横光利一

馬妖記—— 岡本綺堂

     一

 M君は語る。

 僕の友人の神原君は作州《さくしゅう》津山《つやま》の人である。その祖先は小早川|隆景《たかかげ》の家来で、主人と共に朝鮮にも出征して、かの碧蹄館《へきていかん》の戦いに明《みん》の李如松《りじょしょう》の大軍を撃ち破った武功の家柄であると伝えられている。隆景は筑前の名島《なじま》に住んでいて、世に名島殿と呼ばれて尊敬されていたが、彼は慶長二年に世を去って、養子の金吾《きんご》中納言秀秋の代になると、間もなく慶長五年の関ヶ原の戦いが始まって、秀秋は裏切り者として名高くなったが、その功によって徳川家からは疎略にあつかわれず、筑前から更に中国に移封《いほう》して、備前《びぜん》美作《みまさか》五十万石の太守《たいしゅ》となった。神原君の祖先茂左衛門|基治《もとはる》も主人秀秋にしたがって中国に移ったが、やがてその主人は乱心して早死にをする、家はつぶされるという始末に、茂左衛門は二度の主取《しゅど》りを嫌って津山の在《ざい》に引っ込んでしまい、その後は代々農業をつづけて今日《こんにち》に至ったのだそうである。
 神原君の家は、代々の当主を茂左衛門と称しているが、かの茂左衛門基治以来、一種の家宝として大切に伝えられている物がある。それは長さ一尺に近い獣《けもの》の毛で、大体は青黒いような色であるが、ところどころに灰色の斑《ぶち》があるようにも見える。毛はかなりに太いもので、それは人間の手で丁度ひと掴みになるくらいの束《たば》をなしている。油紙に包んで革文庫《かわぶんこ》に蔵《おさ》められて、文庫の上書《うわが》きには「妖馬の毛」と記《しる》されてある。それに付帯《ふたい》する伝説として、神原家に凶事か吉事のある場合にはどこかで馬のいななく声が三度きこえるというのであるが、当代の神原君が結婚した時にも、神原君のお父さんが死んだ時にも、馬はおろか、犬の吠える声さえも聞えなかったというから、この伝説は単に一種の伝説として受取っておく方が無事らしいようである。
 しかしその「妖馬の毛」なるものは、明らかにその形をとどめていて、今でも家宝として秘蔵されている。その由来に就いては、茂左衛門基治の自筆と称せられる「馬妖記」という記録が残っているので、江戸時代はもちろん、明治以後になっても遠方からわざわざ尋ねて来て、その宝物と記録とを見せてもらってゆく人もあったということである。わたしも先年、出雲大社に参拝の帰路、津山の在に神原君の家を訪《と》うて、その品々をみせて貰うことが出来た。
 その記録にはこういう事実が伝えられている。

 文禄《ぶんろく》二年三月、その当時、小早川隆景は朝鮮に出征していて、名島の城には留守をあずかる侍たちが残っていた。九州一円は太閤秀吉に征伐されてから日が浅いので、なんどき何処から一揆の騒動なども起らないとも限らない。また朝鮮の戦地には明《みん》の大軍が応援に来たというのであるから、その軍《いくさ》の模様によっては更に加勢の人数を繰出さなければならない。それやこれやで留守あずかりの人びとも油断がならず、いずれも緊張した心持でその日を送っていたが、そのなかでも若い侍たちは張り切った馬のように自分のからだを持て扱っていた。
「なぜ留守番の腰ぬけ役などに廻されたかな、せめて虫押えに一揆でも起ってくれればよいが……。」
 戦地から出陣の命令が来るか、それとも近所に一揆でも起ってくれるかと、そんなことばかりを待ち暮らしている若侍たちの耳に、こういう噂が伝えられた。
「多々良《たたら》川に海馬《かいば》が出るそうだ。」
 名島の城は多々良村に築かれていて、その城下に近いところを流れて海に入るのが多々良川である。この正月の春もまだ寒い夜に、村のある者がこの川端を通ると、どこからともなしに異様な馬のいななく声がきこえた。暗いのでよくその見当は付かなかったが、その声は水のなかから響いて来るらしく思われた。そうして、それが水を出て、だんだんに里の方へ近付いて来ると、家々に飼ってある馬があたかもそれに応《こた》えるように、一度に狂い立って嘶《いなな》き始めた。
 家々の馬が狂って嘶いたことは、どこの家でもみな知っていた。どうしてすべての馬が一度に嘶いたのかと不思議に思っていると、あくる日になってかの者の口から異様な馬の噂を聞かされて、いずれもいよいよ不思議に感じた。そこらの畑道には大きい四足《よつあし》の跡が残っていた。
 それから注意して窺っていると、毎晩ではないが、三日に一度か五日に一度ぐらいずつは、家々の飼馬《かいうま》が一度に狂い立って嘶くのである。水から出て来るらしい馬の声は普通の馬より鈍《にぶ》く大きい。あたかも牛と馬との啼き声をひとつにしたように響き渡って、それが二、三度も高く嘶くと、家々に繋がれているたくさんの馬はそれに応《こた》えるのか、あるいはそれを恐れるのか、一度に嘶いて狂い騒ぐのである。だんだん調べてみると、飼馬はかの怪しい馬の声を恐れるらしい。その証拠には、かの馬の声のきこえた翌日は、どこの馬もみな癇高《かんだか》になって物におどろき易くなる。こういうわけで、かの馬は直接になんの害もなすというではないが、家々の飼馬をおどろかすだけでもよろしくない。もうひとつには一種の好奇心もまじって、村では屈竟《くっきょう》の若者どもが申合せて、かの怪しい馬の正体を見届けようと企てた。
 勿論、それが本当の馬であるかどうかは判らないのであるが、仮りにそれを馬と決めておいて、かれらはそれを馬狩りと唱えた。馬狩りの群れは二、三人幾組にも分れて、川筋から里につづく要所要所に待ち伏せをしたが、月の明かるい夜にはかの嘶きが決して聞えないで、いつも暗い夜に限られているために、その正体を見届けるのが頗る困難であった。殊にそれが水から出て来るのか山の方から出て来るのか、その足跡がいろいろに乱れているので、確かなことは判らなかった。しかしその声は川の方からきこえ始めるような場合が多いので、それは海から川づたいに上《のぼ》って来るのであろうということになったが、かの馬は決して続けて啼《な》かない。続けて啼けば、その声をしるべに尋ね寄ることも出来るのであるが、その嘶くような吠えるような声は、最初から終りまで僅かに三声か四声である。したがって、声のする方角へ駈け付けても、そこにはもうそれらしい物の気配もしないのである。
 何分にも暗くてはどうにもならないので、かれらは松明《たいまつ》を持って出る事にすると、その夜には一度も嘶きの声が聞えなかった。怪しい馬は火の光りを恐れて姿を現さないらしいのである。火がなくては暗くて判らない。火があっては相手が出て来ない。まことに始末が悪いので、かれらは相談して一種の陥《おと》し穽《あな》を作ることにした。その通路であるらしい所に、二ヵ所ばかりの深い穴を掘り下げて、枯柴や藁などでその上を掩《おお》って置いたが、それもやはり成功しなかった。
「海から来るならば格別、もし山から来るならば足跡のつづいていない筈はない。根《こん》よくそれを穿索《せんさく》してみろ。」
 老人たちに注意されて、成程《なるほど》と気付いた若者どもは、さらに足跡の詮議をはじめると、山の方角にはどうもそれらしい跡を発見し得なかったので、怪しい馬はやはり海から上って来ることに決められてしまった。
「海馬か、トドだ。」
 海獣が四本の足を持っているかどうかということを、その時代の人たちは考えなかったらしく、それを一種の海獣と鑑定したのである。そのうちに、ここにひとつの事件が起った。
 それは二月なかばの陰った夜である。本来ならば月の明るい頃であるが、今夜は雨もよいの暗い空に弱い星の光りが二つ三つひらめいているばかりであった。こんな晩には出て来るかも知れないと、馬狩りの群れは手配りして待ち構えていると、やがてかの嘶きの声がきこえた。つづいて一ヵ所の陥し穽で鳴子《なるこ》の音がきこえた。素破《すわ》こそと彼等は一度そこへ駈けあつまって、用意のたいまつに火をともして窺うと、穴の底に落ちているのは人であった。

     

 人は隣り村の鉄作という若者である。彼は今頃どうしてここへ来て、この陥し穽に落ちたのかと、不思議ながらに引揚げると、鉄作はほとんど半死半生の体《てい》で、しばらくは碌ろくに口も利けないのを、介抱してだんだん詮議すると、彼は今夜かの怪しい馬に出逢ったというのであった。
 この村の次郎兵衛という百姓の後家《ごけ》にお福という女がある。お福はことし三十七、八で、わが子のような鉄作とかねて関係を結んでいたが、自分の家へ引入れては母の手前や近所の手前があるので、自分の家から少しはなれた小さい森のなかを逢引きの場所と定めていた。ところが、この頃はかの海馬の騒ぎで、鉄作はちっとも寄りつかない。それを待ちわびしく思って、お福はきょうの昼のうちに隣り村へそっとたずねて行って、今夜はぜひ逢いに来てくれと堅く約束して帰った。年上の女にうるさく催促されて、鉄作は今夜よんどころなく忍んで来ると、さっきから自分の家の門《かど》に立って待ち暮らしていたお福は、すぐに男の手をとって、いつもの森をさして暗い夜道をたどって行くと、狭い道のまん中で突然に何物かに突き当った。
 こっちは勿論おどろいたが、相手も驚いたらしい。大きい鼻息をしたかと思うと、たちまちにひと声高く嘶いた。それがかの怪しい馬であると知ったときに、鉄作は気が遠くなるほどに驚いた。驚いたというよりも、怖ろしさがまた一倍で、彼はもう前後の考えもなく、捉《と》られている女の手を振払って、一目散にもと来た道へ逃げ出したが、暗いのと慌てたのとで方角をあやまって、かの陥し穽に転げ込んだのである。
 そう判ってくると、騒ぎはいよいよ大きくなって、大勢は松明《たいまつ》をふり照らしてそこらを穿索すると、果して道のまん中に次郎兵衛後家のお福が正体もなく倒れていた。お福は介抱してももう生きなかった。横ざまに倒れたところを、かの馬の足で脇腹を強く踏まれたらしい。肋《あばら》の骨がみな踏み砕かれているのを見ても、かの馬がよほど巨大な動物であることが想像されて、人々は顔をみあわせた。
「次郎兵衛後家が海馬にふみ殺された。」
 その噂が又ひろまって、人びとの好奇心は次第に恐怖心に変って来た。海馬だかなんだか知らないが、そんな巨大な怪物に出逢っては敵《かな》わないという恐怖心にとらわれて、その以来はかの馬狩りに加わる者がだんだんに減って来るようになった。暗い夜にはどこの家でも早く戸を閉じてしまった。怪しい馬は相変らず三日目か五日目には異様な嘶きを聞かせて、家々の飼馬をおびやかしていた。
「どうも不思議なことだな。しかし面白い。」と、その噂をきいた城中の若侍たちは言った。
 前に言ったような事情で、かれらは何か事あれかしと待ち構えていたところである。その矢先へこんな風説が耳にはいっては猶予がならない。糟屋甚七、古河市五郎の二人は、すぐに多々良村へ出向いてその実否《じっぷ》を詮議すると、その風説に間違いはないと判った。
「もう三月ではないか。正月以来そんな不思議があったら、なぜ早く俺たちに訴えないのだ。」
 二人はさらに隣り村へ行って、かの鉄作を詮議すると、彼はその後半月あまりも病人になっていたが、この頃はようよう元のからだに戻ったとのことで、甚七らの問いに対して何事も正直に答えた。しかし、自分の出逢った怪物がどんな物であったかを説明することは出来なかった。何分にも暗い夜といい、かつは不意の出来事であるので、半分は夢中でなんの記憶もないのであるが、それは普通の牛や馬よりも余ほど大きい物で、突きあたった一刹那《いっせつな》に感じたところでは、熊のような長い毛が一面に生えているらしかったというのである。
 その以上のことは判らなかったが、ともかくも一種の怪獣があらわれて、家々の飼馬を恐れさせ、さらに次郎兵衛後家を踏み殺したというのは事実であることが確かめられたので、甚七と市五郎とは満足して引揚げた。城へ帰る途中で、甚七は言い出した。
「しかし貴公、この事をすぐにみんなに吹聴《ふいちょう》するか。」
「それを俺も考えているのだが、むやみに吹聴して大勢がわやわや付いて来られては困る。いっそ貴公とおれと二人でそっと行くことにしようではないか。」
 いかなる場合にも人間には功名心《こうみょうしん》がある。甚七と市五郎も海馬探検の功名手柄を独り占めにしようという下心《したごころ》があるので、結局他の者どもを出しぬいて、二人が今夜ひそかに出て来ることに相談を決めた。
 三月もなかば過ぎて、ここらの春は暖かであった。あたかもきょうは午後から薄陰りして、おそい桜が風のない夕《ゆうべ》にほろほろ散っていた。
「今夜はきっと出るぜ。」
 二人は夜が来るのを待ちかねて、誘いあわせて城をぬけ出した。市五郎は鉄砲を用意して行こうかといったが、飛び道具をたずさえていると門検《もんあらた》めが面倒であるというので、甚七は反対した。二人はただ身軽に扮装《いでた》つだけのことにして、戌《いぬ》の刻《こく》を過ぎる頃から城下の村へ忍んで行くと、お誂《あつら》えむきの暗い夜で、今にも雨を運んで来そうな生温《なまぬる》い南風が彼らの頬をなでて通った。城下であるから附近の地理はふだんからよく知っている。殊に昼のうちにも大抵の見当は付けておいたので、二人は眼先もみえない夜道にも迷うことなしに、目的の場所へ行き着いた。
 どこという確かな的《あて》もないが、怪しい馬は水から出て来るらしいというのを頼りに、二人は多々良川に近いところに陣取って、一本の大きい櫨《はじ》の木を小楯《こだて》に忍んでいると、やがて一|刻《とき》も過ぎたかと思われる頃に、どこからか大きい足音がきこえた。
「来たらしいぞ。」
 二人は息をころして窺っていると、彼らの隠れ場所から十|間《けん》余りも距《はな》れたところに、一つの大きい黒い影の現れたのが水明かりでぼんやりと見えた。黒い影はにぶく動いて水にはいって行くらしかった。つづいて水を打つような音が幾たびか聞えたので、甚七は市五郎にささやいた。
「水から出て来るのではない。水にはいるのだ。」
「どうも魚《さかな》を捕るらしいぞ。」
「馬が魚を食うかな。」
「それが少しおかしい。」
 なおも油断なく窺っていると、黒い影は水から出て来て、暗い空にむかって高くいなないた。それを合図のように二人はつかつかと進み寄って、袖の下に隠していた火縄《ひなわ》を振り照らすと、その小さい火に対して相手は余りに大き過ぎるらしく、ただ真っ黒な物が眼のさきに突っ立っているだけで、その正体はよく判らなかった。それと同時に、その黒い影は蛍《ほたる》よりも淡い火のひかりを避けるように、体をひるがえして立去ろうとするのを、二人はつづいて追おうとすると、目先の方に気を取られて火縄をふる手が自然おろそかになったらしい。あたかも強く吹いて来る川風のために二つの火縄は消されてしまった。はっと思う間もなしに、市五郎は殴《はた》かれたか蹴られたか、声を立てずにその場に倒れた。
 甚七はあわてて刀をぬいて、相手を斬るともなく、自分を防ぐともなく、半分は夢中で振廻すと、黒い影は彼をそのままにして静かに闇の奥に隠れて行った。甚七はまだ追おうとすると、わが足は倒れている市五郎につまずいて、これも暗いなかに倒れた。彼は起きかえりながら小声で呼んだ。
「市五郎、どうした。」
 市五郎は答えないで、唯うめくばかりである。暗いのでよくは判らないが、彼は怪物のために手ひどい打撃を受けたらしい。こうなるとまず彼を介抱しなければならないと思ったので、甚七は暗いなかを叫びながら里の方へ走った。
「おい、おい。誰かいないか。」
 馬狩りの群れはこの頃いちじるしく減ったのであるが、それでも強情に出ている者も二組ほどあった。その六、七人が甚七の声におどろかされて駈け集まって来た。相手が城内の侍とわかって、かれらはいよいよ驚いた。用意の松明に火をとぼして、市五郎の倒れている場所へかけ付けると、彼は鼻や口からおびただしい血を流して、上下の前歯が五本ほども折れていた。市五郎は怪物のために鼻や口を強く打たれたらしい。取りあえずそこから近い農家へ運び込んで、水や薬の応急手当を加えると、市五郎はようように正気づいたが、倒れるはずみに頭をも強く打ったらしく、容易に起き上がることは出来なかった。
 これには甚七もひどく困った。城内へ帰って正直にそれを報告する時は、いかにも自分たちの武勇が足らないように思われるばかりか、無断で海馬探検などに出かけて来てこの失態を演じたとあっては、組頭《くみがしら》からどんなに叱られるか判らない。さりとて今さら仕様もないので、彼は市五郎の看護を他の人びとにたのんで、自分だけはひとまず城内へ戻ることにした。戻ると、果して散々《さんざん》の始末であった。
「お留守をうけたまわる身の上で、要もない悪戯《いたずら》をして朋輩を怪我人にするとは何のことだ。侍ひとりでも大切という今の場合を知らないか。」と、彼は組頭から厳しく叱られた。
「いったい我れわれを出し抜いて、自分たちばかりで手柄をしようとたくらむから悪いのだ。」と、彼は他の朋輩からも笑われた。
 叱られたり笑われたりして、覚悟の上とはいいながら甚七も少しく取り逆上《のぼ》せたらしい。かれは危うく切腹しようとするところを、朋輩どもに支えられた。それを聞いて組頭はまた叱った。
「市五郎が怪我人となったさえあるに、甚七までが切腹してどうするのだ。他の者どもを案内して行って、早く市五郎を連れて帰れ。」
 朋輩共も一旦は笑ったものの、ただ笑っていて済むわけのものではないので、組頭の指図にしたがって、十人はすぐに支度をして城を出た。甚七は無論その案内に立たされた。神原君の先祖の茂左衛門基治はその当時十九歳の若侍で、この一行に加わっていたのである。
 その途中で年長《としかさ》の伊丹弥次兵衛がこんなことを言い出した。
「組頭はただ、古河市五郎を連れ帰れというだけの指図であったが、海馬の噂は我れわれも聞いている。そのままに捨てておいては、お家《いえ》の威光にかかわる事だ。殊に甚七と市五郎がかような不覚をはたらいたのを、唯そのままに致しておいては、他国ばかりでなく、御領内の民《たみ》百姓にまで嘲《あざけ》り笑わるる道理ではないか。まず市五郎の容態を見届けた上で、次第によっては我れわれもその馬狩りを企ててはどうだな。」
 人びとは皆もっともと同意した。かれらが里に近づいた頃に、家々の飼馬は一度に狂い嘶いて、かの怪物がまだそこらに徘徊していることを教えたので、人々の気分はさらに緊張した。年の若い茂左衛門の血は沸いた。

     

 古河市五郎が運び込まれたのは、かの次郎兵衛後家のお福の家であった。お福の家は母のおもよと貰い娘のおらちという今年十六の小娘と、女ばかりの三人暮らしであったが、そのなかで働き盛りのお福は海馬に踏み殺されて、老人と小娘ばかりが残ったのである。幸いにおもよは六十を越してもまだ壮健であるので、やがてはおらちに相当の婿を迎えることにして、ともかくも一家を保っているのであった。そういう訳であるので、おもよは我が身の不幸に引きくらべて、傷ついた若侍にもいっそう同情したらしく、村の人びとの先に立って親切に彼を介抱した。
 そこへ城内の人々がたずねて来た。市五郎の容態はなにぶん軽くないのをみて、一行十一人のうちから四人は彼に附添って帰城することになった。その四人の中に甚七も加えられた。それは伊丹弥次兵衛の意見で、彼がふたたび失態を演じた場合には、今度こそほんとうに腹でも切らなければならない事になるのであるから、いっそ怪我人を守護して帰城した方が無事であろうというのであったが、本人の甚七はどうしても肯《き》かなかった。武士の面目、たとい命を捨ててもよいから是非とも後に残りたいと言い張るので、結局他の者をもって彼に代えることになった。
 こうなると、甚七ばかりでなく、怪我人に附添ってむなしく帰城するよりも、あとに残って海馬探検に加わりたいという志願者が多いので、弥次兵衛も少しくその処置に苦しんだが、どうにかその役割も決定して、怪我人を戸板にのせて村の者四人にかつがせ、さらに四人の若侍がその前後を囲んで帰城することになった。あとには弥次兵衛と甚七をあわせて、七人の者が残されたわけである。
「馬妖記」にはその七人の姓名が列挙《れっきょ》してある。それは伊丹弥次兵衛正恒、穂積権九郎宗重、熊谷小五八照賢、鞍手助左衛門正親、倉橋伝十郎直行、粕屋甚七常定、神原茂左衛門基治で、年齢はいちいち記《しる》されていないが、十九歳の茂左衛門基治、すなわちこの「馬妖記」の筆者が一番の年少者であったらしい。この七人が三組に分れた。第一組は弥次兵衛と助左衛門、第二の組は権九郎と小五八、第三の組は伝十郎と甚七で、茂左衛門一人はこの次郎兵衛後家の家に残っていることになった。要するにここを本陣として、誰か一人は留守居をしていなければならないというので、最年少者の茂左衛門がその留守番を申付けられたのである。組々の侍には村の若者が案内者として二人ずつ附添い、都合四人ずつが一組となってここを出発する頃には、夜もいよいよ更けて来て、暗い大空はこの村の上に重く掩いかかっていた。
 留守番はもちろん不平であったが、茂左衛門は年の若いだけに我慢しなければならなかった。土間にころがしてある切株《きりかぶ》に腰をかけて、彼は黙って表の闇を睨んでいると、おもよは湯を汲んで来てくれた。
「御苦労さまでござります。」
「大勢がいろいろ世話になるな。」と、茂左衛門はその湯をのみながら言った。それが口切りとなって、おもよは海馬の話をはじめた。茂左衛門も心得のためにいろいろのことを訊いた。
「ここの女房は飛んだ災難に逢って、気の毒であったな。」
「まことに飛んだ目に逢いましてござります。」と、おもよは眼をうるませた。「しかし立派なお侍さまさえもあんな事になるのでござりますから、わたくし共の娘などは致し方がござりません。」
 立派な侍さえもあんな事になる――それが一種の侮辱のようにも聞かれて、年の若い茂左衛門は少しく不快を感じたが、偽《いつわ》り飾りのない朴訥《ぼくとつ》の老婆に対して、彼は深くそれを咎める気にもなれなかった。それにつけても市五郎らの失敗を彼は残念に思った。
「ここの女房は海馬に踏み殺されたのだな。」と、茂左衛門はまた訊いた。
「さようでござります。あばらの骨を幾枚も踏み折られてしまいました。」
「むごい事をしたな。」
「わたくしも実に驚きました。」と、おもよはいよいよ声を陰らせた。「それも淫奔《いたずら》の罰《ばち》かも知れません。」
「隣り村の若い者が一緒にいたのだそうだな。それは無事に逃げたのか。」
「それは隣り村の鉄作と申す者で、やはり男でござりますから、お福を置き去りにして真っ先に逃げてしまったと見えます。」と、おもよは少しく恨み顔に言った。「お福はわたくしの生みの娘で、ことし三十八になります。次郎兵衛というものを婿にもらいましたが、夫婦の仲に子供がございませんので、おらちという貰い娘《ご》をいたしまして、それはことし十六になります。次郎兵衛はおととしの夏に亡くなりまして、その後は女三人でどうにかこうにか暮らしておりますと、お福はいつの間にか隣り村の鉄作と……。鉄作はことし確か二十歳《はたち》の筈で、おらちと従弟《いとこ》同士にあたりますので、ふだんから近しく出入りは致しておりましたが、お福とは親子ほども年が違うのでござりますから、わたくしもよもやと思って油断しておりますと、飛んでもない淫奔から飛んでもない災難に出逢いまして……。腹が立つやら悲しいやら、なんともお話になりませんような訳で、世間に対しても外聞《がいぶん》が悪うござります。」
「その鉄作はどうしている。」
「この頃はからだもすっかり癒りまして、自分でもお福を見殺しにして逃げたのを、なんだか気が咎めるのでございましょう。時どきに訪《たず》ねて来ていろいろの世話をしてくれますが、あんな男に相変らず出入りをされましては、なおなお世間に外聞が悪うござりますから、なるべく顔を見せてくれるなといって断っております。」
 言いかけて、おもよは気がついたように暗い表に眼をやった。
「おや、雨が降ってまいりました。」
 茂左衛門も気がついて表を覗くと、闇のなかに雨の音がまばらに聞えた。
「とうとう降って来たか。」
 彼は起《た》って軒下へ出ると、おもよも続いて出て来た。
「皆さまもさぞお困りでござりましょう。どうもこの頃は雨が多くて困ります。」
 家の前にも横手にも空地《あきち》があって、横手には小さい納屋《なや》がある。それにふと眼をつけたらしいおもよは急に声をかけた。
「そこにいるのはおらちではないか。さっきから姿が見えねえから、奥で寝ているのかと思っていたに……。この夜更けにそんな所で何をしているのだ。」
 叱られて納屋の蔭からその小さい姿をあらわしたのは、おもよが改めて紹介するまでもなく、ことし十六になるという孫娘のおらちであることを、茂左衛門はすぐに覚った。おらちは物に怖《お》じるような落ちつかない態度で、二人の前に出て来た。
「お城のお侍さまに御挨拶をしないか。」と、おもよはまた言った。
 おらちは無言で茂左衛門に会釈《えしゃく》して、あとを見かえりながら内にはいると、おもよは独り言のように、あいつ何をしていたかと呟きながら、入れ代って納屋の方へ覗きに行ったかと思う間もなく、老女は忽ちに声をとがらせた。
「そこにいるのは誰だよ。」
 それに驚かされて、茂左衛門も覗いてみると、納屋の蔭にまだひとつの黒い影が忍んでいるらしかった。おもよは咎めるようにまた呶鳴った。
「誰だよ。鉄作ではないか。今ごろ何しに来た。お福の幽霊に逢いたいのか。」
 相手はそれにも答えないで、暗い雨のなかを抜け出してゆく足音ばかりが聞えた。そうして、それが家の前からまだ四、五間も行き過ぎまいかと思われる時に、きゃっという悲鳴がまた突然にきこえた。つづいて嘶くのか、吠えるのか、唸るのか、得体《えたい》のわからない一種の叫びが闇をゆするように高くひびいた。
「あ、あれでござります。」と、おもよは俄かに悸《おび》えるようにささやいた。
 もう問答の暇《いとま》もない。茂左衛門はおどるように表へ飛び出すと、雨はだんだんに強くなっていた。引っかえして火縄をつける間も惜しいので、彼はその叫びのきこえた方角へまっしぐらに駈けて行くと、草鞋《わらじ》は雨にすべって路ばたの菜畑に転げ込んだ。一旦は転んでまた起きかえる時、彼は何物にか突き当ったのである。それが大きい獣であるらしいことを覚ったが、あまりに距離が近過ぎるので、茂左衛門は刀を抜くすべがなかった。
 彼は必死の覚悟でその怪物に組み付くと、相手は強い力で振り飛ばした。振り飛ばされて茂左衛門はまた倒れたが、すぐに刎《は》ね起きて刀をぬいた。そうして、暗いなかを手あたり次第に斬り廻ったが、刃《やいば》に触れるものは菜の葉や菜の花ばかりで、一向にそれらしい手ごたえはなかった。耳を澄ましてその足音を聞き定めようとしたが、あいにくに降りしきる雨の音に妨げられて、それも判らなかった。
「残念だな。」
 がっかりして突っ立っているところへ三、四人が駈けつけて来た。それは第三の組の倉橋伝十郎と粕屋甚七と、案内の者どもであった。かれらはあの怪しい叫びを聞き付けて駈け集まったのであるが、もうおそかった。伝十郎も口惜《くや》しがったが、取り分けて甚七は残念がった。彼は宵の恥辱をすすごうとして、火縄をむやみに振って駈けまわったが、結局くたびれ損《ぞん》に終った。
 第三の組ばかりでなく、第一第二の組もおいおいに駈け付けた。そうして、たいまつを照らしてそこらを探し廻った。それもやはり不成功に終ったので、よんどころなく本陣にしている次郎兵衛後家の家へいったん引揚げることになった。ここで初めて発見されたのは、茂左衛門の左の手に幾筋の長い毛を掴《つか》んでいたことであった。
 いつどうしてこんなものを掴んだのか、自分にも確かな記憶はない。だんだん考えてみると、暗いなかを無暗《むやみ》に斬っているあいだに、何物かを掴んだことがあるようにも思われる。あるいはその時、片手は獣の毛を掴んで、片手でそれを切ったのかも知れない。あるいは確かにそれを切るという気でもなく、ただ無暗に振りまわした切っ先があたかもそれに触れたのかも知れない。茂左衛門自身もいっさい夢中であったので、何がどうしたのか、その説明に苦しむのであるが、ともかくも自分の手に怪しい獣の毛を掴んでいるのは事実である。彼はその毛を夢中でしっかり握りつめて、片手なぐりに斬って廻っていたものらしい。
「いや、なんにしてもお手柄だ。渡辺綱《わたなべのつな》が鬼の腕を斬ったようなものだ。」
 今夜の大将ともいうべき伊丹弥次兵衛は褒めた。

     

 もうひとつ発見されたのは、半死半生で路ばたに倒れている鉄作の姿であった。これも同じ家にかつぎ込まれて人びとの介抱をうけたが、その暁け方にとうとう死んだ。
「わしが海馬に蹴殺されるのは、お福の恨みに相違ない。」と、鉄作は言った。
 彼は死にぎわにおもよに向って、怖ろしい懺悔をした。
 お福は海馬に踏み殺されたのではなく、実は鉄作が殺したというのである。前にもいう通り、鉄作とおらちとは従弟同士で、そのおらちがお福の家の娘に貰われていった関係から、鉄作もしばしばそこへ出入りをして、次郎兵衛の死後にはいつか後家のお福と情《じょう》を通ずるようになったのである。勿論それは女の方から誘いかけた恋で、親子ほども年の違う二人のあいだの愛情が永く結びつけられている筈がなかった。殊にお福の貰い娘になっているおらちがやがて十六の春を迎えるようになって、鉄作のこころは次第にその方へ惹《ひ》かれて行った。それがお福の眼にもついて、たちまちに嫉妬のほのおを燃やした。たとい身腹《みはら》は分けずとも、仮りにも親と名のつく者の男を寝取るとは何事であると、お福は明け暮れにおらちを責めた。まして鉄作にむかっては、ほとんど夜叉《やしゃ》の形相《ぎょうそう》で激しく責め立てた。
 おらちは身におぼえのない濡衣《ぬれぎぬ》であることを説明しても、お福はなかなか承知しなかった。母の手前、お福も表向きには何とも言うことは出来なかったが、蔭へまわっては執念ぶかくおらちをいじめて、時にはこんなことも言った。
「おまえのような奴は、いっそ海馬にでも踏み殺されてしまえ。」
 たまらなくなって、おらちはそれを鉄作に訴えると、彼は年上の女の激しい嫉妬にたえ難くなっている折柄であるので、ふとおそろしい計画を思いついた。お福のいわゆる「海馬にふみ殺されてしまえ。」を、彼はそのまま実行しようと企てたのである。彼は暗夜にお福を誘い出して、突然かの女を路ばたに突き倒して、大きい石をその脇腹と思われるところに投げつけると、お福は二言といわずに息が絶えてしまった。そのあばらの骨の砕《くだ》けているのはそれがためであった。
 相手の死んだのを見すまして、鉄作はその石を少しく離れたところへ運んで行った。証拠を隠してしまって、あくまでも海馬の仕業《しわざ》と思わせるたくみである。そうして、自分はそのままそっと立去るつもりであったが、彼はあたかもその時にほんとうの海馬に出逢った。これに胆《きも》を消して、うろたえ廻って逃げ出す途中、あやまってかの陥し穽に転げ落ちたのである。こうなってはもう仕方がないので、彼は救いに来てくれた人びとに向って、嘘と誠を取りまぜて話した。お福と一緒にここまで来た事と、海馬に出逢った事と、この二つが本当であるので、正直な村の人びとはお福が海馬に踏み殺されたことまでも容易に信じてしまったのである。ほんとうの海馬があたかもそこへ現れて来たのは、彼にとっては実に勿怪《もっけ》の幸いともいうべきであった。
 こうして世間の眼を晦《くら》まして、彼は老いたる情婦を首尾よく闇から闇へ葬った後、さらに若い情婦を手に入れようと試みた。おらちも従弟同士の若い男を憎いとは思わなかったが、養い親と彼との関係を薄うす覚っていたので、素直にそれに靡《なび》こうともしなかった。その煮え切らない態度に鉄作は焦れ込んで、今夜もおらちをそっと呼び出して、納屋のかげで手詰めの談判を開いているところを、あたかも祖母のおもよに発見されたのであった。この場合、見付けられてはもちろん面倒であるので、彼はおもよの呼ぶ声をあとに聞き流して表へ逃げ出すと、四、五間さきで再び海馬に出逢ったのである。かれはお福の死について一|場《じょう》の嘘を作った。そうして、自分がその嘘の通りに死んだ。
 茂左衛門もその懺悔《ざんげ》を聴いた一人であった。彼はその「馬妖記」の一挿話として、「本文には要なきことながら」と註を入れながら、鉄作の一条を比較的に詳しく書き留めてあるのをみると、その当時の武士もこの事件について相当の興味を感じたものと察せられる。
 その夜の探検は不成功に終って、雨のまだ晴れやらない早朝に、七人の侍はむなしく城に引揚げた。そのなかで、ともかくも怪しい獣の毛をつかんでいる茂左衛門が第一の功名者であることは言うまでもなかった。古河市五郎は療治《りょうじ》が届かないで、三月末に死んだ。四月になっても、多々良村では海馬の噂がまだやまない。こうなると、城内でももう捨て置かれなくなって、かの弥次兵衛のいう通り、他領への聞えもあれば、領内の住民らの思惑もある。かたがたかの怪しい馬を狩り取れということになって、屈竟の侍が八十人、鉄砲組の足軽五十人、それぞれが五組に分れて、四月十二日の夜に大仕掛けの馬狩りをはじめた。先夜の七人も皆それぞれの部署についた。
 四月に入ってから雨もよいの日が続いたのは、月夜を嫌う馬狩りのためには仕合せであった。しかし第一夜は何物をも見いだし得なかった。第二夜もおなじく不成功のうちに明けた。第三夜の十四日の夜も亥《い》の刻(午後十時)を過ぎた頃に、第四組が多々良川のほとりで初めて物の影を認めた。合図の呼子笛《よびこ》の声、たいまつの光り、それが一度にみだれ合って、すべての組々も皆ここに駈け集まった。神原茂左衛門は第五の組であったが、場所が近かったために早く駈けつけた。
 怪しい影は水のなかを行く。それを取逃がしてはならないというので、侍は岸を遠巻きにした。足軽組は五十挺の鉄砲をそろえて釣瓶《つるべ》撃ちにうちかけた。それに驚かされたかれは、岸の方にはもう逃げ路がないと見て、水の深い方へますます進んで行く。それを追い撃ちにする鉄砲の音はつづけて聞えた。またその鉄砲の音を聞きつけて、村の者もほとんど総出で駈け集まって来た。たいまつは次第に数を増して、岸はさながら昼のように明かるくなったが、怪しい影はだんだんに遠くなった。そうして、深い水の上を泳いで行くらしく見えたが、やがて海に近いところで沈んだように消えてしまった。
 船を出して追わせたが、その行くえは遂に判らなかった。万一水底をくぐって引っ返して来る事もあるかと、岸では夜もすがら篝火《かがりび》を焚いて警戒していたが、かれは再びその影を見せなかった。逃《の》がれて海に去ったのか、溺れて海に沈んだのか。それも勿論わからなかった。たいまつはあっても、その距離が相当に隔たっていたので、誰も確かにその正体を見届けた者はなかった。したがって、人びとの説明はまちまちで、ある者はやはり馬に相違ないといった。ある者はどうも熊のようであるといった。ある者は狒々《ひひ》ではないかといった。しかし馬に似ているという説が多きを占めて、茂左衛門の眼にも馬であるらしく見えた。馬にしても、熊にしても、それが普通の物よりも遥かに大きく、そうしてすこぶる長い毛に掩《おお》われているらしいということは、どの人の見たところも皆一致していた。
 この報告を聞いて、城中の医師北畠式部はいった。
「それは海馬《かいば》などと言うべきものではあるまい。海馬は普通にあしか[#「あしか」に傍点]と唱えて、その四足は水掻きになっているのであるから、むやみに陸上を徘徊する筈がない。おそらくそれは水から出て来たものではなく、山から下って来た熊か野馬のたぐいで、水を飲むか、魚を捕るかのために、水辺または水中をさまよっていたのであろう。」
 それを確かめる唯一の証拠品は、茂左衛門の手に残ったひと掴みの毛であるが、それが果して何物であるかは北畠式部にもさすがに鑑定が出来なかった。何分にも馬であるという説が多いので、海馬か、野馬か、しょせんは一種の妖馬であるというのほかはなかった。
 妖馬は溺れて死んだのか、あるいは鉄砲に傷ついたのか、あるいは今夜の攻撃に怖れて遠く立去ったのか、いずれにしてもその後はこの村に怪しい叫びを聞かせなくなった。名島の城下の夜は元の静けさにかえって、家々の飼馬はおだやかに眠った。――神原茂左衛門基治の記録はこれで終っている。

 M君は最後に付け加えた。
 僕は多々良という川も知らず、名島付近の地理にも詳しくないが、地図によると海に近いところである。現にその記録にも妖馬は海に近いところで沈んでしまったと書いてあって、その当時も多々良川が海につづいていたことは容易に想像される。して見れば北畠式部が説明するまでもなく、ここらの住民は海馬がどんな物であるかをかねて知っていそうな筈であるのに、それが陸にあがって世間を騒がしたなどというのは、少し受取りにくいようにも思われるが、ここではまずその記録を信ずるのほかはない。かの妖馬の毛なるものは、近年二、三の専門家の鑑定を求めたが、どうも確かなことが判らない。しかしそれは陸上に棲息していたものらしく、あるいは今日《こんにち》すでに絶滅している一種の野獣が、どこかの山奥からでも現れて来たのではないかというのである。
 それからずっと後の天明《てんめい》年間に書かれた橘|南渓《なんけい》の「西遊記」にも、九州の深山には山童《やまわろ》というものが棲んでいるの、山女《やまおんな》というものを射殺したという記事が見えるから、その昔の文禄年代には、ここらにどんな物が棲んでいなかったとも限らない。もし山から出て来たものとすれば、果《はて》しもない大海へ追い込まれて、結局は千尋《ちひろ》の底に沈んだのであろう。そうして、それが我が国に唯一匹しか残っていなかったその野獣の最後であったかも知れない。コナン・ドイルの小説にもそれによく似たような話があって、ジョン・ブリュー・ギャップというところに古代の大熊が出たと書いてある。ドイルのはもちろん作り話であろうが、これはともかくも実録ということで、その証拠品まで残っているのだから面白い。

底本:「蜘蛛の夢」光文社文庫、光文社
   1990(平成2)年4月20日初版1刷発行
初出:「講談倶楽部」
   1927(昭和2)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:花田泰治郎
2006年5月7日作成
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横光利一

蠅——横光利一

      一

  真夏の宿場は空虚であった。ただ眼の大きな一疋《いっぴき》の蠅だけは、薄暗い厩《うまや》の隅《すみ》の蜘蛛《くも》の巣にひっかかると、後肢《あとあし》で網を跳ねつつ暫《しばら》くぶらぶらと揺れていた。と、豆のようにぼたりと落ちた。そうして、馬糞《ばふん》の重みに斜めに突き立っている藁《わら》の端から、裸体にされた馬の背中まで這《は》い上《あが》った。

       二

 馬は一条《ひとすじ》の枯草を奥歯にひっ掛けたまま、猫背《ねこぜ》の老いた馭者《ぎょしゃ》の姿を捜している。
 馭者は宿場《しゅくば》の横の饅頭屋《まんじゅうや》の店頭《みせさき》で、将棋《しょうぎ》を三番さして負け通した。
「何《な》に? 文句をいうな。もう一番じゃ。」
 すると、廂《ひさし》を脱《はず》れた日の光は、彼の腰から、円《まる》い荷物のような猫背の上へ乗りかかって来た。

       

 宿場の空虚な場庭《ばにわ》へ一人の農婦が馳《か》けつけた。彼女はこの朝早く、街に務《つと》めている息子から危篤の電報を受けとった。それから露に湿《しめ》った三里の山路《やまみち》を馳け続けた。
「馬車はまだかのう?」
 彼女は馭者部屋を覗《のぞ》いて呼んだが返事がない。
「馬車はまだかのう?」
 歪《ゆが》んだ畳の上には湯飲みが一つ転っていて、中から酒色の番茶《ばんちゃ》がひとり静《しずか》に流れていた。農婦はうろうろと場庭を廻ると、饅頭屋の横からまた呼んだ。
「馬車はまだかの?」
「先刻出ましたぞ。」
 答えたのはその家の主婦である。
「出たかのう。馬車はもう出ましたかのう。いつ出ましたな。もうちと早《は》よ来ると良かったのじゃが、もう出ぬじゃろか?」
 農婦は性急な泣き声でそういう中《うち》に、早や泣き出した。が、涙も拭《ふ》かず、往還《おうかん》の中央に突き立っていてから、街の方へすたすたと歩き始めた。
「二番が出るぞ。」
 猫背の馭者は将棋盤を見詰めたまま農婦にいった。農婦は歩みを停めると、くるりと向き返ってその淡い眉毛《まゆげ》を吊り上げた。
「出るかの。直ぐ出るかの。悴《せがれ》が死にかけておるのじゃが、間に合わせておくれかの?」
「桂馬《けいま》と来たな。」
「まアまア嬉しや。街までどれほどかかるじゃろ。いつ出しておくれるのう。」
「二番が出るわい。」と馭者はぽんと歩《ふ》を打った。
「出ますかな、街までは三時間もかかりますかな。三時間はたっぷりかかりますやろ。悴が死にかけていますのじゃ、間に合せておくれかのう?」

       四

 野末の陽炎《かげろう》の中から、種蓮華《たねれんげ》を叩く音が聞えて来る。若者と娘は宿場の方へ急いで行った。娘は若者の肩の荷物へ手をかけた。
「持とう。」
「何アに。」
「重たかろうが。」
 若者は黙っていかにも軽そうな容子《ようす》を見せた。が、額《ひたい》から流れる汗は塩辛《しおから》かった。
「馬車はもう出たかしら。」と娘は呟《つぶや》いた。
 若者は荷物の下から、眼を細めて太陽を眺めると、
「ちょっと暑うなったな、まだじゃろう。」
 二人は黙ってしまった。牛の鳴き声がした。
「知れたらどうしよう。」と娘はいうとちょっと泣きそうな顔をした。
 種蓮華を叩く音だけが、幽《かす》かに足音のように追って来る。娘は後を向いて見て、それから若者の肩の荷物にまた手をかけた。
「私が持とう。もう肩が直《なお》ったえ。」
 若者はやはり黙ってどしどしと歩き続けた。が、突然、「知れたらまた逃げるだけじゃ。」と呟いた。

       

 宿場の場庭へ、母親に手を曳《ひ》かれた男の子が指を銜《くわ》えて這入《はい》って来た。
「お母ア、馬々。」
「ああ、馬々。」男の子は母親から手を振り切ると、厩の方へ馳けて来た。そうして二|間《けん》ほど離れた場庭の中から馬を見ながら、「こりゃッ、こりゃッ。」と叫んで片足で地を打った。
 馬は首を擡《もた》げて耳を立てた。男の子は馬の真似をして首を上げたが、耳が動かなかった。で、ただやたらに馬の前で顔を顰《しか》めると、再び、「こりゃッ、こりゃッ。」と叫んで地を打った。
 馬は槽《おけ》の手蔓《てづる》に口をひっ掛けながら、またその中へ顔を隠して馬草《まぐさ》を食った。
「お母ア、馬々。」
「ああ、馬々。」

       

「おっと、待てよ。これは悴の下駄を買うのを忘れたぞ。あ奴《いつ》は西瓜《すいか》が好きじゃ。西瓜を買うと、俺《おれ》もあ奴も好きじゃで両得じゃ。」
 田舎紳士《いなかしんし》は宿場へ着いた。彼は四十三になる。四十三年貧困と戦い続けた効《かい》あって、昨夜|漸《ようや》く春蚕《はるご》の仲買《なかがい》で八百円を手に入れた。今彼の胸は未来の画策のために詰っている。けれども、昨夜|銭湯《せんとう》へ行ったとき、八百円の札束を鞄《かばん》に入れて、洗い場まで持って這入って笑われた記憶については忘れていた。
 農婦は場庭の床几《しょうぎ》から立ち上ると、彼の傍《そば》へよって来た。
「馬車はいつ出るのでござんしょうな。悴が死にかかっていますので、早《は》よ街へ行かんと死に目に逢《あ》えまい思いましてな。」
「そりゃいかん。」
「もう出るのでござんしょうな、もう出るって、さっきいわしゃったがの。」
「さアて、何しておるやらな。」
 若者と娘は場庭の中へ入ってきた。農婦はまた二人の傍へ近寄った。
「馬車に乗りなさるのかな。馬車は出ませんぞな。」
「出ませんか?」と若者は訊《き》き返《かえ》した。
「出ませんの?」と娘はいった。
「もう二時間も待っていますのやが、出ませんぞな。街まで三時間かかりますやろ。もう何時になっていますかな。街へ着くと正午《ひる》になりますやろか。」
「そりゃ正午や。」と田舎紳士は横からいった。農婦はくるりと彼の方をまた向いて、
「正午になりますかいな。それまでにゃ死にますやろな。正午になりますかいな。」
 という中《うち》にまた泣き出した。が、直ぐ饅頭屋の店頭へ馳けて行った。
「まだかのう。馬車はまだなかなか出ぬじゃろか?」
 猫背の馭者は将棋盤を枕にして仰向《あおむ》きになったまま、簀《す》の子《こ》を洗っている饅頭屋の主婦の方へ頭を向けた。
「饅頭はまだ蒸《む》さらんかいのう?」

       

 馬車は何時《いつ》になったら出るのであろう。宿場に集った人々の汗は乾いた。しかし、馬車は何時になったら出るのであろう。これは誰も知らない。だが、もし知り得ることの出来るものがあったとすれば、それは饅頭屋の竈《かまど》の中で、漸く脹《ふく》れ始めた饅頭であった。何《な》ぜかといえば、この宿場の猫背の馭者は、まだその日、誰も手をつけない蒸し立ての饅頭に初手《しょて》をつけるということが、それほどの潔癖《けっぺき》から長い年月の間、独身で暮さねばならなかったという彼のその日その日の、最高の慰めとなっていたのであったから。

       

 宿場の柱時計が十時を打った。饅頭屋の竈は湯気を立てて鳴り出した。
 ザク、ザク、ザク。猫背の馭者は馬草を切った。馬は猫背の横で、水を充分飲み溜めた。ザク、ザク、ザク。

       

 馬は馬車の車体に結ばれた。農婦は真先に車体の中へ乗り込むと街の方を見続けた。
「乗っとくれやア。」と猫背はいった。
 五人の乗客は、傾く踏み段に気をつけて農婦の傍へ乗り始めた。
 猫背の馭者は、饅頭屋の簀の子の上で、綿のように脹らんでいる饅頭を腹掛けの中へ押し込むと馭者台の上にその背を曲げた。喇叭《らっぱ》が鳴った。鞭《むち》が鳴った。
 眼の大きなかの一疋の蠅は馬の腰の余肉《あまじし》の匂いの中から飛び立った。そうして、車体の屋根の上にとまり直ると、今さきに、漸く蜘蛛の網からその生命《いのち》をとり戻した身体を休めて、馬車と一緒に揺れていった。
 馬車は炎天の下を走り通した。そうして並木をぬけ、長く続いた小豆畑《あずきばたけ》の横を通り、亜麻畑《あまばたけ》と桑畑の間を揺れつつ森の中へ割り込むと、緑色の森は、漸く溜った馬の額の汗に映って逆さまに揺らめいた。

       

 馬車の中では、田舎紳士の饒舌《じょうぜつ》が、早くも人々を五年以来の知己《ちき》にした。しかし、男の子はひとり車体の柱を握って、その生々した眼で野の中を見続けた。
「お母ア、梨々。」
「ああ、梨々。」
 馭者台では鞭《むち》が動き停った。農婦は田舎紳士の帯の鎖に眼をつけた。
「もう幾時ですかいな。十二時は過ぎましたかいな。街へ着くと正午過ぎになりますやろな。」
 馭者台では喇叭が鳴らなくなった。そうして、腹掛けの饅頭を、今や尽《ことごと》く胃の腑《ふ》の中へ落し込んでしまった馭者は、一層猫背を張らせて居眠り出した。その居眠りは、馬車の上から、かの眼の大きな蠅が押し黙った数段の梨畑を眺め、真夏の太陽の光りを受けて真赤《まっか》に栄《は》えた赤土の断崖を仰ぎ、突然に現れた激流を見下して、そうして、馬車が高い崖路《がけみち》の高低でかたかたときしみ出す音を聞いてもまだ続いた。しかし、乗客の中で、その馭者の居眠りを知っていた者は、僅《わず》かにただ蠅一疋であるらしかった。蠅は車体の屋根の上から、馭者の垂れ下った半白の頭に飛び移り、それから、濡れた馬の背中に留《とま》って汗を舐《な》めた。
 馬車は崖の頂上へさしかかった。馬は前方に現れた眼匿《めかく》しの中の路に従って柔順に曲り始めた。しかし、そのとき、彼は自分の胴と、車体の幅とを考えることは出来なかった。一つの車輪が路から外《はず》れた。突然、馬は車体に引かれて突き立った。瞬間、蠅は飛び上った。と、車体と一緒に崖の下へ墜落《ついらく》して行く放埒《ほうらつ》な馬の腹が眼についた。そうして、人馬の悲鳴が高く一声発せられると、河原の上では、圧《お》し重《かさ》なった人と馬と板片との塊《かたま》りが、沈黙したまま動かなかった。が、眼の大きな蠅は、今や完全に休まったその羽根に力を籠《こ》めて、ただひとり、悠々《ゆうゆう》と青空の中を飛んでいった。

底本:「日輪・春は馬車に乗って 他八篇」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年8月17日第1刷発行
   1997(平成9)年5月15日第23刷発行
入力:大野晋
校正:瀬戸さえ子
1999年7月9日公開
2003年10月20日修正
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横光利一

罌粟《けし》の中——横光利一

 しばらく芝生の堤が眼の高さでつづいた。波のように高低を描いていく平原のその堤の上にいちめん真紅のひな罌粟《げし》が連続している。正午にウイーンを立ってから、三時間あまりにもなる初夏のハンガリヤの野は、見わたす限りこのような野生のひな罌粟の紅《くれない》に染まり、真昼の車窓に映り合うどの顔も、ほの明るく匂《にお》いさざめくように見えた。堤のすぐ向うにダニューブ河が流れていて、その低まるたびに、罌粟の波頭の間から碧《あお》い水面が断続して顕《あらわ》れる。初めは疎《まば》らに点点としていた罌粟も、それが肥え太ったり痩《や》せたりしながら、およそ一時間もつづいたと思うころ、次第に密集して襲い来た、果しない真紅のこの大群団であった。梶《かじ》はやがて着くブダペストのことを、人人がダニューブの女王といってきたことをふと思い出した。多分、ウイーンの方からこうしてきた旅人らは、このあたりの紅の波により添って流れるこの河水を眺《なが》め、自然に口からのぼった言葉だろう。こんな風景は欧洲のどこにも見なれなかった眺望《ちょうぼう》だった。自分を乗せた車の下の、レールの中までこの罌粟は生《お》い茂っているかもしれないと彼は思った。そして、暫《しばら》くはひとりぼんやりと見るには惜しくなって知人の誰彼の顔も浮んで消えたりするのだった。
 彼はまた幼いころ日本でよく歌ったことのある、ダニューブの漣《さざなみ》という唱歌を思い出しもした。そのころは、自分がハーモニカを吹き、姉がヴァイオリンを弾《ひ》いて伴《とも》に愉《たのし》んだある夏の夕暮だったが、いま姉も一緒につれてここをこうして旅したなら、どんなことを姉は云い出すだろうと空想したりした。この空想は梶には非常に愉しかった。汽車の音を聞いていても、車輪の廻転していく音響がいつか少年のころのその歌に変って来たりして、河水の碧く白く日を浴びてどこまでも連っていくあたりの野の中が、
「タアン、タ、タタタン、タアンタ、タアン」
 と、このような調子の歌となり、梶はしばらくそのメロディを胸中ひとり弄《もてあそ》んでみているうち、実地にそこを走っている自分のことをもう忘れた。それはちょうど、遠い流れの向うから聞えて来る草笛の音のような、甘酸っぱい感傷の情のおもむきで、ひたひたと身に迫って来る水に似た愁《うれ》いさえ伴うのだった。またこのような幼い歌の蘇《よみがえ》って来たのは、欧洲では、やはりここだけだったと思った。一つは彼は、このハンガリヤについてはそれ以外の狂躁曲《きょうそうきょく》より何も知らぬ白紙の状態で、却《かえ》ってそれが彼の曇りを拭《ふ》き払っていたのかもしれぬ。もし行くさきの野の中に、ひな罌粟と河の他《ほか》何もなくとも、これで来てみただけのことはあったと思った。
 ブダペストへ着いたときは四時すぎであった。罌粟の他は山一つ見えなかった原野の中に、百数十万の近代都市がただ一つ結晶している外貌《がいぼう》の印象は、ホテルの自分の部屋へ着いてからも、まだ梶の頭から離れなかった。駅からすぐホテルへ来るまでの道に、太い街路樹の多く見えたのが先《ま》ず彼を歓《よろこ》ばしたが、それより案内された自分の部屋が何より彼の気に入った。三十畳敷もある大きな部屋で、真赤な絨氈《じゅうたん》の上に、大きな二人寝の彫刻のある麗しい寝台が二台も置いてあって、それとはまた別に休息用の寝椅子もあり、浴室も附いていた。それは特別高価な部屋でもないに拘《かかわ》らず、一瞥《いちべつ》しても、先ず梶には贅沢《ぜいたく》にすぎた豪華なものだった。高さも彼の所は適当な三階で、窓からすぐ真下の道路を傍《そば》のダニューブ河が流れていた。
 しかし、残念なことに梶はこのとき、続いた汽車旅で疲労が激しかった。それに来てみたものの、一人の知人さえいるわけではなく、どこに何があるかも分らず、言葉も知らなければこの地の歴史さえ不案内だった。蒙古《もうこ》のことをモンゴロワといい、モンゴロワをフォンゴロワと読み、フォンゴロワをファンガラワ、それをまた転じてハンガリヤと化して来ている唇《くちびる》の作用から考えると、あるいはここもまた、十二世紀以来東洋の草原の英雄が、黄旗を押し立てて流れ襲って来たところかもしれなかったが、見たところ、通って来た街のここかしこの人人の様子も、どこも西洋と変らなかった。
 彼は旅装を解くとすぐ寝台に横になり、疲労の恢復《かいふく》に努めることにした。そうしているときも、彼が東京を発《た》つとき、パリからここへ来たことのある医者の友人が、
「とにかく、あなたはハンガリヤへだけは、ぜひ行って来なさいよ。あそこは良い」
 とそう云ったことを思い出したりして、疲れの溜《たま》った背中の痛みの容易に去りそうもないのがまどろかしく感じた。
「良いというと?」
 と梶はそのときまた医者に訊《たず》ね返したのも、彼のそう云う表情には、歓喜の情ともいうべき思わず閃《ひら》めく美しいものが発したからだった。
「いや、あそこほど美人の多いところはない。それに日本人のもてること、もてること、もう滅茶苦茶にもてる」
 医者はこう特別に強い表現で云ってまだ何か足らぬらしく、深く顎《あご》を胸へつけ、なお思い出の深い感動を顕《あらわ》そうとしかけたところへ、突然他の知人が傍へよって来て、まったく別の話をし始めたので、梶と医者とのハンガリヤに関する話は、そのままに立ち消えになってしまったことがある。
 梶は寝ながらも今こそ医者の、顎を胸へ埋めようとした刹那《せつな》の表情を思うと、途中の車窓から見えた群がる真紅のひな罌粟が眼に浮び、あの花の中から何が出て来るのかと、多少の好奇心もまた覚えた。またこの友人の医者とは別の人人たちにも、梶はパリでハンガリヤのことについて尋ねてもみたが、みな同様に、
「あそこは良いということだが」
 とただそう云うだけで、行ってみたという日本人は一人もなかった。しかし、日本人がひどくそこでは好かれるということについては誰もが異口同音で、自分も行きたいと洩したことに違いのなかったことも確かだった。それも、梶はいつの間にか今そこに自分がいるのだった。梶は西洋を廻ってみて、世界の内容はどこも変らず損得の理念に左右されていることをますます明瞭《めいりょう》に感じていたときしも、ここだけは不思議と好き嫌《きら》いで動いている部面が表情にも顕れていて、寝ているときのこうした背中の痛みさえ、そんな気の弛《ゆる》みも手伝っているのかもしれないと思ったりした。しかし、ここは通って来た道すじを考えただけでもあまりに遠ざかった感じだった。実にはるかな遠くに日本が見えて寂しかった。
 夕食まで彼はひと眠りしたいと思っているとき、ノックの音がした。梶はホテルの者だろうと思って黙っていると、肥満した赧顔《あからがお》の男が一人勝手に這入《はい》って来た。片手に自分の帽子を持ってにこにこしながら傍まで来てから、男はサーカスの使い手のように両手を大きく翼形に開き、片膝《かたひざ》をつく姿勢で最敬礼を一度した。見たところ、大学の教授のような品威のある堂堂とした紳士である。梶も怪しみを感じなかったが、疲労の折のこととて半身を起すのも物うく、見ているままの容子《ようす》であった。
「旅のお疲《つかれ》のところを、お伺いいたします御無礼をお赦《ゆる》し下さい」
 と、この紳士は、少し飜訳《ほんやく》口調の嫌《きら》いあるとはいえ、先ずそんなに間違いのない日本語で梶に詫《わ》びてから、ヨハンというハンガリヤ名の名刺を出した。
「私はこのホテルのものではございません、日本語の勉強のため通訳といたしまして、あなたさま御滞在中の御便宜をお取りはからいいたす考えのものであります。何卒《なにとぞ》、御用お命じ下さいますなら、私ども幸いと存じるものでございます。当ホテルを本日訪問いたしますれば、あなたさまの御来訪を教えられましたにつきまして、出張いたしました。お宜《よろ》しければ、本日の午後五時半に再びここへまかり出ますから、それまで御用意下さいますなら、私の光栄でございます」
 紳士は手紙の文句を読むような調子ですらすらと述べ終ってから、暫く直立不動の姿勢で彼を見ていた。敬語の使用が少し怪しく響き、舌の廻りかねたふしぶしもあったが、久しぶりに聞く日本語のこととて梶も異様な興味をもって、すぐヨハンの案内をこちらからも申し込んだ。ヨハンは梶の疲れを察したものか、また這入って来たときのような敬礼の仕方で、廻れ右をすると、そのまますぐ外へ出ていった。梶はどこの国の街へ降りてもまだ案内人を自分から依頼したことがなかった。そして、万事ただ一人で行動していたため、この度《たび》のヨハンの不意の出現は却って不自由ささえ覚えたが、そこにハンガリヤらしい愛情のひそみあるものも感じ、不審を起さず一切彼のいうままに随《したが》って見ようと決めてから、再び寝台に身を倒した。しかし、考えてみると、まだ案内の値も訊《き》き質《ただ》さなかった落度が自分にあった。そこに多少の不安さも感じられたが、とにかく、相手はハンガリヤ人である上に、珍しく日本語を解している人物だという点でも、疑ってはならぬ貴重な人だと梶は思った。
 この夜ヨハンの案内してくれた場所は料亭で、食事をしてから後に、最少は五歳、最年長は二十歳の二十数人からなるジプシイ楽団のヴァイオリンを聴《き》いた。この楽団はみな暗譜で自由な絃《げん》の動きが感じられた。生れたときからの生活そのものがヴァイオリンの弓から始まるとの事で、韻律も流れのままに荒野を生活してゆく、奔放幻怪なおもむきは強烈なものだった。案内はそれで終ったが、それはむしろ、ヨハンの好意ある案内だったといって良かった。梶はその日の早い帰りで翌日疲労を恢復した。そして、予定の五日間の滞在中は、自分からヨハンの案内料を訊ねないことにしようといよいよ決めた。
 次ぎの日の午後三時にヨハンが来た。梶はこのときはもう、二人で観に行く先のことに興味を感じるよりも、自分を引き廻して行くこのヨハンの方に興味を覚え始めたといって良い。二人はダニューブ河中にある島の料亭で夕食をすることにした。これもヨハンの考えであった。料亭は緑樹に包まれた公園の中で食事は野天である。葵《あおい》の一種のゲラニヤが真紅の花をもり咲かせた夕暮の美しさは、河波の上に迫って来る薄明の思いにもさし映り、梶はふと過ぎて来た空が慕わしく、胸に溢《あふ》れて来るのを感じた。花の紅さが空と水とに沁《し》みにじみ、水面に眼をつけてはるか遠くを仰ぐような哀愁だった。
 食事をすませると、ヨハンは行く先の註文《ちゅうもん》をしない梶に困惑したものか、またホテルへ連れて帰った。彼の部屋の下の道から、ヴァイオリンの音締《ねじ》めの音がときどき洩《も》れて来た。梶はヨハンと二人でソファに凭《よ》って話をしているとき、ダニューブの真向いの岸に月が出て来た。波が白く部屋に対《むか》って線を引き細かい網目の綾《あや》をひろげているのが、長く月を忘れていた彼には思いもうけぬ慰みとなった。
「もう始まりますよ」
 とヨハンがその時云った。
「何がです」と梶は訊ね返した。
 ヨハンは音楽だと答えた。なるほど、部屋の下の道から、月の出るのを待ち構えていたのであろう。ダニューブの漣《さざなみ》の曲の合奏が始まった。彼はヴァイオリンの音を聞きながら、ヨハンの案内の仕方も手の込んだ劇を見せる変化に苦心を払っているのだと呑み込めた。漣の曲は対岸にある王宮の上から、月の高くのぼってゆくのに随って、次第に高潮し麗しさを加えていった。
「あれを弾《ひ》いているのはジプシイたちですが、あの中でも一番の名手らです」
 とヨハンは説明した。音色に滴《したた》るような弾力があり脹《ふく》らみがあった。譜も見ず、ゆらめき出て来た月の真下で、彼等は露天にそれを仰ぎさざめく波に合せつつ弾くのだった。ヨハンは又ジプシイのこの仲間らが季節のまにまに、ヨーロッパの各地を流れ廻ってゆく生涯のことを話し、他の一切のことを考えず、ヴァイオリンのみを抱きかかえて死んで行く、彼等の宿命の愁《うれ》いや歓《よろこ》びを話したりした。
「あれらは音楽そのものですよ。本格のものもやれるのですが、やはり譜にあまり捉《とら》われてはおりません。そんなもの面白くないのでありましょう」
「ここの市民権もないのですね」
「ありません。日本語では何といいますか。渡り鳥、そう、あれです」
 ヨハンの云うことは、ここしばらく渡り鳥の生活をしている彼には、特につよく胸に滲《し》みとおる語感でさみしく迫った。ダニューブの漣が終ると次ぎに、彼のまだ聞いたこともない悲調な楽器の音が流れて来た。
 ヨハンはすぐ、
「あれはタローガッタといって、ハンガリヤ独特の木の楽器です。やっているものもこの国第一等の人です」と説明した。
 窓から彼は下を覗《のぞ》いて見ると、真黒な尺八の形で裾《すそ》の方がやや開き加減の、クラリネットに似たものだった。
 そのタローガッタの音は、初めは荒野をさまよう生活の音のようだったが、それが漸次《ぜんじ》に地にひれ伏す呻《うめ》きのように陰に籠《こも》り、太い遠吠《とおぼ》えの底おもくうねる波となり、草叢《くさむら》を震わせる絶え絶えな哀音に変ったかと思うと、押し襲ってくる雲霞《うんか》の大群のふくれ雪崩《なだ》れるような壮大な音になった。そうして断《き》れることもなく続く間にも、波うつ地表の果てもない変化が彼の頭に泛《うか》んで来るのだった。
「それでは、明日の午後、二時にまた参ります」とヨハンは急に云って音楽の途中で帰っていった。
 部屋で彼ひとりにこのダニューブの月出の情緒を味《あじわ》いさせたいヨハンの、心の籠った引き上げ方だった。ひとりになってからも梶は、広すぎる二人寝台の、それも二台も連ったその一つの片隅《かたすみ》にこっそりと寝た。そして、また窓の下の音楽を聴いていたが、タローガッタはなお熄《やす》む様子もなく河の上に射す月の光に応じた。それは千里に連る原野の秘めた歴史のようであった。高鳴りひびく音が旗を巻き、崩《くず》れ散り、怨《うら》みこもる低音部の苦しみ悵快《ちょうおう》とした身もだえになると、その音は寝ている梶の腸《はらわた》にしみわたった。

 翌日はまたヨハンは約束の時間に顕れた。この日は昼の間街の名所や旧跡を廻った。案内しながら話すヨハンは驚くべき記憶力と彼の博学さを少しずつ謙遜《けんそん》に示し始めて来るのだった。また彼は大学で日本語を教えていること、日本へは一度も行ったことはないが、好きなため一人で日本語の勉強を始めたことなどを梶の尋ねるままに話した。街中で出会う知人たちもヨハンに示す挨拶《あいさつ》は、尊敬をふかく顕しているのを梶はしばしば目撃した。このヨハンに重ねて梶があなたはどの国の言語に一番熟達しているのかと尋ねてみると、自分は英語だと答えた。そして、
「わたくしはイギリス人の案内役もときどき頼まれますが、これは拒《こと》わっております」
 と、どうしたものか、ここだけ顔を赧《あか》くし、幾らか憤然とした語調をこめて云った。またダニューブの橋を渡るとき、ここではこの河を何と呼ぶのかと梶が質問したのに対して、ドユナと短く呼ぶとも教えた。
「この河はダニューブ、ドノウ、ドナウレスク、ドユナ、それぞれ読み方がありますが、むかしからドユナでもこの地が一番好かれますために、各民族から取り合いが激しかったところです。温泉もここだけで百二十もあります」
 こう云ってからヨハンは、橋の袂《たもと》に蹲《うずくま》っている大きな獅子《しし》の彫刻を指差し、この口を開けた獅子に舌のないことを云ってから、橋の開通式に見物が押しかけたとき、
「みなのものはこの獅子には舌がないと云って、笑いました。そうしますと、その彫刻家は自殺しました」
 と話した。ヨハンの口調は童話じみた明るい単純な響きをもっていたので、梶も思わず笑い出した。が、その明るさの下に抱いた底知れぬ話の淵《ふち》を覗《のぞ》くと、何かあるぞっとした恐怖を覚え、
「どうして自殺したのです」
 と愚かな質問をしてしまった。
「どうしてでありましょうか」
 とヨハンはでっぷりした腹部を揺《ゆす》りつつ、赧顔《あからがお》をなおからからと笑わせて一人先に橋を渡っていくのだった。
 そのヨハンの謎《なぞ》めく豪快な笑い声と、舌を落した間のぬけた感じの獅子との対象が、何となく梶には痛快な人間|諷刺《ふうし》の絵を見ている思いで、幾度も振り向き獅子の傍から去りがたかった。
 その日は王宮や古代建築を見て廻ってから、梶は不足になった金を補いたく銀行へより路《みち》した。そして、この地で入用なだけをヨハンの云うまま預金の中から出して貰うとき、不覚なことにも、日本を出発に際して銀行員の記入した紀元年数に、一年の間違いあることを指摘された。預金帳を見ると、なるほど明らかに誤記してあった。ヨハンは何事かこの地の銀行員と暫く話していてから梶に対《むか》い、
「この期日の間違いには、銀行として応じるわけには不可《いか》ないそうでありますが、あなたは日本の方ですから、特にこの度《た》びは、規則を破ってお払いすると、云いました」
 とそう云って、所用のハンガリヤ紙幣を梶にわたしてくれた。梶はふかくその銀行員の好意に感謝し銀行を出た。しかし、彼は歩きながらも、日本の銀行員の落度と、それに気附かずハンガリヤで指摘された自分の二つの落度が、忽《たちま》ち諷刺の爪《つめ》をむき立てた獅子に追われるようで暫く不愉快になるのだった。
「みなのものは、この獅子には舌がないと云って、笑いました。そうしますと、その彫刻家は自殺しました」
 自分がその獅子か彫刻家か、しかし、どちらにしても、実に梶には恐るべき童話になるのだった。特に自分の国に好意をよせ、出すべき舌を隠していてくれる場所であるだけになお彼にはこの罌粟《けし》の中の都会が恐るべきものに見えて来た。
 その夜、ヨハンは食事のとき、また昨夕とは違った料亭へ梶をつれて行って、そして云った。
「この家の料理はこの国で一等です。ハンガリヤ料理です」
 三日目に、ようやく彼はこの国の最上の料理を梶に食べさせてくれるわけだった。ここでも島の中の料亭と同じく庭の中の野天の食事だったが、別れた客席のそれぞれが、花や蕾《つぼみ》をつけた自然の蔓薔薇《つるばら》の垣根《かきね》からなる部屋で、隣席が葉に遮《さえぎ》られて見えず、どの客も中央の楽団から演奏されて来る音楽だけを愉《たの》しむ風になっていた。
「いかがですか、ここの料理は?」
 ヨハンは梶からここだけ答えを聞きたいらしかった。料理はダニューブの魚と野菜に独特な美味なものがあったが、味はどれも味噌《みそ》に似たマヨネーズで統一をつけてあるためか、梶には少し単調にすぎて塩辛《しおから》かった。原野の強烈な色彩の中で育った調味法は、塩を利《き》かす工夫に向けられるのも、自然な生理であろうと梶はのべたが、実は、料亭そのものの方がはるかに美しく、音楽もウイーン風の庭に似合わしいのが、爽爽《すがすが》しい気持ちだった。
「今夜はひとつ、踊場を御案内いたしましょう」とヨハンは、料亭を出たとき珍らしく梶に云った。
 その踊場もこの国では一等のところだとまた彼は話し、一度ホテルへ戻ってから時間を待って、二人はある家の門をくぐっていった。中は奥深い劇場に似ていた。中央のホールを囲む客席のボックスも、全面が真赤な天鵞絨《びろうど》で張り廻《めぐら》された、一国の首都には適当な設備の完備した豪華なものだった。
 集っている踊子らもここのは数多く揃《そろ》ってみな美しかった。中でも一人|際立《きわだ》った若さで、眼の異様に大きく光る子が、もう相当に見えていた各国の旅客たちの的らしかった。梶はかち合う客らが尾を曳《ひ》いてその子の後を追う露骨さが面白かった。踊りの合い間には、どこの国でも同様の流しの芸人たちが、時間を決めて廻って来ると、ボーカル、手品と退屈の暇もなく時間はたつのだった。バンドもここのは緩急の調子も良かった。その中に、伯爵の放蕩《ほうとう》息子だという若者が一人混っていて、おどけた表情でバンド一座の采配《さいはい》を振っており、その様子がいかにも粋人のなれの果てと云いたい枯れた手腕を発揮していた。ホールの客の興奮が次第に昂《たか》まりのぼって熱して来たとき、突如として外から一団の娘たちが繰り込んで来た。そして、ホールの人人のサッと裂け開いた中へ流れ込むと、時を移さず急調子に鳴りひびいたバンドに合せ、踊り撥《は》ねる小鹿の群れのような新鮮な姿態で踊りつづけた。みな揃いの空色に、黄色な肋骨《ろっこつ》をつけた騎兵の服装で、真赤なズボンに黒い長靴を穿《は》いていた。顔にかかる滴りの飛び散るような鮮かさだった。
「この子らは市の踊子で一番権威を持っているのです。ハンガリヤの踊りです」
 と、ヨハンは云った。この十人ほどの踊りはいろいろに変化したが、間を保たせず、閃《ひら》めき変り、飜《ひるがえ》ってゆく調子の連続に訓練のこもった妙味があった。踊子らも選《え》りぬきと見えそれぞれに優劣の差のない、揃った清潔な感じがした。手穢《てあか》の染まぬ若い騎兵の襟首《えりくび》の白さにちらりとほの見える茎色の艶《つや》があった。実に眼醒《めざ》めるばかりの美しさだった。
「なかなか面白い踊りですね」
 と梶は見飽きずに云った。ヨハンもそう云われたことが嬉しいらしく、この踊りだけは観賞し直すという風に、
「日本の方が御覧になると、どの子が美しいと思われますか」
 と梶に訊ねた。
「そうだなア」
 すぐには批評しがたく笑いながら梶はまた眺めた。
「前列の右から三番目の子かな」
 揃った肋骨の迅《はや》い動きの中から一人を選ぶのは、難《むずか》しかった。殊《こと》に日本人の観賞の眼も共に選ばれていることも、この博学なヨハンの太った笑いの底にひそんでいた。 
 ハンガリヤの踊りは溌剌《はつらつ》とした空色の屈曲の連続で終ると、また踊子らは、さっと未練げもなく馳《か》け足で退場した。そうして、一団が梶らの傍を擦り崩《くず》れて走り去ろうとしたとき、ヨハンは急に手を延ばし例の右から三番目の子を呼びとめて手招きした。しかし、何の答えもなくそのまま一団は去ってしまった。ホールは再び客たちの踊りで満たされた。
 場中のどの席からも、市づきの踊子を呼ぶもののないときに、梶ひとりの席が呼びとめたその異例に、彼は顔の赧らむ思いもつよく不満だった。それも招きに応じて来たものならまだしも、振り向きもせぬ寂しさを味《あじわ》うのは、沁み入る異境の果ての心細さに変るのだった。梶は今日はたびたびの不覚だったと思い、ヨハンの立ち上るのを待ちかねながら、所在もなく、今度は眼の大きな踊子の後を追いつづける旅客たちの、乱れる様を眺めているばかりだった。
「さっきの子らは、客席へはどこへも来ないのですよ」
 とヨハンは、梶のさみしむ心を嗅《か》いだと見え、暫くしてからそう彼に説明した。
「来ないのに呼んだのですか」と彼は笑って訊ねた。
「この席へなら来ます」
「しかし、呼んだのは僕らだけじゃありませんか」と彼は少し不服も出た。
「もう来ることでしょう」
 と、ヨハンはそこが外人のこととて、日本語の遣《や》り取りの機微も分らぬらしく、至極のどかなものだった。梶には、このヨハンの大きな顔は舌のないハンガリヤの獅子に似て見えた。そしてこの席へなら踊子の来るという意味は、このホールに限り来るという意味か、それとも、日本人専門の客を扱うヨハンの席へは必ず来るという意味か、そこが梶には分らなかったが、自信をもってそう云う落ちつき払ったヨハンの態度には、明るさが増して来た。もしこのホールに限り日本人以外の所へも来るものなら、他の客たちも呼びとめぬ筈はない、市づきの踊子らの揃った美しさだった。――しかし、梶には、この街に於《お》いてのヨハンの特殊な地位を考えぬ以上は、まだそこに呑み込めぬものが残って来た。ヨハンの人品、彼の学殖、そして、彼の通るときに知人の彼へ示す挨拶の仕方などを察するとき、梶には、ヨハンがただ者でない名を秘めた人物だということだけは早くから感じられた。また、舌のない獅子の諷刺を橋畔で示したさいにも、彼のあげたあの豪快な謎めく笑いには、際立った智量の人物が覗いていて、凡人の案内人に出来る芸当ではなかったと彼は思った。実際、この遠くへだたったハンガリヤの地で、独学で難事な日本語の勉強にいそしむためには、彼のように、こうして来る日本の旅客を捉《つかま》え、案内役を引き受ける以外に方法はないであろうと察せられる。
 暫くしたときヨハンの自信は当った。そして、三番目が騎兵の服を常服に着替えて一人表の方から来ると、彼の傍へやって来た。
「この子でしょう。あなたの仰言《おっしゃ》ったのは」
 とヨハンは踊子を彼の傍に坐らせて訊《たず》ねた。そうだと梶は答えるにも、跳《は》ねる騎兵の服のときとは違って静な常服の姿のためか、一見、それがそうだったのかどうか、箱の中では判明しがたい娘の変り方である。しかし、梶は何か話そうにも話がまるで通じなかった。先ずこの娘の好きな食物と飲物を取りよせてみたものの、日本の娘とよく似た淑《しと》やかな羞恥《しゅうち》を浮べ、ヨハンが何か訊ねても短い答えを云うだけだった。料理にも口をつけず、斜め対《むか》いに梶と坐っているだけで、ホールに舞い立って来ている情熱的な興奮のさ中では、彼女はむしろ、舞い落ちて来た一輪の静寂な故郷の花の色かと見え、一層深く梶は郷愁を覚えて来るのだった。
「何という名?」
 梶の訊ねたのに対してヨハンが代りに、
「イレーネ」と答えた。
 イレーネはヨハンにまた何か囁《ささや》くと、ヨハンはそれをまた梶に通じて、
「この子はあなたのネクタイを、いいネクタイだと賞めていますよ」と云った。
 それでは君が結婚するとき、その愛人にやるネクタイを、もしこれと同じにする気があるならパリから一つ送ろうと梶は冗談を云ってみた。
 ヨハンはそれをまたイレーネに告げてから、再び笑いながら、あなたに接吻をしなさいと今云ったのですよ、と梶に云った。イレーネは云われたごとくおそるおそる、梶の方へ身をよせかけて来て、そして、彼の右の頬《ほお》に唇《くちびる》を軽くつけ、ぽっと赧《あか》くなったと思うと、両手で顔を蔽《おお》って俯向《うつむ》いてしまった。
「この人は日本の娘そっくりだなあ」
 と梶は笑った。そのとき、渦巻いているホールの賑やかさの中から、バンドの喇叭手《らっぱしゅ》がただ一人、濡《ぬ》れた唇に輪形をつけしきりと梶の方を向き向き、喇叭を吹いたり止めたりした。
「あっ、あの喇叭はこの子を愛しているな」
 と梶は頬杖《ほおづえ》つきながら思わず洩《もら》した。すると、ヨハンはまたすぐその喇叭手を手招ぎした。喇叭は楽器を椅子の上へ置き残したまま席へ来ると、ヨハンは彼にまた梶の洩したことを話してみたらしく、
「やはりあなたの云われたようでした」
 そう云って笑った。ホールはますます高潮して来た。いつの間にか踊る客らの数も増して来ていて、いっぱいにさざめき廻る渦は乱舞に近く、梶はハンガリヤ狂躁曲《きょうそうきょく》もこうした興奮の旅情から描かれたものかもしれないと思ったりした。そのうち、餅《もち》の殻が各席に配られると、客らはそれを手ん手に掴《つか》みあたり介意《かま》わず投げつけ合った。それまで静にしていたヨハンも大きな体を乗り出させて、ホールの渦を目がけて手あたり次第に投げつけては笑った。その彼の様子には、大学校教授の少年の日の腕白さがふと丸出しに顔を出し、梶も愉快で餅殻をヨハンと一緒に投げつけるのだった。
「もっとやりなさい。もっと」
 と、ヨハンは餅殻をかき集めては彼にすすめて立ち上った。遠くで殻を巧みに受けとめた客は、それをまた投げ返したり、爆《はじ》け散り飛ぶ中で身を竦《すく》めたりした。
 このような喧騒《けんそう》を極《きわ》めた中でも、彼の箱の一隅で、喇叭はイレーネの肩に手をかけ、何事か一心不乱のさまで彼女の耳にかき口説《くど》いてやまなかった。喇叭の腕に巻きつかれた中で、じっと竦んだまま首垂《うなだ》れてゆくイレーネの首の白さを眼にしながら、彼は寂しさを感じた。そして今度は眼の大きな踊子に狙《ねら》いをつけ餅殻を投げてみるのだった。その子の体は、周囲から飛び来る弾の集中射撃を浴びていて、身を飜す暇もなく、絶えず肩に胴に餅殻は爆けつづけていた。ぴしゃっと頬にあたったときは悲鳴をあげたが、すぐまた反対の側から同様のを続けて喰《くら》うと出かかった悲鳴も声にはならず、もう不貞不貞《ふてぶて》しい覚悟でさらに飛び散る弾の中を踊り潜《くぐ》ってゆくのだった。
「あの子|可哀想《かわいそう》に、やられてばかりだなア」
 梶は投げつけようとしていた餅もやめにして云った。
「どの子です」
「あの子」
 おいおい、と云う風にすぐまたヨハンは、眼の大きなその踊子を手招きした。この踊子も小趨《こばし》りに彼らの箱へ来ると、これはイレーネとは違い、いきなり真近く梶の傍へぴたりと擦《す》りよって来て、じっと彼の顔を正面から瞶《みつ》めた。傍で見ると、その眼はあまり大きく却って表情が分らなかった。爛爛《らんらん》と光り輝く眼で、今にも飛びかかって来そうな底知れぬ黒さだった。
 梶は場中の華形ばかりをよせ集めた絢爛《けんらん》さに取り囲まれ、いつの間にか、各席の視線を吸いとっている自分が不思議だった。
「これはアンナと云う名ですが、ホテルはブリストルかと訊《き》いていますよ」
 とヨハンは暫くして彼に云った。そうだと彼が答えると、アンナは何事かまたヨハンに云った。
「この子はあなたに、今夜これからホテルヘ連れて行けって云いますよ」
 これには梶も即答に窮した。どうしたことか、日ごろの不粋がはたと途惑いしたようだったが、またそんなことでもない、傍にいるイレーネへの義理が、それだけは今夜は駄目だと抑えかかり彼を苦しく笑わせるのみだった。すると、アンナはヨハンを介せず、もどかしそうに梶の耳もとへ直接口をよせて来て、
「You are beautiful.」
 とひと言囁いた。彼には、まことに思いもうけぬ囁きであった。このような言葉を、彼は今まで半生まだ聞いたことがかつてなかった。おそらく、アンナの知っている英語のうち、彼に与えて通じそうなただ一言の華《はな》むけであったろうが、しかし、この遠い異国の果てで、まだ誰からも貰《もら》ったことのない言葉をひと言不意に貰おうとは――、梶は、貴い滴りのようにアンナの囁きを素直に胸で受けとめて悔いなかった。イレーネは喇叭にしつこく迫りよられていながらも、ひそかに、ときどき恨みを蒼《あお》く放つ眼で梶の方を睨《にら》んだ。こちらの方はこれで良いと諦《あきら》めていた矢さきの折だっただけに、梶はまだ断ち切れぬ糸も感じて、ふと躓《つまづ》くよろめきに似た思いもするのだった。
 アンナには喇叭の囁く意味も聞きとれるものであろうか、さらにイレーネには頓着《とんちゃく》せず梶を揺すぶり流す視線をつづけた。何か擦れかわり入りかわる暖寒の気苦労で、ちょうどホールも最後の湧《わ》き立ちに近づき、崩れようとしているときだった。
「それでは帰りましょう」
 とヨハンは巧みな見切りのころ合いを失わず立ち上った。時計を見ると三時を少し過ぎていた。アンナは梶の手を握りながら出口まで二人を送って来たが、ついにイレーネの姿は見えなかった。街には人通りは少なかったが、夜中の三時過ぎだというときに、ここではもう太陽が赤赤と照っていた。
 ホテルの前まで来たとき、ヨハンは明日は最後の日だから朝の十一時に来ると云って、二人は別れた。梶は部屋に戻り寝台に横になっても、夜か昼か分らぬ部屋の広さがうるさく眼について眠れなかった。しかし、日本を発《た》つとき、医者の友人が云ったように、日本人が誰もここではあのような眼にいつも逢って来たのであろうかと思うと、この日の自分の事実も自分個人のものとは思えぬ色どりに見えて来た。そして、ここはまだ自分の考え及ばぬ罌粟《けし》の花の中だと思う心も次第につよまって来るのだった。

 次ぎの日、梶は眼を醒《さま》すともう十時を過ぎていた。ヨハンは眠むそうな顔で約束の時間に這入《はい》って来た。彼はいつもより笑顔を一層大きく拡げながら、正しいハンガリヤの礼をすませて、そして云った。
「昨夜は面白うございましたね」
「昨夜は、僕も面白かったですよ」
 と梶も快活にヨハンに相槌《あいづち》を打つことが出来た。事実、昨夜のことを思うと、あれ以上に愉快なことはまたとあろうかと彼も思った。
「あのイレーネと喇叭ですね。喇叭はイレーネと小学校のときから同級で、そのときから彼女を思っていたのだが、今度初めてそれを云うことが出来て、こんな嬉しいことはないと云っておりました、どうもあの二人は結婚をするかもしれません」
 梶はヨハンのそういうことにある真実を感じて嬉しかった。これで一組の縁を結び落してここを去ることは、舞い込んだ蝶《ちょう》のいとなみに自分が見えて愉快だった。
「そうでしたか。それはそれは」と梶は慶《よろこ》びを顕《あらわ》して云った。
 二人はホテルを出てから昼食のためある料亭へ立ちよった。ここは梶の滞在中出入した料亭の中では、もっとも大きな料亭だった。おそらくヨーロッパの中でも屈指のものかと思える広広とした壮麗さで、朱色の大天蓋《だいてんがい》を拡げた庭園では薔薇《ばら》の周囲を巻き包み、朝から人人の踊る姿がもう見られた。ヨハンの云うには、この街の官庁はどこも一斉に夜の九時で終ってしまい、それから後はこうして皆は遊ぶのだとの事だった。二人は食事をすますと、温泉場、古跡、発掘場などと、この日の予定は急がしく一日中自動車を走らせつづけた。それに明朝早くヴェニスまで梶の飛ぶ飛行機の約束もしなければならなかったが、郊外のある景勝地帯の茶店では、二人は一番時間を長く費した。そこは眼下に拡がる平原の起伏を一望の中に見渡せる丘上の位置で、梶は軽井沢のグリーンホテルを思い出し、自然に腰もここでは落ちつくのだった。さすがのヨハンも連日の疲労を覚えたと見え、容易に動かぬ梶に応じて彼もまたステッキに身をよせかけ、ともに動こうとしなかった。
 どちらもときどき黙りがちになった。緑樹の中を流れるダニューブ河や、杜《もり》や牧場の姿は、照りかげる光の中で麗しく静だった。すると、そのとき、黙っていたヨハンはステッキの曲った把手《とって》から顔を上げて、
「しらゆきはどうしていますか」
 と小声で訊ねた。
「しらゆき」梶は何ごとか意味が分らず訊ね返した。
「陛下のお馬」
「ああ」と梶は思わず発して身を伸ばした。純白な姿が何か身を浄《きよ》めるように一瞬彼を撃って来た。しかし、ここでもまた、この罌粟の花に取り包まれた遠いはるかな異国の果ての、ヨハンの口から、突然そのような姿の浮ぶ言葉が出ようとは――ただもう今は不思議な感じだった。梶は大きなヨハンの顔を瞶《みつ》めながら、
「あなたはどうして御存じです」と訊ねた。
「あのお馬は、わたくしがここの牧場でお買いしてさし上げました」
「あなたが」
 梶は再びおどろいた。敬語の調子で、「お買いしてさし上げた」ことが、通訳の労をお取り申したという意であることはすぐ察せられたが、しかし、白雪がハンガリヤの産だということは今まで彼も気附かなかったことだった。彼はまたもや自分の顕した手落ちを不意に感じ、今はひそかにヨハンの舌を両手で封じたくもなる複雑な気持ちに襲われた。
「白雪はここでしたか。それは非常な失礼をしました」
 すっきりと白く立った馬の鬣《たてがみ》は、しかし、梶のこうして心中|詫《わ》びる気持ちを、いつともなく吸いとり拭《ふ》き浄めて疲れも彼は忘れて来た。も早や疑うことの出来ぬこの目前の事実だった。彼は暫く遠方の空を仰ぎ見る粛然とした思いのまま、この下の牧場で産れ、ここに自分と対っているこのヨハンに通訳の労をとられた白雪だと思うと、一層その姿が親わしく尊とくも思われて来るのだった。またそれがいつか慶《よろこ》ばしい気持ちにも転じて来て、暫くは眼下に静まった牧場を見降ろしながら、さらに思いもうけぬ意味ふかまったこの眺めだと彼は思った。

 その夜、梶とヨハンは前夜のように急がしく所所を見て廻った。しかし、自分の前後に絶えずいるヨハンの姿は、ともにまた絶えず白雪の姿をも泛《うか》べて離れなかった。梶はもう一度最後の別れに、アンナとイレーネに逢いたいと思ったが、それさえヨハンにはついに云い出しがたく黙っていた。そうして、二人の自動車がある大通の前まで来かかったとき、ヨハンは右側に連った石造の建物を指差して、
「これはジャパンというカフェーです。ここでは一番のカフェーです」
 と梶に告げた。しかし、それをよく見る間もなく車は辷《すべ》っていったとき「これは?」と梶が右側のを訊ねると「これはまだジャパンの続きです」とヨハンは答えた。梶は車の迅《はや》さでその外観の大きさを想像することが出来なかったが、それはもう原語の日本にさえ一つもない立派なことだけは確かだった。彼はひそかに驚くというよりももう黙った。
「あそこはこの国の芸術家が一番行くところです」とまたヨハンは附け加えた。

 翌朝の彼の出発は早かった。通りに朝霧のような薄靄《うすもや》がこもっていた。滞在中梶はヨハンに支払うべき案内料を一度も質《ただ》さずにしまったが、五日間の料金は意外に少額ですんだ。彼は他に謝礼を出したいと思うのに、もう残りのハンガリヤ金は少く、財布をは叩《た》いてそれを出そうとすると、ヨハンは記念に日本へこの国の金銭を所持して帰って貰いたいと梶に頼んだ。
 飛行場まで送って来てくれたヨハンと別れるときは、梶はその別れが辛《つら》かった。廻り始めたプロペラの音を聞きながら、
「それでは――」
 と、差し出す梶の手をしっかり握って振り振り、ヨハンも「さようなら、さようなら」と繰り返した。
 ああ、何んと沢山な御馳走が出たものだろう。と梶は思った。空へ舞いのぼって行く機体の窓から下を見降ろしたとき、彼は忘れずイレーネと喇叭の一組の夫婦のことも考えて、
「仲良くしてくれ、仲良く――」
 と、そう下に向って帽子を振るのも、またいつかそれはアンナにも振っている帽子に変っていった。

底本:「機械・春は馬車に乗って」新潮文庫、新潮社
   1969(昭和44)年8月20日発行
   1995(平成7)年4月10日34刷
入力:MAMI
校正:松永正敏
2001年2月10日公開
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横光利一

旅愁—–横光利一

家を取り壊した庭の中に、白い花をつけた杏の樹がただ一本立っている。復活祭の近づいた春寒い風が河岸から吹く度びに枝枝が慄えつつ弁を落していく。パッシイからセーヌ河を登って来た蒸気船が、芽を吹き立てたプラターンの幹の間から物憂げな汽缶の音を響かせて来る。城砦のような厚い石の欄壁に肘をついて、さきから河の水面を見降ろしていた久慈は石の冷たさに手首に鳥肌が立って来た。
 下の水際の敷石の間から草が萌え出し、流れに揺れている細い杭の周囲にはコルクの栓が密集して浮いている。
「どうも、お待たせして失礼。」
 日本にいる叔父から手紙の命令でユダヤ人の貿易商を訪問して戻って来た矢代は、久慈の姿を見て近よって来ると云った。二人は河岸に添ってエッフェル塔の方へ歩いていった。
「日本の陶器会社がテエランの陶器会社から模造品を造ってくれと頼まれたので、造ってみたところが、本物より良く出来たのでテエランの陶器会社が潰れてしまったそうだ。それで造った日本もそれは気の毒なことをしたというので、今になって周章《あわ》て出したというんだが、しかし、やるんだねなかなか。一番ヨーロッパを引っ掻き廻しているのは、陶器会社かもしれないぜ。」
 久慈は矢代の云うことなど聞いていなかった。彼は明日ロンドンから来る千鶴子の処置について考えているのである。二人は橋の上まで来るとどちらからともなくまた立ち停った。
 眼も痛くなる夕日を照り返した水面には船のような家が鎖で繋がれたまま浮いている。錆びた鉄材の積み上っている河岸は大博覧会の準備工事のために掘り返されているが、どことなく働く人も悠長で、休んでばかりいるようなのどかな風情が一層春のおもかげを漂わせていた。
 エッフェル塔の裾が裳のように拡がり張っている下まで来ると、対岸のトロカデロの公園内に打ち込む鉄筋の音が、間延びのした調子を伝えて来る。渦を巻かした水が、橋の足に彫刻された今にも脱け落ちそうな裸女の美しい腰の下を流れて行く。
「明日千鶴子さんがロンドンから来るんだよ。君、知ってるのか。」
 矢代は久慈にそのように云われると瞬間心に灯の点くのを感じた。
「ふむ、それは知らなかったな。何んで来るんだろ。」
「飛行機だ。来たら宿をどこにしたもんだろう。君に良い考えはないかね。」
「さア。」
 こう矢代は云ったものの、しかし、千鶴子がどうして久慈にばかり手紙を寄こしたものか怪しめば怪しまれた。
 エッフェル塔が次第に後になって行くに随って河岸に連るマロニエの幹も太さを増した。およそ二抱えもあろうか。磨かぬ石炭のように黒黒と堅そうな幹は盛り繁った若葉を垂れ、その葉叢の一群ごとに、やがて花になろうとする穂のうす白い蕾も頭を擡げようとしていた。
 晩餐にはまだ間があった。矢代と久慈はセーヌ河に添ってナポレオンの墓場のあるアンバリイドの傍まで来た。燻んだ黒い建物や彫像の襞の雨と風に打たれる凸線の部分は、雪を冠ったように白く浮き上って見えている。
 その前にかかった橋は世界第一と称せられるものであるが、見たところ白い象牙の宝冠のようである。欄柱に群り立った鈴のような白球灯と豊麗な女神の立像は、対岸の緑色濃やかなサンゼリゼの森の上に浮き上り、樹間を流れる自動車も橋の女神の使者かと見えるほど、この橋は壮麗を極めていた。
 矢代は間もなく見る千鶴子の様子を考えてみた。彼の頭に浮んだものは、日本から来るまでの船中の千鶴子の姿であったが、定めし彼女も別れてからはさまざまな苦労を自分同様に続けたことであろうと思われた。
「千鶴子さん、長くパリにいるのかね。」
 と矢代は久慈に訊ねてみた。
「長くはいないだろう。フロウレンスへ行きたいんだそうだが、君に宜敷《よろし》くって終りに書いてあったよ。」
「終りにか。」
 と矢代は云って笑った。矢代は久慈とも同船で来たのであった。久慈は社会学の勉強という名目のかたわら美術の研究が主であり、矢代は歴史の実習かたがた近代文化の様相の視察に来たのだが、船の中では久慈だけ千鶴子と親しくなった。矢代は今も彼らとともにマルセーユまで来た日の港港の風景を思い浮べた。
「もう一度僕はピナンへ行きたいね。あそこは幻灯を見てるような気がするが、君はあのあたりから千鶴子さんの後ばかり追っかけ廻していたじゃないか。あれも幻灯だったのかい?」
 と矢代は云ってからかった。
「いや、あのときは夢を見ているようなものさ。何をしたのかもう忘れたよ。マルセーユへ上った途端に眼が醒めたみたいで、どうしても自分があんなに千鶴子さんの後ばかり追い廻したのか分らないんだ。いまだにあのときのことを思うと不思議な気がするね。」
「とにかく、あのマラッカ海峡というのは地上の魔宮だよ。あそこの味だけは阿片みたいで、思い出しても頭がぼっとして来るね。あんな所に文化なんかあっちゃ溜らないぜ。あ奴が一番われわれには恐ろしい。」
 アンバリイドからケエドルセイにかかって来ると、河岸の欄壁に添って古本屋がつづいて来た。一間ほどのうす緑の箱が蓋を屋根のように開いている中に、ぎっしり本や絵を詰めた露店であるが、上からは樹の芽が垂れ下り魚釣る人の姿も真下のセーヌ河の水際に蹲《しゃが》んでいる。矢代は前方の島の中から霞んで来たノートル・ダムの尖塔を望みながら云った。
「僕はカイロの回回教《フイフイきょう》のお寺も忘れられないね。あれはここのヨーロッパに自然科学を吹き込んだサラセン文化の頂上のものだが、ナポレオンがあの寺を見て、癪に触って、大砲をぶつ放したのもよく分るね。ナポレオンが日本へ来ていたら、第一番に本願寺へ大砲をぶち込んでいたぜ。」
 そう云えば矢代はエジプトのカイロのことを思い出す。あのピラミッドの真暗な穴の中を優しく千鶴子を助けて登った久慈の姿を思い出す。

 エジプトまでは矢代と久慈はまだ親しい仲だとは云えなかった。それと云うのは、同船の客が港港の上陸の際にもサロンでの交遊にも、二派に別れてそれぞれ行動を共にしていたからであった。これらの二組の中には若い婦人も混っていた。久慈の方にはロンドンの兄の所へ行くという千鶴子がいた。今一方の組の中には、ウィーンの良人の傍へ行くという、早坂真紀子が中心になっていた。矢代は上海に半ヵ月ばかり滞在してから、スマトラその他の南洋の港港を一ヵ月ほど廻り、シンガポールから初めて久慈たちの船に乗船したため、これらの二組のどちらでもなく中立派の態度をとって自由にしていたが、一度び船がスエズに入港してカイロ行の団体を募集したときから、この二派の関係は乱れて来た。
 船がスエズからポートサイドまで出る一昼夜の間に、カイロ行の団体は陸路沙漠を横切りカイロへ出て、ピラミッドを見物してからポートサイドに廻っている船まで、汽車で追っつかねばならぬのである。随ってこの急がしい旅には二派の反目など誰も考えていられる閑はなかった。いよいよカイロ行の一団は、千鶴子の組も真紀子の組も呉越同舟で三台の自動車に分乗した。
 そのとき矢代は最後に遅れて自動車に乗ろうとするとどの自動車にも席がなかった。矢代はうろうろしながら席を覗いているうちに一台の自動車から急に久慈が飛び降り、「こちらへいらっしゃい。ここが空いていますから。」と矢代にすすめた。
 久慈は矢代を自分の席へ入れると自分が運転手台に廻ろうとした。
「いやいや、それはいけませんよ。」
 こう矢代は云ったがそのときはもう久慈は運転手の横に乗っていた。矢代がそのまま久慈の席へ納ると同時に自動車は辷り出した。車内では矢代の横に真紀子がいて、その横にある船会社の重役の沖がいた。沖と矢代は船中から親しかったが、この四人が一緒になることはそれまでにはなかったことであった。矢代はこのときから久慈や真紀子とも親しさが増して来たのである。
 ポートサイドから船が地中海へ進んで行くと、船客たちはすでに上陸の準備をそろそろし始めたが、矢代はまだそれまで千鶴子とは言葉を云ったことが一度もなかった。
 ある夜、イタリアへ船がかかり渦巻の多いシシリイ島を越えた次の夜であった。一団の船客たちは突然左舷の欄干へ馳け集った。矢代も人人と一緒に甲板へ出て沖の方を見ると、真暗な沖の波の上でストロンボリの噴火が三角の島の頂上から、山の斜面へ熔岩の火の塊りをずるずる辷り流しているところだった。
「まア、綺麗ですこと。」
 と千鶴子が感嘆の声を放った。彼女としては傍にいるものが矢代だと気附かずに云ったのだが、しかし、矢代も思わず、
「綺麗ですね。」
 と口に出した。千鶴子は傍のものが矢代だと識ると、どういうものかっと身を退けて甲板からサロンの中へ這入ってしまった。慎しみ深い大きな眼の底にどこか不似合な大胆さも潜めていて、上唇の小さな黒子《ほくろ》が片頬の靨《えくぼ》とよく調和をとって動くのが心に残る表情だった。

 次の日、地中海は荒れて船の動揺が激しくなった。矢代は夕日の落ちかかろうとするコルシカ島の断崖を眺めながら、甲板の上に立っていた。ときどき波が甲板に打ち上った。あたりは人一人も見えず冷たい風が波の飛沫とともに矢代の顔に吹きかかった。彼は欄干に肘をついたまま立ちつづけていると、後ろのドアが開いて近づいて来た靴音がぴたりと停った。矢代は煙草に火を点けたがマッチは幾本擦っても潮湿りの風に吹き消された。彼はマッチを取りにサロンへ戻ろうとして後ろを向くと、そこに食堂へ這入る前らしい千鶴子が花模様のイブニングで一人立っていた。
「あのう、失礼ですが、パリのほうへいらっしゃるんでございますか。」
 と千鶴子は寒さで幾分青ざめた顔を真直ぐに矢代に向けて訊ねた。
「そうです。」
「じゃ、もう明日お別れですわね。皆さん、そわそわしてらっしゃいましてよ。」
「そうでしょうな。」
 矢代は火の点かぬ煙草を口に咥えて笑った。
「あたしも皆さんと御一緒に、マルセーユで降りたいんですけれども、やはり、このままロンドンまで行くことに決めましたの、あら、まアあんなにお日さま大きくなりましたわ。」
 と、突然千鶴子は嬉しそうに云って夕日を受けた靨のままコルシカ島の上を指差した。
「左のこのサルジニアでガリバルジイが生れたというんですが、ナポレオンと向き合っているところは面白いですね。」
「何となくそんな人の出そうな気がしますのね。」
 船は首を上げたり下げたりしつつ夕日に向って苦しげに進んでいった。見ていてもその様子は気息奄奄という感じで、思わずこちらの肩にも力が入った。ぱッと甲板に打ち上った波は背光を受けたコルシカの岩より高く裂け散って、人家も見えず、左方に長く連った峨峨とした灰藍色のサルジニアが見る間に夕日の色とともに変っていった。
「ここは静かなところだと思っていましたけど、地中海が一番荒れますのね。」
 と千鶴子は額に手を翳し、飛び散る泡にも滅《め》げず云った。
「そうですね。しかし、まア、幸いにこれほどで何よりでしたよ。ナポリへ船の寄らないのが残念ですが。――」
 吹きつける風が千鶴子のドレスをぴたりと身体につけたままはたはたと裾を前方に靡《なび》かせる。
「コロンボまで来たとき、一番日本へ帰りたいと思いましたが、ここまで来ると、もうただわくわくするだけで、何んだかちっとも分らなくなりましたわ。」
 矢代は軽く頷いた。彼は今の自分を考えると何となく、戦場に出て行く兵士の気持ちに似ているように思った。長い間日本がさまざまなことを学んだヨーロッパである。そして同時に日本がその感謝に絶えず自分を捧げて来たヨーロッパであった。
 地中海へ這入って以来、憧れの底から無性に襲うこのようないら立たしさは、船が進めば進むほど矢代の胸中に起って来たのも、やはり来て見なければ分らぬことの一つだと矢代には思われた。全くこっそりと起る人知れぬこんな心は、悪用すれば際限のないものにちがいない。先ず静かに寝かしつけておこうと思っても、何ものか寝てる子供を揺り醒ますものが絶えず波の中から霊魂のようにさ迷うて来るのだった。間もなく、夕食の合図のオルゴールが船室の方から鳴って来ると、矢代はタキシイドを着替えに自分の部屋へ這入っていった。

 船の中の食堂は最後の晩餐だというので常にも増した装飾であった。船客たちもこの夜はタキシイドに姿を変えずらりと卓に並んでいた。女は女同士のテーブルに並ぶ習慣もいつのころからか破れたのも、この夜だけは千鶴子と真紀子が神妙に前の習慣に戻って面白そうに話すのが、矢代の方から眺められた。食事がだんだん進んでいって空腹が満たされて来たころ、突然一隅から紙爆弾の音がした。一同はッとしたと思うと同時にあちこちのテーブルからも爆発し始めた。外人を狙ってテープを投げつける。外人たちから返って来る。婦人を狙って投げつける。それぞれに紙の帽子を冠り、わあわあ騒ぎ立って来るに随って、咲き連っている造花の桜の枝枝にテープが滝のように垂れ下る。
 船客たちは今宵が最後の船だと思うばかりではない。地中海へ這入ってからは七色の虹に包まれたような幻に憑かれているうえに、ここまで来れば後へは帰れぬ背水の思いである。酒一滴も出ないのに頭は酔いの廻った酔漢のようになっている。明日はいよいよ敵陣へ乗り込むのである。日本の国土といってはこの船だけである。
 このように思う気持ちは各人に共通であるから、桜も今は当分の見納めと、うす濁った造花の桜の花曇りも上野の花のように見えて来る。すると、食堂での騒ぎは間もなく甲板の上へ崩れて行ってそこで踊りとなって来た。
 二等の甲板の方からも踊りの出来るものはやって来て一緒に踊った。真紀子はフランス人と初めは踊り、次ぎにはいつものパーティでよく顔を会す踊りの巧い、美貌の中国人の高有明という青年と踊った。久慈は千鶴子と組んだ。彼は快活な性質であったから外人たちより踊りが自由で上手かった。
 矢代は踊っている久慈の姿を見ていると、パリへ行ってもこの人と友人になっていれば、定めし日日が愉快に過せるであろうと思うのだった。ところがそのとき急に踊り見物の一角が賑やかな騒ぎになった。いつも物云うこともない静かな三島と云う機械技師が酒の酔いが出たものと見え、いきなり隣りの外人の婦人の肩を親しそうに叩きながら靴を脱げと云い出した。日ごろの音無しい三島を知っているものらは転げるように笑い出すと、また誰彼かまわず肩を叩き廻って靴を脱がそうとしたが、やがてそれも余興の一つとなると踊りは一層甲板で賑った。
「じゃ、わしも一つ、踊ろうか。」
 と、老人の沖氏は立ち上って、高と踊り終えたばかりの真紀子にまた申し込んだ。この船会社の重役は船客たちの中で一番年長者であり、自分で自ら、「私は不良老年で、」と人人に高言するほど濶達自由で豊かな知識を持った紳士であった。船中でのティパーティのときもよくこの老人は外人たちに巧みな英語で演説した。頭の鉢が大きく開き強い近眼の上に鼻がまた素晴らしく大きくて赤かったが、その奇怪な容貌のようにこのときの沖氏の踊りもひどく下手いというよりも初めから巧みに踊ろうとは考えてもいない踊りである。「あは、あは、」とただ笑いながら足踏みしているだけだ。真紀子も自然に笑い崩れてときどき立ち停り、あたりの踊りへ突きあたる。見ているものもその度にどっと笑う。
「いや、これはワルツでね。」と沖氏は云って、「どうです、皆さん。今夜が最後ですよ。いっそのことおけさでもやるか。無礼講じゃ。」
「よし、やろう。」
 沖氏の元気に若者たちも火を点けられると、もう甲板の上の踊りなど皆には面白くなかった。外人や中国人をそのままそこへほうり出して踊りに任せ、一同サロンへどやどやと這入っていって日本人ばかりで酋長の娘から初め出した。それがさくら音頭から東京音頭となり、野崎小唄となり、だんだん進んでいくに随って、とうとうあなたと呼べばというのになった。若者たちはも早や胸を絞られ遠い日本の空の思いに足もひっくり返って来るのだった。中には非文化的なことをここまで来てもやるとはけしからぬと怒って自室へ引っ込むものも一二あったが、むらむらと舞い立った一団の妖気のような粘りっこい強さには爆かれた水のように力がなかった。
 船客たちの唄が尽きたころになると、そのまま解散するのも互に惜しまれて次ぎにはそれぞれ隠し芸をすることになった。進行係は皆の意見で沖氏となった。長唄を謡うものや詩吟をやるもの、踊るものなどが現れた後、今度は真紀子に何かやれやれと皆がすすめた。真紀子は初めの間は躊躇していたが、沖氏に立って来られると、
「じゃ、やりますわ。」
 と逃げるようにピアノの傍へよっていった。船客たちは長い航海中、誰も真紀子のピアノを聴いたものがなかったからこの意外な余興に拍手をあげて喜んだ。
「何をやるんです。」
傍へよって訊ねる沖氏に真紀子は小声で短く何ごとか囁いた。
「ははア。」と沖氏は云って満足そうに一同の方に向き、「え―皆さん、これからわれらの真紀子夫人はドナウの流れという曲を弾かれますから御清聴を願います。これはウィーンにいられる御主人のことを忍ばれた曲でありまして、いささか皆さまにとりましてはお聞き苦しいかと存ぜられますが。――」
 ここまで沖氏が云うと床の緋の絨毯を靴で打つものや奇声を発するものがあったが、すぐピアノは鳴り出した。背中の少し開いた真紀子のソアレの割れ目から緩急に随い、人より白い皮膚が自由な波のように揺れ動くと、三島は「ほおう。」と剽軽《ひょうきん》な歎息をもらしたのでまたどっと皆は笑いを立てるのだった。余興のこととて曲は手軽に辷って終ったとき、拍手の中を沖氏がまた立ち上った。
「皆さん、今の御演奏はまことに御立派なものだと、感服いたしました。これは一重に明日マルセーユへ現れる御主人のことを、毎日毎日思いつづけられた淑徳の結果かと存ぜられます。次に一つ、千鶴子さんにお願いします。」
 千鶴子は真紀子の弾奏中にすでに次ぎに廻って来るものと覚悟をしていたものと見えて、すぐ臆せず立ち上った。
「あたくしはピアノが下手でございますから、唄にさせて貰います。」
「何んです、何んです。」と云うものがあった。
「伴奏、伴奏。」と誰かが云うと、真紀子が再度ピアノの傍へ沖氏に引っ立てられたが、三島は突然真紀子の傍へよっていって、「靴、靴。」と云いながら裾の方へ跼《かが》み込んだ。沖氏は一寸不愉快そうな顔になると三島の肩を掴んで自分の席へ連れ戻った。
「ここはまだ船の中でございますが、明日は皆さま、パリへお立ちになる方が多うございますから。」
 千鶴子がここまで云ったとき三島がまた、
「パリの屋根の下。」
 と叫んだ。もう子供と同じようになっている皆の者は手を打って喜んだ。千鶴子は真紀子に一寸会釈をしてからパリの屋根の下を唄い出した。
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かんてぃるゆうぶぁんたん
さびぃえいゆままん
るぃでぃったんじゅうるたん
どるまん
だんのうとるろっじゅまん
じぇべいねすうばぁん
ぷうるてるべいるふぁれどら
るじゃん
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 唄がすすむままに一同はもう上機嫌になって、間もなく眼の前に現れて来るパリの実物に接した思いで、それぞれ首を振り振り唄うのであった。この唄は一度終るともう一度もう一度と、皆は千鶴子をせきたててやめなかった。

 今日はいよいよマルセーユへ著くというので船客たちは朝から誰も落ちつきがなかった。食卓のボーイや酒房や部屋つきのボーイにチップをやらねばならぬ。客たちはあちらこちらに塊って幾らやるべきかという相談をしていた。誰か一人の者が巨額のチップを与えれば他の者が不愉快になる。長らく共同の生活をしたのであるから、均衡を乱しては船中の愉快さも最後の一日で消えてしまう。このことは礼儀として一応船客たちの誰も考えねばならぬ最も重要なことであった。勿論、印度洋あたりの無聊《ぶりょう》なときに、チップの金額を一定にしょうと云い出すものがあって、すでに金額は定まっていたのだが、さて支払日となると規定のことも破れてしまう。別れてしまうのも後数時間のことである。あれほど親しかったものたちも、「別れてしまえば、」と思うと、誰もうとましくなるものであった。船中は楽しかったとはいえ団体生活であるから、思えば誰にも自由がなかった。不快なことがあっても忍耐をしていなければならぬ。殊に同じ一等の船客ばかりであってみれば、日ごろ日本にいるときの地位や名誉や財産などは、何の権威にもならなかった。階級差別の何もなくなってしまっているこのような所では、ただ人の性格と年齢だけが他人に働きかけるだけである。
 船客たちが団体で港港に上陸したときの金銭の貸借も、今日は整理をするのだが、誰が誰に貸しがあり誰が誰に借りがあるかは、も早や混雑して分らなくなっている上に、僅の金を返せ返せと云って廻る面倒も若者たちはしたくなかった。それを知った沖氏は自分からその面倒な整理を申し出た。
「僕は日ごろ他人を使ってばかりいて、使われたことがないから、こんなときでも一つ使われてみましよう。」
 こう云って沖氏は人人の間を皿を持って廻り、他人の複雑な貸借をいちいち整理して歩いた。船の中では老人は威張れないが、この沖氏は諧謔と滑稽さとでやすやす若者たちを統御して最後の務めもし終えたのである。
「さア、これで良ろしと。」
 いつ船が著いてもかまわない。中にはまだ陸も見えぬのにもう早く帽子まで冠っているのもある。甲板に出てみたりサロンに引っこんだり、船中を隈なく歩いてみたり、不安そうな顔つきで話さえあまり誰もし合わない。すると、突然、矢代に、長いそれまでの船中の生活で日本語を知っている様子を一度も見せたことのないフランス人が、驚くような流暢な日本語で、
「どうです、いよいよですな。」と話かけた。船中の外人は一度び船へ這入れば誰も日本語を使わない、全く知らぬ様子《ふり》で人の話を聞いているのが例だから用心をするようとの訓戒も、初めて、なるほどと今になって矢代は気が附くのだった。
「円をフランに今しとく方が、都合が良いですか。」
「そうそう、少しばかりしときなさい。」
と、フランス人は答えた。しばらくして、
「そら、見えたぞ。」
 と云うものがあった。矢代は甲板に立つと、お菓子の石のような灰白色の島が波に噛み砕かれているのが眼についた。
 甲板に立つ船客たちはだんだん多くなって来た。誰も笑うものはない。海上に連った銀鼠色の低い岩が後へ後へと過ぎてゆく。瑠璃色の鋭い波の上には風が強い。
 久慈と矢代はまだ見ぬヨーロッパの土の匂いを嗅ぐように、サロンデッキの欄干に身をよせかけ黙ってさっきから眺めていたが、突然、久慈は、
「何んだ、これや、クリスマス・ケーキみたいな所だな。」
 と呟いた。一同どっと笑い出して、
「そうだそうだ。」
 と云う。しかし、すぐまた黙ると、これは日本で習った礼儀作法や習慣は、何一つ通用しそうもないと、そろそろ身の処置にまごまごする不安が一同の顔に現れた。息の仕方もここでは頭でしなければならぬ。群れよる鮪の大群の中へ僅かな鮒がひらひらさ迷い出るように、押し潰されそうな幻覚を感じ、岩を噛む波の色までお伽噺の中の人魚を洗う波かと見える。
「向うに見えます島は、デュウマの小説に出て来る巌窟王の幽閉された岩屋です。」と一人の船員が説明した。
「マルセーユはどこですか。」と一人が訊ねた。
「もうすぐです。この島はマルセーユの外郭です。」
「セメントでも出そうなところですね。」と矢代は云うと、
「そうです。マルセーユはセメントの産地ですから。たしかにそう見えましょうな。」
 と船員が答えた。大きな波が一うねりどっと来ればたちまち姿を没しそうな小さな島が、当時の偉人を幽閉するに恰好な島だとは、矢代も、それ一つでこの国の優雅さがすでに頭に這入って来るのだった。
 船が島を廻ると長方形のマルセーユの内港が、波も静かに明るい日光の中に見えて来た。船は速力をゆるめ徐徐に鴎の群れている港の中に這入っていった。鍵形に曲った突堤と埠頭の両側から、吊り橋のように起重機が連り下っている。その向うの各国の汽船のぎっしり身をせばめて並んでいる中に今やこれから日本へ帰ろうとする香取丸が、慓悍《ひょうかん》な黒い小さな船尾だけ覗かせ煙を吐いて泊っていた。あの科学の塊りのように見えていた汽船が、今は無科学の生物のように見えて来る。
「香取がもう立ちますよ。日本へ帰るんですよ。」
 と船員が、もうすっかり日本を忘れてしまっている皆の船客たちに歯痒ゆそうな声で報らせた。しかし、今著いたばかりの一同には、もう知りぬいて倦き倦きしている日本の船のことなど考えている暇はなかった。まったくの所、まだ見たこともないヨーロッパが足の下に実物となって横たわっているのである。早くこの怪物を一つ足でぎゅうっと踏んでみたい。しんと息を飲み込んだ鋭い無気味な静けさが船客たちの間に浸み渡った。物憂くなるほどの明るい光線を浴びて、人人はただ船足の停るのを今か今かと見守っているばかりである。
 矢代は、いつの間にやらゴールへ来てしまった自分を感じた。船はマルセーユの埠頭へ胴を横たえようとしている。静かな静かなそのひと時だった。――
 矢代は、今まで自分を動かして来た総ての力もここでぷつりと断ち切れ、全く新しい、まだ知らぬ力がこれから先の自分を動かして行くのだと思った。やがて、船から梯子が埠頭へ降ろされた。どやどやと梯子を登って来るヨーロッパの人間の声が聞える。
「では、皆さんどうも、長長お世話になりました。」
 一人の船客が別れの挨拶をした。
「ではお身体お大切に。」
「さようなら。」
 こういう会話の後で、急に、
「ああ、香取丸が出て行くよ。」
 というものがあった。矢代は見ると、小さな香取が船尾を動かし、静かに体を曲げ、何の未練気もなくさっぱりとした態度でさっさとマルセーユの陸から離れていった。
「僕も帰りたいなア。」
 と船客の一人が溜息をついた。矢代も甲板に立って香取の姿が煙を流し見るまに港の外へ消えて行くのを眺めていたが、間もなく始まる上陸である。これから上陸許可証を貰い荷物の検査もすまさねばならぬ。矢代は出て行った香取の行方を見送りつつ、「じゃ、さようなら。」と胸の中で云っているときだった。
 真紀子が良人らしい中年の紳士を連れて来て矢代に云った。
「これ宅でございますの。」
「そうですが、いろいろ船中ではお世話になりました。」
「いや私の方こそ御迷惑をおかけしまして有り難うございました。」
 肩幅のある早坂氏が微笑を含み、鄭重な挨拶の横からまた真紀子が嬉しそうに云った。
「もしウィーンの方へでもいらっしゃることがございましたら、どうぞ、是非いらして下さいましな。」
「ありがとうございます。そのうちに、一度あちらへも廻りたいと思いますから、そのときにはお願いします。」
 どことなく一抹の冷たい表情で早坂氏は礼をすると、妻の荷物の方へ去っていった。後のサロンではパリへ行く船客たちが一団となって、今夜もう一度船へ帰って泊めて貰い、明朝早く揃ってパリへ行こうという相談が一致しかけていた。このような時でも沖氏はいつもの剽軽な調子で、
「そうそう、そうしなさい。今夜はゆっくりマルセーユで遊びましよう。久慈さん、私はあなたを愛しますというのは、フランス語じゃ、どういうんですか。これさえ覚えとけば、もう大丈夫だ。」
 一同が声を揃えて笑うとすでに一団の行動はそれで定められたと同じであった。
「つれしゃるまん。というんです。」とある商務官が洒落て云った。
「つれしゃるまん。つれしゃるまん。」
 と幾度も沖氏は呟いてみていてから、
「マルセーユつれしゃるまん覚えけり、と、これや、どうです。」
 ときどき船中で試みた俳句の手腕を沖氏は早速使ってまた皆を笑わせた。
 荷物も税関もすませてから、何となく遽しいごたごたとした気持ちのまま船客たちは自動車に分乗してマルセーユの街の中へ流れ込んだ。街は税関の門を一歩出ると、早くも敷石の上に積み上っている樽の色から芸術の匂いが立ちこめて襲って来た。車が辷って行くと、立ち並ぶ街路樹が日本の神社仏閣にある巨木と同様に鬱蒼として太かった。まるで街路が公園のようで、両側の石の建物を突き跳ねそうに路いっぱいに枝を拡げた大樹の下を、惜しげもなく車は駆けていく。どこの街か分らなかったが、これが馬車だったら一層良かっただろうと矢代は思った。街路樹の大きさと年を競うように周囲の建物もまた古かった。触ればぼろぼろ崩れそうな灰色の鎧戸に新しい黄色な日覆をつけた窓窓も、文化の古さに縫いつけた新しい鰓のように感じられた。
 一行の自動車は坂を登ったり降りたりした。午後の四時ごろである。マルセーユの街は散歩の時間と見えて、どの通りも人がいっぱいに満ちていた。太陽の射している街と日蔭の街とが、屈曲するごとにぐるぐる廻って矢代の前に現れた。ある坂の四辻まで来かかったとき、「ここは去年、ユーゴスラビヤの皇帝がピストルで暗殺されたところです。丁度ここですよ。」
 と永くこの地にいる日本人の案内人が自動車を停めさせて説明した。
「軍艦を降りてから儀杖兵づきで、ここまで自動車で来られたところが、丁度ここでしたが、路がクロッスしてるものだから自動車が一寸停ったんですな。そこへつかつかと一人の乞食のようなロシア人が来ましてね、いきなり窓ガラスを拳銃の柄でぽかッと叩き壊して、続けざまに乱射したものですから、同乗していたフランスの外務大臣も一緒にやられました。」
 この案内人はこのため近来の大衝撃を受けたらしい自慢顔でそう云ったが、一行のものには何の響きもないらしい様子に失望して、馬鹿馬鹿しそうにまた自動車を走らせた。暫く行ったとき、
「ここは男の跛足の多いところだね。」
 と久慈は窓にしがみ付くようにして矢代に云った。
「大戦があったということが一目で分るもんだな。」
「そう云えば、笑ってるものが一人もいないや。」
「笑ってるどころじゃないよ。これだけ人がうようよしているくせに、話してる者もいない。何をいったいしてるんだろ。」
 巨大な街路樹の葉蔭で流れている人々の顔も青白く、疲れているように口をつぐんだまま、誰も彼も眼だけを異様に鋭く光らせているだけだった。
「これや、もうヨーロッパ人は、考えることは皆思想より無いのだね。豪いもんだ。」
 と久慈は云った。分らぬ答案ばかり陸続と出て来るうちに車は旧港の桟橋にかかって来た。すると千鶴子たちを乗せた一団の車と一緒になった。二つの車を乗せた桟橋はぷつりとその部分だけ切り放されると、海の上をそのまま対岸の方へ辷っていった。
「ノートル・ダムですよ。向うに見えるのは。」
 と案内の者が云った。
「おや、あそこに、僕らの船が見えるぞ。」
 と沖氏が云った。陸へ自動車が上ってから、しばらく坂を登ったところに数百尺の高い断崖が立っていた。その上にノートル・ダムがある。一行はエレベーターに乗り換え、ケーブルに乗り換えた。見る間に街は下へ沈んで行くと、半島が現れ、丘が見え、島が水平線の上から浮んで来た。
 山上に立つと明るい南仏の風景は一望のもとに見渡された。灰白色の陶土のように滑かな地の襞に、ところどころに塊り生えた樹の色は苔かと見える。海は藍碧を湛えてかすかに傾き微風にも動かぬ一抹の雲の軽やかさ。――
 何と明るい空だろう、と矢代は思った。廻廊のような石灰岩の広い階段を廻り登って行くうちに寺院へ著いた。中は暗く鞭のような細長い蝋燭の立ち連んだ間を通り、花に埋った一室へ足を踏み入れた。
 その途端、矢代はどきりと胸を打たれた。全身蒼白に痩せ衰えた裸体の男が口から血を吐き流したまま足もとに横たわっていた。
 外の明るさから急に踏み這入った暗さに、矢代の眼は狼狽していたとは云うものの、いきなり度胆を抜くこの仕掛けには矢代も不快にならざるをえなかった。それもよく注意して見るとその死体はキリストの彫像である。皮膚の色から形の大きさ、筋に溜った血の垂れ流れているどろりとした色まで実物そのままの感覚で、人人を驚かさねば承知をしない、この国の文化にも矢張り一度はこんな野蛮なときもあったのかと矢代は思った。しかも、この野蛮さが事物をここまで克明に徹せしめなければ感覚を承服することが出来なかったという人間の気持ちである。このリアリズムの心理からこの文明が生れ育って来たのにちがいない。それなら瞞されたのはこっちなんだ。――矢代はひとりキリストの血の彫像の周囲を幾度も廻ってこう思った。そうしているうちにその瞑目しているキリストの姿から、なぜこんな痩せ衰えた姿となってキリストが殺されねばならなかったかという事情が、ははアと朧ろに分ったような気持ちがするのだった。
「ここじゃ、リアリズムがキリストを殺したのだなア、つまり。」と矢代は、一つヨーロッパの秘密の端っぽを覗いてやったぞという思いで建物から外へ出た。千鶴子と久慈は早くも外の観台に立って、風に吹かれながら明るい光線の降りそそぐ遠方の半島を眺めていた。すると、それもまた幾度も日本で見たセザンヌの絵の風景そのものの実物であった。あの絵の具という色で追求に追求を重ねた実物の半島――それ以来絵画を観念化せしめたその実物がそこにあった。
 数十日の波と船と蛮地ばかりの熱帯とを通って来た矢代の足はこのときから少しずつ硬直し始めた。彼は太股を撫でながら日本人が文化が分るのどうのと云ったところで、それは全くわれわれ東洋とは違った文化だとそろそろ観念もし始めて来るのだった。

 夕食のころになって矢代たちの一行は街へ降りレストランへ這入った。前には道路をへだて、夕日に輝いた海が淡紅色の水面をひたひたと道路の傍まで湛えていた。海へ下って来ているあたりの街には海草の匂いが立ち流れ、家の中の人人の顔まで照り返った夕日に染り、花明りによろめく蝶のような眩しさだった。店の客たちは海の方を向いたまま、牡蠣の貝にナイフをあて静かに舌をつけて楽しんだ。
「さアさア、フランスのパンが初めて食べられるぞ。」
 と沖氏は揉み手をして笑った。この元気の良い老人もようやく疲れが出て来たらしく、椅子に背をぐったりよせかけて食事の支度の出来るまで動かなかった。
「いや、それより何より、先ずマルセーユの葡萄酒を飲もう。おい、葡萄酒。葡萄酒。」
「うい。」
 軽くあっさりした女の返事があって、赤と白とが並べられた。今は一同、互に恙なくここまで来られた健康を祝すために無言のうちにコップを上げた。一瞬、かつて船中では見られなかった厳粛な表情が皆の面にさっと走った。
「ぼうとるさんて。」
 と一人が云うと、皆それぞれに葡萄酒を飲んだ。沖氏は傍の給仕の女に、前に習った汝を愛するという即製のフランス語で、
「つれしゃるまん、つれしゃるまん。」
 と云いつつコップを上げた。
「めるしい。」
 女はにこりとして忙しそうにパンや皿や、フォークを卓の上に並べ始めた。
 初めてフランス語の通じた喜ばしさに、沖氏は、
「どうだ皆さん、僕が一番槍だろう。」
 と大見栄切ってわアわア一同を笑わせた。間もなく、オードオブルに混って茄だった小海老が笊に盛られて現れた。海に向った方のテーブルの上では、水から出されたばかりの牡蠣の貝や海胆《うに》の毬が積まれていった。レモンが溶け流れた薄紅色の海気のなかを匂って来る。あたりの薄明のうつろいのうちに港には灯が這入った。鴎のゆるく飛び交う水面を拡がる水脈のような甘美な愁いがいっぱいに流れわたった。
「あたしもここで降りてしまいたい。」
 と千鶴子はミルクを紅茶に入れながら云った。矢代は千鶴子の声を聞くと、そうだ、千鶴子もここにいたのだと初めて気がついた。船の金具がきらきら水上から光って来る。夕栄の映った水明の上を帆船が爽かな白さで辷ってゆく。
「千鶴子さんは、わたしと一緒にロンドンまで行きましょう。若い人たちをここで降ろして、老人とよたよた行くのも、これも良ろしよ。」
 マルセーユへ降りてからは、若者たちが千鶴子のことなど忘れてしまったのを早くも沖氏は見てとって云ったのだった。
 しかし、一行のものの忘れたのは千鶴子だけではない、船中でのごたごたや人事のもつれなど今は吹き散ってしまい、大きな窓いっぱいに灯を拡げて来たこの異国の海港への望みに、もう足など地から放れて飛び流れている一行の有様だった。

