この Exotic の一巻を
三郎兄上に献ず、
兄上は小弟を愛し小弟
を是認し小弟を保護し
たまう一人の人なり。
序に代うるの詩二編
孤独の楽調
三味線の音が秋の都会を流れて行く。
霧と瓦斯《ガス》との青白き光が
Mitily の邦《くに》の悲哀を思わせる
宵。……………………
唄うを聞けや。
艶《つや》もなき中年の女の歌、
節《ふし》は秋の夜の時雨よりも
凋落の情調ぞ。
私の思い出は涙ぐみ
ただ何とはなしに人の情《なさけ》の怨まるる。
その三味線と女の歌の聞こゆる間。
木の葉が瓦斯の光に散っている。
君代さん
さし櫛に月の光が落ちている
君代さん。
冴えた霜夜の
秋の白さ。
涙ぐみつつ露は窓のガラスに伝い
老いたる木の葉は散っている。
君代さん
十八の君代さん
鼈甲《べっこう》のさし櫛は
若いあなたには老《ふ》けすぎた。
(別れし夕の私の印象。)
死に行く人魚
時代 騎士の盛《さかん》なりし頃
場所 レモンの花の咲く南の国
人物 序を語る人
公子
女子
領主
従者
Fなる魔法使い
騎士、音楽家、使女、童、(多数)
序を語る人
旧教僧侶の着る如き長き黒衣を肩より垂れ、胸に紅き薔薇花をさす。青白き少年の仮面を冠る。
独白――
レモンの花の咲く南方の暖国はここであります。黄昏は薔薇色の光を長く西の空に保ち、海には濃き藍の面を鴎が群れ飛び、鴎を驚かして滑り行く帆船は遙かの沖をめがけます。日は音なく昇り、音なく沈み、星と露とは常に白く冷やかにちょうど蛋白石のように輝きます。湖水の岸には橄欖《かんらん》の林あり、瑠璃鳥はその枝に囀《さえず》る。林の奥に森あり、香り強き樟脳は群れて繁り、繁みの陰には国の人々珍しき祭を執り行う。ああその祭たるや筆にも言葉には尽くせません。螺鈿《らでん》の箱に入れた土耳古《トルコ》石を捧げて歩む少女の一群、緑玉髄を冠に着けたる年若き騎士の一団。司祭の頭には黄金の冠あり。……御厨の前の幕をかかぐる時、神体は見えざれども数千人の人々は声を揃えてサンタマリヤを唱う。その唱命は海の彼方の異国の涯《はて》にまで響きます。――この美しい南国の人々の心はどのように華やかでござりましょう、その人々の語り合う恋は、どのように秘密の烈しさを有していることでしょう。この脚本は、その秘密の烈しい恋を基として、演じられるのでござります。私はこれからこの脚本の諸々の色と匂い、光と陰、無音と音楽とをお話し致しましょう。
この脚本は夕暮より始まり、次の日の夜半に終ります。夜はこの脚本の舞台であります。この脚本には短ホ調の音楽と、短嬰ヘ調の音楽とが入ります。尚その他いろいろの楽器、例えば死せる人を弔う鐘、遂げられざる恋の憂いを洩らす憐のバイオリン、悪魔の誘惑を意味する銀の竪琴、騎士の吹く角の笛、楯につけたる鉄と真鍮《しんちゅう》の喇叭《らっぱ》、そして波も松風も嘶《いなな》く駒も、白き柩と共に歌う小供等も、楽器と云えば云えましょう。――これらの楽器がはいります。この脚本には「死に行く人魚」の歌が歌われます。嫉妬よりの契約が交わされます。海と自由と、幻のような舟と、舟の中の音楽と、音楽を奏した未知の若者とを恋うる少女が現われます。この少女は恋の贈物として深山鈴蘭の純潔の花を愛さずに、暗の手に培《つちか》われた、紅の薔薇を愛します。(と自分の胸より紅薔薇を抜き取り観客に見せ)このような罪の贈物を愛します。(花を床上に投げ棄て)かくて少女は恋の獲物を失います。
過去の恋をなつかしむあまり、恋の記念に造った音楽堂は、対岸の絶壁の上に立てられ、悲劇はその堂内で演じられます。譬《たと》えその悲劇が諸君の御眼には見えずとも、諸君は必ず憐れと覚しめすでしょう。悲劇の主人公は、美しい少年であります。少年の美しさは何と云って形容したらいいでしょう。猶太《ユダヤ》の王女が恋したと云う、ヨハネの幼顔よりも美しく、ラハエルよりも美しい。ギリシヤの彫刻の裸体美でも、少年の美には及びません。この少年が「死に行く人魚の歌」を[#「「死に行く人魚の歌」を」は底本では「「死に行く人魚の歌を」」]歌います。けれども恋の競技の音楽堂で歌ったのではありません。たれこめた自分の室で、つれない女子《おなご》に物を思わせようと、又血汐のような罌粟《けし》畑で、銀の呪詛をのがれんと、競技の前の夜の半ばに、歌ったのでござります。噫! その「死に行く人魚」の歌は、世にも悲しい弔いの歌となりました。
婚儀の式場とも成るべき音楽堂からは葬式の柩が出で、つがいの鴛鴦《おしどり》の浮くべき海の上には、柩をのせた小舟が浮かび、嘆きの歌を唄わんとして集った小供等は、曇った声で弔いの歌を唄います。祝して鳴らさるる筈の鐘は凶事を伝え、諸国より集りし騎士音楽家は、驚きと怒りと悲しみとを、不思議を見たる瞳に充たせ、ものも云わずに柩を送ります。そして月桂樹の冠はFなる魔法使いの頭に落ち、Fなる魔法使いは、その名誉ある冠を以て、空想の少女を眩《まどわ》さんとし、猩々緋《しょうじょうひ》の舌を動かします。――しかも凶《よこしま》は正《ただしき》に敗け、最後の勝利は公子に帰して、月桂樹は幼い天才に渡ります。――神よ、正しき者に幸あれ!
領主は、凍れる棒の如くに気死して壁により、忠僕は天を睨み、やがて声を上げて泣き仆《たお》れます。噫! 幸福たらんとして不幸となり、楽しからんとして憂いを呼び、平和たらんとして、凶事動乱、潮のように湧き起ります。(と片手を高く差し上げ)、この諸々の喜怒哀楽が、霧に包まれた宝玉のように、水の中の王冠のように、煙の中の城のように、おぼろげに諸君の眼に映る時、諸君は無理の解釈をなされずに、有るがまま、見ゆるがまま、聞こえるがままにくみ取って戴きたい。(片手を下し、後方に静かに退場しつつ)如何にFなる魔法使いが、銀の竪琴に魔を呼ぶか、如何にレモンの花の咲く南方の国の人々が、燃え狂う恋路を辿り行くか、諸君はこの幕が開くと共に、残る方なく知ることが出来ましょう。(と一礼して退場)
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第一場
領主の館の一室 正面に出入口ありて裏庭に通ず。裏庭を距てて静かなる湾あり、湾の対岸は削れるが如き絶壁にしてその頂上には古き白亜の音楽堂あり(但し之は背景《バック》なり)、出入口の左右に大いなる窓あり。窓には窓掛けなく自由に湾の風景を望み得べし。なお室の左右に出入口あり、左の口は主屋に通じ右の口は高殿に通ず。高殿は領主の一子にして年若く美しき音楽の天才ある公子の居室とす。左の窓に近く大いなる丸テーブルあり、丸テーブルを囲みて寝台と椅子とあり。以上の建築装飾は総て中世紀頃の型を用う。
時 夕暮れ落日の頃。
季 初夏。薔薇、レモンの花盛り。
領主 (品位ある風采、この時代の豪族に似つかわしき服装、腰に剣をつるす。左の窓口によりて湾の風景を眺む。)今日の夕日は平素《いつも》よりは別して美しく静かに見える。小鳥や風に送られて日は海に沈まんとし、猩々緋の雲は戦《いくさ》の旗のように空の涯《はて》を流れている。沈まんとする日の美しさはどうだ。黄金の車が焼け爛れながら水晶盤の上へ落ちるようだ。櫛の歯のような御光は珊瑚をとかして振り撒いたような空と海とへ、霧時雨《きりしぐれ》のようにふりそそいでいる。その光は一刻一刻に変わり、その色は次第次第に移って行く。沈まんとする日の上には猶太《ユダヤ》王の袍《ほう》に似た、金繍のヘリ[#「ヘリ」に傍点]ある雲の一群がじっと動かずに浮かんでいる。その雲の上には風信子石のような星が唯一つ、淡く光っているが、やがて日が沈みきると一緒にダイヤモンドのようにキラキラと輝くのであろう。その星の上は緑青《ろくしょう》のように澄んで青い夕暮れの空で、風が小鳥の眠りを誘うように、やさしくやさしく渡っている。(間)猶太王の袍に似た雲が動き出した。錦《にしき》の蛇のように長く細く延びて行く。風が吹くからだろう。細く長く延びた雲は日の面を掠めるばかりにして、海の面へ垂れ下がって来る。(間)海は親切の心を持っているように、雲の影を残らずうつしている。(語を強め)海は寛大だ!
従者 (始めより領主の後方に謹んで彳《たたず》みいる、白髪、忠実質朴の風采、恐る恐る小さき声にて)御前様《ごぜんさま》。
領主 (聞こえぬ如く)海は寛大だ。海は聖人の心のように寛大だ! だがしかし、また法官のように冷やかで厳かで一点の偽りも許さない。仮面偽体虚飾の悪徳は、この海の鏡にうつった時、すっかり化けの皮が剥げてしまう。海は鏡だ。だからあるがままに空の色や光や形が映るのだ。
従者 御前様。
領主 (聞こえぬ如く)それにしても今日の海の美しく平和のことはどうだ。今までもかなり平和で美しい夕べはあったけれど、今日のように漣《さざなみ》一つ立たず、飛魚一つ躍らぬと云うことはなかった。今日の静けさは美人の死のようだ。
従者 (気づかわしげに)美人の死のようだ!
領主 (急に振り返り)何時《いつ》からおまえはそこにいたのか。
従者 はい、先刻からお呼び申しておりました。
領主 そうか、一向知らなかった(とまた窓に向い)。どうだ今日の夕日の美しさは、建国の日のようじゃないか。お前の衰えた眼にも少しは立派に見えようがな。ほら、帆をなかば張った船が岩陰から現われた。帆は夕日で燃えるように赤く、水に映った様子が人魚そっくりだ。あれは人魚の舟だ。人魚の舟は地平線をめがけて進んで行く。日が沈み限《き》る頃、地平線の上へ行き着くだろう。沈む日と人魚の舟とが一緒になって、地平線の外へ消え失せる時、月がそろそろと昇り始めるのだ。綿帽子を取りはずされた嫁様のように恥かしさとかがやか[#「かがやか」に傍点]しさとで、どんなに月は下界の美貌に恍惚《うっとり》とするだろう。そして、月の秋波《ながしめ》があの絶壁の上の音楽堂に注がれた時、どんなにあの白い建築が、方解石のように美しく、形よく見えることだろう。あの白衣を着けたラマ僧のような音楽堂が(間)それは月夜のことだ、今この夕日に照り輝いている有様も、何と神々しい姿ではないか。円錐形の銀板の屋根は、洪水のように光を漲《みなぎ》らせ、幾万となく打ちつけた銀の鋲は、騎士の鎧よりも目覚ましい。白壁は薔薇色の陰を帯び、窓の掛け布は恋人の腕にすがった乙女のように力なく垂れ下がり、それに空の七色が接吻している。(間)海に突き出した高殿の一郭は岩の上の鷲の巣のように、まことにあやうく見えるけれど、勇ましさも一層で、美しさはそのあやうく勇ましい所にひそんでいる。あの高殿で恋を語ったら、どんなに悦《うれ》しいことだろう。
従者 御前様!
領主 (うるさげに)何だと云うに。
従者 もう窓から外を見るはおよし遊ばせ。
領主 いいではないか、外を見るのは俺の勝手だ。お前は俺の云いつけた通り、御客様を御馳走する準備をせい。(とまた窓の外を向き)ああ初夏の夕べほど気持ちのよいものはない。草花の雌蘂《めしべ》には咽《む》せかえる程の香りがあり、花弁にはルビーのような露が溜り、黄金虫は囁くような恋の唸りや、訴えるような羽音をさせて、花から花、梢から梢へと飛び巡る。物の音色、光や陰には優しい艶が着き、人々の眼差しには、たえられぬ内心の悶えや恋や喜びが、恥かしい程あふれている。(間)だが俺の心はどうだ、(破裂せる如き調子)俺の心はまるで謀反人《むほんにん》の心のように、絶えず苦しみ、気を遣い、他人の思慮《おもわく》を憚り、そして常時《しじゅう》疑っている。(窓を離れる。――と従者と顔を見合わせる)まだいたのか。
従者 はい、お殿様のお心を伺わぬうちは参りませぬ。
領主 (不審そうに)俺の心の何を伺うと云うのか。
従者 お隠し遊ばしても、チャンと存じておりまする。ハイ、チャンと存じておりまする。あなた様がこれんばかりの時から今日が日まで、一日も離れずお付き申し上げた私でござりますもの、お殿様のお心の中は、私自身の心の中よりも、ずんと詳しく存じぬいておりまする。ハイ。
領主 それがどうしたと云うのか。
従者 お隠し遊ばしても駄目でござります。
領主 (いらいらとして)くどい奴だな、俺は何も隠してはいないじゃないか。それともお前には隠しているように見えると云うのか。
従者 ハイ、その通りでござります。お殿様は一から十まで近頃はお隠しなされておりまする。
領主 何も別に隠している覚えはないが、それでも、かくしているように見えると云うなら為方《しかた》がない。そう見られるばかりだ。(と復《ま》た窓の方へ向かんとするを引き止め)
従者 (眤《じ》っと主人の顔を眺め)お顔もおやつれ遊ばしました。頬も額も青玉のように青褪めておりまする。
領主 俺は元から、あまり肥えてはいなかった、そして色も青かった。(やや悲しげに)それに近頃は…………。
従者 (遮《さえぎ》り)あの女子《おなご》がこの館へ参られてからは、一層お痩せなされたと申しましても間違いではござりますまい。
領主 (顔色を変えず)何を云うのか。
従者 お気に障りましたら御免下さりませ。
領主 別に気にも障らんが、お前はどうも俺を誤解しているようだ。
従者 ハイハイ、ひょっとすると左様かも知れませぬ。いえいえ、屹度左様に違いござりますまい。あれほど御発明であられたお殿様が(と声を落として、昔を追想するが如き姿)十年前のあの日[#「あの日」に傍点]、あの事件[#「あの事件」に傍点]のあったばかりに、からりと様子がお変りなされ、気抜けしたような御心となり、閉じ篭もってばかりおられました。(間)かと思うとまた近頃、あの女子をこの館へ引き入れられてからは、以前と違い、活発にはなられましたが、御家来衆に対しては昔ほどお情けをおかけ下されず、一にも十にもあの女子のためばかりを計られて、お館の乱れるのもおかまいなされぬのでござりますもの、ハイ、発明のお殿様でさえ、そのようなお心得違いのある世の中に、私のような賎しい奴が、考え違いをするのはあたりまえでござります。
領主 そのように、ムキにならずとものことだ。そんなら何か、近頃俺が皆の者に対して不親切になったから、それが気に食わぬと云うのか。
従者 そればかりではござりませぬ。近頃は大変にソワソワなされます。まるで十七、八の若者が初恋を知った時のように。
領主 (苦笑)それが気まずいと申すのか。
従者 そればかりではござりませぬ。近頃は何彼《なにか》と疑い深くなられました。これもあの女子のためでござりましょう。
領主 あの女子、あの女子とよく云うが、彼女《あれ》は決して悪い女ではない。ほんの無邪気な性質で、例えて云って見れば、空を自由にかけたがる白い雲のようなものだ。(少し考え)もっとも、あまり空をかけたがるので、心もち、フワフワとしてはいるが、それが決して、あの女子の美しい容貌と正直の心とを傷つけはしない。
従者 よく存じておりまする。
領主 それではもうよいではないか(とまた窓に向かわんとするを従者は再び引きとめ)、
従者 たとえ、女子の性質はよいと致しましても、お殿様の御性質《おこころもち》お振る舞いを近頃のように変えさせますれば、何のためにもなりませぬ。却って悪い性質の女子でも、お殿様の性質《おこころもち》[#「性質《おこころもち》」はママ]を変えぬならば、その女子の方が御身の為また私共の為かと存じます。……一体、あの女子は、どこからお連れなされました。
領主 海の彼方《むこう》の淋しい浜辺から、(と窓を離れて丸テーブルの傍の寝台の上に腰をおろす)、海の彼方の淋しい浜辺で、消えて行く帆舟の影を泣きながら見送っていた――あの女子が見送っていた。――それを俺が連れて来たのだ。(間)あの日は、涙ぐんだ日が浜に散っている貝殻と、水に濡れた大きい岩と、そして女子の頬を伝う二筋の涙とを白く照らしていた。女子は忍び泣きに泣きながら、片手に赤い薔薇の花を持ち、それを高く振りかざし、地平線の辺へ消えて行く帆舟を見送っておったのだ。荒れ果てた海岸の淋しい淋しい午後だった。
従者 (領主に向かい合って椅子に腰をかけ)何故そんな女子をお連れなされました。
領主 (恋しそうに)以前《まえ》の妻に似ていたからよ。
従者 (思わず立ち上がり)以前の妻! と申せば、あの若様のお母様《かあさま》の……。
領主 (昂奮して)そうだ、あの不貞の妻に似ていたからさ。
従者 御前様。
領主 不貞の妻だが恋しい女だ。あの女のことを思えば、身も心も消えて行きそうだ。(と思慕の情に耐えざる様子)
従者 御前様。
領主 (その当時を思い出し、声も瞳も力を増す)以前の妻と一緒に住んでいた頃は、俺もお前も若かった。
従者 (なつかしそうに)十年前でござりました。
領主 俺には昨日のように思われる。けれどもまた、この世ではなく、他界の消息のように思われる。ああ、思ったとて考えたとて、二度と再び、あんな幸福の日は送れないと思えば、あの頃の生活が、追いすがって引き止めたいようだ。
従者 私もそんな気がいたします。
領主 十年以前と云えば俺もこんなに衰えてはいず、お前もそうまで年を取ってはいなかった。(間)彼女《あれ》と俺とは(と窓を通して音楽堂を見る)今音楽堂の建っている対岸の岩の上に、小城のような家を構えて住んでいた。そこには水晶のような水を吹き出す噴水も、レモン薔薇の咲き乱れる花園もあった。宵毎に花園には露が下り、虫がその陰で鳴いていた。朝毎に小鳥が囀《さえず》り、柑子レモンの花が小鳥の羽搏《はばた》きで散り乱れた。そして音なく窓にとまり、妻はその花弁を唇に含んで、俺の唇へ口渡しに移してくれた。その時妻の金髪は恋しさにふるえ、妻の眼はしばしも離れずに俺の瞳を見詰めていた。
従者 奥様はバイオリンの妙手でございました。
領主 そうだ、それが何よりも俺の心に残っている。彼女《あれ》はバイオリンの妙手だった。紅宝玉と貴橄欖石とで象眼したバイオリンは、いつも彼女の腕に抱えられていた。
従者 (なつかしげに)奥様は花園を見下ろす窓に倚《よ》って、いつもいつも哀れっぽい歌をお弾きなされました。(間)花園の彼方は底の知れぬ青海で、奥様は人魚が波間に見える見えるとよく申されました。
領主 彼女が歌った歌は、みんな哀れっぽいものばかりだったが、その中でも、「死に行く人魚」の歌が一番悲しい節の歌だった。彼女がこの歌を歌って弾く時は、きっと涙ぐんだ眼で海を眺めた。その様子が、海の中に歌の主の人魚がいて、その人魚へ歌を送ってやると云うように見えた。(間)そしてあの歌を弾きながら歌う声は、ちょうど潮が深い深い洞穴の奥へ、忍びやかに寄せて行くように、幽《かすか》にそして震えていた。(間)俺は、あの歌を唄う彼女を見る毎に、この女は、どうしても果敢《はかな》い運命の女だと思わずにはいられなかった。(長き嘆息)その思いは誤らなかった。
従者 御前様、そのことを思い出しましてはお為《た》めになりませぬ。そんな無惨なことは思わずに、あの頃の楽しかったことばかりをお思い出すに限ります。追想は、いずれ美しく見えるものでござります。ちょうど、桃色の霧で蔽《おお》われた、縞瑪瑙の丸柱を見るように、(間)御前様、奥様は花に溜った露でお化粧をするのがお好きでござりましたな。
領主 (恍惚と)そうだ、彼女は小鳥よりも早く起きて、花園に下りて行き、数條に分かれた庭の小径を、絹の薄物をゆったりと肩から垂れたばかりの朝姿で、アルハラヤ月草や、こととい草や沈丁花の花の間を、白鳥よりもしなやかに歩き廻った。そして花弁に溜った露の滴を、百合の花のような掌に受けて、それで金色の髪をとかした。金色の髪は、耳朶《みみたぶ》を掠めて頬を流れ、丸い玉のような肩に崩れ落ちた。それを左の手でそっと梳《す》き、また右の手でゆっくりと梳いた。梳く度に、薔薇色の日が金髪に映って、虹のような光がそこから湧いた。(間)梳き終わるとそのまま金髪を背に垂れて、傍の小石へ腰を掛け、この場合にも抱えて来た、バイオリンを弾き出すのだ。
従者 何の曲をお弾きなされました。
領主 「死に行く人魚」の歌。
従者 その歌は不吉の歌ではござりませぬか。
領主 そうだ。
従者 何故、そんな不吉の歌をお化粧する間もお歌いなされたのでござりましょう。
領主 その頃は解らなかったが、今になってその意味が少しは解って来たように思われる。あの不幸の女は、自分で歌って自分で泣き、悲しい歌に同情して、それで心を慰めていたらしい。
従者 何故でござりましょう。お殿様と云う立派な情人《おもいびと》がおありなさること故、そのようなことをして、自分の心を慰めずとも、よかりそうなものではござりませぬか。
領主 いやいや、彼女《あれ》は不思議な神経を持っていて、自分の運命の行方を、その時分から、知っていた。
従者 と申しますと?
領主 彼女自身が、死に行く人魚だったのさ。
従者 私にはよく解りませぬが。
領主 誰によく解るものか、一緒に連れ添っていた俺にさえ、彼女が死んで十年も経った今日、やっと少し解りかけた程だもの。(間)だが不思議な運命――魔法使いの銀の杖から音なく形なく現われる、奇怪な運命が、しじゅう彼女の身の上にふりかかっていたことは、確かであったと云うことが出来る。
従者 そんなものが世の中に、あるものでござりましょうか?
領主 あればこそ、彼女が、あんな不幸な最後を遂げたじゃないか。(間)この世の中には神秘の門が、数限りもなく立っているが、それを開ける鍵は一つもない。
従者 奥様はその鍵の一つを持っていたのではござりますまいか。
領主 (従者の顔を見詰め)お前は面白いことを云う。(眼をそらし)彼女は鍵は持っていなかったが、神秘の門を幾度も幾度もおとずれたことはあった。だがそれは、ただおとずれたばかりだった。
従者 お偉い方でござりましたな。
領主 偉いか偉くないか知らぬけれど、不幸の女だった。(間)俺にとっては一生忘れられぬ強い強い記憶である。――
従者 その奥様と、今度この館へ参られた女子《おなご》とが似ていると申すのでござりますか。
領主 (深く頷き)その通りだ。
従者 どこが似ているのでござります。
領主 何から何まで。
従者 あの女子は、バイオリンを弾かぬではござりませぬか。
領主 手では弾かぬが心ではいつも弾いて歌っている。
従者 と申しますと?
領主 文字でも言葉でも絵でも表わせぬあるものをいつも思っていると云うことさ。
従者 それが音楽でござりますか。
領主 音楽だ、それが魔のような音楽だ、それが恐ろしい運命だ!
従者 恐ろしい運命! それではあの女子の身の上にも、魔法使いの銀の杖から湧いて出ると云う、悪い運命が、つきまとっているのでござりますか。
領主 (にわかに立ち上り)ああ、その悪い運命が、つきまとっていればこそ明日の競技が行われるのだ。
従者 と申しても私には解りませぬ。
領主 (寝台より離れて窓口に行き、対岸の頂上に立てる音楽堂を指す)お前にあれが見えるかの?
