印度の古話—— 幸田露伴

 いづれの邦《くに》にも古話《むかしばなし》といふものありて、なかなかに近き頃《ころ》の小説家などの作り設くとも及びがたきおもしろみあるものなり。されど小国民を読むほどの少年諸子には、桃太郎|猿蟹合戦《さるかにかっせん》の類《たぐい》も珍らしからざるべく、また『韓非子《かんぴし》』『荘子《そうじ》』などに出《い》でたるも珍らしからざるべければ、日本支那のは姑《しばら》く措《さしお》きて印度の古話を蒐《あつ》め綴《つづ》り、前《さき》に宝の蔵《くら》と名づけて学齢館の需《もと》めに応じ出版せしめしに、おもひのほかに面白しとて少年諸子の、なほその他《ほか》にも話ありや、あらば聞かせよといひ越し玉《たま》ふもあるまま、今また一条の物語りをここに載すべし。印度は諸子が父上母上の頃には天竺《てんじく》と呼びたる最早《いとはや》くより開け進みし国にて、今日《こんにち》よりして評するも世界の文明の母ともいふべきところなれば、従つて趣味《おもむき》ある古話にも富みたり、御望みならむには随分諸子のために珍奇なる話を取り出《いだ》して一年や二年の間はこの紙上に掲げん。さてこの号には、利※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]《りた》、阿利※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]《ありた》兄弟の譚《はなし》を載すべし。

 むかしむかし、一人《ひとり》の長者《ちょうじゃ》ありて二人《ふたり》の子を有《も》てり。兄を利※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]といひ弟《おとと》を阿利※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]といひしが、長老は常々《つねづね》二人に対《むか》ひて、高きものは堕《お》ち、常なきものは尽き、生あれば死あり、会へるものは離るることあらむと諭《さと》しける。されど一家は常に富み栄えて別に忌《いま》はしきことにも遇《あ》はず、世を楽しく過ごし行きけるに、長老が諭しのあたるべき時は来りて、老《おい》の身に病を得しより長者は枕《まくら》つひにあがらず、いよいよ生命《いのち》終るべく定まりたり。時に長者は二人の子を枕|辺《べ》に招きて、死するも生くるも天命なれば汝等《そちたち》みだりに歎くべからず、ただ我|終焉《いまわ》に臨みて汝等に言ひ置くことあれば能《よ》く心に留めて忘るるなかれ、我《わ》が亡《な》き後《のち》は汝等二人決して分れをることをすべからず、譬《たと》へば一条《ひとすじ》の糸にては象を係《つな》ぐこと難けれど多くの糸を集めて縄《なわ》となさば大象をも係ぐを得べきがごとく、兄弟力を併《あわ》せて家を保たんには家も無事長久なるべけれど汝等互ひに私慾を図りて分れ分れとなりなば、一条の糸の弱きがごとくなりて家も衰へ亡ぶべし、この我が訓《おしえ》を能《よ》く記《おぼ》えて決して背《そむ》くことなかれと苦《ねん》ごろに誡《いまし》め諭して現世《このよ》を逝《さ》りければ、兄弟共に父の遺訓に随《したが》ひて互ひに助けあひつつ安楽に日を消《くら》しけり。
 さるほどに弟も生長して年頃《としごろ》となりしかば、縁ありしを幸《さいわい》として兄はそのため婦《つま》を迎へ遣《や》りしに、この婦心狭くして良《よ》からぬものなりしゆゑ夫に対《むか》ひて、汝《おんみ》はあたかも奴隷《しもべ》のやうなり、金銀用度も皆兄まかせにて我が所有《もの》といふものもなく、唯《ただ》衣《き》ることと食ふこととに不足なさざるばかりなれば奴隷といふても宜《よ》かるべし、汝|如何《いか》ほど働きたりとて唯この家を富ますのみにて汝の所有《もの》の殖《ふ》ゆるにもあらねば、まことに以《もっ》て楽み薄し、と賢顔《かしこがお》に説きければ、弟はこれより分居の心を生じて、兄に財産《しんだい》を分ちくれむことを求めける。兄は、亡き父上の御遺言をも忘れて汝《そなた》は分居せむとや、さても分別違ひのことを能くも汝はいひ得るよ、と度々《たびたび》弟を誡め諭して敢《あえ》て弟のいふところを許さざりしが、弟の堅く分居せんといひ張りて已《や》まぬに打負けて、遂《つい》に一切の財産《しんだい》を正半分《まふたつ》にし、その一方を弟に与へぬ。
