2019-05

岡本かの子

汗 ——岡本かの子

――お金が汗をかいたわ。」  河内屋の娘の浦子はさういつて松崎の前に掌《てのひら》を開いて見せた。ローマを取巻く丘のやうに程のよい高さで盛り上る肉付きのまん中に一円銀貨の片面が少し曇つて濡《ぬ》れてゐた。  浦子はこどものときにひどい脳膜炎...
岡本かの子

褐色の求道—– 岡本かの子

独逸《ドイツ》に在る唯一の仏教の寺だという仏陀寺《ブッダハウス》へ私は伯林《ベルリン》遊学中三度訪ねた。一九三一年の事である。  寺は伯林から汽車で一時間ほどで行けるフロウナウという町に在った。噂ほどにもない小さな建物で、町|外《はず》れの...
岡本かの子

街頭 (巴里のある夕)——- 岡本かの子

二列に並んで百貨店ギャラレ・ラファイエットのある町の一席を群集は取巻いた。中には雨傘の用意までして来た郊外の人もある。人形が人間らしく動く飾物を見ようとするのだ。  百貨店の大きな出庇《でびさし》の亀甲形《きっこうがた》の裏から金色の光線が...
岡本かの子

快走—– 岡本かの子

中の間で道子は弟の準二の正月着物を縫《ぬ》い終って、今度は兄の陸郎の分を縫いかけていた。 「それおやじのかい」  離れから廊下を歩いて来た陸郎は、通りすがりにちらと横目に見て訊《き》いた。 「兄さんのよ。これから兄さんも会社以外はなるべく和...
岡本かの子

過去世—– 岡本かの子

池は雨中の夕陽の加減で、水銀のやうに縁だけ盛り上つて光つた。池の胴を挟んでゐる杉木立と青|蘆《あし》の洲《す》とは、両脇から錆《さ》び込む腐蝕《ふしょく》のやうに黝《くろず》んで来た。  窓外のかういふ風景を背景にして、室内の食卓の世話をし...
岡本かの子

花は勁し—– 岡本かの子

青みどろを溜めた大硝子箱の澱んだ水が、鉛色に曇つて来た。いままで絢爛に泳いでゐた二つのキヤリコの金魚が、気圧の重さのけはひ[#「けはひ」に傍点]をうけて、並んで沈むと、態と揃へたやうに二つの顔をこちらへ向けた。うしろは青みどろの混沌に暈けて...
岡本かの子

河明り—– 岡本かの子

私が、いま書き続けている物語の中の主要人物の娘の性格に、何か物足りないものがあるので、これはいっそのこと環境を移して、雰囲気でも変えたらと思いつくと、大川の満《み》ち干《ひ》の潮がひたひたと窓近く感じられる河沿いの家を、私の心は頻《しき》り...
岡本かの子

家霊—– 岡本かの子

山の手の高台で電車の交叉点になっている十字路がある。十字路の間からまた一筋細く岐《わか》れ出て下町への谷に向く坂道がある。坂道の途中に八幡宮の境内《けいだい》と向い合って名物のどじょう[#「どじょう」に傍点]店がある。拭き磨いた千本格子の真...
岡本かの子

家庭愛増進術 ―型でなしに—– 岡本かの子

わたくしは自分|達《たち》を夫とか妻とか考えません。  同棲《どうせい》する親愛なそして相憐《あいあわ》れむべき人間同志と思って居《い》ます。そして元来《がんらい》が飽《あ》き安い人間の本能を征服|出来《でき》て同棲を続ける者同志の因縁《い...
岡本かの子

夏の夜の夢—– 岡本かの子

月の出の間もない夜更けである。暗さが弛《ゆる》んで、また宵が来たやうなうら懐かしい気持ちをさせる。歳子は落付いてはゐられない愉《たの》しい不安に誘はれて内玄関から外へ出た。 「また出かけるのかね、今夜も。――もう気持をうち切つたらどうだい。...
岡本かの子

