国枝史郎

剣侠—— 国枝史郎

木剣試合


 文政×年の初夏のことであった。
 杉浪之助《すぎなみのすけ》は宿を出て、両国をさして歩いて行った。
 本郷の台まで来たときである。榊原式部少輔《さかきばらしきぶしょうゆう》様のお屋敷があり、お長屋が軒を並べていた。
 と、
「エーイ」
「イヤー」
 という、鋭い掛声が聞こえてきた。
(はてな?)
 と、浪之助は足を止めた。
(凄いような掛声だが?)
 で、四辺《あたり》を見廻して見た。
 掛声はお長屋の一軒の、塀の内側から来たようであった。
 幸い節穴があったので、浪之助は覗いて見た。
 六十歳前後の老武士と、三十五六歳の壮年武士とが、植込の開けた芝生の上に下り立ち、互いに木剣を構えていた。
(こりゃアいけない)
 と浪之助は思った。
(まるでこりゃア段違いだ)
 老武士の構えも立派ではあったが、しかし要するに尋常で、構えから見てその伎倆《うで》も、せいぜいのところ免許ぐらい、しかるに一方壮年武士の方の伎倆は、どっちかというと武道不鍛練の、浪之助のようなものの眼から見ても、恐ろしいように思われる程に、思い切って勝れているのであった。
 それに浪之助には何となく、この二人の試合なるものが、単なる業《わざ》の比較ではなく、打物《うちもの》こそ木剣を用いておれ、恨みを含んだ真剣の決闘、そんなように思われてならなかった。
 豊かの頬、二重にくくれた頤、本来の老武士の人相は、円満であり寛容であるのに、額《ひたい》を癇癖《かんぺき》の筋でうねらせ、眼を怒りに血ばしらせている。
 これに反して壮年武士の方は、怒りの代わりに嘲りと憎みを、切長の眼、高薄い鼻、痩せた頬、蒼白い顔色、そういう顔に漂わせながら、焦心《あせ》る老武士を充分に焦心らせ、苦しめるだけ苦しめてやろうと、そう思ってでもいるように、ジワリジワリと迫り詰めていた。
(やるな)
 と浪之助の思った途端、壮年武士の木剣が、さながら水でも引くように、左り後ろへ斜めに引かれた。
 誘いの隙に相違なかった。
 それに老武士は乗ったらしい。
 一足踏み出すと真っ向へ下ろした。
 壮年武士は身を翻えしたが、横面を払うと見せて、無類の悪剣、老武士の痩せた細い足を、打ったら折れるに相違ない、それと知っていてその足を……打とうとしたきわどい[#「きわどい」に傍点]一刹那に、
「あれ、お父《とう》様」という女の声が、息詰まるように聞こえてきた。
 正面に立っている屋敷の縁《えん》に、十八九の娘が立っていた。
 跣足《はだし》でその娘が駈け寄って来たのと、老武士が木剣を閃《ひら》めかせたのと、壮年武士が「参った」と叫び、構えていた木剣をダラリと下げ、苦笑いをして右の腕を、左の掌で揉んだのとが、その次に起こった出来事であった。
 浪之助も塀の節穴越しに、苦笑せざるを得なかった。
(若い武士が打たれるはずはない。わざと勝を譲ったんだ)
 そう思わざるを得なかった。
 浪之助は娘を見た。
 柘榴《ざくろ》の蕾を想わせるような、紅《あか》い小さな唇が、娘を初々しく気高くしていた。


「何だそのような未熟の腕でいながら、傲慢らしく振舞うとは」
 こう老武士の窘《たしな》めるような声が、浪之助の耳へ聞こえてきたので、老武士の方へ眼を移して見た。
 娘を横手へ立たせたまま、壮年武士と向かい合い、老武士は説いているのであった。
「たとえどのような伎倆《うで》があろうと、世間には名人達人がある、上越す者がどれほどでもある、増長慢になってはいけないのう」
 こう云った時には老武士の声は、穏やかになり親切そうになり、顔からも怒りがなくなっていた。
「第一わしのようなこんな老人に、もろく負けるようなそんな伎倆では、自慢しようも出来ないではないか。のう澄江《すみえ》、そうであろうがな」
「まあお父様そのようなこと……もうよろしいではござりませぬか……でも陣十郎様のお伎倆《うでまえ》は、お立派のように存ぜられますわ」
 藤と菖蒲《あやめ》をとりあわせた、長い袂の単衣《ひとえ》が似合って、※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]《ろう》たけて[#「※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]《ろう》たけて」は底本では「臈《ろう》たけて」]さえ見えるその娘は、とりなすようにそういうように云い、気の毒そうに壮年武士を見た。
 壮年武士の表情には、軽侮と傲慢とがあるばかりであった。
 しかし娘にそう云われた時、その表情を不意に消し、
「これは恐縮に存じます。……いや私の伎倆など、まだまだやくざ[#「やくざ」に傍点]でござりまして、まさしく小父様に右の籠手《こて》を、一本取られましてござります。……将来気をつけるでござりましょう」
「さようさようそれがよろしい、将来は気をつけ天狗にならず、ますます勉強するがよい。いやお前にそう出られて、わしはすっかり嬉しくなった。……では茶でものむとしようぞ。……陣十郎《じんじゅうろう》来い、澄江来い」
 好々爺の本性に帰ったらしく、こう云うと老武士は木剣を捨て、屋敷の方へ歩き出した。
「では陣十郎様、おいでなさりませ」
「は」と云ったが陣十郎様という武士は、何か心に済まないかのように、何か云い出そうとするかのように澄江の顔を凝視するばかりで、歩き出そうとはしなかった。
「澄江様。……澄江様」
「はい、何でございますか?」
「私の甲源一刀流、お父上の新影流より、劣って居るとお思い遊ばしますかな?」
「いいえ……でも……わたくしなどには……」
「お解《わか》りにならぬと仰せられる?」
「わかりませんでござります」
「わからぬものは剣道ばかりか……男の、男の、恋心なども……」
「……」澄江の眼には当惑らしい表情が出た。
「打とうと思えば小父様など、たった一打ち手間暇はいらぬ。……打たずにかえって打たれたは……澄江さま、貴方のためじゃ」
「…………」
 その時屋敷の縁の上から、
「おいで、こら、何をして居る」
 老武士が呼んで手を拍った。
「羊羹を切ったぞ。おいでおいで」
「はい」と云うと陣十郎へ背を向け、澄江はそっちへ小走った。
「ちと痛い」と右の手を揉み、
「あの老耄《おいぼれ》、フ、フ、何を……が、澄江には恩をかけた。……この手で……」
 と口の中で呟きながら、陣十郎という若い武士は、屋敷の方へそろそろと歩いた。


(どうにも変な試合だったよ)
 浪之助はそんなことを思いながら、両国の方へ歩いて行った。
(それにしてもちょっと[#「ちょっと」に傍点]美《い》い娘だった)
 こんなことをチラリと心の隅で思い、独り笑いをもらしたりした。
 年はまだ二十三歳、独身で浪人であった。
 親の代からの浪人で、その父は浪之進といい、信州|高島《たかしま》の家臣であったが、故あって浪人となり、家族ともども江戸に出た。貨殖の才がある上に、信州人特有の倹約家《しまつや》で、金貸などをひそかにやり、たいして人にも怨まれないうちに、相当に貯めて家屋敷なども買い、町内の世話をして口を利き、武士ではあったが町人同然、大分評判のよくなった頃、五年ほど前にポックリ死に、母親はその後三年ほど生きたが、総領の娘を武家は厭、町家の相当の家柄の家へ、――という希望を叶えさせ、呉服問屋へ嫁入らせ、安心したところでコロリと死に、後には長男の浪之助ばかりが残った。当然彼が家督を取り、若い主人公になり済まし、現在に及んでいるのであるが、この浪之助豚児ではないが、さりとて一躍家名を揚げるような、一代の麒麟児でもなさそうで、剣道は一刀流を学んだが、まだ免許にはやや遠く、学問の方も当時の儒家、林|信満《のぶます》に就《つ》いて学んだが、学者として立つには程遠かった。
 ところがこのごろになって浪之助は、何かドカーンと大きなことを、何かビシッと身に泌みるようなことを、是非経験したいものだと、そんなように思うようになった。なまぬるい生活がつづいたので、強い刺戟を求め出したと、そう解釈してよさそうである。
 袴無しの着流しで、蝋塗りの細身の大小を差し、白扇を胸の辺りでパチツカせ、青簾に釣忍《つりしのぶ》、そんなものが軒にチラチラ見える町通りを歩いて行った。
 浅草観世音へ参詣し、賽銭を投げて奥山を廻り、東両国の盛場へ来たときには、日が少し傾《かたむ》いていた。

娘太夫を巡って


 両国橋を本所の方へ渡ると、江戸一番の盛場となり、ことに細小路一帯には、丹波から連れて来た狐爺《きつねおやじ》とか、河童《かっぱ》の見世物とか和蘭陀眼鏡《おらんだめがね》とかそんないかがわしい見世物小屋があって、勤番武士とか、お上りさんとか、そういう低級の観客の趣味に、巧みに迎合させていた。講釈場もあれば水芸、曲独楽《きょくごま》、そんなものの定席もできていた。
 曲独楽の定席の前まで来て、浪之助はちょっと足を止めた。
 しばらく思案をしたようであったが、木戸銭を払って中へ入った。
 こんなものへ入って曲独楽を見て、口を開けて見とれるという程、悪趣味の彼ではないのであったが、以前にここの娘太夫で、美貌と業《わざ》の巧いのとで、一時両国の人気を攫った、本名お組《くみ》芸名|源女《げんじょ》そういう女と妙な縁から、彼一流の恋をした。ところが今から一年ほど前に、不意にその女が居なくなった。悪御家人の悪足と一緒に、駆落ちしたのだという噂があったり、養母に悪いのがついていて長崎の異人へ妾《めかけ》に売ったのと、そんな噂があったりしたが、とにかく姿を消してしまった。浪之助は妙にその女には、かなりの執着を持っていて、姿を消されたその当座は、ちょっと寂しく感じたりし、もうその女がいなくなった以上、そんな曲独楽なんか見るものかと、爾来《じらい》よりつきもしなかったが、今日は彼の心の中に、昔なつかしい思いが萌《も》えた。そこで、木戸をくぐったのである。
 桟敷と土間もかなりの入りであった。
 舞台には華やかな牡丹燈籠が、二基がところ立ててあり、その背後《うしろ》には季節に適《かな》わせた、八橋の景が飾ってあり、その前に若い娘太夫が、薄紫|熨斗目《のしめ》の振袖で、金糸銀糸の刺繍をした裃《かみしも》、福草履《ふくぞうり》を穿いたおきまりの姿で、巧みに縄をさばいていた。
「おや、ありゃア源女じゃアないか」
 驚いて浪之助は口の中で叫んだ。
 娘太夫は源女のお組、それに相違ないからであった。
 瓜実《うりざね》顔、富士額、薄い受口、切長の眼、源女に相違ないのであった。ただ思いなしか一年前より、痩せて衰《おとろ》えているようであった。
(舞い戻ってこの席へ出たものと見える)
 油然《ゆうぜん》と恋心が湧いて来た。
(逢って様子を聞きたいものだ)
 その時源女が昔ながらのとはいえ少し力の弱い声で、
「独楽《こま》は生独楽生きて廻る」と、口上を節づけて述べ出した。
「縄も生縄生きて動く。……小だめしは返り来の独楽、縄を離れても慕い、翻飜として飛び返る。ヤーハッ」と云ったかと思うと、右手の振袖が渦を巻き、瞬間縄が宙にほぐれ、差し渡し五寸もあるらしい、金蒔絵黒塗り銀心棒、朱色渦巻を胴に刻《ほ》った独楽が、唸《うな》りをなして舞い上り、しばらく宙に漂うように見えたが、あだかも生ける魂あって、すでに源女に手繰《たぐ》られている、絹、麻、髪を綯《な》いまぜて造った、鼠色に見える縄を目掛け追うかのように寄って来た。
 と、源女は右手を出した。
 その掌《てのひら》に独楽は止まった。
 グルリと掌を裏返した。
 逆《さか》さになったまま掌に吸いつき、独楽は森々《しんしん》と廻っている。
 どっと喝采が見物の中から起こった。
 しかしどうしたのかその一刹那、ポタリと独楽が、掌から落ち、源女は放心でもしたように、桟敷の一所を凝然と見詰めた。


 恐怖がその顔に現われている。
(どうしたんだろう?)と驚きながら、源女の見詰めている方角へ、浪之助も眼をやった。
(や)とこれも驚いた。
 そこに、桟敷に、見物にまじって、榊原|式部少輔《しきぶしょうゆう》様のお長屋の庭で、老武士を相手に試合をしていた、陣十郎という壮年武士が、舞台を睨《にら》むように見ているではないか。
 単なる浪之助の思いなしばかりでなく、陣十郎の眼と源女の眼とは、互いに睨み合っているようであり、源女が独楽を掌から落とし、放心したように茫然としたのも、陣十郎の姿を認めたからであると、そんなように思われる節があった。
(二人の間には何かあるな)
 そんなように思われてならなかった。
「弘法にも筆のあやまり、名人の手からも水が洩れる、生独楽を落としました源女太夫のあやまり、やり直しは幾重にもご用捨……」
 床から独楽を拾い上げ、顫えを帯びた含み声で、こうテレ隠しのように口上を述べ、源女が芸を続け出したのは、それから直ぐのことであった。
 これがかえって愛嬌になったか、見物は湧きもしなかった。
 その後これといって失敗もなく、昔ながらに鮮かに、源女は独楽を自由自在に使った。
 一基の燈籠に独楽が投げ込まれるや、牡丹が花弁《はなびら》を開くように、燈籠は紙壁《しへき》を四方に開き、百目|蝋燭《ろうそく》を露出させ、焔の先から水を吹き出し、つづいてもう一基の燈籠の中から、独楽が自ずと舞い上り、それを源女が手へ戻した途端、そのもう一基の燈籠も、紙壁を開き水を吹き出した。この最後の芸を終えて、悠々と源女が舞台から消えると、見物達は拍手を送った。
 浪之助は小屋を出て、裏木戸の方へ廻って行った。
「久しぶりだな、爺《とっ》つぁん」
 木戸口にいた爺《じい》さんへ、こう浪之助は声をかけた。
「へい」と木戸番の爺《おやじ》は云った。
「これは杉様で、お珍しい」
「たっしゃでいいな、一年ぶりだ」
「旦那様もおたっしゃのご様子で」
「源女が帰って出演《で》ているようだな」
「よくご存知で、ほんの昨今から」
「ちょっと源女に逢いたいのだが」
「さあさあどうぞ」と草履《ぞうり》を揃えた。
 心付を渡して草履を突っかけた。
「源女さんのお部屋は一番奥で」
「そうかい」と浪之助は歩いて行った。
 書割だの大道具だのが積み重ねてある、黴臭い薄暗い舞台裏を通り、並んでいる部屋々々の暖簾《のれん》の前を通り、一番奥の部屋の前へ立った。
 長い暖簾を掲げて入った。
 衣装|籠《つづら》に寄りかかりながら、裃をさえ取ろうともせず、源女はグッタリと坐っていた。
「お組、わしだ[#「わしだ」に傍点]」と浪之助は云った。
 と、源女は閉じていた眼を、さもだるそうに[#「だるそうに」に傍点]細目をあけたが、
「浪之助様。……存じて居りました」
 そう云ってまたも眼をとじた。
 衰弱していると云ってもよく、冷淡であると云ってもよい、極めて素気ない態度であった。
 立ったまま坐りもせず、そういう昔の恋人の、源女の様子を眺めながら、浪之助は意外さと寂しさと、多少の怒りとを心に感じた。


「知っていたとは? ……何を知って?」
「桟敷にお居でなされましたことを」
 眼をとじたまま云うのであった。
「では舞台で観ていたのか」
「ええ」と源女は眼をあけた。
「浪之助様がお居でになる。――そう思って見て居りました」
「ふむ」と浪之助は鼻で云った。
「ただそれだけか。え、お組」
「…………」
「一年ぶりで逢った二人だ。浪之助様がお居でになると、ただそう思って見ていただけか」
 少し愚痴とは思ったが、そう云わざるを得なかった。
 なるほど二人の往昔《そのかみ》の仲は、死ぬの生きるの夫婦《いっしょ》になろうのと、そういったような深い烈しい、燃え立つような仲ではなかった。とはいえ双方好き合い愛し合った。恋であったことには疑いなく、しかも争いをしたのでもなく、談合づくで別れたのでもなく、恋は続いていたのであった。そうだ、続いていたのであった。それだのに女は一言も云わず、別れましょうとも切れましょうとも、何とも云わずに姿を消し、今日迄|消息《たより》しなかったのである。さて、ところで、今逢った。と、そのような冷淡なのである。
 愚痴も厭味も浪之助としては、云い出さないではいられないではないか。
 で、そう云って睨むように見詰めた。
「それにさ、いかに心持が、わしから冷やかになっているにしても、坐れとぐらい何故云ってくれぬ」
 いかさま浪之助はまだ立っていた。
 これには源女も済まなく思ったか、
「どうぞ」と云うと水玉を散らした、友禅の坐蒲団を押しやった。
 坐ったが心が充たされず、尚浪之助は白い眼で、源女の顔をまじまじと見た。
 源女は又も眼を閉じて、衣装|籠《つづら》に身をもたせていた。
 眼の縁辺りが薄く隈取られ、小鼻の左右に溝が出来、見れば意外に憔悴もしてい、病んででもいるように疲《や》せて[#「疲《や》せて」はママ]もいた。
(ひどく苦労をしたらしい)
 そう思うと浪之助の心持が和《なご》み、女を憐れむ情愛が、胸に暖かく流れて来た。
「お組、いままでどこにいたのだ?」
「旅に……旅に……諸方の旅に」
「旅を稼いでいたというのか?」
「いいえ。……でも……ええ旅に。……」
 言葉が濁り曖昧であった。
「旅はいずこを……どの方面を?」
「どこと云って、ただあちらこちらを」
「ふむ。……一座を作って?」
「いいえ、一人で……でも時々は……一座を作っても居りました」
 やはり言葉が濁るのであった。
「なぜそれにしても旅へ出ますと、わし[#「わし」に傍点]に話してはくれなかったのだ」
「…………」
 源女は返辞《へんじ》をしなかった。
 睫毛が顫え唇の左右が、痙攣をしたばかりであった。
 窓から西陽が射し込んで来て、衣桁にかけてある着替えの衣装の、派手な模様を照らしていた。
 二三度入り口の暖簾をかかげて、一座の者らしい男や女やが、顔を差し込んで覗いたが、訳あるらしい二人の様子を見ると、入ろうともせず行ってしまった。
「陣十郎という武士を知っているかな?」
 話を転じて浪之助は云った。
 と、源女は首をもたげた。


「陣十郎! ……陣十郎! ……水品《みずしな》陣十郎! ……あなたこそどうしてあの男を!」
 そう云うと源女はのしかかる[#「のしかかる」に傍点]ように、衣装籠から身を乗り出した。
 恐怖と憎悪とがあからさまに、パッと見開いた眼にあった。
 凄じいと云ってもいいような、相手の態度に圧せられて、浪之助はかえってたじろいだ。
 「いやわし[#「わし」に傍点]はただほんの……それも偶然|先刻《さっき》方……榊原様のお長屋で……試合をしていたのを通りかかって……だがその男が桟敷にいたので……」
「ただそれだけでございますか」
 源女は安心したように、そう云うと躰をグッタリとさせ、衣装籠へまた寄りかかった。
 そうして眼を閉じ黙ってしまったが、やがて浪之助へ云うというより、自分自身へ云うように、譫言《うわごと》のように呟いた。
「陣十郎、水品陣十郎……何と云おう、悪鬼と云おうか……あの男のためにまア妾《わたし》は……これまでどんなに、まあどんなに……苦しめられ苦しめられたことか! ……騙《だま》され賺《す》かされ怯《おび》やかされ、旅でさんざん苦しめられた。……こんなにしたのはあの男だ。妾をこんなに、こんなにしたのは! ……病人に、白痴に、片輪者に! ……先生、お助け下さりませ! ……でも妾はどうあろうと、あれをどうともして思い出さなけりゃア……でもお許し下さりませ、思い出せないのでございます」
 不意に源女は節をつけて、歌うように云い出した。
[#ここから1字下げ]
「ちちぶのこおり
おがわむら
へみさまにわの
ひのきのね
むかしはあったということじゃ
いまはかわってせんのうま
ごひゃくのうまのうまかいの
、、、、
、、、、
、、、、
まぐさのやまや
そこなしの
かわのなかじのいわむろの
[#ここで字下げ終わり]
 ……さあその後は何といったかしら? ……思い出せない思い出せない。……そうしてあそこはどこだったかしら? ……山に谷に森に林に、岩屋に盆地に沼に川に、そうして滝があったかもしれない。
 大きなお屋敷もあったはずだが。……そうしてまるで酒顛童子《しゅてんどうじ》のような、恐ろしいお爺さんがいたはずだが。……思い出せない、思い出せない。……」
 顔を上向け宙へ眼をやり、額に汗をにじませて、何か思い出を辿るように、何かを思い出そうとするように、源女は譫言《うわごと》のように云うのであった。
 癲癇の発作の起こる前の、痴呆状態とでも云うべきであろうか、そういう源女の顔も姿も、いつもとは異《ちが》って別人のように見えた。
 浪之助は魘《おそ》われたようにゾッとした。
 と、不意に前のめりに、源女は畳へ突っ伏した。
 精根をすっかり疲労《つかれ》させられたらしい。
「お組」と仰天していざり寄り浪之助は抱き起こした。
「しっかりおし、心をたしかに!」
 その時背後から声がかかった。
「源女殿いつもの病気でござるか」
 驚いて浪之助は振り返って見た。
 いつ来たものか三十五六の武士が、眉をひそめながら立っていた。


 額広く眉太く、眼は鳳眼《ほうがん》といって気高く鋭く、それでいて愛嬌があり、鼻はあくまで高かったが、鼻梁が太いので険しくなく、仁中《じんちゅう》の深いのは徳のある証拠、唇は薄くなく厚くない。程よいけれど、大形であった。色が白く頬が豊かで、顎も角ばらず円味づいていた。身長は五尺五六寸もあろうか、肉付は逞《たくま》しくあったけれど贅肉なしに引きしまっている。髪は総髪の大髻《おおたぶさ》で、髻《もとどり》の紐は濃紫《こむらさき》であった。黒の紋付に同じ羽織、白博多の帯をしめ、無反《むぞり》に近い長めの大小の、柄を白糸で巻いたのを差し、わざと袴をつけていないのは、無造作で磊落で瀟洒の性質をさながらに現わしていると云ってよろしく白博多の帯と映り合って、羽織の紐が髻と同じ、濃紫であるのは高尚であった。
 そういう武士が立っていた。
 と見てとって浪之助は、思わず「あッ」と声を上げ、抱えていた源女を放したかと思うと、四五尺がところ後へ辷《すべ》り、膝へ手を置いてかしこまってしまった。
 武士の何者かを知っているからであった。
 川越の城主三十五万石、松平大和守の家臣であって、知行は堂々たる五百石、新影流の剣道指南、秋山要左衛門の子息であり、侠骨凌々たるところから、博徒赤尾の磯五郎を助け、縄張出入などに関係したあげく、わざと勘当されて浪人となり、江戸へいでて技を磨き、根岸|御行《みゆき》の松に道場を設け、新影流を教授して居り、年齢は男盛りの三十五、それでいて新影流は無双の達人、神刀無念流の戸ヶ崎熊太郎や、甲源一刀流の辺見《へんみ》多四郎や、小野派一刀流の浅利又七郎や、北辰一刀流の千葉周作等、前後して輩出した名人達と、伯仲《はくちゅう》[#ルビの「はくちゅう」は底本では「はちゅう」]の間にあったという、そういう達人の秋山要介正勝《あきやまようすけまさかつ》! 武士は実にその人なのであった。
 勿論浪之助はかつてこれ迄、秋山要介と話したこともなく、教えを受けたこともなかったのであるが、それほどの高名の剣豪であった、江戸に住居する武士という武士は、要介を知らない者はなく、そういう意味で、浪之助も、諸方で遥拝して知っていたのであった。
 そういう要介が現われたのである、かしこまったのは当然といえよう。
 かしこまった浪之助の様子を見ると、要介はかえって気の毒そうに、微笑を浮かべ会釈をしたが、さりとて別に何とも云わず、仆《たお》れている源女へ近寄って行き、片膝つくと手を延ばし、源女の背を撫でながら云った。
「源女殿、要介じゃ。いつもの発作が起こられたか」
 そう云った声が通じたと見える、源女は顔を上げて要介を見たが、
「先生!」とやにわに縋りついた。
「陣十郎が! 水品陣十郎が!」
「陣十郎が? どうなされた?」
「桟敷にいました! 妾《わたし》につき纏い!」
「…………」
 要介の顔色もにわかに変わった。
「彼、悪鬼、江戸まで来たか!」
「先生!」
「大丈夫」と要介は云った、
「ついて居る、わし[#「わし」に傍点]が、大丈夫じゃ」
「はい……先生! ……でも妾は! ……恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい!」
「自分で自分を苦しめてはいけない。……自分で自分を恐れさせてはいけない。……秋山要介が付いて居る」

剣鬼と剣聖


 俺の長くいる場所ではない、こう思って浪之助がその部屋を出たのは、それから間もなくのことであった。
 書割や大道具の積んである間を、裏木戸の方へ歩いて行った。
 と、何かなしにゾッとした。
 で四辺《あたり》を見廻して見た。
 書割が積んであるその横手の、薄暗い一所に水品陣十郎が、刺すような眼をしてこちらを見ていた。
「あ」と浪之助は自分ながら馬鹿な、と云うよりも臆病千万な、恐怖に似たような声をあげ、足を釘づけにしてしまった。
 陣十郎という男の身の周囲《まわり》を、殺気といおうか妖気といおうか、陰森としたものが取り巻いていて近寄るものを萎縮させる。
 ――そんなように一瞬思われもした。
(馬鹿な)と自分で自分を嘲けり、浪之助は足を運んだ。
 とはいえ陣十郎の前を通る時も、通り過ぎた時も恐ろしかった、不意に切り付けられはしないだろうかと、そんなように思われてならなかった[#「ならなかった」は底本では「なからなかった」]。
 その浪之助が小石川富坂町の、自分の屋敷へ戻ろうとして、お茶の水の辺りを歩いていたのは、初夜をとうに過ごしていた頃で、源女《げんじょ》の小屋を出ても気にかかることや、愉快でないことが心にあったので、その心を紛らそうとして、贔屓にしている小料理屋で、時刻を過ごしたからであった。
 お組《くみ》はどうしたというのだろう? 病気には相違なさそうだが、何という変な病気なんだろう。秋山要介というような、余りにも有名な人物と、非常に親しくしているようだが、どこでどうしてそうなったのか? 水品陣十郎という悪鬼のような男、あの男もお組や秋山要介と、深い関係があるようだが、その関係はどんなんだろう?
(どっちみち今日は変な日だった)
 浪之助はそんなことを思いながら、まだ酔っている熱い頬を、夜に入って青葉の匂いを増した、さわやかな風に吹かせながら、樹木多く人家無く、これが江戸内かと疑われるほど、寂しい凄いお茶の水の境地を、微吟しながら歩いて行った。
 遅く出た月が空にあったが、樹木が繁っているために、木洩れの月光がそこここへ、光の斑《ふち》を置いているばかりで、あたりはほとんど闇であった。
 不意に行手で閃めくものがあり、悲鳴がそれに続いて聞こえた。
 ギョッとして浪之助は足を止めた。
(切られたらしい)と直感された。
(横へ逸れて行ってしまおうか)
 ふとそんな気も起こったが、町人とは違い武士であった。
(卑怯な)と思い返して走って行った。
 香具師《やし》――それも膏薬売らしい、膏薬箱を胸へかけた男が、右の胴から血を流し、その血の中に埋もれて居り、そうした死骸を見下ろしながら、一人の武士がその前に佇み、一人の女がその横にいて、血刀を懐紙で拭っているという、凄惨無慈悲の光景が、巨大な棒のように射して来ている木洩れの月光に照らされて、浪之助の眼に映った。
 フーッと気が遠くなりそうであった。
 そう、浪之助はもう少しで、気を失って仆《たお》れそうになった。
「貴殿のおいでを待っていました」
 水品陣十郎がそう云った。


 血刀を女に拭わせている武士、それは水品陣十郎であった。
「拙者水品陣十郎と申す、浪人でござる、お見知り置き下され」
 現在人を殺して置いて、本名を宣《なの》る膽の太さ、あらためて浪之助の怯えている心を、底の方から怯やかした。
「はあ」とばかり浪之助は云った。
 それ以上は云うこともなく、そう云った声さえ顫えていた。
「……ソ、その者は? ……その死骸は?」
 さすがにそれだけは浪之助も訊いた。
「拙者ただ今討ち果したものじゃ」
「はあ。……さようで……何の咎で?」
「裏切りいたした手下ゆえ」
「はあ」
「憎むべきは裏切り者。……言行一致せざる奴。……」
「はあ」
「失礼ながら貴殿のご姓名は?」
「ス、杉浪之助。……」
「杉浪之助殿。……お住居《すまい》は?」
「小石川富坂町。……」
「源女の小屋で今日午後、お眼にかかったことご存知か?」
「サ、さよう。……存じ居ります」
「源女の部屋へ行かれましたな?」
「…………」
「貴殿と源女との関係は?」
「これと云って、何もござらぬ。……一年前に、ただちょっと[#「ちょっと」に傍点]……」
「さようか」と陣十郎は疑わしそうに、刀の切先のようにギラギラ光る、氷のように底冷たい眼を、じっと浪之助の顔へ注いだが、
「秋山要介殿源女の部屋へ、今日参って居られたが、貴殿と秋山殿との関係は?」
「何でもござらぬ、ただ今日、はじめてあそこでお逢いしたまでで。……」
「しかと左様か。偽りはござるまいな」
「何の偽り。……真実でござる」
 まるで吟味でも受けているようだ。――浪之助はにわかに不快になり、自分の如何にも生地のないことに、腹立たしさを感じはしたが、蛇に魅入られた蛙《かわず》とでも云おうか、陣十郎という男に見詰められていると、手も足も出ないような恐怖感に、身も魂も襲われるのであった。
 女に血潮《ちのり》を充分に拭わせ、やがて陣十郎は悠々と、刀を鞘に納めたが、
「拙者貴殿に悪いことは申さぬ、深い因縁がないとあれば、いよいよもって幸いでござる、源女とも秋山要介とも今後決して関係つけなさるな」
「はあ。……しかし……それは……何故に。……」
「さようさ、拙者が好まぬ故」
「…………」
 何という図太い我儘だろう。何という押強《おしつよ》い要求だろう。――そうは思ったが浪之助は、それに反抗して否と云い切るだけの、力を持つことが出来なかった。
 で、じっと黙っていた。
「わけても源女と関係なされては不可《いけ》ない。……いかがでござる、よろしゅうござるか」
「…………」
「よろしい、承知なされたそうな。……念のため貴殿にお訊《たず》ねいたすが、貴殿、源女の歌う不思議な歌を、耳にしたことござるかな?」
 こう云って探るように睨むように見た。
(あの歌のことだな)と浪之助は思った。


(ちちぶのこおり、おがわむら、へみさまにわのひのきのね)
 この歌のことだなとすぐ思った。
 しかし聞いたとそう云ったら、どんな目に逢わされるか知れたものではない、こう思ったので浪之助は、
「いや」と簡単に否定した。
「聞かない、よろしい。それは結構。……そこで貴殿に申し上げて置く、今後決して聞いてはならぬ。よしんば例え聞くことがあっても、決してその意味を解いてはならぬ。……よろしゅうござるか、浪之助殿」
「よろしゅうござる」と浪之助は云った、仕方がないから云ったのであって、その実彼はそういわれたため、かえってその歌に含まれている意味を、解いてやろうと決心したくらいであった。
 こういう問答をしているうちにも、今は血刀を拭い終えて、陣十郎の横手に佇んで、爪楊枝を噛みながら、二人の問答を上の空のように、平然と聞き流している、女の姿を観察した。
 三十がらみの年恰好で、櫛巻に髪を結んで居り、絞りの単衣に黒繻子《くろじゅす》の帯、塗りの駒下駄を穿いている。腰の辺りに得も云われない、毒々しい迄の色気があった。顔は整いすぎるほど整っていたが、鼻がひときわ高かったので、ここで一点ぶちこわしていた。毒婦型に嵌まった凄艶の女! そう云えば足りる女であった。
 パチリと女は腕《かいな》を打った。どうやら藪蚊が刺したらしい。左の腕の肩まで捲った。月光に浮いて見えたのは、ベッタリ刻られた刺青《いれずみ》であった。
(凄いな)と浪之助はヒヤリとした。
(陣十郎とはいい取り合わせだ)
「念の為に申し上げて置く」
 重々しい。ねっとりとした。威嚇的の声で、陣十郎がその時云った。
「貴殿拙者に食言いたせば、ここに斃れているこの男のような、悲惨な運命となりましょう。よろしゅうござるかな、浪之助殿」
 云い云い指で膏薬売をさした。
「…………」
 無言でゴックリと唾を飲んで、ただ浪之助は頷いて見せた。
「よろしい、では、お別れいたす。……お妻《つま》行こう」
「あい、行きましょう」
 月光の圏内から遁れ出て、二人は闇に消えてしまった。

 小間使に下女に老婆に老僕に若党の五人を召使に持ち、広い庭を持った立派な屋敷に、気儘に生活《くらし》ている浪之助の身分は、なかなか悪くないと云ってよかろう。
 翌日は昼頃までグッスリと寝、起きると物臭さそうに顔を洗い、小綺麗な小間使お里の給仕で、朝昼兼帯の食事をし、青簾《あおすだれ》を背後に縁へ出て、百合と蝦夷菊との咲いている花壇を、浪之助はぼんやり眺めながら、昨日《きのう》一日に起伏した事件を、どう統一したらよかろうかと、一つは暇、一つは興味、一つは自分の将来に、多少関係あるところから、ムッツリ思案しているところへ、
「旦那様、ご来客でございます」と、小間使が知らせて来た。
「誰だ?」と浪之助はうるさそうに云った。
「秋山要介様と仰せられました」


 泉水築山などのよく見える、風通しのよい上等の客間へ、秋山要介を慇懃に通し、茶菓を備え歓待し、これほどの高名の人物によって、訪問されたことの喜びやら、恐縮やら、光栄やらを感謝しいしい、浪之助が謹ましく応対したのは、それから間もなくのことであった。
 貴殿と源女との以前の関係を、昨日源女より承《うけたま》わった。そうして昨日水品陣十郎が、どこやらのお長屋の庭において、誰やらと試合をしていたのを、貴殿御覧になられたと、そう源女に仰せられたそうな、そのお長屋がどこにあるか、それをお知らせにあずかりたく、拙者参上いたしたのでござると磊落な調子で要介は云った。
「陣十郎の現在の住居を、是非とも承知いたしたいので」
 こう要介は附け加えた。
「本郷の榊原式部少輔《さかきばらしきぶしょうゆう》様の、お長屋の一軒でございました」と、浪之助はあの時見た一部始終を話した。
「何人のお長屋でござりましたかな?」
「さあそれは、うっかり致しまして、確かめませんでござりましたが、よろしくば私ご案内いたし」
「忝《かたじ》けのう[#「忝《かたじ》けのう」は底本では「恭《かたじ》けのう」]ござる、では遠慮なく、夕景にでもなりましたら、散策かたがたご同行を願い……」
「かしこまりましてござります。……ところで……」と浪之助は言葉を改め、昨夜お茶の水の寂しい境地で、その水品陣十郎に逢い、一種の脅迫を受けたことを話した。
 じっと聞いていた要介は、次第にその眉をひそめたが、
「彼の兇悪まだ止まぬと見える。……まことに恐るべきは彼の悪剣……」と独言のように呟いた。
「先生、悪剣と申しますは?」と、浪之助は探るように訊いた。
 要介はしばらく沈黙したまま、泉水の鯉が時々刎ねて、水面へ姿を現わして、そのつど霧のような飛沫を上げ、岸に咲いている紫陽花《あじさい》の花が、その飛沫に濡れたのか、陽に艶めいて見えるさわやかな景へ、鋭い瞳を注いでいたが、
「柳生流の『車ノ返シ』甲源一刀流の『下手ノ切』この二法を並用したらしい、彼独特の剣技でござる」
 こう云って浪之助を正面から見詰めた。
 その眼をまぶしそうに外しながら、
「しかし先生などの腕前からすれば、陣十郎の腕前など……」
「なかなか以って、そうはいかぬ。……一年前に上州|間庭《まにわ》、樋口十郎左衛門殿の道場において、偶然彼と逢いましてな、懇望されて立合いましたが……」
「勝負は?」
「相打ち」
「…………」
「見事に足を。……」
「足を?」
「さよう。払われました」
「…………」
「拙者は面を取りましたが」
 浪之助は黙ってしまった。
 当代剣豪十人を選んで、日本の代表的人物としたら、当然その中に入るべき人物、秋山要介正勝ほどの人が、相打ちになったというからは、彼水品陣十郎という男、伎倆《うで》は伍格《ごかく》と見なければならない。
(そんなに出来る男なのかなア)
 嘘のように思われてならなかった。


 用意して置いた酒肴を出した。
「はじめて参ったのにこのご歓待、要介少なからず恐縮に存ずる」
 こう云いながらも遠慮せず、悠々と盃を重ねる態度が、明朗であり闊達であり、先輩も後輩も無視していて、真に磊落であり洒落であって、しかも本来が五百石取りの、先《まず》は大身の家柄の、御曹司である品位は落とさず、浪之助には慕わしくてならなかった。
「陣十郎のその悪剣、何と申す名称でござりますか?」
 浪之助はそう訊いて見た。
「逆の車と申しておりましたよ。勿論邪道の悪剣ゆえ、正当の名称はござらぬが、彼自身勝手に附けたものと見えます。……まずこう中段に太刀を構える」
 こう云いながら要介は、白扇を取るとグッと構えた。一尺足らずの獲物ながら、名人の構えた扇であった、浪之助にはその扇が、差しつけられた白刃より凄く、要介の躰《からだ》がそれの背後に、悉皆《すっかり》隠れたかのように思われた。
「と、こうグ――と左斜に、太刀を静かに引くのでござる」
 云い云い要介は扇を引いて見せた。
「さながら水の引くが如く。……云う迄もなく誘いの隙じゃ。……誘いの隙じゃと知りながらも、百人が百人それに乗り、一歩踏み出すか打ち込むかする。……と、その機先を素早く制し……柳生の業《わざ》車ノ返シ、そいつでこう一旦返す」
 扇をクルリと下返しに返した。
「ハッと相手が動揺した途端、間髪を入れず下手ノ切、甲源一刀流の下手ノ切……」
 こう云うと要介は左膝の辺りまで、扇を引き付けて八双に構え、すぐに刎ね返して掬い切りをした。
「こいつで来るのじゃ、さようこいつで。……下れば足、上れば胴、もう一段上れば顎へ来る……必ずやられる、必ず切られる」
「しかしそのように解って居りますれば、その術を破る方法が、いくらもあるように存ぜられますが」
「それが無い、こいつが業じゃ。……分解して云えば今のようではあるが、分解も何も差し許さず、講釈も何も超越して、序破急を一時に行なうと云おうか、天地人三才を同時にやると云おうか、疾風迅雷無二無三、敵ながら天晴《あっぱ》れと褒めたくなるほどの、真に神妙な早業で、しかも充分のネバリをもって、石火の如くに行なわれては、ほとんど防ぐに術が無い」
「はあ」と浪之助は溜息をした。
「恐ろしい業でござりまするな」
「恐ろしい業じゃ、恐ろしい悪剣じゃ。……爾来拙者苦心に苦心し、あの悪剣を破ろうものと、考案工夫をいたしおるが……」
「考案おつきになりませぬか?」
「彼のあの時の太刀さばきが、いまだに眼先にチラツイていて、退きませぬよ、消えませぬよ」
「はあ」とまたも浪之助は、溜息せざるを得なかった。
 それにしても昨夜お茶の水で、陣十郎に脅迫された時、反抗しないでよいことをした、変に反抗でもしようものなら、逆ノ車でズンと一刀に、切り仆されてしまったことだろう。
 浪之助にはそう思われた。
 二人は盃を重ねて行った。
 いつか夕暮となっていて、庭の若竹の葉末辺りに、螢の光が淡く燈《とも》されていた。


 酒に意外に時を費し、二人が屋敷から立ち出でたのは、相当夜の更けた頃であった。
「あまり早く出かけて行って、その屋敷のあたりをまいまい[#「まいまい」に傍点]し、陣十郎に目付けられでもしたら、面白くないことになる、おそい方がよろしゅうござる」と、要介はそう云ってかえってよろこんだ。
 家にいる時も外へ出てからも、どういう因縁から源女のお組などと、先生にはお懇意《ちかづき》[#ルビの「ちかづき」は底本では「ちかずき」]になりましたか? お組のうたった不思議な歌の意味、あれはどうなのでござります? 何が故に水品陣十郎は、先生やお組を狙うのですかと、浪之助はいろいろ要介に対して、訊きたいことがあったけれど、一つは昨夜陣十郎によって、そういうことに触れてはならぬと、威嚇されたのが身に泌みてい、一つは要介その人も、そういうことに触れられることを、好んでいないように思われたので、つい浪之助は訊きそびれてしまった。
 こうして本郷の榊原様の、お屋敷地辺りまでやって来た。
 屋敷町は更けるに早く、ほとんど人の通りなどなく、家々の門は差し固められ、甍《いらか》が今夜も明かな月夜、その月光に照らされて、水に濡れたように見えるばかりであった。
「先生、このお屋敷でございます」と、浪之助はお長屋の一軒の前で立った。
 二百石取りか三百石取りか、相当立派な知行取りの、お長屋であることは構えで知れた。
 板塀が高くかかってい、その上に植込みの槇や朴が、葉を茂らせてかかってい、その葉がこれも月の光に燻銀《いぶしぎん》のように薄光っていた。
「表門の方へ廻って見ましょう」
 こう云って要介が先に立ち、二三間歩みを運んだ時、消魂《けたたま》しい叫声が邸内から聞こえ、突然横手の木戸が開き、人影が道へ躍り出た。
 一人の武士が白刃を下げ、空いている片手に一人の女を、横抱きにして引っ抱えてい、それを追ってもう一人の武士が、これも白刃を提《ひっさ》げて、跣足《はだし》のまま追って出て来た。
「汝《おのれ》! ……待て! ……極重悪人」
 追って出た若い武士の叫びであった。
「お兄様! ……お兄様!」
 抱えられている娘は悲鳴をあげた。
「陣十郎だ!」とその瞬間、要介は叫んで足を返した。
 娘を抱えている武士が紛う方もない、水品陣十郎であるからであった。
 陣十郎は躊躇したらしく、一瞬間立ち止まった。
 背後《うしろ》から若い武士が追って来る、行手には二人の武士がいる。何方《どこ》へ走ろうかと躊躇したらしい。
 そこへ追いついた若い武士は、
「父上の敵《かたき》、くたばれ悪漢!」
 声諸共切り込んだ。
「切れ――ッ」と差し出したのは娘の躰《からだ》!
「あッ」とばかりあやうくも、白刃を三寸の宙で止め。
「人楯とは汝《おのれ》卑怯者!」
「お兄様お兄様|妾《わたし》もろとも、陣十郎を切ってお父様の敵を!」
 叫ぶ娘の澄江《すみえ》をグッと、再び抱え込んだ陣十郎は、二人の武士に向い威嚇的に、白刃を振り廻し叱咤した。
「退け! 邪魔するな! 致さば切るぞ」
 駆け抜けようとするその前へ、両手を拡げて要介は立った。


「眼《まなこ》眩《くら》んだか水品陣十郎! 拙者が見えぬか秋山要介だ!」
「なに秋山?」とタジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]としたが、
「いかにも秋山! ウ――ム南無三!」
「事情は知らぬが日頃の悪業、邪は汝《おのれ》にあるは必定! ここは通さぬ、組み止めるぞ! ……」
 途端に背後の若い武士が叫んだ。
「我々兄妹はこの家の者、榊原家の家臣でござって、拙者は鴫澤主水《しぎさわもんど》と申し、妹儀は澄江と申す。それなる男はいささかの縁辺《しるべ》、最近我が家の寄宿者《かかりうど》となり、我等養い居りましたるところ、わずかのことよりたった今し方、われらが父庄右衛門を殺し、ご覧のとおり妹を誘拐《かどわか》し、遁れようといたし居りまする。承わりますればご貴殿には、ご高名の秋山先生との御事、助太刀お願いいたしまする」
「心得てござる」と要介は云った。
「そうなくとも水品陣十郎に対し、拙者従来確執ござる。討って取らねばならぬ奴、まして貴殿ご兄妹の敵《かたき》とありましては、いよいよもって見遁し難い。……助太刀たしかに承知いたした。……貴殿そなたより切ってかかられよ。拙者組み止めお引き渡す。……浪之助殿、貴殿も共々」
「承知しました」と浪之助も云って、本来は小胆である彼ではあったが、傍らには要介が居ることではあり、そうでなくてもこういう場に臨めば、そこは武士で義侠の血も湧き、勇気も勃然と起こるものであり、やにわに刀を引き抜いた。
 腹背敵を受けたばかりか、その中の一人は剣聖ともいうべき、秋山要介正勝であった。剣鬼のような水品陣十郎も、進退|谷《きわ》まったと知ったらしい、突立ったまま居縮んだが、抱えていた澄江を地へ下すと、肩を片足でグッと踏みつけ、大上段に刀を振り冠り、
「秋山氏か、久々に御意得た。いかにも貴殿の云われるとおり、拙者と貴殿とは敵《かたき》同志、と云うよりも競争相手、討つか討たれるか行く道は一つ、しょせんは命の遣り取りする間、ここで逢ったも因縁でござろう、勝負承知、逃げ隠れはしない。……主水、主水、鴫澤主水、汝《おのれ》に対しても云い分はない、いかにもこの方汝の父親、庄右衛門を武士の意地で、今し方切ってすてたは確かだ、親の敵に相違ない善悪正邪を論じたなら、五分の理屈はこっちにもある。が、云うまい理屈は嫌いだ! 悪人に徹底しようぞ。ワッハッハッ、拙者は悪人! 悪人なるが故に義理はいらぬ。そこで恋しい女があれば、理不尽であろうと奪って逃げる。そこで澄江を奪ったのよ。悪人であれば人情は無益、こっちの命のあぶない瀬戸際、そうなっては恋女も情婦もない、人質、人楯、生ける贄《にえ》、土足にかけてこの有様だ! かかれ秋山、かかれ主水!、一寸と動かば振り冠った刀、澄江の上に落ちかかるぞよ!」
 悪人の本性を如実に現わし、左右に向かってこう喚くや、月光にドギツク振り冠った刀を、上げつ下げつ切る真似をして、陣十郎は心よげに笑った。
 切歯はしたが澄江の命があぶない、要介も主水もかかりかね、足ずりをして躊躇《ためら》った。


 が、その時澄江が叫んだ。
「躊躇はご無用|妾《わたし》を殺して、陣十郎をお討取り下さりませ。……まずこの如く!」と繊手《せんしゅ》を揮った。
「ワッ」と陣十郎が途端に叫び、飛び退くと刀を肩に担ぎ、不覚にも一方へよろめいた。
 そこを目掛けて、
「二つになれ!」と、切り込んだは主水の刀であった。
 音!
 鏘然と一合鳴った。
 陣十郎が払ったのである。
 と見て取って翻然と、要介は無手で躍りかかった。
 剣光!
 斜に一流れした。
 陣十郎の横なぐりだ。
 が、何の要介が、切られてなろうか飛び違った。
 そこを二度目に切り込んだ主水!
 またも鏘然と音がして、陣十郎の払った刀の、切先が延びて主水の股へ!
「あッ」
 主水が地に仆れた。
「お兄様!」と簪《かんざし》を逆手に、それで陣十郎の足の甲を突き、機先を制した澄江が叫び、地を這って主水へ近寄った。
「今は憎さが!」と吼えながら、何という残虐陣十郎は、澄江の背を拝み打ち!
 切ろうとした一刹那風を切って、浪之助の投げた石|飛礫《つぶて》が、陣十郎の額へ来た。
「チェーッ」
 片手で払い落とした隙を、ドッとあて[#「あて」に傍点]た躰《たい》にあたり[#「あたり」に傍点]!
 要介の精妙の躰あたりを食らい、もんどり[#「もんどり」に傍点]打って二間の彼方《かなた》へ、毬のように飛ばされた陣十郎! とはいえ彼も鍛えた躰だ、飛燕の軽さ飛び起きるや、這い廻っている主水の傍を、矢のように駈け抜けて一散に脱兎!
「待て!」と要介は追っかけたが、
「浪之助殿、貴殿は居残り、主水殿と澄江殿を介抱なされい!」
「かしこまりました」
「頼む」と云いすて、要介は韋駄天追っかけたが、この辺りの地理に詳しい彼、陣十郎はどこへ行ったものか露路か小路へ逃げ込んだらしい、既に姿は見えなかった。
 が、この頃から物音に驚き、お長屋の窓や潜門《くぐり》が開き、人々が顔を出し、
「どうしたのだ?」
「火事か?」
「盗賊か?」
 などと、口々に罵った。
 要介はそこで、大音に叫んだ。
「悪漢、鴫澤家に禍《わざわい》いたし、この界隈に隠れ居ります。お出合い下されお探し下され」
「行け」「探せ」と人々は叫び、追っ取り刀で走り出して来た。
「向こうだ」
「いや、こっちでござろう」
 四方の露地や小路に駆け込み、あそこかここかと探し廻った。
 次から次、屋敷から屋敷へと、この騒動はすぐに伝波し、家中の武士、夜廻りの者、若党、仲間などが獲物を携え、ここの一画を包囲して、陣十郎を狩り立てた。


 向こうでも人声がし、こちらでも人声がした。疑心暗鬼から味方同志を、敵と間違え声を上げたり、「居たぞ」と叫んで追って行き、それが知り合いの同僚だったので、ドッと笑う声がした。
 いつの間にか敵は一人ではなく、大勢であるように誤伝されたらしく、あそこの露路に五人居ましたぞ、勘兵衛殿のお長屋の塀に添って、三人抜刀して居りましたぞなどと、不安そうに云い合ったりした。
 辻を人影の走って行くのが見えたり、屋敷の庭の松の木などに登って、様子を窺っている人影なども見えた。
 と一つの人影が、月光を避けて家の塀の陰を、それからそれと伝わって、この一画から遁れ出て、下谷《したや》の方へ行こうとするらしく、ぞろぞろと歩いて行くのが見えた。
 ほかならぬ水品陣十郎であった。
 髻《もとどり》が千切れてバラバラになった髪を、かき上げもせず額にかけ、庄右衛門を切った血刀を、袖の下へ隠しながら、跣足《はだし》のままで歩いていた。
 辻を左へ曲がった途端、
「出た――」
「やれ!」
 剣光! 足音!
 五人の武士が殺到して来た。
「…………」
 無言でサ――ッ。
「ギャ――ッ」
「ワッ」
 仆れた。
 生死は知らず二人の武士は仆れ、三人の武士は一散に逃げた。
 そうしてここの地点から、陣十郎の姿も消えていて、霜の下りたような月光の中に、のたうっている二人の負傷者《ておい》が、地面を延びつ縮みつしていた。
 中山右近次と伊丹佐重郎、その両家に挟まれた、黒《くろ》い細い露路の中を、この頃陣十郎は歩いていた。
 さすがの彼も疲労したらしく、時々よろめいたり立ち止まったりした。
 丁字形の辻へ出た。
 左右前後をうかがってから、右の方へ歩いて行った。
 と、一人の夜廻りらしい男が、六尺棒をひっさげて、石材の積んである暗い陰から、鷺足をして忍び出て、陣十郎の後を追った。
 足を払おうとしたのであろう、そろそろと六尺棒を横に構え、膝を折り敷くとヒュ――ッと、一揮! 瞬間にもう一つの人影が、これは材木の立てかけてある陰から、小鬼のように躍り出た。
「ワッ」
 クルクルと六尺棒が、宙に刎ね上って旋回し、夜廻りは足を空にして、丸太のようにぶっ仆れた。
 陣十郎ははじめて驚き、前へ二間ほど速《そく》に飛び、そこでヒラリと振り返って見た。
 一人の男が地に仆れてい、その傍らに一人の女が、血にぬれた匕首《あいくち》を片手に持ち、片手で衣装の裾をかかげ、月光に白々と顔を浮かせ、その顔を気味悪く微笑させ、陣十郎の方を見詰めていた。
「陣十郎さん、あぶなかったねえ」
「誰だ。……や、貴様はお妻」
「情婦《いろ》を忘れちゃ仕方がないよ」
「うむ。……しかし……どうしたんだ」
「そいつアこっちで云うことさ。……一体こいつアどうしたんだえ」
「どうしたと云って……やり損なったのよ」
「そうらしいね、そうらしいよ。……それにしてもヤキが廻ったねえ」

10
「ヤキが廻ったと、莫迦を云うな、人間時々しくじることもある。……それはそうとお前はどうして?」
「ここへ来たかというのかえ。……下谷の常磐《ときわ》で待ち合わそうと、お前と約束はしたけれど、気になったので見に来ると……」
「この騒動で驚いたか」
「それで物陰にかくれていると、この夜廻りが六尺棒でお前の足を払おうとしたので……」
「飛び出してグッサリ横ッ腹をか」
「とんだ殺生をしてしまったのさ」
「お蔭で俺は助かった」
「わたしゃアお前の命の恩人、これから粗末にしなさんな」
「と早速恩にかけか」
「かけてもよかろう礼を云いな」
「いずれゆっくりと云うとしよう」
「そのゆっくりが不可《いけ》ないねえ」
「そうだ、ゆっくりは禁物だ。……どうともして早くここを遁れ。……しかし八方取りまかれてしまった」
「いいことがある、姿を変えな」
「姿を変えろ? どうするのだ?」
「夜廻りの野郎の衣装を剥ぎ……」
「成程こいつア妙案だ」
 物陰にズルズルと夜廻りの躰を、陣十郎は引っ込んで、自分も物陰へ隠れたが、出て来た時には陣十郎の姿は、武士から夜廻りに変わっていた。大小は脇腹へ呑んだと見え、鍔の形だけふくらんで見えた。
「さてこうやって頬冠りをし、お前という女と手を取り合ったら、ドサクサまぎれの駈落者と、こう見られまいものでもないの」
「あたしゃアちょっと役不足さ」
「贅を云うな。……さあ行こう」
 歩き出したところへ四五人の武士が、警《いまし》め合いながら近寄って来た。
「待て」
「へい」
「何者だ」
「ごらんの通りで……お見遁しを」
「うふ、そうか、おっこち[#「おっこち」に傍点]同志か」
「へい」
「行け」
「ごめんなすって」
「これ、待て待て」
「何でございます」
「物騒な殺人者《ひとごろし》が立ち廻っているぞ。用心をして行くがいい」
「――へい、ご親切に、ありがたいことで。……」

 三月が経ち初秋となった。
 甲州方面から武州へ入るには、大菩薩峠を越し丹波川に添い、青梅《おうめ》から扇町谷《おおぎまちや》、高萩村《たかはぎむら》から阪戸宿《さかどじゅく》、高阪宿と辿って行くのをもって、まず順当としてよかった。
 この道筋を辿りながら、一人の若い武士と一人の娘とが、旅やつれしながら歩いていた。
 鴫澤主水《しぎさわもんど》と澄江《すみえ》とであった。
 父の敵水品陣十郎を目つけ、討ち取って復讐しようという、敵討ちの旅なのであった。
 主水と陣十郎との関係は?
 従々兄弟《またいとこ》という薄いものであって、あの時からおおよそ三カ月ほど前に、飄然と鴫澤家へ訪ねて来て話を聞いて見れば、成程そんな親戚もあったと、ようやく記憶に甦えったくらいで、世話する義理などないのであったが、寛大で慈悲深い庄右衛門は、そういうことにはこだわらず[#「こだわらず」に傍点]、陣十郎の懇願にまかせ、家へ寄食させて世話を見てやった。

敵討の旅


 これが大変悪かった。
 はじめのうちは陣十郎も、猫を冠って神妙にしていたが、次第に本性を現わして、出ては飲み、飲んでは酔って帰り、酔って帰っては武芸の自慢をし、庄右衛門や主水の剣法を、児戯に等しいと嘲ったり、不頼漢《ならずもの》らしい風儀の悪い男女をしげしげ邸へ出入させたり、そのうち娘の澄江に対して横恋慕の魔手を出しはじめた。
 澄江は庄右衛門の実の娘ではなく、一人子の主水と配妻《めあ》わす目的で、幼児から養って来た娘であり、この頃庄右衛門は隠居届けを出し、主水と澄江とを婚礼させ、主水を代わりに御前へ出そうと、心組んでいた折柄だったので、陣十郎の横恋慕は、家内一般から顰蹙された。
 自然冷遇されるようになった。
 冷遇されるに従って、いよいよ陣十郎は柄を悪くし、ますます庄右衛門や主水の剣法を、口穢く罵った。そこでとうとう腹に据えかね、あの日庄右衛門は庭へ下り立ち、陣十郎と立ち合った。立ち合って見て庄右衛門は、広言以上に陣十郎の剣法が、物凄いものであることを知り、内心胆を冷やしたが、娘の澄江が仲に入ったため、意外にも陣十郎から勝を譲られた。しかし庄右衛門は考えた。この恐るべき悪剣法者を、このまま屋敷にとめ置いては、我家のためになるまいと。そこでその日茶を飲みながら、それとなく退去を命じてしまった。
 これが陣十郎の身にこたえた。
 彼としては勝をゆずったのであるから、今後は厚遇されるであろう、そうして勝をゆずったのは、澄江が出現したからで、澄江のためにゆずったのである。だから今後はおそらく澄江も、自分に好意を持つだろうと、そんなように考えていたところ、事は全然反対となった。
 そこで小人の退怨《さかうらみ》! そういう次第ならと悪心を亢ぶらせ、翌夜不意に庄右衛門を襲い、寝所でこれを切り斃し、悲鳴に驚いて出て来た澄江を、得たりとばかりに引っ抱え、これも物音に驚いて、出て来た主水をあしらいあしらい、戸外《そと》へ走り出て遁れようとした。
 と、意外な助太刀が出た。
 秋山要介や浪之助であった。
 そこで澄江を手放したあげく、身を持て遁れ行方《ゆくえ》不明となった。
 こうなって見れば主水としては、なすべき事は一つしかなかった。
 敵討《かたきうち》!
 そう、これだけであった。
 父の葬式《そうしき》を出してしまうと、すぐに敵討のお許しを乞うた。
「よく仕《つかまつ》れ」と闊達豪放の主君、榊原式部少輔《さかきばらしきぶしょうゆう》様は早速に許し、浪人中も特別を以て、庄右衛門従来の知行高を、主水に取らせるという有難き御諚、首尾よく本望遂げた上は、家督相続知行安堵という添言葉さえ賜った。
「お兄様|妾《わたくし》も是非にお供を」
 いよいよ旅へ出るという間際になって、こう澄江が云い出した。
「お父上が陣十郎に討たれました。その原因の一半は、妾にあるのでござりますから」
 こう澄江は主張するのであった。
「女を連れての敵討の旅、それはなるまい」と主水は拒んだ。
「主君への聞こえ、藩中の思惑、柔弱らしくて心苦しい」
 こう云って主水は承知しなかった。
「宮城野《みやぎの》、しのぶ[#「しのぶ」に傍点]は女ばかり、姉妹《きょうだい》二人で父の敵を、討ち取ったではござりませぬか」


 だから私達兄妹二人で、父の敵を討ち取ったところで、不思議はないというのであった。
 そういう澄江の心の中には、自分達二人は許婚《いいなずけ》である、良人《おっと》となるべき主水が旅へ出、敵を捜索するとなれば、幾年かかるかわからない、その間寂しい家に籠って、イライラして帰りを待っているより、自分も未熟とはいいながら、田宮流小太刀の教授を受け、その方では目録を取っている、まんざら迷惑の足手まといとはなるまい、その上殺されたお父様は、義理深い養父であり、かつは舅父《しゅうと》となる人であった、実の父親へ尽くすよりも、もっと尽くさなければならないお方だ、そのお方が一半は妾のために、あのような御最期をお遂げになった、どうでも自分としては敵を討ちたい、それにお母様は数年前に死なれ、残って孝養する必要はない、かたがたどうでも主水と一緒に、旅へ出たいという考えが、濃く強くあるのであった。
 主水としても拒絶はしたものの、実は一緒に旅へ出てもよい、なろうことなら一緒に行きたいと、そう思っているのであった。行く行くは夫婦になる二人である、その一人を家へ残して置いて、帰期の知れない旅へ出る、幸い敵に巡り合っても、返り討ちにならないものでもない、そういう旅へ出て行くことは、心にかかる限りである。二人一緒に行ったなら、苦しい時にも悲しい時にも、分け合って慰め合えるではないか。足手まといになるどころか、妹は小太刀ではかなりの使い手、現にあの夜あんな場合に、簪を抜いて男の急所、陣十郎の足の甲を突いて、急難を免がれたほどである。敵陣十郎はどうかというに、甲源一刀流では剣鬼のような使い手、自分のように新影流で、ようやく仮免許を受けたような者とは、段違いの名人である。自分一人では討つに難い、せめて妹が側《そば》にあれば――だから一緒に旅に行きたい、そう願っているのであったが、一藩の者からうしろ指をさされ、あれ見よ鴫澤主水こそは、親の敵を一人では討てず、女手を借りたわと云われることが、心外なことに思われて、断行することが出来なくなったのであった。
「主君《との》の内意をお伺いして」
 よし[#「よし」に傍点]と云ったら連れて行こう。こう不図《ふと》主水は考えつき、上役を介して伺いを立てた。
 と、主君が仰せられた。
「親の敵を二人の子が討つ、しかも一人は女とのこと、健気である。仕《つかまつ》れ。聞けば澄江は小太刀を使うとのこと、足手まといなどにはならぬであろう」
 さらに奥方よりは澄江に対して、守袋と金一封をさえ、使者《つかい》を以て下された。
 上々吉の首尾であった。
 こうして二人は旅へ出た。
 先ず甲州へ出かけて行った。
 と云うのは陣十郎は寄食している間、過去に悪事でも犯しているためか、その過去について語ろうとせず、訊いても言葉を濁らせて、真相《まこと》らしいことは云わなかったが、しかし鴫澤家に寄食する直前、甲州辺りの博徒の家に、賭場防ぎ即ち用心棒として、世話になっていたということを、問わず語りに語ったことがあった。
 雲を掴むような洵《まこと》にあやふや[#「あやふや」に傍点]な、あて[#「あて」に傍点]にならないあて[#「あて」に傍点]であったが、その他には探すあて[#「あて」に傍点]が無かったので、二人――主水と澄江との二人は、ともかくも甲州へ行くことにした。
 さて甲州へ行って尋ねたところ、栗原宿の博徒の親分、紋兵衛という老人が、二人にとってはかなり為になる、耳寄の話を話してくれた。


「お妻とかいう変な女を連れて、水品先生には三月ほど前に、たしかにこの地へ参られましたが、何と思ったか武州方面へ向け、すぐに出発なさいましたよ。あの人とくると武州方面にも、贔屓にしている親分さんが、相当たくさんありますし、あの人の剣術の先生という人が、有名な小川の逸見《へんみ》多四郎様なので、旁々《かたがた》あちらへ参られたのでしょうよ」
 これが紋兵衛の言葉であった。
(甲源一刀流では宗家ともいうべき、逸見多四郎先生が、さては陣十郎の師匠だったのか)
 そう思って主水はヒヤリとした。
(ではその逸見先生の屋敷に、ひそかにかくまわれ[#「かくまわれ」に傍点]ているかもしれない)
 そこで主水と澄江の二人は、武州をさして旅をつづけ、今や上尾宿《あげおしゅく》まで来たのであった。
 江戸はほんの眼の先にあり、自分の屋敷も眼の先にあったが、敵の居場所さえ突き止めない先に、まさか屋敷へも立寄られない。こう思って二人は江戸入りさえ避けて、すぐに上尾宿へ来たのであった。
「お早いお着きで。……いらっしゃいまし」
 女中に案内されて上ったのは桔梗屋という旅籠屋《はたごや》であった。
 逸見家のある小川宿へ向け、実はすぐにも行きたいのであったが、うかうか行って陣十郎のためにもしも姿を見付けられたら、返り討ちに逢わないものでもないと、そんなように心配もされたので、まだ日は相当高かったが、この宿へ足を止めたのであった。
 往来に向いた部屋へ通された。
 旅装を解いて先ずくつろぎ、出された茶で口を濡らしている時、
「馬大尽がお通りになる」と口々に囃す声が聞こえてきた。
(馬大尽とは何だろう?)
 こう思って主水は障子を開け、――部屋は二階にあったので、欄干越しに往来を見た。
 一挺の駕籠《かご》を取り巻いて、博徒らしい五人の荒くれ男と、博労らしい四人の男とが、傍若無人に肩で風切り、往来の左右に佇んで、一種怖そうに一種好奇的に、この一団を眺めながら、噂している宿の人々の前を、東の方へ通って行くのが見られた。
 と、その中に深編笠をかむり、黒塗りの大小を閂《かんぬき》に差し、無紋の羽織を一着した、浪人らしい一人の武士が、警護するように駕籠に引添い、悠々とした足どりで歩いていた。
(はてな?)と主水は眼を見張った。
(陣十郎に似ているようだが?)
 笠をかむっているので顔は見えず、そう思った時には通り過ぎていて、背後《うしろ》姿しか見えなかったので、確めることは出来なかったが、気にかかってならなかった。
「澄江、おいで、あれをご覧」
「はい、何でございますか」
 脱ぎすてた衣装を畳んでいた澄江は、そう云い云い立って来た。
「あれをご覧、あそこへ行く武士を。……あ、いけない、曲がってしまった」
 さよう、その時その一団は、行手にあった四辻を、左の方へ曲がってしまった。
「お兄様、何なのでございますか?」
「わしの眼違いかも知れないが、陣十郎に似た浪人らしい武士が……」
「まあ」と澄江は眼を据えた。


「通って行ったとおっしゃいますので?」
「博徒と博労らしい一団が、駕籠を護って通って行ったが、その中にその武士がまじっていたのだ」
「ではちょっとわたしが行って、陣十郎かそうでないかを……」
「待て待て」と立ち上る澄江を制し、主水は思慮深く考え考え、
「陣十郎も敵待つ身、油断があろうとは思われぬ。あべこべに其方《そち》の姿を見付け、悪剣を揮わぬとも限らない。……もし彼がまこと陣十郎としても、見受けたところ博徒の輩の、賭場防ぎの用心棒として、住み付いている身の上らしく、さすれば今日や明日の中に、この地を去るものとも思われない。……馬大尽とは何者か、先刻《さっき》の一団は何者か、その辺りのことから十分に探って、その上で事に取りかかった方が、安全のように思われる」
 こう云って澄江を動かさなかった。
 夕食の膳の引かれた頃、番頭が挨拶に顔を出した。
「ちと物をたずねたいが」主水は早速話しかけた。
「へい、何でございますか」
「馬大尽とは何者かな?」
「馬大尽でございますか」
「馬大尽じゃと囃されて行った様だが、彼は一体何者かな?」
「木曽の大金持でございます」
「木曽の金持? 信州木曽のか?」
「へい左様でございます。信州木曽谷福島宿の奥所、西野郷に住居いたします。馬持大尽様にございます」
「馬持大尽? ははあ馬持の?」
「五百頭どころか一千頭にも及ぶ、たくさんの木曽駒《きそごま》をお持ちになって居られる、大金持の旦那様なので……お駕籠に乗って居られましたのが、その旦那様なのでございます」
「馬持の大尽様だから馬大尽?」
「へい、さようでございます」
「訳を聞いてみると不思議ではないな」
「へい、さようでございますとも」
「博徒風の男が五人ばかり、駕籠に附き添って行ったようだが……」
「高萩村の猪之松親分から、迎え出ました乾分《こぶん》衆で」
「高萩の猪之松? 博徒の頭か?」
「へい左様でございます。……赤尾村の林蔵親分か、高萩村の猪之松親分かと、並び称され居ります大親分で」
「それにしても木曽の馬大尽が、武州の博徒などと親しいとは?」
「それには訳がございます。……ご承知のこととは存じますが、木曽福島には毎年|半夏至《はんげし》の候、大馬市がございまして、諸国から馬持や博労が集まり、いくらとも知れないたくさんの馬の、売買や交換が行なわれ、大賑《おおにぎわ》いをいたします」
「木曽の馬市なら存じて居る。日本的に有名じゃ」
「荒っぽい大金の遣り取りが行なわれますのでございます」
「もちろんそれはそうだろうな」
「そこを目掛けて諸国の親分衆が、身内や乾児衆を大勢引連れ、千両箱や駒箱を担ぎ、景気よく乗り込んで行きまして、各自《めいめい》の持場に小屋掛けをしまして、大きな盆を敷きますので」
「つまり何だな博奕をやるのだな」
「へい左様でございます。その豪勢さ景気よさ、大相もないそうでございます」


「賭場をひらくとは怪しからんではないか」
「などと仰せられても福島の賭場、甲州|身延山御会式賭場《みのぶさんおんえしきとば》と一緒に、日本における二大賭場と申し天下御免なのでございますよ」
「ふうんそうか、豪勢なものだな」
「本名は井上嘉門様、西野郷の馬大尽様が、この馬市《うまいち》でお儲けになる金高、大変もないそうでございます」
「云わずと知れた、そうだろうな」
「そこで親分方の乾分衆が、押しかけて行って無心をなさる」
「成程な、有りそうなことだ」
「それを一々嘉門様には、お取り上げなされてご合力なさる」
「感心だな。金があるからだろうが」
「親分方といたしましても、見て見ぬふりも出来ませんので、お訪ねをしてお礼を云う」
「義理堅い手合だ、そうだろう」
「嘉門様には一々逢われて、丁寧にご会釈なさるそうで」
「金持には珍しい心掛けだな」
「そこで諸国の親分衆と、嘉門様とはそんな関係から、ずっと永らく交際して居られ、嘉門様が旅などなさいますと、その土地々々の親分衆が、争って歓待なさいますそうで」
「ははあそうか、よく解った」
「高萩村の猪之松親分とは、心が合うとでも申しましょうか、わけても親しいご交際だそうで、馬市が終えると大金を持たれ、毎年のようにこの土地へ参られ、猪之松親分をお相手にして、上尾の宿がひっくり返るほどの、多々羅遊びをなさいます」
「フーンそうか、豪勢なもんだな」
「と云いましても抜目は無く、武州には小金井の牧場があり、牧馬や、牧牛が盛んでありますから、その間に牧主や博労衆などと、来年の馬市の交渉などを、なさいますそうでございます」
「それはまあそうだろう」
「多々羅遊びをなさいまして、上尾の宿を潤しますので、馬大尽がおいでになったと聞くと、宿の人達は大喜びで、お祭のようにはしゃぎ[#「はしゃぎ」に傍点]ます」
「ところで馬大尽の同勢の中に、浪人風の武士がいたが、あれは一体何者かな?」
「用心棒でございますよ、猪之松親分の賭場防ぎの」
「で、何という姓名の者か?」
「さあ何と申しますやら、ああいう浪人衆は一人や二人でなく、猪之松親分の手許などには、五人六人と居りまして、居たかと思うと行ってしまい、行ったかと思うと新しいのが来る。いつもいつも変わりますので」
 知りたいと思った肝心のことが、これでは一向知れなかった。主水《もんど》も澄江《すみえ》も失望したが、とにかく明朝宿を立ち、高萩へ行って猪之松親分を探り、さっきの武士が陣十郎か否か、確かめて見ようと決心した。

 ちょうどこの夜のことであった。
 高萩の猪之松と張り合っている、赤尾の林蔵は乾児の藤作や、杉浪之助と連れ立って、広谷ヶ原の賭場を抜け出し、野良路をかなり不機嫌そうに、上尾宿の方へ歩いていた。
 思うように賭場に人が寄らず、自然テラの薄いのが、彼の不機嫌の原因であり、人寄りの悪いのは猪之松のためだと、そう思ってひどく不機嫌なのであった。
(これまで来てくれた客人さえ、どうやらこの頃は俺を見切って、猪之松の賭場へ行くらしい)
 これが心外でならなかった。

今牛若と小天狗


 武州入間|郡《ごおり》赤尾村に、磯五郎という目明《めあかし》があり、同時に賭場を開いていて、大勢の乾児《こぶん》を養っていた。いわゆる二足の草鞋《わらじ》であって、渡世人からは卑怯であるとして、とかく悪口を云われるものであるが磯五郎ばかりは評判がよかった。それは人間が出来ているからであった。もう五十歳をいくつか出て元気も衰えたところから、御用の方は聞いていたが、賭場や乾児の世話などは、倅《せがれ》に委かせて隠居していた。
 その倅が林蔵であった。
 この頃林蔵は二十八歳、小兵ではあったが、精悍無類、それに大胆で細心で、父に勝る器量人、剣は父の磯五郎共々、秋山要介正勝に従いて学び、免許以上に達している。今牛若と綽名され、若親分として威望隆々、武州有数の大貸元であった。
 ところが入間郡と境を接する、高麗郡の高萩村に、猪之松という貸元があり、この頃年三十一歳、小川宿の逸見《へんみ》多四郎に[#「逸見《へんみ》多四郎に」は底本では「逸身《へんみ》多四郎に」]従《つ》いて、甲源一刀流の極意を極め、小天狗という綽名を受け、中年から貸元になり、博奕にかけてはほんの素人、それでいてひどく人気があり、僅かの間に勢力を延ばし、林蔵の大切な縄張りをさえ犯し、どっちかといえば現在においては、貫祿からも人気からも、林蔵以上と称されていた。
 そこで両雄並び立たず、面と向うと何気無い顔で、時候の挨拶から世間話、尋常の交際《つきあい》はしていたが、腹の中では機会《おり》があったら、蹴込んでやろうと思っていた。
 野良路には露があり、それが冷々と足を濡らした。
「杉さん、賭場をどうお思いかね?」
 並んで歩いている浪之助へ、こう林蔵は声をかけた。
「今日はじめて見た賭博の場、いや洵に愉快だった」
 ほんとに浪之助は愉快そうに云った。
「一瞬間に勝負がつき、突嗟に金銭が授受される。……息詰まるような客人の態度。……細心な中盆の壺の振り方。……万事が真剣で緊張していて、見ていても自ずと力が入る。……」
「アッハハ大変ですねえ、お侍さんだけに渡世人と異《ちが》って、物の見方が面白いや。……まあどうかあんなものへは、決してお手を出しませんように」
「いやわし[#「わし」に傍点]はやるつもりだ。今日ははじめてのことであり、駒の張り方さえ解らなったが、一日の見学でよく解った。この次からはわし[#「わし」に傍点]も張るつもりだ」
「いけませんよ杉さん、そいつは不可《いけ》ない。あいつに手を出して味を覚えると、一生涯やめられません。……やればやるほど深みへ入り、財を失い人を悪くし、碌《ろく》なことにはなりません」
「だろうとわし[#「わし」に傍点]も思っている。だからわしはやろうというのだ」
「へー、そいつア変ですねえ」
「わし[#「わし」に傍点]には物事が退屈なのだ。そこで何かしら退屈でない、全身でぶつかって行けるような物に、ぶつかりたいものと思っていたのだ。……博奕、いや結構なものだ。……当分こいつにぶつかって行くつもりで」
「呆れましたな、とんでもない話だ。……秋山先生に知れようものなら、あっしゃアこっぴどく[#「こっぴどく」に傍点]叱られますよ。……お連れしなけりゃアよかったっけ」
「先生に知れちゃア面白くない、こいつは秘密にして置くんだね」と浪之助はこう云うとクスクスと笑った。


 秋山要介や源女などと、浪之助がこの地へやって来て、林蔵の家へ止宿したのは、半月ほど前であった。
 あんな事件から親しくなり、浪之助はその後要介方へ出入りし、武術の話を聞かして貰ったり、新影流の教えを受けたりした。
 ある日行くと要介が云った。
「源女殿を連れて秩父地方に参る。よろしかったら貴殿もご同道なされ」と。
「秩父地方に何か用でも?」
「旨《うま》くゆくと大金を掘りあて、まずく行っても変わったことを、いろいろ経験しましょうよ」
 こう云って要介は意味ありそうに笑った。
「源女をお連れなさいますのは?」
「あの婦人《おんな》が――いや、あの婦人の歌が、秩父行きの原因でな。……秩父の郡《こおり》小川村逸見様庭の桧の根、昔は在ったということじゃ。――と云うあの婦人のうたう歌が」
 いよいよ意味ありそうに要介は云った。
 もっと詳しく聞きたいものと、そう浪之助は思ったが、それ以上要介が話さなかったので、いずれ聞くとして要介達と一緒に、そうした旅へ出て行ったら、無聊に苦しんでいる自分にとっては、面白かろうとそう思い、浪之助は一緒に行くことにした。
 旅へ出ると何と要介は、すぐこの地へやって来て、林蔵方へ止宿してしまった。
 が、何か画策しているらしく、一人でブラリと家を出て、二三日帰って来ないかと思えば、源女を連れて出かけて行って、やはり二日でも三日でも、帰って来ないようなことがあった。
 林蔵の家へ来てからの浪之助は、決して退屈しなかった。博徒、侠客、貸元などと呼ばれる、この人間の社会生活が、珍らしく痛快であるからであった。義理人情を旨として、行《や》ることといえば博奕であり、それで生活を立てている。勢力争い――縄張争い、こいつがコジレルと血の雨を降らす。親分乾児の関係が、武士の君臣関係より、もっと厳重で頼母《たのも》しい。巧言令色、追従などという、そういういやらしい[#「いやらしい」に傍点]ことが行なわれず、生一本で正直だ。
 これが浪之助を喜ばせたのであった。
(俺も博奕をやってみようかな)
 そんなことを思ってそう思ったことを、こっそり乾児へ云ったことがあった。
「親分に堅く云われて居るんで、杉さんに張らせちゃアならねえって」
 こう云って乾児達は相手にしなかった。
 これだけが浪之助には心外であった。
 とうと浪之助は我慢しきれず、一度でいいから賭場を見せてくれと、今日林蔵へ押して頼んだ。
「仕方がないねえ」と云いながらも、断わりきれず浪之助を連れて、林蔵は自分の賭場の一つ、広谷ヶ原へ出かけて行き、今はそれの帰りなのであった。
 三人は野良路を歩いて行く。
「親分これからどうなさいます?」
 乾児の藤作が声をかけた。
「杉さんにもつきあって[#「つきあって」に傍点]貰って、山城屋へ行って遊ぶとしようぜ」
「そう来なくちゃアならねえところさ。第一お山《やま》さんが大喜びだ」


 上尾宿一番の遊女屋山城屋、その前までやって来たが、見れば表が閉ざされていた。
 それでいて屋内からは賑かな、男女の声が聞こえてきた。
「親分どうも変ですねえ、表を閉じて遊ぶなんて、まず余っ程の大尽でなけりゃア、当今やるこっちゃありませんぜ」
 藤作はいくらかムカッ腹で云った。
「そうさ、こいつ[#「こいつ」に傍点]アちょっと変だ」
 林蔵もいくらか怪訝そうに云った。
「戸をどやしつけてみましょうか」
「そうさな、ひとつひっ叩いてみねえ」
 そこで藤作は戸を叩いた。
「へ――い、どなたでございますかな、今晩は都合で閉めましたんで。お馴染様であろうとご一現様であろうと、お断わりすることになってますんで」
 若衆《わかいしゅう》であろう潜戸の向こうで、こう素っ気なく挨拶をした。
「親分あれをお聞きですか、お馴染様であろうとご一現様であろうと、お断わりすると云っています」
「うむ、どうも仕方がねえな。ともかくももう一度俺の名を明かして、その若衆に掛合ってみな」
「へい、よろしゅうございます。……おいおい若衆、他でもねえが、赤尾の親分を知っているだろうな。お前のところのお山さんとは、切っても切れねえ仲だってこともよ。今年の暮ごろには受出してよ、黒板塀に見越の松、囲うってことも知ってなけりゃア嘘だ。その林蔵親分がな、ここにおいでなすっているのだ。ヤイこれでも戸をあけねえか」
「へい、さようでございましたか、赤尾のお貸元さんでございましたか。……野郎とうとう来やがったな」
「え、何だって、何て云ったんだい?」
「いいえ何にも云やアしません。……ええどうも困りましたな。いつもでしたら家中総出で、お迎えするんでございますが、何しろ今晩は馬大尽様が、そのお山さんを相方にして、しかも家を総仕舞いにして、誰もあげるなと有仰《おっしゃ》って……」
 その時林蔵が声をかけた。
「それじゃア何かいお山の客は、木曽の馬大尽|井上嘉門《いのうえかもん》様か?」
「へい、さようでございます」
「それじゃアどうも仕方がねえ。そうそうそう云えば井上大尽が、今日この土地へ来られたってこと人の噂で聞いたっけ。此方俺《こちとら》も随分ご厄介になった方だ。……いやそれなら結構だ。そういうお方に可愛がられたとあっては、かえってお山に箔がつく、いやそれなら結構だ。……杉さん、藤作、じゃア行こう。……笹屋へでも行って飲み明かそうぜ」
 三人は山城屋の門《かど》から離れ、五町ほど離れたこれも遊女屋の、笹屋というのへ乗り込んだ。
 三人|各自《めいめい》寝についた。
 夜中に林蔵は眼をさまし、用を達《た》すため部屋を出た。
 内緒の前まで来た時である、
「林蔵親分はお気の毒な……」という、笹屋の主人の声が聞こえた。
(はてな?)と林蔵は足を止めた。
「林蔵親分はお気の毒な、お山さんの心の変わったのも知らず、高萩の親分の来ているのを、馬大尽だと嘘を云われても、真に受けてこんな俺らの所へなんか、穏しくおいでなさるんだからなあ」


 答える内儀《おかみ》の声が聞こえた。
「お山という女の性悪には、妾《わたし》も驚いてしまいました。馬を牛に乗り換えるもいいが、日頃お二人さんの張合っているのを、百も二百も承知の上で、林蔵親分を袖にして、猪之松親分へ血道をあげ、狎《な》れつくとは性悪の骨張だよ」
 林蔵は内緒の前を離れ、用を達すと裏梯子から、自分の部屋へ返って来た。
 お山へ義理を立てるために、女を寝かしてはいなかった。
 布団の上に胡座《あぐら》を組み、黙然として考え込んだ。
(お山はどうせ宿場女郎、売物買物で仕方ねえが、高萩の猪之松は顔役だ。四百五百の乾児共から、立てられている男じゃアねえか。俺とお山との関係を、知らねえこともねえはずだ。それでいて俺の女を取る。まあまあそれも仕方ねえとして、井上大尽だと偽って、俺の遊びの邪魔をするとは、男の風上にも置けねえ奴。……そうでなくてさえ俺と彼奴《きゃつ》とは、早晩腕づくで争わなけりゃアならねえ。そういう立場に立っている。ヨーシそれではこの機会に……)
 折柄三番鶏の啼声がし、夜がそろそろ明けかけた。
(よし)と林蔵は立ち上り、身仕度をすると階下に下りた。
 寝ずの番の若衆が土間にいたが。
「これは親分、もうお帰りで」
「うん、わしは、これから帰るが、連れの二人はまだ寝ている、起こさずにそのままにして置いてくれ」
「へい、よろしゅうございます」
 潜戸から林蔵は外へ出た。
 暁の霧が立っていて、宿の家々は薄れてい、往来を歩く人影も少なく、家々の戸はとざされていた。林蔵は朝風に鬢を吹かせ、寝臭くなっている躰の汗を一度に肌から引き込ませ、足早に往来を歩いて行った。宿を出ると街道で、野良が四方に展《ひら》けてい、林や森や耕地があった。左へ行けば赤尾村、右へ行けば高萩村、双方へ行ける分岐点、そこに六地蔵が立っていて、木立がこんもり茂っていた。そこまで行くと立ち止まり、林蔵はしばらく考えたが、やがて木立の陰へ隠れた。
 次第に時が経って行く。
 やがて空が水色に色づき、それが次第に紅味《あかみ》ざし、小鳥が八方で啼き出した。
 と、その時上尾宿の方から、七人の人影が現われて、街道をこっちへ歩いて来た。
 高萩の猪之松の一行であった。
 三十一歳の猪之松は、色白で大兵で、品の備わった立派な男で、博徒などとは見えなかった。高い太い鼻は凜々しかったが、小さい薄い唇は、子供のように初々しく、女などにはどうにも愛されそうであった。結城《ゆうき》の衣装に博多《はかた》の帯、鮫鞘《さめざや》の長脇差を差している。
 後の五人は乾児であり、もう一人は浪人らしい武士であった。
 馬大尽井上嘉門を、乾児達へ出迎えさせ、定宿明石屋へ送り届け、自分も行って挨拶をし、上尾へ出て来たついでとあって、乾児を連れて山城屋へ行き、この頃深間になったお山を揚げ、一夜遊んでの帰途であった。
 六地蔵の前までやって来た時、木陰から林蔵が現われた。


「高萩の、ちょっと待ってくれ」
 林蔵は正面から声をかけた。
「おお、これは赤尾のか、どうして今頃こんな所に?」
 猪之松はちょっと驚いたように、足を止めてそう云った。
「何さ昨夜《ゆうべ》上尾へ行って、陽気に騒ごうと思ったところ、馬大尽が山城屋に来ていて、表を閉めての多々羅遊び、そこでこっちはすっかり悄気《しょげ》、つまらねえ所へ上ってしまい、面白くもねえところから、夜の引き明けに飛び出して、野面の景色を見ていたってわけさ。……見ればお前さんも朝帰りらしいが、上尾へでも行ったのかえ」
「うむ」と猪之松は苦い顔をし、当惑らしくそう云ったが、
「実は俺らもその通り、上尾へ行って遊んだが、面白くもねえ待遇を受け、業を湧かしての帰り道さ。いやすっかり懲りてしまった」
「あんまり懲りてもいないようだが……そうしてどこへ上ったのかな?」
「楼《うち》か、楼は、ええと笹屋だ」
「へえ、こいつは面妖だな。俺らの上ったのも笹屋だが、お前さんの噂は聞かなかったぜ」
「はてな、それじゃア違ったかな」
「大違いの真ン中だろう。……まあそんなことはどうでもいい。そこで高萩の相談がある。聞けばお前さんは小川宿の、逸見《へんみ》多四郎先生の、直弟子で素晴らしい手並とのこと、以前から一度立合って、教えを受けたいと思っていた。ここで逢ったは何より幸い、あまり人通りも無さそうだから、迷惑だろうが立合ってくれ」
「ナニ立合え? ……剣術の試合か?」
「それも是非とも真剣で」
「真剣勝負?」
「命の遣り取り!」
「…………」
 猪之松は無言で眼を見張った。
 しかし心では考えた。
(お山との関係を知ったらしい。そのお山だがこっちから手を出し、横取りしたというのではない。向こうからお膳を据えたので、林蔵との関係は知っていたが、そこは売物買物だ。こだわらずに膳を食べたまでだ。とはいえ林蔵の身になってみれば、気持のいいことはあるまいよ。……そんなお山のことばかりでなく、従来縄張りの争いから、気持の悪いことばかりが、双方の間にあったはずだ。そこで林蔵はその葛藤を、今日一気に片付けようと、てい[#「てい」に傍点]のいい真剣の試合に事寄せ、俺を討取ろうとするのだな)
 ただし猪之松は昨夜山城屋が、林蔵に戸閉めをくれた上、馬大尽が来ているなどと、嘘を云ったというようなことは、夢にも知ってはいなかった。というのは山城屋の若衆の、それは勝手のあつかいだったからで。猪之松はあの晩お山の頼みで、総仕舞いをしてやったばかりなのであった。
「どっちみち何時《いつ》かは俺と林蔵とは、命の遣り取りをしなければならねえ、そこ迄の事情に逼っている。と云ったところでこんな往来で、しかもこんな朝っぱらに、試合などに事寄せられて、勝負をするのは気色が悪い、ここは一先ず避けることにしよう」
 林蔵よりは年長であり、思慮も熟している猪之松だったので、そう腹を定めると笑顔を作って云った。


「いかにも俺は逸見《へんみ》先生から、剣術を仕込まれてはいるけれど、聞けばどうしてお前さんこそ、剣道にかけては鬼神と呼ばれる、秋山要介先生から、極意を授かっているとのこと。とても俺など敵いそうもない。まあまあ試合はお預けとしようよ」
「それじゃア何かな……」と林蔵は、少し急き込み進み出た。
「勝負はしねえとこういうのか?」
「そうさ、勝負は、いずれその中、盆蓙《ぼんござ》の上でするとしよう」
「ほほうそれじゃア博奕打は、盆蓙の上で勝ちさえすりゃア真剣勝負には及ばねえと、こうお前さんは云いなさるのか」
「まあそういったところだろう。無職渡世の俺らには、何より賽コロの勝負が大事、刃物三昧は二の次さ」
 猪之松は冷やかに云い放し、口をゆがめて嘲るように笑った。
 林蔵はいよいよ急き立ったが、グッと抑えてこれも嘲笑し、
「そうかお前さんがそういうふうなら、真剣勝負は止めにしよう。がその代り今日これから、高萩の猪之松は渡世に似合わず、刃物を恐れる卑怯者、赤尾林蔵の手並に怯え真剣勝負を拒断《ことわ》ったわと、関東一円触れ廻っても、決して苦情は云うまいぞよ」
 云いすてるとペッと唾を吐き、グルリと猪之松へ背中を向け、街道を赤尾村の方へ歩き出した。
「おい赤尾の、ちょっと待ちな」
 怒った猪之松の声がした。
「用か」と振り返った林蔵の前に、猪之松の抜いた長脇差が、白く真直に突きつけられていた。
「や、とうとう、それでも抜いたか!」
「そうさ、それまでこの猪之松に、真剣勝負を望むなら、俺も男だ引きはしねえ。気持よく相手になろうじゃねえか。……やいやい手前達……」と振返り、乾児達へ声をかけた。
「赤尾のと俺との真剣勝負、手を出しちゃアならねえぞ。もし俺が殺されたら、そうさな骨だけは拾ってくれ。……それから水品先生もだ……」
 こう云うと猪之松は編笠を冠った、浪人武士の方へ顔を向け、
「貴郎《あなた》も助太刀などなされずに、最後まで見ていておくんなせえ」
「心得てござる」と云いながら、その武士はゆるゆると編笠を脱いだ。
 鴫澤庄右衛門を討って取り、甲州へ一旦落ち延びたが、主水が敵討にやって来るであろう、燈台かえって下暗し、それに武州には甲州以上に、親しくしていた博徒があり、身上の治まらぬところから、破門はされたが剣道の師匠、逸見多四郎先生も居られる、かたがた都合がよかろうと、甲州から武州へ引っ返し、以前わけても世話になった高萩村の猪之松方に、賭場防として身を寄せた。それは水品陣十郎であった。
 脱いだ編笠を手に提げて、その陣十郎は立木に背をもたせ、
「お貸元同志の一騎討ち、またと見られぬ真剣勝負、とく[#「とく」に傍点]と拝見いたしましょう。が、もし高萩の親分にもしものことがございましたら、きっと陣十郎林蔵殿を、生かしてお帰しはいたしませぬ」
 云い云い気味悪く白い眼で笑った。


 猪之松が林蔵へ声をかけた。
「さあ乾児どもへも云い聞かせた。横から手出しはさせねえつもりだ。二人だけの太刀打ち勝負、遠慮なくどこからでも切り込んで来なせえ!」
 ピタリと正眼に太刀を構えた。
「さすがは高萩の見上げた態度、それでこそ男だ気持がいいや。……行くぞ――ッ」と叫ぶと赤尾の林蔵は、脇差を抜くとこれも正眼に、ピタリとばかりに引っ構えた。
 新影流と甲源一刀流、相正眼の厳重の構え、水も洩らさぬ身の固め、しばらくの間は位取ったばかりで身動き一つしなかった。
 と、この時上尾の宿から、旅仕度をした一人の武士と、その連れらしい一人の女とが、差し出たばかりの朝日を浴びて、急ぎ足で歩いて来た。
 鴫澤主水《しぎさわもんど》と澄江《すみえ》とであった。
 昨日見かけた編笠の武士が、敵水品陣十郎か否か、それを窃《ひそか》に確かめようと、上尾宿の旅籠桔梗屋を立って、高萩村へ行こうとして、今来かかった途中なのである。
「お兄様あれは?」と澄江は云って不安そうに指を差した。
 博徒風の人間が切り合ってい、数人の者がそれを見ている、そういう光景が行手に在り、鏘然その時一太刀合い、日光に白刃が火のように輝き、直ぐに引かれて又相正眼、二人が数間飛びすさり、動かずなった姿が見られた。
「切り合いだな」と主水は云った。
「博徒同志の切り合いらしい」
「かかりあいなどになりましては、大事持つ身迷惑千万、避けて行くことにいたしましょう」
「それがよかろう」と主水は云った。
「ではその辺りから横へ逸れて……お待ち」と不意に足を止め、主水はじっと一所を見詰めた。
「立木に背《せな》をもたせかけ、切り合いを見ている武士がいる。昨日見かけた編笠の武士だ!」
「まあ」と澄江は声をはずませ、主水へ躰を寄り添わせたが、
「あのお侍さんでございますか。……おお、まさしく水品陣十郎!」
「編笠を脱いだあの横顔、いかさま陣十郎に相違ない! ……妹!」
「お兄様! 天の賜物!」
「とうとう逢えた! さあ用意!」
「あい」と云うと懐中していた、長目の懐刀の紐を解いた。
 尋ねる親の敵の姿を目前にまざまざ見かけたのであった。思慮深い主水もいくらか上気し、敵陣十郎の周囲にいる博徒が、陣十郎に、味方をして、刃向って来ないものでもない、そういうことさえ思慮に入れず、討って取ろうの一心から、妹澄江と肩を並べ、陣十郎に向かって走りかかり、正面に立つと声をかけた。
「珍らしや水品陣十郎、我等兄妹を見忘れはしまい。よくぞ我父庄右衛門を、悪逆無道にも討ち果したな。復讐の念止みがたく、汝《おのれ》を尋ねて旅に出で、日を費すことここに三月、天運叶って汝を見出でた! いざ尋常に勝負に及べ!」

復讐乱闘


 声をかけられて陣十郎は、さすがに狼狽し顔色を変え、背にしている木立から素早く離れ、その木立を前に取り、しばらくは無言で主水兄妹を、幹越しに睨み息を詰めた。
 が、思案が定まったらしい、蒼白であった顔色へ、俄かに赤味を加えたが、
「おお汝らは鴫澤《しぎさわ》兄妹、何の見忘れてよかろうぞ、汝らの父親庄右衛門のために、堪忍ならぬ恥辱を受け、武士の面目討ち果し、立ち退いて来たこの拙者だ、何の見忘れてよかろうぞ。それにもかかわらずこの拙者を、敵呼ばわり片腹痛し、怨みといえば某《それがし》こそ、かえって汝らに持つ身なるわ! ……敵討とな、笑止千万! 逆怨みとは汝らのことよ! ……が、逆怨みしてこの拙者を、討ち取るとあらば討ち取られよう。とはいえ只では討ち取られない。いかにも尋常の勝負してくれよう。その上での命の遣り取り! あべこべに汝ら討って取られるなよ。……やあ高萩の兄弟衆、お聞き及び通りご覧の如く、こやつら二人逆怨みして、拙者を敵と云いがかり、理不尽にも討ち取ろうといたします。拙者は一人相手は二人、日頃の誼《よし》み兄弟分の情、何卒お助太刀下されい」
 卑怯にも黒白を逆に云い做らし[#「云い做らし」は底本では「云ひ做らし」]、思慮の浅い博徒を唆《そそ》り[#「唆《そそ》り」は底本では「唆《そそ》そり」]、主水兄妹を討ち取らせようと、そう陣十郎は誠しやかに叫んだ。
「合点だ、やれ!」と応じたのは猪之松の乾兒《こぶん》の角太郎であった。
「水品先生を敵と狙う! とんでもねえ奴らだ料ッてしまえ!」
「合点だ、やれ!」
「やれやれやれ!」
 八五郎、権六、〆松、峯吉、無法者の四人の乾兒達も、そう叫ぶと脇差を一斉に抜いた。
 親分猪之松と林蔵とが、二人ばかりの果し合いに、今も白刃を構えている[#「構えている」は底本では「構えるている」]、親分の命で手出しが出来ない、謂う所の脾肉の嘆! それを喞っていた折柄であった。切り合う相手が現われた。理非曲直《りひきょくちょく》は二の次である、血を見ることが出来、切り合うことが出来る、これだけでもう満足であった。
「やれやれ!」と喚きをあげながら、主水と澄江とを引っ包み、無二無三に切りかかった。
 主水は驚き怒ったが、妹澄江を背後に囲うと、
「やあ方々理不尽めさるな、我等は主君よりお許しを受け、免状までも頂戴致し、公に復讐に参ったものでござる! 怨敵は水品陣十郎、その陣十郎をお助けなさるとは、伊達衆にも似合わざる無道の振舞、お退き下され、ご見物下され!」
 必死の声でそう叫んだ。
 と、姦物陣十郎は、鷺を烏と云いくるめる侫弁、
「あいや方々|偽《いつわり》でござるぞ、彼らの言葉をお信じ下さるな。免状を持った公の復讐何の何の偽りでござる。こやつら二人父の不覚が、身の破滅となり知行召し上げ、屋敷を放逐されたはず、人の噂で聞き及び居ります。所詮は浪人の窮餘の索、拙者を討ち取ってそれを功に、帰参願おうの手段でござる!」


「そうとさそうとさ!」
「それに相違ねえ」
「何でもいいから料ッてしまえ!」
 角太郎はじめ五人の博徒は、主水兄妹に切りかかった。
 こうなっては問答は無益、切り払って危難をまぬがれ、陣十郎に近寄って、討ち取るより他に策はなかった。
「理非を弁えぬ汝ら博徒、その儀なれば用捨はならぬ、切って切って切りまくり、五ツ屍を積んで見せる……妹よ、澄江よ、背を合わせて……」
「あい」と云うと妹澄江も、血相変えて一所懸命、懐刀逆手に真向に構え、背中を主水の背中に附けた。
「くたばれ、野郎!」とその瞬間、主水目掛けて躍りかかったは、剣法は知らぬが喧嘩には巧みの、切り合いには手練の角太郎であった。
 音! 鏘然、つづいて悲鳴!
 捲き落とされた脇差が、土煙立つ街道に落ち、肩を割られた角太郎が、足を空ざまに宙に上げ、
「切られた――ッ、畜生! ……畜生! 畜生! 畜生!」
 倒れてノタウチ這い廻り、はだけた胸を血で濡らした姿が、悲惨に醜く眺められた。
「ワ――ッ」と博徒どもは一度に退いた。
「妹、つづけ!」とその隙を狙い、開けた人垣から突き進み、陣十郎目掛けて主水は走った。
「陣十郎! 汝《おのれ》! ……尋常に勝負!」
 真向に刀を振り冠り、走り寄られて陣十郎は、既にこの時抜いていた刀を、これは中段に構えながら、主水の凄じい気勢に壓せられ、剣技はほとんど段違いの程度に、自身《おのれ》勝っては居りながら、ジタジタと後へ引き、しばらく姿勢を保ったが、敵わぬと知ったか何たる卑怯! 街道を逸れて耕地の方へ主水へ背を向け走り出した。
「逃がしてなろうか、汝《おのれ》陣十郎! 穢き振舞い、返せ、勝負!」
 主水は罵って後を追った。
 二十間あまりも追ったであろうか、
(妹は?)と気が付き振り返った。
 四人の博徒に取り囲まれ、切りかかる脇差を左右に反《か》わし、脱けつ潜りつしている澄江の姿が、街道の塵埃《ほこり》を通して見られた。
(南無三、妹を死なしてなろうか!)
「澄江ヨ――ッ」と呼ばわり引っ返したが、
「主水勝負!」と陣十郎の声が、刹那背後から聞こえてきた。
「心得たり!」と振り返った主水の、眼前を閃めく白刃の光!
「音!」
 鏘然!
 陣十郎と、はじめて主水は一合した。
 が、次の瞬間には、互いに飛び違い構えたが、敵《かな》わぬと知ったか復《また》も卑怯、陣十郎は走り出した。
「待て、汝、卑怯未練! 逃げようとて逃がそうや!」
 追っかけたが妹が気にかかり。
「澄江ヨ――ッ」と呼ばわり振り返った。


「お兄イ様ア――ッ」と答える澄江の声が聞こえ、つづいてワ――ッという悲鳴が聞こえ、その澄江に突かれたのであろう、一人の博徒が横腹を抑え、街道から耕地へ転がり落ちる姿と、散った博徒の間を突破し、こっちへ走って来る澄江の姿とが見えた。
「妹、見事! ……兄はここじゃ!」
 呼ばわった主水の背後から、
「勝負! 主水! 参るゾッ」という、陣十郎の声が聞こえた。
「参れッ」と叫んで振り返り、途端に日の光を叩き割り、切り込んで来た陣十郎の刀を、鍔際で受けて頭上に捧げ、皮を切らせて敵の肉を切る、入身捨身仏魔《いりみしゃしんぶつま》の剱! それで切り込んだ主水の刀を、何と無雑作に陣十郎は、受けもせず横に払い捨て、刀を引くと身を翻えし、またも一散に走り出した。
 策有って逃げると感付かぬ主水、
「またも逃げるか、未練の陣十郎! 遁さぬ、返せ、父の敵!」
 叫んで追い、追いつつ振り返り、
「妹ヨーッ、ここじゃ、兄はここじゃ! ……待て陣十郎、逃げるとは卑怯……妹ヨーッ」と十間二十間! 既に二町を街道から離れた。
 行手に巨大な薮があり、丘の如くに盛り上っていたが、その裾を巡って走って行く、陣十郎の後を追い、これも薮を向こうへ廻り、振り返っても街道は見えず、妹の姿も見えなくなった時、
「主水」と叫んで陣十郎が、自身《おのれ》と後へ引っ返して来、
「フ、フ、フ、不愍の痴者《しれもの》、ここまで誘き寄せられたか。……誘き寄せようため逃げた拙者、感付かぬとは扨々《さてさて》笑止、が、そこがこっちの付目、人目あっては嬲殺しは出来ぬ、今は二人だ、二人ばかりだ、逃がそうとて拙者は逃げぬ、逃げようとて汝《おのれ》逃がさぬ、薮を盾に人目を遮り、久しく血を吸わぬこの業物《わざもの》に、汝の血を吸わせてやる。……ゆるゆると殺す、次々に切る。……まず最初に右の手、つづいて左の手を切り落とす。つづいて足じゃ、最後に首じゃ! ……前代未聞の返り討ちに、汝逢ったと閻魔の庁で、威張って宣《なの》り[#「宣《なの》り」は底本では「宜《なの》り」]通れるよう、むごたらしく[#「むごたらしく」に傍点]きっと殺してやる! ……さあこの構え、破らば破れッ」
 極悪非道の吸血鬼、変質性の惨虐の本性、今ぞ現わして陣十郎は、甲源一刀流上段の構え、左足を踏み出し太刀を振り冠り、左手の拳、柄頭の下から、憎々しく主水を横平に睨み、鍔際を握った右の手で、からかう[#「からかう」に傍点]ように太刀を揺すぶった。
 勝れた業の恐ろしさよ! 振り冠られた刀身は、凍った電光のそれのように、中段に太刀を付けた主水の全身を、威嚇し圧して動かさなかった。
 八方へ心を配ったあげく、博徒一人をともかく切った。人一人切った心身の疲労《つかれ》、尋常一様のものではない。のみならず敵を追い二町の耕地を、刀を振り振り走って来た。その疲労とて一通りではない。主水は疲労に疲労ていた。そのあげくに向けられた悪剣!
 眩む眼! 勢《はず》む呼吸《いき》!


 博徒|〆松《しめまつ》の横腹を、懐剣で一突き突いて倒し、散った博徒の間を突破し、陣十郎の後を追う、兄主水に追い付こうと、澄江は疲労に疲労た足で、耕地を一散に走ったが、懲りずに追い縋る博徒三人に、又も囲まれ切り込まれた。
「まだ来る気か!」と女ながらも、田宮流の小太刀を使っては、男勝りの手練の女丈夫、しかし獲物は懐剣であった、相手の脇差は受けられない、そこで飛び違い遣り違わせ、機を見て突きつ切りつして、
「お兄イ様ア――ッ」と呼ばわり呼ばわり、主水の後を追おうとした。
 と、気づいて主水の方を見た。
 主水の姿が見えなくなっていた。
 驚き、落胆し、放心しようとした。
 クラクラと眼が廻り、全身の力が一時に脱け、腕が烈しく動悸打ち、眼の先が暗くなった。
 たった先刻《さっき》まで陣十郎を追い追い、自分の名を呼んで力づけてくれた兄! その兄はどこへ行った? 陣十郎のために殺されたか? 広い耕地、飛々にある林……丘、大薮、畦、小川……遥か彼方には秩父連山! ……朝の日が野面にいっぱいに充ち、小鳥が四方に翔けている。……兄の姿も陣十郎の姿も、その野面のどこにも見えない。
「お兄イ様ア――ッ」と呼ばわった。
 木精《こだま》さえ返って来なかった。
 クラクラと眼眩み倒れようとした。
 そうでなくてさえ荒くれ男、数人を相手に闘ったあげく、一人を突いて倒していた。疲労困憊その極にあった。しかも今も切りかかって来ている。そこへ兄であり恋人であり、許婚《いいなずけ》でもある主水の姿が見えなくなってしまったのである。
 恐怖、不安、焦燥、落胆!
 フラフラと倒れかかった。
「くたばれ――ッ」とばかりそこを目掛け、博徒権六が切り込んだ。
 あやうく反わしたが躓《つまず》いて、澄江はドッと地に倒れた。
「しめた」と峯吉が切り下ろした。
 パ――ッ! 倒れた姿のままで、早速の気転土を掬い、澄江は峯吉の顔へ掛けた。
「ワッ」
 よろめき眼を抑え、引いたのに代って八五郎が、
「洒落臭え女郎!」と突いて来た。
 ゴロリ! 逆に八五郎の方へ、寝返りを打って片手を延ばし、八五郎の足の爪先を掴み、柔術の寝業、外へ捻った。
「痛え!」
 悲鳴して倒れた途端に、澄江は飛び起きフラフラと走り、
「お兄イ様ア――ッ」と悲しそうに呼んだ。
 が、これがほとんど最後の、彼女の懸命の努力であった。
 二間あまりも走ったが、不意に立ち止まるとブルブルと顫え、持っていた懐刀をポタリと落とし、あたかも腐木が倒れるように、澄江は地上へ俯向けに倒れた。
 意識が次第に失われて行く。
 その消えて行く意識の中へ、入って来る[#「入って来る」は底本では「入って來る」]博徒達の声といえば、
「殺すのは惜しい、担いで行け」


 澄江を担いで三人の博徒が、高萩村の方へ走り出した時、街道へ二つの人影が現われ、指差ししながら話し合った。
 杉浪之助と藤作であった。
 今朝笹屋で眼をさまして聞くと、親分林蔵は少し前に、一人で帰ったということであった。そこで二人は少なからずテレて、急いで仕度《したく》をし出て来たところで、みれば博徒風の三人の男が、若い一人の女を担ぎ、耕地を走って行くところであった。
「この朝まだきに街道端で、女を誘拐《かどわか》すとは不埒千万、藤作殿嚇して取り返しましょうぞ」
「ようがす、やりましょう、途方もねえ奴らだ」
 二人は素早く追いついた。
「やい待て待て、こいつらア――ッ」
 まず藤作が声を上げた。
「女を誘拐《かどわか》すとは何事だ! ……ヨ――、汝《うぬ》らア高萩の、猪之松身内の八五郎、峯吉!」
「何だ何だ藤作か! チェッ、赤尾の百姓か!」
 峯吉が憎さげにそう叫んだ、
「百姓とは何だ、溝鼠。……杉さん、こいつらア猪之松の乾兒《こぶん》で……」
 それ以前から[#「それ以前から」は底本では「それ以然から」]杉浪之助は、担がれている女へ眼をつけたが、姿こそ旅装で変わってはいたが、いつぞやの夜、本郷の屋敷町で、危難を秋山要介と共に、救ってやった鴫澤《しぎさわ》家の娘、澄江であることに気がついた。
「やあ汝《おのれ》ら!」と浪之助は叫んだ。
「その女は拙者の知人、汝らに担がれ行くような、不束《ふつつか》のある身分の者ではない。……放せ! 置け! 汝等消えろ!」
「何を三ピン」と八五郎は怒鳴った。
「どこの二本差か知らねえが、俺らの獲物を横から来て、持って行こうとは気が強えや! ……問答は無益だ叩きのめせ!」
「よかろう、やれ!」と命知らず共、担いでいた澄江を抛り出すと、脇差を抜き無二無三に、浪之助と藤作とに切ってかかった。
「殺生ではあるがその儀なれば」
 刀を引き抜き浪之助は、ムーッとばかりに中段につけた。
 性来堕弱の彼ではあり、剣技にも勝れていない彼ではあったが、三カ月というもの秋山要介に従い義侠の精神を吹き込まれ、かつは新影流《しんかげりゅう》の教えを受けた。名人から受けた三カ月の教えは、やくざ[#「やくざ」に傍点]の師匠の三年に渡る、なまくら[#「なまくら」に傍点]の教えより功果がある。今の浪之助というものは、昔の浪之助とは事変わり、気魄横逸勇気凜々、真に大丈夫の俤《おもかげ》があった。
 その浪之助に構えられたのである。
 博徒共は怖気を揮った。
 三人顔を見合わせたが、誰云うともなく、
「いけねえ」
「逃げろ!」
 三方に別れて逃げてしまった。
 と見て取った浪之助は、刀を鞘へ納めるのも忙しく、澄江の側へ走り寄り、地に膝突き抱き介《かか》え、
「澄江殿! 澄江殿!」と呼ばわった。が気が付き、
「これは不可《いけ》ない。気絶して居られる、では、よし」と、急所を抑え「やッ」と活だ!


「あッ」と澄江は声を上げ、息吹き返し眼を見開らき、茫然と空を眺めたが、
「お兄イ様ア――ッ」と恋しい人を、苦しい息で血を吐くように呼んだ。
「拙者でござるぞ、杉浪之助で! 気が付かれたか、拙者でござるぞ!」
 そう呼ぶ浪之助の顔を見詰め、しばらく澄江は不思議そうに、ただハッハッと荒い息をしたが、
「お、お――、貴郎《あなた》様は……いつぞやの晩……あやうい所を……」
「お助けいたした杉浪之助! 再度お助けいたしたは、よくよくの縁、ご安心なされ! それに致してもこの有様は?」
「は、はい、有難う存じます。ご恩は海山! ご恩は海山! ……お兄イ様ア――ッ」とまたも呼んだ。
「お兄イ様とな? 主水殿か? ……その主水殿、如何《いかが》なされた?」
「敵《かたき》……父上の……父上の敵……陣十郎に巡り逢い……切り合う間に兄上には、陣十郎に誘き出され! ……向こうへ、向こうへ、向こうへ行き……そのまま姿が見えずなり……お兄イ様ア――ッ」とまたも呼び、再び気絶したらしく、ぐったりとなりもたれ[#「もたれ」に傍点]かかった。
「おおそうか、さてはお二人、兄妹お二人敵討ちの旅に、お出でなされたと伝聞したが、その敵の水品陣十郎に、おおそうか、さてはここで、お出逢いなされて切り合ったのか。……それにしても無双の悪剣の使手、陣十郎と太刀打ちしては、主水殿に勝目はない。……その陣十郎に誘き出された? ……一大事! 捨てては置けぬ! ……とは云えどこへ? どこへ主水殿は?」
 向こうへ向こうへと云ったばかりで、どの方角へ行ったとも云わず、再度澄江は気絶してしまった。
「どこへ? どっちへ? 主水殿は?」
「杉さん……てっきり……高萩村だア!」
 それまで側《そば》に佇んで、気を揉んでいた藤作が叫んだ。
「このお女中を引っ担ぎ、連れて行こうとしたからにゃア、先刻《さっき》の奴らァ陣十郎とかいう、悪侍の一味でごわしょう。その先刻の奴らといえば、高萩村の猪之の乾兒で。ですから恐らく陣十郎って奴も猪之の家にいるのでござんしょう。ということであってみれば陣十郎とかいう悪侍、主水様とかいうお侍さんを、高萩村の方角へ……」
「いい考え、そうだろう。……では拙者はその方角へ……藤作殿頼む、澄江殿の介抱! ……」
「合点、ようがす、貴郎は早く……」
「うむ」と云うと股立取り上げ、大小の鍔際束に掴み、大薮のある方角とは、筋違いの方角高萩村の方へ、浪之助は耕地の土を蹴り、走った、走った一散に走った。
 この時上尾宿の方角から、馬大尽を迎えに出、慰労とあって猪之松により、乾兒共々上尾宿の、山城屋で猪之松に振舞われ、少し遅れてその山城屋を出た、高萩村に属している、四人の博労が酔いの覚めない足で、機嫌よくフラフラと歩いて来た。


 それへぶつかっ[#「ぶつかっ」に傍点]たのは八五郎であった。
 浪之助のために威嚇され、盲目滅法に逃げて来た、猪之松の乾兒の八五郎であった。
「いい所

下手切り! こいつだけは受けられない、ダーッとドップリ胴へ入るだろう! と、完全の胴輪切り!
 その序の業が行なわれた。
 釣られた釣られた主水は釣られた! あッ、踏み出して切り込んだ。
 一閃!
 返った!
 陣十郎の刀が、軽く宙で車に返った!
 ハ――ッと主水! きわどく反わせたが……
 駄目だ!
 見よ!
 次の瞬間!
 さながら怒濤の寄せるが如く、刀を返しての大下手切りだ――ッ!
「ワッ」
 悲鳴!
 血煙!
 血煙!
 いやその間に、一髪の間に――大下手切りの行なわれる、前一髪の際どい間に……
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秩父の郡《こおり》、小川村、
逸見《へんみ》様庭の桧の根
[#ここで字下げ終わり]
 そういう女の歌声が、手近かの所から聞こえてきた。
「あッ」と陣十郎は刀を引き、タジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]と数歩背後へ下った。


 無心に歌をうたいながら、源女は大薮の中にいた。
 いつも時々起こる発作が、昨夜源女の身に起こった。そこでほとんど夢遊病患者のように、赤尾村の林蔵の家を脱け出し、どこをどう歩いたか自分でも知らず、この辺りまで彷徨《さまよ》って来、この大薮で一夜を明かし、たった今眼醒めたところであった。
 まだ彼女の精神は、朦朧としていて正気ではなかった。
 島田の髷が崩れ傾《かしが》り、細い白い頸《うなじ》にかかってい、友禅模様の派手な衣裳が、紫地の博多の帯ともども、着崩れて痛々しい。素足に赤い鼻緒の草履を、片っぽだけ突っかけている。夜露に濡れたため衣裳はしおたれ[#「しおたれ」に傍点]、茨や木の枝にところどころ裂かれ、手足も胸元も薮蚊に刺され、あちこち血さえ出していた。
 そういう源女は身を横倒しにし、草の上に延びていた。秋草の花――桔梗や女郎花や、葛の花などが寝ている源女の、枕元や足下に咲いていた。栗色の兎がずっと離れた、萩の根元に一匹いて、源女の方を窺っていた。
 彼女の頭上にあるものといえば、樺や、柏や、櫟《くぬぎ》や、櫨《はぜ》などの、灌木や喬木の枝や葉であり、それらに取り縋り巻いている、山葡萄や蔦や葛であり、そうしてそれらの緑を貫き、わずかに幽かに隙《す》けて見える、朝の晴れた空であった。
 薮を透して日の光が、深い黄味を帯びて射し込んで来ていて、地上の草や周囲《まわり》の木々へ、明暗の斑《ふち》を織っていた。
 無心――というよりいつもいつも、心に執拗にこびりついている歌、例の歌を唄ってしまうと、彼女は恍惚《うっとり》と考え出した。こういう場合に彼女の脳裡へ、幻影のように浮かんで来るのは、大森林、大渓谷、大きな屋敷、大傾斜面、五百頭千頭もの放馬の群、それを乗り廻し追い廻し、飼養している無数の人、そうしてあたかも酒顛童子のような、長髪赧顔の怪異の老人――等々々のそれであった。
 しかし彼女はそういう所が、どこにあるかは知らなかった。そうしてどうしてそういう光景が、浮き出して来るかも知らなかった。とはいえ彼女はそういう光景の場所の、どこであるかを確かめなければならない、そうして是非ともその光景の場所へ、どうしても自身行かなければならないと、そんなように熱心に思うのであった。がそれとて自分自身のために、その場所を知ろうとするのでもなく、又行こうとするのでもなく、自分の難儀を救ってくれた人秋山要介という人のために、知りたい行きたいと思うのであった。
 浮かんで来る幻影を追いながら、今も彼女は思っていた。
(行かなければならない、さあ行こう!)
 で、彼女は立ち上った。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]昔はあったということじゃ
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 又彼女は口ずさんだ。
 そうして大薮を分けながら、大薮の外へ出ようとした。
 その大薮の外側には、以前から彼女を狙っている吸血鬼水品陣十郎が、抜身を提げて立っているはずである。

10
 後《あと》へ下った陣十郎は、刀を下段にダラリと下げ、それでも眼では油断なく、主水の眼を睨みつけ、歌主の在所《ありか》がどこであるかと、瞬間それについて考えた。
 周囲《あたり》には大薮があるばかりで、その他は展開《ひら》けた耕地であり、耕地には人影は見えなかった。
 声から云っても歌の性質《たち》から云っても、歌ったのは源女に相違ない。
 が、源女などはどこにもいない。
(さては自分の空耳かな?)
 それにしても余りに明かに、歌声は聞こえてきたではないか。
 源女だ源女だ歌ったのは源女だ!
 かつて一旦手に入れて、薬籠の物にしはしたが、その持っている一大秘密を、まだ発見しないうちに秋山要介に横取りされた女! お組の源女に相違ない!
 探して探して探し廻ったあげく、江戸は両国の曲独楽の席で、ゆくりなくも発見した。が、その直後に起こった事件――鴫澤庄右衛門を討ち果したことから、江戸にいられず旅に出たため、源女のその後の消息については、確かめることが出来なかった。
 その源女の歌声が、こんな所で聞こえたのであった。
(どうしたことだ? どうしたことだ?)
 不思議なことと云わなければならない。
(あの女を再び手に入れることが出来て、あの歌の意味を解くことが出来たら!)
 その時こそ運命が――解いた人の運命が、俄然とばかり一変し、栄耀栄華を尽くすことが出来、至極の歓楽を享けることが出来る!
(どうでもあの女を手に入れなければ!)
 だが彼女はどこにいるのだ?
 分を秒に割った短い間だ! 時間にして短いそういう間に、陣十郎の脳裡に起伏したのは、実にそういう考えであった。
 その間彼は放心状態にあった。
 何で主水が見逃がそうぞ!
 一気に盛り返した勇を揮い、奮然として切り込んだ。
 またも鏘然太刀音がした。
 放心状態にあったとはいえ、剣鬼さながらの陣十郎であった。何のムザムザ切られようぞ!
 受けて一合!
 つづいて飛び退いた、飛び退いた時にはもう正気だ! 正気以上に冴え切っていた。
(こやつを一気に片付けて、源女の在所《ありか》を突き止めなければならない!)
「ヤ――ッ!」と掛けた物凄い掛声!
 つづけて「ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ!」
 先々の先の手一杯! さながら有段者が初心者を相手に、稽古をつけるそれの如く、主水が撃とう切ろう突こうと、心組む心を未前[#「未前」はママ]に察し、その先その先その先と出て、追い立て切り立て突き立て進んだ。
 またもや主水は薮際まで詰められ、眼眩みながら薮の裾を、右手へわずか廻り込もうとした時、天運尽きたか木の根に躓《つまず》き、横倒れにドッと倒れた。
「くたばれ!」
 シ――ンと切り下した!