 食事がすんだころにはマルセーユの港は全く夜になっていた。一行は婦人の千鶴子を除いてこれから特異な街の情調を味いに行くのであった。これは船の中から一番つれづれの慰安となっていたものだけに、一同の期待は大きかった。
 しかし、夜になって波止場の船へ一人千鶴子を帰すということは危険なことであり、殊にマルセーユの埠頭の恐ろしさは誰も前から聞き知った有名なことである。そこで案内人が先ず千鶴子を船へ送って行くことにして一行は外へ出た。
 街の煌めく灯を映した海面は豊かに脹れ上って建物の裾を濡らしている。紅霧を流したような光りが大路小路にいろどり迷って満ちている。すると、丁度昼間案内されたユーゴスラビヤの皇帝が暗殺された坂の下まで来かかったとき、急に矢代の片足が硬直したまま動かなくなった。長く船旅をしたものに来る病気である。矢代は船中でこの病気の話を聞かされていたからいよいよ来たなと思ったが、足を動かそうにも痛さに痙攣《けいれん》がともなった。初めは矢代も足を揉み揉み歩いていたが、そのうちにもう一歩も歩くことが出来なくなった。そのまま辛抱していたのでは一行の快楽を妨げること夥しかった。そこで矢代は皆に理由を話して、一人先きに船まで帰ることにした。
「じゃ千鶴子さんも一緒で丁度いいでしょう。お大事に帰って下さい。」
 と沖氏が云った。千鶴子も帰る道連れが出来たので案内人を煩わさず、すぐ矢代と自動車を拾って波止場へ命じた。
「お痛みになりまして?」
 しばらく無言のままだった千鶴子は訊ねた。
「いや、じっとしてるとなんでもないですよ。そのくせ、少し動かすといけないんです。船の振動で神経がやられていますから、筋肉がきかなくなったんでしょう。」
 明るい街から暗い港区へ這入ると埠頭はすぐだったが、車は門から中へは這入れなかったから、船まで矢代は歩かねばならなかった。
 鉄の門をくぐったとき、千鶴子はそろそろ足を引き摺って来る矢代の腕を吊るようにして、
「あたしの肩へお掴まりなさいよ。大丈夫?」
 人一人もいない暗い倉庫の間で千鶴子にこんな親切を受けようとは矢代も思いがけない喜びだった。
「ありがとう、ありがとう、大丈夫です。」
 と云いながらも彼は強く匂う千鶴子に腕をとられた。まったく偶然にしてもこんなに傍近く千鶴子といることは一度も船中ではなかったから、早く船が見えなければ気の毒だと割石の凸凹した倉庫の間を、身を引く思いで矢代は跛足を引くのだった。船の灯が前方から明るく射して来ても、千鶴子は臆せず矢代を助けていった。
「僕だけが沈没したみたいで、これや残念だな。」
 一行の無事な中で自分ひとり落伍した淋しさを云うつもりであったのに、しかし、このときの千鶴子には、あながち矢代の云った意味ばかりには響かなかった。たしかに今ごろは胸をときめかせるような歓楽の街に皆がいるのに、一人古い船の巣へ戻る佗しさに耐え難くて発した嘆きと思われたに違いない。
「でも、今夜はお休みになる方が良うござんしてよ。お顔の色もいけないわ。」
 と千鶴子は慰めた。矢代はやはりそうかと思ったが、黙って千鶴子の滑かな黄鼬の外套に支えられ潮に汚れた船の梯子を昇っていった。

 客のすっかり出きってしまった空虚の船の中は洞穴のようにがらんとしていた。たった一日だったがマルセーユの光りにあたって来た矢代には、明治時代の古い大時計の中へごそごそ這入る感じで、ここが昨日まで自分のいた船だったのかと物珍らしさが早や先き立つのが意外だった。矢代と千鶴子は自分の船室へそれぞれ這入った。矢代は寝台に横になって見馴れた天井を眺めていたが、人一人もいない淋しさにすぐまたサロンに出て来た。しかし、ここも灯があかあかと点いてはいるものの木魂がしそうに森閑としていた。矢代は足の痛さも忘れ、窓から見えるマルセーユの街の灯を眺めている間に、間もなく不思議に足の硬直が癒って来た。日本の空気の漂っているのは広い陸地に今はただこの船内だけだったから、もとの水槽へ流れ戻った魚のように急に神経が揉みほぐされたものであろう。いずれにしてもこんなに早く癒っては、船客の一人もいない船を狙って千鶴子を誘惑して来たのと同じ結果になって、矢代も今は手持無沙汰をさえ感じて来るのだった。しばらくすると、眠れそうにもないと見えて千鶴子もサロンへ上って来て矢代の傍へ来た。
「いかが?」
「ありがとう。ここへ戻ると不思議に足が癒って来たんですよ。これじゃ、ヨーロッパで病気になったら、日本船へ入院するに限ると思いますね。」
「でも、結構でしたわ。あたしが送っていただいたようなものですもの。」
「どうも、さきほどは御迷惑をかけました。」と矢代は千鶴子に受けた看護の礼をのべ、
「しかし、こんな所であなたに御厄介かけようとは思いませんでしたね。今度パリへいらしったら、僕が御案内役いっさい引き受けますから、いらっしゃるときはぜひ報らせて下さい。」
「どうぞ。」と千鶴子は美しい歯を見せて軽く笑った。
 いつもの日本にいるときの矢代なら、婦人にこのような軽口はきけない性質であったが、今日一日ヨーロッパの風に吹き廻された矢代は興奮のまま浮言を云うように軽くなり、見馴れた日本の婦人も何となく婦人のようには見えなくなって来たのであった。
「あたし、なるだけ早くパリへ行きますわ。日本へは今年の秋の終りごろまでに帰ればいいんですの。」
「なるだけ早くいらっしゃいよ。もっとも、あまり早いとあなたに案内させるようなものだけれど。」
「でも、ロンドンへもいらっしゃるんじゃありません。」
「行きます。」
「そしたら、またお逢い出来ますわね。」
「ええ、そのときはどうぞ宜敷く。」
 と矢代はこう云って、紅茶を命じるベルを押した。窓から風が流れて来て軽く二人の顔の前を抜けて通るのも、肉親といる窓べの気易い風のように柔かだった。二人はどちらも黙っていた。硬直はとれたものの疲れがそれだけ身体全体に加わったように、矢代はぐったりとして背を動かすにも骨が折れた。
「まア、静かですこと。」
 はるばるとよくここまで来たものだと云うように千鶴子は吐息をふっと洩らし、印度洋の暑さにいつの間にか延びていた卓上の桃の芽を見て云った。
「明日はあたし、ジブラルタルよ。あなた、スペイン御覧になりたくありません。」
「あそこは一つ、ぜひ見たいもんですね。」
「じゃ、いらっしゃらない。」
「そうね。」と矢代は云って窓を見ながら考えた。
 人の降りてしまった空虚《から》の船で、千鶴子とジブラルタルを廻る旅の楽しさを思わぬでもなかったが、しかしそれより今千鶴子と別れ彼女がパリへ来る日を待っている方が、それまでに変っているにちがいない千鶴子と出会う一刻に、はるかに楽しみも深かろうと思われるのだった。
「やはり、僕はパリに行きますよ。その方があなたの変って来られるところが見られますからね。楽しみですよ。」
「お人が悪いわ。」
 千鶴子はそういうと、どういうものかふと笑みを泛べ甲板の方へ立ちかけようとしてまた坐ると、
「でも、それはあたしだってそうよ。あなたがたのお変りになってらっしゃるお顔、拝見したいわ。じゃ、またこの次ぎね。」
「男は変りませんよ。ただうろうろするだけだと思うが、女の方はすぐその土地のままになれますからね、僕らが変るよりももっと影響が大きいでしょう。」
「あなたがたうろうろなすってらっしゃるの、さぞ面白いことでしょうね。あたしの兄が云ってましたけど、二三ヵ月はいやでいやでたまらないんですって。」
「僕は今日でもう少しやられましたよ。僕なんか考えていたのと、やはりヨーロッパは少し違うな。これはこちらの方が日本より文化が高いからだというんじゃありませんよ。つまり頭の呼吸の仕方が違うんですね。僕なんかどちらかと云うと、来るまではヨーロッパ式の呼吸の仕方だったんですが、しかし、心はやはり、日本人の呼吸だったということが、少しばかり分りかけて来ましたね。」
 千鶴子は黙って伏眼になった。矢代はいつの間にか日本にいるときより、婦人と話す自分の会話の内容まで、知らず識らずに質も違って来るのを感じた。これでもしこの話をヨーロッパ人にこのまま話しても通じるものではなく、そうかと云って、まだヨーロッパを見ない日本人に話しても、同様に話の内容は通じないであろうと残念だった。
「千鶴子さんは、日本人がどんなに見えましたか。今日は?」
 千鶴子は云い難そうに一寸考える風であったが、唇にかすかに皮肉な影を泛べると、
「西洋人が綺麗に見えて困りましたわ。」と低く答えた。
「男が?」
「ええ。」
「ははははは。」と矢代は思わず笑った。
「僕もそうですよ。こちらの婦人が美しく見えて困りましたね。」
 とこう云いかけたが、ふとそれは黙ったまま、一日動き廻って見知らぬ面と向き合った今日の怪事の表現も、今こんなに悲しむべき姿をこの洞穴の中でとるより法はないのだと矢代は思い淋しくなった。
 日本人としては千鶴子は先ず誰が見ても一流の美しい婦人と云うべきであった。けれども、それが一度ヨーロッパへ現れると取り包む周囲の景色のために、うつりの悪い儚ない色として、あるか無きかのごとく憐れに淋しく見えたのを思うにつけ、自分の姿もそれより以上に蕭条と曇って憐れに見えたのにちがいあるまい。
「夫婦でヨーロッパへ来ると、主人が自分の細君が嫌いになり、細君が良人を嫌になるとよく云いますが、僕なんか結婚してなくって良かったと思いますね。」
 千鶴子は笑いながらもだんだん頭を低く垂れ黙ってしまった。互に感じた胸中の真相に触れた手頼りなさに二人はますます重苦しくなり、矢代は今は千鶴子以外に船中に誰か人でもいて欲しいと思った。ああ、これが旅であったのか。この二人が日本人であったのか。こう思うと、突然矢代は千鶴子を抱きかかえ何事か慰め合わねばいられぬ、いらいらとした激しい感情の燃え上って来るのを感じた。
 矢代はつと立ち上るとサロンの中央まで歩いて行った。しかし、何をしようとして立ち上って来たのか彼には分らなかった。水底へ足の届いた人間があらん限りの力で底を蹴って浮き上りたいように、矢代は張り詰めた青い顔のまま暫らくそこに立っていた。もう日本がいとおしくていとおしくて溜らない気持ちだった。
 すると、彼の眼にマルセーユの街の灯が映った。日本からはるばるこの地へ来た自分の先輩たちは、皆ここで今の自分と同様な感情を抱かせられて来たのにちがいない。それは何とも云いかねる憤激であったが、しかし、間もなく、これもおのれの身のためだと思いあきらめ、身につけるべきものは出来る限り着つづけ、捨てるべき古着は惜しげなくこれを限りにふり捨てようと決心すると、漸く平静を取り戻して甲板へ出ていった。彼は欄干に身をよせかけながら怒りの消えていく静かな疲れで暗い埠頭の敷石を見降ろしていたとき、背広に着替えた船長がプープ甲板から一人ごそごそ降りて来た。
「おや、お早くお帰りですね。」と船長は矢代に云った。
「ええ、足が硬直して動かなくなったもんですから、残念しました。」
「それや、惜しい。僕はこれから一つ、見物に行くところですよ。いつも見てるところで別に面白くもないんだけど、お客さんに頼まれたもんですからね、じゃ。」
 船長は会釈して甲板を降り埠頭の方へ消えていった。いつも来馴れたものはヨーロッパも早や何の刺戟にもならず、あのように悠然と出来るものかと矢代は思いながら、身についた船長の紳士姿を羨しく眺めて放さなかった。
「どなた。」
 しばらくして、千鶴子は矢代の後ろへ来ると訊ねた。
「船長ですよ。これから見物に行くんだそうです。あの船長はなかなか自信があっていいですね。外国人は、こちらがちやほやするほど、嬉しそうにして見せて、肚では相手を軽蔑するというけれども、日本人がヨーロッパ、ヨーロッパと何んでも騒ぎ立てるのは、これや、貧乏臭い馬鹿面を見せる練習をしてるようなものかもしれないな。どうも、僕は今日はそう感じた。」
「それや、そうだとあたしも思いましたわ。今日街を歩いていたとき、あたしの前を西洋人の親子が一緒に歩いていたんですのよ。そしたら、お父さんの方が子供にね、お前も少しぴんと胸を張って歩け、こうしてっと云って、自分が反り返って歩いてみせるんですの。そしたら、十六七の子供の方も猫背をやめてぴんと反って歩くんですの。」
「ははア、じゃ、やっぱりヨーロッパの人間は、それだけはしょっちゅう考えているんですね。羞しがったり照れたりしちゃ、もうお終いのところなんだ。」
 矢代は日本人のいろいろな美徳について考えた。洋服を着ても謙遜する風姿を見せない限りは出世の望みのなくなる教育法が、次第に洋服姿の猫背を多く造っていく日本の社会について。――
 しかし、矢代はこのとき、どうして自分がこれほども日本のことを考えつづけるようになったのか、全くそれが不思議であった。何も今さら考えついたことではないにも拘らず、一つ一つ浮き上って来る考えが新たに息を吹き返して胸をゆり動かして来るのだった。マルセーユが見え出したときから、絶えず考えているのは、日本のことばかりと云っても良かった。まるでそれはヨーロッパが近づくに随って、反対に日本が頭の中へ全力を上げて攻めよせて来たかのようであったが、こんなことがこれからもずっと続いてやまないものなら。――
 ああ、今のうちに、身の安全な今のうちに日本の婦人と結婚してしまいたいと矢代は呻くように思った。
 矢代が黙りつづけている間千鶴子も同じような恰好で欄干に胸をつけたまま黙っていた。それが暫くつづくと何かひと言いえば、今にも自分の胸中を打ちあけてしまいそうな言葉が、するりと流れ出るかと思われる危険さを矢代はだんだん感じて来るのだった。
 何も千鶴子を愛しているのではない。日本がいとおしくてならぬだけなのである。――
 このような感情は、結婚から遠くかけ放れた不純なものだとは矢代にもよく分った。けれども、これから行くさきざきの異国で、女人という無数の敵を前にしては、結婚の相手とすべき日本の婦人は今はただ千鶴子一人より矢代にはなかった。全くこれは他人にとっては笑い事にちがいなかったが、血液の純潔を願う矢代にしては、異国の婦人に貞操を奪われる痛ましさに比べて、まだしも千鶴子を選ぶ自分の正当さを認めたかった。
「あのね、あたしの知り合いのお医者さんで、ここの波止場で夜遅く船へ一人で帰って来たら、倉庫の所から出て来た男が、ピストルを突きつけて、お金を出せって云ったことがあるんですって。きっとあのあたりでしょうね。」
 と千鶴子は真下に延びている黒い倉庫の方を指差した。千鶴子の考えていたことは、そんなことであったのかと矢代はがっかりとしたが、しかし、今にも危い言葉の出ようかとじっと自分の胸を見詰めていた矢代にとっては、これは何よりの救いだった。
「じゃ、僕があなたにお世話されて来たあのへんですね。どうしましたその人?」
「お金を少しやって、大きな金は船にあるから船へ来いと云ったら、梯子もついて昇って来たとか云ってましたわ。ここじゃ、撃たれればそれまでですものね。」
 矢代は笑いにまぎらせながらも、軽いこのような話に聞き入る自分をまだ結婚の資格はないものと考えた。
「しかし、ここにいると奇妙なことも起るでしょうが、たしかにまともに理解出来そうもないことばかり、ふいふいと考えるようになりますね。僕もさっきから、どうも奇怪なことばかり頭に浮んで来て困りましたよ。これでパリへ行ったらどんなに自分がなるのか、想像がつかなくなって来ましたね。」
「あたしもそうなの。」
 千鶴子は矢代の顔を見ながら、片頬の靨に快心の微笑を泛べて頷いた。
「これじゃ僕は外国の生活や景色を見に来たのじゃなくって、結局のところ、自分を見に来たのと同じだと思いましたよ。それや、景色も見ようし、博物館も見るでしょうが、何より変っていく自分を見るのが面白くて来たようなものですよ。今日一日で僕はずいぶん変ってしまいましたね。皆今夜帰って来て、どんな顔をして来るか、これや、見ものですよ。元気のいいのはあの老人の沖さんだけだ。僕は足まで動かなくなってしまったし。ははははは。」
 と矢代は笑うと千鶴子から遠ざかって甲板の上を歩いた。
 いや、良かった。危いところを擦り抜けた。もしあのとき、うっかり口を辷らせてでもいたら――とそう思うと軽い戦慄を感じて来るのだった。

 朝靄のかかった埠頭ではやがて船の荷積も終ろうとしていた。パリへ出発する一団のものは、眠そうな顔でそれぞれ船室からサロンへ集って来た。
「さア揃いましたか、それじゃ、行きましょう。」
 と案内人が簡単に云った。
 船客と友人になってしまった船員たちは、甲板や梯子の中段に鳥のように集りたかって別れの言葉を云ったが、どの人人も真心のこもった表情で欄干の傍からいつまでも姿を消そうとしなかった。海の人の心の美しさを今さらのように感じた船客たちも、悲しそうに幾度も幾度も振り返って、さようならさようならを繰り返しつつ関門の前に待っている自動車の傍までゆっくりと歩いた。
 千鶴子と沖氏は船客と一緒に自動車の傍までついて来た。
「さようなら、御機嫌良う。」
「またパリでお逢いしましょう。」
 三台の自動車がいっぱいになったとき、矢代は千鶴子を一寸見た。千鶴子は別れればまた逢う日の方が楽しみだという風に、にこにこしながら皆に挨拶をしていた。
 自動車はそのまま無造作に駅へ向って走っていった。マルセーユの駅は美しい篠懸《すずかけ》の樹の並んだ小高い街の上にあった。車から降りたときは、一同の顔は朝靄の冷たさと出発の緊張とで青味を帯んで小さく見えた。さて、これからいよいよヨーロッパの国際列車に乗り込むところであるから、スタートに並ばせられた選手みたいに、それぞれ切符を渡されても誰も黙って眼を光らせたまま案内人の後からついていくだけだった。
 ホームの上は煙に曇った高いガラスがドームのように円形に張っていて、褐色をした列車が生温い空気の籠ったその下に、幾列となく並んでいた。矢代が久慈と一つのコンパートメントに席をとると、若い者はどやどやとその一室に集った。
「もうこれでいいんでしょう。」
 と初めて一人が言葉を云った。まだ何かしなければならぬことが、沢山残っているような気のしているときとて、
「ええ、もうこれで、ただ乗ってらっしゃれば、パリまで行きます。」
 と案内人は笑って答えた。
「じゃ、昨夕のことをそろそろ話し合おうじゃないか。」
 と一人が云うと、皆は漸く安心した気楽さに返って、見て来たマルセーユの夜街の面白さを話し始めた。しかし、それらの話は誰も面白かった。それだけどこか面白くなかったという表現をするのであった。
「あなたはどうだった。」
 と久慈は矢代に笑って訊ねた。千鶴子と二人ぎりでいた船内のことをひやかしたのだとは一同すぐ感じたらしく、皆矢代の方を向いた途端に汽車はパリへ向って出発した。
「僕もなかなか面白かったな。」
 と矢代は久慈の先手を打ったつもりであったが、駅を出た野の美しさに、もう人人は耳を傾けようともしなかった。昨日ノートル・ダムの上から見た半島が現れ、丘が見え、海が開けて来るに随って、だんだんマルセーユは遠ざかっていった。
 杏の花の咲き乱れている野、若芽の萌え出した柔かな田園、牧場、川と入れ代り立ち変り過ぎ去る沿線の、どこにもここにも白い杏の花が咲き溢れて来て、やがてローヌ河が汽車と共にうねり流れ、円転自在に体を翻しつつもどこまでも汽車から放れようとしなかった。
 矢代はしだいに旅の楽しさを感じて来た。たしかにフランスの田園は日本のそれとは全く違った柔かな、撫でたいような美しさだと感歎した。一木一草にさえも配慮が籠っているかと見える築庭のような野であった。
 その野の中をローヌの流れが広くなり狭くなるにつれ、芝生の連りのような柔軟な牧場ばかりがつづいて来た。一本の雑草もないようなゆるやかなカーブの他は山一つも見えなかった。
「フランスの田園の美しさは、世界一だと威張っているが、なるほど、これじゃ威張られたって、仕様がないなア。」
 と三島が云った。
「こんなに綺麗だと、見る気もしないや。これじゃ、パリはどんなに美しいのかね。」
 と商務官が云う。
「さきから見てるんだけれど、鉄道の両側に広告が一つもないな。バタの広告がたった一つあるきりだ。村も日本の十分の一もないが、これで都会文化が発達したのだね。」
「フランスは自国民の食うだけのものは、自国内にあるんだから、植民地の蔵から軍備費だけは、充分出ようさ。」
 こう云う医者に商務官はまた云った。
「しかし、われわれがヨーロッパ、ヨーロッパと騒いで来たのは、騒いだ理由はたしかにあったね。いったい自分の国を善くしたいと思うのは人情の常として、誰にでもあるものだが、騒ぎすぎると、次ぎには要らざる人情まで出て来るのがそれが恐いよ。」
「それやね、国というものを考え出すと、われわれ医者も生理的に苦労をするよ。しかし、まア、君のように、人情を出しちゃ、病人が死んでしまう。」
 と医者が商務官を見て云った。
「しかし、医者だって仁術という人情があろうからなア。藪医者ならともかくも、非人情じゃ病人こそ災難だ。あなたがドイツへ行かれて勉強して来て、薬の分量をそのまま日本人に使うのですか、危いもんだねそれや。」
「いや、医者はね、死にたくて溜らぬ人間でも、生かさなくちゃならんのだよ。」
 皆この医者の云い方にどっと笑った。
 しかし、一度びこのような話が出ると、意見のあるものもはッと危い一線に辷って来た自分の頭に気がついて黙るのであった。
 何かの職業に従事している教養のある者たちは、自身の教養を示す必要のある機会毎に忘れず言葉を出すものだが、一旦話が自分の職業の危い部分に触れて来ると誰も話中から立って行く。それとはまた別に面白いのは、自分に知性のあることをひそかに誇っていたものたちの顔だった。これらのものは、昨夜で自分の思っていた知性も実は借り物の他人の習慣をほんの少し貸して貰っていただけだと分り始めた顔で、見合す視線も嘲笑のためにひどく楽天的な危い狂いがあった。
 話がぷつりと途絶えたころ、久慈は茶が飲みたくなりボーイを呼ぶために呼鈴を押そうとしたが、ボタンはどこにも見つからなかった。それだあれだと一同の騒いでいるとき、久慈は急に立ち上って、頭の上にぶら下っている鐙形《あぶみがた》の引手を引いてみた。
 すると、間もなく今まで走っていた列車は急に進行を停めてしまった。何ぜ停車したのか分らぬままに一同は窓から外をうろうろしながら覗いていると、車掌が部屋へ這入って来た。久慈は車掌の云うことを聞いていたが、見る間に顔色が変って来た。彼は吃り吃り片手をあげ、
「いやいや、呼鈴がないのでこれを引いてみただけだ。どうも失敬失敬。」
 とフランス語で平謝りに謝罪した。一同ようやく汽車を停めたのは久慈だと分ったらしく、今に一大事が持ち上るぞと云う風に愕然として車掌の顔を眺めて黙っていたが、ここではこんなことは日常のことと見え、久慈の弁明を聞いていた車掌も意外にあっさりとそのまま廊下へ出ていった。
「あなたも豪いもんだな、国際列車を停めたんだから、もうこれで日本へ帰ったって威張れたもんだよ。」
 と医者が云った。皆の青くなっているうちに、また汽車は無造作に走り出した。
 ローヌ河が細い流れとなり、牧場が森となってつづいて行って、だんだん夕暮が迫って来たそのとき、突然、
「あッ、これや、もうパリだ。」
 と誰かが時間表と時計を見比べて驚いた。
「こんなパリがあるものか。田舎じゃないか。」
「いやたしかにそうだ。」
 しぼしぼ村に雨が降って来る。皆の者は饒舌りすぎて、時間を見るのも忘れていたので時計をそれぞれ取り出すと、たしかに誰の時計も時間はパリ著のころあいだった。それじゃもう荷物をそろそろ降ろしておこうと云うので棚から一つずつ降ろし出し、まだ半分も降ろさぬ間に汽車が停車場に停ってしまった。
「ほんとにこれがパリかなア。」
 と一人が汚い淋しい駅をきょろきょろ眺め廻して云った。
「リヨンと書いてあるにはあるな。」
 とまだ半信半疑の態である。とにかく、一同はコンパートメントからプラットの方へ降りていくと、どの車からもどやどや外人が降りて来た。皆の疑いも無くなったというものの、実感の迫らぬ夢を見ているような表情がありあり一同の顔に流れていた。マルセーユを発つとき、案内人から一行の一先ず落ちつく宿へ電報を打って貰っておいたので、誰か迎いの者が見えるであろうと荷物の傍に皆は並んで立っていたが、さて誰が宿の者だか分らなかった。
 間もなく汽車から降りた外人たちは、それぞれプラットから消えてしまい汽車のどの室も空虚になったが、しかし、一行だけは塊ったままいつまでもしょんぼりとして動かなかった。
「どうするんかね。こんなことしていて。」と久慈は云った。
「迎いに来るというから、待っているんだよ。」と医者が答えた。
「しかし、迎いに来るかどうか、返事が来てないんだから、分らないじゃないか。日本じゃないよ。ここはパリだよ。」
 とまた他の一人が云った。
 なるほどここは日本じゃないと、はッと眼が醒めたようにまた一同の顔色が変ったが、しかし、宿の在所がどこだかそれが誰にも分らなかった。そうかと云って、このままいつまでもプラットに突っ立っているわけにもいかなかった。そこで、赤帽に荷物だけ持たせて先ず待合室の方へ出ていった。しかし、待合室でもまた一同は誰がどこから来るのか分らぬままに、雲を掴むような気持でぼんやり待つのであった。気附かぬ間に夜になっているばかりでない。耳が聾者のようにびいんと鳴って聞えなくなっているうえに空腹が迫って来た。
「いったい、その宿屋は外国人の宿屋かね。日本人の宿屋かね。」と久慈が訊ねた。
「日本人のぼたんやという宿屋が満員だったから、外国人の宿屋にしたとか云っていたようだ。」と機械技師が云った。
「じゃ、明日まで待ったって来るものか、第一来たってお客さんが僕らかどうだか、分りゃしないじゃないか。」
 と矢代は云った。それもそうだと云うので、それではもうこちらから自動車の運転手に話をして、一度満員の日本宿へ行ってみてから、それから外人の宿屋へ廻ろうという相談がようやく決ると、初めて自動車を呼びつけた。
 一行は暗い汚い街街をごとごと自動車に揺られていった。パリだというのにどこまで行っても一行の前にはパリらしいものは現れて来なかった。そのうちに隅田川を小さくしたような河を渡ったとき、
「この河、何というの。」と久慈は運転手に訊ねてみた。
「セーヌ。」
 と一言運転手は答えただけだった。
 じゃ、これがパリの真中だと一同は二の句も出ない有様だった。

 まだ日数も立っていないのに、パリへ著いたその夜のことを思うと、矢代はすでに遠いむかしの日のことのように思われた。夕暮の六時に駅へ著き、それからホテル・マス・ネへ著いたのは夜の十一時近かった。今なら僅か三十分で来られる所を自動車で廻いまいして四五時間もかかっていたのである。矢代は一人モンパルナスの今のホテルをとってからは、それぞれ各国へ散ってしまった船中の友だちからの便りもなく、ただパリに残った久慈と会うだけだった。著いたときは夜のためよく見えなく薄暗がりのままパリを予想に脱れた田舎だと思ったのも、夜があけて次の日になって見ると、ここは大都会と云うだけではなく、全く聞いたことも見たこともない古古とした数百年も前の仏閣のようなものだった。新しい野菜と水ばかりのような日本から来た矢代は、当座の間はからからに乾いたこの黒い石の街に、馴染むことが出来なかった。蛙は濡れた皮膚から体内の瓦斯を発散させて呼吸の調節を計るように、湿気の強い地帯に住んで来た日本人の矢代の皮膚も、パリの乾ききった空気にあうと、毛孔の塞がった思いで感覚が日に日に衰え風邪をひきつづけた。眼の醒めるばかりの彫刻や絵や建物を見て歩いても、人の騒ぐほどの美しさに見えず憂鬱に沈み込んだ。眼の前に出された美味な御馳走に咽喉が鳴っても、一口二口食べるともう吐き気をもよおして来てコーヒーと水ばかりを飲んだ。少し街を歩くと堪らなく水が見たくなってセーヌ河の岸の方へ自然に足が動いていくのだった。
「どうも俺の感覚はこりゃ蛙に似てるぞ。」
 と矢代は思って苦笑した。歩く度びに靴の踵から頭へびいんと響く痛さにいつも泣き顔を漂わせ、椅子にかけると何より矢代は靴を脱いだ。
「東京の友人たち、今ごろは定めし笑っとるだろうな。」
 とこう思うと、ヨーロッパ主義に邁進している誰も彼もの友人の顔が腹立たしくさえなって来た。
 彼は久慈ともよく会ったが、初めは話すことが何もなく黙っていた。ときどき久慈が、
「いいね、パリは。」
 とうっとりした顔で云うことがあったが、それにも矢代はそのままに頷きかねいらいらとした。
「東京とパリのこの深い断層が眼に見えぬのか。この断層を伝ってそのまま一度でも下へ降りて見ろ。向うの岸へいつ出られるか一度でも考えたか。」
 とこう肚の中で矢代は云う。しかし、見渡したところ、足場の一つもないこの大断層にどうして人人が橋をかけるかと思うと、他人ごとではなく自分の問題となって響き返って来るのである。それもやむなくいつの間にかそこを飛び越して、先ずパリに自分がいるのを知り、鼻の頭の乾いた犬のような自分の状態を見るにつけ、先ず考えることより何より今は運動だと気がついて、矢代は終日あてどもなく街街を歩き廻るのだった。ここは全く矢代には乾燥した無人の高い山岳地帯を登るのと同じだった。それもふとこの山は人がみな造ったのだと思ったその瞬間、がらがらッと念いは頂上から真逆さまに下まで転がり落ちた。一日に一度はこうしてどこかへ落ちつづけているうちに、だんだん転がり落ちているのは自分だけじゃないと思い始めて来るのだった。見渡したところ、どの外人の旅行者たちも辷り転がっているものばかりか、多くのものは尻もちついたまま動けぬものばかりに見えて来た。
「ほう、これは面白いぞ。」
 こんなに思い始めたころは、矢代も転がり辷っている自分の方がまだ高きに登っているようで次第に元気も増して来た。
 矢代の部屋は四階にある光線のあまり射し込まない十畳ばかりの部屋で、電話もあり隣りにバスもあった。久慈はよくここへ来たが、彼はあまり元気を失わぬので、著いた夜からもうホテルにいなかった。彼を思うと元気を無くさぬ何か理由を見つけたのにちがいないと矢代は思った。
「君、あの著いた夜はどこへ行ったんだ。僕らは随分探したんだよ。」
 とあるとき久慈に訊ねたとき、
「友人に電話をかけたらすぐやって来てね、モンパルナスへつれて来られたんだよ。何んでもこの近くだったな。語学教師を世話してくれと頼んでおいたもんだから、すぐ紹介してくれたのさ。」
 と久慈は事もなげに答えて笑ったことがあった。若い女の語学教師のアンリエットが久慈の所へ出入するのを矢代の見るようになったのは、それから間もなくのことだった。すべて矢代とは違って暢気で快活な久慈のことであったから、アンリエットに好意を持たれている久慈をひと眼で矢代は見抜くことが出来た。
「君はいつも元気がいいが、君の元気のいいのは油断がならぬぞ。今にがたがたッと来るから用心したまえ。僕はもう屋台骨が潰れてしまったからな。立ち上るのはこれからだ。」
 と矢代はある日腕を撫で撫で久慈にからかった。
「馬鹿いえ。がらがらッと来たのは僕の方が早いや。」
 二人は思わず笑い出したというものの、矢代は、これでいきなり外人の婦人に飛びついて、久慈のように電柱の蛙といった恰好で下からパリを見上げているものと、何んの飛びつく足場もなく喘ぎ悩みつつふらふらしている自分とでは、見るもの聞くものの感じの差の開きはよほど多いにちがいないと思った。それにしても、またとない東洋と西洋とのこの大きな違いを知る機会に、ただひと飛びにそこを飛び越してうろつく暇もないとは、久慈も勿体ない罪を犯したものだと、今さら恨めしく憤おろしく矢代は感じるのだった。
 冬はまだ全く去りかねたが、そのうち食事もようやく進むようになったある日、矢代と久慈とアンリエットと三人で、オートイユ競馬場にいったことがあった。この日は空もよく晴れていて、栗の林に囲まれた広い馬場の芝生の中で走る馬の姿は、それまで麻痺していた矢代の感覚を擦り落してくれた最初の生き物の美しさだった。日本でも見馴れた洋種の馬とここの馬の共通した栗毛の光った美しさは、捩子《ねじ》の利かない瓦斯にぼッと火の点くように、あたりの景色の美しさまで急に頭に手繰りよって来るのだった。競馬の終りの夕刻のころになって、急に春寒の野に霙が降って来たが、最後の障害物を飛び越した馬は騎手を振り落し、すんなりとした裸体で芽の噴きかかった栗の林の中を疾走してゆくその優美さ――矢代は霙に降り込められつつも立ち去ることが出来なかったその日の夕暮の感動を今も忘れない。
 この日あたりから、矢代はパリの静かな動かぬ美しさが少しずつ頭に沁み入って来たといって良い。彼は一人セーヌ河の一銭蒸気に乗って河を下って見た。またバンセンヌの森へも行き、サンジェルマンの城にも出かけた。モンモランシイやフォンテンブロウの森などとパリの郊外遠くまで出かけてもいった。一度パリからこのように外へ出かけ、そうしてパリへ戻って来る度びに、この古い仏閣のような街の隅隅から今までかすかに光りをあげていたものが次第に光度を増して来るのだった。
 こうして、矢代は今までぐらぐらと煮え返っていたような頭の中の動きが、街の形に応じて静まるのもまた感じた。さまざまな疑問は疑問として彼は解決を急ごうとはしなくなって来た。急いだところで分らぬものは分らぬのだった。彼の信じることの出来るものは、先ず今は自分の中の日本人よりないと思ったからである。しかし、もしこんなことを、うっかりと日本人に向って云えば、ここにいる日本人たちはどんなに怒るかとその嘲笑のさままでが眼に見えたが、眼に見えようとどうしようと、日本と外国の違いの甚だしさははっきりとこの眼で見たのだ。誰から何を云われようとも自分のことは失わぬぞと矢代は肚を決めてかかるのだった。
 こんな日のある午後、矢代は久慈と歩いているとき、千鶴子がいよいよロンドンから来ると告げられたのである。久慈と矢代は今までとて船中の客の話をどちらからもよくしかけて懐しがったが、千鶴子の話だけはどういうものかあまり触れ合わないように心掛けるのだった。沖や医者や真紀子などから来る便りは明らさまに話す久慈だのに、千鶴子のことだけ話さぬ久慈の気持ちを矢代は想像すると、アンリエットとの間にもうこれで何事か進行しているものがあるのではなかろうかと思ったりした。
「千鶴子さんが来たら、宿をどこにしたものだろう。」
 ロンドンから千鶴子がいよいよ来るというときに、こういう心配を久慈が矢代にもらすのも、勿論そこにアンリエットの影のあるのを矢代は感じた。彼はいつもに似合わず沈み込んでいる久慈を見て云ってみた。
「君が千鶴子さんの世話をするのが困るなら、僕がしたってかまわないよ。」
「そうか、迷惑じゃなかったら君に頼みたいね。僕は千鶴子さんと別にどうと云ったわけじゃないんだが、船の中であんなに親切にしておいて、今になってがらりと手を変えるようじゃ、あんまり失礼だからね。」
 久慈は急に気軽くなった調子で矢代を見た。
「君がいいんなら、僕が世話するよ。」
「それで安心だ。僕はね、千鶴子さんが嫌いじゃないんだが、今は日本人は君だけで結構なんだ。この上日本人と交際しちゃ、また言葉が日本語に舞い戻ってしまうからな。」
 矢代は久慈がパリへ著いて以来、性急に外人らしくなることに専念している様子を見るのは、今に始まったことではなかったが、何となくその心の持ち方が田舎者らしく感じられ、その度びに矢代は久慈に突っかかっていきたくなる自分だと思った。
「君、夕飯にアンリエットを呼んでも良いだろう。今夜は僕が御馳走するからね。」
 久慈の云うままに二人はサン・ミシェルまで来ると、左のノートル・ダムを背にしてパンテオンの方へ上っていった。

 サン・ミシェルの坂を左に曲った所にイタリア軒という料理屋がある。前から久慈はここの伊太利料理を好んでいたのでこの夜の晩餐もここにした。久慈が途中でアンリエットに電話を通じておいたから、矢代とアッペリティフを飲んでいる間にアンリエットは薄茶のスーツに狐の毛皮を巻いて這入って来た。久慈は彼女に椅子をすすめながら、
「今夜二人で踊りに行こうという約束があるんでね、君、御飯を食べたら、遠慮してくれ給え。」
 と矢代に云ってメニューを見た。
「矢代君、君は何にする。またプウレオウリか。アンリエットさん、あなたはよろしく頼みますよ。」
 羊の肉の薄焼に雛の肩肉と、フロマージュ付きのスパゲッティ、それにサラダを註文して三人は葡萄酒を飲んだ。ここの料理屋にはポール・フォールという詩人がよく来ているので、料理通には有名だったが、久慈も矢代もまだ一度もその詩人を見たことがなかった。
「君、僕も会話を勉強したいんだが、暇があったらアンリエットさんに、ときどき僕の方へも廻って貰ってくれないかね。」
 矢代は久慈とアンリエットとを眺めながら冗談らしく云ってみた。
「いや、それや、駄目だ。この人は今は僕の秘書見たいだからね。いろんなことを験べて貰ってるので、急がしいんだよ。」
「しかし、月謝を払って僕が生徒になりたいと頼むの、何が悪いんだ。」
「それや君のは日本の理窟だよ。ここじゃ、日本の理窟は通らないんだからね、郷に入れば郷に従えってこと、君、知ってるだろう。」
「それや、日本の理窟じゃないか。」と矢代は云って笑った。
「ところが、これだけは万国共通の論理だよ。郷に入れば郷に従うのは当然さ。」
「そんなら、日本へ来ている外人はどうなんだ。日本人だけが郷に入って郷に従わねばならんのなら、何も万国共通の論理の権威はなくなるじゃないか。」
 こういうことになれば、例え笑話といえども矢代と久慈との論争はいつも果しがなかった。
「今日は君、もう勘弁してくれ。今夜はパリの礼儀に従おうじゃないか。」
 久慈はアンリエットのコップに葡萄酒をついで云った。アンリエットはさきからにこにこしながら、美しい前歯で前菜の赤い小蕪を噛んでいたが、饂飩のようなスパゲッティが湯気を立てて出て来ると巧にフォークへ巻きつけた。
「じゃ今夜は僕がおごろう。」
 と矢代は云った。ここにいると、どういうものか理窟に落ちることばかりの生活がつづき、避け難くなる場合が多いので、理窟を吹きかけた方からその日の晩餐の支払いをするという約束が前から二人の間にあったので、久慈も口へ入れかけたスパゲッティをそのまま、しめたとばかりにはたと卓を打った。
「そうだ。忘れていた。今夜こそは君だよ、これで百フラン儲かった。」
 久慈は早速アンリエットにフランス語で、今夜の御馳走は矢代が払うから幾ら食べても良いと説明した。
 ありがとうとアンリエットは日本語で礼を云うと葡萄酒を矢代に上げて笑った。矢代はアンリエットから聞くのはいつもフランス語ばかりで日本語をほんの少しより耳にしなかったが、彼女の父がマッサアジュリーム船舶会社の横浜支店にいたときに三年も習ったということであったから、恐らく平易な日本語なら何事も分るのであろうと思った。
 薄明るい夕暮が窓の外へ迫って来た。アンリエットの折るセロリの匂いが白い卓の上に漂っている中で、矢代は若鶏の脇腹にたまった露を今は何物にも換え難い味だと思った。
「フランソア一世だか八世だか、世の中にこれほど美味いものがあろうかと云って、どんなにお附きの者がとめても台所へ走って行って、こ奴にかぶりついたということだが、全くこれだけはやめられないね。」
 と矢代は云いながらナイフを鶏の脇腹へぐっと刺した。
「しまった。僕もそ奴を食べるんだった。僕が払うんだと思って倹約したので損をしたぞ。」
 久慈はコールドビーフのような羊のなよなよした薄焼を切りながら、しきりに矢代の鶏に秋波を投げた。互に見せびらかしつつ食べる晩餐の敵意は、食物の味を一層なごやかなものにするのであった。
「横浜のへいちんろまだあって。」
 とアンリエットは訊ねた。
「ありますあります。」
「あそこのスフタ、忘れられないわ。ね、久慈。」
 とアンリエットは久慈の方を向くと、彼にだけはフランス語で、自分は支那料理が好きだが、パリではどこのが一番美味かと訊ねた。
 菓物棚からオレンジが出て来ると、また、アンリエットはパリの料理屋の質を知るためには、菓物棚に並んだ菓物を見るのが何よりだと矢代に教えた。オレンジからコーヒーに変ると久慈は口を拭き拭き延びをして、
「さアて、明日は千鶴子さんが来るんだが、弱ったなア。船の中と陸の上とは道徳が全く違うってことを、どうしたら女の人に説明出来るか、むつかしいぜ、これや。」
「そんなことは、君より向うの方が心得てるよ。こっちが変ってれば千鶴子さんだって変っているさ。」
「じゃ、その方は宜敷く君に任せるとしてだね。妙なことに、アンリエットさんのことを僕の手紙に書いたんだが、それにも拘らず、君に手紙をよこさずに僕にくれるというのは、第一これ君にはなはだ失礼じゃないか。」
「何も失礼なことあるもんか。それだけ君を使いたいんだから、僕を尊敬してるんだ。」
 足をとられたように久慈はしばらく矢代を睨んでいたが、急ににやにやすると、
「いったい、君はそれほど威張れることを、無断でしたのか。」
「僕は婦人に対してだけは、むかしから春風駘蕩派《しゅんぷうたいとうは》だからな。何をしたか君なんか知るものか。」
 いくらか葡萄酒の廻りもあってつい矢代も鼻息が荒くなった。
「さア、今夜は君らから放れてやらないぞ。どこまでもついて行ってやろう。ギャルソン。」
 ボーイが来ると矢代は勘定を云いつけた。
 支払いをすませて外へ出たときはもう全く夜になっていた。三人はゆるい坂をルクサンブールの方へ登っていった。たゆたう光の群れよる街角に洋傘のような日覆が赤と黄色の縞新しく、春の夜のそぞろな人の足をひいていた。
 カフェー・スフレのテラスは満員であったが、ようやく三人は椅子を見つけて腰を降ろした。
「あたし、横浜へ行ってみたいわ。」
 とアンリエットはショコラの出たときに矢代に云った。
 並んだ黄色な籐椅子にいっぱいに詰っている外人たちを久慈は煙草を吹かしながら眺めていたが、突然矢代の方を向き返ると真面目な顔で質問した。
「君、君はパリへ来て一番何に困ったかね。」
 矢代はしばらく黙って考えていてから答えた。
「そうだね、誰一人も日本の真似をしてくれぬということだよ。」
「ははははは。」
 久慈は思わず噴き出した。しかし、急に笑いとまると彼もだんだん沈鬱になっていった。ショコラの軽い舌触りも不用意な久慈の質問で味なく終ろうとしかかったときである。久慈は歎息をもらすと、
「あーあ、どうして僕はパリへ生れて来なかったんだろう。」
 と肘ついた掌の上へ頬をぐったりと落して呟いた。
 瞬間、矢代は胸底から揺れ動いて来る怒りを感じて青くなった。けれどもそのまま身動きもせず、街路樹の立ち並んだ黒黒とした幹をじっと眺めていた。
「僕はヨーロッパが日本を見習うようにしたら、どんなに幸福になるかとそればかりこのごろ思うね。どうもそうだ。」
「ふん。」
 久慈は鼻を鳴らしてボーイを呼んだ。勘定をすませてから三人はルクサンブールの外郭を黙って鉄柵に添って左の方へ廻っていった。意地に意地を張り合う二人の言葉だとどちらにも分っていながらも、しかし、この久慈という聡明で高級な日本人に、どうしてこのような馬鹿な心がひそんでいるのかこれが矢代にとって何より残念でたまらぬ日本だった。
「知識というものはたしかに人間を馬鹿にするところもあるんだね。へとへとにさせて阿呆以上だ。僕のパリへ来た土産はそれだけだ。こんな所へ来て嬉しがってる人間は、まア、嬉しがるような、お芽出度いところがあるんだな。」
 と矢代は一度は突き衝らねば承知の出来ない胸突くものが、体内でごとごと鳴るのを感じて云った。
「それじゃ、早く帰ればいいじゃないか。」
 久慈は嘲けるように笑った。
「帰ろうと帰るまいと、僕の勝手だよ。僕は人間というものが、どこまで馬鹿になるものか、も少し見てやろうと思ってるんだ。」
「何を君は怒ってるんだ。君は日本にもう一度、丁髷《ちょんまげ》と裃《かみしも》を著せたくてしょうがないんだよ。」
「そんなことは君の知ったことじゃないよ。君はパリの丁髷と裃とを著てれば、文句はないじゃないか。」
「日本の丁髷よりや、パリの丁髷の方がまだいいや。今ごろ二本さして歩けるかというのだ。」
「二本さして悪けれや裸体になれ、日本人がまる見えだぞ。」
「ははははは。」
 久慈は放れていたアンリエットの腕を小脇にかかえてヒステリックに笑うと、矢代に、
「君、もうここで別れよう。面白くなくなった。僕は今夜は一つ楽しみたいんだからね。」
「こうなって楽しめる奴は、楽しめよ。」
「じゃ、失敬、君のような阿呆にかかっちゃ、日本人も出世の見込みがなくなるだけだよ。」
「そんなに出世をしたいのか。」
 と矢代は云うと、放れて行こうとする久慈の方を見詰めて立っていた。すると、突然、アンリエツトが矢代の傍へよって来た。
 久慈は矢代の傍へ行こうとするアンリエットの腕を引きとめて、
「行こう行こう。」と引っぱった。
 しかし、アンリエットは矢代に近づいて、
「あなたもいらっしゃいよ。」
 と云いつつ矢代の腕をかかえると、右手に久慈の腕もかかえ、ルクサンブールの角を右に曲った。
「ドームへ行きましよう。まだ踊りには早いわ。」
「どうして君と僕とは、こんなに喧嘩ばかりするのかね。」
 と久慈は苦笑をもらして矢代に云った。
「そんなことはパリに聞け。俺に感心した奴は、もう死んでる奴だといってるじゃないか。見ればいい。ここを。」
 片側の鋪道に青い瓦斯灯が立っていて、人一人も通らぬその横には蘚の生えたような石の建物がみな窓を閉め道に添って曲っている。矢代はマロニエの太い幹と高い鉄柵との間を歩きながら、森閑とした夜のこの通りの美しさに今はもう云い争う元気もなくなった。
「矢代さんはどこにいらっしゃるの。」
 まだ一度も婦人と腕を組んで歩いたことのない矢代は、アンリエットから力を込めて腕を組まれても片身が吊り上っているように感じられ、ともすれば足が乱れようとしかかった。
「ラスパイユ、三〇三です。」
「三〇三。」
 同じ番地に一つより家のないパリでは、番地を云えばすぐ建物が浮んで来るらしく、アンリエットも、「ああ、あそこ。」と頷いて、
「じゃ、明日行ってよ。夕方の六時に行くわ。」と慰める風に云った。
「どうぞ。」
 と矢代は云ったものの久慈の顔色も少しは考えねばならなかった。
「君、いいのかい?」
「まア、いいや、僕はここでならどんな目に逢おうと満足だ。ここのこの美しさを見ろウ。」
 渋い鉱石の中に生えているかと見える幹と幹との間に瓦斯灯の光りが淡く流れ、こつこつ三人の靴音が響き返って聞えて来る。矢代はふとショパンのプレリュウドはここそのままの光景だと思った。しかも、その中を、腕を組まれて歩いている自分であった。
「日本にこれだけ美しい通りの出来るまでには、まだ二百年はかかるよ。僕らはここを見て日本の二百年を生きたんだよ。たしかにそうだよ。今さら何も、云うことないじゃないか。」
 涙を浮べて云うような久慈の切なげな言葉を聞いては矢代もも早や意見は出なかった。アンリエットの薔薇の匂いが夜の匂いのようにゆらめくのを感じながら、これが二百年後の日本にも匂う匂いであろうかと、心は黄泉《よみ》に漂うごとくうつらとするのだった。

 矢代と久慈がブールジエ飛行場まで来たときは、ロンドンから千鶴子の来る時間に間もなかった。晴れ渡った芝生の広場に建っているホールの待合室で、パリを中心に光線のように放射している無数の航空路の地図を眺め二人は立っていた。ときどき夕暮から夜へかけて、突然、日本へ帰りたい郷愁に襲われるこのごろの矢代は、一途にここからシンガポールまで飛びたいと思った。
「ロンドンへもそのうち、一度行こうじゃないか。ね、君。」
 と久慈は久慈で何かの夢想にかられているらしい。
「ロンドンも良いが、それよりそろそろ僕は日本へ帰りたくなったね。」
「君も困り出したのか。外国へ来て、初め困らぬ奴は、必ずそ奴は悪者だというから、も少し君も辛抱するさ。」
「そんなら君は悪者の傾向があるぞ。」
「いや、僕だって困っているが、ただ僕のは困らぬ方法を講じているだけだよ。もうこうなれば楽しむより法はないからね。」
 どんなに意識が確かだと思っていても、どこかに矢張り病的なところの生じてしまっているのは否めないこのごろの二人だったが、どこが病的になっているのかそれぞれ二人には分らなかった。ただ一方が下へ下れば、他の方がそれが下っただけ上へ上げねば心の均衡のとれぬもどかしさにいらいらとするのだった。しかもそんな状態がいつも二人につづくのである。今もまたそんなにふとなりかかったとき、西の空からもうプロペラの鳴る音が聞えて来た。久慈は窓から空を眺めてみた。
「あれだよ。空から下って来るのも良いものだな。天降りというやつだ。」
 銀灰色の一台の単葉がエア・フランスのマークを尾につけつつ見る間に大きく空中に現れた。
「イギリスの飛行機に乗って来ないところを見ると、よほどパリへ来たかったのだね。降りるぞ。」
 矢代は入口の方へ廻って斜めの構えで旋廻して来る機体を眺め、もう真上からこちらを見ているにちがいない千鶴子を想像するのだった。やがて、飛行機が草の上を辷りつつホールの正面へ来て停ると、胴の中から昆虫のようにぞろぞろ人人が降りて来た。千鶴子はまだ廻りやまぬプロペラの風に吹かれながら六七番目に現れた。
「いるいる。」
 と久慈は云って喜んだ。ぴたりと身についた黒い毛の外套も船中の千鶴子とは違って立派であった。歩調も異境に馴れたと見え、誇りを失わぬ自信をもって歩いて来る。彼女はまだ二人のいるのには気附かぬようであったが、何んと女は早く変るものだろうと矢代は思った。
「変ったようだね。千鶴子さん。」
「うむ。」
 千鶴子一人が外人の中に混っているために、出て来た一団の空気にある光彩を与えているようなこの光景を見ていると、矢代は何んとなく見ぬ間に美しく育った名馬を見ているような明るい興奮を感じた。
 千鶴子は二人を見ると、にっこりと笑い懐しそうに近よって来た。久慈はすぐ千鶴子に握手をして、
「揺れなかったですか。」と訊ねた。
「いいえ、でもまだ耳が何んか少しへんなの。」
 久慈に握手した手を千鶴子は矢代にも出そうとしかけたが、ふと手をひっこめ、
「よく来て下さいましたのね。矢代さんにもお報せしようと思ったんですけど、よしましたの。」
 何んの意味であろうか、軽く千鶴子の笑ううちにもう後ろで荷物の検査が始った。
 とにかく、これで先ず良かった、と矢代は思い、検査台で荷物を開けている千鶴子の後姿を見ながらほッと安堵の胸を撫でおろした。マルセーユへ著いたときには、あれほど儚なく色褪せて見えた千鶴子であったのに今はこんなに美しく見えるとは、こちらもこれで、日日夜夜異国の婦人を見馴れたからであるからか。粗い肌の造りの大きいヨーロッパの婦人に比べて、千鶴子は一見底深い光沢を湛えた瑪瑙のようにきりりと緊って見えるのであった。
 しかし、それにしても何んという奇妙なことだろう。マルセーユであんなに憐れに物悲しく千鶴子の見えた最中に、今にも千鶴子と結婚しようと覚悟を決めたこともあったのに、それが一度び水を換えられた魚のように美しさを取り戻した千鶴子に接すると、も早やマルセーユの切ない心は矢代から消えて来るのだった。
 これで良い。これで千鶴子を一人ヨーロッパへ抛り放しても、もう自分の心配はなくなったとそんなことまで矢代は思った。千鶴子と久慈と矢代は、飛行館のバスには乗らず別にタクシを呼んでパリまで走らせた。
「ホテルは取ってありますよ。あまり僕らと離れたところは不便かと思って、近くにしました。」
 と久慈は千鶴子に云った。千鶴子の思いがけない美しさに、久慈も前夜のことなど忘れたのであろうと矢代は思ったが、しかし、それとて船中で千鶴子に示した親切さを思うと、自然と矢代も身を引くあきらめを感じて落ちついて来るのであった。自動車の中でも千鶴子と久慈とはしきりに話をしたが、矢代は絶えず日本風の淋しい顔のまま黙っていた。パリがだんだん近よって来ると、千鶴子は窓から外を覗きながら、
「もうここパリなの。何んて優雅なところでしょう。あたし、これじゃもうロンドンへ帰れないわ。」
 浮き浮きして云う千鶴子を久慈は抱きかかえるようにして、
「こちらにいなさいよ。女の人はパリじゃなくちゃ駄目ですよ。フロウレンスへ行くって、いつ行くんです。行くなら僕も一緒に行こうかな。」
「半月ほどしたら行きたいと思うんだけど、でも、あなたは駄目じゃないの。アンリエットさんとかいらっしやるって、お手紙に書いてあったじゃありませんか、」
 千鶴子のくすぐるように云う微笑を久慈は臆せずにやにやして、
「手紙に書くほどだから、分ってるでしょう。ね、君?」
 と突然鋭く冠せかかって矢代を見た。
「うむ。」
 と矢代はもううるさそうに答え、自分が千鶴子に久慈のような手廻しの巧みなことが出来ないなら、せめて外人から千鶴子を護るだけでも久慈の思案に従いたいと思うのだった。
「アンリエットはあれは矢代君を好きなんですよ。昨夕も僕はひどく弱らされてね。君、知らないだろう。何んにも。」
 と久慈は笑いながらまた矢代の方を覗いて訊ねた。
「そう。」
 千鶴子もちらりと微笑をもらして矢代を見たが、そのまま黙って自動車に揺られていった。
 矢代は、アンリエットが昨夜自分に好意をよせた表現を特に一度もしたとは思わなかったが、強いて千鶴子に弁解する要もまたこのときの彼にはなかった。
「千鶴子さんがパリへ来て下すったので、僕もほっとしましたよ。もう毎日毎日久慈君と僕は喧嘩ばかりしてるんです。」
「まア、どうして?」と千鶴子は意外な様子で笑顔を消して訊ねた。
「それを云うと、忽ちここでも喧嘩になるから云いませんがね。ここにいると、どういうものだか、一度云い出したら後へは退けなくなるんですよ。どうも妙なところだ。僕は云い合いなんか日本じゃしたことはないんだが。」
「そうだ、たしかにそうだ。」
 と久慈も云った。
「じゃ、困ったところへあたし来たのね。どんなことで喧嘩なさるのかしら。これからもそんなじゃ、あたし困るわ。」
「それが一口じゃ云えないんですよ。なかなか、こ奴――つまりね。」
 と矢代は少し早口で云った。
「ここじゃ僕らの頭は、ヨーロッパというものと日本というものと、二本の材料で編んだ縄みたいになっていて、そのどちらかの一端へ頭を乗せなければ、前方へ進んでは行けないんですね。両方へ同時に乗せて進むと一歩も進めないどころか、結局、何物も得られなくなるのですよ。」
「それや、そうね、あたしも何んだかそんな気がしますわ。」
 と千鶴子は幾らか思いあたる風に頷くのだった。
「しかし、それは、実は日本にいる僕らのような青年なら、誰だって今の僕らと同じなんだろうけれども、日本にいると、黙っていても周囲の習慣や人情が、自然に毎日向うで解決していてくれるから、特にそんな不用な二本の縄など考えなくともまアすむんだなア。へんなものだ。」
「いや、それや君、考えなくてすむものか、それが近代人の認識じゃないか。」
 と久慈はまた横から遮った。
「それは一寸待ってくれ。それはまア君の云う通りとしてもさ、しかし、日本でなら人間の生活の一番重要な根柢の民族の問題を考えなくたってすませるよ。何ぜかと云うとだね、僕らはその上に乗ってるばかりじゃなく、自分の中には民族以外に何もないんだからな。自分の中にあるものが民族ばかりなら、これに関する人間の認識は成り立つ筈がないじゃないか。認識そのものがつまり民族そのものみたいなものだからだ。」
「そんな馬鹿なことがあるものか、認識と民族とはまた別だよ。」
 と久慈はもう千鶴子を迎えに自分らの来たことなど忘れてしまったようだった。
「しかし、君の誇っているヨーロッパ的な考えだって、それは日本人の考えるヨーロッパ的なものだよ。君がパリを熱愛することだってまア久慈という日本人が愛しているのだ。誰もまだ人間で、ヨーロッパ人になってみたり日本人になってみたり、同時にしたものなんか世界に誰一人もいやしないよ。みなそれぞれ自分の中の民族が見てるだけさ。」
「しかし、そんな事を云い出したら、万国通念の論理という奴がなくなるじゃないか。」
「なくなるんじゃない。造ろうというんだよ。君のは有ると思わせられてるものを守ろうとしているだけだ。」
「それや、詭弁だ。」と久慈は奮然として云った。少し乱暴なことを云い過ぎたと矢代は後悔したが、もう致し方もなくにやにやして答えるのだった。
「何が詭弁だ。万国共通の論理という風な、立派なものがあるなら、僕だって自分をひとつ、そ奴で縛ってみたいよ。しかし君、僕だって君だって、それとは別にこっそり物いいたい個人の心も持っているよ。それは自由じゃないか。」
 殊さら千鶴子が傍で聞いているからの議論ではもうなくなり、二人の青年の捻じ合うような頭の激しいもつれのまま、いつの間にか三人を乗せた自動車はパリの市中へ突き進んでいた。それでも久慈の興奮は静まらなかった。彼は矢代の膝を叩きながら、
「君の云うことはいつでも科学というものを無視している云い方だよ。君のように科学主義を無視すれば、どんな暴論だって平気に云えるよ。もしパリに科学を重んじる精神がなかったら、これほどパリは立派になっていなかったし、これほど自由の観念も発達していなかったよ。」
 議論の末に科学という言葉の出るほど面白味の欠けることはないと矢代は思い、久慈もいよいよ最後の飛道具を持ち出して来たなと思うと、自然に微笑が唇から洩れるのであった。
「科学か。科学というのは、誰も何も分らんということだよ。これが分れば、戦争など起るものか。」
「そんなら僕らは何に信頼出来るというのだ。僕たちの信頼出来る唯一の科学まで否定して、君はそれで人間をどうしょうと云うのだ。」
 傍に千鶴子がいるので今日の争いは手控えようと矢代は思っていたのだが、しかし、久慈は矢代に食いつかんばかりに詰めよった。矢代はそれを引き脱した。
「君はヨーロッパまで出かけて来て、そんな簡単なことより云えないのかね。科学などということは、日本にいたって考えつけることじゃないか。」
 久慈はさッと顔色が変ると顔の筋肉まで均衡がなくなった。
「君はそれほど知識を失ってしまって得意になれるというのは、それやもう、病気だ。病気でなければ、そんな馬鹿な、誰でも判断出来る認識にまで反対する筈がないじゃないか。」
「僕は君の云うことを、間違っていると云うんじゃないよ。そんな、誰にでも分っていることなど、何も君からまで聞きたくないと云うだけだよ。分りきったことを、間違いなく云えたって人間この上どうともなるものか。」
「そんなら、君みたいに間違いを云えと云うのか。」
「僕の云うことは、君のような、科学をまじないの道具に使うものには、間違いに見えるだけだと云うのだよ。僕は君より、もっと科学主義者だと思えばこそ、君のように安っぽく科学科学といいたくないだけだ。君は科学というものは、近代の神様だということを知らんのだよ。それが分れば人間は死んでしまう。」
「ふん、そんな、科学主義あるかね。」
 外っ方を向くと、そのまま何も云わなくなった久慈の顎から耳へかけて筋肉が絶えずびくびくと動いていた。
「随分お変りになったのね。毎日パリでそんなことばかり云い合いしてらしたの。」
 と千鶴子はおかしそうににこにこして矢代に訊ねた。
「まア、そうです。ここじゃ、こんな喧嘩は楽しみみたいなものですから、気にしないで下さい。いつでもです。」
「じゃ、これからあたし、毎日そんなことばかり伺わなくちゃならないのかしら。いやだわね。」
 と千鶴子は眉をひそめ窓の外の市中を眺めた。
「あなたがいらっしゃれば、云わないような工夫をしますよ。」
「いや云うとも。」
 と久慈はまだ腹立たしさの消えぬ口吻で何事か云いたげだった。

 千鶴子には日のよくあたる部屋をと思って、矢代はルクサンブールの公園の端にあるホテルを選んでおいたが、それが千鶴子にはひどく気に入った。
 千鶴子の部屋は壁一面に薔薇の模様のある六階の一室だった。窓を開けると、公園から続いて来ているマロニエの並木が、若葉の海のように眼下いっぱいに拡って見えた。その向うにパンテオンの塔と気象台の塔とが霞んでいる。
「この木の並木は藤村が毎日楽しんで来たという有名なあの並木ですよ。あれからもう二十年もたっていますから、そのときから見れば、随分この木は大きくなっている筈ですよ。」
 と矢代は説明して、
「このすぐ横にリラというカフェーがありますよ。ここへも藤村が毎日行ったということですから、ひょっとすると、このホテルは藤村のいたホテルかもしれませんよ。」
「じゃ、リラへ行ってみたいわ。」
 と千鶴子は嬉しそうに窓から右の方を覗いてみて云った。荷物の整理と云っても何もないので、三人はすぐホテルを出ると夕食までルクサンブールを散歩しようということになった。
「でも、あたし、さきにリラへ行きたいわ。」

「もうリラなんか昔語りでつまらんですよ。あそこは老人ばかりで、集ってるものが皆ぶつぶつ云ってるだけだ。」
 久慈はそう云うとひとりマロニエの並木の下へさっさと這入っていった。枝を刈り込んだ並木の姿は下から仰ぐと、若葉を連ねた長い廻廊のように見えた。その中央に、跳り上る逞しい八頭の馬を御した女神の彫像が噴水の中に立っていて、なだらかな美しい肩の上に夥しい鳩の糞が垂れていた。
「君、もう帰らないといけないじゃないか。アンリエットが六時に行くと云ったぞ。」
 と久慈は矢代に云って時計を出した。
「あ、そうだ。しかし、あれは僕をからかったんだよ、来るものか。」
 矢代は忘れていたアンリエットとの時間を思い出したが、もう暫くは千鶴子と一緒にいたいと思った。
「いや、それや駄目だ。フランス人は時間を間違うことは絶対にないよ。もしそのときこちらが一分でも間違ったら、もう交渉はぴたりと停ったことになるんだからね。日本とそこは心理的に違うんだよ。」
 この日に限って強いて、アンリエットを押しつけるようにしたがる久慈だったが、それも自分をからかうには手ごろな面白さなのだろうと矢代は思った。
「しかし、パリの女と二人きりになるのは不便だね。何も云うことないじゃないか。君は初め何んと云ったんだ?」
「日本のことでも話せばいいさ。君の得意なところを一席やれよ。」
 矢代は夕食の時間と場所とを打ち合せて二人と別れ自分のホテルへ戻っていった。

 アンリエットが矢代のところへ来たのは約束の六時であった。彼女は部屋へ這入って来るとすぐ握手をして、
「今日はブールジェへいらしったの。」とフランス語で訊ねた。
「行きました。」
 と矢代が日本語で答えると、いや今日からは日本語じゃいけない、この時間は勉強ですものとアンリエットは云って、矢代のフランス語の答えを待った。冗談のつもりで語学教師として彼女を廻して貰いたいとうっかり久慈に頼んだのに、それに早くも手元へ辷り込んで来たアンリエットであった。
「ブールジェへ行きましたよ。千鶴子さんは久慈とルクサンブールを歩いています。」
 と矢代は幾らかからかい気味になり、ぼつぼつした下手いフランス語で答えた。
「そう。あなたはわたしを待って下すったのね。有り難う。」
 アンリエットは見たところ目立った美人とは云えなかったが、ふとかすめ去る瞬間の笑顔に忘れ難ない美しさが揃った歯を中心にして現れた。
「久慈君はあなたに逢えば、日本のことを話せと云うんですが、日本のことをあなたはそんなに知りたいですか。」
「ええ、それや知りたいわ。あたし、日本の男の方それや好きなの。あたし、住むならパリか東京よ。」
「じゃ、あなたはパリ人の中でも日本人らしい人なんですね。」
「それはどうかしら、自分のことは分らないから。」
 このような会話を矢代は詰り詰り云いつつ婦人を機械と見ねばならぬ冷たさから、一種の明るいヨーロッパ式な気軽さも感じて話が楽になって来た。
「僕はどういうものか、パリへ来てから日本のことが気にかかるんですよ。あなたは日本のこと書いてある新聞を見たら、これから皆買って来てくれませんか。僕は三倍の値で買いますから。」
「駄目よ、日本語で云っちゃ。もう一度。」
 とアンリエットは笑いながら矢代の口を手で制した。
 矢代は会話が面倒になって来ると、純粋な発音を習うためにアンリエットに本の音読を頼んでみた。すると、一つの本を二人で見なければならぬ必要から、アンリエットは椅子を動かし頬も触れんばかりに近づけた。矢代は何んの計画もなく音読を頼んだのに、それがこんなにま近くよりかかられると、これは失敗したと後悔した。アンリエットにしては、語学を習う日本人なら、何れこの姿勢が面白くて習うのだと思い込んでいるらしい様子がまた矢代に落ちつきを与えなかった。
 矢代はサシャ・ギトリの戯曲の会話をアンリエットに随って、自分も読みすすんだ。やや鼻音を帯びたうるんだ肉声で流れるように読むアンリエットは、渦巻く髪をときどき後ろへ投げ上げた。どちらも片手で受けている頁の上へ曲げよせている窮屈な肩がその度びに放れたが、またいつの間にか両方から傾きよった。矢代は外国へ来た日本人の多くの者が、みなこのような勉強法をして来たのだとふと思った。沢山な金銭を費っての勉強であってみれば、楽しみながらの勉強も自然なことと思われたが、しかしたとえ毎日これから今のような険悪な姿勢がつづくのを思うと、ひとつ日本の礼儀の伝統だけは持ち堪えていたいものだと身を崩さず緊きしめてかかるのであった。この音読の練習は切迫した肩の支持のために、時間も意外に早くすぎていった。アンリエットは本をばたりと閉じると、
「今日はこれだけにしときましょう。」
 と云って椅子から立ち上った。矢代はアンリエットをあくまで教師として扱いたかったから、
「ありがとう。それから研究費は一時間幾らです。」とすぐ訊ねた。
「久慈さんのは二十|法《フラン》ですが、あなたのは十法にしときますわ。」
 向うから出かけて来て一時間十法なら日本金にして二円五十銭であるから、破格に安い値であった。
「それはありがとう。」
 と矢代は礼を云ったものの、久慈の値より負けられたとあっては自然に食事の費用で補いたくなるのだった。アンリエットは若芽色の皮の手袋をはめ、
「あたしの発音法はこれでまだ完全じゃないのよ。パリの人の発音はたいていはまだ駄目。やはり、一度ギャストンバッチの女優学校へでも這入って、正規の発音を習わなきゃ、信用出来ないわ。」
 このパリの高い文化でさえがそうなのかと矢代は驚いた。
「そういうものですかね。しかし、日本にも日本語の完全な発音なんかどこにもないですよ。東京の者だって、つまりは東京の方言を使っているんですからね。」
 アンリエットは先に暗い螺線形《らせんけい》の階段を降りて行った。後から矢代は降りるのだが、自然に眼につくアンリエットの首の白さも人知れず眺める気持ちは、不意打ちを喰わせるように感じられ彼は幾度も眼を転じた。しかし、螺線形の狭い階段は降りても降りても変化がなかった。絶えず眼につくものは階上からつづいて来たアンリエットのなだらかな首ばかりでありた。しかも、巻き降りている階段は長いので撃たれたように前に下っている首筋は、見る度びに眼のない生ま生ましい顔のように見え、矢代はだんだん呼吸の困難を感じて来るのだった。
「ドームで、久慈と千鶴子さんが待ってる筈ですから、あなたもどうです。」
 千鶴子が傍にいればアンリエットは遠慮をするかもしれぬと思い、矢代はそんなに云ったのであるが、むしろ彼女は悦ばしげに、
「あたしが行ってもいいんですか。」
 と訊き返した。
「どうぞ。」
 二人は二列に並んだ篠懸の樹の下を真直ぐに歩いた。地下鉄の口からむっとする瓦斯が酸の匂いを放って顔を撫でた。矢代はこの気流に打たれると、いつも吐き気をもよおして横を向き急いでその前を横切るのである。
「あの地下鉄の入口の所の飾りね。あれは大戦前のものなんだけど、みなあのころはあんな幽霊のようなものばかり流行したのよ。人の頭もそうだったんですって。」
 そんなに云われるままに、矢代は見るとなるほど入口は蕨のような形の曲った柱が二本ぬっと立っているきりである。
「あんな幽霊のようなものが流行るようじゃ、戦争も起る筈だな。」
「そう。あのころは幽霊の流行よ。有名なことだわ。」とアンリエットは云った。
 しかし、今はどうであろうかと矢代は思った。街には日本の玩具が氾濫していた。カフェーや料理屋の器物はほとんどどこでも日本製のものばかりだった。一番物価の安い日本から一番高い物価のパリへ来た矢代は、街を歩いているだけで世界の二つのある極を見ているようなものだと思った。
 ドームへ来ると、人の詰ったテラスの一隅に、日本人が三四人塊って話をしていた。皆は矢代を見ると、どこか痛さに触れるようにさっと横を向いたが、その中に東京で講演を聞いたことのある東野という前に作家をしていて、今はある和紙会社の重役をしている中年の男だけ一人、矢代の方を見詰めたまま黙って煙草を吹かしているのと視線が会った。その作家は矢代より少し早く神戸を発ったのを新聞で見たことがあったから、矢代も行けば逢うこともあろうと思っていたので、これを機会に話してみようと思い東野の傍の椅子を選んだ。
「失礼ですが、僕は一年ほど前にあなたが講演なすったのを、東京で聞いたことがあるんですよ。私はこう云うものです。」
 と矢代は云って名刺を出した。
「そうですが。僕は先日来たばかりで何もまだこちらは知らないんですよ。」
「僕もそうです。あなたより二船ほど後なんですよ。」
「じゃ、僕の方が兄貴なわけですね。宜敷く。」
 淋しそうな東野は自分の名刺を出そうとして財布の中を探し始めた。そこへ久慈と千鶴子が放射状の道の一角から現れた。
 久慈は、「待ったかね。」と云って矢代の傍へよって来ると、
「この人、アンリエットさん。」
 といきなり彼から千鶴子に紹介した。アンリエットと千鶴子は自然に見合って握手をした。どちらにしても敵意など起りようもないのが今の情態だったが、それにしても微妙な白けた瞬間の気持ちの加わろうとするのを矢代は感じ、すぐ傍の東野に久慈を紹介した。
「東野さんはあなたでしたか。」
 紹介したりされたりで急に足もとからばたばた鳥の立つような眼まぐるしい表情の配りだった久慈も、矢代とは違い東野にだけは自分の気持ちも通じそうに思われたらしく、突然彼の方に傾きよると、
「どうですか、パリの御感想は。僕は毎日、この矢代と喧嘩ばかりしてるんですよ、この人はひどい日本主義者でしてね。僕はどうしてもヨーロッパ主義より仕方がないと思うんですが、あなたはどちらですか。」
 こんな質問をいきなり初めてのものにするなどということは、日本でなら何をきざなと思われるのが至当だが、それがここで云うとなると、不思議に自然なことに思われるのだった。東野もうるさそうにもせず、
「そうですね、日本にいれば僕らはどんなことを考えていようと、まア土から生えた根のある樹ですが、ここへ来てれば、僕らは根の土を水で洗われてしまったみたいですからね。まア、せいぜい、日本へ帰れば僕らの土があるんだと思うのが、今はいっぱいの悦びですよ。」と云った。
「しかし、何んでしょう、合理主義は何も日本だってヨーロッパだって、変る筈のもんじゃないと僕は思うんですがね、樹の種類は違ったって、樹は樹じゃないでしょうか。」
 と久慈は勢いに辷って、つい訊きたくもないことまで饒舌るのだった。
「それはそうだけれども、今まで合理主義で世の中が物を云って来て、どうにもならぬということを発見したのが、近代ヨーロッパの懐疑主義というもんじゃないかな。」
 と東野は、久慈の無遠慮な正直さに何か興味を感じたらしい眼つきで云った。
「しかし、それじゃ、僕らは何も出来ないじゃないですか。結局暴力でもそのまま認めなくちゃならなくなってしまうでしょう。」
「まア君のように云ってしまえば話は早分りで良いけれども、しかし、知識というものは合理主義から、もう放れたものの総称をいうのですからね。暴力なんてものを批判するには、手ごろな簡便主義でも結構でしょう。」
「つまり、それじゃ、ニヒリズムというわけなんですか。」
 と久慈は当の脱れた失望した顔つきに戻って顎を撫でた。
「あなたは御婦人づれじゃありませんか。今日はそんなところで良いでしょう。」
 久慈は大きな声で笑うと、
「どうも、失礼しました。じゃ行こうか。」
 と矢代に云って立ち上った。食事には丁度良い時間だったので矢代も一緒に立って皆と出たが、歩きながら彼は、
「今日は君も東野氏にやられたね。たしかに君の面丁割れてるぞ。」
 と愉快そうに久慈の顔を覗き込んだ。
「ふん、合理主義を認めん作家なんか、何を書こうと知れてら。」
「いや、十目の見るところ君の負けだ。愉快愉快。」
 と矢代はまた云って笑った。
「じゃ君は、人間が今まで支えて来た一番美しいものを、みな捨ててしまえと、まだ云うのか。」
「あら、雪だわ。」
 急に千鶴子は立ち停ると腕にかかった花弁のようなものに驚きの声を上げた。
 雪か。いや花だろう。と云い合って一同空を見詰めている間にも、久慈だけは一人わき眼もふらず先に立って歩いていった。
 矢代とアンリエットと、千鶴子とは、クーポールへ這入る久慈の後から遅れていったが、もうこの晩餐の面白くないことは誰にも分っているようであった。クーポールの中は歌舞伎座の中とよく似ていた。太い円柱、淡桃色の壁、階下から階上へ突き抜けた天井と、見れば見るほど歌舞伎座の大玄関である。
「パリにいる日本の方、みな半気違いに見えるわ。それであなたがた何ともありませんの。」千鶴子は料理の註文を終ったとき矢代に訊ねた。
「そうだな、たしかにそんなところありますよ。僕なんかそろそろ怪しい。」
「合理主義を疑い出しちゃ、気違いになるより仕方がないよ。」と久慈はまだ東野に打たれた前の傷が頭に響いてやまぬらしかった。
「君の合理主義なんか日本から持って来た物尺だよ。一度験べてみ給え。印度洋で延びてるから。」
 強いて久慈と争うつもりももう矢代にはなかったが、千鶴子とアンリエットとの次第に強まる無言の敵意を感じると、むしろ、今は男同士の争いをつづける方が愉快に食事の場だけも柔らぐだろうと矢代は思うのだった。しかし、事態は一層険悪になって来た。ぶつりとしたまま誰も話そうともしなければ、顔さえ見合すことも互に避け合って黙っていた。
「ここのお料理、綺麗ね。」
 千鶴子はふと一同の沈んだ様子に気附いたらしく、円柱の間を曳いて廻る料理台の新鮮な魚の列を見て云った。
「ええ、ここのお料理、相当でしてよ。」とアンリエットはフランス語で答えた。
 海老や鶏や鰈《かれい》が出ても四人は一口も饒舌らなかった。いっぱいに客の詰ったホールの中は豪華な花壇のように各国人の笑顔で満ちて来たが、四人の食卓の間だけは、名状すべからざる陰欝な鬼気が森森とつづいていった。
 久慈はふくれ切って、矢代に、何ぜお前はアンリエットなんか連れて来たのだと云わぬばかりに、パンばかりひきち切ってむしゃむしゃ食べた。矢代もいつ何が出てどうして食べたかも分らぬままにフォークを使い葡萄酒を飲んだ。すると、突然久慈は俯向いたまま、
「懐疑主義か、ふん。」と云ってひとりにやにや笑い出した。
「まだやってるのか。」矢代はじっと久慈の眼を見詰めた。
「いや、俺は東野に負けたんじゃないよ。断じてそうじゃない。」
 一同はどっと噴き出すように声を合せて笑った。
「何がおかしい。あれで僕が負けたんなら、腹を切るよ。」
 久慈一人はなお不機嫌であったが、それが却って周囲の三人に浮き浮きとした雑談を湧き上らせた。しかし、久慈は急にボーイを呼んで勘定を命じた。一同ぼんやりして黙っているとき、
「じゃ、今日はこれで失敬する。」と久慈は云って一人皆の勘定をすませて外へ出て行った。

 千鶴子が来てから矢代の生活も少しずつ変って来た。午前中それぞれ自分のホテルにいるのは前と同じであったが、正午はドームに落ち合って昼食を共にし、それから見るべき所を散歩かたがた一二ヵ所ずつ見て、夕食はその日の嗜好物に随い料亭を選び変え、各自のホテルへ帰る前には、また一度ドームへ立ちよってお茶を飲むという習慣になって来た。この習慣はどこから来ている外人の旅行者も同じことで、考えれば誰も極めて単調な生活をしていた。殊にパリという所は来てしまえば、どこを見物しようとか、誰それに逢いたいとか、勉強をしようとかとそのような気持ちは全く無くなって、ただ遊んで暮すことが何よりの勉強になると思いえられる所であった。また事実それに間違いはなかった。
 一番愉快なことと云うのは、他人と議論をすることか、あるいは誰とも話さずぼつりと一人路傍のベンチに腰かけていることか、先ず特種な遊楽場以外の楽しみはさておきそんなことより他にはない。随って一度び議論となるとそれは果しなくつづいていく。その日の議論は逢う度びに前の議論の延長であり、またどの立場を取ろうとも、終局の負けというものがどちらにもないという強味を発見し合って来るのであった。これが例えば日本で議論をするとなると、忽ち終局は必ず法網に触れて来るので、どちらも黙ってそれ以上の議論はうやむやの中に引っ込めてしまうか、さもなくば、ヨーロッパの論理へ樋をかけて水をその方へ引き流し、日本の歴史を外国のこととして戦い合う。間違いはすでにそのとき敢行されているにも拘らず、錯誤の連続であってみれば、自身の知性で間違いを一度び正すとなると、論理らしいものを一応は尽く根から噴き上げてしまいたくならざるを得ないのだった。それからもう一度考え直す。矢代も今はそういうことを絶えず頭の中で繰り返している時期であった。
 ある日、矢代は自分のこの得た確信を元として、千鶴子にヨーロッパに対して絶対に卑屈になるなと話してみた。
 道を歩いていても少し汗ばむほどの日であったが、矢代は千鶴子とサンジェルマンのお寺の壁画を見てから、ルクサンブールの公園の中へ入って来て休んだ。若葉に包まれた石像の肩に数羽の鳩がとまっていて、その向うに若い男女の一組がベンチにかけている他は、人のいない椅子ばかり並んでいた。矢代もその一組と芝生を対して向い合った。
「日本のお寺の壁画は、まア、地獄極楽の絵が多いですが、こちらのお寺の壁画は、ヨーロッパ人が野蛮人を征服して、十字架を捧げている絵ばかりですね。僕らはあんな絵を見せられると、聖壇もいやらしくなって、すぐ出て来たくなって困るが、あのころは、誰も東洋人にあんな絵が見られようとは思わなかったんだな。」何か話すと、見て来たものの批評ばかり自然会話となってしまう外遊者の癖が、また争われず矢代にも出るのだった。
「あたし、この間からパリを見物して、フランスのいい所や恐ろしい所は、やはりこの国の伝統だと思いましたわ。でも、それなら日本にだって有るんだと思うと、パリもそんなに恐くなくなって来たの、もしこれで日本に伝統がなくって、あたしこちらへ来たんだったら、どんなに惨めな思いをしなければならなかったかしらと思うわ。」
 千鶴子の感想は正しいと云うよりもむしろ矢代を喜ばした。
「そうですよ。ところが、久慈君はそれを云うといやがるんですよ。あの人は僕らを無言の中に勇気づけてくれている日本の伝統まで認めようとしないんだから、困ってしまう。」
 若葉の繁みの間から杏の花弁の柔く舞い散って来る中を貫き、重くすうッと真直ぐに青葉が一つ落ちて来る。風が吹く度びに揺れる繁みの中から時計の白い台盤が現れてはまた青葉に隠された。
「でも、久慈さんだって、口でだけあんなに仰言っていらっしゃるのよ、先日もあたしに、パリもいいけれども日本もいいなアって仰言ってから、こんなこと、矢代君にはうっかり云えないがってそう仰言ったわ。藤田嗣治さんの絵を見てるときでしたの。やっぱりそうよ。あの方だって。」
「藤田嗣治はパリへ来てみると初めて豪いもんだと思いますね。よくあれだけこの都をひっ掻き廻したものだと思う。」
「女の人の線が牡丹の花びらのように見える絵よ。それがね、それが面白いんですのよ。」
 千鶴子はこう云いかけてから急に顔を赤らめて俯向くと、
「あら、雀がこんな所まで来たわ。可愛いこと。御覧なさいよ。」
 と矢代の腕を軽く打った。矢代は雀を見ていてから鉄のベンチの冷たさにふと背を延ばした。すると、その向うのベンチでさきから男女の二人が静かにじっと顔を併せているのが見えた。このような情態は矢代はいつもここで眼にすることであったから別に特異な風景とも思わなかったが、しかし、こちらの眼を雀に向けようと努める千鶴子の気持ちを感じ、音響の停った窮屈な世界でぴょんぴょん跳ね廻るその雀が、次第に大きく見えて来るのだった。
「雀ってどうしてこんなに沢山いるんでしょう。どこにでもいるものね。」
 千鶴子はくるりと男女の方に背を向けたが、こちらには矢代がいるとまた真直ぐに向き直って雀の行方を眼で追った。
 何となくそうしているうちに、二人の気持ちは一層動き停って固苦しくなるのを矢代は覚えると、ベンチを立って去ろうかと思った。しかし、考えてみれば外国を歩いている以上、こんな所を千鶴子と二人で眼にすることはいつかあるにちがいないので、一度はここも通らなければと、向うの男女の顔の放れるのを待つようにまたじっと眺めつづけて坐っていた。
「あなた、あんなところをそんなに御覧にならないでよ、さア、行きましょう。」
 と千鶴子は顔を赤らめて立ち上った。しかし、矢代は動かなかった。彼は千鶴子を心の中で自分の顔を合せる対象だと一度はマルセーユで感じたのを思い起すと、あのとき騒いだ自分の心の自然の結末をここでゆっくり一度清めてしまいたいと思うのだった。
「まア、ここへ腰かけていなさいよ。美しいな。」
 と矢代は立っている千鶴子に云った。芝生の中に降りた一羽の鳩が胸毛で葉先きを擦り割りながらよちよち二人の方へよって来た。恍惚として動かない前方の男女の身体へ杏の花弁が絶えず舞い落ちた。
 見ているうちに矢代も馬鹿らしい光景だとは思えなくなって来て、これは驚くべきほど美しい情景だと羨ましささえ感じて来るのだった。骨を鳴らせて飛び交う鳩の身体からうす冷たい風が立ち耳の根をひやりとさせた。
「まだいらっしやるの。」
 千鶴子は渋渋矢代の横へ腰を降ろすと、
「あら、お坊さんだわ、今度は。」
 と云ってにっこり笑った。見ると、カソリックの若い僧侶が椅子にかけて聖書を一心に読み初めた。
 若い牧師が這入って来たのは右の繁みの間からであったから、多分サントーマの僧侶であろう。
 しかし、左の方のベンチで、男女の愛の高潮した姿態を見、右の方のベンチで聖書の頁をくっている僧侶を見たりする図は、これもここでは物珍らしい風景とは云い難いが、矢代にとっては、これは社会の層の種類ではなく、自分の心中に棲む両極の図会となって自身の心の軽重をじりじり計るのである。
 右を見、左を眺めているうちに、千鶴子も何事か胸を打たれるものがあるらしくふと顔を上げると矢代を見た。矢代も千鶴子を見たが、こんなときに視線の合うのは何の意味もなくともはッとなり、急いで避け合うと、そのために一層ない意味までが深まって来るのであった。
 こうしているうちにも矢代は、いつの間にか千鶴子の考えていることを夢中になって追い馳けている自分を感じた。彼は汚れた煙があたりを取り包んでいるようにだんだん息苦しくなって来た。
「もうほんとに行きましょう。久慈さん、待ってらしてよ。」
 千鶴子は冷たい表情になって立ち上った。矢代も腰を上げてベンチから放れていった。
 一団の繁みの胴をコルセットのように締めつけている円形に並んだ鉄のベンチに、人は一人もいなかった。さわさわと立つ風にどこからともなく舞い散って来る落花を仰いでいると、矢代は今は何も忘れ、ただ故郷の空の色を感じて胸は淋しく湿って来た。
「どうもここへ来ると、僕は帰りたくなるんですよ。」
「あたしもだわ。」
 矢代はポケットに手を突き込みながら、ここでは恋愛などは、自分の故郷へ帰りたい心に比べれば物の数ではないと思い、柔い砂を靴先で蹴り蹴り歩いた。樹間の黄色な天蓋の下でメリゴラウンドが空転しつつ光っていた。千鶴子は樹の間のほの白い蕾を見廻し、
「でも、もうすぐ、マロニエが咲くのね。」と云った。
「そう、マルセーユより一と月パリの方が遅れていますね。」
「もう一二ヵ月すればきっと矢代さん、日本へはもう帰らないって仰言ってよ。」
 多分アンリエットのことを云うのであろうと矢代も苦笑を洩したが、それも向きに弁明する気もなく砂の鳴るのを聞きながら歩いた。

 通りや森や河岸の樹のある所には、マロニエが白い花筒の先きを揃えて一斉に開き初めた。重厚な椎の樹に典雅な桐の花をつけたかと見えるこの樹は、昔を今に呼び戻すただ一縷の望みのように美しい。ある夜、矢代と千鶴子と久慈とそれにアンリエットの四人が食事をすませてからドームにいると、東野に逢った。晩餐の後にどこへ行くかという相談はいつも議論を呼んで定まらないのが常だったが、この夜はブロウニュの森の湖水へ行こうという久慈の提案が直ちに通った。一つはもうすぐ、新しく来た日本人の案内役となって地方へ旅に出るというアンリエットとの、皆の別れの意味もあった。
「どうです。これからボアへ行こうというのですが、いらっしゃいませんか。」
 久慈は例の人の良さそうな笑顔で傍にいる東野をも誘った。四人はすぐ自動車を森へ向って走らせた。自動車の中で千鶴子は、
「今夜だけはもう議論はなさらないでね。」
 と皆に頼んだ。皆は声を合せて笑った。
「フランス人は女の人が一人混っていると、絶対に議論はしないが、あれは女というものは馬鹿な者だと定めているからだそうですよ。僕らはあなたがいても議論をするのは、つまり尊敬しているからさ。」
 と久慈は振り返り千鶴子を見て笑った。
「でも、こんないい夜は、頭の痛くなるのいやよ。」
「しかし、こんなに毎日遊んでばかりいると、議論でもしなくちゃ仕事をしたという気がしなくなるんだからね。」
 久慈のそう云うのに矢代は、
「僕らはここにいると、誰も生活がないんだからね。血の出るような生活といえば、議論をする以外に求めようがないんだから、まあ千鶴子さんも議論でも聞いて、生活しているんだと思いなさいよ。」
「いやよ、もう議論は。あたし、そしたら、フロウレンスかチロルへ行っちまってよ。」
「そうだチロルへ行こうか。」
 と久慈は急に大きな声を出した。「さっき聞いていたら、僕らの傍にいた日本人の連中がギリシアへ行く相談をしていたようだから、僕らもどっかへ行こうじゃないか。チロルへ行ってヨーロッパ第一の景色を見ながら議論をするのも、また格別だぞ。」
「石川五右衛門ね。」
 千鶴子の笑っているうちに甘酸い花の匂いの満ちたフォッシュ通りを突き切り、一同はブロウニュの森の口まで来かかった。
「僕の友人は日本を出るとき面白いことを云いましたよ。君がパリへ行ったら何も勉強せずに、ただ遊べと云ったが、遊ぶというのも全く骨の折れるもんですね。」
 こういう東野に久慈は、
「それや、そうだ。仕事をする方がどんなに楽か知れないや。」と賛成した。
 森の直立した樹間から早くも湖面の一端が桃色に光った生物のように見えて来た。
 自動車を捨てた一同は湖の方へ歩くと、一見|榧《かや》の樹かと見まがう松の間を通り、ボートに乗った。久慈と矢代はオールを持って東野が艫に坐り、千鶴子とアンリエットを中に挟んでボートは岸を放れた。湖面は人の顔もよく見えなかった。水藻の匂いが久しく忘れていた日本の匂いとなって矢代の鼻に流れて来た。なまめかしい紅色の西瓜のようなまん丸い提灯を艫につけたボートが、物も云わず幾つも舟端を辷っていった。
「ブロウニュの森の中でボートを漕いだら、もう日本へ帰ってもいいって誰か云ってたが、これなら矢代君も満足だろう。」と久慈は云った。
「まア、いいよ、ここならね。」
 矢代はこれで印度洋とアラビアとを廻って来て今パリでボートを漕いでいるのだと思うと、手にかかる一滴の水も、はるかに遠い故郷を眺める感傷となり窓の開いた思いだった。
「何ぜ黙っているのかね。これが青春じゃないか。」
 と久慈は云ってぐんぐん一人オールに力を入れた。
 闇の中でボートが擦れ違う度びに、脂粉の匂いがしばらく尾を曳いて水面を流れて来た。岸べの森の一角に見えるカフェー・パビヨンロワイヤルの天蓋の上には、一面の紅霧が棚曳き渡り、湖は森の地平から盛り上った張力を見せ灯火に光っている。
「あッ、危いわ。」
 と千鶴子が声を上げた。その途端、島から垂れ下った樹の枝が久慈の頭を撫でたので、そこだけ真白な花が際立ち騒いで揺れた。島の芝生の水に浸っている岸から、数羽の白鳥が水面へずぼりと端正な姿で降りて来ると、提灯の紅の円光の中をほのかな光りに染りつつ遊泳した。樹の下に停っているボートの中では、ときどき男女の一対が一つの影となって動かなかった。
「島へ上りましょうよ。もう暫くここへも来れないんだから。」
 とアンリエットは囁くように久慈に云った。ボートを島の渡場につけ一同は岸へ移って茶を飲みにカフェーの方へ歩いた。
 董とチューリップの放射状に開いている花壇を通り、明るいカフェーの庭に這入り、五人は向き合って卓を囲んだ。矢代はマロニエの太い幹を叩きながら上を仰ぐと、花がぽたぽた落ちて来て冷く鼻を打った。燭台に刺さった蝋燭のような無数の花序の集合した庭の中を光線の縞がはっきりと流れて見える。
「今夜は愉快だ。お蔭で手に豆が出来たよ。これ。」
 と久慈は両手を開いて皆に見せた。ボーイの手で裂かれたレモンが露を什器の上に満たしている間も、マロニエの花は絶えず卓の上へ落ちて来た。その度びにボーイは花を払い除けつつレモンを各自のコップに注ぎ込んだ。
 花冷えにうす冷たく汗のひいて来たころ、梢に縛りつけられたラジオから、ガボットが聞えて来た。
 久慈はさも感じ入ったという風に梢の繁みの中に輝いている電灯を仰いだ。しばらく、一同はオレンジを飲みつつラジオに聴き耽っているとき、
「あら、東野さんいなくなったわ。」
 と千鶴子は云ってあたりを見廻した。
 若葉の垂れ込めた二階の廻廊を通る靴音が淋しく響くだけで、樹の幹の間一面に並んでいる緑の椅子と卓とには一人の客もなく、ただ白い花ばかりがいたずらに散っていた。足もとの砂に混った花の中から捨てた煙草が鮮やかに煙を立てている。
「ああ、もう日本へは帰りたくない。」
 久慈は組んだ両手に頭を反らせてからかい気味に矢代を見た。
「今夜は、まア何を云ったっていいよ。」
 矢代は島の周囲を廻っている紅提灯を眺めながら、ふと日本へ帰れば自分は何をしたら良いだろうと考えた。人の一番望んでいるものを見てしまった空虚さに日日考える力も失われていく疲労を強く感じ、今はこの花の白さに溶け入ってなるままに身を任せてしまいたいと思うのであった。
「ボートが流れるといけないわ。もう行かない。」
 とアンリエットは久慈に注意した。
「あ、そうだ。」
 久慈は身を起しかけたが東野の姿が見えなかったので、また四人は椅子に腰を降ろして待っていた。
「この向うに、日本の滝と同じ滝があってよ、御覧になりたくない。」
 アンリエットの薦めに久慈は顔を横に振った。
「日本的なものは、ここへ来てまでも見たくないね。暫く忘れに来たんだからな。」
「あら、じゃあたしたちあなたにお逢いするのも考えなくちゃいけなくなるわ。」
 と千鶴子は皮肉そうに久慈を睨んだ。
「そう云うわけじゃないさ。外国にいるからには、なるたけ外国にいるんだと感じたいんだからな。」
 久慈の云い難そうな弁明も、それならやはり千鶴子よりもアンリエットと遊びたいと思わず洩らした意味ともなり、かすかにこぼれた千鶴子の笑顔も妙に久慈から遠ざかって消えるのだった。
 東野が花壇の中から現れて来ると一同はカフェーを出て、自分たちの乗り捨てたボートの方へ引き返した。木の下闇で道を手探りしなければ分らぬほど暗かった。足もとはなだらかな芝生とは云え、欄干もなくそのまま水中へ没しているので危険なばかりではない。いつどこに男女の影が潜んでいるか、このあたりはそのための配慮ある木の下の闇であってみれば、隠れた人影を乱すのもつまりはこちらが不注意なのであった。
 一同もそれを知っていると見えて言葉も云わず久慈についてぞろぞろ歩いた。すると、先頭に立った久慈は不意に途中で立ち停った。
「何んだ。」と矢代は訊ねた。
「道を間違えた。これや、たいへんな所へ来た。」
「しかし、あそこの提灯はたしかに僕らのボートだよ。」
「いや違う。」
 こう云いながらも久慈は水際の方へ降りて行こうとすると、
「あツ。」
 と云ってまた立ち停った。矢代は久慈の傍へよって行ってあたりを見た。一抱えもある丸い石のような塊が点点として散ったままじっとしていたが、よく見ていると、かすかにどれも少しずつ動くのが感じられた。
「ここ白鳥の巣だわ。」
 とアンリエットが上の方から云った。
「何アんだ。そうか。」
 と久慈も急に元気な声になった。今まで恐ろしそうにしていた千鶴子も降りて来ると、矢代の肩に掴まりながら白鳥の群れを覗いてみた。どこが水か芝生か分りかねる暗さの中で、矢代は千鶴子の重みを肩に受け何事か約束が果されつつあるように感じられ、そのまま立ち停っていつまでも白鳥の群れを眺めるのだった。
「白鳥の巣なんてあたし見始めよ。でも、真黒に見えるのね。」
 と、千鶴子はささやくように耳もとで云った。まだ気づかずに千鶴子はいるのだろうか、白鳥の巣とはそのままには解せぬ比喩とも矢代にはとれるのである。
「あら、よく辷るわ。あなた危くってよ。」
「なるほど。辷るな。」
 と矢代は云いつつ足もとの湿った芝生に力を入れた。しばらく、二人はそのまま闇の中に立っていると、傍にいた久慈はいつの間にか遠のいて、上の方でアンリエットと話しながら歩く靴音が聞えて来た。
「もう一度お昼に来ましょうね。こんなに暗くちゃ分らないんですもの。」
 白鳥を見るだけでは少し二人の時間の長すぎたのをどちらも感じ合うと、千鶴子は矢代から放れて芝生を登った。矢代も後からついて行ったが、いつ人影に突き衝《あた》るか分らぬ不安が歩く度びに足を遅らせた。間もなく、アンリエットと久慈の姿もどこにいるか分らなくなっただけではなかった。千鶴子の姿も全く闇に呑まれて見別け難くなった。
「これは困った。千鶴子さんどこです。」
 こう云ってももう千鶴子の声はしなかった。矢代は眼の見えなくなったのは自分だけなのであろうかと、靴さきを盲人のように擦らし擦らし歩いていった。
 矢代の足先きに花のようなものや、道と芝生の境いの籠目の金がひっかかったりした。少しわき道をしたために、これだけ道を迷うとはどういうものだろうと、矢代はいら立って来たが、しかし、それより、夜中ここで婦人を一人歩かすことは虎に餌を与えるのと同様な、恐るべき解禁のブロウニュの森の中である。千鶴子に闇中何者が飛びかかるか知れない危険を思うと、矢代も彼女の手を曳かずに歩いた自分の無謀を今さら恥かしく、もどかしく歎かれて来るのだった。
「千鶴子さん。」と矢代は呼んでみた。
「ここですのよ。」
 そう云う千鶴子の声は意外に遠くの方から聞えて来た。
「危いから待っていらっしゃい。」
 矢代は樹に突き当ってもいいと思って勢いよく声の方へ進んでいき、
「あなた、それで見えるんですか。」と訊ねてみた。
「暗いのね。」
 と千鶴子は矢代の声も聞えない風だった。ここの造園家は夜の人間の眼まで考えて樹を植えたのだと、急に矢代は幾重にも落し込む陥穽《おとしなな》を見る思いで腹立たしくさえなって来た。しかし、千鶴子に声を出させることは、今は、闇中に迷っている彼女の在所を潜んでいる虎に教えることと同様だった。
「じっと立ってらっしゃい。」
 と矢代は云いながらも、しかし、人間が猛獣より恐るべき動物になる森を市街の中に造ってあるパリの深い企てを考え、も早や云うべからざる近代の寒けを感じ、なるほどこれは闇だなと思い進むのだった。
「どこです。」
「ここ。」
 と今度は千鶴子はすぐ傍で答えた。拡げた手と手が触った瞬間、思わず二人は両手を握り合せた。
 提灯の火はここからはよく見えた。道も広く下り坂になって来たが、重なる樹の幹に隠されすぐまた提灯が見えなくなった。
「この森は魔の森と云って恐ろしい森ですから、気をつけていらっしゃい。」
「恐いわ、そんなこと仰言っちゃ。」
 千鶴子の擦りよって来た手を指環の上から握り矢代は曳くように歩いた。湿った樹の幹の間に前から漂っていた脂粉の匂いが歩く身体に纏りついて追って来た。坂道のせいか千鶴子はぐんぐん矢代を押して来ながら、
「多勢で来ると短いようだったけど、道を間違ったのね。」
 と云うと、どっと何かに躓いて倒れかかった。矢代は引き立てるようにして水際の方を覗きつつ歩いたが、ボートはどこにも見えなかった。ボートなど無くなっても千鶴子と二人でいる以上は、このまま見附からない方が良いとも矢代は思い、もうゆっくりと肚も坐って来るのだった。
「さア、しまった。いよいよ帰れなくなった。」
 と矢代は云って立ち停った。二人は黙って水辺を見降ろしていたが、
「いいわ、行きましょう。」
 と千鶴子ももう元気な声で云うと、自分から矢代の腕を持ってまた歩いた。
 闇に馴れて来ると森はさまざまな匂いを放って来た。パリに永く生活している人で、闇夜に森の中を婦人と二人で歩くことほどこの世に幸福なことはないと云った言葉を、ふと矢代は思い出した。
 なるほど、これが幸福なのであろうか、ただこれだけのことが、と矢代はひとりそんなに思いながらも、湖に浮んでいる紅のまん丸い提灯の色が、もう光明のまったく失せた悲しい最後のなやましげな紅さだなと頷くのだった。
「この森をパリの街の真ん中に是非残しておけと云ったのは、ナポレオン・ボナパルトだそうですが、豪い男だと思いますね。あの男はただの豪傑じゃなかったのだ。」
「広いのね。これでどれほどあるのかしら。」
「周囲五里というんですよ。」
「まアこれで。」
 と千鶴子は云っても別に驚いた風ではなかった。二人の歩く道の下に岸がつづき真白な花をつけた枝が水面に垂れていた。ボートがこんなに見えない筈がないと思うと、矢代は「おーい。」と呼んでみた。
「おーい。」と東野の声が樹の繁みの下から聞えた。
「あら、東野さん、ボートに一人いらっしゃるんだわ。」
 千鶴子は繁みを廻りスロープを降りていってみると、ボートの中にはやはり東野が一人しょんぼり坐っていた。
「久慈君まだですか。」
 矢代は訊ねながら千鶴子と二人で灯の消えたボートに乗った。
「お一人で何してらっしたの。」
 と千鶴子は気の毒そうに訊ねた。
「俳句を作ってたんですよ。」
「良い句出来ましたか。」
 矢代の訊ねるのに東野は、「いや。」と云っただけで提灯の新しい蝋燭に火を入れた。
「おーい。抛っとくぞオ。」
 と矢代はオールを持って森の中の久慈を呼びつつ少しあたりを漕いでみた。
「どこだア。」と久慈の声が遠くの闇の中からして来た。
 矢代はまた呼びながら声の方へボートを近づけてゆくと、しばらくして久慈は水際へアンリエットと二人で現れた。
「やア、弱った弱った。ボートがどれも違うんで、分らないんだよ。」
 互に顔がぽっと見えるだけの提灯の明るさの中へ、白鳥が水に浮んだ花の群れを胸で割りながら泳いで来た。皆が道の暗さを云い合っている所へ乗り込んで来て、オールを動かし出した久慈に、矢代は、
「東野さんは俳句を作ってたんだって。ひとりならそれもいいな。」と云って笑った。
「俳句か、ここで俳句なんてどんなの出来るんです。」
 と久慈もやや嘲笑の口調だった。
「白鳥の花振り別けし春の水。」
 真面目な顔で句だけを投げるように東野は云ったので、一同一寸黙って考えていたが、突然、
「いや、やられた。」
 と久慈は頓狂な声を上げた。
 矢代は思わぬ不意打を食ったような苦笑ながらも、今は東野の諧謔にボートの動揺も気持ち良かった。ボートが岸を放れていくにつれ岩を打つ滝の音が聞えて来た。
「あそこよ。滝」
 とアンリエットは垂れ下った樹の下を指差した。
「じゃ一つ、僕も俳句を作ろうかな。」と久慈は云ってオールを廻しながら、「えーと、ブロウニュの、滝も無言《しじま》を破りおり。どうです東野さん。」
「そんな句ないよ。」
 と矢代は云うと皆どっと笑った。久慈はまた、
「それじゃ、これやどうじゃ。」
 と小首を一寸かしげてから、「ブロウニュのオール少しく鳥追えり。」
 ふざけていた久慈の句も幾らか緊って来たその変化に、
「ふむ。」
 と、矢代はしばらく考え黙っていてから云った。
「そんなら、これはどうかね――白鳥の巣は花に満つ春の森」
「うまいね君は。いつ習ったんだ。」
 と久慈は感心して、「ようし、じゃ、も一つやるぞ。」とまた競い立って考えるのだった。千鶴子は舟ばたで一人腹をかかえて笑っていた。ときどき道路を疾走する自動車の光が森の樹木を貫いて消えていった。一行はオールを軽く動かしていたが、真面目に俳句を考え出したと見えて、誰も空を仰いだり森を見たりして黙っていた。そのうち久慈は、
「よし出来た。今度は傑作だぞ。」と前ぶれして思い出す風に、
「春の夜の月さまざまな水明り。」
 と調子よく読み下した。
「高等学校の歌じゃないか。」
 と矢代はひやかしたので、またボートの中は笑いに満ちた。しかし、久慈だけは一人、「馬鹿を云え。」と云いつつも得意そうにオールを勢い良く動かしていった。
 東野は煙草の灰を水に払い落しながら形の良い白鳥の姿をじっと眺めていた。
「さア、早く上って、サンゼリゼへ行こう。」
 久慈の声に応じて矢代もともにオールに力を入れて漕いだ。アンリエットは軽快な速力に合せるように今流行の小唄を歌い出した。
 ――夜のヴァイオリンがかすかに鳴っている。甘いやさしいメロディに、愛する楽しみと、生きている喜びを、わたしらにささやいていてくれる。――
 このような感傷的な唄もフランスの婦人が歌うと、水に浮んでいる白鳥も花も一しお矢代に旅の愁いを感じさせた。行き過ぎるボートの中からもアンリエットの歌に合せて低く唄うものがあった。千鶴子は指さきに水を浸しながら、遠ざかって行くボートの紅の提灯を振り返って眺め、オールが水を跳ねても水面に尾を曳く波紋から眼を放そうとしなかった。パビヨンロワイヤルの桃色の明りが見えて来ると、島に繁った花の樹が水の上から次第に白く朧ろに浮いて来た。

 ブロウニュの森からサンゼリゼまでは、自動車に乗る間もないほど近かったカフェー・トウリオンフは凱旋門から下って来た左手にある、大きなカフェーの一つである。パリの日本人で上流階級を意識に入れて活動しなければならぬ人人の多くは、下町のモンパルナス一帯には出没しないが、山の手のサンゼリゼのカフェーにはいつもよく姿を現した。モンパルナスの日本人らは、山の手組の日本人を小馬鹿にして、「十六区のお方。」と呼び、サンゼリゼ組は下町者を、近よれば斬らるるのみと軽蔑して相手にしない風があったが、久慈や矢代は来て間もない一団であったから、日本人の縄張りなど考えている暇もなかった。
 カフェー・トウリオンフのテラスには、数百の真紅な籐椅子がいつも道路に向って並んでいた。この日は夜であったから、久慈たちの一団は赤い皮張の屋内へ這入ってフィンを命じた。淡紅色の紫陽花《あじさい》の一面に並んでいる壁面には、豪華な幕が張り廻らされ、三方に映り合った花叢はむらむらと霞の湧き立つような花壇であった。丁度、紫陽花の中から楽士たちのタンゴが始まり出したときである。
「やア。」
 と云って這入って来た三人の日本人の一人が、東野の方を見て手を上げ近よって来ると、すぐ傍の椅子に並んだ。東野は新しい人人を久慈や矢代にそれぞれ紹介した。それらの人人は、日本の大使館に出入する若手の技師の塩野と、平尾男爵、書記官の大石であった。いずれもこれらの人人はパリの上流階級のサロンへ出入しなければならぬ関係から、山の手の人人の中でも代表的な紳士たちというべきであったが、永く帰らぬ東京の様子など懐しそうに訊ねられるまま、千鶴子や久慈が答えているうちに、突然大石は千鶴子を見て、
「じゃ、あなたはロンドンの宇佐美君の妹さんですか。」と驚いて訊ねた。
「ええ、兄を御存知でございますの。」と千鶴子も全く意外な様子であった。
「知ってるどころじゃありませんよ、あなたの小さい時を、僕は見たことがありますよ。」
「ああ、あの宇佐美君か。」と塩野も思い出したと云う風に、
「僕と大石とは暁星の同級でしてね、宇佐美君もそうでしょう。」
 このようなことから話はますます一致して進んでいくと、手ぐるように共通の知人が三人の間から続続と現れた。
「じゃ、一度御招待したいと思いますから、明日はどうですか。お暇でしたら六時にいらして下さい、僕らは皆一緒の所におりますから。」と塩野は云った。
「ええ、ありがとうございます。」
 千鶴子は礼を塩野に云ったものの、他の者が多くいるのに自分一人招待される苦しさにちらりと矢代の方を窺った。傍で前後の様子を聞き知っている矢代は、千鶴子一人を引き抜くような塩野の申し出にも、むしろ裏のない誠実さを感じた。彼はフィンに染った眼もとで、紫陽花の上で輝く楽士のトランペットを眺めながら、パリの上流のサロンに出入している人物は、人前でも塩野のような流儀の挨拶をするのが習慣であろうと思った。
「それでは、お待ちしてますから、夕暮の六時ですよ。」
 と塩野はまた念を押した。事実、この塩野は学界の名門の一人息子であったが、質の良い貴族の品位を想わせる目鼻立に、明朗率直で親切な性格がどこともなく噴き現れている青年だった。矢代は東野や大石などの話す言葉を聞いていると、塩野は写真学校の教授で、パリで開いた彼の個人展覧会も、パリの写真専門家の間では、なかなか好評だったらしい様子であった。間もなく一同の話は著いた当時のそれぞれの困った話に移っていった。
「僕は一度こんな所を見ましたよ。」今まで黙って一言も云わなかった東野は云った。
「それもここのカフェーですがね。丁度、僕は久慈さんの坐っているそこにいたのですよ。他に日本人も三人いましたが、隣のテーブルに、印度支那の安南人が四人ほど塊っていましてね。そこへ、ある外人が三人ほど這入って来て、坐ろうとすると椅子がいっぱいで、どこにも坐れないんです。そうしたところが、その男はボーイに、
『ここにいる東洋人を、皆追い出してくれ、その分の金は払う。』
 と反り返って云うのですよ。僕は腹が立ったが、先ずボーイが何とあしらうかと、それをじっと見ていたら、ボーイがね。――」
 と東野は云ってそのときのボーイがまだいるかと一寸屋内を見廻した。
「今日はあいにくいないけれども、そのボーイが、きっとなると、安南入を指差して、これは東洋人だが、われわれの同胞だ。君ら出て行ってくれッと、その大男に大見得切ったですよ。」
「その男どうしました。」
 と矢代は乗り出すようにして訊ねた。
「その男は黙って出て行きましたが、しかし、一時は日本人が皆殺気立ちましたね。」
「安南人はどうしました。」とまた矢代は興奮して訊ねた。
「安南人はおとなしく黙っていましたよ。」
 一同はしんと静まったまましばらく誰も物を云うものがなかった。
「馬鹿な奴がいると、戦争が起る筈だな。」
 矢代はいまいましそうに云った。そして、突然久慈に向って、
「君、まだ君は、ヨーロッパ主義か。」
「うむ。」
 と久慈は重重しく頷いた。矢代は青ざめたままどしんと背を皮につけて静まると涙が両眼からこぼれ落ちた。

 夜の十一時になると、塩野たちは、これから活動を見に行くのだからと云ってカフェーを出て行った。矢代たちもトウリオンフを出てサンゼリゼを下へ下った。
 硝子の鯉の塊った口から立ち昇っている噴水は、瓦斯灯の青い照明に煌き爆けた花火かと見える。その噴水から散る霧は一町四方に拡がり渡り、微風に方向を変えつつマロニエの花開いた白い森を濡らしていた。
 この森のマロニエの老樹の見事さはまた格別だった。均整のとれた鋼鉄に似た枝枝の繁みが魁麗な花むらの重さを受けとめかねてゆったりと撓み、もう人人の称讃には飽き飽きしたという風情で、後継ぎのない悲しさもあきらめきった高雅な容姿だった。それはもう樹というものではない、人の知らぬ年齢を生き永らえまだ薄紅色の花をほころばせてやまぬ箴言のようなものだった。
 矢代たちは砂道を歩いてコンコルドの広場へ出た。数町に渡った正方形の広場は、鏡の間のように光り輝き森閑として人一人通らなかった。その周囲を取り包んだ数千の瓦斯灯は、声を潜めた無数の眼光から成り立った平面のように寒寒とした森厳さを湛えている。
 そこの八方にある女神の巨像はそれぞれおのれの文化の荘重さに、今は満ち足りて静かに下を見降ろし、風雨に年老いた有様を月と星とにゆだね、おもむろな姿をとって動かなかった。女神に添えて噴水がまた八方から昇っていた。それはこの広場を鏤ばめた宝玉となり植物となって、夜のパリの絢爛たる技術を象徴してあまりあった。
「何んで凄い景色だろう。」と久慈は茫然と立ち尽して云った。「これから見れば、東京のあの醜態は何事だ。僕はもう舌を噛みたくなるばかりだ。」
 東野は黙って広場を眺めながらまた俳句を作っていた。突き立っている三人の暗黙のうちにひしめき合う頭を、千鶴子はもう感じたと見え一人放れて歩いた。
「さア、行きましょうよ。」
「君は何んでも、さア行きましようだ。」
 と久慈は腹立たしそうに云った。
「でもそうだわ。」
「何がそうです。」
「あたし、もう眠いんですもの。」
「眠る方がいいですよ。さア行きましょう。」
 と東野は云って歩き出した。一同は東野の後からぞろぞろついていった。しかし、久慈だけは手に引っ掴んだ帽子を自棄に振り振り駄駄っ子のような声で、
「もう、僕は日本へは帰らん。」と云った。
「二十年ここを見ていると、小便をここへしたくなるそうだよ。」と矢代は云った。
「ふん、そ奴は猫だろう。」
「僕が東京市長なら、東海道の松の大木を銀座の真中から、神田までぶっ通してずっと植えるね。あの通りに松葉が散ればどんなに綺麗か分らないよ。雄松だけは外国にはないからな。」
 矢代はそう云いながらも東にチュイレリーの宮殿を置き、西はサンゼリゼの大公園に接し、北にはマデレエヌの大寺院、南に河を対してナポレオンの墓場を置いたこのコンコルドの広場の美しさには、流石云うべき言葉も出なかった。
「ここが、世界の文化の中心の、そのまた中心なんだからなア。」
 と久慈は讃嘆しつつ倦かず周囲の壮麗さを眺めていた。
「何もそう早く音を上げなくたって良いだろう。こうなれや、周章てた奴は損だ。東野さん、句は出来ましたか。」
「出来た。」
 一同は車を拾い、疲れてぐったりとしてホテルの方へ帰っていった。

 矢代は千鶴子へ電話をかけてもときどきいないことが多くなった。女の本能でモンパルナスよりサンゼリゼを好むのは無理ならぬことだったが、しかし、逢う度びに千鶴子の話は今までの彼女とは変って来た。ある日、矢代は千鶴子とルクサンブールを歩いていたとき、千鶴子は楽しそうにパリの上流階級のサロンの話をした。千鶴子が自分たちより後から来たのに何人も出入困難とされているサロンへ、どうして出入するようになったのか矢代はそれを訊ねてみた。
「それはあたしも自分で知らなかったのよ。初め塩野さんが仕事をするのに人手が足りないから助けてくれと仰言るんでしょう。ですから、あたしはいつでも暇だからって云っておいたら、実はこうだと云って、フランスの大蔵大臣のサロンへ出るのに、一人婦人が足りないので困っているんだと仰言るの。」
「大蔵大臣って、どうしてあの人が大臣と交際しなくちゃならんのです。」
 と矢代は不思議に思ってまた訊ねた。
「あたしもそれが分らなかったんですの。ところが、こうなの。日本は今丁度、鮭の缶詰をフランスへ輸出してるんだそうですのよ。それがフランスの法律でもうこれ以上は輸出困難というところまで来てるもんだから、その法律をね、何んとか自由にする工夫をして、もっと輸出しなくちゃならないっていう算段なの。日本の大使館必死に活動してるのよ。そんな仕事に大使がいきなり出ては駄目でしょう。大使の出るまでにいろいろ下の者が、工作をしておかなくちゃならないから、その工作にサロンを利用するらしいの。でも、塩野さん、パートナーがないのでどうもやり難くって困ると仰言るの。」
 矢代はそこまで聞くと千鶴子のいうこともようやく頭に這入って来た。
「じゃ、あなたもいろいろ鮭のことを質問するんですか。」
「いやだわ。あたしはただ、サロンで踊りのお相手したり、向うの秘書官とお茶を飲んだりしてればいいのよ。その間に塩野さんたち、だいたいの向うの意向を探るんでしょう。」
 こう云う話を聞くと、矢代は手近に今までいた千鶴子も、遠く距離を放して生活している婦人のように見えて困るのであった。
「それじゃ、なかなか面白いことも多いでしょうね。」
「ええ、たまには、ありましてよ。この間も一度、ピエールっていうフランスの若い書記官があたしの手に接吻するんですの。あたしまごまごしちまったわ。」
 千鶴子は手の甲を一寸拭くように撫でてみてからまた云った。
「でも、パリの上流のお嬢さんにはあたし感心しましてよ。日本とはよほど違うと思ったわ。十八で難かしい哲学の本を読んでいて、男の人たちに質問して来るんですの。あのブロウニュへ行く道の、アベニュ・フォッシュにある家よ。下のホールが銀座の資生堂ほどもあって、別室にマキシムのコックが来ているんですの。あたしたちそこでお料理やお茶を飲んでから、ホールで踊るんだけど、でも、壁なんか綺麗なものね。タペストリも皆ゴブラン織で、ルネッサンス時代の大きな彫像が置いてあって、ほんとに素晴らしいクラシックよ。」
 書生には少し不似合なこんな話を矢代はふむふむと興味をもって聞きながら公園へ這入った。すると、千鶴子とよく坐るベンチの方へ足が自然に動いていった。鉄の卸問屋の次女である千鶴子は金銭に不自由がないとはいえ、パリの最高級のサロンへ出入すれば予期しない贅沢な心も植えつけられるであろうが、若い時代に人の見られぬものを見ておくのも、思い残さぬ後の慰めとなって、心も休まるであろうと矢代は羨しく思うのだった。
「あなたはサロンへなんか出這入りするようになられちゃ、僕たち話し難くなりますね。」
 と矢代は笑って空を仰いだ。
「そんなものかしら、でも、あんな所へ始終いってる男の方たちは、気骨が折れると思うわ。あたしたち女はただじっとしてればいいんだけど、男の方は家へ帰ると、もう骨なしみたいに、ぐったり疲れてらっしゃることよ。」

「塩野君なんか、あれでサロンの技術は上手いんですかね。」
「あの方は気軽な方だから、どこでもさっさとやってらっしゃいましてよ。向うのお嬢さんなんか、逢ったとき頬へ接吻するでしょう。あんなときでも上手にちゃんと顔を出してらっしゃるし、サロンのお嬢さん方をマドマアゼル何何なんて呼び方で、呼ばなくってもいいようなサロンも幾つも持ってらっしゃるの。マドマアゼルを除けて相手を呼ぶようになるのには、どうしても一年はかかるんですってよ、あの方たち、そんなサロンを一つ造ってくる度びに、さア今日は一つ落して来たって云って、はしゃいでらっしゃるのよ。おかしいってないの。」
 矢代は妙な生活の苦労もあるものだなアと眼新しい感じで千鶴子を見ながら、
「つまり、サロンを落すのが仕事なんですか。あの人たち。」
「そうなの。ですから、あの方たち、日本人に不平を云ってらっしゃるのはね、日本人が大使館員を冷淡だと怒ったってこっちはそれどころじゃない、一つサロンを落すのだって、城を落すようなもので、疲れて疲れて溜らないってこぼしてらっしゃるのよ。あたしも、無理がないと思いましたわ。」
「それや、そうだな、日本人の心配を引き受けるのは領事の方の仕事だから、日本人のサービスまでいちいちしておられないだろうからな。」
「それに言葉だって、モンパルナスあたりの言葉を一寸でもサロンで使おうものなら、もう相手にしてくれないんですって。ですから、言葉が自由になればなるほど、一層自分の言葉の欠点が分って不安になるので、それで神経衰弱になるんだと仰言ってたわ。」
「ふむふむ。」
 と矢代は一一もっともと頷いて聞いていた。これで眼にするパリのさまざまなものに感動するだけだって、相当激しい労働だと矢代には思われるのに、まして遊んで城を落さねばならぬとなると、その苦心は察するに難くはなかった。
「洋服なんかあなた困りませんか。」
「それは困るわ。あたし、お蔭でサロン用の、これで三つもサントノレで造りましたの。」
「一度僕にもたまには着て見せてくれないかなア。」
 と矢代はサロンに出ている千鶴子の様子を想像して笑った。
「ほんとに見ていただきたいわ。そのうち、一度オペラへ行きましょうよ。ね。」
 と千鶴子は明るい顔で矢代を見上げた。
「それや、賛成だな。」と矢代も愉快そうに空を見て云った。

 ルクサンブールの公園の、ある繁みの下にある鉄のベンチは、矢代と千鶴子の休息の場所になって来た。矢代は自分の仕事の歴史の著述を一つするためにも、もうそろそろ皆から別れて一人ドイツへ旅立たねばならぬと思っていた。またもう一度パリへ戻って来るとはいえ、そのときには千鶴子はここにいるかどうかも分らなかったが、まだ二人は別れ難ない友情にまでどちらも深まってはいなかった。ただ季節は五月で、一本の樹の花を眺めてさえ心に火の点くような美しさを感じるのに、それが街街の通りや公園に咲きあふれているマロニエの花の眺めである。矢代もこのうっとりとする旅の景色を一人で眺め暮すよりも、二人で眺め楽しみたいと思った。
 しかし、この五月の一番見事な季節になってから、パリの街街には左翼の波の色彩もだんだん色濃く揺れ始めて来た。殊に総選挙の結果、社会党の大勢が明瞭に勝ち始めてからは一層それが激しくなるのだった。
 こんな日のよく晴れたある午後また千鶴子と矢代は公園で会った。
 靴先のひどく立派に光った老夫婦がゆるやかに足を揃えて歩いて来る。その木の間のどこからか、弾んだゴム毬のだんだん力を失う音がした。
 二人は無言のまま青芝の上に散っている鳩の羽毛を眺めているとき、急に千鶴子は思い出し笑いをして口に手をあてた。
「先日塩野さんが、ノートル・ダムの写真を撮りにいらしったんですのよ。あの方、お写真の方が専門だから、いろいろな角度からお撮りになっているうちに、とうとう鳩の糞のいっぱいある地面へ仰向きに寝転がって、上へカメラを向けたの。そしたら、傍で見ていたアメリカの観光客の一人が、自分もその通りに仰向きに寝て撮ってみてるの。」
 矢代もおかしくなってつい笑いながら云った。
「塩野という人は、なかなか気持ちのいい方ですね。まだ長くこちらにいらっしゃるんですか。」
「何んですか、もうすぐ帰るようなこと仰言ってたわ、ノートル・ダムを撮ったのを全部集めて本にしたら、もうそれでいいんですって。」
 もう日本へ帰るのだという人のことを聞く度びに、矢代は羨ましい気持が失せなかった。
「千鶴子さんはいつごろ帰る予定ですか。」
「あたしはいつだっていいんですのよ。ただね、暇なうちに一度こちらを見ておかないと、女ですから、見る機会がなくなるでしょう。」
「じゃ、なるたけ今のうちに、いろんな所を廻られる方がいいな。でも、よく御両親があなた一人を放されたものですね。」
 と矢代はいつも訊き忘れていた疑問を自然に訊ねてみるのだった。特別に信用されている自分を説明するのに困るらしい千鶴子は、
「それや、兄がこちらにいるからでしょう。別に何も云いませんでしたわ。」
 と短く答えた。
「しかし、兄さんも御心配じゃありませんでしたか。パリへあなた一人でいらっしゃるの。」
「そんな事、兄なんか心配してくれるものですか。それに、お船の中のお友達のこと、あたし兄に話したんですもの。」
 矢代は黙って頷いたが、千鶴子の一人旅は良い結婚の相手の選択の機会を彼女に与えるために、兄も両親も赦したのにちがいないのであってみれば、自分が千鶴子へ馴馴しくすることは、それだけ彼女の良縁を払い落す結果になっているのかもしれぬと思った。
 しかし、ヨーロッパへ来る婦人たちは、男性と違って自分の研究目的を明らさまにするのを嫌う習癖の多いのを聞き知っていたので、千鶴子もこれでひそかに研究する何事かあるのだろうと矢代も思っていたのだった。
「千鶴子さんはわざわざパリまでいらしって、何か研究してらっしゃればいいでしょう。そんなおつもりなんですか。」
「あたしはただ見るだけにしたいと思ってますのよ。でも、あたしなんか、何も出来ないつまらない女なんですもの、ですから、まア普通に働かねばならない方に比べて幾らか仕合せな方だから、なるたけ与えられた仕合せだけでも、楽しく守っていなければ、罰があたると思いますの。ね、そうじやありません。」
 千鶴子の考え方には矢代もすぐ返事をすることが出来なかった。自分の幸福なときにその幸福を守りたいと願う婦人の苦心が、いかにも一見反省の足りない考えかのように思われがちな社会になりつつあるのだった。
「あなたのお考えにはなかなか大胆なところがあるんですね。」
 と矢代は当面の答えとして先ず安全と思えることを云った。
「だって、あたしたち、なかなか幸福は得られないんですもの。あたしには少し人より早く幸福らしいものが来たんですから、やはり大切にしたいわ。あたし、何んでもそう思いますの。いけないかしら。」
 千鶴子は優しい眼ざしで矢代の眼を窺った。
「それや、それより本当のことってないんですからね。誰も彼もみなあなたのような気持ちになりたければこそ、騒いでるんでしょう。今パリがそうだ。」
「そうかしら。」
 千鶴子は思いがけないことを云われたように微笑しながら、梢の間に動く早い断雲に眼を向けた。自転車に乗って来た子供の太股の白さに日光が射していて、微風に蔓草の揺れる間を、切れるようなズボンの折目の正しい紳士が一人静かに歩いて来た。
「でも、あたし、実は何も考えることがないんですのよ。何かしら、高いお山の上に立って遠い所を見てるようよ。」
「ふむふむ。」と矢代もただ軽く頷くだけだった。見るだけ見ておけば良いときに、他人の欠点や美点をあげつらう気力は今の彼にはもうなかった。
 後ろの方の小説の音読をしてやっている老婆の傍で、黙って聞いていた他の老婆が、小説の進むにつれときどき驚きの声を上げた。細い山査子《さんざし》の花が、畝の厚い縮緬皺の葉の中から、珊瑚に似た妖艶な色を浮べているのを矢代はじっと見ていると、傍の千鶴子もだんだん花そのもののように見えて来るのだった。
「何んて美しい花だろう。」
と矢代は思わず云った。
 人と花とがこんなに一つに見えるということは、今までの彼にはまだ一度も経験のないことだった。胸は溺れるように危い心を湛えているのを覆すまいとしながらも、また危さに近づくように山査子のその巧緻な花を、身を傾け眼をすがめ飽かず矢代は眺めずにはいられなかった。二人は公園の中を廻り池の傍へ出たときに、
「今夜はアルサスの羊が食べたいわ。ね、アルサス料理になさらない?」
 と千鶴子はいつもとは違い感覚の行きわたった軽快な微笑で矢代を誘った。
 樹間をぬけ日のよくあたる広場へ出ると、またそこには一面の山査子《さんざし》だった。初めは人に気附かせぬ花である。しかし、一度びはっと人を打つと、心をずるずる崩してしまわねばやまぬ花だった。
 矢代は千鶴子に近づく思いでまた酔うように山査子の花の下へ歩みよったが、これではいつドイツへ一人旅立つことが出来るのだろうかと、だんだん怪しくなって来るのだった。

