岡本かの子

巴里のキャフェ ―朝と昼― —–岡本かの子

旅人のカクテール  旅人《エトランゼ》は先ず大通《グランブールヴァル》のオペラの角のキャフェ・ド・ラ・ペーイで巴里《パリ》の椅子の腰の落付き加減を試みる。歩道へ半分ほどもテーブルを並べ出して、角隅を硝子屏風で囲ってあるテラスのまん中に置いた...
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桃のある風景—– 岡本かの子

食欲でもないし、情欲でもない。肉体的とも精神的とも分野をつき止めにくいあこがれ[#「あこがれ」に傍点]が、低気圧の渦《うず》のように、自分の喉頭《のど》のうしろの辺《あたり》に鬱《うっ》して来て、しっきりなしに自分に渇《かわ》きを覚《おぼ》...
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東海道五十三次—– 岡本かの子

風俗史専攻の主人が、殊《こと》に昔の旅行の風俗や習慣に興味を向けて、東海道に探査の足を踏み出したのはまだ大正も初めの一高の生徒時代だったという。私はその時分のことは知らないが大学時代の主人が屡々《しばしば》そこへ行くことは確《たしか》に見て...
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鶴は病みき—– 岡本かの子

白梅の咲く頃となると、葉子はどうも麻川荘之介氏を想《おも》い出していけない。いけないというのは嫌という意味ではない。むしろ懐しまれるものを当面に見られなくなった愛惜のこころが催されてこまるという意味である。わが国大正期の文壇に輝いた文学者麻...
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蔦の門—– 岡本かの子

私の住む家の門には不思議に蔦《つた》がある。今の家もさうであるし、越して来る前の芝、白金《しろがね》の家もさうであつた。もつともその前の芝、今里の家と、青山南町の家とには無かつたが、その前にゐた青山|隠田《おんでん》の家には矢張り蔦があつた...
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茶屋知らず物語—– 岡本かの子

元禄|享保《きょうほう》の頃、関西に法眼、円通という二禅僧がありました。いずれも黄檗《おうばく》宗の名僧|独湛《どくたん》の嗣法の弟子で、性格も世離れしているところから互いは親友でありました。  法眼は学問があって律義の方、しかし其《そ》の...
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男心とはかうしたもの 女のえらさと違う偉さ—– 岡本かの子

尊敬したい気持  結婚前は、男子に対する観察などいつても、甚だ漠然としたもので、寧ろこの時代には、男とも、女とも意識しなかつた位です。  それが結婚して、やうやく男子に対する自覚が出来、初めて男といふものが解つた時、私の感じたのは、男子とい...
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荘子—– 岡本かの子

紀元前三世紀のころ、支那では史家が戦国時代と名づけて居る時代のある年の秋、魏の都の郊外|櫟社《れきしゃ》の附近に一人の壮年=荘子が、木の葉を敷いて休んでいた。  彼はがっちりした体に大ぶ古くなった袍《ほう》を着て、樺の皮の冠を無雑作《むぞう...
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雪の日—– 岡本かの子

伯林《ベルリン》カイザー街の古い大アパートに棲んで居た冬のことです。外には雪が降りに降っていました。内では天井に大煙突の抜けているストーヴでどんどん薪をくべていました。電車の地響と自動車の笛の音ばかりで、街には犬も声を立てて居ない、積雪に静...
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雪—– 岡本かの子

遅い朝日が白み初めた。  木琴入りの時計が午前七時を打つ。ヴァルコンの扉《ドア》が開く。 「フランスの貴族でアメリカ女の金持と政策結婚をした始めての人間はわしだつたのさ。」  さう云ひながらボニ侯爵は軽騎兵の服を型取つた古い部屋着のまま中庭...
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星—– 岡本かの子

晴れた秋の夜は星の瞬きが、いつもより、ずつとヴイヴイツトである。殊に月の無い夜は星の光が一層燦然として美しい。それ等の星々をぢつと凝視してゐると、光の強い大きな星は段々とこちらに向つて動いて来るやうな気がして怖いやうだ。事実太洋を航海してゐ...
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雛妓 —–岡本かの子

なに事も夢のようである。わたくしはスピードののろい田舎の自動車で街道筋を送られ、眼にまぼろし[#「まぼろし」に傍点]の都大路に入った。わが家の玄関へ帰ったのは春のたそがれ近くである。花に匂《にお》いもない黄楊《つげ》の枝が触れている呼鈴を力...
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新時代女性問答—– 岡本かの子

一平 兎《と》に角《かく》、近代の女性は型がなくなった様《よう》だね。 かの子 形の上でですか、心の上でですか。 一平 つまり、心構《こころがま》えの上でさ。昔で云《い》えば新しい女とかいうようにさ。 かの子 特別な型はなくなりましたね。た...
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唇草—– 岡本かの子

今年の夏の草花にカルセオラリヤが流行《はや》りそうだ。だいぶ諸方に見え出している。この間花屋で買うとき、試しに和名を訊ねて見たら、 「わたしどもでは唇草といってますね、どうせ出鱈目《でたらめ》でしょうが、花の形がよく似てるものですから」  ...
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食魔—– 岡本かの子

菊萵苣《きくぢさ》と和名はついているが、原名のアンディーヴと呼ぶ方が食通の間には通りがよいようである。その蔬菜《そさい》が姉娘のお千代の手で水洗いされ笊《ざる》で水を切って部屋のまん中の台俎板《だいまないた》の上に置かれた。  素人の家にし...
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上田秋成の晩年—– 岡本かの子

文化三年の春、全く孤独になつた七十三の翁《おきな》、上田秋成は京都南禅寺内の元の庵居《あんきょ》の跡に間に合せの小庵を作つて、老残の身を投げ込んだ。  孤独と云つても、このくらゐ徹底した孤独はなかつた。七年前三十八年連れ添つた妻の瑚※[#「...
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小町の芍薬—– 岡本かの子

根はかち/\の石のやうに朽ち固つてゐながら幹からは新枝を出し、食べたいやうな柔かい切れ込みのある葉は萌黄色のへりにうす紅をさしてゐた。  枝さきに一ぱいに蕾《つぼみ》をつけてゐる中に、半開から八分咲きの輪も混つてゐた。その花は媚びた唇のやう...
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小学生のとき与へられた教訓—– 岡本かの子

或る晴れた秋の日、尋常科の三年生であつた私は学校の運動場に高く立つてゐる校旗棒を両手で握つて身をそらし、頭を後へ下げて、丁度逆立したやうになつて空を眺めてみた。すると青空が自分の眼の下に在るやうに見え、まるで、海を覗いてゐる気がした。ところ...
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勝ずば —–岡本かの子

夜明けであった。隅田川以東に散在する材木堀の間に挟まれた小さな町々の家並みは、やがて孵化《ふか》する雛《ひな》を待つ牝鶏《ひんけい》のように一夜の憩いから目醒めようとする人々を抱いて、じっと静まり返っていた。だが、政枝の家だけは混雑していた...
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女性崇拝—– 岡本かの子

西洋人は一体《いったい》に女性尊重と見做《みな》されているが、一概《いちがい》にそうも言い切れない。欧州人の中でも一番女性尊重者は十指《じっし》の指すところ英国人であるが、英国人の女性尊重は客間《きゃくま》だけの女性尊重で、居間へ入ると正反...