従者 (領主と並びて窓口に行き)はい、かすんだ眼にもよく見えまする。
領主 何と見えるかの?
従者 以前《まえ》の奥様の記念として、お殿様が業々《わざわざ》お立てなされた音楽堂でござります。
領主 そうだ、前の妻と二人で住んだ対岸の岩の上へ、果敢《はかな》い恋の形見として立てたのが、あの音楽堂だ。あすこには妻の魂と、音楽と、恋心とが籠もっている。(烈しき怒り)そして不貞と! (沈黙。――長き嘆息)そして、そして悲しき運命と、怪しい呪詛と。
従者 ああ、またそんなことをお思い出しなされましたな、それは過ぎ去った罪ではござりませぬか。お思い出しなされぬに限ります。(独白の如く)音楽堂などを、お立てなされたのが、お心得違いのように思われる。あれが立っている限りは、お殿様のお心は、前の奥様から離れることは出来ぬのだ。云ってみれば、あの音楽堂は、お殿様へ、古い傷の痛みをいつまでも思わせようと、立っているようなものだ。(気を取り直し)で、あの音楽堂と、館へ参られた女子と、何か関係でもあると申すので、ござりますか。
領主 女子と関係があると云うよりも、女子の上にふりかかっている悪運命と、関係があると云った方が的中《あた》っている。
従者 それはまた、どう云うわけでござります。
領主 前の妻をたぶらかした、憎い恐ろしい誘惑が、この度の女子にもかかっていて、女子の心はその誘惑に捉われている。(間)誘惑に捉われているばっかりに、女子は俺の心に従わず、俺を愛さず、絶えず元の淋しい荒海の衰え果てた浜を慕っているのだ。(沈黙)けれども、いよいよ明日の晩には、あの音楽堂の競技場で、一切が現われ総てがかたづくだろう。
従者 一切が現われ総てがかたづくとはどう云うわけでござります。
領主 女子をまどわす、誘惑の本体が現われると云うことさ。(心配気に)女子の心が俺の方へ従うか、誘惑の主に従うか、総て、明日の晩、あの音楽堂の中で決定《きま》ると云うことさ。
従者 明日の晩、あの音楽堂で、お殿様が諸国へふれ[#「ふれ」に傍点]を出して呼び集めた名高い音楽家が、各自《めいめい》お得意の音楽を奏するのだとは聞いておりましたが、それが誘惑の主を現わす手段《てだて》であるのでござりますか。
領主 その通り。諸国から集った音楽家の中に、めざす悪魔がいる筈だ。
従者 どんな姿をしておりましょう。
領主 紫の袍を着て、桂の冠をかぶり、銀の竪琴を持った年の若い音楽家で、騎士よりも気高い様子に見えると云うことだ。そして其奴《そやつ》の好んで弾く曲は、短嬰ヘ調で始まる、「暗《やみ》と血薔薇」と云う誘惑の曲だと申すことだ。
従者 紫の袍を着て、桂の冠をかぶり、銀の竪琴を持った年の若い音楽家でござりますか。
領主 (頷き)そういう風をした音楽家が女子の心をとらかして、不貞の罪を犯させる誘惑の本体だ。
従者 どうしてお殿様は、たしかにそうだとお気づきなされました。
領主 あの女子《おなご》がそう申した。
従者 不思議のことでござりますな。(と考える。この時、領主の一人息子にして、先妻の遺子たる公子の住する、高殿よりバイオリンの音聞こゆ)
領主 (耳をすまし)あれは誰が弾くのだろうな。
従者 (高殿を見上げ)若様でござります。
領主 (耳を澄ませるまま)あの切れ切れに鳴る悲哀の音は、確かに短ホ調だ。
従者 涙のこぼれるような音でござりまする。
領主 (耳を澄ましながら窓を離れ、高殿に近寄り)、そうだ確かに短ホ調だ、ああ短ホ調が歌《な》っている。
従者 何んと歌っているのでござりましょう。
(領主無言にて耳を澄ます。従者もその後にひき添って耳をすます。バイオリンの音に連れて、死に行く人魚の歌聞こゆ)
幻《まぼろし》の美しければ
海の乙女の、
あわれ人魚は
舟を追う、
波を分けて舟を追う、
月は青褪めぬ、
屍に似たる水の色。
領主 (驚きにうたれ)あれは「死に行く人魚」の歌だ。
従者 (声をふるわせ)ああ悪い前兆でござります。
領主 一度も歌ったことのないあの歌を、今日に限ってあれが歌うとは、どうしたことだろう。
従者 決してよい前兆ではござりませぬ。
領主 歌う声も弾く節《ふし》も前の妻とそっくりだ。
従者 そっくりでございます、決してよい前兆ではござりませぬ。
領主 若《わか》は近頃、どんな様子で暮らしている。
従者 近頃はいつもいつも、一室にお閉じ篭もりでござります。その御様子が、いかにも物ごと[#「物ごと」に傍点]に労《つか》れ、物あんじ[#「あんじ」に傍点]に倦《う》んで、そして御心配ごとで胸も心も一杯だという風に見えまする。……けれども……(と云いよどむ)
領主 けれども、どうしたと申すのか。
従者 お気に障りましたら御免下さりますように。(と云い憎《に》く気に)あの、今度館へ参られた女子と、度々人のいない場所でお話しなされておらるるのをお見受け申しました。……その時に限って、お顔のいろも、御様子も、生々《いきいき》として、さも喜ばしそうでござります。
領主 (色を変じ、苦し気に)ああ、ああ。(と仆《たお》れんとす)
従者 (それを助け)どう致されたのでござります。
領主 いやいや。ああ。(と再び仆れんとす)
従者 どう致したのでござります。
領主 そうだそうだ、それに違いない。若が、若が……思った通りだ……。
従者 若様がどう致したのでござります。
領主 若があの女子を……。
従者 (高殿を見上げ)そんなら若様が、あの女子にお心があると申すのでござりますか、私ももしやとは思っておりましたが……。
領主 それに違いはない。若はあの通りの熱情家である上に、年も若く気も若い。その上、母に似て恋の美しい幻影には人一倍|憧憬《あこが》れる性質の若者だ。(沈思)それに、若も明晩の音楽の競技には出場すると云うではないか。
従者 はい、それはそれは大変な意気ごみでござります。必ず競争に打ち勝って、月桂冠を得ると申しておりまする。
領主 ふむ、必ず勝って月桂冠を得ると申しておるか。
従者 ハイ、そう申して大変な意気ごみでござります。
領主 ただ月桂冠を得れば満足じゃと申しておるか。(しっかりと)よもや、そうではあるまいがな。
従者 ハイ、月桂冠と一緒に美しい贈物《かずけもの》を得るのじゃと申しておられます。
領主 いよいよ女子を手に入れる心と見える。(煩悶の情、寝台に仆《たお》れる。従者驚きて助け起こさんとす)
従者 どう致したのでござります。――その美しい贈物とは何物でござります。
領主 (苦し気に)あの女子のことじゃ。俺が諸国の騎士、音楽家を呼び集める手段として、あの女子を勝利の贈物に致したのだ。幾百人音楽家は集り来るかは知らぬけれど、その人々の中の最後の勝利者には、月桂冠に添えてあの美しい女子の身を、贈物に致すと申しふらしたのだ。若はそれを誠と思い、それで競技に出るのだろう。
従者 それは驚き入ったことでござりますが、ほんとにお殿様は、あの女子を、勝利の贈物として、おつかわしになるのでござりますか。
領主 なんのなんの、ただそのように云いふらして、世間の音楽家を集めたばかりさ。さよう申して集めねば、かんじんの相手が来ないじゃないか。女子の心をひきつけている、憎い誘惑者が来ないじゃないか。
従者 さようなれば、ほんの手段でござりますな。
領主 その手段と知らずに、若は女子を手に入れようと競技の場所へ出ると見える。(両人、無言。最早高殿よりはバイオリンの音聞こえず、夕陽益々美しく音楽堂は光り輝く。やがて、主屋の方にて馬の嘶《いなな》き、騎士の吹く角の笛、また真鍮の喇叭《らっぱ》の音、小太鼓の音と合せて、領主の万歳を呼ぶ声、騒がしく、賑わしく響き来る。両人これに驚き立ち上がる。間もなく左の口より召し使いの童|忙《せわ》しく入り来り、領主の前にて一礼す)
童 唯今、お召し寄せの騎士、音楽家の方々が、お着きになられまして、玄関側にて、お殿様のお出ましを待ちかねておられます。
領主 (頷き)おおそうか、して、その中に紫の袍を着て桂の冠をかむり、銀の竪琴を持った若い美しい音楽家は見えなかったか。
童 いえ、そのようなお方はお見受け申しませぬ。
領主 (失望し)そんな筈はないのだが。(間)とにかく玄関まで出迎えることにしよう。(領主を先に、従者、童、退場。間もなく玄関にて再び領主万歳の声高く起こり、やがて静まる、三分間静。――正面の口より、二人の使女《つかいめ》と共に、海岸より連れられ来し女子現わる。女子は桃色の上衣、白色の袴。金髪。肩と腕とは露出す。美人にして若し。胸の上に深紅の薔薇花をさす。常にこれを気にかく)
使女A 大勢の騎士、音楽家でござりました。
使女B 白い駒に乗り、水浅黄の袍を着け、銅の楯と象牙の笛と、猫目石で象眼した一弦琴を持った二十五、六の音楽家は何んと美しい方ではござりませぬか。
使女A 銀鋲《ぎんびょう》の着いた冑を冠り、緋の袍の上へ、銀と真鍮とで造った腹巻《はらまき》をしめ、濡れ烏《がらす》よりも黒い髪の毛を右と左の肩に垂らし、それを片手でなぶりなぶり小声で歌を唄うていた二十七、八の騎士の方が、男らしくてようござりました。
使女B だがあのお方の眼は、東洋人の眼のように、瞳も睫毛もまっ黒[#「まっ黒」に傍点]で、惨酷心《むごいこころ》のように思われました。
使女A そのようにおっしゃるけれど、貴女《あなた》の好きな水浅黄の音楽家の方は、口があまり大きすぎ、それにチト肥えすぎていて、何んとなく気品に乏しく見えたではござりませぬか。
使女B 気品に乏しいかは知りませぬが、その代り愛嬌がたっぷりとござりました。
使女A 惨酷心かは知りませんが、男の大事の威光がたっぷりとござりました。
女子 (窓に寄り二人の使女の口争《くちあらそい》を聞きおりしが、軽く笑い消し)お客様のお噂は、もういい加減にして止めておくれ。どのようにいいと思ったとて、所詮お前方の所有《もの》にはなるまいに。
使女B まあお嬢様のお口の悪いこと、そんなら誰の所有になるのでござりましょう。
使女A 知れたことではござりませぬか。あの方々は、お嬢様を贈物《かずけもの》に貰おうと音楽の競技に来られた人達でござりますもの、皆お嬢様をめがけておりましょう。
使女B ほんにそうでござりました。
女子 (忙がしく止めて)もうもう、そんなことを云っておくれでない。いつもいつもお前方に云う通り、私には約束した一人の方があるのだぞえ。たとえ、お殿様がお客様のお一人へ贈物として私を下されても、私は決して行きはせぬ。
使女A そうそう、お嬢様には、この館へ来られる前に、お約束を遊ばされた立派の人が、おありなされるのだと常々聞いておりましたっけ。
使女B 紫の袍を着て、桂の冠をかむり、銀の竪琴を持った美しい音楽家でござりますそうな。
女子 (頷き)そのような風をしたお方が、今日のお客様の中にお見えなされはしなかったえ。
使女A さあ、おりましたやら、おらぬやら(とBと顔を見合せる。主屋の方にて大勢の笑声)
女子 あの笑声の中に、そのお方の笑い声もまざっているのではあるまいか。
使女B (気を利かせ)一寸《ちょっと》行って、そっと見て参りましょうか。
女子 こんに、そうしておくれなら、どんなに私は悦《うれ》しいか知れぬ。
使女A さようなら二人で一寸行き、直ぐに見て参りましょう。(と二人の使女は左の口より小走りに退場。女子は二人の出て去りし方に向かい、暫時|彳《たたず》み、やがてそのままの姿にて寝台に腰をかけて首を垂れる。夕陽、女子の肩と横顔を照らす。静。(三分間)やがて、高殿の階段へ領主の一子、美しき青年姿を現わす。天才的熱情の容貌、高尚なる騎士の服装。片手に一束の深山鈴蘭の花を持つ。女子の階下に在るを見て足音を盗み、段梯を下り、女子の背後に彳む)。
公子 (静かなれども熱心の口調にて)日頃|情無《つれな》い貴女《あなた》のことゆえ、私に逢いに来られたのではござりますまいが、一人でそのようにうなだれているのを見ると、何んとなく貴女が、私の所有《もの》のように思われます。
女子 (驚き振り返る)まあ、若様でござりましたか(とやや当惑の様子。)はい、おっしゃる通り、貴郎《あなた》に逢いに来たのではござりませぬが、(間)そのように御親切に云われて見ますれば、私もどうやら、貴郎のもの[#「もの」に傍点]になるのではあるまいかと思われます。
公子 そのような、程の宜《よ》いお言葉で、いつもいつもあしらわれますのは、吹くに委せて風に靡《なび》く柳の枝がその実、下の川水に姿をうつしているようなものでござります。私は風の役目と申すもの、川水は誰でござるやら、おうらやましいことでござります。
女子 そういうお言葉を聞く度に、私の心はかき乱されます。どうかもう、おっしゃらずにいて下さりませ。
公子 それは貴女の申すお言葉で、私の申し上げる言葉は別にござります。
女子 そのお言葉を、聞きたいことは山々でござりますが、聞いては却って後の嘆き、悲しい涙となりますれば、おっしゃらずにいて下さいまし。
公子 どうしたわけでござります。聞きたいことは山々なれど、聞いては後の嘆き、悲しい涙になるとは、どうしたわけでござります。(間)いやいや、またさように程の宜いことをおっしゃって、私の言葉をおはずしなさるのでござりましょう、私はよく存じておりまする。
女子 ほんにそうかも知れませぬ。(間)何彼《なにか》と申しましても、私は一つの願いに捉われている身でござりますれば、その願いの届くまでは、何んと申しても貴郎様の御親切にお答え申すことは出来ないのでござります。
公子 一つの願いとはどんな願いでござります。それを私に、お話し下さるわけにはなりますまいか。
女子 一つの願いは、また一つの呪詛《のろい》のように思われてなりませぬ。それをお話し申すは、やすいことでござりますけれど、お話し申しても何んの役にも立たぬことでござりますれば……。
公子 それは、あまり、情無《つれな》いお言葉と申すもの。が、その情無いお言葉は今に始まったことではなく、昔からのことでござりました。あの裏庭の無花果《いちじく》の陰で、さびしい花を毟《むし》っては、泉水へ流しながら、あれほど私が情をこめて、心のたけを申しました時も、甘《うま》くはずして、はっきりとした御返事は下されず。また、海に臨んだ岩陰の、人手と桜貝とで取りまかれた藻の香《か》の強い洞穴で、人魚同志が語るように、睦まじく話し合うた時も、恋の物語になる時は、屹度、いつかどうかおはずしなされます。さりとて情無《すげな》く振り切りもなされずに、恋の僕《しもべ》の狂うのをじらして遊ぶ、悪性《しょうわる》の姫君のように、気をいらだたせるお心が、私には怨めしいよりも、なつかしく、また慕わしいとは、よくよくのことでござりまする。(語る中に、そろそろと女子の傍へ座を占める。女子は困りたる風にて傍による)いつぞや二人して、河添《かわぞ》いの牧場《まきば》を歩いておりました時、乙女等の摘み残した忘れな草[#「忘れな草」に傍点]があったのを、私がそっと摘み取って、貴女《あなた》の髪へさしました所、貴女はいつの間にか取り棄てておしまいなされました。その時私の悲しさはどのようでありましたろう。うるんだ眼から流れ出た二筋の熱い滴が、頬を伝ってその時忘れな草[#「忘れな草」に傍点]に散ったのを見ましても、知れるわけではござりませぬか。
女子 そのように一々おっしゃらずとも、とうから貴郎のお心はよう存じておりまする。……がもうもう、何もおっしゃって下さいますな。おっしゃられれば胸の苦しさが増すばかり、また貴郎に致しましても、そのようにおっしゃって、私の心を苦しめますのは、ほんとに私を愛して下さる、お志にも戻《もと》ると申すものでござります。
公子 云うなとおっしゃれば、もう一言でも云いは致しませぬが、その代り、せめてこの花を、その彫刻のような美しい手で、お受けなされて下さりませ(と深山鈴蘭の花束を出す)。白木《しらき》の戒名よりも淋しい花ではありますが、貴女のお手に取られたら、白い花も紅に見えましょう。
女子 (花をしりぞけ)谷に咲いておってこそ、いとしい花でござります。何んの私が手に取りましょう。
公子 自然は冷酷でござります。人肌はなつかしいものでござります。いつまでこの花を、冷酷の自然にまかせて置けましょう。(と花をさしつけ)さあ早くお取り下さいまし。
女子 (暫時沈黙。やがて、淋しく悲しき嘆息。遂に胸にさしたる紅の薔薇花を取り、公子に示し)噫! 貴郎のように心の清い方は、恋の送り物をなさるにも、深山鈴蘭のような、清く淋しい野生の花を、花束にして送ります。そのお心に対しましても、私は貴郎にお従い申さねばならぬのでござりますが(と薔薇を唇にあて)、これごらん遊ばせ、この紅の薔薇の花が、いつの間にか私の胸に咲いてでござります。白い花と違い紅い花は、色から艶から匂いから一倍勝れて見えまする。私の心は、とうからこの紅い薔薇の花に、ひきつけられているのでござります。(悲しげに)そしてそれが、恐ろしい程、私には強い執着でござります。
公子 (失望して深山鈴蘭を床に投げる)いつも深紅の薔薇の花が、貴女の胸にさしてある故、どうしたわけかと思っておりましたが、もし迂闊《うかつ》に聞いて、口惜《くや》しい他人の名でも語られては、苦しい上の心苦しさと今までは、見て見ぬふりに黙っておりましたが、貴女より今のように打ち明けられては、今までの苦心も空しいものとなりました。(力強く)とてものことにその紅い花の送り主を、私に打ち明けて下さいまし。祝すか呪詛《のろ》うか、それは今から誓うことは出来ぬなれど、貴女の憂いを増させるような、はしたない真似は致しませぬ、これだけは屹度お誓い申します。(と十字を切る)
女子 (感激し)誓うとおっしゃるまでの御志《おこころざし》、私はどうしておろそかに致されましょう。(間)はい、紅い薔薇の送り主を話せとおっしゃるなら、話さぬものでもござりませぬが、あのお話し申したその上句《あげく》、あさはか[#「あさはか」に傍点]な迷信だとお笑いなさりょうかと思いまして……。
公子 何んで迷信だなどと申しましょう。貴女のその美しいお姿には、迷信などのとり入る隙がござりませぬ。よしまた、それが世に云う迷信であった所で、美しい貴女が、迷信でないと堅くお思い遊ばすなら、やがてそれが迷信でないように、総ての世間が思いこむでござりましょう。勢力は権力でござります、勢力の源は個人の力でござります。その個人の力は美より外にはござりませぬ。貴女はその美の権化でござりますもの、権力の源とも申されましょう。
女子 そのように私をお信じ下され、褒め讃えて下さる方は他に一人もござりませぬ。その唯一人きりの若様へあの不思議の物語、アラビヤあたりの童話にでもありそうな、幻《まぼろし》じみたお話を致すのは心苦しいことでござりますが、(間)思い切ってお話し致しましょう。けれど、今私がお話し致します夢よりはかない物語をお聞きなされたその後で、貴下が私を思い切り遊ばすのは、お心まかせでござりますが(間)、それと一緒に、たよりない私を、おさげすみ遊ばすようになることかと思えば、悲しい淋しい思いが致してなりませぬ。
公子 (女子の手を取り)それは全く貴女のおめがね違いと申すもの、私は決してそのような軽薄な心のものではござりませぬ。たとえその物語が祭の夜、裸体の男を見そめたと申すようなお話でも、また、猛獣の狂う砂漠の中で、メッカあたりへ渡って行く、カラバンの一人を、おしたいなされたと云うのでも、私は決して貴女をおさげすみ申すようなことは致しませぬ。(間)恋には天津乙女も土龍の穴まで下り、女王が蛇の窟へ忍んで行ったではござりませぬか。――そのような取り越し苦労をなされずと、さあ早く紅い花の送り主を、語って聞せて下さいまし。
女子 (頭を傾けて肩に垂れ、過去を追想する如き風をなす)北の海辺の小さい領主の一人娘が、夏の終りの夕暮に浜に彳《たたず》んでいたと覚しめせ。
公子 その娘が貴女だと申しましても宜《よろ》しいのでござりますか。
女子 はい、そのおつもりでお聞き下さいまし。
公子 つづまやかな美しさが、その一人娘の彳んだ姿を装飾《かざ》っていたでござりましょう。
女子 その一人娘の着ていた衣《きぬ》は上衣は桃色で下は純白でござりました。(と自分の着ている衣を見る)その娘は小さい時からこのような色が大好きでござりました。
公子 私もそのような色彩が大好きでござります。
女子 娘の髪の毛は透明に見ゆる程光り輝く黄金色でござりました。(と自分の髪の毛にさわる)その髪の毛を暮れ行く薔薇色の夕日に映しておりました。そこは荒れ果てた浜で、髑髏《しゃれこうべ》のような石ばかりが其処《そこ》にも此処《ここ》にもころがっておりました。破船の板や丸太や縄切れや、ブリキが岩の間に落ち散り、磯巾着《いそぎんちゃく》が取りついているのでござります。そして餌をあさりかねた海鳥が、十羽も二十羽も、群れ飛んでいるのでござります。長い翼は日に映り、飛び巡るたびに木をこするような音で鳴き合いました。浜には一人の人もいず、背後の丘を越して風ばかりが吹いておりました。丘には花も咲かず実も熟《う》まず、ただ一面に赤茶けて骨のような石ころが土[#「石ころが土」に傍点]の裂け目に見えているのでござります。夕暮のことでありますから、沖の波は荒れて大きなうねりが磯に寄せて参ります。磯に寄せた大波はそこで砕け、白い泡沫が雹のように飛び散るのでござります。娘はその浜の水辺《みずぎわ》に立って、自分の影を見詰めておりましたが、影は長く砂に落ちているのでござります。(間)娘は老いた領主の一人子でありましたから、不足なく育てあげられておりました。(間)その時の娘の心は全くの虚心平気と云うわけではござりませぬ。何んと名づけてよいか名づけようのない心持ちが娘の心を領しておりました。もっと完備した生活を送りたいと願う心でもなく、自由に世の中へ出たいと思う心でもござりません、両親の愛を不足に思うでも兄弟の無いのをつまらなく思うのでもなく、もっと高い感情でござりました。まあ云って見ますれば、形のない憧憬とでも申しましょうか、ただ心が或る美しい幻影を描き出し、その幻影を捉えようとあせるのでござります。
公子 (熱心に)その幻影と申すのは恋のことではござりませぬか。
女子 さようかも知れませぬ。(間)あの時の感情は、今思うたとて、とても思い出せるものではござりませぬ。(間)娘はただ恍惚として自分の影を見詰めておりました。(やや長き沈黙)そうすると、自分の影と並んで一人の男の影が砂の上へ映りました。娘は驚いて振り返りますと、若い騎士姿の音楽家が娘の直ぐ傍に立っているではござりませんか。(間)娘は一眼その姿を見て、心の中で「待っていた人影」ではないかと思いました。
公子 (忙はしく)その騎士姿の音楽家が、紅い薔薇の花を娘に送ったのではござりませぬか、その音楽家が。
