横光利一

花園の思想—– 横光利一

    一

丘の先端の花の中で、透明な日光室が輝いていた。バルコオンの梯子《はしご》は白い脊骨のように突き出ていた。彼は海から登る坂道を肺療院の方へ帰って来た。彼はこうして時々妻の傍《そば》から離れると外を歩き、また、妻の顔を新しく見に帰った。見る度《たび》に妻の顔は、明確なテンポをとって段階を描きながら、克明に死線の方へ近寄っていた。――山上の煉瓦《れんが》の中から、不意に一群の看護婦たちが崩《くず》れ出《だ》した。
「さようなら。」
「さようなら。」
「さようなら。」
 退院者の後を追って、彼女たちは陽《ひ》に輝いた坂道を白いマントのように馳《か》けて来た。彼女たちは薔薇《ばら》の花壇の中を旋回すると、門の広場で一輪の花のような輪を造った。
「さようなら。」
「さようなら。」
「さようなら。」
 芝生の上では、日光浴をしている白い新鮮な患者たちが坂に成った果実のように累々《るいるい》として横たわっていた。
 彼は患者たちの幻想の中を柔かく廊下へ来た。長い廊下に添った部屋部屋の窓から、絶望に光った一列の眼光が冷たく彼に迫って来た。
 彼は妻の病室のドアーを開けた。妻の顔は、花瓣に纏《まと》わりついた空気のように、哀れな朗かさをたたえて静まっていた。
 ――恐らく、妻は死ぬだろう。
 彼は妻を寝台の横から透《す》かしてみた。罪と罰とは何もなかった。彼女は処女を彼に与えた満足な結婚の夜の美しさを回想しているかのように、端整な青い線をその横顔《プロフィール》の上に浮べていた。

       

 彼と妻との間には最早《もはや》悲しみの時機《じき》は過ぎていた。彼は今まで医者から妻の死の宣告を幾度聞かされたか分らなかった。その度に彼は医者を変えてみた。彼は最後の努力で彼の力の及ぶ限り死と戦った。が、彼が戦えば戦うほど、彼が医者を変えれば変えるほど、医者の死の宣告は事実と一緒に明克《めいこく》の度を加えた。彼は萎《しお》れてしまった。彼は疲れてしまった。彼は手を放したまま呆然《ぼうぜん》たる蔵《くら》のように、虚無の中へ坐り込んだ。そうして、今は、二人は二人を引き裂く死の断面を見ようとしてただ互に暗い顔を覗《のぞ》き合《あわ》せているだけである。丁度、二人の眼と眼の間に死が現われでもするかのように。彼は食事の時刻が来ると、黙って匙《さじ》にスープを掬《すく》い、黙って妻の口の中へ流し込んだ。丁度、妻の腹の中に潜んでいる死に食物を与えるように。
 あるとき、彼は低い声でそっと妻に訊《たず》ねてみた。
「お前は、死ぬのが、ちょっとも怖《こわ》くはないのかね。」
「ええ。」と妻は答えた。
「お前は、もう生きたいとは、ちょっとも思わないのかね。」
「あたし、死にたい。」
「うむ。」と彼は頷《うなず》いた。
 二人には二人の心が硝子《ガラス》の両面から覗き合っている顔のようにはっきりと感じられた。

       

 今は、彼の妻は、ただ生死の間を転っている一疋《いっぴき》の怪物だった。あの激しい熱情をもって彼を愛した妻は、いつの間にか尽《ことごと》く彼の前から消え失せてしまっていた。そうして、彼は? あの激しい情熱をもって妻を愛した彼は、今は感情の擦《す》り切《き》れた一個の機械となっているにすぎなかった。実際、この二人は、その互に受けた長い時間の苦痛のために、もう夫婦でもなければ人間でもなかった。二人の眼と眼を経だてている空間の距離には、ただ透明な空気だけが柔順に伸縮しているだけである。その二人の間の空気は死が現われて妻の眼を奪うまで、恐らく陽が輝けば明るくなり、陽が没すれば暗くなるに相違ない。二人にとって、時間は最早愛情では伸縮せず、ただ二人の眼と眼の空間に明暗を与える太陽の光線の変化となって、露骨に現われているだけにすぎなかった。それは静かな真空のような虚無であった。彼には横たわっている妻の顔が、その傍の薬台や盆のように、一個の美事な静物に見え始めた。
 彼は二人の間の空間をかつての生き生きとした愛情のように美しくするために、花壇の中からマーガレットや雛罌粟《ひなげし》をとって来た。その白いマーガレットは虚無の中で、ほのかに妻の動かぬ表情に笑を与えた。またあの柔かな雛罌粟が壺にささって微風に赤々と揺《ゆ》らめくと、妻はかすかな歎声を洩《もら》して眺めていた。この四角な部屋に並べられた壺や寝台や壁や横顔《プロフィール》や花々の静まった静物の線の中から、かすかな一条の歎声が洩れるとは。彼は彼女のその歎声の秘められたような美しさを聴くために、戸外から手に入る花という花を部屋の中へ集め出した。
 薔薇は朝毎に水に濡れたまま揺れて来た。紫陽花《あじさい》と矢車草《やぐるまそう》と野茨《のいばら》と芍薬《しゃくやく》と菊と、カンナは絶えず三方の壁の上で咲いていた。それは華《はな》やかな花屋のような部屋であった。彼は夜ごとに燭台に火を付けると、もしかしたらこっそりこの青ざめた花屋の中へ、死の客人が訪れていはしまいかと妻の寝顔を覗き込んだ。すると、或《あ》る夜不意に妻は眼を開けて彼にいった。
「あなた、私が死んだら、幸福になるわね。」
 彼は黙って妻の顔を眺めていた。そして、彼は自分の寝床へ帰って来ると憂鬱《ゆううつ》に蝋燭の火を吹き消した。

       

 彼は自分の疲れを慰めるために、彼の眼に触れる空間の存在物を尽《ことごと》く美しく見ようと努力し始めた。それは彼の感情のなくなった虚無の空間へ打ち建てらるべきただ一つの生活として、彼に残されていたものだった。
 彼は彼の寝床を好んだ。寝床は妻の寝室と同じであるとしても、軽症者の静臥《せいが》すべきベランダにあった。ベランダは花園の方を向いていた。彼はこのベランダで夜中眼が醒《さ》める度に妻より月に悩まされた。月は絶えず彼の鼻の上にぶらさがったまま皎々《こうこう》として彼の視線を放さなかった。その海の断面のような月夜の下で、花園の花々は絶えず群生した蛾《が》のようにほの白い円陣を造っていた。そうして月は、その花々の先端の縮れた羊のような皺《しわ》を眺めながら、蒼然《そうぜん》として海の方へ渡っていった。
 そういう夜には、彼はベランダからぬけ出し夜の園丁《えんてい》のように花の中を歩き廻った。湿った芝生に抱かれた池の中で、一本の噴水が月光を散らしながら周囲の石と花とに戯《たわむ》れていた。それは穏かに庭で育った高価な家畜のような淑《しと》やかさをもっていた。また遠く入江を包んだ二本の岬《みさき》は花園を抱いた黒い腕のように曲っていた。そうして、水平線は遙か一髪の光った毛のように月に向って膨《ふく》らみながら花壇の上で浮いていた。
 こういうとき、彼は絶えず火を消して眠っている病舎の方を振り返るのが癖《くせ》である。すると彼の頭の中には、無数の肺臓が、花の中で腐りかかった黒い菌のように転がっている所が浮んで来る。恐らくその無数の腐りかかった肺臓は、低い街々の陽《ひ》のあたらぬ屋根裏や塵埃溜《ごみため》や、それともまたは、歯車の噛《か》み合《あ》う機械や飲食店の積み重なった器物の中へ、胞子を無数に撒《ま》きながら、この丘の花園の中へ寄り集って来たものに相違ない。しかし、これらの憐れにも死に逝《ゆ》く肺臓の穴を防ぎとめ、再び生き生きと活動させて巷《ちまた》の中へ送り出すここの花園の院長は、もとは、彼の助けているその無数の腐りかかった肺臓のように、死を宣告された腐った肺臓を持っていた。一の傷ついた肺臓が、自身の回復した喜びとして、その回復期の続く限り、無数の傷ついた肺臓を助けて行く。これが、この花園の中で呼吸している肺臓の特種な運動の体系であった。

       

 ここの花園の中では、新鮮な空気と日光と愛と豊富な食物と安眠とが最も必要とされていた。ここでは夜と雲とが現われない限り、病舎に影を投げかけるものは屋根だけだった。食物は海と山との調味豊かな品々が時に従って華やかな色彩で食慾を増進させた。空気は晴れ渡った空と海と山との三色の緑の色素の中から湧《わ》き上《あが》った。物音とてはしんしんと耳の痛む静けさと、時には娯楽室からかすかに上るミヌエットと、患者の咳《せき》と、花壇の中で花瓣の上に降りかかる忍びやかな噴水の音ぐらいにすぎなかった。そうして、愛は? 愛は都会の優れた医院から抜擢《ばってき》された看護婦たちの清浄な白衣の中に、五月の徴風のように流れていた。
 しかし、愛はいつのときでも曲者《くせもの》である。この花園の中でただ無為に空と海と花とを眺めながら、傍近く寄るものが、もしも五月の微風のように爽《さわや》かであったなら、そこに柔かな愛慾の実のなることは明かな物理である。しかし、ここの花園では愛恋は毒薬であった。もしも恋慕が花に交って花開くなら、やがてそのものは花のように散るであろう。何《な》ぜなら、この丘の空と花との明るさは、巷の恋に代った安らかさを病人に与えるために他ならない。もしも彼らの間に恋の花が咲いたなら、間もなく彼らを取り巻く花と空との明るさはその綿々《めんめん》とした異曲のために曇るであろう。だが、この空と花との美しき情趣の中で、華やかな女のさざめきが微笑のように迫るなら、愛慾に落ちないものは石であった。このためここの白い看護婦たちは、患者の脈を験《しら》べる巧妙な手つきと同様に、微笑と秋波《しゅうは》を名優のように整頓しなければならなかった。しかし、彼女たちといえども一対の大きな乳房をもっていた。病舎の燈火が一斉に消えて、彼女たちの就寝の時間が来ると、彼女らはその厳格な白い衣を脱ぎ捨て、化粧をすませ、腰に色づいた帯を巻きつけ、いつの間にかしなやかな寝巻姿の娘になった。だが娘になった彼女らは、皆ことごとく疲れと眠さのため物憂《ものう》げに黙っていた。それは恋に破れた娘らがどことなく人目を憚《はばか》るあの静かな悩ましさをたたえているかのように。或るものはその日の祈りをするために跪《ひざまず》き、或るものは手紙を書き、或るものは物思いに沈み込み、また、ときとしては或るものは、盛装をこらして火の消えた廊下の真中にぼんやりと立っていた。恐らく彼女らにはその最も好む美しき衣物を着る時間が、眠るとき以外にはないのであろう。
 或る夜、彼女らの一人は、夜|更《ふ》けてから愛する男の病室へ忍び込んで発見された。その翌日、彼女は病院から解雇された。出て行くとき彼女は長い廊下を見送る看護婦たちにとりまかれながら、いささかの羞《は》ずかしさのために顔を染めてはいたものの、傲然《ごうぜん》とした足つきで出ていった、それは丁度、長い酷使と粗食との生活に対して反抗した模範を示すかのように。その出て行くときの彼女の礼節を無視した様子には、確《たしか》に、長らく彼女を虐《いじ》めた病人と病院とに復讎《ふくしゅう》したかのような快感が、悠々《ゆうゆう》と彼女の肩に現われていた。

       

 梅雨期が近づき出すと、ここの花園の心配はこの院内のことばかりではなくなって来た。麓《ふもと》の海村には、その村全体の生活を支えている大きな漁場がひかえていた。上に肺病院を頂《いただ》いた漁場の魚の売れ行きは拡大するより、縮小するのが、より確実な運命にちがいない。麓の活躍した心臓を圧迫するか、頂の死《し》に逝《ゆ》く肺臓を黙殺するか、この二つの背反に波打って村は二派に分れていた。既に決定せられたがように、譬《たと》えこの頂きに療院が許されたとしても、それは同時に尽《ことごと》くの麓の心臓が恐怖を忘れた故ではなかった。
 間もなく、これらの腐敗した肺臓を恐れる心臓は、頂の花園を苦しめ出した。彼らは花園に接近した地点を撰ぶと、その腐敗した肺臓のために売れ残って腐り出しただけの魚の山を、肥料として積み上げた。忽《たちま》ち蠅《はえ》は群生して花壇や病舎の中を飛び廻った。病舎では、一疋の蠅は一挺《いっちょう》のピストルに等しく恐怖すべき敵であった。院内の窓という窓には尽く金網が張られ出した。金槌《かなづち》の音は三日間患者たちの安静を妨害した。一日の混乱は半カ月の静養を破壊する。患者たちの体温表は狂い出した。
 しかし、この肺臓と心臓との戦いはまだ続いた。既に金網をもって防戦されたことを知った心臓は、風上から麦藁《むぎわら》を燻《くす》べて肺臓めがけて吹き流した。煙は道徳に従うよりも、風に従う。花壇の花は終日|濛々《もうもう》として曇って来た。煙は花壇の上から蠅を追い散らした勢力よりも、更に数倍の力をもって、直接腐った肺臓を攻撃した。患者たちは咳《しわぶ》き始めた。彼らの一回の咳は、一日の静養を掠奪する。病舎は硝子戸《ガラスど》で金網の外から密閉された。部屋には炭酸|瓦斯《ガス》が溜り出した。再び体温表が乱れて来た。患者の食慾が減り始めた。人々はただぼんやりとして硝子戸の中から空を見上げているだけにすぎなかった。
 こうして、彼の妻はその死期の前を、花園の人々に愛されただけ、眼下の漁場に苦しめられた。しかし、花園は既にその山上の優れた位地を占めた勝利のために、何事にも黙っていなければならなかった。彼の妻は日々一層激しく咳き続けた。

       

