ローマ法王と外交—- 国枝史郎

 帝国政府は今回ローマの法王庁へ原田健氏を初代公使として派遣することになったが時局がら洵《まこと》に機宜を得た外交手段だと思う。
 この機会に歴代|羅馬《ローマ》法王のうち特にすぐれた外交家について検討を加えてみよう。
 一体に歴代の羅馬《ローマ》法王は傑物揃いであるが、わけてもヨハネ十二世などは法王の位置をドイツ皇帝の上に置いたことと神聖|羅馬《ローマ》帝国というものを一種の外交手段によって作りあげた点とで記憶さるべき人物だと思う。
 東フランク王国(即ちドイツ)の国王は、前王ヘンリ一世の子のオットーであったが、その即位の際法王ヨハネ十二世は部下のマインツ大僧正を遣わしてその式に列せしめ斯《こ》う云わしめた。
「今オットー一世先王の遺旨により上帝の命に従い、全国の貴族に選ばれて、汝等の王となった。汝等異議なくば右手をあげてその意を示せよ」と。
 群衆は歓呼して是を迎えた。そこで大僧正は王剣を王に授け、
「この剣を取り全国の兵を率いて異教徒を退けよ」と云い、次に外套を取って王の肩へかけ、つづいて杖と笏とを与え、最後に王冠を王の頭上に置いて聖油を注ぎ、即位の大典をリードした。
 こうして先ずオットー一世に恩を売ったのである。
 オットー一世は英邁で、ドイツ王になるやスラブ、デーン、マジャル等の敵性諸民族を撃滅し、又西フランク(フランス)を征し、進んで羅馬《ローマ》法王の居ますイタリヤへ入り、法王を助けてその敵を降したりした。
 そこで早速法王ヨハネ十二世は外交手段を揮《ふる》い、盛儀を執行《とりおこな》い、
「汝を神聖ローマ皇帝となす」
 と宣言し、その冠を頭上に置き、
「イタリイ王をも兼ねよ」と追加して云った。
 これで地球及び歴史の上に忽然と神聖ローマ帝国なるものが出来上がったのであった。しかもその物々しい名称の神聖ローマ帝国なるものの内容はといえば、ドイツとイタリヤとを合わせたものに過ぎないのであり、そうしてそのドイツとイタリヤとは既にオットー一世が平定|乃至《ないし》は攻略したものであったので、何も羅馬《ローマ》法王から今更《いまさ》ら頂戴する必要はないのであるが、それを呉《く》れてやるような形式にして、法王の位置を皇帝よりも上のように認識させたところに、この法王の偉さがあるのである。
 こういう出来事のあったのは西暦九六二年で、わが朝の村上天皇の御宇に当っている。
 次に西暦一〇七三年から八五年に在位した法王グレゴリオ七世の大外交的手腕について検討してみよう。歴代法王のうち、その人物の雄大という点ではこのグレゴリオ七世が最上であるように思われる。法王は大工の子であるとも農夫の子であるともいわれ、微賎の産れであることは疑いなさそうである。約二十五年間に五代の法王に仕え、やがて一〇七三年に法王の位に即いたが、一旦法王となるや法権伸張と教界粛清とに全力を尽し、その英雄の資を発揮して、諸事に大改革を加えた。その結果、俗界の王たるドイツ皇帝ヘンリー四世と衝突せざるを得ないことになった。正面衝突を惹起した原因は、僧官任命権を皇帝の手から羅馬《ローマ》法王庁へ取戻す問題からであった。グレゴリオ七世は断乎としてこの旨を宣言した。即ち、
「羅馬《ローマ》教会は神によってのみ建てられた。すべての僧正は法王によってのみ任命せらるべきである」
 というのである。
 ヘンリー四世の納まる筈はない。皇帝は怒ってウォルムスに宗教会議を開催し、グレゴリー七世法王を廃することに議決した。
 すると今度はグレゴリー七世が納まらず、ヘンリー四世をローマ教会から破門することとし、この旨を宣言した。そうしてその上ドイツ臣民に向い今後皇帝に対し忠誠を致すの要なきことを命令した。この教会からの破門ということは、この時代に於ては一方《ひとかた》ならない力を持っていて、破門されたものはキリスト教の儀式を永久に差止められ、従来の朋友とも交際を絶たれ、知己との会食さえ禁ぜられるという有様で、一度破門を受けた者は終世孤独、寂莫の中に生活しなければならないのであった。皇帝の場合といえども然《そ》うであった。その上ヘンリー四世の場合に於てはドイツ国内の大小諸公伯の不平組がこの破門事件を好機としてヘンリー四世の廃立を企てた。
 こうなっては如何《いか》なヘンリー四世といえども狼狽せざるを得ず、皇帝の尊厳を抛《なげうっ》て法王に破門免除を懇願するより他には手はなかった。