女子 (頷き)紅い薔薇の花をくれる前に、その人は銀の竪琴で長い曲を弾きました。それは短嬰ヘ調で始まる「暗と血薔薇」の曲でござります。(公子思いあたると云う風をなす)それを聞いている中に、娘の心は夢よりも幽になり、意志も情も消えてなくなり、ただ一つ所をじっと見詰めていたのでござります。
公子 何を見詰めていたのでござります。
女子 見詰めていたのではなく、引きつけられていたのでござります。その証拠には、その一つ所から視線を外《はず》そう外そうとあせっていたことを娘は今でもはっきり[#「はっきり」に傍点]と覚えているのでも解ります。
公子 何に引きつけられていたのでござります。
女子 恐ろしい魔法の光り物……。
公子 それは何でござります。
女子 恐ろしいものでござりまする。
公子 ただ恐ろしいものだけでは私には解りかねまする。
女子 その騎士姿の音楽家の恐ろしい眼でござります。(間)その恐ろしい魔法の光り物がその人の眼だと気付いた時は、娘の体は音楽家の両手の中にありました。
公子 (せわしく)両手の中に。
女子 (公子を止めて)音楽家の両手の中にありました。けれども体が両手の中に在ったと申しますのは、決して体をまかせたと申すのではござりませぬ。
公子 そんならその娘は、今でもなお清い体でござりますな。
女子 はい、その娘の体は、今もなお鈴蘭のように清い体でござります。(悲しげに、また恋しげに)、けれども遂にはその音楽家の両手に抱かれて、身も心もまかせるようになるのでござりましょう。
公子 それは何故でござります。
女子 別れる時その人は(と紅の薔薇を唇にあて)これこの紅の薔薇の花を、娘の胸へさして、そしてこのように申しました。「今度お前と逢う時は、お前の幸福になる時だ」とこのように申しました。そして何時の間に来ていたやら、岸に着いていた帆舟に乗って、南の方へ消えて行ってしまいました。帆舟が地平線の背後へ消えてなくなるまで娘は見送っておりました。(長き沈黙)それから後は娘の心は、しじゅうその音楽家の姿に引きつけられ、忘れることは出来ませぬ。時々忘れかけようと致しますと、たちまち別れる時の言葉が聞こえて来ます。……それが娘には何んとなく、恐いと同時になつかしいのでござります。(間)娘は心の中で、あの音楽家が娘の体と心とを、永久に支配する人のように思われてしまいました。(間)今も今とて、堅くそう信じているのでござります。
公子 その怪しい音楽家は、どのような姿をしておりました。(思いあたると云う様子)
女子 (ためらわず)紫の袍を着て、桂の冠をかむり、銀の竪琴を持った、若い美しい、騎士の姿でござりました。
公子 (思わず立ち上がり)ああ、それは、ほんに、ほんに、ほんに恐ろしい誘惑でござりますぞ。私は誓って申します。それは世にも恐ろしい誘惑でありますと。……私の死んだ母も、その誘惑のため、不貞の女となったのでござります。
女子 (驚き)貴郎のお母様。
公子 決して偽《いつわり》は申しませぬ。紫の袍を着て桂の冠をかむり、銀の竪琴を持っている騎士姿の音楽家なら間違いなく母の敵《かたき》でござります。
女子 (戦慄)私は何やら空恐ろしくなりました。一体貴郎のお母様はどうなされたのでござります。
公子 私の申すことを信じて下さいまし。(力を籠め)母はその恐ろしい男のため不貞の罪を犯しました。そしてそれが母の最後を急がせました。……思っても恐ろしい、そして憎んでも憎み足らぬあの悪魔……悪魔悪魔。
女子 ただそれだけでは私にはよく解らないのでござります。いま少し詳しくお話しなされて下さいまし。(間)ああ、私の心は、どうやら寒くなりました。聞かぬ中からその時のことや、その場の様子が眼に見えるようでござります。
公子 (やや沈着となり窓に行き音楽堂を眺む。夕陽消えて暮天暗し。月の昇らんとする様見ゆ)ああ日が暮れた。(沈思女子の顔を熱心に眺め、力をこめて語り出す)今音楽堂のある対岸の岩の上には、十年以前、小城のような邸宅が立っていたのでござります。(娘も窓に行きて音楽堂を眺む)その小城で若い領主は、美しくそして操《みさお》の正しい女子を妻として、八年間、そこに暮しておりました。その女子はバイオリンの名手でござりました。(間)それが私の母であるのでござります。(間)二人の間がどのように幸福であったか、その睦まじさがどんなに人々をうらやませたかは申さずとも、貴女はお察し下さるでしょう。近隣の人々は、あの小城の下の海には、つがいの鴛鴦《おしどり》がいつも浮いていると云いふらしましたくらい。――二人がよく小舟を浮かべて、小城の下の静かな海で漕ぎ廻ったからでござります。(間)母はまるで白い人魚のように見えました。で誰云うとなく人々は、母のことを人魚人魚と申しましたが、母もしまいには、自分ながら、自分を人魚だと申しておりました。(間)人魚はよく歌いました。歌った歌は、「死に行く人魚」の歌と云って、憐れっぽい歌でござりました。その歌の大体の意味はこう云うのでござります。――海の都に人魚の姫が住んでおりました。或る日の夕暮に、ふと[#「ふと」に傍点]海の面へ浮かびますと、一つの赤い帆の舟が直ぐ手前に浮いておりました。舟の船首《へさき》には一人の美しい公子がおりまして、人魚に笑いかけ、そして手に持っていた銀の竪琴をかき鳴らし、誘惑の歌を歌ったのでござります。歌声が人魚に聞こえた時、人魚は海の都を忘れ果て、その公子を慕うようになったのでござります。(間)人魚は公子の乗っている舟を追いました。(間)舟は次第次第に地平線の方へ辷《すべ》って行きまする。公子はその舟の船首で声高々と誘惑の歌を歌います。(間)人魚が追えば追う程、舟はだんだんと遠ざかりまして、青褪めた月が海上に昇り、屍のような水の色が、海の面《おもて》を蔽《おお》うた時、人魚も舟も地平線の背後へ隠れてしまいました。(間)そして人魚は永久に海の都へは帰って来ず、海の都では行方知れずの人魚を浮気心だと云って憎みました。……歌の意味はこのようなものでござりましたが、母はこればかりを歌っておったのでござります。(長き沈黙)恐ろしいことでござりました、不思議なことでござりました。その人魚姫の運命が、さながらに母の身の上へ落ちて来たのでござります。(と窓外を見る、月光水の如く窓より差し下る。これより以前、二人の使女は立ち帰りしが女子と公子と語り合うを見て、何か囁き合うて退場)
公子 その悪い運命の呪詛が、母の身の上へ落ちた晩も、(間)ああ今夜のように月光の青い晩でござりました。死んで行く人へ着せる経帷子《きょうかたびら》に螢の光がさしたような、陰気の晩でござりました。ああ丁度今夜のような、(女子は身を震わす。風吹く)母が寝台から不意に立ち上がりました。(間)傍に寝ていたその時八歳の私へ、チラリと横眼をくれたばかりで――それは母が私にくれた最後のなつかしい眺めでござりましたが。母は寝巻姿のままで裏庭へ立ち出でました。ふらふらと歩く姿は、夢遊病患者のようで、やさしい肩から垂れた懸《か》け衣《きぬ》が、空の光で透き通るほど白く見えました。(間)母は裏庭の細道をトボトボと辿るのでござりますが、その時の母の姿は未だに私の眼に残っています。肘まで露骨《あらわ》に出た、象牙細工のような両手を前にさし出して、足をつま立てて、おるのでござります。もすそ[#「もすそ」に傍点]は道の露にぬれて、袖ばりが夜風に払われて、ハタハタと翻ります。母の歩く道には真紅《まっか》の罌粟《けし》の花が、長い茎の項に咲き、その花がゆらゆらと揺れて、母の行くのを危ぶむように見えました。(間)母が両手を前へ差し出した様子が何者かを捉えようとあせっている風に見えましたので、私は窓越しに母の行手を見つめましたが驚いたのでござります。(間)一人の騎士姿の音楽家が、月光に全身をあびせたまま、いと誇り顔に立っているではござりませぬか。(間)夜眼にもしかと認めたのは、紫の袍と、桂の冠と、銀の竪琴とでござりました。そして銀の竪琴をかき鳴らしては、母を海辺へ導いて行くのでござります。竪琴の曲は聞きまがうようもない、短嬰ヘ調で始まる、「暗と血薔薇」の曲でござりました。(間)やがて母の体はその音楽家の両手の中に埋もれました。(間)二人は抱き合ったまま海に臨んだ断崖へ昇って参ります。ああ、ああ、あの夜の物凄く、神秘に充ち充ちた有様と云うものは……空の光に迷う梟《ふくろ》の声、海の波間で閃めく夜光虫、遠い遠い沖の方から、何者とも知れぬ響が幽《かすか》に起こり、暫《しばらく》して鳴り止みますと、後は森然《しん》としています。……丁度、今夜のようにものごとが密やかに見られる晩でござりました、(間、四方を眺め)丁度、今夜のような。(海の遠鳴聞こゆ)
女子 (四方を見廻し)体《からだ》がぞくぞくと寒くなって参りました。恐いお話でござりましたこと。……ほんに今夜は気味の悪い晩でござりますこと。……そして、何者か、迫って来るように。……
公子 あの晩は丁度今夜のように、室には燈火一つ無く、窓の外ばかりが青海の底のように冴え冴えとした沈んだ光で取り巻かれておりました。じっとしていると、何者か背後から迫って来はしないかと思われて、そっと振り返って見たいような、おびやかさるる晩でござりました。丁度今夜のように……
女子 (卒然と背後を振り返り)ああもう、そんなことはおっしゃらずにいて下さいまし。私はもうもう、気絶しそうに思われてなりませぬ。……あのそして、それからお母様はどう遊ばしたのでござります。お母様の運命が早く知りたいように思われてなりませぬ。……そして何んとなく、私の運命が、貴郎のお母様の運命と似ているように思われますのは、どうしたものでござりましょう。……ただ何んとなく、そのように思われますのは……。
公子 同じような誘惑が、振りかかっているからではござりますまいか。(四方を見)ああ、如何《いか》にも今夜は、あの晩によく似た晩でござります。(梟の啼き声聞こゆ)あれ梟も啼いているではござりませぬか。
女子 (胸に手をあてる)悪い運命を導いて来るような厭な鳥の声でござりますこと。……そして今夜に限って、あのように啼いている。……お母様はそれからどう遊ばしたのでござります。若様。
公子 母の姿が岩の頂上に立ったのを窓越しに見たのが、最後の眺めでござりました。(間)翌日、母の白い屍は、海の面に浮いておりました。あおむき[#「あおむき」に傍点]に水に浮いている様子が人魚そっくりでござりました。(間)鴛鴦の浮くべき海の上に、人魚の屍が浮かんだのでござります。(間)恐ろしい誘惑ではござりませぬか。(間)紫の袍を着た、桂の冠をかむった、銀の竪琴を持った騎士姿の音楽家が誘惑の主でござりますぞ。
女子 私は……そのお話を聞いております中に、何んだか自分の運命が、間近に迫ったように思われて参りました。(入口をすかし見て)私にはあの入口の背後に、騎士姿の音楽家が彳《たたず》んでいるように思われます。あの扉が今にも開いてその人が、光り輝く魔法の瞳で私の眼をひきつけはしないかと思われてなりませぬ。(公子忙しく入口に行き扉を開く、廊下より薔薇色の光線さし入る)
公子 紅い光ばかりが彳んでおりました。(と女子の傍へ来る)
女子 (室中を見廻し)、何故今夜に限ってこの室には一つの燈火も無いのでござりましょう、罪を犯す人は光を恐れると申しますが、私共二人は罪を犯すものではありませんのに。
公子 いえいえ、貴女の為ならば、私はどんな罪でも犯します……人を殺すことさえも。
女子 そのような恐《こ》わらしいことを申すものではござりませぬ。人を殺すのは、自分を殺すと同じではござりませぬか……。
(暫く無音にて両人顔を見合わす。突然、公子は女子の手を取る、女子はそれをこばまんとして能《あた》わず。公子は取りし女子の手を唇にあてんとす。奥より不意に、笑声起こる。女子取られし手を振りはなし)
女子 あれ笑い声が聞こえます。
公子 我等二人を笑ったのではありますまいに。
女子 いえいえ、それを案じたのではござりませぬ。あの笑い声の中に。(と恍惚となり笑声せし方に二三歩進む)
公子 (女子を支え)あの笑い声の中に……。
女子 はい、あの人[#「あの人」に傍点]の笑い声が混ざっているのではありますまいかと……。
公子 あの人[#「あの人」に傍点]とは……。
女子 私の恋しい人でござります。
公子 (意気ごみ)恋しい人……。
女子 恋しい恋しい人でござります。
公子 それは誰のことでござります?
女子 紅の薔薇の送り主。
公子 ええ。
女子 はい、紫の袍を着て、桂の冠を冠り、銀の竪琴を持った、騎士姿の音楽家のことでござります。
公子 (憤慨の語気)貴女を魔道に導く誘惑だと知りながら……誘惑の主と知った今も、尚そのように恋しいのでござりますか。
女子 どうしても恋しいのでござります。(悲しげに)恋しく思わねばならぬ義務のあるように……。
公子 恐ろしくは思わずに。
女子 恐ろしさと恋しさとが、今は一つになりました……。恐ろしいのか恋しいのかも知れませぬ。
公子 ああ貴女は……呪詛《のろ》われた女ですぞ。(力強く)私は、そう申します、貴女は呪詛われた女だと。
女子 紫の袍、桂の冠、銀の竪琴の人。(とすすり泣く)
公子 (暫時手を胸に組み、然《しか》る後に女子を見る。憤然と)――お聞き下さい!
女子 はい!
公子 私は決心致しました。屹度《きっと》貴女を誘惑者の手には渡しませぬ。
女子 いえいえ、それは……。
公子 お聞き下さい! 私は屹度、貴女を救ってごらんに入れますぞ!
女子 いえいえ、それは……はい、それはとうてい無駄のことでござります……。私の心は紅いこの薔薇の花から、離れることは出来ませぬ……。暗《やみ》の中にて、罪悪の手に培われた血薔薇の花!(と紅き薔薇に唇をあつ)
公子 (窓外の月を眺め)あの月がひとまず沈み、やがて再び現われる頃、貴女は私の所有《もの》です。
女子 明晩のことでござりまするか。
公子 明晩の今頃は、月桂樹の冠と共に、貴女は私の所有です。ああ明晩私の弾くバイオリンの曲は、死んだ母と、私ばかりが知っている「死に行く人魚」の歌でござります。あの歌には母の思いが篭っています。(間)あの歌を明晩は音楽堂で弾くのでござります。そして競争に打ち勝つのでござります。そして貴女を私の所有とするのでござります。(力強く)私の弾く短ホ調のバイオリンの曲は、あらゆる総ての楽器に打ち勝つでござりましょう。
(奥にて大勢の笑声、諸々の楽器の音……やがて燈火を携えし、以前の使女二人、左の口より入り来り、公子に丁寧に礼をなし、女子に向かい)
使女A お嬢様はまだ此処においででござりましたか。
女子 若様と明晩の競技のお話をしていたところ。(やや小声にて)そして、あのお方は奥においでではなかったかえ。
使女B 浅黄色の袍の人、萌黄色の袍の人、蛋白石よりも涼しい白い色の袍の人は幾人もおいでになりますが、紫の袍の人は一人もおいでではござりませぬ。
使女A 真鍮に銀の鋲を打った冑、金襴で錏《しころ》がわりに装飾《よそお》った投頭巾《なげずきん》、輪頭形《りんどうがた》の冑の頂上に、雄猛子の鬚をつけた厳《いか》つい冠もの[#「冠もの」に傍点]、そのような冠もの[#「冠もの」に傍点]を冠《かむ》った方は数多く見えましたが、桂の冠をかむった方は一人もお見えなされは致しませぬ。
使女B そして銀の竪琴を持った人は一人おいでなされましたが、そのお人は、白髪の老人でござりました。
女子 ……白髪の老人……。(と不思議そうに考える。――奥にて盛んなる笑声と、楽器の音)
使女A 私共二人は若様とお嬢様とをお迎えに来たのでござります。お殿様が、若様とお嬢様とを、お客様の方々へ、紹介《ひきあわせ》るによって、連れて参れと申したのでござります。
使女B お殿様もお客様も、皆お待ちかねでござりますれば、早く御出で下さるよう。
公子 (頷きて)おお、それはそうありそうなこと。(女子に向かい)明日の贈物《かずけもの》の貴女のお顔を皆の者にお見せ下されて、贈物がどのように美しく気高く値《あたい》あるかをお知らせなされませ。(女子の手を取り)そしてその贈物を屹度手に入れて見せると云うて、天地の神々は愚か、母の魂にまで誓った一人の若者が、この館にいることをも皆の者にお知らせなされて下さりませ。(二人の使女に向かい)俺は残念ながら、明晩の競技までは誰にも面会は致さぬ決心故、さようお父上に申しくれい。(大いなる決心を見せ)あの月が沈むまで(と窓外の月を眺む)、死に行く人魚の歌を(と高殿を見)、あの高殿で弾くことにしよう。(と階上に昇り行く)
使女A さあお嬢様、皆様のお待ちかねの、酒宴の席へ参りましょう。
使女B そのお美しい御様子を、風流の方々へお見せ遊ばしませ。(と左右より手を取る。奥にて笑声)
女子 (取られし手を払い)私は奥へは行きはせぬ。
使女A それなら、どう遊ばすのでござります。
女子 (月を眺め)月の光に照らされて、この室にいつまでもいるつもり。
使女B それでもお殿様やお客様の方々が、お待ちかねでござりますのに。
女子 待つ人の心と、待たるる人の心とが、離ればなれなら致し方がないではないかえ。
使女A 紫の袍を着て、桂の冠をかむり、銀の竪琴を持った方がおいでなされぬ故、そのように申すのでござりましょう。
女子 そうだと云うても、お前方は笑ってくれてはいけぬぞえ。(と面をかくす)
使女B 笑いなどは致しませぬが、使いに参った私どもが、お殿様やお客様へ、何んと御返事を申し上げてよいやらと、それに当惑致します。
女子 いえいえ、少しも云い憎いことはない故に、ありのままを申しておくれ(使女二人は困却せる風にて立ち尽くす。奥にて大勢の笑声。間もなく大勢の足音。――童四人と使女四人とに燭を持たせ、領主及び大勢の騎士、音楽家左の口より出場)
領主 (微酔《ほろよい》)使いの者の遅いのは、また嬢が苦情を申して、早速は来ぬのだろうと察した故、我等の方より出て参った。(騎士、音楽家を返り見、女子を指しながら)これ見られい、明日の勝利の贈物は、このように美しい。この美しさを方々《かたがた》は何んと形容なさるかな、宝玉の名でも花の名でも、色の名でも形容は出来ますまい。
白髪の音楽家 (群衆の最後の列にあり、紅顔なれど白髪、手に銀の竪琴を持つ。それをかき鳴らして進み出で)お嬢様の美しさは、この銀の竪琴の音のようでござります。(一同の騎士、音楽家驚きてその人を見る。その人は静々と場の中央に進む。一同はその音楽家を左右に取りかこむ。女子と老人と向かい合って立つ)
領主 嬢の美しさが銀の竪琴の音のようだとは、当意即妙の讃辞《ほめことば》。(と一同を見)方々もさように覚しめすか、如何でござる。(一同の騎士、音楽家は一斉に頷き笑い、互いに語り合うて各自の楽器を鳴らす。その音、場に充《み》つ。女子は少しく進みて老人を見る。知らぬ人なれば直《ただ》ちに視線をそらして左右の騎士音楽家を見廻し、情人はおらずやと尋ぬれど無し。失望して無音)
領主 (一同に向かい)嬢は機嫌が悪いと見えて、方々に何の挨拶もしない。嬢には時々このような時がある。これは嬢に悪い影がさしていて、時々その影が心をくらますからでござる。
白髪の音楽家 僕《やつがれ》がお嬢様のお機嫌を直してお見せ申しましょう。
領主 いやいやそれは、無駄のことと思われるが。
白髪の音楽家 僕はこの銀の竪琴でどのような悪い影でも追いしりぞけることが出来まする。
領主 (疑わしげに、その音楽家を眺め)その銀の竪琴に何かの呪《まじない》でも籠っていると云うのでござるかの。
白髪の音楽家 世の中の不思議と云う不思議は、皆この銀の竪琴に籠っていると申しても過言ではござりませぬ。(間)これはFなる魔法使いの持っていた竪琴でござります。
領主 Fなる魔法使いとは、どのような魔法使いでござるかの。――紫の袍を着て、桂の冠をかむり、銀の竪琴を持った、若い騎士姿の音楽家ではござらぬか。
白髪の音楽家 Fなる魔法使いは、国々の北から南へ旅をして歩く、音楽家で、「暗と血薔薇」の曲を上手に弾きまする。
女子 (熱心に進み出で)「暗と血薔薇」の曲を上手にお弾きなされますと。
領主 (同じく熱心に)その魔法使いは、今どこ[#「どこ」に傍点]にいるのでござるかの。
白髪の音楽家 (口調ある朗吟的の言葉にて)レモンの花の咲く南の国の人々が、夢よりも虹よりも果敢《はかな》い歓楽にふけっている中に、暗と血薔薇が芽を吹いて、温室の中の子胞よりも生々と、罪悪の香を漲らせます。(間)夕暮の神の白い素足が後園の階段へ下りて来る時、殿堂の姫君達は夜の衣をひきまといて、密かに寝所を遁《のが》れ出で、湖水の面に漂っている、ゴンドラへ乗り込みましょう。そこで罪ある歓楽は遂げられます。(間)姫君達が、そのゴンドラを立ち出でて再び寝所へ戻られた時、室の中には暗と血薔薇が歌っています。(間)恋人を知らず恋人を得んとも思わず、髑髏《どくろ》の盃を見るようなつれない[#「つれない」に傍点]女子でも。また尼寺の童貞でも、森の中の蛇の皮と、裸体祭の風流男《みやびお》とを百年の仇と思いつめるような、情《なさけ》知らずの乙女でも、櫛を折り、鏡を砕き、赤き色のあらゆる衣を引き裂いて、操を立てた若い後家《ごけ》でも、一度Fなる魔法使いの「暗と血薔薇」の音を聞けば、必ず熱い血が躍る。(と銀の竪琴をかき鳴らす)
女子 その「暗と血薔薇」の曲は、私の恋しい人が常々弾いた曲でござります。
白髪の音楽家 恋しい人は、光のように早く来るがまた影のように淡く消ゆるものでござります。(間)淡く消えた影の恋人も、暁の太陽のように、海を照らす探海燈のように、やがて何処《いずこ》からともなく、赤々と現われて参ります、(間)万年、千年、百年、十年。いやいやそのように遠い月日ではない。一年、一日、今宵の中に、その恋人は紫の衣で現われましょう。
女子 (前へ進み)あの紫の衣で現われてか。
白髪の音楽家 赤い色は血の色で、毒々しい罪の色。青い色は秘密の色。この二つの色を合わせた紫の色は、世界の乙女の好む色。この紫の袍を着て、Fなる魔法使いは現われましょう。
女子 そして「暗と血薔薇」を歌ってか。
白髪の音楽家 何かは存じませぬが、まずこのように掻き鳴らします。(と銀の竪琴をかき鳴らす)この銀の音を聞く時は、(凄惨たる音調と、命令的の口調)雄獅子も眠り砂漠の月も空に彳《たたず》む。夢遊病患者が夜の都会の大理石の道を、青い煙のようによろめき歩いても、やがて運河のほとりの岸で、打ち仆《たお》れて眠ります。(威圧的の強き口調にて)騎士も眠り領主も眠る。(立ち並びいる騎士、音楽家は、各自の楽器を介《かか》えしまま、床上に片膝をつきて眠る。領主は傍の寝台の上に仆れて眠る。使女や童はいつしか退場、従者は壁によりかかりて眠る)――醒めたる者は恋人同志の二人だけ!