 こういう或る日、彼はこっそり副院長に別室へ呼びつけられた。
「お気の毒ですが、多分、あなたの奥様は、」
「分りました。」と彼はいった。
「この月いっぱいだろうと思いますが……」
「ええ。」
「私たちは出来るだけのことをやったのですが。……何分……」
「どうも、いろいろ御迷惑をおかけしまして、」
「いや……それから、もし御親戚の方々をお呼びなさいますなら、一時にどっと来られませんように。」
「承知しました。」
「長い間でお疲れでございましょう。」
「いや。」
 彼はいつの間にか廊下の真中まで来てひとり立っていた。忘れていた悲しみが、再び強烈な匂《におい》のように襲って来た。
 彼は妻の病室の方へ歩き出した。
 ――しかし、これは、事実であろうか。
 彼はまた立ち停った。セロのガボットが華やかに日光室から聞えて来た。
 ――しかし、よし譬《たと》え、明かに、事実は妻を死の中へ引《ひ》き摺《ず》り込もうとしているとしても、果して、事実は常に事実であろうか。
 ――嘘《うそ》だ。と彼は思った。
 彼は、総《すべ》ての自分の感覚を錯覚だと考えた。一切の現象を仮象《かしょう》だと考えた。
 ――何故にわれわれは、不幸を不幸と感じなければならないのであろう。
 ――何故にわれわれは、葬礼を婚礼と感じてはいけないのであろう。
 彼はあまりに苦しみ過ぎた。彼はあまりに悪運を引き過ぎた。彼はあまりに悲しみ過ぎた、が故に、彼はそのもろもろの苦しみと悲しみとを最早|偽《いつわ》りの事実としてみなくてはならなかった。
 ――間もなく、妻は健康になるだろう。
 ――間もなく、二人は幸福になるだろう。
 彼はこのときから、突如として新しい意志を創り出した。彼はその一個の意志で、総《あら》ゆる心の暗さを明るさに感覚しようと努力し始めた。もう彼にとって、長い間の虚無は、一睡の夢のように吹き飛んだ。
 彼は深い呼吸をすると、快活に妻のベッドの傍へ寄っていった。
「おい、お前は死ぬことを考えているんだろう。」
 妻は彼を見て頷《うなず》いた。
「だが、人間は死ぬものじゃないんだ。死んだって、死ぬなんてことは、そんなことは何んでもない。分ったね。」――無論、何をいっているのか彼にも分らなかった。
 妻は冷淡な眼で彼を見詰めたまま黙っていた。
「お前は俺《おれ》よりも、そんなことは良く知っているだろう。死ぬなんていうことは、下らない、何んでもない、馬鹿馬鹿しいことなんだ。」
「あたし、もうこれ以上苦しむのは、いや。」と妻はいった。
「そりゃ、そうだ。苦しむなんて、馬鹿な話だ。しかし、生きているからって、お前は俺に気がねする必要は、少しもないんだ。」
「あたし、あなたより、早く死ぬから、嬉しいの。」と彼女はいった。
 彼は笑い出した。
「お前も、うまいことを考えたね。」
「あたしより、あなたの方が、可哀想《かわいそう》だわ。」
「そりゃ、定《き》まってる。俺の方が馬鹿を見たさ。だいたい、人間が生きているなんていうことからして、下らないよ。こんなにぶらぶらして、生きていたって、始まらないじゃないか。お前も、もう死ぬがいい、うむ?」
「うむ、」と妻は頷いた。
「俺だって、もう直ぐ死ぬんさ。こんな所に、ぐずぐず生きてなんか、いたかない。お前も、うまいことをしたもんさ。」
 妻は彼を見てかすかに笑い出した。
「あたし、ただ、もうちょっと、この苦しさが少なければ、生きていてもいいんだけど。」
「馬鹿な。生きていたって、仕様《しよう》がないじゃないか、いったい、これから、何をしようっていうんだ。もう俺もお前もするだけのことは、すっかりしてしまったじゃないか。思い出してみるがいい。」
「そうだわね。」と妻は言った。
「そうさ、もう大きな顔をして、死んでもいいよ。」
 妻は彼の顔から彼の心理の変化を見届けようとするように、黙って彼の顔を見詰めていた。
「お前は何だか淋しそうだ。お前のお母さんを、呼んでやろうか。」
「もういい、あなたが傍《そば》にいて下されば、あたし誰にも逢《あ》いたかない。」と妻はいった。
「そうか、じゃ、」と彼はいって直ぐ彼女の母に来るようにと手紙を書いた。

       

 その翌日から妻の顔は急に水々しい水蜜《すいみつ》のような爽《さわや》かさを加えて来た。妻は絶えず、窓いっぱいに傾斜している山腹の百合《ゆり》の花を眺めていた。彼は部屋の壁々に彼女の母の代りに新しい花を差し添えた。シクラメンと百合の花。ヘリオトロオプと矢車草《やぐるまそう》。シネラリヤとヒアシンス。薔薇《ばら》とマーガレットと雛罌粟《ひなげし》と。
「お前の顔は、どうしてそう急に美しくなったのだろう。お前は十六の娘のようだ。お前はいっぱいのスープも飲まないくせに、まるで鶏《にわとり》の十五、六羽もやっつけたような顔をしている。不思議な奴だ。さては、俺の知らぬ間に、こっそりやったと見えるな。」
「あの百合の花を、この部屋から出して。」と妻はいった。
 百合の匂いは他の花の匂いを殺してしまう。――
「そうだ、この花は、英雄だ。」
 彼は百合を攫《つか》むと部屋の外へ持ち出した。が、さて捨てるとなると、その濡れたように生き生きとした花粉の精悍《せいかん》な色のために、捨て処がなくなった。彼は小猫を下げるように百合の花束をさげたまま、うろうろ廊下を廻って空虚の看護婦部屋を覗《のぞ》いてみた。壁に挾まれた柩《ひつぎ》のような部屋の中にはしどけた帯や野蛮なかもじ[#「かもじ」に傍点]が蒸された空気の中に転げていた。まもなくここで、疲れた身体を横たえるであろう看護婦たちに、彼は山野の清烈な幻想を振《ふ》り撒《ま》いてやるために、そっと百合の花束を匂い袋のように沈めておいて戻って来た。

       

 山の上では、また或る日|拗《しつこ》く麦藁《むぎわら》を焚《た》き始めた。彼は暇をみて病室を出るとその火元の畠の方へいってみた。すると、青草の中で、鎌《かま》を研《と》いでいた若者が彼を仰いだ。
「その火は、いつまで焚くんです?」と彼は訊《き》いた。
「これだけだ。」と若者はいいながら火のついた麦藁を鎌で示した。
「その火は焚かなくちゃ、いけないものですか。」
 若者は黙って一握りの青草に刃《は》をあてた。
「僕の家内は、この煙りのために、殺されるんです。焚かないですませるものなら、やめてくれ給え。」
 彼は若者の答えを待たずに、裏山から漁場の方へ降りていった。扁平《へんぺい》な漁場では、銅色《あかがねいろ》の壮烈な太股《ふとまた》が、林のように並んでいた。彼らは折からの鰹《かつお》が着くと飛沫《ひまつ》を上げて海の中へ馳《か》け込《こ》んだ。子供たちは砂浜で、ぶるぶる慄《ふる》える海月《くらげ》を攫《つか》んで投げつけ合った。舟から樽が、太股が、鮪《まぐろ》と鯛《たい》と鰹が海の色に輝きながら溌溂《はつらつ》と上って来た。突如として漁場は、時ならぬ暁のように光り出した。毛の生えた太股は、魚の波の中を右往左往に屈折した。鯛は太股に跨《またが》られたまま薔薇色の女のように観念し、鮪は計画を貯えた砲弾のように、落ちつき払って並んでいた。時々突っ立った太股の林が揺らめくと、射し込んだ夕日が、魚の波頭で斬《き》りつけた刃のように鱗光《りんこう》を閃《ひら》めかした。
 彼は魚の中から丘の上を仰いで見た。丘の花壇は、魚の波間に忽然《こつぜん》として浮き上った。薔薇と鮪と芍薬《しゃくやく》と、鯛とマーガレットの段階の上で、今しも日光室の多角な面が、夕日に輝きながら鋭い光鋩《こうぼう》を眼のように放っていた。
「しかし、この魚にとりまかれた肺病院は、この魚の波に攻め続けられている城である。この城の中で、最初に討死《うちじに》するのは、俺の家内だ。」と彼は思った。
 事実彼にとって、眼前の魚は、煙で彼の妻の死を早めつつある無数の勇敢な敵であった。と同時に、彼女にとっては、魚は彼女の苦痛な時期をより縮めんとしている情《なさけ》ある医師でもあった。彼には、あの砲弾のような鮪の鈍重な羅列《られつ》が、急に無意味な意味を含めながら、黒々と沈黙しているように見えてならなかった。

       

 この日から、彼は、彼の妻を苦しめているものは事実果してこの漁場の魚か花園の花々か、そのどちらであろうかと迷い出した。何故なら彼女が花園にある限り、彼女の苦しい日々は、恐らく魚の吐き出す煙があるよりも、長く続いて行くにちがいなかったからである。
 その夜の回診のとき、彼の妻は自分の足を眺めながら医師に訊《たず》ねた。
「先生、私の足、こんなに膨《ふく》れて来て、どうしたんでございましょう。」
「いや、それは何んでもありません。御心配なさいますな。何んでもありませんから。」と医師は誤魔化《ごまか》した。
 ――水が足に廻り出したのだ。
 ――もう、駄目だ。と彼は思った。
 医師が去ると、彼は電燈を消して燭台に火を点《つ》けた。
 ――さて、何の話をしたものであろう。
 彼は妻の影が、ヘリオトロオプの花の上で、蝋燭《ろうそく》の光りのままに細かく揺れているのを眺めていた。すると、ふと、彼は初めて妻を見たときの、あの彼女のただ彼のみに赦《ゆる》されてあるかのような健《すこや》かな笑顔を思い出した。彼は涙がにじんで来た。彼はソッと妻の上にかがみ込むと、花の匂いの中で彼女の額《ひたい》に接吻した。
「お前は、俺があの汚い二階の紙屑《かみくず》の中に坐っている頃、毎夜こっそり来てくれたろう。」
 妻は黙って頷《うなず》いた。
「俺はあの頃が一番面白かった。お前の明るいお下《さげ》の頭が、あの梯子《はしご》を登った暗い穴の所へ、ひょっこり花車《はなぐるま》のように現われるのさ。すると、俺は、すっかり憂鬱がなくなっちゃって、はしゃぎ廻ったもんだ。とにかく、あの頃は、俺も貧乏していたが、一番愉快だった。あれからは、俺もお前も、若い身空で苦労をした。しかし、まア、いいさ。どっちも、わがままのいい合いをして来たんだからね。それに俺だって、お前に一度もすまぬようなことをして来てないし、お前も俺にあやまるようなことはちっともなかったし、まア、俺たちは、お互に有難がらなくちゃならない夫婦なんだよ。何んだか、そろそろおかしな話になって来たが、とにかく、お前が病気をしたお蔭《かげ》で、俺ももう看護婦の免状位は貰《もら》えそうになって来たし、不幸ということがすっかり分らなくなって来たし、こんな有り難いことはそうやたらにあるもんじゃない。お前も、ゆっくり寝てるがいい。もう少しお前が良くなれば、俺はお前を負《お》んぶして、ここの花園の中を廻ってやるよ。」
「うむ、」と妻は静に頷いた。
 彼は危く涙が出そうになると、やっと眉根で受けとめたまま花壇の中へ降りて来た。彼は群がった夜の花の中へ顔を突き込んだ。すると、涙が溢《あふ》れ出《だ》した。彼は泣きながら冷たい花を次から次へと虫のように嗅ぎ廻った。彼は嗅ぎながら激しい祈りを花の中でし始めた。
「神よ、彼女を救い給え。神よ、彼女を救い給え。」
 彼は一握の桜草《さくらそう》を引きむしって頬《ほお》の涙を拭きとった。海は月出の前で秘めやかに白んでいた。夜鴉《よがらす》が奇怪なカーブを描きながら、花壇の上を鋭い影のように飛び去った。彼は心の鎮《しず》むまで、幾回となく、静な噴水の周囲を悲しみのように廻っていた。

       十一

 その翌朝早くから彼の妻の母が来た。彼女は娘の顔を見ると泣き始めた。
「君坊、どうした。まア、痩《や》せて。もっと早く来ようと思ったんだけど、いろいろ用事があって。」
 彼の妻はいつものような冷淡な顔をして、相手の騒ぐ様子を眺めていた。
「お前、苦しいのかい。おっ母《か》さんはね、毎日お前のことばかり思ってたんだよ。早く来たくって来たくって、しょうがなかったんだけど、皆家のものが病気ばかりしていてね。」
 彼は手紙に書かなかった妻の病状をもう母親に話す気は起らなかった。彼は妻を母親に渡しておいてひとり日光室へ来た。日光室のガラスの中では、朝の患者たちが籐《とう》の寝椅子《ねいす》に横たわって並んでいた。海は岬に抱かれたまま淑《しとや》かに澄んでいた。二人の看護婦が笑いながら現われると、満面に朝日を受けて輝やいている花壇の中へ降りていった。彼女たちの白い着物は真赤な雛罌粟の中へ蹲《しゃが》み込《こ》んだ。と、間もなく、転げるような赤い笑顔が花の中から起って来た。
 彼の横で寝ていた若い女の患者も笑い出した。
「まア、あんなに嬉しそうに。」
「ほんとにね。でも、もうあなたも、すぐあそこをお歩きになれますわ。」と隣りの痩せた婦人がいった。
「そうでございましょうかしら、でも。」
「ええ。ええ、昨日も先生が、そう仰言《おっしゃ》っていられましてよ。」
「あたし、あの露のある芝生の上を、一度歩きたくってしょうがありませんの。」
「そうでございますわね。でも、もう直ぐ、あんなにお笑いになれますわ。」
 看護婦たちはまた花の中から現われると、一枝ずつ花を折った。彼女たちは矢車草の紫の花壇と薔薇の花壇の間を朗かに笑いながら、朝日に絡《からま》って歩いていった。噴水は彼女たちの行く手の芍薬《しゃくやく》の花の上で、朝の虹を平然と噴き上げていた。

       十二

 彼の妻の腕に打たれる注射の数は、日ごとに増していった。彼女の食物は、水だけになって来た。
 或る日の夕暮、彼は露台《バルコオン》へ昇って暮れて行く下の海を見降《みおろ》しながら考えた。
 ――今は、ただ俺は、妻の死を待っているだけなのだ。その暇な時間の中へ、俺はいったい、何を詰め込もうとしているのだろう。
 彼には何も分らなかった。ただ彼は彼を乗せている動かぬ露台《バルコオン》が絶えず時間の上で疾走しつつあるのを感じたにすぎなかった。
 彼は水平線へ半円を沈めて行く太陽の速力を見詰めていた。
 ――あれが、妻の生命を擦《す》り減《へ》らしている速力だ、と彼は思った。
 見る間に、太陽はぶるぶる慄《ふる》えながら水平線に食われていった。海面は血を流した俎《まないた》のように、真赤な声を潜《ひそ》めて静まっていた。その上で、舟は落された鳥のように、動かなかった。
 彼は不意に空気の中から、黒い音のような凶徴《きょうちょう》を感じ出した。彼は急いでバルコオンを降りていった。向うの廊下から妻の母が急いで来た。二人は顔も動かさずに黙って両方へ擦れ違った。
「あのう、ちょっと、」と母は呼びとめた。
 彼は振り向いて黙っていた。
「今夜は、キーボ、危いわね。」
「危い。」と彼はいった。
 二人はそのまま筒《つつ》のような廊下の真中に立ち停っていた。暫《しばら》くして彼は病室の方へ歩き出した。すると、付添いの看護婦がまた近寄って来て彼を呼びとめた。
「あのう、今夜はどうかと思いますの。」
「うむ。」と彼は頷いた。
 彼は病室のドアーを開けると妻の傍へ腰を降ろした。大きく開かれた妻の眼は、深い水のように彼を見詰めたまま黙っていた。
「もう直ぐ、だんだんお前も良くなるよ。」と彼はいった。
 妻は、今はもう顔色に何の返事も浮べなかった。
「お前は疲れているらしいね。ちょっと、一眠りしたらどうだ。」
「あたし、さっき、あなたを呼んだの。」と妻はいった。
「ああ、あれはお前だったのか。俺はバルコオンで、へんに胸がおかしくなった。」
「あなた、あたしの身体をちょっと上へ持ち上げて、何んだか、谷の底ヘ、落ちていくような気がするの。」
 彼は両手の上へ妻を乗せた。
「お前を抱いてやるのも久しぶりだ。そら、いいか。」
 彼は枕を上へ上げてから妻を静かに枕の方へ持ち上げた。
「何んと、お前は軽い奴だろう。まるで、こりゃ花束だ。」
 すると、妻は嬉しさに揺れるような微笑を浮べて彼にいった。
「あたし、あなたに、抱いてもらったのね、もうこれで、あたし、安心だわ。」
「俺もこれで安心した。さア、もう眠るといい。お前は夕べから、ちっとも眠っていないじゃないか。」
「あたし、どうしても眠れないの。あたし、今日は苦しくなければ、うんとお饒舌《しゃべり》したいんだけど。」
「いや、もう黙っているがいい、俺はここについていてやるから、眼だけでも瞑《つむ》っていれば休まるだろう。」
「じゃ、あたし、暫く眠ってみるわ。あなた、そこにいて頂戴。」
「うむ。」と彼はいった。
 妻が眼を閉じると、彼は明りを消して窓を開けた。樹《き》の揺れる音が風のように聞えて来た。月のない暗い花園の中を一人の年とった看護婦が憂鬱に歩いていた。彼は身も心も萎《しお》れていた。妻の母はベランダの窓|硝子《ガラス》に頬をあてて立ったまま、花園の中をぼんやりと眺めていた。もう何の成算も消え失《う》せてしまったように。遠くの病舎のカーテンの上で、動かぬ影が萎れていた。時々花壇の花の先端が、闇の中を探る無数の青ざめた手のように揺らめいた。

