桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命《いのち》をかけてわが眺《なが》めたり
さくら花《ばな》咲きに咲きたり諸立《もろだ》ちの棕梠《しゆろ》春光《しゆんくわう》にかがやくかたへ
この山の樹樹《きぎ》のことごと芽ぐみたり桜のつぼみ稍《やや》ややにゆるむ
ひつそりと欅《けやき》大門《だいもん》とざしありひつそりと桜咲きてあるかも
丘の上の桜さく家《いへ》の日あたりに啼《な》きむつみ居《を》る親豚子豚
ひともとの桜の幹《みき》につながれし若駒《わかごま》の瞳《め》のうるめる愛《かな》し
淋しげに今年《ことし》の春も咲くものか一樹《ひとき》は枯《か》れしその傍《そば》の桜
春さればさくらさきけり花蔭《はなかげ》の淀《よど》の浮木《ふぼく》の苔《こけ》も青めり
ひえびえと咲きたわみたる桜花《はな》のしたひえびえとせまる肉体の感じ
散りかかり散りかかれども棕梠の葉に散る桜花《はな》ふぶき溜《たま》るとはせず
ならび咲く桜の吹雪《ふぶき》ぽぷらあ[#「ぽぷらあ」に傍点]の若芽《わかめ》の枝の枝ごとにかかる
わが庭の桜|日和《びより》の真昼なれ贈りこしこれのつやつや林檎《りんご》
青森の林檎の箱ゆつやつやと取り出《い》でてつきず桜花《はな》の樹《こ》のもと
林檎むく幅広《はばひろ》ないふ[#「ないふ」に傍点]まさやけく咲き満《み》てる桜花《はな》の影うつしたり
地震《なゐ》崩《くづ》れそのままなれや石崖に枝垂《しだ》れ桜は咲き枝垂れたり
しんしんと桜花《さくら》かこめる夜《よる》の家|突《とつ》としてぴあの鳴りいでにけり
しんしんと桜花《はな》ふかき奥にいつぽんの道とほりたりわれひとり行《ゆ》く
せちに行けかし春は桜の樹下《こした》みちかなしめりともせちに行けかし
さくら花ひたすらめづる片心《かたごころ》せちに敵《かたき》をおもひつつあり
朝ざくら討たば討《う》たれむその時の臍《ほぞ》かためけりこの朝のさくら
あだかたきうらみそねみの畜生《ちくしやう》が桜花《さくら》見てありとわれに驚く
わが婢《はした》なにおもふらむ廚辺《くりやべ》の桜花《はな》の樹《こ》のもとにあちらむき停《た》てり
この朝の桜花《はな》の樹《こ》のもと小心の与作《よさく》ものつ[#「のつ」に傍点]と歩み出でたり
わが幼稚《をさな》さひたはづかしし立ち優《まさ》り咲き揃《そろ》ひたる春花《はるはな》なれや
咲きこもる桜花《はな》ふところゆ一《ひと》ひらの白刃《しろは》こぼれて夢さめにけり
わがころも夜具《やぐ》に仕換《しか》へてつつましく掻《か》い寝《いね》てけり月夜《つくよ》夜ざくら
角《つの》立ちのみじかきからに牛の角《つの》つのだち行けどふれずさくらに
いみじくも枝垂《しだ》るるさくら日《ひ》の本《もと》の良子《ながこ》女王《によわう》が素直《なほ》きおん眉《まゆ》
可愛《かあ》ゆしといふわが言の畏《かし》こけれ桜花《さくら》見ますかわが良子ひめ
新しき家居《いへゐ》の門《かど》に桜花《はな》咲けど夜《よ》を暗み提灯《ちやうちん》つけて出《い》でけり
桜花《はな》さける道は暗けど一《いつ》しんに提灯ふりて歩みけるかも
わが持てる提灯の炎《ひ》はとどかずて桜はただに闇《やみ》に真白し
いつぽんの桜すずしく野に樹《た》てりほかにいつぽんの樹もあらぬ野に
桜ばな暗夜《やみよ》に白くぼけてあり墨《すみ》一色《いつしき》の藪《やぶ》のほとりに