女子 (なつかしげに)その恋人はどこにいるのでござります。
白髪の音楽家 (女子の言葉を聞かぬものの如く)短嬰ヘ調は地獄の音調でござります。――この音調の響く時、まず眠りが参ります。その次に死が参ります。(間)短嬰ヘ調を銀の竪琴に合わせて歌う令人は、全世界に唯一人ある(間)「暗と血薔薇」の曲を弾く、紫の袍を着た人だ。(この時より言葉の調子荒くなり、一層朗吟的となる)やさしき女よ。お前は間もなく、その悲しい歌を聞かねばならぬ。お前のなつかしむ恋人に逢う時は、その死の歌を聞く時だ。その死の歌を聞く時が、女よお前の一生で、最後の幸福が来る時だ。(間)悲しいこの歌の犠牲となった、世に美しい女の中には、一国の領主の妻もあった。領主の妻は、高い岩の頂きに住み、海の人魚に歌を送り、わが身を人魚に例《なぞら》えていた。……ああ実《げ》に死に行く人魚よ!(窓口に行き、音楽堂を眺め)悪しき紀念の音楽堂が、不貞の妻のために造られて、白からぬ女の霊魂を、何時まで彼処《かしこ》に止め置くのか。(領主を返り見)愚かなる領主の君! (女子はこの間に恍惚たる心となり、柱によりかかりて首を垂れる)再び罪と嘆きを呼ぼうとて、Fなる魔法使いを此処に召した。巡り来る、必然的の運命なれば致し方もあるまいが、(領主を見て)さりとては、うつけ者の領主の君! (また並びて眠れる騎士、音楽家を眺め)眠れば死んだと同様なるお前達! 大理石の邸宅が焼け、金剛石の腕輪が燃え、氷山の頂きに裸体の女が立っていても、また東洋の草や木が、ホライズンの彼方に見えて、巫人《みこ》の一群が丸き輪をなし、聖歌を歌いながら躍っていても、眠ったお前達には何も見えまい。(突然)神秘の曲が夢に入る。早く各自の楽器を鳴らせ。(一同無意識に楽器を鳴らす、その音、場に充《み》つ)地獄へ送る送別の音が、いと高々に鳴り渡っても、眼醒むる人は一人も無い。(女子を見て)野を行く柩のかけ[#「かけ」に傍点]衣《ぎぬ》が、麻で織られた白布でも、大理石の温槽《ゆそう》の中へ、流れて落つる雪どけ水[#「雪どけ水」に傍点]でも、お前の今の心のように、清いものは世にあるまいが、それが亡びようとしているのだ。しかし小鳥よ眼を醒すな、眼を醒さずに音を聞け! (と短嬰ヘ調の音をかき鳴らす)聞け聞け今の一曲が「暗と血薔薇」の序の一節だ。湧き狂い立つ罪の喜びが、どのように暗の中で笑っているか、その一曲では未だ知れぬ、小鳥よ眠りながら再び聞け。(とまた弾ず)暗は罪悪を醗酵させ、生を死と変じさせ、光を吸って生きている。丁度女の心のようだ。……女よ! さらば歌を聞け。(と「暗と血薔薇」の歌を歌う)
短い命が暗《やみ》に沈む、
紅い薔薇の嘲笑《あざわらい》
罪が楽しい戯《たわむれ》と、
思う時の人心《ひとごころ》
それ暗の赤き薔薇。
(歌い終わりし時、白髪は一変して黄金色となり、白衣は紫の袍と変ず)幻《まぼろし》は夢と現《うつつ》の間より来る、誘惑は美より来る、Fなる魔法使いは、美と誘惑と幻とを、一つに集めた夕月より来る。(間)夕月の光が窓を通って、俺の姿を照らしている。俺の姿を見ろ! Fなる魔法使いの姿を見ろ! (と女子を手にて招く、女子は両手を前に差し出し、足をつま立てて進み来る。その状あたかも、先刻公子が語りたる、死せる領主の妻の誘惑に向かいし時の姿に似たり)女よ今こそ、お前の恋しい人を見ることが出来るだろう。紫の袍を着た、銀の竪琴を携えた――。北の海辺の荒れたる丘で、血薔薇の花をお前にくれた、一人の男はこの俺だ、俺の眼《まなこ》を見ろ! 魔法の光に輝いている――。(竪琴を鳴らし)眠った人の覚めぬ間に、我等は罪悪を犯さにゃならぬ。(間)罪悪には燈火はいらぬ。(間)人のつけた燈火《ともし》の光は、人間の罪を照らすには、あまりに明るすぎるようだ。(突然)外に出よ月がある。月の光は青白く罪そのものの光のようだ。(女子を見て)女よ俺に従《つ》いて来い、Fなる魔法使いに従いて来い。(と竪琴を弾きながら、そろそろと正面の出口に向かう。女子は姿勢を崩さずに、その後に従う。Fなる魔法使いは一同を眺め、冷笑的の口調にて)愚者《おろかもの》の騎士、音楽家、領主の君のおひとよし[#「おひとよし」に傍点]、いつまでも明るい殿堂の中で、一人の女の不義する間、心地よい眠りをつづけていろ!(大きく笑い)領主の君の恋する女は、勇み進んで不義の砦へ進んで行く。白い肌が血に染まり、一度も吸われぬ唇は、千度《ちたび》百度《ももたび》けがされよう。(再び大笑)熟睡の間、楽器をかなで、節操の讃歌《ほめうた》でも歌っていろ! (大声)さあ早く一曲弾け! (一同各自の楽器を鳴らす。楽器の鳴りおる間に、Fなる魔法使いと女子とは、正面の口より退場す。燈火一時に消え、月光のみ青く窓よりさし入る。暗黒の中にて楽器は暫時鳴り渡る)
(幕――)
第二場
領主の館の裏庭。同じ夜。
一面の罌粟《けし》畑、月光それを照らす。左方に領主の一子(公子)の住む高殿聳つ。その奥は断崖にして海に連なる。右方には音楽堂の姿背景《バック》にて現わる。Fなる魔法使いは領主の館に向かい竪琴を弾じつつ後《うし》ろ退《さが》りに罌粟畑を歩み出ず。一間ほどを距《へだ》てて女子、両手を前に差し出し足をつま立てて歩く、眠れるが如き様子)[#「様子)」はママ]
Fなる魔法使い 大理石の牢獄を遁《の》がれ出て、潮の国へ自由が歩む。潮の国には人魚がいる。(笑う)敗けた歌女《うたいて》が海の底でお前の来るのを待っている。(女子を見詰め)女よ! 溺れ行く、弱き者よ。執念の蛇の血は、心地よき流れとなりて、俺が弾ずる琴の糸からあふれ出て、お前の心へ忍び入る。心のかなめ[#「かなめ」に傍点]はかき乱され、肉は熱く戦慄《おののい》て……お前の顔は笑み崩れる。(大声)さあ女よ笑って見せろ! (女子声なく笑う)お前の笑《えみ》を得んがため、諸国の憐れな令人達は、大理石の館へ集った。そして今そこで眠っている。(笑う)笑は罌粟の畑をすぎて、青海原へ沈み行くのに、何も知らぬ領主の君。(間)さても白いお前の肌(と女をしげしげと眺め)ローマの朝の白露が野茨の花へ降ったようだ。鴻の鳥の胸毛のようだ。建国の第一の朝に、汚れを知らぬ谷の洞から、湧き上がった霧のようだ。(やや悲しげに)それが今や汚される。(罌粟畑を眺め)この広い血の海で、その白無垢が赤く染まる。(竪琴を眺め)どのように銀の調《しらべ》が、血と暗《やみ》とを喜ぶだろう――。女よ再び暗と血薔薇の呪詛を受けよ。(と短嬰ヘ調をかき鳴らす。琴と共に「暗と血薔薇」の歌を歌う)
暗がわが身を取りかこむ、
裸身なれど恥らわじ。
……………………
抱く男のやわ肌を
燃ゆる瞳にさがさばや
罪が巣くいし血薔薇とて、
恋の生身を刺すとかや、
暗なれば血は見えずして。
……………………
(この歌と共に、女子は弱々しく歩む。Fなる魔法使いはなお歌い弾く)
一夜の情にほだされて、
大理石なる清き身を
罪に渡すも男ゆえ。
砒素の歌……………
真珠に盛りし鴉片《あへん》さえ
女子の恋はうつせまじ。
(歌切れると共に女子は疲れ果ててFなる魔法使いの肩にすがる。魔法使いは女子を片手に介《かか》えて海を眺めて彳む。突如高殿よりバイオリンの音聞こゆ。調《しらべ》は短ホ調、歌は「死に行く人魚」の歌)
幻の美しければ
海の乙女の
あわれ人魚は
舟を追う。
波を分けて舟を追う。
月は青褪めぬ、
屍に似たる水の色。
(歌と共に高殿の窓開らけて、公子の姿現わる)
Fなる魔法使い (公子の姿を眺め、歌に耳を澄まし)あの歌は以前どこかで散々聞いた歌だ。奈落に沈む悲しげの音が短ホ調へしみこんでいる。あれを歌う男は生きてはいまい。あれを聞く女も死ぬだろう。(間)あれは死の歌だ。(女子もその歌に耳を澄ませて、高殿を見上ぐ。高殿の上にて公子、罌粟畑を見下して弾き且《か》つ歌う)
赤き帆は
追えども遠く離れ行く(ふっと切れ、直につづく)
船の中なる美しき影。
(女子はFなる魔法使いより離れて、高殿の方に歩み寄る、Fなる魔法使いはそれを凝視し)
Fなる魔法使い あの歌の力強い響きは巨人のようだ。眼に見えぬ大いなる影が、あの歌の陰にひそんでいて、歌う彼を助けている。それがあの歌を助けている。(間)俺の弾く「暗と血薔薇」の一曲には、邪悪《よこしま》の恋が歌われ、不義の慾望が吟じてあるが、あの短ホ調の一節には、正しい嘆きが篭っている。恋しさを恋する純なる情と、遂げねば死なんと願う心が、三筋の糸の顫《ふる》えから流れ、砒素のような烈しさで、女心をかき乱し、迷いの霧から招いている。(力強く)誰のために誰が作った歌だろう。
公子 (歌い且つ弾く)
ひきとめ難き恋心、
恋心、
遂げねばならぬ恋心、
(女子、高殿の下まで行き、公子を見上げ)
女子 若様!
公子 (聞こえぬものの如くに歌う)
水の都の人魚は、
人のなすなる恋の道
女子 若様、若様!
Fなる魔法使い (楽器を烈しく掻き鳴らし)あの歌の鋭い神経が、迷った女を醒《さま》そうとする。(突然)俺の敵だ! 死を教えるようなあの歌の清い意味が俺の敵だ。(間)幸福たらんとする乙女、既に幸福なる人妻を、思わぬ邪道に導き行くこのFなる魔法使いの、銀の竪琴の淫《みだ》らの音が、あの清き音に敗けてはならぬ。(突然)敗ける時は俺の恥だ! 千万人に試みて、千万人に成功した我が誘惑の「暗と血薔薇」の一曲が、罌粟畑の血の海でどれだけ音高く歌われるか聞け。(と「暗と血薔薇」の曲を歌う)
暗《やみ》に咲ける緋文字の悪よ
悪の手に培《つちか》われ
暗に咲ける罪の花。
女子 (高殿の下よりFなる魔法使いの方に歩み寄り、その肩にすがり)貴郎《あなた》は誰れなの?
Fなる魔法使い (女子を介《かか》え)北へ行こう北へ行こう……。北の浜辺で、お前へ血薔薇の花を与えた若い男は俺だ。
女子 その人は桂の冠をかむっておりました。貴郎にはそれが無い。
Fなる魔法使い (頭に手をやり)桂の冠は、明日の競技に勝った時、俺の頭に載っている。
女子 貴郎は誰なの?
Fなる魔法使い お前の恋しい男じゃないか。
女子 貴郎は誰なの?
Fなる魔法使い Fなる魔法使い! (と女子を介えて海辺へ行かんとす。高殿より再びバイオリンの音聞こゆ。それと共に、「死に行く人魚」の歌を歌う)
人魚の恋はとげられて
はかなく消えし赤き帆や
あわれ幻。
(女子はまた、Fなる魔法使いの肩より離れて、高殿を見上げる)
女子 若様!
公子 (歌う)
屍には白き藻草を着せかけん、
瞳の閉じし面には、
かぐろき髪の幾筋と
鈴蘭の花をのせて置く。
女子 若様、私は此処におりまする、若様!
公子 (歌う)
死んで行くなる乙女子の
水の都の人魚へ……
女子 (高殿の下へ馳せ行き、物狂わしく)若様、若様、私は此処におりまする。
公子 (答えなく歌う)
声もとどかぬ水底の
水の都の同胞《はらから》は、
女子 ああ未《ま》だあんな悲しい歌を歌っていらっしゃる。若様!
公子 (歌いつづけ)
行方知れずの人魚を
浮藻の恋になぞらえて、
はかなきものと語り合う。
女子 (泣きつつ)若様、若様、若様よう。
公子 (ふっと歌を止めて、すかし見しが、直ちに復《ま》た歌う)
わだつみなれば燐の火の
屍を守ることもなく、
珊瑚の陰や渦巻の
泡の乱れの片陰に……
(声も楽器も、不意に途絶ゆ。女子は高殿の柱に取りつき)
女子 若様! そんな悲しい歌はお止《や》め遊ばしな。あの、私は此処におりまする。
公子 (身を階下にかしげ)誰れだ!
女子 私でござります。
公子 誰れだ!
女子 私よ……若様!
公子 (青き燭の火を差し出す、女子はその火をあおぐ)
女子 若様!
公子 (すかし見て)おお貴女は! ……どうして今頃そんなところに……おいでなされます。
女子 あの恐ろしい老人が、私を連れ出したのでござります。銀の竪琴で歌を歌い……。
公子 (せわしく)それが誘惑です。
女子 若様。
公子 その老人とは、紫の袍を着て、桂の冠をかむり、銀の竪琴を持った、騎士姿の音楽家ではござりませぬか。
女子 いいえ、白い衣を着た、白髪の老人でござります。桂の冠はかむっておりませぬ。
公子 その老人はどこにいるのです。
女子 (振り返り)あれ、あすこに立っておりまする、月の光をあびて立っておりまする。
公子 (すかし見て)ああ、私にもよく見えます。(驚き)あの男だ、あの男だ、――ああ悪魔!
女子 老人でござります。白髪の老人でござります。
公子 紫の袍を着て、銀の竪琴を持っている。若い美しい音楽家だ! (一寸躊躇し)ああそれだのに、桂の冠をかむっていない。
女子 いえいえ白い衣を着た老人でござります。
公子 あの男だ、母を殺したあの男だ。
女子 いえいえ老人でござります。(と振り返り)あれ、もう、静かに歩いて行きまする。
公子 勝ち誇った騎士のように、ゆっくりと歩いて行く。――紫の袍が煙のように、銀の竪琴が星のように……。(Fなる魔法使いは、無音にて花陰へ隠れ去る。奥にて大勢の人声。やがて真先に領主と従者、後につづいて騎士、音楽家、左右より現われて女子の方を見る)
(幕――)
第三場
翌日。一場と同じ領主の館の一室、窓より海と音楽堂と見ゆ。室内には窓に近くただ一台の寝台あり。夜。先夜の如く月明らかなり。
女子は寝台に腰をかけ体を斜にして音楽堂を眺む。使女ABの二人はその左右に立ち、同じく音楽堂を眺む。静。――館内の人々は皆、音楽堂に出で行ける後)
使女A 空が水銀のように晴れて、滴が垂れそうな晩でございますね。(間)ごらん遊ばせ、お月様が空のまん中を軽々と歩いていらっしゃります。お月様の通る道には雲が金色の縁《へり》をつけております。風が渡ると見えて、その雲は千切れたり集ったり致します。そして皆んな音楽堂の丸家根をめがけて押し寄せて参ります。(笑う)おしかけ婿様のような雲でございます。
女子 そのように、騒いではいけぬじゃないかえ。今夜はそんな晩ではありません。(間)ほんにお月様は空のまん中を歩いていらっしゃるが、その御様子が大変心配ごとでもおありなされるように見えるじゃないか、そして私にはいつもより大そう形が大きく見える、そして光が青く見える、そして顫《ふる》えておいでのように見えるぞえ。雲の間をお通りなさる時は、忍びやかに恐ろしそうに、丁度暗殺者の群の中を及び腰で通って行くようだ。お月様の周囲を取りかこんでいる雲は、平常《いつも》の夜とは違って形が怪しく見えるじゃないか。お心よしの王様を毒害しようと、毒のある盃を口許へ突き出したような雲、墓場の門を大勢の亡者が押し破ろうとしている雲、葬式の柩を尼寺の尼僧と童貞ばかりが送って行くような雲、運河の上を数限りもない帆舟が行き、その舟の中には経帷子《きょうかたびら》を着た女と男、老人と子供の亡者ばかりが乗りこんでいて、呪詛の叫びをあげているような雲、(間)そして一番はっきり[#「はっきり」に傍点]と見えるのは、天才らしい青年の音楽家が、競技に敗けて愧死するように見える雲だが、あの青年は誰れやらに似ているように思われるぞえ。
使女B どの雲でござります。
女子 (窓口に来り、空を指し)今、音楽堂の丸家根の上にじっと止《とま》って下を見下ている、あの雲の形がそのように見えるじゃないか。
使女A (笑い)水母《くらげ》が躍っているように見えるではござりませぬか。
使女B 白痴の子供が裸体で騒いでいるようにも見えますが。
使女A ほんにそのようにも見えまする。
女子 (首を振り)いえいえそんな形じゃない、あれは大変悪い前兆の雲だぞえ。あれいつまでも丸家根の上から離れぬじゃないか。他の雲は皆んな丸家根を越して、彼方《むこう》へ彼方へと行ってしまうけれど、あの雲だけが動かずに、じっと音楽堂を見下している。あれが悪い前兆だと云うのだぞえ。
使女B お嬢様は昨夜からかけて、よほどお心持ちが昂奮していらっしゃります。神経が鋭くなりすぎていらっしゃります。
女子 昨夜のことは決して云うておくれでない。あれはほんの魔がさしたと云うものだから。
使女A 魔がさしたのはお嬢様ばかりではござりませぬ。あれほど沢山おいでなされた、騎士、音楽家の方々が、一人残らず片膝をついてお眠り遊ばし、無宙《むちゅう》で楽器をお弾きなされたと申すのは……。
使女B あれは皆様御一同へ魔がさしたと申すものでござりましょう。その中でもお嬢様が一番お美しくていらっしゃる故、それで一番深く魔者に見込まれたと申すものでござりましょう。
女子 あの晩私は、何時の間にお館を出て裏庭の罌粟畑へ行ったやら、私は少しも知りはせぬ。(間)ただ覚えていることは、白い髪の毛の音楽家が、銀の竪琴を弾いたこととその音が胸にしみ入ると、私はいつもになく……笑っておくれでない、私はいつもになく、淫《みだら》の心となったこと、丁度、一年前、北の浜辺で紅い薔薇の花を、紫の袍を着た、桂の冠をかむった、銀の竪琴を持った、若い美しい音楽家に貰った時のような心持ちとなったことを、いまだにはっきりと覚えている。
使女A 高殿でバイオリンを弾いていらっしゃった若様が、あの時、罌粟畑の中で今お嬢様のおっしゃったような、紫の袍を着て、桂の冠をかむり、銀の竪琴を持った、年若の美しい音楽家をごらんになったと申すことではござりませぬか。
使女B いえいえ、桂の冠だけはかむって[#「かむって」に傍点]いなかったと申すことでござります。
使女A ほんにそうだったと申すことでござります……。お嬢様はその音楽家をごらんなされはしなかったのでござりますか。
女子 私はそのような音楽家は見なかったけれど。(と考える)
使女B 白髪の老人だと云う音楽家が、その実、若い美しい、紫の袍の音楽家であったのではござりませぬか。
女子 私も、もしや、そうではなかったかと思うけれど、(間)いえいえ、そんな筈はない。もし老人の音楽家が私の思っているその人なら、私は屹度その人に連れて行かれたに相違ない。
使女A 連れて行かれそうになったのを、若様がおひきとめなされたと申すことではござりませぬか。
使女B 若様のお歌いなされた歌が、お嬢様のお耳へ聞こえたので、お嬢様は正気にお返りなされたと申すことではござりませぬか。
女子 若様のお歌いなされた「死に行く人魚」の歌が、あの時私の耳へはいって、私を正気づけたことは、ほんとに違いはないけれど。(小声にてその歌を歌う)
屍には白き藻草を着せかけん、
眼の閉じし面には
かぐろき髪の幾筋と、
鈴蘭の花をのせておく。
何故この悲しい歌が、私を正気に返らせたのか、私には解らない。
使女A あの怪しい老人の歌った厭な歌に、歌い勝ったと申すのではござりますまいか。
使女B 老人の歌った歌を、お嬢様は今でも覚えていらっしゃりますか、血が泣くような厭な厭な歌。
女子 (小声にて歌う)
短い命が暗《やみ》に沈む
紅い薔薇のあざ笑い、
罪が楽しい戯れと
思う時の人心、
それが暗の紅き薔薇。
ほんに厭な恐ろしい歌だこと。ただ歌ったばかりでも、深い深い罪の洞へ引きこまれるような気持ちがする。……だがまた何んだかなつかしい[#「なつかしい」に傍点]、恋しい思いの湧き起こるのは不思議じゃないか、丁度|人眼《ひとめ》を忍んで媾曳《あいびき》する夜の、罪と喜びとの融《と》け合った、その恋しさがこの歌の調子に似ているぞえ。――そしてこの歌は、どうしても嘗《まえかた》どこかで聞いたことがあるように思われる。
使女A 北の国の浜辺でお嬢様へ、紅い薔薇の花をお渡しなされた、若い美しい音楽家が、歌ったのではござりませぬか。
女子 (手を軽く拍ち)ほんにそう云えばその通り、たしかに其処で聞いたに違いない、魔法の光り物のようなあの人の瞳が、私の瞳を引きつけている間に、お歌いなされた歌に相違はない。どうしてお前はそれを知っているの。
使女A 知っているのではござりませぬ。何事でもお嬢様のお心を強くひきつけるいろいろの事件は皆、その人がなされる仕業のように思われますので、それでそう申し上げたまででござります。(女子黙して考える。二人の使女も黙す。月光やや暗くなり、海上に白き影浮かぶ)
女子 白いものが海の上に浮いて見える。音楽堂の下の岩陰からだんだん此方《こなた》へ動いて来る。
使女A 夜を遊ぶダイヤナと申す水鳥でござります。
女子 ダイヤナにしては形が大きすぎるじゃないか。私にはどうやらあれも[#「あれも」に傍点]、悪い兆《しるし》のように思われるぞえ。
使女B いいえ、水鳥の列でござります。ダイヤナはよくあのように列を作って夜を海上で遊びます。あれごらん遊ばせ、二三羽|羽搏《はばた》きをしたので水煙が銀砂のようにパット空に昇りました。
女子 いえいえ悪い兆です。どうやら死んだ屍を送って行く柩の舟に見えるじゃないか。
使女A あれまたお嬢様は気味の悪いことをおっしゃります。何んであれが葬式の柩でござりましょう。水鳥が連らなって泳いでいるのでござります。
(空にて大鳥の翔《か》くる音)
女子 (空を見上げ)あの恐《こ》わらしい音は?
使女B ダイヤナの五六羽が空を翔けたのでござります。あの鳥が空をかける時は、ほんに星が飛ぶように素早くて、そして嵐のような恐い羽音を立てまする。
女子 空を翔けて何処へ行くのだろうね。
使女A 寒い北の国へ。
女子 (卒然と)その国では沢山の人が死ぬのじゃないかえ。
使女B (Aと顔を見合わせ)お嬢様!