       十三

 その夜、満潮になると、彼の妻は激しく苦しみ出した。医者が来た。カンフルと食塩とリンゲルが交代に彼女の体内に火を点《つ》けた。しかし、もう、彼女は昨日の彼女のようにはならなかった。ただ最後に酸素吸入器だけが、彼女の枕元で、ぶくぶく泡を立てながら必死の活動をし始めた。
 彼は妻の上へ蔽《おお》い冠《かぶ》さるようにして、吸入器の口を妻の口の上へあてていた。――逃がしはせぬぞ、というかのように、妻の母は娘の苦しむ一息ごとに、顔を顰《しか》めて一緒に息を吐き出した。彼は時々、吸入器の口を妻の口の上から脱《はず》してみた。すると彼女は絶えだえな呼吸をして苦しんだ。
 ――いよいよだ。と彼は思った。
 もし吸入が永久に妻の苦痛を救うものなら、彼は永久にその口を持ち続けていたかった。だが、この眼前の事実のように、吸入がただ彼女の苦しみを続けるためばかりに役立っているのだと思うと、彼は彼女の生命を引きとめようとしている薬材よりも、今は、彼女の生命を縮めた漁場の魚に、始めて好意を持ちたくなった。しかし、医師は法医学に従って、冷然としてなお一本の注射を打とうといい始めた。ただ、生き残っているもののためのみに。
「いや、いや。」と彼の妻は彼より先に医師の言葉を遮《さえぎ》った。
「よしよし、じゃ、もう打つのは止《よ》そう。」
「あなた、もうあたし、駄目なんだから。」と妻はいった。
「いや、まだ、まだ。」
「あたし、苦しい。」
「うむ、もう直ぐ、癒《なお》る。大丈夫だ。」
「どうして、あたしを、死なしてくれないんだろう。」
「そんなことは、いうもんじゃない。」
「こんなに苦しいのに、まだあたしを、苦しめるつもりかしら。」
 今は、彼には彼女の死を希《ねが》う意志が怨《うら》めしかった。
「もうちょっとの辛抱《しんぼう》さ。直き苦しくなくなるよ。」
「あ、もう、あなたの顔が、見えなくなった。」と妻はいった。
 彼は暴風のように眼がくらんだ。妻は部屋の中を見廻しながら、彼の方へ手を出した。彼は、激しい愛情を、彼女の一本の手の中に殺到させた。
「しっかりしろ。ここにいるぞ。」
「うん。」と彼女は答えた。
 彼女の把握力が、生涯の力を籠《こ》めて、彼の手の中へ入り込んで来た。
「あなた、あたし、もう死んでよ。」と妻はいった。
「もうちょっと、待てないか。」と彼はいった。
「あたし、苦しいの。あなたより、さきに死んで、済まないわね。」
 彼は答えの代りに、声を上げて泣き出した。
「あなた、長い間、ほんとに済まなかったわ。御免《ごめん》してね。」
「俺も、お前に、長い間世話になって、すまなかった。」と彼は漸くいった。
 妻は顎《あご》をひいてしっかりと頷いた。
「あたしほど、幸福なものは、なかったわ。あなたは、ひとりぼっちに、なるんだわね。あたしが、死んだら、もうあなたのことを、するものが、誰もいなくなるんだわ。」
 萎れたマーガレットの花の傍から、彼女の母の泣き声が、歓声のように起った。
「キーボ、キーボ。」
「お母さんにもすまなかったわね。勘忍《かんにん》してね。兄さんにも、宜しくいって。それから、皆の人にも。」
「ああ、ああ、心配しないでいいよ、もう直ぐ皆のものが来るよ。」と母はいった。
「あたし、まだ、待たなくちゃならないかしら。苦しいんだけど。」
「もう直ぐだよ。さっき、電話をかけたんだからね、もう直ぐなんだから。」
「あたし、さきへ死ぬわ、もう、苦しくって。」
「よしよし、安心してればいい。何も心配しなくてもいい。」と彼はいった。
 妻は頷くと眼を大きく開いたまま部屋の中を見廻した。一羽の鴉《からす》が、彼と母との啜《すす》り泣《な》く声に交えて花園の上で啼《な》き始めた。すると、彼の妻は、親しげな愛撫の微笑を洩らしながら咳《つぶや》いた。
「まア気の早い、鴉ね、もう啼いて。」
 彼は、妻の、その天晴《あっぱ》れ美事な心境に、呆然《ぼうぜん》としてしまった。彼はもう涙が出なかった。
「さようなら。」と暫くして妻はいった。
「うむ、さようなら。」と彼は答えた。
「キーボ、キーボ。」と母は呼んだ。
 しかし、彼女はもう答えなかった。彼女の呼吸は、ただ大きく吐き出す息ばかりになって来た。彼女の把握力は、刻々落ちていく顎《あご》の動きと一緒に、彼の掌《てのひら》の中で木のように弛《ゆる》んで来た。彼女は動きとまった。そうして、終《つい》に、死は、鮮麗な曙《あけぼの》のように、忽然《こつぜん》として彼女の面上に浮き上った。
 ――これだ。
 彼は暫く、その眼前に姿を現わした死の美しさに、見とれながら、恍惚《こうこつ》として突き立っていた。と、やがて彼は一枚の紙のようにふらふらしながら、花園の中へ降りていった。

底本:「日輪・春は馬車に乗って 他八篇」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年8月17日第1刷発行
底本の親本:「新選横光利一集」改造社
   1928(昭和3)年10月15日
初出:「改造」
   1927(昭和2)年2月号
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2008年1月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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横光利一

火—– 横光利一

     一

初秋の夜で、雌《めす》のスイトが縁側《えんがわ》の敷居《しきい》の溝の中でゆるく触角を動かしていた。針仕事をしている母の前で長火鉢《ながひばち》にもたれている子は頭をだんだんと垂れた。鉄壜《てつびん》の手に触れかかると半分眼を開けて急いで頭を上げた。
 「もうお寝。」
 母は縫目《ぬいめ》をくけながら子を見てそういった。子は黙って眼を大きく開けると再び鉄壜の蓋《ふた》の取手《とって》を指で廻し始めた。母はまたいった。
 「明日また遅れると先生に叱られるえ。」
 子はやはり黙っていた。そして長らくして、
 「眠《ねむ》たいわア。」といった。
 「そうやでお眠《ねむり》っていうのやないの。」
 「いやや。」
 「お可《か》しい子やな、早《は》ようお眠んかいな。」
 子は立上って母の肩の上へ負われるようにのしかかると、暫《しばら》く静《しずか》にしていたが、その中《うち》に両足で畳を蹴《け》り飛び上った。母は前へ蹲《かが》むようにして「重たいがな、これ、針でつくえ。」肩の子を見向きながらいった。子は再び静になった。
 「ええ、お母《か》さん、眠たいわア。」
 「そやでお眠たらええやないか、重たい重たい。」
 子は「いやーや」というと母の肩から辷《すべ》り下《お》りて膝《ひざ》の上へ顔を埋めた。
 「あぶないがな、針が刺《ささ》っているやないか。」
 母は膝の上の布切《きれ》を前の方へ押しやった。子の頭の頂《いただき》から首条《くびすじ》へかけて片手で撫手下《なでお》ろしながら低い声で、
 「ほんとにもうお寝、え。」といった。
 「お母さんも寝ないや。」
 「人が笑うわ、九つもなってるくせに一人で寝んなんて。」そして母は些《ち》っと黙っていたが、「お前の頭はほんとうにええ格好や。」と呟《つぶや》いた。
 母も子も黙っていた。隣家から酒気を含んだ高声《たかごえ》が聞えて来た。子は夕暮前に、井戸傍《いどばた》で隣家の主人が鶏《とり》をつぶしていたのを眼に浮べた。
 「お母さん、お隣りのはな、鶏を食べていやはるのや。」と子は母を見上げていった。
 「そんな事をいうものやない。」と母はいった。隣家の裏庭の重い障子《しょうじ》の開く音がすると、縁側の処《ところ》へ近所の兼助《かねすけ》という男が赤い顔をして立っていた。
 「お里《さと》さん、御馳走《ごっそ》だすぜ、さアお出《い》でやす。」そう男がいって子供を抱く時のように両手を出して一度振るとひょろひょろとした。
 母は微笑《わら》って「え、大きに。」といった。
 「さア、早ようやなけりゃ駄目《いけ》まへんぜ。」
 「この子がいますで後ほどまたおよばれしますわ。」と母はいった。
 「何アに、米《よね》さんは一人寝せときゃええさ、なア米さん、独人《ひと》り寝てるわのう。」と男は顔を少し突き出した。
 子は男から顔をそむけて黙って母の顔を見上げた。
 「お前ひとり寝てる?」と母は訊《き》いた。
 子は顔を横に振った。
 「あんなにいうておくれはるのやで、お前ひとり寝てな、え、直《じ》きにお母さんが帰って来るで。」
 「好《え》えさ好えさ、赤子《あかご》じゃあるまいし。」そういうと男は「どっこいしょ。」と背後へ反《そ》り返《かえ》った。母は子の頭を膝から起して「待っておい。」といって笑いながら縁側の方へ立った。そして「下駄《げた》がないわ。」と呟いた。
 「下駄のような物|入《い》るものか。」
 と男はいうと彼女の手首を掴《つか》まえて背を向けると両手で彼女の足を抱いて歩き出した。母は男の背の上で「険《あぶな》い険い。」と笑い声でいった。
 子は縁側へ走り凭《よ》って戸袋《とぶくろ》からのり出した。すると男の背上で両足をかかえられている母が隣家の庭の真中でひょろひょろしているのを見た。子は男が憎くてならなかった。そして母が非常に悪いことをしているような気がした。
 「丁度好えぞ、兼さん。」
 赤い顔をした隣家の主人がそういって笑うと、傍の主婦は脱けた前歯を手で隠すようにして淡笑《うすわら》いをした。
 子は室《へや》へは入って障子の片端を胸に押しつけると、指を舐《な》めてぷすぷすと幾つも障子に穴をあけた。もう眠たくなかった。
 暫くして子は戸袋の処からまた隣家の庭をソッと覗《のぞ》いた。母が兼の横に坐って銚子《ちょうし》を捧《ささ》げるようにしているのが見えた。子はもう母が自分の方を向くだろうと思ってその方を長らく見ていた。母は銚子を持ったまま何か話している主人の顔を見続けていた。そして時々顎《あご》を動かした。しかし何時《いつ》までたっても子の方を向かなかった。
 子は悲しくなった。で、顔を戸袋からひっこめて「お母さん。」と呼んだ。
 「はいはい。」
 そう母はいった。ほど経《へ》て母が何かいって帰ってくるらしいけはいがしたので子は火鉢《ひばち》の傍へ走り込んだ。
 母は眼の縁《ふち》を少し赤くして帰って来ると、
 「まだ眠てやないの。」と微笑っていった。子は黙って母の手を引張って叩《たた》いた。
 「さアもう寝な。また明日学校が遅れるえ。」
 子は口を尖《と》がらせて母の手の指を咬《か》んだ。母は「痛ッ」といって手を引っこめた、そして些《ちょ》っと指頭《ゆびさき》を眺めてから「まアこの子ったら。」といった。子は黙って母を睥《にら》んでいた。そして、「お母さんの阿呆《あほ》。」というと母の手を掴んでもう一度咬もうとした。母は子の背中を押すようにして「此処《ここ》をかたづけたら直ぐ寝るでなお前は前《さき》へ寝てなえ、ほんとにお前は賢いえ。」そういうと子を寝床の方へ

      

 その日は刺繍《ししゅう》の先生の市《まち》から村へ廻って来るのが遅れていた。
 米の母は、六年前にアメリカヘ行った良人《おっと》から病気という報《しら》せを受けとって以来半年余り送金が絶えているにもかかわらず、まだ刺繍を習っているということについて、親戚側からとやかくいわれた。しかし彼女は、少々の金を費《ついや》してもこれさえ覚えておけばまさかの時に役立つといって習い続けた。
 刺繍の先生は遠い市から月に一回|欠《かか》さず村へ廻って来た。米の村では母だけが刺繍を習っていた。これを習う最初にあたって先ず、何処《どこ》でも、その習う期間は先生を自分の家に宿泊させる約束をしなければならなかった。米の家でもその約束を守っていた。初めのほどは、十五になった米の姉と母とが習っていた。しかし、父から送金が絶えると共に母は娘を看護婦の見習生《みならいせい》として市へやって自分独り習い続けることにした。
 米はその時から自分の家が非常に貧しくなったのだと知った。しかし、何処が前よりも貧しくなったのかは分らなかった。また、ただ、姉が彼と一緒の家にいないという事以外に生活の様子は前とは少しも変っていなかった。
 米は姉に逢《あ》いたいと思った。殊に二人が喧嘩《けんか》した時のことを想い出すと溜《たま》らなく逢いたくなった。しかし彼は姉へ手紙を出す時、かばんと小刀《こがたな》とを帰りに買って来てくれとは必ず忘れずにいつも書いたが、逢いたくてならぬとか、早く帰ってくれとかは決して書かなかった。というのは、自分の愛情を現すことを羞《はずか》しく思いもしたし、また、そのことを母に見られるのをきまり悪く思ったからでもあった。

     

 学枚の門を出る時、米は白墨を拾った。帰る途々《みちみち》、彼は何処か楽書《らくがき》をするに都合の好さそうな処をと捜しながら歩いた。土蔵《どぞう》の墨壁は一番魅力を持っていた。けれども余り綺麗《きれい》な壁であると一寸《いっすん》ほどの線を引いて満足しておいた。
 村端まで来て、道の片側に沿って流れている小川にかかった御陰石《みかげいし》の橋を見た時、米は此処が最も楽書するのに適していると思った。そして最初に滑《なめら》かそうな処を撰《えら》んで本という字を懸命に書いてみた。草履《ぞうり》は拭物《ふきもの》の代りをした。彼は短い白墨が磨《す》り減《へ》って来ると上目《うわめ》をつかって、暫く空を見ていてから
 「カネサント、オカサントユウベ」
と書いた。彼はその次を書かなかった。なぜかというと昨夜眼を醒《さま》した時、真暗な自分の横で母と男とが低い声で話していたのはもしかしたなら夢であったのかもしれぬと思ったから。しかし、男の堅い手がそっと自分の手を強く圧《おさ》えて直ぐひっこめたのは確《たしか》に夢ではなかったと思った。そして、彼はそれ以外に何も記憶になかった。
 彼は立ち上って石橋の上から去ろうとした、が、十歩ほど行くと後へ戻って橋の上の字を草履で消した。そしてもう一度書いてみたけれどもやはり消した。後はぶらぶら歩き出すと急に走り出した。走り出ると反《そ》り返《かえ》って白墨を高く頭の上へ投げて踏《ふ》み潰《つぶ》した。そしてまたぶらぶら五、六歩あるくと走り出した。
 村へは入った処で染物屋《そめものや》があった。米はそこの雨垂落《あまだれおち》に溜っている美しい砂を見ると蹲《しゃが》み込《こ》んでそれを両手で掬《すく》ってはばらばら落してみた。終《つ》いには両足を投げ出した。そして、大きな砂粒をかき去《の》けると人差指でオカサンハ、と書いた。もう昨夜の事は夢だとは思えなかった。急に母を擲《なぐ》りつけたくなった。その時彼は砂の中に透明な桃色をしたゴマの砂粒を見付けた、彼はそれを手の平で拭《ふ》いてよく眺めていると何か貴い石にちがいないと思った。
 「金剛石《ダイヤモンド》や!」
 フと彼はそう思うとほんとうの金剛石のような気がした。するといよいよ金剛石だと思われた。彼はそれをすかして見てからもとあった砂の上へ置いてみた。しかし、暫く見詰《みつ》めていると外《ほか》の砂と入り交って分らなくなりそうになったので直《いそ》いでまた取り上げた。眼が些っと痛かった。
 彼はだんだん嬉しくなって来た。小刀が買える、カバンが買える、とそう思った。が、直ぐその後に姉のことを思い浮べると、小刀もカバンも飛び去って、ただこの金剛石を持っているということばかりで姉が家へ帰って来られるような気がして来た。もうじっとしていられなかった。
 そこへ米より三つ上の辰《たつ》という子が帰って来た。
 「金剛石やぞ、これ。」
 米は些っと砂粒を差し出すと直ぐ背後へ廻した。
 「嘘《うそ》いえ。」と辰はいった。
 米は金剛石を見せずにはいられなかった。
 辰はその砂粒を取ると暫く眺めていて
 「こんな金剛石あるか。」
 といった。そして、不意に半分手を差し出している米の傍から、駆《か》け出《だ》した。米は、三、四|間《けん》後を追いかけたが急に真蒼《まっさお》な顔をして走り止まると大声で泣いた。
 辰は米を見返って溝の中へ捨てる真似をして道傍《みちばた》の材木の上へ金剛石を乗せて、赤目を一度してそのまま帰った。
 米は辰の姿が見えなくなると徐々《そろそろ》材木の方へ歩いて行った。金剛石は材木の浅い割目の中で二重に見えていた。彼はそれを掌《てのひら》の上へ乗せると笑えて来た。
 家へ帰ると彼は中へは入らずに直ぐ裏へ廻って、流し元の水を受ける槽《おけ》を埋めた水溜《みずため》の縁の湿っぽい土の中へ金剛石を浅くいけ[#「いけ」に傍点]た。そこには葉蘭《はらん》が沢山|生《は》えていたので、その一本の茎を中心に小さい円を描いておいた。彼は、こうしておけば直きに金剛石が大きくなるにちがいないと思われた。それに此処は水をやらなくてもいいと思った。