 二週間毎にマルセーユへ著く郵船の船と、シベリアを廻って来た汽車から新しい日本人がパリへ現れた。ドームにいても矢代は日日古参になって行く自分を感じた。妻を日本に残して来ている日本人たちは、シベリアから来る妻の手紙のない週は誰も憂鬱そうにしていたが、手紙の来た日は暢暢と元気が良く一眼でそれと見当がついた。中には恋人から来る手紙に不安な箇所が現れたというので、一寸一ヵ月日本まで走って帰ってまた来るという青年もいた。そうかと思うと、日本にいる細君に宛て、愛人が出来たが心配をするななどと、わざわざ書いて出す剽軽なものもあった。
 しかし、総じて二、三年パリにいる人という者は、新参の日本人に一番冷淡でうるさがったし、またこれらの人人は最も激しいヨーロッパ主義者であることには一致していた。しかし、こんな人人が日本を軽蔑する理由は、すべて日本人がヨーロッパを真似し切れぬという一事に帰していた。なるほど、彼らの云うように日本には悪い所が多かった。第一に貧民が多い。肺病が満ちている。農民が娘を売るほど野蛮である。公娼が都市発展の先頭に立って活躍する。知識ある者が他人の欠点を鵜の目鷹の目で探し廻る。文化といえばヨーロッパとアメリカの混合である。悪点を数え上げれば、およそ良い所がどこにあるのかと云いたいほど数限りもなく沢山にあった。しかし、も少し考えると、それらの欠点は日本人の美点から生れて来た、他国には見られぬ花の名残りとも見られる球根につづいていた。またよし譬えそれらが汚点としたところで、矢代は、それらのいかなる悪点よりも、自然を喜ぶ日本の文明の中には悪人が少いと云う美点を何より喜ぶのであった。彼はこのような自分の考えの中に野蛮人が棲んでいることを感じないではなかった。しかし、それはヨーロッパの知識の中に潜んでいる野蛮さとはおよそ違った感情の美を愛する蛮人だと思った。矢代は自分の仕事の歴史の著述を進める上にも、一度この違いを突きつめてみてから根拠をそこに置き、人間の生活の発展に連絡をつけねばならぬと考えるのであった。このような考えが日に深まるにつれ、彼はいよいよパリをひとり放れてゆく決心もついて来たが、千鶴子という一個人にふと想いが捉われると、頭の中に描かれてゆく人間の歴史も停頓する微妙さに、これはただの冗談ではすまされぬ人間の基本の苦しさだと苦笑し、あきらめ、また味いつつ、さらにこの思い切り難い心の切なさから、欲深く思想の本体さえ掴みしめたいとも思うのだった。
 ある日、ドームで千鶴子と矢代がショコラを飲んでいると、丁度二人の前で、黒人の女と白人の男がしきりに何事か睦まじそうに話し込んでいたことがあった。
 矢代は見ているうちに、どうしても一致することの出来ない人種の見本を眼のあたり見ている思いに突き落され、その二人の間の明白な隙間に、絶望に似た空しい断層を感じて涙がにじみ上って来た。こんなことにどうして涙が出るのだろう。これは自分もよほど神経衰弱が嵩じているのだなと思い、なおもじっと二人を見ていると、見れば見るほど涙がとめどなく流れ出て来た。
「いやね、どうなすったの。」
 と千鶴子も矢代の涙を見たものと見え、そう訊ねた。
「何んでもないですよ、ここはもう、人を愛するなどということは出来ないとこだと、分って来ましたね。」
「どうして?」
 千鶴子は一瞬眼を光らせて矢代を見た。
「愛じゃもうここは運転しない。技術ばかりなんだ。それももう技術まで終りになって来たのだなア。」
「じゃ、何があるの。」
「何もない。」
 千鶴子にはもう矢代の気持ちが全く分らなくなったらしい驚きの表情で黙った。
「しかし、僕はパリがこのごろだんだん好きになって来たのは、ここには僕らの求めるものが、何もないからだということが、分って来たからですよ。力の延びてしまった横綱の負けてばかりいる角力を見ているみたいなもので、化粧廻だけ見ている分には、のどかな気分で、気骨が折れないからな。」
 ぶつりぶつりと切りまくってゆくような矢代の云い方は、ただ乱暴なというより、捨身のような快感に自分を晒し出したい切なさがあったが、事実矢代はこういうと同時に、自分の言葉の強さに随って幾らか安らかになるのだった。
「ここは人の休みに来るところね。休もうと思えば幾らでも休める所ですものね。」
 と千鶴子も、今は当らず触らぬことを云って矢代のいら立たしさを慰めようとするのだった。
「そうそう。人が休むときには、どんな顔をして休むものか、僕らは見に来たようなものですよ。僕はここでいろいろなことを考えたけれども、結局、人は働かねばいられぬということだけが明瞭になりましたね。心の故郷というのは、働くということより何もないのですよ。」
 千鶴子は、はっきり手の指の影まで映る道路の面から、照り返っている真鍮の鋲の光りに眼を細め、
「でも、それは皮肉よ。あたしなんか何も働けないんですもの。これ、こんな手。」
 と矢代の前へ一寸両手を出して見て笑った。
「あなたなんかは物の批評眼を養いに来たんですよ。パリなんてところは、僕らの生きている時代に、これ以上の文化が絶対に二つと出ることのない都会ですからね。見ただけでもう後は一生の間、何んだって安心して批評が出来ましょう。だから、ここにいるからには遊ばなきア損ですよ。日本の農村の売られる娘のことなんか考えていちゃ、ここでは力は養えない。」
「じゃ、あたし、サロンへまた行ってもいいんですのね、それをこの間から伺いたかったの。」
「あなたなんかしっかりと遊べるだけ遊んで帰りなさいよ。それがあなたの務めだ。人に気がねなんか今しちゃ駄目だな。」
 矢代にしては思いがけない答えを引き出した喜びに千鶴子は肩を縮めて見せ、
「それであたしも安心したわ。実は明日の夜も六時から、一つ出るところがあるの。プレデイリ・オネーの頭取さんのサロンよ。」
「とにかく、僕もあなたと楽しく遊ばせてもらいましたが、もうそろそろお別れしましょう。僕はミュンヘンからウィーンの方へ行かなくちゃならんのですよ。」
 云い難かったことも矢代は意外に躊躇なくそんなに云うことが出来ると、いよいよそれではもう実行にかかるべきときが来たと、心をひき緊めて行くべき遠くの空を胸に思い描くのだった。千鶴子は矢代の突然の話も、さきからの彼のいつものと違う変化を知っているためか、さして驚いた風はなかった。
「じゃ、景色のいい所があったら、電報を打ってちょうだい。そしたらあたしすぐ行きましてよ。行く先のホテルの日を験べておいていただけないかしら。」
「そうしましよう。」
 と矢代は云った。しかし、彼は心中、もうこのあたりで千鶴子とは別れてしまい一生再び彼女とは逢わない決心だった。もしこれ以上逢うようなら、心の均衡はなくなって、日本へ帰ってまでも彼女に狂奔して行く見苦しさを続ける上に、金銭の不足な自分の勉学が千鶴子を養いつづける労苦に打ち負かされてしまうのは、火を見るよりも明らかなことであった。
 矢代は千鶴子のホテルの方へ彼女を送って行きながら、こうして愛する証左の言葉を一口も云わずにすませたのも、これも異国の旅の賜物だと思った。建物の上層ほのかに射している日光を仰ぐと穏かな浮雲が流れていた。雨に流され鋪道の石の間に溜りつつ乾いた綿のような軽い花の群れが、自動車の通る度びに舞い上り、車輪に吸い込まれて渦巻きながら追っていった。

 パリを出発してから矢代は南ドイツに入り小都会や地方を廻ってチロルの方へ出て来た。
 オーストリアと、ドイツ、イタリア、スイスに跨った山岳地方一帯の地名をチロルと呼ぶが、矢代は東京を出て以来、日本人から全く放れて一人になったのはこの旅行が初めであった。このあたりは矢代の知っている言葉はほとんど通用しなかった。日本人の顔とては一人もなく、言葉も全く通じないということは、ときにはこれほども気楽で楽しいものかと思ったほど、矢代は真に孤独の味いを飲み尽した。ああ、こんな楽しいことが世の中にあったのか。と、彼は汽車の窓から外を見る度びに、心が笛を吹くように澄み透るのを感じた。身体も絶えず真水で洗われているようであった。ときどき湖水が森の中から現れたり消えたりしたが、地図など拡げてみようともしなかった。
 矢代は千鶴子のことを思い出すこともあったが、今は彼女と別れて来たことを良いことをしたと思った。一人になってから車中や街中でふと肉感の強い女性を見ると、泥手で肌を撫で上げられたような不快さに襲われた。
 南ドイツの国境近くになって来ると、牧場の花の中に直立している岩石の上から氷河の流れ下っている山脈が増して来た。全山貝殻の裏のような淡い七色の光りを放った絶壁が浮雲に中断され澄み渡った空の中に聳えている間を曲り曲って行くのだった。そして、オーストリアの国境あたりまで辿りついたときに初めて矢代は汽車から降ろされた。
 乗り換えのない汽車だと聞かされてあったので、その村里の寒駅へ放り出されては、何事がひき起されたのか全く矢代には分らなかった。むかし習って忘れてしまったドイツ語で、ようやく次の列車を二時間半も待たねばならぬと知ったときには、むしろ、矢代はこれ幸いと思い、駅前の花野の中のベンチに腰を降ろした。
 高原を通って眼にして来た山山の中、今矢代の仰いでいる寸前の山ほど彼を驚かしたものはまたとなかった。巨大なミルクの塊のようで一条の草もない。空よりも高く突き抜けているかと見える頂から、氷河を垂らしたその姿は、見れば見るほどこの世の物とは思えなかった。あまり見惚れていたものか首の後ろが疲れて来たが、彼は花を摘みつつ歩いては山をまたぼんやりと眺めてみた。
 そのうちに疲れが全身に廻っていると見えて、眠くもないのに瞼がだんだん塞がって来た。彼は眼をこすりこすり幾度も山を仰いでいると、あたりがぼうと霞んで来た。これはいよいよやられたなと矢代は思った。日本を出発するとき衰弱の激しかった彼は、多分旅中死ぬかもしれぬと自分で思い、友人の二三の者から注意をされたのも思い起すと、やはりこの一人旅行は無事ではすむまいと覚悟した。しかし、今は矢代は楽しさに胸のふくるる思いであった。花野の中に一軒見えた茶店へ這入り、屋外の椅子にかけて牛乳を註文した。ビールを飲む大きなコップに搾りたての冷たい牛乳を、足をはだかり山を仰いで傾けていると、山も雲も氷河もともに冷たく咽喉へ辷り流れて来るのであった。
 足のぎしぎし鳴る椅子に反り返り矢代は、周囲の高原を見廻してはまた牛乳を飲んだ。青青とした牧草が一面に花筒を揃え氷河の下まで這い連って消えている。後方の樹木の多い山の中腹にはホテルや別荘が建っていたが、人通りは花摘みに行った別荘の娘たちの日に焦げた姿が多かった。
「絵葉書が欲しいんだが。」
 と矢代は茶店の主婦に云ってみた。主婦はしばらく顔色を見ていてから絵葉書を出して来たが、高山植物の葉書に混った中に二枚、角の生えた鹿の傍に卵の殻から生れて来る鹿の子の写真があった。ここの鹿は卵から生れるのであろうかと矢代はまたもびっくりした。景色までここは現世のものではないだけに、流石に生物も自から違うのであろうと思い、これで何よりの土産になったと、疲労も忘れて元気になったが、店を出て駅の方へ歩いて行くと、また眼がくらみそうに疲れを覚えた。眼前に突っ立っているミルクの巨塊のような山を見るまでは、疲れもさして覚えなかった筈だのに、この不思議な山を見て以来、のしかかられるような疲労に襲われるのは、これはいったいどうしたというのだろう。――
 矢代は小首をかしげ道の中央に立ちはだかったまま、なお山を眺めつづけてやめなかった。すると、雲つくばかりのそのミルクの巨塊は静かに潜んだ雷電の巣のように見えて来て、見れば見るほど力が胸から吸いとられていくのだった。
「この山は見ると悪いのだな。」
 と矢代は思った。彼は汽車の来るまで山の見えない待合室に隠れ、自分の荷物の傍へよりそっていたが、どうにもその不思議な山が気にかかり、ときどき屋根の下から出てみてこっそり山を仰いだ。すると、その度びに脊骨の中が暗鬱な痛みを覚え、周章《あわ》ててまた屋根の下へもぐり込んだ。
 時間になって軽便のような汽車が著いた。矢代は汽車に乗るとまた幾らか気持ちを取り戻した。窓から石炭の粉がひどく這入って来たが、レールの周囲の高原は眼を奪うばかりの花で満ちて来た。彼は窓から首を出し、花の中を割るようにして曲ってゆく汽車を見ていると、ぼこぼこ煙を吐き出している苦しげな機関車が道化た老人じみて面白かった。牧草の花の向うに氷河を流したスイスの山山が連って現れた。羊の群れが山峡の草の中を地を這う煙のようにぼッと霞んで見えたと思うまに、また花に満ちた高原が両側につづいた。
 こんな綺麗なところなら今夜ホテルへ著いてから千鶴子へ約束の電報を打っても良いと矢代は思った。パリを出発するときチロルへ著く日と宿とを報らせておいたから、あるいは久慈だけでも今ごろ先に宿に著いているかも知れぬと思われたが、それでもまだ当分彼は久慈に逢いたいと思わなかった。
 パリにいるときさまざまな議論をしたことなど考えると、久慈への懐しさは日に倍して来て、彼はもう永らく一言も饒舌らぬ日本語をぶつぶつと久慈に向ってひとり呟くほどだったが、まだ言葉の分らぬこの一人旅行の楽しさは、今も何物にも換え難かった。
「こんな所へ来ないなんて、馬鹿だな君は、何んて馬鹿だ。」
 矢代は声に出してこんなに云ったりした。そして、窓枠に顎をつけ、山脈を蔽った氷河を見ていると、世界の空気が自分一人に尽く与えられたように感じられ、涙が溢れて来て幾度も眼を拭いた。何というか、それは生れて以来の時間の重みが一時に解き放され、羽搏き上った放楽のような夢に似ていた。
 彼は窓から乗り出すようにして繰り現れる景色の一点も見逃すまいとした。色とりどりの花の波が高く低くうねりながら古城を巻き包んでいる。少女がその高原の中を真直ぐに自転車のペダルを踏んでいく。霧が谷間から湧き上って来る。
「いや、来て良かった。もう何ものも要らん。」
 深く頷く矢代の眼の前で機関車は、高原の風景はまだまだこれからだと云わぬばかりに無限に頁を繰り拡げていくのだった。こうして、日の暮れかかる前にようやくチロルのインスブルックへ著いたときは、矢代はがっかりと疲れてしまった。
 クックであらかじめとって貰って置いたホテル・カイザは駅からすぐだった。彼は久慈から手紙でも来ていないかと思い訊ねてみるとそれはまだだったが、出された宿帳へ名を書き入れてふと自分の名の上の署名を見ると、千鶴子の名が見覚えの筆跡で書いてあった。
 疲れとともにようやく人恋しさの加わっているときだったので、矢代はあたりの室内が急に体温に温められた明るさで満ちて来た。案内されて登る未知の階段ももう自分のもののような手触りを感じ、せかせかと馳け登りたい親しさだった。定められた部屋で旅装を解いてから、矢代はすぐ千鶴子の部屋を訊ねてドアを叩いてみた。
「あんとれ。」
 と中から声があり矢代はドアを開けた。
「あら。」手紙を書いていた千鶴子は、振り向くと同時に急に安心したようにペンを投げ出して立って来た。
「あたし、ひやひやしてましたのよ、今朝著いたんだけど、もしかして矢代さん、いらっしゃらなければどうしょうかと思ってたところなの。」
 矢代は一瞬菊の香りに似た風が千鶴子の身体から吹き込んで来るように思われた。
「まア、青いお顔よ、お疲れになったの。」
 心配そうに云う千鶴子の前に立ったまま、矢代は、
「よく分りましたですね。」
 と云ってしっかり握手をした。全く彼は夢想もしなかった喜びに、煌煌と火の這入った満された思いでしばらく茫然として部屋の中を眺めていた。
「日本語を使うのは今日初めてですよ。何んだか変だな。」
「でも、御無事で良かったわ。」
「無事は無事ですが、夢を見てるみたいだ。僕は今来る途中で、とてつもない山を見ましてね、入道雲のような山なんですが、山全体が磁石で出来てるようなもので、そ奴を見ると、疲れてへとへとになるんですよ。」
 云うことがどうも頓珍漢になりそうなほど突然の気楽さのためか、事実二人がここにいるということだけで話などはもうどうでも良いのだった。
「まア、どんな山?」
 と千鶴子もこう訊き返したものの深く訊きたい様子はさらになかった。矢代は痛んで来た肩を操みつつ、
「さア、絵葉書にはミッテンワルドと書いてあるんだが、口の中で繰り返して云ってると、見ると悪いぞという意味になって来て、驚いて逃げて来たところなんです。」
 二人は笑いながら長椅子にかけて向い合った。
「でも、この街もあたし、不思議なところだと思いましたわ。」
「そうだ、ここも恐ろしいところだな。何しろ、見ると悪いぞのつづきだから。」
 窓から見える所だけでも、犀の肌のような樹のない石の高山の頂から、街の上まで氷河が流れ降りていた。三方から垂れ流れたその氷河の狭い底辺に、森閑として建っている大都会がこの街であった。一条の塵も落さぬ清潔さでサフランの花の満ちた牧場に包まれたこの街は、最上の彫刻を見ているような深く冷たい襞を貯えて静まっていた。
「もう夕暮だからいいけれども、お昼にあの山を見ていると恐くなって慄えて来るようよ。あたし、こんな所に一人でなら一日もいられないわ。」
 矢代は山を見ていると、永久に腐らぬ悲しみというようなものが満ちて来て、久し振り千鶴子に逢った感動も岩の冷たさに吸いとられていくのを感じた。それは冷厳無比な智力に肌をひっ附けているような、抵抗し難い命数に刻刻迫られる思いに似ていた。
「これはミッテンワルドより一層たまらないな。しかし、明日は一つ、あの山の上へ登ってやろう。」
 矢代はこう云って山に背を向けてから久慈や東野のその後の動静を訊ねるのだった。
 入浴して後二人は夕食をとり、旅の話をしているときから雨が降って来た。夜の散歩も雨のやむのを待ってからにしようと云って、二人は矢代の部屋でまた話をしていると、雨は夕立となり篠つくばかりの激しさになって来た。
 矢代は疲れて千鶴子と別れその夜は早く眠ることにしたが、雨の音の激しさに灯を消しても寝つかれなかった。彼はまた起きると、カーテンを上げ、窓に肱をついて山の方を仰いでみた。氷河を貫くように斜に降る強い雨足が、建物に衝り爆け、石の壁を伝って流れ落ちると、道路の上で音立てて崩れていった。
 昼間の日光に温まった山山の岩も冷えて来たのであろう。急に冷くなった空気に矢代の身体は縮まったが、人一人も見えぬ彫りの深い夜の街に雨の降り込む美しさは、鬼気身に沁み込む凄絶な趣きだった。
 矢代は、暫くしてノックの音が聞えたのでドアの鍵を廻すと、千鶴子が真白な服で立っていた。
「あたし、恐くって眠れないのよ。もう少しお話してちょうだい。」
 寒さに慄えるように千鶴子は肩を縮めて這入って来た。
「ひどい雨ですね。僕も眠れないもんだから雨を見てたところです。閉めましょうか。」
「いえ、いいわ。」
 こう云っているとき、強い稲妻が真近の空で閃いた。氷河が青く浮き上ったと見る間にびりびりと震え、梭《ひ》のように山から山へ閃光が飛び移った。
 千鶴子は耳を蔽って椅子の背に小さくなっていたが、稲妻はひきつづき山を喰い破らんばかりの音立てて閃いた。矢代は窓を閉めた。
「あの山は鉄ばかりだから雷が集って来る。戦争みたいなものだ。」
 千鶴子はまだ耳を塞いでいるので矢代の言葉は聞えぬらしかった。
「こんな恐しいところ、あたしいやだわ、早くパリへ帰りましょうよ。」
「凄いなア。」
 長椅子の上へもたれかかって矢代は煙草に火を点け、まだどこまで続くか分らぬ空の光りを眺めていた。雨脚が白い林となって吹き襲った。
「あら、また。」
 と千鶴子は青くなった。爆烈して来る音響の中で明滅する氷河は、夜の世界を守護している重厚な神に似ていた。矢代は身を切り落されるような切実な快感に疲れも忘れさらに続く閃光を待つのだった。稲妻に照し出される度に表情を失い、白い衣の中でい竦んだ雌蕋に見える千鶴子が、矢代には美しかった。
「あたし今夜は眠れないわ。雷が一番恐ろしいの。」
「じゃ、この部屋でやすんでらっしゃい。良い時刻が来たら起して上げますから。」
 千鶴子は聞えたのか聞えぬのか黙ってやはりそのまま動かなかった。間もなくだんだん雷は鎮まって雨も小降りになって来ると空気が一層冷えて来た。千鶴子の顔は再び生気を取り戻して動き出した。雨が全くやまったとき二人は久慈にあてて、チロルの山の恐ろしさ美しさを寄せ書きしてまた遅くまで話し込んだ。

 少しの雲もない朝である。ロココ風な等身大の肖像画のかかった食堂で矢代は千鶴子と食事をした。朝の日光がもう白い食卓の薔薇の上まで拡っている部屋の、旅客の誰もいない遅い朝食も、二人には却ってのびのびとした気楽さだった。食事をすませてから二人は街へ出た。澄みわたった空に浮き上ったまま、触れんばかりに街を取り包んでいる氷河は、海浜に連り立った爽やかな白い建物を見る思いであった。しかし、それも長く見つづけているうちに、山山の肌は深海を覗くような暈《めまい》を感じさせる。千鶴子は装飾窓にかかっている土地製のチロル帽を欲しがって店店を廻った。
「これどう。あたしに」
 おから型の縁を縄のように縒ったリボンのチロル帽は、都会の婦人に喜ばれる風だったが、それも旅の愁いの現れに似ていた。この街には土地の者はあまり見えず、滞在客にイギリスやドイツから来る旅人が多いらしい。装飾窓の品品も写真機とか山岳地の木彫の玩具とか、民芸風のリボン、帽子などが多かった。絵葉書の絵にも氷河を後ろに旅人と別れを惜しむ土地の娘の悲しさがあり、遠い異国の方へ流れる雨の行方を見つづける人の姿絵なども、矢代には旅の感傷となって生きて来た。
「ほんとに、ここはあんまり静かで、耳が痛くなるようね。」
 靴の音の響き返る鋪道を歩きながらも、建物の間からふと見える氷河の根を見て千鶴子は立ち停った。
「東野さんもいらっしゃれば、きっとまたここで俳句をお作りになることよ。ブロウニュの湖水では、面白うござんしたわね。」
 矢代はいちいち軽く頷きつつ公園の方へ歩いた。街の端れにある公園は矢代の見て来たどこの公園よりも美しかった。地の上まで枝を垂らしている大樹の間から、鉛色の山肌に下った氷河が鋭く、手も届きそうであった。
「今日は暑くなりそうね。きっとあの山が焼けて来たからだわ。」
 ハーフレカールの山頂の迫った下にテラスがあった。樹陰いちめん白布を敷いたテーブルが並んでいて、一人の客もない白い広さの中に二人は休み、ミルクを註文した。鶯の老けた声が小鳥の囀りを圧して梢から絶えず聞えて来た。昨夜の雨でまだ濡れている日蔭の道を、ウィーン風の立派な白い髯の老紳士が、杖をつきつき衰えた歩みを運んで来る。千鶴子は口についたミルクを手巾で拭きながら、
「あなたも俳句お作りになるといいわ。」
 と矢代にすすめて笑った。
「もうそれどころじゃない。こんなところにいると、何をしていいか分らなくなりますね。まるで馬鹿みたいだ。」
 足もとへ擦りよって来る栗鼠の敏捷に動く尾を見降ろしていた矢代は、全く張りのなくなったように、清澄な空気の中で今にも欠伸の出そうな顔であった。
「こんな美しいところで人間が一生棲んでいたら、非常に勉強したくなるか、博奕ばかりやりたくなるかもしれないな。」
「でも、ここはオーストリアじゃ、一番お金持の多いところだそうでしてよ。」
「それや、人の胆をこんなに抜けば、お金は儲かりましょう。氷河で儲けようってんですからね。」
 大樹の繁った園内では真空のように一本の木の葉も動かなかった。小鳥の声のよく響く樹幹をめぐり、薄紅色の紫陽花の群れが蜂を集めている。矢代は片頬を肱で支えテーブルに凭れているうちに、卓布の上を這う山蟻がだんだん大きく見えて来た。身体が浮き上っていくのか沈み込んでゆくのか分り難い。日光のあたっている胸が気だるく大儀になると、「さア」と矢代は云いつつゆるりと立った。木蔭の所どころに塊っているベンチの人も、物云う者は誰もなかった。どの樹も小鳥の声の泉かと見える。幹を降り辷って来る栗鼠だけが、氷河の襞に湧く虫のように自由にぱちぱち這い競って動いていた。
「お昼から山へ登りましょうね。あたし、写真機を買おうかしら。」
 千鶴子ももう云うことがないのだと思うと、一口の無意味な彼女の言葉も、両手で受けたく清らかに矢代には見えるのだった。
「あなた写真お上手ですか。」
「それが駄目なの。でも、撮れればいいわ、きっと後で失敗ったと思うんですものね。」
 と身の廻りでほッと開く連翹のような鮮やかさで笑む千鶴子を、樹陰からこぼれ落ちる日光の斑点の中で、矢代はただ今は頷くばかりである。
 写真機を千鶴子一人に買わせるよりも、二人で買う方が旅の記念にもなると思い、矢代は等分に金を出し合うことを主張して、ある店で手ごろなシュウパアシックスを買った。
「あたし、この写真機いただくわ。でも、それはあなたとお別れするときでいいんですのよ。大切にしまっときたいと思うの。」
 こう云う千鶴子に勿論矢代は異議がなかった。間もなく必ず別れねばならぬ二人である。そして、そのように思っても別に悲しみを感じない。異国の旅にふと出会ったかりそめの友情であってみれば、日本にいたときの互の過去さえすでに白紙であり、またそれをどちらも探り合う要もない、共通の淋しさ儚なさを守り合う身に沁む歎きはあるとはいえ、それはただ甘美な旅の情緒にすぎない。
「まア、自転車のチェーン、こんなによく聞える街って、珍らしいわ。」
 教会堂の高い十字の下で、千鶴子は塵一つない通りを辷って行く自転車を振り返って云った。どの街にも人はあまりいなかった。彫り深い彫刻のようなその静かな通りに、生き生きと影だけ明瞭に呼吸しているこの都会の奇怪さも、氷河を見馴れてしまった矢代には自然だった。ふと覗く店店からも時計の音が際立って高く聞えた。

 昼食の後矢代と千鶴子は登山バスに乗って山の中腹まで行った。バスの中の人人はそこのホテルへ帰るものや、山頂へ行くものたちであったが、詰っている周囲の顔も、もう矢代たちにはどれも外人の顔のようには見えなかった。いつの間にか違う種族の人間も、東京の街角でバスの来るのを待ち合う顔と同じに見えている二人だった。
 山の中腹でケーブルに乗り換え、さらに山頂まで二度ほどのレールを変えた。ケーブルの下は花の野の斜面であった。街が次第に低く沈むに随い、横を流れる河が渓間に添いウィーンの平野の方へ徐徐に開けて行くのが見えた。終点の駅は旅宿をもかねていた。人人はそこのホールで皆足をとどめて眺望を楽しみ、そこからまた下へ降りるのであったが、矢代たちは駅から放れてまた頂の方へ登っていった。もう後からは誰も来なかった。
 樹の一本もない山路である。路の両側には氷のように塊った残雪が傾いて流れていた。雪のない所は地を這ったねじれた灌木が満ち、一面に馬酔木《あしび》の花のような小粒な花の袋をつけていた。
「あらあら、牛がいるわ。」
 と千鶴子は云って谷の方を覗いた。
 一面のサフランの花を麓から押し上げている牧場を登って来た牛である。牛は首の鈴を鳴らせつつひとり雪の中を歩いていた。氷河の溶けて流れる水音がときどき雨かと矢代の耳を引いた。靴底に痛みを覚える石ころ路にかかると、スイスの山の方に流れる雲もだんだんと低くなって来た。
「あたしのいるこのあたり、もうこれでスイスかしら。まだだわね。」
 山山の連りをぐるりと見廻す千鶴子の胴の黄色なベルトが、今はただ一本の人里の匂いであった。
 山の頂を横にそれ曲った所に山小屋があった。矢代はピッケルを二本と、靴下とサンドウィッチをそこで買い、千鶴子と頒け持ってまた山路を歩いた。小舎の番人から、間もなく見える氷河を渡らねば向うの山頂へ出る路は断たれていると聞き、思い出にそこを一度渡ってみようと云うので、買物の準備を一応してみたものの、その氷河の幅を見なければまだ二人には決心がつきかねた。
「塩野さんも去年そこの氷河を渡ったとか、仰言ってましてよ。そこを渡ると、向うの谷間に、羊の群が沢山いるんですって。」
 千鶴子は子供っぽく眼を輝かせて矢代を見ながら、
「ね、それを見ましょうよ。夕暮になると、羊飼いがチロルの歌を唄って羊を集めるんですって。その美しいことって、もう何んとも云われないって、そんなに云ってらしたわ。それを見ましょうよ。」
「見るのは良いが夕暮じゃもう帰れないでしょう。」と当惑げに矢代は云った。
「でも、山小舎があるから、そこで泊れるんだそうですよ。その代りに、乾草の中で眠るんですって。」
「それもいいな。」
「ホテルで泊るより、どんなにいいかしれないわ。そこで今夜はやすみましょうよ。」
 他人は誰も見ていないと云え、自分の愛人でもない良家の令嬢と、何の結婚の意志なく乾草の中で眠ることについては、ふと矢代も躊躇して黙っていた。しかし、千鶴子が少しの懼れも感じず云い出すその無邪気さは、パリでの度び度びの二人の危険も見事に擦りぬけて来た美しさであった。また矢代もそれに何の怪しみも感じない旅人の心を、簡単に身につけてしまっている今である。
「じゃ、行きましょうか。しかし、僕よりあなた辛抱出来ますかね。」
 と矢代は千鶴子の服装を見て云った。
「あたしはホテルで泊るより、どんなにいいかしれないわ。チロルへ来たからには、チロルらしい方がずっと面白いんですもの。」
 相談が定ると二人は一層元気が増して来た。蜜蜂の群れが山路の両側で唸りをたてて飛び廻っていた。ドイツの国境の山山は藍紫色の断崖となって立ち連り、中腹を断ち切った白雲の棚曳く糸が、その下の渓谷の鋭さを示しながら、尾根から尾根の胴を巻き包んで流れている。もうまったく人里は見えなかった。路を曲ると急に冷気が真新しく顔を打って来た。スイスの山山が天と戯れつつ媚態をくねらせ、日光に浸った全面の賑やかさの中から白い氷の海が見えて来た。
「ああ、あれがそうだわ。あそこを渡るのね。」
 千鶴子は云いながら足早やに路を急いだ。鋸の歯のようにぎざぎざの氷の峰を連ねた半透明の氷河は、かすかに傾いた趣きでいよいよ全幅を二人の前へ現した。矢代は道の尽きたところに立って氷河を見降ろしながら、
「どうもしかし、こ奴はなかなか危険だぞ。」と呟いた。
「じゃ、矢代さんはあたしの後について渡っていらっしゃいよ。あたし、こういうところは案外お上手なの。」
 千鶴子にそう云われてはもう矢代も後へは退けなかった。氷の傍まで降りて行って見ると、氷河は高さ五米ほどの鋭い歯形の起伏を、二町の幅の中にぎっしりと無数に詰め谷間を下へ流れていた。二人は用意の靴下を靴の辷らぬ用心に靴の上から履き込み、手袋をはめて氷河の斜面を登り始めた。
 一つ二つの尾根は矢代が先に立って、靴の踵で氷を傷つけつつ、後の千鶴子の登る足場を造る役目になった。しかし、三つ四つと渡り越すうちに、氷の峰と峰の間の断層が底知れぬ深さを潜めて増して来た。一つ辷って足を踏み脱せばどこまで落ちるか分らぬ断層が、ガラスの断面のようなびいどろ色の口を開け、降りて来る二人の足を待っていた。もう草もなく、いつの間にか二人の周囲はまったく氷ばかりの歯となって来ると、矢代は斜面の急な部分を迂廻する心掛けで、現れて来る不規則な氷の群峰を選び進まねばならなかったが、間断なく同じ動作をつづけるこの氷の歯渡りは、石工のような忍耐が必要だと悟って急がぬ用心をするのだった。
「上から見たときは狭かったようだけど、這入って見ると、ほんとに氷河って大きいものね。」
 千鶴子はピッケルを打ちつけつつ、上から垂らす矢代のバンドを握って云った。
「冷いかと思ったが、そうでもないなア。これ、こんなに汗ですよ。」
「あたしもよ。写真をそのうちどっかで撮りましようね。」
 引き上げられながら登って来る千鶴子を見ながらも、矢代はもう少し自分に力があればと、今は隠せぬ努力の不足に羞恥を感じて歎いた。それも労力だけではなく、智力も同様に貧しい自分について、彼女を引き上げる度びに感じるその操作は、二重の心苦しい瞬間となってときどき矢代の胸を打って来た。これでもし千鶴子と結婚するような機会を持てば――と、ふとそう思う聯想につれても、氷河は自分には天罰を与えた苦手だと彼は苦笑するのだった。
 千鶴子の顔は赤味を帯んで熱して来た。額の生え際に細かい汗をにじませ、股のふくらみを折り曲げつつ、氷の面へせり登って来る千鶴子と見合う視線の閃めきも、冴え返っている白光の中ではただ一点の光りに見えるばかりである。
 鈍い氷の斜面が現れると、二人は腰を氷に附けたままずるずる辷り降りた。鋭い氷山はときどき中央に空洞を開けていて、その穴から向うを辷る千鶴子の姿がよく見えた。尾根の描く氷の歯の先端は、日光のために鈍く溶け崩れていたが、それでも半透明のまま、それぞれの姿態の鋭さで天に向って立っていた。
「一寸矢代さん動かないで。」
 千鶴子は峰に跨がるような姿で矢代にカメラを向けた。断層を飛び渡った矢代は瑠璃色の割れ目の底を覗き込みながらじっとしていた。
「はい有難う。この次、洞があったら、そこからこちらを覗いて下さらない。そこも一つ撮りたいの。」
 細かい砂を少し含んでうす汚れている氷の面は、足場を造る度びに、新しい輝きを壊れた断面から現した。臙脂《えんじ》色の千鶴子の姿が尾根の上に全貌を現したときは、来た峰の上に折れまがった長いその影を取り包んで、七色の彩光が氷の面面に放射していた。
「お疲れになったら、あたしが先に行きましてよ。そう仰言って。」
 と千鶴子は矢代の疲労の色を見てとって云った。
「少少疲れましたね。あなたは山登りはお上手ですか。」
「幾らかだけど、でも矢代さんよりはお上手らしいわ。」
「何んでも僕の方が少しずつ負けなんですね。これや日本人の特性かな。」
 と矢代は云って腰を叩きながら笑った。千鶴子はちらりと微笑をもらしたかと思うと両肱を後ろにつき、曲げた膝にカメラを受けとめ、同じ微笑を崩さずさっと氷の斜面を辷り下った。下にいた矢代は受けたそうな手つきであったが、ねっとり汗ばんだ掌をズボンで拭き拭きまた断層を飛び越えた。
「ここのことかしら、あたし、何んかで読んだ覚えがあるんだけれど、この氷河の断層へ新婚のお婿さんが落ち込んだんだそうですのよ。そうしたところが、死体がいつまでたっても分らないから、花嫁さんは山の麓へ降りていって、氷河の溶けるまで永久に待っていて死んじまったって、あのお話御存知でしよう。」
「そう云えば思い出しましたね。多分その話はここのことかもしれないな。」
「あたしここだと思うの。ここはそういう人の来るところですものね。」
 千鶴子はそう云いながら、ピッケルで欠いた氷の破片を、断層の底へ投げ込んで覗いてみた。破片はすぐ見えなくなったが、屈曲する断面にあたる氷の音が、「ころん、ころん、」と軽やかなわびしい音をたてつづけ、だんだん小さくなりつつ消えていった。
「まアいい音だわ。一寸お聞きになって御覧なさいよ。」
 と千鶴子は矢代を呼んだ。二人は擦りよるように身を蹲め、破片を投げ込んでは断層に耳を近づけた。まったくそれは果てしれぬ氷河の底へ落ち込む虚無の音であった。音が消えてもまだ鳴りつづける幻聴となって、半音を響かせる絃の音に似ていた。矢代は空を仰いだ。日が照り輝いているのに、松柏を渡る風のような虚しさがじっと浮雲を支えていた。
「どっかでサンドウィッチ食べましょうか。お腹が空いて来たわ。」
 延び上って来る千鶴子の肉声が耳もとですると、矢代は腰の手巾の包みを開けて出した。
「こんなところでいやしんぼうすると、断層の中へ落ち込みますよ。」
「じゃ、あなたも召し上れ。」
 手を延ばしてサンドウィッチを取る千鶴子の頬笑みから矢代は目を反らした。心にこれだけは云ってはならぬぞと、云いきかせた二人の慎しみの裂け口を飛び越す思いであった。
「僕は監督だからな。」
 軽く笑いながら自分も食べる矢代を見て、
「おやおや。」
 と云いつつ千鶴子は今度は自分が先に立ち、氷の牙を登っていった。矢代はカメラを千鶴子から受けとった。
 氷の尾根の線に添いおぼろな虹が立っていた。その中をまた二人は登り降りしつづけた。汗が全身に廻って来ると、矢代は、もう身を取り包んでいる周囲が尽く氷河だとは思えなくなって来た。物云うのもだんだん億劫になって来て、足もとに開いた断層も何んの危険な深みとも感じなくなるのだった。
「お疲れになって?」
 千鶴子は氷河の三分の二ほどのところで氷の歯の上に跨がり、矢代を見降ろして訊ねた。矢代は彼女の垂らすバンドに掴まり、「何あに、大丈夫。」と云いつつ登ったが、あたりに漲る強い白光に眉のあたりが痛んで来た。
「そう早く登られちゃ嫉妬を感じるね。」
 冗談にまぎらせてそう呟くものの、事実矢代は氷河の尾根を軽軽と乗り越す千鶴子に疲労の様子の少しもないのを見ては、振り向く度びに胸に光る彼女のブローチの金具が腹立たしかった。
「駄目ね、あなたは。」
 これも冗談とはいえ、彼の体力の不足に刻印を打つように矢代には強く感じられた。ときどき一寸ほどの幅の割れ目が稲妻形に氷の面を走っていた。その割れ目にピッケルをひっかけ、遅れつつ呼吸を途切らせてようやく千鶴子に追いついた矢代は、何んとなく今は彼女に負ける楽しみの方が勝ちまさって来るのだった。
「一寸、千鶴子さん、撮りますよ。」
 矢代は豊かな気持ちのままカメラを千鶴子に向けて云った。千鶴子に用意を与えず峰から振り向いた途端、そこをもう矢代はシャッタを切った。負けた良人が勝ち誇った妻の写真を撮るような快感さえ感じ、矢代はひとり快心の微笑を洩らしながら、
「もう撮りましたよ。どうぞ。」
 と云った。千鶴子は体をねじ向け、「あら、」と不平そうな媚態で氷の矛の上から彼を睨んだ。矢代は上まで登って千鶴子と並んで立った。
「さア、もうこれ一つ渡ればいいのよ。」
「何んとなく楽しかったなア。」
 矢代は越して来た危険に満ちた多難な峰峰を振り返った。並んだ二人の影が西日に長く氷の上に倒れて、そこから七色の放射線が前より一段強く空に跳ね返っていた。
「これで終りですから、並んで一緒に辷りましょうよ。」
 そう云う千鶴子の晴やかな提案のまま二人は最後の氷河の尾根に並ぶと手をとり合った。そして、一、二、三のかけ声もろとも氷の斜面を辷り下った。
「とうとう征服してやった。」
 と矢代は汗を手巾で拭き拭き笑った。
「ほんと、もうここならこれでスイスよ。」
 二人は靴の上から履いた靴下を脱ぎ手袋をとって小舎を探しにまた路にかかった。山頂より少し下った所に丸木を組んだ小舎が見えた。千鶴子は先に立ってドアを開けた。
 小舎の中には頭と腰とを交互に並べた牛が部屋いっぱいに満ちていた。その中央を僅かに通れる幅の通路があり、そこを進んだ正面のとりつきにまた一つドアがあった。千鶴子のノックで開いたドアの中から、客間らしい椅子テーブルの明るい部屋が現れた。中でひとり編物をしていた様子の老婆が出て来たので、千鶴子はフランス語で今夜の宿を頼んでみた。客の少ない季節のこととて二人は容易に部屋をとることが出来た。千鶴子はまた羊の帰る谷間はどこかと訊ねてみると、老婆は窓からゆるやかに見える下の山峡を指差して、
「もうすぐここの谷間へ羊が集って来ますよ。」
 と教えてから古風な柱時計を振り返った。
「もうすぐもうすぐ。早く外へ出て行ってごらんなさい。」
 手真似を混ぜてせくように云う老婆の言葉に随い、二人はテーブルの上に持物を置いて外へ出ていった。
 もうその日の宿をとったからは二人は安心だった。一本の樹木もない峡間に拡がった牧場の見える路へ出て、そこで食べ残りのサンドウィッチを食べ始めた。
「今日は良いお天気だったから、きっとお星さんが降るようよ。ほんとに来て良いことをしましたわ。何んてあたしは幸福なんでしょう。胸がどきどきして来てよ。」
 千鶴子は髪をかき上げながら周囲の山山を見廻した。矢代は黙ったまま、サフランの花の中で寝てみたり起きてみたりした。氷河は左方の斜面にねじ曲ったおおどかな流れの胴を見せていた。矢代は幾らか疲れが出て来た。手枕のまま頬に冷たく触れて来るサフランの花の匂いを嗅いでいると、温度が急に下り始めたらしく首筋がぞくぞくとして来た。
「まだかな、羊。」
 こう云って彼は花をむしり取っては弁を唇で一つずつ放していった。
「もうすぐでしょう。きっと来てよ。」
 千鶴子も待ちくたびれたものか矢代に添って一寸仰向きになりかかったが、直ぐまた起き直った。
「ここから見ると、やはり日本は世界の果てだな。」
 と矢代はふと歎息をもらして云った。
「そうね、一番果てのようだわ。」
「あの果ての小さな所で音無しくじっと坐らせられて、西を向いてよと云われれば、いつまでも西を向いてるのだ。もし一寸でも東は東と考えようものなら、理想という小姑から鞭で突つき廻されるんだからなア。へんなものだ。」
 千鶴子はどうして矢代が突然そのようなことを云い出したか分らないらしく黙っていた。矢代は起き上って来て暫く峡間の向うの方を眺めていたが、手に潰したサフランの弁をぱっと下へ投げ捨てた。
 夕日が前から雲間に光線を投げていた。およそ羊のことをもう二人が忘れてしまっているころ、遠くの方から蛙の鳴くような声が聞えて来た。それがだんだん続くと蛙ではなく、牧場のどこかで羊を呼ぶチロルの唄だと分って来た。
「ああ、あれだわ。」
 と千鶴子は云って矢代の腕を引いた。チロルの唄は咽喉の擦り枯れたような哀音を湛え、「ころころころ、」と同じリズムで聞えていたが、そのうちに、「るくるくるく、」と次第に高く明瞭になって来た。牧人らしく雲と氷に磨かれた声である。
 唄につれてあちこちから鈴の大群の移動し始める音が起って来た。すると、四方から蝟集して来る羊の群れが谷間に徐徐に現れた。初めは入り交る白雲のように見えた羊の群れも、幾千疋となくどよめき合して来るに随って、堤を断った大河のように見る見るうち峡間いっぱいに押し詰り、下へ下へと流れて来た。
 矢代は胸の下が冷えて空虚になるのを感じた。日没の光りに山山の頂きはほの明るく照りわたっていた。その下を羊の鈴の音が交響しながら、それが谷谷に木魂して戻って来る倍の響きとなり、総立ち上る蚊の大群のように空中に渦巻いた。チロルの唄はその中を貫く一本の主旋律となって、羊の群れを高く低く呼び集めて近づくのだった。
「るくるくるくるく、るるるるるる――るくるくるくるく、るるるるるる――」
「まるで神さまを見ているようだわ。」
 と千鶴子は小声で云うとまたぼんやり放心して下を見降ろした。まだ末の方で拡がり散っている羊の群れは、犬の声に緊めつけられつつ、新たな団塊となりさらに速度を早めて前の群団の中へ流れ込んだ。空の光は刻一刻薄らいで紫色に変っていった。羊の流れは地を這う霧のようにかすみながらも鈴の響だけますます大きく膨んで来ると、むっと熱気に似た獣類の臭いが舞い襲って来た。
「凄いなア。」
 と思わず云った矢代の声も、もう真下に追った犬の吠え声に聞えなかった。ひたひたと漣のよせるような速度で下る羊の河は、氷河とは反対に峡間を流れ曲り、羊飼の唄を山の斜面の彼方へ押し流して進んだ。その度びに、「ぐらん、くらん、」と響き合う鈴の木魂が余韻を空に氾濫させつつ、深まる夕闇の谷底をだんだん遠くへ渡っていく。
 太陽はまったく落ちてしまった。羊の群れも峡間から消えて見えなくなったとき、矢代と千鶴子は初めて顔を見合せたが、どちらも何も云わなかった。下の空虚になった牧場には闇が羊に代って流れていた。はるか遠くの谷の方から、まだ夢のようにつづいている鈴の音を暫く聞いていてから、
「さア、だいぶ冷えて来ましたな。」
 と矢代は云って立ち上った。二人は山小舎へ帰って行った。
 夕食のときも二人は何ぜともなく黙っていた。食事を終ると矢代は窓いっぱいに散っている星を眺めながら身体を拭いた。疲れが一時に出て来て、ランプの下で煙草に火を点けるともう彼は動くことも出来なかった。隣室では早くも眠る準備の椅子を動かすらしい音がかたこととしていた。千鶴子も流石に疲れたと見え、椅子にもたれかかったまま峡間を見下していたが、それでも顔はつやつやとしていて少し窪んだ眼が一層大きく美しかった。
「あたし、今日ほど楽しい思いをしたことはありませんでしたわ。もうこんな楽しいことって、一生にないんだと思うと、何んだか恐ろしくなって来ましたわ。」
 と、千鶴子は指輪の銀の彫刻を撫でつつ小声で云った。
「大丈夫ですよ。」
 と矢代は云ったものの、千鶴子のそう思うのもあながち無理なことではないと思った。
「でも、そうだわ。こんなことって、一人にいつまでも赦されると思えないんですもの。」
 矢代は笑いにまぎらせてまた星を見詰めた。冷たい空気に混り乾草の匂いがどこからか漂って来た。千鶴子はっと立ち上ると矢代には黙って外へ出ていった。
 星は見る間に落ちて来そうな輝きを一つずつ放っていた。矢代は煙草を吸い終ると、戻りの遅い千鶴子の後から部屋を出て探してみた。しかし、彼女はどこにもいなかった。暫く左右の丘の上を探しているうちに、氷河の見える暗い丘の端で、じっとお祈りをしている膝ついた彼女の姿が眼についた。カソリックの千鶴子だとは前から矢代は知っていたが、いま眼の前で祈っている静かなその姿を見ていると、夜空に連なった山山の姿の中に打ち重なり、神厳な寒気に矢代もひき緊められて煙草を捨てた。
 千鶴子の祈っている間矢代は空の星を仰いでいた。心は古代に遡ぼる憂愁に満ちて来て、山上に立っている自分の位置もだんだん彼は忘れて来るのであった。
「あら、そんなところにいらしったのね。」
 と千鶴子は笑いながら立って矢代の傍へよって来た。昼間わたって来た氷河の星の光りが白く牙を逆立てて流れていた。

 次の日、矢代たちがホテルへ戻って来たとき、パリの久慈から矢代あてに手紙が来ていた。

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 君がいなくなってから、もう幾日になるか忘れるほどである。とにかく、少し先き廻りをしたかもしれないが、もうインスブルックへ君は出たころであろう。あれ以来、パリには罷業が頻発して来た。これは有史以来の出来事のこととて、われわれには最も興味深い千載一遇の好機に会ったわけだ。これを観察する機会を逃すことは、大きく云えば、歴史の一頂点を見脱す結果になることである。君も出来るなら直ぐこちらへ引き返して来てはどうであろうか。君とはパリ以来論争ばかりで日を費したような羽目になったが、お蔭でこのごろ君との争いもだんだん僕の役に立って来たのを感じる。君と会えばまた前のように争いつづけることと思うけれども、それも今はやむを得ない。それから千鶴子さんが君の後からそちらへ行くような話であったから、もう今ごろは会ったかもしれないが、塩野君その他の人人は何か急用の出来たような話もあり、あまりそちらに長く落ちつかぬよう千鶴子さんに伝えてくれ給え。
 僕の方はこのごろ困ったことが起って来た。君も知っているだろうが、ウィーンへ行った真紀子さんが突然僕を頼ってひとりパリへ現われたのだ。僕は真紀子さんの置き所に苦しんだ揚句、同じここのホテルにいるより君のホテルの方が良いと思い、留守中を幸い君の部屋を失礼させて貰っている。真紀子さんは御主人にハンガリヤ人の夫人のあったことが分ったとかで、夫婦分れをして飛び出て来たとのことである。考えれば僕は今年は厄年だ。それからバンテオン座に、『われらの若かりしころ』というロシア映画が現れた。これは素晴らしい。われわれはまだ若いのだ。僕も君もこの若さを充分意義あらしめよう。
 僕にもいろいろの困難はあるが、何と云ってもパリは良いところだとつくづく思う。僕は実際どこへも旅行する気持ちはあまりなくなって来た。それから終りに、突然で失礼だが、君はどうして千鶴子さんと結婚する気持ちがないのか。君との約束のように僕もチロルへ行くつもりでいたのだが、千鶴子さんと君との間を疎遠にしては悪いと思い遠慮することにした。多分君のことだから、千鶴子さんが君の後を追ってそちらへ行っても、依然として前と同じことだろうと思う。しかし、人間は表現をするときには決断力が必要だ。君は外国へ来て日本という国にすっかり恋愛を感じてしまっているので、人間なんか、殊に婦人なんか問題ではなくなってしまっているらしいが、それは非常な錯覚だと僕は思う。君の云うように僕も今は錯覚の連続で外国というものを見ているのかもしれない。しかし、君も僕とはまるで正反対な錯覚ばかりで物を見ているにちがいない。いったい、君と僕との見方のこの正反対も、どちらが正当かということについては、恐らく今までの日本人の中では、誰一人として解答を与えられることの出来たものはいないのではあるまいか。またこの重大な問題がわれわれ若者の上に、永久にこれから続くと見なければならぬ以上、何らかの方法で君と僕との意見の対立に統一を与えたいと思う。君がいないと矢張り僕は片翼が奪われたようで淋しい。なるだけ早く帰ってもらいたい。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から4字上げ]久慈
 矢代耕一郎様

 矢代は手紙を読み終ったとき、何となくこうしてはいられないという気になってすぐ夜行でパリへ帰ろうかとも思った。彼はその手紙を千鶴子に見せずポケットへ捻じ込むと、千鶴子を誘って噴水の昇っている街角の方へ歩いていった。

 雨あがりの空は暮れ方になってから晴れて来た。モンパルナスの連なった家家の上層は夕日を受けた山脈のように仄明るく輝いた。人の顔も光り輝き眩しげに微笑しているその下の、石畳に溜った水に映っている空の茜色――久慈は先から喫茶店で母に出す手紙の文句を考えながら、じっとその水溜を見詰めていた。まだ水滴を落している樹樹の緑の下に濡れた椅子が、そのままになっていて、桃色の淡雲の徐行していく下の通りのあちこちから、人の声が妙に明るく響いて来る。
「お身体いかがですか。僕は達者で日日を楽しみ深く勉強しております。」
 久慈はこう母に一行書いたものの、むかしの学生時代同様その後がまだ何も出て来ない。通行人の吐き流した煙草の煙が流れもせず、はっきりした形で流れず、油色のままに停っている。水中のような夕闇の樹の葉の中で時計台に灯が入った。
「お母さんの神経痛のことを思いますと、こちらにいても憂鬱になりますが、温泉へでも行かれれば安心です。私の行きたく思う所も、日本では今は温泉ばかりです。」
 久慈はふと母の今いる所はこの足の下だと思うと、丁度今ごろ母は夜中に眼が醒めて明日の方角のことを考えている最中だろうと思った。久慈の母は年中お茶を立てては方角のことばかりを気にし少しの旅行でも方位が悪いと一度親戚へ行って泊り、そこで悪い方位を狂わせてから目的地へ出発するという風だった。久慈が神戸を発つ日も暗剣殺が西にあるから、船中用心をせよとくれぐれも教えた。一度親戚の家の巽の方角に便所がある家があって、そこに丁度四緑の年にあたる娘があったが、久慈の母はそれを心配しつづけ家を変るようとしきりに奨めたことがあった。そのまま居つづけては、娘が二十三の年になったとき死ぬというのである。親戚の者は笑って相手にしなかったところが、何の病気もない健康なその娘が二十三になると、突然肺|壊疽《えそ》か何かで二三日で死んでしまった。それ以来一層久慈の母は方位に憑かれるようになって、他人の年齢を一度訊くと、直ちにその者の月番の方位の善悪を宙で云えるまでになってしまっている昨今だった。一つは嵩じていく母の迷信への反感も手伝い、また一つは元来科学主義の信奉者である久慈には、東洋のこの運命学は全く不愉快でたまらなかった。
「お母さん、いったい、そんなことを一一真に受けて動いていちゃ、出来ることでも出来なくなるじゃないですか。困ったものだな。」
 と久慈はよく母を叱ったことがあった。
「いえいえ、わたしらはずっとこの通り先代から伝って来たことを守って来て、一度も間違ったことはないのだから、良い方位の通りに動いておれば安心です。人間は安心さえ出来れば倖せじゃないの。」
 と母は母で伝来の素朴な考えを守りつづけ、鼠や牛を初めとする十二支と九つの星との抽象物を自分の科学の基本として、あたかもそれが久慈の信じる西洋の抽象性と等しい力を持つものと思い込み、誰が何んと云おうとも動こうとしなかった。
「この足の下の半球は、方角ばかりで動いているのだ。それが三千年も続いて来てまだ倦きようともしないのだ。」
 こう思うと久慈は母へ出す手紙も健康のこと以外には、あまり書く気が起らなかった。しかし、何んと云ってもそれが東洋の自分の母であってみれば仕方もない。ときどき思い出したように、出す手紙の端にこちらでは物が六万倍に拡大されて見える顕微鏡のあることや、宇宙の方位の端まで見える望遠鏡のあることなどを書き、母の信じる運命学をぶち壊そうと試みたこともあった。しかし、今からでは暗い母の頭の中へ光線を射し入れることは不可能だと気附くと、唯一無二の信条としている自分の科学的精神の威力も、まだまだ説得力に於て考えねばならぬところがあると悟った。またそれはただ単に母だけではない、現にこちらに自分と一緒に来ている知識人の矢代までが、日を経るまま漸次東洋的になりつつある現状を考えても、ああ、あの矢代まで十二支になって来たのかと舌打ちするのだった。

 薄明の迫るにつれてマロニエの葉の中の時計の灯が蛍のように黄色くなった。久慈が手紙を書き終っても通りの自動車は一台も通らなかった。
 そうだ今日は罷業があったのだと、久慈は初めて気附いてテーブルを立った。ブルム社会党の内閣が出現して日のたたぬ今日このごろの街街は、左翼人民戦線の優勢になるにつれ罷業がつづき、街は閑散になる一方だった。欧洲文明の中心地をもって永く誇っていたパリに社会党の内閣の現れたことは、フランス革命以来なかったことであるだけに、この思想政治の左傾は人人の頭をも急流のように左右に動かしてやまなかった。随ってヨーロッパのこの空気の中を渡る旅人も、歩く以上はそれぞれどちらかの道を選んで歩かなければ、どっちへも突き衝ってばかりで進むことが出来ぬのである。郷に入れば郷に従えと主張する久慈も、道を歩きながら自分はいったいどちらの思想を支持しているのかと考えつつ歩くことほど、心苦しいことはなかった。おれは日本人だから自ら別だと思う工夫は、日本人だけ知識が世界から置き去りにされるという継子になる懼れもあった。
「いや、俺は科学主義者だ。科学主義者は何んと云おうと世界の知識の統一に向って進まねばならぬ。それがヒューマニズムの意志というものだ。日本人だって、それに参加出来ぬ筈はない。」
 と久慈は快活に思う。ヒューマニズムという言葉の浮ぶ度びに、久慈は青年らしく言葉の美しさに我を忘れる癖があったが、またこの癖のために彼は一応自分の立場に安心して散歩することの出来る、便利なエレベーターにも乗っているのだった。歩くにつれ、幾何学的な稜線が胸を狙って放射して来るように感じられる。街区の均衡の中に闇が降りて来た。昼間目立たなかった花屋の薔薇が豪華な光りを咲かせて来ると、散っていた外人が行きつけのカフェーへ食事に続続戻って来た。久慈も空腹にいつもの店へ這入ろうとしたとき、これも食事に来たらしい東野に会った。
「よく降りましたね。」と久慈は空を仰いで云った。
「ここは傘もささず歩けるから、日本よりその点だけは有りがたい。」
「その点だけではないでしょう。」
 快活な癖に妙に絡みつく正直さを持っている久慈を知っている作家の東野は、また始まったぞと思ったらしくにやりとして、
「あなたも夕食ですか。」
 と身をかわした。いつか久慈は矢代の東洋主義に自分の科学主義でうち向ったとき、黙って傍で聞いていた東野に賛成を求めたところが、「君のは科学主義じゃない簡便主義だ。」とやられた口惜しさが降り籠められた鬱陶しさにあったが、久慈は長らく忘れていたその仇を突然このとき思い出した。
「どうです、御一緒に願いましょうか。」
「どうぞ。」と東野は薄笑いのまま答えた。
 ヨーロッパへ来てから人と会えば何かの意味合いで、外国流の礼儀と呼吸をもって対応しなければならぬ息苦しさが、一種の武者修業のようになりかかっている時期の二人だった。殊にパリの政治が左翼に変ってからは、他人を見ればこの男は左か右かと先ず探り合う眼の色が刃を合わす。東野は何んとなく今夜は絡みそうな気配を久慈から感じたと見え、
「ふん、どこからでも来い。」と云う風な八方破れの構えで先に立ち、奥まった空席を見つけてどさりと坐った。
「罷業がだんだんひどくなりますね。これや、もしかすると革命が起るかもしれないな。もう分らん。われわれには。」
 と久慈は投げ出すような穏やかな笑顔で云った。
「しかし、それより日本が大変らしいぞ、二・二六を見て来た人と昨夜会いましたが、日本も急廻転をやっているね。」と東野は少し心配な顔だった。
「日本は右へ行くし、こっちは左か。」
 久慈は頭の後ろで両手を組み椅子の背へ反り返った。お前はどっちだと訊くことだけはいよいよ口へは出せぬが、どちらもの中間などというものは存在しない論理の世界のそのままが、思想となり政治意識となって誰の頭の中をも突き通っている現在である。
「いったい、知識に右でもない左でもない中間が無くなったということは、これやどういうことですかね。この間までは在ったじゃないですか。先日まで在ったものが急に無くなったのですかね。」
 と久慈は東野を叩く気もなく、そのくせ自然にいつの間にか巧妙に叩き始めていくのだった。すると、東野は、
「いや、僕は右でも左でもないよ。」
 と先廻りをして笑って答えた。いつか東野の逃げた手もそれだと久慈は思い、今夜は何んとしても逃がさぬぞと思うと、
「つまり、それはどういうんです。自由主義という奴ですか。」と訊ねた。
「僕は外国から来た抽象名詞というやつは、分析用には使うけれども、人間の生活心理を測る場合には、極力使わない用心をしてるんだよ。それは誤る効果の方が多いからな。あなたは外国製の抽象名詞以外には、知識という概念が成り立たぬと思っていられる風だが、僕はそんなのを、いつかあなたに云ったように、簡便主義の知識だと思っているんですよ。簡便主義でいくなら何もそう苦しまなくたって、簡単に人の教えた方へいっちまえば良いのです。左とか右とかそんなことは問題じゃない。」
「ふむ。」
 と久慈は一応考え込んだ様子だった。しかし、彼は、いよいよ東野は有無を云わせず押しよせて来ているこの現実の思想から、逃げ歩いてばかりいる敗北主義の男だと思っていくばかりだった。
「そうすると、あなたは何んですか、こんなに人間が苦心をして造った、いわばまア知性の体系というようなものまで無視してらっしゃるんですな。論理をつまり無用の長物だと思ってらっしゃるんですな。」
 とふと口を議論に辷らせたら最後、後へ戻せぬ論理ばかりの世界にいるようなパリでの一時期とて、東野は一寸苦苦しい顔をしたが、丁度そのときボーイが二人の傍へ廻って来た。東野は鰈《かれい》と鳥とを註文すると、さア、いよいよ美味くなくなるぞ、と云うようにメニューを投げ出して、
「あなたは?」と久慈に訊ねた。
「僕もそれで結構、いや、一寸鰈はいやだな。スパゲッティ。」
 ボーイが去ると東野は笑いながら、どういうものか、
「何ぜ饂飩《うどん》にしたのです?」と訊ねた。
「僕はフロマージュ附きの饂飩は好きでね。もう暫く食べないんですよ。」
「じゃ、鰈は嫌いじゃないんだな。」
「嫌いじゃない。鰈の薄味は好きですよ。」
「じゃ、まア好きとしときなさい。つまりそれだよ。」
 と東野は云って煙草に火を点け、敵をゆるゆる料理するように遠方から締めて来た。東野よりずっと若い久慈は、論敵の構想力の廻転が妙な風に食い物から来たのを感じると、いよいよこれは敵を誤ったと悟り始めた。
「僕はこのごろ人を見ると、ひっかかりたくって仕様がないんだが、あなたも少し神経衰弱じゃないんですか。云うことがどうも変だ。」
「何が変だ。君は鰈か饂飩かと考えて、饂飩にしただろう。まア、そんなことはどっちだって良いようなものの、ひとつ饂飩も鰈も二つとも食ってみたら、どうですか。饂飩の栄養価と鰈の栄養価とを分析して食わなくちゃ、腹の足しにならぬと君は云うのでしょう。しかし、そんなことを考えて食っていちゃ、せっかくの美味さも不味くなって、食った甲斐がないと考える頭もあるわけだ。」
 ははアそれが東野の云いたかった中間かと思うと久慈はげらげら笑い出した。
「それやあなたも神経衰弱だな。右も左もむしゃむしゃ神経衰弱で食おうというんだ。僕も一つその手をやるかな。」
「右と左だけじゃない。上も下も真ん中もだ。」
 東野は一層久慈の頭を拡大させ、混乱させる原野の中へ引き摺り出し、さアいよいよ用意をしろというように落ちつき払って笑った。久慈は頭の中に暈いを感じ、一寸立ち停った姿で鰈と饂飩の二つの形に思考力を集中した。
「しかしですね。ここに鰈と饂飩の栄養分の統計表がはっきりと出ている場合に、その表を作った頭以上の精確さはないわけでしょう。その精確さを信用せずして知識はない。科学主義というのは、その精確さを信頼する人間の頭脳の聡明さを云うのでしょう。あなたはそれをも簡便主義だと云われるんですか。」
 東野は何か云いかけたが、広いホールにだんだんと詰って来た外人たちを見廻してから、突然、
「君、モンマルトルへ行った?」と訊ねた。
 一泡吹くべき急所へ来て他人事云うとは卑怯だ、と久慈は一瞬顔に血の気が昇るのを感じた。
「君、夜の十二時過ぎのモンマルトルへ来て見給え。いつでも軽機関銃でアパッシュ連中が撃ち合いをしとる。いっぺん僕んとこへも遊びにいらっしゃい。なかなか凄いよ君。ところが、あの連中の云うことが面白い。何も死ぬ段になれば、刀なんかより機関銃の方が早いと云うのだ。これや科学的でしょう。」
「しかし、それや、栄養価とどういう関係があるんですか。」
「死ぬ方への栄養価を考えとるじゃないか。なかなか簡便なもんだ。」
 久慈はふと大きな落し穴の開いているのを感じた。しかし、もう一時も早く鰻のような東野の頭へ、絶対確実な釘を一本打ち込んでやりたくなった。
「それや、人間が死ぬ方へでしょう。僕らのは生きる方の栄養価だから、話は別だな。知識は生きる方を考えてこそ、人間を富ますのですからね。」
 ちりちりと尾っぱちを跳ねくらせる鰻を見る思いで、久慈は静かに笑いながち東野を見るのだった。
「それや、そうだ。生きなくちゃいかん。」
 と東野は、負けた感情を妥協の中へ捻じ入れかねない厳粛さで賛成した。そんなら初めから黙って俳句でも作っていれば良いだろうと久慈は思っているときに、東野はまたいつの間にか大迂廻をして来た急激な調子で攻め込んで来た。
「僕らの知識は生きなくちゃいかんのに、簡便主義は生きたものまで殺すのだ。いったい、人間の感情というぴんぴんしている活動力を、皆刺し殺してしまって何が科学だ。殺すのが科学なら、機関銃の方が簡便だろう。」
「それや、君のははったりだ。」
 久慈は不意を撃たれた叫びのような声で云うとフォークを持った。
「はったりにもいろいろ有るからな。精妙な科学の結論というものは、皆はったりの形をとるものです。はったりこそ真理だ。分るまいが。」
 東野の言語道断な言い方にもう久慈は黙ってしまった。手に持ったフォークが細かく懐えた。頭がびいんと鳴りつづけ、葡萄酒をいっぱい飲んだが一層息苦しくなりそうに思ったので水を飲んだ。しかし、久慈は考えても考えても次の言葉が出て来なかった。そのくせ絶対に負けたとは感じられぬ。もしこれで負けたのなら、このヨーロッパの最高の文明が何をわれわれに教えたのだ。
 鰈とスパゲッティが出て来たとき、「久慈君、もうしばらく議論をやめよう。折角の料理が死んでしまうよ。とにかく知識というものは物を生かさなきゃ。」
 と東野は云ってナイフを持った。まだやるのかと思った久慈は、頭が首から放れて舞い立ちそうに感じた。
「あなたは、僕たち東洋人が知識の普遍性を求めて苦しんでいるときに、事物や民族の特殊性ばかりを強調しようとするんですよ。その点あなたは矢代と同じですね。矢代はまだあなたのように落し穴を造らないけれども、あなたと話をしていると、言葉の一般性というものが役に立たなくなるんですよ。実際あなたほど非論理的な人を、僕はまだ見たことがありませんね。そんな所に僕は進歩があるとは思えない。無茶だあなたは。」
「まア、食べてからにしようよ。何も僕は君の云うことは間違っていると云うんじゃないのだから。――君は将棊《しょうぎ》を知ってますか。」
 と東野は急に頓狂な顔になって葡萄酒を飲んだ。
「何んです。また落すんですか。」
「うむ、落して見ようというのだ。落してみせるぞ。」
「いや、もう落ちん。」
 と久慈はかぶりを振ってスパゲッティをフォークに巻きつけ急いで食べた。
「それじゃ駄目だ。落ちるべき所へは落ちて見なきゃ、科学主義には実が成らない。君は人の云ったりやったりした安全な所ばかりを、選んで歩こうというのですからね。ヨーロッパの科学というものは、皆落ち込む所へは落ち込んで来たからこそ、こんなに花が咲いたのでしょう。君は道に外れちゃいかんと思って科学に獅噛みついているけれども、道というものは、初めからついてるものじゃない。君の道は君がつけるので、他人がつけてくれるものじゃない。」
 久慈は迷宮をたどる気疲れを感じてほッと吐息をつくと、このおやじの武器は一種妙なものだとうすうす気が附いて来るのだった。
「僕にはあなたのように、自分の論理とか他人の論理とかとそんなにやたらに論理の種類があるとは思えませんがね、もしそんなにあるなら、何もわざわざ論理を知識と呼ぶ必要はないでしょう。みなあなたのは感覚だ。感覚は公然たる知識じゃない。」
「感覚のない知識とはどういうものか、それや僕には分らないが、とにかく、まア今夜は御馳走というこの実証的感覚へ落ち込みなさい。そうすると、料理という技術が分る。技術のない知識なんて科学じゃない。何事も感覚から起ると思えば、得こそすれ損はないでしよう。あなただってわざわざヨーロッパくんだりまで落ち込んで、ここの感覚一つも分らなけれや、ヨーロッパの技術の秩序と科学の連絡が分らなくなるばかしじゃないですか。何をそう苦しんで、馬鹿になる要があるのです。」
 落されつづけた久慈は、尾※[#「骨+低のつくり」、第3水準1-94-21]骨の振動めいたものが脳に響き葡萄酒の廻りも早かった。すると、疲れもアルコールと一緒になくなり、久慈は一層生き生きとして来た。背中をソファーのモロッコ革から起す度びに、体温で革にひっ附いていた服の剥がれる響がびりびりと背に応えた。
「今日はお年寄りに花を持たせますよ。まアこれもやむを得ん。」
 と久慈は云って、出て来た鳥の足を掴むと噛みついた。
「何アに、そう元気を無くしたもんでもないさ。パリは年齢なんて無いんだからな。ここには普遍性という論理の皮をひきむく駒ばかり揃ってるから、そいつを使わん手はないのだ。将棊に桂馬という駒があるが、何ぜ、あ奴はあんなに斜に一つ隔いて飛ぶのか、まだ君は知らんのだ。いざというときに、王さまを降参させるのはあ奴だからな。僕は今夜は君に王手飛車をかけてみたのだが、どっちをくれる。さア、返答せい。」
 なごやかに笑い合っていたときとて、突如としてその中から突き出された東野の剣先には、一層久慈も返事の仕様がなかった。黙って葡萄酒を東野のコップに注ぎかけようとすると、ぴたりと彼はそのコップの口を抑えてしまった。
「返答だよ。飛車か王か。」
 冗談にしては厳しい、そのくせ悪戯けたような東野の顔は、返答一つでお前の価値は定るのだと云っている。
「よしッ、そんなら今夜はどうしても負かしてやる。真剣勝負をやろう。」
 と久慈は云って葡萄酒をぐっと飲み乾した。
「王さまも飛車も手放しか。」
 と東野は急に盤面を引くり返したように、にこにこしながら今度は彼から久慈のコップに酒を注いだ。
 こちらが力を入れるとすっと脱し、うっかり気をゆるめているときに不意に面丁へ撃ち込んで来る東野の癖に、久慈はもういらいらとして来た。洞のような奥まった部屋いっぱい煙草の匂の籠った中で、あちこちから左右両党の議論が盛んに起っていた。共産党の活動はトロツキストの方が優勢だとか、スターリン派との黙契がトロツキストとの間に出来て来たとか。北方の県とマルセーユ附近が最も罷業の火の手が熾んだとかと云う話の間で、いつも姿を見せるドイツの前の大蔵大臣だったと噂されている小さな人物だけが、いったいの話には何の興味も起らぬらしい様子で、食後のコーヒーを黙って一人飲んでいた。ロシアの王子だと云われる背のひょろ長い、眼の鈍った額の狭い青年も、絶えず人人の間を往ったり来たりしているだけでこれも誰とも話さなかった。東野の横では、ドイツの青年が柳田国男の日本伝説集という原語の本を読み耽っていたが、その他の者は皆それぞれ自国語で左翼の話をしていた。中には激論をした揚句卓を叩き出したので、ボーイが用命と間違えて出て来たりした。
 食事を終ったとき、久慈と東野は食後の気怠さを感じてしばらく黙っていた。すると、久慈は突然東野に訊ねた。
「あなたは左翼にも右翼にも、本当に興味を感じないのですか。そこを僕は訊ねたいのですよ。どっちなんですあなたは?」
「僕は君にさきからそのことばかり話したつもりだったんだが、まだ話さなくちゃならんかね。」
 と東野は気乗りの失せた声で外人たちを眺めながら答えた。
「いや、僕はまだ聞かないな。」
「僕には外国の左翼とか右翼とかより、ここへ巻き込まれている日本人の君の方が、よっぽど見てるのには面白いんだ。ほんとうに君なんかこれから日本へ帰って、いったいどうするつもりだろうと、その方が心配だ。」
「ふむ。」
 と久慈はひと言いって一寸黙った。
「いったい、君は帰ってからどうするつもりです。もう昔のように、外国へ行ったからといって何の価値も出る時代じゃなし、ここで習得した左翼や右翼の理論を、そのまま日本へ当て嵌めて考えたって、間違いだらけになるのは定ったことだし、そうかといって、来る前と同じで君がいられるわけのものでもないでしょう。もう君にしても僕にしても、物を見る意識が狂ってしまっていることだけは事実なんだから、そんならこれからの自分の正確さを、どこでどうして調節をつけるかという問題があるだけでしょう。」
「一寸待って下さい。」
 久慈は一層考える風に頭をかかえテーブルの上を見詰め始めた。
「僕らの意識が狂っているとは、それはどういう意味です。」
「僕も君も、僕らの見てしまったものと、頭で考え出した言葉と、一致させて表現することが出来なくなってしまっているのですよ。こちらへ来ない間は、外国のことを読み聞きしても、まだ実物を見ない有難さで、それぞれ勝手に描いた幻想に意味をつけて、それを公式のように正当だと感じることが出来たけれども、もう僕らはその幻想も壊れたし、壊れたことに意味もつけようがなくなった。ざま見やがれと笑われているようなものだ。」
 東野はこう云って自嘲を浮べた淋しい笑顔のまま、さきから見つづけていた一人の外人の婦人の顔から眼を放さなかった。
「しかし、人間の認識は外国だろうと日本だろうと、変るものじゃないじゃありませんか、そんなことに変化があれば、だれも知識を信用するものがない。僕らは日本で感じていた近代思想の本体というものが、ここじゃどんなにして動いているものかということを、見学しに来てるんだから、思想を裏付けているものを見れば見ただけ、僕らは豊かになったわけでしょう。」
「それだから君の方が心配だというのですよ。見学したものが、そのまま通用しない場合、君はどうするんです。ここで見たものと共通したもので、日本にあるものは、ほんの少しだ。それを全部日本にあると思っているのが日本の知識階級だ。だから、何んだってこっちの真似をすぐしたくなる。さア、大衆は動かん。どっちもこ奴も阿呆だと思い合う。」
「しかし、それや、そんなに日本人に間違いがあれば、間違いだと僕たち何かの形で云わなくちゃならん。黙っているよりも、少しでも云う方が良いのですからね。」と久慈は云った。
「ところが、日本人の知識階級じゃない大衆の考えていた方が、正しい場合どうするかということだ。僕ら外国を見てしまったものよりも、まだ見ない大衆の方が、正しいということの方が、随分多くなって来ているこのごろですよ。」
「間違いでも正しいとしとかなくちゃならんか。」
 と久慈はいまいましそうに云って俯向いて笑った。云うだけ云った東野はもうこのときから久慈の言葉も聞えない様子だった。彼の前から見ていた眼の異様に青い美しい婦人は、文士の主人がその傍にいるにも拘らず、出版屋の頭の禿げた片眼の男に強く抱きかかえられていたからだった。美男子の主人は、妻がだんだん強く片眼に擦りよられ嬉しげにくつくつ笑っているのを、さも得意らしい薄髯顔で見ぬふりを保ちながら、平然と横の客と英語で左翼の話を闘わしていた。
 そのとき、入口からあちこち見廻しつつ日に焦げた矢代が這入って来た。彼は久慈を見つけるとよって来て軽く肩を打った。
「やア、いつ帰った?」
「今だ。」矢代は久慈の横に腰を降ろし、久し振りの食事場を懐しそうに天井まで眺め始めた。
「しかし、東野さん。」とまた久慈は眼の青い婦人の動作を熱心に見詰めている東野に云った。
「僕らは日本に帰ってからの自分について考えるよりもですね、もうこれから永久にここにいるんだと思って、自分のことを考える方が、こちらにいる限り有益だと思いますがね。」
「この通り、今夜はやられてるんですよ。」
 と東野は矢代を見て云った。
「あなたがですか。」
「勿論、お向いさ。」
「馬鹿云え。」と久慈は頭を立てた。「この東野という人はね、矢代とよく似たようなことを云うのだ。ただ君より一寸落し方が上手だよ。だいたい、僕は日ごろから天下の公論に興味を覚える方だから、世界に通用する話じゃなくちゃ、話したって損するだけだと思うんだ。ところが、君や東野さんは、日本でだけより通用しそうもないことばかりに、話を引っ張り込んで、僕の呼吸を停めてしまう計画ばかりに夢中になるのだ。僕ら日本人の考えを、日本でだけ通用させて得得としていられる了簡が、一番日本を誤るもとだ。それや、もう定ってるじゃないか。そのどこに誤りがあるんだ。」
「自分を誤ったものが、世界を救おうってわけか。」
 と矢代は山で休ませて来たばかりの鋒さきを一本ぶつりと刺し入れた。
「何んだそれや。」
 久慈は矢代を暫く睨みつけて黙っていたが、すぐにやりと笑うと、
「君は日本を愛しているのじゃない。日本に恋愛をしているのだ。恋愛だけは科学の歯は立たんからね。」
「歯の立たんものもあるというのが、やっとこのごろ分ったんだろ。」
「そ奴が日本を滅ぼすというのだよ。」
「日本を滅ぼしかけてる奴は、もうそろそろ出てるかもしれんぞ。」
 矢代と久慈との渡り合い出したその後で、眼の青い女を抱きかかえた片眼は傍見もせず、しつこくかき口説きながら女の唇の傍へ自分の口をよせていった。その傍で女の亭主は倦くまで理想主義のトロツキストを支持しつつ、現実主義のスターリン派を罵倒してやめなかった。
 久慈と矢代の頭も、そのアメリカ人の英語が強く響いて来て議論もぱったり停ったままだったが、突然、久慈は、
「しかし、僕らから理想がとれるか。理想をとった頭というもので、どうして建設が出来るのだ。」と矢代にいら立たしい声で詰めよった。
「翻訳語で理想を考えるというのは、どういうことかね。田舎者が標準語で都会の理想ばかり考えて、死んでしまうことを云うのか。」
 久慈は、はたッと言葉の途絶えたまま少し拳を慄わせた。
「僕らがこの世界のヒューマニズムに参加しようと努力せずに、学問の進歩があり得るか。道徳というものが成立すると思うのか。」
「しかし、僕らの東洋にだってヒューマニズムはあるよ。ちゃんとあるよ。ところが、この西洋のヒューマニズムとはちと違う。どっちが善いかは今云いたくはないが、違うなら接近させるためだって、僕らは少しは自分を考えねばならぬさ。自分をね、日本をね。」
 久慈は笑いが口中へめり込んでいくような苦苦しい微笑を浮べると、急に嘲るように低声になった。
「ヒューマニズムに東洋と西洋の別があるか。それがなければこそ、僕らはその理想を信仰するんじゃないか。」
「自分が、知識階級だという虚栄心で、東洋と西洋とのある区別さえ無いと思う習練を永久に繰り返すのかね。つまり、それは君の習練だよ。」
「その習練が分析力の結果なら、それは世界を守る道というものだろ。誰も動かすことの出来ぬ道というものは、たった一つ厳然としてあるのだ。それを探すのが分析力だ、いったい、分析力に西洋も東洋もあるものか。同じ共通のもので負けてれば、負けてる方が弱いのだ。それだけは仕様があるまい。」
 と久慈はとどめを刺すように片肩を引き降ろして矢代を見据えて云った。
「負けたとこばかりより君に見えぬのだよ。勝ってるところまで負けにするのが分析力だ。見て見ろ、ここのこのざまは、これで全身が生きているといえるのか。」
 久慈と矢代のつづけている論争の傍で、東野はもう二人の争いなどうるさそうに、片眼の男が女を口説く毛物のような爛爛として無気味な表情を、眼を放さず見詰めていた。女の亭主がパリで一旗あげる心算で、出版屋の片眼に妻を自由にさせているものか、あるいは妻が、良人の出世を希う一心で男のするままに応じているのか、そこの秘密を知りたい東野の眼つきは、前からいささかも弛まなかった。しかし、文士の亭主はどういうものか妻の不貞に関して少しも動じる色がなかった。彼は理想派のトロツキストが必ず近い将来に於てスターリン派の行動と衝突を来し、パリの罷業は資本家に乗じられるであろうと主張していた。
 彼の主張は、妻の心の隙間に乗じている片眼の男の獣性を諷刺しつつ語っているものかどうかも、東野は心を鎮めて眺めているのだった。
「もういいかね。いいならそろそろ出て場を換えよう。」
 東野は、片眼が女の唇を盗もうとした瞬間、つと横を向いた女の動作を見終ると二人に云った。久慈がボーイに計算を命じてからも二人は暫く黙っていた。通りへ出ると、鋪道に拡がっている並んだカフェーのテラスに人がいっぱいに満ちていた。
 一台の自動車が開いた屋根に人を満載して通った。その屋根の上から拳を握って振り上げた者たちが、「フロンポピュレール」(人民戦線)と一斉に叫んだ。すると、道の両側を歩いているものらまで握った拳をさし上げてそれに和した。
「いつの間にこんなになったんだ。刻刻変ってるんだなア。」
 と矢代は遠ざかっていく自動車を見て云った。
「もうこれは毎日さ。」
 と久慈は、来るべきものが来ただけだと云いたげな顔だった。
「これもすぐ日本は真似するんだろ。」と矢代は笑った。
「もう出てる。」と東野は云って、「映画や写真機や電気は、どこの国にも伝統がないからすぐ競争が出来るが、思想も伝統のない種類のこんなのは、一種の形式だからね、すぐ流行して次のが出て来る。自動車の形が、毎年変るみたいなものだ。」
「しかし、そう云えば伝統だって、これで一種の伝統的考えという形式になって来たな。お寺はお寺、科学者は科学者という風に。久慈だってそうだな。君は思想の形式だけを思想だと思ってる技術家だよ。」
 そういう矢代に久慈は一歩前から振り返り、
「モンマルトルへ行こう。それから真剣勝負だ。」
 と云って地下鉄の方へ歩いていった。
 地下鉄の前では一人の青年が沢山のパンフレットを胸にかかえ、「これを買え、ここにはパリのブルジョア二百五十家の住所と家族が皆書いてある。いざ事が起ればすぐさまこ奴らを叩き潰せ。」と叫びながら売っていた。
「日本のブルジョアというのが、ここじゃ二百五十もあるんだからな。そこへいくと日本はたった二つだ。たった二つならあんまり日本は貧乏すぎて、資本主義などと云えたものじゃない。」
「そんなら、まだ増やすのか。」と久慈はまた矢代を振り返った。
「そうだ。せめて百ぐらいにしないとここの文化には対抗出来ん。日本政府の一年の予算金額と、パリ市一年の予算額と同じじゃないか。これで資本主義がどうのこうのと云ったところで、ぶち壊す資本主義がどこにあるというのだ。日本は奈良朝時代から円心主義ばかりで来た国だ。その資本主義のない国で、左翼の論理を振り廻したところで、結果は弟が親や兄貴を叩き殺すだけになって来る。そんなことが、日本人に出来るわけのものじゃないよ。」
「日本が円心主義で来たとは、それやどこから出て来た意見かね。」
 と久慈は炭酸ガスのむッと襲うメトロの入口を降りながら矢代に訊ねた。
「そんなことは歴史に出てるじゃないか。天皇がお寺を崇拝されると、お寺が寺領を沢山持つ。そうすると、これを藤原氏に縮小させられる。次ぎにはお寺に代って藤原氏が権力を握って荘園を増すと、後朱雀天皇は関白頼通に相談せられて荘園の解放をはかられる。次ぎには武士だ。これが専断を行うとまた民衆の味方となって、これを圧えられる。質屋と酒屋が武士に代って民衆の血を絞り始めると、またすぐ武士に命じてこれを叩かれる。日本の政治は円心主義の連続だ。論理が表へ立たず道理が表へ立って明治になったところへ、君の好きなヨーロッパの知性という奴が這入って来たのだ。こ奴は分析力だから何もかも分析して、道理も感情も分析し始めたのが、大正昭和というところだ。分析すれば親も主人も有り難くなくなって、有り難いのは自分だけだ。ところが、その自分まで分析し始めて見ると、実につまらん自分だということが分って来たのだ。いったい何が有り難いのかさっぱり分らんというのが、つまり知識階級という人間だろう。僕らはこんな筈ではなかったのに、いつの間にか、こんなになってると気がついて、ふと見上げたところがこの国だ。ここには真の自由の精神があるだろうと思って、胸躍らせて来てみたのに、左翼と右翼の喧嘩以外に、まだ僕には見つからん。ああそれがあれば――」
 と矢代は云って急に地下鉄の階段の真ん中で立ち停ると、
「これや、炭酸ガスばかりじゃないか。」と突然叫ぶように云った。東野は天井を仰いで立ちはだかっている矢代の袖を引きながら、
「まア良かろう。行こう行こう。人間は見るだけは見とくもんだ。」と云いつつメトロに乗った。
「モンマルトルで一つ、軽機関銃で撃ち合いするところを見よう。」
 久慈が二人の先に立って座席を探しているとき車は動き出した。

 メトロを出たモンマルトルの一帯は、薄靄の底でゆるく傾き流れた光りの海に見えた。立ち連んだ遊び場もモンパルナスとは違いここは古風な潤おいを湛えている。三人は街の賑いから放れて頂きの方へ高まる坂路を登っていった。陶器のような割石を詰め並べた道路も凸凹のままによく辷った。青い瓦斯灯の軒から出ている屈曲した坂路には、もう人通りは誰もなかった。ときどき接吻したまま立木のようにいつまでも動かない黒い人影の傍を通る度びに、ぴたりと三人は話をやめた。
「西条八十という詩人があるでしょう。あの人はここを夜一人歩いていたら、後ろから突然首を締められて、三十分ほどしてから気がついたら、自分がここの坂の真ん中で倒れていたとか云ってらしたな。」
 と東野は云ってそのあたりを見廻した。森森とした坂の中で東野の声はよく響いた。古びた血のような色の建物はみな窓を閉めていて、道の割石の弛んだ隙間がタッチの凄い鱗のように黒くうねうねと這い昇っていた。
「今夜はどういうもんか、論争がしたくて仕様がないな。山にいたからかね。」
 と矢代は低く呟いた。
「相手に不足はないぞ。」
 笑いもせず見返る久慈の精悍な額へ青葉を透した瓦斯灯の光りが鋭く流れた。
「もうどこもかしこも政治の話ばかりだが、これで巴里祭の右翼と左翼の衝突が見ものだな。君らの論争も良い加減に結論をつけておかないと、七月十四日には血を流すぞ。」と東野は坂路の息苦しさに立ち停りながらもひとり笑った。
「昨日はもう人民戦線の歌が出来たというからね。国歌はマルセエーズじゃなくて、人民戦線の歌だというのだ。」
 そういう久慈に矢代は、
「右翼のマルセエーズが革命歌じゃないか。それへまた革命歌か。」と面白そうに笑った。
「幾度革命が来たって、お寺だけはいつまでもあるのだ。」
 東野はすぐ頂上に聳えて来たサクレクール寺院の尖塔を眺めて云った。頂上へ近づくに随いぼろぼろに朽ちかけた建物が、海老茶や緑の油で痛めた色に滲んで来る。史跡保存で改築を許されぬ一角であるだけに、パリの冠った古帽子のこの中には何ものが棲んでいるのか分り難い。夜毎に軽機関銃で撃ち合いを始めるというのもこのあたりであろうと、久慈は光りの洩れる窓の見える度びにそっと中を覗いてみた。
 戸口にカフェーとだけ書いてある小さな一軒のドアの、眼の届くあたりに一つ小窓があった。久慈はそこからふと覗くと、中はパリでほとんど見られぬ女給ばかりのカフェーだった。
「ここには女給がいるよ。稀らしいね。一寸這入ろう。咽喉が渇いた。」
 久慈は相談もなく一人肩でドアを押し開けて這入っていった。矢代と東野も身を横にするような狭い入口から後につづくと、ぎしぎし鳴る椅子に凭れた。薄暗い狭い部屋の空気は濁った汗の匂いで鼻を打った。
「これや汚いね。出ようや。」
 矢代がそう云って立ちかけようとしたとき、花売娘のような様子の十人ばかりの女給の中、若い三人がいきなり矢代にしなだれかかって来た。
「あら、もう帰るの。いいわよ。煙草一本頂戴な。」
 身体を不必要なほどに捻じ曲げ、腰を動かしながら擦りよって来て出す手首の骨が高く大きい。ひどい脇臭のうえに、鼻の両側のまだらな白粉の下から脂肪がぶつぶつ浮き上っていた。久慈と東野にもそれぞれ煙草をせがんでいる女たちも、両肩をすぼめ猫撫で声で煙草をくれとせがんだ。久慈ら三人は顔を同様に顰めながら黙って煙草を出してやると、女たちは放れて煙草を吸いつつ、それぞれ鼻声の沈んだ唄を歌い出した。
「これや、男だな。」
 と久慈は小声で矢代に耳打ちした。
「うむ。」
 と矢代も、実は自分もさきから怪しいと思っていたという風に頷いた。見れば見るほどどこからどこまでも女だが、しかし、やはり争われぬ一点の底が男だった。それも、一人ずつ女たちを見廻していくうちに、勘定台にいる女もヴァイオリンを弾いている女もすべてが男だった。久慈は腐った筵を引き剥いだ後からにょろにょろ現れて来る青い蜥蜴を見付け出すように、一度ずつ悪感が胸を走った。男だと見破られた女たちはもう二度とよって来なかったが、また別のが来て、「何んになさいますか。」と女の声で今度は快活に訊ねた。
 三人はビールを註文したが、コップが揃っても誰も義理に一口つけただけで、気味悪さにそれ以上飲もうともせず話もしなかった。久慈らの傍へ初めに来た女らは部屋の隅に固まったきり、嫌われたことをさも羞しそうに悄れて俯向いたまま、青い灯の下でいつまでも黙っていた。これがもし本当の女だったらたしかにそんなに痛手であろうと思うと、久慈は不思議に女らの悲しげな様子がまた本当の女のように見えて来て、
「おや。」
 と一瞬自分を疑った。確実に男だと分っていながら、だんだん気の毒になっていく不安な気持ちの落ち方が、一種新しい未知の世界に踏み込むような錯覚を感じさせる。それが向うの手腕だと思っても、それぞれもうこれで男を越した女以上の理想の女になっているのかもしれない。
「もうたまらん。出よう。」
 と矢代は云った。そして、身を動かしかけたと見るや、今まで悄れていた女たちは、ぱッと飛び立つような早さでまた矢代にしなだれかかって来た。
「もう息が出来んよ。」
「何に? え? え?」
 と女は嫣然と笑いつつ片腕で矢代の首を抱きかかえて覗き込んだが、何も云うことがないと見えまた煙草をくれと彼にせがんだ。
 勘定台の女は遠くから女給たちの成績を探るように、鋭くちらちらと眼を女たちの上に光らせた。ヴァイオリンを弾いている女だけは、曲に合せてゆるく身体を動かしていた。見ているとそれぞれ女たちは隠花植物のように自分の位置から動かぬままにも、どこか湿った楽しみに耽っている眼差しである。あたりに漲っている薄汚なさも工夫に工夫を積んだ結果の巧緻なリアリズムに近い芸があった。
 久慈は自分が舞台に上った生身のお客のような感じがした。東野や矢代をふと見ると、いずれも役者になったことも知らず、苦苦しくふくれている芸無し猿の二本の大根に見えて来た。
「あ、これやもう、現実を抽象してしまっておる。」
 久慈は思わず膝を撫でながらそう思い、あらためて女たちの想念の中まで見たいと、歩くときの手の曲げ方、足の開き具合や鬘のつけ様を見るのだった。
「さア、勘定。」
 と矢代は云うと、一人の女が久慈の傍へよって来た。
「あら、もうお帰り。」
 と女は云いつつ久慈の膝に手をかけた。幅広い男の体温がむっとして吐く息が頬に荒くかかった。それには流石のパリ贔屓の久慈も寒気を感じてもう我慢が出来なかった。
 矢代の後から久慈と東野も外へ出たが、出ると同時に三人は声を合せて笑い出した。入り代りに旅行者らしい三四人の客がまた中へ這入っていくのを振り返り皆は顔を撫でた。
「ああ気持ちが悪い、どっか、せいせいするところがないかね。吐きそうだ。」と矢代は先に立って山の頂上へ登りながら、「あれはいったい何んという思想だ。」
 と久慈に訊ねた。
「いや、実はおれもあれには参った。」
 久慈のそう云う声に、皆の夕刻までの論争の意気込みも一時に吹き飛んでしまった形だった。
「あそこは僕も知らなかった。この次は機関銃だぞ。上のお寺へ参るのも骨が折れる。」
 と東野は云ってひとりくつくつ忍び笑いをした。頂きの寺の横の広場に二十本ほどの房を垂らしたビーチパラソルが開いていて、その下に弁慶縞の敷布のかかった丸テーブルが一面に並んでいた。ここのテラスも他には見られぬ古風な野天の仕立てだった。どのテーブルの上にも矢車草の花影からランプがかすかに油煙を上げていた。客一人ない広いそこのテラスの中央に三人は陣取ってレモネードを命じたが、卓に肱をつきほッとするとまた誰からともなく笑い出した。共通の無気味な洞窟から逃げ出してきたばかりの捕虜という顔である。互に視線を避け合っている笑顔の間で、ランプのホヤがじいじい静かに蝉のように音を立てた。
「このあたりはびっくり箱だね。」
 レモネードを飲みつつ薄暗いあたりを見廻してそういう久慈に、矢代は、
「機関銃で撃ち合うというのは、それやどこだ。それもびっくり箱の口か。」と訊ねた。
「夜中にこのあたりのアパッシュ連中、縄張り争いでやり合うらしいんだよ。しかし、東野さん、それや本当にやるんじゃなくって、旅客優待の御馳走でやってるんじゃないですか。どうもこのあたりは少少怪しい。」
「それや、自分で識らずに優待していてくれるんだよ。」
 と東野は澄した顔で答えた。初めは何の意味か一寸分りかねる風の二人だったが、急にまた笑い出した。
「いや、案外これで市役所から月給でも貰っていて、さっきのカフェーじゃないが、実演の芸をやってるのかもしれないね。」
 と久慈は今度は生真面目に考え込んだ。
「しかし、芸にしたって死ぬ芸だから芸にはならん。生きてこそ芸だからな。さっきのあんなのはあれは、あんまり生きすぎて間違ったんだ。芸はどこか一点だけ殺さなきア嘘だ。」と東野は云った。
「とにかく、今夜はその機関銃を一つ見届けようか。それとも、本物の女を見にいくか。どうも今夜は少し自然に還りたいね。」
 と久慈は矢代を見てにやりと笑った。
「とうとう甲を脱いだな。しかし、あそこのカフェーが本物の女だったら、僕らは今ごろこんなお寺の前なんかにいられるもんか。」
 と矢代は云って眼の前に聳えた白いサクレクールの塔を仰いでみた。
「じゃ、今夜は極楽往生としとくかね。どうもしかし、論争のない世界という奴は面白くないものだな。仕事がなくなったみたいで。いやに仲ばかり良くなるのは、これや、神さま何か間違ってるぞ。」
 と久慈は云ってお寺の塔を振り仰いだ。
「このお寺を山の上へ建てるだけで、どんなにパリの人間馬鹿な苦労をしたか知れぬのだからね。毎晩機関銃ぐらいは鳴ろうというものだ。むかしの人の苦労を忘れちゃ罰があたるぞと、お説教しているようなものだ。」
 東野はお参りに山へ来たのを思い出したらしく、軽くサクレクールに向ってお辞儀をした。矢代の眼はそのとき一寸光りを帯びた。
「東野さん、あなたもやっぱり、人間の苦労が馬鹿に見えることがありますかね。ときどき僕にもあるんだが。」
「いや、それや、僕が第一、せっせと馬鹿な苦労をしたからだが、しかし、誰か一人が馬鹿なことをすれば、良いことをしているものでも人間は同罪になるらしい。そこが人間の面白さじゃないかな。とにかく、下へもう降りよう。それから今夜は一つ、君らのその自然に還るところを見せてもらいたいものだな。」
「ようし、人間は同罪だ。行こう。」
 と久慈は云って勘定を命じてから立ち上った。
「そこで真剣勝負だぞ。」
 と矢代も云った。間もなく、三人はそれぞれ自分の影を後ろに倒しつつ山から下の遊び場の方へ降りていった。
 パリではモンマルトルの麓に一番高級な踊場が沢山ある。その中の一二を争う家を選んで三人は中へ這入った。メイゾン・ルージュは中が全部紅いだった。あまり広くはない正面の楽師たちに絡りついている真鍮の楽器の管から、しっかりと音締めの利いた音がもう久慈の胸中に吹き襲って来た。ふと彼はそのとき真紀子と逢う用事のあったことを思い出したが、椅子へ腰を降ろすと忽ちそれも忘れてしまった。踊子たちが三人の傍へよって来た後から、すぐシャンパンが氷につかった桶のまま運ばれた。部屋の中央で踊るものは踊り、休むものは椅子に休む。
「ははア、これは千九百二十六年のだな。」
 と東野はシャンパンのレッテルを読んで感心した。東野の説明ではその年はここ五十年間のうち一番良質の葡萄のとれた年で、味もその年のが断然良いとのことである。西印度生れの歯の白い混血の踊子は締った良く動く体で、休んでいる暇にも音楽に合せて笑い、振り向き、話しつつ膝で拍子をとっていた。間断なく鳴りつづけるバンドの調子を客の心も脱すわけにはいかない。絶えず上へ上へと浮き上っていくリズムは、船が船客をつれ歩くように室内の空気を果しなく揺っていく。カルメンのように顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]のカールを渦巻き形にしたイタリアの女は、シャンパンの世話をするにも絶えず笑っていた。何がそんなに面白いのかと思わせるような笑顔は、踊子だけではなくどの客も同様だった。それもバンドがそんなに鳴りつづけていると、もう部屋には特に音楽が満ちているとは感じない。ただ心は何ものかある中心に向って前進していくばかりだった。
「ここの女は本物だぞ。まさかこれまで嘘じゃなかろう。」
 と久慈は云ってイタリア人の肩を撫でてみた。
「しかし、これも自然じゃなさそうだよ。」
 と矢代はコップを上げ理由もなくまた笑った。
「そうだ、もうこれや、どこへ行っても僕たちは自然に還れそうもなくなったよ。乗せられてばかりだ。どうです、東野さん、まだあなたは俳句を考えているんですか。」
 と久慈は浮き浮きしながら東野の顔を覗き込んだ。東野はイタリア人の腕を握ってみて、
「この婦人はね、僕にどうしてそんなに淋しそうな顔をしてるのかと訊ねるんだが、そんなにまだ僕は淋しそうかな。」と訊ね返した。
「うまい、このシャンパン。」と矢代はひとりコップを上げていた。
「しかし、こんな婦人から淋しそうだと云われると、どうも妙な気がするね。千年も前からつづいている電話の線が尻っぽにくっついていて、そこから話が出て来る電話を聞いてるようなものだ。」と東野は云った。
「おい、君は電話だそうだよ。はははは、電話と一つ踊ろう。」
 と久慈はもうよほど酔の廻った体でイタリア人の腕を吊り上げた。矢代も西インドをつれて踊った。そこへ花売が薔薇を持って来ると、傍にいたフランス人の踊子がそれを買っても良いかと東野に訊ねた。薔薇を見もせず東野は首を一つ動かした。すると、日本でなら二十銭の小さな薔薇の値段が三十円だった。三十円が五十円であろうとバンドはすでに東野の頭をもいつの間にか浮き上げているのだった。部屋の隅から、客のシャンパンばかりをじっと見詰めているユダヤ人らしいマネージャーが、時間を計って氷に万遍なくシャンパンの触れるようにと壜を廻しに現われた。コップに注がれるシャンパンに随ってテーブルの上に皿が重ねられ、その皿の数が遊興費となる踊場では、頭が朦朧となるにつれて皿の柱も延び上っていく仕掛けだった。久慈が踊って椅子へ戻って来る度びにイタリアの女は東野に踊ろうと迫ってきかなかった。
「いや、電話とじゃ踊れないや。」
 と東野は日本語で云った。分りもしない日本語の癖に女は相槌を打って笑った。もう三人とも誰の話も聞こうともしない。踊子らにシャンパンをすすめながらそれぞれ勝手なことを話しているうちに、
「ほう、これはどうじゃ。」
 と矢代が高く柱となって延び上っている皿を見て笑った。
「ははア、元気がいいな。生きとるぞ、こ奴。」
 と久慈も面白そうにテーブルの上の皿を見ながら笑った。初めは一本だった皿の柱が二本になって延びていた。いつの間にか客たちは部屋いっぱいになって来ていたが、三人はもう他の客の顔など見えなかった。イタリアの女は一番女たちから敬遠される東野を気の毒がって彼ばかりに話した。東野は日本流の手相を見てやろうと云ってそのカルメンの手を開かせたり、イタリアへそのうち行きたいのだがいつが良いかと訊いたりしている間にも、久慈と矢代は元気よく踊りつづけていた。そのうちに二本だった皿の柱が三本になり始め、雨後の筍のような美しい節を揃えてそれぞれテーブルの上で競い立った。
「これは面白い、真剣勝負をやっとるな。」
 と久慈は云うと、まるで育て上げた子供の背の高さを見る風な楽しげな眼つきで皿の柱を眺めていた。
「とうとう自然に還ったか。」
 と東野は云ったが、客の消費量を隠そうともせず眼の前に見せつけつつ時間を奪う、これでもかという遣り口に矢代はもう反抗心を起して来たらしい。
「よしッ、もっとやれ。」
 と云うと彼はシャンパンを自分で注いで踊子たちにも振り撒いた。一歩斬り込んで来たようなこの矢代に、久慈も負けてはいなかった。口に上げるコップのシャンパンが半ばは手の甲にこぼれてしまうほどだったが、それでも立って踊りにいってはまたシャンパンを胸までこぼした。この間にもほとんど休んだことのないバンドは、目的物に肥料を与えるように皿の柱を延ばすのだった。
 ひと踊りすませて戻って来た久慈は、椅子にどかりと凭れたとき、ふとまたその皿の柱が眼についた。すると、突然その柱の形態から、ノートル・ダムの内陣の四隅の屋根を支えている、脊椎のような細かい節を無数に積み重ねたあの柱を思い出した。
「あ、ここはこれやお寺だ。」
 と思わず久慈は声を上げた。
「お寺だ? そうかもしれんぞ、どうもお経を誦まれているような声がするよ。よし、もっとやろう。」
 と矢代は云ってイタリア人とまた踊った。いつ誰がどうして飲むのか分らなかったが、妙に皿だけが不思議な速度でひとり勝手に延び上った。
「こ奴、まるで知性みたいな奴だな。」
 と久慈は皿が眼につく度びに、「ふふ。」とひとり笑ってシャンパンを飲んだ。マネージャーは一同の笑いさざめいているときでも、一片の笑顔も見せず、黙黙と現れ、細心の注意をもって氷の中のシャンパンの面を廻しては皿を積んでまた姿を消した。東野は久慈と矢代の張り合いがいつ果てるとも分らぬのを感じたのであろう、軍配を上げるように、
「さア、もう帰ろう。」
 と二人に云うとイタリア人に勘定を云い附けた。すぐ来たビルを見ると二千フランあまりになっていた。三人は財布を合せて外へ出てから、東野のホテルで夜を明そうということにしてまたモンマルトルの坂を登った。
 時計はもう夜中の三時を廻ろうとしていた。人通りはまったくなかった。黒黒とした高い建物の間で冴え返った瓦斯灯が月光のような青い光りを倒していた。真紅の色と音との世界から急に変った深夜の底の静けさなので、三人は暫く黙ってそれぞれ一人ずつ放れたまま歩いた。すると久慈は突然矢代の傍へよって来て首をかかえた。
「おい、チロルはどうだった。」
 今ごろ初めて旅のことを訊く久慈に矢代も返事のしようもないらしく、「うむ。」と云っただけで後は黙った。
「うむか。まア、そう云ったところか。」
「氷河はいいよ。」
「氷河のことじゃないよ。」
「じゃ、何んだ。」
「お前は馬鹿な奴だ。あれほど忠告したじゃないか。結婚をしなさい結婚を。君の日本主義は幼稚だけれども、君は僕にとっちゃかけ替えのない人だ。千鶴子さんと結婚してしまいなさいよ。じゃなくちゃ、日本へ帰ったら、きっと君とあの人とはもう会うことはないにちがいない。」
「僕の日本主義が何ぜ幼稚だ。日本人が日本主義になるのあたり前の話だろ。」
 と矢代は久慈の廻している腕を掴んで顔を見た。
「幼稚だよ君のは、そんなものなんか、ここで威張ってみたって、いったいこのパリで誰が真似してる。」
「真似の出来る奴が、誰がいるのだ。」
「こ奴。」と云うと、久慈は矢代の首を揺り動かした。
「真似の出来ん品物を売り出して、成功したためしがあったか、真似さしてこそ豪いんじゃないか。」
「じゃ、君は何んの真似してるんだ。」矢代はまた詰めよって云った。
「僕は世界の真似をしてみせてやってるだけだ。真似一つ出来ずに威張ったところで、それや、真似が出来んということだよ。」
「いつまでの猿真似だ。」
 と矢代は云うと久慈から身体を放そうとした。
「真似出来んものなら出来るまで一度してみろ。それが修業というものだ。僕らがここのこの坂をせっせとこうして登っているのは、何んのためだ。君は真似も一つして見ずに、この急な坂が登れると思うのか。ふん、ここは胸突き坂だぞ。それも世界の胸突き坂だ。もっと胸を突かれて修業しろ、しろ。チロルでいったい何を君はしてたのだ。」
 と久慈は云うと今度は矢代の身体をぐんと突いた。矢代は石壁によろけかかった身体を片手で跳ね返しながら、
「君は歴史という人間の苦しみを知らんのだ。日本人が日本人の苦しさから逃げられるか。逃げるなら逃げてみろ。」
 抜刀するような勢いで放れて行こうとする久慈の身体に矢代が再びぶつかって行こうとしたとき、後から登って来た東野は二人を引いた。
「おい、一寸、やってるよ。」
 久慈と矢代は振り返って東野の顔を見た。その間にも、大掃除のときの畳を叩くような機関銃らしい連音が少し籠り気味に、遠くの方から鮮やかに聞えて来た。まさかと思っていたこととて暫くぼんやりしながら耳を立てていた久慈は、その音からふと東京の郊外の書斎で深夜よく聞き馴れた練兵の機関銃の音を思い起した。すると、一瞬奇妙な生ま生ましさで自分の部屋や机が眼に浮んだ。
「やっとるなア。」と矢代は瓦斯灯の光りの中を貫いて来る音の方を見詰めて云った。
 三人はまた並んで坂を登っていったが、もう誰も物いうものはなかった。空気を弾く明快な単音は暫くつづいてからぴたりと停った。森閑となった坂を入り交った三人の影が長く打ち合いつつ、前後に剣のような鋭さで折れ変っていった。石畳の上を水の流れ下って来ているあの小路を曲った瓦斯灯の下まで来たとき、真黒な服装の女が誰かを待つ様子で一人じっと立っていた。その傍を通り抜けてから間もなく久慈は後ろを振り返って見た。鳥打の黒いジャケツを着た男が膝で女の腰を一蹴り蹴って上りの額を受けとると、また疲れたように黙黙と二人並んで坂を下っていった。

 剃刀をあて終え眠りたりた気持ちで久慈はカラアを取り替えた。通りをへだてた前の、建築学校の石の屋根の上に一面生えている草の中で、垂直に立ち連った菖蒲の花が真盛りである。久慈は沼の岸べを見る思いで菖蒲の上の水色の空を眺めていると、教師の眼を逃がれて来た生徒たちらしい、散兵のように一人ずつその雑草の中を這い登って来て、日当りの良い位置をそれぞれ選んでひっくり返った。遊ぶ閑の少しもない厳格さで有名な学校であるだけに、屋根の上で生徒たちの忍ぶ散兵も見ていると滑稽な景色だった。あるものは早朝から夜中の二時三時まで学校から帰らず、机に獅噛みついて製図や計算に勉めている姿を久慈は毎夜眺めていた。
 そのとき、ノックがしたので久慈は戸を開けると珍しく千鶴子が憂いげな顔で立っていた。久慈はネクタイを締めつつ千鶴子に椅子をすすめた。
「お珍らしいな。旅行は案外早かったようですね。」
 自分が早く帰れと矢代に手紙を出したのを久慈は思い出したが、まさか手紙のままそんなに早くなろうとは思わなかっただけに、久慈とて千鶴子と矢代の早い帰りが先日からの疑問だった。
「でも面白かったわ。チロルはあたし忘れられない。ほんとにいい所よ。」
 千鶴子は前の建築学校の屋根をうっとりとした眼で見ているうちに、
「あら、あんなとこで日向ぼっこしてるわ。」
 と急に面白そうに笑った。
「フランスは田舎のどこへ行っても雑草というのがないからな。屋根の上へ雑草を植えてそこを野原にしょうという趣向なんだ。これだけ日本と違うんだから、どうも僕らは追っつけたものじゃない。」
 久慈は洋服を着替えてしまうと寝台に腰かけ、さて今日はこれからどこへ行こうかと考えた。
「へんな国ね、フランスって。」
「へんなことはないさ。終いにはどこだってこうなるんだから、まア登り詰めた超現実主義はこういうものだと思えば、何もかも面白い。矢代はあれは、面白さを理解しようとしないんだからな。あれもまたどうしてあんなに、殺風景な男になっちまったものだろう。」
「そうかしら。」
 千鶴子は不平げに低く云ってまたぼんやりと屋根の上の花菖蒲を見つづけた。
「そうかしらでもなかろう。悪ければまアお赦しを願うが、――どうしてまた君は矢代を動かさないんです。チロルまで後を追っていって、結婚の準備一つもして来なかったなんて、何んだ、他愛もない。」
 ずけずけと久慈の云うのに千鶴子はもう心を動かされることもなく眼を細めたきり黙っていた。
「僕は君さえ介意《かま》わないならいくらだって骨折るけれども、どっちも何も云わないのだから、押してみようがない。一人でああかな、こうかなと思ってみているだけで、一番馬鹿を見るのはどうも僕のような気がするんですよ。え、どうなんです、いったい?」
「あたしも分んないわ。そんなこと。」
 と千鶴子は張りのない小さな声で云うとかすかに笑った。心の底に低迷している愛情のほッと洩れこぼれたようなその千鶴子の微笑を、久慈はなかなか美しい表情だと思った。
「しかし君、どっちも好意をそんなに持ち合っているくせに、どっちも隠しているというのは無意味だと思うね。それともまだそんな風に物静かにしている方が楽しみが多いというのならこれや別だが、そういう風流なお二人とも見えないや。」
 千鶴子は椅子の背に腕を廻し振り返ると、
「何んだかお一人で騒いでいらっしゃるのね、面白い方だわ、あなた。」と久慈を薄眼で見上げて笑った。
「とにかく君たちは、僕とは恐ろしく趣味の反対な人たちだよ、古典派というのかね。お行儀はいいよ。」
 窓の外へ乗り出すように欄干の鉄の蔓を掴んで久慈は下の通りを覗いた。太い足の爪の附け根に毛の生えた白い馬が車を曳いて通る。竿のような長いパンを数本小脇にかかえた女が、片側に二列ずつ並んだ街路樹の青葉の間を縫って歩いてゆく。からりと晴れている空にも街にも微風さえないのどかさだった。
「あたしね、ロンドンへ一寸帰ろうかと思うのよ。またすぐ来てもいいんだけれど、それとも、もうそのまま日本へ帰ろうかとも考えてるの。」
「もう少しいなさいよ。巴里祭までいなきゃつまらないな。また出て来るにしたってなかなか億劫だし、それに君こんないい所はもうないよ。実際ここは素敵だ。僕は自分がパリにいるんだと思うと、もうそのことだけで幸福だ。石の屋根の上にこんな菖蒲の花が咲いてるんだからな。楽しんで見なさいよ。罰があたるぞ。」
 久慈は微笑しながら菖蒲を眺め建物の上に流れている浮雲を見ているうちに、ふと紅海を渡って来る船中での千鶴子との親しかった日日を思い出した。それは恋愛というべきものではない、心やすさのままな自由な交際であったが、そのころはまだ千鶴子は矢代ともあまり言葉も云わない間だった。それがいつの間にかうかうかとパリに夢中になっている隙に、久慈は二人の結婚の斡旋を喜ぶ位置に変っているのである。一つは矢代が千鶴子との接近をある一定のところがら動かそうとしないのも、船中での自分と千鶴子との親しさを見知っている遠慮も、まだとりきれないのであろうと久慈は思った。
「真紀子さんはまだずっとこちらにいらっしゃるのかしら。」
 千鶴子は久慈の傍へよって来て同じように欄干から下を覗きながら訊ねた。ドイツを廻っていた矢代の留守中、ウィーンから突然出て来た真紀子の部屋を、矢代のホテルの部屋にしておいたまま彼が帰って来ても移さずじまいで、ただ矢代を真紀子の下の部屋へ移したきりであったから、千鶴子には同じホテルにいる二人の動静も気がかりの種になっているのかもしれぬと久慈は想像した。
「真紀子さんも日本へ帰るような口振りでしたよ。ホテルを変えたっていいんだけれど、すぐ矢代が帰って来たから変えるというのも、無作法だからな。しかし、そう心配したもんでもないでしょう。」
「まア、いやな方。」
 千鶴子の顔の染まるのをいくらか嫉妬めく心で久慈は見ていた。彼には誰が誰とどんなになろうと、そうなればなっただけパリ生活の深まりを見る思いに染まっていたときとて、千鶴子のとやこうと気遣う気持ちも、渦中に吸い込まれる花弁を見るようにまたそれも楽しみの一つだと思った。しかし、今日は千鶴子はどういうものかいつもより久慈には美しく見えてならなかった。
「久慈さんはほんとにお変りになったのね。何んだかあなたは、いけない変り方をなすったように思うわ。」
「矢代だってそうだよ。あんなに変えたのは君の責任も大いにあるね。このパリに来ていながらわざわざファッショになるというのは、だんだん日本人の君ばかりが眼について来たからだよ。世界が千鶴子さんばかりに見えて来てるんだね。早くもう矢代をつれて、あなた帰ってしまいなさいよ。あの男は堕落した。」
 千鶴子の喜びそうな一点を見つけてそこへ捻じ込むような無理な久慈の攻撃も、千鶴子にはもう戯れのように見えるらしかった。
「ファッショだなんて、そんな――立派な方が真面目に考えてらっしゃることを、そんな不真面目な言葉で片附けておしまいになるもんじゃないわ。もし間違いにしたって、それや苦しんでらっしゃるにちがいないんですもの。あなたの方があたし、よほどファッショに見えてよ。」
「何んだ。君はもうそんなに溺れてるのか。」
 と久慈は云うと突然空を仰いで笑った。
「何んでもあなたはそういう風儀に、物を解釈なさるのね。ほんとに意地悪よ。」
 しかし、久慈は千鶴子が矢代をファッショと云うことに同意せず、却って自分の方をファッショに見たということには、無下に彼女を無知として排斥するわけにはいかなかった。たとい自分が冗談に云ったとしても、千鶴子にたしなめられたことは、考えれば久慈も痛さを感じるのだった。
「僕の方がファッショか。まア、それは一応よく僕も考えよう。」
 久慈は窓から引っ込み寝台の上へ仰向きに手枕のまま天井を眺めた。
「だってそうじゃありませんか。矢代さんのような知識のある方が、ファッショになんかなれば、日本へ帰れば誰も相手にしなくなること定ってるんですもの。そんな損なことだとはっきり分っていることでも、どうしてもその方が正しいと思われたのなら、あたしそれで美しいと思うわ。誰だって真似の出来ることじゃないと思うわ。」
 久慈は寝ながら窓の方を見ると、まだ矢代を弁護したそうな緊張した千鶴子の額に光線が流れ、髪が青空の中に明るく透いてますます美しく見えるのだった。一昨夜矢代や東野からさかんに痛めつけられた久慈だったが、今の千鶴子の柔い言葉が一番胸に強く応えているのは、ただ婦人だからだとばかり言いきれぬものがあった。
「もう少し云いなさいよ。千鶴子さんはなかなか云い方が上手いや。聞くよ今日は。」
 こう久慈の云っているとき、刺繍学校へ通っている隣室のルーマニアの娘が小声で歌う唄が聞えて来た。いつも階段で擦れ違うだけで話をしたことがなかったが、近ごろ愛人の出来たらしい様子は日曜日のいそいそとした明るい素振りなどでもよく分った。久慈は隣室の娘の晴やかな歌を暫く黙って聞いていてから云った。
「いい気持ちだな。映画のパリの屋根の下じゃ、こういうときにどっかから手風琴が聞えて来たが、今日のはファッショのお説教か。」
「じゃ、外へ出ましょうよ。あたし、今夜は塩野さんのお約束があるんですのよ。また夜会なの。いっかも日本の鮭の缶詰をこちらへ輸入する下工作の夜会があったのよ。その鮭まだなんですって。ほんとに夜会は疲れていやだわ。」
「鮭のお使いだな。竜宮みたいでいい話だな。」
 と久慈は云って起き上って来ると鎧戸を閉め、千鶴子の後から部屋を出た。階段を降りて行った下の手紙箱に日本の妹からと、旅行に出た会話の教師のアンリエットからと、二通手紙が久慈に来ていた。アンリエットは千鶴子がロンドンへ廻っている間に久慈と親密になった間だったから、特に理窟をつけて云えば、久慈と千鶴子との船中での親しさを裂く役目に効果のあった人物だった。しかし、久慈にしてみれば、パリでの婦人との恋愛に似た感情の動きのごときは一種の装飾のごときものであったので、彼こそどちらかと云えばパリに恋愛を感じているものと云える。随ってまったくこういう久慈とは反対に、故国の日本にいとおしさを感じている矢代と千鶴子との日に増す親密の度も、彼には自然に見えて淋しさも感じなかった。浮き流れる心――こういうものは故郷にいるときとは別して旅は早く移り変って抵抗し難いものがある。

 久慈はホテルを出るとカフェー・リラのある方へ歩いた。行き違う人の靴がひどくきらきらと眩く光った。道路も日光の反射でときどき面を打つ強い光線に久慈は眼を閉じた。鼻さきの小窓の中に組合わされた刃物の巧緻な花の静まっているのを、わけもなくじっと眺めている千鶴子に近づき、久慈はもう何んの感動もしない自分の若い心の老い込みを、これはどうしたものだろうとふと思った。
「もう君は日本へ帰ったって君の考えは通用しない。」
 と先夜東野に云われたことを急にまた久慈は思い出した。そうだ、これはもう通用しないぞと久慈は突然冷水を打たれたような寒さであたりの街を眺めた。停っているトラックのタイヤの凹んだ部分にめり傾いている車体が、均衡ある風景の中から意味ありげに久慈の視線を牽きつけて放さなかった。
「こんなに静かな街の中でも、人の頭の中には暴風が吹きまくっているんだから、おかしなものだなア。」
 と久慈は呟きながらリラの方へまた歩いた。
「もう戦争さえ起らなければどんなことにでも賛成するって、ホテルのお婆さんあたしに云ってたわ。そのお婆さんは面白いのよ。あたし何も訊きもしないのに、あなたはここをパリだと思っちゃ間違いだ。こんなパリはない。もうパリは無くなったっていうのよ。よほど前は良かったらしいのね。何んでもヨーロッパ大戦のとき、アメリカの軍隊がここへ駐屯してから、すっかりもうパリは駄目になったっていうの。どうしてでしょう。」
「それや、老人は思い出だけで生きているからだ。これはこれでまた充分に意義はあると思うな。」
 突然一本の煙突から吹きあがって来た雀の群れを眺めて久慈は云った。リラの前の広場へ来たとき、彼はそこで買った二枚の新聞を丸め、ある建物を指差した。
「去年だか、あそこの建物の会館へゴルキイが来て講演をしたことがあるんだが、群衆がこの広場いっぱいに集ったら、突然警官隊が騎馬で殺到して来て群衆を蹴散らして、一人も講演を聴かせなかったというね。そのときは恐かったそうだ。今年の巴里祭はもう一層凄いということだが、あなたもそれまでいなさいよ。何事が起るかこの様子じゃもう分んない。昨日は罷業の会社がもう三百になっているんだもの。重要な会社が三百も閉鎖したなら、それやもう革命も同じだからな、右翼の火の十字団はもう決死だ。何んでもドイツの右翼と手を握り出したというから、もう僕らには訳が分らない。」
「じゃ、もうここは国と国との戦争は起らないのね。」
 何ぜそんなになるのだと問いたげな千鶴子の視線に、久慈は黙ってリラのテラスの椅子に腰かけると買った新聞を開けてみた。すると、「あッ。」とかすかに云って、彼は紙面に首を突っ込んだまま一心に新聞のトップを読み始めた。そこには大きく、「日華の戦争起る。」と題して一面に書かれていた。「蒙古と広東で日華戦争が起ってるんだが、大げさに書いてあるにしても、こんなに新聞のトップ一面ということは今までになかった。」
 久慈はまた別のを見ると、その新聞にも日華戦争と題してトップを大きく占めていた。二人は頒けた新聞を黙って読んだ。今までとて日本と中国の危機を報じた見出しが毎日のようにあっても、いつも片隅の事件として小さな取扱いを受けていた。虚報や臆測の多い記事に馴れているとはいえ、二つの新聞の主調色をなして片隅から競りのぼって来ているこの紙上の事件は、事実の誇張としても誇張せられるだけの何事かあるに相違ない。
「しかし、これはこっちのストライキを鎮める手段か、それとも本当かまだ怪しいね。明日あたり分るだろう。」
 と久慈は云った。戦争が起ればすぐ帰らねばならぬ。帰って何をするか分らぬながらも、帰らねばならぬことだけは確かなことだった。ルクサンブールの公園から続いて来ているマロニエの並木が、広場の左方の建物の間に青葉を揃えて自然の色を見せている。岩石の峡谷の底に湛えられた水を見る思いで、久慈はその樹の流れを見ていると、ふと前に見たトラックの車体の重力が凹んだ一輪のタイヤに向って傾いた風景を思い出した。張力の一番薄弱な部分に戦争が起るという戦争の原理が事実なら、あるいは中国で遠からず戦争が起るだろう。
「あたし、今夜塩野さんに訊ねとくわ。あの方外務省のお仕事してらっしゃるから、一番そんなことよく御存知だと思うの。去年だったかしら、ユーゴスラビアの皇帝がマルセーユで暗殺なされた事があったでしょう。あのときも大使館で書記官が調べ物をしてたんですって、そうしたところが、そこへ電話がかかって来たものだから、いきなり調べ物の大きな書類を床の上へ叩きつけて、いよいよヨーロッパ大戦だ。もうこんな物なんかいらんッ、と呶鳴《どな》ったんですって。何んかそれで皆さん大笑いしてらしたことあってよ。」
「今日もこれでだいぶ書類を叩きつけた者がいるだろうな。」
 と久慈は云って、自分も確に周章者のその一人だったとひそかに苦笑をもらすのだった。すると、戦争が起ったということなど全く嘘のようにまた彼は落ちつけた。
 ボーイがテラスへ来たので千鶴子はショコラを註文した。二十年前に藤村が毎日ここへ来ていたというので千鶴子はこのリラが好きだった。ここのカフェーはどこよりもボーイの廻りがのろくさとして遅かったが、それが一つはむかしの全盛をしのぶよすがとなり旅人にのどかな気持ちを与えた。海老茶色の革で室内をめぐらせてあるソファーもすでに弾力がゆるんでいたが、それでもまだ質の良い革やバネは、べこべこの日本のカフェーのものとは比較にならなかった。来ている客も老人が多くコーヒーに入れた砂糖の溶ける音までよく聞えた。しかし、何んと云ってもここはもう衰えるばかりだった。
「文明は西へ西へと行くという学説があるけれども、もう文明は大西洋を渡ったのかもしれないね。あるいは今ごろはアメリカを通り越して、太平洋の真ん中でうろついている最中かもしれないぞ。幽霊は海の中だ。」
 罷業がつづいてからというもの、外国銀行へ流れ出す急激な金の速度にうろたえたフランス政府の顔色を憶い、久慈はそう云ったのだが、千鶴子も丁度『幽霊西へ行く』という映画で、ヨーロッパの精神が幽霊となり、物質文明とともに大西洋の海を渡ってゆく諷刺劇をサンゼリゼで観た後だった。
「じゃ、幽霊が空虚になっていなくなったからストライキ起って来たのかしら。何んでもお砂糖も明日から買えないってことよ。水道と発電所とを軍隊が守っているので、それだけはどうやら無事なんですって。」
 ボーイがショコラを持って傍へ来たとき、砂糖はまだ買うことが出来るのかと久慈が訊ねてみると、自分の家は買溜がしてあるから当分は大丈夫だと答えた。
 久慈はここでの先ず何よりの自分の勉強は、この完璧な伝統の美を持つ都会に働きかける左翼の思想が、どれほど日本と違う作用と結果を齎すものか、フラスコの中へ滴り落ちる酸液を舐めるように見詰めることだと思った。すると、そのボーイの無愛相なのろさまで、今に自分たちもここの家の火を消すのだと云っている顔に見えて来た。組合の発達しているフランスであるから、労働者はみなそれぞれどこかの組合に這入っている。その組合のあらゆる層が漸次に連繋をとって動き出し、賃金の値上げと休日の増加と、労働時間の短縮の三つをかかげて要求を迫り始めた罷業である。農民を除いたこの全面的な生産部門の活動の結果が、街にあらわれた休業状態の姿であるから、僅かな利子のやりくりでその日をつないでいる多くの会社はばたばたと潰れていく。その会社に属している労働者は失業していく。生産品が無くなりつつあるから物価があがる一方である。労働者が賃金を増加してもらっても物価がそれを追い越して高まるうえに、莫大な金銭を落していく外国からの旅行者はみな逃げていく。危険と見てとった自国の資本家も外国銀行へ預金を変えるに随い、フランの値段が均衡を失って下落していく。
 しかし、そのような悪結果は総て初めから分っていたのだと久慈は思った。その分っていたことをやり出さねばいられぬもの、その正体はいったい何んだろう。自分の行為の結果の予想を一つ間違えば、すべてが悪結果の連続になってゆくという現実の将棊で、今やフランスという文明の盤面上の駒はその悪結果を知りつつ、駒自身が盤面もろとも自滅してゆく目的に向って急ごうとしている、ある意志に似た傾斜を久慈は感じるのだった。
 しかし、それもいったい何んのためだ。