 弟夫婦は年少《としわか》きまま無益《むやく》の奢侈《おごり》に財を費《ついや》し、幾時《いくばく》も経ざるに貧しくなりて、兄の許《もと》に合力《ごうりょく》を乞《こ》ひに来ければ、兄は是非なく銭十万を与へけるに、それをも少時《しばし》に用《つか》ひ尽してまた合力を乞ひに来りぬ。一人の弟のことなればと、苦き顔もせで兄はいふまままた十万を与へしに、またそれをさへ遣《つか》ひ果して、例の通りに無心に来ること前の如し。前後合せてかくの如きこと六反《ろくへん》に及びけれど、その度ごとに十万づつ与へて兄は惜《おし》ともおもはざりしが、七反目にいたりてさすがに堪《こら》へきれずなり、父上の遺訓にも背きしのみか数次《しばしば》来りて財を乞ふ段、弟とはいへ奇怪なり、貧しくなりて苦むも皆自らの心がらぞ、この度だけは十万銭を例のごとくに与ふべけれど以後は来るとも与ふまじきぞ、能く心して生活《なりわい》の道を治めよ、と苦《ねんご》ろに説き示しければ、弟はこれを口惜《くちおし》く思ひてその後《のち》生活の道に心を用ひ、漸《ようや》く富を致《いた》しけるが、それに引替へ兄はまた数次《しばしば》弟に財を与へしより貧しくなりて自ら支《ささ》へがたきに及び、かつて与へしこともあれば今は弟に少時《しばし》のところを助けてもらはむと、弟のところに到《いた》りて、我この頃は大きに財に乏しきゆゑ何卒《なにとぞ》合力してくれよといひけるに、弟は答へて、先に我が窮困して汝《おんみ》が許《もと》にいたり僅《わずか》の合力を乞ひしとき汝は何といひ玉ひし、貧しくなりて苦むも皆みづからの心がらぞと情《つれ》なく我を責め玉ひしにはあらずや、我今汝にその語《ことば》を返さん、貧しくなりて苦むも皆みづからの心がらぞ、我は汝を助けがたし、と恩を忘れて謝絶《ことわ》りける。
 兄は弟のあさましき言葉に深き愁《うれい》を起し、血統《ちすじ》の兄弟にてすらもかくまでに酷《むご》く情《つれ》なければまして縁なき世の人をや、ああ厭《いと》はしき世の中なりと、狭き心に思ひ定めて商買《しょうばい》を廃《や》め、僧と身をなして、ひたすらに悪《あし》き世を善に導かんと修行に心を委《ゆだ》ね、ある山深きところに到りて精勤苦行しゐたりけるが、年月《としつき》経《たち》て一旦《いったん》富みし弟の阿利※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]《ありた》は、兄に対して薄情なりし報いのためにや損毛のみ打つづきてまた貧者となり、薪《たきぎ》を売りて辛《から》くも活《い》くる身となりけり。時に兄の利※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]《りた》は托鉢《たくはつ》なして食《し》を得んと城中《まち》に入りしが、生憎《あやにく》布施するものもなかりければ空鉢《くうはつ》をもて還《かえ》らんとしけるが、途《みち》にて弟に行遇《ゆきあ》ひたり。弟は兄を剃髪染衣《ていはつぜんえ》の身ならむとは思ひもかけず、兄は弟を薪売り人《びと》になりをらむとは思ひもかけず、かつ諸共《もろとも》に窶《やつ》れ齢《とし》老いたればそれとも心づかざれど、弟の阿利※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]は尊げなる僧の饑《う》ゑたる面色《おももち》して空鉢を捧《ささ》げ還る風情《ふぜい》を見るより、図らず惻隠《そくいん》の善心を起し、往時《むかし》兄をば情《つれ》なくせしことをも思ひ浮めて悔いつつ、薪に代《か》へて僅に得し稗《ひえ》の※[#「麥にょう+少」、第4水準2-94-55]《こ》あるを与へんと僧を呼び留め、尊者《そんじゃ》よ、道のためにせらるる尊き人よ、幸ひに我が奉つる麁食《そしい》を納め玉はむや、と問へば僧はふりかへりて、薪を売る人よ、世の慾を捨てし我らなればその芳志《こころざし》を受《うく》るのみ、美味と麁食とを撰《えら》ばず、纔《わずか》に身をば支ふれば足れりといふにぞ、便《すなわ》ち稗の※[#「麥にょう+少」、第4水準2-94-55]を布施しけるに、僧は稗の※[#「麥にょう+少」、第4水準2-94-55]を食し訖《おわ》りて去《さり》たりける。