     

 その夕方、米は昨日見付けた柏《かしわ》の根株《ねかぶ》の蜂の巣を遂に叩《たた》き壊《こわ》して帰って来た。そこへ母が奥から出て来て魚屋の通帳を彼に渡して牛肉の鑵詰《かんづめ》を買って来いと命じた。米は母の顔が少し赤いと思った。そして外へ出る時庭に見馴《みな》れない綺麗な下駄を一足見付けた。彼は畳のような下駄だと思って履《は》こうとすると、母は「これ。」と顎を引いた。
 米の家と魚屋とは親戚であったし、馴れていた。それでそこの魚屋の主人は米は障子を開ける前に、きっと叔父《おじ》さんは常日《いつ》ものように笑っているだろうと思って覗いて見たが、独人《ひと》りで恐い顔をして庭の同じ処を見詰めていた。米は今日は膝の上へ乗れないと思ったが、障子を開けると直ぐ叔父はニコニコした。
 「鑵詰、牛肉のや今日は。」
 米がそういうと叔父は笑いながら立って鑵詰棚へ手を延ばして「どうしたのや、先生が来たんやな。」といった。
 米は家の庭にあった畳のような下駄は刺繍の先生のだなと思った。「どうや知らん。」と答えた。
 叔父は鑵詰の口を開けながら風呂《ふろ》へ入れてやろうかといった。米は「やめや。」といった。すると叔父は突然、「どうや米、お前先生とお父《とっ》つァんとどっちが好きや、うん。」と訊《き》いた。
 「知らんわい。」
 米は仰向《あおむ》きになった叔父の膝の上へ寝そべってそういった、そして叔父の鼻の孔《あな》は何《な》ぜ黒いのだろうと考えた。
 「知らん、阿呆なこといえ、お父つァんはもう嫁さん貰《もろ》うてござるぞ、どうする、ん?」と叔父は覗き込んだ。
 米は腹を波形に動かして「ちがうわい、ちがうわい。」といった。しかし叔父のいう事は真実のように思われて、もう父は帰って来ないような気がして来た。母とさえ一緒にいる事が出来れば父の帰って来る来ないはそう心にかからなかった。すると、黙って叔父の手の皮膚を摘《つ》まみ上《あ》げていた彼は急に母が昨夜男と寝た事を自分が知っているのを気使って自分の留守に死んでいはすまいかと思われた。その中《うち》に涙が出て来た。で、草履を周章《あわ》ててはいて黙って帰ろうとすると、叔父は「何んじゃ米。」といった。けれど彼はやはり黙って表へ出ると馳け出した。
 家へ帰った時母は鑵詰を米から受け取って「お前まアこの間|着返《きが》えた着物やないか。」
 と睥《にら》んだ。彼の着物の胸から腹へかけて鑵詰の汁が飛白《かすり》の白い部分を汚していた。
 母が自分を見たなら抱いてくれるとばかり思っていた米は何《な》ぜだか急に他家の母の傍にいるような気がした。そして、身体をあちこちに廻しながら物を踏《ふ》み蹂《にじ》るような格好をして母を見い見い外へ出て行こうとした。「通《かよ》いは?」と母が訊いた。米は忘れて来たのを知ったが悲しくなって来たので黙って表へ出た。しかし、直ぐ金剛石のことを思い出すと裏へ廻って行って、夕闇《ゆうやみ》の迫った葉蘭《はらん》の傍へ蹲《うずくま》って、昼間描いておいた小さい円の上を指で些《ち》っと圧《おさ》えてみた。すると、間もなく、姉が帰って来て、家の者らがちりちりに生活しなくてもいいようになると思われた。しかし金剛石ではないと思うと金剛石ではないような気がして淋しくなった。
 外が真暗《まっくら》になってから家の中へ入った。やはり来ていたのは刺繍の先生であった。米のその夜の夕餉《ゆうげ》の様は常日とは変っていた。餉台《ちゃぶだい》は奥の間へ持って行かれたし、母が先生の傍《そば》へつききりなので彼は台所の畳の上で独人《ひとり》あてがわれた冷《ひ》やっこい方の御飯をよそって食べ始めた。初めの裡《うち》は牛肉を食べたかったので、母が持って来てくれるまでに御飯を食べてしまわないようと少しずつ遅くかかって食べ出したが、何日《いつ》の間《ま》にかお腹が膨《ふく》れて来た。
 彼が食べ終った頃、母が奥から米の傍へ皿を取りに出て来た。
 「お漬物《ここ》は。」と米は訊《たず》ねた。
 「うむ? うむ。」と母はいった。
 「お漬物何処《ここどこ》、お母さん。」と少し米が大きな声を出すと母は「はいはい、今あげますよ。」といって奥へ行った。しかし幾ら待っても母は出て来なかった。その中《うち》に米はもう漬物《つけもの》の事を忘れてしまって箸《はし》のさきを濡らしては板の間へせっせと兵隊の画を描き初めた。どうしてこう幾度画いても帽子《ぼうし》が小さくなるのだろうと苦しんだ。
 奥から餉台や汚れた食器が台所へ帰って来た。鑵詰の牛肉はもう皿の上から消えていた。米は牛肉をどうしたかと母に訊ねたかったが、そのことを奥の客に聞かれては羞《はずか》しいと思った。そして、間もなく母は再び客に奪われた。
 米はあきらめて黙って紙石盤《かみせきばん》を出して来ると腹這《はらば》いになって画をかき始めた。一頁に一つずつ先ず前の軍人から始めて二枚目に糞《くそ》を落している馬を描いた。しかし、馬の尾を高く上げていいかどうかと迷わされた。そして、結局、細い勢の好い滝のような曲った尾を付けて納得した。次には姉の顔を画いた。下頬《したほお》の膨らんだ円い輪廓《りんかく》を幾度も画き直してから眼鼻をつけて最後に鼻柱の真中へ黒子《ほくろ》を一つ打った。そうして出来上った南瓜《かぼちゃ》のような顔の横へ「ネーサンノカオ」と書いておいた。その顔を眺めていると、姉の黒子は黒いが画の方は白いと気が付いた。そして、それを黒くすると姉の顔に一層似つかわしくなるであろうと考えたけれどどうすれば黒くなるかという方法が分らなかったのでそのままにしておいた。
 九時が打つともう米は眠たくなった。奥から母の笑い声が聞えて来た。いつも奥で寝ている彼は、今夜は何処で寝て好いのか知らなかった。すると、また、昨夜眼を醒した時の母と男との囁《ささや》きを思い出した。そして、学校の帰り道に石橋の上へ書いた楽書《らくがき》を消したかどうかと気がかりになって来た。それは消したようでもあるし消さないようにも思われた。
 母が奥から出て来たとき、
 「何処で寝るの。」
 と米は訊いた。
 「アそうそ、お前もう眠な。」
 母はそういうと直ぐ奥へ引き返して行った。そして奥の間で「些《ち》っと失礼します。」といって蒲団《ふとん》を米の横へ持って出て来てから、楕円形の提灯《ちょうちん》に火を照《つ》けた。蝋燭《ろうそく》は四|寸《すん》ほどもあった。
 「お前提灯持って二階へお上り。」
 と母はいった。子が階段を昇ると母はその後から蒲団を擁《かか》えて昇った。
 母が蒲団を敷いている間、子は灯《ひ》が消えないように提灯をさげていた。「お母さんも寝な恐《こ》わい。」と子はいった。
 「直ぐ来るえ。直《じ》っきや。」と母はいった。子はそれきり何ともいわなかった。母は梯子《はしご》の中頃まで降りると「寝る時灯を消しな、え。」といった。子は「うん。」といって灯のついたままの提灯を畳んで枕もとに置いてから、母について降りた。そして鉢へ冷《さ》めた鉄壜《てつびん》の湯をいっぱい注《つ》いで、それを再び二階へ持って来て枕元の提灯の傍へおいた。寝巻を着返《きが》えて蒲団の中へは入ると子は俯伏《うつぶ》せになって、川の水でも飲むような格好で一口鉢の湯を呑んだ。それから、母と自分との蒲団の領分を定《き》めようと思って母の木枕《きまくら》を捜したが見あたらなかった。で、身体を蒲団の片方へよせてまた鉢の湯を一口呑んだ。そして彼は額《ひたい》を枕にあてると母の笑い声が下から聞えて来た。何時《いつ》母は寝に来るのかしらと思ったが母の来るまで楽しみに一口ずつ長らくかかって鉢の湯を減らそうと心に決めた。湯は三口目に一|分《ぶ》ほど減った。しかし四口目の頭は何時までたっても枕の上から上らなかった。

 その夜の一時過ぎに子は眼が醒めた。すると、寝巻を着た母が蒲団の上に坐って彼をしっかりと抱いているのを知った。母の背後にはランプを持った刺繍の先生が黙って立っていた。あたりに煙が籠《こも》っていた。そして、真黒に焼けて輪をはじけさせている提灯を中心に、枕元の畳の焦げた黒い部分が子の寝ていた枕の直ぐ傍で拡《ひろ》がって来ていた。鉢は焼け残った子の着物の上にひっくり返っていた。子は瞑《つぶ》りかけた眼で焦げた畳を眺めていた。そして首を些っと横に振ると、母の拡《ひろ》がっている襟《えり》もとへ顔を擦《す》りつけるようにしてかすれた声で
 「早よう眠よう。」
 といってまた眼を閉じた。母は黙っていた。その中《うち》に彼女の眼が潤《うる》んで来た。
 「ランプはもう要《い》りませんか。」
 と先生がいった。母はやはり黙って少し前へ身体を動かした。
 先生も黙って下へ降りて行った。室《へや》の中が暗くなると、母は子を一層強くだいた。そして長らくして、
 「虫が報《し》らせたのやわ。」
 と小さい声で呟《つぶや》いた。子はもういびきを立てていた。

底本:岩波文庫「日輪 春は馬車に乗って 他八篇」岩波書店
   1981(昭和56)年8月17日第1刷
   1997(平成9)年5月15日第23刷
入力:大野晋
校正:田尻幹二
1999年7月9日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

横光利一

汚ない家—– 横光利一

 地震以後家に困つた。崩れた自家へ二ヶ月程して行つてみたら、誰れだか知らない人が這入つてゐた。表札はもとの儘だ。其からある露路裏の洋服屋の汚い二階を借りた。それも一室より借れなかつた。ある日菊池師が朝早く一人でひよこつと僕の家へ来られた。二三週間した日、師は、
「君の家を書いた。」と云はれた。
「どこです。」と訊ねると、中央公論とのこと。
 公論を見ると「震災余譚」と云ふ戯曲が出てゐて、舞台がそつくり僕のゐる内の洋服屋であつた。人物も洋服屋の人物そつくりで、一人の老母が出て来るがあれは僕の母らしかつた。「震災余譚」が沢正一派で天幕劇場にかかつたとき、下の洋服屋にそのことを云つて、見に行つて来てはと云ふと、喜んで行つた。しかし帰つて来てから洋服屋は失望してゐた。
「なぜか」と訊くと、
「あの芝居は私とこの洋服屋ぢやない。」と云ふ。
「いやさうだよ。」と云ふと、
「本には初音町となつてゐる。私とこは餌差町だ」と云ふ。
「なるほどね、僕は地震前に隣りの初音町にゐたから。」と云ふと、
「さうだな、間違へたのだな、失敗つた。」と云ふ。
 僕が笑つてゐると、洋服屋さん。
「あれが餌差町となつてゐると、わし所のは大流行になるのだが、失敗つた。」と失敗つたを頻りに繰り返してゐた。
 それから一ヶ月ほどして私は直ぐ近所へ変つて来た。ここも実際汚い長屋の中の一つである。外から見れば貧民窟とよりどうしても見えない。しかし、ここを借るにもどれほど多くの借り手と戦つたかしれなかつたのだ。漸く安心が出来たが、戸を閉めるのに眼を瞑つて閉めなければならなかつた。ほこりがいくらでも天井から落ちて来るのだ。一寸戸を動かしても、家全体が慄へてゐるのである。柱へ触るにも気をつけてゐないと痛いものが刺さりさうなのだ。壁がなくて、博覧会の部屋のやうな紙壁なので隣家の話声が馬鹿らしいほど聞える。例へば、いびきが聞える。すると私はそれが母のいびきか隣家のいびきであるかと暫く考へる必要が生じて来てゐる。しかし、いくら大きな地震でもやつて来いと云ふ気になつてゐる。屋根がもし倒れて来ても、私の頭で却つて屋根が上へ飛び上つて了ふにちがいないのだ。それにまだ良いことがある。第一に一見して美事にプロレタリアだと分ることだ。私はプロレタリアである。これは自慢でも謙遜でもない。第二に、家へ訊ねて来てくれる未知の人達は気の毒がつて二度と来てくれないことである。私は未知の人に逢ふのは厭な部類に属してゐる。第三に、幻想が豊富になること。これは貧乏街に住んでみない人には一寸分らない。非常に面白い所が多々あるのだ。一鉢の植木がどれほど快活に新鮮な感じを持つてその街を飾るかと云ふことも、人々はあまりに富貴を望んで鈍感になつてゐる時であるだけに、面白いことである。之は一例。まだ良いことは風景にも生活にも沢山あるが汚い家に住んでゐて悪いいけない事も沢山ある。未知の人々が来ると、いきなりあぐらをかく、之は悪い事でも不快な事でもまアないが確に滑稽な事ではないか。かう云ふ現象の生じると云ふ事の心理の分析は先づ各自の人々に譲つておいて、第一に訪ねて来て貰ふ人々に気の毒な事である。汚い家を訪ねる人々の気持ちには、その訪問をすると云ふことに誇りがない。誇りを与へないと云ふことはこちらが確にいけないのだ。この点私は恐縮するより仕方がない。で、私は成るべく来て下さいとは云はないのである。私はいけないことに非常にズボラである。手紙と云ふものはとても書けない。返事なども雑誌新聞の応答にさへ、どうも書けない。汚い家にゐるからなほ相手の人々のやうにこちらもズボラをしていいと思ふのであらう。このため友人にも親戚にも不義理をかけて困る。またその弁解するにこれまた厄介なこと、ドウケンシイではないが、In many walks of life, a conscience is a more expensive encumbrance than a wife or a carriage; である。こんな英語位誰でも読める言葉だから訳しないでおく。分らない人は妻君に聞き給へ。但し、その時の妻君の表情には注意する可き必要がある。