 そこでヘンリー四世は一〇七六年も将《まさ》に暮れようとする頃皇后と皇子と他に従者一人をつれて本国を発し、罪を謝すべくイタリヤに向かって旅立った。途中にはアルプスの険難がある。アルプスといえば先にはカルタゴの雄将ハンニバルが大兵を率いて越え、後にはナポレオンが同じく大兵を率いて越え、いずれも赫々《かっかく》たる戦果をあげたことによって著名であるが、私はこの二将軍の勇壮なるアルプス越えに、ヘンリー四世の悲惨なるアルプス越えを加えて天下三大アルプス越えとしたいと考えている。兎《と》まれヘンリー四世は吹雪《ふぶき》や雪崩《なだ》れに覆われたアルプスを越えて、北イタリヤのカノッサの城へまで辿って行ったのである。それはこの時グレゴリー七世がローマを発ってこの城に滞留していたからである。
 ヘンリー四世は、一人で城を訪ね法王へ謁を乞うた。すると衛士は、
「汝此処に立って法王の許可を待て」
 と、法王の旨を伝えた。
 そこでヘンリー四世は、髪をかむり、洗足で、毛織の服を着て、すなわちみすぼらしい平民の姿で城門の前に佇み、氷柱むすぶ厳冬の候を外気にうたれながら法王面謁の許可の下るのを待った。その日が暮れ翌日となり、その翌日が暮れて三日目となったが法王は面謁しようとはしなかった。見るに見かねて斡旋の労を取ったのは、このカノッサの城主の奥方であった。そこではじめてグレゴリー七世はヘンリー四世に面謁を許し、面謁をゆるされた破門の皇帝は城内に走入り、法王の足を抱き泣いて罪を謝すこと数時間、ようやく破門を免除された。
 何んという羅馬《ローマ》法王の権力ぞや!
 それにしても教権はあっても兵権の無い彼が暴挙に近いこの超非常事件を断行し、羅馬《ローマ》法王の位置をして、皇帝の上遥に、九鼎大呂の如く重からしめたのは、彼の如何《いか》な気質から来ているのであろう? 狂信家なるが故であろうか? いや彼が教界刷新のやり口が秩序整然としていて変質者流の夫《そ》れでないところから推してこの断定はあたらない。けっきょく彼は大外交家であって、如斯の大芝居を打つことによって、物質界の王を倒すか精神界の王倒れるかを試験してみたものと解すべきであろう。
 狂信家といえば、その狂信家のペートルという乞食巡礼の狂態を利用して西洋史上空前の事変たる十字軍の大運動を捲起こした一〇九五、六年時代の羅馬《ローマ》法王ウルバン二世も一代の外交家といってよかろう。
 シリヤなるエルサレムの地はイエス・キリスト終焉の地として名高く、聖地としてキリスト教徒は一生に一度は巡礼となってこの地へ参拝することを念願とした。然るに十一世紀の中葉この聖地はトルコ族の一派セルジュウク人によって占領され、聖廟は荒らされ、遺跡は蹂躪され、巡礼は掠奪迫害され、土地在住のキリスト教徒は殺戮される迄《まで》に至った。この報が西ヨーロッパ一帯に伝わるや諸国のキリスト教徒は義憤を起こして、回教徒(トルコ族)討つべしの叫びをあげたものの夫れを断行するには機いまだ熟さなかった。然るにこの時フランスの巡礼僧にペートルという者があって、親しく聖地エルサレムに至り異教徒の横暴を見、聖地荒廃の態を探ったと称し、且《かつ》、エルサレムの大長老より托されたという書簡をかざし、イタリヤ、フランスの各地を巡り、「すみやかに聖地に行き、異教徒を討払い、キリストの墳墓を清むべし」と絶叫した。この僧の風采は、短躯矮小みるかげもないものであり、身には襤褸《らんる》をまとい腰には縄の帯をしめ、醜穢をきわめていたものの、手に十字架を握り驢馬にまたがり、一度口をひらくや熱弁奔流の如くにほとばしり聞く者をして涙を流させ切歯扼腕させた。上は王侯から下は一般市民をまで感激させたのである。
 この噂を耳にした時ウルバン二世は、「やっと機会が来た。そういう狂信家が出て聖地清掃を叫ぶというのは、天に口無し人を以って云わしむで、キリスト教徒全体がエルサレム恢復を熱望している証拠だ。わしは起とう!」と決心した。折柄《おりから》そこへ東ローマ皇帝からの使者が来て「トルコ人侵寇を防衛するために法王の援助を乞う」という旨を伝えた。「いよいよ思う壺だ。では至急兵を募り、東ローマ皇帝と力を合わせ異教徒を征《せ》め、一には羅馬《ローマ》法王の勢力を強め、あわよくば東西二派に分れているキリスト教を合一させ、その元首となろう」といよいよ決心の臍《ほぞ》を固めた。キリスト教は遥の以前から、東ローマ皇帝を戴くギリシャ正教(東)とローマ法王を戴くローマ正教(西)とに別れ、事毎に争っていたからである。

 こうしてウルバン二世が聖地恢復の遠征軍を起こすべく南フランスのクレルモンへ諸国の城主、貴族、僧侶を招集して大会議を開いたのは西暦一〇九五年十一月十九日のことで、この日法王は自身親しく会議の席に臨み「兵を発して聖地を恢復するは神の意志である」と絶叫し、一瞬にして十字軍編制、エルサレム進撃を決定し、四十万の大軍を翌年第一回十字軍としてエルサレムに進軍させた。
