばんきょ》していた唐姫の一党はどうしたか?
 信長に楯突くの非を悟り、関東の方へ居を移し、広大な山間の地域を領し、女ながらも大豪族として、永く栄えたということである。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻三」未知谷
   1993(平成5)年3月20日初版発行
初出:「少女倶楽部」
   1927(昭和2)年4月~10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年3月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

独逸の範とすべき点—-国枝史郎

 第一次世界戦争での戦敗国といえば、いうまでもなく独逸《ドイツ》であるが、その独逸《ドイツ》から表現主義文学という、破天荒の形式の文学が産れて、世界の芸術界を驚倒させた。
 ゲオルク、カイゼルなどがその代表的作家であり「朝から夜中まで」などがその代表的作品である。
 表現主義は、一口にいえば、印象主義に反抗して成立した主義であり、心内の思想なり感情なりを、外界と交渉無しに、端的に放出させて芸術を形成するのを特色としている。
 敗戦して心身ともに困苦の極にあった独逸《ドイツ》人にとっては、従来の、自由主義的、自然主義的、印象主義的文学の、なまぬるい描写や記述や説明が物足らず、卒直《そっちょく》に心内の苦悶や憂鬱や希望や怒りやらを叩き付けたような文学を要求した結果、自然発生的に、表現主義文学は産れたものであると云ってもよかろう。
 だからこの主義の文学は、従来の、何んとなく出来ていた文学上のいろいろの約束のようなものを、実に大胆に叩きこわしている。
 スピードが速い、連絡を超越した飛躍がある。曲線的でなく直線的であり、非人情的であると思われるほど機械的である。介在物を混《まじ》えずに一本の思想をひたむきに押通している。古い形式とされていた独白を平気で使って却って効果を持来たしている。万事意志的である。
 この表現主義文学があらわれるや、世界中の文学者は大なり小なり夫《そ》れに感化され、その後に出た文学で、この影響を受けないものは無かったといっても過言で無いほどであった。戦敗国|独逸《ドイツ》の文学が、戦勝国の文学を然《そ》うまで支配したとは何んということだろう?
 いや少しも不思議は無い。
 戦敗国|独逸《ドイツ》の新武器が――火焔放射器や、高熱砲や、磁気水雷や、落下傘部隊等が、かつての戦勝国、英仏その他を現に支配しているのだから。まことにこの森林の子、ゲルマン族の偉《え》らさは、敗《ま》けて敗けず、むしろ焦土から倍旧の美しい、化学や芸術の花を咲かせて、敵国に復讐し、己れ甦生する所にある。
 この民族の不死鳥的態度は、取って以《も》って我等の範としてよかろう。

底本:「国枝史郎歴史小説傑作選」作品社
   2006(平成18)年3月30日第1刷発行
底本の親本:「外交」
   1940(昭和15)年7月29日
初出:「外交」
   1940(昭和15)年7月29日
入力:門田裕志
校正:阿和泉拓
2010年11月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

銅銭会事変—— 国枝史郎

    女から切り出された別れ話

 天明六年のことであった。老中筆頭は田沼主殿頭《たぬまとのものかみ》、横暴をきわめたものであった。時世は全く廃頽期《はいたいき》に属し、下剋上の悪風潮が、あらゆる階級を毒していた。賄賂請託《わいろせいたく》が横行し、物価が非常に高かった。武士も町人も奢侈《おごり》に耽った。初鰹《はつがつお》一尾に一両を投じた。上野山下、浅草境内、両国広小路、芝の久保町、こういう盛り場が繁昌した。吉原、品川、千住《こつ》、新宿、こういう悪所が繋昌した。で悪人が跋扈《ばっこ》した。
 その悪人の物語。――
 梅が散り桜が咲いた。江戸は紅霞《こうか》に埋ずもれてしまった。鐘は上野か浅草か。紅霞の中からボーンと響く。こんな形容は既に古い。「鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春」耽溺詩人|其角《きかく》の句、まだこの方が精彩がある。とまれ江戸は湧き立っていた。人の葬式にさえ立ち騒ぐ、お祭りずきの江戸っ子であった。ましてや花が咲いたのであった。押すな押すなの人出であった。さあ江戸っ子よ飜筋斗《とんぼ》を切れ! おっとおっと花道じゃあねえ。往来でだ、真ん中でだ。ワーッ、ワーッという景気であった。

 その日|情婦《おんな》から呼び出しが掛かった。若侍は出かけて行った。
 いつも決まって媾曳《あいびき》をする、両国広小路を横へ逸《そ》れた、半太夫茶屋へ足を向けた。
 女は先刻から待っていた。
 やがて酒肴が運び出され、愉快な酒宴が始められた。
 そうだいつも[#「いつも」に傍点]ならこの酒宴は、非常に愉快な酒宴なのであった。
 この日に限って愉快でなかった。女の様子が変だからであった。ろくろく[#「ろくろく」に傍点]物さえいわなかった。下ばっかり俯向いていた。そうして時々溜息をした。
「おかしいなあ、どうしたんだろう?」若侍は気に掛かった。
 と、女が切り出した。別れてくれというのであった。
 これには若侍も面食らってしまった。で、しばらく黙っていた。
 不快な沈黙が拡がった。
「ふふん、そうか、別れようというのか」こう若侍は洞声《うつろごえ》で云った。
「余儀無い訳がございまして……」
 女の声も洞《うつろ》であった。
 また沈黙が拡がった。
「別れるというなら別れもしよう。だが理由《わけ》が解らないではな」
「どうぞ訊かないでくださいまし」女は膝を手で撫でた。
「どうもおれにはわからない。藪から棒の話だからな」若侍は嘲けるようにいった。相手を嘲けるというよりも、自分を嘲けるような声であった。「では今日が逢い終《じま》いか。ひどくさばさば[#「さばさば」に傍点]した別れだな。いやその方がいいかもしれない。紋切り型で行く時は、泣いたり笑ったり手を取ったり、そうでなかったらお互いに、愛想|吐《づ》かしをいい合ったり、色々の道具立てが入るのだが、手数がかかり時間がかかりその上後に未練が残り、恨み合ったり憎んだり、詰まらないことをしなければならない。そういうことはおれは嫌いだ。いっそ別れるならこの方がいい。女の方から切り出され、あっさり[#「あっさり」に傍点]それを承知する。アッハッハッ新しいではないか」
 決して厭味でいうのではなかった。それは顔色や眼色で知れた。本当にサラリとした心持ちから、そう若侍は言っているのであった。
「そうと話が決まったら、今日だけは気持ちよく飲ましてくれ」
 若侍は盃を出した。女は俯向いて泣いていた。
「おや、どうしたのだ、泣いているではないか。おれは虐《いじ》めた覚えはない。虐められたのはおれの方だ。虐めたお前が泣くなんて、どう考えても不合理だなあ」まさに唖然とした格好であった。「ははあ解った、こうなのだろう。あんまりおれが手っ取り早く、別れ話を諾《き》いたので、それでお前には飽気《あっけ》なく、やはり月並の別れのように、互いに泣き合おうというのだろう。だがそいつは少し古い。それもお前が娘なら、うん、初心《うぶ》の娘なら、そういう別れ方もいいだろう。ところがお前は娘とはいえ、浅草で名高い銀杏《いちょう》茶屋のお色、一枚絵にさえ描かれた女だ。男あしらい[#「あしらい」に傍点]には慣れているはずだ。お止しよお止しよそんな古手はな。……おや、やっぱり泣いているね。いよいよ俺には解らなくなった。ははあなるほど、こうなのだろう。あんまり気前よく承知したので、気味が悪いとでもいうのだろう。そこでいわゆる化粧泣き、そいつで機嫌を取り結び、後に祟りのないように、首尾よく別れようというのだろう。もしそうならおれは怒る!」
 若侍は睨むようにした。

    恋敵は田沼主殿頭

「というのは他でもない。おれとお前とは二年越し、馴染《なじみ》を重ねた仲だのに、あんまり心持ちが判らなさ過ぎるからよ」いっている間にも若侍の顔には自嘲の色が浮かんでいた。「アッハッハッハッ違うかな。いや違ったらご勘弁、こいつ[#「こいつ」に傍点]器用に謝《あや》まってしまう。とはいえそうでも取らなかったら、他にとりようはないじゃあないか。二人の間にはこれといって、気不味《きまず》いこともなかったのに別れ話を切り出され、しかも理由は訊くなという。ちょっと廻り気も起ころうってものさ」
 じっ[#「じっ」に傍点]と女の様子を見た。女は顔を上げなかった。耳髱《みみたぶ》がブルブル顫《ふる》えていた。色がだんだん紅くなった。バッチリ噛み切る歯音がした。鬢の垂れ毛を噛み切ったらしい。
 若侍は徳利を取った。自分の盃へ注ごうとした。その手首を握るものがあった。焔《も》えるような女の手であった。
「わたしは買われて行くのです」女は突然ぶっ[#「ぶっ」に傍点]付けるようにいった。「それをあなたは暢気《のんき》らしく、笑ってばかりおいでなさる」
「何、買われて行く? 吉原へか?」
「女郎ならまだしも[#「まだしも」に傍点]よござんす。妾《めかけ》に買われて行くのです」
「うむ、そうして行く先は?」
「はい、あなたの大嫌いな方」
「おれには厭な奴が沢山ある。人間はみんな[#「みんな」に傍点]嫌いだともいえる」
「一人あるではございませんか。とりわけ[#「とりわけ」に傍点]あなたの嫌いな人が」
「なに、一人? うむ、いかにも。が、それは大物だ」
「そのお方でございます」
「老中筆頭田沼主殿頭!」
「はい、そうなのでございます」
「それをお前は承知したのか?」
「お養母様《かあさま》が大金を。……」
「うむ、田沼から受け取ったのだな?」
「妾《わたし》の何んにも知らないうちに。……用人とやらがやって来て。……」
 若侍は立ち上がった。だがまたすぐに坐ってしまった。
「よくある奴だ。珍らしくもない。ふん。金持ちの権勢家、業突張《ごうつくば》りの水茶屋養母、その犠牲になる若い娘、その娘の情夫《いろおとこ》。ちゃんと筋立てが出来てらあ、物語の筋にある奴よ。今までは草双紙で読んでいたが、今日身の上にめぐって来たまでさ。泣くな泣くな何を泣きゃあがる」

 翌日弓之助は軽装をして、三浦三崎へ出かけて行った。千五百石の安祥旗本、白旗小左衛門の次男であって、その時年齢二十三、神道無意流の大先生戸ヶ崎熊太郎の秘蔵弟子で、まだ皆伝にはなっていなかったが、免許はとうに通り越していた。武骨かというに武骨ではなく、柔弱に見えるほどの優男《やさおとこ》。そうして風流才子であった。彼は文学が非常に好きで、わけても万葉の和歌を愛した。で今度の三崎行も西行を気取っての歌行脚《うたあんぎゃ》であった。が、これは表面《おもてむき》で、お色と別れた寂しさを、まぎらそうというのが真相であった。途中で悠々一泊し、その翌日三崎へ着いた。半漁半農の三崎の宿は、人情も厚ければ風景もよかった。小松屋というのへ宿まることにした。海に面した旅籠屋であった。
「五、六日ご厄介になりますよ」「へえへえ、有難う存じます」
 その翌日から弓之助は、懐中硯《ふところすずり》と綴《つづ》り紙を持って、四辺《あたり》の風景を猟《あさ》り廻った。

    銅銭会茶椀陣

 しかしよい歌は出来なかった。別れた女のことばかりが、胸のうちにこだわ[#「こだわ」に傍点]っていた。もちろん女と別れたことも、彼には随分寂しかったが、その女を取った者が、田沼主殿頭だということが、一層彼には心外であった。というのはほかでもない、彼の父なる小左衛門が、わずか式第の仕損《しそこな》いから主殿頭に睨まれて役付いていた鍵奉行から、失脚させられたという事が、数ヵ月前にあったからであった。
「側御用人の小身から、将軍家に胡麻《ごま》を磨り老中に上がって七万七千石、それで政治の執り方といえば上をくらまし下を搾取、ろくなことは一つもしない。憎い奴だ悪い奴だ」これが彼の心持ちであった。
「一向三崎も面白くないな。どれそろそろ帰ろうか」
 空の吟嚢を胸に抱き、弓之助は江戸へ引っ返した。
 最初の予定が五、六日、それを二日で切り上げたのであった。

 ある日弓之助は屋敷を出た。上野の方へ足を向けた。花の盛りは過ぎていたが、上野山下は景気立っていた。茶屋女が美しいので、近ごろ評判の一|葉《は》茶屋で、弓之助は喉を濡らすことにした。
 女が渋茶を持って来た。ふと見ると弓之助の正面に、一人の老武士が腰かけていた。雪白の髪を総髪に結んだ、無髯《むぜん》童顔の威厳のある顔が、まず弓之助の眼を惹いた。左の眉毛の眉尻に、豌豆ほどの黒子《ほくろ》があった。
「はてな?」と弓之助は呟いた。武士の眼使いが変だからであった。顔を正面に向けながら、瞳だけをそっと眼角へ送り、じっと何かを見ているのであった。他人に気取られずに物を見る。――こういう見方で見ているのであった。「これはおかしい」と思いながら、老人の瞳の向いている方へ、弓之助はこっそり[#「こっそり」に傍点]眼をやった。そっちに小座敷が出来ていた。そこに二人の町人がいた。その一人のやっている事が、弓之助の心をちょっとそそ[#「そそ」に傍点]った。茶飲み茶椀と土瓶とで、変な芸当をしているのであった。茶椀の数は十個あった。しかし土瓶は一個しかなかった。その十個の茶飲み茶椀を、ある時はズラリと一列に並べある時はタラタラと二列に並べ、または方形にまたは弧形に、そうかと思うと向かい合わせたりした。そのつど土瓶の位置が変わった。非常に手早くやるのであった。いったい何をしているのだろう? そうやって遊んでいるのだろうか? 座敷の隅で、チビチビ酒を飲んでいた。見ているような見ていないような、不得要領な眼使いを一人の町人はして、茶椀の変化へ眼を付けていた。二人は懇意の仲とも見え、また全くの他人とも見えた。そういう不思議な茶椀の芸当が、しばらくの間繰り返された後、二人の町人は茶屋を出た。ややあって老武士が編笠を冠《かぶ》った。
「銅銭会の茶椀陣」こう老武士は呟くようにいった。それから茶屋を出て行った。
「銅銭会の茶椀陣」老人の言葉をなぞ[#「なぞ」に傍点]って見たが、弓之助には意味がわからなかった。しかし何んとなく心に掛かった。意味を確かめて見たかった。そこで老武士の後を追った。
 もうそれは夕暮れであった。花見帰りの人々が、ふざけながら往来を練っていた。老武士はズンズン歩いていった。足は谷中へ向いていた。この時代の谷中辺はただ一面の田畑であった。飛び飛びに藁葺《わらぶ》きの百姓家があった。ぼんやり春の月が出た。と一軒の屋敷があった。大名方の控え屋敷と見え、数寄《すき》の中にも厳《いか》めしい構え、黒板塀がめぐらしてあった。裏門の潜戸《くぐり》がギーと開いた。老武士の姿が吸いこまれた。
「いったい誰の屋敷だろう?」ここまで尾行《つけ》て来た弓之助は、しばらく佇んで眺めやった。少し離れて百姓家があった。そこで弓之助は訊いて見た。
「大岡様のお屋敷でございますよ」
「ああそうか、大岡様のな」
 弓之助は礼をいって足を返した。
「享保年間の名奉行、大岡越前守と来たひには、とても素晴らしい人傑だったが、子孫にはろくな物は出ないようだ。今の時代に大岡様がいたら、もっと市中は平和だろうに。……ナーニ案外駄目かもしれない。名君でなければ名臣を、活用することは出来ないからな。……それはそうと今の老人、大岡家のどういう人だろう? 非常な老年と思われるが、歩き方など若者のようだ。家老や用人ではないらしい。途方もなく威厳があったからな」

    北町奉行曲淵甲斐守

 彼の屋敷は本所にあった。
「お帰り遊ばせ」と若党がいった。
「ああ」と受けて部屋へはいった。小間使いが茶を淹《い》れて持って来た。
「お父様は?」と弓之助は訊いた。
「はい、ご書見でございます」
「お兄様は?」と彼は訊いた。
「はい、ご書見でございます」
「みんな勉強しているのだな。何んのために勉強するのだろう? 論語を読んでどうなるんだろう? どこかの世界で役立つかしら? どうもおれには疑問だよ。そんな事より行儀でも習って、頭の下げっ振りでも覚えるんだね。そうでなかったら幇間《ほうかん》でも呼んで、追従術《ついしょうじゅつ》を習うんだね。こいつの方がすぐ役立たあ。お菊お前はどう思うな?」
「若旦那様何をおっしゃるやら、ホッホッホッホッ、そんな事」小間使いのお菊は無意味に笑った。
「ホッホッホッホッそんな事か? なるほど、こいつも処世術だ。語尾を暈《ぼか》して胡麻化《ごまか》してしまう。偉いぞお菊、その呼吸だ。御台所《みだいどころ》に成れるかもしれねえ。俺はお前の弟子になろう、ひとつ俺を仕込んでくれ」
「厭でございますよ、若旦那様」小間使いのお菊は逃げてしまった。
 弓之助は寝ることにした。
「どぎった[#「どぎった」に傍点]事はないものかしら? ひっくり[#「ひっくり」に傍点]返るような大事件がよ。俺はそいつへ食い下がってゆきたい。何んだか知らねえがおれの心には変てこな塊《かたまり》が出来ている。ともかくもこいつを吐き出したいものだ。つまり溜飲を下げるのさ」

 北町奉行|曲淵甲斐守《まがりぶちかいのかみ》、列代町奉行のその中《うち》では、一流の中《うち》へ数えられる人物、弓之助にとっては叔父であった。
 その翌日のことであった、弓之助は叔父を訪問した。屋敷内が騒がしかった。与力が右往左往した。同心どもが出入りした。重大な事件でも起こったらしい。弓之助は叔母の部屋へ行った。
「叔母様、何か取り込みで?」
「おやこれは弓之助さんかい。何んだか妾《わたし》には解らないが、大変なことが起こったようだよ」
 弓之助には母がなかった。五年ほど前に逝《なくな》ってしまった。で、弓之助はこの叔母を、母のように、懐しんでいた。
「お茶でも淹《い》れよう、遊んでおいで。叔父さんも帰って来ようからね」
「ええ有難うございます」
 お茶を飲んで世間話をした。叔父は帰って来なかった。御殿へ詰め切りだということであった。夜になってようやく帰って来た。その顔色は蒼褪めていた。弓之助は叔父の部屋へ行った。
「毎日ご苦労に存じます」
「おお弓之助か、近ごろどうだ」こうはいったがいつものように、優しく扱かってはくれなかった。いわゆる心ここにあらず、何か全く別のことを、考えているような様子であった。
「これは大事件に相違ない」弓之助は直覚した。「何か大事件でも起こりましたので」顔色を見い見い訊いて見た。
「うん」と甲斐守は物憂そうにいった。「前古未曽有の大事件だ」
「いったいどんなことでございますな?」
「絶対秘密だ。いうことは出来ない」甲斐守は苦り切った。

    変な噂は聞かなかったかな?

 甲斐守は深沈大度、喜怒容易に色に出さぬ、代表的の役人であった。今度に限ってその甲斐守が、まざまざ憂色を面《おもて》に現わし、前古未曽有の大事件で、絶対秘密というからには、よほどの事件に相違ない。弓之助の好奇心は膨れ上がった。しかし甲斐守の性質として、一旦いわぬといったからには、金輪際《こんりんざい》口を開かぬものと、諦めなければならなかった。そこで弓之助は一礼し、甲斐守の部屋を出ようとした。
「これ弓之助ちょっと待て、少し聞きたいことがある」甲斐守は急に止めた。
「はい、ご用でございますか」弓之助は座に直った。
「お前は随分道楽者で、盛り場や悪所を歩き廻るそうだな」
「おやおや何んだ、面白くもない。紋切り形の意見かい」弓之助は苦笑したが、
「これはどうも恐れ入ります。はい、さようでございますな。いくらかは道楽も致しますが、決して親や兄弟へは、迷惑などは掛けないつもりで」
「いやいや意見をするのではない。若いうちは遊ぶもよかろう。親父のようにかたくな[#「かたくな」に傍点]では、ろくな出世は出来ないからな。どうだ情婦《おんな》でも出来ているか」
「おやおやこいつは変梃《へんてこ》だぞ。妙な風向きになったものだ。叔父貴としては珍らしい。ははあわかった、手段だな。いわせて置いてとっちめ[#「とっちめ」に傍点]る。ううんこいつに相違ない。町奉行なんか叔父に持つと、油断も隙も出来やあしない。甥に対してさえお白洲式の、訊問法を採るのだからな。構うものか、逆捻《さかねじ》を食わせろ」そこで弓之助はニヤニヤした。
「実はね、叔父さん、出来ましたので。茶汲み女ではありますが、どうしてどうして一枚絵にさえ出た、素晴らしい別嬪でございますよ。だがね、叔父さん、つい最近、縁を切られてしまいました」
「切られたというのは変ではないか、お前が縁を切ったんだろう。冗《むだ》なことをしたものだ」
「いいえそうじゃありません。女から引導《いんどう》を渡されたんで」
「ほほうそうか、それは偉い」
「偉い女でございますよ」
「いやいや偉いのはお前の方だ」
「叔父さん冷《ひや》かしちゃあいけません」
「冷かすものか、本当のことだ。遊びもそこまで行かなければ、堂に入ったとはいわれない」
「振られて帰る果報者。叔父さん、こいつをいっているんですね」
「いやいやそれとは意味が異う。男へ引導を渡すような女だ、いずれ鉄火に相違あるまい。そういう女をともかくも、占めたということは偉いではないか」
「これはどうも恐れ入りました」弓之助は変に気味悪くなった。「この叔父貴変梃だぜ。金仏のような風采でいてそれで消息には通じている。ははあ昔は遊んだな」
 その時甲斐守は一膝進めた。
「そこでお前に訊くことがある。盛り場ないし悪所などで近ごろ何か変わった噂を耳にしたことはなかったかな?」
「さあ、変わった噂というと?」
「銅銭会というようなことを」
「あっ、それなら聞きました。いや現在見たんです」
「ふうむ、そうか、知っているのか。……ひとつそいつを話してくれ」ピタリと甲斐守は坐り直した。
 そこで弓之助は昨日、上野山下一葉茶屋で、怪しい振る舞いをした町人のことと、老武士のこととを物語った。じっ[#「じっ」に傍点]と聞いていた甲斐守は、一つ大きく頷いた。
「いやよいことを教えてくれた。ついては弓之助頼みがある。これから大至急谷中へ行き、大岡侯の下屋敷へ伺候し、その老体と面会し、もっと詳しく銅銭会のことを、聞き出して来てはくれまいかな」
「はい、よろしゅうございます。しかしはたしてその老人、会って話してくれましょうか」
「俺から書面をつけることにしよう」
「へえ、それでは叔父様は、その老人をご存知で?」こう弓之助は不思議そうに訊いた。

    銅銭会縁起録

「さよう」といったが曖昧《あいまい》であった。
「まず知っているとして置こう。あの老人は人物だ。徳川家の忠臣だ。しかし一面|囚人《めしゅうど》なのだ。同時に徳川家の客分でもある。捨扶持《すてぶち》五千石をくれているはずだ。まずこのくらいにして置こう。書面が出来た。すぐ行ってくれ」
「はい、よろしゅうございます」
 書面の面には京師殿と、ただ三文字書かれてあった。
 書面を持って飛び出した。ポンと備え付けの駕籠に乗った。
「急いでやれ! 行く先は谷中!」
 深夜ゆえに掛け声はない。駕籠は一散に宙を飛んだ。やがて大岡家の表門へ着いた。
 トントントンと門を叩いた。「ご門番衆、ご門番衆」四方《あたり》を憚《はばか》って小声で呼んだ。
「かかる深夜に何用でござる」門の内から声がした。
「曲淵甲斐守《まがりぶちかいのかみ》の使者でござる。ただし、私用、潜戸《くぐり》を開けられい」
 で、潜戸がギーと開いた。それを潜って玄関へかかった。
「頼む。頼む」と二声呼んだ。
 と、小間使いが現われた。
「これを」と書面を差し出した。
 一旦小間使いは引っ込んだが、再び現われると慇懃《いんぎん》にいった。「さ、お通り遊ばしませ」
 十畳の部屋へ通された。間もなく現われたのは老人であった。
「白旗氏《しらはたうじ》のご子息だそうで。弓之助殿と仰せられるかな。……書面の趣き承知致した。しかし談話《はなし》では意を尽くさぬ。書物があるによってお持ちなされ」
 懐中から写本を取り出した。
「愚老、研究、書き止め置いたもの、甲斐守殿へお見せくだされ。……さて次に弓之助殿、昨日は一葉茶屋で会いましたな」
「ご老人、それではご存知で?」
「さて、あの時の茶椀陣、この意味だけは本にはない。よって貴殿にお話し致す。――貴人横奪、槐門《かいもん》周章。丙《ひのえ》より壬《みずのえ》、一所集合、牙城を屠《ほふ》る。急々如律令《きゅうきゅうにょりつれい》。――つまりこういう意味でござった。甲斐守殿へお伝えくだされ」
「して、茶椀陣とおっしゃるは?」
「うむ、茶椀陣か、それはこうだ。銅銭会の会員が、茶椀と土瓶の位置の変化で、互いの意思を伝える法」
「火急の場合、これでご免」
「謹慎の身の上、お見送り致さぬ」
 で弓之助は下屋敷を辞した。門を潜ると駕籠へ乗った。
 駕籠は一散に宙を飛んだ。
 間もなく甲斐守の屋敷へ着いた。門を潜り、玄関を抜け、叔父の部屋へ走り込んだ。
 依然|肩衣《かたぎぬ》を着けたまま、甲斐守は坐っていた。
「おお弓之助か、どうであった?」
「まずこれを」と書物《かきもの》を出した。
「うむ、銅銭会縁起録」
「他に伝言《ことづて》でございます」
「うむ、そうか、どんなことだ?」
「先ほど、私お話し致しました、上野山下一葉茶屋で、一人の町人の行なった茶椀芸についてでございますが、あれは銅銭会の茶椀陣と申し、茶椀の変化によりまして、会員同士互いの意思を、伝え合うところの方法だそうで、あの時の茶椀陣の意味はといえば、貴人横奪、槐門周章。丙《ひのえ》より壬《みずのえ》、一所集合、牙城を屠る。急々如律令。……かような由にございます」
「ううむそうか、よく解った」甲斐守はじっと考え込んだ。「……貴人横奪? 貴人横奪? これはこの通りだ間違いない。いかにも貴人が横奪された。槐門周章? 槐門周章? 槐門というのは宰相の別名、当今の宰相は田沼殿、いかにもさよう田沼殿は、非常に周章《あわ》てておいでになる。だからこれにも間違いはない。丙より壬? 丙より壬? これがちょっと解らない」甲斐守は眼を閉じた。すると弓之助が何気なくいった。
「日柄のことではございませんかな。たしか一昨日《おとつい》が丙の日で」

    将軍家治誘拐さる

「おっ、なるほど、そうかもしれない。うむ、よいことを教えてくれた。いかにもこれは日柄のことだ丙から壬というからには、丙から数えて壬の日まで、すなわち七日間という意味だ。一所集合? 一所集合? これは読んで字のごとく某所へ集まれということだろう? 牙城を屠る? 牙城を屠る? 敵の本陣をつくという意味だ。急々如律令は添え言葉、たいして意味はないらしい……さてこれで字義は解った。貴人を横取りしたために、宰相田沼殿が周章《あわ》てている。七日の間に某所へ集まり、敵の本陣を突くという意味だ」
 甲斐守は沈吟した。
「解ったようで解らない。だがともかくも今度の事件が、銅銭会という秘密結社の、会員どもの所業《しわざ》であることは、どっちみち[#「どっちみち」に傍点]疑がいはなさそうだ」
「叔父様」と弓之助は窺うように、「貴人とおっしゃるのはどなたのことで?」
 甲斐守はジロリと見た。
「これはな、天下の一大事だ。本来ならば話すことは出来ぬ。これが世間へ知れようものなら、忽ち謀叛が起こるだろう。が、お前には功がある。特別をもって話して聞かせる。貴人というのは将軍家のことだ」
「えっ!」と弓之助は眼を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》った。「それでは上様が何者かに?」
「一昨日の晩、盗み取られた」
「へえ」といったが弓之助は二の句を継ぐことが出来なかった。

 時の将軍家は家治《いはえる》であった。九代将軍家重の長子で、この事件の起こった時には、その年齢五十歳、普通の日本の歴史からいえば、暗愚の将となっている。しかしそうばかりでもなかったらしい。ただ余りに女性的で権臣を取って抑えることが出来ず、権臣のいうままになっていたらしい。少しも下情《かじょう》に通じなかった。権臣がそれを遮《さえぎ》るからであった。で彼は日本の国は、泰平のものと思っていた。彼は性、画を好んだ。そこで権臣は絵師を進め、彼をしてそれにばかり没頭せしめた。
 しかるに最近事件が起こった。近習山村彦太郎が、三河風土記を講読した。すると家治は慨嘆した。「俺は今までこんないい本が、世間にあろうとは思わなかった。もっと彦太郎読んでくれ」
 そこで彦太郎は陸続《りくぞく》と読んだ。それを怒ったのが権臣であった。すなわち田沼主殿頭であった。すぐ彦太郎を退けてしまった。
 しかし将軍家はそれ以来大分心が変わったらしい。やや田沼を疎《うと》むようになった。そうして下情に通じようとした。田沼はそれを遮ろうとした。しかし将軍は子供ではなかった。一旦覚えた智恵の味を忘れることは出来なかった。で将軍家と田沼との間が、どうも円滑に行かなくなった。五日ほど以前《まえ》のことであった。田沼は将軍家をそそのかし[#「そそのかし」に傍点]、上野へ微行で花見に行った、その帰り路のことであった。本郷の通りへ差しかかった。忽ち小柄が飛んで来た。が、幸い駕籠へ中《あた》った。小柄には毒が塗ってあった。そうして柄には彫刻《ほり》があった。銅銭会と彫られてあった。
 こうして一昨日の夜となった。その夜将軍家は近習も連れず、一人|後苑《こうえん》を彷徨《さまよ》っていた。と、一人の非常な美人が、突然前へ現われた。見たことのない美人であった。大奥の女でないことは、その女の風俗で知れた。町娘風の振り袖姿、髪は島田に取り上げていた。
 女は先に立って歩いて行った。将軍家は後を追った。近習の一人がそれを見付け、すぐ後を追っかけた。御天主台と大奥との間、そこまで行くと二人の姿が――すなわち将軍家と女とが、掻き消すように消えてしまった、爾来消息がないのであった。

    弓之助感慨に耽る

 甲斐守はこう語った。
 弓之助は奇異の思いがした。
「これは陰謀でございますな。狐狸の所業《しわざ》ではありませんな。怪しいのはその女で、何者かの傀儡《かいらい》ではございますまいか?」
「うん俺もそう思う。振り袖姿のその女は、銅銭会の会員だろう」
「申すまでもありません。しかし私は銅銭会より、銅銭会をあやつっ[#「あやつっ」に傍点]ているある大きな人物が……」
「これ」と甲斐守は手で抑えた。「お前、田沼殿を疑がっているね」
「勢いそうなるではございませんか」
「が、ここに不思議なことには、今度の事件では田沼殿は、心の底から周章《あわ》てていられる」
「さては芝居がお上手と見える」
「いやおれの奉行眼から見ても、殿の周章《あわ》て方は本物だ。そこがおれには腑に落ちないのだ。……さて、よい物が手に入った。銅銭会縁起録、早速これから御殿へまいり、老中方にお眼に掛けよう」
 叔父の家を出た弓之助は、寂然《しん》と更けた深夜の江戸を屋敷の方へ帰って行った。考えざるを得なかった。
「田沼の所業に相違ない。将軍家に疎《うと》んぜられた。そこで将軍家をおび[#「おび」に傍点]き出し、幽囚したか殺したか、どうかしたに相違ない。悪い奴だ、不忠者め! その上俺の情婦《おんな》を取り、うまいことをしやがった。
 公《おおやけ》の讐《あだ》、私の敵《あだ》、どうかしてとっちめ[#「とっちめ」に傍点]てやりたいものだ。だが、どうにも証拠がない。是非とも証拠を握らなければならない。銅銭会とは何物だろう? 支那の結社だということだが、どういう性質の結社だろう? だがそいつは縁起録を見たら、容易に知ることが出来るかもしれない。明日もう一度叔父貴を訪ね、縁起録の内容を知らせて貰おう。とまれ田沼めと銅銭会とは、関係があるに相違ない。あるともあるとも大ありだ。銅銭会員を利用して、将軍家誘殺を試みたのだ。無理に将軍家を花見に誘い、毒塗り小柄で討ち取ろうとした。ところがそいつが失敗《しくじ》ったので、会員中の美人を利用し、大奥の庭へ入りこませ好色の将軍家を誘い出したのだ。容易なことでは大奥などへは、地下《じげ》の女ははいれないが、そこは田沼がつい[#「つい」に傍点]ている。忍び込ませたに相違ない。だがしかし不思議だなあ。突然消えたというのだから」
 彼はブラブラ歩いて行った。
「田沼にいかに権勢があっても、深夜城門を開くことは、どんなことがあっても出来るものではない。だが城門を開かなかったら、城から外へ出ることは出来ない。それだのに突然消えたという。どうもこいつがわからないなあ」
 弓之助には不思議であった。
「もしかすると将軍家には、千代田城内のどの部屋かに、隠されているのではあるまいかな? お城には部屋が沢山ある。秘密の部屋だってあるだろう。どこかに隠されてはいないかな?」
 神田を過ぎて下谷へ出た。朧月《おぼろづき》が空にかかっていた。四辺《あたり》が白絹でも張ったように、微妙な色に暈《ぼ》かされていた。
「山村彦太郎が将軍家へ、風土記を講読したというが、結講な試みをしたものだ。そのため将軍家の眩まされた眼が、少しでも明いたということは、非常な成功といわなければならない。もっとも今度の大事件の、そもそもの発端というものは、その三河風土記の講読にあることは争われないが、決してそれを責めることは出来ない、聞けば山村彦太郎は、賢人松平越中守様に、私淑しているということだが、ひょっと[#「ひょっと」に傍点]かすると越中守様の、何んとはなしの指金《さしがね》によりて、そんなことをしたのではあるまいかな」

    弓之助の社会観

 弓之助は上野へ差しかかった。
「越中守はお偉い方だ。ああいう方が廟堂に立ち、政治をとってくだされたなら、日本の国も救われるのだが、そういう事も出来ないかして、いまだに枢機《すうき》に列せられない。現代政治のとり方は、庚申堂《こうしんどう》に建ててある、三猿の石碑《いしふみ》そっくり[#「そっくり」に傍点]だ。見ざる聞かざるいわざるだ。将軍家よ見てはいけない。人民どもよ見てはいけない。将軍家よ聞いてはいけない。人民どもよ聞いてはいけない。将軍家よいってはいけない。人民どもよいってはいけない。一口にいえば上をも下をも木偶坊《でくのぼう》に仕立てようとしているのだがこいつは非常に危険だ。聞かせまいとすれば聞きたがる。いわせまいとすればいいたがる。見せまいとすれば見たがるものだ。圧迫するということは、いつの場合でもよくはない。圧迫、圧迫、さて圧迫! その次に起こるものは爆発だ。この爆発は恐ろしい。一切の物を破壊しようとする。いっそうそれより処士横議、自由に見させ自由にいわせ、自由に聞かせた方がいいではないか。遙かにその方が安全だ。琉《は》け口を作ってやるのだからな。……ところでここはどこだろう?」
 そこは浅草馬道であった。
「お色め、今頃どうしているだろう? まだ妾《めかけ》にはゆくまいな。ちょっと様子を見たいものだ。別れた、女の様子を見る。未練と人はいうだろう。だが幸い人気《ひとけ》がない。おりから深夜で月ばかりだ。月に見られたって恥ずかしいものか。しかも春の朧月、被衣《かつぎ》を、冠っておいでなさる」
 観音堂の方へ歩いて行った。昼は賑やかな境内も、人影一つ見えなかった。家々の戸は閉ざされていた。屋根が水でも浴びたように、銀鼠色に光っていた。巨大な公孫樹《いちょう》が立っていた。その根もとに茶店があった。すなわちお色の住居《いえ》であった。犬が門を守っていた。と尾を振って走って来た。よく見慣れている弓之助だからで、懐しそうにじゃれ[#「じゃれ」に傍点]ついた。「おおよしよし」と頭を撫でた。「犬の方がよっぽど[#「よっぽど」に傍点]人間らしい。さて何かやりたいが、小判をやってもし方がねえ。その他には何んにもないお気の毒だがくれることは出来ねえ。……お色め、今ごろいい気持ちで、グッスリ眠っているだろう。そう思うといい気持ちはしねえ。間もなく田沼の皺くちゃ[#「くちゃ」に傍点]爺に、乳房を自由にされるんだろう。こいつは一層いい気持ちがしねえ。だがひょっと[#「ひょっと」に傍点]するとおれの事を案じて眼覚めているかもしれねえ。こいつはちょっといい気持ちだ。まずなるたけならいい方へ考えた方がよさそうだ。少なくも気休めにはなるからな」
 観音堂の裏手へ廻った。花川戸の方へ歩いて行った。どこもかしこも寝静まっていた。家々がまるで廃墟のように見えた。隅田に添って両国の方へ歩いた。一方は大河一方は家並、その家並が一所切れてこんもり[#「こんもり」に傍点]とした森があった。社《やしろ》でも祀ってあるらしい。
「どれ、神様でも拝むとするか」森の中へはいって行った。はたして社が祀ってあった。その拝殿へ腰を掛けた。一つ大きく呼吸《いき》づいた。もう一度大きく呼吸づこうとした。中途で彼は止めてしまった。
「実際現代は息苦しい。重い石が冠さっている。勇気のある者は憤怒《いきどおり》をもって、その重い石を刎ね退けるがいい。勇気のある者は笑ってはいけない! 肉体的にいう時は、笑ったとたんに筋が弛む。精神的にいう時は、笑ったとたんに心が弛む。弛むということは油断ということだ。その油断に付け込んで飛び込んで来るのが、妥協性だ。妥協、うやむや、去勢、萎縮、そこで小粋な姿《なり》をして、天下は泰平でございます。浮世は結構でございます。皆さん愉快にやりましょう。粋《おつ》でげすな。大通でげすな。なあァんて事になってしまう。そうや[#「や」に傍点]って謳《うた》っているうちに、それよこせ[#「よこせ」に傍点]やれよこせ[#「よこせ」に傍点]、洗いざらい持って行かれる。ヘッヘッヘッヘッヘッこれはこれは、いつの間に貧乏になったんだろう? などと驚いても追っ付かない。だから決して笑ってはいけない。いつもうんと[#「うんと」に傍点]怒っているがいい。……だがこいつは勇士の態度だ。利口者には別の道がある。行儀作法を覚えることよ。お辞儀を上手にすることよ。お太鼓をうまく叩くことよ。お手拍子喝采を習うことよ。それで権勢家に取り入るのよ。そうして重用されるのよ。さてそれからジワジワと、自分の考えは権勢家に伝え、その権勢家の力を藉《か》りて、もって実行に現わすのよ」
 また感慨に耽り出した。

    舁ぎ込まれた一丁の駕籠

 と、その時一丁の駕籠が、森の中へ担ぎ込まれた。
「こんな深夜にこんな所へ、担ぎ込まれるとは不思議千万、何か様子があるらしい」弓之助は社の背後《うしろ》へ隠れた。
「おお先棒もうよかろう」「おっと合点、さあ下ろせ」
 駕舁きはトンと駕籠を下ろした。それから額の汗を拭いた。それからヒソヒソと囁《ささや》き合った。
「おい姐《ねえ》さん、用があるんだ、ちょっくら[#「ちょっくら」に傍点]駕籠から出ておくんなせえ」後棒の方がこういった。
「あい」と可愛らしい声がした。「もう着いたのでございますか」中から垂れが上げられた。「おやここは森の中、駕舁きさん、厭ですねえ。気味が悪いじゃあありませんか。どうぞ冗談なさらずに着ける所へ着けておくんなさい」言葉の調子が町娘らしい。
「まあ姐さん、急《せき》なさんな。着ける所は眼の先だ。がその前にご相談、厭でも諾《き》いて貰わなけりゃあならねえ」こういったのは先棒であった。「おお後棒、もうよかろう。お前からじっくり[#「じっくり」に傍点]いい聞かせてやんねえ」両膝を立ててうずくまり、腰の辺《あた》りを探ったのは、煙管《きせる》でも取り出そうとするのだろう。
 先棒は及び腰をして覗き込んだ。
「のう姐さん、もうおおかた、見当は着いているだろう。いかにも俺《おい》らは駕舁きだ。が、問屋場に腰掛けていて、いちいちお客様のお出でを待って、飛び出すような玉じゃあねえ。もうちっとばかり[#「ちっとばかり」に傍点]荒っぽい方だ。俺《おい》らは石地蔵の六といい、仲間は土鼠《もぐら》の源太といって、大した悪事もやらねえが、コソコソ泥棒、掻っ払い、誘拐《かどわか》しぐらいはやろうってものさ、さてそこでお前さんだが、品川から駕籠に乗んなすった時おりから深夜《よふけ》、女身一人、出歩こうとは大胆だが情夫《おとこ》にあいたいの一心から、家を抜け出して来たんだな、こう目星を付けたってものさ。で、先棒がいう事には、何も男の所まで、担いで行くにゃああたるめえ、大の男が二人まで、ここに揃っているのだからな。なるほど縹緻《きりょう》は悪かろう、肌だって荒いに違《ちげ》えねえ。いうまでもなく情夫《おとこ》の方が、やんわり[#「やんわり」に傍点]と当るに違えねえ。だがそいつあ勘弁して貰い、厭でもあろうが俺《おい》ら二人を、亭主に持ってはくれまいか、ちょっくら[#「ちょっくら」に傍点]相談ぶって[#「ぶって」に傍点]見ようてな。もっとも厭だといったところでおいそれ[#「おいそれ」に傍点]と、聞く俺らじゃあねえ。よくねえ奴らに魅入られたと、こう思って器用に往生しねえ」
「おおおお六やどうしたものだ。そう強面《こわもて》に嚇《おど》すものじゃねえ。相手は娘だジワジワとやんな」先棒の源太はかがん[#「かがん」に傍点]だまま、駕籠の中を覗き込んだ。
「ナアーニ姐さん心配しなさんな。外見はちょっと恐《こわ》らしいが、これも案外親切ものでね。お前さんさえ諾《うん》といったらそれこそ二人で可愛がって、堪能させるのは受け合いだ。が二人とも飽きっぽいんで、さんざっぱら可愛がったそのあげくには、千住《こつ》か、品川か、新宿で、稼いで貰わなけりゃあならねえかも知れねえ。だがマアそいつは後のことだ。差し詰めここで決めてえのは、素直に俺らの女房になるか、それとも強情に首を振るか、二つに一つだ。返辞をしねえ」
 駕籠の中からは返辞がなかった。どうやら顫えてでもいるらしい。と、ようやく声がした。
「まあそれじゃああなた方は、悪いお方でござんしたか」

    振り袖姿に島田髷

「さあね、大して善人じゃあねえ。だがこいつもご時世のためだ。こんな事でもしなかったら、酒も飲めず、魚《とと》も食えず、美婦《たぼ》も自由《まま》にゃあ出来ねえってものよ。恨むなら田沼様を恨むがいい」
「厭だと妾《わたし》が首を振ったら?」「二人で手籠めにするばかりさ」「もしも妾が声を立てたら?」「猿轡《さるぐつわ》をはめちまう。だがもし下手にジタバタすると、喉笛に手先がかかるかもしれねえ。そうなったらお陀仏だ」「それじゃあ妾は殺されるの?」「可哀そうだがその辺だ」「死んじゃあ随分つまらないわね」「あたりめえだあ、何をいやがる」
 女の声はここで途絶えた。
「それじゃあ妾はどんなことをしても、遁《の》がれることは出来ないんだね。仕方がないから自由《まま》になろうよ」
「へえ、そうかい、こいつあ偉い。ひどく判りのいい姐《ねえ》さんだ」
「だがねえ」と女の声がした。「見ればあなた方はお二人さん、妾の体はただ一つ、二人の亭主を持つなんて、いくら何んでも恥ずかしいよ。どうぞ二人で籤《くじ》でも引いて、勝った方へ、体をまかせようじゃないか」
「なるほどなあ、こいつあ理だ。六ヤイ手前どう思う」
「そうよなあ」と気のない声で「俺《おい》らがきっと勝つのなら、籤を引いてもよいけれどな」
「そいつあこっちでいうことだ。おいどうする引くか厭か?」「どうも仕方がねえ引くとしよう。せっかく姐さんのいうことだ。逆らっちゃあ悪かろう」「よしそれじゃあ松葉籤《まつばくじ》だ。長い松葉を引いた方が姐さんの花婿とこう決めよう」
 源太は頭上へ手を延ばし、松の枝から葉を抜いた。
「さあ出来た。引いたり引いたり」「で、どちらが長いんだい?」「冗談いうな、あたぼう[#「あたぼう」に傍点]め、そいつを教えてなるものか。ふふん、そうよなあ、こっちかも知れねえ」「へん、その手に乗るものか。こいつだ、こいつに違えねえ」
 六蔵は松葉をヒョイと抜いた。
「あっ、いけねえ、短けえや!」
「だからよ、いわねえ事じゃねえ、こっちを引けといったんだ」
 源太は駕籠へ飛びかかった。「おお姐さん、婿は決まった」駕籠へ腕を差し込んだ。「恥ずかしがるにゃあ及ばねえ、ニッコリ笑って出て来ねえ」
 グイと引いた手に連れて、若い娘がヨロヨロと出た。頭上を蔽うた森の木の梢をもれて、月が射した。板高く結った島田髷、それに懸けられた金奴《きんやっこ》、頸細く肩低く、腰の辺りは煙っていた。紅色《べにいろ》勝った振り袖が、ばったり[#「ばったり」に傍点]と地へ垂れそうであった。
「可愛いねえ、お前さんかえ、源さんや。花婿や」キリキリと腕を首へ巻いた。「さあ行こうよ、お宿へね」源太をグイと引き付けた。
「痛え痛え恐ろしい力だ。まあ待ってくれ、呼吸《いき》が詰まる」源太は手足をバタバタさせた。
「意気地《いくじ》がないねえ、どうしたんだよ。やわい[#「やわい」に傍点][#「どうしたんだよ。やわい[#「やわい」に傍点]」は底本では「どうしたんだよ。やわ[#「。やわ」に傍点]い]じゃあないかえ、お前さんの体は。ホッ、ホッ、ホッ、ホッ、手頼《たよ》りないねえ」源太の首へ巻いた手を、グーッと胸へ引き寄せた。
「む――」と源太は唸ったが、ビリビリと手足を痙攣《けいれん》させた。と、グンニャリと首を垂れた。
 手を放し、足を上げ、ポンと娘は源太を蹴った。一団の火焔の燃え立ったのは、脛に纏った緋の蹴出《けだ》しだ。
「化物《ばけもの》だあァ!」と叫ぶ声がした。石地蔵の六が叫んだのであった。
 息杖を握ると飛び込んで来た。と、娘は入り身になり、六蔵の右腕をひっ[#「ひっ」に傍点]掴んだ。と、カラリと息杖が落ちた。「ワ――ッ」と六蔵は悲鳴を上げた。とたんにドンと地響きがした。六蔵の体が地の上へ潰された蟇《がま》のようにヘタバった。寂然《しん》と後は静かであった。常夜燈の灯がまばたい[#「まばたい」に傍点]た。ギー、ギーと櫓を漕ぐ音が、河の方から聞こえて来た。

    怪しの家怪しの人々

 クルリと娘は拝殿へ向いた。ポンポンと二つ柏手《かしわで》を打った。それからしとやか[#「しとやか」に傍点]に褄《つま》を取った。と、境内を出て行った。
 社の蔭に身を隠し、様子を見ていた弓之助は、胆を潰さざるを、得なかった。
「素晴らしい女もあるものだ。どういう素性の女だろう? ……待てよ、島田に大振り袖! ……ううむ、何んだか思いあたるなあ。一番後を尾行《つけ》て見よう」
 数間を隔てて後を追った。浅草河岸を花川戸の方へ、引っ返さざるを得なかった。女はズンズン歩いて行った。月の光を避けるように、家の軒下を伝って歩いた。遠くで犬が吠えていた。人の子一人通らなかった。隅田川から仄白《ほのしろ》い物が、一団ムラムラと飛び上がった。が、すぐ水面へ消えてしまった。それは鴎《かもめ》の群れらしかった。女は急に立ち止まった。そこに一軒の屋敷があった。グルリと黒塀が取りまいていた。一本の八重桜の老木が、門の内側から塀越しに、往来の方へ差し出ていた。満開の花は綿のように白く団々と塊《かた》まっていた。女は前後を見廻した。つと弓之助は家蔭に隠れた。女は門の潜り戸へ、ピッタリ身体をくっ付けた。それから指先で戸を叩いた。と、中から声がした。
「おい誰だ。名を宣《なの》れ」
「俺だよ、俺だよ、勘助だよ」
「うむそうか、女勘助か」
 ギ――と潜り戸があけられた。女の姿は吸い込まれた。八重桜の花がポタポタと散った。
 弓之助は思わず首を傾《かし》げた。「何んとかいったっけな、女勘助? ……では有名な賊ではないか」
 その時往来の反対《むこう》の方から、一つの人影が近付いて来た。月光が肩にこぼれていた。浪士風の大男であった。大髻《おおたぶさ》に黒紋付き、袴無しの着流しであった。しずしずこっちへ近寄って来た。例の家の前まで来た。と、潜り戸へ体を寄せた。それから指でトントンと叩いた。
「何人でござるな、お宣《なの》りくだされ」すぐに中から声がした。
「紫紐《むらさきひも》丹左衛門」
 すると潜り戸がギーと開いた。浪士の姿は中へ消えた。同時に潜り戸が閉ざされた。
 とまた一つの人影が、ポッツリ月光に浮き出した。博徒風の小男であった。心持ち前へ首を傾げ、足先を見ながら歩いて来た。急に人影は立ち止まった。例の屋敷の門前であった。ツと[#「ツと」に傍点]人影は潜り戸へ寄った。同じことが繰り返された。指先で潜り戸をトントンと打った。
「誰だ誰だ、名をいいねえ」
「新助だよ、早く開けろ」
「稲葉の兄貴か、はいりねえ」
 潜り戸が開き人影が消え、ふたたび潜り戸がとざされた。
 その後はしばらく静かであった。
 またもその時足音がした。足駄と草鞋《わらじ》との音であった。忽ち二つの人影が、弓之助の前へ現われた。その一人は旅僧であった。手甲《てっこう》、脚絆《きゃはん》、阿弥陀笠《あみだがさ》、ずんぐり[#「ずんぐり」に傍点]と肥えた大坊主であった。もう一人の方は六部であった。負蔓《おいずる》を背中にしょっ[#「しょっ」に傍点]ていた。白の行衣を纏っていた。一本歯の足駄を穿いていた。弓之助の前を通り過ぎ、例の屋敷の門前まで行った。ちょっと二人は囁き合った。ツと[#「ツと」に傍点]旅僧が潜り戸へ寄った。指でトントンと戸を打った。すぐに中から声がした。
「かかる深夜に何人でござるな?」
「鼠小僧外伝だよ」
 つづいて六部が忍ぶようにいった。
「俺は火柱夜叉丸《ひばしらやしゃまる》だ」
 例によって潜り戸が、ギ――と開いた。二人の姿は吸い込まれた。ゴトンと鈍い音がした。どうやら閂《かんぬき》を下ろしたらしい。サラサラサラサラと風が渡った。ポタポタと八重桜の花が落ちた。そのほかには音もなかった。

    ガラガラと飛び出した四筋の鎖

 闇に佇んだ弓之助は、考え込まざるを得なかった。「女勘助、紫紐丹左衛門、稲葉小僧新助、火柱夜叉丸、それからもう一人鼠小僧外伝、これへ神道徳次郎を入れれば、江戸市中から東海道、京大坂まで名に響いた、いわゆる天明の六人男だ。ううむ偉い者が集まったぞ。ははあそれではこの屋敷は、彼奴《きゃつ》ら盗賊の集会所だな。いやよいことを嗅ぎ付けた。叔父へ早速知らせてやろう。一網打尽、根断やしにしてやれ」
 スルスルと彼は家蔭を出た。
「いやいや待て待て、考え物だ。これから叔父貴の屋敷へ行き、事情を語っているうちには、夜が明けて朝になる。せっかくの獲物が逃げようもしれぬ。逃がしてしまってはもったいない。ちょっとこいつは困ったなあ」彼ははたと当惑した。
「気にかかるのは女勘助だ。島田髷に大振り袖、美人の装いをしていたが、大奥の後苑へ現われて、上様を誘拐したという、その女も島田髷、振り袖姿だということである。……関係《つながり》があるのではあるまいかな? ……いよいよ此奴《こやつ》は逃がせねえ。うむそうだ踏み込んでやろう。有名《なうて》の悪漢《わるもの》であろうとも、たか[#「たか」に傍点]の知れた盗賊だ。掛かって来たら切って捨て、女勘助一人だけでも、是非とも手擒《てどり》にしてやろう」
 彼は剣道には自信があった。それに彼は冒険児であった。胸に出来ている塊《かたまり》を、吐き出したいという願いもあった。どぎっ[#「どぎっ」に傍点]た事をやってみたい。こういう望みも持っていた。
 彼は潜り戸へ身を寄せた。それから彼らの真似をして、指でトントンと戸を打った。中は森閑と静かであった。人のいるような気勢もなかった。彼は塀へ手を掛けた。ヒラリと上へ飛び上がった。腹這いになって窺《うかが》った。眼の下に小広い前庭《にわ》があり、植え込みが飛び飛びに出来ていた。その奥の方に主屋があった。どこにも人影は見えなかった。で弓之助は飛び下りた。植え込みの蔭へ身を隠し、さらに様子を窺った。やはりさらに人気《ひとけ》はなかった。玄関の方へ寄って行った。戸の合わせ目へ耳をあて、家内の様子を窺った。無住の寺のように寂しかった。試みに片戸を引いてみた。意外にも、スルリと横へ開いた。「これは」と弓之助は吃驚《びっくり》した。「いやこれはありそうなことだ。泥棒の巣窟《すみか》へ泥棒が忍び込む気遣いはないからな、それで用心しないのだろう」彼は中へはいって行った。玄関の間は六畳らしく燈火《ともしび》がないので暗かった。隣室と仕切った襖があった。その襖へ体を付けた。それからソロソロと引き開けた。その部屋もやはり暗かった。十畳あまりの部屋らしかった。隣室と仕切った襖があった。その襖をソロソロと開けた。燈火《ともしび》がなくて暗かった。全体が手広い屋敷らしかった。しかも人影は皆無であった。どの部屋にも燈火がなかった。一つの部屋の障子を開けた。そこに一筋の廻廊があった。その突きあたりに別軒《べつむね》[#ルビの「べつむね」は底本では「べねむね」]があった。離れ座敷に相違ない。廻廊伝いにそっちへ行った。雨戸がピッタリ締まっていた。その雨戸をそっと開けた。仄明《ほのあか》るい十畳の部屋があった。隣り部屋から漏れる燈が部屋を明るくしているのであった。弓之助はその部屋へはいった。隣り部屋の様子を窺った。やはり誰もいないらしい。思い切って襖を開けた。はたして人はいなかった。机が一脚置いてあった。そうしてその上に紙があった。紙には文字が記されてあった。


   川大丁首《せんだいていしゅ》

 こう書いてあった。
「はてな、どういう意味だろう?」
 で、弓之助は首を傾げた。突然ガチャンと音がした。部屋の片隅の柱の中から、鎖が一筋弧を描き弓之助の方へ飛んで来た。右手を上げて打ち払った。キリキリと手首へまきついた。「しまった!」と呻いたそのとたん、反対側の部屋の隅、そこの柱の中央から、またもや鎖が飛び出して来た。キリキリと左手へまきついた。またもや鎖の音がした。もう一本の柱から、同じように鎖が飛び出して来た。それが弓之助の胴をまいた。ともう一本の柱から、またもや鎖が飛び出して来た。それが弓之助の足をまいた。四筋の鎖にまき縮《すく》められ、弓之助はバッタリ畳へ仆れた。身動きすることさえ出来なかった。
 だが屋敷内は静かであった。咳《しわぶき》一つ聞こえなかった。行燈《あんどん》の燈《ひ》は光の輪を、天井へボンヤリ投げていた。どうやら風が出たらしい、裏庭で木の揺れる音がした。……いつまで経っても静かであった。人の出て来る気勢もなかった。
「どうもこいつは驚いたなあ」心が静まるに従って、弓之助の心は自嘲的になった。「人間を相手に切り合うなら、こんな不覚は取らないのだが、鎖を相手じゃあ仕方がない。……これは何んという戦法だろう? とにかくうまいことを考えついたものだ。敵ながらも感心感心。……といって感心していると、どんな酷《ひど》い目に合うかもしれない。さてこれからどうしたものだ。どうかして鎖を解きたいものだ」
 彼は体を蜒《うね》らせた。鎖が肉へ食い込んだ。

    恋文を書く銀杏茶屋のお色

「痛え痛え、おお痛え。滅多に体は動かせねえ。莫迦にしていらあ、何んということだ。仕方がねえから穏《おとな》しくしていよう。……だがそれにしても泥棒どもは、どこに何をしているのだろう? 姿を見せないとは皮肉じゃあないか。ひど[#「ひど」に傍点]く薄っ気味が悪いなあ。これじゃあどうも喧嘩にもならねえ。……考えたって仕方がねえ。もがく[#「もがく」に傍点]とかえってひど[#「ひど」に傍点]い目を見る。おちついて待つより仕方がねえ、うんそうだ、こんな時には、何かで心を紛らせるがいい。紙に書かれた『川大丁首』よしこの意味を解いてやろう」そこで彼は考え出した。だがどうにもわからなかった。「こんな熟字ってあるものじゃねえ。川は川だし大は大さ。丁は丁だし首は首だ。音で読めば川大丁首《せんだいていしゅ》。川大にして丁《わかもの》の首? こう読んだって始まらねえ。……こいつ恐らく隠語なんだろう」
 依然屋敷は静かであった。

 銀杏茶屋のお色は奥の部屋で、袖垣をして恋文《ふみ》を書いていた。まだ春の日は午前であった。店の客も少なかった。部屋の中は明るかった。春陽が丸窓へ射していた。小鳥の影が二三度映った。彼女は大分ご機嫌であった。顔の紐が解けていた。頬にこっぽり[#「こっぽり」に傍点]した笑靨《えくぼ》が出来うっかり指で突こうものなら指先が嵌《は》まり込んで抜けそうもなかった。彼女はひどく嬉しいのであった。千代田城中に大事件が起こり、田沼主殿頭が狼狽し、お色を妾《めかけ》にすることなど、とても出来まいということを――もちろんハッキリといったのではないが、とにかくそういう意味のことを、田沼の家の用人から、今朝方知らせがあったからであったのみならず、養母に渡したところの、手附けの金は手附け流れ、返すに及ばぬということであった。で、養母もご機嫌であった。そこでお色はこの事情を、恋しい男の弓之助へ告げ、今日いつも[#「いつも」に傍点]の半太夫茶屋で、逢おうと巧《たく》んでいるのであった。
「恋しい恋しい」という文字や「嬉しい嬉しい」という文字も、目茶目茶に恋文《ふみ》へ書き込んだ。
「あらあらかしく、お色より、恋しい恋しい弓様へ」こう結んで筆を置いた。封筒へ入れて封じ目をし、さも大事そうに懐中《ふところ》へ入れた。それから他行《よそゆ》きの衣裳を着、それから店へ出て行った。
「ちょっとお母さん出て来てよ」
「さあさあどこへなといらっしゃい」長火鉢の前へ片膝を立て、お誂え通りの長煙管、莨《たばこ》を喫《ふ》かしていた養母のお兼《かね》は、黒い歯茎で笑ってみせた。「おやおや大変おめかし[#「おめかし」に傍点]だね。ふふん、さてはあの人と……」
「いらざるお世話、よござんすよ」
「観音様へ参詣しお賽銭ぐらいは上げるだろうね」
「おや、そいつは本当だね」
 いい捨ててお色は戸外へ出た。プーッと春風が鬢を吹いた。で彼女は鬢を押さえた。プーッと春風が裾を吹いた。今度は前を抑えなければならない。「風さえ妾《わたし》を嬲《なぶ》っているよ」彼女はそこでニッコリとした。鳩がポッポと啼いていた。彼女の周囲へ集まって来た。
「厭だねえこの鳩は、邪魔じゃないか歩くのにさ」
 御堂の前で掌を合わせた。帯の間から銭入れを抜き、賽銭箱へお宝を投げた。
「どうも有難う、観音様。みんなあなた[#「あなた」に傍点]のご利益よ」
 で彼女は歩いて行った。
「何て今日はいい日なんだろう。みんな妾《わたし》に笑いかけているよ。何だか知らないが有難うよ」
 往来の人が囁《ささや》き合った。
「あれが評判のお色だよ」「どうでえどうでえ綺麗だなあ」「今日は取りわけ美しいぜ」
「はいはい皆さん有難うよ」彼女は笑って口の中でいった。
「でもね、皆さんお生憎《あいにく》さまよ、見せる人はほかにあるんですよ」

    逢ってくれない弓之助

 走り使いの喜介の家は、二丁目の露路の奥にあった。お色は煤けた格子戸を開けた。
「ちょいと喜介どん、頼まれて頂戴」
 菊石面《あばたづら》の四十男、喜介がヒョイと顔を出した。「へいへいこれはお色さん」
「これをね」とお色は恋文《ふみ》を出した。「いつもの方の所へね。……これが駕籠賃、これが使い賃、これが向こうのお屋敷の、若党さんへの心付け」
「これはこれはいつもながら。……お気の付くことでございます。……そこで益※[#二の字点、1-2-22]ご繁昌」
「冗《むだ》をいわずと早くおいでな」
 喜介は門を飛び出した。お色は両国を渡って行った。「春の海|終日《ひねもす》のたりのたり哉《かな》」……「海」を「河」に置き代えよう。「春の河終日のたりのたり哉」まさに隅田がそうであった。おりから水は上げ潮で河幅一杯に満々と、妊婦の腹のように膨れていた。荷足、帆船、櫂小船《かいこぶね》、水の面《おもて》にちらば[#「ちらば」に傍点]っていた。両岸の家並が水に映り、そこだけ影がついていた。
「いい景色、嬉しいわね」お色は恍惚《うっとり》と河を見た。「まるでお湯のように見えるじゃあないの」――嬉しい時には何も彼も、水さえ湯のように見えるものであった。「おや都鳥が浮いているよ。可愛いわねえ、有難うよ」またお色は礼をいった。嬉しい時には有難く、有難い時には礼をいう。これは大変自然であった。そこでお色は橋を越した。まだ広小路は午前《おひるまえ》のことであんまり人が出ていなかった。それがまたお色には嬉しかった。芝居、見世物の小屋掛けからは、稽古囃しが聞こえて来た。
 横へ外《そ》れると半太夫茶屋で、ヒラリと渋染めの暖簾《のれん》を潜った。
「おやお色さん、早々と」女将《おかみ》が驚いて顔を長くした。眉を落とした中年増《ちゅうどしま》唇から真っ白い歯を見せた。
「さあお通り。……後からだろうね?」
 ヒョイと母指《おやゆび》を出して見せた。
「私今日は嬉しいのよ」お色はトンと店へ上がった。
「そうだろうね。嬉しそうだよ」
「うん[#「うん」に傍点]とご馳走を食べるよ」
「家《うち》の肴で間に合うかしら」
「そうして今日は三味線をひくわ」
「一の糸でも切るがいいよ。身受けされるっていうじゃあないか」
「その身受けが助かったのよ」
 いつもの部屋へ通って行った。ちんまり[#「ちんまり」に傍点]と坐って考え込んだ。
「私あの人を嘗《な》め殺してやるわ」
 恐ろしいことを考え出した。
「逢い戻り! いいわねえ」――いいことばかりが考えられた。「初めてあの[#「あの」に傍点]人と逢うようだわ」自分で自分の胸を抱いた。ちょうどあの[#「あの」に傍点]人に抱かれたように。「だが何んだか心配だわ」今度は少し心配になった。「あの人何んておっしゃるだろう」これはちょっと問題であった。「のっけに私はこういうわ。もういいのよ。済んだのよ。お妾《めかけ》に行かなくってもいいのだわ」するとあの[#「あの」に傍点]人おっしゃるかも知れない。「お色、大変気の毒だが、おれには他に情婦《おんな》が出来たよ」……厭だわねえ、困っちまうわ。彼女は本当に困ったように部屋の中をウロウロ見た。「おやこの部屋は四畳半だわ」毎々通る部屋だのに、彼女は初めて気が附いたらしい。「ああでも[#「ああでも」に傍点]ないと四畳半! いいわねえ。嬉しいわ」嬉しい方へ考えることにした。
「でも随分待たせるわねえ」
 まだ十分しか待たないのに。
 床に海棠《かいどう》がいけてあった。春山の半折《はんせつ》が懸かっていた。残鶯《ざんおう》の啼音《なきね》が聞こえて来た。次の部屋で足音がした。
「いらっしゃったか、やっとのこと」彼女は急いで居住居を直した。だが足音は引っ返した。
「莫迦にしているよ。人違いだわ」彼女はだんだん不機嫌になった。
 長いこと待たなければならなかった。女中が茶を淹《い》れて持って来た。
 でもとうとうやって来た。弓之助でなくて喜介であった。
「どうもお色さんいけません。昨日お出かけになったまま、今日まだお帰りにならないそうで」
 喜介の報告《しらせ》はこうであった。お色は一時に気抜けした。じっ[#「じっ」に傍点]と首をうな[#「うな」に傍点]垂れた。

    両国橋の乞食の群

 女将《おかみ》が声を掛けたのに、ろくろく返事をしようともせず、お色はフラリと茶屋を出た。同じ道を帰って行った。
「案じた通りだ、出来たんだわ、ええそうよ、ほかに女が」まず彼女はこう思った。「そういうものだわ。男というものは」別れ話を持ち出したのが、彼女自身だということを、彼女はここで忘れていた。
「何んだか眼の前が真っ暗になったわ」両国橋へ差しかかった。橋の欄干へ身をもたせた。「河なものかまるで溜《ため》だわ……!」隅田川の風景も、もう彼女には他人であった。「きっと河は深いんだろうねえ」ゾッとするようなことを考えた。「身を投げたらどうだろう?」死んでからのことが考えられた。「あの人泣いてくれるかしら?」決して泣くまいと決めてしまった。「では随分つまらないわねえ」手頼《たよ》りなくてならなかった。
「ドボーンと妾《わたし》が身を投げたら、誰か助けてくれるかしら。そうよ今は昼だから。助けてくれたその人が、あの方だったらいいのにねえ」
 ダラリと袖を欄干へ垂らし、ぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]河面《かわも》を眺めやった。やはり都鳥が浮かんでいた。やはり舟がとおっていた。皆々他人であった。急に眼頭《めがしら》がむず[#「むず」に傍点]痒《がゆ》くなった。眼尻がにわかに熱を持って来た。ボッと両の眼が霞んで来た。瞳へ紗《しゃ》でも張られたようであった。家々の形がひん[#「ひん」に傍点]曲がって見えた。見える物がみんな遠く見えた。そうしてみんな[#「みんな」に傍点][#「そうしてみんな[#「みんな」に傍点]」は底本では「そうしてみん[#「てみん」に傍点]な」]濡れて見えた。
 涙を透して見る時は、すべてそんなように見えるものであった。
 体の筋でも抜かれたように、グンニャリとした歩き方で、お色は橋を向こうへ越した。すぐ人波に渦《ま》き込まれた。
 お色の倚《よ》っていた欄干から、二間ほど離れた一所《ひとところ》に、五、六人の乞食《こじき》が集《たか》っていた。往来の人の袖に縋り、憐愍《あわれみ》を乞う輩《やから》であった。
 一個《ひとつ》の手ごろの四角い石と、十個の小さい円石とで、一人の乞食が変なことをしていた。
 やや離れた欄干に倚り、それを見ている老武士があった。編笠で顔を隠しているので何者であるかは解らなかった。
 乞食は角石を右手へ置いた。それから小石を三個だけ、その左手へタラタラと並べた。
 老武士が口の中で呟いた。
「銅銭会茶椀陣、その変格の石礫陣《せきれきじん》。……うむ、今のは争闘陣だ」
 乞食はバラバラと石を崩した。角石をまたも右手へ置き、その左手へ二つの小石を、少し斜めにピッタリと据えた。それから指で二の字を描いた。
 と、老武士は口の中でいった。「雙龍《そうりゅう》玉を争うの陣だ」
 すると塊《かた》まっていた数人の乞食の、その一人が手を延ばし、ツ[#「ツ」に傍点]と一つの小石を取った。それを唇へ持って行った。それから以前《もと》の場所へ置いた。他の乞食が同じことをした。次々に小石を取り上げた。それを唇へ持って行った。それから以前《まえ》の場所へ置いた。「茶を喫するという意味なのだ」老武士は口の中で呟いた。「雙龍玉を争うにより、その争闘に加わるよう。よろしい[#「よろしい」に傍点]といって承知した意味だ。ふむ、何かやると見える」
 乞食は手早く石を崩した。小石ばかりを三個並べた。その後へ二つ円を描いた。
「ははあ同勢三百人か」口の中で老武士はいった。
 乞食はまたも石を崩した。角石を取って右手へ置いた。一個の小石を左手へ置いた。その左手へ四個の小石を、四角形に置き並べた。そうして四角形の石の周囲へ、指で四角の線を引いた。
 と、老武士は呟いた。「これ患難|相扶陣《そうふじん》だ。今度の争闘は患難だによって、相扶《あいたす》けよという意味だ」
 乞食はまたも石を崩した。それから再び石を並べた。三個の小石を左手に並べ、三個の小石を右手へ並べた。中央へ二個の小石を置いた。
「これすなわち梅花陣だ」