底本:「日本の名随筆83 家」作品社
   1989(平成元)年9月25日第1刷発行
底本の親本:「定本 横光利一全集 第一四巻」河出書房新社
   1982(昭和57)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2004年8月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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横光利一

一条の詭弁—– 横光利一

 その夫婦はもう十年も一緒に棲んで来た。良人は生活に窶れ果てた醜い細君の容子を眺める度に顔が曇つた。
「いやだいやだ。もう倦き倦きした。あーあ。」
 欠伸ばかりが梅雨時のやうにいつも続いた。ヒステリカルな争ひが時々茶碗の悲鳴と一緒に起つた。
 或る日、良人の欠伸はその頂点に達した。彼は涙が浮んで来た。
「下《くだ》らない。下《くだ》らない。下《くだ》らないツ! 何ぜこんな生活が続くのだツ!」
 彼は癇癪まぎれに拳を振つて立ち上つた。と、急に演説をするやうに出鱈目なことを叫び出した。
「これほども古く、かくも飽き飽きする程長らく共に棲んだが故に、飽きたと云ふ功績に対してさへも、放れることが不可能だと云ふことは、」
ここまで来ると、
「おやツ!」と思つた。
 何か素敵なことを饒舌つたやうな感じがした。何と自分が云つたのか? 彼はもう一度同じことを繰り返へして云つてみた。
「これ程も古く、かくも飽き飽きする程長らく共に棲んだが故に、飽きたと云ふ功績に対してさへも放れることが不可能だ。」
「成る程、」と彼は思つた。微笑が彼の唇から浮んで来た。
「うまい!」と彼は思つた。
 すると、急にその閃めいた詭弁を自身でうまいツと思つた量に匹敵して、彼はその詭弁から詭弁としての実感を感じ出した。
 それから、彼は出逢ふ人毎にその詭弁を得意になつて話し出した。恰もそれが人生の大いなる教訓であるかのやうに。勿論、人々は彼の詭弁に感歎した。
「うまい。」
「うまい。」
「うまい。」
 彼は有頂天になり出した。益々その詭弁が猛烈に口をついた。さうして、彼は終にそれが一つの大きな嘘の詭弁だと実感されたときには、早やあれほども人々に吹聴し、あれほども感歎させ得た過去の自身の得意さの総量に対してさへも、今はその詭弁を詭弁として押し通して行くことが出来なかつた。そこで、初めて彼の詭弁は一条の真理となつて光り出した。つまり云ひ換へるならば、彼ら夫婦は二人とも永久に幸福であつたと云ふ結果に落ちていつた。
 今は二人の頭には白い毛がしきりと競ひながら生えてゐる。老齢と云ふ醜い肌が、丁度人生の床の間で渋つてゐる二本の貴重な柱のやうに。

底本:「定本横光利一全集 第二巻」河出書房新社
   1981(昭和56)年8月31日初版発行
底本の親本:「文藝時代」
   1925(大正14)年4月1日発行、第1巻第1号
初出:「文藝時代」
   1925(大正14)年4月1日発行、第1巻第1号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、旧字、旧仮名の底本の表記を、新字旧仮名にあらためました。
入力:高寺康仁
校正:松永正敏
2001年12月10日公開
2003年6月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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横光利一