 その後《のち》阿利※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]は薪を取らんと山に行きしが、道にて一匹の兎《うさぎ》を見ければ杖《つえ》ふり上げて丁《ちょう》と撩《う》ちしに、忽《たちま》ち兎は死人と変じて阿利※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]の項《うなじ》に搦《から》み着きたり。これはと大きに驚き呆《あき》れて、推《お》し剥《は》がさんと力を出《いだ》せど少しも離るることなければ、人を頼みて挽却《ひきさ》らしめしも一向さらにその甲斐《かい》なし。是非なく夜《よ》に紛れて我家《わがや》に帰れば、こはまた不思議や、死人の両手は自然に解けて体《たい》は地に堕《お》ち、見る見る灼々《しゃくしゃく》たる光輝を発して無垢《むく》の黄金像となりけり。阿利※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]は大きに驚きながらその像の頭《こうべ》を截《き》り取りしに、頭はまた新《あらた》に自然《おのず》と生じ、また截り取ればまた生じぬ。手を截り去れば手また生じ、脚《あし》を截り去れば脚また生じ、金の頭金の手金の脚家|充満《いっぱい》となりて、爛々燦々《らんらんさんさん》と輝きわたりければ、この事王の耳に入りしが、仔細《しさい》を問ひ玉ふに及びて、これ善行の報《むくい》なりと知れ、福人《ふくじん》なりとて売薪者《たきぎうり》を急に一聚落《ひとむら》の長《おさ》に封ぜられしとぞ。眼前《めのまえ》には利ありとも不善によりて保ちたる利は終《つい》に保ちがたく、眼前には福を獲ずとも善心によりて生ずる福は終に大きなるものなり。

 むかしむかし棄老国と号《よ》ばれたる国ありて、其国《そこ》に住めるものは、自己《おの》が父母《ちちはは》の老い衰へて物の役にも立たずなれば、老人《としより》は国の費えなりとて遠き山の奥野の末なんどに駆り棄《す》つるを恒例《つね》とし、また一国の常法《おきて》となしゐけるが、ここに一人の孝心深き大臣ありけり。日頃やさしく父に事《つか》へて孝養怠りなかりしが、月日の経《た》つは是非なきことにてその父やうやく老いにければ、国法に順《したが》はむには山にもせよ野にせよ里|距《はな》れたる地《ところ》へ棄つべくなりぬ。されども元来《もとより》孝心深き大臣の、如何《いか》で然《さ》る酷《むご》きことをなし得べき。事|露《あら》はれて国法に背《そむ》きたる罪を問はれなばそれまでなりと、深く地を掘りて密室をその中《うち》に造り設け、表面《うわべ》は那処《いずく》へか棄てたるやうにもてなして父をば其室《そこ》に忍ばせ置き、なほ孝養を尽しける。
 時にたまたま天の神ありて突然《にわか》に棄老の王宮に降《くだ》り、国王ならびに諸臣に対《むか》ひて、手に持てる二《ふたつ》の蛇《へび》を殿上に置き、見よ見よ汝《なんじ》ら、汝らこの蛇のいづれか雄《お》にしていづれか雌《め》なるを別ち得るや、別ち得ばよし、別ち得ずんば国王よく聞け、汝を亡ぼし、汝の国をも我が神力《じんりき》もて滅すべし、七日《なぬか》の間にこの棄老をば殄《ほろ》ぼすべきぞ、と厳然として誥《つ》げければ、王は大きに驚き畏《おそ》れ、群臣と共に頭《こうべ》をあつめて答弁《こたえ》をなさんと議《はか》れども、誰《たれ》とて蛇の雌雄をば見定むべくもあらぬままただ当惑するばかりなり。国の大事ぞ、等閑《なおざり》になせそ、もし何者にもあれ天神の難問を能《よ》く解き開き得ば厚く賞与をすべきなりと、一国内に洽《あまね》く知らしめて答弁《こたえ》を募るに応ずるものも更になし。彼の大臣は家に帰りて、もし我が父の知ることもやと例の密室に至りてこの由《よし》を述べけるに、そは難渋《むつかし》きことにあらず、軟※[#「而/大」、第4水準2-85-5]《やわらか》にして細《こまか》きものを蛇に近づけてその躁《さわ》ぐを雄と知り、静かなるを雌と知るべしと教へければ、大臣は急に王宮に行きてこの旨をいひ出で、試しみるに果してその言の如く、雄雌紛るるかたもあらず。王は悦《よろこ》びて天神に対《むか》ひ、これは雌にしてこれは雄なりと答ふるにその答誤りなければ、天神はまた一大白象を現《あらわ》して、この象の重さ幾斤両ぞ、答へ得ずんば国を覆《くつがえ》さん、と難題を出《いだ》しぬ。