    周易の名家加藤左伝次

 乞食は左右の手を延ばし、左右六個の石を取った。
「ははあ、花だけ残したな」
 急に乞食は二個の小石へ、さらに一個の石を加えた。その左右に三個ずつ六個の小石を置き並べた。
「これはほかならぬ河川陣《かせんじん》だ」
 乞食はまたもや石を崩した。十個の小石を一列に並べた。その中央へ角石を置いた。
「これはほかならぬ閂陣。戸という文字を暗示したものだ。三つを合わせると花川戸。ははあこれは地名だな」
 乞食はまたも石を崩した。小石を五個一列に並べた。そうして指で「刻」の字を書いた。
「うん、これは五|更《こう》という意味だ」老武士は口の中で呟いた。
 乞食の石芸はこれで終った。人の往来が劇《はげ》しくなった。乞食達は袖へ縋り出した。いつの間にか皆見えなくなった。
 老武士は悠然と欄干を離れた。橋の袂に駕籠屋がいた。
「駕籠屋」と老武士はさし[#「さし」に傍点]招いた。「数寄屋橋《すきやばし》までやってくれ。うむ、行く先は北町奉行所」
 すぐに駕籠は走り出した。

 お色は俯向いて歩いていた。顔を上げると屋敷があった。門に看板が上がっていた。地泰天《じたいてん》の卦面《けめん》を上部に描き、周易活断、績善堂、加藤左伝次と記されてあった。
 当時易学で名高かったのは、新井白峨と平沢左内、加藤左伝次は左内の高弟、師に譲らずと称されていた。左内の専門は人相であったが、左伝次の専門は易断であった。百発百中と称されていた。
 お色は思わず足を止めた。
「あのお方のお心持ち、ちょっと占って貰おうかしら?」
 で門内へはいっていった。すぐ溜り場へ通された。五、六人の人が待っていた。一人一人奥へ呼び込まれた。嬉しそうな顔、悲しそうな顔、いろいろの顔をして戻って来た。やがてお色の番が来た。お色は奥の部屋へ行った。部屋の正面に床の間があった。脇床の違い棚に積まれてあるのは、帙入《ちつにゅう》の古書や巻軸であった。白熊の毛皮が敷いてあった。その上に端然と坐っているのは、三十四、五の人物であった。総髪の裾が両肩の上に、ゆるやか[#「ゆるやか」に傍点]に波を打っていた。その顔色は陶器のようで、ひどく冷たくて蒼白かった。眼の形は鮠《はや》のようであった。眼尻が長く切れていた。耳髱《みみたぶ》へまで届きそうであった。その左の目の瞳に近く、ポッツリ星がはいっていた。それが変に気味悪かった。黒塗りの見台が置いてあった。算木《さんぎ》、筮竹《ぜいちく》が載せてあった。その人物が左伝次であった。茶無地の被布を纏っていた。
 お色は何がなしにゾッとした。凄気が逼るような気持ちがした。遠く離れて膝を突いた。それからうやうやしく辞儀をした。
 と、左伝次は頤《あご》をしゃく[#「しゃく」に傍点]った。
「恋だな、お娘ご中《あた》ったろう?」
「えっ」とお色は度胆を抜かれた。
「もっとお進み、見てあげよう」左伝次の声は乾いていた。枯れ葉が風に鳴るようであった。やはり変に不気味であった。「年は幾歳《いくつ》だ、男の年は?」
「は、はい、年は二十三で」
「妻はあるかな、その男には?」
「いえ、奥様はございません」
「ナニ、奥様? うむそうか。相当家柄の侍だな?」
「旗本衆のご次男様で」つい釣り込まれていってしまった。
「で、何を見るのかな?」
「はい、そのお方のお心持ちが……」赭くなっていい淀んだ。
「変わったか変わらないか見るのであろう?」
「は、はい、さようでございます」
「よし」というと筮竹を握った。「よいか、見る人と見られる人との精神が合盟一致した時、易というものは的中する。で、お前さんも一生懸命におなり」
 お色は形を改めた。
「ヤ――ッ」と鋭い掛け声が、左伝次の口から迸《ほとばし》り出た。「ヤーッ、ヤーッ、ヤーッ、ヤーッ」ドン底へしみるような声であった。左伝次の額からは汗が流れた。ザラザラザラザラと筮竹が鳴った。
 お色は心が恍惚《うっとり》となった。これまでも易は見て貰ったが、こんな凄《すさま》じい立てかたは、一度も経験したことがなかった。「さすがは名題の加藤先生。ああこの易はきっと中る」お色は突嗟に信じてしまった。
 左伝次は筮竹を額へあてた。パチパチパチパチパチ。パチパチパチパチ。力をこめて刎《は》ね上げた。と、算木へ手を掛けた。カタカタと算木が返された。ホーッと一つ呼吸《いき》をすると、ザラザラと筮竹を筒の中へ入れた。それから算木を睨み付けた。
 お色は思わず呼吸を呑んだ。

    死中ただ一活路

「おお、お娘ご、これはいけない」気の毒そうに左伝次はいった。
「あのそれではそのお方の、お心持ちが変わったので?」お色はブルブルと顫《ふる》え出した。
「いや心は変わっていない。……もっと大変なことがある」
「え、そうして大変とは?」
「死地にはいっておられるのだ」
「まあ」と叫ぶとフラフラと立ったが、すぐベッタリと坐ってしまった。
「では、お命があぶないので?」
「うむ」と左伝次は顔を曇らせ、「しかもそれが冤罪《えんざい》でな」
「どこにおられるのでございましょう?」
「さあ、そこまでは解らない」左伝次はお色を刺すように見た。「だがただ一つ道がある。そうだその人を救う道がな」
「どうぞお聞かせくださいまし」お色はズルズルと膝を進めた。「先生お願いでございます」
「医は肉体の病《やまい》を癒《なお》し、易は精神の病を癒す。いわばどっち[#「どっち」に傍点]も仁術だ。わし[#「わし」に傍点]の力で出来るだけの事は骨を折ってしてあげよう。その人を救う唯一の道とは、その人と一番親しい人がさらに他の人に正直に事情を話して救いを乞う時、事情を話されたその人が、事件を解決して救うというのだ。易の面《おもて》に現われている。詳しく分解して話してもよいが専門の言葉で説明しても、お前さんには解るまい。ところでその人と親しい人とは、今の場合お前さんだ。さらに他の人とは誰のことか。これはどうやらわし[#「わし」に傍点]らしい。そこでお前さんが正直に今度の事情をわし[#「わし」に傍点]に話したら、あるいはこのわし[#「わし」に傍点]がその人を、救い出すことが出来るかも知れない。もちろん確実《たしか》とはいわれないがな」
「はい有難う存じます。それではお話しいたします。どうぞお聞きくださいまし。あの妾《わたし》は浅草の、銀杏《いちょう》茶屋のお色でございます」
 ――それから田沼に懇望され、その妾《めかけ》になろうとしたこと、可愛い恋人と切れたこと、妾《めかけ》になることが止めになったこと、今日呼び出しを掛けたところ、恋人が昨日屋敷を出たきり、今に帰って来ないこと――一切合切打ち明けた。
 左伝次は黙って聞いていたが、その顔には曖昧な、混乱したものが現われた。
「その人の名は何んというな?」やがて左伝次はこう訊いた。
「白旗弓之助様と申します」
「うむ、お旗本で白旗か……。小左衛門殿のご縁辺かな?」
「そのお方のご次男様で」
「では確か北お町奉行、曲淵様とはご親戚のはずだが」
「はい叔父甥の仲だそうで」
 左伝次はじっ[#「じっ」に傍点]と考え込んだ。「昨日から行方が不明なのだな?」
「はいさようでございます」
 ここで左伝次はまた考えた。
「弓之助殿のご様子は? つまり容貌風采だな」
「色白の細面《ほそおもて》、中肉|中身長《ちゅうぜい》でございます」
「うむ、そうして腰の物は?」
「あの細身の蝋鞘の大小……」
「うむ、そうしてご定紋は?」
「はい丸に蔦《つた》の葉で」
 すると左伝次はヒョイと立った。
「お色殿ちょっとこっち[#「こっち」に傍点]へおいで」
 障子を開けると縁へ出た。
 午後の陽が中庭にあたっ[#「あたっ」に傍点]ていた。
 お色は相手の気勢に引かれ、立ってその後へ従った。
 縁は廻廊をなしていた。その外れに離れ座敷があった。不思議なことには、昼だというのに、雨戸がピッタリ閉まっていた。離れ座敷の前までゆくと、左伝次は入り口の戸を開けた。最初の部屋は暗かった。間《あい》の襖をサラリと開けた。
 その部屋には燈火《ともしび》があった。行燈《あんどん》がボッと点っていた。

    途方もねえ目違いさ

 一人の武士が四筋の鎖で、がんじ[#「がんじ」に傍点]搦《がら》みに搦《から》められていた。畳の上に転がっていた。それを五人の異形の男女が、真ん中にして囲繞《とりま》いていた。一人は僧侶一人は六部、一人は遊び人、一人は武士もう一人は振り袖の娘であった。娘は胡坐《あぐら》を掻いていた。そうして弓の折れを持っていた。
 左伝次とお色の姿を見ると彼らは一斉に顔を上げた。
 と、左伝次はお色へいった。
「お色殿、この方かね」搦められた武士を指さした。
 ヒョイとその武士が顔を上げた。お色はやにわに、縋《すが》り付いた。
「弓様! 弓様! お色でございます!」ひとしきり[#「ひとしきり」に傍点]部屋の中は静かであった。白旗弓之助はお色を見た。
「お色ではないか、どうして来た」驚いたような声であった。
「神道の兄貴、どうしたんだい?」
 ややあって娘が――女勘助が、変な顔をして声を掛けた。
 すると左伝次は苦笑いをした。
「飛んだ人違いだ。偉いことをやった。おいおい早く鎖を解きねえ」
 鼠小僧外伝が、ガラガラと鎖を解き放した。と鎖は柱の中へ、手繰《たぐ》られたように飛び込んで行った。
「おい貴様達、謝まってしまえ。詳しい話はそれからだ」易学の大家加藤左伝次、本名神道徳次郎はピタリと畳へ端坐した。それから両手を膝の前へ突いた。
「いや、白旗弓之助様、とんだ粗忽《そこつ》を致しました。まずお許しくださいますよう」恐縮し切って辞儀をした。
「おいおい貴様達このお方はな、お旗本白旗小左衛門様の、ご次男にあたられる弓之助様だ、曲淵様の甥ごだよ」
「へえ」と五人は後へいざっ[#「いざっ」に傍点]た。
「銅銭会員じゃあなかったのか?」火柱夜叉丸が眼を丸くした。
「うん、途方もねえ目違いさ」
「だが、それにしてはなんのために、昨夜《ゆうべ》ここへ忍んだんだろう?」女勘助が疑がわしそうにいった。
「そうだ、そいつがわからねえ」稲葉小僧新助がいった。
「おれはどうでもこのお侍は、銅銭会員だと思うがな」鼠小僧外伝がいった。「そうでなかったら責められないうちにそいつを弁解するはずだが」紫紐丹左衛門は腕を組んだ。
「本当にそうだ、そいつが解らねえ。そいつをハッキリいってさえくれたらおれたち殴るんじゃあなかったのに」弓の折れを指先で廻しながら、女勘助は眼を光らせた。
「いや、いずれその事については、白旗様からいい訳があろう。とにかくおれの見たところでは、銅銭会員じゃあなさそうだ」神道徳次郎はいい切った。
「さて白旗弓之助様、昨夜はどういう覚し召しで、ここへお忍びなされましたな?」
「それよりおれには聞きたいことがある。部屋の四隅の柱から、四本の鎖が飛び出して来たが、あれはなんという兵法だな?」これが弓之助の言葉であった。
 六人の者は眼を見合わせた。
「おい兄貴|迂散《うさん》だぜ」女勘助が怒るようにいった。「肝腎のいい訳をしねえじゃあねえか」
「待て待て」と徳次郎は叱るように。
「宝山流の振り杖から、私が考案致しました。捕り方の一手でございますよ」
「あれにはおれも降参したよ」弓之助は妙な苦笑いをした。「人間が斬ってかかったのなら、大して引けも取らないが、どうもね、鎖じゃあ相手にならねえ。……そこでもう一つ訊くことがある。紙に書かれた『川大丁首』いったいこいつはどういう意味だ?」
「それがおわかりになりませんので?」徳次郎は、いくらか探るように訊いた。

    銅銭会縁起録内容

「随分考えたが解らなかった」弓之助はまたも苦笑をし、「そこにおいでの女勘助殿に、痛しめられている間中、その事ばかりを考えていたが、無学のおれには解らなかったよ」女勘助をジロリと見た。
 女勘助は横を向き、プッと口をとがらせ[#「とがらせ」に傍点]た。
「それで初めてあなた様が、銅銭会員でないことが、ハッキリ証拠立てられました」徳次郎は一つ頷いたが、
「あれは隠語でございます。銅銭会の隠語なので。「順天行道」と申しますそうで。天に順《したが》って道を行なう。こういう意味だそうでございます。つまり彼らの標語なので。「関開路現《かんをひらきみちをあらわす》」こんな標語もございます。そうしてこれを隠語で記せば「並井足玉《へいせいそくぎょく》」となりますそうで」
「ははあなるほど、そうであったか。扁を取ったり旁《つくり》を取ったり、色々にして造った字だな。いかさまこれでは解らないはずだ」
「さてそこで白旗様、どうして昨夜はこの屋敷へ、忍び込まれたのでございますかな?」
 するとクルリと弓之助は、女勘助の方へ体を向けた。
「おい勘助、偉いことをやったな。森の中でよ、社の森で」
「えっ」と勘助は胸を反《そ》らせた。「へえ、お前さんご存知で?」
「あんまり見事な業《わざ》だったので、後からこっそり尾行《つけ》て来た奴さ」
「あっ、さようでございましたか」女勘助は手を拍った。「そこでこの屋敷へ忍び込んだので?」
「そうさ天明の六人男、そいつがみんな[#「みんな」に傍点]揃ったとあっては、ちょっと様子も見たいからな」「ああこれで胸に落ちた」こう紫紐丹左衛門がいった。

 北町奉行所の役宅であった。
 その一室に坐っているのは、奉行曲淵甲斐守であった。銅銭会縁起録が開かれたまま、膝の上に乗っていた。
「往昔《おうせき》福建省福州府、浦田《ほだ》県九連山山中に、少林寺と称する大寺あり。堂塔|伽藍《がらん》樹間に聳え、人をして崇敬せしむるものあり。達尊爺々《たつそんやや》の創建せるも技一千数百年の星霜を経。僧侶数百の武に長じ、軍略剣法方術に達す。
 康※[#「熈」の「ノ」に代えて「冫」、第3水準1-87-58]《こうき》帝の治世に西蔵《チベット》叛す。官軍ことごとく撃退さる。由《よ》って皇帝諸国に令し、賊滅するものを求めしむ。少林寺の豪僧百二十八人、招に応じて難に赴《おもむ》く。国境に至りて大いに戦い、敵国をして降を乞わしむ。皇帝喜び賞を与え僧を少林寺に帰さんとす。隆文耀《りゅうもんよう》、張近秋《ちょうきんしゅう》、二人の大官皇帝に讒《ざん》し、少林寺の僧を殺さしむ。
 兵を発して少林寺を焼く、蔡徳忠《さいとくちゅう》、方大洪《ほうたいこう》、馬超興《ばちょうこう》、胡徳帝《ことくてい》、李式開《りしきかい》の五人の僧、兵燹《へいせん》をのがれて諸国を流浪し同志を語らい復讐に努む。すなわち清朝を仆さんとするなり。この結社を三合会また一名銅銭会と称す」
 これがきわめて簡単な、銅銭会の縁起であって、今日に至るまでの紆余曲折が詳しく書物《ほん》には記されてあった。
「公所(大結社)」のことや「会員」のことや「入会式」のことや「誓詞」のことや「諸律法」のことや「十禁」の事や「十刑」の事や「会員証」のことや「造字《つくりじ》」のことや「隠語」のことや「符牒」のことや「事業」の事や「海外における活動」のことについても、かなり詳しく記されてあった。
 しかし、将軍家紛失に関しての、暗示らしいものは記されてなかった。
 とまれ非常な大結社で、支那の政治にも戦争にも、また外交の方面にも、偉大な潜勢力を持っていることが、記録によって窺《うかが》われた。のみならず印度《インド》や南洋にある、百万近くの支那人のうち、過半以上は会員として、働いていることも記されてあった。
 それと同時に会員のうちには、不良分子も潜在していて、悪いことをしているということも、支那人以外にも会員があって、気脈を通じているということも、相当詳しく記されてあった。

    京師殿と甲斐守

「恐らく今度の事件なるものは、日本における会員の、不良分子の所業《しわざ》であろうが、どういう径路で将軍家をどうして奪ったかわからない。どこに将軍家を隠しているか、それとも無慚に弑《しい》したか、これでは一向見当が付かない。……一人でもよいから銅銭会員をどうともして至急捕えたいものだ」
 甲斐守は沈吟した。
 その時近習がはいって来た。
「京師殿と仰せられるご老人が、お目にかかりたいと申しまして……」
「何、京師殿、それはそれは。叮嚀《ていねい》にここへお通し申せ」
 近習と引き違いにはいって来たのは、両国橋にいた老人であった。
「おおこれは京師殿」
「甲斐守殿、いつもご健勝で」
 二人は叮嚀に会釈した。
「さて」と京師殿は話し出した。「銅銭会の会員ども、今夜騒動を始めますぞ」
「何?」と甲斐守は膝を進めた。「銅銭会の会員がな? してどこで? どんな騒動を?」
「今夜五更花川戸に集まり、ある家を襲うということでござる。同勢おおかた三百人」
 両国橋での出来事を、かいつまん[#「かいつまん」に傍点]で京師殿は物語った。
「銅銭会員にご用ござらば、即刻大至急にご手配なされ、一網打尽になさるがよかろう」
「よい事をお聞かせくだされた。至急手配を致しましょう」
「何か柳営に大事件が、勃発したようでございますな」
「さよう、非常な大事件でござる。実は一昨夜上様が……」
「いやいや」と京師殿は手を振った。
「愚老は浮世を捨てた身分、直接柳営に関することは、どうぞお聞かせくださらぬよう」
「いかさまこれはごもっともでござる」
 そこで甲斐守は沈黙した。
 間もなく京師殿は飄然と去った。
 さてその夜のことであった。
 花川戸一帯を修羅場とし、奇怪な捕り物が行われた。
 歴史の表には記されてないが、柳営秘録には相当詳しく記されてあるに相違ない、この捕り物があったがため幕府の政治が一変し、奢侈《しゃし》下剋上《げこくじょう》[#ルビの「げこくじょう」は底本では「げこくじやう」]の風習が、勤倹質素尚武となり、幕府瓦壊の運命を、その後も長く持ちこたえ[#「こたえ」に傍点]たのであった。
 この捕り物での特徴は、捕られる方でも、捕る方でも、一言も言葉を掛け合わなかったことで、八百人あまりの大人数が、長い間格闘をしながらも、花川戸一帯の人達は、ほとんど知らずにおわってしまった。しかも内容の重大な点では、慶安年間由井正雪が、一味と計って徳川の社稷《しゃしょく》に、大鉄槌を下そうとした、それにも増したものであった。捕り方の人数六百人! この一事だけでも捕り物の、いかに大袈裟なものであり、いかに大事件であったかが、想像されるではあるまいか。一口にいえば銅銭会員と幕府の捕り方との格闘なのであった。
 その夜はどんよりと曇っていた。月もなければ星もなかった。家々では悉く戸を閉ざし、大江戸一円静まり返り燈火《ともしび》一つ見えなかった。
 と、闇から生まれたように、浅草花川戸の一所《ひとところ》に、十人の人影が現われた。一人の人間を真ん中に包み丸く塊《かた》まって進んで来た。一軒の屋敷の前まで来た。黒板塀がかかっていた。門がピッタリ閉ざされていた。屋根の上に仄々《ほのぼの》と、綿のようなものが集まっていたがどうやら八重桜の花らしい。
 その前で彼らは立ち止まった。
 とまた十人の一団が一人の人間を真ん中に包み、闇の中から産まれ出た。それが屋敷へ近付いて来た。先に現われた一団と後から現われた一団とは、屋敷の門前で一緒になった。互いに何か囁き合った。わけのわからない言葉であった。

    慶安以来の大捕り物

「背《うしろ》に幾多《いくた》の宝玉ありや?」
「一百八」
「途上虎あり、いかにして来たれる?」
「我すでに地神に請えり、全国通過を許されたり」
「汝橋を過ぎたるや否や?」
「我過ぎたり矣《い》」
「いずれの橋ぞ?」
「二|板《はん》の橋」
「これすなわち二板橋、何ゆえに二板の橋というや?」
「明末《みんまつ》に清《しん》これを毀《こぼ》ち、なおいまだ修せられず」
「何んの木の橋ぞ?」
「否々これ樹板にあらず、左は黄銅、右は鉄板」
「誰かこれを造れるものぞ?」
「朱開、及び朱光の徒」
「二板橋の起原|如何《いかん》?」
「少林寺|焚焼《ふんしょう》され、五祖叛迷者に傷害《しょうがい》されんとするや、達尊爺々《たつそんやや》験を現わし、黄雲を変じて黄銅となし黒雲を変じて鉄となす」
 こんな塩梅《あんばい》の言葉であった。はたして会員か会員でないかを、問答によって確かめたのであった。またも人影が産まれ出た。同じような陣形であった。門前で問答が行われた。続々人影が現われた。みんな門前へ集まって来た。そのつど問答が行われた。
 銅銭会員三百人が、すっかり門前へ集まったのであった。
 と、五、六人の人影が、スルスルと塀の上へ上って行った。音もなく門内へ飛び下りた。門を開けようとするのであろう。だが門は開かなかった。そうして物音もしなかった。人は帰って来なかった。何んの音沙汰もしなかった。
 いつまでも寂然と静かであった。
 十人の人影が塀を上った。それから向こうへ飛び下りた。何んの物音も聞こえなかった。そうして門は開かなかった。十人の者は帰って来なかった。何んの音沙汰もしなかった。いつまでも寂然と静かであった。
 銅銭会員は動揺し出した。口を寄せ合って囁《ささや》いた。
「敵に用意があるらしい」不安そうに一人がいった。
「殺されたのか? 生擒《いけど》られたのか?」
「どうして声を立てないのだろう?」
 彼らの団結は崩れかかった。右往左往に歩き出した。
「門を破れ。押し込んで行け」
「いや今夜は引っ返したがいい」
 彼らの囁やきは葉擦れのようであった。
「あっ!」と一人が絶叫した。「あの人数は? 包囲された!」
 まさしくそれに相違なかった。往来の前後に黒々と、数百の人数が屯《たむ》ろしていた。隅田川には人を乗せた、無数の小舟が浮かんでいた。露路という露路、小路という小路、ビッシリ人で一杯であった。捕り方の人数に相違なかった。騎馬の者、徒歩《かち》の者、……八州の捕り方が向かったのであった。
 銅銭会員は一団となった。やがて十人ずつ分解された。そうして前後の捕り方に向かった。
 こうして格闘が行われた。
 全く無言の格闘であった。だがどういう理由からであろう?
 官の方からいう時は、御用提燈《ごようちょうちん》を振り翳《かざ》したり、御用の声を響かせたりして、市民の眼を覚ますことを、極端に恐れ遠慮したからであった。捕り物の真相が伝わったなら、――すなわち将軍家紛失の、その真相が伝わったなら、どんな騒動が起こるかも知れない。それを非常に案じたからであった。
 だがどうして銅銭会員は悲鳴呶号しなかったのであろう? それは彼らの「十禁」のうちに、こういうことがあるからであった。
「究極において悲鳴すべからず。これに叛《そむ》くものは九指を折らる」
 九指とは九族の謂《いい》であった。
 春の闇夜を数時間に渡って、無言の格闘が行われた。
 その結果は意外であった。銅銭会員は全部死んだ。すなわちある者は舌を噛み、またある者は水に投じ、さらにある者は斬り死にをした。

    将軍家柳営へ帰る

 この間も屋敷の表門は、鎖《とざ》されたまま開かなかった。
 捕り物がすっかり片付いた時、始めて門はひらかれた。
 驚くべき光景がそこにあった。銅銭会員十六人が、髪縄《けなわ》で絞首されていた。髪縄の一端には分銅があり、他の一端は門の柱の、刳《えぐ》り穴の中に没していた。
 十六人のうち三人が、辛うじて蘇生をすることが出来た。その三人の白状によって、事件の真相が明瞭になった。
 その夜の暁千代田城内には、驚くべき愉快な出来事があった。いつもの将軍家の寝室に、紛失したはずの将軍家が、ひどく健康《じょうぶ》そうな顔色をして、グッスリ寝込んでいたものである。
 眼を覚ますと家治はいった。
「おれはうん[#「うん」に傍点]と書物《ほん》を読んだよ。実際浮世にはいい書物《ほん》があるなあ。はじめておれは眼が覚めたよ。さてこれからは改革だ。政治の改革、社会の改革、暮しいい浮世にしなければならない」
「しかし上様には今日まで、どこにおいででございましたな?」老中水野忠友が聞いた。
「うん、越中の屋敷にいたよ」
「ははあ松平越中守様の?」
「うん、そうだよ、越中の屋敷に」
「どうしてどこからお出《いで》になりました?」
「それがな、本当に変梃《へんてこ》だったよ。おれが後苑を歩いていると、素的な別嬪が手招きしたものさ。でおれは従《つ》いて行った。すると大奥と天主台の間に厳封をした井戸があろう。非常な場合に開くようにと、東照神君から遺言された井戸だ。そこまで行くとその別嬪が、蓋を取ってヒョイとはいった。オヤとおれは驚いて、井戸を覗くと縄梯子がある。井戸ではなくて間道だったのさ。こいつ面白いと思ったので梯子を伝わって下りたものさ。すると底に女がいた。それから五人の男がいた。六部と破落戸《ごろつき》と売卜者《ばいぼくしゃ》と、武士《さむらい》と坊主とがいたってわけだ。すぐにおれは取っ掴まってしまった。でおれは仰天して助けてくれーッと叫んだものさ。だがすぐ猿轡《さるぐつわ》を篏《は》められてしまった。そうしてとうとう引っ担がれてしまった。長い間横穴を走ったっけ。それでもとうとう外へ出たよ。駕籠が一挺置いてあった。いやどうもそれが穢《きたな》い駕籠でな、おれは産まれて初めて乗ったよ。下ろされた処《ところ》に屋敷があった。黒板塀に門があって、八重桜の花が咲いていたっけ。そこで休憩したものさ。一杯お茶を貰ったが、ひどく咽喉が乾いていたので、途方途徹もなくうまかった。そこでまた駕籠へ乗せられたものさ。今度は立派な駕籠だった。大名の乗る駕籠だった。そうして武士どもが三十人も、駕籠のまわり[#「まわり」に傍点]を警護してくれた。でようやく安心したものさ。着いた所が越中の屋敷だ。あの真面目《まじめ》の越中めが、いよいよ真面目の顔をして『上様ようこそ渡らせられました。いざいざ奥へお通り遊ばせ』こういった時にはおれは怒った。
『越中! お前の指金《さしがね》だな!』すると越中めこういいおった。『上様のお命をお助けしたく、お連れ致しましてございます』とな。そこでおれは怒鳴ってやった。『誰かこのおれを殺そうとするのか?』
『はい上様の寵臣が、ある結社を味方とし、上様を狙っておりますので』
『それでお前が助けたというのか?』
『毒を制するに毒をもってし、ある六人の悪漢を手なずけ[#「なずけ」に傍点]、お連れ申しましてございます』――で、おれは黙ってしまった。そうして奥座敷へ通って行った。そこに彦太郎がいるじゃあないか。三河風土記を読んでくれた、近習の中山彦太郎がな。おれはすっかり[#「すっかり」に傍点]喜んでしまった。風土記の続きが聞きたかったからさ。『おい彦太郎風土記を読め』おれは早速いったものさ。そこで彦太郎め読んでくれたよ」

    嬉しい再会

「三河風土記ばかりではなかった。いろいろの書物《ほん》を読んでくれたよ。間々《あいだあいだ》間々には越中めが、世間話をしてくれたっけ。わしはすっかり[#「すっかり」に傍点]吃驚《びっくり》してしまった。ひどく浮世はセチ辛いそうだな。町人や百姓や武士までが、わしを怨んでいるそうだな。うん、越中めがそういってたよ。わしは最初は疑がったが、しかししまいには信じてしまった。そこでおれは決心したよ。これまでおれを盲目《めくら》あつかい[#「あつかい」に傍点]にした、悪い家来めを遠ざけて、越中を代わりに据えようとな。……で、ともかくもそんな塩梅《あんばい》で、今朝までおれは越中の屋敷で、暮らしていたというものさ。その今朝越中がこんなことをいった。『結社は退治られてしまいました。もはや安全でございます。お城へお帰り遊ばしませ』そこでまたもや駕籠へ乗り、以前の道を帰って来たのさ……。さあ改革だ! 建て直しだ。いい政事《まつりごと》をしなけりゃならない」
 だが不幸にも家治将軍は、その後間もなく逝去《せいきょ》した。田沼主殿頭が薬師《くすし》をして、毒を盛らせたということであるが、真相は今にわからない。
 しかし家治の遺志なるものは、幸い実行することが出来た。家治の死後電光石火に、幕府の改革が行われ、田沼主殿頭は失脚し、大封を削られて一万石の、小大名の身分に落とされてしまった。代わって出たのが松平越中守で、老中筆頭の位置に坐り、寛政の治を行うことになった。

 青葉の季節が訪ずれて来た。
 半太夫茶屋の四畳半で、愉快な媾曳《あいびき》が行われていた。
 弓之助とお色との媾曳《あいびき》であった。
「おいお色、おい女丈夫、お前は命の恩人だぜ」
「そう思ったら邪魔にせずに、精々《せいぜい》これから可愛がるといいわ」
「あの時お前が来なかろうものなら、女勘助っていう奴に、おれはそれこそ殺されたかもしれねえ」
「ご身分を宣《なの》ればよござんしたに」
「莫迦め、そんなことは出来るものか、がんじ[#「がんじ」に傍点]搦《がら》みにされたんだからなあ。おめおめ生け捕りにされた身で、名前や素姓が明されるものか」
「ほんとにそれはそうですわねえ」お色は胸に落ちたらしい。
 金魚売りの声が表を通った。燕のさえずりが空で聞こえた。
「六人の奴らどうしたかな?」
 ふと弓之助は壊しそうにいった。「江戸にはいないということだが」
「泥棒なんて厭ですわねえ」お色は眉間へ皺を寄せた。
「それもご治世が悪かったからさ。人間いよいよ食えなくなると、どんな事でもやるものだからな」
 ちょっと弓之助は感慨に耽った。
「ご治世は変わったじゃあありませんか。越中守様がお乗り出しになり」
「有難いことには変わったね。これから暮らしよくなるだろう。ところでどうだいお前の心は」
「何がさ?」
 とお色は怪訝《けげん》そうに訊いた。
「変わったかよ? 変わらないかよ?」
「そうねえ」
 とお色は物憂そうにいった。「あなた、お役附きになったんでしょう?」
「越中守様のお引き立てでね」
「権式張らなければいけないわねえ」
「へえ、そうかな、どうしてだい?」
「お役人様じゃあありませんか」
「ほほうお役人というものは、権式張らなけりゃあいけないのかえ」
「みんな威張るじゃあありませんか」
「よし来た、それじゃあおれも威張ろう」
「では、妾《わたし》はさようならよ」
「おっと、おっと、どういう訳だ?」
「妾威張る人嫌いだからよ」
「俺が」と弓之助はゴロリと左寝の肘を後脳へ宛《あ》てた。「威張れるような人間なら、もっと早く役附いていたよ」
「どうしてでしょう? 解らないわ」
「一方で威張る人間は、それ一方では諂《へつら》うからさ」
「ああそうね、それはそうだわ」
「おれの何より有難いのは、生地《きじ》で仕えられるということさ。越中守様の下でなら、お太鼓を叩く必要もなければ怒ってばかりいる必要もない。楽に呼吸《いき》を吐けるというものさ」
 この意味はお色にはわからなかった。
「お色、久しぶりで何か弾けよ」
「ええ」といって三味線を取った。「あら厭だ糸が切れたわ」
「三の糸だろう、薄情の証拠だ」
「お気の毒さま、一の糸よ」
「それじゃあいよいよ嬶《かかあ》になれる」
「ゾッとするわ! 田沼の爺《じじい》!」
「何さ、田沼のその位置へ、俺が坐ろうというやつ[#「やつ」に傍点]よ」
「まあ」といって三味線を置いた。
「大して嬉しくもなさそうだな」
「瞞《だま》すと妾|狂人《きちがい》になるわ!」
 二人はそこで寄り添おうとした。有難い事には野暮天《やぼてん》ではなかった。寄り添う代わりに坐り直した。と、お色がスッと立った。裏の障子を引き開けた。眼の前に隅田が流れていた。行き交う船! 夕焼け水!
「ああ私にはあの水が……」湯のようだと彼女はいおうとした。だがそういわなかった。「ああまるで火のようだわ」こう彼女はいったものである。
 間もなく季節は真夏に入ろう。恋だって火のように燃えるだろう。だがその次には秋が来よう。結構ではないか実を結ぶ季節だ。

 京師殿とは何者であろう? 結局疑問の人物であった。あの有名な天一坊事件、その張本の山内伊賀介、その後身ではあるまいか? 非常な学者だというところから、特に助命して大岡家に預け、幕府執政の機関とし、捨扶持《すてぶち》をくれていたのかもしれない。伊賀介の元の主人といえば、京師の公卿の九条殿であった。

底本:「銅銭会事変 短編」国枝史郎伝奇文庫27、講談社
   1976(昭和51)年10月28日第1刷発行
初出:「週刊朝日 春季特別号」
   1926(大正15)年4月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

天草四郎の妖術—– 国枝史郎

     

 天草騒動の張本人天草四郎時貞は幼名を小四郎と云いました。九州天草大矢野郷越野浦の郷士であり曾ては小西行長の右筆まで為た増田甚兵衛の第三子でありましたが何より人を驚かせたのは其珠のような容貌で、倫を絶した美貌のため男色流行の寛永年間として諸人に渇仰されたことは沙汰の限りでありました。
 併《しか》し天は二物を与えず、四郎は利口ではありませんでした。是を講釈師に云わせますと「四郎天成発明にして一を聞いて十を悟り、世に所謂麒麟児にして」と必ず斯うあるところですが、尠くも十五の春の頃迄は寧ろ白痴に近かったようです。
 それは十五の春の頃でしたが、或時四郎は父に連れられて長崎へ行ったことがございます。
 或日四郎は只一人で港を歩いて居りました。それは一月の加之《しかも》七日で七草の日でありましたので町は何んとなく賑かでした。南国のことでありますから一月と云っても雪などは無く、海の潮も紫立ち潮風も暖いくらいです。桜こそ咲いては居りませんでしたが金糸桃《えにしだ》の花は家々の園で黄金のような色を見せ夢のように仄な白木蓮は艶かしい紅桃と妍を競い早出の蝶が蜜を猟って花から花へ飛び廻わる――斯う云ったような長閑な景色は至る所で見られました。
 髪は角髪衣裳は振袖、茶宇の袴に細身の大小、草履を穿いた四郎の姿は、天の成せる麗質と相俟って往来の人々の眼を欷《そばだ》て別ても若い女などは立ち止まって見たり振り返って眺めたり去り難い様子を見せるのでした。
 四郎は無心に海を見乍ら港を当て無く歩いていましたが不図砂地の大岩の周囲に多数の男女が集まって騒いでいるのに眼を付けますと、愚しい者の常として直ぐに走って行きました。
 岩の上に老人がいて何か喋舌っているのでした。
 白い頭髪は肩まで垂れ雪を瞞く長髯は胸を越して腹まで達し葛の衣裳に袖無羽織、所謂童顔とでも云うのでしょう棗《なつめ》のような茶褐色の顔色。鳳眼隆鼻。引き縮った唇。其老人の風采は誠に気高いものでした。
 と、老人は一同を見渡しカラカラと一つ笑いましたが、
「これ集まったやくざ[#「やくざ」に傍点]者共、何を馬鹿顔を為て居るぞ。いつもの芸当を見たいそうな。……ところが左様は問屋で卸さぬ。碌な見料も置いていかずに面白い芸当を見ようとするのは取も直さず泥棒根性。眼保養の遣らずぶったくり[#「ぶったくり」に傍点]だ。そういう奴は出世せんぞ。まごまごすると牢屋へ入れられる」
 斯う大口を叩いたものです。
 しかし集まった見物人が別に怒りもしないところを見ると斯ういう調子には慣れているのでしょう。中には老人の其悪口が面白いとでもいうように笑っている者さえありました。
 軈て老人は立ち上がると側に在った縄を取り上げてピューッと高く空に投げ上げ落ちて来る所を右手で受け其儘クルクルと輪に曲げましたが、
「それ、よいか、驚くなよ」
 斯う云い乍ら岩の上へ置くと、何んと不思議ではありませんか、その縄が一匹の蛇と成ってヌッと鎌首を持ち上げたものです。
「ワッ」
 と見物は叫び乍ら逃げる。それを冷かに見遣り乍ら、
「これこれ見物逃げるには当らぬ。蛇では無い是は縄だ」
 云い乍ら老人は手を延ばしひょい[#「ひょい」に傍点]と其蛇を取り上げると見るやツツーと一つ扱きましたが、成程夫れは蛇では無くて三尺ばかりの古縄でした。
「ワッハッハッ」
 と老人は笑う。見物は安心して寄って来る。次なる芸当が始りました。
「エイ」
 と鋭い気合と共に老人は古縄を復《また》扱きましたが夫れを右の掌へ立てると一本の樫の棒となりました。
「延びろよ延びろよ、延びろよ延びろよ!」
 恰も歌でも唄う様に老人は大声で云うのでした。と、是は又何たる奇怪! 三尺ばかりの樫の棒が其老人の声に連れてズンズンズンズンズンズンと蒼々と晴れた早春の空へ延びて行くではありませんか。
 空の一所に雲がある。その雲の中へ棒の先は軈て這入って行きました。
「さて」
 と老人は笑い乍ら見物をジロジロ見渡しましたが
「もう徐々金を投げても宜かろう。容易に見られぬ芸当じゃ。何をニヤニヤ笑っているのだ。一文無しの空尻かな。只匁で見るつもりかな。そいつは何うも謝るの。……それとも芸当が気に入らぬか? よしよし夫れでは最う一息アッという所を見せてやろう。それで今日はお終いだ。もし芸当が気に入ったら幾何でもよい金を投げろよ。俺も大道芸人じゃ。只見されたでは冥利に尽きる」
 斯う云い乍ら老人は屹と手許を睨みました。

     二

 右の掌には依然として棒が立って居るのです。そうして棒の突端は雲に隠れて見えません。
 と、老人は掌の棒を窃と岩の上へ置きましたが棒は岩を基礎にして依然として雲に聳えて居ます。
「さあ、よくよく眼を止めて俺の為る所を見て居るがよい。投げ銭抛り銭は其後の事じゃ」
 老人はニヤニヤ笑い乍ら相変らず大口を叩きましたが、つかつかと棒に近寄りますとひょいと両手を棒に掛けツルツルと一間ばかり登りました。棒は倒れも撓《しば》りもしません。依然として雲表に聳えて居ます。
「さて是からが本芸じゃ。胆を潰して眼を廻わすなよ」
 老人は此言葉を後に残し恰も猿が木を登るように棒を登って行きましたが登るに従い老人の姿は漸時小くなるのでした。軈て雲にでも這入ったのでしょう全く見えなくなりました。
 すると今度は聳えていた棒が雲の中へ手繰られると見えて岩からスッと持ち上がりました。そして非常な速さを以て雲の中へ引込まれました。
 と、突然其雲の中から老人の声が聞えて来ました。
「さあもう今度は金を投げてもよかろう」
 声に応じて見物達は雨のように小銭を投げましたが、不思議なる哉。その小銭は一つとして地上に落るもの無く忽然と又|翩飜《へんぽん》と空に向かって閃めき上り皆雲の中へ這入って了いました。
「何だ、これっぱかりか、鄙吝《しみった》れた奴等だ。が今日の飯代にはなる。ワッハッハッハッ」
 と笑う声がしたが夫れも矢っ張り雲の中からです。
 一人去り二人去り何時の間にか見物人は立ち去りましたが、四郎一人は空を見上げたまま何時迄も立って居りました。不思議で不思議でならないのでしょう。
「小僧!」
 と突然耳許で老人の声が聞えました。
「ああ吃驚した」
 と声を筒抜かせ四郎は四辺《あたり》を見廻わしましたが、老人の姿は見えません。
「此方だ此方だ!」
 と復声がします。遠い所から来るようです。声の来る方に林があり其林の裾の辺をその老人が歩いています。
「お爺さあァん!」
 と声を張り上げ四郎は呼び乍ら足を空にして其方へ走って行きました。
 間も無く林まで行き着きましたが、もう其時は老人は遙かの岡の上に立っていました。四郎は少しも勇気を挫かず岡を目掛けて走って行き、漸く岡へ着いた時には、今度は老人は遙か彼方の小川の岸に彳《たたず》み乍ら四郎を手招いて居りました。
 今度は流石に落胆《がっか》り[#「落胆《がっか》り」は底本では「落胆《がっかり》り」]して四郎は足を止めましたが、併し何うにも名残惜くて引っ返えす気にもなりませんでした。
 其時老人は手を上げて二、三度四郎を招きましたが「小僧!」と復も呼ぶのでした。
 それで復もや元気を出して四郎は其方へ走って行きました。
 併し全く不思議なことには何んなに四郎が走っても何うしても老人へは追い着けません。その癖老人は疲労れた足つきでノロノロ歩いているのです。
 小川を越すと広い野となり野を越すと小高い丘となり丘の彼方は深い林で白い色の見えますのは辛夷の花が咲いているのでしょう。
 やがて夕暮となりました。ケンケンと鳴く雉子の声。ヒューと笛のような鶴の声。塒を求める群鴉の啼音が、水田や木蔭や夕栄の空から物寂く聞えて来て人恋しい時刻となりました。
 尚老人は歩いて行く。で四郎も走って行く。こうして半刻も経った頃には夕陽が消え月が出て四辺は蒼白くなりました。
 その時初めて老人は立止まったのでございます。
 其処は山の裾野でしたが、枯草の上へ胡座を掻き満月を背に負った老人の姿は妖怪《もののけ》のようでございます。
「おい小僧、此処へ坐われ」
 近寄る四郎の姿を見ると斯う老人は云いました。
「貴様の名は何んと云う?」
「増田四郎と申します」
 痴《おろか》ながらも姓名だけは四郎も知って居りましたので、老人の側へ坐わり乍ら斯う無邪気に云ったものです。

     

「何んの為に此処まで来たな?」
 四郎は黙って笑っています。
「もっと芸当を見たいからか?」
「はい」と四郎は頷きました。
「よしよし夫れでは見せてやろう。いや可愛い美少年じゃ。お前のような美童の前では俺の芸当も逸むというものじゃ」
 老人はこんな事を云い乍ら少し居住居を正しましたが、光清らかの月に向かってホーッと長い息を吐きました。と其呼吸は薄紫の一条の橋となりまして月へ懸ったではありませんか。併し不思議は夫ればかりで無く、円い満月の真中所にポッツリ点が出来ましたが夫れは何うやら穴らしく、そこから一人の老人がスッポリ体を抜け出すと橋の上へ下り立ちました。
 だんだん此方へ遣って参ります。
 見ている中に老人は地上間近く近寄りましたが、よくよく[#「よくよく」に傍点]見れば其の老人は、今尚草の上に胡座を掻き呼吸を吐いている老人と、瓜二つではありませんか、似たというより二個の老人は全く同一の人間なのです。
 斯うして橋上の老人は呼吸を吐いている老人の口許近く参りましたが、不意に形が小さくなり、一寸ばかりになったかと思うと、身を踴らせて口の中へピョンと飛び込んで了いました。
 途端に此方の老人はパクリと口を閉じましたが忽ち橋は消え失せて、驚いて見ている四郎の眼前には老人が草に坐わっているばかり他に変ったことも無く橙果色《だいだいいろ》をした月の面にも別に穴などは開いていません。
 と、老人は腹を撫でましたが、
「おい、宗意、居心地は何うだ?」
 腹に向かって呼びかけました。
「左様さ、先は平凡だの」腹中の老人が喋舌るのでしょう、斯う云う声が聞えて来ましたが「お前は何うだえ、宗意?」
「俺かな。俺は大浮かれさ。素晴らしい美童を捉まえての」
「フフン」
 と、すると腹中の声は、嘲けるように笑ったものです。
「年甲斐も無い何の事だ」
 そこで老人と腹の中の声とは暫く黙って居りました。
 寂然と四辺は静かです。
 と、老人は腹を撫で腹中に向かって云いました。
「酒が飲みたい。酒が飲みたい」
 まだ其声の終えない中に老人の鼻の左の穴からピョイと何物か飛び出しました。草の上へちゃんと[#「ちゃんと」に傍点]坐わる、刺身の載せてある皿でした。すると今度は右の穴から燗徳利が飛び出して来ました。それから両方の鼻の穴から、猪口や箸や様々の物が次々に飛び出して来ましたが、突然カッと口を開くと其処から火を入れた角火鉢が灰も零れず出て来ました。
「何うだ?」と其時腹の中から先刻の声が聞えて来ました「もう大概是れでよかろう?」
「いや未々」
 と老人は腹中に向かって叫ぶのです。
「若い別嬪を出してくれ」
「なに別嬪? 贅沢を云うな。そこに美少年がいるじゃ無いか」腹中の声は笑っています。
「女気が無いと寂しくて不可《いかん》」
「よしよし夫れじゃ出してやろう」
 腹中の声が終えると同時に老人の口から十七ぐらいの一人の娘が出て来ましたが細《ほっそ》りとした色の白い髪毛の黒い美貌の娘で、四郎を見るとニッコリ笑い、其側へ行って坐わりました。
「並んだ並んだお雛さまが」
 老人は二人を眺め乍ら面白そうに手を拍ちましたが、猪口を掴むとつと[#「つと」に傍点]前へ出し、
「さあさあ酒を注いでくれ」
「はい」
 と娘は慣れた手つきで徳利を取って酌をします。
「さあさあ娘、立って舞い」
「はい」と云って立ち上り娘は舞をまい出しました。
 黄色い澄み切った早春の月。藪蔭で啼いている寝惚鳥。生温かい夜の風。月光を砕き風に乗り翩飜と舞う長い袖。……娘の舞は今様と見え声涼しく唄い出しました。
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春の弥生の暁に
四方の山辺を見渡せば
花盛りかも白雲の
かからぬ峰こそなかりけり
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 繰り返えし繰り返えし三遍まで娘は唄って舞い澄ます。
 と見ると老人は眠っています。ゴロリと草の上に横になり軽い鼾さえ立てています。
「おや、お爺さんは寝入っているよ」
 娘は急に舞を止め手を叩いて笑い出しました。
「こんな事はめったに無い。出した物[#「出した物」に傍点]をうっちゃって置いて寝入って了うなんて迂濶でしょう」
 娘は面白そうに叫んだものです。

     

「ちょいとちょいと可愛らしい坊ちゃん」
 斯う云い乍ら急に娘は四郎の側へ参りましたが如何にも早熟《ませ》た物腰で四郎の手を堅く握りました。
「妾《わたし》ね、貴郎を待っていましたのよ。ずっとずっと昔からね。遂々逢えたのね、嬉いわ。……貴郎増田四郎さんでしょう。妾の名を聞かせてあげましょうか。妾ずっとずっとの大昔|猶太《ユダヤ》という遠い国の熱い沙漠にいた頃は聖母マリアと云われていましたの。そうして今も聖母マリアよ。でもね、日本の人達は妾を大変虐めますのよ。だから迂濶々々歩けないの隠れていなけりゃならないの。……だから貴郎にお願いします。妾を自由にして下さい。隠れ場所から出して下さい」
「だって何処に隠れているの?」――四郎は不思議そうに尋ねました。
「それはね、人の胸の中に」
「マリアお姫さん。斯ういう名ね?」
「ええ、そうよ。そういう名よ。〈神の子エス・キリストの母〉斯う云ってもよいのですよ」
「大変長い名なんですね」
「愛。――斯う云ってもよいのですよ。〈人々よ互に愛し合えよ〉妾は日本の人達に斯ういう教えを説いているのですからね」
「そのお爺さんは何う云う人?」
「森宗意軒て云う人です。大変偉い人なのです。そうして妾達親子の者――エス・キリストとマリアとを大変信仰しているのですよ」
「その人、魔法を使うんですね」
「あれは切支丹伴天連の法よ」
「ああいう事|行《や》って見たいなあ」
「ええええ貴郎にも出来ますとも。もっと不思議なことが出来ますよ。貴郎の美しさは神のようです。その貴郎の美しさは選ばれた人の美しさです。妾はどんなに貴郎のような美しい人を待っていたでしょう。妾は貴郎の美貌を使って妾達の持っている宗教を世間に拡めなければなりません」
 斯う云い乍ら其娘は懐中から十字架を取り出しましたが夫れを四郎の首へ掛けました。
 と其瞬間から四郎の人物はガラリ一変致しまして近代科学で説明しますれば所謂性格転換とでも云おうか、怜悧聰明並ぶもの無い麒麟児となったのでございます。が併し夫れは後で説くとして、此時眠っていた老人が――即ち森宗意軒が眠りから醒めて起き上がりましたが、
「ややこれは迂濶千万。出し放しとは気がつかなかった」斯う云い乍ら酔眼を拭り、皿や火鉢を取り上るとポンポン口の中へ抛り込みましたが、最後に娘を引き寄せると膝の上へ抱き上げました。と其体が小さくなる。夫れを口中へ抛り込む。そうして其儘行きかけましたが、何気無く四郎を認めますとハッとばかりに大地へ坐り両手を土へ突きました。
「天童降来。天童降来。ははッ、お目見得を仰せつかり忝けのう存じます[#「忝けのう存じます」は底本では「恭けのう存じます」]」斯う云って平伏したのです。
 すると、四郎は其瞬間から、自分を天より遣わされたる天使であると思い込みました。
「おお其方は森宗意軒か」言葉迄も全然変り「私は宗旨を拡めるため天から遣わされた童児であるぞ」
「尊い尊い天の童児様! 尊い尊い天の童児様!」
「見ろ、私は義軍を起こし、キリストとマリアとを守るであろう!」
「ハライソ、ハライソ、ハライソ、ハライソ!」宗意軒は斯う云って十字を切りました。
「……われは命のパンなり。われに来たる者は飢えず。我を信ずる者はいつまでも渇くことなからん。……」突然四郎は立ち上がり斯う威厳を以て叫びましたが、是は聖書の文句なのです。しかし四郎は白痴でした。曾て其様な聖書などを読んだことなどは無い筈です。
 と、四郎は手を上げて、
「月よ、血の如く赤くなれよ! そのキリストの血に依って!」こう大声で呼びました。忽然、今まで澄んでいた橙色の春の月が、血色に変ったではありませんか。第一の奇蹟の成功です。
「ハライソ、ハライソ、ハライソ、ハライソ!」
 と、其間も森宗意軒は讃美の声を絶とうとはせず、繰返えし繰返えし唱えるのでした。
 それは誠に神秘壮厳の一幅の絵画と云うべきでした。黒い森。赤い月。仙人のような白髪の翁。そうして総る人界の美を一身に集めた稀有の美童。……ハライソという神寂びた声!
 夜はもう半ばを過ぎてしまった。

     

 斯ういうことがあってから、天草、島原、長崎などで、「天童降来、教義布衍」こういう言葉が流行し圧迫され又虐げられていた切支丹宗徒に力を付けましたが、翌、寛永十四年に果然世に云う天草一揆が先ず天草に勃発し次いで島原の原ノ城に籠もり幕府に抗するようになりました。
 男女合わせて三万余人が籠城したので厶《ござ》います。
 大将は即ち天草時貞。四郎のことでございまして、主立った部将の面々は、森宗意軒、葦塚忠右衛門、同じく忠太夫、同じく左内、増田甚兵衛、同じく玄札、大矢野作左衛門、赤星宗伴、千々輪五郎左衛門、駒木根八兵衛。
 寄手、主立った大名は、板倉内膳正を初めとし、有馬、鍋島、立花、寺沢、後には知恵伊豆と謳われた松平伊豆守が総帥として江戸からわざわざ下向した程で総勢合わせて十万と称され、城を囲むこと一年になっても尚陥落そうにも見えませんでした。
 それは三万の信徒達が四郎を天童と思い込み天帝の擁護ある限り最後に勝つと信じているからです。
 で、宗徒軍の強さ加減は例えるに物の無い有様でした。然に不思議の事には、それほど難攻不落であった其原ノ城が翌年の正月他愛も無く陥落たではありませんか。それは次の様な理由からです。

 或夜、珍らしく従者も連れず、天草四郎時貞は城内を見廻わって居りました。宿直《とのい》の室の前まで来ますと、「四郎が。……四郎が」と無礼にも呼び捨てにしているものがあるので不思議に思って立ち止まり板戸の隙から覗いて見ますと、森宗意軒と葦塚忠右衛門とが、くつろいだ様子で話しています。四郎四郎と云っているのは宗意軒でありました。
「四郎め、すっかり天童気取りで、悠々寛々と構えているので、城中の兵ども安心して、かく防戦するでは無いか。迷信の力ほど恐ろしいものは無い」
「三月何うかと案じていたのに、一年の余も持ち堪えているとは、農民兵とて馬鹿にならぬ。天童降来して宗徒を護ると斯う信じ切って居ればこそ、望みの無い戦にも勇気を落とさず健気に防戦するであろうぞ」
「それも皆四郎のおかげじゃ」
「いやいやお前の才覚のためじゃ。あの白痴の四郎めをお前の手品で誑《たぶら》かし、天帝の子と思い込ませたのが、今日の成功をもたらせたのじゃよ」
「いや、あの時は面白かった」宗意軒は浩然と笑いました。「要するに俺の催眠術で彼奴の精神を眠らせて了い、いろいろ様々の形を見せ、彼奴をして天童じゃと思わせた迄さ。予想外に夫れが利いて、四郎め天童に成り済ましたのじゃからの。計画図にあたりと云うものさ」
「老後の思い出天下を相手に斯ういう芝居が打てたかと思うと、全く悪い気持はしないの」
「お互、小西の残党なのだが、憎い徳川を向うに廻わし是だけ苦しめたら本望じゃ」
「江戸で家光め地団太踏んでいようぞ」
「長生きするとよいものじゃ。いろいろのことが見られるからの」
「が、此度が打ち止めであろうぞ。後詰めする味方があるではなし」
「豊臣恩顧の大名共、屈起するかと思ったが是だけはちと[#「ちと」に傍点]当てが外れた」
「そうは問屋が卸ろさぬものじゃ。もう是迄に卸ろし過ぎている。ワッハッハッ」
「ワッハッハッ」
「ああ夫れでは此私は天の使いではなかったのか」
 二人の話を立聞きしていた四郎時貞は余りの意外に仰天しましたが、次に来たものは絶望でした。
 その絶望が劇しかったためか、転換した彼の性格が忽然旧に復して了い、一個白痴の美少年増田四郎となって了ったのは止むを得ない運命と云うべきでしょう。翌日、彼は止るを聞かず、緋威《ひおどし》の鎧に引立て烏帽子、胸に黄金の十字架をかけ、わざと目立つ白馬に乗り、敵の軍勢へ駈け入りましたが、身に三本の矢を負って城中へ取って返した頃には既に虫の息でありました。城中悉く色を失い、寂然と声を飲んだ其折柄、窓を通して射し込んで来たのは落ち行く太陽の余光でした。
 その華かにも物寂しい焔のような夕陽を浴びて四郎は静かに寝ていましたが、
「われ渇く」と呟きました。
 すぐに葡萄酒が注がれました。
「事畢りぬ」と軈て云った時には首を垂れて居りました。魂が天に帰ったのでした。白痴にして英雄児摩訶不可思議の時代の子は斯うして永久世を去ったのでした。臨終に云った二つの言葉は、エス・キリストが十字架の上で矢張り臨終に叫んだ言葉と全く同じだったのでございます。
 主将と信仰とを同時に失った原ノ城の宗徒軍が一度に志気を沮喪させたのは寧ろ当然と云うべきでしょう。翌日城は陥落ました。老弱男女三万人、一人残らず死んだのは惨鼻の極と云うべきか壮烈の限りと云うべきか、世界的有名な宗教戦は四郎の運命と終始して、起り且つ亡びたのでございます。

底本:「妖異全集」桃源社
   1975(昭和50)年9月25日発行
初出:「ポケット」
   1925(大正14)年1月
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年12月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

天主閣の音—— 国枝史郎

 元文年間の物語。――
 夜な夜な名古屋城の天主閣で、気味の悪い不思議な唸り声がした。
 天主閣に就いて語ることにしよう。
「尾張名古屋は城で持つ」と、俚謡《りよう》にまでも唄われている、その名古屋の大城は、慶長十四年十一月から、同十六年十二月迄、約二ケ年の短日月で、造り上げた所の城であるが、豊公恩顧の二十余大名六百三十九万石に課し、金に糸目をつけさせずに、築城させたものであって、規模の宏壮要害の完備は、千代田城に次いで名高かった。
 金鯱で有名な天主閣は、加藤清正が自分が請うて、独力で経営したものであって、八方正面を眼目とし、遠くは敵の状況を知り、近くは自軍の利便を摂する、完全無欠の建築であった。石積の高さ六間五尺、但し堀底からは十間五寸、その初重は七尺間で、南北桁行は十七間余、東西梁行は十五間三尺、さて土台の下端から五重の棟の上端までを計ると、十七間四尺七寸五分だが、是が東側となると、更に一層間数を増し、地上から棟の上端まで、二十四間七尺五分あった。
 金鯱は棟の両端にあった。南鯱は雌でその高さ八尺三寸五分と註され、北鯱は雄で、稍《やや》大きく、高さ八尺五寸あった。木と鉛と銅と黄金と、四重張りの怪物で、製作に要した大判の額、一千九百四十枚、こいつを小判に直す時は、一万七千九百余両、ところで此金を現価に直すと、さあ一体どの位になろう? 鳥渡見当もつきかねる。名に負う慶長小判である。普通の小判とは質が異う。とまれ素晴らしい金額となろう。
 その天主閣で奇怪な音が、夜な夜な聞えるというのであった。
 だが毎晩聞えるのでは無く、月も星も無い嵐の晩に、愁々として聞えるのであった。
「金鯱が泣くのではあるまいかな?」などと天主番の武士達は、気味悪そうに囁いた。
「いずれ可く無い前兆だろうよ。……どうも些藩政が弛み過ぎたからな」
 時の藩主は宗春で、先主継友の末弟であり、奥州梁川から宗家に入り、七代の主人となったものであった。末弟の宗春が宗家を継いだのには、鳥渡面白い事件がある。
 享保元年のことであったが、七代の将軍家継が僅八歳で薨去した。そこで起こったのが継嗣問題で紀州吉宗を立てようとするものと、尾州継友を迎え[#「迎え」は底本では「迎へ」]ようとするものと、柳営の議論は二派に別れた。そうして最初は尾州側の方が紀州党よりも優勢であった。
 で継友も[#「 で継友も」は底本では「で継友も」]其家臣も大いに心を強くしていたが俄然形勢が変わり、紀州吉宗が乗り込むことになった。
 尾州派の落胆は云う迄も無い。「だが一体どういう理由から、こう形勢が逆転したのだろう?」
 研究せざる[#「研究せざる」は底本では「研究せぎる」]を得なかった。その結果或る事が発見された。家臣の中に内通者があって、それが家中の内情を、紀州家へ一々報告し、それを利用して紀州家では、巧妙な運動を行ったため、成功したのだということであった。
 一千石の知行取、伴金太夫という者が、その内通者だということであった。
 継友が如何に怒ったかは、説明するにも及ぶまい。だが是という証拠が無かった。処刑することが出来なかった。
 この頃宗春は宗家にいた。
「兄上、私が討ち果たしましょう」こう彼は継友に云った。
 その夜宗春は金太夫を召し寄せ、手ずから茶を立てて賜わった。金太夫が茶椀を捧げた途端「えい!」と宗春は一喝した。驚いた金太夫は茶椀を落し、宗春の衣裳を少し穢した。
「無礼者め!」と大喝し、宗春は一刀に金太夫を斬った。「それ一族を縛め取れ!」
 そこで、一族は縛め取られ、不敬罪の名の下に、一人残らず殺された。
「宗春、よく為た。礼を云うぞ」継友は衷心から、喜んだものである。
 その継友も八年後には、コロリと急死することになった。その死態が性急だったので、一藩の者は疑心を抱いた。「将軍吉宗の計略で無いかな?」――それは実に大正の今日まで、疑問とされている出来事であった。
 臨終にのぞんで継友が云った。「宗春には恩がある。あれ[#「あれ」に傍点]を家督に据えるよう」
 こういう事情で宗春は尾州宗家を継いだのであった。
 爾来尾州家は幕府に対して、好感を持つ事が出来なかった。その上宗春は活達豪放、英雄の素質を持っていた。で事毎に反対した。
「ふん、江戸に負けるものか。江戸と同じ生活をしろ」
 彼は夫れを実行した。如何に彼が豪放であり、如何に彼が派手好きであったか、古書から少しく抜萃《ぬく》ことにしよう。

「……諸事凡て江戸、大阪等、幕府直轄地同様の政治をなさんとせり。されば同年七月の盆踊には、早くも掛提灯、懸行燈《かけあんどう》等の華美に京都祗園会の庭景をしのばしめ、一踊りに金二両、又は一町で銀五十枚、三十枚、十五枚を与えて、是を見物するに至れり。嘗て近江より買ひ入れたる白牛に、鞍鐙、猩猩緋の装束をなし、御頭巾、唐人笠、御茶道衆に先をかつがせて、諸寺社へ参詣したりといふ。更に侯の豪華なる、紅裏袷|帷子《かたびら》、虎の皮羽織、虎の皮の御頭巾を用ひ、熱田参詣の際の如き、中納言、大納言よりも高位の御装束にて、弓矢御持ち遊ばされ、御乗馬御供矢大臣多く召連れたり。供廻り衆の行装亦数奇を極め、緋縮緬、紅繻子等の火打をさげ、大名縞又は浪に千鳥の染模様の衣服にて華美をつくしたり。
 遊芸音曲の類を公許し、享保十六年には、橘町の歌舞伎の興行を許し、侯自らも見物するに至れり。従来かつて無かりし遊女町を西小路に起し、翌年更に是を富士原、葛原に設け、それより栄国寺前、橘町、東懸所前、主水《かこ》町、天王崎門前、幅下新道、南飴屋町、綿屋町等にも、京、大阪、伊勢等より遊女多く入り込み、随って各種の祭事此時より盛んなり」
「とみに城下は歌吹海となり、諸人昼夜の別無く芝居桟敷へ野郎子供を呼び、酒盛に追々遊女もつれ行き、寒中大晦日も忘れて遊びを事とす」
 云々と云ったような有様であった。
 が、彼が斯う云ったような、華美軟弱主義を執ったのには、一家の見識があったのであった。
 無理想であったのでは無いのであった。
 彼は夫れに就いて斯う云っている。
「すべて人といふものは、老たるも若きも、気にしまり[#「しまり」に傍点]とゆるみ[#「ゆるみ」に傍点]なくては万事勤めがたく、中にも好色は本心の真実より出る故、飯食ふと同じ事なり。それ故其場所なければ男女しまり[#「しまり」に傍点]無し。平常召使い候女も却って遊女の如く成り、おのずから不義も多く出来、家の内も調はず、国の風俗までも悪くなりゆく事なり。此度所々に見物所、遊興所免許せしめたるは、諸人折々の気欝を散じ、相応の楽しみも出来、心も勇み、悪いたく[#「いたく」に傍点]固まりたる心も解け、子供いさかひ[#「いさかひ」に傍点]のやうになる儀もやみ、田舎風の士気を離れ、武芸は勿論、家業家職まで怠らず、万事融通のためなり」

 元文元年の正月であった。
 宗春は城内へ女歌舞伎を呼んだ。
 二十人余りの女役者の中で、一際目立つ美人があった。高烏帽子《たてえぼし》を冠り水干を着、長太刀をはいて[#「はいて」に傍点]、「静」を舞った。年の頃は二十二三、豊満爛熟の年増盛りで、牡丹花のように妖艶であった。
「可いな」と宗春は心の中で云った。「俺の持物にしてやろう」
 で、彼は侍臣へ訊いた。
「あの女の名は何んというな?」
「はは半太夫と申します」
「うむ、そうか、半太夫か。……姿も顔も美しいものだな」
「芸も神妙でございます」
「そうともそうとも立派な芸だ」
「一座の花形だと申しますことで」
 その半太夫は舞い乍ら、宗春の方を流眄《ながしめ》に見た。そうして時々笑いかけさえした。媚に充ち充ちた態度であった。もし宗春が彼女の美に、幻惑陶酔すること無く、観察的に眼を走らせたとしたら、彼女が腹に一物あって、彼を魅せようとしていることに、屹度《きっと》感付いたに相違無い。だが宗春は溺れていた。そんな事には気が付かなかった。
 その日暮れて興行が終え、夜の酒宴となった時、座頭はじめ主だった役者が、酒宴の席へ招かれた勿論その中には半太夫もいた。
 所謂無礼講の乱痴気騒ぎが、夜明け近くまで行われたが、宴が撤せられた時、宗春と半太夫とは寝室へ隠れた。
 そうして座頭は其代りとして、莫大な典物《はな》を頂戴した。
 此夜は月も星も無く、宵から嵐が吹いていた。
 で、天主閣の頂上では、例の唸り声が聞えていた。それは人間の呻き声にも聞え、鞭を振るような音にも聞えた。とまれ不穏の音であった。禍を想わせる声であった。
 其夜以来半太夫は、城の大奥から出ないことになった。お半の方と名を改め、愛妾として囲われることになった。
 宗春は断じて暗君では無かった。英雄的の名君で、支那の皇帝に譬《たと》えたなら、玄宗皇帝とよく似ていた。お半の方を得て以来は、両者は一層酷似した。玄宗皇帝が楊貴妃を得て、すっかり政事に興味を失い、日夜歓楽に耽ったように、宗春も愛妾お半の方を得て、すっかり藩政に飽きて了った。そうして日夜昏冥し、陶酔的酒色に浸るようになった。

 聖燭節《せいしょくせつ》から節分になり、初午から針供養、そうして※[#「さんずい+(日/工)」、第4水準2-78-60]槃会《ねはんえ》の季節となった。仏教の盛んな名古屋の城下は、読経の声で充たされた。
 梅が盛りを過ごすようになり、彼岸桜が笑をこぼし、艶々しい椿が血を滴らせ、壺菫《つぼすみれ》が郊外で咲くようになった。
 間もなく桜が咲き出した。そうして帰雁の頃となった。
 或日宗春は軽装し、愛妾お半の方を連れ、他に二三人の供を従え、東照宮へ出かけて行った。彼には斯ういう趣味があった。一方豪奢な行列を調え、城下を堂々と練るかと思うと、他方軽輩の姿をして、地下の人達と交際《まじわる》のを、ひどく得意にして、好いたものである。
 東照宮は長島町にあった。城を出ると眼の先であった。
 境内の桜は満開で、花見の人で賑わっていた。赤前垂の茶屋女が、通りかけの人を呼んでいた。大道商人は屋台店をひらき、能弁に功能を述べていた。若い女達の花|簪《かんざし》、若い男達の道化仮面、笑う声、さざめく声、煮売屋の釜からは湯気が立ち、花見田楽の置店からは、名古屋味噌の香しい匂いがした。
「景気は可いな。実に陽気だ」宗春の心も浮き立って来た。ぴらり帽子で顔を包み、無紋の衣裳を着ているので、誰も藩主だと気の附くものがない。それが宗春には得意なのであった。
 と、一人の四十格好の香具師《やし》が、爛漫と咲いた桜樹の根元に、風呂敷包を置き乍ら、非常に雄弁に喋舌っていた。
「さあお立合い聞いてくれ。いいや然うじゃあねえ見てくれだ。唐土渡りの建築模型、類と真似手のねえものだ。わざわざ長崎の唐人から、伝授をされて造った物だ。仇や疎かに思っちゃ不可ねえ。……尤も見るだけじゃお代は取らねえ。見るは法楽聞くも法楽! だからとっくり[#「とっくり」に傍点]見て行ってくんな。但し気に入った建築があって、買いたいというなら代は取る。そうして代価は仲々高え! 驚いちゃ不可ねえ一個百両だ! そりゃあ然うだろう屋敷を買うんだからな。それも素晴しい屋敷なのだからな! ……何、なんだって! 高いって? アッハハハ然うかも知れねえ。百両と云やあ大金だ。大道商売の相場じゃねえ。よし来た夫れじゃ負ける事にしよう。それも気前よく負けてやる。一個一両とは是どうだ! 負けも負けたり大負けだ。百両から一両に下ったんだからな。この辺が大道の商売だ。平几張面の[#「几張面の」はママ]商人にや、しよう[#「しよう」に傍点]と云ったって出来る事じゃねえ。え、何んだって未《まだ》高いって? 冗談じゃあねえ驚いたなあ。一両でも高いって云うのかい? 屋敷一個が一両だぜ。一両の屋敷ってあるものか! 堀立小屋を[#「堀立小屋を」はママ]建てた所で、一両ぐらいは直ぐかからあ。それが何うだ御屋敷なんだぜ。門があってよ玄関があって、母屋があって離座敷《はなれ》があり、泉水築山があるんじゃねえか! そうさ尤も模型だから這入って住むことは出来ねえが、そいつあ何うも仕方がねえ。……これがお前さん住める屋敷なら、二百両三百両じゃあ出来ねえんだからな。……とは云うものの考えてみれば、住めねえ屋敷が一両とは、ナール、こいつ高えかもしれねえ。よし来た夫れじゃ最う少し負けよう。ギリギリの所一分とは何うだ。アッハハハ負けたものさなあ。百両から一分になったんだからなあ。さあ最う此辺がテッペンだ。もう是からは一文だって引けねえ。いいかな御立合い引けねえんだよ。……兎も角もじっくり[#「じっくり」に傍点]見てくんな。この精巧な模型をよ。ごまかし[#「ごまかし」に傍点]なんか一個所だってねえ。ガッチリ建築法と造庭と、方位吉凶に合っているんだからな。だからよ、此奴を買って行って、尺に合わせて計ってみるがいい。そうして屋敷でも建ててえ時には、そっくり此奴を参考にして、トンカントンカン建てるがいい。大工を頼む必要はねえ。そうだ板っ切れの削り方と、釘の打ちようさえ知っていたら、自分で結構建てることが出来る。ところで種類なら幾通りでもある。九尺二間の裏店から、百万石の大名衆の、下屋敷まで出来てるのさ。尤も城の模型は無え。こいつは鳥渡物騒だからな。ウカウカそんな物を拵えようものなら、謀叛人に見られねえものでもねえ。おお恐え逆磔刑《さかはりつけ》だ! が、併しお大名衆から、特にご用を仰せ付かるなら、こいつは別物だ遠慮はしねえ、城の模型だって造ってみせる。山本勘介も武田信玄も、太田道灌も太閤様も、俺から云わせりゃ甘えものさ。昔から名ある築城師、そんなもなあ屁の河童だ! だがマア自慢はこれくらいとして、さて夫れでは実物に就いて、説教することにしようかな。……最初は是だ、この模型だ! 五行循環吉祥之屋敷!」
 こう云い乍らその香具師は、地面に置いた風呂敷包から、屋敷の模型を取り出した。
 今日の張ボテ式、子供瞞しの品ではあったが、さすがに自慢をするだけあって模型としては完全であり、殊には精巧を極めていた。

「さあ是だ!」と叫び乍ら香具師は模型を右手に捧げた。「畳の原理から説くことにしよう。由来畳というものは、神代時代からあったものだ。むかし天照大神の御孫、瓊々杵尊《ににぎのみこと》[#ルビの「ににぎのみこと」は底本では「ににぎのみごと」]の御子様に、彦火々出見《ひこほほでみ》というお子様があられ、大綿津見《おおわだつみ》へ到らせ給うや、海神豊玉彦尊《かいじんとよたまひこのみこと》、八重の畳を敷き設け、敬い迎うと記されてある。これ畳の濫觴だ。夫《それに》日本の畳たるや八八《はっぱ》六十四の目盛がある。六十四卦に象ったものだ。で、人間の吉凶禍福は、畳にありと云ってもよい。次に建築法から云う時は、忌む可きことが数々ある。神木を棟に使ってはならない。又逆木を使ってはならない。そうだ特に大黒柱にはな。運命が逆転するからよ。さて次には不祥事だ。すべて柱の礎《いしずえ》へ、石臼などを置いてはならない。地中に兜や名剣あれば、子孫代々出世はしない。石塔類でも埋もれていれば、死人相継いで出るだろう。こいつは説明にも及ぶまい。石の槨《かろうと》を埋めて置けば、財貨一切消滅する。こいつも大いに謹まなければならない。さて最後に間取りだが、こいつが一番むずかしい。陰陽五行相生相剋、こいつに象《かたど》って仕組まなければならない。鎮守、神棚、仏檀[#「仏檀」はママ]、門戸、入口、竈《かまど》、雪隠、土蔵、井戸、築山、泉水、茶室、納屋、隠居所、風呂、牛部屋、厩《うまごや》、窓口、裏口等、いずれも建方据え方に、秘伝があってむずかしい。ところで此処にある此の模型だが、一切吟味が施されてある。その点だけでも大したものだ。それに其上、屋敷というものは、住人に執っては城砦だ。攻めて来る敵を防がなければならない。ところで此処にある此模型だが、そういう点でも完全なものだ。まず見るが可い此小川を。普通の時には用川、一端そいつが戦時となると、忽然として堀になる。嘘だと思うなら見るがいい」
 こう云い乍ら香具師は、地面に置いてある土瓶を取り上げ、模型屋敷の小川の中へ、トロトロと水を注ぎ込んだ[#「注ぎ込んだ」は底本では「住ぎ込んだ」]。張ボテではあるが堅牢だと見えて、滲みも滴りもしなかった。
「よいかお立合い、この水がだ、石一つの動かし加減で、変化するから面白い」
 こう云い乍ら、模型屋敷の小川の一所に飛び出している、[#「、」は底本では「。」]小さい岩型の痣の頭を、香具師は指先でチョイと押した。と、洵《まこと》に不思議にも、水が瞬間に無くなって了った。と思う間もあらばこそ、屋敷の四方から其水が、沸々盛り上って湧き出して来た。そうして見る見る屋敷の四方をグルリとばかりに取り巻いた。門の影や土塀の影や、木立の影がその水面に、逆に映っている態は、小さい小さい竜宮城が、現出したとしか思われない。
「さて大水が現れて屋敷の周囲を取り巻いた。百人の敵が襲って来ても、悠に二日は防ぐことが出来る。次に此処に竹藪がある。これが又非常に重大な武器だ。ひっ削いで火に燻らせ、油壺の中へザンブリと入れたら、それで百本でも二百本でも、急拵えの竹槍が出来る。が、これは真竹に限る。八九の竹や漢竹では、鳥渡そういう用には立たねえ。……ところで屋敷の裏庭にあたって、石灯籠が一基ある。こいつが只の石灯籠じゃあねえ。嘘だと思うなら証拠を見せる。おおお立合い、誰でもいい、鳥渡台笠へ障ってくんな。遠慮はいらねえ障ったり障ったり」
 群集の中に職人がいたが「おお親方俺が障るぜ」
 云い乍ら腕をグイと延ばし、灯籠の台笠へ指を触れた。途端に轟然たる音がして、石灯籠の頂上から、一道の烽火《のろし》が立ち上り、春日|怡々《ついつい》たる長閑の空へ、十間あまり黄煙を引いた。
 あまりの意外に群集は、ワッと叫んで後へ退ったが、これは驚くのが当然であろう。
 群集の中に立ち雑《まざ》り、香具師の様子に眼を付けていた。[#「。」はママ]尾張中納言宗春は、此時スタスタと歩き出したが、境内中門の前まで来ると、ピタリとばかり足を止めた。
「九兵衛、九兵衛!」と侍臣を呼んだ。
 近習頭の小林九兵衛は「はっ」と云うと一礼した。
「其方、あの香具師を何んと思うな?」
「は、どうやら怪しい人間に……」
「うむ、些《いささか》、怪しい節がある。築城術の心得があり、しかも火術にも達しているらしい」
「いかがでござりましょう、縛め取りましては?」九兵衛は顔色をうかがった。
「いやいや待て待て考えがある。……其方、此処に警戒し、彼奴の様子を窺うがいい。立ち去るような気勢があったら、はじれぬように後を尾行け、その住居を突き止めて参れ」
「かしこまりましてござります」
 そこで宗春の一行は、九兵衛を残して帰館した。
 永い春の日も暮に近く、花見の客も帰り急ぎをした。
 中門の袖に身を隠し乍ら、九兵衛は様子を窺っていた。
 と、香具師は荷物を肩にし、チラリ四辺を見廻わしてから、足早に境内を出て行った。
「よし」と云うと小林九兵衛は、中門の袖からヒラリと出た。
 怪しい香具師、妖艶なお部屋、天主閣での唸き声。……どう事件が展開するか?