 久慈は千鶴子と別れた後でいつも行きつけのカフェーへ行った。そこへは矢代と真紀子とが来ている筈だったがまだ二人は見えなかった。顔馴染の外人らは久慈にみな日華の戦争の起っていることを報らせ、どうだ少し日本が負けているようだが大丈夫かと心配そうに訊ねた。
「いや、あれはみな嘘だ。」
 と久慈は答えた。しかし日華の日ごろの関係も知らぬ外人の心にさえ、そんなにこの日のニュースは大きく響いているのかと思うと、事実の当否以外に、響きの方が事実となって、何事か次の芝居の人心を動かしていく瞬間の偽りを久慈は感じた。そして、それがつまりは歴史となって世の中の表面に氾濫しつつ進んでいくということも。――
 外人たちの中に混りいつもテラスに来ている李成栄という中国の画家は、特別にこの日は誰よりも大きく久慈の視線の中で幅を占めて見えた。李も久慈と視線を合す度びに視界に一点邪魔者がいるという顔つきで、煙そうに横を見て、先夜柳田国男の日本伝説集を読んでいたドイツの青年と話した。久慈と李はどちらも悪意を持つ理由がなくとも、ただ単に視線を合したことで、悪意に似た抵抗が頭の中に生じるある微妙な事実は争われず二人の間で起っていた。すると、そのとき二台連って疾走して来た無蓋自動車から、罷業の委員たちであろう、皆それぞれ熱した顔で固めた拳を空に上げ、「フロンポピュレール」(人民戦線)とこんなにテラスの前で叫びながら過ぎ去った。日日変らずに起っているこのようなことも、今日は云い合したような眼まぐるしい渦巻きを久慈の胸中に呼び醒した。
「今夜は支那飯店へ乗り込んで見よう。どういう気持ちでいるものか一つ見よう。」
 とこう久慈は考えると、出来るなら李とも話して彼らの意見を訊いてみたいと思った。しかし、それにしても、何んと考えることの多過ぎる時代になって来たものだろう。それにも拘らず自分はまだ何も知らぬ。このパリ一つでさえが、眼に触れるもののすべての面に底知れぬ伝統の深さが連なりわたって静まっている。それも必死に苦しんだ人間の脳の襞が、法則を積み重ねた頁岩のように層層として視線のゆく所にあった。過去を知ることが現在を知ることにちがいないなら、およそ自分は現在さえも知らぬのだ。それなら、ここの未来はどんなにして知ることが出来るだろう。――
 しかし、このように一歩たじたじと謙遜になりかかると、久慈はいちいちこのヨーロッパに反抗するような矢代の興奮の仕方もよく分った。それにつれて、所詮、日本人の生える土地はここにはないと、だんだん東野に教えられたままに自分の考えも流れ落ちていく不安に襲われ出すのだった。
 問題は土だ。それも農村問題や政治問題じゃない。もっとその奥の奥にあるのだ――。
 と久慈はこのように遅まきながらひとりいる自由さに、頭が故郷の土に戻ってあちこち日本の上を馳け廻って停らなかった。見るとテラスにいる外人たちのどの顔も、ある共通の淋しさを泛べている。それも皆それぞれの自分の故郷を思い泛べている顔に見えて来る。
「しかしだ。何ぜまだおれは日本へ帰りたくないのだろう。何ぜここがこんなに面白く見えるのだろう。」とこう思う。
 研究すべき宝の山へ這入っていながら、故郷の土を研究したって始まらぬ。いやそれより自分は故郷の日本の土の質さえまだよく知っているとは云えないのだ。西洋も知らなければ、東洋も知らぬ心というものは、これはいったい何んというものだ。
 そうだ。これはもう自分は飽くまで世界共通の宝を探すことだ。これこそどの国でも狂わぬというものをただ一つ探すことだ。と久慈はそんなに思うと再び活気を取り戻すのであったが、しかし、それも東野に云われたように、考えれば、共通のものというものはあるものやら無いものやら分らなかった。あると思うのは、なるほどこれも東野の云ったように他人があると教えたからかもしれぬ。
「畜生。」
 頭がばらばらになっていく先き先きに、東野の頭がも早や先廻りをして立っている。もう今夜は眠れない。
 矢代と真紀子が二人並んでテラスへ来ても久慈は黙って挨拶もしなかった。
「東野のおやじ。来んかな。やっつけてやるんだが。」
「何アに、それ御挨拶?」
 と真紀子は云って久慈の横へ腰を降ろした。
「どうも腹が立ってむしゃくしゃしてるんだ。」
「どうしてそんなに腹が立つの。」
 ふと久慈は真紀子を見ると、ウィーンばかりにいたせいかまだ外国擦れのしない真紀子の馴馴しさが、日本のインテリ夫人を見るようなある懐しい古さを匂わせて来るのだった。千鶴子を見ても感じぬ危い溶け崩れるような温暖な情緒が、この良人を離縁して来た夫人の周囲に纏りついていて、一重瞼の一種独特な落ちついた自然さでテラスに異彩を放っている。
「久しぶりだなア。」
 と久慈は誰にも分らぬことを口走ると、パリへ来て以来初めて自然に還った瞼の閉じるような思いがするのだった。註文のコーヒーが来たとき久慈は真紀子の茶碗に砂糖を摘んで二つ落した。
「君の亭主は悪い奴だな。」
 いきなりそんなに云う久慈を真紀子は一寸恐わそうな表情で眺めてからコーヒーを掻き廻した。
「久慈さん、へんよ。どうしたの今日。」
「だって、こんな外国で自分の女房を一人ほったらかす奴があるもんか。女が出来たって、迎いに来るぐらい骨折ったって良かろうじゃないか。」
「でも、仕様がないわ。あたしがいれば困るんですもの。」
「困るのは向うだけじゃないや。」
 別に真紀子に特別な好意をよせずとも、気の毒で溜らぬという久慈の表情は真紀子も感じたらしい。飲みかけたコーヒーも一口唇をつけただけでまたすぐ降ろすと、突然俯向いてしまったまま暫く顔を上げなかった。
「大丈夫だよ。」
 久慈は泣きかかっている真紀子の肩を強く打った。真紀子は顔を上げてハンカチで眼を拭いたが、すぐ快活に笑い出した。
「ウィーンって所は、ああいうところなんだわ。あたし、宅がいるもんだから、日本にいるときシュニツラのものをよく読んだの。あそこはユダヤ人問題と恋愛があるだけのようなところだと思ったんだけれど、行ってみてあたし、あそこにいれば恋愛三昧になる筈だと思ったわ。海のない国の寂しさっていうものが、浸み込んでいるのよ。」
「そう云えば思い出した。チェコの青年だったが、マルセーユで海を見て、生れて初めて自分は海を見たんだが、海ってこんなに大きなものかねえって、首をひねって、さも感慨に耐えぬという顔をしてたっけ。」
 矢代はあたりの外人たちの顔の中から、海のない国の人間を探し出そうとする風で、
「ここにいる外人たち、みなパリへみいらを採りに来て、みいら採り皆みいらになって本国へ帰っていくのだからな。気の毒なものだ。」
 黙っている久慈の顔にさっと紅がさすと、毒毒しい皮肉な微笑が一瞬唇を慄わせたが、それもすぐ沈んで彼は黙りつづけた。まだ矢代に怒るものが自分にはあるのだと思う気持ちを久慈は考えてみたのである。たしかに自分はパリのみいらにいつの間にかなりかかっている。しかし、矢代は何んだ。日本のみいらになってるじゃないか。――
 久慈は足の下から眼に見えぬ煙のようなものが立ち昇って来るのを感じた。自分を今まで支えていたと思っていた知識の一切が、形をなさぬ不安な色どりのまま、腰の浮き浮きする不快さが加わっていくばかりだった。
 すると、そこへ李と話していたドイツの青年が立って来て矢代に紙片をさし出し、
「これは何んと日本語で読みますか。」
 と訊ねた。それは李の書いたものと見え、唐朝人、雀、と作者の最後の名が分らぬらしい風で、画家の好きそうな美しい詩が書きつけてあった。
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去年今日此門中
人面桃花相映紅
人面不知何所処
桃花依旧笑春風
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 唐詩を日本読みに返って読んでいる矢代の傍から、久慈も何気なく窺いてみると、人の臭いのもう無くなってしまった門の中で、桃の花だけにたりと笑っている虚無的な風景が泛んで来た。日華の戦争が始まったという最中に、李はこんなことを考えていたのだろうかと、久慈は今自分の考えていたこととの遠さを思いくらべてみるのだった。
「中国人というのはこのパリを見ていても、みな人間の死んでしまった跡の空虚《から》ばかりが眼につくんだね。また後へどこの馬の骨かしら這入って来るだろうぐらいに思ってるんじゃないか。」
 ドイツの青年が李の傍へ戻った後で久慈は矢代に云った。
「そうも思わないだろう。そんなことを思っては楽しんでいるだけだよ。人間が空虚になってるところばかり美しく見えるのなら、ここから日本を想像してみなさい。人が一人もいないように見えるじゃないか。実際僕に不思議でならぬのは、ここから日本のことを思うと、いつでも人が日本に一人もいなくて、はっきり、伊勢神宮だけが見えてくることだね。これやどういうもんだろう。」
 矢代はブリュウバールの方に日本があると思うらしく、傾いたその道路の方を見ながら暫く黙っていてから、また云った。
「僕はこのごろ本当のことを正直に云うと、日本の知識階級の中に世の中なんか滅ぼうとどうしようと、どうだってかまやしないと思っている人間がいそうに思えて仕様がないのだ。何んだかそんな気がするね。しかし、僕はどんなに世の中がひねくれたってかまわないが、たった一つの心だけ失っちゃ困ると思うものがあるんだよ。それさえあれば善いというものが――ね、そうだろう、なければならぬじゃないか。あるけれども忘れているというような、平和な宝のような精神さ。どこの国民だって、一つはそんな美しいものを持っているのに、忘れているという精神だよ。僕らの国だってそれはあるのに、探すのが厄介なだけなんだ。しかし、僕は見つけたよ。見せよと云われれば困るがね、何んというか、それは云いがたい謙虚極る純粋な愛情だが。」
「それや何んだい?」と久慈は不明瞭な矢代の云い方に腹立たしげに云った。
「こういう歌が日本の昭和の時代にある、父母と語る長夜の炉の傍に牛の飼麦はよく煮えておりというのだ。こんな素朴な美しさというか、和かさというか、とにかく平和な愛情が何の不平もなく民衆の中にひそまって黙っているよ。桃の花さえ笑ってくれてれば良いというのと、牛の飼麦の煮えるのまで喜んでいる心というのとは、だいぶこれで違いがあるよ。ところが、日本と中国の知識階級は、こういう両国の底の心というものをみな知らなくなってしまってる。僕だって君だってだ。殊に君なんかひどすぎるぞ。このまま行けば、僕らは東洋乞食というか、西洋乞食というか、まア君なんか西洋の方だなア。」
「今さらお前は乞食だと云ったって、三日すれや熄《や》められるか。」
 どちらか皮肉を云い出せば、髄まで刺し通して共倒れになるまでやり合う習慣がまたしても出かかったが、もう久慈には刺される痛さも感じない、午後の気重い退屈さがのしかかっていた。それは街の石の重さのようにどっしりと胸の底に坐り込み、突いても吹いても動き出す気配のない重さだった。貸家になっている前の家の石壁に打ち込まれた鉄鋲から垂れ流れている錆あとが、血のように眼に滲みつく。それが顔を上げる度びうるさく前に立ちはだかって来て放れなくなると、久慈は椅子ごと真紀子の方へ向き変った。真紀子の黒い服の襟から覗いている臙脂のマフラが救いのように柔い。
「これからセーヌ河へ行こう。君は用事があるなら夕飯を八時として、サン・ミシェルの支那飯店で待つことにしょうじゃないか。まさか毒も入れまいだろう。」
 こう云う約束で久慈と矢代は別れてから、久慈は真紀子と二人でセーヌ河の方へ行くバスに乗った。

 八時になって久慈は疲れた身体で矢代と約束の支那飯店へ行った。二階は二間に別れていて大きな窓をへだて、どちらからもよく見えた。小さな八畳ほどの部屋には日本人が主だったが、大きな二十畳ほどの部屋の方には中国人の客が多かった。日華の戦争の始まったニュースの大きく出た日のこととて、中国の客の視線は一様に薄青い光で反撥し、眉間による皺が漣のようにホールの中を走った。ボーイも中国人だから大部屋への遠慮もあると見え、卓を叩いて呼んでもなかなか日本人の部屋へ這入って来なかった。本国が戦争だという日に、敵国の人間が乗り込んで来たということは、自分の城に侵入されたと同じ嫌悪を感じるのであろう。遠くから一二怒声に似た声も聞えて来た。
「大丈夫なの?」
 と真紀子は小声で恐わそうに久慈に訊ねた。
「大丈夫さ。殺されるようなことはない。こんなことで殺されればもう中国は人間じゃない。動物だ。」
「だって、それや分らないわ。」
「しかし、支那料理のような美味い料理を造る国だから、中にはなかなか優れた人間もあるにちがいないでしょう。喧嘩は誰にも分らぬ方法で始末してゆくだろうと思うな。」
 日本人のテーブルはどれも料理がまだ来なかったが、皆は黙って待っていた。すると、そこへ船で一緒の客だった沖老人が三島と二人でひょっこりと顔を出した。沖は船会社の社長を辞めて漫遊に来ただけでもうパリにいない筈だったし、三島も同様にベルリンへ機械の視察に行っただけだったから、この二度目の会合はむしろ奇遇で同級生と会ったように懐しかった。
「しばらく。あなたはイタリアへ行らしったという話でしたが。」
 と久慈は立って白髪の見える沖と三島に挨拶した。
「イタリアから昨夕帰りました。明日の船でアメリカ廻りでまた日本へ帰りますよ。」
 沖はベルリンから戻った三島ともホテルで偶然一緒になり、明日の船のノルマンディもまた二人は同じだということだった。見たところ暫くの間に三島は一層前より憂鬱な顔に変っていた。沖は反対に老人にも拘らず眠っていた闘志が燃え上って来たらしく、若者のようないら立たしさが額のあたりにてらてらと光っていた。
「はア、もうイタリアではボラれたボラれた。ネープルスを見んと死ぬなというから、ベスビヤスまで登りましたが、自動車賃をあなた、たった二時間半で二百五十円とりよった。それにネープルスは汚いとこじゃ。あんなとこ見て死んでられるかい。わしは日本へ帰ったらもう一ぺん会社を起してやろうと思うてます。何アに。」
 こう沖は云ったと思うと声の調節がつかぬと見え馬鹿に大きな声で、「何んですなア、西洋という所は、男ひとりで歩くと馬鹿にしよる。もう酷い目に会うた。こんどは一つ、うんと美人をつれて歩いてやらにゃ、もう腹の虫が納まらん。」
 部屋の中の日本人は皆くすくすと笑い出した。沖は一同を見廻すと演説をする時のように腹を突き出し、「ははア。」と愛想笑いを一つして云った。
「わたしは昨日まで日本語を一つも云わなかったもので、もう今日は皆さんを見ると、饒舌りとうて仕様がない。」
 聾者が急に聞え出したように噴出して出る想念の統制がつかぬのであろうか。沖の云うことには全く連絡がもうなかった。
「三島さん、何かお土産ありました。」と久慈は黙って沈み込んでいる三島に訊ねた。
「いえ、何もありません。帰ったら叱られそうで考えてるところです。」
 多額の金銭の支給を受けて視察を命ぜられ、何一つ新しい発見もせず明日帰ろうという機械技師の苦衷は、自分の想像外の気重さだろうと久慈は思った。
「一つもないって、じゃ、やはり日本はそれだけ進んでしまったのですか。」
「そうですね。」と三島は、日本がそれだけ進んだのか或いは自分の鈍感さの結果だったかはまだ疑問の風で笑顔一つもしなかったが、「一度ある国でこんなことがありました。僕が工場を視察していましたら、面白い形の機械を一つ見附けましたので、珍しそうに眺めていますと、向うから写真を撮るなら撮って下さいと云うのです。どこでも視察は許しても写真だけは許しませんから、親切なところもあるものだと感激して、それではどうぞと幾度もお礼を云って撮らせてもらいましたが、宿へ帰って現像をして見ましたら一枚も写っておりませんでした。」
「どうしたのです。それはあなたの失敗なんですか。」と久慈は重ねて訊ねた。
「いや、工場へ這入る前に庭で二三分待たされましたから、多分そのときどっかから光線をあてて透してしまったのだと思います。」
 聞いていた者らの顔色はさッと変って黙った。久慈も一瞬無気味な寒さに襲われた。しかし、考えればそんなことは当然のことで別に怪しむに足りぬことだと思った。眼に見えぬ光線を透されたのは写真の種紙ばかりではない。この部屋に集っている東洋人の頭の中の種紙も、誰も一様にある光線にあてられすでに変質してしまった頭になっていた。表面の顔は変らぬながらも、一言もの云えば無数の手傷を負った頭を直ちに暴露するのである。またそれらの頭の変化の仕方は久慈型か矢代型かのどちらかであり、もう一層激しいのは隣室の中国人同様全く西洋の模倣そのままの頭だった。
 隣室の中国人の集りはわけてもこの変化が極端であった。場所の不潔さは面を蔽いたくなるほどだったが、ホールではテーブルを囲んだ男たちの中へ誰か一人中国の女が来ると、同時にさッと皆が立ち不動の姿勢で女の腰を降ろすまで直立して待っていた。女は椅子の背に露わな腕を廻した不行儀な横着さで、煙草を吹かせひとりべらべら饒舌りまくっている間も、男らは神妙な恰好で女の云うことを傾聴していた。数組のテーブルの中にはこれとは別な中国人もあって、それぞれフランス人の美人を一人ずつ連れていた。これらの者はもう東洋人は卒業だという顔つきで、一種特別なみいらに似た物静かな構えだった。
 久慈はこのようなみいらが団結した模倣力で、それぞれ本国の東洋に渦巻き起す風波の結果を考えると、抗日意識の高まりが戦争を惹き起してゆくことなど当然だと思った。これは行くところまで行かなければ恐らくやむまい。ここに日華の共通した精神の連結作用が、どちらも西洋の模倣という一点に頼る以外方法はないものであろうか。何か東洋独自の精神の結合に似た一線はないのであろうか。
 久慈は中国人のいる大部屋の方を眺めながら、いつの間にかまた矢代の日ごろの考えの中に入り込んでいる自分を発見して、いや、おれのはまた矢代とは別だ、共同の一線を発見することだと強いて心中思おうとするのだった。
 約束の時間がすぎて間もなく矢代は二階へ上って来た。彼は久慈の傍に思いがけない沖や三島のいるのを見つけると、故郷の見えたようにひどく喜んで云った。
「やア、これはこれは、御無事で何よりでした。」
「今さきも云ってたところですが、老人で西洋へなんか来るもんじゃありませんよ。もうわたしゃ、馬鹿にされて、馬鹿にされて。ひとつ帰ったら、うんとやってやろうと思うてます。何んじゃこんなもの。土産一つ買おう思うても、うっかり珍らし思うて手を出すと、日本品や。いやはや、なっとらんですな。」
 と沖はまたしても大声で誰はばからず云った。他の客はいつまで待っても来ない料理に腹立てボーイを呼ぶと、僅か一本のビールを持って来ただけだったが、それも隣室の人目を忍ぶ風に布の下に隠して持って来た。日本の客たちは怒って出て行くものもあった。ボーイが漸く皿を少しずつ運び始めたとき、隣室の中国人の中から呶鳴るものがあった。
「もうこのごろの世界は、どこでも女に焚きつけられとる。うアはッはッは。」
 と今まであまり隣室の方へは注意しなそうに見えていた沖も、癇に触れたらしくそう云って笑ってから、突然ボーイを睨めつけ日ごろの社長の権幕で、「おい、ボーイ、来んか。」と、去りかけたボーイを呼んだ。しかしボーイは振り向きもしなかった。「ボーイ。ボーイ。こらッ。」
 と沖は呶鳴った。すると、向うの部屋の中国人たちは一斉にこちらを見て何事か激しい罵声を沖に浴せた。沖は立ち上ったかと思うとナフキンを投げ出した。そして、船の中の茶会でよく外人に演説したように実に見事な英語で隣室の方に向って云った。
「料理屋で料理を食うのは国民間の親愛のもとであります。すべて平和というものは食事から来るとは、中国の大哲の教えだと思います。それに諸君は外国に来てまで、われわれの空腹に反対をせられるか。ここはフランスでありますぞ。君らの尊敬する外国で毎日勉強したことが、空腹の者にも自国の食事を与えるなということでありましょうか。これ甚だ東洋人たるわれわれの遺憾とするところであります。われわれの東洋には、戦うときでも敵に塩をやって決戦した、礼儀や仁徳をモットオとした英雄の日月があったのであります。」
 ひどい近眼の大きな顔をいつもにこにこ笑わせている沖が、こういうことを云うときも絶えず笑っていたので、鋭い内容の演説も柔ぎがあったが、運悪くここは英国語ではなかったから、船中のようには聴手にうまく響かなかった。隣室は急に騒がしくなるばかりで、沖に殴りかかろうとする頑な二三の顔が窓からこちらへ顔を突き出し、歯をむき出した。
「これや、何云うても仕様がないわい。料理をくれん方が勝ちじゃ。出ましょうや阿呆らしい。」
 と沖は急につまらなそうに云うと立ってもう帽子を冠った。久慈や矢代らだけではなく皆も沖の後からついて階段を降りていったが、罵声が一層強く後の方でするだけでボーイは挨拶一つしなかった。
 出たところの往来はパンテオンの方から下っているサン・ミシェルの坂だった。坂道の繁しい人通りの中を左翼の新聞売子が叫びながら通る。その険しい声の後から右翼の新聞売子が、またそれを揉み消すような声を張り上げて迫ってゆく。その後からまた左翼、右翼と、続続とつづいて通るあわただしい夜のカルチェ・ラタンである。学生街であるからここは王党という学生の理想が一番勢力を占めているので、新聞は左翼も右翼もあまり売れない。目的はただ王党の中に左右の喰い込む術にあるらしかった。
「明日の船で帰られるのなら、ひとつ今夜は遊びましょう。私もパリ祭を見ればロシアを廻って帰りますよ。」
 矢代のこう云う案内で四人は附近のアルザス料理を食べに坂を下った。セーヌ河近くのこのあたりは久慈は今日のうちにもう二度も来た。ノートル・ダムの尖塔の見える薔薇垣の傍のテラスで、羊や鱒を註文してから五人は空腹を柔げると、まだ西洋を見なかったころの印度洋や紅海あたりの船中の食卓を思い、話は楽しくいつまでも尽きそうになかった。
「しかし、何んですよ。これでわたしらは運悪う大風の中へ来たようなものでしたが、さんざんこちらで揺り廻されてほッとして帰ると、今度は日本にここどころじゃない、大風が吹いてるんじゃありませんかな。二・二六というのはわたしらは見なかったけれども、あの話の模様じゃ、ひと通りの風模様じゃありませんぜ。外国人もみな驚いてますね。日本というところはドラゴンが政治を動かしているそうだが、今度は竜が跳ねたのかといいよる。」
 沖の云うのに三島はドイツで聞いたのだと云って、まるで戦場のような空気の漲っている東京市中の話をした。嘘か真事か一同には分り難かったが、話半分にしても市民の狼狽した話などを聞かされると、日本に吹きつけている不連続線はヨーロッパどころの風ではなさそうに久慈には思われた。
「僕らはまだ若いから分らないのかもしれないが、どうですか沖さん、青年がこんなに沢山考え事をしなくちゃならぬ時代なんて、今までにありましたかね。」
「いや、こんなことは明治以来初めてですな。今までにも大事件は幾つもあったけれど、考えの範囲が狭かったから物事をするのにも熱情がありましたよ。しかし、このごろのは何が何んだか分らない。どうして良いのか見当がつかぬのですよ。明治以来駈け足をしすぎて、心臓が飛び出たのだ。」
 沖の云い方に一同どっと笑ったものの、それぞれ胸倉をひっ掴まれたように急に黙ると沈み込んで羊を切った。
「そうすると、僕たち外国にいるものは、いよいよこれは捨小舟というところかな。」
 と久慈は先夜東野に云われたことをまた思い出すのだった。
「いや、もうどこの国の考え方も世界に分ってしまったのさ。意志を隠そうたって隠せなくなって、外からまる見えになって来たのだよ。どこの国からも左翼が出て、自分の国の秘密をさらけ出してしまったものだから、よしッそんならというので、いちかばちかでどこの国も暴れ出して来たのだ。」
 と矢代は云った。
「そうそう、その通り、どこの国も中に隠れていた心臓が飛び出てしもうて、押し込みようがないのだ。そんならもうこれ、心臓の強さで押すより法がない。そっと隠しておけば良いものを洗い立ててしもうたから、もう穏便に隠しておく必要がなくなって、大っぴらで一層やり良うなって来た。わたしもこれで資本家ですから、その点良う分る。わたしは不良ですが、不良でもこ奴不良だと知って貰う方が、もう暢気で、ええ。」
 来るときの船中でも沖はしきりに、「わたしは不良で、」としばしば謙遜に説明したことがあった。不良を笠に仕事をする心の計画は不快だったが、隠していられるよりまだしも沖の態度に久慈は好意を感じ、食事の味も邪魔にはならなかった。殊に同船で来た客は悪者であろうと何んであろうと兄弟のように見え、内地の批判など役には立たぬ旅愁に誰も襲われていた。いや、むしろ、悪者ほど偉大に見える何ものか間違ったものさえ人は心の中に育て始めていると云って良い。
 久慈はそのような心の自分の変化を今も感じたが、自分も沖のように六十を過ぎてこんな所へ来れば、洒洒として臆面なくあんなに振舞うようになるかも知れぬと、他人事とは思えず、傍の真紀子の身体の危さを度を増し感じるのだった。
「不良は伝染るなア。」
 久慈は意外な発見をしたように矢代の顔を見た。そして、彼はどのような方法で自分を制御しているものかしらと、瞬間矢代と千鶴子のチロルの夜夜のことを考え、あるいはこの矢代は嘘をついているのかもしれぬと疑いさえ起って来た。
「沖さん、矢代はね、なかなかこ奴不良にならんのですよ。あなた意見をしてやって下さいよ。嘘つきだこ奴。」
 久慈はナイフで矢代の胸を指しながら云った。
「あなた、外国へ来て不良にならんのですか。そ奴も少し不衛生だなア。」
 沖はナフキンで口を拭きながら珍しげに矢代を見て笑った。矢代はいつもの癖で男女のことを云われると一言も云わず、顔を赧らめたままただ黙っているだけだった。
「しかし、何んです。こっちへ来ると思うたよりも興味はなくなりますな。殺風景で面白うない。そうそう私は昨夕面白い青年に会いましたよ。どっか踊場へ連れて行けと云うたら、切符制度の踊場へ引っぱって行って踊っているうち、ああ驚いたと云って席へ戻って来て、こう云うんですよ。今自分と踊っていたあの踊子は、あれは自分が二年前に同棲していた女だと云うのです。ところが、その女とその晩三度も踊っていて、まだ昔の女だとは気が附かなかったんですね。二度目に女がにっこり笑うもんだから、妙な笑い方をする女だと思っていると、三度目に、あなた忘れたのと云うたというのです。もうみんな、頭が妙な風になっとりますよ。不良のどうのと云ったところで、不良ならまだ良い方じゃ。この青年は二十五六で、まア日本人の五十か六十の男の経験をしてしまっとるですな。あのまま人間が五十か六十になったら、そら恐ろしいことになりますぜ。」
 度の強い眼鏡の底から光る沖の話に聞き手たちは笑ったり黙ったりしているうちに、次第に身動き出来ぬ世界の中へ頭を落し込んでいって暫く何も云わなかった。
「そうすると、僕らは強味だ。まだ若いぞ。」
 と久慈は思いの底を蹴りつけて吠え上るように云った。
「そうそう。あなた方はまだ若い。わたしはもうそれが何より羨ましい。」
 印度洋の中ごろで夜毎に若者たちを悩ました沖の青春時代の思い出談の落ちが、今ごろパリのここで、こんなに淋しく終りを告げたのかと思うと、久慈は沖に代り腕を撫す気持ちで自分の中に鳴る若さを頼母しく感じた。
「じゃ沖さん。御遠慮なく明日はノルマンデイで帰って下さい。後は僕たち青年が引受けますよ。」
「君たちが二世になってくれるか、じゃ乾杯、健康を祝します。」
 コップを上げると沖に皆はまた楽しく笑った。しかし、この前後から今まで音無しかった三島の顔は、何んとなく生き生きとして来て笑う声も一段と高かった。船中でも猫のように静かで誰よりも遠慮深く謙遜だった三島であるが、一と度びアルコールに触れると船中一番勇敢に溌剌となって、外人の婦人の誰彼なく肩を叩き廻り、靴まで脱がせて喜ばせたことがあった。
「自分の青春をパリで送ったものは、極楽へいった男だ。わたしは遅すぎてパリへ来た。いまいましいな。」
 こういう沖に、子供を一人残したまま妻を死なした独身の三島は、
「そうだそうだ。」と相槌打って身体を始終もぞもぞと動かした。
「これで日本の青年たちは、どんなにパリをあこがれているかも知れませんぜ。それを皆さんここまで来て、何をくよくよしてるのですか。僕は君らを見てると、まるで坊主を見てるように思えますな。僕がもし諸君だったら、あるだけの金をここで使うてしまう。ここでケチをする奴は、そ奴は一番阿呆な人間じゃ。」
 割れかかった石榴《ざくろ》に石を加えたように沖の言葉は久慈の心中へどしりと重みのある実を落した。すると、突然、矢代は遮るように、
「それは沖さんの感傷だな。ここは全く監獄だ。僕らはみな金を家から送って貰ってる俊寛ですよ。こんなところでうつつをぬかしたら、もう最後だ。」
 と云った。
「あなたは船の中でもお坊さんだったからなア。まア、坊さんは世界のどこへいったって坊さんだ。」
 と沖はひとり首を動かして頷いた。
「いや、かまわん。パリで坊さんしてやろう。」
 と矢代は後ろへ反ってナフキンを唇にあてがった。三島は矢代の肩をしきりに叩きながら、
「あんたは坊さんなんかになりなさんなよ。え? 何が坊さん面白いのだ。」
 にこにこと眼尻に下った好人物らしい皺を笑わせて云う三島を見ると、今まで全く忘れていた船中の三島の癖を皆は思い出したらしい。ぎょッとした顔のまま同時に黙ってしまった中で、
「お元気になったわ三島さん。またあたしに靴を脱げと仰言るんじゃありません?」と真紀子ひとりは三島から身を引くように反らしてからかった。
「はははは、靴か。靴脱ぎなさいよ。どうもあ奴を覚えてられると、僕は羞しゅうて。」と云いながらもう三島はしきりと真紀子の靴の方へ身を跼めて眺めた。若者たちを煽動して鬱を晴らしていた沖も、「これや、今夜は無事にはすまぬ。」と思う様子で少し不機嫌になって来た。
 アルザス料理から一同は外へ出ると、河風にあたろうと云うので少し下ったケエドルセイの通りをセーヌ河に添って歩いた。ここは人通りは誰もなく瓦斯灯だけ鬱蒼とした樹の間から光っていた。真紀子は河岸に並んだ古本屋の閉った緑の箱の間から欄壁に飛び上ろうとする三島を絶えず心配して、「危いわね。落ちついてらっしゃいよ。」と袖を曳くように彼の腕を掴んで歩いた。三島は鳥を追うような恰好で、「ほう、ほう。」と夜空に黒黒と続いたプラターンの大樹を仰いで叫んだと思うと、真紀子の腕から脱け出そうとしてまた引き据えられた。それでも三島は片足を高く上げつつずんずん一人先の方へ進むので、いつの間にか真紀子も一行から放れて先になった。三人は幾らかの酔いも醒めてしまって三島達の後姿を見送っているとき、
「ほう、ほう。」とまた三島は三人の方を振り返って遠くから叫んだ。そのうちに停っていた自動車のドアを開けて中へ消えると、真紀子も後から皆に手招きして乗り込んだ。その途端、自動車は待ちもせずそのまま簡単にずるずる辷り出して橋を渡っていってしまった。
「あッ、これやいかん。」
 と久慈は云うと周章てて停っている別の自動車へ飛び乗った。そして、皆も待たず三島の自動車の後を追わしていったが、もう三島たちの車は、真青な瓦斯灯の光りの張った鏡のようなコンコルドの広場の中を突き辷っていた。別に何んの驚くべきことでもないと思っても、それでも久慈は不安だった。矢代や沖も当然後から追って来るものと思って前の二人の車ばかり見ているうちに、車はオペラの方へ消えて見えなくなった。あの二人をそのままにしておけば何事か今夜は起るにちがいないと、久慈はだんだん不安が増して来た。しかし、起ったところで今は独身の二人であった。それならむしろ出来事は二人にとって何かの幸福の原因になるかもしれぬと思った。彼は急に車の速力を停めさせた。そこで暫くぼんやり後ろを向いて待っていたが、一向に矢代たちの追って来そうな気配はなかった。いつの間にか来ている皎皎として青い広場の中で、老いた古い女神の彫像だけ周囲の噴水の飛沫を浴びて立っていた。
 久慈はゆるく車をもと来た方へ女神を廻らせていった。解き放されたような気怠い疲労の眼で女神の顔を見ているうち沈み加減なその横顔の美しさに彼は胸が不思議に波立つのを感じた。すると、突然、あれはお母さんの心配している顔だと思った。彼は駄駄をこねる度びにあのような憂いげな眼差しをよくした母を思い浮べながら、ケエドルセイまで引き返した。しかし、そこにも矢代たちはもういなかった。久慈はもう一度あたりを探してから車を真直ぐにモンパルナスの方へ走らせていって、いつものキャバレの前で車を降りた。踊場とは別室の酒場の椅子には人人の姿がまばらだった。久慈は雀のように台に連って饒舌っている踊子たちの中からなるべく母に似ていそうな顔を自然に探し、その傍へよって行った。
「君、なんて云うの。」
「ルル。」と女は答えた。
「ルルか。ルル、ルル。」
 と久慈は呟きながら傍のダイスをとって物憂げに賽を振った。ルルは片手を久慈の肩に廻し自分も振り出した賽の目を見て、
「あら、明日は雨だわ。」
 と云うと佗びしい小声で唄を歌った。その間も久慈はまだダイスを振り振り、真紀子の帰って来る時間を胸のうちで計っているのだった。このお客は誰か他の女を愛しているともう嗅ぎつけたらしいルルは、久慈の肩に手をかけたまま這入って来る新しい客の顔を眺めていた。

 篠突く雨で道路は水を跳ね返しぼうと地上一尺ほどの白さで煙っている。その中を自動車が水を切って馳けてゆく。急に襲って来た夕立のこととてもう熄むだろうと思い、矢代はカフェーの入口の所で待っていた。二三日前から行方の分らぬ久慈に度び度び電話をかけてみても要を得ず、真紀子に訊ねても久慈とはケエドルセイで別れたままだとの答えである。無論、千鶴子も誰も知らなかった。この二三日、久慈に突きあたりすぎた自分を矢代は跳ね上る雨脚を眺めながら後悔した。ひっ附いていると突き合うくせに放れると心配になる久慈の善良な明るさが、だんだん自分のために湿ってゆく懼れも矢代は考え、どこへ流れてゆくか計られぬ彼の身を再び手もと近くに呼び戻したくなるのだった。
 あまり客のいない室で静かに自分の国の新聞を読んでいる外人たちの中で、二人の日本人だけがしきりにベルリンとパリについて激論していた。一人はベルリン党と見え、ドイツの団結力と綜合力とが、パリの自由性と分析力よりはるかに勝って次の時代を進めてゆくという主張に対し、パリ党の方は、
「このパリの自由さ、このパリ人の平和への人間愛。」
 という風な感激した言葉で反抗しているのも、矢代は日本ではなかなか見られぬ風景だと思った。しかし、日本でもこの二つの思想派は絶えず捻じ合い殴り合いして来て今にまでつづいているのを思うにつけ、いつも久慈と二人で論争して来たそのテーブルで、今も二人の青年が泡を飛ばしている姿が、やはり何ものかに燃え上っていって果て知れぬそれぞれの苦悩と楽しみの現れのように見えた。
「やっとるぞ。」
 矢代は微笑しながら聞いているうちに、自分も懐中深く持っている秘めたマッチを取り出し、思わず二人の議論に火を点けたくなるのだった。
「いったい、めいめい何に火を点けたいのだろう。実はおれも火を点けたい。」
 ふとこう思った彼は眼を上げたとき、濡れ鼠になった石の古い建物が全身から汗のような雨滴を垂れ流している姿が映った。瞬間それは突然の天候のこの変化に歓声をあげて雀躍しているパリの石の心のように感じられた。今までとてときどき矢代は、パリの街に一度根柢から吹き上げる大地震を与えたい衝動にかられたことがあったが、今もこの街に巻き襲って来ている左翼の大海嘯は、沈澱して固まりついた物体のように化け替っている精神の秩序に刃向い、襲わずにはいられぬあの暴力のように思われるのであった。しかも、まだそれでも夕立の雨のように石の表面を垂れ流れるばかりで、何の手応えもない不動の秩序の古古として潜んでいるのが感じられると、たちまち彼は取り出したマッチも仕舞い込み、その強い秩序を支えている原型の部分を分析研究してみたくもなって来るのである。
 しかし、何んといろいろな精神の破片《かけら》を自分は袋へ入れて来たものだろう。これから日本へ帰ってゆっくり一つ一つずつ検べるのだ。――
 こう思うと矢代も胸中の袋の底に手をあててそっとその重さを計ってみた。かつては逆さに渦巻の中へ頭を倒して巻き込まれているような自分だったが、チロルの山中で氷河の断層を渡ってからは、ヨーロッパで拾い集めたその破片を袋ごと投げ捨てて来た筈であったのに、パリへ戻るとまた袋は幽霊のような何物かで満ち始めているのだった。
 すると、そのとき、白い飛沫を煙幕のように地上一面に立てた雨の中を、肩をつぼめるようにして千鶴子がこちらへ歩いて来た。
「ここ、ここ。」
 と矢代は手を上げて千鶴子を呼んだ。千鶴子はほッと横降りの雨の中で笑うと小走りに馳けて来て矢代の前で云った。
「おおひどい雨。あのう、一寸お願いがあったの。もっと中へ這入りましょうよ。」
 雨気で曇った窓ガラスの傍の卓に向い、千鶴子は雨外套の水を切って手袋をぬいだ。
「でも、云っちゃいけないかもしれないわ。」
 まだ雨に濡れている瞼で軽く笑う千鶴子の、羞しそうな眼もとに見入りつつ矢代は煙草を吸った。特に千鶴子にだけ感じる自分の愛情とはいえ、日本を出てから頭に何んの変化も受けなさそうな千鶴子の健康さを、矢代は不思議と思うよりそっとそのまま包みたくなり、中味の空な思想の形骸に踊らされるこのごろの毒から、せめてこの母体だけなりとも守りたいと思う念慮は、マルセーユ上陸以来矢代の変らぬ努力だった。
「仰言いよ。何んです。」と矢代は訊ねた。
「叱られると困るわ。」
「叱ったためしがあるかな。」
「だから云いにくいのよ。」
 沸騰しているアルミの釜にどろどろとコーヒーを流し込む調理場から、強い匂いを放って立ち昇っている湯気を千鶴子は眺めた。
「あのね、いつかそれ、お話したことがあったでしょう。ここの大蔵大臣の夜会で、あたしの手に接吻したピエールって書記官のことね。あの方、今夜あたしをオペラへ招待して下さるんですのよ。あたし、別に行きたかないんだけれど、塩野さんたち、それや、ピエールさんは鮭を日本がこちらへ入れるのに随分骨折って下すった人なんだから、是非出席しなくちゃいけないってそう仰言るの。それであたし、それじゃと思ってお約束したんだけど、矢代さんも今夜オペラへいらっしゃいよ。ね。」
「そいつは困ったな。」
 と矢代は云って後頭部に手をあてた。千鶴子に愛情を覚えていることには変りはなくとも、別に取り立ててそれを打ちあけたことがあるわけでもなし、まして愛人でもない千鶴子の自由さを看視する気持ちはまだ矢代には起らなかった。
「でも、切符は今からじゃないと間に合わないわ。椿姫よ。もしいらっしゃるんだったら、あたしこれからオペラまで行きましてよ。」
 千鶴子は時計を出してみて、
「まだ一二時間は大丈夫、行きましょうよ。ね。」
「だけど、僕が一緒というわけにもいかないし、あなたの楽しんでるのを見せようって肚なら、話は分るが。」
「そうなの、お見せしたいのよ。」
 千鶴子はくすりと首を縮めて笑って頬についた雨を撫で落した。
「よし、そうまで云われちゃ、見てやろうかな。」
 矢代も顎を撫でつつ笑っているうちに幾らか得意な明るい気持ちになるのだった。友人同士としては千鶴子にあまり好意をよせすぎるが、愛人としてはあんまり自由な気持ちでありすぎる二人だった。千鶴子も退屈さのあまりに考えついた趣向とはいえ、思い切って云い出したその企ては、氷河の断層を渡ったときのようなある未知の愉しさを矢代に与えた。これで嫉妬を感じれば申分のない芝居だと思ったが、千鶴子には信頼の方が先に立ち、手にあまる柔軟な滴りをまだ矢代は彼女から受けたことがなかった。一度それを受けてみたいとそう思うと、ついでにお洒落も今夜を機会にしてみたくなるのだった。
「あなたがピエールという人と行くのなら僕も一つ誰かをつれて行くかな。僕のお相手してくれるのは、まア真紀子さんぐらいなものだが、そうだ、真紀子さんに頼もう。」と矢代は膝を打った。
 千鶴子は一瞬笑いを停めて矢代を見たが、すぐまた前のような平静な美しさで、
「どうぞ、その方が退屈しなくっていいわ。」
 と笑うと、そのとき急に大きな声を出し始めた向うの、激論している日本人の方をびっくりした風に振り返った。
「何に云ってるのかしら。あれ。」
「議論だ、面白いよなかなか。」
 矢代は頭を後ろへ反らし議論嫌いの千鶴子のびっくり顔をさも楽しそうに見ながら、あまり千鶴子と仲良くない真紀子に頼み込む難しい方法をあれこれと考えた。這入って来る客の雨外套から垂れる滴で床の斑点が拡がって来た。窓ガラス一面に浮んだぶつぶつの露が重さに耐えかねて蛇のように下って来る。パリ党とベルリン党とは疲れる様子もなく、ついにはパリのマロニエの美しさとベルリンの菩提樹の美しさとの云い合いまでに及んで来ると、マロニエの下で飲む葡萄酒、菩提樹の下で傾けるビールの美味と云った風に、転転と議論は移り変っていって尽きなかった。もうどちらも恋いこがれているひたすらな情熱で、眼の色まで変っているその様は、日本の知識階級を抽象したそっくりそのままの現れのように矢代には見えた。このようになれば国粋主義者の怒り出すのは道理であると彼は思い、それでもなおそのまま我慢をじっとしている民衆の底の義理人情という国粋が、も早や国粋の域を脱したただならぬ精神の訓練の美しさのように矢代には見え始めて来た。しかも、この黙黙とした精神だけがひとり知識階級に勝手な熱情で論争せしめ、それを誇りとしてにこにこ笑って聞いている、まるで母親のような優しい姿となって泛ぶのだった。
 いつの間にか雨が小降りになっていて、空も明るく晴れて来た。すると、街路樹の生き生きとした間からひとり東野がこちらへ歩いて来た。彼は千鶴子たちのいるのに気附かぬらしい様子で奥へ這入ると、論争している二人の日本人の傍へ坐って、
「やア。」と云った。
 しかし、ベルリン党とパリ党の興奮した論争は東野に会釈もせずまだ続いた。そのうちに矢代たちに気が附いた東野は傍へ来て千鶴子の横へ腰かけると、
「どうも昨夜は面白かった。」
 と云って論争している二人の方をまたそこから見続けた。
「何んですか、面白いって。」
「あれだ。あの論争は昨夕からまだ続いてるんだよ。もうやめたかと思って来てみたんだが、まだやっとる。」
 三人は一緒に笑った。東野の話では一人のパリ党の方はソルボンヌへ生物学の勉強に通っている画家で、もう一人の方はベルリンの特派員で日本へこれから帰るところだったとのことだった。東野と画家と特派員の三人は女たちが裸体で踊る踊場へ昨夜見物に行ったところが、あの二人は入口の所でふと議論を始めたのがきっかけとなり、裸体の女の群れが波のように踊っている中でも振り向きもせず、議論を朝の白みかけるまでやり続け、そのまま家へ帰って寝て、今朝ここで会う約束をしてまた続きをやり出したのだそうである。
「はだかん坊の中で議論するとは見ものだろうな。」
 と矢代は一層面白がって笑った。
「それはなかなか見られない風景でしたよ。ああいう議論というものは僕は見始めだな。周囲はみな一糸もまとわぬ薔薇色の波の律動なんだよ。その中で島みたいにあの二人の洋服だけが固まってじっとしてるんだからな。それも、政論と思想問題ばかりだ。」
「じゃ、夜が明けたって倦きなかったでしょう。」
「倦きるどころじゃない。有史以来世界にこんな議論はあっただろうかと思って、恍惚として僕は夜を明した。幸い一人の方は明日帰るから良いものの、これでもう一週間もいれば二人は死んじまうね。」
「そいつは日本精神だなア。」
 三人は笑いながら二人の方を見たとき、パリ党の方は固めた右の拳の角で卓を叩きつつ、フランスには昔から地下に隠してある金塊の額は計り知れぬという説明を縷縷として述べていた。どちらも論理そのものの正否よりも、ただ負けたくない感情だけが論理を動かしているのだった。したがって議論が議論ではなく、も早や恋いこがれている感情だけなのである。矢代も久慈との毎度の角突き合いもあのようなものだったと思い、まだこれは俺は駄目だと、瞬間自責を感じて通りの晴れ間に葉を拡げたマロニエに眼を移した。
「それはそうと、東野さん、久慈は二三日行方不明で困ってるんですが、あなたの所へ顔を出しませんでしたか。東野のおやじ来んかな、やっつけてやるんだがって云ってましたから、もしかと思いましてね。」
「来んな。どこへ行ったんだろ。」
 東野は考え込む風だったが、別に心配そうな顔はなく、にやにや笑って顎を支えながら云った。
「僕に怒ったって、それや殊勝な男だな。」
「何んだかこの間の議論をときどき思い出すらしいですね。」
「もうじきまたひょっこり現れるだろうが、顔を出したらもう一ぺん揉みくちゃにしようじゃないか。そうするとあの男面白くなりそうだ。あのままだといつまでここにいたって無駄だからな。」
「まだやるんですか、それや少し気の毒だ。」
 矢代はこの調子だと今に自分も叩きのめされそうだと、内心覚悟を決めて薄笑いをもらしつつ、どちらへ転がるか分らぬ無気味な東野の表情に注意した。
「そうすると、僕もまだこれや、東野大学なかなか卒業出来んらしいですね。」
「君もまだだよ。君は人間の過去ばかり考えたがる。それはいかん。」
「いや、未来だって考えてる。」
 矢代は案外真面目に突かれた驚きを色に出して反抗した。
「そんな未来は未来じゃないさ。」
「しかし、そんな未来って、僕の考えてる未来はあなたに分らないじゃありませんか。」
「分るさ。君のいつも云うことは人間の過去の美しさを信頼して物事を考えてるだけだ。それじゃつまらん。過去なんかいくら美しかったって、良かったって、何になる。あそこの二人の論争だって、フランスとドイツの良い所ばかり云い張っているだけで、過去ばかりより考えていないからいつまでたってもあの醜態だ。傍から水をぶっかけたって、まだ水の中で云い合いしとる。はッはッはッは。」
 東野は笑いながらすっと立ったかと思うとそのまま飄然と外へ出ていってしまった。矢代は理由もなく殴りつけられたようで後を追っかけて行く気もしなかったが、それでも他人の非難は一度は慎重に考えたくなり、再度の武装の具足を手足に巻き固めたくなるのだった。
「分らないな。僕が未来を考えないって、どういうことだろう。またこれは喧嘩の種が一つ落ちた。」
「だって、東野さんでも俳句お作りになるんじゃありませんか。あんなのもやはり未来の美しさなのかしら。」
「さア、どういうものか今度よく訊きましょう。」
 矢代は東野の後姿を眺めて云った。後ろでは二人の論争はまだ激しくつづいていた。

 グランド・オペラは二十一時に始まる。千鶴子は真紀子に電話をかけ、無骨な矢代のことだからまごまごすると困るというので、自分に代ってオペラの案内を頼むと申し込んだ。ヴェルディの椿姫のこととて真紀子も喜んで千鶴子の頼みを承諾した。千鶴子の方へは勿論ピエールが迎いに来るから矢代たちと一緒に行くわけにもいかず、二人はそのまま別れて矢代だけ切符を買いにひとり出かけた。
 本屋で買って来た椿姫を拾い読みしてから、夕食後矢代は初めてタキシイドを着てみた。白い手袋、エナメルの靴と身を替えて鏡の前に立って見ると、少し照れ気味な映画のギャルソンのような自分の恰好に苦笑が泛んで来るのだった。今夜だけは本物のピエールというアルマンと競争しなければならぬだけに、気骨の折れること一通りではないと思い、少し歩くと一度も練習したことのない舞台を踏むような気重さである。そこへ真紀子が階上から降りて来た。白地の縮緬のところどころに葉を割った紫陽花の模様のソアレを着た真紀子は、見違えるほどのしなやかな美しさだった。
「御用意できて、あら。」
 と真紀子は云うと頬笑みながら、背の高いどことなく苦味を帯んだ矢代の姿を上から下まで見下した。
「どうです。このアルマン。」矢代は顔を赧らめて訊ねた。
「堂堂としててよ。あなただとは思えないわ。まア。失礼。」
「これで歩くと猿になるんだから、今夜は一つじっと立って、胡魔化してやりましょうかな。腹芸をやるんだ。」
 真紀子はふッと笑いを殺してから矢代と並んで鏡に映ると、
「あたし、香水のいいのを買い忘れたの。シャネルよりないの。」
 と云いつつ矢代により添い、片腕を一寸彼の腕にさしてみた。
「今夜一晩はこうして歩くんですからね。そんなに嫌がらないで下さいよ。ああ、面白い、久し振りにいい気持ちよ。あなた一寸。」
 とさも面白くて溜らぬと云う風に真紀子は腰を折って笑い転げ、椅子に腰を降ろしてはまた鏡を見た。
「いよいよ役者か。ひどい目に会わされたもんだ。困ったなア。」
 矢代は寝台の端に腰かけ真紀子のソアレを眺めながら、人生の中ではこんな芝居そっくりの場合にもたまには出会すものだと思い、いったいこれは何んという芝居に似ているものかと考えた。しかし、自分の出場はまだこれからで何のプログラムもないばかりか、椿姫のようなオペラを見れば見る者尽く自分も何らかの意味でアルマンだと思い、またマルグリットだと思うにちがいないので、あながち自分の今夜の出場も自分ひとりの芝居ではないと気が附いた。
「本当の椿姫の生きていたのは千八百四十二年というから天保十三年あたりだな。それもここのオペラ・コミック座の桟敷でアルマンが初めて椿姫を見染めて、嘲笑されたのが事の起りだから、今夜はまア実地踏査みたいなものだ。」
「あたし、前に一度読んだことがあるんだけれど、もう忘れてしまったわ。」
 と真紀子は云って腕の時計を眺めてから、
「でも、千鶴子さんも物好きね。何も他の方と御一緒のところをあなたに見せたいって、どうしてでしょう。椿姫の気持ちを味いたいのかしら。」
「そうじゃない。あの人は初め断ったところが、それは礼儀でそうも出来かねたんだと思う。それに相手がフランス人だからどんな具合いに誘惑するとも限らないと思って、誰か知人に見ていて貰って安心したいんですよ。」
「そうかしら。でも、おかしいわね。」
 と真紀子は薄笑いを泛べ机の上の椿姫を手にとってぺらぺらと頁を繰りながら、
「あの方、やはり矢代さんを愛してらっしゃるのね。そうよ。」
 と小声で云って、ある頁のひと所にじっと視線を停めていた。
 矢代は「いや、違う。」と云うことが出来なかった。彼は真紀子の視線を停めている頁はどのあたりであろうかと、彼女の来る前に探したある部分の言葉を思い出した。そこは血を吐いたマルグリットが寝室へひとり下って咳き込んでいる所へ、隣室から後を追って来たアルマンが初めて愛を打ち明ける場面で、マルグリットが優しくアルマンの熱した態度を抑える言葉である。
「そんなことを仰言るもんじゃないわ。もしそんなこと仰言れば、結果は二つよりないんですもの。」
「それはどんなことです。」
 とアルマンが訊くと、
「もしあたしがあなたのお心のままにならなかったら、あなたはきっとあたしをお怨みになるわ。またあたしがもしあなたの仰言るままになったとしたら、あなたは、それは厄介な惨めな恋人をお持ちになることになってよ。」
 というところである。矢代はこのマルグリットと同じ言葉をいつも千鶴子に向い、胸の中でひそかに云っていたのを思うのであった。もしここがパリでなくて東京だったなら、或いは千鶴子に胸中の想いのままを伝えたかもしれない。しかし、日本を離れた遠いこのような所にいるときの愛情は病人と何ら異るところはないと矢代は思う。彼は千鶴子よりも少くとも理性的なところが自分にあると思う以上、旅愁に襲われている二人の弱い判断力に自分だけなりとも頼ってはならぬと、最後にいつも思うのだった。それはチロルの山中で二人が乾草の中で一夜を明したときもそうだった。現にアルマンの愛情をそのまま受け入れた病人のマルグリットの最後はアルマンの家庭から引き裂かれたうらぶれ果てた死となった。病人はどちらも安静にしてこそ健康になるのじゃないか。そう思うと、矢代は白い手袋を握って立ち上り、暫く真紀子の前を往ったり来たりするのだった。

 王宮に似たオペラ座の正面の階段を真紀子は腕を矢代に支えられて登った。登るにつれて両翼に拡がった蔓のような真鍮の欄干の優雅な波が廻廊へと導くまま、歩廊を幾つも越して二人は二階の桟敷へ案内された。蝋燭の似合いそうな深い部屋の中は紅色の天鵞絨で張り廻された密房の感じだった。椅子に腰かけてもう始っている舞台の方を見ると、丁度そこだけより人生はないと思わせる具合に舞台以外の他の部分は見えなかった。矢代は劇の動きよりも来ている千鶴子を探したかったが、よほど窓から乗り出さない限り窓枠の欄壁の厚さに邪魔されて客の顔は探せなかった。どの部屋も恐らくこのようになっているとすれば、この夜ピエールが千鶴子に囁く言葉や態度は、この密房の中の真紀子と自分とを想像するより法はなかった。
「綺麗な女優さんね。声もいいわ。」
 真紀子は小声で云った。矢代はそう云われて初めて舞台を眺めている自分に気がついた。舞台ではマルグリットの歌劇名のヴィオレッタの豪奢な客間で催されている夜会だった。
「ああ、楽し。妾や、快楽のために死ぬのが本望……」
 まだ始ってあまり間もなく、黒い天鵞絨の衣裳を着たマルグリットを中心に、十九世紀風のパリの紳士淑女が華やかなメロディの合唱をつづけている。
 矢代は事実をそのまま小説化したと云われる原作の椿姫では、アルマンが最初にマルグリットの椿姫と話した時は今自分が千鶴子を探しているように、オペラへ来ていながらも、絶えず桟敷から桟敷へと眼を走らせて舞台を少しも見ないマルグリットの描写だったと思った。しかも、椿姫の棲んでいた所もこことはそんなに遠くないアンタン街でそこから彼女はこのオペラへもよく来たのだと思うと、いま現にここにいる自分を思い合せ、瞬間あッと胸中叫びを上げたいようなくるめく動揺を感じるのだった。
 しかし、すぐ次ぎに、アルマンの熱情こめた少し野暮ったいほどの純情な眼で、マルグリットをじっと見詰めている燕尾服の姿が現れた。その姿をひと眼見たとき矢代は、あの獲物を狙う鷹のような露骨な眼つきはとうてい日本人の自分には出来そうもないと思い、外人のピエールなら或いはそれが難なく出来るのかしれぬと想像され、時間の進行につれだんだん千鶴子の身辺が危かしく気遣われて来るのだった。それにこの美しい透明な旋律である。ピエールだってそのままの筈がない。――矢代は次第に迫って来る暗鬱な恐怖に意外な芝居になって来たぞと後悔さえし始めた。
 舞台ではアルマンを中心に手管の巧妙な遊蕩児の伯爵や男爵の酒の飲み振りの場がつづいた。そのとき突然ばったりマルグリットが倒れた。人人が追って来る。それを片手の手巾で追い散らし、ただ一人になったマルグリットの苦しげな傍へ、アルマンが来た。そして、真心こめた日ごろの想いを打ち明け出した。
 矢代はふとそのとき、千鶴子が自分を今夜ここへ呼び出したのは、実はここを自分に見せたく思ったのかもしれぬとそのように思った。すると、ただそれだけのことで場面はまた俄に自分の味方のように明るく見え始めて来るのだった。しかし、もしピエールがそのまま今のアルマンを気取ったら、何事か今ごろはそのような態度に出ていないとも限らないと思った。
「棄て給え、その恋、ああ忘れ給え……」とマルグリットは切なげに歌っている。
 舞台を見ていても何も眼につかぬ自分の空虚さを傍の真紀子が感じているであろうと矢代は思った。そして、今夜のこの意外な苦心は一層増していくばかりだと思うにつれ、これを避ける方法はやはり自分がこうしてここに出て来る他にはなく、また千鶴子もピエールの誘惑を避ける方法は、同様に自分にこの劇を見せる以外、考えつかなかったにちがいないと感じて来るのだった。
「やはりヴェルディの音楽がいいのね。あたし、ナジモヴの椿姫をむかし見たことあるけど、あれも良かったわ。」
 真紀子は幕が降りたときこう云って矢代と桟敷を出た。顔を直したばかりの真紀子の匂いが柱廊の光りの中でよく匂った。矢代は露台の欄干の傍に立って下の広いホールにゆらめく人人を見降ろした。薄汗が首のあたりににじんでいるのを拭きつつ、彼は千鶴子を探してみたが分らなかった。
「椿姫まだ見えないわね。」
 と真紀子も云って下を見降ろした。矢代は真紀子の助太刀に出て来てくれたその気持ちが有り難く、笑いながらもこの調子だと自分も本物のアルマンに今になるのではないかと思って脊を延ばした。
「どうも僕にはあんな歌劇は苦手だな、この方がいいや。」
「でも、いいわ。久慈さんもいらっしゃれば良かったのに、どうしてるんでしょうね。」
 ふとそういう憂いげな真紀子に矢代は頷きながら、それではやはり真紀子も舞台を見つつ、久慈を想い泛べていたマルグリットの一人だったのかもしれぬと気が附いて云った。
「今度は久慈とまた来ましょう。久慈はハイカラだからこういうのは好きだ。何をしてるのかなア。」
 汗がひいたためか柱廊の大理石の冷たさがひやりと両脇から流れて来た。遊歩廊から下のホールへかけてだんだん集って来たタキシイドやソアレの組が、傘灯の下で囁きかわしながらゆるく旋回をつづけていた。燦爛たるその景観を見ているうちに、泡立つような白い扇のゆらめきや耳飾が、突然一撃して去った東野の今日の言葉を矢代に思い出させた。
「君は過去を見すぎるぞ。」
 しかし、矢代は露台の真紅の絨毯の上に突き立ったままその東野にひとり抗弁している自分を感じた。
「いや、万有流転だ。流転が歴史の原型の相なら、この下が刻刻過去になりつつあるその具体だ。過去を見ずにどうして未来が見られるか。」
 漂い湿っているかすかな嫉妬心の中で、ひょっこりとそんなことを考えている自分に、おや妙なアルマンさまもあるものだなアと、彼は一巡あたりを見廻した。そのとき、二階の遊歩廊から反対の階段をホールの方へ降りて行く人人に混って千鶴子らしい姿がちらりと見えた。
「いるいる。あれだ。」
 と矢代は口まで出かかったが、今はいるところさえ見届ければそれで良いのである。見ればこのまま帰ってしまっても義務だけは果したのだと思うと、そのまま黙ってなお一層視線を千鶴子の方へ強めてみた。水色のソアレに銀色の沓で千鶴子はピエールに腕をよせ、巻き辷るような欄干の軽快な唐草の中を静かに笑みを泛べながら降りていった。矢代はなお真紀子に黙って急がず、千鶴子の降りてゆく反対の階段の方へ真紀子の腕をとって廻った。何んとも云えず豪華な一瞬が豊かな呼吸をし始めたようで、一歩一歩踏み降りる靴の下から煌めく火のような宝石の光りが飛沫を面に打ち上げて来た。
「ここのホールの方が見物席より広いようね。いつ建ったのかしら。」
 真紀子は階段を降りたときあたりを見廻して訊ねた。
「十七世紀。」と矢代は答えると、廻遊している人の流れの中を緊迫した思いで千鶴子の方へ歩いた。千鶴子はまだ彼に気附かぬらしい様子だったが、ときどきピエールと話しながらも二階の歩廊の方を眺めたりしていた。額の広いピエールは身についたタキシイドの上であまり笑顔を見せず、よく光る眼でゆっくりと歩いて来た。肩幅のある中背のがっちりとした姿で、顎を引きつけて人を見る様子はどことなく写真の若いナポレオンの姿に似て見えた。矢代は組み合せた型の廻ってゆくようなこの劇場に少し反感を覚え、また照れ気味にもなって来たが、しかし、もうどちらも出る所へは出てしまっている、今はそのひとときだと思い勇気も出るのだった。
「来たわ。一寸。」
 と真紀子は矢代の腕を引いた。そのとき千鶴子も矢代たちを見つけたらしく軽く笑いながら黙礼した。矢代は憂鬱な気持ちだった。その間も、縮まっていく二人の視線の間を人の流れがちらちらと断ち切ったが、また顕れる千鶴子の顔は見る度びに笑顔を変えた。擦れ違うとき、
「これまアお儀式みたいなものよ。黙って暫く待って下さらない。」
 とこのように千鶴子の視線は物を云いながら、真紀子にだけ彼女は一寸お辞儀をして行きすぎた。ピエールの眼は急に光って二人をじっと見詰めていたが、何事か千鶴子の囁きに頷きつつホールの外の遊歩廊の方へ廻っていった。
「後からついて行きましょうか。」
 真紀子は急にぴったりと矢代に胸をよせかけて訊ねた。
「いや、よしましょう。おかしい。」
「どうして?」
 矢代は千鶴子を見たときからもう安心を感じ、足もゆっくりとなり黙ったままくるりと廻ろうとする真紀子を手もとに引きめぐらせて歩いた。――「ああそは彼の人かうたげの中に一人ありしは。」という第一幕のマルグリットの歌も、ある魅力を帯びて矢代の胸中で水脈を拡げるのだった。行きちがう人の中から、さまざまな香りが漂い移り、耳飾や曳き摺るような銀狐や、垂れ下った真珠、白や黄色、水色などとりどりなソアレの顕れるに随って、矢代は、絢爛無双な時間が今自分の周囲で渦巻きを起しているのだと思った。それは自分と非常にそぐわぬ時の流れのように思われたが、しかしいままさしくグランド・オペラに自分のいることだけは間違いはなさそうだった。
「これが代代の日本の若者の心をそそのかせていって熄まなかったものか。これが人生を波立たす何ものかの一つだったのか。」
 とこう矢代は思うと、今さき出会った千鶴子の視線にもし少しの危機の信号でもあったなら、この絢爛たるオペラも自分にとっては憂悶の種だったにちがいないと思った。銀鼠色の大理石の壁面の傍まで来て二人は再び引き返した。幕間にもう一度千鶴子と会うには遊歩廊は広すぎて駈け足でもするより法はなかった。矢代は千鶴子の後を追おうとする真紀子を一度は前に引きとめてみたものの、今またこうしてその後を追い求めている自分の傍で、とかく真紀子を除け者同様に扱っている自分の心にふと嫌悪を感じた。水に浸ろうとするような立像の美しい彫刻の下まで来たとき、また千鶴子を追うのを思い停り、矢代は真紀子を労わりながら云った。
「ヴェルディはイタリアからパリへ出て来て、ここで椿姫の芝居を見てから、早速このトラビアタを作曲したんだそうですよ。歌劇のことはよく僕は分らないんだが、何んでもベニスで最初やってみて、大失敗をしたって云いますね。」
「ベニスでね。あそこあたし行ったのよ。主人と二人で行ったのだと思っていたら、そうじゃなくってハンガリアの女もちゃんと来ていたの、それもベニスだけじゃないのよ。どこへ行くにも番人みたいに後の汽車か先の汽車で来てるんですもの。あたしだって腹が立つでしょうね。」
 人の流れがそれぞれの桟敷へと動き出した。二人はまた階段を登っていった。矢代は吊り上げるように真紀子を支えねばならぬので、ふと擦れ合う胴の触感から醒める暗黙の危機を感じた。実際こんなに千鶴子にも同様この危機が刻刻襲っているものなら、必ずピエールの鋭い眼が生ま生ましい慾情に変っていることなど自然なことだと、うるさくまた悩みが追って来るのだった。しかも、発火点が擦れ合いつつ再び密房のような桟敷へ這入っていくのである。桟敷には頼めば係りの老婆が鍵までかけてくれるばかりではない。窓には重いカーテンの用意まで出来ていた。
 桟敷へ這入ると室内の真紅の色や鏡が暗怪な色調のまま矢代の皮膚を撫でて来た。彼は真紀子から視線をそらせているものの、ただ二人きりの密房の中の沈黙は重苦しい刺戟を増すばかりだった。これで何事か起らぬ方が不自然だと云いたげな部屋の長いソファも同色の紅いである。真紀子は黙りつづけて窓から舞台の幕を見ていたが、一刻の魔の通過を感じ合う呼吸は、触れば今すぐにも首を落す危い植物のような刹那を二人で持ち合いますます重さを加えていくのだった。それはころりと人の運命の変っていくあのものの弾みの恐るべきひとときだった。そのとき幕がパリの郊外のブウジバルの美しい風景を泛べて上っていった。
 矢代はほッと起き上ったような気楽な気持ちになって舞台を眺めた。
「あそこはブウジバルですよ。僕は行きましたよ。ここから一時間ばかり自動車でかかるところです。」
「あら、そう、行きたいわ。一度つれてって下さらない。」
「行きましよう。こんな美しい村はパリの郊外にはないって、デュウマが椿姫の中で書いてますよ。僕の行ったときには、あのあたりいちめん林檎の花ばかりでしたね。」
 杜から帰って来たらしい猟服のアルマンが一人這入って来た。マルグリットとの完全な愛の生活に彼は嬉しそうで身も軽やかに悦びの唄を歌う。そこへ女中が現れ、アルマンの悦びを打ち砕く第一撃を与え、興奮しながら出て行った彼の後へマルグリットが登場する。まことに隙なく燃焼しつつある二人が全力で美しく愛情を支え合っているときにも、過去が現在の幸福を冷酷無情に顛覆して進んでゆくのである。アルマンの老父が現れて別れをすすめ、哀願に変ると、ついに二人の未来は悲劇へと移っていった。
 別れを頼む老父へ、最初はマルグリットも、「愛してるから駄目。」と強い拒絶の言葉を云う。しかし、真に愛しているなら、「愛してるから駄目。」と、何ぜそのまま押し通して未来を造っていかなかったか。矢代はどこかの桟敷の奥から今もこの光景を見ているにちがいない千鶴子の姿を想像した。
「愛してるから駄目。」
 世の中の不徳の数数を撃ち殺していった椿姫の美しい心が、今みなの心の中に生きているに相違ない。それでもなお心をけがして見ているなら、早くけがしてしまえ。――矢代は今まで嫉妬に苦しめられていた自分に腹立たしくなり、もう後を見ずに帰ろうかとも思った。
「いいわね。」
 真紀子は幕が降りると立って鏡に顔を映し、ひとり桟敷の外へ足早やに出ていった。矢代も後からついて出たが、どういうものか真紀子は露台の端に立って下を見降ろしながらも、さも矢代のいるのが邪魔物のように憎憎しげに黙っていた。少し青ざめた顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》のあたりに薄く浮き上っている真紀子の静脈の波打つのを矢代はちらりと眺め、思いがけなく不意に足もとから狂って来たこの真紀子の感情の収拾は、これは容易じゃないと思った。しかし、慰めようにも元来がこんな夜に真紀子を誘ったことがすでに失敗だったのであるから、一度は来るに定っている不機嫌だった。下手をするよりこのままそっとしておくに限ると矢代は言葉もなく黙っていた。
「少少疲れましたね。」
 事実矢代は疲れを感じて云ってみたのだが、「そうね。」と真紀子は低く答えただけだった。彼は太い磨きのかかった淡紅色の大理石の円柱に片手をつき、千鶴子の現れるのを探しながらも、傍の真紀子の不機嫌さにホールの美しさも今は溷濁《こんだく》して感じられた。
「あら、あれは高さんだわ。」
 と突然そのとき真紀子は下の遊歩廊の左の方を覗いて云った。酒場の方へ通じる入口の所に、カフェーでよく会う画家の李成栄と、来る船中ダンスの会で真紀子がデッキでよく踊った高有明の二人が立っていた。高は上海の有名な支那銀行の頭取の息子で、東京帝大の経済を出た日本語の巧みな上品な青年だったが、どういうものか船中は一等に乗らず二等にいた。
「一寸行って来ましてよ。」
 真紀子は矢代を一人露台に残して階段を降りていった。李と高は婦人を連れていないためであろう、ホールの中へは出ずいつまでも入口の壁の前に立っていたが、横から真紀子に肩を打たれて驚く高の眼鏡が忽ち笑顔となり、懐しげに握手をした。笑うと顔を赧らめ眼を大きく開いてきらきらと光らせる高の上品な癖を、矢代は露台の上から眺めながら、真紀子の大胆な変化に今さらある恐怖を感じて来るのだった。暫らくして高は真紀子に教えられたものと見え、露台の方の矢代を見上げると一寸手を上げて会釈をした。矢代も一別以来の挨拶を笑顔で返してから、ふと横を見たとき、今まで突いていた自分の片手の汗を中心にぼッと曇った円柱の肌の向うから突然千鶴子の顔が現れた。
「お一人なの。」
「いや、あそこに真紀子さんいるんだけど、どうも不機嫌でね。困った。」
「そうお。失礼したわね。」
 千鶴子は真紀子を見降ろすようにしてから、笑顔も見せずまた矢代の顔をいつもより強い視線でじっと見詰めた。矢代は急に上下の変動の起った多忙さにハンカチを出して額を拭きながら、
「お終いまでいるの?」
 と訊ねた。千鶴子は早速に答えかねた様子で首をかしげた。
「ホテルへお帰りになったら、すぐお電話下さらない。あたし、先だったらいいんだけど。」
「じゃ、君も下さい。」
 と矢代は云った。千鶴子は後ろを振り向いてみてから、
「あのう、ピエールさんに帰る時間お訊きしてみるわ。この次桟敷へ一寸お伺いしてよ。お宜敷くって?」
「どうぞ。」
「どちらかしら?」
「そこです。」
 と矢代はすぐ後の桟敷を指差した。千鶴子は矢代の指差した桟敷のドアの方をよく見届けると、
「あそこね、じゃ、また。」
 と云ってお辞儀をしたが、しかし、そのまま少しくためらう風にまだ立っていてから、もう一度お辞儀をして円柱の向うへ離れていった。もう幕の上る時間に近づいたらしく人人はそれぞれ桟敷の方へ流れていった。矢代はいつもより青ざめた大きな眼のあわただしげな千鶴子の様子を思うと、故もなく動悸が激しくなり、桟敷へ真直ぐに戻る気持ちがしなかった。
 場内では幕が上ったらしい気配だったが、真紀子はまだ戻って来なかった。久し振りで高と会ったのだから彼の桟敷へ一緒に行ったにちがいないが、今は矢代はそれどころではなかった。千鶴子の張りつめたような眼の大きさが一大事の前触れのように頭に泛んで来てとれなかった。もう自分も完全に顛覆してしまっている。――矢代は人の全くいなくなった柱廊のひっそりとした真紅の絨毯の上を歩きながら、何事か深まっていく決意の中に身を沈めようとするような憂鬱な表情に変っていった。桟敷の鍵を持った黒い服の老婆が静かに柱の影から歩いて来た。すると、彼に近づいて来た老婆は鍵を出して、
「これ。要るんですか。」と訊ねた。
「いや。」
 と矢代は云ったが、ふと老婆は千鶴子とピエールの部屋に鍵をかけにいったのではなかろうかと思った。全く迂濶に二人の桟敷の番号を訊き忘れたのを彼は後悔しながら歩廊を歩いているうち、多分このあたりだろうと見当をつけて立ち停った。しかし、勿論、たといそこだと分ったところで中へ侵入するわけにはいかないのである。矢代はまた引き返して来た。森閑としたホールの大理石の間を、金色の欄干が身を翻すようななまめかしさで、自由に嬉嬉としてひとり戯れている。彼はふとチロルで氷河の牙の上から振り向いた千鶴子の奔放な美しさを思い出した。暫くして矢代は自分の桟敷へ這入ってみたが、真紀子はまだ戻っていなかった。彼はソファに凭れて舞台を睨めていてももう何の興味も起らなかった。自分のタキシイドの胸板の白さが広い部屋の中でいやに生き生きと嵩ばって見え、早く終幕も一度にしてしまってほしいと思いながら、彼は欠伸が一つ出るとまたすぐ次ぎに続けて出た。
 舞台は恋愛に破れたアルマンが出て来て賭けをし始めるころから少し面白くなって来た。今にあの賭けで勝った金をマルグリットに投げつけるのだと思う予想が矢代のいら立たしさを慰めてくれるのだった。そこへマルグリットが這入って来た。彼女は別れたアルマンのいるのを見てひどく驚く様子をじっと圧え、一緒に来た男爵の傍に立ったままアルマンの自棄な姿をときどき見た。そのとき急に矢代は後頭部に生ま暖い触りを感じた。何気なく仰ぐと千鶴子が黙ってソファの後ろに立っていた。
「真紀子さんまだ?」
 前に廻った千鶴子はソアレの膝を一寸摘んで矢代の傍に坐った。真紀子と違う香水の匂いが鮮やかな水流を矢代の頭の中に流し込んだ。
「ピエールさん抛っといてもいいの?」
「ええ、そう云って来たの。お友達がいるからって。」
 千鶴子はほッと吐息をもらして部屋の中を眺めていたが、
「真紀子さんどうなすったの?」とまた訊ねた。
「高さんて船の中にいた中国人あったでしょう。ダンスの上手な。――あの人と下で会ったまま戻って来ないんですよ。」
「そう。あたしに怒ってらしって?」
「いや、僕にだ。」
「あたしも怒られるかしらと思ったんだけれど、でもね。」
「まア、少し間違えた。」
 矢代はそう云うと、滅多に出来そうもないと思っていた千鶴子の片腕を歩く時のように自分の腕の中へ巻き込んだ。千鶴子は後ろのドアの方を向いてから顔を矢代の肩へ靠らせたが、また身を起すと足を組み替え一層重くもたれ直したので、首飾の青石がかすかに鳴った。二人は暫くそうしたまま舞台を見ていた。悩むマルグリットの衣裳のうねりにつれて、無数の宝石が全身の上で光りを絶えずきらきらと変えていた。
 矢代はフリーゼをかけた千鶴子の髪を首筋で受けとめながら、自分にも分らぬ深部から鳴り揺れて来る楽しさを感じた。舞台の進行は分っているが、自分らの進行だけは全く未だ分らぬこれからの楽しさばかりだと矢代は思い、ますます後へは退けない責任を感じて千鶴子の重みを支えつづけているのだった。音楽がまたしきりに『貴重な愛』を失ったアルマンの歎きをつづけていった。
「あら、汚れたわ。」
 千鶴子は急に首を上げて矢代の肩に附いた粉白粉を払った。そして、笑いながら、
「御免なさいね。」
 と云うと矢代の手を自分の膝の上に置き両手で揉むように撫でた。矢代は千鶴子が身動きすると一層高まる酔いに似たものを感じた。一つは悲劇に落ちていく切切たる歎きの情緒を湛えた音楽が、二人の中へ嫉妬のように割り込んで来るためもあったが、それにしても今のこの愛情をもし誰かがひき裂いてゆくとしたら、自分もあのアルマンのように乱れ悲しむにちがいないと思い、矢代は支えている千鶴子の耳飾の冷たく首に触れるのもひやりとする切なさだった。
「もういかなくちゃいけないわ。幕よもう。」
 千鶴子は立って鏡の傍へより顔を直しながら矢代に、
「あなた、ほんとにホテルへ帰ったら、お電話して下さいね。」と云った。
 そして、また矢代の横へ来て坐ると、彼の手をもう一度自分の膝へ乗せ、
「いい、行って来ても?」と訊ねた。
「まあ、困るがやむを得ん。」
 矢代はいっかピエールが千鶴子の手に接吻したのはどちらの手だったかしらと、ふとそんなことを考えぴしりと手の甲を一つ打った。
「じゃさようなら。」
 千鶴子が立って出て行こうとしかけたとき矢代は急に呼びとめた。
「悲劇にしないでくれ給え。大丈夫ですか。」
 千鶴子はドアの間へ半ば入れた身体をひねって黙って笑いながら頷いた。矢代は千鶴子がいなくなってから自分も立って鏡に姿を映してみた。なるほど少し肩が崩れているなと思い、ネクタイの歪みを直したり、白い胸板を正したりしながら、とうとう自分も日ごろ軽蔑していた旅愁にやられてしまったと思った。事実、自分に攻めよせて来たのは千鶴子にちがいなかったが、千鶴子も自分もパリに総がかりで攻めよられたことにもまた間違いはなかった。これが日本へ近よって行く度びに一皮ずつ剥げ落ちていくとしたら、実際は、自分たち二人は今は夢を見ているのと同じだと思うのであった。それは考えれば全く恐るべき結果になる。しかし、それも今は考えたって始まらぬ。なるようになって来て、誰がこんなにしたのかも分らなかった。もう自分はこの喜びを喜ぶまでだと、彼はタキシイドを整えた元気な姿でまたソファへ腰を降ろしひとり舞台の悲劇を見つづけた。

 終幕前の休みにはもうホールの観衆は全く興奮していた。遊歩廊を歩く男女の組は身体をぴったりとよせ合い、も早や通る他人の顔どころでなく、それぞれの愛情を誓い合うかのような切なげな眼差しで廻っていた。矢代はこのような光景を露台から見降ろしていると、自分も人人の興奮の中を歩きたくなって来て階段を降りていった。綺羅びやかな紳士淑女の揉みぬかれたソアレの匂いも、自分の匂いのように感じられた。男たちの肩や胸に散っている白い粉の痕跡が眼につく度びに、自然に矢代の手は自分の肩へ廻るのであった。
 しかし、このホールに満ちている人人の中で、恐らく自分ほど喜びを得たものはあるまいと矢代は思った。そう思うと廻遊している満座の陶酔のさまも、ともどもに打ち上げていてくれる華火のように明るく頭上へ降りかかって来る。ソアレの襞襞から煌めく宝石の火も、すべてこれ自分への祝典と思えばたしかにそれもそうだった。
「何んという壮麗さだろう。一生に一度の瞬間だ。」
 矢代は黙って静静とひとり歩いているにも拘らず、両腕はもう花でいっぱいの悸めきに似た感動に満たされ、逆にときどき立ち停っては考え込んだほどだった。
 しかし、ともかく、あの真紀子はいったいどうしたもんだろう。――矢代はあたりを見廻しながら歩いた。前から自分を見詰めていたらしい千鶴子の笑顔が遠い立像の傍からかすかにこちらを見て歯を顕した。一瞬視界がさっと展いたような光線の中で、ピエールが自分に代って千鶴子の腕を支えていてくれた。矢代は今はピエールにも感謝したかった。もし彼がいてくれなかったら、この夜の愉しさも、いつもと変らずただ無事な一夜にすぎなかったろうと思った。
 矢代が桟敷へ戻ってから暫くして、もう幕の上りそうな気配のところへ真紀子が戻って来た。
「御免なさい。ひとり抛っといて。高さんに面白いお話沢山伺ったわ。」
 真紀子は前とは変った上機嫌でにこにこしながら椅子に腰を降ろしたその途端、急にあたりの空気に首を廻ぐらせる風で、
「ウォルトの匂いがするわね。千鶴子さんいらしたんじゃない。」と訊ねた。
「来ました。」と矢代は云った。
「そう。それは良かったわ。」
 真紀子は一寸黙って舞台の方を行儀よく見ていてから、突然矢代の方を向き返った。
「あのね、あたし、終りまでいなくちゃいけないかしら。でも、もういいでしょう。お役目果したんですもの。」
「じゃ、帰りますか。いつでも僕は帰りますよ。」
「あなたはいいでしょう。あたしね、高さんと今夜これから踊りに行くお約束したのよ。丁度時間もこれからだといいんですもの。」
 自分に真紀子の行動を止める権利はないと矢代は思ったが、それでも一緒に来たからは離れて帰るのは気持ちが悪かった。殊に良人から離別して来た養子娘の気ままな真紀子を、高と一緒に踊場へ突き放す危さは、千鶴子とピエールとの危さの程度ではなかった。九分が九分まで先ず中国人の巧みな術中に陥ち入る危険があると見なければならぬ。
「駄目だな、行っちゃ。」
「どうして駄目なの。」
「どうしてって、何んとなく駄目だ。」
「でも、もうお約束したんですもの。」
「じゃ、僕も行こう。」と矢代は云って時計を見た。もう十二時近かった。丁度その時舞台では幕が上り、胃病のマルグリットが明け方の白白した部屋の寝台で眠っていた。真紀子は黙って舞台を見ていたが、
「こんなのもう分ってるわ。あたし、じゃ、行って来てよ。」
 と云って立ち上った。みすみす危いと分っている享楽の中へ、自分のために真紀子を突き落すことは矢代は耐え難かった。彼は真紀子の手首を持って引き据えるように椅子へ腰を降ろさせると、
「やめなさいよ。」と力を込めてまた云ってみた。
「あなた、そんなにあたしが心配なの。自由なんですもの、あたし。」
「それや君の自由かもしれないが、女の自由じゃないな。」
「じゃ、千鶴子さんはどうですの。人格が違うんですか。」
 真紀子は捨科白のように鼻をふくらませてまた立ち上り、矢代の手をぐいと振り放した。
「じゃ僕もお伴しようかな。」
 矢代は真紀子の後からついて出ようとしてドアの傍まで行きがけたとき、突然真紀子は振り返ると、「駄目よ、あなたは。」と云って矢代の肩を突き飛ばした。
 入口は桟敷の方へやや傾斜していたので矢代は後ろへ倒れかかったが、それでもまだしつこく廊下へ出ていった。彼は後を追いながらも、たとい真紀子は危くとも高や李に人格の立派なところのあるのが充分泛んだ容貌から感じられた。むしろ踊りに誘ったのは真紀子の方からに相違ないとも思われ、それなら自分の心配も或は真紀子の楽しみを不自由にしているにすぎぬのかもしれぬと、矢代は後悔さえするのだった。彼は露台の欄干を掴んだまま、足早やにいそいそと階段を降りてゆく真紀子を見降ろしながら、それでも彼女も自分のようにひと夜を楽しく安全に暮してくれるようにと願ってやまなかった。
 真紀子の姿が見えなくなったとき矢代は桟敷へまた戻った。人気のない密房の中でタキシイドの肩からウォルトがひとり生き物のように匂って来た。舞台のトラビアタは今は高潮に達していた。しかし、矢代は胸から吹きのぼって来る楽しみに奏楽の美しささえももうまどろこしかった。殊に肩口の匂いの思い出も真紀子一人を犠牲にした貴い喜びだと思うにつけ、何んとか工夫に工夫をこらせてこの喜びをつづけてゆきたいものだと、子供のように浮き浮きするのだった。
 ついに舞台では椿姫が、「ほら、こんなに脈が打って来た。もう一度これから生き返るのよ。」と云って喜び勇んで死んでいった。そうして、生き残ったものらの悲しみの奏楽の中に美しく長かった幕が降りた。
 矢代はもうこの記念すべき房へは二度と来ることはあるまいと思い、よく桟敷を眺めそれから外へ出た。人人はオペラ座の出口から右角のカフェー・ド・ラ・ぺへ、夜食を食べにぞろりとした姿で雪崩れ込んだ。みなそれぞれ椿姫の生の感動が乗り憑いたまま、蜜を含めた弁のように盛装の中であだっぽく崩れ、次にめいめいの劇に移り代ってゆく放縦な姿態で白い卓布に並ぶのであった。
 矢代はピエールも間もなく千鶴子とここへ現れるであろうと思ったが、約束の電話を思い出すとすぐ自分のホテルへ帰っていった。自分もこれから始る自分の劇を誰より美しくしてみせるぞというように、彼は待ち自動車の中でタキシイドの胸をぴんと映して蝶の歪みを整えた。

 眠静まった通りには灯火がなく岩間の底を渡るような思いで矢代は帰って来た。一軒のカフェーだけから表へ光りが射していた。その柔いだ光りに照し出された売春婦たちは円くテラスに塊って遅い夜食のスープをすすっていた。矢代も空腹を感じたが千鶴子からの電話を待つため、その角を折れ曲ってホテルへ戻った。もうホテルの中も眠静まっていてときどきシャワの水の音がするばかりである。彼はまだ着ていたタキシイドを脱ぎガウンに着替えた。しかし、いつまで待っても電話はかかって来なかった。こんなに電話のないところを見ると、もしかしたら、千鶴子はピエールに誘われて一緒にどこかへ行ってしまったのかもしれぬと、オペラの興奮のまだ醒めぬほとぼりのままだんだん心配が増して来た。まさかあの千鶴子にそのようなことはあるまいと充分信頼はしていても、自分でさえ桟敷で真紀子と向き合っていたときは安全とは云い難かった。葉が茎から落ちるように離点がふと身体のどこかに生じれば、意志では何んともしかねるある断ち切れた刹那が心に起るのである。すると、そこへ電話がかかって来た。
「君いたね。土産を持ってこれから行くから、寝るのは待てよ。良いか。」
 電話は意外にも行方不明を心配していた久慈からだった。幾らか酔いの廻っているらしい久慈に、
「どこにいるのだ。来るのならサンドウィッチを頼むよ。」
 と矢代の云ううちにもう電話は切れてしまった。
 久慈が来るならもう今夜は千鶴子と話も出来ないと思い矢代はバスに湯を入れた。しばらく会わなかった久慈であるのに、何んとなく邪魔な思いのされるほど自分も変ったのであろうかと、矢代は湯をかき廻しつつまだ千鶴子の電話がしきりに待たれるのだった。しかし、湯に浸り、足を延ばして眼を瞑っているうちに、あるあきらめに似た心が頭にのぼって来た。まったく今まで友人の来るのを厭うほど理性に弱りがあったとは思えなかったが、それが今夜のこの変化である。恋愛というものはこういうものなら長つづきする筈はない。矢代はぱちゃぱちゃと湯を浴び頭をシャワの水で冷やして、おもむろに来るべきものを待つ気持ちに立ち還った。
 間もなく久慈が包を小脇にかかえて這入って来た。太い眉の下の眼が怒ったように鋭くなって少しやつれの見える顔に変っている。彼は部屋に這入るとすぐ寝台にどさりと仰向きに寝て大きく両手を拡げた。
「やっぱりここが一番いいや。のんびりとする。」
「どこへ行ってたんだ。」
 矢代が訊ねても久慈は答えようとせず、眼を光らせたまま天井を仰いでいた。ひどく疲れているような彼に矢代は、
「風呂へ這入らないか。」とすすめた。
「うむ、面倒臭いや。」
「這入れよ。」
 矢代はバスを一寸洗い湯を入れ換えてから、また久慈の傍へもどって来て彼のバンドをゆるめた。久慈は矢代に身の世話をさせるのが嬉しいらしく、
「おい、靴。」
 と云ってついでに足も矢代の方へ突出した。
「こ奴、いやに威張ってやがる。土産はいいんだな。」
「ははははは。」
 大声で笑って久慈は起き返ると急に元気よく、上衣を投げ捨て、ズボンを踏み蹴るようにまくし降ろして裸体になった。そのとき丁度電話がかかって来たので、久慈は裸体のままふと手近の受話器を秉《と》った。矢代は久慈に代ろうとしたが、久慈はもう、「ええ、そうです、僕矢代。」と返事をしていた。
「誰からだ。」
 久慈は矢代が訊ねても黙って千鶴子と受け答えしながら、「僕、矢代だよ。」と意地悪く云い張って電話口から放れようとしなかった。矢代はねじれた久慈の脊骨に添って細かく汗の浮き流れているのを眺めながら、ホテルへ安全に帰りついた千鶴子のその報らせに一層久慈の戯れものどかに感じられ暫く受話器を彼に任せておいた。
「君の恋人何んだかしきりに云いわけしとるぞ。さア、代るよ。」
 矢代は久慈に代った。
「僕、矢代。」
「さきほどは――あのね、あたしピエールさんに夜食を御馳走になってたものだから、遅くなってしまったの。久慈さんいけないわ。せかせかしてたもんだから、あなただと思って。」
「久慈がね、今ごろ帰って来たんですよ。どこへ行ってたかまだ白状しないんだが、これから一つ、虐めようというところなんです。」
「真紀子さんは?」
「あの人、とうとう高さんと踊りに行っちまった。帰りは僕一人でね。」
「じゃ、まだなの。」
「まだです。きっと遅くなるでしょう。」
「心配ね。あたし、お礼に行かなくちゃと思うんですけど、どうしたらいいかしら。」
「いや、その御心配はいらないと思いますね。」
「何の御心配だ。」と久慈はバスの中から矢代に云った。
 電話で話をするにも背後の久慈に気がねするだけの落ち着きを、今は矢代も取り返していた。
「久慈が何だか呶鳴ってますから、今夜はもう御ゆっくりお眠みなさいよ。」
「じゃ、お眠みなさい。また明日ね。」
「さようなら。」
 矢代は話が切れても何んとなく千鶴子がまだそのままいそうに思われたので、
「良ろしいか、切りますよ。」と云ってみたがもう電話は切れていた。
 矢代は拍子脱けのしたような気持ちで久慈がバスの中で湯の音をさせている間、椅子によりかかっていた。丁度腰から上が鏡に映るような配置の椅子のために動かずとも顔がよく見えた。彼はその夜のオペラでの出来事を久慈に云ってしまおうかと考えたが、しかし、前から恋愛というものをそんなに高く価値づけることの出来ない性質の自分だと思った。その自分があのような情緒に浸った結果を臆面もなく報告することは、まだ当分の間ひかえた方が良いとも思うのだった。
 矢代は鏡に映った自分の顔を眺めながら、さも安心しきったようなほくほくとしているその顔のどこに価いがあるのか分らなかった。しかし、とにかく、理性で讃美しかねる事柄に屈服してしまった女女しい顔の喜び勇んだ有様は、ある勇敢な野獣の美しささえ頬に湛えているので、われながらあっばれ討死したものだと一層後悔もなくのんびりとして来て、ある憎憎しさもまた同時に自分の顔から感じるのだった。
 それにしてもどうしてまたこんな風になったものだろう。事件というのは、ただ自分が千鶴子の腕を自分の腕の中にほんの暫く巻き込んだだけではないか。
 矢代は自分のこれまで習得した幾分の科学も歴史も哲学も、いったい何んだったのだと、突然このとき疑い出した。まったく、頭のどこかに昨日までなかったある一種の生理的な変動が生じたというだけのことで、こんなに一切の学問らしいものが無力に見えてしまうということは、これはただごとの筈はない。もしもこれが失恋に変ったならばなおさらだった。しかも、この危く脆い心をそれぞれ持ち廻って動いてやまぬのが人の世界だと思うと、ここに火を噴き上げている恐るべき火口があるぞと、今さら迫っている噴煙の景観を望む思いで矢代はまた倦かず鏡の顔を注視した。彼は今夜は一晩ゆっくり考えたいと思った。しかし、もうすぐ久慈は湯から上って来るだろう。そうしたらまた議論だ。人間の過去、現在、未来。――もう沢山だと思っても他人は揺り動かしてゆくだろう。

 久慈は湯から上って来ると矢代の洋服棚をあけ、勝手に寝衣をひっかけて寝台の上へ坐り込み、土産の包の中からジョニウォーカーとサンドウィッチ、それからパンを沢山取り出した。
「ウィスキーは幾ら飲んでもいいが、パンだけはあんまり食っちゃ困るぞ。明日からパリの食い物屋みな一斉にストライキだから、買い込んで来たんだ。」
 久慈は自分が先ず一杯ウィスキーを飲んでから矢代についだ。寝台の上にさし向いで吸取紙を茶餉台代りにしているので、誰か身体を動かす度びにコップが揺れるから、手からコップを放すことが出来ない。それでも二人は久し振りのさし向いで楽しかった。
「明日からは飯も食えなくなるのかね。花のパリもいよいよ餓鬼のパリか。」
 矢代はそう云いつついよいよ自分も地獄か天国か分らぬ恋愛の世界へ入り浸っていくのだと思った。それもも早や避けられぬ、もし千鶴子が何んの理由もなく久慈を殺せと云えば、極端に考えれば、自分はこの親しい久慈さえ殺しかねない陶酔した無茶苦茶な世界である。
「今日は面白いところを見たよ。クリニヤンで老人の新聞売子が右翼の新聞を売ってたのだ。そうすると、左翼の委員が三四人馳けて来て、右翼の新聞を労働者のくせに売るとはけしからんと云うので、ひったくって皆破いちゃったのだ。そうしたところが、老人は両手を拡げて、自分は毎日こうしてこれを売って飯を食ってるんだが、品物を破られちゃもう今日は飯が食えん。どうしてくれるんだと云って、わなわな慄えて泣くんだよ。左翼の委員ら困っちゃってね。ああ、そうか、それは悪かった。じゃ、これを売れってんで、今度は左翼の新しい新聞を沢山買い込んで老人に持たしてやると、老人は何んだってかまやしない品物さえあれやいいんだから、またほくほくして街へ出て行ったよ。しかし、僕は見ていて、破いただけの新聞をまた自分の金を出して買い直してやったところが、フランスだと思って感服したね。思想の裏にも人間がちゃんと立派にいるんだからな。」
 久慈の云うのに矢代は、「うむ。うむ。」と云って一寸また考え込んだ。彼は思想の裏にも人間がいるという久慈の成長した解釈に対し特に気をとめて頷いたのだった。自分も今は固い不実な思想と同様に人間を殺す恋愛に落ち込んでしまっている。しかし、思想も恋愛も人間を殺すものなら、殺さぬものはいったい何んだ。
「科学主義者もしばらく見えぬ間に、人間派に戻って来たな。まア無事を祝おう。」
 矢代は久慈にウィスキーを瀝《つ》ぎながらまだ自分の変化を胸底深く包み隠そうとするのだった。
「とにかく工場がもう今日で四百も閉塞してしまったからな、これで全世界に拡がっちゃストライキだけで済まないや。世界中の知識階級、真ッ二つに割れてしまう。それならどこもかしこも戦争だ。」と久慈は云った。
「真理、真理とお題目ばかりとなえたものだから、とうとう何もかも真理になって来たのだ。」
 久慈は寝台から降りると服のポケットからラ・フレーシュという新聞を取り出して来て拡げてみせた。その一面には大きくフランスの地図が書いてあって、赤化した県とまだそのままの県とを朱と白とで色別けがしてあった。丁度豹の皮の敷物のような形のフランスの地図のうち、白い部分は両手のあたりと尾の少し上の方に小さな斑点とが残っているだけで、後は全部頭から胴を貫き朱の色に染って燃えていた。その下に議席の図もあったが、左方の人民戦線の議席五十六に対して右翼と中間併せて四十四よりなかった。
「これで一日に二千万円近くの金が、外国銀行へ電話一本で逃げ出し始めたそうだからね。儲ける国は棚からぼた餅でほくほくものだろう。為替《かわせ》管理がどうのこうのと云ったところで、何んともならぬらしい。」
 経済に明るい久慈の云うことであるから矢代もあまり疑問を挟まなかったが、一日に二千万円近くの金の流出なら戦争以上の経済の惨苦だと思った。日本とは違い、さア事だとなってこんなに容易く自分の国の金銭を外国銀行へ移せるものなら、国内の赤化の勢いは一層銀行をより固めしめ、ついには逆に銀行から民衆を焼く火を噴き出す結果になる懼れさえ感じられた。矢代は外国へ来て以来金銭の運行には前よりはるかに敏感になったが、まだこちらの街頭で煙草を売っている無知な老婆より、はるかに日日の金の差額には鈍感な自分を識った。それも自分ばかりではない。日本内地の多くの人間はその点ほとんど自分よりも無関心だった。殊に東洋のことをふと思うにつけ、通貨の支配力を握っているイギリスの金力が、地球の表面にどのような姿で投資され、その余力をかってどんなにわれわれが動かされているかということさえも、むしろ知らぬことを高貴な態度と思い信じているがごとき知識人の多い原因には、一つは金銭には我関せずと思う伝統の所作もあるにちがいないと矢代は思った。
「中国との戦争の噂はばったり二、三日で熄まったじゃないか。やはりあれは嘘だったんかね。」
 と矢代は訊ねた。
「何んでもあれは、陳済棠と李宗仁が広東で戦争をしたのを、日本と中国との戦争だと早合点したらしいんだが、戦争のニュースの出た夜、サン・ミシェルの支那飯店で日本人が一人ひどい目にあってるね。」
「そう云えば、僕らの行った夜も沖さんは危かったよ。あの人は演説が好きなんだ。あれは社長の癖が我知らず出てしまって、何か事あるときは日本人を代表しなくちゃならん、と思い込むのが趣味なんだね。船の中でもあの人さかんにやったからな。」
 こういう話をしながらも、矢代は今夜真紀子と踊りに行った中国人の高有明の表情は、船中のいつもと変らずなごやかな信頼の情を顕していたのを思うと、時が時であるだけに、まだ通じ合う何ものかも失われず残っているのを感じ、思いがけない灯火を見たように真紀子の帰りの話を待ち受けるのだった。
「云うのを忘れたが、今夜オペラへ真紀子さんと行ったのだよ。そうしたところが下のホールに高さんという中国人ね、ほら、船の中で二等にいたダンスの上手い中国人がいたじゃないか。あの人と会ったんだよ。真紀子さん、ダンスの味を思い出したと見えて、高さんと踊りに行っちゃってまだ帰って来ないんだ。」
 怒り出すかと思っていた久慈は、大きな欠伸をしかかっていたのも急にやめて笑い出した 
「それじゃ、理窟に合わんじゃないか。」
「どういう理窟だ。」
「僕たちとまだ一度も踊りに行かんじゃないか。そうだ。あの人と踊りに行くの忘れてた。」
 真紀子に久慈は関心があるのかないのか矢代には分り難かったが、これで室に這入るなり真紀子のことを訊ねそうだとも思われたのを、そのまま久慈から云い出すのを今まで矢代は黙ってひかえていたのだった。見ていると、久慈は真紀子を高につれ出されたことをさも残念無念と云いたげな顔にも拘らず、内心それも表情でおどけて見せ矢代の観察を眩まそうとの謀みと受けとれぬこともなかった。
「真紀子さんを僕はひき留めたのは留めたんだが、留める僕の肩を突き飛ばして行っちゃったんだ。久慈さんもいらっしゃれば良かったのにって、残念そうにオペラで云ってたから、行方不明の君にも責任はあるね。」
「あの人は飛び出す名人だったからな。気骨の折れるお方だよ。」
 三日の間どこへ行ってたものか一向口を割らぬ久慈に、矢代も強いて訊ねる気も起らなかったが、そのうちに久慈は寝台の毛布を払って横になると、つづいた睡眠の不足と見えてすぐ瞼をとろりと落して起きて来なかった。

 朝になって矢代は久慈よりも先に眼を醒した。横でよく眠っている久慈を起さず顔を洗ってから真紀子が前夜帰っているかどうかを見たくなって部屋へ行ってみたが、まだ鍵が降りていた。帰っているらしいことは確かだった。矢代はホテルを出ると近くのルクサンブールの方へ歩き、公園の入口の自働電話で千鶴子に居所を報らせてからひとり鉄柵の中へ這入っていった。
 夜半に雨でもあったと見え幹の濡れた樹樹から滴りが重く落ちて来た。一人も人のまだいない園内の路の上に白く点点と羽毛が散っていて、踏む砂からじっとりと水が滲み出た。
 爽爽しい空気だった。矢代はベンチの鉄に溜っている露を拭いて腰を降ろした。朝の日光が斑点を泛べている芝生の上を鳩が葉先を胸で割りつつ歩いて来る。いつも見馴れた風景であるが矢代はここの平凡さが好きだった。特に心を奪うような樹を排してあるのも一服の煙草の味を美味にした。彼は千鶴子の来る東門の方の楡の繁みをときどき見た。
 折り畳まれた細い鉄製の椅子が繁みの影に束ねてある。柴のように見えるその椅子の束の間から千鶴子が黒い服で近よって来た。下枝を払った樹樹の梢の張りわたった葉の色に染り、薄化粧をした千鶴子の顔も少し青ざめていたが、一株の薔薇の見える小径をおもはゆげに笑い、横を向きつつも千鶴子の足はだんだん早くなって来た。
「昨夜はよくお眠みになれて?」
「少し早く眼が醒めすぎた。久慈はまだ寝てるんです。」
 千鶴子は矢代の横へ腰かけ、よたよた身を振る鳩の歩みを眺めながら、
「ゆうべピエールさんよく御覧になって。何んだかお年寄に見える方でしよう。」
「そうでもないな。美しい良い感じの人でしたね。なかなか似合ってた。」
 千鶴子は矢代の膝を打とうとしたが、ふとその手を止めて彼の方を向き返ると、
「あなただってなかなかお似合いだったわ。憎らしいほど、あれよ。」
 顔を染める千鶴子を見るのは矢代にはまったく珍しいことだった。ドイツへ自分の逃げる前ここの公園のベンチで幾度こんなにして千鶴子と話したか分らない。もう彼女と会うことはあるまいと思い、またこの上会ってはならぬと思って逃げていったも同様な自分だったのに、それに今は人目のない朝のこの場所を選ぶようになってしまったことは、変れば変る状態だと矢代は思った。彼は千鶴子とこうしてただ並んでいるだけですでに身体が溶け合い、皮膚の隅から隅、内臓までも一つの連係をもって自由に伸縮している貝のように感じられた。
「もう君の考えることも僕の考えることも同じだ。どうしてくれる。」
 口へは出さず矢代は芝生に落ちている日光の斑点を眺めながら、さも楽しみ深そうに煙草を吹かした。昨夜見た椿姫では第二幕目のブウジバルでアルマンは丁度今の自分のように幸福そうであったが、すぐ悲劇が十分後に起って来ていた。矢代は日本にいる千鶴子の家の人人のことをまだ少しも知らぬ自分だと思い、悲劇が起るならそこからだとふと思ったが、しかし、それも起ったところでもっと今より後のことだった。
「ホテルへはもう一度お帰りになるの。」
「あ、そうだ。」矢代は身を起して云った。
「今日はどこもパンを売らないそうですよ。ほんとうかどうか、これから見て来てやろうじゃないですか。お腹が空いたし。」
「もうそんなになったのかしら。」
「なってるらしいんだが、案外見たところは静かですね。」
 近よって来た見馴れた鳩の指が芝生の露に洗われうす紅い菠薐草《ほうれんそう》の茎の色だった。雀も濡れたまま千鶴子の沓先で毬のように弾み上っていた。
 二人はベンチを立ってまた園内を廻った。山査子の花の咲いていたころ矢代は無我夢中にこの森の中を歩き、息切れを感じるほど強く千鶴子に牽かれたある瞬間を、ふと今も踏み応える砂から感じとった。よくもあのとき千鶴子を振り切ってパリをひとり旅立つことが出来たものだと、矢代はある疲れに似た思いで追想しながら、あのころよりも一層濃くなった緑の色のむらむらと打ち重なった樹幹を眼で選り分け、日光の射し込んだ花壇の方へ千鶴子を誘っていくのだった。
「旅行をしていると、流れてゆくままにも自然に心に巣が出来てくるものですが、僕はこのルクサンブールがいつの間にか巣になってしまった。僕はここで暮したようなものだな。」
 葵の花を廻りながら矢代は自分の得たものは結局何一つなかったと思い、これから日本へ帰っても依然として旅の心はつづいてやまぬにちがいないと思った。
「あたし、あなたにここでいろいろな事を教えていただいたわ。でも、もうじきお別れしなきゃならないんですのね。」
 千鶴子は矢代も当然二人の別れる日の迫っていることを感じているらしい風情で、葵の真直ぐな茎に手をあてながら云った。そうだ、やっぱり千鶴子とは別れなければならぬのだと、矢代は胸に一条の刃を入れられたように慄然として黙った。もう悲劇が自分にも来たのであろうか。彼は朝の日光が白みわたるほどぼんやり心の弛むのを感じる。その後から後から追い襲って来る激しい胸の疼きを食い殺すように俯向いて歩いた。何か千鶴子は自分に分らぬ事情で結婚の意志を退けているのに相違ないと矢代は思い、自分から思い切って千鶴子にそれを云ったならと、そのようにも考えたが、しかし、昨日まで自分は結婚のことだけは云い出しもせず忍耐することが出来ていたのに、今この忍耐を破るとは何としても情けない気持ちだった。
「ロンドンのお兄さんから、何かお便りあったんですか。」
 矢代はようやく思いあたるところを感じて訊ねた。
 千鶴子は、「ええ。」と低く答えたまま、暫く重く黙っていてからまた云い澱む風に云った。
「兄さんもう日本へ帰るんですの。あたしの来るときもう帰るんだったんですのよ。でも、少し延びたと云って来たものですから、急いであたし来てしまいましたの。まだお話しなかったかしら、あたし。」
「ロンドンにいらっしゃる事だけは聞いていましたが。帰られれば千鶴子さん、どなたかと結婚なさるんでしょうね。」
 もう一番の訊きたいことを訊くことが、何んの不思議もない日常の会話のように見える様子で矢代は訊ねた。
「それもあるんですの。困るの。ほんとに。」
 葵の花が薔薇に移り変る切れ目の所で、弁の縮れた模様を検べるような首垂れた千鶴子の細い眉が、花明りに照り映えたあきらめの静かな線を描いていた。矢代は予想が一つずつ的中してゆく恐れと同時に、千鶴子のその静かなあきらめが物足らなくなり、抑え難い暴力に似た力の湧きのぼるのを感じた。
「あなたはどうしてもその人と結婚しなきゃいけないんですか。」
 矢代はふとこう問いつめたくなったが、そう云えばもう二人はお終いの頂きに出ることだと気がついた。彼は出かかった呼吸もひきとめまた暫く花壇の中を無言で歩いていたが、しかし、自分は自分の愛情だけは疑えない、これが嘘だといえる筈がないと思い直すのであった。
「さあ、御飯を食べに行きましょう。」
 矢代は千鶴子を東門の方へ誘って公園を出てゆくと、今さきまでの狂い立つような気持ちを捨てリラの方へ歩いていった。しかし、歩くにつれて、もう別れねばならぬと思ううす冷い覚悟が視野の全面に漲って来て、立ち並んだマロニエの並木の黒い幹も、これも心に爪を立てられた思い出の一つになるのだと矢代は思い沈むのであった。

 リラまで矢代たちの来たとき、リラは戸を閉めて全部の椅子が片附けてしまってあった。二人はそこから行きつけの食事場へ行ってみたが、その店も入口はみな閉っていて、テラスの椅子もテーブルの上に足を仰向けて並んでいた。矢代はまだ店が始らぬのかと初めは思ったが、見ていると通りから見える所の入口の向うで、いつも矢代の卓へサーヴィスに出て来たボーイ頭が支配人に立ち向い、何事かいどみかかるような興奮した姿で話していた。ぴったり閉じられたガラスの中なので話は聞えなかったが、電気の消えた店内の暗さを背景にしているため、漸く通りの明るみを受けた支配人とボーイ三四人の顔が、水族館の中の鮫のように物物しく映って見えた。ときどき穏やかな顔に弛んだり、また抗弁したりするボーイの後ろに、詰めよっている他の三人の服も海底の動かぬ昆布に似て見えた。頭の鉢の開いた支配人は矢代の傍へいつもよく来て、どうですこの料理の味は? と優しく訊ねたりしたことがあったが、今は両手を拡げたり縮めたりして、ボーイを鎮めることにひたすらこれ努めている最中だった。
「これや、この様子だと今日一日の辛抱じゃ駄目だな。」
 矢代はこう云いつつ通りに立って両側に続いているレストランやカフェーを見廻したが、どこもかしこもガラス戸を閉め降ろし、一人の客も入れていなかった。食事にあちこちとうろつき廻る度びに、どこでも拒絶されて来たらしい旅客たちは、ただ街を流れ歩いているだけだった。新しく食事に来たものらも事の真相を知るに及ぶと、通りで寄り塊ったまま、誰もひそかに薄笑いをもらして去ろうとはしなかった。そこへ罷業を奨励している政府の委員たちが、命令のまま確実に罷業が行われているかどうかを検べるために、巡視の自動車で街街を馳けて来ては、威勢よく、
「フロン・ポピュレール。」(人民戦線)
 と叫ぶと固めた拳を人人の前で高く上げるのだった。それはガラス戸の中の罷業側に声援を与えるらしい声だったが、食事に困ってうろついていたものたちも、退屈まぎれにそれに和し拳を上げるものも多かった。
 矢代は千鶴子と一緒にまた街を歩いていくに随い、食事場だけとは限らず、少し大きな商店はどこも店を閉めていて、どの入口のところにも店員の通いを喰いとめる罷業委員が張番をしていた。
「いよいよ波をかぶって来ましたな。」と矢代は云って千鶴子を見て笑った。
 通りの店店が網目になった鉄柵の大戸を閉め降ろしているので、街は牢に入れられた囚人のように見え、灯を消されたショウウィンドウのハンドバッグや化粧品などの商品類も、手錠を嵌められて俯向いている女に似ていた。矢代は変れば変るものだと思い鉄柵の格子の外からそれらを覗いていると、
「どうなるんでしょう。あたしたち。」と彼を見上げておどおどした視線で相談する風情に見えた。
「とにかく、コーヒー一杯も飲めないとなると、考えなくちゃならんね。」
 もう間もなく千鶴子と別れなければならぬと考えることで、さきからかなり気力の疲れている矢代は、金銭は先ず持っていても餓えを満すに足りないというこの大都会の変動のさまも、亦多少は考えねばならなかった。
「こんなことが長くつづけばどうなるんでしょう。どこもかしこもこんなになるのかしら。」
 千鶴子の問いに矢代は、「さア。」と云ったまま黙った。そして彼は、自分と君とも今はこれに似たような分らぬ淋しさに襲われているときだと思った。たとい日本へ帰ればまた会うことも出来るとはいえ、帰れば恐らく誰でも放れ散ってゆくようにどちらも会う気持はなくなってしまうにちがいない。――
 矢代はせめてどこかで腰を降ろして休みたいと思い、通りをどこまでも真直ぐに歩いていってみたが、カフェーというカフェーは皆戸を降ろしていた。もうこんなにコーヒーさえ飲めないのかと思うと、彼は飲ます家のあるまで探したくなり、また、もうそれではこの千鶴子とも別れてしまい、二度と会うこともないのかと思うと、それならそのように覚悟を定めねばならぬと考えたが、しかし、それにしてもこの調子だと自分はもう何をするか分らない。もうこれだけはと思いつつ、あがき進む馬のように彼は自分の轡《くつわ》を噛み破ろうとするのだった。

 セーヌ河を渡ったところにチュイレリイの宮殿の跡があった。矢代は篠懸の樹を下にめぐらせた城壁の上にのぼり、千鶴子と並んで河を見降ろした。この観台から真下のセーヌの両岸を眺めたとき、河そのものの石の側壁がすでに壮麗な一つの建築物だった。それはちょうど科学の粋を尽した白い戦艦が一望のもとに並び下ったかと見える堂堂たる景観だった。
「この眺めはどうです。ナポレオンの皇妃のジョセフィヌはここの宮殿にいたのですが、河がいかにも武装を整えた大兵団の守備兵のように見えますね。ナポレオンはベルサイユの近くのサンクルウの宮殿から、政務に疲れるとここまで馬車で会いに来たのだそうですよ。」
 英雄の情事にしたって凡人のと別に変りはあるまいと思い、矢代はそんなに云ったのだったが、悲しみあるとはいえ、ふと今自分はそれと劣らぬ愉楽の頂きへかけ昇ろうとしている真っ只中にいるのだと思った。

「でも、サンクルウからだと随分遠いのね。どうして奥さんと放れて生活していたのかしら。」
「さア、そこはどういうものかな。どちらも放れて生活していると、会うということが休息になるんでしょう。」
 あながちナポレオンのことでなくとも、まもなく千鶴子とも別れねばならぬとすれば、想いを殺してこのままに別れるのも、あるいは今のこの歓びをともに生き永らえる生活の美しさとなるのかもしれぬと、矢代はまたそのように思い直し、ひと時の旅路をふり返る余裕も出来て来るのだった。
「ここはパリじゃ一番美しいところだったんだけれど、もうナポレオンもジョセフィヌもいやしない。今ここにいるのはたった二人きりなんだから、まアとにかく、不思議なこれは一つの事実みたいなものだ。」
 こう云って矢代は千鶴子の顔に流れた光線の綾に微笑を投げかけ、過ぎゆくあたりの風景の何んと静かな眺めであろうと、緑の樹の間に煌めいている噴水の輪に視線を移した。
「ジョセフィヌさん、こんなにして毎日ここから眺めていらしたのかしら。でも、そのときもこうだったんでしょうねきっと。あの河の胴の長長としているところ、象牙で出来た河みたいだわ。美しいのね。」
 千鶴子は左方に真近く見えるノートル・ダムを眺め、また下流にうねる河水の緊密した容積のどっしりとした明るい水面を見降ろした。すぐ観台の真下にコンコルドの広場がある。矢代は自分の好きなその広場を今まで忘れていたのを思うと、いつもより千鶴子に心を奪われていた自分の失念のさまもまた思われるのであった。
「あなたはベルサイユの宮殿で、アントワネットの寝室御覧になったでしょう。あの部屋からここのこの広場まで引き摺って来られて、ここでアントワネットが断頭台に乗せられたんですから、すぐその後の皇妃のジョセフィヌにしたって、こんなに暢気な気持ちじゃこの河を見てられなかったんですよ。それに今日みたいにコーヒーも飲めないなんて日だったら、昔ならここでもう今ごろは、断頭台が押すな押すなの賑いだ。」
 日光をはね返している壮大な広場の中では、数十本の噴水がソーダ水の漂い溢れるような清らかさだった。矢代は観台から降りて下の絵画館へ休みに這入った。そこは百畳敷ほどの楕円形の部屋でモネー館と云われている。周囲の壁には全面を余さず円形に沼に浮かんだ睡蓮の絵が満ちていた。一人の人もいない森閑としたその部屋の中央に、ただ一つ褐色の革張りの小さなベンチが置いてある。そこに二人は並んで腰を降ろすと、丁度沼の中の留木にとまった二匹の蛙のように自分が見え、どちらを向いても眼のゆくところ人影の一つも見えぬ連った睡蓮の沼だった。
「ここは疲れたときにはいいのね。どうしてこんなところ御存知?」
 千鶴子はより添うように矢代に近づいたまま、周囲の沼と青青とした静けさを楽しみ眺めつづけて訊ねた。
「僕は街を歩いて疲れるとここへ来て、このベンチへ一人ひっくり返って寝てるんですよ。いつも人のいたことはないんだ。この絵はパリの黄金期にいたモネーが描いたんですが、実に写実的な緻密なものですね。いかにも池の中に自分がいると思うからな。」
「そうね。何んだか日本の山の中にいるような気がするわ。よくこんなところ、奈良にあるじゃありませんか。」
「そうだ。奈良だここは。」
 矢代は半身を横にしながら肱をついた。眼前の継ぎ目のない沼はすべて絵だと思っても、天井の適度の光線の加減に応じた遠近法で、絵もこんなに事実の自然に近づくものかと矢代はいつもここで驚いた。
「やはりこんなところをパリの人も欲しいのね。」
「それや、欲しくてたまらないんでしょう。それにこのベンチの置き方も上手いですよ。こうしていると自分が人間だと思わないんだもの。」
「あら、そうね、蛙ね、まア面白いこと。ほんとにあたしたち蛙だわ。」
 千鶴子は再び背のないベンチを矢代と反対の方へ向き変って足を組んだ。睡蓮の花の間に渦紋の漂い密集した浮葉の群青のその配置は、見れば見るほど一つとして同じ形のもののない厳密なリアリズムの沼だった。
「東洋人が自然にうんざりしてしまって、科学がほしくてたまらないときに、こちらじゃもう科学にはうんざりして、自然がほしくてたまらないんだな、もう精神が科学に疲れきってしまっても、まだ科学的な厳密さより信用しないという絵だ。人間は、いったい、どうなるんだという、これは地獄絵だ。そうだ、久慈をひとつここへつれてくるんだった。」
 こう云って矢代は起き上ると頭は自ら空を仰ぎたくなるのだった。
「そんなら人間はどんなになるんですの。」
 千鶴子はくるりと矢代の方を振り向いて訊ねたその拍子に、あまり真近に矢代の顔があったので思わずまた後ろへ身を退いたが、千鶴子のその眼の大きさに矢代は質問が何んだったのかふと忘れた。昨夜オペラの桟敷の中で千鶴子の腕を巻き込んだときには、ソファに同じ方向を向いて坐っていたときだったので、そんな軽はずみなことも自然に出来たのであったが、今は互に背を合せるように坐っている一つのベンチだった。身体のねじれと一緒に心もねじれたように胴で曲るのを感じつつ、矢代は動かぬ千鶴子の眼の中のしんと静まった一点を今は何より美しいと思って見た。
「あなたがそっちを向いてると、話が途切れて面白くないな、僕たち蛙になってるんだから、パンも食わさぬ人間を一つ今日はやっつけよう。何んだこんなもの。」
 と矢代は云ってまた睡蓮の絵を眺めた。
「ほんとにコーヒー飲みたいわね。出ましょうか。ロンパンへ行ったらきっとあってよ。」
 千鶴子が立ち上ったので矢代も立って外へ出た。もうかなり空腹だったが、二人はサンゼリゼの下のロンパンまで歩くことにして広場の噴水の傍をわたって行った。

 ロンパンまで行ってみてもそこも今日は休みだった。この右翼の巣窟のようなサンゼリゼいったいの食事場が休みだとすると、もう二人はどこへ行って良いのかいよいよ途方にくれて来た。やむなく二人はそこの辻のベンチにまた腰かけて休んだ。坂の上の凱旋門の群像の彫刻が方形の胴にうす白く泛んで見えた。その門の中に欧洲大戦に戦死した無名戦士たちの墓があるので、丁度ここは東京で云えば、靖国神社をいただいた九段にあたるゆるやかな坂の下だったが、何事か街に問題が起る度びに、この無名戦士の墓を中心にして起って来るのが例である。
「もうすぐ巴里祭ですが、あそこの無名戦士の墓の奪い合いで、左翼と右翼の衝突がもう今のうちから起っているんですよ。その日になったら、ここでそれが爆発すると人人はいうのですがね。ここは王さまの無いところだから、喧嘩をすればきりがない。」
「今からそれが分っていて、どうして防げないのかしら。」
 千鶴子はまだ訝しそうな声だった。
「それはここのは、戦死した無名戦士が王さまみたいなもんでしよう。だから墓が物を云わないのを良いことにして、右翼はわれわれ伝統の勇士の墓というので、これを自分のものとしようとするのでしょう。そこを左翼は、いやこれこそわれわれ民衆の勇士の墓だ。これこそわれわれのものだと主張する。ところが、今度だけは政府が左翼だからいつものようにはゆかんので、左翼を守らなくちゃならない。そうなると、右翼の伝統派はいつもより結束するだけじゃなくって、こうなればもう伝統のために死ねというので、必死の反抗になって来るから、爆発が一層大きくなるというわけです。」
「じゃ、どちらの云うこともそんなに本当に見えちゃ、みな迷うのももっともね。そんなに大切なことに迷っちゃ、この国の人たちどうするつもりかしら。」
「そこがどうするわけにもいかんのだな。何んといっても、生活する頭の原点が墓なんだから、それならこれは死んだ動かぬ点でしよう。つまり完全な無だ。ところが、王さまのある国はその原点が生きた有の一点だから、つまり生命です。生活の原点が無と有とじゃ、そこを中心にして動いている人間の頭がまるで違っていくわけですよ。たとい同じように見えたにしたって、有るものと無いものとじゃ、やはり違う。」
「じゃ、日本とこちらは皆ちがうのかしら。」
 千鶴子の眼は凱旋門を見詰めたまま放れなかった。
「それや同じ所もありますよ。だけども、中心を墓という無にしたものなら、それは人間というものは、みな墓だと思い込んだ人の無の頭の中だけで、幾何学をやっているようなものですよ。つまりそれは科学でしょう、そのような科学の中でなら、これなら同じだ。しかし、僕らは何んと云っても生きているんだから、生きてる意義というものは、人をみな墓だとみて幾何学をやることか、あるいは生きているからは、むくむくと動いてやまぬ愛情が必要に定っているんだから、それを互に何とか清純なものにしたいと希う努力にあるのか、という風な問題が、いろいろ形を変えて顕れているんだと僕は思うんです。そこが分らんものだから、左翼と右翼も人の分らぬそこのところにつけ込んで、まことしやかな理窟で世の中の生きてる頭の引っ張り合いをするんだな。日本の知識階級のものにしても、自分を死んだ墓だと思い込む方法を西洋から教え込まれて来たものだから、人間のいない世界でだけ完全に立派なもの以外に信用しない癖を、だんだん植えつけられて来てるんですね。つまり科学より信用しない。それとはまた別に、その死んだ世界でこそ美しいものを、生きてる世界にまで全部あて嵌めねば承知をしないのが、これがなかなかたいへんな勢いなんです。」
「それ久慈さんのことなんでしょう。」
 と千鶴子は先廻りをして笑って訊ねた。
「そうそう、久慈もそれです。それで僕はあの男と絶えず喧嘩だ。久慈の云うような、誰から見たって立派に見える言葉ばかり人に押しつけて云っていちゃ、人は興奮して立派にみな死んでしまう。殺したけれや殺せと、このごろは面倒臭くなったから、あまり喧嘩もしませんが、しかし、そうも云っておられんからな、まだまだ喧嘩だ。」
 千鶴子は分ったところだけ頷きつつもまた視線を凱旋門の方形の肩に上げ、
「あれお墓なのね、あたし、ちっとも知らなかったわ。」
 と小声で羞しそうに云った。
「あれはここの生活の墓ですよ。無だ。あの無というお墓から、放射状に大通りが八方へ通っているでしょう。僕らはその一つのここにいるんですが、しかし、ここにこうして生きて話してる。ところが、生きていながら朝からコーヒー一杯も飲まされないというのは、これや無茶だ。」
 真面目に聞いていた千鶴子も思わず矢代の皮肉に、「くッ。」と笑ったが、意外におお真面目な矢代の表情にまた自然と黙って聞くのだった。
「この通りがお墓の無から出てるから、お茶なしでもないだろうが、しかし、日本の通りはお墓の無と有とが重なった一点から出てるから、どんなになったって、飯が食べられぬということは絶対にない。御飯が食べられないより食べられる方が有り難いに定ってるんだけれども、それを馬鹿にするものが日増しに多くなって来てるんです。そんなら、つまりお墓へ吸いよせられて行ってるのだ。おまけに、さア急げと号令かける男まで出て来てるから、お墓詣りに、血を流す。」
「ちょっと、それはここのお墓のことなの、日本の? どちらですの。」
「ここのお墓だ。」
 と矢代は云って笑った。
「日本にはお墓詣りに血を流したものなんかいやしない。流さぬためにお墓詣りに行くんだが、ここのは血を流すためのお墓詣りみたいなものだ。」
 矢代はふとこう乱暴に云ってから、突然、
「どうして僕はここへ来ると、こんなにお国自慢がしたくなるんだろ。少し慎しまなきアいけないかな。」
 と苦笑してあたりの美しい街路樹の森を眺めた。厚いガラスの筒口から吹き昇っている巨大な噴水が、広場いったいに霧のように吹き乱れて散り、マロニエの葉の間から滴りを顔に辷り落した。風船の塊りが樹の幹の間で揺れているその向うから乳母車が動いて来る。千鶴子は盛り上った薔薇の丸い花壇の中を絶えず辷ってゆく自動車を眺めて云った。
「これみんな前には馬車だったのね。そのころあたし一度来てみたかったわ。どんなに良かったでしょうそのころは。」
「あ、そうだ。このあたりのベンチでアルマンが椿姫を待ったんですよ。ロンパンの大きな樹のある前のベンチと書いてあったようだから、たしかにこのあたりに違いないのだ。あるいはこのベンチかもしれないぞ。」
 矢代はおどけた風にそう云いつつ頭上の二かかえもあろうマロニエの大木の葉を仰いだ。
「ここだったら面白いわね。でも、これは鉄のベンチだから、そのころと変っちゃいないわけよ。」
 千鶴子も好奇心に満ちた笑顔でベンチの背を撫でてみたり組み合った八ツ手のようなマロニエの厚い繁みを仰いだりした。
「何んでも馬車で椿姫がブロウニュの森の方へ、ここを通って毎日行くんですよ。それが日課だったんですね。それを聞きつけたアルマンが、友人とここで待ち伏せしてるんです。椿姫はイタリアの麦藁帽子に、レースの飾りのついた黒い服を着ていて、乾葡萄を入れた手下げ袋を持ってたというんですがね。」
 椿姫の細い優雅な姿を想い描いている二人の顔へ、風の方向に揺れ靡いていた噴水の霧がゆるやかに廻って来た。姿を揃えた樹の幹の間へ落ちている日光の縞の中でひそかに虹が立っていた。「美しいところだなここは。こんな美しいところでももうパリの人間は、ここに美しさを感じなくなってるんだから、感覚の変化というものは恐ろしいものだ。」
 ふと矢代はそう云ってしまってから、思わず千鶴子の頭に響かせた別の恐ろしさをはっと考え、我知らずに出た言葉を呪い押し込めたくなるのだった。全くまアいわば幸福のある状態に達している二人の間へ、やがて麻痺していく男女の感覚の行方を、今から予想させるとは不届至極だと矢代は思った。しかし、自分はもうこれ以上のことを二人の間で望むべきでないと思い、またそのようなことを望むなら、今はそれさえ達せられるだろう幾らかの己惚れさえあったが、恐らくこんなときには、誰でもそのような男女の頂上の望みを持つに定っているからには、その胸のどきどきとするあの羞らいだけは、せめて千鶴子にだけさらけ出したくはないのだった。そんなことは、下劣なことだと別に矢代は思わなかったが、どんなに巧妙な理窟があろうとも、相手の婦人に窮地に飛び込むことを要求しているのに間違いはないのであってみれば、せめてやむなくなるまでは、一層彼はその行為を心中認めたくはないある心が抜けきれなかった。
「裸身になれ、裸身に。」
 東京にいるときでも友人たちは矢代によくこう云って迫り、叱り、忠告し、果ては嘲笑さえしたものであったが、今も矢代はその声声が聞えて来て、広場の樹樹もみなにたにたとした嘲笑の顔にも見えて来る。しかし、もし本当に裸身になって見よ。そんなことが出来るわけのものじゃあるまいと矢代は思う。
「みんなの奴、嘘をついてるから、裸身になって見せてるだけさ。あのえへえへ喜び勇んだ醜行のどこが裸身だ。人の眼をくらますために醜行を演じるなら、そんなことは俺だって。――」
 とまた思う。
 顔からそれていった噴水が反対の森のうえに砕け散って霧を立てていた。その霧を自動車の車輪が巻き込んで逃げてゆく。矢代は樹の間を遠ざかって消える車を眼で追いつつ、
「とにかく、俺という男は自分というものがやはり一番好きでまた嫌いなのだ。あの自分の馬鹿さ加減一つ知らずに、ここにこうして坐っていたアルマンが羨ましい。――」と矢代は思って、
「ボアへ行きましょうか。あそこなら、何か手ごろな食べるものがあるでしょう。」
 矢代はベンチから立って凱旋門の向うにあるブロウニュの森の方へ歩いた。そこの森は二人にとっては思い出のある所だった。まだそのころは春だったが、二人の気持ちの初めて通じ合ったのは夜のその森の中のことで、それまでは矢代は千鶴子に物いうにも久慈に気兼ねを要したのに、真暗な森の中の道に迷ったのが二人の縁の初めとなり、一寸先も見えぬ闇の中を二人は手を引き合いつつ、湖のボートの傍まで出たのである。今は特にその思い出の巡礼をしようというのではなく、この度は食に困っての巡礼だった。

