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幸田露伴

学生時代—— 幸田露伴

わたくしの学生時代の談話をしろと仰《おっし》ゃっても別にこれと云って申上げるようなことは何もございません。特《こと》にわたくしは所謂学生生活を仕た歳月が甚だ少くて、むしろ学生生活を為《せ》ずに過して仕舞ったと云っても宜い位ですから、自分の昔...
幸田露伴

華嚴瀧—— 幸田露伴

一  昭和二年七月の九日、午後一時過ぐるころ安成子《やすなりし》の來車を受け、かねての約に從つて同乘して上野停車場へと向つた。日本八景の一と定められた華嚴《けごん》の瀑布及びその附近景勝遊覽のためであつた。  二時五分の日光直行の汽車はわれ...
幸田露伴

花のいろ/\ ——幸田露伴

梅  梅は野にありても山にありても、小川のほとりにありても荒磯の隈にありても、たゞおのれの花の美しく香の清きのみならず、あたりのさまをさへ床しきかたに見さするものなり。崩れたる土塀、歪みたる衡門、あるいは掌のくぼほどの瘠畠、形ばかりなる小社...
幸田露伴

雲のいろ/\ —–幸田露伴

夜の雲  夏より秋にかけての夜、美しさいふばかり無き雲を見ることあり。都会の人多くは心づかぬなるべし。舟に乗りて灘を行く折、天《そら》暗く水黒くして月星の光り洩れず、舷を打つ浪のみ青白く騒立《さわだ》ちて心細く覚ゆる沖中に、夜は丑三つともお...
幸田露伴

運命は切り開くもの 幸田露伴

此処に赤[#(ン)]坊が生れたと仮定します。其の赤[#(ン)]坊が華族の家の何不足無いところに生れたとします。然《さ》する時は此の赤[#(ン)]坊は自然に比較的幸福であります。又食ふや食はずの貧乏の家で、父たる者は何処かへ漂浪して終《しま》...
幸田露伴

運命—— 幸田露伴

世おのずから数《すう》というもの有りや。有りといえば有るが如《ごと》く、無しと為《な》せば無きにも似たり。洪水《こうずい》天に滔《はびこ》るも、禹《う》の功これを治め、大旱《たいかん》地を焦《こが》せども、湯《とう》の徳これを済《すく》えば...
幸田露伴

印度の古話—— 幸田露伴

いづれの邦《くに》にも古話《むかしばなし》といふものありて、なかなかに近き頃《ころ》の小説家などの作り設くとも及びがたきおもしろみあるものなり。されど小国民を読むほどの少年諸子には、桃太郎|猿蟹合戦《さるかにかっせん》の類《たぐい》も珍らし...
幸田露伴

囲碁雑考—– 幸田露伴

棊は支那に起る。博物志に、尭囲棊を造り、丹朱これを善くすといひ、晋中興書に、陶侃荊州の任に在る時、佐史の博奕の戯具を見て之を江に投じて曰く、囲棊は尭舜以て愚子に教へ、博は殷紂の造る所なり、諸君は並に国器なり、何ぞ以て為さん、といへるを以て、...
幸田露伴

ねじくり博士—– 幸田露伴

当世の大博士にねじくり先生というがあり。中々の豪傑、古今東西の書を読みつくして大悟《たいご》したる大哲学者と皆人恐れ入りて閉口せり。一日某新聞社員と名刺に肩書のある男尋ね来り、室に入りて挨拶するや否《いな》、早速、先生の御高説をちと伺いたし...
古川緑波

富士屋ホテル——古川緑波

箱根宮の下の富士屋ホテルは、われら食子にとって、忘れられない美味の国だった。  戦前戦中、僕は、富士屋ホテルで、幾度か夏を過し、冬を送ったものだった。それが、終戦後、接収されて、日本人は入れなくなってしまった。そして又、それが一昨年の夏だっ...
古川緑波

氷屋ぞめき—–古川緑波

近頃では、アイスクリームなんてものは、年がら年中、どこででも売っている。そば屋にさえも、アイスクリームが、あるという。  私たちの子供のころは、アイスクリームなんてものは、むろん夏に限ったものだったし、そうやたらに売っているものではなかった...
古川緑波

八の字づくし——古川緑波

名古屋ってとこ、戦前から戦争中にかけて、僕は好きじゃなかった。名古屋へ芝居で来る度に、ああまた名古屋か、と、くさったものだ。というのは、食いものが、何うにも面白くなかった。  一口に言えば、名古屋ってとこ、粗食の都だったんじゃないか。それが...
古川緑波

駄パンその他——古川緑波

武者小路先生の近著『花は満開』の中に、「孫達」という短篇がある。先生のお孫さんのことを書かれた、美しい、たのしい文章である。  その中に、四人のお孫さん達が、食べものの好き嫌いがあるということを書いて、  ……僕は勿体ないとか行儀が悪いとか...
古川緑波

想い出——古川緑波

よき日、よき頃のはなしである。  フランスの汽船会社M・Mの船が、神戸の港へ入ると、その船へ昼食を食べに行くことが出来たものだった。  はじめての時は、フェリックス・ルセルという船だった。  その碇泊中の船の食堂で、食べたフランス料理の味を...
古川緑波

浅草を食べる—–古川緑波

十二階があったころの浅草、といえば、震災前のこと。中学生だった僕は、活動写真を見るために毎週必ず、六区の常設館へ通ったものだ。はじめて、来々軒のチャーシュウ・ワンタンメンというのを食って、ああ、何たる美味だ! と感嘆した。  来々軒は、日本...
古川緑波

清涼飲料——古川緑波

九月の日劇の喜劇人まつり「アチャラカ誕生」の中に、大正時代の喜歌劇(当時既にオペレットと称していた)「カフエーの夜」を一幕挿入することになって、その舞台面の飾り付けの打ち合せをした。  日比谷公園の、鶴の噴水の前にあるカフエー。カフエーと言...
古川緑波

神戸——古川緑波

久しぶりで、神戸の町を歩いた。  此の六月半から七月にかけて、宝塚映画に出演したので、二十日以上も、宝塚の宿に滞在した。  撮影の無い日は、神戸へ、何回か行った。三の宮から、元町をブラつくのが、大好きな僕は、新に開けたセンター街を抜けること...
古川緑波

食べたり君よ—–古川緑波

菊池先生の憶い出  亡くなられた菊池寛先生に、初めてお目にかかったのは、僕が大学一年生の時だから、もう二十何年前のことである。  当時、文藝春秋社は、雑司ヶ谷金山にあり、僕はそこで、先生の下に働くことになった。  初対面後、間もなくの或る夕...
古川緑波

色町洋食—–古川緑波

大久保恒次さんの『うまいもん巡礼』の中に、「古川緑波さんの『色町洋食』という概念は、実に的確そのものズバリで」云々と書いてある。  ところが、僕は、色町洋食なんて、うまい言葉は使ったことがないんだ。僕の所謂日本的洋食を、大久保さんが、うまい...
古川緑波

古川ロッパ昭和日記 昭和九年 ——古川緑波

前年記  昭和八年度は、活躍開始の記憶すべき年だった。一月七日から公園劇場で喜劇爆笑隊公演に特別出演し、之は一ヶ月にてポシャり、二月は一日より大阪吉本興行部の手で、京都新京極の中座といふ万才小屋と、富貴といふ寄席で声帯模写をやり、大阪へ廻っ...