11
 シ――ンと切り下ろした陣十郎の刀が、仆れている主水を拝み打ちに、眉間から鼻柱まで割りつけようとした途端、日の光を貫いて小柄が一本、陣十郎の咽喉へ飛んで来た。
「あッ」と思わず声を上げ、胸を反らせた陣十郎は、あやうく難を免れたが、小柄の投げられた方角を見た。
 十数間のかなたから、一人の武士が走って来る。
「む!……秋山! ……秋山要介!」
 いかにも走って来るその武士は、今朝になって眼醒めて見れば、昨夜から発作を起こしていた源女が、どこへ行ったものか姿が見えず、それを案じて探すために、林蔵の家を立ち出で、ここまでやって来た秋山要介であり、見れば宿意ある水品陣十郎が、これも因縁《ゆかり》ある鴫澤主水を、まさに討って取ろうとしていた。間隔は遠い、間に合わない。そこで小柄を投げたのであった。
 小柄を投げて陣十郎の兇刃を、制して置いて秋山要介、飛燕の如く飛び込んで来た。
 が、陣十郎もただ者ではない、主水を相手に戦って、既に躰は疲労《つかれ》ていた。そこへ剣豪秋山要介に新規の力で出られては、百に一つの勝目はない。――と見て取るや刀を引き、鞘にも納めず下げたままで、耕地を一散に走って逃げた。
 と、瞬間飛び起きたは、無念残念返り討ちだと、一刹那覚悟して仆れていた主水で、
「秋山先生、お礼は後刻! ……汝、待て――ッ、水品陣十郎! ……遁してなろうか、父の敵!」と、身体綿の如く疲労して居り、剣技も陣十郎と比較しては、数段も劣って居り、追っかけ追い詰め戦ったところで、あるいは返り討ちになろうもしれないと、そういう不安もありながら、みすみす父の敵に逢い、巡り合って刀を交したのに、そうしてその敵が逃げて行くのに、そうして一旦逃がしてしまったなら、いつふたたび巡り逢えるやら不明と思えば追わずにいられなかった。
 で、主水は刀を振り振り、陣十郎を追いかけた。
「待たれい! 主水殿、鴫澤氏!」
 追いついてよしんば戦ったところで、陣十郎に主水が勝つはずはない、返り討ちは見たようなものだ――と知っている秋山要介は、驚いて大音に呼び止めた。
「長追いなさるな! お引き返しなされ! またの機会をお待ちなされ」
 しかし何のそれを聞こう! 主水はよろめきよろめきながら、走り走り走って行く。
(尋常の敵を討つのではなく、親の敵《かたき》を討つのであった。子とあってみれば返り討ちも承知で、追いかけ戦うのが本当であろう)
 気がついた秋山要介は、孝子《こうし》に犬死させたくない、ヨーシ、追いついて後見《うしろみ》してやろう! 助太刀してやろうと決心し、袴の股立取り上げた途端、
「セ、先生、秋山先生!」と、背後から息せき呼ぶ声がし、やにわに袖を掴まれた。
「誰だ!」と怒鳴って顔を見た。
 林蔵の乾兒の藤作であった。

12
「おお藤作、どうしたのだ?」
「タ、大変で……オ、親分が!」
「なに親分が? 林蔵がか?」
「へい、林蔵親分が、カ、街道で、あそこの街道で……タ、高萩の猪之松と……」
「うむ、高萩の猪之松と[#「猪之松と」は底本では「猪の松と」]?」
「ハ、果し合いだい、果し合いだい!」
「む――」と呻くと振り返り、要介は街道の方角を見た。
 旅人や百姓の群であろう、遠巻にして街道に屯し、じっと一所を見ている光景が、要介の眼に鮮かに見えた。彼等の見ている一所で、林蔵は怨ある猪之松と、果し合いをしているのであろう。要介も以前から林蔵と猪之松とが、勢力争い激甚であり、一度は雌雄を決するてい[#「てい」に傍点]の、真剣の切り合いをやるべきことを、いろいろの事情から知っていた。
(これはうっちゃって置かれない。林蔵を見殺しにすることは出来ない。聞けば高萩の猪之松は、逸見《へんみ》多四郎から教えを受け、甲源一刀流では使い手とのこと、林蔵といえどもこの拙者が、新影流は十分仕込んで置いた。負ける気遣いもあるまいが、もしも負れば師匠たる拙者の、恥にならないものでもない。林蔵と猪之松との果し合い、考えようによれば逸見多四郎と、この秋山要介との、果し合いと云うことにもなる。これはうっちゃっては置かれない)
「行こう、藤作!」と叫んだが、
(主水氏は?)とこれも気になり、走って行った方へ眼をやった。
 広い耕地をよろめきよろめき、陣十郎の後を追い、なお主水は走っていた。
(一人で行ったら返り討ち、陣十郎に討たれるであろう。……惜しい武士! 気の毒な武士! ……どうでも助太刀してやらねば……)
 ――が、そっちへ身を挺したら、林蔵はどういう運命になるか?
(どうしたら可《よ》いか? どうしたものだ?)
 知らぬ藤作は急き立てた。
「先生、早く、行っておくんなせえ! ……云いたいことはたくさんあるんで……第一女が誘拐《かどわか》されたんで……若い女が、綺麗な女が……誘拐した野郎は猪之松の乾兒と、その相棒の馬方なんで……最初《はな》は俺らと杉さんとで……へい、そうで浪之助さんとで、その女を助けたんですが……逃げた八五郎め馬方を連れて、盛り返して来てその女を……その時浪之助さんは留守だったんで……いやいやそんなこと! ……行っておくんなせえ、さあ先生! 親分が大変なんだ猪之松の野郎と! ……」
(行かなければならない!)と要介も思った。
(鴫澤氏は赤の他人、少くも縁は極めて薄い。林蔵の方は俺の弟子、しかも現在この俺は、林蔵の家に世話になっている。深い縁がある、他人ではない。……その林蔵を見殺しには出来ない! 行こう! しかし、そうだしかし、主水殿もお気の毒な! では、せめて言葉の助太刀!)
 そこで要介は主水の方に向かい、大音をもって呼びかけた。

13
「鴫澤《しぎさわ》氏、主水殿! 敵水品陣十郎を追い詰め、見事に復讐をお遂げなされ! 拙者、要介、秋山要介、貴殿の身辺に引き添って、貴殿あやうしと見て取るや、出でて、必ずお助太刀いたす! ……心丈夫にお持ちなされい! ……これで可《よ》い、さあ行こう!」
 街道目掛けて走り出した時、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]今は変わって千の馬
五百の馬の馬飼の
[#ここで字下げ終わり]
 と、聞き覚えある源女の声で、手近で歌うのが聞こえてきた。
「や、……歌声! ……源女の歌声!」
 要介は足を釘づけにした。
 探していた源女の歌声が、手近の所から聞こえてきたのであった。足を止めたのは当然といえよう。
「源女殿! お組殿!」
 思わず大声で呼ばわって、要介は四辺《あたり》を忙《せわ》しく見た。
 丘、小山とでも云いたいほどに、うず高く聳えている薮以外には、打ち開けた耕地ばかりで、眼を遮る何物もなかった。
(不思議だな、どうしたことだ。……歌声は空耳であったのか?)
 陣十郎の感じたようなことを、要介も感ぜざるを得なかった。
「先生、どうしたんですい、行っておくんなせえ」
 要介に足を止められて、胆を潰した藤作が怒鳴った。
「第一先生がこんな方角へ、トッ走って来たのが間違いだ。俺ら向こうで見ていたんで。すると先生の姿が見えた。しめた、先生がやって来た、林蔵親分に味方して、猪之松を叩っ切って下さるだろう。――と思ったら勘違いで、こんな薮陰へ来てしまった。そこで俺ら迎えに来たんだが、その俺らと来たひ[#「ひ」に傍点]には、ミジメさったら[#「ミジメさったら」は底本では「ミヂメさったら」]ありゃアしない。馬方に土をぶっかけられたんで。と云うのも杉さんがいなかったんで。その杉さんはどうしたかというに、誘拐《かどわか》された女の兄さんて奴が――そうそう主水とか云ったっけ、そいつが陣十郎とかいう悪侍に、オビキ出されて高萩村の方へ行った。とその女が云ったんで、こいつ大変と杉さんがね、高萩村の方へ追って行ったんで。――が、まあ可《い》いやそんな事ア。よくねえなア親分の身の上だ、まごまごしていると猪之松の野郎に……あッどうしたんだ見物の奴らア……」
 いかさま街道や耕地に屯し、果し合いを見ていた百姓や旅人が、この時にわかに動揺したのが、要介の眼にもよく見えた。が、すぐに動揺は止んで、また人達は静かになった。緊張し固くなって見ているらしい。
 突嗟に要介は思案を定めた。
(ここら辺りに源女がいるなら、薮の中にでもいるのであろう。正気でないと云ったところで、直ぐに死ぬような気遣いはない。……林蔵と猪之松との果し合い、これは一刻を争わなければならない。よしそっちへ行くことにしよう。……が、しかし念のために……)
 そこで要介はまたも大音に、薮に向かって声をかけた。
「源女殿、要介お迎えに参った。どこへもおいでなさるなよ! ……」

14
 街道では林蔵と猪之松とが、遠巻きに見物の群を置き、どちらも負けられない侠客《おとこ》と侠客との試合それも真剣の果し合いの、白刃を互いに構えていた。
 かなり時間は経過していたが、わずか二太刀合わせたばかりで、おおよそ二間を距てた距離で、相正眼に脇差をつけ、睨み合っているばかりであった。
 猪之松には乾兒や水品陣十郎の間に、何か事件が起こったらしく、耕地で右往左往したり、逃げる奴倒れる奴、そういう行動が感ぜられたが、訊ねることも見ることもできず、あつかう[#「あつかう」に傍点]こともできなかった。傍目一つしようものなら、その間に林蔵に切り込まれるからであった。
 林蔵といえどもそうであった、乾兒の藤作の声がしたり、杉浪之助の声がして、何か騒動を起こしているようであったが、どうすることも出来なかった。相手の猪之松の剣の技、己と伯仲の間にあり寸分の油断さえ出来ないからであった。
 が、そういう周囲の騒ぎも、今は全く静まっていた。数間を離れて百姓や旅人、そういう人々の見物の群が、円陣を作って見守っているばかりで、気味悪いばかりに寂静《ひっそり》としていた。
 二本の刀が山形をなし、朝の黄味深い日の光の中で、微動しながら浮いている。
 二人ながら感じていた。――
(ただ目茶々々に刀を振り廻して、相手を切って斃せばよいという、そういう果し合いは演ぜられない。男と男だ、人も見ている。後日の取沙汰も恐ろしい。討つものなら立派に討とう! 討たれるものなら立派に討たれよう!)
 二人ながら心身疲労していた。
 気|疲労《つかれ》! 気疲労! 恐ろしい気疲労!
 技が勝れているだけに、伎倆《うで》が伯仲であるだけに、その気疲労も甚だしいのであった。
 向かい合っていた二本の刀の、その切先がやがて徐々に、双方から寄って来た。
 見よ二人ながら踏み出している右足の爪先が蝮を作り、地を刻んで一寸二寸と、相手に向かって進むではないか。
 ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]!
 音は立たなかった。
 が、ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]と音立つように、互いの切先が触れ合った。
 しかしそのまま二本の刀身は、一度に水のように後へ引き、その間隔が六歩ほどとなった。
 そうしてそのまま静止した。
 静止したまま山形をなし、山形をなしたまま微動した。
 薄くポ――ッと刀と刀の間に、立ち昇っているのは塵埃《ほこり》であった。
 二人の刻んだ足のためにポ――ッと立った塵埃であった。
 間、
 長い間。
 天地寂寥。
 が、俄然二本の刀が、宙で烈しくもつれ合った。
 閃光! 太刀音! 鏘然! 鍔鳴り!
 で、Xの形となって、二本の刀は交叉され、わずかに左右に又前後に、揺れつ縒れつ押し押されつ、粘ったままで放れなかった。

15
 鍔競り合い!
 眼と眼との食い合い!
 そうだ、林蔵と猪之松との眼が、交叉された刀の間を通し、互いに食い合い睨み合っている。
 鍔競り合いの恐ろしさは、競り合いから離れる一刹那にあった。胴を輪切るか真っ向を割り付けるか、伎倆《うで》の如何《いかん》、躰形《たいけい》の如何、呼吸の緩急によって変化縦横! が、どっちみち恐ろしい。
 林蔵も猪之松も一所懸命、相手の呼吸を計っていた。
 と、交叉された刀の間へ、黒く塗られた刀の鞘が、忍びやかに差し込まれた。
「?」
「?」
 鞘がゆるゆると上へ上った。二本の白刃を持ち上げるのである。と、威厳ある声がした。
「勝負待て! 刀を引け! 仲裁役は秋山要介!」
 声と同時に刀の鞘が、二本の刀身を左右に分けた。
 二間の距離を保ちながら、尚、残心、刀を構え、睨み合っている林蔵と猪之松、その間に鞘ぐるみ抜いた太刀を提げて、ノビノビと立ったのは秋山要介で、まず穏かに林蔵へ云った。
「刀を鞘へ納めるがよい」
 それから猪之松の方へ顔を向け、
「以前一二度お見かけいたした。高萩村の猪之松殿か、拙者秋山要介でござる。刀を納め下されい」
 しばらくの間寂然としていた。
 やがて刀の鞘に収まる、鍔鳴りの音が二つ聞こえた。

 この頃源女は大薮を出て、唐黍《とうもろこし》畑の向こうを歩いていた。
(行かなければ不可《いけ》ない、さあ行こう)
 こう思いながら歩いていた。
 何者《だれ》か向こうで呼んでいる。そんなように彼女には思われるのであった。
 畦を越し桑畑を越した。そうして丘を向こうへ越した。もう背後を振り返って見ても、街道も大薮も見えないだろう。
 大渓谷、大傾斜、大森林、五百頭千頭の馬、無数の馬飼、宏大な屋敷――そういうものの存在している所へ、行かなければならない行かなければならない! ……そう思って彼女は歩いて行く。
 崩れた髪、乱れた衣裳、彼女の姿は狂女そっくりであった。発作の止まない間中は、狂女と云ってもいいのであった。
 長い小高い堤があった。
 よじ上って歩いて行った。
 向こう側の斜面には茅や蘆が、生い茂り風に靡いている、三間巾ぐらいの川があり、水がゆるゆると流れていた。
「あッ」
 源女は足を踏み辷らせ、ズルズルと斜面を川の方へ落ちた。パッと葦切が数羽飛び立ち、烈しい声で啼いて去った。と、蘆を不意に分けて、古船が一隻辷り出た。源女がその中に倒れている。
 纜綱《もやいづな》を切らした古船は、源女を乗せたまま流れて行く。
 源女は微動さえしなかった。

各自の運命


 高萩村に近い森の中まで、陣十郎を追って来た鴫澤主水《しぎさわもんど》は、心身全く疲労し尽くし、ほとんど人心地を覚えなかった。
 抜身を地に突き体を支えたが、それにも堪えられずクタクタ倒れた。
 とうに陣十郎は見失っていた。
 その失望も手伝っていた。
(残念、逸した、敵を逸した!)
(が、飽くまでも探し出して、……)
 立ち上ろうと努力した。
 が、躰はいうことをきかず、のみならず精神さえ朦朧となった。
 こうして杉や桧や槇や、楢などの喬木に蔽われて、その奥に朱の褪せた鳥居を持ち、その奥に稲荷の祠を持ち、日の光も通して来ず、で薄暗い風景の中に、雀や鶸《ひわ》や山雀《やまがら》や山鳩の、啼声ばかりが繁く聞こえる、鎮守の森に包まれて、気絶して倒れた主水の姿が、みじめに痛々しく眺められた。
 色づいた[#「色づいた」は底本では「色ずいた」]病葉《わくらば》が微風にあおられ体の上へ落ちて来たりした。
 かなり長い間しずかであった。
 と、その時人声がし、間もなく十数人の男女の者が、森の中へ現われた。
 変わった風俗の連中であった。
 赤い頭巾に赤い袖無、そんなものを着けている若い男もあれば、亀甲模様のたっつけ[#「たっつけ」に傍点]を穿き、胸に大形の人形箱をかけた、そういう中年の男もあり、紫の手甲に紫の脚絆、三味線を抱えた女もあり、浅黄の股引、茶無地の筒袖、そういう姿の肩の上へ、猿をとまらせた老人などもあった。
 それらはいずれも旅装であった。
 秩父|香具師《やし》の一団なのである。
 平素は自分の家にいて、百姓もやれば杣夫《そま》もやり、猟師もやれば川狩もやるが、どこかに大きな祭礼があって、市《たかまち》が立って盛んだと聞くと、早速香具師に早変りして、出かけて行って儲けて来、家へ帰れば以前通り、百姓や杣夫として生活するという――普通の十三香具師とは別派の、秩父香具師の一団であった。
 この日もどこかの市を目掛け親しい者だけで組をつくり、出かけて行くところらしい。
 その中に一人旅装ではなく、髪は櫛巻きに銀簪一本、茜の小弁慶の単衣《ひとえ》を着た、若い女がまじっていた。
 陣十郎の情婦のお妻であった。
「姐御、お前さんも行くといいんだがな」
 一人の男がこう云って、そそのかすようにお妻を見た。
「そうさねえそうやって、お前さんたちが揃って出かけて行くのを見ると、一緒に行きたいような気持がするよ」
 まんざらお世辞でもなさそうに、お妻はそう云って薄笑いをした。
「陣十郎さんばかりが男じゃアなし、他に男だってあろうじゃアないか。そうそういつもへばり付いてばかりいずに、俺らと旅へ出るのもいいぜ」
 こうもう一人の男が云った。
「あたしを旅へしょびいて行くほどの、好い男がどこかにいるかしら、お前さん達のお仲間の中にさ」
 云い云い、お妻は又薄笑いをして、香具師達を見廻した。
「俺じゃア駄目かな、え、俺じゃア」と、猿廻しが顔を出した。


「十年若けりゃア物になるが」
 お妻はむしろ朗かに笑った。
 お妻は秩父の産れであり、秩父香具師の一人であった。が、ずっと若い頃に、草深い故郷に見切りをつけ、広い世界へ出て行って、香具師などというケチなものよりもっと烈しい、もっと罪の深い、そうしてもっと度胸の入る、凄い商売へ入り込んでしまった。
 女邯鄲師《おんなかんたんし》[#ルビの「おんなかんたんし」は底本では「おんんなかんたんし」]――それになってしまった。
 道中や温泉場などで親しくなり、同じ旅籠《はたご》へ一緒に泊り、情を通じてたらす[#「たらす」に傍点]もあり、好きな男で無い場合には、すかし[#「すかし」に傍点]、あやなし[#「あやなし」に傍点]、たぶらかし[#「たぶらかし」に傍点]て、油断を窺って有金から持物、それらを持って逃げてしまう、平ったく云えば枕探し、女賊になってしまったのである。
 陣十郎の情婦になったのも、平塚の宿で泊まり合わせ、枕探しをしようとしたところ、陣十郎のために取って抑えられた、それが因縁になったのであった。
 その女邯鄲師のお妻であるが、今度陣十郎と連立って、産れ故郷へ帰って来た。と、今朝高萩の村道を、懐かしい昔の仲間達が――すなわち秩父香具師達が、旅|装束《よそおい》で通って行った。知った顔も幾個かあった。で、あまりの懐かしさに、冗談云い云いこんな森まで、連立って一緒に来たのであった。
「おや」と不意にお妻は云って、急に足を一所で止めた。
「こんなところに人間が死んでいるよ」
 行手の杉の木の根下の草に、抜身を持った武士が倒れている。
「ほんに、可哀そうに、死んでらあ。……しかも若いお侍さんだ」
 香具師達は云って近寄って行った。
 お妻はその前にしゃがみ[#「しゃがみ」に傍点]込み、その武士の額へ手をやったが、
「冷えちゃアいない、暖《あった》かいよ」
 いそいで脉所《みゃくどころ》を握ったが、
「大丈夫、生きてるよ」
「じゃア気絶というやつだな」
 一人の香具師が心得顔に云った。
「そうさ、気絶をしているのさ。抜身を持っているところを見ると、きっと誰かと切り合ったんだねえ。……どこも切られちゃアいない。……気負け気疲労《きつかれ》[#「気疲労《きつかれ》」は底本では「気疲労《きつかれ》れ」]で倒れたんだよ」
 云い云いお妻は覗き込んだが、
「ご覧よ随分|好男子《いいおとこ》じゃアないか」
「チェーッ」と誰かが舌打ちをした。
「姐御いい加減にしてくんな。どこの馬の骨か知れねえ奴に、それも死に損ない殺され損ないに。気をくばるなんて嬉しくなさ過ぎらあ」
「まあそういったものでもないよ。……第一随分可愛そうじゃアないか。……それにさ、ご覧よ、この蒼白い顔を……唇の色だけが赤くてねえ。……ゾッとするほど綺麗だよ。……」
「色狂人! ……行こう行こう!」
「行きゃアがれ、碌で無し! ……妾アこの人を介抱するよ」
 お妻は主水の枕元へ、ペタペタと坐ってなお覗き込んだ。


 その同じ日のことであった。
 絹川という里川の岸で、一人の武士が魚を釣っていた。
 四十五六の年齢で、広い額、秀でた鼻、鋭いけれど暖かい眼、そういう顔の武士であった。立派な身分であると見え、衣裳などは寧ろ質素であったが、體に威があり品があった。
 傍らに籃《びく》が置いてあったが、魚は一匹もいなかった。
 川の水は濁りよごれ[#「よごれ」に傍点]てい、藻草や水錆が水面に浮かび、夕日がそれへ色彩をつけ、その中で浮子《うき》が動揺してい、それを武士は眺めていた。
「東馬《とうま》もう何刻《なんどき》であろう?」
 少し離れた草の中に、お供と見えて若侍が退屈らしい顔付をして、四辺《あたり》の風景を見廻していたがそれへ向かって話しかけた。
「巳刻《よつどき》でもありましょうか」
 若侍はそう答え、
「今日は不漁《しけ》でございますな」
 笑止らしく云い足した。
「わしの魚釣、いつも不漁じゃ」
「御意で、全くいつも不漁で。……それにもかかわらず先生には、毎日ご熱心でございますな」
「それでいいのだ、それが本意なのだ。……と云うのはわしの魚釣は、太公望と同じなのだからな」
「太公望? はは左様で」
「魚釣り以外に目的がある。……ということを云っているつもりだが」
「どのような目的でございますか?」
「そう安くは明かされないよ」
「これはどうも恐れ入りました……が、そのように仰せられますと、魚の釣れない口惜《くちお》しまぎれの、負けおしみなどと思われましても……」
「どうも其方《そち》、小人で不可《いけ》ない」
「お手厳しいことで、恐縮いたします」
「こう糸を垂れて水面を見ている」
「はい、魚釣りでございますからな」
「水が流れて来て浮子にあたる」
「で、浮き沈みいたします」
「いかにも自然で無理がない……芥《あくた》などが引っかかると……」
「浮子めひどくブン廻ります」
「魚がかかると深く沈む」
「合憎[#「合憎」はママ]、今日はかかりませんでした」
「相手によって順応する……浮子の動作、洵《まこと》にいい」
「浮子を釣るのでもござりますまいに」
「で、わしはその中に、何かを得ると思うのだよ」
「鮒一匹、そのくらいのもので」
「魚のことを云っているのではない」
「ははあ左様で。……では何を?」
「つまりあの業《わざ》を破る術じゃ」
「は? あの業と仰せられまするは?」
「水品陣十郎の『逆ノ車』……」
「ははあ」
「お、あれは何だ」
 その時上流から女を乗せた、死んだように動かない若い女を乗せた、古船が一隻流れて来た。
「東馬、寄せろ、船を岸へ」
「飛んでもないものが釣れましたようで」
 若侍は云い云い袴を脱ぎかけた[#「脱ぎかけた」は底本では「股ぎかけた」]。
 が、古船は自分の方から、ゆるゆると岸の方へ流れ寄って来た。
 武士は釣棹の柄の方を差し出し、船縁へかけて引き寄せるようにしたが、
「女を上げて介抱せい」
 そう若侍へ厳しく云った。

鳳凰と麒麟


 それから幾日か経った。
 秋山要介は杉浪之助を連れて、秩父郡小川村《ちちぶのこおりおがわむら》の外れに、あたかも嵎《ぐう》を負う虎の如くに蟠居し、四方の剣客に畏敬されている、甲源一刀流の宗家|逸見《へんみ》多四郎義利の、道場構えの広大な屋敷へ、威儀を作って訪れた。
「頼む」
「応」と返事があって、正面の襖が一方へひらくと、小袴をつけた若侍が、恭しく現われた。
「これはこれは秋山先生、ようこそご光来下されました」
「逸見先生に御意得たい。この段お取次下されい」
「は、先生には江戸表へ参り、未だご帰宅ござりませねば……」
「ははあ、いまだにお帰りない」
「帰りませんでござります」
「先生と一手お手合わせ致し、一本ご教授にあずかりたく、拙者当地へ参ってより三日、毎日お訪ねいたしても、そのつどお留守お留守とのご挨拶、かりにも小川の鳳凰《ほうおう》と呼ばれ、上州間庭の樋口十郎左衛門殿と、並び称されている逸見殿でござれば、よもや秋山要介の名に、聞き臆じして居留守を使われるような、そのようなこともござるまいが、ちと受取れぬ仕儀でござるな」
 洒脱であり豪放ではあるが、他人に対してはいつも丁寧な、要介としてはこの言葉は、かなり角立ったものであった。
 傍に引き添っていた浪之助も、これはおかしいと思った程である。
 面喰ったらしい取次の武士は、
「は、ご尤《もっと》もには存じますが、主人こと事実江戸へ参り、今に帰宅いたしませねば……」
「さようか、よろしい、事実不在、――ということでござるなら、又参るより仕方ござらぬ。……なれどこのまま帰っては、三度も参った拙者の腹の虫、ちと納まりかねるにより、少し無礼とは存じ申すが、表にかけられた門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、お預かりして持ちかえる。逸見殿江戸よりご帰宅なさらば、この旨しかとお伝え下され。宿の小紅屋に滞在まかりある。ご免」というと踵《きびす》を返し、門を出ると門の柱に「甲源一刀流指南」と書いた、二寸厚さの桧板、六尺長い門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]外し、小脇に抱えて歩き出した。
 呆れ返ったのは浪之助で、黙々として物も云わず、要介の後から従《つ》いて行った。
 村とはいっても小川村は、宿場以上の賑いを持った、珍らしく豊かな土地であって、道の両側には商店多く、人の往来も繁かった。そういう所を立派な武士が、大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]引っ抱え、若い武士を供のように連れて、ノッシノッシと歩いて行くのであった。店の人達は審かしそうに覗き、往来の人達も不思議そうに眺めた。
 が、要介は意にも介さず、逸見家とは反対の方角の、これは小川村の入口にある、この村一番の旅籠屋の、小紅屋まで歩いて来た。
「お帰り」と番頭や婢達《おんなたち》が、これも怪訝そうな顔をして、大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]抱えた要介達を迎え、玄関へ頭を並べたのを、鷹揚に見て奥へ通った。


 中庭を前にした離座敷――この宿一番の座敷らしい――そこの床の間へ大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]立てかけ、それを背にして寛《ゆるや》かに坐わり、婢の持って来た茶を喫しながら、要介は愉快そうに笑っていた。
 その前に浪之助はかしこまっていたが、これは随分不安そうであった。
「先生」ととうとう浪之助は云った。
「これは一体どうしたことで?」
「…………」
 愉快そうに笑っている。
「武芸指南所の門札は[#「門札は」は底本では「門礼は」]、商家の看板と等しなみに、その家にとりましては大切なもの、これを外されては大恥辱……」
「ということは存じて居るよ」
「はい」と浪之助はキョトンとし、
「それをご承知でその門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「さよう、わしは外して来た」
「はい」と又もキョトンとし、
「それも高名の逸見先生の……」
「鳳凰と云われる逸見氏のな」
「はい」ともう一度キョトンとし、
「それほど逸見様は高名なお方……」
「わしも麒麟《きりん》と呼ばれて居るよ」
「御意で」と今度は頭を下げ、
「関東の麒麟と称されて居ります」
「鳳凰と麒麟……似合うではないか」
「まさにお似合いではございますが、似合うと申して門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「ナニわしだから外して来てもよろしい」
「麒麟だから鳳凰の門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「さようさよう外して来てもよろしい」
「ははあ左様でございますかな」
「他の奴ならよろしくない」
「…………」
「ということは存じて居る。さよう逸見氏も存じて居る」
「…………」
「人物は人物を見抜くからの」
「はい、もう私などは小人で」
「そのうちだんだん人物になる」
「はい、ありがたく存じます」
 とは云ったものの浪之助は、
(うっかり物を云うとこんな目に逢う。訓された上に嚇されてしまう)
 こう思わざるを得なかった。
「それに致しましても先生には、何と思われて小川村などへ参り、何と思われて逸見先生のお宅などへ……」
「武術試合をするためにさ……」
「それだけの目的でございますかな?」
「真の目的は他にある」
「どのような目的でございますかな?」
「赤尾の林蔵を関東一の貸元、そいつに押し立ててやりたいのだ」
「そのため逸見先生と試合をなさる?」
「その通り。変に思うかな?」
「どういう関係がございますやら」
「今に解る。じきに解る」
「ははあ左様でございますか」
「わしは金蔓をなくしてしまった――源女殿を見失ってしまったので、秩父にいる必要がなくなってしまった。そこで江戸へ帰ろうと思う。……江戸へ帰って行く置土産に、林蔵を立派な男にしてやりたい。それで逸見氏と試合をするのだ。……高萩の猪之松の剣道の師匠、逸見多四郎殿と試合をするのだ」


(なるほどな)と浪之助は思った。
(林蔵の師匠たる秋山先生と、猪之松の師匠たる逸見先生とが、武術の試合をした上で、林蔵を関東一の貸元にする。なるほどな、意味がありそうだ)
 確実のことは解らなかったが、意味はありそうに思われた。
 やがて解るということであった。押して訊こうとはしなかったが、
「それに致しましてもお組の源女と、その源女のうたう歌と、先生とのご関係を承《うけたま》わりたいもので」
 以前から疑問に思っていたことを、浪之助は熱心に訊いた。
 その浪之助は以前においては、まさしく源女の愛人であった。がその源女が今度逢ってみれば、変わった性格となって居り、不思議な病気を持って居り、妙な歌を口吟《くちずさ》むばかりか、要介などという人物が、保護する人間となっていたので、浮いた恋、稀薄の愛、そのようなものは注がないこととし、ほんの友人のように交際《つきあ》って来たところ、その源女は上尾街道で、過ぐる日行なわれた林蔵と猪之松との果し合いの際|行方《ゆくえ》不明となり、爾来姿を見せなくなっていた。
 浪之助も勿論心にかけたが、要介のかけ方は一層で、
「あの日たしかに大薮の陰で、源女殿の歌声を耳にした。が、果し合いを引き分けおいて、急いで行って探した時には、もう源女殿はいなかった。どこにどうしていることやら」と、今日までも云いつづけて来たことであった。
「源女殿とわしとの関係か。さようさな、もう話してもよかろう」
 要介はいつになくこだわら[#「こだわら」に傍点]なかった。しかししばらく沈思していた。久しく聞きたいと希望していた、秘密の話が聞かれるのである。浪之助は思わず居住いを正し、緊張せざるを得なかった。
 中庭に小広い泉水があり、鯉が幾尾か泳いでいたが、時々水面へ飛び上った。それが田舎の古い旅籠屋の、昼の静かさを破壊するところの、たった一つの音であった。
 と、要介は話し出した。
「武蔵という国は承知でもあろうが、源氏にとっては由縁《ゆかり》の深い土地だ。源氏の発祥地ともいうべき土地だ。ここから源氏の諸豪族が起こった。秩父庄司《ちちぶしょうじ》、畠山重忠《はたけやましげただ》、熊谷次郎直実《くまがいじろうなおざね》等、いずれも武蔵から蹶起した武将だ。……がわしにかかわる[#「かかわる」に傍点]事件は、もっと昔に遡らなければならない。……これは誰もが承知していることだが、後冷泉天皇の御宇《ぎょう》にあって、奥州の酋長|阿部《あべ》の頼時《よりとき》が、貞任《さだとう》、宗任《むねとう》の二子と共に、朝廷に背いて不逞を逞ましゅうした、それを征したのが源|頼義《よりよし》、そうしてその子の八幡太郎義家――さてこの二人だが奥州征めの往来に、武蔵の国にとどまった。今日の国分寺村の国分寺、さよう、その頃には立派な寺院で、堂塔伽藍聳えていたそうじゃが、その国分寺へとどまった……ところが止まったばかりでなく、前九年の役が終了した際、奥州産の莫大な黄金、それを携えて帰って来、それを国分寺の境内に、ひそかに埋めたということじゃ。それには深い訳がある」
 こう話して来て要介は、またしばらく沈思した。


 要介はポツポツ話し出した。
「源氏は東国を根拠とすべし。根拠とするには金が必要だ。これをもってここへ金を埋めて置く。この金を利用して根を張るべし。――といったような考えから、金を埋めたということだ。……その後この地武蔵において、いろいろさまざまの合戦が起こったが、埋めてあるその金を利用したものが、いつも勝ったということじゃ。ところがそのつど利用したものは、他の者に利用されまいとして、残った金を別の所へ、いつも埋め代えたということじゃ。……治承《じしょう》四年十月の候、源頼朝が府中の南、分倍河原《ぶばいがわら》に関八州の兵を、雲霞の如くに集めたが、その時の費用もその金であり、ずっと下って南北朝時代となり、元弘《げんこう》三年新田義貞卿が、北條高時を滅ぼすべく、鎌倉に兵を進めようとし、分倍河原に屯して、北條泰家と合戦したが、その時も義貞は源氏というところから、その金を利用したという事じゃ。正平《しょうへい》七年十二月十九日、新田|義宗《よしむね》南軍を率い、足利尊氏を狩野河《こうのかわ》に討つべく、武蔵の国に入ったところ、尊氏すでに狩野河を発し、谷口から府中に入り、人見原《ひとみはら》にて激戦したが、義宗破れて入間川《いるまがわ》に退き、二十八日|小手差原《こてさしはら》にて戦い、ふたたび破れて退いたが、この時は足利尊氏が、これも源氏というところから、その金を利用したということじゃ。更に下って足利時代に入り、鎌倉の公方足利成氏、管領上杉|憲忠《のりただ》を殺した。憲忠の家臣長尾|景晴《かげはる》、これを怒って手兵を率い、立川原で成氏と戦い、大いに成氏を破ったが、この時はその金を景晴が利用し、その後その金を用いた者で、史上有名の人物といえば、布衣《ふい》から起こって関八州を領した、彼の小田原《おだわら》の北條|早雲《そううん》、武蔵七党の随一と云われた、立川宗恒《たてかわむねつね》、同恒成、足利学校の創立者、武人《ぶじん》で学者の上杉|憲実《のりざね》。……ところがそれが時代が移って、豊臣氏となり当代となり――即ち徳川氏となってからは、その金を利用した誰もなく、金の埋没地も不明となり、わずかにこの地方秩父地方において『秩父の郡小川村、逸見様庭の桧の根、昔はあったということじゃ……』という、手毬唄に名残をとどめているばかりじゃ。……」
 ここまで云って来て要介は、不意に沈黙をしてしまった。
 じっと聞いていた浪之助の、緊張の度が加わった。
 源女のうたう不可解の歌が、金に関係あるということは、朧気ながらも感じていたが、そんな歴史上の合戦や人物に、深い関係があろうなどとは、夢にも想像しなかったからである。
(これは問題が大きいぞ)
 それだけに興味も加わって、固唾を呑むという心持! それでじっと待っていた。
 要介は語りついだ。
「あの歌の意味は簡単じゃ。今話した例の金が、武蔵秩父郡小川村の逸見《へんみ》家の庭にある桧の木の根元に、昔は埋めてあったそうさな。――という意味に他ならない。逸見家というのは云う迄もなく、逸見多四郎殿の家の事じゃ。……その逸見家は何者かというに、甲斐源氏《かいげんじ》の流を汲んだ、武州無双の名家で旧家、甲源一刀流の宗家だが、甲源の文字もそこから来ている。即ち甲斐源氏という意味なのじゃ」


 要介は語りつづけた。
「歌もそこ迄なら何でもないのじゃ。というのは普通の手毬歌として、秩父地方の人々は、昔から知っているのだからな。ところがどうだろう源女殿だけが、その後の文句を知っている『今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の……それから少し間が切れて――秣の山や底無しの、川の中地の岩窟の……という文句を知っている。そこへわし[#「わし」に傍点]は眼をつけたのじゃ。頼義《よりよし》、義家が埋めたという金は、その後の歌にうたわれている境地に、今は埋めてあるのだろう。それにしても源女殿はどこでどうしてその後の歌を覚えたかとな。で源女殿へ訊いて見た。その返辞が洵《まこと》に妙じゃ。大森林や大渓谷や、大きな屋敷や大斜面や、そういう物のある山の奥の、たくさんの馬や馬飼のいる所へ、いつぞや妾《わたし》は行ったような気がする。そこでその歌を覚えたような気がする。でもハッキリとは覚えていない。勿論そこがどこであるかも知らない。――という曖昧の返辞なのだ。その上|其方《そち》も知っている通り、源女殿は時々発作を起こす。……で、わしはいろいろの医者へ、源女殿の様態を診て貰ったところ、一人柳営お抱えの洋医、平賀|杏里《きょうり》殿がこういうことを云われた。――非常に恐ろしい境地へ行き、非常に烈しい刺激を受け、精神的に大打撃を受け、その結果大熱を体に発し、一月とか二月とかの長い間、人事不省になっていた者は、その間のことはいうまでもなく、それ以前の事もある程度まで、全然忘却してしまうということが往々にあるが、源女殿の場合がそうらしい。が、源女殿をその境地へ、もう一度連れて行けば思い出すし、事実その境地へ行かずとも、その境地と酷似している境地へ、源女殿を置くことが出来たなら、忘却していた過去のことを、卒然と記憶に返すであろうと。……しかし源女殿をその境地へ、連れて行くということは出来難い。その境地が不明なのだから。同じような境地へ源女殿を置く。ということもむずかしい。どんな境地かということを、わし[#「わし」に傍点]は確実に知らないのだから。……しかしわし[#「わし」に傍点]はこう思った。あの歌の前半の歌われている、秩父地方へ出かけて行って、気長く源女殿をそこに住ませて、源女殿の様子を見守っていたら、何か暗示を得ようもしれないとな。そこでお連れして来たのだが。……しかるに源女殿のそういう秘密を、わし[#「わし」に傍点]の外にもう一人、同じように知っている者がある。他でもない水品陣十郎じゃ」
 こう云って来て要介は、眉をひそめて沈黙した。
 剣鬼のような吸血鬼のような、陣十郎という男のことを、思い出すことの不愉快さ、それを露骨に現わさしたところの、それは気|不味《まず》い[#「不味《まず》い」は底本では「不味《まずい》い」]沈黙であった。
 浪之助も陣十郎は嫌いであり、嫌い以上に恐ろしくもあり、口に出すことさえ厭であったが、しかし源女や要介が、どういう関係からあの吸血鬼と、知り合いになったかということについては、窺い知りたく思っていた。
 それがどうやら知れそうであった。
 そこで更に固唾を呑む気持で、要介の語るのを待ち構えた。


「今から十月ほど前であったよ」と、要介は話をつづけ出した。
「信濃方面へ旅をした。武術の修行というのではなく、例によっての風来坊、漫然と旅をしたまでだが沓掛《くつかけ》の宿で一夜泊まった。明月の夜であったので、わしは宿《やど》を出て宿《しゅく》を歩き、つい宿外れまでさまよって行った。と、歌声が聞こえてきた。云うまでも[#「云うまでも」は底本では「云までも」]なく例の歌さ。はてなと思って足を止めると、狂乱じみた若い女が、その歌をうたって歩いて来る。と、その後から一人の武士が、急ぎ足で追いついたが、やにわに女を蹴倒すと、踏む撲るの乱暴狼藉『汝《おのれ》逃げようとて逃がそうや』こう言っての乱暴狼藉! その瞬間女は正気づいたらしく、刎ね起きると拙者を認め、走り寄って縋りつき、お助け下されと申すのじゃ。心得たりと進み出て、月明で武士を見れば、以前樋口十郎左衛門殿方で、立合ったことのある水品陣十郎! 先方も拙者を認めたと見え、しかも形勢非なりと知ったか、『秋山殿でござったか、その女は源女と申し、発狂の女芸人、拙者故あって今日まで、保護を加えて参りましたが、お望みならば貴殿に譲る』と、このようなヘラズ口をきいたあげく、匆慌《そうこう》として立ち去ったので、源女殿を宿へ連れて参り、事情を詳しく訊いたところ、江戸両国の曲独楽の太夫、養母というものに悪婆あって長崎の異人に妾《めかけ》に出そうという。それを避けて旅へ出で、ある山国へ巡業したところ、大森林、大傾斜、百千頭も馬のいるところ、そういう所の大きな屋敷へ、どういう訳でか連れて行かれた。そうしてそこで恐ろしい目に逢い、妾《わたし》は正気を失ったらしい。正気づいて見れば陣十郎という男が、妾の側に附いていて、それ以来ずっとその男が、あらゆる圧迫と虐待とを加え、妾にその土地へ連れて行け、お前の謡う歌にある土地へ、連れて行けと云って強いに強い、爾来その男に諸々方々を、連れ歩かれたとこう云うのじゃ。……それからわし[#「わし」に傍点]は源女殿を連れて、江戸へ帰って屋敷へ置いたが、そこは女芸人のことで、もう一度舞台に出たいという。そこで元の座へ出したところ、陣十郎に見付けられ、貴殿などとも知り合うようになった。……」
「よく解《わか》りましてござります」
 要介の長い話を聞き、浪之助はこれまでの疑問を融かした。
「と致しますと陣十郎も、例の黄金の伝説的秘密を、承知いたして居りまして、それを探り出そうと心掛け、源女を抑えて居りましたので……」
「さよう」と要介は頷いて云った「逸見多四郎殿の門弟として、秩父地方に永らく居た彼、黄金の秘密は知悉しているはずじゃ」
 この時部屋の外の廊下に、つつましい人の足音がし、
「ご免下され」という男の声がし、襖が開いて小紅屋の主人が、恭しくかしこまった顔を出し、
「逸見の殿様お越しにござります。へい」と云って頭を下げた。
 見れば主人の背後にあたって、威厳のある初老の立派な武士が、気軽にニコヤカに微笑しながら、部屋を覗くようにして立っていた。
「逸見多四郎参上いたしました」


「や、これは!」とさすがの要介も、郷士ながらも所の領主、松平|大和守《やまとのかみ》には客分にあつかわれ、新羅《しんら》三郎|義光《よしみつ》の後胤甲斐源氏の名門であり、剣を取らせては海内の名人、しかも家計は豊かであって、倉入り千俵と云われて居り、門弟の数|大略《おおよそ》二千、そういう人物の逸見多四郎が、気軽にこのような旅籠屋などへ、それも留守の間に道場の看板、門の大札[#「大札」は底本では「大礼」]を外して行ったところの、要介を訪ねて来ようなどとは、要介本人思いもしなかったところへ、そのように気軽に訪ねて来られたので、さすがに驚いて立ち上った。
「これはこれは逸見先生、わざわざご来訪下されましたか。いざまずこれへ! これへ!」
「しからばご免」と仙台平の袴に、黒羽二重の衣裳羽織、威厳を保った多四郎は、静かに部屋の中へ入って来た。
 座が定《き》まってさて挨拶! という時に要介の機転、床の間に立ててあった例の門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、恭しく抱えて持って来るや、前へ差し出しその前に坐り、
「実は其《それがし》先生お屋敷へ、本日参上いたしましたところ、江戸へ参ってご不在との御事。と、いつもの悪い癖が――酔興とでも申しましょうか、悪い癖がムラムラと起こりまして、少しく無礼とは存じましたが、門弟の方へ一応断わり、この大門札[#「門札」は底本では「門礼」]ひき外し、旅舎まで持参いたしました、がしかし決して粗末にはいたさず、床の間へ立てかけ見事の筆蹟を、打ち眺め居りましてござります。が、それにしてもこの門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、ひき外し持参いたしましたればこそ、かかる旅舎などへ先生ほどのお方を、お招きすること出来ました次第、その術策|的中《あた》りましてござるよ。ハッハッハッ」と笑ったが、それは爽かな笑いでもあった。
 と、多四郎もそれに合わせ、こだわらぬ爽かな笑い声を立てたが、
「その儀でござる、実は其《それがし》所用あって江戸へ参り、三日不在いたしまして、先刻帰宅いたしましたところ、ご高名の秋山先生が、不在中三回もお訪ね下され、三回目の本日門の札を[#「札を」は底本では「礼を」]、ひき外しお持ちかえりなされたとのこと、門弟の一人より承《うけたま》わり、三回のご来訪に恐縮いたし、留守を申し訳なく存じますと共に、その門弟へ申したような次第――、門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]外して持ち去った仁、秋山要介先生でよかった。他の仁ならこの多四郎、決して生かして置きませぬ。秋山要介先生でよかった。その秋山先生は、奇嬌洒脱の面白い方じゃ、いまだ一度もお目にかからぬが、勇ましいお噂は承って居る。五百石といえば堂々たる知行、その知行取りの剣道指南役の、嫡男の身に産れながら、家督を取らず浪人し、遊侠の徒と交際《まじわ》られ、権威に屈せず武威に恐れず、富に阿《おも》ねらず貧に恥じず、天空海濶に振舞われる当代での英傑であろう。門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]持って行かれたも、単なる風狂に相違ない。宿の小紅屋に居られるなら、早速参ってお目にかかろうとな。――そこで参上いたしたような次第、お目にかかれて幸甚でござった」
「杉氏どうじゃな」と要介は、浪之助の方へ声をかけた。


「人物は人物を見抜くと云ったが、どうじゃ杉氏、その通りであろう」
 こう云ったがさらに要介は、多四郎の方へ顔を向け、
「ここに居られるは杉浪之助殿|某《それがし》の知己友人でござる。門札[#「門札」は底本では「門礼」]外して持ち参ったことを、ひどく心配いたしましたについて、いや拙者だからそれはよい、余人ならばよろしくないと云うことは逸見先生もご存知、人物は人物を見抜くものじゃと、今し方申して居りました所で、……杉氏何と思われるな?」
「ぼんやり致しましてござります」
 浪之助はこう云うと、恰も夢から醒めたように、眼を大きくして溜息を吐いた。
「鳳凰《ほうおう》と麒麟《きりん》! 鳳凰と麒麟! 名優同志の芝居のようで。見事のご対談でございますなあ」
 逸見多四郎がやって来た! さあ大変! 凄いことが起こるぞ! 激論! 無礼咎め! 切合い! 切合い! と、その瞬間思ったところ、事は全く反対となり、秋山先生で先ずよかった! ……ということになってしまい、十年の知己ででもあるかのように、笑い合い和み合い尊敬し合っている。で浪之助は恍惚《うっとり》として、両雄の対談を聞いていたのであった。
「酒だ」と要介は朗かに云った。
「頼みある兵《つわもの》の交際に、酒がなくては物足りぬ。酒だ! 飲もう! 浪之助殿、手を拍って女中をお呼び下され!」
「いや」と多四郎は手を振って止めた。
「酒も飲みましょう。がしかし、酒は場所を変えて飲みましょう」
「場所を変えて? はてどこへ?」
「拙者の屋敷で。……云うまでもござらぬ」
「要介のまかり在るこの屋敷、さてはお気に入らぬそうな」
「いやいや決して、そういう訳ではござらぬ。……が、最初にご貴殿において、お訪ね下されたのが拙者の屋敷、言って見れば先口で。……ではその方で飲むのが至当。……」
「ははあなるほど、それもそうじゃ」
「ということと存じましたれば、駕籠を釣らせてお宿の前まで、既に参って居りますので」
「それはそれはお手廻しのよいこと。……がしかし拙者といたしましては、ご貴殿のお屋敷におきましては、酒いただくより木刀をもって、剣道のご指南こそ望ましいのでござる」
「云うまでもござらぬ剣道の試合も、いたしますでござりましょう」
「その試合じゃが逸見先生、尋常の試合ではござらぬぞ」
「と申してまさかに真剣の……」
「なんのなんの真剣など。……実は賭試合がいたしたいので」
「ナニ賭試合? これは面妖! 市井の無頼の剣術使いどもが、生活《くらし》のために致すような、そのような下等の賭試合など……」
「賭る物が異《ちが》ってござる」
「なるほど。で、賭物は?」
「拙者においては赤尾の林蔵!」
「赤尾の林蔵を? 赤尾の林蔵を? ふうん!」と云ったが多四郎は、じっと要介の顔を見詰めた。


「博徒ながらも林蔵は、拙者の剣道の弟子でござる」
 要介はそう云って意味ありそうに、多四郎の顔を熟視した。
「その林蔵をお賭になる。……では拙者は何者を?」
 いささか不安そうに多四郎は云って、これも要介を意味ありそうに見詰めた。
「高萩村の猪之松を、お賭下さらば本望でござる」
「彼は拙者の剣道の弟子……」
「で、彼をお賭け下され」
「賭けて勝負をして?」
「拙者が勝てば赤尾の林蔵を、関東一の貸元になすべく、高萩村の猪之松を、林蔵に臣事いたさせ下され」
「拙者が勝たば赤尾の林蔵を、高萩の猪之松に従わせ、猪之松をして関東一の……」
「大貸元にさせましょう」
「ははあそのための賭試合?」
「弟子は可愛いものでござる」
「なるほどな」と多四郎は云ったが、そのまま沈黙して考え込んでしまった。
 林蔵と猪之松とが常日頃から、勢力争いをしていることは、多四郎といえども知っていた。その争いが激甚となり、早晩力と力とをもって、正面衝突しなければなるまい――という所まで競り詰めて来ている。ということも伝聞していた。とはいえそのため秋山要介という、一大剣豪が現われて、師弟のつながりを縁にして、自分に試合を申し込み、その勝敗で二人の博徒の、勢力争いを解決しようなどと、そのような事件が起ころうなどとは、夢にも思いはしなかった。
(何ということだ!)と先ず思った。
(さてどうしたものだろう?)
 とは云え自分も弟子は可愛い、成ろうことなら林蔵を挫いて、猪之松を大貸元にしてやりたい。
(では)と思わざるを得なかった。
(では要介の申し込みに応じ、賭試合を行ない打ち勝ってやろう)
 腹が決まると堂々たるもので、逸見多四郎は毅然として云った。
「賭試合承知いたしてござる。しからば直ちに拙者屋敷に参り、道場においてお手合わせ、試合いたすでござりましょう」
「欣快」
 要介は立ち上った。
「杉氏、貴殿もおいでなされ」
 三人揃って部屋を出た。

 逸見多四郎家のここは道場。――
 竹刀《しない》ではない木刀であった。
 要介と多四郎とは構えていた。
 一本勝負!
 そう定められていた。
 二人ながら中段の構え!
 今、シ――ンと静かである。
 かかる試合に見物は無用と、通いの門弟も内門弟も、一切退けてのただ二人だけ! いや他に杉浪之助と、要介の訪問に応待に出た、先刻の若侍とが道場の隅に、つつましく控えて見守っていた。

10
 見霞むばかりの大道場、高く造られある正面は、師範の控える席であり、それに向かって左の板壁には、竹刀《しない》、木刀、槍、薙刀《なぎなた》、面、胴、籠手の道具類が、棚に整然と置かれてあり、左の板壁には段位を分けた、漆塗りの名札がかけてあった。
 塵もとどめぬ板敷は、から[#「から」に傍点]拭きされて鏡のように光り、おりから羽目板の隙間から、横射しに射して来た日の光りが、そこへ琥珀色の棒縞を織り、その空間の光の圏内に、ポッと立っている幽かな塵埃《ほこり》は、薄い煙か紗のようであった。
 互いに中段に位取って動かぬ、要介と多四郎は広い道場の、中央に居るところから、道場の端に腰板を背にして、端座している浪之助から見ると、人形のように小さく見えた。
 おおよそ六尺の間隔を保ち、互いに切先を相手の眉間へ、ピタリと差し付けて構えたまま、容易に動こうとはしなかった。
 道具を着けず木刀にての試合に、まさに真剣の立合いと、何の異なるところもなく、赤樫蛤刃《あかがしはまぐりは》の木刀は、そのまま真《まこと》の剣であり、名人の打った一打ちが、急所へ入らば致命傷、命を落とすか不具《ふぐ》になるか、二者一つに定《き》まっていた。
 とはいえ互いに怨みあっての、遺恨の試合というのではなく、互いの門弟を引っ立てようための義理と人情とにからまった、名人と名人との試合であった。自然態度に品位があり、無理に勝とうの邪心がなく、闘志の中に礼譲を持った、すがすがしい理想的の試合であった。
 今の時間にして二十分、構えたままで動かなかった。
 掛声一つかけようとしない。
 掛声にも三通りある。
 追い込んだ場合に掛ける声。相手が撃って出ようとする、その機を挫《くじ》いて掛ける声、一打ち打って勝利を得、しかも相手がその後に出でて、撃って来ようとする機を制し、打たせぬために掛ける声。
 この三通りの掛声がある。
 しかるに二人のこの試合、追い込み得べき機会などなく、撃って出ようとするような、隙を互いに見せ合わず、まして一打ち打ち勝つという、そういうことなどは絶対になかった。
 で、二人ながら掛声もかけず、同じ位置で同じ構えで、とはいえ決して居附きはせず、腹と腹との業比べ、眼と眼との睨み合い、呼吸と呼吸との抑え合い、一方が切先を泳がせれば、他の一方がグッと挫き、一方が業をかけようとすれば、他の一方が先々ノ先で、しかも気をもって刎ね返す、……それが自ずと木刀に伝わり、二本の木刀は命ある如く、絶えず幽かにしかし鋭く、上下に動き左右に揺れていた。
 更に長い時が経った。
 と、要介の右の足が、さながら磐石をも蹴破るてい[#「てい」に傍点]の、烈しさと強さと力とをもって、しかもゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]と充分に粘り、ソロリとばかり前へ出て、左足がそれに続いた。
 瞬間多四郎の左足が、ソロリとばかり後へ下り、右足がそれに続いた。
 で 間だ! 静止した。
 長い間! ……しかし……次の瞬間……ドドドドッという足音が響いた。

11
 奔流のように突き進む要介!
 追われて後へ退く多四郎!
 ドドドドッという二人の足音!
 見よ、その速さ、その鋭さ!
 あッ、多四郎は道場の端、板壁へまで追い詰められ、背中を板壁へあてたまま、もう退けない立ち縮んだ。
 その正面へ宛然《さながら》巨岩、立ちふさがったは要介であった。
 勝負あった!
 勝ちは要介!
 非ず、見よ、次の瞬間、多四郎の胸大きく波打ち、双肩渦高く盛り上ると見るや、ヌッと一足前へ出た。
 と、一足要介は下った。
 多四郎は二足ヌッと出た。
 要介は退いた。
 全く同じだ!
 ドドドドッという足音!
 突き進むは多四郎、退くは要介、たちまちにして形勢は一変し、今は要介押し返され、道場の破目板を背に負った。
 で、静止!
 しばらくの間!
 二本の剣が――木刀が、空を細かく細かく細かく、細かく細かく刻んでいる。
 多四郎勝ちか?
 追い詰め了《りょう》したか?
 否!
 ソロリと一足下った。
 追って要介が一足出た。
 粘りつ、ゆっくりと、鷺足さながら、ソロリ、ソロリ、ソロリ、ソロリと、二人は道場の中央まで出て来た。
 何ぞ変らざる姿勢と形勢と!
 全く以前と同じように、二人中段に構えたまま、見霞むばかりの大道場の、真中の辺りに人形のように小さく、寂然と立ち向かっているではないか。
 さすがに二人の面上には、流るる汗顎までしたたり、血上って顔色朱の如く、呼吸は荒くはずんでいた。
 窒息的なこの光景!
 なおつづく勝負であった。
 試合はつづけられて行かなければならない。
 が、忽然そのおりから、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秩父の郡《こおり》
小川村
逸見様庭の
桧の根
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 と、女の歌声が道場の外、庭の方から聞こえてきた。
「しばらく!」と途端に叫んだ要介、二間あまりスルスルと下ると、木刀を下げ耳を澄ました。
「…………」
 審かしそうに体を斜めに、しかし獲物は残心に、油断なく構えた逸見多四郎、
「いかがなされた、秋山氏?」
「あの歌声は? ……歌声の主は?」
「ここに控え居る東馬共々、数日前に、絹川において、某《それがし》釣魚《ちょうぎょ》いたせし際、古船に乗って正体失い、流れ来たった女がござった[#「ござった」は底本では「ごさった」]。……助けて屋敷へ連れ参ったが、ただ今の歌の主でござる」

12
「名は? 源女! お組の源女! ……と申しはいたしませぬか?」
「よくご存知、その通りじゃ」
「やっぱりそうか! そうでござったか! ……有難し、まさしく天の賜物! ……その女こそこの要介仔細ござって久しい前より、保護を加え養い居る者、過日上尾の街道附近で、見失い失望いたし居りましたが、貴殿お助け下されたか。……源女拙者にお渡し下され」
「ならぬ!」と多四郎ニベもなく云った。
「源女決して渡すことならぬ!」
「理由は? 理由は? 逸見氏?」
「理由は歌じゃ、源女の歌う歌じゃ!」
「…………」
「今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の……後にも数句ござったが、この歌を歌う源女という女子、拙者必要、必要でござる!」
「なるほど」と要介は頷いて云った。
「貴殿のお家に、逸見家に、因縁最も深き歌、その歌をうたう源女という女、なるほど必要ござろうのう……伝説にある埋もれたる黄金、それを掘り出すには屈竟の手蔓……」
「では貴殿におかれても?」
「御意、さればこそ源女をこれ迄……」
「と知ってはいよいよ源女という女子《おなご》、お渡しいたすことなりませぬ」
「さりながら本来拙者が保護して……」
「過ぐる日まではな。がその後、見失いましたは縁無き證拠。……助けて拙者手に入れたからは、今は拙者のものでござる」
「源女を手蔓に埋もれし黄金を、では貴殿にはお探しなさるお気か?」
「その通り、云うまでもござらぬ」
「では拙者の競争相手!」
「止むを得ませぬ、因縁でござろう」
「二重に怨みを結びましたな!」
「ナニ怨みを? 二重に怨みを?」
「今は怨みと申してよかろう! ……一つは門弟に関する怨み、その二は源女に関する怨み!」
「それとても止むを得ぬ儀」
「用心なされ逸見氏、拙者必ず源女を手に入れ、埋もれし黄金も手に入れましょう」
「出来ましたなら、おやりなされい!」
「用心なされ逸見氏、源女を手に入れ埋もれし黄金を、探し出だそうと企て居る者、二人以外にもござる程に!」
「二人以外に? 誰じゃそ奴?」
「貴殿の門弟、水品陣十郎!」
「おお陣十郎! おお彼奴《きゃつ》か! ……弟子ながらも稀代の使い手、しかも悪剣『逆ノ車』の、創始者にして恐ろしい奴。……彼奴の悪剣を破る業、見出だそうとこの日頃苦心していたが、彼奴が彼奴が源女と黄金を……」
「逸見氏、お暇申す」
「勝負は? 秋山氏、今日の勝負は?」
「アッハハ、後日真剣で!」

因果な恋


 高萩村の村外れに、秩父|香具師《やし》の部落があり、「|刃ノ郷《やいばのごう》」と称していた。三十軒ほどの人家があり、女や子供や老人などを入れ、百五十人ほどの半農半香具師が、一致団結して住んでいた。
 郷に一朝事が起こり、合図《しらせ》の竹法螺がボーッと鳴ると、一切の仕事を差し置いて、集まるということになっていた。
 弁三爺さんという香具師の家は、この郷の片隅にあった。
 茅葺の屋根、槇の生垣、小広い前庭と裏の庭、主屋、物置、納屋等々、一般の農家と変わりのない家作、――ただし床ノ間に鳥銃一挺、そうして壁に半弓一張、そういう武器が懸けてあるのは、本来が野士といって武士の名残――わけても秩父香具師は源氏の正統、悪源太義平から来ていると、自他共に信じているそれだけあって、普通の農家と異《ちが》っていた。
 秋山要介と逸見多四郎とが、多四郎の道場で、木刀を交した、その日から数日経過したある日の、こころよく晴れた綺麗な午後、ここの庭に柿の葉が散っていた。
 その葉の散るのをうるさ[#「うるさ」に傍点]そうに払って、お妻が庭へ入って来た。
「いい天気ね、弁三爺さん」
 母屋の縁側に円座を敷き、その上に坐って憂鬱の顔をし、膏薬を練っていた弁三爺さんは、そう云われてお妻の顔を見た。
「よいお天気でございますとも……へい、さようで、よいお天気で」
 ――そこで又ムッツリと家伝の膏薬を、節立った手で練り出した。
 お妻は眉をひそめて見せたが、
「日和が続いていい気持だのに、爺つぁんはいつも不機嫌そうね」
「へい、不機嫌でございますとも、倅が江戸へ出て行ったまま、帰って来ないのでございますからな」
「またそれをお云いなのかえ。ナーニそのうち帰って来るよ」とは云ったものの殺された倅、弁太郎が何で帰るものかと、心の中で思っているのであった。
(あの人を殺したのは陣十郎だし、殺すように進めたのは妾だったっけ)
 こう思えばさすがに厭な気がした。
 まだお妻がそんな邯鄲師《かんたんし》などにならず、この郷に平凡にくらしていた頃から、弁太郎はひどくお妻を恋し、つけつ[#「つけつ」に傍点]廻しつして口説いたものであった。その後お妻は故郷を出て、今のような身の上になってしまった。と、ヒョッコリ[#「ヒョッコリ」は底本では「ヒョッコり」]弁太郎が、膏薬売となって江戸へ出て来、バッタリお妻と顔を合わせた。爾来弁太郎は附き纏い、長い間の恋を遂げようとし、お妻の現在の身分も探ぐり、恋遂げさせねば官に訴え、女邯鄲師として縄目の恥を、与えようなどと脅迫さえした。お妻は内心セセラ笑ったが、うるさいから眠らせてしまおうよ、こう思って情夫の陣十郎へケシカケ、一夜お茶ノ水へ引っ張り出し、一刀に切らせてしまったのであった。
 杉浪之助が源女の小屋から、自宅へ帰る途中《みちすが》らに見た、香具師の死骸は弁太郎なのであった。
「爺つぁん、主水さんのご機嫌はどう?」お妻は話を横へそらせた。


「あのお方もご下手切り! こいつだけは受けられない、ダーッとドップリ胴へ入るだろう! と、完全の胴輪切り!
 その序の業が行なわれた。
 釣られた釣られた主水は釣られた! あッ、踏み出して切り込んだ。
 一閃!
 返った!
 陣十郎の刀が、軽く宙で車に返った!
 ハ――ッと主水! きわどく反わせたが……
 駄目だ!
 見よ!
 次の瞬間!
 さながら怒濤の寄せるが如く、刀を返しての大下手切りだ――ッ!
「ワッ」
 悲鳴!
 血煙!
 血煙!
 いやその間に、一髪の間に――大下手切りの行なわれる、前一髪の際どい間に……
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秩父の郡《こおり》、小川村、
逸見《へんみ》様庭の桧の根
[#ここで字下げ終わり]
 そういう女の歌声が、手近かの所から聞こえてきた。
「あッ」と陣十郎は刀を引き、タジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]と数歩背後へ下った。


 無心に歌をうたいながら、源女は大薮の中にいた。
 いつも時々起こる発作が、昨夜源女の身に起こった。そこでほとんど夢遊病患者のように、赤尾村の林蔵の家を脱け出し、どこをどう歩いたか自分でも知らず、この辺りまで彷徨《さまよ》って来、この大薮で一夜を明かし、たった今眼醒めたところであった。
 まだ彼女の精神は、朦朧としていて正気ではなかった。
 島田の髷が崩れ傾《かしが》り、細い白い頸《うなじ》にかかってい、友禅模様の派手な衣裳が、紫地の博多の帯ともども、着崩れて痛々しい。素足に赤い鼻緒の草履を、片っぽだけ突っかけている。夜露に濡れたため衣裳はしおたれ[#「しおたれ」に傍点]、茨や木の枝にところどころ裂かれ、手足も胸元も薮蚊に刺され、あちこち血さえ出していた。
 そういう源女は身を横倒しにし、草の上に延びていた。秋草の花――桔梗や女郎花や、葛の花などが寝ている源女の、枕元や足下に咲いていた。栗色の兎がずっと離れた、萩の根元に一匹いて、源女の方を窺っていた。
 彼女の頭上にあるものといえば、樺や、柏や、櫟《くぬぎ》や、櫨《はぜ》などの、灌木や喬木の枝や葉であり、それらに取り縋り巻いている、山葡萄や蔦や葛であり、そうしてそれらの緑を貫き、わずかに幽かに隙《す》けて見える、朝の晴れた空であった。
 薮を透して日の光が、深い黄味を帯びて射し込んで来ていて、地上の草や周囲《まわり》の木々へ、明暗の斑《ふち》を織っていた。
 無心――というよりいつもいつも、心に執拗にこびりついている歌、例の歌を唄ってしまうと、彼女は恍惚《うっとり》と考え出した。こういう場合に彼女の脳裡へ、幻影のように浮かんで来るのは、大森林、大渓谷、大きな屋敷、大傾斜面、五百頭千頭もの放馬の群、それを乗り廻し追い廻し、飼養している無数の人、そうしてあたかも酒顛童子のような、長髪赧顔の怪異の老人――等々々のそれであった。
 しかし彼女はそういう所が、どこにあるかは知らなかった。そうしてどうしてそういう光景が、浮き出して来るかも知らなかった。とはいえ彼女はそういう光景の場所の、どこであるかを確かめなければならない、そうして是非ともその光景の場所へ、どうしても自身行かなければならないと、そんなように熱心に思うのであった。がそれとて自分自身のために、その場所を知ろうとするのでもなく、又行こうとするのでもなく、自分の難儀を救ってくれた人秋山要介という人のために、知りたい行きたいと思うのであった。
 浮かんで来る幻影を追いながら、今も彼女は思っていた。
(行かなければならない、さあ行こう!)
 で、彼女は立ち上った。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]昔はあったということじゃ
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 又彼女は口ずさんだ。
 そうして大薮を分けながら、大薮の外へ出ようとした。
 その大薮の外側には、以前から彼女を狙っている吸血鬼水品陣十郎が、抜身を提げて立っているはずである。

10
 後《あと》へ下った陣十郎は、刀を下段にダラリと下げ、それでも眼では油断なく、主水の眼を睨みつけ、歌主の在所《ありか》がどこであるかと、瞬間それについて考えた。
 周囲《あたり》には大薮があるばかりで、その他は展開《ひら》けた耕地であり、耕地には人影は見えなかった。
 声から云っても歌の性質《たち》から云っても、歌ったのは源女に相違ない。
 が、源女などはどこにもいない。
(さては自分の空耳かな?)
 それにしても余りに明かに、歌声は聞こえてきたではないか。
 源女だ源女だ歌ったのは源女だ!
 かつて一旦手に入れて、薬籠の物にしはしたが、その持っている一大秘密を、まだ発見しないうちに秋山要介に横取りされた女! お組の源女に相違ない!
 探して探して探し廻ったあげく、江戸は両国の曲独楽の席で、ゆくりなくも発見した。が、その直後に起こった事件――鴫澤庄右衛門を討ち果したことから、江戸にいられず旅に出たため、源女のその後の消息については、確かめることが出来なかった。
 その源女の歌声が、こんな所で聞こえたのであった。
(どうしたことだ? どうしたことだ?)
 不思議なことと云わなければならない。
(あの女を再び手に入れることが出来て、あの歌の意味を解くことが出来たら!)
 その時こそ運命が――解いた人の運命が、俄然とばかり一変し、栄耀栄華を尽くすことが出来、至極の歓楽を享けることが出来る!
(どうでもあの女を手に入れなければ!)
 だが彼女はどこにいるのだ?
 分を秒に割った短い間だ! 時間にして短いそういう間に、陣十郎の脳裡に起伏したのは、実にそういう考えであった。
 その間彼は放心状態にあった。
 何で主水が見逃がそうぞ!
 一気に盛り返した勇を揮い、奮然として切り込んだ。
 またも鏘然太刀音がした。
 放心状態にあったとはいえ、剣鬼さながらの陣十郎であった。何のムザムザ切られようぞ!
 受けて一合!
 つづいて飛び退いた、飛び退いた時にはもう正気だ! 正気以上に冴え切っていた。
(こやつを一気に片付けて、源女の在所《ありか》を突き止めなければならない!)
「ヤ――ッ!」と掛けた物凄い掛声!
 つづけて「ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ!」
 先々の先の手一杯! さながら有段者が初心者を相手に、稽古をつけるそれの如く、主水が撃とう切ろう突こうと、心組む心を未前[#「未前」はママ]に察し、その先その先その先と出て、追い立て切り立て突き立て進んだ。
 またもや主水は薮際まで詰められ、眼眩みながら薮の裾を、右手へわずか廻り込もうとした時、天運尽きたか木の根に躓《つまず》き、横倒れにドッと倒れた。
「くたばれ!」
 シ――ンと切り下した!

11
 シ――ンと切り下ろした陣十郎の刀が、仆れている主水を拝み打ちに、眉間から鼻柱まで割りつけようとした途端、日の光を貫いて小柄が一本、陣十郎の咽喉へ飛んで来た。
「あッ」と思わず声を上げ、胸を反らせた陣十郎は、あやうく難を免れたが、小柄の投げられた方角を見た。
 十数間のかなたから、一人の武士が走って来る。
「む!……秋山! ……秋山要介!」
 いかにも走って来るその武士は、今朝になって眼醒めて見れば、昨夜から発作を起こしていた源女が、どこへ行ったものか姿が見えず、それを案じて探すために、林蔵の家を立ち出で、ここまでやって来た秋山要介であり、見れば宿意ある水品陣十郎が、これも因縁《ゆかり》ある鴫澤主水を、まさに討って取ろうとしていた。間隔は遠い、間に合わない。そこで小柄を投げたのであった。
 小柄を投げて陣十郎の兇刃を、制して置いて秋山要介、飛燕の如く飛び込んで来た。
 が、陣十郎もただ者ではない、主水を相手に戦って、既に躰は疲労《つかれ》ていた。そこへ剣豪秋山要介に新規の力で出られては、百に一つの勝目はない。――と見て取るや刀を引き、鞘にも納めず下げたままで、耕地を一散に走って逃げた。
 と、瞬間飛び起きたは、無念残念返り討ちだと、一刹那覚悟して仆れていた主水で、
「秋山先生、お礼は後刻! ……汝、待て――ッ、水品陣十郎! ……遁してなろうか、父の敵!」と、身体綿の如く疲労して居り、剣技も陣十郎と比較しては、数段も劣って居り、追っかけ追い詰め戦ったところで、あるいは返り討ちになろうもしれないと、そういう不安もありながら、みすみす父の敵に逢い、巡り合って刀を交したのに、そうしてその敵が逃げて行くのに、そうして一旦逃がしてしまったなら、いつふたたび巡り逢えるやら不明と思えば追わずにいられなかった。
 で、主水は刀を振り振り、陣十郎を追いかけた。
「待たれい! 主水殿、鴫澤氏!」
 追いついてよしんば戦ったところで、陣十郎に主水が勝つはずはない、返り討ちは見たようなものだ――と知っている秋山要介は、驚いて大音に呼び止めた。
「長追いなさるな! お引き返しなされ! またの機会をお待ちなされ」
 しかし何のそれを聞こう! 主水はよろめきよろめきながら、走り走り走って行く。
(尋常の敵を討つのではなく、親の敵《かたき》を討つのであった。子とあってみれば返り討ちも承知で、追いかけ戦うのが本当であろう)
 気がついた秋山要介は、孝子《こうし》に犬死させたくない、ヨーシ、追いついて後見《うしろみ》してやろう! 助太刀してやろうと決心し、袴の股立取り上げた途端、
「セ、先生、秋山先生!」と、背後から息せき呼ぶ声がし、やにわに袖を掴まれた。
「誰だ!」と怒鳴って顔を見た。
 林蔵の乾兒の藤作であった。

12
「おお藤作、どうしたのだ?」
「タ、大変で……オ、親分が!」
「なに親分が? 林蔵がか?」
「へい、林蔵親分が、カ、街道で、あそこの街道で……タ、高萩の猪之松と……」
「うむ、高萩の猪之松と[#「猪之松と」は底本では「猪の松と」]?」
「ハ、果し合いだい、果し合いだい!」
「む――」と呻くと振り返り、要介は街道の方角を見た。
 旅人や百姓の群であろう、遠巻にして街道に屯し、じっと一所を見ている光景が、要介の眼に鮮かに見えた。彼等の見ている一所で、林蔵は怨ある猪之松と、果し合いをしているのであろう。要介も以前から林蔵と猪之松とが、勢力争い激甚であり、一度は雌雄を決するてい[#「てい」に傍点]の、真剣の切り合いをやるべきことを、いろいろの事情から知っていた。
(これはうっちゃって置かれない。林蔵を見殺しにすることは出来ない。聞けば高萩の猪之松は、逸見《へんみ》多四郎から教えを受け、甲源一刀流では使い手とのこと、林蔵といえどもこの拙者が、新影流は十分仕込んで置いた。負ける気遣いもあるまいが、もしも負れば師匠たる拙者の、恥にならないものでもない。林蔵と猪之松との果し合い、考えようによれば逸見多四郎と、この秋山要介との、果し合いと云うことにもなる。これはうっちゃっては置かれない)
「行こう、藤作!」と叫んだが、
(主水氏は?)とこれも気になり、走って行った方へ眼をやった。
 広い耕地をよろめきよろめき、陣十郎の後を追い、なお主水は走っていた。
(一人で行ったら返り討ち、陣十郎に討たれるであろう。……惜しい武士! 気の毒な武士! ……どうでも助太刀してやらねば……)
 ――が、そっちへ身を挺したら、林蔵はどういう運命になるか?
(どうしたら可《よ》いか? どうしたものだ?)
 知らぬ藤作は急き立てた。
「先生、早く、行っておくんなせえ! ……云いたいことはたくさんあるんで……第一女が誘拐《かどわか》されたんで……若い女が、綺麗な女が……誘拐した野郎は猪之松の乾兒と、その相棒の馬方なんで……最初《はな》は俺らと杉さんとで……へい、そうで浪之助さんとで、その女を助けたんですが……逃げた八五郎め馬方を連れて、盛り返して来てその女を……その時浪之助さんは留守だったんで……いやいやそんなこと! ……行っておくんなせえ、さあ先生! 親分が大変なんだ猪之松の野郎と! ……」
(行かなければならない!)と要介も思った。
(鴫澤氏は赤の他人、少くも縁は極めて薄い。林蔵の方は俺の弟子、しかも現在この俺は、林蔵の家に世話になっている。深い縁がある、他人ではない。……その林蔵を見殺しには出来ない! 行こう! しかし、そうだしかし、主水殿もお気の毒な! では、せめて言葉の助太刀!)
 そこで要介は主水の方に向かい、大音をもって呼びかけた。

13
「鴫澤《しぎさわ》氏、主水殿! 敵水品陣十郎を追い詰め、見事に復讐をお遂げなされ! 拙者、要介、秋山要介、貴殿の身辺に引き添って、貴殿あやうしと見て取るや、出でて、必ずお助太刀いたす! ……心丈夫にお持ちなされい! ……これで可《よ》い、さあ行こう!」
 街道目掛けて走り出した時、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]今は変わって千の馬
五百の馬の馬飼の
[#ここで字下げ終わり]
 と、聞き覚えある源女の声で、手近で歌うのが聞こえてきた。
「や、……歌声! ……源女の歌声!」
 要介は足を釘づけにした。
 探していた源女の歌声が、手近の所から聞こえてきたのであった。足を止めたのは当然といえよう。
「源女殿! お組殿!」
 思わず大声で呼ばわって、要介は四辺《あたり》を忙《せわ》しく見た。
 丘、小山とでも云いたいほどに、うず高く聳えている薮以外には、打ち開けた耕地ばかりで、眼を遮る何物もなかった。
(不思議だな、どうしたことだ。……歌声は空耳であったのか?)
 陣十郎の感じたようなことを、要介も感ぜざるを得なかった。
「先生、どうしたんですい、行っておくんなせえ」
 要介に足を止められて、胆を潰した藤作が怒鳴った。
「第一先生がこんな方角へ、トッ走って来たのが間違いだ。俺ら向こうで見ていたんで。すると先生の姿が見えた。しめた、先生がやって来た、林蔵親分に味方して、猪之松を叩っ切って下さるだろう。――と思ったら勘違いで、こんな薮陰へ来てしまった。そこで俺ら迎えに来たんだが、その俺らと来たひ[#「ひ」に傍点]には、ミジメさったら[#「ミジメさったら」は底本では「ミヂメさったら」]ありゃアしない。馬方に土をぶっかけられたんで。と云うのも杉さんがいなかったんで。その杉さんはどうしたかというに、誘拐《かどわか》された女の兄さんて奴が――そうそう主水とか云ったっけ、そいつが陣十郎とかいう悪侍に、オビキ出されて高萩村の方へ行った。とその女が云ったんで、こいつ大変と杉さんがね、高萩村の方へ追って行ったんで。――が、まあ可《い》いやそんな事ア。よくねえなア親分の身の上だ、まごまごしていると猪之松の野郎に……あッどうしたんだ見物の奴らア……」
 いかさま街道や耕地に屯し、果し合いを見ていた百姓や旅人が、この時にわかに動揺したのが、要介の眼にもよく見えた。が、すぐに動揺は止んで、また人達は静かになった。緊張し固くなって見ているらしい。
 突嗟に要介は思案を定めた。
(ここら辺りに源女がいるなら、薮の中にでもいるのであろう。正気でないと云ったところで、直ぐに死ぬような気遣いはない。……林蔵と猪之松との果し合い、これは一刻を争わなければならない。よしそっちへ行くことにしよう。……が、しかし念のために……)
 そこで要介はまたも大音に、薮に向かって声をかけた。
「源女殿、要介お迎えに参った。どこへもおいでなさるなよ! ……」

14
 街道では林蔵と猪之松とが、遠巻きに見物の群を置き、どちらも負けられない侠客《おとこ》と侠客との試合それも真剣の果し合いの、白刃を互いに構えていた。
 かなり時間は経過していたが、わずか二太刀合わせたばかりで、おおよそ二間を距てた距離で、相正眼に脇差をつけ、睨み合っているばかりであった。
 猪之松には乾兒や水品陣十郎の間に、何か事件が起こったらしく、耕地で右往左往したり、逃げる奴倒れる奴、そういう行動が感ぜられたが、訊ねることも見ることもできず、あつかう[#「あつかう」に傍点]こともできなかった。傍目一つしようものなら、その間に林蔵に切り込まれるからであった。
 林蔵といえどもそうであった、乾兒の藤作の声がしたり、杉浪之助の声がして、何か騒動を起こしているようであったが、どうすることも出来なかった。相手の猪之松の剣の技、己と伯仲の間にあり寸分の油断さえ出来ないからであった。
 が、そういう周囲の騒ぎも、今は全く静まっていた。数間を離れて百姓や旅人、そういう人々の見物の群が、円陣を作って見守っているばかりで、気味悪いばかりに寂静《ひっそり》としていた。
 二本の刀が山形をなし、朝の黄味深い日の光の中で、微動しながら浮いている。
 二人ながら感じていた。――
(ただ目茶々々に刀を振り廻して、相手を切って斃せばよいという、そういう果し合いは演ぜられない。男と男だ、人も見ている。後日の取沙汰も恐ろしい。討つものなら立派に討とう! 討たれるものなら立派に討たれよう!)
 二人ながら心身疲労していた。
 気|疲労《つかれ》! 気疲労! 恐ろしい気疲労!
 技が勝れているだけに、伎倆《うで》が伯仲であるだけに、その気疲労も甚だしいのであった。
 向かい合っていた二本の刀の、その切先がやがて徐々に、双方から寄って来た。
 見よ二人ながら踏み出している右足の爪先が蝮を作り、地を刻んで一寸二寸と、相手に向かって進むではないか。
 ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]!
 音は立たなかった。
 が、ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]と音立つように、互いの切先が触れ合った。
 しかしそのまま二本の刀身は、一度に水のように後へ引き、その間隔が六歩ほどとなった。
 そうしてそのまま静止した。
 静止したまま山形をなし、山形をなしたまま微動した。
 薄くポ――ッと刀と刀の間に、立ち昇っているのは塵埃《ほこり》であった。
 二人の刻んだ足のためにポ――ッと立った塵埃であった。
 間、
 長い間。
 天地寂寥。
 が、俄然二本の刀が、宙で烈しくもつれ合った。
 閃光! 太刀音! 鏘然! 鍔鳴り!
 で、Xの形となって、二本の刀は交叉され、わずかに左右に又前後に、揺れつ縒れつ押し押されつ、粘ったままで放れなかった。

15
 鍔競り合い!
 眼と眼との食い合い!
 そうだ、林蔵と猪之松との眼が、交叉された刀の間を通し、互いに食い合い睨み合っている。
 鍔競り合いの恐ろしさは、競り合いから離れる一刹那にあった。胴を輪切るか真っ向を割り付けるか、伎倆《うで》の如何《いかん》、躰形《たいけい》の如何、呼吸の緩急によって変化縦横! が、どっちみち恐ろしい。
 林蔵も猪之松も一所懸命、相手の呼吸を計っていた。
 と、交叉された刀の間へ、黒く塗られた刀の鞘が、忍びやかに差し込まれた。
「?」
「?」
 鞘がゆるゆると上へ上った。二本の白刃を持ち上げるのである。と、威厳ある声がした。
「勝負待て! 刀を引け! 仲裁役は秋山要介!」
 声と同時に刀の鞘が、二本の刀身を左右に分けた。
 二間の距離を保ちながら、尚、残心、刀を構え、睨み合っている林蔵と猪之松、その間に鞘ぐるみ抜いた太刀を提げて、ノビノビと立ったのは秋山要介で、まず穏かに林蔵へ云った。
「刀を鞘へ納めるがよい」
 それから猪之松の方へ顔を向け、
「以前一二度お見かけいたした。高萩村の猪之松殿か、拙者秋山要介でござる。刀を納め下されい」
 しばらくの間寂然としていた。
 やがて刀の鞘に収まる、鍔鳴りの音が二つ聞こえた。

 この頃源女は大薮を出て、唐黍《とうもろこし》畑の向こうを歩いていた。
(行かなければ不可《いけ》ない、さあ行こう)
 こう思いながら歩いていた。
 何者《だれ》か向こうで呼んでいる。そんなように彼女には思われるのであった。
 畦を越し桑畑を越した。そうして丘を向こうへ越した。もう背後を振り返って見ても、街道も大薮も見えないだろう。
 大渓谷、大傾斜、大森林、五百頭千頭の馬、無数の馬飼、宏大な屋敷――そういうものの存在している所へ、行かなければならない行かなければならない! ……そう思って彼女は歩いて行く。
 崩れた髪、乱れた衣裳、彼女の姿は狂女そっくりであった。発作の止まない間中は、狂女と云ってもいいのであった。
 長い小高い堤があった。
 よじ上って歩いて行った。
 向こう側の斜面には茅や蘆が、生い茂り風に靡いている、三間巾ぐらいの川があり、水がゆるゆると流れていた。
「あッ」
 源女は足を踏み辷らせ、ズルズルと斜面を川の方へ落ちた。パッと葦切が数羽飛び立ち、烈しい声で啼いて去った。と、蘆を不意に分けて、古船が一隻辷り出た。源女がその中に倒れている。
 纜綱《もやいづな》を切らした古船は、源女を乗せたまま流れて行く。
 源女は微動さえしなかった。

各自の運命


 高萩村に近い森の中まで、陣十郎を追って来た鴫澤主水《しぎさわもんど》は、心身全く疲労し尽くし、ほとんど人心地を覚えなかった。
 抜身を地に突き体を支えたが、それにも堪えられずクタクタ倒れた。
 とうに陣十郎は見失っていた。
 その失望も手伝っていた。
(残念、逸した、敵を逸した!)
(が、飽くまでも探し出して、……)
 立ち上ろうと努力した。
 が、躰はいうことをきかず、のみならず精神さえ朦朧となった。
 こうして杉や桧や槇や、楢などの喬木に蔽われて、その奥に朱の褪せた鳥居を持ち、その奥に稲荷の祠を持ち、日の光も通して来ず、で薄暗い風景の中に、雀や鶸《ひわ》や山雀《やまがら》や山鳩の、啼声ばかりが繁く聞こえる、鎮守の森に包まれて、気絶して倒れた主水の姿が、みじめに痛々しく眺められた。
 色づいた[#「色づいた」は底本では「色ずいた」]病葉《わくらば》が微風にあおられ体の上へ落ちて来たりした。
 かなり長い間しずかであった。
 と、その時人声がし、間もなく十数人の男女の者が、森の中へ現われた。
 変わった風俗の連中であった。
 赤い頭巾に赤い袖無、そんなものを着けている若い男もあれば、亀甲模様のたっつけ[#「たっつけ」に傍点]を穿き、胸に大形の人形箱をかけた、そういう中年の男もあり、紫の手甲に紫の脚絆、三味線を抱えた女もあり、浅黄の股引、茶無地の筒袖、そういう姿の肩の上へ、猿をとまらせた老人などもあった。
 それらはいずれも旅装であった。
 秩父|香具師《やし》の一団なのである。
 平素は自分の家にいて、百姓もやれば杣夫《そま》もやり、猟師もやれば川狩もやるが、どこかに大きな祭礼があって、市《たかまち》が立って盛んだと聞くと、早速香具師に早変りして、出かけて行って儲けて来、家へ帰れば以前通り、百姓や杣夫として生活するという――普通の十三香具師とは別派の、秩父香具師の一団であった。
 この日もどこかの市を目掛け親しい者だけで組をつくり、出かけて行くところらしい。
 その中に一人旅装ではなく、髪は櫛巻きに銀簪一本、茜の小弁慶の単衣《ひとえ》を着た、若い女がまじっていた。
 陣十郎の情婦のお妻であった。
「姐御、お前さんも行くといいんだがな」
 一人の男がこう云って、そそのかすようにお妻を見た。
「そうさねえそうやって、お前さんたちが揃って出かけて行くのを見ると、一緒に行きたいような気持がするよ」
 まんざらお世辞でもなさそうに、お妻はそう云って薄笑いをした。
「陣十郎さんばかりが男じゃアなし、他に男だってあろうじゃアないか。そうそういつもへばり付いてばかりいずに、俺らと旅へ出るのもいいぜ」
 こうもう一人の男が云った。
「あたしを旅へしょびいて行くほどの、好い男がどこかにいるかしら、お前さん達のお仲間の中にさ」
 云い云い、お妻は又薄笑いをして、香具師達を見廻した。
「俺じゃア駄目かな、え、俺じゃア」と、猿廻しが顔を出した。


「十年若けりゃア物になるが」
 お妻はむしろ朗かに笑った。
 お妻は秩父の産れであり、秩父香具師の一人であった。が、ずっと若い頃に、草深い故郷に見切りをつけ、広い世界へ出て行って、香具師などというケチなものよりもっと烈しい、もっと罪の深い、そうしてもっと度胸の入る、凄い商売へ入り込んでしまった。
 女邯鄲師《おんなかんたんし》[#ルビの「おんなかんたんし」は底本では「おんんなかんたんし」]――それになってしまった。
 道中や温泉場などで親しくなり、同じ旅籠《はたご》へ一緒に泊り、情を通じてたらす[#「たらす」に傍点]もあり、好きな男で無い場合には、すかし[#「すかし」に傍点]、あやなし[#「あやなし」に傍点]、たぶらかし[#「たぶらかし」に傍点]て、油断を窺って有金から持物、それらを持って逃げてしまう、平ったく云えば枕探し、女賊になってしまったのである。
 陣十郎の情婦になったのも、平塚の宿で泊まり合わせ、枕探しをしようとしたところ、陣十郎のために取って抑えられた、それが因縁になったのであった。
 その女邯鄲師のお妻であるが、今度陣十郎と連立って、産れ故郷へ帰って来た。と、今朝高萩の村道を、懐かしい昔の仲間達が――すなわち秩父香具師達が、旅|装束《よそおい》で通って行った。知った顔も幾個かあった。で、あまりの懐かしさに、冗談云い云いこんな森まで、連立って一緒に来たのであった。
「おや」と不意にお妻は云って、急に足を一所で止めた。
「こんなところに人間が死んでいるよ」
 行手の杉の木の根下の草に、抜身を持った武士が倒れている。
「ほんに、可哀そうに、死んでらあ。……しかも若いお侍さんだ」
 香具師達は云って近寄って行った。
 お妻はその前にしゃがみ[#「しゃがみ」に傍点]込み、その武士の額へ手をやったが、
「冷えちゃアいない、暖《あった》かいよ」
 いそいで脉所《みゃくどころ》を握ったが、
「大丈夫、生きてるよ」
「じゃア気絶というやつだな」
 一人の香具師が心得顔に云った。
「そうさ、気絶をしているのさ。抜身を持っているところを見ると、きっと誰かと切り合ったんだねえ。……どこも切られちゃアいない。……気負け気疲労《きつかれ》[#「気疲労《きつかれ》」は底本では「気疲労《きつかれ》れ」]で倒れたんだよ」
 云い云いお妻は覗き込んだが、
「ご覧よ随分|好男子《いいおとこ》じゃアないか」
「チェーッ」と誰かが舌打ちをした。
「姐御いい加減にしてくんな。どこの馬の骨か知れねえ奴に、それも死に損ない殺され損ないに。気をくばるなんて嬉しくなさ過ぎらあ」
「まあそういったものでもないよ。……第一随分可愛そうじゃアないか。……それにさ、ご覧よ、この蒼白い顔を……唇の色だけが赤くてねえ。……ゾッとするほど綺麗だよ。……」
「色狂人! ……行こう行こう!」
「行きゃアがれ、碌で無し! ……妾アこの人を介抱するよ」
 お妻は主水の枕元へ、ペタペタと坐ってなお覗き込んだ。


 その同じ日のことであった。
 絹川という里川の岸で、一人の武士が魚を釣っていた。
 四十五六の年齢で、広い額、秀でた鼻、鋭いけれど暖かい眼、そういう顔の武士であった。立派な身分であると見え、衣裳などは寧ろ質素であったが、體に威があり品があった。
 傍らに籃《びく》が置いてあったが、魚は一匹もいなかった。
 川の水は濁りよごれ[#「よごれ」に傍点]てい、藻草や水錆が水面に浮かび、夕日がそれへ色彩をつけ、その中で浮子《うき》が動揺してい、それを武士は眺めていた。
「東馬《とうま》もう何刻《なんどき》であろう?」
 少し離れた草の中に、お供と見えて若侍が退屈らしい顔付をして、四辺《あたり》の風景を見廻していたがそれへ向かって話しかけた。
「巳刻《よつどき》でもありましょうか」
 若侍はそう答え、
「今日は不漁《しけ》でございますな」
 笑止らしく云い足した。
「わしの魚釣、いつも不漁じゃ」
「御意で、全くいつも不漁で。……それにもかかわらず先生には、毎日ご熱心でございますな」
「それでいいのだ、それが本意なのだ。……と云うのはわしの魚釣は、太公望と同じなのだからな」
「太公望? はは左様で」
「魚釣り以外に目的がある。……ということを云っているつもりだが」
「どのような目的でございますか?」
「そう安くは明かされないよ」
「これはどうも恐れ入りました……が、そのように仰せられますと、魚の釣れない口惜《くちお》しまぎれの、負けおしみなどと思われましても……」
「どうも其方《そち》、小人で不可《いけ》ない」
「お手厳しいことで、恐縮いたします」
「こう糸を垂れて水面を見ている」
「はい、魚釣りでございますからな」
「水が流れて来て浮子にあたる」
「で、浮き沈みいたします」
「いかにも自然で無理がない……芥《あくた》などが引っかかると……」
「浮子めひどくブン廻ります」
「魚がかかると深く沈む」
「合憎[#「合憎」はママ]、今日はかかりませんでした」
「相手によって順応する……浮子の動作、洵《まこと》にいい」
「浮子を釣るのでもござりますまいに」
「で、わしはその中に、何かを得ると思うのだよ」
「鮒一匹、そのくらいのもので」
「魚のことを云っているのではない」
「ははあ左様で。……では何を?」
「つまりあの業《わざ》を破る術じゃ」
「は? あの業と仰せられまするは?」
「水品陣十郎の『逆ノ車』……」
「ははあ」
「お、あれは何だ」
 その時上流から女を乗せた、死んだように動かない若い女を乗せた、古船が一隻流れて来た。
「東馬、寄せろ、船を岸へ」
「飛んでもないものが釣れましたようで」
 若侍は云い云い袴を脱ぎかけた[#「脱ぎかけた」は底本では「股ぎかけた」]。
 が、古船は自分の方から、ゆるゆると岸の方へ流れ寄って来た。
 武士は釣棹の柄の方を差し出し、船縁へかけて引き寄せるようにしたが、
「女を上げて介抱せい」
 そう若侍へ厳しく云った。

鳳凰と麒麟


 それから幾日か経った。
 秋山要介は杉浪之助を連れて、秩父郡小川村《ちちぶのこおりおがわむら》の外れに、あたかも嵎《ぐう》を負う虎の如くに蟠居し、四方の剣客に畏敬されている、甲源一刀流の宗家|逸見《へんみ》多四郎義利の、道場構えの広大な屋敷へ、威儀を作って訪れた。
「頼む」
「応」と返事があって、正面の襖が一方へひらくと、小袴をつけた若侍が、恭しく現われた。
「これはこれは秋山先生、ようこそご光来下されました」
「逸見先生に御意得たい。この段お取次下されい」
「は、先生には江戸表へ参り、未だご帰宅ござりませねば……」
「ははあ、いまだにお帰りない」
「帰りませんでござります」
「先生と一手お手合わせ致し、一本ご教授にあずかりたく、拙者当地へ参ってより三日、毎日お訪ねいたしても、そのつどお留守お留守とのご挨拶、かりにも小川の鳳凰《ほうおう》と呼ばれ、上州間庭の樋口十郎左衛門殿と、並び称されている逸見殿でござれば、よもや秋山要介の名に、聞き臆じして居留守を使われるような、そのようなこともござるまいが、ちと受取れぬ仕儀でござるな」
 洒脱であり豪放ではあるが、他人に対してはいつも丁寧な、要介としてはこの言葉は、かなり角立ったものであった。
 傍に引き添っていた浪之助も、これはおかしいと思った程である。
 面喰ったらしい取次の武士は、
「は、ご尤《もっと》もには存じますが、主人こと事実江戸へ参り、今に帰宅いたしませねば……」
「さようか、よろしい、事実不在、――ということでござるなら、又参るより仕方ござらぬ。……なれどこのまま帰っては、三度も参った拙者の腹の虫、ちと納まりかねるにより、少し無礼とは存じ申すが、表にかけられた門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、お預かりして持ちかえる。逸見殿江戸よりご帰宅なさらば、この旨しかとお伝え下され。宿の小紅屋に滞在まかりある。ご免」というと踵《きびす》を返し、門を出ると門の柱に「甲源一刀流指南」と書いた、二寸厚さの桧板、六尺長い門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]外し、小脇に抱えて歩き出した。
 呆れ返ったのは浪之助で、黙々として物も云わず、要介の後から従《つ》いて行った。
 村とはいっても小川村は、宿場以上の賑いを持った、珍らしく豊かな土地であって、道の両側には商店多く、人の往来も繁かった。そういう所を立派な武士が、大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]引っ抱え、若い武士を供のように連れて、ノッシノッシと歩いて行くのであった。店の人達は審かしそうに覗き、往来の人達も不思議そうに眺めた。
 が、要介は意にも介さず、逸見家とは反対の方角の、これは小川村の入口にある、この村一番の旅籠屋の、小紅屋まで歩いて来た。
「お帰り」と番頭や婢達《おんなたち》が、これも怪訝そうな顔をして、大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]抱えた要介達を迎え、玄関へ頭を並べたのを、鷹揚に見て奥へ通った。


 中庭を前にした離座敷――この宿一番の座敷らしい――そこの床の間へ大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]立てかけ、それを背にして寛《ゆるや》かに坐わり、婢の持って来た茶を喫しながら、要介は愉快そうに笑っていた。
 その前に浪之助はかしこまっていたが、これは随分不安そうであった。
「先生」ととうとう浪之助は云った。
「これは一体どうしたことで?」
「…………」
 愉快そうに笑っている。
「武芸指南所の門札は[#「門札は」は底本では「門礼は」]、商家の看板と等しなみに、その家にとりましては大切なもの、これを外されては大恥辱……」
「ということは存じて居るよ」
「はい」と浪之助はキョトンとし、
「それをご承知でその門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「さよう、わしは外して来た」
「はい」と又もキョトンとし、
「それも高名の逸見先生の……」
「鳳凰と云われる逸見氏のな」
「はい」ともう一度キョトンとし、
「それほど逸見様は高名なお方……」
「わしも麒麟《きりん》と呼ばれて居るよ」
「御意で」と今度は頭を下げ、
「関東の麒麟と称されて居ります」
「鳳凰と麒麟……似合うではないか」
「まさにお似合いではございますが、似合うと申して門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「ナニわしだから外して来てもよろしい」
「麒麟だから鳳凰の門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「さようさよう外して来てもよろしい」
「ははあ左様でございますかな」
「他の奴ならよろしくない」
「…………」
「ということは存じて居る。さよう逸見氏も存じて居る」
「…………」
「人物は人物を見抜くからの」
「はい、もう私などは小人で」
「そのうちだんだん人物になる」
「はい、ありがたく存じます」
 とは云ったものの浪之助は、
(うっかり物を云うとこんな目に逢う。訓された上に嚇されてしまう)
 こう思わざるを得なかった。
「それに致しましても先生には、何と思われて小川村などへ参り、何と思われて逸見先生のお宅などへ……」
「武術試合をするためにさ……」
「それだけの目的でございますかな?」
「真の目的は他にある」
「どのような目的でございますかな?」
「赤尾の林蔵を関東一の貸元、そいつに押し立ててやりたいのだ」
「そのため逸見先生と試合をなさる?」
「その通り。変に思うかな?」
「どういう関係がございますやら」
「今に解る。じきに解る」
「ははあ左様でございますか」
「わしは金蔓をなくしてしまった――源女殿を見失ってしまったので、秩父にいる必要がなくなってしまった。そこで江戸へ帰ろうと思う。……江戸へ帰って行く置土産に、林蔵を立派な男にしてやりたい。それで逸見氏と試合をするのだ。……高萩の猪之松の剣道の師匠、逸見多四郎殿と試合をするのだ」


(なるほどな)と浪之助は思った。
(林蔵の師匠たる秋山先生と、猪之松の師匠たる逸見先生とが、武術の試合をした上で、林蔵を関東一の貸元にする。なるほどな、意味がありそうだ)
 確実のことは解らなかったが、意味はありそうに思われた。
 やがて解るということであった。押して訊こうとはしなかったが、
「それに致しましてもお組の源女と、その源女のうたう歌と、先生とのご関係を承《うけたま》わりたいもので」
 以前から疑問に思っていたことを、浪之助は熱心に訊いた。
 その浪之助は以前においては、まさしく源女の愛人であった。がその源女が今度逢ってみれば、変わった性格となって居り、不思議な病気を持って居り、妙な歌を口吟《くちずさ》むばかりか、要介などという人物が、保護する人間となっていたので、浮いた恋、稀薄の愛、そのようなものは注がないこととし、ほんの友人のように交際《つきあ》って来たところ、その源女は上尾街道で、過ぐる日行なわれた林蔵と猪之松との果し合いの際|行方《ゆくえ》不明となり、爾来姿を見せなくなっていた。
 浪之助も勿論心にかけたが、要介のかけ方は一層で、
「あの日たしかに大薮の陰で、源女殿の歌声を耳にした。が、果し合いを引き分けおいて、急いで行って探した時には、もう源女殿はいなかった。どこにどうしていることやら」と、今日までも云いつづけて来たことであった。
「源女殿とわしとの関係か。さようさな、もう話してもよかろう」
 要介はいつになくこだわら[#「こだわら」に傍点]なかった。しかししばらく沈思していた。久しく聞きたいと希望していた、秘密の話が聞かれるのである。浪之助は思わず居住いを正し、緊張せざるを得なかった。
 中庭に小広い泉水があり、鯉が幾尾か泳いでいたが、時々水面へ飛び上った。それが田舎の古い旅籠屋の、昼の静かさを破壊するところの、たった一つの音であった。
 と、要介は話し出した。
「武蔵という国は承知でもあろうが、源氏にとっては由縁《ゆかり》の深い土地だ。源氏の発祥地ともいうべき土地だ。ここから源氏の諸豪族が起こった。秩父庄司《ちちぶしょうじ》、畠山重忠《はたけやましげただ》、熊谷次郎直実《くまがいじろうなおざね》等、いずれも武蔵から蹶起した武将だ。……がわしにかかわる[#「かかわる」に傍点]事件は、もっと昔に遡らなければならない。……これは誰もが承知していることだが、後冷泉天皇の御宇《ぎょう》にあって、奥州の酋長|阿部《あべ》の頼時《よりとき》が、貞任《さだとう》、宗任《むねとう》の二子と共に、朝廷に背いて不逞を逞ましゅうした、それを征したのが源|頼義《よりよし》、そうしてその子の八幡太郎義家――さてこの二人だが奥州征めの往来に、武蔵の国にとどまった。今日の国分寺村の国分寺、さよう、その頃には立派な寺院で、堂塔伽藍聳えていたそうじゃが、その国分寺へとどまった……ところが止まったばかりでなく、前九年の役が終了した際、奥州産の莫大な黄金、それを携えて帰って来、それを国分寺の境内に、ひそかに埋めたということじゃ。それには深い訳がある」
 こう話して来て要介は、またしばらく沈思した。


 要介はポツポツ話し出した。
「源氏は東国を根拠とすべし。根拠とするには金が必要だ。これをもってここへ金を埋めて置く。この金を利用して根を張るべし。――といったような考えから、金を埋めたということだ。……その後この地武蔵において、いろいろさまざまの合戦が起こったが、埋めてあるその金を利用したものが、いつも勝ったということじゃ。ところがそのつど利用したものは、他の者に利用されまいとして、残った金を別の所へ、いつも埋め代えたということじゃ。……治承《じしょう》四年十月の候、源頼朝が府中の南、分倍河原《ぶばいがわら》に関八州の兵を、雲霞の如くに集めたが、その時の費用もその金であり、ずっと下って南北朝時代となり、元弘《げんこう》三年新田義貞卿が、北條高時を滅ぼすべく、鎌倉に兵を進めようとし、分倍河原に屯して、北條泰家と合戦したが、その時も義貞は源氏というところから、その金を利用したという事じゃ。正平《しょうへい》七年十二月十九日、新田|義宗《よしむね》南軍を率い、足利尊氏を狩野河《こうのかわ》に討つべく、武蔵の国に入ったところ、尊氏すでに狩野河を発し、谷口から府中に入り、人見原《ひとみはら》にて激戦したが、義宗破れて入間川《いるまがわ》に退き、二十八日|小手差原《こてさしはら》にて戦い、ふたたび破れて退いたが、この時は足利尊氏が、これも源氏というところから、その金を利用したということじゃ。更に下って足利時代に入り、鎌倉の公方足利成氏、管領上杉|憲忠《のりただ》を殺した。憲忠の家臣長尾|景晴《かげはる》、これを怒って手兵を率い、立川原で成氏と戦い、大いに成氏を破ったが、この時はその金を景晴が利用し、その後その金を用いた者で、史上有名の人物といえば、布衣《ふい》から起こって関八州を領した、彼の小田原《おだわら》の北條|早雲《そううん》、武蔵七党の随一と云われた、立川宗恒《たてかわむねつね》、同恒成、足利学校の創立者、武人《ぶじん》で学者の上杉|憲実《のりざね》。……ところがそれが時代が移って、豊臣氏となり当代となり――即ち徳川氏となってからは、その金を利用した誰もなく、金の埋没地も不明となり、わずかにこの地方秩父地方において『秩父の郡小川村、逸見様庭の桧の根、昔はあったということじゃ……』という、手毬唄に名残をとどめているばかりじゃ。……」
 ここまで云って来て要介は、不意に沈黙をしてしまった。
 じっと聞いていた浪之助の、緊張の度が加わった。
 源女のうたう不可解の歌が、金に関係あるということは、朧気ながらも感じていたが、そんな歴史上の合戦や人物に、深い関係があろうなどとは、夢にも想像しなかったからである。
(これは問題が大きいぞ)
 それだけに興味も加わって、固唾を呑むという心持! それでじっと待っていた。
 要介は語りついだ。
「あの歌の意味は簡単じゃ。今話した例の金が、武蔵秩父郡小川村の逸見《へんみ》家の庭にある桧の木の根元に、昔は埋めてあったそうさな。――という意味に他ならない。逸見家というのは云う迄もなく、逸見多四郎殿の家の事じゃ。……その逸見家は何者かというに、甲斐源氏《かいげんじ》の流を汲んだ、武州無双の名家で旧家、甲源一刀流の宗家だが、甲源の文字もそこから来ている。即ち甲斐源氏という意味なのじゃ」


 要介は語りつづけた。
「歌もそこ迄なら何でもないのじゃ。というのは普通の手毬歌として、秩父地方の人々は、昔から知っているのだからな。ところがどうだろう源女殿だけが、その後の文句を知っている『今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の……それから少し間が切れて――秣の山や底無しの、川の中地の岩窟の……という文句を知っている。そこへわし[#「わし」に傍点]は眼をつけたのじゃ。頼義《よりよし》、義家が埋めたという金は、その後の歌にうたわれている境地に、今は埋めてあるのだろう。それにしても源女殿はどこでどうしてその後の歌を覚えたかとな。で源女殿へ訊いて見た。その返辞が洵《まこと》に妙じゃ。大森林や大渓谷や、大きな屋敷や大斜面や、そういう物のある山の奥の、たくさんの馬や馬飼のいる所へ、いつぞや妾《わたし》は行ったような気がする。そこでその歌を覚えたような気がする。でもハッキリとは覚えていない。勿論そこがどこであるかも知らない。――という曖昧の返辞なのだ。その上|其方《そち》も知っている通り、源女殿は時々発作を起こす。……で、わしはいろいろの医者へ、源女殿の様態を診て貰ったところ、一人柳営お抱えの洋医、平賀|杏里《きょうり》殿がこういうことを云われた。――非常に恐ろしい境地へ行き、非常に烈しい刺激を受け、精神的に大打撃を受け、その結果大熱を体に発し、一月とか二月とかの長い間、人事不省になっていた者は、その間のことはいうまでもなく、それ以前の事もある程度まで、全然忘却してしまうということが往々にあるが、源女殿の場合がそうらしい。が、源女殿をその境地へ、もう一度連れて行けば思い出すし、事実その境地へ行かずとも、その境地と酷似している境地へ、源女殿を置くことが出来たなら、忘却していた過去のことを、卒然と記憶に返すであろうと。……しかし源女殿をその境地へ、連れて行くということは出来難い。その境地が不明なのだから。同じような境地へ源女殿を置く。ということもむずかしい。どんな境地かということを、わし[#「わし」に傍点]は確実に知らないのだから。……しかしわし[#「わし」に傍点]はこう思った。あの歌の前半の歌われている、秩父地方へ出かけて行って、気長く源女殿をそこに住ませて、源女殿の様子を見守っていたら、何か暗示を得ようもしれないとな。そこでお連れして来たのだが。……しかるに源女殿のそういう秘密を、わし[#「わし」に傍点]の外にもう一人、同じように知っている者がある。他でもない水品陣十郎じゃ」
 こう云って来て要介は、眉をひそめて沈黙した。
 剣鬼のような吸血鬼のような、陣十郎という男のことを、思い出すことの不愉快さ、それを露骨に現わさしたところの、それは気|不味《まず》い[#「不味《まず》い」は底本では「不味《まずい》い」]沈黙であった。
 浪之助も陣十郎は嫌いであり、嫌い以上に恐ろしくもあり、口に出すことさえ厭であったが、しかし源女や要介が、どういう関係からあの吸血鬼と、知り合いになったかということについては、窺い知りたく思っていた。
 それがどうやら知れそうであった。
 そこで更に固唾を呑む気持で、要介の語るのを待ち構えた。


「今から十月ほど前であったよ」と、要介は話をつづけ出した。
「信濃方面へ旅をした。武術の修行というのではなく、例によっての風来坊、漫然と旅をしたまでだが沓掛《くつかけ》の宿で一夜泊まった。明月の夜であったので、わしは宿《やど》を出て宿《しゅく》を歩き、つい宿外れまでさまよって行った。と、歌声が聞こえてきた。云うまでも[#「云うまでも」は底本では「云までも」]なく例の歌さ。はてなと思って足を止めると、狂乱じみた若い女が、その歌をうたって歩いて来る。と、その後から一人の武士が、急ぎ足で追いついたが、やにわに女を蹴倒すと、踏む撲るの乱暴狼藉『汝《おのれ》逃げようとて逃がそうや』こう言っての乱暴狼藉! その瞬間女は正気づいたらしく、刎ね起きると拙者を認め、走り寄って縋りつき、お助け下されと申すのじゃ。心得たりと進み出て、月明で武士を見れば、以前樋口十郎左衛門殿方で、立合ったことのある水品陣十郎! 先方も拙者を認めたと見え、しかも形勢非なりと知ったか、『秋山殿でござったか、その女は源女と申し、発狂の女芸人、拙者故あって今日まで、保護を加えて参りましたが、お望みならば貴殿に譲る』と、このようなヘラズ口をきいたあげく、匆慌《そうこう》として立ち去ったので、源女殿を宿へ連れて参り、事情を詳しく訊いたところ、江戸両国の曲独楽の太夫、養母というものに悪婆あって長崎の異人に妾《めかけ》に出そうという。それを避けて旅へ出で、ある山国へ巡業したところ、大森林、大傾斜、百千頭も馬のいるところ、そういう所の大きな屋敷へ、どういう訳でか連れて行かれた。そうしてそこで恐ろしい目に逢い、妾《わたし》は正気を失ったらしい。正気づいて見れば陣十郎という男が、妾の側に附いていて、それ以来ずっとその男が、あらゆる圧迫と虐待とを加え、妾にその土地へ連れて行け、お前の謡う歌にある土地へ、連れて行けと云って強いに強い、爾来その男に諸々方々を、連れ歩かれたとこう云うのじゃ。……それからわし[#「わし」に傍点]は源女殿を連れて、江戸へ帰って屋敷へ置いたが、そこは女芸人のことで、もう一度舞台に出たいという。そこで元の座へ出したところ、陣十郎に見付けられ、貴殿などとも知り合うようになった。……」
「よく解《わか》りましてござります」
 要介の長い話を聞き、浪之助はこれまでの疑問を融かした。
「と致しますと陣十郎も、例の黄金の伝説的秘密を、承知いたして居りまして、それを探り出そうと心掛け、源女を抑えて居りましたので……」
「さよう」と要介は頷いて云った「逸見多四郎殿の門弟として、秩父地方に永らく居た彼、黄金の秘密は知悉しているはずじゃ」
 この時部屋の外の廊下に、つつましい人の足音がし、
「ご免下され」という男の声がし、襖が開いて小紅屋の主人が、恭しくかしこまった顔を出し、
「逸見の殿様お越しにござります。へい」と云って頭を下げた。
 見れば主人の背後にあたって、威厳のある初老の立派な武士が、気軽にニコヤカに微笑しながら、部屋を覗くようにして立っていた。
「逸見多四郎参上いたしました」


「や、これは!」とさすがの要介も、郷士ながらも所の領主、松平|大和守《やまとのかみ》には客分にあつかわれ、新羅《しんら》三郎|義光《よしみつ》の後胤甲斐源氏の名門であり、剣を取らせては海内の名人、しかも家計は豊かであって、倉入り千俵と云われて居り、門弟の数|大略《おおよそ》二千、そういう人物の逸見多四郎が、気軽にこのような旅籠屋などへ、それも留守の間に道場の看板、門の大札[#「大札」は底本では「大礼」]を外して行ったところの、要介を訪ねて来ようなどとは、要介本人思いもしなかったところへ、そのように気軽に訪ねて来られたので、さすがに驚いて立ち上った。
「これはこれは逸見先生、わざわざご来訪下されましたか。いざまずこれへ! これへ!」
「しからばご免」と仙台平の袴に、黒羽二重の衣裳羽織、威厳を保った多四郎は、静かに部屋の中へ入って来た。
 座が定《き》まってさて挨拶! という時に要介の機転、床の間に立ててあった例の門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、恭しく抱えて持って来るや、前へ差し出しその前に坐り、
「実は其《それがし》先生お屋敷へ、本日参上いたしましたところ、江戸へ参ってご不在との御事。と、いつもの悪い癖が――酔興とでも申しましょうか、悪い癖がムラムラと起こりまして、少しく無礼とは存じましたが、門弟の方へ一応断わり、この大門札[#「門札」は底本では「門礼」]ひき外し、旅舎まで持参いたしました、がしかし決して粗末にはいたさず、床の間へ立てかけ見事の筆蹟を、打ち眺め居りましてござります。が、それにしてもこの門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、ひき外し持参いたしましたればこそ、かかる旅舎などへ先生ほどのお方を、お招きすること出来ました次第、その術策|的中《あた》りましてござるよ。ハッハッハッ」と笑ったが、それは爽かな笑いでもあった。
 と、多四郎もそれに合わせ、こだわらぬ爽かな笑い声を立てたが、
「その儀でござる、実は其《それがし》所用あって江戸へ参り、三日不在いたしまして、先刻帰宅いたしましたところ、ご高名の秋山先生が、不在中三回もお訪ね下され、三回目の本日門の札を[#「札を」は底本では「礼を」]、ひき外しお持ちかえりなされたとのこと、門弟の一人より承《うけたま》わり、三回のご来訪に恐縮いたし、留守を申し訳なく存じますと共に、その門弟へ申したような次第――、門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]外して持ち去った仁、秋山要介先生でよかった。他の仁ならこの多四郎、決して生かして置きませぬ。秋山要介先生でよかった。その秋山先生は、奇嬌洒脱の面白い方じゃ、いまだ一度もお目にかからぬが、勇ましいお噂は承って居る。五百石といえば堂々たる知行、その知行取りの剣道指南役の、嫡男の身に産れながら、家督を取らず浪人し、遊侠の徒と交際《まじわ》られ、権威に屈せず武威に恐れず、富に阿《おも》ねらず貧に恥じず、天空海濶に振舞われる当代での英傑であろう。門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]持って行かれたも、単なる風狂に相違ない。宿の小紅屋に居られるなら、早速参ってお目にかかろうとな。――そこで参上いたしたような次第、お目にかかれて幸甚でござった」
「杉氏どうじゃな」と要介は、浪之助の方へ声をかけた。


「人物は人物を見抜くと云ったが、どうじゃ杉氏、その通りであろう」
 こう云ったがさらに要介は、多四郎の方へ顔を向け、
「ここに居られるは杉浪之助殿|某《それがし》の知己友人でござる。門札[#「門札」は底本では「門礼」]外して持ち参ったことを、ひどく心配いたしましたについて、いや拙者だからそれはよい、余人ならばよろしくないと云うことは逸見先生もご存知、人物は人物を見抜くものじゃと、今し方申して居りました所で、……杉氏何と思われるな?」
「ぼんやり致しましてござります」
 浪之助はこう云うと、恰も夢から醒めたように、眼を大きくして溜息を吐いた。
「鳳凰《ほうおう》と麒麟《きりん》! 鳳凰と麒麟! 名優同志の芝居のようで。見事のご対談でございますなあ」
 逸見多四郎がやって来た! さあ大変! 凄いことが起こるぞ! 激論! 無礼咎め! 切合い! 切合い! と、その瞬間思ったところ、事は全く反対となり、秋山先生で先ずよかった! ……ということになってしまい、十年の知己ででもあるかのように、笑い合い和み合い尊敬し合っている。で浪之助は恍惚《うっとり》として、両雄の対談を聞いていたのであった。
「酒だ」と要介は朗かに云った。
「頼みある兵《つわもの》の交際に、酒がなくては物足りぬ。酒だ! 飲もう! 浪之助殿、手を拍って女中をお呼び下され!」
「いや」と多四郎は手を振って止めた。
「酒も飲みましょう。がしかし、酒は場所を変えて飲みましょう」
「場所を変えて? はてどこへ?」
「拙者の屋敷で。……云うまでもござらぬ」
「要介のまかり在るこの屋敷、さてはお気に入らぬそうな」
「いやいや決して、そういう訳ではござらぬ。……が、最初にご貴殿において、お訪ね下されたのが拙者の屋敷、言って見れば先口で。……ではその方で飲むのが至当。……」
「ははあなるほど、それもそうじゃ」
「ということと存じましたれば、駕籠を釣らせてお宿の前まで、既に参って居りますので」
「それはそれはお手廻しのよいこと。……がしかし拙者といたしましては、ご貴殿のお屋敷におきましては、酒いただくより木刀をもって、剣道のご指南こそ望ましいのでござる」
「云うまでもござらぬ剣道の試合も、いたしますでござりましょう」
「その試合じゃが逸見先生、尋常の試合ではござらぬぞ」
「と申してまさかに真剣の……」
「なんのなんの真剣など。……実は賭試合がいたしたいので」
「ナニ賭試合? これは面妖! 市井の無頼の剣術使いどもが、生活《くらし》のために致すような、そのような下等の賭試合など……」
「賭る物が異《ちが》ってござる」
「なるほど。で、賭物は?」
「拙者においては赤尾の林蔵!」
「赤尾の林蔵を? 赤尾の林蔵を? ふうん!」と云ったが多四郎は、じっと要介の顔を見詰めた。


「博徒ながらも林蔵は、拙者の剣道の弟子でござる」
 要介はそう云って意味ありそうに、多四郎の顔を熟視した。
「その林蔵をお賭になる。……では拙者は何者を?」
 いささか不安そうに多四郎は云って、これも要介を意味ありそうに見詰めた。
「高萩村の猪之松を、お賭下さらば本望でござる」
「彼は拙者の剣道の弟子……」
「で、彼をお賭け下され」
「賭けて勝負をして?」
「拙者が勝てば赤尾の林蔵を、関東一の貸元になすべく、高萩村の猪之松を、林蔵に臣事いたさせ下され」
「拙者が勝たば赤尾の林蔵を、高萩の猪之松に従わせ、猪之松をして関東一の……」
「大貸元にさせましょう」
「ははあそのための賭試合?」
「弟子は可愛いものでござる」
「なるほどな」と多四郎は云ったが、そのまま沈黙して考え込んでしまった。
 林蔵と猪之松とが常日頃から、勢力争いをしていることは、多四郎といえども知っていた。その争いが激甚となり、早晩力と力とをもって、正面衝突しなければなるまい――という所まで競り詰めて来ている。ということも伝聞していた。とはいえそのため秋山要介という、一大剣豪が現われて、師弟のつながりを縁にして、自分に試合を申し込み、その勝敗で二人の博徒の、勢力争いを解決しようなどと、そのような事件が起ころうなどとは、夢にも思いはしなかった。
(何ということだ!)と先ず思った。
(さてどうしたものだろう?)
 とは云え自分も弟子は可愛い、成ろうことなら林蔵を挫いて、猪之松を大貸元にしてやりたい。
(では)と思わざるを得なかった。
(では要介の申し込みに応じ、賭試合を行ない打ち勝ってやろう)
 腹が決まると堂々たるもので、逸見多四郎は毅然として云った。
「賭試合承知いたしてござる。しからば直ちに拙者屋敷に参り、道場においてお手合わせ、試合いたすでござりましょう」
「欣快」
 要介は立ち上った。
「杉氏、貴殿もおいでなされ」
 三人揃って部屋を出た。

 逸見多四郎家のここは道場。――  竹刀

下手切り! こいつだけは受けられない、ダーッとドップリ胴へ入るだろう! と、完全の胴輪切り!
 その序の業が行なわれた。
 釣られた釣られた主水は釣られた! あッ、踏み出して切り込んだ。
 一閃!
 返った!
 陣十郎の刀が、軽く宙で車に返った!
 ハ――ッと主水! きわどく反わせたが……
 駄目だ!
 見よ!
 次の瞬間!
 さながら怒濤の寄せるが如く、刀を返しての大下手切りだ――ッ!
「ワッ」
 悲鳴!
 血煙!
 血煙!
 いやその間に、一髪の間に――大下手切りの行なわれる、前一髪の際どい間に……
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秩父の郡《こおり》、小川村、
逸見《へんみ》様庭の桧の根
[#ここで字下げ終わり]
 そういう女の歌声が、手近かの所から聞こえてきた。
「あッ」と陣十郎は刀を引き、タジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]と数歩背後へ下った。


 無心に歌をうたいながら、源女は大薮の中にいた。
 いつも時々起こる発作が、昨夜源女の身に起こった。そこでほとんど夢遊病患者のように、赤尾村の林蔵の家を脱け出し、どこをどう歩いたか自分でも知らず、この辺りまで彷徨《さまよ》って来、この大薮で一夜を明かし、たった今眼醒めたところであった。
 まだ彼女の精神は、朦朧としていて正気ではなかった。
 島田の髷が崩れ傾《かしが》り、細い白い頸《うなじ》にかかってい、友禅模様の派手な衣裳が、紫地の博多の帯ともども、着崩れて痛々しい。素足に赤い鼻緒の草履を、片っぽだけ突っかけている。夜露に濡れたため衣裳はしおたれ[#「しおたれ」に傍点]、茨や木の枝にところどころ裂かれ、手足も胸元も薮蚊に刺され、あちこち血さえ出していた。
 そういう源女は身を横倒しにし、草の上に延びていた。秋草の花――桔梗や女郎花や、葛の花などが寝ている源女の、枕元や足下に咲いていた。栗色の兎がずっと離れた、萩の根元に一匹いて、源女の方を窺っていた。
 彼女の頭上にあるものといえば、樺や、柏や、櫟《くぬぎ》や、櫨《はぜ》などの、灌木や喬木の枝や葉であり、それらに取り縋り巻いている、山葡萄や蔦や葛であり、そうしてそれらの緑を貫き、わずかに幽かに隙《す》けて見える、朝の晴れた空であった。
 薮を透して日の光が、深い黄味を帯びて射し込んで来ていて、地上の草や周囲《まわり》の木々へ、明暗の斑《ふち》を織っていた。
 無心――というよりいつもいつも、心に執拗にこびりついている歌、例の歌を唄ってしまうと、彼女は恍惚《うっとり》と考え出した。こういう場合に彼女の脳裡へ、幻影のように浮かんで来るのは、大森林、大渓谷、大きな屋敷、大傾斜面、五百頭千頭もの放馬の群、それを乗り廻し追い廻し、飼養している無数の人、そうしてあたかも酒顛童子のような、長髪赧顔の怪異の老人――等々々のそれであった。
 しかし彼女はそういう所が、どこにあるかは知らなかった。そうしてどうしてそういう光景が、浮き出して来るかも知らなかった。とはいえ彼女はそういう光景の場所の、どこであるかを確かめなければならない、そうして是非ともその光景の場所へ、どうしても自身行かなければならないと、そんなように熱心に思うのであった。がそれとて自分自身のために、その場所を知ろうとするのでもなく、又行こうとするのでもなく、自分の難儀を救ってくれた人秋山要介という人のために、知りたい行きたいと思うのであった。
 浮かんで来る幻影を追いながら、今も彼女は思っていた。
(行かなければならない、さあ行こう!)
 で、彼女は立ち上った。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]昔はあったということじゃ
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 又彼女は口ずさんだ。
 そうして大薮を分けながら、大薮の外へ出ようとした。
 その大薮の外側には、以前から彼女を狙っている吸血鬼水品陣十郎が、抜身を提げて立っているはずである。

10
 後《あと》へ下った陣十郎は、刀を下段にダラリと下げ、それでも眼では油断なく、主水の眼を睨みつけ、歌主の在所《ありか》がどこであるかと、瞬間それについて考えた。
 周囲《あたり》には大薮があるばかりで、その他は展開《ひら》けた耕地であり、耕地には人影は見えなかった。
 声から云っても歌の性質《たち》から云っても、歌ったのは源女に相違ない。
 が、源女などはどこにもいない。
(さては自分の空耳かな?)
 それにしても余りに明かに、歌声は聞こえてきたではないか。
 源女だ源女だ歌ったのは源女だ!
 かつて一旦手に入れて、薬籠の物にしはしたが、その持っている一大秘密を、まだ発見しないうちに秋山要介に横取りされた女! お組の源女に相違ない!
 探して探して探し廻ったあげく、江戸は両国の曲独楽の席で、ゆくりなくも発見した。が、その直後に起こった事件――鴫澤庄右衛門を討ち果したことから、江戸にいられず旅に出たため、源女のその後の消息については、確かめることが出来なかった。
 その源女の歌声が、こんな所で聞こえたのであった。
(どうしたことだ? どうしたことだ?)
 不思議なことと云わなければならない。
(あの女を再び手に入れることが出来て、あの歌の意味を解くことが出来たら!)
 その時こそ運命が――解いた人の運命が、俄然とばかり一変し、栄耀栄華を尽くすことが出来、至極の歓楽を享けることが出来る!
(どうでもあの女を手に入れなければ!)
 だが彼女はどこにいるのだ?
 分を秒に割った短い間だ! 時間にして短いそういう間に、陣十郎の脳裡に起伏したのは、実にそういう考えであった。
 その間彼は放心状態にあった。
 何で主水が見逃がそうぞ!
 一気に盛り返した勇を揮い、奮然として切り込んだ。
 またも鏘然太刀音がした。
 放心状態にあったとはいえ、剣鬼さながらの陣十郎であった。何のムザムザ切られようぞ!
 受けて一合!
 つづいて飛び退いた、飛び退いた時にはもう正気だ! 正気以上に冴え切っていた。
(こやつを一気に片付けて、源女の在所《ありか》を突き止めなければならない!)
「ヤ――ッ!」と掛けた物凄い掛声!
 つづけて「ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ!」
 先々の先の手一杯! さながら有段者が初心者を相手に、稽古をつけるそれの如く、主水が撃とう切ろう突こうと、心組む心を未前[#「未前」はママ]に察し、その先その先その先と出て、追い立て切り立て突き立て進んだ。
 またもや主水は薮際まで詰められ、眼眩みながら薮の裾を、右手へわずか廻り込もうとした時、天運尽きたか木の根に躓《つまず》き、横倒れにドッと倒れた。
「くたばれ!」
 シ――ンと切り下した!