マルクスの審判—– 横光利一

 市街を貫いて来た一条の道路が遊廓街へ入らうとする首の所を鉄道が横切つてゐる。其処は危険な所だ。被告はそこの踏切の番人である。彼は先夜遅く道路を鎖で遮断したとき一人の酔漢と争つた。酔漢は番人の引き止めてゐるその鎖を腹にあてたまま無理にぐんぐんと前へ出た。丁度そのとき下りの貨物列車が踏切を通過した。酔漢は跳ね飛ばされて轢死した。
 そこで、予審判事は、番人とはかやうな轢死を未然に防ぐための番人である以上、泥酔者の轢死は故殺であるかそれとも偶然の死であるかを探ぐるがため許りにさへも、そのときの争ひに作用した番人の心理の上に十分の疑ひを持たねばならなかつた。それに彼はその疑ひをなほ一層確実に疑ひ得られる様々の材料を発見した。第一に番人は貧しい独身者であつた。第二に轢死者は資産家の蕩児であつた。第三に番人のゐる踏切が遊廓街の入口であつた。しかし、此の被告の上に明確な判決を下すことは、事件そのものが心理的なものであるだけに容易なことではなかつた。先づその事件の現状を目撃したものがなかつたと云ふことでさへ、判事にとつて此の審問方法は普通の手ではとても無駄だと分つてゐた。
「お前は四十一だと云つたね。妻を貰つたならどうだ。生活に困るのかな。」
「いえ、別に困りはいたしません。」
「と云ふと、望ましいのがないからか。」
「来てくれる者がないんです。」
「ふむ、では、呉れ手のあるまで捜せばよいではないか。」
「私はこれでもう三度妻を変へたのです。」
「三度な?」と云って判事は一寸笑つた。「それはまたどうしたのだね。」
「皆死んで了つたんです。」
「ふむ、死んだのか、それでその来るものがないと云ふのか。」
「いえ、三人とも同じ病気で死んだからだと思ひます。」
「三人とも同じ病気か、成る程ね、そして、それはどう云ふ病気かね。」
 さう訊いたとき判事は被告の窪んだ眼窩の底から恐怖を感じさせる一種不思議な微笑を見てとつた。そして、これは烈しい神経衰弱にかかつてゐるなと思ひながらも、被告の答へた膜と云ふ婦人病の四番目の文字は「月《にくづき》」であつたかそれとも「※[#「さんずい」、第4水準2-78-17]《さんずい》」であつたかと一寸考へてみてから直ぐ又質問を次へ移した。
「それで何か、その夜お前は酒を少しも飲んではゐなかつたか。」
「飲みませんでした。」
「いつもは飲むんだらうね。」
「さう飲むと云ふほどは飲めません。」
「お前はあの踏切の最初からの番人だつたのだね。」
「はい。」
「失策《しくじり》が一度もなかつたさうだが、それはほんたうか。」
「妻のゐる頃は妻が時々やりました。私にはありませんでした。」
「何年踏切につとめてゐる?」
「十九年です。」
「十九年か、ふむ。」これはなかなか気の小さい男だと判事は思つた。
「十九年と云ふと、お前の幾つの時からかね、二十?」
「二十五の時からです。初めはちよいちよい失策をやりました。それでも私は失策つたと思ひましても他人には解らずにすみました。」
 何ぜ被告がさう云ふことを自分から云ひ出すのかよく判事には分らなかつた。「私の失策と云ふと、つまりどう云ふんだね。」
「列車の来る時が来ればシグナルを見なくても少々遠くにゐても分りますが、考へごとをしてゐると直ぐ傍へ来なければ分りません。さう云ふときこれは失敗《しまつ》たと思ひまして周章て鎖を引きますがいつも半分程通つてからです。」
「つまり考へごとをするといけないと云ふのか。」
「はい、考へごとをするといけません。」
「考へごとと云ふと、どんな種類の考へごとかな、どう云つたやうな?」
「家内のことを考へます。」
「家内がないと云つたぢやないか、ア、さうか、つまり三人の妻のことなのか、それでどの家内に一番心をひかれるね。」
「一番目の家内です。」
「優しかつたのか。」
「いえ。」
「お前が愛してゐたのだね。」
「さう云ふわけぢやございませんが、何ぜだか最初のがよく心に浮んで参ります。」
「最初のがね、ふむ、その頃は楽しかつたと見えるな。楽しかつたかね。」
「今から思ふとさう思ひます。」
「此の頃はもう楽しみなことはないか。」
「ありません。」
「何もないか。」
「はい。」
「では、勤めもいやなことだらうね。」
「はい。」
「いやか、勤めは?」
「はい、あまり好きではございません。」
「ふむ、それでお前は何か、お前の踏切りでお前の勤務時間以外のときに轢死人があつても、お前に責任がないと云ふことを知つてゐるだらうね。」
「はい、それはよく存じてをります。」
「三日の夜の轢死人は泥酔してゐたと云ふが事実であらうな。」
「はい。」
「ではそのときの様子を成る可く精細に話してみよ。嘘を云つてはならぬぞ。」
「はい、さうでございますね。あのう十二時二十分の貨物列車の下つて来るまでには少々間がありましたので、それで、私は夕暮に植ゑた孟宗竹を見に行つたのです。」
「ああ一寸待て、独り暮しになつてからどれほどになるな。」
「四年になります。」
「四年か、ふむ、植木は好きかな。」
「はい、いたつて好きでございます。」
「よしよし、それからどうした。」
「それから何かしたいと思ひましたが、することがなかつたので鎖を曳いて了ひました。そこへ泥酔人《よひどれ》が坂を下つて来て通せと云ふのです。」
「そのとき貨物の音はしてゐたのか。」
「はい、もうしてをりました。」
「通してやればよかつたではないか。」
「はい、私はいつも一度鎖を引けば通る程の時間がございましても通さないことにしてをります。そのときも矢張り通しませんでした。するとあの男は、それぢや俺が通つてやると云つて私の引つ張つてゐる鎖の中程の所へ腹をあてて出ようとしたんです。私は必死の力で引いてゐたのですが、そのうちに私もそれについて二足三足曳かれてゆきました。そのとき、来たな、と思ひました。あなたさまは貨物列車の音を御存知でせうが、貨物の音は普通の客車とは違つて奇妙な音なんです。あの車の音は少し遠くにゐるときも傍まで来たときも同しほどの激しさなんです。それに、あの夜は真暗な所へもつて来て貨物列車が又真黒な物ですから、どこまで来てゐたのだかはつきりしなかつたんです。貨物はそれで一番恐ろしうございます。私はそのとき鎖を、かう必死に引つ張つたんですが、あの男はもう余程線路の近くまで出てをりました。もつとも私が傍まで行つて突き飛ばすか引き戻すかしてやれば、あの男も助かつてゐたと思ひますが、何分そのときはもう度胆がぬかれてをりましたし、それに、あの貨物の音を真近で聞きますと、それやもう変な気になつて了ふのです。何と云ひませうかね、もうただぼんやりして了ふのですよ。風に吸ひ込まれるやうな、何だか息がぐつとつまつて、眼まひがするんです。それでも私はよほどぐつと鎖をひつぱつたつもりなんですが、その中に、風がサツと来たと思つたら、私の鎖を持つてゐる手がひどく痛かつたのを覚えてをります。さうしたら、何でもあの男は私の眼の前をぱつと飛んで行きました。」
 判事は被告の話し方があまり整ひすぎてゐると思つた。
「一寸待て、そのとき、誰か見てゐたものがあつたかね。」と彼は訊かうとしたが、それではこちらの気持ちを知らしめる恐れがあつたので、
「誰か傍に人でもゐたかね。」と訊いてみた。
「いえ、をりませんでした。」
 と被告は直ぐに答へた。この場合その直ぐ明瞭に答へ得られたと云ふことは、被告が犯罪の際人目のないと云ふことを意識してゐたと思はれて、また判事の疑ひを尚強めた。
「ふむ、ゐなかつたか、しかし、見てゐたと云ふ者がゐるのだが、その者の云ふこととお前の云ふこととは少し相違してゐるやうであるぞ。偽りはないかね。」と判事は嘘を云つた。
「それは分らなかつたのでせう。何しろ暗かつたのでよく分らなかつたんでせう。どちらの側にをりました?」と被告は少しうろたへた様子で訊き返した。彼のうろたへたと云ふことは彼の陳述に不純な気持ちと作り事とが交つてゐたと云ふことを判事に教へた。
「お前はその酔漢が鎖を引き摺つて出ようとしたとき、何ぜ手で引きとめなかつたか。」
「鎖で間に合ふと思つてゐました。」
「お前はその男をとめるのに何とか言葉をかけたのかね。」
「いえ、酒を飲んでゐるなと思ひましたので、相手になりませんでした。」
「ふむ、なる程。しかし、酒を飲んでゐると気付いたなら、なほ鎖でとめると云ふことがいけないぢやないか。」
「いえ、それはちがひますよ。鎖の方がとめやすうございます。普通の方はどなたもさうお思ひになりませうが、この道の者なら誰だつて鎖でとめると思ひます。それに、手でとめましては相手が相手ですから、なほ喧嘩になつてしまひますよ。」
「それはさうだね。喧嘩になりさうだ。で、何かね、その男が誰だつたかお前は最初から知つてゐたんかね。」
「それは見覚えはございました。」
「その男は最初に何とかお前に云はなかつたか。鎖でお前がとめるとき何とか。」
「さうですね、云ひました。何だか云つてたやうです。何をしやがる、ふざけるない、つてそんなことを云ひましたよ。」
「それだけかな。」
「いえ、まだ何とか云ひました。私は黙つてゐたのですよ。」
「何を云つた、その男は。」
「俺をとめるつてことがあるかい。俺はね、俺は通つてやるぞ、つてそんなことも云ひましたね。」
「ふむ、さうして、それだけか、まだ何とか云はなかつたか。」
「もう覚えてはをりません。何んだかまるきり他のことを饒舌つてゐたやうですが、何のことだかよく私には分りませんでした。」
「お前は日頃通行人をあまり早くから止めると云ふ評判だが、それはどう云ふつもりかな。」
「早くとめる方が安全で良からうと思ふのです。」
「事実それだけかな。」
「はい、それだけです。」
「止《と》めることを面白いと思つたやうなことは一度もなかつたか。」
「さうでございますね、さう云はれますとそんな気も時々はございました。」
「何ぜ面白いと思ひ出したのかね。」
「それは解りません。」
「いつ頃からそんな面白味を知り始めたのか分らないか。」
「最初からのやうです。」
「矢張り面白いといつも思つてゐたのであらう。」
「そんなことはございませんよ。」
「お前は近年道路を遮断するとき、通行人とよく争ふと云ふことだがそんな覚えはあるかな。」
「はい。」
「争ふかね。」
「はい少し早い加減にとめる時よくそんなことがございます。」
「それが近年になつてひどくなつて来たと云ふことだが、事実であらうな。」
「さうでございます。少しひどくなつたやうにも思はれます。」
「面白味を知り始めたと云ふのも、独身者になつてからではないかな。」
「いえ、それや、さうではございません。」
「ふむ、しかし、路をとめると云ふことは、そんなに面白いものかね。」
「何ぜだか、この路は俺の領分だと云つたやうな、そんな気がするんです。」
「なる程ね、お前の職業はただ気ばかり使ふだけで実の上らぬ仕事だから、面白くはなからうの。」
「はい。」
「疲れはせぬかな。」
「疲れます。」
「さうだらう。十九年もよく務まつたな。病気にはかかつたことがあるかな。」
「時々はかかりました。」
「ふむ、遊廓《あそび》には行くかな。」
「行きません。」
「行きたくはないのか。」
「行つてみたいこともございます。」
「では行けばよいではないか。」
「行つたつてつまらないんです。」
「どうしてだ。」
「つまりませんよ、馬鹿らしうて。」
「金がないのか。」
「金はございます。」と被告は云ふと、暫くして、「困りますよ。」と低く俯向いて云つた。
「ふむふむ、ぢや何か、そのお前の噂が廓にまで拡つてゐるとみえるね。」
 被告は黙つてゐた。
「いつ頃から行かなくなつたのだね。」
「もう一年以上行きません。」
「さうか、そして、その最後のときはどうだつた。つまりどんな目に会つたのかと云ふのだ。何かつまらないと思ふやうなことでもあつたのかね。」
「私が行くといやな顔をします。」
「ふむふむ、いやな顔をね、何とか云ふのか。」
「はい。」
「何と云つたのだ。」
「幽霊が来たと申します。」
「ふむ、それはどう云ふ意味のことだかお前は知つてゐるのかね。もつともお前に関したことだらうが、成程ね、幽霊か。」
「家内のことだらうと思ひます。」
「ふむ、成る程、それは困つたことだ。遠くの廓へ遊びに行けばよいではないか。それとも何か行かなくともいいやうな所があるのかね。」
「いえ、ございません。」
「ないのか、なくては困るであらう。夜はよく眠れるかね。」
「眠れません。」
「さうであらう。夢を見るかな。」
「はい、夢はよく見ます。」
「どう云ふ種類の夢を一番よく見るか。」
「歯の抜ける夢をよく見ます。それから、熟柿のべたべた落ちる夢も時々みます。」
「ははア、酔漢の通つた前夜はどんな夢を見たかな。」
「それはよく覚えてをりません。」
「ふむ、覚えてはゐないか。お前はその酔漢を見たとき、どう思つたか、粋客《あそびにん》だとは思つたらうね。」
「はい、いづれ遊興《あそび》に行くとは思ひました。」
「その男は金持ちだつたかね。」
「はい。」
「お前はいつも粋客を見たとき、どんな気持ちが起るかね。」
「慣れてゐますから、別にどうと云ふ気も起りません。」
「お前の勤務時間は夜の十二時だつたね。」
「はい。」
「それにしては、お前の務め時間以外のときまで見張りをすると云ふのはどうしたことかな。」
「それは癖になつてゐるのです。眠れないときだけは、いつも番をすることにしてをります。その方が私には都合が良うございます。」
「都合と云ふと。」
「その方がつまりまア楽な気がするのです。」
「人々のためを思つてではないのだね。」
「はい。」
「あの通りは坂になつてゐるし、それにお前の踏切は人通りが多いから、遅くまで見張りをしてやる方がいいではないか。」
「そんなことなど思つてはゐられませんよ。直ぐには寝つかれませんから見張りでもしてゐないと苦しくつて困ります。」
「通行人や近所の者達は、お前があまり早くから鎖をひいたり夜遅くまで見張りをしたりすることについて、どのやうな評判をするか考へたことがあるかね。」
「はい、それはいづれよく云はれてゐないとは思つてゐます。」
「では人々から悪く思はれないやうに心掛けるよりも、自分の面白いことをしてみたいと云ふのかね。」
「まア、さう云はれるとそのやうなものですが、もう私は他人の云ふやうなことなぞに気をかけないでゐるつもりです。そんなことを気にしてゐた日には、馬鹿らしくてとてもあんな仕事なんかしてゐられません。」
 被告は一寸言葉を切ると、
「もう私はどうされたつてようございますよ。」とさう云つて判事を見上げた。
 先手に来たな、と判事は思つた。最早やここまで来れば少し被告の頭を翻弄してかからなければ駄目だと知つた。それに被告の先手を打つたその顔が、真面目であればある程それがいかにも図々しく思はれた。が、又一方その図太さが二人の間の心理的関係を複雑に押し進めては行くものの、却つて自分の疑つてゐる事件の中心に割り込み易い隙間を作るにちがひないと判事は思つた。
「お前には世間の者らが自分の味方のやうに見えるかね。」
「そんなことは私は考へたことがございません。」
「お前が路を遮断するとき、人々が敵のやうに思へたことはなかつたかな。」
「はい、ございませんでした。」
「いや、お前に限らず踏切の番人には、心理学的に云つて、即ち学問上から考察した場合、必ず起らなければならない気持ちなんだが、それでもなかつたとお前は云ふか。」
「それは何んでございます、幾らかはございました。」
「お前はその夜、酔漢を引きとめるとき、誰もあたりに見てゐないと云ふことを知つてゐたらうね。」
「いえ、そんなことは存じませんでした。」
「前に知つてゐたと答へたではないか。」
「いえ。そんなことは申しませんよ。そんなことは申し上げません。」
「では、何ぜ知らないとさうきつぱり云ひたいのかな。」
 被告は微笑を洩すと下唇を噛んで俯向いた。
「お前はその夜の行為について万事正当だと思つてゐるかね。」
「はい。」
「では、知らないと云つても、知つてゐたと云つても、お前には少しも差し閊へのない筈ではないか。」
「はい、さやうでございます。」
「お前はその夜、酔漢を引きとめる際、あの男を敵のやうには思はなかつたかな。」
「いえ、それやそんな気は起りませんでした。」
「お前は前に社会主義に関する何かの書物でも見たことがあつたかね。」
「いえ。」
「誰からかさう云ふ書物に書いてあることを訊いた覚えはないか。」
「はい。ございません。」
「お前は傭員が時間短縮を鉄道局へ迫つたとき、それに連名してゐたと云ふではないか。」
「はい。」
「では、何ぜあのやうな社会主義的な訴へに連名してゐたのかな。」
「それは仕方がなかつたのです。私にはあんなことをするのが社会主義のやることだかどうかは知りませんでした。たゞ這入れと云はれましたので這入つただけでございます。」
「お前はいつも金持ちをどんな風に思つてゐるな。」
「別にどうとも思ひません。」
「金持ちにはなりたくないのか。」
「それやならしてやらうと仰言《おつしや》ればなりたうございます。」
「お前に連名をすすめたものは誰かな。誰かあつたであらう。」
「誰もございません。紙が廻つて来たので見ますと、それには私の名がちやんと書いてあつたのです。それには名前の上へ賛成のものは印を捺すやうと書いてございましたので、ただ印を捺しましただけでございます。」
「誰がその紙を持つて来たのか。」
「それは私の名の前に書いてあつた服部勘次と云ふ男です。」
「その男の職業は何かな。」
「同じ踏切番でございます。ただあの男は乙種の方です。」
「乙種と云ふと。」
「昼の間だけ番をするのです。」
「お前は甲種と云ふのかな。」
「はい。」
 判事はこのかなりに長い審問から、自分の質問の中心点である被告が性的な嫉妬から蕩児を轢殺したのかそれとも階級的な反感から轢殺したものかと云ふ疑ひを、相手に知らしめて了つただけで、ただ得たものは自身のその疑ひを僅かに強めることが出来たにすぎないと思ふと、彼の気持ちは一刻も早く被告に自白を迫りたくなつて来た。それには、先づ何より被告の頭に激動を与へてかからなければ無駄だと知つた。
「お前が早くから道路を遮断すると云ふのは、世間のものが敵のやうに見えたからであらうがな。」
「いえ、それはさうではございません。」
「あの道が自分のものだと思ひ出したのも、お前が独身者になつてからのことであらう。」
「いえ、さうではございませんよ。それはもう、私が務め出したときからでございます。」
「偽りを云つてはならぬ。」
「はい、それはもう最初からさう思つてをりました。」
「お前は夜遅く廓へ通ふ者達を見ると敵のやうに思ふであらう。」
「御冗談を仰言《おつしや》つては困りますよ。私は決してそんな考へは起しません。」
「何ぜ困るのか。」
「そんなことを仰言つては困りますよ。」
「お前に都合が悪いのか。」
「都合が悪いと云ふわけではございませんが、そんな考へなぞ起したことはございません。」
「お前はお前の都合のよいときばかり、はいはいと云つてゐたのか。」
 被告は何か云ひたさうに口を動かしたが黙つてゐた。ただ小鼻がひとりぴこぴこ動いてゐた。すると、彼の顔は眼の縁を残して少し青味を帯んで来た。
「お前はあの酔漢を金持ちと見たとき、敵のやうに思つたのであらう。」
「はい。」
「事件の当夜、お前は列車の来たのを見はからつてその酔漢を突き飛ばしたのであらう。」
「はい。」
 被告は窓の外を見たまま傲然としてゐた。
「さうであらう。」
 被告は黙つてゐた。
「どうだ。」
「もうどうなりとして下さい。」と被告は強く云ひ放つた。
 判事は被告の怒つた顔を見てゐると、事実事件の当夜の被告の行為が自分の疑ひと一致してゐるとすれば、まさか今の場合さうむきに怒ることが出来なからうと思はれて、今迄感じてゐた自分の疑ひもいくらかとけた。しかし、被告の怒りもこちらの横車を押した論理のために怒つたものと思へないではなかつた。してみれば、被告の怒りも、別に、心に覚えのないことをあるやうに云はれたときの根深い怒りとも思はれなくなつて来て、結局判事にはまた以前の疑ひが凝ひとしてつきまとつて来た。しかし、なほこれ以上審問を続けて行くとすれば、被告の反感を拭いてかからなければならなかつた。判事は顔に微笑を湛へながら静に優しく問ひ続けた。
「お前はあの轢死人に妻のあるのを知つてゐるだらうね。」
 被告はまだ窓の外を見たまゝ答へなかつた。
「子供もたしかあつた筈だつたが、それも知つてゐるのかね。」
 被告は矢張り黙つてゐた。
「少しもお前は知らないのかな。どうなのだ。」
「知つてゐます。」と被告は敵意を含んだ声で強く云つた。
「さうか、知つてゐるのか。お前がもしそのとき酔漢を引きとめずに、素直に通してをいてやつたら、あの男を死なさずに済んだであらうとは思はないかな。」
 被告は黙つてゐた。
「もしお前がいつも通行人に対して、優しい心を持つてゐたなら、そのときだつて故意に鎖の権利で引きとめないで通しておいたと思ふであらう。無論死人も悪い。だが、お前にしても全然いいことをしたのではなからう。たとひお前がどれほど正当であるにしろ、お前はあの踏切りでさう云ふ轢死人のないためにと置かれた番人ではないか。それにお前があの男の傍にゐなかつたらともかく、さうではなくてお前が現にその傍についてゐたのだからね。そればかりではない、お前がもしそのとき、そこにゐなかつたなら、却つてあの男も助かつてゐただらう。それにお前がゐたばかりにあの男は死んだのだ。あの男の妻はお前のことをどんな風に思てゐるか考へたことはないかな。」
 判事の方を見た被告の眼は急に光つて来た。
「お前は妻のあつたときは楽しかつたであらう。」
「はい。」と被告は小さく云つた。
「お前は妻と子のある立派な一人の男を殺したのだとは思はないか。お前には楽しいことが何もないと云つたが、それは成る程よく分る。だが、あの男にはまだまだ楽いことがあつたのだ。世の中が面白かつたのだ。さう思ふであらう。」
 被告は黙つて俯向いてゐた。
「あの男が死んだなら、妻と子供はどんなに困ると思ふ。お前はいゝ。お前はひとりで淋しく暮さねばならぬと云つてもそれは仕方がない。だが、残つたあの男の妻と子供は、何もわざわざ淋しく暮さないでもよいものを一生淋しく暮さねばならないのだ。お前はたとひ自分のしたことが正当だと思つても、死人の妻や子供はいつまでもお前を恨んでゐるにちがひない。矢張りお前に殺されたのだと思つてゐるにちがひない。それはお前がいくら正当だと云ひ張つたにしろ、さうは思ふまい。矢張り殺したのはお前であつて他の誰でもないのだからな。」
 判事は被告の頭が垂れ下つて行くのを眺めてゐた。
「ここだツ。」と判事は思つた。彼は勝ち誇つた気持ちになつた。「お前はその男を突き飛ばしたのであらう。」と云ひたかつた。が、そのとき、被告は急に頭を上げると怒つたやうな表情をして判事を睥んだ。すると、突然腹痛でも起つたかのやうに彼の顔が顰み出すと、涙が頬を伝つて落ち始めた。
「私が殺しました。はい殺しました。」
 何かに引つかかるやうな声でさう被告は云つた。判事は訳の分らぬ昂奮を感じて来た。
「お前はまだ踏切番がしたいかな。」と判事はまるきり心にもないことを訊いた。
 被告は椅子の上へ腰を降すと頭をかゝへ込んだまゝ答へなかつた。
 判事はかうも手易く誘ひ込まれて来た被告を思ふと、急に今迄の勝ち誇つた気持ちが薄らぐのを感じた。そればかりではなかつた。彼は彼自身漸く握り得たと思つた疑ひの確証さへも再び前のやうに取り失つた。何ぜかと云へば、彼は自分の手段が自分ながらいかにも巧妙であつたと賞讃したい程であつたから。実際いかなるものと云へども、譬へばもしも明らかに故意の殺人ではなかつたと知り得ることの出来る判事自身でさへ、被告の立場に置かれたとき、その巧みな判事の言葉のために被告と同じ悲しみの言動に落されない者はあつたであらうか。それを思ふと、判事の疑ひは却つて彼自身の弁舌の巧みさに邪魔されてまた尽く迷蒙の中に這入つていつた。しかし、それかと云つて彼はまだ自分の疑ひを捨て去ることは出来なかつた。そこで、彼は被告から最も信用すべき自白の言葉をきくためには、今一度被告に投げ与へた悲しみを逆に取り消してかからなければならないのを知つた。
「お前は前にあの酔漢を見たと云つたね。」
 被告は答へなかつた。
「よく知つてゐたのかな。」
 被告は何かを飲み込むやうに「はい。」と云つた。
「あの男はいつも泥酔してゐたのかね。」
「はい。」
「お前は妻のあつたとき、廓へは行つたことがあつたか。」
「ございません。」と被告は鼻声で云ふと赤くなつた眼で判事を見た。
「ふむ、お前はあの酔漢の妻が困つてゐたのを知つてゐたのか。あの妻は困つてゐたのだ。毎夜毎夜良人が夜遊びをして家を空けるので困つてゐたと云ふことだ。お前は何かね、あの男と妻とが、いつも争ひをし続けてゐたのも知らなかつたのかね。」
「はい。」と云つて、被告は鼻を拭いたが、直ぐまた頭をかかへた。
「妻から離縁を迫られてゐたさうだ。ああ云ふ放蕩者は実際の所を云ふと、死んでも別に差し閊へがないのだが、本官は一応取り検べる必要上お前を悲しませてみただけである。さう悲しまなくともよい。多分お前は列車の近づくのが分らなかつたのであらうね。」
 被告は黙つてゐた。
「お前は最後までその男の出て行くのを引きとめてゐたのであらうな。」
 矢張り被告は答へなかつた。彼は大きく溜息をつくと顔を顰めた。
「そこが大切な所ではないか。どうだ。さうであらう。」
「はい。」
 さう被告は低く答へると涙がまた頬を伝つて流れ出した。
 自分の言葉のために被告の態度がどんなに変つてゆくかと云ふことを眺めてゐた判事には、被告の様子がまだいかにも悲しさうに見えた。しかし、彼には被告の悲しみは自分に悲しめられた名残りの悲しみであるのか、それとも被告自身の秘めた行為を意識しての悲しみであるのか明瞭に見極めることが出来なかつた。そして、最早や判事は自分の疑ひを確証するいかなる方法をも案出することが出来なくなると、やむなくその日の審問はそれで終らなければならなかつた。