女子 (悲しげに)死んだ人の魂を送りに行くのじゃないのかしら。
使女A もうお嬢様、窓から覘《のぞ》くのはお止め遊ばしませ――何んだか今夜も昨晩のように魔でもさしそうな晩でござります。――早く御寝間へおはいりなされてお眠り遊ばしませ。
女子 (悲しげに)どうして私が眠られるものか。今夜で私の運命が(と言葉を切り)決定《きま》ってしまうのじゃないかえ。
使女B (当惑らしく)それはそうかも知れませぬが……。
女子 私の運命は、今に点ぜられる音楽堂の燈火の色で決せられてしまうのじゃないかえ。
使女A まだまだ間がござりましょう。
女子 間があると云ったとてほんのそれは知れたもの(と音楽堂を眺めやり)、あの頂上の窓へ赤い燈火の点《つ》く時は、沢山の音楽家の中で、誰かが桂の冠を貰うた時――ああそして私の運命が決まった時! (と忍び泣く。二人の使女は顔を合わせて、気の毒の表情。――静。やがて使女は小声にて語り合う)
使女A 音楽堂の内は、今どのようでござりましょう。
使女B 桂の冠と一緒にお嬢様を戴《いただ》こうと、幾百と云う騎士、音楽家が、セロやバイオリンを掻き鳴らし、互いに競い合っているでござりましょう。
使女A 誰が勝つでござりましょう。
使女B 誰が勝つでござりましょう。
使女A ほんに誰がお美しいお嬢様をお貰い遊ばすでござりましょう。
使女B 若様がお弾き遊ばすのは、「死に行く人魚」の歌とか云って、世界中でただ若様一人お知りなされる、悲しい歌だそうでござりますね。
使女A (女子を盗み見)若様がお勝ち遊ばして、お嬢様をお貰い遊ばすなら、どんなに若様はお喜びなさるでござりましょう。
使女B どんなにお嬢様もお安心なさるでござりましょう。
使女A 私は何となく、若様がお嬢様をお貰いなさるのではあるまいかと思われます。
使女B 私もそのように思われます。今にあの音楽堂の窓から赤い燈火が点ぜられ、注進の者が馬に鞭打ってこの館の門前まで駆けつけ、勝利者の名を高々にお呼び上げなさる時。
使女B そのお名は若様のお名らしく思われます。(女子は二人の使女の話を黙って聞き居しが、この時使女に向かい)
女子 若様のお相手をする人は、どんな人だか知っておいでかえ。
使女A 若様と音楽の競争をなさる人でござりますか。
女子 今夜若様と競技をなさる、その相手の人を知っておいでかえ。
使女B (Aと顔を見合わせ)昨夜の大変が起こらぬ前までは。
女子 前までは。
使女A 銀の竪琴を持っていた、白髪の老人が、若様のお相手と決まっていたのでござります。
使女B あの大変が起こって、その白髪の老人の行方が解らなくなりましたので、若様のお相手は、誰れに御変更なされたやら、私共は存じませぬ。
女子 昨夜の大変の起こらない前までは、若様のお相手は、あの白髪の老人だと云うのだね。
使女A 左様でござります。
女子 そんなら今夜の若様のお相手も、あの白髪の老人に相違ない。
使女B 何故でござります。
女子 何故と云うても。
使女A 何故でござります。
使女B あんな騒ぎをひき起こした老人が、今夜あたり、音楽堂へ姿を現わす気づかいはござりますまいに。
女子 そう思うと間違うぞえ。
使女A そんなら、あの老人は今夜の競技に出るのだとお嬢様はお思い遊ばすのでござりますか。
女子 しかも銀の竪琴を持って。
使女B ほんにそう覚しめすのでござりますか。
女子 あの老人は、昨夜唯一度現われて、それっきり姿を隠すような、卑怯な者ではないのだぞえ。
使女A どうしてお嬢様は、それを御存知でいらっしゃります。
女子 (小声にて)Fなる魔法使い、Fなる魔法使い!
使女B どうしてお嬢様はあの老人が、再び現われるとおっしゃるのでござります。
女子 私の呪詛《のろ》われた神経が、そうだと私に教えている故。
使女 呪詛われた神経が?
女子 私の呪詛われた神経が、今夜再びあの老人が音楽堂へ現われると教えている。
使女B 呪詛われた神経とは何んのことでござります。
女子 私にもよく解らない程だもの、何んでお前方に解るものかね。ただ、私の心持ちが、私の智識を打ち破り、智識以上の大きい力で、今夜のことを私に教えている。
使女A 今夜のことを教えている?
女子 今夜あの老人が、音楽堂へ現われると云うことを、何気なくこの私に教えている。
使女A それがお解りのくらいなら、それ以上のこともお解り遊ばすでござりましょう。
使女B 誰が最後の勝利者か、誰がお嬢様をお貰い遊ばすか、それもお嬢様にはお解りなさる筈ではござりませぬか。
女子 それが解るくらいなら、世の中の人は、不幸に沈むことはない。
使女A 解らないのでござりますか。
女子 私の身の上は、私には解らぬもの……。(三人暫時無音。遙かに音楽堂よりオーケストラの音聞こゆ)
使女B オーケストラの音が、つなみ[#「つなみ」に傍点]のように聞こえます。
使女A 音楽のつなみ[#「つなみ」に傍点]のようなあのオーケストラの後が、いよいよ優勝者同志で、最後の競技をするのでござります。
使女B (女子を振り返り)お嬢様にもあのオーケストラの音が聞こえますか。
女子 ええ、ええ、よく聞こえている。(耳を澄まし)そしてあのオーケストラの中で、二つの音が恐い程はっきりと聞こえて来る。……二つの音が。
使女A どんな音でござります。
女子 バイオリンの音と、銀の竪琴の音。
使女B 私にはただ、海のどよめきのような音よりは外に何も聞こえは致しませぬ。
女子 銀の竪琴の音は、つむじ風のように、バイオリンの音を吹き消して行く。
使女A そのバイオリンは誰が弾いているのでござりましょう。
使女B 若様ではござりますまいか。
女子 バイオリンの音は、深山鈴蘭が谷の陰で泣いているように細い細い声となった。
使女A 銀の竪琴は誰が弾いているのでござりましょう。
使女B あの怪しい老人が弾いているのではありますまいか。
女子 銀の竪琴の音は、暗《やみ》の中を荒れ狂っている、赤い焔のように鳴っている。……暗の中の血薔薇のように。(オーケストラの音|止《や》む)
使女A オーケストラが止みました。
女子 (急に窓に行き)ほんに、オーケストラはもう止んだ。(時を告ぐる鐘の音、音楽堂より聞こえ来る)
使女 お聞き遊ばせ、鐘が鳴っておりまする。あの鐘が二度鳴って、三度目に鳴る時は、三組残った優勝者の中最後に打ち勝った一人へ、月桂冠を与える時でござります。
使女A その時、音楽堂の頂上の窓へ赤い燈が点ぜられるのでござります。
使女B その時喜びの太鼓の音が、音楽堂のまん中で轟き渡るので、ござります。
使女A その時、近在から集って来た美しい少年等は声を揃えて、ほめ歌[#「ほめ歌」に傍点]を歌うのでござります。
使女B その時、月桂冠を得た名誉の音楽家は、少年等に取りかこまれ、音楽堂を立ち出でて、海へ出るのでござります。
使女A 海には紅い花で飾った舟が夜眼にも美しく浮かんでおります。
使女B 私共はその舟を婚儀の舟と呼びたいのでござります。なぜと申しますと、月桂冠を貰った音楽家は、その舟に打ち乗って、この館へ参られます。――そしてお嬢様と御婚礼を遊ばすのでござります。
使女A お嬢様と御婚礼を遊ばすのでござります。
使女B (海上の水鳥を眺め)あの水鳥が婚礼の舟の先ぶれのようではござりませぬか。
使女A (同じく海上の水鳥を眺め)私もそのように思っておりました。あのように列を造って泳いで来る様子が、まるで婚礼の舟が引き連いて来るようでござります。
女子 (海上の水鳥を眺め)いえいえ、私には屍を送る葬式の舟のように見えるぞえ、音も立てず、しめやかに泳ぐ様子が、白無垢を着て悲しげに続く弔者の姿そっくりではないかえ。(空の雲を眺め)そして、あの気味の悪い雲が、まだ動かずに音楽堂の頂上で、葬式の列を見送っている。(第二の鐘鳴る)あれ! もう第二の鐘が鳴る。
使女B ほんに第二の鐘がもう鳴ります。
使女A 第三の鐘が鳴るのも間がござりますまい。(三人無音にて、窓外の音楽堂を眺む。静。――やがて第三の鐘が鳴る)
使女B あれあれ、第三の鐘の音が……。
使女A 第三の鐘の音が……。
(音楽堂の頂上に赤き灯《ひ》点ぜらる)
女子 あれ、あれ、紅い火が。(とよろめく)
使女A ほんに赤い灯……赤い灯がつきました。
使女B 赤い灯、赤い灯……。
女子 (寝台に仆れ)私は……ああ、ああ私は……。
使女A (女子を助け起こし)お嬢様!
女子 ――赤い灯、赤い灯……私は……。
使女B お嬢様!
女子 私はもう……誰れかの……。
使女A お嬢様、お嬢様?
女子 いや、いや、いや……。(と泣き沈む。二人の使女途方に暮れて無音。やや長き間の静寂。やがて音楽堂より憂いを含める弔鉦の音聞こゆ)
使女B (窓に馳せ行き)あの悲しげの鉦《かね》の音。
使女A (同じく窓に馳せ行き)歓びの太鼓の音は響かずに、いまわしい鉦の音が聞こえるとは、どうしたわけでござりましょう。
使女B あの鉦の音は、死んだ人を弔う音でござります。それも、思わぬ凶事に身を殺した人のために、つき鳴らされる鉦の音でござります。
(鉦の音、益々悲しげに響き、今まで点ぜられ居し赤き燈火消ゆ)
使女A お嬢様、お嬢様、ごらん遊ばせ、赤い灯が消えてしまいました。
女子 (寝台より起きて窓に馳せ行く)ほんに赤い灯が消えて、月の光ばかりが音楽堂の丸屋根を照らしている。……赤い灯が消えて、(鉦は益々悲しげに鳴る)ああ、そしてあの悲しげの弔いの鉦の音が、震え震えて鳴っている。……凶事の鉦が。
(青き燈火、以前の場所に点ぜらる)
使女B あれ青い灯が!
使女A 赤い灯の代りに点《つ》いている。
女子 ほんに青い灯が……どうしたと云うだろう、死んだ人の魂のために点ぜられる青い灯が……音楽堂に点いている。そして弔いの鉦がつき鳴らされ……。(と海を眺め)あれ、今まで見えていた水鳥の列が、どこへ行ったかもう見えぬ。
使女B (空を見上げ)そして怪しい雲も消えてしまいました。
使女A 死んだように影も形もなく消えてしまいました。(鉦なお鳴りやまず)
女子 まだ鳴っている、まだ鳴っている。
(玄関の方にて駒の蹄の音。嘶《いななき》。やがて間もなく従者いそがわしく出場)
従者 お嬢様は此処においででござりましたか、今音楽堂で大変なことが出来《しゅったい》致してござります。
女子 (従者を凝視し)今鳴っている弔いの鉦の音が、その一大事を告げているのではあるまいか!
従者 おおせの通りでござります。亡び行く魂を傷む鉦の音が、若様の横死を告げておるのでござります。
女子 えッ、若様の横死! 横死! (と寝台へ仆れる)
使女A 若様の横死!
使女B 死! 死!
従者 お驚き遊ばすは御尤《ごもっとも》でござりますが、唯今は驚いてばかりいる時ではござりませぬ。間もなく涙ぐんだ大勢の騎士、音楽家に送られ小供等の挽歌に傷まれて、若様を入れた白木の柩が、この館へ参らるるでござりましょう。柩が館へ着く前に、音楽堂で起こった一大事をお話し致そうと馳せ参じたのでござります。
女子 早く早く、そんなら、それを早く話しておくれ。ああ私の心はつなみ[#「つなみ」に傍点]のように騒ぎ、黒い怪しい魔のような影が心をまッ黒に曇らせている。……若様はどうしてお死になされたのだえ。あの優しくお情《なさけ》深かった若様が。
従者 はいはい。今朝から音楽堂は……。
女子 (もどかしげに)音楽などはどうでもよい。早く若様の御様子を……。
従者 はいはい、ではござりますが、順を追って申さねば、話はお解りなさりませぬ故、まあまあ、お気を静めて一通りお聞きなさりませ。――今朝から音楽堂の中は、セロやラッパの奏楽で耳もつぶれる程でござりました。諸国よりお集りの音楽家の方々は一つの月桂冠と一人の乙女を得ようため、二十歳の人は二十代までの、八十歳の人は八十代までの、自分の技倆の有らん限りを現わして、弾きつ、歌いつなされますので、音楽の嵐がさしもに堅固の建物を揺するかと思われるほどでござりました。(間)それが夕方になってからは追々に静まって、つい先刻の夜半となった頃は、音楽堂は静まり返り、ただ咽び泣くバイオリンの糸、銀の竪琴のそそるような響きが、聴く人の耳にゆれるばかり。(間)やがてオーケストラが始まり、それが止み、堂内は一層の静かさとなりました。さてこれからが三人残った優勝者の中、最後の優勝者を定めるのでござります。
女子 その三人の中に若様がおいでなされたのではあるまいか。
従者 三人の中でも一番望みを嘱されておられましたのが、若様でござります。(間)若様の歌う歌は、天下に若様のみ唯一人知っておらるる「死に行く人魚」の歌と申すのでござりますそうな。(間)若様が気高い姿を楽堂の中央へ現わして、壇上へお上がりになろうとお進み遊ばした時、集《つど》いあつまった諸国の騎士、音楽家の人々や祝歌《ほぎうた》を歌おうと召し寄せられた小供等の視線は、まじろぎもせずに若様の一身に注がれました。その時の若様のお姿は、窓からの月光も、堂内の燭の光も、若様お一人に集ったかと思われる程、気高く美しく見えました、胸には一輪の深山鈴蘭の花がさされ、手には御秘蔵のバイオリンを持っておられました。この貴橄欖石と紅宝玉とで象眼《ぞうがん》されたバイオリンは亡き母上の御形身であるのでござります。(間)しかし、ああ不幸にも、若様が正面の壇の上へ昇ろうと片足を段へかけられました時、その時、人々は奇異の姿に眼を奪われ、不思議の楽音に心をとられました。――ああ、禍いはそこから来たのでござります。
女子 昨夜の老人が、昨夜の姿のままで銀の竪琴を手に持って、立ち現われたのではないのかえ。
従者 その通りでござります、お嬢様はどうしてそれをご存じでいらっしゃりまする。
女子 呪詛《のろ》われた神経が、私の呪詛われた神経が、そうだと私に告げている。
従者 呪詛われた神経はお嬢様ばかりがお持ちなされていたのではござりませぬ。音楽堂に集っていた数知れずの騎士、音楽家、さては近在の人々や、祝歌を歌う小供まで皆、恐ろしい呪詛にかかっていたのでござります。と申しますのは、その不思議の老人が銀の竪琴をかき鳴らし、しずしずと壇の上へ昇って行くのを誰もひきとめずさえぎらず[#「さえぎらず」に傍点]、あるがままに茫然と見ていたことでよく解りまする、(間)はい、堂内の人々は皆もう茫然《ぼんやり》と見ていたばかりでござります。そして掻き鳴らす銀の竪琴の音に魂までも打ちこんで聞き惚れていたのでござります。(間)ああ、あの悲しげに悩ましげに、震えて鳴った竪琴の弦!
女子 その老人の歌うた歌は? 銀の竪琴の弦に合わせて、その老人の歌うた歌は?
従者 まあお待ち遊ばしませ。……聴衆は、眠り薬と惚れ薬とを一緒に飲ませられた人のように、首を垂れ耳を澄まし、そしてあの恐ろしいことには、丁度昨夜のあの時のように、人々はいずれも片膝をつき、自分の楽器を顎に埋め、感に堪えた時、時々それをかき鳴らし、聞き惚れていたのでござります。
女子 そして、その銀の竪琴の曲は?
従者 それをお話し致す前に、まだまだお話し致すことが沢山にござります。――で、その魔法使いのような老人が壇上に立って、ものの二十分も銀の竪琴を掻き鳴らしました。それを聞いている中に、人々の眼からは悲しみの涙が熱く流れ、あわれの運命を傷む溜息が、唇から漏れ、肩を震わせて歌の心に同情致しました。そして、その曲を聞いてる人々の眼には、紺青の海の上を、赤き帆を上げて行く幻の舟と、それを追って行く人魚の、艶に美しい肩と乳房と、長き黒髪とが見えていました。(間)銀の竪琴の音に連れて、老人はこのように歌うのでござります。
幻の美しければ
海の乙女の
あわれ人魚は
舟を追う。
波を分けて舟を追う。
月は青ざめぬ
屍に似たる水の色。
女子 (驚き)ああそれは、若様の歌う筈の「死に行く人魚」の歌ではないのかえ。
従者 そうだと気づいたのは、それから後のことでござります。音の響いている間、歌の聞こえている中は、人々の心はただただ同情と涙と感激とにひたされていたのでござります。あああの時の室内の光景は、燭の光は赤からず白からず、薄物を通して空を見るように青褪めて、壁に天井に人々の影をうつしている。身動きもせぬ人々のその影は、いまにも沸き起こる悪魔の荒《あら》びの一瞬前の静寂《しずけさ》のように、神秘とも凄惨とも云おうようなく見えました。窓を通して外を見れば、月光に浮く海の水鳥、それが人魚の群のように、海の光をうけて流るる空の雲、それが幻の舟のようで。――風も吹かずそよぎもせず、外も内も森然《しん》とした状態《たたずまい》! 響くものは悲しみの歌ばかり、咽び泣く銀の竪琴の音ばかり、ただ音ばかりでござりました。
女子 その時若様は、どうしていたのかえ。
従者 曲を盗まれた若様は、化石のように立ちすくんで、壇の前にかたくなっておりました。
女子 立ちすくんでいるばかり! ええ、ええ、堅くなっているばかり!
従者 曲を盗まれた若様は、壇の前に立ちすくんで、自分の歌うべきその歌を、仇の口から聞いている。
女子 ええ、ええ、ただ聞いている。
従者 ただ聞いているばかり、どうすることも出来なかったのでござります。(間)いま少しお聞き下さいまし――このもの凄い静寂の後に、暴風よりも荒々しい喧騒の幕が開かれました。それは拍手と感嘆と、褒めののしる声でござります。数え知られぬ室内の人々は皆一様に老人の、神のような妙曲に対し、月桂冠を与えよと、叫び出したのでござります。――やがて数千の花輪花束が老人の身の周囲に飛びまわり、あらゆる楽器が一時に鳴り出し、それが皆賞讃の曲を歌い、最後の勝利者たる老人の名誉と幸福とを讃えました。そして絶えず人々は、月桂冠を彼に与えよと、ののしるのでござります。――たちまち、第三の鐘はつきならされ、高殿へは紅い灯が点ぜられました。――お嬢様! 貴女様の良人《おっと》となる人が、仮にもせよその時定まったのでござります!
女子 (身を震わせ)私の良人が!
従者 白髪の老人が、曲を盗んだ老人が、お嬢様の良人となるべき人でありますぞ!
女子 ええ、ええ!
従者 けれども悲劇の幕は、それからでございました。お嬢様! 若様の横死はそれから後でござりました。
女子 若様の横死……そして、そして、ああそれを早く話しておくれ……。若様の横……死……。
従者 その横死は、ああ、ああ、傷ましいとも、いじらしいとも……私始め一同が永久に忘れられぬその横死!
女子 早くそれを話しておくれ…………………………私のこの心が…………。
従者 はいはい今申し上げまするが……あ、傷《いたま》しや。……それからでござります。……よろしゅうござりますかお嬢様。……人々の拍手と感嘆との渦巻の間を、館のお殿様の手に捧げられて、月桂冠は、老人の方へ進んで行くのでござります、花束は天井や床にひるがえり、小供等は讃歌《ほめうた》を歌うその間を、月桂冠は老人の方へ進んで行くのでござります。
女子 月桂冠が……。
従者 月桂冠が今やまさに、老人の頭へ落ちようとした時に、天使の声が響き渡りました。『盗める曲に何を与う!』
女子 天使の声!
従者 若様が、そう叫ばれたのでござります。『盗める曲に何を与う』
女子 盗める曲に何を与う!
従者 立ちすくんでいた若様が満身の勇を振り起こし、天使のように、そう叫んで、壇上めがけて進みました。
女子 その時の人々は?
従者 人々は一時に声を飲み、一寸も動かず、ただ眼を見張り、立ちすくんでしまいました。
女子 ああ眼に見えるような。……………………
従者 それも瞬間でござりました。たちまち怒りの声と罵る声と、嘲笑の声とが四方八方から湧き起こりました。そして見る見る中に若様は、群衆の中に取りかこまれました。――むらむらと若様を取りかこんだ群集はバット一時に別れました。が、そのまん中に若様は、青褪め果てて仆れておりました。『公子といえども……』『名誉ある令人を罵る者は、公子といえども罰せよ!』『公子といえども』群衆は公子の体へ、これらの言葉と諸共に烈しい打撃を与えたのでござります。――この悲劇の最中に老人は月桂冠を頭に戴《いただ》いたのでござります。
女子 そして老人は。
従者 どこともなく消え失せてしまいました。暗の中を吹く風のように、雲の間の流星のように……。
女子 そのように消えてしまったのかえ、ええ、ええ。
従者 堂内に集っていた小供等が、月桂冠のため、銀の竪琴のため、名誉ある曲のため、その歌い手を取りかこみ、祝いの歌を歌おうと、老人をさがした時、老人はもう音楽堂の中には居らなかったのでござります。(間)消えたように無くなったのか、始めから此処に居なかったのか、人々は互いに審《いぶか》り合うほどに、素早く身を隠してしまったのでござります。いきり立っていた館の殿様はじめ、騎士、音楽家の人々は、一時に静まり返りまして、胸に手をあてて彳《たたず》みました。――先刻までの物凄まじき喧騒の後が、氷のような底冷たい、神秘がかったこの沈静でござります。(間)人々は四方を見廻し、また自分の影を見詰め、そして物音を聞き定めようと耳をすましました。――人々の心の中に、この時老人を怪しむ念が、稲妻のように閃めいたのでござります。……その時でござります!
女子 ええ。
従者 若様が虫のような声でお嬢様の名をお呼びなされました。
女子 あの私の名を!
従者 はい、お嬢様のお名をお呼びなされました。そして胸にさしておられました鈴蘭の花を差し出して、お嬢様へと申されました。(と従者、凋《し》おれし一枝の鈴蘭の花を女子に渡す、女子無音に受け取り、唇にあつ)
女子 若様、若様!
従者 人々は始めてこの時、仆《たお》れている若様に気づいたのでござります。
女子 若様!
従者 人々は顔色を変え叫びを上げ、一時に若様の傍へ集って、そのお顔を眺めました。噫! 若様のお顔は青褪め果てて、死んで行くべき相となっておりました。
女子 若様!
従者 『若を殺したは誰れぞ!』とお殿様のお怒りとお悲しみの叫び声……一同の騎士、音楽家の方々は、ひれ伏してしまいました。(間)すると若様は青ざめた唇を震わして、聞きとれぬ程の虫の声で、「死に行く人魚」の歌を歌いました。
女子 「死に行く人魚」の歌を!
従者 その歌の一節を歌い終わると、急にお怒りの相を顔に見せ、苦しい声で『盗める曲に何を与う!』と叫んだのでござります。
女子 盗める曲に何を与う。
従者 そして若様は、片手をあげて窓を指し、最後の息でこう申しました。『北の国の魔法使い、「死に行く人魚」の歌を歌う』
女子 若様! ええ、ええ。
従者 後はもう申し上ぐるまでもござりませぬ。堂内の騎士、音楽家は、あるいは窓口に向かって立ち、あるいは高殿に馳せ昇り、外に通ずる廊下に急ぎ、百方怪しい老人の魔法使いをさがしましたが、それらしい者の影もござりませぬ。さがしあぐんで騎士、音楽家の方々が、旧《もと》の広間へ立ち戻って来た時には、屍となられた若様をとりかこみ、小供等の大勢が、弔いの歌を歌っておりました。はい、弔いの歌を歌っておりました。(間)そして、間もなく高殿へは魂を祭る青き燈火が点ぜられ、葬いの鉦がつきなされたのでござります。(と窓より音楽堂の方を眺め)あれ、ごらん遊ばせ、今音楽堂の表門から海岸へ向けて白き柩を真先に、騎士、音楽家や小供等の列が悲しみ嘆いて出て参ります。あの一列は海岸から小舟に乗ってこの館へ来るのでござります。(一同窓より外を見る)
使女A ああ、ほんとに今度こそ、白い葬式の一列が音楽堂から出て参ります。
使女B 首を垂れて、遅く遅く歩く様子は、何んと云う物あわれな果敢《はかな》い姿ではござりませぬか。
女子 あの真先に小さく見える白い色のかけ[#「かけ」に傍点]衣《ぎぬ》は、柩を包んだ経帷子《きょうかたびら》か?