11
 シ――ンと切り下ろした陣十郎の刀が、仆れている主水を拝み打ちに、眉間から鼻柱まで割りつけようとした途端、日の光を貫いて小柄が一本、陣十郎の咽喉へ飛んで来た。
「あッ」と思わず声を上げ、胸を反らせた陣十郎は、あやうく難を免れたが、小柄の投げられた方角を見た。
 十数間のかなたから、一人の武士が走って来る。
「む!……秋山! ……秋山要介!」
 いかにも走って来るその武士は、今朝になって眼醒めて見れば、昨夜から発作を起こしていた源女が、どこへ行ったものか姿が見えず、それを案じて探すために、林蔵の家を立ち出で、ここまでやって来た秋山要介であり、見れば宿意ある水品陣十郎が、これも因縁《ゆかり》ある鴫澤主水を、まさに討って取ろうとしていた。間隔は遠い、間に合わない。そこで小柄を投げたのであった。
 小柄を投げて陣十郎の兇刃を、制して置いて秋山要介、飛燕の如く飛び込んで来た。
 が、陣十郎もただ者ではない、主水を相手に戦って、既に躰は疲労《つかれ》ていた。そこへ剣豪秋山要介に新規の力で出られては、百に一つの勝目はない。――と見て取るや刀を引き、鞘にも納めず下げたままで、耕地を一散に走って逃げた。
 と、瞬間飛び起きたは、無念残念返り討ちだと、一刹那覚悟して仆れていた主水で、
「秋山先生、お礼は後刻! ……汝、待て――ッ、水品陣十郎! ……遁してなろうか、父の敵!」と、身体綿の如く疲労して居り、剣技も陣十郎と比較しては、数段も劣って居り、追っかけ追い詰め戦ったところで、あるいは返り討ちになろうもしれないと、そういう不安もありながら、みすみす父の敵に逢い、巡り合って刀を交したのに、そうしてその敵が逃げて行くのに、そうして一旦逃がしてしまったなら、いつふたたび巡り逢えるやら不明と思えば追わずにいられなかった。
 で、主水は刀を振り振り、陣十郎を追いかけた。
「待たれい! 主水殿、鴫澤氏!」
 追いついてよしんば戦ったところで、陣十郎に主水が勝つはずはない、返り討ちは見たようなものだ――と知っている秋山要介は、驚いて大音に呼び止めた。
「長追いなさるな! お引き返しなされ! またの機会をお待ちなされ」
 しかし何のそれを聞こう! 主水はよろめきよろめきながら、走り走り走って行く。
(尋常の敵を討つのではなく、親の敵《かたき》を討つのであった。子とあってみれば返り討ちも承知で、追いかけ戦うのが本当であろう)
 気がついた秋山要介は、孝子《こうし》に犬死させたくない、ヨーシ、追いついて後見《うしろみ》してやろう! 助太刀してやろうと決心し、袴の股立取り上げた途端、
「セ、先生、秋山先生!」と、背後から息せき呼ぶ声がし、やにわに袖を掴まれた。
「誰だ!」と怒鳴って顔を見た。
 林蔵の乾兒の藤作であった。

12
「おお藤作、どうしたのだ?」
「タ、大変で……オ、親分が!」
「なに親分が? 林蔵がか?」
「へい、林蔵親分が、カ、街道で、あそこの街道で……タ、高萩の猪之松と……」
「うむ、高萩の猪之松と[#「猪之松と」は底本では「猪の松と」]?」
「ハ、果し合いだい、果し合いだい!」
「む――」と呻くと振り返り、要介は街道の方角を見た。
 旅人や百姓の群であろう、遠巻にして街道に屯し、じっと一所を見ている光景が、要介の眼に鮮かに見えた。彼等の見ている一所で、林蔵は怨ある猪之松と、果し合いをしているのであろう。要介も以前から林蔵と猪之松とが、勢力争い激甚であり、一度は雌雄を決するてい[#「てい」に傍点]の、真剣の切り合いをやるべきことを、いろいろの事情から知っていた。
(これはうっちゃって置かれない。林蔵を見殺しにすることは出来ない。聞けば高萩の猪之松は、逸見《へんみ》多四郎から教えを受け、甲源一刀流では使い手とのこと、林蔵といえどもこの拙者が、新影流は十分仕込んで置いた。負ける気遣いもあるまいが、もしも負れば師匠たる拙者の、恥にならないものでもない。林蔵と猪之松との果し合い、考えようによれば逸見多四郎と、この秋山要介との、果し合いと云うことにもなる。これはうっちゃっては置かれない)
「行こう、藤作!」と叫んだが、
(主水氏は?)とこれも気になり、走って行った方へ眼をやった。
 広い耕地をよろめきよろめき、陣十郎の後を追い、なお主水は走っていた。
(一人で行ったら返り討ち、陣十郎に討たれるであろう。……惜しい武士! 気の毒な武士! ……どうでも助太刀してやらねば……)
 ――が、そっちへ身を挺したら、林蔵はどういう運命になるか?
(どうしたら可《よ》いか? どうしたものだ?)
 知らぬ藤作は急き立てた。
「先生、早く、行っておくんなせえ! ……云いたいことはたくさんあるんで……第一女が誘拐《かどわか》されたんで……若い女が、綺麗な女が……誘拐した野郎は猪之松の乾兒と、その相棒の馬方なんで……最初《はな》は俺らと杉さんとで……へい、そうで浪之助さんとで、その女を助けたんですが……逃げた八五郎め馬方を連れて、盛り返して来てその女を……その時浪之助さんは留守だったんで……いやいやそんなこと! ……行っておくんなせえ、さあ先生! 親分が大変なんだ猪之松の野郎と! ……」
(行かなければならない!)と要介も思った。
(鴫澤氏は赤の他人、少くも縁は極めて薄い。林蔵の方は俺の弟子、しかも現在この俺は、林蔵の家に世話になっている。深い縁がある、他人ではない。……その林蔵を見殺しには出来ない! 行こう! しかし、そうだしかし、主水殿もお気の毒な! では、せめて言葉の助太刀!)
 そこで要介は主水の方に向かい、大音をもって呼びかけた。

13
「鴫澤《しぎさわ》氏、主水殿! 敵水品陣十郎を追い詰め、見事に復讐をお遂げなされ! 拙者、要介、秋山要介、貴殿の身辺に引き添って、貴殿あやうしと見て取るや、出でて、必ずお助太刀いたす! ……心丈夫にお持ちなされい! ……これで可《よ》い、さあ行こう!」
 街道目掛けて走り出した時、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]今は変わって千の馬
五百の馬の馬飼の
[#ここで字下げ終わり]
 と、聞き覚えある源女の声で、手近で歌うのが聞こえてきた。
「や、……歌声! ……源女の歌声!」
 要介は足を釘づけにした。
 探していた源女の歌声が、手近の所から聞こえてきたのであった。足を止めたのは当然といえよう。
「源女殿! お組殿!」
 思わず大声で呼ばわって、要介は四辺《あたり》を忙《せわ》しく見た。
 丘、小山とでも云いたいほどに、うず高く聳えている薮以外には、打ち開けた耕地ばかりで、眼を遮る何物もなかった。
(不思議だな、どうしたことだ。……歌声は空耳であったのか?)
 陣十郎の感じたようなことを、要介も感ぜざるを得なかった。
「先生、どうしたんですい、行っておくんなせえ」
 要介に足を止められて、胆を潰した藤作が怒鳴った。
「第一先生がこんな方角へ、トッ走って来たのが間違いだ。俺ら向こうで見ていたんで。すると先生の姿が見えた。しめた、先生がやって来た、林蔵親分に味方して、猪之松を叩っ切って下さるだろう。――と思ったら勘違いで、こんな薮陰へ来てしまった。そこで俺ら迎えに来たんだが、その俺らと来たひ[#「ひ」に傍点]には、ミジメさったら[#「ミジメさったら」は底本では「ミヂメさったら」]ありゃアしない。馬方に土をぶっかけられたんで。と云うのも杉さんがいなかったんで。その杉さんはどうしたかというに、誘拐《かどわか》された女の兄さんて奴が――そうそう主水とか云ったっけ、そいつが陣十郎とかいう悪侍に、オビキ出されて高萩村の方へ行った。とその女が云ったんで、こいつ大変と杉さんがね、高萩村の方へ追って行ったんで。――が、まあ可《い》いやそんな事ア。よくねえなア親分の身の上だ、まごまごしていると猪之松の野郎に……あッどうしたんだ見物の奴らア……」
 いかさま街道や耕地に屯し、果し合いを見ていた百姓や旅人が、この時にわかに動揺したのが、要介の眼にもよく見えた。が、すぐに動揺は止んで、また人達は静かになった。緊張し固くなって見ているらしい。
 突嗟に要介は思案を定めた。
(ここら辺りに源女がいるなら、薮の中にでもいるのであろう。正気でないと云ったところで、直ぐに死ぬような気遣いはない。……林蔵と猪之松との果し合い、これは一刻を争わなければならない。よしそっちへ行くことにしよう。……が、しかし念のために……)
 そこで要介はまたも大音に、薮に向かって声をかけた。
「源女殿、要介お迎えに参った。どこへもおいでなさるなよ! ……」

14
 街道では林蔵と猪之松とが、遠巻きに見物の群を置き、どちらも負けられない侠客《おとこ》と侠客との試合それも真剣の果し合いの、白刃を互いに構えていた。
 かなり時間は経過していたが、わずか二太刀合わせたばかりで、おおよそ二間を距てた距離で、相正眼に脇差をつけ、睨み合っているばかりであった。
 猪之松には乾兒や水品陣十郎の間に、何か事件が起こったらしく、耕地で右往左往したり、逃げる奴倒れる奴、そういう行動が感ぜられたが、訊ねることも見ることもできず、あつかう[#「あつかう」に傍点]こともできなかった。傍目一つしようものなら、その間に林蔵に切り込まれるからであった。
 林蔵といえどもそうであった、乾兒の藤作の声がしたり、杉浪之助の声がして、何か騒動を起こしているようであったが、どうすることも出来なかった。相手の猪之松の剣の技、己と伯仲の間にあり寸分の油断さえ出来ないからであった。
 が、そういう周囲の騒ぎも、今は全く静まっていた。数間を離れて百姓や旅人、そういう人々の見物の群が、円陣を作って見守っているばかりで、気味悪いばかりに寂静《ひっそり》としていた。
 二本の刀が山形をなし、朝の黄味深い日の光の中で、微動しながら浮いている。
 二人ながら感じていた。――
(ただ目茶々々に刀を振り廻して、相手を切って斃せばよいという、そういう果し合いは演ぜられない。男と男だ、人も見ている。後日の取沙汰も恐ろしい。討つものなら立派に討とう! 討たれるものなら立派に討たれよう!)
 二人ながら心身疲労していた。
 気|疲労《つかれ》! 気疲労! 恐ろしい気疲労!
 技が勝れているだけに、伎倆《うで》が伯仲であるだけに、その気疲労も甚だしいのであった。
 向かい合っていた二本の刀の、その切先がやがて徐々に、双方から寄って来た。
 見よ二人ながら踏み出している右足の爪先が蝮を作り、地を刻んで一寸二寸と、相手に向かって進むではないか。
 ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]!
 音は立たなかった。
 が、ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]と音立つように、互いの切先が触れ合った。
 しかしそのまま二本の刀身は、一度に水のように後へ引き、その間隔が六歩ほどとなった。
 そうしてそのまま静止した。
 静止したまま山形をなし、山形をなしたまま微動した。
 薄くポ――ッと刀と刀の間に、立ち昇っているのは塵埃《ほこり》であった。
 二人の刻んだ足のためにポ――ッと立った塵埃であった。
 間、
 長い間。
 天地寂寥。
 が、俄然二本の刀が、宙で烈しくもつれ合った。
 閃光! 太刀音! 鏘然! 鍔鳴り!
 で、Xの形となって、二本の刀は交叉され、わずかに左右に又前後に、揺れつ縒れつ押し押されつ、粘ったままで放れなかった。

15
 鍔競り合い!
 眼と眼との食い合い!
 そうだ、林蔵と猪之松との眼が、交叉された刀の間を通し、互いに食い合い睨み合っている。
 鍔競り合いの恐ろしさは、競り合いから離れる一刹那にあった。胴を輪切るか真っ向を割り付けるか、伎倆《うで》の如何《いかん》、躰形《たいけい》の如何、呼吸の緩急によって変化縦横! が、どっちみち恐ろしい。
 林蔵も猪之松も一所懸命、相手の呼吸を計っていた。
 と、交叉された刀の間へ、黒く塗られた刀の鞘が、忍びやかに差し込まれた。
「?」
「?」
 鞘がゆるゆると上へ上った。二本の白刃を持ち上げるのである。と、威厳ある声がした。
「勝負待て! 刀を引け! 仲裁役は秋山要介!」
 声と同時に刀の鞘が、二本の刀身を左右に分けた。
 二間の距離を保ちながら、尚、残心、刀を構え、睨み合っている林蔵と猪之松、その間に鞘ぐるみ抜いた太刀を提げて、ノビノビと立ったのは秋山要介で、まず穏かに林蔵へ云った。
「刀を鞘へ納めるがよい」
 それから猪之松の方へ顔を向け、
「以前一二度お見かけいたした。高萩村の猪之松殿か、拙者秋山要介でござる。刀を納め下されい」
 しばらくの間寂然としていた。
 やがて刀の鞘に収まる、鍔鳴りの音が二つ聞こえた。

 この頃源女は大薮を出て、唐黍《とうもろこし》畑の向こうを歩いていた。
(行かなければ不可《いけ》ない、さあ行こう)
 こう思いながら歩いていた。
 何者《だれ》か向こうで呼んでいる。そんなように彼女には思われるのであった。
 畦を越し桑畑を越した。そうして丘を向こうへ越した。もう背後を振り返って見ても、街道も大薮も見えないだろう。
 大渓谷、大傾斜、大森林、五百頭千頭の馬、無数の馬飼、宏大な屋敷――そういうものの存在している所へ、行かなければならない行かなければならない! ……そう思って彼女は歩いて行く。
 崩れた髪、乱れた衣裳、彼女の姿は狂女そっくりであった。発作の止まない間中は、狂女と云ってもいいのであった。
 長い小高い堤があった。
 よじ上って歩いて行った。
 向こう側の斜面には茅や蘆が、生い茂り風に靡いている、三間巾ぐらいの川があり、水がゆるゆると流れていた。
「あッ」
 源女は足を踏み辷らせ、ズルズルと斜面を川の方へ落ちた。パッと葦切が数羽飛び立ち、烈しい声で啼いて去った。と、蘆を不意に分けて、古船が一隻辷り出た。源女がその中に倒れている。
 纜綱《もやいづな》を切らした古船は、源女を乗せたまま流れて行く。
 源女は微動さえしなかった。

各自の運命


 高萩村に近い森の中まで、陣十郎を追って来た鴫澤主水《しぎさわもんど》は、心身全く疲労し尽くし、ほとんど人心地を覚えなかった。
 抜身を地に突き体を支えたが、それにも堪えられずクタクタ倒れた。
 とうに陣十郎は見失っていた。
 その失望も手伝っていた。
(残念、逸した、敵を逸した!)
(が、飽くまでも探し出して、……)
 立ち上ろうと努力した。
 が、躰はいうことをきかず、のみならず精神さえ朦朧となった。
 こうして杉や桧や槇や、楢などの喬木に蔽われて、その奥に朱の褪せた鳥居を持ち、その奥に稲荷の祠を持ち、日の光も通して来ず、で薄暗い風景の中に、雀や鶸《ひわ》や山雀《やまがら》や山鳩の、啼声ばかりが繁く聞こえる、鎮守の森に包まれて、気絶して倒れた主水の姿が、みじめに痛々しく眺められた。
 色づいた[#「色づいた」は底本では「色ずいた」]病葉《わくらば》が微風にあおられ体の上へ落ちて来たりした。
 かなり長い間しずかであった。
 と、その時人声がし、間もなく十数人の男女の者が、森の中へ現われた。
 変わった風俗の連中であった。
 赤い頭巾に赤い袖無、そんなものを着けている若い男もあれば、亀甲模様のたっつけ[#「たっつけ」に傍点]を穿き、胸に大形の人形箱をかけた、そういう中年の男もあり、紫の手甲に紫の脚絆、三味線を抱えた女もあり、浅黄の股引、茶無地の筒袖、そういう姿の肩の上へ、猿をとまらせた老人などもあった。
 それらはいずれも旅装であった。
 秩父|香具師《やし》の一団なのである。
 平素は自分の家にいて、百姓もやれば杣夫《そま》もやり、猟師もやれば川狩もやるが、どこかに大きな祭礼があって、市《たかまち》が立って盛んだと聞くと、早速香具師に早変りして、出かけて行って儲けて来、家へ帰れば以前通り、百姓や杣夫として生活するという――普通の十三香具師とは別派の、秩父香具師の一団であった。
 この日もどこかの市を目掛け親しい者だけで組をつくり、出かけて行くところらしい。
 その中に一人旅装ではなく、髪は櫛巻きに銀簪一本、茜の小弁慶の単衣《ひとえ》を着た、若い女がまじっていた。
 陣十郎の情婦のお妻であった。
「姐御、お前さんも行くといいんだがな」
 一人の男がこう云って、そそのかすようにお妻を見た。
「そうさねえそうやって、お前さんたちが揃って出かけて行くのを見ると、一緒に行きたいような気持がするよ」
 まんざらお世辞でもなさそうに、お妻はそう云って薄笑いをした。
「陣十郎さんばかりが男じゃアなし、他に男だってあろうじゃアないか。そうそういつもへばり付いてばかりいずに、俺らと旅へ出るのもいいぜ」
 こうもう一人の男が云った。
「あたしを旅へしょびいて行くほどの、好い男がどこかにいるかしら、お前さん達のお仲間の中にさ」
 云い云い、お妻は又薄笑いをして、香具師達を見廻した。
「俺じゃア駄目かな、え、俺じゃア」と、猿廻しが顔を出した。


「十年若けりゃア物になるが」
 お妻はむしろ朗かに笑った。
 お妻は秩父の産れであり、秩父香具師の一人であった。が、ずっと若い頃に、草深い故郷に見切りをつけ、広い世界へ出て行って、香具師などというケチなものよりもっと烈しい、もっと罪の深い、そうしてもっと度胸の入る、凄い商売へ入り込んでしまった。
 女邯鄲師《おんなかんたんし》[#ルビの「おんなかんたんし」は底本では「おんんなかんたんし」]――それになってしまった。
 道中や温泉場などで親しくなり、同じ旅籠《はたご》へ一緒に泊り、情を通じてたらす[#「たらす」に傍点]もあり、好きな男で無い場合には、すかし[#「すかし」に傍点]、あやなし[#「あやなし」に傍点]、たぶらかし[#「たぶらかし」に傍点]て、油断を窺って有金から持物、それらを持って逃げてしまう、平ったく云えば枕探し、女賊になってしまったのである。
 陣十郎の情婦になったのも、平塚の宿で泊まり合わせ、枕探しをしようとしたところ、陣十郎のために取って抑えられた、それが因縁になったのであった。
 その女邯鄲師のお妻であるが、今度陣十郎と連立って、産れ故郷へ帰って来た。と、今朝高萩の村道を、懐かしい昔の仲間達が――すなわち秩父香具師達が、旅|装束《よそおい》で通って行った。知った顔も幾個かあった。で、あまりの懐かしさに、冗談云い云いこんな森まで、連立って一緒に来たのであった。
「おや」と不意にお妻は云って、急に足を一所で止めた。
「こんなところに人間が死んでいるよ」
 行手の杉の木の根下の草に、抜身を持った武士が倒れている。
「ほんに、可哀そうに、死んでらあ。……しかも若いお侍さんだ」
 香具師達は云って近寄って行った。
 お妻はその前にしゃがみ[#「しゃがみ」に傍点]込み、その武士の額へ手をやったが、
「冷えちゃアいない、暖《あった》かいよ」
 いそいで脉所《みゃくどころ》を握ったが、
「大丈夫、生きてるよ」
「じゃア気絶というやつだな」
 一人の香具師が心得顔に云った。
「そうさ、気絶をしているのさ。抜身を持っているところを見ると、きっと誰かと切り合ったんだねえ。……どこも切られちゃアいない。……気負け気疲労《きつかれ》[#「気疲労《きつかれ》」は底本では「気疲労《きつかれ》れ」]で倒れたんだよ」
 云い云いお妻は覗き込んだが、
「ご覧よ随分|好男子《いいおとこ》じゃアないか」
「チェーッ」と誰かが舌打ちをした。
「姐御いい加減にしてくんな。どこの馬の骨か知れねえ奴に、それも死に損ない殺され損ないに。気をくばるなんて嬉しくなさ過ぎらあ」
「まあそういったものでもないよ。……第一随分可愛そうじゃアないか。……それにさ、ご覧よ、この蒼白い顔を……唇の色だけが赤くてねえ。……ゾッとするほど綺麗だよ。……」
「色狂人! ……行こう行こう!」
「行きゃアがれ、碌で無し! ……妾アこの人を介抱するよ」
 お妻は主水の枕元へ、ペタペタと坐ってなお覗き込んだ。


 その同じ日のことであった。
 絹川という里川の岸で、一人の武士が魚を釣っていた。
 四十五六の年齢で、広い額、秀でた鼻、鋭いけれど暖かい眼、そういう顔の武士であった。立派な身分であると見え、衣裳などは寧ろ質素であったが、體に威があり品があった。
 傍らに籃《びく》が置いてあったが、魚は一匹もいなかった。
 川の水は濁りよごれ[#「よごれ」に傍点]てい、藻草や水錆が水面に浮かび、夕日がそれへ色彩をつけ、その中で浮子《うき》が動揺してい、それを武士は眺めていた。
「東馬《とうま》もう何刻《なんどき》であろう?」
 少し離れた草の中に、お供と見えて若侍が退屈らしい顔付をして、四辺《あたり》の風景を見廻していたがそれへ向かって話しかけた。
「巳刻《よつどき》でもありましょうか」
 若侍はそう答え、
「今日は不漁《しけ》でございますな」
 笑止らしく云い足した。
「わしの魚釣、いつも不漁じゃ」
「御意で、全くいつも不漁で。……それにもかかわらず先生には、毎日ご熱心でございますな」
「それでいいのだ、それが本意なのだ。……と云うのはわしの魚釣は、太公望と同じなのだからな」
「太公望? はは左様で」
「魚釣り以外に目的がある。……ということを云っているつもりだが」
「どのような目的でございますか?」
「そう安くは明かされないよ」
「これはどうも恐れ入りました……が、そのように仰せられますと、魚の釣れない口惜《くちお》しまぎれの、負けおしみなどと思われましても……」
「どうも其方《そち》、小人で不可《いけ》ない」
「お手厳しいことで、恐縮いたします」
「こう糸を垂れて水面を見ている」
「はい、魚釣りでございますからな」
「水が流れて来て浮子にあたる」
「で、浮き沈みいたします」
「いかにも自然で無理がない……芥《あくた》などが引っかかると……」
「浮子めひどくブン廻ります」
「魚がかかると深く沈む」
「合憎[#「合憎」はママ]、今日はかかりませんでした」
「相手によって順応する……浮子の動作、洵《まこと》にいい」
「浮子を釣るのでもござりますまいに」
「で、わしはその中に、何かを得ると思うのだよ」
「鮒一匹、そのくらいのもので」
「魚のことを云っているのではない」
「ははあ左様で。……では何を?」
「つまりあの業《わざ》を破る術じゃ」
「は? あの業と仰せられまするは?」
「水品陣十郎の『逆ノ車』……」
「ははあ」
「お、あれは何だ」
 その時上流から女を乗せた、死んだように動かない若い女を乗せた、古船が一隻流れて来た。
「東馬、寄せろ、船を岸へ」
「飛んでもないものが釣れましたようで」
 若侍は云い云い袴を脱ぎかけた[#「脱ぎかけた」は底本では「股ぎかけた」]。
 が、古船は自分の方から、ゆるゆると岸の方へ流れ寄って来た。
 武士は釣棹の柄の方を差し出し、船縁へかけて引き寄せるようにしたが、
「女を上げて介抱せい」
 そう若侍へ厳しく云った。

鳳凰と麒麟


 それから幾日か経った。
 秋山要介は杉浪之助を連れて、秩父郡小川村《ちちぶのこおりおがわむら》の外れに、あたかも嵎《ぐう》を負う虎の如くに蟠居し、四方の剣客に畏敬されている、甲源一刀流の宗家|逸見《へんみ》多四郎義利の、道場構えの広大な屋敷へ、威儀を作って訪れた。
「頼む」
「応」と返事があって、正面の襖が一方へひらくと、小袴をつけた若侍が、恭しく現われた。
「これはこれは秋山先生、ようこそご光来下されました」
「逸見先生に御意得たい。この段お取次下されい」
「は、先生には江戸表へ参り、未だご帰宅ござりませねば……」
「ははあ、いまだにお帰りない」
「帰りませんでござります」
「先生と一手お手合わせ致し、一本ご教授にあずかりたく、拙者当地へ参ってより三日、毎日お訪ねいたしても、そのつどお留守お留守とのご挨拶、かりにも小川の鳳凰《ほうおう》と呼ばれ、上州間庭の樋口十郎左衛門殿と、並び称されている逸見殿でござれば、よもや秋山要介の名に、聞き臆じして居留守を使われるような、そのようなこともござるまいが、ちと受取れぬ仕儀でござるな」
 洒脱であり豪放ではあるが、他人に対してはいつも丁寧な、要介としてはこの言葉は、かなり角立ったものであった。
 傍に引き添っていた浪之助も、これはおかしいと思った程である。
 面喰ったらしい取次の武士は、
「は、ご尤《もっと》もには存じますが、主人こと事実江戸へ参り、今に帰宅いたしませねば……」
「さようか、よろしい、事実不在、――ということでござるなら、又参るより仕方ござらぬ。……なれどこのまま帰っては、三度も参った拙者の腹の虫、ちと納まりかねるにより、少し無礼とは存じ申すが、表にかけられた門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、お預かりして持ちかえる。逸見殿江戸よりご帰宅なさらば、この旨しかとお伝え下され。宿の小紅屋に滞在まかりある。ご免」というと踵《きびす》を返し、門を出ると門の柱に「甲源一刀流指南」と書いた、二寸厚さの桧板、六尺長い門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]外し、小脇に抱えて歩き出した。
 呆れ返ったのは浪之助で、黙々として物も云わず、要介の後から従《つ》いて行った。
 村とはいっても小川村は、宿場以上の賑いを持った、珍らしく豊かな土地であって、道の両側には商店多く、人の往来も繁かった。そういう所を立派な武士が、大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]引っ抱え、若い武士を供のように連れて、ノッシノッシと歩いて行くのであった。店の人達は審かしそうに覗き、往来の人達も不思議そうに眺めた。
 が、要介は意にも介さず、逸見家とは反対の方角の、これは小川村の入口にある、この村一番の旅籠屋の、小紅屋まで歩いて来た。
「お帰り」と番頭や婢達《おんなたち》が、これも怪訝そうな顔をして、大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]抱えた要介達を迎え、玄関へ頭を並べたのを、鷹揚に見て奥へ通った。


 中庭を前にした離座敷――この宿一番の座敷らしい――そこの床の間へ大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]立てかけ、それを背にして寛《ゆるや》かに坐わり、婢の持って来た茶を喫しながら、要介は愉快そうに笑っていた。
 その前に浪之助はかしこまっていたが、これは随分不安そうであった。
「先生」ととうとう浪之助は云った。
「これは一体どうしたことで?」
「…………」
 愉快そうに笑っている。
「武芸指南所の門札は[#「門札は」は底本では「門礼は」]、商家の看板と等しなみに、その家にとりましては大切なもの、これを外されては大恥辱……」
「ということは存じて居るよ」
「はい」と浪之助はキョトンとし、
「それをご承知でその門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「さよう、わしは外して来た」
「はい」と又もキョトンとし、
「それも高名の逸見先生の……」
「鳳凰と云われる逸見氏のな」
「はい」ともう一度キョトンとし、
「それほど逸見様は高名なお方……」
「わしも麒麟《きりん》と呼ばれて居るよ」
「御意で」と今度は頭を下げ、
「関東の麒麟と称されて居ります」
「鳳凰と麒麟……似合うではないか」
「まさにお似合いではございますが、似合うと申して門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「ナニわしだから外して来てもよろしい」
「麒麟だから鳳凰の門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「さようさよう外して来てもよろしい」
「ははあ左様でございますかな」
「他の奴ならよろしくない」
「…………」
「ということは存じて居る。さよう逸見氏も存じて居る」
「…………」
「人物は人物を見抜くからの」
「はい、もう私などは小人で」
「そのうちだんだん人物になる」
「はい、ありがたく存じます」
 とは云ったものの浪之助は、
(うっかり物を云うとこんな目に逢う。訓された上に嚇されてしまう)
 こう思わざるを得なかった。
「それに致しましても先生には、何と思われて小川村などへ参り、何と思われて逸見先生のお宅などへ……」
「武術試合をするためにさ……」
「それだけの目的でございますかな?」
「真の目的は他にある」
「どのような目的でございますかな?」
「赤尾の林蔵を関東一の貸元、そいつに押し立ててやりたいのだ」
「そのため逸見先生と試合をなさる?」
「その通り。変に思うかな?」
「どういう関係がございますやら」
「今に解る。じきに解る」
「ははあ左様でございますか」
「わしは金蔓をなくしてしまった――源女殿を見失ってしまったので、秩父にいる必要がなくなってしまった。そこで江戸へ帰ろうと思う。……江戸へ帰って行く置土産に、林蔵を立派な男にしてやりたい。それで逸見氏と試合をするのだ。……高萩の猪之松の剣道の師匠、逸見多四郎殿と試合をするのだ」


(なるほどな)と浪之助は思った。
(林蔵の師匠たる秋山先生と、猪之松の師匠たる逸見先生とが、武術の試合をした上で、林蔵を関東一の貸元にする。なるほどな、意味がありそうだ)
 確実のことは解らなかったが、意味はありそうに思われた。
 やがて解るということであった。押して訊こうとはしなかったが、
「それに致しましてもお組の源女と、その源女のうたう歌と、先生とのご関係を承《うけたま》わりたいもので」
 以前から疑問に思っていたことを、浪之助は熱心に訊いた。
 その浪之助は以前においては、まさしく源女の愛人であった。がその源女が今度逢ってみれば、変わった性格となって居り、不思議な病気を持って居り、妙な歌を口吟《くちずさ》むばかりか、要介などという人物が、保護する人間となっていたので、浮いた恋、稀薄の愛、そのようなものは注がないこととし、ほんの友人のように交際《つきあ》って来たところ、その源女は上尾街道で、過ぐる日行なわれた林蔵と猪之松との果し合いの際|行方《ゆくえ》不明となり、爾来姿を見せなくなっていた。
 浪之助も勿論心にかけたが、要介のかけ方は一層で、
「あの日たしかに大薮の陰で、源女殿の歌声を耳にした。が、果し合いを引き分けおいて、急いで行って探した時には、もう源女殿はいなかった。どこにどうしていることやら」と、今日までも云いつづけて来たことであった。
「源女殿とわしとの関係か。さようさな、もう話してもよかろう」
 要介はいつになくこだわら[#「こだわら」に傍点]なかった。しかししばらく沈思していた。久しく聞きたいと希望していた、秘密の話が聞かれるのである。浪之助は思わず居住いを正し、緊張せざるを得なかった。
 中庭に小広い泉水があり、鯉が幾尾か泳いでいたが、時々水面へ飛び上った。それが田舎の古い旅籠屋の、昼の静かさを破壊するところの、たった一つの音であった。
 と、要介は話し出した。
「武蔵という国は承知でもあろうが、源氏にとっては由縁《ゆかり》の深い土地だ。源氏の発祥地ともいうべき土地だ。ここから源氏の諸豪族が起こった。秩父庄司《ちちぶしょうじ》、畠山重忠《はたけやましげただ》、熊谷次郎直実《くまがいじろうなおざね》等、いずれも武蔵から蹶起した武将だ。……がわしにかかわる[#「かかわる」に傍点]事件は、もっと昔に遡らなければならない。……これは誰もが承知していることだが、後冷泉天皇の御宇《ぎょう》にあって、奥州の酋長|阿部《あべ》の頼時《よりとき》が、貞任《さだとう》、宗任《むねとう》の二子と共に、朝廷に背いて不逞を逞ましゅうした、それを征したのが源|頼義《よりよし》、そうしてその子の八幡太郎義家――さてこの二人だが奥州征めの往来に、武蔵の国にとどまった。今日の国分寺村の国分寺、さよう、その頃には立派な寺院で、堂塔伽藍聳えていたそうじゃが、その国分寺へとどまった……ところが止まったばかりでなく、前九年の役が終了した際、奥州産の莫大な黄金、それを携えて帰って来、それを国分寺の境内に、ひそかに埋めたということじゃ。それには深い訳がある」
 こう話して来て要介は、またしばらく沈思した。


 要介はポツポツ話し出した。
「源氏は東国を根拠とすべし。根拠とするには金が必要だ。これをもってここへ金を埋めて置く。この金を利用して根を張るべし。――といったような考えから、金を埋めたということだ。……その後この地武蔵において、いろいろさまざまの合戦が起こったが、埋めてあるその金を利用したものが、いつも勝ったということじゃ。ところがそのつど利用したものは、他の者に利用されまいとして、残った金を別の所へ、いつも埋め代えたということじゃ。……治承《じしょう》四年十月の候、源頼朝が府中の南、分倍河原《ぶばいがわら》に関八州の兵を、雲霞の如くに集めたが、その時の費用もその金であり、ずっと下って南北朝時代となり、元弘《げんこう》三年新田義貞卿が、北條高時を滅ぼすべく、鎌倉に兵を進めようとし、分倍河原に屯して、北條泰家と合戦したが、その時も義貞は源氏というところから、その金を利用したという事じゃ。正平《しょうへい》七年十二月十九日、新田|義宗《よしむね》南軍を率い、足利尊氏を狩野河《こうのかわ》に討つべく、武蔵の国に入ったところ、尊氏すでに狩野河を発し、谷口から府中に入り、人見原《ひとみはら》にて激戦したが、義宗破れて入間川《いるまがわ》に退き、二十八日|小手差原《こてさしはら》にて戦い、ふたたび破れて退いたが、この時は足利尊氏が、これも源氏というところから、その金を利用したということじゃ。更に下って足利時代に入り、鎌倉の公方足利成氏、管領上杉|憲忠《のりただ》を殺した。憲忠の家臣長尾|景晴《かげはる》、これを怒って手兵を率い、立川原で成氏と戦い、大いに成氏を破ったが、この時はその金を景晴が利用し、その後その金を用いた者で、史上有名の人物といえば、布衣《ふい》から起こって関八州を領した、彼の小田原《おだわら》の北條|早雲《そううん》、武蔵七党の随一と云われた、立川宗恒《たてかわむねつね》、同恒成、足利学校の創立者、武人《ぶじん》で学者の上杉|憲実《のりざね》。……ところがそれが時代が移って、豊臣氏となり当代となり――即ち徳川氏となってからは、その金を利用した誰もなく、金の埋没地も不明となり、わずかにこの地方秩父地方において『秩父の郡小川村、逸見様庭の桧の根、昔はあったということじゃ……』という、手毬唄に名残をとどめているばかりじゃ。……」
 ここまで云って来て要介は、不意に沈黙をしてしまった。
 じっと聞いていた浪之助の、緊張の度が加わった。
 源女のうたう不可解の歌が、金に関係あるということは、朧気ながらも感じていたが、そんな歴史上の合戦や人物に、深い関係があろうなどとは、夢にも想像しなかったからである。
(これは問題が大きいぞ)
 それだけに興味も加わって、固唾を呑むという心持! それでじっと待っていた。
 要介は語りついだ。
「あの歌の意味は簡単じゃ。今話した例の金が、武蔵秩父郡小川村の逸見《へんみ》家の庭にある桧の木の根元に、昔は埋めてあったそうさな。――という意味に他ならない。逸見家というのは云う迄もなく、逸見多四郎殿の家の事じゃ。……その逸見家は何者かというに、甲斐源氏《かいげんじ》の流を汲んだ、武州無双の名家で旧家、甲源一刀流の宗家だが、甲源の文字もそこから来ている。即ち甲斐源氏という意味なのじゃ」


 要介は語りつづけた。
「歌もそこ迄なら何でもないのじゃ。というのは普通の手毬歌として、秩父地方の人々は、昔から知っているのだからな。ところがどうだろう源女殿だけが、その後の文句を知っている『今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の……それから少し間が切れて――秣の山や底無しの、川の中地の岩窟の……という文句を知っている。そこへわし[#「わし」に傍点]は眼をつけたのじゃ。頼義《よりよし》、義家が埋めたという金は、その後の歌にうたわれている境地に、今は埋めてあるのだろう。それにしても源女殿はどこでどうしてその後の歌を覚えたかとな。で源女殿へ訊いて見た。その返辞が洵《まこと》に妙じゃ。大森林や大渓谷や、大きな屋敷や大斜面や、そういう物のある山の奥の、たくさんの馬や馬飼のいる所へ、いつぞや妾《わたし》は行ったような気がする。そこでその歌を覚えたような気がする。でもハッキリとは覚えていない。勿論そこがどこであるかも知らない。――という曖昧の返辞なのだ。その上|其方《そち》も知っている通り、源女殿は時々発作を起こす。……で、わしはいろいろの医者へ、源女殿の様態を診て貰ったところ、一人柳営お抱えの洋医、平賀|杏里《きょうり》殿がこういうことを云われた。――非常に恐ろしい境地へ行き、非常に烈しい刺激を受け、精神的に大打撃を受け、その結果大熱を体に発し、一月とか二月とかの長い間、人事不省になっていた者は、その間のことはいうまでもなく、それ以前の事もある程度まで、全然忘却してしまうということが往々にあるが、源女殿の場合がそうらしい。が、源女殿をその境地へ、もう一度連れて行けば思い出すし、事実その境地へ行かずとも、その境地と酷似している境地へ、源女殿を置くことが出来たなら、忘却していた過去のことを、卒然と記憶に返すであろうと。……しかし源女殿をその境地へ、連れて行くということは出来難い。その境地が不明なのだから。同じような境地へ源女殿を置く。ということもむずかしい。どんな境地かということを、わし[#「わし」に傍点]は確実に知らないのだから。……しかしわし[#「わし」に傍点]はこう思った。あの歌の前半の歌われている、秩父地方へ出かけて行って、気長く源女殿をそこに住ませて、源女殿の様子を見守っていたら、何か暗示を得ようもしれないとな。そこでお連れして来たのだが。……しかるに源女殿のそういう秘密を、わし[#「わし」に傍点]の外にもう一人、同じように知っている者がある。他でもない水品陣十郎じゃ」
 こう云って来て要介は、眉をひそめて沈黙した。
 剣鬼のような吸血鬼のような、陣十郎という男のことを、思い出すことの不愉快さ、それを露骨に現わさしたところの、それは気|不味《まず》い[#「不味《まず》い」は底本では「不味《まずい》い」]沈黙であった。
 浪之助も陣十郎は嫌いであり、嫌い以上に恐ろしくもあり、口に出すことさえ厭であったが、しかし源女や要介が、どういう関係からあの吸血鬼と、知り合いになったかということについては、窺い知りたく思っていた。
 それがどうやら知れそうであった。
 そこで更に固唾を呑む気持で、要介の語るのを待ち構えた。


「今から十月ほど前であったよ」と、要介は話をつづけ出した。
「信濃方面へ旅をした。武術の修行というのではなく、例によっての風来坊、漫然と旅をしたまでだが沓掛《くつかけ》の宿で一夜泊まった。明月の夜であったので、わしは宿《やど》を出て宿《しゅく》を歩き、つい宿外れまでさまよって行った。と、歌声が聞こえてきた。云うまでも[#「云うまでも」は底本では「云までも」]なく例の歌さ。はてなと思って足を止めると、狂乱じみた若い女が、その歌をうたって歩いて来る。と、その後から一人の武士が、急ぎ足で追いついたが、やにわに女を蹴倒すと、踏む撲るの乱暴狼藉『汝《おのれ》逃げようとて逃がそうや』こう言っての乱暴狼藉! その瞬間女は正気づいたらしく、刎ね起きると拙者を認め、走り寄って縋りつき、お助け下されと申すのじゃ。心得たりと進み出て、月明で武士を見れば、以前樋口十郎左衛門殿方で、立合ったことのある水品陣十郎! 先方も拙者を認めたと見え、しかも形勢非なりと知ったか、『秋山殿でござったか、その女は源女と申し、発狂の女芸人、拙者故あって今日まで、保護を加えて参りましたが、お望みならば貴殿に譲る』と、このようなヘラズ口をきいたあげく、匆慌《そうこう》として立ち去ったので、源女殿を宿へ連れて参り、事情を詳しく訊いたところ、江戸両国の曲独楽の太夫、養母というものに悪婆あって長崎の異人に妾《めかけ》に出そうという。それを避けて旅へ出で、ある山国へ巡業したところ、大森林、大傾斜、百千頭も馬のいるところ、そういう所の大きな屋敷へ、どういう訳でか連れて行かれた。そうしてそこで恐ろしい目に逢い、妾《わたし》は正気を失ったらしい。正気づいて見れば陣十郎という男が、妾の側に附いていて、それ以来ずっとその男が、あらゆる圧迫と虐待とを加え、妾にその土地へ連れて行け、お前の謡う歌にある土地へ、連れて行けと云って強いに強い、爾来その男に諸々方々を、連れ歩かれたとこう云うのじゃ。……それからわし[#「わし」に傍点]は源女殿を連れて、江戸へ帰って屋敷へ置いたが、そこは女芸人のことで、もう一度舞台に出たいという。そこで元の座へ出したところ、陣十郎に見付けられ、貴殿などとも知り合うようになった。……」
「よく解《わか》りましてござります」
 要介の長い話を聞き、浪之助はこれまでの疑問を融かした。
「と致しますと陣十郎も、例の黄金の伝説的秘密を、承知いたして居りまして、それを探り出そうと心掛け、源女を抑えて居りましたので……」
「さよう」と要介は頷いて云った「逸見多四郎殿の門弟として、秩父地方に永らく居た彼、黄金の秘密は知悉しているはずじゃ」
 この時部屋の外の廊下に、つつましい人の足音がし、
「ご免下され」という男の声がし、襖が開いて小紅屋の主人が、恭しくかしこまった顔を出し、
「逸見の殿様お越しにござります。へい」と云って頭を下げた。
 見れば主人の背後にあたって、威厳のある初老の立派な武士が、気軽にニコヤカに微笑しながら、部屋を覗くようにして立っていた。
「逸見多四郎参上いたしました」


「や、これは!」とさすがの要介も、郷士ながらも所の領主、松平|大和守《やまとのかみ》には客分にあつかわれ、新羅《しんら》三郎|義光《よしみつ》の後胤甲斐源氏の名門であり、剣を取らせては海内の名人、しかも家計は豊かであって、倉入り千俵と云われて居り、門弟の数|大略《おおよそ》二千、そういう人物の逸見多四郎が、気軽にこのような旅籠屋などへ、それも留守の間に道場の看板、門の大札[#「大札」は底本では「大礼」]を外して行ったところの、要介を訪ねて来ようなどとは、要介本人思いもしなかったところへ、そのように気軽に訪ねて来られたので、さすがに驚いて立ち上った。
「これはこれは逸見先生、わざわざご来訪下されましたか。いざまずこれへ! これへ!」
「しからばご免」と仙台平の袴に、黒羽二重の衣裳羽織、威厳を保った多四郎は、静かに部屋の中へ入って来た。
 座が定《き》まってさて挨拶! という時に要介の機転、床の間に立ててあった例の門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、恭しく抱えて持って来るや、前へ差し出しその前に坐り、
「実は其《それがし》先生お屋敷へ、本日参上いたしましたところ、江戸へ参ってご不在との御事。と、いつもの悪い癖が――酔興とでも申しましょうか、悪い癖がムラムラと起こりまして、少しく無礼とは存じましたが、門弟の方へ一応断わり、この大門札[#「門札」は底本では「門礼」]ひき外し、旅舎まで持参いたしました、がしかし決して粗末にはいたさず、床の間へ立てかけ見事の筆蹟を、打ち眺め居りましてござります。が、それにしてもこの門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、ひき外し持参いたしましたればこそ、かかる旅舎などへ先生ほどのお方を、お招きすること出来ました次第、その術策|的中《あた》りましてござるよ。ハッハッハッ」と笑ったが、それは爽かな笑いでもあった。
 と、多四郎もそれに合わせ、こだわらぬ爽かな笑い声を立てたが、
「その儀でござる、実は其《それがし》所用あって江戸へ参り、三日不在いたしまして、先刻帰宅いたしましたところ、ご高名の秋山先生が、不在中三回もお訪ね下され、三回目の本日門の札を[#「札を」は底本では「礼を」]、ひき外しお持ちかえりなされたとのこと、門弟の一人より承《うけたま》わり、三回のご来訪に恐縮いたし、留守を申し訳なく存じますと共に、その門弟へ申したような次第――、門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]外して持ち去った仁、秋山要介先生でよかった。他の仁ならこの多四郎、決して生かして置きませぬ。秋山要介先生でよかった。その秋山先生は、奇嬌洒脱の面白い方じゃ、いまだ一度もお目にかからぬが、勇ましいお噂は承って居る。五百石といえば堂々たる知行、その知行取りの剣道指南役の、嫡男の身に産れながら、家督を取らず浪人し、遊侠の徒と交際《まじわ》られ、権威に屈せず武威に恐れず、富に阿《おも》ねらず貧に恥じず、天空海濶に振舞われる当代での英傑であろう。門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]持って行かれたも、単なる風狂に相違ない。宿の小紅屋に居られるなら、早速参ってお目にかかろうとな。――そこで参上いたしたような次第、お目にかかれて幸甚でござった」
「杉氏どうじゃな」と要介は、浪之助の方へ声をかけた。


「人物は人物を見抜くと云ったが、どうじゃ杉氏、その通りであろう」
 こう云ったがさらに要介は、多四郎の方へ顔を向け、
「ここに居られるは杉浪之助殿|某《それがし》の知己友人でござる。門札[#「門札」は底本では「門礼」]外して持ち参ったことを、ひどく心配いたしましたについて、いや拙者だからそれはよい、余人ならばよろしくないと云うことは逸見先生もご存知、人物は人物を見抜くものじゃと、今し方申して居りました所で、……杉氏何と思われるな?」
「ぼんやり致しましてござります」
 浪之助はこう云うと、恰も夢から醒めたように、眼を大きくして溜息を吐いた。
「鳳凰《ほうおう》と麒麟《きりん》! 鳳凰と麒麟! 名優同志の芝居のようで。見事のご対談でございますなあ」
 逸見多四郎がやって来た! さあ大変! 凄いことが起こるぞ! 激論! 無礼咎め! 切合い! 切合い! と、その瞬間思ったところ、事は全く反対となり、秋山先生で先ずよかった! ……ということになってしまい、十年の知己ででもあるかのように、笑い合い和み合い尊敬し合っている。で浪之助は恍惚《うっとり》として、両雄の対談を聞いていたのであった。
「酒だ」と要介は朗かに云った。
「頼みある兵《つわもの》の交際に、酒がなくては物足りぬ。酒だ! 飲もう! 浪之助殿、手を拍って女中をお呼び下され!」
「いや」と多四郎は手を振って止めた。
「酒も飲みましょう。がしかし、酒は場所を変えて飲みましょう」
「場所を変えて? はてどこへ?」
「拙者の屋敷で。……云うまでもござらぬ」
「要介のまかり在るこの屋敷、さてはお気に入らぬそうな」
「いやいや決して、そういう訳ではござらぬ。……が、最初にご貴殿において、お訪ね下されたのが拙者の屋敷、言って見れば先口で。……ではその方で飲むのが至当。……」
「ははあなるほど、それもそうじゃ」
「ということと存じましたれば、駕籠を釣らせてお宿の前まで、既に参って居りますので」
「それはそれはお手廻しのよいこと。……がしかし拙者といたしましては、ご貴殿のお屋敷におきましては、酒いただくより木刀をもって、剣道のご指南こそ望ましいのでござる」
「云うまでもござらぬ剣道の試合も、いたしますでござりましょう」
「その試合じゃが逸見先生、尋常の試合ではござらぬぞ」
「と申してまさかに真剣の……」
「なんのなんの真剣など。……実は賭試合がいたしたいので」
「ナニ賭試合? これは面妖! 市井の無頼の剣術使いどもが、生活《くらし》のために致すような、そのような下等の賭試合など……」
「賭る物が異《ちが》ってござる」
「なるほど。で、賭物は?」
「拙者においては赤尾の林蔵!」
「赤尾の林蔵を? 赤尾の林蔵を? ふうん!」と云ったが多四郎は、じっと要介の顔を見詰めた。


「博徒ながらも林蔵は、拙者の剣道の弟子でござる」
 要介はそう云って意味ありそうに、多四郎の顔を熟視した。
「その林蔵をお賭になる。……では拙者は何者を?」
 いささか不安そうに多四郎は云って、これも要介を意味ありそうに見詰めた。
「高萩村の猪之松を、お賭下さらば本望でござる」
「彼は拙者の剣道の弟子……」
「で、彼をお賭け下され」
「賭けて勝負をして?」
「拙者が勝てば赤尾の林蔵を、関東一の貸元になすべく、高萩村の猪之松を、林蔵に臣事いたさせ下され」
「拙者が勝たば赤尾の林蔵を、高萩の猪之松に従わせ、猪之松をして関東一の……」
「大貸元にさせましょう」
「ははあそのための賭試合?」
「弟子は可愛いものでござる」
「なるほどな」と多四郎は云ったが、そのまま沈黙して考え込んでしまった。
 林蔵と猪之松とが常日頃から、勢力争いをしていることは、多四郎といえども知っていた。その争いが激甚となり、早晩力と力とをもって、正面衝突しなければなるまい――という所まで競り詰めて来ている。ということも伝聞していた。とはいえそのため秋山要介という、一大剣豪が現われて、師弟のつながりを縁にして、自分に試合を申し込み、その勝敗で二人の博徒の、勢力争いを解決しようなどと、そのような事件が起ころうなどとは、夢にも思いはしなかった。
(何ということだ!)と先ず思った。
(さてどうしたものだろう?)
 とは云え自分も弟子は可愛い、成ろうことなら林蔵を挫いて、猪之松を大貸元にしてやりたい。
(では)と思わざるを得なかった。
(では要介の申し込みに応じ、賭試合を行ない打ち勝ってやろう)
 腹が決まると堂々たるもので、逸見多四郎は毅然として云った。
「賭試合承知いたしてござる。しからば直ちに拙者屋敷に参り、道場においてお手合わせ、試合いたすでござりましょう」
「欣快」
 要介は立ち上った。
「杉氏、貴殿もおいでなされ」
 三人揃って部屋を出た。

 逸見多四郎家のここは道場。――
 竹刀《しない》ではない木刀であった。
 要介と多四郎とは構えていた。
 一本勝負!
 そう定められていた。
 二人ながら中段の構え!
 今、シ――ンと静かである。
 かかる試合に見物は無用と、通いの門弟も内門弟も、一切退けてのただ二人だけ! いや他に杉浪之助と、要介の訪問に応待に出た、先刻の若侍とが道場の隅に、つつましく控えて見守っていた。

10[#「10」は縦中横]
 見霞むばかりの大道場、高く造られある正面は、師範の控える席であり、それに向かって左の板壁には、竹刀《しない》、木刀、槍、薙刀《なぎなた》、面、胴、籠手の道具類が、棚に整然と置かれてあり、左の板壁には段位を分けた、漆塗りの名札がかけてあった。
 塵もとどめぬ板敷は、から[#「から」に傍点]拭きされて鏡のように光り、おりから羽目板の隙間から、横射しに射して来た日の光りが、そこへ琥珀色の棒縞を織り、その空間の光の圏内に、ポッと立っている幽かな塵埃《ほこり》は、薄い煙か紗のようであった。
 互いに中段に位取って動かぬ、要介と多四郎は広い道場の、中央に居るところから、道場の端に腰板を背にして、端座している浪之助から見ると、人形のように小さく見えた。
 おおよそ六尺の間隔を保ち、互いに切先を相手の眉間へ、ピタリと差し付けて構えたまま、容易に動こうとはしなかった。
 道具を着けず木刀にての試合に、まさに真剣の立合いと、何の異なるところもなく、赤樫蛤刃《あかがしはまぐりは》の木刀は、そのまま真《まこと》の剣であり、名人の打った一打ちが、急所へ入らば致命傷、命を落とすか不具《ふぐ》になるか、二者一つに定《き》まっていた。
 とはいえ互いに怨みあっての、遺恨の試合というのではなく、互いの門弟を引っ立てようための義理と人情とにからまった、名人と名人との試合であった。自然態度に品位があり、無理に勝とうの邪心がなく、闘志の中に礼譲を持った、すがすがしい理想的の試合であった。
 今の時間にして二十分、構えたままで動かなかった。
 掛声一つかけようとしない。
 掛声にも三通りある。
 追い込んだ場合に掛ける声。相手が撃って出ようとする、その機を挫《くじ》いて掛ける声、一打ち打って勝利を得、しかも相手がその後に出でて、撃って来ようとする機を制し、打たせぬために掛ける声。
 この三通りの掛声がある。
 しかるに二人のこの試合、追い込み得べき機会などなく、撃って出ようとするような、隙を互いに見せ合わず、まして一打ち打ち勝つという、そういうことなどは絶対になかった。
 で、二人ながら掛声もかけず、同じ位置で同じ構えで、とはいえ決して居附きはせず、腹と腹との業比べ、眼と眼との睨み合い、呼吸と呼吸との抑え合い、一方が切先を泳がせれば、他の一方がグッと挫き、一方が業をかけようとすれば、他の一方が先々ノ先で、しかも気をもって刎ね返す、……それが自ずと木刀に伝わり、二本の木刀は命ある如く、絶えず幽かにしかし鋭く、上下に動き左右に揺れていた。
 更に長い時が経った。
 と、要介の右の足が、さながら磐石をも蹴破るてい[#「てい」に傍点]の、烈しさと強さと力とをもって、しかもゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]と充分に粘り、ソロリとばかり前へ出て、左足がそれに続いた。
 瞬間多四郎の左足が、ソロリとばかり後へ下り、右足がそれに続いた。
 で 間だ! 静止した。
 長い間! ……しかし……次の瞬間……ドドドドッという足音が響いた。

11
 奔流のように突き進む要介!
 追われて後へ退く多四郎!
 ドドドドッという二人の足音!
 見よ、その速さ、その鋭さ!
 あッ、多四郎は道場の端、板壁へまで追い詰められ、背中を板壁へあてたまま、もう退けない立ち縮んだ。
 その正面へ宛然《さながら》巨岩、立ちふさがったは要介であった。
 勝負あった!
 勝ちは要介!
 非ず、見よ、次の瞬間、多四郎の胸大きく波打ち、双肩渦高く盛り上ると見るや、ヌッと一足前へ出た。
 と、一足要介は下った。
 多四郎は二足ヌッと出た。
 要介は退いた。
 全く同じだ!
 ドドドドッという足音!
 突き進むは多四郎、退くは要介、たちまちにして形勢は一変し、今は要介押し返され、道場の破目板を背に負った。
 で、静止!
 しばらくの間!
 二本の剣が――木刀が、空を細かく細かく細かく、細かく細かく刻んでいる。
 多四郎勝ちか?
 追い詰め了《りょう》したか?
 否!
 ソロリと一足下った。
 追って要介が一足出た。
 粘りつ、ゆっくりと、鷺足さながら、ソロリ、ソロリ、ソロリ、ソロリと、二人は道場の中央まで出て来た。
 何ぞ変らざる姿勢と形勢と!
 全く以前と同じように、二人中段に構えたまま、見霞むばかりの大道場の、真中の辺りに人形のように小さく、寂然と立ち向かっているではないか。
 さすがに二人の面上には、流るる汗顎までしたたり、血上って顔色朱の如く、呼吸は荒くはずんでいた。
 窒息的なこの光景!
 なおつづく勝負であった。
 試合はつづけられて行かなければならない。
 が、忽然そのおりから、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秩父の郡《こおり》
小川村
逸見様庭の
桧の根
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 と、女の歌声が道場の外、庭の方から聞こえてきた。
「しばらく!」と途端に叫んだ要介、二間あまりスルスルと下ると、木刀を下げ耳を澄ました。
「…………」
 審かしそうに体を斜めに、しかし獲物は残心に、油断なく構えた逸見多四郎、
「いかがなされた、秋山氏?」
「あの歌声は? ……歌声の主は?」
「ここに控え居る東馬共々、数日前に、絹川において、某《それがし》釣魚《ちょうぎょ》いたせし際、古船に乗って正体失い、流れ来たった女がござった[#「ござった」は底本では「ごさった」]。……助けて屋敷へ連れ参ったが、ただ今の歌の主でござる」

12
「名は? 源女! お組の源女! ……と申しはいたしませぬか?」
「よくご存知、その通りじゃ」
「やっぱりそうか! そうでござったか! ……有難し、まさしく天の賜物! ……その女こそこの要介仔細ござって久しい前より、保護を加え養い居る者、過日上尾の街道附近で、見失い失望いたし居りましたが、貴殿お助け下されたか。……源女拙者にお渡し下され」
「ならぬ!」と多四郎ニベもなく云った。
「源女決して渡すことならぬ!」
「理由は? 理由は? 逸見氏?」
「理由は歌じゃ、源女の歌う歌じゃ!」
「…………」
「今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の……後にも数句ござったが、この歌を歌う源女という女子、拙者必要、必要でござる!」
「なるほど」と要介は頷いて云った。
「貴殿のお家に、逸見家に、因縁最も深き歌、その歌をうたう源女という女、なるほど必要ござろうのう……伝説にある埋もれたる黄金、それを掘り出すには屈竟の手蔓……」
「では貴殿におかれても?」
「御意、さればこそ源女をこれ迄……」
「と知ってはいよいよ源女という女子《おなご》、お渡しいたすことなりませぬ」
「さりながら本来拙者が保護して……」
「過ぐる日まではな。がその後、見失いましたは縁無き證拠。……助けて拙者手に入れたからは、今は拙者のものでござる」
「源女を手蔓に埋もれし黄金を、では貴殿にはお探しなさるお気か?」
「その通り、云うまでもござらぬ」
「では拙者の競争相手!」
「止むを得ませぬ、因縁でござろう」
「二重に怨みを結びましたな!」
「ナニ怨みを? 二重に怨みを?」
「今は怨みと申してよかろう! ……一つは門弟に関する怨み、その二は源女に関する怨み!」
「それとても止むを得ぬ儀」
「用心なされ逸見氏、拙者必ず源女を手に入れ、埋もれし黄金も手に入れましょう」
「出来ましたなら、おやりなされい!」
「用心なされ逸見氏、源女を手に入れ埋もれし黄金を、探し出だそうと企て居る者、二人以外にもござる程に!」
「二人以外に? 誰じゃそ奴?」
「貴殿の門弟、水品陣十郎!」
「おお陣十郎! おお彼奴《きゃつ》か! ……弟子ながらも稀代の使い手、しかも悪剣『逆ノ車』の、創始者にして恐ろしい奴。……彼奴の悪剣を破る業、見出だそうとこの日頃苦心していたが、彼奴が彼奴が源女と黄金を……」
「逸見氏、お暇申す」
「勝負は? 秋山氏、今日の勝負は?」
「アッハハ、後日真剣で!」

因果な恋


 高萩村の村外れに、秩父|香具師《やし》の部落があり、「|刃ノ郷《やいばのごう》」と称していた。三十軒ほどの人家があり、女や子供や老人などを入れ、百五十人ほどの半農半香具師が、一致団結して住んでいた。
 郷に一朝事が起こり、合図《しらせ》の竹法螺がボーッと鳴ると、一切の仕事を差し置いて、集まるということになっていた。
 弁三爺さんという香具師の家は、この郷の片隅にあった。
 茅葺の屋根、槇の生垣、小広い前庭と裏の庭、主屋、物置、納屋等々、一般の農家と変わりのない家作、――ただし床ノ間に鳥銃一挺、そうして壁に半弓一張、そういう武器が懸けてあるのは、本来が野士といって武士の名残――わけても秩父香具師は源氏の正統、悪源太義平から来ていると、自他共に信じているそれだけあって、普通の農家と異《ちが》っていた。
 秋山要介と逸見多四郎とが、多四郎の道場で、木刀を交した、その日から数日経過したある日の、こころよく晴れた綺麗な午後、ここの庭に柿の葉が散っていた。
 その葉の散るのをうるさ[#「うるさ」に傍点]そうに払って、お妻が庭へ入って来た。
「いい天気ね、弁三爺さん」
 母屋の縁側に円座を敷き、その上に坐って憂鬱の顔をし、膏薬を練っていた弁三爺さんは、そう云われてお妻の顔を見た。
「よいお天気でございますとも……へい、さようで、よいお天気で」
 ――そこで又ムッツリと家伝の膏薬を、節立った手で練り出した。
 お妻は眉をひそめて見せたが、
「日和が続いていい気持だのに、爺つぁんはいつも不機嫌そうね」
「へい、不機嫌でございますとも、倅が江戸へ出て行ったまま、帰って来ないのでございますからな」
「またそれをお云いなのかえ。ナーニそのうち帰って来るよ」とは云ったものの殺された倅、弁太郎が何で帰るものかと、心の中で思っているのであった。
(あの人を殺したのは陣十郎だし、殺すように進めたのは妾だったっけ)
 こう思えばさすがに厭な気がした。
 まだお妻がそんな邯鄲師《かんたんし》などにならず、この郷に平凡にくらしていた頃から、弁太郎はひどくお妻を恋し、つけつ[#「つけつ」に傍点]廻しつして口説いたものであった。その後お妻は故郷を出て、今のような身の上になってしまった。と、ヒョッコリ[#「ヒョッコリ」は底本では「ヒョッコり」]弁太郎が、膏薬売となって江戸へ出て来、バッタリお妻と顔を合わせた。爾来弁太郎は附き纏い、長い間の恋を遂げようとし、お妻の現在の身分も探ぐり、恋遂げさせねば官に訴え、女邯鄲師として縄目の恥を、与えようなどと脅迫さえした。お妻は内心セセラ笑ったが、うるさいから眠らせてしまおうよ、こう思って情夫の陣十郎へケシカケ、一夜お茶ノ水へ引っ張り出し、一刀に切らせてしまったのであった。
 杉浪之助が源女の小屋から、自宅へ帰る途中《みちすが》らに見た、香具師の死骸は弁太郎なのであった。
「爺つぁん、主水さんのご機嫌はどう?」お妻は話を横へそらせた。


「あのお方もご機嫌が悪そうで」
 弁三はそう云って俯向いて、物憂そうに膏薬を練った。
「出て行きたそうなご様子はないかえ?」
「出て行きたそうでございますなあ」
「出て行かしちゃアいけないよ」
「というお前さんの云いつけだから、せいぜい用心しては居りますがね」
「行かせたらあたしゃア承知しないよ」
 剃刀《かみそり》のような眼でジロリと見た。
「手に合わなけりゃア仕方がねえ、ボーッと竹法螺吹くばかりだ」
「と、村中の出口々々が、固められるから大丈夫だねえ。でもそういった大袈裟なこと、あたしゃアしたくはないのだよ」
「ご尤《もっと》もさまでございます」
「どれご機嫌を見て来よう」
 腰かけていた縁から立って、お妻は裏の方へ廻って行った。
(凄い女になったものさな)
 お妻の後を見送りながら、そう弁三爺さんは思った。
 以前この郷に居た時分は、度胸こそあったが可愛いい無邪気な綺麗な娘っ子に過ぎなくて、この家などへもノベツに来て、お爺さんお爺さんと懐かしがってくれたお妻、それがどうだろう陣十郎とかいう浪人者と手をたずさえて、今度やって来た彼女を見れば、縹緻も上ったがそれより何より、人間がすっかり異《ちが》ってしまっていて、腕には刺青眼には殺気、心には毒を貯えていて、人殺しぐらいしかねまじい姐御、だいそれた[#「だいそれた」に傍点]女になっているではないか。
(陣十郎とかいうお侍さん、随分怖そうなお侍さんだが、あんな人の眼をこっそり盗んで、鴫澤主水《しぎさわもんど》とかいうお侍さんを、こんな所へ隠匿《かくま》うなんて……血腥さい[#「血腥さい」は底本では「血醒さい」]事件でも起こらなけりゃアいいが)
 これを思うと弁三爺さんは、不安で恐ろしくてならなかった。
 数日前のことであった、そのお侍さんを駕籠に乗せて、宵にこっそりやって来て、
「このお侍さんを隠匿っておくれ、村の者へも陣十郎さんへも、誰にも秘密《ないしょ》で隠匿っておくれ、昔馴染みのお前さんのとこより、他には隠し場所がないんだからねえ」
 こうお妻が余儀なげに云った。
 見ればどうやらお侍さんは、半分死んででもいるように、気息奄々憔衰していた。
「へい、それではともかくも……」
 こう云って弁三は引き受けた。
 と、翌日から毎日のように、お妻はやって来て介抱した。
(どういう素性のお侍さんなのかな?)
(お妻さんとの関係はどうなんだろう?)
 解《わか》らなかったが不安であった。
 婆さんには死に別れ、たった一人の倅の弁太郎は江戸に出たまま帰って来ない。ただでさえ不安で小寂しいところへ、そんなお侍さんをあずかったのである。
 弁三爺さんは憂鬱であった。
 黙々と膏薬を練って行く。
 ヒョイと生垣の向こうを見た。
「あッ」と思わず声をあげた。
 陣十郎が蒼白い顔を、気味悪く歪めて生垣越しに、じっとこっちを見ているではないか。
(さあ大変! さあ事だ!)


「おい」と陣十郎は小声で呼んだ。
「おい爺《とっ》つぁん、ちょっと来てくんな」
 生垣越しに小手招きした。
 裏の座敷にはお妻がいるはずだ。
「へい」とも返辞が出来なかった。
 顫えの起こった痩せた体を、で弁三はヒョロヒョロと立たせ、庭下駄を穿くのもやっとこさで、陣十郎の方へ小走って行った。
 生垣を出ると村道である。
 と、陣十郎がしゃがみ[#「しゃがみ」に傍点]込んだので、向かい合って弁三もしゃがみ込み、
「へ、へい、これは水品様……」
「爺つぁん、お妻が来たようだね」
「オ、お妻さんが……へい……いいえ」
「へい、いいえとはおかしいな。へい[#「へい」に傍点]なのか、いいえ[#「いいえ」に傍点]なのか?」
「へい……いいえ……いいえなので」
「とすると俺の眼違いかな」
「………」
「恰好がお妻に似ていたが……」
「…………」
「ナーニの、俺ら家を出てよ、親分の家へ行こうとすると、鼻っ先を女が行くじゃアないか。滅法粋な後ろ姿さ。悪くねえなア誰だろうと、よくよく見ると俺の女房さ。アッ、ハッハッそうだったか、女房とあっては珍しくねえ、と思ったがうち[#「うち」に傍点]の女房ども、どちらへお出かけかとつけて[#「つけて」に傍点]来ると、お前の家へ入ったというものさ」
「へ、へい、さようで、それはそれは……」
「それはそれはでなくて、これはこれはさ。これはこれはとばかり驚いて、しばらく立って見ていたが、裏の方へ廻って行ったので、爺つぁんお前をよんだわけさ」
「へ、へい、さようでございますかな」
「裏にゃア何があるんだい?」
「へい、庭と生垣と……」
「それから雪隠と座敷とだろう」
「へい、裏座敷はございます」
「その座敷にだが居る奴はだれだ!」
「ワーッ! ……いいえ、どなた様も……」
「居ねえ所へ行ったのかよ」
「ナ、何でございますかな?」
「誰もいねえ裏座敷へ、俺の女房は入って行ったのか?」
「…………」
「犬か!」
「へ?」
「雄の犬か!」
「滅相もない」
「じゃア何だ!」
「…………」
「云わねえな、利いていると見える、お妻のくらわせた鼻薬が……」
「水品様、まあそんな……そんな卑しい弁三では……」
「ないというのか、こりゃア面白い、媾曳宿《あいびきやど》に座敷を貸して、鼻薬を貰わねえ上品な爺《おやじ》――あるというならこりゃア面白い! 貰った貰った鼻薬は貰った。そこでひし[#「ひし」に傍点]隠しに隠しているのだ! ……ヨーシそれならこっちの鼻薬、うんと利くやつを飲ませてやる」
 トンと刀の柄を叩いた。
「鍛えは関、銘は孫六、随分人を切ったから、二所ばかり刃こぼれがある、抜いて口からズーッと腹まで! ……」
 ヌッと陣十郎は立ち上り、グッと鯉口を指で切った。


 古びた畳、煤けた天井、雨もりの跡のある茶色の襖。裏座敷は薄暗く貧しそうであった。
 江戸土産の錦絵を張った、枕屏風を横に立てて、褥《しとね》の上に坐っているのは、蒼い頬、削けた顎、こればかりは熱を持って光っている眼、そういう姿の主水であった。
「心身とも恢復いたしました。もう大丈夫でございます」
 そんな姿でありながら、そうして声など力がないくせに、そう主水は元気ありそうに云った。
「そろそろ発足いたしませねば……」
「さあご恢復なさいましたかしら」
 高過ぎる程高い鼻、これだけが欠点といえば欠点と云え、その他は仇っぽくて美しい顔へ、意味ありそうな微笑を浮かべ、流眄《ながしめ》に主水を眺めながら、前に坐っているお妻は云った。
「ご恢復とあってはお父様の敵《かたき》、お討ちにならねばなりませんのねえ」
「はいそれに誘拐《かどわか》されました妹の、行方を尋ね取り戻さねば……」
「そうそう、そうでございましたわねえ」
 お妻はまたも微笑したが、
「そのお妹御の澄江《すみえ》様、まことは実のお妹御ではなく、お許婚《いいなずけ》の方でございましたのね」
 そう云った時お妻の眼へ、嫉妬《ねた》ましさを雑えた冷笑のようなものが、影のようにチラリと射した。
「はい」と主水は素直に云った。
「とはいえ永らく兄妹として、同じ家に育って参りましたから、やはり実の妹のように……」
「さあどんなものでございましょうか」
 云い云い髪へ手をやって、簪《かんざし》で鬢の横を掻いた。
「お許婚の方をお連れになり、敵討の旅枕、ホ、ホ、ホ、お芝居のようで、いっそお羨《うらやま》しゅうございますこと……」
 主水は不快な顔をしたが、グッと抑えてさりげなく[#「さりげなく」に傍点]、
「その妹儀あれ以来、どこへ連れられ行かれましたか……思えば不愍……どうでも探して……」
「不愍は妾もでございますよ」
 お妻の口調が邪見になり、疳を亢ぶらせた調子となった。
「人の心もご存知なく……妾の前でお許婚の、お噂ばかり不愍とやら、探そうとやら何とやら、お気の強いことでございます」
 グッと手を延ばすと膝の前にあった、冷えた渋茶の茶碗を取り、一口に飲んでカチリと置いた。
「妾の心もご存知なく!」
 西陽が障子に射していて、時々そこへ鳥影がさした。
 生垣の向こう、手近の野良で、耕しながらの娘であろう、野良歌うたうのが聞こえてきた。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]|背戸《せと》を出たればナー
よいお月夜で
様《さま》の頬冠《ほおかむ》ナー
白々と
[#ここで字下げ終わり]
 二人はしばらく黙っていた。
 と、不意に怨ずるように、お妻が熱のある声で云った。
「ただに酔興で貴郎様を、何であの時お助けしましょうぞ。……その後もここにお隠匿《かくま》いし、何の酔興でご介抱しましょう。……心に想いがあるからでござんす」


 主水は当惑と多少の不快、そういう感情をチラリと見せた。
 が、お妻はそんなようにされても、手を引くような女ではなく、
「あの際お助けしなかろうものなら、陣十郎が立ち戻り、正気を失っている貴郎様を、討ち取ったことでござりましょうよ。……恩にかけるではござりませぬが、かけてもよいはずの妾《わたし》の手柄、没義道《もぎどう》になされずにねえ主水様……」
「あなた様のお心持、よう解っては居りまするが、……そうしてお助け下されました、ご恩の程も身にしみじみと有難く存じては居りまするが……」
 そう、主水はお妻の云う通り、あの日陣十郎を追って行き、疲労困憊極まって、鎮守の森で気絶した時、お妻の助けを得なかったなら、後にて聞けば陣十郎が、森へ立ち戻って来たとはいうし、その陣十郎のために刃の錆とされ、今に命は無かったろう。だからお妻は命の恩人と、心から感謝はしているのであり、そのお妻が来る度毎に、それとなく、いやいや、時には露骨に、自分に対して恋慕の情を、暗示したり告げたり訴えたりした。でお妻が自分を助けた意味も、とうに解ってはいるのであった。
 さりとてそのため何でお妻と、不義であり不倫であり背徳である関係、それに入ることが出来ようぞ!
「主水様」とお妻は云った。
「あなた様にはまだこの妾《わたし》が陣十郎の寵女《おもいもの》、陣十郎の情婦《いろおんな》、それゆえ心許されぬと、お思い遊ばして居られますのね」
 下から顔を覗かせて、主水の顔色を窺った。
「いかにも」と主水は苦しそうに云った。
「それを思わずに居られましょうか。……討ち取らねばならぬ父の敵《かたき》! 陣十郎の寵女、お妻殿がそれだと知りましては、心許されぬはともかくも、何で貴女《あなた》様のお志に……」
「従うことなりませぬか」
「不倶戴天の[#「不倶戴天の」は底本では「不具戴天の」]敵の情婦に……」
「では何でおめおめ助けられました」
「助けられたは知らぬ間のこと……」
「では何で介抱されました……」
 答えることが出来なかった。思われるはただ機を失した! 機を失したということであった。
 助けられたその翌日、訊ねられるままにお妻に対し、主水は姓名から素性から、その日の出来事から敵討のことから、敵の名さえ打ち明けた。
 と、お妻は驚いたように、主水の顔を見詰めたが、やがて自分が陣十郎の情婦、お妻であることを打ち明けた。
 これを聞いた時の主水の驚き!
 同時に思ったことといえば、
(助けられなければよかったものを!)
 ――というそういうことであり、直ぐにも立ち退こうということであった。


(直ぐに立ち退いたらよかったものを)
 今も主水《もんど》はこう思っている。
 立ち退こうとその時云いはした。
 と、お妻が止めて云った。
「ここは高麗郡《こまごおり》の高萩村、博徒の縄張は猪之松という男、陣十郎の親分でござんす。十町とは歩けなさるまい、そのように弱っているお体で、うかうか外へ出ようものなら、手近に陣十郎は居りまするし、猪之松親分の乾兒《こぶん》も居り、貴郎《あなた》様にはすぐに露見、捕らえられて嬲り殺し! ……ご発足など出来ますものか」
 しかし主水としては敵の情婦に、介抱なんどされること、一分立たずと思われたので、無理にも立とうと云い張った。
 と、お妻は嘲笑うように云った。
「ここは『|刃ノ郷《やいばのごう》』と申し、高萩村でも別趣の土地、秩父香具師の里でござんす。住民一致して居りまして、事ある時には竹法螺を吹く。と、人々出で合って、村の入口出口を固め、入る者を拒み出る人を遮る。妾《わたし》もこの郷の女香具師の一人、いいえ貴郎様は発足《た》たせませぬ! 無理にお発足ちと有仰《おっしゃ》るなら、竹法螺吹いて止めるでござんしょう」
 もう発足つことは出来なかった。
 こうして今日まで心ならずも、介抱を受けて来たのであって、無理に受けさせられた介抱ではあるが、敵の情婦と知りながら、介抱を受けたには相違なく、で、それを口にされては、返す言葉がないのであった。
(直ぐに立ち退けばよかったのだ! 機を失した! 機を失した!)
 このことばかりが口惜まれるのであった。
 二人はしばらく黙ったままで――主水は俯向いて膝を見詰め、お妻はそういう主水の横顔を、むさぼるように見守っていた。
「それにいたしましても何と云ってよいか、あなたにとりましてはこの主水。敵の片割ともいうべきを、そのようにお慕い下さるとは……」
 途切れ途切れの言葉つきで、やがて主水はそんなように云った。
「さよう、敵の片割でござる。あなたの愛人水品陣十郎を、敵と狙う拙者故……」
「悪縁なのでござりましょうよ」
 そうお妻も言葉を詰らせ、ともすると途切れそうな言葉つきで云った。
「因果な恋なのでござりましょうよ……あの日、あの時、鎮守の森で、死んだかのように可哀そうに、憐れなご様子で草を褥《しとね》に、倒れておいでなさいましたお姿、それを見ました時どうしたものか、妾はそれこそ産れてはじめての、――本当の恋なのでございましょうねえ……そういう思いにとらえられ……まあ恥かしい同じ仲間の、たくさんの郷の人達が、側にいたのに臆面もなく、あたしゃアこのお方をご介抱するよと、ここへお連れして参りましたが……因果の恋なのでござりましょうねえ。……それにもう一つには妾にとりまして、あの水品陣十郎という男、本当の恋しい男でなく、愛する男でもありませぬ故と……そうも思われるのでござります」


「お妻殿!」とやや鋭く、やや怒った言葉つきで、咎めるように主水は云った。
「いかに拙者に恋慕の情をお運びになるあなたとはいえ、現在の恋人をあからさまに、恋せぬなどと仰せらるるは……そういうお心持でござるなら、拙者に飽きた暁には、又他の情夫に同じように、拙者の悪口を仰せられましょう……頼み甲斐なき薄情! ……」
「いいえ、何の、主水様、それには訳が、たくさん訳が……」
 あわてて云ったもののそれ以上、お妻は云うことは出来なかった。
 自分が女賊で、女邯鄲師《おんなかんたんし》で、平塚の宿の一夜泊り、その明け方に同宿の武士、陣十郎の胴巻を探り、奪おうとして陣十郎のため、かえって取って押えられ、それを悪縁に爾来ずっと、情夫情婦の仲となり今日まで続いて居るなどとは、さすが悪女の彼女としても、口へ出すことが出来なくて、自分はこの郷の香具師の娘、陣十郎に誘惑され、情婦となって江戸や甲州を、連れ廻されたとそんなように、主水には話して置いたのであった。
 女邯鄲師としての悪事の手證を、押えられたための情夫情婦、それゆえ本当の恋ではないと、こう云い訳出来ぬ以上は、そう主水に咎められても、どう弁解しようもなく、お妻は口籠ってしまったのであった。
 が、お妻はニッと笑い、もっともらしくやがて云った。
「妾の前に陣十郎には、情婦《おんな》があったのでござります。江戸両国の女芸人、独楽廻しの源女という女、これが情婦でござりまして、諸所方々を連れ歩いたと、現在の情婦の妾の前で、手柄かのように物語るばかりか、貴郎《あなた》様のお許婚《いいなずけ》の澄江様にも……」
「澄江にも! うむ、陣十郎め!」

「横恋慕の手をのばし……」
「いかにも……悪虐! ……陣十郎……」
「あの夜澄江様を誘拐《かどわか》し、しかも妾という人間を、下谷の料亭常磐などに[#「常磐などに」は底本では「常盤などに」]待たせ……さて首尾よく澄江様を、連れ出すことが出来ましたら、妾を秋の扇と捨て、澄江様を妾の代わりに……」
「何の彼如き鬼畜の痴者に、妹を、妹を渡してなろうか?」
「そういう男でござります。そういう男の陣十郎を、何で妾ひとりだけが……先が先ならこっちもこっち……主水様! 今は貴郎様へ!」
「それにいたしても、妹澄江は……」
「お許婚の澄江様は……」
「上尾街道のあの修羅場で、馬方博徒数名の者に、担がれ行かれたと人の噂……」
「人の噂で聞きましたなア……さあそのお許婚の澄江様……澄江様のお噂さえ出れば、眼の色変えてお騒ぎになられる」
「妹であれば当然至極!」
「可愛い可愛いお許婚なりゃ、脳乱[#「脳乱」はママ]遊ばすもごもっとも? ホ、ホ、ホ、その澄江様、どうで担いだ人間が、馬方博徒のあぶれ者なら? ……」
 しかしその時表の庭の、方角にあたって云い争う、男の声が聞こえてきた。
「や、あの声は?」
「おおあの声は」
 二人ながら森《しん》と耳を澄ました。

 陣十郎は弁三を突きのけ、村道から境の生垣を越え、表の庭へ入って行った。
「云い古されたセリフだが、俺の遣る金鼻薬は、小判じゃアねえドスだ延金だアッハハ、驚いたか望みならば――ズバッと抜いて、先刻も云った口から腹まで、差し込んでやろうどうだ、どうだ?」
 なお止める弁三を突きまくり、陣十郎はグングン歩いた。


「ままにしやアがれ!」
 不意に弁三は、年は取っても秩父香具師――兇暴の香具師の本性を現わし、猛然と吼え競い立った。
「裏座敷にゃア誰もいねえ! とこう一旦云ったからにゃア、俺も秩父香具師の弁三だ、あくまでも居ねえで通して見せる! 汝《うぬ》は何だ、え汝は? 馬の骨か牛の骨か、どこの者とも素性の知れねえ、痩せ浪人の身分をもって『刃ノ郷』の俺らの仲間、お妻ッ娘と馴れ合ったのさえ、胸糞悪く思っているのにここら辺りを立ち廻り、博徒の用心棒、自慢にもならねえヤクザの身を、変にひけらかせ[#「ひけらかせ」に傍点]て大口を叩き、先祖代々素性正しく、定住している俺達へ、主人かのように振る舞い居る! ナニ刀だ! 抜いて切るって! おお面白い切られよう、が手前が切る前に、こっちもこっちで手前の体へ」
 喚くと陣十郎へ背中を向け、庭を突っ切り縁へ駈け上り、座敷へ飛び込むと床の間にある、鳥銃を抱えて走り出で、縁に突っ立ち狙いを定めた。
「秩父の山にゃア熊や狼が、ソロソロ冬も近付いて来た、餌がねえと吼えながら、ウロウロ歩いているだろう。狙い撃ちにして撃ち殺し、熊なら胸を裂き肝を取り、皮を剥いで足に敷く、秩父香具師の役得だア。手練れた鉄砲にゃア狂いはねえ! 野郎来やがれ、切り込んで来い! 定九郎じゃアねえが二ツ弾、胸にくらって血へど[#「へど」に傍点]を吐き、汝それ前にくたばるぞよ! 来やアがれ――ッ」とまくし[#「まくし」に傍点]立て、まくし立てながらも手に入った早業、いつか火縄に火を付けていた。
「待て待て爺《おやじ》」と周章狼狽、陣十郎は胆を冷し、生垣の際まで後退った。
「気が短いぞ、コレ待て待て! ……鉄砲か、ウーン、こいつ敵《かな》わぬ……」
 まさか撃つまい嚇しであろう、そうは思っても気味が悪く、見ればいやいや嚇しばかりでなく、こっちを睨んでいる弁三の眼に、憎悪と憤怒と敵愾心とが、火のように燃えていた。
 ゾッと感ずるものがあった。
(いつぞやお妻に聞いたことがあった、いつぞやお茶ノ水の森の中で、お妻に頼まれて殺生ながら、叩っ切って殺した弁太郎という男、秩父香具師の膏薬売、弁三という老人の、失った一人の倅であると! おおそうだったこの弁三が、殺した弁太郎の父親だった。……下手人が俺だということなど、まさかに知っては居るまいが、親子の血がさせる不思議の業、この世には数々ある、何となく弁三爺の心に、俺を憎しむ心持が、深く涌いていないものでもない。もしそうなら撃つぞ本当に!)
 ゾッと感ずるものがあった。
 そこでいよいよ後退りし、小門の方へ後ざまに辿り、
「解った、よし裏座敷には、誰もいない、犬さえ居ない! よし解った、そうともそうとも! ……誰がいるものか、居ない居ない! ……居れば! 居れば悪いが……それもよろしい、居ない居ない! ……そこで帰る、撃つな撃つな! ええ何だ鉄砲なんど……恐ろしいものか、ちと怖いが……馬鹿!」と一喝! がその時には、既に村道へ遁れ出ていた。

生贄の女


 同じその日のことである。――
 高萩村の博徒の親分、猪之松の家は賑わっていた。
 馬大尽事井上嘉門様を、ご招待して大盤振舞いをする――というので賑わっているのであった。
 博徒とはいっても大親分、猪之松の家は堂々たるもので、先はお屋敷と云ってよく、土蔵二棟に離座敷、裏庭などは数奇《すき》を凝らした一流の料亭のそれのようであり、屋敷の周囲には土塀さえ巡らし、所の名主甚兵衛様より、屋敷は立派だと云われていた。内緒も裕福で有名であったが、これは金方が附いているからで、その金方が井上嘉門様だと、多くの人々は噂して居、噂は単なる噂ばかりでなく、事実それに相違なかった。
 猪之松という人間が、博徒のようになく人品高尚で、態度も上品で悠然としてい、お殿様めいたところがあり――だからどこか物々しく、厭味の所はあったけれど、起居動作はおちついている、行儀作法も法に叶っている、貴人の前へ出したところで、見劣りがしないところから、自然上流との交際が出来、そこで井上嘉門などという、大金持の大旦那に、愛顧され贔屓にされるのであった。
 金方の井上嘉門様を、ご招待するというのであるから、その物々しさも一通りでなく、上尾宿からは茶屋女の、気の利いたところを幾人か呼び、酒肴給仕に従わせ、村からも渋皮の剥けた娘――村嬢《そんじょう》の美《よ》いところを幾人か連れて来、酒宴の席へ侍らせたり、これも上尾の宿から呼んだ、常磐津《ときわず》の[#「常磐津《ときわず》の」は底本では「常盤津《ときわず》の」]女師匠や、折から同じ宿にかかっていた、江戸の芝居の役者の中、綺麗な女形の色若衆を、無理に頼んで三人ほど来させ、舞など舞わせる寸法にしてあった。
 田舎の料理は食われない――と云ったところで上尾も田舎、とは云え勿論高萩村より、いくらか都会というところから、料理は上尾からことごとく取った。
 兄弟分はいうまでもなく、主立った乾児幾十人となく、入れ代わり立ち代わり伺候して[#「伺候して」は底本では「仕候して」]、嘉門様からお流れ頂戴、お盃をいただいたりした。
 嘉門は午後《ひる》からやって来て、今は夜、夜になっても、仲々去らず、去らせようともせず、奥の座敷の酒宴の席は、涌き立つように賑わってい、高張を二張り門に立てて、砂を敷き盛砂さえした、玄関――さよう猪之松の家は、格子づくりというような、町家づくりのそれでなく、大門構え玄関附、そういった武家風の屋敷であったが、その玄関を夜になった今も、間断なく客が出入りして、ここも随分賑かであり、裏へ廻ると料理場、お勝手、ここは一層の賑かさで、その上素晴らしい好景気で、四斗樽が二つも抜いてあり、酒好きの手合いは遠慮会釈なく、冷をあおっては大口を叩き、立働きの女衆へ、洒落冗談を並べていた。
 陽気で派手でお祭り気分で、ワーッといったような雰囲気であった。
 その勝手元へ姿を現わしたのは、浮かない顔をした陣十郎であった。
「これはいらっしゃい水品先生、こんなに遅くどうしたんですい?」
 こう云って声をかけたのは、猪之松にとっては一の乾分――上尾街道で浪之助などに追われ、逃げ廻る弱者の峯吉ではなく――角力上り閂《かんぬき》峰吉であった。
「遅いか早いかそんなことは知らぬ。陽気だな、これは結構」どこかで飲んで来たらしく、陣十郎は酔っていたが、凄い据わった血走った眼で、ジロジロ四辺《あたり》を見廻わしながら、上ろうともせず随分邪魔な、上框《あがりかまち》へデンと腰かけ、片足を膝の上へヒョイとのっけ、楊子で前歯をせせり出した。


(ご機嫌が悪いぞ、あぶないあぶない)
 酒癖の悪いのを承知の一同、あぶないあぶないと警戒するように、互いに顔を見合わせたが、こんな時にはご自慢の情婦《おんな》――お妻を褒めるに越したことはないと、唐子の音吉というお先ッ走りの乾児が、
「姐御、どっこい、奥様だったっけ、奥様お見えになりませんが、一体全体どうしたんで、こんな時にこそご出張を願って、あの綺麗で粋なご様子で、お座敷の方を手伝っていただき、愛嬌を振り蒔いていただけば、嘉門様だって大喜び、親分だって大恭悦、ということになるんですがねえ。それが昼から夜にかけて、一度もお見えにならねえなんて……一体全体奥様は……」
「奥様? ふん、誰のことだ!」
 ギラリと陣十郎は音吉を睨み、
「奥様、ふふん、どいつのことだ!」
「どいつッて、そりゃ、お妻さんのこと……」
「枕探し! ……あいつのことか!」
「え? 何ですって、こいつアひでえや」
 ヒヤリとして音吉は首を縮めた。
 勿論音吉をはじめとして、乾児一同お妻のことを、どうせ只者じゃアありゃアしない。枕探し、女|邯鄲師《かんたんし》、そんなようには薄々のところ、実は推していたようなものの、亭主――情夫――陣十郎の口から、今のようにあからさまに云われては、ヒヤリとせざるを得なかった。
「何を云うんですい、水品先生」
「何とは何だ、これ何とは! ……枕探しだから枕探し、こう云ったに何が悪い。いずれは亭主の寝首を掻く奴! ……そんな女でも奥様か!」
「ワ――ッ、不可《いけ》ねえ、何を仰有るんで、……奥様で悪かったら奥方様……」
「出ろ! 貴様! 前へ出ろ!」
 勝手元一杯に漲っていた、明るい燈火《ひ》がカッと一瞬間、一所へ集まり閃めいた。
 見れば陣十郎の右の手に、抜かれた白刃が持たれていた。
 バタバタと女達は奥の方へ逃げた。
「アッハハハ」と陣十郎は、不意に気味悪く笑い出した。
「ある時には関の孫六、ある時には三条小鍛冶、ある時には波の平! 時と場合でこの刀、素晴らしい銘をつけられるが、ナーニ本性は越前|直安《ただやす》、二流どころの刀なのさ。……が、切れるぞ、俺が切れば! ……千里の駒も乗手がヤクザで、手綱さばきが悪かろうものなら、駄馬ほどにも役立たぬ。……名刀であろうとナマクラが持てば、刀までがナマクラになる。……それに反して名人が持てば、切れるぞ切れるぞ――ズンと切れる! ……嘘と思わば切って見せる! ……どいつでもいい前へ出ろ!」
 云い云い四方を睨み廻した。
 山毛戸《やまかいど》の源太郎、中新田の源七、玉川の権太郎、閂峰吉、錚々《そうそう》たる猪之松の乾児達が、首を揃えて集まってはいたが、狂人《きちがい》に刃物のそれよりも悪く、酒乱の陣十郎に抜身を持たれ、振り廻されようとしているのであった。首を縮め帆立尻《ほたてじり》をし、ジリジリと[#「ジリジリと」は底本では「ヂリヂリと」]後へ退《さが》りながら、息を呑み眼を見張り、素破《すわ》と云わば飛んで逃げようと、用心をして構えていた。


「アッハハハ」
 と陣十郎は、また気味の悪い笑声を立てた。
「切る奴は他にある、汝《おのれ》らは切らぬ、安心せい……鴫澤主水《しぎさわもんど》を探し出し、ただ一刀に返り討ち! 婦《おんな》、お妻を引きずり出し、主水ともども二太刀で為止《しと》める。……久しく血を吸わぬ越前直安、間もなく存分に血を吸わせてやるぞ!」
 燈火《ともしび》に反射してテラテラ光る、ネットリとした刀身を、じっと睨んで呟くように云ったが、
「汝ら解るか男の心が? 己を殺そうとして付け廻している、敵《かたき》を持っている男の心が」
 乾児達の方を振り返った。
「へい」と云ったのは閂峰吉で、
「さぞまア気味の悪いことで、いやアなものでございましょうなあ」
「討たれまいとして逃げ廻る。いやなものだぞ、いやなものだぞ」
「いやアなものでござりましょうなあ」
「が、一面快い」
「…………」
「討て、小童《こわっぱ》、探し出して討て! が俺は逃げて逃げて、決して汝には討たれてやらぬ。……こう決心して逃げ廻る心、快いぞ快いぞ」
「そんなものでございますかなあ」
「とはいえ厭アな気持のものだ。討つ方の心は一所懸命、命を捨ててかかっている。討たれる方は討たれまいとして、命を惜しんで逃げ廻る。心組みが全く別だ。討つ方には用心はいらぬ。討とう討とうと一向だ。討たれる方は用心ばかりだ。……用心をしても用心をしてもいずれは人間油断も隙もあろう、そこを狙われて討たれるかもしれぬ! この恐怖心、厭アなものだぞ」
「へい、さようでございましょうなあ」
 突然立ち上ると陣十郎は、刀をグ――ッと中段につけ、両肘を縮め肩を低めたが、
「今迄の俺がそうだった! 討たれる者、逃げ廻る者、今迄の俺はそうだった! 剣法で云えばこの構えだ! ……が俺は一変した!」
 こう沈痛に声を絞ると、俄然刀を大上段に冠った。
「大上段、積極的の構え! 俺は今日からこっちで向かう! 俺の方から敵を探し、返り討ちにかけてやる! それにしても汝ら卑屈だぞ! 俺が鴫澤主水という敵に、付け廻されているということを、心の中では知っていながら、おくびにも出そうとしないではないか! そうであろうがな! そうであろうがな!」
 刀を大上段に振り冠ったまま、陣十郎は憎さげに叫んだ。
 乾児達は顔を見合わせた。
 それに相違ないからであった。
 過ぐる日上尾の街道で、赤尾の林蔵にいどまれ[#「いどまれ」に傍点]て、こっちの親分が引きもならず、真剣勝負をした際に、鴫澤主水とその妹の、澄江とかいう娘とが、親の敵を討つと宣《なの》って、水品陣十郎を襲ったが、討ちもせず、討たれもせず、主水という武士は行方不明、澄江という娘は博労達に、どこかへ担がれて行ってしまったと、その時こっちの親分に従《つ》いて、その修羅場にいた八五郎の口から、乾児達は詳しく話されて、そういう事情は知っていた。そればかりでなくその日以来、それ迄はほとんど毎日のように、ここの家へやって来て、乾分達へ剣術を教えたり、ゴロゴロしていた陣十郎が、姿をあまり見せなくなり、なお噂による時は、これ迄ずっと住んでいた家――この村の外れにあるお妻の実家へも、住まないばかりか余り立ち寄らず、ひたすら主水兄妹によって、探し出されることを恐れていると、そういうことも聞き知っていた。


 そうして知って居りながら、知って居るとも知らないとも、事実おくび[#「おくび」に傍点]にも出さなかった。というのは事が事であるからで、それにそういう次第なら、あっし[#「あっし」に傍点]達が味方をいたしますから、主水兄妹を探し出し、返り討ちにしておしまいなせえと、こんなことを云うには陣十郎の剣技が、余りにも勝れて居る、といって主水兄妹に、器用に討たれておやりなせえとは、なおさら云えた義理でなく、それで黙っていたのであった。
 で、乾児達は顔を見合わせた。
 と不意に陣十郎は、振り冠っていた燈《ひ》に光る刀を、ダラリと力なく下げたかと思うと、にわかに疑わしそうに寂しそうに、むしろ恐怖に堪えられないかのように、ウロウロとした眼付をして、勝手元に、乾児達の中に、主水が居りはしないだろうかと、それを疑ってでもいるかのように、一人々々の顔を見たが、
「疑心! こいつが不可《いけ》ないのだ! こいつから起こるのだ、弱気がよ! ……と、守勢、こいつになる!」再び中段に刀を構えた。「こいつが守勢、守勢になると、かえって命は守られぬ。……それよりも、守勢の弱気になると、ヒッヒッヒッ、情婦《おんな》にさえ、嘗められ裏切られてしまうのさ! ……そこでこいつだ積極的攻勢!」また上段に振り冠った。
「攻勢をとってやっとこさ[#「やっとこさ」に傍点]、身が守られるというものだ! ……酒だ! くれ! 冷で一杯!」
 ソロリと刀を鞘に納め、片手をヌッと差し出したが、ヒョイとその手を引っこませると、フラリとばかりに框《かまち》を上った。
「飲むならいっそ奥で飲もう。馬大尽様の御前でよ。陽気で明るい座敷でよ。親分にもしばらくご無沙汰した。お目にかかって申訳……退け、邪魔だ!」
 ヒョロリヒョロリと、乾分達の間を分け、奥の方へ歩いて行った。
 後を見送って乾児達は、しばらくの間は黙っていた。
 と不意に閂峰吉が、
「八五郎の奴どうしたかなあ」と、あらぬ方へ話を持って行った。
 陣十郎の影口をうっかり利いて、立聞きでもされたら一大事、又抜身を振り廻されるかもしれない。障《さ》わるな障わるなという心持から、話をあらぬ方へ反らせたのであった。
 一同《みんな》はホッと息を吐いた。
「先刻《さっき》ヒョッコリ面を出して、馬大尽様にもうち[#「うち」に傍点]の親分にも、お気に入るような素晴らしい、献上物を持って来るんだと、大変もねえ自慢を云って、はしゃいで[#「はしゃいで」に傍点]素っ飛んで行きゃアがったが、それっきりいまだ面ア出さねえ。何を持って来るつもりかしら」
 こう云ったのは源七であった。
「上尾街道の一件以来、あいつ親分に不首尾だものだから、気を腐らせて生地なかったが、そいつを挽回しようてんで、何か彼かたくらんで[#「たくらんで」に傍点]はいるらしい」
 こう云ったのは権太郎であった。
「あいつが一番の兄貴だったんだから、たとえ親分が何と云おうと――手出しするなと云ったところで、そんなことには頓着なく、林蔵の野郎を背後の方から、バッサリ一太刀あびせかけ、あの時息の音止めてしまったら、とんだ手柄になったものを、主水とかいう侍の妹とかいう女を、馬方なんかと一緒になって、どこかへ担いで行ったということだが、頓馬の遣口ってありゃアしねえ」
 苦々しく閂峰吉が云った。
 がその時玄関の方で、五六人の声で景気よく、
「献上々々、献上でえ!」と囃し喚く声が聞こえてきたので、一同《みんな》は黙って聞耳を立てた。
 この囃し声を耳にしたのは、お勝手元の乾児ばかりでなく、奥の座敷で酒宴をしている、馬大尽歓迎の人々もひとしく耳を引っ立てた。


 五十畳敷の広さを持った座敷に、無数の燭台が燈し連らねてあり、隅々に立ててある金屏風に、その燈火《ひ》が映り栄えて輝いている様は、きらびやかで美しく、そういう座敷の正面に、嵯峨野を描いた極彩色の、土佐の双幅のかけてある床の間、それを背にして年は六十、半白の髪を切下げにし、肩の辺りで渦巻かせた、巨大な人間が坐っていたが、馬大尽事井上嘉門であった。日焼けて赧い顔色が、酒のために色を増し、熟柿《じゅくし》を想わせる迄になって居り、そういう顔にある道具といえば、ペロリと下った太い眉、これもペロリと下ってはいるが、そうしてドロンと濁ってはいるが、油断なく四方へ視線を配る、二重眼瞼の大きい眼、太くて偏平で段のある鼻、厚くて大きくて紫色をしていて、閉ざしても左の犬歯だけを、覗かせている髭なしの唇に、ぼったりと二重にくくれている顎、その顎にまでも届きそうな、厚い大きな下った耳であった。身長《せい》も人並より勝れていたが、肥満の方は一層で、二十四五貫もありそうであり、黒羽二重の紋付に、仙台平の袴をつけ、風采は尋常で平凡であったが腹の辺りが太鼓のように膨れ、ムッと前方に差し出されているので、格好がつかず奇形に見えた。曲※[#「碌のつくり」、第3水準1-84-27]《きょくろく》に片肘を突いて居り、その手の腕から指にかけて、熊のように毛が生えていた。
 蝦蟇のようだと形容してもよく、絵に描かれている酒顛童子、あれに似ていると云ってもよかった。
 嘉門の左右に居流れているのは、招待《よ》ばれて来た猪之松の兄弟分の、領家の酒造造《みきぞう》、松岸の権右衛門、白須の小十郎、秩父の七九郎等々十数人の貸元で、それらと向かい合って亭主役の、高萩の猪之松が端座したまま、何くれとなく指図をし、その背後に主だった身内が、五六人がところかしこまってい、それに雑って水品陣十郎が、今は神妙に控えていた。
 常磐津の[#「常磐津の」は底本では「常盤津の」]師匠の三味線も済み、若衆役者の踊も済み、馳走も食い飽き酒も飲み飽き、一座駘然、陶然とした中を、なお酒を強いるべく、接待《とりもち》の村嬢や酌婦《おんな》などが、銚子を持って右往左往し、拒絶《ことわ》る声、進める声、からかう[#「からかう」に傍点]声、笑う声、景気よさは何時《いつ》までも続いた。
 どうで今夜は飲み明かし、嘉門様はお泊まりということであった。
「納めの馬市も十日先、眼の前に迫って参りました、いずれその時は木曽の福島で、又皆様にお眼にかかれますが、何しろ福島は山の中、碌なご馳走も出来ませず、まして女と参りましては、木曽美人などと云いますものの、猪首で脛太で肌は荒し、いやはや[#「いやはや」に傍点]ものでございまして、とてもとてもここに居られる別嬪衆に比べましては、月に鼈《すっぽん》でございますよ。が、そいつは我慢をしていただき、その際には私が亭主役、飲んで飲んで飲みまくりましょう。いや全く今夜という今夜は、一方ならぬお接待《とりもち》、何とお礼申してよいやら、嘉門大満足の大恭悦、猪之松殿ほんに嬉しいことで」
 猪之松は片頬で微笑したが、
「いや関東の女こそ、肌も荒ければ気性も荒く、申して見ますれば癖の多い刎馬――そこへ行きますと木曽美人、これは昔から有名で、巴御前、山吹御前、ああいう美姫《びき》も出て居ります。納めの馬市に参りました際には、嘉門様胆入りでそういう美人の、お接待に是非とも預かりたいもので。……」
 ここで猪之松は微笑した。


 微笑をつづけながら猪之松は、
「そこで

下手切り! こいつだけは受けられない、ダーッとドップリ胴へ入るだろう! と、完全の胴輪切り!
 その序の業が行なわれた。
 釣られた釣られた主水は釣られた! あッ、踏み出して切り込んだ。
 一閃!
 返った!
 陣十郎の刀が、軽く宙で車に返った!
 ハ――ッと主水! きわどく反わせたが……
 駄目だ!
 見よ!
 次の瞬間!
 さながら怒濤の寄せるが如く、刀を返しての大下手切りだ――ッ!
「ワッ」
 悲鳴!
 血煙!
 血煙!
 いやその間に、一髪の間に――大下手切りの行なわれる、前一髪の際どい間に……
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秩父の郡《こおり》、小川村、
逸見《へんみ》様庭の桧の根
[#ここで字下げ終わり]
 そういう女の歌声が、手近かの所から聞こえてきた。
「あッ」と陣十郎は刀を引き、タジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]と数歩背後へ下った。


 無心に歌をうたいながら、源女は大薮の中にいた。
 いつも時々起こる発作が、昨夜源女の身に起こった。そこでほとんど夢遊病患者のように、赤尾村の林蔵の家を脱け出し、どこをどう歩いたか自分でも知らず、この辺りまで彷徨《さまよ》って来、この大薮で一夜を明かし、たった今眼醒めたところであった。
 まだ彼女の精神は、朦朧としていて正気ではなかった。
 島田の髷が崩れ傾《かしが》り、細い白い頸《うなじ》にかかってい、友禅模様の派手な衣裳が、紫地の博多の帯ともども、着崩れて痛々しい。素足に赤い鼻緒の草履を、片っぽだけ突っかけている。夜露に濡れたため衣裳はしおたれ[#「しおたれ」に傍点]、茨や木の枝にところどころ裂かれ、手足も胸元も薮蚊に刺され、あちこち血さえ出していた。
 そういう源女は身を横倒しにし、草の上に延びていた。秋草の花――桔梗や女郎花や、葛の花などが寝ている源女の、枕元や足下に咲いていた。栗色の兎がずっと離れた、萩の根元に一匹いて、源女の方を窺っていた。
 彼女の頭上にあるものといえば、樺や、柏や、櫟《くぬぎ》や、櫨《はぜ》などの、灌木や喬木の枝や葉であり、それらに取り縋り巻いている、山葡萄や蔦や葛であり、そうしてそれらの緑を貫き、わずかに幽かに隙《す》けて見える、朝の晴れた空であった。
 薮を透して日の光が、深い黄味を帯びて射し込んで来ていて、地上の草や周囲《まわり》の木々へ、明暗の斑《ふち》を織っていた。
 無心――というよりいつもいつも、心に執拗にこびりついている歌、例の歌を唄ってしまうと、彼女は恍惚《うっとり》と考え出した。こういう場合に彼女の脳裡へ、幻影のように浮かんで来るのは、大森林、大渓谷、大きな屋敷、大傾斜面、五百頭千頭もの放馬の群、それを乗り廻し追い廻し、飼養している無数の人、そうしてあたかも酒顛童子のような、長髪赧顔の怪異の老人――等々々のそれであった。
 しかし彼女はそういう所が、どこにあるかは知らなかった。そうしてどうしてそういう光景が、浮き出して来るかも知らなかった。とはいえ彼女はそういう光景の場所の、どこであるかを確かめなければならない、そうして是非ともその光景の場所へ、どうしても自身行かなければならないと、そんなように熱心に思うのであった。がそれとて自分自身のために、その場所を知ろうとするのでもなく、又行こうとするのでもなく、自分の難儀を救ってくれた人秋山要介という人のために、知りたい行きたいと思うのであった。
 浮かんで来る幻影を追いながら、今も彼女は思っていた。
(行かなければならない、さあ行こう!)
 で、彼女は立ち上った。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]昔はあったということじゃ
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 又彼女は口ずさんだ。
 そうして大薮を分けながら、大薮の外へ出ようとした。
 その大薮の外側には、以前から彼女を狙っている吸血鬼水品陣十郎が、抜身を提げて立っているはずである。

10
 後《あと》へ下った陣十郎は、刀を下段にダラリと下げ、それでも眼では油断なく、主水の眼を睨みつけ、歌主の在所《ありか》がどこであるかと、瞬間それについて考えた。
 周囲《あたり》には大薮があるばかりで、その他は展開《ひら》けた耕地であり、耕地には人影は見えなかった。
 声から云っても歌の性質《たち》から云っても、歌ったのは源女に相違ない。
 が、源女などはどこにもいない。
(さては自分の空耳かな?)
 それにしても余りに明かに、歌声は聞こえてきたではないか。
 源女だ源女だ歌ったのは源女だ!
 かつて一旦手に入れて、薬籠の物にしはしたが、その持っている一大秘密を、まだ発見しないうちに秋山要介に横取りされた女! お組の源女に相違ない!
 探して探して探し廻ったあげく、江戸は両国の曲独楽の席で、ゆくりなくも発見した。が、その直後に起こった事件――鴫澤庄右衛門を討ち果したことから、江戸にいられず旅に出たため、源女のその後の消息については、確かめることが出来なかった。
 その源女の歌声が、こんな所で聞こえたのであった。
(どうしたことだ? どうしたことだ?)
 不思議なことと云わなければならない。
(あの女を再び手に入れることが出来て、あの歌の意味を解くことが出来たら!)
 その時こそ運命が――解いた人の運命が、俄然とばかり一変し、栄耀栄華を尽くすことが出来、至極の歓楽を享けることが出来る!
(どうでもあの女を手に入れなければ!)
 だが彼女はどこにいるのだ?
 分を秒に割った短い間だ! 時間にして短いそういう間に、陣十郎の脳裡に起伏したのは、実にそういう考えであった。
 その間彼は放心状態にあった。
 何で主水が見逃がそうぞ!
 一気に盛り返した勇を揮い、奮然として切り込んだ。
 またも鏘然太刀音がした。
 放心状態にあったとはいえ、剣鬼さながらの陣十郎であった。何のムザムザ切られようぞ!
 受けて一合!
 つづいて飛び退いた、飛び退いた時にはもう正気だ! 正気以上に冴え切っていた。
(こやつを一気に片付けて、源女の在所《ありか》を突き止めなければならない!)
「ヤ――ッ!」と掛けた物凄い掛声!
 つづけて「ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ!」
 先々の先の手一杯! さながら有段者が初心者を相手に、稽古をつけるそれの如く、主水が撃とう切ろう突こうと、心組む心を未前[#「未前」はママ]に察し、その先その先その先と出て、追い立て切り立て突き立て進んだ。
 またもや主水は薮際まで詰められ、眼眩みながら薮の裾を、右手へわずか廻り込もうとした時、天運尽きたか木の根に躓《つまず》き、横倒れにドッと倒れた。
「くたばれ!」
 シ――ンと切り下した!

