2019-05

梶井基次郎

冬の蠅—– 梶井基次郎

冬の蠅《はえ》とは何か?  よぼよぼと歩いている蠅。指を近づけても逃げない蠅。そして飛べないのかと思っているとやはり飛ぶ蠅。彼らはいったいどこで夏頃の不逞《ふてい》さや憎々しいほどのすばしこさを失って来るのだろう。色は不鮮明に黝《くろず》ん...
梶井基次郎

冬の日—– 梶井基次郎

一  季節は冬至に間もなかった。堯《たかし》の窓からは、地盤の低い家々の庭や門辺に立っている木々の葉が、一日ごと剥《は》がれてゆく様《さま》が見えた。  ごんごん胡麻《ごま》は老婆の蓬髪《ほうはつ》のようになってしまい、霜に美しく灼《や》け...
梶井基次郎

泥濘 —–梶井基次郎

一  それはある日の事だった。――  待っていた為替《かわせ》が家から届いたので、それを金に替えかたがた本郷へ出ることにした。  雪の降ったあとで郊外に住んでいる自分にはその雪解けが億劫《おっくう》なのであったが、金は待っていた金なので関《...
梶井基次郎

太郎と街—– 梶井基次郎

秋は洗ひたての敷布《シーツ》の樣に快かつた。太郎は第一の街で夏服を質に入れ、第二の街で牛肉を食つた。微醉して街の上へ出ると正午のドンが鳴つた。  それを振り出しに第三第四の街を歩いた。飛行機が空を飛んでゐた。新鮮な八百屋があつた。魚屋があつ...
梶井基次郎

蒼穹—— 梶井基次郎

ある晩春の午後、私は村の街道に沿った土堤の上で日を浴びていた。空にはながらく動かないでいる巨《おお》きな雲があった。その雲はその地球に面した側に藤紫色をした陰翳《いんえい》を持っていた。そしてその尨大《ぼうだい》な容積やその藤紫色をした陰翳...
梶井基次郎

淺見淵君に就いて—梶井基次郎

私は淺見君にはまだ數へる程しか會つたことのない間柄である。隨つて淺見君に就いては知ることが非常に尠い。尤も淺見君の弟である淺見篤(舊眞晝同人)とは高等學校のとき非常に親しかつた。淺見君に會つたそもそものはじめも彼を介してである。  最初にた...
梶井基次郎

川端康成第四短篇集「心中」を主題とせるヴァリエイシヨン ———梶井基次郎

彼が妻と七才になる娘とを置き去りにして他郷へ出奔してから、二年になる。その間も、時々彼の心を雲翳のやうに暗く過るのは娘のことであつた。 「若し恙なく暮してゐるのだつたら、もう學校へあがつてゐる筈だ。あの娘等の樣に」  他郷の町の娘等は歌を歌...
梶井基次郎

雪後—– 梶井基次郎

一  行一が大学へ残るべきか、それとも就職すべきか迷っていたとき、彼に研究を続けてゆく願いと、生活の保証と、その二つが不充分ながら叶《かな》えられる位置を与えてくれたのは、彼の師事していた教授であった。その教授は自分の主裁している研究所の一...
梶井基次郎

青空同人印象記(大正十五年六月號) 『青空』記事 —–梶井基次郎

忽那に就て  忽那はクツナと讀む。奇妙な名だ。こんな話がある。高等學校では彼も教場を下駄穿きで歩く方だつた。獨逸人の教師が、 「何故下駄で教室へ入るのだ」と或日彼に云つた。 「靴がないのです」  そこでヘルフリツチユ先生が 「|道理で《ナチ...
梶井基次郎

城のある町にて—– 梶井基次郎

ある午後 「高いとこの眺めは、アアッ(と咳《せき》をして)また格段でごわすな」  片手に洋傘《こうもり》、片手に扇子と日本手拭を持っている。頭が奇麗《きれい》に禿《は》げていて、カンカン帽子を冠っているのが、まるで栓《せん》をはめたように見...
梶井基次郎