 その夜判事は床へ這入るとまたその日の審問を思ひ廻らした。――事実、被告は酔漢を突き飛ばしたものであらうか、それとも酔漢の死は被告の云つたやうに偶然の死であつたか――それにしても被告は自身に危険な言葉に対して、何ぜあれほども敏感であり得たか。それにも拘らず何ぜあれほど白々しく先手を打つて出て来たか。この二つの反した態度を審問に応じて巧みに変化さし得た被告を思ふと、判事の疑ひは又深まりかけた。しかし、一方は落されまいとし、一方は落さうと努めなければならない場合が場合であるだけに、それを感じた以上守らうとすることに専念する被告の気持ちはいづれ正当なものにちがひなかつた。所詮判事は昼の迷ひを迷ひ続ける以外に何の得る所もなくなつた。しかし、それかと云つて一度は判決を下さなければならない以上そのままに捨てて置くわけにもいかなかつた。これは判事を苦しめた。が、ここまで来れば、判事として最も正しい判決を下す方法は、逆に自分自身の心理に向つて審問してみることであると気がついた。一体何故に自分は自分の疑ひを疑ひとして持ち始めたか。何故に自分はその疑ひを疑ひとして深めてゆくことに努めたか。何故に自分は自分の疑ひの正当である可きことを確信したか。と、さう彼は考へ始めたとき、彼は自分が近年ひどく疑ひ深くなつて来てゐることを発見した。それには永年の判事生活から来る習慣が手伝つてゐることは勿論であるとしても、しかし、ただそれだけではなく自分の洞察力に対する深い自信と、それになほ油をかける神経衰弱とが原因してゐた。此の外にまだ大きな原因が一つあつた。それは彼が前に現下の最も人心の帰趨に多く関係を持つ思想と犯罪との接触点を検点しようとして、社会主義思想の書物を選んだとき、彼の手に入つたものは「マルクスの思想と評伝」と云ふ書物であつた。これを見ると、彼は世界の人心が目下の所資産家階級を撲滅しようとしてゐる無資産階級の団流と、それに対抗して無産家階級の力を圧殺しようとしてゐる資産家階級の団流とのこの二つの階級が、絶えず争つてゐるのを知つた。そのときから、十数万円の家産を持つてゐる判事の感情は、彼の理智がマルクスの理論の堂々とした正しさを肯定すればするほど、その系統に属する一切の社会思想に反感と恐怖と敵意とを持つにいたつた。この彼の感情は頻々として起る様々な社会運動の勃発する度毎に、極めて敏感に恐怖をもつて激しく揺れた。このため彼の正しくあらねばならなかつた審問と判決との上に、どれほど多くの影響を与へてゐたかと云ふことを考へたことはまだ彼には曽てなかつた。しかし、今判事の理智はその方へ向つて来た。彼は前に被告が傭員の時間短縮を鉄道局へ迫つた事件に関係してゐたと云ふことを知つたとき、直ちに自分の社会運動を防衛したがる習慣的な恐怖が、審問の最初から自然被告を敵の立場に置いてかかつてゐたことに気がついた。勿論役目の立場として被告に疑ひを向けてかゝらなければならないのは分つてゐるとしても、しかし事実自分の疑ひはただ単にそのためにばかり深められてゐたとは判事にも思へなかつた。それを知ると、被告の貧しい上に労働が激しければ激しいほど、他人から時間短縮の訴へに誘はれれば教養のない程度に比例して、それだけ被告のその運動に熱情のでることは別に何の不思議もないやうに思はれ出した。それに被告が無智であればあるほど富貴な蕩児に反感を持つたにちがひないとの前の自分の推断は、論理に於て一見正しさうではあるが、その実、それは逆に無智であればあるほど相手の富貴が直接に影響を被告に与へてゐない限り、なほそれだけ相手に反感を持ち得なさうに思へば思ふことが出来て来た。無論被告と酔漢とが争つた以上、そこに何かの反感のあつたことは疑へない事実ではあつた。だがそれとて、自分が被告に向けてゐた敵のやうな反感とはちがつて、被告の反感はただ自由な蕩児を羨むありふれたものであつたにちがひないと思はれ出すと、今迄自分にしつこくつき纏つてゐた被告に対する疑ひも、故意に酔漢を突き飛ばしてまで殺すにいたる種類の反感であつたとは、どうしても思はれなくなつて来た。すると、ただ勝手に自分が被告を危険思想を抱いてゐる者として、ただ勝手に被告を敵の立場に置いてかかつた自分の恐怖心が判事には急に馬鹿らしく羞しくなつて来た。それに判事は自分のために悲しみを投げつけられたそのときの被告のいかにも悲しさうな顔つきを思ひ出した。これは判事の気持ちを被告の孤独な気持ちの中へ全く職権から放れて入り込ませるのに力があつた。それはいかに考へても淋しいものにちがひなかつた。総ての生活の楽しみを運命的に奪はれてゐる男、その運命をつき抜けて行けない男、それが絶えず最も楽しみの焦点である街の入口で、絶えずそれらの歓楽を眺め続け、そこへ入り込む者達のために危険を教へ続けてゐなければならないと云ふことは、とにかく想像しても最も苦痛な生活の一つであるのは分つてゐた。しかし、判事は自分のただ一片の不純な恐怖のために、無罪で済まされる可きその憐れな男を今にも重罪に落し込まうとしてゐた自分のことを考へた。彼は自分の罪を感じてひやりとなつた。
「無罪にしよう。無罪だ。」
 さう彼はひとり決定すると、急に掌を返すやうな爽快な気持ちになつた。
「これや俺の罪ぢやないぞ。マルクスの罪だ!」
 彼は突然に大声で笑ひ出した。
「いや、何に、かまつたことはない。証拠物件として何がある。蕩児よりも番人だ!」
 今は判事も全く晴れ晴れとした気持ちであつた。そして、今迄長らく自分を恐喝してゐた恐怖も、不思議に自分から飛び去つてゐるのを彼は感じた。
 暫くすると、彼は安らかに眠つてゐた。丁度、マルクスに無罪を宣告された罪人であるかのやうに。

底本:「定本横光利一全集 第一巻」河出書房新社
   1981(昭和56)年6月30日初版発行
底本の親本:「御身」金星堂
   1924(大正13)年5月20日発行
初出:「新潮」新潮社
   1923(大正12)年8月1日発行、第39巻第2号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、旧字、旧仮名の底本の表記を、新字旧仮名にあらためました。
入力:高寺康仁
校正:松永正敏
2001年12月11日公開
2005年11月6日修正
青空文庫作成ファイル:
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横光利一

ナポレオンと田虫—– 横光利一

            一

 ナポレオン・ボナパルトの腹は、チュイレリーの観台の上で、折からの虹《にじ》と対戦するかのように張り合っていた。その剛壮な腹の頂点では、コルシカ産の瑪瑙《めのう》の[#「瑪瑙《めのう》の」は底本では「瑪瑠《めのう》の」]釦《ボタン》が巴里《パリー》の半景を歪《ゆが》ませながら、幽《かす》かに妃《きさき》の指紋のために曇っていた。
 ネー将軍はナポレオンの背後から、ルクサンブールの空にその先端を消している虹の足を眺《なが》めていた。すると、ナポレオンは不意にネーの肩に手をかけた。
「お前はヨーロッパを征服する奴は何者だと思う」
「それは陛下が一番よく御存知でございましょう」
「いや、余よりもよく知っている奴がいそうに思う」
「何者でございます」
 ナポレオンは答の代りに、いきなりネーのバンドの留金がチョッキの下から、きらきらと夕映《ゆうばえ》に輝く程強く彼の肩を揺《ゆ》すって笑い出した。
 ネーにはナポレオンのこの奇怪な哄笑《こうしょう》の心理がわからなかった。ただ彼に揺すられながら、恐るべき占《うらない》から逃《の》がれた蛮人のような、大きな哄笑を身近に感じただけである。
「陛下、いかがなさいました」
 彼は語尾の言葉のままに口を開《あ》けて、暫《しばら》くナポレオンの顔を眺めていた。ナポレオンの唇《くちびる》は、間もなくサン・クルウの白い街道の遠景の上で、皮肉な線を描き出した。ネーには、このグロテスクな中に弱味を示したナポレオンの風貌《ふうぼう》は初めてであった。
「陛下、そのヨーロッパを征服する奴は何者でございます?」
「余だ、余だ」とナポレオンは片手を上げて冗談を示すと、階段の方へ歩き出した。
 ネーは彼の後から、いつもと違ったナポレオンの狂った青い肩の均衡を見詰めていた。
「ネー、今夜はモロッコの燕《つばめ》の巣をお前にやろう。ダントンがそれを食いたさに、椅子から転がり落ちたと云う代物《しろもの》だ」

 その日のナポレオンの奇怪な哄笑に驚いたネー将軍の感覚は正当であった。ナポレオンの腹の上では、径五寸の田虫が地図のように猖獗《しょうけつ》を極《きわ》めていた。この事実を知っていたものは貞淑無二な彼の前皇后ジョセフィヌただ一人であった。
 彼の肉体に植物の繁茂し始めた歴史の最初は、彼の雄図を確証した伊太利《イタリー》征伐のロジの戦の時である。彼の眼前で彼の率いた一兵卒が、弾丸に撃ち抜かれて顛倒《てんとう》した。彼はその銃を拾い上げると、先登を切って敵陣の中へ突入した。彼に続いて一大隊が、一聯隊が、そうして敵軍は崩れ出した。ナポレオンの燦然《さんぜん》たる栄光はその時から始まった。だが、彼の生涯を通して、アングロサクソンのように彼を苦しめた田虫もまた、同時にそのときの一兵卒の銃から肉体へ移って来た。
 ナポレオンの田虫は頑癬《がんせん》の一種であった。それは総《あら》ゆる皮膚病の中で、最も頑強《がんきょう》な痒《かゆ》さを与えて輪郭的に拡がる性質をもっていた。掻《か》けば花弁を踏みにじったような汁が出た。乾《かわ》けば素焼のように素朴な白色を現した。だが、その表面に一度爪が当ったときは、この湿疹《しっしん》性の白癬《はくせん》は、全図を拡げて猛然と活動を開始した。
 或る日、ナポレオンは侍医を密《ひそ》かに呼ぶと、古い太鼓の皮のように光沢の消えた腹を出した。侍医は彼の傍《そば》へ、恭謙な禿頭《はげあたま》を近寄せて呟《つぶや》いた。
「Trichophycia, Eczema, Marginatum.」
 彼は頭を傾け変えるとボナパルトに云った。
「閣下、これは東洋の墨をお用いにならなければなりません」
 この時から、ナポレオンの腹の上には、東洋の墨が田虫の輪郭に従って、黒々と大きな地図を描き出した。しかし、ナポレオンの田虫は西班牙《スペイン》とはちがっていた。彼の爪が勃々《ぼつぼつ》たる雄図をもって、彼の腹を引っ掻き廻せば廻すほど、田虫はますます横に分裂した。ナポレオンの腹の上で、東洋の墨はますますその版図を拡張した。あたかもそれは、ナポレオンの軍馬が破竹のごとくオーストリアの領土を侵蝕《しんしょく》して行く地図の姿に相似していた。――この時からナポレオンの奇怪な哄笑は深夜の部屋の中で人知れず始められた。
 彼の田虫の活動はナポレオンの全身を戦慄《せんりつ》させた。その活動の最高頂は常に深夜に定っていた。彼の肉体が毛布の中で自身の温度のために膨張する。彼の田虫は分裂する。彼の爪は痒さに従って活動する。すると、ますます活動するのは田虫であった。ナポレオンの爪は彼の強烈な意志のままに暴力を振って対抗した。しかし、田虫には意志がなかった。ナポレオンの爪に猛烈な征服慾があればあるほど、田虫の戦闘力は紫色を呈して強まった。全世界を震撼《しんかん》させたナポレオンの一個の意志は、全力を挙《あ》げて、一枚の紙のごとき田虫と共に格闘した。しかし、最後にのた打ちながら征服しなければならなかったものは、ナポレオン・ボナパルトであった。彼は高価な寝台の彫刻に腹を当てて、打ちひしがれた獅子《しし》のように腹這《はらば》いながら、奇怪な哄笑を洩《もら》すのだ。
「余はナポレオン・ボナパルトだ。余は何者をも恐れぬぞ、余はナポレオン・ボナパルトだ」
 こうしてボナパルトの知られざる夜はいつも長く明けていった。その翌日になると、彼の政務の執行力は、論理のままに異常な果断を猛々《たけだけ》しく現すのが常であった。それは丁度、彼の猛烈な活力が昨夜の頑癬に復讐《ふくしゅう》しているかのようであった。
 そうして、彼は伊太利を征服し、西班牙を牽制《けんせい》し、エジプトへ突入し、オーストリアとデンマルクとスエーデンを侵略してフランスの皇帝の位についた。
 この間、彼のこの異常な果断のために戦死したフランスの壮丁は、百七十万人を数えられた。国内には廃兵が充満した。祷《いの》りの声が各戸の入口から聞えて来た。行人《こうじん》の喪章は到る処に見受けられた。しかし、ナポレオンは、まだ密かにロシアを遠征する機会を狙《ねら》ってやめなかった。この蓋世《がいせい》不抜の一代の英気は、またナポレオンの腹の田虫をいつまでも癒《なお》す暇を与えなかった。そうして彼の田虫は彼の腹へ癌《がん》のようにますます深刻に根を張っていった。この腹に田虫を繁茂させながら、なおかつヨーロッパの天地を攪乱《こうらん》させているナポレオンの姿を見ていると、それは丁度、彼の腹の上の奇怪な田虫が、黙々としてヨーロッパの天地を攪乱しているかのようであった。

 ナポレオンはジェーエーブローの条約を締結してオーストリアから凱旋《がいせん》すると、彼の糟糠《そうこう》の妻ジョセフィヌを離婚した。そうして、彼はフランスの皇帝の権威を完全に確立せんがため新しき皇妃、十八歳のマリア・ルイザを彼の敵国オーストリアから迎えた。彼女はハプスブルグ家、オーストリア神聖|羅馬《ローマ》皇帝の娘である。彼女の部屋はチュイレリーの宮殿の中で、ナポレオンの寝室の隣りに設けられた。しかし、新しきナポレオン・ボナパルトは、またこの古い宮殿の寝室の中で、彼の厖大《ぼうだい》な田虫の輪郭と格闘を続けなければならなかった。
 ナポレオンは若くして麗しいルイザを愛した。彼の前皇后ジョセフィヌはロベスピエールに殺されたボルネー伯の妻であった。彼女はナポレオンより六歳の年上で先夫の子を二人までも持っていた。今、彼はルイザを見ると、その若々しい肉体はジョゼフィヌに比べて、割られた果実のように新鮮に感じられた。だが、そのとき彼自身の年齢は最早四十一歳の坂にいた。彼は自身の頑癬を持った古々しい平民の肉体と、ルイザの若々しい十八の高貴なハプスブルグの肉体とを比べることは淋《さび》しかった。彼は絶えず、前皇后ジョセフィヌが彼から圧迫を感じたと同様に、今彼はハプスブルグの娘、ルイザから圧迫されねばならなかった。このため、彼は彼女の肉体からの圧迫を押しつけ返すためにさえも、なお自身の版図をますますヨーロッパに拡げねばならなかった。何ぜなら、コルシカの平民ナポレオンが、オーストリアの皇女ハプスブルグのかくも若く美しき娘を持ち得たことは、彼がヨーロッパ三百万の兵士を殺して贏《か》ち得た彼の版図の強大な力であったから。彼はルイザを見たと同時に、油を注がれた火のようにいよいよロシア侵略の壮図を胸に描いた。殊《こと》に彼はルイザを皇后に決定する以前、彼の選定した女はロシアの皇帝の妹アンナであった。しかし、ロシアは彼の懇望を拒絶した。そうして、第二に選ばれたものはこのハプスブルグの娘ルイザである。ルイザにとって、ロシアは良人《おっと》の心を牽《ひ》きつけた美しきアンナの住む国であった。だが、ナポレオンにとっては、ロシアは彼の愛するルイザの微笑を見んがためばかりにさえも、征服せらるべき国であった。左様に彼はルイザを愛し出した。彼が彼女を愛すれば愛するほど、彼の何よりも恐れ始めたことは、この新しい崇高優美なハプスブルグの娘に、彼の醜い腹の頑癬を見られることとなって来た。もし出来得ることであるならば、彼はこのとき、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの荘厳な肉体の価値のために、彼の伊太利と腹の田虫とを交換したかも知れなかった。こうして森厳な伝統の娘、ハプスブルグのルイザを妻としたコルシカ島の平民ナポレオンは、一度ヨーロッパ最高の君主となって納まると、今まで彼の幸福を支《ささ》えて来た彼自身の恵まれた英気は、俄然《がぜん》として虚栄心に変って来た。このときから、彼のさしもの天賦の幸運は揺れ始めた。それは丁度、彼の田虫が彼を幸運の絶頂から引き摺《ず》り落すべき醜悪な平民の体臭を、彼の腹から嗅《か》ぎつけたかのようであった。