11
 シ――ンと切り下ろした陣十郎の刀が、仆れている主水を拝み打ちに、眉間から鼻柱まで割りつけようとした途端、日の光を貫いて小柄が一本、陣十郎の咽喉へ飛んで来た。
「あッ」と思わず声を上げ、胸を反らせた陣十郎は、あやうく難を免れたが、小柄の投げられた方角を見た。
 十数間のかなたから、一人の武士が走って来る。
「む!……秋山! ……秋山要介!」
 いかにも走って来るその武士は、今朝になって眼醒めて見れば、昨夜から発作を起こしていた源女が、どこへ行ったものか姿が見えず、それを案じて探すために、林蔵の家を立ち出で、ここまでやって来た秋山要介であり、見れば宿意ある水品陣十郎が、これも因縁《ゆかり》ある鴫澤主水を、まさに討って取ろうとしていた。間隔は遠い、間に合わない。そこで小柄を投げたのであった。
 小柄を投げて陣十郎の兇刃を、制して置いて秋山要介、飛燕の如く飛び込んで来た。
 が、陣十郎もただ者ではない、主水を相手に戦って、既に躰は疲労《つかれ》ていた。そこへ剣豪秋山要介に新規の力で出られては、百に一つの勝目はない。――と見て取るや刀を引き、鞘にも納めず下げたままで、耕地を一散に走って逃げた。
 と、瞬間飛び起きたは、無念残念返り討ちだと、一刹那覚悟して仆れていた主水で、
「秋山先生、お礼は後刻! ……汝、待て――ッ、水品陣十郎! ……遁してなろうか、父の敵!」と、身体綿の如く疲労して居り、剣技も陣十郎と比較しては、数段も劣って居り、追っかけ追い詰め戦ったところで、あるいは返り討ちになろうもしれないと、そういう不安もありながら、みすみす父の敵に逢い、巡り合って刀を交したのに、そうしてその敵が逃げて行くのに、そうして一旦逃がしてしまったなら、いつふたたび巡り逢えるやら不明と思えば追わずにいられなかった。
 で、主水は刀を振り振り、陣十郎を追いかけた。
「待たれい! 主水殿、鴫澤氏!」
 追いついてよしんば戦ったところで、陣十郎に主水が勝つはずはない、返り討ちは見たようなものだ――と知っている秋山要介は、驚いて大音に呼び止めた。
「長追いなさるな! お引き返しなされ! またの機会をお待ちなされ」
 しかし何のそれを聞こう! 主水はよろめきよろめきながら、走り走り走って行く。
(尋常の敵を討つのではなく、親の敵《かたき》を討つのであった。子とあってみれば返り討ちも承知で、追いかけ戦うのが本当であろう)
 気がついた秋山要介は、孝子《こうし》に犬死させたくない、ヨーシ、追いついて後見《うしろみ》してやろう! 助太刀してやろうと決心し、袴の股立取り上げた途端、
「セ、先生、秋山先生!」と、背後から息せき呼ぶ声がし、やにわに袖を掴まれた。
「誰だ!」と怒鳴って顔を見た。
 林蔵の乾兒の藤作であった。

12
「おお藤作、どうしたのだ?」
「タ、大変で……オ、親分が!」
「なに親分が? 林蔵がか?」
「へい、林蔵親分が、カ、街道で、あそこの街道で……タ、高萩の猪之松と……」
「うむ、高萩の猪之松と[#「猪之松と」は底本では「猪の松と」]?」
「ハ、果し合いだい、果し合いだい!」
「む――」と呻くと振り返り、要介は街道の方角を見た。
 旅人や百姓の群であろう、遠巻にして街道に屯し、じっと一所を見ている光景が、要介の眼に鮮かに見えた。彼等の見ている一所で、林蔵は怨ある猪之松と、果し合いをしているのであろう。要介も以前から林蔵と猪之松とが、勢力争い激甚であり、一度は雌雄を決するてい[#「てい」に傍点]の、真剣の切り合いをやるべきことを、いろいろの事情から知っていた。
(これはうっちゃって置かれない。林蔵を見殺しにすることは出来ない。聞けば高萩の猪之松は、逸見《へんみ》多四郎から教えを受け、甲源一刀流では使い手とのこと、林蔵といえどもこの拙者が、新影流は十分仕込んで置いた。負ける気遣いもあるまいが、もしも負れば師匠たる拙者の、恥にならないものでもない。林蔵と猪之松との果し合い、考えようによれば逸見多四郎と、この秋山要介との、果し合いと云うことにもなる。これはうっちゃっては置かれない)
「行こう、藤作!」と叫んだが、
(主水氏は?)とこれも気になり、走って行った方へ眼をやった。
 広い耕地をよろめきよろめき、陣十郎の後を追い、なお主水は走っていた。
(一人で行ったら返り討ち、陣十郎に討たれるであろう。……惜しい武士! 気の毒な武士! ……どうでも助太刀してやらねば……)
 ――が、そっちへ身を挺したら、林蔵はどういう運命になるか?
(どうしたら可《よ》いか? どうしたものだ?)
 知らぬ藤作は急き立てた。
「先生、早く、行っておくんなせえ! ……云いたいことはたくさんあるんで……第一女が誘拐《かどわか》されたんで……若い女が、綺麗な女が……誘拐した野郎は猪之松の乾兒と、その相棒の馬方なんで……最初《はな》は俺らと杉さんとで……へい、そうで浪之助さんとで、その女を助けたんですが……逃げた八五郎め馬方を連れて、盛り返して来てその女を……その時浪之助さんは留守だったんで……いやいやそんなこと! ……行っておくんなせえ、さあ先生! 親分が大変なんだ猪之松の野郎と! ……」
(行かなければならない!)と要介も思った。
(鴫澤氏は赤の他人、少くも縁は極めて薄い。林蔵の方は俺の弟子、しかも現在この俺は、林蔵の家に世話になっている。深い縁がある、他人ではない。……その林蔵を見殺しには出来ない! 行こう! しかし、そうだしかし、主水殿もお気の毒な! では、せめて言葉の助太刀!)
 そこで要介は主水の方に向かい、大音をもって呼びかけた。

13
「鴫澤《しぎさわ》氏、主水殿! 敵水品陣十郎を追い詰め、見事に復讐をお遂げなされ! 拙者、要介、秋山要介、貴殿の身辺に引き添って、貴殿あやうしと見て取るや、出でて、必ずお助太刀いたす! ……心丈夫にお持ちなされい! ……これで可《よ》い、さあ行こう!」
 街道目掛けて走り出した時、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]今は変わって千の馬
五百の馬の馬飼の
[#ここで字下げ終わり]
 と、聞き覚えある源女の声で、手近で歌うのが聞こえてきた。
「や、……歌声! ……源女の歌声!」
 要介は足を釘づけにした。
 探していた源女の歌声が、手近の所から聞こえてきたのであった。足を止めたのは当然といえよう。
「源女殿! お組殿!」
 思わず大声で呼ばわって、要介は四辺《あたり》を忙《せわ》しく見た。
 丘、小山とでも云いたいほどに、うず高く聳えている薮以外には、打ち開けた耕地ばかりで、眼を遮る何物もなかった。
(不思議だな、どうしたことだ。……歌声は空耳であったのか?)
 陣十郎の感じたようなことを、要介も感ぜざるを得なかった。
「先生、どうしたんですい、行っておくんなせえ」
 要介に足を止められて、胆を潰した藤作が怒鳴った。
「第一先生がこんな方角へ、トッ走って来たのが間違いだ。俺ら向こうで見ていたんで。すると先生の姿が見えた。しめた、先生がやって来た、林蔵親分に味方して、猪之松を叩っ切って下さるだろう。――と思ったら勘違いで、こんな薮陰へ来てしまった。そこで俺ら迎えに来たんだが、その俺らと来たひ[#「ひ」に傍点]には、ミジメさったら[#「ミジメさったら」は底本では「ミヂメさったら」]ありゃアしない。馬方に土をぶっかけられたんで。と云うのも杉さんがいなかったんで。その杉さんはどうしたかというに、誘拐《かどわか》された女の兄さんて奴が――そうそう主水とか云ったっけ、そいつが陣十郎とかいう悪侍に、オビキ出されて高萩村の方へ行った。とその女が云ったんで、こいつ大変と杉さんがね、高萩村の方へ追って行ったんで。――が、まあ可《い》いやそんな事ア。よくねえなア親分の身の上だ、まごまごしていると猪之松の野郎に……あッどうしたんだ見物の奴らア……」
 いかさま街道や耕地に屯し、果し合いを見ていた百姓や旅人が、この時にわかに動揺したのが、要介の眼にもよく見えた。が、すぐに動揺は止んで、また人達は静かになった。緊張し固くなって見ているらしい。
 突嗟に要介は思案を定めた。
(ここら辺りに源女がいるなら、薮の中にでもいるのであろう。正気でないと云ったところで、直ぐに死ぬような気遣いはない。……林蔵と猪之松との果し合い、これは一刻を争わなければならない。よしそっちへ行くことにしよう。……が、しかし念のために……)
 そこで要介はまたも大音に、薮に向かって声をかけた。
「源女殿、要介お迎えに参った。どこへもおいでなさるなよ! ……」

14
 街道では林蔵と猪之松とが、遠巻きに見物の群を置き、どちらも負けられない侠客《おとこ》と侠客との試合それも真剣の果し合いの、白刃を互いに構えていた。
 かなり時間は経過していたが、わずか二太刀合わせたばかりで、おおよそ二間を距てた距離で、相正眼に脇差をつけ、睨み合っているばかりであった。
 猪之松には乾兒や水品陣十郎の間に、何か事件が起こったらしく、耕地で右往左往したり、逃げる奴倒れる奴、そういう行動が感ぜられたが、訊ねることも見ることもできず、あつかう[#「あつかう」に傍点]こともできなかった。傍目一つしようものなら、その間に林蔵に切り込まれるからであった。
 林蔵といえどもそうであった、乾兒の藤作の声がしたり、杉浪之助の声がして、何か騒動を起こしているようであったが、どうすることも出来なかった。相手の猪之松の剣の技、己と伯仲の間にあり寸分の油断さえ出来ないからであった。
 が、そういう周囲の騒ぎも、今は全く静まっていた。数間を離れて百姓や旅人、そういう人々の見物の群が、円陣を作って見守っているばかりで、気味悪いばかりに寂静《ひっそり》としていた。
 二本の刀が山形をなし、朝の黄味深い日の光の中で、微動しながら浮いている。
 二人ながら感じていた。――
(ただ目茶々々に刀を振り廻して、相手を切って斃せばよいという、そういう果し合いは演ぜられない。男と男だ、人も見ている。後日の取沙汰も恐ろしい。討つものなら立派に討とう! 討たれるものなら立派に討たれよう!)
 二人ながら心身疲労していた。
 気|疲労《つかれ》! 気疲労! 恐ろしい気疲労!
 技が勝れているだけに、伎倆《うで》が伯仲であるだけに、その気疲労も甚だしいのであった。
 向かい合っていた二本の刀の、その切先がやがて徐々に、双方から寄って来た。
 見よ二人ながら踏み出している右足の爪先が蝮を作り、地を刻んで一寸二寸と、相手に向かって進むではないか。
 ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]!
 音は立たなかった。
 が、ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]と音立つように、互いの切先が触れ合った。
 しかしそのまま二本の刀身は、一度に水のように後へ引き、その間隔が六歩ほどとなった。
 そうしてそのまま静止した。
 静止したまま山形をなし、山形をなしたまま微動した。
 薄くポ――ッと刀と刀の間に、立ち昇っているのは塵埃《ほこり》であった。
 二人の刻んだ足のためにポ――ッと立った塵埃であった。
 間、
 長い間。
 天地寂寥。
 が、俄然二本の刀が、宙で烈しくもつれ合った。
 閃光! 太刀音! 鏘然! 鍔鳴り!
 で、Xの形となって、二本の刀は交叉され、わずかに左右に又前後に、揺れつ縒れつ押し押されつ、粘ったままで放れなかった。

15
 鍔競り合い!
 眼と眼との食い合い!
 そうだ、林蔵と猪之松との眼が、交叉された刀の間を通し、互いに食い合い睨み合っている。
 鍔競り合いの恐ろしさは、競り合いから離れる一刹那にあった。胴を輪切るか真っ向を割り付けるか、伎倆《うで》の如何《いかん》、躰形《たいけい》の如何、呼吸の緩急によって変化縦横! が、どっちみち恐ろしい。
 林蔵も猪之松も一所懸命、相手の呼吸を計っていた。
 と、交叉された刀の間へ、黒く塗られた刀の鞘が、忍びやかに差し込まれた。
「?」
「?」
 鞘がゆるゆると上へ上った。二本の白刃を持ち上げるのである。と、威厳ある声がした。
「勝負待て! 刀を引け! 仲裁役は秋山要介!」
 声と同時に刀の鞘が、二本の刀身を左右に分けた。
 二間の距離を保ちながら、尚、残心、刀を構え、睨み合っている林蔵と猪之松、その間に鞘ぐるみ抜いた太刀を提げて、ノビノビと立ったのは秋山要介で、まず穏かに林蔵へ云った。
「刀を鞘へ納めるがよい」
 それから猪之松の方へ顔を向け、
「以前一二度お見かけいたした。高萩村の猪之松殿か、拙者秋山要介でござる。刀を納め下されい」
 しばらくの間寂然としていた。
 やがて刀の鞘に収まる、鍔鳴りの音が二つ聞こえた。

 この頃源女は大薮を出て、唐黍《とうもろこし》畑の向こうを歩いていた。
(行かなければ不可《いけ》ない、さあ行こう)
 こう思いながら歩いていた。
 何者《だれ》か向こうで呼んでいる。そんなように彼女には思われるのであった。
 畦を越し桑畑を越した。そうして丘を向こうへ越した。もう背後を振り返って見ても、街道も大薮も見えないだろう。
 大渓谷、大傾斜、大森林、五百頭千頭の馬、無数の馬飼、宏大な屋敷――そういうものの存在している所へ、行かなければならない行かなければならない! ……そう思って彼女は歩いて行く。
 崩れた髪、乱れた衣裳、彼女の姿は狂女そっくりであった。発作の止まない間中は、狂女と云ってもいいのであった。
 長い小高い堤があった。
 よじ上って歩いて行った。
 向こう側の斜面には茅や蘆が、生い茂り風に靡いている、三間巾ぐらいの川があり、水がゆるゆると流れていた。
「あッ」
 源女は足を踏み辷らせ、ズルズルと斜面を川の方へ落ちた。パッと葦切が数羽飛び立ち、烈しい声で啼いて去った。と、蘆を不意に分けて、古船が一隻辷り出た。源女がその中に倒れている。
 纜綱《もやいづな》を切らした古船は、源女を乗せたまま流れて行く。
 源女は微動さえしなかった。

各自の運命


 高萩村に近い森の中まで、陣十郎を追って来た鴫澤主水《しぎさわもんど》は、心身全く疲労し尽くし、ほとんど人心地を覚えなかった。
 抜身を地に突き体を支えたが、それにも堪えられずクタクタ倒れた。
 とうに陣十郎は見失っていた。
 その失望も手伝っていた。
(残念、逸した、敵を逸した!)
(が、飽くまでも探し出して、……)
 立ち上ろうと努力した。
 が、躰はいうことをきかず、のみならず精神さえ朦朧となった。
 こうして杉や桧や槇や、楢などの喬木に蔽われて、その奥に朱の褪せた鳥居を持ち、その奥に稲荷の祠を持ち、日の光も通して来ず、で薄暗い風景の中に、雀や鶸《ひわ》や山雀《やまがら》や山鳩の、啼声ばかりが繁く聞こえる、鎮守の森に包まれて、気絶して倒れた主水の姿が、みじめに痛々しく眺められた。
 色づいた[#「色づいた」は底本では「色ずいた」]病葉《わくらば》が微風にあおられ体の上へ落ちて来たりした。
 かなり長い間しずかであった。
 と、その時人声がし、間もなく十数人の男女の者が、森の中へ現われた。
 変わった風俗の連中であった。
 赤い頭巾に赤い袖無、そんなものを着けている若い男もあれば、亀甲模様のたっつけ[#「たっつけ」に傍点]を穿き、胸に大形の人形箱をかけた、そういう中年の男もあり、紫の手甲に紫の脚絆、三味線を抱えた女もあり、浅黄の股引、茶無地の筒袖、そういう姿の肩の上へ、猿をとまらせた老人などもあった。
 それらはいずれも旅装であった。
 秩父|香具師《やし》の一団なのである。
 平素は自分の家にいて、百姓もやれば杣夫《そま》もやり、猟師もやれば川狩もやるが、どこかに大きな祭礼があって、市《たかまち》が立って盛んだと聞くと、早速香具師に早変りして、出かけて行って儲けて来、家へ帰れば以前通り、百姓や杣夫として生活するという――普通の十三香具師とは別派の、秩父香具師の一団であった。
 この日もどこかの市を目掛け親しい者だけで組をつくり、出かけて行くところらしい。
 その中に一人旅装ではなく、髪は櫛巻きに銀簪一本、茜の小弁慶の単衣《ひとえ》を着た、若い女がまじっていた。
 陣十郎の情婦のお妻であった。
「姐御、お前さんも行くといいんだがな」
 一人の男がこう云って、そそのかすようにお妻を見た。
「そうさねえそうやって、お前さんたちが揃って出かけて行くのを見ると、一緒に行きたいような気持がするよ」
 まんざらお世辞でもなさそうに、お妻はそう云って薄笑いをした。
「陣十郎さんばかりが男じゃアなし、他に男だってあろうじゃアないか。そうそういつもへばり付いてばかりいずに、俺らと旅へ出るのもいいぜ」
 こうもう一人の男が云った。
「あたしを旅へしょびいて行くほどの、好い男がどこかにいるかしら、お前さん達のお仲間の中にさ」
 云い云い、お妻は又薄笑いをして、香具師達を見廻した。
「俺じゃア駄目かな、え、俺じゃア」と、猿廻しが顔を出した。


「十年若けりゃア物になるが」
 お妻はむしろ朗かに笑った。
 お妻は秩父の産れであり、秩父香具師の一人であった。が、ずっと若い頃に、草深い故郷に見切りをつけ、広い世界へ出て行って、香具師などというケチなものよりもっと烈しい、もっと罪の深い、そうしてもっと度胸の入る、凄い商売へ入り込んでしまった。
 女邯鄲師《おんなかんたんし》[#ルビの「おんなかんたんし」は底本では「おんんなかんたんし」]――それになってしまった。
 道中や温泉場などで親しくなり、同じ旅籠《はたご》へ一緒に泊り、情を通じてたらす[#「たらす」に傍点]もあり、好きな男で無い場合には、すかし[#「すかし」に傍点]、あやなし[#「あやなし」に傍点]、たぶらかし[#「たぶらかし」に傍点]て、油断を窺って有金から持物、それらを持って逃げてしまう、平ったく云えば枕探し、女賊になってしまったのである。
 陣十郎の情婦になったのも、平塚の宿で泊まり合わせ、枕探しをしようとしたところ、陣十郎のために取って抑えられた、それが因縁になったのであった。
 その女邯鄲師のお妻であるが、今度陣十郎と連立って、産れ故郷へ帰って来た。と、今朝高萩の村道を、懐かしい昔の仲間達が――すなわち秩父香具師達が、旅|装束《よそおい》で通って行った。知った顔も幾個かあった。で、あまりの懐かしさに、冗談云い云いこんな森まで、連立って一緒に来たのであった。
「おや」と不意にお妻は云って、急に足を一所で止めた。
「こんなところに人間が死んでいるよ」
 行手の杉の木の根下の草に、抜身を持った武士が倒れている。
「ほんに、可哀そうに、死んでらあ。……しかも若いお侍さんだ」
 香具師達は云って近寄って行った。
 お妻はその前にしゃがみ[#「しゃがみ」に傍点]込み、その武士の額へ手をやったが、
「冷えちゃアいない、暖《あった》かいよ」
 いそいで脉所《みゃくどころ》を握ったが、
「大丈夫、生きてるよ」
「じゃア気絶というやつだな」
 一人の香具師が心得顔に云った。
「そうさ、気絶をしているのさ。抜身を持っているところを見ると、きっと誰かと切り合ったんだねえ。……どこも切られちゃアいない。……気負け気疲労《きつかれ》[#「気疲労《きつかれ》」は底本では「気疲労《きつかれ》れ」]で倒れたんだよ」
 云い云いお妻は覗き込んだが、
「ご覧よ随分|好男子《いいおとこ》じゃアないか」
「チェーッ」と誰かが舌打ちをした。
「姐御いい加減にしてくんな。どこの馬の骨か知れねえ奴に、それも死に損ない殺され損ないに。気をくばるなんて嬉しくなさ過ぎらあ」
「まあそういったものでもないよ。……第一随分可愛そうじゃアないか。……それにさ、ご覧よ、この蒼白い顔を……唇の色だけが赤くてねえ。……ゾッとするほど綺麗だよ。……」
「色狂人! ……行こう行こう!」
「行きゃアがれ、碌で無し! ……妾アこの人を介抱するよ」
 お妻は主水の枕元へ、ペタペタと坐ってなお覗き込んだ。


 そ

下手切り! こいつだけは受けられない、ダーッとドップリ胴へ入るだろう! と、完全の胴輪切り!
 その序の業が行なわれた。
 釣られた釣られた主水は釣られた! あッ、踏み出して切り込んだ。
 一閃!
 返った!
 陣十郎の刀が、軽く宙で車に返った!
 ハ――ッと主水! きわどく反わせたが……
 駄目だ!
 見よ!
 次の瞬間!
 さながら怒濤の寄せるが如く、刀を返しての大下手切りだ――ッ!
「ワッ」
 悲鳴!
 血煙!
 血煙!
 いやその間に、一髪の間に――大下手切りの行なわれる、前一髪の際どい間に……
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秩父の郡《こおり》、小川村、
逸見《へんみ》様庭の桧の根
[#ここで字下げ終わり]
 そういう女の歌声が、手近かの所から聞こえてきた。
「あッ」と陣十郎は刀を引き、タジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]と数歩背後へ下った。


 無心に歌をうたいながら、源女は大薮の中にいた。
 いつも時々起こる発作が、昨夜源女の身に起こった。そこでほとんど夢遊病患者のように、赤尾村の林蔵の家を脱け出し、どこをどう歩いたか自分でも知らず、この辺りまで彷徨《さまよ》って来、この大薮で一夜を明かし、たった今眼醒めたところであった。
 まだ彼女の精神は、朦朧としていて正気ではなかった。
 島田の髷が崩れ傾《かしが》り、細い白い頸《うなじ》にかかってい、友禅模様の派手な衣裳が、紫地の博多の帯ともども、着崩れて痛々しい。素足に赤い鼻緒の草履を、片っぽだけ突っかけている。夜露に濡れたため衣裳はしおたれ[#「しおたれ」に傍点]、茨や木の枝にところどころ裂かれ、手足も胸元も薮蚊に刺され、あちこち血さえ出していた。
 そういう源女は身を横倒しにし、草の上に延びていた。秋草の花――桔梗や女郎花や、葛の花などが寝ている源女の、枕元や足下に咲いていた。栗色の兎がずっと離れた、萩の根元に一匹いて、源女の方を窺っていた。
 彼女の頭上にあるものといえば、樺や、柏や、櫟《くぬぎ》や、櫨《はぜ》などの、灌木や喬木の枝や葉であり、それらに取り縋り巻いている、山葡萄や蔦や葛であり、そうしてそれらの緑を貫き、わずかに幽かに隙《す》けて見える、朝の晴れた空であった。
 薮を透して日の光が、深い黄味を帯びて射し込んで来ていて、地上の草や周囲《まわり》の木々へ、明暗の斑《ふち》を織っていた。
 無心――というよりいつもいつも、心に執拗にこびりついている歌、例の歌を唄ってしまうと、彼女は恍惚《うっとり》と考え出した。こういう場合に彼女の脳裡へ、幻影のように浮かんで来るのは、大森林、大渓谷、大きな屋敷、大傾斜面、五百頭千頭もの放馬の群、それを乗り廻し追い廻し、飼養している無数の人、そうしてあたかも酒顛童子のような、長髪赧顔の怪異の老人――等々々のそれであった。
 しかし彼女はそういう所が、どこにあるかは知らなかった。そうしてどうしてそういう光景が、浮き出して来るかも知らなかった。とはいえ彼女はそういう光景の場所の、どこであるかを確かめなければならない、そうして是非ともその光景の場所へ、どうしても自身行かなければならないと、そんなように熱心に思うのであった。がそれとて自分自身のために、その場所を知ろうとするのでもなく、又行こうとするのでもなく、自分の難儀を救ってくれた人秋山要介という人のために、知りたい行きたいと思うのであった。
 浮かんで来る幻影を追いながら、今も彼女は思っていた。
(行かなければならない、さあ行こう!)
 で、彼女は立ち上った。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]昔はあったということじゃ
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 又彼女は口ずさんだ。
 そうして大薮を分けながら、大薮の外へ出ようとした。
 その大薮の外側には、以前から彼女を狙っている吸血鬼水品陣十郎が、抜身を提げて立っているはずである。

10
 後《あと》へ下った陣十郎は、刀を下段にダラリと下げ、それでも眼では油断なく、主水の眼を睨みつけ、歌主の在所《ありか》がどこであるかと、瞬間それについて考えた。
 周囲《あたり》には大薮があるばかりで、その他は展開《ひら》けた耕地であり、耕地には人影は見えなかった。
 声から云っても歌の性質《たち》から云っても、歌ったのは源女に相違ない。
 が、源女などはどこにもいない。
(さては自分の空耳かな?)
 それにしても余りに明かに、歌声は聞こえてきたではないか。
 源女だ源女だ歌ったのは源女だ!
 かつて一旦手に入れて、薬籠の物にしはしたが、その持っている一大秘密を、まだ発見しないうちに秋山要介に横取りされた女! お組の源女に相違ない!
 探して探して探し廻ったあげく、江戸は両国の曲独楽の席で、ゆくりなくも発見した。が、その直後に起こった事件――鴫澤庄右衛門を討ち果したことから、江戸にいられず旅に出たため、源女のその後の消息については、確かめることが出来なかった。
 その源女の歌声が、こんな所で聞こえたのであった。
(どうしたことだ? どうしたことだ?)
 不思議なことと云わなければならない。
(あの女を再び手に入れることが出来て、あの歌の意味を解くことが出来たら!)
 その時こそ運命が――解いた人の運命が、俄然とばかり一変し、栄耀栄華を尽くすことが出来、至極の歓楽を享けることが出来る!
(どうでもあの女を手に入れなければ!)
 だが彼女はどこにいるのだ?
 分を秒に割った短い間だ! 時間にして短いそういう間に、陣十郎の脳裡に起伏したのは、実にそういう考えであった。
 その間彼は放心状態にあった。
 何で主水が見逃がそうぞ!
 一気に盛り返した勇を揮い、奮然として切り込んだ。
 またも鏘然太刀音がした。
 放心状態にあったとはいえ、剣鬼さながらの陣十郎であった。何のムザムザ切られようぞ!
 受けて一合!
 つづいて飛び退いた、飛び退いた時にはもう正気だ! 正気以上に冴え切っていた。
(こやつを一気に片付けて、源女の在所《ありか》を突き止めなければならない!)
「ヤ――ッ!」と掛けた物凄い掛声!
 つづけて「ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ!」
 先々の先の手一杯! さながら有段者が初心者を相手に、稽古をつけるそれの如く、主水が撃とう切ろう突こうと、心組む心を未前[#「未前」はママ]に察し、その先その先その先と出て、追い立て切り立て突き立て進んだ。
 またもや主水は薮際まで詰められ、眼眩みながら薮の裾を、右手へわずか廻り込もうとした時、天運尽きたか木の根に躓《つまず》き、横倒れにドッと倒れた。
「くたばれ!」
 シ――ンと切り下した!

11
 シ――ンと切り下ろした陣十郎の刀が、仆れている主水を拝み打ちに、眉間から鼻柱まで割りつけようとした途端、日の光を貫いて小柄が一本、陣十郎の咽喉へ飛んで来た。
「あッ」と思わず声を上げ、胸を反らせた陣十郎は、あやうく難を免れたが、小柄の投げられた方角を見た。
 十数間のかなたから、一人の武士が走って来る。
「む!……秋山! ……秋山要介!」
 いかにも走って来るその武士は、今朝になって眼醒めて見れば、昨夜から発作を起こしていた源女が、どこへ行ったものか姿が見えず、それを案じて探すために、林蔵の家を立ち出で、ここまでやって来た秋山要介であり、見れば宿意ある水品陣十郎が、これも因縁《ゆかり》ある鴫澤主水を、まさに討って取ろうとしていた。間隔は遠い、間に合わない。そこで小柄を投げたのであった。
 小柄を投げて陣十郎の兇刃を、制して置いて秋山要介、飛燕の如く飛び込んで来た。
 が、陣十郎もただ者ではない、主水を相手に戦って、既に躰は疲労《つかれ》ていた。そこへ剣豪秋山要介に新規の力で出られては、百に一つの勝目はない。――と見て取るや刀を引き、鞘にも納めず下げたままで、耕地を一散に走って逃げた。
 と、瞬間飛び起きたは、無念残念返り討ちだと、一刹那覚悟して仆れていた主水で、
「秋山先生、お礼は後刻! ……汝、待て――ッ、水品陣十郎! ……遁してなろうか、父の敵!」と、身体綿の如く疲労して居り、剣技も陣十郎と比較しては、数段も劣って居り、追っかけ追い詰め戦ったところで、あるいは返り討ちになろうもしれないと、そういう不安もありながら、みすみす父の敵に逢い、巡り合って刀を交したのに、そうしてその敵が逃げて行くのに、そうして一旦逃がしてしまったなら、いつふたたび巡り逢えるやら不明と思えば追わずにいられなかった。
 で、主水は刀を振り振り、陣十郎を追いかけた。
「待たれい! 主水殿、鴫澤氏!」
 追いついてよしんば戦ったところで、陣十郎に主水が勝つはずはない、返り討ちは見たようなものだ――と知っている秋山要介は、驚いて大音に呼び止めた。
「長追いなさるな! お引き返しなされ! またの機会をお待ちなされ」
 しかし何のそれを聞こう! 主水はよろめきよろめきながら、走り走り走って行く。
(尋常の敵を討つのではなく、親の敵《かたき》を討つのであった。子とあってみれば返り討ちも承知で、追いかけ戦うのが本当であろう)
 気がついた秋山要介は、孝子《こうし》に犬死させたくない、ヨーシ、追いついて後見《うしろみ》してやろう! 助太刀してやろうと決心し、袴の股立取り上げた途端、
「セ、先生、秋山先生!」と、背後から息せき呼ぶ声がし、やにわに袖を掴まれた。
「誰だ!」と怒鳴って顔を見た。
 林蔵の乾兒の藤作であった。

12
「おお藤作、どうしたのだ?」
「タ、大変で……オ、親分が!」
「なに親分が? 林蔵がか?」
「へい、林蔵親分が、カ、街道で、あそこの街道で……タ、高萩の猪之松と……」
「うむ、高萩の猪之松と[#「猪之松と」は底本では「猪の松と」]?」
「ハ、果し合いだい、果し合いだい!」
「む――」と呻くと振り返り、要介は街道の方角を見た。
 旅人や百姓の群であろう、遠巻にして街道に屯し、じっと一所を見ている光景が、要介の眼に鮮かに見えた。彼等の見ている一所で、林蔵は怨ある猪之松と、果し合いをしているのであろう。要介も以前から林蔵と猪之松とが、勢力争い激甚であり、一度は雌雄を決するてい[#「てい」に傍点]の、真剣の切り合いをやるべきことを、いろいろの事情から知っていた。
(これはうっちゃって置かれない。林蔵を見殺しにすることは出来ない。聞けば高萩の猪之松は、逸見《へんみ》多四郎から教えを受け、甲源一刀流では使い手とのこと、林蔵といえどもこの拙者が、新影流は十分仕込んで置いた。負ける気遣いもあるまいが、もしも負れば師匠たる拙者の、恥にならないものでもない。林蔵と猪之松との果し合い、考えようによれば逸見多四郎と、この秋山要介との、果し合いと云うことにもなる。これはうっちゃっては置かれない)
「行こう、藤作!」と叫んだが、
(主水氏は?)とこれも気になり、走って行った方へ眼をやった。
 広い耕地をよろめきよろめき、陣十郎の後を追い、なお主水は走っていた。
(一人で行ったら返り討ち、陣十郎に討たれるであろう。……惜しい武士! 気の毒な武士! ……どうでも助太刀してやらねば……)
 ――が、そっちへ身を挺したら、林蔵はどういう運命になるか?
(どうしたら可《よ》いか? どうしたものだ?)
 知らぬ藤作は急き立てた。
「先生、早く、行っておくんなせえ! ……云いたいことはたくさんあるんで……第一女が誘拐《かどわか》されたんで……若い女が、綺麗な女が……誘拐した野郎は猪之松の乾兒と、その相棒の馬方なんで……最初《はな》は俺らと杉さんとで……へい、そうで浪之助さんとで、その女を助けたんですが……逃げた八五郎め馬方を連れて、盛り返して来てその女を……その時浪之助さんは留守だったんで……いやいやそんなこと! ……行っておくんなせえ、さあ先生! 親分が大変なんだ猪之松の野郎と! ……」
(行かなければならない!)と要介も思った。
(鴫澤氏は赤の他人、少くも縁は極めて薄い。林蔵の方は俺の弟子、しかも現在この俺は、林蔵の家に世話になっている。深い縁がある、他人ではない。……その林蔵を見殺しには出来ない! 行こう! しかし、そうだしかし、主水殿もお気の毒な! では、せめて言葉の助太刀!)
 そこで要介は主水の方に向かい、大音をもって呼びかけた。

13
「鴫澤《しぎさわ》氏、主水殿! 敵水品陣十郎を追い詰め、見事に復讐をお遂げなされ! 拙者、要介、秋山要介、貴殿の身辺に引き添って、貴殿あやうしと見て取るや、出でて、必ずお助太刀いたす! ……心丈夫にお持ちなされい! ……これで可《よ》い、さあ行こう!」
 街道目掛けて走り出した時、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]今は変わって千の馬
五百の馬の馬飼の
[#ここで字下げ終わり]
 と、聞き覚えある源女の声で、手近で歌うのが聞こえてきた。
「や、……歌声! ……源女の歌声!」
 要介は足を釘づけにした。
 探していた源女の歌声が、手近の所から聞こえてきたのであった。足を止めたのは当然といえよう。
「源女殿! お組殿!」
 思わず大声で呼ばわって、要介は四辺《あたり》を忙《せわ》しく見た。
 丘、小山とでも云いたいほどに、うず高く聳えている薮以外には、打ち開けた耕地ばかりで、眼を遮る何物もなかった。
(不思議だな、どうしたことだ。……歌声は空耳であったのか?)
 陣十郎の感じたようなことを、要介も感ぜざるを得なかった。
「先生、どうしたんですい、行っておくんなせえ」
 要介に足を止められて、胆を潰した藤作が怒鳴った。
「第一先生がこんな方角へ、トッ走って来たのが間違いだ。俺ら向こうで見ていたんで。すると先生の姿が見えた。しめた、先生がやって来た、林蔵親分に味方して、猪之松を叩っ切って下さるだろう。――と思ったら勘違いで、こんな薮陰へ来てしまった。そこで俺ら迎えに来たんだが、その俺らと来たひ[#「ひ」に傍点]には、ミジメさったら[#「ミジメさったら」は底本では「ミヂメさったら」]ありゃアしない。馬方に土をぶっかけられたんで。と云うのも杉さんがいなかったんで。その杉さんはどうしたかというに、誘拐《かどわか》された女の兄さんて奴が――そうそう主水とか云ったっけ、そいつが陣十郎とかいう悪侍に、オビキ出されて高萩村の方へ行った。とその女が云ったんで、こいつ大変と杉さんがね、高萩村の方へ追って行ったんで。――が、まあ可《い》いやそんな事ア。よくねえなア親分の身の上だ、まごまごしていると猪之松の野郎に……あッどうしたんだ見物の奴らア……」
 いかさま街道や耕地に屯し、果し合いを見ていた百姓や旅人が、この時にわかに動揺したのが、要介の眼にもよく見えた。が、すぐに動揺は止んで、また人達は静かになった。緊張し固くなって見ているらしい。
 突嗟に要介は思案を定めた。
(ここら辺りに源女がいるなら、薮の中にでもいるのであろう。正気でないと云ったところで、直ぐに死ぬような気遣いはない。……林蔵と猪之松との果し合い、これは一刻を争わなければならない。よしそっちへ行くことにしよう。……が、しかし念のために……)
 そこで要介はまたも大音に、薮に向かって声をかけた。
「源女殿、要介お迎えに参った。どこへもおいでなさるなよ! ……」

14[#「14」は縦中横]
 街道では林蔵と猪之松とが、遠巻きに見物の群を置き、どちらも負けられない侠客《おとこ》と侠客との試合それも真剣の果し合いの、白刃を互いに構えていた。
 かなり時間は経過していたが、わずか二太刀合わせたばかりで、おおよそ二間を距てた距離で、相正眼に脇差をつけ、睨み合っているばかりであった。
 猪之松には乾兒や水品陣十郎の間に、何か事件が起こったらしく、耕地で右往左往したり、逃げる奴倒れる奴、そういう行動が感ぜられたが、訊ねることも見ることもできず、あつかう[#「あつかう」に傍点]こともできなかった。傍目一つしようものなら、その間に林蔵に切り込まれるからであった。
 林蔵といえどもそ

下手切り! こいつだけは受けられない、ダーッとドップリ胴へ入るだろう! と、完全の胴輪切り!
 その序の業が行なわれた。
 釣られた釣られた主水は釣られた! あッ、踏み出して切り込んだ。
 一閃!
 返った!
 陣十郎の刀が、軽く宙で車に返った!
 ハ――ッと主水! きわどく反わせたが……
 駄目だ!
 見よ!
 次の瞬間!
 さながら怒濤の寄せるが如く、刀を返しての大下手切りだ――ッ!
「ワッ」
 悲鳴!
 血煙!
 血煙!
 いやその間に、一髪の間に――大下手切りの行なわれる、前一髪の際どい間に……
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秩父の郡《こおり》、小川村、
逸見《へんみ》様庭の桧の根
[#ここで字下げ終わり]
 そういう女の歌声が、手近かの所から聞こえてきた。
「あッ」と陣十郎は刀を引き、タジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]と数歩背後へ下った。


 無心に歌をうたいながら、源女は大薮の中にいた。
 いつも時々起こる発作が、昨夜源女の身に起こった。そこでほとんど夢遊病患者のように、赤尾村の林蔵の家を脱け出し、どこをどう歩いたか自分でも知らず、この辺りまで彷徨《さまよ》って来、この大薮で一夜を明かし、たった今眼醒めたところであった。
 まだ彼女の精神は、朦朧としていて正気ではなかった。
 島田の髷が崩れ傾《かしが》り、細い白い頸《うなじ》にかかってい、友禅模様の派手な衣裳が、紫地の博多の帯ともども、着崩れて痛々しい。素足に赤い鼻緒の草履を、片っぽだけ突っかけている。夜露に濡れたため衣裳はしおたれ[#「しおたれ」に傍点]、茨や木の枝にところどころ裂かれ、手足も胸元も薮蚊に刺され、あちこち血さえ出していた。
 そういう源女は身を横倒しにし、草の上に延びていた。秋草の花――桔梗や女郎花や、葛の花などが寝ている源女の、枕元や足下に咲いていた。栗色の兎がずっと離れた、萩の根元に一匹いて、源女の方を窺っていた。
 彼女の頭上にあるものといえば、樺や、柏や、櫟《くぬぎ》や、櫨《はぜ》などの、灌木や喬木の枝や葉であり、それらに取り縋り巻いている、山葡萄や蔦や葛であり、そうしてそれらの緑を貫き、わずかに幽かに隙《す》けて見える、朝の晴れた空であった。
 薮を透して日の光が、深い黄味を帯びて射し込んで来ていて、地上の草や周囲《まわり》の木々へ、明暗の斑《ふち》を織っていた。
 無心――というよりいつもいつも、心に執拗にこびりついている歌、例の歌を唄ってしまうと、彼女は恍惚《うっとり》と考え出した。こういう場合に彼女の脳裡へ、幻影のように浮かんで来るのは、大森林、大渓谷、大きな屋敷、大傾斜面、五百頭千頭もの放馬の群、それを乗り廻し追い廻し、飼養している無数の人、そうしてあたかも酒顛童子のような、長髪赧顔の怪異の老人――等々々のそれであった。
 しかし彼女はそういう所が、どこにあるかは知らなかった。そうしてどうしてそういう光景が、浮き出して来るかも知らなかった。とはいえ彼女はそういう光景の場所の、どこであるかを確かめなければならない、そうして是非ともその光景の場所へ、どうしても自身行かなければならないと、そんなように熱心に思うのであった。がそれとて自分自身のために、その場所を知ろうとするのでもなく、又行こうとするのでもなく、自分の難儀を救ってくれた人秋山要介という人のために、知りたい行きたいと思うのであった。
 浮かんで来る幻影を追いながら、今も彼女は思っていた。
(行かなければならない、さあ行こう!)
 で、彼女は立ち上った。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]昔はあったということじゃ
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 又彼女は口ずさんだ。
 そうして大薮を分けながら、大薮の外へ出ようとした。
 その大薮の外側には、以前から彼女を狙っている吸血鬼水品陣十郎が、抜身を提げて立っているはずである。

10[#「10」は縦中横]
 後《あと》へ下った陣十郎は、刀を下段にダラリと下げ、それでも眼では油断なく、主水の眼を睨みつけ、歌主の在所《ありか》がどこであるかと、瞬間それについて考えた。
 周囲《あたり》には大薮があるばかりで、その他は展開《ひら》けた耕地であり、耕地には人影は見えなかった。
 声から云っても歌の性質《たち》から云っても、歌ったのは源女に相違ない。
 が、源女などはどこにもいない。
(さては自分の空耳かな?)
 それにしても余りに明かに、歌声は聞こえてきたではないか。
 源女だ源女だ歌ったのは源女だ!
 かつて一旦手に入れて、薬籠の物にしはしたが、その持っている一大秘密を、まだ発見しないうちに秋山要介に横取りされた女! お組の源女に相違ない!
 探して探して探し廻ったあげく、江戸は両国の曲独楽の席で、ゆくりなくも発見した。が、その直後に起こった事件――鴫澤庄右衛門を討ち果したことから、江戸にいられず旅に出たため、源女のその後の消息については、確かめることが出来なかった。
 その源女の歌声が、こんな所で聞こえたのであった。
(どうしたことだ? どうしたことだ?)
 不思議なことと云わなければならない。
(あの女を再び手に入れることが出来て、あの歌の意味を解くことが出来たら!)
 その時こそ運命が――解いた人の運命が、俄然とばかり一変し、栄耀栄華を尽くすことが出来、至極の歓楽を享けることが出来る!
(どうでもあの女を手に入れなければ!)
 だが彼女はどこにいるのだ?
 分を秒に割った短い間だ! 時間にして短いそういう間に、陣十郎の脳裡に起伏したのは、実にそういう考えであった。
 その間彼は放心状態にあった。
 何で主水が見逃がそうぞ!
 一気に盛り返した勇を揮い、奮然として切り込んだ。
 またも鏘然太刀音がした。
 放心状態にあったとはいえ、剣鬼さながらの陣十郎であった。何のムザムザ切られようぞ!
 受けて一合!
 つづいて飛び退いた、飛び退いた時にはもう正気だ! 正気以上に冴え切っていた。
(こやつを一気に片付けて、源女の在所《ありか》を突き止めなければならない!)
「ヤ――ッ!」と掛けた物凄い掛声!
 つづけて「ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ!」
 先々の先の手一杯! さながら有段者が初心者を相手に、稽古をつけるそれの如く、主水が撃とう切ろう突こうと、心組む心を未前[#「未前」はママ]に察し、その先その先その先と出て、追い立て切り立て突き立て進んだ。
 またもや主水は薮際まで詰められ、眼眩みながら薮の裾を、右手へわずか廻り込もうとした時、天運尽きたか木の根に躓《つまず》き、横倒れにドッと倒れた。
「くたばれ!」
 シ――ンと切り下した!

11[#「11」は縦中横]
 シ――ンと切り下ろした陣十郎の刀が、仆れている主水を拝み打ちに、眉間から鼻柱まで割りつけようとした途端、日の光を貫いて小柄が一本、陣十郎の咽喉へ飛んで来た。
「あッ」と思わず声を上げ、胸を反らせた陣十郎は、あやうく難を免れたが、小柄の投げられた方角を見た。
 十数間のかなたから、一人の武士が走って来る。
「む!……秋山! ……秋山要介!」
 いかにも走って来るその武士は、今朝になって眼醒めて見れば、昨夜から発作を起こしていた源女が、どこへ行ったものか姿が見えず、それを案じて探すために、林蔵の家を立ち出で、ここまでやって来た秋山要介であり、見れば宿意ある水品陣十郎が、これも因縁《ゆかり》ある鴫澤主水を、まさに討って取ろうとしていた。間隔は遠い、間に合わない。そこで小柄を投げたのであった。
 小柄を投げて陣十郎の兇刃を、制して置いて秋山要介、飛燕の如く飛び込んで来た。
 が、陣十郎もただ者ではない、主水を相手に戦って、既に躰は疲労《つかれ》ていた。そこへ剣豪秋山要介に新規の力で出られては、百に一つの勝目はない。――と見て取るや刀を引き、鞘にも納めず下げたままで、耕地を一散に走って逃げた。
 と、瞬間飛び起きたは、無念残念返り討ちだと、一刹那覚悟して仆れていた主水で、
「秋山先生、お礼は後刻! ……汝、待て――ッ、水品陣十郎! ……遁してなろうか、父の敵!」と、身体綿の如く疲労して居り、剣技も陣十郎と比較しては、数段も劣って居り、追っかけ追い詰め戦ったところで、あるいは返り討ちになろうもしれないと、そういう不安もありながら、みすみす父の敵に逢い、巡り合って刀を交したのに、そうしてその敵が逃げて行くのに、そうして一旦逃がしてしまったなら、いつふたたび巡り逢えるやら不明と思えば追わずにいられなかった。
 で、主水は刀を振り振り、陣十郎を追いかけた。
「待たれい! 主水殿、鴫澤氏!」
 追いついてよしんば戦ったところで、陣十郎に主水が勝つはずはない、返り討ちは見たようなものだ――と知っている秋山要介は、驚いて大音に呼び止めた。
「長追いなさるな! お引き返しなされ! またの機会をお待ちなされ」
 しかし何のそれを聞こう! 主水はよろめきよろめきながら、走り走り走って行く。
(尋常の敵を討つのではなく、親の敵《かたき》を討つのであった。子とあってみれば返り討ちも承知で、追いかけ戦うのが本当であろう)
 気がついた秋山要介は、孝子《こうし》に犬死させたくない、ヨーシ、追いついて後見《うしろみ》してやろう! 助太刀してやろうと決心し、袴の股立取り上げた途端、
「セ、先生、秋山先生!」と、背後から息せき呼ぶ声がし、やにわに袖を掴まれた。
「誰だ!」と怒鳴って顔を見た。
 林蔵の乾兒の藤作であった。

12
「おお藤作、どうしたのだ?」
「タ、大変で……オ、親分が!」
「なに親分が? 林蔵がか?」
「へい

下手切り! こいつだけは受けられない、ダーッとドップリ胴へ入るだろう! と、完全の胴輪切り!
 その序の業が行なわれた。
 釣られた釣られた主水は釣られた! あッ、踏み出して切り込んだ。
 一閃!
 返った!
 陣十郎の刀が、軽く宙で車に返った!
 ハ――ッと主水! きわどく反わせたが……
 駄目だ!
 見よ!
 次の瞬間!
 さながら怒濤の寄せるが如く、刀を返しての大下手切りだ――ッ!
「ワッ」
 悲鳴!
 血煙!
 血煙!
 いやその間に、一髪の間に――大下手切りの行なわれる、前一髪の際どい間に……
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秩父の郡《こおり》、小川村、
逸見《へんみ》様庭の桧の根
[#ここで字下げ終わり]
 そういう女の歌声が、手近かの所から聞こえてきた。
「あッ」と陣十郎は刀を引き、タジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]と数歩背後へ下った。


 無心に歌をうたいながら、源女は大薮の中にいた。
 いつも時々起こる発作が、昨夜源女の身に起こった。そこでほとんど夢遊病患者のように、赤尾村の林蔵の家を脱け出し、どこをどう歩いたか自分でも知らず、この辺りまで彷徨《さまよ》って来、この大薮で一夜を明かし、たった今眼醒めたところであった。
 まだ彼女の精神は、朦朧としていて正気ではなかった。
 島田の髷が崩れ傾《かしが》り、細い白い頸《うなじ》にかかってい、友禅模様の派手な衣裳が、紫地の博多の帯ともども、着崩れて痛々しい。素足に赤い鼻緒の草履を、片っぽだけ突っかけている。夜露に濡れたため衣裳はしおたれ[#「しおたれ」に傍点]、茨や木の枝にところどころ裂かれ、手足も胸元も薮蚊に刺され、あちこち血さえ出していた。
 そういう源女は身を横倒しにし、草の上に延びていた。秋草の花――桔梗や女郎花や、葛の花などが寝ている源女の、枕元や足下に咲いていた。栗色の兎がずっと離れた、萩の根元に一匹いて、源女の方を窺っていた。
 彼女の頭上にあるものといえば、樺や、柏や、櫟《くぬぎ》や、櫨《はぜ》などの、灌木や喬木の枝や葉であり、それらに取り縋り巻いている、山葡萄や蔦や葛であり、そうしてそれらの緑を貫き、わずかに幽かに隙《す》けて見える、朝の晴れた空であった。
 薮を透して日の光が、深い黄味を帯びて射し込んで来ていて、地上の草や周囲《まわり》の木々へ、明暗の斑《ふち》を織っていた。
 無心――というよりいつもいつも、心に執拗にこびりついている歌、例の歌を唄ってしまうと、彼女は恍惚《うっとり》と考え出した。こういう場合に彼女の脳裡へ、幻影のように浮かんで来るのは、大森林、大渓谷、大きな屋敷、大傾斜面、五百頭千頭もの放馬の群、それを乗り廻し追い廻し、飼養している無数の人、そうしてあたかも酒顛童子のような、長髪赧顔の怪異の老人――等々々のそれであった。
 しかし彼女はそういう所が、どこにあるかは知らなかった。そうしてどうしてそういう光景が、浮き出して来るかも知らなかった。とはいえ彼女はそういう光景の場所の、どこであるかを確かめなければならない、そうして是非ともその光景の場所へ、どうしても自身行かなければならないと、そんなように熱心に思うのであった。がそれとて自分自身のために、その場所を知ろうとするのでもなく、又行こうとするのでもなく、自分の難儀を救ってくれた人秋山要介という人のために、知りたい行きたいと思うのであった。
 浮かんで来る幻影を追いながら、今も彼女は思っていた。
(行かなければならない、さあ行こう!)
 で、彼女は立ち上った。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]昔はあったということじゃ
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 又彼女は口ずさんだ。
 そうして大薮を分けながら、大薮の外へ出ようとした。
 その大薮の外側には、以前から彼女を狙っている吸血鬼水品陣十郎が、抜身を提げて立っているはずである。

10
 後《あと》へ下った陣十郎は、刀を下段にダラリと下げ、それでも眼では油断なく、主水の眼を睨みつけ、歌主の在所《ありか》がどこであるかと、瞬間それについて考えた。
 周囲《あたり》には大薮があるばかりで、その他は展開《ひら》けた耕地であり、耕地には人影は見えなかった。
 声から云っても歌の性質《たち》から云っても、歌ったのは源女に相違ない。
 が、源女などはどこにもいない。
(さては自分の空耳かな?)
 それにしても余りに明かに、歌声は聞こえてきたではないか。
 源女だ源女だ歌ったのは源女だ!
 かつて一旦手に入れて、薬籠の物にしはしたが、その持っている一大秘密を、まだ発見しないうちに秋山要介に横取りされた女! お組の源女に相違ない!
 探して探して探し廻ったあげく、江戸は両国の曲独楽の席で、ゆくりなくも発見した。が、その直後に起こった事件――鴫澤庄右衛門を討ち果したことから、江戸にいられず旅に出たため、源女のその後の消息については、確かめることが出来なかった。
 その源女の歌声が、こんな所で聞こえたのであった。
(どうしたことだ? どうしたことだ?)
 不思議なことと云わなければならない。
(あの女を再び手に入れることが出来て、あの歌の意味を解くことが出来たら!)
 その時こそ運命が――解いた人の運命が、俄然とばかり一変し、栄耀栄華を尽くすことが出来、至極の歓楽を享けることが出来る!
(どうでもあの女を手に入れなければ!)
 だが彼女はどこにいるのだ?
 分を秒に割った短い間だ! 時間にして短いそういう間に、陣十郎の脳裡に起伏したのは、実にそういう考えであった。
 その間彼は放心状態にあった。
 何で主水が見逃がそうぞ!
 一気に盛り返した勇を揮い、奮然として切り込んだ。
 またも鏘然太刀音がした。
 放心状態にあったとはいえ、剣鬼さながらの陣十郎であった。何のムザムザ切られようぞ!
 受けて一合!
 つづいて飛び退いた、飛び退いた時にはもう正気だ! 正気以上に冴え切っていた。
(こやつを一気に片付けて、源女の在所《ありか》を突き止めなければならない!)
「ヤ――ッ!」と掛けた物凄い掛声!
 つづけて「ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ、ヤヤ――ッ!」
 先々の先の手一杯! さながら有段者が初心者を相手に、稽古をつけるそれの如く、主水が撃とう切ろう突こうと、心組む心を未前[#「未前」はママ]に察し、その先その先その先と出て、追い立て切り立て突き立て進んだ。
 またもや主水は薮際まで詰められ、眼眩みながら薮の裾を、右手へわずか廻り込もうとした時、天運尽きたか木の根に躓《つまず》き、横倒れにドッと倒れた。
「くたばれ!」
 シ――ンと切り下した!

11
 シ――ンと切り下ろした陣十郎の刀が、仆れている主水を拝み打ちに、眉間から鼻柱まで割りつけようとした途端、日の光を貫いて小柄が一本、陣十郎の咽喉へ飛んで来た。
「あッ」と思わず声を上げ、胸を反らせた陣十郎は、あやうく難を免れたが、小柄の投げられた方角を見た。
 十数間のかなたから、一人の武士が走って来る。
「む!……秋山! ……秋山要介!」
 いかにも走って来るその武士は、今朝になって眼醒めて見れば、昨夜から発作を起こしていた源女が、どこへ行ったものか姿が見えず、それを案じて探すために、林蔵の家を立ち出で、ここまでやって来た秋山要介であり、見れば宿意ある水品陣十郎が、これも因縁《ゆかり》ある鴫澤主水を、まさに討って取ろうとしていた。間隔は遠い、間に合わない。そこで小柄を投げたのであった。
 小柄を投げて陣十郎の兇刃を、制して置いて秋山要介、飛燕の如く飛び込んで来た。
 が、陣十郎もただ者ではない、主水を相手に戦って、既に躰は疲労《つかれ》ていた。そこへ剣豪秋山要介に新規の力で出られては、百に一つの勝目はない。――と見て取るや刀を引き、鞘にも納めず下げたままで、耕地を一散に走って逃げた。
 と、瞬間飛び起きたは、無念残念返り討ちだと、一刹那覚悟して仆れていた主水で、
「秋山先生、お礼は後刻! ……汝、待て――ッ、水品陣十郎! ……遁してなろうか、父の敵!」と、身体綿の如く疲労して居り、剣技も陣十郎と比較しては、数段も劣って居り、追っかけ追い詰め戦ったところで、あるいは返り討ちになろうもしれないと、そういう不安もありながら、みすみす父の敵に逢い、巡り合って刀を交したのに、そうしてその敵が逃げて行くのに、そうして一旦逃がしてしまったなら、いつふたたび巡り逢えるやら不明と思えば追わずにいられなかった。
 で、主水は刀を振り振り、陣十郎を追いかけた。
「待たれい! 主水殿、鴫澤氏!」
 追いついてよしんば戦ったところで、陣十郎に主水が勝つはずはない、返り討ちは見たようなものだ――と知っている秋山要介は、驚いて大音に呼び止めた。
「長追いなさるな! お引き返しなされ! またの機会をお待ちなされ」
 しかし何のそれを聞こう! 主水はよろめきよろめきながら、走り走り走って行く。
(尋常の敵を討つのではなく、親の敵《かたき》を討つのであった。子とあってみれば返り討ちも承知で、追いかけ戦うのが本当であろう)
 気がついた秋山要介は、孝子《こうし》に犬死させたくない、ヨーシ、追いついて後見《うしろみ》してやろう! 助太刀してやろうと決心し、袴の股立取り上げた途端、
「セ、先生、秋山先生!」と、背後から息せき呼ぶ声がし、やにわに袖を掴まれた。
「誰だ!」と怒鳴って顔を見た。
 林蔵の乾兒の藤作であった。

12
「おお藤作、どうしたのだ?」
「タ、大変で……オ、親分が!」
「なに親分が? 林蔵がか?」
「へい、林蔵親分が、カ、街道で、あそこの街道で……タ、高萩の猪之松と……」
「うむ、高萩の猪之松と[#「猪之松と」は底本では「猪の松と」]?」
「ハ、果し合いだい、果し合いだい!」
「む――」と呻くと振り返り、要介は街道の方角を見た。
 旅人や百姓の群であろう、遠巻にして街道に屯し、じっと一所を見ている光景が、要介の眼に鮮かに見えた。彼等の見ている一所で、林蔵は怨ある猪之松と、果し合いをしているのであろう。要介も以前から林蔵と猪之松とが、勢力争い激甚であり、一度は雌雄を決するてい[#「てい」に傍点]の、真剣の切り合いをやるべきことを、いろいろの事情から知っていた。
(これはうっちゃって置かれない。林蔵を見殺しにすることは出来ない。聞けば高萩の猪之松は、逸見《へんみ》多四郎から教えを受け、甲源一刀流では使い手とのこと、林蔵といえどもこの拙者が、新影流は十分仕込んで置いた。負ける気遣いもあるまいが、もしも負れば師匠たる拙者の、恥にならないものでもない。林蔵と猪之松との果し合い、考えようによれば逸見多四郎と、この秋山要介との、果し合いと云うことにもなる。これはうっちゃっては置かれない)
「行こう、藤作!」と叫んだが、
(主水氏は?)とこれも気になり、走って行った方へ眼をやった。
 広い耕地をよろめきよろめき、陣十郎の後を追い、なお主水は走っていた。
(一人で行ったら返り討ち、陣十郎に討たれるであろう。……惜しい武士! 気の毒な武士! ……どうでも助太刀してやらねば……)
 ――が、そっちへ身を挺したら、林蔵はどういう運命になるか?
(どうしたら可《よ》いか? どうしたものだ?)
 知らぬ藤作は急き立てた。
「先生、早く、行っておくんなせえ! ……云いたいことはたくさんあるんで……第一女が誘拐《かどわか》されたんで……若い女が、綺麗な女が……誘拐した野郎は猪之松の乾兒と、その相棒の馬方なんで……最初《はな》は俺らと杉さんとで……へい、そうで浪之助さんとで、その女を助けたんですが……逃げた八五郎め馬方を連れて、盛り返して来てその女を……その時浪之助さんは留守だったんで……いやいやそんなこと! ……行っておくんなせえ、さあ先生! 親分が大変なんだ猪之松の野郎と! ……」
(行かなければならない!)と要介も思った。
(鴫澤氏は赤の他人、少くも縁は極めて薄い。林蔵の方は俺の弟子、しかも現在この俺は、林蔵の家に世話になっている。深い縁がある、他人ではない。……その林蔵を見殺しには出来ない! 行こう! しかし、そうだしかし、主水殿もお気の毒な! では、せめて言葉の助太刀!)
 そこで要介は主水の方に向かい、大音をもって呼びかけた。

13
「鴫澤《しぎさわ》氏、主水殿! 敵水品陣十郎を追い詰め、見事に復讐をお遂げなされ! 拙者、要介、秋山要介、貴殿の身辺に引き添って、貴殿あやうしと見て取るや、出でて、必ずお助太刀いたす! ……心丈夫にお持ちなされい! ……これで可《よ》い、さあ行こう!」
 街道目掛けて走り出した時、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]今は変わって千の馬
五百の馬の馬飼の
[#ここで字下げ終わり]
 と、聞き覚えある源女の声で、手近で歌うのが聞こえてきた。
「や、……歌声! ……源女の歌声!」
 要介は足を釘づけにした。
 探していた源女の歌声が、手近の所から聞こえてきたのであった。足を止めたのは当然といえよう。
「源女殿! お組殿!」
 思わず大声で呼ばわって、要介は四辺《あたり》を忙《せわ》しく見た。
 丘、小山とでも云いたいほどに、うず高く聳えている薮以外には、打ち開けた耕地ばかりで、眼を遮る何物もなかった。
(不思議だな、どうしたことだ。……歌声は空耳であったのか?)
 陣十郎の感じたようなことを、要介も感ぜざるを得なかった。
「先生、どうしたんですい、行っておくんなせえ」
 要介に足を止められて、胆を潰した藤作が怒鳴った。
「第一先生がこんな方角へ、トッ走って来たのが間違いだ。俺ら向こうで見ていたんで。すると先生の姿が見えた。しめた、先生がやって来た、林蔵親分に味方して、猪之松を叩っ切って下さるだろう。――と思ったら勘違いで、こんな薮陰へ来てしまった。そこで俺ら迎えに来たんだが、その俺らと来たひ[#「ひ」に傍点]には、ミジメさったら[#「ミジメさったら」は底本では「ミヂメさったら」]ありゃアしない。馬方に土をぶっかけられたんで。と云うのも杉さんがいなかったんで。その杉さんはどうしたかというに、誘拐《かどわか》された女の兄さんて奴が――そうそう主水とか云ったっけ、そいつが陣十郎とかいう悪侍に、オビキ出されて高萩村の方へ行った。とその女が云ったんで、こいつ大変と杉さんがね、高萩村の方へ追って行ったんで。――が、まあ可《い》いやそんな事ア。よくねえなア親分の身の上だ、まごまごしていると猪之松の野郎に……あッどうしたんだ見物の奴らア……」
 いかさま街道や耕地に屯し、果し合いを見ていた百姓や旅人が、この時にわかに動揺したのが、要介の眼にもよく見えた。が、すぐに動揺は止んで、また人達は静かになった。緊張し固くなって見ているらしい。
 突嗟に要介は思案を定めた。
(ここら辺りに源女がいるなら、薮の中にでもいるのであろう。正気でないと云ったところで、直ぐに死ぬような気遣いはない。……林蔵と猪之松との果し合い、これは一刻を争わなければならない。よしそっちへ行くことにしよう。……が、しかし念のために……)
 そこで要介はまたも大音に、薮に向かって声をかけた。
「源女殿、要介お迎えに参った。どこへもおいでなさるなよ! ……」

14
 街道では林蔵と猪之松とが、遠巻きに見物の群を置き、どちらも負けられない侠客《おとこ》と侠客との試合それも真剣の果し合いの、白刃を互いに構えていた。
 かなり時間は経過していたが、わずか二太刀合わせたばかりで、おおよそ二間を距てた距離で、相正眼に脇差をつけ、睨み合っているばかりであった。
 猪之松には乾兒や水品陣十郎の間に、何か事件が起こったらしく、耕地で右往左往したり、逃げる奴倒れる奴、そういう行動が感ぜられたが、訊ねることも見ることもできず、あつかう[#「あつかう」に傍点]こともできなかった。傍目一つしようものなら、その間に林蔵に切り込まれるからであった。
 林蔵といえどもそうであった、乾兒の藤作の声がしたり、杉浪之助の声がして、何か騒動を起こしているようであったが、どうすることも出来なかった。相手の猪之松の剣の技、己と伯仲の間にあり寸分の油断さえ出来ないからであった。
 が、そういう周囲の騒ぎも、今は全く静まっていた。数間を離れて百姓や旅人、そういう人々の見物の群が、円陣を作って見守っているばかりで、気味悪いばかりに寂静《ひっそり》としていた。
 二本の刀が山形をなし、朝の黄味深い日の光の中で、微動しながら浮いている。
 二人ながら感じていた。――
(ただ目茶々々に刀を振り廻して、相手を切って斃せばよいという、そういう果し合いは演ぜられない。男と男だ、人も見ている。後日の取沙汰も恐ろしい。討つものなら立派に討とう! 討たれるものなら立派に討たれよう!)
 二人ながら心身疲労していた。
 気|疲労《つかれ》! 気疲労! 恐ろしい気疲労!
 技が勝れているだけに、伎倆《うで》が伯仲であるだけに、その気疲労も甚だしいのであった。
 向かい合っていた二本の刀の、その切先がやがて徐々に、双方から寄って来た。
 見よ二人ながら踏み出している右足の爪先が蝮を作り、地を刻んで一寸二寸と、相手に向かって進むではないか。
 ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]!
 音は立たなかった。
 が、ぢ――ン[#「ぢ――ン」はママ]と音立つように、互いの切先が触れ合った。
 しかしそのまま二本の刀身は、一度に水のように後へ引き、その間隔が六歩ほどとなった。
 そうしてそのまま静止した。
 静止したまま山形をなし、山形をなしたまま微動した。
 薄くポ――ッと刀と刀の間に、立ち昇っているのは塵埃《ほこり》であった。
 二人の刻んだ足のためにポ――ッと立った塵埃であった。
 間、
 長い間。
 天地寂寥。
 が、俄然二本の刀が、宙で烈しくもつれ合った。
 閃光! 太刀音! 鏘然! 鍔鳴り!
 で、Xの形となって、二本の刀は交叉され、わずかに左右に又前後に、揺れつ縒れつ押し押されつ、粘ったままで放れなかった。

15]
 鍔競り合い!
 眼と眼との食い合い!
 そうだ、林蔵と猪之松との眼が、交叉された刀の間を通し、互いに食い合い睨み合っている。
 鍔競り合いの恐ろしさは、競り合いから離れる一刹那にあった。胴を輪切るか真っ向を割り付けるか、伎倆《うで》の如何《いかん》、躰形《たいけい》の如何、呼吸の緩急によって変化縦横! が、どっちみち恐ろしい。
 林蔵も猪之松も一所懸命、相手の呼吸を計っていた。
 と、交叉された刀の間へ、黒く塗られた刀の鞘が、忍びやかに差し込まれた。
「?」
「?」
 鞘がゆるゆると上へ上った。二本の白刃を持ち上げるのである。と、威厳ある声がした。
「勝負待て! 刀を引け! 仲裁役は秋山要介!」
 声と同時に刀の鞘が、二本の刀身を左右に分けた。
 二間の距離を保ちながら、尚、残心、刀を構え、睨み合っている林蔵と猪之松、その間に鞘ぐるみ抜いた太刀を提げて、ノビノビと立ったのは秋山要介で、まず穏かに林蔵へ云った。
「刀を鞘へ納めるがよい」
 それから猪之松の方へ顔を向け、
「以前一二度お見かけいたした。高萩村の猪之松殿か、拙者秋山要介でござる。刀を納め下されい」
 しばらくの間寂然としていた。
 やがて刀の鞘に収まる、鍔鳴りの音が二つ聞こえた。

 この頃源女は大薮を出て、唐黍《とうもろこし》畑の向こうを歩いていた。
(行かなければ不可《いけ》ない、さあ行こう)
 こう思いながら歩いていた。
 何者《だれ》か向こうで呼んでいる。そんなように彼女には思われるのであった。
 畦を越し桑畑を越した。そうして丘を向こうへ越した。もう背後を振り返って見ても、街道も大薮も見えないだろう。
 大渓谷、大傾斜、大森林、五百頭千頭の馬、無数の馬飼、宏大な屋敷――そういうものの存在している所へ、行かなければならない行かなければならない! ……そう思って彼女は歩いて行く。
 崩れた髪、乱れた衣裳、彼女の姿は狂女そっくりであった。発作の止まない間中は、狂女と云ってもいいのであった。
 長い小高い堤があった。
 よじ上って歩いて行った。
 向こう側の斜面には茅や蘆が、生い茂り風に靡いている、三間巾ぐらいの川があり、水がゆるゆると流れていた。
「あッ」
 源女は足を踏み辷らせ、ズルズルと斜面を川の方へ落ちた。パッと葦切が数羽飛び立ち、烈しい声で啼いて去った。と、蘆を不意に分けて、古船が一隻辷り出た。源女がその中に倒れている。
 纜綱《もやいづな》を切らした古船は、源女を乗せたまま流れて行く。
 源女は微動さえしなかった。

各自の運命


 高萩村に近い森の中まで、陣十郎を追って来た鴫澤主水《しぎさわもんど》は、心身全く疲労し尽くし、ほとんど人心地を覚えなかった。
 抜身を地に突き体を支えたが、それにも堪えられずクタクタ倒れた。
 とうに陣十郎は見失っていた。
 その失望も手伝っていた。
(残念、逸した、敵を逸した!)
(が、飽くまでも探し出して、……)
 立ち上ろうと努力した。
 が、躰はいうことをきかず、のみならず精神さえ朦朧となった。
 こうして杉や桧や槇や、楢などの喬木に蔽われて、その奥に朱の褪せた鳥居を持ち、その奥に稲荷の祠を持ち、日の光も通して来ず、で薄暗い風景の中に、雀や鶸《ひわ》や山雀《やまがら》や山鳩の、啼声ばかりが繁く聞こえる、鎮守の森に包まれて、気絶して倒れた主水の姿が、みじめに痛々しく眺められた。
 色づいた[#「色づいた」は底本では「色ずいた」]病葉《わくらば》が微風にあおられ体の上へ落ちて来たりした。
 かなり長い間しずかであった。
 と、その時人声がし、間もなく十数人の男女の者が、森の中へ現われた。
 変わった風俗の連中であった。
 赤い頭巾に赤い袖無、そんなものを着けている若い男もあれば、亀甲模様のたっつけ[#「たっつけ」に傍点]を穿き、胸に大形の人形箱をかけた、そういう中年の男もあり、紫の手甲に紫の脚絆、三味線を抱えた女もあり、浅黄の股引、茶無地の筒袖、そういう姿の肩の上へ、猿をとまらせた老人などもあった。
 それらはいずれも旅装であった。
 秩父|香具師《やし》の一団なのである。
 平素は自分の家にいて、百姓もやれば杣夫《そま》もやり、猟師もやれば川狩もやるが、どこかに大きな祭礼があって、市《たかまち》が立って盛んだと聞くと、早速香具師に早変りして、出かけて行って儲けて来、家へ帰れば以前通り、百姓や杣夫として生活するという――普通の十三香具師とは別派の、秩父香具師の一団であった。
 この日もどこかの市を目掛け親しい者だけで組をつくり、出かけて行くところらしい。
 その中に一人旅装ではなく、髪は櫛巻きに銀簪一本、茜の小弁慶の単衣《ひとえ》を着た、若い女がまじっていた。
 陣十郎の情婦のお妻であった。
「姐御、お前さんも行くといいんだがな」
 一人の男がこう云って、そそのかすようにお妻を見た。
「そうさねえそうやって、お前さんたちが揃って出かけて行くのを見ると、一緒に行きたいような気持がするよ」
 まんざらお世辞でもなさそうに、お妻はそう云って薄笑いをした。
「陣十郎さんばかりが男じゃアなし、他に男だってあろうじゃアないか。そうそういつもへばり付いてばかりいずに、俺らと旅へ出るのもいいぜ」
 こうもう一人の男が云った。
「あたしを旅へしょびいて行くほどの、好い男がどこかにいるかしら、お前さん達のお仲間の中にさ」
 云い云い、お妻は又薄笑いをして、香具師達を見廻した。
「俺じゃア駄目かな、え、俺じゃア」と、猿廻しが顔を出した。


「十年若けりゃア物になるが」
 お妻はむしろ朗かに笑った。
 お妻は秩父の産れであり、秩父香具師の一人であった。が、ずっと若い頃に、草深い故郷に見切りをつけ、広い世界へ出て行って、香具師などというケチなものよりもっと烈しい、もっと罪の深い、そうしてもっと度胸の入る、凄い商売へ入り込んでしまった。
 女邯鄲師《おんなかんたんし》[#ルビの「おんなかんたんし」は底本では「おんんなかんたんし」]――それになってしまった。
 道中や温泉場などで親しくなり、同じ旅籠《はたご》へ一緒に泊り、情を通じてたらす[#「たらす」に傍点]もあり、好きな男で無い場合には、すかし[#「すかし」に傍点]、あやなし[#「あやなし」に傍点]、たぶらかし[#「たぶらかし」に傍点]て、油断を窺って有金から持物、それらを持って逃げてしまう、平ったく云えば枕探し、女賊になってしまったのである。
 陣十郎の情婦になったのも、平塚の宿で泊まり合わせ、枕探しをしようとしたところ、陣十郎のために取って抑えられた、それが因縁になったのであった。
 その女邯鄲師のお妻であるが、今度陣十郎と連立って、産れ故郷へ帰って来た。と、今朝高萩の村道を、懐かしい昔の仲間達が――すなわち秩父香具師達が、旅|装束《よそおい》で通って行った。知った顔も幾個かあった。で、あまりの懐かしさに、冗談云い云いこんな森まで、連立って一緒に来たのであった。
「おや」と不意にお妻は云って、急に足を一所で止めた。
「こんなところに人間が死んでいるよ」
 行手の杉の木の根下の草に、抜身を持った武士が倒れている。
「ほんに、可哀そうに、死んでらあ。……しかも若いお侍さんだ」
 香具師達は云って近寄って行った。
 お妻はその前にしゃがみ[#「しゃがみ」に傍点]込み、その武士の額へ手をやったが、
「冷えちゃアいない、暖《あった》かいよ」
 いそいで脉所《みゃくどころ》を握ったが、
「大丈夫、生きてるよ」
「じゃア気絶というやつだな」
 一人の香具師が心得顔に云った。
「そうさ、気絶をしているのさ。抜身を持っているところを見ると、きっと誰かと切り合ったんだねえ。……どこも切られちゃアいない。……気負け気疲労《きつかれ》[#「気疲労《きつかれ》」は底本では「気疲労《きつかれ》れ」]で倒れたんだよ」
 云い云いお妻は覗き込んだが、
「ご覧よ随分|好男子《いいおとこ》じゃアないか」
「チェーッ」と誰かが舌打ちをした。
「姐御いい加減にしてくんな。どこの馬の骨か知れねえ奴に、それも死に損ない殺され損ないに。気をくばるなんて嬉しくなさ過ぎらあ」
「まあそういったものでもないよ。……第一随分可愛そうじゃアないか。……それにさ、ご覧よ、この蒼白い顔を……唇の色だけが赤くてねえ。……ゾッとするほど綺麗だよ。……」
「色狂人! ……行こう行こう!」
「行きゃアがれ、碌で無し! ……妾アこの人を介抱するよ」
 お妻は主水の枕元へ、ペタペタと坐ってなお覗き込んだ。


 その同じ日のことであった。
 絹川という里川の岸で、一人の武士が魚を釣っていた。
 四十五六の年齢で、広い額、秀でた鼻、鋭いけれど暖かい眼、そういう顔の武士であった。立派な身分であると見え、衣裳などは寧ろ質素であったが、體に威があり品があった。
 傍らに籃《びく》が置いてあったが、魚は一匹もいなかった。
 川の水は濁りよごれ[#「よごれ」に傍点]てい、藻草や水錆が水面に浮かび、夕日がそれへ色彩をつけ、その中で浮子《うき》が動揺してい、それを武士は眺めていた。
「東馬《とうま》もう何刻《なんどき》であろう?」
 少し離れた草の中に、お供と見えて若侍が退屈らしい顔付をして、四辺《あたり》の風景を見廻していたがそれへ向かって話しかけた。
「巳刻《よつどき》でもありましょうか」
 若侍はそう答え、
「今日は不漁《しけ》でございますな」
 笑止らしく云い足した。
「わしの魚釣、いつも不漁じゃ」
「御意で、全くいつも不漁で。……それにもかかわらず先生には、毎日ご熱心でございますな」
「それでいいのだ、それが本意なのだ。……と云うのはわしの魚釣は、太公望と同じなのだからな」
「太公望? はは左様で」
「魚釣り以外に目的がある。……ということを云っているつもりだが」
「どのような目的でございますか?」
「そう安くは明かされないよ」
「これはどうも恐れ入りました……が、そのように仰せられますと、魚の釣れない口惜《くちお》しまぎれの、負けおしみなどと思われましても……」
「どうも其方《そち》、小人で不可《いけ》ない」
「お手厳しいことで、恐縮いたします」
「こう糸を垂れて水面を見ている」
「はい、魚釣りでございますからな」
「水が流れて来て浮子にあたる」
「で、浮き沈みいたします」
「いかにも自然で無理がない……芥《あくた》などが引っかかると……」
「浮子めひどくブン廻ります」
「魚がかかると深く沈む」
「合憎[#「合憎」はママ]、今日はかかりませんでした」
「相手によって順応する……浮子の動作、洵《まこと》にいい」
「浮子を釣るのでもござりますまいに」
「で、わしはその中に、何かを得ると思うのだよ」
「鮒一匹、そのくらいのもので」
「魚のことを云っているのではない」
「ははあ左様で。……では何を?」
「つまりあの業《わざ》を破る術じゃ」
「は? あの業と仰せられまするは?」
「水品陣十郎の『逆ノ車』……」
「ははあ」
「お、あれは何だ」
 その時上流から女を乗せた、死んだように動かない若い女を乗せた、古船が一隻流れて来た。
「東馬、寄せろ、船を岸へ」
「飛んでもないものが釣れましたようで」
 若侍は云い云い袴を脱ぎかけた[#「脱ぎかけた」は底本では「股ぎかけた」]。
 が、古船は自分の方から、ゆるゆると岸の方へ流れ寄って来た。
 武士は釣棹の柄の方を差し出し、船縁へかけて引き寄せるようにしたが、
「女を上げて介抱せい」
 そう若侍へ厳しく云った。

鳳凰と麒麟


 それから幾日か経った。
 秋山要介は杉浪之助を連れて、秩父郡小川村《ちちぶのこおりおがわむら》の外れに、あたかも嵎《ぐう》を負う虎の如くに蟠居し、四方の剣客に畏敬されている、甲源一刀流の宗家|逸見《へんみ》多四郎義利の、道場構えの広大な屋敷へ、威儀を作って訪れた。
「頼む」
「応」と返事があって、正面の襖が一方へひらくと、小袴をつけた若侍が、恭しく現われた。
「これはこれは秋山先生、ようこそご光来下されました」
「逸見先生に御意得たい。この段お取次下されい」
「は、先生には江戸表へ参り、未だご帰宅ござりませねば……」
「ははあ、いまだにお帰りない」
「帰りませんでござります」
「先生と一手お手合わせ致し、一本ご教授にあずかりたく、拙者当地へ参ってより三日、毎日お訪ねいたしても、そのつどお留守お留守とのご挨拶、かりにも小川の鳳凰《ほうおう》と呼ばれ、上州間庭の樋口十郎左衛門殿と、並び称されている逸見殿でござれば、よもや秋山要介の名に、聞き臆じして居留守を使われるような、そのようなこともござるまいが、ちと受取れぬ仕儀でござるな」
 洒脱であり豪放ではあるが、他人に対してはいつも丁寧な、要介としてはこの言葉は、かなり角立ったものであった。
 傍に引き添っていた浪之助も、これはおかしいと思った程である。
 面喰ったらしい取次の武士は、
「は、ご尤《もっと》もには存じますが、主人こと事実江戸へ参り、今に帰宅いたしませねば……」
「さようか、よろしい、事実不在、――ということでござるなら、又参るより仕方ござらぬ。……なれどこのまま帰っては、三度も参った拙者の腹の虫、ちと納まりかねるにより、少し無礼とは存じ申すが、表にかけられた門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、お預かりして持ちかえる。逸見殿江戸よりご帰宅なさらば、この旨しかとお伝え下され。宿の小紅屋に滞在まかりある。ご免」というと踵《きびす》を返し、門を出ると門の柱に「甲源一刀流指南」と書いた、二寸厚さの桧板、六尺長い門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]外し、小脇に抱えて歩き出した。
 呆れ返ったのは浪之助で、黙々として物も云わず、要介の後から従《つ》いて行った。
 村とはいっても小川村は、宿場以上の賑いを持った、珍らしく豊かな土地であって、道の両側には商店多く、人の往来も繁かった。そういう所を立派な武士が、大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]引っ抱え、若い武士を供のように連れて、ノッシノッシと歩いて行くのであった。店の人達は審かしそうに覗き、往来の人達も不思議そうに眺めた。
 が、要介は意にも介さず、逸見家とは反対の方角の、これは小川村の入口にある、この村一番の旅籠屋の、小紅屋まで歩いて来た。
「お帰り」と番頭や婢達《おんなたち》が、これも怪訝そうな顔をして、大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]抱えた要介達を迎え、玄関へ頭を並べたのを、鷹揚に見て奥へ通った。


 中庭を前にした離座敷――この宿一番の座敷らしい――そこの床の間へ大門札を立てかけ、それを背にして寛《ゆるや》かに坐わり、婢の持って来た茶を喫しながら、要介は愉快そうに笑っていた。
 その前に浪之助はかしこまっていたが、これは随分不安そうであった。
「先生」ととうとう浪之助は云った。
「これは一体どうしたことで?」
「…………」
 愉快そうに笑っている。
「武芸指南所の門札は[#「門札は」は底本では「門礼は」]、商家の看板と等しなみに、その家にとりましては大切なもの、これを外されては大恥辱……」
「ということは存じて居るよ」
「はい」と浪之助はキョトンとし、
「それをご承知でその門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「さよう、わしは外して来た」
「はい」と又もキョトンとし、
「それも高名の逸見先生の……」
「鳳凰と云われる逸見氏のな」
「はい」ともう一度キョトンとし、
「それほど逸見様は高名なお方……」
「わしも麒麟《きりん》と呼ばれて居るよ」
「御意で」と今度は頭を下げ、
「関東の麒麟と称されて居ります」
「鳳凰と麒麟……似合うではないか」
「まさにお似合いではございますが、似合うと申して門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「ナニわしだから外して来てもよろしい」
「麒麟だから鳳凰の門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「さようさよう外して来てもよろしい」
「ははあ左様でございますかな」
「他の奴ならよろしくない」
「…………」
「ということは存じて居る。さよう逸見氏も存じて居る」
「…………」
「人物は人物を見抜くからの」
「はい、もう私などは小人で」
「そのうちだんだん人物になる」
「はい、ありがたく存じます」
 とは云ったものの浪之助は、
(うっかり物を云うとこんな目に逢う。訓された上に嚇されてしまう)
 こう思わざるを得なかった。
「それに致しましても先生には、何と思われて小川村などへ参り、何と思われて逸見先生のお宅などへ……」
「武術試合をするためにさ……」
「それだけの目的でございますかな?」
「真の目的は他にある」
「どのような目的でございますかな?」
「赤尾の林蔵を関東一の貸元、そいつに押し立ててやりたいのだ」
「そのため逸見先生と試合をなさる?」
「その通り。変に思うかな?」
「どういう関係がございますやら」
「今に解る。じきに解る」
「ははあ左様でございますか」
「わしは金蔓をなくしてしまった――源女殿を見失ってしまったので、秩父にいる必要がなくなってしまった。そこで江戸へ帰ろうと思う。……江戸へ帰って行く置土産に、林蔵を立派な男にしてやりたい。それで逸見氏と試合をするのだ。……高萩の猪之松の剣道の師匠、逸見多四郎殿と試合をするのだ」


(なるほどな)と浪之助は思った。
(林蔵の師匠たる秋山先生と、猪之松の師匠たる逸見先生とが、武術の試合をした上で、林蔵を関東一の貸元にする。なるほどな、意味がありそうだ)
 確実のことは解らなかったが、意味はありそうに思われた。
 やがて解るということであった。押して訊こうとはしなかったが、
「それに致しましてもお組の源女と、その源女のうたう歌と、先生とのご関係を承《うけたま》わりたいもので」
 以前から疑問に思っていたことを、浪之助は熱心に訊いた。
 その浪之助は以前においては、まさしく源女の愛人であった。がその源女が今度逢ってみれば、変わった性格となって居り、不思議な病気を持って居り、妙な歌を口吟《くちずさ》むばかりか、要介などという人物が、保護する人間となっていたので、浮いた恋、稀薄の愛、そのようなものは注がないこととし、ほんの友人のように交際《つきあ》って来たところ、その源女は上尾街道で、過ぐる日行なわれた林蔵と猪之松との果し合いの際|行方《ゆくえ》不明となり、爾来姿を見せなくなっていた。
 浪之助も勿論心にかけたが、要介のかけ方は一層で、
「あの日たしかに大薮の陰で、源女殿の歌声を耳にした。が、果し合いを引き分けおいて、急いで行って探した時には、もう源女殿はいなかった。どこにどうしていることやら」と、今日までも云いつづけて来たことであった。
「源女殿とわしとの関係か。さようさな、もう話してもよかろう」
 要介はいつになくこだわら[#「こだわら」に傍点]なかった。しかししばらく沈思していた。久しく聞きたいと希望していた、秘密の話が聞かれるのである。浪之助は思わず居住いを正し、緊張せざるを得なかった。
 中庭に小広い泉水があり、鯉が幾尾か泳いでいたが、時々水面へ飛び上った。それが田舎の古い旅籠屋の、昼の静かさを破壊するところの、たった一つの音であった。
 と、要介は話し出した。
「武蔵という国は承知でもあろうが、源氏にとっては由縁《ゆかり》の深い土地だ。源氏の発祥地ともいうべき土地だ。ここから源氏の諸豪族が起こった。秩父庄司《ちちぶしょうじ》、畠山重忠《はたけやましげただ》、熊谷次郎直実《くまがいじろうなおざね》等、いずれも武蔵から蹶起した武将だ。……がわしにかかわる[#「かかわる」に傍点]事件は、もっと昔に遡らなければならない。……これは誰もが承知していることだが、後冷泉天皇の御宇《ぎょう》にあって、奥州の酋長|阿部《あべ》の頼時《よりとき》が、貞任《さだとう》、宗任《むねとう》の二子と共に、朝廷に背いて不逞を逞ましゅうした、それを征したのが源|頼義《よりよし》、そうしてその子の八幡太郎義家――さてこの二人だが奥州征めの往来に、武蔵の国にとどまった。今日の国分寺村の国分寺、さよう、その頃には立派な寺院で、堂塔伽藍聳えていたそうじゃが、その国分寺へとどまった……ところが止まったばかりでなく、前九年の役が終了した際、奥州産の莫大な黄金、それを携えて帰って来、それを国分寺の境内に、ひそかに埋めたということじゃ。それには深い訳がある」
 こう話して来て要介は、またしばらく沈思した。


 要介はポツポツ話し出した。
「源氏は東国を根拠とすべし。根拠とするには金が必要だ。これをもってここへ金を埋めて置く。この金を利用して根を張るべし。――といったような考えから、金を埋めたということだ。……その後この地武蔵において、いろいろさまざまの合戦が起こったが、埋めてあるその金を利用したものが、いつも勝ったということじゃ。ところがそのつど利用したものは、他の者に利用されまいとして、残った金を別の所へ、いつも埋め代えたということじゃ。……治承《じしょう》四年十月の候、源頼朝が府中の南、分倍河原《ぶばいがわら》に関八州の兵を、雲霞の如くに集めたが、その時の費用もその金であり、ずっと下って南北朝時代となり、元弘《げんこう》三年新田義貞卿が、北條高時を滅ぼすべく、鎌倉に兵を進めようとし、分倍河原に屯して、北條泰家と合戦したが、その時も義貞は源氏というところから、その金を利用したという事じゃ。正平《しょうへい》七年十二月十九日、新田|義宗《よしむね》南軍を率い、足利尊氏を狩野河《こうのかわ》に討つべく、武蔵の国に入ったところ、尊氏すでに狩野河を発し、谷口から府中に入り、人見原《ひとみはら》にて激戦したが、義宗破れて入間川《いるまがわ》に退き、二十八日|小手差原《こてさしはら》にて戦い、ふたたび破れて退いたが、この時は足利尊氏が、これも源氏というところから、その金を利用したということじゃ。更に下って足利時代に入り、鎌倉の公方足利成氏、管領上杉|憲忠《のりただ》を殺した。憲忠の家臣長尾|景晴《かげはる》、これを怒って手兵を率い、立川原で成氏と戦い、大いに成氏を破ったが、この時はその金を景晴が利用し、その後その金を用いた者で、史上有名の人物といえば、布衣《ふい》から起こって関八州を領した、彼の小田原《おだわら》の北條|早雲《そううん》、武蔵七党の随一と云われた、立川宗恒《たてかわむねつね》、同恒成、足利学校の創立者、武人《ぶじん》で学者の上杉|憲実《のりざね》。……ところがそれが時代が移って、豊臣氏となり当代となり――即ち徳川氏となってからは、その金を利用した誰もなく、金の埋没地も不明となり、わずかにこの地方秩父地方において『秩父の郡小川村、逸見様庭の桧の根、昔はあったということじゃ……』という、手毬唄に名残をとどめているばかりじゃ。……」
 ここまで云って来て要介は、不意に沈黙をしてしまった。
 じっと聞いていた浪之助の、緊張の度が加わった。
 源女のうたう不可解の歌が、金に関係あるということは、朧気ながらも感じていたが、そんな歴史上の合戦や人物に、深い関係があろうなどとは、夢にも想像しなかったからである。
(これは問題が大きいぞ)
 それだけに興味も加わって、固唾を呑むという心持! それでじっと待っていた。
 要介は語りついだ。
「あの歌の意味は簡単じゃ。今話した例の金が、武蔵秩父郡小川村の逸見《へんみ》家の庭にある桧の木の根元に、昔は埋めてあったそうさな。――という意味に他ならない。逸見家というのは云う迄もなく、逸見多四郎殿の家の事じゃ。……その逸見家は何者かというに、甲斐源氏《かいげんじ》の流を汲んだ、武州無双の名家で旧家、甲源一刀流の宗家だが、甲源の文字もそこから来ている。即ち甲斐源氏という意味なのじゃ」


 要介は語りつづけた。
「歌もそこ迄なら何でもないのじゃ。というのは普通の手毬歌として、秩父地方の人々は、昔から知っているのだからな。ところがどうだろう源女殿だけが、その後の文句を知っている『今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の……それから少し間が切れて――秣の山や底無しの、川の中地の岩窟の……という文句を知っている。そこへわし[#「わし」に傍点]は眼をつけたのじゃ。頼義《よりよし》、義家が埋めたという金は、その後の歌にうたわれている境地に、今は埋めてあるのだろう。それにしても源女殿はどこでどうしてその後の歌を覚えたかとな。で源女殿へ訊いて見た。その返辞が洵《まこと》に妙じゃ。大森林や大渓谷や、大きな屋敷や大斜面や、そういう物のある山の奥の、たくさんの馬や馬飼のいる所へ、いつぞや妾《わたし》は行ったような気がする。そこでその歌を覚えたような気がする。でもハッキリとは覚えていない。勿論そこがどこであるかも知らない。――という曖昧の返辞なのだ。その上|其方《そち》も知っている通り、源女殿は時々発作を起こす。……で、わしはいろいろの医者へ、源女殿の様態を診て貰ったところ、一人柳営お抱えの洋医、平賀|杏里《きょうり》殿がこういうことを云われた。――非常に恐ろしい境地へ行き、非常に烈しい刺激を受け、精神的に大打撃を受け、その結果大熱を体に発し、一月とか二月とかの長い間、人事不省になっていた者は、その間のことはいうまでもなく、それ以前の事もある程度まで、全然忘却してしまうということが往々にあるが、源女殿の場合がそうらしい。が、源女殿をその境地へ、もう一度連れて行けば思い出すし、事実その境地へ行かずとも、その境地と酷似している境地へ、源女殿を置くことが出来たなら、忘却していた過去のことを、卒然と記憶に返すであろうと。……しかし源女殿をその境地へ、連れて行くということは出来難い。その境地が不明なのだから。同じような境地へ源女殿を置く。ということもむずかしい。どんな境地かということを、わし[#「わし」に傍点]は確実に知らないのだから。……しかしわし[#「わし」に傍点]はこう思った。あの歌の前半の歌われている、秩父地方へ出かけて行って、気長く源女殿をそこに住ませて、源女殿の様子を見守っていたら、何か暗示を得ようもしれないとな。そこでお連れして来たのだが。……しかるに源女殿のそういう秘密を、わし[#「わし」に傍点]の外にもう一人、同じように知っている者がある。他でもない水品陣十郎じゃ」
 こう云って来て要介は、眉をひそめて沈黙した。
 剣鬼のような吸血鬼のような、陣十郎という男のことを、思い出すことの不愉快さ、それを露骨に現わさしたところの、それは気|不味《まず》い[#「不味《まず》い」は底本では「不味《まずい》い」]沈黙であった。
 浪之助も陣十郎は嫌いであり、嫌い以上に恐ろしくもあり、口に出すことさえ厭であったが、しかし源女や要介が、どういう関係からあの吸血鬼と、知り合いになったかということについては、窺い知りたく思っていた。
 それがどうやら知れそうであった。
 そこで更に固唾を呑む気持で、要介の語るのを待ち構えた。


「今から十月ほど前であったよ」と、要介は話をつづけ出した。
「信濃方面へ旅をした。武術の修行というのではなく、例によっての風来坊、漫然と旅をしたまでだが沓掛《くつかけ》の宿で一夜泊まった。明月の夜であったので、わしは宿《やど》を出て宿《しゅく》を歩き、つい宿外れまでさまよって行った。と、歌声が聞こえてきた。云うまでも[#「云うまでも」は底本では「云までも」]なく例の歌さ。はてなと思って足を止めると、狂乱じみた若い女が、その歌をうたって歩いて来る。と、その後から一人の武士が、急ぎ足で追いついたが、やにわに女を蹴倒すと、踏む撲るの乱暴狼藉『汝《おのれ》逃げようとて逃がそうや』こう言っての乱暴狼藉! その瞬間女は正気づいたらしく、刎ね起きると拙者を認め、走り寄って縋りつき、お助け下されと申すのじゃ。心得たりと進み出て、月明で武士を見れば、以前樋口十郎左衛門殿方で、立合ったことのある水品陣十郎! 先方も拙者を認めたと見え、しかも形勢非なりと知ったか、『秋山殿でござったか、その女は源女と申し、発狂の女芸人、拙者故あって今日まで、保護を加えて参りましたが、お望みならば貴殿に譲る』と、このようなヘラズ口をきいたあげく、匆慌《そうこう》として立ち去ったので、源女殿を宿へ連れて参り、事情を詳しく訊いたところ、江戸両国の曲独楽の太夫、養母というものに悪婆あって長崎の異人に妾《めかけ》に出そうという。それを避けて旅へ出で、ある山国へ巡業したところ、大森林、大傾斜、百千頭も馬のいるところ、そういう所の大きな屋敷へ、どういう訳でか連れて行かれた。そうしてそこで恐ろしい目に逢い、妾《わたし》は正気を失ったらしい。正気づいて見れば陣十郎という男が、妾の側に附いていて、それ以来ずっとその男が、あらゆる圧迫と虐待とを加え、妾にその土地へ連れて行け、お前の謡う歌にある土地へ、連れて行けと云って強いに強い、爾来その男に諸々方々を、連れ歩かれたとこう云うのじゃ。……それからわし[#「わし」に傍点]は源女殿を連れて、江戸へ帰って屋敷へ置いたが、そこは女芸人のことで、もう一度舞台に出たいという。そこで元の座へ出したところ、陣十郎に見付けられ、貴殿などとも知り合うようになった。……」
「よく解《わか》りましてござります」
 要介の長い話を聞き、浪之助はこれまでの疑問を融かした。
「と致しますと陣十郎も、例の黄金の伝説的秘密を、承知いたして居りまして、それを探り出そうと心掛け、源女を抑えて居りましたので……」
「さよう」と要介は頷いて云った「逸見多四郎殿の門弟として、秩父地方に永らく居た彼、黄金の秘密は知悉しているはずじゃ」
 この時部屋の外の廊下に、つつましい人の足音がし、
「ご免下され」という男の声がし、襖が開いて小紅屋の主人が、恭しくかしこまった顔を出し、
「逸見の殿様お越しにござります。へい」と云って頭を下げた。
 見れば主人の背後にあたって、威厳のある初老の立派な武士が、気軽にニコヤカに微笑しながら、部屋を覗くようにして立っていた。
「逸見多四郎参上いたしました」


「や、これは!」とさすがの要介も、郷士ながらも所の領主、松平|大和守《やまとのかみ》には客分にあつかわれ、新羅《しんら》三郎|義光《よしみつ》の後胤甲斐源氏の名門であり、剣を取らせては海内の名人、しかも家計は豊かであって、倉入り千俵と云われて居り、門弟の数|大略《おおよそ》二千、そういう人物の逸見多四郎が、気軽にこのような旅籠屋などへ、それも留守の間に道場の看板、門の大札[#「大札」は底本では「大礼」]を外して行ったところの、要介を訪ねて来ようなどとは、要介本人思いもしなかったところへ、そのように気軽に訪ねて来られたので、さすがに驚いて立ち上った。
「これはこれは逸見先生、わざわざご来訪下されましたか。いざまずこれへ! これへ!」
「しからばご免」と仙台平の袴に、黒羽二重の衣裳羽織、威厳を保った多四郎は、静かに部屋の中へ入って来た。
 座が定《き》まってさて挨拶! という時に要介の機転、床の間に立ててあった例の門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、恭しく抱えて持って来るや、前へ差し出しその前に坐り、
「実は其《それがし》先生お屋敷へ、本日参上いたしましたところ、江戸へ参ってご不在との御事。と、いつもの悪い癖が――酔興とでも申しましょうか、悪い癖がムラムラと起こりまして、少しく無礼とは存じましたが、門弟の方へ一応断わり、この大門札[#「門札」は底本では「門礼」]ひき外し、旅舎まで持参いたしました、がしかし決して粗末にはいたさず、床の間へ立てかけ見事の筆蹟を、打ち眺め居りましてござります。が、それにしてもこの門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、ひき外し持参いたしましたればこそ、かかる旅舎などへ先生ほどのお方を、お招きすること出来ました次第、その術策|的中《あた》りましてござるよ。ハッハッハッ」と笑ったが、それは爽かな笑いでもあった。
 と、多四郎もそれに合わせ、こだわらぬ爽かな笑い声を立てたが、
「その儀でござる、実は其《それがし》所用あって江戸へ参り、三日不在いたしまして、先刻帰宅いたしましたところ、ご高名の秋山先生が、不在中三回もお訪ね下され、三回目の本日門の札を[#「札を」は底本では「礼を」]、ひき外しお持ちかえりなされたとのこと、門弟の一人より承《うけたま》わり、三回のご来訪に恐縮いたし、留守を申し訳なく存じますと共に、その門弟へ申したような次第――、門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]外して持ち去った仁、秋山要介先生でよかった。他の仁ならこの多四郎、決して生かして置きませぬ。秋山要介先生でよかった。その秋山先生は、奇嬌洒脱の面白い方じゃ、いまだ一度もお目にかからぬが、勇ましいお噂は承って居る。五百石といえば堂々たる知行、その知行取りの剣道指南役の、嫡男の身に産れながら、家督を取らず浪人し、遊侠の徒と交際《まじわ》られ、権威に屈せず武威に恐れず、富に阿《おも》ねらず貧に恥じず、天空海濶に振舞われる当代での英傑であろう。門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]持って行かれたも、単なる風狂に相違ない。宿の小紅屋に居られるなら、早速参ってお目にかかろうとな。――そこで参上いたしたような次第、お目にかかれて幸甚でござった」
「杉氏どうじゃな」と要介は、浪之助の方へ声をかけた。


「人物は人物を見抜くと云ったが、どうじゃ杉氏、その通りであろう」
 こう云ったがさらに要介は、多四郎の方へ顔を向け、
「ここに居られるは杉浪之助殿|某《それがし》の知己友人でござる。門札[#「門札」は底本では「門礼」]外して持ち参ったことを、ひどく心配いたしましたについて、いや拙者だからそれはよい、余人ならばよろしくないと云うことは逸見先生もご存知、人物は人物を見抜くものじゃと、今し方申して居りました所で、……杉氏何と思われるな?」
「ぼんやり致しましてござります」
 浪之助はこう云うと、恰も夢から醒めたように、眼を大きくして溜息を吐いた。
「鳳凰《ほうおう》と麒麟《きりん》! 鳳凰と麒麟! 名優同志の芝居のようで。見事のご対談でございますなあ」
 逸見多四郎がやって来た! さあ大変! 凄いことが起こるぞ! 激論! 無礼咎め! 切合い! 切合い! と、その瞬間思ったところ、事は全く反対となり、秋山先生で先ずよかった! ……ということになってしまい、十年の知己ででもあるかのように、笑い合い和み合い尊敬し合っている。で浪之助は恍惚《うっとり》として、両雄の対談を聞いていたのであった。
「酒だ」と要介は朗かに云った。
「頼みある兵《つわもの》の交際に、酒がなくては物足りぬ。酒だ! 飲もう! 浪之助殿、手を拍って女中をお呼び下され!」
「いや」と多四郎は手を振って止めた。
「酒も飲みましょう。がしかし、酒は場所を変えて飲みましょう」
「場所を変えて? はてどこへ?」
「拙者の屋敷で。……云うまでもござらぬ」
「要介のまかり在るこの屋敷、さてはお気に入らぬそうな」
「いやいや決して、そういう訳ではござらぬ。……が、最初にご貴殿において、お訪ね下されたのが拙者の屋敷、言って見れば先口で。……ではその方で飲むのが至当。……」
「ははあなるほど、それもそうじゃ」
「ということと存じましたれば、駕籠を釣らせてお宿の前まで、既に参って居りますので」
「それはそれはお手廻しのよいこと。……がしかし拙者といたしましては、ご貴殿のお屋敷におきましては、酒いただくより木刀をもって、剣道のご指南こそ望ましいのでござる」
「云うまでもござらぬ剣道の試合も、いたしますでござりましょう」
「その試合じゃが逸見先生、尋常の試合ではござらぬぞ」
「と申してまさかに真剣の……」
「なんのなんの真剣など。……実は賭試合がいたしたいので」
「ナニ賭試合? これは面妖! 市井の無頼の剣術使いどもが、生活《くらし》のために致すような、そのような下等の賭試合など……」
「賭る物が異《ちが》ってござる」
「なるほど。で、賭物は?」
「拙者においては赤尾の林蔵!」
「赤尾の林蔵を? 赤尾の林蔵を? ふうん!」と云ったが多四郎は、じっと要介の顔を見詰めた。


「博徒ながらも林蔵は、拙者の剣道の弟子でござる」
 要介はそう云って意味ありそうに、多四郎の顔を熟視した。
「その林蔵をお賭になる。……では拙者は何者を?」
 いささか不安そうに多四郎は云って、これも要介を意味ありそうに見詰めた。
「高萩村の猪之松を、お賭下さらば本望でござる」
「彼は拙者の剣道の弟子……」
「で、彼をお賭け下され」
「賭けて勝負をして?」
「拙者が勝てば赤尾の林蔵を、関東一の貸元になすべく、高萩村の猪之松を、林蔵に臣事いたさせ下され」
「拙者が勝たば赤尾の林蔵を、高萩の猪之松に従わせ、猪之松をして関東一の……」
「大貸元にさせましょう」
「ははあそのための賭試合?」
「弟子は可愛いものでござる」
「なるほどな」と多四郎は云ったが、そのまま沈黙して考え込んでしまった。
 林蔵と猪之松とが常日頃から、勢力争いをしていることは、多四郎といえども知っていた。その争いが激甚となり、早晩力と力とをもって、正面衝突しなければなるまい――という所まで競り詰めて来ている。ということも伝聞していた。とはいえそのため秋山要介という、一大剣豪が現われて、師弟のつながりを縁にして、自分に試合を申し込み、その勝敗で二人の博徒の、勢力争いを解決しようなどと、そのような事件が起ころうなどとは、夢にも思いはしなかった。
(何ということだ!)と先ず思った。
(さてどうしたものだろう?)
 とは云え自分も弟子は可愛い、成ろうことなら林蔵を挫いて、猪之松を大貸元にしてやりたい。
(では)と思わざるを得なかった。
(では要介の申し込みに応じ、賭試合を行ない打ち勝ってやろう)
 腹が決まると堂々たるもので、逸見多四郎は毅然として云った。
「賭試合承知いたしてござる。しからば直ちに拙者屋敷に参り、道場においてお手合わせ、試合いたすでござりましょう」
「欣快」
 要介は立ち上った。
「杉氏、貴殿もおいでなされ」
 三人揃って部屋を出た。

 逸見多四郎家のここは道場。――
 竹刀《しない》ではない木刀であった。
 要介と多四郎とは構えていた。
 一本勝負!
 そう定められていた。
 二人ながら中段の構え!
 今、シ――ンと静かである。
 かかる試合に見物は無用と、通いの門弟も内門弟も、一切退けてのただ二人だけ! いや他に杉浪之助と、要介の訪問に応待に出た、先刻の若侍とが道場の隅に、つつましく控えて見守っていた。

10
 見霞むばかりの大道場、高く造られある正面は、師範の控える席であり、それに向かって左の板壁には、竹刀《しない》、木刀、槍、薙刀《なぎなた》、面、胴、籠手の道具類が、棚に整然と置かれてあり、左の板壁には段位を分けた、漆塗りの名札がかけてあった。
 塵もとどめぬ板敷は、から[#「から」に傍点]拭きされて鏡のように光り、おりから羽目板の隙間から、横射しに射して来た日の光りが、そこへ琥珀色の棒縞を織り、その空間の光の圏内に、ポッと立っている幽かな塵埃《ほこり》は、薄い煙か紗のようであった。
 互いに中段に位取って動かぬ、要介と多四郎は広い道場の、中央に居るところから、道場の端に腰板を背にして、端座している浪之助から見ると、人形のように小さく見えた。
 おおよそ六尺の間隔を保ち、互いに切先を相手の眉間へ、ピタリと差し付けて構えたまま、容易に動こうとはしなかった。
 道具を着けず木刀にての試合に、まさに真剣の立合いと、何の異なるところもなく、赤樫蛤刃《あかがしはまぐりは》の木刀は、そのまま真《まこと》の剣であり、名人の打った一打ちが、急所へ入らば致命傷、命を落とすか不具《ふぐ》になるか、二者一つに定《き》まっていた。
 とはいえ互いに怨みあっての、遺恨の試合というのではなく、互いの門弟を引っ立てようための義理と人情とにからまった、名人と名人との試合であった。自然態度に品位があり、無理に勝とうの邪心がなく、闘志の中に礼譲を持った、すがすがしい理想的の試合であった。
 今の時間にして二十分、構えたままで動かなかった。
 掛声一つかけようとしない。
 掛声にも三通りある。
 追い込んだ場合に掛ける声。相手が撃って出ようとする、その機を挫《くじ》いて掛ける声、一打ち打って勝利を得、しかも相手がその後に出でて、撃って来ようとする機を制し、打たせぬために掛ける声。
 この三通りの掛声がある。
 しかるに二人のこの試合、追い込み得べき機会などなく、撃って出ようとするような、隙を互いに見せ合わず、まして一打ち打ち勝つという、そういうことなどは絶対になかった。
 で、二人ながら掛声もかけず、同じ位置で同じ構えで、とはいえ決して居附きはせず、腹と腹との業比べ、眼と眼との睨み合い、呼吸と呼吸との抑え合い、一方が切先を泳がせれば、他の一方がグッと挫き、一方が業をかけようとすれば、他の一方が先々ノ先で、しかも気をもって刎ね返す、……それが自ずと木刀に伝わり、二本の木刀は命ある如く、絶えず幽かにしかし鋭く、上下に動き左右に揺れていた。
 更に長い時が経った。
 と、要介の右の足が、さながら磐石をも蹴破るてい[#「てい」に傍点]の、烈しさと強さと力とをもって、しかもゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]と充分に粘り、ソロリとばかり前へ出て、左足がそれに続いた。
 瞬間多四郎の左足が、ソロリとばかり後へ下り、右足がそれに続いた。
 で 間だ! 静止した。
 長い間! ……しかし……次の瞬間……ドドドドッという足音が響いた。

11
 奔流のように突き進む要介!
 追われて後へ退く多四郎!
 ドドドドッという二人の足音!
 見よ、その速さ、その鋭さ!
 あッ、多四郎は道場の端、板壁へまで追い詰められ、背中を板壁へあてたまま、もう退けない立ち縮んだ。
 その正面へ宛然《さながら》巨岩、立ちふさがったは要介であった。
 勝負あった!
 勝ちは要介!
 非ず、見よ、次の瞬間、多四郎の胸大きく波打ち、双肩渦高く盛り上ると見るや、ヌッと一足前へ出た。
 と、一足要介は下った。
 多四郎は二足ヌッと出た。
 要介は退いた。
 全く同じだ!
 ドドドドッという足音!
 突き進むは多四郎、退くは要介、たちまちにして形勢は一変し、今は要介押し返され、道場の破目板を背に負った。
 で、静止!
 しばらくの間!
 二本の剣が――木刀が、空を細かく細かく細かく、細かく細かく刻んでいる。
 多四郎勝ちか?
 追い詰め了《りょう》したか?
 否!
 ソロリと一足下った。
 追って要介が一足出た。
 粘りつ、ゆっくりと、鷺足さながら、ソロリ、ソロリ、ソロリ、ソロリと、二人は道場の中央まで出て来た。
 何ぞ変らざる姿勢と形勢と!
 全く以前と同じように、二人中段に構えたまま、見霞むばかりの大道場の、真中の辺りに人形のように小さく、寂然と立ち向かっているではないか。
 さすがに二人の面上には、流るる汗顎までしたたり、血上って顔色朱の如く、呼吸は荒くはずんでいた。
 窒息的なこの光景!
 なおつづく勝負であった。
 試合はつづけられて行かなければならない。
 が、忽然そのおりから、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秩父の郡《こおり》
小川村
逸見様庭の
桧の根
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 と、女の歌声が道場の外、庭の方から聞こえてきた。
「しばらく!」と途端に叫んだ要介、二間あまりスルスルと下ると、木刀を下げ耳を澄ました。
「…………」
 審かしそうに体を斜めに、しかし獲物は残心に、油断なく構えた逸見多四郎、
「いかがなされた、秋山氏?」
「あの歌声は? ……歌声の主は?」
「ここに控え居る東馬共々、数日前に、絹川において、某《それがし》釣魚《ちょうぎょ》いたせし際、古船に乗って正体失い、流れ来たった女がござった[#「ござった」は底本では「ごさった」]。……助けて屋敷へ連れ参ったが、ただ今の歌の主でござる」

12
「名は? 源女! お組の源女! ……と申しはいたしませぬか?」
「よくご存知、その通りじゃ」
「やっぱりそうか! そうでござったか! ……有難し、まさしく天の賜物! ……その女こそこの要介仔細ござって久しい前より、保護を加え養い居る者、過日上尾の街道附近で、見失い失望いたし居りましたが、貴殿お助け下されたか。……源女拙者にお渡し下され」
「ならぬ!」と多四郎ニベもなく云った。
「源女決して渡すことならぬ!」
「理由は? 理由は? 逸見氏?」
「理由は歌じゃ、源女の歌う歌じゃ!」
「…………」
「今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の……後にも数句ござったが、この歌を歌う源女という女子、拙者必要、必要でござる!」
「なるほど」と要介は頷いて云った。
「貴殿のお家に、逸見家に、因縁最も深き歌、その歌をうたう源女という女、なるほど必要ござろうのう……伝説にある埋もれたる黄金、それを掘り出すには屈竟の手蔓……」
「では貴殿におかれても?」
「御意、さればこそ源女をこれ迄……」
「と知ってはいよいよ源女という女子《おなご》、お渡しいたすことなりませぬ」
「さりながら本来拙者が保護して……」
「過ぐる日まではな。がその後、見失いましたは縁無き證拠。……助けて拙者手に入れたからは、今は拙者のものでござる」
「源女を手蔓に埋もれし黄金を、では貴殿にはお探しなさるお気か?」
「その通り、云うまでもござらぬ」
「では拙者の競争相手!」
「止むを得ませぬ、因縁でござろう」
「二重に怨みを結びましたな!」
「ナニ怨みを? 二重に怨みを?」
「今は怨みと申してよかろう! ……一つは門弟に関する怨み、その二は源女に関する怨み!」
「それとても止むを得ぬ儀」
「用心なされ逸見氏、拙者必ず源女を手に入れ、埋もれし黄金も手に入れましょう」
「出来ましたなら、おやりなされい!」
「用心なされ逸見氏、源女を手に入れ埋もれし黄金を、探し出だそうと企て居る者、二人以外にもござる程に!」
「二人以外に? 誰じゃそ奴?」
「貴殿の門弟、水品陣十郎!」
「おお陣十郎! おお彼奴《きゃつ》か! ……弟子ながらも稀代の使い手、しかも悪剣『逆ノ車』の、創始者にして恐ろしい奴。……彼奴の悪剣を破る業、見出だそうとこの日頃苦心していたが、彼奴が彼奴が源女と黄金を……」
「逸見氏、お暇申す」
「勝負は? 秋山氏、今日の勝負は?」
「アッハハ、後日真剣で!」

因果な恋


 高萩村の村外れに、秩父|香具師《やし》の部落があり、「|刃ノ郷《やいばのごう》」と称していた。三十軒ほどの人家があり、女や子供や老人などを入れ、百五十人ほどの半農半香具師が、一致団結して住んでいた。
 郷に一朝事が起こり、合図《しらせ》の竹法螺がボーッと鳴ると、一切の仕事を差し置いて、集まるということになっていた。
 弁三爺さんという香具師の家は、この郷の片隅にあった。
 茅葺の屋根、槇の生垣、小広い前庭と裏の庭、主屋、物置、納屋等々、一般の農家と変わりのない家作、――ただし床ノ間に鳥銃一挺、そうして壁に半弓一張、そういう武器が懸けてあるのは、本来が野士といって武士の名残――わけても秩父香具師は源氏の正統、悪源太義平から来ていると、自他共に信じているそれだけあって、普通の農家と異《ちが》っていた。
 秋山要介と逸見多四郎とが、多四郎の道場で、木刀を交した、その日から数日経過したある日の、こころよく晴れた綺麗な午後、ここの庭に柿の葉が散っていた。
 その葉の散るのをうるさ[#「うるさ」に傍点]そうに払って、お妻が庭へ入って来た。
「いい天気ね、弁三爺さん」
 母屋の縁側に円座を敷き、その上に坐って憂鬱の顔をし、膏薬を練っていた弁三爺さんは、そう云われてお妻の顔を見た。
「よいお天気でございますとも……へい、さようで、よいお天気で」
 ――そこで又ムッツリと家伝の膏薬を、節立った手で練り出した。
 お妻は眉をひそめて見せたが、
「日和が続いていい気持だのに、爺つぁんはいつも不機嫌そうね」
「へい、不機嫌でございますとも、倅が江戸へ出て行ったまま、帰って来ないのでございますからな」
「またそれをお云いなのかえ。ナーニそのうち帰って来るよ」とは云ったものの殺された倅、弁太郎が何で帰るものかと、心の中で思っているのであった。
(あの人を殺したのは陣十郎だし、殺すように進めたのは妾だったっけ)
 こう思えばさすがに厭な気がした。
 まだお妻がそんな邯鄲師《かんたんし》などにならず、この郷に平凡にくらしていた頃から、弁太郎はひどくお妻を恋し、つけつ[#「つけつ」に傍点]廻しつして口説いたものであった。その後お妻は故郷を出て、今のような身の上になってしまった。と、ヒョッコリ[#「ヒョッコリ」は底本では「ヒョッコり」]弁太郎が、膏薬売となって江戸へ出て来、バッタリお妻と顔を合わせた。爾来弁太郎は附き纏い、長い間の恋を遂げようとし、お妻の現在の身分も探ぐり、恋遂げさせねば官に訴え、女邯鄲師として縄目の恥を、与えようなどと脅迫さえした。お妻は内心セセラ笑ったが、うるさいから眠らせてしまおうよ、こう思って情夫の陣十郎へケシカケ、一夜お茶ノ水へ引っ張り出し、一刀に切らせてしまったのであった。
 杉浪之助が源女の小屋から、自宅へ帰る途中《みちすが》らに見た、香具師の死骸は弁太郎なのであった。
「爺つぁん、主水さんのご機嫌はどう?」お妻は話を横へそらせた。


「あのお方もご機嫌が悪そうで」
 弁三はそう云って俯向いて、物憂そうに膏薬を練った。
「出て行きたそうなご様子はないかえ?」
「出て行きたそうでございますなあ」
「出て行かしちゃアいけないよ」
「というお前さんの云いつけだから、せいぜい用心しては居りますがね」
「行かせたらあたしゃア承知しないよ」
 剃刀《かみそり》のような眼でジロリと見た。
「手に合わなけりゃア仕方がねえ、ボーッと竹法螺吹くばかりだ」
「と、村中の出口々々が、固められるから大丈夫だねえ。でもそういった大袈裟なこと、あたしゃアしたくはないのだよ」
「ご尤《もっと》もさまでございます」
「どれご機嫌を見て来よう」
 腰かけていた縁から立って、お妻は裏の方へ廻って行った。
(凄い女になったものさな)
 お妻の後を見送りながら、そう弁三爺さんは思った。
 以前この郷に居た時分は、度胸こそあったが可愛いい無邪気な綺麗な娘っ子に過ぎなくて、この家などへもノベツに来て、お爺さんお爺さんと懐かしがってくれたお妻、それがどうだろう陣十郎とかいう浪人者と手をたずさえて、今度やって来た彼女を見れば、縹緻も上ったがそれより何より、人間がすっかり異《ちが》ってしまっていて、腕には刺青眼には殺気、心には毒を貯えていて、人殺しぐらいしかねまじい姐御、だいそれた[#「だいそれた」に傍点]女になっているではないか。
(陣十郎とかいうお侍さん、随分怖そうなお侍さんだが、あんな人の眼をこっそり盗んで、鴫澤主水《しぎさわもんど》とかいうお侍さんを、こんな所へ隠匿《かくま》うなんて……血腥さい[#「血腥さい」は底本では「血醒さい」]事件でも起こらなけりゃアいいが)
 これを思うと弁三爺さんは、不安で恐ろしくてならなかった。
 数日前のことであった、そのお侍さんを駕籠に乗せて、宵にこっそりやって来て、
「このお侍さんを隠匿っておくれ、村の者へも陣十郎さんへも、誰にも秘密《ないしょ》で隠匿っておくれ、昔馴染みのお前さんのとこより、他には隠し場所がないんだからねえ」
 こうお妻が余儀なげに云った。
 見ればどうやらお侍さんは、半分死んででもいるように、気息奄々憔衰していた。
「へい、それではともかくも……」
 こう云って弁三は引き受けた。
 と、翌日から毎日のように、お妻はやって来て介抱した。
(どういう素性のお侍さんなのかな?)
(お妻さんとの関係はどうなんだろう?)
 解《わか》らなかったが不安であった。
 婆さんには死に別れ、たった一人の倅の弁太郎は江戸に出たまま帰って来ない。ただでさえ不安で小寂しいところへ、そんなお侍さんをあずかったのである。
 弁三爺さんは憂鬱であった。
 黙々と膏薬を練って行く。
 ヒョイと生垣の向こうを見た。
「あッ」と思わず声をあげた。
 陣十郎が蒼白い顔を、気味悪く歪めて生垣越しに、じっとこっちを見ているではないか。
(さあ大変! さあ事だ!)