 森の中のパピヨン・ロワイヤルだけは常の日と変らなかった。黄色と朱の縞目になったビーチパラソルが樹の幹の間に立ち並び、鉢台の上で淡紅色の紫陽花が花壇を造っていたのも、今日は大輪の薔薇一色に変っていた。矢代たちはようやく食事にありつけた明るさで空腹を満たすことが出来たので、食後のコーヒーも普段よりは楽しめた。鉢台の薔薇の間で輝いている湖上の白鳥を見ながら、矢代は、
「やはり額に汗してパンを食べるに限りますね。いつもよりずっと美味しい。」
 とほくほくして云った。
「でも、いつもここまで来るのは大変だわ。」
 葉の色よりやや薄い竹色の椅子の背には、ショールの銀狐が巻きついていた。樹影の色で青白んで見える客の中には居眠っている顔も見えた。遠方の樹の間で閃めくコンパクトの面に眼を刺されつつ、矢代は湖の中の島を眺めて云った。
「いつかの夜、あの島の中で道に迷ったときは弱りましたね。」
「そうそ、でも、あのときあなた嚇かすからあたし、恐くなったんですのよ。ここは一名魔の森っていうんだって仰言ったでしょう。覚えてらして?」
「そんなこと云ったかしら。しかし、このあたりの夜の森じゃ、何をされたって罪は向うにないのですからね。夜になると自動車が八方からこの森へ這入って来るのだって、何も罪はこっち持ちだ、という権幕なんだから、あれはまア、自然を失った人間というものは、一切から解放されればどんな様子をするものか、試しに周囲五里の森を与えてあるようなものだな。実際この森がなかったら、パリの人間、呼吸困難になるかもしれないですよ。」
「恐ろしいところね。そんなところ日本になくて結構だったわ。」
 ボーイの持ち運ぶ皿がまた光って眼を刺した。オーケストラが樹の下から起った。湖面に漣が立ってゆらめく度びに、照り返しを受けたあたりの芝生の面もともに影を細かく揺らめかせた。
「マロニエの咲いていたころは、ここでこうしてコーヒーを飲んでいても、花が上から落っこちて来て手で払うのに急がしかったもんだが、もうお別れか。早いものだなア。」
 悲痛な思いも冗談のように笑いにまぎらせて話すことが出来るのを、一つはこれもここのこの景色の美しさのためかと矢代は思った。
「でも、日本へ帰ったらお会いしましょうね。あたしね、日本へ帰ってからあなたにお会いするの、今から楽しみなの。ここでこんなに苦心をしてコーヒー飲んだのも、きっと面白いお話になってよ。あなたの方が早く帰るんですから、あなたよりは待つだけ楽しみが多いわけね。おお、楽しい。」千鶴子は喜んだ。
 自分はもう会うまいと思っているのに、何んという千鶴子の気軽さだろうかと、彼女の喜びつつ手を胸に上げる仕種を矢代は眺め、ふと恨めしく思うのだった。しかし、それもすぐ彼は追い払うことが出来た。外国での約束などただ楽しみにすぎぬとはいえ、今はそのような儚い夢も満足のしるしとして受けるべきこそ旅だった。
 矢代は久慈に食事場を見つけたから来るならここよりないと電話で教えたかったが、電話をかけてみたときには久慈はホテルにはいなかった。定めし真紀子と一緒に今ごろは、こんなにコーヒーを探し求めて歩いていることだろうと云って、千鶴子と彼は笑い合った。
 ロワイヤルを出てからすぐ裏の森の中へ二人は這入っていった。鶯や小鳥の声がだんだん増して来た。栗や櫟の樹の密生した中を道からそれて、枝を撓めたり蔓草を踏み跨いだりしながら、なるだけ人声の聞えぬ方へ歩いた。この森の木の葉は初毛のように細かく柔いので、どこまで行っても森の中は明るかった。雑草も芝生の延びたのが多く、それも踏み馴らされた人擦れのした草ばかりだった。
「まったくここは森まで人工だから、僕らこれでどこまで胡魔化されてるか、もう分らないな。こんなになると日本へ帰ってから、日本がつまらなく見えて困るぞこれや。」
 ぼそぼそ独言をいうように呟きつつ歩く矢代の前へ、鳥の糞が落ちて来た。しかし、千鶴子は、森の人工であろうが自然であろうが少しも意に介しない様子で、ときどき男女の一組が草の中に横わっていても、その傍を快活に除けて歩いた。森の中には自動車道が縦横についていた。千鶴子は樹の間から道が少しでも見え始めると、すぐまた自動車の音のしない反対の奥の方へ自分から進んだ。
「こんなにお昼だと道なんか迷うほど面白いわ。もっと奥へ行きましょうね。道はうるさくって。」
 こう云いながら行く千鶴子の後から、これでは案内されるようだと矢代は思って苦笑するのだった。そのうちあたり一帯背丈を没するほどな蕨の密集している原の中に這入ってしまった。そこを千鶴子はひるまず、両手で葉を頒けつつ突き抜けようとした。
「一寸待ちなさいよ。これやみな蕨《わらび》ですよ、素晴らしい蕨だな。」
「これ蕨? 羊歯じゃありませんか。」
「いや、蕨が延びるとこうなるんです。籠を編む、ほら裏白とか何んとか云いましたね。」
「ああ、あれね。」
 一群の羊歯に似た原が蕨の藪だと思うと、一層元気が出たらしい風で千鶴子はまた進んだ。このあたりは人も這入らぬと見え、原始林をそのままの形に残した物物しさにも、やはりどことなく人工が感じられた。矢代は千鶴子に手伝い裏白を頒け頒けしているものの、この無駄な努力に勢いを出すのも、もう永く遊んだ退屈さに耐えられなくなった二人だからだと思った。
「まるでこれや稲刈りだな。」
 と矢代は云って笑った。千鶴子も笑いながら並んで同じ動作を繰り返していくのだったが、少し疲れて手から力を抜くと、たちまち密集して来る海老殻色の茎の弾力に跳ね返されて二人は打ちよせられた。足で踏みつけた茎も二人の過ぎた後方で戻り合う音を立てていた。
「君、これは後へも帰れなければ、前へも行けなくなるぞ。向うが見えないんだもの。たいへんなことをし出かしたものだ。」
「だって、かまやしないわ。」
「無茶だね君は。ここが行けると思えますか。」
 こう云っているときでも、もう強い茎の群団は二人の周囲を隙間なく押し締めて来た。二人は身動きも出来ないばかりか、両足の間へも跳ね返って来る茎から足を抜くのも困難だった。
「もう少し行きましょう。折角ここまで来たんですもの。抜けられるわよきっと。」
 また千鶴子は動き出した。矢代は汗が出て来たが仕方もなく暴暴しく裏白の絡りついた茎を踏みつけて云った。
「氷河をわたるのよりこっちの方がよっぽど骨だ。」
「でも、これは死ぬ危険はないわ。」
「しかし、無駄だこんなことは。」
 夫婦喧嘩のような云い合いをしているときでも、よろめき倒れそうな千鶴子を彼は手で掴んでひき上げねばならなかった。服のどこかが絶えず茎の歯にひっかかってぶりぶりと鳴った。ときどき立ち停っては森の梢が見えて来るかと空を仰いだが、行けども行けども羊歯の葉のようなぎざぎざの頭ばかりで、千鶴子もだんだん心細くなったらしかった。
「ほんとに失敗ね、御免なさい、こんな所へおつれして。」
「今さら謝ったって、何もならん。」
「だって、こんなに深いと思わなかったんですもの。どうしましょう。」
 棘にやられた手首の傷から血が出て来た。矢代はそれを毛物のように舌で舐め舐め云った。
「こうなれば日が暮れたってやるまでだ。さア、行きましよう。」
 今度は矢代が先になって片足で円を描くように一群の裏白を割るのと一緒に、片手でぐいとその次の頭をかき頒けるようにして、これを左右交互に繰り返して進むのだが、原始の人間は毎日こんなことばかりを繰り返しながら、後から妻をつれ子をつれて道をつけたのだと矢代は思った。それがパリの真ん中に人間の原動力の泉のように一点ここだけ残されているのだった。行くうちに裏白の叢は黝《くろ》ずんでねっとり湿りを含み、臭いもアルカリ性の強い朽葉の悪臭に変って来た。
「これや、冗談じゃない。とても駄目だ。」
 矢代は投げ出すように千鶴子を見て云った。
「駄目かしら、森さえ見えればいいんだけど。」
「見えたって、服が蕨の悪汁《あく》で真黒になりますよ。」
 矢代は茎の中へ片手をさし入れてみて顔を顰めた。
「風が通らぬから蒸せるんですね、これ、むッと熱い。」
 千鶴子も手を入れかけたが、
「あら、ほんと、暖いわ。」と云ってねばねばする手さきを葉で拭いた。一面の蕨の叢の中は互の温度に醗酵してヨード・チンキになっているのだった。矢代はもうくたびれて後へも引き返せないので、人の声のする森の方へ耳を傾けているとどこからかかすかにテニスのボールの音が聞えて来た。
「テニスの音ね。どっちかしら。」
「どっちか分らないな。君、ひとつどっちへ出れば一番近いか一寸見てくれ給え。こうなればもう斥候が要る。」
 こう云って矢代は千鶴子の両足をかかえようとすると、千鶴子も気遅れを見せずすぐ矢代の肩に手をかけた。
「よろしいか。そらッ。」
 矢代は膝をくの字に曲げた千鶴子を上に高くさし上げて云った。
「重いぞ。」
 恐わそうに初めは片手を矢代の後頭に巻きつけていた千鶴子も、ぴんと延び上ると片手を自分の額にあて、面白そうにあたりの蕨の原を見廻した。
「まア、広いこと広いこと。」
「どっちです。」
 重さに腕をぶるぶる慄わせて訊く矢代の身体の中で骨が鳴った。
「あちらよ。右へ真直ぐに行けば一番近いわ。おお、いい眺め。」
 千鶴子はなお真直ぐに延び上ろうとした拍子に矢代の脇腹へ強く沓が食い込んだ。
「抛り落すぞ。痛いや。」
「もう暫くよ。広いったらないわ。」
 千鶴子はからかうように上から矢代の頭を撫でながら悠長にあちこちを眺めつづけた。困った果てにやむなくしたこととはいえ、何んの躊躇もせず自分の肩車に乗っている千鶴子を、可憐に思いまた支えた。
 下に降りたとき千鶴子は裾を直し顔を赧らめて、「ああ面白かった。」と云うと、今度は急に黙って右の方の蕨の中を自分が先に割り進んだ。
 全くこの蕨の原はひと目初めに見たときよりもはるかに広い地帯だった。二人は湿った部分を除けながらまた一と苦心をつづけていったが、もうどちらも汗にまみれてくたくたに疲れ、ようやく森の芝生の上に出たときには、真先に矢代は栗の樹の根もとに倒れてしまった。
「驚いた。あんなところにヨード・チンキの塊りがあろうとは思わなかった。あそこだけは誰も知るまいな。」
 千鶴子も矢代の傍の草の上へ長くなった。
「ほんとにこの森、魔の森だわ。馬鹿に出来ないのね。」
「ストライキのお蔭で今日は飛んだ目に会わされてばかりだ。この調子だとまだ何か今日はあるかもしれないぞ。」
 煙草を出して矢代は千鶴子に一本すすめ、梢の上を流れる雲に見入った。風に揺れている梢からもれた日光が倒れた草にあたっていた。鶯がまだここでもしきりに鳴きつづけたが、もうあたりに花は一つも見えなかった。どこか向うの草の底から低い欠伸が聞えた。あたりに少しも人の気がないように見えていながら、実はここはそうではなく、到るところにいるらしい。まもなく低く音読するフランス語が欠伸とは違う方向の草の中から聞えて来た。大きな声で話していた矢代も急に客間へ出されたように声をひそめた。
「これや、蕨の原っぱどころじゃないぞ。あちこちにいるんだ。」
「そうらしいわね。」
 下手な手つきで煙草を吸っていた千鶴子は、突然そのとき俯向いたまま苦しげに咳き込んだ。驚いて矢代は見ると、千鶴子の吐きつけた煙が地肌にこもって、あたりの草の複雑さに応じつつ下からゆるやかに跳ねのぼって来た。
「横着をするもんじゃないわ。おお、苦しい。」
 涙を泛べてまだ咳きつづけている千鶴子の耳の縁に、赤い斑点のある丸い小虫が這っていた。矢代は虫を払い落して軽く千鶴子の背を叩いた。咳き熄んだ千鶴子と矢代はもう黙った。微風が吹くと森の木の香が新しく蘇った。胸が草で冷めたい。千鶴子は延ばした腕に頬をつけ、草の根をむしりながら低い声でパリの屋根の下を口誦んだ。
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かんてぃるゆうぶぁんたん
さびぃえいゆままん
るぃでぃったんじゅうるたんどるまん
だんのうとるろっじゅまん
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 矢代は自分の吐いた煙の輪が灌木の間を廻っているのを眺めていると、どこかで樹を折る音がした。ひと節唄ってから千鶴子はまた黙り込んでいたが、
「ピエールさんね、日本へいらっしゃるんですって、日本が好きなのよあの方。」
 と云って矢代の手の甲へ草の茎を真直ぐに刺した。
「君の後を追って行くんですか。」
「そんなんじゃないわ。」
「しかし、それや、怪しい。」
 矢代は笑いながら千鶴子の手の上へいまいましそうに土をかけた。
「日本の婦人は優しくって、理窟を云わないのがいいんですってよ。あたし、やさしくも何もしないのに、そんなに仰言るの。」
「分らないぞ日本の婦人は。やさしそうに見せかけて凄いのがいるからな。」
 あらひどいひどいと云いつつ、千鶴子は半身を起して矢代の腕を揺り動した。矢代は横に草の上を転げた瞬間ふと強い土の匂いを嗅いだ。思わず転げ停るとそのまま彼は、胸を締めつけられたようにじっとしていて云った。
「これや懐しい匂いだ。久しぶりだな。一寸この土の匂いを嗅いでごらんなさいよ。」
 矢代は無理に千鶴子をひき据えるようにして土の上へ頭をつけさせた。千鶴子も俯伏せになっていたが黙って何も云わなかった。
「ああ日本へ帰りたい。この匂いだけを忘れちゃ駄目だ。」
 こう矢代はひとり呟きながら膝を揃えてまた匂いを嗅いだ。頭の心が急に突きぬかれていくような酸素の匂いで粛然とした気持ちが暫く二人を捕えて放さなかった。

 着替える真紀子を待って久慈がホテルを出たころは、もう正午近かった。道路に開いたマンホールからむっと生温い炭酸瓦斯が顔にあたった。歩く足もとの壁の空気抜きからも、地下室の冷たい風が不意に吹き上って来たりした。
 食事場へ行くのに久慈は裏路を選んだので、日光のあまり射さぬ傾いた石壁の間の通りは、駄馬の蹄の音がかたかたと強く響いた。売れ残った青物の萎びたのが荷車の上で崩れている。
 久慈も真紀子も、昨夜はどこへ行ったかなどと訊く詮索癖など、いつの間にかなくなってしまっていた。互に心に想うことは、まるで別のことだという一点だけ知り合っている二人のように、何か足もせかせかと早まって動いてゆくのだった。
 剥げ落ちた壁の向うから羽根まで黒い雀が飛び立った。その後に、火の消えた瓦斯灯と枝を刈り落した坊主の樹が立っている。久慈は鋪石の上へゴム管から水の流れ出ているのを飛び越え、ずるりと靴の辷るのを危く踏みこたえたとき、初めて真紀子を見て笑った。
「辷るよ、そこ。」
「そう。」
 二人は機嫌が悪いのでもない。どちらか物いう方が負けだと思う気ぐらいが、理由もなくただ神経に映り合っているだけだったが、なぜまた御機嫌を取り合わねばならぬのか考えればいまいましく思う今日の二人だった。
「昨夜、高さんに会ったんだってね。」
 と久慈は真紀子を振り向いて訊ねた。
「ええ、オペラで会ったの。」
「踊りに行ったんだって?」
「ええ、モンマルトルへ行ったの。」
 隠すかと思いのほか意外に真紀子ははきはきと答えるので、少し閊えていた久慈も急にほぐれ始めて元気になって来るのだった。
「高さん、遊びに来ないかな。いろいろ、中国のこと、訊いてみたいことも、あるんだが。呼びなさいよ。」
「いつでも来るわ。あの人、お呼びしてもいいなら、電話をかけてよ。」
「じゃ、頼もう。」
 真紀子と高との間で、昨夜どのような事があったのかもう久慈は考えるのはうとましかった。壁に蔦の巻き絡んだ家の角を曲ったとき涼しい風が吹いて来た。すると、その風の中から出て来たようにカメラを下げた塩野が向うから歩いて来た。いつも日本人の行く所は定っているので、会い始めると日に二度三度と会うことはここでは珍しいことではなかった。
「しばらく。」
 久慈はとかく紳士を気取りがちな十六区の日本人とは放れていたが、この塩野には特に十六区の臭いがなく、礼儀だけは正しいので彼は好んでよく遊んだ。
「写真を撮ろうと思ってぶらぶらしてるんだが、どこもお茶を飲ましてくれない。このへんにどっかないかな。」
「じゃ、いよいよやったな。ドミニックへ行こう。あそこなら大丈夫だ。」
 久慈は近くの白系露人の経営しているドミニックの方へ歩いた。そこは帝政時代の伯爵一家の店だったが、スープが美味くて安いので、金が無くなると久慈たちのよく行く家である。
「通りはどこもみな休んでるの。」
「すっかり閉店だ。これからノートル・ダムへ行って、あそこを今日は一日がかりで撮ろうと思ってるんだ。」
 写真専門の塩野は、ノートル・ダムに全精力を打ちあげていることを前から久慈は聞いていた。ドミニックへ行くと食事場に困ったものと見えて、もう東野の退屈そうな後姿が腰かけていた。久しぶりの敵の姿を見つけたように久慈は後ろから東野の肩を打った。東野は振り仰ぐと、「やア。」とも云わず、にたりと笑ったまま黙っていた。塩野は久慈よりも東野との方が前からの交際であったから、真紀子だけ久慈は東野に紹介しかけたとき、ふと塩野も真紀子と初めてのことに気づいて彼にも紹介した。
 四人は細長い食台に一列に並んでそれぞれ食べたいものを註文した。見渡したところ、いつもとこの料理店は違わず働いていたが、窓の外いちめんの左翼の大海嘯のまっ只中に突き立っているさまは、ただのありふれた日常の生活ではなかった。いつも黙黙とした品位のある老齢の伯爵夫人は、カウンタアの所に坐ったまま笑顔を人に見せず、また誰とも話をしなかった。頭の上に帝政復興の寄附金を集める箱が傾いてかかっている下で、ボーイの立ち働く姿を見ながら、少しでも使用人の袖口から襯衣が出すぎているのを見附けると、夫人は黙って指差して直させた。使用人の中のロシア革命を見て来たものたちは忠実に働いたが、パリの風に馴染んだまだ若いものたちは、一家の裾を濡らすように下から上へと色を変えた。
 あるとき、ここに使われていた二十二三のボーイで、反抗して家を飛び出て他家へ入ったのが、突然この店へお客となって現れ、
「おい、スープをくれ。」
 と昂然とした元気で命じたことがあった。命じられた方は初めはにやにやしながらスープを出さなかった。
「おい、スープ出せ。」とまた青年は命じた。
 前には自分の下だった男ながらも今はお客だから仕方なく店の者はスープを出したが、沢山の使用人らは動きを停めて一斉にその青年を見詰めていた。ある者は怒ったような眼をし、ある者は羨望の表情をしていたのを久慈は記憶している。
 一列に並んでいる久慈や塩野は店が店であるだけに、外で暴れ廻っている左翼の風波については話さなかったが、次第に傾きかかろうとしているこの一家の静けさが、使用人たちの云うに云われぬとぼけた顔色に顕れているのを誰も見逃しはしなかった。
「それはそうと、日本と中国の問題、大使館の方はどんな観測かね。」
 と久慈は塩野に訊ねた。
「それが油断がならぬらしいんだ。もっとも僕はただ手伝いだけだから、委しいことは知らないんだが、だんだん険悪になるばかりらしいんだ。とにかく、遠からず始まることだけは確かだろうな。」
「しかし、こっちだって相当に危いね。この模様じゃ。」
「そうだ。どっちが先きかというところをお互に知ってるから、これで案外自重はするだろうが、しかし、戦争が起ったら、僕は写真師だから、誰より真っ先に飛行機に乗せられて戦場へやられる。そのときは、諸君より一足お先に僕は失礼するよ。」
 こう云って塩野は敬礼の真似をしながら快活に笑った。久慈は塩野のその覚悟の美しさに瞬間はッとなったが、事態はそこまで自分にも迫って来ているのかと思い吐息をつくと、しばらく黙って赤蕪を噛っていた。
「吾人は須らく現代を超越すべし、というわけにはいかんのかね。ここの家みたいに。」
 久慈のこう云うのに突然横から東野は頓狂に笑い出した。
「それや真面目だよ。久慈君、寄附金の箱があそこに下ってるじゃないか。」
「いや、あれは空だ。」
「しかし、横になってるぞ。」
 またどっと四人は笑ったとき、その笑い声の中で久慈だけ誰よりさきに暗い表情に変っていった。
「東野さん、あなたはこの間から、僕ばかりやっつけるが、どうしてそんなに僕が気に食わぬのです。」
 と久慈は東野の方へ向き変って詰問の調子だった。
「それや、君があんまり現代を超越しないからさ。」
「いや、もっと大真面目な話でですよ。」
 なるだけ争いを避けるつもりで云ったにも拘らず、久慈の言葉は強かった。
「冗談じゃない。日本人は誰だって、一度は現代を超越してしまったのが伝統なんだから、僕の云うのが冗談に見えるんだ。」
「それやそうだ。超越してから後の問題が、僕ら日本人の問題だ。」
 と塩野はもう笑わず、心にかかっていた疑点を晴らしたらしい口振りでスープを飲んだ。
「しかし、現実じゃ、僕らはそう無暗と超越するわけにはゆかんですよ。そこが苦しみという奴じゃないか。」
 塩野の方へ向き返った久慈は、一層強い調子になってスプーンを振り振り、
「そうでしょう。日本人の伝統が、かりに現実を超越したものだとしたって、西洋から這入って来たものが超越したものじゃないなら、僕らは知らぬ顔の半兵衛出来ますかね。出来なけれや。どっちもの最小公約数というものは、大切にしなきゃならん。これを大切にせずに、僕ら近代人に何んの誇りがあるというのだ。何んの意義があるというのだ。」
「しかし、最小公約数の単位は一だ。一の質がどこだって違ったらどうする。」
 東野は塩野へ詰めよった久慈の質問を横取りして云った。すると、久慈はもう何もかも忘れたように前のめりになって上気しながら、また東野の方へ向き返った。
「一の違う筈がない。一が違えばここから出て来る抽象性というものは皆違う。それなら世界は成り立たん。一とは自我だ。自我を信用せずに、何をいったい僕ら信用するのだ。」
「君は自我より一の方を信用してるのだよ。もし自我を真に君が信用するなら、日本人という自分を信用するに定っているのだ。ところが君は、日本人を信用したことがない。公約数ばかしを信用して、それが自我だと思っている。そんなら、君の自我はどうしたんだ。君の中の日本人はどうしたのだ。」
「僕は日本人ならこそ一を信用するのだ。一に信頼を置かぬ日本人なんか、日本人じゃない。」
「そんなら、一と一とよせるとなぜ二になるのだ。」
 いつもの東野の癖の突然飛び越した質問に、久慈は彼の顔を見たまま暫く答えることが出来なかったが、にやりと笑うと、
「何んだそれや。」と呟いた。
「何んでもないさ。尋常一年生だって出来ることだ。一と一とよせるとどうして二になるのかというんだよ。二にするものが君の中にあるだろう。その、するものが自我じゃないか。これは一でもなければ二でもない。子供だけは欲しいというものだ。」
「そんなもんいらんよ。」
 馬鹿馬鹿しさに久慈は大きな声を出して笑いながら椅子の後へ反り返った。東野は久慈の大口開いて笑っている顔を見ると、
「何んだ。朝帰りが戸袋蹴ってるみたいな声出すな。」と云って笑った。
「ふん、猫がいくらガラス箱へ爪立てたって、駄目だよ。」
「おい、勘定。」
 塩野はもうその場に耐えかねたらしく財布を出して立ち上った。そして、自分の金だけ払って外へ出ていこうとする後から、
「おい、塩野君、塩野君、一寸待ちなさいよ。」

 と久慈に呼びとめられた。しかし、塩野は、
「ノートル・ダムだよ。後からでも来なさい。」
 と云って戸口から遠ざかった。久慈は自分も勘定を払って真紀子に、
「ノートル・ダムへ行こう。あそこの方が白系よりやいいや。」と云って東野を一人残し塩野の後から出ていった。
「よし、僕も行くぞ。」
 東野も身を起して財布を出した。ロシア人のボーイたちは習い覚えた片言の日本語で、
「サヨウナラ。」
「コンニチハ。」
 と一同の出て行く後姿に向って挨拶した。丁度このとき、通りを来かかった政府の罷業委員が二三の部下をつれて店の前で立ち停った。そして手帳をくっては、命令に従わぬただ一軒のこの家の窓ガラスを見ていてから組合加入の証の張りついているのを認めると、渋りきった顔のまま仕方なく店の前から立ち去った。

 ルクサンブールの公園の中を突きぬけて行くうちにしきりに樹の葉が散って来た。大輪の薔薇を揺っている雀の群れのうえ高く鳶が円を描いていた。並んだ黄色い乳母車から放れた赤ん坊がよちよちした足で雀の後を追っている。久慈は東野との争いもいつの間にか忘れ肩を並べて歩いていた。ゆるやかな芝生のカーブを背にしたベンチで、まだ少年の名残りをとめた青年が美しい女学生の肩を抱き、何事かしきりに弁明をしていた。女学生は不機嫌な顔で足もとの鳩をじっと見詰めたまま返事さえしないのを、しつこく青年は繰り返して娘の心を牽きつけるのに余念がなかった。一見して久慈は、嘘を真事らしく告白している男の表情を見てとった。青年はさもくたびれたという様子でふと横を見て一服してから、また急に思い出した風にとぼけた顔でかき口説き始めた。暫くすると、まんまと娘は男の言葉に乗って身をよせかけ、どちらからともなく二人は一つにより塊った。
「ああ、不幸が一つ増したぞ。」
 久慈は日本語でそう云いながらその前を通りすぎた。
「あれか。」
 塩野は振り返ってベンチを見た。
「なぜあの嘘が分らんのかね。それともあれでいいのかな。」
「分ったら台なしだろ。」と東野は云った。
「そうだ。記念に一つ、写真を撮っといてやりなさいよ。」
 と久慈は塩野の肩をつついて笑った。
「溜らんね、そう勘が早くちゃ。日本人は芝居が下手い筈だよ。」
 塩野は笑いながら繁みの中を、ジョルジュ・サンドの彫像の方へ先に立って近よった。お下げに髪振り分けて肩に垂らしたサンドの前に、小径をへだて、猪首のスタンダアルの横顔の浮彫があった。その二人の像の間で東野は、
「これや、どっちも十九世紀初頭の猛者だったんだが、そんなら僕は一つ俳句を作ろう。」
 と云って真面目に俯向きながら考え込む様子だった。久慈も東野に俳句の手ほどきを習ったこととて、ふと思わず釣り込まれて自分も句作する気が動き、そこに立ち停るのだった。
「俳句なの?」
 真紀子も面白そうにサンドの彫像をあらためて眺めてから、
「この方、別れの曲でショパンとどっかへいらしたあの方でしょう。」
 と東野に訊ねた。
「そうです。そのとき、こっちのスタンダアルはイタリアで領事をやっていたんですよ。」
 東野はスタンダアルの彫像の丁度後ろの方に立っているフロオベルの立像の方へ近よっていくと、科学者のように威めしく跳ねた大きな髯を仰ぎつづけた。
 東野は十九世紀初頭のフランスの文豪たちの、ずらりと並んだ彫像を眺めていても、別に何んの感動も顕さず、誰より先に公園の出口から出ていって、左側にある公衆便所に這入ってしまった。久慈や塩野が公園の外へ出てから暫くして、東野は便所の中から出て来た。そして、
「一つ出来たぞ。」と明るい笑顔で久慈に云った。
「僕のお師匠さん、便所の中で作るんですかね。どんなんです。」
 東野は頭を一寸ひねってから、
「日の光り初夏傾けて照りわたる。」と呟いた。
「何んだそれや、お経じゃないか。」
 と久慈は大きな声で笑い出した。
「ノートル・ダムへ行くのなら、お経一つぐらい唱えなさい。」
「それや、たしかにそうだ。僕の写真機は、これやお経の眼玉だからな。」
 と塩野は塩野で一寸自分の手擦れて汚くなったイコンタを上げて眺めてみた。
「君にもやっぱり写真機お経に見えるのか。」
 と久慈は不用意に塩野に訊ねた。
「定ってるじゃないか。やたらにこのシャッタ切れるかい。」
 写真を芸術だと思わぬ久慈の口吻に、塩野はきっと対抗した気構えを見せたが、ノートル・ダムの尖塔が見え始めるとそれもすぐ忘れたらしく、サン・ミシェルの坂の方へ出ていった。通りへ出たとき真紀子は手帖と鉛筆を買いに文房具店へ這入った。塩野がノートル・ダムを撮っている間、下の庭で句会をやろうと云って久慈も手帖を一緒に買った。すると、丁度云い合せたようにその家のすぐ横の本屋の店頭高く、松尾邦之助訳の芭蕉の句集が積んであった。
「君、二百年も経つと、芭蕉もこんな所へ出るんだね。」
 と東野はこれには感動した様子でその句集を手にとって眺めていた。
「ほう、サン・ミシェルのカフェーもみなストライキだな。これは驚いた。」
 逆さに椅子をテーブルの上に積み上げたあたりのカフェーの蕪雑さを眺めまわして塩野は云った。ストライキの話になると、東野と久慈との間がいつも険悪になるので、久慈も遠慮をしいしい俳句の話を出す時分だと思った。しかし、話が俳句のこととなると、知るも知らぬも、どうしてこんなに皆の心がにこにこと柔ぎそめるのか、妙な日本人の体質だと久慈は今さらのように首をひねるのだった。

 ノートル・ダムは坂を下ってからすぐ右手の、セーヌ河に包まれた島の中にあった。ここは先住民族のバリサイ人が棲んでいた理由で、パリの名称の起りをなすとともにまたパリ発祥の地でもある。ノートル・ダムは最初一見したときには、方形の時計台を二つ合せたような単調な姿だった。頂き近く菊花の弁を一二少くしたのと同じ紋章が、その形の単調さに威を放ち巷の塵埃をふき払う。近づくにしたがって、方形は驚くべき複雑精緻な変貌を重ねて来て、正門の扉のキリスト像、その右手の聖アンナの門扉、左手のマリヤの門と並んだ三つの門の、その真上のところ一列に、イスラエルとユダヤの諸王、二十八王の彫刻の立像がそれぞれの風姿をもって克明に浮んで来る。さらにその上の円窓に描かれたステンドグラスのロザスの美しさ、また一層上の柱列は、人体の解剖図に似た脊柱の周囲の整然たる管状の立体化となって、ノートル・ダムの怪獣を支えている。また一度び横へ廻れば、胴から延び下った両翼の姿の繊巧無類なある緊張、その優雅さ、――久慈はあらゆる運動態の原型がここに蒐ったかと思ったほど、全系列をささえた稜線の荘重で、雄勁果敢なおもむきに我を忘れて見惚れていた。
 このルネッサンスに反抗したゴシックの美しさは、それはたとえば何んと云えば良いだろう。久慈は、魚の肉をしゃぶり取った骨骼の強く鋭敏な美しさを想像した。一つ間違えば、空中から落ちる鳥類のあの典雅なほどに華奢な儚ない骨をさえ聯想した。
「そうだ。たしかにこのあたりは、これは生物の骨骼をモチーフとして設計されたに相違ない。」
 このように久慈はひとり呟きながら、遠ざかり、廻り、翼から胴、胴から塔へと視線を移して眺めたが、塩野がこれと取り組む願いを起したとは、相当以上の大決心にちがいないと想像された。
「ね、君、これをどこから手をつけようと云うんかね。一生かかったって、この構成の美はなかなか容易なことじゃないぞ。」
 と久慈は外庭のベンチに腰かけて塩野に云った。
「僕がここを撮る気になったのは、正門の扉にキリストの浮彫があるだろう、あれが西日を横に受けて生きてるように見えたからなんだ。ソルボンヌの講義からの帰りに毎日験べたんだが、生きてるように見えるのは一日のうちで二十分ほどよりないのだね。それを撮りたいのが病みつきで、全体の新しいカメラアングルの美を何んとか一つ、再現してみたいと発心したんだが、どうもそれがね。」
 塩野はベンチに並んでいる東野と久慈と真紀子の前に突き立ったまま、さっそく撮りにかかろうともせず、もう幾十回となく手がけたこの寺院の陰翳を微笑のまま見上げていた。東野と久慈は隣り合せに腰かけているものの、どちらか一つ感想を口に出せば、忽ち意見の衝突で捻じ合う危惧を感じ、顔を合さず黙っていた。無数の鳩が羽音の旋風をたてて廻っているのを、その方向に真紀子は顔を向けつつ句をひとり考えているらしかった。
「どうです東野さん。俳句でも作りましょうや。」と久慈は云った。
「まア待ちなさい。この建物、見れば見るほど俳句に似て見えて来るんだ。妙なものだなア。」
 と東野は足を組み替えてまた仰いだ。久慈はにやりとしながら、
「これが蛙飛び込む水の音かね。」と云って笑った。
「空の音だよ。僕はこれまでゴシックのお寺を沢山見て来たけれども、どれもみな垂直性ばかり重んじているのに、ここのはそんな精神の偏見がない。翅となっている斜線がそれぞれ本態から自立して横の空間の意識を満足させているよ。何んとなく、雪の結晶に似てるじゃないか。」
「あたしもさきから、日本の生花の立花と似てるように思ってましたわ。」
 と真紀子は東野に云った。
「そうそう、立花とはうまいなア。あなたは俳句はお上手でしよう。やられたことがあるんですか。」
「前に少しばかり。」
 と真紀子は遠慮勝ちな声で云いながらも、久慈にひやかされはすまいかと、同時にちらりと彼の方もうかがった。しかし、久慈は東野の感想が耳新らしく響いたので、ゴシックと俳句精神の似たところを、なるだけ彼から掘り出して訊いてみたいと謙遜な気持ちになるのだった。
「このお寺はいつごろの産かしら、十四世紀?」
「十三世紀だね。だからまア源平のころだろ。近代のまだ全く生じていない、西洋というものの純粋の形がこれだな。全体の精神が、空を向いている秩序で維持せられているでしょう。けれども、その秩序を造っている精神の合理性が、対象となるべき空を規定しているといっても、よくよく見ると、空から下に向って延びている非合理な必然性にまで、ちゃんと独自性と自立性とを与えているよ。あの沢山な翼の姿がそうだ。おのおのの目的の含む生命力というようなものの意志を尊重して、その非合理の秩序さえ立派に一つの理念としているのは、全くこれや素晴らしいものだと思うな。」
 聞いていると、東野は自分の頭の中の構想でお寺を見ているように、久慈には思われて来るのだった。東野ともよくこの寺院について議論をしたらしい塩野は、異議ありそうに笑いながら久慈に云った。
「東野さんの説は新説だから、よく覚えときなさいよ。僕と東野さんは春のぽかぽかするころ、ここの北塔の一番上の鉛の敷いてある部屋の上で、よく寝転んで日向ぼっこしたんですよ。あのころは良かったなア。下のお堂から、弥撒のパイプオルガンが静かに響いて来るし、聖歌を枕にしてるみたいで、うっとりいい気持ちに眠くなるし、セーヌ河が真下で木の芽を吹いているしね。それやまったく、ここの塔の屋根の上は、パリ第一等の眺めだ。」
「だって、ここは国宝建築物だから撮影は禁止だろ。」
 久慈は大胆な塩野にも驚いたが、また彼の苦心のほども察しられて訊ねた。
「それや参観人の通れるところだけなら、三フラン出せば撮れるんだ。それでも大部分は禁止区だから困ったのだよ。門番の婆さんに、このお寺はパリの歴史そのものみたいなものだから、各国へこの燦然たる文化の象徴物を紹介しないというのは、けしからんと云ってね、おだてたりすかしたりの最中だ。また事実そうだよ。これだけの立派なものを、隠して置く手はないからな。これで門番の婆さんと親しくなるのに、僕は来る度びに果物を届けたり、チョコレートの贈物をしたり、だいぶ無い金を使わせられた。婆さんの娘の子が肺病で入院してるもんだから、この娘にまで贈物をしなくちゃならんのだ。弱った弱った。」
「じゃ、もう随分お撮りになったんですのね。」
 と真紀子は初耳のように感心して訊ねた。
「いや、外だけ二百枚ばかりです。一般の通路は平凡で、写真にならんのですよ。禁止区にばかりいい所があるもんだから、今日もこれから一つ婆さんにこっそり頼んで、裏門から中へ這入る鍵を借ろうと、実は謀らんでるところなんです。事務所へ行っても、一ぺんに断られたんですよ。婆さんもなかなか落ちん。」
「苦労だね。しかし、そいつは駄目だろ。」と久慈は云った。
「お堂の中を分らんように、お祈りしてるようなふりをして、やっと三枚とったことがあるが、何しろ暗い上に十二に絞って、四十秒の手持ちだからみな駄目さ。裏門からは婆さん十五年も門番をしていて、一度もまだ這入ったことがないのだそうな。恐らく一人も這入ったものはいないだろうと、婆さんは云うんだがね。そこを何んとかして一つと、虎視眈眈としてるんだ。」
「それや、あそこなら化物が出るぞ。」と久慈は笑って云った。
「出るかもしれんね。怪獣と棲んだ背虫男の幽霊ぐらいはいるだろうな。じゃ、一寸行ってみてくる。」
 塩野の姿が門の方へ消えたとき、不可能な企てに憑かれてしまっている彼の熱心さをまた三人は笑った。
「ところで、東野さん、さっきの俳句とノートル・ダムの関係は、どうなったんですか。そこが一番聴きたい所だな。」
 と久慈は半ばひやかすような口ぶりで催促した。
「ああ、それか。それはなかなか難しいぞ。このノートル・ダムはパリの伝統を代表してるものだし、俳句は日本の伝統を代表したものだからな。」
「だから真面目にあなたの解釈を聴きたいんだ。反抗はしませんよ。今日はもう柔順になる。」
「ノートル・ダムの精神はもう云っただろ。俳句精神というのも、それと似たりよったりさ。つまり、この建築の対象は空だ。しかし、俳句の対象は季節だ。季節といっても、春夏秋冬ということじゃない。それを運行させているある自然の摂理をいうので、つまり、まアこれは物と心の一致した理念であるから、神を探し求める精神の秩序ともいうべきでしょう。ここに知性の抽象性のない筈はないので、それがあればこそ、伝統を代表しているのだから、俳句は花鳥風月というような自然の具体物に心を向けるといっても、その精神は具体物を見詰めた末にそこから放れるという、客観的な分析力と綜合力がある。そんならここに初めて科学を超越した詠歎の美という抒情が生じるわけだ。しかし、抒情が生じただけではまだ完全な俳句とは云い難いので、さらに転じて、どのような人間の特質の中へも溶け込む、いわば精神の柔軟性という飛躍が必要だ。踏み込みだ。」
「おかしいな。そこが分らん。」
 と久慈は呟いて俯向いた。すると、東野は、暫く久慈の顔を見詰めていてから、物も云わずいきなり久慈の足をぐっと踏みつけた。
「痛いだろ。」
「痛い。」
「つまり、そんな風なものさ、この痛み、どこより来たる。といった風な疑問に還る精神が、俳句だ。」
「禅坊主だね、あなたは。」
 と久慈は云って突然空を向いてあはあはと笑い出した。丁度、こうして皆の笑っているところへ、顔を充血させた塩野が上着の下へ片手を突き込み、足もとから鳩を吹き上らせて、
「しめたッしめたッ。」
 と叫びを耐えた声で馳けて来た。首でもかき取って来たような様子である。
「婆さんとうとう、貸してくれたぞ。一日千秋の想いを達した。これだ。」
 塩野は人に知られぬようにあたりを見廻してから、上衣の下から大きな鍵を覗かせた。錆びの這入った、長さ五六寸もあろうと思える五本の鍵が蒲鉾《かまぼこ》板のような板の一点に、それぞれ紐で結わえつけてある。久慈は、塩野の脇腹からちらりと眼を開けたパリの歴史の首を見た思いで、瞬間ぞッと鬼気に襲われ我知らず周囲を見廻して黙った。
「今日はこれや、死にそうだ。君たちも来てくれないかな。」
 興奮のため幾らか青くなって来ている塩野に、
「よし、行こう。」
 と久慈は云って立ち上った。
「三時半ごろになると事務所のものがいなくなるから、そのとき注意して行けと云ってたが、もう良いだろうな。」
「見られたってかまやしないさ。キリストに君は招かれたんだよ。」
 久慈は躊躇している真紀子に、
「あなたもいらっしゃいよ。千載一遇の好機だから、僕らも中で俳句を作ろう。」
「だって、恐いわ。そんな所。」
 尻ごみして進まぬ真紀子の腕を久慈は捕え、塩野のあとから裏門の方へ近よった。裏口から四人は中へ這入ると掃除のしてある部屋が二つあった。そこを通りぬけて階段を一つ上った二階のところにバルコンが見えたが、そこから塩野は、角度を選んで裏口の写真を四五枚も撮った。バルコンの次ぎに大広間が拡がっている。それを横切って階段をまた昇ると初めて三階に出た。一同を喰い止めている鉄の扉のあったのもそこだった。その扉も鍵を合すと無造作に開いたので、そとへ出られるらしい気配のまま歩いているうちに、いつの間にか正面の『諸王の廊下』へ出てしまった。
「何んだ、これや俳句にも写真にもならんじゃないか。」
 と久慈は云って引き返した。すると、また一つ別の鉄の扉に出くわした。これは固く錆びついていたが、力を籠めて押すとぎいぎい重い音をきしませて開いた。扉の向うは通路になっていてもうここからは暗く、石の冷たさがひやりと頬にあたって来た。塩野は、
「そろそろ怪しいぞ。」
 と云いつつ首だけ突き込んでみていてからそっと中に這入った。そこも別段変った所もなかったが、通路の端の所にまた一つ扉があった。塩野は手で撫で擦りながら鍵穴を見つけた。この扉は一番固くて鍵を廻しても廻しても容易に開きそうもなかった。やむなく久慈と二人で肩を揃えうんうんと気張っているうち、ようやく幾らか開いて来た。すると塩野は悲鳴のような声で、「牢屋だ、ここは。」と云ったまま立ちすくんだ。
 一層冷たくなった石壁の上の方に、横二尺縦五寸ほどの細長い窓が三つあるきりで薄暗い。染みつきそうな黴の強い臭いの襲って来る中を三二歩四人が中へ這入り込んだ。暗さで初めは分らなかったが、ふと久慈は足もとの柔らかさに俯向いて見ると、暗灰色の埃りが三寸ばかりの厚さで一面に溜っていた。
「これはどうだ。人知れぬ埃りだな。」と久慈は云った。
 まったく誰からも忘れられてしまって、こうして佗しい年月の埃りを降り積らせていただけの部屋を見ると、急にどきんと胸の中で鳴り進む精神を見る思いで、陰に籠って響く自分の声にも、精霊の巻きつきそうな冷たさを久慈は感じた。歩く毎に死の臭いを吸い込むような無気味さである。前方に扉が見えていても、荒涼としたこの部屋に這入ってはもうそれ以上進む気持ちがなくなった。
「東野さん、どうです。まだだいぶあるらしいが、全部行きますか。」
 と久慈は薄暗がりに浮いている東野の顔を見て訊ねた。
「君たちもう帰ってくれ給え。何んでもこの鍵全部使うと、上まで出られるようになってるんだそうだから、僕だけは一寸行って見て来る。」
 塩野はそう云って次の扉をがたがた鳴らせると、これだけは鍵の用なくすぐ開いた。
 外のその部屋は石牢より大きな部屋で窓もまた大きかった。ここは窓が閉め切ってあるためか埃りが少なかったが、暑さにむれた黴の臭いで重苦しく胸を押しつける空気が満ちていた。手巾の香水の匂いを振り振り後からついて来た真紀子は部屋へ這入るなり、突然久慈の肩に飛びつき、
「あッ。」
 と叫んだ。一同真紀子の方を振り返ると、一隅から飛び立った蝙蝠が壁にあたってばたばたと羽音を立てていた。丁度|蝙蝠《こうもり》の突き衝っている壁の上方高く一枚の額のあるのを久慈は見つけた。暗さの中で埃を冠っているのではっきりとは見えなかったが、何んとなく聖体拝授の儀式絵らしい。
「おお、恐わ。何か出て来たんだと思ったわ。」
 真紀子はまだ久慈の腕を掴んだまま青ざめて云った。
「あたし、もう帰りたいわ。何んだかぞくぞくして来るんですもの。」
「しかし、鍵はもう三つも使ったんだから、後二つでしまいだ。二つなら行ってしまおう。恐わけれやあなた僕に掴まってらっしゃいよ。」
 久慈は絵の下へ近よって石のざらざらした肌に手をつき、
「どうだ一つ記念にこの額持って帰ろうかね。大司教のいたところだから、この絵必ず名人の絵に定ってるよ。」
「駄目よそんな乱暴な。」
 真紀子が久慈の手を後ろへ引きつつ戻ろうとしている間にも塩野だけは、未開の境地を突進するような執拗な眼つきで、早や次の鉄の扉の鍵穴に鍵をさし込み、ひとりがちゃがちゃと鳴らせていた。しかし、その扉の固さは蹴りつづけ押しつづけても開かなかった、蝙蝠だけ扉へぶち衝る塩野の肩の鳴る音にびっくりして、皆の間を馳け廻ってはまた壁に翅をぶっつけた。いつまでも扉が開かぬと塩野と東野も束になって扉にあたった。すると、きしみながら僅に扉の開いた向うから、急にぱっと西日が眼を射した。そこは外郭だった。こちこちに固った鳩の糞が一面|堆《うずたか》く積っている。
「ほう。ビクトル・ユーゴー、ここへ来たにちがいない。背虫男の好きそうな所だなア。」
 塩野は鳩の糞を靴先でつつきながら、
「しまった。懐中電灯忘れたのが、何よりの失敗だ。」
 としきりに残念がりつつ、今度も真先に外郭をずっと裏口の方へ進んでいった。そのうち行く手が石の廻り階段になった。十三世紀特有の眩暈のしそうな石段は、もう烈しい腐蝕で靴をかける度びに破片がぼろぼろ崩れ落ちた。またそこは高い上の方に、小さな空気抜きの穴がところどころにあるきりなので一層暗かった。石壁を手と足とで擦り上らねばならぬ。
「しまったな。懐中電灯忘れるなんて、しまった。」
 とまだそんなに口惜しがっている塩野の声が、もうよほど上の方でする。真暗なうえに真紀子を曳いて昇らねばならぬから、久慈は息苦しさにときどき立ち停った。東野は俳句の種を探しているのか、前から黙黙として一言も物を云わず、厭そうな顔をしているだけだった。空気抜きからかすかに光りの射し込んで来るところは、互の顔もおぼろに見別けられたが、暗くなって来ると真紀子は、
「恐いわ、恐いわ。」
 と云って久慈から放れなかった。手探りで廻り昇るため方向の変り日毎に二人は突き衝ってばかりいた。石の古さの発散させる強烈な酸性の臭いに充ちた闇の中では、うっすらと汗を含んで蠢めく真紀子の体の温みは、死を貫きのぼって来る生き物の真っ赤な美しさに感じられた。
「どこまで昇ったらいいんだ。まだか。」
 と久慈は上を仰いで塩野に訊ねた。そんなに訊ねている間にも真紀子と久慈の昇る力が喰い違った。二人が蹌踉めいて壁に衝きあたるときにも、脆い石の肌がぼろぼろ首筋へこぼれ落ちた。
「まるでこれや、歴史みたいだな。」
 と久慈は闇の中で呟いて笑った。
「だって、恐いのよ。あなた見えて? あたしちっとも見えない。」
 上では昇りつめたらしい塩野がもう扉にぶち衝っている音がしていた。五つ目の最後の鍵を廻す音も同時に聞えた。
「早く来てくれエ。固い固い。錆びてやがる。」
 塩野はそんなに云いながらまたどすんどすんと体当りをしつづけた。皆が上へ昇り着いたとき塩野はいら立たしそうな声で、
「どの鍵も合わん。ちぇッ。」
 と云って、滅茶苦茶にがちゃがちゃと鍵を廻してはまた別のを嵌めてみた。
「駄目かな、これや。」
 下唇を噛んだまま手を休めて暫く扉を無念そうに仰いでいてから、彼はまた狂ったように扉に突き衝った。すると、永らく風雨に閉じ詰っていた扉は下に鮮やかな新しい条目を印けて開いた。初めて生きた気流に触れた爽爽しさで外郭へ立って見ると、ここは丁度御堂の真上の屋根のうえで鐘楼の下であった。怪獣が欄干のいたる所にたかっている。馬、熊、鳥、兎、鹿などの変態が、戯れた鬼のような容子で、のどかにパリの街を見降ろしながら遊んでいる。
「ここへ来たものは、パリの人間でも恐らく一人もいないだろうな。」
 塩野は願いのかなった喜ばしさに上気して云うと、種材に溢れたあたりの風景の角度を早や急がしそうに見詰め始めた。どの怪獣も欄干や石柱と同じく、朽ちそうな黝ずんだ色に苔まで生えている。剥げ落ちたところもあれば、おびただしい鳩の糞で形の不明になった怪獣もあった。
「もうこれや、考えていられないや。」
 と云うと、塩野はイコンタのシャッタを矢鱈にぱちぱちと切り放した。それもあちらこちらと誰かに追われているような風で、気もそぞろにもう後の三人のいるのも知らぬげだった。
「さア、僕らも俳句だ。」
 と東野も云って裏口の方へ廻っていった。久慈は塩野や東野のようにそんなに熱心になる芸術心は何もなかった。むしろ、こうしてぼんやり街を見降ろしている方に興味があったが、しかし、二人のように夢中になれる何物か自分もほしいと羨ましく思い、また、何んとなく二人の様子を馬鹿馬鹿しくも思ったりしつつもその間に挟まって、取り残されたような脂っ濃い自分と真紀子が淋しくも感じられて来るのだった。真紀子は夕暮に近づいたパリの景色を眺めながらも、もう久慈から放れることが出来ないらしかった。
「ね、これであたしたちのいるここ、どれほどの高さかしら。」
 こんなに訊ねる彼女の眼も、階段を昇った興奮の記憶がまだ影をひき美しく冴えていた。
「あの鐘楼の高さが六十八米あるというんです。ここのお寺はこれで、東京の日本橋みたいにフランス全部の道路の中心標示になっていて、この下の礎を初めて置いたのはモーリス・ド・スリイ司教というんだそうだ。正面だけ造るのにこれで六十年もかかったというんですよ。」
 久慈は足もとを二方から巻き包んだセーヌ河の流れや、その両側のパリの起伏を見降ろしつつ、いつの間にか欄干に両手をついた怪獣と同じ姿勢でいる自分に苦笑するのだった。まことにこの下の街街に荒れ狂っている左翼と右翼のさまを、こうして怪獣の姿で眺めていると、世放れのした気持ちが乗り移り、自然に顔の筋肉も妙に歪むのが感じられた。
「うむ。分るぞ。お前さん。」
 久慈は親しくそう呟きたくなったが、ふと、それより分らぬのは横にいる真紀子と自分の明日からだと思った。とにかく、もうこれは危険な線を飛び越してしまっている二人だった。北塔の方から群落して来た鳩の風が弧線を描いて怪獣の中へ流れ込んだ。と思うと再び、真紀子の首をかすめんばかりに舞い群がって夕日の方へ飛び立ち、ぐるりとまた廻って北塔の方へ散ってゆく。
「あら、塩野さん危い、あんなとこ撮ってらっしゃるわ。」
 真紀子に云われて久慈は見ると、塩野は裏口の方の脆い石の欄干から倒れんばかりに身を乗り出し、眼もくらむ真下の通りへカメラを向けていた。
「あの人、どうも今日は気違いだね。足を掴んでてやらないと、落っこちるぞ。」
 と云って、久慈は塩野の方へ急いで歩いていった。
「もうこれや、フィルムが無くなりそうだ。困ったなア。」
 塩野は久慈を見て一寸笑ってからまた欄干の上へ飛び移って、怪獣の頭の上に留っている鳩を狙った。久慈と真紀子は鳩を逃がさぬように動き停った。
「足でも持とうか。風化してるからごろっといくぞ。」
「そうだな。もう二度とここへは来れないんだと思うと、はらはらしてね。この怪獣だって、後ろから撮った写真は世界に一枚もないんだから、面白くてたまらないんだ。」
 久慈は塩野のバンドを掴んで彼の写真の角度を一緒にすかしてみたりした。絞り十二で五十分の一である。怪獣を撮り終えた塩野は、次に御堂の屋根の中央の所で高く屹立している尖塔の頂きを狙いにいった。ぶつぶつと無数の疣を附けた槍のような鋭い先端に、金色の十字架が夕栄えの光りを受けて輝いている。その十字架を捧げた附け根の所に一つ小さな円球があるが、塩野はそれを指差して云った。
「あの円い中にね、キリストが十字架にかかったとき使った本物の十字架の一片と、茨の冠の本物の切れ端が封じ込んであるんだそうだよ。これを最後にしたいんだが、あの十字架のところへ、うまい具合に白い雲が一つ来てくれんと勿体ないね。どうかな。」
「そんなこと考える方が勿体ないや、撮れればいいさ。」と久慈は云った。
「よし、じゃ、撮ろう。」
 塩野は暫く黙祷していてからぱちりとシャッタを切った。間もなく涙が塩野の眼から滴って来るのを久慈は見た。久慈は全く不意に感動を覚えて夕日の方を向いたまま無意味に歩いた。自分も何かしたい、こうしてはいられない。――久慈はこう思うと、ふとぜひ今夜でも真紀子に高有明を紹介して貰わねばならぬと決心するのだった。

 三階の真紀子の部屋は天井も高く周囲の物音も聞えなかった。蜂の巣のように中に無数の内房を包んで連った建物の、その中の一つのこの部屋から外を見ると、空は少しも見えずただあたり一角の裏窓ばかり見られたが、この夜はその窓も閉っていた。久慈のホテルの部屋にバスのないのを知っている真紀子は、彼にバスはどうかとすすめたので、彼はそれにも這人って出て来たばかりで、まだ濡れた頭髪も掻きあげたままだった。
 真紀子は彼の次に自分の這入る湯を入れ替える間、久慈とテーブルに向き合い流れ落ちる湯の音に、ときどき聞き耳を立てていた。手首のところに少し人より目立つ初毛の延びたのが、灯影を受けた白い肌のうえで斜めに先を揃えて見える。一重瞼にうっすら影のさしている眼もとに勝気な鋭さの出ているのも、それも動かぬときには、心の流れを他人に知られぬ涼しさだった。
 椅子にもたれて煙草をうまそうに吹かせていても、久慈は東野との昼間の言葉のやり取りから吹き上って来る聯想にまだ悩まされて困った。
「どうも分らん。ノートル・ダムを見てから、頭がへんになった。」
 とこう不意に云って久慈はまた壁の花模様に眼を上げた。
「何が分らないの? 俳句?」
「分らんことばかりになって来た。分っていた筈だったんだがなア。みな分っていたんだ。」
「そんなに自分を失ったの。それは困るわね。」
 真紀子は云い捨てるようにして立ち、バスルームのドアを一寸開けて見た。そして、久慈の後ろに廻ってから寝台の上へ上衣を脱ぎ、
「ちょっと失礼しましてよ。ここの中で衣物脱げないの。暫くこちらを見ないでね。」
 と云いつつシュミーズのままバスルームへ這入っていった。今まで気づかずにいたのに真紀子にそう云われて、初めて匂って来る空気に久慈のいろいろの考えも朧ろに途絶えてしまった。花瓶にさしてある薔薇のあたりから、身動きするごとにかすかに匂いを嗅ぐのも今に限ったことではなかったが、この夜は特に、何かの約束を強いられているように強く真紀子の匂いを久慈は感じるのだった。
「分らなくなったところへ、これか。」
 とこう久慈は呟いて笑った。しかし、そのとき同時に、彼は何もかも分らなくなったとてどこ一つ困ってもいない自分に気がついた。
「そうだ、分らなくたって、何も困らんというのは、これやいったい何んだ。何かここになければならぬじゃないか。そんなら、そ奴はいったい何ものだ。」
 がちりと頭の中で石が音を立てたように久慈の表情は無くなった。
「自分を失ったの、それは困るわね。」
 とこう云い捨てて浴室へ這入った真紀子の言葉が、突然謎めいた色となって久慈に響き戻って来るのを、「何をッ。」とまた久慈は微笑しながら頭の髪を引っ張りつづけた。
 東野や矢代が絶えず攻撃して来る独自性のない自分の欠点や痛さを、全く違った角度から今また真紀子に突かれたように感じつつも、彼はまだ降参出来ぬある観念に獅噛みつづけ、寝台の上の真紀子の服をちらりと眺めた。
「俺の考えているものは、女のことでもなければ、自分のことでもない。まして他人のことなんかじゃ無論ない。分らんのはそ奴なんだ。そ奴が良いものか悪いものか、それも知らぬ。しかし、そんな不必要なことを俺に考えさすというのは、それや何んだ。」
 久慈は頭を椅子の背に倚らせて眼を細め、脱けきれぬ念いを追いつめてゆくうちに、ふと浴室から響いて来る水の流れの音に気をとられた。真紀子は湯から出たのだろうか、這入ったのだろうか。――久慈はさきほどちらりと見た真紀子の手首の長い初毛を思い出した。思いにつれて、ある春の日、箱根の浴槽で自分の横に浸った芸者らしい婦人の堂堂とした白い肌が、水面へ浸る毎に、総立ち上った長い初毛のそれぞれの先端からぶつぶつと細かい無数の水泡を浮きのぼらせていた壮観さが、瞬間浴槽の中の真紀子の姿となり代って浮かんで来るのだった。
 久慈はやがて自分の身の危くなるのも知らぬげに、こうして楽しみ深い幸福に身を任せているのも、ここには恐るべき何ものもないからだと思った。しかし、なぜ真紀子の身体が自分をこんなに牽きつけるのであろう。――久慈は昼間あれほど高有明に会おうと決心していたことも、いつの間にかその考えも消えている自分だと思った。けれども、これも真紀子が電話をかけておいたからには、必ず会うだろうとだけは思い、会って何になるのか分らなかったが、会ったそれだけ何事か起るにちがいないとは漠然と感じられた。
「面白いのはそれだ。何が起るか分らんということだけだ。」
 久慈はそんなに思いながら煙草を吹かしているうちに、ふとまた突然、真紀子は高を愛しているのではなかろうかという疑いが起って来るのだった。もし事実そうだったら、あちらを向きこちらを向くどこに信を置くべきか。――しかし、ただ束の間の幸福を逃さぬため、こうして全網を張りわたして待ち伏せている緊張にも、何んとなく投げ出した手のようなのびやかさを感じた。そのとき浴室のドアが開いた。
「すみませんが、そこのテーブルの上のハンドバッグね、それとって下さらない。忘れたの。」
 ぱっとまばゆく一瞬の光りを背に、真紀子の顔が湯気を立てて覗いている。ゆるやかに綾を描いて喰み出る湯気の方へ彼は近よった。ハンドバッグを受けとる腕が浴室の腕のようにしなやかに延び、たちまちまたぴたりと戸を閉めた。貝殻の中で伸縮をつづけている柔軟繊細な貝類の世界を見る思いで、久慈はしばらく浴室の戸を眺めていたが、ふとノートル・ダムの石室の中を蠢めきのぼった真紀子の汗ばんだ体の触感も思い出され、今日一日のこの疲れも何か正当な受けつぐべきことを受け継いだ、柔らかな連鎖のその一鎖りだったと思った。
「そんならその貫いてゆくものの中で変らぬ唯一のものとは何んだろう。これこそ変らず滅びない念いというものは何んだったのだろう。」
 人目のない浴室で延びやかに立っている真紀子は、恐らくいま鏡の前で化粧をしているときだろう。しかしそれもこれも滅びぬものに較べれば皆夢のようなものかも知れぬ。――
 久慈はノートル・ダムの怪獣の空とぼけた笑顔がまたも眼に泛んだ。あの高い所で世紀から世紀へぼろぼろに朽ちそうな肌を笑わせている顔を、矢代に一度見せてやりたかったと彼は思い、そうだ矢代に電話をかけてやろうと思ったが、彼も定めし夢のようなことをしているときだろうと思うと、それも今はやめたくなるのだった。
 久慈は時計を見た。十時だった。もう十時なら日本では今正午ごろである。もうやがて眠ろうというのに向うはお昼か。――母親がお茶を立てながら俺に陰膳を供えていてくれるころだ。
 ふとそう思うと、久慈ははたとそこで考えが停ってしまった。真紀子もいつかは誰かの母になる人だと思ったのである。何んとなく一番に平凡な考えばかりに突きあたっては戸迷いする自分の精神を、またも幾度となくそのままにさせつづけている自分だと久慈は思い、所詮はこんなところから、訳もなくふらりと真紀子と結婚してしまうのにちがいないとも思われて来るのだった。
 しかし、もし真紀子に自分の子供が生れたとすると、何んと自分は冷たい心を持った父親だろう。――
 久慈は自分の父を考え、父も今の自分のように人間以外のことに気を奪われていたときもあったかもしれぬと思った。しかし、何んとそれは冷たい心だろう。これは本当か。いや、それも嘘かも知れぬ。
 何んでも良い。――よしッ、それでは俺は高有明に会おう。もし真紀子と結婚しなければならぬなら、それもしよう。
 真紀子がいつの間に着替えたのかイヴニングで浴室から出て来たのはそれから間もなくだった。
「ノートル・ダムの埃りなかなか落ちないのね。古いからかしら。」
「何しろ七百年の埃りだからな。もう埃りじゃない幽霊だ。」
「でも、あの蝙蝠が顔にあたったときは怖かったわ。ほんとにあたしびっくりした。」
 湯上りの真紀子は洋服箪笥の姿見の前に立って髪を直し、それから久慈の傍の椅子へ坐った。久慈は何んとも知れぬ圧迫に似た重い歩みの時間を感じ、ふとそれが通りぬけると急に湯疲れの口淋しい退屈さを覚えた。思わず立ち上ると彼は髪を解きつけた浴室の真紀子の櫛を探しにいった。まだ浴室には匂いの籠った空気がいっぱいに満ちていた。彼は手首と頬とにべったりねばる暖い空気に辟易してすぐ浴室から出て来た。しかし、こんなに婦人の部屋のどこへでも無遠慮に踏み込んで行くことの出来るのも、来た船中のときから一緒だった気軽さのためとも思った。それにしても、その気軽さが却って二人の間をそれ以上の親密さに引き入れぬ妨げともなっているのは、今まで知らなかった互の隙のように思われて来るのだった。
「どうもこの部屋へ来ると、自分の部屋のような気がして困るな。まだこれや、僕たち旅心がぬけないんだね。」
「あたしもそうなの。他人の部屋と自分の部屋と同じように見えるのよ。でも、何んだかこんなの淋しいわね。」
「どっかそのうち旅行に行こう。セヴィラかトレドの方へ一度行きたいんだが。――」
 真紀子は眉を上げた。
「セヴィラがいいわ。ね、行きましようよ。あたし、明日からでもいいわ。」
「クックで験べておこう。行くのならイタリアへでもいいが、とにかくパリ祭がすんでからだ。」
 久慈はこう云って立ち上ると、何んの意味ともなく花瓶の薔薇の方へ近よっていって頭を跼めた。一度前に彼はこのような同じ動作をして薔薇をち切り、フランス流に語学教師のアンリエットの胸にさしたことがある。アンリエットは日本人専門の案内人もかねていたから、職業上間もなく次ぎから次ぎへと生徒を替え、今は久慈とも放れていたが、ときどき手紙だけは旅行先から来た。今も久慈はそのときのように薔薇を折って真紀子の胸へさしてやろうと思ったが、それも気がさして思いとまった。異国人には何気なく云える、「君は綺麗だ。」とか、「僕は好きだ。」というような言葉にしても、さて日本の婦人に向っては嘘だけ急に飛び出て眼立つのだった。そうかといって、別に久慈は心の表現に困っているわけではなかった。
 真紀子はとくからもう久慈の気持ちを察しているらしく、落ちつかなげにあたりを廻っている彼の挙動を見ても、さも知らぬふりで少し俯向き加減なのどかな様子のまま爪を磨いた。
「あなたさっき、何んだか分らなくなったって仰言ってたわね。何んのことだったの。あれ?」
 肩を動かさず顔だけちょっと振り向けた真紀子の眼が、ほんの瞬間のことだったがひどくなまめかしい嬌奢な視線だった。
「何んか云ったな。ときどき疲れるとあんなことがあるんだ。今まで分っていたことが、急にぴたりと停って分らなくなるんだね。頭の中の心臓が急に停ったみたいな風になって、中が空になるんだ。」
「神経衰弱ね、あなたも。」
 久慈は薔薇をち切ると知らぬ気に後ろから真紀子の襟にさした。
「神経衰弱は卒業したさ。ところが、神経衰弱のも一つ奥に妙なものがあるんだ。そ奴だ。」
 真紀子は顎を引き、差された薔薇を見てから、「ふふ。」と軽く笑った。
「じゃ、あなたにも上げてよ。」
 真紀子は小卓の方へ立っていって薔薇を折ると、寝台の上に脱ぎ捨ててあった久慈の服の襟へ同じように差し、
「あなたもこれを着てらっしゃいよ。もうそんなに暑くないんですもの。」
 と云って久慈の後ろへ廻った。云われるまま久慈は服に手を通した。
「花はいいものだな。花の嫌いなものはあるかね。」
「でも、お茶じゃあまりお花はいけないのよ。」
「お茶か。」
 久慈はお茶の師匠にもなれる母のことを思い出し、よくそんなことも母は云ったと思いながら真紀子と向き合って立った。かすめ過ぎる化粧の匂いのままどちらも黙って何をするでもなく暫く立っていたが、そのうちに徐徐に顔が合った。
「一寸、矢代さん、もう帰ってらっしゃるかもしれないわ。電話かけて見ようかしら。」
 あまり淡淡としすぎたほどの落ちつきで真紀子は久慈を見上げて訊ねた。久慈はそれには答えずドアの方を振り向いて見ている間に、真紀子はもう電話を矢代の部屋へかけていた。受け答えの様子では矢代は帰っているらしい。真紀子は受話器を置くと、
「いらっしゃるのよ。ここへ。」
 と云ってさも何事もなかったように自分の椅子へ戻った。久慈も椅子へ腰を降ろした。真紀子は眼を細め下から覗くように首を傾けて、
「セヴィラへ行きましようね。ほんとうよ。」
「どうも、しかし、けしからんね。矢代の奴。」
 と久慈は笑いながら煙草を取り出して云った。
「あ、そう、あなただけお花とってらっしゃる方がいいわ。」
 真紀子が腕を伸ばそうとするのを、久慈は肩を後へ引きとめた。
「いいよ。僕だってお花ぐらい貰わなくちゃ、パリへ何しに来たんか分らない。」
「でも、何んだかおかしいわ。また上げますからとっといて下さいよ。」
 真紀子は無理に久慈の襟から薔薇をむしりとると、捨て所を索すようにあたりを見廻していてから寝台の枕の傍へぽいと投げた。久慈は白い枕とシーツの間へとまった真紅の薔薇の一点を見ているうちに、何かある清らかな聖鳥を見るような思いに胸がつまって来るのだった。
「よし、分った。」
 久慈は思わず膝を打って嬉しそうに天井を仰いだ。
「何に?」
 不思議そうに見ている真紀子に久慈は介意《かま》わず、
「得度したぞ。ノートル・ダムのお蔭だ。」
 と云ってまた薔薇の方を眺め返した。そのとき、ノックの音がしたが久慈はもうドアの方を向こうともしなかった。心はしきりに弾み上って来るのに爽やかな流れが抵抗もなく胸の底を流れつづけた。
 真紀子が立っていってドアを開けたとき思いがけなく外に高が立っていた。
「あら、高さんですわ。あなた。」
 と真紀子は久慈の方を振り返ってからまた高に、
「いま矢代さんがいらっしゃるっていうもんですから、矢代さんだとばかり思って――さア、どうぞ。」
 久慈は高だと教えられても別に驚きもしなかった。這入って来るものがどこの国のものだって今はもう良いと思うと、淀みのない快活な心が波うって来るのを覚え、握手しながら船中以来の挨拶を高にした。長身に縞のダブルの服を着た高は、幾らか胃の窪んだような姿勢のまま眼鏡の奥で柔かに笑っていた。
「今日はノートル・ダムへ行きましてね。中へ這入ったものだから埃りだらけになりましたよ。えらい埃りだ。」
 久慈は高とさし向いに坐り理由もなくいきなりからからと笑ってから、
「どうです、その後御無事ですか。」
 と妙に大きな声で訊ねた。
「ええ、丈夫です。」
 高は東京にいたときの日本の挨拶を思い出したと見え少し遅れてこう云ったが、どこかにまだあたりを警戒している物腰が笑顔の中に漂った。真紀子の電話したとき高は家にいなかったから、宿の者の伝言で出て来た高にちがいなかったが、ここに自分のいることも一応は知って出て来たのかどうか久慈には分らなかった。
「ゆうべ矢代があなたにお会いしたとか云ってましたから、それじゃこちらにいらっしゃるとき一度と思いまして、それでお呼び立てしたようなわけです。こちらにはお友達が多いんですか。」
「少しおります。」
 高はこのような簡単な返事をするときでも、頭に閊えることが群りよるらしく、ぱッと赧らんだ顔の中から眼がきらきらと強く冴えた。
「あたしフランス語が下手なものですから、高さんにお言伝したの通じないんじゃないかと、心配しておりましたの。でも、良うござんしたわ。昨夜はいろいろ御面倒おかけしまして、――ほんとに久しぶりですのよ。あんな面白い遊びさせていただいたの。」
「僕らの踊りは下手だからな。」
 と久慈は皮肉のつもりもなく云った。
「そうよ。久慈さんなんか踊りにもまだ連れてって下さらないんですもの。高さんのはそれやお上手よ。今度またお願いしますわ。あたし下手でお邪魔かしれないけど。」
 こう真紀子が云っているときまたドアを叩く音がした。今度は矢代と千鶴子の二人だった。皆初めての者ではなかったので挨拶は簡単にすんだ。椅子が一つ不足していたから真紀子は浴室のを持ち出して来て自分のにあて、電話でコーヒーとウィスキーを下へ頼んだ。五人がテーブルを包み座をそれぞれに定めたとき、暫く妙に白んだ気重い沈黙がつづいたが、久慈は見事にそれも突き崩した。
「高さん、あなた覚えてらっしゃるかしら、沖さんという爺さんが僕らの船のグループにいたの。あの人先日ノルマンデイで日本へ帰ったんですが、帰るとき面白いことを云ってましたよ。僕らはヨーロッパで何をして来たかしらないけど、まア来たからには、何かの意味で遣欧使だから、まんざら役に立たぬこともあるまいというのですね。あの爺さんでもそのつもりなんですから、これで僕らも実はその気持ちにならなくちゃならんと思って、考えているんですが、どうですかね、高さん方、中国の人たちもそんな気持ちは無論お持ちでしょうね。そういう所を一つ今夜はお聞きしたいんです。」
「それはあなたがたより僕らの方がその気持ち強いと思います。」
 と高は頬に片手をあてたまま腹部を椅子の背にへこませて答えた。
「それややはり、高さんは日本へ来ていらしたから、よく日本の事情を知ってらっしゃるからでしょうが、しかし、これでどちらも僕らは、難しいところへさしかかって来たものだと思いますね。随分これや難しくなりますよ。政治だけの問題じゃありませんからね。何も政治だけならそうは難しくはならないんだけれども、近代というものには、政治の中に科学という理論が混入して来ているから、――科学だ曲者は。」
「そうそう。」
 と高は問題が気に入ったと云いたげに頷いた。
 反対に退屈そうにしていた矢代は突然、
「むかしの遣唐使のようにはいかんか。」
 と笑って久慈を見た。
「遣唐使だって君、あの時代はあの時代の仏教という論理の究明に行ったんだからね。あのときはあれがやはり科学だったんだ。」
「それやそうだ。あの時代は非合理の合理性を究明する時代だったんだが、近代は合理性以外は捨てる時代だから、東洋の近代人は皆そこでまごまごしてるんだ。非合理を捨ててしまって合理の成り立つ筈がないということを、知らない振りをするのが、学問という誇りになって来たからな。」
 矢代のこう云うのに、久慈は云いたいことがもぞもぞと襲って来た。しかし、異国人の高がいるのだと気がつくとやはりその心も抑えてかかるのだった。
「しかし、君これほど進んだ近代がもう一度むかしの非合理を愛するようにはならんよ。絶対にそれや駄目だ。だから政治をどこも誤るのだ。」
「それや君の云うのは立派なものは、立派だ、と云ってるようなものだよ。そんなことを云っていて人間というものは承知出来るものじゃない。だいいち、遣唐使があれほど惨澹たる苦心をして東洋の非合理の究明に行って、それを民衆の中へ植えつけた結果が日本の文明というものになったんだろ。中国精神というものを考えたって、精はこれ神なりというような非合理の合理を根柢に認めてから、それから物や心を考える工夫に進めているよ。日本精神にしたって、これはもう人間という代名詞みたいなもので、頭は一つで眼は二つ、足が二つで手も二つ、精神は神に従うというようなものだから、遣唐使も遣欧使も僕らには必要だったんだ。」
 高は矢代の言葉のままに表情を展いたり縮めたりしていたが、最後の飛躍した矢代の諧謔に会うと、声を立てずに笑っていてから云った。
「しかし、中国には近代が少いですからね。あなたのお国のように西洋をまだ採り入れておりませんから、そこが負けています。あなたのお国の方は、もうそんな必要あまりないのじゃありませんか。」
「いや、そこはまだ分らないところですよ。」
 久慈の云うのをすぐ矢代は受けて云った。
「しかし、遣唐使も取り入れるものがなくなった最後のころには、みな堕落して帰って来てるね。日本というところは、そうなるとぴたりと一度蓋をしてこれを固めなくちゃすまぬところだ。日本が中で固める必要の起っているときに、中国はいよいよこれから遣欧使の必要に迫られているときだから、日本と中国との間でごたごたがつづくのだと思う。早い話がまアそう云った二国の相違というようなものを、一番よく知っていて、その差をあれこれするものがここの西洋にはあるのだ。僕らは知られているのだ。」
 一同のふとまた黙ってしまったときにコーヒーとウィスキーが下から来た。真紀子は藤色の腕を延ばしそれをみなに配った。幾分とがり始めた男たちの気分もゆらめく真紀子の匂いにゆるみを帯んだ。久慈はウィスキーを取り上げようとしたときに、ふとまた真紀子の投げた枕もとの薔薇の花が眼に映った。さきほどまであれほど合理性の話に夢中になっていたときとて、その真紅の一輪を見ると、突然自分の話のひどく事物からかけ放れていたことに気がついて、ひとり悦に入っていた得度の優越した明るさも、苦笑に似た淋しさに変って来るのだった。
 ――しかし、合理性を信じることのどこが悪い。これで良いのだ。
 とまた彼は思い直して高に対いおだやかに云った。
「日本人のインテリというのは、高さんたち中国の人人や西洋のものが思うよりも、もっと、影響や恩恵を受けたということを感謝し敬愛する風習があるのですよ。ですから日本人は中国へむかし遣唐使を派遣して、文明を日本へ取り入れたというようなことでも、歴史ではっきりこれを書いて感謝をさせることを忘れていないのですね。そこを中国のインテリは、いや自分の方は教えたのだということだけを、いつまでも忘れぬ癖がぬけないんじゃないですか。中国の歴史家は他国から受けた影響を書かない癖が、どうもあるように思われるんですがね。」
 久慈の少し露骨な質問に対し高は答え難そうに笑ったまま黙っていた。
「そういうこともあるでしょうが、僕らは東京の学校で習ったのですから、やはり日本は懐しい思い出の国です。西洋で習った人もそれぞれ同じように思っていますから、帰っても、思ったことがそのまま表現出来なくなるのですよ。今はまたそれが一層僕らには難しいときですから、うっかりして日本は良いなど云ってはひどい攻撃を受けます。」
「誰かもそんなことを云ってたな。それだから日本の女は良いと云って、女だけを賞めるのだと。そんなら無事だそうだ。」
 矢代の云うのに久慈は真紀子に対い、
「君、聞いた?」
 とおどけた風に訊ねた。
「そういうことだけは忘れないわ。」
「女は賞めるに限るとワイルドはいうからね。ね、千鶴子さん。」
 と久慈は今まで黙っていた千鶴子を前へ引き出すようにして云った。
「矢代は君のことを賞めたことがないのだが、君も少し賞めさせなくちゃ駄目だな。僕が代りにあなたを賞めてやってるようなものだから、頼りないよ。」
「まだ修養がたりないのね。あたしたち。」
 と千鶴子はコーヒーを上げて応酬した。
「修養の不足は矢代の方だ。」
「君だって豪そうなことは云えないぞ。遣唐使も終りのころは堕落したからな。用心をしてくれ。」
 久慈は何んとなく矢代がもう今日の自分と真紀子のことを暗に睨んでいるような錯覚に陥りかけ、また視線が自然と寝台の薔薇の方へ向きかかろうとするのだった。
「遣唐使が堕落したのは、そのころの唐が滅亡の前で頽廃していたからだろ。何も遣唐使の方に罪はないよ。」
「ところがそうとばかりは云えないのだ。何んだって唐朝唐朝で、ひどいのは日本の衣物の襟を唐流に右前に流行させたこともあるんだ。新羅の方へいっていた留学生は、これは質実に勉強したらしいんだが、唐の方へ行ったものは堕落したのが多い。子供を造っては次の遣唐使に官費を持って来させたり、身を持ち崩して唐朝の厄介になったり、いろいろしてるよ。円載なんどという坊主は、入唐僧の間でも排斥をくってお負けに帰りに沈没して溺死してる。歴史に現れている人物の名だけでも留学生は百五十一人もあるんだから、この他に三倍はあったにちがいないとして、それなら今のパリへ来るみたいに随分これで堕落して帰ったのもいるんだよ。」と矢代は暗に納めた鋒を出し始めた。
「しかし、そういうのはあながち堕落とはいえないからな。何かそれぞれこれで役に立っているんだ。ただ歴史家が堕落と見てそのように書くから、そういうのは歴史家の堕落かもしれないね。」
「とにかく、現れたままだと堕落もしたのだよ。それも堕落するだろうようにあの当時の長安はなっていて、ただ唐朝の文化だけがあったのじゃないのだね。印度や西域や波斯《ペルシャ》、それから大食《タージ》、イラン文化までずらりと長安に並んでたんだから、まるで今のパリみたいだ。ところがそのころの日本にだって、天平六年に、唐招提寺を興した鑑真などという中国の坊さんは、如宝という建築彫刻の名人の西域人や、印度人や、中国人を二十四人もつれて帰化して来たものだから、イラン文化も同時に伝ってしまったのだ。そこから見ると源氏物語が平安朝に出たなんか当然なんで、仏像にしても奈良朝の天平八年に菩提とか仏哲などという印度人が日本へ来て、イラン文化というようなヨーロッパ文化の発祥みたいなものを仏像として日本に入れてしまっているよ。だからどこの国がどこから影響を受けたなどといちいち云っていたとてきりがないので、そんなことを云い出せば、どこの国だって必ずどこかの影響なしには国は成り立ってはいないのだ。ところが、ただ僕らに一番不思議なことは、科学という合理性が文明を起してはまたそれを滅ぼして他に移っていくことだよ。三段論法は結局は人間を滅ぼすのだ。」
 矢代はもう傍に高のいることも忘れたらしくだんだんと高潮した声で云った。久慈は二人の意志の擦れ違うところを感じまた乗り出した。
「つまり君は、結局非合理を人間は愛しなくちゃならんというのだね。」
「いや、人間から非合理がとれるかというのだ。とるなら取って見よというのだ。」
「じゃ、近代は間違いばかりをやってるというようなものじゃないか。君は近代の間違いばかりを指摘して、これの利益や恩恵を感じないのだ。しかし、近代はもう何んと云おうと近代に這入っているんだから、これの幸福を僕らは探さなくちゃならん。君はその不幸ばかりを探して歩いているのだ。」
「君は合理ということをそんなに尊敬するのか。」
 と矢代は悲しそうな声を出した。
「するもしないもないさ。頭と合理だ。政治じゃない。」
 と久慈は傲然として答えた。
「そんなら君は、ここのヨーロッパみたいに世界に戦争ばかり起すことを支持してるのだ。合理合理と追ってみたまえ、必ず戦争という政治ばかり人間はしなくちゃならんよ。それは断じてそうだ。日本は世界の平和を願うために、涙を流して戦うというようなことが、必ず近い将来にあるにちがいない。」
 高がいるためでもあろうか、このように終りを戦争に結んだ矢代の眼は、きらきらと電灯に光りつつ涙のようなものを泛べていた。がっかりとした久慈は勢いを増した矢代にウィスキーを注ぎ、
「君もカソリックになって来たね。千鶴子さんに伝染ったんだろ。」と云ってひやかした。
「あら。」――千鶴子は意外なときに刺されたものだと思ったらしく眼を見張ったが、かすかに開いた唇の微笑には蔽えない嬉しさが洩れていた。久慈は千鶴子のその清潔な表情に瞬間いまいましい恨みに似た火のゆらめきを感じた。それも、もう真紀子とどうしても結婚しなければならぬのだと思うと、ますます千鶴子が惜しまれるのだった。しまった、千鶴子と結婚しとくのだったと。このように後悔する気持ちが、遽に過ぎ去った船中の思い出をも曳き出し、暫く彼は視線のやり場を失ったが、傍の真紀子にもう気兼ねもなく身体は露わにだんだん千鶴子の方へ膨れ傾いてゆくのだった。
「高さん、もっと召し上れ。昨夜はあんなに上ったじゃありませんか。」
 真紀子は高のコップにウィスキーを注ぐと急に自分も高を見詰めてコップを傾けた。すすめられるままに高は黙ってウィスキーを舐めたが、矢代に、
「昨夜はあれからモンマルトルへ行ったので遅くなりました。」と突拍子もなく笑った。
 アルコールの廻りも手伝い久慈は制御しきれぬ懐しさを千鶴子に感じるばかりだった。どうしてこんなに思い出が突然噴きのぼって来たものか、夜のピナンの沖に碇泊している本船へ小舟に乗って帰るときの灯火、黒い波にゆれる舷、顔に打ちあたる飛沫を手巾で拭う千鶴子の愁いげな眼――と幻のように南海の夜景が次ぎ次ぎに泛かんで消えぬ楽しみを思うにつけ、あれほど仲の良かった千鶴子とそのまま立ち切れてしまった旅の心の切れ切れな思いを、久慈は継ぎ合せてみたが、もう過去は再び戻りそうにも感じられなかった。
「どうも、おかしいぞ今夜は。酔ったのかな。」
 久慈は一寸立ち上ってみた。足がふらふらして赤い絨氈が廻って見える。
「やられた。」と久慈は云ってまた坐ると高に、
「高さん、中国の人は日本人が酔うと馬鹿にするそうですが、日本人は反対ですよ。僕らはすぐ人を信用してしまう習癖があるから、酔うのも早いのです。つまり恩恵を感じると忘恩の徒にはなれないのだな。」
「君は合理主義者すぎるんだよ。」
 と矢代は云って久慈のコップにまたウィスキーを注いだ。
「それやそうだ。酒を飲んで酔わないのは、不合理だ。高さん、あなたはフランスへ合理主義を習いに来たんでしょう。合理主義なら僕の味方だ。矢代はこ奴敵だからな。愛国心を履き違えているんだ。」
「馬鹿を云え。愛国心に合理の愛国心だの非合理の愛国心だのって区別あってたまるか。そんな区別をするのが、植民地の愛国心というものだ。」
「いや、合理の愛国心というものはある。これこそ新しく生じて来た近代の愛国心というものだ。これこそ新しい心の対象となるべき精神だ。」
 と久慈はむっくり起き上るように背を立てて矢代の方へ詰めよった。
「愛国心に古いも新しいもあるものか。あるからあるのだ。」
「あるからあるなんて愛国心は近代のものじゃない。これを変形して工夫を加えてこそ、世界の荒波が渡れるのだ。合理主義の近代に古典主義の愛国心じゃ、生れて来る青年は皆古典になっちまう。青年を古典にしちまったら、科学も死ねば、国も死ぬ。中国と日本の友好という外交一つさえ砕けてしまう。」
 猛然とした久慈の攻撃にどうしたものか矢代は意外に小さな声で云った。
「自分の心の中に人間は一つは良い所があると思ってるものだよ。それさえあれば、誰でも世界のものは、皆こんな心になってくれれば良いと願う一点があるのだ。そこから愛国心が生れるので、そんなところがら生れて来る感情に近代も古代もないよ。」
「そこじゃないか。」と久慈はテーブルを叩いた。「そこのところに生じて来る心がてんでに誤りを冒すから、これこそ間違いを冒さぬという一点を索すのが合理的なんだ。その批評精神から愛国心が起ってこそ健全というべきだ。」
「いや愛国心に理窟はない。中国のインテリの誤りは理窟で抗日抗日ということだよ、抗日抗日と云われれば、そんならよしッとこっちは肚を定める。一ヵ所で肚を定めれば、どこもかしこも戦争だ。そんなときに合理的愛国心だから人を殺さぬの、殺すのといったところで、むかしより合理的ならもっと殺す、非合理なら寛仁大度という非合理の見本みたいなもので、サイン一つでうまく片づく。とにかく僕は合理的愛国心なんて不合理も甚だしいと思うね。そのくせ誰だって愛国心だけは持っているのだ。」
「愛国心というのは人前で云っちゃ一層不合理になるばかりだから、今夜はやめよう。高さんに気の毒だよ。」
 久慈は高のコップにウィスキーを満してから、「今夜はお呼び立てしといてどうも。」と矢代の失態を詫びるつもりで高の方に会釈した。
「面白かったですよ。僕らにも問題ですから、僕ももっと考えておきます。」
 と高は云うと矢代の方を見て、
「矢代さんは雄弁家ですね。僕はあなたの非合理のお説もよく分りましたが、中国の一般の人間は自分に必要のないことは一切考えませんから、愛国心というものがないのですよ。それに長い間中国では軍閥というものが民心を荒しつづけましたから、これから逃げ廻ることばかり考えるのに急がしくって、愛国心からも一緒に逃げる練習も出来たのですね。日本の方では封建制度が完全に行われていたから、大名が変っても民衆は逃げる要がなかったでしょう。それが愛国心の強い原因で、また兵も強いのじゃないかと思いますね。中国はやはり、愛国心の満ちて来るまで抗日はやめられないんだと思います。」
 特に深い云い方ではなかったが、しかし、高の答えは誰から聞かれていても安全な答えだと久慈は思った。それに皮肉も考えればうっすらと混じっている。
「愛国心が満ちたらなお抗日が激しくなりはしませんか。」と矢代は訊ねた。
「ところが、中国は自分から他国へ手を出すよりも、他国に自分の国を譲ることの方がむかしから上手な国ですから、やはりいつでも譲っておくだろうと思います。その方が政府は安全ですからね。」
 高の言葉に第一番に声を上げて笑い出したのは真紀子だった。皆な同時に真紀子を見た。眼の縁をぽッと桜色に染めた真紀子はうるんだ瞼を眠むそうに開け、何がおかしいのかひとり倒れんばかりにげらげらと笑った。久慈は急に腹立しくなって真紀子を睨んだ。見るともなく久慈の視線を感じたらしい真紀子は彼から眼を反らし、
「だって、そんな面白いお話はないわ。おお面白い。中国は面白い国だこと。」
 危くくねらせた斜めの体を、椅子の肱で支えようとしたその拍子に、片手の指に挟んだ煙草の火が、テーブルの縁に擦れぼろぼろと崩れ落ちた。
「何んです。そのざま。」
 久慈は足で絨氈の上の煙草の火を踏み消して云った。
「どうして悪いの。高さんがいらしたって、いいじゃありませんか。」
「失礼じゃないか。」
「だって、ゆうべもお世話になったんだわ。ね、高さん、もっとゆうべはお世話になりましたわね。」
 光って来た眼を高の方に上げた真紀子の鼻孔が大きく膨らみ、赤く濡れた唇が嘲笑を泛べて久慈に反抗するのだった。
「あなたはもう寝なさいよ。疲れが出たんだよ。」
 久慈は真紀子の脇に手を入れ寝台の方へ立たせようとすると、ぐたぐたになった真紀子の身体が、突然強く緊って底から久慈を突き除けた。
「あちらへ行ってよ。あたし、高さんと議論をするのよ。あなたのなんか聞いてられない。合理だの非合理だのって、何んなのそれ。」
 起き上ると、皆の眼をさもうるさげに視線を反らし、真紀子は半眼のままコップを手にとった。
「駄目だよ。馬鹿ッ。」と久慈は呶鳴りつけた。
「煙草。」
 真紀子は久慈の方へ手を延ばした。真紀子のどこにこんな放埒なものが潜んでいたのかと、久慈の驚きあきれて見ている間に、高はもう煙草を真紀子の方へ出していた。
「有りがとう。」
 真紀子はちょっと高に笑顔を向け、ライターを点けた彼の火の方へ跼んでから、また久慈に、
「あなたはもうお帰りになって。面白くない。煙草といえば煙草下さればいいわ。何を観察してるの。」
 久慈は下顎を強く蹴りつげられたようだった。煮えたぎってくるような怒りを圧えているうちにも、ますます喰み出して来る真紀子の美しさに呼吸も荒くなり、くるりと窓の方へ向き変った。
「不合理極まるぞ。」
 久慈の呟いた苦笑にどッと笑いが立ったが、すぐまたぴたりと静かになった。
「何を云ったの。何んだか云ったわね。」
 真紀子は向うを向いた久慈の背を自分の方へ廻そうとして、にたりとした笑みを泛べ、彼の腕の付根を引っぱりながら、
「こっちを向きなさいよ。何も羞しい人いないわ。皆さん船の中の人たちばかりよ。ね、千鶴子さん。あのころは面白うござんしたわね。香港のロマンス・ロードで、春雨の降って来た中で、海を見てあたしたち蜜柑を食べたでしょう。あんな美味しい蜜柑って生れて初めてよ。ああ蜜柑を食べたい。――アデンも良かったわ。塩の山があって、駱駝に乗った隊商が風に吹かれていて。――ほら、あの塩の山のあるところで高さんたちの自動車と会ったじゃありませんか、あなたはヘルメットを冠って、赧い顔をして手を上げたわ。」
「くッ。」と久慈だけ低い声で笑ったが、皆の者は共通に匂う潮の香を浴びた思いで柔いだ眼になった。
 久慈も千鶴子と仲良くなったのは香港あたりからだった。そのころはまだ真紀子は久慈や千鶴子とグループが違っていたので、むしろ真紀子の組と近づきだった矢代の方が、彼女の様子をよく知っているというべきだった。多分真紀子の今話した航海の思い出も、矢代にそのころの何事かを思い泛ばせようがためかもしれぬと久慈は思った。
「良い御機嫌だね。」
 久慈は暫くしてからまた一座に加わった。しかし、そのとき、今までぴちぴち跳ね上るように饒舌っていた真紀子は、急にがくりと千鶴子の膝の上へ折れ崩れて泣き出した。
「あんなことはもう無いのだわ。あんなこと、みんな夢だったんだわ。」
 あまり激しい真紀子の変化に誰もびっくりしている様子だったが、主人と離別して来ている淋しさの噴きこぼれた乱れであろうと、手をつかねた視線のまま蠢めく真紀子の際立った背の白さを眺めるばかりだった。
「もう眠みなさいよ。今夜はこの人疲れてるんだ。」
 久慈は真紀子をひき起そうとして寄ってゆくと、気を利かした高は立ち上って帰る挨拶をみなにした。
「いいんですよ。あたし、泣いたりして御免なさい。何んでもないの。」
 謝る真紀子を千鶴子と矢代は慰めながら立って帰ろうとした。真紀子はそれも引きとめたが、もう十一時を過ぎたからというので、皆はそれぞれ部屋の外へ出ていった。潮鳴りの退いたような静かな廊下に立った久慈と真紀子は、顔も見合さずまた部屋へ戻って来た。真紀子はもう久慈に物を云おうともせず寝台の上へ倒れてまた泣きつづけた。
 久慈は自分のいた椅子に凭れひとりコップを舐めていたが、だんだん嗚咽の声が鎮まるにつれ、真紀子に突き刺さろうとしていた棘も朧ろに凋んでいくのを感じた。
「もう良いだろう。ここへ来なさいよ。」
 と久慈は云った。真紀子は素直に起きて来ると、小娘のような初初しさで少し膨れ、久慈と並んで椅子に腰を降ろした。久慈はコップを真紀子の前に置き軽く溜息をつきながら、
「もう少し飲みなさいよ。」と云って顔を見た。
「駄目。」
 久慈は残っているウィスキーをコップに二はい続けて上げると、今度は妙に調子のとれぬ頓狂な速度で急に彼に廻って来た。しかし、彼はまだ飲みつづけた。肱がテーブルから脱け落ちるのを支え直しているうちに、叫び出したいような腹立しさが昂じて来たが、それでもまだ彼は飲んだ。すると、もう何か脱れたような勢いになり、注ぐのに壜もうまくコップに当らずただかちかちと鳴るだけになって来た。
「あなたもうおよしなさいよ。駄目だわ。そんなに飲んじゃ。」
 真紀子ももう真剣になってとめた。が、真紀子にとめられればとめられるほど久慈は一層やめられなかった。何んとなく腹立たしさが真紀子の物いう度びに高まって来て、もう抑えることが出来なくなった。
「みんな不合理な奴ばかりだ。何んて不合理だ。」
 と久慈は云うと、くらくら廻るように見える部屋の一点を見据えて立ち上ったが、もう足がきかなかった。あたりの椅子の背を伝い寝台の傍まで行って真紀子の投げた薔薇を掴み自分の胸へ差そうとした。しかし、それもうまく差さらなかった。
「あたしが差してあげますから、じっとしてらっしゃいよ。じっと。」
 真紀子が久慈の胸に薔薇を差そうとしている間、久慈は真紀子の肩を掴んで揺り動かした。
「合理がないなんて、そんな馬鹿なことがあるか。ちゃんとあるよ。ここにだってあるさ。」
「そんなものありませんよ。」
 真紀子は薔薇を差す真似をしてから久慈の上着を脱がし、毛布の下へ彼を寝せようとしたが、また久慈はむっくりと起きて来た。
「あるじゃないか。見えるぞ。はっきり見えて咲いてるぞ。」
「何んで馬鹿なこという人でしょう。みんな咲いてますわ。」
「ふん、不合理が咲くか。」
 真紀子は別れた前の良人を扱い馴れた手つきで器用に久慈の靴を脱がし、ズボンを脱がしネクタイも手早く引き脱してから彼を寝かした。仰向きになって眼を瞑っている久慈の眼から涙がしきりに流れて来た。
 真紀子は窓をあけあたりの乱れを片附けてから部屋の灯を一つずつ消した。そして、最後に枕もとのを一つ残したその傍で、前跼みに小さくなって煙草をひとり吸っていた。ときどき彼女は頭をかかえたまま身動きもしなかったが、そのうちに声を忍ばせて静かに泣き始めた。声に混じり煙草の火で頭髪の焦げ縮れる音がじじッとした。

 ――仕立てたばかりの格子模様の洋装で久慈の母が立っていた。久慈は母の紺色の襟飾が長く下まで垂れているのを見上げ、海軍の将校服に似ているねとひやかした。真紀子は傍から張りのある声で、
「これはあたしがお見立てしたのよ。そんなに云わないでちょうだい。」
 と云いながら、またぴんぴんと母の服の裾を下へ引っぱった。
 これはおかしいと久慈は思った。自分が眠っているのか眼が醒めているのかよく分らなかったが、起きているのだと思うとそのようにも思われた。すると、下にいた筈の母親が今度は二階から降りて来て、自分を呼んでいるような気持ちもするのだった。どうもそれが夢らしいようにも思われて来ると、
「馬鹿な。お母さんパリにいる筈ないや。」
 とこう呟いた。それでも母は洋服の似合ったことを真紀子に賞められ、絶えず嬉しそうにそわそわとしていた。
 どれほどたったか分らなかったが久慈はそのうちに眼が醒めた。咽喉がひどく渇いていたので起きて枕もとの電気をつけ、浴室へ水を飲みに立っていった。冷たい水が食道を流れ下る明瞭な重みに急に彼の眠気も醒めて来た。毛布が眠っている真紀子の曲げた膝のままに高まり、小さな黒子のある上唇がかすかに赤く跳ねて灯を受けている。彼はそれを見ていてももう一度その横に眠る気持ちは起らなかった。椅子に腰かけたまま暫くさきほどの母の夢を考えていると、今度は夢とは違い、自分の眼だけ異様にはっきり部屋の中を見ていることが、寒む寒むとした快感に似た安らかな含みに感じられて来るのだった。
 久慈は真紀子を起さぬように足音を忍ばせて靴を履き、それから服を着てそっと部屋を脱け出した。ホテルの外の通りはもう一人の人影もない、全く深夜だった。狭まった高い建物の彫刻の間で早く雲が動いている。石壁に沿って宿の方へ帰ってゆく靴音も久しぶりに自分の音らしく聞えて来た。
 彼は両手を振り振り危くこの自由を無くしてしまうところだったと思うと、真紀子から逃げて来た歩調が充実したものに感じ、石壁に閃めく影も主人の自分に秋波を送っているように見えて、
「よしよし。」とひとり頷いた。
 ホテルの前まで来たとき、視界に誰一人もいない美しさに久慈はすぐ中へ這入る気にならず、通りのベンチに腰を降ろして煙草に火を点けた。冷えきった真直ぐな通りの両側に並んだマロニエの幹が、森森とした静けさで一点に集中していくその直線の見事さ、結晶物の光りのような瓦斯灯が夜の放射の鋭さとなって輝くその設計の巧緻さ。未来の夢が眼のあたりにつづいて青青とした呼吸をし、寒冷な人工の極地の一典型を展いて見せているような世界である。久慈はますます眼が冴えわたって来るばかりだった。
「もう俺は恋愛は出来ぬ。これは恋愛以上だ。あの恋愛のどこが面白いのだ。」
 と久慈は思わず呟いた。
 時計の針が真直ぐに自分の額を射し貫いて来るように、ある恐怖に似た整然たる理智の尊厳優美な冷やかさが、このようにも人間に美しく見えるとは――これは何んという奇怪さだろう。
 久慈はもし自分がこの世で望むならば、これ以上の美しい恋愛の対象を望むばかりだと思った。しかし、そんなものがどこにあるだろう。あれば母親たった一人よりない。彼は悲しみを斬り落してくれた刃を見るように沁みわたって来る瓦斯の光りを仰ぎつづけた。重なり合った木の葉の細部にわたり、静かに通う一葉一葉の水流の上下も聞きとれるかと思われる瞬間の通過に、どこ一点の狂いもなく秩序は保たれつつ完璧な営みを繰りつづけているこの神秘――しかし、それもこれも皆人間の意志がしたのだった。合理を望んでやまぬ人間の智慧がしたのだ。
「しかし、合理とは何んだろう。」
 もう久慈はそこまで触れると答えることが出来なかった。彼はベンチから立ち上り、マロニエの幹の下の瓦斯灯の光りの集中している一点の方へ歩いた。
「徳修まらず、学講ぜず、不善改む能わざる是れ吾憂なり。」
 ふと孔子のそんな言葉が口から出て来たが彼にはそれも汚い言葉のように思われた。長い石の塀に添い樹木の幹の続いている前方の鋪道が坦坦としているにも拘らず、傾いた坂のように見える。久慈はその光線の斜角を縮めていくうちに一匹の犬が真向いの建物の下から出て来た。今まで自分ひとり美の世界だと信じていた楽しみも急に破られ、彼は近よる犬の姿を黒い毒液のような不潔な濁りに感じて見ていたが、それでも近よって来ると懐しかった。彼は蹲み込んだまま犬の下顎を撫でて、
「おい、こら。何んというんだ。」
 と日本語で云った。犬は黙って首を膝へ擦りよせて舐め上ろうとするのを、彼は顔をひきつつまた同じことをフランス語で云ってみた。筋骨の見える痩せたセッタアは両足を腕にかけ眼を光らせ、日向臭い毛並みを垂れて彼を見詰めていた。前脚の蹠がぷよッと冷たく手の甲に感じるただ一疋の生物である。視界に肉眼と云えばそれよりない眼の光りに久慈も犬の首を強く抱き締めた。腕の中に皮膚をそのままにさせながらも、骨骼だけ彼の方へ延び上ろうとする犬の動きを感じると、久慈もだんだん感動を覚えなかなか放れることが出来なくなった。
「お前、毎晩ここへ来なさい。そうすると俺も来るよ。」
 久慈はそう云って頭を撫でているうちにふと千鶴子のことを思い出した。行く手の鋪道を集めている広場から左に折れた所に千鶴子のホテルがあった。彼は通りから見えるその部屋の窓の下まで行きたくなってその方へ歩いていったが、犬も暫く後からついて来た。
「もう帰れよ。また明日明日。」
 久慈は振り返り振り返りして犬から遠ざかった。しかし、今夜に限りどうして千鶴子の純潔さがこのように美しく見えて来たのか、考えれば不思議だった。灯の消えている千鶴子の部屋の窓が五階の上に見え始めると、胸がそわそわして来て胸を一寸揺ってみた。
「どうも変だ。こんな筈はないんだが。」
 とこう彼は呟きながら下から上を仰ぎつづけた。これや恋愛じゃないか、馬鹿馬鹿しいとまた思うと、引き返そうとしたが、丁度良い具合に手ごろなベンチが広場に見附かったのでそこへ腰を降ろして煙草を吸った。窓を眺めながらも、久慈は、完全に慕い合っている矢代と千鶴子の横からこうして自分の羨望している図を思い描き、ひとり手出しの出来ぬ悔恨に淋しくなって来るのだった。
「どうもあ奴たちの恋愛は立派だ。これを壊してなるものか。」
 とまた祭壇を拝むように高い窓を見詰めつづけ、いまいましい感情の鎮まるまで久慈はそこから動かなかったが、一つは、後へ引き返せば自分のホテルへは戻らず前を通りぬけて、また虎穴の真紀子のホテルへ舞い戻りそうな危険を感じたからだった。事実、深夜のベンチに坐っているこのおかしな姿も、半ばはも早や真紀子から逃れ切れない予感のためでもあり、今や沈もうとしている身にとっての一握の藁が千鶴子の窓だとは、われながら思いもかけなかったこの夜の失策だったと久慈は苦笑するのだった。
 ベンチの鉄が露を噴いて冷たく背に応えて来た。久慈は真紀子の寝台の上で見た夢にもし母が顕れて来なかったら、あのとき限り自分は危なかったに相違ないと思った。
 しかし、駄目だ。明日も明後日もあるのだ。危険はとうてい母の夢だけでは防ぎ切れぬ。それならひと思いに真紀子の傍へ戻ろうかとまた久慈は考えた。彼はベンチから立ち上ると千鶴子のホテルの入口へ行き肩で戸を押してみた。戸は無造作に開いた。すると、中へ這入ろうとも思わぬのにもう玄関へ這入り、階段を昇っていった。今ごろは寝入っている最中にちがいないと思ったが、ふともし今ひと眼でも千鶴子に会えれば、どんなことで身に迫っている危機を脱せぬとも限らないと思うある希望に曳かれ、足は気遅れなく戸の前まで進んだ。暫く彼はドアを叩いてみたが千鶴子の起きて来る様子はなかった。久慈は灯のまったく消えた廊下に立ったまま意想外な大冒険をしている自分に気がつき、それではまだ宵に飲んだ酒気から醒めてはいないのだろうかと怪しむのだった。しかし、ドアをまた叩きつづけているうちに千鶴子の起きて来たらしい声がした。久慈は鍵穴へ口をつけ、「僕、久慈だ。久慈。」と呼んでみた。鍵の廻る音がしてから問もなく千鶴子は眠そうな顔でドアを開けた。
「遅くから失礼、一寸、急用が出来たのでね。」
 と云って久慈は、千鶴子の顔を見ず中に這入り椅子に腰かけた。海老色のガウンを着た千鶴子は寝台の裾の方に坐って、
「もう夜が明けるころよ。よく寝入っていたのに失礼ね。」
 と両頬を撫でながら不平そうな笑顔だった。
「今夜きりでもう起さないから一寸つき合ってもらいたいんだ。どうも弱ったんだよ。」
 久慈は椅子の背へ頭を倚らせるいつもの癖を出し、幾らか馬鹿らしそうな微笑で何から話せば良かろうかと考えた。
「どうしたの。お酒まだ醒めないんじゃない。そんならいやよ。」
「いや、酒は醒めてるから大丈夫だ。矢代にも僕の来たこと黙ってるから、君もそれだけは云っちゃいけないよ。」
 こう云い終ってから、しまったと久慈が思った瞬間、もう千鶴子の顔色は変っていて今までの眠そうな色はなくなった。
「君、心配しなくたっていいよ。僕の来たこと知れたってどこが悪い。そんなことが悪いようなら今ごろ来るものか。」
 久慈は強く畳みかけるように千鶴子を制して一寸黙ると、俄かに腹立たしさが込み上げて来た。二人の仲人役をしたのは自分だのにそれを恐れるからには、そんなら一層恐れさせるぐらいなことは知っているのだと、暫く彼も無言のまま緊張するのだった。しかし、いかにも深夜でなくては思いもよらぬ二人の争いだと気がつくと同時に、久慈はマリアを訪うつもりで戸を叩いた今までの決心も、変りはてた気持ちに転じたものだと苦笑した。
「今夜は真紀子さんと僕、お話にならぬことが起って飛び出て来たんだよ。君たち帰ってから酔っぱらってしまって、そのまま今まであそこに寝てたのさ。ところが、お母さんの夢を見て眼を醒したら、だんだん怖くなって実はこっそり逃げて来たんだ。千鶴子さん君どう思うかね。もし僕がうっかり今日のようなことを明日も続けたら、どうしたって真紀子さんと結婚しなくちゃならんと思うんだが、あの人と結婚して女の人から見た場合どう思えるかね、それが訊きたくてやって来たんだ。僕はどうもそれが面白い結果になろうとは思えないんだがね。」
 足さきを見詰めながらときどき慄えるように肩をつぼめていた千鶴子は、初めて納得のいった様子だった。
「でも、真紀子さんの御主人まだウィーンにいらっしゃるっていうお話よ。そんならやはり遠慮なさる方がいいと思うわ。」
「別れて来たというんだよ。」
「でも、そうかしら、ほんとうに。」
「そこは分らないが、しかし、一人こんな所に細君をほったらかしておくというのは別れた以上だからね。ついそれで柄になく同情したのが始まりさ。だって、あんな危い日本人がパリでひとりふらふらしているのを見てられるものか。どこへ転げ込むか分ったものじゃないよ。それでつい、倒れ込むなら一緒の船で来た縁故もあるから、当分はと思って油断してたんだけれども、お袋の夢まで見ちゃ帰って叱られるに定っているし、さてと考え直したところなんだ。実際、僕の身になってみてくれ給え。むずかしいぞ。譬えばまア失礼な話だが、君のような人なら僕は威張ってお袋の前へつれて帰れるけれども、他人の細君じゃね、だいいちお金もうお母さんくれやしないや。」
 千鶴子の顔さえ見れば良いと思って上って来たためか、何んとなく久慈は嘘ばかり自分が云っているように思えてならなかったが、しかし、まだ嘘はどこ一つも云ってなかった。
「あたし、真紀子さんはウィーンから御主人お迎いにいらっしゃるの、お待ちになってるんじゃないかと思うの。きっとそうよ。」
 さきから羞しそうに顔を染めていた千鶴子は、赧らむ自分の顔に急に元気をつける苦心で背を延ばした。
「とにかく、僕は矢代より君の方がさきから知り合いだから、こんなときになると、どっと君にもたれかかってしまいたくなるんだね。まだ僕らは旅の途中なんだよ。何が起るかしれたもんじゃないのだ。まったく今日はしみじみとそう思った。もう自分がさっぱり分らん。いったい、自分とは何んだこれや。」
 ふとこう呟くように云ってから久慈は壁を見詰めたが、何を云おうともう知れている答えばかりだと気がつくと、云いようもない退屈さを感じてまた俯向いた。膝から延びた千鶴子の透明な足首に泛き出た毛細管の鮮やかさが、鋪道で飛びついた犬の蹠のひやりとした冷たさを思い出させ、あれからこれへと渡って来た自分のこうしているさまに、また久慈は溜らなく不快になって来た。
「ああ、もう眠い。帰ろう。」
 と云って久慈は立ち上った。そうして、二三歩部屋の中を歩き廻ってからまた千鶴子の横へ並んで一寸腰を降ろし、
「ね、どっかへ明日から逃げてってればいいね。スイスへでも暫く行って来ようかな。」
「そうね。その方があたしはいいと思うわ。」
「ひとりじゃしかし淋しいなア。」
「でも、あなた真紀子さんを愛してらっしたんじゃないの。あんなに。」
「君にまでそう見えたかね。」
 と久慈は歎息するように云って後へ長くなった。片手を寝台の上へつき顔だけ久慈を見降ろすようにしている千鶴子の顎が柔く二重にくびれて見える。久慈はもうここから帰りたくないと思えば思うほど、いつの間にか越し難い二人となっている遠慮を感じ、延び出そうとする意志をひき締めひき締め、さも何事でもなさそうに下から千鶴子を仰ぎつづけるのだった。
「まったく考えれば馬鹿馬鹿しいと思うんだが、しかし、君、明日の朝になればきっとまた真紀子さん、僕の部屋へやって来るに定ってるんだからね。そしたらもう逃げられないや。逃げるなら今のうちだ。」
「じゃ、危機一髪ね。」
「そうなんだよ。後数時間の運命だ。」
 こう云って久慈は笑いながらも、危機一髪は実はこちらの方かもしれぬとじろりと千鶴子の眼を見上げた。
「でも、そんなこと、そんなに難しいことなのかしら。あたしなら何んでもないことだと思うけれど。」
「そんなに簡単に思えるかね。別に愛してるわけでもないのに、愛してるのと同じような顔ばかりして見せなくちゃならんというんだからな。」
「そんならあなたがいけないんだわ。そんな顔をどうしてなすったの?」
 もう同情はやめだと云いたげに千鶴子は久慈から眼を放した。
「だって、そうだよ。そんなに嫌いじゃなくちゃ、お前を嫌いだなんて顔は僕には出来んよ。まア少し好きなら、その程度の親切はしたくなるのが男というものなんだからな――僕は君みたいに、そんなにはっきり出来る勇士じゃないんだ。明日の朝真紀子さんに来られれば、何んとか嘘をついてまた一日親切な顔をしてしまう。だから、君に相談に来たのさ。君の顔でも見れば逃げられるかとふと思ってしまったんだ。」
 これだけは云うまいと思っていたことをうっかり口にした久慈は、そんなにすらりと自然な告白が出来ると、急に気持ちの落ちつくのを感じたが、しかし、千鶴子には気附かれていないにちがいないと思うとそれもまた安心になり起き上った。
「むかしのよしみですからね。だって、僕はこんなとき、どこへも行けやしないじゃないか。どこへ行くのだ。」
「どういうことかしら。真紀子さんにあたしからあなたの気持ちお話すればいいの。そんなら明日でもお話してみてよ、真紀子さん何んと仰言るか分んないけど。あんな人だから、あなたのようにそんなに、心配なんかしてらっしゃらないんじゃないかしら。」
 強いて聞えないふりをしているかと思える千鶴子の伏せた瞼毛の隈が、久慈と視線を合せることを避け静かにじっと沈んでいた。
「そんなことを話して貰っても困るね。事は大げさになるからな。こんな隠微なことは何んとかすらりと暗黙のうちに解決をつけなくちゃ、お互の恥だよ。譬えばもし真紀子さんと僕が結婚するような羽目になって、どっちも倖せになるような日が来たら、君に云われたことがまたどんな不幸な記憶にならんとも限らないさ。だから、今夜のことだって、君ひとりの胸の中に仕舞っといてくれ給え。濫りに口外されちゃわざわざお話した甲斐がないや。」
 千鶴子は初めて明るく笑顔を久慈に向け、出かかろうとする欠伸を手で停めた。
「難しいのね、あなたたちのこと。」
「難しいんだよ。しかし、まア、あなたに会ってどうやら少し落ちついて来た。これで明日一日ぐらいは保つだろうな。」
 久慈は今は何んの気もなくそう云ったのだが、見ると、千鶴子の様子が突然前とは変って身を引くように肩を縮め、かすかな胴慄いをガウンの襞に伝えていた。真紀子の方へ片寄りすぎた舟底を、これではならぬと千鶴子の方へ傾け変えた自分だったのに、それも思わずまた傾けすぎている中心の取れぬ不安さに、このようなときこそ母が傍にいてくれたら支柱もぴんと真直ぐに立つことだろうと、久慈は母に代る何物かを想い描こうとするのだった。
「何んだかどうも僕の云い方がへんなんだね。そんなんじゃないのだよ。君の邪魔なんかしてやしないんだ。僕だってあなたのような清潔な人を、こんなときでも頭に泛べなければ困るんだからな。そうでしょう。こういうときこそ君のような人が藁になってくれるんですよ。ただいててさえくれればいいんだもの。矢代だって何も有り難がってくれりゃ良いのだ。そんなことぐらいしてくれなくちゃ何んの友達だ。僕は矢代にそのうち云うつもりですよ。」
 復縁を迫られた妻のように、千鶴子は何か云いかけてはまた黙って両手を寝台の上へついたままだった。
「何も僕がこんなことを云ったからって、そう君を苦しめることじゃないでしょう。何んでもないことだもの。どうして僕の云うこと無理があるかな。そんなら取り消しだが、ただ困ったときには困った工夫が僕にあったって、そんなことまで悪い筈があるものか。じゃ帰ろう。また会いますよ。」
 久慈は立ち上って千鶴子に手をさし出した。千鶴子は軽く久慈の手に触れ快活な声で、
「明日お昼ごろお邪魔しましてよ。」
 と云うと彼の後からドアを閉めた。早く明けるパリの夜がそろそろ白みかかって来た。久慈は自分のホテルの方へ歩きながら、さっぱり洗われたように気持ちが穏やかになって来るのを感じた。
「何んだか俺は云って来たが、しかし、俺の悩んでいるのは女のことじゃない。お袋に代るものがほしいのだ。ただそれだけだ。俺の云ったことはみなどうだって、あれはもういい。」
 久慈はそう思うと真紀子も千鶴子も暫くは想いの中から飛び去って、頭の振動を算えるように響く靴の音だけ耳に聞えて来た。

 久慈は正午近く眼を醒した。顔を洗いながら昨夜の出来事を思い出してみても、昨日と今日とは日が違うごとく何んの怖れの実感も感じなかった。歯磨楊子を啣え窓から通りを見降ろす眼に日光が強く射した。こんな天気の良い日にもし悩んでいるものがあるならそれは全く気の毒だと思い、昨夜はそれが自分だったのかと思うと、数時間の睡眠で人生はこんなに変るものかと驚くのだった。隣室のルーマニアの娘が小声で唄を歌っているのも恐らく何か歓びがあるからにちがいない。
「われ三十路半ばにして道に踏み迷う。」
 久慈はときどきダンテの悩んだそんな言葉も口にのぼって来た。しかし、自分にもし今日の悩みがあるとすると、真紀子にほんの少し事実を狂わせて嘘をつけば良いことだけだと思った。それも名医のように嘘を上手くつけばつくほどどちらも幸福になるのである。もし千鶴子に話したように本当のことをうち明ければ、真紀子に打撃を与えることは、あるいは計り知れぬかもしれない。それなら何ぜ嘘が悪いのだ。――
 久慈はそう思いながらも、しかし、自分は今日は本当ばかりを一つ真紀子に云ってみよう、そして、嘘を云うのと同じ程度に二人が前より一層気楽になってみようと思うと、それがまた今日一日の楽しみになって来るのだった。
 服を着替えコーヒーを※[#「口+云」、第3水準1-14-87]咐けたときドアの下に一枚差してある紙片を彼は見つけた。取り上げて読むとそれは真紀子でもう眠っているときに来たらしく、正午すぎ一時間ばかりルクサンブールのベルレーヌの前のベンチにいるから来てほしいと書いてあった。
 朝昼を兼ねたコーヒーを飲んでいると千鶴子が約束の通りに来た。いつもより瞼の脹れぼったく見えるのが新鮮な感じだった。長い廻り階段を昇って来たばかりで呼吸を大きく肩に波打たせながら、黙ってずっと窓の欄干の傍へよって来ると、何ぜかやはり黙って千鶴子は久慈を見なかった。
「昨夜は飛んだ眼に会せて失礼、君、お昼は?」
 千鶴子はもうすませて来たと云って前の建築学校の屋根の上を眺めていた。昼間だと男の部屋へ来るのも何んの怖れもないくせに、夜中だと一室に男といるのがあんなに不安になるものかと久慈は思い、昨日のような出来事の総てもあれは夜のせいだったからだと、何かそんなことが今さら結論めいて来るのだった。
「真紀子さんいらしって?」
「来たらしいんだが、眠ってたもんだから紙きれ置いて帰っていった。ベルレーヌの前のベンチにお昼からいるって書いてあるから、これから行って来なくちゃ。」
「そして、あなたどうなさるおつもりなの?」
 浮唐草の水色の欄干を背に千鶴子は唇の跳ねた皮肉な笑顔だった。
「しようがない。不善を改むこと能わざるは、是れわが憂いなりだ。論語をこれから講義しに行こうてんだ。」
「でも、あなた嬉しそうね何んだか。」
「今日起きてみたら、心境に少し変化が起ったんだね。昨夜は君を見なくちゃどうにもやりきれなくなったんだが――たしかに昨夜は君に僕は恋愛をしたんだ。君んとこの階段を上る前に、広場のベンチに腰かけて窓を暫く眺めてただけなんだよ。ところが、そのうちに胸がそわそわして来てね、これはいかんと思っているうちに、もう階段を上っていったんだ。ところが今朝になってみると、何アに、そうでもないんだよ。けろりとしてこの通りだ。危機だなアこれや。」
 パンをち切りながら暢気そうに云う久慈を、千鶴子は心細そうな眼で眺めていてから、
「じゃ、あたしも危機だったのね。」
 と云ってくるりとまた欄干に肱をつき窓から下を覗き変えた。
「いや、いろいろ理解に苦しむことが多いよ。これをいちいち説明して歩かなくちゃならんというのは、たしかに健全じゃない。君だって今日は僕を慰めに来てくれたんでしょう。」
「そうよ。だって夜中にひとりでいらっしゃるなんて、理解に苦しむわ。ドアなんか開けちゃいけないと思ったんだけど、何んか急用でも出来たんだと思ったのよ。ほんとにびっくりさせる方ね。もういやよあんなこと。」
「いや、事実急用だったんだよ。ゆうべ君の所へ行ってなかったら僕は今日は、こんなに暢気にしてられなかったかもしれないんだ。あのときはあのときでたしかに君が有り難かったんだが、どうも一つはあれも夜のせいらしい。」
 夜と昼とで人の心がこんなに違うならいつも違わぬものとはそんなら何んだ。と、彼はパンの上皮が唇を刺すのをへし折りながら、ふとまたいつもの念いに触れかかろうとしたとき、千鶴子は欄干から降りて来た。
「あなたみたいな人どうなるんかしら。あたしそれが心配だわ。」
 特に心配そうな様子でもなく訝しげな眼で千鶴子は久慈を見てから、洗面器の前の鏡に自分の顔を映してみた。ネビイブリュウの服色のよく似合うのもいつもと変らぬ千鶴子だったが、久慈は後ろから鏡に映った彼女の顔を眺めながら、今はこの人も突き放してしまった人だと思うと、何んとなく淋しい影を見る思いで冷えて来たコーヒーを飲み下した。
「君、今日はこれから矢代と会うの。」
「ええ、お約束よ。」
「そんな約束があるのに何ぜ僕のところへ来てくれたんです? 何も僕から頼んだわけじゃないんだもの。」
「あら、だって、久慈さんあんなに淋しそうなこと仰言ったじゃないの。よしみだなんて――。」
 頬を染めて少し早口で云う千鶴子の振り返った眼に、久慈はまだ揺らぐ心の閃めきを覗きとった歓びを感じたが、それも過ぎゆく人の視線の美しさかもしれぬと、また追いゆく心を沈めるのだった。
「千鶴子さんは、僕をこんなにしたのは自分の責任だと思ってるんじゃないかな。しかし、それならそれは間違いだよ。それや、君と僕とがマルセーユで別れてから君にとった僕の態度は、船の中とはお話にならぬ不親切さで、一度お詫びをしなくちゃならんと思っているんだけれども、僕のような青年が田舎の日本からぽッとパリへ出て来ちゃ、当分は頭がいやにくるくるするんだよ。実際、僕はしばらく日本のことなんか考える暇がなかったのさ。そこへ君がまた顕れたのだから、逆さになってる僕の足ばかりが君の顔に衝ったんだ。何も僕は弁解の要を感じるわけではないが、しかし、あれほど君と親密だったのにこんなになっちゃ、たしかに僕の方が君をそんなにしたんだからな。君が僕をこんなにしたんじゃないんだよ。」
「ほんとにあのころは、あなた親切にして下すったわ。」
 頼りのない声で千鶴子はそう云うとテーブルの上の新しいネクタイを手にとって眺め、
「いいわね。これ。」と久慈を見て笑った。
 過ぎた日のことを思い出す愁いは旅にはつき物とはいえ、特に二人の場合は息苦しい思いを増すばかりだったが、しかし、久慈は一度は話しておかねばならぬ機会が今よりないと気づいて来るのだった。
「もう少し聞いといて下さいよ。口説きにならんじゃないか。」
「お聞きしているのよ。」
 逆流して来る久慈の気持ちの泡立ちが突然胸を刺す眼新しい世界に感じたらしく、千鶴子ははッと立ち停ったように大きな眼で彼を見た。瞬間久慈も眼を見張った。
「何もそう改ったことじゃないよ。勿論、何んでもないことだけれども、とにかく僕にも云わなくちゃならぬ理由が一つはあるのだ。一度はあんなに心をひかれた人なんだから、云うことが何もないとは云えないからね。正直なところがそうですよ。君だってそうでしょう。」
 日ごろの親しさの雑談がいつともなしに捻じ固まり、真面目な相を帯びて来ると、思いもよらぬ火花の散り砕けた後の静けさを見る思いで二人の言葉は詰るのだった。久慈は静かに置いたつもりのコーヒー茶碗が銀盆の上で意外に大きな音を立てるのを聞くと、また置き直したくなるほど云うことが何もなかった。
「真紀子さん、待ってらっしゃるでしょうから、行きましょうか。」
 どんなことがあろうとも久慈にはそれ以上の何事も出来ぬと知り尽したような、落ちついた表情で軽く千鶴子は彼を誘った。それでは、事実は二人の間でどんなことでもなかったのだと久慈は知って、味気ない安堵の佗びしさのまま笑い出した。
「じゃ、真紀子さんのところへ行こうかな。」
 久慈は上着を着て部屋の暖まらぬように鎧戸を閉め降ろした。あたりが薄暗くなったとき、ふと急に千鶴子の身体が新しく膨れたように思われ、互に気づかなかった近接した羞しさにぎょッとしたまま、視線をどちらも脱すのだった。今まで話していたときよりもはるかに危い一瞬が、まったく意志とは関係なく不意にうろうろと身の周囲に澱むのを感じると、久慈は、昨夜はこれに一晩やられていたのだなと、また感慨が新たに蘇って来るのだった。
「さア、早く出なさいよ。」
 と久慈は千鶴子を部屋から追い立てるように云って、彼女の後からドアへ鍵を降ろした。
 矢代のホテルへ行く千鶴子は後からルクサンブールへ行くからと云い残して久慈と別れた。久慈はひとり公園へ這入っていった。樹の幹の間で毬を奪い合っている子供の群れの中を通り、編物をしている老婆たちの間をぬけ、左方のベルレーヌの立像のある方へ繁みを廻っていった時、背を見せた真紀子はベンチにかけて手帳に何かを書きつけていた。
「お待ちどお。」
 久慈は何んとなく争いの支度をすませた気持ちで、どさりと身体を投げ出すように真紀子の横へ腰かけた。
「俳句よ、こんなのどうかしら。」
 真紀子はにっこり笑いながらも久慈を見ず、眼を手帳に落したまま彼の方へ肩をよせて来て俳句を見せた。昨夜のことを一口も訊ねずいきなりこんなにして来る真紀子に、久慈は何ぜともなくたじろぎながら手帳を覗いた。
「とつくにの子ら眠りおり青き踏む――いいね。これは。」
 久慈はこう云って後方にある廻転木馬や遊動円木の傍の乳母車の中で眠っている幼児を見たり、前方に拡がった美しい芝生を見たりした。このあたりだけ繁みが枝を空にさし交して下に青い空洞を造り、少し窪み加減のその芝生の中央にベルレーヌの像が立っていた。
「円木の揺れやむを見て青き踏む――」
 手帳にはこんな句の他にも一つ、『人待てば鏡冴ゆなり青落葉』というのが消してあった。久慈はこれらの句を見ながらも、そのうち真紀子が昨夜逃げ出していった自分を責めるだろうとひそかに待っていたが、どういうものか真紀子は昨日のことには一切触れる様子は見えなかった。どちらもいうべきことのそれぞれ苦心を持っているときに、何んの前ぶれもなく俳句を持ち出した真紀子の機智には、これを意識して謀んだ彼女の術策かと久慈は暫く疑いもしたが、それにしても出来ている句には心の乱れや汚さがないのを感じ、描かれる明るい句境の気持ちのままほッとべルレーヌの像を仰ぐのだった。三人の裸形の女が下から狂わしげに身を搓じらせて仰いでいる真上に、ぬっと半身を浮かべたベルレーヌの烱烱とした眼光が、何物をかうち貫き、パンテオンの尖塔をはるかに見詰めて立っている。
 やはりこの泥酔ばかりしていた詩人も悩んだものは女人のことではなかったのだ。あれが男性の理想を見据えている眼だと久慈は思い、昨夜からの自分もそれに似ている困却の様子を何んと真紀子に報らせたものかと考えた。
「円木の揺れやむを見て青き踏む――その方がいいかな。」
 とまた久慈は呟くように云った。
「私もこの方がいいんじゃないかと思うの。」
「いいねその方が。意味が深いし、君の心境もよく出ていてなかなか美しいや。青踏派だな君は。」
 久慈は実際に自分たち二人の心中の遊動円木も、揺れやんでいる後の静かな会合のように進んでゆくのを感じ、心に暗示を与えてから徐徐に今日一日の青芝を踏みたいと希う真紀子の努力もよく分るのだった。
「もう一つ二つ作ってあなたから東野さんに見てお貰い出来ない。何んと仰言るかしらこんなの?」
 手帳を受け取ってそう云う真紀子の顔を久慈は見返りながら、
「駄目だ、東野さんこんなの俳句じゃない抒情詩だというね、あの人は俳句を踏み込みだというから、見せたってやられるだけだよ。」
「いいわ、その方が。」真紀子は笑った。
「しかし、俳句が踏み込みだなんて、よく分らないね。お負けに僕の足を踏みつけたからな。」
 久慈はこう云ったとき東野が足を踏みつけた後で、この痛みどこより来ると云ったその踏み込みの疑問を思い出した。まったくそういえば、ただこのように真紀子と静かにじっと並んでいるだけでは、二人にとって何事でもないのかもしれぬと思った。どちらも互に踏み込み合って乱れた後の静けさからは、まだ遠い自分たちだと気がつくと、ああ、まだこのままには済まぬぞと思い、また女たちを踏み下したまま前方をきっと高い眉毛で見詰めているベルレーヌの心境が、さらに深く内奥で拡がりわたって来るのだった。