従者 (耳を澄まし)弔いの鉦を通して、小供等の歌う挽歌の節が……挽歌の節が聞こえます。
(挽歌聞こゆ)
使女A ほんにまあ物あわれな、亡き魂を祭るあの挽歌の節は。……この世の人が聞くに堪えない調《しらべ》でござります……聞くに堪えない節でござります。
使女B 挽歌につれて葬式の列が、浜辺の砂へ立ち並びました。(浜辺に白きものチラチラす)
従者 (急に姿勢を直《ただ》し)私は何時《いつ》までも、此処にこうしておられる体ではござりませぬ。私は直《す》ぐに馳せ戻り、あの葬式のお先導をして、小船を漕がねばなりませぬ。(女子に一礼し)お嬢様、これでごめんをこうむります。――(と急ぎ左の口より退場。女子は従者の退場と共に寝台に仆れ、面に手をあてて泣き、またたちまち起き上がり、窓口に行きて白き柩の一列を眺めやり)
女子 若様! 若様! (寝台へ再び仆れて忍び泣く。二人の使女は途方に暮れ、場内を二度ばかり歩き廻りし後、寝台の女子をいたわらんとし、立ちよりしが、思い返して、たちまち窓口に行きて葬式の列を眺め、頷き合うて正面の出口より浜に向かって馳せ行く。正面の扉《と》はいっぱいに開け放され、月光に浮く紅き罌粟の花畑見ゆ――場内には女子一人となる。三分間静。やがて正面の出口の彼方、罌粟畑の中より、一人の人影立ち現われる。女子それを知らず。その人は、紫の袍を着て、桂の冠をかむり、銀の竪琴を持ちし騎士姿の音楽家即ち、Fなる魔法使いとす。Fなる魔法使いは銀の竪琴を鳴らしながら、罌粟畑より出でて場内に入り来る)
(Fなる魔法使い、盗める曲の「死に行く人魚」の歌を歌う)
屍には白き藻草を着せかけん、
瞳の閉じし面には
かぐろき髪の幾筋を
鈴蘭の花をのせて置く、
(この歌を歌いながらFなる魔法使いは女子の後背を通り、その正面一間半ほどの所に立ち、女子を熟視す、女子は、「死に行く人魚」の歌を聞き、ふと[#「ふと」に傍点]首を上げてFなる魔法使いをすかし見る)
女子 誰れなの。(と考え、急に声をはずませ)若様ではござりませぬか、その歌を歌うのは若様より他にない。貴郎は若様?
Fなる魔法使い (「死に行く人魚」の歌を歌う)
声もとどかぬ水底の
水の都の同胞は
行方知れずの人魚を
浮藻の恋になぞらえて
はかなきものと語り合う、
女子 (Fなる魔法使いの方に両手を差し出し)若様、若様、ああ貴郎は若様だ!……若様はまだ死にはせぬ。……ね、若様。
Fなる魔法使い (「死に行く人魚」の歌を歌う)
わだつみなれば燐の火の
屍を守ることもなく
珊瑚の陰や渦巻の
泡の乱れの片陰に。
女子 (二三歩あゆみ寄る)若様、若様! ほんとに貴下は若様でござりましょう。……その歌をお歌いなさる人は世の中にただ若様お一人きりよ。……若様! 若様!
Fなる魔法使い (銀の竪琴を指し)これを見ろ!
女子 銀の竪琴!
Fなる魔法使い (紫の袍を示し)これを見ろ!
女子 紫の袍よ!
Fなる魔法使い (桂の冠を指し示し)女よ! これを見ろ!
女子 (声を震わせ)ああ、ああ、それは桂の冠!
Fなる魔法使い (無音にて自分の瞳を指す)
女子 (片膝をつき)Fなる魔法使い!
Fなる魔法使い (今度は「暗と血薔薇」の歌を唄う)
暗がわが身をとりかこむ
裸身なれど恥《はじら》わじ、
抱く男のやわ肌を
燃ゆる瞳にさがさばや。
女子 その歌を歌うは誰れなの?
Fなる魔法使い 血薔薇をお前にくれた男だ。(と「暗と血薔薇」の歌を歌う)
罪が巣くいし血薔薇とて、
恋の生身を刺すとかや、
暗なれば血は見えずして。
(口調ある朗吟的の言葉にて)女よ、窓を通して音楽堂を見ろ! 青い燈火が点《つ》いている。お前のために恋を歌った、深山鈴蘭の送り主が、青い燈火の光の裏に、恋の屍を横仆《よこた》えている。お前はそれが悲しいか。(間)黄昏の神の素足のような、美しく白い公子の肌が、麻の衣にかけ[#「かけ」に傍点]衣《ぎぬ》された樫の柩の底にある。彫刻の美も光がなければ、女の眼には映るまい。その彫刻の美が柩の中の、堅い床の上にある。(間)女よお前は俺に問うか、「語れ公子を殺せし毒と」(銀の竪琴を見て)毒は白銀の弦より流れ、あふれて彼を死《ころ》したのだ。女よお前は俺に問うか、「語れ毒を盛りしその悪魔を」――悪魔はお前の前に立ち、銀の竪琴を弾いている。(自分を見廻し)われながらこの悪魔! われながら華美のこの姿! 幾百千人の若い女を、罪と不貞に導いたか! 淫《みだら》を語るこの唇で、情《なさけ》深げの歌を歌い、乙女心を誘ったか。(間)純潔ならぬ恋の主は、千度《ちたび》乙女の恋を試み、千度乙女に成功した、俺は云う! 乙女は弱く果敢《はかな》いものの世にまたとなき宜《よ》き標本《しるし》と! (女子を見て)弱き乙女のお前の心も、これで三度試みた。一度は紅き薔薇の花、二度は月夜の罌粟畑、三度は今や桂の冠! (間)紅き薔薇ではもの[#「もの」に傍点]を思わせ、憂いと恋を心に蒔《ま》いた。(間)されども罌粟畑のバイオリン! 罌粟畑のバイオリン!(と罌粟畑をすかし)心臓の血の紅《くれない》が、はてなき罪の香を帯びて、誘惑らしく咲く花畑。その罌粟畑。――そこへ二人が立ち出でた時、お前は象牙細工の手を差し出し、胸や乳房に恋を思わせ、(小声にて歌う)「抱く男のやわ肌を、燃ゆる瞳にさがさばや」……そのやわ肌をさがさんと、銀の音色を追って行った。(突然)その罌粟畑! 高殿よりして公子が弾いた、あの純潔の恋の楽、それがお前を醒《さま》したね! (突然)俺の計画《もくろみ》は崩された! (憤然と)暗と血薔薇の一曲が、死に行く人魚の恋歌に、歌い消され弾き消され、凶《よこしま》だったわが弦が、お前を誘う音を出すには、その夜に限って弱かった。(女を見)女よ! 女よ! けれどもお前はもう俺の者だ! 今はもう俺の者だ! (窓口に行き音楽堂を眺め)罪と不貞の結晶堂、弱き女の恋の墓、不幸の記憶の生きたる所。(声鋭く)領主の妻の屍の恋が、罪の結晶堂に埋めてある、見ろ! その不吉の堂内から、公子の屍が運ばれる。――ああ歓楽の楽堂が、一瞬にして悲哀に埋もれ、あたたかなりし人の息が、冷えたる血汐に変えられて、高殿の青き灯《ひ》と、広間に嘆く鉦の音が恋の末路を見せている。(突然)領主の妻と領主の子と、同じ運命の呪詛の的《まと》! (女子を見て)そして女子よ、お前は俺の所有《もの》となった、(命令的に)女子よ俺の胸に来い! (女子、Fなる魔法使いの胸にすがる。弔いの鉦の音益々悲哀を含んで鳴り渡り、それと共に、小供等の歌う挽歌聞こゆ)
女子 (うっとりとなりて鉦の音に耳を澄ます)あの鉦の音は?
Fなる魔法使い 恋を葬《ほうむ》る鉦の音。
女子 あの小供等の歌う歌は?
Fなる魔法使い 悲しみ嘆く葬《とむらい》の歌!
女子 死んだは誰れなの?
Fなる魔法使い か弱き母に似た不幸の公子!
女子 それは誰れなの?
Fなる魔法使い 深山鈴蘭をお前にくれた一人の男!
女子 (すすり泣き)ああ若様か。(されどFなる魔法使いの胸より離れず)
Fなる魔法使い (女と共に窓に行き)空には月が涙ぐみて彳《たたず》み、海には屍の船が浮き、風は光の陰に隠れ、人は幽《かすか》に挽歌を歌い。聞け! 小船を漕ぐなる艫《ろ》の音が、沈み沈んで海底の、人魚の洞へくぐり行く。海底には人魚の母が、桜貝と藻の花を、据え物として待っている。公子の来るのを待っている。(突然)俺は云う! 公子は俺が殺したのだ!
女子 誰れが若様を殺したの?
Fなる魔法使い (明瞭に)公子は俺が殺したのだ!
女子 誰れが殺したの?
Fなる魔法使い Fなる魔法使いが殺したのだ!
女子 その魔法使いは何処にいて?
Fなる魔法使い お前の体を抱いている。
女子 ええ。ええ。(とFなる魔法使いより離れて、Fなる魔法使いを睨《にら》む)悪魔! 悪魔!
Fなる魔法使い (冷然と)女!
女子 悪魔! 悪魔! 若様を殺したお前は悪魔!
Fなる魔法使い (銀の竪琴を見せ)女よ! これを見ろ!
女子 銀の竪琴!
Fなる魔法使い (紫の袍を示し)女よこれを見ろ!
女子 紫の袍!
Fなる魔法使い (桂の冠を指し示し)紫の袍を着て、銀の竪琴を持ち、桂の冠をかむった俺は、お前を奪う唯一人の男だ!
女子 (声を震わせ、しかもなつかしげに)Fなる魔法使い!
Fなる魔法使い (笑い)北の浜辺で紅の薔薇の花を、お前にくれたFなる魔法使いは俺だ! さあまた北の浜辺へ行こう、罪の深い歓楽が、そこの浜辺に待っている。行こう行こう北の浜辺へ。
女子 (再びFなる魔法使いの胸にすがり)行きましょう北の浜辺へ、ああ、ああ、私はほんとにお前の者よ! ああ、ああ、私はお前を長らく待っていた。
Fなる魔法使い (女子を介《かか》え)行こう北の浜辺の、罪の深い歓楽へ。
女子 行きましょう北の浜辺へ、私はお前を待っていた。
Fなる魔法使い 女よ!
女子 Fなる魔法使い! (既に両人接吻せんとする時、小供等の挽歌、手近の罌粟畑に聞こゆ。二人の驚きて同時に顔を上げる。――領主及び従者を真っ先に、白木の柩を守りて騎士、音楽家及び小供等数十人。使女は燭を携え正面の口より場内に入り来る、Fなる魔法使いと女子とは相抱きしまま場の右方に立つ。葬式の行列は左にまがり、室を一周し、やがて白木の柩を中央に置く、人々は四方に並ぶ。人々の位置定まりし時、小供等は柩を巡りて挽歌を歌う。一節終わる毎に騎士、音楽隊は、一時に各自の楽器を鳴らす。――三回目の歌のなかばに領主始めてFなる魔法使いに注目し、驚き怒る)
領主 (声高に)歌を止めろ!
(一同歌を止める)
領主 門を守れ!
(人々は出口入口に立つ)
領主 Fなる魔法使いがそこにいる!
(一同Fなる魔法使いに注目す)
領主 曲を盗んだ悪魔は嬢をも盗んで行こうとする。見ろ! 彼は嬢をかかえている。
(一同楽器を棄てて剣を抜く。光茫場にあふる)
Fなる魔法使い (冷やかに鋭く)俺の頭を見ろ! (月桂冠を指し)月桂冠を得たものは、女子をも共に得べきものだ! 俺の頭には月桂冠が輝いている。(女子を見)女子は俺のものだ!
領主 月桂冠は、死んだ若《わか》が戴くべきものだ! 汝の歌った一曲は、若が歌うべき「死に行く人魚」の歌ではないか。(鋭く)盗める曲に何を与う!
騎士・音楽家 (声を揃え)盗める曲に何を与う!
小供一同 (声を揃え)盗める曲に何を与う!
領主 (柩の蓋《ふた》をはずし、死せる公子の姿を現わす、屍は白き花を以て飾られたり)この屍に罪を謝し、疾《と》く月桂冠を取りはずせ!
Fなる魔法使い (悠然と月桂冠をはずし)最大の悪、最後の手段! それが盗んだ曲である。(月桂冠を高くかざし)天にありては月、地に咲きては花、桂の冠がわが手を離れ、(女子を見て)一人の女の手に渡る。(と女子に冠を渡し)女よ、それを誰に与える。それを得たものがお前の良人だ! (領主を見て)お前を救ったあの老人へか、(柩の中の公子を指し)鈴蘭の花の送り主か、(自分を指し)紫の袍を着た、銀の竪琴を持った、Fなる魔法使いのこの俺か!
領主 (熱心に)我に与えよ!
従者 お殿様へ差し上げなされませ。
騎士・音楽家 (声を揃え)公子に与えよ、最後の勝利者の公子に与えよ!
小供一同 (声を揃え)公子様へ、公子様へ!
Fなる魔法使い 我に与えよ、血薔薇の送り主なる我に与えよ。
(女子は月桂冠を胸に抱きしまま失神せるものの如く彳《たたず》む。室内静。女子引きつけらるる如く公子の柩に近づく。時に、何処よりともなく哀怨の調べにて「死に行く人魚」の歌聞こゆ)
女子 (突然悲しき声にて)人魚、人魚、死に行く人魚! (と柩の上へ身を蔽い)若様! (燈火一時に消え、月光青く窓より入る、女子悲しげに叫ぶ)
女子 若様、若様! 私も貴郎と一緒に参ります、遠い遠い海底へ……。
(声細り行くと共に、場中再び明るくなる。見れば、女子は柩の中の公子を抱き起こし、かかえしままにて気死す。公子の頭には月桂冠あり。領主は気死せる女子を支えて片膝をつき。騎士、音楽家及び小供と使女の大勢は、それぞれの形にて、十字を切りて葬礼の姿を現わす。――Fなる魔法使いは正面の口より出でんとし、斜に姿を観客に見せる。従者は床に伏して泣く。鉦の音。哀しき歌)
Fなる魔法使い 誘惑より勝るものが此処にある。
(銀の竪琴をかき鳴らし)この音の響く方へ俺は行こう、そこで再び女を試みよう。(間)けれども此処へはもう来まい。此処には俺より強いものがある。
(再び銀の竪琴をかき鳴らす。その音場に充《み》つ。音と共にFなる魔法使い退場)
その日のために
場所 一室
人物 女子
その弟(ヨハナーン)
巨人
影の人(多数)
一場
一室。四方灰色を以て塗る。天井より青白き光線さし下る。左右に口ありて堅き鉄の扉を以て閉ざす。室の正面中央に大なる窓。窓には鉄の格子あり、黒き掛け布ありて半ばしぼられたり。窓を通して陰鬱なる高塔見ゆ。塔の下は水門にして濁水そこに流れ入る。窓に対して一台の織機《はた》あり。一人の女子その機を織る。綾糸は、青、赤、黄、白、黒の五色とす。糸は天井より垂れ下る。
夕暮。
女子 (機を織りつつ歌う)
美しき色ある糸の
綾を織る人の一生、
五色《いついろ》の色のさだめは
苧環《おだまき》の繰るにまかせて、
桧の梭《ひ》の飛び交うひまに、
綾を織る罪や誉《ほまれ》や。
(窓より塔をすかし見て)日は未《ま》だ暮れぬそうな。塔の頂きの影が消えぬ。(また歌う)
五色《いついろ》の色の機織《はたお》り、
一日を十年《ととせ》に数え
幾日|経《へ》にけん。
(機を織る手をとめて)ああ私は此処に幾年居るのだろう。月も日も春も夏も、ただ窓ごしに見るばかり、それにあの黒い塔が、いつも窓の外に立っていて、外を見る私の眼をさえぎって[#「さえぎって」に傍点]いる、鳥が飛んでも雲が歩いても、風に小歌が響いて来ても、木の葉に時雨が降りかかっても、蝶が散る花に囁いても、私はただ窓ごしに見るばかり。それもあの黒い塔が、私の見る眼をさえぎるので、思うがままに見ることが出来ぬ。(間)あの塔の物凄さはどうだろう。唯《ただ》その姿を見ただけでも、血汐が凍ってしまいそうだ。――夜でも昼でもあの塔には湿った影がついている。そのしめった影が昼は塔の頂きにあるが、夜は灰色の壁を伝《つたわ》って、水門の方へ下りて来る。その様子が恰度《ちょうど》、墓場を巡る燐の火に人の魂が迷うようだ。ああ、ああ、あの塔は墓場かも知れぬ。(沈思)墓場かも知れぬ。けれども私は、まだ一度もあの中へは這入《はい》って見ぬ故、塔の中には何が居るやら、どんな秘密が籠っているやら、どんな悲しみが住んでいるやら、どんな恐怖がひそんでいるやら、私には解らない。(間)わからない方がいいのかも知れぬ。解った時は私の運命の沈む時かも知れぬ。(間)あの塔の中には私のお父様もお母様も、そして代々の御先祖様も、みんなおいでなさるのだそうな。そしてその人達が私の来るのを待っているそうな。塔の面にちらつく人影は、その人達の影だそうな。(機に手をかけ)そしてこの綾糸の切れた時、私も塔へ行かねばならぬ。それが私の身にかかっている命の預言、それが私のこの世の運命《さだめ》。(二三度機を織り)私はどうしてもあの塔へ行く気にはなれぬ。晴々《はればれ》しい光も、なつかしい色も、浮き立つような物の音も、何一つ楽の無い、あの灰色の墓場の塔へ、私はどうしても行く気にはなれぬ。あの塔の中にあるものは、もの恐ろしい沈黙と、総てのものを支配する大きい大きい暗黒ばかり、その沈黙と暗黒とへ、私はこの身を何んで投げよう。私はいつまでも此処にこうして機を織っていよう。(と機を織りつつ歌う)
若き世の恋の色彩《いろあや》、
日の如き赤き喜《よろこび》、
ああそれもまたたく消えて、
墓を巡る夕月の色、
悲しみの青き綾糸、
人生《ひとのよ》の縦《たて》となりけり。
(塔を眺め)そろそろ日が暮れると見えて、塔の上の湿った影が、だんだん下へ下《お》りて来る。あの影の下りきらぬ中に、私は機を織らねばならぬ。(無音にて機を織る。――杳《はるか》の屋外にて、堅き城門の開く音す。女子は機の手を止《と》めて耳を澄ます。その音尚かすかに響き来る)
女子 剣でかこまれた第一の城門が、たやすく開《ひら》く筈はないが、(と考え)今の音はどうやらその城門が開いた音のように思われる。(音なお残りて聞こゆ)あれあれまだ鳴っている。鋼鉄の琴のゆれびきのように、あれあれまだ鳴っている。(音次第に幽《かすか》になりて遂に止《や》む)止んだ! (と淋しく笑い)私の耳の空聞《あだきき》だろう、剱で守られたあの城門が、何んで容易《たやす》く開くものぞ、あの音は空の真ん中で鳴りはためく、雷の音であったのだろう。(やや長き沈黙。音の有無を聞き澄ます。――塔を吹く風の音)塔を吹く風の音が、挽歌のように鳴っている。(水門へ流れ入る水の音)そして水門へ流れ入る水の音が、屍をのせた柩の舟を運び行くように聞こえている……。ただそれだけだ。……何も聞こえない。……城門が開《あ》いたと思うたのは、ほんの私の空耳だろう。(間)空耳で幸いな。あれが空耳でなかったら……。ほんに城門が開いたのなら、(恐ろしげに)私の運命が……運命の糸が切れるだろう。それが私の身にふりかかっている、命の預言! この世の運命《さだめ》……そんなことがあるものか、私は長く長く此処に居て、五色の糸を織る身じゃもの。今の音は、雲の間で空しく鳴る、意味のない雷の音よ! (されど不安そうに耳を澄ます。静。女子淋しく笑いて機に手をかけ、五色の糸を見て驚く)――糸が切れた! (青と赤との糸切れてあり)青と赤との糸が切れた! (と機より立ち上がらんとして再び座し、手にて顔を蔽《おお》う。忍び泣き。三分間。やがて女子顔を上げて、残りの三色の糸を見る)ああ、私は何も云うまい。まだ三色の糸が残っている。私は三色の糸で機を織ろう。この三色の糸の切れぬ中は、私は此処に居られる身じゃ……。私は何も云わぬことにしよう。(女子再び機を織る。以前よりは悲しき声にて歌う)
白糸の清ければ
乙女心よ、
やがて染む緋や紫や
あるは又罪の恐れの
暗《やみ》に似てか黒き[#「か黒き」に傍点]色の
罪の黒糸
罪の黒糸。
さまざまの色ある糸の
綾を織る人の世の象《さま》
ああ斯《か》くて日を織り月を
年を織り命を織りて、
人生《ひとのよ》を織りて行く梭か。
(その日のために)
(歌声やむ時、第二の城門の開く音す。女子耳を澄ます)
女子 第二の城門は瀧のように落ち下る、泉の水で守られている。(やや間近に聞こゆる余韻を追い)その城門も開いたのか? 私の身の上にふりかかっている命の預言が近づいた。(塔をすかし)ああ塔の上の人影は今は水門の上へ下りている。やがてこの室へ忍び入るのだろう。そして私を、あの塔の中へ導いて行くのだろう。(耳を澄まし戸外の音を聞く)誰やらが歩いて来る。足音は小供の足音のように軽く小さく聞えて来る。私の身代りにこの室へ来たのかも知れぬ。物凄い城門の音に送られて、此処へ来る不幸の人は、女ならば機を織り男ならば琴を弾《ひ》き、一生を此処で暮らさにゃならぬ。(機糸を眺め)ああまた白い糸が切れたそうな。後に残ったは黒と黄との二色ばかり、私はこの糸の切れるまで、此処で機を織らねばならぬ。そして二色の糸の切れた時、私は静かにこの室を出て、あの塔の影となる。それが私の命の預言。(と機に手をかけ、織りながら歌う)
人生を織り行く梭の
絶ゆる日に琴の音鳴らん、
七筋の調べの弦《いと》に
黄なる糸|運命《さだめ》の糸を
ひきかけて
鳴らさんものか。
(その日のために)
(第三の城門の開く音間近く聞こゆ。女子織る手をとめる)
女子 黒い糸もまた切れた! (と決心せる如く機《はた》より立ち離れ、場の中央に立ちて下手の口の堅き鉄の扉を見詰む。――扉の外にて軽き足音聞こゆ)
女子 軽い足音がする。このもの寂しい室へ来るには、あまりあどけない[#「あどけない」に傍点]足音だ、小供の足音だ。
(足音近づくと共に、七弦琴の音聞こゆ)
女子 (耳を澄まし)七弦琴の音がする。私の幼《ちいさ》い頃、この室へ来ぬ前に、弟と一緒に弾いた七弦琴の音がする。(一層《ひときわ》高く七弦琴鳴る。その音絶えると同時に、堅き鉄の扉は自《おのず》と開けて一人の愛らしき少年現われる。手に七弦琴を持つ)
少年 (女子を眺め)お姉様!
女子 (驚き)誰なの?
少年 (無邪気に、さも悦《うれ》しげに)お姉様、お姉様、私はお姉様を尋ねて来たのよ。
女子 お前さんは誰なの?
少年 ヨハナーンよ!
女子 ヨハナーン?
少年 お姉様の弟の。
女子 弟?
少年 お姉様! お姉様は私を見忘れたの! 私はお姉様の弟のヨハナンよ!
女子 (少年を凝視し、にわかに馳せ寄る)ヨハナーン! ヨハナーン! ほんとにお前は私の可愛いヨハナーン!
少年 (姉にすがり)お姉様! (となつかしげに顔を見る)
女子 (少年を抱き幾度も接吻し)ヨハナーンや、私の大事の大事のヨハナーンや! どうしてこんな[#「こんな」に傍点]所へ来たの? え、どうして此様所《こんなところ》へ来たのです。
少年 (なつかしげに。姉に接吻し)お姉様に逢いに来たのよ。……そしてあのお歌を聞きに!
女子 あのお歌?
少年 ええ、ええ、お姉様のお歌を聞きに来たのよ。
女子 お歌を? まあ!