「おい」と陣十郎は小声で呼んだ。
「おい爺《とっ》つぁん、ちょっと来てくんな」
 生垣越しに小手招きした。
 裏の座敷にはお妻がいるはずだ。
「へい」とも返辞が出来なかった。
 顫えの起こった痩せた体を、で弁三はヒョロヒョロと立たせ、庭下駄を穿くのもやっとこさで、陣十郎の方へ小走って行った。
 生垣を出ると村道である。
 と、陣十郎がしゃがみ[#「しゃがみ」に傍点]込んだので、向かい合って弁三もしゃがみ込み、
「へ、へい、これは水品様……」
「爺つぁん、お妻が来たようだね」
「オ、お妻さんが……へい……いいえ」
「へい、いいえとはおかしいな。へい[#「へい」に傍点]なのか、いいえ[#「いいえ」に傍点]なのか?」
「へい……いいえ……いいえなので」
「とすると俺の眼違いかな」
「………」
「恰好がお妻に似ていたが……」
「…………」
「ナーニの、俺ら家を出てよ、親分の家へ行こうとすると、鼻っ先を女が行くじゃアないか。滅法粋な後ろ姿さ。悪くねえなア誰だろうと、よくよく見ると俺の女房さ。アッ、ハッハッそうだったか、女房とあっては珍しくねえ、と思ったがうち[#「うち」に傍点]の女房ども、どちらへお出かけかとつけて[#「つけて」に傍点]来ると、お前の家へ入ったというものさ」
「へ、へい、さようで、それはそれは……」
「それはそれはでなくて、これはこれはさ。これはこれはとばかり驚いて、しばらく立って見ていたが、裏の方へ廻って行ったので、爺つぁんお前をよんだわけさ」
「へ、へい、さようでございますかな」
「裏にゃア何があるんだい?」
「へい、庭と生垣と……」
「それから雪隠と座敷とだろう」
「へい、裏座敷はございます」
「その座敷にだが居る奴はだれだ!」
「ワーッ! ……いいえ、どなた様も……」
「居ねえ所へ行ったのかよ」
「ナ、何でございますかな?」
「誰もいねえ裏座敷へ、俺の女房は入って行ったのか?」
「…………」
「犬か!」
「へ?」
「雄の犬か!」
「滅相もない」
「じゃア何だ!」
「…………」
「云わねえな、利いていると見える、お妻のくらわせた鼻薬が……」
「水品様、まあそんな……そんな卑しい弁三では……」
「ないというのか、こりゃア面白い、媾曳宿《あいびきやど》に座敷を貸して、鼻薬を貰わねえ上品な爺《おやじ》――あるというならこりゃア面白い! 貰った貰った鼻薬は貰った。そこでひし[#「ひし」に傍点]隠しに隠しているのだ! ……ヨーシそれならこっちの鼻薬、うんと利くやつを飲ませてやる」
 トンと刀の柄を叩いた。
「鍛えは関、銘は孫六、随分人を切ったから、二所ばかり刃こぼれがある、抜いて口からズーッと腹まで! ……」
 ヌッと陣十郎は立ち上り、グッと鯉口を指で切った。


 古びた畳、煤けた天井、雨もりの跡のある茶色の襖。裏座敷は薄暗く貧しそうであった。
 江戸土産の錦絵を張った、枕屏風を横に立てて、褥《しとね》の上に坐っているのは、蒼い頬、削けた顎、こればかりは熱を持って光っている眼、そういう姿の主水であった。
「心身とも恢復いたしました。もう大丈夫でございます」
 そんな姿でありながら、そうして声など力がないくせに、そう主水は元気ありそうに云った。
「そろそろ発足いたしませねば……」
「さあご恢復なさいましたかしら」
 高過ぎる程高い鼻、これだけが欠点といえば欠点と云え、その他は仇っぽくて美しい顔へ、意味ありそうな微笑を浮かべ、流眄《ながしめ》に主水を眺めながら、前に坐っているお妻は云った。
「ご恢復とあってはお父様の敵《かたき》、お討ちにならねばなりませんのねえ」
「はいそれに誘拐《かどわか》されました妹の、行方を尋ね取り戻さねば……」
「そうそう、そうでございましたわねえ」
 お妻はまたも微笑したが、
「そのお妹御の澄江《すみえ》様、まことは実のお妹御ではなく、お許婚《いいなずけ》の方でございましたのね」
 そう云った時お妻の眼へ、嫉妬《ねた》ましさを雑えた冷笑のようなものが、影のようにチラリと射した。
「はい」と主水は素直に云った。
「とはいえ永らく兄妹として、同じ家に育って参りましたから、やはり実の妹のように……」
「さあどんなものでございましょうか」
 云い云い髪へ手をやって、簪《かんざし》で鬢の横を掻いた。
「お許婚の方をお連れになり、敵討の旅枕、ホ、ホ、ホ、お芝居のようで、いっそお羨《うらやま》しゅうございますこと……」
 主水は不快な顔をしたが、グッと抑えてさりげなく[#「さりげなく」に傍点]、
「その妹儀あれ以来、どこへ連れられ行かれましたか……思えば不愍……どうでも探して……」
「不愍は妾もでございますよ」
 お妻の口調が邪見になり、疳を亢ぶらせた調子となった。
「人の心もご存知なく……妾の前でお許婚の、お噂ばかり不愍とやら、探そうとやら何とやら、お気の強いことでございます」
 グッと手を延ばすと膝の前にあった、冷えた渋茶の茶碗を取り、一口に飲んでカチリと置いた。
「妾の心もご存知なく!」
 西陽が障子に射していて、時々そこへ鳥影がさした。
 生垣の向こう、手近の野良で、耕しながらの娘であろう、野良歌うたうのが聞こえてきた。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]|背戸《せと》を出たればナー
よいお月夜で
様《さま》の頬冠《ほおかむ》ナー
白々と
[#ここで字下げ終わり]
 二人はしばらく黙っていた。
 と、不意に怨ずるように、お妻が熱のある声で云った。
「ただに酔興で貴郎様を、何であの時お助けしましょうぞ。……その後もここにお隠匿《かくま》いし、何の酔興でご介抱しましょう。……心に想いがあるからでござんす」


 主水は当惑と多少の不快、そういう感情をチラリと見せた。
 が、お妻はそんなようにされても、手を引くような女ではなく、
「あの際お助けしなかろうものなら、陣十郎が立ち戻り、正気を失っている貴郎様を、討ち取ったことでござりましょうよ。……恩にかけるではござりませぬが、かけてもよいはずの妾《わたし》の手柄、没義道《もぎどう》になされずにねえ主水様……」
「あなた様のお心持、よう解っては居りまするが、……そうしてお助け下されました、ご恩の程も身にしみじみと有難く存じては居りまするが……」
 そう、主水はお妻の云う通り、あの日陣十郎を追って行き、疲労困憊極まって、鎮守の森で気絶した時、お妻の助けを得なかったなら、後にて聞けば陣十郎が、森へ立ち戻って来たとはいうし、その陣十郎のために刃の錆とされ、今に命は無かったろう。だからお妻は命の恩人と、心から感謝はしているのであり、そのお妻が来る度毎に、それとなく、いやいや、時には露骨に、自分に対して恋慕の情を、暗示したり告げたり訴えたりした。でお妻が自分を助けた意味も、とうに解ってはいるのであった。
 さりとてそのため何でお妻と、不義であり不倫であり背徳である関係、それに入ることが出来ようぞ!
「主水様」とお妻は云った。
「あなた様にはまだこの妾《わたし》が陣十郎の寵女《おもいもの》、陣十郎の情婦《いろおんな》、それゆえ心許されぬと、お思い遊ばして居られますのね」
 下から顔を覗かせて、主水の顔色を窺った。
「いかにも」と主水は苦しそうに云った。
「それを思わずに居られましょうか。……討ち取らねばならぬ父の敵《かたき》! 陣十郎の寵女、お妻殿がそれだと知りましては、心許されぬはともかくも、何で貴女《あなた》様のお志に……」
「従うことなりませぬか」
「不倶戴天の[#「不倶戴天の」は底本では「不具戴天の」]敵の情婦に……」
「では何でおめおめ助けられました」
「助けられたは知らぬ間のこと……」
「では何で介抱されました……」
 答えることが出来なかった。思われるはただ機を失した! 機を失したということであった。
 助けられたその翌日、訊ねられるままにお妻に対し、主水は姓名から素性から、その日の出来事から敵討のことから、敵の名さえ打ち明けた。
 と、お妻は驚いたように、主水の顔を見詰めたが、やがて自分が陣十郎の情婦、お妻であることを打ち明けた。
 これを聞いた時の主水の驚き!
 同時に思ったことといえば、
(助けられなければよかったものを!)
 ――というそういうことであり、直ぐにも立ち退こうということであった。


(直ぐに立ち退いたらよかったものを)
 今も主水《もんど》はこう思っている。
 立ち退こうとその時云いはした。
 と、お妻が止めて云った。
「ここは高麗郡《こまごおり》の高萩村、博徒の縄張は猪之松という男、陣十郎の親分でござんす。十町とは歩けなさるまい、そのように弱っているお体で、うかうか外へ出ようものなら、手近に陣十郎は居りまするし、猪之松親分の乾兒《こぶん》も居り、貴郎《あなた》様にはすぐに露見、捕らえられて嬲り殺し! ……ご発足など出来ますものか」
 しかし主水としては敵の情婦に、介抱なんどされること、一分立たずと思われたので、無理にも立とうと云い張った。
 と、お妻は嘲笑うように云った。
「ここは『|刃ノ郷《やいばのごう》』と申し、高萩村でも別趣の土地、秩父香具師の里でござんす。住民一致して居りまして、事ある時には竹法螺を吹く。と、人々出で合って、村の入口出口を固め、入る者を拒み出る人を遮る。妾《わたし》もこの郷の女香具師の一人、いいえ貴郎様は発足《た》たせませぬ! 無理にお発足ちと有仰《おっしゃ》るなら、竹法螺吹いて止めるでござんしょう」
 もう発足つことは出来なかった。
 こうして今日まで心ならずも、介抱を受けて来たのであって、無理に受けさせられた介抱ではあるが、敵の情婦と知りながら、介抱を受けたには相違なく、で、それを口にされては、返す言葉がないのであった。
(直ぐに立ち退けばよかったのだ! 機を失した! 機を失した!)
 このことばかりが口惜まれるのであった。
 二人はしばらく黙ったままで――主水は俯向いて膝を見詰め、お妻はそういう主水の横顔を、むさぼるように見守っていた。
「それにいたしましても何と云ってよいか、あなたにとりましてはこの主水。敵の片割ともいうべきを、そのようにお慕い下さるとは……」
 途切れ途切れの言葉つきで、やがて主水はそんなように云った。
「さよう、敵の片割でござる。あなたの愛人水品陣十郎を、敵と狙う拙者故……」
「悪縁なのでござりましょうよ」
 そうお妻も言葉を詰らせ、ともすると途切れそうな言葉つきで云った。
「因果な恋なのでござりましょうよ……あの日、あの時、鎮守の森で、死んだかのように可哀そうに、憐れなご様子で草を褥《しとね》に、倒れておいでなさいましたお姿、それを見ました時どうしたものか、妾はそれこそ産れてはじめての、――本当の恋なのでございましょうねえ……そういう思いにとらえられ……まあ恥かしい同じ仲間の、たくさんの郷の人達が、側にいたのに臆面もなく、あたしゃアこのお方をご介抱するよと、ここへお連れして参りましたが……因果の恋なのでござりましょうねえ。……それにもう一つには妾にとりまして、あの水品陣十郎という男、本当の恋しい男でなく、愛する男でもありませぬ故と……そうも思われるのでござります」


「お妻殿!」とやや鋭く、やや怒った言葉つきで、咎めるように主水は云った。
「いかに拙者に恋慕の情をお運びになるあなたとはいえ、現在の恋人をあからさまに、恋せぬなどと仰せらるるは……そういうお心持でござるなら、拙者に飽きた暁には、又他の情夫に同じように、拙者の悪口を仰せられましょう……頼み甲斐なき薄情! ……」
「いいえ、何の、主水様、それには訳が、たくさん訳が……」
 あわてて云ったもののそれ以上、お妻は云うことは出来なかった。
 自分が女賊で、女邯鄲師《おんなかんたんし》で、平塚の宿の一夜泊り、その明け方に同宿の武士、陣十郎の胴巻を探り、奪おうとして陣十郎のため、かえって取って押えられ、それを悪縁に爾来ずっと、情夫情婦の仲となり今日まで続いて居るなどとは、さすが悪女の彼女としても、口へ出すことが出来なくて、自分はこの郷の香具師の娘、陣十郎に誘惑され、情婦となって江戸や甲州を、連れ廻されたとそんなように、主水には話して置いたのであった。
 女邯鄲師としての悪事の手證を、押えられたための情夫情婦、それゆえ本当の恋ではないと、こう云い訳出来ぬ以上は、そう主水に咎められても、どう弁解しようもなく、お妻は口籠ってしまったのであった。
 が、お妻はニッと笑い、もっともらしくやがて云った。
「妾の前に陣十郎には、情婦《おんな》があったのでござります。江戸両国の女芸人、独楽廻しの源女という女、これが情婦でござりまして、諸所方々を連れ歩いたと、現在の情婦の妾の前で、手柄かのように物語るばかりか、貴郎《あなた》様のお許婚《いいなずけ》の澄江様にも……」
「澄江にも! うむ、陣十郎め!」

「横恋慕の手をのばし……」
「いかにも……悪虐! ……陣十郎……」
「あの夜澄江様を誘拐《かどわか》し、しかも妾という人間を、下谷の料亭常磐などに[#「常磐などに」は底本では「常盤などに」]待たせ……さて首尾よく澄江様を、連れ出すことが出来ましたら、妾を秋の扇と捨て、澄江様を妾の代わりに……」
「何の彼如き鬼畜の痴者に、妹を、妹を渡してなろうか?」
「そういう男でござります。そういう男の陣十郎を、何で妾ひとりだけが……先が先ならこっちもこっち……主水様! 今は貴郎様へ!」
「それにいたしても、妹澄江は……」
「お許婚の澄江様は……」
「上尾街道のあの修羅場で、馬方博徒数名の者に、担がれ行かれたと人の噂……」
「人の噂で聞きましたなア……さあそのお許婚の澄江様……澄江様のお噂さえ出れば、眼の色変えてお騒ぎになられる」
「妹であれば当然至極!」
「可愛い可愛いお許婚なりゃ、脳乱[#「脳乱」はママ]遊ばすもごもっとも? ホ、ホ、ホ、その澄江様、どうで担いだ人間が、馬方博徒のあぶれ者なら? ……」
 しかしその時表の庭の、方角にあたって云い争う、男の声が聞こえてきた。
「や、あの声は?」
「おおあの声は」
 二人ながら森《しん》と耳を澄ました。

 陣十郎は弁三を突きのけ、村道から境の生垣を越え、表の庭へ入って行った。
「云い古されたセリフだが、俺の遣る金鼻薬は、小判じゃアねえドスだ延金だアッハハ、驚いたか望みならば――ズバッと抜いて、先刻も云った口から腹まで、差し込んでやろうどうだ、どうだ?」
 なお止める弁三を突きまくり、陣十郎はグングン歩いた。


「ままにしやアがれ!」
 不意に弁三は、年は取っても秩父香具師――兇暴の香具師の本性を現わし、猛然と吼え競い立った。
「裏座敷にゃア誰もいねえ! とこう一旦云ったからにゃア、俺も秩父香具師の弁三だ、あくまでも居ねえで通して見せる! 汝《うぬ》は何だ、え汝は? 馬の骨か牛の骨か、どこの者とも素性の知れねえ、痩せ浪人の身分をもって『刃ノ郷』の俺らの仲間、お妻ッ娘と馴れ合ったのさえ、胸糞悪く思っているのにここら辺りを立ち廻り、博徒の用心棒、自慢にもならねえヤクザの身を、変にひけらかせ[#「ひけらかせ」に傍点]て大口を叩き、先祖代々素性正しく、定住している俺達へ、主人かのように振る舞い居る! ナニ刀だ! 抜いて切るって! おお面白い切られよう、が手前が切る前に、こっちもこっちで手前の体へ」
 喚くと陣十郎へ背中を向け、庭を突っ切り縁へ駈け上り、座敷へ飛び込むと床の間にある、鳥銃を抱えて走り出で、縁に突っ立ち狙いを定めた。
「秩父の山にゃア熊や狼が、ソロソロ冬も近付いて来た、餌がねえと吼えながら、ウロウロ歩いているだろう。狙い撃ちにして撃ち殺し、熊なら胸を裂き肝を取り、皮を剥いで足に敷く、秩父香具師の役得だア。手練れた鉄砲にゃア狂いはねえ! 野郎来やがれ、切り込んで来い! 定九郎じゃアねえが二ツ弾、胸にくらって血へど[#「へど」に傍点]を吐き、汝それ前にくたばるぞよ! 来やアがれ――ッ」とまくし[#「まくし」に傍点]立て、まくし立てながらも手に入った早業、いつか火縄に火を付けていた。
「待て待て爺《おやじ》」と周章狼狽、陣十郎は胆を冷し、生垣の際まで後退った。
「気が短いぞ、コレ待て待て! ……鉄砲か、ウーン、こいつ敵《かな》わぬ……」
 まさか撃つまい嚇しであろう、そうは思っても気味が悪く、見ればいやいや嚇しばかりでなく、こっちを睨んでいる弁三の眼に、憎悪と憤怒と敵愾心とが、火のように燃えていた。
 ゾッと感ずるものがあった。
(いつぞやお妻に聞いたことがあった、いつぞやお茶ノ水の森の中で、お妻に頼まれて殺生ながら、叩っ切って殺した弁太郎という男、秩父香具師の膏薬売、弁三という老人の、失った一人の倅であると! おおそうだったこの弁三が、殺した弁太郎の父親だった。……下手人が俺だということなど、まさかに知っては居るまいが、親子の血がさせる不思議の業、この世には数々ある、何となく弁三爺の心に、俺を憎しむ心持が、深く涌いていないものでもない。もしそうなら撃つぞ本当に!)
 ゾッと感ずるものがあった。
 そこでいよいよ後退りし、小門の方へ後ざまに辿り、
「解った、よし裏座敷には、誰もいない、犬さえ居ない! よし解った、そうともそうとも! ……誰がいるものか、居ない居ない! ……居れば! 居れば悪いが……それもよろしい、居ない居ない! ……そこで帰る、撃つな撃つな! ええ何だ鉄砲なんど……恐ろしいものか、ちと怖いが……馬鹿!」と一喝! がその時には、既に村道へ遁れ出ていた。

生贄の女


 同じその日のことである。――
 高萩村の博徒の親分、猪之松の家は賑わっていた。
 馬大尽事井上嘉門様を、ご招待して大盤振舞いをする――というので賑わっているのであった。
 博徒とはいっても大親分、猪之松の家は堂々たるもので、先はお屋敷と云ってよく、土蔵二棟に離座敷、裏庭などは数奇《すき》を凝らした一流の料亭のそれのようであり、屋敷の周囲には土塀さえ巡らし、所の名主甚兵衛様より、屋敷は立派だと云われていた。内緒も裕福で有名であったが、これは金方が附いているからで、その金方が井上嘉門様だと、多くの人々は噂して居、噂は単なる噂ばかりでなく、事実それに相違なかった。
 猪之松という人間が、博徒のようになく人品高尚で、態度も上品で悠然としてい、お殿様めいたところがあり――だからどこか物々しく、厭味の所はあったけれど、起居動作はおちついている、行儀作法も法に叶っている、貴人の前へ出したところで、見劣りがしないところから、自然上流との交際が出来、そこで井上嘉門などという、大金持の大旦那に、愛顧され贔屓にされるのであった。
 金方の井上嘉門様を、ご招待するというのであるから、その物々しさも一通りでなく、上尾宿からは茶屋女の、気の利いたところを幾人か呼び、酒肴給仕に従わせ、村からも渋皮の剥けた娘――村嬢《そんじょう》の美《よ》いところを幾人か連れて来、酒宴の席へ侍らせたり、これも上尾の宿から呼んだ、常磐津《ときわず》の[#「常磐津《ときわず》の」は底本では「常盤津《ときわず》の」]女師匠や、折から同じ宿にかかっていた、江戸の芝居の役者の中、綺麗な女形の色若衆を、無理に頼んで三人ほど来させ、舞など舞わせる寸法にしてあった。
 田舎の料理は食われない――と云ったところで上尾も田舎、とは云え勿論高萩村より、いくらか都会というところから、料理は上尾からことごとく取った。
 兄弟分はいうまでもなく、主立った乾児幾十人となく、入れ代わり立ち代わり伺候して[#「伺候して」は底本では「仕候して」]、嘉門様からお流れ頂戴、お盃をいただいたりした。
 嘉門は午後《ひる》からやって来て、今は夜、夜になっても、仲々去らず、去らせようともせず、奥の座敷の酒宴の席は、涌き立つように賑わってい、高張を二張り門に立てて、砂を敷き盛砂さえした、玄関――さよう猪之松の家は、格子づくりというような、町家づくりのそれでなく、大門構え玄関附、そういった武家風の屋敷であったが、その玄関を夜になった今も、間断なく客が出入りして、ここも随分賑かであり、裏へ廻ると料理場、お勝手、ここは一層の賑かさで、その上素晴らしい好景気で、四斗樽が二つも抜いてあり、酒好きの手合いは遠慮会釈なく、冷をあおっては大口を叩き、立働きの女衆へ、洒落冗談を並べていた。
 陽気で派手でお祭り気分で、ワーッといったような雰囲気であった。
 その勝手元へ姿を現わしたのは、浮かない顔をした陣十郎であった。
「これはいらっしゃい水品先生、こんなに遅くどうしたんですい?」
 こう云って声をかけたのは、猪之松にとっては一の乾分――上尾街道で浪之助などに追われ、逃げ廻る弱者の峯吉ではなく――角力上り閂《かんぬき》峰吉であった。
「遅いか早いかそんなことは知らぬ。陽気だな、これは結構」どこかで飲んで来たらしく、陣十郎は酔っていたが、凄い据わった血走った眼で、ジロジロ四辺《あたり》を見廻わしながら、上ろうともせず随分邪魔な、上框《あがりかまち》へデンと腰かけ、片足を膝の上へヒョイとのっけ、楊子で前歯をせせり出した。


(ご機嫌が悪いぞ、あぶないあぶない)
 酒癖の悪いのを承知の一同、あぶないあぶないと警戒するように、互いに顔を見合わせたが、こんな時にはご自慢の情婦《おんな》――お妻を褒めるに越したことはないと、唐子の音吉というお先ッ走りの乾児が、
「姐御、どっこい、奥様だったっけ、奥様お見えになりませんが、一体全体どうしたんで、こんな時にこそご出張を願って、あの綺麗で粋なご様子で、お座敷の方を手伝っていただき、愛嬌を振り蒔いていただけば、嘉門様だって大喜び、親分だって大恭悦、ということになるんですがねえ。それが昼から夜にかけて、一度もお見えにならねえなんて……一体全体奥様は……」
「奥様? ふん、誰のことだ!」
 ギラリと陣十郎は音吉を睨み、
「奥様、ふふん、どいつのことだ!」
「どいつッて、そりゃ、お妻さんのこと……」
「枕探し! ……あいつのことか!」
「え? 何ですって、こいつアひでえや」
 ヒヤリとして音吉は首を縮めた。
 勿論音吉をはじめとして、乾児一同お妻のことを、どうせ只者じゃアありゃアしない。枕探し、女|邯鄲師《かんたんし》、そんなようには薄々のところ、実は推していたようなものの、亭主――情夫――陣十郎の口から、今のようにあからさまに云われては、ヒヤリとせざるを得なかった。
「何を云うんですい、水品先生」
「何とは何だ、これ何とは! ……枕探しだから枕探し、こう云ったに何が悪い。いずれは亭主の寝首を掻く奴! ……そんな女でも奥様か!」
「ワ――ッ、不可《いけ》ねえ、何を仰有るんで、……奥様で悪かったら奥方様……」
「出ろ! 貴様! 前へ出ろ!」
 勝手元一杯に漲っていた、明るい燈火《ひ》がカッと一瞬間、一所へ集まり閃めいた。
 見れば陣十郎の右の手に、抜かれた白刃が持たれていた。
 バタバタと女達は奥の方へ逃げた。
「アッハハハ」と陣十郎は、不意に気味悪く笑い出した。
「ある時には関の孫六、ある時には三条小鍛冶、ある時には波の平! 時と場合でこの刀、素晴らしい銘をつけられるが、ナーニ本性は越前|直安《ただやす》、二流どころの刀なのさ。……が、切れるぞ、俺が切れば! ……千里の駒も乗手がヤクザで、手綱さばきが悪かろうものなら、駄馬ほどにも役立たぬ。……名刀であろうとナマクラが持てば、刀までがナマクラになる。……それに反して名人が持てば、切れるぞ切れるぞ――ズンと切れる! ……嘘と思わば切って見せる! ……どいつでもいい前へ出ろ!」
 云い云い四方を睨み廻した。
 山毛戸《やまかいど》の源太郎、中新田の源七、玉川の権太郎、閂峰吉、錚々《そうそう》たる猪之松の乾児達が、首を揃えて集まってはいたが、狂人《きちがい》に刃物のそれよりも悪く、酒乱の陣十郎に抜身を持たれ、振り廻されようとしているのであった。首を縮め帆立尻《ほたてじり》をし、ジリジリと[#「ジリジリと」は底本では「ヂリヂリと」]後へ退《さが》りながら、息を呑み眼を見張り、素破《すわ》と云わば飛んで逃げようと、用心をして構えていた。


「アッハハハ」
 と陣十郎は、また気味の悪い笑声を立てた。
「切る奴は他にある、汝《おのれ》らは切らぬ、安心せい……鴫澤主水《しぎさわもんど》を探し出し、ただ一刀に返り討ち! 婦《おんな》、お妻を引きずり出し、主水ともども二太刀で為止《しと》める。……久しく血を吸わぬ越前直安、間もなく存分に血を吸わせてやるぞ!」
 燈火《ともしび》に反射してテラテラ光る、ネットリとした刀身を、じっと睨んで呟くように云ったが、
「汝ら解るか男の心が? 己を殺そうとして付け廻している、敵《かたき》を持っている男の心が」
 乾児達の方を振り返った。
「へい」と云ったのは閂峰吉で、
「さぞまア気味の悪いことで、いやアなものでございましょうなあ」
「討たれまいとして逃げ廻る。いやなものだぞ、いやなものだぞ」
「いやアなものでござりましょうなあ」
「が、一面快い」
「…………」
「討て、小童《こわっぱ》、探し出して討て! が俺は逃げて逃げて、決して汝には討たれてやらぬ。……こう決心して逃げ廻る心、快いぞ快いぞ」
「そんなものでございますかなあ」
「とはいえ厭アな気持のものだ。討つ方の心は一所懸命、命を捨ててかかっている。討たれる方は討たれまいとして、命を惜しんで逃げ廻る。心組みが全く別だ。討つ方には用心はいらぬ。討とう討とうと一向だ。討たれる方は用心ばかりだ。……用心をしても用心をしてもいずれは人間油断も隙もあろう、そこを狙われて討たれるかもしれぬ! この恐怖心、厭アなものだぞ」
「へい、さようでございましょうなあ」
 突然立ち上ると陣十郎は、刀をグ――ッと中段につけ、両肘を縮め肩を低めたが、
「今迄の俺がそうだった! 討たれる者、逃げ廻る者、今迄の俺はそうだった! 剣法で云えばこの構えだ! ……が俺は一変した!」
 こう沈痛に声を絞ると、俄然刀を大上段に冠った。
「大上段、積極的の構え! 俺は今日からこっちで向かう! 俺の方から敵を探し、返り討ちにかけてやる! それにしても汝ら卑屈だぞ! 俺が鴫澤主水という敵に、付け廻されているということを、心の中では知っていながら、おくびにも出そうとしないではないか! そうであろうがな! そうであろうがな!」
 刀を大上段に振り冠ったまま、陣十郎は憎さげに叫んだ。
 乾児達は顔を見合わせた。
 それに相違ないからであった。
 過ぐる日上尾の街道で、赤尾の林蔵にいどまれ[#「いどまれ」に傍点]て、こっちの親分が引きもならず、真剣勝負をした際に、鴫澤主水とその妹の、澄江とかいう娘とが、親の敵を討つと宣《なの》って、水品陣十郎を襲ったが、討ちもせず、討たれもせず、主水という武士は行方不明、澄江という娘は博労達に、どこかへ担がれて行ってしまったと、その時こっちの親分に従《つ》いて、その修羅場にいた八五郎の口から、乾児達は詳しく話されて、そういう事情は知っていた。そればかりでなくその日以来、それ迄はほとんど毎日のように、ここの家へやって来て、乾分達へ剣術を教えたり、ゴロゴロしていた陣十郎が、姿をあまり見せなくなり、なお噂による時は、これ迄ずっと住んでいた家――この村の外れにあるお妻の実家へも、住まないばかりか余り立ち寄らず、ひたすら主水兄妹によって、探し出されることを恐れていると、そういうことも聞き知っていた。


 そうして知って居りながら、知って居るとも知らないとも、事実おくび[#「おくび」に傍点]にも出さなかった。というのは事が事であるからで、それにそういう次第なら、あっし[#「あっし」に傍点]達が味方をいたしますから、主水兄妹を探し出し、返り討ちにしておしまいなせえと、こんなことを云うには陣十郎の剣技が、余りにも勝れて居る、といって主水兄妹に、器用に討たれておやりなせえとは、なおさら云えた義理でなく、それで黙っていたのであった。
 で、乾児達は顔を見合わせた。
 と不意に陣十郎は、振り冠っていた燈《ひ》に光る刀を、ダラリと力なく下げたかと思うと、にわかに疑わしそうに寂しそうに、むしろ恐怖に堪えられないかのように、ウロウロとした眼付をして、勝手元に、乾児達の中に、主水が居りはしないだろうかと、それを疑ってでもいるかのように、一人々々の顔を見たが、
「疑心! こいつが不可《いけ》ないのだ! こいつから起こるのだ、弱気がよ! ……と、守勢、こいつになる!」再び中段に刀を構えた。「こいつが守勢、守勢になると、かえって命は守られぬ。……それよりも、守勢の弱気になると、ヒッヒッヒッ、情婦《おんな》にさえ、嘗められ裏切られてしまうのさ! ……そこでこいつだ積極的攻勢!」また上段に振り冠った。
「攻勢をとってやっとこさ[#「やっとこさ」に傍点]、身が守られるというものだ! ……酒だ! くれ! 冷で一杯!」
 ソロリと刀を鞘に納め、片手をヌッと差し出したが、ヒョイとその手を引っこませると、フラリとばかりに框《かまち》を上った。
「飲むならいっそ奥で飲もう。馬大尽様の御前でよ。陽気で明るい座敷でよ。親分にもしばらくご無沙汰した。お目にかかって申訳……退け、邪魔だ!」
 ヒョロリヒョロリと、乾分達の間を分け、奥の方へ歩いて行った。
 後を見送って乾児達は、しばらくの間は黙っていた。
 と不意に閂峰吉が、
「八五郎の奴どうしたかなあ」と、あらぬ方へ話を持って行った。
 陣十郎の影口をうっかり利いて、立聞きでもされたら一大事、又抜身を振り廻されるかもしれない。障《さ》わるな障わるなという心持から、話をあらぬ方へ反らせたのであった。
 一同《みんな》はホッと息を吐いた。
「先刻《さっき》ヒョッコリ面を出して、馬大尽様にもうち[#「うち」に傍点]の親分にも、お気に入るような素晴らしい、献上物を持って来るんだと、大変もねえ自慢を云って、はしゃいで[#「はしゃいで」に傍点]素っ飛んで行きゃアがったが、それっきりいまだ面ア出さねえ。何を持って来るつもりかしら」
 こう云ったのは源七であった。
「上尾街道の一件以来、あいつ親分に不首尾だものだから、気を腐らせて生地なかったが、そいつを挽回しようてんで、何か彼かたくらんで[#「たくらんで」に傍点]はいるらしい」
 こう云ったのは権太郎であった。
「あいつが一番の兄貴だったんだから、たとえ親分が何と云おうと――手出しするなと云ったところで、そんなことには頓着なく、林蔵の野郎を背後の方から、バッサリ一太刀あびせかけ、あの時息の音止めてしまったら、とんだ手柄になったものを、主水とかいう侍の妹とかいう女を、馬方なんかと一緒になって、どこかへ担いで行ったということだが、頓馬の遣口ってありゃアしねえ」
 苦々しく閂峰吉が云った。
 がその時玄関の方で、五六人の声で景気よく、
「献上々々、献上でえ!」と囃し喚く声が聞こえてきたので、一同《みんな》は黙って聞耳を立てた。
 この囃し声を耳にしたのは、お勝手元の乾児ばかりでなく、奥の座敷で酒宴をしている、馬大尽歓迎の人々もひとしく耳を引っ立てた。


 五十畳敷の広さを持った座敷に、無数の燭台が燈し連らねてあり、隅々に立ててある金屏風に、その燈火《ひ》が映り栄えて輝いている様は、きらびやかで美しく、そういう座敷の正面に、嵯峨野を描いた極彩色の、土佐の双幅のかけてある床の間、それを背にして年は六十、半白の髪を切下げにし、肩の辺りで渦巻かせた、巨大な人間が坐っていたが、馬大尽事井上嘉門であった。日焼けて赧い顔色が、酒のために色を増し、熟柿《じゅくし》を想わせる迄になって居り、そういう顔にある道具といえば、ペロリと下った太い眉、これもペロリと下ってはいるが、そうしてドロンと濁ってはいるが、油断なく四方へ視線を配る、二重眼瞼の大きい眼、太くて偏平で段のある鼻、厚くて大きくて紫色をしていて、閉ざしても左の犬歯だけを、覗かせている髭なしの唇に、ぼったりと二重にくくれている顎、その顎にまでも届きそうな、厚い大きな下った耳であった。身長《せい》も人並より勝れていたが、肥満の方は一層で、二十四五貫もありそうであり、黒羽二重の紋付に、仙台平の袴をつけ、風采は尋常で平凡であったが腹の辺りが太鼓のように膨れ、ムッと前方に差し出されているので、格好がつかず奇形に見えた。曲※[#「碌のつくり」、第3水準1-84-27]《きょくろく》に片肘を突いて居り、その手の腕から指にかけて、熊のように毛が生えていた。
 蝦蟇のようだと形容してもよく、絵に描かれている酒顛童子、あれに似ていると云ってもよかった。
 嘉門の左右に居流れているのは、招待《よ》ばれて来た猪之松の兄弟分の、領家の酒造造《みきぞう》、松岸の権右衛門、白須の小十郎、秩父の七九郎等々十数人の貸元で、それらと向かい合って亭主役の、高萩の猪之松が端座したまま、何くれとなく指図をし、その背後に主だった身内が、五六人がところかしこまってい、それに雑って水品陣十郎が、今は神妙に控えていた。
 常磐津の[#「常磐津の」は底本では「常盤津の」]師匠の三味線も済み、若衆役者の踊も済み、馳走も食い飽き酒も飲み飽き、一座駘然、陶然とした中を、なお酒を強いるべく、接待《とりもち》の村嬢や酌婦《おんな》などが、銚子を持って右往左往し、拒絶《ことわ》る声、進める声、からかう[#「からかう」に傍点]声、笑う声、景気よさは何時《いつ》までも続いた。
 どうで今夜は飲み明かし、嘉門様はお泊まりということであった。
「納めの馬市も十日先、眼の前に迫って参りました、いずれその時は木曽の福島で、又皆様にお眼にかかれますが、何しろ福島は山の中、碌なご馳走も出来ませず、まして女と参りましては、木曽美人などと云いますものの、猪首で脛太で肌は荒し、いやはや[#「いやはや」に傍点]ものでございまして、とてもとてもここに居られる別嬪衆に比べましては、月に鼈《すっぽん》でございますよ。が、そいつは我慢をしていただき、その際には私が亭主役、飲んで飲んで飲みまくりましょう。いや全く今夜という今夜は、一方ならぬお接待《とりもち》、何とお礼申してよいやら、嘉門大満足の大恭悦、猪之松殿ほんに嬉しいことで」
 猪之松は片頬で微笑したが、
「いや関東の女こそ、肌も荒ければ気性も荒く、申して見ますれば癖の多い刎馬――そこへ行きますと木曽美人、これは昔から有名で、巴御前、山吹御前、ああいう美姫《びき》も出て居ります。納めの馬市に参りました際には、嘉門様胆入りでそういう美人の、お接待に是非とも預かりたいもので。……」
 ここで猪之松は微笑した。


 微笑をつづけながら猪之松は、
「そこで今夜は私が胆入り、ここに居りますどの女子でも、お気に入りの者ござりましたら、アッハハハ、取り持ちましょう」
「アッハハ、それはそれは、重ね重ねのご好意で、そういうお許しのある以上、嘉門今夜は若返りまして、……」
 すると、その時聞こえてきたのが「献上々々、献上でえ!」という、玄関の方からの声であった。
(何だろう?)
 と猪之松をはじめとし、座にいる一同怪訝そうに、玄関の方へ首を捻じ向けた時、八五郎を先頭に四人の博労が――、それは以前《まえかた》馬大尽事、井上嘉門を迎えに出た、高萩村の博労達であったが、その連中が縦六尺、横三尺もあるらしい、長方形の白木の箱に、献上と大きく書き、熨斗まで附けた物を肩に担ぎ、大変な景気で入って来た。
「八五郎じゃアないか、この馬鹿者、嘉門様おいでが眼につかぬか! 何だ何だその変な箱は!」
 猪之松は驚いて叱るように怒鳴った。
 八五郎はそれには眼もくれず、博労を指揮してその大箱を、猪之松と嘉門との間に置いたが、自分もその傍らへピタリと坐ると、
「ええこれは木曽の馬大尽様事、井上嘉門様に申し上げます。私事は八五郎と申し、猪之松身内にござります。ふつつか者ではござりまするが、なにとぞお見知り置き下さりましょう。……さて今回嘉門様には、木曽よりわざわざの武州入り高萩村へお越し下され、我々如き者をもご引見、光栄至極に存じます。そこであっしも何かお土産《みやげ》をと、いろいろ考案|仕《つかまつ》りましたが、何せ草深いこのような田舎、これと申して珍しい物も、粋な物もござりませぬ。それに食い物や食べ物じゃア、いよいよもって珍しくねえと、とつおいつ思案を致しました結果、噂によりますると安永《あんえい》年間、田沼主殿頭《たぬまとのものかみ》様の御代の頃、大変流行いたしまして、いまだに江戸じゃア流行《はや》っているそうな、献上箱の故智に慣い、八五郎細工の献上箱、持参いたしてござります。なにとぞご受納下さりませ。……ええ所で親分え、貴郎《あなた》だってこいつの蓋を取り、中の代物をご覧になったら、八五郎貴様素晴らしいことをやった、手柄々々と横手を拍って、褒めて下さるに違えねえと、こうあっしは思うんで……と、能書はこのくらいにしておき、いよいよ開帳はじまりはじまり……さあさあお前達手伝ってくれ」と、その時まで喋舌《しゃべ》る八五郎の背後《うしろ》に、窮屈そうに膝ッ小僧を揃え、かしこまっていた博労達を見返り、ヒョイとばかりに立ち上った。
「開帳々々」とこれも景気よく、四人の博労達も立ち上ったが、水引の形に作ってあった縄を、先ず箱から解きほぐした。
「ようござんすか、蓋取りますでござんす。ヨイショ!」と八五郎は声をかけた。
「ヨイショ」と博労達はそれに応じた。
 と、パッと蓋が取られた。


 京人形が入れてあった。
 髪は文庫、衣裳は振袖、等身大の若い女の、生けるような人形が入れてあった。
 と、眼瞼を痙攣させ、その人形は眼をあけて、天井をじいいっと見上げたが、又しずかに眼をとじた。
 人形ではなく生ける人間で、しかもそれは澄江《すみえ》であった。
 富士額、地蔵眉、墨を塗ったのではあるまいかと、疑われるほどに濃い睫毛で、下眼瞼を色づけたまま、閉ざされている切長の眼、延々とした高い鼻、蒼褪め窶れてはいたけれど、なお処女としての美しさを持った、そういう顔が猿轡で、口を蔽われているのであった。
 明るい華やかな燭台の燈が、四方から箱の中のそういう顔を照らして浮き出させているだけに、美しさは無類であった。
 一座何となく鬼気に襲われ、誰も物云わず顔を見合せ、しばらくの間は寂然としていた。
 がさつ[#「がさつ」に傍点]者の八五郎は喋舌り立てた。
「いつぞやの日に上尾街道で、親分と赤尾の林蔵とが、真剣の果し合いなさんとした時、水品先生に対し――いやアこれは水品先生、そこにお居でなさんしたか、こいつア幸い可《い》い証人だ――その水品先生に対し、親の敵《かたき》とか何とか云って、若エ武士とこの娘とが、切ってかかったはずでごぜえます。その時あっしとここに居なさる、博労衆とが隙を狙い、この娘だけを引っ担ぎ、あっしの家へ連れて来たんで。さてどうしようか考えましたが、見りゃアどうしてこの娘っ子、江戸者だけに素晴らしく、美しくもありゃア品もあって……そこで考えたんでごぜえますよ、嘉門様へご献上申し上げようとね……」
 身を乗り出し首を差し出し、箱の中の女を覗き込んでいた嘉門は、この時象のような眼を細め、厚い唇をパックリ開け、大きい黄色い歯の間から、満足と喜悦の笑声を洩らした。
「フ、フ、フ、八五郎どんとやら、嘉門満足大満足でござんす……フ、フ、フ、大満足! こりゃア全く、とても素晴らしい、何より結構な贈品《おくりもの》、嘉門大喜びで受けますでござんす。……」


 夜はすっかり更けていた。
 裏庭に別棟に建てられてある、猪之松の屋敷の離座敷、植込にこんもり囲まれて、黒くひっそりと立っていた。屋根の瓦が水のように、薄白く淡く光っているのは、空に遅い月があるからであった。
 その建物を巡りながら、幾人かの人影が動いていた。
 寝所へ入った馬大尽嘉門に、もしものことがあったら大変――というので猪之松の乾児達が、それとなく警護しているのであった。
 池では家鴨《あひる》が時々羽搏き、植込の葉影で寝とぼけた夜鳥が、びっくりしたように時々啼いた。
 が、静かでしん[#「しん」に傍点]としていた。
 主屋でも客はおおよそ帰り、居残った人々も酔仆れたまま、眠ったかして静かであった。
 離座敷の内部《うち》の一室《ひとま》。――そこには屏風が立て廻してあった。
 一基の燭台が置いてあり、燈心を引いて細めた燈火《ひかり》が、部屋を朦朧と照らしていた。
 屏風の内側には箱から出された生贄の女澄江の姿が、掛布団を抜いて首から上ばかりを、その燈火の光に照し出していた。
 そうしてそれの傍には、嘉門が坐っているのであった。
 澄江の心はどうであろう?
 義兄《あに》であり恋人であり許婚《いいなずけ》である、主水とゆくゆくは婚礼し、身も心も捧げなければならぬ身! それまでは穢さず清浄に、保たねばならぬ処女の体! それを山国の木曽あたりの、大尽とはいえ馬飼の長、嘉門如きに、嘉門如きに!
 処女を失ってはもう最後、主水と顔は合わされない。永久夫婦になどなれないであろう。
 復讐という快挙なども、その瞬間に飛んで消えよう。
 澄江の気持はどんなであろう?
 時が刻々に経ってゆく。
 と、不意に屏風の上から、白刃がヌッと差し出された。
 嘉門はギョッとはしたものの、大胆に眼を上げて上を見た。
 屏風の上に覆面をした顔が、じっとこちらを睨んで居た。
「曲者!」
 ガラガラ!
 屏風が仆された。


 枕刀の置いてある、床の間の方へ走って行く嘉門の姿へは眼もくれず、着流しの衣裳の裾をからげ、脛をあらわし襷がけして、腕をまくり上げた覆面武士は、やにわに澄江を小脇に抱えた。
「曲者でござるぞ、お身内衆! 出合え!」と喚き切り込んだ嘉門!
 その刀を無造作に叩き落とし、
「うふ」
 どうやら笑ったらしかったが、
 ビシリ!
 もう一揮! 振った白刃!
「ワッ」
 へたばった[#「へたばった」に傍点]は峯打ちながら、凄い手並の覆面に、急所の頸を打たれたからで、嘉門はのめって[#「のめって」に傍点]這い廻った。
 それを見捨てて襖蹴開き、既に隣室へ躍り出で、隣室も抜けて雨戸引っ外し、庭へ飛び下りた覆面を目掛け、
「野郎!」
「怪しい!」
 と左右から、猪之松の乾児で警護の二人が、切りつけて来た長脇差を、征矢《そや》だ! 駈け抜け、振り返り、追い縋ったところを、
 グーッ!
 突だ!
「ギャーッ」
 獣だ! 殺される獣! それかのように悲鳴して仆れ、それに胆を消して逃げかけた奴の、もう一人を肩から大袈裟がけ[#「がけ」に傍点]!
「ギャーッ」
 こいつも獣となってくたばり[#「くたばり」に傍点]、夜で血煙見えなかったが、プ――ッと立った腥《なまぐさ》い匂い! が、もうこの時には覆面武士は、植込の中に駈け込んでい、その植込にも警護の乾児、五人がところ塊ってい、
「泥棒!」
「遁すな!」
 と、竹槍、長ドス!
 しかし見る間に槍も刀も、叩き落とされ刎ね落とされ、つづいて悲鳴、仆れる音! そこを突破して覆面武士が、土塀の方へ走るのが見られ、土塀の裾へ行きついた時、そこにも警護の乾児達がいる。ムラムラと四方から襲いかかったばかりか、これらの物音や叫声に、主屋の人々も気づいたかして、雨戸を開け五人十人、二十人となく駈け出し走り出し、提燈、松明を振り照らし、その火の光に獲物々々を、――槍、鉄砲、半弓までひっさげ、しごき、振り廻し狙っている、――そういう姿をさえ照らしていた。
 しかしこの頃覆面武士は、とうに土塀を乗り越えて、高萩村を野良の方へ外れ、淡い月光を肩に受け、野を巻いている霧を分け、足にまつわる露草を蹴り、小脇に澄江をいとし[#「いとし」に傍点]そうに抱え、刀も既に鞘に納め、ただひたすらに走っていた。
 その武士は水品陣十郎であった。

 それから十日ほど日が経った。
 陣十郎と澄江との二人が、旅姿に身をよそおい、外見からすれば仲のよい夫婦、それでなかったら仲のよい兄妹、それかのような様子をして、木曽街道を辿っていた。
 初秋の木曽街道の美しさ、萩が乱れ咲き柿の実が色づき、渡鳥が群れ来て飛びつれて啼き、晴れた碧空を千切れた雲が、折々日を掠めて漂う影が、在郷馬や駕籠かきによって、軽い塵埃を揚げられる街道へ、時々|陰影《かげ》を落としたりした。
「澄江殿、お疲労《つかれ》かな?」
 優しい声でいたわるように、こう陣十郎は声をかけた。
「いいえ」と澄江は編笠の中から、これも優しい声で答えた。

心々の旅の人々


「お疲労でござらば駕籠雇いましょう」
 陣十郎も編笠の中から、念を押すようにもう一度云った。いかにも優しい声であった。
「何の遠慮などいたしましょう、疲労ましたら妾の方から、駕籠なと馬なとお雇い下されと、押してお頼みいたします……どうやらそう仰言《おっしゃ》る貴郎様こそ、お疲労のご様子でございますのね。ご遠慮なく馬になと駕籠になと、ホ、ホ、ホ、お召しなさりませ」
 からかう[#「からかう」に傍点]ように澄江は云った。
「ア、ハ、ハ、とんでもない話で、拙者と来ては十里二十里、韋駄天のように走りましたところでビクともする足ではござりませぬ。……貴女は女無理して歩いて、さて旅籠《はたご》へ着いてから、ソレ按摩じゃ、ヤレ灸《やいと》じゃと、泣顔をして騒がれても、拙者決して取り合いませぬぞ」
「貴郎様こそ旅籠に着かれてから、くるぶし[#「くるぶし」に傍点]が痛めるの肩が凝るのと、苦情めいたこと仰せられましても、妾取り合わぬでござりましょうよ。ホ、ホ、ホ」と朗かに笑った。
 陣十郎も朗かに笑った。
 これは何たることであろう! 敵同志であるこの二人が、こう親しくこう朗かで、浮々と旅をつづけて行くとは?
 それには深い事情があった。
 澄江はあの夜猪之松の屋敷で、すんでに井上嘉門によって、操を穢されるところであった。それを陣十郎が身を挺し、養われかくまわれ[#「かくまわれ」に傍点]た恩をも不顧《かえりみず》、猪之松の乾児《こぶん》を幾人となく切り捨て、自分を助けて遠く走り、農家に隠匿《かくま》い今日まで、安穏に生活《くらし》をさせてくれた。その間一度も陣十郎は、自分に対していやらしい言葉や、いやらしい所業《しわざ》に及ばなかった。勿論陣十郎は義父《ちち》の敵《かたき》、討って取らねばならぬ男、とはいえ義父を討ったのも、その一半は自分に対し、恋慕したのを自分が退け、義父や主水が退けたことに、原因があることではあり、性来悪人ではあろうけれど、従来一度も自分に対しては、悪事を働いたことはなかった。その上今は女の生命の、操を保護してくれた人――とあって見ればこの身の操は、云うまでもなく許婚《いいなずけ》の、主水一人に捧げる外、誰にも他の男へは、捧げてはならず自分としても、断じて捧げぬ決心であり、このことばかりは陣十郎にも、ハッキリ言動で示しはしたが、それ以外には陣十郎に対して、優しく忠実にまめまめしく、尽くさねばならぬ境遇となり、義父《ちち》上の敵を討つことは、武士道の義理には相違ないが、生命――操の恩人には、人情としてそれと等なみに、尽くさなければならぬ義理があるはず、そこで澄江はそれ以来、今のような行為を執っているのであり、主水様と陣十郎殿とが巡り合い、敵討の太刀が交わされても、どうも妾には陣十郎殿に対し敵対することも出来そうもないと、心では思ってさえいるのであった。
 陣十郎の心持といえば
「この清浄無垢の白珠を、俺は誰にも穢させない!」
 この一点にとどまっていた。
 鴫澤《しぎさわ》庄右衛門を殺したのも、一つは澄江への恋心を、遮られたがためであった。敵持つ身となった原因、それが澄江であるほどの、澄江は陣十郎の恋女であった。だからその澄江を馬飼の長、嘉門如きが穢そうとする、何のむざむざ黙視出来ようぞ! そこで奪って逃げたのであり、遁れて知己《しりあい》の農家に隠匿い、今日まで二人で生活《くらし》て来る間、彼は今更に澄江という女が、女らしい優しい性質の中に、毅然として動かぬ女丈夫の気節を、堅く蔵していることを知り、愛慕の情を加えると同時に、尊敬をさえ持つようになり、暴力をもって自己の欲望などを、どうして遂げることが出来ようぞと、そう思うようになりさえした。


(澄江にとっては俺という人間、何と云っても義父の敵だ、それについてどう思っているだろう?)
 これが一番陣十郎にとっては、関心の事であらねばならず、で、絶えず心を配り、澄江の心を知ろうとした。
 と、澄江はその一事へは、決して触れようとはしなかった。
 陣十郎も触れなかった。
 さよう、互いにその一事へは、決して触れようとはしなかったが、陣十郎は自分の油断に澄江が早晩つけ[#「つけ」に傍点]込んで、寝首を掻くというような、卑劣な態度に出るということなど、澄江その人の性質から、有り得べからざることであると知り、それだけは安心することが出来、同時に澄江が義父の敵の自分に助けられたということから、義理と人情の板ばさみとなり、苦しい心的境遇に在る、そういうことを思いやり、憐愍同情の心持に、とらわれざるを得なかった。
(主水に対して澄江の心は?)
 これも実に陣十郎にとっては、重大な関心の一事であった。
(勿論澄江は心に深く、主水を恋していることだろう!)
 こう思うと陣十郎はムラムラと、嫉妬の思いに狩り立てられ、
(澄江が俺の意に従わぬのも、主水があるからだ!)と、主水に対する憎悪の念が、彼をほとんど狂気状態にまで、導き亢《たかぶら》せ追いやるのであった。
 時々彼は澄江に向かい、主水のことを云い出して見た。
 と澄江はきっとそのつど、あらぬ方へ話を反らせてしまって、何とも返辞をしなかった。
 それが陣十郎には物足らず、心をイライラさせはしたが、しかしまだまだその方がよくて、もしもハッキリ澄江の口から、ないしは起居や動作から、主水恋しと告げられたら、その瞬間に陣十郎の兇暴性が爆発し、乱暴狼藉するかもしれなかった。
 どっちみち陣十郎はこう思っていた。
(自己一身の生命の、永久の安全を計るためにも、主水は是非とも討って取らねばならぬ)
 こっちから主水を探し出して、討って取ろうと少し前から、心に定《き》めた陣十郎が、今や一層にその心を深く強く定めたのであった。
 その主水はどこにいるか?
 それは全く解らなかった。
 が、気がついたことがあった。
 間もなく行なわれる木曽の馬市、納めの馬市へは武州甲州の、博徒がこぞって行くはずである。高萩の猪之松も行くはずである。ところで主水は俺という人間が、その猪之松の賭場防ぎとして、食客となっているということを、知っているということであるから、猪之松が福島へ行く以上、俺も行くものとそう睨んで、俺を討つため福島さして、主水も行くに相違ない。ヨ――シそいつを利用して、俺も出て行き機を狙い、彼を返り討ちにしてやろう。
 で、ある日澄江へ云った。
「猪之松乾児の幾人かが、拙者と其方《そなた》とがこの農家に、ひそみ居ること知りましたと見え、この頃あたり[#「あたり」に傍点]を立ち廻ります。他所《よそ》へ参ろうではござりませぬか」


 こうして旅へ出た二人であった。
 旅へ出てはじめて木曽へ行くのだと、澄江は陣十郎によって明かされた。とはいえ鴫澤主水を討つべく、木曽へ行くのだとは明かされなかった。
「木曽へであろうと伊那へであろうと、妾《わたし》はどこへでも参ります」
 そう澄江はおだやかに応えた。
 成るようにしか成りはしない。神のまにまに、流るるままに。……そう澄江は思っているからであった。
 又、そう思ってそうするより他に、仕方のない彼女でもあるのであった。
(しかし澄江がこの俺が、主水を討つために木曽へ行くのだと、そう知ったら安穏では居るまいなあ)
 陣十郎はそう思い、そうとは明かさずただ漫然と、木曽への旅に澄江を引き出した。自分の邪の心持が、自分ながら厭になることがあり、
(俺は悪人だ悪人だ!)と、自己嫌忌の感情から、口の中で罵ることさえあった。
 それに反して澄江に対しては、そうとは知らずに云われるままに、義兄であり、恋人であり許婚である主水を、返り討ちにする残虐な旅へ、引き出されたことを惻々と、不愍に思わざるを得なかった。
 複雑極まる二人の旅心!
 しかし表面は二人ながら、朗かに笑い朗かに語り、宿りを重ねて行くのであった。
 さて、追分の宿へ着いた。
 四時煙を噴く浅間山の、山脈の裾に横たわっている宿場、参覲交代の大名衆が――北陸、西国、九州方の諸侯が、必ず通ることに定まっている宿、その追分は繁華な土地で、旅籠《はたご》には油屋角屋などという、なかば遊女屋を兼ねたような、堂々としたものがあり、名所には枡形があり、旧蹟には、石の風車ややらず[#「やらず」に傍点]の石碑や、そういうものがありもした。街道を一方へ辿って行けば、俚謡《うた》に詠まれている関所があり、更に一方へ辿って行けば、沓掛《くつかけ》の古風の駅《うまやじ》があった。
 旅籠には飯盛、青樓《ちゃや》にはさぼし[#「さぼし」に傍点]、そういう名称の遊女がいて、
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後供《あとども》は霞ひくなり加賀守《かがのかみ》
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 加賀金沢百万石の大名、前田侯などお通りの節には、行列蜿蜒数里に渡り、その後供など霞むほどであったが、この追分には必ず泊まり、泊まれば宿中の遊女という遊女は召されて纏頭《はな》をいただいた。
 そういう追分の鍵屋という旅籠へ、陣十郎と澄江が泊まったのは、
「お泊まりなんし、お泊まりなんし、銭が安うて飯《おまんま》が旨うて、夜具《やぐ》が可《よ》うてお給仕が別嬪、某屋《なにや》はここじゃお泊まりなんし」と、旅人を呼び立て袖を引く、留女《とめおんな》の声のかまびすしい、雀色の黄昏《たそがれ》であった。表へ向いた二階へ通された。
 旅装を解き少しくつろぎ、それから障子を細目に開けて、澄江は往来の様子を眺めた。駕籠が行き駄賃馬が通り、旅人の群が後から後から、陸続として通って行き、鈴の音、馬子唄の声、その間にまじって虚無僧の吹く、尺八の音などが聞こえてきた。
 と、旅人の群に雑り、旅仕度に深編笠の、若い武士が通って行った。
「あッ」と澄江は思わず云い、あわただしく障子をあけ、身を乗り出してその武士を見た。
 肩の格好や歩き方が、恋人|主水《もんど》に似ているからであった。
 なおよくよく見定《みきわ》めようとした時、一人の留女が走り出て、その武士の袖を引いた。と、その武士と肩を並べて、これも旅姿に編笠を冠った、年増女が歩いていたが、つと[#「つと」に傍点]その間へ分けて入り、留女を押しやって、その若い武士の片手を取り、いたわる[#「いたわる」に傍点]ような格好に、ズンズン先へ歩いて行った。
 が、その拍子に若い武士が、振り返って何気なく、澄江の立っている二階の方を見た。


 黄昏ではあり笠の中は暗く、武士の顔は不明であった。
(あんな女が附いている。主水様であるはずがない)
 そう澄江には思われた。
 主水様ともあるお方が、妾以外の女を連れて、こんな所へ暢気らしく、旅するはずがあるものか――そう思われたからである。
 とはいえどうにもその武士の姿が、主水に似ていたということが、絶える暇なく主水のことを、心の奥深く思い詰めている澄江の、烈しい恋心を刺激したことは、争われない事実であって、なおうっとり[#「うっとり」に傍点]と佇んで、いつまでもいつまでも見送った。
 しかしその武士とその女との組は、旅人の群にまぎれ込み、やがて、間もなく見えなくなった。
 婢女《こおんな》の持って来た茶を飲みながら、旅日記をつけていた陣十郎が、この時澄江へ声をかけた。
「澄江殿、茶をめしあがれ」
「はい」と云ったがぼんやりしていた。
「宿場の人通り、珍らしゅうござるか」
「はい」と云ったがぼんやりしていた。
「どうなされた? 元気がござらぬな」
「…………」
「やはりお疲労《つかれ》なされたからであろう」
「…………」
「返辞もなさらぬ。アッハハ。……それゆえ拙者馬か駕籠かに、お乗りなされと申したのじゃ」
「…………」
「按摩なりと呼びましょうかな」
「いいえ。……それにしても……主水様は……」
 思わず言葉に出してしまった。
「何! 主水!」と陣十郎は、それまでは優しくいたわるように、穏やかな顔と言葉とで、機嫌よく澄江に話しかけていたが、俄然血の気を頬に漂わせ、敵の体臭を鼻にした獣が、敵愾心と攻撃的猛気、それを両眼に集めた時の、兇暴惨忍の眼のように、三白眼を怒らせたが、
「ふふん、主水! ……ふふん主水! ……澄江殿には主水のことを、このような旅の宿場の泊りにも、心に思うて居られたのか! ……ふふん、そうか、そうでござったか!」
 ジロリと床の間の方へ眼をやった。
 そこにあるものは大小であった。
 既に幾人かの血を吸って、なお吸い足らぬ大小であった。


 鍵屋から数町離れた地点に、岩屋という旅籠があり、その裏座敷の一室に、主水とお妻とが宿を取っていた。
 主水は先刻《さっき》一軒の旅籠の、二階の欄干に佇んでいた、澄江に似ていた女のことを、心ひそかに思っていた。
 もう夜はかなり更けていて、夕暮方の騒がしかった、宿の泊客の戯声や、婢女《おんな》や番頭や男衆などの声も、今は聞こえず静かとなり、泉水に落ちている小滝の音が、しのびやかに聞こえるばかりであり、時々峠を越して行く馬子の、
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※[#歌記号、1-3-28]追分油屋掛行燈に、浮気御免と書いちゃない
[#ここで字下げ終わり]
 などと、唄って行く声が聞こえるばかりであった。
 間隔《まあい》を離して部屋の隅に、二流《ふたながれ》敷《し》いてある夜具の中に、二人ながら既に寝ているのであった。
(もうお妻は眠ったかしら?)
 顔を向けてそっちを見た。
 夜具の襟に頤を埋めるようにして、お妻は眼を閉じ静まっていた。高い鼻がいよいよ高くなり、頬がこけて[#「こけて」に傍点]肉が薄くなり、窶れて凄艶の度を加えていた。
(俺のために随分苦労をしてくれた)
 二人が夫婦ならぬ夫婦のようになり、弁三の家にかくまわれ[#「かくまわれ」に傍点]てから、木曽への旅へ出た今日が日まで、日数にしては僅かであったが、陣十郎のために探し出されまい、猪之松一家の身内や乾分共に、発見されまいと主水に対し、お妻が配慮し用心したことは、全く尋常一様でなかった。
 あの日――お妻が主水に対し、はじめてうってつけ[#「うってつけ」に傍点]た恋心を、露骨に告げた日陣十郎によって、後をつけ[#「つけ」に傍点]られ家を見付けられ、あやうく奥へ踏み込まれようとしたが、弁三の鉄砲に嚇されて、陣十郎は逃げて行ったものの、危険はいよいよ迫ったと知り、爾来お妻は家へも帰らず、陣十郎とも勿論逢わず、猪之松の家へも寄りつかず、主水の傍らに弁三の家に、身を忍ばせて動かなかった。
 だからお妻も主水も共々、あの夜高萩の猪之松方で、澄江があやうく馬大尽によって、処女の操をけがされようとしたことや、陣十郎が澄江を助け、猪之松の乾児達を幾人か切って、逃げたということなどは知らなかった。
 しかしその中《うち》に弁三の口から、木曽の納めの馬市を目指して、馬大尽を送りかたがた、猪之松が大勢の乾児を引き連れ、木曽福島へ行くそうなと、そういうことだけは聞くことが出来た。
 それをお妻は主水に話した。
「陣十郎は賭場防ぎ、猪之松方の賭場防ぎ。で、猪之松が木曽へ行くからは、陣十郎も行くでござんしょう」
 こうお妻は附け足して云った。
「では拙者も木曽へ参って……」
 主水は意気込み発足しようと云った。
「妾もお供いたします」
 こうして旅へ出た二人であった。
(いわば敵の片割のような女、……それにもかかわらず縁は不思議、よく自分に尽くしてくれたなあ)
 お妻の寝顔を見守りながら、そう思わざるを得なかった。
(露骨に恋心を告げた日以来、自分の心が決して動かず、お妻の要求は断じて入れない、――ということを知ったものと見え、その後はお妻も自分に対して、挑発的の言動を慎み、ただ甲斐々々しく親切に、年上だけに姉かのように、尽くしてくれるばかりだったが、思えば気の毒、おろそかには思われぬ。……)
 そう主水には思われるのであった。
(それにしても先刻見かけた女、澄江に似ていたが、澄江に似ていたが……)


 とはいえ澄江がこんな土地の、あんな旅籠に一人でションボリ、佇んでいるというようなことが、有り得ようとは想像されなかった。
(あの時お妻が、留女を、突きやり、俺の手を強く引っ張って、急いで歩いて来なかったら、あの女を仔細に見ることが出来、あの女が澄江かそうでないか、ハッキリ知ることが出来たものを)
 それを妨げられて出来なかったことが、主水には残念でならなかった。
(やはり澄江であろうも知れない!)
 不意に主水にはそう思われて来た。
(上尾街道での乱闘の際、聞けば澄江は猪之松方に属した、馬方によって担がれて行き、行方知れずになったとのこと、馬方などにはずかしめ[#「はずかしめ」に傍点]られたら、烈しい彼女の気象である、それ前に舌噛んで死んだであろう、もし今日も生きて居るとすれば、処女であるに相違なく、そうしてあの時から今日まで、そう日数は経っていない、わし[#「わし」に傍点]の消息を知ろうとして、あの土地に居附いていたと云える。とすると木曽の福島へ、納めの市へ馬大尽ともども、猪之松が行くということや、その猪之松の賭場防ぎの、陣十郎も行くということや、陣十郎が行く以上それを追って、わし[#「わし」に傍点]が行くだろうということを、澄江は想像することが出来る。ではそのわし[#「わし」に傍点]に逢おうとして、単身でこのような土地へ来ること、あり得べからざることではない)
 こんなように思われるからであった。
(あの旅籠は鍵屋とかいったはずだ。距離も大して離れてはいない。行って様子を見て来よう)
 矢も楯もたまらないという心持に、主水は襲われずにいられなかった。
(が、お妻に悟られては?)
 それこそ大変と案じられた。
(爾来《あれから》二人が夫婦ならぬ夫婦、妻ならぬ妻のような境遇に――そのような不満足の境遇に、お妻ほどの女が我慢しているのも、あの時以来澄江のことを、自分が口へ出そうとはせず、あの時以来澄江のことを、思っているというような様子を、行動の上にも出そうとはせず、ただひたすらにお妻の介抱を、素直に自分が受けているからで。そうでなくて迂闊にもし自分が、今も澄江を心に深く、思い恋し愛していると、口や行動に出したならば、それこそお妻は毒婦の本性を、俄然とばかり現わして、自分に害を加えようし、澄江がこの土地にいるなどと、そういうことを知ったなら、それこそお妻は情容赦なく、澄江を探し出して嬲り殺し! ――そのくらいのことはやるだろう)と、そう思われるからであった。
(澄江を確かめに行く前に、お妻が真実眠っているかどうか、それを確かめて置かなければならない)
 主水は静かに床から出、お妻の方へ膝で進み、手を延ばして鼻へやった。
 規則ただしいお妻の呼吸が、主水の掌《てのひら》に感じられた。
(眠っている、有難い)
 で立ち上って衣裳のある方へ行った。
 途端に、
「どちらへ?」と云う声がした。
 ギョッとして主水は振り返った。
 眼をあいたお妻が訝しそうに、主水の顔を見詰めながら、半身夜具から出していた。
「……いや……どこへも……厠へ……厠へ……」
「…………」
 お妻は頷いて眼を閉じた。
 で、主水は部屋から出た。


 部屋から出て廊下へ立ったものの、寝巻姿の主水であった、旅籠を抜け出して道を歩き、鍵屋などへは行けなかった。
 行けたにしても時が経ち、用達しの時間よりも遅れたならば、そうでなくてさえ常始終から、逃げはしないかと警戒しているお妻が、不安に思って探しに来、居ないと知ったら騒ぎ立て、一悶着起こそうもしれない。そうなっては大変である。
 そこで主水は厠へ入り、やがて出て来て部屋へ帰り、穏しく又夜具の中へ入った。
 見ればお妻は同じ姿勢で、安らかに眠っているようであった。
 やはり主水には澄江のことが、どうにも気になってならなかった。
(よし、もう一度試みてみよう)
 で、お妻の方へ眼をやったまま、又ソヨリと夜具から出た。
 お妻はやはり眠っていた。
 衣裳や両刀の置いてある方へ行った。
 幸いにお妻は眼をさまさなかった。
(有難い)と心で呟き、手早く衣裳を着換えようとした時、
「主水様どちらへ?」とお妻が云った。
 眼をさましていたのであった。
 怒ったような、嘲るような、――妾を出し抜いて行こうとなされても、出し抜かれるものではござんせん――こう云ってでもいるような眼付で、お妻は主水をじっと見詰めた。
「いや……ナニ、ちょっと……それにしても寒い――信州の秋の夜の寒いことは……そこで重ね着しようとして……」
 もずもず[#「もずもず」に傍点]と口の中で云いながら、テレて、失望して、断念して、主水は又も夜具の中へ入った。
(もう不可《いけ》ない、諦めよう)
 主水はすっかり断念した。
 眼端の利くお妻が眠った様子をして、こう自分を監視している以上、こっそり抜け出して行くことなど、とうてい出来ないと思ったからであった。
(よしよし明日の朝早く起き、そぞろ歩きにかこつけて、鍵屋へ行って見ることにしよう)
 こう考えをつけてしまうと、一時に眠りが襲って来た。
 主水は間もなく深い眠りに落ちた。
 あべこべにお妻は眼をさましてしまい、腹這いになって考え込んだ。
 好きで寝る間も枕元に置く莨《たばこ》、その煙管《きせる》を口にくわえ、ほの明るい行燈《あんどん》の光の中へ、漂って行く煙の行方を、上眼を使って見送りながら、お妻は考えに沈み込んだ。
 これ迄は観念をしたかのように、決して自分を出し抜いて、逃げようなどとしたことのない主水が、今夜に限って何としたことか、二度まで抜けて出ようとした! これはどうしたことだろう?
 どうにも合点がいかないのであった。
(何か曰くがなけりゃアならない)
 それにしても自分というこの女が、女賊、枕探し、邯鄲師《かんたんし》、だから他人の寝息をうかがい、抜け出ることも物を盗むことも、殺すことさえ出来るのに、知らぬとはいえそういう自分を出し抜き、抜け出ようとした主水の態度が、どうにも可笑《おか》しくてならなかった。
(いっそ可愛い位だよ)
 煙管をくわえたままお妻は笑い、主水の方をそっと見遣った。主水は安らかに天井の方を向いて、規則正しい呼吸をしていた。深い眠りに入っているらしい。
 もう時刻は丑の刻でもあろうか、家の内外寂しく静かで、二間ほど離れた座敷の方から、鼾の声が聞こえてき、初秋の夜風に吹かれて落ちる、中庭あたりの桐の葉でもあろうか、バサリ、バサリと閑寂の音を、時々立てるのが耳につくばかりで、山国の駅路《えきろ》の旅籠の深夜は、芭翁《ばしょう》好みの寂寥に入っていた。
(今日まで我慢をして来たんだよ。……やっぱり順当の手段《て》で行こうよ)
 お妻はとうとう思い返した。
 で、煙管を抛り出し、男の方へ顔を向け、横に寝返って眠ろうとした。
 途端に、
「澄江!」と眠ったままで、主水がハッキリ声を立てて云った。
「澄江よ! 澄江よ! お前はどこに! ……」
 お妻はグラグラと眼が廻った。
(畜生!)
 ムックリと起き上った。
(やっぱり思っていやがるんだ! あの女のことを! 澄江のことを!)
 眼を据えて主水の寝顔を睨んだ。
 主水は長閑《のどか》に眠っている。
 が、愛する女のことを、夢にでも見ているのであろうか、閉じた眼を優しく痙攣させ、閉じた唇に微笑を湛えている。


 それからしばらく経った時、追分の宿の宿外れを、野の方へ行く女があった。
 星はあるが月のない夜で、それに嵐さえ吹いていて、その嵐に雲が乱れ、星をさえ隠す暗澹さ!
 そういう夜道を物に狂ったかのように、何か口の中で呟きながら、走ったかと思うと立ち止まり、立ち止まったかと思うと又走る。
 それは他ならぬお妻であった。
 眠っている間も恋しい女、澄江のことを忘れかね、うわ言に出して云った主水――そういう主水の心持を知り、怒りと失望と嫉望《しっと》とに、お妻はほとんど狂わんばかりとなり、汝《おのれ》どうしてくれようかと、殺伐の気さえ起こしたのであったが、それは年増であり世間知りであり、世なれている彼女であったので、まずまずと心をおちつかせ、燃えるように上気《のぼ》って痛む頭を、夜の風にでも吹かせてやろうと、そこは女|邯鄲師《かんたんし》で、宿をこっそり抜け出すことなど、雑作なく問題なく出来るので、宿をこっそり抜け出して、今こうやって歩いているのであった。
 さて冷え冷えとした高原の、秋の夜の風に吹かれながら、お妻は歩いているのであるが、問題が問題であるだけに、心は穏かにはならなかった。
(宿へ放火《ひつけ》でもしてやろうか!)
(人殺《ひとごろし》でもしてやろうか!)
 そんなことさえ思うのであった。
 街道から反れて草の露を散らし、お妻は野の方へ歩いて行く。
 と、街道を背後《うしろ》の方から、木曽の納めの馬市へ出る、馬の群が博労に宰領されて、陸続と無数にやって来た。徹夜をして先へ進むのであった。それらのともして[#「ともして」に傍点]行く提燈の火が、点々とあたかも星のように、道を明るめ動いていたが、珍らしい美しい眺めであった。
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※[#歌記号、1-3-28]秋が来たとて鹿さえ鳴くに、なぜに紅葉《もみじ》は色に出ぬ
※[#歌記号、1-3-28]余り米とはそりゃ情ない、美濃や尾張の涙米
[#ここで字下げ終わり]
 などと唄う馬子唄の声が、ノンビリとして聞こえてきた。
 しかしお妻にはそういう光景も、珍らしくもなければ美しくもなかった。でただ夢中で歩いていた。

 陣十郎が同じような心境の下に、旅籠を出て野の方へやって来たのは、ちょうどこの頃のことであった。
 主水のことを思っている澄江! それを口へ出して云った澄江! そういう澄江を夕方見た。汝々どうしてくれよう! すんでにその時陣十郎は、澄江を一刀に切ろうとした。
 が、それは辛うじて抑えた。
 さて夜になって二人は寝た。
 部屋の片隅に澄江が寝、別の片隅に陣十郎が寝。――これまでやって来たように、その夜もそうやって二人は寝た。
 が、陣十郎は眠られなかった。
 怒り、失望、嫉妬の感情が、心を亢《たか》ぶらせ頭を燃やし、安眠させようとしないのである。
 見れば澄江も眠られないと見えて、そうして恐怖に襲われていると見えて、こっちへ細い頸足《うなじ》を見せ深々と夜具にくるまったまま、溜息を吐いたり顫えたりして、夜具の中で蠢いていた。
(一思いに……)
 この考えが又浮かんだが、あさましくも憐れにも思われて、断行することが出来なかった。
(夜の風にでも吹かれて来よう)
 で、こっそりと宿を抜け出したのである。


 足にまつわる露の草を、踏分け踏分け陣十郎は歩いた。
 街道を馬の列が通って行く。
 それを避けて草野を歩いて行くのである。
(ガーッとどいつかを叩っ切ったら、この心も少しはおちつくかもしれない)
 そんなこともふと思われた。
(ウロウロ女でも通って見ろ)
 そんな兇暴の考えも、チラチラ彼の心の中に燃えた。
 と、そういう彼の希望に、応じようがために出て来たかのように、行手から女が星の光で知れる、小粋の姿を取り乱し、走ったり止まったりよろけ[#「よろけ」に傍点]たりして、こっちへ歩いて来るのが見られた。
(しめた!)と一刹那陣十郎は思った。
(宿の女か、旅の者か、そんなことはどうでもいい、来かかったのが女の不運! ……)
 で、素早く木陰に隠れた。
 その女はそれとも知らぬか、よろめくような足どりで、その前を通って行き過ぎようとした。
 不意に躍り出た陣十郎、物をも云わず背後《うしろ》の方から……
「あッ」
 不意の事だったので、女は驚きの声をあげたが、……
 しかし次の瞬間に、二人はパーッと左右へ別れた。
「貴様はお妻!」
「陣十郎様か!」
 サーッとお妻は逃げだした。
「待て!」
 刀を抜いて追っかけた。
 澄江と夫婦ならぬ夫婦となり、共住居《ともずまい》から旅に出た。そうなってからはお妻のことは、ほとんど陣十郎の心になかった。
 ところが意外にもこんな事情の下に、あさましいお妻とぶつかった。

高原狂乱


 仆れて、
「人殺シ――ッ」
 だが飛び起き、
「どなたか助けて――ッ」と走り出した。
 そのお妻をなお追いかけ、周章《あわて》たために不覚至極にも、切り損った自分を恥じ恥じ、
「逃げようとて逃がそうや! くたばれ、汝《おのれ》、毒婦、毒婦!」
 陣十郎は執念《しうね》く追った。
 仆れつ、飛び起きつ、刀を避け、お妻は走り走ったが、ようやく街道へ出ることが出来た。
 馬、博労、提灯、松明――馬市へ向かう行列が、街道を埋めて通っていた。
 そこへ駈け込んだ女|邯鄲師《かんたんし》のお妻、
「助けて――ッ、皆様、助けて!」
「どうしたどうした?」
「若い女だ!」
 博労達は騒ぎ立った。
「狂人《きちがい》が妾《わたし》を手籠めにし……殺そうとしてアレアレそこへ!」
 瞬間躍り込んで来た陣十郎、
「逃げるな、毒婦、逃がしてなろうか!」
 切り付けようとするやつを、
「女を助けろ!」
「狂人を殺せ!」
「ソレ抜身を叩き落とせ!」
 ムラムラと四方からおっとり[#「おっとり」に傍点]囲み、棒や鞭を閃めかし、博労達は陣十郎へ打ってかかった。
「汝ら馬方何を知って、邪魔立ていたすか、命知らずめ!」
 揮った刀!
 首が飛んだ!
「ワ――ッ」
「切ったぞ!」
「仲間の敵!」
「逃がすな!」
「たたんでしまえ!」
「狂人め、泥棒め!」
 十、二十、三十人! ムラムラと寄せ、犇いた。
 狂奔する馬! 地に落ちて燃える、提燈《ちょうちん》、松明《たいまつ》、バ――ッと立つ火焔!
 悲鳴に続く叫喚怒号! 仆れる音、叱咤する声!
 百頭に余る馬の群が、音に驚き光に恐れ、野の方へ宿《しゅく》の方へ駈け出した。
「馬が放れたぞ――ッ」
「逃がすな、追え!」
「捕らえろ!」
「大変だ――ッ」
「人殺し――ッ」
 ほとんど狂気した陣十郎、剣鬼の本性を現わして、馬と馬方の渦巻く中を、
「お妻! どこに! 逃がそうや!」と、右往し左往し走り廻り、邪魔になる博労、馬の群を、見境いもなく切りつ薙ぎつ、追分宿の方へ走る! 走る!
 と、この時一挺の駕籠を、菅の笠に旅合羽、長脇差を揃って差し、厳重に足のかためをした、三十人あまりの博労が守り、茣蓙に包んだ金箱や駒箱、それを担いで粛々と、宿の方からやって来たが、そこへ駈け込んだ馬の群に驚き、街道を反れて野に立った。
 上尾宿に長く逗留し、夜道をかけて帰らないことには、木曽福島の納めの馬市に、間に逢わないと焦慮して、帰りを急ぐ馬大尽を守護して、高萩の猪之松とその乾児とが、同じく夜道をかけて来た。――同勢は実にそれなのであった。


「馬を放したな、馬鹿な奴だ」
 こう云ったのは猪之松で、駕籠の脇に立っていた。
「商売物を逃がすなどとは、冥利に尽きた連中で」
 駕籠の戸をあけて騒動を見ていた、井上嘉門が嘲笑うように云った。
「だから一生馬方商売、それ以上にはなれませんので。ハッハッハッ」と附け加えた。
 そこへ陣十郎が駈けて来た。
 眼が眩んでいて見境いがなかった。
 数人を切った血刀を提げ、乱れた髪、乱れた衣裳、返り血を浴びたムキ出しの脛。――そういう姿で駈けて来た。
「陣十郎だ! 陣十郎だ!」
 閂峰吉が眼ざとく[#「ざとく」に傍点]目付け、ギョッとしたように声をあげた。
「おおそうだ陣十郎だ!」
 こう猪之松も叫んだが、いつぞやの晩自分の屋敷で、養ってやった恩を忘れ、乾児を切ったばかりでなく、井上嘉門に捧げた女――澄江とか云った武家の娘を、奪い去ったことを思い出した。
「畜生、恩知らず、たたんでしまえ!」
「やれ!」
 ダ、ダ、ダ、ダ! ――
 乾児達だ!
 一斉にひっこ[#「ひっこ」に傍点]抜いて切ってかかった。
「…………」
 無言で横なぐり!
 陣十郎であった!
 ブ――ッと血吹雪《ちふぶき》!
 闇ながら立った。
 匂いで知れる! 生臭さ!
「切ったぞ畜生!」
「用心しろ!」
 開いて散じたが又合した。
 見境いのない陣十郎、躍り上ってズ――ンと真っ向!
「キャ――ッ」
 仆れて、ノタウチ廻る。また乾児が一人やられた。
 見すてて一散宿の方へ!
「汝《おのれ》お妻ア――ッ! 逃がしてなろうか!」
「追え!」と猪之松は地団太を踏んだ。
「仕止めろ、汝ら、仕止めろ仕止めろ!」
 一同ド――ッと追っかけた。
 この頃|宿《しゅく》は狂乱していた。
 馬! 馬! 馬!
 博労! 博労! 博労!
 戸を蹴破り、露路に駈け込み、騒ぎに驚いて戸を開けた隙から、駈け入る馬! 捕らえようとして、無二無三に踏み入る博労!
 ボ――ッと一軒から火の手が揚がった。
 火事だ!
 とうとう火を出したのだ!
 おりから吹きつのった夜風に煽られ、飛火したらしいもう一軒から、カ――ッと火の手が空へあがった。
「起きろ!」
「火事だ!」
「焼き討ちだ!」
 家々はおおよそ雨戸を開け、人々は争って外へ出た。
 岩屋では主水が眼を覚まし、鍵屋では澄江が起き上った。
 番頭が階上階下《うえした》を怒鳴り廻っている。
「お客様方大変でございます。焼き討ちがはじまりましてござります! どうぞお仕度下さりませ! ご用心なすって下さりませ!」

 本陣油屋の奥の座敷では、逸見《へんみ》多四郎義利が、眼をさまして起き上った。


 多四郎は聞き耳を澄ましたが、
「源女殿! 東馬々々!」と呼んだ。
 と、左の隣部屋から、
「はい」という源女の声が聞こえ、
「眼覚め居りますでござります」という、門弟東馬の応える声が、右の隣部屋から聞こえてきた。
「宿《しゅく》に騒動が起こったようじゃ。……ともかくも身仕度してこの部屋へ!」
 間もなく厳重に身拵《みごしら》えした、東馬と源女とが入って来た。
 その間に多四郎も身拵えし、三人様子をうかがっていた。
 そこへ番頭が顔を出し、
「木曽福島の馬市へ参る、百頭に余る馬の群が、放れて宿へなだれ込み、出火などもいたしましたし、切り合いなどもいたし居ります様子、大騒動起こして居りますれば、ご用心あそばして下されますよう」
 こう云ってあわただしく走って行った。
「何はあれ宿の様子を見よう」
 多四郎は源女と東馬とを連れて、油屋の玄関から門口へ出た。
 多四郎がこの地へやって来た理由は?
 源女の歌う歌の中に、今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の、云々という文句があった。そこで多四郎は考えた。そういう馬飼の居る所に、黄金は埋められているのであろう、そうしてそういう馬飼の居る地は、木曽以外にはありそうもない。木曽山中には井上嘉門という、日本的に有名な馬飼があって、馬大尽とさえ呼ばれている。そやつが蔵しているのではあるまいか? おおそうそう馬大尽といえば、門弟高萩の猪之松方に、逗留しているということじゃ、源女殿と引き合わせ、二人の様子を見てやろうと、源女を連れて高萩村の、猪之松方へ行ったところ、本日井上嘉門ともども、木曽へ向かって行ったとのこと、それではこちらも木曽へ行こうと、東馬をも連れて旅立ったので、途中で馬大尽や猪之松の群と、遭遇《あ》わなければならないはずなのであるが、急いで多四郎が間道などを歩き、かえって早くこの地へ着き、日のある中《うち》に宿を取ったため、少し遅れてこの地へ着き、先を急いで泊まろうとせず、夜をかけて木曽の福島へ向かう、猪之松と馬大尽との一行と、一瞬掛け違ってしまったのであった。
 さて門口に立って見れば、宿の混乱言語に絶し、収拾すべくもなく思われた。
 群集が渦を巻いて街道を流れ、その間を馬の群が駈け巡り、その上を火の子が梨地《なしじ》のように飛んだ。
「これは危険だ、ここにいては不可《いけ》ない、野の方へ! 耕地の方へ!」
 こう云って多四郎は群集を分け、その野の方へ目差して進んだ。
 その後から二人は従《つ》いて行ったが、いつか混乱の波に呑まれ、全く姿が見えなくなってしまった。

 鍵屋で眼を覚まして起き上った澄江は、傍らを見たが陣十郎が居ない。
(どうしたことか?)と思ったものの、居ないのがかえって天の与え、今日の彼の様子から推せば、今後どんな目に逢わされるかも知れない。
(宿を出てともかくも外へ行こう)
 仕度をして外へ出た。
(主水様は?)
 こんな場合にも思った。


 昼間見かけた例のお侍さんが、もし恋しい主水様なら、この宿のどこかに泊まっていよう、お逢いしたいものだお逢いしたいものだ!
 思い詰めて歩く彼女の姿も、いつか混乱に捲かれてしまった。
 岩屋で眼覚めた主水その人も、ほとんど澄江と同じであった。
 傍らを見るとお妻が居ない。天の与えと喜んだ。義理あればこそ今日まで、一緒に起居をして来たのではあるが、希望《のぞみ》は別れることにあった。
 そのお妻の姿が見えない。
(よしこの隙に立ち去ろう)
 で、身仕度して外へ出た。
(鍵屋の二階で見かけた女、義妹澄江であろうも知れない。ともかくも行って探して見よう)
 で、その方へ歩を運んだが、人と馬と火との混乱! その混乱に包まれて、全く姿が見えなくなった。
 喚声、悲鳴、馬のいななき!
 破壊する音、逃げまどう足音?
 唸る嵐に渦巻き渦巻き、火の子を散らす火事の焔!
 宿は人の波、馬の流れ、水の洗礼、死の饗宴、声と音との、交響楽!
 その間を縫って全くの狂乱――血を見て狂った悪鬼の本性、陣十郎が走っては切り、切っては走り、隠見出没、宿の八方を荒れ廻っていた。
 今はお妻を探し出して切る! ――そういう境地からは抜け出していて、自分のために追分の宿が、恐怖の巷に落ち入っている、それが変質的彼の悪魔性を、恍惚感に導いていた。で男を切り女を切り馬を切り子供を切り、切れば切るほど宿が恐怖し、宿が混乱するその事が、面白くて面白くてならないのであった。
 返り血を浴び顔も手足も、紅斑々《こうはんはん》[#「紅斑々」は底本では「紅班々」]として凄まじく、髻《もとどり》千切れて髪はザンバラ、そういう陣十郎が老人の一人を、群集の中で切り仆し、悲鳴を聞き捨て突き進み、向こうから群集を掻き分け掻き分け、こっちへ向かって来る若い女を見た。
「澄江エ――ッ」と思わず声をあげた。
 それが澄江であるからであった。
「陣十様[#「陣十様」はママ]か!」と澄江は云ったが、あまりにも恐ろしい陣十郎の姿! それに自身陣十郎から遁れ、立ち去ろうとしている時だったので、陣十郎の横を反れ、群集の中へまぎれ込もうとした。
「汝逃げるか! 忘恩の女郎《めろう》!」
 そういう澄江の態度によって、心中をも見抜いた陣十郎は、可愛さ余って憎さが百倍! この心理に勃然として襲われ、いっそ未練の緒を断ってしまえ! 殺してしまえと悪鬼の本性、今ぞ現わして何たる惨虐!
「くたばり居ろう!」と大上段に、刀を振り冠り追いかけたが、その間をへだてる群集の波! が、そいつを押し分け突っ切り、近寄るや横から、
「思い知れ――ッ」と切った。
 が、幸いその途端に、一頭の馬が走って来、二三の人を蹴り仆し、二人の間へ飛び込んだ。
「ワ――っ」という人々の叫び! 又二三人蹴り仆され、澄江も仆れる人のあおりで、ドッと地上に伏し転んだ。
 と「お女中あぶないあぶない!」と、云い云い抱いて起こしてくれたは、旅|装束《よそおい》をした武士であった。
「あ、あ、あなたは主水様ア――ッ」
「や、や、や、や、澄江であったか――ッ」


 抱き起こしてくれたその武士こそ、恋しい恋しい主水であった。
「主水様ア――ッ」と恥も見得もなく、群集に揉まれ揉まれながら、澄江は縋りつき抱きしめた。
「澄江! 澄江! おおおお澄江!」
 思わず流れる涙であった。
 涙を流し締め返し、主水はほとんど夢中の態で、
「澄江であったか、おおおお澄江で! ……昼間鍵屋の二階の欄で。……それにいたしてもよくぞ無事で! ……別れて、知らず、生死を知らず、案じていたに、よくぞ無事で……」
 しかしその時群集の叫喚、巷の雑音を貫いて
「やあ汝《おのれ》は鴫澤主水《しぎさわもんど》! この陣十郎を見忘れはしまい! ……本来は汝に討たれる身! 逃げ隠れいたすこの身なれど、今はあべこべに汝を探して、返り討ちいたさんと心掛け居るわ! ……見付けて本望逃げるな主水!」と叫ぶ声が聞こえてきた。
「ナニ陣十郎? 陣十郎とな?」
 かかる場合にも鴫澤主水、親の敵《かたき》の陣十郎とあっては、おろそかにならずそれどころか、討たでは置けない不倶戴天の敵!
(どこに?)と声の来た方角を見た。
 馬や群集に駈けへだてられ、十数間あなたに離れてはいたが、まさしく陣十郎の姿が見えた。
 が、おお何とその姿、凄く、すさまじく、鬼気陰々、悪鬼さながらであることか! ザンバラ髪! 血にまみれた全身!
 ゾッとはしたが何の主水、驚こうぞ、恐れようぞ、
「妹よ、澄江よ、天の賜物、敵陣十郎を見出したるぞ! 討って父上の修羅の妄執、いで晴そうぞ続け続け――ッ」と刀引き抜き群集を分け、無二無三に走り寄った。
「ア、あにうえ! お兄イ様ア――ッ」
 叫んだが澄江の心は顛倒! 勿論親の敵である! 討たねばならぬ敵であるが、破られべかりし女の命の、操を救い助けてくれた恩人! ……陣十郎を陣十郎を!
(妾《わたし》には討てぬ! 妾には討てぬ!)
「オ、お兄イ様ア――ッ、オ、お兄イ様ア――ッ」
 その間もガガ――ッ! ド、ド――ッ! ド、ド――ッ! 響き轟き寄せては返す、荒波のような人馬の狂い!
 宿《しゅく》は狂乱! 宿は狂乱
「陣十郎オ――ッ! 尋常に勝負!」
「参れ主水オ――ッ! 返り討ち!」
 一間に逼った討ち手討たれ手!
 音!
 太刀音!
 合ったは一合オ――ッ!
「わ、わ、わ、わ――ッ」と悲鳴! 悲鳴!
 いや、いや、いや、主水ではなく、陣十郎でもなく群集群集!
 群集が二人の切り結ぶ中を、見よ恐れず意にもかけず、馳せ通り駈け抜け走る走る!
 その人々に駈けへだてられ、寄ろうとしても再び寄れず、焦心《あせっ》ても無駄に互いに押され、右へ左へ、前と後とへ、次第次第に、遠退く、遠退く!
「陣十郎オ――ッ! 汝逃げるな!」
「何の逃げよう――ッ! 主水参れ――ッ!」
「お兄イ様ア――ッ」
「妹ヨ――ッ」
「澄江殿! 澄江殿! 澄江殿オ――ッ」


 追分宿の狂乱の様を、望み見ながらその追分宿へ、入り込んで来る一団があった。
 旅合羽に草鞋脚絆、長脇差を落として差し、菅笠を冠った一団で、駒箱、金箱を茣蓙に包み、それを担いでいる者もあり、博徒の一団とは知れていたが、中に二人の武士がいた。
 秋山要介と杉浪之助と、赤尾の林蔵とそれの乾児の、三十余人の同勢であり、云わずと知れた木曽福島の、納めの馬市に開かれる、賭場に出るべく来た者であった。
 納めの馬市には日限がある。それに間に合わねば効果がない。で猪之松や林蔵ばかりが[#「ばかりが」は底本では「ばかりか」]、この日この宿を通るのではなく、武州甲州の貸元で、その馬市へ出ようとする者は、おおよそ今日を前後に挿んで、この宿を通らなければならないのであった。
 要介達は何故来たか?
 源女を逸見多四郎に取られた。
 爾来要介は多四郎の動静、源女の動静に留意した。
 と、二人が連立って、木曽へ向かったと人伝てに聞いた。
(では我々も追って行こう)
 おりから林蔵も行くという。
 では同行ということになり、さてこそ連れ立って来たのであった。
 粛々と一団は歩いて来たが、見れば行手の追分宿は、火事と見えて火の手立ち上り、叫喚の声いちじるしかった。
 と、陸続として逃げて来る男女! 口々に罵る声を聞けば、
「焼き討ちだ――ッ!」
「馬が逃げた――ッ!」
「百頭、二百頭、三百頭オ――ッ!」
「切り合っているぞ――ッ!」
「焼き討ちだ――ッ」
 耳にして要介は足を止めた。
「林蔵々々、少し待て!」
「へい、先生、大変ですなア」
「どうも大変だ、迂闊には行けぬ」
「そうですとも先生迂闊には行けない」
「宿を避けて野を行こう」
「そうしましょう、さあ野郎共、その意《つもり》で行け、街道から反れろ」
「へい」と一同街道を外し、露じめっている草を踏み、野へ出て先へ粛々と進んだ。
 進み進んで林蔵の一団、生地獄の宿を横に睨み、宿の郊外まで辿りついた。
 と、この辺りも避難の人々で、相当混雑を呈してい、放れ馬も時々走って来た。火事の光は勿論届きほとんど昼のように明るかった。
 その光で行手を見れば、博徒の一団が屯《たむろ》していて、宿の様子を眺めていた。
(おおどこかのお貸元が、避難してあそこにいるらしい。ちょっとご挨拶せずばなるまい)
 渡世人の仁義である。
「藤作々々」と林蔵は呼んだ。
「へい、親分、何でござんす」
「向こうに一団見えるだろう。どこのお貸元だか知らねえが、ちょっと挨拶に行って来ねえ」
「ようがす」と藤作は走って行ったが、すぐ一散に走り帰って来た。
「親分、大変で、猪之松の野郎で」
「ナニ猪之松? ううん、そうか!」
 見る見る額に青筋を立てた。
「先生々々、秋山先生!」
「何だ?」と要介は振り返った。
「向こうに見えるあの同勢、高萩の猪之だっていうことで」
「猪之松? ふうん、おおそうか」
 要介も向こうを睨むように見た。


「林蔵!」としかし要介は云った。
「猪之松には其方《そち》怨みはあろうが、ここでは手出ししてはならぬぞ」
「何故です先生、何故いけません?」
「何故と申してそうではないか。宿は火事と放れ馬とで、あの通りに混乱し、人々いずれも苦しんで居られる。そういう他人の苦難の際に、男を売物の渡世人が、私怨の私闘は謹むべきだ」
「そうですねえ、そう云われて見れば、こいつ一言もありませんや。が、相手がなぐり込んで来たら?」
「おおその時には売られた喧嘩、降りかかる火の子だ、断乎として払え!」
「ようがす、それじゃアその準備だ。……やいやい野郎共聞いていたか、猪之の方から手出ししたら幸い、遠慮はいらねえ叩き潰してしまえ! ……それまではこっちは居待懸け! おちついていろおちついていろ!」
「合点でえ」と赤尾の一党、鳴を静めて陣を立てた。
 と、早くも猪之松方でも、彼方に見える博徒の群が、赤尾の一党と感付いた。
「親分」と云ったのは一の乾児の、例の閂峰吉であった。
「林蔵の乾児の藤作の野郎が、やって来て引っ返して行きましたねえ」
「うん」と云ったのは猪之松で、先刻すでに駕籠から出、牀几を据えさせてそれへ腰かけ、火事を見ていた馬大尽、井上嘉門の側に立って、これも火勢を眺めていたが、
「うん、藤作が見えたっけ」
「向こうにいるなあ林蔵ですぜ。林蔵と林蔵の乾児共ですぜ」
「俺もそうだと睨んでいる」
「さて、そこで、どうしましょう?」
「どうと云って何をどうだ。先方が手出しをしやアがったら、相手になって叩き潰すがいい。それまではこっちは静まっているばかりさ」
「上尾街道では林蔵の方から、親分に決闘《はたしあい》を申し込んだはず。今度はこっちから申し込んだ方が」
「嘉門様がお居でなさらあ。……素人の客人を護衛《まも》って行く俺らだ、喧嘩は不可《いけ》ねえ、解ったろうな」
「なるほどなア、こいつア理屈だ。……じゃア静まって居りやしょう」
 この時二人の旅姿の武士と、同じく一人の旅姿の女、三人連れが火事の光に、あざやかに姿を照らしながら、宿の方から野へ現われ、猪之松方へ歩いて来た。
 眼ざとく認めたのが要介であった。
「杉氏」と要介は声をかけた。
「あの武家をよくご覧」
 浪之助は見やったが、
「先生ありゃア逸見先生で」
「であろうな、わしもそう見た」
「先生、女は源女さんですよ」
「そうらしい、わしもそうと見た。……よし」と云うと秋山要介[#「要介」は底本では「要助」]、つかつか進み出て声をかけた。
「あいやそこへまいられたは、逸見多四郎先生と存ずる。しばらくお待ち下されい」
 さようその武士は本陣油屋から、人波を分け放馬を避け、源女と東馬とを従えて、野へ遁れ出た多四郎であったが、呼ばれて足を止め振り返った。


「これはこれは秋山先生か」
 こう云ったが逸見多四郎、当惑の眉をひそかにひそめた。
「不思議な所でお逢い申した」
「いや」と要介は苦笑いをし、
「拙者におきましてはこの邂逅、不思議ではのうて期する処でござった」
「期する処? はてさてそれは?」
「と申すはこの要介、貴殿を追っかけ参りましたので」
「拙者を追っかけ? ……何故でござるな?」
「源女殿を当方へいただくために」
「…………」
「過ぐる日貴殿お屋敷において、木刀立合いいたしました際、拙者貴殿へ申し上げましたはずで。源女殿を取り返すでござりましょうと。……なお、その際申し上げましたはずで、後日真剣で試合ましょうと。……」
「…………」
「いざ、今こそ真剣試合! 拙者勝たば有無ござらぬ、源女殿を頂戴いたす!」
「…………」
「なお、この際再度申す、拙者が勝たば赤尾の林蔵を――その林蔵は拙者と同伴、乾児と共にそこへ参ってござる。――関東一の貸元として、猪之松を隷属おさせ下さい!」
「拙者が勝たば高萩の猪之松を――その猪之松儀これより見れば、同じく乾児を引卒して、そこに屯して居るようでござるが、その猪之松を関東一の、貸元として林蔵を乾児に……」
「致させましょう、確かでござる!」
「しからば真剣!」
「白刃の立合い!」
「いざ!」
「いざ!」
 サ――ッと三間あまり、二大剣豪は飛び退ったが、一度に刀を鞘走らせると、火事の光りに今はこの辺り、白昼《ひるま》よりも明るくて、黄金の色を加えて赤色、赤金色の火焔地獄! さながらの中にギラギラと輝く、二本の剣をシ――ンと静め、相青眼に引っ構えた。
 これを遥かに見聞して、驚いたのは林蔵と猪之松で、
(俺らのために先生――師匠が、――師匠同志が切り合ったでは、此方《こちとら》の男がすたって[#「すたって」に傍点]しまう! もうこうなっては遠慮は出来ねえ! 控えていることは出来なくなった!)
 両人ながら同じ心で、同じ心が言葉になり、
「さあ手前達かもう事アねえ、猪之の同勢へ切り込んで、猪之の首をあげっちめえ!」
「さあ野郎共赤尾へ切り込め! 林蔵を仕止めろ仕止めろ!」
 ド――ッとあがった鬨の声!
 ムラムラと両軍走りかかった。
 白刃! 閃き! 悲鳴! 怒声! 仆れる音! 逃げつ追いつ、追いつ逃げつする姿!
 混乱混戦の場となったが、この時|宿《しゅく》もいよいよ混乱! 混乱以上に阿鼻叫喚の焦熱地獄となりまさり火事の焔の熱気に堪えかね、空地へ耕地へ……耕地へ耕地へと、さながら怒濤の崩れる如く、百、二百、三百、四百! 老幼男女家畜までが、この耕地へ逃げ出して来た。
 その人波に揉まれ揉まれて、澄江とお妻とが泳いで来た。
 と、陰惨とした幽鬼の声で、
「澄江殿オ――、お待ちなされ! ……汝お妻ア――遁そうや!」と叫ぶ、陣十郎の声がした。


 澄江もお妻も振り返って見た。
 愛欲の鬼、妄執の餓鬼、殺人鬼、――鬼となった陣十郎が人波を分けて、二人の方へ走って来た。
 血刀が群集の波の上に、火光《ひかり》を受けて輝いている。
(陣十郎に捕らえられたら、妾《わたし》の命は助からない)
 お妻は夢中で悲鳴を上げて走り、
(陣十郎殿に捕らえられたら、妾の躰も貞操も……)
 こう思って澄江も無我夢中で、前へ前へとヒタ走った。
「どうぞお助け下さりませ!」
 無我夢中で走って来た澄江、一挺の駕籠のあるのを見かけて、そこへ駈け付けこう叫んだ。
「お助けいたす! 駕籠の中へ!」
 誰とも知らず叫んだ者があった。
「お礼は後に、事情も後に!」
 こう云って澄江は駕籠の中へ、窮鳥のように身を忍ばせた。
「駕籠やれ!」と又も誰とも知れず叫んだ。
 駕籠がユラユラと宙に上り、街道の方へ舁がれて走り、その後から赧顔長髪の、酒顛童子[#「酒顛童子」は底本では「酒天童子」]さながらの人物が、ニタニタ笑いながら従《つ》いて走った。
 猪之松の屋敷で澄江の躰を、自分の物にしようとして、陣十郎に邪魔をされて、望みを遂げることに失敗した、馬大尽の井上嘉門であった。
「駕籠待て――ッ、遣らぬ! 待て待て待て――ッ!」
 陣十郎は追っかけたが、
「や、こいつ陣十郎! 又現われたか、今度こそ仕止めろ!」と、猪之松の乾児達一斉に、陣十郎を引っ包んだ。
 一方、お妻はその隙を狙い、ひた走りひた走ったが、息切れがして地に仆れた。
 と、そこに刀を下げて、寄せ来る群集に当惑し、左右に避けていた武士がいた。
「お侍さまと見申して、お助けお願いいたします!」
 云い云いお妻は武士の袖に縋った。
「誰じゃ? よし、誰でもよし! 見込まれて助けを乞われた以上、誰であろうと助けつかわす! 参れ!」と云ったがこの武士こそ、秋山要介と太刀を交わし、命の遣り取りをしようとした瞬間、群集の崩れに中をへだてられ、相手の姿を見失ったところの、逸見多四郎その人であった。
「東馬々々、東馬参れ!」
「はい先生! 私はここに!」
「源女殿は? 源女殿は?」
「源女殿は人波にさらわれて……どことも知れずどことも知れず……」
「残念! ……とはいえ止むを得ぬ儀、東馬参れ――ッ!」と刀を振り上げ、遮る群集に大音声!
「道を開け! 開かねば切るぞ!」
 刀の光に驚いて、道を開いた群集の間を、あて[#「あて」に傍点]もなく一方へ一方へ、三人は走った走った走った。
 が、それでも未練あって、
「源女殿オ――、源女殿オ――ッ」と呼ばわった。
 そういう声は聞きながら、永らく世話になってなつかしい、要介の姿を見かけた源女は――逸見多四郎に対しても、丁寧な待遇を受けたので、決して悪感は持っていなかったが、要介に対してはそれに輪をかけた、愛慕の情さえ持っていたので、その方角へ人を掻き分け、この時無二無三に走っていた。
「秋山先生!」とやっと[#「やっと」に傍点]近付き、地へひざまずくと足を抱いた。

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「源女殿か――ッ!」と秋山要介、これも地面へ思わず膝つき
「逢えた! よくぞ! 参られた! ……杉氏々々!」と嬉しさの声、顫わせて呼んで源女を抱き、
「もう逃がさぬ! どこへもやらぬ! 杉氏々々源女殿を、林蔵の手へ! ……そこで介抱!」
「おお源女殿オ――ッ! よくぞ来られた!」
 駈け寄って来た浪之助、これもなつかしさ[#「なつかしさ」に傍点]に声を亢《たか》ぶらせ、
「いざ源女殿、向こうへ向こうへ! ……先生にもご同道……」
「いやいや俺は逸見多四郎を! ……」
「この混乱、この騒動、見失いました上からは……」
「目つからぬかな。……では行こう」
 この混乱の人渦の中を、阿修羅のように荒れ廻っているのは、澄江を奪われお妻を見失い、猪之松の乾児達に取り巻かれ、切り立てられている陣十郎であった。
 十数人を殺傷し、己も幾度か薄手を受け、さすがの陣十郎も今は疲労! その極にあって眼はクラクラ、足元定まらずよろめくのを、得たりと猪之松の乾児の大勢、四方八方より切ってかかった。
 それをあしらい[#「あしらい」に傍点]、避けつ払いつ――こいつらに討たれては無念残念、どこへなりと一旦遁れようと退く、退く、今は退く!
 ようやく人波の渦より出、追い縋る猪之松の乾児からも遁れ、薮の裾の露じめった草野へ、跚蹣《さんまん》として辿りついた時には、神気全く消耗し尽くした。
(仆れてなろうか! 仆れぬ! 仆れぬ!)
 が、ドッタリ草の上に仆れ、気絶! ――陣十郎は気絶してしまった。
 火事の遠照りはここまでも届いて、死人かのように蒼い顔を、陰影づけて明るめていた。
 修羅の巷は向こうにあったが、ここは寂しく人気なく、秋の季節は争われず、虫の音がしげく聞こえていた。
 と、この境地へ修羅場を遁れ、これも同じく疲労困憊、クタクタになった武士が一人、刀を杖のように突きながら、ヒョロリヒョロリと辿って来た。
「や、死人か、可哀そうに」と呟き、陣十郎の側《そば》へ立った。
 が、俄然躍り上り――躍り上り躍り上り声をあげた。
「陣十郎オ――ッ! 汝《おのれ》であったか! 鴫澤主水が参ったるぞ! 天の与え、今度こそ遁さぬ! 立ち上って勝負! 勝負いたせッ!」
 武士は鴫澤主水であった。
「起きろ起きろ水品陣十郎! 重なる怨み今ぞ晴す! ……起きろ! 立ち上れ! 水品陣十郎!」
 刀を真っ向に振り冠り、起き上ったらただ一討ち! ……討って取ろうと構えたが、陣十郎は動かなかった。
(死んでいるのか?)と疑惑が湧いた。
 手を延ばして額へ触った。
 気絶しているのだ、暖味がある。
(よ――し、しからばこの間に!)
 振り冠った刀を取り直し、胸へ引きつけ突こうとしたが、心の奥で止めるものがあった。
(あなたが高萩の森の中で、気絶しているのを陣十郎の情婦、お妻が助けたではありませんか。……正体もない人間を、敵《かたき》であろうと討つは卑怯、まず蘇生させてその上で)と。
(そうだ)と主水は草に坐り、印籠から薬を取り出した。

恩讐同居


木曽福島の納めの馬市。――
 これは勿論現代にはない。
 現代の木曽の馬市は、九月行なわれる中見《なかみ》の市と、半夏至を中にして行なわれる、おけつげ[#「おけつげ」に傍点]という二つしかない。
 納めの馬市の行なわれたのは、天保末年の頃までであり、それも前二回の馬市に比べて、かなり劣ったものであった。もうこの頃は山国の木曽は、はなはだ寒くて冬めいてさえ居り、人の出もあまりなかったからである。
 とは云え天下の福島の馬市! そうそう貧弱なものではなく、馬も五百頭それくらいは集まり、縁日小屋も掛けられれば、香具師《やし》の群も集まって来、そうして諸国の貸元衆が、乾児をつれて出張っても来、小屋がけをして賭場をひらいた。
 この時集まって来た貸元衆といえば――
 白子の琴次《ことじ》、一柳の源右衛門、廣澤の兵右衛門、江尻の和助、妙義の雷蔵、小金井の半助、御輿の三右衛門、鰍澤《かじかざわ》の藤兵衛、三保松源蔵、藤岡の慶助――等々の人々であり、そこへ高萩の猪之松と、赤尾の林蔵とが加わっていた。
 左右が山で中央が木曽川、こういう地勢の木曽福島は、帯のように細い宿であったが、三家の筆頭たる尾張様の家臣で、五千八百余石のご大身、山村甚兵衛が関の関守、代官としてまかり居り、上り下りの旅人を調べる。で、どうしてもこの福島へは、旅人は一泊かあるいは二三泊、長い時には七日十日と、逗留しなければならなかったので、宿は繁盛を極めていた。尾張屋という旅籠《はたご》があった。
 そこへ何と堂々と、こういう立看板が立てられたではないか!
「秋山要介在宿」と。
 これが要介のやり口であった。
 どこへ行っても居場所を銘記し、諸人に自己の所在を示し、敵あらば切り込んで来い、慕う者あらば訪ねて来いという、そういう態度を知らせたのであった。
 その尾張屋から二町ほど離れた、三河屋という旅籠には、逸見《へんみ》多四郎が泊っていたが、この人は地味で温厚だったので、名札も立てさせずひっそりとしていた。
 さて馬市の当日となった。
 博労、市人、見物の群、馬を買う人、馬を売る人、香具師《やし》の男女、貸元衆や乾児、非常を警める宿役人、関所の武士達、旅の男女――人、人、人で宿《しゅく》は埋もれ、家々の門や往来には、売られる馬が無数に繋がれ、嘶《いなな》き、地を蹴り、噛み合い刎ね合い、それを見て犬が吠え――、声、声、声で騒がしくおりから好天気で日射し明るく、見世物小屋も入りが多く、賭場も盛って賑やかであった。
 そういう福島の繁盛を外に、かなり距たった奈良井の宿の、山形屋という旅籠屋へ、辿りついた二人の武士があった。
 陣十郎と主水であった。
 奥の小広い部屋を二つ、隣同志に取って泊まった。
 二人ながら駕籠で来たのであったが、駕籠から現われた陣十郎を見て、
「こいつは飛んだお客様だ」と、宿の者がヒヤリとした程に、陣十郎は憔悴してい、手足に幾所か繃帯さえし、病人であり、怪我人であることを、むごたらしく鮮やかに示していた。
 夕食の膳を引かしてから、主水は陣十郎の部屋へ行った。
「どうだ陣十郎、気分はどうだ?」
「悪い、駄目だ、起きられぬ」
 床を敷かせ、枕に就き、幽かに唸っていた陣十郎は、そう云って残念そうに歯を噛んだ。
「これではお前と立ち合い出来ぬよ」


「まあ可《い》い、ゆっくり養生するさ」
 主水はそう云って気の毒そうに見た。
「快癒してから立ち合おう」
「それよりどうだな」と陣十郎は云った。
「こういう俺を討って取らぬか」
「そういうお前を討つ程なら、あの時とうに討って居るよ」
「あの時討てばよかったものを」
「死人を切ると同じだったからな」
「それでも討てば敵討《かたきうち》にはなった」
「誉にならぬ敵討か」
「ナーニ見事に立ち合いまして、討って取りましたと云ったところで、誰一人疑う者はなく、誉ある復讐ということになり、立身出世疑いなしじゃ」
「心が許さぬよ、俺の良心が」
「なるほどな、それはそうだろう。……そういう良心的のお前だからな」
「お前という人間も一緒に住んで見ると、意外に良心的の人間なので、俺は少し驚いている」
「ナーニ俺は悪人だよ」
「悪人には相違ないさ。が、悪人の心の底に、一点強い善心がある。――とそんなように思われるのさ」
「そうかなア、そうかもしれぬ。いやそうお前に思われるなら、俺は実に本望なのだ。……俺は一つだけ可《い》いことをしたよ。……いずれゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]話すつもりだが」
「話したらよかろう、どんなことだ?」
「いやまだまだ話されぬ。もう少しお前の気心を知り、そうして俺の性質を、もう少しお前に知って貰ってからそうだ知って貰ってからでないと、話しても信じて貰われまいよ」
「実はな」と主水も真面目の声で、
「実はな俺もお前に対し、その中《うち》是非とも聞いて貰いたいこと、話したいことがあるのだよ。が、こいつも俺という人間を、もっとお前に知って貰ってからでないと……」
「ふうん、変だな、似たような話だ。……が、俺はお前という人間を、かつて疑ったことはないよ。俺のような人間とはまるで[#「まるで」に傍点]違う。お世辞ではない、立派な人間だ」
「お前だってそうだ、可《い》いところがある」
 二人はしばらく黙っていた。
 木曽街道の旅籠の部屋だ、襖も古び障子も古び、畳も古び、天井も古び、諸所に雨漏りの跡などがあって、暗い行燈でそれらの物象が、陰惨とした姿に見えていた。
 乱れた髷、蒼白の顔、――陣十郎のそういう顔が、夜具の襟から抽《ぬきん》でている。
 それは化物絵を思わせるに足りた。
「おい」と陣十郎は感傷的の声で、
「俺とお前は血縁だったなア」
「…………」
 主水は無言で頷いた。
「俺とお前は従々兄弟《またいとこ》だったんだなア」
「…………」
「だから互いに敵同志になっても、……」
「…………」
「こんな具合に住んでいられるのだなア」
「そうだよ」と主水も感傷的に云った。
「そうだよ俺達は薄くはあるが、縁つづきには相違ないのだ」
 ここで又二人は黙ってしまった。
 行燈の光が暗くなった。
 燈心に丁字でも立ったのであろう。
「寒い」と陣十郎は呟いた。
「木曽の秋の夜……寒いのう。……風邪でも引いては大変だ。わしの夜具を掛けてやろう」
 主水は云って自分の部屋へ立った。


 追分宿の大乱闘、その時仆れた陣十郎を目つけ、主水は討って取ろうとしたが、気絶している人間は討てぬ。で蘇生させたところ、陣十郎は無数の負傷、立ち上る気力もなくなっていた。
 しかし彼は観念し、草に坐って首差し延べ、神妙に討って取られようとした。
 これがかえって主水の心を、同情と惻隠とに導いて、討って取ることを出来なくした。
 で、介抱さえしてやることにした。
 旅籠へ連れて来て医師にかけた。
 それにしてもどうしてそんな負傷者を連れて、福島などへ行くのであろう?
 こう陣十郎が云ったからである。
「井上嘉門という馬大尽が、博徒猪之松の群にまじり、あの夜乱闘の中にいた。そこへ澄江殿が逃げ込まれた。と、嘉門が駕籠に乗せ、福島の方へ走らせて行った。その以前からあの嘉門め、澄江殿に執着していた。急いで行って取り返さずば、悔いても及ばぬことになろう。……これにはいろいろ複雑の訳と、云うに云われぬ事情とがある。そうして俺はある理由によって、その訳を知っている。が今は云いにくい。ただ俺を信じてくれ。俺の言葉を信じてくれ。そうして一緒に木曽へ行って、澄江殿を取り返そう」
 ――で、二人は旅立ったのであった。
 主水にしてからが澄江の姿を、追分の宿で見かけたことを、不思議なことに思っていた。馬大尽井上嘉門のことは、上尾宿の旅籠の番頭から聞いた。
 しかし、澄江と嘉門との関係――何故嘉門が駕籠に乗せて、澄江をさらって行ったかについては、窺い知ることが出来なかった。
 陣十郎は知っているらしい。
 詳しい事情を知っているらしい。
 が、その陣十郎はどうしたものか、詳しく話そうとはしないので、強いて訊くことも出来なかった。
 とはいえ澄江がそんな事情で、嘉門に連れられて行ったとすれば、急いで木曽へ出張って行って、澄江を奪い返さなければならない。
 ――で、旅立って来たのである。
 二人は翌日山形屋を立って、旅駕籠に身を乗せて、福島さして歩ませた。
 鳥居峠へ差しかかった。
 ここは有名な古戦場で、かつ風景絶佳の地で、芭蕉翁なども句に詠んでいる。
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雲雀《ひばり》より上に休らう峠かな
[#ここで字下げ終わり]
 木曽の五木と称されている、杜松《ねず》や扁柏《ひのき》や金松《かさやまき》[#ルビの「かさやまき」はママ]や、花柏《さわら》や、そうして羅漢松《おすとのろう》[#ルビの「おすとのろう」はママ]などが、鬱々蒼々と繁ってい、昼なお暗いところもあれば、カラッと開けて急に眼の下へ、耕地が見えるというような、そういう明るいところもあった。
 随分急の上りなので、雲助はしきりに汗を拭いた。
 主水は陣十郎の容態を案じた。
(窮屈の駕籠でこんな所を越して、にわかに悪くならなければよいが)
 で、時々駕籠を止めて、客をも駕籠舁《かごかき》をも休ませた。
 峠の中腹へ来た時である、
「駕籠屋ちょっと駕籠をとめろ」
 突然陣十郎はそう云った。
「おい主水、景色を見ようぜ」
「よかろう」と主水も駕籠から下りた。
「歩けるのか、陣十郎」
「大丈夫だ。ボツボツ歩ける」
 陣十郎は先に立って、森の方へ歩いて行った。


 明応《めいおう》年間に木曽義元、小笠原氏と戦って、戦い勝利を得たるをもって、華表《とりい》を建てて鳥居峠と呼ぶ。
 その鳥居の立っている森。――森の中は薄暗く、ところどころに日漏れがして、草に斑紋《まだら》を作ってはいたが、夕暮のように薄暗かった。
 そこを二人は歩いて行った。
 紅葉した楓《かえで》が漆《うるし》の木と共に、杉の木の間に火のように燃え、眩惑的に美しかったが、その前までやって来た時、
「エ――イ――ッ」と裂帛の声がかかり、木漏れ陽を割って白刃一閃!
「あッ」
 主水だ!
 叫声を上げ、あやうく飛び退き抜き合わせた!
 悪人の本性に返ったらしい! 見よ、陣十郎は負傷の身ながら、刀を大上段に振り冠り、繃帯の足を前後に踏み開き、大眼カッと見開いて、上瞼へ瞳をなかば隠し、三白眼を如実に現わし、主水の眼をヒタと睨み、ジリリ、ジリリと詰め寄せて来た。
 殺気!
 磅磚《ぼうばく》!
 宛《えん》として魔だ!
 気合に圧せられ殺気に挫かれ、主水はほとんど心とりのぼせ、声もかけられずジリリジリリと[#「ジリリジリリと」は底本では「ヂリリヂリリと」]、これは押されて一歩一歩後へ後へと引き下った。
 間!
 静かにして物凄い、生死の境の間が経った。
 と、陣十郎の唇へ酸味のある笑いが浮かんで来た。
「駄目だなア主水、問題にならぬぞ。それでは到底俺は討てぬ」
「…………」
「人物は立派で可《い》い人間だが、剣道はからきし[#「からきし」に傍点]物になっていない」
「…………」
「刀をひけよ、俺も引くから」
 陣十郎は数歩下り、刀を鞘に納めてしまった。
 二人は草を敷いて並んで坐った。
 小鳥が木から木へ渡り、囀りの声を立てていた。
「主水、もっと修行せい」
「うん」と主水は恥かしそうに笑い、
「うん、修行するとしよう」
「俺が時々教えてやろう」
「うん、お前、教えてくれ」
「俺の創始した『逆ノ車』――こいつを破る法を発明しないことには、俺を討つことは出来ないのだがなア」
「とても俺には出来そうもないよ。『逆ノ車』を破るなんてことは」
「それでは俺を討たぬつもりか」
「きっと討つ! 必ず討つ!」
 主水は烈しい声で云い、鋭い眼で陣十郎を睨んだ。
 それを陣十郎は見返しながら、
「討てよ、な、必ず討て! 俺もお前に討たれるつもりだ。……が、それには『逆ノ車』を……」
 主水は俯向いて溜息をした。
 二人はしばらく黙っていた。
 森の外の明るい峠道を、二三人の旅人が通って行き、駄賃馬の附けた鈴の音が、幽かながらも聞こえてきた。
「『逆ノ車』使って見せてやろうか」
 ややあって陣十郎はこう云った。
「うむ、兎も角も使って見せてくれ」
「立ちな。そうして刀を構えな」
 云い云い陣十郎は立ち上った。
 そこで主水も立ち上り、云われるままに刀を構えた。
 と、陣十郎も納めた刀を、又もソロリと引き抜いたが、やがて静かに中段につけた。


「よいか」と陣十郎が云った途端、陣十郎の刀が左斜に、さながら水でも引くように、静かに、流暢に、しかし粘って、惑わすかのようにスーッと引かれた。
 何たる誘惑それを見ると、引かれまい、出まいと思いながら、その切先に磁気でもあって、己が鉄片ででもあるかのように、主水は思わず一歩出た。
 陣十郎の刀が返った。
 ハ――ッと主水は息を呑んだ。
 瞬間怒濤が寄せるように、大下手切り! 逆に返った刀!
 見事に胴へダップリと這入った。
「ワッ」
「ナーニ切りゃアしないよ」
 もう陣十郎は二間の彼方へ、飛び返っていて笑って云った。
「どうだな主水、もう一度やろうか」
「いや、もういい。……やられたと思った」
 主水は額の冷汗を拭いた。
 また二人は並んで坐った。
「どうだ主水、破れるか?」
「破るはさておいて防ぐことさえ……」
「防げたら破ったと同じことだ」
「うん、それはそうだろうな」
「どこがお前には恐ろしい?」
「最初にスーッと左斜へ……」
「釣手の引のあの一手か?」
「あれにはどうしても引っ込まれるよ」
「次の一手、柳生流にある、車ノ返シ、あれはどうだ?」
「あれをやられるとドキンとする」
「最後の一手、大下手切り! これが本当の逆ノ車なのだが、これをお前はどう思う?」
「ただ恐ろしく、ただ凄じく、されるままになっていなければならぬよ」
「これで一切分解して話した、……そこで何か考案はないか?」
「…………」
 無言で主水は考えていた。
 と、陣十郎が独言のように云った。
「すべての術は単独ではない。すべての法は独立してはいない。……『逆ノ車』もその通りだ。『逆ノ車』そればかりを単独に取り上げて研究したでは、とうてい破ることは出来ないだろう。……その前後だ、肝心なのは! ……どういう機会に遭遇した時『逆ノ車』を使用するか? ……『逆ノ車』を使う前に、どうそこまで持って来るか? ……こいつを研究するがいい。……こいつの研究が必要なのだ」
 ここで陣十郎は沈黙した。
 主水は熱心に聞き澄ましていた。
 そう陣十郎に云われても、主水には意味が解らなかった。いやそう云われた言葉の意味は、解らないことはなかったが、それが具体的になった時、どうなるものかどうすべきものか、それがほとんど解らなかった。
 で、いつ迄も黙っていた。
「澄江殿はどうして居られるかのう」
 こう如何にも憧憬《あこが》れるように、陣十郎が云いだしたのは、かなり間を経た後のことであった。
 異様な声音に驚いて、主水は思わず陣十郎を見詰めた。
 と、陣十郎の頬の辺りへ、ポッと血の気が射して燃えた。
(どうしたことだ?)と主水は思った。
 が、直ぐに思い出されたことは、陣十郎が以前から、澄江を恋していたことであった。
(いまだに恋しているのかな)
 こう思うと不快な気持がした。
 それと同時に陣十郎の情婦? お妻のことが思い出された。
 卒然として口へ出してしまった。
「お妻殿はどうして居られることやら」
「ナニお妻?」と驚いたように、陣十郎は主水を見詰めた。


「お妻! ふふん、悪婆毒婦! あんな女も少ないよ」
 やがて陣十郎は吐き出すように云った。
 追分宿の夜の草原で、後口の悪い邂逅をした。――そのことを思い出したためであった。
「そうかなア」と主水は云ったが主水にはそう思われなかった。
 彼女の執拗なネバネバした恋慕、どこまでも自分に尽くしてくれた好意――一緒にいる中は迷惑にも、あさましいものにも思われたが、さてこうして離れて見れば、なつかしく恋しく思われるのであった。
(が、そのお妻とこの俺とが、夫婦ならぬ夫婦ぐらし、一緒に住んでいたと知ったら、陣十郎は何と思うであろう?)
 夫婦のまじわり[#「まじわり」に傍点]をしなかったといかに弁解したところで、若い女と若い男とが、一緒に住んでいたのである。清浄の生活など何で出来よう、肉体的の関係があったと、陣十郎は思うであろう――主水にはそんなように思われた。
 それが厭さに今日まで、主水は陣十郎へ明かさないのであった。
 とはいえいずれは明かさなければならない――そこで奈良井の旅籠屋でも、聞いて貰いたいことがある、云わなければならないことがあると、そういう意味のことを云ったのであった。
 似たような思いにとらえられているのが水品陣十郎その人であった。
 澄江と夫婦ならぬ夫婦ぐらし、それをして旅をさえつづけて来た。が、そう打ちあけて話したところで、肉体のまじわり[#「まじわり」に傍点]なかったと、何で主水が信じよう。暴力で思いを遂げたぐらいに、まず思うと思ってよい。
 打ち明けられぬ! 打ち明けられぬ!
 で、今だに打ち明けないのであったが、早晩は話してしまわねば、自分として心苦しい。そこでこれも奈良井の宿で、聞いて貰いたいことがある、話さねばならぬことがあると、主水に向かって云ったのであった。
 二人はしばらく黙っていた。
 互いに一句云ったばかりで、澄江について、お妻に関して、もう云おうとはしなかった。
 触れることを互いに避けているからである。

 木曽福島へやって来たものの、逸見多四郎は馬市そのものに、何の関心も執着もなく、執着するところは埋ずもれた巨宝、それを手に入れることであった。
「お妻殿」と旅籠の座敷で多四郎は優しく微笑して云った。
「木曽の奥地西野郷へ、行って見ようではござらぬか」
「はいはいお供いたしますとも」
 お妻は嬉しそうにそう云った。
「其方《そなた》は健気で話が面白い。同行すると愉快でござろうよ」
「まあ殿様、お世辞のよいこと」
「東馬、其方《そち》も行くのだぞ」
「は、お供いたします」
 こんな塩梅《あんばい》に二人を連れて、多四郎は福島の宿を立った。
 奥地の木曽の風景を探る。こう二人には云ったものの、その実は奥地の西野郷に、馬大尽事井上嘉門がいる。そこに巨宝があるかもしれない。有ったらそれを手に入れてと、それを目的に行くのであった。
 木曽川を渡ると渡った裾から、もう険しい山路であった。
 急ぐ必要の無い旅だったので、三人は悠々と辿って行った。

馬大尽の屋敷


 その同じ日のことであった、旅籠《はたご》尾張屋の奥の部屋で、秋山要介が源女と浪之助とへ、
「さあ出立だ。いそいで用意! 西野郷へ行くのだ、西野郷へ行くのだ!」
 急き立てるようにこう云った。
 要介は源女を取り返して以来、そうして源女と福島へ来て以来、源女の口からこういう事を聞いた、
「妾《わたくし》だんだん思い出しました。大森林、大渓谷、大きな屋敷、無数の馬、酒顛童子のような老人のいた所、そこはどうやら福島の、奥地のように思われます」と。
 それに福島へ来て以来、林蔵の[#「林蔵の」は底本では「林臓の」]乾児《こぶん》をして逸見《へんみ》多四郎の起居を、絶えず監視させていたが、それから今しがた通知があった。逸見多四郎が供二人を連れて、西野郷さして発足したと。
 そこでこんなように急き立てたのであった。
 三人は旅籠を出た。
(西野郷には馬大尽事、井上嘉門という大金持が、千頭ほどの馬を持って、蟠踞《ばんきょ》[#ルビの「ばんきょ」は底本では「はんきょ」]しているということだ。それが源女のいう所の、酒顛童子のような老人かも知れない)
 要介はそんなことを思った。
 さて三人は歩いて行く。
 西野郷は今日の三岳村と、開田村とに跨がっており、木曽川へ流れ込む黒川の流域、貝坪、古屋敷、馬橋、ヒゲ沢渡、等々の小部落を点綴《てんてつ》したところの、一大地域の総称であって、その中には大森林や大渓谷や瀧や沼があり、そのずっと奥地に井上嘉門の、城砦のような大屋敷が、厳然として建っているのであった。
 今日の歩みをもってすれば、福島から西野郷へは一日で行けるが、文政年間の時代においては、二日の日数を要するのであった。
 分け上る道は険しかったが、名に負う木曽の奥地の秋、その美しさは類少なく、木々は紅葉し草は黄ばみ、木の実は赤らみ小鳥は啼きしきり、空は澄み切って碧玉を思わせ、驚嘆に足るものがあり、そういう境地を放牧されている馬が、あるいは五頭あるいは十頭、群をなし人を見ると懐かしがって、走って来ては鼻面を擦りつけた。
「妾《わたし》、だんだん思い出します」
 源女は嬉しそうに云い出した。
「たしかに妾こういう所を、山駕籠に乗せられ揺られながら、以前に通ったように思います」
「そうでござるか、それは何より……源女殿には昔の記憶を、だんだん恢復なされると見える」
 そう云って要介も喜んだ。
 歩きにくい道を歩きながら、三人は奥へ進んで行った。
 その日も暮れて夜となった。
 その頃要介の一行は、一軒の杣夫《そま》の家に泊まっていた。
 このような土地には旅籠屋などはなく、旅する人は杣夫や農夫に頼み、その家へ泊まることになっていた。
 大きな囲炉裏を囲みながら、要介は杣夫の家族と話した。
「西野郷の馬大尽、井上嘉門殿のお屋敷は、大したものでござろうの?」
「へえ、そりゃア大したもので、ご門をお入りになってから、主屋の玄関へ行きつくまでに、十町はあるということで」
「それはどうも大したものだな」
「嘉門様お屋敷へ参られますので?」
「さよう、明日《あした》行くつもりじゃ」
「あそこではお客様を喜ばれましてな、十日でも二十日でも置いてくれます」


「大家のことだからそうであろう」
「幾日おいでになろうとも、ご主人のお顔を一度も見ない、……見ないままで帰ってしまう……そういうことなどザラにあるそうで」
「ほほう大したものだのう」
 翌日一行は杣夫の家を立ち、その日の夜には要介達は、井上嘉門家の客になっていた。
 客を入れるために造ってある、幾軒かある別棟の家の、その一軒に客となっていた。
 想像以上噂以上に、嘉門の屋敷が豪壮であり、その生活が雄大なので、さすがの要介も胆を潰した。
 いうところの大家族主義の典型《てんけい》のようなものであった。
 西野郷の井上嘉門と、こう一概に人は云っていたが、行って見れば井上嘉門の屋敷は、西野郷からは更に数里、飛騨の国に寄っている、ほとんど別個の土地にあり、その土地から西野郷へまで、領地が延びているのだと、こう云った方がよいのであった。
 山の大名!
 まさにそうだ。
 周囲三里はあるであろうか、そういう広大な地域を巡って、石垣と土牆《どしょう》と巨木とで、自然の城壁をなしている(さよう将に城壁なのである)その中に無数の家々があり田畑があり丘があり、林があり、森があり、川があり、沼があり、農家もあれば杣夫の家もあり、空地では香具師《やし》が天幕《テント》[#ルビの「テント」は底本では「テン」]を張って見世物を興行してさえいた。
 しかもそれでいてその一廓は、厳然として嘉門の屋敷なのであった。
 つまり嘉門の屋敷であると共に、そこは一つの村であり、城廓都市であるとも云えた。
 馬や鹿や兎や狐や、牛や猿などが、林や森や、丘や野原に住んでいた。
 到る所に厩舎《うまや》があった。
 乞食までが住居していた。
 嘉門の住んでいる主屋なるものは、一体どこにあるのだろう?
 ほとんど見当がつかない程であった。
 が、その屋敷はこの一劃の奥、北詰の地点にあるのであって、その屋敷にはその屋敷に属する、石垣があり門があった。
 要介に杣夫が話した話、「ご門をお入りになってから、主屋の玄関へ行きつくまでに、十町はあるということで」と。
 これはこの門からのことなのであった。
 が、総体の嘉門の屋敷、周囲三里あるというこの屋敷の、雄大極まる構えと組織は、何も珍しいことではなく、昭和十七年の今日にあっても、飛騨の奥地や信州の奥地の、ある地方へ行って見れば、相当数多くあるのである。新家《しんや》とか分家《ぶんけ》とかそういう家を、一つ所へ八九軒建て、それだけで一郷を作り、その家々だけで団結し、共同の収穫所《とりいれしょ》や風呂などを作り、祭葬冠婚の場合には、その中での宗家へ集まり、酒を飲み飯を食う。
 白川郷など今もそうである。
 で、嘉門家もそれなのであるが、いかにも結構が雄大なので、驚かされるばかりなのであった。
 宗家の当主嘉門を頭に、その分家、その新家、分家の分家、新家の新家、その分家、その新家――即ち近親と遠縁と、そうしてそういう人々の従僕――そういう人々と家々によって、この一劃は形成され、自給自足しているのであった。
 要介達の泊まっている家は、宗家嘉門の門の中の平屋建ての一軒であった。
 さてその夜は月夜であった。
 その月光に照らされて、二梃の旅駕籠が入って来た。


 二梃の駕籠の着けられた家も、客を泊めるための家であったが、要介達の泊まっている家とは、十町ほども距たっていた。
 主水と陣十郎とが駕籠から出た。
 そうして家の中へ消えて行った。
 こういう大家族主義の大屋敷へ来れば、主人の客、夫婦の客、支配人の客、従僕の客、分家の客、新家の客と、あらゆる客がやって来るし、ただお屋敷拝見とか、一宿一飯の恩恵にとか、そんな名義で来る客もあり、客の種類や人品により、主人の客でも主人は逢わず、代わりの者が逢うことがあり、従僕の客でも気が向きさえすれば、主人が不意に逢ったりして、洵《まこと》に自由であり複雑であったが、感心のことには井上嘉門は、どんな粗末な客であっても、追い返すということはしなかったそうな。有り余る金があるからであろうが、食客を好む性質が、そういうことをさせるのであった。
 要介は心に思うところあって、
「有名なお屋敷拝見いたしたく、かつは某《それがし》事武術修行の、浪人の身にござりますれば、数日の間滞在いたし、お家来衆にお稽古つけたく……」
 とこういう名目で泊まり込み、陣十郎と主水とは、
「旅の武士にござりまするが、同伴の者この付近にて、暴漢数名に襲われて負傷、願わくば数日滞在し、手あて[#「あて」に傍点]致したく存じます」
 と、こういう口実の下に泊まったのであった。
 陣十郎は猪之松の屋敷で、嘉門を充分知って居り、知って居るばかりか嘉門を襲った。――そういう事情があるによって、絶対に嘉門には逢えなかった。
 顔を見られてさえ一大事である。
 で、顔は怪我したように、繃帯で一面に包んでいた。
 逸見多四郎が堂々と、
「拙者は武州小川の郷士、逸見多四郎と申す者、ご高名を知りお目にかかりたく、参上致しましてござります」
 と、正面から宣《なの》って玄関へかかり、丁寧に主屋へ招じ入れられたのも、同じ日のことであり、お妻も東馬も招じ入れられた。
 さて月のよい晩であった。
 要介は源女と浪之助を連れてブラリと部屋から戸外へ出た。
 この広大の嘉門の屋敷の、大体の様子を見て置こうと、こう思って出て来たのであった。
 林のような植込みの中に、ポツリポツリと幾軒とない、立派な屋敷が立っていて、もう夜も相当更けていたからか、いずれも戸締り厳重にし、火影など漏らしてはいなかった。
 と、三人の歩いて行く行手を、二人の武士が歩いていた。
 この家へ泊まっている客であろう。
 そう思って要介は気にも止めなかった。
 が、そこは人情で、自分もこの家の客であり、先方の二人も客であるなら、話して見たいとこんなように思い、その後をソロソロとつけ[#「つけ」に傍点]て行った。
 植込を抜け幾軒かの屋敷の、前を通ったり横を通ったりして、大略《おおよそ》五六町も歩いたであろうか、その時月夜の空を摩して、一際目立つ大屋敷が、その屋敷だけの土塀を巡らし、その屋敷だけの大門を持って、行手に堂々と聳えていた。
(これが嘉門の住居だな。いわば本丸というやつだ。いやどうも広大なものだ)
 要介はほとほと感に堪えた。


 先へ行く二人の客らしい武士も、その屋敷の広大なのに、感嘆をしているのであろう、しばし佇んで眺めていたが、土塀に添って右の方へ廻った。
 要介たちも右の方へ廻った。
 と、二人のその武士達は、土塀の前の一所へ立って、しばらく何やら囁いていたが、やがて土塀へ手をかけると、ヒラリと内へ躍り込んだ。
「おや」
「はてな」
 と云い要介も、浪之助も声をあげた。
「先生、あいつら変ですねえ」
「客ではなくて泥棒かな」
 二人は顔を見合わせた。
 と、先刻から物も云わず、熱心に四辺《あたり》を見廻したり、深く物思いに沈んだりして、様子を変えていたお組の源女が、この時物にでも憑かれたような声で、
「おお妾《わたし》は思い出した。この屋敷に相違ない! 妾が以前《まえかた》送られて来て、酒顛童子のようなお爺さんに、恐ろしい目に逢わされた屋敷! それはここだ、この屋敷だ! ……この屋敷だとするとあの[#「あの」に傍点]地獄は――地獄のように恐ろしく、地獄のようにむごたら[#「むごたら」に傍点]しく、……※[#歌記号、1-3-28]まぐさの山や底無しの、川の中地の岩窟《いわむろ》の……その地獄、その地獄は、どちらの方角だったかしら? ……もう解《わか》る! 直ぐ解る! ……でもまだ解らない、解らない! ……そこへ妾はやられたんだ! そこで妾は気絶したんだ! ……」
 云い云い源女は右を指さしたり、左を指さしたりした。

 土塀を乗り越えた二人の武士、それは主水と陣十郎とであった。鳥居峠から駕籠に乗り、薮原から山へかかり、この日この屋敷へ来た二人であった。
 彼等二人の主たる目的は、井上嘉門に攫《さら》われた澄江を、至急に取り返すことにあった。
 遅れてもしも澄江の躰に――その貞操に傷でもついたら、取り返しのつかぬことになる。
 そこでこの屋敷へ着くや否や、負傷の躰も意に介せず、陣十郎は陣十郎で、その奪還の策を講じ、主水は主水で策を講じたが、これと云って妙案も浮かんで来ず、こうなっては仕方がない、嘉門の主屋へ忍び込み、力に訴えて取り返そうと、さてこそ揃って忍び込んだのであった。
 忍び込んで見てこの主屋だけでも洵《まこと》に広大であることに、驚かざるを得なかった。
 百年二百年経っているであろうと、そう思われるような巨木が矗々《すくすく》と、主屋の周囲に聳えていて、月の光を全く遮り、四辺《あたり》を真の闇にしてい、ほんの僅かの光の縞を、木間からこぼしているばかりであった。ところどころに石燈籠が道標《みちしるべ》のように立っていて、それがそれのある四辺だけをぽっと明るくしているばかりであった。
 主屋の建物はそういう構えの、遥か向こうの中央にあったが、勿論雨戸で鎧われているので、燈火など一筋も漏れて来なかった。
 と、拍子木の音がした。
 夜廻りが廻って来たらしい。
 二人は木立の陰へ隠れた。
 拍子木の音は近付いて来た。
 と、不意に足を止めたが、
「これ、誰じゃ、そこにいるのは?」
 一踴!
「わッ」
 一揮!
 寂寥!
「おい、陣十郎切ったのか?」
「いや峯打ちだ。殺してはうるさい」


 なお二人は先へ進んで行った。
 と、行手から男女らしいものが、話しながら来る気勢《けはい》がした。
 そこで二人は木陰へかくれた。
 男女の声は近寄って来たが、数間へだてた地点まで来ると、
「其方《そなた》あちらへ……静かにしておいで。……ちと変だ……何者かが……」
 こういう男の声がして、しばらくそれからヒッソリしていたが、やがておちついた歩き方で、歩み寄って来る気勢がし、
「これ誰じゃ、そこに居るのは?」と咎める威厳のある声がした。
 主水も陣十郎も物云わず、息を殺してじっと[#「じっと」に傍点]していた。
「賊か、それとも……賊であろう。……身遁してやる、早く立ち去れ」
 声の様子でその人物が、武士であることには疑いなかった。
 主水の耳へ口を寄せ、陣十郎は囁いた。
「俺がやる。お前は見て居れ……ちと彼奴《あいつ》手強いらしい」
「うむ」と主水は頷いた。
 陣十郎はソロッと出た。
 既に刀は抜き持っている。
 それを暗中で上段に構え、一刀に討ち取ろうと刻み足して進んだ。
「来る気か」と先方の男が云った。
「可哀そうに……あったら命を……失わぬ先に逃げたがよかろう」
 あくまでも悠然とおちついていた。
 陣十郎はなお進んだ。
 勿論返辞などしなかった。
「そうか」と先方の武士が云った。
「どうでも来る気か、止むを得ぬの。……では来い!」と云って沈黙した。
 疾風《はやて》! 宛然《さながら》! 水品陣十郎! 二つになれと切り込んだ。
 が、春風に靡く柳條! フワリと身を反わした一瞬間、引き抜いた刀で横へ払った武士!
 陣十郎はあやうく飛び退き、大息を吐き身を固くした。
 何たる武士の剣技ぞや!
 品位があってふくらみ[#「ふくらみ」に傍点]があって、真に大家の業であった。
(ふ――ん)と陣十郎は感に堪え、また恐ろしくも思ったが、
(ナーニ、こうなりゃこっちも必死、必勝の術で「逆ノ車」で……)
 見やがれとばかり中段に構え、闇の大地をジリジリと[#「ジリジリと」は底本では「ヂリヂリと」]刻み、除々にせり[#「せり」に傍点]詰め進んで行ったが、例の如くに水の引くように、スーッと刀を左斜めに引き、すぐに柳生の車ノ返シ、瞬間を入れず大下手切り!
 が、
 鏘然!
 太刀音があって……
 美事に払われ引っ外され、続いて叫ぶ武士の声がした。
「『逆ノ車』! さては汝《おのれ》、陣十郎であったか、水品《みずしな》陣十郎! ……拙者は逸見多四郎じゃ! ……師に刃向こうか、汝悪逆!」
「あッ! ……しまった! ……主水逃げろ!」
 木間をくぐって盲目滅法に、逃げ出した陣十郎の後につづき、主水も逃げて闇に没した。
「まあ陣十郎さんに主水さん!」
 すぐに女の驚きの声が、逸見多四郎の背後《うしろ》から聞こえた。
「お妻殿ご存じか?」
「はい。……いいえ。……それにしても……」
「それにしても、うむ、それにしても、あの恐ろしい悪剣を……『逆ノ車』をどうして破ったか?」
 呟き多四郎は考え込んだ。
(それにしても)とお妻も考えた。(どうして陣十郎と主水さんが、一緒になんかいたのだろう?)


