2019-05

岡本かの子

取返し—–物語 岡本かの子

前がき  いつぞやだいぶ前に、比叡の山登りして阪本へ下り、琵琶湖の岸を彼方《あちら》此方《こちら》見めぐるうち、両願寺と言ったか長等寺と言ったか、一つの寺に『源兵衛の髑髏』なるものがあって、説明者が殉教の因縁を語った。話そのものが既に戯曲的...
岡本かの子

時代色 ―歪んだポーズ —–岡本かの子

センチメンタルな気風はセンチと呼んで唾棄《だき》軽蔑《けいべつ》されるようになったが、世上《せじょう》一般にロマンチックな気持ちには随分《ずいぶん》憧《あこが》れを持ち、この傾向は追々《おいおい》強くなりそうである。  飛躍する気持になり度...
岡本かの子

慈悲—— 岡本かの子

ひとくちに慈悲ぶかい人といえば、誰にでもものを遣る人、誰のいうことをも直ぐ聞き入れてやる人、何事も他人の為に辞せない人、こう極《き》めて仕舞うのが普通でしょう。それはそうに違いないでしょう、それが慈悲ぶかい人の他人に対する原則ですから。  ...
岡本かの子

私の書に就ての追憶—— 岡本かの子

東京の西郊に私の実家が在つた。母屋の東側の庭にある大銀杏の根方を飛石づたひに廻つて行くと私の居室である。四畳半の茶室風の間が二つ連なつて、一つには私の養育母がゐた。彼女はもう五十を越してゐたが、宮仕へをした女だけあつて挙措が折目正しく、また...
岡本かの子

山茶花—–岡本かの子

ひとの世の男女の  行ひを捨てて五年  夫ならぬ夫と共《ともに》棲《す》み  今年また庭のさざんくわ  夫ならぬ夫とならびて  眺め居《ゐ》る庭のさざんくわ  夫ならぬ夫にしあれど  ひとたびは夫にてありし  つまなりしその昔より  つまな...
岡本かの子

山のコドモ—–岡本かの子

ヤマキチ ハ ヤマオク ノ キコリ ノ コ デアリマシタ。チイサイ トキカラ、ヤマ ノ ケモノ ヤ、トリタチ ト、ナカヨク アソンデ ソダチマシタ。アルヒ、ヤマキチ ノ トモダチデ、イチワ ノ オオキナ タカ ガ、ヤマキチ ヲ ヒロイ ツバ...
岡本かの子

雜煮—–岡本かの子

維新前江戸、諸大名の御用商人であつた私の實家は、維新後東京近郊の地主と變つたのちまでも、まへの遺風を墨守して居る部分があつた。  いろは順で幾十戸前が建て列ねた藏々をあづかる多くの番頭、その下の小僧、はした、また奧女中の百人近い使用人へ臨ん...
岡本かの子

桜——岡本かの子

桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命《いのち》をかけてわが眺《なが》めたり さくら花《ばな》咲きに咲きたり諸立《もろだ》ちの棕梠《しゆろ》春光《しゆんくわう》にかがやくかたへ この山の樹樹《きぎ》のことごと芽ぐみたり桜のつぼみ稍《やや》ややに...
岡本かの子

高原の太陽—–岡本かの子

「素焼の壺と素焼の壺とただ並んでるようなあっさりして嫌味のない男女の交際というものはないでしょうか」と青年は云った。  本郷帝国大学の裏門を出て根津|権現《ごんげん》の境内《けいだい》まで、いくつも曲りながら傾斜になって降りる邸町の段階の途...
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鯉魚—–岡本かの子

一  京都の嵐山《あらしやま》の前を流れる大堰川《おおいがわ》には、雅《みや》びた渡月橋《とげつきょう》が架《かか》っています。その橋の東詰《ひがしづめ》に臨川寺《りんせんじ》という寺があります。夢窓国師《むそうこくし》が中興の開山で、開山...
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五月の朝の花—–岡本かの子

ものものしい桜が散った。  だだっぴろく……うんと手足を空に延ばした春の桜が、しゃんら、しゃらしゃらとどこかへ飛んで行ってしまった。  空がからっと一たん明るくなった。  しんとした淋しさだ。  だが、すこし我慢してじっと、その空を仰いでい...
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呼ばれし乙女—–岡本かの子

師の家を出てから、弟子の慶四郎は伊豆箱根あたりを彷徨《うろつ》いているという噂《うわさ》であった。  一ヶ月ばかり経つと、ある夜突然師の妹娘へ電報をよこした。 「ハコネ、ユモト、タマヤ、デビョウキ、アスアサキテクレ」  受取って玄関で開いた...
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現代若き女性気質集—— 岡本かの子

これは現代の若き女性気質の描写《びょうしゃ》であり、諷刺《ふうし》であり、概観《がいかん》であり、逆説である。長所もあれば短所もある。読む人その心して取捨《しゅしゃ》よろしきに従い給《たま》え。  ○彼女はじっとして居《い》られなくなった。...
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健康三題—– 岡本かの子

はつ湯  男の方は、今いう必要も無いから別問題として、一体私は女に好かれる素質を持って居た。  それも妙な意味の好かれ方でなく、ただ何となく好感が持てるという極めてあっさりしたものらしかった。だから、離れ座敷の娘が私に親しみ度《た》い素振り...
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決闘場—– 岡本かの子

ロンドンの北隅ケンウッドの森には墨色で十数丈のシナの樹や、銀色の楡《にれ》の大樹が逞《たく》ましい幹から複雑な枝葉を大空に向けて爆裂させ、押し拡げして、澄み渡った中天の空気へ鮮やかな濃緑色を浮游させて居る。立ち並ぶそれらの大樹の根本を塞《ふ...
岡本かの子

兄妹—– 岡本かの子

――二十余年前の春  兄は第一高等学校の制帽をかぶっていた。上質の久留米絣《くるめがすり》の羽織と着物がきちんと揃っていた。妹は紫矢絣の着物に、藤紫の被布《ひふ》を着ていた。  三月の末、雲雀《ひばり》が野の彼処に声を落し、太陽が赫《あか》...
岡本かの子

愚なる(?!)母の散文詩—— 岡本かの子

わたしは今、お化粧をせつせとして居ます。  けふは恋人のためにではありません。  あたしの息子太郎のためにです。  わたしの太郎は十四になりました。  そして、自分の女性に対する美の認識についてそろそろ云々するやうになりました。  太郎の為...
岡本かの子

愚かな男の話—– 岡本かの子

「或る田舎に二人の農夫があった。両方共農作自慢の男であった。或る時、二人は自慢の鼻突き合せて喋《しゃ》べり争った末、それでは実際の成績の上で証拠を見せ合おうという事になった。それには互に甘蔗《かんしょ》を栽培して、どっちが甘いのが出来るか、...
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金魚撩乱—– 岡本かの子

今日も復一はようやく変色し始めた仔魚《しぎょ》を一|匹《ぴき》二|匹《ひき》と皿《さら》に掬《すく》い上げ、熱心に拡大鏡で眺《なが》めていたが、今年もまた失敗か――今年もまた望み通りの金魚はついに出来そうもない。そう呟《つぶや》いて復一は皿...
岡本かの子

気の毒な奥様—— 岡本かの子

或る大きな都会の娯楽街《アミューズメントセンター》に屹立《きつりつ》している映画殿堂では、夜の部がもうとっくに始まって、満員の観客の前に華やかなラヴ・シーンが映し出されていました。正面玄関の上り口では、やっと閑散の身になった案内係の少女達が...