 私が何故法王ウルバン二世を大外交家であるというかというに、当時の封建武士がこの時代に流行した騎士道に心酔し、兎《と》もすると法権を侵す態《てい》の行動をし英気を他に洩らす術《すべ》なき脾肉の嘆をかこっていたのを認め、この十字軍の挙によってその英気を宗教戦に洩らさせ、キリスト教興隆に役立てようとしたその点からである。
 十字軍の功罪、及びその成功不成功に就いては此処《ここ》ではいわない。
 最後に私は、外交家の素質は持っていたが夫れを小策に使ったため教界を腐敗させそのためルーテルをして宗教改革を叫ばしめ新教を樹立させカソリック教を衰運におとし入れたものの、ルネッサン期の大芸術家、又世界古今を通じての大天才たるレオナルド・ダ・ビンチやミケランゼロやラファエル等を庇護し、その才能を充分に発揮させ不朽の傑作を無数に産ませ世界の文化に至大の貢献をした特異の法王レオ十世に就いて語ってみたい。レオ十世はその芸術愛好の精神から当時第一流の建築家ブラマンテの建築手腕に眼を着け、彼をしてこの時代を風靡した復活式の様式を以ってサンピエトロ寺院を建立させ、飾るにダ・ビンチやミケランゼロの絵画や彫刻を以て為ようと企てた。しかし充分の資金が無かったところから、その外交的頭脳から一策を案出し罪障消滅札(免罪符)なるものを売出し、その上がり額を以ってその費用にあてようとした。免罪符というのはその符札を金を出して買いさえすれば日頃の罪障が消滅して死後天国へ行くことが出来るという調法のものなのである。法王はこれを売出すにあたり、ドミニク派の僧侶テッチェルとその一団を馬車に乗せ諸地方を廻らせ大小の旗を立て鈴を鳴らして囃立て、群集の注意を集め、さてその地の教会堂へ入るや数日滞在し真面目に厳粛に儀式を執行する傍《かたわら》、赤色の大十字架の下に置いてある賽銭箱を指さし、「さあ諸君よ、諸君が奉る黄金がチャリンチャリンとこの箱の底へ落ちる時諸君及び諸君の祖先の犯したもろもろの罪障が忽《たちま》ち水の如く流去り泡の如くに消えるのであります」と説明するのであった。そこで参拝の群集が感激して賽銭を投げるや免罪符がその人の手へ渡されるのであった。
 こうしてレオ十世は莫大な金を得てサン・ピエトロ寺院を建立したのであったが、ルーテル出《い》でて九十五箇条の免罪符攻撃の意見書を草し、宗教改革の火蓋を切ったのでこの企ては失敗に終り、諸人非難のまととなった。
 しかし前述の如くダビンチやミケランゼロやブラマンテやラファエル等の大芸術家を庇護したことは世界文化のためには大功績であり、法王の他の諸政策の失敗をつぐのって余りありといってもよいかもしれない。法王がそれら大芸術家を庇護したため、他の諸侯伯や領主、豪族、貴族、富豪、貴婦人等が争って夫等の芸術家を贔屓《ひいき》にし尊敬し援助してその天才を発揮せしめた。その結果ミケランゼロにありては「ダビト」「モーゼ」「天地創造」「メヂチ家の墳墓彫刻」ダ・ビンチにありては「最後の晩餐」「ジョコンダ」ラファエルにありては「聖母子」その他の無数の傑作を産出し、我等芸術にたずさわる者をして生くることの喜びを感ぜしめている。
 さて右の如く偉大なる法王を出したカソリック教の総本家バチカンも星移り物変わり現代にあっては物質世界に於ける勢力は、昔日の如くではない。しかしながら精神界に於ける勢力は、全世界を通じて三億五千万の信徒を有し我大東亜共栄圏内にありても、大約二千万人の信徒を持っていることによって、尚《なお》その偉大性を保持しつつあるものといわざるを得ない。その羅馬《ローマ》法王庁へ公使を派して、彼我尋常の外交関係を形成したことは我国外交の明朗性を示したものということが出来る。しかもその法王庁や、各国大公使の特殊的社交場であって、最も公平なる世界ニュースの集積地たる以上は、公使を置いて以って我国現在及び将来の国威発展に資する必要がある。

底本:「国枝史郎歴史小説傑作選」作品社
   2006(平成18)年3月30日第1刷発行
底本の親本:「外交評論」
   1942(昭和17)年5月
初出:「外交評論」
   1942(昭和17)年5月
入力:門田裕志
校正:阿和泉拓
2010年11月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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