 その日は真紀子は一日久慈に柔順で優しいばかりではなかった。昨夜とはうって変った淑やかさで化粧も絶えず気をつけ、彼を見上げる眼も細かい心遣いに生き生きと変化し、些細な買物にも久慈のままに随った。食事場も行きつけの店の一二は開店していたので昨日のようには誰も困らず、夕食のときは矢代や千鶴子と一緒に四人はドームで不便なくすますことが出来た。
 久慈はもうこの夜は真紀子と別れていることの出来ぬ、最後の夜になるだろうと覚悟を決めていたので、夕食のコーヒーになったとき一同に、
「どうだね、今夜はこれからみなでタバランへ行こうか。」
 と誘ってみた。タバランというのはパリでは一頭地を抜いて優秀な踊場を兼ねたレビュー館である。みなの者らはすぐ賛成したが、まだそれまでには時間が少し早かった。
 久慈はこの夜はあまりいつものように物を言わなかった。次ぎ次ぎに信じていたものが頭の中で崩れてゆく拠り所のない元気のなさで、食事をしている外人たちの顔もどれもみな鬱陶しく見え、ふと身体を動かすときにも、心の頼りになるのはこの椅子だけかと思ったりするのだった。それでもどうかした拍子に花嫁になろうとしている真紀子の、どこかの一点が突然美しく見えて来ると、行手に光りのさし始めたように心を躍らし、今のはあれは何んだったのだろうと、暫くは頭に残った印象を追ったりした。その度びに、
「まだ俺は美しさが好きなんだ。こんなに美しさが好きなところを見ると、まだ俺は外道なんだ。」とこう思い、そろそろ夜に入ろうとしている自分の変化を感じて来るのだった。
「ね、君。」と久慈は矢代の方を向いて云った。「僕はこのごろときどき思うんだが、近代人の求めている意志というものは美でもなければ真でもない、そうかといって善でもない、あるその他の何ものかだと思うんだが、どうかね君は。」
「じゃ、何んだ、悪か。」
 と矢代は事もなげに云ってのけた。久慈は我が意を得たという風に眼を輝かせた。
「そうだ、どうも悪に近いが悪じゃない。例えばこの電気を見たまえ。僕らの求めている電気に似たような、そんな精神は言葉にはまだ無いのだ。だから、たった一つの言葉を誰かが発明すれば助かるのだよ。それがないのだなア。」
 と久慈はぼんやりと電灯の光りを仰いで云った。
「愛とか智とかあるじゃないか。あんまり沢山ありすぎて、みんな馬鹿になってるのだよ。こんなにあっちゃまごまごして、何を拾ったらいいのか知らんのさ。遣欧使の堕落だよ。」
「いや、違う、一番肝腎のものがたった一つないのだ。それでみんな屑拾いになったんだ。電気を見てるとどうもそう思う。だいいち、これは物理学でもなければ化学でもないからな。そのも一つ向うの悪の華みたいなものだ。こうなれば、一切の言葉が無になったと同様だよ。」
 云い出せばまたきりもなく話し出し、争い出すのを感じて二人は黙った。千鶴子はその隙を見て一同に散歩をしようとすすめて立った。
「言葉が無になったら歩くに限る。」
 と矢代も笑いながら千鶴子の後につづいてカフェーから出ていった。前からの様子で久慈は、昨夜から今朝へかけて二度も千鶴子と会った自分を、まだ矢代は知っていないのだと、問わず語らず勘づいていたが、今はそれを云うべき時期でもないと思い、ただ一人それを知って黙っている千鶴子の巧みな装いに応じつつ、こちらも知らぬげにこうして歩いてゆくのは、秘密でもないある正しいものを秘密の色に包み隠し、やがてはそのようにしてしまう奇術に似た運動だと思った。それは忘れようと努力している二人にも拘らず、ときどき視線の合うある瞬間に、まったく二人から独立した生物のようにびりびりと繊細に慄え、振り落すわけにはいかぬ。どんなに遠く放れていようとも、またどんなに二人が嫌い合おうとも、どこまでも延びつづいてやまぬ稲妻のような意識だった。
 タバランへ一同の着いたときは九時を少し廻っていた。レビューはもう始まっていた。ここはそんなに広くはなく、舞台で二十人ほどの踊子のようやく踊れるばかりの浅さに、観客席の中央へ能舞台を床の高さに低めてせり出した客の踊場が附いているだけだったが、レビューとバンドの統一された見事さ、またその幕間に踊る客たちの踊りと、舞台のレビューの交錯する瞬時といえども停滞のない俊敏さは、心を巻き込む機械のような格調をもった時間となって流れ迫って来るのである。
 一同はシャンパンを舐めながら踊らずにレビューばかりを眺めていた。完全な均整を失わず踊る踊子の並列した裸体と、その一貫した筋肉の美を揃えた総体の開閉、収縮、屈伸が、ことりことりと鳴る単音のような明快さでつづいてゆく。――久慈だけは、ここは二度目だったが他のものは初めてだったから、最初の間は踊りの単調さに何んの感動もなく見ているばかりだった。すると、二幕三幕と淡淡とした確実さで進んでいくうち、間髪の間違いもない同じ調子の運動の持続に矢代は、
「これは素晴らしいところだ。」
 と先ず歎声を上げた。
「ほんとにこんなレビュー初めて見たわ。」
 真紀子も今までちょうど同じ興奮の伝わっていたことを報らせたい風だった。
 舞台から眼を放さない千鶴子も黙ってそれに頷いた。
 ところがその舞台の単調な体操に似た二十人の踊りが、弁を開いてゆく甘美な花のように次第に複雑な膨らみを示して来るのだった。
 久慈はいまに一同何んともほどこすすべなく陶酔していくだろうと予想していたが、自分ももう興奮を感じ始めた。
「これを見ていると、僕らはやはり東洋人だという気がして来るね。」
 と久慈は矢代に囁いた。
 踊子たちの胴から腰、腰から脚と眺めていても、緊った乳房の高まりは勿論のこと、腹部に這入った一条の横皺まで同一の人間の分散した姿かと思われるほど酷似した肉体だった。それらの筋肉の律動は、またバンドのリズムに無類に敏感な反応を示しながら、廻し眼鏡に顕れる六華のような端正な開きをし、閉ったかと思うと延び、廻転しながらも捻じれ、細片になっては綜合され、遅滞もなければ早急さもないある一定の、ことりことりという死のような単調さで総てが流れていくのだった。
「凄いなア。」
 久慈は見ているうちにそれが人間の踊りとは見えなくなって来て云った。真黒な天鵞絨の緞帳を背景にして、踊る人間の全系列を支配した幾何学模様のその完璧化は、名状しがたい華奢なナイフの踊りのように見えて来るのだった。そうして、幕が降りると、観客を中央へ吸いよせるバンドが急調子に噴き上った。
「踊りましょうか。」
 と真紀子はもうこれ以上見てばかりではおれないらしく久慈を見て誘った。久慈は真紀子と組み、千鶴子は矢代と組んで客たちの中へ流れていった。めぐる度びに矢代の背から顕れる千鶴子と久慈はときどき視線を合せた。しかし、千鶴子は、昼間の動揺を悔む手堅さで一層矢代への親しさを泛べ正しく廻った。千鶴子のその微笑に、久慈もまた自分の支えている真紀子をいたわるターンが深まるのだった。
 幕が上ると、客席へ戻る客たちの揺れやまぬ間に、もう舞台では空中に吊り下った月の輪を中心に、三つの弁となった人体のゆるやかな踊りが始まった。鳥の毛を頭にさした裸女の群れが、その皮膚を舞台いっぱいによせ合い、下からじっと月を仰いで動かぬ一面のローズ色の雲の形となり、静かに月に随って棚びき流れていく。すると、見るまに舞台いっぱいに拡った静かな雲の一端が、どっと溢れて客席の踊り場の中へ雪崩れ下った。そして、溌剌としたピッチの踊りに急変すると、旋回しつつ左右に分れてはまた一つに収縮し、月の吸引のまま再び舞台に逆流していった。その後を客たちは、潮にひかれる人の群れのように総立ち上って踊り場へ流れ込んだ。久慈は舞台の上と下とのそれらの踊りの合一していく壮観さに、思わず立って今度は千鶴子と組んで流れた。矢代も真紀子と組んだ。翻る度びに肩越しに閃めく真紀子の眼が青く光っては遠ざかりうっとりとした半眼でまた顕れる。舞台の空中の月は招くように銀色の輪から腕を延ばし、脚を廻し、雲と人とを見詰めては光りを放ち変えていくのだった。
「真紀子さん、今日はどんな御容子でして?」
 千鶴子は昼間の首尾も気がかりなのか胸を反らし、初めて久慈を仰いだ。
「なかなか平和でした。心配したほどのことでもないな。」と久慈は答えた。
「じゃ、やはりお定めになったの。」
「もう定めようかと思ってます。」
 久慈はそう云いながらも、あんなに自分を揺り動かした千鶴子の背中に、今こうして手を廻しているにも拘らず、真紀子との結婚の意志を決めたとなると、ぴたりと不安がなくなって来るのを覚え、何んと男女は隠微な動きをするものだろうと、遠ざかっている真紀子の方を見るのだった。
 上下の踊りがだんだん運行する宇宙の形を整えて来るに随い、その階調の中から顕れて来るように、離れていた真紀子の顔が軽快なターンをとって近づいた。すると、その半眼の瞼がまた久慈に昨夜の薔薇の記憶を呼び戻し、廻りすすむ自分の胸もその紅いの一点をめぐって崩れ流れていくように思われるのであった。

 窓にまで這入って来る雀の人馴れた囀りが下の繁みの中へ吸い込まれた。蛇口をひねり久慈は湯を洗面の陶器に満たしてから、石鹸の泡を腕までつけてたんねんに洗った。朝の光線に皮膚が少し青ざめて見えたが、擦るうちに腕は赤味を帯んで来た。
「今日はセザンヌの展覧会があるな。それをひとつ見に行こうや。すっかり忘れてた。」
「そうね。」
 真紀子は久慈のテーブルで手紙を書きながらうつろな返事だった。久慈はワイシャツを着替えると剃刀の刃を革にあて、一寸真紀子の首の延びた初毛を見てから顔を剃った。日光の射している右半面の石鹸を剃ぎとる傍ら、彼は出来事の起ってしまったことは今さら何を云おうと無駄だと、あるおだやかな観念に浸ろうとするのだった。
 男女が窮極にしてしまうことを、まったく前後も考えることなく行ってしまったこの朝の日光を尊く久慈は思い、不平も何もない一刻だったが、これを千鶴子に知らせて良いかどうかとちらっと一度は彼も考えた。
 恐らく千鶴子と矢代は自分と真紀子の行ってしまったようなことさえ、未来のこととして旅の気持ちをつづけているのにちがいあるまい。昨日の朝はここのこの鏡に千鶴子は顔を映し、
「それで、どうなさるおつもり?」
 と自分に真紀子のことを訊ねたのを久慈は思い出したりしたが、昨日と変ったこの一大変化が特別変った気持ちも起させず、むしろ平凡に静かなのが彼には物足りぬほどだった。
 食事をすませてから久慈は真紀子と銀行へ金を取り出しに行って、帰途チュイレリイの画館へセザンヌの展覧会を観にいった。画館をめぐった緑の濃い樹の蔭から朝の噴水が正しい姿で光っていた。まだ日光に暖まりかねた大理石の石階を踏みつつ、久慈はこれからセザンヌを見るのだと思うと、真新しいカラアを開くような豊かな喜びを感じて第一室に立った。
 あまり広くもない三室を連ねたばかりの会場に人は相当這入っていたが、それもうるさいほどではなかった。見渡したところ皆誰も帽子をとり声も立てず、お詣りのように静静としているのが久慈には先ず気持ちが良かった。絵も百四十点もあった。彼は一つずつ見て廻らず、中央に立ってざっと一度見廻してから、惜しむように最初にもどって虱潰しに覗き始めた。見てゆくうちに、どの絵も初期のセザンヌの正確な筆力の延長が狂いを起さず、自ら枝葉の延び繁った写実の深まりゆくさまを壁面に順次に現しているので、その前に立った黒い服装の真紀子の姿まで、きりりと締って無駄のない美しさには見えるのだった。
「一番普通のことをセザンヌはやったんだな。それが皆には出来なかったんだから、おかしなものだ。」
 と久慈は途中で真紀子に呟くように云った。そう云いながらも彼は、自分もごくありふれた日常の普通のことをそのまま普通に考えることの出来なくなってしまっている妙な頭に気がつき、ときどきはこのような絵も眺めて頭を正さねばならぬと考え、自分の頭のどこがどんな風に事実の正しさから曲り遠ざかっているかと、あらためて考え直して見るのだった。
「こんな絵を見ていると、迷いが起らないからいいね。果物だと取って食べたいように描いてあるだけだし、あの爺さんの絵だと、一つ冗談でも云って笑わしてやりたくなるから妙だ。何んの変哲もない絵ばかりだね。」
「そうね、それがやっぱり難しいのね。」
 と真紀子は頷きながら、手に刺さりそうな鋭い矢車草の葉のもり盛った花瓶の絵の前へ歩を移した。
 久慈は順次に見て歩くままに真紀子と放れていったが、ときどき真紀子の方を振り返ってみた。そして、彼は一度真紀子を見る毎に、壁面の絵を見るのと同様に彼女の姿をも眺めている自分だと思い、ただこうして人を見ただけのことを絵に描くとすると、これほども苦心をするものかとまた画の難しさを考え、連った二室のうちの一番奥の有名な浴みの絵のかかった部屋へ這入っていった。
 久慈の見たのでは、このセザンヌの晩年の東洋画のように渇筆を用いた画面には、もうそれから以後の人人の迷いくらんでゆくような、絵画上の手法の乱れる徴が顕れているように感じられた。前の二室に満ちているそれぞれの絵には、対象に集中された精神に簡略された軽さがどこ一点もないのに反し、最後の浴みには、未成品とはいえ画面の構図と線にいちじるしい精神主義が顕れ、も早や現実に倦怠を感じた画家の抽象性が際立って見えていた。それはまことに嫋嫋とした美しい線と淡彩から成っていて、カンバスの生地の色もそのまま胡粉の隙からいちめんに顔を出し、それが全体の色調の直接な基準色ともなり変っていた。
 久慈は鼻を浴みのカンバスに喰つけるようにして油の匂いまで嗅いでみてから、三室を幾回となく歩いた。暗くもなく明るくもない光線に満された部屋の中には、絵や人を不必要に威圧する壮厳さもなく、観るものの心を動揺させる不自由さもない。初めの間、彼はふと外へ出ていってまた観に這入りたくなるような、気軽な気持ちで画面を眺めているうちに、だんだんセザンヌのその絵にさえ特種の美しさの何もない単純化に気がついて、「おや。」と思った。それは求め廻っていたものが、ほのかに顔を赧らめつつこっそり傍を通り抜けていく姿をかい間見た思いに似ていたが、次の瞬間、
「これはッ。」
 と久慈はベンチに腰かけたまま無言だった。とにかく同じ驚きが一回廻るごとに、ごそりごそりと底へ落ち込んで来るような得体の知れぬ感動だった。彼はもう何んの想念も泛んで来なかった。まったくいつもとはどこも変った顔ではなかったが、内心彼は愕然としていた。今まで日夜考えつづけていたことは何んだったのだろうと思い、ここまで来てただこんな単純な美しさに愕いたとは、何んという脱けた自分だったのだろうと思って歎息するばかりだった。
「マルセーユで見た景色とそっくりのあるのね。あの海の絵ね。横の山もそうだわ。」
 真紀子は巻いた目録を唇にあてながら久慈の横のベンチへかけて云った。
 久慈は、「うむうむ。」とただ頷いた。しかし、巻き襲い群り圧して来ている数数の流派の複雑多岐な大濤を、この単調な小さい絵が噴きあげ突き跳ねして崩れぬ正しさについて、どのように形容して良いのか彼は分らなかった。それは久慈にはただ単に絵画のことばかりは見えず、世の中を横行している思想や人の行為がすべて同様だと思われ、そして、自分もまさしく噴き上げられたその一人だと思うと、にわかにあたりを見廻し、失われたものを探し求める謙遜な気持ちにふとなって来るのだった。
「ただ何んでもない、何んでもないことが肝腎なんだなア、つまり。」
 久慈はこんなことをひとり呟いて真紀子と一緒に絵画館を出ていった。彼は階段を降りながらも、夾雑物のとり除かれた眼にいつもより深く真紀子が映るように感じた。真紀子も照りつける日光に眩しげに首をかしげつつ明るく嬉しそうだった。二人はチュイレリイの廃墟の跡を横切って花壇の方へ出ていった。アマリリスやカンナ、スミレなどの咲いた花壇の中に噴水があった。その傍のベンチに休むと、前方の広場に幾つも上っている高い噴水も一緒に眼に入り、あたりは日に輝き砕ける水柱にとり包まれた爽やかな競演を見る賑やかさだった。
 久慈はどんなことが頭に流れて来ても懼るるに足らぬと思い、出来事も昨夜のことなどはもっとも自然なことのうちの、とるに足らぬ一つだったのだと思った。
「ウィーンから手紙来ることあるの。」
 暫くして、久慈はまだ訊き忘れていた真紀子の別れた良人のことを、このときを機会に一度はっきり質しておきたくて訊ねてみた。
「たまには来るの、だけどその方は御心配いらないのよ。」
 強いて安心を与えるためばかりでもないらしく、真紀子は無造作に笑ってちらりと久慈の顔を見た。その笑顔も一度は云っておかねばならぬことを思い出したという風に、
「それよりあたしこう思うの、いけないようにお話とらないでね。その方がつまらないこと考えずともいいんですから。――あたし、御存知のように勝気な性質でしょう。ですから、結婚のお話だけはどちらも出来る限りしないことにしましようね。あたしの家はそれや複雑な家ですから、考え出すととても駄目。」
 こちらでの出来事はすべてこちらだけとしてすませたい真紀子の希望は、昨夜千鶴子からも云われたように、久慈にも意外なことではなかった。しかし、また昨日のようにいきなり俳句を持ち出して自分を怯ませた真紀子の勝気が、こんな出来事の後までもつづくものとは久慈も予想しなかった。久慈はセザンヌを見た後の幸いな後味を崩したくなかったので、そのまま真紀子の隠された意志を追求してみる興味はもう感じなかった。そうして暫時、彼は暖味な微笑で両手を頭の後ろに組み、絶えず噴き上っては変化する噴水の色を眺めながら、まだ午前の思って見たこともなかった空虚な豊かさを持ち扱いかねているのだった。
 噴水はそれぞれ無数の水粒を次ぎから次ぎへ噴きのぼらせていた。ある頂点で水粒は一度頓狂な最後の踊りをすると、どれもこれも力を崩し、速力を増して落ち散り、無に戻る運動を繰り返し、そうして、絶えず地中の法則というような姿だけは崩さず保って流動していた。ときどきは風のままに散る方向は変っても、噴きのぼるときには、風を突きぬけた気力の若若しい緊張がある上に、頂きで跳ね踊る姿のみな違うその面白さ。――久慈はこの朝の見事な噴水から眼が放れなかった。彼は自分がその一粒のどれかに似て見え、瞬時の休息の隙もなく砕け散る光りの嬉嬉としているのが、生きている瞬間の楽しさとなって身内に静かな情慾さえ次第に高まって来るのだった。
「噴水を見ているというのは実に面白いものだな。砕けるものまで嬉しそうだ。しかし、まったくそうかもしれない。」
 とふと久慈は呟いた。
「あなた今までそんなことを考えてらっしたのね。」
 と真紀子は、それで初めてあなたが分ったというような、久慈には意外に見えるほど満足した微笑だった。
「でも、ほんとうに面白いもの。あの頂上で分れて水の落ちる瞬間のところに、ある一線があるでしょう。あの線のところを見ていると、君の姿までぼんやりあそこへ浮き上って来るんだからな。なかなか楽しいよ。」
「そういうものかしら。男の方は。」
 と真紀子は云って暫く噴水を眺めていてから、「分らないわ。」と小声で呟いたが、何か久慈と共通のものを感じたらしい赧らめた顔で身を彼の方へ傾け、そわそわした風情ながらも、またそれを急いでもみ消す苦心だった。
「さア、いきましようか。」
「もう少しいよう。この噴水だって、フランス革命のときの血の中から噴き上っているようなものだからな。」
 チュイレリイ宮殿の跡といっても、今は画館と浮草の巻き返った高い金色の門より残ってはおらず、プラターンの繁みの下で子供たちが白い股を露わしているだけの公園だったが、しかし、久慈は跳ね散る水玉の絶え間ない運動をうっとりと見つづけているうちに、そこに見える唐草の金色の門から噴き上った革命の騒擾が、まただんだんと思い描かれて来るのだった。そのときは眼の前に連っている鉄柵を揺り動かして群衆が押しよせ、またその狂乱する群衆の心理の底をかい潜って、これを煽動する一群の貴族や躊躇逡巡して決意を知らぬルイ十六世の若いインテリの眼の前で、膨れ上って燃えるダントンの情熱と平行し、民衆に謀反の油を注ぎつつ、しかも、王の安全に奮闘して斃れるミラボオの苦策など――人の脳中にほんの些細な疑いの片影がかすめ去る度びに、ばたばたと首の飛び散った大噴水がここに立ち狂っていたのである。
 久慈はその有様を手短かに真紀子に話した後で云った。
「ところが、その狂暴な噴水に整理をつけたのが、イタリア人のナポレオンなんだからな。――ここのフランスの愛国心の権化になったのがイタリア人だというのが、そこが僕らの不思議なところだ。分ったようで分らない。実際ここにこうしていると、まだまだ生きてみる値打ちのある構図を人生はとっているのだとつくづく思うね。」
「ナポレオンはイタリア人ですの?」
 と真紀子は意外なことを聞いたという顔つきで訊ねた。
「それやコルシカ島民だから、その当時のあそこはイタリア領だったので、ナポレオンの父親はフランスと戦争をして負けたのさ。ところが、その負けたばかりのコルシカ島民のナポレオンがたった一人でフランスを征服したというんだからここの愛国心というものは、僕らにはまったく分らない。征服した方もされた方も、博奕に出た賽《さい》の目を信じただけだ。それ以外の何ものでもないのだからな。化体なものさ。」
 人間の進行のうえになくてはならぬ唯一のものが、賽の目のままだったという恐るべき滑稽な大事件も、も早やここでは国民の整理癖に舐め尽され、死に絶えてしまったのであろうか。
 久慈は後ろの方から子供の賑やかな笑い声が聞えて来たので振り向いてみた。汚い一人の老人が肩や手さきに呼び集めた雀を沢山たからせ、舌の先で手の甲にとまった一羽の雀に餌をふくませているところだった。久慈は真紀子の肩を打った。
「どうだ。あれひとつ俳句にならんものかね。」
「ナポレオン見たいね。あのお爺さん。」と真紀子は笑って云った。
 老人は雀の自由なように全力を肩に張り、枝のようにしならせた腕の形を崩さず、立ちはだかったまま誇らしげな恍惚とした笑顔で雀の顔を眺めつづけた。久慈は真紀子と一緒に立ってその方へ見にいったが、すぐそれにも倦いてルーブルの方へ花壇を横切っていくのだった。
 ルーブルの横を通りへ出たところにセーヌ河があった。河ではモーターボートの競走があった。五つ並んだボートの首が、速力を増すと水面から飛び上り、たちまち見えなくなったが、久慈はそれにもすぐ倦いて河岸をぶらついた。彼は太いプラターンの幹を仰ぎ、自分の一番倦き易いことを一つどこまでも耐えてみようと考えた。そして、その忍耐でいつも自分を虐めつけ、何事か呻くような復讐を自分にしてやりたいと思うと、もう襲って来ている退屈さの底から、セザンヌの画面が鮮やかな緊り顔でじっと自分を見詰めているように感じられた。

 久慈たちが矢代と落ち会ったのはお茶どきだった。千鶴子は日本へ帰る準備の土産を探しに朝から出歩いて来たのだといって、少し疲労の泛んだ顔で、カフェーのテラスの群りよる外人たちの中に混っていた。
「もうお帰りになるの。あたしも帰りたい。」
 と真紀子は思わず云ってから、久慈のいるのに気がつき、
「今日は何にお買いになって?」と訊ね返した。
「いろいろなもの。でも、いいお店は皆ストライキで休みでしょう。欲しいもの何も手に這入らないんですのよ。ロンドンだと男の方の欲しいものばかりだけど。――女のものはやはりここでなければありませんのね。」
「もう帰る話か。うらやましいな。」
 と久慈は云ったが、一向に羨望した様子にも見えなかった。
「でも、これでもあたし長くなりすぎた方なの。ほんの一寸と思って出て来たのにもう幾月になるかしら。ロンドンの兄からしきりに手紙が来るの。早く来なければ置いてきぼりにして帰ってしまうぞって、そんなに云って来てるんですのよ。あたし、もう少しいたいのだけれど。」
 千鶴子は荷物を取り上げ、詰って来た客に椅子をあけて真紀子に向い、
「あなたはまだお帰りにはなれないでしょうね。なかなか?」
 軽く訊ねたつもりらしいのも、それがそのままとならず波紋を強く真紀子に与えたらしかった。真紀子は、「ええ。」と言葉を濁して暫く黙っていてから、
「でも、帰ろうと思えば、いつでもあたしはいいんですのよ。別にこれって邪魔は、もうないんですの。」
 むしろ千鶴子によりも久慈に答えるらしい含みでそんなに真紀子の云うのを、久慈はにやにや笑いながら聞いていた。
 女人のことは君に任すと云いたげな矢代は、昨夜の真紀子と久慈との出来事も知っているのか知らぬのか、さも気附かぬらしい様子で煙草を吹かせていた。しかし、久慈は、矢代こそ千鶴子の帰りをどんな心で見送っているものかと一寸推しはかってみたものの、頑なほど不思議と意志を見せぬ矢代のこととて、外から想像したほどの変化もないにちがいないと簡単に興ざめてしまうのだった。
「ロンドンへはそのうち僕も行ってみたいと思っているんだが――そのときはもう千鶴子さんいないんだな。」
 久慈のそう云うのに矢代は、千鶴子の帰る話題を切りとるような強い調子で云った。
「どうもパリ祭を待つためだけに僕らはこうしているのだが、考えればつまらないね。何かその日に起ったところで、フランスの事じゃないか。馬鹿馬鹿しい。」
「しかし、起ることは見ておいたっていいよ。損にはならんさ。」
 と久慈は云った。
「損にはならんが、左翼と右翼の衝突など起ったところで、少しばかり血が流れるか、さもなきゃ、どっかへまた吹出物みたいに潜り込んでは出るだけだろ。」
「ところが、それが分らないんだからね。君がパリ祭を見たくなきゃ、千鶴子さんとロンドンへ行けよ。後でヒステリ起されちゃ、お相手するのかなわないぞ。」
 斜めに射した光線を額に受けたまま矢代はただ笑ったきりだったが、千鶴子と別れる矢代の淋しさなど久慈にはもうあまり響くことではなかった。
「しかし、見るところ静かだが、何んとなく物情騒然として来た様子だね。今ごろは日本も眼を廻して来ているよ。どこもかしこも火点けと火消しの立廻りだ。」
 自分に触れる話を避けてそう云う矢代に、久慈はふとびくりとして、自分もひとり胸中の何物かに火を点けたり消したりしているなと思った。街路に向って籐椅子を集めたあたりのテラスには、いつもの顔馴染の客たちがだんだん集って来た。およそ百人あまりもいるかと思えるそれらの中には、新しい顔も混っていたが、誰からともなく客の素性の聞えて来ているところを見ると、さも互に無関心らしくしている外人たちとはいえ、これでいつとはなく、話のついでに落ち合う客の話も洩れているのだろうと久慈は思い、自分や矢代や千鶴子、真紀子のことなども、おぼろに彼らの頭の中にも何かの影を与えているのだろうと想像された。いずれも各国から集って来ている火消しか火点けかにちがいない客たちだったが、パリでもこのドームは特種に名高いところと見え、郊外遠くで拾った自動車もただこのカフェーの名を一口云えば、忽ち通じて車の動くほどの便利さだった。初めは気附かなかったことだが、このようなカフェーのテラスでも、久慈たちの一団はいつの間にか生彩を放った組となっていた。千鶴子と真紀子が現れると、うるみを帯んだ繊細な肌を鳳の眼のように涼しく裂いて跳ねている瞼など、一きわ目立って人の視線を集めるのだった。
 矢代は近よって来たボーイを顎でさして云った。
「このボーイだよ、この男、一昨日マネージャーにここで詰めよってストライキの膝詰談判をしてたんだが、今日はどっちもけろりとして仲がいいね。習慣というものは、喧嘩にまで形式を与えて来ているのかな。」
 久慈は何も答えずそのまま階段を降り地下室の化粧室へ這入った。掃除婦が鏡に向ってひとり髪を梳いている閑そうな姿の上に電灯がついていた。彼は用をすませ、皿に金を入れようとしているとき千鶴子が上から降りて来た。久慈は財布に細かいのが見附からなかったので千鶴子に借りながら、
「君、今日はもうどこへも用がないの。」と訊ねた。
「ええ、これから版画のお土産でも買いに行こうかしらと思ってたとこなの。ね、一緒にお見立てして下さらない。でも、真紀子さんにいけなければ、御遠慮してちょうだい。」
 白銅をハンドバッグの中から出し、千鶴子はもうみな分ってるのよときめつけるような冷たさで、ぴちりと皿の上に白銅を置いた。擦れ違いざま久慈は、不必要なまでに厳しい金属性の響きが髄に刺さるのを感じた。それではもうこれで最後のボタンをひきち切ら[#「ち切ら」に傍点]れたのだと、薄笑いのまま彼は階段を昇ってまたテラスの光線の中へ戻って来た。
 千鶴子も戻って来たとき四人は附近の版画屋を数軒見て廻った。ある店でゴッホの若い時代の写実的な版画を見つけると、久慈は、これは誰の土産にもやれないと云って自分が買った。千鶴子はベラスケス、グレコ、ゴヤなどとスペイン物を一番欲しがった。イタリア物も少し買ったが、そのついでに子供たちにやるクレヨンも買い整えてからふと見ると、日本製というマークが這入っていた。
「いや、それは何より土産だから買って帰りなさいよ。」
 と皆の大笑いする中で久慈は云った。一つだけ千鶴子はそれも買ってみてまた次の店へ歩いたが、帰り支度を手伝いながら歩いている途中にも、久慈は何んとなく日本へ自分も帰ってみたくなるのだった。
「どうも一人に帰り支度をされると淋しいね。脱けかかった歯を動かしてるみたいで、落ちつかないや。」
 久慈もその気ならと思ったらしい真紀子もすぐそれに応じた。
「そうよ、あたしもさき[#「さき」に傍点]から、帰りたくってむずむずして来てたところなの。ほんとにあたしも帰りたいわ。帰ろうかしら。あたし。」
「お帰りなさいよ。」
 と千鶴子はすかさず眼を輝かせて真紀子の方を一寸見返る様子だったが、ふと久慈と真紀子のことに気附いた素振りで急に黙ってまた歩いた。久慈は足早やに矢代を誘い婦人たちから放れていったとき、
「君、千鶴子さんとのことどうなったのだ。」
 と矢代に小声で訊ねた。
「別段何んの変りもないね。」
 と矢代は久慈から顔を背けるようにして答えた。
「それで良いのかい? 変らなくたって。」
「変ろうたって、変りようがないよ。」
「しかし、まアそう云ったものでもないだろう。何んとか約束めいたものでもしとくとか、何んとか方法があるからな。帰ればとにかくもう駄目だよ。」
 矢代は黙っていた。
「僕が代りに相談に乗っといてやってもいいよ。何んの表現もしないというのは、こちらが困るより向うが困るんだからな。」
「とにかく、好意は有り難いが今日はそのことは、まアよそう。」
 矢代はあくまで慎重な態度だった。久慈は、自分の問題が自分の中ばかりで膨れているように、矢代のも外から触られぬところに疼いているのであろうと思い返し、婦人たちが近よって来たとき話を一変させるのだった。
 しかし、久慈はここで二人の争いつづけたものは、婦人のことではなかったことを思って心も慰められて来た。
「僕らがこうしてパリの街を歩いていて、ふと自分の考えていることに気がつくと、どういうものだか、どっか胸の底で一点絶望しているものを感じるね。君はどうだかしらないが、僕はたしかにそうだ。何んというか、眼にするものを尽く知り尽そうとしていら立つ精神が、これやとても駄目だと知って投げ出された後の、まアいわば、あきらめみたいなものだよ。この街の成り立っているそもそもの初めから、人間が今まで考えて来たこと、して来たことを、全部くぐり込もうとするもんだから、絶望をするんだ。つまり、自分がたったこれだけより知らんのだと、思わせられてばかりいるんだね。」
 ある街角のところで突然久慈がこう云い出したが、皆だれもそれにつづけては云わなかった。すると暫くして矢代は笑い出して云った。
「前へ行っても駄目、後へ戻っても駄目だというんだろ。」
「そうだよ。ここは戦場と同じだね。頭の中は弾丸雨飛だ。看護卒が傍へ助けに来てくれても、こ奴までピストルを突きつけやがる。もう僕もだいぶ負傷をしたよ。」
「どっちも生還おぼつかないかな。」
 笑うところも考えればもう二人は笑えなかった。
 久慈は西日の照りつける中へ動かす矢代の足を見ながら、彼も同様に無数の手傷だなと思われ自然に労わりの心が起って来るのだった。

 その夜千鶴子のホテル附近の広場に祭があるというので、夕食後四人はそれを見物に出ていった。広場に繁り揃ったマロニエの幹の間で、いつもとは違った篝火のような明るい電灯が輝き、色めいた屋台の夜店が沢山出ていた。機械の中から吹き出る綿菓子を雪のように積らせた店や、彩色入りの長い飴棒を束ねた店や、玩具店などと並んだところは、日本の縁日に似た町祭だったが、その間を歩く人人はあまり嬉しそうな様子もなかった。四人は夜店の天蓋の下を散歩してから見世物の前に立った。大きな本物の馬ほどもある背の高い廻転木馬が眼を怒らし人も乗せず街路樹の青葉を擦りつつ廻転している様は、空を馳けぬける駻馬のように勇しかった。その横に円形の音楽堂のようなものがあって、コンクリートの狭い床の上を、二人乗りの豆自動車が十数台も動いていた。
 四人はそれを一番面白がって長く見ていた。天井の全面に張られた鋼鉄の網には電流が通じていると見え、豆自動車の頭から天井へそれぞれポールが延びていた。運転する客たちはみな愛人らしい婦人を自分の横に乗せ、わざと他人の自動車へ自分のを衝突させ瞬間のスリルを楽しむ風な遊びだった。乗っている人種がさまざまなところへ衝突御免の遊びであるから、見ていてこれほど秩序のない乱暴なものもなく、露骨に好意や敵意のまま突進して相手の悲鳴や笑いを楽しむのである。一人乗っているものは自由にひらりひらり衝突を避け、ここぞと思うと首を廻して矢庭に敵の胴腹へ突撃した。衝突の度びに車体の間から火華が噴いた。お人好しは突き衝られてばかりで、左を除けると右から来、右を除けると左から攻められ、うろうろしている間に前後左右から突き衝てられて立往生をしたりした。
 久慈は朝チュイレリイの噴水を見て来たためか、これも何んとなくフランス革命を象徴している遊びのように思われて面白かった。
「やってみようじゃないか。国際法のない戦争だ。こんな勉強はないぜ。やろう。」
 しかし、まだ矢代は、「うむ。」と云ったままやり出しそうにもなかった。美人の愛人を横に乗せている自動車ほど衝てられる気味があり、またあまり衝てられないのも流行らぬ店のようで、手持無沙汰な愛人たちの顔つきだった。
「おい、やってみようよ。手さえ横へ出していなきゃ絶対安全だよ。皆でやろうやろう。」
 久慈はそう云いながら矢代を曳いて無理に自分がさきに立ち段を上った。おじけるかと思った真紀子や千鶴子も素直に後からついて来た。空いた自動車の一つに乗った久慈は横へ真紀子を乗せ、他の車に矢代と千鶴子が乗って無造作に運転し始めた。二人がきっちりと腰を並べられるほどな狭さの低い自動車だったが、さて走らせるとなると、あんまり自由にどちらへでも辷りすぎる不安定さで、なかなか思うようには動かなかった。
「ははア、これや、いよいよ真人間だ。」
 と久慈は矢代の方を面白そうに見て笑った。少し辷り出してまだ笑いの停らぬ間に、もう残酷に一台の車が突進して来だ。そして、「あッ。」と云う途端に横腹へひと突き衝っていった。大きな音の割りに痛さを身に感じない具合は急に久慈を大胆にさせた。彼は電流の不安定さに任せて群がる自動車の中へ辷り込んだ。みな誰も手もとの狂いのままに相手の狂いも赦している寛容な顔がひどく久慈に気に入った。初めは人に突き衝ることよりどうして避けようかと気を張ったが、無秩序を理性としている他の車の進行に注意していては、この混雑した闘争のさ中をきり脱けることが出来なかった。あ奴が衝って来そうだぞと勘づくと必ず衝って来る予想に緊張して、衝突の前に早や真紀子は、「あッ。」と悲鳴をあげ久慈の胴に獅噛みつくのだった。二つ三つも衝りをくってぐらついたころ、矢代の車の中でも千鶴子の叫びが上っていた。
「よし、ひとつ矢代に衝ててやろう。」
 と彼は真紀子に云った。そして、ハンドルを廻し矢代の車の胴を直角に狙って勢いをつけてみた。矢代より千鶴子の方が眼ざとく久慈を見つけると、恐れおののく風に上体を横に反らせて矢代の胴を抱き、追って来る車を見詰めつつ、
「いや、いや。」
 と眉を顰めた。そこを久慈はにんまりと笑って突撃した。物凄い音響と同時に火華が散った。どちらの車も停ったまま睨み合っていたが、すぐ矢代の方から辷り出すと今度は彼が、久慈の方へ突っかかって来るのだった。
 久慈は失敬しながら矢代の首を避け、遠廻りに廻ろうとしかけたそのとき、さきから意志を少しも見せず衝るを幸い薙ぎ倒していた青年の車が、「がッ。」と久慈の後尾を突き動かした。ハンドルを取りそこね、久慈の車は半廻転ほど横になった。すると、そこをすかさずまた矢代の車が一撃した。二度の衝撃で久慈はS字形に曲ったまま、思わぬ車の横腹へ突き衝ってしまった。そこへまた他のが蹌踉けて来て首を突っ込む。三つが捻じれているところへ意地悪いのが故意に首を入れたので、たちまち楔に裂かれた三つが意外な開きで散っていった。
 幾らか自由になったとき久慈は矢代の方を見てみると、彼も反対の隅へ押し籠められていて、出ようとする度びに、後から後から来るのに突き衝てられて困っていた。
 ところが、気をつけるともなく久慈は気附いたことだったが、千鶴子に突進してゆく車の多くの婦人は、運転している自分の男のそのときの心を忖度する気色でむっと衝る時ごとに怒った表情に変った。そして、誰かから自分が突撃を受けると遽に笑顔の悲鳴となるのだった。しかし、そう思えば、たしかに久慈も矢代へ突きかかってゆくときには、千鶴子に点数を入れたい気持ちが強いのを思い出した。殊に千鶴子への態勢を構えるとき、ぴたりと矢代に身体をよせかける千鶴子のなまめかしさが、妙に敵意の残酷さを久慈に抱かせ、彼は廻すハンドルに手心も加えず突き放すのだった。
 場内は絶えず微妙に変転するので、叫声と笑い以外に物を云うものは一人もなかった。同乗者は身体がくっついているためにその動きで忽ち意志が分った。久慈は真紀子の希望する男の車が近づくと、自然に延びる真紀子の体を感じ、突然その方へハンドルをひねり変えて突き衝った。が、また真紀子をつけ狙う男の車に向かっても容赦なく突撃した。
 運転が馴れるのに随って車はかなり自由に操縦することが出来た。そうなると争う気持ちを技術の拙劣さに隠す便利も出来て、一層この勝負は時間を忘れ、同乗の婦人も看板娘のようにますます役目を自覚して来る。そして、衝突の度びに発する火華が口づけの変形とも成り深まって来るのだった。
 特に自分の好きな男と衝突したとき、女のあげる悲鳴は大げさだった。一人の女は絶えずこれ見よとばかりに好んで悲鳴を上げた。久慈はその女が小憎らしくて突きかかったが、その度びにも女は喜びの悲鳴を上げるのだった。一番操縦の上手い顔の緊った美しい青年は、悠悠とひとり遠方を廻って来ては、急ピッチでいつも真紀子の横腹へ突入して来た。真紀子もその青年が近よる度びにそわそわとして、自分以外の誰に衝るものかと注意を怠らない風情だった。
 久慈は度び度び美青年の自動車を狙って衝った。青年の猛烈な攻撃が頻発して来ると、久慈は真紀子への嫉妬も嵩じ、突然首を廻して千鶴子の車へ突撃したりした。こんなにして戯れも時とともに次第に意識を変えて来たときである。久慈はまたも千鶴子を狙って突きかかろうとした瞬間、
「あッ。」
 と叫びを上げて真紀子が傾きよったと思う間に、青年は久慈のハンドルを突き飛ばした。
「こ奴ッ。」
 と久慈は思い、捻じれた首を立て直して青年に狙いをつけた。すると、また青年は隼のように久慈に向って飛びかかって来た。久慈と青年との間で火華の発する度数が増すにつれ、真紀子はもう叫びも上げなくなってしまった。二人の争いがだんだん人目に立って来ると、矢代も見るに見かねたものか、今度は彼がその青年に突撃を開始した。しかし、何んといっても青年の操縦は見事だった。これに敵うものはなく誰も後を追っ馳けるものもいなかった。青年は巧みに群がる車の狭い隙間をひらりひらりと体を翻し、遠くへ存在をくらませては、機を見て不意に殺到して来て引き上げるばかりだった。
 久慈はいら立たしくなると悲鳴を上げる女へぶっつけたり、千鶴子の体へ捻じ込んだり、衝るを幸いに衝り散らして運転をつづけてみた。しかし、いら立てばいら立つほど人からもぶっつけられ追い込められ、やがて冷汗をかきかきハンドルの自由が少しも利かなくなるのだった。そうして、久慈は、とどのつまり、まったく意志の乱用は自由を失うという教訓を身をもって証明させられる結果となっただけで、この電気遊びは終ったのである。
「ああ面白かった。でも、がちゃんとぶつかるときは恐いわね。」
 円形のホールを降りてからそういう真紀子と並び、久慈は、マロニエの間を矢代たちと歩いた。彼は生活の縮図から解き放されたほッとした安らかな気持ちだったが、見せつけられた人生の見本から立ち去って歩んでいる今のこの延びやかさは、つまりは際限のない死のようなものかもしれぬと思った。
 円形のホールを振り返ると、檻の中ではまた新しい客たちの火華を散らしているのが樹の間から眺められた。久慈はより添って来る真紀子に何ぜともなく情愛を強く感じ、腕を支えてホテルの方へ歩いていった。今はもう彼は千鶴子や矢代のことには介意ってはいられなかった。

 当分の間は久慈は真紀子の部屋で泊ったり真紀子が久慈の部屋で泊ったりした。ときにはまた二人でどこかのホテルで一泊したりしたが、久慈は外見一点の非のうちどころもないほど完全に真紀子を愛するように努めてみた。街を歩くときにも外人のように腕まで支え、あれを食べたいと真紀子が云えばそれを食べさせ、またこれが見たいと云えばそこへも行った。閑のきくときに一人の婦人にも満足も与えられないような男なら、日本へ帰って何をしてもしれていると思われたからだった。またそんなにすることにかけては、ここは日本にいるときよりもはるかに手易いことであり、そうしていても誰からも邪魔されないように、ここの日日の生活様式が出来ていた。二人に争うことがあるといえば、夜眠るときどちらかの一方が早く眠りすぎたとか、デパートで少し買物の時間をかけすぎたとか、いくらか会う時間が遅すぎたとかいうほどのことよりなかった。しかし、そうとはいえ久慈の心底には絶えず何か物足らぬものがあった。いずれ二人が別れるものなら、いつ別れても良いと準備している心がいつも二人の中にひそんでいたからだったが、それも一つは、そのような予想が互いにあればこそ争いのない旅の日といえばいえるのかもしれなかった。もしどちらかそれを明瞭に切り出して云ったなら、二人のどちらかが困りはてる結果になるということも定っているのだった。
 こんなにつき詰めた感情をどっか最後の一点に置き残している久慈と真紀子とのある日、いよいよパリ祭が明日だという日になった。街角には踊りに準えるバンドの杭の打ち込まれる音が聞える一方に、フランスの各県から集って来た労働者の団体が三十万四十万と、檻のようなパリの中へ続続くり込んで来ていた。夜になると、明日の朝まで大行進をつづけるのだという細民の太鼓の音が、街街から聞えて来た。この左翼の勢揃いの固まるにつれ、右翼の陣形もますます練り固まって来たという噂が久慈たちの耳にももれ伝った。バスティユの牢獄を打ち破ったフランス革命のときのように、明日も第一番にバスティユの門が砕かれるであろうという話も、一般の予想の一つだった。
 銃剣をつけた警官隊が街街の辻に群がり立って暴徒の警戒にあたった。自動車がどこかへ徴発されたと見えて数少くなっている街の中を、この夜久慈は矢代と一緒に歩き廻ってみた。街の通りを行列をつくって進む群衆を見るときどき、彼は祭の夜の電気自動車を運転した檻の中を見る思いで、明日はいよいよ火華が飛び散るであろうと更けゆく夜を待つのだった。二人はサンミシェルを振り出しに河を越え、グランブルヴァールからサンマルタンの方へと坂を登っていったとき、久慈は突然矢代に訊ねた。
「それはそうと、千鶴子さんいつ帰ることになったのかね。」
「十五日の朝だ。」
「じゃ、明後日だな。汽車か飛行機か。」
「飛行機にした。もう切符も手に入れたんだ。」
 二人の黙ってしまった遠くから絶えずバスティユの方へ行進してゆく群衆の響きが、ちょうど法華宗の進行のような太鼓のリズムの連音をなみなみとつづかせて聞えて来ていた。
「明日がすんだらもう僕もベルリンの方へ行くつもりだよ。」と矢代は云った。
 サンマルタンからクニヤンの方へ廻って行くに随い、薄霧の中に赤旗を靡びかせた行列がだんだん増して夜の深むにつれ熱気が街に溢れて来るのだった。

 人の心がパリ祭だといって騒ぐのに、その日の朝は、矢代は眼がさめても一向に浮き立つ気持ちも起らなかった。彼はゆっくり起きてから千鶴子に電話をかけ、明朝のあなたの帰る支度は今夜自分がするからそのままにしとかれるようにと云って、すぐ食事場のドームで待っていることを告げると、身支度にかかった。
 ネクタイもある店で久慈と取り合いでとうとう買い占めた柄のを締めた。そして矢代はホテルを出たが、出るとき鍵さしに差さった日本からの手紙を見た。それは長らく海岸で寝ている妹からのものだった。手紙にはいろいろのことが病人らしく書いてある中に、次ぎのようなことがあった。


 ――いつかお報せしたかと思いますが、お父さまも気がこのごろお弱くなりましたのか、お金貸しもあまりひどいことをなさらなくなりました。お伊勢参りをお母さんとなさったとき、偶然に郷里の消防団と一緒になって驚かれたことがありましたが、それ以来急にお年をとられたように思います。郷里へも先日初めて帰られ、御先祖のお墓参りをされました。わたくしは東京で生れたせいか、自分の故郷がどこだか分りません。お兄さんはパリに行かれ、東京を故郷と思われましたよし、まことに自分のことのように嬉しく思いました。これでわたくしの家では、ただ一人わたくしだけが、ふらふらしている人間かと思いますと、悲しゅうございます。それでも、もうお帰りになるのかと思いますと、それまでに病気もよくなっていたいと、朝夕心こめてお待ちしております。波の音が午後になると、いつもここの海岸は高くなります。この海の向うにいらっしゃるのね。――

 箱根の山の見える海ぎわに、夕日のさしている風景が矢代の頭に浮んだ。そして、そこの下でまだ療養している妹の寝姿を思い急に心は曇ったが、手紙をポケットにしまい込むと、毎朝の日課のルクサンブールの公園の中へ這入っていった。樹の幹の間に落ちている日光の斑点の中で聖書を読みつつ歩いて来る若い牧師の華奢な両手――その指の間から閃く金色の聖書の頁が矢代の眼を強く刺して来た。
 日ごとに蕾を開いてふくれて来る大輪の黄薔薇の傍を通り、芝生の中の細い砂を踏んで歩くうちに、矢代は不意に千鶴子と今日でもうお別れだと思った。どっと波の襲うような音波が一瞬公園の緑の色を無くした。それでもじっとベンチに腰を落し樹の幹を見ている間に、また断ち切られた緑の色がもとのように静まって来るのだった。

 ドームのテラスにはもう塩野を初め、東野やその他知人三四人の日本人の顔も見えていた。一人はある新聞社の特派員で、今日は一日馳けずり廻らねばならぬのだと云って、どこへ行けば一番右翼と左翼の衝突が見られるだろうかと、よりより協議の最中らしく興奮した面だったが、矢代はそんなのもあまり見たいと思わなかった。
「しかし、とにかく、パリ祭も変れば変るものだなア。毎年このあたりの通りは踊り狂う群衆で、もう電車なんか通れたもんじゃなかったんだが、どうだ、このさびれ様は。」
 とこう云ったのは塩野だった。パリ祭の賑やかさは前から矢代も話に聞き、映画などでも見知っていた。しかし、実地に見たのはこの日が初めてだったから、見たところ常の日とそんなに変らぬ街の様子も、塩野の驚くほどには感じなかった。
「僕らは旅人だからそう云われても、どうも分らない。これじゃ、フランスも表面を素通りしているだけで、何も知らないのだな。」
 と矢代は塩野に云って笑った。フランスのことをどんなによく知っているものでも、長くここにいるものには頭の上らぬ先輩意識が起り、自然と日本人は圧えられ謙遜になるのだったが、矢代は、その先輩を気取っているものさえ、どこまでフランスを知っているものか、怪しいものだと思った。日本人が他国を見るのに自分の中から日本人という素質を放して見るということは、どんなことをするものかよく分らず、またそのようなことは人間に出来得られることでないと、今もなお思い通していることに変りはなかった。
「この中田さんは明日ドイツへ行かれるんだが、あなたはいつです。」
 と塩野はまた矢代に訊ねた。中田はある大学の政治学の教授で、特にこのパリ祭を見たくてロンドンから渡って来たのである。この人は闊達明朗な笑顔のうちにも、学生時代からまだ曲って来たこともない素朴剛健な風貌があったので、定めし今日の左翼のこの旺盛さと、右翼の民族意識との対立は、学問として好個の見学材料である以上に、悩ましい問題も解き難く頭を襲っているに相違ないと矢代には感じられた。しかし、見渡したところ、それは中田ばかりとは限らなかった。ここにいるもののすべては云うに及ばず、恐らく世界の知識階級のものたちにとって、この日ほど、注目すべき日は近来になかっただろう。それも、どんなことが起ったところで、ニュースは言葉を濁し、明白な報知をしないに定っているのである。
「僕ももうじきベルリンへ行こうと思ってます。また向うでお会いしましよう。」
 と矢代は云って中田のどことなく困惑している笑顔を眺めた。皆が一番衝突の激しいのはバスティユであろうとか、サンゼリゼであろうかと云っている時でも、中田はひとり腕を組み、ときどき黙ってはしきりに考え込んだ。
「ここがこんな風になっちゃ、これから学生に教える人は困りましょうね。」
 と矢代は茶飲み話にふと口を辷らせた。
「そうです。われわれはもう教えようがなくなりましたよ。この間からここを見ていて、日本がこんなになられちゃ、こりゃ困ると思ってるんです。」
 大学の教授がこんなことを素人に云うのは、一応考うべき重大なことにちがいなかったが、それをふと思わず洩した中田に矢代は好感を持った。世界通念を理由として論理的に中田の呟きを引き延ばし論争をし出すとすれば、日本の大学は破滅すること勿論だった。しかし、中田の呟きには美しい感覚の愁いが籠っていた。破滅させるより続かせる方が良いと万人の希う限りは、念い希う根柢の民族の心を知るより法はない。矢代は久慈と続けて来た論争の焦点がいつもそこだったと思い、今日こそ久慈に誤りを徹底的に感じさせ、一応は日本人の立場に引き戻さねばならぬと決心したが、頭に泛んで来た久慈の顔には、まだ頑な勝気だけが眼に見えて来るのだった。
「ああ、あれには敵わん。あ奴は幽霊に憑かれてる。」
 彼は思わずこう胸中で呟きながらも、やはり久慈の出て来るのを誰よりも待つのだった。彼には久慈の勝気が知性というような合理性には見えず、ただ単に勝気という日本人の肉感な癖により見えぬのである。
「失礼なことお訊きするようですが、あなたはこんな今日のようなここの問題、どんな風に考えてらっしゃいますか。青年の問題としてですね。」
 と突然、中田は矢代に向って興味あるらしい微笑で訊ねた。
「僕はどうも、公式主義というのは嫌いでしてね。そういうせいか、ここの問題はどうにもぴったり僕の感覚に訴えて来ないんですよ。」
「じゃ、論理的にもですか。」
「そうです。」
 と矢代は答えた。自分はここで生活して来てみたわけではないから、無論ここの人間の感情さえ分らないという意味だった。彼はそんなに答える傍ら、感情も分らぬのにどうしてここの論理が分るのかと、内心久慈へいつもあたる抗議を繰り返してみるばかりだった。
「しかし、何んと云っても論理ですからね。」
 と中田は呟くように云って俯向き込み、そろそろ頭の中を締め縛っている通念の論理に気を落ちつけた様子で黙った。矢代も黙ったが、しかし、出て来る新人の誰も彼も、論理論理と考え込んでいる無数の頭の進行が、眼だけぱちぱちさせて風景を見ている怪奇極まる図を思い描くと、ふと光線の強く射している対岸の鋪道の石を眺め、早く千鶴子でも来てくれぬものかと待つのだった。すると、後ろの方で立ち上った東野は、
「円周率は三コンマの何んとかじゃ割り切れんわい。そんならみんな用心してくれ頼むぞ。」
 と誰にともつかず云って猫背のまま電車通りを横切っていった。その後から駆り出しに廻って来た罷業委員らの無蓋自動車が数台列なり、それぞれ逞しく盛り繁った態勢のまま拳を振り上げて、
「フロン・ポピュレール。」(人民戦線)
 と叫んだ。そして、鋪道のよく光った鋲の上を貫き流れていくのに和し、テラスの外人たちも、いつもとは違って熱して来た。塩野の顔は急に赤くなったと思うと、突然、
「馬鹿野郎ッ。」
 と自動車に向ってひとり叫んだ。早口の日本語だったから誰にも分らなかったが、塩野は胸にぶら下ったカメラを手で受けつつ、
「さア、行こうや。あ、そうだ、君に上げるの忘れてた。」
 と云って、ポケットの中から大使館で貰って来た金属で出来た小さなカルトを二つ出し矢代に渡した。記者の標のそのカルトを持っていると、その日一日は、どこへでも這入って行ける便利があり、前から久慈や矢代の頼んであったものだった。駆り出しの委員らの自動車はまた次ぎ次ぎに叫びながら馳けて来た。特派員たちは種材を集めに散っていったが、矢代は久慈の来るまで動けなかったので、塩野らに先にバスティユへ行ってもらうことにして、落ち合う所をサンゼリゼのトリオンフに定めた。
 テラスが急に空虚になってから矢代はひとりコーヒーを飲んでいた。外から戻って来た外人の話では、グランブルヴァールからナシオンの広場の方へ行進しつつある群衆の数は、およそ五十万ほどだとのことだった。
 あたりの街の人人は、行進を見に行っているのかどこにも人影がなかった。通りの街角に造られた踊り場も、櫓の脚の木材だけ新しく石の間に目立たせたまま、一人の人も寄りついていなかった。石の古い空虚な街がかすかな傾きを明瞭に泛べている真上に、日のあかあかと輝いているのは、落ちている蝉の脱殻を手にしたときのような、軽い頓馬な愁いをふと矢代に感じさせた。間もなく、久慈は枕を脱したらしい膨れぼったい眼でその剽軽な通りを歩いて来た。
「いやに閑静だね。」
 矢代の傍へ腰かけそういう久慈の籐椅子の背が、もうすでにぎしぎしとよく静かな中で響いた。
「婦人連は遅いね。塩野君さっきまでここに待っていてくれたんだが、もう皆いったよ。誰も彼も今日は血眼だ。」
「そうだろう。」
 と久慈は云っただけでコーヒーと鮭を※[#「口+云」、第3水準1-14-87]咐けた。いつもなら何んとか矢代に突っかかって来る彼だったが、今日は何も云わず、黙って額を揉みほごすと軽く横に振ってみていた。
「衝突はあったのかね。」
「さア、どうだか。」
 矢代はふと椅子の下を走り廻っている一疋の鼠を見つけた。隙間のない石ばかり続いて出来たこんな所へ出て来ては、逃げるとすると、鼠も放射線を伝って郊外まで一里あまり走らねばなるまいと思った。そこへコーヒーと鮭とパンが出た。
「いやに静かだね。気味が悪いや。」
 とまた久慈はあたりを見廻して云った。波頭のような二百ばかりの空虚の椅子の犇めき詰っている中にぼつりと浸っている二人だった。コーヒーだけが湯気を静かに立てていた。
「千鶴子さん明日帰るとすると、今夜一つ送別会をしなきやならないが、どこでしょう。ボアの湖へ行くか。それともモンマルトルの山の上がいいかね。」
 久慈が読みとるようにそう云って矢代の眼を見詰めても矢代はすぐ返事が出来なかった。
「どこでも良かろう。」
「どこでも良いってどういうことだ。二人きりがいいなら、僕らは遠慮をするよ。」
「いや、そんな必要はもうないのだ。」
 と矢代は急いで云った。
「もうないって? 何んだか分らないね。」
 妙にくぐり込んで笑う久慈を矢代はうるさく思って黙った。確かに千鶴子と今日一日二人きりの世界を楽しみたいと矢代の思っていたことは事実だったが、それを久慈から指摘されることは、用を不用にする歪みを二人の間にひき起す危さを感じ、矢代は黙ったのである。すると、しつこく久慈は、
「だって、今日一日じゃないか。何んとか恰好をつけとく方がいいに定ってるよ。」
 と押しつけた。矢代は久慈の恰好という意味を一寸考え、まだ千鶴子との間の具体的な恰好は何もつけていない自分だと思った。しかし、それはもう幾度となく考えてしまった後の事でもあり、外国での無理な恰好を急いでつける工夫の愚かなことを、賢さとすることに賛成し難いものを感じるのだった。これは歯を喰いしばるような矢代の痛さだったが、日本へ帰っても今の気持ちが切れるものなら、それならいっそ今のうちに切ってしまうのも、二人のためと思うことに変りはなかった。いずれにせよ、矢代は、ここで自分たちの中に起っていることのすべては夢遊病者の夢中での出来事だと思った。
 もしこの夢が変らぬ事実だったなら、日本へ帰っても変らぬだろうと思い、せめてそれが事実であってくれと祈る気持ちで何事も云わず、千鶴子と別れてゆこうと試みる、ある実証に臨んだような決心とも云うべきものが強かった。恐らく帰れば久慈のいうように、千鶴子と断ち切られてしまうような事があるかもしれぬと怖れはしても、何ものにも代え難いものを失うなら、それならそれは自分の身の錆びであり、自分の受けるべき罰だと思った。
 しかし、そんなに突き詰めたような考えだったにも拘らず、矢代は最後の一点で千鶴子を信じて疑わなかった。外国の婦人ならともかくも、千鶴子を信じ切ってしまったのを、今さら何んの形をつけようというのか、矢代が久慈をうるさく思うのは、大切なこちらの心の暖め方を一挙に突き崩そうとする無理をそこに感じたからだった。
「君のいうように、どこの国でも通用するのは、それや論理かもしれないが、論理以外に人間を信用するという心の方が、もっと通用するよ。その方が大切だ。」
 とこう矢代は久慈に定めつけてみたいのである。しかし、こんなことも今は無用の返答だと思い止まった。そして、
「君はいつごろ日本へ帰るのだ。」と彼は訊ねた。
「さア、そ奴はまだ考えていないね。しかし、まア、僕ぐらいはここで沈没してみるのも、良かろうと思っているんだ。」
 久慈は切り裂いた鮭の中から小骨を抜きとりながら、
「これ日本のかもしれないぜ。今日のは馬鹿に美味いや。千鶴子さん、鮭をフランスへ入れるのに手伝ったって云ってたが、こ奴かな。」
 と云って矢代を見て笑った。そう云えば、このあたり一帯のカフェーにあるコーヒー茶碗や食器などは、皆どこのも日本製ばかりだと聞いたことも矢代は思い出され、よくもあの地球の端からここまで満ちて来たものだと、街の拡がりを今さらのように眺めてみるのだった。

 真紀子が来てから少し遅れて千鶴子が来た。千鶴子は、ほッと洩れる息を押し込めたような気の張った快活さで、
「明日帰るんだと思うと何んだかそわそわするのよ。そのくせ何もすることないの。」
 と云って腰を降ろそうとした。久慈はすぐこれから行進のある通りまで車で行こうと云って、自動車を呼びとめに立った。四人は気忙しい思いのまま車に乗った。
 ナシオンの近くの通りまで来かかったとき、早くも見物の群衆で車は動かなくなった。五列ずつほど腕を組み合せて行進して来る隊伍は、所属団体に随ってそれぞれ幟の色を違えていたが、中でも赤や白が一番に多かった。それも労働団体ばかりとは限らず、左翼の政府を支持している文化団体の尽くが混っているといっても良いほどだった。中には自分の子供を肩に乗せて歩いて来るものもあり、少年も少からず混っていた。
「あら、ジイドの写真まで出て来たわ。」
 と真紀子は云って笑った。見物の群衆は十重二十重に通りを埋めているので、矢代たちのいる外側からよく行進が見えなかったが、染屋の晒布のような無数の幟の進んで来る中に混った出し物には、工夫をこらしたものも多かった。
 特にそれらの隊伍のどこが面白いのか分らなかったが、街路樹という街路樹の枝葉の中から、鈴なりの果物のように群がり繋って下を覗いている見物の顔も街を埋めた群衆も、どういうものか固唾を呑んだように物も云わず、何かの予想に緊張している無気味な空気があたりの街に漂っていた。矢代は、葬列か凱歌かしれぬこんな光景が暫く眼の前を通過しているのを見ている間に、何ぜともなく久慈を突っつきたくなって来たが、それもじっと胸もとで耐えた。
 人の肩越しで行進を見られぬ見物の女たちは、ハンドバッグから鏡を出してそれぞれ後ろを向き、鏡面に行進のさまを映し出して眺めていた。
 千鶴子や真紀子もそれに倣い鏡を空にかざした。久慈と矢代は爪立ち疲れてふと顔を見合すことがあったが、ぎりぎりとせっぱ詰った云われぬ冷たい表情ですぐ視線を反らせた。その度びに、どちらも、「ふん。」と一瞬相手をせせら笑うような唇の動きを感じ、何か一言いえば生涯の破れになるかと思われる悪寒が、白白しく二人を黙らせつづけるのだった。
 そのうち高い建物の上の方から拡声器の革命歌が響きわたって来ると、行進の歩調が揃って来た。しかし、またそれがすぐ国歌に変ってマルセエーズが放じられた。見ている群衆はどちらの歌が空に響きわたっても同じで、誰も声を立てず、すでにこのような訓練が行きとどいた後のように静かだった。
「何か起るのかしら、見ている人、嬉しそうでもないのね。」
 と真紀子は不安な顔で久慈に訊ねた。
 進行して来る団体の幟が中核をなす赤旗ばかりになって来ると、眼の光りも異様な殺気を帯び、腕組む粒揃いの体の間から勝ち誇った巌乗な睥睨が滲み出て来た。みな誰も紺の背広にネクタイを垂していたから、一見、パリ祭をぶち壊した群れのようには見えなかったが、文化団体とは違い、緊張した弾力が見るから観衆を押し動かして迫った。幟の中にもここのは明らさまにスターリンやレエニン、それからマルクスなどという本家の似顔絵ばかりを押し立てて、もうフランスという国情の匂いなど少しもなかった。
 矢代は見ていて、この行列のさまを翻訳して各国へ報らせれば、分り通じるところは、この国情の失われ取り払われた個所ばかりだと思った。こんなに国情のない部分ばかりが他国に通じ、その国の大部分を形づくっている国情という伝統が通じないとすれば、――矢代は、その次ぎに起って来ることは凡そ想像することが出来た。
「これは困る。こうなっちゃ。」と矢代も思わず中田のように云って、ぶらぶら俯向き加減に人垣の後の方をひとりほっつき廻りながら、――もし生きるという生を構成している国情の大部のものが通じ合わぬなら、世の中の秩序を保つための政治は、ただ僅かな外面的な形式の部分ばかりで他国と触れ合うまでにすぎぬと思った。そんなら恐るべき人生の進行だ。――
「まったく困る。何んとかならぬものか、何んとか。」
 このように考えているときでも、赤旗の流れはますます続いて来ていた。ぶるんぶるんと精悍な胴ぶるいをしているような、脂の満ち張った足並みで繰り出て来たのは、ひと目でこの日の行事の中心団体と目された一群だと分ったが、内臓を立ち割って日に晒し出したようなこれらの光景は、それはすでにもう伝統ではないものが、政治を掴み動かしているのと同じだった。しかも、先日までこれを制御していた洒脱な警官の群れは、自分の意志を隠し、政府の与えた命令のまま今日はこの行進の無事ならんことを護っている。
 ふと矢代は、ここに法を守護するフランスの伝統を見たと思った。もしこの法の守護という精神が失われたら、このフランスから自由も失われたときであろう。――彼はそんなに思うとここまで押し転げて来たフランスの国の歴史と、自分の国の歴史の相違を合せ考えてみるのだった。
「サンゼリゼの方、三時半だって?」
 と久慈は写真を一二枚とってから矢代に訊ね時計を見た。
「うむ、もう行こう。」
 サンゼリゼでは今ごろは伝統派が待ち構えているころだと矢代は思ったが、久慈には黙って自動車に千鶴子や真紀子を乗せて走らせた。
「何んだかこの間ドームで聞いていたら、社会意識がフランスみたいに変って来たら、音楽意識も変ってしまうんだって、そんなに云ってる人があるのよ。そしたら、べートオベンの曲なんかももうそれや駄目だ、と他の一人が云ってるの。本当かしら。」
 と真紀子が久慈の方に身をよせて訊ねた。
「それは外人が云ってるの?」
 と久慈は訊ね返した。
「ええ、そう、あれはたしかルーマニア人らしかったわ。」
「日本でも一時そんなことが、問題になったことがあったな。誰だったか、天文学にマルキシズムの天文学だの、ブルジョアの天文学だのって区別、あってたまるかって、あのころは日本も危なかったね。」
 矢代はそれとなく真紀子の提出した複雑な問題をこの場合の単純さに納めて笑った。しかし、このような後でもふと明日は千鶴子が日本へ帰るのだと思うと、急に話していることや、眼にした光景の総てが空しく見え、自分だけの世界が重重しく立ち戻って来るのだった。
「僕の知人の天文学者でね、豪いのがいるんだが、その男は星を観測するときに、その前に食った食物が野菜だったか、肉だったかという質の違いで、もう観測に現れた数字の結果が同じでないと云ってたことがあるね。食い物でもう違って来るというんだから、天文学にも区別あるかもしれんぞ。」
 と久慈は自分に不利な云い方を我知らずに口走って笑った。矢代は自分ひとりの落ち込んでゆく淋しさから延び上り、今は当面の話題にとり縋っていたかったので、強いて勇気を取り戻そうとして云った。
「そんなら、科学は誤謬を造るのが目的だというようなものじゃないか。あ、そうだ。さっき、東野さんがドームにいたんだが、人民戦線の駆り出しが通ったときに、円周率は三コンマの一四じゃ割り切れんぞ、用心をせいと呶鳴っていたな。」
 そう云いつつ矢代は、東野のそのときの言葉の意味を初めて了解するのだった。しかし、こんな会話も争いを起さぬ工夫に捻じれ気味で、辷りの悪さを感じたものか千鶴子は、
「あら、あんな所で踊っているわ。今日は踊りを初めて見てよ。淋しそうな踊りだこと。」
 と云って皆の視線をある街角の鋪道に向けた。そのあたりはもう人気のない空虚の街だった。通る人もなければ振り向く者もない一角に、数組の男女が慎重にステップに気をつけた態度で踊っていた。山中の踊りかと見えるその男女の舞いの上に、雨も降りかかっているらしく石の上には斑点が浮んでいた。
 ドームの前まで来かかったとき、たった一人のお客がテラスに腰かけたままぼんやりと空模様を眺めていた。それが東野だった。
「あッ、おやじ一人いるわい。」
 と久慈は懐しそうに云って窓ガラスを叩いたが、その前を通りすぎた一行の自動車は、凄い速力で早やテラスから遠ざかってしまっていた。ここは雨が降ったと見え鋪道は濡れていて、急に冷えた空気が千鶴子たちの香水の匂いをあおり返して来た。
「東野さん、人民戦線なんか御覧になりたくないのね。」
 と真紀子は後ろの方を振り返ってみて云った。
「そうじゃない。きっともう見ているよ。」
 こう云う久慈に矢代は、
「それや見てる。ただあの人は心の騒ぐのがうるさいんだよ。今日のような日は、一番難しいのは塩野君かもしれないね。写真を写すときには、写す対象がどんなものでも、レンズと同じように冷たくなる努力を要すると云ってたからな。あの情熱家が冷たくなるのは難しいよ。」
 何か久慈は云いたそうに薄笑いを泛べてから、ふと翻るおもむきで、
「じゃ、僕の方が写真上手いぞ。」と云った。
「そう。あなたは冷たい人だから、上手よきっと。」
 と真紀子はすかさず虚を突いて久慈を見た。
 車がアンヴァリイドからセーヌ河の方へ外れていくに随って、皆な黙り勝ちになり、矢代の淋しい想いもまた自然に重く返って来るのだった。

 サンゼリゼの坂下で車を降り、一行はすぐ眼に見えるトリオンフまで歩いた。ここは伝統派の本拠のこととて、今は警官の圧迫を受けているとはいえ、見て来た行進のあった街街の様子とは違っていた。
 凱旋門から両側に連り下ったカフェーは道路に向い、大劇場の客席の雛壇を展いたような豪華な形だった。ちょうど道路が舞台となり、そこから見渡す両側は、どちらを見ても統一された真紅の観客席のゆるやかな傾斜をつづけ、人人はそこに充満していた。それぞれここのはスタイルの見本帳から出て来たような、端正な服装の紳士や淑女ばかりだったが、もうみんな戦闘の準備を終えたらしく、壮麗な一帯の展望ながらステッキを握った手を前に突き立て、凱旋門の無名戦士の墓を占拠しに襲って来る左翼を待ち構えている興奮がどの面面にも漲っていた。
 ここを失えば、もう世界の文化は破壊されるばかりだと確信を抱いた必死の反抗が、建物の窓窓にも現れ、一丈ほどもある三色旗の大旗を横に掴んだ老婆まで、高い窓から下の通りへ向って旗を振り振り応援していた。
 通りの下の方からは、七八十人の学生の群れが女学生も中に加え、腕を組み、国歌を合唱しつつねり登って来た。

 祖国のために
 今日の光栄の
 日は来れり
 老若男女
 剣を持て

 この合唱に応じて両側の通りやカフェー、建物の窓窓からまた合唱がつらなり起った。窓の老婆も顔を充血させ、洗濯をするような恰好でますます強く大旗を揺り動かして歌った。照るともなく曇るともない空模様のうちに雨が降って来た。鉄甲を冠り銃を肩にした警官隊が横町に塊っていたが、これは政府党の警官ではなくパリ市直属の精鋭で、もっぱら市街の秩序の維持に当てられるものだった。駅夫のようなフランス帽を冠った政府党の警官たちは群衆の合唱が大きな声になると、畳んだマントを左右に振って鎮めようとつとめたが、それもどことなく自分もともに歌い出したいらしい顔つきで、「これこれ。」と云うほどの程度でゆったりとしていた。
 矢代たちがトリオンフの椅子を占めてから間もなく、バスティユの方から戻って来た塩野や中田たちと落ち合った。
「あっちはもう赤旗ばかりだが、こっちは頑張っとるな。」
 と塩野の元気な声で云うのに、久慈は、
「この調子だと、左翼はもう来ないかもしれないね。」
 と云って凱旋門の方にカメラを向けた。
 いや、来るのが分って待ち構えているからこそ、左翼はやって来るのだと塩野の意見はまた逆だった。彼の話によれば、バスティユでは左翼以外のものを広場へ入れなかったが、カルトを見せるとすぐ入れた代りに、日本もわれわれと同じインターナショナルだからと肩を叩かれ、胸に赤い三角の旗をピンで差されたという。右翼との衝突も少しはあったらしかったが、苦心の割りに写真の収穫はあまりなかったとのことだった。
 雨は降りかかって来たかと思うとまたすぐ晴れた。マルセエーズの合唱が街路樹の下からつづいて起って来た。警官はその群衆の方へ行ってはまたマントを振りたて制止につとめた。
「国歌は唱ってはならぬとなると、困ったなア。これが日本だったら、君が代も唱っちゃいかんということだ。こうなられちゃ、これやたまらん。」
 中田は一番苦悶の表情でぶつぶつと呟き、ひとり首をひねって考え込む様子だった。伝統の造り上げた堅固な立法が、そのままそこから脱け出し、いつの間にか伺い主の伝統を縛り込めようとしている未曾有の事実が、今や起りつつあるのだと矢代は思った。
 塩野は椅子から道路へ出て興奮しているあたりの群衆を撮っていた。うっすら薄日の射して来た凱旋門の下に、右側一列に騎馬隊の警官が十五六頭馬首の星を揃えて停っていた。みな黒い髪を背中まで垂らした銀色の甲を冠り、豊かな恰幅の堂堂たるナイトの服装だった。坂下の方のマロニエはまだよく繁った緑色を保っているのに、上の方の篠懸はもう淋しく葉を落して枝枝を透かしていた。
 矢代と久慈は婦人たちを中田の傍に残し、塩野の後から道路へ出ていった。記者のカルトをそれぞれ胸につけているので、怪しまれぬのを幸いに塩野と久慈は恐れげもなく幾度も写真をとった。
「君たちはどこの国の人です。」
 と山高の学者らしい紳士が矢代に訊ねた。日本人の記者だと彼は答えると、
「あ、そう。日本は健康でいいね。フランスはいまこの通り病気をしているが、もうすぐこの病いは癒るから、よく日本人にそう伝えて下さい。何に、これは小さな病気だ。」
 こう紳士は云って坂下のロンパンの森の中から噴きのぼっている噴水を眺めた。日本は健康でいいね、と歎息した紳士の言葉は、跳り出て来た若者を歎称する老人の声のように矢代には聞え、ふと照れ気味で自分の国を振り返ってみるのだった。なるほど、立法はあってもその原型を噛み納めると、たちまち情意を立法としてしまい、争いあれば云うだけ云って自然な一つの言葉で鎮まり返り、しかも、季節ごとに燃え上っては、また後から後からと若芽を噴き出してやまぬ、もやし[#「もやし」に傍点]のような瑞瑞しさが日本だった。
 これぐらい健康で新鮮な国もまたとあるまい。――
 しかし、これを云うと久慈のように怒り出す日本人も今は充満しているのだと矢代は思った。そのくせ外国人が云い出してくれると、眼を細めて人一倍に喜ぶ謙虚さも持っていた。けれども、何をどんなに云おうとも、われわれは健康なことに間違いはない。この健康さを信頼せずして他の何に信頼して良いだろうと矢代はこのときある強い思いに打たれずにはおれなかった。「ただもっと欲しいのは自然科学だ、これさえあれば――これは欲しい。」と彼は思った。
 彼は道路から千鶴子たちのいる方を眺めてみると、雛壇の群衆の中に沈んで小さく見える千鶴子も、こちらを見て軽く笑い片手を上げた。矢代も一寸手で合図をした。彼はもうこれならこのまま明旦二人が別れて行こうとも絶対に大丈夫だと思った。それは確信に近い感じで、むしろ、また会うときを想像する喜びの方が大きいほど、生き生きとした信頼の心からだった。
「君、あそこに隠れている警官隊ね。」
 と塩野は建物の蔭の小路に固まっているパリ市直属の鉄甲の警官隊を指差して云った。「あれは軍隊から優秀な兵士ばかり選抜して来た警官隊なんだよ。あれは一番強くって公平で勇敢なんだ。あれを撮ろう。」
 塩野と久慈が広い道路を横切っていって半ばごろまで渡り切ったとき、突然矢代の後ろの方から、
「あれだッ。」
 と叫んだものがあった。矢代はその方を向くと、ソフトを冠った紳士がステッキで坂下のロンパンの方を差していた。ロンパンの森の方から赤旗を首に立てた一台の自動車が馳けて来た。カフェーの一角が急に衝撃を受けて動き停ったと思うと、まだマルセエーズの合唱に揺れているそちこちの群衆の上を、ひと薙ぎその衝撃が薙ぎ通してから、次第にざわざわと揺れ出した。
 それは丁度ぼッと燃え上るような早さで、道路の両側の群衆の上に感応していくと、矢代の前後左右から次ぎ次ぎに、「あれだッ。」とか、「来たぞ。」というような声が漲り起って来たが、そのうちに首に銀狐を巻いた紺色の盛装した若い貴婦人が、ただ一人前方の群衆の中から飛び出て来て、そして、近づいて来た自動車の方へ真直ぐに馳けつけた。と見る間に、一時にどっと両側から真白なカラアの高い群衆が道路のその一点へ向い、波の打ち合うような速度で雪崩れのぼった。警官隊はマントを振り立てて群衆をとめようと焦っても忽ち人波に押し揉まれた。
 矢代は傍の篠懸の街路樹を楯にとって動かなかった。彼は久慈の方を見ていると、塩野と久慈は、打ち上がって来る高いカラアの潮に奔弄されたような様子で、周章てて後へ戻ろうとして引き返して来た。しかし、そのときはもう、後からも同様の群衆の雪崩れが襲って来ていた。二人は横向きに傾きかかって沈んだり浮いたりした。それでも塩野は動揺する中でまだカメラのシャッタを切っているらしかった。
 赤旗を立てた先頭の自動車の後から、二台三台と同様の車が陸続とくり込んで来た。恐らくどれもナシオンへの行進をすませて崩れて来たものにちがいなかったが、どの車も坂を進もうにも進まれず、みな道路の中央で停ってしまった。すると、群衆の真先にいた盛装した銀狐の婦人が拳をふり上げ、自動車から降りて来た左翼の若者たちの群中へただ一人で跳り込んだ。つづいてその後から、紳士や淑女ばかりの一団の群衆が襲いかかった。踏み台に二三の男の飛び上る姿がちらっと見えると、またたく間に引き摺り降ろされて群衆の中へ沈んだ。踏む、蹴る、殴る――そこの一点の得も云われぬ綺羅びやかな特種な乱れの重なった人波の中で、じっと動かぬエナメル色の黒黒と光った自動車の窓ガラスが、見る間に血で真っ赤に染って来た。
 あ奴が怪しいと思うと、その者が右翼であろうと左翼であろうと、もう群衆には見境いがつかなかった。「そら、あれだ。」と一人が云うとどっとまたその方へ襲いかかる。あちらへ揺れこちらへ爆けしている中へ、好んでそこへ飛び込んで来る左翼の群れの数もだんだんに増して来た。矢代の方から久慈の姿はよく見えなかったが、殴りつけられ横ざまになりつつも、まだシャッタを切っている塩野の眼鏡だけ、ときどき青く飛び上るように光った。
 矢代はその方へ馳け進もうとしても荒れ狂った群衆に遮られ、もう自由に体が利かなかった。並んでいる自動車の窓という窓ガラスが滅茶苦茶に叩き砕かれていった。
 ひき裂かれたワイシャツから血を噴き出した赤い徽章の男が一人、叩かれても突かれても、跳り上ってはまた群衆へ幾度でも飛びかかっていくのがあった。そこへ新手の群衆が殺到して殴りかかる。もう血みどろになったその若者の顔は目鼻も分らぬながら浮きつ沈みつしていた。政府党の警官たちは、その間にも誰彼なく検束にかかっていたが、どれもみな右翼のものを抑える検束だった。
 奪い返そうとするもの、それをまた引きつれて行く警官らとの間で、暫く揉み合いがつづいていた。しかし、群衆はも早警官の活動力には手にあまるほど膨脹していた。暴れ廻っている中心の輪が拡がって流れ、下へ下へと爆け流れて行こうとしているときである。
 今までぼつりぼつりとより降っていなかった雨脚が急に激しくなって来た。すると、いつの間に顕れたものか市直属の鉄甲の警官隊が、鋲を打ち込むような固さで一人ずつ群衆の間に立ち並んでいった。思いがけなく中心核から遮断された群衆はまだどよめきを続けたが、不意に黙黙と立ち並んだ銃剣の厳しさには近づき難い様子だった。しかも、この一隊だけは政府党の警官たちをも監視し牽制する厳正中立の鉄甲である。それでもまだここへも雪崩れかかろうとして詰めよる群衆と、引き返す者との混乱が暫くは繰り返した。しかし、それと同時に三段の構えで、坂の上と下から騎馬の警官隊が栗色の馬の胴をよせ合い密集部隊となってじりじり群衆を締めくくって来るのだった。
 もう群衆ははっきりと田の字形に包まれた中と外との二つに別れた。矢代はこの鮮やかな警官隊の包囲の外に立っていたが、銃剣の警官にだんだん締め縮められてゆくその中に久慈や塩野のいるのを見た。塩野はまだカメラを上げてあたりを狙っていたが、久慈は鼻からひどく血を出してハンカチで抑えていた。
 矢代はどうなることかと見ているうち、雨はますます激しく降って来た。今は警官の包囲の外の左翼も右翼も退き、まったく誰も近よろうとしなくなったときだった。警官たちは中に締めくくれるだけ締めた群衆の中から、見覚えの暴れたものを牛蒡抜きにゆっくりと検束にかかり始めた。矢代はこれではもう世界の文化の中心もいよいよ崩れへたばってゆくばかりだと思い、茫然として最後の文化のその絢爛な呻きを聞いているとき、
「どうなるんでしょう。大丈夫かしら?」
 と傍へよって来た千鶴子や真紀子たちは、久慈や塩野を気遣う風に云って横から覗いた。
「大丈夫だとも。どっちもカルトを持ってるんだもの。」
 矢代がこう云っているとき、塩野だけはもう赦されて包囲の外へ出されていた。彼はまだ残っている久慈を見るとまた警官の中へ割り込んでいって、暫く久慈のことを弁明していた様子だったが、間もなく二人は無事揃って外へ出て来た。
「やア、ひどい目に会った。」
 塩野は鼻だけ延び出るような好人物の笑いを立てながら、頭をかきかき矢代たちの方へ近よって来ると、
「とうとうやった。」
 と云ってはまたぼんやりと後ろを見た。
「どうだ。痛むのか。」
 矢代は久慈の抑えている鼻のハンカチを見て訊ねたが、
「いや、何んだか分らん。」
 と云って、久慈はひとり不機嫌そうにトリオンフの椅子の方へ先きに立って歩いた。
 道路の両側に遠く散ってしまった人波は、降り込んで来た雨にみなどこかへ姿を消して見えなくなった。警官の包囲の中では、検束されたものがそれぞれ引き立てられ空虚になったが、後に残った銃剣の警官部隊だけ、血のところどころに流れている雨の中に塊ったまま動かなかった。
「いや、どうも、殴られた殴られた。痛いやまだ。」
 塩野は椅子に落ちついてからも剽軽に頭の横を押してみた。
「しかし、君はなかなか豪いよ。あんなときでもシャッタを切っていたからね。」
 と矢代は事実塩野の勇敢さに感服して云った。
「一ちょらの写真機壊されそうになったが、このときだと思って撮ったんだよ。何が撮れてるか今夜は見ものだぞ。まったく偶然に挟みうちに会わされたんだからな。逃げようにも逃げられないんだ。しかし、あの鉄甲には感心したね。ぴたぴたっと締めよって来た鮮かさは見上げたものだよ。動けないんだ。」
 思い出すと蘇って来るらしい興奮に塩野の顔は赤く染まり、口から泡が飛び出した。
「左翼に一人強い人がいたわ。無茶苦茶に暴れてるの。」
 真紀子のそう云うのに塩野は、
「うむ、いたいた。」
 と頷いた。
「でも、真っ先に飛び出ていった女の人ね。あの方にもあたしびっくりしたわ。あんな人やはり日本にいませんわね。あたし、見ていてはらはらした。」
 千鶴子はそのときもそうして見ていたらしく両手を胸の上に縮め、表情のある眼に変った。
「中田さん、見たでしょう。明日ベルリンへ行くのに、いい土産になりましたね。何よりのお土産だ。ベルリンはまた違うからな。」
 塩野にそう云われ、さきほどからますます考え込んで黙っていた中田は、「うむ。」と難しげに頷いたが、
「いよいよ困った土産だ。とにかく、ベルリンの郊外へでも行ってから、ひとつゆっくりと考えよう。」
 呻くように中田は一層顎を襟に埋め込み、腕を拱いてテーブルの上を見詰めてまた黙った。何んだか強い弾丸に一発致命的な部分を射抜かれた様子である。舞台のような道路の上で、まだ立って動かぬ警官たちの鉄甲の縁から雨の滴りが垂れて来た。
「僕も二三日したらセヴィラの方へ行くよ。少しパリを離れてみなきア、何んだかよく分らなくなった。」
 久慈はそう云いながら真紀子からハンドバッグを取り、中から鏡を出して幾分腫れ気味の頬を映してみた。
「みんなどっかへ行っちまうのか。淋しくなるなア。」
 と塩野は前の元気も急になくなり雨空を眺めて歎息を洩した。空がだんだん暮れかかって来ると、もう通りには警官隊のほかほとんど人影が見えなくなった。

 その夜食事を終えてからトリオンフの一同は皆でモンパルナスへ帰って来た。雨は急に降って来たり霽れたりした。千鶴子の送別会も昼間の疲れでお流れになったままドームへよると、ここはいつもより人が立て込んでいて、どの部屋も満員だったがようやく詰め込む席を探してお茶を飲んだ。
 客たちは誰もみなナシヨンかバスティユの方へ行っていたものらしく、サンゼリゼの出来事を見たものはないような話だった。殊に危険を冒してその日の写真を撮ったものは、塩野を措いて他の外人のうちには一人もいなかったにちがいない。
 矢代はもう千鶴子と二人ぎりになりたかった。疲れも相当に激しく、また今さら云うべきことはないとはいえ、それでも今夜ひと夜よりないのだと思うと、やはり久慈に云われたように皆と別れて二人でいたいと思った。雨の湿気のためかいつもより煙草の煙がむせっぽく立ち籠って来るにつけ、各部屋の中からはしきりに激論が増して来た。それでも矢代の気持ちは始終表の街路へ向いがちだった。街角の闇の中に塊った警官隊の銃剣が濡れた鉄甲の部分と一緒に物音も立てず光っていた。どこかの踊りから脱けて来たのであろう、人通りもない石塀の傍をインディアンの仮装で疲れた足をのっそりと運ぶ画家らしいのが、二三槍を突きつき、「おう、おう。」と叫んで雨の闇の中へ消えていった。
「じゃ、ちょっと千鶴子さんの荷物の手伝いをして来るから。――すんだら来るよ。どこにいるかね。」
 と矢代は立って久慈に訊ねた。
「いいよ。そのまま行って来いよ。」
 笑いもせずむっつりと云う久慈に矢代は顔を赧らめ、ふと挨拶めいたお辞儀をした。
「それではこれでお別れですのね。皆さんどうぞお丈夫で。」
 千鶴子は立って腰をかがめ皆に挨拶をした。
「あ、そうだ、明日の朝だったなア。」
 塩野は忘れていたらしく頓狂に云って千鶴子の顔を見上げたが、
「じゃ、さようなら、明日また。」
 と軽く会釈をし直した。久慈はもう千鶴子を見なかった。真紀子だけひとり千鶴子と握手をしたがそれも軽かった。明朝また見送りにもう一度と皆が思っているにしても、皆の想いとは別にこの夜の別れは非常に簡単だった。
 矢代は襟を立て雨の中を歩いていった。千鶴子はぴったり彼により添うようにしてついて来たが、道路が暗くなって来ても二人は何も云わなかった。

 木の葉の匂いの強い夜で、歩いて来る人声が聞えていても擦れちがうときただちらりと顔が見えるほどの暗さだった。矢代はいつも歩くこの大通りがこんなに暗かったのかと、初めて驚く気持ちで周囲を見廻した。千鶴子も一緒に街路樹を眺め、
「もうこの街も二度と見られないかもしれないのね。これで。」
 とそう云ったが、そんなに悲しそうな声ではなかった。
「ロンドンに暫くまたいらっしゃるようだったら、ときどき手紙を下さい、もっとも僕もすぐここを立つだろうと思いますがね。」
「ええ、でもすぐ船に乗らなくちゃならないと思うの。ですからあたし船の中からお出しするわ。あなたのホテル、手紙きっと廻してくれるのかしら、そんな妙なことだけがこの間からの心配ですのよ。」
 見上げて笑うらしい千鶴子の声に矢代もつい笑い出した。
「大丈夫ですよ。あなたがニューヨークへ着いたころは、僕はベルリンあたりにいると思うな。」
「あたしたち横浜へ着くの三十日ほどかかるんですから、もしあなたがシベリヤ廻りでお帰りになるんだったら、十日ばかりあなたの方が早いわけよ。面白いわそしたら。」
 千鶴子はこう云いながら明日の別れを少しも惜しむ様子ではなく、むしろ矢代のこの度びの黙っている別れの気持ちを万事のみ込んでいる風がありありとした。こんなときでも東西に別れて二人が帰らねばならぬ事情というものは、やはりそれぞれにこれで胸中にあるのだなと矢代は思い、またそれが日本の風習である限り是非それだけは守らねば、どっちの父母からも許されぬもののあるのが、厳格極まりない日本だと思った。それはどういう理由かもう彼には分らなかったが、何んとなくそれは非常に見事な習慣だと思われ、自分が千鶴子の家と自分の家との二家の父母の許しを待つまで、君を愛すなどという言葉も千鶴子に使いたくないのも、実はただそれだけの分らぬ理由からだったとも思った。
 ホテルへ着いてから二人はエレベーターの狭い箱の中に這入り、初めて鈍い電灯の下で顔を見合せた。千鶴子は雨に濡れた矢代の胸のボタンを爪で掻き掻き、ちょっと首を傾けた嬌奢な笑顔で何か云いたそうに唇を動かしたが、その間に箱は上まで昇ってしまった。
 千鶴子の荷造りはほとんどもう出来上っているのと同じだった。ただこまごまとした物を纏めてトランクに詰めれば良かっただけだったが、それも千鶴子でなければ出来ぬ女の使用品ばかりだった。
「手伝いに来たのに何もないんだな。」
 と矢代は手持無沙汰に立ったまま云った。
「たったこれだけ。もういいんですのよ。」
 矢代はそれでも口を開けているスーツケースの蓋を膝で抑え留金をかけたり、古新聞をも一つのに詰めたりした。あまり重くなっては飛行機だから料金が高くなって困ると千鶴子の云うのに、古新聞は記念に良いものだからと矢代は云い張って無理に持たした。矢代から記念と云われると、千鶴子も気軽く笑い愉しそうに応じるのだった。
 すぐ何もすることがなくなったとき千鶴子は下へコーヒーを※[#「口+云」、第3水準1-14-87]咐けた。ソファに向い合ってから、急に千鶴子はロンドンの兄のところへ電話をかけてみようかと矢代に相談した。
「しかし、帰る時間を知ってらっしゃるなら、何もわざわざ不経済する要ないでしょう。」
 と矢代はこれにも反対した。
「でもね、兄さんにはあなたのことよくお話してあるんですのよ。ですから一度電話ででもお話しになって下さると、あたし、何かと後でいいかと思うんだけど。」
 こう云って千鶴子は矢代の顔を見たが、すぐまた、
「どちらも声だけじゃ何んだか変ね。よしますわ。」
 と打ち消した。火の点くように顔の赧くなり始めていた矢代もそれでほっとするのだった。コーヒーが来てから最後の晩餐だからというので、葡萄酒もついでに頼んだ。矢代はここにいるのも後一時間ほどだと思い、時計を見るともう十一時近かった。
「明日の朝は十時とすると、九時にここへ来ればいいな。自動車は僕が乗って来ますからそれで行きましょう。」
 矢代は云うべき必要なことはもうないものかと考えたが、旅に必要なことは何もなかった。
「ロンドンを出るとき電報を上げますから、そしたらあなたも船へ下さるんですのよ。あなたはきっと下さらないと思うけど、駄目よそんなの。ね。」
 と今度は強く千鶴子は云って笑顔を消し矢代の答えを待つ風だった。
「出します。」
 と矢代は簡単に答えた。そのまま二人は言葉の継ぎ穂もなく黙っていたが、矢代は椅子の背に落ちつきながらも、浮き上っていく興奮にどこか身体の綱がぶつりと断れた思いだった。葡萄酒が来て女中が下へ降りてから、千鶴子は矢代の後の床へ膝をつき寝台の上で黙ってお祈りをした。
 チロルの山上のときに一度千鶴子の祈るところを矢代は見たことがあったが、今夜のはひどくこちらの心を突くように感じ、彼もその間ともかく伊勢の高い鳥居をじっと眼に泛べて心を鎮めるのだった。
 暫くして千鶴子が立って来たとき、矢代はカソリックのお祈りをした千鶴子に気がかりな何んの矛盾も感じなかったのが気持ち良かった。千鶴子は前とは変って笑顔も生き生きとして来て、葡萄酒をグラスに瀝いでから二つ揃えた。二人はどちらも黙って葡萄酒を飲んだが、矢代は、今こんなにしていることが婚約を意味していることだとひそかに思い慎重にコップを傾けた。千鶴子の一息に飲み下す眼もともうやうやしくひき緊った表情に見え、それもみな自分の心に応じてくれた優しさだと一層喜ばしくなるのだった。
「それでは明日はお疲れだから、今夜はこれで失礼しましょうか。」
 矢代は果して帰れるものかどうか自信もなかったが、気持ちの晴れたのを好機に、こう云って絡る思いをひき断る気力でうーんと力を椅子の肱に入れてみた。
「でも、今夜だけはもっとお話していたいわ。あたし。」
 千鶴子は表情も動かさず、突然帰ろうとする矢代の考えを嚥み込みかねた訝しさで矢代を見上げた。
「しかし、飛行機は疲れますよ。良ろしいか。」
「でも、たった三時間なんですもの。眠らなくってもいいわ。クロイドンまでだと一時間半よ。」
 矢代は千鶴子の眼に光りの浮いたのを見てまた坐ったが、彼が坐るとすぐ千鶴子はコップに葡萄酒を瀝いでちょっと黙った。
「明日沢山来て下さるんだから、もうお話も出来ないでしょう。ずっとブールジエまで、自動車で御一緒出来るといいんだけど、来て下さる方にお気の毒ですから、やはり飛行館までにしようと思いますのよ。」
 しかし、矢代はこれ以上いては、別れが苦しくなるばかりだった。誰も監視しているもののない部屋で、別れる最後の愛情のしるしを今か今かと待ち合うのは、今日はいつもと違って気忙しく苦しかった。
「僕もいろいろなことをお話したいんだが、外国にいちゃ、何んと云っていいか、とにかく云うことすることに間違いが多いですからね。しかし、帰ればきっと僕お会いします。僕は間違いはないつもりなんですが、どういうことであなたが困られるか分らないから、それでつい、これだけは慎しむ方が良いとそんなに思いましてね。」
 すると、突然、千鶴子は云いかねた顔色に変って来て黙った。矢代は自分の云ったことが云いたいこととは遠く、何か千鶴子の決心も間違いだと匂わせている全く別な言葉となり変っていそうに思われ、これは大変なことを云い出したものだと思わず言葉を嚥んだ。事実、どこの国にいようと、結婚する意志に変りのあろう筈がないと思っている千鶴子に、初めてうち明ける危険な真相であってみれば、それに気づけば千鶴子とて気づかない前より二の足を踏み考えるにちがいなかった。
「でも、あなたそんなこと、本当に思ってらっしゃるんですの。あたしが間違うだろうなんて?」
 伏目になって悲しげにそう云う千鶴子を見ながら、矢代はそれではまだ気づかれなかったかと、胸撫でおろすような気持ちになるのだった。しかし、何かすぐ真面目に答えなければならぬとすると、話は意外な傷口をますます切り開いてゆくばかりだった。
「間違いはないと云うのは、僕の方のことを云うのですがね。」
 こう云って矢代は笑いにまぎらせたついでに、投げかけた暗影を一挙に揉み消す曖昧な力をさらに引き出そうと努めながら、
「つまり、あなたの方が間違いを起し易いというのですよ。」
「何んだかあたしによく分らないわ。みんなこちらのことは間違いだなんて。そんなこと――。」
 低きに流れる水のようにだんだん千鶴子の疑いの深まって来るのを矢代は胸に打ち込まれる釘のように痛く感じた。まったくいつもそんなことを考えては千鶴子に近づいていた報いが、やはり一度はこんな風に来なければならぬのかもしれぬと、矢代も瞑目する思いで静まるばかりだった。
「明日の朝お別れだというのに、こんなになっちゃ困るなア。」
 と矢代は力なげに笑って云ったものの、これは実際に困りはてた疑いだと思い、これを前の白紙に完全に戻すことはもう不可能かもしれぬと思った。千鶴子はテーブルの上の一点から視線を放さず悄れたままだったが、
「あたしの帰るときに、どうしてまたそんなこと仰言ったのかしら。あたし、あなたがいつもそんなこと思ってらっしたのが、何んだかしらいやアな気持ちよ。毎日あんなに楽しかったのに――」
「ですからそこじゃないですか。僕だって同じですよ。」
 こうなっては矢代も、もう思っていることをみんな云うべきときだと覚悟をするのだった。
「僕は前からこんなことを気づかれはしないかと、いつもびくびくしてたんですよ。何も僕とあなたが特に二人にとって、間違いなことをしているとは少しも思っちゃいないですよ。けれども、何んと云ったところで、ここは外国でしょう。ですから、あなたも僕も島流しになった二人みたいで、僕たちの心の通じるのは広くたって三人か四人でしょう。それなら、親切にしたり喧嘩をしたりすることは当然なことで、檻の中の友人のようなものだから、これらのものがそれぞれ日本へ帰って自由な身になったら、島流しになっていたときと同じ心でいるわけはないと思うのです。それも無理に島流しにあっているこんなときを、大切にしているならともかく、それだって、帰れば周囲のものがそのままにさせておくものじゃないんですからね。ですから、それを僕は考えると、もっとあなたを自由にさせておかないと、いつかあなたが僕を恨むようなときが必ず来るんじゃないかと、実はまア、あなたの困るときばかりを想像して、不吉なお話もしたわけです。」
 矢代のこんなことを云う途中に、もう千鶴子の顔は解け流れて来るようににこにことして聞いて来た。
「そんなこと――まア、あなたは何んて用心ぶかい方なんでしょう。あたし、本当に感心してしまったわ。でも、恐ろしい方だわあなたは。」
 初めてあなたを知ったという風に千鶴子は暫くまた黙って考えていてから、
「あたし、とてもあなたのように考えられないわ。あたし、間違っていたと思えないんだけれど、でも、あなたがそんなに思ってらっしゃるのでしたら、あたし、何を云ったって駄目かもしれないわ。」
 と、ふとまた矢代の云ったことを真実なことと気づき直した様子の千鶴子は、夢見るような伏目のままに、
「そんなことをいつも考えてらっしゃれば、あなたのようになるのね。でも、あたしはそんなこと、もっと簡単に考えていましてよ。そんなこと、いくら深く考えたって、それや駄目なことだとあたし思うの。ここで起ったり思ったりしたことは、あたし一番変らないと思うの。本当にそう思うわ。」
「それは、君はカソリックだからでしょう。そこが僕と違うのだなア。」
 と矢代は初めてまた胸をついて来た新しい事実に内心びっくりして口走った。しかし、争いの鎮まりかけたものを再びかきたてるこの無用も、もうするだけしてしまいたいと彼は決心するのだった。
「あなたは物事を考えるのに、ヨーロッパを基準にして考えているのですよ。しかし、僕はやはり日本を基準にして考えてますからね。それだけはどう仕様もないものだと思うな。」
「それじゃ、日本へ帰ってから違うのは、やはりあなたの方が違うわけね。あたしの今の考えの方が正しいわけだわ。きっとあたしの方が正しくってよ。あたし、あなたが変ってもあたし変らないと思う。きっとあなたの方が変ると思うわ。」
「とにかく、そんなことは云ったって始まらないことばかりですからね。それですよ。僕がこんなに用心ぶかいのは。」
 こう云いながらも矢代には、今は二人の争ったことは愉しいことだったが、しかし、こんなに好意を持ってくれた婦人がこの千鶴子だったのだと思うと、また一層彼は帰ってからの怖れが心配になるのだった。現にこの日の昼間のことを考えても、サンゼリゼの伝統派と左翼との格闘のさまなど、カソリックと科学との闘争だといえば云うことの出来る精神の違いの流血沙汰だったと思われた。彼はあんなことが、千鶴子と自分との以後の生活に起ったなら、終生どこを二人の結ぶ心として生きてゆくべきなのか、これは考えれば考えるほど心中根を深めてゆくばかりだった。もし今の二人の別れが身も心もともにこのまま別れる最後だったら、それなら自分はもっと愉しむだけは愉しむかもしれぬと思った。
 けれども、矢代はこのような不用な怖れを今ごろするのも、こんなことばかりが絶えずぎりぎりと頭にかかるこの西洋に現在自分がいるからであり、また一つは、昼間のサンゼリゼの出来事を眼にした直後の不安なせいかもしれぬとも思うのだった。あるいは日本へ帰ってしまえば、カソリックであろうと法華であろうと、さらに異とせぬ、「えい。」と気合いのかかったような爛漫たる無頓着さで、事は無事融合されてしまうのかもしれない。そんなら二人にとって一番神聖なものもやはり日本にあるにちがいない。
「まア、あなたは僕より一足さきへ帰ってみてくれ給え。何も僕はあなたを疑ったわけじゃなし、二人のために一度はしなくちゃならぬ心配を、うち明けてみたまでのことですから、黙っていたのより、気にかけた方が安全だというようなものでしょう。」
「それはそうね。黙ってて下すったのより仰言って下すった方が、やはり良かったと思うわ。」
 表情までまだ矢代の云うままに流れて来る千鶴子だったが、それでももう前のような明るさはだんだん千鶴子から消えて来た。後から襲って来る不幸よりも、不幸を未然に防げたという意味にも解せられる千鶴子の力なげな様子が、またこうなると矢代には心配になり始めた。それも千鶴子の頭へ、これから帰って行こうとする日本の待ち伏せた生活が、早や波打ち上って来ているのにちがいないのである。しかし、何んと云おうと、どちらもわれわれの生活へ戻ってゆくのだと矢代は思った。それが不幸になろうと幸福になろうと、何を今から恐れたことだろう。――夢見るだけは、もうここで自分らは夢見て来たではないか。そんなら、帰れるものだけ早くさっさと帰れば良いのである。――
 こんなに思うと、矢代も急に千鶴子を前へ突き動かしたくなって来て、
「さア、もう僕も帰りましょう。こんなにはしてられない。」
 と云うとグラスに残った葡萄酒を一息に傾けた。彼は立って千鶴子に強く握手をしながら、寝過したら電話で起して貰いたいと頼み、
「さようなら。」
 と云った。
 千鶴子は手を出したまま握り返さず、黙って矢代の顔を見ていたが、本当に帰って行く彼を見ると後ろから急いで立って来て、
「じゃ、さようなら。」
 と一こと云った。矢代は暗い廊下へ出てからエレベーターの前まで来て、上って来るボックスを待っていると、千鶴子は後から追って来て彼の傍にまた青ざめた顔で黙って立った。
「あなた本当にお帰りになるのね。」
「帰ります。」
 と矢代は灯の点いたエンジケイタの針の動きを眺めて云った。針が五階に近づいて来たとき、千鶴子は肩を寒そうにつぼめ、
「雨まだかしら。」
 と云って窓のない廊下の外を覗う様子を一寸しかけ、また矢代を見た。矢代はボックスが停ると千鶴子の肩を押した。
「君もうここでいいですよ。じゃ、また。」
 闇の中に光っている大きな千鶴子の眼を見ながら、矢代は笑顔を軽く作って下へ沈んでいった。彼は奇蹟に似たものが体内で激しく起っているような、何か気違いじみた素晴しく軽い飄然とした気持ちだった。
 ホテルの外へ出てからも彼はやみかかった小雨の中をルクサンブールの方へ歩いた。五階の千鶴子の窓の灯がもう消えたかと思って仰ぐと、窓はもう前から開いていて千鶴子がそこから下の通りを覗いていた。矢代は早く眠すみなさいという意味の手枕の真似をしてみたが、黒い影のように見える千鶴子の姿が、
「どういうこと、それ?」
 と訝るらしい首の曲げ方で答えた。その千鶴子の様子は、なまめかしい悩みを顕している風にも矢代には見え、一瞬強く足の立ち竦む思いに打たれるのだったが、それもどういう作用で切りぬけているものか彼も分らぬまま、また歩いて街角を曲った。
 初めて千鶴子の影が見えなくなったとき、矢代は首すじから背中の半面へかけひどい疲れで鈍痛を覚えた。歩く足も右を出しているのに左を出しているような錯覚を感じ、ときどき足を踏み変えてみながら公園の外まで行って彼はそこのべンチへもたれかかった。

 翌朝矢代は早く眼が醒めたがまた眠った。そして、うとうとしてから、時計を見るともう九時近かった。コーヒーも飲まず彼は千鶴子のホテルへすぐ自動車で行って、その車を下で待たせたまま、五階へ上っていった。薄化粧もすました千鶴子はただ彼の来るのを待っているばかりだった。
「早く起きたんだけれども、あんまり早すぎてまた眠ってしまった。どうも失礼。」
 と矢代は云って笑った。昨夜の苦しい決断がこの日の朝の快活さを予想してなされたかのように、二人は打ち溶けた気持ちの良い笑顔だった。千鶴子は宿の払いも今すませたばかりだと云ったり、この天気だとドーバア海峡の揺れも少いだろうと喜んだり、あわただしげな中にももう悲しそうなところは少しもなかった。矢代は薄靄のかかった森の上にパンテオンのかすんで見える窓の傍まで行き、下の自動車を指差した。
「あれが待たせてある自動車ですから。――まだ一時間もありますが、どうします。もう行きますかね。」
「行きましょう。皆さんお待ちになってて下さるといけないわ。」
 千鶴子はこう云って洋服箪笥を覗いたり鏡に姿を映してみたりした。矢代はスーツケースを二つ両手に下げて廊下まで出ると、女中が馳けて来てそれを受けとり、馴れた早さで階段を降りていった。下まで二人が降りたとき、ホテルの主人が千鶴子に、それでは身体に気をつけて良い旅をせられるようと挨拶した。自動車をグランブルヴァールの方へ走らせ出してから矢代は、
「どうです。もう一度見たいところはないですか、車をそちらへ向けさせますよ。」
 と云ってみた。千鶴子はルクサンブール以外どこももう見たくはないと答えた。車が公園の外郭に沿って廻り始めたとき、矢代は突然、もう二度とは見られぬ死にゆく病人と別れるような淋しさを感じて胸が詰って来るのだった。千鶴子もその間黙っていたがすぐ車はもうサン・ミシェルの坂へ出てしまった。
「ほんとに良い天気だこと。あたしいつも運がいいのよ。来るときもこんな日だったし、今日もこんなでしょう。」
 と千鶴子は笑ってまた晴晴しそうに薄靄のかかった街を眺めた。
「パリの人間は見送りというものをしないそうだが、日本人は好きだなア。送ったり迎えたり。――」
「そうね。」
 二人は強いてこんな意味のない言葉ばかりを探さねば、何か持ち切れぬ感情の重さに潰れそうな不安を感じ、自然とどちらも暗黙の警戒をするのだった。車がセーヌ河をぬけるともう飛行館へ近づいて来た。飛行館には真紀子と久慈と東野との三人が先から来て待っていた。
「ゆうべは電話をかけようかと思ったんだが、あれから映画を観に行った。元気はいいのか。」
 と久慈は降りて来た矢代に訊ねた。無表情ながら何んとなく、負惜しみを云ったってやはり恰好はつけただろうと冠せる気組みも見え、矢代は答えに窮して黙った。それぞれもう飛行館に着いた安心さで皆が立話をしているとき、ひとり放れていた東野が、
「荷物。荷物。」
 と矢代に注意した。矢代はスーツケースを検査場へ運びながら、この方が痛いなと思い、目方を計って貰っているところへ塩野が来た。彼は東野を見るとまだ皆に挨拶をせぬうちから、
「昨日はひどい目にあった。サンゼリゼで右翼と左翼の衝突があってね、僕はその間へ挟まれちゃって、殴られた殴られた、まだ頭痛いや。」
 と顔を青年らしくぼっと充血させて始終を話した。話しながらも塩野はもう何か新しい風景を見つけたものか、写真機を停っているバスや千鶴子の方へ向けていた。荷物も飛行場行のバスの底に入れられてしまったとき、久慈は千鶴子に云った。
「もうパリはこれで見おさめだから、よく見ときなさいよ。ここを発つときは誰だって泣くんだそうだが、君もう泣いちゃったの?」
「あたし? あたしは泣かないわ。カソリックなんですもの。」
 千鶴子は暗に昨夜の潔白さを示したい反抗の語調で軽く笑い、そう云ってからふと傍の真紀子に気がねの様子で振り返ると、
「マルセーユへ皆さんと着いたの昨日のようですのに、早いものですことね。でも、ほんとうに、あたしもうこれでここ見られないのかしら。」
 とあたりの街街を見廻した。
「それや、君の心がけ次第さ。」
 と久慈はまた赦さずひと刺し千鶴子を刺すのだった。
「じゃ、あたし、もう一度来るわ。一度来てしまうと、何んでもなく来れるように思えるのね。神戸で船の梯子を登れば、もうそれでいいんですもの。」
 それはそうだというように真紀子も久慈も笑ったが、真紀子だけは帰りたそうに空を眺めていてから、今日は帰りにスペイン行のコースを験べて来ましょうと久慈にせがんだ。三人の傍へ塩野が来ると千鶴子に、飛行場行のバスは一ぱいで見送人は乗れないそうだから、今日はもうここで失礼すると云い、ロンドンへ行ったら君の兄さんに宜敷くと告げた。
「それじゃ、困ったな、そんなら矢代一人をやろう、一人なら空いてるだろう。」
 と久慈は云ってバスの運転手のいる方へ行った。戻って来ると彼は矢代に、君一人なら何んとかなるそうだからブールジェまで僕らの代表で行ってくれと頼んだ。矢代は黙って時計を見ると間もなくバスの出るころだった。どこにいたのか今まで見えなかった乗客もいつの間にか集って来ていて、だんだんバスに乗り込むのが増して来た。
「中田さん、もうベルリンへお発ちになったかしら?」
 と千鶴子は塩野に訊ねた。
「今朝早く発った筈ですよ。あんまり早いんで僕は見送れなかったが、あの人ゆうべもあれから弱っていましたよ。真面目な学者だからなアあの人は。」
 何んの気もなくそう洩した塩野の言葉に、一瞬矢代と久慈も、集りかかった玉がぱっと爆けるように衝き放された気持ちで黙った。東野は後ろの方で塩野の話を聞いていたものらしく、笑いながら久慈に近づいて来て、
「君、昨日殴られたんだって?」
 と訊ねた。久慈は不愉快そうな顔で東野を見たが、例の負けず嫌いな精悍な眉を上げ、「何に、一寸ですよ。」
 と云い渋った。
「でも、鼻血が出ましたのよ。ひどく出ましたの。」
 と真紀子は傍から久慈の嫌がることに気がつかずうっかりと話した。矢代にだけ分るこんな久慈の苦苦しげな突然の緊張に立話が意外に白らみを見せかけたとき、
「じゃ、もう乗りましようか。」
 と矢代は千鶴子を急がせた。
「それでは皆さん、どうも有り難うございました。」
 と千鶴子は皆にお辞儀をした。さようならと声を揃えてバスの入口へ集って来た皆のものに、また千鶴子は挨拶をしてバスに這入った。後から矢代も乗り込んだ。彼は窓口から放れた方に椅子をとると、顔を反対の方へ反らせていたが、久慈と真紀子の些細な喰い違いが眼に残り、あの調子では二人とも遠からず別れるときがあるなと、ぼんやりと思うのだった。そのうちバスはすぐ動き出して一行から放れて行った。二人はしばらく黙って揺られていてから、
「真紀子さんたちスペインへいらっしゃるの、いいわね。」
 と千鶴子は急に傍に矢代のいることに気づいたらしく彼の方へ身を向け替えて云った。
 矢代はスペインへは自分も行ってみたいと思い頷きながら、
「あれで久慈はどういうものだか、まだパリを放れたことがないのだからな。パリを放れると損をすると思い込んでいるんだから、あの男にはスペイン行もいいでしょう。」
 矢代はこう云ってから真紀子と久慈との、一見無事な情事もなかなか容易ではないと云おうとして、ふと自分たち二人も実はどうだかまだ分ったものではないのだと思った。街が郊外となり空が行手に拡って来ると、薄靄も次第に晴れて来た。矢代には空がいつもと違って恐ろしく支えのない空漠としたものに感じられた。遠く旅して来た彼の眼にいつも変らず随いて来た懐しい空だったが、今日のはいつ突き落されるか計り知れぬ、鳴りを静めた深深とした色合いに見えるのだった。
「これでもう、マロニエなんか落葉しているのがあるが、僕ら日本へ帰るころは、もう稲の穂が垂れていますよ。」
「そうね、でも、あなたあまり永くベルリンにいらっしゃらないでね。」
「もう外国にはそんなにいたくないな。よほど良い所でも、僕はやはり考えますね。」
 飛行場のバスはどこのでも、客たちの間に一種鈍重な沈黙が圧しているものだが、これから空を飛ぶのだという、人間の習性をかなぐり捨てた心細さも手伝うのであろう、千鶴子も一言いっては黙り、またぽつりと思い出したように云っては黙った。矢代は今日は自分ひとり引き返して来る唯一の人間だったから、これで皆の客とはよほど気軽に自分も浮いているのだろうと思ったが、それにしても、千鶴子は来るときロンドンから飛行機で来ており、帰途も自分からこれにすると云い出したところを見ると、カソリックはやはり天に憧れがあるためかもしれぬと、矢代はまた自分に不可解な日ごろの千鶴子の潔癖さを考えたりするのだった。
 ブールジェへ著いたときは、出発の時間にまだ三十分も間があった。この前千鶴子を迎えに矢代の来たときよりも、芝生の緑が濃くなっているためかハウスの玉子色が一層鮮やかな感じだった。矢代はサンドウィッチとチョコレートを買い、千鶴子に持たせてから壁の航路図の前に立ってみた。
「あなたを迎えに来たとき、これを見て急に日本へ僕は帰りたくなったんですよ。安南まで一週間で飛ぶんだからな。」
 こう云って矢代は自分もベルリンへは飛行機にしてみようと思ったり、不意に千鶴子より先に日本へ帰っているところを想像したりしているうちに、もうロンドンから来たらしい飛行機が芝生の上へ降りて来た。
「あ、そうそう、忘れてたわ。チロルでカメラお買いになったでしょう。あれお別れのときいただくお約束でしたから、荷物の中へ仕舞っちゃいましたの。下さいねあれ。」
 と千鶴子は顔を赧らめねだるように首を一寸傾けた。
「ああ、そんなこともありましたな。」
 と矢代は笑った。チロルの氷河を渡った夜、山小舎の深い乾草の中で眠ったとき、眠れぬままに千鶴子が身動きをすると、ずっと放れて寝ているこちらにも動きがそのまま伝わって、ゆさゆさと揺れて眼を醒した一夜の寝苦しさを矢代は思い出した。もうあんなことも二度とないのだ。とそう思うと、自分の青春も今このときを最後に飛び去って行くのかもしれぬと思われ、ふと彼はあわただしげにそのあたりを往ったり来たりする人人の姿を眺めながら、時のすぎゆく早さを身に沁み覚えて来るのだった。
「もう時間でしょう。」
 矢代が時計を見上げて云うと、びっくりしたように千鶴子も、
「そうかしら。」
 と壁を仰いだ。乗客らは芝生へ降りて行くものも見えた。見送人は待合室から出られないので二人はまだ向き合って立っていた。客の荷物も飛行機に積まれている最中らしかった。立ち際の気の散る様を抑えながら千鶴子は、
「あたし兄さんから、フロウレンスへ行って来いと云われたんだけど、とうとう行けなかったわ。でも、短い時間じゃ無理ね、どこへも行きたくなくなるんですものね。」
 こんなことを云っているうちに、エア・フランスのマークをつけた銀色の機の扉が開かれ、もう客たちが中に這入るのを見ると、千鶴子は急に顔色を変えてハンドバッグを脇にかかえ込んだ。そして、矢代の眼を見詰め、
「じゃ、行ってきますわ。御機嫌よう。」
 と云った。
「さようなら。」
 思いがけなく早い別れに矢代は、「さようなら。」を返すのも軽い声より出なかった。握手をしてから千鶴子は芝生の方へ歩いていったが、また一度こちらを向き返るといつもの笑顔に戻り軽快な歩調だった。三つのプロペラが一つずつ廻り出したとき、千鶴子は機の踏段に足をかけてまた矢代の方へ手を上げた。
 矢代は瞬間扉の口へ絞りよせられるような眩惑を感じ、千鶴子が中へ消えると、初めて機体が芝生の中に形を整えたはっきりとした一箇の鳥の姿に見えるのだった。千鶴子は羽根の真上のあたりの窓からこちらを覗きながら手袋のようなものを振っていたが、その窓も顔もほんの小さくより見えなかった。矢代は緊張がゆるんで手応えのない感じで手を上げた。
 機体は俄に乳色の煙を草に噴きつけた。そして、大きな爆音が聞えドアが閉ると、矢代は血がどっと頭にかけ昇る思いでまた手を大きく振りつづけた。
 それからもうすぐだった。機体は地の上を辷って舞い上っていった。千鶴子は窓から黄色な手袋だけいつまでも振っていた。しかし、それも見る間に方向を変えて空高く上り、一点となるやもう矢代には何もない空だけ静かに青く見えているばかりだった。
「ほんとにあの空にはたったあれだけか。」
 と矢代は暫くぼんやりとしていてからそんなに思ったほど、空はフランス色の鮮やかな空しさで静静としていた。彼は取りとめのない泡の消えるような音を聞きつづけている思いで、待合室の隅のカフェーの椅子にひとり坐り出て来るコーヒーを待った。

 パリ祭がすむと急に避暑に散ってしまう慣しらしいパリには、なるほど人が眼に見えて少くなった。そこへ千鶴子が帰ってから二日目に、久慈と真紀子たちもマルセーユ廻りでスペインへ旅立った。ひとりになった矢代は朝から閑を持ち扱いかねて、ブロウニュの森の中を終日あちこちとさまよい歩いた。ときにはまた風来坊のように、名のある古い建物の門柱についている彫刻を見て廻ったり、見残した絵を見て廻ったりした。彼はこんなときでも何かの拍子にふと空を見るようなことがあると、急に千鶴子のことを思い呼吸が空に吸いとられるように淋しくなったが、しかし、何ごともみな過去のことだと思うとまた石の間をことこと歩いた。そのうちに、見て廻る彫刻が見事であろうと絵が美しかろうと、もう何んの興味も感じなくなって来た。こんなあるとき、自動車の中で自然に手の指の触れた肱つきのダイヤルを廻すと、突然バッハのコンチェルトが聴えて来たことがあった。そのときは矢代も音楽のやむまで自動車を走り廻したが、その間は千鶴子が横で生き生きとして囁き動き、擦りよって来てはまた笑うとどまりのない愛撫を感じて一層あたりが寂しくなった。
 ある日曜日の夕ぐれ、矢代は歩き疲れて食事場の方へ帰って来た。すると、人のない通りのベンチにひとり腰かけている東野が前方の寺院の方をじっと眺めているのに出会った。だんだん近よって行くと、東野の後ろで四つ五つの男の子がベンチの背の上に馬乗りになって、片足を東野の肩から胸へ跨ぎかけ、玩具の豆自動車を東野の冠っている帽子の縁の上で競争させながら、
「赤、行け、黒、行け」
 などと云って廻していた。東野は子供が落っこちないように、片手で子供の脇腹を抱いていたが、やはり身動きもせず、寺院の門からぞろぞろ出て来る黒い服装の老婆の群れを眺めつづけた。
 矢代は暫く立って黙って見ていると、子供の廻している豆自動車は銀座の夜店でよく見かけた日本製のものだった。
「どこの子です。この子。」
 と矢代は不意に訊ねて東野の横へ腰かけた。
「どこの子かね。僕んとこの子供と同い年らしいから、遊んでみてるんだが、こ奴僕をどっかの土人だと笑ってるらしいんだよ。まだ顔も見よらん。」
 東野は笑いながらそう云って胸に垂れた子供の足を掴み、片手を胯の間から背へ廻すと、指先で牛肉を圧してみるような手つきで、
「なかなかこの子の肉は強靭だよ。この調子だと、これやフランスもまだまだ大丈夫だな。」
 と云った。
 子供は二人の方を見ようともせず、東野の頭の上で、
「赤、行け、そら行け。」
 などとまた云いつづけせっせと自動車を廻していた。その前の寺院から出て来る老婆の群れもまだ続いていたが、薄明りの中をわが家へ帰ってゆくそれらのどの顔も笑っているのは一人もなかった。
 矢代はしばらくして空腹を感じたので東野を食事に誘ってみた。東野は頭の上の子供の自動車場の崩れるのが惜しそうな様子で頭を動かさず、
「坊や、もう御飯だから降りなさいよ。ええ?」
 と下から父親らしい日本語で云った。しかし、子供は彼の声も聞えぬらしく夢中で東野の頭をしっかりと片手で抑えた。矢代はふと後ろの方を向いて見ていると、露地の入口の所から子供の母親らしい婦人が立ってこちらをじっと見ているのと視線が合った。その婦人はさっきから自分の子供を呼んで良いものかどうかと躊躇していたものと見え、謙遜な美しい微笑を泛べながら東野の方を見てやはりまだ立ちつづけていた。
「さア、行くぞ。よっこらしよ。」
 東野は子供を抱いて下に降ろすと、
「夏のパリは貧乏人ばかりでいいですね。のびのびしてゆっくり出来る。極楽浄土じゃ。」
 と云いつつあたりの夕暮の景色を娯しそうに眺め眺め、矢代と並んで食事場の方へ歩いていった。