 香具師はズンズン歩いて行った。
 今日の地理を以て説明すれば、長島町を西へ執り茶屋町、和泉町を北に眺め、景雲橋の方へ進んで行った。景雲橋を渡り明道橋を渡り、尚何処迄も西の方へ進んだ。もう此辺は城下の外で、向うに一塊此方に一塊、百姓家が立っているばかりであった。いつか日が暮れ夜となったが、十五夜の月が真丸に出て、しくもの[#「しくもの」に傍点]ぞ無き朧月、明日は大方雨でもあろうか、暈《かさ》を冠ってはいたけれど、四辺《あたり》は紫陽花色《あじさいいろ》に明るかった。
 と、一軒の家があった。その戸口まで行った時、香具師の姿は不意に消えた。門の戸の開いたらしい音もなかった。と云って裏手へ廻ったようでもない。文字通り忽然消えたのであった。
 後を尾行けて来た小林九兵衛は、おや[#「おや」に傍点]と呟いて足を止めた。どう考えても解らなかった。で兎も角も接近し、其家の様子を見ようとした。変哲もない家であった。ただ普通の百姓家であった。表と裏とに出入口があって、粗末な板戸が立ててあった。二階無しの平屋建で、畳数にして二十畳もあろうか、そんな見当の家であった。屋根に一本の煙突があったが、それとて在来《ありふれ》た煙突らしい。
「さて是から何うしたものだ」九兵衛は鳥渡考えた。「本来俺の役目と云えば、住居を突き止めることだけだ。幸い住居は突き止めた。このまま帰っても可い筈だ。……だが何うも少し飽気《あっけ》ないな」そこで彼は腕を組んだ。
 と、明瞭と耳元で、こう云う声が聞えて来た。「腕を組むにゃァ及ばねえ。遠慮なく這入っておいでなせえ」
「え」と云ったが仰天した。「さては何処かで見ているな」で、グルリと見廻した。併し何処にも人影が無かった。田面が月光に煙っていた。立木が諸所に立っていた。立木の蔭にも人はいない。
「家の中から呼んだにしては、声があんまり近過ぎる」思わず九兵衛は小鬢を掻いた。
「小鬢を掻くにやァ当らねえ。さっさと這入っていらっしゃい。が門からは這入れねえ。門へ障ったら龕燈返《がんどうがえ》しだ。那落の底へお陀仏だ。壁だ壁だ壁から這入りねえ。ようがすかい、向って右だ。その壁へ体を押つ付けなせえ。それからお眼を瞑るんで。開いたが最後大怪我をする。……物事早いが当世だ。さあさあ体を押つ付けなせえ」香具師の声が復聞えた。そうして其声には魅力があった。逆らうことが出来なかった。そこで九兵衛は云われるままに、体を壁に押つ付けた。そうして固く眼を瞑った。すると其壁に蛸の疣があって彼の体へ吸い付いたかのように、ピッタリ壁が吸い付いた。と思った其途端、彼は家の内へ引き込まれた。
「もう可うがす。眼を開いたり」
 云われて九兵衛は眼を開いた。香具師が笑い乍ら坐っていた。
 部屋の内を見廻わして、九兵衛は思わず眼を見張った。何に彼は驚いたのか? 部屋の様子が余りにも、乱雑を極めていたからであった。部屋は二つに仕切られていた。手前の部屋から説明しよう。その部屋は三方板壁であった。形から云えば真四角で、簀子張りの八畳敷で、その点から云う時は、変った所も無いのであるが、天井から様々の綱や糸や、棒や鉄棒が釣り下げられていた。そうして太い煙突が、簀子から天井を貫いて、屋根の上まで突き出ていた。と思うのは間違いで、実は夫れは煙突では無く、煙突の形をした何かなのであった。円周四尺直径一尺、総体が黒く塗られていた。そうして根元から五寸程の所に、斜めに鏡が嵌め込まれていた。
 戸外に面した壁の一点に、棒のような物が突き刺されていた。その端が坐っている香具師の口の辺へ真直に突き出されていた。そうして其先が漏斗《じょうご》型をなし、矢張り黒く塗られていた。
 簀子の上には様々の模型が、雑然紛然と取り散らされてあった。屋根の模型、大砲の模型、人形の模型、動物の模型、鳥の模型、魚の模型……そうして今日の飛行機の模型、そうして今日の望遠鏡の模型、そうして今日の竜吐水《ポンプ》の模型……地球儀の模型、螺旋車の模型、軍船の模型、楽器の模型、磁石の模型、写真機の模型……玩具屋の店へでも行ったように、無雑作に四辺に取り散らされてあった。
「おおおおお侍さん何うしたんだい。場銭は取らねえ。お坐りなせえ。さて小林九兵衛の旦那、ようこそおいで下さいやした。どういう風の吹き廻わしか。中納言様にもお目通り致し、今日は可い日でございましたよ。……尾行《つ》けて来なさるとは先刻承知、ナーニ実はわっち[#「わっち」に傍点]の方から、此処までご案内したんでさあ。此処はね、旦那、わっち[#「わっち」に傍点]に執っちやァ、住居でもあれば工場でもあり、隠家でもありやァ本陣でもあるんで。……が、一番似つかわし[#「つかわし」に傍点]いのは、矢張り工場という言葉でしょうね。まあご覧なせえ向うの部屋を」

 香具師はペラペラ喋舌《しゃべ》り立った。九兵衛はすっかり煙に巻かれ乍ら、隣の部屋へ眼を遣った。まさしく其処は工場であった。大工の道具一式が、整然として並べられてあった。そうして巨大な檜丸太が幾十本となく置いてあった。
 模型は其部屋で作るのらしい。が、それは可いとして、煙突のような黒い物と、壁から突き出た鉄棒とは、一体何ういう物なのだろう?
「城内の旦那のご入来だ。せめてお茶でも出さずばなるめえ」
 こう云い乍ら香具師は、天井から下っている一筋の糸を、グイと掴んで引っ張った。と、天井からスルスルと、茶器を載っけた丸盆が、身揺ぎもせず下りて来た。
「おおおお鉄瓶はどうしたえ。湯が無けりゃァ茶は呑めねえ」こう云い乍ら香具師は、もう一筋の糸を引いた。と、鉄瓶が下りて来た。
「男ばかりじゃァ面白くねえ。ひとつ別嬪を呼びやしょう」
 云い乍ら香具師は手を延ばし、背後の壁の一点へ触れた。と其処へ穴が開き、一人の女が現れ出た、全身がブルブル顫えていた。その歩き方も不自然であった。
「お花さんえ、さあお坐り」ポンと香具師は畳を打った。同時に女はベタリと坐った。その坐り方も不器用であった。
 そこで九兵衛は眼を据えて、じっと女を観察した。何んのことだ人間では無い。木で作った人形なのであった。
「お目見得は済んだ。帰ったり帰ったり。[#「。」はママ]」復もやポンと畳を打った。その拍子に立ち上り、女は壁の方へ辷って行った。そうして元の穴へ身を隠した。と音も無く壁が閉じた、糸筋ほどの継目も見えない。
「おっ、畜生! 来やがったな!」どうしたものか香具師は、俄に叫ぶと居住居を直し、煙突形の円筒へ、斜めに篏め込まれた鏡面をグッとばかりに睨み付けた。驚いた九兵衛も首を延ばし、これも鏡面を覗き込んだ。
 何が其処に写っていたか? 紫陽花色の月光が、鏡一杯に溢れていた。その中に一人の人間が、首を傾げ乍ら立っていた。それは戸外の光景であった。鏡に写った人物は、八十余りの老人で、胴服を着し、伊賀袴を穿き、夜目に燃えるような深紅の花を、一茎《ひとくき》右手に持っていた。
「気色の悪い爺く玉だ! 毎晩家の前に立ちやァがる」香具師は呻くように呟いた。「それにしても綺麗な花だなあ。見たことのねえ綺麗な花だ。焔が其尽凍ったような花だ。……おや、裏手へ廻りやァがる。へ、篦棒《べらぼう》! 負けるものか!」
 円筒に取手が付いていた。その取手をキリキリと廻わした。連れて円筒がグルリと廻った。家の裏手の光景が、鏡の面へ現れた。
 その老人は屋根を見上げ、何やら思案に耽っているらしい。と、そろそろと表へ廻った。そこで香具師は取手を廻わした。尚老人は考え込んでいた。
「どうも彼奴ァ俺の苦手だ。構うものか毒吐いてやれ」
 香具師はヒョイと手を延ばし、壁から突き出された鉄棒を握り、端に付いている漏斗形の口へ、自分の口を持って行った。
「おお爺さん、何をしているんだ。借家を探すんじゃァあるめえし、ためつすがめつ[#「ためつすがめつ」に傍点]人の家を毎晩毎晩何故見るんでえ。用があるなら這入って来な。用がねえなら帰るがいい。気にかかって仕方がねえや。それともお前は泥棒なのか。アッハハハ泥棒にしちゃあ少し年を取り過ぎていらあ。八十の熊坂って有るものじゃァねえ。なんの嘘をつけ[#「つけ」に傍点]熊坂なものか! 昼トンビの窃々《こそこそ》だろう! おっと不可ねえ晩だっけ、晩トンビなんてあるものじゃァねえ。どっちみち好かねえ爺く玉さね。帰ってくんな。帰れってんだ! それとも用でもあるのけえ。お合憎様ご来客だ。今夜は不可ねえ、出直して来な」
 すると戸外の老人の声が、空洞《うつろ》の鉄棒を伝わって、すぐ耳元で話すかのように、明瞭部屋の中へ聞えて来た。
「お若えの、お若えの……」変に気味の悪い声であった。
「糞でも喰らえ! 巫山戯《ふざけ》やがって! 四十の男をとらまえて、お若えのとは何事だ! 尤もお前よりは若えがな」
「花をやろう、珍らしい花だ」
「ままにしやがれ! 仏様じゃァねえ! 花を貰って何んにする」
「珍らしい花だ。眠花だ。唐土渡来の眠花だ」
「唐土渡来の眠花だって?」香具師はチラリと眼を顰《ひそ》めたが「折角だが用はねえ」
「お若えの、お若えの」老人の声は尚つづいた。「天主で聞える唸り声! 止すがいい、一人占めはな!」

「む」と香具師は息を詰めた。
 途端に写っていた鏡面の、老人の姿がフッと消えた。後には蒼茫たる月光ばかりが、鏡一杯に溢れていた。

 小林九兵衛の報告を聞くや、尾張中納言宗春は、ひどく香具師へ興味を持った。
 そこは豪放活達の彼で、香具師を城内へ召すことにした。使者の役は九兵衛であった。さぞ喜ぶかと思いの他、香具師は迷惑そうな顔をした。
「ご領主様のお召しとあっては、お断わりすることも出来ますめえ。だが条件がございます。先ず扮装は此儘の事。次に言葉も此儘のこと、どうも坐ると足が痛え、で、胡座《あぐら》を掻かせて下せえ。それから話は直答だ。これで可ければ参りやしょう」
 これには九兵衛も驚いて了った。一旦城へ引き返し、宗春侯の御意を訊いた。
「名人気質、却って面白い。かまわないから連れて参れ」
 そこで九兵衛はかしこまって[#「かしこまって」に傍点]、ふたたび香具師を訪れた。
「へえ然うですかえ、感心だなあ。流石はご三家の筆頭だ。どうもお心の広いことだ。ようがす、夫れじゃァ参りやしょう」有り合う布呂敷へ模型を包んだ。「こいつあ殿様へのお土産だ。喜んで下さるに違えねえ。只の模型じゃァ無えんだからな」ヨイショと背中へ引担いだ。駕籠へ乗れと進めても、いっかな香具師は乗ろうとしない。表門からは通せない裏門へ廻われと九兵衛が云うと、香具師は不機嫌な顔をした。
「不浄な人間じゃァあるめえし、なんで裏門から通るんですい。面倒臭えなあ俺は帰る」
 とうとうこんなことを云い出して了った。そこで玄関から上ることにした。広大華麗な城内の様子も、一向香具師には感じないと見え、平気でノシノシ歩いて行った。通された部屋は孔雀の間で、襖から欄間から衝立から、孔雀の絵模様で飾られていた。
 出て来たのは宗春であった。
「おお香具師か、よく参った」宗春は気軽に声を掛けた。[#「掛けた。」は底本では「掛けた」]「胡座を掻け、寛ぐがいい」そうして自分も胡座を掻いた。
「よいお天気でございます」香具師はペコンと辞儀をしたが「何かご用がござんすそうで?」
「うん」と云ったが宗春は、じっ[#「じっ」に傍点]と香具師へ眼を付けた。「お前の名は何というな?」
「へい、多兵衛と申します」
「おお模型かな、その包は?」
「へい、さようでございます」
「ひとつそいつ[#「そいつ」に傍点]を見せてくれ」
「ようがすとも、お見せしましょう。見せるつもりで持って来たんで」
 取り出したのは鳩の模型、畳へ置くと懐中から、一掴みの豆を取り出した。
「観音様の使者め。鳩が豆を拾います」云い乍ら颯と豆を蒔いた。と鳩がピョンピョン飛んで、後から後から豆を拾った。
「面白く無いな。子供瞞しだ。もっと面白い模型は無いか」
「ようがす、それじゃァ〈透視光〉だ」こう云い乍ら取り出したのは格恰の機械であった。まず形は長方形、内部は黒く塗られていた。一方の口は硝子張り、反対の口は板で張られ、中央に小さい穴があった。ところで外見からは解らなかったが、角筒の内部の一箇所に薄い板の仕切りがあり、その真中に鳥の羽根を張った、四角な穴が穿たれていた。
「唐土発明の透視光、一切人間の胎内が解る……おお九兵衛さん手をお出しな。……おっと宜しい夫れで結構。あっ、不可ねえ、障子を開けたり。お手をお日様に向けるんだ。……さて殿様ご覧なせえ。肉を透して骨が見える」
 そこで宗春は顔を差し出し、一方の穴から覗いて見た。いかさま九兵衛の指の肉が、ボッと左右に薄れて見え、骨が鮮かに認められた。
「さて此度は殿様の番だ」
 こういうと香具師は機械を持ち換え[#「持ち換え」は底本では「持ち換へ」]、宗春の胸へ硝子口を向けた。
「お心の中が解ります。善心があれば善心が見え、悪心があれば悪心が見える。もし夫れ謀叛心がある時は、その謀叛心が写って見える。好色の心は赤く見え、惨忍の心は黒く見える。これ即ち透視光の威力。どれ拝見いたしやしょう」
「無用だ!」と宗春は威丈高に叫んだ。それから侍臣を返り見た。
「これお前達は隣室へ立て!」
 バラバラと侍臣達は席を立った。
 と宗春は刀を取り、ブッツリ鯉口を指で切った。
 ジリジリと進んで睨み付けた。
「唐土渡来とは真赤な偽! これ貴様は邪教徒であろう! 白状致せ吉利支丹であろう!」

 香具師は微動さえしなかった。透視光の穴へ片眼をあて、じっと[#「じっと」に傍点]宗春を見詰めていた。
「アッハハハ駄目の皮だ。殿様の心が写って見える。お前さんにァ切る気はねえ。嚇すつもりだということが、ちゃあんと透視光に写っている。……え、なんですって、吉利支丹ですって? 冗談云っちゃァ不可ません。そんなものじゃァございませんよ。唐土渡来の建築術で。……ヘッヘッヘッヘッ切りましたね。プッツリ鯉口を切りましたね。そんな事にゃァ驚かねえ。余人は知らず此わっち[#「わっち」に傍点]にゃァ殿様の心は解っていやす。よしんばわっち[#「わっち」に傍点]に解らずとも、透視光の面に書いてある。大丈夫だよ、抜きゃァしねえ。……お止しなせえましそんな真似は。……が、待てよ、こいつァ不思議だ! 真黒の物が写って見える。おっ、こいつァ殿様の心だ! ううむ偖は殿様には。……アッハハハ心配無用必ず素破抜きゃァしませんからね。ははあ成程そうだったのか。そういう心があったので。それでわっち[#「わっち」に傍点]を嚇したんですね。大丈夫でげす大丈夫でげす。決して云いふらしゃァしませんよ。……尤もこいつ[#「こいつ」に傍点]を云いふらしたひにゃァ、日本国中大騒動だ。煙硝蔵が開かれる。鎧甲が櫃から出る。旗指物が空に舞う。矢弾がヒューヒュー空を飛ぶ。ワーッ、ワーッと鬨の声だ。江戸と名古屋と戦争だ! おっとドッコイ云い過ぎた! そこまで云うんじゃァ無かったっけ。……が。併しだねえ殿様、芝居は止めようじゃァございませんか。刀は鞘に納めた方がいい。お互いその方が安穏でげす。但しほんとにお切んなさるなら、わっち[#「わっち」に傍点]の方にも覚悟がある。やみやみ殺されはしませんよ。と云うのは此機械だ」
 透視光をポンと投げ出すと、布呂敷包へ手を掛けた。取り出したのは鉄製円筒、一本の管が付いていて、横手に捩が取り付けられてあった。
「即ち孔明水発火器! 捩を捻ると水が出る。が、只の水じゃァねえ。火となって燃える大変な水だあの赤壁の戦で、魏《ぎ》の曹操の水軍を焼討ちにしたのも、此機械だ! さあ切るなら切るがいい。切られた途端に捩を捻る。一瞬の間に大火事だ! 結構なお城も灰燼だ。お前さんだって黒焦げだ。家来方は云う迄もねえ、可愛いお神さんもお坊ちゃんも、無惨や無惨や白骨だ! さあ切るならお切りなせえ……考えて見りゃァ脆えものさ。人間なんていうものはね! 素晴らしいのは機械だよ! が、その機械は誰が作った? 同じ人間だから面白え。人間が考えて作った機械それが人間を殺すんだからな! そこらが矛盾というものだろう。一旦作られた其機械は、機械として精々と進歩する。そうして人間をやっつける[#「やっつける」に傍点]! [#「! 」は底本では「!」]だがそんな事ァどうでもいい。切るか切らねえか二道だ! おい大将、どうしてくれるんだよう!」
 ノサバリ返った態度には、大丈夫の魂が備わっていた。
 尾張中納言宗春は、じっと様子を見ていたが、莞爾と笑うと刀を置いた。
「これ香具師、もっと進め」
「へい」
 と恐れず進み出た。
「よく見抜いたな、俺の心を」
「それじゃァ矢っ張り江戸に対して?」
「が、先ず夫れは云わぬとしよう。……さて、そこで頼みがある。どうだ香具師、頼まれてくれぬか」
「わっち[#「わっち」に傍点]の力で出来ますなら?」
「お前の器量を見込んで頼むのだ。お前でなければ出来ない仕事だ」
「見込まれたとあっては男冥利、ようがす、ウントコサ頼まれましょう。……で、お頼みと仰有るは?」
「うむ、他でもない、城の縄張」
「ナール、城の縄張で」
 香具師は小首をかしげたが、
「どこへお築きでございますな?」
「どこへ築いたら可いと思う?」
「成程、こいつあ尤だ。そいつから考えるのが順当だ。……壁に耳あり、喋舌っちゃァ不可ねえ。こいつァひとつ掌《てのひら》でも書きやしょう」
「おお夫れがいい。では俺も」
 二人は掌へサラサラと書いた。
「よいか」
「ようがす」
「それ是だ」
 パッと掌を見せ合った。
 さながら符節を合わせたように、二人の掌には同じ文字が、五個鮮かに記されていた。
  居附づくり
 というのであった。

 爾来香具師は名古屋城内へ、自由に出入り出来ることになった。
 人を避けて二人だけで――即ち宗春と香具師とだけで、密談する日が多くなった。そうして度々宗春は、香具師と連れ立って城外へ出た。二人は彼方此方歩き廻わった。何うやら、地勢でも調べるらしい。
 時々酒宴を催した。いつも其席へ侍《はべ》るのは、他ならぬ愛妾お半の方であった。
 何んの理由とも解らなかったが、不安の気が城内へ漂った。家来達は心配した。併し誰一人諫めなかった。それは諫めても無駄だからであった。活達豪放の宗春には、家老といえども歯が立たなかった。宗春以上の人物は、家来の中には居なかった。米の生る木を知らぬというのが、大方の殿様の相場であった。ところが宗春は然うで無かった。極わめて世故に通じていた。うかうか諫言《かんげん》など為ようものなら、反対にとっちめられて[#「とっちめられて」に傍点]了うだろう。
 徳川宗家からの附家老、成瀬隼人正をはじめとし、竹越山城守、渡辺飛騨守、石河東市正、志水甲斐守、歴々年功の家来もあったが、傍観するより仕方なかった。
 それに諫言するにしても、これと云ってとっこに[#「とっこに」に傍点]取るような眼に余る行跡も無いのであった。「素性も知れぬ香具師などを、お側へお近付けなされぬよう」「女歌舞伎の[#「女歌舞伎の」は底本では「女歌舞枝の」]太夫などを、側室にお使いなされぬよう」――精々こんなようなことでも云って、諫言するより仕方なかった。だが三家の筆頭で六十二万石[#「六十二万石」はママ]の大々名が、どんな妾を抱えようと、香具師のようなお伽衆を、大奥へ入れて酒宴しようと構わないと云えば夫れまでであった。
「ご微行をお控え遊ばすよう」こう諫言をした所で「今に始まったことでは無い」と、一蹴されれば夫れまでであった。
「怪しい香具師を近付けられ、何をご密談でございますな?」――まさか家来の身分として、此処まで立ち入って訊くことは、遠慮しなければならなかった。
 傍観するより仕方がなかった。
 しかし何うにも不安であった。
 よりより家来達は相談した。
「香具師の素性を調べようではないか」「お半の方の素性にも、何んとなく怪しい節がある。これも調べる必要がある」「何をご密談なさるのか、それを立聞く必要がある」「何処へご微行なさるのか、これも突き止める必要がある」
 そこで家来達は手分けをし、専門に調べることにした。みんな結局徒労に終った。香具師の素性もお半の方の素性も、掻暮見当が付かなかった。微行毎に尾行を付けたが、何時も巧妙に巻かれて了った。密談立聞きに至っては、殆ど絶対に出来そうも無かった。広い座敷の真中に坐り、四方の襖を開け放しそこで小声で話すのであった。近寄ることさえ出来なかった。
 傍観するより仕方無かった。
 真相の不明ということは、物の恐怖を二倍にする。
 城内を罩《こ》めている不安の気持が、よくそれに宛嵌まった。
 で、家来達は次第々々に、神経質になって行った。
 搗てて加えて、天主閣では例の奇怪な唸き声が、此頃益々烈しくなった。
 こうして時が経って行った。
 だが其中家来達は、意外なことを知ることが出来た。お半の方と香具師とが、同じ穴の貉《むじな》では無く香具師としてはお半の方を憎みお半の方としては香具師を憎み、互に競って宗春公へ、中傷しているということであった。
 そうして是は事実であった。
 或夜寝所でお半の方は、宗春に向かってこんなことを云った。
「妾《わたし》を可愛いと覚し召したら、香具師をお退け下さいますよう」
「何故な?」と宗春は不思議そうに訊いた。
「これということもございませんが、何んだか妾にはあの男が、気味悪く思われてなりません。可く無いことが起こりましょう。どうぞお退け下さいまし」
 その翌日のことであった。香具師が宗春へこんなことを云った。
「婦人に御不自由もございますまい。あのご寵愛のお半の方だけは殿、お退けなさりませ」
「何故な?」と宗春は不思議そうに訊いた。
「これということもございませんが、何んだか俺《わたし》にはあの婦人が変に小気味悪く思われましてな、可く無いことが起こりましょう。殿お退けなさりませ」
 宗春に執っては可笑しかった。
「二人で寵を争っているな。アッハッハッハッ莫迦な話だ」
 で、歯牙にも懸けなかった。

一〇

 春が逝って初夏が来た。花菖蒲の咲く頃になった。庄内川には鮎が群れ、郊外の早苗田では乙女達が、※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]秧の業にいそしむようになった。
 間もなく五月雨の季節となった。
 屋敷町の中庭などに、カッと赤い柘榴の花が、こぼれるばかりに咲いているのが、暑い真夏を予想させた。
 やがて土用の季節となった。ムッチリと肥えた名古屋女が、白地の単衣に肉附を見せ、蚊遣の煙の立ち迷う、水縁などに端居する姿の、似つかわしい季節が訪れて来た。夕顔の花、水葵、芙蓉の花、木槿《むくげ》の花、百合の花が咲くようになった。
 そういう季節の或日のこと、香具師《やし》はフラリと家を出て、野の方へ散歩した。
 野には陽炎《かげろう》が立っていた。夏草が塵埃を冠っていた。小虫がパチパチと飛び翔けた。気持のよい微風が吹き過ぎた。ひどく気持のよい日であった。
 児玉を過ぎ、庄内村を通り、名塚を越すと土手であった。
 眼の下に広い川が流れていた。それは他ならぬ庄内川であった。川には橋がかかっていない。渡船《わたし》を渡らなければならなかった。で彼は渡船を渡った。
 もうこの辺は春日井の郡で、如何にも風景が田舎びていた。
 一宇の屋敷が立っていた。
「はてな?」
 と香具師は立止まった。「うむ」と彼は唸り出した。「これは素晴らしい屋敷だわい。四真相応大吉相の図説に、寸分隙無く叶っている。右に道路、左に小川、南に池、北に丘、艮《うしとら》の方角に槐樹のあるのは、悪気不浄を払うためらしい。青々とした竹林が、屋敷の四方を囲んでいるのは、子孫に豪傑を出す瑞象だ。正門の左右に橘を植えたは、五臓を養い寿命を延ばす、道家の教理に則ったものらしい……どれ、間取りを見てやろう」
 南方の丘へ上って行った。
 建物は幾棟かに別れていた。
 中央に在るのは主屋らしい。香具師は夫れから観察した。
「うん中の間が九六の間取だ。金生水の相生で、万福集川諸願成就繁昌息災を狙ったものらしい。つづいて五三の間取がある。家内安寧の間取というやつだ。うん夫れから三八の間取が、即ち貴人に寵せられ、青雲に登るというやつだ。ええと夫れから九八の間取、九は艮で金気を含み、八は坤《ひつじさる》で土性とあるから、和合の相を現している。主屋と離なれ別棟があり、白虎造りを為している。楡と※[#「木+危」、第4水準2-14-64]《くちなし》を植えたのは、火災を封じたものらしい。向き合った一棟が朱雀造りで、梅と棗を植えたのは、盗賊避けから来たものらしい。やや離れて玄武造り、杏と李を植えたのは、悪疫流行を恐れたものらしい。それと向かい合った一棟は、云わずと知れた青竜造りだ。桃と柳を植えたのは、狐狸の災いから遁れるためらしい。西北の隅に土蔵がある。しかも二棟並んでいる。辰巳の二戸前というやつだ。主人の威光益々加わり、眷族参集という瑞象だ。おやおやあれ[#「あれ」に傍点]は何だろう?」
 俄に香具師は眼を見張った。
 土蔵の横手に見たことも無い、変な建物があったからであった。屋根が陽を受けて光っていた。この時代に珍らしい硝子張りであった。屋根が硝子だということが、先ず香具師を驚かせた。建物は正しい長方形で、間口は凡一間半、それに反して奥行は、十間もあるように思われた。鰻の寝所とでも云い度いような、飛び離れた長い形であった。建物は青く塗られていた。
「驚いたなあ」と香具師は云った。「こんな建物は家相には無い。折角の瑞象をぶち壊している。一体どうしたというのだろう」
 万般が法則に叶っていて、それ一つだけが破格だけに、彼には不思議でならなかった。
「納屋で無し厩舎で無し、湯殿で無し離座敷でなし、どういう用のある建物だろう?」
 どう考えても解らなかった。
「不|躾《しつけ》乍ら訪問して見よう」
 彼はこう思って丘を下りた。表門は厳重に鎖されていた。しかし潜戸が開いていた。構わず内へ這入って行った。森閑として人気が無かった。可成り大きな屋敷だのに、人の姿の見えないというのは不思議と云えば不思議であった。玄関に立って案内を乞うた。
「ご免下さい。ご免下さい」
 どこからも返辞が来なかった。尚二三度呼んで見た。矢張り返辞は来なかった。香具師は些か当惑した。
「裏の方にでもいるのだろう」
 裏の方へ廻って行った。だが誰もいなかった。
 ひっそりとして寂しかった。
 近所に家は一軒も無かった。
 香具師は次第に大胆になった。例の奇形な建物の方へ、ズンズン足早に進んで行った。
 建物の戸口が開いていた。で彼は這入って行った。

一一

 一歩踏み入った香具師は「やっ」と云って眼を見張った。
 長方形の建物一杯、天上の虹でも落ちたかのように、紅白紫藍の草花が、爛漫と咲いていたからであった。
 建物は仕切られていなかった。端から端まで見通された。左右の壁に棚があり、それが階段を為していた。その上に大小無数の鉢がズラリと行儀よく並べられてあり、それが一つ一つ眼眩くような、妖艶な花を持っているのであった。
 部屋の恰度真中所に、一基の寝台が置いてあり、その上に老人が横臥っていた。八十歳あまりの老人で、身に胴服を纏っていた。手に煙管を持っていた。それは非常に長い煙管で、火盞が別して大きかった。
 香具師は老人をじっと見た。
「あっ」とばかりに仰天した。見覚えのある老人だからで。――
「おっ、お前か、爺く玉奴!」香具師は声を筒抜かせた。
「お若いの、よく見えた」老人は寝台から起き上った。「無作法な奴だ、爺く玉だなんて言葉を謹め、若造の癖に」こうは云ったが老人は、別に怒ってもいないようであった。
「驚いたなあ」と香具師は、部屋の中を見廻わした。
「何んだい一体この部屋は?」
「流石のお前にも解らないと見える。教えてやろうか、南蛮温室だ」
「え、何んだって、南蛮温室だって? で、一体何んにするものだ?」
「ごらんの通りだ、花が咲いている」
「そんな事は解っている」
「どうしてどうして解るものじゃあねえ。と云うのは花の種類よ。おいお若いの、先ずご覧、幾色の花があると思う」
「ふん」と香具師は憎くさげに「花作りじゃああるめえし、そんな事が何んで解る」
「三百種あるのだ、三百種」
「へえ、そんなにも有るのかい」香具師も鳥渡《ちょっと》驚いたらしい。「そんなに作って何んにするんだ」
「しかも普通の花じゃあ無い」老人は俄に真面目になった。「毒草だよ、毒草だよ」
「毒草※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
 と香具師は鸚鵡返した。少し顔が蒼白くなった。
「おいおいお若いの、何が恐ろしい。恐ろしいことは些少ない。毒草が厭なら云い換えよう、薬草だよ、薬草だよ」
「ははあ成程、薬草なのか」香具師は顔色を恢復した。
「おい、お若いの、あの花を見な」
 老人は一つの花を差した。五弁の藍色の花であった。
「何んだと思うな、この花を?」
「ふん、俺が何んで知る」
「亜剌比亜《あらびや》草よ、亜剌比亜草だ、絶対に日本には無い花だ。本草学にだって有りゃあしない。ところで此奴から薬が採れる。名付けて亜剌比亜麻尼と云う。一滴で人間の生命が取れる。殺人《ひとごろし》をすることが出来るのさ。……此奴は何うだ、知ってるかな?」
 一つの花を指差した。白色粗※[#「米+慥のつくり」、第3水準1-89-87]の四弁花であった。
「いいや、知らねえ、何んで知るものか」
「教えてやろう、虎白草だ。採れた薬を五滴飲ませると、間違い無しに発狂する。……扨《さて》、ところで此花は何うだ? 知っているかな、え、若いの?」
 黄色い花を指差した。
 香具師は黙って首を振った。
「教えてやろう、山猫豆だ。採れた薬を眼の中へ注ぐと一瞬にして潰れて了う。……此花は何うだ? 知ってるかな?」黒色の花を指差した。
 香具師は返辞をしなかった。
「知る筈が無いさ、知る筈が無いさ、本草学にだって無いんだからな。これは西班牙《いすぱにや》の連銭花だ。何んと美しい黒色では無いか。花弁に繊毛が生えている。が、決して障っては不可ない。障ったが最後肉が腐る。それはそれは恐ろしい花だ。……ところであの花を何んだと思う?」
 金黄色の花を指差した。
 香具師は返辞をしなかった。気味悪そうに見ただけであった。
「俗名惚草という奴だ。採った薬が惚れ薬だ。アッハッハッハッ洒落た花だろう。茶の中へ垂らして飲ませるのさ。間違い無く女が惚れる。お望みなら分けてやろう。……さて最後に此花だ。若いの、見覚えがあるだろうな?」
 深紅の花を指差した。
 焔が燃え乍ら凍ったような、凄い程紅い花であった。
 正しく香具師には見覚えがあった。
「唐土渡来の眠花!」
「然うだ」老人は気味悪く笑った。

一二

「然うだ」と老人は最う一度云った。「唐土渡来の眠花だ。二年生草本だ。茎の高さ四五尺に達し、その葉には柄が無い。葉序は互生、基部狭隘、辺縁に鋸歯《きょし》状の刻裂がある。四枚の花弁と四個の萼《がく》[#ルビの「がく」は底本では「かく」]、花冠は大きく花梗は長い。雄蕊は無数で雌蕊は一本、花弁散って殼果を残し、果は数室に分かれている室には無数の微細の種子が、白胡麻のように充ちている。これから採った薬液を、幻覚痳痺性眠剤と呼ぶ。その採り方がむずかしい」
 老人の説明は音楽のような、快い調子を持っていた。
「花落ちて三週間、果実の表面が白粉を帯びる。その時鋭い匕首を以て、果実へ三筋切傷を付ける。この呼吸が困難しい。まず一人が果実を支える。支え方もむずかしい。食指と中指の中間で、その最下端を支えなければならない。それから拇指《ぼし》で頭部を抑え、しずかに前方へ引き寄せる。右手の匕首をそろそろと宛て、果実の中腹へ傷を入れる。その入れ方にもコツがある。深さ二厘|乃至《ないし》三厘、一回に三条入れなければならない。夫れから数を百だけ呼ぶ。呼んだ時分に液が出る。ギヤマンの壺を夫れへ宛てる。竹篦で液を掬い取る。切り手と掬い手とは異わなければならない。即ち二人を要するのだ。普通一つの果実から、四回迄は採収出来る。第二回目の採収は一日後にやるがいい。三回目は二日後だ。四回目は三日後だ。午前十時から午後四時迄、液汁の分泌が特に多い。そうして曇天降雨の時には、更に一層分泌が多い。乾燥の時低温の時、分泌量が減少する。偖、次は製薬法だ。壺から竹の皮へ移さなければならない。これへ小量の種油を雑ぜる。二十五日間天日に干す。尚暖爐を用いてもいい。乾いた所で薬研へ入れる。そうして微塵に粉末にする。こうして出来上った薬品が、幻覚痳痺性眠剤だ」
 ひょい[#「ひょい」に傍点]と老人は立ち上った。
 寝台に添った卓《テーブル》があった。卓の上に手箱があった。それを老人は取り上げた。
「おい、お若いの、此処へ寝な。寝台の上へ寝るがいい、そうして此奴を喫うがいい」
 長い煙管を振って見せた。
「恐く無いよ。大丈夫だ、美しい夢が見られるのだ。華聟《はなむこ》の眠りという奴だ。味を知ったら忘れられまい。人生至極の幸福だ。肉身極楽へ行けるのだ。加陵頻迦《かりょうびんか》の[#「加陵頻迦《かりょうびんか》の」はママ]声がしよう。天津乙女が降りて来よう。竜宮城が現出しよう。現世の苦患が忘れられよう。忽然として花が降ろう。桜も降れば蓮華も降ろうさあ寝るがいい寝るがいい」
 併し香具師は動かなかった。気味悪そうに立っていた。
「ふふん」と老人は冷笑した。「おい、お若いの、怖いのか」
「莫迦を云え」と香具師は云った。「ただ俺には不思議なのだ」
「つまり、矢っ張り怖いんだろう」
「不思議と恐怖とは少し異う」
「解らないから不思議なのだ。不思議だから怖いのだ」
「よし」
 と香具師は寝台へ行った。
「では俺を解らせてくれ」彼はゴロリと寝台へ寝た。
「感心々々そうなくてはならない。勇気のある者は冒険する。一つの冒険は一つの智だ。知って了えば怖くはない。さあ煙管を取るがいい」
 香具師は老人から煙管を取った。老人は煙管へ薬を詰めた。それからそいつ[#「そいつ」に傍点]へ火を付けた。
 芳香が部屋へ漲《みなぎ》った。
 香具師は徐々に煙を喫った。
「厭な気持だ。嘔吐きそうだ」
「ナーニ、すぐに可くなるよ」
「厭な気持だ。変に苦しい」
「そいつあ何うも仕方が無い。その薬の性質だからな。第一多少の辛抱は要るよ。辛抱しないで楽をしよう。こいつあ少し気が可すぎる」
 その中だんだん香具師は、深い眠りへ入るようであった。
 と、ボタリと煙管を落とした。いよいよ睡眠に這入ったらしい。
 じっと老人は見詰めていた。忍び足をして部屋を出た。建物の戸へ錠を下ろした。
 それから屋敷を走り出た。
 野をドンドン横切った。
 香具師の住居の百姓家、その門口まで遣って来た。チラリと四辺を見廻わした。それから裏手へ廻って行った。
 裏口の戸も閉じていた。それへ障《さわ》ろうとはしなかった。彼は足踏をやり出した。地面を足でトントンと踏んだ。そうして音を聞き澄ました。腰を曲げて手を延ばした。地面の一所へ手を触れた。と、何かを握ったらしい。それをグイと持ち上げた。それは鉄の輪であった。ウーンと其輪を持ち上げた地面へポッカリと口が開いた。
 この時三日月が空へ出た。

一三

 老人は穴を覗き込んだ。恰度人一人這入れる程の、それは四角の穴であった。石の階段が出来ていた。階段と云っても、二三段しかない。
 老人は階段を下りて行った。下り切った所で、四方を見た。そこは家の床下であった。その床下を一杯に充し、巨大な何かが置いてあった。四辺が朦朧と薄暗いので、はっきり見ることは出来なかった。しかし夫れは動物では無かった。それは製造られた物であったとは云え夫れは動くものであった。生物で無くて動くもの? 一体何ういうものだろう?
 形はキッパリした長方形で、そうして其色は真黒であった。骨が縦横に突っ張っていた。そうして夫れは扁平であった。地面一杯に拡がっていた。
「思った通りだ」と老人は云った。「どれからくり[#「からくり」に傍点]を調べてやろう」
 老人はやおら腰をかがめた、突然床下が真暗になった。石階《いしばしご》のある出入口から、薄蒼く射していた戸外の夜色が、俄に此時消えたのであった。
「しまった!」と老人は声を上げた。石段の方へ走って行った。
 果たして口を閉ざされていた。
「ううむ」と呻かざるを得なかった。「それにしても不思議だなあ。こんなに早くあの香具師が、睡眠から覚めようとは思われないが、併しあの男以外に、こんな一軒屋へ遣って来て、秘密の出入口を閉じる者は、他にあろうとは思われない。ははあ偖は香具師奴、眠ったような様子をして、その実眠っていなかったのだな。後から尾行けて来たのだな。……さあ是から何うしたものだ。他に戸口は無いだろうか? いやいや他に戸口があっても、容易に目付かるものではあるまい。よしんば仮え目付かったにしても、あの悪党の香具師だ、内側から楽に開けられるような、そんなヘマはして置くまい。……計る計ると思ったが、その実俺の方が計られた哩《わい》」
 石段の下に佇み乍ら、老人は暫く思案に耽った。と其時、閉ざされた口が、そろそろと上へ持ち上った。一筋細目に隙が出来た。そうして其処から棒のような物が――いや匕首が突き出された。
「香具師さん、香具師さん、驚いたかい妾《わたし》だよ」
 女の声が聞えて来た。
「誰だか見当は付いているだろうね。お半だよ、お半の方さ」
「あっ」と老人は仰天した。「これは一体何うしたことだ。何、何んだって、お半の方だって? それじゃあ尾張様のご愛妾じゃないか」口の中で呟いた。
 追っかけて女の声がした。
「お前さんの苦手のお半の方さ。だがお前という人は、妾に執っても苦手なのさ。だから今夜遣って来たのさ。と、こんな所に口があって、ゴソゴソ床下で音がする。そこで口をふさいだ[#「ふさいだ」に傍点]のさ。ホ、ホ、ホ、ホ、可い気味だよ。鼠落しを掛けた奴が、自分でそいつ[#「そいつ」に傍点]へ落っこったんだからね。ジタバタしたって最う駄目だよ。それとも無理に出るつもりなら、匕首を土手っ腹へお見舞いするよ」
「まあお待ち」と老人は云った。「私はそんな香具師じゃあ無い。人違いだよ人違いだよ」
「馬鹿をお云いな、何を云うんだ。そんな老人の作り声をしてさ。そんな手に乗るものか」
「いや本当だ、そんな者ではない。私は赤の他人なのだ。まあ其処から出しておくれ。出た上でゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]相談しよう。旨い話なら乗ってもいい。兎に角外へ出してくれ」
「まあ是で安心したよ」女の声は嬉しそうであった。「実はね、妾は心配だったのさ。大悪党のお前さんの事だ。家にも色々からくり[#「からくり」に傍点]があろう。この口一つふさいだ[#「ふさいだ」に傍点]所で、妾の知らない他の口から、ヒョッコリ出て来ないものでもないとね。ところがお前さんの言葉つきで推すと、そんな心配は入らなそうだね。他に出口が無いと見えて出してくれ出してくれって云ってるじゃあないか。嬉しいねえ。是で安心したよ。殺すも活かすも此方のままさ。そこで掛合いも楽ってものさ。案外、お前さん凡倉だねえ」
「ううん」と老人は唸って了った。「驚いたなあ大変な女だ。とまれ愛妾のお半の方と、香具師とは関係があるらしい。どんな関係だか知らないが、俺を香具師だと信じているらしい。よしよし其奴を利用して、二人の関係を聞き出してやろう」そこで老人はこう云った。
「いや私は香具師では無い。だが香具師だと思うのなら、香具師になってやってもいい。どんな掛合いだか云ってごらん」
「そろそろ本音を吐き出したね。だが作り声は気に食わないねえ。まあそんな[#「そんな」に傍点]ことは何うでもいい。では掛合いにかかろうかね」女の声は改まった。「真先に妾は訊きたいのさ。ああ、お前さんの本当の素性を」
 老人は返辞をしなかった。

一四

「おやおや香具師さん黙っているのね。さては云うのが厭なのだね厭なものなら無理には聞かない。では此奴は引っ込まそうよ。その代り妾の素性だって、お前さんへは話さないからね。……お次はいよいよ本問題だ。ねえお前さん何んと思って、お前さんは尾張様へ取り入ったんだい?」
 だが矢張り老人は返辞をせずに黙っていた。すると女は笑声を上げた。
「おやおや復もや無言の行だ。こいつも云うのが厭だと見える。だがね、お前さん、妾にはね、そのお前さんの目的がちゃあんと解っているのだよ。嘘だと思うなら云ってあげようか? そうだ遠廻わしに云ってあげよう。あんまりむき出しに云われたらお前さんだって可い気持はしまい。……お前さん天主閣へ上りたいんだろう? 決して人を上らせない、天主閣の頂上へさ。ホ、ホ、ホ、ホ、お手の筋だろうねえ」
 女の声は暫く絶えた。
「さて」と女の声がした。「安心おしなさいよ邪魔はしないから。お前さんの出ようさえ気に入ったら妾の方から助けてもあげよう。そうさお殿様へ口添えして、上ることの出来るようにしてあげよう。だが只じゃあ真平だよ。物事には報酬がある。そいつを妾は貰い度いのさ。つまり換っこという訳さ。ねえ、お前さん何うだろう?」
「さあ」と老人はくすぐった[#「くすぐった」に傍点]そうに「私に出来ることならね」
「そりゃあ出来るとも、お手の物なのさ」
「で、一体どんなことかな?」
「妾は人一人殺し度いのさ」
「ほほう」と老人は驚いたように云った。
「私に手助けでもしろって云うのか?」
「まあね、そうだよ、間接にはね」
「どんなことをすれば可いのかい?」
「機械を一つ造っておくれな」
「何、機械? どんな機械だ?」
「人を殺す機械だあね」
「匕首《あいくち》で土手っ腹を刳るがいいやな」
「そうしたら人に知れるじゃあないか」
「それじゃあ殺しても、殺したということの解らないような、そういう機械が欲しいのだな?」
「金的だよ、大中り」女の笑う声がした。「お前さんには出来る筈だ。人の心を見抜く機械、それを造ったお前さんじゃないか」
 老人は暫く考えていた。
「だがな」と老人は軈て云った。「機械よりも薬の方がいい」
「毒薬なら痕跡を残すだろうに」
「残らないような薬もある」
「ああ然うかい、それは有難いねえ。妾ァどっちでもいいのだ。では其薬を妾にお呉んな」
「今は無い、二三日待て」
「ああ待つとも待ってあげよう。お前も随分の悪党だ。妾だって是れでお姫様じゃあ無い。悪党同志の約束だ。冥利に外れたこともしまい。では二三日待つことにしよう。……では妾は帰って行くよ」
 出入口の蓋が退けられた。女の立ち去る気勢がした。老人は注意して床下を出た。表の方へ行って見た。一丁の駕籠が走っていた。
 老人は再び裏へ廻り、出入口の蓋をした。それから三日月を肩に負い、自分の屋敷へ引っ返して行った。

 南蛮温室の寝台の上で、尚香具師は眠っていた。
 と、ノロノロと身を蜒《うね》らした。軈て幽に眼を開いた。一つ大きな欠伸をした。
「ああ素晴らしい夢を見た。……だが何うも体が怠い」寝台の上へ起き上った。
「お若いの、どうだった?」その時側で人声がした。そこに老人が立っていた。気味悪くニヤニヤ笑っていた。
「おお老人、其処にいたのか。全くお前さんの云う通り、この眠剤は素晴らしいね。俺はすっかり驚いて了った」
「音楽の音が聞えたろう」
「おお聞えたとも、聞えたとも、何んと云ったら可かろうなあ、迚《とて》も言葉では云い現せねえ」
「美しい景色が見えたろう」
「天国と極楽と竜宮とを、一緒にしたような景色だった。……だが何うも体が怠い」
「そいつあ何うも仕方がねえ。この眠剤の性質だからな」
「俺は動くのが厭になった」
「アッハッハッハッ然うだろうて。そいつも眠剤の性質だ」
「俺は働くのが厭になった」
「アッハッハッハッ然うだろうて。そいつも眠剤の性質だ」
「俺は動かず働かず、眠剤ばかりを飲んでいたい」
「いと易いことだ、持って行きねえ。沢山眠剤を持って行きねえ。伝手《ついで》に吹管を持って行きねえ。そうだ二三本持って行きねえ」
「や、そいつあ有難え。では、遠慮無く貰って行こう」
「いいともいいともさあ持ってけ」

一五

 老人は二本の吹管と、箱に詰めた眠剤とを取り出して来た。
「ところで」と老人は笑い乍ら云った「お前、尾張様へ取り入っているそうだな」
「うん」と云ったが渋面を作った。
「どうやらお愛妾お半の方と、仲が悪いということだが」
「そんなこと迄知ってるのか?」
「そこはお前蛇の道は蛇だ。そんな事ぐらい解っているよ」
「へえ然うかい、驚いたなあ」香具師は不快な顔をした。「だが一体お前さんは、どういう素性の人間なんだい?」
「そいつあお互云わねえ方がいい。その中自然と解るだろうよ」
「兎に角只の鼠じゃあねえな」
「ナーニ案外白鼠かもしれねえ」
「どう致しまして、大悪党だろう」
「お前こそ何ういう人間なんだい?」老人はヘラヘラ笑い乍ら訊いた。
「お前が云えば俺も云うよ」
「まあまあ夫れは此次にしよう。お互浅黄の頭巾を脱ぐと、気不味いことが起るかもしれねえ。……それは然うとお半の方だが、お前に何か目算があるなら、仲宜くした方が宜かろうぜ。女子と小人は養い難し、その辺から綻びが出来るかもしれねえ」
「ご忠告か、有難えなあ」俄に香具師は苦笑した。
「悪いことは云わねえ。機嫌を取って置きな。それには眠剤が一番いい。吹管を付けて献上して見るさ」
「うん、可いかもしれねえなあ」香具師は鳥渡頷いた。
「ではお別れとやらかそうぜ」
「おお大分遅くなった。では俺等は帰るとしよう。左様ならばご老体」
「もうお帰りか、復の逢う瀬」
「アッハッハッハッ芝居がかりだ。だが爺さんじゃあ色気がねえ」
「何んだ何んだ物を貰って、小言を云う奴があるものか」
「そこらが悪党と云うものさ」香具師は温室を出て行った。「じゃあ爺さん復来るぜ」
 老人は返辞をしなかった。
 香具師はスタスタと行って了った。
「やれやれ」と老人は呟き乍ら、寝台へトンと腰を下ろした。「俺の大役も済んだらしい」
 ヒョイと頭へ手をやった。と、白髪の鬘が取れた。その手で顔をツルリと撫でた。と、若々しい顔になった。
 三十前後の壮漢が、老人の殼から抜けて出た。

 その翌日のことであった。
 香具師はお城へ出かけて行った。
「おお香具師か、よく参った」尾張宗春は愛想よく云った。
「さて殿様」と香具師は、気恥しそうに小鬢を掻いた。「ええご愛妾お半の方様へ、献上物を致し度いので」
「ほほう」と宗春は呆れたように「これは不思議だ、どうしたことだ、お前とお半は仲悪ではないか?」
「はい左様でございます。で仲宜く致したいので」
「おお然うか、それは結構。同じ俺に仕えている者が、仲が悪くては気持が悪い。仲宜くしたいとは宜く云った。よしよしお半を呼ぶことにしよう。……これよ、誰かお半を呼べ」
 間も無くお半の方が来た。
「これはこれはお半の方様、ご機嫌よろしうございます」ニタニタ香具師は世辞笑いをした。
「これこれお半、香具師がな、お前に何か呉れるそうだ。それを機会に仲宜くするよう」
「まあまあ左様でございますか。この妾への下され物、さあ何んでございましょう」お半の方は柔かく笑った。
「はいはいこれでございます」
 壺と吹管とを取り出した。
「唐土渡来の幻覚眠剤、この吹管へ詰めまして、寝乍ら一服喫いますと、何とも云えない美しい夢を見つづけるのでございます」
「これはこれは不思議な薬、ほんとに可い物を下さいました」お半の方の涼しい眼が、この瞬間キラキラと光った。
「香具師、そいつは本当かな」宗春は如何にも興ありそうに「本当にそんな夢を見るのかい?」
「何んの偽り申しましょう。極楽の夢、お伽噺の夢、珊瑚の夢、琥珀の夢、はいはい見えるのでございますとも」
「俺も一服喫って見たいものだ」
「では今晩めしあがりませ」お半の方は意味ありそうに云った。

一六

「ねえ殿様」とお半の方は、溶けるような媚を作り「いろいろ珍らしい機械だの、眠剤などを戴いた上は、何か此方からも香具師殿へ差し上げなければなりますまい」
「うん、いい所へ気が付いた。お前何か欲しいものは無いか」
「はいはい有難う存じます。さあ只今は是と申して……」
「ふうん無いのか、慾の無い奴だな」
「おお殿様、こうなさりませ」お半の方が口を出した。「物慾の無い香具師殿、物を遣っても喜びますまい。それよりご禁制の天主閣の頂上へ上るのをお許しになり」
「これこれお半、それは不可ない」宗春は鳥渡驚いたらしく「家来共が苦情を云おう」
「ホッホッホッホッ」とお半は笑った。「六十五万石のお殿様が、家来にご遠慮遊ばすので」
「莫迦を云え」と厭な顔をした。「何んの家来に遠慮するものか」
「ではお礼として香具師殿を、天主閣へお上《のぼ》せなさりませ」
「香具師、お前は何う思うな?」
「これは結構でございますなあ。あの高いお天主へ上り、名古屋の城下を眺めましたら、さぞ可い気持でございましょう」香具師の眼はギロリと光った。
「うん望みなら上らせてやろう。よし家来共が何を云おうと、一睨みしたら形が付く」
「はいはい左様でございますとも」お半の方はニンヤリと笑った。「香具師殿。お礼でございます」
「お半の方様ありがたいことで」
 こう香具師は嬉しそうに云ったが、腹の中では不思議であった。
「ははあ余っぽど眠剤が、気に入ったものと思われる。成程なあ、あの老人流石に可い事を教えてくれた。こう覿《てき》面にあの薬が、利目があろうとは思わなかった。兎まれ天主閣へ上れるなら、こんな有難え事はねえ。いよいよ大願成就かな」

 大須観音境内は、江戸で云えば浅草であった。
 その附近に若松屋という、二流所の商人宿があった。
 久しい以前から其宿に、江戸の客が二人泊っていた。帳場の主人や番頭は多年の経験から二人の客を、怪しいと睨んでいた。
「どうも商人とは思われないね」
「と云って職人では勿論無し」
「そうして、二人は、友達だと云うが、そんなようにも見えないね」
「あれは主従に相違ありません」
「主人と思われる一人の方は、お大名様のように何となく威厳があるね」
「いや全く恐ろしいような威厳で」
「二人とも立派なお武士《さむらい》さんらしい」
「ひょっとかすると水戸様の、ご微行かなんかじゃあ有りますまいかな。それ一人は光圀様で、もう一人が朝比奈弥太郎」
「莫迦をお云いな、何を云うのだ。水戸黄門光圀様なら、とうの昔にお逝去れだ」
「あっ、成程、時代が違う」
「それは然うと今日はやって来ないね、いつも遣って来る変な老人は」
「そうです今日は来ないようです」
「あれも気味の悪い老人だね」
「年から云えば八十にもなろうか、それでいて酷くピンシャンしています」
「あの人の方が光圀様のようだ」
 これが帳場での噂であった。
 或日元気の可い三十がらみ[#「がらみ」に傍点]の、商人風の男が、ひょこりと店先へ立った。
「鳥渡お訊ね致します」
「へえへえ何んでございますかね」
「お家に江戸のお客様が、お二人泊って居られましょうね?」
「へえ、お泊りでございます」
「私は江戸の小間物屋で、喜助と申す者でございますが、鳥渡お二人様にお目にかかりたいんだ」
「鳥渡お待ちを」
 と云いすてて、番頭は奥の方へ小走って行った。
 と、すぐに引っ返して来た。
「お目にかかるそうでございます」
「ご免下さい」
 と男は上った。
 後を見送った帳場の主人は、首を捻ったものである。
「どうも此奴も小間物屋じゃあねえ」
 そこへ番頭が帰って来た。
「今のお客様を何う思うね?」
「さあ」番頭も首を捻った。「矢っ張り何うもお武士さんのようで」
「私は何んだか気味が悪くなったよ」
 主人は眼尻へ皺を寄せた。

一七

「私は何んだか気味が悪くなったよ」
 若松屋の主人仁右衛門は、もう一度如何にも気味悪そうに云った。「ねえ番頭さん、奥へ行って、お話のご様子を立ち聞きしておいでよ」
「へえ、お客様のお話をね」気の進まない様子であった。「失礼にあたりはしませんかね」
「そりゃあ解ったら失礼にあたるさ。解らないように立ち聞くのさ」
「あんまり可い役じゃございませんな」
 番頭嘉一は不精無精に、足音を盗んで奥へ行った。
 此処は奥の部屋であった。
 三人が小声で話していた。
「吉田三五郎、どうであった?」
 こう云ったのは四十がらみの男、一つか二つ若いかも知れない。商人風につくって[#「つくって」に傍点]はいるが、商人などとは思われない程、立派な風采の持主であった。
「殿、旨く参りました」
 小間物屋喜助と宣って来た、三十がらみの若者が云った。「例の香具師を利用して、阿片をお城へ持たせてやりました」
「うむ然うか、それは可かった」殿と呼ばれる四十がらみの男は、微妙な薄笑いを浮かべたが、
「さて其例の香具師だが、雲切仁左衛門に相違無いかな?」
「どうやらそんな[#「そんな」に傍点]ように思われます」
「で天主閣の唸き声は?」
「あれは滑稽でございました。大凧だったのでございます」
「そんな事だろうと思っていたよ」殿と呼ばれる四十男は、復も微妙に薄笑いをした。
「おそらく其凧で空へ上り、鯱鉾を盗ろうとしたのだろう」
「そんなようでございます。轆轤《ろくろ》仕掛の大凧で、随分精巧に出来て居ました」
「香具師も香具師だが尾張様には、随分乱行をなさるようだな」
「お半の方という側室を愛され、他愛が無いようでございます」
「うむ、他からもそんな[#「そんな」に傍点]事を聞いた」
「さて其側室のお半の方、容易ならぬ悪事を企んで居ります」
「ほほう然うか、どんな悪事だな?」
「はい殺人でございます」
「で、誰を殺そうとするのか?」
「はい、まだ、そこ迄は探って居りません」
「ああ然うか、それは残念、ひとつ其奴を探ってくれ」
「かしこまりましてございます」
「それは然うと御金蔵には、多額の黄金が有るそうだな?」
 殿と呼ばれる四十男は、此処でキラキラと眼を光らせた。
「御三家筆頭の尾張様、唸る程黄金はございましょう」
 三十がらみの男が云った。
「それが何うも可くないのだ。狂人に刄物という奴さ、不祥のことだが尾張様に、ご謀叛のお心などあった時、多額の軍用資金の貯えがあると、ちと事がむずかしくなる」
「ご尤もにございます」今迄じっと[#「じっと」に傍点]黙っていた三十四五の一人の男が、愁わしそうに合槌を打った。
「全く狂人に刄物だからな」四十男は繰り返した。
「将軍家も夫れをご心配になり、隠密として此俺を、こっそり名古屋へ入り込ませたのだが」
「如何でございましょう御金蔵の中を、何んとかしてお調べ遊ばしては?」
 三十四、五の一人が云った。
「だが是は不可能だよ。俺は江戸の町奉行、江戸のことなら何うともなるが、此土地では何うも手も足も出せない」
「大岡越前守忠相と宣られ、ご機嫌をお伺いにご登城なされ、伝手にご金蔵をお調べになっては?」
「吉田三五郎、白石治右衛門、二人の股肱《ここう》を引き連れて、名古屋へこっそり[#「こっそり」に傍点]這入り込み、二流所の旅籠へ宿り、滞在していたとお聞になっては、尾張様にも快く思われまい」
「では何うして御金蔵の中を?」
 三十四、五の一人物――即ち白石治右衛門が訊いた。
「まずゆっくり滞在し、機会を待つより仕方あるまい」
 この時人の気勢がした。
 廊下に誰かいるらしい。
 辷るように歩く足音がした。
「殿、何者か、私達の話を、立ち聞きしたようでございます」
 吉田三五郎は不安そうに云った。
「うむ」
 と云ったが越前守は、気に掛けない様子であった。

一八

「旦那、大変でございますよ」
 番頭の顔は蒼褪めていた。
「何んだい番頭さん大仰な」主人の仁右衛門は怪訝そうに訊いた。
「旦那、何んだじゃありませんよ。三人の江戸のお客様、大変な人達でございますよ」
「それじゃあ何かい兇状持かい?」
「飛んでもないことで、大岡様ですよ」此処で番頭は呼吸を継いだ。「大岡越前守様のご一行で」
 そこで番頭は立聞をした、三人の話を物語った。
 主人の仁右衛門は腕を組んだ。
「これはうっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]は置けないね。町役人迄届けて置こう」
「それが宜敷うございます」
 そこで仁右衛門は家を出た。
 仁右衛門の話を耳にすると、町役人は仰天した。
 そこで上役に言上した。上役から奉行へ伝言した。奉行から家老へ伝言した。
 成瀬隼人正、竹腰山城守、石河佐渡守、志水甲斐守、渡辺飛騨守の年寄衆は、額を集めて相談した。
「これは何うも大事件だ。江戸の町奉行が隠密となり、直々他領へ入り込むとは、曾て前例の無いことだ。これが普通の隠密なら、捕えて殺して了えば可いが、大岡越前守とあって見れば、そういう乱暴な手段も執れない。若松屋の番頭の立聞きに由れば、殿に謀叛の疑いがあり、御金蔵に貯えた黄金の額を主として調べに来たのだというから御金蔵の黄金を他所へ移しそれから逆に使者を遣わし、越前守を城中へ召し、夫れとなく御金蔵の内を見せ、安心させるのが可いだろう」
 年寄の意見は斯う決まって主君《との》へ言上することにした。
 この日宗春は奥御殿で、快い眠りに耽っていた。
 その傍にお半がいた。これも矢張り眠っていた。
 薄煙が部屋に立ち迷っていた。
 四辺に散らしてあるものは、眠薬の壺と吹管であった。部屋には最う一人人がいた。それは他ならぬ香具師であった。お伽衆だという所で、自由に奥御殿へ出入ることが出来た。彼一人だけ眼覚めていた。二人の寝姿を真面目に見守り、膝に手を置いて考えていた。
 襖の向うから声がした。
「お半の方様、お半の方様」取締りの老女の声であった。
「お半の方様はお休みで」こう香具師が代って答えた。
「おお、貴郎は香具師殿か。殿様はお居ででございましょうか?」
「へえへえお居ででございます。が、矢っ張りお休みで」
「直ぐにお起し下さいますよう」
「仲々お眼覚めなさいますまい」香具師は鳥渡嘲笑うように云った。
「よい夢の真最中一刻ぐらいは覚めますまい」
「それは何うも困りましたね。成瀬様が何事か急々に、言上致したいとか申しまして、只今おいででございます」
「成瀬様であろうと竹腰様であろうと、この夢ばかりは破れますまい。お待ちなさるようお伝え下され」此処で香具師はヘラヘラ笑った。