 敵同士の主水と陣十郎が、一緒にいるということが、お妻には不思議でならなかった。
(主水さん、それでは人違いであろうか?)
 そうとすれば何でもなかった。
 世には同名の異人がある。
 人違いであろう、人違いであろう!
 そう思うとお妻にはかえって寂しく、やはり今の主水さんが、恋しい主水さんであってくれて、自分の身近にいてくれる――そうあって欲しいように思われるのであった。
 恐ろしいは陣十郎の居ることであった。
(逢ったら妾ア殺されるだろう)
 追分宿の乱闘で、殺されようとして追い廻されたことが、悪寒となって思われて来た。
 ポンと多四郎は手を拍った。
「解った! 闇だからよかったのだ。……それで『逆ノ車』が破れたのだ。……では昼なら? 昼破るとすると?」
 じっと考えに打ち沈んだ。
「ナ――ンだ」とややあって多四郎は云った。「ナ――ンだ、そうか、こんなことか! ……こんな見易い理屈《こと》だったのか! ……よし、解った、これで破った、陣十郎の『逆ノ車』俺においては見事に破った!」
 主屋に招じ入れられたが、嘉門とは未だ逢わなかった。退屈なので夜の庭の、様子でも見ようとしてお妻をつれて、ブラリと出て来た多四郎であった。
 それが偶然こんなことから、日頃破ろうと苦心していた、「逆ノ車」の悪剣を易々と破ることが出来たのである。
 そのコツ法を知ったのである。
(よい事をした、儲け物だった)
 そう思わざるを得なかった。

 嘉門が奥の豪奢な部屋で、澄江を前にしネチネチした口調で、この夜この時話していた。
「不思議なご縁と申そうか、変わったご見と申そうか、高萩でお逢いしたお前さまと、追分宿でまたお逢いし、とうとう私の部屋まで参られ、こうゆっくりとお話が出来る、妙なものでござりますな」
 ネチリネチリと云うのであった。
 古法眼《こほうがん》の描いた虎溪三笑、その素晴らしい六枚折りの屏風が無造作に部屋の片隅に、立てられてある一事をもってしても、部屋の豪奢が知れようではないか。
 座には熊の皮が敷きつめられてあり、襖の取手の象嵌などは黄金と青貝とで出来ていた。
「それにいたしましても高萩では、とんだ無礼いたしましたのう。ハッ、ハッ、とんだ無礼を! ……が、あいつは正直のところ、私の本意ではなかったので。いかに私が田夫野人でも、何で本気で婦人に対し、あのような所業に及びましょうぞ。あれは高萩の猪之松どんの乾児衆のやった仕事なので。ただ私はゆきがかりで、そいつをご馳走にあずかろうと、心掛けたばかりでございますよ。が、それさえ不所存至極! そこで平にあやまります。何卒ご用捨下さりませ……さてこれで以前《むかし》のことは、勘定済みとなりました。次は将来《これから》のご相談で。……ところでちょっとご相談の前に、申さねばならぬことがありますのでな。……」


 ここで嘉門は莨《たばこ》を喫《の》んだ。
 持ち重りするような太い長い、銀の煙管《きせる》を厚い大きい、唇へくわえてパクリと喫《す》い、厚い大きい唇の間から、モクリモクリと煙を吐いた。
 どうしても蝦蟇が空に向かって、濛気を吐くとしか思われない。
「何かと云いますに私という人間、一旦やろうと思い立った事は、必ずやり通すということで!」
 うまそうに莨を一喫みすると、そう嘉門はネットリと云った。
 さよう、嘉門はネットリと云った。
 が、そのネットリとした云いぶりは、尋常一様の云いぶりではなく、馬飼の長、半野蛮人の、獰猛敢為の性質を見せた、ゾッとするような云いぶりなのであった。
「では私今日只今、どんなことをやろうと思っているかというに、澄江様とやらいうお前さまを、よう納得させた上で、私の心に従わせる! ……ということでござりますじゃ」
 云って嘉門は肩にかかっている、その長髪をユサリと振り、ベロリと垂れている象のような眼を、カッと見開いて澄江を見詰めた。
 澄江はハ――ッと息を飲んだ。
 その澄江はもう先刻《さっき》から、観念と覚悟とをしているのであった。
 思えば数奇の自分ではある! ……そう思われてならなかった。
 上尾街道で親の敵《かたき》と逢った。討って取ろうとしたところ、博労や博徒に誘拐《かどわか》された。そのあげく[#「あげく」に傍点]に馬飼の長の、人身御供に上げられようとした。と敵に助けられた。親の敵の陣十郎に! ……これだけでも何という、数奇的の事件であろう。しかもその上その親の敵に、親切丁寧にあつかわれ、同棲し旅へまで出た。夫婦ならぬ夫婦ぐらし! 数奇でなくて何であろう。
 追分宿のあの騒動!
 義兄《あに》であり恋人であり、許婚《いいなずけ》である主水様に、瞬間逢い瞬間別れた!
 数奇でなくて何であろう!
 と、嘉門にとらえられた。
 そうして今はこの有様だ!
 いよいよ数奇と云わざるを得ない。
(どうなとなれ、どうなろうとまま[#「まま」に傍点]よ)
 観念せざるを得ないではないか。
(が、この厭らしい馬飼の長に躰を穢される時節が来たら、舌噛み切って妾は死ぬ!)
 こう決心をしているのであった。
 そうしっかり決心している彼女は、外見《よそめ》には蝦蟇に狙われている、胡蝶さながらに憐れに不憫に、むごたらしくさえ見えるけれど、心境は澄み切り安心立命、すがすがしくさえあるのであった。
 短い沈黙が二人の間にあった。
「いかがでござりますな。澄江様」
 嘉門はネットリとやり出した。
「この老人の可哀そうな望み、かなえさせては下さりませぬかな。……いやもうこういう老人になると若い奇麗なご婦人などには、金輪際モテませぬ。そこで下等ではござりまするが、金の力で自由《まま》にします。……お見受けしたところ貴女《あなた》様は、武家の立派なお嬢様で、なかなかもちまして私などの、妾《めかけ》てかけ[#「てかけ」に傍点]になるような、そんなお方では決してない、ということは解《わか》っていますじゃ。……それだけに私の身になってみれば、自分のものに致したいので。……で、お願いいたしますじゃ。……可哀そうな老耄《おいぼ》れた老人を、功徳と思って喜ばせて下されとな。……その代わりお前さまが何を望もうと、金ずくのことでありましたら、ヘイヘイ何でも差し上げまする」
 またパクリと莨を喫った。


「なりませぬ」と澄江は云った。
 先刻からじっと辛棒して、黙って、聞いていた澄江であったが、この時はじめてハッキリと云った。
「貴郎《あなた》様のお心に従うこと、決して決してなりませぬ!」
 言葉数は少なかったが、毅然とした態度冷然とした容貌に、動かぬ心を現わして、相手を圧してそう云った。
「ふうむ」と嘉門は唸り声を上げた。
 勿論この女、烈女型で、尋常に口説いて落ちるような、そんな女ではあるまいと、そういうことは推《すい》していたが、今の返事とその態度とで、それがこっちの想像以上に、しっかり[#「しっかり」に傍点]しているということを瞬間看取したからであった。
 がぜん嘉門の様子が変わった。
 薄気味の悪い、惨忍な、しかも陰険執拗な、魔物めいた様子に一変した。
 それでいて言葉はいよいよ柔かく、
「それでは大変お気の毒ですが、貴女様には変わった所へ、一時おいでを願わねばならず……是非ともおいでを願わねばならず……一度まアそこへ行って来られてから、改めてゆるゆるご相談――ということに致しましょうのう」
 で、また莨をパクリと喫い、濛々と煙を吐き出した。
「何と申してよろしいか、貴女様がこれからおいでになる所、何と申してよろしいか。……どっちみち厭アなところでござる……どんな強情のジャジャ馬でも、一どそこへ叩っ込まれると、生れ変わったように穏しくなります……気の弱いお方は発狂したり、もっと気の弱いお方になると、さっさと自殺するようで。……さようさよう以前のことではあるが、お組の源女とかいう女芸人が、やはり強情で[#「強情で」は底本では「情強で」]そこへやられたところ、発狂――まあまあそれに似たような状態になりましたっけ……さて、そこで貴女様も、そこへおいでにならなければ……ならないことになりましたようで」
「どこへなと参るでござりましょう」
 澄江は冷然とそう云った。
 死を覚悟している身であった。
 何も恐れるものはない。
 苦痛! それとて息ある間だ! 死んでしまえば苦痛はない。
 澄江は冷然とし寂然としていた。
 嘉門はポンポンと手を拍った。
 と、次の間に控えていた、侍女が襖をソロリと開けた。
「権九郎に云っておくれ、送りの女が一人出来た。赤い提燈の用意をしなと」
 侍女は頷いて襖をしめた。

「あれ――ッ」という源女の声が、要介と浪之助とを驚かせたのは、それから間もなくのことであった。
 三人はこの時嘉門の主屋の、構えの外を巡りながら、なお逍遥《さまよ》っていたのであった。
「行きます、おお赤い提燈が!」
 指さしながら源女が叫んだ。
 極度の恐怖がその声にあった。
「あそこへあそこへ人を送る火が! 地獄へ、ねえ、生地獄へ! ……妾《わたし》のやられた生地獄へ! ……おおおお誰か今夜もやられる! ……可哀そうに可哀そうに! ……そうです妾も赤い提燈に、あんなように道を照らされ、馬へ、裸馬へくくりつけられ、そこへやられたのでございます!」


「追おう!」
 要介が断乎として云った。
「送られる人間を取り返そう!」
「やりましょう!」と浪之助も云った。
 夜の暗さをクッキリ抜いて、木立の繁みに隠見して、特に血のような赤い色の、小田原提燈が果実のように揺れて、山の手の方へ行くのが見えた。
 三人は後を追った。
 が、その一行に近寄って見て、これは迂闊に力で襲っても、勝目すくなく危険だと思った。
 というのは一頭の裸馬に、男か女かわからなかったが、一人の人間をくくりつけ、それへ油単《ゆたん》を上から冠せた、そういう人と馬とを囲繞《いじょう》し、十数人の荒くれ男が、鉄砲、弓、槍などを担いで、護衛して歩いているからであった。
(飛道具には適わない)
 三人ながらそう思った。
 で、要介は浪之助に、
「どこまでもこっそり後を尾けて、その行方を確かめよう。そうしていい機会が到来したら、切り散らして犠牲者を奪い取ってやろう」
 こう耳元で囁いた。
「それがよろしゅうございます」
 浪之助も[#「浪之助も」は底本では「浪人之助も」]そう云った。

 澄江を生地獄へ送り出した後の、嘉門の豪奢な主家の部屋には、逸見多四郎が端座していた。
 想う女を生地獄へ送った。――そんな気振など微塵もなく、嘉門は機嫌よく愛想笑いをして、多四郎との閑談にふけっていた。
 処士とはいっても所の領主、松平|大和守《やまとのかみ》には客分として、丁寧にあつかわれる立派な身分、ことには自分が贔屓にしている、高萩の猪之松の剣道の師匠――そういう逸見多四郎であった。傲岸な嘉門も慇懃丁寧に、応待しなければならなかった。
 牧馬の話から名所旧蹟の話、諸国の風俗人情の話、そんな話が一渡り済んで、ちょっと話が途絶えた時、何気ない口調で多四郎は云った。
「秩父の郡小川村、逸見様庭の桧の根、むかしはあったということじゃ……云々と云う昔からの歌が秩父地方でうたわれ居ります。この歌の意味は伝説によれば、源|頼義《よりよし》[#「頼義《よりよし》」は底本では「義頼《よしより》」]、その子|義家《よしいえ》、奥州攻めの帰るさにおいて、秩父地方に埋めました黄金、それにまつわる歌とのこと、しかるにこの歌の末段にあたり※[#歌記号、1-3-28]今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の――云々という、そういう文句がござります由、思うにこれはその黄金が、その素晴らしい馬飼のお手に、保存され居るということであろうと……」
「しばらく」と不意に嘉門は云った。
 それから皮肉の笑い方をしたが、
「ははあそれで逸見様には、その黄金を手に入れるべく、当屋敷をお訪ね下されたので?」
「率直に申せばその通り、千、五百の大馬飼は、貴殿以外にはござらぬからな」
「御意で。……が、そうとありますれば、いささかお気の毒に存ぜられまする」
「何故でござるな。それは何故で?」
「なぜと申してそうではござらぬか、そのような莫大な黄金を、私保存いたし居りますれば、決して決して何人にも、お渡しすることではござりませぬ」
「それはもうもう云うまでもない儀、が、拙者といたしましては、そこに少しく別の考えが……」

10
「別の考え? 何でござるかな?」
「貴殿がたしかにその黄金を、現実に保存され居るなら、何で拙者その貴殿より、その黄金取りましょうや。……が、もしも貴殿においても、黄金の在り場所的確に知らず、ひそかに探し居らるるようなら……」
「なるほど、これはごもっとも。そうあるならば貴郎《あなた》様と私、力を集めて探し出そうと覚し召し、参られたので?」
「さよう、ざっとその通りでござる」
「これは事件が面白くなった。……が、さて何と申し上げてよいやら」
 嘉門はここで沈黙してしまった。
 妙に息詰まる真剣の気が、二人の間に漂っている。
 やがて嘉門がポツリポツリと云った。
「歌にありまするその馬飼は、たしかに私にござります。そうして歌にありますように、私の屋敷に領地内に、ある時代にはその黄金、ありましたそうでござります。……その黄金ありましたればこそ、馬鹿らしいほどの繁栄を来たし、今このように広い領地を、持つことが出来て居りますので。そうでなくては馬飼風情、いかにあくせく[#「あくせく」に傍点]働きましたところで、とてもとても今日のような。……で私はその黄金を、巧みに利用し財《たから》を積んだところの、祖先に対して有難やと、お礼申して居りまする次第で」
「とそう云われるお言葉から推せば、今日においてはその黄金、すでにお手にはないご様子……」
「さあそれとてそうとも否とも、ちと私としては申しかねますので……」
「これは奇怪、はなはだ曖昧!」
「へいへい曖昧でござりますとも」
「方角を変えてお尋ねいたす。例の歌の末段に※[#歌記号、1-3-28]|秣《まぐさ》の山や底無しの、川の中地の岩窟《いわむろ》にと、こういう文句がござりまするが、そこに大方その黄金、埋没されて居りたるものと、この拙者には思われまするが、そのような境地が領内に……?」
「へいへいたしかにござります」
「しからばそこへご案内を……」
「駄目で!」
「なぜ?」
「命が無い!」
「命が無いとな?」
「生地獄ゆえ!」
「…………」
「アッハッハッ、地獄々々! そこは恐ろしい生地獄! そこへ行ったら命が無い! 有っても人間発狂する! アッハッハッ発狂する! ……が、今夜も可哀そうに、女が一人送られましたよ。さようさようその生地獄へ!」
 こう云うと嘉門は惨忍酷薄、洵《まこと》女の生血を飲み、肉を喰らったといわれている、伝説の大江山の酒顛童子、それさながらの表情をして、ぐっと多四郎を睨むように見た。
 さすがの多四郎も妖怪さながらの、嘉門の表情態度に搏たれ、言語ふさがり沈黙した。
 で、またも息詰まるような気が、部屋を圧し人を圧した。
 が、ややあって井上嘉門は、謎のような言葉でこう云った。
「あの黄金はそれ以前に、あの歌にうたわれて居りますように、秩父の郡小川村の、逸見《へんみ》様のお庭の桧の根方に、――即ち貴郎様のお庭の中に、埋没されて居りましたはず。……ひょっとかするとその黄金また逸見様のお庭へ帰り……」

11
「何を馬鹿な」と多四郎は笑った。
「拙者の屋敷にその黄金、今に埋もれて居りますなら、何のわざわざこのようなところへ……」
「いやいや」と嘉門は云った。
「逸見様は幾軒もござります」
「…………」
「高名で比較的近い所では、尾張にあります逸見三家……」
「おおなるほど逸見三家!」
 名古屋に一軒、犬山に一軒、知多に一軒、都合三軒、いずれも親戚関係で、逸見姓を宣《となう》る大大尽があり、総称して尾張の逸見三家と云い、特殊の尊称と疑惑とを、世間の人から持たれていた。
 金持ちであるから尊敬される! これは当然の事として、疑惑というのは何だろう?
 尾張の大商人大金持といえば、花井勘右衛門をはじめとして、九十八軒の清洲越衆《きよすこえしゅう》、その他尾州家からお扶持をいただく、小坂新左衛門他十二家あって、それらの人々はいずれも親しく、往来をし交際《つきあ》っていたが、逸見三家だけは交際せず、三家ばかりで往来し、他の金持は尾張家に対し、何等かの交渉を持っていて、御用達、三家衆、除地衆、御勝手ご用達、十人衆、等々という、名称家格を持っていたが、逸見三家ばかりは尾張家と、何等の交渉も持っていなかった。
 これが疑惑される点なのである。
「おおなるほど逸見三家」と、多四郎は云って眼を見張り、
「逸見三家の家風については、拙者も遥かに承わり居り、不思議な大尽があるものと、疑惑を感じて居りましたが、その逸見三家と埋もれた黄金と、関係ありと仰せられまするかな?」
「あるやらないやら確かのところは、私にも即座には申し上げられませぬが、……さよう即座には申し上げられぬとし、貴郎様におかれてもせっかくのご来訪、何卒長くご逗留下され、ゆるゆるそのことにつきまして、お話しすることにいたしましょう」
 嘉門はここでも曖昧に云った。
 奥歯に物の挿まった態度、多四郎には少なからず不愉快であったが、押して尋ねても云いそうもないと、そう思ったので後日を期することにした。

 赤い提燈で道を照らし、澄江を裸馬にくくり付け、それを護った権九郎達は、無言で山道を進んで行った。
 その後を慕って要介達が行った。
 二里あまりも来たであろうか。その時突然行手にあたって、同じ赤い色の提燈の火が、点々といくつか見えて来た。
(おや?)と要介たちは不審を打った。
 が、権九郎たちの一行は、それが予定されたことかのように、少しも驚かず又動ぜず、その火に向かってこちらの提燈を、宙にかざして振って見せた。と向こうでも答えて振った。
 こうして向こうの火にこちらの火が、十数間足らず接近した時、夜ながら要介たちに行手の光景が、ぼんやりながらも見えて来た。
 行手に谷があるらしい。谷には川が流れているらしい。
 谷を隔てて岩で出来た、屏風のような絶壁が、垂直に高く聳えていた。
 絶壁の頂に月があって、それの光でその絶壁が、肩を銀色に輝かしているのが見えた。

生地獄


 と、その時まで黙々として、要介たちに従いて来ていた源女が、恐ろしそうな声で魘《うなさ》れるように云った。
「生地獄はそこだ、谷の底だ! そこへ行っては大変だ! 自殺するか発狂する! ……可哀そうに可哀そうに馬に乗っているお方! ……おおおおあの人をお助けしなければ!」
「やろう!」と要介が忍び音ではあるが、烈しい声でそう云った。
「切り散らして犠牲者を助けよう!」
「先生やりましょう!」と浪之助が応じた。
 が、その瞬間犠牲者を守護し、裸馬を囲繞して歩いて来た人々――権九郎輩下の者共が、一斉に足を止め振り返り、鉄砲の筒口をこっちへ向けた。
 要介たちの方へ差し向けた。
「しまった! 目つけられた! もう不可《いけ》ない!」
 ――要介がそう叫んだ途端、
 ド、ド、ド、ド、ド、ド――ッと鉄砲の音が、夜の山谷にこだま[#「こだま」に傍点]して鳴り、バ、バ、バ、バ、バ――ッと筒口から出る、火花が夜の暗さを裂いた。
 と、
 馬の恐怖した嘶《いななき》!
 見よ、犠牲者をくくりつけたまま、例の裸馬が谷口を目がけ、まっしぐら[#「まっしぐら」に傍点]に馳せて行くではないか!
「あッ、あッ、あッ、もう不可ない! あの人も生地獄へ追いやられた! 妾《わたし》のように! 昔の妾のように!」
 源女は叫んで地団太を踏んだ。
 果敢! 馬は谷底さして、なだれ[#「なだれ」に傍点]のように落ちて行った。
 鉄砲は決して要介たちを認め、要介たちを撃ち取ろうとして、発射されたものではないのであった。
 馬を驚かせて犠牲者諸共、谷底へやるために撃ったものなのであった。
 それは空砲に過ぎなかったのである。
 後は寂然!
 シ――ンとしていた。
 と、権九郎達の一団が、今は馬もなく犠牲者も持たず、手ぶらの姿で赤い提燈を、ただブラブラと宙に振って、もと来た方へ引っ返す姿が、要介たちの眼に見えた。
 木陰にかくれて見送っている、その要介たちの横を通って、その一団の去った後は、四辺《あたり》寂々寥々としてしまった。
 と、要介は浪之助へ云った。
「とうとう犠牲者を助け損なったが、これも運命仕方がない。……が、それは仕方ないとして、生地獄の光景を見ようではないか」
「それがよろしゅうございます」
「源女殿もおいでなされ」
「妾は厭でござります」
 恐ろしかった過去のことを、その場へ臨むことによって、ふたたび強く思い出すことを、恐れるという心持から、そう源女は震えながら云った。
「さようか、では源女殿には、そこにてお待ちなさるがよろしい」
 云いすてて要介は浪之助ともども、谷の下口へ足を向けた。
 と、先刻現われて、権九郎達の赤提燈に対し、応えるように振られたところの、例の幾個かの赤提燈が、見れば谷の下口の辺りに、建てられてある番小屋らしいものの、その中から又現われて来た。
「誰だ、これ、近寄ってはならぬ! 近寄ると用捨なく撃ち取るぞ!」
 赤提燈の中から声が来た。
 鉄砲を向けている姿が見えた。


 馬が斜面を駈け下る間に、くくられていた綱が[#「綱が」は底本では「網が」]切れ、澄江は地上へ振り落とされた。
 馬と前後して谷の斜面を、底へ向かって転落した。
 何と奇怪にも谷の斜面が、柔らかくて滑らかで、ほとんど土とは思われないではないか!
 こうして澄江は微傷《びしょう》さえ負わず、谷の底へ落ちついた。
 と、眼の前を落ちて来る馬の、気の毒な姿が通って行ったが、底へ着くと立ち上り、立ち上ったが恐怖のためであろう、高い嘶をあげながら、前方へ向かって走りつづけた。
 月光をうけて銀箔のように輝いて見える川があった。
 そう、前方に川があった。
 と、その川まで駈けて行った。
 馬は川へ飛び込んだ。(泳ぐかな?)
 と澄江は思った。
 浅いと見えて五歩十歩、二十歩あまり歩いて行った。
 と、どうだろう歩くに従い、馬は次第に小さくなって行った。
 そうしてやがて歩かなくなった。
 身長《せい》が大変低くなって見えた。
 と、馬は首を長く延ばし、悲劇を無言で眺めている月に向かって顔を向けたが、悲しそうに幾度か嘶いた。
 だんだん身長が低くなって行く。
 やがてとうとう馬の姿が川の面から消えてしまい、漣《さざなみ》も立てずにどんより[#「どんより」に傍点]と、流れるともなく流れている、そういう水面《みずも》には月光ばかりが銀の延板のそれかのように、平らに輝いているばかりであった。
 川巾は随分広かった。
 そうして対岸には屏風のような、切り立った高い断崖が、険しく長く立っていた。
 澄江はゾッと悪寒を感じた。
(どうして馬は沈んだろう?)
 もしその川が深かったら、馬は泳いで行くはずである。
 もしその川が浅かったら、馬は歩いて渡るはずである。
 それだのに沈んでしまった。
(おお川は底無しなのだ!)
 そう、それに相違ない。
 水そのものは浅いのであるが、底は泥の堆積で、幾丈となく深いのだ。で、そこへ踏み入ったものは、その泥に吸い込まれ、永久沈んでしまうのだ。
 ゾッと澄江は悪寒を感じた。
(川を越しては逃れられない)
 澄江はフラフラと立ち上った。
 それから自分が転がり落ちて来た、山の斜面を振り仰いで見た。
 斜面は洵《まこと》になだらかで、一本の木立も、一つの丘も、一つの岩も、何もなかった。
 下口《おりくち》までは高く遠く、容易に達しがたく思われたが、上るには難なく思われた。
 澄江は斜面を上り出した。
 すぐツルリと足が辷《すべ》り、たちまち谷底まで追い返された。
(おや)と思いながら又上った。
 一間あまり上ったかと思うと、非常に気持よく非常に滑らかに、スルスル谷底へ辷り落ちた。
(まあどうしたというのだろう?)
 澄江には不思議でならなかった。
 で、土を取り上げて見た。
 それは土ではないようであった。カラカラと乾いて脆くなってはいたが植物の茎や葉のようであった。
 植物の茎や葉が永い年月、風雨霜雪に曝された結果、こまかいこまかい砂のようになったもの! それのように思われた。
 そういう物が斜面を厚く、そうして高く蔽うているのだ。――
 で、その上へ人が乗れば、重さに連れてそれが崩れ、どこまでも無限に崩れ崩れて、人を下へ辷り落とす!
(では上って行くことはできない!)
 又ゾッと澄江は悪寒を感じた。


(ではもう一度|験《ため》して見よう)
 こう思って澄江はまた上り出した。
 と、背後から笑う声がした。
 驚いて澄江は振り返って見た。
 いつの間にどこから来たものか、五六人の人間が、数間《すうけん》離《はな》れた一所に、一緒に塊まって立っていた。
 月光の中で見るのであるから、ハッキリしたところは解《わか》らなかったが、その中には女もい、老人も若者もいるようであった。
 何より澄江を驚かせたのは、その人達が痩せていることで、それはほとんど枯木のようであり、枯木が人間の形をしてい、それが襤褸屑《ぼろくず》を纏っている。――そう云ったように痩せていることであった。
 そう、衣裳は纏っていた。が、その衣裳は形のないまでに、千切れ破れているのである。
 物の書《ほん》で見た鬼界ヶ島の俊寛《しゅんかん》! それさながらの人間が、そこに群れているのである。
「駄目だよ、娘っ子、上れやアしねえ。いくら上っても上れやしねえ」と、その中の一人がカサカサに乾いた、小さな、力の弱い、しめ殺されるような、不快な声でそう云った。
「秣《まぐさ》の山だ、なア娘っ子、お前が一所懸命上ろうとしているそいつ、そいつア秣の山なんだ。秣の山の斜面なんだ。……乗れば辷る、足をかければ辷る。二間と上った者アねえ。無駄だから止めにしな」
「アッハッハッ」
「ヒッヒッヒッ」
「フッフッフッ」
「ヘッヘッヘッ」
 みんなが揃って笑い出した。
 嘲ったような、絶望したような、陰険そうな、気の毒がったような、気味の悪い厭アな笑声であった。
 澄江は地獄の亡者に逢った! ――とそんなような思いに等しい、恐怖と不気味とを感じながらも、この境地には自分一人だけしか、居ないものと今まで思っていたのに、他にも人のいることを知り、この点何と云っても心嬉しく、急いでそっちへ小走って行った。
「どういうお方々かは存じませぬが、妾は井上嘉門という……」
「解っているよ解っているよ」と、その中の一人の老人が――片眼つぶれている老人が、澄江にみんな話させようともせず、
「俺らもそうなんだ。恐ろしい主人に、井上嘉門殿に、いやいやいや、殿じゃアねえ、鬼だ魔物だ、その魔物の嘉門めに、この生地獄へ放り込まれた、生き返る望みのねえ亡者なのさ。お前さんだってそうだろうとも、嘉門めにここへ落とされたんだろうとも。……見りゃア奇麗な娘っ子だ、どうしてここへ落とされたか、その理由《わけ》も大概わかる。……嘉門の云うことを聞かなかったんだろうよ。……以前《まえ》にもそんな女があった。……源女とかいう女だった。……」
「お爺さん」と澄江は云って、縋るような気持で訊ねて見た。
「ここはどこなのでございます? どういう所なのでございます?」
「処刑場《おしおきば》だ、人捨場だ! 嘉門の云い付けに背いた者や、廃人になって役に立たなくなった者を、生きながら葬る墓場でもある」
「恐ろしい所なのでございますねえ」
「一緒においで、従《つ》いておいで、ここがどんなに恐ろしい所だかを、例をあげて知らせてあげよう」
 片眼の老人は歩き出した。
 と、その余の亡者餓鬼――亡者餓鬼のような人間たちも、だるそう[#「だるそう」に傍点]に、仆れそうに、あえぎあえぎ、その後から従いて来た。
 蒼澄んで見える月光の中に、そういう人達が歩いて行く姿は、全く地獄変相図であった。
 と、一本の木の下に来た。
 一人の若者がブラ下っていた。


 首をくくって死んでいるのであった。
 片眼の老人は説明した。
「二十日ほど前に来たお客さんなのさ。嘉門の可愛がっているお小間使いと、ちちくり合ったのが逆鱗に[#「逆鱗に」は底本では「逆燐に」]ふれて、ここへぶちこまれた若造なのだ。女が恋しいの逃げ出したいのと、狂人のように騒いでいたが、とうてい逃げられないと見当をつけると、野郎にわかにおとなしくなってしまった。と、今朝がた首を釣ってしまった。……首を釣る奴、川へ沈む奴、五日に一人十日に一人、ちっとも不思議なく出来るってわけさ。……だから底無しの川の中には、幾百人とない男や女が、沈んでいるというわけだ。……そこを見な、その岩の裾を! 白骨が積んであるじゃアねえか。首を釣った奴や舌を噛んで死んだそういう奴らの骨の束だ」
 見ればなるほど向こうに見えている、大岩の裾に月光に照らされ、ほの白い物の堆積があった。
「お爺さん」と澄江は震えながら云った。
「何を食べて生きているのです?」
「馬の肉だ、死んだ馬の。……時々そいつを投げてくれるのだ。谷の下口から上の番人が」
「死んだ馬の肉を? ……それが食物?」
「米もなけりゃア麦もねえ。野菜もなけりゃア香の物もねえ。……水といえばドロンと濁った、泥のようなその川の水だ。……だから長く生きられねえ。一月か二月で死んでしまう。……もっとも中にゃアそいつに慣れて、三年五年と生きてる奴がある。……俺なんかはその一人だよ。……」
「皆様どこにいるのです? どこに住んでいるのです?」
「岩窟《いわむろ》の中だ岩窟のな。……向こうにある、行ってみよう」
 その老人が先に立ち、澄江たちは先へ進んだ。
 人間の骨や馬の骨や――それらしいものが木の根や岩の裾に、灰白く散乱しているのが見えた。
 と、行手に月光に照らされ、丘のような物形が見えた。
 やはりそれは丘であった。
 岩と土と苔と權木、そんなもので出来ている小丘であって、人間の身長《たけ》の二倍ほどの間口と、長い奥行とを持っていた。
 そこの前まで辿りついた時、丘の正面の入口から――つまりその丘が岩窟なのであり、正面に入口が出来ているのであったが、その入口から骸骨の群が――骸骨のような痩せた男や女、老人や老婆、男の子や女の子が、ムクムクと泡のように現われ出た。
 そうして口々に喚き出した。
「また客が来た」
「俺らの仲間か」
「何か食物を持って来たかしら?」
「着物を剥げ! ひっぺがしてしまえ!」
「若い女だ」
「奇麗な女だ」
「すぐ汚くなるだろう」
「ナーニ半月は経たねえうちに首をくくってくたばるだろう」
 すると片眼の老人が、叱るように大声をあげた。
「うるせえ、野郎共、しずかにしろ! ……今度のお客さんはこれ迄のとは、どうやら少オし違うようだ。身体へさわっちゃア不可《いけ》ねえぞ!」


 片眼の老人は権威者と見える。彼らの仲間の権威者と見える。そう一言云っただけで、彼らの騒動は静まった。
「さあさあ入って見るがいい。家の中へ入って見るがいい」
 こう云って老人は澄江を連れて、岩窟の中へ入って行った。
 入って真っ先に驚いたのは、何とも云われない悪臭であった。
 不浄の匂い、獣皮の匂い、腐肉の匂い、襤褸《ぼろ》の匂い――、いろいろの悪臭が集まって、一つになった得もいわれない悪臭、それがムッと鼻へ来て、澄江は嘔吐を催そうとした。
 岩窟の中は寒かった。
 凍《こご》えそうなほどにも寒かった。
 暗く、低く、狭くもあった。
 ところどころに火が燃えていた。
 住人が焚火をしているのであった。その周囲に集まったり、岩壁の裾に寝たりして、意外にたくさんの人間がいた。
 この時二三人の者が嗄《しわが》れた声で、鼻歌をうたうのが聞こえてきた。
[#ここから3字下げ]
秩父の郡小川村
逸見様庭の桧の根
むかしはあったということじゃ
いまは変わって千の馬
五百の馬の馬飼の
木曾の馬主山主の
山の奥所も遥かなる
秣の山や底なしの
川の中地の岩窟の
御厨子《おずし》[#ルビの「おずし」は底本では「おづし」]に籠りあるという
移り変わるがならわしじゃ
命はあれど形はなく
形は本来地水火じゃ
三所に移り元に帰し
命はあれど形はない
[#ここで字下げ終わり]
 それはこういう歌であった。
「お爺さん」と澄江は云った。
「あの歌、何でございますの?」
「誰も彼もうたう歌なのじゃ、……この辺りではちっとも珍らしくない。……所在ないからうたうのさ……ずっと昔からある歌で、意味もなんにもないのだろうよ」
「この岩窟深いのでしょうか?」
「深いそうだ、深いそうだ。が誰もが行ったものはない。行ったものがないということだ。……わしだけは相当奥まで行った。だが中途で引っ返してしまった。……恐ろしいと云おうか凄いと云おうか、あらたかと云おうか何と云おうか、どうにも変な気持がして、とうとう引返してしまったのさ。……人柱が立っているんだからなア……骸骨なんだ、本当の骸骨! ……そっくり原形を保っている奴だ。そいつが岸壁の右にも左にも、ズラリと並んでいやがるじゃアないか」

悪人還元


 陣十郎は黙々として、山路に向かって歩いていた。
 後から主水が従《つ》いて行ったが、これも黙々として物を云わなかった。
 嘉門の大屋敷の構内から出、あて[#「あて」に傍点]なしに歩いて行くのであった。
 どっちへ向かって歩いているのか、陣十郎には解《わか》らなかった。
 師匠の逸見《へんみ》多四郎によって「逆ノ車」が破られたことそのことばかりを考えていた。
 月はあったが山路には巨木、……大木老木權木類が、空を被い四辺《あたり》を暗め、月光を遮っているがために、二人の姿は外方《よそ》から見ては、ほとんど見ることが出来なかった。
 時もかなり経っていた。
(逸見先生があのような所に、どうしてお居でなされたのだろう?)
 このことも気にはかかっていたが、それより必勝不敗の術と、自信していた自己の創始の「逆ノ車」を破られた――このことばかりが不安にも恐ろしくも、情無くも思われるのであった。
 まだ破門をされない前に、多四郎の道場で多四郎を相手に、数回「逆ノ車」をもって、立合ったことがあったのであり、そのつど陣十郎が勝ちを取るか、でなかったら相打ちとなった!
 それだのに今夜という今夜に限り、物の見事にひっ外されてしまった。
(あの時先生に打つ気さえあって、一歩踏み込んで切られたら、俺は真ッ二つにされたはずだ)
(「逆ノ車」を破られては、俺に勝目はほとんどない。破った先生がそれからそれと、その手を人々に伝えたら、俺は手も足も出なくなる)
 これが彼には恐ろしいのであった。
(それともあの時俺の腕が、いつもより鈍っていたがために「逆ノ車」は使ったが、使い方が精妙でなく、それで一時的に外されたのだろうか? もしそうならまだ安心だ)
(では……)と陣十郎は惨忍に思った。
(誰かを、どいつかを、「逆ノ車」で、充分練って用意して、切って切れたら! 切って切れたら!)
 自信がつく!
 そう思った。
(よ――し、どいつかを切ってやろう?)
(誰を?)と思った時主水のことが、瞬間脳裏に閃いた。
(うむ、こいつを切ってやろう!)
 悪人の本性が甦ったのであった。
(思ってみれば主水という奴、危険至極の道連れだった。俺を敵《かたき》と狙う奴だった。そうしていつかはこいつのために、俺は討たれるはずだった。……討たれてなろうか、何を馬鹿な! ……俺も何という男だったろう、いずれこの男に討たれてやろう――などとそんなことを思っていたとは。……それに人心は変わるものだ。俺の心が変わるように。……で、主水め心が変わり、俺の寝息をうかがって、寝首掻かないものでもない。……よ――し、この場で討ち果し、災の根を断ってやろう)
 グルリと陣十郎は振り返った。
「主水《もんど》、おい、鴫澤《しぎさわ》主水!」
「何だ?」と主水が足を止めた。
「この暗中でもう一度『逆ノ車』を使って見せてやろう」


「それには及ばぬよ」と主水は云った。
 心に計画ある時には自ずと五音に現われるもので、陣十郎の言葉の中に、平時《いつも》とは異《ちが》う不吉の響きが、籠っているがためであった。
 それが恐ろしく感じられたためで。……
 陣十郎はくどく[#「くどく」に傍点]云った。
「昼と夜とは自ずと異う。暗中での『逆ノ車』……使って見せるから刀を抜け」
(使って見せる、教えてやると偽って充分用意をさせ、「逆ノ車」にひっかけ、後腹病まぬよう殺してしまおう)
 これが陣十郎の本心であった。
「なるほど」と主水は思わず云った。
「昼と夜とは自ずと異う。暗中での『逆ノ車』……なるほど、こいつ教わった方がいいな」
「いいともさあ、刀を抜きな」
 云って陣十郎は先に抜いた。
「よし。……抜いた。……さあ構えた」
 主水もそう云ってその通りにした。
 二人ながら抜身を構え、暗中に相手と向かい合った。
「主水、充分用心しろよ。……試合などとは思うなよ。……俺を父親の敵《かたき》と思い――事実それに相違ないし……その敵を今討つのだと、こう思って真剣にかかって来い」
「うむ。よし。そのつもりで行こう」
「俺もお前を返り討ちにすると――こう思ってかかって行くつもりだ」
「うむ、そのつもりでかかって来てくれ」
「暗中での『逆ノ車』……ダ――ッとお前の左胴へ、事実入るかもしれないぞよ」
「…………」
「暗中だからな。……どうなるかわからぬ……」
「…………」
「本当にお前を切るかもわからぬ」
「…………」
「暗中だからな……よく見えぬからな」
「…………」
「とすると返り討ちだ。……返り討ちになっても怨むなよ。参るぞ――ッ」と忍音ではあったが、殺す気でかけた鋭い声! それが主水の耳を打った。
(あぶない!)と瞬間主水は思った。
(おかしいぞ! いつもとは違う! ……本当に切る気ではないだろうか?)
 主水は自ずと一所懸命になった。
 刀を中段にピッタリと構え、闇を通して相手を睨んだ。
 暗中ながら相手の姿が、黒く凄まじく立っているのが見え、これも中段に構えている刀が、ボ――ッと薄白く感じられた。
 その薄白い刀身ばかりに、主水の眼はひきつけられた。
 間!
 例によって息詰まるような、命の縮まる間が経った。
 と、刀身が水の引くように、左斜めにス――ッと引かれた。
 フラ――ッと主水は前へ出た。
 瞬間、刀が小さく返った。
「ハッ」
 途端に……
「カ――ッ!」という、雷霆さながらの掛声が――渾身の力を集めた声が、どこからともなく聞こえてきた。
「あッ」と主水は膝を曲げ、グタ――ッとばかりに地に坐わり、
「うむ」と陣十郎はよろめいて、二三歩タジタジと[#「タジタジと」は底本では「タヂタヂと」]後へ下った。
 そうして次の瞬間には、闇の木立を潜り抜け、一散に麓の方へ走っていた。


 声をかけたのは要介であった。
 生地獄の光景を見ようとして、谷の下口まで行きかけると、番人によって遮られ、しかも鉄砲を向けられた。
 飛道具には敵《かな》わない。
 そこで避けて引っ返した。
 一里あまり来た時であった。何とも云われない殺気刀気、そういうものが感じられた。
(何者かが何者かを殺そうとしている)
 名人には別の感覚がある。
 賭博に才のあるその道の名人――そういう名人には伏せた壺を通して、中の賽コロの目がわかる。
 剣道の名人には自己に迫る殺気、そういうものなど当然わかり、あえて自己一身に迫るでなくとも、付近で行なわれる殺戮、殺傷、そういうものも感じられる。
 それを要介は感じたのであった。
「切る奴を挫き、切られる奴を救おう」
 こう要介は瞬間に思った。
 思ったと同時に反射運動的に、
「カ――ッ!」と声をかけたのであった。
 と、十数間のかなたから、木を潜って逃げて行く、葉擦れの音が聞こえてきた。
(逃げたな)と要介は直ぐに思った。
「セ、先生エ――ッ、ド、どうなされましたア――ッ」
 主水が掛声に腰を挫かれ、地へベタベタと坐ったと同じく、これも掛声に腰を挫かれ、要介の背後の地へ坐った、杉浪之助が悲鳴をあげた。
「杉氏か、何という態《ざま》だ!」
「ナ、何という、ザ、態だと、セ、先生には、オ、仰せられても……」
「アッハハハハ、立ちな立ちな」
「恐ろしい目に逢いました」
 云い云い浪之助は立ち上った。
「一体どうしたのでございます?」
「ナ――ニ、邪気を払ったまでさ」
「ははあ邪気を? ……が、邪気とは?」
「まあよろしい、いずれ話そう……ともかくも邪気は払ってやった。……しばらくじっと[#「じっと」に傍点]しているがいい」
 ――で、立ったままじっと[#「じっと」に傍点]していた。
 間もなく麓の方へ走り下る、人の足音が聞こえてきた。
「ははあもう一人も逃げて行ったな」
「先生何です、逃げて行ったとは?」
「一人が一人を殺そうとしていたのだ。……それをわしが挫いてやったのだ。……殺そうとした奴が先に逃げ、殺されかけていた人間が、つづいて今逃げて行ったのさ」
「こんな暗中でそんなことが、先生におわかりになりますので?」
「活眼活耳さえ持って居れば、暗中であろうと、睡眠中であろうと、そういうことはわかるものだ」

 主水は夢中で走っていた。
 恐怖と不安と一種の怒りとで、彼の心はうわずって[#「うわずって」に傍点]いた。
 彼にもう一段沈着があって、自分の危難を救ってくれたところの、恐ろしい掛声の主を尋ね、逢うことが出来たら自分と縁ある、侠剣の主人《あるじ》秋山要介と邂逅することが出来たのに!


 が、しかし主水にとっては、そんな余裕はなかったのであった。
(陣十郎め、心が変わった。たしかに悪人に還元した。俺を殺そうとしたらしい。でなかったらあの呼吸――あの殺伐の気は出ぬはずじゃ! ……それにしてもカ――ッと鋭い気合が、あの時かかって俺の命を、瞬間の間に救ってくれたが、一体誰が掛けたのであろう?)
 走りながらもそう思った。
(どっちみち俺は陣十郎とは、もう一緒には住みがたい。……では馬大尽井上嘉門の、賓客部屋へも帰れない。……どうしたらよかろう? どうしたらよかろう?)
 ひた[#「ひた」に傍点]走りながらそう思った。
(カ――ッと掛かったあの気合! ……尋常の人間の掛けた気合と、全然別の恐ろしい気合だ! ……俺は命が縮まるかと思った)
 こう思いながら無二無三に、麓をさして陣十郎も、走り走り走っていた。
(が俺は「逆ノ車」を、これで再度やり損なった訳だ! 再度の失敗! 再度の失敗! ……う――む再度の「逆ノ車」の失敗!)
 これは洵《まこと》に彼にとっては、致命的の打撃と云わざるを得なく、そうして、事実彼にとって、再度の致命的の打撃なのであった。こうなってはヤブレカブレ、どいつであろうと誰であろうと、かもう[#「かもう」に傍点]ものか切って切って、……この鬱忿を晴らしてやろう)[#「)」はママ]
 ひた[#「ひた」に傍点]走り、ひた[#「ひた」に傍点]走った。

 偽善の巣窟であるところの、井上嘉門の領地内が、攪乱されたのはこの夜であった。
 乳飲児を抱いた若い女が、放蕩の良人《おっと》を探し出そうとして、深夜に領地内を彷徨《さまよ》っている。
 横を魔のように通る者があった。
「わ――ッ」と女は悲鳴をあげた。
 もう女は斃れていた。
 飼犬がどこかへ行ってしまった。それを目付けようと老いた農夫が、杖をつきながら通っていた。
「クロよ、クロよ、おいで、おいで」
 こう云いながら通っていた。
 その横をスルスルと通る者があった。
 一閃!
 刀光!
「わ、わ、わ、わ、わ――ッ」
 老農夫は斃れ動かなくなった。
 向こうでも切られこっちでも切られた。
 人々は戸外へ飛び出した。

賭場荒れ


 嘉門は決して人格者ではなく、又勝れた施政家でもなく、ただ家長という位置にあり、伝統的にその位置を利用し、圧制し専政し、威圧ばかりしていた人物であった。
 で、隷属していた人々は、永い間心に不平と不満を、ひそかに蔵していたのであった。そういう人々が侵入者によって、この境地が攪乱された、その機に乗じ爆発した。向こうに一団、こっちに一団、露路に一団、空地に一団、林の中に一組、森の中に一組、到る所に集まって、議論し撲り合いし取っ組み合いした。
 どうして、誰が、何のために、どういう騒動を起こしたのか、そういう真相を確かめようともせず、漠然とした恐怖、漠然とした憤怒、漠然とした焦燥に狩り立てられ、同派は組んで異端を襲い、同党は一致して異党を攻め、罵り、要求し、喧騒し合った。
「生地獄の人達を救い出せ!」
「ワ――ッ」と数十人が鬨の声をあげて、山の手の方へ押して行った。
「嘉門様にこの地から出て貰おう!」
「ワ――ッ」と数十人が屋敷を目掛け、無二無三に走って行った。
「人使いが荒すぎる」
「役にも立たないお客さんなどを、泊めて置くのが間違っている!」
「客人たちを追っ払え!」
「ワ――ッ」と大勢が一つに集まり、その客人の泊まっている家々へ、押し寄せて行って騒ぎ立てた。
 悲鳴! 呻き声! 泣き声! 怒声!
 客人達も狼狽して、家々を出て群集にまじった。
 秋山要介も浪之助も、源女も主水もその中にいた。
 嘉門も狼狽し恐怖したらしい。
 玄関に立って途方にくれていた。
 そこへ多四郎が現われた。
「逸見《へんみ》様何といたしましょう?」
「とり静める方法ござりますかな?」
「さあこう人心が亢《たかぶ》っていましては……」
「一時避けたがようござろう?」
 お妻や東馬も怯えたように、その側《そば》に立って震えていた。
 竹法螺が鳴り陣鐘が鳴り、やがて鉄砲の音さえした。
 閉ざされた大門が破られそうになった。

 嘉門と多四郎とお妻と東馬、四人を乗せた駕籠を守り、十数人の嘉門の家の子郎党が、騒乱の領内から裏山づたいに、福島の方へ走り出したのは、それから間もなくのことであった。

 その翌日の午後となった。
 林蔵の乾兒《こぶん》藤作は、フラリと自分の賭場を出て、猪之松の賭場の方へ足を向けた。
 猪之松の賭場は上ノ段にあって、この夜客人で一杯であった。


 藤作は酔っていた。
 そうして彼は上尾街道で、澄江を危難から救おうとした時、猪之松の乾兒の八五郎たちのために、叩きのめされたことを忘れなかった。
 いつか怨みを返してやろう――こういうことを考えていた。
 さて福島へやって来た。
 猪之松一家が上ノ段で、盛大に賭場をひらいていた。
「諸国の立派なお貸元衆が、ここには集まっているのだから、猪之松の方から手を出したら別だが、こっちから手を出しちゃアならねえぞ」
 親分林蔵から戒められてはいたが、猪之松の賭場には八五郎もいる、こいつどうしたってトッチメなけりゃアと、酔いも手伝って乾兒の藤作、猪之松の賭場へ出かけたのであった。
 内へ入って懐手をし、客人達の背後に突立ち、藤作は四辺《あたり》を睨み廻した。
 板敷の上へ長蓙を敷き――これを中にして客人達がズラリと並んで控えていた。猪之松の姿は見えなかったが、代貸元として一の乾兒、閂峰吉が駒箱を控え、銀ごしらえの[#「銀ごしらえの」は底本では「銀ごしらへの」]長脇差を引きつけ、正面の位置に坐っていた。
 中盆――即ち壺皿を振る奴、それが目差す八五郎であったが、晒の下帯一筋だけの、素晴しく元気のいい恰好で、盆の世話を焼いていた。
 勝ちつづけた客人の膝の前には、駒が山のように積まれてあり、こいつはニコニコ笑っている。
 馬持、山持、土地の大尽、どれを見ても客は立派なもので、いかがわしい手合などは一人もいなかった。
 藤作は自分で張ろうとはせず、何か因縁をつけてやろうと、いつまでも突立って眺めていた。
 その藤作が入って来た時から(厭な野郎が舞い込みやアがった)
 と、峰吉も八五郎も思ったが、まさか帰れとも云いかねて(障るな触れるな、そっと[#「そっと」に傍点]して置け)
 こう考えて眼まぜ[#「まぜ」に傍点]で知らせ合い、声もかけず勝負をつづけて行った。
 と、不意に藤作は怒鳴った。
「勝負待った、イカサマあ不可《いけ》ねえ!」
 同時に飛び出し盆蓙を掴むと、パーッとばかりにひっぺがした。
「野郎!」と飛び上ったは八五郎。
「賭場荒らしだ――ッ」と客人たちは、総立ちになって右往左往した。


「イカサマとは何だ、この野郎!」
 やにわに八五郎は飛びかかった。
 その横ッ面をポカリと一つ、藤作は見事にくらわせたが、
「イカサマだ――ッ、イカサマだ――ッ! ……高萩の猪之の賭場の壺振、八五郎はイカサマをして居りやす! ……お客人衆、イカサマだ――ッ」と叫んだ。
「藤作!」と腹に据えかねたように、怒声をあげると、閂峰吉、長脇差をひっ掴み、立ち上るとツカツカと前へ出た。
「見りゃア手前は赤尾の藤作、まんざら知らねえ顔でもねえ。事を決して荒立てたくはねえが、高萩一家が盆割の場所で、イカサマと云われちゃア、どうにも我慢が出来にくい。さあ云え云えどこがイカサマだ!」
「何を云やがる、イカサマだ――ッ、賽もイカサマなら盆もイカサマ、高萩一家は、イカサマだ――ッ」
 こう藤作は叫んだものの、実はイカサマを発見して、それであばれ出したというのではなく、ただ何かしらあばれてやろう、あばれて八五郎をとっちめてやろうと、そう思って仕掛けた賭場荒らしだったので、そう峰吉に突っ込まれては、イカサマの証拠をあげることなど、勿論することは出来ないのであった。
 イカサマだ――、イカサマだ――、とただ怒鳴った。
「野郎」と峰吉はいよいよ怒り、
「さては野郎賭場を荒らし、賭場銭さらいに来やがったな!」
 ここで嘲笑い毒吐いた。
「赤尾の林蔵は若いに似合わず、万事に行届きいい親分だと、仲間内で評判がいいと聞いたが、乾兒へロクロク小使さえくれず、懐中《ふところ》さみしくしていると見える。乾兒が場銭をさらいに来たわ! ……汝《うぬ》らに賭場を荒らされるような、高萩一家と思っているか! ……さあみんなこの野郎を、袋叩きにして追い返せ!」
 声に応じて八五郎はじめ、高萩身内の乾兒五六人、ムラムラと寄り藤作を囲み、撲り蹴り引きずり廻した。
「殺せ殺せさあ殺せ! 骨は親分が拾ってくれる! 殺せ殺せさあ殺せ!」
 藤作は大の字に仆れたまま、多勢に一人力では敵《かな》わず、ただ声ばかりで威張っていた。
 そいつを高萩の乾兒達は、戸外《おもて》へ引き出し抛り出した。

「ナニ藤作が猪之の賭場で、間違いを起こして袋叩きにされたと」
 料理屋の奥で酒を飲んでいた、赤尾の林蔵はこれを聞くと、――乾兒の注進でこれを聞くと、長脇差をひっ[#「ひっ」に傍点]掴み、
「こうしちゃいられねえ、みんな来い!」
 取巻いていた乾兒を連れ、自分の賭場の方へ走って行った。


 高萩の猪之松も料理屋の座敷で、四五人の乾兒たちと酒を飲んでいたが、乾兒の注進でこの事件を知ると、顔の色を変えてしまった。
「云うことに事を欠いて、イカサマがあると云われちゃア、袋叩きにもしただろうさ。……が、相手が悪かった。日頃から怨みの重なっている、赤尾の林蔵の身内だからなア。……こいつアただではおさまるまい。……ともかくも旅籠《やど》へ引き上げろ」
 そこで旅籠《はたご》へ帰って来た。
 林蔵も一旦賭場へ行き、負傷をしている藤作へ、すぐに応急の手あて[#「あて」に傍点]を加え、板で吊らせて旅籠へ運び、自分も旅籠へ帰って来た。
「藤作のやり方が悪かったにしても、場銭をさらいに来やがったと、こう云われては腹に据えかねる……そうでなくてさえ[#「さえ」は底本では「さへ」]怨みの重なる、高萩一家の奴原《やつばら》だ、この際一気に片づけてしまえ!」
 なぐり込みの準備をやり出した。
 という知らせが猪之松方へ行った。
「もうこうなっては仕方がない、こっちからもなぐり[#「なぐり」に傍点]込みをかけてやれ」
 竹槍、長脇差、鉄砲まで集め、高萩一家も準備をはじめた。
 驚いたのは他の貸元連で、小金井の半助、江尻の和助、鰍沢《かじかざわ》の藤兵衛、三保ノ松の源蔵、その他の貸元ほとんど一同、一つ旅籠へ集まって、仲裁《なかなおり》の策を相談した。
 その結果小金井の半助が、猪之松方へ出かけて行き、そうして鰍沢の藤兵衛が、林蔵の方へ出かけて行き、事を分けて話すことになった。
「赤尾の身内の藤作どんとやらが、酒に酔っての悪てんごう[#「てんごう」に傍点]、あんたの賭場にイカサマがあると、そう云われちゃア高萩のにしても、さぞ腹が立つではありましょうが、日和《ひより》も続き馬市は繁昌、おかげでわしらの賭場も盛り、芽出度い芽出度いと云って居る際に、赤尾と出入りが起きようものなら、馬市もメチャメチャ諸人方は、どれほど迷惑するかしれねえ。その馬市も明日一日だけ。……そこで出来ねえ我慢をして、ここはわし等の顔を立て、穏便に済まして貰いたいが」と、こう半助が猪之松に話すと、又藤兵衛は林蔵に対し、
「藤作どんが酔ったまぎれの、賭場荒しめいたてんごう[#「てんごう」に傍点]も、景気に連れての振舞いでしょうよ、そいつを高萩の身内衆に、場銭さらいにやって来たかと、悪態されたでは赤尾のとしては、黙っていることは出来ますめえが、馬市も明日一日、どうか穏便に済ましたいもので。出入りとなると諸商人はじめ宿の者一統が難渋するので」
 こう云って納めようとした。
 林蔵も猪之松も頑迷ではなかった。こう云われるとそれを押し切って、私闘をすることは出来なかった。
「ではお任かせいたしましょう」と云った。
 しかし林蔵は考えた。
(いずれ俺と猪之松とは、将来|交際《つきあ》える関係《なか》ではない。そのうち必ず命を賭しての、出入り果し合いをすることとなろう。一日延ばせば一日延ばしただけ、双方嫌な目をするばかりだ。……この機会に勝負をつけてしまおう。……諸人に迷惑さえかけなかったら、何をやってもいいわけだ)
 そこで彼は果し状を認め、こっそり猪之松へ持たせてやった。
 ――諸人はかかわりなく二人だけで、今夜宿外れの黒川渡《くろかわど》の野原で、勝負しようという果し状であった。
「承知した」という返事が来た。


 黒川渡は宿から半里ほど距てた、樹木の茂った箇所であり、人家などはほとんどなく、ただ川の岸に渡し守の小屋が、一軒立っているばかりであり、そこを渡って向こう岸へ行き、そこから西野郷へは行くのであった。
 林蔵は渡し守の小屋まで来た。
「爺《とっ》つあん船を出してくんな」
「おや、これは親分さんで、夜分渡し船を出しますのは、堅い法度でございますが……」
「と云うことは知っているが……」
「実はたった今もお渡ししましたんで。法度は法度、抜道は抜道、ハイハイお渡しいたしますとも」
 爺《じい》さんは船を出し、林蔵を乗せて向こう岸へついた。
「もう一人俺のような人間が、渡りてえと云って来るだろうから、そうしたら文句無く渡してやってくれ」
「高萩の親分さんじゃアございませんかな」
「こりゃア驚いた、どうして知ってる?」
「たった今お渡りになりまして、同じようなことを仰有《おっしゃ》いましたので」
「さすがは猪之松、先へ渡ったか、こいつはどうも恐れ入った。……じゃア爺《とっ》つあんこうしてくんな。俺か猪之松かどっちか一人、間もなく宿の方へ帰るから、向こう岸へ帰らずに船をとめて、ここの岸で待っていてくんな」
「へい、よろしゅうございます……が、お一人だけお帰りになるので?」
「そうさ、一人だけ帰るのよ。もう一人は遠い旅へ出るんだ。……行って帰らぬ旅ってやつへな」
 云いすてて林蔵は先へ進んだ。
 と、雑木の林の中から、
「赤尾のか、待っていた」という、猪之松の声が聞こえてきた。
「高萩のか、遅れて悪かった」
「俺もいまし方来たばかりよ」
 木洩れの月光の明るい所で、二人は顔を向かい合わせた。
「さて高萩の」と林蔵は云った。
「三度目の決闘だ、今度こそかた[#「かた」に傍点]をつけようぜ」
「うん、俺もそのつもりだ。……最初は上尾の街道で、二度目は追分の宿外れの野原で、三度目はこの黒川渡で……」
「今度こそかた[#「かた」に傍点]がつきそうだ」
「三度目の定《じょう》の目でなあ」
「俺が死んだらオイ高萩の、俺の縄張俺の乾兒、お前|悉皆《みんな》世話を見てくれ」
「心得た、きっと見る。その代わり俺が死んだ時には……」
「俺が悉皆みてやろう」
「心残りはねえと云うものだ」
「もつれ[#「もつれ」に傍点]にもつれ[#「もつれ」に傍点]た二人の仲が、今夜こそスッパリとかた[#「かた」に傍点]がつく、こう思うと気持がいいや」
「これまでは四辺《あたり》に人がいて、勝負するにもこだわり[#「こだわり」に傍点]があったが、今夜こそ本当に二人だけだ、思う存分切り合おうぜ」
「じゃアそろそろはじめようか」
「やろう、行くぜ、高萩猪之松!」
「さあ抜いた、林蔵来い!」
 甲源一刀流と新影流! 勢力伯仲の二人の博徒!
 構えは同じ中段に中段!
 逸見多四郎と秋山要介と、当代一流の剣豪を、師匠に取って剣道を、正規に学んだ二人であった。
 位い取りから呼吸《いき》づかいから、正しく鋭く隙がない。
 が、若いだけに赤尾の林蔵、やや気をいらち一気に勝負と、相手の刀磨り上げ気味に、ジリジリと[#「ジリジリと」は底本では「ヂリヂリと」]進み躍り込もうとした途端、
「む――」と呻く人間の声が、どこからともなく聞こえてきた。

恩讐集合


(はてな?)と林蔵は不審を打った。
(二人の他に人はいないと思ったのに、人の呻き声が聞こえるとは)
 こう注意が外れたので、躰の構えも自ずと崩れた。
 そこを狙って猪之松が、疾風迅雷、胴へ斬り込んだ。
「どっこい!」と喚くと林蔵は、一髪の間に飛退いて、姿勢を整え構えを正した。
 もう寸分の隙もない。
 二人は互いに呼吸を計り、その間隔《あいだ》を一間とへだて、睨み合って動かなかった。
 と、又も呻き声が聞こえた。
(おや?)と不審を打ったのは、今度は高萩の猪之松で、これも注意が外れたために、自ずと構えに隙が出来た。
(得たり!)とばかり得意の諸手突で、林蔵は征矢《そや》のように突進した。
 はじめて鏘然と太刀音がしたが、これは猪之松が林蔵の刀を、左に払って右へ反《かわ》したからで、太刀音のした次の瞬間には、二人の位置が少し移ったばかりで、構えは依然として中段と中段、もう静まり返っていた。
 それにしても呻き声はどこから来るのであろう?
 二人から数間離れた位置に、薮と灌木とに覆われて、一個の大岩がころがっていたが、その陰に一人の武士が仆れてい、その武士から呻き声は来るのであった。
 蒼い月光に照らされて、乱れた髪、はだかった衣裳、傷付いた手足のその武士が、水品《みずしな》陣十郎だということが見てとられた。
 嘉門の領地の動乱から、命からがら遁れ出て、ようやくここまで歩いて来たところ、手足の負傷、心の疲労から、昏倒してしまった彼であった。
 岩のむこうで林蔵と猪之松とが、刀を交し戦っているので、目つかっては一大事、声を立てては不可《いけ》ないと思いながら、つい呻き声を上げる彼でもあった。
 嘉門の領地から遁れ出たものは、相当|夥《おびただ》しい数と見え、この一角から遥か離れた、巣山《すやま》や明山《あきやま》の中腹を、福島の方へ行くらしい、たいまつ[#「たいまつ」に傍点]の火が点々と見えた。
(どうして林蔵と猪之松とが、こんな所で斬り合っているのか?)
 勿論陣十郎には合点いかなかったが、そういうことを突詰めて考え込むほど、彼の気持は冷静でなく、彼の躰は健康でなかった。
(それにしても井上嘉門の領地での、不思議な怪奇な事件の起伏! 何と云ったらいいだろう?)
 悪党の彼ではあったけれど、このことを思えば身が震えるのであったが、悩乱状態の陣十郎には、やはりこの事も冷静な気持で、回想することなど出来なかった。
(こんな所で死んではたまらない! 早く人里へ! 早く福島へ!)
 このことばかりを思い詰め、ノタウチながら呻き声を、先刻《さっき》から上げているのであった。
 もう林蔵にとっても猪之松にとっても、呻き声など問題ではなくなっていた。
 次第に迫る呼吸《いき》をととのえ、一気に雌雄を決しようと、刻足《きざみあし》をしてジリジリと[#「ジリジリと」は底本では「ヂリヂリと」]進んだ。
 しかし又もこの折柄、意外の障害が湧き起こった。
 雑木林の間から、数本のたいまつ[#「たいまつ」に傍点]の光が射し、四挺の駕籠を取巻いて、十数人の人々が、忽然現われて来たことであった。


 井上嘉門の一団であったが、四梃の駕籠に乗っている者は、嘉門と逸見《へんみ》多四郎と、お妻とそうして東馬とであった。
「や、これは逸見先生で」
 猪之松は思わず叫ぶように云って、岩を廻って数間走った。逃げたというのでは決してなく、自分の剣道の師匠であり、日頃から無用の腕立てや、殺生を厳しく戒《いまし》められている、その逸見多四郎にこんな姿を――抜身をひっさげているこんな姿を、こんなところで見られるということが、面伏せに思われたからであった。
 しかし直ぐに思い返し、苦笑いをして足を止めた。
「そこに居るのは猪之松ではないか」
 いち早くその姿を見かけたらしく、駕籠の中から多四郎は叫んだ。
「駕籠しばらく止めるがよい」
 止まった駕籠から多四郎は出て、猪之松の方へ寄って行った。
「抜身をひっさげ何をしているのじゃ」
 云い云いこれも猪之松の横に、これも抜き身を引っさげて、これも苦笑をして佇んでいる赤尾の林蔵をジロリと見、
「そなたは赤尾村の林蔵殿じゃな」
 猪之松が数間走ったので、それに連れて自分も数間走り、猪之松が足を止めたので、自分も足を止めた林蔵は、こう云われて頭を下げ、
「逸見の殿様でございまするか、意外のところでお目にかかり、恐縮至極に存じまする」
 顔見知りの逸見多四郎だったので、こう林蔵は憮然として云った。
 多四郎の方でも林蔵の顔は、以前に見かけて知っていた。それに自分の剣道の弟子たる高萩の猪之松の競争相手――そう云うことも知っていた。で、この場の光景から、心に響くものが少なからずあった。
「猪之松」と鋭い声で云った。
「決闘《はたしあい》か? そうであろう!」
「…………」
 猪之松は頭を下げた。
「猪之松!」と又も多四郎は云った。
「決闘! それもよかろう! ……が決闘したその後において、一体どのような良いことが残るのか?」
「…………」
「決闘! 決闘……さてその結果は一人が死ぬ! ……そうだ一人は殺されるのだ! よくよくのことがなければのう、決闘などするものではない」
「…………」
「理由は何か、云ってみい」
「はい」と猪之松は神妙に云った。
「ここに居りまする林蔵の子分に、藤作と申するものがござりまするが、その者が、わたくしの賭場へ参り、乱暴狼藉いたしましたゆえ、私子分ども腹を控えかね、みんなして袋叩きにいたしましたところ……」
「賭場荒しが原因だな」
「はい、さようでござります」
「みんなして藤作を叩いたといえば、争いは五分々々というものだな」
「まあ左様でございますが……」
「では、どうしてお前たち二人、あらためてここで決闘などするのだ?」
「子分の怨みは上に立つ者の……」
「親分の怨みになるという訳か」
「そればかりでなく、ずっと以前から、林蔵と私とは犬猿もただならず……」


「そのような噂も聞いて居る、がその不和の原因も、要するに縄張りの取り合いとか、勢力争いだということではないか」
「はい左様にござります、が私共渡世人にとっては縄張りと申すもの大切でありまして……」
「一体誰から許されて、縄張りというようなものをこしらえたのじゃ?」
「…………」
「土地はお上、ご領主の物、それをなんぞや博徒風情が、自分の勢力範囲じゃの縄張りじゃのと申し居る」
「…………」
「一体お前たちは、何商売なのじゃ?」
「…………」
「無職渡世などと申しているが、お上で許さぬ博奕をし、法網をくぐって日陰において生くる、やくざもの[#「やくざもの」に傍点]、不頼漢ではないか!」
「…………」
「そういう身分のその方なら、行動など万事穏便にし、刃傷沙汰など決していたさず、謹しんでくらすのが当然じゃ! それをなんぞや決闘とは! ……猪之松、其方《そのほう》はわし[#「わし」に傍点]について剣道を学んだ者だった喃《のう》」
「お稽古いただきましてござります」
「では其方はわし[#「わし」に傍点]の弟子じゃ」
「申すまでもございません」
「直れ!」と多四郎は凄じく云った。
「不肖な弟子を手討ちにいたす!」
 するとこの時まで多四郎の言葉を黙々として聞いていた林蔵が、抜身をソロリと鞘におさめ、つかつかと多四郎の前へ出て云った。
「逸見先生に申し上げまする、私をもお手討ちにして下さいませ」
 首をすっと差しのべた。
「?」
 多四郎はただ林蔵を見詰めた。
「先生の秘蔵弟子の猪之松殿を、不肖におとしましたは、この林蔵にござりまする」
「…………」
「林蔵さえ争いを仕掛けませねば、穏和な高萩の猪之松殿には決闘などいたしはしませぬ」
「…………」
「私をもお手討ち下さりませ」
 そういう林蔵の真面目な顔を、多四郎はつくづく眺めていたが、
「さすがは男、立派なお心! 多四郎ことごとく感心いたしてござる……そこで多四郎よりお願いすることがござる。……林蔵殿、猪之松と和解下さい……」
「…………」
「一つ秩父《ちちぶ》の同じ地方で、それほどの立派な男が二人、両立して争うとはいかにも残念! 戦えば両虎とも傷つきましょう。和解して力を一つにすべきじゃ」
「殿様……」と林蔵は頭を下げた。
「まことにごもっとものお言葉、林蔵身にしみてござります――高萩のに否《いな》やありませねば、私よろこんで和解いたしたく――」
「おお赤尾の俺とて承知だ!」と猪之松も嬉しそうに決然と云った。
「これまでのもつれ[#「もつれ」に傍点]水に流して、二人和解し親しくなろうぜ」
 この時木陰から声がかかった。
「この要介も大賛成じゃ」
 秋山要介が木陰から出て来た。


 そうして、その後からついて来たのは浪之助とそうして源女であった。
 いずれも井上嘉門の領地の一大混乱の渦から遁れ、ここまで下って来たのであった。
 そうして要介は木陰に佇み多四郎の扱いを見ていたのであった。
「猪之松と林蔵との和解は賛成、重ねて逸見殿と拙者との争いも、和解ということになりましょうな」
 磊落な要介はこう云って笑った。
「おおこれは秋山氏が、意外のところでお目にかかりました。林蔵殿と猪之松との和解、貴殿と拙者との武芸争いの和解! いずれをもご賛成下されて逸見多四郎満足でござる」
 多四郎もいかにも嬉しそうに云った。
「それに致しても秋山殿には何用あって、このような所に?」
「それは拙者よりお訊きしたい位で、何用あって逸見殿にはこのような所においでなさるるな?」
「実は井上嘉門殿の屋敷に、滞在いたして居りましたところ……」
「これはこれは不思議なことで、拙者も井上嘉門殿の屋敷に滞在いたして居りましたので……」
「や、さようで、一向存ぜず、彼の地にて御面会いたすこと出来ず、残念至極に存じ申す」
「しかるに今回の騒動! そこで引揚げて参りましたので」
「実は拙者も同様でござる」
 この時嘉門は駕籠から出て、改めて要介へ挨拶をした。
「ここに居りましても致し方ござらぬ、ともかくも福島まで引揚げましょう」
 こう多四郎が云ったので、一同それに同意した。

 一同がこの地から立ち去った後は、またこの地はひとしきり、深い林と月光との、無人の静かな境地となっていた。
 しかし岩陰には陣十郎が負傷に苦しんで呻いていた。
 大岩の陰にいたために、多四郎にも要介にも見あらわされず、そのことは幸福に感じられたが、お妻や源女を見かけながら、どうにもすることが出来なかったことは、彼には残念に思われた。
「ここに居ても仕方がない」
 こう思って彼は立ち上った。
「痛い! 痛い! 痛い!」と声をあげ、陣十郎はすぐに仆れ、右の足の膝の辺りを抑えた。
「あッ……膝の骨が砕けて居るわ」

 やがて秋が訪れて来た。
 御三家の筆頭尾張家の城下、名古屋の町にも桜の葉などが風に誘われて散るようになった。
 この頃知行一万石、石河原《いしかわら》東市正のお屋敷において月見の宴が催され、家中の重臣や若侍が、そのお屋敷に招かれていた。
 竹腰但馬、渡辺半左衛門、平岩|図書《ずしょ》、成瀬|監物《けんもつ》、等々の高禄の武士たちは、主人東市正と同席し、まことに上品におとなしく昔話などに興じていたが、若侍たちは若侍たちで、少し離れた別の座敷であたかも無礼講の有様で、高笑、放談、自慢話――女の話、妖怪変化の話、勝負事の話などに興じていた。
 と佐伯勘六という二十八九歳の侍が、
「辻斬の噂をお聞きかな」と、一座を見廻して云い出した。

月見の宴で


「辻斬の噂、どんな辻斬で?」と前田主膳という武士が訊いた。
「撞木杖をついた跛者《びっこ》の武士が辻斬りをするということで厶《ござ》るが」
「その噂なら存じて居ります」
「不思議な太刀使いをするそうで」
「こうヒョイと車に返し、すぐにドッと胴輪切りにかける――ということでありますそうで」
 この話はこれで終ってしまった。
 盃が廻り銚子が運ばれ、お酌の美しい若衆武士が、華やかに座を斡旋して廻った。
「拙者数日前備前屋の店頭で、長船《おさふね》の新刀をもとめましたが、泰平のご時世試し斬りも出来ず、その切れ味いまに不明、ちと心外でございますよ」
 と、川上|嘉次郎《かじろう》という武士が云って、酔った眼であたりを見廻した。
「貴殿も新刀をおもとめか、実は拙者ももとめましてな……相州物だということで厶るが、やはり切れ味は不明で厶る」
 こう云ったのは二十五六才の、古巣右内という武士であった。
「ナーニ切れ味を知りたいとなら、近くの大曾根の田圃へ行き、乞食でも斬れば知れ申すよ」と柱に背中をもたせかけて、赧顔を燈火に照し、少し悪酔をしたらしい、金田一新助という武士が云い、
「近来お城下に性のよくない、乞食が殖えたようで、機会あるごとにたたっ斬った方がよろしい」
「なるほどこれは妙案で厶るな」
「乞食なら斬ってもよろしかろう」と二三人の武士が雷同した。しかしこの話もこれで終り、女の話へ移って行った。
「拙者ひどい目に逢いましたよ」
 瀬戸金彌という二十二三の武士が、苦笑いしながら話し出した。
「数日前の夜で厶るが、大須の境内を歩いて居りますと、若い女が来かかりました。あの辺りのことで厶るによって、夜鷹でもあろうと推察し、近寄ってヒョイと手を取りましたところ、その手を逆に返されまして、途端に拙者ころびましたが、どうやら女に投げられたようで」
「アッハッハッ」と一同は笑った。
「女をころばすのは判っているが、女にころばされるとはサカサマじゃ」
「そこが色男の本性かな」
「その女|柔術《やわら》でも出来るのかな?」
「さようで」と金彌という武士は云った。
「零落をした武家の娘――と云ったような様子でござった。身装は穢くありましたが、顔や姿は美しく上品でありましたよ」
 この時川上嘉次郎と、古巣右内とが囁き合い、金田一新助へ耳うち[#「うち」に傍点]をした。すると新助はニヤリと笑い、二三度頷いて立ち上り、つづいて嘉次郎と右内とが立ち、こっそり部屋を出て行った。
 雑談に余念[#「余念」は底本では「余年」]のない一座の者は、誰もそれに気がつかなかったが、床柱に背をもたせかけコクリコクリと居眠りをしていた、秋山要介一人だけが、この時ヒョイと眼をあげて、三人の姿を見送って、審しそうに眉をひそめた。
 しかし眉をひそめただけで、声もかけず立っても行かず、また直ぐに眼を閉じて、長閑《のどか》そうに居眠りをつづけ出した。


 何故要介がこんな所にいるのか? 福島の馬市が首尾よく終えるや、赤尾の林蔵と高萩の猪之松とは、和解したので親しくなり、打ち連れ立って故郷へ帰った。
 そこで要介は門弟の浪之助へ、源女を附けて江戸へ帰し、自分一人だけが名古屋へ来た。
 尾張家の重臣|諌早《いさはや》勘兵衛が、要介の知己であるからであり、せっかく福島まで来たのであるから、久々で名古屋へ出かけて行き、諌早殿にお目にかかり、お城下見物をすることにしようと、そこで出かけて来たのであった。
 秋山要介の高い武名は、尾張藩にも知られていたので、今夜の宴にも勘兵衛と一緒に、要介は石河原家へ招かれた。
 最初要介は重臣たちとまじり、別の部屋で談笑していたのであったが、磊落の彼にはそういう座の空気がどうにも窮屈でならなかった。
 そこでそっと辷り出て、若侍たちのいるこの部屋へ来て、若侍たちの話を聞いているうちにトロトロと居眠りをやり出したのである。
 夜は次第に更けて来たが、酒宴は容易に終りそうもなく、人々の気焔はいよいよあがった。
 と、その部屋を出て行った、古巣右内という若侍が、蒼白《まっさお》な顔をして帰って来た。
「どうしたどうした」
「顔色が悪いぞ」
「今までどこへ行っていたのだ」
 と若侍たちは口々に訊いた。
「面目次第もないことを仕出来《しでか》しまして」
 右内は震える口で云った。
「新刀の試し切りいたそうと存じて、川上氏と金田一氏共々、大曾根の乞食小屋まで参りましたところ、一つの小屋の菰垂れの裾より、白刃ひらめきいでまして、あの豪勇の金田一氏が、片足を斬り落とされまして厶《ござ》りまする」
「なに乞食に金田一氏が……」
 若侍たちは森然としてしまった。
 それというのは金田一新助は、尾張藩の中でもかなりの使い手として、尊敬されている武芸者だからであった。
「そこで拙者と川上氏とで、金田一氏お屋敷まで、金田一氏をお送りいたし、川上氏はそのまま止まり、拙者一人だけ帰って参ったので厶るが……」と古巣右内は面目なさそうに云った。
 一同は何とも云わなかった。
 同僚が斬られたというのであるから、本来なれば出かけて行って、復讐すべきが当然なのであるが、相手が武士《ぶし》であろうことか、乞食小屋の乞食だというのであるから、討ち果したところで自慢にもならず、もし反対に討たれでもしたら――相手は随分強そうであるから、――討たれでもしたら恥辱の恥辱である。
 で黙っているのであった。
 この時要介はヒョイと立った。
 そうして部屋を出て行った。

 満月の光を浴びながら、秋山要介は大曾根の方へ、静かな足どりで歩いて行った。
 まだこの辺りは屋敷町で、昼もひっそりとしたところなのであるが、更けた夜の今はいよいよ寂しく歩く人の足音もなく、歩く人の姿もなかった。

疑い合う兄妹


 この夜大曾根の農家の一間に、兄妹の者が話していた。
 主水《もんど》とそうして澄江《すみえ》とであった。
 馬大尽井上嘉門の領地の、あの生地獄へ落された澄江が、どうしてこんな所に来ているかというに、あの夜暴民たちはその生地獄の上の、断崖へ押しよせて行き、生地獄にいる人々を助けようとして、幾筋となく綱を下ろした。
 それへ縋って地獄の人々は、あの谷から引き揚げられた。
 その中に澄江もいたのであった。
 そうして暴動の人渦に雑って、嘉門の領地をさまよっているうちに、幸運にも義兄の主水と逢った。
 その時の二人の喜びは!
 互いの過去を物語り、巡り逢えた幸運を感謝しながら、井上嘉門の領地を遁れ、まず福島の宿《しゅく》へ来た。
 そこで陣十郎の消息を尋ねた。
 名古屋の城下へ行ったらしかった。
 で、兄妹は連れ立って、名古屋へ来たのであって、この地へ来ると主水と澄江とは、とりあえず旅籠《はたご》に逗留して、陣十郎の行方《ゆくえ》を尋ねた。
 が、城下はなかなかに広く、行方を知ることが出来なかった。
 それにこれまでの艱難辛苦で、主水の躰も澄江の躰も、疲労困憊を尽くしていた。
 静養しなければならなかった。
 それに旅用の金子なども、追々少なくなって来たので、城下の旅籠を引払い、農家の離家を借り受けて、そこへ移って自炊をし、敵《かたき》の行方を尋ねると共に、身体をいたわることにした。
 鳴きしきる虫の音に時々まじって、木葉の落ちるしめやかな音が、燈火の暗い古びた部屋へ、秋の寂しさを伝えて来た。
「お兄様ご気分はいかがですか?」
 心配そうに澄江は訊いた。
「うむ、どうもよくないよ」
 主水はこの頃病気なのであった。
 と云ってもこれといって、心臓とか肺臓とか、そういうものの病気ではなく、気鬱の病気にかかっているのであった。
(澄江が水品陣十郎と、寝泊りをして旅をして来たとは!)
 このことが気鬱の原因であった。
 互いに過去の話をした時、このことを澄江は主水に話し、寝泊りして旅こそして来たが、躰に――貞操には欠けるところがないと、このことについては力説した。そこで主水もお妻と一緒に、寝泊りをして旅をして来たことを、きわめて率直に打ちあけて、そうしてやはり肉体的には、なんら欠点のないということを、澄江が安心するように話した。
 艱難辛苦をしたあげく、久しぶりで逢った主水と澄江とは、その邂逅に歓喜して、疑わしい過去のそういう生活をも、疑うことなく許し合った。
 が、その歓喜がやがて消えて、平静の生活に返って来ると、相互にこのことが疑われ出した。
 二人は兄妹とはいうものの、行く行くは夫婦になるべきところの、義兄妹であり許婚《いいなずけ》であった。
 そうして水品陣十郎が、父庄右衛門を殺害《さつがい》したのは、澄江に横恋慕した結果からのはずだ。
 その陣十郎と二人だけで、寝泊りして旅をして来たという!
 主水は苦悶せざるを得なかった。


 主水が苦悶すると同じように、澄江も苦悶せざるを得なかった。
(あの好色のお妻という女と、一つ宿に寝泊りして、旅をして幾日か来たからには、ただではすむべきはずがない。情交があるものと思わなければならない)
 苦悶せざるを得ないのであった。
 そういう二人の心持を――その苦しい心持を、カラリと晴らす方法はといえば、陣十郎とお妻とが現われて来て、その二人が自分の口から、そういう関係のなかったということを、証明するより外はなかった。
 ところが二人は二人ながら、主水たちの敵であり、その行衛《ゆくえ》は未だに知れない。従って二人の苦しい心持の、解け消える機会はないのであった。
「澄江殿」と他人行儀の、冷い口調で主水は云った。
「長の月日お父上の敵、陣十郎めを討とう討とうと、千辛万苦いたしても、今に討つことならぬとは、われわれ二人神や仏に、見放された結果かもしれませぬ……将来どのように探そうとも、陣十郎の行衛結局知れず……知れず終《じま》いになろうもしれませぬ……わしにとっては無念至極ではござるが、澄江殿にとってはその方が、かえってよいかもしれませぬのう……アッハッハッよいともよいとも!」
「…………」
 澄江は返事をもせず首垂れていた。
(また皮肉を仰有《おっしゃ》ると見える。……わたしはもう何にも云うまい)
 こう思って黙っているのであった。
「のう澄江殿」と又主水は、意地の悪い調子で云いつづけた。
「わしには不思議でなりませぬよ……お父上の敵の陣十郎と、一緒に旅をして居りながら、その敵を討って取ろうと、一太刀なりと加えなかったとは」
「…………」
「弱い女の身にしてからが、同じ部屋に寝泊りして来た以上、相手の眠りをうかがって、討ちとる機会はありましたはずじゃ……それを見遁して討たなかったからには、討てない理由があったものと……」
「…………」
「わしは不幸だ!」と不意に主水は、昂奮して血走った声で叫んだ。
「敵に肌身を穢された女を、妻にしなければならないとは!」
「あなた!」と澄江は顔色を変え、躰をワナワナ顫わせて、腹に据えかねたように叫び返した。
「以前にも再々申しましたとおり、陣十郎と連立って、道中旅をして参りましたは、秩父の高萩の猪之松の家で、馬大尽の井上嘉門に、すんでに肌身穢されようとしたのを、陣十郎に助けられましたからで……恩は恩、仇は仇、なんのお父上の敵などに、この肌身を穢させましょうや……道中陣十郎を見遁しましたは、助けられた恩からでございます……それにいたしましても貴方《あなた》様に――未来の良人のあなた様に、そのようなことを疑われましては、生きて居る望みござりませぬ! 死にます死にます妾は死にます!」
 いきなり刀を取って抜いた。


 主水は仰天して腕を伸ばし、その抜身をもぎ取った。
 澄江は畳へ額をつけ、ひた泣きに泣くばかりであった。
 抜身を鞘へそっと納め、手の届かない遠くへ押しやり、主水も腕を組んで考え込んだ。
(地獄の苦しみだ)とそう思った。
(こういう苦しみをするというのも、みな水品陣十郎のためだ)
 またここへ考えが落ちて行った。
(どうともして早くあいつの居場所を、探り知って討ち取りたいものだ)
(旅用の金も残り少なになった)
 このことも随分辛いのであった。
 胸は苦しく頭痛さえして来た。
 不意に主水は立ち上り、障子をあけ、雨戸をあけ、縁に立って戸外を見た。
 一跨ぎにも足りない竹垣をへだて、向かいはずっと田畑であり、月の光が農作物の上に、水銀のように照っていた。
 でも一方右手の方には、逸見《へんみ》三家中の名古屋逸見家の、大旗本の下屋敷のような、宏大な屋敷の一部が、黒く厳めしく立っていて、それが月光を遮っているので、その辺り一体が暗く見えていた。
(ああいう所には有り余る金が、腐るほど死蔵されているのだろうなあ)
 ふとこんなことが思われて、主水はその方を眺めやった。

 秋山要介は屋敷町を抜けて、大曾根の方へ歩いていた。
 尾張家の相当の使い手の武士を、乞食風情で小屋の裾から、一刀に足を斬ったという――このことが要介には不思議でならず、いずれその乞食は武士あがりの、名ある人間に相違ない、人物を見素性を知りたいものだ、それに自分が武芸者だけに、研究心と好奇心とから、その乞食と逢おうために、酒宴の席から抜け出して、こうして歩いて来たのであった。
 そして大曾根に辿りついた。
 飛々に農


「や、これは!」とさすがの要介も、郷士ながらも所の領主、松平|大和守《やまとのかみ》には客分にあつかわれ、新羅《しんら》三郎|義光《よしみつ》の後胤甲斐源氏の名門であり、剣を取らせては海内の名人、しかも家計は豊かであって、倉入り千俵と云われて居り、門弟の数|大略《おおよそ》二千、そういう人物の逸見多四郎が、気軽にこのような旅籠屋などへ、それも留守の間に道場の看板、門の大札[#「大札」は底本では「大礼」]を外して行ったところの、要介を訪ねて来ようなどとは、要介本人思いもしなかったところへ、そのように気軽に訪ねて来られたので、さすがに驚いて立ち上った。
「これはこれは逸見先生、わざわざご来訪下されましたか。いざまずこれへ! これへ!」
「しからばご免」と仙台平の袴に、黒羽二重の衣裳羽織、威厳を保った多四郎は、静かに部屋の中へ入って来た。
 座が定《き》まってさて挨拶! という時に要介の機転、床の間に立ててあった例の門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、恭しく抱えて持って来るや、前へ差し出しその前に坐り、
「実は其《それがし》先生お屋敷へ、本日参上いたしましたところ、江戸へ参ってご不在との御事。と、いつもの悪い癖が――酔興とでも申しましょうか、悪い癖がムラムラと起こりまして、少しく無礼とは存じましたが、門弟の方へ一応断わり、この大門札[#「門札」は底本では「門礼」]ひき外し、旅舎まで持参いたしました、がしかし決して粗末にはいたさず、床の間へ立てかけ見事の筆蹟を、打ち眺め居りましてござります。が、それにしてもこの門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、ひき外し持参いたしましたればこそ、かかる旅舎などへ先生ほどのお方を、お招きすること出来ました次第、その術策|的中《あた》りましてござるよ。ハッハッハッ」と笑ったが、それは爽かな笑いでもあった。
 と、多四郎もそれに合わせ、こだわらぬ爽かな笑い声を立てたが、
「その儀でござる、実は其《それがし》所用あって江戸へ参り、三日不在いたしまして、先刻帰宅いたしましたところ、ご高名の秋山先生が、不在中三回もお訪ね下され、三回目の本日門の札を[#「札を」は底本では「礼を」]、ひき外しお持ちかえりなされたとのこと、門弟の一人より承《うけたま》わり、三回のご来訪に恐縮いたし、留守を申し訳なく存じますと共に、その門弟へ申したような次第――、門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]外して持ち去った仁、秋山要介先生でよかった。他の仁ならこの多四郎、決して生かして置きませぬ。秋山要介先生でよかった。その秋山先生は、奇嬌洒脱の面白い方じゃ、いまだ一度もお目にかからぬが、勇ましいお噂は承って居る。五百石といえば堂々たる知行、その知行取りの剣道指南役の、嫡男の身に産れながら、家督を取らず浪人し、遊侠の徒と交際《まじわ》られ、権威に屈せず武威に恐れず、富に阿《おも》ねらず貧に恥じず、天空海濶に振舞われる当代での英傑であろう。門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]持って行かれたも、単なる風狂に相違ない。宿の小紅屋に居られるなら、早速参ってお目にかかろうとな。――そこで参上いたしたような次第、お目にかかれて幸甚でござった」
「杉氏どうじゃな」と要介は、浪之助の方へ声をかけた。


「人物は人物を見抜くと云ったが、どうじゃ杉氏、その通りであろう」
 こう云ったがさらに要介は、多四郎の方へ顔を向け、
「ここに居られるは杉浪之助殿|某《それがし》の知己友人でござる。門札[#「門札」は底本では「門礼」]外して持ち参ったことを、ひどく心配いたしましたについて、いや拙者だからそれはよい、余人ならばよろしくないと云うことは逸見先生もご存知、人物は人物を見抜くものじゃと、今し方申して居りました所で、……杉氏何と思われるな?」
「ぼんやり致しましてござります」
 浪之助はこう云うと、恰も夢から醒めたように、眼を大きくして溜息を吐いた。
「鳳凰《ほうおう》と麒麟《きりん》! 鳳凰と麒麟! 名優同志の芝居のようで。見事のご対談でございますなあ」
 逸見多四郎がやって来た! さあ大変! 凄いことが起こるぞ! 激論! 無礼咎め! 切合い! 切合い! と、その瞬間思ったところ、事は全く反対となり、秋山先生で先ずよかった! ……ということになってしまい、十年の知己ででもあるかのように、笑い合い和み合い尊敬し合っている。で浪之助は恍惚《うっとり》として、両雄の対談を聞いていたのであった。
「酒だ」と要介は朗かに云った。
「頼みある兵《つわもの》の交際に、酒がなくては物足りぬ。酒だ! 飲もう! 浪之助殿、手を拍って女中をお呼び下され!」
「いや」と多四郎は手を振って止めた。
「酒も飲みましょう。がしかし、酒は場所を変えて飲みましょう」
「場所を変えて? はてどこへ?」
「拙者の屋敷で。……云うまでもござらぬ」
「要介のまかり在るこの屋敷、さてはお気に入らぬそうな」
「いやいや決して、そういう訳ではござらぬ。……が、最初にご貴殿において、お訪ね下されたのが拙者の屋敷、言って見れば先口で。……ではその方で飲むのが至当。……」
「ははあなるほど、それもそうじゃ」
「ということと存じましたれば、駕籠を釣らせてお宿の前まで、既に参って居りますので」
「それはそれはお手廻しのよいこと。……がしかし拙者といたしましては、ご貴殿のお屋敷におきましては、酒いただくより木刀をもって、剣道のご指南こそ望ましいのでござる」
「云うまでもござらぬ剣道の試合も、いたしますでござりましょう」
「その試合じゃが逸見先生、尋常の試合ではござらぬぞ」
「と申してまさかに真剣の……」
「なんのなんの真剣など。……実は賭試合がいたしたいので」
「ナニ賭試合? これは面妖! 市井の無頼の剣術使いどもが、生活《くらし》のために致すような、そのような下等の賭試合など……」
「賭る物が異《ちが》ってござる」
「なるほど。で、賭物は?」
「拙者においては赤尾の林蔵!」
「赤尾の林蔵を? 赤尾の林蔵を? ふうん!」と云ったが多四郎は、じっと要介の顔を見詰めた。


「博徒ながらも林蔵は、拙者の剣道の弟子でござる」
 要介はそう云って意味ありそうに、多四郎の顔を熟視した。
「その林蔵をお賭になる。……では拙者は何者を?」
 いささか不安そうに多四郎は云って、これも要介を意味ありそうに見詰めた。
「高萩村の猪之松を、お賭下さらば本望でござる」
「彼は拙者の剣道の弟子……」
「で、彼をお賭け下され」
「賭けて勝負をして?」
「拙者が勝てば赤尾の林蔵を、関東一の貸元になすべく、高萩村の猪之松を、林蔵に臣事いたさせ下され」
「拙者が勝たば赤尾の林蔵を、高萩の猪之松に従わせ、猪之松をして関東一の……」
「大貸元にさせましょう」
「ははあそのための賭試合?」
「弟子は可愛いものでござる」
「なるほどな」と多四郎は云ったが、そのまま沈黙して考え込んでしまった。
 林蔵と猪之松とが常日頃から、勢力争いをしていることは、多四郎といえども知っていた。その争いが激甚となり、早晩力と力とをもって、正面衝突しなければなるまい――という所まで競り詰めて来ている。ということも伝聞していた。とはいえそのため秋山要介という、一大剣豪が現われて、師弟のつながりを縁にして、自分に試合を申し込み、その勝敗で二人の博徒の、勢力争いを解決しようなどと、そのような事件が起ころうなどとは、夢にも思いはしなかった。
(何ということだ!)と先ず思った。
(さてどうしたものだろう?)
 とは云え自分も弟子は可愛い、成ろうことなら林蔵を挫いて、猪之松を大貸元にしてやりたい。
(では)と思わざるを得なかった。
(では要介の申し込みに応じ、賭試合を行ない打ち勝ってやろう)
 腹が決まると堂々たるもので、逸見多四郎は毅然として云った。
「賭試合承知いたしてござる。しからば直ちに拙者屋敷に参り、道場においてお手合わせ、試合いたすでござりましょう」
「欣快」
 要介は立ち上った。
「杉氏、貴殿もおいでなされ」
 三人揃って部屋を出た。

 逸見多四郎家のここは道場。――
 竹刀《しない》ではない木刀であった。
 要介と多四郎とは構えていた。
 一本勝負!
 そう定められていた。
 二人ながら中段の構え!
 今、シ――ンと静かである。
 かかる試合に見物は無用と、通いの門弟も内門弟も、一切退けてのただ二人だけ! いや他に杉浪之助と、要介の訪問に応待に出た、先刻の若侍とが道場の隅に、つつましく控えて見守っていた。

10
 見霞むばかりの大道場、高く造られある正面は、師範の控える席であり、それに向かって左の板壁には、竹刀《しない》、木刀、槍、薙刀《なぎなた》、面、胴、籠手の道具類が、棚に整然と置かれてあり、左の板壁には段位を分けた、漆塗りの名札がかけてあった。
 塵もとどめぬ板敷は、から[#「から」に傍点]拭きされて鏡のように光り、おりから羽目板の隙間から、横射しに射して来た日の光りが、そこへ琥珀色の棒縞を織り、その空間の光の圏内に、ポッと立っている幽かな塵埃《ほこり》は、薄い煙か紗のようであった。
 互いに中段に位取って動かぬ、要介と多四郎は広い道場の、中央に居るところから、道場の端に腰板を背にして、端座している浪之助から見ると、人形のように小さく見えた。
 おおよそ六尺の間隔を保ち、互いに切先を相手の眉間へ、ピタリと差し付けて構えたまま、容易に動こうとはしなかった。
 道具を着けず木刀にての試合に、まさに真剣の立合いと、何の異なるところもなく、赤樫蛤刃《あかがしはまぐりは》の木刀は、そのまま真《まこと》の剣であり、名人の打った一打ちが、急所へ入らば致命傷、命を落とすか不具《ふぐ》になるか、二者一つに定《き》まっていた。
 とはいえ互いに怨みあっての、遺恨の試合というのではなく、互いの門弟を引っ立てようための義理と人情とにからまった、名人と名人との試合であった。自然態度に品位があり、無理に勝とうの邪心がなく、闘志の中に礼譲を持った、すがすがしい理想的の試合であった。
 今の時間にして二十分、構えたままで動かなかった。
 掛声一つかけようとしない。
 掛声にも三通りある。
 追い込んだ場合に掛ける声。相手が撃って出ようとする、その機を挫《くじ》いて掛ける声、一打ち打って勝利を得、しかも相手がその後に出でて、撃って来ようとする機を制し、打たせぬために掛ける声。
 この三通りの掛声がある。
 しかるに二人のこの試合、追い込み得べき機会などなく、撃って出ようとするような、隙を互いに見せ合わず、まして一打ち打ち勝つという、そういうことなどは絶対になかった。
 で、二人ながら掛声もかけず、同じ位置で同じ構えで、とはいえ決して居附きはせず、腹と腹との業比べ、眼と眼との睨み合い、呼吸と呼吸との抑え合い、一方が切先を泳がせれば、他の一方がグッと挫き、一方が業をかけようとすれば、他の一方が先々ノ先で、しかも気をもって刎ね返す、……それが自ずと木刀に伝わり、二本の木刀は命ある如く、絶えず幽かにしかし鋭く、上下に動き左右に揺れていた。
 更に長い時が経った。
 と、要介の右の足が、さながら磐石をも蹴破るてい[#「てい」に傍点]の、烈しさと強さと力とをもって、しかもゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]と充分に粘り、ソロリとばかり前へ出て、左足がそれに続いた。
 瞬間多四郎の左足が、ソロリとばかり後へ下り、右足がそれに続いた。
 で 間だ! 静止した。
 長い間! ……しかし……次の瞬間……ドドドドッという足音が響いた。

11
 奔流のように突き進む要介!
 追われて後へ退く多四郎!
 ドドドドッという二人の足音!
 見よ、その速さ、その鋭さ!
 あッ、多四郎は道場の端、板壁へまで追い詰められ、背中を板壁へあてたまま、もう退けない立ち縮んだ。
 その正面へ宛然《さながら》巨岩、立ちふさがったは要介であった。
 勝負あった!
 勝ちは要介!
 非ず、見よ、次の瞬間、多四郎の胸大きく波打ち、双肩渦高く盛り上ると見るや、ヌッと一足前へ出た。
 と、一足要介は下った。
 多四郎は二足ヌッと出た。
 要介は退いた。
 全く同じだ!
 ドドドドッという足音!
 突き進むは多四郎、退くは要介、たちまちにして形勢は一変し、今は要介押し返され、道場の破目板を背に負った。
 で、静止!
 しばらくの間!
 二本の剣が――木刀が、空を細かく細かく細かく、細かく細かく刻んでいる。
 多四郎勝ちか?
 追い詰め了《りょう》したか?
 否!
 ソロリと一足下った。
 追って要介が一足出た。
 粘りつ、ゆっくりと、鷺足さながら、ソロリ、ソロリ、ソロリ、ソロリと、二人は道場の中央まで出て来た。
 何ぞ変らざる姿勢と形勢と!
 全く以前と同じように、二人中段に構えたまま、見霞むばかりの大道場の、真中の辺りに人形のように小さく、寂然と立ち向かっているではないか。
 さすがに二人の面上には、流るる汗顎までしたたり、血上って顔色朱の如く、呼吸は荒くはずんでいた。
 窒息的なこの光景!
 なおつづく勝負であった。
 試合はつづけられて行かなければならない。
 が、忽然そのおりから、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秩父の郡《こおり》
小川村
逸見様庭の
桧の根
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 と、女の歌声が道場の外、庭の方から聞こえてきた。
「しばらく!」と途端に叫んだ要介、二間あまりスルスルと下ると、木刀を下げ耳を澄ました。
「…………」
 審かしそうに体を斜めに、しかし獲物は残心に、油断なく構えた逸見多四郎、
「いかがなされた、秋山氏?」
「あの歌声は? ……歌声の主は?」
「ここに控え居る東馬共々、数日前に、絹川において、某《それがし》釣魚《ちょうぎょ》いたせし際、古船に乗って正体失い、流れ来たった女がござった[#「ござった」は底本では「ごさった」]。……助けて屋敷へ連れ参ったが、ただ今の歌の主でござる」

12
「名は? 源女! お組の源女! ……と申しはいたしませぬか?」
「よくご存知、その通りじゃ」
「やっぱりそうか! そうでござったか! ……有難し、まさしく天の賜物! ……その女こそこの要介仔細ござって久しい前より、保護を加え養い居る者、過日上尾の街道附近で、見失い失望いたし居りましたが、貴殿お助け下されたか。……源女拙者にお渡し下され」
「ならぬ!」と多四郎ニベもなく云った。
「源女決して渡すことならぬ!」
「理由は? 理由は? 逸見氏?」
「理由は歌じゃ、源女の歌う歌じゃ!」
「…………」
「今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の……後にも数句ござったが、この歌を歌う源女という女子、拙者必要、必要でござる!」
「なるほど」と要介は頷いて云った。
「貴殿のお家に、逸見家に、因縁最も深き歌、その歌をうたう源女という女、なるほど必要ござろうのう……伝説にある埋もれたる黄金、それを掘り出すには屈竟の手蔓……」
「では貴殿におかれても?」
「御意、さればこそ源女をこれ迄……」
「と知ってはいよいよ源女という女子《おなご》、お渡しいたすことなりませぬ」
「さりながら本来拙者が保護して……」
「過ぐる日まではな。がその後、見失いましたは縁無き證拠。……助けて拙者手に入れたからは、今は拙者のものでござる」
「源女を手蔓に埋もれし黄金を、では貴殿にはお探しなさるお気か?」
「その通り、云うまでもござらぬ」
「では拙者の競争相手!」
「止むを得ませぬ、因縁でござろう」
「二重に怨みを結びましたな!」
「ナニ怨みを? 二重に怨みを?」
「今は怨みと申してよかろう! ……一つは門弟に関する怨み、その二は源女に関する怨み!」
「それとても止むを得ぬ儀」
「用心なされ逸見氏、拙者必ず源女を手に入れ、埋もれし黄金も手に入れましょう」
「出来ましたなら、おやりなされい!」
「用心なされ逸見氏、源女を手に入れ埋もれし黄金を、探し出だそうと企て居る者、二人以外にもござる程に!」
「二人以外に? 誰じゃそ奴?」
「貴殿の門弟、水品陣十郎!」
「おお陣十郎! おお彼奴《きゃつ》か! ……弟子ながらも稀代の使い手、しかも悪剣『逆ノ車』の、創始者にして恐ろしい奴。……彼奴の悪剣を破る業、見出だそうとこの日頃苦心していたが、彼奴が彼奴が源女と黄金を……」
「逸見氏、お暇申す」
「勝負は? 秋山氏、今日の勝負は?」
「アッハハ、後日真剣で!」

因果な恋


 高萩村の村外れに、秩父|香具師《やし》の部落があり、「|刃ノ郷《やいばのごう》」と称していた。三十軒ほどの人家があり、女や子供や老人などを入れ、百五十人ほどの半農半香具師が、一致団結して住んでいた。
 郷に一朝事が起こり、合図《しらせ》の竹法螺がボーッと鳴ると、一切の仕事を差し置いて、集まるということになっていた。
 弁三爺さんという香具師の家は、この郷の片隅にあった。
 茅葺の屋根、槇の生垣、小広い前庭と裏の庭、主屋、物置、納屋等々、一般の農家と変わりのない家作、――ただし床ノ間に鳥銃一挺、そうして壁に半弓一張、そういう武器が懸けてあるのは、本来が野士といって武士の名残――わけても秩父香具師は源氏の正統、悪源太義平から来ていると、自他共に信じているそれだけあって、普通の農家と異《ちが》っていた。
 秋山要介と逸見多四郎とが、多四郎の道場で、木刀を交した、その日から数日経過したある日の、こころよく晴れた綺麗な午後、ここの庭に柿の葉が散っていた。
 その葉の散るのをうるさ[#「うるさ」に傍点]そうに払って、お妻が庭へ入って来た。
「いい天気ね、弁三爺さん」
 母屋の縁側に円座を敷き、その上に坐って憂鬱の顔をし、膏薬を練っていた弁三爺さんは、そう云われてお妻の顔を見た。
「よいお天気でございますとも……へい、さようで、よいお天気で」
 ――そこで又ムッツリと家伝の膏薬を、節立った手で練り出した。
 お妻は眉をひそめて見せたが、
「日和が続いていい気持だのに、爺つぁんはいつも不機嫌そうね」
「へい、不機嫌でございますとも、倅が江戸へ出て行ったまま、帰って来ないのでございますからな」
「またそれをお云いなのかえ。ナーニそのうち帰って来るよ」とは云ったものの殺された倅、弁太郎が何で帰るものかと、心の中で思っているのであった。
(あの人を殺したのは陣十郎だし、殺すように進めたのは妾だったっけ)
 こう思えばさすがに厭な気がした。
 まだお妻がそんな邯鄲師《かんたんし》などにならず、この郷に平凡にくらしていた頃から、弁太郎はひどくお妻を恋し、つけつ[#「つけつ」に傍点]廻しつして口説いたものであった。その後お妻は故郷を出て、今のような身の上になってしまった。と、ヒョッコリ[#「ヒョッコリ」は底本では「ヒョッコり」]弁太郎が、膏薬売となって江戸へ出て来、バッタリお妻と顔を合わせた。爾来弁太郎は附き纏い、長い間の恋を遂げようとし、お妻の現在の身分も探ぐり、恋遂げさせねば官に訴え、女邯鄲師として縄目の恥を、与えようなどと脅迫さえした。お妻は内心セセラ笑ったが、うるさいから眠らせてしまおうよ、こう思って情夫の陣十郎へケシカケ、一夜お茶ノ水へ引っ張り出し、一刀に切らせてしまったのであった。
 杉浪之助が源女の小屋から、自宅へ帰る途中《みちすが》らに見た、香具師の死骸は弁太郎なのであった。
「爺つぁん、主水さんのご機嫌はどう?」お妻は話を横へそらせた。


「あのお方もご機嫌が悪そうで」
 弁三はそう云って俯向いて、物憂そうに膏薬を練った。
「出て行きたそうなご様子はないかえ?」
「出て行きたそうでございますなあ」
「出て行かしちゃアいけないよ」
「というお前さんの云いつけだから、せいぜい用心しては居りますがね」
「行かせたらあたしゃア承知しないよ」
 剃刀《かみそり》のような眼でジロリと見た。
「手に合わなけりゃア仕方がねえ、ボーッと竹法螺吹くばかりだ」
「と、村中の出口々々が、固められるから大丈夫だねえ。でもそういった大袈裟なこと、あたしゃアしたくはないのだよ」
「ご尤《もっと》もさまでございます」
「どれご機嫌を見て来よう」
 腰かけていた縁から立って、お妻は裏の方へ廻って行った。
(凄い女になったものさな)
 お妻の後を見送りながら、そう弁三爺さんは思った。
 以前この郷に居た時分は、度胸こそあったが可愛いい無邪気な綺麗な娘っ子に過ぎなくて、この家などへもノベツに来て、お爺さんお爺さんと懐かしがってくれたお妻、それがどうだろう陣十郎とかいう浪人者と手をたずさえて、今度やって来た彼女を見れば、縹緻も上ったがそれより何より、人間がすっかり異《ちが》ってしまっていて、腕には刺青眼には殺気、心には毒を貯えていて、人殺しぐらいしかねまじい姐御、だいそれた[#「だいそれた」に傍点]女になっているではないか。
(陣十郎とかいうお侍さん、随分怖そうなお侍さんだが、あんな人の眼をこっそり盗んで、鴫澤主水《しぎさわもんど》とかいうお侍さんを、こんな所へ隠匿《かくま》うなんて……血腥さい[#「血腥さい」は底本では「血醒さい」]事件でも起こらなけりゃアいいが)
 これを思うと弁三爺さんは、不安で恐ろしくてならなかった。
 数日前のことであった、そのお侍さんを駕籠に乗せて、宵にこっそりやって来て、
「このお侍さんを隠匿っておくれ、村の者へも陣十郎さんへも、誰にも秘密《ないしょ》で隠匿っておくれ、昔馴染みのお前さんのとこより、他には隠し場所がないんだからねえ」
 こうお妻が余儀なげに云った。
 見ればどうやらお侍さんは、半分死んででもいるように、気息奄々憔衰していた。
「へい、それではともかくも……」
 こう云って弁三は引き受けた。
 と、翌日から毎日のように、お妻はやって来て介抱した。
(どういう素性のお侍さんなのかな?)
(お妻さんとの関係はどうなんだろう?)
 解《わか》らなかったが不安であった。
 婆さんには死に別れ、たった一人の倅の弁太郎は江戸に出たまま帰って来ない。ただでさえ不安で小寂しいところへ、そんなお侍さんをあずかったのである。
 弁三爺さんは憂鬱であった。
 黙々と膏薬を練って行く。
 ヒョイと生垣の向こうを見た。
「あッ」と思わず声をあげた。
 陣十郎が蒼白い顔を、気味悪く歪めて生垣越しに、じっとこっちを見ているではないか。
(さあ大変! さあ事だ!)