つぶらかにわが眼《め》を張《は》ればつぶつぶに光こまかき朝桜かも
ひんがしの家《や》の白かべに八重《やへ》ざくら淋漓《りんり》と花のかげうつしたり
さくら咲く丘のあなたの空の果て朝やけ雲の朱《しゆ》を湛《たた》へたり
わだつみの豊旗雲《とよはたぐも》のあかねいろ大和《やまと》島根《しまね》の春花《はるはな》に映《は》ゆ
ひさかたの光のどけし桜ちるここの丘辺《をかべ》を過ぐる葬列《さうれつ》
ほそほそと雫《しづく》しだるる糸ざくら西洋婦人|濡《ぬ》れてくぐるも
糸桜ほそき腕《かひな》がひしひしとわが真額《まひたへ》をむちうちにけり
わが家《いへ》の遠《とほ》つ代《よ》にひとり美しき娘ありしといふ雨夜《あまよ》夜ざくら
真玉《まだま》なす桜花《はな》のしづくに白黒のだんだら犬がぬれて停《た》ちたり
折々《をりをり》にしづくしたたる桜花《はな》のかげ女靴《めぐつ》のあとのとびとびに残る
ほそほそと桜花《はな》の奥より見えて来る灯《ひ》にまさりたる淋しき灯なし
桜花《はな》の奥なにたからかに語り来る人ありて姿なかなか見えず
糸杉《いとすぎ》のみどり燃えたりそのかたへふわふわ桜咲き白《しら》むかも
桜さく丘にのぼれば遠《をち》かたの松ふく風の声かそかなり
この丘の桜花《さくら》のもとゆ見はるかす遠松原《とほまつばら》のほのぼのしかも
松の間《ま》に桜さきたり松の葉の黒きひまよりうす紅《べに》ざくら
ミケロアンゼロの憂鬱《いううつ》はわれを去らずけり桜花《さくら》の陰影《かげ》は疲れてぞ見ゆれ
桜花《はな》あかりさす弥生《やよひ》こそわが部屋にそこはかとなく淀《よど》む憂鬱
かなしみがやがて黒める憂鬱となりて術《すべ》なし桜花《はな》のしたみち
早春の風ひようひようと吹きにけりかちかちに莟《つぼ》む桜|並木《なみき》を
かちかちにつぼむ桜の樹下《こした》みちしなび蜜柑《みかん》を曳《ひ》いて通るも
さくら咲くあかるき外《と》には立ちにけりわが衣《きぬ》の皺《しわ》にはかに著《しる》し
仁丹《じんたん》の広告灯が青くまた赤く照《てら》せり夜《よ》の桜ばな
桜花《さくらばな》軒場《のきば》に近し頬《ほ》にあつるかみそりの冷えのうすらさびしき
山川のどよみの音のすさまじきどよみの傍《そば》の一本《ひともと》桜
桜花《はな》さけど廚《くりや》女房いつしんに働きてあり釜《かま》ひかる廚
裏庭のひよろひよろ桜てふずば[#「てふずば」に傍点]の手ふき手ぬぐひ薄汚《うすよご》れたり
しんしんと家をめぐりて桜さくおぞけだちたり夜半《よは》にめざめて
けふ咲ける桜はわれに要《えう》あらじひとの嘘《うそ》をばひたに数《かぞ》ふる
さかんなる桜はわれになまぬるき「許しの心」あに教ふべしや
薄月夜《うすづくよ》こよひひそかに海鳥《うみどり》がこの丘《をか》の花をついばみに来《こ》む
この丘に桜散る夜《よ》なり黒玉《ぬばたま》の海に白帆《しらほ》はなに夢むらむ
夜《よ》は夜とて闇の小床《をどこ》に淡星《あはぼし》と語らふものか小《こ》ざくら桜
こよひわきて桜花《はな》の上なる暗空《やみぞら》に光するどき星ひとつあり
ひとり見る山ざくらばな胃を病《や》みてほろほろ苦き舌を含《ふふ》めり
ねむたげな桜|並木《なみき》を一声《ひとこゑ》の汽笛《きてき》の音がつつ走りけり
駅前の石炭の層にうらうらと桜花《はな》ちりかかる真昼なりけり