「が、それにしてもお前様は、どうしてそんな[#「そんな」に傍点]御寝所などで、何をしておいででございますな」老女の声は咎めるようであった。
「へえへえ私でございますかね、琥珀の夢、珊瑚の夢、極楽の夢、天国の夢、そういう夢の指南番、それを致して居りますので」
「何を莫迦な」と一言残し、老女の足音は向うへ消えた。香具師はペロリと舌を出した。
「これで仲々馬鹿でねえ奴さ」
 二人の夢は覚めなかった。二度ばかり老女が聞きに来た。
「お気の毒さま。まだお寝んね」こう云って香具師は追い返した。
 夕方二人は眼を覚ました。
「ああ綺麗な夢だった」だる[#「だる」に傍点]そうに宗春がこう云った。
「眠剤の功徳でございます」さも得意そうに香具師は云った。
「俺はお前へ礼を云うよ。全く此奴は可い薬だ。だが併し覚めた後は、ひどく万事が物憂くなる」
「可い後は悪いもので」こう香具師は笑い乍ら云った。「両方可いことはございません」
「政治を執るのが厭になった。眠剤ばかり喫んでいたい」
「大変結構でございます。御大名方と申す者は、決して決して御自分で、ご政治など執るものではございません」変に香具師は真面目に云った。「〈居附造りの築城〉もお止めなさるが可うございます」「そうさな」と宗春はだるそうに「〈居附造り〉と眠剤と、どっちを取るかと訊かれたら、俺は眠剤を取るだろう」

一九

 そこへ老女が遣って来た。
「ナニ、成瀬が会いたいというのか。また、諫言かな、うるさい[#「うるさい」に傍点]事だ。会えないと云って断わって了え」
 こう云ったものの立ち上った。
「あの渋っ面の成瀬奴に、ひとつ眠剤を喫ませてやろう」
 手頼りない足どりで部屋を出た。
 お半の方は考えていた。意外だというような顔付であった。囁くように香具師へ訊いた。
「これは毒薬では無いのかい?」
「滅相も無い」と香具師は云った。「唐土渡来の眠剤で」
「でも妾の頼んだのは、後に痕跡の残らない、毒薬の筈じゃあ無かったかい」
「何を仰有るやら、お半の方様」香具師は寧ろ唖然とした。「頼まれた覚えはございませんねえ」
「お止しよお止しよ、空っとぼける[#「とぼける」に傍点]のはね」お半の方は眉を上げた。「部屋にはお前と妾とだけ、聞いている人は無いじゃあないか。……あの時の約束は何うしたんだよ」
「どうも私にゃ、解りませんねえ」いよいよ香具師は驚いたらしい。「一体全体何時何処で、どんな約束を致しましたので?」
「ふん」と如何にも憎さげに、お半の方は鼻を鳴らした。「大悪党にも似合わない、飛んだお前は小心者だね。……だが然う白を切り出したら、突っ込んで行っても無駄だろう。では、あの話はあれだけにしよう。……それでは愈々この薬は、毒薬では無くて眠剤だね」
「毒薬で無い証拠には、殿様も貴女も其通り、娑婆にいるじゃあございませんか」
「成程ねえ、それは然うさ」お半の方はうっとり[#「うっとり」に傍点]とした「妾は綺麗な夢を見た。でも妾は思ったのさあれは決して夢では無くて、極楽浄土に相違無いとね」
「鳥渡お訊ね致しますがね」香具師は探ぐるように云い出した「ほんとに貴女様は眠剤を、毒だと思っていらしったので」
「あたりまえだよ。何を云うのさ」
「では何うして貴女様自身、毒をお飲みでございましたな?」
「ああ夫れはね」とお半の方は、物でも咽喉へつかえ[#「つかえ」に傍点]たように「一緒に死のうと思ったのさ」
「へえ、一緒に? 何人様と?」
「馬鹿だねえ、お前さんは!」叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]するように嘲笑った。「誰と一緒に毒を喫んだか、お前さんには解らないのかい?」
「解って居りますよ。御殿様と……」
「それじゃあ夫れで可いじゃあないか」
「ふうん」と香具師は腕を組んだ。
 お半の方は咽ぶように云った。
「恨みは恨み、恋は恋、妾に執ってはお殿様は、離れられないお方なのさ」
 お半の方は項垂れた。
「……いよいよ毒薬で無いとすれば、別の手段を考えなければならない」これは心中で呟いたのであった。
 そこへ宗春が帰って来た。何となく勝れない顔色であった。ムズと坐って考え込んだ。
「殿様、何か心配のことでも?」こう軟かく香具師は訊いた。
「うん」宗春は顎を杓った。「江戸の吉宗奴が俺を疑い、町奉行の大岡越前奴を、隠密として入り込ませたそうだ」
「あっ!」と香具師はのけぞった[#「のけぞった」に傍点]。「ひええ。大岡越前守様が※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」彼の顔色は一変した。「で、殿様のご対策は?」
「逆手を使って越前奴を、今夜城中へ招くことにした」
 宗春は不意に立ち上った「香具師来い! お半も参れ! 約束の天主閣を見せてやろう。……気が結ばれてムシャムシャする。天主へ上って気を晴らそう。高きに上って低きを見る。可い気持だ、さあさあ来い!」
 荒々しく宗春は部屋を出た。
 二人は後へ従った。
 御殿から出ると後苑であった[#「後苑であった」は底本では「後宛であった」]。西北に小天守が立っていた。小天守の中へ這入って行った。東に進むと廻廊があった。それを真北へ進んで行った。その行き止まりに天主閣があった。入口に固めの番士がいた。宗春を見ると平伏した。尻眼にかけて三人は進んだ。
 這入った所が初重であった。南北桁行十七間、東西梁行十五間、床から天井まで一丈二尺、腰に三角の隠し狭間、無数の長持が置いてあった。網龕燈が灯っていた。仄々と四辺が煙って見えた。
 三人は階段を上って行った。
 やがて三人は二重へ這入った。桁梁は初重と同じであった。天井まで一丈三尺。
 網龕燈が灯っていた。
 やがて三人は三重へ上った。南北桁行十三間、東西梁行十一間、高さ二丈四尺あった。
 四重へ上り五重へ上った。
 五重が天主閣の頂上であった。

二〇

 桁行七間梁六間、天井までは一丈三尺、東西南北四方の壁に、二十四の狭間が穿たれてあった。
 夕陽が狭間から射し込んでいた。
 南面中央の狭間から、宗春は城下を見下ろした。お濠の水は燃えていた。七軒町、長者町、商家がベッタリ並んでいた。屋根の甍《いらか》が輝いていた。若宮あたりの寺々も、夕陽に燃えて明るかった。歩いている人が蟻のように見えた。
 六十五万石の城下であった。広く豊かに拡がっていた。
 宗春は何時迄も眺めていた。
「江戸に比べると小さなものだ」突然呻くように宗春は云った。「あわよくば将軍にも成れた俺だ。俺に執っては狭すぎる」突然宗春は哄笑した。「ワッハハハハ、六十五万石が何んだ、三家の筆頭が何うしたのだ! 貰い手があったら呉れてやろう。ふん何んの惜しいものか! それを何んぞや吉宗奴隠密を入れて窺うとは! 隠居させるならさせるがいい。秩禄没収それも可かろう。そうしたら俺は坊主になる。が決して経は読まぬ。眠剤ばかり喫んでやる」
 この時香具師はソロソロと北面の狭間へ寄って行った。音を盗んだ擦足であった。閉ざされた狭間戸へ手を掛けた。一寸二寸と引き開けた。
 お半の方は佇んでいた。右手を懐中へ差し入れた。何かしっかり[#「しっかり」に傍点]握ったらしい。眼は宗春を見詰めていた。頸の一所を見詰めていた。足音を盗みジリジリと、宗春の背後へ近寄った。と懐中から柄頭が覗いた。それは懐剣の柄頭であった。
 香具師は狭間戸を二尺ほど開けた。
 と体を飜えしポンと閣外《そと》へ飛び出した。閣外から狭間戸が閉ざされた。
 宗春もお半も気が付かなかった。
 宗春は城下を見下ろしていた。
 お半の方は忍び寄った。スルリと懐剣を引き抜いた。それをソロソロと振り冠った。ピッタリと宗春へ寄り添った。
「お半」
 と其時宗春が云った。悩ましいような声であった。
「俺の身に、いかなる変事があろうとも、お前だけは俺を見棄てまいな」
 お半の方は一歩退った。ダラリと右の手を下へ垂れた。
 尚城下を見下ろし乍ら、宗春は悩ましく云い続けた。
「お前と、眠剤とこれさえ有ったら、俺は他には何んにも不用《いら》ない」
 お半の方は懐剣を落とした。床に中たって音を立てた。
 はじめて宗春は振返った。
 お半の方は首垂れた。その足下に懐剣があった。お半の方はくず[#「くず」に傍点]折れた。宗春には訳が解らなかった。お半の方と懐剣とを、茫然として見比べた。
 長い両袖を床へ重ね、お半の方は額を宛てた。肩が細かく刻まれるのは、忍び泣いている証拠であった。
 お半の方は顔を上げた。懐剣を取って差し出した。
「お手討ちになされて下さいまし」
 お半の方は咽び乍ら云った。
「何故な?」
 と宗春は不思議そうに訊いた。
「その懐剣は何うしたのだ?」
「はい、是でお殿様を……」
「ははあ俺を刺そうとしたのか?」
「……その代り妾もお後を追い……」
「うむ、心中というやつだな」
「……お弑《しい》し致さねばなりません。……お弑しすることは出来ません。……恨みあるお方! 恋しいお方! ……二道煩悩……迷った妾! ……お手討ちなされて下さいまし!」
「一体お前は何者だ?」
「妾の父はお殿様に……」
「可い可い」
 と宗春は手を振った。
「云うな云うな、俺も聞かない。……
 ……父の仇、不倶戴天、こういう義理は小|五月蠅《うるさ》い。……訊きたいことが一つある。お前は将来も俺を狙うか?」
 お半の方は黙っていた。
「殺せるものなら殺すがいい。殺されてやっても惜しくはない。だが、よもや殺せはしまい。……俺は野心を捨てるつもりだ。お前も義理を捨てて了え! 二つを捨てたら世のなかは住みよい。住みよい浮世で、活きようではないか。……俺には、お前が手放せないよ」
 お半の方はつっ伏した。両手で宗春の足を抱いた。一生放さないというように。宗春は優しく見下ろした。その眼を上げて四辺を見た。
「や、香具師の姿が見えぬ。はてさて、性急に何処へ行ったものか?」
 寺院で鳴らす梵鐘《かね》の音が、幽ながらも聞えて来た。夕陽が褪めて暗くなった。

二一

 五重の天主の頂上の間の、狭間から飛び出した香具師は、壁へピッタリ背中を付け、力を罩めた足の指で、辷る甍を踏みしめ、四重目の家根を[#「家根を」はママ]伝って行った。
 剣先まで来て振り仰ぎ、屋根棟外れを眺めたのは、鯱を見ようためだろう。しかし、大屋根の庇に蔽われ、肝心の鯱は見えなかった。
「こいつあ見えねえのが当然だ」
 呟くと一緒に香具師は、右手を懐中へグイと入れた。引き出した手に握られているのは、端に鉤の付いた髪編紐《かみひも》で「やっ」と叫ぶと宙へ投げた。夕陽で赤い空の面へ、スーッと放抛線が描かれたが、カチンと直ぐに音がした。鉤が大屋根の剣先へ、狙い違わず掛かったのである。
「よし」と云うと香具師はピーンと髪編紐を引いて見た。大丈夫だ! 切れはしない。
「よし」と最う一度呟くと、香具師は紐を手繰り出した。手繰るに連れて彼の体は、髪編紐の先へぶら下った。実に見事な手繰り振りで、そういう事には慣れているらしい。グングン大屋根の端まで上《の》したと、片手が端へかかる、グーッと体が海老反りになる、すると最う大屋根に立っていた。
 急斜面の天主の屋根、立って歩くことは出来そうもない。腹這いになった香具師は、南側の鯱へ目星を付け、膝頭でジリジリと寄って行った。
 その総高八尺三寸、その廻り六尺五寸、近付いて見れば今更らに鯱の見事さには驚かれる。
「さて」と云うと眼を爼《そば》め、胴の鱗を数え出した。
「うん、片側百十五枚、大鱗の大きさ七寸五分、小鱗の大きさ二寸五分。……よし、これには間違いが無い。……蛇腹の数十六枚。うむ、是にも間違いが無い。……次は耳だ、異変《かわり》が無ければよいが。……右耳一尺七寸五分、左の片耳一尺八寸……やれ有難い、間違いはない。……眉の長さ一尺六寸。うむ是にも間違いが無い。……さて両眼だが何どうだろう[#「何どうだろう」はママ]? [#「? 」は底本では「?」]……や、有難い、定法通りだ。ちゃあんと八寸に出来ていらあ。……上下合わせて十六枚の歯よし是にも間違いが無い。……北側の鯱を調べてやろう」
 屋根棟を伝わって走って行った。
 鯱の背中へふん[#「ふん」に傍点]跨《またが》り、また香具師は調べ出した。
「いや有難え、変ったことも無い」
 ホッと安心したように、こう呟いた香具師は、さすがに疲労を感じたと見え、額の汗を押し拭い、トントンと胸を叩いたものである。それから城下を見下ろした。
「絶景だなあ、素晴しいや」
 いかにも絶景に相違無かった。
 百万石の加賀の金沢、七十七万石の薩摩の鹿児島、六十二万石の奥州の仙台、大大名の城下町は、名古屋の他にもあったけれど、名に負う名古屋は三家の筆頭、尾張大納言家の城下であって、江戸、大阪、京都を抜かしては、規模の広大、輪奐の美、人口の稠密比べるものがない。その大都が夕陽の下に、昼の活動から夜の活動へ入り込もうとして湧き立っていた。
 ゴーッというような鈍い騒音――人声、足音、車馬の響き、そういうものが塊まって、そういう音を立てるのであろう。蜒《うね》り折《くね》った帯のように、町を横断しているのは、西村堀に相違ない。船が二三隻よっていた。寺々から梵鐘が鳴り出した。
「何んの不足があるんだろう?」香具師は声に出して呟いた。「これだけの大都の支配者じゃあ無いか? 結構すぎる程の身分じゃあ無いか……人間慾には限りはねえ。一つの慾を満足させりゃあ、つづいて最う一つの慾が起こる。そいつを果たすと最う一つ。で、一生止む時はねえ。……上を見れば限りはねえが、下を見ても限りはねえ。明日の生活に困るような、然ういう人間だってウザウザ居るその官位は中納言、その禄高は六十五万石、尾張の国の領主なら、不平も何も無い筈だがなあ。……将軍に成りてえのは道理としても、成ったら苦労が多かろうに。……だがマァそれは夫れとして、大岡越前守様が来ていようとは、俺に執っちゃあ寝耳に水だ! いや何うも驚いたなあ」じっと思案に耽ったが「兎も角俺の仕事も済んだ。どれソロソロ引き上げようか」
 屋根の傾斜をソロソロと下った。髪編紐を伝わり四重の屋根へ、素早く香具師は下り立った。
「殿様、ゆっくり大屋根から、城下を眺めさせて戴きやした。えらい景気でございますなあ」
 ヒョイと部屋の中へ飛び込んだ。
 お半の方と宗春は驚いたように眼を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》った。だが香具師も眼を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]った。お半の方が泣き濡れて居り宗春がひどく[#「ひどく」に傍点]寂しそうに、悄然と立っているからであった。

二二

 さて其夜のことである。
 若松屋へ城中から使者が行った。
 江戸の町奉行大岡忠相に、宗春話し度いことがある。夜分ではあるが登城するよう。――これが使者の口上であった。
「かしこまりましてございます」
 白を切った所で仕方が無い。大岡越前守はお受けをした。
 白石治右衛門、吉田三五郎、二人の家来に駕籠側を守らせ、越前守が登城したのは、それから間も無くのことであった。幅下門から榎多御門、番所を通ると中庭で、北へ行けば西之丸、東へ行けば西柏木門、そこから本丸へ行くことが出来た。どうしたものか本丸へは行かず、御蔵門から西之丸の方へ、越前守だけを案内した。
 これには深い意味があった。と云うのは西之丸に、六棟の土蔵が立っているからで、それを見せようとしたのであった。
 案内役は勘定奉行、北村彦右衛門と云って五十歳、思慮に富んだ武士であった。
 こうして一之蔵へ差しかかったが、見れば扉が開いている。
 如何にも越前守は驚いたように、蔵の前で俄に足を止めた。
「これは近来不用心、土蔵の扉が開いて居ります」
「お目に止まって恐縮千万」こうは云ったものの北村彦右衛門、内心では「締めた」と呟いた。「番士の者共の不注意でござる。併し内味が空っぽでは、つい警護も疎かになります」
「左様なこともございますまい。大納言様はご活達、随分派手なお生活を、致されるとは承わっては居るが、敬公様以来貯えられた黄金、莫大なものでございましょう」
「いやいや夫れもご先代迄で、当代になりましてからは不如意つづき、困ったものでございます」
 二之御蔵、三之御蔵四、五、六の御蔵を過ぎたが、何の御蔵も用心手薄く、扉が半開きになっていたり番士が眠っていたりした。
 透《すき》御門から御深井丸へ出、御旅蔵の東を抜け、不明門から本丸へ這入った。矢来門から玄関へかかり、中玄関から長廊下、行詰まった所が御殿である。
「暫くお控え[#「お控え」は底本では「お控へ」]下さいますよう」
 山村彦右衛門は引っ込んだ。
 一室に坐った大岡越前守、何やら思案に耽り乍ら、ジロジロ部屋の中を見廻わした。
 御殿の中が騒がしい。歩き廻わる足音がする。何んとなく取り込んでいるらしい。
「大分狼狽しているようだ」ニンヤリ笑ったものである。「御殿の扉を開けて見せたり、番士を故意と、眠らせて見せたり、手数のかかった小刀細工、それで俺の眼を眩まそうとは[#「眩まそうとは」は底本では「呟まそうとは」]、些少《ちと》どうも児戯に過ぎる……いずれ御蔵内の黄金なども、何処かへ移したことだろうがさて何処へ移したかな? これは是非とも調べなければならない」
 その時正面の襖が開いた。だが、一杯に開いたのではない、ほんの細目に開いたのであった。誰か隙見をしているらしい。
「無礼な奴だ」と思い乍ら[#「思い乍ら」は底本では「思ひ乍ら」]、越前守は睨み付けた。
 と、ピッタリと襖が閉じ、引っ返して行く足音がした。
「妙な奴が覗いたものだ」越前守は苦笑した。
「頭巾を冠り袖無を着、伊賀袴を穿いた香具師風、城内の武士とは思われない。……ははあ、大奥のお伽衆だな」
 その時スッスッと足音がして、軈て襖が静かに開いた。
「お待たせ致しました、いざ此方へ」それは北村彦右衛門であった。
 幾間か部屋を打ち通り、通された所が大広間、しかし誰もいなかった。
「しばらくお待ちを」と云いすてて、また彦右衛門は立去った。
 しばらく待ったが誰も来ない。
「これは可笑しい」と越前守は、多少不安を覚えて来た。
 と、正面の襖が開き先刻隙見をした香具師が、チョロリと部屋の中へ這入って来た。
「これはこれは大岡様、ようこそおいで下さいました。何は無くとも、先ず一献、斯う云う所だが然うは云わねえ。ヤイ畜生飛んでもねえ奴だ! 人もあろうに大岡様に化け、所もあろうに名古屋城内へご金蔵破りに来やがったな! 余人は旨々|誑《たば》かれても、この俺だけは誑かれねえ」
 膝も突かず立ったまま、香具師は憎さげに罵った。
「これよっく[#「よっく」に傍点]聞け大岡様は、成程貴様とそっくり[#「そっくり」に傍点]だが、只一点違う所は、左の眉尻に墨子《ほくろ》がある。どうだどうだ一言もあるめえ!」

二三

 どうしたものか是を聞くと、越前守は顔色を変えた。しかし依然として、威厳を保ち、グッと香具師を睨み付けた。
「これ莫迦者、何を言うか! 二人大岡がある筈が無い。江戸町奉行大岡忠相、拙者を置いて他にあろうか?」
「アッハッハッハッ、成程なあ。盗賊の身であり乍ら、盗賊を縛る町奉行、大岡様を騙《かた》って来る程の奴一筋縄では白状しまい。……そこで貴様に聞くことがある、一体俺を誰だと思う?」
「うむ」と云うと越前守は、大音上げて呼ばわった。
「城の方々、お出合いなされ! 大盗雲切仁左衛門が、香具師姿に身を窶し、金の鯱を奪おうと、お城に入り込んでございますぞ!」
 バタバタと四方八方から、宿直の武士が現れた。――斯ういけば大いに可いのであったが、一人の捕方も現れず、城中は寂然と静まっていた。
「アッハッハッハッ馬鹿野郎! 途方もねえ大声を上げやあがる。それで一匹の鼠も出ねえ。気の毒千万笑止々々。よし今度は俺の番だ」香具師は矢庭に大声を上げた。「城の方々お出合いなされ、大盗雲切仁左衛門が、大岡越前守に姿を変え、ご金蔵の金を奪おうと、お城へ入り込んでございますぞ!」
 足踏の音、襖を開ける音、股立をとり襷がけ、おっ取り刀の数十人の武士が、今度こそムラムラと現れた。
「雲切仁左衛門、神妙にしろ」
 越前守を取り巻いた。
「ええ、オイ、雲切、どうだどうだ!」
 香具師は愉快そうに笑い出した。
「俺の威光はこんなものさ。鶴の一声利目があるなあ。だが貴様には不思議だろう。俺の素性が解るめえ。……貴様も年貢の納め時、首を切られて地獄へ行き、閻魔《えんま》の庁へ出た時に、誰に手あて[#「あて」に傍点]になったかと聞かれて返辞が出来なかったら、悪党冥利面白くあるめえ。よし、それでは知らせてやろう!」
 片手でツルリと顔を撫でた。と、温室の老人がツルリと顔を撫でた為め、顔が一変したように、香具師の顔も一変した。燐のように光る切長の眼、楔形をした鋭い鼻、貝蓋のような[#「ような」は底本では「やうな」]薄い唇、精悍無比の若者の顔が、お道化た香具師の顔の代りに、其処へ新たに産れたのであった。
「面ァ見てくれ、雲切仁左衛門!」
「おっ!」
 と云うと睨み上げた。
「や、貴様は大岡越前の……」
「四天王の随一人……」
「ううむ、石子伴作だったか!」
「胆が潰れたか、笑止だなあ!」
「だが大凧を空へ上げ、天主の鯱を狙ったは?」
「何んの鯱を狙うものか、只鱗を調べた迄よ」
「ナニ、鱗を? 何んのために?」
「ついでに云って聞かせてやろう。……大納言様は大腹中、金銀を湯水にお使いなさる。由緒ある金の鯱の、鱗をさえもお剥がしになりお使いなさるという噂、江戸へ聞えて大評判、そこで実否を確かめようと、主人の命で名古屋へ下り、いろいろつまらねえ[#「つまらねえ」に傍点]細工をして、この城内へ入り込んだ迄さアッハッハッ、これで解ったろう!」
 石子伴作は大きく笑った。

 大岡越前守と雲切とが、よく似た容貌を持っていたことは、「緑林黒白」という盗賊篇に、簡単ではあるが記されてある。それを利用して雲切が、越前守の名を騙り、名古屋へこっそり這入り込み、部下の一人を花作りとし、城中の人々を無気力にするため、まず阿片を進めて置いて、それから城中へ堂々と入り、金蔵を破ろうとしたことも、同く、「緑林黒白」にある。
 石子伴作が金鯱調べに、名古屋城内へ入り込んだことも、まんざらの嘘では無いということも、或る名古屋の老人から聞いた。
 お半の方とは何者だろう! もう大方読者の方では感付いていられるかもしれないが、尾張宗春が部屋住時代に、無礼討ちにした伴金太夫、その武士の遺児なのであった。
「居附造り」とは何んなものか? 築城師で無い作者には、残念乍ら解ってはいない。
 さて其後宗春は、どんな生活をしたかというに、覇気も野心もうっちゃっ[#「うっちゃっ」に傍点]て、阿片とそうしてお半の方とに没頭したということである。

底本:「妖異全集」桃源社
   1975(昭和50)年 9月25日発行
※底本にある、かぎ括弧(「」)のあきらかな誤り(『』となっているものや脱字)については、読み易さを優先し本文中とくに注記は入れないこととした。以下、誤りの修正箇所を示す。
[#底本の閉じ括弧は「』」、58-下15]、[#底本の閉じ括弧は「』」、69-上18]、[#底本では閉じ括弧は「』」、75-下18]、[#底本では始め括弧は「『」、96-上5][#底本では始め括弧が脱字、102-上9][#底本では閉じ括弧が脱字、102-下20]
入力:地田尚
校正:小林繁雄
2002年2月18日公開
2012年3月3日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

稚子法師——- 国枝史郎

     

 木曽の代官山村蘇門は世に謳《うた》われた学者であったが八十二才の高齢を以て文政二年に世を終った。謙恭温容の君子であったので、妻子家臣の悲嘆は殆ど言語に絶したもので、征矢野《そやの》孫兵衛、村上右門、知遇を受けた此両人などは、当時の国禁を窃に破って追腹を切った程である。
 で、私の物語ろうとする『稚子法師』の怪異譚は即ち蘇門病歿の時を以て、先ず其端を発するのである。
 不時のご用を仰せ付かって、信州高島諏訪因幡守の許へ、使者に立った萩原主水は、首尾よく主命も果たしたので、白馬に鞭打ち従者を連れ、木曽路を洗馬《あらいうま》まで走らせて来た。
 塩尻辺で日を暮らす、此処洗馬まで来た頃には文字通り真の闇であった。先に立った足健康《あしまめ》の従者が高く振りかざす松火の光で、崎嶇《きく》たる山骨を僅に照らし、人馬物言わず真向きに走る。
「殿のお命に別状無い中どうぞ福島へ行きつきたいものだ」
 この事ばかり懸命に念じ主水は益々馬側をしめ付け乗っ立って走らせるのであった。
 主水は生年十八歳、元服の時は過ぎていたが、主君の命で前髪を尚艶々しく立てていた。主君と彼との関係は、家康に於ける伊井万千代、信長に対する森蘭丸と大方同じものであったが、蘇門が老年であった為め、竜陽の交わり分桃の契りは全然無かったと云われている。とまれ普通の仲では無かった。
 やがて洗馬も駈け抜けた。
 其時、行手の闇を裂いて、雲か煙か三条の柱が、ぐるぐる巻き乍ら走って来た。
「主水!」――と途端に呼ぶ声がする。主水は礑《はた》と馬を止めた。と彼の前に立ったのは白衣の直垂《したたれ》、白糸|縅《おどし》の鎧、白い烏帽子を後様に戴き、白柄の薙刀を抱い込んで白馬に跨がった白髪の武人――蘇門山村良由と、同じ扮装《よそお》いに出で立った孫兵衛、右門の三人であった。
「殿、何方へ参られます?」
 恐る恐る主水は訊いた。
「八万億劫の地獄へ参る」
「何用あって参られます?」
「閻羅《えんら》王、祐筆を求めるに依ってな――」
「私もお供致しましょう」
「今はならぬ、やがて参れ――そこでお前に頼みがある。馬を二頭送ってくれい〈山風〉と〈野風〉の二頭をな」
「かしこまりましてござります」――斯う云うと主水は頭を下げたが其時、鎧の音がした。
 眼を上げて見ると人影は無く、深い木曽川の谷の上を、ぐるぐるぐるぐるぐる廻わりながら、霧で出来たような三本の柱が、対岸を指して飛んで行ったが、それも間も無く見えなくなった。
「深い縁《えにし》があればこそ、お眼にもかかれお言葉をも賜わったのだ」
 嬉しさと悲さをコキ雑ぜた複雑の思いに浸り乍ら彼は合掌したのであった。
 翌朝館へ駆着けた時は既に納棺も済んでいた。昨夜の有様を披露した後、急いで厩舎へ走って行き、二頭の馬を索き出すと、まだ十足とは歩かない中に二頭ながら倒れて呼吸絶えた。
 神妙の殉死と云わなければならない。

     

「今はならぬ!」と明瞭《はっき》りと先生から殉死を止められた主水は、心ならず、新主に仕えた。
 誰がために見せる前髪ぞと、蘇門の百ヶ日が済んだ時、彼は惜気無く剃り落した。英落点々白芙蓉、紅も白粉も剥《ぬ》ぎすてた雅びて凛々しい男姿は又一段と立ち勝って見えた。
 蘇門ほどではなかったけれど、新主も賢明の人物であった。先考の愛臣というところから自然主水へ眼をかけた。従って同僚には嫉妬された。
「稚子[#「稚子」は底本では「雅子」]侍の分際で……」勿論陰では公然に、而て時々は面と向かって同僚達は嘲笑った。彼には夫れが耐えられない。
 不快の間に三年を経た。其時勘忍の緒を切らした。
 城外八沢の橋の上で日頃怨ある同僚二人を決闘の後討取ったのである。彼も数ヶ所の薄手を受け、返り血を浴びて紅斑々|髻《たぶさ》千切れた凄じい姿で目付衆の屋敷へ宣り出た、切られた二人の其一人は、家老宮地源左衛門の四男、もう一人は大脇文右衛門の二男で文右衛門は功労ある地方奉行であった。
 事は忽《ゆるがせ》には出来なかった。「先ず切腹」と定られた。併し殿は斯う云われた。「私闘の罪は許すことはならぬ。但し、主水ただ一人へ、二人同時にかかったということだ」
 助けよという意味が言外にあった。そこで主水は秩禄没収追放ということになったのである。
 情ある友に送られて、住みなれた領内を出た時には、さすがに後が返り見られた。先生の形見と懐中にしたのは清音楼集一巻である。
[#ここから1字下げ]
木曽川や藤咲く下を行く筏
卯の花を雪と見て来よ木曽の旅
[#ここで字下げ終わり]
 季節は晩春初夏であった。老鶯も啼いていた。筏を見ては流転が思われ、旅と感じて行路難が犇々と胸に浸みるのであった。
 奈良井まで来た時友とも別れ、行雲流水一人旅となった。木の根へつく然と腰を掛け、主水は茫然と首垂れた。
 畑を鋤いている農夫でもあろう、唄うたう声が聞えて来た。それは盆踊の唄である。いつも耳にする唄である。
「そうだ。裸でも寝られる浮世だ。襦袢一枚でも暮らせば暮らせる。武士で居ようと思えばこそ見得や外聞に捉らわれて、刄傷沙汰に及んだり広い天地を狭く暮らしたりする。いっそ両刀を投げ出して了《しま》ったら却って延々とするかもしれない。俺は思い切って百姓になろう」
 彼は不図悟入したのであった。
「負けて裸で襦袢で寝たら、襦袢みじこう夜は永う」
 斯ういう農夫の唄を聞いて、俄に武士を捨てた。萩原主水が、奈良井の百姓になってから既に五年の月日が経った。所の郷士千村家からお信乃という格好の妻も迎え、今年三才になる男の子まで儲けて、気安い身分となっていた。
 程近い福島の城下からは武士時代の朋輩も訪ねて来るし、近所の農家からは四季折々の配物などを貰いもするし、それに女房の実家というのが近郷第一の富豪ではあり、生活には不自由しなかった。美しい男振に想を懸け、進んで嫁いで来たお信乃であるから、彼への貞節は云う迄も無い。子供の松太郎も美しく生い立ち、前途の憂などは更に無かった。
 しかし此儘彼の生活が平穏無事に過ぎ行くとしたら物語に綴る必要は無い。果然意外の災難が彼の一家に降って湧いた。
「近頃不思議の人攫いが徘徊するということだ」―「五才迄の子を攫って行くそうだ」
 斯ういう噂の立ったのは夏も終りの八月のことで、噂は噂だけに止どまらず、実際幾人かの五才迄の子供が数々《しばしば》行衛が不明になった。
「夜は早く戸閉りをして、松太郎を外へ出さぬようにせよ」或日主水は斯う云い置いて藪原の宿まで用達しに行った。用を果たし路を急いで、家近く帰って来た時には、もう丑の刻を過ごしていた。星月夜の下に静もっている自分の住居を眺めた時には何んとなく心が穏かになった。
 突然妻の悲鳴が聞えた。と木戸口が蹴破られ、軒の高さよりも尚身丈の高い、腹突出した大山伏が、三才の松太郎を小脇に抱え、馬のように走り出た。其後から続いて走り出たのは懐剣を振り翳したお信乃である。
「あっ!」
 と主水は思わず叫んだ一刹那、其場に立ち竦んだが、次の瞬間には身を躍らせて其山伏に飛び掛かって行った。
 併し夫れは無駄であった。山伏は颯と身を浮かせ、空へ蝙蝠《こうもり》のように飛んだかと思うと、深い谷間へ飛び込んだのである。
 其夜から始めて十日余も勿論主水自らも探がし人を頼んで探がさせもしたが、松太郎の行衛は知れなかった。
 それを苦にして女房のお信乃は其夜からどッと床に就いたが、一月も経たずに嘆き死んだ。
 重ね重ねの不幸である。どのように勇猛の人間でも気を落とさずには居られない。
 さすがの主水も此日頃殆ど物を云わなくなった。彼は日夜考えてばかりいた。[#「ばかりいた。」は底本では「ばかりいた」]近所の農夫や福島の朋輩や死んだお信乃の親里などでは、彼の境遇に同情して、いろいろ慰めの言葉を掛けたり新らしく妻を世話しようなどとも云った。
 しかし主水はそんな時只寂しく笑うばかりで慰められた様子も無く、新妻を迎えようとも云わなかった。
 その中突然彼の姿が、奈良井の里から見えなくなった。
 彼は浮世を捨てたのであった。染衣一鉢の沙門の境遇が即ち彼の身の上なのであった。彼は僧侶になったのである。

     

 僧になってからの彼主水は普通の僧の出来ないようなあらゆる難行苦行をした。そうして間も無く名僧となった。阿信というのが法名であったが世間の人は、『稚子法師』と呼んだ。曽て美しい稚子として山村蘇門に仕えた事があり、法師になってからも顔や姿が依然として美しいからであった。
 彼は法師となってからも決して其生活は無事では無く、絶えず妖怪に付き纏われた。併し其都度堅い信念と生来の大勇猛心とで好く災を未然に防いだ。
 要するに彼の生涯は、怪異に依って終始したのであって、左に書き記した三つの怪談は、彼の遭遇した怪異の中では、特色のあるものである。
 林は落葉に埋もれていた。秋十一月の事である。
 林の中に庵室がある。一人の僧が住んでいた。穏の容貌、健の四股、墨染の法衣に同じ色の袈裟、さも尊げの僧である――これは阿信の稚子法師であった。そうして此処は桔梗ヶ原であった。原に住んでいる鳥や獣は、彼の慈愛に慣れ親しんで庵室の周囲へ集まって来た。風雨の劇しい時などは部屋の中まで這入って来て彼の坐っている膝の上や肩の上などで戯れた。
 或深夜のことであったが据えてある五個の位牌の前で彼は看経に更っていた。故主の位牌妻子の位牌、それから八沢の橋の上で討ち果たした二人の敵の位牌!
 恩怨二ツ乍ら差別を立てず、彼は祭っているのであったが、看経中ばに不図彼は不思議な物音を耳にした。
「稚子法師の頭《つむり》はてぎてぎよ」
 調子を付けて斯う囃しながら、夫れに合わせて庵室の戸をてぎてぎてぎてぎと打つ者がある。
「はてな?」と阿信は首を傾げたが「いやいや心の迷いであろう。風が枝を鳴らす音かも知れない……」
 斯う呟くと気を取り直し一心に看経を続けて行った。と復同じ音がする。
「稚子法師の頭はてぎてぎよ」
「てぎてぎてぎてぎ」と戸を叩く音! それは決して心の迷い[#「迷い」は底本では「迷ひ」]でも無く風が枝を鳴らす音でも無い。確かに何者かが囃しているのである。阿信はじっと聞き澄ました。
 その中に彼の心持は其戸の外の囃しに連れて次第に陽気になって来た。で彼は思わず斯う云った。
「お前の頭もてぎてぎよ」
 すると戸外の其音は以前よりも一層鮮明と、
「稚子法師の頭はてぎてぎよ」
「てぎてぎてぎてぎてぎてぎよ」と面白そうに囃し出した。
「お前の頭もてぎてぎよ」と阿信も負けずに云い返えした。
 斯うして暫くは内と外とで「てぎてぎ」の競争をしたのであった。
 突然戸外で消魂しい「ぎやッ」という悲鳴がしたと思うと、そのまま急に静かになった。
 阿信はハッと息を呑んだ。その瞬間に正気に返ったが、彼は静かに立ち上がり戸を開けて戸外を覗いて見た。
 一匹の狢《むじな》が斃れている。頭が無残に割れている。
「この狢という獣は自分の頭を木に打ちつけて人語を発するということであるが、此処に死んでいる此狢も戸に頭を打ちつけてあのような人語を発したのであろう。そうして余りに調子に乗って強く頭を打った為め遂々頭の鉢を割ったのであろう――それにしてもこのような狢などに迂濶に魅入られるのは不覚の至、俺の修行はまだ未熟だ」
 阿信は口の中で呟いたが心の中は寂しかった。
 彼は翌日庵室を捨てて修行の旅へ出たのである。
 十五夜の月が円々と空の真中に懸かっていた。その明月を肩に浴びて一人の旅僧が歩いていた。云う迄も無く阿信である。
 荒川の堤は長かった。長い堤を只一人トボトボと阿信は歩いて行く。
 其時嗄れた女の声で「もしもし」と彼を呼ぶ者がある。声のする方へ眼をやると、足を高く空へ上げ両手を確かりと地上へ突き、其手を足のように働かせながら歩み寄って来る女があった。蒼褪めた顔、乱れた頭髪、しかも胸から血をしたたらせ、食いしばった口からも血を流している。
「もし旅の和尚様、暫くお待ち下さいまし」
 斯う云い乍ら近寄って来たが、
「どうぞ妾を背に負って川を渡して下さいまし」――思い込んだように云うのであった。
「いと易い依頼ではあるけれど……一体お前は何者だな?」
「此世の者ではござりませぬ。妾《わらわ》は幽霊でござります」
「その幽霊は解って居る。何の為めに此世へは現れたぞ?」
「はい、怨ある人間が此世に残って居りますゆえ…」
「それへ怨を返えしたいというのか!」
「仰せの通りでございます」
「折角の頼みではあるけれど、お前を負って川を渡ることはこの俺には出来かねる。人を助けるのが出家の役目だからの」
 云い捨てて阿信は歩き出した。

     

「もし」と幽霊は尚呼びかけた。「せめて和尚様の突いて居られる其自然木の息杖でも残して行っては下さりませぬか」
「杖ぐらいなら進ぜようとも」
 振り返えりもせず持っていた杖を阿信は背後へひょいと投げた。
「有難うござります」と、礼を云う声がさも嬉しそうに聞えたかと思うと、直ぐに幽かな水音が為《し》た。
 阿信は思わず振り返った。
 川の上に杖が浮いている。杖の上には女がいる。そうして杖は女と共にスルスルと対岸へ辷って行く……。
 阿信は総身ゾッとして其儘其処へ立ち竦んだが、「南無幽霊頓生菩提!」と思わず声に出して唱えたのであった。
 翌日彼は江戸へ着いた、其時不思議な噂を聞いた。――
 秩父の代官河越三右衛門が、召使の婢《おんな》に濡衣を着せ官に訴えて逆磔《さかさはりつけ》に懸けた所、昨夜婢の亡霊が窓を破って忍び入り、三右衛門を喰い殺したというのである。――
「偖《さて》はそういう幽霊であったか。杖を遺したのが誤りであったが、夫れも止むを得ない因縁なのであろう」
 で、五つの位牌の上へ更に二つの位牌を加えて、阿信は菩提を葬った。
 稚子法師の名声は江戸に迄も聞えていた。
 其稚子法師の本人が此度江戸へ来たというので其評判は著聞《いちじる》しかった。併し阿信は其評判を有難いとも嬉しいとも思わなかった。却って迷惑に思いさえした。
 勿論誰に招かれても決して招待に応じなかった。化物屋敷と呼ばれている牛込榎町の真田屋敷へ、好んで自分から宿を取って一人で寂しく住んでいた。
 千五百石の知行を取った真田和泉という旗本が数代に渡って住んだ所で、代々の主人が横死した為め化物屋敷の異名をとり、立派な屋敷でありながら今は住む人さえ無いのであった。
「生きて居る人も死んだ人も僧侶に執っては変りは無い。幽霊や妖怪が有ればこそ僧という役目が入用なのだ」
 斯う阿信は人にも語り自分でも固くそう信じて真田屋敷へは住んだのであった。
 それは石楠花《しゃくなげ》の桃色の花が木下闇に仄々と浮び、梅の実が枝に熟するという五月雨時のことであったが、或夜何気なく雨の晴間に雨戸を一枚引き開けた庭の景色を眺めていると、築山の裾にぼんやりと袴を着けた小侍が此方を見乍ら立っていた。
「誰人?」と阿信は声を掛けた。するとつつましく頭を下げたが其瞬間に小侍の姿は掻き消すように消えたのである。
「これが化物の正体だな」
 阿信は思わず呟いた。
 斯ういうことがあってから、その袴を穿いた小侍の姿は、度々彼の前へ現れた。そうして終《つい》には彼と幽霊とは互に話を為すようにさえなった。
 或夜、その男が現われたので、彼は急いで呼びかけた。
「同じ屋敷に住んでいる上は、其方も俺も友達である。屋敷へ上がって茶でも呑むがよい」
「それではご馳走になりましょうか」
 斯う云うと其男は上がって来た。そこで阿信は茶を淹れて互に隔意無く話し込んだ。男の様子には異った所も無い。別して今宵は楽しそうになにくれとなく物語った。そこで阿信は斯う云って見た。
「さても其方は何者ぞ? 今夜はありように語るがよい。そうして今後は一層仲好く頼まれもし頼みもしようではないか」
 すると其男は俯向いていたが、此時静かに顔を上げた。
「ご好意有難くはござりますが、今宵限り和尚様ともお目にかかることはありますまい」
 斯う云うと復も俯向いた。
「深い事情がありそうだな。ひとつ其事情を聞き度いものだ」
「お安いご用でござります。それではお話し致しましょう。私事は司門と申して此真田家の五代前の主人に仕えていたものでござります。主人和泉の朋友に但馬という方がござりました。そして其方のお妹御に雪と申すお娘御がござりましたが、大変お美しゅうござりましたので主人和泉が懸想を致し妻に貰い度いと申入れましたところ、但馬様から拒絶られ、それを恨に持って私の主人は風雨劇しく降る晩に鉄砲を以て但馬様を暗殺になされたのでござります。ところで主人の其振舞いは私を抜かしては誰一人知っている者がござりませぬ所から、卑怯にも私を庭へ連れ出し築山の裾で只一刀に惨殺したのでござります……如何に主人とは申しながらあまりと云えば惨虐非道! 死んでも死に切れず悪霊となって、其主人は申すに及ばず五代つづけて取り殺し今に立至ったのでござりますが……」

     

「然るに……」と亡霊は云いつづけた。「然るに今度計らずも稚子法師様にお目にかかり、何彼とお話しを承わり且は尊いお舞いを拝見致して居ります中、妄執次第に晴れ渡り、今は此世に思い置く事何一つとしてござりませねば今夜を限りに此土地から立ち去るつもりでござります」
 斯う云うと小侍は恭しく畳へ頭をすり付けたが途端にすっッと姿は消え、果して其夜を最後として其小侍の亡霊姿は再び屋敷へ現れなかった。
 斯ういう事があってから稚子法師阿信の評判は益々江戸に高くなり、訪ねて来る人や招き度い人が、日に日に多くなったのを迷惑に感じたからでもあろうか、突然阿信は身を隠した。全然行衛を眩ませたのであった。
 で、彼の噂は人々の口から自然に遠ざかり遂には全く忘られて了った。斯うして幾年か経過した、その時京都白川の里で尊い聖僧が衆人の前で生ながら土中に埋もれて入定したと云う噂が諸国の人々に依って語られたが、其聖僧こそ他ならぬ稚子法師であろうと評判された。
「衆人の前で土中に埋もれ入定するとは尊厳の事だ。いかにも稚子法師に相応しい事だ」
 そういう評判を聞いた人は知るも知らぬも斯う云う稚子法師の最後振りを賞讃した。そうして涙を流しさえした。斯うして又も幾年か経ち、やがて天保十四年となった。其時死んだ筈の稚子法師が意外にも此世へ現れて来た。
 其時の様子を「翁問答」には次のように面白く記してある。
『花園少将通有卿、白川の地に館を立て、几張の局と住み給ひしが、不思議や前庭の花園に当りて念仏の声幽にきこゆ。松吹く風かと思へども念仏の声に紛れ無し、声の在所を止めて行けば思はざりき牡丹の下なり、青侍二人を召して、花下の土を掘らせ給う。楠の板一枚あり。刎起《はねお》こして下を覗けば、年老いたる法師一人念仏詣りて余念無し。助け出して何者と問へば稚子法師阿信なりと答ふ。何故地下には居給ふぞと訊けば数年以前に入定はしたれど未だ往生出来ずと云ふ。
「何故往生為給はぬぞ?」
「主人我を招き給はぬ故」
 其時、虚空[#「虚空」は底本では「虎空」]に白馬現はれ、白衣の武士薙刀を揮って、
「主水! 主水! 参れ!」と呼ぶ。
 刹那、阿信の姿崩れ、五|蘊《うん》[#「五|蘊《うん》」は底本では「五《うん》蘊」]四大に帰し終んぬ。云々』

底本:「妖異全集」桃源社
   1975(昭和50)年9月25日発行
初出:「文芸倶楽部」
   1924(大正13)年8月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年12月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

大鵬のゆくえ—– 国枝史郎

吉備彦来訪

 読者諸君よ、しばらくの間、過去の事件について語らしめよ。……などと気障《きざ》な前置きをするのも実は必要があるからである。
 一人の貧弱《みすぼらし》い老人が信輔《のぶすけ》の邸を訪ずれた。
 平安朝時代のことである。
 当時藤原信輔といえば土佐の名手として世に名高く殊には堂々たるお公卿様。容易なことでは逢うことさえ出来ない。
「そんな貧弱《みすぼらし》い風態でお目にかかりたいとは何んの痴事《たわごと》! 莫迦を云わずと帰れ帰れ」
 取り次ぎの者は剣もホロロだ。
「はいはいごもっともではござりますが、まあまあさようおっしゃらずにお取り次ぎお願い申します。……宇治の牛丸が参ったとこうおっしゃってくださいますよう」
 爺《おやじ》はなかなか帰りそうにもしない。
 で、取り次ぎは内へはいった。
 おりから信輔は画室に籠もって源平絵巻に筆をつけていたが、
「何、宇治の牛丸とな? それはそれは珍しい。叮嚀に奥へお通し申せ」
「へへえ、さようでございますかな。……あのお逢い遊ばすので?」取り次ぎの者は不審そうに訊く。
「おお、お目にかかるとも」
「そこでお伺い申しますが、宇治の牛丸と申す爺《おやじ》、本性は何者でござりましょうや?」
「妖怪変化ではあるまいし、本性などとは無礼であろうぞ。宇治の牛丸と申すのは馬飼吉備彦《うまかいきびひこ》の変名じゃわい」
「うへえ!」
 と取り次ぎの山吹丸はそれを聞くと大仰に眼を丸くしたが、
「馬飼吉備彦と申しますれば本邦第一の物持ち長者と、かよう聞き及んでおりましたが……」
「その長者の吉備彦じゃわい」
「それに致してはその風態《みなり》があまりに粗末にござります」
「ほほう、どのような風態かな?」
「木綿のゴツゴツの布子を着……」
「恐らくそれは結城紬《ゆうきつむぎ》であろう」
 まさか藤原氏の全盛時代には結城紬などはなかった筈。
 それはとにかく吉備彦は館の奥へ通された。それお菓子、それお茶よ。それも掻い撫での茶菓ではない。鶴屋八幡の煎餅に藤村の羊羹というのだからプロの口などへははいりそうもない。
 ややあって信輔があらわれた。
「よう見えられたの吉備彦殿」
「これはこれはご前様。ご多忙中にもかかわらず、お目通りお許しくだされまして、有難い仕合わせに存じます」
 ――とにかくこういう意味のことを吉備彦はいったに相違ない。昔の会話はむずかしい。それを今に写そうとしても滅多に出来るものではない。武士は武士、公卿は公卿、ちゃアんと差別《けじめ》があった筈だ。それをいちいち使い分けて原稿紙の上へ現わそうとするには、一年や二年の研究では出来ぬ。よしまたそれが出来るにしても、そうそう永く研究していたでは飯の食い上げになろうというもの。
「ところでわざわざ遠い宇治から麿《まろ》を訪ねて参られた。火急の用のあってかな」
 信輔は不思議そうに訊いたものである。
「火急と申すではござりませぬが、是非ともご前の彩管を煩わしたき事ござりまして参上致しましてござります」
 ……吉備彦は恭《うやうや》しく云うのであった。

    不思議な願い

「ははあそれでは絵のご用か」
「仰せの通りにござります」
「よろしゅうござる。何んでも描きましょう」
 信輔すぐに承引《しょういん》した。氏長者《うじのちょうじゃ》の依頼《たのみ》であろうとポンポン断る信輔が、こう早速に引き受けたのはハテ面妖というべきであるが、そこには蓋もあれば底もあり、実は信輔この吉備彦に借金をしているのであった。あえて信輔ばかりでなくこの時代の公卿という公卿は、おおかた吉備彦に借りがあった。それで頭が上がらなかった。恐るべきは金と女! もう間もなくその女も物語の中へ現われよう。
「ところでどういう図柄かな?」
「はい」
 といって吉備彦は懐中から紙を取り出した。「どうぞご覧くださいますよう」
「どれ」
 と信輔は受け取った。
「おおこれは……」
 というところを、吉備彦は急いで手で抑えた。
「壁にも耳がござります。……何事も内密に内密に」
「別に変わった図柄でもないが?」
「他に註文がござります」
「うむ、さようか。云って見るがいい」
「お耳を」と云いながら膝行《いざ》り寄った。
 何か吉備彦は囁《ささや》いた。
 この吉備彦の囁きたるや前代未聞の奇怪事で、これがすなわちこの物語のいわゆる大切のタネなのである。
「これは変わった註文じゃの」
 信輔も酷《ひど》く驚いたらしい。
「それに致してもどういうところからそういう心になったのじゃな?」
「別に訳とてはござりませぬがただ私めはそう致した方が子孫のためかと存じまして」
「子孫のためだと? これはおかしい。そっくり財宝《たから》を譲った方がどんなにか子供達は喜ぶかしれぬ」
「仰せの通りにござります。恐らく子供達は喜びましょう。それがいけないのでござります」
「はてな? 麿《まろ》には解らぬが」
「家財を受け継いだ子供達は、その家財を無駄に使い、世を害するに相違ござりませぬ。必ず他人《ひと》にも怨まれましょう。破滅の基でござります。それに第一私一代でこの商法は止めに致したく考えおります次第でもあり」
「それではいよいよそうするか」
「是非お願い致します」
「しかしどうもそれにしても変な絵巻を頼まれたものじゃ。まるでこれでは判じ絵だからの。……よしよし他ならぬお前の依頼《たのみ》じゃ。大いに腕を揮《ふる》うとしようぞ」
「そこでいつ頃出来ましょうか?」
「一人を仕上げるに一月はかかろう?」
「では六ヵ月後に参ります」
「六人描くのだから六ヵ月後だな」
「何分お願い申し上げます。その間に私めも家財の方を処分致す意《つもり》にござります」
 馬飼吉備彦は帰って行った。
(かくて月日に関守《せきもり》なく五月あまり一月の日はあわただしくも過ぎにけらし)と昔の文章なら書くところである……吉備彦は宇治から京へ出た。
「おお吉備彦か、よく参った。約束通り描いておいたぞ」
 信輔卿は一巻の絵巻を吉備彦の前へ押し拡げた。
 それは六歌仙の絵であった。……在原業平《ありわらのなりひら》、僧正遍昭《そうじょうへんじょう》、喜撰法師《きせんほうし》、文屋康秀《ふんやのやすひで》、大友黒主《おおとものくろぬし》、小野小町《おののこまち》……六人の姿が描かれてある。

    この謎語なんと解こう

 馬飼吉備彦の財産がどのくらいあったかというようなことは僕といえども明瞭には知らぬ。とまれ素晴らしい額であり紀文、奈良茂、三井、三菱、ないし藤田、鈴木などよりもっともっと輪をかけた富豪であったということである。しかし当時の記録にも古文書などにも吉備彦の事はなんら一行も書いてない。で意地の悪い読者の中にはこの事実を楯に取って吉備彦などと云う人間は存在しなかったとおっしゃるかもしれない。よろしい、僕はそういう人にはこういうことを云ってやろうと思う。
 藤原時代の歴史たるや悉く貴族の歴史であって民衆の歴史ではなかったからだと。
 吉備彦は富豪ではあったけれど貴族ではなくて賤民であった。綽名《あだな》を牛丸というだけあって彼の職業は牛飼いであった。姓を馬飼《うまかい》と云いながら牛を飼うとはコレいかに? と、皮肉な読者は突っ込むかも知れないが、事実彼の商売は卑しい卑しい牛飼いであった。無論傍ら金貸しもした。
 そういう卑しい賤民のことが貴族歴史へ載る筈があろうか。
 さて、吉備彦は家へ帰ると六人の子供を呼び集めた。県《あがた》、赤魚《あかえ》、月丸《つきまる》、鯖《さば》、小次郎《こじろう》、お小夜《さよ》の六人である。お小夜だけが女である。
「ここに六歌仙の絵巻がある。お前達六人にこれをくれる。大事にかけて持っているがいい。……俺は今無財産だ? 俺は家財を棄ててしまった。いやある所へ隠したのだ。俺からお前達へ譲るものといえばこの絵巻一巻だけだ。大事にかけて持っているがいい。……ところで俺は旅へ出るから家を出た日を命日と思って時々線香でもあげてくれ」
 これが吉備彦の遺訓であった。
 吉備彦は翌日家を出た。
 鈴鹿峠までやって来ると山賊どもに襲われた。山賊に斬られて呼吸《いき》を引き取る時こういったということである。
「道標《みちしるべ》、畑の中。お日様は西だ。影がうつる? 影がうつる? 影がうつる?」
 まことに変な言葉ではある。
 山賊の頭は世に轟いた明神太郎という豪の者であったが、ひどくこの言葉を面白がって、時々真似をして喜んだそうだ。で、手下どももいつの間にかお頭《かしら》の口真似をするようになり、それがだんだん拡がって日本全国の盗賊達までその口真似をするようになった。
「道標《みちしるべ》。畑の中。お日様は西だ。影がうつる? 影がうつる? 影がうつる?」
 この暗示的な謎のような言葉は爾来代々の盗賊によっていい伝えられ語り継がれて来て、源平時代、北条時代、足利時代、戦国時代、豊臣時代を経過してとうとう徳川も幕末に近い文政時代まで伝わって来た。
 そうして文政の某年に至って一つの事件を産むことになったが、その事件を語る前に例の六歌仙の絵巻について少しくお喋舌《しゃべ》りをすることにしよう。
 絵巻を貰った六人の子は、ひどく憤慨したものである。
「いったい何んでえこの態《ざま》は!」まず長男の県丸《あがたまる》が口穢く罵った。「六歌仙がどうしたというのだろう! 小町が物を云いもしめえ。とかく浮世は色と金だ。その金を隠したとは呆れたものだ」
「いいや俺は呆れもしねえ」次男の赤魚《あかえ》がベソを掻きながら、「明日から俺《おい》らはどうするんだ。一文なしじゃ食うことも出来ねえ」
「待ったり待ったり」
 と云ったのは小利口の三男月丸であった。
「これには訳がありそうだ。……ううむ秘密はここにあるのだ。この絵巻の六歌仙にな」
「私達は六人、絵巻も六人、ちょうど一枚ずつ分けられる。六歌仙を分けようじゃありませんか」
 四男の鯖丸《さばまる》が意見を云う。
「よかろう」
 と云ったのは五男の小次郎で、
「妾《わたし》は女のことですから小野小町が欲しゅうござんす」
 お小夜《さよ》が最後にこう云ったが、これはもっともの希望《のぞみ》というので小町はお小夜が取ることになった。

    藪紋太郎

 ちりぢりに別れた六歌仙は再び一つにはなれなかった。
「吉備彦の素敵もない財宝は六歌仙の絵巻に隠されている。絵巻の謎を解いた者こそ巨富を得ることが出来るだろう」――こういう伝説がいつからともなく津々浦々に拡まった頃には、当の絵巻はどこへ行ったものか誰も在所《ありか》を知らなかった。六人の兄弟はどうしたか? これさえ記録に残っていない。
 こうして幾時代か経過した。
 そのうちいつともなくこの伝説は人々の頭から忘れられてしまった。しかしもちろん多くの画家やまた好事家《こうずか》の間では、慾の深い伝説は別として信輔筆の六歌仙は名作として評判され、手を尽くして探されもしたがついに所在は解らなかった。
 こうして文政となったのである。
 もうこの頃では画家好事家さえ、信輔筆の六歌仙について噂する者は皆無であった。

「大変でございますよ、旦那様!」
 襖の外で呼ぶ声がする。
「おお三右衛か」
 と紋太郎はとうにさっきから眼覚めていたので、こう云いながら起き上がると布団の上へ胡坐《あぐら》を掻いた。それからカチカチと燧石《いし》を打ってぼっと行燈《あんどん》へ火を移した。
「まあこっちへはいって来い」
「はい」と云うと襖が開き白髪の老人がはいって来た。用人の岩本三右衛門である。キチンと坐ると主人の顔をまぶしそうに見守ったが、
「賊がはいったようでございます」
「うん。どうやらそうらしいな。大分騒いでいるようだ」
「すぐお出掛けになりますか?」
「専斎殿は金持ちだ。時には賊に振る舞ってもよかろう。……もう夜明けに間もあるまい。見舞いには早朝参るとしよう」
 三百石の知行取り、本所割下水に邸《やしき》を持った、旗本の藪紋太郎は酷《ひど》く生活《くらし》が不如意であった。
 普通旗本で三百石といえば恥ずかしくない歴々であるが、紋太郎の父の紋十郎が、その時代の風流男で放蕩遊芸に凝ったあげく家名を落としたばかりでなく、山のような借金を拵えてしまい、ハッと気が付いて真面目になったところでコロリ流行病《はやりやまい》で命を取られたので、家督と一緒に借金証文まで紋太郎の所へ転げ込んだ始末。余り嬉しくない証文ではあるが、総領の一人子であって見れば放抛《うっちゃ》っておくことも出来なかった。
 親に似ぬ子は鬼っ子だとある心理学者がいったそうであるが藪紋太郎は実のところ少しも親に似ていなかった。とはいえ決して鬼っ子ではなく鳶《とび》の産んだ鷹《たか》の方で遊芸は好まず放蕩は嫌い、好きなものは武道と学問。わけても陽明学を好み、傍ら大槻玄沢《おおつきげんたく》の弟子杉田|忠恕《ちゅうじょ》の邸へ通って蘭学を修めようというのだから鷹にしても上の部だ。
 二十八歳の男盛り。縹緻《おとこぶり》もまんざら捨てたものではない。丈《せい》は高く肉付きもよく馬上槍でも取らせたら八万騎の中でも目立つに違いない。
 貧しい生活《くらし》をしているにも似ず性質はきわめて快活で鬱勃《うつぼつ》たる覇気も持っていたが、そこは学問をしただけに露骨にそんなものを表面《おもて》へは出さない。
「ご免」
 と紋太郎は声を掛けた。奥でガヤガヤ話し声はするが誰も玄関へ出て来ない。「頼む」ともう一度声を掛けた。――と、今度は足音がして書生がひょっくり顔を出したが、
「これはご隣家の藪様で」
「昨夜盗難に遭われたとの事、ご家内に別状はござらぬかな?」
「はい有難う存じます。怪我人とてはございませぬが……」
「おおそれなれば何より重畳《ちょうじょう》。そうして賊は捕らえましたかな?」
「いえ」
 と云った時、奥の方から専斎の声が聞こえて来た。「どなたかおいでなされたかな?」
 ヌッと現われた五十恰好の坊主。これが主人の専斎で、奥医師で五百俵、役高を加えて七百俵、若年寄直轄で法印の官を持っている。
「おおこれは藪殿で。ひどい目に遭いましてな。が、まずまずお上がりくだされ」
「さようでござるかな。ではちょっと」こういうと紋太郎はつと上がった。隣家ではあり碁友達でもあり日頃から二人は親しいのであった。
「早速のお見舞い有難いことで」
 座が定まると改めてこう専斎は礼を述べた。が続いて物語った盗難の話は紋太郎の好奇心を少からず唆《そそ》った。
 ――勝《すぐ》れて美しい若い女を小間使いとして雇い入れたところ、思いがけなくもその女が二の腕かけて背中一杯朱入りの刺青《ほりもの》をしていたそうで、計らず見付けた女中の一人が驚いて専斎へ耳打ちしたので、専斎も大いに仰天し、暇をくれたのが昨夜のこと。その夜更けて起こったのが盗難騒ぎだというのである。

    土佐の名画喜撰法師

「その美しい小間使いというはお菊のことではござらぬかな」一通り話を聞いてしまうと紋太郎はこう尋ねた。紋太郎はお菊を知っていた。いつものようにそれは今から十日ほど前、囲碁に招かれ遠慮なく座敷へ通った時、茶を運んで来た小間使いが余り妖艶であったので、それとなく彼が名を訊くと「菊」と答えて引き退ったのを今に覚えているからである。
「さよう菊でございますよ」
 専斎はこう云って渋面を作った。「少しく美しすぎましたよ」
「で、奪われた品物は?」
「それがさ」と専斎は渋面を深め、「六歌仙の幅を盗まれてござる」
「ほほう」とこれには紋太郎も吃驚《びっくり》したように目を見張った。
「では小町と黒主をな?」
「いや、黒主は助かりました。他へ預けて置きましたでな」
 専斎は今日は言葉少い。ひどく落胆《きおち》しているらしい。

 自宅《うち》へ帰って来た紋太郎はニヤニヤ笑いを洩らしている。皮肉の笑いとも受け取られ笑止の表情とも見受けられる。
 ひょいと床脇の地袋を開け桐の箱を取り出すと、一本の軸を抜き出した。手捌きも鮮やかにサラサラと軸を解き延ばすと土佐の名手が描いたらしい喜撰法師の画像が出た。じっと見詰めているうちに紋太郎の口から溜息に似た感嘆の声がふと洩れた。
「名画というものは恐ろしいものだ。見れば見るほど見栄えがする」
 云いながら静かに立ち上がり床の間へ掛けて改めて見る。
「旦那様」
 と襖越しに三右衛門が呼ぶ声が聞こえて来た。「開けましてもよろしゅうございますかな」
「うん」と云ったまま紋太郎は尚喜撰に見入っている。
「おや、喜撰様でございますか」
 はいって来た三右衛門も感心し膝をついてじっとなった。しばらく室は静かである。
「三右衛」と紋太郎はやがて云った。「何んと立派なものではないかな」
 云われて三右衛門は頭を下げたが、
「立派なものでございます。……ところが喜撰と申しますお方は、どういうお方でございましょうか」
「世捨て人だよ。宇治山のな」
「ははあ、さようでございますかな」
「嵯峨天皇弘仁年間山城の宇治に住んでいた僧だ。橘《たちばな》奈良丸の子とも云われ紀ノ名虎の子とも云われ素性ははっきり解らない」
「さては無頼者《やくざもの》でござりますな」
「莫迦を申せ。有名な歌人だ」
 紋太郎は哄笑する。三右衛門はテレて鬢を掻く。で部屋の中は静かになった。梅花を散らす早春の風が裏庭の花木へ当たると見えてサラサラサラサラサラサラという枝擦れの音が聞こえて来る。植え込みの中で啼いていると見えて鶯の声が聞こえて来る。若鶯《じゃくおう》と見え声が若い。
 と、三右衛門は溜息をした。それからこんなことをいい出した。
「高価なものでございましょうな。その喜撰のお掛け物は」
「お父上からゆずられたものだ。無論高価に相違ない」――飽かず画面に眼を注ぎながら紋太郎は上の空でいった。
「何程《いかほど》のお値打ちがございましょうな?」
「専斎殿の鑑定《めきき》によれは、捨て売りにしても五十両。好事家《こうずか》などに譲るとすれば百両の値打ちはあるそうだ」
「百両……」と呟いて三右衛門はホッと吐息をしたものである。

    尾行の主は?

