一条の詭弁—– 横光利一

 その夫婦はもう十年も一緒に棲んで来た。良人は生活に窶れ果てた醜い細君の容子を眺める度に顔が曇つた。
「いやだいやだ。もう倦き倦きした。あーあ。」
 欠伸ばかりが梅雨時のやうにいつも続いた。ヒステリカルな争ひが時々茶碗の悲鳴と一緒に起つた。
 或る日、良人の欠伸はその頂点に達した。彼は涙が浮んで来た。
「下《くだ》らない。下《くだ》らない。下《くだ》らないツ! 何ぜこんな生活が続くのだツ!」
 彼は癇癪まぎれに拳を振つて立ち上つた。と、急に演説をするやうに出鱈目なことを叫び出した。
「これほども古く、かくも飽き飽きする程長らく共に棲んだが故に、飽きたと云ふ功績に対してさへも、放れることが不可能だと云ふことは、」
ここまで来ると、
「おやツ!」と思つた。
 何か素敵なことを饒舌つたやうな感じがした。何と自分が云つたのか? 彼はもう一度同じことを繰り返へして云つてみた。
「これ程も古く、かくも飽き飽きする程長らく共に棲んだが故に、飽きたと云ふ功績に対してさへも放れることが不可能だ。」
「成る程、」と彼は思つた。微笑が彼の唇から浮んで来た。
「うまい!」と彼は思つた。
 すると、急にその閃めいた詭弁を自身でうまいツと思つた量に匹敵して、彼はその詭弁から詭弁としての実感を感じ出した。
 それから、彼は出逢ふ人毎にその詭弁を得意になつて話し出した。恰もそれが人生の大いなる教訓であるかのやうに。勿論、人々は彼の詭弁に感歎した。
「うまい。」
「うまい。」
「うまい。」
 彼は有頂天になり出した。益々その詭弁が猛烈に口をついた。さうして、彼は終にそれが一つの大きな嘘の詭弁だと実感されたときには、早やあれほども人々に吹聴し、あれほども感歎させ得た過去の自身の得意さの総量に対してさへも、今はその詭弁を詭弁として押し通して行くことが出来なかつた。そこで、初めて彼の詭弁は一条の真理となつて光り出した。つまり云ひ換へるならば、彼ら夫婦は二人とも永久に幸福であつたと云ふ結果に落ちていつた。
 今は二人の頭には白い毛がしきりと競ひながら生えてゐる。老齢と云ふ醜い肌が、丁度人生の床の間で渋つてゐる二本の貴重な柱のやうに。

底本:「定本横光利一全集 第二巻」河出書房新社
   1981(昭和56)年8月31日初版発行
底本の親本:「文藝時代」
   1925(大正14)年4月1日発行、第1巻第1号
初出:「文藝時代」
   1925(大正14)年4月1日発行、第1巻第1号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、旧字、旧仮名の底本の表記を、新字旧仮名にあらためました。
入力:高寺康仁
校正:松永正敏
2001年12月10日公開
2003年6月1日修正
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