 王も諸臣も、如何《いか》にして秤皿《はかりざら》にも載せがたきこの大象の重さを知り得んと答へ迷《まど》ひけるが、彼《かの》大臣はまた父に問ひ尋ぬるに、そは易《やす》きことなり、象をば船に打乗せて水の船を没《かく》すところに印《しるし》をつけ置き、さて象の代りに石を積みて先の印のところまで船の水に没るるを見計らひ、一々石の量目《めかた》を量り集めなば即《すなわ》ち象の斤両を得べしと教へられ、道理《もっとも》なりと合点《がてん》してこの智《ち》をもつて天神に答へける。よしよし、さらばまた問はむ、一掬《いっきく》の水の大海より多きことあり、この理を知るや、と天神の例の如くに難問を下すに、例のごとく王らはまた答へを為《な》し得で困りけれど、彼大臣は例のごとく老父の教《おしえ》を得て、その語は極めて解きやすし、もし人ありて慈悲心をもて父母《ちちはは》乃至《ないし》世の病人なんどに水を施さば、仮令《たとい》その量《かさ》少くして僅《わずか》に掌《てのひら》に掬《むす》びたるほどなりとも、その功徳《くどく》広大無辺にして大海といへども比ぶるに足らじといひければ、この度は天神忽ち身を変じて、眉《まゆ》うつくしく色あざやかに、玉とも花ともいふべきまで※[#「女+交」、第4水準2-5-49]麗《かおよ》き女と化けながら、世間に我ほど端厳《うつくし》きものあるべきやと尋ねたり。
 王らは例の如く答なかりしが大臣はまた父にききて、世間にはなほ端厳《うつくし》く妙《たえ》なるもののなきにあらず、道を守りて心を正し、父母に事《つか》へては孝に君に事へては忠に、他に対しては温和にして、心に大《おおい》なる慈悲を懐《いだ》くものあらばその端厳さ千万倍なり、今の汝をそれに比べば※[#「けものへん+彌」、第3水準1-87-82]猴《さる》の如くに劣りなんと答ふるに、天神はまた栴檀《せんだん》の木の頭尾《もとすえ》知れざるものを出《いだ》して、いづれの方《かた》が樹《き》の根のかたにていづれの方《かた》が樹梢《こずえ》の方ぞ、疾《と》く答へよ、と問ひ詰《なじ》りぬ。王らはまた答へ得ざりしが彼大臣はまた父に教へられて、木を水中に投げ入れつ、浮きたる方こそ樹末《こずえ》なれ、根の方は木理《きのめ》つみて自然《おのず》と重ければ下に沈むなりと答へけるに、天神はまた同じやうなる牝馬《めうま》二匹を指《ゆびさ》して、那箇《いずれ》が母か那箇が子か、と詰り問ひぬ。君臣共に例の通り答へ得ざれば、彼《かの》大臣はまたもや父より教へられて、草を一時に食はせんに母の馬はかならず先に子に食はせ、子の駒《こま》は母より後に食ふことなからむ、と道理を詰めて答へけるを、天神大きに賞讃なし、幾番の我が難問を一々申し開き得たれば、国王ならびに群臣とも心易かれ、今より後は我この国を護《まも》りやりて外敵侵害し能《あた》はざらしめん、といひ置きて天に上《のぼ》りける。
 国王大きに悦びて、これも皆|彼者《かのもの》の智慧《ちえ》ありし故《ゆえ》なればと、彼大臣を呼び出《いだ》して恩賞の沙汰《さた》ありけるに、この御恩賞としては願はくは臣が罪を免《ゆる》したまへ、実は臣国法を破りて老いたる父を棄てざりしが、その父に尋ね問ひて一々答を得しなり、といひければ王は大きに感歎なし、その老父を召出《めしいだ》して師となし、大臣を厚く賞し、なほ国中に令を下して老いたるものを棄つるをば厳しく禁じ、四民に孝行を篤《あつ》く勧められけるとぞ。老いたるものとて侮るべからず、無用に似たる人をも物をも浪《みだり》に棄てずば、また益をなすことあるべし。

底本:「日本児童文学名作集(上)」岩波文庫、岩波書店
   1994(平成6)年2月16日第1刷
底本の親本:「露伴全集10」岩波書店
   1953(昭和28)年7月
初出:「小国民」学齢館
   1893(明治26)年6月下旬、7月上旬
※「ルビは現代仮名遣い」とする底本の編集方針にそい、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:広橋はやみ
校正:門田裕志
2005年1月20日作成
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