「これはな」と紋太郎は云いつづけた。「もと六枚あったものだ。いつの時代にかそれが割れて――つまり持ち主が売ったのでもあろうよ。チリヂリバラバラになってしまった。それをどうして手に入れられたものかお父上が一枚手に入れられた。それがこの喜撰法師だ。ところが隣家の専斎殿はそれを二枚も持っておられる。もっとも昨夜の盗難でその一枚を失われたが、失われぬ前のご自慢と来てはそれはそれは大したものであったよ」
 しかしそんな説明は三右衛門は聞いてはいなかった。考えに沈んでいたのであった。
 と、卒然と三右衛門は云った。「百両のお金がございましたらせめて当座の借金だけでも皆済《かいさい》することが出来ますのになあ」
「なに?」と初めて紋太郎は用人の方へ顔を向けた。「この喜撰を売れとでも云うのか?」
「米屋醤油屋薪屋まで、もうもうずっと以前から好い顔を見せてはくれませぬ。いっそお出入りを止めたいなどと……」
「なるほど」
 といったが、この瞬間芸術的の恍惚境は跡形もなく消えてしまい、苦々しい現実の生活難が紋太郎の眼前へ顔を出した。で紋太郎は腕を組んだ。

 その翌日のことであったが、旅装束の若侍が木曽街道を歩いていた。他でもない藪紋太郎である。
 板橋、わらび、浦和、大宮と、彼はずんずん歩いて行った。彼は知行所の熊谷まで、たとえどんなに遅くなっても是非今日じゅうに着きたいものと、朝の三時に屋敷を出てここまで歩いて来たのであった。
 彼は渋面を作っている。足が疲労《つか》れているからであろう。……と思うのは間違いで、実は彼は不思議な老人に後を尾行《つけ》られているのであった。
 彼がそれに気が付いたのは、下板橋とわらびとの間の松並木の街道をスタスタ歩いている時で、何気なく見ると自分と並んで穢《きたな》らしい爺さんが歩いている。
 穢さ加減が酷《ひど》いので彼は思わず眼をそばだてた。それに風態がまことに異様だ。そうして彼にはその風態に見覚えがあるような気持ちがした。
 ただ爺さんというだけで、まさに年齢は不詳であった。八十にも見えれば六十にも見える。そうかと思うとずぶ[#「ずぶ」に傍点]若い男が何かゆえあって変装しわざと老人に見せてるのだと、こう思えば思えないこともない。
 頭はおおかた禿げているが諸所《ところどころ》に白髪《しらが》がある。河原に残った枯れ芒《すすき》と形容したいような白髪である。黄色い色の萎《しな》びた顔。蛇のように蜒《うね》っている無数の皺。その体の痩せていることは水気の尽きた枯れ木とでもいおうか。コチコチと骨張って痛そうである。さて着物はどうかというに、鼠の布子に腰衣。その腰衣は墨染めである。僧かと見れば僧でもなく俗かと見れば僧のようでもある。季節は早春の正月《むつき》だというのに手に渋団扇《しぶうちわ》を持っている。脛から下は露出《むきだし》で足に穿《は》いたのは冷飯草履《ひやめしぞうり》。……この風態で尾行《つけ》られたのでは紋太郎渋面をつくる筈だ。破れた三度笠を背中に背負い胸に叩き鉦《がね》を掛けているのは何んの呪禁《まじない》だか知らないけれど益※[#二の字点、1-2-22]仁態を凄く見せる。それで時々ニタリと笑う。いかさまこれでは魘《うな》されようもしれぬ。
「こいつどうぞしてマキたいものだ」
 紋太郎は心中思案しながら知らない振りをして歩いて行く。
 大正の今日東京市中で、社会主義者どもが刑事をマクにもなかなか手腕が入るそうである。
 ここは街道の一本道。薄雪の積もった正月夕暮れ。ほとんど人通りは絶えている。なかなかマクには骨が折れる。
「おおそうだ、やり過ごしてやろう」
 思案を決めると紋太郎は道側《みちばた》の石へ腰をおろした。それから懐中《ふところ》から煙管《きせる》を取り出し静かに煙草をふかし出した。

    貧乏神

 行き過ぎるかと思いきや、その奇怪な老人はズッと側へ寄って来た。紋太郎と並んで切り株へノッソリとばかり腰かけたのである。
 それからゴソゴソ懐中を探ると鉈豆煙管《なたまめぎせる》を取り出した。それをズッと鼻先へ出し、
「お武家様え、火をひとつ」
 案に相違して紋太郎は少からず閉口したものの貸さないということも出来ないので無言で煙管を差し出した。老人はスバスバ吸い付ける。
「へい、お有難う存じます」
 声までが無気味の調子である。
 二人は黙って腰かけている。
「どうもこいつは驚いたな。除《よ》けても除けても着きまとって来る。まるで俺の運命のようだ」
 紋太郎は不快に思いながら咎めることも出来ないのでやはり黙って腰かけていた。
 と、老人が話しかけた。
「熊谷《くまがや》へおいででございますかな。それはそれはご苦労のことで。それに致しても三時立ちとは随分お早うございましたなあ」
「何?」
 といったが紋太郎これにはいささか驚いた。
「いかにも俺は三時に立ったがどうしてそれを知っているな?」
「へへへへへ、まだまだ沢山存じております。例えば今朝ご出立の時、アノ用人の三右衛門様が、何にあわてたのか大変あわてて鴨居で額をお打ちなされたので、『三右衛門はしたない、気を付けるがよいぞ』と、こう旦那様がおっしゃいました筈で」
「いかにもそういうこともあった」
「ええと、昨夜はご隣家へ泥棒がはいって大事な物を――見事な幅を確か一幅盗んで行った筈でございますよ」
「おおおお、いかにもその通りじゃ」
「盗まれた絵は小野小町土佐の名筆でございましょうがな?」
「どうも不思議だ。まさにその通り」紋太郎は思わず腕を組んだ。
「同じ作者の同じ名画、喜撰法師の一幅は現在旦那様が持っておられる筈じゃ。何も驚かれることはない。布呂敷包みの細長い荷物。膝の上のその荷物。それが喜撰様でございましょうがな。……そうして旦那様は知行所で、そのご家宝の喜撰様を金に代える気でござりましょうがな」
「むう」と紋太郎は思わず唸ったが、
「ははあさようか、いや解ったぞ。察するところそのほうは邸《やしき》近くの町人であろう。それで事情を知っているのであろう」
「はいさようでございますよ。旦那様のすぐお側《そば》に住んでいる者でございますよ」
「ついぞ見掛けぬ仁態じゃが、どこら辺りに住んでいるな?」
「ほんのお側でございます旦那様のお邸内で」
「莫迦を申せ」
 と紋太郎は苦々しく一つ笑ったが、
「邸の内には用人とお常という飯煮《めした》き婆。拙者を加えて三人だけじゃ」
「へへへ」
 と老人はそこでまた気味悪く笑ったが、
「どう致しましてこの老人《わたくし》は、ご尊父様の時代からずっとずっとお邸内に住居しているものでございますよ」
 ははあこいつ狂人《きちがい》だな。……紋太郎は気が付いた。そこでガラリ調子を変え、
「ところでお前は何者だな? そうしていったい何という名だ?」
「貧乏神と申します」
 いったかと思うと老人は煙りのように揺れながらス――とばかりに立ち上がった。
「私はな」と老人はいいつづける。「永らくの間お前の所で、厄介になっていた貧乏神じゃ。随分居心地よい邸であったよ。で、立ち去るのは厭なのじゃが、そういう勝手も出来ないのでな、今日を限りに立ち退《の》こうと思う。……お前の所へもこれからはだんだん好運が向いて来ようよ。もっとも」
 といって貧乏神は例によって気味悪くニタリとしたが、
「時々お目にはかかろうも知れぬ。私はご隣家へ移転《ひっこ》すからの」
 こういい捨てると貧乏神はクルリと紋太郎へ背を向けた。それからスタスタ歩き出した。
「ははあなるほど貧乏神か。いかさまそういえばあの風態に見覚えがあると思ったよ。絵にある貧乏神そっくりじゃ。父の代から住んでいたと? アッハハハこれももっともだ。父の代から俺の家はだんだん貧乏になったのだからな。何これから運が向くって? ほんとにどうぞそうありたいものだ。……おや!」
 とにわかに紋太郎は吃驚《びっくり》したように眼を見張った。

    刺青の女賊

 それというのは他でもない。貧乏神が消えてなくなり、代わりに美人が現われたからである。
 もっと詳しく説明すれば、紋太郎と別れた貧乏神は、街道筋をズンズンと上尾の方へ歩いて行った。ものの半町も行ったであろうか、その時並木の松蔭から一人の女が現われたが、貧乏神と擦れ違ったとたん、貧乏神の姿が消え、一人と見えた女の背後《うしろ》から小粋な男が従いて来た。だんだんこっちへ近寄って来る。「貧乏神などと馬鹿にしてもさすがは神と名が付くだけに飛天隠形《ひてんおんぎょう》自在と見える」
 学問はあっても昔の人だけに、紋太郎には迷信があった。で忽然姿を消した貧乏神の放れ業が不思議にも神秘にも思われるのであった。
 若い二人の旅の男女は、紋太郎にちょっと会釈しながら静かにその前を通り過ぎようとした。
 ふと女を見た紋太郎は、
「おや」といってまた眼を見張った。
 その時プ――ッと寒い風が真っ向から二人へ吹き付けて来た。女の髪がパラパラと乱れる。手を上げて掻き除《の》けたその拍子にツルリと袖が腕を辷り、露出した白い二の腕一杯桜の刺青《ほりもの》がほってある。
「やっぱりそうだ。小間使いのお菊!」
 呻くがように紋太郎は云う。と、女は眼を辷らせ紋太郎の顔を流瞥《りゅうべつ》したが、別に何んともいわなかった。とはいえどうやら微笑したらしい。しかしそれも一瞬の間で二人はズンズン行き過ぎた。そうして今は雀色に暮れた夕霧の中へ消え込んでしまった。
「重ね重ね不思議のことじゃ。貧乏神に小間使いのお菊! 腕に桜の刺青があった。専斎殿の言葉通りじゃ。しかし美しいあのお菊がよもや六歌仙など盗みはすまい」
 やがて紋太郎は立ち上がった。
「熊谷まではまだ遠い。上尾、桶川、鴻ノ巣と。三つ宿場を越さなければならない。どれ、そろそろ出かけようか」
 腰を延ばしてハッとした。喜撰法師の軸がない! 桐の箱へ納め布呂敷で包み膝の上へ確かに置いた筈の、その喜撰がないのであった。
「ううむ、やられた! おのれお菊!」

「おお旦那様、もうお帰りで。これはお早うござりました」
 用人の三右衛門はいそいそとして若い主人を迎えるのであった。
「今帰ったぞ」と紋太郎は機嫌よく邸の玄関を上がった。手に吹矢筒《ふきやづつ》を持っている。部屋へ通るとその後から三右衛門が嬉しそうに従《つ》いて来た。
「首尾はいかがでござりましたかな?」三右衛門は真っ先に訊く。
「首尾か、首尾は上々吉よ」旅装を解きながら元気よく云う。
「それはまあ何より有難いことで。で何程《いかほど》に売れましたかな?」
「何も俺は売りはせぬ」
「何をマアマアおっしゃいますことやら。知行所の総括《たばね》嘉右衛門へ値をよく売るのだとおっしゃって、ご秘蔵の喜撰様を箱ながらお持ちになったではござりませぬか」三右衛門は顔を顰《しか》めながらさも不安そうに云うのであった。
「ああなるほど喜撰のことか。喜撰の軸なら紛失したよ」
「え、ご紛失なされましたとな?」
「いや道中で盗まれたのじゃ。眼にも止まらぬ早業《はやわざ》でな。あれには俺も感心したよ」
 紋太郎は一向平気である。
 余りのことに三右衛門はあッともすッとも云えなかった。ただ怨めしそうな眼付きをして主人の顔を見るばかりである。そのうち充血した眼の中から涙がじくじくにじみ出る。
「何んだ三右衛その顔は!」
 紋太郎は快活に笑い出した。
「そういう顔をしているから貧乏神が巣食うのだ。めでたい場合に涙は禁物、せっかく来かかった福の神様が素通りしたら何んとする。アッハッハッハッ涙を拭け」

    二尺八寸の吹矢筒

「何がめでとうござりましょうぞ」
 三右衛門は涙の眼を抑え、
「米屋薪屋醤油屋へ何んと弁解《いいわけ》したものか。ああああこれは困ったことになった。それだのにマアマア旦那様は首尾はよいの上々吉だのと。これが何んのめでたかろう」
「まあ見ろ三右衛この筒を」
 こういいながら紋太郎はさもさも嬉しいというように手に持っていた吹矢筒をひょい[#「ひょい」に傍点]と眼の前へ持ち上げたが、
「お前も知っている鳥差しの丑《うし》、俺が吹矢を好きだと知ってか、わざわざ持って来てくれて行った。知行所の百姓は感心じゃ。俺を皆《みんな》可愛がってくれる。……これは素晴らしい吹矢筒だ。第一大分古い物だ。木肌に脂《あぶら》が沁み込んで鼈甲《べっこう》のように光っている。俺は来る道々|験《ため》して見たが、百発百中はずれ[#「はずれ」に傍点]た事がない。嘘だと思うなら見るがよい」
 側に置いてある小箱をあけると手製の吹矢を摘み出した。ポンと筒の中へ辷り込ませる。それからそっと障子をあけた。
 庭の老松《おいまつ》に一羽の烏が伴鳥《ともどり》もなく止まっていたが、真っ黒の姿を陽に輝かせキョロキョロ四辺を見廻している。
 紋太郎はろくに狙いもせず筒口へ唇を宛《あて》たかと思うと、ヒュ――ッと風を切る音がして一筋の白光空を貫きそれと同時に樹上の鳥はコロリと地面へ転げ落ちた。
 いつもながらの精妙の手練に、三右衛門は感に耐えながらも、今は褒めている場合でない。重い溜息を吐くばかりであった。
「二尺八寸の短筒ながらこの素晴らしい威力はどうだ! 携帯に便、外見《みば》は上品、有難い獲物を手に入れたぞ」
「米屋薪屋醤油屋へ何んと弁解《いいわけ》したものであろう」
「三右衛、何が不足なのじゃ?」
「何も不足はござりませぬが。……金のないのが心配でござります」
「金か、金ならここにある」
 紋太郎は懐中へ手を入れるとスルリと胴巻を抜き出した。
「小判で二百両、これでも不足かな」
 三右衛門の前へドンと投げる。
「あまりお前が金々というから実はちょっとからかったまでさ」
「へえ、それにしてもこんな大金を……」
 三右衛門は容易に手を出さない。
 紋太郎は哄然と笑ったが、
「貧乏神のいったこともまんざら嘘ではなかったわい。……何の、三右衛、こういう訳だ。実は喜撰を掠《す》られたので俺もひどく悄気《しょげ》たものさ。といってノメノメ帰られもしないで、知行所へ行って見るとどうした風の吹き廻しか、いつもは渋る嘉右衛門が二つ返辞で承知をしてくれ、いい出した倍の二百両というもの融通をしてくれたではないか。その上でのいい草がいい。――今年はご出世なさいますよとな。……で、俺が何故と訊いて見ると、何故だかそれは解りませぬと、こういって澄ましているではないか。……三右衛安心をするがいいぞ。どうやら貧乏の俺の家もこれから運に向かうらしい。貧乏神めもそういったからの」

 こうして春去り夏が来た。その夏も逝《い》って秋となった。
 小鳥狩りの季節となったのである。
 ちょっと来かかった福の神も何かで機嫌を害したと見え、あの時以来紋太郎の家へはこれという好運も向いて来なかったので、依然たる貧乏世帯。しかしあの時の二百両で諸方の借金を払ったのでどこからもガミガミ催促には来ない。それで昨今の生活《くらし》振りは案外|暢気《のんき》というものであった。
「おい三右衛困ったな。ちっとも好運がやって来ないじゃないか」
 時々紋太郎がこんなことを云うと却って用人三右衛門の方が昔と反対《あべこべ》に慰めるのであった。
「なあに旦那様大丈夫ですよ。米屋も薪屋も醤油屋も近頃はこちらを信用して少しも催促致しませんので。一向平気でございますよ」
「どうやら米屋醤油屋が一番お前には恐いらしいな」
「へい、そりゃ申すまでもございませんな。生命《いのち》の糧《かて》でございますもの」
「腹が減っては戦は出来ぬ。ちゃんと昔からいっておるのう」

    大御所家斉公

 ある日、紋太郎は吹筒を携《たずさ》え多摩川の方へ出かけて行った。
 多摩川に曝《さら》す手作りさらさらに何ぞこの女《こ》の許多《ここだ》恋《かな》しき。こう万葉に詠まれたところのその景色のよい多摩川で彼は終日狩り暮した。
「さてそろそろ帰ろうかな」
 こう口へ出して呟いた頃には、暮れるに早い秋の陽がすっかり西に傾いて、諸所に立っている森や林へ夕霧が蒼くかかっていた。そうして彼の獲物袋には、鶸《ひわ》、鶫《つぐみ》、※[#「けものへん+葛」、第3水準1-87-81]《かり》などがはち切れるほどに詰まっていた。
 林から野良へ出ようとした時彼は大勢の足音を聞いた。見れば鷹狩りの群れが来る。
 その一群れは足並揃えて粛々《しゅくしゅく》とこっちへ近寄って来る。同勢すべて五十人余り、いずれも華美《きらびやか》の服装《よそおい》である。中でひときわ目立つのは狩装束に身を固めた肥満長身の老人で、恐ろしいほどの威厳がある。定紋散らしの陣帽で顔を隠しているので定かに容貌《かお》は解らないものの高貴のお方に相違ない。五人のお鷹匠、五人の犬曳き、後はいずれもお供と見えてぶっ裂き羽織に小紋の立付《たっつけ》、揃いの笠で半面を蔽い、寛《くつろ》いだ中にも礼儀正しく老人を囲んで歩を運ぶ。
「さては諸侯のお鷹狩りと見える。肥後か薩摩かどなたであろう。いずれご大身には相違ないが」
 紋太郎は心中|審《いぶか》りながら、逢っては面倒と思ったので林の中に身を隠し木の間から様子を窺った。
 鷹狩りの群れは近寄って来る。
 近づくままよく見れば、老人の冠られた陣帽に、思いも寄らない三葉葵が黄金《きん》蒔絵《まきえ》されているではないか。疑がいもなく将軍ご連枝。お年の恰好ご様子から見れば、十一代将軍家斉公。西丸へご隠居して大御所様。そのお方に相違ない!
 紋太郎はハッと呼吸《いき》を呑んだ。持っていた吹筒を地へ伏せる上自分もそのままピタリと坐り両手をついて平伏した。見る人のないことは承知であるが、そこは昔の武士気質、まして紋太郎は礼儀正しい。蔭ながら土下座をしたのであった。
 鷹狩りの一行は林の前を林に添って行き過ぎようとした。
 と、忽然西の空から、グーン、グーンという物の音が虚空を渡って聞こえて来た。
 家斉公は足を止めた。で、お供も立ち止まる。
「何んであろうな、あの音は?」
 こういいながら笠を傾け、日没余光燦然と輝く西の空を眺めやった。
「不思議の音にござります」
 こう合槌を打ったのは寵臣水野美濃守であった。さて不思議とは云ったものの何んの音とも解らない。しかしその音は次第次第にこの一行へ近づいて来た。やはり音は空から来る。
「おお、鳥じゃ! 大鳥じゃ!」
 家斉公は手を上げて空の一方を指差した。
 キラキラ輝く夕陽をまとい、そのまとった夕陽のためにかえって姿は眩まされてはいるが、確かに一羽の巨大な鳥が空の一点に漂っている。
 何んとその鳥の大きいことよ! それは荘子の物語にある垂天《すいてん》の大鵬《たいほう》と云ったところで大して誇張ではなさそうである。大鷲に比べて二十倍はあろうか。とにかくかつて見たことのない奇怪な巨大な鳥であった。
 グーン、グーン、グーン、グーン、かつて一度も聞いたことのない形容を絶した気味の悪い声! そういう啼き声を立てながら悠然と舞っているのであった。
 家斉公はまじろぎ[#「まじろぎ」に傍点]もせず大鵬の姿を見詰めていたが、
「聞きも及ばぬ化鳥のありさま。このまま見過ごし置くことならぬ! 誰かある射って取れ!」
「はっ」と返辞《いら》えて進み出たのは近習頭白須賀源兵衛であった。
「おおそちなら大丈夫じゃ。矢頃を計り射落とすがよいぞ」
「かしこまりましてござります」
 近習の捧げる重籐《しげどう》の弓をむず[#「むず」に傍点]と握って矢をつがえたが、二間余りつと[#「つと」に傍点]進むと、キリキリキリと引き絞った。西丸詰めの侍のうち、弓術にかけてはまず源兵衛と人も許し自分も許すその手練の引き絞った弓、千に一つの失敗もあるまいと、供の一同声を殺し、矢先に百の眼を集めたとたん、弦音高く切ってはなした。その矢はまさに誤たず大鵬の横腹に当ったが、こはそもいかに肉には通らず、戞然《かつぜん》たる音を響かせて、二つに折れた矢は地に落ちて来た。
「残念!」とばかり二の矢をつがえ再びひょうふっ[#「ひょうふっ」に傍点]と切って放したが、結果は一の矢と同じであった。二つに折れて地に落ちた。
 心掛けある源兵衛は三度射ようとはしなかった。弓を伏せて跪座《かしこ》まる。

    大鵬空に舞う

「源兵衛どうした。手に合わぬか?」家斉公は声をかけた。
「千年を経ました化鳥と見え、二度ながら矢返し致しましてござる」
「おおそうか、残念至極。そちの弓勢にさえ合わぬ怪物。弓では駄目じゃ鷹をかけい! 五羽ながら一度に切って放せ!」
「は、はっ」
 と五人の鷹匠ども、タラタラと一列に並んだが、拳に据えた五羽の鷹を屹《きっ》と構えて空へ向ける。さすがは大御所秘蔵の名鳥、プッと胸を膨張《ふくら》ませ、肩を低く背後《うしろ》へ引く。気息充分籠もると見て一度に颯《さっ》と切って放す。と、あたかも投げられた飛礫《つぶて》か、甲乙なしに一団となり空を斜めに翔《か》け上った。
 家斉公は云うまでもなく五十人のお供の面々は、固唾《かたず》を呑んで眺めている。その眼前で五羽の鷹、大鵬を乗り越し上空へ上るや一時にバラバラと飛び散ったがこれぞ彼らの慣用手段で、一羽は頭、一羽は尻、一羽は腹、二羽は胴、化鳥の急所を狙うと見る間に一度に颯と飛び掛かった。
 ワッと揚がる鬨の声。お供の連中が叫んだのである。
「もう大丈夫! もう大丈夫!」
 家斉公も我を忘れ躍り上がり躍り上がり叫んだものである。しかしそれは糠喜《ぬかよろこ》びで、五羽の鷹は五羽ながら、投げられたように弾き飛ばされ、空をキリキリ舞いながら枯れ草の上へ落ちて来た。
 五羽ながら鷹は頭を砕かれ血にまみれて死んでいる。しかも大鵬《おおとり》は悠然と同じ所に漂っている。
 物に動ぜぬ家斉公も眼前に愛鳥を殺されたので顔色を変えて激怒した。
「憎き化鳥! 用捨はならぬ! 誰かある誰かある退治る者はないか! 褒美は望みに取らせるぞ! 誰かある誰かある!」
 と呼ばわった。しかし誰一人それに応じて進み出ようとする者はない。声も立てず咳《しわぶき》もせず固くなってかたまっている。これが陸上の働きならば旨《むね》を奉じて出る者もあろう。ところが相手は空飛ぶ鳥だ。飛行の術でも心得ていない限りどうにもならない料物《しろもの》である。ましてや弓も鷹も駄目と折り紙の付いた怪物である。誰が何んのために出て来るものか。
 忽然この時林の中から一人の若者が走り出た。すなわち藪紋太郎である。
 紋太郎は遙か彼方《あなた》から此方《こなた》に向かって一礼したが、その眼を返すと空を睨んだ。二尺八寸短い吹筒、つと[#「つと」に傍点]唇へ当てたかと思うと大きく呼吸《いき》をしたらしい。ぴかりと光った白い物。それが空を縫ったらしい。その瞬間に恐ろしい悲鳴が空の上から落ちて来た。と、その刹那空の化鳥が一つ大きく左右に揺れたが、そのままユラユラと落ちて来た。しかしそこは劫《ごう》を経た化鳥、地へ落ちて死骸を曝らそうとはしない。さも苦しそうに喘ぎ喘ぎ地上十間の低い宙を河原の方へ翔けて行く。そうしてそれでも辛うじて広い河原を向こうへ越すと暮れ逼《せま》って来た薄闇の中へ負傷《いたで》の姿を掻き消した。

 どんなに大御所が喜んだか? どんなに紋太郎が褒められたか? くだくだしく書くにも及ぶまい。
「紋太郎とやら、見事見事! 遠慮はいらぬ褒美を望め!」破格をもって家斉公は直々言葉を掛けたものである。
「私、無役にござりまする。軽い役目に仰せ付けられ、上様おため粉骨砕身、お役を勤むる事出来ましたなら有難き儀に存じまする」これが紋太郎の希望《のぞみ》であった。
「神妙の願い、追って沙汰する」
 これが家斉の言葉である。
 はたして翌日若年寄から紋太郎へ宛てて差紙《さしがみ》が来た。恐る恐る出頭すると特に百石のご加増があり尚その上に役付けられた。西丸詰め御書院番、役高三百俵というのである。
 邸へ帰ると紋太郎は急いで神棚へ燈明を上げた。貧乏神への礼心である。

    奇怪な迎駕籠

 ある夜、奥医師専斎の邸へ駕籠が二挺横着けされた。一つの駕籠は空であったが、もう一つの駕籠から現われたのは儒者風の立派な人物であった。
「大学頭《だいがくのかみ》林家より、参りましたものにござりまするが、なにとぞ先生のご来診を得たく、折り入ってお願い申し上げまする」
 これが使者の口上であった。もうこの時は深夜であり、専斎は床にはいっていたが、断わることは出来なかった。同じ若年寄管轄でも、林家は三千五百石、比較にならない大身である。
 で、専斎は衣服を整え薬籠を持って玄関へ出た。
「深夜ご苦労にござります」儒者風の使者《つかい》はこういって気の毒そうに会釈したが、「駕籠を釣らせて参りましてござる。いざお乗りくだされますよう」
「さようでござるかな、これはご叮嚀」
 専斎はポンと駕籠へ乗った。と、粛々と動き出す。眠いところを起こされた上、快よく駕籠が揺れるので専斎はすっかりいい気持ちになりうつらうつら[#「うつらうつら」に傍点]と眠り出した。すると、急に駕籠が止まった。
「おや」といって眼を覚ます。「もう林家へ着いたのかな。それにしてはちと早いが」
 その時、バサッと音が駕籠の上から来た。
「何んの音かな? これは変じゃ」
 すると今度は、サラサラという、物の擦れ合う音がした。
「何んの音かな? これはおかしい」
 こう口の中で呟いた時、ひそひそ話す声がした。
「どうやら眠っておられるようじゃ。ちょうど幸い静かにやれ」――儒者風をした使者の声だ。
「へいよろしゅうございます」――こういったのは駕籠舁きである。駕籠はゆらゆらと動き出した。
「こいつどうやら変梃だぞ。どうも少し気味が悪くなった」そこで「エヘン」と咳をした。
「おお、お眼覚めでござるかな。ハッハッハッハッ」と笑う声がする。儒者風の男の声である。馬鹿にしたような笑い方である。
「まだ先方へは着きませぬかな?」専斎は不安そうに声を掛けた。
「なかなかもって。まだまだでござる。ハッハッハッ」とまた笑う。
 専斎は引き戸へ手を掛けた。戸を開けようとしたのである。
「専斎殿、戸は開きませぬ。外から錠が下ろしてござるに。ハッハッハッ」とまたも笑う。
 専斎はゾッと寒気がした。
「こいつはたまらぬ。誘拐《かどわか》しだ」
 彼はじたばた[#「じたばた」に傍点]もがき出した。
 そんなことにはお構いなく駕籠はズンズン進んで行く。そうして一つグルリと廻った。
「おや辻を曲がったな」
 専斎は駕籠の中で呟いた。とまた駕籠はグルリと廻った。どうやら右へ曲がったらしい。
「さっきも右、今度も右、右へ右へと曲がって行くな」専斎はそこで考えた。「いったいどこへ連れて行く気かな? こんな爺《じじい》を誘拐したところでたいしていい値《ね》にも売れまいにな。……精々《せいぜい》のところで別荘番。……おや今度は左へ廻った。……じたばた[#「じたばた」に傍点]したって仕方がない。生命《いのち》まで取るとはいわないだろう。……まあまあ穏《おとな》しくしていることだ。……そうして、そうだ、どっちへ行くかおおかたの見当を付けてやろう」
 臍《ほぞ》を固めた専斎はじたばた[#「じたばた」に傍点]するのを止めにした。じっと静かに安坐したまま駕籠舁きの足音に気を配った。
 駕籠はズンズン進んで行く。右へ曲がったり左へ折れたり、そうかと思うと後返りをしたり、ある時は同じ一所を渦のようにグルグル廻ったりした。俄然駕籠は走り出した。どうやら坂道でも駈け上るらしい。と、不意に立ち止まった。
「やれやれどうやら着いたらしいな」こう専斎の思ったのは糠喜びという奴でまた駕籠は動き出した。
「どうもいけねえ」と渋面を作る。
 それから駕籠は尚長い間冬の夜道を進むらしかった。儒者風をした人物は依然|駕籠側《かごわき》にいるらしかったが、一言も無駄言を云わないので、いよいよ専斎には気味悪かった。

    桃色の肉に黄金色の毛

 こうしておよそ今の時間にして四時間余りも経った頃、駕籠の歩みが緩《のろ》くなった。そうして足音の響き工合でどうやらこの辺が郊外らしく専斎の心に感じられた。と、にわかに駕籠が止まった。ギーと大門の開く音。と、また駕籠がゆっくりと動いた。がしかしすぐ止まる。
「ご苦労でござった」「遅くなりまして」「しからば乗り物をずっと奥まで」「よろしゅうござる」
 というような、ひそひそ話が聞こえて来た。
 突然駕籠が宙に浮いた。ゆらゆらと人の手で運ばれるらしい。畳ざわりの幽《かす》かな音。ス――と開けたりピシリと閉じる襖や障子の音もする。宏大な屋敷の模様である。トンと駕籠が下へ置かれた。紐や桐油を除《の》ける音。それからピ――ンと錠の音がした。
「よろしゅうござるかな?」「逃げもしまい」「もし逃げたら?」「叩っ切るがよろしい!」
 などと凄い話し声がする。と、ス――と扉《と》があいた。
「いざ専斎殿お出くだされ」
「はっ」
 と専斎は這い出した。朦朧《もうろう》と四辺《あたり》は薄暗い。見霞むばかりの広い部屋で、真ん中に金屏風が立ててある。
 その金屏風の裾の辺に一人の武士が坐っていたが、
「ここへ」と云って膝を叩いた。語音の様子では老人であったがスッポリ頭巾を冠っているので顔を見ることは出来なかった。鉄無地の衣裳に利休茶の十徳、小刀《ちいさがたな》を前半に帯び端然と膝に手を置いている。肉体枯れて骨立っていたがそれがかえって脱俗して見え、云うに云われぬ威厳があった。部屋には老人一人しかいない。
「ここへ」と老人はまた云った。で専斎は膝で進む。
「外科の道具、ご持参かな?」その老人は静かに訊いた。
「はい一通りは持って参ってござる」
「それは好都合」と云ったかと思うと老人は金屏風をスーとあけたが渦高《うずたか》く夜具《よるのもの》が敷いてある。そうして誰か寝ているらしい。しかし白布で蔽われているので姿を見ることは出来なかった。
「金創でござる。お手当てを」覆面の老人は囁いた。さも嗄《しわが》れた声音《こわね》である。
「へ――い」と思わず釣り込まれ専斎も嗄れた声を出したが、いわれるままに膝行し寝ている人の側へ寄った。ポンと白布を刎ねようとする。と、その手首を掴まれた。で、ギョッとして顔を上げたとたん頭巾の奥から老人の眼が冷たく鋭くキラリと光った。専斎はぞっ[#「ぞっ」に傍点]と身顫いをする。その時老人は手を放しその手を腰へ持って行ったがスッと小刀を抜いたものである。
「あっ」と専斎は呼吸《いき》を呑んだが老人は見返りもしなかった。白い掛け布を一所《ひとところ》スーと小刀で切ったものである。
「お手当てを」と引き声でいった。で、専斎は覗いて見た。裂かれた布の間から桃色の肉が見えていたが肉はピクピク動いている。神経の通っている証拠である。産毛《うぶげ》が一面に生えていたが色はあざやか[#「あざやか」に傍点]な黄金色《こがねいろ》であった。人間の肌には相違ない。が、しかし、その人間が……肉の一所が脹れ上がり見るも恐ろしい紫色に変色してるばかりでなくその真ん中と思われる辺に一つの小さい突き傷があり突き傷は随分深そうであった。細い鋭利な金属性の物で深く刺されたものらしい。
 この時までの専斎は見るも気の毒な臆病者であったが、怪我人の傷を一眼見るや俄然態度が緊張《ひきし》まった。つまり医師としての自尊心が勃然湧き起こったからであろう。彼は片手をズイと差し込みそろそろと肌にさわって見た。
「……第一|肋《あばら》。……第二肋。……うむ別に異状なし。……肺の臓? ええと待てよ…… ふむ、なるほど。ちとあぶなかったな。……しかし、まずまず危険には遠い。……あっ、しまった! 肺尖《はいせん》が! ……」
 心の中で呟きながら専斎はズンズン診て行った。
「……一分、いやいや五厘の相違で、幸福にも生命を取り止めたわい。……」
「専斎殿、お診断《みたて》は?」
 覆面の老人が囁くように訊いた。
「大事はござらぬ。幸いにな……」
「さようでござるかな。それで安心。……」老人はホ――ッと溜息をしたが、その様子でその老人がどんなに心配をしていたかが十分想像出来そうである。

    ここにもある六歌仙

 専斎は懐中から紙入れを出した。キラキラ光る銀色のナイフ、同じく鋸《のこぎり》、同じく槌、それから幾本かのピンセット。――外科の道具を抜き出したが、まず一本のナイフを握ると一膝膝をいざり[#「いざり」に傍点]出た。……患部へ宛ててスッと引く。タラタラと流れ出る真っ赤の血を用意の布《きれ》で拭《ぬぐ》い眼にも止まらぬ早業で手術の手筈を付けて行く。
 もうこの時には彼の心には、陰森と寂しい部屋の態《さま》も、痩せた覆面の老人の姿も、確かに人間ではあるけれど人間ならぬ不思議な肌の小気味の悪い患者のことも、ほとんど存在していなかった。彼の心にあるものは、危険性を持った奇怪な傷をどうしたらうまく癒せるかという医師的責任感ばかりであった。
 こうして間もなく消毒も終え、クルクルと繃帯を巻き了《お》えると、
「これでよろしい」と静かにいった。「熟《う》みさえせねば大丈夫でござる」
「熟《う》みさえせねば?」と不安そうに、「いかがでござろう熟みましょうかな?」声は不安に充ちている。
「いや、九分九厘……大丈夫でござる」
「それはそれは有難いことで」
 いうと一緒に手を延ばしスーと金屏風を引き廻した。
「しばらく……」というと立ち上がり広い座敷を横切って行く。部屋の外れの襖を開けるとふっとその中へ消え込んだ。
 一人になると専斎はまたゾクゾク恐ろしくなったが、度胸を定めて四辺《あたり》の様子を盗み眼《まなこ》で見廻した。部屋の広さは百畳敷もあろうか古色蒼然といいたいが事実はそれと反対で、ほんの最近に造ったものらしく木の香のするほど真新しい。横手にこじんまり[#「こじんまり」に傍点]とした床の間があった。二幅の軸が掛かっている。
「はてな?」と呟いて専斎はその軸へじっと眼を注いだ。「や、これは六歌仙だ!」
 それはいかにも六歌仙のうち、僧正遍昭と文屋とであった。
「同じ絵師の筆だわえ」
 また専斎は呟いた。
 それもいかにもその通り、そこに掛けてある二歌仙は、かつて専斎が持っていて小間使いのお菊に奪われた小野小町の一幅と、もう一つ現在持っている大友黒主の一幅と全く同じ作者によって描かれたものだということは一見すれば解るのであった。
「どれ寄って拝見しよう」
 腰を上げようとした時である。正面の障子が音もなく開いた。「人が来たな」とひょい[#「ひょい」に傍点]と見たが、障子の向こうに、縁側があり縁側の外れに雨戸がありその雨戸が細目に開いて庭園の一部が見えているばかり人らしいものの影もない。また専斎はゾッとした。冷たい汗が背を流れる。
「わっ! たまらねえ! 化物屋敷だア」
 叫ぼうとした時、障子の隙へ奇妙な顔が現われた。
「だ、誰だア!」
 と声を掛ける。とたんに破れた渋団扇が障子の間からフワリと出た。それから素足がニョッキリと出てやがて全身を現わしたのを見ると、専斎はキョトンと眼を円くした。もちろん恐怖もあったけれどむしろそれよりはおかしかった。まずその男の風彩は僧でもあり俗でもあった。鼠の衣裳に墨染めの衣、胸に叩き鐘を掛けている。腰に下げたは頭陀袋《ずだぶくろ》で手首に珠数を掛けている。頭は悉皆《しっかい》禿げていたがそれでも秋の芒のようにチョンビリと白髪《しらが》が残っている。そうして酷《ひど》く年寄である。それが渋団扇を持っているのだ。
「誰だ?」と専斎はもう一度いった。
「貧乏神さ。ごらんの通りね」
「貧乏神だ? どこから来た!」
「フフフフお前さんの家からさ」
 いいすてるとスルスルと床の間の方へ貧乏神は歩いて行った。
「どこへ行く!」といいながら専斎はヌッと立ち上がった。

    正金で五十両

「やかましいやい! へぼ医者め!」
 振り返って睨んだ眼の凄さに専斎はペッタリ尻餅をついた。
「態《ざま》ア見やがれ!」
 と貧乏神は床の間へ上ると手を延ばし六歌仙の軸をひっ[#「ひっ」に傍点]握んだ。
 その時襖がサラリと開いて以前の覆面の老人が部屋の中へはいって来たが、「曲者《くせもの》!」
 と掛けた鋭い声は、武道で鍛えた人でなければ容易のことでは出せそうもない。
「ええ畜生、いめえましい!」身を飜《ひるがえ》すと貧乏神は庭へ向かって走り出した。
 ヒューッと小束が飛んで来る。パッと渋団扇で叩き落す。次の瞬間には貧乏神の姿は部屋の中には見られなかった。
「方々出合え! 賊でござるぞ!」
 忽ち入り乱れる足音が邸の四方から聞こえて来たが、庭の方へ崩《なだ》れて行く。
 障子を締め切った覆面の老人。
「驚かれたでござろうな」……打って代わって愛相よく、「寸志でござる。お納めくだされ」
 紙包みを前へ差し置いた。
「もはや用事はござりませぬ。……駕籠でお送り致しましょう。……さて最後に申し上げたいは、今夜のことご他言ご無用。もし口外なされる時は御身《おんみ》のためよくござらぬ」
 謝礼といって贈られたすっくり[#「すっくり」に傍点]重い金包みを膝の上へ置きながら専斎はうとうと睡りかけた。
 同じ駕籠に打ち乗せられ同じ人に附き添われ同じ夜道を同じ夜に自宅へ帰って行くところであった。
「今夜のことご他言無用。もし口外なされる時は御身のためよくござらぬ」と、いざお暇《いとま》という時に例の覆面の老人によって堅く口止めされたことを心から恐ろしく思いながらも、襲って来る睡魔はどうすることも出来ず、彼はうとうと睡ったらしい。
 こうして彼が目覚めた時には日が高く上っていた。自分の家の自分の寝間に弟子や家人に囲まれながら楽々と睡っていたものである。
「金包みはあるかな? 金包みは?」
 これが最初の言葉であった。
「はいはい金包みはございますよ」
「いくらあるかな? あけて見るがいい」
「はい、小判で五十両」
「木葉《こっぱ》であろう? 木葉《こっぱ》であろう?」狐に魅《つまま》れたと思っているのだ。
「なんのあなた、正《しょう》の金ですよ」
「どうも俺にはわからない」
「今朝方お帰りでございましたが、やはり昨夜は狩野様で?」
「いやいや違う。そうではない。狩野の邸なら知っている。昨夜の邸とはまるで違う」
「まあ不思議ではございませんか。どこへおいででございましたな?」
「それがさ、俺にも解らぬのだよ」
 ……で専斎は気味悪そうに渋面を作らざるを得なかった。
 こういうことのあったのは、この物語の主人公旗本の藪紋太郎が化鳥に吹矢を吹きかけた功で西丸書院番に召し出されたちょうどその日のことであったが、翌日紋太郎は扮装《みなり》を整え専斎のやしきへ挨拶に来た。
「専斎殿お喜びくだされ、意外のことから思いもよらず西丸詰めに召し出されましてな、ようやくお役米にありつきましてござるよ」
 こういってから多摩川における化鳥事件を物語った。
「で、今日では日本全国、その化鳥を発見《みつ》けたもの、ないしは死骸を探し出した者には、莫大なご褒美を授けるというお伝達《たっし》が出ているのでございますよ。……何んと世の中には不思議極まる大鳥があるものではござらぬかな」
 紋太郎はこう云って専斎を見た。いつもなら喜んでくれる筈のその専斎が今日に限って、あらぬことでも考えているようにとほん[#「とほん」に傍点]としてろくろく返辞さえしない。

    紋太郎熟慮

 これはおかしいと思ったので、
「専斎先生どうなされましたな? お顔の色が勝れぬが?」
「いや」と専斎はちょっとあわて、「実に全くこの世の中には不思議なことがござりますなア」
 取って付けたようにこう云ったが、
「藪殿、実はな、この私《わし》にも不思議なことがあったのでござるよ」
「ははあ、不思議とおっしゃいますと?」紋太郎は聞き耳[#「聞き耳」は底本では「聞み耳」]を立てる。
「……それがどうもいえませんて、口止めをされておりますのでな」
「なるほど、それではいえますまい」
「ところが私《わし》としてはいいたいのじゃ」
「秘密というものはいってしまいたいもので」
「一人で胸に持っているのがどうにも私には不安でな。――昨夜、それも夜中でござるが、化物屋敷へ行きましてな、不思議な怪我人を療治しました。……無論人間には相違ないが、肌が美しい桃色でな。それに産毛《うぶげ》が黄金色じゃ。……細い細い突き傷が一つ。そのまた傷の鋭さときたら。おおそうそうそっくりそうだ! 藪殿が得意でおやりになるあの吹矢で射ったような傷! それを療治しましたのさ。……ところで私はその邸で珍らしいものを見ましたよ。六歌仙の軸を見ましたのさ。……見たといえばもう一つ貧乏神を見ましてな。いやこれには嚇《おど》かされましたよ。……邸からして不気味でしてな。百畳敷の新築の座敷に金屏風が一枚立ててある。その裾の辺に老人がいる。十徳を着た痩せた武士でな。その陰々としていることは。まず幽霊とはあんなものですかね」
 こんな調子に専斎は、恐ろしかった昨夜の経験を悉く紋太郎に話したものである。
 紋太郎は黙って聞いていたが、彼の心中にはこの時一つの恐ろしい疑問が湧いたのであった。
 彼は自分の家へ帰ると部屋の中へ閉じ籠もり何やら熱心に考え出した。それから図面を調べ出した。江戸市中の図面である。
 それから彼は暇にまかせて江戸市中を歩き廻った。

 今夜のことご他言無用、もし他言なされる時は御身《おんみ》のためよろしくござらぬと、痩せた老人に注意されたのを、その翌日他愛なく破り、一切紋太郎にぶちまけたので、その祟りが来たのでもあろうか、(いや、そうでもないらしいが)とにかく専斎の身の上に一つの喜悲劇が起こったのはそれから間もなくのことであった。
 その日、専斎は六歌仙のうち、手に残った黒主の軸を床の間へかけて眺めていた。
「うむ、いつ見ても悪くはないな。それにしても惜しいのはお菊に盗まれた小野小町だ」
 いつも思う事をその時も思い、飽かず画面に見入っていた。もうその時は点燈頃《ひともしごろ》で、部屋の中は暗かったが、彼は故意《わざ》と火を呼ばず、黄昏《たそがれ》の微光の射し込む中でいつまでも坐って眺めていた。
 と、あろう事かあるまい事か、彼の眼の前で大友黒主が、次第に薄れて行くではないか。
「おやおや変だぞ。これはおかしい」
 驚いて見ているそのうちに黒主の絵は全く消え似ても似つかぬ異形の人物が朦朧《もうろう》とその後へ現われたが、よく見ればこれぞ貧乏神で、ニタリと一つ気味悪く笑うとスルスルと画面から抜け出した。見る見るうちに大きくなり、ニョッキリ前へ立ちはだかっ[#「はだかっ」に傍点]た。
 それが横へ逸《そ》れるかと思うと、庭の方へ歩いて行く。
「泥棒!」
 とばかり飛び上がり、恐さも忘れて組み付いた。ひょい[#「ひょい」に傍点]と飜《かわ》した身の軽さ。フワリと一つ団扇《うちわ》で煽《あお》ぎ、
「これこれ何んだ勿体ない! 俺は神じゃぞ貧乏神じゃ! 燈明を上げい、お燈明をな! 隣家の藪殿を見習うがよい。フフフフ、へぼ[#「へぼ」に傍点]医者殿」

    禍福塀一重

 お菊に軸を盗まれて以来、家族の者は一様に神経質になっていたが、「泥棒」という専斎の声が主人の部屋から聞こえると共に一斉に外へ飛び出した。出口入り口を固めたのである。
「庭へ出た! 裏庭へ廻れ!」専斎の声がまた聞こえた。
 その裏庭には屈強の弟子が三人まで固めていたが、薄穢いよぼよぼの老人が築山の裾をぐるりと廻り此方《こなた》へチョコチョコ走って来るので、不審の顔を見合わせた。
「まさか彼奴《きゃつ》じゃあるまいね」佐伯と云うのが囁いた。
「そうさ、あいつじゃあるまいよ。泥棒にしちゃ威勢が悪い」本田と云うのが囁き返す。
「しかし」と云ったのは山内というので、「変に見慣れない爺《じじい》じゃないか」
 その見慣れない変な爺《おやじ》はスーッとこの時走り寄って来たが、
「へい、皆様ご苦労様で」ひょこん[#「ひょこん」に傍点]と一つ頭を下げ、「泥棒なら向こうへ行きやしたぜ」主屋の方を指差した。
「うん、そうか」と行きかかる。とたんに聞こえて来る専斎の声。
「その爺《おやじ》を捕まえろ! その爺が泥棒だ!」
 あっ[#「あっ」に傍点]と云って振り返った時には、爺の姿は遙か向こうの塀の裾に見えていた。それ[#「それ」に傍点]っと云うので追っかける。その後から専斎が喘《あえ》ぎ喘ぎ走る。
 貧乏神は塀際に立ち、一丈に余る黒板塀をじっとその眼で計っていたが、若々しい鋭い元気のよい声で「ヤッ」と一声かけたかと思うと手掛かりもない塀の面をスーッと頂上《てっぺん》まで駈け上がったがそこでぐるり[#「ぐるり」に傍点]と振り返り、きわめて劇的の身振りをすると、
「馬鹿め! アッハハ」と哄笑し、笑いの声の消えないうちに隣家の庭へ飛び下りた。
 ようやく駈け付けた専斎は、
「藪殿! 藪殿! ご隣家の藪殿!」涸れ声を絞って呼びかけた。「賊がそちらへ逃げ込んでござる! 取り抑えくだされ取り抑えくだされ! それ一同表へ廻り藪殿お邸へ取り詰めるがよい!」

 この時紋太郎は部屋にいたが、「泥棒!」という声を聞くとすぐ縁側へ出て行った。
「また賊がご隣家へはいったそうな。よくよく泥棒に縁があると見える」
 呟きながら佇んでいると、庭を隔てた黒塀の上へ突然人影が現われた。
「さてこそ賊」と庭下駄を穿き庭を突っ切り追い逼ったが奇妙にも賊は逃げようともしない。
「藪殿か。私《わし》じゃ私じゃ」
 ヌッと顔を突き出した。
「おおあなたは貧乏神様で?」紋太郎はすっかり胆を潰した。
「さようさようその貧乏神じゃ。……何んとその後はいかがじゃな?」
「はい、近頃はお陰をもって……」
「ふむふむ、景気がよいそうな。それは何より重畳《ちょうじょう》重畳。みんな私のお陰じゃぞよ。なんとそうではあるまいかな。数代つづいて巣食っていた貧乏神が出て行ったからじゃ」
「仰せの通りにござります」
「で、私には恩がある。な、そうではあるまいかな?」
「はいはい、ご恩がございますとも」
「では、返して貰おうかな?」
「しかし、返せとおっしゃられても……」
「何んでもござらぬ。隠匿《かくま》ってくだされ」
「はて隠匿《かくま》うとおっしゃいますのは? ああ解りました。では[#「では」に傍点]あなた様は、また当邸へおいでなさる気で?」
「うんにゃ、違う! そうではござらぬ。私は隣家に住んでおるよ」
「専斎殿のお邸にな?」
「さようさようヘボ[#「ヘボ」に傍点]医者のな」
「道理で近来専斎殿は不幸つづきでござります」

    隣家の誼みも今日限り

「みんなこの私のさせる業《わざ》じゃ」
「ははア、さようでござりましたかな」
「どうも彼奴は乱暴で困る」
「さして乱暴とも見えませぬが……」
「私を泥棒じゃと吐《ぬか》しおる」
「なるほど、それは不届き千万」
「今私は追われている」
「それはお困りでござりましょうな」
「で、どうぞ隠《かくま》ってくだされ」
「いと易いこと。どうぞこちらへ」
 ――で、紋太郎は先に立ち自分の部屋へはいって行った。
 おりから玄関に訪《おと》なう声。
「藪殿藪殿! 御意《ぎょい》得たい! 専斎でござる。隣家の専斎で」
「これはこれは専斎殿、その大声は何用でござるな?」
 悠々と紋太郎は玄関へ出た。
「賊でござる! 賊がはいってござる!」
 医師専斎は血相を変え、弟子や家の者を背後《うしろ》に従え玄関先で怒鳴るのであった。
「拙者の邸へ賊がはいった? それはそれは一大事。ようこそお知らせくだされた。はてさて何を盗んだことやら」
「そうではござらぬ! そうではござらぬ!」
 専斎はいよいよ狼狽し、
「賊のはいったは愚老の邸。盗んだものは六歌仙の軸……」
「アッハハハ」とそれを聞くと紋太郎はにわかに哄笑した。「専斎殿、年甲斐もない、何をキョトキョト周章《あわ》てなさる。貴殿の邸へはいった賊をここへ探しに参られたとて、何んで賊が出ましょうぞ」
「いや」と専斉は歯痒そうに、「賊はこちらへ逃げ込んだのでござるよ!」
「ほほう、どこから逃げ込みましたかな?」
「黒板塀を飛び越えてな。お庭先へ逃げ込みました」
「それは何かの間違いでござろう。……拙者今までその庭先で吹矢を削っておりましたが、決してさような賊の姿など藉《か》りにも見掛けは致しませぬ」
「そんな筈はない!」
 と威猛高に、専斎は怒声を高めたが、
「お気の毒ながらお邸内を我らにしばらくお貸しくだされ。一通り捜索致しとうござる!」
「黙らっせえ!」
 と紋太郎、いつもの柔和に引き換えて一句烈しく喝破した。「たとえ隣家の誼《よし》みはあろうとそれはそれこれはこれ、かりにも武士の邸内を家探ししようとは出過ぎた振る舞い! そもそも医師は長袖《ながそで》の身分、武士の作法を存ぜぬと思えば過言の罪は許しても進ぜる。早々ここを立ち去らばよし、尚とやかく申そうなら隣家の交際《つきあい》も今日限り、刀をもってお相手致す! 何とでござるな! ご返答なされ!」
 提《さ》げて出た刀に反《そり》を打たせ、グッと睨んだ眼付きには物凄じいものがあった。文は元より武道においても小野二郎右衛門の門下として小野派一刀流では免許ではないが上目録まで取った腕前、体に五分の隙もない。
 魂を奪われた専斎が家人を引き連れ呆々《ほうほう》の態《てい》で、自分の邸へ引き上げたのは、まさにもっともの事であるがその後ろ姿を見送ると、さすがに気の毒に思ったか、ニヤリ紋太郎は苦笑した。
「これは少々嚇しすぎたかな。いやいや時にはやった方がいい。陽明学の活法じゃ」
 ……で、クルリと身を飜《ひるがえ》し自分の部屋へはいって行った。
 貧乏神の姿が見えない。
「おやおやいつの間にか立ち去ったと見える」
 用人三右衛門がはいって来た。
「おお三右衛、聞くことがある。貧乏神はどこへ行かれたな?」
「へ? 何でございますかな?」
「ここにおられたお客様だ」
「ああそのお方でござりますか。さっきお帰りになられました。綺麗な小粋《こいき》な若いお方で」
「え? なんだって? 若い方だって?」
「はいさようでございますよ」

    秘密の端緒をようやく発見

「いいや違う。穢《きたな》い老人だ」
「何を旦那様おっしゃることやら。ええとそれからそのお方がこういうものを置いてゆかれました。旦那様へ上げろとおっしゃいましてね」
 云い云い三右衛門の取り出したのは美しい一枚の役者絵であった。すなわち蝶香楼国貞筆、勝頼に扮した坂東三津太郎……実にその人の似顔絵であった。
「貧乏神が役者絵をくれる。……どうも俺には解らない」
 紋太郎は不思議そうに呟いたが、まことにもっとものことである。

「お役付きにもなりましたし、お役料も上がりますし、せめて庭などお手入れなされたら」
 用人三右衛門の進めに従い、庭へ庭師を入れることにした。
 紋太郎|自《みずか》ら庭へ出てあれこれ[#「あれこれ」に傍点]と指図をするのであった。
 ちょうど昼飯の時分であったが、紋太郎は何気なく庭師に訊いた。
「ええ、そち達は商売がら山手辺のお邸へも時々仕事にはいるであろうな?」
「はい、それはもうはいりますとも」
 五十年輩の親方が窮屈そうにいったものである。
「つかぬ[#「つかぬ」に傍点]事を訊くようだが、百畳敷というような大きな座敷を普請したのを今頃《このごろ》どこかで見掛けなかったかな?」
「百畳敷? 途方もねえ」親方はさもさも驚いたように、「おいお前達心当りはないかな? あったら旦那様に申し上げるがいい」
 二人の弟子を見返った。
「へえ」といって若い弟子はちょっと顔を見合わせたが、
「実は一軒ございますので」
 長吉というのがやがていった。
「おおあるか? どこにあるな?」
「へえ、本郷にございます」
「うむ、本郷か、何んという家だな?」
「へい、写山楼と申します」
「写山楼? ふうむ、写山楼?」紋太郎はしばらく考えていたがにわかにポンと膝を打った。
「聞いた名だと思ったが写山楼なら知っている」
「へえ、旦那様はご存知で?」
「文晁《ぶんちょう》先生のお邸であろう?」
「へえへえ、さようでござりますよ」
「※[#「睫」の「目」に代えて「虫」、80-14]叟無二《しょうそうむに》、画学斎、いろいろの雅号を持っておられるが、画房は写山楼と名付けられた筈だ。……ふうむ、さようか、写山楼で、さような大普請をなされたかな。……えっと、ところで、その写山楼に、痩せた気味の悪い老人が一人住んではいないかな?」
「さあそいつは解らねえ。何しろあそこのお邸へは、種々雑多な人間がのべつ[#「のべつ」に傍点]にお出入りするのでね」――職人だけに物のいい方が、飾り気がなくぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]である。
「おお、そうであろうそうであろう。これは聞く方が悪かった。……文晁先生は当代の巨匠、先生の一|顧《こ》を受けようと、あらゆる階級の人間が伺向するということだ」
「へえへえ旦那のおっしゃる通りいろいろの人が参詣します。武士《りゃんこ》も行くし商人《あきんど》も行くし、茶屋の女将《おかみ》や力士《すもうとり》や俳優《やくしゃ》なんかも参りますよ。ええとそれからヤットーの先生。……」
「何だそれは? ヤットーとは?」
「剣術使いでございますよ」
「剣術使いがヤットーか、なるほどこれは面白いな」
「ヤットー、ヤットー、お面お胴。こういって撲りっこをしますからね」
「それがすなわち剣術の稽古だ」
「それじゃ旦那もおやりですかね?」
「俺もやる。なかなか強いぞ」
「えへへへ、どうですかね」
「こいつがこいつが悪い奴だ。笑うということがあるものか」
 などと紋太郎は職人相手に無邪気な話をするのであったが、心のうちにはちゃあん[#「ちゃあん」に傍点]とこの時一つの目算《もくろみ》が出来上がっていた。

    深夜の写山楼

 明日ともいわずその日の夕方、藪紋太郎は邸を出て、写山楼へ行くことにした。
 当時写山楼の在り場所といえば、本郷駒込林町で、附近に有名な太田ノ原がある。太田道灌の邸跡でいまだに物凄い池などがあり、狐ぐらいは住んでいる筈だ。
 さて紋太郎は出かけたものの本所割下水から本郷までと云えばほとんど江戸の端《はし》から端でなかなか早速には行き着くことが出来ない。それで途中から駕籠に乗ったがこの駕籠賃随分高かったそうだ。
 本郷追分で駕籠を下りた頃にはとうに初夜《しょや》を過ごしていた。季節は極月《ごくげつ》にはいったばかり、月も星もない闇の夜で雪催いの秩父|颪《おろし》がビューッと横なぐりに吹いて来るごとに、思わず身顫いが出ようという一年中での寒い盛り。……
「好奇《ものずき》の冒険でもやろうというには、ちとどうも今夜は寒過ぎるわい」
 などと紋太郎は呟きながら東の方へ足を運んだ。郁文館中学から医学校を通りそれから駒込千駄木町団子坂の北側を過《よぎ》りさらに東北へ数町行くと駒込林町へ出るのであるがもちろんこれは今日の道順《みち》で文政末年には医学校もなければ郁文館中学もあろう筈がない。そうして第一その時代には林町などという町名なども実はなかったかもしれないのである。
 一群れの家並を通り過ぎ辻に付いてグルリと廻ると突然広い空地へ出たが、その空地の遙か彼方《あなた》にあたかも大名の下邸のような宏荘な建物が立っていた。
 これぞすなわち写山楼である。
「うむ、ずいぶん宏大なものだな」
 紋太郎はそこで立ち止まりそっと四辺《あたり》を見廻した。別に悪事をするのではないが由来冒険というものはどうやら悪事とは親戚と見え同じような不安の心持ちを当人の心へ起こさせるものだ。
「さてこれからどうしたものだ? ……まずともかくももう少し写山楼へ接近して周囲《まわり》の様子から探ることにしよう」
 ――で、紋太郎は歩き出した。
 初夜といえば今の十時、徳川時代の十時といえば大正時代の十二時過ぎ、ましてこの辺は田舎ではあり人通りなどは一人もなく写山楼でも寝てしまったか燈火《ともしび》一筋洩れても来ない。
 厳《いか》めしい表門の前まで来て紋太郎は立ち止まった。
「まさかここからは忍び込めまい。……それでもちょっと押して見るかな」
 で、紋太郎は手を延ばし傍《そば》の潜門《くぐり》を押して見た。
「どなたでござるな?」と門内からすぐに答える声がした。「土居様お先供ではござりませぬかな? しばらくお待ちくだされますよう」
 しばらくあって門が開いた。
 もうその頃には紋太郎は少し離れた榎《えのき》の蔭に身を小さくして隠れていたが、
「土井様と云えば譜代も譜代|下総《しもうさ》古河で八万石|大炊頭《おおいのかみ》様に相違あるまいが、さては今夜写山楼へおいでなさるお約束でもあると見える。……それにしてもさすがに谷文晁《たにぶんちょう》、たいしたお方を客になさる」
 驚いて様子を見ていると、門番の声が聞こえて来た。
「何んだ何んだ誰もいねえじゃねえか。こいつどうも驚いたぞ。ははアさては太田ノ原の孕《はら》み狐めの悪戯《いたずら》だな」
「どうしたどうした、え、狐だって?」相棒の声が聞こえて来る。「気味が悪いなあ、締めろ締めろ!」
 ギ――と再び門の締まる陰気な音が響いたが森然《しん》とその後は静かになった。
 で、紋太郎はそろそろと隠れ場所から現われたが、足音を盗み塀に添い裏門の方へ歩いて行った。
 裏門も厳重に締まっている。乗ずべき隙などどこにもない。

    待て! と突然呼ぶ者がある

 それでも念のため近寄って邸内の様子を覗こうとした。
「どなたでござるな?」
 と門内から、すぐに咎める声がした。「ここは裏門でござります。塀に付いてグルリとお廻りくだされ、すぐに表門でござります。……ははア柳生様のお先供で、ご苦労様に存じます」
「おやおやそれでは柳生侯も今夜はここへおいでと見える。大和正木坂で一万石、剣道だけで諸侯となられた但馬守様《たじまのかみさま》は剣《つるぎ》の神様、えらいお方がおいでになるぞ」
 紋太郎いささか胆を潰し表門の方へ引っ返した。
「待て!」
 と突然呼ぶ声がした。闇の中からキラリと一筋光の棒が走り出たが紋太郎の体を照らしたものである。その光が一瞬で消えると黒い闇をさらに黒めて一人の武士が現われた。宗十郎頭巾に龕燈提灯《がんどうちょうちん》、供の者が三人|従《つ》いている。
 グルリと紋太郎を囲繞《とりま》いたが、
「この夜陰に何用あってここ辺りを彷徨《さまよ》われるな? お見受け致せばお武家のご様子、藩士かないしはご直参か、ご身分ご姓名お宣《なの》りなされい」
 言葉の様子が役人らしい。
 こいつはどうも悪いことになった。――こう紋太郎は思いながら、
「そういうお手前達は何人でござるな?」
 心を落ち着けて訊き返した。
「南町奉行手附きの与力、拙者は松倉金右衛門、ここにいるは同心でござる」
「与力衆に同心衆、ははあさようでござるかな。……拙者は旗本藪紋太郎、実は道に迷いましてな」
「なに旗本の藪紋太郎殿? ははア」
 といったがどうしたものかにわかに態度が慇懃《いんぎん》になった。しかしいくらか疑がわしそうに、
「お旗本の藪様とあっては当時世間に名高いお方、それに相違ござりませぬかな?」
「なになに一向有名ではござらぬ」紋太郎は闇の中で苦笑したが、「一向有名ではござらぬがな、藪紋太郎には間違いござらぬよ」
「吹矢のご名手と承わりましたが?」
「さよう、少々|仕《つかまつ》る」
「多摩川におけるご功名は児童走卒も存じおりますところ……」
「なんの、あれとて怪我の功名で」
「ええ誠に失礼ではござるが、貴所様が藪殿に相違ないという何か証拠はござりませぬかな?」
「証拠?」といって紋太郎ははたとばかりに当惑したが、「おお、そうそう吹矢筒がござる」
 こういって懐中から取り出したのは常住座臥放したことのない鳥差しの丑《うし》から貰ったところの二尺八寸の吹矢筒であった。
「ははあこれが吹矢筒で? いやこれをご所持の上は何んの疑がいがございましょうぞ」
 こういっている時一団の人数が粛々と此方《こなた》へ近寄って来たが、それと見て与力や同心が颯《さっ》っと下がって頭《かしら》を下げたのは高い身分のお方なのであろう。
「変わったことでもあったかの?」
 こういいながら一人の武士が群れを離れて近寄って来た。どうやら一団の主人公らしい。
「は」といったのは与力の松倉で、「殿にもご承知でござりましょうが、藪紋太郎殿道に迷われた由にてこの辺を彷徨《さまよ》いおられましたれば……」
「ああこれこれ、その藪殿、どこにおられるな、どこにおられるな?」
 そういう声音《こわね》に聞き覚えがあったので、
「ここにおります。……拙者藪紋太郎……」
「おお藪殿か。私は和泉《いずみ》じゃ」
「おおそれでは南お町奉行筒井和泉守様でござりましたか」
「藪殿、道に迷われたそうで」
「道に迷いましてござります」
「よい時道に迷われた。藪殿、よいものが見られますぞ。アハハハ」
 と和泉守、何と思ったか笑ったものである。

    諸侯の乗り物陸続として来たる

 和泉守と紋太郎とは役向きの相違知行の高下から、日頃|交際《まじわり》はしていなかったが、顔は絶えず合わせていた。というのは和泉守が家斉公のお気に入りでちょくちょく西丸へやって来てはご機嫌を窺《うかが》って行くからで、西丸書院番の紋太郎とは厭でも自然顔を合わせる。殊には和泉守は学問好き、それに非常な名奉行で、在職年限二十一年、近藤守重の獄を断じて一時に名声を揚げたこともあり、後年|冤《えん》によってしりぞけられたが忽ち許されて大目附に任じ、さらに川路聖謨《かわじせいばく》と共に長崎に行って魯使《ろし》と会し通商問題で談判をしたり、四角八面に切って廻した幕末における名士だったので、紋太郎の方では常日頃から尊敬してもいたのであった。
[#ここから4字下げ]
いぎりすもふらんすも皆里言葉たびたび来るは厭でありんす
[#ここで字下げ終わり]
 和泉守の狂歌であるがこんな洒落気《しゃれけ》もあった人物《ひと》で、そうかと思うと何かの都合で林大学頭が休講した際には代わって経書を講じたというから学問の深さも推察される。
「さあ方々《かたがた》部署におつきなされ」
 和泉守は命を下す。
「はっ」と云うと与力同心一斉にバラバラと散ったかと思うと闇に隠れて見えなくなり、後には和泉守と紋太郎と和泉守を守護する者が、四五人残ったばかりである。
「藪氏、此方《こなた》へ」
 と云いながら和泉守は歩き出した。
「ここがよろしい」と立ち止まったのはさっき紋太郎が身を忍ばせた門前の大榎の蔭である。
 と、その時、空地の彼方《あなた》、遙か西南の方角にあたって一点二点三点の灯が闇を縫ってユラユラ揺れたが次第にこっちへ近寄って来た。
 近付くままによく見れば一挺の駕籠を真ん中に囲んだ二十人余りの武士の群れで、写山楼差して進んで行く。やがて門前まで行き着くとひた[#「ひた」に傍点]とばかりに止まったが、二声三声押し問答。ややあって門がギーとあく。駕籠も同勢も一度に動いてすぐと中へ吸い込まれた。
 後は森閑と静かである。
 と、和泉守が囁いた。
「上州安中三万石、板倉殿の同勢でござるよ」
「ははあ、さようでございますかな」紋太郎はちょっと躊躇《ためら》ったが、「それに致しても何用ござってそのように立派な諸侯方がこのような夜陰に写山楼などへおいで遊ばすのでござりましょう」
「それか、それはちと秘密じゃ」
 和泉守は笑ったらしい。「見られい。またも参られるようじゃ」
 はたして遙かの闇の中に二三点の灯がまばたいたがだんだんこっちへ近寄って来る。やはり同じような同勢であった。真ん中に駕籠を囲んでいる。門まで行くと門が開き忽ち中へ吸い込まれた。
「犬山三万五千石成瀬殿のご同勢じゃ」
 和泉守は囁いた。それから追っかけてこういった。「大御所様二十番目の姫|満千姫君《まちひめぎみ》のお輿入《こしい》れについては、お噂ご存知でござろうな?」
「は、よく承知でござります」
「上様特別のご愛子じゃ」
「さよう承わっておりまする」
「お輿入れ道具も華美をきわめ、まことに眼を驚かすばかりじゃ」
「は、そうでございますかな」
「今夜のこともやがて解ろう。……おおまたどなたかおいでなされたそうな」
 はたして提灯を先に立て一団の人数が粛々と駕籠を囲繞《とりま》いて練って来たが、例によって門がギーと開くとスーッと中へ消え込んだ。
「あれこれ柳生但馬守様じゃ」
 云う間もあらず続いて一組同じような人数がやって来た。

    塀へ掛けた縄梯子

「信州高島三万石諏訪因幡守様ご同勢」
「ははあさようでござりますかな」
 おりからまたも、一団の人数闇を照らしてやって来たが百人あまりの同勢であった。
「藪氏、あれこそ毛利侯じゃ」
「長門国《ながとのくに》萩の城主三十六万九千石毛利大膳大夫様でござりますかな」
「さよう。ずいぶん凛々《りり》しいものじゃの長州武士は歩き方から違う」
 間もなく毛利の一団も写山楼の奥へはいって行った。
 追っかけ追っかけその後から幾組かの諸侯方の同勢が、いずれも小人数の供を連れ、写山楼差してやって来た。
 五万八千石|久世《くぜ》大和守。――常州関宿の城主である。喜連川《きつれがわ》の城主喜連川左馬頭――不思議のことにはこの人は無高だ。六万石小笠原佐渡守。二万石鍋島熊次郎。二万千百石松平左衛門尉。十五万石久松|隠岐守《おきのかみ》。一万石一柳|銓之丞《せんのじょう》。――播州小野の城主である。六万石石川主殿頭。四万八千石青山|大膳亮《だいぜんのすけ》。一万二十一石遠山美濃守。十万石松平大蔵大輔。三万石大久保佐渡守。五万石安藤長門守。一万千石米津啓次郎。五万石水野大監物。そうして最後に乗り込んで来たは土居大炊頭利秀公で総勢二十一|頭《かしら》。写山楼へギッシリ詰めかけたのであった。
 やがて全く門が締まると、ドーンと閂《かんぬき》が下ろされた。
 後はまたもや森閑として邸の内外音もない。
「いったいこれからどうなるのかしら?」
 紋太郎には不思議であった。町奉行直々の出張《でばり》といい諸侯方の参集といい捕り物などでないことはもはや十分解っていたが、それなら全体何事がこの邸内で行われるのであろう? こう考えて来て紋太郎は行き詰まらざるを得なかった。
「上は三十七万石の毛利という外様の大名から、下は一万石の譜代大名まで、外聞を憚っての深夜の会合。いずれ重大の相談事が執行《とりおこな》われるに相違あるまいが、さてどういう相談事であろうか? 密議? もちろん! 謀反の密議?」
 こう思って来て紋太郎はゾッとばかりに身顫いしたが、
「いやいや治まれるこの御世《みよ》にめったにそんな事のある訳はない。その証拠には町奉行和泉守様のご様子が酷く悠長を極わめておられる」
 その時、和泉守が囁いた。
「藪氏、藪氏、こちらへござれ」
 裏門の方へ歩いて行く。
 裏門まで来て驚いたのは、さっきまで闇に埋ずもれていた高塀の内側が朦朧と光に照らされていることで、その仄かな光の色が鬼火といおうか幽霊火といおうか、ちょうど夏草の茂みの中へ蝋燭の火を点したような妖気を含んだ青色であるのが特に物凄く思われた。
「梯子を掛けい」
 と和泉守が、与力の一人へ囁いた。
「はっ」というと神谷というのがつかつか[#「つかつか」に傍点]と前へ進んだが、手に持っていた一筋の縄を颯《さっ》と投げると音もなくタラタラと高塀へ梯子が掛かる。いうまでもなく縄梯子だ。
「よし」というと和泉守はその縄梯子へ手をかけたが、身を浮かばせてツルツルと上がる。
 しばらく邸内を窺ったが、やがて地上へ下り立つと、
「藪氏、ちょっとご覧なされ、面白いものが見られます」
「は、しかし拙者など。……」
「私が許す。ご覧なさるがよい」
「それはそれは有難いことで。しからばご好意に従いまして」
「おお見られい。がしかし、驚いて眼をば廻されな」
「は」といったが紋太郎、無限の好奇心を心に抱き一段一段縄梯子を上の方へ上って行った。
 間もなく塀頭《へいがしら》へ手が掛かる。ひょい[#「ひょい」に傍点]と邸内を覗いて見て「むう――」と思わず唸ったものである。