 もう三四時間で国境の満洲里へ着くというころ、少し矢代は眠くなった。いつでも汽車から降りられる支度を整え上衣を脱いだだけの姿でまた彼は寝台へ昇った。この列車の寝台は昇るというほど高かった。夜中など振動のため抛り落されそうになって眼が醒めたこともある。およそ十日間ほど続いてシベリヤを走っている旅であった。十日も同じ方向に進行している車の中の暮しは、退屈というよりも時間の観念が常態ではなくなっていて、どこか頭の中に棲み始めた異様なものが、身体から感覚を吸い摂り肥って来ているような、麻痺状態がずっとつづいた。今さき朝起きた筈だのにと思っているともう夕日が窓から射して来る。こんな筈がないのにと思って考え込んでいるうちにすぐ、窓の外は闇になる。時計などを出してみても、このあたりの時計はモスコーの時間そのままで午前の九時が事実の午後の四時ごろに当っているので、そこを絶えず事実と時計の差を計っていたりしては疲れた頭を一層痛めるばかりで面倒だった。
 それでも矢代はシベリヤの旅の十日間を、思い出してみようと努力してみることもあった。すると、不思議なことに印象といっては何もないのに彼はまた驚いた。ただ一面の草ばかりが日を受け、大海の中の水平線と同様真直ぐに延びはだかった地平線が、ポーランドからずっと続いて来ているだけだった。これは景色というものではない。地球の胴体と云いたいような、何か神の手で引かれた無限の線の調査をしているように思われる、日日であった。初めのころこそ矢代は幾度となく天地の悠久な姿に嘆声を上げていたが、それもウラルを越してからは、一層猛威を発揮して来る天地の単調さが次第にうるさくなり、そっちの方はもう地球の有るがままに任せきりにして、こっちの人間は人間なりに、何か勝手な真似をしきりにしたくなって来た。
「まア、広いの、広くないのと云ったところで、お話になりませんな。」
 矢代と同室の南という人の好い貿易商人が、これも云うことがなくなったと見え、こういうことを云ったりした。アルゼンチンに永くいて、南北のアメリカの広さを知っている筈の南が洩す嘆声だと思うと、矢代は、自分の激しかった驚きも、よほどこれで正しかったのだと思った。
 隣室にはパリから北京へ行くというフランス人の骨董商が一人、その隣りがベルリンから東京へ行くナチスの外交官が二人、その次ぎには、二十歳前後の中国の青年と、その母親のフランスの婦人という順序で、これだけがいつも廊下で一組になって話し込み、自然な車中の隣人になってしまっていた。これらの組のものとは別に、アメリカの新婚夫婦が一組いたが、この二人だけは別の世界を愉しみたいと云いたげな風で、皆の話からも脱れ、仲間に入ろうとしなかった。しかし、それぞれ西洋の文化都市から大平原の単調さの中に入り込んで来た急激な変化のために、誰も矢代同様自分の身の持ち扱いに困っているらしかった。外人に馴れた南は人好きのする笑顔で、この退屈な仲間の間を誰彼介意わずよく饒舌り、そして引っこみ勝ちな矢代の傍へ戻って来ては仲間らの身の上話をして聴かせるので、特に興味がなくとも、皆の旅の目的も矢代には知れて来た。この南は商人とはいえ、貿易商であったから、紳士を何より尊重するという風があって自分も負けずに守るべき紳士の礼儀を修得することに永年かかったらしかったが、持ち前の東洋人の無頓着さが礼儀の間から綻び出て、絶えず露出している尾っ端には気附かぬ屈託のない、朗らかな風格を備えていた。一つはそれがまた外人たちに油断を与え、笑いを立てる源ともなりつつ、この平原の中の退屈さを揉み消す作用も自然にして来たのである。
「わたしは今から十年ほど前、いっぺんここを通ったことがあるんですよ。雪が降ってましたがね。そのときにはトランクを二十ばかし持ってたもんだから、乗り換えのときには弱った弱った。」
 こういうことを云うときでも、南が云うと弱った感じには見えず、滑稽さが先に立って矢代も思わず笑った。
「じゃ、あなたは前にいっぺんここを通ったのに、それでもまだここにびっくりされるんですか。」
「そのときのことは、もう忘れてますね。何んでも雪ばかしだったから、あのときは外なんか見なかった。いや、しかし、今度はたしかにびっくりしましたよ。」
 一度ここを通ったものは、生涯この大きな景色を忘れることなど不可能だと思っていたときだったから、南のそう云う頭の中が、もう矢代には想像出来なかった。十年の外国生活の間に、無茶苦茶に何かが詰ってシベリヤなど追い出してしまっているものが、これで南の頭の中に犇めいているに相違ない、と矢代は思った。
 しかし、そういえば、これで矢代も今はしどろもどろの態だった。もう今は考える余力などなくなり、見て来たものだけの重さを持ち応えているだけがやっとのことだった。パリを発ったのが七月の終りで、それからベルリンへ行った一ヵ月の間に、またいろいろの事情でイタリアまで飛行機で飛んだりした。その間、アメリカを廻っている千鶴子から手紙が三度ばかり来たが、矢代の方からは宿の定まらぬ千鶴子に手紙の出しようがなかった。ベルリンでは沢山な日本人と彼は新しく知り合になった。そのうちにはマルセーユまで同船で来た者らと巡り合ったりしたことなど、一度ならずあった。新しく知人が出来て来ると、パリで出来た知人らの面影も、去るもの日に疎しというのが眼のあたりの実情になったが、中でも千鶴子と久慈と真紀子のことだけは、同じ竃《かま》の御飯を食べ合った身近さで、寝るときなど矢代はよく眼に泛べた。しかし、総じてパリでの出来事も、移り行く旅の先では、過ぎ去った日のことだと思う気持ちも強くなった。これだけは人力ではいかんとも為しがたい自然の力のようなものだった。日本にいるときの一年の疎遠な時のもつ忘却力が、ここでは二三日で起る無情な自然力となって肉体を刺し貫き、身心ともに我れ知らぬ疲労の蓄積を堪えている。そして、その疲れの癒らぬ間に、早や次の疲労が襲って来るという風な具合で、いつの間にか疲れが疲れを生み、初めに溜り込んだ疲れなど忘れてこちこちになっている。こういうところへ、南という剽軽《ひょうきん》な五十過ぎの人物が、外国での最後の知人となって現れて来たのであったから、矢代も、この偶然に振り当てられた最後の旅を幸運だと思った。
「わたくしはこういうものですが、これから日本へずっと帰りますので、どうぞ宜敷く――日本人はあなたとわたしとたった二人ですよ。ではまた、荷物をしまいましてから、ゆっくりと――何しろ長いことですからね。」
 矢代たちの国際列車がベルリンのゾウ駅を動き始めると同時に、戸を叩いて入って来て、誰からの紹介もなくいきなりにこにこしてこう云い出したのが、南の矢代に云った最初の挨拶だった。外国にいると最初の挨拶の仕方が何よりも気にかかり、要らざることで睨み合うことの絶えずあるのは、内地にいる人の想像も出来ない激しいものである。飛んだ面白い人が来たものだ、と矢代はこのとき思った。そして、自分もこれからする十幾日の長い車中生活に必要な荷物の出し入れにかかった。荷物の整理もついたころ、また南は矢代の部屋へやって来たが、今度はくつろいだ様子で南米の話から、日本にいる子供の病気の見舞いかたがた帰ることなど、問わない先にみな話した。ところが南は、話の途中に突然不思議そうな顔をして云った。
「どうもおかしなことがあるもんですね。わたしは昨日、T新聞社から映画のフィルムを日本まで持って帰ってくれと頼まれたものですから、宜し、承知しましたと云って、引き受けたんですよ。ところが、わたしの部屋へ持ち込んで来てあるのを今見てみたらT社のじゃない、A社のですよ。A社からは、いっぺんもわたしは頼まれた覚えはないのに、どうしたことかと思ってるんですがね。おかしいなア。」
 矢代は半ばまで聞かないうちに南の不思議がるのは尤もだと思った。実は矢代もT社からフィルムを頼まれて、現に棚の上に置いてあるので、南の頼まれたフィルムの実物を、矢代が代って持っているというわけだった。
「T社のは僕が持ってますよ。」と矢代は云って笑った。
「ヘエ、あなたが――じゃ、わたしのはなんだろう。」
 ベルリンのオリンピック競技がまだ後四日も残っているという日だから、そんな途中に日本へ帰るものなどいない日のこととて、シベリヤ廻りの旅客に封切り用のフィルムを日本まで依頼する苦心は各社とも血眼だった。殊に矢代の帰る際のはマラソンを映したものであるだけに、一番重要なフィルムであった。またこれを封切る早さの勝負が、各社の能力を顕すものと一般に思われがちであったから、客も新聞社から頼まれればその熱意に動かされ、自然に二社の激しい競争の中に巻き込まれざるを得なかった。こうしていつの間にか、矢代も南も同車の敵という運命に置かれてしまっている二人だった。
「しかし、わたしはたしかにT社から頼まれたんですよ。手紙まで貰ったんですから、わたしがT社の筈ですがね。」
 と南はまた怪訝そうに小首をかしげて考え込んだ。
「じゃ、あなたを日本人一人だと見て持ち込んだんでしょう。」
「そうかもしれませんな。まア、どっちでもいいや。持って帰ってやりましょう。」
 無造作に南は云ってから、急に矢代の方へ首を突き出し小声になった。
「どうです。あなたのそのフィルムと、わたしのとこっそり取り替えっこしときましょうや。え? 面白いですぜ。そしたら。」
 人柄に似合わずふざけ方がひどいので、矢代は黙って彼の顔を見上げていると、また南は首を突き出し、
「ね、替えときましょう。その方が面白いじゃありませんか。」
 冗談にしては意外に乗り気な表情である。
「まさかそうも出来んでしょう。」
「どうしてです?」
 同意を示さぬ矢代に疑問を感じたと見え、一瞬南は真顔になった。
「どうしてって、別にわけはありませんがね。」
 無駄な骨折りをさせるだけの後のごたごたが分りそうなものだ、と矢代は思って笑っただけだったが、よほどこの人も頼まれた方のフィルムを持ちたいらしく、あくまで自分がT社の使いをしているものだと信じている様子が、車中ずっと続いていた。
 ポーランドからソビエットへ入るまでの二人は、部屋も別別だったからまだそれほど親しさもなかった。しかし、ソビエットの国境で乗り換えいよいよシベリヤ行の列車になってからは、二人は同室になったので、寝るのも起きるのも、食事も、それから雑談まで絶えず同じようにしなければならなかった。
 モスコーで四時間ほど停車の時間があったそのときも、街見物に迎いに来てくれたT社の案内の車に、南は遠慮なく乗り込み、当然のことだと思う風に悪びれず街を廻っていた。矢代も迎いのT社の特派員には南を強いて紹介せず、自分同様その社のフィルムを預った一人として、行動をともにした。またこの特派員の夫人は親切な人で、感冒で寝ていたのを起きて来て二人のために、特に車中で食べる寿司まで作ってくれたりした。
 旅先きで受けた親切さは旅人は忘れがたいものだが、南にしても、これほどにされては、自分の持ち運んでいるフィルムの性質を知られたくはないらしかった。事実自分の意図とは反対なものを運んでいる南の心中を察すると、矢代も困っている彼の様子に同情せざるを得なかった。そうかと云って、捨子のようになっているA社のフィルムを見ては、それもまた気にかかり、引取人の現れるまでは育てたいらしくときどき退屈になると南は、円い鑵からフィルムを取り出して窓の方に透かして見ながら、
「うむ、なかなか面白い。これや、あなた、見てごらんなさい。なかなか面白いものですよ。」
 と云っては矢代にも一緒に見ることをすすめた。
「オリンピックは僕も見ましたからね。競争はどうも――そのフィルムだって、満洲里まで着けば、後はそこからT社のとまた競争するんだから、もう何んでも競争だ。」
 矢代はこの競争ということが何事によらず嫌いな性質だった。T社から依頼を受けたマラソンのフィルムにしても、A社との競争だと思うと愉快ではなかったが、シベリヤの間だけは無競争も同様なので、する必要のない今の期間だけでも、せめてその競り合いから脱け出していたかった。矢代のこの競争嫌いは、千鶴子を挟んで久慈との間で起りかけたパリでのある一事件の期間も、自分から身を引いたほどだった。また彼が外国で競争らしいものをしたのは、久慈と二人で千鶴子の周囲を廻った記憶以外には一度もなかった。
 とにかく、矢代はこのシベリヤの十日の間だけは、忘れられる限りもう何事も忘れていたかった。このようなとき、ふと朝になって眼を醒し、棚の上にある競争用のフィルムが眼につくと、突然その一角から現実の呼吸が強く顔を吹きつけて来て、急いで彼は視線を反らせた。実際矢代は、今は千鶴子のことも忘れようと努めていた。それはただ単に千鶴子のことだけではなく、見て来たヨーロッパのことも、出来れば頭の中から尽く消したかった。それはどういうわけか彼自身にもよく分らなかったが、考えて見ると、それは日本があまり小さい島に見え始めて来たことが原因のようだった。日本のことを思う度びにそんなに小さく見えて来ると、矢代は、誰からも聞かれぬように胸の奥でそっと「祖国」とこう小声でひとり呟いてみた。すると、胴のあたりから慄えるような興奮がかすかに背を走った。
 しかし、また彼は、日本へ帰ってから人々の前で、
「祖国」
 とこういう名前でうっかり日本を大きく呼んだりすれば、忽ち人人から馬鹿者扱いにされ、攻撃を受ける習慣のあるのもすぐ感じた。それも人人だけではなく、前には自分もそのような一人だったような気持ちもした。しかし、いったい何時の間に、誰がこんなにさせてしまったものだろう。矢代は窓から見えるソビエットの平原に向い、ひとりこういうときには胸の中で呟いた。「ね君、君はそれをよく知ってるだろう。誰が一番こんなにさせたかっていうことを。僕は今にどこの国の人間も、僕が君に云うように、誰も彼も云い出すときが必ずあると思っているよ。俺の国の美風をどうしてくれたとね。云わずにはおれないじゃないか。」
 ここはポーランドの国境からずっと写真を撮ることも、旅客は禁じられていた。夜など窓に降ろされたブラインドを上げて外を見ることも許されず、日本人のいる矢代たちの部屋の前には、特にボーイが監視役についていて、中の様子に一晩中聞き耳を立てていた。しかし、こんなことも、矢代らはもううるさいこととは感じられなくなっていた。ただ一日も早く日本の匂いが嗅ぎたいばかりが望みとなり、それも眼のあたりに迫っているのだと思うと、どんな退屈さや窮屈さも忍耐出来るのであった。それに引きかえて外人たちは、日本が近づくに随って、表情も淋しげで日に日に力のなくなるのがよく分った。船で往くときには、マルセーユへ近づくにつれ勢いを増して来た外人たちの群れだったが、今はそれが反対に衰えの加わる彼らを見ては、矢代は、地中海へ入り始めたころの日本人らが、丁度そんなに凋み衰えていった当時の有りさまを思い出したりした。
 南はナチスの外交官がいつも手放さずに、食堂へ行くにも携げて歩いている二尺大の皮製の薄い鞄を見て、
「何んですか、それは?」と訊ねたことがあった。
「これは日本にとっては、大切な大切なものです。」
 とその外交官の一人の方が笑って答えた。国と国とを繋いで動かそうという一本の希望に似た綱が、どちらへどんなに引き合うのか分らなかったが、ただこのような鞄の中に入っただけで簡単に往来をしているのを見ると、矢代は一寸奇異な感じがした。どこの国も、この鞄の中の希いを見たくて溜らぬという時であるだけに、狭い廊下で鞄がズボンに擦れて通るときは、矢代も思わず緊張した。隣室では夜も二人の外交官らは、一人が眠ると他の一人が起きていて、交代に鞄の番をしている苦心の様子を見ていても、その中の秘密の重さが思い知られた。それもソビエットを挟みドイツと日本とを繋ぐ縄である以上、この一台の客車の進行していることは、ソビエットにとって、身のひき緊る愁いでもあったろう。しかし、何ごとも希望を満たそうとして動いていることに人間は変りはないと彼は思った。よしたといそれが幻影に終ろうとも。――
 こんなに矢代の思ったのも、一つは彼にもまた希望や幻影が入り交って襲って来ていたからだった。それは日本へ帰ってからするべきさまざまなこと、勉強や、計画の実行などと、考えれば、彼のしたいと思うことがきりなく湧いて来てやまなかった。しかし、そのうちでも千鶴子と結婚するということだけは、これ一つ彼には不安だった。こんな不安は千鶴子とパリにいるときでも附き纏って放れなかったことだったが、今もなおそれは一日一日と深くなるばかりだった。
「日本へ帰ってから変るのは、やはりあなたの方だわ。あたし、あなたが変ってもあたしは変らないと思う。きっとあなたの方が変ると思うわ。」
 別れるときにそう云った千鶴子の言葉を、矢代はその後もよくそのまま呟いてみたりした。しかし、あの別れる際にあれほど切実な響きを含んでいた声も、何んとなく今は空虚な流れを伴って感じられた。それは誰でも迂濶に一度は云い、誓いに副う感傷をひき立てる表情になるとはいえ、云ったがために歓びよりも、苦しみを生むことの方が多くなる性質の詩情であった。そうかといって、矢代は千鶴子を今も信じないわけではない。またアメリカから廻って来た千鶴子の手紙も、別れの際の表情を裏切っているものでもなかった。ノルマンデイの船室から持って上ったらしい海老色の二疋の獅子が絡み合っている模様のレタアペイパには、ニューヨークの埠頭の壮観さや、船の中で知人になった人人のことや、閑にまかせた旅の観察などと、明るい筆つきで書いてあったが、特に矢代の気持を沈ませるようなことは何もなかった。むしろ、文面に顕れた明るさが却って浮き足立ったものに見え、慾を云えば、いま少しの愁いもあって欲しいと思われたほどである。しかし、こんなに思うのも、やはり矢代は、彼女の家の両親が自分と千鶴子の結婚に反対するのが十中の八九、眼に見えて明らかなことだったからだ。異国の旅の空で物を思う娘心の浮き上った言葉尻を掴まえて、帰ってから、それを誓いの言葉として迫る拷問攻めのような再会が、矢代には出来がたいことであった。考えようによれば、それはもう愛情の問題ではなく、脅迫にも見れば見られる、薄情さに変ってしまう再会にも近かった。
「外国にいちゃ、とにかく、云うことすることに間違いが多いですからね。」
 と矢代はあのときも千鶴子をたしなめて云ったことがある。
「みんなこちらのことは間違いだなんて、そんなこと――あなたがいつもそんなこと思ってらしったのが、何んだかしら、いやアな気持ちよ。毎日あんなに楽しかったのに――」
 千鶴子は彼に答えてから急に沈んだのもまた矢代は思い出したりした。そのときの沈んだ千鶴子は、帰ってからいよいよ自分と会うというときにも、一度は、あのときのような伏眼な瞼の影を湛えて考えるにちがいない。それも傍からしっかりした眼で彼女の母が見て、自分よりはるかに良い結婚の相手が沢山千鶴子に追っている場合に、一度ならず娘に忠告を与える言葉も、今から矢代に考えられないことではなかった。しかし、いずれにせよ、こっちにいるときの二人の気持ちという幻影を変えないことが大切なら、どちらも帰って会うよりも、会わない方が互いのためだと思った。地位、身分、財産、血統、家風などという、日本の内部を形造っている厳然とした事実の中へ帰っていって、なおそのまま二人の幻影を忍ばせ支えつづけて行くためには、二人は今のうちにひらりと変り、互いにこのまま会わない方が変らぬことにもなっていく。――もしこのまま約束を重んじて勇みたち、再び会うなら、――もうそのときは異国ではない、眼が醒めた浦島太郎のように互いの姿を眺め、これがあのパリにいたときの二人だったのかと思うにちがいあるまい。――
 このように思うことは矢代をいつも苦しめた。変ることが変らぬことで、そして変らぬことが変ることと思う準備――日本へ近づいて行くに随い、一度はこんな哲学めいた心の準備をしておくことも、この場合の矢代には事実必要なことだった。それが出来るか出来ないかは別としても今に憐み合うような日の来るのを待つのは不快だった。実際考えれば何ぜ憐み合うのか、この理不尽なことも残酷に襲って来るだろうと思うと、それが一層矢代には口惜しかった。こんな口惜しさが嵩じて来ると、ベルリンにいるときどきでも、その夜はもう彼は眠りがたかった。
 しかし、何を云おうとも千鶴子はもう日本へ着いているにちがいなかった。指を繰ってみてもおよそ千鶴子の船は十日も前に横浜へ着いているころだった。

「なかなか眠れませんね。」
 矢代は上の寝台から、直角に延びた下の寝台に寝ている南の顔を覗いて云ってみた。
「もう、眠る暇もありませんよ。すぐ国境でしょう。」
 南は深い底に沈んだままにこにこして答えた。
 間もなく日本の空気に触れるのだと思うと、矢代は胸騒ぎがして来た。いつも停ってばかりいて、毎日同じ所から動いたことのないように思われていた平原の汽車だったが、やはり相当に早い速力で走っていたのだと、ようやく今ごろになって分って来たような気持ちだった。空腹に濃い茶を飲み過ぎたような早い動悸を感じ、ときどき矢代は起き上ってみた。が、やはりどう仕様もなくまた仰向きに倒れた。
 国境を越して日本へ入れば、自分は誠実無二な日本人になろうと矢代は突拍子もなくそう思った。そうなるにはどんなことをすれば良いかと、また一寸彼は考えてみたが、それも忽ち問題ではなくなり、無性に早く国境の向うへ辷り込みたくなった。久慈や東野や塩野の顔がしきりに泛んでは消えた。皆それぞれ矢代と前後して帰って来る筈になっている者たちばかりの顔だったが何ぜともなく今はこういう知人たちとも顔を合したい気が起らなかった。
「いよいよと思うと、一寸妙な気がしますね。」
 と矢代は間をおいて南に云った。
「今度の国境は一番うるさいですよ。ここさえ越せば、後は一時間で満洲里だから、もう大丈夫だが。」
 今までも幾つとなく国境を通り越して来ていた矢代だったが、この度びの国境だけは、特に厳重に眼匿しされた馬に自分が似て見え、疲れて忘れている違犯の部分がないかと彼は考えてみた。一つ間違いがあれば、ここではどこへ連れて行かれるか分らぬという噂さを聞いていただけに、薄暗い部屋の外の闇が絶えず無数の監督の眼に見えた。それも身動き出来ぬほどの重圧感で、何か死をひきつれてさ迷っているような静かな不気味さが、ドアの外から滲み込んで来る。矢代はこれでもし自分が思想的にソビエットと何かの交渉を持つものだったら、あるいはこの反対の感じを受けるのかもしれないと思った。矢代は霊柩車に横わっているような思いで身体を車に任せていたが、いやが応でも迫って来る自分の国と接した国境ほど、自分を偽れぬものはないと思った。それはちょうどプリズムの面に射した光線が屈折して通らねばならぬように、人の心も自分の光の光源がどこにあるのかここで初めてよく分るのだった。矢代は自分も幾度も折れてみて来た光線に似ているなと、寝ながらも思った。そして、その光源の方へ今や戻って行こうとしている自分だと強く感じた。
 こんな感じが強かったためか、また彼は自然に、別れるときに祈りを上げたカソリックの千鶴子の姿も思い出した。この千鶴子の姿は、今までに幾度となく彼の思いの中に泛んで来た姿だったが、今の千鶴子の祈る姿は、不思議と喰い違う歯車のきしみを感じて矢代は困るのだった。
「ここで思ったり為たりしたことは、あたし一番変らないと思うの。本当にそう思うわ。」
 ふと何気なくそのとき云った千鶴子の言葉だったが、どこかに矢代の希う光源とは異う光りに満たされたその声が気になった。前にはそれもあまり異とせずにすませられたものまでが、この国境にさしかかり急に心に閊《つか》えて来たのが、ますます膨張して来そうな気配も伴って矢代は困った。
「それは、君はカソリックだからでしょう。そこが僕と違うのだなア。」
 矢代はそのときも千鶴子にそう云ったのを思い出し、今も同じように云って笑いに紛らそうとしてみたが、どこかに笑いでは応じきれぬ激しいものもぞくぞく盛り上って来そうな不安が強まると、我知らず舞い立てて来た濛々とした疑いの煙りの中で、思わず両手を振って押し鎮めたくなり、心を国境の一点に向けようと努めてみるのだった。しかし、身体だけ無事に国境を通過させるだけでは足らず、精神もともに通り抜けようとする気持ちもおさまり難く動いてやまなかった。
 いや、難しいものが来た。それも毎日来ていたものばかりなんだが――と矢代は思い、困ったときに思い泛べる伊勢の大鳥居の姿を、またこのときも自然に眼に泛べた。
「この汽車、十時間ほど遅れているから、今ごろは満洲里じゃ、待ちぼけくって弱ってますよ。」
 と南はフィルムの受取人のことを思い出したものかそう云って笑った。
「国際列車の継ぎ目は、大幅に動くもんだなあ。十時間か――」
「同じ日がこのあたりで二日もあるんだから、矢代さん、ここらあたりで、日を按配しとかれないと、満洲里で電報打ちぞこないますよ。」
 南から注意をうけて初めて矢代は日のことを考えた。いつも日を忘れる癖のある彼には、同じ日が二度も重なっていることなど考えもしなかったが、それにしても実に暢気そうに見える無造作な南が、必要なことだけ忘れずに覚えているのも、日本人らしいと思って感心した。
 やはり日本人はこれで良いのかもしれない。云うことがもぞもぞとして下手だったが、南がいると、車中の外人らも無事に皆おさまって来たと矢代は思った。それも特別に人の注意を牽くわけでもなく、また合理的なところもなければ鮮かな身振りもなかった。
 背が小さく出っ歯で、小肥りなうえに開けッ放した唇が厚くいつも唾で濡れていた。そのくせ父親らしい均衡があって、温和な円い眼だけが笑いを湛えているので人の集りに生ずる隙間を、誰よりも一番確実に南が満たして列車とともに流れていた。
 矢代は寝ながらも、下にいつも一緒にいた南の和らかな平凡さが、急にこのときから面白くなって来た。国境なども南のようだと取り立てて厳しくも見えず、人もまたそのまま通過を許してしまうのだろう。
 間もなく、いつ止るともなく列車が止った。あたりに駅などあろうとも思えぬほど静な闇の中だった。矢代も南もまだ寝台から降りずにいると、ボーイが来てドアを叩き、国境へ着いたから荷物を持って降りよと云った。矢代は今までの空想が全部差し迫った事実の厳しさの前で崩れるのを感じた。身支度を整え廊下へ出て行くと、隣室の外人たちもみな眠そうな顔で荷物を下げ一人ずつ車から外へ降りた。木造の低い屋根が一軒だけレールの横の窪みの中に建っていた。その屋根を踏むように見降ろしながら坂を降りて行くのに、皆の口から吐く息がもう白く眼立った。
 よく食堂で矢代と向き合った同車の静かなソビエットの士官たちは、いよいよ配備先へ着いた緊張した表情で、腰のピストルの位置をなおし、駅から闇の中へ消えていった。みなそれぞれ勤めの目的がここではすべて、日本を相手として守備につくためになされているのかと思うと、矢代は、いつも食堂で謹直だった士官の様子が、またあらためて思い出された。
 乗客らは待合室へ降りてから、手擦れて木目だけ浮き上った粗末なテーブルに荷物を乗せ、一列に並ばせられた。人のあまりいない待合室からは、外の闇ばかりが見えるだけで、鈍い電灯の周囲に薄霧がむれていた。荷物の検査はどうしたものか容易に始まりそうもなかった。合服の襟を立てたくなるほどの冷たさにときどき矢代は胴を震わせた。油の黒く滲んだ床下に麻縄が解け紊れていて、一見工場の事務室のような待合室は、ソビエットに似合わしい素朴なものだった。
 深夜のこととてどこかで眠っていたらしい検査官が、白く息を吐きながら遅れて顕れるといよいよ荷物の審査が始まった。まだ中学を出たばかりに見える若い検査官二人だったが、どちらも実直そうな好人物の相ながらも、威厳を保とうとする沈黙に努める風情が、並んでいる大人たち乗客の世ずれた表情の中で、初初しく緊って見えた。通過の荷物には白墨で強く十字のマークが打たれた。入ソのときそこの国境で、持ち込み禁止の荷物を提出し封印をされたが、旅客が途中でそれを開封し使用した形跡の有無を検べるのに手間取った。すると、南の荷物の中から封のない裸身の双眼鏡が一つ飛び出して来た。
「これは?」
 検査官の調べがそこで停頓してしまった。取り上げられた双眼鏡のレンズが二つ無気味な光りであたりを見ていた。これは双眼鏡を奪われるだけではなく南が連れ出されて行く代物だった。誰も異様な緊張で黙っている中で、南はまったく予期しなかった狼狽の色に変った。そして即座に出て来ない英語で、
「いや、これはつい忘れまして、荷物の底に入れていたものですから、――ベルリンでお土産に買ったものです。」
 と詰り詰り弁解した。誰が見ても一番疑われる器具の双眼鏡に封印し忘れた手落ちなど、手落ちとしてはあまり乱暴すぎたものだった。しかし、結局は、誰でも気がつきそうなものまで忘れた南のその頓馬《とんま》な失策が、却って逆に検査官の疑いを解いたらしかった。検査官は顔を和らげると双眼鏡まで南に返してあっけなく荷物を通してしまった。
「サンキュウ、サンキュウ。」
 相好を崩して乱された荷物をあたふたスーツに詰め込んでいる南の傍で、次ぎが矢代の番になった。彼のは異状もなくすぐ通った。その次ぎはナチスの外交官で、このときは荷物が通ったが所持金を内ポケットから見せるとき、旅券に記入のない日本の百円紙幣を二枚一緒に出して見せた。
「これは預っときます。」
 検査官は簡単に紙幣を取り上げた。これにはドイツ人も意外だったらしく、暫くぼんやりしていてから周章《あわ》てて、
「それは僕が東京へ着いてから、すぐ入用のお金です。返して下さい。」と手を差し出して云った。
「しかし、記入してありませんよ。記入のないお金はお渡し出来ない規則です。」
 検査官はもうドイツ人の顔を見ようともせず、次ぎの荷物の審査にさっさとかかりかけた。
「それは日本金ですから記入の必要がないと思って、大切に大切に仕舞っといたものです。どうぞ返して下さい。どうぞ、どうぞ。」
 外交官は手をだんだん紙幣の方へ延ばし優しい声で歎願した。
「駄目です。」
「どうぞ、どうぞ。」とドイツ人はまた繰り返して迫った。
「東京滞在は幾日間ですか。」と検査官が訊ねた。
「二週間です。」
「じゃ、帰りにここを通られるとき、お返ししましよう。」
 外交官の歎願の様子が次第に嶮しい表情に変って黙ってしまった。すると、突然胸をぐっと反らしたと思うと、固めた拳で卓をどんと叩いた。
「じゃ、もう要らない。覚えているが良い。このお礼は必ずして見せる。」
 ねばりのある高い声で畳み込むように云い捨てているドイツ人の言葉を、若い検査官はもう相手にしていない様子だった。ソビエットとドイツの国交の険悪になっているときである。規則を守った検査官は正しかったとはいえ、見せずに済ませば済んだ金を正直に示して奪われたドイツ人の怒りもまた正しかった。時と場合の心情の酌量不足が及ぼした争いは、もうこのときから、個人のことではなくなっていくにちがいなかった。
 検閲を済ませたものから順次に、荷物を下げて列車の中へ入っていくので、矢代は南と一緒に自分の部屋へ戻っていった。
「やれやれ、ひどい目にあった。まさか双眼鏡が、あんな所から飛び出そうとは思わなかった。うっかりしてた。」
 南はもう一度荷物を開けて中から双眼鏡を取り出すと、こ奴かびっくりさせたのは、と云いたげなにたりとした表情で弄《いじ》ってみていた。
「しかし、よくまア赦しましたね。あなたの顔が物を云ったのですよ。あのときはね。」矢代は一寸からかってみたくなってこう云いながらも、彼の双眼鏡を覗いてみた。あのときは、一種兇悪な光りを放ってあたりを睥め廻していたレンズも、今はもうただの双眼鏡だった。
「さア、これで後一時間か。」
 南はまた上衣を脱いで寝台に横になった。矢代は疲労のためひどく空転している頭を感じた。彼は上の寝台へ上らず下で煙草を喫っていたが、もうこれで何んの心配もなくなったのだと思うと腰が容易に動かなかった。それぞれ外人たちが各部屋へ戻って来たころ荷降ろしもみな済んだと見え列車はまた動き始めた。リズムに乗った弾むような快感が一層強まるのを矢代は覚えた。しかし、後一時間で満洲里へ着くとしてもその間はどこの国のものでもない所だった。一時間といえば五里ほどの間であるが、名もつけようのない奇妙なその五里の幅の地上は、これまでまだ一度も考えてみたこともない場所だった。それもそこを遠慮なく走り脱けることの出来る列車というものも、国際列車なればこそだった。いったい、どこの国のものでもない国際列車という抽象性を具えた列車が、どこの国でもない場所を走るという世にも稀な真空のような状態は、恐らく地球上ではこの五里の間以外にはないかもしれない、それは暗示と啓示に満ちた闇の中の一時間の筈だった。
「これは、何んとなくキリストに似ているな。」
 とまた矢代はぼんやりと考えた。マルセーユへ上陸して山上の寺院の庭へ足を踏み入れた途端、口から血を吐き流して横わっていたキリストの彫像に、ひどく驚いたときのことを矢代は思い出したりした。人はみな自分の国を持っているのに、国と国との接する運動の差の中で、生活を続けている人種のあることも考えられた。それは日本を除いた他の国のどこにも網の目のように張りめぐっていて、吐瀉、腹痛の起るのを思うと、つまりは、この国境の間の五里の空間も、それに似た未来の渦の巻き立つ場所かとも思われた。
「そうだ、もうこんな暢気なことはしていられないぞ。」
 と南は云って起き上って来た。そして、ネクタイを締め直し上衣を着て、荷物の中へ洗面の道具を詰め込んだ。車中の不便を思いベルリンから持ち込んだ角砂糖の残りも、ボーイに皆ここで遣ろうと相談して、二人は量の多少に拘泥せず一つに纏めてからボーイを呼んだ。ついぞ笑顔一つも見せず警戒ばかりに終ったボーイも、このときだけはにこりとしてすぐ上衣の下へ砂糖を隠し、聞き取れぬほど小さな声で、「サンキュウ。」と一言いうと、恐れに追われたように急いでまた姿を消した。一番角砂糖を喜ぶと聞いていたのでお礼を砂糖にしたのだったが、別れの際の笑顔はやはりどこでも気持ち良かった。
 隣室では外人たちも落ちつかぬらしく廊下へ出て来て立噺をし始めた。矢代は列車が次第に膨れてゆくように見え、身体が凄い渦の中に吸い込まれて流れるような眩暈《めま》いを感じた。絶えず潮騒に似た音が遠くから聞えて来ているくせにあたりが実に静かだった。
 しかし、何んといおうと、間もなく着くのだ。――矢代は嬉しくて堪らなかった。日本の方を向き後頭部を後の板に摺りつける風に反って腰かけながら、注意に注意を重ねて落ちついてみたが微笑が喰み出て来て停らなかった。
「日本は良い国ですよ。実に良い国ですよ。」
 こんな風に触れ込みつつ今自分が馳け込んでいるときだと彼は思った。しかし何んといおうともうすぐ着くのだった。手がさきに向うへ飛んで行き、足が飛び、頭が飛び出して、残っているのはただ胸だけのような気持ちがした。何か日の目を見に世の中へ生れて出て行くときが、丁度こんなものかもしれないと矢代は思った。胸の中でごうごうと水の流れる音がしていて、南が何んとか云っているようだったがよく彼には分らなかった。どこからともなく押しよせて来始めた熱気のほとぼりに似たものが、面にあたって来るようだった。それは何んとも云い様のない気忙しさだったが、急に息苦しい空気が狭い廊下から部屋に入って来たかと思うと、沢山な日本人が並んでどやどや廊下を歩いて来た。いつの間にか列車が満洲里に着いて停っていたのである。
 矢代は腰が上らなかった。混雑して曇って見える廊下の方を向いたまま暫く彼は動かずにきょとんとしていた。すると、彼の名を高く呼びながら各部屋を覗いて来るらしい声が聞えた。
「矢代耕一郎さんいませんかア――矢代耕一郎さアん――」
 その声はだんだん矢代の方へ近よって来ると、円顔の眼の脹れぼったい頑強そうな青年が、部屋の入口から矢代を覗き込んでまた呼んだ。
「僕です。」と矢代は答えた。
「あなたですか矢代さん、フィルムありますか。」
 といきなりその青年はむっつりした顔で畳み込むように訊ねた。生れたばかりのような期待に胸がまだどきどきしていたときだったので、矢代はこの青年の失礼な云い方に拍子抜けがして、
「持ってますよ。」と一言答えた。
「じゃ、それ貰おうじゃないか。」
 と早速青年は不躾けに云って手を出した。
 これが最初に会った日本人だったのか、とふとそう思うと、矢代は張り詰めていた喜びも急に堪え難い悲しさに変った。
「僕のフィルムは大切な預り物だから、君には渡せないね。誰です君は?」
 矢代はもうこの男には絶対フィルムは渡さないと思った。彼はもう車から降りるのもいやになり腰を上げなかった。すると、その青年の肩を掻き除けるようにして、痩せた眼の大きい美しい別の青年が後から顕れ、矢代に鄭重にお辞儀をした。
「私はハイラルのT社のものですが、この人は今日一寸手伝いに頼んだ人です。遠い所をたいへん御苦労でございました。今日は大雨が降りましたものですから、ハイラルの飛行機が出ませんので、この人を頼んだのです。どうぞフィルムを下さいませんでしょうか。」
 なるほど、この青年でこそ自分の念い描いていた日本人だと矢代は思った。彼はまた急に嬉しくなって来た。
「そうですか、雨ですかこれで、僕はまだ汽車が動いているような気持ちなものだから、――じゃ、これをどうぞ。」
 矢代は横に用意してあったフィルムの円鑵を青年に手渡した。誰もそれぞれ何をしているのか分らない泡立たしいときだったので、南はと思って見ると、彼もA社の人に引き立てられ廊下の方へ出て行くところだった。
 矢代は荷物を下げ、フィルムを持った青年に守られてプラットへ降りて行きながらも、前の円顔の青年の顔が見えると少し気の毒な気がして来た。待合室でも荷物の検査があったから、審査の始まるまで待っていなければならなかった。大連行の次ぎの汽車の出るまでまだ八時間も間があるとのことだった。ソビエット側の国境の駅とは違い、こちらの待合室は天井も高く、コンクリートの巌丈さで近代的な感じだったが、大きな包みを抱えて眠っている中国人の群衆の間から蠅が群り立ち、電灯の周囲を飛んでいるのが、先ずひと目で受けたヨーロッパとは違った間延びのした東洋の表情だった。矢代は検査の始まるまで広い待合室を眺めて立っていた。一緒の汽車で来た外人たちは睡眠の不足で元気のない顔つきだった。それにしてもこの汚い包みを抱え蠅の中でい眠っている群衆が地球の大半を埋めているのだと思うと、それを見て来た矢代は、今さら世界の上に蠅につき纏われた宿命の人種の多いのに驚いた。それは東洋のほとんど皆の国がそうだった。
 この皆の国から蠅を追い払う努力だけでも、人人のこれからの役目は大変な力が要ると矢代は思った。
「私は警察の者ですが、今夜はこれからどうされます。」
 と、私服の眼鏡をかけた背の高い日本人が、矢代に今井と書いた名刺を出して訊ねた。矢代は別にどこへ行く考えもなく汽車を待つだけと答えた。
「じゃ、まだ八時間もありますよ。何んなら宿屋をお世話しますから、そこで休んで行かれたらどうです。まだこれからならひと眠り出来ますよ。」
 矢代はこの特高課の今井の職責上の目的のことなど今は考えてはいられなかった。それよりも、話しかけてくれる日本人を見るとただ誰でも懐しくなり、職業の差別など全然消えて人間だけが直接話しよる魅力を強く感じた。
「じゃ、宿屋お世話して下さい。一時間でも眠られれば有りがたいな。」
「そうなさいよ。ここは良い宿屋はありませんが、まア休むだけなら沢山ありますから。」
 二人がこんな話をしているうちに荷物の検閲が始まった。ここでは所持金を検べなかったが、荷物の中味の検査はソビエット側よりも厳格で時間がかかった。南は矢代からずっと離れたところでA社の人たちに取り包まれ旅中の事など話していた。矢代の傍には特高課の今井がただ一人附き添っていてくれるだけだった。
 検査を済ませて外へ出たときはもう夜が明けていた。矢代は朝の日光に眼を細めて、レールを跨いだ。初めて見る日の光りのように爽快だった。彼は呼吸を大きくしながらあたりを眺めて歩いた。樹木の一本もない平原の胸の起伏が波頭のように続いていて、その高まった酒色の襞のどこからも日が射し昇っているように明るかった。短い草の背がハレーションを起しているらしい。一望遮るもののない平原のその明るさに囲まれた中で、街がまだ戸を閉めて眠っていた。刑事の今井は矢代の荷物を持ってやろうといって聞かず、「よろしよ、よろしよ。」と云って重い方を奪うように携げると、ステッキを地に引き摺って、人のいない通りを先に立った。
「実に美しい所だなア。」
 と矢代はときどき立ち停り周囲の平原の波を見ながら呟いた。先に歩いていた今井はその度びに矢代の傍まで戻って来て、賞められたことが嬉しいらしく彼も一緒に並んで平原を眺めた。乳房の高まりの連ったような地の起伏が、空に羞らう表情を失わず、嬉嬉として戯れ翻っている賑やかな嬌態で、見れば見るほど平原の美しさが増して来た。
「いつも見てると分りませんが、万ざら捨てたもんでもないでしょう。」と今井は謙遜に云ってまた先に立った。
「いや、たしかに美しい所ですよ。一寸類がありませんね。」
 矢代は疲れも忘れ宿舎へ行くのも惜しまれたほどだった。それも周囲のどちらを見ても美しさは変らなかった。人工の極致とも見える繊細な柔かさで、無限の末にまで届いて祈りのような悲しみが地の一面の表情だったが、それは見ていると、また奔放自由な歓びの線にも見え、清らかな希いに満ちた明け渡っていく世界の明るさにも変って来た。矢代は国境の方の蒼く幽かに薄靄の立っているあたりを指差して、
「あのあたりがつまり、国境ですね。」と訊ねた。
「まア、国境というのですがね。どこからどこが国境だか誰にも分りませんよ。それにどういうものですか、ここでは自殺をするものが多いのですが、不思議ですね。」
 永らくここで暮していても、それだけが分らぬという風に今井は声を落して歎じた。なるほど無理もない、ここなら死にたくなる美しさだと矢代は頷きながら宿舎のホテルへ案内されて入っていった。玄関へ顕れた女中が矢代の前にスリッパを揃えて出した。別に取り立てていうほどの婦人ではなかったが、これも矢代には初めて見る和服の日本の婦人だった。外人には見あたらぬ、特殊な皮膚の細やかな美しさが襟もとから延びているのを見て、思わず矢代はどきりとした。

 南と矢代の別れたのはハルビンの駅だった。彼は一路大連まで来てそこから飛行機で福岡まで飛ぶつもりだったのに、平壌まで来ると先きは雨がひどく不時着したので、途中から汽車に替えて海峡を渡った。彼は昼間の内地を見たいと思っていたが、下関へ上ったのは夜の一時ごろになった。東京行の出るまでには、まだ一時間半もあったので、彼は山陽ホテルで休息している間に東京の自宅へ電報を打った。そのついでに千鶴子へも打とうかと暫く茶を飲みながら考えたが、やはりそれだけは思い止まった。関門海峡の両側の灯が、あたりに人の満ち溢れている凄じさで海に迫っていた。眼にする物象が絶えず跳ね動いているような活気に矢代は人からも押され気味になり、受け答えにも窮する遅鈍なものが、いつの間にか自分になっているのを感じた。それはひどく時代の遅れた自分であり、早急の間に合いかねるその自分から錆が沁み出ているようだったが、しかし、ともかくも日本へ無事帰りついている自分であることだけはたしかだった。今はもうそのことだけで彼は嬉しく、後はどのような目に逢おうとも忍耐出来ると思い、彼は胸の中に笑いの綻ろんでいくようなゆったりとした気持ちで周囲を見廻した。人人の多くは洋服を着ていたが、どれも皆洋服のようには見えなかった。男たちは皆眼光が鋭く不意に殺到して来そうな気配の中を、婦人たちが何んの恐れげもなく歩いているのが、不思議と優雅ななまめいた魚の泳ぐ姿に見え楽しそうだった。
 上りの汽車に乗ってからも、彼は満員の食堂車へ入って見た。ナイフとフォークを使う人人の手の早さが刀を使っているようで、狭い車内の傾いて飛ぶぐらぐらした中でも、揺れつつ肉を突き刺し巧みに口へ入れていた。総体が気忙しく立ち廻り、入り乱れているにも拘らず、それぞれ何んの間違いもなく無事安泰に流れてゆくようなその感じは、見ていても胸の空くほど凄じい勢いだった。それはもう西洋でもなければ東洋でもなかった。まさしくそれは世界で類のない一種奇妙な生の躍動そのもののような姿態だと思った。
 その夜はつづいた睡眠の不足で矢代はすぐ眠くなったが、寝台を取り忘れていたので、展望車の椅子にそのままうとうとした。彼の横にマニラから帰って来た青年が二人、十年ぶりだといって、窓から故郷の沿線の様子を楽しげに眺めていた。対い合った二人は嬉しそうに落ちつかないらしく右を見たり左を見たり、絶えずして眠らなかった。矢代にも向うから話しかけて来て、マニラの状況を報らせたり、どこから来てどこへ行くのかと訊ねたりした。矢代はシベリヤから帰って来たと答えると、シベリヤのどこかとまた訊ねた。乗車したのはベルリンからだと答えると、急に二人は他人行儀な冷淡な顔つきになって窓の外を向いてしまい、それからもう話そうとしなかった。矢代はそれを機会に横になって眠った
 眼が醒めたときもう朝になっていた。窓の下に海が拡がり砂浜の上を浴衣の散歩姿が沢山あちこちに歩いていた。夾竹桃の花が海面の朝日を受けて咲き崩れている間を、よく肥えた紳士が敷島を一本口に喰わえ、煙をぱッぱと吐き流して歩いているのを見て、矢代は瞬間眼の醒めるようなショックを受けた。淡路島らしい島が薄霧の上に煙って幽かに顕れて来る。雄松の幹のうねりが強く車窓に流れていった。日本の朝の日の光りを矢代は初めて見たのである。彼は車窓から乗り出すようにして、一見したところ、自分の国は世界で一番無頓着そうににこにこした、幸福そうな国だと思った。そのうちにシベリヤ以来すっかり忘れていた合服が夏の日にだんだん暑くなって来た。

 いつも矢代の旅は目的地へ着くころになると夜が来た。東京駅へ近づいて来たときもそうだった。故郷へ帰りついたと思う気持ちは、山陽線から東海道を上って来る車中の憶いの中に吸われてしまい、今は身心とも彼は疲れ果てていた。物音らしいものは耳鳴りで聞えず、かすめ通る灯火の綾の間に見えたホームの荷造の藁束が、いよいよ身近なものの匂いを伝えて迫って来る。継ぎはぎだらけの襯衣を着せられても苦にならぬ、里帰りの子のように疲れが気持ち良かった。
 汽車が停って矢代はホームへ降りた。最後の車のため人込みから離れた端れの柱の傍で、夏羽織の背の低い父の姿がすぐ彼の眼についた。父は暫く矢代を見つけなかったが、彼の方から片手を上げて父の方へ歩いてゆくと、父は「あッ」と口を開き、そのまま無表情な顔で近よって来た。その後から見えなかった母が小趨《こばし》りに追って来た。矢代は父の前で黙ってお辞儀を一度した。非常に鄭重なお辞儀をしたつもりだったのに、妙に腰が曲らず軽くただ頭を下げただけのような姿になった。
「どうも御心配かけました。」
 と矢代は父の後ろの母を見て云った。
「お帰りなさい。」
 母は矢代の顔を見ず羞しそうにそう云っただけで、重ねた両手を中に縮まるような姿で立っていた。父も母もさて次ぎにどうして良いのか分らぬらしく動かなかったが、矢代もやはりそのままだった。その間も東京駅の光景が薄霧の中から、見覚えのある活気を漸次鮮明に泛べて来た。赤帽が荷物を運んで行く後から三人はホームを出た。矢代は靴でしっかり歩いている筈なのに、まるで地から足が浮き上り、身体が絶えず飛び歩いているように思われた。障壁が尽く取り脱された自由な気持ちに、彼は自分がひらひら舞っている蝶に似て見え、眼につくあの灯この灯と広場の明りを眺めながらまたタクシを待った。
「とにかく分ったぞ。何んだかしら分った。」
 と彼はひとり呟いた。そのくせ何が分ったのか考えもしなかったが、もう考えずとも、証明を終えた答案から離れたような身軽さで、後を振り返る気持ちはさらになかった。
「何んか僕食べたいのですよ。お寿司がどうも食べたいなア。一寸お母さんさきに帰ってくれませんか。」
 矢代は母にそう云ってタクシに乗り込み途中で自分一人だけ銀座で降りるつもりだった。銀座の方へ動き出した車の中で、彼は、今は勝手気ままの云える子供の自分を、仕合せこの上もないことだと思った。母の縮みの襟もとが清潔な厳しさで身を包んでいる夏姿へ、彼は凭りかかるように反り、自分の永らく忘れていたのは、この母と父との労苦だったとふと思ったが、それも今は自分の身の疲れと同じように感じられた。
「もうじき涼しくなるが、まだ暑さは相当つづくね。」始終黙っていた父は誰にともなく一言云った。
「そうだ。まだ夏なんだな。」と矢代は呟くように云った。そして、季節のことなどすっかり忘れていた自分に気がついて初めて笑った。
「あなた、暑くないの。合服なんか着て。」
 矢代を見てそう云う母に、「何んだかもう分らないですよ。」と云いながら、彼は、春夏秋冬といってもどこのもそれぞれ違うのだと思ったり、東京よりもどこより先ず帰れば温泉へ行きたいと、パリで友人らと話したことを思い出したりした。しかし、こうして帰ってみれば、やはりどこより彼は東京が懐しかった。東京のどんな所が面白いのか分らなかったが、この地が間違いなく東京だと思うことで、彼は心が落ちつけるのだった。車が帝国ホテルの前まで来たとき、父は、
「洋行から帰ると、その晩はホテルへ泊る方が良いと人はいうが、お前すぐ家へ帰っても良いのか。」と訊ねた。
 洋行と父に云われると、矢代は突然身の縮むような羞しさを覚えた。
「洋行なんて――そんな大げさなものじゃなかったなア、僕のは。」
 矢代は一寸黙った。何を云おうとも、今は意味など出しようがないことばかりのように思われた。何か悲しくもあれば嬉しくもあり、どちらへ転げようとも同じな、ただ軽るがるとした気持ちだった。
「洋行というのはお父さん、あれは明治時代に云ったことですよ。」
 ふとまた彼はそう云ったが、今はそんなことより急に街が見たくなった。街のどこが見たいというより、いつも見ていたあそこもここもという風に見たくなり、そして、先ず何より寿司が食べたいと思った。
「幸子はだいぶ良くなりましたよ。今夜も来たいと云ったんだけれど、また悪くなられるとね。」
 と母は矢代の妹の容態のことを云った。
「良かったですよ。どうも、あれのことが気になってね。疲れが癒ったら、僕病院へ行きますよ。」
「そうしておくれ。喜ぶわ。」
「だけど、僕、何んだか一度、滝川の家へも行きたくってね。東北地方が一番見たいんですよ。」
 と矢代は云った。母の実家の滝川家のある東北地方を見ることは、帰って彼のするべき計画の第一歩のように思われていたからだった。しかし、母とそんなことを話している間も、彼は父ひとりをそちらへ捨てているような自分の態度に気がついて、実はそうではない筈だのに、何ぜともなく父には、云うべきことも云いにくいことがさまざまにあるのだった。
 子供の洋行を誇りとしているらしい明治時代の父に、矢代は自分の思いを伝えるには、どう云えば良かろうと咄嗟に考えたが、さきから父はただ「ふむ、ふむ。」と云うばかりで、窓から外を見て黙っていた。前に父は、自分は金を儲けたら一度だけどうしても洋行をしてくるのだと、口癖のように云っていた。その父の若いころからの唯一の念願も、それも子の矢代が父に代って、その意志を遂げて帰って来た今だった。その子の云うことが父の希いに脱れた奇妙なことを云い出したのであってみれば、父に分らぬのも尤もと云うべきであった。
「やはり時代というものは、争われずあるんですね。これで。」
 矢代は有耶無耶なことを云って言葉を濁したが、洋行して来た自分よりも、子供にそれをさせることのみ専念して、身を慎しみ、生涯を貯蓄に暮しつづけた父の凡庸さが、自分よりはるかに立派な行いのように思われた。しかし、彼は父が何ぜともなく気の毒な感じがした。それはもう云いたくもない、生涯黙っていたいことの一つだった。彼は父の期待に酬いることの出来なかった辱しさを瞬間心底に感じたが、すぐまた諦め返して街の灯を見つづけた。
「ああ、しかし、いったい、何を自分はして来たのだろう。」
 ふとときどきそんなに彼は思った。そして、得て来た自分の荷物を手探りかけては、いや、何もない、袋は空虚だと、足もとに投げ出す気持ちの底から、暫く忘れていた千鶴子のことが頭をかすめ通って来るのだった。
 銀座裏で車を捨て矢代はひとり寿司屋を目あてに歩いた。通りや街の高い建物の迫りがまったくなかった。打ち水に濡れている暗い裏街をぬけて行く間も、彼はただ食い物を追うだけの自分を感じた。団十郎好みの褐色の暖簾の下った寿司屋へ入り、矢代は庭の隅の方に腰かけると、漆塗の黒い寿司台に電球の傘が映っていた。ジャパンという英語は漆という意味だということを、ふと矢代は思い出した。そして、黒塗に映えた鮪の鮮やかな濡れ色から視線が離れず、テーブルに凭れて初めて、彼はいつも一番舌の上に乗せたかったのは、この色だったと思った。
 鮪が出たとき、彼は箸でとるより指で摘んでみたくなつてつづけて幾つも口に入れてまた皿を変えた。身体の底に重く溜ってゆく寿司の量が、争われず自分の肉となり、血となる確かな腹応えを感じさせた。下を見るとここにも、靴まで濡れそうな打ち水がしてあった。「ははア、水だな。」と彼は云った。
 内庭に清水を撒く国は日本以外に見られなかったのを彼は思い出した。そして、山から谷から流れ出る、豊かな水の拭き潔めてゆくその隅隅の清らかさを想像して、自然にそこから生れて来た肉体や、建物や食物の好みが、およそ他の国のものとは違う、緻密な感覚で清められて来たことなど、瞬間のうちに彼には頷けた。しかし、今は矢代はそんなことも、特に考えようとしたのではなかった。
 もう街は遅くなっていたので人通りも少く、電灯も暗かった。彼は寿司屋を出てから、行きつけのおでん屋の方へ歩いてみた。日本を出発する前にいつも歩いた自分のコースを、またそのように歩いてみたくなったのだが、歩きながら彼は、これからの来る日も来る日も、こうして自分は同じ所を歩き、一生を過すのかもしれぬと思った。すると矢代は今までとは打って変って、急にぐらりと悲しくなった。今までの旅中はある街に着いても、二たびここを見ることもなく、明日は旅立って行くのだと思ったのに、今はそうではなかった。もうここは旅の納めで明日からここを動かぬのだった。ここは自分の生れ出た土地で、墳墓の地だと思い、いつの間にか人は識らずに自分の屍を埋める場所を、こんなに探し廻っているのだと思った。その過ぎた月日の物思いも、停ってみれば、停ったところからまた、月日がめぐってゆくのであろう。そう思うと、風の消えた湿った裏小路に踏みつけられた紙屑も、はッと眼差を合せたものの歓びに似て見えたりした。
 実際一つ一つのものが今の矢代には意味があった。そうしておでん屋の前まで来たとき、彼は何げなく敷居を跨ごうとした足を思わずまた引っ込めた。入口の敷居の土の上に、一握りの盛り塩が円錐形の姿を崩さず、鮮やかな形で眼についたからだった。「おや、こんなものがあったのだ。」と彼は思った。いつも人に跨がれ、踏みつけられたりしていたその塩であった。それが闇の中から、不意に合掌した祈りの姿で迎えてくれていたのだ。物いわないその清楚な慰めには、初めて彼も長途の旅を終えた感動を覚えた。彼は襟を正して黙礼しつつ敷居を跨いだ。跨ぐズボンの股間から純白のいぶきが胸に噴き上り、粛然とした慎しみで、矢代は鼻孔が頭の頂きまで澄み透るように感じた。彼は思いがけないこの清めに体中のねばりが溶け流れた。彼は中へ這入ってから、杉の板壁に背をよせかけても、それからはもう、杉の柾目が神殿の木目に顕われた歳月の厳しさや、和らぎに見えるのだった。人は知らず、これはただならぬ国へ帰って来たものだと、彼は暫く親しい主婦に銚子も頼めなかった。
 客は矢代の他に二人よりいなかった。二人の客はそれぞれ別の客だったが、一人は前からここでよく顔を合す常客で、他の一人は、腰かけたまま床下に俯向いていて、今にも吐きそうな苦しげな姿勢をしていた。鈍い電灯の下でその腰折れ客はときどき咽喉を鳴らした。
 矢代は見ていても別に二人の姿が気にかからなかった。板壁に人の凭りかかった油の痕跡が、黝ずんだ影法師となって泛んでいた。彼はその中の一つにも自分の油が滲みついているのを感じた。そして、あれが日本を発つ前の、自分の痛苦懊悩の日日の印刻かと思って懐しかった。彼は指頭で油の影を撫でてみた。
 そのうちにまた別の新客が一人、〆縄のような縄暖簾を額で裂いて顕われて、「やア。珍らしい人だね。」と矢代に声をかけた。それも常客の一人で、矢代の知人の田村という美術評論家だった。
「どうだったパリは?」
 傍の椅子へよりかかって、慰安かたがた云う田村に、矢代は早速には答えかねた。
「何んだかよく分らないね。あそこはどうも、僕にはむつかしい。」
 矢代は田村の猪口を云いつけた。田村はフランス崇拝家の多い中でも少し度を越した人物で、むしろ久慈以上のところがあったから、矢代も迂濶な返事でこの夜の気持ちを壊したくはなかった。
「しかし、面白かっただろう。良いことを君はしたよ。」
「僕はフランス語がよく出来ないからね。僕のは出来ぬ面白さだ。」
 矢代は出発前に自分のフランス語の貧弱さを素直に悔い、また知人たちもひそかに彼のその労苦を憐れんでいるのを知っていたから、田村の得意なフランス語に華を与えた譲歩も、酒の場の挨拶としてはしなければならなかった。
「とにかく、フランス語の教養がなけれやね。フランスへ行ったって面白くないさ。」
 こう矢代に面と向って云った正直者の知人のいたのも彼は思い出した。そして、自分の外遊に関しては、定めし嘲笑の様子が見えぬ部面で起ったことだろうと想像もしたが、それが以後、いちいちそれに満足を与えるような結果となって来ている自分の胸中を、彼はどんな表情で示して良いか、苦しむのだった。
「僕は君らの一番いやがる人間になっているのだよ、もう訊いてくれたって駄目だよ。」
 と実は彼はこんなに皆に云いたかった。しかし、こういう云い方など、もう自分を説明する何んの役にも立たぬと知り、彼は田村の盃に黙って酒を注ぐ歎きもまた感じた。
「僕はフランスにいたとき、日本に心酔してさんざ笑われたよ。どうも日本が好きになって困ったね。向うにいる日本のインテリは、日本の内地にいるインテリなんか、知識階級だとは全然思っちゃいないんだよ。よくしたもので、そう思われると、何んとなく自分も、自分を知識階級だと思わなくなるもんだね。」
 田村は何か云いかけたが、眼鏡の底からただ細かく眼を光らせただけで黙っていた。ふと矢代は田村を見ると、彼の洋服姿がフランス語を習っている神官に見えて来た。
「実際おかしなものだ。まア誰も彼も、遊ぶときまで論理論理と云ってるよ。僕はまるで論理の景色を見に行ったようなものさ。世界の人間がこんなになってしまえば、何んか起るぞ今に。」
「まア、僕はフランスを見ないから何んとも云えないがね。しかしそれはそうだろうな。」
「見たって云えないよ。――とにかく、僕は何も、どこの国に心酔して行ったというわけでもなし、特にフランスを見たくって行ったわけでもないが、まア、地球というものは円いものかどうかと、検しにいってみたような結果だな。しかし、たしかに地球は何んとなく円いと思ったね。」
 矢代は特に謙遜や弁解を示そうとしてこんなに云ったのではなかった。振り返って旅中のことを思いめぐらす自然の言葉が、加わる疲れとともに、このように弱まって出たのであった。それは考えると物足りなく寂しかったが、そうかといって、この夜も昼もフランスでなくては納まらぬ田村の前で、ここのこの小料理屋の木目が、今の僕には神殿の木目の美しさに似て見えるのだと云ったなら、この田村は何んとふれ廻って歩くことだろうと、云いたいことも、一途に彼は抑え慎しむことに努力した。
「絵は見たか?」とまた田村は、何よりそこを自分は一番希んでいるのだと云いたげな様子で訊ねた。
「見た。」と一こと云うと矢代は黙った。
「どうだった絵は?」
「意外に下手な絵の多いのにびっくりしたね。」
「そうだろうな。」
 田村は、お前のことならと云う意味も含めて、もし自分ならと、云いたいところも、歯痒ゆそうに微笑にまぎらせて、その口に猪口をあてた。矢代はこれから会うものごとに、みな誰も田村のように同情を自分に示すさまがありありと感じられ、自分にとって一番難しいのは、何んといっても日本の内部のこの外国語を習っている神官たちだと、直覚するのだった。そして、それも所詮は他人のことではなく、自分自身のことだった。ああ、自分のことだ、みんな。――これは難しい、実に云いがたく難しい、実生活の犇めきよせた世界の中へいよいよ自分も帰って来たものだと思った。
 窓から外に眼を向けると、泡を集めたようにどろりとしたメタン瓦斯《ガス》の漂う運河をへだて、互に肩を凭り合せて傾いた木造の危険な家並のところどころに、灯火を透した蚊帳の青さが、夏の名残りを見せていた。矢代はふと、大理石に囲まれたベニスの運河を思い出し、セーヌ河の重厚な欄壁の間を流れる水を思い泛べた。そして、暫くはあの河、この水と思うまにまに泛んで来る海港や、ロザンヌ、フロウレンスと連って来る、水上の灯火がしだいに幻のように閃きわたって来るに随い、も早や異国の匂いの脱けきれぬ自分の身の漂いを感じ、旅の愁いはこうしてこれから行く先ざきの自分に、深まり続いてゆくのみであろうか、もうこれは、自分からは取り去ることは出来ないのだろうか、と歎いた。
 その夜、矢代は帰りのタクシで千鶴子の家の方を是非廻ってみたくなった。店が日本橋にあり本宅が目黒と聞いていたから、目黒の方なら廻りもそんなに遠くはなかった。しかし、彼は車の中で、もう会うまいと決めていた千鶴子に、着いたこの夜、会わずにいられぬ自分が寂しかった。いつかは耐えきれぬものであるなら、明日か明後日を待つのも良いと思われるのに、この夜でなければ明日もないと思うのが寂しかった。そして、「追えども去らぬ夢幻し」と悩んだ古人の呟きが、彼の口から自然に出た。
 運転手に教えた番地も近よって来ると速力も鈍った。大きな樹木の立ち並んでいる屋敷街は、どの家も鈍い灯だけ残してみな門を閉めていた。幾曲りも同じような小路を折れて入る中に交番があった。運転手にそこで千鶴子の家の「宇佐見」の名を訊かせてみると、尋ねる家はもうよほど近づいていた。彼は曲り角で車を待たせて歩いた。幹の中ほどから二つに分れた椎の大木が、道路の中央にただ一本立ちはだかっていて、そこを折れると、両側に長くつづいた練塀に狭められ、あたりは一層暗くなった。どの家の塀の中からも大樹が覗いていて、樹の香が鼻を透して来た。矢代は闇の中を歩いているうちに、車を降りたときの胸騒ぎがしだいに無くなるのを感じた。千鶴子の家を見つけても今ごろから中へは入れぬ事情だったが、今はただ見て置けばそれで良いと思った。彼は云われたまま眼で追って行く左側の所に、趣味の良い太めの建仁寺垣を連ねた門が見えた。そこの門標にはまぎれもなく宇佐見の名がはっきり眼についた。彼は人通りの誰もない道路の中央の所に立って、光りを除け、暫く欅の一枚板の閉った門を見つめていた。葉の細かい椎と椿の大木が門の裏側に茂っていて、そこから玄関までよほどの距離の庭があるらしかった。潜戸の隙から中を覗くと、庭いちめんの白い砂が夜気を吸いあつめ、寝静った玄関をがっしりと守っていた。矢代は一見して、その単調な厳しさからカソリックの千鶴子のしつけが頷かれた。漂う和らぎは厳しさの結果から来ているらしい。整然とした規矩もあった。矢代はこれがあの自分の夢の生い育った家だったのかと思うと、まだ旅のうつろいやまぬ夢心地も、急に醒め冷えて来るのを覚えた。もし今ここへ千鶴子が顕われて来たなら、ともに異国に遊んだその姿も別人のように見えるにちがいないと思った。彼は夢の脱落してゆく下から顕われた正体に面と対った感じで、暫くはそこから動かず立っていたが、自分と千鶴子との間に立ちはだかりて二人を会わさぬものは、争われず、この欅の門扉に厳しく顕われ出ている家風だと思った。彼は待たせてあった車の方へ戻っていった。車の中でも彼は、マルセーユへ上陸した途端に、同船の男たちがいままでの千鶴子を眼中から振り落してしまったときの、一日の恐るべき変化を思い出した。あのヨーロッパへ上陸した途端に、まったく千鶴子の魅力の消え失せた日とは逆に、今は彼女に面会することさえ出来ぬこの変化は、これはいったい何んだろう。
 矢代は車のライトに照し出されては消えてゆく家家を見ながら、その一つ一つに具った家風の違いを思うと、千鶴子と結婚する無理から起って来る自分の方の両親の困難が想像された。それは絶えず千鶴子の家へ自分の両親の頭を下げさせることであった。
「洋行から帰ると、その晩はホテルで泊る方が良いというが――」
 と、こういう心配と小さな誇りを持っている父に、頭をいつも下げさせてゆく子供に自分がなることは、いわば、洋行したためばかりに起って来た悲劇であった。船で日本を離れ始めてからは、乗客たちの身分とか、財産とか、名誉とかいうものの一切は、人の頭から吹き飛んだ平等対等の旅人となっていられた。しかし、その習慣も、帰れば誰に命ぜられたものでもなく、忽ちこのような、かき消えた自然さで再びもとのわが身に還った落ちつきである。とはいえ、実はそれも自分の身分を考えず、頂きの高さで人と平等に眠っていた身が、眼を醒すと同時に、下まで墜落して行く狂めくような呆然たる静けさに、それは似たものだった。こんなことは矢代もみな想像していたことだったが、しかし、それがこれほど早く前の自分の姿を見る寂しさに変ろうとは。――
「君、日本へ帰れば、もう君と千鶴子さんとは会わないにちがいないよ。だから今のうちさ。」
 こんなに久慈が彼に奨めた日のことなども、矢代は思い出した。しかし、もしこれが自分の自然の姿であるなら、むしろ夢から早く醒めただけでも結構だと思った。たしかに、千鶴子と自分との交遊は事実あったことだったが、それも夢と等しいものだったと、思えば思い得られる自分の国の変化だった。またそれは同時に、自分自身の変化でもあるのだった。何がこのように変らしめたのか分らなかったが、パリにいたときの同じ思いを貫きつづけていても、水が氷になるように、いつの間にやら揺れ停って質の変っている自分であった。それは氷か水か、自分がどちらか分らなかったが。――

 渋谷からは路も暗かったが、ライトの中に泛き出される繁みや看板など、矢代には見覚えのものが多くなった。どれも暫く見ぬ間にひどく衰えた姿になっていた。それでも彼は窓ガラスに額をあてて、迎えてくれる風物を見逃すまいと努力した。繰り顕われては走り去るそれら一瞬の光景が、どれも鄙びた羞しさで、顔を匿して逃げ走る生き物のように見えた。溝を盛り起して道路の上まで這い繁っている夏草の一叢の所で、矢代は車を降りた。自宅の門がもうすぐそこだった。
 彼は門の引手をひき開ける手具合も、暫く不在のうち、度を忘れてつい大きな音を立てた。
 まだ母はひとり起きていた。彼は奥座敷で帰った挨拶を母にし直してから、初めて襖や天井を見廻した。廊下の方から幽かに肥料の漂って来るにおいがした。ふと彼は永く忘れていた子供のころのまま事を思い出した。柱の手擦れた汚れや、砂壁の爪の痕跡など、それぞれ自分の身を包んでいた殻のように感じられ、加わる疲れのまま見降ろしている畳目が、無きに等しい軽やかなもの思いに似て見えた。彼は母の出してくれた茶をただ今はがぶがぶ飲むばかりだった。
「へんなものだなア。お茶がうまいというのは。もう一ぱいくれませんか。」
 矢代は母に、こう云いながらも、そんなことを云おうとしていた自分ではなかったと思った。しかし、何ぜこんなに悲しくさみしいのだろう。嬉しくて溜らぬ筈だのに、それに何ぜこんなにさみしいのだろう。それは云うに云われぬことだったが、今の自分のこの気軽さや歎きなど誰に洩してみたところで、忽ち押し流されてしまうそぞろな空しさだと思われた。彼はまた元気を出し浴衣を着替えに立ち上った。
 ひと風呂浴びてから彼は母の前で横に身を崩すと、ようやく自分の家にいるらしいくつろいだ気分に幾らかなった。
「はい。お茶。」
 と云って、母が出してくれた二度目の茶の熱さは、初めて体内を洗うように感じられた。彼は外国のことなど、一言も母が訊こうとしないのが気持ち良かった。ただ妹の幸子の病状や、親戚のことの変りなど、矢代に訊かれるまま話すだけだったが、こうして母と話している間だけ、あたりに光りの満ち和ぐ思いのするのが、円光に染って休んでいるようで愉しく、屈託のない暫くだった。彼はいつかは自分もこんなに円く曲って、母の胎内にいたこともあるのだと思った。そのときを彼はこの部屋だと見立て、それから遠く海を渡り、陸を廻って来た自分の変りをまた思ったが、見て来た世界のさまを頭に泛べ、元の古巣に戻っているこの自分の物思いは、もう母に話しても分らぬあれこればかりかと思われた。しかし、それにしても、何にいったい自分は悩み、何を希んでやまんのだろうか。――それにまた、この眼をつむったような寂しさはどうしたというのだろう。それは追えども追えども去らぬ寂しさだった。
「あなたお金足りたの。先日も三千円ばかり送ったんだけど、それは受取ってないようですよ。」
 母にそう云われて矢代ははッと我に還った。異国で金を握り、銀行から出て来るときの、あの仏にあったそのままのような明るさを思い出したのだった。
「それは知りませんね。いつです?」
「今から一と月ほど前よ。」
「じゃ、駄目だ。」
 矢代は、すべてが過ぎ去った日のことだと思ってがっかりした。その金が日本へ戻って来ることは確実だったが、異国で使う金額と、日本で使う同額とは、為替《かわせ》関係の意味ではなく、まったく別のものだった。
 金にしてそうであるなら、まして千鶴子という生きた婦人のことである。千鶴子の心や身体に変りはなくとも、千鶴子その人の価値が変っている、ある全く不可思議な質の転換を、矢代とて今はどうしようもない、すべては過ぎ去った日のことだと、また肱を枕に彼は畳目に眼を落した。誰の仕業でもない、時でもなければ、人でもなく、自分でもない、地上の出来事のうちもっとも恐るべきことで、そしてまた平凡な一事実に関したことだった。しかし、それがも早や誰に通じることだろう。それもたとい異国の旅をしたことのないものであろうとも、共通に身に襲いかかってやまぬ、日常茶飯のことだのに。――
「そうでしたか。しかし、それは失敗ったなア。」
 とまた暫くして矢代は云って笑顔を撫でた。もし自分が久慈や田村のように、寝ても醒めても、ヨーロッパ、ヨーロッパと浮ごとを云って旅をつづけていられたなら、どんな仕合せな旅だったことだろうと思った。
 西洋から帰る多くのものが、船中から神戸を見て、思わず悲しさに泣き出すというもの狂わしい醜態がある。それはいつもあることだが、しかし、天平平安のむかし遣唐使の去来した船中でも、幾度久慈のような青年に演じられたことだろうかと、矢代は思った。それらのものも、言葉が通ぜず通訳を伴って行き、同僚たちから受けた屈辱に耐え得たものたちが、帰って多くの仕事をし上げた。それに引きかえて、言葉に練達したものの多くは、絶望のあまり終生を故郷の草の中に埋め、溜息と化して死んでいった事実の多かったのも、むかしと変らぬ、今日に似た旅愁の所業の一つかとも思われた。そう思うと、矢代もさまざまこれから身に受けるにちがいない屈辱も耐え忍ばねばならぬ自分だと思い、唇を灼く茶の香の中から、意志を強めてかかる決意もまた燃えて来た。
「もう外国へ行くのは、あたしこりこりしましたよ。行くものは良いかもしれないが、家で留守をしているものの心配は、大変だからね。まだお金はあるだろうかと思ったり、言葉も通じない所で、さぞうろうろしていることだろうと思ったり、それはそれは心配なものですよ。」
 母は元気を恢復して来たらしい矢代の様子を見て、愚痴らしいものも初めて洩した。
「お金のないときはそれや弱ったけれど、言葉なんか、日本語で結構間にあいますよ。どこだって通じる。むしろ外国語をうまく使う方が、日本でこそ尊敬されるが、外国人からは馬鹿にされる方が多いですからね。」
 と、矢代はこんなに自分の不得手な語学に、少しは手柄を与えてやりたくなって云った。それは弁解に等しいものだったが。
「へえ、そんなものですかね。」
「それや、外国語を使うに越したことはないですが、そこは何んというか、僕だって少しは自尊心も出ますからね。妙なもので、外国にいると自分の国の言葉が、非常に有難くなるんですよ。ですから、日本語を使うと日本人には笑われるけれども、まア、一度はそんな真似も、やってみたくなるんですね。」
 事実を云えば、異国にいる日本人の多くの者の争う点は、能ある鷹は別として、その滞在国の言葉が出来るか否かということか、出来ても発音とか読書力とかでまた争い、練達しているものはまた、不思議とどちらが出来るかということで争うのが常だった。
 矢代は初めこれらのことも当然だと思い、気にもかからず尊敬さえしたのだが、それがどこでもここでも、同族のものを軽蔑する主要な原因のごとき観を呈している醜さを発見してからは、勉強とは云え、あまりにその修練の人格の無さに腹立たしさを感じ、多少は知っている異国の言葉もそのものの眼の前では、つい彼は使いたくはなくなった。そして、以来頑固にひとり日本語を押し通して用を足す反抗をつづけてみたが、まったく通じない日本語も、行くところどこでも不便少く目的を達したのを思うにつけ、知っている日本語さえ話さぬ西洋人の思惑や工夫もまた感じられて、一層彼は日本人の争いに眉がひそんで来るのだった。
「もう遅いですからお土産は明日にして、今夜はお母さん、休みましょうよ。」
 スーツの中には買い蒐めた品もあり、その後に遅れて船で着く珍らしい土産のあるのも、まだつきぬ旅の名残りとなって矢代に明日を待たせるのであった。

 二三日家にいて、矢代は母の郷里の温泉へ休養に行くことにした。外国から帰ったものでそのまま家に滞っているものは、どういうものか、原因不明の高熱がつづき、入院する危なさを通るのが例である。矢代も溜った疲れを揉みほぐしてしまいたいだけではなく、母の東北の郷里もこの際よく見直して置きたかった。
「幸子の病院も見舞ってやりたいですが、良くなっているのなら、まア温泉から帰ってからにしよう。どうも旅の気持ちを抜いて、すっかり身体を洗いたいのですよ。」
 矢代はこう云って妹の方の見舞いを後にするのを母に納得させた。母も自分の郷里の温泉を、この際子供が選んでくれたことを喜ぶ風だった。
「あんな所より箱根の方が良さそうなものだけれどね。何が面白いの。あんなところ。」
「それや面白いですよ。西洋らしい所を見るのはもう倦き倦きして、疲れるばかしだからなア。」
 矢代は云いながらも、一度前に、母の実家に女中奉公をしていたことのある婦人に、用を頼んだある日のことを思い出した。その婦人の嫁ぎ先の主人が東京に出て大工をしていた関係から、矢代の家の破損の部分を直して貰いたいと頼んでやった手紙の返事が、すぐ来た中に、
「今日子供が自動車に跳ねられて死にましたものですから、悲しくてごたごたいたしております。主人もすぐお伺い出来ますかどうか分りませんが、遅れましても不悪《あしからず》おゆるし下さいませ。」
 と下手な字で鄭重に書いてあった。
 自分の子供の不慮の死のあったその日、すぐ手紙の返事を書けるという律儀な恐るべき婦人の精神に、返事を書くことの嫌いな矢代は水を打たれたように覚えたことがあった。彼がその婦人と同じ母の郷里へ行きたく思うのも、一つは、自分の怠惰な心を正したいためもある。
 彼の母の郷里は、東京から十時間もかかる東北地方の日本海よりに面していた。矢代の行った温泉場はその地方でも特に質朴で、古風なことでは日本でも有名な湯治場であったが、避暑客のまったく去ってしまった一帯の淋しい山峡では、野分の後に早くも秋雨を降らせていた。見たところ、このあたりの風習や気質には珍らしく西洋の影響を受けたものは殆どなかった。矢代は真黒な太い木組の浴槽に浸ったり、暇にまかせてその地の歴史を検べたりしながら身を休めた。
 百軒あまり人家の密集している町は、湯に包まれた一つの木造の家のようなものだった。町の南端に流れている河鹿の多い川の水中から湯の煙が立ち昇り、百日紅の花の下を、泡立つ早い流れが日光に耀いていた。その周囲を包んだ変化に富んだ山波の姿は、巧緻な樹木の繁りを見せて矢代は倦きなかった。
「われ山民の心を失わず。」
 このように山を見て云った芭蕉の言葉も、矢代は思い出しつつ山にも登った。山懐ろの秋の静かな日溜りの底で、膨れ始めた嬌奢な栗の毬がまだ青く見降ろされた。遠く向うの海岸のトンネルの中から、貨物列車のぞろぞろ出て来る姿を見ると、彼は田舎芝居を見ているような、道化た煙草好きの男を何んとなく思い出した。そして、あれが日本に顕われ出て来た初めての西洋の姿かと思い、膝に肱つき、下を見降ろしながら、彼は見て来た西洋を想い浮べては感慨に耽けるのだった。
 煙を噴き出す貨物列車は蛇に見え、稲の穂の実っている田の中を通り脱けてまた煙を苦しげに、ぽッぽッと吐いて眼界から消えて行く。
 このような素朴な景色を遠望しているとき、矢代は、自然にまた自分の父の若い時代を思い出した。彼の父は青年時代に福沢諭吉の教えを受け、欧州主義を通して来た人物だった。ただひたすらに欧米に負けたくない諭吉の訓育のままに、西洋も知らず、山間にトンネルを穿つことに従事し、山岳を貫くトンネルから文化が生じて来るものだと確信した、若若しい父の青年時代を思うと、矢代は父とは違う自分の今の思いも考えざるを得なかった。
「洋行というのは、あれは明治時代に云ったことですよ。お父さん。」
 父にそう云った子供の自分らの時代では、いつともなく洋行を渡行という言葉に変えて西洋に立ち対っていたのだが、立ち対う態度を洋式にしているうち、いつとは知れず心魂さえ洋式に変り、落ちつく土もない、漂う人の旅の愁いの増すばかりが若者の時代となって来たのである。
「わしはトンネルに初めて汽車を通すときは夜も眠れなかった。自分の作ったトンネルだからね。どういう間違いで崩れてしまわないとも限らないから、そっと夜起きて、草はらの中に隠れて、トンネルから出て来る汽車の顔を見てたものだ。無事に出て来てくれると、やれやれと思って家へ帰って、また眠ったよ。」
 視界にただ一点幾何学を顕した半円のトンネルの口を見降ろしながら、矢代は、父の話した明治の初期の苦心がその弧形かと思った。今は父は庶民金庫に勤めているとはいえ、自分を育て西洋へまで渡らせてくれたのも、つまりは今見降ろしているその弧形のためだった。また自分のみならず、どれほど多くのものが父の作ったトンネルを潜り、便益を得て来たことだろうと思うと矢代も、実益を多く残して老いの皺の深まってゆく父の顔を、自分に較べて見るのだった。しかし、自分は――彼はトンネルの口を見降ろしつつ、降りるべき土もない旅の愁いを深めるばかりの自分かと思った。
「われ山民の心を失わず。」
 このような芭蕉の村里びとの自覚も、矢代にはもう遠ざかった音のようなものに見え、半弧を描いた父の苦心のトンネルが、なおも彼に、お前は旅をせよと云わぬばかりの表情で、海岸にレールを長く吐き流して曲っている。

 稲の重く垂れ靡いている穂に、裾の擦れ流れる音が爽やかだった。これを耕し刈り採る苦労を少しも知らぬ自分だと矢代は思ったが、見る限り、いちめんに実った穂の波うつ中に浸っていると、まだ誰かが、年中怠らず労務をつづけていてくれる辛苦が歓ばしく思われ、せめてこれを感じることだけは忘れぬようにと戒めた。彼は宿の子供と一緒に、竹を細く切り接いで作った蛇の玩具の青い尾を握って、戯れに稲の穂の中を泳がせつつ海の方へ出て行くこともあった。無花果の実の熟れ連った海沿いの白い道を、水平線に随って歩いたり、波の洗う芒の中に一群の寂しい墓標を尋ねてみたりして、山村の心にも馴れしたしんだ。そのまに北の海は秋雨の降り込む照り曇りの変りが激しくなった。
 矢代は母の実家の滝川家へときどき行ってみた。その地方ではただ二軒よりはないと云われ、建物の粋を凝らして作られた自慢の家だと聞かされていたのも、彼はこのごろになって漸くその美しさが分るようになった。使用された家中の材木のどの一つにも節がなく、八十年をへた年月の風雪にかかわらず、狂いや罅が一つも見られなかった。それらの良材のすべても目立たぬように渋を塗りこめ、生地の放つ尊厳さを薄め匿した心遣いの顕れも、都の風とは違っていた。その代りに、長押や柱のところどころに打ち込められた蔦の金具の紋章が、起居の間も先祖の心を失わしめぬ訓戒を伝えているのも、自分の家とは違った武士の血統だと矢代は思った。
 いつかも母が矢代に滝川家の自分の父のことを、こんなに話したことがあった。
「あたしのお父さんはそれは厳しい方でしたよ。矢代の家へあたしがお嫁に来るとき、平民の矢代には娘をやれないと云って、赦してくれなかったんだけれど、だんだん調べてみたら、矢代の家は平民でも前の戦国時代にはお大名だったことが分って、初めて許してくれました。」
 この母の呟きも幼少のころ聞かされたので、意味はよく彼には分らなかったが、長じるに随い、睦じかった中に母と父とのときどきの不和に似た、混じりのあったのも、このあたりの両家の家風の違いに原因していることが感じられた。滝川家と遠く離れている九州を郷里としている父が、どうしてこの保守を何より貴ぶ地方の滝川家の娘と結婚したかは疑問だったが、恐らく母の長兄の東京に遊学中、二人の間を結んだかと想像せられるのみで、両親からこの事に関して彼は一言の話もまだ聞かなかった。しかし、戦国時代の話が出るときに限って、矢代の父が意気込んで自分の家系のことを妻に云う言葉の陰には、それ相当の復讐に似た淡い憂いもあるのだった。
「そんならどうしてここの家、士族じゃありませんの。」
 と矢代の母が父に、訊ね返した不服そうな言葉を、何か二人の気ばだった表情の間から、矢代は思い出すこともある。表面静に見えながら気象の強い母は、家系のことでは負け目を感じるのが不快らしく、何より武士道を重んじる心の姿勢は、年とともに母の中から強く感じ、そのために矢代は、父と母との間に立って苦しんだ日も、母の実家へ来る度びに思い起す記憶である。
 矢代が歴史に興味を感じ始めたのは、つまりはこの父母の家系の相違がもとだったが、平民の父が妻の実家の士族の遺風を尊びつつ、秘かに自分の平民をも誇るところは、他にまた特別の理由のあるのが後に分った。
 母の実家の滝川家の先祖は、士族とはいえ徳川系の譜代大名の士族ではなく、その以前の最上義光の家臣であった。最上家が上杉謙信の枝城の村上に滅ぼされて、その家臣の滝川家も野に隠れているとき、徳川時代となった。そして、土地を鎮める手段として、滝川家は新しい城主に召し抱えの身となって再び立った関係上、それ以来この地には徳川譜代の士族と最上時代の旧士族との土に対する伝統の古さを誇りあう意識が、いまだに他のどの土地よりも濃厚に顕れているのが現状だった。徳川時代を通じて、つねに譜代の士族に圧迫されていた旧士族の最上家の臣たちは、明治になると再び勢力を盛り返し、進んで文明進化の急先鋒に立った。そのため、この地の市会は二士族の勢力の渦巻きを絶えず描いて、大正、昭和となってもなおそれを続けている、保守限りもない遺風となっている。
 日本でもっとも保守主義と謳われているこの地の人心の底を、こうして流れ続けていた意識の中に滝川家があったということは、矢代家にとっては一つの幸福な事であった。何ぜかというと矢代の家も最上義光と同時代に、彼の九州の先祖の城はカソリックの大友宗麟によって、日本で最初に用いられた国崩しと呼ばれた大砲のために滅ぼされたのである。しかし、矢代家は城主の守る運命として、滅んで後に野に隠れたといえ、滝川家のごとく新しい城主の臣となる決意の出る筈はなかった。しかし、最上家同様に永く徳川時代を野人として隠忍して来たこの矢代家の悲しみは、どういう偶然か明治となって、ともかく最上家の永い悲しみの末の家臣である滝川家の娘と結びついたのだった。
 このことは、滝川家が士族であり矢代家が平民であるという、階級的な観点から見た場合に起る、ある無益有害な観念を無くさせる上に都合が良かった。それのみか、他の地と違い何より保守を尊ぶ気風を持った土地の滝川家としては旧士族を誇りとしている以上、当然に仰がねばならぬ旧主最上家の位置に、矢代家もまた同様位置する理由により、自家の士族も矢代家の平民に対しては、ある観念が逆に起り得べき立場にもあった。
「それじゃ矢代家、どうして士族じゃありませんの。」
 と矢代の母が良人に不平を洩した失敗のときも、父としては、妻の家が旧主最上家と共に滅ぶべき所を、浮き上った一時期の明るさに対して、それを暗さとして指摘し得られる場合だったが、恐らく子の矢代の身の上を思い、それも父は差しひかえたのにちがいない。
 すべてこれらの事は、この二家にとっては偶然とはいえ、偶然には神秘という契機をもった必然性が常にある。――このように感じたのは、恐らく子の矢代よりも、黙黙としてトンネルを穿つことに専心した彼の父の労苦の中から見出すことが出来るかもしれない。

 東京へ矢代の帰ったのはもう十月を越していた。彼はその翌朝眼を醒してからすぐ庭へ出てみた。朝日の射した庭にはもうよく爆けた石榴《ざくろ》の実が下っていた。彼は一番近くに垂れている石榴を摘まみ下げ、実の裂け口に舌をつけて汁を吸いながら、今日は一つ妹の幸子の所へ見舞に出かけようと思った。自分の勤めていた建築会社の整理部の仕事は、彼の小父の会社であり、当分休暇の届けをそのままにしていてもよかったので、すぐ社の方へ出る用もなかったが、病気もよほど良くなったという妹にだけはすぐ彼は会いたかった。矢代がパリで幸子から受けとった手紙の中に、
「お兄さんは東京を故郷だと発見されて羨ましいと思いますが、あたしは自分の故郷がどこにあるのか分りません。それが悲しいと思います。」
 そういう意味のことが書いてあったのを思い出し、彼は幸子のため凋れた気持ちを何より先ず慰めてやりたかったが、生れて以来東京で育って離れたことのない妹に、お前の故郷はここの東京だと教えたとて、東京を故郷だと思えない心に向って何んと説くべきか、彼にはそれもパリ以来の気がかりなことの一つだった。分りよく妹には両親の家系の違いを話し、先祖の苦しみや歎きがどんな希いで自分たちの肉体に伝わっているかも話さねばならぬ。
 矢代は引き下げている石榴の枝が少し高すぎたため、背伸びをしながらときどきふらついた。が、また枝をぐいと下げて石榴の皮の裂け目を手で拡げた。爆けこぼれた粒粒の二三が襟もとから胸の間へ忍び込むと、そこからまた腹まで沁み転げてゆく冷たさに、思わず彼は前に背を曲げて笑った。それでも、実を枝から※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]ぎ放して彼は食べようとしなかった。樹から繋がりのまま直接噛み破る酸味に口の周りの濡れるのが、これこそ故郷の味の一つだと思われて愉しかった。
 粒の一つ一つの薄紅が朝日に射し映え複眼の玉となって犇めき詰っていた。その実の重さを受けると、貴重な陶器の握覚を感じ、矢代は一つで足らずすぐ次ぎの枝をまた引きよせた。華やかに群りよった実の重量で枝は房のように垂れ流れていた。鰯雲の尾を曳いた鮮明な空だった。石榴の隙間から見えるその空を仰向きに、実を食い破っている矢代に、燦爛たる朝の充実した光りが降り濺《そそ》いでいた。
「ああ美味い。」
 矢代は今は完全に素肌の感覚に戻り身を震わせて云った。彼はふとパリのノートル・ダムで繊細巧緻な稜線の複合した塔の姿を見たときに、胸のときめきを覚えた自分を思い出した。しかし、今のこの野人の爽かな身震いは、ソロモンの栄華の極みだに野の百合にも及ばざらんと歎じた、聖書の文句の意味となり、彼にはある特別な感動を伴って激しく貫き透って来るのだった。
「パンがもう焼けてますよ。」
 と母は庭から戻って来た矢代に云った。朝食を急激に和食に変える辛さを母は想ったものか、彼女から矢代にそう訊ねたとき、朝だけはパンにしたかったいつもの癖が出て、うっかりパンと答えてしまったが、今の彼にはこういうことも自己批判めいた種となって、一途に烈しく和色に偏してゆこうとする自分の保守さ加減も、まだ徹底出来ぬのだと思った。
「パンか。」
 テーブルに向い、トーストを裂いて食べながらも、矢代は妙に自分の中で争うのだった。それは丁度、争いの種子を噛み摧き、嚥み下すような調子だったが、しかし、これからいちいち食い物までこんなに気になって来ては、これは堪らないとまた自分に抵抗もした。殊にカソリックの千鶴子にこの次ぎ会ったときの自分を想像すると、異国で見たときとは異り、思いがけない二人の違いを発見しては、互に遠ざかるばかりかもしれぬと、さらに苦しみも増すのだった。なおその上、カソリックの大友宗麟のために滅ぼされた先祖の城のことを思う場合には――。

 手紙ではときどき矢代は妹を慰めていたが、見舞いに行き遅れていたことは、汽車に乗ってからもやはり後悔めいた気持ちがした。また婚期の遅れゆく幸子のことを考えるときは、今まで殆ど気もとめなかったことだのに、それが突如ただならぬ寒けとなって襲ったりした。自分が結婚する場合妹を先にしてからでなくては納りの悪さのあることなど、たとい考えることを避けていても、不思議と妹の婚期のことだけは心から脱けなかった。
「いや、自分は嫁など貰わぬ。」
 こういう気持ちも矢代にはあった。殊に千鶴子と会ってからは、他の誰かと結婚する意志など一層感じなかったとはいえ、それも家のことを考えるときは、徒労なことになりそうな薄弱な部分も無くもなかった。それに今日妹と会えば、母の意を伝えて矢代の結婚の相手をそれとなく奨める幸子の苦心も、想像していて先ず間違いのないことだった。
 海に面した丘の上の病棟で矢代は初めて幸子と会った。見たところ妹は病人らしい様子が少しもなかった。円顔で頭の廻りの早そうなくるくるした眼は、いつも兄の考えを通り脱け、勝手なところへ出てまた廻る癖があるので、自然矢代も妹にだけは言葉を濁す癖があった。
「帰りたいと思ってるんだけど、急いでまた悪くなるの恐いから、当分は動かないつもりなの。」
 幸子はそう云ってから、毎日ここから海を見ては矢代のことを想像して愉しんだと話した。ミラノで買った革製のハンドバッグや、パリの財布、ベニスのショールなど、矢代の出した土産物を手にとって妹は面にも嬉しさを顕した。矢代は東北の湯治場のことや滝川家のことなどをあれこれと話したが、外国のことについてはあまり云い出そうとしなかった。
「日本海を見てここへ来ると、太平洋の明るさは特によく分るものだね。北の方はもう秋雨がひどいよ。」
「どこが一番良かった?」
 知りきった東北のことより外国のことを何より訊きたいらしい。幸子の眼つきは、何かに飛びつきそうな光りだった。矢代はそれが不愉快で幾らかいやらしく感じたが、それもやむを得ない病人の歓びかもしれぬと思い、
「そうだなア。」と云いながら、窓から麓の漁村を見降ろして一瞬ヨーロッパの風景を頭に泛べた。
「そこにいるとき良い所と、後で思い出してから良くなる所とあってね。一口では云えないものだ。」
「でもまア、あたしたちの面白そうなところよ、パリはいいでしょう?」
「うむ。」と矢代は低く口の中で呟くように云って苦笑した。
 幸子は眼ざとく兄の表情の濁りを見てとると不審そうに一寸黙った。
「まア、あんなものだなア。」とまた矢代は云って顔を赧らめながら幸子から顔を背けた。
「おかしな人。」
「何が?」
「じゃ、つまらなかったの、行って?」
 執拗に表情の後を追って来そうな幸子の視線を、今は矢代は手で払い除けたかった。
「そういうことは、そのうちおいおい話すとして、それより早く身体を善くすることだ。幸スケのような病気をする奴は、やはり心がけが善くないからだよ。」
「そう云われれば、それまでだけれど。――でも、お母さん心配してらっしてよ。お兄さんひどく元気がないようだが、どうしたのかしらなんて。別に心配するほどのことも無いんでしょう。パリまで行って――」
「無いさ。」矢代は簡単にそう云ってまた笑った。しかし、これで自分のどこかにやはり元気の無さそうな部分が見えるかもしれぬと思うと、その原因が千鶴子のことだとは分らぬながらも幸子だけは、外国での男の間に生じる出来事など想像出来るにちがいないことであれば、さきから執拗く表情を追って来るのも、そのあたりの不審が元であろうと矢代には思われた。
「もっとも、興奮が醒めると多少は元気も無くなるがね。」
 矢代は妹の気持ちを早く他の事に反らしたくてそんなに云った後から、都合好く、平壌で不時着したときに会った妓生《キーサン》の話を思い出したのでそれを聞かせた。またその妓生が彼に洩した話は疲れて平壌へ降りたときの矢代には何より興味を覚えたことだった。
 福岡まで大連から一飛びに飛ぶ筈だった飛行機が前方の風雨のため平壌で停ってしまった夜、矢代はここが妓生の産地だと聞かされていたのを思い出し、こういうときこそ朝鮮の歌を聴きたいと思って料理屋へ出かけた。そこは一流の料理屋で窓の下に大同江が流れていた。部屋には渋色の紙が敷いてあるだけだったが、同様に暗い隣室では彼には分らぬ二三の話声だけ高く聞えた。川水に灯火のない夜のためか、その声は洞の中に沈んだざわめきの酒声に聞え、ヨーロッパから帰って来て着いたばかりの矢代には、一帯の光景が荒涼とした暗の中に慰めに見えてひどく彼は寂しくなった。そこへ妓生が純白の衣服で入って来ると、矢代の傍へ片膝を立てて坐った。歌の上手な人という註文を出してあったので、その妓生の歌は隣室の酒声を抑え、際立った美しい調子で暫く響いた。妓生の名は忘れたが東京へレコードの吹込みを頼まれて行ってから、帰ってまだ三日にもならぬと話しながら、彼女は何んとなく元気のない、悄然とした様子でチマの皺を摘んでいた。
「東京は初めて行ったの?」
 矢代は自分も初めて外国から帰った当夜に、これも初めて東京から帰って来たばかりらしい妓生との巡り合せに興味を感じて訊ねてみた。
「初めてよ、あたしね、東京から京都、大阪と、今度は随分いろいろな所を見て来たわ。でも、神戸があたし一番好きだった。こんな美しい所が世の中にあったのかしらと思って、うっとりしてしまったわ。」
「神戸が?」
 矢代は一寸意外な気持ちで訊き返した。
「ええ、神戸にはあたしすっかり感心したわ。ですからあたし、平壌へ帰っても、ここで一生自分が過さなくちゃならないんだと思ったら、もう元気も何も出なくなってしまったの。もう、早くお金を溜めて、田舎へ引き籠って一生暮そうと決心したの。」
 妓生の年を訊ねると二十歳だという。高麗《こうらい》文化を伝える二十歳の歌の名手に絶望を与えた神戸に、何がいったいあったのだろうと、矢代はそのとき考えた。ヨーロッパから帰って来た青年の多くの者が、船中から神戸を見て、その貧しさに悲しさがこみ上げ、思わず泣き出すというその港、そして、そこからいま帰って来てひそかに洩らし悲しんだ妓生のこの歎きであった。
「つまり、それぞれみんな自分の故郷の美しさを忘れたのさ。心ないことだよ。」
 皆話し終えてから、矢代は幸子を戒めるつもりで言葉も、さして苦しまず自然に出て来たのを一層好都合に感じて云った。
「君も身体が善くなったら、こんな所であぷあぷしてずに一度奈良や京都でも廻って来るんだね。僕もそのうち行くつもりだ。まだ僕の旅行はいよいよこれからが、始まりというところさ。」
 さして馬鹿とも思えない幸子には、今の場合の兄の気遣いなど、およそこれほどのところで察しもつくだろうと矢代は思った。それまで海の上を黙って見ていた幸子は、急に立ち上ると彼に背を見せながら、ベニスのショールをかけてみた肩を鏡に映して眺め入った。
「いいわね。これ。早くよくなって、あたしもさっさとどっかへ行ってみたいわ。」
 白くギリシア模様を浮き出したショールの向うから、思い余ったように吐息をついて云う妹の声に、矢代は、なるほど幸子はまだ病人だったのだと気がついた。そして、ふとこれで妹は自分を心配させないために健康を装っているのかもしれないと思うと、自分と一緒に自由に異国を渡って歩いていた千鶴子の健康な様子と思い合せ、突然妹が気の毒になるのだった。殊にチロルの山の上で泊った夜、
「こんなにあたし幸福でいいのかしら、こんなこと、いつまでも続くものかしら。」
 と、蒼ざめた眼に恐怖を泛べて呟いたときの、あの千鶴子の吐息を矢代は思い出した。しかしそれは、今の幸子の息に籠った深い歎息に較べ何んという違いであろうと、今さら妹に同情した。寝台の傍の白薔薇に射している秋の日が、長く忘れていたものの幽かな息づきに見え一層矢代の胸を締めて来た。
「そのうち、どこへでも行けるようになるさ。ものというものは、心得さえ良ければ良いようになるものだよ。」
「それがあたしには出来ないのよ。」
 鏡から離れて幸子はショールのまま、土産物のハンドバッグを持ち財布の厚い金具をぴちりと立てて、兄の前を様子振りつつしなしなと壁の傍まで歩いてみた。そして、
「どう、いいでしょう。」と振り返って笑った、矢代もつい一緒になって笑ってしまった。

 矢代の手もとへ久慈から手紙が来たのは、東北から帰って間もなくであった。矢代は、やはり彼から来る手紙を待っていたので喜んだ。手紙によると、久慈はスペイン行きの途中、反乱勃発のため引き返してスイスからイタリアへ行き、再びパリへ戻って来たばかりらしかった。またその手紙では、塩野がもう日本へ出発し、東野がイギリスへ渡った後で、パリには早や彼の知人少く、マロニエの枯葉日毎に音立てて散る秋を迎え、淋しさ静けさ加わるばかりと書いてあって、その最後のところに、
「噂に聞くと、君もどうやら生還したようだが、僕はいよいよ怪しくなった。羨望すべき君子よ。」
 と、そんな皮肉なことまで忘れずあった。この皮肉な短文には、久慈の苦心の意味が籠っていたので矢代は苦笑しつつも、すぐ返事を彼に書き、パリで絶えず論争しつづけた二人の争いを、また東京の自宅から彼に向けたくなるのだった。実際、矢代は、久慈にだけは他人には云いかねることまで書けるので、その点だけでも彼の人徳に感謝して争った。
「ミイラ捕りミイラとなりし談もあり、――君がそんなになって帰るのを待つ自分の悲しみも察して貰いたい。」
 矢代はこういう意味のことを書いているときにも、強く西日の射しつけたモンパルナスの街の中で、
「ああ、もう頭の中は弾丸雨飛だ。僕はただ絶望するばかりだ。」
 とそう呟きつつ日光を避け避け細めた久慈の眼差しを思い出した。
「どっちも生還おぼつかないか。」
 矢代はそれに答えてそう云ったと思ったが、久慈も、二人のそのときの様子を思い出したらしく、相当に彼の手紙の皮肉は利いていた。
 しかし、矢代は、久慈のミイラとなった死骸を迎えに出る日のことを考えながらも、彼を乗せて入港して来る船の中には、恐らく久慈同様な生きた死骸を沢山積んでいるにちがいないと思った。そして、それらのミイラとなったさまざまな幽霊が、日本の内部へぞろぞろ散って行く図を想像すると、やがて何かの肥料にはなるだろうそれら死骸の土の中から、やがて芽を出し、花を咲かせる草木の色艶も考えられた。またそれは、何らかの意味で光沢も増すにちがいない。
 彼は久慈にも、応酬したくなった皮肉にそんなに書いているうち、日本に初めて襲って来た、激しい西洋の波の有様を次第に強く思い泛べるのだった。それは戦国のころから、安土桃山の時代に波うち上げて来たカソリックの激しさである。この精神の波は、僅か十数年の間に、日本の知識階級ほとんど全部の頭に浸入した。千五百八十二年、信長が殺された天正十年の正月に、九州のキリシタン大名の使節がローマに初めて出発して、八年後に持って帰った印刷機から吐き出された信心録のその拡がりの早さ、――それからまた、四十年後の寛永九年、全国に襲ったキリシタン迫害の暴風と、それに抵抗した大殉教の壮烈さ、――
 矢代はローマ帝国がキリスト教に示した大迫害と匹敵する、当時の日本の大弾圧の様を考え、そのとき殺されていった無数のそれらの生命力の行方を想い泛べるに随い、下ってそれから三百年後の今の世に栄えている、カソリックの姿もまた自然に頭に泛べざるを得なかった。それも、矢代の先祖の城の滅ぼされたのが、カソリックの大友宗麟のためであり、その子孫の矢代がヨーロッパで知り合って、現に彼を悩まし、ともすると一切の判断を失わしめる婦人が、同様にカソリックの千鶴子だった。
「栄えるためには、人は何ものかに殺されねばならぬのかもしれない。君のように。」
 と、矢代は久慈への手紙の中にそう書きながらも、このカソリックの再度の繁栄の理由を、むかし殺戮された殉教者たちの、断ち切りがたい意志の招きかもしれぬと思うのだった。
「歴史は繰り返すのか、進むのか僕には分らないが、恐らく君の亡き骸の悲しみも、何かの役目を果す日の来ることを僕は希い、またそれを祈っている。日本へ帰ってからの僕の念いは、今のところ、歴史は繰り返さない、ただ進むばかりだと信じたいことだけだ。しかし、人間の腸のうねりのような歴史は、恐らく僕らの祈りなど、聞き届けてくれないことと思う。だが、何んにも僕は心配などもうしていない。僕も君も、どちらも野蛮人というような高級な感性的なものにもなれず、知性人というような、これまた同様に透明な抽象的なものでもない。それなら僕らはお互に最も底辺にいるべき人物同志であり、この底辺という富み籤を引き当てた健康なものこそ、それなればこそここに最も真理が豊かにあることを自覚すべきである。何ぜなら所詮この底辺の僕らが人の世を運ぶのだからだ。そして、僕はこの自覚から楽しく出発するつもりだ。茲《ここ》に僕らの道徳がある筈だと思う。」

 矢代は久慈にそういう手紙を出してから、三日目に、突然塩野が訪ねて来た。取りつぎに出た母から名刺を手わたされたとき、「あっ」と矢代は云ってすぐ立ち上った。人が来たのではなく、パリが人の姿で不意に訪ねて来たような胸騒ぎを彼は感じ、弛んでいた帯を絞め直して玄関へ出ていった。
「やア、暫くでした。一昨日着いたんですよ。御無事でしたか。」
 塩野は勢い込んだ元気な顔を上に向け、両足を揃えた正しい姿勢で矢代に云った。
 矢代は塩野を応接室に上げてから、そこでまた一別以来の挨拶をした。どちらもパリにいるときは敬語を使わなかったのに、このときは妙に固くなり、互に初めて会うような鄭重な言葉が自然に出た。矢代はそれを崩すのも却ってぎこちなくなりそうで、溢れて来る感動も礼儀のために絞めくくられ、ともすると無感動な静かな表情になるのだった。
「しかしとにかくまたお会い出来て、良かったなア。」
 と何んとなく嬉しさに疲れ、二人が黙ってしまったとき、矢代はふとそう呟くように云った。窓からぼんやり庭の石榴を見ていた塩野は、云いたいのは自分もそれだと云いたいらしく、「うむ。」と頷いた。まったくどちらもここにこうして再び対き合っているという事実が、今は不思議な気のする一刻だった。またたしかに二人はこうしているのだった。彼は塩野を抱きかかえたいような衝動をときどき感じたが、さも手持無沙汰のように煙草を喫いつづけてばかりいた。
「東野さんその後どうしてました。あの人も、そろそろもう日本へ着くころだと思うが、二三日前に来た久慈の手紙では、イギリスへ行ったということだが、あれから会われましたか。」
「会いました。あれから一度、東野さんの講演がありましてね。僕は聴きに行ったんだが、あんまり面白くもなかった。妙なことを云い出すものだからひやひやしてね。それでも、フランス人に講演するんだから、まアああいうより仕様がないんでしょうね。」
「それや、ひやひやするだろう。」
 と矢代は、東洋的な東野の一風変った、独断的な話の癖を思い出して笑った。
「しかし、万国知的協力委員会の幹事をしている佐藤という人が、今日は成功だ、と僕にそのとき云いましたよ。それでやっと僕も安心したが。」
「東野さん、どんな講演をしたんです。」
 と矢代はまた訊ねた。
「何んだかもう忘れたけれども、世界の人間が、世の中を愛するためには、先ず各国の人間が、今までの歴史と地理とを、それぞれ、もう一度あらためて認識し直すことだ、というようなことを云いましてね。何んでも、そうすることから、人間の愛情というものが、一層高尚に変ってゆくというのですよ。」
「それはまた東野さん、大きく出たものだなア。」
 と矢代は云いながら、塩野と一緒に笑った。が、日本人がヨーロッパ人の前で無理に話をさせられれば、今のところ、東野のようなことを云う以外に適当した穏かな話はないと矢代は思った。実際、矢代は西洋にいたとき、随分いろいろな事に人後に落ちず感心したが、一方どういうものか、いつも理由の分らない腹立たしさを感じた。しかし、塩野はそうではなく、一心不乱に一挺のカメラの眼に意識を蒐め、対象を研究しつづけていたのである。それもキリストの精神を中心にして、物理がどこよりも一番美しく結晶したノートル・ダムに対い、特にカメラの焦点を向けつづけていたようだった。
「君がヨーロッパにいるときは、なかなか豪かった。久慈や東野さんより、僕は君に一番感服したな。とにかく、君は立派だった。」
 と矢代は塩野から視線を反らせて低く云った。
「豪いも豪くないもないや。他の人とは違って、僕は貧乏だったんだから仕様がない。」
 塩野は後頭部へ両手を廻して笑った。
「いや、そこがさ。」
 こう云いながらも矢代は、巴里祭の日に、サンゼリゼの坂で中央の伝統派の一団と、そこへ襲って来た左翼の打ち合う波の間に挟まれ、殴られつつも、まだカメラのシャッタを切っていた塩野の勇敢さを思い出した。
「あの巴里祭のとき、君が殴られながら撮った写真、あれどうしました。」
「そうそう、あれはうまく撮れてた。引き伸して送りますよ。あの時は、まったく偶然なチャンスにぶつかったが、その代りに頭が割れそうだった。痛い痛い。」
 いつも巴里祭の話になると、顔中ぽっと紅をさす塩野の癖がまた出かかったと思うと、突然彼は話を換え急に馴れ馴れしい、一種頓狂な薄笑いを泛べた眼つきをして、
「あなた、氷河の写真入用ならありますよ。僕あなたと別れてから、またチロルへ行ったんですよ。あなたの渡ったあの氷河が忘れられないものだから、日本へ帰る前に何んとかしてもう一度と思って、とうとうまた行って来た。いいなアあそこは。」
「行ったんですか。」
 矢代は不意に虚を突かれた形で妙に胸が高鳴りをつづけた。暫く赧らみの面に噴きのぼって来そうな予感のまま、彼は氷河の厚い量層を眼に泛べるのだった。
「あそこの羊飼の唄ね、あのレコードも手に入れたから、この次ぎ持って来ましょう。大石と二人で行ったんだが、大石はあれからスイスの公使付に替って、まだあそこにいますよ。千鶴子さんの兄貴も、あそこの唄のレコード欲しがってるんで、持って行ってやらなくちゃ。――あなた会いましたか、あれから?」
「いや、まだです。無事帰られましたか。」
 と矢代は力のない小声で訊ねた。
「帰ってますよ。僕昨日ちょっと電話で話してみただけだが、行ってみましょうこれから。」
「うむ。」矢代は生返事をした。行きたいことは山山だった。それはもう氷河の話が出たころから、千鶴子の名前がいっぱいに膨れ襲いかかって来ていたのだが、それが塩野から無造作にそう云いかけられると、急に返事に詰り、云いようのない苦渋な気持ちで即答が出来かねるのだった。塩野は矢代の表情を伺いながら、瞬間これも理解に苦しむ風な、うつろな眼のまま黙り込んだ。
「それより、夕御飯どっかでどうです。久しぶりですからね。」
 ようやく矢代はこう云って自分の苦しさを掻き除けた。
「ほんとに久しぶりだなア、千鶴子さん、夕御飯に呼んでやろうじゃないですか。喜びますよ。」
 再会の喜びに夢中の塩野からまたそう云われては、矢代も今は抗しがたかった。それも、千鶴子を呼び出すほどなら、むしろ出かけて行っても良かったところを、彼女の家へ直接行き渋る矢代を遠慮とのみ思い込んだ、塩野の勘違いだった。矢代は、この喜びをそのまま素直に受取ろうとしない自分に気枯れのした暗さを二重に感じ、彼にそれも云えない焦燥のまま、不思議と彼は沈みこんだ。
「千鶴子さんに会うのも良いが、どうもね。」
 と矢代は笑いに紛らしながら、争われず塩野を見る眼も、さきからパリを懐しむ思いの方が遥かに強かった。そして、ともすると彼をただその背景の上に泛べているだけの自分を感じては、塩野もまた、こちらを同様に見ているにちがいないと思い出され、ふと差し覗いてくるような寂しさが、冷え冷えと薄気味悪い影を流して通りすぎた。それも、もしこのまま千鶴子に会えば、一層拡がるばかりのパリの影が、今はその前兆のような不吉な尾を、ちらりと跳ね上げ冷笑しつつ流れているかと思われる。
「どうもしかし、旅というものは不思議なものだなア。行くときにはただ夢中で行くが――君、もう暫くすると辛いですよ。こんなに辛いものだと思わなかった。これであなたや千鶴子さんと会うのも嬉しいが、惜しいことに、外国へ行く前に一度会っておいたんだと、もっと良かった。」
「そうそう、それや分る。」
 と塩野も眼を空に上げて云った。彼のその見上げている空中に映っている異国の幻影が、楼閣に楼閣を重ねた絢爛たる光の綾を鏤め、また自然と矢代の頭にも映り返り、塩野を見るのだった。暫くこうした幻影が幻影を見ている間を、窓の外では、晩秋の光線が徐徐に日暮れに傾きつつ、樹樹の末枯《うらが》れた葉の影を深めてゆく。庭の柿の木の下で、落ち潰れて久しくたった熟柿の皮から、白い毛に似た黴が長く突っ立って生えている。
「とにかく、僕らは足を奪《と》られるよりも、頭を奪られているんだからなア。始末にいかん。――元気を出そう。」
 矢代は庭の中の一点の賑やかさを誇っている、狂い咲きの躑躅の花に視線を移して云ったが、晩秋の冴えた日暮がますます腹の底から沁んで来た。

 家を出てから二人は坂路を下っていった。坂の降り口の所で、塩野は自動電話のボックスを見付けると矢代を外に残して中へ入った。どこかの料亭へ電話をかけるのか、それとも千鶴子にか、ただ「一寸待って」と声をかけたままだったが、外から見える彼の顔は、何んとなく千鶴子の兄にかけているらしい、打ち解けた笑顔をしていた。
 矢代は一度ちらりと中の塩野を見ただけで、出て来る電話の主が気がかりなだけに、今は話の内容に気をつけるのがいやだった。彼はそこに手ごろに見付かった近くの煙草屋へ入り、余分の煙草を買った。パリで千鶴子と別れる際、帰ればすぐ会おうとあれほど約束しておいたに拘らず、一ヵ月以上にもなり、それも塩野に間に立たれて初めて会おうとする虫の好さを思うと、向うにしても、彼の電話のままにはやすやす出かけて来ることもあるまいとも思われた。それに、千鶴子もこちらの考えたほどのことは考えた上に、なお婦人として心得るべき特別の事情も、種種考え直して苦しんでいることなど、およそ定っていることであった。
「つまり、そこだ。自分の会いそびれていたのは。」
 と、矢代は煙草屋を出て来るとき口から思わず出かかった。しかし、また向うにしても、こちらの考えを潜って、思いを巡らせていてくれたものなら、悪気があって強いて会わぬわけではない事情など、虫好くして考えれば、分ってくれそうなものだとも思われる。しかし、それにしても、矢代に不思議なことは、会いたいとか見たいとか、一途に思っていたことに変りのなかった自分を、それをせき留めているものの事実あるのは、たしかに自分一人の胸には分らぬ何事かだと思った。そんな自分の所存ではない、二人の間にのみ潜んでいる何事かは、恐らく二人が会ってもまだ分らないものにちがいない。そして、それもみな、異国で出会った男女の間にばかり起り得ることであってみれば、今は運を天に任せて出て行く以外に法もない。
 そうは思いながらも、矢代はなおボックスに恐れを感じ遠く離れたまま立っていた。枯草の中にぽつりと尖がっている、無愛想な灯台形の白い小箱が、運命を判じるアンテナのように底気味悪く見え、その声を運んで来るものまでが、ただの科学的なことではすまされぬ、神秘な光りのように見えるのだった。そこへ箱の中から出て来た塩野の、パリで作ったらしい身についたダブルの洋服が、周囲の風物とかけ離れひどく頓狂に見えるにこにこした姿で矢代の方へ歩いて来た。
「千鶴子さん、来るそうですよ。どうもしかし、初めは妙なことを云いましてね。あたしが行っちゃ矢代さんに御迷惑じゃないかしらって、そんなことを云うんですよ。あれも一寸どうかしてるなア。」
 と塩野は云いながら、ズボンのポケットから煙草を探した。しかし、いよいよ千鶴子が来ると分ると、矢代は急に元気が出て思わず饒舌になりかけた。
「それや、君、帰ったばかりだから、どうかしてるのは誰でもですよ。そのうち君だって、どうかなりますからな、用心しないと入院しますよ。」
「ふむ、入院するかな。」
 と塩野は一寸考える風に眼鏡をせり上げた。
「とにかく、入院するしないは別として、必ず妙なものがやって来る。訳の分らぬものが、無茶苦茶に自分を押し倒して、馬乗りになって来る。」
「ふむ、来ますか。」
 塩野は小首をかしげたかと思うと、「はっ」とかすかに声を立てて笑った。二人はバスの停留所の手前まで来てから立ち停った。
 矢代は今までにもここの停留所へ来るごとに、幾度となく仰いだ眼の前の欅の大樹をこのときも自然に仰ぎ、幹が巧みな別れ方で、それぞれ枝となってゆく見事な様子にいつもながら感服した。別れる所へ来て別れるという単純な美しさが、それぞれ別れたまま空を支えつづけている姿が、彼を捉えて放さなかった。
「僕らは天罰を受けてしまった。どう仕様もない。潔く罰を受けて仕舞いましょうよ。」
 何んとなく欅に云いたくて、塩野にそんなに矢代の云っている前へ、方向の違うバスが一台来て停った。欅に風があたり枯葉がどっと一斉に吹きこぼれて来た。バスの女車掌は下へ降りて踏台に片足をかけ、落ちて来る枯葉を仰ぎ見ながら、
「落葉する日か。いやに感傷的だわね、オーライ。」
 と運転手に手を拡げでひらりと舞うような様子でまた中に入った。塩野は去って行くバスを見送りつつくすくす笑い出した。枯葉は笑っている二人の肩口へなお音立てて舞い落ちて来た。

 千鶴子の家から近い場所をというので、矢代たちは、目黒のある料亭を選び、そこからまた塩野が千鶴子に電話で報らせた。このときは千鶴子の他に彼女の兄も来るとのことだった。ここの料亭は大樹に囲まれた暗さの割に、高台にあるため繁みの深さに陰鬱な気がなかった。ある旗本屋敷を改造したということだったが、そのためもあって廊下や間取りも槍を使うに適した広さの半面、書院の清潔さも失わず、苦心の払われた木口や壁など、天井の高すぎる欠点を補って居ごこちも良かった。
「僕は社の用でときどきここへ来たんだが、前にここは僕の知人だったんですよ。」
 矢代は塩野にそう云ってから、庭の隅にある四間ばかりの高さの築山を指差した。
「これは目黒富士といってね、これでも広重が絵に描いてるんだ。近藤勇もよくここへ来たらしいんだが、どうも日本へ帰って来て、少しうろうろしているとき気がつくと、すぐこんな風に、歴史の上でうろついてるということになってね。広重もいなけりゃ、勇もいやしない脱け跡で、これから僕ら、御飯を食べようというんだからなア。」
「そう思うとあり難いね。御飯も。」
 塩野は庭下駄を穿いて飛石の上を渡り、目黒富士の傍へ近よっていった。薄闇の忍んでいる三角形の築山全体に杉が生えていて、山よりも杉の繁みの方が量面が大きく、そのため目黒富士の苦心の形もありふれた平凡な森に見えた。しかし矢代は廊下に立って塩野の背を見ながらも、やがて来そうな千鶴子のことをふと思うと、争われず庭など落ちついて眺めていられなかった。パリで別れてから、大西洋へ出て、アメリカを廻って来た千鶴子の持ち込んで来るものが、まだ見ぬ潮風の吹き靡いて来るような新鮮な幻影を立て、広重の描いた目黒富士の直立した杉の静けさも、自分の持つ歴史に一閃光を当てられるような身構えに見えるのだった。
 間もなく、庭の石灯籠の袋に火が入り部屋の火影が竹林の足を染め出すころになって、女中に伴われ千鶴子たち二人が廊下を渡って来た。
 鷹揚に肥満した背の高い兄と並び、クリーム色に山査子の花を泛べた千鶴子の服が、鳥の子の襖いちめんにぼうッと光圏を投げ拡げ、灯を映したその華やいだ色の中から、千鶴子は首を縮めてちょっと矢代を見ると眼を落した。それはパリで見たときよりも見違えるほどの美しさだった。そこへ塩野は気軽に二人の傍へ近より板についた賑やかな握手をした。矢代も塩野の後から千鶴子の傍へよって行ったが、握手をひかえ、どちらからともなく畳の上へ膝をついて、
「暫くでした。」
 と彼が云うと、千鶴子も「御無事で」とただ幽かに云ったまま、赧らみの加わった眼もとをすぐ自分の兄に向けた。
「兄ですの、どうぞ宜敷《よろし》く。」
 千鶴子に云われた兄の方は、坐り難げに円い膝を折って坐ったが、すぐお辞儀をするでもなく抜いた懐中から名刺を出して、ゆっくりと落ちつき払った初対面の挨拶をした。矢代は妙に間の合わぬ気持ちで二度もお辞儀をした。宇佐美由吉と書かれた文字もよく眼に入らぬまま、彼も自分の名刺を出したが、固くなりかかった気持ちが、どういうものか急に中途でなくなるのを感じた。後から来た順序で自然に由吉が床の前に坐らされ、その横へ千鶴子が坐った。
「塩野とも暫くだね。」
 由吉は大徳寺の一行物の床軸を見上げてから、またあたりを尊大そうな身振りで眺め廻して塩野に云った。彼のその大仰な身振りは傲慢には見えず、一種の剽軽な微笑を絶えず泛べているので、却って磊落な風格を対う人に与えてくつろがせる妙があった。
「どうだったアメリカは?」
 と塩野は由吉に訊ねた。
「そうだね、へんに大きいけれども、どうも隙間も大きくってね。」
 由吉はそう答えたまま、後は二人に待たせたきりで何んとも云い出そうとしなかった。
「何んだ、それだけか。」
 塩野の笑っているところへ酒が出て来たので活気づいた座の外へ、自然とアメリカの談が押し出された形となって、猪口が動いた。
「大石はどうしてる。」
 こう云う由吉の問いから塩野と彼との間で、暫く大石の噂が出た後、それにつづいて由吉と塩野たちの、パリ、ロンドン間の交遊仲間の話ばかり懐しげに出揃った。それらの仲間はみな、パリの「十六区」に棲んでいる日本の上流階級の者たちばかりの名前で、あまり「十六区」を知らぬ矢代は、暫くは二人の話を聞かされる番だった。
「僕はもう少し早く帰る筈だったんだが、侯爵がね、どうしても一緒に帰ろうというので、つい船も延びちゃったのだよ。ところが、ニューヨークへ着いたら枕木が来てるんだよ。どうして来たものやら分らないんだが、婿も一緒さ。」
 美しい松脂色のゴム絹の袋から、きざみ煙草をダンヒルのパイプに詰め詰め云う由吉の話を矢代は、自分と別れてからの、千鶴子の生活の匂いを嗅ぎつける思いで聞くのだった。由吉の話の中に、侯爵とか男爵とかと、名を云わずただ爵位だけで呼ぶ習慣のあるのも、塩野には当然のことらしく、彼も由吉に応じて笑ったり皮肉を入れたりした。
 それにしても、この塩野や由吉らの、日本人放れのした交友たちの間に浸って来た千鶴子が、矢代に近づいていた不似合なパリでの一時期の交遊期を、今さら彼は訝しく奇特なことだと思わざるを得なかった。しかし、もう今は、どこが違っているのか分らぬながら、どことなく総てが前とは違っていた。
「いつお帰りになりました。」
 ほとんど先から千鶴子と視線の合うのを恐れていたのも、矢代は、このことだけ千鶴子に訊きにくい事だったからであるが、それもいくらか酒にほぐされ、初めて千鶴子の顔を見て訊ねた。
「八月の二十一日に着きましたの。」
 千鶴子は答えただけでまたすぐ食卓の上へ眼を伏せた。頭から飛び散ってゆく何ものかを必死に防ごうと努めている、びくびくした彼女の表情を矢代は見てとり、
「じゃ、僕の想像はあたったな。僕は九月二日ですから、あなたと十日違いですよ。東北の田舎へそれから一寸引っ籠っていました。いかがです。一つ。」
 矢代に銚子を向けられた千鶴子は、軽く猪口の端を唇につけただけですぐ下に置くと、今度は急に正面からじっと眼叩きもせず矢代を見詰めて黙っていた。
「この人だったのかしら、あの人は?」
 と自問自答をし始めているような、苦しさに光りの滲み上げて来る眼差だった。それで良いのだそれで、悲しむことはない、と矢代は千鶴子に胸中で云いきかせながらも、無意味な幻影の退散を祝う寂しい気持ちも一刻ごとに強まるのだった。彼は話の緒口のほぐれたままに勢いづき、当り触りのないシベリヤの平原のことや、新聞社の競争に巻き込まれた滑稽さなどと、ただ饒舌っているという実感だけで話し始めた。その間、千鶴子はあまり彼の話など聞いてはいない恨めしげな様子で箸を動かしていたが、塩野と由吉は急に饒舌り出した矢代の話に面白がって、「ふむ、ふむ。」と乗り出しては声を立てて笑った。矢代はそれも遠くで聞えるように思われる笑いの底で、やっと気力を掻き集めてはまた饒舌った。
「しかし、とにかく、地球というものは、妙な顔をしてますね。世界は幻影というものが起るように出来ていますよ。どうも僕らは善悪は別として、人間が悩まされている幻影を、拭き落してゆく運命を持たされたような気がしますがね。やはり、平和を愛するのだ。」
 と矢代は自分の話の最後を結んで、新しく出た椎茸の揚物に箸をつけた。
 由吉も塩野も矢代の洩した意味が、何んのことだかよく分らぬらしく黙っていた。しかし、矢代にしては、そのことだけは特に千鶴子に云いたくて云ったことだった。実際、彼は千鶴子をこの夜見たときから、全く別の舞台で昨日と違った劇を見始めているような、乗り移らぬ気持ちを感じて沈んだ。
 そして、その愉しめぬものの一切も、千鶴子の預り知らぬことばかりで、この夜の解せぬ悲しみや寂しさのすべても、ヨーロッパで自分の見ていた幻影のさせる仕業だと思うほど、西洋から帰って来た多くの青年が、船上から神戸を見て悲しみのあまり泣き出すという、弱まり崩れた心根もやはり同様に自分の中にも潜んでいたのだろうかと、矢代は不快になり、一層悲しく沈むばかりだった。
 しかし、それも千鶴子一人がどうやら嗅ぎつけたらしい以外には、塩野も由吉もまだ知らず、席は料理の数が増えるにつれ賑やかになっていった。
「それはそうと、男爵は日本へ帰るつもりがあるのかね。」
 と由吉は話を換えて塩野に訊ねた。男爵というのは、サンゼリゼのトリオンフで、初めて矢代が東野から塩野を紹介されたとき、一緒に紹介された同席の平尾男爵のことだろうと矢代は思った。
「さア、どうも男爵は、帰ろうにも帰れないんじゃないかな。よく分らないが。」
 と塩野は言葉を濁し、明答を避ける風だった。
「そうかね、しかし、早くひき戻す工作を僕らでやろうじゃないか。枕木にも僕は頼んでおいたんだが。あれだけの人物を、いつまでもパリで腐らしとく手はないと思うんだ。」
「しかし、駄目だなア。」
 塩野はそう云ってからまた由吉に対い、意味ありそうに笑いながら、
「それより、君の方が心配だが枕木の方は大丈夫か。」
「いや、あれはもう済んだ。」
 由吉の薄笑いを洩して俯向いた顔色といい、枕木という奇怪な名といい、矢代は、さきからその名が出るごとに意味の深さを感じさせられていたときだったので、塩野もそれを感じたのであろう彼から、
「宇佐美はね、フランスの枕木王のお嬢さんにひどく好意を持たれたんですよ。ところが、そのお嬢さんには許婚の伯爵がいて、それが嫉妬やきなもんだから、見ていて面白いんだ。」
 由吉が片手で「こらこら」と云って止めるのも介意《かま》わず、塩野は矢代に枕木の説明をそんなにして聞かせた。
「しかし、フランス人というものは、危窮に臨むとなかなか見上げたところがあると思ったね。僕はニューヨークで枕木がパリへ帰るというから、船まで送っていったんだよ。ところが、いよいよ船が出るというときに、甲板で最後の別れの接吻をしろって、傍の枕木の女友達が僕に奨めてきかないんだ。礼儀ならやむを得なくなって、命ぜられた通りに僕はしたのさ。そしたら傍で伯爵は、それを見ている間静粛に拍手をしているんだ。」
「それや、あすこにはまだ、騎士道の名残りがあるからな。」
 と塩野は自分の出入していたパリの上流階級の風習や、また過ぎたそこでの自分のことも思い泛べたらしい眼鏡の光りだった。
 しかし、矢代だけは一寸心が詰るように由吉の話を聞いていた。というより、千鶴子と自分のいる前で、そのような情景を話すつもりになった由吉の気持ちが、彼には呑み込めかねた。
 由吉の暗示するところと多少の違いはあるにしろ、矢代は千鶴子に対っていた自分の態度を、由吉や伯爵に較べて考えずにいられなかった。たしかに自分の装いには、野暮なところなきにしも非ずというよりも、正当な愛情ある人物の取るべき態度ではなかったかもしれないと思った。しかし、そこが旅というものだとまた彼は思うのだった。旅の喜びを貫いて絶えず流れていた憂愁は、それ自身すでに恋愛以上の清めのような物思いであった。もし千鶴子と自分とが男女の陥ち入るような事がらに会っていたなら、定めし想いの残る旅の印象はよほどこれで違っていたことだろうと思った。しかもまだ今になっても彼は自分の旅情を汚す気は起って来ないのであった。むしろ、このまま今の態度を守り通してゆくことに幽かな喜びをさえ感じるのはどういうものだろう。――あるいはも早や愛情を示す時期が二人の間から遠ざかってしまっているのかもしれなかったが、それなら、それもまた善しと思われる何ものかが、新しく生じて来ていることも事実だった。実際、彼と千鶴子の事件はまったく新しく、初めてこの夜出来て来ているような、異国のことではない、沈みながらもある生き生きとしたものが生れ始めているようにも思われる。矢代はときどき千鶴子の顔を眺めてみた。それはたしかに前の千鶴子ではない、何か悩みを含んだ慎しみの深さを加えて来ている、前よりはるかに現実的な千鶴子の顔だった。
「僕はこのごろ、日本の中を旅してみたくて、仕様がなくなっているんですよ。塩野君なんかとそのうちまたいかがですか。」
 と矢代は千鶴子に云ってみた。
「ええ、そのときはまた――。」
 千鶴子が眉を少し開いて云いかけようとしたとき、塩野はすぐ横から「いいなア、行こう行こう。」と勢い込んで千鶴子に云った。
「そのうちみんな、どっと帰って来るから、そしたら皆で一緒に行こうや。僕は自分のこれからの仕事としても、日本の良い所を写真にとって、どしどし外国へ向けてやらなくちゃならんのだから、何よりだ。もうそろそろ明日からでもかからなくちゃ。」
 塩野のそう云うのに由吉だけは一寸頭を撫で、つまらなそうに声を落して云った。
「君らはいいね。僕はそのころは、またヨーロッパだ。僕のは命ぜられるんだから仕様がない。」
 なるほどまだこれから行く人もあるのかと矢代は思うと、由吉の落した声を気の毒に聞くのだった。
「帰って来たばかりだのに、行く奴の話を聞くのは面白くないなア。」
 と塩野は急にがっかりしたように笑った。
「しかし、僕はさっきの矢代氏の、あのお話は面白いと思ったね。僕らは人間の幻影を拭き落してゆくのが運命だというね、僕もどうも、そんな気がするんだが。」
 パイプを啣《くわ》えた大きな顔を天井に向け、眼だけで塩野を見降すようにして云う由吉の様子を見て、矢代は、突然話を切り換えたその由吉の頭の鋭さを、風貌とは似合わぬ繊細な能力をひそめた商務員だと思った。
「幻影か――」と塩野は云ったまま黙っていたが、
「さっき来るとき矢代君、妙なことを云いましたね、枯葉の散って来たときさ、僕らは天罰を受けたと、君は云ったよ。あのとき何んだか僕ぞっとしたね。」
 笑い話のつもりらしかった塩野の意図に反して、何んとなく座は一瞬しんと静まり返った。千鶴子は座を立ってひとり外へ出て行った。別に眼ざわりな立ち方ではなかったが、前から話の途中に席を脱す癖のあるのが千鶴子の欠点だと矢代は思っていたので、また始ったと思い気にかかるのだった。
 チロルの山の上での夜も、急に見えなくなった彼女を探しに行くと、氷河を向いてひとりお祈りをしていたことなど思い出し、千鶴子の心の中でカソリックはどうなっているのかと、暫く彼は憂鬱に食卓の上に肱をつき彼女の戻るのを待っていた。
 由吉は陶器に趣味があるのか出て来る食器を取り上げ裏を返した。そんなことなどいつもは矢代の気にならぬことだったが、それが千鶴子の兄の癖かと思うと自然に彼も注意した。
 千鶴子は化粧を直してまた部屋へ戻って来ると、出て行ったときとは違い、特長のある靨も明るく笑顔をひき立て、何か今度はしきりと矢代に話しかけたそうな視線だった。
「真紀子さんからその後お便りありましたか。」と矢代は訊ねた。
「ええ、ミラノからいただきましたわ。何んだかひどく寂しそうなお手紙よ。あなたには?」
「僕には二三日前に久慈から来ましたが、また喧嘩を吹きかけて来た。どうも久慈とは、とうとう碁敵みたいになりましたよ。」
「久慈さんからあたしもいただいたの。真紀子さんとも駄目のようだって書いてあるんだけど、どんなかしら。」
 ふとまた沈みかかろうとする気力を、ひき立てては自分を支える努力で、千鶴子は矢代を見るのだった。矢代もパリ以来の二人の緊張の弛み垂るんだ面を支えようとして、快活な風を装ったが、それも千鶴子と視線を合せる機会が苦しくなってすぐ脱した。
「やはり僕の云ったことも正しかったでしょう。パリにいるときの方が怪しいっていうことが。」
 さすがにそれだけは云わなくとも、矢代はそれを云う代りに微笑ともつかず、いたわりともつかぬ薄笑いのもれようとするのも、事実ここに現れたこの結果が二人を指し示している以上、それを蔽い隠すことも無駄だった。それもみな二人にとってはこの上もない不服なことだのに、しかし、与えられた儼とした判決の後では、も早やすること為すこと自分らには余興にも似たことなのだろうか。
 こう思うと矢代は白白しくなるよりも、むしろ、二人をそんなにしてしまった何か云い知れぬその判決に対して、憤りを感じ、挑戦したくもなるのだった。
 そこへ客部屋を挨拶に廻っていたこの家の主人の沢が入って来た。丸刈り頭で眼をしぼしぼさせ、とぼけ癖の表情のまま矢代の傍へ来て坐った。
「どうです、このごろは。あッ、そうだ、今日はウイスキイのいいのがあるんですよ。およろしかったら持って来させますが。」
 沢は笑いもせずぽつりとそう云って、勝手に女中にウイスキイを命じた。矢代は由吉や塩野たちを沢に紹介するとき、この人らは君の自慢のウイスキイの本場から帰って来たばかりだと説明した。
「ヘエ、それは困りましたな。しかし、お金はいただきませんから、いくらでも召し上って貰いましょう。」
「そういう人は、ロンドンにもいなかった。」
 由吉の気転で一座は急に賑やかになると、沢は、「これは呑まれますかな。」と云って頭を掻いた。由吉は女中が持って入って来た黒い角壜の液体をひと目見た瞬間、
「いや、これは素晴らしいぞ。」と居ずまいを正しほくほくした。アルコールは廻らぬように見えながらも由吉にはかなり廻っているらしく、くだけた磊落な風格がますます出て、女中の手から鷲掴みに角壜を受けとりすぐ自分のコップに注いでみた。
「さア、これで鬼に金棒だ。」
 ひと口由吉はコップに舌をつけてから、沢を見た。
「よろしいですな。これは。」
 微笑を湛えた眼がぎろりと変ると、一瞬間閃くように光りが凄くなり、ねめ廻すあたりに逆に笑いの波を立ててゆく、不思議な猫を由吉は想わせた。彼は沢や矢代のコップに注ぎながらも、酩酊してゆく流れの底で異国に残して来た婦人の身の上に想いをはせているらしい。二三杯のみつづけたとき片肱を食卓につき、船に揺られるような調子で由吉は唄を歌い出した。
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わたしの好きなものは
この世に二つある
パリの夜の街の灯し火
胸に描くは
こころのふるさと
[#ここで字下げ終わり]
 矢代は由吉の哀調を帯びた唄を聞いているうちに、何か自分のことを歌われているような切ない胸の響きを覚え、押し流され、溺れて行くような情緒に千鶴子の方を見ることも出来ず、歌詞に抵抗する気持ちがつづいて苦しくなった。千鶴子は兄の酔いざまを初めは一寸心配そうに見て笑ったが、そのうち引き摺り込むパリの夜の灯の色に、すぎた日の旅の儚ないもの音を聞きとったのか、彼女も突然くず折れるようにうつ向いたまま暫く顔を上げなかった。
 矢代もパリでの二人の日日が次から次へと思い出され、現にこうして旗本屋敷の中で対き合っている千鶴子の姿が、ますます別人のように見えて来るのだった。
「千鶴子さん、あなたお疲れになったでしょう。」
 と矢代は云った。
「いいえ。」