「おい」と陣十郎は小声で呼んだ。
「おい爺《とっ》つぁん、ちょっと来てくんな」
 生垣越しに小手招きした。
 裏の座敷にはお妻がいるはずだ。
「へい」とも返辞が出来なかった。
 顫えの起こった痩せた体を、で弁三はヒョロヒョロと立たせ、庭下駄を穿くのもやっとこさで、陣十郎の方へ小走って行った。
 生垣を出ると村道である。
 と、陣十郎がしゃがみ[#「しゃがみ」に傍点]込んだので、向かい合って弁三もしゃがみ込み、
「へ、へい、これは水品様……」
「爺つぁん、お妻が来たようだね」
「オ、お妻さんが……へい……いいえ」
「へい、いいえとはおかしいな。へい[#「へい」に傍点]なのか、いいえ[#「いいえ」に傍点]なのか?」
「へい……いいえ……いいえなので」
「とすると俺の眼違いかな」
「………」
「恰好がお妻に似ていたが……」
「…………」
「ナーニの、俺ら家を出てよ、親分の家へ行こうとすると、鼻っ先を女が行くじゃアないか。滅法粋な後ろ姿さ。悪くねえなア誰だろうと、よくよく見ると俺の女房さ。アッ、ハッハッそうだったか、女房とあっては珍しくねえ、と思ったがうち[#「うち」に傍点]の女房ども、どちらへお出かけかとつけて[#「つけて」に傍点]来ると、お前の家へ入ったというものさ」
「へ、へい、さようで、それはそれは……」
「それはそれはでなくて、これはこれはさ。これはこれはとばかり驚いて、しばらく立って見ていたが、裏の方へ廻って行ったので、爺つぁんお前をよんだわけさ」
「へ、へい、さようでございますかな」
「裏にゃア何があるんだい?」
「へい、庭と生垣と……」
「それから雪隠と座敷とだろう」
「へい、裏座敷はございます」
「その座敷にだが居る奴はだれだ!」
「ワーッ! ……いいえ、どなた様も……」
「居ねえ所へ行ったのかよ」
「ナ、何でございますかな?」
「誰もいねえ裏座敷へ、俺の女房は入って行ったのか?」
「…………」
「犬か!」
「へ?」
「雄の犬か!」
「滅相もない」
「じゃア何だ!」
「…………」
「云わねえな、利いていると見える、お妻のくらわせた鼻薬が……」
「水品様、まあそんな……そんな卑しい弁三では……」
「ないというのか、こりゃア面白い、媾曳宿《あいびきやど》に座敷を貸して、鼻薬を貰わねえ上品な爺《おやじ》――あるというならこりゃア面白い! 貰った貰った鼻薬は貰った。そこでひし[#「ひし」に傍点]隠しに隠しているのだ! ……ヨーシそれならこっちの鼻薬、うんと利くやつを飲ませてやる」
 トンと刀の柄を叩いた。
「鍛えは関、銘は孫六、随分人を切ったから、二所ばかり刃こぼれがある、抜いて口からズーッと腹まで! ……」
 ヌッと陣十郎は立ち上り、グッと鯉口を指で切った。


 古びた畳、煤けた天井、雨もりの跡のある茶色の襖。裏座敷は薄暗く貧しそうであった。
 江戸土産の錦絵を張った、枕屏風を横に立てて、褥《しとね》の上に坐っているのは、蒼い頬、削けた顎、こればかりは熱を持って光っている眼、そういう姿の主水であった。
「心身とも恢復いたしました。もう大丈夫でございます」
 そんな姿でありながら、そうして声など力がないくせに、そう主水は元気ありそうに云った。
「そろそろ発足いたしませねば……」
「さあご恢復なさいましたかしら」
 高過ぎる程高い鼻、これだけが欠点といえば欠点と云え、その他は仇っぽくて美しい顔へ、意味ありそうな微笑を浮かべ、流眄《ながしめ》に主水を眺めながら、前に坐っているお妻は云った。
「ご恢復とあってはお父様の敵《かたき》、お討ちにならねばなりませんのねえ」
「はいそれに誘拐《かどわか》されました妹の、行方を尋ね取り戻さねば……」
「そうそう、そうでございましたわねえ」
 お妻はまたも微笑したが、
「そのお妹御の澄江《すみえ》様、まことは実のお妹御ではなく、お許婚《いいなずけ》の方でございましたのね」
 そう云った時お妻の眼へ、嫉妬《ねた》ましさを雑えた冷笑のようなものが、影のようにチラリと射した。
「はい」と主水は素直に云った。
「とはいえ永らく兄妹として、同じ家に育って参りましたから、やはり実の妹のように……」
「さあどんなものでございましょうか」
 云い云い髪へ手をやって、簪《かんざし》で鬢の横を掻いた。
「お許婚の方をお連れになり、敵討の旅枕、ホ、ホ、ホ、お芝居のようで、いっそお羨《うらやま》しゅうございますこと……」
 主水は不快な顔をしたが、グッと抑えてさりげなく[#「さりげなく」に傍点]、
「その妹儀あれ以来、どこへ連れられ行かれましたか……思えば不愍……どうでも探して……」
「不愍は妾もでございますよ」
 お妻の口調が邪見になり、疳を亢ぶらせた調子となった。
「人の心もご存知なく……妾の前でお許婚の、お噂ばかり不愍とやら、探そうとやら何とやら、お気の強いことでございます」
 グッと手を延ばすと膝の前にあった、冷えた渋茶の茶碗を取り、一口に飲んでカチリと置いた。
「妾の心もご存知なく!」
 西陽が障子に射していて、時々そこへ鳥影がさした。
 生垣の向こう、手近の野良で、耕しながらの娘であろう、野良歌うたうのが聞こえてきた。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]|背戸《せと》を出たればナー
よいお月夜で
様《さま》の頬冠《ほおかむ》ナー
白々と
[#ここで字下げ終わり]
 二人はしばらく黙っていた。
 と、不意に怨ずるように、お妻が熱のある声で云った。
「ただに酔興で貴郎様を、何であの時お助けしましょうぞ。……その後もここにお隠匿《かくま》いし、何の酔興でご介抱しましょう。……心に想いがあるからでござんす」


 主水は当惑と多少の不快、そういう感情をチラリと見せた。
 が、お妻はそんなようにされても、手を引くような女ではなく、
「あの際お助けしなかろうものなら、陣十郎が立ち戻り、正気を失っている貴郎様を、討ち取ったことでござりましょうよ。……恩にかけるではござりませぬが、かけてもよいはずの妾《わたし》の手柄、没義道《もぎどう》になされずにねえ主水様……」
「あなた様のお心持、よう解っては居りまするが、……そうしてお助け下されました、ご恩の程も身にしみじみと有難く存じては居りまするが……」
 そう、主水はお妻の云う通り、あの日陣十郎を追って行き、疲労困憊極まって、鎮守の森で気絶した時、お妻の助けを得なかったなら、後にて聞けば陣十郎が、森へ立ち戻って来たとはいうし、その陣十郎のために刃の錆とされ、今に命は無かったろう。だからお妻は命の恩人と、心から感謝はしているのであり、そのお妻が来る度毎に、それとなく、いやいや、時には露骨に、自分に対して恋慕の情を、暗示したり告げたり訴えたりした。でお妻が自分を助けた意味も、とうに解ってはいるのであった。
 さりとてそのため何でお妻と、不義であり不倫であり背徳である関係、それに入ることが出来ようぞ!
「主水様」とお妻は云った。
「あなた様にはまだこの妾《わたし》が陣十郎の寵女《おもいもの》、陣十郎の情婦《いろおんな》、それゆえ心許されぬと、お思い遊ばして居られますのね」
 下から顔を覗かせて、主水の顔色を窺った。
「いかにも」と主水は苦しそうに云った。
「それを思わずに居られましょうか。……討ち取らねばならぬ父の敵《かたき》! 陣十郎の寵女、お妻殿がそれだと知りましては、心許されぬはともかくも、何で貴女《あなた》様のお志に……」
「従うことなりませぬか」
「不倶戴天の[#「不倶戴天の」は底本では「不具戴天の」]敵の情婦に……」
「では何でおめおめ助けられました」
「助けられたは知らぬ間のこと……」
「では何で介抱されました……」
 答えることが出来なかった。思われるはただ機を失した! 機を失したということであった。
 助けられたその翌日、訊ねられるままにお妻に対し、主水は姓名から素性から、その日の出来事から敵討のことから、敵の名さえ打ち明けた。
 と、お妻は驚いたように、主水の顔を見詰めたが、やがて自分が陣十郎の情婦、お妻であることを打ち明けた。
 これを聞いた時の主水の驚き!
 同時に思ったことといえば、
(助けられなければよかったものを!)
 ――というそういうことであり、直ぐにも立ち退こうということであった。


(直ぐに立ち退いたらよかったものを)
 今も主水《もんど》はこう思っている。
 立ち退こうとその時云いはした。
 と、お妻が止めて云った。
「ここは高麗郡《こまごおり》の高萩村、博徒の縄張は猪之松という男、陣十郎の親分でござんす。十町とは歩けなさるまい、そのように弱っているお体で、うかうか外へ出ようものなら、手近に陣十郎は居りまするし、猪之松親分の乾兒《こぶん》も居り、貴郎《あなた》様にはすぐに露見、捕らえられて嬲り殺し! ……ご発足など出来ますものか」
 しかし主水としては敵の情婦に、介抱なんどされること、一分立たずと思われたので、無理にも立とうと云い張った。
 と、お妻は嘲笑うように云った。
「ここは『|刃ノ郷《やいばのごう》』と申し、高萩村でも別趣の土地、秩父香具師の里でござんす。住民一致して居りまして、事ある時には竹法螺を吹く。と、人々出で合って、村の入口出口を固め、入る者を拒み出る人を遮る。妾《わたし》もこの郷の女香具師の一人、いいえ貴郎様は発足《た》たせませぬ! 無理にお発足ちと有仰《おっしゃ》るなら、竹法螺吹いて止めるでござんしょう」
 もう発足つことは出来なかった。
 こうして今日まで心ならずも、介抱を受けて来たのであって、無理に受けさせられた介抱ではあるが、敵の情婦と知りながら、介抱を受けたには相違なく、で、それを口にされては、返す言葉がないのであった。
(直ぐに立ち退けばよかったのだ! 機を失した! 機を失した!)
 このことばかりが口惜まれるのであった。
 二人はしばらく黙ったままで――主水は俯向いて膝を見詰め、お妻はそういう主水の横顔を、むさぼるように見守っていた。
「それにいたしましても何と云ってよいか、あなたにとりましてはこの主水。敵の片割ともいうべきを、そのようにお慕い下さるとは……」
 途切れ途切れの言葉つきで、やがて主水はそんなように云った。
「さよう、敵の片割でござる。あなたの愛人水品陣十郎を、敵と狙う拙者故……」
「悪縁なのでござりましょうよ」
 そうお妻も言葉を詰らせ、ともすると途切れそうな言葉つきで云った。
「因果な恋なのでござりましょうよ……あの日、あの時、鎮守の森で、死んだかのように可哀そうに、憐れなご様子で草を褥《しとね》に、倒れておいでなさいましたお姿、それを見ました時どうしたものか、妾はそれこそ産れてはじめての、――本当の恋なのでございましょうねえ……そういう思いにとらえられ……まあ恥かしい同じ仲間の、たくさんの郷の人達が、側にいたのに臆面もなく、あたしゃアこのお方をご介抱するよと、ここへお連れして参りましたが……因果の恋なのでござりましょうねえ。……それにもう一つには妾にとりまして、あの水品陣十郎という男、本当の恋しい男でなく、愛する男でもありませぬ故と……そうも思われるのでござります」


「お妻殿!」とやや鋭く、やや怒った言葉つきで、咎めるように主水は云った。
「いかに拙者に恋慕の情をお運びになるあなたとはいえ、現在の恋人をあからさまに、恋せぬなどと仰せらるるは……そういうお心持でござるなら、拙者に飽きた暁には、又他の情夫に同じように、拙者の悪口を仰せられましょう……頼み甲斐なき薄情! ……」
「いいえ、何の、主水様、それには訳が、たくさん訳が……」
 あわてて云ったもののそれ以上、お妻は云うことは出来なかった。
 自分が女賊で、女邯鄲師《おんなかんたんし》で、平塚の宿の一夜泊り、その明け方に同宿の武士、陣十郎の胴巻を探り、奪おうとして陣十郎のため、かえって取って押えられ、それを悪縁に爾来ずっと、情夫情婦の仲となり今日まで続いて居るなどとは、さすが悪女の彼女としても、口へ出すことが出来なくて、自分はこの郷の香具師の娘、陣十郎に誘惑され、情婦となって江戸や甲州を、連れ廻されたとそんなように、主水には話して置いたのであった。
 女邯鄲師としての悪事の手證を、押えられたための情夫情婦、それゆえ本当の恋ではないと、こう云い訳出来ぬ以上は、そう主水に咎められても、どう弁解しようもなく、お妻は口籠ってしまったのであった。
 が、お妻はニッと笑い、もっともらしくやがて云った。
「妾の前に陣十郎には、情婦《おんな》があったのでござります。江戸両国の女芸人、独楽廻しの源女という女、これが情婦でござりまして、諸所方々を連れ歩いたと、現在の情婦の妾の前で、手柄かのように物語るばかりか、貴郎《あなた》様のお許婚《いいなずけ》の澄江様にも……」
「澄江にも! うむ、陣十郎め!」

「横恋慕の手をのばし……」
「いかにも……悪虐! ……陣十郎……」
「あの夜澄江様を誘拐《かどわか》し、しかも妾という人間を、下谷の料亭常磐などに[#「常磐などに」は底本では「常盤などに」]待たせ……さて首尾よく澄江様を、連れ出すことが出来ましたら、妾を秋の扇と捨て、澄江様を妾の代わりに……」
「何の彼如き鬼畜の痴者に、妹を、妹を渡してなろうか?」
「そういう男でござります。そういう男の陣十郎を、何で妾ひとりだけが……先が先ならこっちもこっち……主水様! 今は貴郎様へ!」
「それにいたしても、妹澄江は……」
「お許婚の澄江様は……」
「上尾街道のあの修羅場で、馬方博徒数名の者に、担がれ行かれたと人の噂……」
「人の噂で聞きましたなア……さあそのお許婚の澄江様……澄江様のお噂さえ出れば、眼の色変えてお騒ぎになられる」
「妹であれば当然至極!」
「可愛い可愛いお許婚なりゃ、脳乱[#「脳乱」はママ]遊ばすもごもっとも? ホ、ホ、ホ、その澄江様、どうで担いだ人間が、馬方博徒のあぶれ者なら? ……」
 しかしその時表の庭の、方角にあたって云い争う、男の声が聞こえてきた。
「や、あの声は?」
「おおあの声は」
 二人ながら森《しん》と耳を澄ました。

 陣十郎は弁三を突きのけ、村道から境の生垣を越え、表の庭へ入って行った。
「云い古されたセリフだが、俺の遣る金鼻薬は、小判じゃアねえドスだ延金だアッハハ、驚いたか望みならば――ズバッと抜いて、先刻も云った口から腹まで、差し込んでやろうどうだ、どうだ?」
 なお止める弁三を突きまくり、陣十郎はグングン歩いた。


「ままにしやアがれ!」
 不意に弁三は、年は取っても秩父香具師――兇暴の香具師の本性を現わし、猛然と吼え競い立った。
「裏座敷にゃア誰もいねえ! とこう一旦云ったからにゃア、俺も秩父香具師の弁三だ、あくまでも居ねえで通して見せる! 汝《うぬ》は何だ、え汝は? 馬の骨か牛の骨か、どこの者とも素性の知れねえ、痩せ浪人の身分をもって『刃ノ郷』の俺らの仲間、お妻ッ娘と馴れ合ったのさえ、胸糞悪く思っているのにここら辺りを立ち廻り、博徒の用心棒、自慢にもならねえヤクザの身を、変にひけらかせ[#「ひけらかせ」に傍点]て大口を叩き、先祖代々素性正しく、定住している俺達へ、主人かのように振る舞い居る! ナニ刀だ! 抜いて切るって! おお面白い切られよう、が手前が切る前に、こっちもこっちで手前の体へ」
 喚くと陣十郎へ背中を向け、庭を突っ切り縁へ駈け上り、座敷へ飛び込むと床の間にある、鳥銃を抱えて走り出で、縁に突っ立ち狙いを定めた。
「秩父の山にゃア熊や狼が、ソロソロ冬も近付いて来た、餌がねえと吼えながら、ウロウロ歩いているだろう。狙い撃ちにして撃ち殺し、熊なら胸を裂き肝を取り、皮を剥いで足に敷く、秩父香具師の役得だア。手練れた鉄砲にゃア狂いはねえ! 野郎来やがれ、切り込んで来い! 定九郎じゃアねえが二ツ弾、胸にくらって血へど[#「へど」に傍点]を吐き、汝それ前にくたばるぞよ! 来やアがれ――ッ」とまくし[#「まくし」に傍点]立て、まくし立てながらも手に入った早業、いつか火縄に火を付けていた。
「待て待て爺《おやじ》」と周章狼狽、陣十郎は胆を冷し、生垣の際まで後退った。
「気が短いぞ、コレ待て待て! ……鉄砲か、ウーン、こいつ敵《かな》わぬ……」
 まさか撃つまい嚇しであろう、そうは思っても気味が悪く、見ればいやいや嚇しばかりでなく、こっちを睨んでいる弁三の眼に、憎悪と憤怒と敵愾心とが、火のように燃えていた。
 ゾッと感ずるものがあった。
(いつぞやお妻に聞いたことがあった、いつぞやお茶ノ水の森の中で、お妻に頼まれて殺生ながら、叩っ切って殺した弁太郎という男、秩父香具師の膏薬売、弁三という老人の、失った一人の倅であると! おおそうだったこの弁三が、殺した弁太郎の父親だった。……下手人が俺だということなど、まさかに知っては居るまいが、親子の血がさせる不思議の業、この世には数々ある、何となく弁三爺の心に、俺を憎しむ心持が、深く涌いていないものでもない。もしそうなら撃つぞ本当に!)
 ゾッと感ずるものがあった。
 そこでいよいよ後退りし、小門の方へ後ざまに辿り、
「解った、よし裏座敷には、誰もいない、犬さえ居ない! よし解った、そうともそうとも! ……誰がいるものか、居ない居ない! ……居れば! 居れば悪いが……それもよろしい、居ない居ない! ……そこで帰る、撃つな撃つな! ええ何だ鉄砲なんど……恐ろしいものか、ちと怖いが……馬鹿!」と一喝! がその時には、既に村道へ遁れ出ていた。

生贄の女


 同じその日のことである。――
 高萩村の博徒の親分、猪之松の家は賑わっていた。
 馬大尽事井上嘉門様を、ご招待して大盤振舞いをする――というので賑わっているのであった。
 博徒とはいっても大親分、猪之松の家は堂々たるもので、先はお屋敷と云ってよく、土蔵二棟に離座敷、裏庭などは数奇《すき》を凝らした一流の料亭のそれのようであり、屋敷の周囲には土塀さえ巡らし、所の名主甚兵衛様より、屋敷は立派だと云われていた。内緒も裕福で有名であったが、これは金方が附いているからで、その金方が井上嘉門様だと、多くの人々は噂して居、噂は単なる噂ばかりでなく、事実それに相違なかった。
 猪之松という人間が、博徒のようになく人品高尚で、態度も上品で悠然としてい、お殿様めいたところがあり――だからどこか物々しく、厭味の所はあったけれど、起居動作はおちついている、行儀作法も法に叶っている、貴人の前へ出したところで、見劣りがしないところから、自然上流との交際が出来、そこで井上嘉門などという、大金持の大旦那に、愛顧され贔屓にされるのであった。
 金方の井上嘉門様を、ご招待するというのであるから、その物々しさも一通りでなく、上尾宿からは茶屋女の、気の利いたところを幾人か呼び、酒肴給仕に従わせ、村からも渋皮の剥けた娘――村嬢《そんじょう》の美《よ》いところを幾人か連れて来、酒宴の席へ侍らせたり、これも上尾の宿から呼んだ、常磐津《ときわず》の[#「常磐津《ときわず》の」は底本では「常盤津《ときわず》の」]女師匠や、折から同じ宿にかかっていた、江戸の芝居の役者の中、綺麗な女形の色若衆を、無理に頼んで三人ほど来させ、舞など舞わせる寸法にしてあった。
 田舎の料理は食われない――と云ったところで上尾も田舎、とは云え勿論高萩村より、いくらか都会というところから、料理は上尾からことごとく取った。
 兄弟分はいうまでもなく、主立った乾児幾十人となく、入れ代わり立ち代わり伺候して[#「伺候して」は底本では「仕候して」]、嘉門様からお流れ頂戴、お盃をいただいたりした。
 嘉門は午後《ひる》からやって来て、今は夜、夜になっても、仲々去らず、去らせようともせず、奥の座敷の酒宴の席は、涌き立つように賑わってい、高張を二張り門に立てて、砂を敷き盛砂さえした、玄関――さよう猪之松の家は、格子づくりというような、町家づくりのそれでなく、大門構え玄関附、そういった武家風の屋敷であったが、その玄関を夜になった今も、間断なく客が出入りして、ここも随分賑かであり、裏へ廻ると料理場、お勝手、ここは一層の賑かさで、その上素晴らしい好景気で、四斗樽が二つも抜いてあり、酒好きの手合いは遠慮会釈なく、冷をあおっては大口を叩き、立働きの女衆へ、洒落冗談を並べていた。
 陽気で派手でお祭り気分で、ワーッといったような雰囲気であった。
 その勝手元へ姿を現わしたのは、浮かない顔をした陣十郎であった。
「これはいらっしゃい水品先生、こんなに遅くどうしたんですい?」
 こう云って声をかけたのは、猪之松にとっては一の乾分――上尾街道で浪之助などに追われ、逃げ廻る弱者の峯吉ではなく――角力上り閂《かんぬき》峰吉であった。
「遅いか早いかそんなことは知らぬ。陽気だな、これは結構」どこかで飲んで来たらしく、陣十郎は酔っていたが、凄い据わった血走った眼で、ジロジロ四辺《あたり》を見廻わしながら、上ろうともせず随分邪魔な、上框《あがりかまち》へデンと腰かけ、片足を膝の上へヒョイとのっけ、楊子で前歯をせせり出した。


(ご機嫌が悪いぞ、あぶないあぶない)
 酒癖の悪いのを承知の一同、あぶないあぶないと警戒するように、互いに顔を見合わせたが、こんな時にはご自慢の情婦《おんな》――お妻を褒めるに越したことはないと、唐子の音吉というお先ッ走りの乾児が、
「姐御、どっこい、奥様だったっけ、奥様お見えになりませんが、一体全体どうしたんで、こんな時にこそご出張を願って、あの綺麗で粋なご様子で、お座敷の方を手伝っていただき、愛嬌を振り蒔いていただけば、嘉門様だって大喜び、親分だって大恭悦、ということになるんですがねえ。それが昼から夜にかけて、一度もお見えにならねえなんて……一体全体奥様は……」
「奥様? ふん、誰のことだ!」
 ギラリと陣十郎は音吉を睨み、
「奥様、ふふん、どいつのことだ!」
「どいつッて、そりゃ、お妻さんのこと……」
「枕探し! ……あいつのことか!」
「え? 何ですって、こいつアひでえや」
 ヒヤリとして音吉は首を縮めた。
 勿論音吉をはじめとして、乾児一同お妻のことを、どうせ只者じゃアありゃアしない。枕探し、女|邯鄲師《かんたんし》、そんなようには薄々のところ、実は推していたようなものの、亭主――情夫――陣十郎の口から、今のようにあからさまに云われては、ヒヤリとせざるを得なかった。
「何を云うんですい、水品先生」
「何とは何だ、これ何とは! ……枕探しだから枕探し、こう云ったに何が悪い。いずれは亭主の寝首を掻く奴! ……そんな女でも奥様か!」
「ワ――ッ、不可《いけ》ねえ、何を仰有るんで、……奥様で悪かったら奥方様……」
「出ろ! 貴様! 前へ出ろ!」
 勝手元一杯に漲っていた、明るい燈火《ひ》がカッと一瞬間、一所へ集まり閃めいた。
 見れば陣十郎の右の手に、抜かれた白刃が持たれていた。
 バタバタと女達は奥の方へ逃げた。
「アッハハハ」と陣十郎は、不意に気味悪く笑い出した。
「ある時には関の孫六、ある時には三条小鍛冶、ある時には波の平! 時と場合でこの刀、素晴らしい銘をつけられるが、ナーニ本性は越前|直安《ただやす》、二流どころの刀なのさ。……が、切れるぞ、俺が切れば! ……千里の駒も乗手がヤクザで、手綱さばきが悪かろうものなら、駄馬ほどにも役立たぬ。……名刀であろうとナマクラが持てば、刀までがナマクラになる。……それに反して名人が持てば、切れるぞ切れるぞ――ズンと切れる! ……嘘と思わば切って見せる! ……どいつでもいい前へ出ろ!」
 云い云い四方を睨み廻した。
 山毛戸《やまかいど》の源太郎、中新田の源七、玉川の権太郎、閂峰吉、錚々《そうそう》たる猪之松の乾児達が、首を揃えて集まってはいたが、狂人《きちがい》に刃物のそれよりも悪く、酒乱の陣十郎に抜身を持たれ、振り廻されようとしているのであった。首を縮め帆立尻《ほたてじり》をし、ジリジリと[#「ジリジリと」は底本では「ヂリヂリと」]後へ退《さが》りながら、息を呑み眼を見張り、素破《すわ》と云わば飛んで逃げようと、用心をして構えていた。


「アッハハハ」
 と陣十郎は、また気味の悪い笑声を立てた。
「切る奴は他にある、汝《おのれ》らは切らぬ、安心せい……鴫澤主水《しぎさわもんど》を探し出し、ただ一刀に返り討ち! 婦《おんな》、お妻を引きずり出し、主水ともども二太刀で為止《しと》める。……久しく血を吸わぬ越前直安、間もなく存分に血を吸わせてやるぞ!」
 燈火《ともしび》に反射してテラテラ光る、ネットリとした刀身を、じっと睨んで呟くように云ったが、
「汝ら解るか男の心が? 己を殺そうとして付け廻している、敵《かたき》を持っている男の心が」
 乾児達の方を振り返った。
「へい」と云ったのは閂峰吉で、
「さぞまア気味の悪いことで、いやアなものでございましょうなあ」
「討たれまいとして逃げ廻る。いやなものだぞ、いやなものだぞ」
「いやアなものでござりましょうなあ」
「が、一面快い」
「…………」
「討て、小童《こわっぱ》、探し出して討て! が俺は逃げて逃げて、決して汝には討たれてやらぬ。……こう決心して逃げ廻る心、快いぞ快いぞ」
「そんなものでございますかなあ」
「とはいえ厭アな気持のものだ。討つ方の心は一所懸命、命を捨ててかかっている。討たれる方は討たれまいとして、命を惜しんで逃げ廻る。心組みが全く別だ。討つ方には用心はいらぬ。討とう討とうと一向だ。討たれる方は用心ばかりだ。……用心をしても用心をしてもいずれは人間油断も隙もあろう、そこを狙われて討たれるかもしれぬ! この恐怖心、厭アなものだぞ」
「へい、さようでございましょうなあ」
 突然立ち上ると陣十郎は、刀をグ――ッと中段につけ、両肘を縮め肩を低めたが、
「今迄の俺がそうだった! 討たれる者、逃げ廻る者、今迄の俺はそうだった! 剣法で云えばこの構えだ! ……が俺は一変した!」
 こう沈痛に声を絞ると、俄然刀を大上段に冠った。
「大上段、積極的の構え! 俺は今日からこっちで向かう! 俺の方から敵を探し、返り討ちにかけてやる! それにしても汝ら卑屈だぞ! 俺が鴫澤主水という敵に、付け廻されているということを、心の中では知っていながら、おくびにも出そうとしないではないか! そうであろうがな! そうであろうがな!」
 刀を大上段に振り冠ったまま、陣十郎は憎さげに叫んだ。
 乾児達は顔を見合わせた。
 それに相違ないからであった。
 過ぐる日上尾の街道で、赤尾の林蔵にいどまれ[#「いどまれ」に傍点]て、こっちの親分が引きもならず、真剣勝負をした際に、鴫澤主水とその妹の、澄江とかいう娘とが、親の敵を討つと宣《なの》って、水品陣十郎を襲ったが、討ちもせず、討たれもせず、主水という武士は行方不明、澄江という娘は博労達に、どこかへ担がれて行ってしまったと、その時こっちの親分に従《つ》いて、その修羅場にいた八五郎の口から、乾児達は詳しく話されて、そういう事情は知っていた。そればかりでなくその日以来、それ迄はほとんど毎日のように、ここの家へやって来て、乾分達へ剣術を教えたり、ゴロゴロしていた陣十郎が、姿をあまり見せなくなり、なお噂による時は、これ迄ずっと住んでいた家――この村の外れにあるお妻の実家へも、住まないばかりか余り立ち寄らず、ひたすら主水兄妹によって、探し出されることを恐れていると、そういうことも聞き知っていた。


 そうして知って居りながら、知って居るとも知らないとも、事実おくび[#「おくび」に傍点]にも出さなかった。というのは事が事であるからで、それにそういう次第なら、あっし[#「あっし」に傍点]達が味方をいたしますから、主水兄妹を探し出し、返り討ちにしておしまいなせえと、こんなことを云うには陣十郎の剣技が、余りにも勝れて居る、といって主水兄妹に、器用に討たれておやりなせえとは、なおさら云えた義理でなく、それで黙っていたのであった。
 で、乾児達は顔を見合わせた。
 と不意に陣十郎は、振り冠っていた燈《ひ》に光る刀を、ダラリと力なく下げたかと思うと、にわかに疑わしそうに寂しそうに、むしろ恐怖に堪えられないかのように、ウロウロとした眼付をして、勝手元に、乾児達の中に、主水が居りはしないだろうかと、それを疑ってでもいるかのように、一人々々の顔を見たが、
「疑心! こいつが不可《いけ》ないのだ! こいつから起こるのだ、弱気がよ! ……と、守勢、こいつになる!」再び中段に刀を構えた。「こいつが守勢、守勢になると、かえって命は守られぬ。……それよりも、守勢の弱気になると、ヒッヒッヒッ、情婦《おんな》にさえ、嘗められ裏切られてしまうのさ! ……そこでこいつだ積極的攻勢!」また上段に振り冠った。
「攻勢をとってやっとこさ[#「やっとこさ」に傍点]、身が守られるというものだ! ……酒だ! くれ! 冷で一杯!」
 ソロリと刀を鞘に納め、片手をヌッと差し出したが、ヒョイとその手を引っこませると、フラリとばかりに框《かまち》を上った。
「飲むならいっそ奥で飲もう。馬大尽様の御前でよ。陽気で明るい座敷でよ。親分にもしばらくご無沙汰した。お目にかかって申訳……退け、邪魔だ!」
 ヒョロリヒョロリと、乾分達の間を分け、奥の方へ歩いて行った。
 後を見送って乾児達は、しばらくの間は黙っていた。
 と不意に閂峰吉が、
「八五郎の奴どうしたかなあ」と、あらぬ方へ話を持って行った。
 陣十郎の影口をうっかり利いて、立聞きでもされたら一大事、又抜身を振り廻されるかもしれない。障《さ》わるな障わるなという心持から、話をあらぬ方へ反らせたのであった。
 一同《みんな》はホッと息を吐いた。
「先刻《さっき》ヒョッコリ面を出して、馬大尽様にもうち[#「うち」に傍点]の親分にも、お気に入るような素晴らしい、献上物を持って来るんだと、大変もねえ自慢を云って、はしゃいで[#「はしゃいで」に傍点]素っ飛んで行きゃアがったが、それっきりいまだ面ア出さねえ。何を持って来るつもりかしら」
 こう云ったのは源七であった。
「上尾街道の一件以来、あいつ親分に不首尾だものだから、気を腐らせて生地なかったが、そいつを挽回しようてんで、何か彼かたくらんで[#「たくらんで」に傍点]はいるらしい」
 こう云ったのは権太郎であった。
「あいつが一番の兄貴だったんだから、たとえ親分が何と云おうと――手出しするなと云ったところで、そんなことには頓着なく、林蔵の野郎を背後の方から、バッサリ一太刀あびせかけ、あの時息の音止めてしまったら、とんだ手柄になったものを、主水とかいう侍の妹とかいう女を、馬方なんかと一緒になって、どこかへ担いで行ったということだが、頓馬の遣口ってありゃアしねえ」
 苦々しく閂峰吉が云った。
 がその時玄関の方で、五六人の声で景気よく、
「献上々々、献上でえ!」と囃し喚く声が聞こえてきたので、一同《みんな》は黙って聞耳を立てた。
 この囃し声を耳にしたのは、お勝手元の乾児ばかりでなく、奥の座敷で酒宴をしている、馬大尽歓迎の人々もひとしく耳を引っ立てた。


 五十畳敷の広さを持った座敷に、無数の燭台が燈し連らねてあり、隅々に立ててある金屏風に、その燈火《ひ》が映り栄えて輝いている様は、きらびやかで美しく、そういう座敷の正面に、嵯峨野を描いた極彩色の、土佐の双幅のかけてある床の間、それを背にして年は六十、半白の髪を切下げにし、肩の辺りで渦巻かせた、巨大な人間が坐っていたが、馬大尽事井上嘉門であった。日焼けて赧い顔色が、酒のために色を増し、熟柿《じゅくし》を想わせる迄になって居り、そういう顔にある道具といえば、ペロリと下った太い眉、これもペロリと下ってはいるが、そうしてドロンと濁ってはいるが、油断なく四方へ視線を配る、二重眼瞼の大きい眼、太くて偏平で段のある鼻、厚くて大きくて紫色をしていて、閉ざしても左の犬歯だけを、覗かせている髭なしの唇に、ぼったりと二重にくくれている顎、その顎にまでも届きそうな、厚い大きな下った耳であった。身長《せい》も人並より勝れていたが、肥満の方は一層で、二十四五貫もありそうであり、黒羽二重の紋付に、仙台平の袴をつけ、風采は尋常で平凡であったが腹の辺りが太鼓のように膨れ、ムッと前方に差し出されているので、格好がつかず奇形に見えた。曲※[#「碌のつくり」、第3水準1-84-27]《きょくろく》に片肘を突いて居り、その手の腕から指にかけて、熊のように毛が生えていた。
 蝦蟇のようだと形容してもよく、絵に描かれている酒顛童子、あれに似ていると云ってもよかった。
 嘉門の左右に居流れているのは、招待《よ》ばれて来た猪之松の兄弟分の、領家の酒造造《みきぞう》、松岸の権右衛門、白須の小十郎、秩父の七九郎等々十数人の貸元で、それらと向かい合って亭主役の、高萩の猪之松が端座したまま、何くれとなく指図をし、その背後に主だった身内が、五六人がところかしこまってい、それに雑って水品陣十郎が、今は神妙に控えていた。
 常磐津の[#「常磐津の」は底本では「常盤津の」]師匠の三味線も済み、若衆役者の踊も済み、馳走も食い飽き酒も飲み飽き、一座駘然、陶然とした中を、なお酒を強いるべく、接待《とりもち》の村嬢や酌婦《おんな》などが、銚子を持って右往左往し、拒絶《ことわ》る声、進める声、からかう[#「からかう」に傍点]声、笑う声、景気よさは何時《いつ》までも続いた。
 どうで今夜は飲み明かし、嘉門様はお泊まりということであった。
「納めの馬市も十日先、眼の前に迫って参りました、いずれその時は木曽の福島で、又皆様にお眼にかかれますが、何しろ福島は山の中、碌なご馳走も出来ませず、まして女と参りましては、木曽美人などと云いますものの、猪首で脛太で肌は荒し、いやはや[#「いやはや」に傍点]ものでございまして、とてもとてもここに居られる別嬪衆に比べましては、月に鼈《すっぽん》でございますよ。が、そいつは我慢をしていただき、その際には私が亭主役、飲んで飲んで飲みまくりましょう。いや全く今夜という今夜は、一方ならぬお接待《とりもち》、何とお礼申してよいやら、嘉門大満足の大恭悦、猪之松殿ほんに嬉しいことで」
 猪之松は片頬で微笑したが、
「いや関東の女こそ、肌も荒ければ気性も荒く、申して見ますれば癖の多い刎馬――そこへ行きますと木曽美人、これは昔から有名で、巴御前、山吹御前、ああいう美姫《びき》も出て居ります。納めの馬市に参りました際には、嘉門様胆入りでそういう美人の、お接待に是非とも預かりたいもので。……」
 ここで猪之松は微笑した。


 微笑をつづけながら猪之松は、
「そこで今夜は私が胆入り、ここに居りますどの女子でも、お気に入りの者ござりましたら、アッハハハ、取り持ちましょう」
「アッハハ、それはそれは、重ね重ねのご好意で、そういうお許しのある以上、嘉門今夜は若返りまして、……」
 すると、その時聞こえてきたのが「献上々々、献上でえ!」という、玄関の方からの声であった。
(何だろう?)
 と猪之松をはじめとし、座にいる一同怪訝そうに、玄関の方へ首を捻じ向けた時、八五郎を先頭に四人の博労が――、それは以前《まえかた》馬大尽事、井上嘉門を迎えに出た、高萩村の博労達であったが、その連中が縦六尺、横三尺もあるらしい、長方形の白木の箱に、献上と大きく書き、熨斗まで附けた物を肩に担ぎ、大変な景気で入って来た。
「八五郎じゃアないか、この馬鹿者、嘉門様おいでが眼につかぬか! 何だ何だその変な箱は!」
 猪之松は驚いて叱るように怒鳴った。
 八五郎はそれには眼もくれず、博労を指揮してその大箱を、猪之松と嘉門との間に置いたが、自分もその傍らへピタリと坐ると、
「ええこれは木曽の馬大尽様事、井上嘉門様に申し上げます。私事は八五郎と申し、猪之松身内にござります。ふつつか者ではござりまするが、なにとぞお見知り置き下さりましょう。……さて今回嘉門様には、木曽よりわざわざの武州入り高萩村へお越し下され、我々如き者をもご引見、光栄至極に存じます。そこであっしも何かお土産《みやげ》をと、いろいろ考案|仕《つかまつ》りましたが、何せ草深いこのような田舎、これと申して珍しい物も、粋な物もござりませぬ。それに食い物や食べ物じゃア、いよいよもって珍しくねえと、とつおいつ思案を致しました結果、噂によりますると安永《あんえい》年間、田沼主殿頭《たぬまとのものかみ》様の御代の頃、大変流行いたしまして、いまだに江戸じゃア流行《はや》っているそうな、献上箱の故智に慣い、八五郎細工の献上箱、持参いたしてござります。なにとぞご受納下さりませ。……ええ所で親分え、貴郎《あなた》だってこいつの蓋を取り、中の代物をご覧になったら、八五郎貴様素晴らしいことをやった、手柄々々と横手を拍って、褒めて下さるに違えねえと、こうあっしは思うんで……と、能書はこのくらいにしておき、いよいよ開帳はじまりはじまり……さあさあお前達手伝ってくれ」と、その時まで喋舌《しゃべ》る八五郎の背後《うしろ》に、窮屈そうに膝ッ小僧を揃え、かしこまっていた博労達を見返り、ヒョイとばかりに立ち上った。
「開帳々々」とこれも景気よく、四人の博労達も立ち上ったが、水引の形に作ってあった縄を、先ず箱から解きほぐした。
「ようござんすか、蓋取りますでござんす。ヨイショ!」と八五郎は声をかけた。
「ヨイショ」と博労達はそれに応じた。
 と、パッと蓋が取られた。


 京人形が入れてあった。
 髪は文庫、衣裳は振袖、等身大の若い女の、生けるような人形が入れてあった。
 と、眼瞼を痙攣させ、その人形は眼をあけて、天井をじいいっと見上げたが、又しずかに眼をとじた。
 人形ではなく生ける人間で、しかもそれは澄江《すみえ》であった。
 富士額、地蔵眉、墨を塗ったのではあるまいかと、疑われるほどに濃い睫毛で、下眼瞼を色づけたまま、閉ざされている切長の眼、延々とした高い鼻、蒼褪め窶れてはいたけれど、なお処女としての美しさを持った、そういう顔が猿轡で、口を蔽われているのであった。
 明るい華やかな燭台の燈が、四方から箱の中のそういう顔を照らして浮き出させているだけに、美しさは無類であった。
 一座何となく鬼気に襲われ、誰も物云わず顔を見合せ、しばらくの間は寂然としていた。
 がさつ[#「がさつ」に傍点]者の八五郎は喋舌り立てた。
「いつぞやの日に上尾街道で、親分と赤尾の林蔵とが、真剣の果し合いなさんとした時、水品先生に対し――いやアこれは水品先生、そこにお居でなさんしたか、こいつア幸い可《い》い証人だ――その水品先生に対し、親の敵《かたき》とか何とか云って、若エ武士とこの娘とが、切ってかかったはずでごぜえます。その時あっしとここに居なさる、博労衆とが隙を狙い、この娘だけを引っ担ぎ、あっしの家へ連れて来たんで。さてどうしようか考えましたが、見りゃアどうしてこの娘っ子、江戸者だけに素晴らしく、美しくもありゃア品もあって……そこで考えたんでごぜえますよ、嘉門様へご献上申し上げようとね……」
 身を乗り出し首を差し出し、箱の中の女を覗き込んでいた嘉門は、この時象のような眼を細め、厚い唇をパックリ開け、大きい黄色い歯の間から、満足と喜悦の笑声を洩らした。
「フ、フ、フ、八五郎どんとやら、嘉門満足大満足でござんす……フ、フ、フ、大満足! こりゃア全く、とても素晴らしい、何より結構な贈品《おくりもの》、嘉門大喜びで受けますでござんす。……」


 夜はすっかり更けていた。
 裏庭に別棟に建てられてある、猪之松の屋敷の離座敷、植込にこんもり囲まれて、黒くひっそりと立っていた。屋根の瓦が水のように、薄白く淡く光っているのは、空に遅い月があるからであった。
 その建物を巡りながら、幾人かの人影が動いていた。
 寝所へ入った馬大尽嘉門に、もしものことがあったら大変――というので猪之松の乾児達が、それとなく警護しているのであった。
 池では家鴨《あひる》が時々羽搏き、植込の葉影で寝とぼけた夜鳥が、びっくりしたように時々啼いた。
 が、静かでしん[#「しん」に傍点]としていた。
 主屋でも客はおおよそ帰り、居残った人々も酔仆れたまま、眠ったかして静かであった。
 離座敷の内部《うち》の一室《ひとま》。――そこには屏風が立て廻してあった。
 一基の燭台が置いてあり、燈心を引いて細めた燈火《ひかり》が、部屋を朦朧と照らしていた。
 屏風の内側には箱から出された生贄の女澄江の姿が、掛布団を抜いて首から上ばかりを、その燈火の光に照し出していた。
 そうしてそれの傍には、嘉門が坐っているのであった。
 澄江の心はどうであろう?
 義兄《あに》であり恋人であり許婚《いいなずけ》である、主水とゆくゆくは婚礼し、身も心も捧げなければならぬ身! それまでは穢さず清浄に、保たねばならぬ処女の体! それを山国の木曽あたりの、大尽とはいえ馬飼の長、嘉門如きに、嘉門如きに!
 処女を失ってはもう最後、主水と顔は合わされない。永久夫婦になどなれないであろう。
 復讐という快挙なども、その瞬間に飛んで消えよう。
 澄江の気持はどんなであろう?
 時が刻々に経ってゆく。
 と、不意に屏風の上から、白刃がヌッと差し出された。
 嘉門はギョッとはしたものの、大胆に眼を上げて上を見た。
 屏風の上に覆面をした顔が、じっとこちらを睨んで居た。
「曲者!」
 ガラガラ!
 屏風が仆された。


 枕刀の置いてある、床の間の方へ走って行く嘉門の姿へは眼もくれず、着流しの衣裳の裾をからげ、脛をあらわし襷がけして、腕をまくり上げた覆面武士は、やにわに澄江を小脇に抱えた。
「曲者でござるぞ、お身内衆! 出合え!」と喚き切り込んだ嘉門!
 その刀を無造作に叩き落とし、
「うふ」
 どうやら笑ったらしかったが、
 ビシリ!
 もう一揮! 振った白刃!
「ワッ」
 へたばった[#「へたばった」に傍点]は峯打ちながら、凄い手並の覆面に、急所の頸を打たれたからで、嘉門はのめって[#「のめって」に傍点]這い廻った。
 それを見捨てて襖蹴開き、既に隣室へ躍り出で、隣室も抜けて雨戸引っ外し、庭へ飛び下りた覆面を目掛け、
「野郎!」
「怪しい!」
 と左右から、猪之松の乾児で警護の二人が、切りつけて来た長脇差を、征矢《そや》だ! 駈け抜け、振り返り、追い縋ったところを、
 グーッ!
 突だ!
「ギャーッ」
 獣だ! 殺される獣! それかのように悲鳴して仆れ、それに胆を消して逃げかけた奴の、もう一人を肩から大袈裟がけ[#「がけ」に傍点]!
「ギャーッ」
 こいつも獣となってくたばり[#「くたばり」に傍点]、夜で血煙見えなかったが、プ――ッと立った腥《なまぐさ》い匂い! が、もうこの時には覆面武士は、植込の中に駈け込んでい、その植込にも警護の乾児、五人がところ塊ってい、
「泥棒!」
「遁すな!」
 と、竹槍、長ドス!
 しかし見る間に槍も刀も、叩き落とされ刎ね落とされ、つづいて悲鳴、仆れる音! そこを突破して覆面武士が、土塀の方へ走るのが見られ、土塀の裾へ行きついた時、そこにも警護の乾児達がいる。ムラムラと四方から襲いかかったばかりか、これらの物音や叫声に、主屋の人々も気づいたかして、雨戸を開け五人十人、二十人となく駈け出し走り出し、提燈、松明を振り照らし、その火の光に獲物々々を、――槍、鉄砲、半弓までひっさげ、しごき、振り廻し狙っている、――そういう姿をさえ照らしていた。
 しかしこの頃覆面武士は、とうに土塀を乗り越えて、高萩村を野良の方へ外れ、淡い月光を肩に受け、野を巻いている霧を分け、足にまつわる露草を蹴り、小脇に澄江をいとし[#「いとし」に傍点]そうに抱え、刀も既に鞘に納め、ただひたすらに走っていた。
 その武士は水品陣十郎であった。

 それから十日ほど日が経った。
 陣十郎と澄江との二人が、旅姿に身をよそおい、外見からすれば仲のよい夫婦、それでなかったら仲のよい兄妹、それかのような様子をして、木曽街道を辿っていた。
 初秋の木曽街道の美しさ、萩が乱れ咲き柿の実が色づき、渡鳥が群れ来て飛びつれて啼き、晴れた碧空を千切れた雲が、折々日を掠めて漂う影が、在郷馬や駕籠かきによって、軽い塵埃を揚げられる街道へ、時々|陰影《かげ》を落としたりした。
「澄江殿、お疲労《つかれ》かな?」
 優しい声でいたわるように、こう陣十郎は声をかけた。
「いいえ」と澄江は編笠の中から、これも優しい声で答えた。

心々の旅の人々


「お疲労でござらば駕籠雇いましょう」
 陣十郎も編笠の中から、念を押すようにもう一度云った。いかにも優しい声であった。
「何の遠慮などいたしましょう、疲労ましたら妾の方から、駕籠なと馬なとお雇い下されと、押してお頼みいたします……どうやらそう仰言《おっしゃ》る貴郎様こそ、お疲労のご様子でございますのね。ご遠慮なく馬になと駕籠になと、ホ、ホ、ホ、お召しなさりませ」
 からかう[#「からかう」に傍点]ように澄江は云った。
「ア、ハ、ハ、とんでもない話で、拙者と来ては十里二十里、韋駄天のように走りましたところでビクともする足ではござりませぬ。……貴女は女無理して歩いて、さて旅籠《はたご》へ着いてから、ソレ按摩じゃ、ヤレ灸《やいと》じゃと、泣顔をして騒がれても、拙者決して取り合いませぬぞ」
「貴郎様こそ旅籠に着かれてから、くるぶし[#「くるぶし」に傍点]が痛めるの肩が凝るのと、苦情めいたこと仰せられましても、妾取り合わぬでござりましょうよ。ホ、ホ、ホ」と朗かに笑った。
 陣十郎も朗かに笑った。
 これは何たることであろう! 敵同志であるこの二人が、こう親しくこう朗かで、浮々と旅をつづけて行くとは?
 それには深い事情があった。
 澄江はあの夜猪之松の屋敷で、すんでに井上嘉門によって、操を穢されるところであった。それを陣十郎が身を挺し、養われかくまわれ[#「かくまわれ」に傍点]た恩をも不顧《かえりみず》、猪之松の乾児《こぶん》を幾人となく切り捨て、自分を助けて遠く走り、農家に隠匿《かくま》い今日まで、安穏に生活《くらし》をさせてくれた。その間一度も陣十郎は、自分に対していやらしい言葉や、いやらしい所業《しわざ》に及ばなかった。勿論陣十郎は義父《ちち》の敵《かたき》、討って取らねばならぬ男、とはいえ義父を討ったのも、その一半は自分に対し、恋慕したのを自分が退け、義父や主水が退けたことに、原因があることではあり、性来悪人ではあろうけれど、従来一度も自分に対しては、悪事を働いたことはなかった。その上今は女の生命の、操を保護してくれた人――とあって見ればこの身の操は、云うまでもなく許婚《いいなずけ》の、主水一人に捧げる外、誰にも他の男へは、捧げてはならず自分としても、断じて捧げぬ決心であり、このことばかりは陣十郎にも、ハッキリ言動で示しはしたが、それ以外には陣十郎に対して、優しく忠実にまめまめしく、尽くさねばならぬ境遇となり、義父《ちち》上の敵を討つことは、武士道の義理には相違ないが、生命――操の恩人には、人情としてそれと等なみに、尽くさなければならぬ義理があるはず、そこで澄江はそれ以来、今のような行為を執っているのであり、主水様と陣十郎殿とが巡り合い、敵討の太刀が交わされても、どうも妾には陣十郎殿に対し敵対することも出来そうもないと、心では思ってさえいるのであった。
 陣十郎の心持といえば
「この清浄無垢の白珠を、俺は誰にも穢させない!」
 この一点にとどまっていた。
 鴫澤《しぎさわ》庄右衛門を殺したのも、一つは澄江への恋心を、遮られたがためであった。敵持つ身となった原因、それが澄江であるほどの、澄江は陣十郎の恋女であった。だからその澄江を馬飼の長、嘉門如きが穢そうとする、何のむざむざ黙視出来ようぞ! そこで奪って逃げたのであり、遁れて知己《しりあい》の農家に隠匿い、今日まで二人で生活《くらし》て来る間、彼は今更に澄江という女が、女らしい優しい性質の中に、毅然として動かぬ女丈夫の気節を、堅く蔵していることを知り、愛慕の情を加えると同時に、尊敬をさえ持つようになり、暴力をもって自己の欲望などを、どうして遂げることが出来ようぞと、そう思うようになりさえした。


(澄江にとっては俺という人間、何と云っても義父の敵だ、それについてどう思っているだろう?)
 これが一番陣十郎にとっては、関心の事であらねばならず、で、絶えず心を配り、澄江の心を知ろうとした。
 と、澄江はその一事へは、決して触れようとはしなかった。
 陣十郎も触れなかった。
 さよう、互いにその一事へは、決して触れようとはしなかったが、陣十郎は自分の油断に澄江が早晩つけ[#「つけ」に傍点]込んで、寝首を掻くというような、卑劣な態度に出るということなど、澄江その人の性質から、有り得べからざることであると知り、それだけは安心することが出来、同時に澄江が義父の敵の自分に助けられたということから、義理と人情の板ばさみとなり、苦しい心的境遇に在る、そういうことを思いやり、憐愍同情の心持に、とらわれざるを得なかった。
(主水に対して澄江の心は?)
 これも実に陣十郎にとっては、重大な関心の一事であった。
(勿論澄江は心に深く、主水を恋していることだろう!)
 こう思うと陣十郎はムラムラと、嫉妬の思いに狩り立てられ、
(澄江が俺の意に従わぬのも、主水があるからだ!)と、主水に対する憎悪の念が、彼をほとんど狂気状態にまで、導き亢《たかぶら》せ追いやるのであった。
 時々彼は澄江に向かい、主水のことを云い出して見た。
 と澄江はきっとそのつど、あらぬ方へ話を反らせてしまって、何とも返辞をしなかった。
 それが陣十郎には物足らず、心をイライラさせはしたが、しかしまだまだその方がよくて、もしもハッキリ澄江の口から、ないしは起居や動作から、主水恋しと告げられたら、その瞬間に陣十郎の兇暴性が爆発し、乱暴狼藉するかもしれなかった。
 どっちみち陣十郎はこう思っていた。
(自己一身の生命の、永久の安全を計るためにも、主水は是非とも討って取らねばならぬ)
 こっちから主水を探し出して、討って取ろうと少し前から、心に定《き》めた陣十郎が、今や一層にその心を深く強く定めたのであった。
 その主水はどこにいるか?
 それは全く解らなかった。
 が、気がついたことがあった。
 間もなく行なわれる木曽の馬市、納めの馬市へは武州甲州の、博徒がこぞって行くはずである。高萩の猪之松も行くはずである。ところで主水は俺という人間が、その猪之松の賭場防ぎとして、食客となっているということを、知っているということであるから、猪之松が福島へ行く以上、俺も行くものとそう睨んで、俺を討つため福島さして、主水も行くに相違ない。ヨ――シそいつを利用して、俺も出て行き機を狙い、彼を返り討ちにしてやろう。
 で、ある日澄江へ云った。
「猪之松乾児の幾人かが、拙者と其方《そなた》とがこの農家に、ひそみ居ること知りましたと見え、この頃あたり[#「あたり」に傍点]を立ち廻ります。他所《よそ》へ参ろうではござりませぬか」


 こうして旅へ出た二人であった。
 旅へ出てはじめて木曽へ行くのだと、澄江は陣十郎によって明かされた。とはいえ鴫澤主水を討つべく、木曽へ行くのだとは明かされなかった。
「木曽へであろうと伊那へであろうと、妾《わたし》はどこへでも参ります」
 そう澄江はおだやかに応えた。
 成るようにしか成りはしない。神のまにまに、流るるままに。……そう澄江は思っているからであった。
 又、そう思ってそうするより他に、仕方のない彼女でもあるのであった。
(しかし澄江がこの俺が、主水を討つために木曽へ行くのだと、そう知ったら安穏では居るまいなあ)
 陣十郎はそう思い、そうとは明かさずただ漫然と、木曽への旅に澄江を引き出した。自分の邪の心持が、自分ながら厭になることがあり、
(俺は悪人だ悪人だ!)と、自己嫌忌の感情から、口の中で罵ることさえあった。
 それに反して澄江に対しては、そうとは知らずに云われるままに、義兄であり、恋人であり許婚である主水を、返り討ちにする残虐な旅へ、引き出されたことを惻々と、不愍に思わざるを得なかった。
 複雑極まる二人の旅心!
 しかし表面は二人ながら、朗かに笑い朗かに語り、宿りを重ねて行くのであった。
 さて、追分の宿へ着いた。
 四時煙を噴く浅間山の、山脈の裾に横たわっている宿場、参覲交代の大名衆が――北陸、西国、九州方の諸侯が、必ず通ることに定まっている宿、その追分は繁華な土地で、旅籠《はたご》には油屋角屋などという、なかば遊女屋を兼ねたような、堂々としたものがあり、名所には枡形があり、旧蹟には、石の風車ややらず[#「やらず」に傍点]の石碑や、そういうものがありもした。街道を一方へ辿って行けば、俚謡《うた》に詠まれている関所があり、更に一方へ辿って行けば、沓掛《くつかけ》の古風の駅《うまやじ》があった。
 旅籠には飯盛、青樓《ちゃや》にはさぼし[#「さぼし」に傍点]、そういう名称の遊女がいて、
[#ここから3字下げ]
後供《あとども》は霞ひくなり加賀守《かがのかみ》
[#ここで字下げ終わり]
 加賀金沢百万石の大名、前田侯などお通りの節には、行列蜿蜒数里に渡り、その後供など霞むほどであったが、この追分には必ず泊まり、泊まれば宿中の遊女という遊女は召されて纏頭《はな》をいただいた。
 そういう追分の鍵屋という旅籠へ、陣十郎と澄江が泊まったのは、
「お泊まりなんし、お泊まりなんし、銭が安うて飯《おまんま》が旨うて、夜具《やぐ》が可《よ》うてお給仕が別嬪、某屋《なにや》はここじゃお泊まりなんし」と、旅人を呼び立て袖を引く、留女《とめおんな》の声のかまびすしい、雀色の黄昏《たそがれ》であった。表へ向いた二階へ通された。
 旅装を解き少しくつろぎ、それから障子を細目に開けて、澄江は往来の様子を眺めた。駕籠が行き駄賃馬が通り、旅人の群が後から後から、陸続として通って行き、鈴の音、馬子唄の声、その間にまじって虚無僧の吹く、尺八の音などが聞こえてきた。
 と、旅人の群に雑り、旅仕度に深編笠の、若い武士が通って行った。
「あッ」と澄江は思わず云い、あわただしく障子をあけ、身を乗り出してその武士を見た。
 肩の格好や歩き方が、恋人|主水《もんど》に似ているからであった。
 なおよくよく見定《みきわ》めようとした時、一人の留女が走り出て、その武士の袖を引いた。と、その武士と肩を並べて、これも旅姿に編笠を冠った、年増女が歩いていたが、つと[#「つと」に傍点]その間へ分けて入り、留女を押しやって、その若い武士の片手を取り、いたわる[#「いたわる」に傍点]ような格好に、ズンズン先へ歩いて行った。
 が、その拍子に若い武士が、振り返って何気なく、澄江の立っている二階の方を見た。


 黄昏ではあり笠の中は暗く、武士の顔は不明であった。
(あんな女が附いている。主水様であるはずがない)
 そう澄江には思われた。
 主水様ともあるお方が、妾以外の女を連れて、こんな所へ暢気らしく、旅するはずがあるものか――そう思われたからである。
 とはいえどうにもその武士の姿が、主水に似ていたということが、絶える暇なく主水のことを、心の奥深く思い詰めている澄江の、烈しい恋心を刺激したことは、争われない事実であって、なおうっとり[#「うっとり」に傍点]と佇んで、いつまでもいつまでも見送った。
 しかしその武士とその女との組は、旅人の群にまぎれ込み、やがて、間もなく見えなくなった。
 婢女《こおんな》の持って来た茶を飲みながら、旅日記をつけていた陣十郎が、この時澄江へ声をかけた。
「澄江殿、茶をめしあがれ」
「はい」と云ったがぼんやりしていた。
「宿場の人通り、珍らしゅうござるか」
「はい」と云ったがぼんやりしていた。
「どうなされた? 元気がござらぬな」
「…………」
「やはりお疲労《つかれ》なされたからであろう」
「…………」
「返辞もなさらぬ。アッハハ。……それゆえ拙者馬か駕籠かに、お乗りなされと申したのじゃ」
「…………」
「按摩なりと呼びましょうかな」
「いいえ。……それにしても……主水様は……」
 思わず言葉に出してしまった。
「何! 主水!」と陣十郎は、それまでは優しくいたわるように、穏やかな顔と言葉とで、機嫌よく澄江に話しかけていたが、俄然血の気を頬に漂わせ、敵の体臭を鼻にした獣が、敵愾心と攻撃的猛気、それを両眼に集めた時の、兇暴惨忍の眼のように、三白眼を怒らせたが、
「ふふん、主水! ……ふふん主水! ……澄江殿には主水のことを、このような旅の宿場の泊りにも、心に思うて居られたのか! ……ふふん、そうか、そうでござったか!」
 ジロリと床の間の方へ眼をやった。
 そこにあるものは大小であった。
 既に幾人かの血を吸って、なお吸い足らぬ大小であった。


 鍵屋から数町離れた地点に、岩屋という旅籠があり、その裏座敷の一室に、主水とお妻とが宿を取っていた。
 主水は先刻《さっき》一軒の旅籠の、二階の欄干に佇んでいた、澄江に似ていた女のことを、心ひそかに思っていた。
 もう夜はかなり更けていて、夕暮方の騒がしかった、宿の泊客の戯声や、婢女《おんな》や番頭や男衆などの声も、今は聞こえず静かとなり、泉水に落ちている小滝の音が、しのびやかに聞こえるばかりであり、時々峠を越して行く馬子の、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]追分油屋掛行燈に、浮気御免と書いちゃない
[#ここで字下げ終わり]
 などと、唄って行く声が聞こえるばかりであった。
 間隔《まあい》を離して部屋の隅に、二流《ふたながれ》敷《し》いてある夜具の中に、二人ながら既に寝ているのであった。
(もうお妻は眠ったかしら?)
 顔を向けてそっちを見た。
 夜具の襟に頤を埋めるようにして、お妻は眼を閉じ静まっていた。高い鼻がいよいよ高くなり、頬がこけて[#「こけて」に傍点]肉が薄くなり、窶れて凄艶の度を加えていた。
(俺のために随分苦労をしてくれた)
 二人が夫婦ならぬ夫婦のようになり、弁三の家にかくまわれ[#「かくまわれ」に傍点]てから、木曽への旅へ出た今日が日まで、日数にしては僅かであったが、陣十郎のために探し出されまい、猪之松一家の身内や乾分共に、発見されまいと主水に対し、お妻が配慮し用心したことは、全く尋常一様でなかった。
 あの日――お妻が主水に対し、はじめてうってつけ[#「うってつけ」に傍点]た恋心を、露骨に告げた日陣十郎によって、後をつけ[#「つけ」に傍点]られ家を見付けられ、あやうく奥へ踏み込まれようとしたが、弁三の鉄砲に嚇されて、陣十郎は逃げて行ったものの、危険はいよいよ迫ったと知り、爾来お妻は家へも帰らず、陣十郎とも勿論逢わず、猪之松の家へも寄りつかず、主水の傍らに弁三の家に、身を忍ばせて動かなかった。
 だからお妻も主水も共々、あの夜高萩の猪之松方で、澄江があやうく馬大尽によって、処女の操をけがされようとしたことや、陣十郎が澄江を助け、猪之松の乾児達を幾人か切って、逃げたということなどは知らなかった。
 しかしその中《うち》に弁三の口から、木曽の納めの馬市を目指して、馬大尽を送りかたがた、猪之松が大勢の乾児を引き連れ、木曽福島へ行くそうなと、そういうことだけは聞くことが出来た。
 それをお妻は主水に話した。
「陣十郎は賭場防ぎ、猪之松方の賭場防ぎ。で、猪之松が木曽へ行くからは、陣十郎も行くでござんしょう」
 こうお妻は附け足して云った。
「では拙者も木曽へ参って……」
 主水は意気込み発足しようと云った。
「妾もお供いたします」
 こうして旅へ出た二人であった。
(いわば敵の片割のような女、……それにもかかわらず縁は不思議、よく自分に尽くしてくれたなあ)
 お妻の寝顔を見守りながら、そう思わざるを得なかった。
(露骨に恋心を告げた日以来、自分の心が決して動かず、お妻の要求は断じて入れない、――ということを知ったものと見え、その後はお妻も自分に対して、挑発的の言動を慎み、ただ甲斐々々しく親切に、年上だけに姉かのように、尽くしてくれるばかりだったが、思えば気の毒、おろそかには思われぬ。……)
 そう主水には思われるのであった。
(それにしても先刻見かけた女、澄江に似ていたが、澄江に似ていたが……)


 とはいえ澄江がこんな土地の、あんな旅籠に一人でションボリ、佇んでいるというようなことが、有り得ようとは想像されなかった。
(あの時お妻が、留女を、突きやり、俺の手を強く引っ張って、急いで歩いて来なかったら、あの女を仔細に見ることが出来、あの女が澄江かそうでないか、ハッキリ知ることが出来たものを)
 それを妨げられて出来なかったことが、主水には残念でならなかった。
(やはり澄江であろうも知れない!)
 不意に主水にはそう思われて来た。
(上尾街道での乱闘の際、聞けば澄江は猪之松方に属した、馬方によって担がれて行き、行方知れずになったとのこと、馬方などにはずかしめ[#「はずかしめ」に傍点]られたら、烈しい彼女の気象である、それ前に舌噛んで死んだであろう、もし今日も生きて居るとすれば、処女であるに相違なく、そうしてあの時から今日まで、そう日数は経っていない、わし[#「わし」に傍点]の消息を知ろうとして、あの土地に居附いていたと云える。とすると木曽の福島へ、納めの市へ馬大尽ともども、猪之松が行くということや、その猪之松の賭場防ぎの、陣十郎も行くということや、陣十郎が行く以上それを追って、わし[#「わし」に傍点]が行くだろうということを、澄江は想像することが出来る。ではそのわし[#「わし」に傍点]に逢おうとして、単身でこのような土地へ来ること、あり得べからざることではない)
 こんなように思われるからであった。
(あの旅籠は鍵屋とかいったはずだ。距離も大して離れてはいない。行って様子を見て来よう)
 矢も楯もたまらないという心持に、主水は襲われずにいられなかった。
(が、お妻に悟られては?)
 それこそ大変と案じられた。
(爾来《あれから》二人が夫婦ならぬ夫婦、妻ならぬ妻のような境遇に――そのような不満足の境遇に、お妻ほどの女が我慢しているのも、あの時以来澄江のことを、自分が口へ出そうとはせず、あの時以来澄江のことを、思っているというような様子を、行動の上にも出そうとはせず、ただひたすらにお妻の介抱を、素直に自分が受けているからで。そうでなくて迂闊にもし自分が、今も澄江を心に深く、思い恋し愛していると、口や行動に出したならば、それこそお妻は毒婦の本性を、俄然とばかり現わして、自分に害を加えようし、澄江がこの土地にいるなどと、そういうことを知ったなら、それこそお妻は情容赦なく、澄江を探し出して嬲り殺し! ――そのくらいのことはやるだろう)と、そう思われるからであった。
(澄江を確かめに行く前に、お妻が真実眠っているかどうか、それを確かめて置かなければならない)
 主水は静かに床から出、お妻の方へ膝で進み、手を延ばして鼻へやった。
 規則ただしいお妻の呼吸が、主水の掌《てのひら》に感じられた。
(眠っている、有難い)
 で立ち上って衣裳のある方へ行った。
 途端に、
「どちらへ?」と云う声がした。
 ギョッとして主水は振り返った。
 眼をあいたお妻が訝しそうに、主水の顔を見詰めながら、半身夜具から出していた。
「……いや……どこへも……厠へ……厠へ……」
「…………」
 お妻は頷いて眼を閉じた。
 で、主水は部屋から出た。


 部屋から出て廊下へ立ったものの、寝巻姿の主水であった、旅籠を抜け出して道を歩き、鍵屋などへは行けなかった。
 行けたにしても時が経ち、用達しの時間よりも遅れたならば、そうでなくてさえ常始終から、逃げはしないかと警戒しているお妻が、不安に思って探しに来、居ないと知ったら騒ぎ立て、一悶着起こそうもしれない。そうなっては大変である。
 そこで主水は厠へ入り、やがて出て来て部屋へ帰り、穏しく又夜具の中へ入った。
 見ればお妻は同じ姿勢で、安らかに眠っているようであった。
 やはり主水には澄江のことが、どうにも気になってならなかった。
(よし、もう一度試みてみよう)
 で、お妻の方へ眼をやったまま、又ソヨリと夜具から出た。
 お妻はやはり眠っていた。
 衣裳や両刀の置いてある方へ行った。
 幸いにお妻は眼をさまさなかった。
(有難い)と心で呟き、手早く衣裳を着換えようとした時、
「主水様どちらへ?」とお妻が云った。
 眼をさましていたのであった。
 怒ったような、嘲るような、――妾を出し抜いて行こうとなされても、出し抜かれるものではござんせん――こう云ってでもいるような眼付で、お妻は主水をじっと見詰めた。
「いや……ナニ、ちょっと……それにしても寒い――信州の秋の夜の寒いことは……そこで重ね着しようとして……」
 もずもず[#「もずもず」に傍点]と口の中で云いながら、テレて、失望して、断念して、主水は又も夜具の中へ入った。
(もう不可《いけ》ない、諦めよう)
 主水はすっかり断念した。
 眼端の利くお妻が眠った様子をして、こう自分を監視している以上、こっそり抜け出して行くことなど、とうてい出来ないと思ったからであった。
(よしよし明日の朝早く起き、そぞろ歩きにかこつけて、鍵屋へ行って見ることにしよう)
 こう考えをつけてしまうと、一時に眠りが襲って来た。
 主水は間もなく深い眠りに落ちた。
 あべこべにお妻は眼をさましてしまい、腹這いになって考え込んだ。
 好きで寝る間も枕元に置く莨《たばこ》、その煙管《きせる》を口にくわえ、ほの明るい行燈《あんどん》の光の中へ、漂って行く煙の行方を、上眼を使って見送りながら、お妻は考えに沈み込んだ。
 これ迄は観念をしたかのように、決して自分を出し抜いて、逃げようなどとしたことのない主水が、今夜に限って何としたことか、二度まで抜けて出ようとした! これはどうしたことだろう?
 どうにも合点がいかないのであった。
(何か曰くがなけりゃアならない)
 それにしても自分というこの女が、女賊、枕探し、邯鄲師《かんたんし》、だから他人の寝息をうかがい、抜け出ることも物を盗むことも、殺すことさえ出来るのに、知らぬとはいえそういう自分を出し抜き、抜け出ようとした主水の態度が、どうにも可笑《おか》しくてならなかった。
(いっそ可愛い位だよ)
 煙管をくわえたままお妻は笑い、主水の方をそっと見遣った。主水は安らかに天井の方を向いて、規則正しい呼吸をしていた。深い眠りに入っているらしい。
 もう時刻は丑の刻でもあろうか、家の内外寂しく静かで、二間ほど離れた座敷の方から、鼾の声が聞こえてき、初秋の夜風に吹かれて落ちる、中庭あたりの桐の葉でもあろうか、バサリ、バサリと閑寂の音を、時々立てるのが耳につくばかりで、山国の駅路《えきろ》の旅籠の深夜は、芭翁《ばしょう》好みの寂寥に入っていた。
(今日まで我慢をして来たんだよ。……やっぱり順当の手段《て》で行こうよ)
 お妻はとうとう思い返した。
 で、煙管を抛り出し、男の方へ顔を向け、横に寝返って眠ろうとした。
 途端に、
「澄江!」と眠ったままで、主水がハッキリ声を立てて云った。
「澄江よ! 澄江よ! お前はどこに! ……」
 お妻はグラグラと眼が廻った。
(畜生!)
 ムックリと起き上った。
(やっぱり思っていやがるんだ! あの女のことを! 澄江のことを!)
 眼を据えて主水の寝顔を睨んだ。
 主水は長閑《のどか》に眠っている。
 が、愛する女のことを、夢にでも見ているのであろうか、閉じた眼を優しく痙攣させ、閉じた唇に微笑を湛えている。


 それからしばらく経った時、追分の宿の宿外れを、野の方へ行く女があった。
 星はあるが月のない夜で、それに嵐さえ吹いていて、その嵐に雲が乱れ、星をさえ隠す暗澹さ!
 そういう夜道を物に狂ったかのように、何か口の中で呟きながら、走ったかと思うと立ち止まり、立ち止まったかと思うと又走る。
 それは他ならぬお妻であった。
 眠っている間も恋しい女、澄江のことを忘れかね、うわ言に出して云った主水――そういう主水の心持を知り、怒りと失望と嫉望《しっと》とに、お妻はほとんど狂わんばかりとなり、汝《おのれ》どうしてくれようかと、殺伐の気さえ起こしたのであったが、それは年増であり世間知りであり、世なれている彼女であったので、まずまずと心をおちつかせ、燃えるように上気《のぼ》って痛む頭を、夜の風にでも吹かせてやろうと、そこは女|邯鄲師《かんたんし》で、宿をこっそり抜け出すことなど、雑作なく問題なく出来るので、宿をこっそり抜け出して、今こうやって歩いているのであった。
 さて冷え冷えとした高原の、秋の夜の風に吹かれながら、お妻は歩いているのであるが、問題が問題であるだけに、心は穏かにはならなかった。
(宿へ放火《ひつけ》でもしてやろうか!)
(人殺《ひとごろし》でもしてやろうか!)
 そんなことさえ思うのであった。
 街道から反れて草の露を散らし、お妻は野の方へ歩いて行く。
 と、街道を背後《うしろ》の方から、木曽の納めの馬市へ出る、馬の群が博労に宰領されて、陸続と無数にやって来た。徹夜をして先へ進むのであった。それらのともして[#「ともして」に傍点]行く提燈の火が、点々とあたかも星のように、道を明るめ動いていたが、珍らしい美しい眺めであった。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]秋が来たとて鹿さえ鳴くに、なぜに紅葉《もみじ》は色に出ぬ
※[#歌記号、1-3-28]余り米とはそりゃ情ない、美濃や尾張の涙米
[#ここで字下げ終わり]
 などと唄う馬子唄の声が、ノンビリとして聞こえてきた。
 しかしお妻にはそういう光景も、珍らしくもなければ美しくもなかった。でただ夢中で歩いていた。

 陣十郎が同じような心境の下に、旅籠を出て野の方へやって来たのは、ちょうどこの頃のことであった。
 主水のことを思っている澄江! それを口へ出して云った澄江! そういう澄江を夕方見た。汝々どうしてくれよう! すんでにその時陣十郎は、澄江を一刀に切ろうとした。
 が、それは辛うじて抑えた。
 さて夜になって二人は寝た。
 部屋の片隅に澄江が寝、別の片隅に陣十郎が寝。――これまでやって来たように、その夜もそうやって二人は寝た。
 が、陣十郎は眠られなかった。
 怒り、失望、嫉妬の感情が、心を亢《たか》ぶらせ頭を燃やし、安眠させようとしないのである。
 見れば澄江も眠られないと見えて、そうして恐怖に襲われていると見えて、こっちへ細い頸足《うなじ》を見せ深々と夜具にくるまったまま、溜息を吐いたり顫えたりして、夜具の中で蠢いていた。
(一思いに……)
 この考えが又浮かんだが、あさましくも憐れにも思われて、断行することが出来なかった。
(夜の風にでも吹かれて来よう)
 で、こっそりと宿を抜け出したのである。


 足にまつわる露の草を、踏分け踏分け陣十郎は歩いた。
 街道を馬の列が通って行く。
 それを避けて草野を歩いて行くのである。
(ガーッとどいつかを叩っ切ったら、この心も少しはおちつくかもしれない)
 そんなこともふと思われた。
(ウロウロ女でも通って見ろ)
 そんな兇暴の考えも、チラチラ彼の心の中に燃えた。
 と、そういう彼の希望に、応じようがために出て来たかのように、行手から女が星の光で知れる、小粋の姿を取り乱し、走ったり止まったりよろけ[#「よろけ」に傍点]たりして、こっちへ歩いて来るのが見られた。
(しめた!)と一刹那陣十郎は思った。
(宿の女か、旅の者か、そんなことはどうでもいい、来かかったのが女の不運! ……)
 で、素早く木陰に隠れた。
 その女はそれとも知らぬか、よろめくような足どりで、その前を通って行き過ぎようとした。
 不意に躍り出た陣十郎、物をも云わず背後《うしろ》の方から……
「あッ」
 不意の事だったので、女は驚きの声をあげたが、……
 しかし次の瞬間に、二人はパーッと左右へ別れた。
「貴様はお妻!」
「陣十郎様か!」
 サーッとお妻は逃げだした。
「待て!」
 刀を抜いて追っかけた。
 澄江と夫婦ならぬ夫婦となり、共住居《ともずまい》から旅に出た。そうなってからはお妻のことは、ほとんど陣十郎の心になかった。
 ところが意外にもこんな事情の下に、あさましいお妻とぶつかった。

高原狂乱


 仆れて、
「人殺シ――ッ」
 だが飛び起き、
「どなたか助けて――ッ」と走り出した。
 そのお妻をなお追いかけ、周章《あわて》たために不覚至極にも、切り損った自分を恥じ恥じ、
「逃げようとて逃がそうや! くたばれ、汝《おのれ》、毒婦、毒婦!」
 陣十郎は執念《しうね》く追った。
 仆れつ、飛び起きつ、刀を避け、お妻は走り走ったが、ようやく街道へ出ることが出来た。
 馬、博労、提灯、松明――馬市へ向かう行列が、街道を埋めて通っていた。
 そこへ駈け込んだ女|邯鄲師《かんたんし》のお妻、
「助けて――ッ、皆様、助けて!」
「どうしたどうした?」
「若い女だ!」
 博労達は騒ぎ立った。
「狂人《きちがい》が妾《わたし》を手籠めにし……殺そうとしてアレアレそこへ!」
 瞬間躍り込んで来た陣十郎、
「逃げるな、毒婦、逃がしてなろうか!」
 切り付けようとするやつを、
「女を助けろ!」
「狂人を殺せ!」
「ソレ抜身を叩き落とせ!」
 ムラムラと四方からおっとり[#「おっとり」に傍点]囲み、棒や鞭を閃めかし、博労達は陣十郎へ打ってかかった。
「汝ら馬方何を知って、邪魔立ていたすか、命知らずめ!」
 揮った刀!
 首が飛んだ!
「ワ――ッ」
「切ったぞ!」
「仲間の敵!」
「逃がすな!」
「たたんでしまえ!」
「狂人め、泥棒め!」
 十、二十、三十人! ムラムラと寄せ、犇いた。
 狂奔する馬! 地に落ちて燃える、提燈《ちょうちん》、松明《たいまつ》、バ――ッと立つ火焔!
 悲鳴に続く叫喚怒号! 仆れる音、叱咤する声!
 百頭に余る馬の群が、音に驚き光に恐れ、野の方へ宿《しゅく》の方へ駈け出した。
「馬が放れたぞ――ッ」
「逃がすな、追え!」
「捕らえろ!」
「大変だ――ッ」
「人殺し――ッ」
 ほとんど狂気した陣十郎、剣鬼の本性を現わして、馬と馬方の渦巻く中を、
「お妻! どこに! 逃がそうや!」と、右往し左往し走り廻り、邪魔になる博労、馬の群を、見境いもなく切りつ薙ぎつ、追分宿の方へ走る! 走る!
 と、この時一挺の駕籠を、菅の笠に旅合羽、長脇差を揃って差し、厳重に足のかためをした、三十人あまりの博労が守り、茣蓙に包んだ金箱や駒箱、それを担いで粛々と、宿の方からやって来たが、そこへ駈け込んだ馬の群に驚き、街道を反れて野に立った。
 上尾宿に長く逗留し、夜道をかけて帰らないことには、木曽福島の納めの馬市に、間に逢わないと焦慮して、帰りを急ぐ馬大尽を守護して、高萩の猪之松とその乾児とが、同じく夜道をかけて来た。――同勢は実にそれなのであった。


「馬を放したな、馬鹿な奴だ」
 こう云ったのは猪之松で、駕籠の脇に立っていた。
「商売物を逃がすなどとは、冥利に尽きた連中で」
 駕籠の戸をあけて騒動を見ていた、井上嘉門が嘲笑うように云った。
「だから一生馬方商売、それ以上にはなれませんので。ハッハッハッ」と附け加えた。
 そこへ陣十郎が駈けて来た。
 眼が眩んでいて見境いがなかった。
 数人を切った血刀を提げ、乱れた髪、乱れた衣裳、返り血を浴びたムキ出しの脛。――そういう姿で駈けて来た。
「陣十郎だ! 陣十郎だ!」
 閂峰吉が眼ざとく[#「ざとく」に傍点]目付け、ギョッとしたように声をあげた。
「おおそうだ陣十郎だ!」
 こう猪之松も叫んだが、いつぞやの晩自分の屋敷で、養ってやった恩を忘れ、乾児を切ったばかりでなく、井上嘉門に捧げた女――澄江とか云った武家の娘を、奪い去ったことを思い出した。
「畜生、恩知らず、たたんでしまえ!」
「やれ!」
 ダ、ダ、ダ、ダ! ――
 乾児達だ!
 一斉にひっこ[#「ひっこ」に傍点]抜いて切ってかかった。
「…………」
 無言で横なぐり!
 陣十郎であった!
 ブ――ッと血吹雪《ちふぶき》!
 闇ながら立った。
 匂いで知れる! 生臭さ!
「切ったぞ畜生!」
「用心しろ!」
 開いて散じたが又合した。
 見境いのない陣十郎、躍り上ってズ――ンと真っ向!
「キャ――ッ」
 仆れて、ノタウチ廻る。また乾児が一人やられた。
 見すてて一散宿の方へ!
「汝《おのれ》お妻ア――ッ! 逃がしてなろうか!」
「追え!」と猪之松は地団太を踏んだ。
「仕止めろ、汝ら、仕止めろ仕止めろ!」
 一同ド――ッと追っかけた。
 この頃|宿《しゅく》は狂乱していた。
 馬! 馬! 馬!
 博労! 博労! 博労!
 戸を蹴破り、露路に駈け込み、騒ぎに驚いて戸を開けた隙から、駈け入る馬! 捕らえようとして、無二無三に踏み入る博労!
 ボ――ッと一軒から火の手が揚がった。
 火事だ!
 とうとう火を出したのだ!
 おりから吹きつのった夜風に煽られ、飛火したらしいもう一軒から、カ――ッと火の手が空へあがった。
「起きろ!」
「火事だ!」
「焼き討ちだ!」
 家々はおおよそ雨戸を開け、人々は争って外へ出た。
 岩屋では主水が眼を覚まし、鍵屋では澄江が起き上った。
 番頭が階上階下《うえした》を怒鳴り廻っている。
「お客様方大変でございます。焼き討ちがはじまりましてござります! どうぞお仕度下さりませ! ご用心なすって下さりませ!」

 本陣油屋の奥の座敷では、逸見《へんみ》多四郎義利が、眼をさまして起き上った。


 多四郎は聞き耳を澄ましたが、
「源女殿! 東馬々々!」と呼んだ。
 と、左の隣部屋から、
「はい」という源女の声が聞こえ、
「眼覚め居りますでござります」という、門弟東馬の応える声が、右の隣部屋から聞こえてきた。
「宿《しゅく》に騒動が起こったようじゃ。……ともかくも身仕度してこの部屋へ!」
 間もなく厳重に身拵《みごしら》えした、東馬と源女とが入って来た。
 その間に多四郎も身拵えし、三人様子をうかがっていた。
 そこへ番頭が顔を出し、
「木曽福島の馬市へ参る、百頭に余る馬の群が、放れて宿へなだれ込み、出火などもいたしましたし、切り合いなどもいたし居ります様子、大騒動起こして居りますれば、ご用心あそばして下されますよう」
 こう云ってあわただしく走って行った。
「何はあれ宿の様子を見よう」
 多四郎は源女と東馬とを連れて、油屋の玄関から門口へ出た。
 多四郎がこの地へやって来た理由は?
 源女の歌う歌の中に、今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の、云々という文句があった。そこで多四郎は考えた。そういう馬飼の居る所に、黄金は埋められているのであろう、そうしてそういう馬飼の居る地は、木曽以外にはありそうもない。木曽山中には井上嘉門という、日本的に有名な馬飼があって、馬大尽とさえ呼ばれている。そやつが蔵しているのではあるまいか? おおそうそう馬大尽といえば、門弟高萩の猪之松方に、逗留しているということじゃ、源女殿と引き合わせ、二人の様子を見てやろうと、源女を連れて高萩村の、猪之松方へ行ったところ、本日井上嘉門ともども、木曽へ向かって行ったとのこと、それではこちらも木曽へ行こうと、東馬をも連れて旅立ったので、途中で馬大尽や猪之松の群と、遭遇《あ》わなければならないはずなのであるが、急いで多四郎が間道などを歩き、かえって早くこの地へ着き、日のある中《うち》に宿を取ったため、少し遅れてこの地へ着き、先を急いで泊まろうとせず、夜をかけて木曽の福島へ向かう、猪之松と馬大尽との一行と、一瞬掛け違ってしまったのであった。
 さて門口に立って見れば、宿の混乱言語に絶し、収拾すべくもなく思われた。
 群集が渦を巻いて街道を流れ、その間を馬の群が駈け巡り、その上を火の子が梨地《なしじ》のように飛んだ。
「これは危険だ、ここにいては不可《いけ》ない、野の方へ! 耕地の方へ!」
 こう云って多四郎は群集を分け、その野の方へ目差して進んだ。
 その後から二人は従《つ》いて行ったが、いつか混乱の波に呑まれ、全く姿が見えなくなってしまった。

 鍵屋で眼を覚まして起き上った澄江は、傍らを見たが陣十郎が居ない。
(どうしたことか?)と思ったものの、居ないのがかえって天の与え、今日の彼の様子から推せば、今後どんな目に逢わされるかも知れない。
(宿を出てともかくも外へ行こう)
 仕度をして外へ出た。
(主水様は?)
 こんな場合にも思った。


 昼間見かけた例のお侍さんが、もし恋しい主水様なら、この宿のどこかに泊まっていよう、お逢いしたいものだお逢いしたいものだ!
 思い詰めて歩く彼女の姿も、いつか混乱に捲かれてしまった。
 岩屋で眼覚めた主水その人も、ほとんど澄江と同じであった。
 傍らを見るとお妻が居ない。天の与えと喜んだ。義理あればこそ今日まで、一緒に起居をして来たのではあるが、希望《のぞみ》は別れることにあった。
 そのお妻の姿が見えない。
(よしこの隙に立ち去ろう)
 で、身仕度して外へ出た。
(鍵屋の二階で見かけた女、義妹澄江であろうも知れない。ともかくも行って探して見よう)
 で、その方へ歩を運んだが、人と馬と火との混乱! その混乱に包まれて、全く姿が見えなくなった。
 喚声、悲鳴、馬のいななき!
 破壊する音、逃げまどう足音?
 唸る嵐に渦巻き渦巻き、火の子を散らす火事の焔!
 宿は人の波、馬の流れ、水の洗礼、死の饗宴、声と音との、交響楽!
 その間を縫って全くの狂乱――血を見て狂った悪鬼の本性、陣十郎が走っては切り、切っては走り、隠見出没、宿の八方を荒れ廻っていた。
 今はお妻を探し出して切る! ――そういう境地からは抜け出していて、自分のために追分の宿が、恐怖の巷に落ち入っている、それが変質的彼の悪魔性を、恍惚感に導いていた。で男を切り女を切り馬を切り子供を切り、切れば切るほど宿が恐怖し、宿が混乱するその事が、面白くて面白くてならないのであった。
 返り血を浴び顔も手足も、紅斑々《こうはんはん》[#「紅斑々」は底本では「紅班々」]として凄まじく、髻《もとどり》千切れて髪はザンバラ、そういう陣十郎が老人の一人を、群集の中で切り仆し、悲鳴を聞き捨て突き進み、向こうから群集を掻き分け掻き分け、こっちへ向かって来る若い女を見た。
「澄江エ――ッ」と思わず声をあげた。
 それが澄江であるからであった。
「陣十様[#「陣十様」はママ]か!」と澄江は云ったが、あまりにも恐ろしい陣十郎の姿! それに自身陣十郎から遁れ、立ち去ろうとしている時だったので、陣十郎の横を反れ、群集の中へまぎれ込もうとした。
「汝逃げるか! 忘恩の女郎《めろう》!」
 そういう澄江の態度によって、心中をも見抜いた陣十郎は、可愛さ余って憎さが百倍! この心理に勃然として襲われ、いっそ未練の緒を断ってしまえ! 殺してしまえと悪鬼の本性、今ぞ現わして何たる惨虐!
「くたばり居ろう!」と大上段に、刀を振り冠り追いかけたが、その間をへだてる群集の波! が、そいつを押し分け突っ切り、近寄るや横から、
「思い知れ――ッ」と切った。
 が、幸いその途端に、一頭の馬が走って来、二三の人を蹴り仆し、二人の間へ飛び込んだ。
「ワ――っ」という人々の叫び! 又二三人蹴り仆され、澄江も仆れる人のあおりで、ドッと地上に伏し転んだ。
 と「お女中あぶないあぶない!」と、云い云い抱いて起こしてくれたは、旅|装束《よそおい》をした武士であった。
「あ、あ、あなたは主水様ア――ッ」
「や、や、や、や、澄江であったか――ッ」


 抱き起こしてくれたその武士こそ、恋しい恋しい主水であった。
「主水様ア――ッ」と恥も見得もなく、群集に揉まれ揉まれながら、澄江は縋りつき抱きしめた。
「澄江! 澄江! おおおお澄江!」
 思わず流れる涙であった。
 涙を流し締め返し、主水はほとんど夢中の態で、
「澄江であったか、おおおお澄江で! ……昼間鍵屋の二階の欄で。……それにいたしてもよくぞ無事で! ……別れて、知らず、生死を知らず、案じていたに、よくぞ無事で……」
 しかしその時群集の叫喚、巷の雑音を貫いて
「やあ汝《おのれ》は鴫澤主水《しぎさわもんど》! この陣十郎を見忘れはしまい! ……本来は汝に討たれる身! 逃げ隠れいたすこの身なれど、今はあべこべに汝を探して、返り討ちいたさんと心掛け居るわ! ……見付けて本望逃げるな主水!」と叫ぶ声が聞こえてきた。
「ナニ陣十郎? 陣十郎とな?」
 かかる場合にも鴫澤主水、親の敵《かたき》の陣十郎とあっては、おろそかにならずそれどころか、討たでは置けない不倶戴天の敵!
(どこに?)と声の来た方角を見た。
 馬や群集に駈けへだてられ、十数間あなたに離れてはいたが、まさしく陣十郎の姿が見えた。
 が、おお何とその姿、凄く、すさまじく、鬼気陰々、悪鬼さながらであることか! ザンバラ髪! 血にまみれた全身!
 ゾッとはしたが何の主水、驚こうぞ、恐れようぞ、
「妹よ、澄江よ、天の賜物、敵陣十郎を見出したるぞ! 討って父上の修羅の妄執、いで晴そうぞ続け続け――ッ」と刀引き抜き群集を分け、無二無三に走り寄った。
「ア、あにうえ! お兄イ様ア――ッ」
 叫んだが澄江の心は顛倒! 勿論親の敵である! 討たねばならぬ敵であるが、破られべかりし女の命の、操を救い助けてくれた恩人! ……陣十郎を陣十郎を!
(妾《わたし》には討てぬ! 妾には討てぬ!)
「オ、お兄イ様ア――ッ、オ、お兄イ様ア――ッ」
 その間もガガ――ッ! ド、ド――ッ! ド、ド――ッ! 響き轟き寄せては返す、荒波のような人馬の狂い!
 宿《しゅく》は狂乱! 宿は狂乱
「陣十郎オ――ッ! 尋常に勝負!」
「参れ主水オ――ッ! 返り討ち!」
 一間に逼った討ち手討たれ手!
 音!
 太刀音!
 合ったは一合オ――ッ!
「わ、わ、わ、わ――ッ」と悲鳴! 悲鳴!
 いや、いや、いや、主水ではなく、陣十郎でもなく群集群集!
 群集が二人の切り結ぶ中を、見よ恐れず意にもかけず、馳せ通り駈け抜け走る走る!
 その人々に駈けへだてられ、寄ろうとしても再び寄れず、焦心《あせっ》ても無駄に互いに押され、右へ左へ、前と後とへ、次第次第に、遠退く、遠退く!
「陣十郎オ――ッ! 汝逃げるな!」
「何の逃げよう――ッ! 主水参れ――ッ!」
「お兄イ様ア――ッ」
「妹ヨ――ッ」
「澄江殿! 澄江殿! 澄江殿オ――ッ」


 追分宿の狂乱の様を、望み見ながらその追分宿へ、入り込んで来る一団があった。
 旅合羽に草鞋脚絆、長脇差を落として差し、菅笠を冠った一団で、駒箱、金箱を茣蓙に包み、それを担いでいる者もあり、博徒の一団とは知れていたが、中に二人の武士がいた。
 秋山要介と杉浪之助と、赤尾の林蔵とそれの乾児の、三十余人の同勢であり、云わずと知れた木曽福島の、納めの馬市に開かれる、賭場に出るべく来た者であった。
 納めの馬市には日限がある。それに間に合わねば効果がない。で猪之松や林蔵ばかりが[#「ばかりが」は底本では「ばかりか」]、この日この宿を通るのではなく、武州甲州の貸元で、その馬市へ出ようとする者は、おおよそ今日を前後に挿んで、この宿を通らなければならないのであった。
 要介達は何故来たか?
 源女を逸見多四郎に取られた。
 爾来要介は多四郎の動静、源女の動静に留意した。
 と、二人が連立って、木曽へ向かったと人伝てに聞いた。
(では我々も追って行こう)
 おりから林蔵も行くという。
 では同行ということになり、さてこそ連れ立って来たのであった。
 粛々と一団は歩いて来たが、見れば行手の追分宿は、火事と見えて火の手立ち上り、叫喚の声いちじるしかった。
 と、陸続として逃げて来る男女! 口々に罵る声を聞けば、
「焼き討ちだ――ッ!」
「馬が逃げた――ッ!」
「百頭、二百頭、三百頭オ――ッ!」
「切り合っているぞ――ッ!」
「焼き討ちだ――ッ」
 耳にして要介は足を止めた。
「林蔵々々、少し待て!」
「へい、先生、大変ですなア」
「どうも大変だ、迂闊には行けぬ」
「そうですとも先生迂闊には行けない」
「宿を避けて野を行こう」
「そうしましょう、さあ野郎共、その意《つもり》で行け、街道から反れろ」
「へい」と一同街道を外し、露じめっている草を踏み、野へ出て先へ粛々と進んだ。
 進み進んで林蔵の一団、生地獄の宿を横に睨み、宿の郊外まで辿りついた。
 と、この辺りも避難の人々で、相当混雑を呈してい、放れ馬も時々走って来た。火事の光は勿論届きほとんど昼のように明るかった。
 その光で行手を見れば、博徒の一団が屯《たむろ》していて、宿の様子を眺めていた。
(おおどこかのお貸元が、避難してあそこにいるらしい。ちょっとご挨拶せずばなるまい)
 渡世人の仁義である。
「藤作々々」と林蔵は呼んだ。
「へい、親分、何でござんす」
「向こうに一団見えるだろう。どこのお貸元だか知らねえが、ちょっと挨拶に行って来ねえ」
「ようがす」と藤作は走って行ったが、すぐ一散に走り帰って来た。
「親分、大変で、猪之松の野郎で」
「ナニ猪之松? ううん、そうか!」
 見る見る額に青筋を立てた。
「先生々々、秋山先生!」
「何だ?」と要介は振り返った。
「向こうに見えるあの同勢、高萩の猪之だっていうことで」
「猪之松? ふうん、おおそうか」
 要介も向こうを睨むように見た。


「林蔵!」としかし要介は云った。
「猪之松には其方《そち》怨みはあろうが、ここでは手出ししてはならぬぞ」
「何故です先生、何故いけません?」
「何故と申してそうではないか。宿は火事と放れ馬とで、あの通りに混乱し、人々いずれも苦しんで居られる。そういう他人の苦難の際に、男を売物の渡世人が、私怨の私闘は謹むべきだ」
「そうですねえ、そう云われて見れば、こいつ一言もありませんや。が、相手がなぐり込んで来たら?」
「おおその時には売られた喧嘩、降りかかる火の子だ、断乎として払え!」
「ようがす、それじゃアその準備だ。……やいやい野郎共聞いていたか、猪之の方から手出ししたら幸い、遠慮はいらねえ叩き潰してしまえ! ……それまではこっちは居待懸け! おちついていろおちついていろ!」
「合点でえ」と赤尾の一党、鳴を静めて陣を立てた。
 と、早くも猪之松方でも、彼方に見える博徒の群が、赤尾の一党と感付いた。
「親分」と云ったのは一の乾児の、例の閂峰吉であった。
「林蔵の乾児の藤作の野郎が、やって来て引っ返して行きましたねえ」
「うん」と云ったのは猪之松で、先刻すでに駕籠から出、牀几を据えさせてそれへ腰かけ、火事を見ていた馬大尽、井上嘉門の側に立って、これも火勢を眺めていたが、
「うん、藤作が見えたっけ」
「向こうにいるなあ林蔵ですぜ。林蔵と林蔵の乾児共ですぜ」
「俺もそうだと睨んでいる」
「さて、そこで、どうしましょう?」
「どうと云って何をどうだ。先方が手出しをしやアがったら、相手になって叩き潰すがいい。それまではこっちは静まっているばかりさ」
「上尾街道では林蔵の方から、親分に決闘《はたしあい》を申し込んだはず。今度はこっちから申し込んだ方が」
「嘉門様がお居でなさらあ。……素人の客人を護衛《まも》って行く俺らだ、喧嘩は不可《いけ》ねえ、解ったろうな」
「なるほどなア、こいつア理屈だ。……じゃア静まって居りやしょう」
 この時二人の旅姿の武士と、同じく一人の旅姿の女、三人連れが火事の光に、あざやかに姿を照らしながら、宿の方から野へ現われ、猪之松方へ歩いて来た。
 眼ざとく認めたのが要介であった。
「杉氏」と要介は声をかけた。
「あの武家をよくご覧」
 浪之助は見やったが、
「先生ありゃア逸見先生で」
「であろうな、わしもそう見た」
「先生、女は源女さんですよ」
「そうらしい、わしもそうと見た。……よし」と云うと秋山要介[#「要介」は底本では「要助」]、つかつか進み出て声をかけた。
「あいやそこへまいられたは、逸見多四郎先生と存ずる。しばらくお待ち下されい」
 さようその武士は本陣油屋から、人波を分け放馬を避け、源女と東馬とを従えて、野へ遁れ出た多四郎であったが、呼ばれて足を止め振り返った。


「これはこれは秋山先生か」
 こう云ったが逸見多四郎、当惑の眉をひそかにひそめた。
「不思議な所でお逢い申した」
「いや」と要介は苦笑いをし、
「拙者におきましてはこの邂逅、不思議ではのうて期する処でござった」
「期する処? はてさてそれは?」
「と申すはこの要介、貴殿を追っかけ参りましたので」
「拙者を追っかけ? ……何故でござるな?」
「源女殿を当方へいただくために」
「…………」
「過ぐる日貴殿お屋敷において、木刀立合いいたしました際、拙者貴殿へ申し上げましたはずで。源女殿を取り返すでござりましょうと。……なお、その際申し上げましたはずで、後日真剣で試合ましょうと。……」
「…………」
「いざ、今こそ真剣試合! 拙者勝たば有無ござらぬ、源女殿を頂戴いたす!」
「…………」
「なお、この際再度申す、拙者が勝たば赤尾の林蔵を――その林蔵は拙者と同伴、乾児と共にそこへ参ってござる。――関東一の貸元として、猪之松を隷属おさせ下さい!」
「拙者が勝たば高萩の猪之松を――その猪之松儀これより見れば、同じく乾児を引卒して、そこに屯して居るようでござるが、その猪之松を関東一の、貸元として林蔵を乾児に……」
「致させましょう、確かでござる!」
「しからば真剣!」
「白刃の立合い!」
「いざ!」
「いざ!」
 サ――ッと三間あまり、二大剣豪は飛び退ったが、一度に刀を鞘走らせると、火事の光りに今はこの辺り、白昼《ひるま》よりも明るくて、黄金の色を加えて赤色、赤金色の火焔地獄! さながらの中にギラギラと輝く、二本の剣をシ――ンと静め、相青眼に引っ構えた。
 これを遥かに見聞して、驚いたのは林蔵と猪之松で、
(俺らのために先生――師匠が、――師匠同志が切り合ったでは、此方《こちとら》の男がすたって[#「すたって」に傍点]しまう! もうこうなっては遠慮は出来ねえ! 控えていることは出来なくなった!)
 両人ながら同じ心で、同じ心が言葉になり、
「さあ手前達かもう事アねえ、猪之の同勢へ切り込んで、猪之の首をあげっちめえ!」
「さあ野郎共赤尾へ切り込め! 林蔵を仕止めろ仕止めろ!」
 ド――ッとあがった鬨の声!
 ムラムラと両軍走りかかった。
 白刃! 閃き! 悲鳴! 怒声! 仆れる音! 逃げつ追いつ、追いつ逃げつする姿!
 混乱混戦の場となったが、この時|宿《しゅく》もいよいよ混乱! 混乱以上に阿鼻叫喚の焦熱地獄となりまさり火事の焔の熱気に堪えかね、空地へ耕地へ……耕地へ耕地へと、さながら怒濤の崩れる如く、百、二百、三百、四百! 老幼男女家畜までが、この耕地へ逃げ出して来た。
 その人波に揉まれ揉まれて、澄江とお妻とが泳いで来た。
 と、陰惨とした幽鬼の声で、
「澄江殿オ――、お待ちなされ! ……汝お妻ア――遁そうや!」と叫ぶ、陣十郎の声がした。

 逸見多四郎家のここは道場。――
 竹刀《しない》ではない木刀であった。
 要介と多四郎とは構えていた。
 一本勝負!
 そう定められていた。
 二人ながら中段の構え!
 今、シ――ンと静かである。
 かかる試合に見物は無用と、通いの門弟も内門弟も、一切退けてのただ二人だけ! いや他に杉浪之助と、要介の訪問に応待に出た、先刻の若侍とが道場の隅に、つつましく控えて見守っていた。


 澄江もお妻も振り返って見た。
 愛欲の鬼、妄執の餓鬼、殺人鬼、――鬼となった陣十郎が人波を分けて、二人の方へ走って来た。
 血刀が群集の波の上に、火光《ひかり》を受けて輝いている。
(陣十郎に捕らえられたら、妾《わたし》の命は助からない)
 お妻は夢中で悲鳴を上げて走り、
(陣十郎殿に捕らえられたら、妾の躰も貞操も……)
 こう思って澄江も無我夢中で、前へ前へとヒタ走った。
「どうぞお助け下さりませ!」
 無我夢中で走って来た澄江、一挺の駕籠のあるのを見かけて、そこへ駈け付けこう叫んだ。
「お助けいたす! 駕籠の中へ!」
 誰とも知らず叫んだ者があった。
「お礼は後に、事情も後に!」
 こう云って澄江は駕籠の中へ、窮鳥のように身を忍ばせた。
「駕籠やれ!」と又も誰とも知れず叫んだ。
 駕籠がユラユラと宙に上り、街道の方へ舁がれて走り、その後から赧顔長髪の、酒顛童子[#「酒顛童子」は底本では「酒天童子」]さながらの人物が、ニタニタ笑いながら従《つ》いて走った。
 猪之松の屋敷で澄江の躰を、自分の物にしようとして、陣十郎に邪魔をされて、望みを遂げることに失敗した、馬大尽の井上嘉門であった。
「駕籠待て――ッ、遣らぬ! 待て待て待て――ッ!」
 陣十郎は追っかけたが、
「や、こいつ陣十郎! 又現われたか、今度こそ仕止めろ!」と、猪之松の乾児達一斉に、陣十郎を引っ包んだ。
 一方、お妻はその隙を狙い、ひた走りひた走ったが、息切れがして地に仆れた。
 と、そこに刀を下げて、寄せ来る群集に当惑し、左右に避けていた武士がいた。
「お侍さまと見申して、お助けお願いいたします!」
 云い云いお妻は武士の袖に縋った。
「誰じゃ? よし、誰でもよし! 見込まれて助けを乞われた以上、誰であろうと助けつかわす! 参れ!」と云ったがこの武士こそ、秋山要介と太刀を交わし、命の遣り取りをしようとした瞬間、群集の崩れに中をへだてられ、相手の姿を見失ったところの、逸見多四郎その人であった。
「東馬々々、東馬参れ!」
「はい先生! 私はここに!」
「源女殿は? 源女殿は?」
「源女殿は人波にさらわれて……どことも知れずどことも知れず……」
「残念! ……とはいえ止むを得ぬ儀、東馬参れ――ッ!」と刀を振り上げ、遮る群集に大音声!
「道を開け! 開かねば切るぞ!」
 刀の光に驚いて、道を開いた群集の間を、あて[#「あて」に傍点]もなく一方へ一方へ、三人は走った走った走った。
 が、それでも未練あって、
「源女殿オ――、源女殿オ――ッ」と呼ばわった。
 そういう声は聞きながら、永らく世話になってなつかしい、要介の姿を見かけた源女は――逸見多四郎に対しても、丁寧な待遇を受けたので、決して悪感は持っていなかったが、要介に対してはそれに輪をかけた、愛慕の情さえ持っていたので、その方角へ人を掻き分け、この時無二無三に走っていた。
「秋山先生!」とやっと[#「やっと」に傍点]近付き、地へひざまずくと足を抱いた。

10
「源女殿か――ッ!」と秋山要介、これも地面へ思わず膝つき
「逢えた! よくぞ! 参られた! ……杉氏々々!」と嬉しさの声、顫わせて呼んで源女を抱き、
「もう逃がさぬ! どこへもやらぬ! 杉氏々々源女殿を、林蔵の手へ! ……そこで介抱!」
「おお源女殿オ――ッ! よくぞ来られた!」
 駈け寄って来た浪之助、これもなつかしさ[#「なつかしさ」に傍点]に声を亢《たか》ぶらせ、
「いざ源女殿、向こうへ向こうへ! ……先生にもご同道……」
「いやいや俺は逸見多四郎を! ……」
「この混乱、この騒動、見失いました上からは……」
「目つからぬかな。……では行こう」
 この混乱の人渦の中を、阿修羅のように荒れ廻っているのは、澄江を奪われお妻を見失い、猪之松の乾児達に取り巻かれ、切り立てられている陣十郎であった。
 十数人を殺傷し、己も幾度か薄手を受け、さすがの陣十郎も今は疲労! その極にあって眼はクラクラ、足元定まらずよろめくのを、得たりと猪之松の乾児の大勢、四方八方より切ってかかった。
 それをあしらい[#「あしらい」に傍点]、避けつ払いつ――こいつらに討たれては無念残念、どこへなりと一旦遁れようと退く、退く、今は退く!
 ようやく人波の渦より出、追い縋る猪之松の乾児からも遁れ、薮の裾の露じめった草野へ、跚蹣《さんまん》として辿りついた時には、神気全く消耗し尽くした。
(仆れてなろうか! 仆れぬ! 仆れぬ!)
 が、ドッタリ草の上に仆れ、気絶! ――陣十郎は気絶してしまった。
 火事の遠照りはここまでも届いて、死人かのように蒼い顔を、陰影づけて明るめていた。
 修羅の巷は向こうにあったが、ここは寂しく人気なく、秋の季節は争われず、虫の音がしげく聞こえていた。
 と、この境地へ修羅場を遁れ、これも同じく疲労困憊、クタクタになった武士が一人、刀を杖のように突きながら、ヒョロリヒョロリと辿って来た。
「や、死人か、可哀そうに」と呟き、陣十郎の側《そば》へ立った。
 が、俄然躍り上り――躍り上り躍り上り声をあげた。
「陣十郎オ――ッ! 汝《おのれ》であったか! 鴫澤主水が参ったるぞ! 天の与え、今度こそ遁さぬ! 立ち上って勝負! 勝負いたせッ!」
 武士は鴫澤主水であった。
「起きろ起きろ水品陣十郎! 重なる怨み今ぞ晴す! ……起きろ! 立ち上れ! 水品陣十郎!」
 刀を真っ向に振り冠り、起き上ったらただ一討ち! ……討って取ろうと構えたが、陣十郎は動かなかった。
(死んでいるのか?)と疑惑が湧いた。
 手を延ばして額へ触った。
 気絶しているのだ、暖味がある。
(よ――し、しからばこの間に!)
 振り冠った刀を取り直し、胸へ引きつけ突こうとしたが、心の奥で止めるものがあった。
(あなたが高萩の森の中で、気絶しているのを陣十郎の情婦、お妻が助けたではありませんか。……正体もない人間を、敵《かたき》であろうと討つは卑怯、まず蘇生させてその上で)と。
(そうだ)と主水は草に坐り、印籠から薬を取り出した。

恩讐同居


木曽福島の納めの馬市。――
 これは勿論現代にはない。
 現代の木曽の馬市は、九月行なわれる中見《なかみ》の市と、半夏至を中にして行なわれる、おけつげ[#「おけつげ」に傍点]という二つしかない。
 納めの馬市の行なわれたのは、天保末年の頃までであり、それも前二回の馬市に比べて、かなり劣ったものであった。もうこの頃は山国の木曽は、はなはだ寒くて冬めいてさえ居り、人の出もあまりなかったからである。
 とは云え天下の福島の馬市! そうそう貧弱なものではなく、馬も五百頭それくらいは集まり、縁日小屋も掛けられれば、香具師《やし》の群も集まって来、そうして諸国の貸元衆が、乾児をつれて出張っても来、小屋がけをして賭場をひらいた。
 この時集まって来た貸元衆といえば――
 白子の琴次《ことじ》、一柳の源右衛門、廣澤の兵右衛門、江尻の和助、妙義の雷蔵、小金井の半助、御輿の三右衛門、鰍澤《かじかざわ》の藤兵衛、三保松源蔵、藤岡の慶助――等々の人々であり、そこへ高萩の猪之松と、赤尾の林蔵とが加わっていた。
 左右が山で中央が木曽川、こういう地勢の木曽福島は、帯のように細い宿であったが、三家の筆頭たる尾張様の家臣で、五千八百余石のご大身、山村甚兵衛が関の関守、代官としてまかり居り、上り下りの旅人を調べる。で、どうしてもこの福島へは、旅人は一泊かあるいは二三泊、長い時には七日十日と、逗留しなければならなかったので、宿は繁盛を極めていた。尾張屋という旅籠《はたご》があった。
 そこへ何と堂々と、こういう立看板が立てられたではないか!
「秋山要介在宿」と。
 これが要介のやり口であった。
 どこへ行っても居場所を銘記し、諸人に自己の所在を示し、敵あらば切り込んで来い、慕う者あらば訪ねて来いという、そういう態度を知らせたのであった。
 その尾張屋から二町ほど離れた、三河屋という旅籠には、逸見《へんみ》多四郎が泊っていたが、この人は地味で温厚だったので、名札も立てさせずひっそりとしていた。
 さて馬市の当日となった。
 博労、市人、見物の群、馬を買う人、馬を売る人、香具師《やし》の男女、貸元衆や乾児、非常を警める宿役人、関所の武士達、旅の男女――人、人、人で宿《しゅく》は埋もれ、家々の門や往来には、売られる馬が無数に繋がれ、嘶《いなな》き、地を蹴り、噛み合い刎ね合い、それを見て犬が吠え――、声、声、声で騒がしくおりから好天気で日射し明るく、見世物小屋も入りが多く、賭場も盛って賑やかであった。
 そういう福島の繁盛を外に、かなり距たった奈良井の宿の、山形屋という旅籠屋へ、辿りついた二人の武士があった。
 陣十郎と主水であった。
 奥の小広い部屋を二つ、隣同志に取って泊まった。
 二人ながら駕籠で来たのであったが、駕籠から現われた陣十郎を見て、
「こいつは飛んだお客様だ」と、宿の者がヒヤリとした程に、陣十郎は憔悴してい、手足に幾所か繃帯さえし、病人であり、怪我人であることを、むごたらしく鮮やかに示していた。
 夕食の膳を引かしてから、主水は陣十郎の部屋へ行った。
「どうだ陣十郎、気分はどうだ?」
「悪い、駄目だ、起きられぬ」
 床を敷かせ、枕に就き、幽かに唸っていた陣十郎は、そう云って残念そうに歯を噛んだ。
「これではお前と立ち合い出来ぬよ」


「まあ可《い》い、ゆっくり養生するさ」
 主水はそう云って気の毒そうに見た。
「快癒してから立ち合おう」
「それよりどうだな」と陣十郎は云った。
「こういう俺を討って取らぬか」
「そういうお前を討つ程なら、あの時とうに討って居るよ」
「あの時討てばよかったものを」
「死人を切ると同じだったからな」
「それでも討てば敵討《かたきうち》にはなった」
「誉にならぬ敵討か」
「ナーニ見事に立ち合いまして、討って取りましたと云ったところで、誰一人疑う者はなく、誉ある復讐ということになり、立身出世疑いなしじゃ」
「心が許さぬよ、俺の良心が」
「なるほどな、それはそうだろう。……そういう良心的のお前だからな」
「お前という人間も一緒に住んで見ると、意外に良心的の人間なので、俺は少し驚いている」
「ナーニ俺は悪人だよ」
「悪人には相違ないさ。が、悪人の心の底に、一点強い善心がある。――とそんなように思われるのさ」
「そうかなア、そうかもしれぬ。いやそうお前に思われるなら、俺は実に本望なのだ。……俺は一つだけ可《い》いことをしたよ。……いずれゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]話すつもりだが」
「話したらよかろう、どんなことだ?」
「いやまだまだ話されぬ。もう少しお前の気心を知り、そうして俺の性質を、もう少しお前に知って貰ってからそうだ知って貰ってからでないと、話しても信じて貰われまいよ」
「実はな」と主水も真面目の声で、
「実はな俺もお前に対し、その中《うち》是非とも聞いて貰いたいこと、話したいことがあるのだよ。が、こいつも俺という人間を、もっとお前に知って貰ってからでないと……」
「ふうん、変だな、似たような話だ。……が、俺はお前という人間を、かつて疑ったことはないよ。俺のような人間とはまるで[#「まるで」に傍点]違う。お世辞ではない、立派な人間だ」
「お前だってそうだ、可《い》いところがある」
 二人はしばらく黙っていた。
 木曽街道の旅籠の部屋だ、襖も古び障子も古び、畳も古び、天井も古び、諸所に雨漏りの跡などがあって、暗い行燈でそれらの物象が、陰惨とした姿に見えていた。
 乱れた髷、蒼白の顔、――陣十郎のそういう顔が、夜具の襟から抽《ぬきん》でている。
 それは化物絵を思わせるに足りた。
「おい」と陣十郎は感傷的の声で、
「俺とお前は血縁だったなア」
「…………」
 主水は無言で頷いた。
「俺とお前は従々兄弟《またいとこ》だったんだなア」
「…………」
「だから互いに敵同志になっても、……」
「…………」
「こんな具合に住んでいられるのだなア」
「そうだよ」と主水も感傷的に云った。
「そうだよ俺達は薄くはあるが、縁つづきには相違ないのだ」
 ここで又二人は黙ってしまった。
 行燈の光が暗くなった。
 燈心に丁字でも立ったのであろう。
「寒い」と陣十郎は呟いた。
「木曽の秋の夜……寒いのう。……風邪でも引いては大変だ。わしの夜具を掛けてやろう」
 主水は云って自分の部屋へ立った。


 追分宿の大乱闘、その時仆れた陣十郎を目つけ、主水は討って取ろうとしたが、気絶している人間は討てぬ。で蘇生させたところ、陣十郎は無数の負傷、立ち上る気力もなくなっていた。
 しかし彼は観念し、草に坐って首差し延べ、神妙に討って取られようとした。
 これがかえって主水の心を、同情と惻隠とに導いて、討って取ることを出来なくした。
 で、介抱さえしてやることにした。
 旅籠へ連れて来て医師にかけた。
 それにしてもどうしてそんな負傷者を連れて、福島などへ行くのであろう?
 こう陣十郎が云ったからである。
「井上嘉門という馬大尽が、博徒猪之松の群にまじり、あの夜乱闘の中にいた。そこへ澄江殿が逃げ込まれた。と、嘉門が駕籠に乗せ、福島の方へ走らせて行った。その以前からあの嘉門め、澄江殿に執着していた。急いで行って取り返さずば、悔いても及ばぬことになろう。……これにはいろいろ複雑の訳と、云うに云われぬ事情とがある。そうして俺はある理由によって、その訳を知っている。が今は云いにくい。ただ俺を信じてくれ。俺の言葉を信じてくれ。そうして一緒に木曽へ行って、澄江殿を取り返そう」
 ――で、二人は旅立ったのであった。
 主水にしてからが澄江の姿を、追分の宿で見かけたことを、不思議なことに思っていた。馬大尽井上嘉門のことは、上尾宿の旅籠の番頭から聞いた。
 しかし、澄江と嘉門との関係――何故嘉門が駕籠に乗せて、澄江をさらって行ったかについては、窺い知ることが出来なかった。
 陣十郎は知っているらしい。
 詳しい事情を知っているらしい。
 が、その陣十郎はどうしたものか、詳しく話そうとはしないので、強いて訊くことも出来なかった。
 とはいえ澄江がそんな事情で、嘉門に連れられて行ったとすれば、急いで木曽へ出張って行って、澄江を奪い返さなければならない。
 ――で、旅立って来たのである。
 二人は翌日山形屋を立って、旅駕籠に身を乗せて、福島さして歩ませた。
 鳥居峠へ差しかかった。
 ここは有名な古戦場で、かつ風景絶佳の地で、芭蕉翁なども句に詠んでいる。
[#ここから3字下げ]
雲雀《ひばり》より上に休らう峠かな
[#ここで字下げ終わり]
 木曽の五木と称されている、杜松《ねず》や扁柏《ひのき》や金松《かさやまき》[#ルビの「かさやまき」はママ]や、花柏《さわら》や、そうして羅漢松《おすとのろう》[#ルビの「おすとのろう」はママ]などが、鬱々蒼々と繁ってい、昼なお暗いところもあれば、カラッと開けて急に眼の下へ、耕地が見えるというような、そういう明るいところもあった。
 随分急の上りなので、雲助はしきりに汗を拭いた。
 主水は陣十郎の容態を案じた。
(窮屈の駕籠でこんな所を越して、にわかに悪くならなければよいが)
 で、時々駕籠を止めて、客をも駕籠舁《かごかき》をも休ませた。
 峠の中腹へ来た時である、
「駕籠屋ちょっと駕籠をとめろ」
 突然陣十郎はそう云った。
「おい主水、景色を見ようぜ」
「よかろう」と主水も駕籠から下りた。
「歩けるのか、陣十郎」
「大丈夫だ。ボツボツ歩ける」
 陣十郎は先に立って、森の方へ歩いて行った。