少年 ええ、ええ、お姉様のお歌を。
女子 まあ……。
少年 ね、お姉様、あのお歌を教えて下さいな、お姉様が一度っきり私に教えたあのお歌を!
女子 一度っきり教えた。
少年 お姉様が、私を棄てて遠い所へ行《いら》っしゃる日に、一度っきり私に教えたあのお歌よ!
女子 どんなお歌だったかねぇ。
少年 「その日のために」って云うあのお歌よ!
女子 (驚き)「その日のために」?
少年 大変悲しい節《ふし》のあのお歌を、いま一度お姉様のお口から聞きたいの。
女子 それでお前さんは此処へ来たのかい。
少年 あのお歌を聞きたいばっかりに、私はお姉様をさがしたの。……そして、とうとう私はお姉様を見つけ[#「見つけ」に傍点]たのよ。ね、お姉様。お姉様は其処にいらっしゃるでしょう。――ああ私はほんとに安心した。(となつかしげに見る)
女子 (ヨハナーンを引き寄せ、そのままそろそろと機の所まで行き、腰を踏台の所へ下ろし、ヨハナーンを膝にすがらす)ええ、ええ、姉様は此処に居りますよ、お前さんがそのように、なつかしがる姉様は此処に居りますよ。(悲しげに)間もなく別れねばならぬ身なれど……。(ヨハナーンを凝視し)ヨハナーンや、お前さんはそんなにこの姉さまが恋しいのかぇ。
少年 お姉様のことばかりを私はしじゅう思っていたの。……そしてお姉様の歌ったあのお歌を!
女子 「その日のために」と云う歌をかぇ。
少年 お姉様、あのお歌をいま一度歌って下さいな。私はあのお歌を、お姉様のお口から唯一度聞いたばかり故、まだあのお歌の文句をよっく知らないのよ。
女子 ほんに唯一度きり、それもお前さんと別れる日に、唯一度っきり教えた歌だったねぇ。
少年 だから私は、あのお歌の文句を未だ知らないのよ。……けれどもね、節《ふし》だけは知っているのよ。節だけはね。
女子 まあ、節だけは知っているの?
少年 節だけはね。私この七弦琴に合わせて弾《ひ》くことが出来るのよ。けれども文句を知らないから口で歌うことは出来ないのよ。
女子 (考える。――やや長き間)ああ、それも悲しい一つの預言じゃあるまいか。
少年 (心配そうに)お姉様、お姉様、節だけ知っていて文句を知らぬのは大変悪いことですか。ええ何故そんなに心配そうなお顔をするの、お姉様がそんなに心配そうなお顔をすれば、私はほんとに悲しくって。
女子 (心を取り直し)いいえ、何も姉様は心配してはおりませんよ。……だがね、お前さんが、節だけ知っていて、文句を知らぬと云ったから……。
少年 ほんとですもの、私ほんとに節だけは知っているけれど……。
女子 ええ、ええ、そうでしょう。それはいいけれど。(と考え)恰度《ちょうど》、思うことは出来るけれど、知ることが出来ぬと同じようだ。朧《おぼ》ろ気《げ》に感ずることは出来るけれど、ほんとに見ることが出来ぬと同じようだ……。
少年 お姉様は何を云っているの。私には解らないのよ。
女子 いいんですよ。……ああ、けれどもね。
少年 ええ、ええ、お姉様!
女子 お前さんが、その歌の文句を知ることが出来る時は。……お前さんは自分の運命を知る時ですよ。
少年 ……私の運命。……それは何?
女子 此処へ来た運命をね。
少年 (笑い)お姉様、お姉様。私は此処へ何故来たか知っていてよ。ええ、ええ、よーっく知っていてよ。
女子 (驚き)まあ(とヨハナーンの顔を熟視し)知っているの?
少年 そんなこと何んでもないわ! 私はね、此処へ大事の大事のお姉様を尋ねて来たんですもの……。
女子 (少年に頬ずりをし)そうかぇ、そうかぇ、ああ、ほんとにお前さんは無邪気だねぇ。(窓ごしに塔をすかし見て)けれども、あの塔の影を見る時には、もうその無邪気はなくなるだろう……。(少年を抱きしめ)ヨハナーンや!
少年 (何んとなく悲しげに)お姉様!
(両人無音にて顔を見合わせ、かたく抱き合う)
少年 (四方を見廻し)お姉様、このお室《へや》は淋しいね。
女子 (四方を見)そうお思いかぇ、ヨハナーンや!
少年 (恐ろしそうに)お姉様、このお室には何故|燈火《ともし》がついて[#「ついて」に傍点]いないの? ただ高い高い天井から、青い光が落ちて来るばかり。……お姉様! あの青い光は何処《どこ》から来るの?
女子 恐ろしい所から来るのじゃありませんよ。ただ天井から。
少年 (天井を見上げ)天井の高いこと、どこが限りだか解らない。――お姉様、どこが限りなの?
女子 ……姉様も知りません。
少年 お姉様も知らぬ遠い所から、青い光は来るんだね。……お姉様! 何故此処には寝台が無いの?
女子 このお室に居る人は、夜も昼もしじゅう機を織らねばならぬ故。
少年 (不思議そうに姉を眺め)夜も昼も?
女子 ええ、ええ、夜も昼も五色の糸の綾を織るの。(と機を指さす)
少年 (機を眺め)あの機で織るの?
女子 (頷く)あの機で!
(少年機の傍に行き、触り見る。)
少年 冷たい機!
(再び姉の傍に来て顔を見上ぐ。水の音聞こゆ)
少年 お姉様、外には何があるの。恐ろしい水音が聞こえてよ。
女子 あれはね、暗い水門へ流れ入る水の音です……その水門へ流れ込む水は、二度と再び明るい世界へ出られないんですよ。
少年 その水門はどこにあるの?
女子 このお室の外。
(塔を吹く風の音聞こゆ)
少年 (耳を澄まし)お姉様、風が吹いているね。
女子 塔を風が吹いています。
少年 塔?
女子 水門の上にはね、高い塔があるんですよ。その塔の中にはね……いやいや……何も教えまい。(と急に思い返して黙す)
少年 (姉の顔を熱心に視て)お姉様!
女子 (無音にてヨハナーンを見る)
少年 (熱心に)塔?
女子 いいえ、何もありません。
少年 お姉様! 塔?
女子 いいえ、あの音は水門を吹く風の音です。
少年 その水門の上の塔?
(女子立ち上がり、窓より塔をすかし見る、塔に月光さす)
女子 夜になった、青ざめた光が塔の頂きに流れている。……いいえ、外には何もありません。(と身を以て窓を蔽《おお》い)ヨハナーンや。
少年 お姉様。
女子 (淋しげに)ね、もう風も吹かないでしょう。
少年 塔の中には何がいるの?
女子 ええ。
少年 塔の中は暗いでしょう。
女子 ヨハナーンや。
少年 塔の中は暗いでしょう、恰度お墓のように。
女子 ヨハナーンや、ヨハナーンや!
少年 お姉様。(泣き声にて)お姉様、塔へ行ってはいやよ。
女子 (こらえず)ヨハナーンや、そんなことお云いでない。……いえ、いえ、塔も何もないんですよ、姉様はね、いつまでも、いつまでも、可愛いお前と一緒に居りますよ。一緒にね、一緒にね。
(場内静。羽虫ときどき青き光を掠めて飛ぶ)
女子 (少年の頭を撫でて)ヨハナーンや、昔二人で一緒にいた頃はほんとに楽しかったねぇ。あの頃のお話をしようじゃありませんか。……悲しいことや恐いことは云いっこなしにして、あの頃の楽しかったことばかりを話し合いましょうねぇ。……何故お前さんはそんなに寂しい顔をしているの、もっと悦《うれ》しそうな顔をおしなさいよ。姉様と一緒にいるんじゃないかい。ね、姉様と一緒に。(小声にて)別れが二人の前に迫ってはいれど。(やや暫時無音――気を取り直し)ヨハナーンや、姉様はお前といつまでも、此処にじっとしておりますよ。ね、だから昔の話をしておくれ。昔お前さんと私と一緒にいた頃の、楽しかったお話を。……二人はお日様の暖かい土地に居たっけねぇ。
少年 (悦しそうに頷き)ええ、ええ、暖かい丘の上に私どものお家はあったのよ。花時《はなどき》にはいい香がかおって来て、桃色の窓掛の裾から私どものお室へはいって[#「はいって」に傍点]来てよ、そして緑色と金色とで羽根を飾った小さい鳥が、しじゅう丘の草原とレモンの花の間と、窓の外の欄干で啼いておりましたっけね。
女子 そのお家にいた頃、お前さんの一番楽しかったことはどんなこと?
少年 楽しかったこと?
女子 今に忘れられない楽しかったことは、どんなことだか云ってごらん。……姉様にそれを聞かせておくれ。
少年 いろいろ楽しかったことはあったけれど、みんな忘れてしまったのよ……。けれどもね……。
女子 ええ。
少年 唯二つあるの。
女子 二つ! そう、それはどんなことなの。
少年 それはね、楽しかったことじゃないのよ。
女子 そんなら悲しかったことなのかい。悲しいお話なら止《や》めにしましょうよ。(間)お前さんが此処へ来たからには、これからはもう悲しいこと寂しいことばかりが、一生つづいて来るのです。……わざわざ昔の悲しいことまで思い出さずともよいのだよ。
少年 いいえお姉様! 悲しいことでもないのよ。ただ忘れられないことなのよ。ええ、ええ、少しは悲しいことだけれど。……それはね、私のほんとに小さい頃のお話よ。或る日私はね、揺籠《ゆりかご》に乗ったままお庭の何処《どこか》へ置かれていたのよ。私の頭の上には広い広い青い幕が丸く一ぱいに広がっていたのよ。
女子 それは晴れきった青空でしょう。
少年 彼方《あっち》からも此方《こっち》からも可愛い声で、私を呼んだり挨拶をしたりして、美しい色の間を飛び廻っているものがあるの。
女子 小鳥が花の間で啼いていたんですわ。
少年 私はじっと黙ってそれを聞いていると、いい香りの風が私の顔をさすって行くのよ。……私は母指を口の中に入れて、それをチュウチュウと吸いながら、眼を細めて呆然《ぼんやり》としていたの、けれども私は寂しかったのよ。何故ってね、一人も私の傍に人がいないんですもの、いつも私を眠らせたり、やさしく頬を吸ったりして、可愛がって下さった女の人も、その日に限っていないんですもの。私は一人でそのお庭に棄てられていたんですの、お姉様。
女子 それからどうしたの。
少年 その中に急に私は泣き出したの。
女子 どうしたんでしょうねぇ。
少年 それはねぇ。黒い大きい幕のようなものが、私の体の上へ垂れ下って来たんですもの。……四方がにわかに薄暗くなって、やさしい歌も美しい色も、一時に消えてなくなったのですもの。……それで私は泣いたのよ。
女子 まあ、それから。
少年 その中にね、私はお庭からお室へつれて行かれたのよ。……お姉様! そのお室に何があって?
女子 姉様は知りません。
少年 四角なもの!
女子 四角なもの?
少年 白いかけ布[#「かけ布」に傍点]をした四角なものよ。……その上に人が寝ているのよ。
女子 ああ、病人の寝台です。
少年 その上に人が寝ているのよ。……冷たい顔をした人が寝ているのよ。……その人はね、いつもやさしい歌を歌って私を眠らせたり、私の頬をそっと吸って下さった女の人なのよ。私はその人の手に抱かれている時にね、一番安心していたんですの。一番気強く思われたのよ。……その人が青い冷たい顔をして寝台の上に寝ているの。その人を取りかこんで沢山の人が泣いているの。お室は寂《しん》として淋しいのよ。そして四方が暗いのよ。窓からはね、黄いろいお日様がのぞいているばかり……。
女子 (思いあたれる如く)ヨハナーンや!
少年 その日から私は、もうそのやさしい女の人を見ることが出来なかったの、そして何んだか物足りないような気がしたの。
女子 ヨハナーンや、それはね……。
少年 お姉様、私はその日のことがどうしても忘れられないのよ。
女子 それはねぇ、ヨハナーンや、お母様のお死になされた日のことですよ。
少年 (深く考えるが如き様子。――大人《おとな》の如く厳乎《まじめ》なる表情。やや長き無音)それから外に、もう一つあるの。……忘れられないことが。
女子 云ってごらんなさいな。
少年 それはねぇ、お姉様。(と姉を熟視す)
女子 どんなこと?
少年 (声をひそめて。姉の顔を熟視せるまま)あのお舟よ!
女子 お舟ですって?
少年 灰色のお舟よ!
女子 (無音。考う)
少年 お姉様を遠い所へつれて行った。
女子 (ハッとして、眼を見張り、立ち上がる)まあー。
少年 (勢いこんで、言葉急に)灰色のお舟よ、灰色のお舟よ、お姉様をこんな所へつれて来た灰色のお舟よ。……あの恐い小さいお舟が私の眼にちらついているの。
女子 (打ち消さんと)ヨハナーンや、それはお前の何かの思い違いですよ。(小声にて)ああ、けれど、小供の神経と云うものは、小供の記憶と云うものは……何んて不思議に……ヨハナーンや、(少年の首を胸に介《かか》え)ヨハナーンや、そんなことは忘れてしまうものですよ。あんなことはね。覚えていても益のない、ほんの妄想と云うものです。……ヨハナーンや……何も何も……。
少年 いいえお姉様、私はどうしても忘れることは出来ないのよ。……あの日にお姉様が始めて私へ、あのお歌を教えて下さったんですもの。……「その日のために」って云う悲しいお歌を。
女子 まあ。
少年 あの日私は大変|此処《ここ》が躍っていたのよ。(と胸に手をあてる)そして、泣きたいような気がしたのよ。泣いたって駄目よっと思うけれど、それでも泣きたいような気がしたの……そしてね、お姉様!
女子 (ヨハナーンを憐れ気に見る)
少年 私はもうちゃんと知っていたのよ。
女子 何を知っていたのです。
少年 お姉様と別れることを。
女子 まあ……ほんとにかい。……ヨハナーンや。
少年 ええ、ええ、ちゃんと知っていたのよ。何故って云うにね。その日の気持ちが、恰度、あの日に似ていたからよ。
女子 あの日?
少年 私に親切だった女の人と別れる日に。……寝台の上の……。
女子 まあ。お母様と別れる日とかぇ。
少年 ええ、ええ。……そうよ。だから私は心の中で今日はお姉様とも別れるのだと思っていたのよ。
女子 ヨハナーンや。――お前さんは!
少年 あの日二人は、岩の上に座っておりましたっけねぇ。二人の前には濁った海がどんよりと広がっておりましたわ。雲が遠くの海に垂れて、空と水とが同じ色に染めつけられていましたわね。……二人は岩の上に座ったまま黙って考えておりましたわね。何故黙っていたんでしょう。
女子 いろいろのことを考えていたからですよ。
少年 その中に急にお姉様が歌をお歌いなされたわ。おのお歌を[#「おのお歌を」はママ]、「その日のために」って云う悲しいお歌を。……なぜ、あんなお歌を歌ったの?
女子 (暫時沈黙。やがて総て決心せるが如き語調にて簡単に)歌う時が来たからですよ。
少年 歌う時が?
女子 ヨハナーンや、あのお歌はね、お母様が私共を棄てて遠い遠い所へ行かれる日(塔をチラリとすかし見て小声にて)あの塔の中へ行かれる日、(大きく)私に教えて行った歌ですよ。……もう二度逢えぬ名残りだと云ってね……。
少年 お姉様!
女子 ヨハナーンや、あのお歌はねぇ。この世の名残りに歌う歌ですよ……。
少年 そんな悲しいお歌を、何故あの日お姉様は歌ったの。
女子 歌う日が来たからですよ。
少年 二度と逢えぬお別れの日が、あの時来たの。
女子 ええ、ええ、あの日がそうです。
少年 お姉様! (と一寸笑い)それだのに今日また二人は逢えたねぇ。……お姉様と私と……。
女子 ヨハナーンや、それはねぇ。
少年 二人は逢われたわ。……そしていつまでも一緒に居られるのよ。此処にねぇ……。
女子 (独言の如く)一緒に居られるって、一緒に居られるって。……ああヨハナーンや、お前さんは、ほんとにそう思うの……。
少年 だってお姉様!
女子 (思い返し)ええ、ええ私共二人はいつまでも一緒に居ることが出来ますとも。……ええ、ええ、居ることが出来ますとも。……だがね、ヨハナーンや。
少年 (無邪気に)ね、一緒にいつまでも居られるんでしょう。……そして、(笑い)だから、ほら、あの日は二度逢えぬお別れの日じゃなかったわ。
女子 いいえ、ヨハナーン。(と厳《おごそ》かなる言葉と態度を以てヨハナーンに迫る。ヨハナーン、何んとなく、一大事を明かさるるにはあらずやと思う如く、姉の顔を注視す。緊張せる沈黙)
女子 ね、ヨハナーンや。……今お前さんは、歌の節だけは知っているけれど、文句を知らぬと云ったじゃないの?
少年 ええ、ええ、お姉様、私文句は知らないのよ。
女子 ね、そうでしょう。……そしてお前さんはそのお歌の文句を知りたくて来たんでしょう。
少年 ええ、ええ、そうですよ。
女子 ね、そうでしょう。……だから二人は逢われたんです。……あの日お前がいま少し大きければ……。
少年 お姉様! (と深刻の眼つきと声)……恐《こわ》い!
女子 (四方を見て)いいえ、恐いことはありません。……ただね、二人は此処であのお歌を、いま一度歌うのです。
少年 (何となく総てを知りしが如き様子)お姉様が歌うのを私は聞いているの。
女子 ええ、ええ、そうです。
少年 (姉の手を取り)お姉様! そして私がそのお歌の文句を覚えるんでしょう。
女子 ええ、ええ。
少年 (身をふるわせ)お姉様! そして二人は別れるの。
女子 (ヨハナーンを抱かんとして手を出し)ヨハナーンや、そんな……。
少年 お姉様、此処《ここ》が! (と胸を抑え)大変躍るのよ。
女子 いいえ、いいえ。……そんなこと。
少年 あの日のように大変躍るのよ。
(二人は立ち向かいしまま無音。戸外は風と水の音。やや長き沈黙。――やがて相方進みよりて顔を見合わす。――突然ヨハナーンは痙攣的に泣き出す。姉はそれを抱きしめ)
女子 ヨハナーンや、ヨハナーンや、泣いてはいけませんよ、いけませんよ。私はお前と一緒に此処に居りますからね。いいえ、別れるんじゃありませんよ。ね、ね、ね、ヨハナーンや。……何故泣くんです。……泣くのはおやめ、泣くのはおやめ! 泣くのをやめて、さあ、お話のつづきを話しておくれ。ヨハナーンや……そしてどうしたの。私が歌を歌った後でどうしたの?
少年 (泣くのをやめる)お姉様! (とすすり上げ、また胸を抑えて、恐々《こわごわ》四方を見廻す。姉は密かに窓に行き、黒き布を窓に垂れる)
女子 ね、もう胸の動悸も直ったでしょう。……泣くのはおやめ! ……そして話のつづきを話しておくれ。(独言の如く)ああ、このような昔のことを、二人で話すのもほんの僅かだ。……塔の中、塔の人!
少年 (恐る恐る)それからねお姉様!……お姉様がお歌をお歌いなされた後で、私に二つのうらうづ貝[#「うらうづ貝」に傍点]を下されたでしょう。二つのうらうづ貝[#「うらうづ貝」に傍点]を。――お姉様、それを覚えていて。
女子 いいえ、(頷き)ああ、そうそう。二つのうらうづ貝[#「うらうづ貝」に傍点]をお前さんにやったっけねぇ。……そしてお前さんはそれでどうしたの。
少年 一つを眼にあて、一つを耳にあてるんだって、お姉様はおっしゃったでしょう。
女子 (無音)
少年 私はその通りにしたの。……大きい方を耳にあて、小さい方を眼にあてたのよ。……するとお姉様はこう云ったでしょう。「耳の貝で海を聞き、眼の貝で海を見ろ!」って……。
女子 (無音)
少年 私は一生懸命に耳の貝で海を聞き、眼の貝で海を見ていたのよ。……するとお姉様がまた「ヨハナーンや、どんな音が聞こえます」って聞くの。「何も聞こえませんよ」って私は答えたわ。ほんとに何も聞こえませんもの。するとお姉様は「その筈です」と云ったわね。お姉様!
女子 (無音)
少年 するとまたお姉様は「ヨハナーンや、海の上に何が見えて」って聞くんです。何も見えないんでしょう、だから私「お姉様、お姉様、何も海には見えません。ただ暗いばっかりよ」って答えたの。「その筈です」ってお姉様は、淋しいお声で云いました。――そして少し経《た》ってから、またお姉様は、「ヨハナーンや、お前さんは沈黙と暗黒とを見ているね、暗黒と沈黙とを聞いているね」っておっしゃるの、そして直《す》ぐにまた「ヨハナーンや、姉様はその沈黙と暗黒のおそばへ行くんですよ、――さようなら、……あれもう灰色のお舟が迎えに来てよ」っておっしゃるの。私は吃驚《びっくり》して耳の貝と眼の貝とを一緒に取ってお姉様の方を振り返ったのよ。
女子 ヨハナーンや、姉様はもうその時、岩の上にはいなかったんでしょうね。
少年 ええ、ええ、いなかったのよ。今までお姉様のいらっしゃった岩の上には、お姉様がしじゅう弾いていらっしゃった七弦琴が置いてあったばかり。……ね、この七弦琴が。(と自分の持ちたる七弦琴を差し出す)そこで私は、岩の上に立ち上がって海の方を眺めたのよ。すると海の遠くの遠くの方に、灰色の帆舟が一艘|辷《すべ》って行くのよ。……空と海とが一重に見える遠くの方へ。……私は心の中で、あのお舟の中にお姉様はいる。……あのお舟でお姉様は私の知らぬお国へ行くんだと思ったの。……そしてもう為方《しかた》がないのよッて思ったの。それでもお姉様、私は三度ほどお姉様を呼んだのですよ。……白い鴎が飛び返って来るばかりで、お姉様のお声は返って来ないのよ。(姉を熟視し)お姉様! あのお舟でお姉様は此処へ来たの。
女子 (厳粛に頷き)ヨハナーンや、それからお前さんは今日までどうして日をくらしていたのです。え。
少年 一人でくらしていたのよ。お姉様の弾いていらっしゃった七弦琴を弾いてね。
女子 どんなお歌を弾いていたの?
少年 私のような年格好の小供の、知っているようなお歌よ。
女子 どんなお歌? ……それを私に弾いて聞かせておくれ。
少年 ええ、ええ。(と躊躇せずに弾き且《か》つ歌う)
南の国の王様が
レモンの花の夕暮に
銀のお笛を吹いている。
銀のお笛は山越えて
湖《みずうみ》こえて鳴ったれば
レモン林の姫様が
明日《あす》は行きます
待ってやと
玉の琴音をかき鳴す。
女子 まあまあ、そんな可愛いお歌を歌っていたのかぇ。
少年 このお歌を歌ったり弾いたりしていたのよ。……けれどもね、その中に私はこのお歌が嫌になったのよ。
女子 何故でしょうねぇ。そんなに可愛いお歌を。
少年 可愛いお歌! そうですわ。このお歌はほんとに可愛いお歌ですわね。けれど私、もうこんな可愛いお歌は厭になったんですの。……もっと、もっと、悲しいような、身にしみるお歌が弾きたくなったのよ。……それでね、お姉様!
女子 それで別のお歌を弾いたのかい。
少年 ええ、ええ、別のお歌を弾いたのよ。……あのお歌を弾いたのよ。「その日のために」って云うお歌を。
女子 まあ。
少年 けれども私、今も云った通り、あのお歌は節《ふし》だけは知っているけれども、文句は知らないんでしょう。だから私、ただ七弦琴に合わせて、節だけ鳴らしていたんですの。……歌は歌わないでね。……けれども私、その中に節だけでは物足らなくなって来たの、どうしてもお歌の文句を知りたくなったのよ。……そして、お姉様! そしてお姉様が恋しくなったのよ。……お姉様に逢いたくなったのよ。……毎日毎日私はお姉様のことばかりを思っていたのよ。
女子 それで姉様を此処まで尋ねて来たの?