岡本一平論 ―親の前で祈祷—- 岡本かの子

「あなたのお宅の御主人は、面白い画《え》をお描《か》きになりますね。嘸《さぞ》おうちのなかも、いつもおにぎやかで面白くいらっしゃいましょう。」  この様《よう》なことを私に向《むか》って云《い》う人が時々あります。  そんな時私は、 「ええ...
岡本かの子

越年—– 岡本かの子

年末のボーナスを受取って加奈江が社から帰ろうとしたときであった。気分の弾《はず》んだ男の社員達がいつもより騒々しくビルディングの四階にある社から駆け降りて行った後、加奈江は同僚の女事務員二人と服を着かえて廊下に出た。すると廊下に男の社員が一...
岡本かの子

英国メーデーの記—– 岡本かの子

倫敦に於ける五月一日は新聞の所謂「赤」一党のみが辛うじてメーデーを維持する。  それさへ華やかに趣向を凝らし警戒の巡査と諧謔を交しながらの祝賀気分だ。われわれが世界共通のものとしてメーデーを概念してゐるところの合成人間の危険性を内包した黙圧...
岡本かの子

一平氏に—– 岡本かの子

そちらのお座敷にはもうそろそろ西陽が射す頃で御座いませう? 鋭い斜光線の直射があなたのお机のわきの磨りガラスの窓障子へ光の閃端をうちあてると万遍なくお部屋の内部がオレンヂ色にあかるくなりますのね、そしてにわかに蒸暑くなるのでせう、あなたは急...
岡本かの子

異性に対する感覚を洗練せよ—– 岡本かの子

現代の女性の感覚は色調とか形式美とか音とかに就《つ》いて著《いちじ》るしく発達して来た。全《あら》ゆる新流行に対して、その深い原理性を丹念に研究しなくとも直截《ちょくせつ》に感覚からして其《そ》の適応性優秀性を意識|出来《でき》る敏感《びん...
岡本かの子

異国食餌抄—– 岡本かの子

夕食前の小半時《こはんとき》、巴里《パリ》のキャフェのテラスは特別に混雑する。一日の仕事が一段落《いちだんらく》ついて、今少しすれば食欲|三昧《ざんまい》の時が来る。それまでに心身の緊張をほぐし、徐《おもむ》ろに食欲に呼びかける時間なのだ。...
岡本かの子

愛よ愛—– 岡本かの子

この人のうえをおもうときにおもわず力が入る。この人とのくらしに必要なわずらわしき日常生活もいやな交際も覚束《おぼつか》なきままにやってのけようとおもう。この人のためにはすこしの恥は涙を隠しても忍ぼうとおもう。  朝夕見なれしこの人、朝夕なに...
岡本かの子

愛—– 岡本かの子

その人にまた逢《あ》ふまでは、とても重苦しくて気骨《きぼね》の折れる人、もう滅多《めった》には逢ふまいと思ひます。さう思へばさば/\して別の事もなく普通の月日に戻り、毎日三時のお茶うけも待遠しいくらゐ待兼《まちか》ねて頂きます。人間の寿命に...
岡本かの子

みちのく—– 岡本かの子

桐《きり》の花の咲《さ》く時分であった。私は東北のSという城下町の表通りから二側目《ふたかわめ》の町並《まちなみ》を歩いていた。案内する人は土地の有志三四名と宿屋の番頭であった。一行はいま私が講演した会場の寺院の山門を出て、町の名所となって...
岡本かの子

バットクラス—– 岡本かの子

スワンソン夫人は公園小路《パークレーン》の自邸で目が覚めた。彼女は社交季節が来ると、倫敦《ロンドン》の邸宅に帰って来る。彼女は昨日まで蘇格蘭《スコットランド》の領地で狐を狩って居た。その前はフランスのニースのお祭に招かれて行って居た。  室...