 明応《めいおう》年間に木曽義元、小笠原氏と戦って、戦い勝利を得たるをもって、華表《とりい》を建てて鳥居峠と呼ぶ。
 その鳥居の立っている森。――森の中は薄暗く、ところどころに日漏れがして、草に斑紋《まだら》を作ってはいたが、夕暮のように薄暗かった。
 そこを二人は歩いて行った。
 紅葉した楓《かえで》が漆《うるし》の木と共に、杉の木の間に火のように燃え、眩惑的に美しかったが、その前までやって来た時、
「エ――イ――ッ」と裂帛の声がかかり、木漏れ陽を割って白刃一閃!
「あッ」
 主水だ!
 叫声を上げ、あやうく飛び退き抜き合わせた!
 悪人の本性に返ったらしい! 見よ、陣十郎は負傷の身ながら、刀を大上段に振り冠り、繃帯の足を前後に踏み開き、大眼カッと見開いて、上瞼へ瞳をなかば隠し、三白眼を如実に現わし、主水の眼をヒタと睨み、ジリリ、ジリリと詰め寄せて来た。
 殺気!
 磅磚《ぼうばく》!
 宛《えん》として魔だ!
 気合に圧せられ殺気に挫かれ、主水はほとんど心とりのぼせ、声もかけられずジリリジリリと[#「ジリリジリリと」は底本では「ヂリリヂリリと」]、これは押されて一歩一歩後へ後へと引き下った。
 間!
 静かにして物凄い、生死の境の間が経った。
 と、陣十郎の唇へ酸味のある笑いが浮かんで来た。
「駄目だなア主水、問題にならぬぞ。それでは到底俺は討てぬ」
「…………」
「人物は立派で可《い》い人間だが、剣道はからきし[#「からきし」に傍点]物になっていない」
「…………」
「刀をひけよ、俺も引くから」
 陣十郎は数歩下り、刀を鞘に納めてしまった。
 二人は草を敷いて並んで坐った。
 小鳥が木から木へ渡り、囀りの声を立てていた。
「主水、もっと修行せい」
「うん」と主水は恥かしそうに笑い、
「うん、修行するとしよう」
「俺が時々教えてやろう」
「うん、お前、教えてくれ」
「俺の創始した『逆ノ車』――こいつを破る法を発明しないことには、俺を討つことは出来ないのだがなア」
「とても俺には出来そうもないよ。『逆ノ車』を破るなんてことは」
「それでは俺を討たぬつもりか」
「きっと討つ! 必ず討つ!」
 主水は烈しい声で云い、鋭い眼で陣十郎を睨んだ。
 それを陣十郎は見返しながら、
「討てよ、な、必ず討て! 俺もお前に討たれるつもりだ。……が、それには『逆ノ車』を……」
 主水は俯向いて溜息をした。
 二人はしばらく黙っていた。
 森の外の明るい峠道を、二三人の旅人が通って行き、駄賃馬の附けた鈴の音が、幽かながらも聞こえてきた。
「『逆ノ車』使って見せてやろうか」
 ややあって陣十郎はこう云った。
「うむ、兎も角も使って見せてくれ」
「立ちな。そうして刀を構えな」
 云い云い陣十郎は立ち上った。
 そこで主水も立ち上り、云われるままに刀を構えた。
 と、陣十郎も納めた刀を、又もソロリと引き抜いたが、やがて静かに中段につけた。


「よいか」と陣十郎が云った途端、陣十郎の刀が左斜に、さながら水でも引くように、静かに、流暢に、しかし粘って、惑わすかのようにスーッと引かれた。
 何たる誘惑それを見ると、引かれまい、出まいと思いながら、その切先に磁気でもあって、己が鉄片ででもあるかのように、主水は思わず一歩出た。
 陣十郎の刀が返った。
 ハ――ッと主水は息を呑んだ。
 瞬間怒濤が寄せるように、大下手切り! 逆に返った刀!
 見事に胴へダップリと這入った。
「ワッ」
「ナーニ切りゃアしないよ」
 もう陣十郎は二間の彼方へ、飛び返っていて笑って云った。
「どうだな主水、もう一度やろうか」
「いや、もういい。……やられたと思った」
 主水は額の冷汗を拭いた。
 また二人は並んで坐った。
「どうだ主水、破れるか?」
「破るはさておいて防ぐことさえ……」
「防げたら破ったと同じことだ」
「うん、それはそうだろうな」
「どこがお前には恐ろしい?」
「最初にスーッと左斜へ……」
「釣手の引のあの一手か?」
「あれにはどうしても引っ込まれるよ」
「次の一手、柳生流にある、車ノ返シ、あれはどうだ?」
「あれをやられるとドキンとする」
「最後の一手、大下手切り! これが本当の逆ノ車なのだが、これをお前はどう思う?」
「ただ恐ろしく、ただ凄じく、されるままになっていなければならぬよ」
「これで一切分解して話した、……そこで何か考案はないか?」
「…………」
 無言で主水は考えていた。
 と、陣十郎が独言のように云った。
「すべての術は単独ではない。すべての法は独立してはいない。……『逆ノ車』もその通りだ。『逆ノ車』そればかりを単独に取り上げて研究したでは、とうてい破ることは出来ないだろう。……その前後だ、肝心なのは! ……どういう機会に遭遇した時『逆ノ車』を使用するか? ……『逆ノ車』を使う前に、どうそこまで持って来るか? ……こいつを研究するがいい。……こいつの研究が必要なのだ」
 ここで陣十郎は沈黙した。
 主水は熱心に聞き澄ましていた。
 そう陣十郎に云われても、主水には意味が解らなかった。いやそう云われた言葉の意味は、解らないことはなかったが、それが具体的になった時、どうなるものかどうすべきものか、それがほとんど解らなかった。
 で、いつ迄も黙っていた。
「澄江殿はどうして居られるかのう」
 こう如何にも憧憬《あこが》れるように、陣十郎が云いだしたのは、かなり間を経た後のことであった。
 異様な声音に驚いて、主水は思わず陣十郎を見詰めた。
 と、陣十郎の頬の辺りへ、ポッと血の気が射して燃えた。
(どうしたことだ?)と主水は思った。
 が、直ぐに思い出されたことは、陣十郎が以前から、澄江を恋していたことであった。
(いまだに恋しているのかな)
 こう思うと不快な気持がした。
 それと同時に陣十郎の情婦? お妻のことが思い出された。
 卒然として口へ出してしまった。
「お妻殿はどうして居られることやら」
「ナニお妻?」と驚いたように、陣十郎は主水を見詰めた。


「お妻! ふふん、悪婆毒婦! あんな女も少ないよ」
 やがて陣十郎は吐き出すように云った。
 追分宿の夜の草原で、後口の悪い邂逅をした。――そのことを思い出したためであった。
「そうかなア」と主水は云ったが主水にはそう思われなかった。
 彼女の執拗なネバネバした恋慕、どこまでも自分に尽くしてくれた好意――一緒にいる中は迷惑にも、あさましいものにも思われたが、さてこうして離れて見れば、なつかしく恋しく思われるのであった。
(が、そのお妻とこの俺とが、夫婦ならぬ夫婦ぐらし、一緒に住んでいたと知ったら、陣十郎は何と思うであろう?)
 夫婦のまじわり[#「まじわり」に傍点]をしなかったといかに弁解したところで、若い女と若い男とが、一緒に住んでいたのである。清浄の生活など何で出来よう、肉体的の関係があったと、陣十郎は思うであろう――主水にはそんなように思われた。
 それが厭さに今日まで、主水は陣十郎へ明かさないのであった。
 とはいえいずれは明かさなければならない――そこで奈良井の旅籠屋でも、聞いて貰いたいことがある、云わなければならないことがあると、そういう意味のことを云ったのであった。
 似たような思いにとらえられているのが水品陣十郎その人であった。
 澄江と夫婦ならぬ夫婦ぐらし、それをして旅をさえつづけて来た。が、そう打ちあけて話したところで、肉体のまじわり[#「まじわり」に傍点]なかったと、何で主水が信じよう。暴力で思いを遂げたぐらいに、まず思うと思ってよい。
 打ち明けられぬ! 打ち明けられぬ!
 で、今だに打ち明けないのであったが、早晩は話してしまわねば、自分として心苦しい。そこでこれも奈良井の宿で、聞いて貰いたいことがある、話さねばならぬことがあると、主水に向かって云ったのであった。
 二人はしばらく黙っていた。
 互いに一句云ったばかりで、澄江について、お妻に関して、もう云おうとはしなかった。
 触れることを互いに避けているからである。

 木曽福島へやって来たものの、逸見多四郎は馬市そのものに、何の関心も執着もなく、執着するところは埋ずもれた巨宝、それを手に入れることであった。
「お妻殿」と旅籠の座敷で多四郎は優しく微笑して云った。
「木曽の奥地西野郷へ、行って見ようではござらぬか」
「はいはいお供いたしますとも」
 お妻は嬉しそうにそう云った。
「其方《そなた》は健気で話が面白い。同行すると愉快でござろうよ」
「まあ殿様、お世辞のよいこと」
「東馬、其方《そち》も行くのだぞ」
「は、お供いたします」
 こんな塩梅《あんばい》に二人を連れて、多四郎は福島の宿を立った。
 奥地の木曽の風景を探る。こう二人には云ったものの、その実は奥地の西野郷に、馬大尽事井上嘉門がいる。そこに巨宝があるかもしれない。有ったらそれを手に入れてと、それを目的に行くのであった。
 木曽川を渡ると渡った裾から、もう険しい山路であった。
 急ぐ必要の無い旅だったので、三人は悠々と辿って行った。

馬大尽の屋敷


 その同じ日のことであった、旅籠《はたご》尾張屋の奥の部屋で、秋山要介が源女と浪之助とへ、
「さあ出立だ。いそいで用意! 西野郷へ行くのだ、西野郷へ行くのだ!」
 急き立てるようにこう云った。
 要介は源女を取り返して以来、そうして源女と福島へ来て以来、源女の口からこういう事を聞いた、
「妾《わたくし》だんだん思い出しました。大森林、大渓谷、大きな屋敷、無数の馬、酒顛童子のような老人のいた所、そこはどうやら福島の、奥地のように思われます」と。
 それに福島へ来て以来、林蔵の[#「林蔵の」は底本では「林臓の」]乾児《こぶん》をして逸見《へんみ》多四郎の起居を、絶えず監視させていたが、それから今しがた通知があった。逸見多四郎が供二人を連れて、西野郷さして発足したと。
 そこでこんなように急き立てたのであった。
 三人は旅籠を出た。
(西野郷には馬大尽事、井上嘉門という大金持が、千頭ほどの馬を持って、蟠踞《ばんきょ》[#ルビの「ばんきょ」は底本では「はんきょ」]しているということだ。それが源女のいう所の、酒顛童子のような老人かも知れない)
 要介はそんなことを思った。
 さて三人は歩いて行く。
 西野郷は今日の三岳村と、開田村とに跨がっており、木曽川へ流れ込む黒川の流域、貝坪、古屋敷、馬橋、ヒゲ沢渡、等々の小部落を点綴《てんてつ》したところの、一大地域の総称であって、その中には大森林や大渓谷や瀧や沼があり、そのずっと奥地に井上嘉門の、城砦のような大屋敷が、厳然として建っているのであった。
 今日の歩みをもってすれば、福島から西野郷へは一日で行けるが、文政年間の時代においては、二日の日数を要するのであった。
 分け上る道は険しかったが、名に負う木曽の奥地の秋、その美しさは類少なく、木々は紅葉し草は黄ばみ、木の実は赤らみ小鳥は啼きしきり、空は澄み切って碧玉を思わせ、驚嘆に足るものがあり、そういう境地を放牧されている馬が、あるいは五頭あるいは十頭、群をなし人を見ると懐かしがって、走って来ては鼻面を擦りつけた。
「妾《わたし》、だんだん思い出します」
 源女は嬉しそうに云い出した。
「たしかに妾こういう所を、山駕籠に乗せられ揺られながら、以前に通ったように思います」
「そうでござるか、それは何より……源女殿には昔の記憶を、だんだん恢復なされると見える」
 そう云って要介も喜んだ。
 歩きにくい道を歩きながら、三人は奥へ進んで行った。
 その日も暮れて夜となった。
 その頃要介の一行は、一軒の杣夫《そま》の家に泊まっていた。
 このような土地には旅籠屋などはなく、旅する人は杣夫や農夫に頼み、その家へ泊まることになっていた。
 大きな囲炉裏を囲みながら、要介は杣夫の家族と話した。
「西野郷の馬大尽、井上嘉門殿のお屋敷は、大したものでござろうの?」
「へえ、そりゃア大したもので、ご門をお入りになってから、主屋の玄関へ行きつくまでに、十町はあるということで」
「それはどうも大したものだな」
「嘉門様お屋敷へ参られますので?」
「さよう、明日《あした》行くつもりじゃ」
「あそこではお客様を喜ばれましてな、十日でも二十日でも置いてくれます」


「大家のことだからそうであろう」
「幾日おいでになろうとも、ご主人のお顔を一度も見ない、……見ないままで帰ってしまう……そういうことなどザラにあるそうで」
「ほほう大したものだのう」
 翌日一行は杣夫の家を立ち、その日の夜には要介達は、井上嘉門家の客になっていた。
 客を入れるために造ってある、幾軒かある別棟の家の、その一軒に客となっていた。
 想像以上噂以上に、嘉門の屋敷が豪壮であり、その生活が雄大なので、さすがの要介も胆を潰した。
 いうところの大家族主義の典型《てんけい》のようなものであった。
 西野郷の井上嘉門と、こう一概に人は云っていたが、行って見れば井上嘉門の屋敷は、西野郷からは更に数里、飛騨の国に寄っている、ほとんど別個の土地にあり、その土地から西野郷へまで、領地が延びているのだと、こう云った方がよいのであった。
 山の大名!
 まさにそうだ。
 周囲三里はあるであろうか、そういう広大な地域を巡って、石垣と土牆《どしょう》と巨木とで、自然の城壁をなしている(さよう将に城壁なのである)その中に無数の家々があり田畑があり丘があり、林があり、森があり、川があり、沼があり、農家もあれば杣夫の家もあり、空地では香具師《やし》が天幕《テント》[#ルビの「テント」は底本では「テン」]を張って見世物を興行してさえいた。
 しかもそれでいてその一廓は、厳然として嘉門の屋敷なのであった。
 つまり嘉門の屋敷であると共に、そこは一つの村であり、城廓都市であるとも云えた。
 馬や鹿や兎や狐や、牛や猿などが、林や森や、丘や野原に住んでいた。
 到る所に厩舎《うまや》があった。
 乞食までが住居していた。
 嘉門の住んでいる主屋なるものは、一体どこにあるのだろう?
 ほとんど見当がつかない程であった。
 が、その屋敷はこの一劃の奥、北詰の地点にあるのであって、その屋敷にはその屋敷に属する、石垣があり門があった。
 要介に杣夫が話した話、「ご門をお入りになってから、主屋の玄関へ行きつくまでに、十町はあるということで」と。
 これはこの門からのことなのであった。
 が、総体の嘉門の屋敷、周囲三里あるというこの屋敷の、雄大極まる構えと組織は、何も珍しいことではなく、昭和十七年の今日にあっても、飛騨の奥地や信州の奥地の、ある地方へ行って見れば、相当数多くあるのである。新家《しんや》とか分家《ぶんけ》とかそういう家を、一つ所へ八九軒建て、それだけで一郷を作り、その家々だけで団結し、共同の収穫所《とりいれしょ》や風呂などを作り、祭葬冠婚の場合には、その中での宗家へ集まり、酒を飲み飯を食う。
 白川郷など今もそうである。
 で、嘉門家もそれなのであるが、いかにも結構が雄大なので、驚かされるばかりなのであった。
 宗家の当主嘉門を頭に、その分家、その新家、分家の分家、新家の新家、その分家、その新家――即ち近親と遠縁と、そうしてそういう人々の従僕――そういう人々と家々によって、この一劃は形成され、自給自足しているのであった。
 要介達の泊まっている家は、宗家嘉門の門の中の平屋建ての一軒であった。
 さてその夜は月夜であった。
 その月光に照らされて、二梃の旅駕籠が入って来た。


 二梃の駕籠の着けられた家も、客を泊めるための家であったが、要介達の泊まっている家とは、十町ほども距たっていた。
 主水と陣十郎とが駕籠から出た。
 そうして家の中へ消えて行った。
 こういう大家族主義の大屋敷へ来れば、主人の客、夫婦の客、支配人の客、従僕の客、分家の客、新家の客と、あらゆる客がやって来るし、ただお屋敷拝見とか、一宿一飯の恩恵にとか、そんな名義で来る客もあり、客の種類や人品により、主人の客でも主人は逢わず、代わりの者が逢うことがあり、従僕の客でも気が向きさえすれば、主人が不意に逢ったりして、洵《まこと》に自由であり複雑であったが、感心のことには井上嘉門は、どんな粗末な客であっても、追い返すということはしなかったそうな。有り余る金があるからであろうが、食客を好む性質が、そういうことをさせるのであった。
 要介は心に思うところあって、
「有名なお屋敷拝見いたしたく、かつは某《それがし》事武術修行の、浪人の身にござりますれば、数日の間滞在いたし、お家来衆にお稽古つけたく……」
 とこういう名目で泊まり込み、陣十郎と主水とは、
「旅の武士にござりまするが、同伴の者この付近にて、暴漢数名に襲われて負傷、願わくば数日滞在し、手あて[#「あて」に傍点]致したく存じます」
 と、こういう口実の下に泊まったのであった。
 陣十郎は猪之松の屋敷で、嘉門を充分知って居り、知って居るばかりか嘉門を襲った。――そういう事情があるによって、絶対に嘉門には逢えなかった。
 顔を見られてさえ一大事である。
 で、顔は怪我したように、繃帯で一面に包んでいた。
 逸見多四郎が堂々と、
「拙者は武州小川の郷士、逸見多四郎と申す者、ご高名を知りお目にかかりたく、参上致しましてござります」
 と、正面から宣《なの》って玄関へかかり、丁寧に主屋へ招じ入れられたのも、同じ日のことであり、お妻も東馬も招じ入れられた。
 さて月のよい晩であった。
 要介は源女と浪之助を連れてブラリと部屋から戸外へ出た。
 この広大の嘉門の屋敷の、大体の様子を見て置こうと、こう思って出て来たのであった。
 林のような植込みの中に、ポツリポツリと幾軒とない、立派な屋敷が立っていて、もう夜も相当更けていたからか、いずれも戸締り厳重にし、火影など漏らしてはいなかった。
 と、三人の歩いて行く行手を、二人の武士が歩いていた。
 この家へ泊まっている客であろう。
 そう思って要介は気にも止めなかった。
 が、そこは人情で、自分もこの家の客であり、先方の二人も客であるなら、話して見たいとこんなように思い、その後をソロソロとつけ[#「つけ」に傍点]て行った。
 植込を抜け幾軒かの屋敷の、前を通ったり横を通ったりして、大略《おおよそ》五六町も歩いたであろうか、その時月夜の空を摩して、一際目立つ大屋敷が、その屋敷だけの土塀を巡らし、その屋敷だけの大門を持って、行手に堂々と聳えていた。
(これが嘉門の住居だな。いわば本丸というやつだ。いやどうも広大なものだ)
 要介はほとほと感に堪えた。


 先へ行く二人の客らしい武士も、その屋敷の広大なのに、感嘆をしているのであろう、しばし佇んで眺めていたが、土塀に添って右の方へ廻った。
 要介たちも右の方へ廻った。
 と、二人のその武士達は、土塀の前の一所へ立って、しばらく何やら囁いていたが、やがて土塀へ手をかけると、ヒラリと内へ躍り込んだ。
「おや」
「はてな」
 と云い要介も、浪之助も声をあげた。
「先生、あいつら変ですねえ」
「客ではなくて泥棒かな」
 二人は顔を見合わせた。
 と、先刻から物も云わず、熱心に四辺《あたり》を見廻したり、深く物思いに沈んだりして、様子を変えていたお組の源女が、この時物にでも憑かれたような声で、
「おお妾《わたし》は思い出した。この屋敷に相違ない! 妾が以前《まえかた》送られて来て、酒顛童子のようなお爺さんに、恐ろしい目に逢わされた屋敷! それはここだ、この屋敷だ! ……この屋敷だとするとあの[#「あの」に傍点]地獄は――地獄のように恐ろしく、地獄のようにむごたら[#「むごたら」に傍点]しく、……※[#歌記号、1-3-28]まぐさの山や底無しの、川の中地の岩窟《いわむろ》の……その地獄、その地獄は、どちらの方角だったかしら? ……もう解《わか》る! 直ぐ解る! ……でもまだ解らない、解らない! ……そこへ妾はやられたんだ! そこで妾は気絶したんだ! ……」
 云い云い源女は右を指さしたり、左を指さしたりした。

 土塀を乗り越えた二人の武士、それは主水と陣十郎とであった。鳥居峠から駕籠に乗り、薮原から山へかかり、この日この屋敷へ来た二人であった。
 彼等二人の主たる目的は、井上嘉門に攫《さら》われた澄江を、至急に取り返すことにあった。
 遅れてもしも澄江の躰に――その貞操に傷でもついたら、取り返しのつかぬことになる。
 そこでこの屋敷へ着くや否や、負傷の躰も意に介せず、陣十郎は陣十郎で、その奪還の策を講じ、主水は主水で策を講じたが、これと云って妙案も浮かんで来ず、こうなっては仕方がない、嘉門の主屋へ忍び込み、力に訴えて取り返そうと、さてこそ揃って忍び込んだのであった。
 忍び込んで見てこの主屋だけでも洵《まこと》に広大であることに、驚かざるを得なかった。
 百年二百年経っているであろうと、そう思われるような巨木が矗々《すくすく》と、主屋の周囲に聳えていて、月の光を全く遮り、四辺《あたり》を真の闇にしてい、ほんの僅かの光の縞を、木間からこぼしているばかりであった。ところどころに石燈籠が道標《みちしるべ》のように立っていて、それがそれのある四辺だけをぽっと明るくしているばかりであった。
 主屋の建物はそういう構えの、遥か向こうの中央にあったが、勿論雨戸で鎧われているので、燈火など一筋も漏れて来なかった。
 と、拍子木の音がした。
 夜廻りが廻って来たらしい。
 二人は木立の陰へ隠れた。
 拍子木の音は近付いて来た。
 と、不意に足を止めたが、
「これ、誰じゃ、そこにいるのは?」
 一踴!
「わッ」
 一揮!
 寂寥!
「おい、陣十郎切ったのか?」
「いや峯打ちだ。殺してはうるさい」


 なお二人は先へ進んで行った。
 と、行手から男女らしいものが、話しながら来る気勢《けはい》がした。
 そこで二人は木陰へかくれた。
 男女の声は近寄って来たが、数間へだてた地点まで来ると、
「其方《そなた》あちらへ……静かにしておいで。……ちと変だ……何者かが……」
 こういう男の声がして、しばらくそれからヒッソリしていたが、やがておちついた歩き方で、歩み寄って来る気勢がし、
「これ誰じゃ、そこに居るのは?」と咎める威厳のある声がした。
 主水も陣十郎も物云わず、息を殺してじっと[#「じっと」に傍点]していた。
「賊か、それとも……賊であろう。……身遁してやる、早く立ち去れ」
 声の様子でその人物が、武士であることには疑いなかった。
 主水の耳へ口を寄せ、陣十郎は囁いた。
「俺がやる。お前は見て居れ……ちと彼奴《あいつ》手強いらしい」
「うむ」と主水は頷いた。
 陣十郎はソロッと出た。
 既に刀は抜き持っている。
 それを暗中で上段に構え、一刀に討ち取ろうと刻み足して進んだ。
「来る気か」と先方の男が云った。
「可哀そうに……あったら命を……失わぬ先に逃げたがよかろう」
 あくまでも悠然とおちついていた。
 陣十郎はなお進んだ。
 勿論返辞などしなかった。
「そうか」と先方の武士が云った。
「どうでも来る気か、止むを得ぬの。……では来い!」と云って沈黙した。
 疾風《はやて》! 宛然《さながら》! 水品陣十郎! 二つになれと切り込んだ。
 が、春風に靡く柳條! フワリと身を反わした一瞬間、引き抜いた刀で横へ払った武士!
 陣十郎はあやうく飛び退き、大息を吐き身を固くした。
 何たる武士の剣技ぞや!
 品位があってふくらみ[#「ふくらみ」に傍点]があって、真に大家の業であった。
(ふ――ん)と陣十郎は感に堪え、また恐ろしくも思ったが、
(ナーニ、こうなりゃこっちも必死、必勝の術で「逆ノ車」で……)
 見やがれとばかり中段に構え、闇の大地をジリジリと[#「ジリジリと」は底本では「ヂリヂリと」]刻み、除々にせり[#「せり」に傍点]詰め進んで行ったが、例の如くに水の引くように、スーッと刀を左斜めに引き、すぐに柳生の車ノ返シ、瞬間を入れず大下手切り!
 が、
 鏘然!
 太刀音があって……
 美事に払われ引っ外され、続いて叫ぶ武士の声がした。
「『逆ノ車』! さては汝《おのれ》、陣十郎であったか、水品《みずしな》陣十郎! ……拙者は逸見多四郎じゃ! ……師に刃向こうか、汝悪逆!」
「あッ! ……しまった! ……主水逃げろ!」
 木間をくぐって盲目滅法に、逃げ出した陣十郎の後につづき、主水も逃げて闇に没した。
「まあ陣十郎さんに主水さん!」
 すぐに女の驚きの声が、逸見多四郎の背後《うしろ》から聞こえた。
「お妻殿ご存じか?」
「はい。……いいえ。……それにしても……」
「それにしても、うむ、それにしても、あの恐ろしい悪剣を……『逆ノ車』をどうして破ったか?」
 呟き多四郎は考え込んだ。
(それにしても)とお妻も考えた。(どうして陣十郎と主水さんが、一緒になんかいたのだろう?)


 敵同士の主水と陣十郎が、一緒にいるということが、お妻には不思議でならなかった。
(主水さん、それでは人違いであろうか?)
 そうとすれば何でもなかった。
 世には同名の異人がある。
 人違いであろう、人違いであろう!
 そう思うとお妻にはかえって寂しく、やはり今の主水さんが、恋しい主水さんであってくれて、自分の身近にいてくれる――そうあって欲しいように思われるのであった。
 恐ろしいは陣十郎の居ることであった。
(逢ったら妾ア殺されるだろう)
 追分宿の乱闘で、殺されようとして追い廻されたことが、悪寒となって思われて来た。
 ポンと多四郎は手を拍った。
「解った! 闇だからよかったのだ。……それで『逆ノ車』が破れたのだ。……では昼なら? 昼破るとすると?」
 じっと考えに打ち沈んだ。
「ナ――ンだ」とややあって多四郎は云った。「ナ――ンだ、そうか、こんなことか! ……こんな見易い理屈《こと》だったのか! ……よし、解った、これで破った、陣十郎の『逆ノ車』俺においては見事に破った!」
 主屋に招じ入れられたが、嘉門とは未だ逢わなかった。退屈なので夜の庭の、様子でも見ようとしてお妻をつれて、ブラリと出て来た多四郎であった。
 それが偶然こんなことから、日頃破ろうと苦心していた、「逆ノ車」の悪剣を易々と破ることが出来たのである。
 そのコツ法を知ったのである。
(よい事をした、儲け物だった)
 そう思わざるを得なかった。

 嘉門が奥の豪奢な部屋で、澄江を前にしネチネチした口調で、この夜この時話していた。
「不思議なご縁と申そうか、変わったご見と申そうか、高萩でお逢いしたお前さまと、追分宿でまたお逢いし、とうとう私の部屋まで参られ、こうゆっくりとお話が出来る、妙なものでござりますな」
 ネチリネチリと云うのであった。
 古法眼《こほうがん》の描いた虎溪三笑、その素晴らしい六枚折りの屏風が無造作に部屋の片隅に、立てられてある一事をもってしても、部屋の豪奢が知れようではないか。
 座には熊の皮が敷きつめられてあり、襖の取手の象嵌などは黄金と青貝とで出来ていた。
「それにいたしましても高萩では、とんだ無礼いたしましたのう。ハッ、ハッ、とんだ無礼を! ……が、あいつは正直のところ、私の本意ではなかったので。いかに私が田夫野人でも、何で本気で婦人に対し、あのような所業に及びましょうぞ。あれは高萩の猪之松どんの乾児衆のやった仕事なので。ただ私はゆきがかりで、そいつをご馳走にあずかろうと、心掛けたばかりでございますよ。が、それさえ不所存至極! そこで平にあやまります。何卒ご用捨下さりませ……さてこれで以前《むかし》のことは、勘定済みとなりました。次は将来《これから》のご相談で。……ところでちょっとご相談の前に、申さねばならぬことがありますのでな。……」


 ここで嘉門は莨《たばこ》を喫《の》んだ。
 持ち重りするような太い長い、銀の煙管《きせる》を厚い大きい、唇へくわえてパクリと喫《す》い、厚い大きい唇の間から、モクリモクリと煙を吐いた。
 どうしても蝦蟇が空に向かって、濛気を吐くとしか思われない。
「何かと云いますに私という人間、一旦やろうと思い立った事は、必ずやり通すということで!」
 うまそうに莨を一喫みすると、そう嘉門はネットリと云った。
 さよう、嘉門はネットリと云った。
 が、そのネットリとした云いぶりは、尋常一様の云いぶりではなく、馬飼の長、半野蛮人の、獰猛敢為の性質を見せた、ゾッとするような云いぶりなのであった。
「では私今日只今、どんなことをやろうと思っているかというに、澄江様とやらいうお前さまを、よう納得させた上で、私の心に従わせる! ……ということでござりますじゃ」
 云って嘉門は肩にかかっている、その長髪をユサリと振り、ベロリと垂れている象のような眼を、カッと見開いて澄江を見詰めた。
 澄江はハ――ッと息を飲んだ。
 その澄江はもう先刻《さっき》から、観念と覚悟とをしているのであった。
 思えば数奇の自分ではある! ……そう思われてならなかった。
 上尾街道で親の敵《かたき》と逢った。討って取ろうとしたところ、博労や博徒に誘拐《かどわか》された。そのあげく[#「あげく」に傍点]に馬飼の長の、人身御供に上げられようとした。と敵に助けられた。親の敵の陣十郎に! ……これだけでも何という、数奇的の事件であろう。しかもその上その親の敵に、親切丁寧にあつかわれ、同棲し旅へまで出た。夫婦ならぬ夫婦ぐらし! 数奇でなくて何であろう。
 追分宿のあの騒動!
 義兄《あに》であり恋人であり、許婚《いいなずけ》である主水様に、瞬間逢い瞬間別れた!
 数奇でなくて何であろう!
 と、嘉門にとらえられた。
 そうして今はこの有様だ!
 いよいよ数奇と云わざるを得ない。
(どうなとなれ、どうなろうとまま[#「まま」に傍点]よ)
 観念せざるを得ないではないか。
(が、この厭らしい馬飼の長に躰を穢される時節が来たら、舌噛み切って妾は死ぬ!)
 こう決心をしているのであった。
 そうしっかり決心している彼女は、外見《よそめ》には蝦蟇に狙われている、胡蝶さながらに憐れに不憫に、むごたらしくさえ見えるけれど、心境は澄み切り安心立命、すがすがしくさえあるのであった。
 短い沈黙が二人の間にあった。
「いかがでござりますな。澄江様」
 嘉門はネットリとやり出した。
「この老人の可哀そうな望み、かなえさせては下さりませぬかな。……いやもうこういう老人になると若い奇麗なご婦人などには、金輪際モテませぬ。そこで下等ではござりまするが、金の力で自由《まま》にします。……お見受けしたところ貴女《あなた》様は、武家の立派なお嬢様で、なかなかもちまして私などの、妾《めかけ》てかけ[#「てかけ」に傍点]になるような、そんなお方では決してない、ということは解《わか》っていますじゃ。……それだけに私の身になってみれば、自分のものに致したいので。……で、お願いいたしますじゃ。……可哀そうな老耄《おいぼ》れた老人を、功徳と思って喜ばせて下されとな。……その代わりお前さまが何を望もうと、金ずくのことでありましたら、ヘイヘイ何でも差し上げまする」
 またパクリと莨を喫った。


「なりませぬ」と澄江は云った。
 先刻からじっと辛棒して、黙って、聞いていた澄江であったが、この時はじめてハッキリと云った。
「貴郎《あなた》様のお心に従うこと、決して決してなりませぬ!」
 言葉数は少なかったが、毅然とした態度冷然とした容貌に、動かぬ心を現わして、相手を圧してそう云った。
「ふうむ」と嘉門は唸り声を上げた。
 勿論この女、烈女型で、尋常に口説いて落ちるような、そんな女ではあるまいと、そういうことは推《すい》していたが、今の返事とその態度とで、それがこっちの想像以上に、しっかり[#「しっかり」に傍点]しているということを瞬間看取したからであった。
 がぜん嘉門の様子が変わった。
 薄気味の悪い、惨忍な、しかも陰険執拗な、魔物めいた様子に一変した。
 それでいて言葉はいよいよ柔かく、
「それでは大変お気の毒ですが、貴女様には変わった所へ、一時おいでを願わねばならず……是非ともおいでを願わねばならず……一度まアそこへ行って来られてから、改めてゆるゆるご相談――ということに致しましょうのう」
 で、また莨をパクリと喫い、濛々と煙を吐き出した。
「何と申してよろしいか、貴女様がこれからおいでになる所、何と申してよろしいか。……どっちみち厭アなところでござる……どんな強情のジャジャ馬でも、一どそこへ叩っ込まれると、生れ変わったように穏しくなります……気の弱いお方は発狂したり、もっと気の弱いお方になると、さっさと自殺するようで。……さようさよう以前のことではあるが、お組の源女とかいう女芸人が、やはり強情で[#「強情で」は底本では「情強で」]そこへやられたところ、発狂――まあまあそれに似たような状態になりましたっけ……さて、そこで貴女様も、そこへおいでにならなければ……ならないことになりましたようで」
「どこへなと参るでござりましょう」
 澄江は冷然とそう云った。
 死を覚悟している身であった。
 何も恐れるものはない。
 苦痛! それとて息ある間だ! 死んでしまえば苦痛はない。
 澄江は冷然とし寂然としていた。
 嘉門はポンポンと手を拍った。
 と、次の間に控えていた、侍女が襖をソロリと開けた。
「権九郎に云っておくれ、送りの女が一人出来た。赤い提燈の用意をしなと」
 侍女は頷いて襖をしめた。

「あれ――ッ」という源女の声が、要介と浪之助とを驚かせたのは、それから間もなくのことであった。
 三人はこの時嘉門の主屋の、構えの外を巡りながら、なお逍遥《さまよ》っていたのであった。
「行きます、おお赤い提燈が!」
 指さしながら源女が叫んだ。
 極度の恐怖がその声にあった。
「あそこへあそこへ人を送る火が! 地獄へ、ねえ、生地獄へ! ……妾《わたし》のやられた生地獄へ! ……おおおお誰か今夜もやられる! ……可哀そうに可哀そうに! ……そうです妾も赤い提燈に、あんなように道を照らされ、馬へ、裸馬へくくりつけられ、そこへやられたのでございます!」


「追おう!」
 要介が断乎として云った。
「送られる人間を取り返そう!」
「やりましょう!」と浪之助も云った。
 夜の暗さをクッキリ抜いて、木立の繁みに隠見して、特に血のような赤い色の、小田原提燈が果実のように揺れて、山の手の方へ行くのが見えた。
 三人は後を追った。
 が、その一行に近寄って見て、これは迂闊に力で襲っても、勝目すくなく危険だと思った。
 というのは一頭の裸馬に、男か女かわからなかったが、一人の人間をくくりつけ、それへ油単《ゆたん》を上から冠せた、そういう人と馬とを囲繞《いじょう》し、十数人の荒くれ男が、鉄砲、弓、槍などを担いで、護衛して歩いているからであった。
(飛道具には適わない)
 三人ながらそう思った。
 で、要介は浪之助に、
「どこまでもこっそり後を尾けて、その行方を確かめよう。そうしていい機会が到来したら、切り散らして犠牲者を奪い取ってやろう」
 こう耳元で囁いた。
「それがよろしゅうございます」
 浪之助も[#「浪之助も」は底本では「浪人之助も」]そう云った。

 澄江を生地獄へ送り出した後の、嘉門の豪奢な主家の部屋には、逸見多四郎が端座していた。
 想う女を生地獄へ送った。――そんな気振など微塵もなく、嘉門は機嫌よく愛想笑いをして、多四郎との閑談にふけっていた。
 処士とはいっても所の領主、松平|大和守《やまとのかみ》には客分として、丁寧にあつかわれる立派な身分、ことには自分が贔屓にしている、高萩の猪之松の剣道の師匠――そういう逸見多四郎であった。傲岸な嘉門も慇懃丁寧に、応待しなければならなかった。
 牧馬の話から名所旧蹟の話、諸国の風俗人情の話、そんな話が一渡り済んで、ちょっと話が途絶えた時、何気ない口調で多四郎は云った。
「秩父の郡小川村、逸見様庭の桧の根、むかしはあったということじゃ……云々と云う昔からの歌が秩父地方でうたわれ居ります。この歌の意味は伝説によれば、源|頼義《よりよし》[#「頼義《よりよし》」は底本では「義頼《よしより》」]、その子|義家《よしいえ》、奥州攻めの帰るさにおいて、秩父地方に埋めました黄金、それにまつわる歌とのこと、しかるにこの歌の末段にあたり※[#歌記号、1-3-28]今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の――云々という、そういう文句がござります由、思うにこれはその黄金が、その素晴らしい馬飼のお手に、保存され居るということであろうと……」
「しばらく」と不意に嘉門は云った。
 それから皮肉の笑い方をしたが、
「ははあそれで逸見様には、その黄金を手に入れるべく、当屋敷をお訪ね下されたので?」
「率直に申せばその通り、千、五百の大馬飼は、貴殿以外にはござらぬからな」
「御意で。……が、そうとありますれば、いささかお気の毒に存ぜられまする」
「何故でござるな。それは何故で?」
「なぜと申してそうではござらぬか、そのような莫大な黄金を、私保存いたし居りますれば、決して決して何人にも、お渡しすることではござりませぬ」
「それはもうもう云うまでもない儀、が、拙者といたしましては、そこに少しく別の考えが……」

10
「別の考え? 何でござるかな?」
「貴殿がたしかにその黄金を、現実に保存され居るなら、何で拙者その貴殿より、その黄金取りましょうや。……が、もしも貴殿においても、黄金の在り場所的確に知らず、ひそかに探し居らるるようなら……」
「なるほど、これはごもっとも。そうあるならば貴郎《あなた》様と私、力を集めて探し出そうと覚し召し、参られたので?」
「さよう、ざっとその通りでござる」
「これは事件が面白くなった。……が、さて何と申し上げてよいやら」
 嘉門はここで沈黙してしまった。
 妙に息詰まる真剣の気が、二人の間に漂っている。
 やがて嘉門がポツリポツリと云った。
「歌にありまするその馬飼は、たしかに私にござります。そうして歌にありますように、私の屋敷に領地内に、ある時代にはその黄金、ありましたそうでござります。……その黄金ありましたればこそ、馬鹿らしいほどの繁栄を来たし、今このように広い領地を、持つことが出来て居りますので。そうでなくては馬飼風情、いかにあくせく[#「あくせく」に傍点]働きましたところで、とてもとても今日のような。……で私はその黄金を、巧みに利用し財《たから》を積んだところの、祖先に対して有難やと、お礼申して居りまする次第で」
「とそう云われるお言葉から推せば、今日においてはその黄金、すでにお手にはないご様子……」
「さあそれとてそうとも否とも、ちと私としては申しかねますので……」
「これは奇怪、はなはだ曖昧!」
「へいへい曖昧でござりますとも」
「方角を変えてお尋ねいたす。例の歌の末段に※[#歌記号、1-3-28]|秣《まぐさ》の山や底無しの、川の中地の岩窟《いわむろ》にと、こういう文句がござりまするが、そこに大方その黄金、埋没されて居りたるものと、この拙者には思われまするが、そのような境地が領内に……?」
「へいへいたしかにござります」
「しからばそこへご案内を……」
「駄目で!」
「なぜ?」
「命が無い!」
「命が無いとな?」
「生地獄ゆえ!」
「…………」
「アッハッハッ、地獄々々! そこは恐ろしい生地獄! そこへ行ったら命が無い! 有っても人間発狂する! アッハッハッ発狂する! ……が、今夜も可哀そうに、女が一人送られましたよ。さようさようその生地獄へ!」
 こう云うと嘉門は惨忍酷薄、洵《まこと》女の生血を飲み、肉を喰らったといわれている、伝説の大江山の酒顛童子、それさながらの表情をして、ぐっと多四郎を睨むように見た。
 さすがの多四郎も妖怪さながらの、嘉門の表情態度に搏たれ、言語ふさがり沈黙した。
 で、またも息詰まるような気が、部屋を圧し人を圧した。
 が、ややあって井上嘉門は、謎のような言葉でこう云った。
「あの黄金はそれ以前に、あの歌にうたわれて居りますように、秩父の郡小川村の、逸見《へんみ》様のお庭の桧の根方に、――即ち貴郎様のお庭の中に、埋没されて居りましたはず。……ひょっとかするとその黄金また逸見様のお庭へ帰り……」

11
「何を馬鹿な」と多四郎は笑った。
「拙者の屋敷にその黄金、今に埋もれて居りますなら、何のわざわざこのようなところへ……」
「いやいや」と嘉門は云った。
「逸見様は幾軒もござります」
「…………」
「高名で比較的近い所では、尾張にあります逸見三家……」
「おおなるほど逸見三家!」
 名古屋に一軒、犬山に一軒、知多に一軒、都合三軒、いずれも親戚関係で、逸見姓を宣《となう》る大大尽があり、総称して尾張の逸見三家と云い、特殊の尊称と疑惑とを、世間の人から持たれていた。
 金持ちであるから尊敬される! これは当然の事として、疑惑というのは何だろう?
 尾張の大商人大金持といえば、花井勘右衛門をはじめとして、九十八軒の清洲越衆《きよすこえしゅう》、その他尾州家からお扶持をいただく、小坂新左衛門他十二家あって、それらの人々はいずれも親しく、往来をし交際《つきあ》っていたが、逸見三家だけは交際せず、三家ばかりで往来し、他の金持は尾張家に対し、何等かの交渉を持っていて、御用達、三家衆、除地衆、御勝手ご用達、十人衆、等々という、名称家格を持っていたが、逸見三家ばかりは尾張家と、何等の交渉も持っていなかった。
 これが疑惑される点なのである。
「おおなるほど逸見三家」と、多四郎は云って眼を見張り、
「逸見三家の家風については、拙者も遥かに承わり居り、不思議な大尽があるものと、疑惑を感じて居りましたが、その逸見三家と埋もれた黄金と、関係ありと仰せられまするかな?」
「あるやらないやら確かのところは、私にも即座には申し上げられませぬが、……さよう即座には申し上げられぬとし、貴郎様におかれてもせっかくのご来訪、何卒長くご逗留下され、ゆるゆるそのことにつきまして、お話しすることにいたしましょう」
 嘉門はここでも曖昧に云った。
 奥歯に物の挿まった態度、多四郎には少なからず不愉快であったが、押して尋ねても云いそうもないと、そう思ったので後日を期することにした。

 赤い提燈で道を照らし、澄江を裸馬にくくり付け、それを護った権九郎達は、無言で山道を進んで行った。
 その後を慕って要介達が行った。
 二里あまりも来たであろうか。その時突然行手にあたって、同じ赤い色の提燈の火が、点々といくつか見えて来た。
(おや?)と要介たちは不審を打った。
 が、権九郎たちの一行は、それが予定されたことかのように、少しも驚かず又動ぜず、その火に向かってこちらの提燈を、宙にかざして振って見せた。と向こうでも答えて振った。
 こうして向こうの火にこちらの火が、十数間足らず接近した時、夜ながら要介たちに行手の光景が、ぼんやりながらも見えて来た。
 行手に谷があるらしい。谷には川が流れているらしい。
 谷を隔てて岩で出来た、屏風のような絶壁が、垂直に高く聳えていた。
 絶壁の頂に月があって、それの光でその絶壁が、肩を銀色に輝かしているのが見えた。

生地獄


 と、その時まで黙々として、要介たちに従いて来ていた源女が、恐ろしそうな声で魘《うなさ》れるように云った。
「生地獄はそこだ、谷の底だ! そこへ行っては大変だ! 自殺するか発狂する! ……可哀そうに可哀そうに馬に乗っているお方! ……おおおおあの人をお助けしなければ!」
「やろう!」と要介が忍び音ではあるが、烈しい声でそう云った。
「切り散らして犠牲者を助けよう!」
「先生やりましょう!」と浪之助が応じた。
 が、その瞬間犠牲者を守護し、裸馬を囲繞して歩いて来た人々――権九郎輩下の者共が、一斉に足を止め振り返り、鉄砲の筒口をこっちへ向けた。
 要介たちの方へ差し向けた。
「しまった! 目つけられた! もう不可《いけ》ない!」
 ――要介がそう叫んだ途端、
 ド、ド、ド、ド、ド、ド――ッと鉄砲の音が、夜の山谷にこだま[#「こだま」に傍点]して鳴り、バ、バ、バ、バ、バ――ッと筒口から出る、火花が夜の暗さを裂いた。
 と、
 馬の恐怖した嘶《いななき》!
 見よ、犠牲者をくくりつけたまま、例の裸馬が谷口を目がけ、まっしぐら[#「まっしぐら」に傍点]に馳せて行くではないか!
「あッ、あッ、あッ、もう不可ない! あの人も生地獄へ追いやられた! 妾《わたし》のように! 昔の妾のように!」
 源女は叫んで地団太を踏んだ。
 果敢! 馬は谷底さして、なだれ[#「なだれ」に傍点]のように落ちて行った。
 鉄砲は決して要介たちを認め、要介たちを撃ち取ろうとして、発射されたものではないのであった。
 馬を驚かせて犠牲者諸共、谷底へやるために撃ったものなのであった。
 それは空砲に過ぎなかったのである。
 後は寂然!
 シ――ンとしていた。
 と、権九郎達の一団が、今は馬もなく犠牲者も持たず、手ぶらの姿で赤い提燈を、ただブラブラと宙に振って、もと来た方へ引っ返す姿が、要介たちの眼に見えた。
 木陰にかくれて見送っている、その要介たちの横を通って、その一団の去った後は、四辺《あたり》寂々寥々としてしまった。
 と、要介は浪之助へ云った。
「とうとう犠牲者を助け損なったが、これも運命仕方がない。……が、それは仕方ないとして、生地獄の光景を見ようではないか」
「それがよろしゅうございます」
「源女殿もおいでなされ」
「妾は厭でござります」
 恐ろしかった過去のことを、その場へ臨むことによって、ふたたび強く思い出すことを、恐れるという心持から、そう源女は震えながら云った。
「さようか、では源女殿には、そこにてお待ちなさるがよろしい」
 云いすてて要介は浪之助ともども、谷の下口へ足を向けた。
 と、先刻現われて、権九郎達の赤提燈に対し、応えるように振られたところの、例の幾個かの赤提燈が、見れば谷の下口の辺りに、建てられてある番小屋らしいものの、その中から又現われて来た。
「誰だ、これ、近寄ってはならぬ! 近寄ると用捨なく撃ち取るぞ!」
 赤提燈の中から声が来た。
 鉄砲を向けている姿が見えた。


 馬が斜面を駈け下る間に、くくられていた綱が[#「綱が」は底本では「網が」]切れ、澄江は地上へ振り落とされた。
 馬と前後して谷の斜面を、底へ向かって転落した。
 何と奇怪にも谷の斜面が、柔らかくて滑らかで、ほとんど土とは思われないではないか!
 こうして澄江は微傷《びしょう》さえ負わず、谷の底へ落ちついた。
 と、眼の前を落ちて来る馬の、気の毒な姿が通って行ったが、底へ着くと立ち上り、立ち上ったが恐怖のためであろう、高い嘶をあげながら、前方へ向かって走りつづけた。
 月光をうけて銀箔のように輝いて見える川があった。
 そう、前方に川があった。
 と、その川まで駈けて行った。
 馬は川へ飛び込んだ。(泳ぐかな?)
 と澄江は思った。
 浅いと見えて五歩十歩、二十歩あまり歩いて行った。
 と、どうだろう歩くに従い、馬は次第に小さくなって行った。
 そうしてやがて歩かなくなった。
 身長《せい》が大変低くなって見えた。
 と、馬は首を長く延ばし、悲劇を無言で眺めている月に向かって顔を向けたが、悲しそうに幾度か嘶いた。
 だんだん身長が低くなって行く。
 やがてとうとう馬の姿が川の面から消えてしまい、漣《さざなみ》も立てずにどんより[#「どんより」に傍点]と、流れるともなく流れている、そういう水面《みずも》には月光ばかりが銀の延板のそれかのように、平らに輝いているばかりであった。
 川巾は随分広かった。
 そうして対岸には屏風のような、切り立った高い断崖が、険しく長く立っていた。
 澄江はゾッと悪寒を感じた。
(どうして馬は沈んだろう?)
 もしその川が深かったら、馬は泳いで行くはずである。
 もしその川が浅かったら、馬は歩いて渡るはずである。
 それだのに沈んでしまった。
(おお川は底無しなのだ!)
 そう、それに相違ない。
 水そのものは浅いのであるが、底は泥の堆積で、幾丈となく深いのだ。で、そこへ踏み入ったものは、その泥に吸い込まれ、永久沈んでしまうのだ。
 ゾッと澄江は悪寒を感じた。
(川を越しては逃れられない)
 澄江はフラフラと立ち上った。
 それから自分が転がり落ちて来た、山の斜面を振り仰いで見た。
 斜面は洵《まこと》になだらかで、一本の木立も、一つの丘も、一つの岩も、何もなかった。
 下口《おりくち》までは高く遠く、容易に達しがたく思われたが、上るには難なく思われた。
 澄江は斜面を上り出した。
 すぐツルリと足が辷《すべ》り、たちまち谷底まで追い返された。
(おや)と思いながら又上った。
 一間あまり上ったかと思うと、非常に気持よく非常に滑らかに、スルスル谷底へ辷り落ちた。
(まあどうしたというのだろう?)
 澄江には不思議でならなかった。
 で、土を取り上げて見た。
 それは土ではないようであった。カラカラと乾いて脆くなってはいたが植物の茎や葉のようであった。
 植物の茎や葉が永い年月、風雨霜雪に曝された結果、こまかいこまかい砂のようになったもの! それのように思われた。
 そういう物が斜面を厚く、そうして高く蔽うているのだ。――
 で、その上へ人が乗れば、重さに連れてそれが崩れ、どこまでも無限に崩れ崩れて、人を下へ辷り落とす!
(では上って行くことはできない!)
 又ゾッと澄江は悪寒を感じた。


(ではもう一度|験《ため》して見よう)
 こう思って澄江はまた上り出した。
 と、背後から笑う声がした。
 驚いて澄江は振り返って見た。
 いつの間にどこから来たものか、五六人の人間が、数間《すうけん》離《はな》れた一所に、一緒に塊まって立っていた。
 月光の中で見るのであるから、ハッキリしたところは解《わか》らなかったが、その中には女もい、老人も若者もいるようであった。
 何より澄江を驚かせたのは、その人達が痩せていることで、それはほとんど枯木のようであり、枯木が人間の形をしてい、それが襤褸屑《ぼろくず》を纏っている。――そう云ったように痩せていることであった。
 そう、衣裳は纏っていた。が、その衣裳は形のないまでに、千切れ破れているのである。
 物の書《ほん》で見た鬼界ヶ島の俊寛《しゅんかん》! それさながらの人間が、そこに群れているのである。
「駄目だよ、娘っ子、上れやアしねえ。いくら上っても上れやしねえ」と、その中の一人がカサカサに乾いた、小さな、力の弱い、しめ殺されるような、不快な声でそう云った。
「秣《まぐさ》の山だ、なア娘っ子、お前が一所懸命上ろうとしているそいつ、そいつア秣の山なんだ。秣の山の斜面なんだ。……乗れば辷る、足をかければ辷る。二間と上った者アねえ。無駄だから止めにしな」
「アッハッハッ」
「ヒッヒッヒッ」
「フッフッフッ」
「ヘッヘッヘッ」
 みんなが揃って笑い出した。
 嘲ったような、絶望したような、陰険そうな、気の毒がったような、気味の悪い厭アな笑声であった。
 澄江は地獄の亡者に逢った! ――とそんなような思いに等しい、恐怖と不気味とを感じながらも、この境地には自分一人だけしか、居ないものと今まで思っていたのに、他にも人のいることを知り、この点何と云っても心嬉しく、急いでそっちへ小走って行った。
「どういうお方々かは存じませぬが、妾は井上嘉門という……」
「解っているよ解っているよ」と、その中の一人の老人が――片眼つぶれている老人が、澄江にみんな話させようともせず、
「俺らもそうなんだ。恐ろしい主人に、井上嘉門殿に、いやいやいや、殿じゃアねえ、鬼だ魔物だ、その魔物の嘉門めに、この生地獄へ放り込まれた、生き返る望みのねえ亡者なのさ。お前さんだってそうだろうとも、嘉門めにここへ落とされたんだろうとも。……見りゃア奇麗な娘っ子だ、どうしてここへ落とされたか、その理由《わけ》も大概わかる。……嘉門の云うことを聞かなかったんだろうよ。……以前《まえ》にもそんな女があった。……源女とかいう女だった。……」
「お爺さん」と澄江は云って、縋るような気持で訊ねて見た。
「ここはどこなのでございます? どういう所なのでございます?」
「処刑場《おしおきば》だ、人捨場だ! 嘉門の云い付けに背いた者や、廃人になって役に立たなくなった者を、生きながら葬る墓場でもある」
「恐ろしい所なのでございますねえ」
「一緒においで、従《つ》いておいで、ここがどんなに恐ろしい所だかを、例をあげて知らせてあげよう」
 片眼の老人は歩き出した。
 と、その余の亡者餓鬼――亡者餓鬼のような人間たちも、だるそう[#「だるそう」に傍点]に、仆れそうに、あえぎあえぎ、その後から従いて来た。
 蒼澄んで見える月光の中に、そういう人達が歩いて行く姿は、全く地獄変相図であった。
 と、一本の木の下に来た。
 一人の若者がブラ下っていた。


 首をくくって死んでいるのであった。
 片眼の老人は説明した。
「二十日ほど前に来たお客さんなのさ。嘉門の可愛がっているお小間使いと、ちちくり合ったのが逆鱗に[#「逆鱗に」は底本では「逆燐に」]ふれて、ここへぶちこまれた若造なのだ。女が恋しいの逃げ出したいのと、狂人のように騒いでいたが、とうてい逃げられないと見当をつけると、野郎にわかにおとなしくなってしまった。と、今朝がた首を釣ってしまった。……首を釣る奴、川へ沈む奴、五日に一人十日に一人、ちっとも不思議なく出来るってわけさ。……だから底無しの川の中には、幾百人とない男や女が、沈んでいるというわけだ。……そこを見な、その岩の裾を! 白骨が積んであるじゃアねえか。首を釣った奴や舌を噛んで死んだそういう奴らの骨の束だ」
 見ればなるほど向こうに見えている、大岩の裾に月光に照らされ、ほの白い物の堆積があった。
「お爺さん」と澄江は震えながら云った。
「何を食べて生きているのです?」
「馬の肉だ、死んだ馬の。……時々そいつを投げてくれるのだ。谷の下口から上の番人が」
「死んだ馬の肉を? ……それが食物?」
「米もなけりゃア麦もねえ。野菜もなけりゃア香の物もねえ。……水といえばドロンと濁った、泥のようなその川の水だ。……だから長く生きられねえ。一月か二月で死んでしまう。……もっとも中にゃアそいつに慣れて、三年五年と生きてる奴がある。……俺なんかはその一人だよ。……」
「皆様どこにいるのです? どこに住んでいるのです?」
「岩窟《いわむろ》の中だ岩窟のな。……向こうにある、行ってみよう」
 その老人が先に立ち、澄江たちは先へ進んだ。
 人間の骨や馬の骨や――それらしいものが木の根や岩の裾に、灰白く散乱しているのが見えた。
 と、行手に月光に照らされ、丘のような物形が見えた。
 やはりそれは丘であった。
 岩と土と苔と權木、そんなもので出来ている小丘であって、人間の身長《たけ》の二倍ほどの間口と、長い奥行とを持っていた。
 そこの前まで辿りついた時、丘の正面の入口から――つまりその丘が岩窟なのであり、正面に入口が出来ているのであったが、その入口から骸骨の群が――骸骨のような痩せた男や女、老人や老婆、男の子や女の子が、ムクムクと泡のように現われ出た。
 そうして口々に喚き出した。
「また客が来た」
「俺らの仲間か」
「何か食物を持って来たかしら?」
「着物を剥げ! ひっぺがしてしまえ!」
「若い女だ」
「奇麗な女だ」
「すぐ汚くなるだろう」
「ナーニ半月は経たねえうちに首をくくってくたばるだろう」
 すると片眼の老人が、叱るように大声をあげた。
「うるせえ、野郎共、しずかにしろ! ……今度のお客さんはこれ迄のとは、どうやら少オし違うようだ。身体へさわっちゃア不可《いけ》ねえぞ!」


 片眼の老人は権威者と見える。彼らの仲間の権威者と見える。そう一言云っただけで、彼らの騒動は静まった。
「さあさあ入って見るがいい。家の中へ入って見るがいい」
 こう云って老人は澄江を連れて、岩窟の中へ入って行った。
 入って真っ先に驚いたのは、何とも云われない悪臭であった。
 不浄の匂い、獣皮の匂い、腐肉の匂い、襤褸《ぼろ》の匂い――、いろいろの悪臭が集まって、一つになった得もいわれない悪臭、それがムッと鼻へ来て、澄江は嘔吐を催そうとした。
 岩窟の中は寒かった。
 凍《こご》えそうなほどにも寒かった。
 暗く、低く、狭くもあった。
 ところどころに火が燃えていた。
 住人が焚火をしているのであった。その周囲に集まったり、岩壁の裾に寝たりして、意外にたくさんの人間がいた。
 この時二三人の者が嗄《しわが》れた声で、鼻歌をうたうのが聞こえてきた。
[#ここから3字下げ]
秩父の郡小川村
逸見様庭の桧の根
むかしはあったということじゃ
いまは変わって千の馬
五百の馬の馬飼の
木曾の馬主山主の
山の奥所も遥かなる
秣の山や底なしの
川の中地の岩窟の
御厨子《おずし》[#ルビの「おずし」は底本では「おづし」]に籠りあるという
移り変わるがならわしじゃ
命はあれど形はなく
形は本来地水火じゃ
三所に移り元に帰し
命はあれど形はない
[#ここで字下げ終わり]
 それはこういう歌であった。
「お爺さん」と澄江は云った。
「あの歌、何でございますの?」
「誰も彼もうたう歌なのじゃ、……この辺りではちっとも珍らしくない。……所在ないからうたうのさ……ずっと昔からある歌で、意味もなんにもないのだろうよ」
「この岩窟深いのでしょうか?」
「深いそうだ、深いそうだ。が誰もが行ったものはない。行ったものがないということだ。……わしだけは相当奥まで行った。だが中途で引っ返してしまった。……恐ろしいと云おうか凄いと云おうか、あらたかと云おうか何と云おうか、どうにも変な気持がして、とうとう引返してしまったのさ。……人柱が立っているんだからなア……骸骨なんだ、本当の骸骨! ……そっくり原形を保っている奴だ。そいつが岸壁の右にも左にも、ズラリと並んでいやがるじゃアないか」

悪人還元


 陣十郎は黙々として、山路に向かって歩いていた。
 後から主水が従《つ》いて行ったが、これも黙々として物を云わなかった。
 嘉門の大屋敷の構内から出、あて[#「あて」に傍点]なしに歩いて行くのであった。
 どっちへ向かって歩いているのか、陣十郎には解《わか》らなかった。
 師匠の逸見《へんみ》多四郎によって「逆ノ車」が破られたことそのことばかりを考えていた。
 月はあったが山路には巨木、……大木老木權木類が、空を被い四辺《あたり》を暗め、月光を遮っているがために、二人の姿は外方《よそ》から見ては、ほとんど見ることが出来なかった。
 時もかなり経っていた。
(逸見先生があのような所に、どうしてお居でなされたのだろう?)
 このことも気にはかかっていたが、それより必勝不敗の術と、自信していた自己の創始の「逆ノ車」を破られた――このことばかりが不安にも恐ろしくも、情無くも思われるのであった。
 まだ破門をされない前に、多四郎の道場で多四郎を相手に、数回「逆ノ車」をもって、立合ったことがあったのであり、そのつど陣十郎が勝ちを取るか、でなかったら相打ちとなった!
 それだのに今夜という今夜に限り、物の見事にひっ外されてしまった。
(あの時先生に打つ気さえあって、一歩踏み込んで切られたら、俺は真ッ二つにされたはずだ)
(「逆ノ車」を破られては、俺に勝目はほとんどない。破った先生がそれからそれと、その手を人々に伝えたら、俺は手も足も出なくなる)
 これが彼には恐ろしいのであった。
(それともあの時俺の腕が、いつもより鈍っていたがために「逆ノ車」は使ったが、使い方が精妙でなく、それで一時的に外されたのだろうか? もしそうならまだ安心だ)
(では……)と陣十郎は惨忍に思った。
(誰かを、どいつかを、「逆ノ車」で、充分練って用意して、切って切れたら! 切って切れたら!)
 自信がつく!
 そう思った。
(よ――し、どいつかを切ってやろう?)
(誰を?)と思った時主水のことが、瞬間脳裏に閃いた。
(うむ、こいつを切ってやろう!)
 悪人の本性が甦ったのであった。
(思ってみれば主水という奴、危険至極の道連れだった。俺を敵《かたき》と狙う奴だった。そうしていつかはこいつのために、俺は討たれるはずだった。……討たれてなろうか、何を馬鹿な! ……俺も何という男だったろう、いずれこの男に討たれてやろう――などとそんなことを思っていたとは。……それに人心は変わるものだ。俺の心が変わるように。……で、主水め心が変わり、俺の寝息をうかがって、寝首掻かないものでもない。……よ――し、この場で討ち果し、災の根を断ってやろう)
 グルリと陣十郎は振り返った。
「主水《もんど》、おい、鴫澤《しぎさわ》主水!」
「何だ?」と主水が足を止めた。
「この暗中でもう一度『逆ノ車』を使って見せてやろう」


「それには及ばぬよ」と主水は云った。
 心に計画ある時には自ずと五音に現われるもので、陣十郎の言葉の中に、平時《いつも》とは異《ちが》う不吉の響きが、籠っているがためであった。
 それが恐ろしく感じられたためで。……
 陣十郎はくどく[#「くどく」に傍点]云った。
「昼と夜とは自ずと異う。暗中での『逆ノ車』……使って見せるから刀を抜け」
(使って見せる、教えてやると偽って充分用意をさせ、「逆ノ車」にひっかけ、後腹病まぬよう殺してしまおう)
 これが陣十郎の本心であった。
「なるほど」と主水は思わず云った。
「昼と夜とは自ずと異う。暗中での『逆ノ車』……なるほど、こいつ教わった方がいいな」
「いいともさあ、刀を抜きな」
 云って陣十郎は先に抜いた。
「よし。……抜いた。……さあ構えた」
 主水もそう云ってその通りにした。
 二人ながら抜身を構え、暗中に相手と向かい合った。
「主水、充分用心しろよ。……試合などとは思うなよ。……俺を父親の敵《かたき》と思い――事実それに相違ないし……その敵を今討つのだと、こう思って真剣にかかって来い」
「うむ。よし。そのつもりで行こう」
「俺もお前を返り討ちにすると――こう思ってかかって行くつもりだ」
「うむ、そのつもりでかかって来てくれ」
「暗中での『逆ノ車』……ダ――ッとお前の左胴へ、事実入るかもしれないぞよ」
「…………」
「暗中だからな。……どうなるかわからぬ……」
「…………」
「本当にお前を切るかもわからぬ」
「…………」
「暗中だからな……よく見えぬからな」
「…………」
「とすると返り討ちだ。……返り討ちになっても怨むなよ。参るぞ――ッ」と忍音ではあったが、殺す気でかけた鋭い声! それが主水の耳を打った。
(あぶない!)と瞬間主水は思った。
(おかしいぞ! いつもとは違う! ……本当に切る気ではないだろうか?)
 主水は自ずと一所懸命になった。
 刀を中段にピッタリと構え、闇を通して相手を睨んだ。
 暗中ながら相手の姿が、黒く凄まじく立っているのが見え、これも中段に構えている刀が、ボ――ッと薄白く感じられた。
 その薄白い刀身ばかりに、主水の眼はひきつけられた。
 間!
 例によって息詰まるような、命の縮まる間が経った。
 と、刀身が水の引くように、左斜めにス――ッと引かれた。
 フラ――ッと主水は前へ出た。
 瞬間、刀が小さく返った。
「ハッ」
 途端に……
「カ――ッ!」という、雷霆さながらの掛声が――渾身の力を集めた声が、どこからともなく聞こえてきた。
「あッ」と主水は膝を曲げ、グタ――ッとばかりに地に坐わり、
「うむ」と陣十郎はよろめいて、二三歩タジタジと[#「タジタジと」は底本では「タヂタヂと」]後へ下った。
 そうして次の瞬間には、闇の木立を潜り抜け、一散に麓の方へ走っていた。


 声をかけたのは要介であった。
 生地獄の光景を見ようとして、谷の下口まで行きかけると、番人によって遮られ、しかも鉄砲を向けられた。
 飛道具には敵《かな》わない。
 そこで避けて引っ返した。
 一里あまり来た時であった。何とも云われない殺気刀気、そういうものが感じられた。
(何者かが何者かを殺そうとしている)
 名人には別の感覚がある。
 賭博に才のあるその道の名人――そういう名人には伏せた壺を通して、中の賽コロの目がわかる。
 剣道の名人には自己に迫る殺気、そういうものなど当然わかり、あえて自己一身に迫るでなくとも、付近で行なわれる殺戮、殺傷、そういうものも感じられる。
 それを要介は感じたのであった。
「切る奴を挫き、切られる奴を救おう」
 こう要介は瞬間に思った。
 思ったと同時に反射運動的に、
「カ――ッ!」と声をかけたのであった。
 と、十数間のかなたから、木を潜って逃げて行く、葉擦れの音が聞こえてきた。
(逃げたな)と要介は直ぐに思った。
「セ、先生エ――ッ、ド、どうなされましたア――ッ」
 主水が掛声に腰を挫かれ、地へベタベタと坐ったと同じく、これも掛声に腰を挫かれ、要介の背後の地へ坐った、杉浪之助が悲鳴をあげた。
「杉氏か、何という態《ざま》だ!」
「ナ、何という、ザ、態だと、セ、先生には、オ、仰せられても……」
「アッハハハハ、立ちな立ちな」
「恐ろしい目に逢いました」
 云い云い浪之助は立ち上った。
「一体どうしたのでございます?」
「ナ――ニ、邪気を払ったまでさ」
「ははあ邪気を? ……が、邪気とは?」
「まあよろしい、いずれ話そう……ともかくも邪気は払ってやった。……しばらくじっと[#「じっと」に傍点]しているがいい」
 ――で、立ったままじっと[#「じっと」に傍点]していた。
 間もなく麓の方へ走り下る、人の足音が聞こえてきた。
「ははあもう一人も逃げて行ったな」
「先生何です、逃げて行ったとは?」
「一人が一人を殺そうとしていたのだ。……それをわしが挫いてやったのだ。……殺そうとした奴が先に逃げ、殺されかけていた人間が、つづいて今逃げて行ったのさ」
「こんな暗中でそんなことが、先生におわかりになりますので?」
「活眼活耳さえ持って居れば、暗中であろうと、睡眠中であろうと、そういうことはわかるものだ」

 主水は夢中で走っていた。
 恐怖と不安と一種の怒りとで、彼の心はうわずって[#「うわずって」に傍点]いた。
 彼にもう一段沈着があって、自分の危難を救ってくれたところの、恐ろしい掛声の主を尋ね、逢うことが出来たら自分と縁ある、侠剣の主人《あるじ》秋山要介と邂逅することが出来たのに!


 が、しかし主水にとっては、そんな余裕はなかったのであった。
(陣十郎め、心が変わった。たしかに悪人に還元した。俺を殺そうとしたらしい。でなかったらあの呼吸――あの殺伐の気は出ぬはずじゃ! ……それにしてもカ――ッと鋭い気合が、あの時かかって俺の命を、瞬間の間に救ってくれたが、一体誰が掛けたのであろう?)
 走りながらもそう思った。
(どっちみち俺は陣十郎とは、もう一緒には住みがたい。……では馬大尽井上嘉門の、賓客部屋へも帰れない。……どうしたらよかろう? どうしたらよかろう?)
 ひた[#「ひた」に傍点]走りながらそう思った。
(カ――ッと掛かったあの気合! ……尋常の人間の掛けた気合と、全然別の恐ろしい気合だ! ……俺は命が縮まるかと思った)
 こう思いながら無二無三に、麓をさして陣十郎も、走り走り走っていた。
(が俺は「逆ノ車」を、これで再度やり損なった訳だ! 再度の失敗! 再度の失敗! ……う――む再度の「逆ノ車」の失敗!)
 これは洵《まこと》に彼にとっては、致命的の打撃と云わざるを得なく、そうして、事実彼にとって、再度の致命的の打撃なのであった。こうなってはヤブレカブレ、どいつであろうと誰であろうと、かもう[#「かもう」に傍点]ものか切って切って、……この鬱忿を晴らしてやろう)[#「)」はママ]
 ひた[#「ひた」に傍点]走り、ひた[#「ひた」に傍点]走った。

 偽善の巣窟であるところの、井上嘉門の領地内が、攪乱されたのはこの夜であった。
 乳飲児を抱いた若い女が、放蕩の良人《おっと》を探し出そうとして、深夜に領地内を彷徨《さまよ》っている。
 横を魔のように通る者があった。
「わ――ッ」と女は悲鳴をあげた。
 もう女は斃れていた。
 飼犬がどこかへ行ってしまった。それを目付けようと老いた農夫が、杖をつきながら通っていた。
「クロよ、クロよ、おいで、おいで」
 こう云いながら通っていた。
 その横をスルスルと通る者があった。
 一閃!
 刀光!
「わ、わ、わ、わ、わ――ッ」
 老農夫は斃れ動かなくなった。
 向こうでも切られこっちでも切られた。
 人々は戸外へ飛び出した。

賭場荒れ


 嘉門は決して人格者ではなく、又勝れた施政家でもなく、ただ家長という位置にあり、伝統的にその位置を利用し、圧制し専政し、威圧ばかりしていた人物であった。
 で、隷属していた人々は、永い間心に不平と不満を、ひそかに蔵していたのであった。そういう人々が侵入者によって、この境地が攪乱された、その機に乗じ爆発した。向こうに一団、こっちに一団、露路に一団、空地に一団、林の中に一組、森の中に一組、到る所に集まって、議論し撲り合いし取っ組み合いした。
 どうして、誰が、何のために、どういう騒動を起こしたのか、そういう真相を確かめようともせず、漠然とした恐怖、漠然とした憤怒、漠然とした焦燥に狩り立てられ、同派は組んで異端を襲い、同党は一致して異党を攻め、罵り、要求し、喧騒し合った。
「生地獄の人達を救い出せ!」
「ワ――ッ」と数十人が鬨の声をあげて、山の手の方へ押して行った。
「嘉門様にこの地から出て貰おう!」
「ワ――ッ」と数十人が屋敷を目掛け、無二無三に走って行った。
「人使いが荒すぎる」
「役にも立たないお客さんなどを、泊めて置くのが間違っている!」
「客人たちを追っ払え!」
「ワ――ッ」と大勢が一つに集まり、その客人の泊まっている家々へ、押し寄せて行って騒ぎ立てた。
 悲鳴! 呻き声! 泣き声! 怒声!
 客人達も狼狽して、家々を出て群集にまじった。
 秋山要介も浪之助も、源女も主水もその中にいた。
 嘉門も狼狽し恐怖したらしい。
 玄関に立って途方にくれていた。
 そこへ多四郎が現われた。
「逸見《へんみ》様何といたしましょう?」
「とり静める方法ござりますかな?」
「さあこう人心が亢《たかぶ》っていましては……」
「一時避けたがようござろう?」
 お妻や東馬も怯えたように、その側《そば》に立って震えていた。
 竹法螺が鳴り陣鐘が鳴り、やがて鉄砲の音さえした。
 閉ざされた大門が破られそうになった。

 嘉門と多四郎とお妻と東馬、四人を乗せた駕籠を守り、十数人の嘉門の家の子郎党が、騒乱の領内から裏山づたいに、福島の方へ走り出したのは、それから間もなくのことであった。

 その翌日の午後となった。
 林蔵の乾兒《こぶん》藤作は、フラリと自分の賭場を出て、猪之松の賭場の方へ足を向けた。
 猪之松の賭場は上ノ段にあって、この夜客人で一杯であった。


 藤作は酔っていた。
 そうして彼は上尾街道で、澄江を危難から救おうとした時、猪之松の乾兒の八五郎たちのために、叩きのめされたことを忘れなかった。
 いつか怨みを返してやろう――こういうことを考えていた。
 さて福島へやって来た。
 猪之松一家が上ノ段で、盛大に賭場をひらいていた。
「諸国の立派なお貸元衆が、ここには集まっているのだから、猪之松の方から手を出したら別だが、こっちから手を出しちゃアならねえぞ」
 親分林蔵から戒められてはいたが、猪之松の賭場には八五郎もいる、こいつどうしたってトッチメなけりゃアと、酔いも手伝って乾兒の藤作、猪之松の賭場へ出かけたのであった。
 内へ入って懐手をし、客人達の背後に突立ち、藤作は四辺《あたり》を睨み廻した。
 板敷の上へ長蓙を敷き――これを中にして客人達がズラリと並んで控えていた。猪之松の姿は見えなかったが、代貸元として一の乾兒、閂峰吉が駒箱を控え、銀ごしらえの[#「銀ごしらえの」は底本では「銀ごしらへの」]長脇差を引きつけ、正面の位置に坐っていた。
 中盆――即ち壺皿を振る奴、それが目差す八五郎であったが、晒の下帯一筋だけの、素晴しく元気のいい恰好で、盆の世話を焼いていた。
 勝ちつづけた客人の膝の前には、駒が山のように積まれてあり、こいつはニコニコ笑っている。
 馬持、山持、土地の大尽、どれを見ても客は立派なもので、いかがわしい手合などは一人もいなかった。
 藤作は自分で張ろうとはせず、何か因縁をつけてやろうと、いつまでも突立って眺めていた。
 その藤作が入って来た時から(厭な野郎が舞い込みやアがった)
 と、峰吉も八五郎も思ったが、まさか帰れとも云いかねて(障るな触れるな、そっと[#「そっと」に傍点]して置け)
 こう考えて眼まぜ[#「まぜ」に傍点]で知らせ合い、声もかけず勝負をつづけて行った。
 と、不意に藤作は怒鳴った。
「勝負待った、イカサマあ不可《いけ》ねえ!」
 同時に飛び出し盆蓙を掴むと、パーッとばかりにひっぺがした。
「野郎!」と飛び上ったは八五郎。
「賭場荒らしだ――ッ」と客人たちは、総立ちになって右往左往した。


「イカサマとは何だ、この野郎!」
 やにわに八五郎は飛びかかった。
 その横ッ面をポカリと一つ、藤作は見事にくらわせたが、
「イカサマだ――ッ、イカサマだ――ッ! ……高萩の猪之の賭場の壺振、八五郎はイカサマをして居りやす! ……お客人衆、イカサマだ――ッ」と叫んだ。
「藤作!」と腹に据えかねたように、怒声をあげると、閂峰吉、長脇差をひっ掴み、立ち上るとツカツカと前へ出た。
「見りゃア手前は赤尾の藤作、まんざら知らねえ顔でもねえ。事を決して荒立てたくはねえが、高萩一家が盆割の場所で、イカサマと云われちゃア、どうにも我慢が出来にくい。さあ云え云えどこがイカサマだ!」
「何を云やがる、イカサマだ――ッ、賽もイカサマなら盆もイカサマ、高萩一家は、イカサマだ――ッ」
 こう藤作は叫んだものの、実はイカサマを発見して、それであばれ出したというのではなく、ただ何かしらあばれてやろう、あばれて八五郎をとっちめてやろうと、そう思って仕掛けた賭場荒らしだったので、そう峰吉に突っ込まれては、イカサマの証拠をあげることなど、勿論することは出来ないのであった。
 イカサマだ――、イカサマだ――、とただ怒鳴った。
「野郎」と峰吉はいよいよ怒り、
「さては野郎賭場を荒らし、賭場銭さらいに来やがったな!」
 ここで嘲笑い毒吐いた。
「赤尾の林蔵は若いに似合わず、万事に行届きいい親分だと、仲間内で評判がいいと聞いたが、乾兒へロクロク小使さえくれず、懐中《ふところ》さみしくしていると見える。乾兒が場銭をさらいに来たわ! ……汝《うぬ》らに賭場を荒らされるような、高萩一家と思っているか! ……さあみんなこの野郎を、袋叩きにして追い返せ!」
 声に応じて八五郎はじめ、高萩身内の乾兒五六人、ムラムラと寄り藤作を囲み、撲り蹴り引きずり廻した。
「殺せ殺せさあ殺せ! 骨は親分が拾ってくれる! 殺せ殺せさあ殺せ!」
 藤作は大の字に仆れたまま、多勢に一人力では敵《かな》わず、ただ声ばかりで威張っていた。
 そいつを高萩の乾兒達は、戸外《おもて》へ引き出し抛り出した。

「ナニ藤作が猪之の賭場で、間違いを起こして袋叩きにされたと」
 料理屋の奥で酒を飲んでいた、赤尾の林蔵はこれを聞くと、――乾兒の注進でこれを聞くと、長脇差をひっ[#「ひっ」に傍点]掴み、
「こうしちゃいられねえ、みんな来い!」
 取巻いていた乾兒を連れ、自分の賭場の方へ走って行った。


 高萩の猪之松も料理屋の座敷で、四五人の乾兒たちと酒を飲んでいたが、乾兒の注進でこの事件を知ると、顔の色を変えてしまった。
「云うことに事を欠いて、イカサマがあると云われちゃア、袋叩きにもしただろうさ。……が、相手が悪かった。日頃から怨みの重なっている、赤尾の林蔵の身内だからなア。……こいつアただではおさまるまい。……ともかくも旅籠《やど》へ引き上げろ」
 そこで旅籠《はたご》へ帰って来た。
 林蔵も一旦賭場へ行き、負傷をしている藤作へ、すぐに応急の手あて[#「あて」に傍点]を加え、板で吊らせて旅籠へ運び、自分も旅籠へ帰って来た。
「藤作のやり方が悪かったにしても、場銭をさらいに来やがったと、こう云われては腹に据えかねる……そうでなくてさえ[#「さえ」は底本では「さへ」]怨みの重なる、高萩一家の奴原《やつばら》だ、この際一気に片づけてしまえ!」
 なぐり込みの準備をやり出した。
 という知らせが猪之松方へ行った。
「もうこうなっては仕方がない、こっちからもなぐり[#「なぐり」に傍点]込みをかけてやれ」
 竹槍、長脇差、鉄砲まで集め、高萩一家も準備をはじめた。
 驚いたのは他の貸元連で、小金井の半助、江尻の和助、鰍沢《かじかざわ》の藤兵衛、三保ノ松の源蔵、その他の貸元ほとんど一同、一つ旅籠へ集まって、仲裁《なかなおり》の策を相談した。
 その結果小金井の半助が、猪之松方へ出かけて行き、そうして鰍沢の藤兵衛が、林蔵の方へ出かけて行き、事を分けて話すことになった。
「赤尾の身内の藤作どんとやらが、酒に酔っての悪てんごう[#「てんごう」に傍点]、あんたの賭場にイカサマがあると、そう云われちゃア高萩のにしても、さぞ腹が立つではありましょうが、日和《ひより》も続き馬市は繁昌、おかげでわしらの賭場も盛り、芽出度い芽出度いと云って居る際に、赤尾と出入りが起きようものなら、馬市もメチャメチャ諸人方は、どれほど迷惑するかしれねえ。その馬市も明日一日だけ。……そこで出来ねえ我慢をして、ここはわし等の顔を立て、穏便に済まして貰いたいが」と、こう半助が猪之松に話すと、又藤兵衛は林蔵に対し、
「藤作どんが酔ったまぎれの、賭場荒しめいたてんごう[#「てんごう」に傍点]も、景気に連れての振舞いでしょうよ、そいつを高萩の身内衆に、場銭さらいにやって来たかと、悪態されたでは赤尾のとしては、黙っていることは出来ますめえが、馬市も明日一日、どうか穏便に済ましたいもので。出入りとなると諸商人はじめ宿の者一統が難渋するので」
 こう云って納めようとした。
 林蔵も猪之松も頑迷ではなかった。こう云われるとそれを押し切って、私闘をすることは出来なかった。
「ではお任かせいたしましょう」と云った。
 しかし林蔵は考えた。
(いずれ俺と猪之松とは、将来|交際《つきあ》える関係《なか》ではない。そのうち必ず命を賭しての、出入り果し合いをすることとなろう。一日延ばせば一日延ばしただけ、双方嫌な目をするばかりだ。……この機会に勝負をつけてしまおう。……諸人に迷惑さえかけなかったら、何をやってもいいわけだ)
 そこで彼は果し状を認め、こっそり猪之松へ持たせてやった。
 ――諸人はかかわりなく二人だけで、今夜宿外れの黒川渡《くろかわど》の野原で、勝負しようという果し状であった。
「承知した」という返事が来た。


 黒川渡は宿から半里ほど距てた、樹木の茂った箇所であり、人家などはほとんどなく、ただ川の岸に渡し守の小屋が、一軒立っているばかりであり、そこを渡って向こう岸へ行き、そこから西野郷へは行くのであった。
 林蔵は渡し守の小屋まで来た。
「爺《とっ》つあん船を出してくんな」
「おや、これは親分さんで、夜分渡し船を出しますのは、堅い法度でございますが……」
「と云うことは知っているが……」
「実はたった今もお渡ししましたんで。法度は法度、抜道は抜道、ハイハイお渡しいたしますとも」
 爺《じい》さんは船を出し、林蔵を乗せて向こう岸へついた。
「もう一人俺のような人間が、渡りてえと云って来るだろうから、そうしたら文句無く渡してやってくれ」
「高萩の親分さんじゃアございませんかな」
「こりゃア驚いた、どうして知ってる?」
「たった今お渡りになりまして、同じようなことを仰有《おっしゃ》いましたので」
「さすがは猪之松、先へ渡ったか、こいつはどうも恐れ入った。……じゃア爺《とっ》つあんこうしてくんな。俺か猪之松かどっちか一人、間もなく宿の方へ帰るから、向こう岸へ帰らずに船をとめて、ここの岸で待っていてくんな」
「へい、よろしゅうございます……が、お一人だけお帰りになるので?」
「そうさ、一人だけ帰るのよ。もう一人は遠い旅へ出るんだ。……行って帰らぬ旅ってやつへな」
 云いすてて林蔵は先へ進んだ。
 と、雑木の林の中から、
「赤尾のか、待っていた」という、猪之松の声が聞こえてきた。
「高萩のか、遅れて悪かった」
「俺もいまし方来たばかりよ」
 木洩れの月光の明るい所で、二人は顔を向かい合わせた。
「さて高萩の」と林蔵は云った。
「三度目の決闘だ、今度こそかた[#「かた」に傍点]をつけようぜ」
「うん、俺もそのつもりだ。……最初は上尾の街道で、二度目は追分の宿外れの野原で、三度目はこの黒川渡で……」
「今度こそかた[#「かた」に傍点]がつきそうだ」
「三度目の定《じょう》の目でなあ」
「俺が死んだらオイ高萩の、俺の縄張俺の乾兒、お前|悉皆《みんな》世話を見てくれ」
「心得た、きっと見る。その代わり俺が死んだ時には……」
「俺が悉皆みてやろう」
「心残りはねえと云うものだ」
「もつれ[#「もつれ」に傍点]にもつれ[#「もつれ」に傍点]た二人の仲が、今夜こそスッパリとかた[#「かた」に傍点]がつく、こう思うと気持がいいや」
「これまでは四辺《あたり》に人がいて、勝負するにもこだわり[#「こだわり」に傍点]があったが、今夜こそ本当に二人だけだ、思う存分切り合おうぜ」
「じゃアそろそろはじめようか」
「やろう、行くぜ、高萩猪之松!」
「さあ抜いた、林蔵来い!」
 甲源一刀流と新影流! 勢力伯仲の二人の博徒!
 構えは同じ中段に中段!
 逸見多四郎と秋山要介と、当代一流の剣豪を、師匠に取って剣道を、正規に学んだ二人であった。
 位い取りから呼吸《いき》づかいから、正しく鋭く隙がない。
 が、若いだけに赤尾の林蔵、やや気をいらち一気に勝負と、相手の刀磨り上げ気味に、ジリジリと[#「ジリジリと」は底本では「ヂリヂリと」]進み躍り込もうとした途端、
「む――」と呻く人間の声が、どこからともなく聞こえてきた。

恩讐集合


(はてな?)と林蔵は不審を打った。
(二人の他に人はいないと思ったのに、人の呻き声が聞こえるとは)
 こう注意が外れたので、躰の構えも自ずと崩れた。
 そこを狙って猪之松が、疾風迅雷、胴へ斬り込んだ。
「どっこい!」と喚くと林蔵は、一髪の間に飛退いて、姿勢を整え構えを正した。
 もう寸分の隙もない。
 二人は互いに呼吸を計り、その間隔《あいだ》を一間とへだて、睨み合って動かなかった。
 と、又も呻き声が聞こえた。
(おや?)と不審を打ったのは、今度は高萩の猪之松で、これも注意が外れたために、自ずと構えに隙が出来た。
(得たり!)とばかり得意の諸手突で、林蔵は征矢《そや》のように突進した。
 はじめて鏘然と太刀音がしたが、これは猪之松が林蔵の刀を、左に払って右へ反《かわ》したからで、太刀音のした次の瞬間には、二人の位置が少し移ったばかりで、構えは依然として中段と中段、もう静まり返っていた。
 それにしても呻き声はどこから来るのであろう?
 二人から数間離れた位置に、薮と灌木とに覆われて、一個の大岩がころがっていたが、その陰に一人の武士が仆れてい、その武士から呻き声は来るのであった。
 蒼い月光に照らされて、乱れた髪、はだかった衣裳、傷付いた手足のその武士が、水品《みずしな》陣十郎だということが見てとられた。
 嘉門の領地の動乱から、命からがら遁れ出て、ようやくここまで歩いて来たところ、手足の負傷、心の疲労から、昏倒してしまった彼であった。
 岩のむこうで林蔵と猪之松とが、刀を交し戦っているので、目つかっては一大事、声を立てては不可《いけ》ないと思いながら、つい呻き声を上げる彼でもあった。
 嘉門の領地から遁れ出たものは、相当|夥《おびただ》しい数と見え、この一角から遥か離れた、巣山《すやま》や明山《あきやま》の中腹を、福島の方へ行くらしい、たいまつ[#「たいまつ」に傍点]の火が点々と見えた。
(どうして林蔵と猪之松とが、こんな所で斬り合っているのか?)
 勿論陣十郎には合点いかなかったが、そういうことを突詰めて考え込むほど、彼の気持は冷静でなく、彼の躰は健康でなかった。
(それにしても井上嘉門の領地での、不思議な怪奇な事件の起伏! 何と云ったらいいだろう?)
 悪党の彼ではあったけれど、このことを思えば身が震えるのであったが、悩乱状態の陣十郎には、やはりこの事も冷静な気持で、回想することなど出来なかった。
(こんな所で死んではたまらない! 早く人里へ! 早く福島へ!)
 このことばかりを思い詰め、ノタウチながら呻き声を、先刻《さっき》から上げているのであった。
 もう林蔵にとっても猪之松にとっても、呻き声など問題ではなくなっていた。
 次第に迫る呼吸《いき》をととのえ、一気に雌雄を決しようと、刻足《きざみあし》をしてジリジリと[#「ジリジリと」は底本では「ヂリヂリと」]進んだ。
 しかし又もこの折柄、意外の障害が湧き起こった。
 雑木林の間から、数本のたいまつ[#「たいまつ」に傍点]の光が射し、四挺の駕籠を取巻いて、十数人の人々が、忽然現われて来たことであった。


 井上嘉門の一団であったが、四梃の駕籠に乗っている者は、嘉門と逸見《へんみ》多四郎と、お妻とそうして東馬とであった。
「や、これは逸見先生で」
 猪之松は思わず叫ぶように云って、岩を廻って数間走った。逃げたというのでは決してなく、自分の剣道の師匠であり、日頃から無用の腕立てや、殺生を厳しく戒《いまし》められている、その逸見多四郎にこんな姿を――抜身をひっさげているこんな姿を、こんなところで見られるということが、面伏せに思われたからであった。
 しかし直ぐに思い返し、苦笑いをして足を止めた。
「そこに居るのは猪之松ではないか」
 いち早くその姿を見かけたらしく、駕籠の中から多四郎は叫んだ。
「駕籠しばらく止めるがよい」
 止まった駕籠から多四郎は出て、猪之松の方へ寄って行った。
「抜身をひっさげ何をしているのじゃ」
 云い云いこれも猪之松の横に、これも抜き身を引っさげて、これも苦笑をして佇んでいる赤尾の林蔵をジロリと見、
「そなたは赤尾村の林蔵殿じゃな」
 猪之松が数間走ったので、それに連れて自分も数間走り、猪之松が足を止めたので、自分も足を止めた林蔵は、こう云われて頭を下げ、
「逸見の殿様でございまするか、意外のところでお目にかかり、恐縮至極に存じまする」
 顔見知りの逸見多四郎だったので、こう林蔵は憮然として云った。
 多四郎の方でも林蔵の顔は、以前に見かけて知っていた。それに自分の剣道の弟子たる高萩の猪之松の競争相手――そう云うことも知っていた。で、この場の光景から、心に響くものが少なからずあった。
「猪之松」と鋭い声で云った。
「決闘《はたしあい》か? そうであろう!」
「…………」
 猪之松は頭を下げた。
「猪之松!」と又も多四郎は云った。
「決闘! それもよかろう! ……が決闘したその後において、一体どのような良いことが残るのか?」
「…………」
「決闘! 決闘……さてその結果は一人が死ぬ! ……そうだ一人は殺されるのだ! よくよくのことがなければのう、決闘などするものではない」
「…………」
「理由は何か、云ってみい」
「はい」と猪之松は神妙に云った。
「ここに居りまする林蔵の子分に、藤作と申するものがござりまするが、その者が、わたくしの賭場へ参り、乱暴狼藉いたしましたゆえ、私子分ども腹を控えかね、みんなして袋叩きにいたしましたところ……」
「賭場荒しが原因だな」
「はい、さようでござります」
「みんなして藤作を叩いたといえば、争いは五分々々というものだな」
「まあ左様でございますが……」
「では、どうしてお前たち二人、あらためてここで決闘などするのだ?」
「子分の怨みは上に立つ者の……」
「親分の怨みになるという訳か」
「そればかりでなく、ずっと以前から、林蔵と私とは犬猿もただならず……」


「そのような噂も聞いて居る、がその不和の原因も、要するに縄張りの取り合いとか、勢力争いだということではないか」
「はい左様にござります、が私共渡世人にとっては縄張りと申すもの大切でありまして……」
「一体誰から許されて、縄張りというようなものをこしらえたのじゃ?」
「…………」
「土地はお上、ご領主の物、それをなんぞや博徒風情が、自分の勢力範囲じゃの縄張りじゃのと申し居る」
「…………」
「一体お前たちは、何商売なのじゃ?」
「…………」
「無職渡世などと申しているが、お上で許さぬ博奕をし、法網をくぐって日陰において生くる、やくざもの[#「やくざもの」に傍点]、不頼漢ではないか!」
「…………」
「そういう身分のその方なら、行動など万事穏便にし、刃傷沙汰など決していたさず、謹しんでくらすのが当然じゃ! それをなんぞや決闘とは! ……猪之松、其方《そのほう》はわし[#「わし」に傍点]について剣道を学んだ者だった喃《のう》」
「お稽古いただきましてござります」
「では其方はわし[#「わし」に傍点]の弟子じゃ」
「申すまでもございません」
「直れ!」と多四郎は凄じく云った。
「不肖な弟子を手討ちにいたす!」
 するとこの時まで多四郎の言葉を黙々として聞いていた林蔵が、抜身をソロリと鞘におさめ、つかつかと多四郎の前へ出て云った。
「逸見先生に申し上げまする、私をもお手討ちにして下さいませ」
 首をすっと差しのべた。
「?」
 多四郎はただ林蔵を見詰めた。
「先生の秘蔵弟子の猪之松殿を、不肖におとしましたは、この林蔵にござりまする」
「…………」
「林蔵さえ争いを仕掛けませねば、穏和な高萩の猪之松殿には決闘などいたしはしませぬ」
「…………」
「私をもお手討ち下さりませ」
 そういう林蔵の真面目な顔を、多四郎はつくづく眺めていたが、
「さすがは男、立派なお心! 多四郎ことごとく感心いたしてござる……そこで多四郎よりお願いすることがござる。……林蔵殿、猪之松と和解下さい……」
「…………」
「一つ秩父《ちちぶ》の同じ地方で、それほどの立派な男が二人、両立して争うとはいかにも残念! 戦えば両虎とも傷つきましょう。和解して力を一つにすべきじゃ」
「殿様……」と林蔵は頭を下げた。
「まことにごもっとものお言葉、林蔵身にしみてござります――高萩のに否《いな》やありませねば、私よろこんで和解いたしたく――」
「おお赤尾の俺とて承知だ!」と猪之松も嬉しそうに決然と云った。
「これまでのもつれ[#「もつれ」に傍点]水に流して、二人和解し親しくなろうぜ」
 この時木陰から声がかかった。
「この要介も大賛成じゃ」
 秋山要介が木陰から出て来た。


 そうして、その後からついて来たのは浪之助とそうして源女であった。
 いずれも井上嘉門の領地の一大混乱の渦から遁れ、ここまで下って来たのであった。
 そうして要介は木陰に佇み多四郎の扱いを見ていたのであった。
「猪之松と林蔵との和解は賛成、重ねて逸見殿と拙者との争いも、和解ということになりましょうな」
 磊落な要介はこう云って笑った。
「おおこれは秋山氏が、意外のところでお目にかかりました。林蔵殿と猪之松との和解、貴殿と拙者との武芸争いの和解! いずれをもご賛成下されて逸見多四郎満足でござる」
 多四郎もいかにも嬉しそうに云った。
「それに致しても秋山殿には何用あって、このような所に?」
「それは拙者よりお訊きしたい位で、何用あって逸見殿にはこのような所においでなさるるな?」
「実は井上嘉門殿の屋敷に、滞在いたして居りましたところ……」
「これはこれは不思議なことで、拙者も井上嘉門殿の屋敷に滞在いたして居りましたので……」
「や、さようで、一向存ぜず、彼の地にて御面会いたすこと出来ず、残念至極に存じ申す」
「しかるに今回の騒動! そこで引揚げて参りましたので」
「実は拙者も同様でござる」
 この時嘉門は駕籠から出て、改めて要介へ挨拶をした。
「ここに居りましても致し方ござらぬ、ともかくも福島まで引揚げましょう」
 こう多四郎が云ったので、一同それに同意した。

 一同がこの地から立ち去った後は、またこの地はひとしきり、深い林と月光との、無人の静かな境地となっていた。
 しかし岩陰には陣十郎が負傷に苦しんで呻いていた。
 大岩の陰にいたために、多四郎にも要介にも見あらわされず、そのことは幸福に感じられたが、お妻や源女を見かけながら、どうにもすることが出来なかったことは、彼には残念に思われた。
「ここに居ても仕方がない」
 こう思って彼は立ち上った。
「痛い! 痛い! 痛い!」と声をあげ、陣十郎はすぐに仆れ、右の足の膝の辺りを抑えた。
「あッ……膝の骨が砕けて居るわ」

 やがて秋が訪れて来た。
 御三家の筆頭尾張家の城下、名古屋の町にも桜の葉などが風に誘われて散るようになった。
 この頃知行一万石、石河原《いしかわら》東市正のお屋敷において月見の宴が催され、家中の重臣や若侍が、そのお屋敷に招かれていた。
 竹腰但馬、渡辺半左衛門、平岩|図書《ずしょ》、成瀬|監物《けんもつ》、等々の高禄の武士たちは、主人東市正と同席し、まことに上品におとなしく昔話などに興じていたが、若侍たちは若侍たちで、少し離れた別の座敷であたかも無礼講の有様で、高笑、放談、自慢話――女の話、妖怪変化の話、勝負事の話などに興じていた。
 と佐伯勘六という二十八九歳の侍が、
「辻斬の噂をお聞きかな」と、一座を見廻して云い出した。

月見の宴で


「辻斬の噂、どんな辻斬で?」と前田主膳という武士が訊いた。
「撞木杖をついた跛者《びっこ》の武士が辻斬りをするということで厶《ござ》るが」
「その噂なら存じて居ります」
「不思議な太刀使いをするそうで」
「こうヒョイと車に返し、すぐにドッと胴輪切りにかける――ということでありますそうで」
 この話はこれで終ってしまった。
 盃が廻り銚子が運ばれ、お酌の美しい若衆武士が、華やかに座を斡旋して廻った。
「拙者数日前備前屋の店頭で、長船《おさふね》の新刀をもとめましたが、泰平のご時世試し斬りも出来ず、その切れ味いまに不明、ちと心外でございますよ」
 と、川上|嘉次郎《かじろう》という武士が云って、酔った眼であたりを見廻した。
「貴殿も新刀をおもとめか、実は拙者ももとめましてな……相州物だということで厶るが、やはり切れ味は不明で厶る」
 こう云ったのは二十五六才の、古巣右内という武士であった。
「ナーニ切れ味を知りたいとなら、近くの大曾根の田圃へ行き、乞食でも斬れば知れ申すよ」と柱に背中をもたせかけて、赧顔を燈火に照し、少し悪酔をしたらしい、金田一新助という武士が云い、
「近来お城下に性のよくない、乞食が殖えたようで、機会あるごとにたたっ斬った方がよろしい」
「なるほどこれは妙案で厶るな」
「乞食なら斬ってもよろしかろう」と二三人の武士が雷同した。しかしこの話もこれで終り、女の話へ移って行った。
「拙者ひどい目に逢いましたよ」
 瀬戸金彌という二十二三の武士が、苦笑いしながら話し出した。
「数日前の夜で厶るが、大須の境内を歩いて居りますと、若い女が来かかりました。あの辺りのことで厶るによって、夜鷹でもあろうと推察し、近寄ってヒョイと手を取りましたところ、その手を逆に返されまして、途端に拙者ころびましたが、どうやら女に投げられたようで」
「アッハッハッ」と一同は笑った。
「女をころばすのは判っているが、女にころばされるとはサカサマじゃ」
「そこが色男の本性かな」
「その女|柔術《やわら》でも出来るのかな?」
「さようで」と金彌という武士は云った。
「零落をした武家の娘――と云ったような様子でござった。身装は穢くありましたが、顔や姿は美しく上品でありましたよ」
 この時川上嘉次郎と、古巣右内とが囁き合い、金田一新助へ耳うち[#「うち」に傍点]をした。すると新助はニヤリと笑い、二三度頷いて立ち上り、つづいて嘉次郎と右内とが立ち、こっそり部屋を出て行った。
 雑談に余念[#「余念」は底本では「余年」]のない一座の者は、誰もそれに気がつかなかったが、床柱に背をもたせかけコクリコクリと居眠りをしていた、秋山要介一人だけが、この時ヒョイと眼をあげて、三人の姿を見送って、審しそうに眉をひそめた。
 しかし眉をひそめただけで、声もかけず立っても行かず、また直ぐに眼を閉じて、長閑《のどか》そうに居眠りをつづけ出した。


 何故要介がこんな所にいるのか? 福島の馬市が首尾よく終えるや、赤尾の林蔵と高萩の猪之松とは、和解したので親しくなり、打ち連れ立って故郷へ帰った。
 そこで要介は門弟の浪之助へ、源女を附けて江戸へ帰し、自分一人だけが名古屋へ来た。
 尾張家の重臣|諌早《いさはや》勘兵衛が、要介の知己であるからであり、せっかく福島まで来たのであるから、久々で名古屋へ出かけて行き、諌早殿にお目にかかり、お城下見物をすることにしようと、そこで出かけて来たのであった。
 秋山要介の高い武名は、尾張藩にも知られていたので、今夜の宴にも勘兵衛と一緒に、要介は石河原家へ招かれた。
 最初要介は重臣たちとまじり、別の部屋で談笑していたのであったが、磊落の彼にはそういう座の空気がどうにも窮屈でならなかった。
 そこでそっと辷り出て、若侍たちのいるこの部屋へ来て、若侍たちの話を聞いているうちにトロトロと居眠りをやり出したのである。
 夜は次第に更けて来たが、酒宴は容易に終りそうもなく、人々の気焔はいよいよあがった。
 と、その部屋を出て行った、古巣右内という若侍が、蒼白《まっさお》な顔をして帰って来た。
「どうしたどうした」
「顔色が悪いぞ」
「今までどこへ行っていたのだ」
 と若侍たちは口々に訊いた。
「面目次第もないことを仕出来《しでか》しまして」
 右内は震える口で云った。
「新刀の試し切りいたそうと存じて、川上氏と金田一氏共々、大曾根の乞食小屋まで参りましたところ、一つの小屋の菰垂れの裾より、白刃ひらめきいでまして、あの豪勇の金田一氏が、片足を斬り落とされまして厶《ござ》りまする」
「なに乞食に金田一氏が……」
 若侍たちは森然としてしまった。
 それというのは金田一新助は、尾張藩の中でもかなりの使い手として、尊敬されている武芸者だからであった。
「そこで拙者と川上氏とで、金田一氏お屋敷まで、金田一氏をお送りいたし、川上氏はそのまま止まり、拙者一人だけ帰って参ったので厶るが……」と古巣右内は面目なさそうに云った。
 一同は何とも云わなかった。
 同僚が斬られたというのであるから、本来なれば出かけて行って、復讐すべきが当然なのであるが、相手が武士《ぶし》であろうことか、乞食小屋の乞食だというのであるから、討ち果したところで自慢にもならず、もし反対に討たれでもしたら――相手は随分強そうであるから、――討たれでもしたら恥辱の恥辱である。
 で黙っているのであった。
 この時要介はヒョイと立った。
 そうして部屋を出て行った。

 満月の光を浴びながら、秋山要介は大曾根の方へ、静かな足どりで歩いて行った。
 まだこの辺りは屋敷町で、昼もひっそりとしたところなのであるが、更けた夜の今はいよいよ寂しく歩く人の足音もなく、歩く人の姿もなかった。

疑い合う兄妹


 この夜大曾根の農家の一間に、兄妹の者が話していた。
 主水《もんど》とそうして澄江《すみえ》とであった。
 馬大尽井上嘉門の領地の、あの生地獄へ落された澄江が、どうしてこんな所に来ているかというに、あの夜暴民たちはその生地獄の上の、断崖へ押しよせて行き、生地獄にいる人々を助けようとして、幾筋となく綱を下ろした。
 それへ縋って地獄の人々は、あの谷から引き揚げられた。
 その中に澄江もいたのであった。
 そうして暴動の人渦に雑って、嘉門の領地をさまよっているうちに、幸運にも義兄の主水と逢った。
 その時の二人の喜びは!
 互いの過去を物語り、巡り逢えた幸運を感謝しながら、井上嘉門の領地を遁れ、まず福島の宿《しゅく》へ来た。
 そこで陣十郎の消息を尋ねた。
 名古屋の城下へ行ったらしかった。
 で、兄妹は連れ立って、名古屋へ来たのであって、この地へ来ると主水と澄江とは、とりあえず旅籠《はたご》に逗留して、陣十郎の行方《ゆくえ》を尋ねた。
 が、城下はなかなかに広く、行方を知ることが出来なかった。
 それにこれまでの艱難辛苦で、主水の躰も澄江の躰も、疲労困憊を尽くしていた。
 静養しなければならなかった。
 それに旅用の金子なども、追々少なくなって来たので、城下の旅籠を引払い、農家の離家を借り受けて、そこへ移って自炊をし、敵《かたき》の行方を尋ねると共に、身体をいたわることにした。
 鳴きしきる虫の音に時々まじって、木葉の落ちるしめやかな音が、燈火の暗い古びた部屋へ、秋の寂しさを伝えて来た。
「お兄様ご気分はいかがですか?」
 心配そうに澄江は訊いた。
「うむ、どうもよくないよ」
 主水はこの頃病気なのであった。
 と云ってもこれといって、心臓とか肺臓とか、そういうものの病気ではなく、気鬱の病気にかかっているのであった。
(澄江が水品陣十郎と、寝泊りをして旅をして来たとは!)
 このことが気鬱の原因であった。
 互いに過去の話をした時、このことを澄江は主水に話し、寝泊りして旅こそして来たが、躰に――貞操には欠けるところがないと、このことについては力説した。そこで主水もお妻と一緒に、寝泊りをして旅をして来たことを、きわめて率直に打ちあけて、そうしてやはり肉体的には、なんら欠点のないということを、澄江が安心するように話した。
 艱難辛苦をしたあげく、久しぶりで逢った主水と澄江とは、その邂逅に歓喜して、疑わしい過去のそういう生活をも、疑うことなく許し合った。
 が、その歓喜がやがて消えて、平静の生活に返って来ると、相互にこのことが疑われ出した。
 二人は兄妹とはいうものの、行く行くは夫婦になるべきところの、義兄妹であり許婚《いいなずけ》であった。
 そうして水品陣十郎が、父庄右衛門を殺害《さつがい》したのは、澄江に横恋慕した結果からのはずだ。
 その陣十郎と二人だけで、寝泊りして旅をして来たという!
 主水は苦悶せざるを得なかった。


 主水が苦悶すると同じように、澄江も苦悶せざるを得なかった。
(あの好色のお妻という女と、一つ宿に寝泊りして、旅をして幾日か来たからには、ただではすむべきはずがない。情交があるものと思わなければならない)
 苦悶せざるを得ないのであった。
 そういう二人の心持を――その苦しい心持を、カラリと晴らす方法はといえば、陣十郎とお妻とが現われて来て、その二人が自分の口から、そういう関係のなかったということを、証明するより外はなかった。
 ところが二人は二人ながら、主水たちの敵であり、その行衛《ゆくえ》は未だに知れない。従って二人の苦しい心持の、解け消える機会はないのであった。
「澄江殿」と他人行儀の、冷い口調で主水は云った。
「長の月日お父上の敵、陣十郎めを討とう討とうと、千辛万苦いたしても、今に討つことならぬとは、われわれ二人神や仏に、見放された結果かもしれませぬ……将来どのように探そうとも、陣十郎の行衛結局知れず……知れず終《じま》いになろうもしれませぬ……わしにとっては無念至極ではござるが、澄江殿にとってはその方が、かえってよいかもしれませぬのう……アッハッハッよいともよいとも!」
「…………」
 澄江は返事をもせず首垂れていた。
(また皮肉を仰有《おっしゃ》ると見える。……わたしはもう何にも云うまい)
 こう思って黙っているのであった。
「のう澄江殿」と又主水は、意地の悪い調子で云いつづけた。
「わしには不思議でなりませぬよ……お父上の敵の陣十郎と、一緒に旅をして居りながら、その敵を討って取ろうと、一太刀なりと加えなかったとは」
「…………」
「弱い女の身にしてからが、同じ部屋に寝泊りして来た以上、相手の眠りをうかがって、討ちとる機会はありましたはずじゃ……それを見遁して討たなかったからには、討てない理由があったものと……」
「…………」
「わしは不幸だ!」と不意に主水は、昂奮して血走った声で叫んだ。
「敵に肌身を穢された女を、妻にしなければならないとは!」
「あなた!」と澄江は顔色を変え、躰をワナワナ顫わせて、腹に据えかねたように叫び返した。
「以前にも再々申しましたとおり、陣十郎と連立って、道中旅をして参りましたは、秩父の高萩の猪之松の家で、馬大尽の井上嘉門に、すんでに肌身穢されようとしたのを、陣十郎に助けられましたからで……恩は恩、仇は仇、なんのお父上の敵などに、この肌身を穢させましょうや……道中陣十郎を見遁しましたは、助けられた恩からでございます……それにいたしましても貴方《あなた》様に――未来の良人のあなた様に、そのようなことを疑われましては、生きて居る望みござりませぬ! 死にます死にます妾は死にます!」
 いきなり刀を取って抜いた。


 主水は仰天して腕を伸ばし、その抜身をもぎ取った。
 澄江は畳へ額をつけ、ひた泣きに泣くばかりであった。
 抜身を鞘へそっと納め、手の届かない遠くへ押しやり、主水も腕を組んで考え込んだ。
(地獄の苦しみだ)とそう思った。
(こういう苦しみをするというのも、みな水品陣十郎のためだ)
 またここへ考えが落ちて行った。
(どうともして早くあいつの居場所を、探り知って討ち取りたいものだ)
(旅用の金も残り少なになった)
 このことも随分辛いのであった。
 胸は苦しく頭痛さえして来た。
 不意に主水は立ち上り、障子をあけ、雨戸をあけ、縁に立って戸外を見た。
 一跨ぎにも足りない竹垣をへだて、向かいはずっと田畑であり、月の光が農作物の上に、水銀のように照っていた。
 でも一方右手の方には、逸見《へんみ》三家中の名古屋逸見家の、大旗本の下屋敷のような、宏大な屋敷の一部が、黒く厳めしく立っていて、それが月光を遮っているので、その辺り一体が暗く見えていた。
(ああいう所には有り余る金が、腐るほど死蔵されているのだろうなあ)
 ふとこんなことが思われて、主水はその方を眺めやった。

 秋山要介は屋敷町を抜けて、大曾根の方へ歩いていた。
 尾張家の相当の使い手の武士を、乞食風情で小屋の裾から、一刀に足を斬ったという――このことが要介には不思議でならず、いずれその乞食は武士あがりの、名ある人間に相違ない、人物を見素性を知りたいものだ、それに自分が武芸者だけに、研究心と好奇心とから、その乞食と逢おうために、酒宴の席から抜け出して、こうして歩いて来たのであった。
 そして大曾根に辿りついた。
 飛々に農家があるばかりで、後は一面の耕地であり、ただ一所に宏大極まる名古屋逸見家の大屋敷が、この辺り一体を支配するかのように、月光の中に黒く高く、厳しく立っているばかりであった。
 土塀を四方に厳重に巡らし、土塀の内側へ植込を茂らせ、夜鳥を宿らせているらしく、時々啼音が落ちて来た。
 その屋敷の横を通り、要介は先へ進んで行った。
 と、遥かの行手にあたって、掘っ建て小屋が点々と、みすぼらしい形に並んでいるのが見えた。
 その方へ要介は進んで行った。
 しかしにわかに足を止め、
「はてな」と呟いて凝視した。
 小屋から十数人の人影が、バッタのように飛び出して来て、それが一団にかたまって、こっちへ歩いて来るからであった。
 なんとなく異様に思われたので、積藁の陰へ身をかくし、要介はしばらく待っていた。
 編笠をかぶり、撞木杖をついた、浪人を先頭に立てながら、乞食の一団が近寄って来た。

撞木杖の武士


 乞食の一団は話し合いながら、逸見《へんみ》屋敷の方へ歩いて行った。
「試し切りに来たらしい尾張藩の武士を、菰垂の裾からただ一刀に、足をお斬りになった先生の腕前、まったく凄いものでございましたよ」と、一人の乞食が感嘆したように云うと、
「あれなどは小供だましさ」と撞木杖の武士は事も無げに、
「足が満足であった頃には、五人であろうと、十人であろうと、撫斬りにしたものだったが」と、感慨深そうにそう云った。
 要介は黙って積藁の陰で、そういう話を聞いていたが、彼らがその前を行き過ぎると、その後から付いて行った。
(撞木杖をついている片脚の武士が、尾張家の武士を菰垂の裾から、一刀に斬った奴なのだな)
 こう思ったからである。
 乞食の一団は逸見屋敷の裏門の前で足を止めた。

 逸見屋敷の巨大な内土蔵の中に、二人の人間が話していた。
 一人は馬大尽の井上嘉門であり、もう一人は逸見多四郎であった。
 二人の眼前にあるものといえば、鋲や鉄環で鎧われたところの、巨大ないくつかの唐櫃であり、その中に充ちている物といえば、黄金の延棒や銀の板や、その他貴金属の器具や武具であった。
 昭和年間の価値に換算したら、何百萬両になろうとも知れなかった。
「なるほど」と多四郎は溜息をしながら云った。
「伝説以上の莫大な財産で」
「さようで」と嘉門は頷いて云った。
「名古屋逸見家にある分だけが、これだけなのでございます……。この他に知多の逸見家にも、また犬山の逸見家にも、これほどの財宝が蔵してありますので」
「その三家を支配している者が、貴殿井上嘉門殿なので」
「はい代々井上嘉門が支配いたして居りました。……で、この秘密を保つために、逸見三家は家憲として、外界《そと》との交際を避けて居りました」
「それは聡明なやり口ではござるが、しかしこれほど莫大な財宝を、死蔵いたすということは……」
「さようさよう」と嘉門は云った。
「今後これまでのような保存のやり方では、よろしくないように存ぜられまする……それにこのように貴方《あなた》様へ財宝の在り場所お知らせした以上、今後ともお力添《ちからぞ》えをいただいて、この財宝の使用方につき、研究いたしたく存じまする」
「結構、何なりとお力になりましょう」
 それにしてもどうしてこの二人が、こんな逸見家などにいるのであろう?
 それは例の騒動から嘉門や多四郎たちは木曽福島に遁れ、そこから共に名古屋の地へ来、逸見三家の実際の主人が、井上嘉門その人だったので、まず名古屋逸見家の屋敷へ、一同入ったのにすぎないのであった。


 この時|主家《おもや》の方角から、喧騒の声が聞こえてきた。
 嘉門と多四郎とは眼を見合せたが、内蔵を出ると扉をとじ、主家の方へ走って行った。
 見れば、一大事が起こっていた。
 得物を持った多数の乞食が、撞木杖をついた浪人に指揮され、家財を奪おうとしているのを、家の者が防いでいるのであった。
 編笠を刎ねのけた撞木杖の武士は、ほかならぬ水品陣十郎であった。
 その陣十郎は右の片手で、お妻の襟がみを掴んでいた。
 井上嘉門の領地内で、一騒動を起こしたが、自分も負傷して不具となった。左の片足を傷つけたのである。
 福島へ出、名古屋へ出た。
 生活の道がなかったので、とうとう乞食にまでおちぶれてしまった。
 乞食仲間を煽動し、今宵逸見家を襲ったのは、金銭を得ようためだったのである。さて逸見家へ乱入して見れば昔の情婦で自分を裏切ったお妻が、意外にも姿を現わした。
「おのれ!」とばかり引っとらえたのである。
 と、そこへ駈け込んで来たのが、嘉門とそうして多四郎とであった。
「陣十郎オーッ」
「あッ、逸見先生!」
 陣十郎は仰天し、片手でお妻を小脇に抱くと、撞木杖を飛ばして走り出した。
「待て! 陣十郎オーッ」と追う多四郎を、乞食どもは遮った。
「邪魔するか汝《おのれ》!」と怒った多四郎が、刀を抜いた瞬間に、乞食を背後から斬り仆す者があった。
 それは秋山要介であった。
「や、貴殿は秋山氏!」
「おおこれは逸見先生で」
「秋山氏には、どうしてここへ?」
「乞食ども怪しい片輪武士と、ともどもこの屋敷へ潜入いたしましたを、つけて参って拙者見届け、押込みと推し、ご注意いたそうと、拙者も潜入いたした次第で」
「その片輪武士こそ陣十郎でござる」
「ナニ、陣十郎? さようでござったか。……してそ奴、陣十郎めは?」
「お妻と申す女を奪い、たった今しがた逃げましてござる」
「追いましょう、逃がしてはならぬ」
「御意で! 追いましょう、遠くは行くまい!」
 多四郎と要介とは走り出した。
 乞食どもはいつか逃げ散っていた。

 お妻を引っかかえた陣十郎は、この頃耕地を走っていた。
 後から追って来る足音がする。
(どこかへ隠れて……隠れなければならない)
 見れば一軒の農家があって、燈火の光が洩れて見えた。
(よしあそこへかくまって[#「かくまって」に傍点]貰おう)
 陣十郎はそっちへ走った。
 雨戸が一枚あいていて、人の姿がそこにぼんやりと見えた。
「狼藉者に襲われましたもの、しばらくおかくまい[#「おかくまい」に傍点]下されい」
「よろしゅござる」とその人は云い、一方へ躰を開いた。

本懐遂ぐ

 で、燈火が雨戸の間から、ほのかながらも庭先へ射した。
「やア、汝は水品《みずしな》陣十郎オーッ」
「誰だ? やア鴫澤主水《しぎさわもんど》かアーッ」
 縁に佇んでいた者は、鴫澤主水その人であった。
 庭へ射し出た燈火の光で、陣十郎を認めた鴫澤主水は、叫ぶと同時に刀をひっ掴み、庭へ躍り出ると積る怨み、ほとんど夢中で斬り込んだ。
「わっ」
 陣十郎は地に仆れた。
 片手にお妻を抱えていた。
 しかも片足は不具であった。
 満足な方の右の足の、股の辺りを斬られたのである。
 とその瞬間、澄江が刀を抜きそばめ、縁から庭へ飛び下りた。
「澄江殿かアーッ」と死期迫った声で、陣十郎は呼ばわった。
「其方《そなた》に懸想したばかりに……が今では二人一緒に、木曽街道の旅はしたが、躰に操に傷付けなかったことを、陣十郎の本性に、善心のあった証拠として心はればれ存じ居る……いざ主水拙者を討て! その前にこの女を!」
 お妻を放すと放した手で、刀引抜きお妻の肩を、胸にかけて割りつけた。
「ヒ――ッ」と仆れてノタウツお妻! でも断末魔の息の下で、
「主水様、この世の名残りに、お目にかかれて本望でござんす……二人一緒に旅はしましたが、とうとう最後まで赤の他人……今はやっぱり陣十郎殿の女房……良人《おっと》に討たれて死にまする」
「討て主水! いざ立派に!」
「よい覚悟! 討つぞ陣十郎!」
 主水の切り下した刀の下に、陣十郎の息は絶え、それに寄りかかってお妻も死んだ。
 間もなくそこへ駈けつけて来たのは逸見多四郎と秋山要介とであった。

 主水と澄江とが婚礼したのは、その翌年のことであって、仲のよい夫婦として榊原家では同僚たちがうらやんだ。
 多四郎と要介とは親友となり、井上嘉門の大宝財の、使用方などについて相談などをした。
 源女は本心を取りもどし、女芸人として名声を馳せ、杉浪之助はその後援者として、何くれとなく世話をしてやった。
 赤尾の林蔵と高萩の猪之松とは、一時和睦はしたものの、やはり両雄ならび立たず、その後対抗するようになったが、それは後日の出来事であった。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻四」未知谷
   1993(平成5)年5月20日初版発行
初出:「山形新聞」
   1936(昭和11)年3月~8月18日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、以下の場合には大振りにつくっています。
「戸ヶ崎熊太郎」「広谷ヶ原」
※底本は、「行方/行衛」、「提燈/提灯」、「綺麗/奇麗」、「子分/乾兒/乾児/乾分」、「仰有る/有仰る/仰言る」を混在させていますが、底本のママとしました。
※小見出しの終わりから、行末まで伸びた罫は、入力しませんでした。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年4月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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