    百鬼夜行

 まず真っ先に眼に付いたのは、数奇を凝らした庭であったが、無論それには驚きはしない。第二に彼の眼に付いたは見霞むばかりの大座敷が、庭園の彼方《あなた》に立っていた。
「うむ、これこそ百畳敷……」と、こう思ったそのとたん、百畳敷の大広間に奇々怪々の生物《いきもの》があるいは立ちあるいは坐りあるいはキリキリと片足で廻りあるいは手を突いて逆立ちし、舌を吐く者眼を剥《む》く者おどろ[#「おどろ」に傍点]の黒髪を振り乱す者。――そうして、それらの生物のそのある者は三つ目でありまたある者は一つ目でありさらにある者は醤油樽ほどの巨大な頭を肩に載せた物凄じい官女であり、さらにさらにある者は眉間尺《みけんじゃく》であり轆轤首《ろくろくび》であり御越入道《みこしにゅうどう》である事を驚きの眼に見て取ったのであった。……そうしてそれらの妖怪どもは例の蒼然たる鬼火の中で蠢《うごめ》き躍っているのであった。化物屋敷! 百鬼夜行!
 で、思わず「むう――」と唸ったのである。
「藪氏、藪氏、お下りなされ」
 下から呼ぶ和泉守の声に、はっ[#「はっ」に傍点]と気が付いて紋太郎は急いで梯子を下へ下りた。
「どうでござったな? あの妖怪は?」
 和泉守は笑いながら訊いた。
「不思議千万、胆を冷しました」
「アッハハハさようでござろう」
「彼ら何者にござりましょうや?」
「見られた通り妖怪じゃ」
「しかし、まさか、この聖代に。……」
「妖怪ではないと思われるかな」
「はい、さよう存ぜられますが」
「妖怪幾匹おられたか、その辺お気を付けられたかな?」
「はい私数えましたところ二十一匹かと存ぜられまする……」
「さようさよう二十一匹じゃ」
「やはりさようでございましたかな。……ううむ、待てよ、これは不思議!」
「不思議とは何が不思議じゃな?」
「諸侯方も二十一人。妖怪どもも二十一匹」
「ははあようやく気が付かれたか。……まずその辺からご研究なされ」
 和泉守はこう云うとそのままむっつり[#「むっつり」に傍点]と黙ってしまった。話しかけても返事をしない。
 こうして時間が経って行く。
 と、射していた蒼い光が忽然パッと消えたかと思うと天地が全く闇にとざされ木立にあたる深夜の嵐がにわかに勢いを強めたと見えピューッピューッと凄い音を立てた。
「表門の方へ」
 といいすてると和泉守は歩き出した、一同その後について行く。
 榎木の蔭に佇《たたず》んで表門の方を眺めているとギーと門が八文字に開いた。タッタッタッタッと駕籠を守って無数の同勢が現われたが、毛利侯を真っ先に二十一|頭《かしら》の大名が写山楼を出るのであった。
 再び闇の空地を通い諸侯の駕籠の町に去った後の、写山楼の寂しさは、それこそ本当に化物屋敷のようで、見ているのさえ気味が悪かった。
「もう済んだ」
 と呟くと和泉守は合図をした。いわゆる引き上げの合図でもあろう、手に持っていた龕燈《がんどう》を空へ颯《さっ》と向けたのである。それと同時に物の蔭からむらむらと[#「むらむらと」に傍点][#「むらむらと[#「むらむらと」に傍点]」は底本では「らむらと[#「らむらと」に傍点]」]人影が現われたが、人数およそ百人余り、悉く与力と同心であった。
「藪氏」
 と和泉守は声をかけた。「おさらばでござる。いずれ殿中で……」
「は」
 といったが紋太郎はどういってよいかまごついた。
「あまり道など迷われぬがよい。アッハハハお帰りなされ」
 いい捨て部下を引き連れると町の方へ引き上げて行った。
 後を見送った紋太郎はいよいよ益※[#二の字点、1-2-22]とほん[#「とほん」に傍点]として茫然《ぼんやり》せざるを得なかった。
「これはこれは何という晩だ! これはこれは何ということだ!」
 つづけさまに呟いたが、何んの誇張もなさそうである。

    駕籠と馬

 こういうことがあってからいよいよ益※[#二の字点、1-2-22]紋太郎は写山楼へ疑惑の眼を向けた。
「どうも怪しい」と思うのであった。
「専斎殿の話によれば、ちょうど吹矢で射られたような不思議な金創の人間を、あの写山楼の百畳敷でこっそり療治をしたというが、あるいはそれは人間ではなくて例の化鳥と関係あるもの――半人半妖というような妖怪変化ではあるまいか? それにもう一つ何んのために二十一人の大名があの夜あそこへ集まったのであろう? そうして奇怪な妖怪|舞踊《おどり》!」――こう考えて来ると紋太郎には、あの名高い写山楼なるものが恐ろしい悪魔の住家にも思われ、また陰険な謀叛人の集会所《あつまりじょ》のようにも思われるのであった。
「そうだ時々監視しよう」
 下城の途次はいうまでもなく非番の日などには遠い本所からわざわざ写山楼まで出かけて行きそれとなく様子を探ることにした。
 それはあの晩から十日ほど経ったある雪降りの午後であったが、例によって下城の途次、写山楼まで行って見た。
 グーングーングーングーン! 何んともいえない奇怪な音が裏庭の方から聞こえて来た。
 その音こそ忘れもしない多摩川の空で垂天の大鵬《おおとり》が夕陽を浴びながら啼いたところのその啼き声と同じではないか。
 紋太郎は思わず「あっ」といった。それから「しめたッ」と叫んだものである。
 彼はじっと考え込んだ。
「ううむやっぱりそうだったのか! 俺の睨みは外れなかったと見える……もうあの音の聞こえるからは化鳥の在所《ありか》はいわずと知れたこの写山楼に相違ない」
 彼の勇気は百倍したが、しかしこのまま写山楼へ踏み込むことも出来なかったのでグルグル塀外を歩き廻り尚その音を確かめようとした。
 しかし音は瞬間に起こりしかして瞬間に消えてしまったのでどうすることも出来なかった。
「だんだん夜は逼って来る。やんでいた雪も降り出して来た。さてこれからどうしたものだ。……うむしめた! 明日は非番だ! 今日はこのまま家へ帰り明日は朝から出張ることにしよう」
 で、充分の未練を残し彼が邸へ帰り着いたのはその日もとっぷり暮れた頃であったが翌日は扮装《みなり》も厳重にし早朝から邸を出た。
 昨日の雪が一二寸積もり、江戸の町々どこを見ても白一色の銀世界で今出たばかりの朝の陽が桃色に雪を染めるのも冬の清々《すがすが》しい景色として何とも云えず風情《ふぜい》がある。
 吾妻橋を渡り浅草へ抜け、雷門を右に睨み、上野へ出てやがて本郷、写山楼まで来た時にはもう昼近くなっていた。
「おや」と云って紋太郎は思わず足を止どめたものである。
 今、写山楼の門をくぐり駕籠が一挺現われた。駕籠|側《わき》に二人の武士がいる。そうして駕籠の背後《うしろ》からはさも重そうに荷を着けた二頭の馬が従《つ》いて来る。遠い旅へでも出るらしい。
「これはおかしい」
 と云いながら過ぎ行く駕籠と馬の後をじっと紋太郎は見送ったが、ハイカラにいえば六感の作用、言葉を変えればいわゆる直覚で、その奇妙な一行が紋太郎には気になった。
「……邸を見張ろうか? 駕籠を尾行《つけ》ようか? どうもこいつは困ったぞ。……えい思い切って駕籠を尾行《つけ》てやれ!」
 彼はようやく決心し、駕籠の後を追っかけた。
 日本橋から東海道を、品川、川崎、神奈川と駕籠と馬とは辿って行く。
 程《ほど》ヶ谷、戸塚と来た頃にはその日もとっぷりと暮れてしまった。彼らの泊まったのは藤屋という土地一流の旅籠屋であった。そこで紋太郎も同じ宿へ草鞋《わらじ》を解かざるを得なかった。

    駕籠を追って

 馬の鈴音、鳥の声、竹に雀はの馬子の唄に、ハッと驚いて眼を覚すと紋太郎は急いで刎ね起きた。雨戸の隙から明けの微茫が蒼く仄々《ほのぼの》と射している。
 その時|使女《こおんな》が障子をあけた。
「もうお目覚めでございますか。お顔をお洗いなさりませ」
「うん」といって廊下へ出る。
「階下《した》のお客様はまだ立つまいな?」
 何気なく女に訊いてみた。
「階下《した》のお客様とおっしゃいますと?」
「駕籠を座敷まで運ばせた客だ」
「はいまだお立ちではございません」
「駕籠の中には誰がいたな」
「さあそれがどうも解りませんので」
「解らないとは不思議ではないか」
「駕籠からお出になりません」
「食事などはどうするな」
「二人の若いお武家様が駕籠までお運びになられます」
「ふうむ、不思議なお客だな」
「不思議なお客様でございます」
「ええと、ところで二頭の馬、そうだあの馬はどうしているな?」
「厩舎《うまや》につないでございます」
「重そうな荷物を着けていたが」
「重そうな荷物でございます」
「あの荷物はどうしてあるな?」
「やはり二人のお武家様が自分で下ろして自分で片付け、決して人手に掛けませんそうで」
「何がはいっているのであろう?」
「何がはいっておりますやら」
「鳥の死骸ではあるまいかな」
「え?」
 と女は眼を丸くした。
「大きな鳥の死骸」
「あれマア旦那様、何をおっしゃるやら」
 笑いながら行ってしまった。
 ざっと洗って部屋へ戻る。
 まず茶が出てすぐに飯。そこそこに食《したた》めて煙草《たばこ》を飲む、茶代をはずみ宿賃を払い門口の気勢《けはい》に耳を澄ますと「お立ち」という大勢の声。
 そこで紋太郎も部屋を出た。玄関へつかつか行って見るとまさに駕籠が出ようとしていて往来には二頭の馬がいる。
 やがて駕籠脇に武士が付いて一行粛々と歩き出した。
「お大事に遊ばせ」「またお帰りに」こういう声を聞き流し紋太郎も続いて宿を出た。
 今日も晴れた小春日和で街道は織るような人通りだ。商人、僧侶、農夫、乞食、女も行けば子供も行く。犬の吠え声、凧《たこ》の唸り、馬の嘶《いななき》、座頭の高声、弥次郎兵衛も来れば喜太八も来る。名に負う江戸の大手筋東海道の賑やかさは今も昔も変わりがない。
 その人通りを縫いながら駕籠と馬とは西へ下った。そうしてそれを追うようにして紋太郎も西へ下るのであった。
 藤沢も越え平塚も過ぎ大磯の宿を出外れた時、何に驚いたか紋太郎は「おや」といって立ち止まった。
「これは驚いた、貧乏神が行く」
 なるほど、彼から五間ほどの前を――例の駕籠のすぐ後から――後ろ姿ではあるけれど、渋団扇を持ち腰衣を着けた、紛《まご》うようもない貧乏神がノコノコ暢気《のんき》そうに歩いて行く。
「黙っているのも失礼にあたる。どれ追い付いて話しかけて見よう」
 こう思って足を早めると、貧乏神も足を早め、見る見る駕籠を追い抜いてしまった。
「よしそれでは緩《ゆっく》り行こう」――紋太郎はそこで足をゆるめた。
 するとやはり貧乏神も、ゆっくりノロノロと歩くのであった。
 こうして一行は馬入川も越し点燈頃《ひともしごろ》に小田原へはいった。
 越前屋という立派な旅籠屋。そこが一行の宿と決まる。

 戸外《そと》では雪が降っている。
 旅籠屋の夜は更けていた。人々はおおかたねむったと見えて鼾《いびき》の声が聞こえるばかり、他には何んの音もない。
 静かに紋太郎は立ち上がった。障子を開け廊下へ出、階段の方へ歩いて行く。
 階段を下りると階下の廊下で、それを右の方へ少し行くと、目差す部屋の前へ、出られるのであった。
 そろそろと廊下を伝いながらも紋太郎は気が咎めた。胸が恐ろしくわくわくする。しかし目差すその部屋がすぐ眼の前に見えた時にはぐっと[#「ぐっと」に傍点]勇気を揮い起こしたが、その部屋の前に彼より先に、一人の異形な人間が部屋の様子を窺いながらじっと[#「じっと」に傍点]佇んでいるのを見ると仰天せざるを得なかった。しかも異形のその人間は渋団扇を持った貧乏神である。
「むう、不思議! これは不思議!」
 ――思わず紋太郎が唸ったのはまさにもっとものことである。

    団十郎と三津五郎

 文化文政天保へかけて江戸で一流の俳優と云えば七代目団十郎を筆頭とし仁木弾正《につきだんじょう》を最得意とする五代目松本幸四郎、市川|男女蔵《おめぞう》、瀬川菊之丞、岩井半四郎は云うまでもなく坂東三津五郎も名人として空前の人気を博していた。
「三津五郎《やまとや》さん、おいでかな」
 ある日こう云って訪ねて来たのは七代目市川団十郎であった。
「これはこれは成田屋さんようこそおいでくだされた。さあさあどうぞお上がりなすって」
「ごめんよ」
 といって上がり込んだがこの二人は日頃から取り分け仲がよいのであった。
「えらいことが持ち上がってね」団十郎《なりたや》は煙草を吹かしながら、「上覧芝居を打たなくちゃならねえ」
「上覧芝居? へ、なるほど」三津五郎《やまとや》はどうやら腑に落ちないらしく、「へえどなたのご上覧で?」
「それがさ、西丸の大御所様」
「ははあなるほど、これはありそうだ」
「満千姫《まちひめ》様のお輿入れ、これはどなたもご存知だろうが、一旦お輿入れをなされては容易に芝居を見ることも出来まい、それが不愍《ふびん》だと親心をね、わざわざ西丸へ舞台を作り、私達一同を召し寄せてそこで芝居をさせようという、大御所様のご魂胆だそうだ」
「大いに結構じゃありませんか。……で、もうお達しがありましたので?」
「ああ、あったとも、葺町《ふきちょう》の方へね」
「そりゃ結構じゃございませんか」
「云うまでもなく結構だが、さあ出し物をどうしたものか」
「で、お好みはございませんので?」
「そうそう一つあったっけ、紋切り形でね『鏡山』さ」
「ナール、こいつは動かねえ。……ところで、ええと、後は?」
「こっちで随意に選ぶようにとばかに寛大《おおまか》なお達しだそうで」
「へえ、さようでございますかな。かえってどうも困難《むずかし》い」
「さあそこだよ、全くむずかしい。委せられるということは結構のようでそうでない」
「いやごもっとも」
 といったまま三津五郎はじっと考え込んだ。と、不意に団十郎《なりたや》はいった。
「家の芸だが『暫《しばらく》』はどうかな?」
「なに『暫《しばらく》』? さあどうでしょう」
「もちろん『暫《しばらく》』は家の芸だ。成田屋の芸には相違ないが、出せないという理由もない」
「えい、そりゃ出せますとも。しかし皆さん納まりましょうか?」
「私もそれを案じている」
「私もそれが心配です」
「といって私は是非出したい。……あなたさえ諾《うん》といってくれたら」
「さあ」
 といったが三津五郎は応とも厭ともいわなかった。
 ここは金龍山瓦町で、障子を開けると縁側越しに隅田川が流れている。
 ぽかぽか暖かい小六月、十二月十二日とは思われない。
 ははアさては成田屋め俺を抱き込みに来おったな。――こう三津五郎は思ったが別に腹も立たなかった。「これはいかさま成田屋としては『暫《しばらく》』を出しても見たいだろう。文政元年十一月に親父|白猿《はくえん》の十三回忌に碓氷《うすい》甚太郎定光で例の連詞《つらね》を述べたまま久しくお蔵になっていたのだからな。その連詞《つらね》が問題となり鼻高の幸四郎がお冠《かんむり》を曲げえらい騒ぎになりかけたものだ。なるほど、それを持ち出して上覧に入れようということになるとまたみんな大いに騒ぐかもしれない。しかし成田屋は父にも勝る珍らしい近世の名人だ。利己主義とそして贅沢《ぜいたく》が疵《きず》と云えば、大いに疵であるが大眼に見られないこともない。……それに俺とはばか[#「ばか」に傍点]に懇意だ。抱き込まれてもいいじゃないか」――悧巧者の三津五郎は、早くもここへ気が付いた。

    三津太郎の噂

「ナーニ私は諾《うん》と云います。がどうでしょう幸四郎《ごだいめ》が?」
「なあにあなたさえ諾《うん》と云ったらそこは日頃の仁徳です、誰が何んと云いますものか」
「さあそれならこれは決まった。ところで後の出し物は?」
「それは皆《みんな》と相談して」
「いやいやこれも大体のところはここであらまし[#「あらまし」に傍点]決めた方が話が早いというものだ」
「なるほど、それももっともだ。……心当たりがありますかえ」
「幸四郎《ごだいめ》の機嫌を取らないとね」三津五郎はちょっと考えたが、
「仁木《につき》を振って千代萩か」
「御殿物が二つ続く」
「どうもこいつアむずかしい」
「ではどうでしょう『関の戸』は?」
「ははあそこへ行きましたかな」
「幸四郎《ごだいめ》の関兵衛、立派ですぜ」
「そうしてあなたの墨染《すみぞめ》でね」
「私はどうでもよろしいので」
「いやいや是非ともそうなくてはならない。よろしい決めましょう『関の戸』とね」
「これで二つ決まりました」
「ついでに三つ目を……さあ何がいいかな」
 二人はしばらく考えた。
 籠鶯《やぶうぐいす》の啼音《なくね》がした。軒の梅へでも来たのであろう。ギーギーと櫓《ろ》の音がする。川を上る船の櫓だ。
「おおところで太郎さんは?」
 団十郎は何気なく思い出したままに訊いて見た。
 すると三津五郎は苦笑したが、
「また病気が起こりましてね」
「それじゃ、家にはおいでなさらない?」
「昨日から姿が見えません。……ところでいかがですな小次郎さんは?」
「小次郎は家におりますよ」
「おいでなさる? これは不思議。私《わし》は一緒かと思ったに」
「さようさ、いつもは御酒徳利《おみきどっくり》で、きっと連れ立って行くんですからね」
「へえ、家においでなさる?」
「今度は家におりますよ」
「それじゃ家の三津太郎だけがヒョコヒョコ出かけて行ったんですな」
 三津五郎は眼を顰《しか》めた、そうしてじっ[#「じっ」に傍点]と考え込んだ。
 今話に出た三津太郎とは三津五郎にとっては実子にあたり、それも長男で二十一歳、陰惨な役所《やくどこ》によく篏《は》まり四谷怪談の伊右衛門など最も得意のものとしたいわゆるケレンにも達していて身の軽いことは驚くばかり、壁を伝い天井を走り三|間《げん》の溝《みぞ》を猫のようにさも[#「さも」に傍点]身軽に飛び越しさえした。しかし性質は穏《おとな》しかった。
 しかるにそれが一年前、忽然姿が見えなくなり二十日ばかりして帰って来ると俄然性質が一変した。
「俺を知らねえか、え、俺を。明神太郎の後胤《こういん》だぞ!」
 こんな事をいうようになり、穏しかった性質が荒々しくなり自堕落になり歌舞伎の芸は習わずに剣術だとか柔術だとかそんなものばかりに力を入れ、そうして時々理由なしに夜遅く家を抜け出したり十日も二十日も一月も行方知れずになることがあった。
 そうして今度も一昨日から行方が不明《しれず》になったのである。
「いや全く悪い子を持つと親は心配でございますよ」
 嘆息するように三津五郎はいった。
「私の所《とこ》の小次郎は何と云っても拾い子で心配の度も少いが、あなたの所は血を分けた実子さぞ心配でござんしょうな」
 団十郎も気の毒そうにしみじみとしていったものである。
 後の出し物はまとまらず追って相談ということになり、団十郎の帰った頃から日はひたひたと暮れて来た。
 その後の相談で決まったのは「一谷双軍記《いちのたにふたばぐんき》」とそれに「本朝二十四孝」それへ「暫《しばらく》」と「関の戸」を加えすっかり通そうというのであった。
 同じ浅草花川戸に七代目団十郎の邸があったが、天保年間|奢侈《しゃし》のゆえをもって追放に処せられた彼のことで、その邸の美々しさ加減はちょっと形容の言葉もないが、その邸の二階座敷に小次郎はツクネンと坐っていた。
 十九年前|一歳《ひとつ》の時に観音様の境内に籠に入れられて捨ててあったのを慈悲深い団十郎《なりたや》が拾い上げ手塩にかけて育てたところ、天の成せる麗々と不思議に小手先が利くところから今では立派な娘形で、市川小次郎の名を聞いただけでも町娘や若女房などは、ボッと顔を染めるほどの恐ろしい人気を持っていた。
 振り袖を着、帯を締め、黙って部屋に坐っていてもこれが男とは思われない。受け口の仇《あだ》っぽさ、半四郎より若いだけに一層濃艶なところがある。
「小次郎さん小次郎さん」
 階下《した》から誰か呼ぶ者がある。
「はあい」と優しく返辞をしたが、もうその声から女である。
「親方さんがお呼びですよ」
「はあい」といって立ち上がり、しとしと梯子段を下ったが、パラパラと蹴出す緋の長襦袢が雪のような脛《はぎ》にからみ付く。
 三津五郎《やまとや》の所から帰ったばかり、団十郎はむっつりとして奥の座敷に坐っていたが、小次郎の姿を見上げると、
「そこへ坐りねえ」
 と厳《いか》めしくいった。
「はい」
 といって坐ったが、団十郎の膝の上に、小さい行李のあるのを見ると、小次郎は颯《さっ》と顔色を変えた。
「今日」と団十郎はいい出した。「瓦町の三津五郎《やまとや》でちょっとお前の噂が出た……聞けばあそこの三津太郎どん、行方を眩ましたということだが、お前とは昔から御酒徳利《おみきどっくり》、泣くにも笑うにも一緒だったが、どこへ行ったか知らねえかな?」
 じっと様子を窺った。
「へえ、一向存じません」
「おおそうか、知らねえんだな。知らねえとあれば仕方もねえが、他にもう一つ訊くことがある。……この行李だ! 知っていような?」
 膝の上の行李を取り上げるとポンと葢《ふた》を取ったものだ。
「へえ」といって小次郎はチラリとその行李を眺めたが、「見たことのある行李でございます」
「見たことがあるって? あたりめえよ! こいつアお前の行李じゃねえか」
 団十郎は冷やかに、
「十九年前の春のこと、空っ風の吹く正月《むつき》の朝、すこし心願があったので供も連れず起き抜けに観音様まで参詣すると、大きな公孫樹《いちょう》の樹の蔭で赤児がピーピー泣いている、この寒空に捨て子だな、邪見の親もあるものだと、そぞろ惻隠《そくいん》の心を起こし抱き上げて見れば枕もとに小さい行李が置いてある。開けて見ればわずかの金と書き附けが一本入れてあった。後の証拠と持って来て土蔵の中へ仕舞って置いたが、今日お前の噂が出て、ふと気が付いて家へ帰り、土蔵へはいって見たところ行李と金とはあったけれど肝腎の書き附けが見付からねえ。そのうえ葢《ふた》は取りっ放し積もった塵《ちり》や埃《ほこり》の具合で、これはどうでも一年前に誰か盗んだに違いないとこう目星を付けたものさ。そうして色々考えて見たが、あの行李のあり場所とあの書き附けを知っている者はお前より他には誰もいねえ。元々行李も書き附けも皆《みんな》お前の物なんだから取って悪いというじゃないが、何故欲しいなら欲しいといって俺に明かせてくれなかった。それともそんな書き附けなんか取った覚えがないというならまた別に考えがある」
 先祖譲りの大きい眼をグッと見据えて睨んだ時、ブルッと小次郎は身顫いした。
「はい」といったが俯向いたまま、
「さような大事の書き附けを何んで私が盗みましょう。存ぜぬことでございます」
「なに知らねえ? 本当の口か?」
「存ぜぬことでございます」
「ふうむ、そうか。確かだな!」
「何んの偽《いつわ》り申しましょう」
「が、それにしちゃア去年から、何故お前は変わったんだ!」
「はい、変わったとおっしゃいますと」
「何故時々家を抜ける」
 小次郎はじっ[#「じっ」に傍点]と俯向いている。
「永い時は十日二十日、どこへ行ったか姿も見せねえ。……それに聞きゃあ右の腕へ刺青《ほりもの》をしたっていうことだがお前役者を止める気か! 止める意《つもり》なら文句はねえ。よしまた役者を止めねえにしても俺の家へは置けねえからな! もっともすぐに上覧芝居、こいつに抜けては気が悪かろう。まあ万事はその後だ。……部屋へ帰って考えるがいい」
「おい待ちねえ!」
 と団十郎は、行きかかる小次郎を呼び止めた。
「少しはアタリがついたのかい※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「え?」
 といって振り返るところを、団十郎は押っ冠せ、
「六歌仙よ、揃ったかな?」
「それじゃ親方! お前さんも……」
「王朝時代の大泥棒、明神太郎から今日まで、二百人に及ぶ泥棒の系図、それから不思議な暗号文字《やみことば》――道標《みちしるべ》、畑の中、お日様は西だ。影がうつる。影がうつる。影がうつる。――ええとそれから註釈《ことわりがき》、「信輔筆の六歌仙、六つ揃わば眼を洗え」……実はこいつを見た時には俺もフラフラと迷ったものさ。あの書き附けは賊の持ち物、そいつを付けて捨てられたお前、やはり賊の子に相違ねえと、育てながらも心配したが、これまで別にこれという変わったこともなかったので、やれ有難いと思っていたに、とうとう本性現わして大きいところへ目を付けたな! 俺が止めろと止めたところでおいそれ[#「おいそれ」に傍点]といって止めるようなそんな小さい望みでもねえ。やるつもりならやるもいいが江戸の梨園《りえん》の総管軸この成田屋の身内としてこれまで通り置くことは出来ぬ。上覧芝居を限りとして破門するからその意《つもり》で、とっくり考えておくがいい……そこでもう一度尋ねるが、書き附けを取りはしねえかな?」
「何んとも申し訳ございません。たしかに盗みましてございます」
「そうして六歌仙は揃ったか?」
「はいようやく三本ほど」
「ううむ、そうか、どこで取ったな?」
「そのうち二本は専斎という柳営奥医師の秘蔵の品、女中に化けて住み込んで盗み出してございます」
「二十日ほど家をあけた時か?」
「へえ、さようでございます」
「もう一本はどこで取った?」
「これは藪という旗本の宝、木曽街道の松並木で私の相棒が掠《す》りました」
「相棒の眼星もついているが、それは他人で関係がねえ。……で、四本目はまだなのか?」
「へえ、まだでございます」
「二十五日は上覧芝居、お前も西丸へ連れて行く」
「へえ、有難う存じます」
「お前を西丸へつれて行くんだ」
「へえ、有難う存じます」
「いいか悪いかしらねえが、まあ俺の心づくしさ」
「へえ、有難う存じます」
「部屋へ帰って休むがいい」
 団十郎はこういうと煙管をポンと叩いたものである。

    西丸の大廊下

 旧記によれば上覧芝居は二十八日とも記されているが、しかし本当は二十五日で、この時の西丸の賑やかさは「沙汰の限りに候《そろ》」と林大学頭が書いている。
 朝の六時から始まって夜の十一時に及んだといえば、十七時間ぶっ通しに四つの芝居が演ぜられたわけ、仮りに作られた舞台花道には、百目蝋燭が掛け連らねられ、桜や紅葉の造花から引き幕|緞帳《どんちょう》に至るまで新規に作られたということであるから、費用のほども思いやられる。正面|桟敷《さじき》には大御所様はじめ当の主人の満千姫様《まちひめさま》、三十六人の愛妾達、姫君若様ズラリと並びそこだけには御簾《みす》がかけられている。その左は局《つぼね》の席、その右は西丸詰めの諸士達《しょさむらいたち》の席である。本丸からも見物があり、家族の陪観が許されたのでどこもかしこも人の波、広い見物席は爪を立てるほどの隙もなかった。
 ヒューッとはいる下座の笛、ドンドンと打ち込む太鼓つづみ、嫋々《じょうじょう》と咽ぶ三弦の音《ね》、まず音楽で魅せられる。
 真っ先に開いたは「鏡山《かがみやま》」で、敵役《かたきやく》岩藤の憎態《にくてい》で、尾上《おのえ》の寂しい美しさや、甲斐甲斐しいお初の振る舞いに、あるいは怒りあるいは泣きあるいは両手に汗を握り、二番目も済んで中幕となり、市川流荒事の根元「暫《しばらく》」の幕のあいた頃には、見物の眼はボッと霞み、身も心も上気して、溜息をさえ吐く者があった。
 団十郎の定光が、あの怪奇《グロテスク》な紅隈《べにくま》と同じ怪奇の扮装で、長刀《ながもの》佩いてヌタクリ出で、さて大見得を切った後、
「東夷南蛮|北狄《ほくてき》西戎西夷八荒天地|乾坤《けんこん》のその間にあるべき人の知らざらんや、三千余里も遠からぬ、物に懼《お》じざる荒若衆……」
 と例の連詞《つらね》を述べた時には、ワッと上がる歓呼の声で、来てはならない守殿の者まで自分の持ち場を打ち捨てて見に来るというありさまであったが、この時裏の楽屋から美しい腰元に扮装した若い役者が楽屋を抜け西丸の奥へ忍び込んだのを誰一人として知った者はなかった。

 楽屋を抜け出した小次郎は、夜の西丸の大廊下を、なるだけ人に見付けられぬよう灯陰《ほかげ》灯陰と身を寄せて、素早く奥へ走って行った。
 一村一町にも比較《くら》べられる、無限に広い西丸御殿は、至る所に廊下があり突き当たるつど中庭があり廊下に添って部屋部屋がちょうど町方の家のように整然として並んでいる。
 廊下を左へ曲がったとたん、向こうから来た老武士とバッタリ顔を見合わせた。
「ごめん遊ばせ」
 と声を掛けスルリ擦り抜けて行こうとした。
「あいやしばらく」
 と背後《うしろ》からその老武士が声を掛けた。
「どなたでござるな? どこへおいでになる?」
「はい妾《わたくし》はお霜と申し、秋篠局《あきしののつぼね》の新参のお末、怪しいものではございませぬ」
「新参のお末、おおさようか。道理で顔を知らぬと思った。で、どちらまで参られるな?」
「はい、お局《つぼね》まで参ります」
「秋篠様のお局へな?」
「はい、さようでございます」
「それにしては道が違う」
「おやさようでございましたか。広い広いご殿ではあり、新参者の悲しさにさては道を間違えたかしら」
「おおおお道は大間違い、秋篠様のお局は今来た廊下を引き返し、七つ目の廊下を左へ曲がり、また廊下を右へ廻ると宏大もないお部屋がある。それがお前のご主人のお部屋だ」
「これは有難う存じました。どれそれでは急いで参り……」
「おお急いで参るがよい。……ところで芝居はどの辺だな?」
「ただ今中幕が開いたばかり、団十郎の定光が連詞《つらね》を語っておりまする。早うおいでなさりませ」いい捨てクルリと方向《むき》を変えた。

「様子を見りゃあお留守居役か、いい加減年をしているのに、男か女かこの俺の見分けが付かねえとは甘え奴さ……秋篠というお局が満千姫様のご生母でそこのお部屋に何から何までお輿入れ道具が置いてあるそうな。信輔筆の六歌仙、在原業平《ありわらのなりひら》もそこにある筈だ……五つ六つこれで七つ。よし、この廊下を曲がるんだな」
 七つ目の廊下を左へ曲がり、尚先へ走って行った。と、最初《とっつき》の廊下へ出た。それを今度は右へ曲がるとはたして立派な部屋がある。
「むう、これだな、どれ様子を」
 板戸へピッタリ食い付いて一寸ばかり戸をあけたが朱塗りの蘭燈《らんとう》仄かに点り夢のように美しい部屋の中に一人の若い腰元が半分《なかば》うとうと睡りながら種彦らしい草双紙を片手に持って読んでいた。
「よし」と呟くとスーと開け部屋の中へ入り込んだ。
 ハッと気が付いて振り返ると、
「どなた?」腰元は声を掛けた。
「はい妾《わたし》でございます」
 小次郎はスルスルと近寄ったがパッと飛びかかって首を掴み、持って来た手拭いで猿轡《さるぐつわ》。扱帯《しごき》を解いて腕をくくり傍《そば》の柱へ繋《つな》いだが、奥の襖を手早く開けた。
 グルリと見廻したがツカツカとはいり、
「どうやらここではないらしい」
 奥の襖をまたあけた。
 と、現われたその部屋の遙か奥の正面にあたって何やら大勢|蠢《うごめ》く物がある。
「や、人か?」
 と仰天したが、普通の人間でもないらしい、あるいはキリキリと一本足で立ちあるいは黒髪を振り乱し、または巨大な官女の首が宙でフワフワ浮いている。
「ワッ、これは! 化物《ばけもの》だア!」
 思わず声を筒抜かせたがハッと気が付いて口を蔽い、
「千代田の城に化物部屋。おかしいなア」
 と見直したが、「ブッ、何んだ! 絵じゃねえか!」
 部屋一杯の大きさを持ち黄金《こがね》の額縁で飾られた百鬼夜行の絵であった。
「この絵がここにある上は六歌仙の軸もなくちゃならねえ」
 見廻す鼻先に墨踉あざやかに、六歌仙と箱書きした桐の箱。
「有難え!」
 と小脇に抱え忽ち部屋を飛び出したが、出合い頭に行き合ったのは五十位の老女であった。
「其許《そもじ》は誰じゃ?」
 と呼びかけられ、
「秋篠様のお末霜」
 云いすて向こうへ行こうとする。
「何を申す怪しい女子! かく申すこの妾《わし》こそ秋篠局のお末頭、其許《そもじ》のようなお末は知らぬ」
「南無三!」
 とばかり飛びかかり、顎を下から突き上げた。「ムー」と呻いて仆れるのを板戸をあけてポンと蹴込みそのまま廊下を灯蔭《ほかげ》灯蔭と表の方へ走って行く。……

 ちょうどこの時分紋太郎は彦根の城下を歩いていた。彼はひどくやつれていた。
「俺の旅費もいよいよ尽きた。……しかも未だに駕籠の主も馬の荷物の何んであるかも、突き止めることが出来ないとは。……俺は今に乞食になろう……乞食になろうが非人になろうが、思い立ったこの願い、どうでも一旦は貫かねばならぬ」
 勇猛心を揮い起こし駕籠の後を追うのであった。京都、大坂、兵庫と過ぎ、山陽道へはいっても駕籠と馬とは止まろうともしない。須磨、明石と来た頃には、文字通り紋太郎は乞食となり、口へ破れた扇をあて編笠の奥から下手な謡《うたい》を細々うたわなければならなかった。

 こうして道中で年も暮れ、新玉《あらたま》の年は迎えたが、共に祝うべき人もない。
 九州の地へはいっても駕籠と馬とは止まろうともしない。
 かくて二月の上旬頃長崎の町へは着いたのである。
 遙かにも我来つるかな……思わず彼は呟《つぶや》いて涙を眼からこぼしたがもっともの感情と云うべきであろう。
 駕籠と馬とはゆるゆると出島の方へ進んで行く。
 蘭人居留地があらわれた。駕籠はそっちへ進んで行く。
 こうして鉄門と鉄柵とで厳重によろわれた洋館が一行の前へ現われた時、一行は初めて立ち止まった。自《おのず》と門が左右に開き十数人の出迎えがあらわれた。駕籠と馬とがはいって行く。
「ああ蘭人か」
 と呟いて紋太郎がぼんやり佇んだ。
 もう四辺《あたり》は夕暮れて、暖国の蒼い空高く円い月が差し上った。
 その時一人の侍が門を潜ってあらわれた。
「ちょっとお尋ね致します」
「何んでござるな?」と立ち止まる。
「只今ここへ駕籠と馬とがはいりましたように存じますが?」
「おおはいった。ここの主人じゃ」
「そのご主人のお姓名は?」
「ユージェント・ルー・ビショット氏。阿蘭陀《オランダ》より参った大画家じゃ」
「どちらよりのお帰りでござりましょう?」
「江戸将軍家より招かれて百鬼夜行の大油絵を揮毫《きごう》するため上京し、只今ようやく帰られたところ」
「二頭の馬に積まれたは?」
「ビショット氏発明の飛行機じゃ」
「は、飛行機と仰せられるは?」
「大鵬《おおとり》の形になぞらえた空飛ぶ大きな機械である。十三世紀の伊太利亜《イタリア》にレオナルド・ダ・ビンチと名を呼んだ不世出の画伯が現われた。すなわち飛行機を作ろうと一生涯苦労された。それに慣《なら》ってビショット氏も飛行機の製作に苦心されついに成功なされたが、またひどい目にもお逢いなされた。多摩川で試乗なされた節吹矢で射られたということじゃ。……いずれ大鳥と間違えて功名顔に射たのであろう世間には痴《たわ》けた奴がある。ワッハハハ」
 と哄笑したが、
「私は長崎の大通詞丸山作右衛門と申す者、ビショット氏とは日頃懇意、お見受けすればお手前には他国人で困窮のご様子、力になってあげてもよい。邸は港の海岸通り、後に訪ねて参られるがよい」
「泥棒!」
 とその時ビショット邸からけたたましい声が響いて来たが、潜門《くぐり》を蹴破り飛び出して来たのは見覚えのある貧乏神で、小脇に二本の箱を抱え飛鳥のように駆け過ぎた。

 奈良宝隆寺から西一町、そこに大きな畑があり、一基の道標《みちしるべ》が立っていた。
 今、日は西に沈もうとして道標の影が地に敷いている。
 そこを二人の若者が鍬でセッセと掘っている。
 掘っても掘っても何んにも出ない。
 二人は顔を見合わせた。
「どうもおかしい」
 といったのは、他ならぬ坂東三津太郎である。
「ほんとにこいつ[#「こいつ」に傍点]変梃だ」こういったのは小次郎である。
「もう一度お眼《め》を洗おうぜ」
「よかろう」
 というと、二人一緒に、ドンとそこへ胡坐《あぐら》をかいた。
 二人の前には六歌仙が、在原|業平《なりひら》、僧正遍昭、喜撰法師、大友黒主、文屋康秀、小野小町、こういう順序に置いてあったが信輔筆の名筆もズクズクに水に濡れている。
「六つ揃わば眼を洗え。――さあさあ水をかけるがいい」
「承わる」
 と小次郎は、傍《そば》の土瓶を取り上げた。
 六歌仙の眼へ水を注ぐ。と、不思議にも朦朧《もうろう》と各※[#二の字点、1-2-22]の絵の右の眼へ一つずつ文字が現われた。
 業平の眼へは「宝」の字が、遍昭の眼へは「隆」の字が、喜撰の眼へは「寺」の字が、黒主の眼へは「西」の字が、康秀の眼へは「一」の字が、そうして最後に小町の眼へは「町」という字があらわれた。
「やはりそうだ。間違いはない。――宝隆寺西一町。――この通りちゃアんとあらわれている。……そうしてここは宝隆寺から西一町の地点なんだ」
 貧乏神の扮装《みなり》をした坂東三津太郎はこう云うと元気を起こして立ち上がった。

    灰、煙り、即希望

 小次郎も同じく立ち上がり、
「そうだここは宝隆寺から西一町離れている。そうしてここに道標《みちしるべ》がある。そうしてここは畑の中だ。それにお日様も傾いてあんなに西に沈んでいる。道標の影もうつっている。――道標、畑の中、お日様は西だ、影がうつる、影がうつる、影がうつる――ちゃアンと暗号文字《やみもじ》に合っている。さあもう一度掘って見ようぜ」
 そこで二人は鍬を取り、道標の影の落ちた所を、根気よくまたも掘り出した。
 石や瓦は出るけれど、平安朝時代の大富豪|馬飼吉備彦《うまかいきびひこ》の隠したといわれる財宝らしいものは出て来ない。
 二人はすっかり落胆して鍬を捨てざるを得なかった。
「オイ」
 と三津太郎は憎さげに、「お前が西丸で盗んだというその在原業平の軸、もしや贋《にせ》じゃあるめえかな」
「冗談いうな」
 と小次郎もムッとしたようにいい返す。
「千代田の大奥にあった軸だ。贋やイカ物でたまるものか。それよりお前が長崎の蘭人屋敷で取ったという、その文屋と遍昭が食わせものじゃあるめえかな」
「うんにゃ違う、こりゃ確かだ。俺が現在二つの眼で、写山楼の内《なか》で見たものだ。そうして文晁がお礼としてあの蘭人にくれたものだ。そうでなくってこの俺が江戸から後を尾行《つけ》るものか。べらぼうなことをいわねえものだ」
「へん、どっちがべらぼうでえ、へんな贋物を掴みやがって」
 二人はだんだんいい募った。
 やがて日が暮れ夜となったが、その星ばかりの闇の中で撲り合う声が聞こえて来た。

 その翌日のことである。
 二、三人の百姓がやって来た。
「ヒャア、こいつあぶっ[#「ぶっ」に傍点]魂消《たまげ》た。でけえ穴が掘ってあるでねえか!」
「道標《みちしるべ》の石も仆れているのでねえか」
「この畑の踏み荒しようは。こりゃハア天狗様の仕業《しわざ》だんべえ」
 百姓達は不平タラタラその大きな穴を埋め出した。
 それは大変寒い日で、彼等はやがて焚火をし、
「やあここに掛け物がある」
「やあここにも掛け物がある」
「一つ二つ……五つ六つ、六つも掛け物落ってるだあよ」
「何んて穢ねえ掛け物だあ。踏みにじられてよ泥まみれになってよ」
「火にくべるがいいだあ、火にくべるがいいだあ」
 信輔筆の六歌仙は間もなく火の中へくべられた。
 濛々と上がる白い煙り。忽ち焔はメラメラと六歌仙を包んで燃え上がったが、火勢に炙《あぶ》られたためでもあろうか、六歌仙六人の左の眼へ、一字ずつ文字が現われた。
「やあ眼の中へ字が出ただよ。誰か早く読んで見ろやい」
「お生憎《あいにく》さまだあ。字が読めねえなあ」
 間もなくその字も焔に包まれ、千古の謎は灰となった。
「ああ暖けえ。ああいい火だ」
「もう春だなあ。菫《すみれ》が咲いてるだあ」
「ボツボツ桜も咲くずらよ」
 百姓達は暢気そうに火にあたりながら話していた。

    紋太郎と大鵬の握手

「いやこれは驚いた。いやこれは意外千万……ふうむ、そうするとご貴殿がつまり加害者でござるかな? ほほう、いやはや意外千万! 大御所様のおいい付けで、ええと吹矢を吹きかけた? ははあなるほど多摩川でな」
 大通詞丸山作右衛門は、むしろ呆気に取られたように、紋太郎の顔を見守ったが、
「いやいや決して心配はござらぬ。もはやビショット氏の肩の負傷はほとんど全快致してござる。いやビショット氏は大芸術家、殊に非常な人格者でござればもちろん貴殿の誤りに対して何んの悪感も持ってはおられぬ。それにかえって江戸に近い多摩川の河原で断わりもなく試乗したのは飛んだ失敗、謀叛を企てるそのために江戸の様子を窺ったのだと、讒者《ざんしゃ》の口にかかりでもしたら弁解の辞にさえ窮する次第、とそれで公然医者も呼べず、帰りの道中は謹慎の意味で駕籠から出なかったほどでござるよ。……そこでと、藪殿いかがでござる、せっかく貴殿も心にかけ大鵬《たいほう》の行方を追って来たことじゃ、これから二人でビショット氏を訪ね、大鵬すなわち飛行機なるものを篤《とく》とご覧になられては。いやいやビショット氏はむしろ喜んで貴殿と逢われるに相違ない。それは拙者が保証する」
 作右衛門はこう云って腰を上げようとした。
 ここは長崎海岸通り大通詞丸山作右衛門の善美を尽くした応接間であるがここを紋太郎が訪問したのは、作右衛門と初めて逢った日から約五日ほど経ってからであった。
 その間紋太郎はどうしていたかというに、例のうまくもない謡《うたい》をうたいただ宛《あて》もなく長崎市中を歩き廻っていたのであった。そうしていよいよ窮したあげく、ふと作右衛門のことを思い出し、親切そうな風貌と手頼《たよ》りあり気だった言葉つきとを唯一の頼みにして、訪ねて行きどうして遙々《はるばる》江戸くんだりからこの長崎までやって来たかを隠すところなく語ったのであった。
 その結果作右衛門がかつは驚きかつは進んでビショット氏へ紹介しようといい出したのである。
「それは何より有難いことで。……飛行機も拝見したいけれどむしろそれよりビショット先生に親しく拝顔の栄を得て過失を謝罪致したければなにとぞお連れくださるよう」
「よろしゅうござる。さあ参ろう」
 こんな具合で作右衛門方を出、蘭人居留地へ出かけて行き、ビショット邸を訪問《おとず》れた。
 すぐと客間へ通されたがやがて出て来たビショット氏を見ると、
「なるほど」と紋太郎は呟いた。
 ビショット氏の皮膚が桃色であり、頭髪はもちろん産毛《うぶげ》までも黄金色を呈していたからであった。
 作右衛門の話しを聞いてしまうとビショット氏は莞爾《かんじ》と微笑したが、突然大きな手を出して紋太郎の手をグッと握った。それは暖い握手であった。
「私は日本に十年おります。で、日本語は自由です。……過失というものは誰にでもあります。何んの謝罪に及びますものか。……藪紋太郎さん、よう来てくだされた。私は大変満足です。……喜んで飛行機もお目にかければ沢山|蒐集《あつ》めた世界の名画――それもお目にかけましょう。……どれそれでは裏庭の方へ」
 こういうと先に立って歩き出した。
 庭に大きな木小屋があったが、すなわち今日の格納庫で、戸をあけるとその中に粛然と大鵬《たいほう》が一羽うずくまっていた。射し込む日光を全身に浴び銀色に輝く翼や尾羽根! それは木であり金属であり絹や木綿で作ったものではあるがしかしやはり翼《よく》であり立派な尾羽根でなくてはならない。人工の大鵬! 天翔《あまが》ける怪物!
「あっ!」
 と紋太郎が声に出し嘆息したのは当然でもあろうか。
「こっちへ」
 と云ってビショット氏は二人を大広間へ導いた。眼を驚かす世界の名画! それが無数にかかげられてある。
 快よい日光。……南国の日光。……その早春の南国の陽が窓から仄かに射し込んでいる。
 一つの額を指差した。
「ダ・ビンチの名画|基督《キリスト》の半身!」
 ビショット氏は微笑した。
「この人ですよ十三世紀の昔に、飛行機製作に熱中した人は! 先駆者! そうです、芸術と科学のね!」

 丸山作右衛門に旅費を借り、紋太郎が江戸へ帰ったのはそれから一月の後であった。
 彼は直ちに西丸へ伺向し、事の次第を言上した。
「てっきり大鵬と存じたにさような機械であったとは、さてさて浮世は油断がならぬ。日進月歩恐ろしいことじゃ。今日より奢侈《しゃし》を禁じ海防のために尽くすであろう。それに致しても江戸から長崎、長い道程を大鵬を追い、ついに正体を確かめたところのそちの根気は天晴《あっぱれ》のものじゃ。三百石の加増、書院番頭と致す」

 小石川区大和町の北野神社の境内の石の階段を上り切った左に、東向きに立てられた小さな祠《ほこら》が、地震前まであった筈だ。これぞ貧乏神の祠であって、建立主は藪紋太郎。開運の神として繁昌し、月の十四日と三十日には賑やかな市さえ立ったものである。昔は武家が信じたが、明治大正に至ってからは遊芸の徒が信仰したそうだ。
 いずくんぞ知らんこの貧乏神、その本体は坂東三津太郎、不良俳優であろうとは。鰯《いわし》の頭も信心から。さあ拝んだり拝んだりと、大いに景気を添えたところでここに筆を止めることにする。

底本:「銅銭会事変 短編」国枝史郎伝奇文庫27、講談社
   1976(昭和51)年10月28日第1刷発行
初出:「サンデー毎日」
   1925(大正14)年1月11日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

大捕物仙人壺—— 国枝史郎

 女軽業の大一座が、高島の城下へ小屋掛けをした。
 慶応末年の夏の初であった。
 別荘の門をフラリと出ると、伊太郎《いたろう》は其方《そっち》へ足を向けた。
「いらはいいらはい! 始まり始まり!」と、木戸番の爺《おやじ》が招いていた。
「面白そうだな。入って見よう」
 それで伊太郎は木戸を潜った。
 今、舞台では一人の娘が、派手やかな友禅の振袖姿で、一本の綱を渡っていた。手に日傘をかざしていた。
「浮雲《あぶな》い浮雲い」と冷々しながら、伊太郎は娘を見守った。
「綺麗な太夫《たゆう》じゃありませんか」
「それに莫迦に上品ですね」
「あれはね、座頭の娘なんですよ。ええと紫錦《しきん》とか云いましたっけ」
 これは見物の噂であった。
 小屋を出ると伊太郎は、自分の家へ帰って来た。いつも物憂そうな彼ではあったがこの日は別《わ》けても物憂そうであった。
 翌日|復《また》も家を出ると、女軽業の小屋を潜った。そうして紫錦の綱渡りとなると彼は夢中で見守った。
 こういうことが五日続くと、楽屋の方でも目を付けた。
「オイ、紫錦さん、お芽出度《めでと》う」源太夫は皮肉に冷かした。「エヘ、お前|魅《みい》られたぜ」
「ヘン、有難い仕合せさ」紫錦の方でも負けてはいない。「だがチョイと好男子《いいおとこ》だね」
「求型《もとめがた》という所さ」
「一体どこの人だろう?」
「お前そいつを知らねえのか。――伊丹屋《いたみや》の若旦那だよ」
「え、伊丹屋? じゃ日本橋の?」
「ああそうだよ、酒問屋《さかどんや》の」
「だって源ちゃん変じゃないか、ここはお前江戸じゃないよ」
「信州諏訪でございます」
「それだのにお前伊丹屋の……」
「ハイ、別荘がございます」
「おやおやお前さん、よく知ってるね」
「ちょっと心配になったから、実はそれとなく探ったやつさ」
「おや相変らずの甚助《じんすけ》かえ」紫錦ははすっぱに笑ったが「苦労性だね、お前さんは」
「何を云いやがるんでえ、箆棒《べらぼう》め、誰のための苦労だと思う」
「アラアラお前さん怒ったの」
 面白そうに笑い出した。
「おい紫錦、気を付けろよ、いつも道化じゃいねえからな」
「紋切型さね、珍らしくもない」
 紫錦はすっかり嘗めていた。
 ところでその晩のことであるが、桔梗屋《ききょうや》という土地の茶屋から、紫錦へお座敷がかかって来た。
「きっとあの人に相違《ちがい》ないよ」こう思いながら行って見ると、果して座敷に伊太郎がいた。
 さすがに大家の若旦那だけに、万事|鷹様《おうよう》に出来ていた。
 酒を飲んで、世間話をして――いやらしいことなどは一言も云わず、初夜前に別れたのである。
 ホロ酔い機嫌で茶屋を出ると、ぱったり源太夫と邂逅《でっくわ》した。待ち伏せをしていたらしい。
「源ちゃんじゃないか、どうしたのさ」
「うん」と彼イライラしそうに「彼奴《あいつ》だったろう? え、客は?」
「言葉が悪いね、気をお付けよ。彼奴だろうは酷《ひど》かろう」紫錦は爪楊枝《つまようじ》を噛みしめた。
「いつお前お姫様になったえ」源太夫も皮肉に出た。
「たった今さ。悪いかえ」
「小屋者からお姫様か」
「そういきたいね、心掛けだけは」
 小屋の方へ二人は歩いて行った。
 源太夫というのは通名《とおりな》で、彼の実名は熊五郎であった。親方には実の甥で、紫錦とは従兄弟にあたっていた。
 その翌晩のことであるが、また同じ桔梗屋から紫錦にお座敷がかかって来た。
「行っちゃ不可《いけ》ねえ、断っちめえ」
 熊五郎は止めにかかった。
「いい加減におしよ、芸人じゃないか」
 紫錦は衣裳を着換えると、念入りにお化粧をし、熊五郎に構《かま》わず出かけて行った。
 気を悪くしたのは熊五郎であった。
「へん、どうするか見やアがれ」
 恐ろしい見幕《けんまく》で怒鳴《どな》り声をあげた。

 同じ一座の道化役、巾着《きんちゃく》頭のトン公《こう》は、夜中にフイと眼を覚ました。
 ヒューヒュー、ヒューヒュー、ヒューヒューと、口笛の音が聞こえてきた。
「はアてね、こいつアおかしいぞ」
 首を擡《もた》げて聞き澄ましたが、にわかにムックリ起き上った。周囲《まわり》を見ると女太夫共が、昼の劇《はげ》しい労働に疲労《つかれ》、姿態《なりふり》構わぬ有様で、大|鼾《いびき》で睡っていた。
 それを跨《また》ぐとトン公は、楽屋|梯子《ばしご》を下へ下りた。
 暗い舞台の隅の方から、黄色い灯《ひ》の光がボウと射し、そこから口笛が聞こえてきた。
 誰か片手に蝋燭を持ち、檻の前に立っていた。と、檻の戸が開いて、細長い黄色い生物が、颯《さっ》と外へ飛び出して来た。
「おお可《よ》し可し、おお可し可し、ネロちゃんかや、ネロちゃんかや、おお可《い》い子だ、おお可い子だ……」
 口笛が止むとあやなす[#「あやなす」に傍点]声が、こう密々《ひそひそ》と聞こえてきた。フッと蝋燭の火が消えた。しばらく森然《しん》と静かであった。と、暗い舞台の上へ蒼白い月光が流れ込んで来た。誰か表戸をあけたらしい。果して、一人の若者が、月光の中へ現われた。肩に何か停《と》まっている。長い太い尾をピンと立てた、非常に気味の悪い獣《けもの》であった。
 月光が消え人影が消え、誰か戸外《そと》へ出て行った。

「思召《おぼしめ》しは有難う存じますが……妾《わたし》のような小屋者が……貴郎《あなた》のような御大家様の……」
「構いませんよ。構うもんですか……貴女《あなた》さえ厭でなかったら……」
「なんの貴郎、勿体ない……」
 紫錦《しきん》と伊太郎《いたろう》は歩いて行った。
 帰るというのを、送りましょうと云うので、連れ立って茶屋を出たのであった。左は湖水、右は榠櫨《かりん》畑、その上に月が懸かっていた。諏訪因幡守三万石の城は、石垣高く湖水へ突き出し、その南手に聳えていた。城下《まち》の燈火《ともしび》は見えていたが、そのどよめき[#「どよめき」に傍点]は聞えなかった。
 穂麦《ほむぎ》の芳《かんば》しい匂がした。蒼白い光を明滅させて、螢が行手を横切って飛んだが、月があんまり明るいので、その螢火は映《は》えなかった。
「美しい晩、私は幸福《しあわせ》だ」
「妾も楽しうござんすわ」
 畦道《あぜみち》は随分狭かった。肩と肩とを食《く》っ付けなければ並んで歩くことが出来なかった。
 いつともなしに寄り添っていた。
 やがて湖水の入江へ出た。
「あら、舟がありますのね」
「私の所の舟なんですよ」
「ね、乗りましょうよ。妾漕げてよ」紫錦はせがむように云うのであった。「貴郎のお宅までお送りするわ」
 それで二人は舟へ乗った。
 湖上には微風が渡っていた。櫂《かい》で砕《くだ》かれた波の穂が、鉛色に閃《ひら》めいた。水禽《みずどり》が眼ざめて騒ぎ出した。
 二人は嬉しく幸福であった。
「さあ来てよ、貴郎のお家《うち》へ」
 そこで、二人は舟を出て、石の階段を登って行った。
 木戸を開けると裏庭で、柘榴《ざくろ》の花が咲いていた。
「寄っておいで、構やしないよ」
「いいえ不可《いけ》ませんわ、そんなこと」
 二人は優しく争った。
 やっぱり女は帰ることにした。一人で櫓櫂《ろかい》を繰《あやつ》って紫錦は湖水を引き返した。

 どこか、裏庭の辺りから、口笛の音の聞こえてきたのは、それから間もないことであった。
「今時分誰だろう?」
 楽しい空想に耽りながら、いつもの寝間の離座敷で、伊太郎は一人|臥《ふせ》っていた。
 ヒューヒュー、ヒューヒューとなお聞こえる。
 と、コトンと音がした。庭に向いた窓らしい。「はてな?」と思って眼を遣ると、障子へ一筋縞が出来た。細目に開けられた戸の隙から月光が蒼く射したのであろう。
「あ、不可《いけ》ない、泥棒かな」
 すると光の縞の中へ、変な形があらわれた。
 長い胴体、押し立てた尻尾、短い脚が動いている。と思った隙《ひま》もなくポックリと障子へ穴があいた。
 颯《さっ》と部屋の中へ飛び込んで来た。
「鼬《いたち》だ」
 と伊太郎は刎起《はねお》きた。「誰か来てくれ、鼬だ鼬だ!」
 ぼんやり点《とも》っている行燈《あんどん》の光で、背を波のように蜒《うね》らせながら伊太郎目掛けて飛び掛かって行く巨大な鼬の姿が見えた。
 母屋の方から人声がして、母を真先に女中や下男が、この離《はなれ》へやって来た時も、なお鼬は駆け廻っていた。
 母のお琴《こと》はそれと見ると、棒のように立ち縮んだ。
「鼬!」と顫え声で先ず云った。「口笛の音? ああ幽霊!」
 それからバッタリ仆《たお》れてしまった。
 お琴は気絶したのである。
 鼬の姿はいつか消え、遠くで吹くらしい口笛の音が、なお幽《かすか》に聞こえていた。

「私《わっち》は現在見たんでさあ。嘘も偽わりもあるものですかい。ええええ尾行《つけ》て行きましたとも。するとどうでしょうあの騒動でさ」
 楽屋へは朝陽が射し込んでいた。人々はみんな出払っていて、四辺《あたり》はひっそりと静かであった。女太夫の楽屋のことで、開荷《あけに》、衣桁《いこう》、刺繍した衣裳など、紅紫繚乱《こうしりょうらん》美しく、色々の物が取り散らされてあった。
「でも本当とは思われないよ。そんな事をする人かしら?」
「恋は人間を狂人《きちがい》にしまさあ」
「だって妾《わたし》あの人に対して何もこれまで一度だって……それに妾達は従兄妹同志じゃないか」
「従兄妹であろうとハトコであろうと、これには差別はござんせんからね。……私《わっち》はこの眼で見たんでさあ」
「だってそれが本当なら、あの人それこそ人殺しじゃないか」
「だからご注意するんでさあね」
「ただの鼬《いたち》じゃないんだからね」
「喰い付かれたらそれっきりでさあ」
「恐ろしい毒を持っているんだからね」
「私《わっち》は現在見たんでさあ。裸蝋燭を片手に持って、ヒューッ、ヒューッと口笛を吹いて、檻からえて[#「えて」に傍点]物を呼び出すのをね。そいつ[#「そいつ」に傍点]を肩へひょいと載っけて、月夜の往来へ出て行ったものです。こいつおかしいと思ったので、直ぐに後をつけやした。それ私は四尺足らず、三尺八寸という小柄でげしょう。もっとも頭は巾着《きんちゃく》で、平《ひらった》く云やア福助《ふくすけ》でさあ。だから日中《ひのうち》歩こうものなら、町の餓鬼《がき》どもが集《たか》って来て、ワイワイ囃して五月蠅《うるそ》うござんすがね。折柄夜中で人気はなし、家の陰から陰を縫って、尾行て行くには持って来いでさあ。小さいだけに見付かりっこはねえ。で行ったものでございますよ。別荘作りの立派な家、そこまで行くと立ち止まり、ジロリ四辺を見まわしたね、それから木戸を窃《そっ》と開けて、入り込んだものでございますよ。で、しばらく待っていると、そこへお前さんとあの人とが、湖水《うみ》から上って来たものです。そこで鼬を放したというものだ」
「でもマア大騒ぎをしただけで、怪我はなかったということだから、妾は安心をしているのさ」
「ところが、あの人の母者人なるものが、気を失ったということですぜ」
「まあ、よっぽど驚いたんだね」
「おどろき、梨の木、山椒の木だ。が、ままともかくもこの事件は、これで納まったというものだ。そこでこれからどうしなさる?」
「どうするってどうなのだよ?」
「一度こっきり[#「こっきり」に傍点]じゃ済みませんぜ」
「じゃまたあるとでも云うのかい? 源ちゃん、そんなに執念深いかしら?」
「お前さんの遣り方一つでさあ」
「だって妾、これまでだって、随分お座敷へは呼ばれたじゃないか」
「それとこれとは異《ちが》いまさあ。それはそれで金取り主義、ご祝儀頂戴の呼吸《いき》だったが、今度はどうやらお前さんの方でも、あの青二才に惚れているようだ」
「何を云うんだよ、トン公め!」

 今から数えて十六年前、酒商《さけしょう》[#ルビの「さけしょう」は底本では「さけしやう」]伊丹屋伊右衛門《いたみやいえもん》は、この城下に住んでいた。
 旧家ではあり資産家《かねもち》ではあり、立派な生活を営んでいた。お染《そめ》という一人娘があった。その時数え年|漸《ようや》く二歳《ふたつ》で、まだ誕生にもならなかったが、ひどく可愛い児柄《こがら》であった。夫婦の寵愛というものは眼へ入っても痛くない程で、あまり二人が子煩悩なので、近所の人が笑うほどであった。
 ところがここにもう一人、藤九郎《とうくろう》という中年者が、ひどくお染を可愛がった。甲州生れの遊人で――本職は大工ではあったけれど、賭博は打つ酒は飲む、いわゆる金箔つきの悪であったが、妙にお染を可愛がった。
 もっともそれには理由《わけ》があるので、お染の産れたその同じ日に――詳細《くわし》く云えば弘化《こうか》元年八月十日のことであるが、藤九郎の女房のお半《はん》というのが、やはり女の児を産んだ。ところがそれが運悪く産れた次の日にコロリと死んだ。それを悲しんで女房のお半も、すぐ引き続いて死んでしまった。さすが悪の藤九郎も、これには酷《ひど》く落胆して、一時素行も修まった程であった。
 ところでこのころ藤九郎は、伊丹屋の借家に棲んでいたので、よく伊丹屋へは出入りした。自然お染と顔を合わせる。子を失った親の愛が、同じ日に産れた家主の子へ、注がれるというのは当然であろう。

 しかるにここに困ったことが出来た。
 月日が経つに従って、お染の顔が父親へは似ずに、藤九郎の顔に似るのであった。
「藤九郎め、好男子《いいおとこ》だからな」
「そういえば、伊丹屋のお神《かみ》さんは、莫迦に藤九郎めを贔屓にしたっけ」
「誰の種だか解《わか》りゃしねえ」
 世間の人達はこう云い合った。
 しかし真面目な伊丹屋の内儀が、博奕風情の藤九郎などを問題にするはずがない。それは伊右衛門《いえもん》も信じていた。で幸いこの事については何の事件も起こらなかった。
 しかし事件はその翌年、すわなちお染の二歳の時に、別の方面から起こってきた。
 それは実に嘉永《かえい》元年夏の初めのことであったが、母のお琴《こと》はお染を抱きながら、裏庭の縁で涼んでいた。すると最初口笛が聞こえ、次に鼬《いたち》が現われた。アッと驚く隙《ひま》もなく鼬はお染へ噛みついた。幸い手当が速かったので、腕へ歯形が印《つ》いただけで、生命《いのち》には何の別状もなかった。ところが何と奇怪なことには、その翌晩にも口笛が聞こえ、同じ鼬が現われたではないか。そうして鼬はお染を追って、庭の植込の方へ行ったかと思うと、お染の姿が消えてしまった。
 ちょうどこの頃城下|外《はず》れに女軽業の大一座が小屋掛けをして景気《けいき》を呼んでいた。女太夫の美しいのも勿論評判ではあったけれど、四尺に余る大鼬が、口笛に連れて躍るというのがとりわけ人気を博していた。
 それで、自然疑いがその一座へかかって行った。官《かん》からも役人が出張し、厳重に小屋を吟味した。しかしお染はいなかった。誘拐したという証拠もない。どうすることも出来なかった。
 伊丹屋夫婦の悲嘆にも増して、藤九郎の悲嘆は大きかった。
「彼奴《あいつ》は有名な悪党なんですよ。ええ、あの一座の親方って奴はね。ちょっと私とも知己《しりあい》なんで。釜無《かまなし》の文《ぶん》というんでさ。……ああ本当に飛んだことをした。みんな私が悪かったんで、つい迂闊《うっか》り口を走《すべ》らしたんでね」
 彼はこう云って口惜《くや》しがった。
 その後伊丹屋では親類から、伊太郎という養子を迎え、間もなく江戸へ移り住んだが、お染のことは今日が日まで忘れたことはないのであった。
「……こういう事情があるのだもの、妾《わたし》が鼬を恐がったり、女軽業を憎むのは、ちっとも無理ではないじゃないかえ」
 母のお琴は辛そうに云った。
「だからさ、お前もその意《つもり》で、そんな小屋者の紫錦《しきん》なんて女を、近付けないようにしておくれよ。どうぞどうぞお願いですからね」
「だってお母さん不可《いけ》ませんよ」伊太郎はやっぱり反対した。「私は紫錦が好きなんですもの。それにその女は見た所、悪い女じゃありませんよ」
「きっと悪い女ですよ」
「第一その時の女軽業と、今度の軽業の一座とは、別物に相違ありませんよ」
「鼬を使うとお云いじゃないか」
「それだって別の鼬ですよ」
「いいえ同じ鼬です。妾《わたし》見たから知っています」
 お琴は飽く迄も云うのであった。

 紫錦はこれ迄は源太夫《げんだゆう》を別に嫌ってはいなかった。しかし今度の遣り口で、すっかり愛想を尽かしてしまった。
「甚助《じんすけ》め! 飛んでもねえ奴だ!」
 そこで、自然の反動として、伊太郎へ好意を持つようになった。
 その伊太郎は、本来は、小心で憂鬱の質《たち》であった。朋輩|交際《つきあい》で芸者などは買ったが、深入りなどはしたことがない。それだのに今度の紫錦ばかりは、そういう事にいかなかった。つまりぞっこん[#「ぞっこん」に傍点]惚れ込んだのであった。
 こういう男女の落ち行く先は、古来往来《ここんおうらい》同一《ひとつ》である。夫婦になれなければ心中である。
 驚いたのはお琴であった。
 彼女は窃《こっそ》り訴え出た。「娘を誘拐《かどわか》した同じ一座が、今度は息子を誑《たぶら》かそうとします。どうぞお取締まり下さいますように」と。
 勿論官では取り上げなかった。しかし全然別の理由から、立退きを命ずることにした。
 この一座が掛かって以来、にわかに盗難が多くなって、風紀上面白くない。だから追い払おうと云うのであった。
 鼬の芸当が人気を呼んでこの一座は評判が可《よ》かった。で生温い干渉では、引き払って行きそうには思われなかった。それに時代が幕末で、諸方には戦争が行なわれていた、官の威光も薄らいでいた。下手をすると逆捻《さかねじ》を喰らう。
 で疾風迅雷的に、やっつけよう[#「やっつけよう」に傍点]と云うことになった。

 その夜二人はいつものように、肩を並べて茶屋を出た。
 湖上は凄いほど静かであった。空を仰げばどんより[#「どんより」に傍点]と曇り、今にも降ってきそうであった。
 伊太郎を家《うち》へ送り込むと、紫錦は舟を漕ぎ返した。と、その時雨と一緒に嵐が颯《さっ》と吹いてきた。周囲四里の小湖ではあったが、浪が立てば随分危険で、時々|漁舟《いさりぶね》を覆えした。
「これは困った」と驚きながら、紫錦は懸命に櫓を漕いだ。
 次第に嵐は吹き募り、それに連れて浪が高まり、間もなく櫓櫂《ろかい》が役に立たなくなった。
「どうしよう」
 と紫錦は周章《あわ》てながらなおしばらくは櫓を漕いだ。
 しかし益々風雨は募り、全くシケの光景となり、漕いでも無駄と知った時、紫錦は舟底へ身を横仆《よこた》えた。
「どうともなれ。勝手にしやアがれ」
 そこは小屋者の猛烈性で、こんな事を思いながら、案外|暢気《のんき》に寝そべっていた。
「ご大家様のお坊ちゃん、今こそ妾《わたし》に夢中になって、夫婦になろうの駆落しようのと、血道をあげているけれど、その中《うち》きっと厭になるよ。そうしたら捨てるに違いない。捨てられたら元々通り小屋者の身分へ帰らなけりゃならない。いつ迄も小屋者でいるくらいなら、死んだ方が増じゃないか」
 雨と泡沫《しぶき》で彼女の体は、漬けたように濡れてしまった。
「おや」
 と彼女は顔を上げた。空が俄かに赤くなったからで、見れば遙か町の一点が、焔を上げて燃えていた。
「おやおやこんな晩に火事を出したんだよ。何て間抜けな人足だろう。アラ、驚いた、小屋じゃないか!」