自動車の太輪《ふとわ》の砂塵《さぢん》もうもうとたちけむりつつ道の辺《べ》の桜
真白なる鶏《くだかけ》ひとつ今朝《けさ》みれば血に染《そ》みてあり桜花《はな》の樹《こ》のもと
空高く桜咲けどもわがたどる一本の道は岩根《いはね》こごしき
さくらばな咲く春なれや偽《いつは》りもまことも来よやともに眺《なが》めな
日《ひ》の本《もと》の春のあめつち豪華《がうくわ》なる桜花《さくら》の層をうちに築きたり
おのづから蔭影《かげ》こそやどれ咲き満《み》てる桜花《さくら》の層のこのもかのもに
にほやかにさくら描《か》かむと春陽《はるひ》のもとぬばたまの墨《すみ》をすり流したり
にほやかにさくら描《ゑが》きておみな子《ご》も金《かね》もうけむとおもひ立ちたり
おみな子の金もうくるを笑はざれ日本のさくら震後の桜
日本の震後のさくらいかならむ色にさくやと待ちに待ちたり
金ほしきおみなとなりて眺《なが》むれど桜の色は変《かわ》らざりけり
金ほしき今年の春のおのれかもいやうるはしと桜をば見つ
このわれや金とり初《そ》めの日《ひ》の本《もと》の震後の桜花《はな》の真盛りの今日《けふ》
停電の電車のうちゆつくづくと都《みやこ》の桜花《はな》をながめたるかも
桜さく頃ともなればわきてわが疲《つか》るる日こそ数は多けれ
かろき疲れさくらさく椽《えん》にかりそめの綻《ほころ》びもわがつくろはずけり
しばたたきうちしばたたき眼《め》を病《や》めるわれや桜をまともには見ず
さくら花《ばな》まぼしけれどもやはらかく春のこころに咲きとほりたり
うつらうつらわが夢むらく遠方《をちかた》の水晶山に散るさくら花
うちわたす桜の長道《ながて》はろばろとわがいのちをば放ちやりたり
外《と》の面《も》には桜|盛《さか》るをわが瓶《へい》の室咲《むろざ》きの薔薇《ばら》ははやもしぼめり
真黒くわれ動《うごか》ざりあしたより桜花《はな》は窓辺《まどべ》に散りに散れども
ひそかなる独言《ひとりごと》なれけふ聞きてあすは忘れよひともと桜
遠稲妻《とほいなづま》そらのいづこぞうちひそみこの夜桜《よざくら》のもだし愛《かな》しも
かきくもる大空のもとひそやかに息づきにつつこの丘の桜
かそかなる遠雷《とほいかづち》を感じつつひつそりと桜さき続きたり
なごやかに空くもりつつ咲き盛《さか》る桜を一日《ひとひ》うち和《なご》めたり
気難《きむづ》かしきこの家《や》の主人《あるじ》むづかしき顔しつつさくら移植《うつ》させて居《を》り
歌麿《うたまろ》の遊女《いうぢよ》の襟《えり》の小桜《こざくら》がわが傘《からかさ》にとまり来にけり
政信《まさのぶ》の遊女の袖《そで》に散るさくらいかなる風にかつ散りにけん
うたかたの流れの岸に広重《ひろしげ》が現《うつつ》の桜花《はな》を描《か》き重ねたり
咲き倦《う》みて白くふやけし桜花《はな》のいろ欠伸《あくび》かみつつわが見やりたり
みちばたのさくらの太根《ふとね》玉葱《たまねぎ》を懇《ねもごろ》いだきわがいこひたり
ほろほろと桜ちれども玉葱はむつつりとしてもの言はずけり
何がなしかなしくなれりもの言はぬ玉葱に散り散り滑《すべ》るさくら
ここに散る桜は白し玉葱の薄茶《うすちや》の皮ゆ青芽《あをめ》のぞけり
春浅しここの丘辺《をかべ》の裸木《はだかぎ》の桜|並木《なみき》を歩《あゆ》みつつかなし
さくら木のその諸立《もろだ》ちのはだか木にこもらふ熱を感ぜざらめや