少年 ええ、ええ、そして、とうとうお姉様と逢われたわ。
女子 (不思議そうに)けれどねぇ、ヨハナーンや、どうしてお前さんはお姉様が此処に居ることを知ったんです。……そしてどうして一人で此処まで来られたの。
少年 (首を振り)いいえ、お姉様、私は一人で来たんじゃないのよ。
女子 (驚き)一人でない?
少年 大きい人と一緒に!
女子 大きい人?
少年 大きい恐い人。
女子 (無音。――やや思いあたれるが如き様子)ああ。
少年 大きい恐い、そして影のような人と一緒に来たのよ。お姉様。
女子 ヨハナーンや。……そしてその人は。……あのお前さんを……。
少年 ええ、ええ、私を引っぱったり押したりして、此処までつれて来たんですわ。前に立ったり背後《うしろ》に立ったりしてね。……私はその人の歩いて行く方へ歩いて行ったの。……押されるまんまに押されて来たのよ。……私はね、心の中で思ったの。……この人が私をお姉様の所へ連れて行くんだとね。ええ、ええ、その人は唯フッと現われたのよ。フッと現われた人だけれど、なんだか大変偉いようなお人だわ。そして恐いお人よ。……その人はね、いつも私に囁いているの。「行け行け! ただ行け、行け! お前はどうしても行かねばならぬ!」こう私に囁いているのよ。
女子 (凝然たる瞳を以て黒幕をすかして塔を眺む。――失望の色は顔を鉛色に染む)ただ行け行け! お前は行かねばならぬ! その影のような人がそう云ったんだね。
少年 ええ、ええ。
女子 塔の人。塔の人。
少年 お姉様! (と姉を恐ろしげに眺め)そのお人は悪い人ですか……。
女子 いいえ、(間)いいえ、(間)いいえ。(間)
少年 恐い人ですか?
女子 いいえ、(間)いいえ。……その人はね、塔の人ですよ。塔の人……。
少年 お姉様! 私には……わからない……強い人なの?
女子 もうもう、何もお聞きでない。お前さんは、その人に連れられて来たんですもの。……恰度《ちょうど》私が灰色の帆舟で連れられて来たように。……ヨハナーンや! ……その人と一緒に三つの門を越して来られたんでしょうねぇ。
少年 (深く頷き)ええ、ええ、三つの門を越して来たのよ。
女子 やすやすと越せたかぇ。
少年 ええ、ええ、安々《やすやす》と越せたのよ。私を連れて来たその人がね。私の手を引いて門の前まで来ると、門が自然と両方に開《あ》いて、二人が這入《はい》るとまたしまったのよ。開いた時と閉じた時、重い陰気な音がしてよ。その音を聞いた時、私は心の中で、ああもう二度と私はこの門を出ることが出来ないのだと思ったの。……お姉様あの門は何の門? 両方に刃《は》のついてる長い剣が門をしっかりと守っていてよ。お姉様!
女子 お前さんを連れて来た影の人が、何んとかお前さんに云わなくって。
少年 ええ、ええ、むずかしいことを云ったのよ。……肉体を守る剣の門だって。
女子 肉体を守る剣の門! その人の云う通りですよ。……第二の門もらくに越せたの?
少年 泉の水で守られた第二の門も、第一の門と同じように、影のような人に手を引かれて、らくらくと越したのよ。お姉様あの門は?
女子 あの門はね。情の泉で守られた門。
少年 影のような人もそう云ったのよ。
女子 ヨハナーンや! 第三の門は火の門でしょうね。
少年 赤い火の門よ……。
女子 そして熱い!
少年 ええ、ええ、熱い火の門よ!
女子 それもらくに越したのかい。
少年 自然《ひとりで》に門が開《あ》いて、二人はらくらくとこせたのよ。お姉様あの門は?
女子 影の人は何んと云うたの。
少年 熱い魂の門ですって。
女子 その三つの門を越して、この青白いお室《へや》へ来たんですね。……可愛そうなヨハナーンや! ……何も知らぬヨハナーンや! (間――涙と共に)ああ、ああ、可愛そうなヨハナーンや!
(二人無音。――墓の如き静寂。時々塔を吹く風の音と、水門に流れ入る水の音。……ヨハナーン、また痙攣的に泣き出す)
少年 (泣きながら)お姉様! 此処《ここ》が躍ってよ、大変躍ってよ、お母様やお姉様とお別れした日のように躍ってよ。……お姉様、お姉様! 大変躍ってよ。(胸を抑えて姉を凝視す。泣く)
女子 (最早詮方なきを知りしものの如く)ヨハナーン! (沈痛に)ヨハナーン!
少年 お姉様! 私は、(と四方を見て)私は。……(四方を見ておびえる。――姉も四方を見る。――青白き光線室内に充《み》つ)
少年 お姉様、青い光がだんだん濃くなって来てよ。……私の体がだんだん弱くなって来てよ。(塔を吹く風の音)お姉様! あの音?
女子 風の音です、何んでもない風の音です。……ヨハナーンや! さあ姉様の所へおいで、さあ昔のように緊《しっ》かりと抱っこしてあげましょう。……さあおいで。
少年 (後退《あとずさ》りして)いいえ、いいえ。
女子 恐いことはありませんよ、……さあ。(と手を差し出す)
少年 (それをくぐり)お姉様!
女子 ヨハナーンよ! 姉様を恋しがって来たのじゃありませんか、……さあ、その恋しい姉様が昔のように可愛がって抱いてやるんですよ。さあおいで、……お前さんをよく眠らせた子守歌を歌ってあげましょうね。
少年 (姉の傍へそっと行き、その手に抱かるる)お姉様! (と接吻す)お姉様!
女子 (ヨハナーンを数々《しばしば》接吻し)昔のように、さあしっかりと抱《だか》っておいで、もっと緊《しっ》かりと緊かりと。(ヨハナーンの顔を熟視し)姉様をようくようくごらんなさいよ。忘れぬように、忘れぬように。……ね、いつまでも忘れぬように。
少年 (姉の顔を見上げ)青い!
女子 ええ!
少年 青い!
女子 何が?
少年 青いの、お姉様のお顔が……そして冷たい! そして大変悲しそうなお眼だこと。お姉様! ……そしてね、お姉様のお手は骨のように堅い。骨のように。
女子 いいえ、いいえ、ヨハナーンや! 私は昔のようにやさしく抱いているんですよ。……ね、やさしく。……ほら。
少年 いいえ、骨のように堅いのよ。……そして私の、私の、(と胸を抑え)また私の胸が大変躍ってよ。……あの日のように。――お姉様! ほら、ほら、ね、こんなに。
女子 (ヨハナーンの胸を抑え)まあー。
少年 お姉様! お姉様! お姉様! (と痙攣的に泣く)
女子 ええ、ええ、もう。(と塔をすかし見て、絶望的に嘆息す)
(ヨハナーンの泣き声のみ悲哀をこめて場内に響く。――その声、次第次第に細り行く、笛の音の切れんとするが如し。……やや長き沈黙)
女子 (卒然として立ち上がり、上手の扉に向かい耳を澄ます)足音! 足音!(とヨハナーンを床の上に立たす。ヨハナーンはにわかに泣き止め、恐怖に襲われしが如く身をふるわす。大人の如く真面目なる表情)
女子 ヨハナーンや! あの音が聞こえますか。あの音が? おお おお!
少年 いいえ、何も、お姉様何も聞こえは致しませぬ。……ああ、いいえ! お姉様! どんな音? 風の音?
女子 (凝然と扉を見つめ)いいえ、足音! 大勢の足音!
少年 いいえ、いいえ。お姉様!
女子 そうだ。たしかに。(と覚悟せる冷静を以て。されどまた最早躊躇する時にあらずと云うが如き態度にて)ヨハナーンや! さあ!(と云いつつ床上に落ちたる七弦琴を取り上げてヨハナーンに渡し)さあ。(塔をすかし。また扉の外へ耳をすまし)さあ!
少年 (七弦琴を受け取り)お姉様!
女子 (扉を見詰めつつ)歌ってあげましょう。「その日のために」を。……早く!
少年 お歌! (と七弦琴を構える)
女子 (絶えず、扉の外の物音に気をくばり)このお歌は。……(と機の方に近より)いつもこのお室でこの機を織りながら歌った歌ですよ。……ね、さあ、……今日は機の織り終《しま》いに、……歌の歌い終《しま》いに。……歌って織りましょう。(間)ヨハナーンや?
少年 お姉様!
女子 ようッく、ようッく歌の文句を覚えるんですよ。……(と女子機の台に腰を下ろし、梭に手をかける。この時、最後に残りし黄なる糸、中頃より切れて落つ)
女子 切れた! (立ち上がる)
(たちまち、上手の入口の鉄の扉、音なく開けて、影の如き人々の列、表情なき足どりを以て室内に入り来る。――真先には巨人立つ。(巨人もまた影の如き姿)この一列は室を廻りて下手に半円形を造りて、立ち並ぶ。巨人のみ中央に立つ。無音。鬼気。冷風。――然《しか》り冥府の如き冷たき光影! ヨハナーンは巨人の姿を見るや絶叫す)
少年 お姉様! あの人なの、あの人なの! 私を連れて来た人はあの人なの。(巨人を指し、後退《うしろじさ》りに退きしが、そのまま気絶して場内に仆《たお》る。姉は凍れる棒の如くに立つ)
巨人 (表情なき声)女よ! お前の祖先がお前を待っている。(と影の如き人々を振り返る。影の如き人々は一様に広き灰色の衣を左右に拡げ、女子を包むが如き風をなす。冷風衣の下より起こる)
巨人 彼等は塔に住む! 女よ! お前も塔へ行かねばならぬ。……女よ! 塔へ歩め!
(女子は無音にて首を垂れ、機より離れて巨人に近く進む)
巨人 (上手の扉を指さし)塔に歩め!
(巨人を先頭に影の如き人々列を造りて上手の口より出で去る。女子もまた影の人々の如く表情なき歩調にて列の最後より歩み行く。――女子この室より出でんとし、瞬間出口にて振り返り、仆れし愛弟を凝視す。その眼には無限の思慕の情涙と共に溢る……)
女子 (一声)ヨハナーン!
(この声と同時に仆れしヨハナーン飛び起きて姉の顔を見る。二人の視線正しく合す)ヨハナーン!
少年 お姉様! (姉の姿扉の彼方に消え、扉は音もなく刎《は》ね返りて堅く閉ず)
少年 お姉様! (馳せ行きて扉を擲《たた》く)お姉様! (ヨハナーンの呼び声のみ反響す)お姉様よう。……(泣く。泣く声のみ反響す)
お姉様! お姉様! お姉様よう!
(惨酷なる無音。――ヨハナーン再び気絶せるが如くに床上に仆れしまま動かず。その小さき体を青白き天井の光は照らす。三分間静。たちまち窓外より限りなき思慕の声にて幽《かすか》に幽にヨハナーンを呼ぶ)
女子の声 ヨハナーン!
(ヨハナーンふと心づきて頭を上げ室内を見廻す。――姉の姿見えず。自分の耳を疑うが如くなお四方を見廻す。――再び姉の声、此度はやや間近に聞こゆ)
女子の声 ヨハナーン!
(それに引きつづきて哀切の調べにて「その日のために」の歌を歌うが聞こゆ)
美しき色ある糸の
機を織る人の一生
五色《いついろ》の色のさだめは
苧環《おだまき》の繰るにまかせて、
桧《ひ》の梭《さお》の飛び交うひまに
綾を織る罪や誉《ほまれ》や。
(その日のために――)
(ヨハナーン暫時その歌に耳を澄ませしがにわかに飛び起き窓を見詰め)
少年 お姉様!
女子の声 (やや明瞭《はっきり》と)ヨハナーン! ヨハナーン! お歌をよーっく覚えるんですよ!
五色《いついろ》の色の機織《はたお》り
一日を十年《ととせ》に数え
幾日《いくひ》経《へ》にけん。
(ヨハナーンたちまち喜色を顔に浮かべ)
少年 お姉様だ! お姉様だ! あのお声はお姉様のお声だ! 窓の外にお姉様がいらっしゃる。
(と窓に馳せ行き、垂れし黒幕をいっぱいに開く。窓外の光景大きく観客に見ゆ。――塔は空の光に浮き出でて牢獄の如く凄惨として彳《たたず》み、塔の裾の水門もまた鮮やかなり。その水門の上には影の如き人々一列に並び、その前面には巨人立つ。巨人は灰色の衣の袖を上下して上流の小舟を招く。上流には小舟あり、ゆるゆると水門さして流れ下る。小舟の中にはヨハナーンの姉、白衣に包まれ白き百合の花に飾られて仰臥す。眼は見開けども瞳定まらず、ただ仄明るき空を見るのみ。空には小さき月ありて、雲間断なくこれを掠め、風絶えず雲を吹く。雲を吹くの風はまた塔を吹く、塔には悲愁の叫びあり。――光景憐れに冷ややかなり。
小舟はゆるゆると流れ下り窓の下にて暫《しばし》漂う)
少年 (窓の格子より両手を差し出し)お姉様がいる、お姉様がいる、お姉様! お姉様! あれ舟へなど乗って何処《どこ》へ行くの食え お姉様は私と一緒に、いつまでも此処にいると云ったじゃないの。それだのに舟へ乗って、どこかへ行ってしまうなんて! 行ってはいけない、行ってはいけない! ……何故舟へなんてお乗りなされたの? ええ、ええ、そんな恐い厭なお舟へ! ……あっ、そしてお姉様の着物は白いのね! そして白い百合の花が! お姉様、お姉様! なぜそんな白無垢のような着物をお着なされたの……いや、いや、いや! ……あれあれ舟は流れるんだもの、……早く、早く、早く止《と》めてよ。お姉様!(舟は水門の方にゆるゆると流れ行く)お姉様! 舟は何者《なにか》に引っぱられて行くように水門の方へ流れるんですよ。何故|止《と》めないの、何故止めないの! ええ、ええ、お姉様ってばなぜ止めないの!
女子 (ヨハナーンの顔を情深く打ち眺めしまま)ヨハナーンや! (沈痛に)ヨハナーンや!
若き世の恋の色彩《いろあや》、
日の如き赤き喜《よろこび》
ああそれもまたたく消えて、
悲しみの青き綾糸
人の世の縦《たて》となりけり。
少年 (塔を眺め)塔! 塔! 物凄い塔! 先刻《さっき》お姉様が、塔も何もないと云ったのはみんな嘘よ! 嘘よ! あの物凄い厭な塔が……お姉様! ええ、ええ、あの塔の中へ! お姉様が! ……お姉様よう! 行ってはいけない、行ってはいけない! 早く! 早く舟を漕ぎ返しておいでよう! 何故そんなにあお向いて臥《ふし》てばかりいらっしゃるの! 立って立って! お姉様! (と舟を止めんと身をあせり、格子をゆする)私が行く、私が行く! 私が行って舟を漕ぎ返してやる! ……待って、待って! (格子をたたき揺《ゆ》すれど格子は動かず!)
女子 ヨハナーン。
白糸の清ければ
乙女心よ、
やがて染む緋や紫や
或はまた罪の恐れの
暗《やみ》に似てかぐろき色の
罪の黒糸
罪の黒糸
ヨハナーンよ! ヨハナーンよ……お歌をよーっく覚えるんですよ、よーっく覚えるんですよ!
さまざまの色ある糸の
綾を織る人の世の象《さま》
ああかくて日を織り月を
年を織り命を織りて
人生《ひとのよ》を織り行く梭か、
(その日のために――)
少年 ええ、ええ、お姉様! お歌はよーっく覚えますよ。よーっく、よーっく覚えますよ。――だから此処へ帰って来て下さいなよう。……ああ舟が、舟がどんどん流れて行くんだもの! ええ、ええ、誰が舟をひっぱって行く! 誰が誰が!(水門の上の巨人の姿、ヨハナーンの眼に映る)彼奴《やいつ》が! 畜生! 彼奴が! お姉様を! 彼奴が水門の上でお姉様を呼んでいる。私をこんな所へ連れて来た巨《おっき》い恐いあの奴が! ……あれあれあのように広い灰色の衣を振ってお姉様を呼んでいる。……お姉様、早く睨《にら》んでおやり遊ばせ! 行かぬ行かぬと云っておやり遊ばせ! ……あれまだ呼んでいる! 畜生! いっくら呼んだってお姉様はやらぬぞ! 私がやらぬ私がやらぬ! やるものか、やるものか! ……けれども、ああ、ああお舟が流れて行く! 流れながら! ……私とお姉様との間が、こんなに遠く離れてしまった! ……早く、早く、お姉様舟を止めて下さいよう。……そして此処へ来て下さいよう。……ああ、舟が水門へ! あれあれあのように吸いこまれる! ええ、ええ、あのように吸いこまれる!
(舟水門に入らんとす、影の如き人々水門の端に立ち出で、喜び迎うる風をなし、はげしく手を上げて呼び招く)
女子 (悲しき声にて)ヨハナーンよ! (更に悲しく)さようなら!
人生《ひとのよ》を織り行く梭の
絶ゆる日に琴の音鳴らん。
ヨハナーンよ、さようなら!
少年 (両手を差し出し、姉を抱きかかえる如き風をなし)お姉様よう、(狂気の如く手を上下し)舟が水門へ吸いこまれる。……影のような人達がお姉様を引っぱりこむ! あの憎い恐い奴! ……舟がグルグルと渦巻いて。……舟首《へさき》がもう水門へ。……白いお姉様の着物が……黒い水が蛇のようにうねくって。……あッ! 舟が水門へ! ……お姉様よう!
女子 さようなら、可愛い坊や! ヨハナーン!
ひきかけて
(小舟水門の中に入る、影の如き人も巨人も一時に消え失す)
少年 ああれ! (と叫びを上げ)お姉様よう、……もうもう私は、……あんなに云ったのに、とうとうお姉様は水門の中へ。……もう白い着物も見えはせぬ。……水門ばかりが。……黒い水ばかりが。……お姉様よう……。
女子 (水門の中にて)ヨハナーンよ、さようなら!
鳴らさんものか
(その日のために――)
少年 お声がする。……お声だけが水門の中から! ……お姉様のお声が。……お姉様! お姉様! ヨハナーンは此処におりますよ。……アーイ、アーイお姉様、ヨハナーンは此処でお姉様を呼んでおりますよ! お姉様よう!
女子 (水門の中にて)ヨハナーン!
少年 (頭髪をむしり)アーイ、お姉様よう。おお、おお、何んて遠くの方で呼ぶのだろう。アーイ、お姉様!
女子 (水門の中にて)さようなら!
少年 (格子を破らんともがきもがき)アーイ、アーイ、お姉様! ……だんだんお声が小さくなる。……お姉様よう。帰って下さいよう。……水門を出て下さいよう。何故私が止めた時お舟を漕ぎ返して下さらなかったの。……ええ、ええ、ええ、もうこのように水門の中へはいってしまっては。……いえ、いえ、大丈夫、大丈夫! 水門を破って。……あんな水門はじきに破れます。……早く此処へ帰って下さいなよう。……塔へなぞ、塔へなぞ!
女子 (水門の中にて次第に幽《かすか》に)さようなら!
少年 (泣きつつ)あれ、あんなにお声が幽になった。……まだ舟は流れて行くのか知ら? 流れちゃいけない、流れちゃいけない。……何故お姉様は止めないんだろう。……お姉様よう。しっかりと舟をお止めなさいよう。しっかりと! 立ち上がって、立ち上がって!
女子 (水門の中にて、ただ僅かに聞きとれるばかりの哀音にて)ヨハナーン、……さよう……なら……。
少年 (恐怖と不安とに声おののき。口に手をあて)お姉様よう。あれあれ、もう千里も遠くへ行ってしまったような幽のお声が。……お姉様よう。……帰って、帰って……お姉様よう。……(耳を澄ます。沈黙《サイレンス》!)あれ、もうお返事がない! 声の聞こえないほど遠くへ行《いら》っしゃったの? いえいえ、そんなことはない! きっとまだあの水門の口においでなさるんだ! ……今はいったばかりだもの! ……お姉様よう、……ご返事をして下さいよう、私の声が聞こえないの。(耳を澄ます)ええ、ええ、だまっている! ……ええ、ええ、黙っている! (口に手をあて)お姉様よう! 一度っきり、一度っきり(とすすり上げ)、そんならお姉様! いま一度っきり此処へ帰って下さいよう。(沈黙! ヨハナーン失望して声を忍んで泣く。場内静。再びヨハナーン気を取り直し)お姉様一度っきり帰って下さいよう! お姉様は私と一緒に此処にいつまでもいると云ったじゃないの! え、お姉様! それは嘘なの嘘を云ったの? 嘘じゃない嘘じゃ無い! お姉様は嘘なんか云いはせぬ。……それだのにお姉様は私を棄てて塔の中へ行ってしまうなんて! ……塔の中に何があるの? お姉様の好きのものがおありなさるの? え、好きのものがあるの? 嘘々《うそうそ》! 何もありゃしない! あんな黒い恐い塔の中にそんなものはありゃしない。塔の中は暗くて淋しくて冷たいばっかりよ。……何故姉様は黙ってるの、今までヨハナーンと私を呼んでいたじゃないの! ヨハナーンと呼んで下さいよう。何故黙っているの、何故、何故、何故! ……私が憎いから黙っているの! 私が、あんなお歌を歌ったから怒っていらっしゃるの? そんならもう、あんなお歌は歌いませんから、一度っきり帰って下さいよう。……まだ黙っている。……ええ、ええ、私の声が聞こえないの? そこまで届かないの? え、お姉様! 私はこんなに大きい声をして――ああ喉から赤い血が流れそうだ――こんなに大きい声をしているのに何故お返事をしてくれないの? (耳を澄ます、沈黙《サイレンス》!)ええ、ええ、私はこんなにお姉様を恋しがって呼んでいるのに、いつまでもお姉様は黙っている。……(塔を吹く風の音)風が吹いておりますよお姉様! そして大変淋しいの。……お姉様がいない故このお室《へや》はお墓の道のように淋しいのよ。いやいやいや、こんな淋しいお室に一人でいるのはどうしたって厭……お姉様、屹度《きっと》屹度私は、お姉様のおっしゃる通りにおとなしくしておりますから。歌を歌えとなら歌いますし、黙っていろとなら一日でも一年でも屹度口をききません! お姉様のおっしゃる通り、おとなしい子になりますから、いま一度っきり此処へ帰って来て下さいよう。……これ私はこんなに頭を下げて頼んでおりますよ。これがお姉様には見えないの、聞こえないの? 私はこんなに……泣きながらこれこんなに(と手を合わせ、頭を下げる)お願い申しておるのですよ! ……ほんとに、ほんとに……私は、お姉様の弟ですのに。……(泣きながら)ええ、ええ、情けないお姉様だこと! 私がこんなに頼んでいるのに、いつまでも黙っている。……それともお姉様、水門から出て来られないの? そんなことはないでしょう。そんなことはない、そんなことはない! 力まかせに押し破って、お姉様は大人だもの、力まかせに押し破って……そしたら出て来られますよ。早く出て来て下さいよう。……そして私を昔のように抱いて接吻して下さいよう。え、え、お姉様!(耳を澄ます、沈黙《サイレンス》)ええ、ええ、何んてお姉様は!
あれあれどうしたんでしょう私の体がだんだん冷たくなって来ます。お室の冷たいのが身にしみて参ります。……いま少し此処に一人でいれば、このお室の底へ引きこまれるように思われます……お室の冷たい風や青い光に。……ほんに私はもうこのお室で……お姉様ってばよう。
ええ、ええ、私も一層のことお姉様と一緒に、その塔へ行ってしまいたい! 塔へ塔へ! (と格子を破り出でんとあせれど格子は破れず)ええ、ええ、この格子が! ああ私は塔へも行けないの、お姉様よう。……(と格子より手を離せばヨハナーンの小さき体は床上に落つ。すき通るが如き声にて烈しく泣く、その声次第次第に細り行き、遂に断ち切りしが如くに止む。――屍の如き体を天井の青き光と窓外の月とほのかに照らす。――冷酷なる沈黙!)
底本:「伝奇ノ匣1 国枝史郎ベスト・セレクション」学研M文庫、学習研究社
2001(平成13)年11月16日初版発行
初出:「レモンの花の咲く丘へ」東京堂書店
1910(明治43)年10月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2008年11月30日作成
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