 正《まさ》しく火事を出したのは、女軽業の掛小屋であった。
 役人達が遣って来て、立退きを命ずると、急に彼等は周章《あわ》て出した。そうして役人に反抗し、突然小屋へ火を掛けた。これには役人達も驚いたが、しかし事情はすぐ解《わか》った。この時代の小屋者の常で、彼等は反面、賊でもあった。で盗み蓄めた品物が、小屋に隠されてあったのである。
 つまり贓物《ぞうぶつ》[#「贓物」は底本では「臓物」]を焼き払い、証拠を湮滅させようため、わざと小屋へ火を掛けたのであった。
 それと感付くと役人達は、がぜん態度を一変させ、彼等を捕縛《とら》えようと犇《ひし》めいた。
 彼等は男女取り雑《ま》ぜて三十人余りの人数であった。それに馬が二頭いた。それから白という猛犬がいた。それから例の鼬がいた。これらのものが一斉に、役人達に敵対した。彼等は武器を持っていた。商売用の刀や匕首《あいくち》や、竹槍などを持っていた。
 どんなに彼等が凶暴でも、三十人こっきり[#「こっきり」に傍点]であったなら、捕縛えるに苦労はしなかったろう。しかるにここに困ったことには味方する者が現われた。
 当時諏訪藩は佐幕党として、勤王派に睨まれていた。で安政《あんせい》年間には有名な水戸の天狗党が、諏訪の地を蹂躪した。又文久年間には、高倉《たかくら》三位と宣《なの》る公卿が、贋勅使として入り込んで来た。勝海舟の門人たる相良惣蔵《さがらそうぞう》が浪士を率《ひき》い、下諏訪の地に陣取って乱暴したのもこの頃であった。
 それで、この事件の起こった時でも、勤王派の浪士達が、様々の者に姿を窶《やつ》し、城下の諸方に入り込んでいたが、これが小屋者の味方となって、役人方に斬り込んだ。
 それに城下の町人達の中にも、味方する者が出来てきて、石礫を投げ出した。
 事態重大と見て取って、城下からは兵が出た。
 内乱と云えばそうも云え、市街戦と云えばそうも云える。思いも由《よ》らない大事件が、計らず勃発したのであった。
 城兵かそれとも浪士達か、鉄砲を打ち出したものがあった。
 と、火事が飛火した。女の悲鳴、子供の泣声、避難する人々の喚《わめ》き声が、山に湖面に反響した。

 この時一人の若者が、逃げ惑う人々を押し退けて、小屋の方へ走って行った。
 他でもない伊太郎で、恋人の安否を気遣って、家を抜け出して来たのであった。
 小屋は大半焼け落ちていて、焔の柱、煙の渦巻……その中で戦いが行なわれていた。
 役人の一人を殺し、血だらけの竹槍を振りかざしながら、荒れ廻っていた小屋掛があったが、伊太郎の姿に眼を付けると、
「野郎!」
 と叫んで飛び掛かって行った。余人ならぬ源太夫であった。
「紫錦さんは※[#感嘆符二つ、1-8-75] 紫錦さんは※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「何を吠《ほざ》く! 死《くたば》ってしまえ!」
 源太夫は伊太郎の襟上を掴むと、ズルズルと火の中へ引き込もうとした。
 と、焔に狂気しながら、馬が一頭走り出して来た。
「嬲殺しだ! 思い知れ!」
 伊太郎は馬の背へ括り付けられた。
「ヤッ」と叫ぶと源太夫は竹槍で馬の尻を突いた。
 馬は驀地《まっしぐら》に狂奔し、湖水の中へ飛び込んだ。
 ワッワッと云う鬨声《ときのこえ》。火事は四方へ飛火した。

 湖水は猛烈に荒れていた。火事は益々燃え拡がった。物凄くもあれば美しくもあった。
 紫錦は小舟に取り付いたまま浪の荒れるに委せていた。火事の光が水に映り四辺《あたり》が茫《ぼっ》と明るかった。
 その時何物か浪を分けて彼女の方へ来るものがあった。
「おや、馬だよ。馬が泳いで来る」
 いかにもそれは馬であった。
「おや。黒《あお》だよ、黒来い来い!」
 紫錦《しきん》は喜んで声を上げた。
 馬は馴染の黒であった。つまり彼女が芸当をする時、時々乗った馬であった。近付くままによく見ると誰やら馬の背にくくり[#「くくり」に傍点]付けられていた。それが恋人の伊太郎であると火事の光りで見て取った時の彼女の驚きと云うものはちょっと形容に苦しむ程であった。その伊太郎は気絶していた。そうして手足から血を流していた。
 彼女は軽業の太夫《たゆう》であって馬扱いには慣れていた。で小舟を乗り捨てて馬と一緒に泳ぐことにした。荒れ狂う浪を掻き分け掻き分け馬と人とは泳ぎに泳いだ。精も根も尽き果て、もう溺れるより仕方がないと、こう彼女が思った時、眼前に石垣が現われた。伊太郎の家の石垣であった。
 伊太郎の家ではもう先刻《さっき》から、伊太郎の姿が見えないと云うので、母をはじめ家内の者は狂人のようになっていた。とそこへ現われたのが伊太郎を抱き抱えた紫錦の姿であった。
「伊太郎さんが!」
「若旦那が!」
 と、にわかに人々は活気付いた。張り詰めていた精神がこの時一時に弛んだと見えて、紫錦は気絶してグダグダと倒れた。それ[#「それ」に傍点]と云うので人々は二人を家の中へ舁ぎ入れた。間もなく医者が駈け付けて来て応急手当を施した。
 この頃町では火事と戦いとがなお烈しく行なわれていた。それが全然《すっかり》静まったのは夜も明け方に近い頃で、その結果はどうかと云うに、むしろ諏訪藩の負けであった。小屋者にも浪士達にも、大半逃げられてしまったのであった。
 伊太郎と紫錦が蘇生したのはそれから間もなくのことであった。二人は顔を見合わせてかつ驚きかつ喜んだ。紫錦は伊太郎の命の親であった。伊丹屋としても粗末に出来ない。それに彼女が属していた例の軽業の一行は、今は行衛《ゆくえ》不明であった。いわば彼女は宿なしであった。で伊丹屋では娘分として彼女を養うことにした。
 信濃の春は遅かったが秋の立つのは早かった。湖水の水が澄みかえり八ヶ嶽の裾野に女郎花《おみなえし》が咲いた。虫の鳴音が降るように聞こえた。この頃伊丹屋では諏訪を引き上げ江戸の本宅へ帰ることになった。
 さて、ところで、紫錦にとっては、江戸の本宅の生活は、かなり窮屈なものであった。ジプシイ型の彼女から見れば、まるで不自由そのものであった。ちょっと外出《でる》にも女中が付き、箸の上げ下げにも作法があった。
「簡単」ということが卑しまれ「面倒臭い」ということが尊ばれた。膝を崩すことも出来なければ寝そべることも出来なかった。あらゆるものに敬語を付け、呼び捨てにするのを失礼とした。「お箸《はし》」「お香の物」「お櫛《ぐし》」「お召物」――
 彼女は繁雑に耐えられなくなった。
 それに一緒に住んで見れば、柔弱の伊太郎も鼻に付いた。
「万事万端|拵《こしら》え物のようで、活気というものがありゃアしない」彼女はこんなように思うのであった。
「お金持とか上流とか、そういった人達の生活《くらし》方が、みんながみんなこうだとすれば、ちっともうらやましいものではない」
 とはいえ以前の生活へ帰って行きたいとは思わなかった。それは「泥棒の生活」であり又「動物の生活」だからであった。
「何か妾にぴったりと合った有意味の暮らし方はないものかしら」
 彼女はそれを目付けるようになった。
 伊丹屋の主人伊右衛門が或日女房にこう云った「お錦《きん》、近来《ちかごろ》変わってきたね。なんだかおちつかなくなったじゃないか」
「そう云えば本当にそうですね」女房のお琴《こと》も眉を顰《しか》め「いったいどうしたって云うんでしょう」
「それにお錦は左の腕を、いつも繃帯しているが、どうも私は気になってならない」
「ほんとにあれ[#「あれ」に傍点]は変ですね」
「お前からそれとなく訊いて見るがいい」
 ――それで、或日それとなくお琴はお錦へ訊《たず》ねて見た。
「お前傷でもしたんじゃないの?」
「いいえ、そうじゃございません」お錦はそっと着物の上から左の二の腕を抑えたが、
「痣があるのでございますの」
「まあ、そうかえ、痣がねえ」
 お琴は意外な顔をした。

 紫錦《しきん》は伊丹屋へ来て以来、その名をお錦《きん》と呼び変えられていた。そのお錦の最近の希望《のぞみ》は、女中も連れず、ただ一人で浅草辺りを歩いて見たいことで、もしそれが旨く行こうものならどんなにのうのう[#「のうのう」に傍点]するだろう――こう彼女は思うのであった。
 で或日外出した時、うまうま途中で女中をまいた[#「まいた」に傍点]。喜んだお錦はその足で浅草の方へ歩いて行った。浅草奥山の賑《にぎわい》は今も昔も変りがなく、見世物小屋からは景気のよい囃子の音が聞こえてきた。恐ろしいような人出であった。
 観音様へお賽銭を上げ、それからお堂の裏手の方へ宛もなく彼女は歩いて行った。
「オイ紫錦《しきん》さん、紫錦さんじゃないか!」
 誰やら背後《うしろ》から呼ぶ者があるので彼女は驚いて振り返った。
「おや、お前、トン公《こう》じゃないか?」
「ナーンだ、やっぱり紫錦さんか」
 昔のお仲間、道化のトン公、三尺足らずの福助頭――それが笑いながら立っていた。
「たしかにそうだとは思ったが、何しろ様子が変っているだろう。穏《おとな》し作りのお嬢さん、迂闊《うっか》り呼び掛けて人|異《ちが》いだったら、こいつ面目《めんぼく》がねえからな。それでここまでつけて[#「つけて」に傍点]来たのさ」
「まあそうかえ、どこで目付けたの?」
「うん、玉乗の楽屋でね。俺《おい》らあそこに傭《やと》われているんだ」
 二人は歩きながら話すことにした。
「……で、そういった塩梅《あんばい》でね、諏訪以来一座は解散さ。チリチリバラバラになったのさ。……随分お前を探したよ。親方にとっては金箱だし源公《げんこう》から見れば恋女だ。そのお前がどこへ行ったものか、かいくれ行衛《ゆくえ》が知れねえんだからな。そりゃア随分探したものさ。ああ今だって探しているよ。執念深い奴らだからな」
「そりゃあもう探すのが当然さ」
 お錦は何となく憂鬱に云った。「それで、随分怒っているだろうね」
「ああ随分怒っているよ。恩知らずの不幸者だってね。……そう親方が云うんだよ」
「実の親でもない癖に」お錦はにわかに反抗的に「不幸者が聞いて呆れるよ」
「そうともそうとも本当にそうだ」トン公はすぐに同情した。「怨こそあれ恩はねえ道理だ。いずれお前を誘拐《かどわか》したものさ」
「そうよ、妾の小さい時にね」
「その上ふんだん[#「ふんだん」に傍点]に稼がせてよ。あぶく銭を儲けたんだからな」
「恩もなけりゃ義理もない訳さ」
「ところでどうだな、今の生活《くらし》は?」
「さあね」とお錦は気がなさそうに「大してうらやましい生活でもないよ」
「そうかなア、不思議だなア」トン公は仔細らしく考え込んで「でもお前《めえ》伊丹屋といえば江戸で指折の酒屋じゃねえか。そこの養女ときたひにゃア云う目が出るというものだ」
「そりゃあそうだよ。云う目は出るさ。でもね、本当の幸福ってものは、そんなものじゃないと思うよ」
「それにお前《めえ》伊太郎さんは、お前の好きな人じゃアねえか」
「嫌いでなかったという迄の人さ。それにどうも妾とはね、気心がピッタリと合わないのだよ」
「ふうん、そうかなア、変なものだなア。……だが、オイ、そりゃア我儘ってもんだぜ」
 しかしお錦は黙っていた。
「だがマアお前《めえ》と逢うことが出来て、俺《おい》らほんとに嬉しいよ」ややあってこうトン公が云った。
「お前はそうでもあるめえがな」
「いいえ妾だって嬉しいよ」本心からお錦は云うのであった。「何といったって昔馴染だからね」
「そう云われると嘘にしても俺らは素敵にいい気持だよ」
 なるたけ人のいない方へと二人は歩いて行くのであった。
「それじゃお前さんはここ当分玉乗の一座にいるんだね」
「他に行き場もないからな」
「それじゃいつでも逢えるのね」
「だが余《あんま》り逢わねえがいい、今じゃ身分が異《ちが》うんだからな」
「莫迦をお云いな。逢いに行くわよ」
「それに親方も源公もいずれ江戸の地にはいるんだからな、あんまり暢気《のんき》に出歩いていて目付けられると五月蠅《うるさい》ぜ。何しろ源公ときたひにゃア、未だにお前に夢中なんだからな」
「源公なんかにゃ驚かないよ」お錦はむしろ冷笑した。「それこそ一睨みで縮ませて見せるよ」
「そりゃあマアそうに異《ちげ》えねえが……」
 トン公はやはり心配そうであった。

 二三日経った或日のこと、浅草観音の堂の側《わき》に、目新しい芸人が現われた。莚を敷いたその上で大きな鼬を躍らせるのであったが、それがいかにも上手なので、参詣の人の注意をひいた。
 芸人の年輩は不明であったが、四十歳から六十歳迄の間で、左の耳の根元の辺りに瘤のあるのが特色であった、陽にやけた皮膚筋張った手足、一癖あり気の鋭い眼つき、気味の悪い男であった。
「さあさあ太夫《たゆう》さん踊ったり踊ったり」
 手に持っていた竹の鞭で、窃《そっ》と鼬に障わりながら、錆のある美音で唄い出した。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]甲州出るときア涙が出たが
今じゃ甲州の風も厭
[#ここで字下げ終わり]
 春陽が明々と地を照らしその地上では鳩の群が餌をあさりながら啼いていた。吉野桜が散ってきた。堂の横手芸人の背後《うしろ》に巨大な公孫樹《いちょうのき》が立っていたが、まだ新芽は出ていなかった。鼬の大きさは四尺もあろうか、それが後足で立ち上り、前足をブラブラ宙に泳がせ、その茶色の体の毛を春陽《はるひ》にキラキラ輝かせながら、唄声に連れて踊る態は、可愛くもあれば物凄くもあった。
 投銭放銭がひとしきり[#「ひとしきり」に傍点]降り、やがて芸当が一段落となった。その時目立って美しい娘が供の女中を一人連れ仲見世の方からやって来たが、大道芸人の顔を見るとにわかに足を急がせた。その様子が変だったので、大道芸人は眼をそばめた。
「おや? 可笑《おか》しいぞ、彼奴《あいつ》そっくりだぞ?」
 こう口の中で呟いたかと思うと、彼の側《そば》に蹲居《しゃが》んでいた二十四五の若者へ、顎でしゃくって[#「しゃくって」に傍点]合図をした。
「オイ源公《げんこう》、今のを[#「のを」に傍点]見たか?」
「うん」と云うと若者は、その殺気立った燃えるような眼で、人混の中へ消え去ろうとする娘の姿を見送ったが、「異《ちげ》いねえよ、あの阿魔《あま》だよ」
「だが様子が変わり過ぎるな」
「ナーニ彼奴だ、彼奴に相違ねえ」
「そうさ、俺もそう思う」
「畜生、顔を反けやがった」
「オイ源公、後をつけて見な」
「云うにゃ及ぶだ。見遁せるものか」
 で、源公は人波を分け、娘の後を追って行った。
「さあさあ太夫《たゆう》さん一踊り、ご苦労ながら一踊り……※[#歌記号、1-3-28]男達《おとこだて》ならこの釜無《かまなし》の流れ来る水止めて見ろ……ヨイサッサ、ヨイサッサ」
 大道芸人が唄い出し、鼬が立っておどりだした。

「おおトン公《こう》か、よく来てくれた」
「爺《とっ》つあん」は嬉しそうにこう云うと、夜具の襟から顔を出した。「爺つあん」は酷く窶《やつ》れていた。ほとんど死にかかっているのであった。
 ここは金龍山瓦町《きんりうざんかわらまち》[#ルビの「きんりうざんかわらまち」はママ]の「爺つあん」の住居《すまい》の寝間であった。
「どうだね「爺つあん」? 少しはいいかね?」
 トン公は坐って覗き込んだ。
「有難えことには、可《よ》くねえよ」――「爺つあん」はこんな変なことを云った。
「おかしいじゃないか、え「爺つあん」? 可くもねえのに有難えなんて?」
 すると「爺つあん」は寂しく笑い、
「うんにゃ、そうでねえ、そうでねえよ。俺らのような悪党が、磔刑にもならず、獄門にもならず、畳の上で死ねるかと思うと、こんな有難えことはねえ」
「へえ、なるほど、そんなものかねえ」トン公はどうやら感心したらしい。「だがね、「爺つあん」俺らにはね、お前が悪党とは思われないんだよ」
「ナーニ俺は大悪党だよ」
「でも「爺つあん」は貧乏人だと見ると、よく恵んでやるじゃないか」
「ああ恵むとも、時々はな。つまりナンダ罪ほろぼしのためさ」
「でも一座の連中で、お前のことを悪く云う者は、それこそ一人だってありゃアしねえよ」
「それは俺らが座主だからだろう」
「ああそれもあるけれどね……」
「うっかり俺の悪口でも云って、そいつを俺に聞かれたが最後、首を切られると思うからさ」
「ああそいつ[#「そいつ」に傍点]もあるけれどね……」
「それより他に何があるものか」
「金を貸すからいい親方だと、こうみんな云っているよ」
「アッハハハ、そうだろう。その辺りがオチというものだ。ところでそういう人間のことだ、俺が金を貸さなくなったら、今度は悪口を云うだろうよ」
「ああそりゃあ云うだろうよ」トン公は直ぐに妥協した。それが「爺つあん」には可笑しかったか面白そうに笑ったが、
「トン公、お前は正直者だな。だから俺はお前が好きだ」
「ううん、何だか解《わか》るものか」それでもトン公は嬉しそうに笑った。
「うんにゃ、俺はお前が好きだ。その剽軽な巾着頭《きんちゃくあたま》、そいつを見ていると好い気持になる」
「何だ俺らを嬲るのけえ」トン公は厭な顔をした。
「怒っちゃいけねえいけねえ。本当のことだ、なんの嬲るものか。それはそうと、なあトン公、お前は随分苦労したらしいな」

「ああ随分苦労したよ」トン公はちょっと寂しそうにした。
「俺らの一座へ来る前には、お前《めえ》どこの座にいたな?」
「俺ら軽業の一座にいたよ」
「軽業の一座? ふうん、誰のな?」
「「釜無《かまなし》の文《ぶん》」の一座にだよ」
 これを聞くと「爺つあん」は急にその眼を輝かせたが、すぐ気が付いてさり[#「さり」に傍点]気なく、
「ああそうか「釜無の文」か……ところで諏訪ではご難だったそうだな」
「お話にも何にもなりゃあしない」
「それはそうと文の一座に綺麗な娘がいたはずだが?」
「幾人もいたよ、綺麗な娘なら」
「それ、文の養女だとか云う?」
「ああそれじゃ紫錦《しきん》さんだ」
「うん、そうそうその紫錦よ、行衛《ゆくえ》が知れないって云うじゃないか」
 するとトン公は得意そうにニヤリとばかり一人笑いをしたが「ああ行衛が知れないよ。……だが俺らだけは知っている」
「え?」と、「爺つあん」は眼を丸くした。「お前知っているって? 紫錦の行衛を?」
 こう云う「爺つあん」の声の中には恐ろしい情熱が籠っていた。それがトン公を吃驚《びっくり》させた。
「おいトン公」と「爺つあん」は、夜具から体を抜け出させたが「ほんとにお前が知っているなら、どうぞ俺に話してくれ。お願いだ、話してくれ。え、紫錦はどこにいるんだ?」
「だが紫錦さんの在所《ありか》を聞いて「爺つあん」お前はどうする意《つもり》だな」
「どうしてもいい、教えてくれ! え、紫錦はどこにいるな?」
「お気の毒だが教えられねえ」にべもなくトン公は突っ刎ねた。
「教えられねえ? 何故教えられねえ?」
「お前の本心が解《わか》らねえからよ」
「俺の本心だって? え、本心だって?」
「今紫錦さんは幸福なんだよ。ああそうだよ大変にね。もっとも自分じゃ不幸だなんて我儘なことを云ってるけれど、ナーニやっぱり幸福《しあわせ》なのさ。だがね、紫錦さんの幸福はね、どうも酷《ひど》く破壊《こわれ》やすいんだよ。で、ちょっとでも邪魔をしたら、直ぐヘナに破壊っちまうのさ。ところでどうも運の悪いことには、その紫錦さんの幸福をぶち破壊そうと掛かっている、良くねえ奴がいるのだよ。だがここに幸《しあわせ》のことには、まだそいつらは紫錦さんの居場所を、ちょっと知っていねえのさ。……ね、これで解ったろう、俺らがどうして紫錦さんの居場所を、お前に明かさねえのかって云うことがな」
「だが」と「爺つあん」は遮った。「だが俺はお前の云う、よくねえ奴じゃねえんだからな。だから明かしたっていいじゃねえか」
「どうしてそれが解るものか」
「じゃお前はこの俺を悪党だと思っているのだな?」
「俺らはそうは思わねえけれど、お前が自分で云ったじゃねえか」
「だが、そいつは昔のことだ」
「ああそうか、昔のことか」
「今では俺はいい人間だ。いつも俺は懺悔しているのだ」
「そうだと思った。そうなくちゃならねえ。だが「爺つあん」それにしてもだ、紫錦さんの居場所を俺らから聞いて一体どうするつもりだな?」
 すると「爺つあん」は声を窃《ひそ》め、四辺《あたり》をしばらく見廻してから「人に云っちゃいけねえぜ。え、トン公承知だろうな。……実は俺はその紫錦に大事な物を譲りてえのだ」
「だがお前と紫錦さんとはどんな関係があるんだろう?」
「それは云えねえ。云う必要もねえ」いくらか「爺つあん」はムッとしたらしい。
「とにかく」と「爺つあん」は云いつづけた。「それを譲られると譲られた時から、紫錦は幸福になれるんだよ」
「……」トン公は黙って考え込んだ。どうやら疑っているらしい。しかしとうとうこう云った。
「俺ら、お前を信じることにしよう。紫錦さんの居場所を明かすことにしよう」
「おおそれでは明かしてくれるか。有難え有難えお礼を云う。で、紫錦はどこにいるな?」
「江戸にいるよ。この江戸にな」
「江戸はどこだ? え、江戸は?」
「日本橋だよ。酒屋にいるんだ」
「日本橋の酒屋だって?」
「伊丹屋という大金持の養女になっているんだよ」
「ふうん、伊丹屋の? ふうん、伊丹屋のな?……ああ、夢にも知らなかった」
 葉村《はむら》一座と呼ばれる所の浅草奥山の玉乗の元締、それをしている「爺つあん」は、どうしたものかこう云うと涙をポロポロ零したが、そのまま夜具へ顔を埋めた。
 驚いたのはトン公であった。ポカンと「爺つあん」を眺めやった。

 チョンチョンチョンと拍子木の音がどこからともなく聞こえてきた。
「おや、どうしたんだろう? あの拍子木の音は?」
 お錦は呟いて耳を澄ました。
「トン公の拍子木に相違ないよ」
 そこで彼女は部屋を抜け出し裏庭の方へ行って見た。木戸の向うに人影が見えた。下駄を突っかけると飛石伝いに窃《そっ》と其方《そっち》へ小走って行った。燈火《ともしび》の射さない暗い露路に小供が一人立っていたが、しかしそれは小供ではなく思った通りトン公であった。
「トン公じゃないか、どうしたのさ?」
 するとトン公は近寄って来、
「よく拍子木が解《わか》ったな」
「お前の打手を忘れるものかよ」
「実は急に逢いたくってな、それで呼び出しをしたやつさ」
「用でもあるの? お話しおしよ」
「ねえ紫錦《しきん》さん、俺らと一緒に、ちょっとそこ迄行ってくれないか」四辺《あたり》を憚ってトン公は云った。
「行ってもいいがね、どこへ行くの?」
「金龍山瓦町《きんりうざんかわらまち》[#ルビの「きんりうざんかわらまち」はママ]へよ」
「浅草じゃないか、随分遠いね、それにこんなに晩になって」お錦は怪訝そうに云うのであった。
「それがね、至急を要するんだ」
「へえ不思議だね、何の用さ」
「逢いてえって人があるんだよ。是非お前《めえ》に逢い度えって人がな。それが気の毒な病人なんだ」
「誰だろう? 知ってる人?」
「お前の方じゃ知らねえだろうよ。だが確かな人間だ。実は俺らの親方なのさ」
「お前の親方? 玉乗りのかい?」
「ああそうだよ。葉村《はむら》一座のな。俺らその人に頼まれて、お前を迎いに来たってやつよ」
 トン公はそこで気が付いたように、
「だがお前は出られめえな、なにせ大家のお嬢さんだし、もう夜も遅いんだからな」
「行くならこのまま行っちまうのさ」
「だが後でやかましいだろう?」
「そりゃあ何か云われるだろうさ」
「困ったな、では止めるか。止めにした方がよさそうだな」
「くずくず云ったら飛び出してやるから、そっちの方は平気だよ。それより妾《わたし》にゃその人の方が気味悪く思われるがね」
「うん、こっちは大丈夫だ。俺らが付いているんだからな」
「では行こうよ。思い切って行こう」
 そこで二人は露地を出て、浅草の方へ足を運んだ。
「トン公」とお錦は不意に云った。「今日|彼奴《あいつ》らと邂逅《でっくわ》したよ。源公《げんこう》の奴と親方にね」
「え!」とトン公は怯えたように声を上げたが「ふうんそいつあ悪かったなあ。一体どこで邂逅したんだい?」
「観音様の横手でね」
「それじゃ今日の帰路《かえり》にだな」
「お前と別れてブラブラ来るとね、莚《むしろ》の上で親方がさ、えて[#「えて」に傍点]物を踊らせていたじゃないか」
「ふうんそいつアしまった[#「しまった」に傍点]なあ」
「早速源公が後をつけて来たよ」
「え、そいつアなおいけねえや」
「ナーニ途中で巻いっちゃった[#「巻いっちゃった」はママ]よ」
「そいつアよかった。大出来だった」
 話しながら歩いて行った。
 こうして上野の山下へ来た。と五六人の人影が家の陰から現われ出た。
「おや」とトン公が云った時、堅い棒で脳天の辺りを厭という程ブン撲られた。「あっ、遣られた、こん畜生め!」こう叫んだがその声は咽喉から外へ出なかった。たちまちにグラグラと眼が廻り、何も彼も意識の外へ逃げた。
 お錦は人影に取り巻かれた。
「何をするんだよお前達は!」
 気丈な彼女は怒鳴《どな》り付けたが、何の役にも立たなかった。彼女は直ぐに捉えられた。
「構う事アねえ、担いで行け!」
 彼等の一人がこう云った。彼女にはその声に聞き覚えがあった。
「あ、畜生、源公だな!」
「やい、紫錦、態《ざま》あ見ろ! よくも仲間を裏切ったな、料《りょう》ってやるから観念しろ!」
 源太夫は嘲笑った。
「さあ遣ってくれ、邪魔のねえうちに」
 しかし少々遅かった。邪魔が早くも入ったのである。
「これ、待て待て、悪い奴等《やつら》だ!」
 こう云って走って来る人影があった。
「あっ、いけねえ、侍だ」
「またにしろ! 逃げたり逃げたり!」
 ――源太夫の群はお錦を投げ出しどことも知れず逃げてしまった。

10

「娘御、お怪我はなかったかな」
「あぶないところをお助け下され、まことに有難う存じます。ハイ幸い、どこも怪我は……」
「おおさようか、それはよかった。……や、ここに仆《たお》れているのは?」
 こう云いながら若侍はトン公の方へ寄って行った。
「妾《わたし》の知己《しりあい》でございます。もしや死んだのではございますまいか?」
 お錦は不安に耐えないように、トン公の上へ身をかがめた。
 若侍は脈を見たが、「大丈夫でござる。活きております。どうやら気絶をしたらしい」
 間もなくトン公は正気になった。
「済まねえ済まねえ、眠っちゃった。ナーニもう大丈夫だ。だが畜生頭が痛え」
 負け惜しみの強いトン公は、気絶したとは云わなかった。
 二人を救った若侍は小堀義哉《こぼりよしや》というもので、五百石の旗本の次男、小さい時から芸事が好き、それで延寿《えんじゅ》の門に入り、五年経たぬ間に名取となり、今では立派な師匠株、従って父親とはソリが合わず、最近家を出て一家を構え、遊芸三昧に日を暮らしている結構な身分の者であったが今日も清元のおさらい[#「おさらい」に傍点]に行き、遅くなっての帰路であった。
「またさっき[#「さっき」に傍点]の悪者どもが盛り返して来ないものでもない、瓦町《かわらまち》まで送りましょう」
 義哉は親切にこう云った。
 で三人は歩くことにした。
「爺つあん」の住居へ着いたのはそれから間もなくのことであったが、別れようとする若侍をお願いしてお錦は引き止めて置いて、家の内へ入って行った。
 ガランとした古びた家であった。
 そうして「爺つあん」の寝ている部屋は、その家の一番奥にあった。
「「爺つあん」、紫錦《しきん》さんを連れて来たよ」
 トン公はこう云って入って行った。
「トン公、どうも有難う」
 こう云いながら「爺つあん」は布団の上へ起き上った。そうしてつつましく[#「つつましく」に傍点]膝をついたお錦の顔をじっと見た。
 と、みるみる「爺つあん」の眼から大粒の涙が零れ出た。非常に感動したらしい。
「おかしな爺さんだよ、どうしたんだろう?」
 お錦はひどく[#「ひどく」に傍点]吃驚《びっくり》した。
 勿論彼女には見覚えはない。初めて会った老人である。
「どうして涙なんか零すんだろう? 妾《わたし》をどう思っているのだろう? 気味の悪い爺さんだよ」
 こう思わざるを得なかった。
「トン公」やがて「爺つあん」は云って「ちょっとこの場を外してくれ。ナーニ大丈夫だ、心配しなくてもいい。ただちょっと話すだけだ」
「「爺つあん」のことだ、ああいいとも」
 トン公は云いすてて出て行った。
 後を見送った「爺つあん」は、その眼を返すとお錦の顔を、またもじっと見守ったが、
「おお紫錦、大きくなったなあ」
 不意に優しくこう云った。いかにも親し気な調子であり、慈愛に充ちた調子であった。
 お錦にとっては意外であった。何の理由で、何の権利で、紫錦などと呼び捨てにするのだろう? で彼女は不快そうに顔をそむけ[#「そむけ」に傍点]て黙っていた。
「それに、ほんとに、立派になったなあ」
 また「爺つあん」はこう云った。感情に充ちた声である。
「いらざるお世話で、莫迦にしているよ」いよいよ慣れ慣れしい相手の様子に、彼女は一層腹を立て、心の中でこう怒鳴《どな》ったが、でもやっぱり黙っていた。
 しかし「爺つあん」は態度を変えず、同じ調子で云いつづけた。「聞けばお前は日本橋の伊丹屋さんにいるそうだが、この上もない結構なことだ。辛抱して可愛がられ、嫁になるように心掛けなければならねえ」ここでちょっと言葉を切ったが、「ところでお前は二の腕に、大きな痣があるだろうな?」
「ええ」と初めてお錦は云った。「大きな痣がありますわ。どうしてそんなこと知っているんでしょう?」
「私はな」と「爺つあん」は微笑しながら「そうだ、私はな、お前のことなら、どんなことでも知ってるよ」
 確信のあるらしい調子であった。
 で、お錦は怪しみながらも改めてつくづくと「爺つあん」を見た。しかしやはりその老人は、彼女にとっては見覚えがなかった。

11

「紫錦《しきん》」と「爺《とっ》つあん」は云いつづけた。「俺の命は永かあねえ、胃の腑に腫物《できもの》が出来たんだからな。で俺はじきに死ぬ。また死んでも惜しかあねえ。俺のような悪党は、なるだけ早く死んだ方が、かえって人助けというものだ。それで死ぬのは惜しかあねえが、ここに一つ惜しいものがある。他でもねえこの箱だ」
 布団の下から取り出したのは、神代杉《じんだいすぎ》の手箱であった。
「これをお前に遣ることにする。大事にしまっておくがいい。そうして俺が死んだ後で、窃《こっそ》りひらいて見るがいい。お前を幸福《しあわせ》にしようからな」
 ここでちょっと憂鬱になったが、
「そうだ、そうしてこの箱をひらくと、お前の本当の素性もわかる。もっともそいつ[#「そいつ」に傍点]はかえってお前を不幸《ふしあわせ》にするかもしれねえがな。……だが[#「だが」に傍点]それも仕方がねえ」
「爺つあん」はしばらく黙り込んだ。
 それからソロソロと手を延ばすと、指先を畳目へ差し込んだ。それからじっと[#「じっと」に傍点]聞き耳を澄まし四辺《あたり》の様子をうかがってから、ヒョイと畳目から指を抜いた。
「これを」と「爺つあん」は囁くように云った。「早くお取りこの鍵を!」
 見ると「爺つあん」は指先に小さい鍵を摘まんでいた。
「箱も大事だが鍵も大事だ。鍵の方がいっそ[#「いっそ」に傍点]大事だ。だから別々にしまって置くがいい。この鍵でなければこの箱は、どんなことをしても開かないんだからな、……ところで紫錦よ気をおつけ。敵があるからな、敵があるからな。……で、もうこれで用はおえた。気をつけてお帰り、気を付けてな」
 そこでお錦は二品を貰い、急いで部屋を抜け出した。
 送るというのをことわって[#「ことわって」に傍点]、義哉《よしや》と一緒に帰ることにした。
 森然《しん》とふけた夜の町を、二人は並んで歩いて行った。
 義哉から見たお錦という女は、どうにも不思議な女であった。華美な身装、濃艶《のうえん》な縹緻、それから推《お》すと良家の娘で、令嬢と云ってもよい程であったが、その大胆な行動や、物に臆《お》じない振舞から見れば素人娘とは受け取れない。
「不思議だな、見当がつかない。……だが実に美しいものだ。しかしこの美には毒がある。触れた男を傷つける美だ」
 肩をならべて歩きながらも、警戒せざるを得なかった。
「ところで住居《すまい》はどの辺りかな?」
 こらえられずに訊いてみた。
「ハイ、日本橋でございます」
「日本橋はどの辺りかな?」
「あの伊丹屋という酒問屋で」
「はあ、伊丹屋、さようでござるか」
 義哉はちょっとびっくりした。伊丹屋といえば大家である。その名は彼にも聞えていた。
「失礼ながら、ご令嬢かな?」
「ハイ、娘でございます」
「さようでござるか、それはそれは」
 こうは云ったが愈々益々《いよいよますます》、疑わざるを得なかった。
「それほどの大家の令嬢が、こんな深夜に江戸の町を、あんな片輪者を一人だけ連れて、浅草あたりのあんな家を、どうして訪ねたものだろう? いやいやこれは食わせ物だ。色を売る女であろうもしれぬ」
 しかし間もなくその疑いが杞憂であったことが証拠立てられた。
「あの、ここが妾《わたくし》の家で」
 こう云いながら指差した家が、紛れもなく伊丹屋であったからである。
「あの……」とお錦は云い難そうにしばらくもじもじ[#「もじもじ」に傍点]していたが「いずれ明日改めて、お礼にお伺い致しますがどうぞその時までこの手箱をお預かり下さることなりますまいか」
 こう云いながら差し出したのは「爺つあん」から貰った手箱であった。
「ははあ」と義哉は胸の中で云った。「さては恋文でも入れてあるのだな。あの浅草の古びた家は媾曳《あいびき》の宿であったのかもしれない。大胆な娘の様子から云っても、これは確かにありそうなことだ。とんだ所へ飛び込んだものだ」
 苦笑せざるを得なかった。
 彼は身分は武士ではあったがその心持は芸人であった。でこういう頼み事を、断るような野暮はしない。
「よろしゅうござる、承知しました」
 こう云って手箱を受け取った。
「拙者の姓名は小堀義哉、住居は芝の三田でござる。いつでも受け取りにおいでなさるよう」
 こう云い捨てて歩き出し、少し行って振り返って見ると、伊丹屋の表の潜戸《くぐりど》があき、そこから内へ入って行く美しいお錦の姿が見えた。

12

「爺つあん」はすっかり疲労《つかれ》てしまった。
 ひどく感動をした後の、何とも云われない疲労であった。
 で、布団を胸へかけ、静かに睡《ねむり》へ入ろうとした。すると襖がひっそりとあいて、雇婆《やといばあ》さんが顔を出した。
「もし、親方、お客様ですよ」
「誰だか知らねえが断っておくれ」
「どうしても逢いたいって仰有《おっしゃ》るので」
「ところが俺は逢いたくねえのだ」
「困りましたね、どうしましょう」
 婆さんはいかにも困ったらしかった。
「どんな人だね、逢いたいって人は?」
 それでもいくらか気になるか、こう「爺つあん」は訊いて見た。と婆さんが返事をしないうちに、
「「爺つあん」俺だよ」という声がした。
 開けられた襖のむこう[#「むこう」に傍点]側に、一人の男が立っていた。耳の付け根に瘤があった。
「おっ、お前は文じゃねえか!」
「爺つあん」は仰天してこう叫んだ。
「うん、そうだよ、「釜無《かまな》しの文《ぶん》」だよ」こう云いながらその男は、ヌッと部屋の中へ入って来たが「婆さん」と、ひどく威嚇的に「お前あっち[#「あっち」に傍点]へ行っていな、俺《おい》ら「爺つあん」に用があるんだからな」
 雇婆さんが行ってしまった後、二人はしばらく黙っていた。
「オイ」と文はやがて云った。「久しぶりだな、え「爺つあん」……いや全く久しぶりだ」
「うん」と「爺つあん」は物憂そうに「久しぶりだよ、全くな」
「おいら[#「おいら」に傍点]夢にも知らなかった。まさかお前が江戸も江戸、浅草奥山でも人気のある、葉村《はむら》一座の仕打《しうち》として、こんな所にいようとはな。……なるほど、世間はむずかしい、これじゃ探しても目付からなかった訳だ」
「目付けてくれずともよかったに」
「お前の方はそうだろうが、俺の方はそうはいかねえ」
「ところで、どうして目付けたな?」
「うん、それが、偶然からさ。今日お前のやっている葉村の玉乗を見に入ったものさ。俺だって生きている人間だ、たまには楽しみだって必要ってものさ。ところでそこでトン公を目付けた」
「ああ成程、トン公をな」
「彼奴《きゃつ》は元々俺の座で、道化役をしていた人間だ」
「そういうことだな、トン公から聞いた」
「ところが今じゃお前の座にいる」
「ははあ、それじゃ、それについて、文句をつけに来たんだな」
「うんにゃ、違う、そうじゃねえ。……俺《おい》ら信州の高島で、とんでもねえブマを打っちゃってな、一座チリチリバラバラよ。だからトン公がどこにいようと、苦情を云ってく筋はねえ。だからそいつあ[#「そいつあ」に傍点]問題外だ。……とにかくトン公を目付けたので、それからそれと手繰って行って、お前という者を探りあてたのよ」
「で、お前の本心はえ?」こう「爺つあん」は切り出した。
「よく訊いた、さて本心だが、どうだい「爺つあん」交換《かえっこ》しようじゃねえか」釜無しの文はヅッケリと云った。
「交換だって? え、何の?」
「永年お前が欲しがっていた、あの紫錦を返してやろう。その代り一件の手箱をくんな」
「成程」と云ったが、「爺つあん」は、変に皮肉に微笑した。「その交換なら止めようよ」
「え、厭だって? どうしてだい?」文は明かにびっくり[#「びっくり」に傍点]した。
「もうあの娘には用がねえからさ」
「おかしいな、どうしてだい?」
「俺の心が変ったからさ」
「だって、お前の子じゃあねえか」
「それに」と「爺つあん」は嘲笑うように「噂によるとあの紫錦は、高島以来お前の所から、行衛《ゆくえ》を眩ましたって云うじゃねえか」
「え?」と云ったが釜無しの文は、顔に狼狽を現わした。しかしすぐに声高く笑い「トン公の野郎め、喋舌ったな!」
「手許にもいねえその紫錦を、どうして俺らへ返してくれるな?」
「うん」と云ったが、行き詰ってしまった。
「だがな」と文は盛り返し「いかにも紫錦は手許にはいねえ。だが居場所は解っている。源公が後をつけ[#「つけ」に傍点]て行ったはずだ」
「ふうむ」
 と今度は「爺つあん」の方が、苦悶の色を現わした。
「だから紫錦は俺達のものさ」
「ほんとに居場所を知っているのか?」
「知っていなくてさ。大知りだ」
「どこに居るな? 云ってみるがいい」
「じゃ、よこせ、杉の手箱を!」
 隙さず文は手を出した。

13

「その手箱なら手許にないよ」素気なく「爺つあん」は云い放った。
「嘘を云いねえ、ほんとにするものか」文は憎さげに笑ったが、「ではどうでも厭なのだな。ふん、厭なら止すがいい。その代り紫錦を連れて来て、もう今度は遠慮はいらねえ、何も彼もモミクチャにしてやるから」
 これを聞くと「爺つあん」の顔は、不安のために歪んだが、
「文! 紫錦にゃ罪はねえ! そんな事はよしてくれ!」
「じゃ、手箱を渡すがいい」
「ないのだないのだ! 手許には!」
「じゃ一体どこにあるのだ?」
「そいつあ云えねえ。勘弁してくれ」
「云えなけりゃそれまでよ。……そろそろ料理に取りかかるかな」
 文は部屋から出ようとした。
「オイ待ってくれ、釜無しの!」と「爺つあん」は周章《あわ》てて呼びとめた。
「何か用かな? え、「爺つあん」?」相手の苦痛を味わうかのように文はゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]とこう云った。
「ほんとに紫錦をいじめる気か?」
「二枚の舌は使わねえよ」
「ほんとに居場所を知ってるのか? え、紫錦の居り場所を?」
「二枚の舌は使わねえよ」
「それじゃどうも仕方がねえ」じっ[#「じっ」に傍点]と「爺つあん」は考え込んだが、
「云うとしよう、在り場所をな」
「おお云うか、それはそれは」文はニタリと北叟笑《ほくそえ》みをしたが、「どこにあるんだ、え、手箱は」
「その代り手箱を手に入れたら、きっと紫錦からは手を引くだろうな」
「云うにゃ及ぶだ、手を引くとも。元々あの娘を抑えたのは、その手箱が欲しかったからさ。いわば人質に取ったんだからな。……で、手箱はどこにあるな?」
「よく聞きねえよ、その手箱はな……」
「おっと、云っちゃいけねえ!」突然こう云う声がした。
 驚く二人の眼の前へ、襖をあけて現われたのは、他でもないトン公であったが、頭を白布で巻いているのは、傷を結《いわ》えたからであろう。
「おお親方、久し振りだね」まず文へ挨拶をした。
「や、手前、トン公じゃねえか!」文は憎さげに怒鳴《どな》り声をあげ「福助の出る幕じゃあねえ、引っ込んでろ!」
「そいつはいけねえ、いけねえとも、お生憎さまだが引っ込めねえ」負けずにトン公はやり返した。
「と云うなあお前さんが、あんまり嘘を云うからさ」
「ナニ嘘を云う? 嘘とはなんだ!」
「嘘じゃねえかよ、ねえ親方、なんのお前さんや源公が、紫錦さんの居場所を知ってるものか。大嘘吐きのコンコンチキさね。こっちはちゃあんと[#「ちゃあんと」に傍点]見透しだあ」トン公は小気味よく喝破してから、「ねえ親方、嘘だと思うなら、荒筋を摘まんで話してもいい。聞きなさるか、え、親方《おやかた》?」
 文は返辞をしなかった。
「まずこうだ、しかも今日、お前さんとそうして源公とが、観音堂の横っちょ[#「っちょ」に傍点]で、エテ物を踊らせていたってものだ。するとそこへ遣って来たのが、令嬢姿の紫錦さんよ。で、早速源公が後をつけ[#「つけ」に傍点]たというものだ。そうさ、ここまでは成功だ。だが、後が面白くねえ、そうさ、途中でまかれ[#「まかれ」に傍点]たんだからな。アッハハハ、いい面の皮さ。……だから親方にしろ源公にしろ、紫錦さんの居り場所なんか、知ってるはずはねえじゃあねえか。へん、この通り、見透しだあね」
 文は返辞をしなかった。事実は返辞が出来なかった。それというのもトン公の言葉が一々胸にあたるからであった。
「トン公!」ととうとう喚くように云った。「昔の親方の恩を忘れ、襟元へ付こうって云うんだな。覚えていろよ、いい事アねえぞ」
「覚えているとも」とトン公は笑い、「悪いことは云わねえ帰った方がいい。そうだ足下の明るいうちにね」
 云い捲くられた釜無しの文は、縹緻《きりょう》を下げて帰ることになった。
 足音が門口から消えた時、「爺つあん」は深い溜息をした。
「……すんでに瞞される所だった。トン公、ほんとに有難うよ」
「ナーニ」と云ったがトン公は、頭の繃帯を手でさぐり、「どうもいけねえ、まだ痛えや。……だがね「爺つあん」実の所はね、紫錦さんは浮雲《あぶね》えんだよ」
「え、どうしてだい? どうして浮雲えな?」
「源公の野郎ヤケになって、江戸中探しているらしいんだ。それで今夜もぶつかったって訳さ。この頭の傷だって、つまり何だ、その時の土産《みやげ》さ。……あれいけねえ、まだ痛えや!」怨めしそうな顔をした。

14


   ※[#歌記号、1-3-28]よし足引の山めぐり、四季のながめも面白や、梅が笑えば柳が招く、風のまにまに早蕨《さわらび》の、手を引きそうて弥生《やよい》山……

 その翌日の午後であったが、小堀義哉《こぼりよしや》は裏座敷で、清元《きよもと》の『山姥《やまうば》』をさら[#「さら」に傍点]っていた。
 と、襖がつつましく[#「つつましく」に傍点]開いて、小間使いのお花が顔を出した。
「あの、お客様でございます」
「お客様? どなただな?」
「伊丹屋《いたみや》の娘だと仰有《おっしゃ》いまして、眼の醒《さめ》るようなお美しい方が、駕籠でお見えでございます」
「ああそうか、通すがよい」
 間もなく部屋へ現われたのは、盛装をしたお錦であった。
「お錦殿か、よく見えられたな」義哉は愛想よく声を掛けた。
「昨夜はお助け下されまして、お蔭をもちまして危難を遁がれ、何とお礼を申してよいやら」
 お錦は手をついて辞儀をしたが、「お礼にあがりましてござります」
 其処へ小間使いが現われて、頂戴物の披露をした。
「それはそれはご丁寧に。そんな心配には及ばなかったものを」義哉はかえって気の毒そうにした。
 一人は美男の若侍、一人は妖艶な町娘、それに男は武士とは云っても、清元の名手で寧ろ芸人そうして女は其昔は女軽業の太夫である。それが春の日の閑静な部屋に、二人だけで向かい合っているのであった。
 二人はしばらく黙っていた。蒸されるような沈黙であった。
「おおそうそう、杉の手箱をお預かりしてあったはず、お持ち帰りになられるかな」やがて義哉はこう云って、ものしずかに立ち上りかけた。
「ハイ」と云ったが、周章《あわ》てて止め、「ご迷惑でないようでございましたら、その手箱はもう少々お預かりなされて下さいますよう」
「ははあ左様か、よろしゅうござる」
 この手箱がありさえしたら、これから度々この娘が、訪ねて来ないものではない。何と云っても美しい娘で、美人を見るということは、悪い気持のものではない。……これが義哉の心持だった。それで、承知したのであった。話の口が切れたので、すぐに義哉は追っかけて訊いた。
「由《よし》ありそうな杉の手箱、何が入れてありますかな?」
「さあ何でございましょうか」お錦は一向平気で云った。「戴いたものでございますの」
「ほほう左様で、誰人《どなた》からな?」
「ハイ、見知らぬ老人から」
「見知らぬ老人から? これは不思議」
「ほんとに不思議でございますの。……昨夜あれから参りました、瓦町《かわらまち》の古家で、気味の悪い老人から、戴いたものでございます」
「ふうむ」と云ったが小堀義哉は、にわかに興味に捉えられた。
 で、立ち上って隣室へ行き、袋戸棚の戸をあけて、杉の手箱を取り出して来た。それから仔細に調べたが、
「この箱は杉ではない」先づこう云って首を傾げた。
「杉でないと仰有《おっしゃ》いますと?」
「杉材としては持ち重りがする。鐡で作った箱の表皮へ、杉の板を張り付けたもので、しかも日本の細工ではない。支那製か南蛮製だ」
「マアさようでございますか」お錦も興味を感じてきた。
「ひとつ、開けて見ましょうかな。おおここに鍵穴がある。さて鍵だがお持ちかな?」
「ハイ、うち[#「うち」に傍点]にならございます」
「では明日にでも持って来て、ともかくも開けて見ましょうかな」
「そういうことに致しましょう」
 ここで話がちょっと切れた。
 もう夕暮《ゆうやみ》に近かった。庭の築山では吉野桜が、微風にもつれて[#「もつれて」に傍点]散っていた。パチッ、パチッと音のするのは、泉水で鯉が躍ねるのであった。
 何気なくお錦は庭を見た。往来と境の黒板塀にかなり大きな節穴があったが、そこから誰か覗いていると見えてギラギラ光る眼が見えた。
「あれ!」とお錦の叫んだ時には、もうその眼は消えていた。

15

 やがて夕暮がやって来た。お暇をしなければならなかった。充分の未練を後へ残し、お錦は駕籠で帰って行った。
「よこしまの美であろうとも、美人はやっぱり好ましいものだ」
 義哉《よしや》はこんなことを想いながら、部屋に残っている脂粉の香に、うっとりと心をときめかした。
 思い出して三味線を取り上げると、さっきの続きを弾き出した。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]雁がとどけし玉章《たまづさ》は、小萩のたもとかるやかに、へんじ紫苑《しおん》も朝顔の、おくれさきなるうらみわび……
[#ここで字下げ終わり]
 ちょうどここまで引いて来た時、どうしたものか一の絃が、鈍い音を立ててブッツリと切れた。
「これはおかしい」と云いながら三味線の棹を膝へのせ、義哉は小首をかたむけた。
「一の絃の切れるのは、芽出度いことになっているが、どうもそうとは思われない」彼は何となく不安になった。「変ったことでもなければよいが」
 帰って行ったお錦のことが、妙に気になってならなかった。で、三味線を掻いて遺ると彼は急いで立ち上った。
「お花お花」と小間使を呼び「ちょっと私は出てくるからね。この手箱をしまっておくれ」
 云いすてとつかわ[#「とつかわ」に傍点]家を出ると、愛宕《あたご》下の方へ足を向けた。
 暮れそうで暮れない春の日も、愛宕下へ来た頃には、もうすっかり暮れてしまって、人の顔さえさだか[#「さだか」に傍点]でなかった。その時こんもりと繁り合った、林の中から云い争うような男女の声が聞こえてきた。
 さてこそ[#「さてこそ」に傍点]! というような気持がして、義哉はそっち[#「そっち」に傍点]へ走って行った。
 そこは林のずっと奥で、丘になろうとする傾斜地であったが、香具師《やし》風をした八九人の男が、一人の娘を真中に取り込め、口汚く罵っていた。その娘はお錦であった。それと見て取った小堀義哉は、足音荒く走り寄ったが、
「この破落戸《ならずもの》!」と一喝した。
 しかしこれは悪かった。破落戸のうち四五人の者が、急に彼の方へ向かって来た。そうして後の四五人は、お錦を宙へ吊るすようにして、一散に丘の方へ走り出した。ならずもの[#「ならずもの」に傍点]などと声をかけずに、忍び寄って一刀に、彼らの一人を斬ったなら、彼らは恐れて逃げたかもしれない。
 義哉へ向かった破落戸達は、いずれも獲物を持っていた。そうして人数も多かった。無手であしらう[#「あしらう」に傍点]のは困難であった。そこで義哉も刀を抜いた。
 義哉は芸人ではあったけれど、武術もひととおりは心得ていた。しかし勿論名人ではなかった。とはいえ四五人の破落戸ぐらいに、退《ひ》けを取るような未熟者でもなかった。
 しかし彼の心持は、この時ひどく混乱していた。娘を助けなければならないからであった。
 彼は平和好きの性質からいえば、人を斬るのは厭であり、峯打ちぐらいで済ましたかったが、しかしそうはいかなかった。破落戸どもの抵抗は、思ったよりも強かった。
「チェッ」と一つ舌うちをすると、真先に進んで来た破落戸の右の手首へ斬り付けた。
 侍でない悲しさに、斬り付けられた破落戸は、ワーッと叫ぶと尻もち[#「もち」に傍点]を突いた。踏み込んで行って斬り付けるのは、容易なことではあったけれど、義哉はそうはしなかった。ビューッと刀を振り廻し、
「まだ来る気か!」と威嚇した。
 これは非常に有効であった。ワーッと叫ぶと破落戸どもは、手負い[#「手負い」は底本では「手負ひ」]の仲間を捨てたまま、パラパラと四方へ逃げ散った。
 その隙に義哉は走り出した。
 朧ろの春の月影に、丘の方を透かして見ると、お錦をかどわか[#「かどわか」に傍点]した一団は、今や丘を上りきり、向う側へ下りようとしていた。
 で、血刀をさげたまま彼はその後を追っかけた。しかし頂上まで来た時には、彼等の一団は丘を下り、巴町《ともえちょう》の方へ走っていた。
 そこで彼も丘を下り、彼らの後を追っかけて行った。
 夜の静寂を驚かせ、彼らの走る足音は、家々の戸に反響したが、さてその戸を引き開けて、事件の真相を知ろうというような、冒険好きの者はいなかった。この頃は幕府も末の末で、有司の威令は行なわれず、将軍の威厳さえほとんど傾き、市中は文字通り無警察で、白昼切取強盗さえあった。
 そこで、市民は日中さえ、店を開こうとはしないほどであった。
 その時、破落戸の一団は、にわかに大通りから横へそれた。で、義哉もその後を追い、狭い露路を左へ曲がった。
 曲がって見て彼はアッと云った。露路は浅い袋路なのに、彼らの姿がどこにも見えない。
 彼は棒立ちに突立った。それから仔細に辺りを見た。

16

 左と右は板壁で、出入口らしいものは一つもなく。[#「。」はママ]ただ正面に古びた家が、戸口を向けて立っていた。
「ああ、あの家へ入り込んだな」
 こう思った彼は走り寄ると、躊躇なく表戸へ手を掛けた。すると意外にもスルリと開いた。内へ入って見廻すと、空家と見えて人影もなく、家具類さえ[#「さえ」は底本では「さへ」]見あたらない。
 裏にも一つの出入口があって、その戸がなかば[#「なかば」に傍点]開いていた。
「うん、あそこから抜け出したのだな」
 で、彼はその口から、急いで外へ出ようとした。すると、その戸がにわかに閉じ、閂《かんぬき》を下す音がした。
「しまった!」と叫ぶと身を翻えし、入って来た口から出ようとした。するとその戸も外から閉ざされ、閂のかかる音がした。
 もう出ることは出来なかった。彼は監禁されてしまった。
 こんな場合の彼の心に、よくあてはまる[#「あてはまる」に傍点]形容詞といえば「茫然」という文字だろう。実際彼は茫然として、暗黒の家内に突立っていた。
 しかしいつまでも茫然として、突立っていることは出来なかった。抜け出さなければならなかったし、追っかけなければならなかった。いやいやそれよりこうなってみれば、先ず何より自分自身の、安全を計らなければならなかった。
「戸を破るより仕方がない」そこで彼は全力を集め、裏戸へ体をぶっつけた[#「ぶっつけた」に傍点][#「ぶっつけた」は底本では「ぶつっけた」]。
 途端に人声が聞こえてきた。
「こっちでござる。お入りなされ」
 ギョッとして四辺《あたり》を見廻すと、一筋の火光が天井から、斜に足許へ射していた。二階から来た燈火《あかり》である。ぼんやりと梯子段も見えている。その梯子段の行き詰まりに、がんじょうな戸が立ててあり、それが細目にあけられた隙から火光が幽《かすか》に洩れていた。
「それでは空家ではなかったのか」こう思うと彼は心強くなった。それと同時に案内も乞わず、他人の家へ入り込んだことが、申し訳なくも思われた。
「こちらへ」
 という声が聞こえた。
 そこで彼は階段を上った。
 思わず彼はあっ[#「あっ」に傍点]と云った。二階の部屋の光景が不思議を極めていたからであった。そこには十人の男がいた。一人は按摩、一人は瞽女《ごぜ》、もう一人は琵琶師、もう一人は飴屋、更に、居合抜に扮したもの、更に独楽師《こまし》に扮したもの、又は大工又は屑屋、後の二人は商人風に、縞の衣裳を着ていたが、いずれも鋭い眼光や、刀を左右に引き付けている様子で、武士であることが見て取られた。
 そうして彼らの真中に一葉の図面が置かれてあったが、他ならぬ千代田城の図面であった。
「これは浪士だ! 浪士の密会だ!」早くも察した小堀義哉は戦慄せざるを得なかった。
 浪士達の方でも驚いたらしく、互に顔を見合わせたが、
「これは人違いだ。本庄《ほんじょう》氏ではない」琵琶師に扮した一人が云った。
「貴殿は一体何者かな?」
「拙者は旗本、小堀と申すもの、人を迫っ駆けて参ったものでござる」義哉は正直に打ち明けた。
「実は空家と存じましてな」
「左様、ここは空家でござる。……幽霊屋敷で通っている。外桜田の毛脛《けずね》屋敷でござる」
 これを聞くと小堀義哉[#「義哉」は底本では「直哉」]は、「ああそうか」と思わず云った。天井から毛脛が下がって来て悪戯をするという所から、外桜田[#「外桜田」は底本では「下桜田」]の毛脛[#「毛脛」は底本では「下脛」]屋敷と呼ばれ、いつまで経っても住手のない家が、一軒あるという噂は、既に以前に聞いていた。「はああそれでは浪士どもが、集会の用に立てようため、そんな気味の悪い噂を立て、人を付近に近寄せないのだな」こう考えて来ていよいよ義哉は身の危険に戦慄《おのの》いた。
 その時浪士たちは顔を寄せ合い、しばらくヒソヒソ相談したが、
「さて小堀義哉氏とやら、我々を何と覚しめすな?」琵琶師風の一人がやがて云った。
「姿はさまざまに※[#「にんべん+肖」、第4水準2-1-52]《やつ》しては居れど、浪士方と存ぜられます」
「いかにも左様、浪士でござる。……何の為の会合とおぼしめすな?」
「それはトント存じませんな」
「この図面、ご存知かな?」
 琵琶師は図面を指差した。
「千代田の城の図面でござろう」
 すると浪士は頷いたが、
「実は我ら千代田城へ、火を掛けようと存じましてな。それで会合をして居るのでござる」
 家常茶飯事でも話すように、こう浪士はスラスラと云った。そうしてじっと[#「じっと」に傍点]眼を据えて、義哉の顔を見守った。

17

 主君も主君将軍家の城を、焼打ちにしようというのであるから、これが普通の幕臣なら、カッと逆上《のぼせ》るに違いない。
 勿論義哉もカッとなった。しかし義哉は芸人であって、忍耐性に富んでいた。それで、別に顔色をかえず、冷やかに相手を見返した。
「小堀氏、何と思われるな?」
 琵琶師風の浪士は嘲笑うように「さぞ憤慨に堪えられますまいな」
「破壊、放火、殺人というような殺伐なことは大嫌いでござる。こういう意味から云う時は、勿論|貴所《きしょ》方の計画を、快く思うことは出来ませんな」義哉は憚らず思う所を云った。
「将軍に対する反逆については?」
「それとてよくはござらぬな。しかし、大勢というものは、多数の意嚮《いこう》に帰するものでござる。天下は一人の天下ではなく、即ち天下の天下でござる、いや、帝の天下でござる」
「しかし、貴殿は旗本とのこと、すれば将軍は直接の主君、それに反抗するこの我々をさぞ憎く覚し召さりょうな?」
「さようでござる、普通にはな」義哉は敢て興奮もせず「しかしそれより実の所は、勤王、左幕の衝突の結果、世間がいつ迄もおちつかず[#「おちつかず」に傍点]、その為芸道の廃れを見るのが、拙者にとっては残念でござるよ」
「ナニ、芸道とな? 何の芸道?」
「清元、常磐津《ときわづ》、長唄、新内、その他一般の三味線学でござる。日本古来よりの芸道でござる」
 これを聞くと浪士達は、一度にドッと笑い出した。それから口々に罵った。
「アッハハハ、沙汰の限りだ。こういう武士があればこそ、徳川の天下は亡びるのだ」
「両刀をたばさむ[#「たばさむ」に傍点]武士たるものが、遊芸音曲に味方するとは、さてさて武士道もすたれたものでござるな」
「諸君、そういったものでもない」こう静かに止めたのは、例の琵琶師風の浪士であった。どうやら一座の頭目らしい。グイと義哉の方へ膝を進めたが、
「いや仰せごもっともでござる。武道であれ遊芸であれ、人の世に必要があればこそ、産れもし繁栄も致すので、この世に用のないものなら、産れもせねば繁昌もしまい。せっかく栄えた遊芸道が、衰退に向うということは、それを愛する人々にとり、遺憾であるに相違ござらぬ。……がそれはともかくとして、たとえ偶然であろうとも、我らが集会へ突然参られ、一切の秘密を知ったからは、お気の毒ながら安穏に、お帰しすることは出来ませんでな」
 さも笑止だというように、こう云うとその浪士は微笑した。
 どうせ無事ではあるまいと、ひそかに覚悟はしていたものの、いよいよこのように明かされてみれば、義哉としても恐ろしかった。彼は下俯向き、黙って唇を噛みしめた。
「しかし貴殿はたった一人、それに反して我らは十人、一度にかかっては後の人に、卑怯の譏りを受けるでござろう。そこで一人ずつの真剣勝負、最初に拙者がお相手致す、お立合い下さることなりますまいかな」
 言葉は丁寧ではあったけれど、語韻に云われぬ殺気があって、義哉の心をおびやかした。
「その立合いなら無駄でござる」やがて義哉は冷やかに云った。
「ほほう、それは何故でござるな?」
「なぜと申して、立ち合ったが最後、負けるに相違ござらぬからな」
「ふうむ、それで、厭とおっしゃるか」さも案外だと云うように、
「しかし、それでは卑怯でござるぞ」
「負けると知って剣を合わせ、万一の僥倖を期する者こそ、即ち卑怯と申すもの。拙者はそれとは反対でござる」
「なるほど」と浪士はそれを聞くと、どうやら感心したらしかった。「と申してこのままお帰ししては、秘密の洩れるおそれがある。いよいよお立合い下さらぬとあっては、お気の毒ながら一刀の下に……」
「よろしゅうござる、お斬りなされ」
 いよいよ不可《いけ》ないと知ってからは、却って捨身の度胸が定《き》まり、義哉の心は澄み返った。そこで、膝へ両手を重ね、頸をグイと前へ延ばした。
 それと見てとると例の浪士は、やおら立ち上って太刀を抜いたが、「神妙のお覚悟感じ入ってござる、何か遺言はござらぬかな」
「左様」と云って首をかしげたが「ちょっと三味線をお貸し下され」
 ここに至って浪士どもは、唖然たらざるを得なかった。
「何になさるな?」と例の浪士が訊いた。
「中途で弾き止めた清元の『山姥《やまうば》』、今生《こんじょう》の思い出に了《お》えとうござる」
「ははあ」と云うと例の浪士は、仲間の者と眼を見合わせたが、やがて頤で合図をした。瞽女《ごぜ》に扮した浪士の一人が、そこで三味線を押しやった。
 艶《えん》に床《ゆか》しい三味線の音色が、毛脛屋敷から洩れたのは、それから間もなくのことであった。

18

 ちょうど同じ夜のことであったが、芝三田の義哉《よしや》の家では、奇怪な事件が行なわれた。主人義哉が出かけて行った後、小間使のお花は雇女《ばあや》と一緒に、台所で炊事を手伝っていた。
 と、口笛の音がした。
 物みな懐かしい春の宵で、後庭では桜が散っていた。
 ヒューヒューと鳴る口笛の音も春の夜にはふさわし[#「ふさわし」に傍点]かった。
 しかしその時、居間の方で、変にカキカキいう音がした。
「おや」とお花は聞耳を立てたが、手に葱《ねぶか》を持ったまま、急いでそっちへ行ってみた。
 一匹の奇形な動物が、背を蜒《うね》らして走り廻っていた。犬のように大きな鼬であったが、口に手箱を銜えていた。
「あっ」とお花は悲鳴をあげ、無宙で葱を投げつけた。
 鼬の何よりも嫌いなのは、刺戟性の葱の匂であった。それで、鼬は一跳ね跳ねると、食わえていた手箱を振り落し、庭の茂へ走り込んだ。
「ああ恐かった」と溜息をしながら、お花はしばらく立ち縮んだものの、気が付いて手箱を取り上げた。
 彼女は利口な女であった。鼬が手箱を狙ったのは偶然ではあるまいと推量した。そこで、手箱を持ったまま女中部屋の方へ入って行った。ふたたび彼女が現われた時には、風呂敷に包んだ小さな箱を、大事そうに両手で捧げていた。そうして主人の居間へ行くと、袋戸棚をそっと開け大切そうに藏《しま》い込んだ。
 お花の聡明な心遣いが、無駄でなかったということは、その夜が更けてから証明された。
 庭の茂が幽《かすか》に揺れると、香具師《やし》風の若者が手拭でスッポリ顔を隠し、刻み足をして現われたが、ぴったりと雨戸へ身を寄せた。
 こういうことには慣れていると見え、二三度小手を動かしたかと思うと音もなく雨戸がスルスルとあき、横縁が眼前に現われた。その向こうに障子が見え、それを開けると義哉の居間で、主人がいないにも拘らず燈火《あかり》がポッと射していた。
 香具師風の若者は、膝で歩いて障子へ寄り、内の様子をうかがったが、誰もいないと確かめると躊躇せず障子を引きあけた。それからスックリ立ち上ると袋戸棚の前へ行き、手早く箱を取り出した。
 その時人の気勢《けはい》がした。
 あわてた彼は盗んだ箱を手早く懐中へ捻じ込んだが、もう足音を忍ぼうともせず、縁から庭へ飛び下りた。
 ざわざわと茂みの揺れる音、つづいて口笛の音がしたが、後は寂然としずかになった。引き違いに居間へ現われたのは、例の小間使いのお花であって、先ず静かに雨戸をとじ、それからしとやか[#「しとやか」に傍点]に障子をしめた。
 見れば手箱を持っている。
 乙女に有り勝ちの好奇心が、彼女の心に湧いたのであろう、燈火《ともしび》の前へ坐りこむと、先ず髪から簪を抜き、その足を鍵穴へ差し込んだ。しかし錠前は外れなかった。
 で、手箱を膝の上へのせ、しばらくじっと[#「じっと」に傍点]考え込んだ。
 見る見る彼女の眼の中へ燃えるような光が射して来た。
 彼女は突然叫び出した。「泥棒《どろぼう》でございます泥棒でございます!」
 そうして手早く杉の手箱を自分のふところ[#「ふところ」に傍点]へ捻じ込んだ。
 けたたましい声に仰天して、家の人達が集まって来たのは、その次の瞬間のことであったが、いかさま縁にも座敷にも泥足の跡が付いているので、賊の入ったことは証拠立てられた。
 そこで八方へ人が飛んだ。しかし賊は見付からなかった。
 そうして何を盗まれたものか、かいくれ[#「かいくれ」に傍点]見当がつかなかった。
 と云うのは金にも器類にも、紛失したものがないからであった。