詩集『戰爭』—– 梶井基次郎

私は北川冬彦のやうに鬱然とした意志を藏してゐる藝術家を私の周圍に見たことがない。  それは彼の詩人的 career を貫いてゐる。  それはまた彼の詩の嚴然とした形式を規定してゐる。  人々は「意志」の北川冬彦を理解しなければならない。この...
梶井基次郎

講演會 其他(大正十五年二月號) 『青空』記事 —–梶井基次郎

舊臘二十三日私達は大津の公會堂で青空の講演會を開くことになつてゐた。講演會の直接の目的は讀者を殖すことであつた。世間へ出て私達の信ずるところを説く、私達共同で出來る正式な方法としてはさしあたりそれ以外にはない。  獻立は外村と淺沼がやつた。...
梶井基次郎

交尾—— 梶井基次郎

その一  星空を見上げると、音もしないで何匹も蝙蝠《こうもり》が飛んでいる。その姿は見えないが、瞬間瞬間光を消す星の工合から、気味の悪い畜類の飛んでいるのが感じられるのである。  人びとは寐《ね》静まっている。――私の立っているのは、半ば朽...
梶井基次郎

器楽的幻覚—– 梶井基次郎

ある秋|仏蘭西《フランス》から来た年若い洋琴家《ピアニスト》がその国の伝統的な技巧で豊富な数の楽曲を冬にかけて演奏して行ったことがあった。そのなかには独逸《ドイツ》の古典的な曲目もあったが、これまで噂ばかりで稀にしか聴けなかった多くの仏蘭西...
梶井基次郎

海 断片—– 梶井基次郎

……らすほどそのなかから赤や青や朽葉《くちば》の色が湧いて来る。今にもその岸にある温泉や港町がメダイヨンのなかに彫り込まれた風景のように見えて来るのじゃないかと思うくらいだ。海の静かさは山から来る。町の後ろの山へ廻った陽がその影を徐々に海へ...
梶井基次郎

過古—— 梶井基次郎

母親がランプを消して出て来るのを、子供達は父親や祖母と共に、戸外で待っていた。  誰一人の見送りとてない出発であった。最後の夕餉《ゆうげ》をしたためた食器。最後の時間まで照していたランプ。それらは、それらをもらった八百屋《やおや》が取りに来...
梶井基次郎

温泉—– 梶井基次郎

断片 一  夜になるとその谷間は真黒な闇に呑まれてしまう。闇の底をごうごうと溪《たに》が流れている。私の毎夜下りてゆく浴場はその溪ぎわにあった。  浴場は石とセメントで築きあげた、地下牢のような感じの共同湯であった。その巌丈《がんじょう》な...
梶井基次郎

闇の書—– 梶井基次郎

一  私は村の街道を若い母と歩いていた。この弟達の母は紫色の衣服を着ているので私には種々のちがった女性に見えるのだった。第一に彼女は私の娘であるような気を起こさせた。それは昔彼女の父が不幸のなかでどんなに酷《ひど》く彼女を窘《いじ》めたか、...
梶井基次郎

闇の絵巻—– 梶井基次郎

最近東京を騒がした有名な強盗が捕《つか》まって語ったところによると、彼は何も見えない闇の中でも、一本の棒さえあれば何里でも走ることができるという。その棒を身体の前へ突き出し突き出しして、畑でもなんでも盲滅法《めくらめつぽう》に走るのだそうで...
梶井基次郎

愛撫—— 梶井基次郎

猫の耳というものはまことに可笑《おか》しなものである。薄べったくて、冷たくて、竹の子の皮のように、表には絨毛《じゆうもう》が生えていて、裏はピカピカしている。硬《かた》いような、柔らかいような、なんともいえない一種特別の物質である。私は子供...