松の葉の一葉《ひとは》一葉に濃《こま》やけく照る陽《ひ》のひかり桜にも照る
若竹《わかたけ》のあさきみどりに山ざくら淡淡《あはあは》と咲きて添《そ》ひ樹《た》てるかも
桜花《さくらばな》ちりて腐《くさ》れりぬかるみに黒く腐れる椿《つばき》がほとり
地を撲《う》ちて大輪《たいりん》つばき折折《をりをり》に落つるすなはち散り積むさくら
大寺《おほでら》の庭に椿は敷《し》き腐り木蓮《もくれん》の枝に散りかかる桜
ぼたん桜ここだく樹《た》てり尼《あま》たちが紐《ひも》かけ渡し白衣《びやくえ》干《ほ》すかも
鬱《うつ》として曇天《どんてん》のしたに動かざり梢《こずゑ》のさくら散り敷けるさくら
どんよりと曇天に一樹《ひとき》立つさくら散るとしもなく散る花のあり
一天《いつてん》は墨《すみ》すり流し満山《まんざん》の桜のいろは気負《きお》ひたちたり
見渡せば河しも遠し河しもの瀬瀬《せぜ》にうつれる春花《はるはな》のかげ
急阪《きふはん》のいただき昏《くら》し濛濛《もうもう》と桜のふぶき吹きとざしたり
さやさやと竹さやぐからに出《い》でて見ればしんと桜が咲き居《ゐ》たるかも
塔《たふ》の沢のいかもの店に女唐《めたう》停《た》ちその向《むか》つ峰《を》の桜花《はな》盛りなり
いかものを女唐買ひたりその女唐箱根の桜花《はな》の下みちを行く
わがままはやめなとぞおもへしかはあれ春さり来れば桜さきけり
桜花《はな》の山は淡墨《うすずみ》いろに暮れにけり大烏《おほがらす》一羽ひつそり帰る
大暴風《おほあらし》うすずみ色の生壁《なまかべ》にさくら許多《ここだ》くたたきつけたり
ここにして桜|並木《なみき》はつきにけり遠浪《とほなみ》の音かそかにはする
桜花《はな》の山はうしろに高し見はるかす淡墨いろのたそがれの海
いそがはしく吾《われ》を育ててわが母や長閑《のど》に桜も見で逝《ゆ》きませしか
十年《ととせ》まへの狂院《きやうゐん》のさくら狂人《きちがひ》のわれが見にける狂院のさくら
狂人のわれが見にける十年まへの真赤きさくら真黒きさくら
狂人《きちがひ》よ狂人《きちがひ》よとてはやされき桜花《さくら》や云《い》ひし人間《ひと》や笑ひし
ふたたびは見る春|無《な》けむ狂人《きちがひ》のわれに咲きけむ炎の桜
わが夫《つま》よ十年《ととせ》昔のきちがひのわが恐怖《おそれ》たる桜花《はな》あらぬ春
ねむれねむれ子よ汝《な》が母がきちがひのむかし怖れし桜花《はな》あらぬ春
人間の交友《まじわり》のはてはみな儚《はか》な桜見つつし行きがてぬかなし
[#地付き](来よと宣《の》らせる佐藤春夫氏に厚く謝しつつ)
桜花《はな》あかり廚《くりや》にさせば生魚《なまざかな》鉢《はち》に三ぼん冴《さ》えひかりたり
生ざかな光りて飛べりうす紅《べに》の桜の肌の澄《す》みの冷たさ
底本:「愛よ、愛」メタローグ
1999(平成11)年5月8日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
1976(昭和51)年発行
※「椽《えん》」の表記について、底本は、原文を尊重したとしています。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2004年2月17日作成
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