19

 ちょうど同じ夜の出来事である。
 岡山頭巾で顔を包んだ、小兵の武士が供もつれず、江戸の街を歩いていた。
 すると、その後を従《つ》けるようにして、十人ばかりの屈強の武士が、足音を盗んで近寄って来た。
 覆面の武士は幕府の重鎮|勝安房守安芳《かつあわのかみやすよし》で、十人の武士は刺客なのであった。
 今日の東京の地図から云えば、日本橋区|本石町《ほんごくちょう》を西の方へ向かって歩いていた。室町を経て日本橋へ出、京橋を通って銀座へ出、尾張町の辻を真直ぐに進み、芝口の辻までやって来た。
 この間二三度刺客達は、討ち果そうとして走りかかったが、安房守の威厳に搏《う》たれたものか、いつも途中で引き返してしまった。
 だが一体何のために勝安房守を殺そうとするのだろう? そうして一体刺客達は、どういう身分の者なのだろう。
 それを知りたいと思うなら、当時の歴史を調べなければならない。
 慶応《けいおう》三年九月であったが、土佐《とさ》の山内容堂《やまのうちようどう》侯は、薩長二藩が連合し討幕の計略をしたと聞き、これは一大事と胸を痛めた。そこで一通の建白書を作り、後藤象二郎《ごとうしょうじろう》、福岡孝悌《ふくおかこうてい》、この二人の家臣をして将軍慶喜に奉《たてまつ》らしめ、平和に大政を奉還せしめ、令政をして一途に出でしめ、世界の大勢に順応せしめ、日本の国威を揚げしめようとした。そこで慶喜は十月十三日、京都二条城に群臣を集め、大政奉還の議を諮詢《しじゅん》した。その結果翌十四日、いよいよ大政奉還の旨を朝廷へ対して奏聞《そうもん》した。一日置いた十六日朝廷これを嘉納した。つづいて同月二十四日、慶喜は更に将軍職をも、辞退したき旨奏聞したが、これは保留ということになった。
 さて一方朝廷に於ては、施政方針を議定するため、小御所《こごしょ》で会議を行なわせられた。中山忠能《なかやまただよし》、正親町實愛《おおぎまちさねなる》、徳大寺實則《とくだいじさねのり》、岩倉具視《いわくらともみ》、徳川慶勝《とくがわよしかつ》、松平慶永《まつだいらよしかげ》、島津義久《しまづよしひさ》、山内容堂《やまのうちようどう》、西郷隆盛《さいごうたかもり》、大久保利通《おおくぼとしみち》、後藤象二郎《ごとうしょうじろう》、福岡孝悌《ふくおかこうてい》、これらの人々が参会した。十二月八日のことであった。その結果諸般の改革を見、翌九日、天皇|親臨《しんりん》、王政復古の大号令を下され、徳川幕府は十五代、二百六十五年を以て、政権朝廷に帰したのであった。
 慶喜に対する処置としては、内大臣を辞すること、封土一切を返すべきこと、この二カ条が決定された。
 旧幕臣は切歯した。慶喜としても快くなかった。会桑《かいそう》二藩は特に怒った。突然十二月十二日の夜慶喜は京都から大坂へ下った。松平|容保《かたもち》、松平|定敬《さだよし》、他幕臣が従った。
 こうして起ったのが維新史に名高い伏見鳥羽の戦いであった。明治元年正月三日から、六日に渡って行なわれたのであった。そうして幕軍大いに潰《つい》え、六日夜慶喜は回陽丸に乗じ、海路江戸へ遁竄《とんざん》した。
 ここでいよいよ朝廷に於ては、慶喜討伐の大軍を起され、江戸に向けて発することにした。有栖川宮熾仁《ありすがわのみやたるひと》親王を征東大総督《せいとうだいそうとく》に仰ぎまつり、西郷隆盛《さいごうたかもり》参謀、薩長以下二十一藩、雲霞《うんか》の如き大軍は東海東山《とうかいとうざん》、北陸から、堂々として進出した。そうして三月十五日を以て、江戸総攻撃と決定された。
 江戸はほとんど湧き返った。旗本八万騎は奮起した。薩摩と雌雄を決しようとした。しかし聡明な徳川慶喜は、惰弱に慣れた旗本を以て、慓悍な薩長二藩[#「薩長二藩」は底本では「薩摩二藩」]の兵と、干戈《かんか》を交えるということの、不得策であることを察していた。それに外国が内乱に乗じ、侵略の野心を逞しゅうし、大日本国の社稷《しゃしょく》をして危からしめるということを、特に最も心痛した。そこで幕臣第一の新知識、勝安房守に一切を任せ、自身は上野の寛永寺に蟄居し、恭順の意を示すことにした。
 初名|義邦《よしくに》、通称は麟太郎《りんたろう》、後|安芳《やすよし》、号は海舟《かいしゅう》、幕末|従《じゅう》五|位下《いげ》安房守《あわのかみ》となり、軍艦奉行、陸軍総裁を経、さらに軍事取扱として、幕府陸海軍の実権を、文字通り一手に握っていたのが、当時の勝安房守安芳であった。武術は島田虎之助に学び、蘭学は永井青涯に師事し、一世を空《むなし》うする英雄であったが、慶喜に一切を任せられるに及び、大久保一翁、山岡鐡舟などと、東奔西走心胆を砕き、一方旗本の暴挙を訓め、他方官軍の江戸攻撃を食《く》い止めようと努力した。
 幕臣の中過激な者は、その安房守の遣り口を、手ぬるいと攻撃するばかりでなく、徳川を売って官軍に従《つ》く獅子身中の虫だと云って、暗殺しようとさえ企てた。
 それを避けなければならなかった。
 日々幕兵は脱走した。それを引き止めなければならなかった。
 で、この夜もただ一人|府内《ふない》の動静を探ろうとして、こうして歩いているのであった。

20

 芝口の辻を北へ曲がり安房守《あわのかみ》は悠々と歩いて行った。
 下桜田《しもさくらだ》[#「下桜田」はママ]まで来た時であった。ふと[#「ふと」に傍点]彼は足を止めた。その機会を狙ったのであろう、刺客の一人が群を離れ、颯《さっ》と安房守の背後に迫った。
 と、突然安房守が云った。
「うむ、日本は大丈夫だ! この騒乱の巷の中で、三味線を弾いている者がある。うむ、曲は『山姥《やまうば》』だな。……唄声にも乱れがない。撥《ばち》さばきも鮮《あざやか》なものだ。……いい度胸だな。感心な度胸だ。人は須《すべから》くこうなくてはならない。蠢動するばかりが能ではない。亢奮するばかりが能ではない。宇内《うだい》の大勢も心得ず、人斬包丁ばかり振り廻すのは人間の屑と云わなければならない。……いい音締だな小気味のよい音色だ」
 それは呟いているのではなく、大声で喋舌《しゃべ》っているのであった。背後に迫って来た刺客の一人へ、聞かせようとして喋舌っているらしい。
 宵ながら町はひっそり[#「ひっそり」に傍点]と寂れ、時々遙かの方角から脱走兵の打つらしい小銃の音が響いてきたが、その他には犬の声さえしない。
 その静寂を貫いて、咽ぶがような、清元の音色が、一脈綿々と流れてきた。
 刺客の一人は立ち止まり、じっと安房守を見守った。その安房守は背を向けたまま、平然として立っていた。まことに斬りよい姿勢であった。一刀に斬ることが出来そうであった。
 それだのに刺客は斬らなかった。一間ばかりの手前に立ち、ただじっと見詰めていた。彼は機先を制されたのであった。叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]するような安房守の言葉に、強く胸を打たれたのであった。しかし今にも抜き放そうとして、しっかり握っている右の手を柄から放そうとはしなかった。
「斬らなければならない! たたっ[#「たたっ」に傍点]斬らなければならない! 二股武士、勝安房守《かつあわのかみ》[#「勝安房守《かつあわのかみ》」は底本では「勝安房安《かつあはのかみ》」]! だが不思議だな、斬ることが出来ない」
 刺客の心は乱れていた。
 と、唄声がはっきり聞こえた。
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※[#歌記号、1-3-28]雁がとどけし玉章《たまづさ》は、小萩の袂《たもと》かるやかに、返辞《へんじ》しおんも朝顔の、おくれさきなるうらみわび……
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 安房守は立っていた。同じ姿勢で立っていた。それからまたも喋舌り出した。
「女ではない、男だな。しかも一流の太夫らしい。一流となれば大したものだ。政治であれ剣道であれ、遊芸であれ官教であれ、一流となれば大したものだ。もっとも中には馬鹿な奴もある。剣技精妙第一流と、多くの人に立てられながら、物の道理に一向昏く無闇と人ばかり殺したがる。この安芳《やすよし》をさえ殺そうとする。馬鹿な奴だ。大馬鹿者だ。今この安芳を暗殺したら、慶喜公の御身はどうなると思う。徳川の家はどうなると思う。俺は官軍の者どもに、お命乞いをしているのだ。慶喜公のお命乞いを。……俺の命などはどうなってもよい。俺はいつもこう思っている。北条義時《ほうじょうよしとき》に笑われまいとな。実に義時は偉い奴だ。天下泰平のそのためには、甘んじて賊臣の汚名を受け、しかも俯仰天地《ふぎょうてんち》[#「俯仰天地」は底本では「俯抑天地」]に恥じず、どうどうと所信を貫いた。……俺は義時に則《のっと》ろうと思う。日本安全のそのためには、小の虫を殺し大の虫を助け、敢て賊子《ぞくし》に堕ちようと思う。……どだい薩長と戦って、勝てると思うのが間違いだ。いかんともしがたいは大勢だ。社会の新興勢力は、どんなことをしても抑制出来ぬ。王政維新は大勢だ。幕府から人心は離れている。それはもう旧勢力だ。利益のなくなった偶像だ。徳川の天下も二百六十年、そろそろ交替していい時だ。偶像を拝《おが》むのは惰性に過ぎない。こびり[#「こびり」に傍点]付くのは愚の話だ。新時代を逃がしてはいけない。日本を基礎にした世界主義! 国家を土台にした国際主義! これが当来の新思想だ。仏蘭西《フランス》を見ろ仏蘭西を! ナポレオン三世の奸雄《かんゆう》振のいかに恐ろしいかを見るがいい! 日本の国土を狙っているのだ。内乱に乗じて侵略し、利権を得ようと焦心《あせ》っているではないか。それだけでも内乱を止めなければならない。……第一江戸をどうするのだ。罪のない江戸の市民達を。兵戦にかけて悔いないのか。いやいやそれは絶対にいけない。江戸と市民は助けなければならない。そうして徳川の大屋台と慶喜公とは助けなければならない。……どいつもこいつも血迷っている。醒めているのは俺だけだ。俺がそいつらを助けなかったら、一体誰が助けるのだ。俺を絶対に殺すことは出来ぬ。殺したが最後日本は闇だ。……官軍の中にも解《わか》る奴がいる。他でもない西郷だ。西郷吉之助ただ一人だ。で俺はきゃつに邂逅《ゆきあ》い、赤心を披瀝して談じるつもりだ。解ってくれるに相違ない。そこで江戸と江戸の市民と、徳川家と慶喜公とは、助けることが出来るのだ。その結果内乱は終息し、日本の国家は平和となり、上下合一、官民一致、天皇帰一、八|紘《こう》一|宇《う》、新時代が生れるのだ」

21

 安房守《あわのかみ》[#ルビの「あわのかみ」は底本では「あはのかみ」]はじっと耳を澄ました。
 空では星がまばたい[#「まばたい」に傍点]ていた。ふと[#「ふと」に傍点]小銃の音がしたが、しかしたった[#「たった」に傍点]一発だけであった。
 清元《きよもと》の唄はなお聞えた。
「ああいいなあ。名人の至芸《しげい》だ」安房守は嘆息した。それから大声でやり出した。「俺はもとからの江戸っ子だ。俺の好きなのは平民だ。勝麟太郎《かつりんたろう》、これでいいのだ。つめて云うと勝麟だ。従五位も無用なら安房守も無用だ。勝麟々々これでいいのだ。だがそう云ってはいられない。勝麟では済まされない。世間の奴らが酔っていて、俺一人醒めているからよ。そこで救世と出かけたのだ。厭な役廻りだがしかたがない。扶桑《ふそう》第一の智者と称し、安房の国の旋陀羅《せんだら》の子、聖日蓮《セントにちれん》[#「日蓮」は底本では「日連」]は迫害を覚悟で、世の荒波へ飛び出して、済民《さいみん》の法を説いたではないか。現代第一の智者と云えば、この俺の他にはない。つまり俺は日蓮なのだ。つまり俺は祖師《そし》なのだ。その祖師様を殺そうとは、とんでもない不届者だ。すぐに仏罰を蒙ろうぞ。……ああ、だが、本当に、いい音色だなあ。……」
 春の夜風がそよぎ[#「そよぎ」に傍点]出した。
 手近の木立で小鳥が啼いたが、きっと夢でも見たのだろう。
 なまめかしい春の夜の、甘い空気を顫わせて、艶な肉声と三味線の音とは、なおあざやかに聞こえていた。
 刺客は頭をうな[#「うな」に傍点]垂れた。柄を握っていた右の手は、いつかダラリと下っている。と、一足しりぞいた。それからグルリとむき[#「むき」に傍点]を変えると、もと来た方へ引っ返した。
 その時、安房守は振り返った。
「これちょっと待て、伊庭《いば》八郎!」
「はっ」と云うとその刺客は、足を止めて振り返った。うら若い美貌の武士であり、それは伊庭八郎であった。八郎は父|軍兵衛《ぐんべい》と共に、この時代の大剣豪、斉藤弥九郎《さいとうやくろう》、千葉周作、桃井春蔵《ももいしゅんぞう》、近藤勇、山岡鐡舟、榊原健吉《さかきはらけんきち》、これらの人々と並称されている。身、幕臣でありながら、道場をかまえて門下を養い、心形刀流を伝えたが、直門二千名に及んだという。
 幕臣も幕臣、奥詰めだったので、親衛隊の魁《さきがけ》であり、伏見鳥羽の戦いにも出て、幾百人となく敵を斬った。
 その彼は直情の性格から、同じ幕臣の勝安房守が、いわゆる恭順派の総師として、薩長の士と交渉することを、徳川家のために歯掻く思い、獅子身中の虫と感じ、いっそ暗殺して害をのぞこうと、日頃から画策していたのであったが、この夜いよいよ断行すべく、門下の壮士九人を率い勝安房守の後をつけ、剣を揮おうとしたのであった。
「どうだ、少しは解《わか》ったかな?」安房守は微笑した。
 しかし八郎は黙っていた。
「ないない」と安房守は穏やかに云った。「勿論全部は解らないだろう。だがこの俺を殺すことの、理不尽だという事は解ったらしいな」
「はい、さようにございます」伊庭八郎は一礼した。「見損ないましてございます」
「世の中は近々平和になるよ。だが今後とも小ぜりあい[#「ぜりあい」に傍点]はあろう。幕臣たる者は油断してはならない。八郎、お前、久能山《くのうざん》へ行け! 函嶺《かんれい》の険《けん》を扼《やく》してくれ!」
「それは、何故でございますな?」
「二三日中に西郷と逢う。そうして俺は談判する。俺の言葉を入れればよし、もし不幸にして入れなかったら、幕府の軍艦を一手に集め、東海道の薩長軍を、海上から俺は殲滅して見せる。函根《はこね》、久能山は大事な要害だ。敵に取られては面白くない。……まあ八郎聞くがいい、どうだ冴え切った三味線ではないか」
「よい音色でございますな」
 思わず八郎も耳を澄した。
 遠くで二つバンが鳴っていた。
 どこかに火事でもあると見える。
 しめやかに三味線はなお聞えた。
 にわかに八郎は呻くように云って、
「これは不思議! 剣気がござる!」
「ナニ剣気? ほんとかな?」安房守は眼を見張った。
「これは只事ではございません」
「お前は剣道では奥義の把持者《はじしゃ》だ。俺などよりずっと[#「ずっと」に傍点]上だ。お前がそう云うならそうかもしれない」
「これは危険がせまって居ります」
「ふうむ、そうかな。そうかもしれない」
「これは助けなければなりません」
 八郎は背後を振り返り、手を上げて門下を呼んだ。
 曲は終りに近づいてきた。

 毛脛《けずね》屋敷の床の下に、大きな地下室が出来ていた。
 この屋敷が建てられたのは、正保《しょうほ》年間のことであって、慶安謀反の一方の将軍、金井半兵衛正国《かないはんべえまさくに》がずっと[#「ずっと」に傍点]住んでいたということであった。で、恐らく地下室は、その時分に造られたものであろう。素行|山鹿甚五右衛門《やまがじんごえもん》の高弟、望月作兵衛《もちづきさくべえ》もそこに住み著述をしたということであるが、爾来幾度か住人が変わり、建物も幾度か手を入れられたが、天保《てんぽう》になって一世の剣豪、千葉周作政成の高弟、宇崎三郎が住んだことがあったが、この時代から怪異があったと、翁双紙《おきなぞうし》などに記されてある。本所七不思議のその中にも、毛脛屋敷というのがあるが、それとこれとは別物なのである。
 百目蝋燭が地下の部屋の、一所に点っていた。
 黄色い光がチラチラとだだっ[#「だだっ」に傍点]広い部屋を照らしている。
 幽《かすか》ではあったが三味線の音が、天井の方から聞えてきた。
 十四五人の人間がいる。
 そうして気絶した美しい紫錦が、床の上に仆《たお》れていた。

22

「ふん、こうなりゃアこっちの物さ。……三ピンめ、驚いたろう」
 こう云ったのは源太夫であった。「だが案外手強かったな、唄うたい[#「うたい」に傍点]にゃ似合わねえ」
「坊主の六めどうしたかな」こう云ったのは小鬢の禿た四十年輩の小男であった。「三ピンめに一太刀浴びせられたが」
「ナーニ大丈夫だ、死《くたば》りゃアしねえ。死った所で惜しかアねえ」もう一人の仲間がこう云った。
「三ピンめ、さぞかし驚いたろう」源太夫は繰り返した。「よもや地下室があろうとは、仏さまでも知るめえからな。消えてなくなったと思ったろうよ。……紫錦《しきん》め、そろそろ目を覚さねえかな」
 紫錦は気絶からまだ醒めない。グッタリとして仆《たお》れていた。髪が崩れて額へかかり、蝋燭の灯に照らされていた。
 源太夫はじっと[#「じっと」に傍点]見詰めていたが、溜息をし舌なめづり[#「なめづり」に傍点]をした。
「だが親方はどうしただろう?」
 もう一人の仲間が不安そうに云った。
「大丈夫だよ、親方のことだ、ヘマのことなんかやるはずはねえ」
「それにえて[#「えて」に傍点]物を連れて行ったんだからな」
「あいつ[#「あいつ」に傍点]ときたら素ばしっこい[#「ばしっこい」に傍点]からな」
 二三人の仲間が同時に云った。
 地下室は寒かった。蝋燭の灯が瞬《またた》いた。
「酒を呑みたいなあ」と誰かが云った。
「まあ待ちな、もう直ぐだ。なんだか知らねえが親方が宝箱を持って来るんだとよ」
「何が入っているんだろう?」
「小さな物だということだ」
「で、うん[#「うん」に傍点]と金目なんだな」
「一度にお大尽《だいじん》になるんだとよ」
「源公!」
 と一人が呼びかけた。「ひどくお前は幸福そうだな。思う女を取り返したんだからな。……幸福って物ア直ぐに逃げる。今度逃がしたら取り返しは付かねえ」
 源太夫はそっちへ眼をやった。
「ふん、女に惚れているんだな」
「あたりめえだ、惚れてるとも、だから苦心して取り返したんだ」
「だが宜《よ》くねえぜ、そういう惚《ほ》れ方は、古い惚れ方っていうやつだ[#「やつだ」に傍点]」
 源太夫はその眼を光らせたが
「じゃ何が新らしいんだ」
「お前は承知させて、それからにしようって云うんだろう? だめだよだめだよそんなことは……」
「俺には出来ねえ、殺生な真似はな」
「じゃあお前は縮尻《しくじる》ぜ」
 源太夫は返辞《いらえ》をしなかった。
「叩かれると犬は従《つ》いて来る。撫《さ》すると犬は喰らいつく。……」
 源太夫は考え込んだが、突然飛び上り喚声をあげた。
「お前の云うことは嘘じゃねえ!」

23

 この時二階の一室では、最後の節が唄われていた。
 小堀義哉《こぼりよしや》の心の中は泉のように澄んでいた。
 なんの雑念も混じっていなかった。死に面接した瞬間に、人間の真価は現われる。驚くもの恐れるもの、もがく[#「もがく」に傍点]もの泣き叫ぶもの、そうして冷やかに傍観するもの、又突然|悟入《ごにゅう》するもの、しかし義哉の心持は、いずれにもはまっていなかった。彼は三味線の芸術境に、没頭三昧することによって、すべてを忘れているのであった。
『山姥《やまうば》』の曲が終ると同時に、彼は死ななければならなかった。そうして殺し手が白刄を提《さ》げ、彼の背後に立っていた。
 時はズンズン経って行った。
 もう直ぐ曲は終わるのである。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]露《つゆ》にもぬれてしっぽりと、伏猪《ふすい》の床の菊がさね……
[#ここで字下げ終わり]
 彼は悠々と唄いつづけた。
 異風変相の浪士達にも、名人の至芸は解《わか》ると見えて、首を垂れて聞き惚れていた。
 独楽師に扮した一人の浪士は「旨い!」と思わず呟いた、居合抜に※[#「にんべん+肖」、第4水準2-1-52]《やつ》したもう一人の浪士は、「ウーン」と深い呻声を洩らし、商人に扮した二人の浪士は顔と顔とを見合わせた。
 一座の頭領と思われる、琵琶師風の一浪士は、刀の柄を握ったまま堅くその眼を閉じていた。
 時はズンズン経って行った。
 伊庭八郎とその同志は、勝安房守の指図の下に、毛脛屋敷の表戸を、踏み破ろうと待ち構えていた。
「まず待《ま》つがよい」
 と安房守は云った。「めったに聞けない名人の曲だ。唄い終えるまで待つとしよう」
 それで、一同は鳴りを静め、三味線の絶えるのを待っていた。
 さてそれから行なわれたのが、その当時の人が噂した所の「毛脛屋敷の大捕物」であり、そうして後になってその捕物が「仙人壺」というものに関係あり、と知り、改めて「大捕物仙人壺」と呼んだ、その風変りの捕物であった。
 何故この捕物が風変わりであり、何故有名になったかというに、先づ第一にそれを指揮した者が、勝海舟という大人物であり、捕物の衝《しょう》にあたった人物が、伊庭八郎とその門下という、これも高名の人々だったからで。……
 そうして捕えられた者共が、千代田城へ放火しようとした精悍な浪士の一群と、当時江戸を騒がせていた、鼬《いたち》使いの香具師《やし》一派という、風変わりの連中であったからである。
 しかし捕物そのものは、まことに簡単に行なわれた。
 即ち伊庭八郎一派の者が、三味線の音の絶えると同時に、毛脛屋敷へ乱入するや、浪士の群は狼狽し、逃げようとして犇《ひし》めくところを、あるいは斬り、あるいは捕縛し、その物音に驚いて、地下室にいた源太夫一味が、周章《あわ》てて遁がれようとするところを、これも斬ったり捕えたりして、一人のこさず狩取った迄であった。
 その結果お錦と小堀義哉とは、命を助かることが出来た。
 香具師の親方「釜無しの文」だけは、ちょうどそこに居なかったので、これも命を助かった。

24

 その夜の明け方|小堀義哉《こぼりよしや》は、自分の屋敷へ帰って来た。そこで盗難の話を聞いた。これという物も盗まれなかったが、お錦《きん》から預かった不思議な手箱を、一つだけ盗まれたということを、小間使のお花から耳にした。
「ふうむそうか、ちょっと不思議だな」
 義哉は小首を傾けた。「金も取らず衣類も盗まず、手箱を奪ったというのには、何か理由がなければならない」
 しかし彼には解《わか》らなかった。
「お錦殿には気の毒だが、打ち明けるより仕方あるまい」
 で、お錦の来るのを待った。しかし翌日も翌々日も、お錦の姿は見えなかった。
「ああいう事件があった後だ、多少体を痛めたのかもしれない」
 無理もないことだと思うのであった。
 その翌日のことであったが、一日暇を戴きたいと、小間使いのお花が云い出した。
「ああいいとも、暇を上げよう。親元へでも帰るのかな」
「はい、あの神田の兄の許へ」
「おおその神田の兄さんとやらは、お上のご用を聞いているそうだな」
「はい、さようでございます」
「ゆっくり遊んで来るがよい」
「はい、それでは夕景《ゆうけい》まで」
 小さい風呂敷の包を抱き、小間使のお花は屋敷を出た。
 神田小川町の奥まった露路に、岡引の友蔵の住居があった。荒い格子には春昼《しゅんちゅう》の陽が、鮮《あざやか》に黄色くあたって[#「あたって」に傍点]いた。
「嫂《ねえ》さんこんにちわ[#「こんにちわ」に傍点]」と云いながら、お花は門の格子をあけた。
「おやお花さん、よく来たね」声と一緒にあらわれたのは、友蔵の家内のお巻《まき》であった。三十前後の仇っぽい女で、茶屋上りとは一眼で知れた。
「これはお土産、つまらない物よ」
「よせばよいのに、お気の毒ねえ」
「それはそうと兄さんはいて。妾ちょっと用があるのよ」
「おお、お花か、何だ何だ」
 これは友蔵の声であった。
 友蔵は茶の間の長火鉢の前で、湯呑で昼酒を飲んでいた。四十がらみの大男で、凶悪の人相の持主であった。下っ引の手合も今日はいず、一人いい気持に酔っていた。
 朝風呂丹前長火鉢、これがこの手合の理想である。しかし岡っ引の手あて[#「あて」に傍点]といえば、一月一分か一分二朱であった。それでは小使にも足りなかった。その上岡っ引は部下として、下っ引を使わなければならなかった。その手あて[#「あて」に傍点]はどこからも出ない。自分が出さなければならなかった。そこで勢い岡っ引は他に副業を求めるか、ないしは地道の町人をいたぶり[#「いたぶり」に傍点]、賄賂《わいろ》を取らなければ食って行けなかった。
 ところで友蔵には副業がなかった。そこで町人を嚇《おど》しては、収賄《しゅうわい》をして生活《くらし》ていた。
「兄さん」とお花は茶の間へ入ると、風呂敷包をサラリと解いた。「見て貰いたいものがありますのよ。この手箱なの、どう思って?」
 伊丹屋《いたみや》のお錦が「爺つあん」から貰い、小堀義哉に預けた所の、例の手箱を取り上げた。
「変哲《へんてつ》もねえ杉の箱じゃあねえか、これが一体どうしたんだい?」友蔵は手箱を取り上げた。
「何でもないのよ、見掛けはね。でもちょっと変なのよ」
お花はそこで説明した。
 先夜小堀義哉の家へ、変な泥棒が入ったこと、金も衣類も持って行かずに、この箱ばかり狙ったこと、そこで策略を巡らして、泥棒に贋物を握らせた事、そうして本物は窃《こっそ》りと、自分が隠して置いた事、義哉へ箱を預けたのが、日本橋の大老舗《おおしにせ》、伊丹屋の娘だということなどを、細々《こまごま》と説明したのであった。
「ふうむ、そうかい、なるほどなあ。そう聞くとちょっと不思議だなあ。とんだ手蔓《てづる》にぶつかるかもしれねえ。だが何にしても蓋《ふた》をあけて、中味を拝見しなけりゃあ」
 そこで錠前をコヂ開けようとした。しかし錠は開かなかった。
「こいつアいけねえ、千枚錠だ。どんなことをしても開くものじゃあねえ。千枚錠ときたひにゃあ、合鍵だって役に立たねえ。箱を潰すのはワケはねえが、中味が何だか解《わか》らねえからな、そいつもちょっと手控えだ。……ところで鍵はなかったのかい?」

25

「ええ、それがなかったんですよ」
「探したらどこかにあるだろう。帰って窃《こっそ》り探して見な」
「そうねえ、それじゃ探してみよう」
 永い春の日の暮れかかった頃、お花は屋敷へ帰って行った。

 数日経ったある日のこと、駕籠に乗った伊丹屋のお錦《きん》が、義哉《よしや》の屋敷へ訪れて来た。
 その後やはり気分が悪く、今迄寝ていたということであった。
「これでございますの、手箱の鍵は」
 お錦はこう云って鍵を出した。
 義哉はそこで事情を話した。
「おや、マアさようでございましたか」お錦は意には介しなかった。元々気味の悪い老人から、偶然貰った手箱なのである。たいして惜しくも思わないのであった。それより彼女には義哉その人が、このもしく[#「このもしく」に傍点]も愛《いと》しくも思われるのであった。
 二人は尽きず話をした。
 伊丹屋の養女だということや、許嫁《いいなづけ》が生地なしだということや、生活《くらし》が退屈だということや、
 ――お錦はそんなことを問わず語りに話した。
「妾《わたくし》、近々伊丹屋の家を、出てしまうかもしれませんの」
「あなたが伊丹屋のお家を出て、一人住みでもなされたら、江戸中の若い男達は、相場を狂わせるでございましょうよ。……そうして貴女《あなた》は江戸中の女から、妬《そね》まれることでございましょうよ」
「お口の悪い何を仰有《おっしゃ》るやら。……でもきっと貴郎様は、おさげすみなさるでございましょうね。そうしてもうもうお屋敷へなど、お寄せ付けなされはしますまいね」
「どう致しまして私など、こっちから日参いたします」
「まあ嬉しゅうございますこと、嘘にもそう云っていただけると、どんなに心強いことでしょう」
 塀外を金魚売が通って行った。そのふれ[#「ふれ」に傍点]声が聞えてきた。それは初夏の訪れであった。
 後庭《こうてい》には藤が咲きかけてい、池の畔《みぎわ》の燕子花《えんしか》も、紫の蕾を破ろうとしていた。
 すると、その時縁側の方から、微《かすか》な衣擦れの音がした。
「お花か※[#感嘆符二つ、1-8-75]」と義哉は気不味《きまず》そうに云った。
「はい、お呼びかと存じまして」
「呼びはしない。向うへ行っておいで」
 お花の立去る気勢《けはい》がした。
 鍵を義哉へ預けたまま、お錦も間もなく帰って行った。
 その翌日の夕方であった。
 神田小川町の友蔵の家へ、お花はとつかわ[#「とつかわ」に傍点]と入って行った。
「兄さんこれなのよ[#「兄さんこれなのよ」は底本では「兄さんれこれなのよ」]、手箱の鍵は」こう云ってお花は鍵を出した。
 お錦が義哉へ預けて行った、例の手箱の鍵であった。ちょっとの隙を窺って、それをお花が盗み出したのである。
「どれ」と云うと友蔵はお花の手から鍵を取った。それから立ち上って隣部屋へ行き、地袋《じぶくろ》から手箱を取り出して来た。
 固唾を呑まざるを得なかった。何が箱から出るだろう? 高価な品物であろうかも知れぬ。それとも恐ろしい秘密だろうか?
 友蔵は鍵を錠へかった[#「かった」に傍点]。と、カチリと音がして、箱の蓋がポンと開いた。
 一葉の地図が入れてあって、そうしてその他には何にも無かった。
「地図じゃないの、つまらない」
 お花はガッカリして声を上げた。

26

「そうでねえ」と友蔵は云った。彼は岡っ引という商売柄、こういうものには興味があった。そうして恐らくこの地図には、秘密があろうと考えた。
「うむ、こいつあ甲州の地図だ。……ははあ、こいつが釜無川だな。……おおここに記号《しるし》がある」
 釜無川の川岸に朱で二重丸が入れてあった。
 で、友蔵は腕を組み、じっと何かを考え込んだ。

 さてその翌日の早朝であったが、甲州街道を足早に、甲府の方へ下る者があった。他ならぬ岡っ引の友蔵で、厳重に旅の装いをしていた。
 すると、その後から見え隠れに、一人の旅人が尾行《つ》けて行った。それを友蔵は知らないらしい。
 道中三日を費やして、友蔵は甲府の城下へ着いた。
 旅籠へ泊った友蔵は、両掛《りょうがけ》からこっそり[#「こっそり」に傍点]地図を出し、あらためて仔細に調べ出した。
 すると、隣室の間の襖が、あるかなしかに細目に開き、そこから鋭い眼が見覗《みのぞ》いた。様子を窺っているのであった。
 翌日早朝友蔵は、釜無の方へ出かけて行った。忍野郷《しのぶのごう》を出外れるともう釜無の岸であった。土手に腰かけて一吹《いっぷく》した。それから四辺《あたり》を見廻したが、人の居るらしい気勢《けはい》もなかった。用意して来た鍬を提《ひっさ》げ地図を見い見い歩いて行ったのは、川の岸寄りの中洲であった。
 彼は熱心に掘り出した。やがて何か鍬の先に、カチリとあたる[#「あたる」に傍点]音がした。どうやら小石ではないらしい。手を差入れて引き出して見た。土にまみれ[#「まみれ」に傍点]た小さい壺が、その指先につつまれていた[#「つつまれていた」に傍点]。
「なんだえこれは壺じゃアねえか。呆れもしねえ莫迦にしていやがる。小判の箱かと思ったに。天道様も聞こえませぬ。一体どおしてくれるんだい。旅費を使って江戸くんだりから、わざわざ甲府へ来たんじゃアねえか。巫山戯《ふざけ》ているなあ、え、本当に。……だが待てよ、そうも云えねえ。これに秘密があるのかもしれねえ。形は小さい壺ながら、忽然化けて千両箱となる。なあんて奇蹟が行なわれるかもしれねえ。よしよしともかく宿へ帰り、仔細に調べることにしよう」
 で、鍬を川へ投げ捨て、壺に着いている土を払うと、懐中へ納めて歩き出した。
 夕飯を食べ風呂へ入り、床を取らせると女中を退けた。
 それから壺を取り出した。ためつすがめつ[#「ためつすがめつ」に傍点]調べたが、何の変った所もなかった。丈三寸、周囲三寸、掌に載る小壺であった。焼にも変った所がない。ただし厳重に蓋が冠せてあって、取ろうとしてもなかなか取れない。
「つまらねえなあ。虻蜂《あぶはち》とらずだ」
 小言を云いながら振って見たが、中には何にも入っていないと見え、コトリとも音はしなかった。
「一世一代の失敗かな。友蔵親分丸損かな。ほんとにほんとに莫迦にしていやがら」
 しかしどんなに悪口を云っても、それに答えるものさえない。自分自身が悪口を云い、自分自身が聞くばかりであった。
 夜は次第に更けまさり、家の内外ひっそり[#「ひっそり」に傍点]とした。
「考えていたって仕様がねえ。こんな晩は寝た方がいい。明日は早速ご出立だ。お花の畜生め覚えていやがれ。彼奴《あいつ》さえあんな物を持って来なけれりゃあ、こんなへマは見ねえんだ。江戸へ帰ったらあいつ[#「あいつ」に傍点]を呼び付け、みっしり[#「みっしり」に傍点]叱ってやらなけりゃならねえ」
 夜具を冠って寝てしまった。
 いわゆる丑満の時刻になった。
 と、間《あい》の襖《ふすま》が開き、何かチロチロと入って来た。それは一匹の大|鼬《いたち》であって、颯《さっ》と床間《とこのま》へ駈け上ると、壺と地図とを両手で抱え、それから後足で立ち上り、静かに隣部屋へ引返した。
 友蔵は勿論知らなかった。しかし翌日発見した。発見はしたが驚かなかった。「へん、間抜けな泥棒め、盗むものに事をかき、あんなつまらねえ物を盗みやがった」
 それで、却ってサバサバして、江戸をさして引返して行った。

27

 ここは深川の木賃宿である。香具師《やし》の親方の「釜無の文」は、手下の銅助を向うに廻し、いい気持に喋舌《しゃべ》っていた。傍に檻が置いてあり、中に大鼬が眠っていた。
 二人の前には壺と地図とが、大切そうに置いてあった。
 窓から夏の陽が射していて、喚気法の悪い部屋の中は、汗ばむ程に熱かった。
「……と、つまり、云うわけさ。ナーニ、ちょろりと横取りしたのさ。へん、えて[#「えて」に傍点]物さえ使ったらどんな宝物だって盗まれるんだからな」
 得意そうに文は話し出した。
「ところで親方、その壺には、何が入っているんですえ?」こう不思議そうに銅助は訊いた。姦悪の相の持主で、文に負けない悪党らしかった。
「そいつア俺にも解らねえ」文は渋面を作ったが、「福の神だということだ。とにかくこいつ[#「こいつ」に傍点]を持っていると、いい目が出るということだ……これはな、伝説による時は、支那から渡ったものだそうな。甲府のお城にあったものさ。元禄《げんろく》時代の将軍家、館林《たてばやし》の綱吉《つなよし》様が、ある時お手に入れられた所、間もなく江戸城お乗込み、将軍職に就かれたそうだ。そのお気に入りの柳沢侯[#「侯」は底本では「候」]、最初は微祿であられた所が、この壺を借りたその日から、トントン拍子に出世されたそうだ。……で、この壺はそれ以来、甲府勤番御支配頭の、保管に嘱《しょく》していたものだそうな。そうして甲府城の土蔵の奥に大切に仕舞《しま》って置かれたんだそうな。……そいつを「爺《とっ》つあん」が盗み出したのよ」
「へえ「爺つあん」? 葉村《はむら》のかえ?」
「うん、そうさ、あの葉村のな。……今こそ玉乗《たまのり》の親方か何かで、真面目に暮らしているけれど、昔はどうして大悪党よ、俺ら以上の悪党だったのさ」
「だがおかしいね、その「爺つあん」が、どうして手に入れた宝壺を、釜無の岸へなんか埋めたんだろう?」
「そいつア俺にも解らねえ」
「それに本当にその壺が、そんなに大した福の神なら、あの葉村の「爺つあん」も、もっと出世していいはずだが、たいして出世もしねえようだね」
「うん、そう云やアその通りだが、そこには曰《いわく》があるんだろう。豚に真珠という格言もあらあ、せっかくの宝も持手が悪いと、ねっから役に立たねえものさ」
「今度は親方が手に入れたんだ、どうかマア旨く役立つといいが」
「役立つとも役立つとも。俺らきっと役立たせてみせる。伝説によるとこの壺は夜な夜な不思議をするそうだ」
「へえ、不思議をね? どんな不思議だろうな」銅助は怪訝な顔をした。
「そいつも今の所わからねえ。この福の神を手に入れてから、まだ一晩も寝て見ねえんだからな」
「そうすると今夜が楽しみですね。小判の雨でも降るかもしれねえ」
 宝壺! 宝壺! ほんとに怪異など起きだすだろうか?
 果然怪異は起こったのであった。
 深夜、壺は音楽を奏した。
 非常に微妙な音楽であった。
 同時に人々は亢奮《こうふん》した。鼬《いたち》が檻を食い破り、主人の喉笛へ喰らい付いた。
 それは決して福の神ではなく、むしろ災難《わざわい》の神であった。
「釜無の文」は喰い殺された。
 次にこの壺を手に入れたのは、文の手下の銅助であった。
「うん、俺は大丈夫だ。きっと福の神にして見せる」
 で、それを枕元へ置き、安らかに眠ったことである。
 すると、音楽が聞こえてきた。彼はにわかに胸苦しくなり、無宙《むちゅう》で飛び起きて駈け廻った。
 そうして柱へ頭を打ちつけ、血を吐いて死んでしまった。
 損をしたのは木賃宿の亭主で、その月の宿賃をフイにした。そこで銅助の持物を一切バッタに売ることにした。
 そこで、その壺と付属地図とはある古道具屋の手に渡った。

 この間に世間は一変し、世は王政維新となり、そうして奠都《てんと》が行なわれた。
 江戸が東京と改名され、大名はいずれも華族となり、一世の豪傑|勝安房守《かつあわのかみ》も、伯爵の栄爵を授けられた。
 ところで義哉《よしや》はどうしたろう?
 義哉は清元の太夫《たゆう》となった。
 ところでお錦《きん》はどうしたろう?
 お錦の身の上にも変化があった。まず許嫁《いいなづけ》の伊太郎《いたろう》が、肺を病んで病没した。そうして大家伊丹屋は、維新の変動で没落した。
 そこで、お錦は自然の勢いで、小堀義哉の女房となった。二人にとってはこのことは、願ってもない幸いであった。勿論|琴瑟《きんしつ》相和した。
 義哉の芸名は延太夫《えんだゆう》と云った。
 即ち清元延太夫《きよもとえんだゆう》である。もとが立派な旗本で、芸風に非常な気品があった。それが上流に愛されて、豊かな生活をすることが出来た。
 貴顕富豪《きけんふごう》に持て囃《はや》され、引っ張り凧の有様であった。
 勝海舟は風流人で、茶屋の女将や相撲取や諸芸人を贔屓《ひいき》にした。
 そこで、延太夫の小堀義哉も、よく屋敷へ招かれた。

28

 ある日|延太夫《えんだゆう》は常時《いつも》のように、海舟の屋敷に招かれた。
「時に先生、不思議なことがあります」こう云うと延太夫は懐中から小さい壺を取り出した。「実は小石川の古道具屋で、手に入れたものでございますが、奇怪なことには深夜になると、音を発するのでございます。それが、しかも音楽なので。……」
「ほほう、そいつは不思議だな」こう云いながら海舟は、小さい壺を手に執《と》った。
「別に変った壺でもないが」
 すると座に居た尚古堂《しょうこどう》が「拝見」と云って受け取った。
 尚古堂は本姓を本居信久《もとおりのぶひさ》、当時一流の好事家で、海舟の屋敷へ出入りをしていた。
 じっと壺に見入ったが、
「や、これは仙人壺だ!」驚いたように声を上げた。
「仙人壺だって? 妙な名だな。古事来歴を話してくれ」海舟はこう云って微笑した。
「宋朝古渡りの素焼壺で、吉凶共に著《いちじる》しいもの、容易ならぬ器でございます」尚古堂は気味悪そうに云った。夜な夜な音を発するのは、焼の加減でございまして、質の密度が夜気の変化で動揺するからでございます。これは不思議でございません。ちょうど茶釜が火に掛けられると、松風の音を立てるのと、全く同じでございます。……が、この壺には世にも怪《あや》しい、一つの伝説がまつわって[#「まつわって」に傍点]居ります。よろしければお話し致しましょう」
「聞きたいものだ、話してくれ」海舟も延太夫も膝を進めた。
「では、お話し致しましょう」
 尚古堂は話し出した。

 戦国時代の物語である。
 甲州には武田家が威を揮《ふる》っていた。その頃金兵衛という商人があった。いわゆる今日のブローカーであった。永禄《えいろく》四年の夏のことであったが、小諸《こもろ》の町へ出ようとして、四阿《あずま》山の峠へ差しかかった。そうして計らずも道に迷った。と、木の陰に四五人の樵夫《きこり》が、何か大声で喚《わめ》いていた。近寄って見ると彼らの中《うち》に、一人の老人が雑っていた。襤褸《ぼろ》を纏った乞食風ではあったが、風貌は高朗《こうろう》と気高かった。その老人がこんなことを云った。
「ここに小さな壺がある。が、普通の壺ではない。摩訶不思議《まかふしぎ》の仙人壺だ。そうして俺は仙人だ、嘘だと思うなら見ているがいい。この壺の中へ飛び込んで見せる」
 それから老人は立ち上り、一|丈《じょう》あまりも飛び上った。と、体が細まりくびれ[#「くびれ」に傍点]、煙のように朦朧となり、やがてあたかも尾を引くように、壺の中に入って行った。
「見事々々!」と樵夫どもは、手を叩いて喝采したが、物慾の少ない彼らだったので、そのままそこを立ち去った。
 よろこんだのは金兵衛で「こいつを香具師《やし》に売ってやろう。うん、一釜《ひとかま》起こせるかもしれねえ」壺を抱えて山を下った。
 さてその晩|旅籠《はたご》へ泊まると、早速怪奇が行なわれた。壺が音楽を奏したのである。金兵衛はとうとう発狂した。旅籠の主人は仰天し、この壺を役人へ手渡した。それを聞いたのが勝頼《かつより》で「面白い壺だ、持って来るがいい」
 で、その壺は勝頼の手で大事に保管されることになった。大豪《たいごう》の武田勝頼には、仙人壺も祟《たた》らなかったらしい。いやいや決してそうではなかった。壺は大いに祟ったのである。ある夜壺は音楽を奏した。これが勝頼にはこんなように聞こえた。
「天目山《てんもくざん》へ埋めろ! 天目山へ埋めろ!」
 さすがの勝頼も気味悪くなり、侍臣《じしん》をして天目山へ埋めさせた。
 しかし祟りはそればかりではなかった。
 天正《てんしょう》十年三月における、武田と織田との合戦で、勝頼は散々に敗北した。で止むを得ず僅《わずか》の部下と共に天目山へ立籠った。すると、にわかに鳴動が起こり、壺が地中から舞い上り、同時に天地は晦冥《かいめい》となった。
 勝頼はその間に切腹し、全く武田家は亡びてしまった。
「と、こういう伝説でございますので。……その後手に入れた綱吉《つなよし》公が、将軍職になりましたし、柳沢侯が出世しましたので、幸福の象徴となりましたが、しかし将軍綱吉侯は――大きな声では云えませんが、奥方の寝室《ねや》の中で暗殺され、つづいて柳沢侯は失脚しました。やはりこの壺はそういう意味から云うと、悪運の壺なのでございます」[#「でございます」」は底本では「でございます」]

29

 家へ帰って来た延太夫は、早速女房のお錦を呼んだ。
 そうして勝家《かつけ》での話しをした。
「恐ろしい壺でございますことね。で、その壺はどうなさいました」
「伯爵様がお壊《こわ》しなされた。別に変事も起らなかった。ところで地図はどうしたえ?」
「壺に附いていた地図ですね。……ええここにございますわ」お錦は手文庫から取り出した。
「こんな物は焼いた方がいい」
 延太夫は火をつけた。すると、火熱に暖められた地図の面《おもて》へ文字《もんじ》が浮かんだ。
 そこで急いで火を吹き消した。
 こう紙面には記されてあった。
「紫錦《しきん》よ、わし[#「わし」に傍点]は「爺《とっ》つあん」だ。これはお前への遺言だ。そうしてお前はわし[#「わし」に傍点]の子だ。わし[#「わし」に傍点]の本名は藤九郎だ。その頃わし[#「わし」に傍点]は悪党だった。わし[#「わし」に傍点]は宝壺を盗み出した。だが、ちっとも幸福ではなかった。その後|釜無《かまなし》の中洲へ埋めた。そこで改めてお前へ云う、お前はわし[#「わし」に傍点]の実の子だと。女房お半の産んだ子だと。その頃わし[#「わし」に傍点]は諏訪にいた。伊丹屋の借家に住んでいた。その時伊丹屋でも女の子を産んだ。そこで俺は考えた。ひとつ子供を取り代えてやろうと。これは親の愛からだ。お前がわし[#「わし」に傍点]の子である以上は、一生出世はしないだろう。しかし伊丹屋の子となったら、どんな栄華にでも耽ることが出来る。そこで、わし[#「わし」に傍点]は取り代えた。勿論伊丹屋では気が付かず、お染と名を付けて寵愛した。そうして本当の伊丹屋の子は、わし[#「わし」に傍点]らの手で育てようとした。ところが二日目に死んでしまった。さて万事旨く行った。ところが神様の罰があたり、わし[#「わし」に傍点]は迂闊《うっか》りその秘密を「釜無《かまなし》の文《ぶん》」めに話してしまった。文は宝壺をよこせと云った。だがわし[#「わし」に傍点]は承知しなかった。そこで文めは仇をした。お前――即ち伊丹屋のお染を、鼬《いたち》を使って盗み出し、そうしてお前を女太夫に仕込み、そうしてわし[#「わし」に傍点]から身を隠した。わし[#「わし」に傍点]はどんなに探したろう。だが容易に目付《めつ》からなかった。長い年月が過ぎ去った。と、偶然お前に会った。するとどうだろうわし[#「わし」に傍点]の子は、また伊丹屋の養女となって立派に暮らしているではないか。わし[#「わし」に傍点]はすっかり満足した。もうわし[#「わし」に傍点]は死んでもいい。どうぞ立派に暮らしておくれ。……さて例の宝壺だが、これは吉凶《きっきょう》両面の壺だ。悪人が持てば祟《たた》りがあるが、だが善人が持つ時は、福徳円満を得るそうだ。可愛い可愛いわし[#「わし」に傍点]の娘よ、どうぞ心を綺麗に持って、よい暮らしをしておくれ。そうして地図を手頼《たよ》りにして、釜無川の中洲へ行き、宝壺を掘り出すがいい」
 読んでしまうと二人の者は、互に顔を見合わせた。意外な事実に驚いたのである。
「それでは気味の悪かったお爺さんは、妾《わたし》の実の親だったのかねえ?」
 お錦の感慨は深かった。
「そのお父さんはどうしたろう?」
 そのお父さんはとうの昔に、病気でこの世を去っていた。
 そうして現在の二人にとっては、宝壺などは不必要であった。
 なぜというに今の二人は、充分幸福だからである。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻一」未知谷
   1992(平成4)年11月20日初版発行
初出:「太陽」博文館
   1925(大正14)年7月~12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

村井長庵記名の傘—- 国枝史郎

娘を売った血の出る金
 今年の初雷の鳴った後をザーッと落して来た夕立の雨、袖を濡らして帰って来たのは村井長庵と義弟《おとうと》十兵衛、十兵衛の眼は泣き濡れている。
 年貢の未進も納めねばならず、不義理の借金も嵩んでいる、背に腹は代えられぬ。小綺麗に生れたのが娘の因果、その娘のお種《たね》を連れ、駿州江尻在大平村から、義兄《あに》の長庵を手頼りにして、江戸へ出て来て今日で五日、義兄の口入れで娘お種を、吉原江戸町一丁目松葉屋半左衛門へ女郎に売り込み、年一杯六十両、金は幸い手に入ったが、可愛い娘とは活き別れ、ひょっとして死別になろうも知れず、これを思えば悲しくて、帰り路中泣いてきたのであった。
「まあまあクヨクヨ思いなさんな。娘が孝行で何より幸い、縹緻はよし気質は優しく、当世珍らしいあのお種、ナーニ年期の済まねえ中に落籍《うけだ》されるのは知れたこと。女氏無くして玉の輿、立身出世しようもしれぬ。そうなると差し詰めお前達夫婦は、左|団扇《うちわ》の楽隠居、百姓なんか止めっちまってさっさと江戸へ出て来なさるがいい。何とそんなものではあるまいかな」
 長庵は座敷へ胡座を組み、煙管《きせる》で煙を吹かしながら、旨《うま》いことづくめの大平楽をそれからそれと述べ立てるのであった。
「へえへえそううまく行きますれば、この世に苦の種はござりませぬが、あの子は昔から体が弱く……」
「おっとドッコイそれは大丈夫だ。長庵これでも医者だからな。お種は大事な俺の姪、病気だとでも聞こうものなら、すぐに駆け着け匙加減、アッハハハ癒して見せるよ」
「どうぞお願い致します」と十兵衛は質朴な田舎者、つつましく頭ばかり下げるのであった。
「ところで」と長庵は白い眼でジロジロ相手を見遣ったが、
「こう云っちゃ兄弟の仲で恩にかけるようで気恥かしいが、田舎者のあのお種を、六十両で篏めたのは、この長庵が口を利いたから、これが慶庵の手へかかればこう旨くは行くものでねえ」
「ハイハイそれは申すまでもなく、今度の事は義兄《にい》さんのお蔭、仇や疎かには思いませぬ」
「何せ江戸はセチ辛くそれに人間は素ばしっこく[#「ばしっこく」に傍点]、俗に活馬の眼を抜くと云うが、どうしてどうして油断は出来ねえ」
「ハイハイ左様でございましょうとも」
「近い例が女泥棒だ」
「女泥棒と仰有《おっしゃ》いますと?」
「花魁《おいらん》泥棒と云ってもいい」
「花魁泥棒と申しますと?」
「なるほどお前は田舎の人、噂を聞かぬはもっともだが、近来江戸へ女装をしたそれも大籬《おおまがき》の花魁姿、夜な夜な出ては追剥《おいおどし》、武器と云えば銀の簪《かんざし》手裏剣にもなれば匕首《あいくち》にもなる。それに嚇されて大の男が見す見す剥がれると云うことだ」
「江戸は恐ろしゅうございますなあ」
「恐ろしいとも恐ろしいとも、だからなかなか容易なことでは、人が人を信じようとはしない。連れて大金の遣り取りなど、滅多にないものと思うがいい」
「いやもうごもっともでござります」
「この長庵が仲に入り、せっかく弁口を尽くしたればこそ、松葉屋半左も信用して、六十両渡したと云うものさな」
「お有難う存じました。もうもう嬉《うれ》しくて嬉しくて」
「そんなにお前嬉しいか?」
「嬉しいどころではござりませぬ」
「ふうむ、しかし、ナア十兵衛、嬉しい有難いと口だけで云っても、形がなけりゃ変なものさな」
 ギロリと眼を剥きズッシリ[#「ズッシリ」は底本では「ヅッシリ」]と云う。
「へ、形と申しますと?」
「形は形、それだけよ、他にどうも云いようはねえ」
「へえ」と云ったが田舎者、十兵衛には謎が解けそうもない。
「実はな、お前とこの俺とは義理ある仲の兄弟だ、俺の妹がお前の女房、だからお前が江戸へ出て来て、俺の家で草鞋《わらじ》を脱ぎ、五日と云うもの食い仆し、それ駕籠賃だ、やれ印判料《はんしろ》だ、ちょくちょく使った小使銭、そんな物を返せとは云わねえ。何の俺が云うものか。とは云え楽屋をサラケ出せば、今長庵はご難場なのよ。それはお前にも解《わか》っているはずだ。さてそこでご相談、何とお前の持っている六十両の金の中から、三十両貸してくれめえか」
 これを聞くと十兵衛は、颯とばかりに顔色を変えた。早くも見て取った村井長庵、「ハハア、こいつア貸しそうもないな」……こう思うと悪党だけに、調子を変えて高笑い。
「ワッハハハ、嘘だ嘘だ。娘を売った血のでる金、何で俺が借りるものか。ワッハハハ気にしねえがいい」
 ――で、ホッと安心し、顔色を直した十兵衛が、明日は四時《よつ》立ちで帰家《かえ》ると云い、隣室へ引き取って行った後を、長庵胸へ腕を組んだが、さてこれからが大変である。

他人の科を身に引き受け
「飛び込んで来た福の神、六十両の大金を、外へ逃がしちゃ冥利に尽きる。どうがなこっちへ巻き上げてえものだ」
 思案に耽っているその折柄、玄関で訪《おとな》う声がする。
「ご免下され、ご免下され」
 呼吸《いき》苦しそうな声である。長庵方の施療患者、浪人藤掛道十郎である。足駄《あしだ》を穿き雨傘を持ちしょんぼり[#「しょんぼり」に傍点]として立っている。
「藤掛殿か、先ずお上り」
 気が無さそうに長庵が云う。
「ご免下され」と上って来た。三十四五の年格好、顔色青褪め骨突起し、見る影もなく窶れている。目鼻立ちは先ず尋常、才気はどうやらなさそうではあるが、誠実の点では退けを取るまい。孔子のいわゆる仁に近しと云うその朴訥《ぼくとつ》には遺憾がない。
「いかがでござるなご容態は?」
 世間並の医者らしく長庵こんなことも訊いて見る。
「長庵老のお蔭をもち近来めっきり元気付きましてござる」
「それはそれは何より結構。どれお脈拝見しましょうかな」
 などと口では云いながら心の中では反対である。
「この病気が癒るものか。無比の難症労咳だからな」
 形ばかりに脈を見ると。
「今日は大いによろしゅうござる。どれ煎薬でも差し上げましょう。……ところで何時《いつ》かお尋ねしようと、窃《ひそ》かに存じて居りましたが、ご貴殿ご旧主は誰人《どなた》様でござるな?」
「おお、拙者の旧主人でござるか」
 旧主のことを尋ねられたことが、道十郎には嬉しかったと見え、影の薄い顔へ笑《えみ》を湛えたが、
「信州上田五万三千石、松平伊賀守が旧主人でござるよ」
「おお左様でござりましたか。伊賀守様はご名門、それに知恵者でおわすとのこと、そういう立派のご主人を離れ、どうしてご浪人なされましたかな?」
「それには深い子細がござる」道十郎は暗然としたが、
「実は朋友を救うため好んで浪人したのでござる」
「朋友をお救いなさるため? ははあ左様でございますか」
「お話し致そう、お聞き下され。……今から思えば五年の昔、拙者二十九の春のことでござるが殿に一羽の名鶯がござって、ご寵愛遊ばされ居られました所、拙者の朋友|間瀬《ませ》金三郎誤って籠から取り逃がしましてござる」
「やれやれそれはとんでもないこと」
「しかるに金三郎には妻子の他に老いたる父母がござりましてな、もしも浪人することとならば一家たちまち零落し、恩ある父母を養うこともならぬ。これが何より心掛かりと、拙者にむかって掻き口説きましたれば、はなはだ憐れにも気の毒にも思い、拙者金三郎の身代わりとなり、名鶯取り逃がしの罪を負い、殿より永の暇《いとま》を賜わり、さてこそ浪人致したのでござるよ」
「お聞き致せばお気の毒。いや天晴《あっぱれ》の義侠心、何と申してよろしいやら。さような事情のご浪人なれば、ご親友はじめ重役衆まで何とか殿様にお取りなし致し、至急帰参出来ますよう取り計らうが人情でござるに、それを今日まで打ち捨て置くとは、義理知らずではござりませぬかな」
「いやいやそれにも事情がござる。今お話しした金三郎が、一人ヤキモキ気を揉んで、殿へ取りなし致し居る由、しかるに殿にはご明君なれど酒癖あってご癇癖。自然いつもご機嫌悪く、申し出る機会がないとのこと、再三金三郎よりの消息でござる」
「しかしそいつは些《ちと》面妖、疑わしい点でござりますなあ。これが一年や半年なれば、そう諦らめても居られましょうが、何と申しても五年の月日が流れて居るのではござりませぬか。その長い五年間には、お殿様にもご機嫌よく、家来共の言葉を快くお聞きなさる時もござりましょうに。そういう場合にお取りなししたら、何の困難《むつかし》い障害《さわり》もなく、帰参が適《かな》うに相違ござりませぬ。……今日までご帰参の適わぬは、そのご朋友の金三郎様が、お取りなしせぬからに相違ござりませぬ」
 長庵は意気込んで云ったものである。
「実は拙者も折々は、そのように思わぬこともないが、そういう考えの出る時には努《つと》めて消そうと試みて来ました。と云うのはこの拙者、これまで人に怨まれるような、悪事を致した覚えがなく、金三郎とて真人間のこと、恩を忘れるはずはない。おっつけ殿からの使者《つかい》が来て、芽出度《めでた》く帰参が適うものと、確《かた》く信じて居るからでござるよ」
「それは真面目のご貴殿のこと、他人《ひと》に怨みを買うような、よくないご所業をなさるはずはない。とは云え浮世は金が仇、金のためには義理ある弟さえ、殺そうとする悪党もある。私《わし》から見れば間瀬とか云う男、食わせ者の銀流し、太い野郎に思われますなあ」
 自分がこれから遂げようとする、極悪非道の所業に引っ掛け、長庵はこんなことを云ったものである。

追って行く人追われる人
 それに、長庵の眼からみれば、このセチ辛い世の中に、他人の罪を身に引き受け、浪人したという事が、変に不自然にも思われるのであった。
「どうでも俺とは歯が合わねえ」
 こう長庵は思うのであった。
「義侠心と云えばそうも云えるが、つまりそいつは宋讓《そうじょう》の仁で、一つ間違うと物笑いの種だ。いやもう物笑いになっている。襤褸《ぼろ》を下げて病みほほけ[#「ほほけ」に傍点]、長庵ずれの施療患者に、成り下るとは恥さらし。それに反して利口なは、間瀬金三郎とか云う男、泣き付いて拝み倒し、自分の科《とが》を他人《ひと》になす[#「なす」に傍点]り、うまうま罪科を脱《のが》れたとは、正に当世でこちらの畑。出世をしているに違えねえ」
「もしえ」と長庵はニヤニヤしながら、
「間瀬とか云うその仁、その後お豆でございますかね」
「健康《たっしゃ》で勤めて居りまする」
「ご出世しやアしませんかね?」
「これはこれはどうしてご存知? いかにもその後立身致し、以前は拙者より位置が下、しかるに今では拙者の位置まで経登ったと申すこと」
「アッハハハ、思った通りだ。アッハハハ、お手の筋だ。肚《はら》の皮のよじれる話、飛んだ浮世は猿芝居だ。アッハハハ、こりゃ耐《たま》らぬ」
 長庵両手で横っ腹を抑え、さも可笑《おか》しそうに笑いこけたが、
「もし、旦那、お前様は、思ったよりも輪をかけて、塩が不足でござんすねえ。平ったく云えば甘いお人じゃ。この長庵から見ますれば、旦那などは鼻《はな》っ垂らし、と云って憤《おこ》っちゃ不可《いけ》ませんぜ、鼻っ垂らしのデクの棒、お話しにも何にもなりゃアしねえ。……それはそうと、今日が日にも、やはり貴郎《あなた》様は松平様へ帰参がきっと叶うものと信じておいでなさいますかえ?」
「云うまでもないこと、きっと叶う」
 あんまり長庵に笑われたので、道十郎はムッとしたが、そこは性来の穏しさで、グッと抑えて何気なく、
「帰参が叶うと思えばこそ、こんな零落のその中でも、紋服一領は持って居ります。新しく需《もと》めた器類へも例えば提燈《ちょうちん》や傘へさえ、家の定紋を入れて居ります」
「へえい、それじゃ傘へまでね?」
「蔦に井桁が家の定紋、左様傘へまで入れてあります」
「なるほどなあ」と長庵は感心したように嘆息したが、
「そういう自信がなかった日には、貧乏に耐えて今日まで新しい主人に仕えもせず、お暮らしなさることは出来ますまい。武士の覚悟は又格別、長庵感服致しました。一寸《ちょっと》ご免」と立ち上ると、土間の方へ下りて行った。
 玄関へ行って見廻すと、道十郎の傘がある。じろりと見ると眼を返し、土間へ引っ返して棚を見たが、
「よし」と云うと一本の傘を棚からスルリと抜き出した。それから玄関へ引っ返して行き、道十郎の傘を取り上げると、その後へ自分の傘を置く。道十郎の雨傘は代わりに棚へ隠されたのである。

 その翌朝のことである。
 脚絆甲掛菅の笠、行李包を背に背負った、一人の田舎者がヒョッコリと、江戸麹町は平川町、村井長庵の邸から往来|側《ばた》へ下り立ったが、云うまでもなく十兵衛で、小田原提燈を手にさげて、品川の方へ歩いて行く。
 程経て同じ長庵邸から、一人の男が現われたが、黒い頭巾で顔を隠し、着流しの一本差、おりから降り出した夜の雨を、蛇目の傘《からかさ》半開き、雨が掛かってパラパラパラ、音のするのを気にしながら、足音を忍んで小走る先はやはり品川の方角である。
 暗い夜道を附かず離れず、二人の男は歩いて行く。赤羽を過ぎて三田の三角、札の辻へかかるころから、後の男は足を早めたが、気が付いたように立ち止まると、下駄を脱いで、手拭いで包み、グイと懐中へ捻じ込んだ手で、衣裳の裾の高端折り、夜眼にも著《し》るくヌッと出る脛を、虻が集《た》かったかバンと打ち、掌《てのひら》を返すと顎を擦り、じーっと行手を隙かして見たが、ブッツリ切ったは刀の鯉口、故意《わざ》と高い足音を立て、十兵衛を先へ追い越そうとする。その足音に気が付いて、振り返った十兵衛の左側を影のように素早く走り抜けたが、小手をハラリと振ったのは提燈の燈《ひ》を消すためである。
「あ、いけねえ燈が消えたあ」
 十兵衛が思わず叫んだとたん、グルリ身を返した村井長庵、言葉も掛けず抜き打ちに斬り付けたのが右手に当り、十兵衛の片腕がブラリと下る。
「あれマア腕が……」と云うところをザックリまたも斬り付ける。冠った菅笠を切り割って頭の鉢へ刃が止まる。
 颯《さっ》と血潮が飛んだであろうが闇夜《やみ》のことで解《わか》らない。

置き捨られた駕籠の主
「ワ――ッ」と云って尻餅をつく。
 止まった刀を手許へ引き、一間あまり飛び退《しさ》ると、長庵は刀を背後《うしろ》へ廻した。及び腰をして覗き込む。
「人殺しだアア、追剥だアアア」
 呼ばわる声も次第に細く、片手で泥を掴んでは暗を眼掛けて投げ付けるものの、長庵の身体《からだ》へは当りそうにもない。
「娘やあイ、お種やあイ」
 致死期の声で娘を呼ぶ。と、最期の呼吸《いき》細く、
「兄貴! 兄貴! 兄貴やあイ。平河町の兄貴やあイ……」
 現在その兄が人殺しとも知らず、綿々たる怨みの声で、こう救助《たすけ》を呼ぶのであった。
 しかしその声もやがて絶え、苦しみ※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]き蠢いていた、その五体も動かなくなった。
 雨が上り雲切れがし、深夜の遅い鎌のような月が、人魂《ひとだま》のように現われたが、その光に照らされて、たたまれた襤褸《ぼろ》か藁屑かのように、泥に横倒わった十兵衛の死骸、むごたらしさ[#「むごたらしさ」に傍点]の限りである。
 長庵は素早く近寄ったが、足で死骸を確《しっか》り踏むと、左の耳根から右の耳根までプッツリ止めの刀を差し、刀を持ち替え右手を延ばすと、死骸の懐中から革の財布をズルズルズルと引き出した。
「六十両」とニタリと笑い、ツルツルと懐中へ手繰り込むや、落ち散っている雨傘を死骸の側へポンと蹴った。
 さて、スタスタ行き過ぎようとする。
「オイ坊さん、お待ちなねえ」と、仇めいた女の声がした。
 ハッと驚いた長庵が、声のする方へ眼をやると、いつ来てそこへ捨られたものか、道の真中《まんなか》に女駕籠が引き戸を閉じたまま置かれてある。
「俺を呼んだはどこのどいつだ」
 女駕籠と見て取って、長庵にわかに元気付く。
「ホ、ホ、ホ、ホ」と駕籠の中から、艶かしい笑い声が聞こえたが、
「おまはん余程《よっぽど》強そうだねえ」
 こう云った声には凄気がある。
「ねえ、おまはん、可愛い人や、坊主色に持ちゃ心から可愛! ホ、ホ、ホ、ホおい坊さん、お城坊主かお寺さんかそれとも殿医奥医師か、そんな事アどうでもいい。そんな事アどうでもいいが、円い頭の手前もあろうに、殺生の事をしたじゃアないか。たかが相手は田舎者。追剥《おいおどし》もいいけれど、殺すぶに[#「ぶに」に傍点]はあるめえによ。妾《わちき》ア見ていて総毛立ちいした。殺生なひとでありんすねえ。……それでどれほど儲けなんしたえ?」
「プッ」と長庵それを聞くと、いまいましそうに唾を吐いたが、
「いや艶めかしい廓《さと》言葉と白無垢鉄火の強白《こわせりふ》、交替《かたみがわり》に使われちゃどう[#「どう」に傍点]にも俺ら手が出ねえ。一体お前《めえ》は何者だね?」
「おや正体が見たいのかえ。見せてやるのはいと易いけれど、おまはんの眼でも潰れてはと、それが気の毒で見せられないよ」
「大きな事を吐きゃアがる。見せられなけりゃ見ねえまでよ。どれ俺らは行くとしよう」
「あれさ、気の早い坊さんだよ、ゆっくりしなんし、夜は深うざます」
「へ、へ、へ、へ、物も云えねえ。俺を止めてどうする気だ?」
「ふてえ[#「ふてえ」に傍点]分けを置いておいでよ」
「厭と云うたら何とする」
「厭とは云わせぬ手練手管[#「手管」は底本では「手菅」]……」
「ウヘエ、さては女郎だな」
「いやなお客に連れられて、二日がかりの島遊山、一人別れて通し駕籠、更けて恐ろし犬の声、それより恐い雲助に凄い文句で嚇されて、ビクビクガタガタ来かかったは、芝三角札の辻、刃の光に雲助ども、駕籠を飛ばせて逃げればこそ、往来中へおいてけぼり[#「おいてけぼり」に傍点]、見まいとしても見えるのは、人形歌舞伎の殺し場よりもっと惨酷《むご》い嬲り殺し。あんまり胆を潰したので、かえって今では度胸が据わり、草双紙で見た女賊の張本、瀧夜叉姫の相格を、つい気取っても見たくなり、呼び止めたはとんだ[#「とんだ」に傍点]粹興、と云っても一旦止めたものをただで返すは女郎の恥、みんなとは云わぬ半金だけ、妾《わちき》にくれて行きなましえ」
 すっかり時代で嚇しかける。
「一両二両の端た金なら、テラ銭のつもりで置いても行こう、こう思っていた鼻先で、半金よこせは馬鹿な面め、坊主々々と安く見ても、名を明かされたら顫え出そう。もうこうなりゃア一両も厭だ。口惜しかったら腕で来い。それとも白砂へ駆け込むか。気の毒ながら手前だって、明い体じゃよも[#「よも」に傍点]あるめえ。自繩自縛とは汝《うぬ》がこと、ハイ左様なら俺は行く。二度と呼ぶな返りゃしねえぞ」
 尻ひっからげ駆け出す長庵、五間あまり行き過ぎた。

 ギーという扉の開く音。ヒラリと刎ねたは駕籠の垂。生白い物の閃めいたは、女の腕に相違ない。
「ワッ」と云う長庵の声。ガックリ膝を泥に突き、手を廻すと脛に立った、小柄をグイと引き抜いたが、
「や、こいつア銀の平打! さては手前は!」と振り返る、その眼の前にスンナリと駕籠に寄り添い立った姿、立兵庫《たてひょうご》にお裲襠《かいどり》、大籬の太夫職だ。
「ううむ、そうか、女泥棒!」
「あいさ、妾ア花魁《おいらん》泥棒! こう姿を見せたからにゃア、半金では不承だよ」
「何の手前に」と懐中を抑える。
「おや、よこすのが厭なのかえ」
「世に名高けえ泥棒でも、たかが女、滅多にゃ負けねえ」
「おお、そうかえ、ではお止し」
 繊手を延ばすと髪へ障《さ》わり、
「もう一本見舞おうかね。左の眼かえ右の眼かえ。それとも額の真中かえ」
 長庵は黙って突立っている。
 突然財布を投げ出した。
「上にゃ上があるものだなあ」
「それでも器用に投げ出したね。命冥加の坊主だよ」
 途端に、人影バラバラと物の影から現われたが、
「姐御、駕籠に召しましょう」
 ズラリ駕籠を取り巻いた。十五六人の同勢である。
「姐御はお止し、太夫さんだよ」
 云い捨て駕籠へポンと乗る。宙に浮く女駕籠。サッサッサッと足並を揃え、深夜の町を掠めるがように、北を指して消えて行く。

 記名《ないれ》の傘《からかさ》が死骸の側《そば》に、忘れてあったという所から、浪人藤掛道十郎が下手人として認められ、牢問い拷問の劇《はげ》しさに、牢死したのはその後の事で、それについても物語があり、不思議な花魁泥棒が、十兵衛の娘お種を助け、長庵の悪事を剖《あば》くという、義血侠血の物語《はなし》もあるが、後日を待って語ることとしよう。
 とまれ強悪の村井長庵がものした[#「ものした」に傍点]金を又ものされ[#「ものされ」に傍点]、手出しもならず口を開き、茫然《ぼんやり》立ったという所に、この物語の興味はあろうか。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
   1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「ポケット」
   1925(大正14)年6月
※「平河町」と「平川町」の混在は底本通りにしました。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月10日作成
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