 千八百四年、パリーの春は深まっていった。そうして、ロシアの大平原からは氷が溶けた。
 或る日、ナポレオンはその勃々《ぼつぼつ》たる傲慢《ごうまん》な虚栄のままに、いよいよ国民にとって最も苦痛なロシア遠征を決議せんとして諸将を宮殿に集合した。その夜、議事の進行するに連れて、思わずもナポレオンの無謀な意志に反対する諸将が続々と現れ出した。このためナポレオンは終《つい》に遠征の反対者将軍デクレスと数時間に渡って激論を戦わさなければならなかった。デクレスはナポレオンの征戦に次ぐ征戦のため、フランス国の財政の欠乏の人口の減少と、人民の怨嗟《えんさ》と、戦いに対する国民の飽満とを指摘してナポレオンに詰め寄った。だが、ナポレオンはヨーロッパの平和克復の使命を楯《たて》にとって応じなかった。デクレスは最後に席を蹴《け》って立ち上ると、慰撫《いぶ》する傍のネー将軍に向って云った。
「陛下は気が狂った。陛下は全フランスを殺すであろう。万事終った。ネー将軍よ、さらばである」
 ナポレオンはデクレスが帰ると、忿懣《ふんまん》の色を表してひとり自分の寝室へ戻って来た。だが彼はこの大遠征の計画の裏に、絶えず自分のルイザに対する弱い歓心が潜んでいたのを考えた。殊にそのため部下の諸将と争わなければならなかったこの夜の会議の終局を思うと、彼は腹立たしい淋しさの中で次第にルイザが不快に重苦しくなって来た。そうして、彼の胸底からは古いジョセフィヌの愛がちらちらと光を上げた。彼はこの夜、そのまま皇后ルイザにも逢わず、ひとり怒りながら眠りについた。
 ナポレオンの寝室では、寒水石の寝台が、ペルシャの鹿を浮かべた緋緞帳《ひどんちょう》に囲まれて彼の寝顔を捧《ささ》げていた。夜は更《ふ》けていった。広い宮殿の廻廊からは人影が消えてただ裸像の彫刻だけが黙然と立っていた。すると、突然ナポレオンの腹の上で、彼の太い十本の指が固まった鉤《かぎ》のように動き出した。指は彼の寝巻を掻《か》きむしった。彼の腹は白痴のような田虫を浮かべて寝衣《ねまき》の襟《えり》の中から現れた。彼の爪は再び迅速な速さで腹の頑癬を掻き始めた。頑癬からは白い脱皮がめくれて来た。そうして、暫くは森閑とした宮殿の中で、脱皮を掻きむしるナポレオンの爪音だけが呟くようにぼりぼりと聞えていた。と、俄《にわか》に彼の太い眉毛《まゆげ》は、全身の苦痛を受け留めて慄《ふる》えて来た。
「余はナポレオン・ボナパルトだ。余はナポレオン・ボナパルトだ」
 彼は足に纏《まつ》わる絹の夜具を蹴《け》りつけた。
「余は、余は」
 彼は張り切った綱が切れたように、突如として笑い出した。だが、忽《たちま》ち彼の笑声が鎮《しず》まると、彼の腹は獣を入れた袋のように波打ち出した。彼はがばと跳《は》ね返った。彼の片手は緞帳の襞《ひだ》をひっ攫《つか》んだ。紅の襞は鋭い線を一握《ひとにぎり》の拳の中に集めながら、一揺れ毎に鐶《かん》を鳴らして辷《すべ》り出した。彼は枕《まくら》を攫んで投げつけた。彼はピラミッドを浮かべた寝台の彫刻へ広い額を擦《こす》りつけた。ナポレオンの汗はピラミッドの斜線の中へにじみ込んだ。緞帳は揺れ続けた。と彼は寝台の上に跳ね起きた。すると、再び彼は笑い出した。
「余は、余は、何物をも恐れはせぬぞ。余はアルプスを征服した。余はプロシャを撃ち破った。余はオーストリアを蹂躙《じゅうりん》した」だが、云いも終らぬ中に、ナポレオンの爪はまた練磨された機械のように腹の頑癬を掻き始めた。彼は寝台から飛び降りると、床の上へべたりと腹を押しつけた。彼の寝衣の背中に刺繍《ししゅう》されたアフガニスタンの金の猛鳥は、彼を鋭い爪で押しつけていた。と、見る間に、ナポレオンの口の下で、大理石の輝きは彼の苦悶《くもん》の息のために曇って来た。彼は腹の下の床石が温まり始めると、新鮮な水を追う魚のように、また大理石の新しい冷たさの上を這い廻った。
 丁度その時、鏡のような廻廊から、立像を映して近寄って来るルイザの桃色の寝衣姿を彼は見た。
 彼は起き上ることが出来なかった。何ぜなら、彼はまだ、ハプスブルグの娘、ルイザに腹の田虫を見せたことがなかったから。ルイザは呆然《ぼうぜん》として、皇帝ナポレオン・ボナパルトが射られた獣のように倒れている姿を眺《なが》めていた。
「陛下、いかがなさいました」
 ボナパルトは自分の傍に蹲《しゃが》み込む妃の体温を身に感じた。
「ルイザお前は何しに来た?」
「陛下のお部屋から、激しい呻《うめ》きが聞えました」
 ルイザはナポレオンの両脇に手をかけて起そうとした。ナポレオンは周章《あわ》てて拡った寝衣の襟《えり》をかき合せると起き上った。
「陛下、いかがなされたのでございます」
「余は恐ろしい夢を見た」
「マルメーゾンのジョゼフィヌさまのお夢でございましょう」
「いや、余はモローの奴が生き返った夢を見た」
 と、ナポレオンは云いながら、執拗《しつよう》な痒《かゆ》さのためにまた全身を慄《ふる》わせた。
「陛下、お寒いのでございますか」
「余は胸が痛むのだ」
「侍医をお呼びいたしましょうか」
「いや、余は暫くお前と一緒に眠れば良い」
 ナポレオンはルイザの肩に手をかけた。ルイザはナポレオンの腕から戦慄《せんりつ》を噛《か》み殺した力強い痙攣《けいれん》を感じながら、二つの鐶のひきち切れた緞帳の方へ近寄った。そこには常に良人《おっと》の脱《はず》さなかった胴巻が蹴られたように垂れ落ちて縮んでいた。絹の敷布は寝台の上から掻き落されて開いた緞帳の口から湿った枕と一緒にはみ出ていた。
 ナポレオンは寝台に腰を降ろすとルイザの脹《ふく》らかな腰に手をかけた。だが、彼は今ハプスブルグの娘に、自分の腹をかくし通した苦痛な時間が腹立たしくなって来た。彼は腹部の醜い病態をルイザの眼前にさらしたかった。その高貴をもって全ヨーロッパに鳴り響いたハプスブルグの女の頭上へ、彼は平民の病いを堂々と押しつけてやりたい衝動を感じ出した。――余は一平民の息子である。余はフランスを征服した。余は伊太利を征服した。余は西班牙とプロシャとオーストリアを征服した。余はロシアを蹂躙するであろう。余はイギリスと東洋を蹂躙する。見よ、ハプスブルグの娘――。
 ナポレオンはひき剥《は》ぐように、寝衣の両襟をかき拡げた。
 ルイザの視線はナポレオンの腹部に落ちた。ナポレオンの腹は、猛鳥の刺繍の中で、毛を落した犬のように汁を浮べて爛《ただ》れていた。
「ルイザ、余と眠れ」
 だが、ルイザはナポレオンの権威に圧迫されていたと同様に、彼の腹の、その刺繍のような毒毒しい頑癬からも圧迫された。オーストリアの皇女、ハプスブルグの娘は、今初めて平民の醜さを眼前に見たのである。
 ナポレオンは彼女の傍へ身を近づけた。ルイザは緞帳の裾《すそ》を踏みながら、恐怖の眉を顰《しか》めて反《そ》り返った。今はナポレオンは妻の表情から敵を感じた。彼は彼女の手首をとって引き寄せた。
「寄れ、ルイザ」
「陛下、侍医をお呼びいたしましょう。暫くお待ちなされませ」
「寄れ」
 彼女は緞帳の襞《ひだ》に顔を突き当て、翻るように身を躍《おど》らせて、広間の方へ馳《か》け出した。ナポレオンは明らかに貴族の娘の侮辱を見た。彼は彼の何者よりも高き自尊心を打ち砕かれた。彼は突っ立ち上ると大理石の鏡面を片影のように辷《すべ》って行くハプスブルグの娘の後姿を睨んでいた。
「ルイザ」と彼は叫んだ。
 彼女の青ざめた顔が裸像の彫刻の間から振り返った。ナポレオンの烱々《けいけい》とした眼は緞帳の奥から輝いていた。すると、最早や彼女の足は慄えたまま動けなかった。ナポレオンは寝衣の襟を拡げたままルイザの方へ進んでいった。彼女はまたナポレオンの腹を見た。鎮まり返った夜の宮殿の一隅から、薄紅の地図のような怪物が口を開けて黙々と進んで来た。
「陛下、お待ちなされませ、陛下」
 彼女は空虚の空間を押しつけるように両手を上げた。
「陛下、暫くでございます。侍医をお呼びいたします」
 ナポレオンは妃の腕を掴《つか》んだ。彼は黙って寝台の方へ引き返そうとした。
「陛下、お赦《ゆる》しなされませ。御無理をなされますと、私はウィーンへ帰ります」
 磨《みが》かれた大理石の三面鏡に包まれた光の中で、ナポレオンとルイザとは明暗を閃《ひら》めかせつつ、分裂し粘着した。争う色彩の尖影《せんえい》が、屈折しながら鏡面で衝撃した。
「陛下、お気が狂わせられたのでございます。陛下、お放しなされませ」
 しかし、ナポレオンの腕は彼女の首に絡《から》まりついた。彼女の髪は金色の渦を巻いてきらきらと慄えていた。ナポレオンの残忍性はルイザが藻掻《もが》けば藻掻くほど怒りと共に昂進《こうしん》した。彼は片手に彼女の頭髪を繩《なわ》のように巻きつけた。――逃げよ。余はコルシカの平民の息子である。余はフランスの貴族を滅ぼした。余は全世界の貴族を滅ぼすであろう。逃げよ。ハプスブルグの女。余は高貴と若さを誇る汝《なんじ》の肉体に、平民の病いを植えつけてやるであろう。
 ルイザはナポレオンに引き摺《ず》られてよろめいた。二人の争いは、トルコの香料の匂《にお》いを馥郁《ふくいく》と撒《ま》き散らしながら、寝台の方へ近づいて行った。緞帳が閉《し》められた。ペルシャの鹿の模様は暫く緞帳の襞の上で、中から突き上げられる度毎《たびごと》に脹れ上って揺れていた。
「陛下、お気をお鎮めなさりませ。私はジョセフィヌさまへお告げ申すでございましょう」
 緞帳の間から逞《たくま》しい一本の手が延びると、床の上にはみ出ていた枕を中へ引き摺り込んだ。
「陛下、今宵は静にお休みなされませ。陛下はお狂いなされたのでございます」
 ペルシャの鹿の模様は鎮まった。彫刻の裸像はひとり円柱の傍で光った床の上の自身の姿を見詰めていた。すると、突然、緋《ひ》の緞帳の裾から、桃色のルイザが、吹きつけた花のように転がり出した。裳裾《もすそ》が宙空で花開いた。緞帳は鎮まった。ルイザは引き裂かれた寝衣《ねまき》の切れ口から露《あら》わな肩を出して倒れていた。彼女は暫く床の上から起き上ろうとしなかった。掻き乱された彼女の金髪は、波打ったまま大理石の床の上へ投げ出された。
 彼女は漸《ようや》く起き上ると、青ざめた頬《ほお》を涙で濡《ぬ》らしながら歩き出した。彼女の長い裳裾は、彼女の苦痛な足跡を示しつつ緞帳の下から憂鬱《ゆううつ》に繰り出されて曳《ひ》かれていった。
 ナポレオンの部屋の重々しい緞帳は、そのまま湿った旗のように明方まで動かなかった。

 その翌日、ナポレオンは何者の反対をも切り抜けて露西亜《ロシア》遠征の決行を発表した。この現象は、丁度彼がその前夜、彼自身の平民の腹の田虫をハプスブルグの娘に見せた失敗を、再び一時も早く取り返そうとしているかのように敏活であった。殊に彼はルイザを娶《めと》ってから彼に皇帝の重きを与えた彼の最も得意とする外征の手腕を、まだ一度も彼女に見せたことがなかった。
 ナポレオン・ボナパルトのこの大遠征の規模作戦の雄大さは、彼の全生涯を通じて最も荘厳華麗を極《きわ》めていた。彼は国内の三十万の青年に動員令に対する準備を命じた。更に健全な国内の壮丁九十万人を国境と沿海戦の守備に充《あ》てた。なおその上に、彼はフランス本国から二十万人を、ライン同盟国から十四万七千人、伊太利から八万人を、波蘭《ポーランド》とプロシャとオーストリアから十一万人、これに仏領各地から出さしめた軍隊を合せて七十万人に、加うるに予備隊を合して総数百十万余人の軍勢をドレスデンへ集中させた。そうして、ナポレオンは彼の娘のごとき皇后ルイザを連れてパリーからドレスデンまで出て行った。ドレスデンではルイザの父オーストリア皇帝、プロシャ皇帝、同盟国の最高君主が一団となって、百十万余人の軍隊と共に彼ら二人の到着を出迎えた。
 この古今|未曾有《みぞう》の荘厳な大歓迎は、それは丁度、コルシカの平民ナポレオン・ボナパルトの腹の田虫を見た一少女、ハプスブルグの娘、ルイザのその両眼を眩惑《げんわく》せしめんとしている必死の戯れのようであった。
 こうして、ナポレオンは彼の大軍を、いよいよフリードランドの大原野の中へ進軍させた。

 ナポレオンの腹の上では、今や田虫の版図は径六寸を越して拡っていた。その圭角《けいかく》をなくした円《まろ》やかな地図の輪郭は、長閑《のどか》な雲のように微妙な線を張って歪《ゆが》んでいた。侵略された内部の皮膚は乾燥した白い細粉を全面に漲《みなぎ》らせ、荒された茫々《ぼうぼう》たる沙漠《さばく》のような色の中で、僅《わず》かに貧しい細毛が所どころ昔の激烈な争いを物語りながら枯れかかって生《は》えていた。だが、その版図の前線一円に渡っては数千万の田虫の列が紫色の塹壕《ざんごう》を築いていた。塹壕の中には膿《うみ》を浮かべた分泌物《ぶんぴつぶつ》が溜《たま》っていた。そこで田虫の群団は、鞭毛《べんもう》を振りながら、雑然と縦横に重なり合い、各々横に分裂しつつ二倍の群団となって、脂《あぶら》の漲《みなぎ》った細毛の森林の中を食い破っていった。
 フリードランドの平原では、朝日が昇ると、ナポレオンの主力の大軍がニエメン河を横断してロシアの陣営へ向っていった。しかし、今や彼らは連戦連勝の栄光の頂点で、尽《ことごと》く彼らの過去に殺戮《さつりく》した血色のために気が狂っていた。
 ナポレオンは河岸の丘の上からそれらの軍兵を眺《なが》めていた。騎兵と歩兵と砲兵と、服色|燦爛《さんらん》たる数十万の狂人の大軍が林の中から、三色の雲となって層々と進軍した。砲車の轍《わだち》の連続は響を立てた河原のようであった。朝日に輝いた剣銃の波頭は空中に虹を撒いた。栗毛《くりげ》の馬の平原は狂人を載せてうねりながら、黒い地平線を造って、潮のように没落へと溢《あふ》れていった。

底本:「機械・春は馬車に乗って」新潮文庫、新潮社
   1969(昭和44)年8月20日初版発行
   1995(平成7)年4月10日34刷
入力:MAMI
校正:松永正敏
2000年10月7日公開
2011年2月13日修正
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