 眼を上げた千鶴子の顔に、走り停った強い光彩がぼッと赧らみを加えて来た。
「僕はさっきも塩野君に云ったのですが、用心されないと病気をしますよ。あなた大丈夫でしたか。」
「ええ、でも、もういいんですけど、しばらくは何んだか変に疲れましたわ。」
 物いうのさえ何んとなく恐わそうだった千鶴子の顔から、拡がりすぎてゆく漣に似た速さでかき消えた愁いがあった。
「あのときはとにかく面白かったですね。」
 と矢代は無意味に云ったが、あのときとはいつだったか考えもしなかった。実際彼は、もう面白いのはあのときで良いと思うのだった。まだこれ以上の面白さを二人でつづけようなどという慾深さは、ただ贅沢なことかもしれぬと思うあきらめに変りはなかった。
「あたしこんなに幸福でいいのかしら。こんな幸福は、いつまでもつづくものかしら。」
 とチロルの山の上で洩した千鶴子の吐息も、今にして意味深く矢代には思われて来るのだった。「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな。」こんな芭蕉の句も彼はふと思い出し、心にくいまで巧みな旅愁の表現力だと腹立ちさえ覚えまた千鶴子の顔を見た。
「矢代さん、あなたあたしの手紙御覧になって下さいまして。アメリカから出しましたの。」
「二通いただきました。いや、三通かな。」
「じゃ、あたしの上げた半分だわ。どうしたんでしょう。」
「それはどうも、たびたび有りがとう。」
 と矢代は一寸お辞儀をしてから千鶴子のコップにウイスキイを注いだ。千鶴子はそれも尻眼にかけ、呼吸の弾み上って来るような強い眸で矢代を見つづけるのだった。
「あたしね。あなたがもう帰ってらっしゃるにちがいないと思ってましたのよ。でも、いつまでも黙ってらっしゃるんですもの。先日からあたし、いつになったら帰ったというお手紙いただけるかと、そればかり待ってたんだけど、――」
「いや、とにかく、そんなことじゃなかったんですよ。」
 と矢代はうつ向いて云った。
「だって、あんなにお約束しておいたんですもの、まさか、そんなことまでお忘れになる方だとは、あたし思えないわ。」
 傍に兄や塩野のいることなどももう千鶴子は気兼ねも出来ないほどしゃんとしていた。
「しかし、まア、失礼はたしかに僕もしましたが、考えてもみて下さいよ。いくら僕だって、向うにいるときのそのまま、こちらでまで出来ないし、そんなこと、僕はもうパリでお別れのとき云った筈ですが、ところが、あのときはこんなにまで向うとこちらが違うものだとは思わなかったので、ついそこが失礼することになったのですよ。」
「そうそう、そういうことがあるなア。僕もあった。」
 と聞いてはいないと思った由吉が横からひとり頷いた。
「そんなものかしら。」
 千鶴子は声を落して急に黙って考え込んだ。
「そうなんですよ。それだけですよ。」
「それにしてもだわ。」
「いや、いや、あなたの間違いさ。面白うてやがて悲しき鵜舟かな。」
 話の継ぎ穂もなくばらばらに砕けてしまった静まりの中で、矢代は、当然いつか一度は来なければならなかった失望を、塩野のおかげで早くすませただけだと思い、逆に不思議と元気にもなるのだった。実際パリで別れる前に、予め千鶴子に云うだけ云った用心の後、予想よりも大きくやって来たこの夜の失望に、却って彼はその大きさだけ元気を恢復したといっても良い、奇妙な安定を得たように思った。西洋を旅しているときは、別に何事もなかったとはいえ、何しろ青年にとっては、そのことだけで誰しも生れて以来の大事件であったことに変りのあろう筈はない。そのときに出会った友情の烈しさも、旅の終りとともに事なく解消出来た自然さは、企てようと努めても出来がたい弾力の美しさだったと、矢代は思う。勿論彼は、異国での友情を忘れたわけではなかった。むしろその友情の単なる思い出としてではなく高めるためにも、その間にわだかまった異国という幻影を払い清めることを芽出度しとしてこそ、以後の健康な日常の日の友情とすることが出来るように思われる。そして、たしかに矢代は、寂しいながらも今はある自由な気持ちを底の方で覚えて来るのだった。
 この一見さも偽りらしいことも、帰ったそのとき直ちに気付くか気付かぬだけで、漸次にいつかは双方で気付くことである。矢代は千鶴子にもっといろいろと、こんなことに関して話したかった。が、それも他に人のいない二人きりの時を選ぶ方が良かろうとまた思い、この夜はこのまま寂しさに耐え忍んだ。
「ちかぢかまたお会いしましよう、向うのことは向うのこと、こちらのことはこちらで、それぞれ別ですからね。それや、つまるところそうなんですよ。」と矢代は千鶴子を見て、「はッはッはッ」と声を出し軽く笑った。
「天罰ね。」
 と千鶴子も所在なさげに一緒に云って笑った。矢代は気軽くなったついでに、東京へ着いたその夜、千鶴子の家の前まで夢中で行ったことをつい話しそうになった。が、やはり、まだそれを云うべき自然なときにはなっていないと思い、彼は云い止まるのだった。
 料亭を出てから省線の駅まで四人は歩いた。ゆるく下りになった暗い枯葉路の両側の大樹の下を、塩野と由吉とが話しながら先に立ち、少し遅れて矢代と千鶴子とが歩いていった。
 顔の見えない千鶴子の襟もとから香料の匂いが掠め流れた。モンパルナスで別れた前夜、雨あがりの夜道を歩いているときにも匂った同じ香だった。
「あたしの家へも一度お遊びにいらして下さらない。汚いところですけれど。」
 と千鶴子は、もう興奮のなくなった声で云ってから、二三日前の夜、まだ見たこともない矢代の母からひどく叱られた夢を見て、恐くてぶるぶる夢の中で慄えたと話した。矢代は母が千鶴子を叱っているところを想像し、そんなところも母にはたしかにあるかもしれないと思い、また今の千鶴子がカソリックのままだと、法華を信じている昔堅気の武士の娘の気性を持つ母との、折れ合えるところはどこだろうかと一寸彼は考え、いや、それも後のことだとまた思い返すのだった。
「僕のところへ遊びに来て下さるのもいいが、そう自慢の出来る家じゃありませんからね。」
「そんなこと仰言《おっしゃ》るなら、あたしとこもだわ。」
 先に歩いて行く由吉たちとの距離を延ばしたくどちらも遅く歩きながら、やはり二人きりにならねば真意は話し難いものだと彼は思った。暗い坂路は長くつづいた。木の間からときどき洩れて来る街灯の光りにその都度千鶴子の帽子の紅色のネットが泛き出した。坂下の方から由吉の笑う太い声を遠くに聞き、矢代は、自分と千鶴子の二人の行く路も彼の笑声で随分明るさを増すことだろうと思った。
 えびすの駅のプラットホームは光りの海に浮いたように高く明るかった。その眺めは船がどこかの港へ入港するときの展望に似ていて、暫くかたくなな心が自分の体内から溶け流れて行くのを感じ、車内に入るのも彼は惜しまれた。

 菊日和のよく冴えた日が幾日もつづき、百舌《もず》の鋭い暗き声が空に響き透った。矢代は旅の納めに奈良から京都を廻って来たいと思っていたが、同じ行くなら春になるのを待って九州まで行き先祖の城のあとも見直したくなった。こんなことは前には思ってもみなかったことだのに、それが近ごろ急にこういう滅んだものの憩う姿が見たくなるのだった。山の上の崩れた石垣の間に茂った羊歯や芒など、靴で踏みつけ何も知らずに歩いた幼年のころの旅の記憶を呼び起してみても、ただの荒城とより思えないながら、今見れば少しは前とは感慨も違うであろうと思われた。彼の家の紋章は二つ巴だったが、西園寺家の紋章と同じなことを矢代は探りあてたとき、西の国の荘園という意味に西園寺家を解しても、二つ巴を同じくする理由も頷けた。彼はこの紋章と、大鉈で断り払ったかと見えるテーブルに似た岩山が、晴れた空にくっきり聳え立った父の村里の風景とを思い合せるごとに、それが先祖の頭から消えたことのなかった日日の生活の背景かと思い、月の射す夜など砦の石の崩れも泛んで感傷を覚えた。又それを滅ぼした大友宗麟に対して今さら怨恨はなくとも、彼の信じたカソリックと、それの持ち込んで来た火薬に対しては、自然に自分と元素を違えた種のように感じられ、ともにそれらの生い立ちや仕業を検べたい好奇心も強く動いた。殊にどういう偶然か千鶴子までが宗麟と同類のカソリックだということが、意識の底で弾き返るものがあるだけ、また矢代には何んとなく魅力も生じた。彼はそれをカソリックという異種に対する自分の魅力だと思うと、その自分のひけ目が不快になり、同時にまた千鶴子を愛人と思うことにも、ともすると、赦しがたいある気持ちも感じて来るのだった。
 矢代はそういう気持ちにふと襲われたりするとき、いつも細川ガラシヤを妻とした忠興の苦衷を歴史の中から探り出して想像した。丁度矢代の先祖の城の滅ぼされたのと同じ時代にカソリックを信じる妻に悩まされ、その信仰を思い翻えさせようと努める日夜の忠興と、あくまでそれに抵抗するガラシヤとの間で演ぜられた生活の悲劇は、今もなおそのまま自分と千鶴子との間でつづけられる性質の惧れでもあった。ガラシヤに抜いた太刀を突きつけ、
「キリシタンを捨てよ、捨てられずば腹を切れ。」
 と迫る忠興の顔、そして、その前で天主の徳を説き、
「主を愛するが故に自分は、あなたを愛する。」
 と主張してやまなかったガラシヤの反抗の強さに終始した二人の生涯を思うと、矢代は、西洋で自分の拾って来たものは、忠興を苦しめたその頑固なカソリックだけなのであろうかと、自然に心も暗くなった。
 この細川忠興とガラシヤの夫婦関係は、当時の新鮮な思想的暴風の中心事件のようであったが、特に矢代には、見逃しがたい苦痛な典型的な一点のように見えた。信長が光秀に殺された天正十年の五月のころには、光秀の娘の細川ガラシヤは二十歳ごろで、婦人なら花の盛りとも云うべき年ごろだったのも、千鶴子に似ていた。しかも、このガラシヤと忠興との結婚の仲人を自ら申し出たのが信長なのも、矢代には興味を感じることであった。またその光秀が自分の娘と忠興が結婚してから二三年目に、娘の仲人であり、自分を成長せしめた主の信長を殺したという悲劇には、必ず人人には計り知られぬ光秀の苦痛が潜んでいるにちがいないと思った。その苦痛の分らぬ限りは歴史を動かす精力というものも、容易に解せられぬ何ものかであろうと彼には思われるのだった。――このような感想ならずとも、今の矢代にとって、日本の歴史の中でもっとも興味を感じる部分は、自然とこの彼の先祖の滅んだ戦国時代であり、またその時代を代表する信長、光秀、秀吉の三人物の好奇心の動きであった。そしてこれら三人物がそれぞれ一番興味を感じもし、また悩まされたのは、揃いも揃ってカソリックという西洋を形造った異元素だったということが。――それもカソリックに興奮した三傑の原因は、それが運んで来た大砲という暴力の親の火薬が元であってみれば、その火薬を生んだ親たる自然科学に対するとき、矢代も、今もなお信長や秀吉のようにそれに驚異を感じている自分だと思った。しかもその科学と千年ももつれ争い、はては結婚さえしてしまったかのように見えるカソリックという精神の原動力をなす異国の神の――千鶴子や細川ガラシヤの信じたエホバとその子キリストの精神に関しても、彼は知らぬままには素通りして過ぎることが出来ないのであった。そればかりではない、人人のよく用いる世界史というものの内容も、所詮はカソリックと自然科学の歴史と見ても良いと矢代には思われる。そしてこの二つの中心の希い念う不断の希望をも想像もして見ずに、世界の歴史という人間群衆のもがき悲しみ、笑い崩れた姿態の放つさまざまな妖火業念も、また彼には考えられないことだった。
 すべては歴史とはいえ、歴史とはいったい何ものであろう――矢代はこう思うと、いつも漠然としてしまうその最後に浮んで来る想念は、伊勢の大鳥居の姿と、エジプトで見たスフィンクスの微笑であった。信長も、光秀、秀吉も、ともに見ることもなくして死んでしまったそのスフィンクスの顔を見たときも、矢代は、
「ああ、これか。」
 と思って、ただぼんやりしただけの自分だったと思った。しかしそのスフィンクスの背後に聳えていたピラミッドの暗闇の穴の中を潜ったときに、久慈に手を持たれ、ふっと苦しい呼吸でひき上げられていた千鶴子の姿を一緒に矢代は思い出す。そうすると、あの久慈は今でも千鶴子を愛しているにちがいないと、ふとそんなに思ったりした。その久慈が今もパリから千鶴子にせっせと手紙を出している姿を思った。またそれから来る自然な連想に伴って、千鶴子をガラシヤに似せて考える矢代には、ガラシヤにキリシタンを説いてやまなかった高山右近の心情も思い出された。そんなガラシヤと忠興と、その友人の右近の親しくした日日の交際も、また云いかえれば、千鶴子を中にした矢代と久慈との交際の日日と同様にちがいなかったと、矢代は、思うのであった。そして、このままもし、自分が千鶴子と結婚するような結果にでもなれば、右近のように西洋に憧れつづける久慈のことであるからは、あるいは、忠興とガラシャの間にカソリックの水をさし注いで絶えず二人をまどわせた右近のように、うるさい日日のもつれも生じる惧れなきにしも非ずと思われる。
「親も捨てよ、兄弟も捨てよ、主人も捨てよ。そして、ただ天主でうすを信ぜよ。」
 とこういう熱烈な口調の右近の言葉にしだいに動いて行くガラシヤ――そして、この世にも早や希望を持たぬ彼女の信仰の生活に似て、千鶴子も事あるごとに西洋の神を拝しつづけ、主人の自分を想うことが、取りもなおさずヨーロッパの幻影を失わぬためだとすると、戦国の世ならずとも自分の苦しみは忠興の悲劇とさしたる変りもあろうと思えなかった。それも、この宗教の相違の問題だけは、ともに二人が生活をしてみた後でなければ、互に分らぬことかもしれず、また考えようによっては、千鶴子のカソリックを信じる意向も、ただ近代の日本婦人が外国語を習うような、教養の部門の一つの趣味として考えているだけかもしれないと思われる筋もあった。しかし、いずれにせよ、千鶴子を改宗させる困難は、自分の改宗以上に努力を要することにちがいないことだった。
 矢代はこのような千鶴子と自分との結婚に一番難関となっている宗教のことを考えるときは、いつもまた大友宗麟が頭に泛んだりした。このフランシスコ宗麟は、よく外国の戴冠式に法王から冠をかむせられて拝跪している国王のような服装を、鎧の上から引っかけ、戦場に臨んだ。そんな風にすべて宗麟はカソリックの礼式を用いたという史書を読むに及んで、矢代は、その宗麟に滅ぼされた自分の先祖に多少のむくれもまた感じた。そういうときには、それにつれまた千鶴子の身の上にも及ぶとともに、彼女の家の家系や、それと似た他の日本の知識階級の家家は、先祖の中に、カソリックに負けた悲しさ、苦しさを知らぬ家系が多いからだというようにも思うこのごろである。
 しかし、こんなに思っても、それならカソリックを悪いと思っている自分ではないと、矢代は思った。ただ自分の家に限っては、二人の結婚に邪魔になる危惧がある。その危惧を取り払う努力をするには、何か適当な他の力を藉りねばいられぬときが来そうな気持ちがした。そうして、その他の力とは、いったいどこからそれを探し出せば良いのだろう。実際、矢代はそんな千鶴子のカソリックを赦し、むしろそれを援ける平和な寛大な背後の力を欲しかった。しかし、それには仏教でも駄目だと思った。また神道でもなお悪かった。そうしてみると、日本の中にあるものでは、古神道以外に先ず矢代には一つも見つからなかった。このようにして矢代は暇を見てはだんだん古神道の書物を買い漁るようになるのだった。

 目黒で千鶴子と会ってから二週間ほどたったある日、彼女から矢代に簡単な速達が来た。それには、塩野が駿河台の病院へ入院したので、明日見舞いに行きたいと思うから、あなたもそのとき来てほしいと書いてあった。とうとう来たかと矢代は思った。そのうちに君も入院するから気をつけるようにと、先日云って別れたばかりの直後だったので、およそ病因は彼に分っていながらも、冗談の当りすぎた気味悪さ以上、来るものの来た必然さに、長旅の愁いの常ならぬ辛苦を今さら矢代は考え直した。科学的には、黴菌の少い西洋から湿気のため黴菌の巣窟になっている日本へ、急激に帰ったものに起る、あの特別な不明病ということにされているようだったが、しかし矢代にはそうは思えず、やはり、それはある選ばれた純真な心の人物に、自然が恵んだ一種のみそぎだと解し、もし久慈でも今いれば、こんなところが二人の一番論争の種になるところだがと思って苦笑した。
 駿河台の病院へ矢代の行ったときは応接室にもう千鶴子が来て待っていた。医者に塩野の容態を訊ねてみても要領を得ずじまいで、ただ眠らせつづけている以外方法はないとのことだと、千鶴子は矢代に説明した。それなら病人を起こさぬ方が良いと矢代は思い、二人は病院を出てお茶の水の傍の見晴しのよく利く喫茶店を選んで入った。
「あなたの兄さん、御機嫌はどうです。」
 晴れた空の中にニコライ堂の円頂もよく見えた。下の濠の傍を辷る省線の屋根を見降ろし、千鶴子と対き合っていると彼は云うことが何もなくなるのだった。
「兄はあなたに感心してましてよ。」
 そう云いながら羞しそうに表情を曲げた千鶴子を見て、矢代は、兄よりも自分の方に味方をしている彼女を感じ、いつのまにか、自分も千鶴子とどこかで結婚をすませてしまった後のような気持ちにふとなった。このまま二人が事実の結婚をするということは、何か不自然なことを別にするようにさえ思われる穏やかな気持ちだった。
「毎日何をしてらっしゃる。このごろ?」
「このごろあたし、ぼんやりしてるだけなの、何んだかしら、気が遠くなったみたいよ。あたしも塩野さんみたいになるんじゃないかしら。」
「一種のみそぎをしている時期だからな。僕らは――塩野君の入院でもどうも僕には、そんな風に考えられる。」
「じゃ、あなたはまだなの?」と千鶴子は顔を一寸赧らめて訊ねた。
「僕は東北でもうすませた。」
 こんなことを話しているときでも矢代は、夫婦が話しているというような気持ちではなく、特にもう交際する要もなくなった、一番親しい友人同志に似た、和らぎを感じたが、しかし、これでいよいよもし結婚するようなことにでもなったら、細川忠興がガラシヤに詰めよったように、自分も千鶴子にカソリックだけはやめてくれと迫るのかもしれないと思われた。ただ今のような友人同志であってみれば、そんなことで詰めよる権利もなし、またその必要もないだけだった。しかし、どういうことともなく、二人の間でみそぎなどという言葉を使う場合に、一方がカソリックだと、相手の文化性を自認している心に羞恥心を抱かせる気具合を感じ、それに気づいても拭き消しもならぬ妙な気苦労を覚えて影が生じた。それも、云わず語らずにいる間は、思うだけで過ぎ去ってしまう瞬間にすぎなかったが、一たび口にしたとなると、それを習慣としてしまうまで押しきりたくなるのが、またみそぎという言葉の持つ厳しさだった。しかし、彼はこの厳しさの極のゆくところあくまでなごやかさだと思って疑わなかった。
「僕はこのごろ一度、本当のみそぎというものを、してみたいと思ってるんですよ。あなたはどう思われるか、これは別ですがね。」
 と矢代は云って笑った。
「泥臭派なのね。あなたも。」
 定めしこう云うような表情が彼女の笑顔を濁すことだろうと矢代は思ったが、千鶴子は濠の枯草の底を辷って行く電車の屋根を見降ろしたまま、唇を小さくつぼめ、巻き起って来る考えにゆらめくらしい沈んだ表情をつづけていた。冴えた日光が黒い洋装の襟飾のレースに射し、千鶴子の小鹿に似た顎を浮き出しているのを、矢代は、あるあきらめめいた秋の日の和らぎのままに美しく眺めた。
「何んだか、あなたがカソリックだのに、僕がみそぎの話をするのも妙なものだけれども、やはり僕は男というものだから、自分が仕事をしてゆく上では、そっと中心を需めたくなるんですよ。」
「パリでお別れのときも、そんなことを仰言ったわ。あのときのこと、気にかかってときどき考えるんだけど――でも、そんなものなのかしら。」千鶴子は紅茶を匙で掬っては滴し滴しやはり沈んだ。
「何も僕はあなたの考えを、邪魔するつもりじゃありませんがね。」
「でも、帰ってからこんなになるなんて、――」
 一言いいそこなうと、こちらのなごやかさとは反対に、忽ち翳りの来るものが、争われずまだあったのだと矢代は思い残念だった。
「僕は東京へ着いた夜、自宅へ帰る前にあなたのところへ行ったんですよ。」
「まア、そう。」
 不思議そうに矢代を眺めている千鶴子の眼もとに微笑が動いた。
「しかしね、そこはどういうものか、眼が醒めたみたいで、こりゃ、眠っていたときとは違うんだと気がついたというわけですよ、それだけのことさ。」
「それだけのこと?」千鶴子はまた不服そうに白んで訊ねた。
「つまり、云いようのないことですよ。だって、どうしてそんなことが僕らに云えますかね。君も僕も知ったことじゃない、おかしなものが、ふッと出て、そのまま消えたのか、まだいるのかも分らないんだからなア。まア、疲れが癒れば分りますよ。塩野君だって、現にそこで、訳の分らんことをやってるじゃありませんか。」
 矢代はそういうと云いたいことが急に波だち群りよって来たが、云えば云うほど、もつれも解けずなりそうに感じられ、離れた卓上の黄菊をみつけ自分の卓まで持って来て冷たい弁に鼻をつけた。暫くそうして頭の透る香の中へ傾いているうち、ふと二つ巴の自分の家の紋章が泛んで来た。彼はその火の玉形の二つもつれた形が何を意味しているものだろうかと考えた。二個の曲玉にも似ておれば、星雲のより塊ったものにも見え、先日さがし当てた古本版の中の、言霊の亀板面に顕れた音波の原形図とも等しかった。が、最後には、地球の表面を東西に別れて帰って来た千鶴子と自分の、喰い違って廻っている今の念いのようにも見えて来ると、それも跳ね合いながらなおも廻りつづけて行くもののようでもあり、尾と頭がいつまでも追い合って、流れ去り行くものかとも思われたりして、矢代は暫く菊の香の中から、二人の身の上を卜う、無心な気持ちになろうとするのだった。
「今はむかし、という言葉があるでしょう。僕らは何げなくいつも使っているが、どうも恐ろしい言葉ですよ、これがね。」と突然彼は云って菊から顔を放し、また濠の中を見降ろした。
「あなた、ほんとにどうかなすったんじゃありません?」と千鶴子はこう云いたげに恐しそうな表情で矢代を見た。
「何んのこと、今はむかしって?」
「今がつまりむかしで、今こうしていることが、むかしもこうしていたということですがね。きっと僕らの大むかしにもあなたと僕とのように、こんなにして帰って来た先祖たちがいたのですよ。むかし日本にお社が沢山建って、今の人が淫祠だといってるのがあるでしょう。その淫祠の本体は非常にもう幾何学に似てるんですよ。それも球体の幾何学の非ユークリッドに似ていて、ギリシアのユークリッドみたいなあんな平面幾何じゃない、もっと高級なものが御本体になっていたんですね。つまり、アインスタインの相対性原理の根幹みたいなものですよ。それもアインスタインのは、ただの無機物の世界としてだけより生かしていないところを、日本の淫祠のは、音波という四次元の世界を象徴した、つまり音波の拡がりのさまを、人間の生命力のシンボルとして解しているんですね。それも函数で出てるんだから、自然科学も大むかしの日本では、そこまで行っていたとまでは云わなくとも、非科学的なものではない。妙なものだ。今はむかしというのは。」
 千鶴子は一寸顔色を変え居ずまいを正した。明らかに矢代の正気を疑う風な様子だった。
「大丈夫さ。そうびっくりしなくたって。僕は先旦言霊という大むかしから伝っている本を読んだのですが、その感想を云っているだけなんですよ。面白いんだ、僕の読んだ言霊という本の中に、今の理学の大家と人類学の大家と二人が、その言霊の研究者の八木という八十のお爺さんに教えて貰ってる所があるのですよ。ところが、二人の博士が音波が函数にまで出ているのを見てもうびっくりしてるんです。つまり、この博士たちは誰より日本にびっくりした先覚者なんですね。僕はこの博士もやはり豪かったのだと思うんです。誰もそんなの聞いたって、びっくり出来るもんじゃないからな。カソリックのあなたにこういうのは失礼だけれども、しかし、こんなこともあると思われることも、たまには良いでしょう。あんまりみんな馬鹿にしすぎたんだから。たしかにその点文句は皆には云えないですよ。」
 黙って何も云わず濠の底を見ている千鶴子の顔に、ときどき反抗したげに藻掻く微笑が出没した。濠の底で電車の黒い屋根が二つ擦れ違いざまに流れているのを眼で追いつつ、矢代はそれも亀板面に顕れた二つ巴の周囲を円廻する光の波の函数の図と同様に見え、面白かった。山の手省線の円鐶を貫く中央線のカーブが、その曲玉を二つ連ねた巴の線と同似形なのが面白かった。
「分って下すったですかね。僕が一度みそぎをしたいと思うのが。」と彼は笑って千鶴子に訊ねた。
 千鶴子は答えかけては唇を慄わせたかと思うと、またそのまま黙ってだんだん青くなった。
「僕はあなたには、カソリックでいていただいていいんですよ。それはそうなんだけれども、もう少し云いたいのです。僕の家は自慢を云うわけじゃありませんが、むかし城を持っていたのです。ところが、カソリックの大友宗麟に滅ぼされたのですね。僕は何もそのためにカソリックを怨んじゃいないけれども、奇妙なことに、また話は飛びますがね、そのときの先祖の苦心を思うと、どういうものか、あなたがアメリカを廻って帰られるときに、御一緒だったという侯爵のことが浮んで来るのですよ。少し突然でどうもまた怪しまれそうだが、あなたの兄さんはただ侯爵侯爵とばかり仰言っていて、どの侯爵かつい分らずじまいでしたから、どなたですあの侯爵。一度お礼を云わなくちゃ。」
「田辺侯爵ですの。」と千鶴子は低い声で、このときもまだいやらしそうな眼つきだった。
 矢代は侯爵にはいままで一度も会ったことがなかった。しかし、その人の先祖の城は日本で一種特別な城として有名で彼も二度ばかり見た記憶があった。雨中に眺めたときの姿は、矢羽根を連ねたような黒褐色の壮大さで、自分の国の崩れた城跡とは凡そ反対な、一見翼を拡げた見事な鳶を聯想させた。その姿の下に、雨水を集めた大河が泡立ち流れとぐろを巻いていたさまは、栄え極めた鮮明な美しさの城だった。
「一度、僕にその侯爵を見せていただけませんかね、何んだか、僕はその方から鳶を感じるんだが、そういう方でもないんですか。」
「鳶?」
「そう、どういうものだか鳶に似てるね。」
 千鶴子は高い崖から飛び降りたときのようにまだ呼吸を弾ませ、暫くは笑顔もなく怨めしそうに黙っていたが、ふうっと太い吐息をついて空を見上げた。
「あたし何んだか眼暈いがするの。すみませんが、自動車探していただけませんかしら。」
 静脈の浮き出た千鶴子の額の汗ばんでいるのを見て、矢代はすぐ外に出た。彼はタクシを探しながらも、予想以上に衝撃を受けたらしい千鶴子に同情するのだった。たしかにカソリックを誇りとしていることに間違いのない千鶴子だと分っていながら、つい話の調子が意地悪くあんなに辷っていったということは、もうあの場合は、音波の拡がりのような運命だったのだと矢代は思った。また深く考えずとも、やはり一度は同様のことが当然来るべきことも分っていた。避けられぬことならまたこれもやむを得ず、このまま自分も別れて行こうと彼は決心を固め、聖橋の袂の所に立って往還を眺めつづけた。胸の痛んで来るような寂しさももう全身に廻っているかとも思えるほど、秋の日のまぶしさに却って身体がだるく、放心したように彼は何も考えていなかった。すると、そこへ千鶴子が後から来て矢代から少し離れて立っていた。
「もういいんですか。まだ少し顔色がよくないなア。」
 矢代は千鶴子に近よっていって訊ねた。
「あそこ空気が籠っていけないの。歩く方がいいわ。」
 千鶴子は顔を背け先に立って聖橋を渡って行きかけたが、また急にひき返してお茶の水の駅の方へ歩いた。矢代がタクシを拾うまで待つようにひきとめてみても、やはり千鶴子は後姿を見せて駅の中へ入って行った。消えて行く千鶴子の後姿がひどく慎ましやかに見え、小さな黒い帽子の後に下っている紅色のネットが、突然パリの匂いを吹き送って来た。彼はあのときの二人の夢のような調和と、今のごつごつした喰い違った想いの相違も、すべてはこういうのを実際に起っている夢と現実との相違だと思い眼を見張った。それも日本へ帰ってからのこんな二人の不幸は、やはりこれは日本の不幸ではなく、日本と違ったものを見てしまったものの、天罰に等しい個人の孤独な不幸にすぎないのだと思うのであった。
 そして、もしそれが本当なら、自分も千鶴子もその孤独を守り合うより今は仕様がないのだと、そんな覚悟もまた強くなって、千鶴子の後から駅の中へ入って行った。
 駅の中で千鶴子は買った切符を黙って一枚矢代に手渡した。その切符は有楽町行きになっていたが、二枚買ったところを見ると、まだふくれているといえ、千鶴子の意志が矢代にはよく分った。
 晴れた日のお茶の水から有楽町まで行く間の高架線は、東京中で一番人を楽しませてくれる所だと、矢代は前から思っていた。それが丁度偶然にそんな結果となって来たのが彼を喜ばした、また外国のいろいろな都会の中で、活気のもっとも旺溢しているのは東京と大阪だと彼は帰ってから思ったが、その中でも特に旺んな場所の一つはお茶の水から有楽町あたりまでだった。今そのあたりの屋根の上を踏み流れて行くような明るい速度は、たしかに楽しみなくして眺めずにいられぬものだった。
「僕はこのへんが前から非常に好きでね。」
 と矢代は横の千鶴子に笑顔で云った。原子核の核の周囲を旋廻する光りのようなこの高架線の設計図は、誰がしたのか、偶然にしても、たしかに日本の知性の一番明瞭に表現されたものの一つのように思われた。そして、それがとりも直さず、言霊亀板面に顕れた倍数に拡がる音波の函数図形の原形と同じだと云うことも、彼には驚くべきことだった。
「あなたがここの切符を買って下さったというのは、何んでもないことでも、僕にはたいへん嬉しいんですよ。何んだかみそぎをすませた後のようでね。」
 千鶴子がどんな表情をしていようともう矢代には介意ったことではなかった。
「さっきお話になったことね、田辺侯爵のこと、あれ何んでもありませんのよ。あなた鳶だなんて仰言ったけど。」と千鶴子は斜すに見上げまだ怨めしそうだった。
「あ、そうか。あれはそんな意味で云ったんじゃない。あの侯爵の城を僕は見たことがあるので、それが鳶を見るような感じだったんですよ。」
 千鶴子は首を縮め俯向いて笑うと、それからは少し身を矢代の方へよせかけるようにして来た。
「今日はあたしお詫びを云いたいけれど、でも、あなたも残酷な方だったわ。あんなむしむしするお部屋で、あんなことばかし仰言るんですもの。」
「しかし、それを辛抱して下すったことも、僕はいいと思った。」
 彼は少し調子づいて来たままに、僕はカソリックをそれで少し認めたくなったと云いかかったが、それだけはまだ黙り、秋空の下を馳けすぎて行く建物の波頭を眺めつつ、この一刻の風光を少しでも見失うまいと楽しんだ。千鶴子は、侯爵は物にこだわらない穏やかな良い方だと云うことや、ロンドンにいるときでも夫人と一緒に自動車を自分で運転して、パリまで出て来ては一泊し、また次の日同じ車を運転して帰る侯爵夫妻の話などをした。そして、由吉もそのとき一緒の車でパリまで出て来ていたこともあるのに、枕木夫人のことなども重なったと見えて、千鶴子や矢代にも会わず、そのままロンドンへ帰ったらしい形跡のあったことも暗示した。
「あの人ならそうかもしれないなア。」と矢代は云って笑った。
「そのうち侯爵を御紹介しますわ。奥さんはそれはお美しい方。パリへ出ていらっしゃれば、サントノレの洋服屋が皆驚くんですのよ。お洋服の買い方やお見立てでも、外国のどんな貴婦人にもお負けにならないんですって。」
 幾らか軽快に千鶴子の弾んで来る声を聞きつつ矢代は短い眺望の楽しみを邪魔される愁いよりも、彼女の不機嫌の恢復して来た早さに、少し不満も感じて来るのだった。彼は千鶴子のさきまでの不機嫌の原因を、彼女の頭の中からカソリックの崩れゆく様の表れと解し、ひそかに自分の苦心の効きめを喜ぶ勇みもあったときだけに、自分の言葉の強さが、反対に却って、千鶴子を鳶に誘惑された身体と表現した拙劣さの手伝うところだったと気がついて、自然に楽しみもまた半減した。しかし、また考えれば、長年の彼女の信仰が、自分のたったあれだけの苦心で、そんなに脆く動揺を来すものとも思われず、もしそのときがあるとするなら、おそらくそれは結婚以後のことかもしれないと思うのだった。
 それにしても矢代は残念だった。殊に千鶴子のカソリックを自分の方へ引きよせる戦法に、自分の貧しい自然科学の知識を倦くまで用いねばならぬのだと思うと、彼はそれだけでも歯痒さを感じた。それも自分の先祖の滅ぼされた原因が、カソリックよりむしろ自然科学のためであるだけに。――なおその上不思議なことは、近来の物理学の全趨勢そのものの容態の傾きが、漸次カソリックを応援する方向に徐徐に向きつつあることだった。
 電車が有楽町に着いたとき、矢代は階段を千鶴子と並んで降りながら、ふとまた侯爵の城郭の壮麗な鳶色が頭に泛んだ。そして、今日はやはりあの鳶に自分は負かされたと思い、半日の自分の喜劇ももう笑うことが出来なかった。

 その日の夜、矢代は夕食を千鶴子と一緒に摂って、午後の九時ごろ新橋の駅で別れひとり家に帰って来た。すると、夜の明け初めるころになって彼には何んとも分らぬことに出会ってしまった。それはいつものように、自分の部屋でただ一人眠っていたときに見た夢だったが、しかし、それは夢とはいえ、また夢ともまったく違っていた。千鶴子が彼の横の別の夜具の中に寝ていたのである。矢代は誰かに赦されて千鶴子と事実の結婚式を上げよと命ぜられたように思った。そのとき、充血して来た彼女の口中から清水が湧き出し、それは非常に美しく、見るまに千鶴子の嬉嬉とした顔色は、いつもと違って全身小麦色になると、はち切れそうな筋肉の波が、力強い緊迫で温度を高め始めて来た。
 矢代は眼が醒めてから暫くまだ夢の実体に触れている思いだった。すべては夢だったのだと彼は幾度も思ってみた。しかし、朝日の光りをはっきりと認めても、千鶴子と結婚した自分の全感覚は否定出来なかった。彼はこれこそゆるがせにならぬ六次元の夢の厳しさ、みやびやかさだと思い、飛び起きると薄霧に包まれて朧ろにぼやけている太陽に向って礼拝した。あの方が自分に結婚を赦され希望を満たせて下すったのだと疑わず、彼は両膝を揃え、赤児のような心でまた幾度もお礼をのべた。
「今朝はお早いわね。」
 母は朝食の仕度をしてくれながら、洗面に井戸端へ降りて行く彼に云った。
「どうも早く眼が醒めて。」と彼は気まり悪げに答えてから、ポンプで水を汲み上げて顔を洗った。それは洗っても洗っても、思わず顔の赧らんで来るような、何んとも云いかねる幸福な感じだった。
 朝食をすませてから矢代は自分の部屋に戻り、また千鶴子のことを考えた。しかし、千鶴子はまだこの自分に与えられた幸福な感覚さえ少しも知らぬのだと思うと、彼は自分ひとり授けられた充実した幸福に変りはなくとも、何んとなく一抹のあわれを感じて来るのだった。それも前日の苦心がただ夢に顕れたに過ぎぬ、と云ってしまえばそれまでのことだったが、しかし、それなら夢中のことの方が、はるかにいのちの充実した真の生活だと思ったほど、すべてがまったく活きている以上の実覚に充ちた美しさだった。
 その日一日、矢代はその睡眠中の出来事を、真実なことだと思って疑うことが出来なかった。それもそのことを千鶴子に伝えてしまっては、忽ち嘘のこととされてしまうに定っている迷惑となるのも、およそ分ったことだった。あの何ものにも代えがたい、一刻千金のいのちの感覚を、すべて夢だとされてはたまらなかった。しかし、まだこのままいつまでも黙っているなら、矢代にとって、千鶴子はこの世に二人いることにもなった。そう云えばたしかに睡眠中に顕れた千鶴子は、あれこそカソリックに少しも冒されてはいない緊迫した、真の日本人だったと頷けるふしがあった。
「あれだ。あの千鶴子の方がはるかに美しかった。」
 と矢代はひとり呟き、またもう二度とめぐり会うことも出来ぬ寂しさに、街の中をひとり方向も定めず歩いた。しかし、自分の真の花嫁と会うことの出来た嬉しさは、どの街へ出ていっても変らなかった。ヨーロッパをともに廻った千鶴子のことをふと頭に泛べても、あれは嘘の千鶴子だったと思うことが、だんだんこのときから矢代に強くなった。もし自分の子供を生んでくれるものがあるなら、あの七夕に出て来る星のような、前夜結婚したその千鶴子に生んで貰いたいと彼は希った。
 矢代はその日の夜、千鶴子にあてて手紙を書いたが、前夜の芽出度い個人的な喜びに関しては少しも触れなかった。そして、昨日の失礼した謝罪を述べて、カソリックについて意見がましく自分の云ったことなど、別に気にせずそのままつづけて貰いたいと書きながらも、ともすると、抜け殻になっているものに云うような慰めの優しい文面にもなるのだった。
 千鶴子に手紙を書いて二三日してからも、矢代はまだ結婚の夜の興奮がつづいて去らなかった。また実際彼は、夢でもなくうつつでもない、あのように不可思議なことがこの世の中にあることを知った以上は、いわゆる人人の眺め信じている実在というものは、何を意味するものだろうと考えるようになった。人はそれぞれ肉体を具えているのに、まったくあの没我のひとときの感覚の方がはるかに喜びを失わぬという奇妙な現象について――まったくそれにぶつかってみて初めて夢を夢とは信ぜられぬ理知について、――このようなことを矢代はいろいろ考えてみているうちに、人の生命というものの持ち得る感覚は、肉体の死滅の後もなお一層生き生きとしてゆくものかもしれないと思い始めて来るのだった。そして、
「いまはむかし。」
 と矢代はこういう日本の云い伝えて来た原理をくり返しくり返し呟いてみて、ふと、それなら人は生きていても楽しく、死んでもなお楽し、という結論に突きあたり勇気が一層増すのを覚えた。
 千鶴子からはどうしたことか返事が少し遅れて着いた。
 手紙の中に、返事の遅くなったのは幾度も手紙を書いては破ったからだとあって、今の自分は形のなさぬ苦しみに襲われていることがあるので、日毎に楽しさが無くなるばかりだということや、その原因となる主要な二三について書き並べてある中にも、やはり矢代が自分の信じているカソリックを虐める苦しさが一つあり、次ぎには結婚問題の再燃していることが挙げられてあった。
 こちらがこんなに喜んでいるときに、向うはそんなに苦しんでいたのかと、矢代は妙にそれがまた楽しく、情の移らぬ顔つきで手紙を読んだ。それも、丁度文面に、
「あたくしがこんな自分の苦しみなどを書きましても、残酷なあなたのことですから、きっとまたあなたはお笑いになることと思います。」
 とそんなことのあるあたりを読んで来たとき、矢代はその通りだと思ってまた笑った。
「それでもあたしが外国へ行きます前に、母と約束をしたことがあるのです。母はお前が帰って来てから自分の薦める人と結婚をするなら、お前の外国行きを許可しても良いと云われ、それは必ず実行すると返事をして出て行ったあたくしでした。母は今もそれを忘れず、時を見てはあたくしにその人を薦めてやみません。あたくしは別にその人と結婚する意志など、今のところ少しもありませんが、しかし、母との約束を思いますと、それもやむを得ないことかもしれないと思い、つまらぬことも悩みのたねになるこのごろです。でも、外国にいたときあの幸福だっだ日のこと思い出しますと、こんな苦痛もやはり忍耐すべきかも知れないとも思ったりして、今さら、自分の我がままが身に還って来た辛さに沈みます。それに帰ってからのあなたのことなど考えたりいたしますと、あなたのお考えやお苦しみの御様子なども御無理もないことに見えまして、一層どうして良いのか分らなくなってしまい、ときどきあたくしもやはりあなたの仰言いましたように、天罰を受けた人間になったのかもしれないと、本当に考え込んだりして、お祈りも苦しく切なくなるばかりです。それでも、あたくしはキリストさまをお忘れすることなど出来ません。どうぞこんなことを書きましてもお赦し下さいますように、――」
 矢代はここまで読んで来たとき、先夜のあの喜びに充ち溢れた千鶴子とは違い、この千鶴子は何んと悲しい声ばかり出す人だろうかと、矢代はそこで気疲れを感じて一寸空を見上げ、また暫くしてから読みつづけてみた。が、それはも早や、誰かにいのちを奪われてしまっているような千鶴子の歎きのみ綿綿とつづいているばかりだった。矢代は読み終ってからも、彼女を悲しませているものは、かき消えぬ西洋の幻影だろうか、それともキリストか、あるいは先夜のあの自分の結婚のためであろうかと考え込み、細川忠興の勇しくキリストと戦いつづけて踏み停っていた凛然たる苦しさが、今さら強くしのばれて来るのだった。

 まだ菊のあるのに木枯の日がつづいた。停留所でバスを待つ間、よく矢代の仰いだ欅の大樹も葉を吹き落され裸身になった。ところどころに残った枯葉も余命のつきた危いそよぎを見せ、彼の仰いでいるまも、一葉ずつ風に※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]ぎ浚われてかき消えた。しかし、この樹は雨の日のときにはまた別に見事な景観を表した。末端の小枝からそれぞれ大枝を伝い流れる雫が、数千疋の小蛇の集り下るように幹に対って一斉に這い降りて来る。滑かな肌は応接のいとまない忙がしさで、ぎらぎら廻り輝く硝子の管のようにも見え、空に突き立った早瀬ともなって、もの凄い速さで雨水を根元へ吸い込んだ。
 ある霽れた日矢代はまたこの欅の下まで来ると、葉を落し尽した梢の枝に鴉が一羽とまっていた。均斉のとれたその樹のさし交された枝枝の中で、鴉をとめた一枝だけが揺れ動くのを眺めているうち、何ぜだかふと彼は、火薬が初めて西洋から日本へ入って来た日のころを思い出した。そのときは丁度この鴉のように、ある一枝の城に火薬が留まり、そこを焼き滅ぼしては次ぎ次ぎへとまた移っていった。当時の日本の城のうち、撰りに撰って、一番初めにその鳥に留られた城が自分の先祖の城だったのだと矢代は思うと、暫くは不吉な黒い姿から視線が反れなかった。しかし、どんなことでも何んの犠牲もなく、安全に生き残ったものの丈夫になった例はない。それを思うと、彼は真っさきに火薬のために滅んでいった先祖の城の運命にも、やはり勲を認めたかった。それも誰からの償いも受けず最初の敵弾に斃れたということは、矢代だけでも、せめてそれを先祖の陰徳として尊びたかった。それでなければあまりに先祖が寂しかった。
 見ていると、鴉は一向に枝から飛び立ちそうな様子もなかった。そして、欠伸をする恰好で口を大きく開けたり閉めたりしては、翅をときどき拡げ、また同じ欠伸を繰り返していた。翅を拡げるたびにその一本の枝だけ、雲行きの早い空の中で揺れつづけて騒いだ。
 襟もとの薄寒く冷え込むまま、人通りのない初冬の往来に立っていても、矢代は、枯枝に留った鴉の黒い色がもう不吉な色には見えなかった。むしろ今は、その鴉から黙黙として滅んだ先祖の運命を徳とする理由を素直に発見出来たことに欣びを感じた。それはまた矢代のみとは限らず日本人の平民なら、各自探せばそれぞれ共通して発見し得られる同じ欣びでもあり、また誇りともなるにちがいないことだった。矢代はそれが何より嬉しかった。
 彼は鴉の留っている枝から眼を転じてまた他の枝枝を眺めてみた。どの先端の細かい小枝もみな大枝に連がり、一本の幹となって立っているのも争われず日本の姿と斉しかった。ただ鴉に留られた枝は少し他の枝と違っており、その枝の不幸なだけ、他の枝枝が強い弾力を貯え得られたことは、それ以来引きつづいて逞しく育って来た今の姿を見ても分った。
 街へ出るたびにこの欅の下へ自然に立たねばならなかった矢代は、こうしているまも、双方の意志までいつか通じるように思われ愉しみだった。また彼はこの樹を見上げたときが自ら正しい考えを得るように感じてからは、その日の吉凶なども判断したくなったりして、知らず識らずそれも習慣となると、いつの間にか千鶴子のことなど、自然とつい欅と相談するという風な癖にもなるのだった。
 千鶴子が母から他の男と縁談を奨められている苦しさを洩して来た手紙を見て以来、特にこの相談めいたことの去来する親しさも増すようになった。
「ね、君、今日もまただが、千鶴子さんのことは、僕から何も特別に云わなくったって善いとも思うんだがね。抛ったらかしといたってさ。」
 と彼は、こんな自問自答風な調子で訊ねる。
「しかしまア、気にはかけておらないといけないよ。」
 と欅が答えるように思う。
「それもそうだが、千鶴子さんの母親が他の男に意志を向けているというなら、これは持久戦になりそうだよ。もっとも、僕の母親も千鶴子さんがカソリックだと知れば、僕の所へ来ることを喜ばないから、千鶴子さんにしても同様だと思うんだ。」
「しかし、君も一度夢の中で本当の結婚式を挙げてあるんだから、そう急いだもんでもないだろう。何しろ相手は現世のことなんだから、人間めいた臭いもするさ。まア宜しくやりなさい。君も夢を見たついでだ。」
 と欅は笑う。矢代はこの欅とこんな問答を始めるときは、相手の端正な姿に心がのびやかになり、情熱のさめ冷えて来る危険も感じたが、こちらの頭を正すには何よりこの樹は役立った。しかし、「君も夢を見たついでだ。」とそう云い放つような欅の立姿には、矢代もふと心中つかえるものを感じて考えた。すべて夢というものは、現実よりも高雅な美しさに充ちていると思っていたときであるだけに。去年から道路を拡げ始めている工事が欅の下で着着と進んでいた。やがてここの停留所も除かれてしまい、そのときになれば、欅もともに截り斃されてしまうのは定っていた。彼はその後の明るく拡った空間を想像して、この欅と別れるのも間もないことだと思った。
「もう暫くすれば君ともお別れだね。」
「どうもそうらしい。毎日足もとを見ているがね。そこまで来とる。」
「寂しいか。」
「いや、へんなものだ。」
「誰が君を截りたおすのか、分ってるんだろうね君には。」
「うむ。毎日見てると、浅右衛門の手つきなかなか上手いよ。」
「云い残しておくことはないかね僕に。」
「ない。」と欅は一言いって暫く黙っていたようだったが、また空を見上げていてからぼそぼそと云った。
「じっとここにこうしていたようだが、これでも長い旅をして来たね。」
 矢代は欅から眼を反らせてもう黙った。日焦けした土工たちの腕の汗が石の間で光っていた。砂利を混ぜ返す音がじりじり髄にこたえる向うの坂路を、バスが傾きながら流れて来た。
「ね、君、僕がここにいちゃ、人間の夢を邪魔するよ。そうだろう。」
 とまた欅は云いかけて来たが、矢代はこのときはもう聞えない振りをした。
「まア、君と話の出来ただけでも嬉しいよ。僕なんかいなくなったって、――」
「さようなら。」
 矢代は自分の見ていないとき截り斃されるか知れぬ欅の様子を感じたので、今からそっと別れをのべておいてバスに乗った。

 塩野が二週間ほど入院していてからまたある日矢代のところへ訪ねて来た。
「とうとう病因分らずじまいさ。」
 塩野は矢代を見るとそう云って幾らか顔色も優れず元気もなかった。言葉は事実を喚び起すという譬えを矢代は思った。そして、冗談の当りすぎた気味悪さもまだ引かず、深くは塩野に病状を訊ねる気もないまま、無事退院の慶びも一言いったにすぎなかった。
「しかし、今度は千鶴子さん、どうやらへんらしいんだ。昨日電話で宇佐美と話しただけでよくは分らないんだが、どうもそうらしいね、熱も相当ある様子だなア、――」
 塩野は声を低め気味悪そうに、笑顔もなく窓の外を眺めたままだった。それでは千鶴子にも来たかと矢代は急に身が緊った。庭がぼっと暗く見えて来る中で、白い山茶花の弁だけ明るく、地虫のかすかに鳴く声が耳に入った。パリで会った人物のうち、帰って来たものも今は塩野と千鶴子ただ二人だけだのに、その二人が日をあまり違えず同じ病いに襲われたのだと思うと、矢代は、もう自分の考え以外のところで事実が厳しく動いているのを感じ、云うべき言葉もなく黙っていた。森森とした寂しさが襟もとに迫って来た。
「しかし、君、黴菌の巣窟へ帰って来たから、病気になるなんて科学説、そんな馬鹿なことはないよ。科学的に云うと、何んだって日本が悪くなるのかね。」
 矢代は急にそんなことを云いたくなり、つい科学の悪口を云ってしまった。敏感な塩野は「うむ」と云うと、耳を動かす馬のようにぴりっと眼鏡を光らせた。そして、病中眠っている間は夢ばかり見ていたので、何んの事だかいまだに分らないと話した。矢代は千鶴子の容態をもっと知りたいと思ったが、彼女の母親のことを考えると直接見舞いに行くことも出来ぬ不便も、二人の間からはまだ解けぬのだと思った。
「今日はチロルの氷河の写真と、巴里祭の写真を持って来たんですよ。」
 矢代はそう云って出した塩野の包みをだるく受け取って開いてみた。葉書大に引延ばされた数十枚の写真も、そんなに見たくもない様子で彼はくりながら、自分の見て来たところの美しさも写真ではやはり駄目だと失望したが、それでもだんだん引き込まれて丁寧に見始めた。
「これこれ、このときだ僕の殴られたのは。」
 塩野は横から、巴里祭の日に左翼とカソリックの右翼の波の間に挟まれ、ひどく殴られつつシャッタを切った一枚を差して云った。しかし、その写真はサンゼリゼの激動の最中に撮ったものとは思えぬほど、映っている部分は静かだった。矢代は人人の押し狂っているさまよりも、背後の篠懸の街路樹が意外に沢山葉を落している姿に寂しさを感じ、あの七月十四日に早やパリは秋立っていたのかと、首をかしげて写真に見入った。
「パリ文明もこの写真一枚に出ているね。美しいところだが惜しいものだ。僕の傍にいた紳士は、何アに、これはただフランスの病気だ、こんなものはすぐ癒るとそのとき云ったがどうだかねこの病気。」
 と矢代は云って写真をはねた。次にチロルの氷河の写真が入り乱れて顕れた。氷の斜面に打ちつけたピッケルの痕から、光りの飛び散るように、日の射し返った氷河の面面が繰り出て来るその背後に、一連の山脈の写真が顕れると、やはり彼は愉しくなって興奮した。ハーフレカールの峯を仰ぎ、千鶴子と二人でミルクを飲んだ白い卓布に、物憂いまで強く射したあのときの日光。足もとの紫陽花に群れた蜜蜂。氷の斜面を這い降りて来ては二人で覗いたびいどろ色の深い断層。スイスの山の方向に流れるゆるやかな雲、牧場、サフラン、――矢代は追憶の愉しさのままにも、もう写真を放したくなり、
「ああ、もうよした。」
 と云って皆テーブルの上へ伏せてしまった。すると、どういうものか写真に顕れた風景とは反対に、欅の下で石を動かしている土工の日焦した腕や、東北の海沿いの白い路に熟れ連っていた無花果や、上越の茂みの下を流れ潜る水の色などがしきりに泛んだ。初めは何気なく彼はそんな景色を思い泛べていたのだったが、いつの間にか、西洋の風景に対抗させたい日本の中の美しい風景を漸次に撰び出し、組み整えているのだった。そして、まだまだ自分は日本の中に深く分け入って美しい光景を見届けて来なければ、心中やみがたく納りがたいと思い、あれこれと過ぎた日に見た、山川の美しさを引き出そうと努めた。が、ふとその緊張がゆるむ後からまた強くチロルの峯峯、南仏の海の色、イタリアの湖と、繰り代り色めき立って割り込んで来る。始末は頭の中のことだけに、矢代の意志のままには片付かなかった。
「僕はそのうちノートル・ダムばかり撮ったのを纏めて、個展をやろうと思ってるんだが、ひとつあなたも撰んでもらいたいな。」と塩野は云った。
「あなたのあれは美しい。」
 矢代はそう云って塩野に賛成した。そして、人間が生活をするのは食い生きるためにちがいないとしても、意識するしないに係らず、人類共通の念願として、所詮は誰も一挙手、一投足のするところ美を造り出すために生活しているのだと思うが、君はどう思うかと訊ねてまた云った。
「それは何もただ芸術の美ばかりとは限らないさ、政治の美、経済の美、宗教の美、そのほか都市、農村、科学や学問や、法律、編輯などの美にしてもだが、つまりそれが文明なんだから、――誰も汚なさを造り出そうとして破壊もしなければ政治もしないよ。間違いかね。」
「それはそうだ。武器にしたって美のない武器を持ってる国は負けるからな。日本刀の美しさなんか、美しさとして見るだけなら、ノートル・ダムの中にあっても、断然光るね。」
 塩野も自分の写しとって来た異国のものから、頭を日本の内部へねじ曲げて来ているらしかった。こういうときに起る難かしさも暫くは繰り返し、邪魔する頭の中の他のものも突き伏せて行かねばならぬのが、怠ることの出来ない、このごろの二人の苦労だと矢代は思った。実際、日本の中から汚なさが沢山に眼につき出すと、何んとかして反対に美しさを探し出したくなって、たまらなくなるときだった。
「城だって茶室だって着物だってそうだよ。もっとも、城はポルトガル人が這入って来てから、少し前とは変った傾きがあるが、それでも、あれだけの美しさにした所は、そうそう、先日僕は、信長時代に京都へ耶蘇寺を建てたポルトガル人のフロイスという宣教師が、こっそり本国へ送った書翰集を読んでみたら、日本という国は大変な文明国だ、むしろ自分の本国よりも文明が高いと思うと、そんなに書いてあるんだ。それも本国の法王へ出した報告文の中にあるのだから、誰もそこだけは見せたくなかったと見えて、リスボンの博物館からつい近年出て来たばかりの原稿なんだよ。僕はそれを読んで、非常に嬉しくなってね。さっそく久慈に報らせてやろうと思ってるんだが。」
 こういうことを云うときでも、矢代は、塩野の視線を日本の内部へ今より深く潜り込ませてみたい気持ちを、どこかに感じていることは、千鶴子に対った場合とあまり変りのない自分だと思うのだった。また事実塩野や千鶴子に会うたびに必ず想い起す西洋の幻影の盛り上って来る勢力からすり脱けるだけでも、矢代は日ごとに工夫を変えねばならぬ、人知れぬ苦労を要した。もしこれがいつもつづけば、西洋で会った人のうち、忘れることの出来ないこれらの人とも別れて行くかもしれぬ危ささえ感じるのだった。そのくせ、塩野も矢代も黙ってしまうと、彼は前から気になっていた千鶴子の病いのことが重く頭に拡がり、窓の外で赤赤と群れている南天の実に日の射し込んだ艶も、高熱に病むものの閉じた瞼の静けさに似て見えた。
「しかし、千鶴子さんの熱は、あなたのと同じ質のものならもう少し早く来ている筈だと思うんだ、がそれともこんなことは、人によって遅速があるだろうから、やはりそうかな。」
 矢代は考え込むと見舞いに行けない事情に今さらいら立たしさを感じて、突然塩野の返事をうながすように訊ねた。
「さア、そこがね。」
「遅くても来るものなら、そのうち僕にも来るかもしれないんだ。」
「じゃ、君はまだだったの?」と塩野は意外そうな表情で訊き返した。
「僕は東北の温泉へすぐ逃げたのさ。いやらしいからね、そんなのにやられちゃ。」
「それや、卑怯だ。」
 塩野は急に鋭い声でそう云って笑い、矢代から顔を背けた。
「ところが僕のはまた一寸違うので、母が東北なものだから一つは先祖に敬意を表したくなっていったのさ。これが卑怯なら、自分を知らぬもののいうことだよ。どうも僕は、先祖のしたことが急にこのごろ気になって来てるんだ。」
「しかし、先祖というものは、力試しに少しは子孫に反抗させてもみたいものじゃないのかな。僕はどういうものか、死んだ父が漢学者なものだから、せめてお前だけは俺の知らぬものをやってみよと、そんなに云ってるように思えてね、それで僕はこんなカメラとフランス語とをやってるんだと思ってるんだが。」
「そこまで知っていてやる人なら、まア僕らのすること少しは赦されるんだと思うんだ。しかしたいていはそうじゃないよ。僕はやはりそれが心配だ。巴里祭の日に君が殴られたのなんて、あれは君、それを知ったものと、知らぬものとの間に君は挟まれて、両方から殴られたのさ。そして、シャッタを切ったのが、つまりこれだ。」
 と矢代はそう云いつつ写真の中からサンゼリゼの激動の場をめくりあて、塩野に差し出した。
「君は知らないだろうが、このときの君の顔を、ちゃんと僕は君の親父さんに代って見てるんだよ。無我夢中で君は飛び上っていたよ。真ッ青になって、横っちょになって、――あ奴、やりよるなアと思って僕は見てたものだ。おやじだよ僕は。」
 塩野は「ふふッ」と笑みを洩してまた暫く写真を眺め直した。
「思い出すなア。このとき中田教授は僕の傍で、日本がこうなられちゃ、これやたまらんと呻いたが、どうしているかなアあの人。」
 中田という政治学の大学教授はよくパリで矢代にも、論理の大切さを何より主張してやまなかった合理主義者だった。塩野はこの教授の説の正否などはどうでも良く、自分の扱い馴れた愛機のカメラの眼といつか心も近くなっているのであろう、ただ教授の人格に感服していた。矢代も中田の云うことよりも人間の方が好きだったが、いまもし会って、自分がひそかに先日以来感じている不合理な千鶴子との夢の結婚を中田に話したら、必ず自分を蛮人だと思ってしまうにちがいあるまいと矢代は思った。またそれは中田のみとは限らず、おそらく誰でも愚の骨頂として矢代を笑い捨てることだった。今も彼はそれを思うと、塩野にそっと自分のその結婚の愉しさを洩らしたところを想像してみて、彼の愕きあきれる顔が泛び突然おかしくなって笑った。
「ほんとに中田さん、今ごろは苦しんでいるよ。真面目な人だったからなア。」
 不意に笑った矢代の声を中田の狼狽した呻きの追想のためだと、そう都合よく解してくれて云う塩野に、また矢代は合槌を打ってゆかねばならなかった。しかし、一方、彼はこの夢の真相だけは絶対に人に云ってはならぬと、なお笑いつづけながらも、深く思っていくのだった。
「政治学という学問は、みな誰もプラトンへ還るべきものだと思っている風な様子らしいが、僕はあの論理主義みたいな神秘主義を間違えると、きっと今に大変なことになってゆくと思っているね。世界中が美意識の大乱闘をおっ始めるよ。僕はパリにいたときから、中田教授の説には必ずしも賛成しなかったんだが、いまにあの人、帰って来れば必ず変ると思う。君子は必ず豹変するからね。つまり、変るということがなかなか味のある深い論理というものの美しさだということを、君子なら知っているよ。」
 こういうときにも、矢代はどこかに自分の笑いを狂わそうとする狡さを感じて苦しかった。
「しかし、ああ真面目な人だとね。」
 と塩野はあくまで友人の苦痛を念う心配げな表情で考え込んだ。
「けれども君、僕らはギリシアへ還る運命を持っちゃいないよ。みな世界の学者たちが、そういうギリシアへ還る夢を抱いて勉強をつづけているのも結構だが、もっと他に持ちたい深い夢が、いくらでもありそうなものだと思うがね。」
 矢代は自分の笑顔に射し込んで来た狂いを幾らかでも戻したく、そんなに云った。
 話したって無駄なことだとは瞭かに分りながらも、やはり彼は、自分の感じた放射能のような千鶴子との結婚の夢の素質を信じたかった。
「しかし、カメラには夢はないからな。そこが僕らの一番困るところかもしれん。これから一つ夢を持ったり撮ったりする工夫をやるかな。」
 ひやかすつもりはなく塩野は塩野で、何か専門のカメラに関する特殊な技術をまた別に思うらしい様子で暫く黙った。少しも二人の話が触れ合うところがなくとも、互に知らぬ部分でそれぞれ触れ動いているもののあったのを矢代は感じ、事実とはこのような恐るべきものかもしれないと思ったり、さらにまた過ぎた夜のあの夢の実相を、これがこの世の美の極りの消えるところかとも思ったりするのだった。
「あなたはカメラが専門だから、夢なんか捨てて、もっとこちらの美しいところを写真に撮ってほしいな。夢なら、僕が代りに幾らでも見とくですよ。」
 と矢代は云って笑った。このときはもう、偽りもなく塩野を見て笑うことが出来たので彼も愉しかった。
 二人は塩野の全快祝いをかねた夕食を摂りに外に出た。千鶴子を見舞いに行こうかという話も出たが、入院しているならとにかく、まだ自宅にいるからは却って邪魔するだけだと相談して、それもとり熄めた。
 停留所まで下って来たときに、このときは塩野から欅を見上げ先日のバスの女車掌のことを云い出して笑った。人と一緒のときは矢代は、欅に物云いかけたい気持ちはいつもなく冷淡になった代りに、石工の腕の動きだけ特に激しく眼についた。そして、自分もそろそろもう仕事につくことにしようと思ったが、仕事といっても矢代のは整理部だったから、ただ書籍や雑誌の整理をする傍ら雑書を読めばよかったので、いわば彼のは書籍の中の旅をつづけて行くのが仕事というべきようなものだった。矢代はそれを愧じてもいたがまた幸いとも思った。
「どういうものだか君、日本にいなかった間だけ、僕らは日本を知らないのだから、何んとなく考え方に、一般とピントの合わない空洞が出来てそこが困るね。そこをどういうもので埋め合せて良いのか、一寸見当がつかないよ。君もそうだろう。」
 矢代は停留所の白い立札に手をかけ塩野を覗いた。
「どうも僕らはそれが今さら弱点になって来た。」
「僕はこのごろ、皆が何を考えているのか分らなくなったのだよ。何かこちらが云いかけても、これや云いぞこなうだけだと思って、ついやめるんだが、そういうせいか、僕は物が云いたくなると、何ぜだかこの欅に云うようになってね。僕にはこの樹は今は実に大切な樹なんだよ。」
 塩野はちょっと眼の色を変え欅を仰いでいてから、
「なるほどね。天罰があたったと君がここで云ったの、分るよ。――そうだなア。」
 と云いつつなお仰ぎつづけた。矢代もともに眺めていたが、冬枯れた梢の上を流れる断雲に眼を転じたとき、あの結婚した方の妻の千鶴子はいまごろどのあたりを旅していることだろうと、ふとそんなことを思って雲の流れが懐しまれた。唐竹のステッキを握った手首の冷えて来るのに矢代は、まだ自分も目的の遠い旅をつづけている姿だと感じ、バスの来るのを待つのだった。
 二人はその夜両国のある鳥屋へ上った。鳥肌の煮え始めて来たころ、急に思い出したらしく、塩野は今朝の新聞を見たか面白いねと云った。
「いやまだだが何んだ。」
 と訊き返すと、蒋介石が西安で誘拐されたまま生死不明になったということだった。事件は中国のこととはいえ、矢代は身に直接吹きつけて来た突風を覚え、これはいつかは自分の運命に影響して来る何事かだと思ってひやりとした。

 矢代が千鶴子へ病気見舞いの手紙を出してから一週間ほどたって返事が来た。病気は塩野と似ていてやはり原因が分らず、ただ高熱と眠けに襲われつづけただけで、無事恢復したということや睡眠中に矢代の名を口走ったこともあったらしく、後で兄の由吉から揶揄われて困ったことなど書いてあった。
 矢代はそれで先ずひと安心だった。そして、すぐ自分の調べ物もかね、知人の小屋のある上越の山へひとり出かけた。彼の知りたかったのは、一番彼の不案内な宗教と科学の歴史に関する方のことだったので、荷物はその準備の書物で重くなった。
 山にはもう雪が深かった。駅に着いたのは夜で風が谷の底で鳴っていた。宿まで行くのに橇に乗らねばならず、前後に一人ずつ従いた狭い橇箱の中で、幌の破れ目から吹き込む風にときどき矢代は顔を背けた。崖から雪崩れ落ちる雪の音の聞える路が長く、揺れ動く敷板の固さに腰骨が痛んだ。途中で馬橇に出会うと、路を除けあうのにこれがまた時間がかかった。矢代は押しつけて来る山の高い雪層を仰ぎ、調べ物に来るには少し物好きすぎたかと思った。それも滞在中は小屋で自炊するつもりだったので、洋灯に照し出された馬橇の足を食い込んでいる雪の深さに不安も感じた。
 もともと一度前に、矢代はここへ来て友人と自炊をした楽しい経験があってのことで、初めてではなかったが、そのときは五月で、冬の山の自炊はこの度びが初めだった。山小屋の附近に温泉もあり、そこの宿も馴染みの家だったから、困れば宿に泊りつづけても良かったのだが、帰ってから日ごとに都会がいやになって来るばかりのこのごろの矢代は、一つは馴れぬ冬の山の自炊生活もしてみたくて出て来たのである。それもチロルの山小屋を思いきれない苦肉の策も手伝っているとはいえ、今はそれもやむを得ないことだった。
 その夜彼は宿へ泊った。数年前にいた番頭がまた戻っていて矢代には都合が良かった。前に来たときより建増して倍ほども大きくなっている宿の中では、階下にあった浴槽が二階の中央に変っていて、高く突出した展望のよく利く広広とした位置を取り、どことなく外国のテラスに似た明るい美しさが好ましかった。
「ここの浴場は見事だなア。こんなに家全体で浴場を持ち上げているような風呂場は、僕は見初めだ。」
 と矢代は番頭に褒めて云った。
「そうですが。皆さん風呂場だけは、まア褒めて下さいます。」
 塩辛声の番頭を前にして、矢代は、ハンガリアのダニュウブ河の岸にあった温泉を思い出し、そこがここに一番似ていたと思った。彼は番頭に山小屋での自炊用の薪や、調味料などの世話を頼み、暫くの浴場もこの宿のを借りることにして、明日からの小屋の生活を楽しみにした。
 矢代は寝る前に音信を忘れていた知人たちへ手紙を書いた。彼は外国へ行ったことの利益のうち、省みて生活に直接役立ったと思うことは、何より自分が無慾になったことだと思っていたので、千鶴子へ出す手紙の中にも忘れずそのことを書き加えた。また結婚のことも考えると、まだ一度も自分が千鶴子にそんな意志を表示したことのないのに気が付き、千鶴子の待ち受けているのは或いはそれかもしれないと思ったが、しかし、特に結婚の申し込みをしなければならぬほど疎遠な間柄でもないと思い、やはり筆にまですることは差しひかえるのだった。自分に自信があるからだと云えばそのようなものだった。そう云えば千鶴子にしても、たしかに自信があるにちがいない素振りであった。たとい向うの母親に異議があり、自分の方の母親にも同様なことが起るとしてみても、それなら、双方の異議の消え去るまで待つだけの準備は、またどちらにも出来ている筈だった。ただ彼は、今さらそれを云い出して事を荒立てる気持ちがなかっただけで、他から云われずとも、自分の方は自分で互に邪魔ものとなる事がらを秘かに処理してみてこそ、それが二人の場合に限った一番自然な愛情のように思われた。もしそれも出来なければ、出来ないような何事かがまだ二人の間にあるのにちがいない。――とにかく、矢代は結婚という言葉を今は強硬に手紙の中で使いたくはないのだった。一つはそれも、千鶴子と自分の間に西洋の幻影が燃え尽きず、まだ焔を上げているのが感じられたからでもある。
「どういうものですか、僕はこのごろ、無茶苦茶に勉強がしたくなって来ています。かつて今まで、これほど勉強をしたいと思ったことはまだありません。あなたのこともよく頭に泛んで来て困りますが、実際、これは困るほどです。なるだけその方のことは倹約することにして、荒行を山でやりたく出て来ました。非常な決心で明日から山小屋の雪の中で、自炊もするのです。我ながら勇ましい覚悟に愕いておりますが、チロルのときのように邪魔しないで下さい。あのときのことを思うだけでも、今の僕にはあなたが少からず邪魔になるのです。」
 こう矢代は千鶴子に書いて、嘘はどこにもないと思った。

 山小屋は宿からあまり離れていなかった。二十畳敷ほどの両側に寝台が四つ、窓際にベンチ代りのが二つと、都合六台あって、椅子、テーブルを中に炉代りのストーブもあり、内側の丸木はすべて白ペンキ塗りのため室内は明るかった。自炊用の道具箱も戸棚の中に揃っていた。やがてスキー客の出揃うころになると、この小屋も満員になりそうなので、矢代の勉強もするなら雪の浅い今のうちだった。
 ここは特に朝の景色が美しかった。山際の雪に接した空の色の鮮かさは、醒めたばかりの眼を射抜き、貼りつけられたように暫く視線がそこから動かなかった。そこへさし昇って来る朝日に照り耀いた雪を冠ったまま、朧に静まる薄紫の枝枝の繊細さ、――矢代は顔を洗ってから一寸雪片を口に含んで菜を截り、火をストーブに焚きつけてそこで湯を沸かすのである。自炊はさして面倒なものではなくむしろ楽しかったが、後の洗い物が苦手だったから、これは附近の老婆に御飯と一緒に頼むことにした。
 二三日は矢代は小屋からあまり外へ出ず書物ばかり読みつづけた。宿から初め小屋に移って来たときに感じた辛さは、宿で女中に見張られた気苦労よりも暮し良く、この生活は自分の理想の一つだと思えたほど退屈もしなかった。ただこの生活にもし書物がなかったら、恐らくこうして二日とはいられぬだろうと思うと、窓の外いちめんの白さが、ふと恐るべき退屈の塊りのように見えた。シベリヤを通ったとき矢代と同室の南が、十年前に一度雪のそこを通った景色も忘れたことを話し、
「あのときは雪が降りてたから、外なんか見なかった。いや、しかし、今度は驚きましたね。」
 と、シベリヤの広さに驚歎したのを矢代は思い、十日余りも続くあの地の真白な世界を想像してみて、その途方もなく巨大な白い塊の中に生活して来たロシア人の表情も、所詮は、我れ識らずに退屈と戦って来た長い苦しさかも知れぬと思ったりした。退屈しのぎにせっせと人殺しをすることを書いた帝政ロシアの小説を、矢代はいつか読んだこともあった。それも雪のせいだったようにも記憶しておれば、また、昨日までの親友が明日自分のその友達を殺して平然としていることがよくあるのも、それも、突如として大平原に襲って来る気候の激変のためだと、モスコーを通ったときそこにいた日本人から聞かされて、なるほどここなら、それも別に不思議はないと頷いたこともあった。およそわが国のみならず、どの国の自然、風土からこの国を考えても、誤差の甚だしく生じるロシアだと彼は思ったが、ひところこの国に栄えた思想を範とせよと各国の知識階級に呼びかけた者の勢い旺んだった年のあったことも、すべては当時栄えた唯物史観という、ある種の科学説の力だった。
「いったい、ギリシアは何ぜ滅んだのだろう。」
 と、こういうときには矢代はいつも思うのが癖だった。今も彼が雪の山小屋へ勉強に出て来たのも、科学を世界に伝え残したこのギリシアの滅んだ理由を調べたかったからである。そして、矢代の先祖の城を滅ぼしたのも、つまりはすでに滅んでいるこのギリシアの残した科学のためであり、それもカソリックという宗教の仮面を冠って不意に襲って来た科学であったのに、今もなお彼までそれを調べねばならぬとは、身を省みて怪しまれることだった。
「とにかく、あれはおかしな代物だ。」
 と矢代は、こんなときには薄笑いを洩してギリシアの文明について考えるのだった。
 また彼のその薄笑いは彼ひとりのみならず、東洋共通の表情にも通じたもののようでもあり、恐らくそれも東洋だけの愁いでもなく科学の仮面とされて遠く波路を渡り、東洋に押し出されて来たカソリック自身の歎きにもちがいないことだった。
 こんな意味から選んで持ち込んで来た矢代の書物の類も、宗教は宗教のことの歴史だけより書いてなく、科学は科学だけの歴史より書いてなかった。今の矢代にとって目下何より知っておきたいことは、この二つの歴史の争いもつれたその接点の歴史だった。

 矢代は朝起きると朝食の前に小屋を出、宿まで行って浴槽に浸った。朝の空に突出した高い浴槽は、他には見られぬ稀な場景を泛べ、ここの温泉は毎朝の彼の一つの愉しみだった。
 さし渡し三間もある白いタイルの円形の中に、透明な湯が漲り溢れていて、部屋から入りこんで来る客も朝は賑わった。浴槽内の温度が外気を遮る大きなガラスの壁面の冷たさに触れ、物凄い濃霧の湯気となって場内に巻き返るので、肌の触れ合うほど間近に顔を並べている隣りの客の顔さえ朧だった。その他の客の姿など少しも見えず、ただ男女の声だけ聞える茫茫とした霧の中に、朝日に映えた薄紅色の山の雪の明るさが射し透った。
 矢代はいつも山に向いた位置を撰び背をタイルの縁に寄せ、舞い立つ霧の底でがぼがぼ鳴る湯の音を聞いた。広い山の湯の男女の混浴は隔離した湯よりも、むしろ清浄な山川の匂いが強く肌に染み入り、互に羞らいのない心の爽かさが、また一層朝の人の眼醒めを美しくした。
「冬は暖いとこの温泉へ行きたいが、来てみると、やはり冬は冬景色を見るのも良いものだな。」
 とある客の声もした。猪の出たことや、この地の葱の特別の美味さや、馬橇の値の高さなど、湯の中の話を聞くともなく聞きながら、矢代は、朝の雪中の男女の混浴を俗情と見ず、こうしている人人も、健康な日のギリシアにどこか似ているなと思った。そして、また彼は今調べつづけているその文明の滅んだ理由を、湯の中で自然に考えるのだった。
 矢代の読んで来たギリシアの滅んだ理由はさまざまであった。小党の分立だとか、社会主義の跋扈《ばっこ》だとか、科学の発達から当然に起った農村人の都会化だとか、神神の紛失だとか、歴史家の見方は、それぞれ違った理由を述べたてていたが、彼はそれらを尽くそのまま真実のこととは思えなかった。まだ人人の誰も知らぬことがらが必ず隠れているにちがいないと思い、裸身の人人の湯の中の姿を濃霧の中から見つづけた、ときどき朝日に透けた霧の中から、二つの乳房がおぼろに水面に対って重く垂れている均衡のある美しさを彼は見て、あるいはギリシアは、ここに何か欠陥が生じて滅んだのではあるまいかと思ったりした。
「つまり乳が不足したのさ。代りに山羊の乳を人間に飲ませすぎたのだ。」
 何んとなく彼は勝手にこんなことを思いある日も湯から上って来た。小屋へ戻ると、帰途の寒さに凍りついたタオルをへし折り炉の傍へかけてから、彼は味噌汁に入れる葱をナイフできざんだ。雪を冠った鉾杉の幹の下でぷつぷつ切れてゆく葉脈の匂いが強く発ち、あたりの雪の白さが急に眼に滲みついて痛んだ。
 矢代が小屋へ来てから十日ほどたった日、遅い新聞と一緒に宿の女中が電報を届けに来た。千鶴子が兄をつれてその夜の六時の汽車で着くという電報だった。
「来るなというのにとうとう来るのか。」
 と矢代はひとり呟いて笑った。
 電文の最後に宿たのむとあるので捨てても置けず、彼はさっそく部屋を見に宿屋へ行ってみることにした。女中と並んで坂を降りて行きながら、まさか宿たのむとは自分の小屋を宿に借せという意味ではなかろうと思った。六台もある寝台だから小屋で泊めても良かったが、それには毛布が足りなかった。また今は宿だけは別にする方が良かろうと思い、やはり彼は宿屋まで下っていった。
 東向きの適当な八畳を撰んで置いてから、後は廊下の欄干に手をついて雪景を眺め、暫くまた千鶴子に時間を奪われる覚悟を決めるのだった。まだ彼は自分の探している部分の研究に手がかりのつかぬときだったので、実はもう二三日来るのを延ばしてほしかった。彼女の病後せっかく会う機会も、仕残した調べものの片付かぬ気がかりがあっては、襟首を掴まれた形で落ちつきが悪かった。いつかも一度彼は書き物に夢中になっているとき、茶を飲もうとして傍のインキ壺を湯呑と間違えたことがあったが、今日の場合も千鶴子にいま来られては、浮かぬ顔が続き、さぞ冷淡に見えることも多かろうと案じられた。しかし、もう千鶴子は出発してしまっているころだった。女人という母乳に来られれば、やはり自分にはギリシアや科学の研究は不似合だ、と矢代は苦笑しつつ、
「いま幾時。」と女中に訊ねた。
「一時二十分。」女中は床の水仙から放した手の腕時計を眺めて答え、
「でも、この時計はときどき狂うんですのよ。」と注意して振子を捲いた。
「しかし、三十分も狂っていないだろう。」
「それは、――まア、五分か十分ですわ。」
 それではちょうど千鶴子は大宮あたりで、鰻の駅弁の美しい鉢を眺め食慾を覚えているころだと彼は思った。

 その夜時間を計り駅まで矢代は出かけた。吹雪になりそうな怪しい空模様だった。ホームのすぐ裏まで押し迫っている岩肌へ吹きつける風が、また巻き返って構内の柱を鳴らせていた。足駄で汚れた雪の残った待合室のベンチに汽車を待つ間、矢代は間もなく着く千鶴子のことを考え、どこか浮き浮きしている自分だなと思った、すると、夢に見た例の千鶴子のことを思い出した。そして、妙にその彼女の顔が気の毒な表情に見えると、あたりに飛んでいる愁い気な様子さえ覚えて耳を澄ますのだった。実際それは我ながらおかしい空想にちがいなかったが、不思議とその千鶴子に実感が籠っていて、
「まア、待ちなさいよ。何んでもないよ。」
 と、山に籠ってからの独言のくせも出て、つい夢の彼女をなだめて云うのだった。やがて駅前の乱れた雪の中に客引きの提灯が並んだ。軽く吹き始めて来た粉雪の中を汽車が明るい灯の連りとなって入って来た。停った汽車の中から出て来た客に混り、千鶴子も黄鼬鼠《いたち》の外套で、後に矢代の見知らぬ青年をつれて降りて来た。
「あら、わざわざすみません、ひどい雪ね。」
 改札口の所の矢代を見付け、千鶴子はまだ車内の蒸気の熱に浮かされた頬で笑った。それはまた夢の中の彼女とはまったく違った顔だった。宿の番頭に荷物を渡してから千鶴子は由吉の弟の槙三という青年を矢代に紹介した。一見彼女の弟かと見える槙三は、帝大の学帽のまま最初から稀に見る穏やかな笑顔をつづけて黙礼したきり、始終黙りつづけていた。由吉とはおよそ違った性格らしかったが、矢代はすぐ好きになった。五人兄弟のうち千鶴子が末っ子だということを彼は記憶していた。しかし、一つ違いの兄のあることは迂濶に今まで忘れていたのを思い出し、まだ自分の頭も常態ではないのかもしれぬと、馬橇の箱の前で矢代はふと思った。汽車の明りは闇を残してまた駅から離れていった。
 寂しくなった雪明りの駅前で、汽車の吐き降ろした千鶴子を中心にまだ華やかな匂いが舞い残っていた。
「宿へ着くまではちょっと驚かされるんだが、明日になるとこれで捨てたもんじゃないですよ。」
 橇が動き出したとき、窮屈な座席の後で、矢代は槙三を連れ出して来るまでの千鶴子の苦心を想像して云った。彼女の病気のことや、冬の休暇になった槙三の保養のことなど話が出ているときも、橇の片側がひどく雪路で傾いた。
「でも、あんなへんな病気は、一度してしまえば安心なものね。」
 と千鶴子は振り向いて云った。町並みもなくなり馬の足音の調子がようやく出揃ったころだった。橇の脇板へ肱をついている矢代の指先だけ、千鶴子の肩の外套の毛に触れ温《ぬ》くかった。マルセーユへ上陸した夜、足の強直病にかかり腕を支えてくれたのも、この同じ黄鼬鼠の外套の温《ぬ》くさだったと彼は思った。あの夜の税関の狭い割石路を、船まで扶けられて歩いたのが千鶴子との始まりだったが、今はこの雪の中だった。洋灯の鈍い光圏の底で舞う雪片が大きくなり下からも吹き上った。
「自炊してらっしゃるようでしたけど、お続きになって。」
 千鶴子は笑って訊ねた。
「どうしまして、宿屋よりよっぽどいい。」
「缶詰のお土産だけは持って来て上げましたのよ。だけどもう御不用のころかと思ったわ。」
 天井に頭の閊える橇の中で、槙三は縮んだままいつも黙って笑っていた。矢代が何科かと訊ねると、
「理科です。」とひと言槙三は答えた。
「御専門は。」とまた矢代は訊ねた。
「数学です。」
「ほう、それは。」矢代は何ぜともなくそう云ってから、これは本ものの科学派だと思い暗い幌蔭で自然と微笑が洩れて来た。
 ときどき脇板から肱が脱れ落ち、矢代の下顎が千鶴子の肩に突きあたるほど橇が揺れた。路傍の崖の下は川だったから踏み転がる危険もあった。
「恐ろしいわね、大丈夫かしら。」
 千鶴子も槙三の肩により掴まって云った。灯のまったく見えなくなった狭間の底を、橇の小さな洋灯だけぐらぐら覚束なげな足取りで踉けた。
「僕も初めて来たときは、このあたりで地獄の底へ行くように思ったんだが、着いてみると、この方が来た気持ちがするんですよ。まだまだ揺れる。」
 矢代のこう云っているときでも橇は左右に揺れつづけ、風が幌を鳴らせてはためき、その隙から鋭く雪が舞い込んだ。矢代はふとまた橇箱の上で、例の千鶴子が風とともに飛び狂っていそうな気持ちに襲われると、外が闇であるだけ鳴る風に一層敏感になり、それがまたさも狂わしげにばたばた翅を屋根に打ちつけるように思われた。
「しかし、仕方がないじゃないか。今はこっちさ。」
 と矢代は外の千鶴子に云いきかせるように胸中でたしなめ、
「実際そうだよ。」
 と、思わずそんな叱る言葉もつづいて出た。が、それだけはうっかりして口から洩れたらしく、箱の中の千鶴子は聞き咎める眼でふり向いた。
「何に?」
「いや。妙なところだ、ここ。」
 軽く彼は反らしたがひやりとして、自分のひそかな喜びを人に感じられては一大事だと、咄嗟に彼は現前の橇の中の自分に立ち戻るのだった。
「この山を廻ると、向うの高台に火が見えますよ。それが宿だ。僕の小屋はそれから少し上の方になるんだが。」
 矢代はそう云いながらも、傍でさきから黙っている槙三が何んとなく気味悪かった。しかし、矢代は自分がひとり不正な快感に耽っているのでは少しもないと思った。人に知られては困ることにちがいなかったが、自分の丹精こめて愛したものが、愛しただけ自ら別の姿となって自分に現れ分るだけのことであり、そのどこに不思議なことがあるものかと、向き直る度胸も出るのだった。もしそれが人に分れば千鶴子にだって、僕の想っている千鶴子は君じゃないよ、もっと君から抽象した人だと、云うだけの準備も胸中で出来ていた。
 橇箱の三人は何んとなく黙りつづけて雪の中を揺れていった。

 宿の女中たちの玄関に出揃った廊下を、三人は所定の部屋へ渡った。部屋には炬燵も出来ていた。宿着に着換えてから千鶴子と槙三がすぐ湯に行った。矢代はひとり部屋に残って熱い茶を飲み、炬燵に膝も温まって来ると、これからひとり冷えた山小屋へ戻るのも億劫に感じ、どこか別に部屋の空いたのを頼んでみたくも思った。しかし、一緒のものがさばけた由吉ならともかく、汚れの見えない槙三が千鶴子の連れだと思うと、千鶴子と自分の外国流の親しさなど見せるのも気がねだった。やはり夕食だけ宿で摂りそれから山小屋へ帰ることに定め、彼はまた傍の脇息を抱き込んで二人の戻るのを待つのだった。
 それにしても千鶴子がここまで出て来ることの出来たのは少しは彼女の母も娘の意志を認めて来たのかもしれず、その相談もあってのことかとも解されたが、二人の間がのっぴきならなくなっているというよりも、も早や結婚する以外にどちらのコースもなくなっているのを矢代は感じた。それも男女の慎しみの限りを守りつづけ、その果てに実となった、われ知らぬ夢中での結婚だったとはいえ、すでに矢代は千鶴子の結婚も終えての今、初めて見るこの夜の親しさは、また格別前とは違って近親の情を覚えた。今となっては、たとい二人の間を妨げるものがあるとしても、やむにやまれず押し切って後悔せぬ張力に変るかも知れぬものだった。
 しかし、自分はまたそれをも喰いとめてしまうことだろう、と矢代は思った。もうそれは彼の慎しみでもなければ、羞しさでもなかった。それはどういうものか別に理由のないことで、強いて云えば、それは人にただ守られるだけの努力でやっと伝わってゆく儚ない礼儀のようなものかと思われた。矢代はこんなに自分の心を自由に用いることも、見ることもともに封じているのも、やはり何んとなく、昔から人人の担いで来た分らぬ重い御輿を自分も担いで見たかったからである。
 千鶴子は珍しく宿着を抜き襟ぎみに湯から上って来て、タオルをかけ、
「いいお湯でしたわ。お入りになりません。」
 と矢代に奨め鏡台の傍で化粧をした。
 艶のある爪が軽く頬の上で揺れるのを眺めながら、彼は千鶴子の和服姿を見るのも初めてだと思った。
「早く入ると僕は湯ざめのするたちでね。しかし、ここの湯は良いでしょう。殊に朝がいいんだが。」
「でも、お豪いわ。自炊をつづけてらっしゃるの、お風呂の中でさきも、槙さんとお話してましたのよ。」
「じゃ、明日のお昼はひとつ、お二人を御招待しますよ。山の御馳走召し上ってもらいましようか。」
「お昼?」千鶴子は鏡の中から振り返って、「まア嬉しいわ。お待ちしてましてよ。どんな御馳走かしら。」
 駅へ迎いに行くときから明日の昼の招待について考えていたこととて、今になって突然思いついた冗談ではなかったから、材料もある程度明日の午前中に揃う手筈もあった。
「何しろ雪の中の手料理ですからね。東京で作ったのとは違うが、チロルの山小屋のときよりは少しはましかもしれないな。」
「あのときは何んだったかしら。スープとお馬鈴薯と、ソセージ、ね、たしかそうだったわ。」
 二人が顔を見合せて笑っている所へ、夕食の仕度が整い料理が出て来た。まだ湯から上って来ない槙三のことを矢代が訊ねると、きっと湯気でも見て何か考え事をしているのだろうと千鶴子は笑った。そこへのっそり入って来た槙三は窓よりの廊下の椅子にかけ山を眺めた。彼は常住坐臥あまり人間のことなど考えていそうでもなく、自然の動きと数の組み合せだけ考えつづけているためか、惑いのない動かぬ独特な微笑を湛えていた。純潔な赤い下唇が少し突き出ていて、大きく澄んだ眼は美しく、自分の気持ちの困惑など少しも人に見せそうもない、おっとり物云わぬ態度をいつも崩さなかった。何かそこに必ず誇りもありそうなことは矢代にも分ったが、それがまた彼の感じを一層よくしていた。
「明日のお昼に矢代さん、あたしたちに御馳走して下さるんですって。お山のお手料理よ。」
 炬燵の上へ厚板を敷いた冬の宿の食卓に対ったとき、千鶴子は槙三にそう云ったが、槙三はただにっこり笑っただけだった。
「料理されるのお好きですか。」
 と槙三は暫くして矢代に突然訊ねた。千鶴子は下手な槙三の質問に顔を一寸赧らめると、矢代の答え難くげな隙を埋める風に横から云った。
「この方そんなこと一番お嫌いな方なの。ですからあたし、明日の御馳走楽しみなのよ。」
「しかし、山にいますとね、里にいるときとは違って、料理を作ることはたしかに面白くなるものですよ。御馳走という字も坊さんから出て来たというの、よく分るなア。日本の船がむかし椎茸を積んで支那の寧波《ニンポー》へ行ったとき、あそこの坊さんの大将の、その日の務めの最大行事は、美味いものを弟子たちに食わせることだったものだから、山へ降りてあちらへ走り、こちらへ走りして材料を調えに走り廻った結果が、日本の椎茸が一番美味かったというところから、馳走という字になったという説があるでしょう。まア明日はひとつ、僕も坊さんになりますから。」
「じゃ、あたしたち、明日はお弟子さんなのね。」
 と千鶴子は揚物の鮭に箸をつけて笑った。
「いや、それはお好きなように。とにかく、東洋人は理窟を食うよりも、美味いものを食う方が人生倖せだと悟ったのだから、その点西洋人よりは賢いですよ。」
 食事の愉しさに矢代も傍の槙三が数学者だということをつい忘れて云った。
「しかし、人間が数というものを発見してしまったからは、もう倖せも倖せではなくなったでしょう。」と槙三は急に学生らしくはっきりした声で矢代を見て笑った。これは失敗ったと矢代は思った。
「つまり、それは抽象の発見だから、そのときから人間不幸の初まりですよ。ギリシアの悲劇の発生だ。」
「じゃ、零を発見したのは印度人ですが、これは何んですかね。抽象ですか。」
 数のことに関しては、槙三は云うだけ云わずにいられぬ数学者らしい鋭い口振りになって来た。
「そうそう、零を発見したのは印度が初めだそうですね。数学のことはよく僕は分らないんだが、しかし、不思議なことには、まア話は少し違うが、日本人も大昔には零を発見しているですね。ワという字があるが、あれはアイウエオ五十音字の中じゃ、最後の十番を表す行の頭字でしょう。日本の古代文字のワという字は零ですよ。つまり、輪の丸がワの字で、むすびの十番にこの丸を置いたということには、日本数学の何かがあるとこのごろ思っているのですがね。ところが、ギリシアの数には零という字がない。あれが僕には分らない。零というのは輪で、これはむすびの和なんだが。和がないなんて。」
「僕は日本の古代文字のことは知らないんですが、数学では零というものの観念は、まだ誰にも分らないのですよ。ところが、その零という分らぬ丸の上に、すべての近代文化が乗って花開いていると云うんです。」
 と槙三はふとさし俯向いて云ったまま黙ったが、やはり穏かな微笑を泛べていた。
「零がね。不思議だこと。」
 千鶴子も少し考えたらしく黙って箸を動かした。
 食事を終ったころは風も消え、雪明りの谷に馬の嘶きが厳しく響き透って来た。矢代は欄干から明日の料理の鳥を頼んである家の明りを探した。一軒家の茶店の窓から、通りの雪に射すランプの色が温い平安な感じだった。千鶴子も食事をすましてから矢代の傍へ来た。
「あら、雪がやんだわ。あなたの山小屋ここから近いんですの。行ってみたいわ。」
「このすぐ上です。しかし、明日のお昼までは駄目ですよ。これから帰って御馳走の用意をしなくちや、――」
「今ごろからなら、あたしもお手伝い出来るわ。」
「まア、明日だけは黙って僕のお弟子になりなさい。」
 こういうことを云っているときでも、料理のことを考えると矢代はいつも覚えぬ心の弾みを感じて来た。

 翌朝矢代は野菜を受け取りかたがた、宿屋まで朝湯に行った。千鶴子たちの部屋へは立ちよらぬことにしてすぐ彼は湯殿に廻った。昨夜あれから遅い夜汽車で着いた客が、もう今朝早く発つらしく湯の中は賑やかだった。浴場内は朝ごとのようにいちめんの濃霧で人の身体が隠れ、誰が誰だか分らなかったから、もしかすると千鶴子か槙三かどちらか一人、この中にいるのかもしれなかった。
 どこの湯と変らずよく饒舌る客は、いつでもその者だけ饒舌りつづけ、黙っているものはいつも黙っているので、耳に響いている声より人数が多いにちがいなかった。たがいに身体の立てる波紋が絶えず不規則に打ち合い、きらきら光って矢代の顎を洗った。出て行く客もあれば、新しく入って来る客もあって、戸の辷る音も続いてするのに、入の姿のまったく見えぬ朝の湯は、いつもながら矢代を愉しくのどかな気持ちにした。
 そのうちよく饒舌る客連れが出ていった。ひっそりした後の水面で鳴る波紋の音だけ、ちゃぶちゃぶ聞えた。
「あ――あ。」
 と、湯の縁のどこかで、思いがけなく大きな欠伸をするものもあった。たがいに顔を見合せぬように、なるたけ人人は離れる工夫でそれぞれ湯の中の位置を撰んでいても、新しく入り込んで来る客があると、自然にそれもまた少しずつずれ違って廻った。
 矢代は槙三や千鶴子たちとどういうものか、湯の中で出会わぬことを希ったので、傍に人が近づいて来る度びに顔を背けて移動し、濃霧の中の自分ひとりの世界を愉しむのだった。しかし、近くの水面から人の立ち上る音や、蛇口から垂れる水音など聞えて来る中に混って、二つ小さくつづいて聞えた咳き声が、何んとなく千鶴子らしい聞き覚えのある咳だった。昨夜の急な寒さで風邪でもひいたのだろうかと、矢代は気にかかった。湯の縁をひと廻りしてみればすぐ確かめられることだったが、それが彼にはやはり出来なかった。槙三をまだ寝かせ一人で先に湯に来たものとすると、間違いなくもう今ごろは千鶴子の入浴の時間だった。矢代は顔を水面につけるようにして、湯気の足の立つ比較的曇らぬ部分から透してみても、忽ち濃霧が上から舞い下って来て人の姿をかき消した。霧は絶えず湯の波に突き上げられてはまた水面にまき返り、早い速度でぐるぐる室内を廻っているようだった。雪の山が上方の稀薄な霧の部分に、射し出た朝日を受けて高く薄紅色に染っていた。
 山際の深い藍色の空は厳しいほど鮮かだった。矢代は湯の縁で足を抱き、空を仰いでいると、ふと千鶴子が自分と別れてパリを去っていったときの、あの飛行機の消えた空の色を思い出した。あのときは、もう二人は再び会うこともなかろうと思ったほど虚しく、深い空の色だったが、――霧は絶えず噴きあがり舞い降りた。嗽いをするような秘かな水音に包まれその中に今も千鶴子がいるのだった。矢代は昼の食事を今から愉しみに入浴しているにちがいない二人のことを思うと、間もなく湯から出た。
 宿の女中から貰った杉菜や、生椎茸を擁《かか》えて彼は山小屋の方へ登った。谷底の川の表面は氷の解けた流れだけ薄黒く沈んだ色を残し、他は真白の起伏が全面朝日に映え、微粒子の飛び散るように眼映ゆかった。

 自然薯のとろろ、こんにゃくの白和、生椎茸の揚物など、こんな手数のかかるものは茶店の老婆に届けて貰うことにして、矢代は小屋の燠火で鶏の丸焼をするつもりだったが、料理にかかるには時間が少し早すぎた。小屋の床下と地面に積った雪との隙間が昨夜の雪ではまだ埋らず、下から吹く風に小屋も寒かった。
 矢代は時間のある間、また朝の日課の調べ物にかかった。一日の読書の時間中、何かまだ知らなかったあることを一つ見つけた日は、先ずその日を空費しなかったと忍耐するこのごろだったが、彼はこの日の部分では意外に大きな拾い物を一つした。それは十三世紀の宗教史の中から遅まきながらも聖トマスという人物の思想と働きとを見つけたことだった。この人物はそれまでのキリスト教からその含んでいた東洋の神秘思想を抜き去り、代りに十三世紀のカソリックに初めてギリシアの主知主義を導き入れた。彼は、人間というものは霊的世界と物質世界をつなぐ紐帯物だと眺め、神の世界に入るためには、人人の感覚の受け取る物質の秩序を科学的に極めて後に、次第に高きに登ることを主張して、ルネッサンスの科学の勃興に決定的な力を与えた主要な人物だった。彼が出て以来それまで相分れて争いをつづけていた宗教と科学とに調和をとらしめ、人間を自然の秩序の中に置き直して、西洋にルネッサンスの花を開かしめたこのことは、これは矢代にとっては、長らく疑問のままに捨てていた中世紀の暗さの中から見出した手応えある光った鍵ともいうべきものだった。このようなことは宗教史に明るい者にとっては、別に異とすることではないにちがいなかったが、調べ物の範囲に設計図を引くためには、矢代の重要な一条の幹線となるべきことだった。殊に宗教の本質を失わしめず、それとまったく相反する科学を、人間最低の知力という能力に咲かしめた花とし、またそれを人の肥料ともせしめ得た配慮と工夫と政治の中には、今もなお東洋人の取捨選択すべき幾多の重い穂粒の水中に沈んでいる筈の箇所だった。そして、この聖トマスが苦心をこらしてルネッサンスのキリスト教の中から断絶せしめた東洋の神秘思想の上には、今こそルネッサンス以上の開明期のさし昇って来ているときだと矢代は思い疑わなかった。実際、彼はそれが眼のあたりに来ているのが感じられて嬉しかった。
 矢代は自分らの苦心の勉強もすべては西洋に答うべき東洋の美質の再建のときであって、ルネッサンスの取り入れた科学をギリシアのように頭として使わず、自分の手足として使う能力を養う工夫に、今は全力を尽すべきだと思うのだった。
 矢代は書物を伏せて時計を見ると、もう十一時近かった。彼はあわててストーブに薪を投げ入れ、鶏の腹にバタを詰め込んで丸焼にとりかかった。金串に刺した鳥肌が火の上でじじッと脂肪を垂らす音を聞きながら、彼は千鶴子と槙三に御馳走をするその前に、ルネッサンスの中核を嗅ぎあてることの出来た午前を、山小屋に来た甲斐があったと喜んだ。それはまことにほのぼのとした白光の世界を望む思いのする、午前のひとときの喜びだった。
 人間の知力というものを人の持ちものの最低のものと観破した聖トマスの謙虚さが、つまり、あの見事なルネッサンスの花を咲かせたのだなア、しかし、今の東洋にはそれ以上の謙虚さが根柢に残っている。それが良いのだ。とまた彼は胸中でひとりこんなに呟いて感服し反省した。
 そう云えば、聖トマスという英語はフランス読みに換えるとサン・トーマとなる。サン・トーマ寺院はルクサンブール公園から数町とへだたらぬ所にあった。一度千鶴子と二人でこの寺院を矢代も訪れたことがあったが、内陣の壁画に野蛮人のひれ伏している頭上高く、誇りやかに十字架を輝かせた図の多いのに不快を感じ、よく調べもせずすぐ外へ出て来た記憶のあるのがそこだった。蛮人という生命の資本のごとき活力に知性の槍を突き刺してこれを殺したギリシアのかつての滅亡の因が、その寺院の中にも生い繁っていたのである。むすび(産霊)の零のない数学の藪のように――。
 昼近くなって千鶴子と槙三が、まだ幹の湿った杉の坂路を明るい声で登って来た。よく霽れた空の下に拡がった雪の谷を見降ろし、矢代は小屋の窓から手を上げて二人を呼んだ。下からも答える声がした。矢代の調べ物もまだ知らずに雪路を登って来る空腹な二人の兄弟の弟子が、一人はカソリックで、一人は科学者であるのがまた今の矢代には面白かった。
「汗をかいちゃったわ。今日は暖くって、いいお天気ですこと。」
 小屋の前まで来たとき、千鶴子は宿から借りた足駄の雪を踏段の角で払い落して云った。

 雪が日に解け始めたと見え屋根から崩れ落ちた。部屋に兄弟の客を上げると矢代は茶を淹れた。千鶴子はまだ外套も脱がず珍らしそうに、暫くは裏口の窓へ行ったり、炊事場へ廻ったりしつづけた。矢代は嫁に自分の栖家を初めて見せるような、初初しい気持ちに満たされて彼女の後姿を眺めるのだった。
「どうです、この小屋お気に入りましたか。」
「簡単でいいわ。あなた、無慾になったなんてお手紙で御自慢仰言ったけど、ここならあたしだって、無慾になれましてよ。」
 裏口の窓から筧の落す水を眺めていた千鶴子は、ただ二人の間に通じるある意味を含めた微笑で振り向いた。矢代はそういう千鶴子の微笑を初めて見たと思い、何か確実な彼女の心を掴んだ安心を得た思いで、椅子に対っている槙三の顔をまた眺めるのだった。しかし、槙三は、そんな事柄には一向興味の動かぬらしい穏やかな顔つきで、赧い下唇を突き出したまま、卓子の上に散っている矢代の書類を見ていた。矢代は千鶴子がよく気のつく上の兄の由吉を連れて来ずに、槙三を選んだ理由もよく分った。
「あなた風邪はひきませんでしたか。昨夜は少し冷えましたからね。」
 朝の浴槽の中で小さく咳いた千鶴子の咳声を思い出し、矢代は槙三にそう訊ねた。
「いえ別に。」と槙三は云ってから、「宗教を研究してらっしゃるんですか。」と訊ね返して笑った。
「宗教というほどのことはないので。」
 矢代は笑いながら答えてから、むしろ、宗教よりあなたの専門の科学の方で、とそう云いたくも思った。が、昨夜食事のさい危く二人のもつれかかった話題のことも考えられたので、またこのときも黙るのだった。何か一口いえば、火の発するものを無数に抱いている今の青年の間だと思うと、口口に云いたいことを圧え黙りつづける工夫も、これで並みたいていのことではないと矢代は思った。
「千鶴子さん、まアここへおかけなさい。御馳走は下のお婆さんに頼んだのが来れば、さしあげられますから。」
 千鶴子は外套の袖から腕を抜いてストーブの傍へ来た。まだ部屋に籠っているバタ焼の鶏の臭いが千鶴子の動く身につれ掠め立った。
「由吉兄さん、そろそろまた外国行きの準備なんですけれど先日あなたに云われたの利いたものか、今度は奈良や京都をよく一度見直して行くんだと云ってますのよ。そのときあたしも一緒に行きたいと思うの。あなたもいかが?」
「それならいつでもお供します。」と矢代は云った。「しかし、由吉さん、疲れの休まる暇もありませんね。僕なんか、まだ疲れが癒ったとは思えないんだが、馴れてる人はそうでもないものかな。」
「何んですか、このごろは早く外国へ行きたいような素振りもあるんですのよ。あたしにも、一緒にまた行かないかなんて、云うんですの。」
 由吉の冗談だとばかり、気軽く千鶴子も思って云ったつもりらしかったが、矢代にはそれがかなり強く響いて応えた。たとい由吉の冗談とはいえ、そんな空気も宇佐美一家の中に漂っていることは見逃しがたいことだった。それも他の男と結婚を迫られている現在の千鶴子の唯一の逃げ場も、再度の外国行き以外にないことを見抜いている、由吉の同情した誘いかとも、矢代には考えられた。また切羽つまれば、由吉の誘いも馬鹿にはならぬ、事実となりそうなものをも含んでいた。
「僕の知人で一人、日本へ帰ると一ヵ月東京にいたきり、すぐまたパリへ来てしまったのがいますがね。ところが、またそれとは反対のもいて、日本からパリへ着くと、次の日にもうパリがいやになって、半月目に日本へ戻ってしまったのもいますよ。人というものは、いろいろなものだなアこれで。」
 矢代は千鶴子に、あなたは今はどちらの方かと訊ねるつもりだったのに、そういうことを云っては秘かな狼狽の色を蔽うのだった。
「どうしてですかね。そんなに違うの。」
 と槙三は訝しそうな真顔で訊ねた。
「さア、それは僕も分りませんが――やはり、地球という球体を日本という中から外へ出ることと、外から中へ入ることと、違うようなものじゃありませんか。」
 数学専門の槙三には、そんな説明の仕方も、却って直接的な云い方だと矢代は思って云ったのだったが、槙三は黙っていた。
「つまり、たとえば千鶴子さんが外国へ行かれるのと、僕が行くのとでは、これで思いも余程違っていると思うんです。千鶴子さんのは、小さいときからのカソリックの躾けで行くので、そういう人のは、外国へ行くと言っても実は中から外へ出ることで、僕のような日本人の躾けのままだと、外から中へ入ることになるのですから、同じ行くにも感覚からして違って来ますからね。物理学にもたしか、球面を外から中へ入るのと、中から外へ出る違いと、二つの相違があったと記憶してますが、どうですか。」
「それはあります。」と槙三ははっきり云ったまま、このときはいつもと違い急に微笑が顔から消えて緊って来た。
 矢代はこの槙三という兄――それはあるいは、いつか自分の兄となるかもしれぬ青年の中心の考えを、実は少し世間という実社会の中心へ引っ張り出して、触れさせてもみたく云ったことだったが、微笑の消えた槙三の微妙な表情を感じると、この人物は兄の由吉とはまた幾らか違うと、彼を頼母しく思うのだった。
「やはり地球というものは球面をしていますよ。だから、ギリシアの平面の三角幾何学ばかしじゃ、実社会という、つまり球面上の三角形を計るには誤りを犯すことも多いのですね。それはそうと、日本の昔からの幾何学は球面の三角形ですよ。リーマンだ。どうしたって、平面と球面とは違うなア。」
 こう云ったそのとき、矢代は、自分の一番云いたかったことはそんなことではなく、千鶴子が外国へ由吉と一緒に再び行ってしまうかもしれぬ、その危険を引き留めることだったと思った。もし千鶴子がいま外国へ逃げて行くようなことになったら、いったい自分にとって、ギリシアや幾何学や、宗教などというものは何事かと矢代は思った。しかし、その危険は自分に迫っていると見ても良かった。
「日本に昔、幾何学はあったのですか。」
 と槙三はまた子供らしい真顔で訊ねた。
 矢代は要らざることを云ったものだと自分を後悔するのだった。彼はストーブに赤松の薪を投げ込みながら、それでも、今は料理の来る間の手持無沙汰を、話で何んとか揉み消していなければならなかった。
「ありましたとも、日本の古い祠の本体は幣帛ですからね。幣帛という一枚の白紙は、幾ら切っていっても無限に切れて下へ下へと降りてゆく幾何学ですよ。同時にまたあれは日本人の平和な祈りですね。つまり、僕らの国の中心の思想は、そういう宇宙の美しさを信じ示しているんだと思うのです。今の僕らが何も知らずに国家国家と云っていたのは、先祖の考えた宇宙を国家などと小さく翻訳語で云っているので、おかしなものだ。」
「ふむ。」
 と云ったまま槙三はまた黙ってしまった。脇道を振り返ることの出来ない純情な槙三に、一層火力をたてて薪を投げ込むような結果になって来た、このひとときが、何んとなく重くるしく矢代には苦痛だった。
「しかし、それは何も僕らにも無理はないので、日本についてはちっとも知らぬという、無邪気なところがあったのですね。われわれみたいなものに日本なんかそう矢鱈に知られちゃ、実際たまらんというときが、日本のいまというものかもしれないんだから、何も知られない方がむしろ結果が良いので、こっそり隠しているのだ。もう暫くすればきっと分るときが来るんじゃありませんかな。もう暫く、そのもう暫く日本人を眠らせて置くということが、それが日本の先祖の愛情のある工夫なんじゃないかと、僕はこのごろになって思うんです。きっとそうですよ。」
 こう矢代の云っているとき雪の坂路を、両手に手櫃を下げた茶店の老婆が腰を曲げて登って来た。
「御馳走が来ましたよ。」
 矢代は槙三の質問を喰いとめたくて戸口の傍へ立って行った。小屋まで来た老婆はよく磨きのかかった手櫃を二つ矢代に渡した。
「さア、どれから始めるかな。」
 矢代は手櫃の蓋を取って見て、山の料理は出す順序が難しいものだなと思った。こんにゃくの白和、自然薯のとろろ、揚物の生椎茸、それに彼の手料理の鶏の丸焼と杉菜の煮物、こうずらりとテーブルの上へ、皿と一緒に並べてからまた彼は云った。
「まア、それぞれ、お好きなものからめし上ってもらいましょうか。」
「こんなに沢山いただくんですの。珍らしいものばかりね。」
 千鶴子は鉢から各自の皿へ料理の品を取り別けたり、御飯をみなの茶碗に盛ったりした。
「このあたりで、僕の方がお客にさせて貰いますかな。」
 と矢代は云って笑った。
「どうぞ、これだけいただけば、後はたくさんですわ。」
 食事中に吸物の出来るようストーブにかけて三人は御飯を初めにかかった。こんにゃくの白和はとくに良い出来だった。千鶴子は自然薯のとろろの味を褒めたが、これは少し味が濃すぎたようだし、生椎茸の揚物は油が悪く期待を裏切った。その代りに御飯がいつもより上手に炊けているので、塩気の利いた物が美味に感じられる食事となった。食い物の味など槙三には分らないらしく、出るものをみな黙って食べていたが、鶏だけは特別気に入ったと見えて、爪附きの片足をひっ掴んだまま、口もとをバタの油で濡らしては必死に筋を食い破っていた。
「あなたのプウレオウリ、思い出すわ。この方ね、パリで若鶏ばかし上ってらしたの。一度鶏供養なさらなきゃ、罰があたりましてよ。」
 千鶴子のそう云うのに矢代は、たしかにそれもそうだと思うのだった。
「ほんとに僕はパリで何百羽食べただろう。一度鶏供養をしよう。その供養でまた食べるか。」
「どこの料理が一番お好きでした。」
 と槙三は訊ねた。この同じ質問はこれまでに度び度びされるため、矢代は答えるのに、いつか本当のことが云えなくなってしまっていた。
「僕は鶏のことを思うときだけ、一度外国へ行きたいなアと思うんですよ。由吉さんのまた行かれることを聞いても、第一に鶏が浮んで来てね。こういうのが、やはり、供養というんでしょうね。だから、今日のもつまり、これも鶏供養です。」
「それはそういうものでしょうね。兄さんと行くようなことにでもなったら、あたしあなたの代りに沢山鶏を食べといて上げてよ。」
 千鶴子は鶏の肩の部分にナイフを入れながら、ちらっと矢代の顔を伺って云った。
「じゃ、あなた、また行かれるおつもりもあるんですね。どうも、いまいましいなア。」
 と矢代は、槙三のいる手前もあって軽く、眉を上げて笑った。
「でも、兄さんから行こう行こうって云うんですの。帰ってから半年目と一年目に、一番また行きたくなるって云うけれど、どうもそのようね。何んだかしら、あたしもそのせいか、ときどきふらふらっと、眼暈いするみたいに行きたくなることがあるの。あなたは?」
「僕は今日のように、鶏の出るときだけだ、行きたいのは。」
「外国の鶏はこれよりもっと美味しいんですか。」
 とまた槙三は質問した。
「たしかに美味かったと思いますね。」
 矢代はそう答えながらも、さきから、これが鶏の罰かとひそかに思ったほど、千鶴子の外国行きのことが重く心にかかって来て、暫くは何んとなく空虚な箸の動きがつづくのだった。それにまた、千鶴子たちが東京へ戻ってから、いちいち自分のことを、母親に報告するにちがいない正直な槙三の現在の立場のことを思うと、彼が普通の客とは見えず、何か権威を具えた斥候のように見えて多少矢代は肩もこった。ただ幾らか矢代にとって都合のよいことは、自分が槙三を好きなことだった。
「しかし、あなたもう一度行くのそれだけはおやめなさいよ。」
 矢代は向き直るように千鶴子に云った。
「ええ。」と千鶴子も何か考え込む風に小声で云ってから、
「でも、今度行くのでしたら、あたしみっちり研究してみたいことがあるの。この前のときはすぐ帰るんだと思っていたでしょう。ですから、ほんの真似事みたいに外から調べただけだったけど、帰ってから何んだか惜しくって、あなたじゃありませんが、急に勉強したくてたまらなくなるんですのよ。」
「じゃ、あのとき、あれで何かあなたも研究してらっしたんですか。」矢代は千鶴子との交際の日のことを省みて自分の迂濶さに、今さら驚くように訊ねた。
「あのときは、あなたがいけないんですよ、あなたはただ遊べ、それが何より勉強だって仰言ったわ。」
「いや、あのときは一番それがほんとうだったのですよ。僕だって、あのとき遊んだことだけは後悔したことありませんからね。」
「そのせいね、こんなに帰ってから勉強したくなるの、――あたしね、洋裁の断ち方をもっと勉強して来て、自分で生活をしてゆきたいと思うの。そんなことこのごろいろいろ考えると、愉しいんだか寂しいんだか、よく分らなくなって困るんだけど――」
 どういうことを云いたくて千鶴子はそんなことを云い出したりしたのかと、矢代は暫く考えるのだった。槙三のいるため眼に見えぬ家庭内の気苦労を、露《あらわ》には云い得ず、暗に匂わす彼女の苦しさの歪みかと解することも出来れば、また一方どこかで、自分に衝って来ている角の鋭さも感じられ、矢代は返答に窮して黙っていた。
「こんなこと、もうやめましょうね。せっかくの御飯もったいないわ。」
 千鶴子はふと軽く翻るように云って、吸物をニュームの鍋から椀に注ぎ、それぞれの前に並べた。小食の矢代は皆より先に食事をすませてから、吸物の代りにコーヒーを懸け換えた。
「これで鶏の供養をすませたことになれば、有り難いんだがなア。」
 と彼は呟きながら自分の使った食器の汚れ物を、バケツの中へ入れ、そして、煙草に火を点けた。千鶴子にだけ矢代の呟きが聞えたらしくちらッと彼を見た。
「でも、お美味しゅうござんしたわ。今日のお料理。」
 笑って云う千鶴子の後から槙三も下手な礼をのべた。食卓の上が片づいてから気怠い満腹のままコーヒーになった。暫く誰も黙っている静かな窓の外で、ときどき屋根から崩れ落ちる雪の音がした。矢代は耳の欹つその音を聞いていると、コーヒーの湯気のゆらめきかかる千鶴子の臙脂のマフラから伸びた頸の白さが、なまめいた色に見えた。そして、昨日と違う艶のある部屋になったと思い、片肱で身を卓に支えるのも重く感じた。

 その日は一日、矢代は今までに感じたことのない胸苦しさを感じた。なるだけ快活にしていることに努めてみても、ともすると、黙り込むことが多くなり、疲労のような気怠い重味を胸に覚えてときどき雪の中へ立った。夕食は宿で摂ることにしたので、彼は客を帰してから、ひとり千鶴子たちの宿屋へ出かけた。途中の坂路の曲り角の所で、宿の褞袍《どてら》を着た三人の女と出会った。その話し声の賑やかさが千鶴子の部屋と二つへだてた部屋の、潰れた汚い声の主だちだった。東京のどこか色街から来たと見える一行だったが、女将らしい六十近い肥った女が、二人の抱え妓をつれた夕食前の散歩らしく、
「おいおい、お前だよ今度は。」
 女将は男のような声で若い方の妓の肩を突つくと、一人は云われたまま坂の土手の雪の中へ顔を捺しつけた。前に同じようにして作られた女のマスク二つ並んだ横へ、今度は女将が最後に自分の顔を捺しつけてみて、
「ほう、おれのが一番おかめだよ。」と云いながら、三人声を合せてげらげら笑い崩れた。夕暮前のほの明るい山の頂を連ねたその下で、暫くまた三人は同じことを繰り返して笑いころげていた。
 矢代は邪気を無くした女らの戯れを見ていると、自分もともに顔を洗ったような爽やかな感じがした。彼は坂路に立ち停り、暮れ染ってゆく峰の雪を仰いで煙草を出した。そしてふと今夜自分は千鶴子に結婚のことを切り出してみようかと思い、俄に更った気持ちの動いて来るのを覚え元気になるのだった。
 矢代は宿の方へ歩きながらも、いよいよ結婚を定めるとすると、一度その前に、千鶴子の朝夕の祈りの際用いるカソリックの誓詞を聞いて置きたいと思った。それも知らずに結婚をしてしまっては、法華を信じる自分の母との衝突のあることなど先ず予想していても、その間に挟まる自分の態度に、以後困ることが生じる惧れがありそうだった。しかし、彼は結婚するとしても、何かそこにもまだ冒険を好む心のあるのを感じ暫く胸中の声を聞く慎しみで立っていた。が、ふと急に彼は煙草を捨てて呼吸を殺し、土手の雪の中へ顔を捺しつけた。灼けつくような冷たさの頬に刺し込んで来る中から、明るい玉が幾つも入り乱れ、弧を描いては浮き流れて消えていった。すると、それが暫くつづいていてから最後の乱れた玉の中を、夢で見た千鶴子が幽かに赧らんだ顔で斜めに態を崩して、振り返りざま飛び去って行くのを感じた。矢代はそこで呼吸が切れて来たので顔を上げた。
「何んだったのだろうあれは。」
 彼はまだ灼けている頬をオーバーの片袖で拭いて空を見上げた。彼は暫くしてまた雪の中を歩いていったが、古事記の中で夢を見て行動を起された尊たちのことが思い出されて来ると、玉の緒に巻かれて飛び去った千鶴子の夢の姿の美しさは、何か結婚の慶びをともに祝ってくれた諦めかと思われて矢代は嬉しかった。
 宿へ着いてから欄干よりのテーブルに彼は千鶴子と対い合った。槙三の姿の見えないのを訊ねると、娯楽室へ行ったということだった。昨日から初めて二人きりになった今、理由もなく矢代は胸騒ぎを覚えて山を見つづけた。千鶴子も同じように黙っていた。
 宿の後の山が谷を越し向うの山の頂近くまで影を投げていて、雪を冠った雑木が睫のように刺さった裾の方に鉄橋が見えていた。
「あたしたち、明日の朝帰ろうと思いますの。」
 と千鶴子はまだ山を見たまま低く云った。
「じゃ、そろそろ僕も帰るかな。」
「あなたお帰りになったら、田辺侯爵に一度お会いになって下さらないかしら。」
 千鶴子はどういうものか、云い難くげに顔を赧らめて矢代を見た。
「会いますが、それはまたどうしてです。」
「どうってこともないの。ただね――」
 千鶴子は一寸言葉を切った。
「あたしのお母さん、あなたとお会いしたことないものだから、やはり、どなたか中に立っていただいといた方がと思って、侯爵にお頼みしたらと、そんなこと、あたしひとりで考えたの。でも、あなたもしお嫌いなら、いいんですのよ。」
「そういうことならいつでもお会いします。」
 と矢代は簡単に云った。
「じゃ、ありがたいわ。」
 千鶴子は山の頂の方をほッと開いた軽い笑顔で見上げた。頂の雪だけ明るくオレンジ色に染め残した峡間に、ますます濃い薄暗が迫って来た。
 矢代はこちらから云い出そうかと思っていたことを、そんな自然な表現で千鶴子から切り出して来てくれたのは、何か母との間にいよいよ話せぬ溝の深まりが生じて来たためかと思った。それを彼に覗かせたくもない彼女の苦心の一方に、またいくらか、彼に知らせねば自分の躊躇の理由も伝わらぬ思案の末の工夫かと思うと、矢代も感動を覚えて千鶴子の見上げている同じ山頂を仰ぐのだった。
「しかし、あなたのお母さんの方は、そんなことで納得されるんですか。僕は暫く無理はされない方が良いかと思うんですがね。」
「ですからあたしもそれを考えてるんですの。お母さんは少しむずかしいものだから、何んだか分ってくれないところもあるんですのよ。」
 千鶴子は山の頂からすぐ真下の路上に眼を降ろして伏し眼になった。炭俵と蜜柑を積んだ手橇が一台人もなく雪路に停っていた。そこへ餡パンを啣えた宿の小さな子供が出て来て、手橇の柄を掴み、それを動かしてみようとしてうんうんと力み出した。
「お父さんの方はどうですか。」
 と矢代は下の子供を見降ろしながら千鶴子に訊ねた。
「父はいいんですの。だけど、こんなことは、お母さんの云うとおりになる人なの。」
「僕の方はいつまでだって待ちますよ。あなたのお母さんにお会いしてもかまわないんだが、もっとはっきり嫌われるだけだと分ってからの方が、勇気が出るかとも思うので、まアそれまでは、このままの方が無事でしようからね。」
「あなたのお母さんは。」
 千鶴子はそれが何より気がかりだという風に、急に欄干から頭を上げ眼を耀かせて訊ねた。
「僕んところの母は、僕が頼めば承諾は必ずしてくれると思うんです。しかし、あなたがカソリックだと分れば、それからが厄介なところがありそうですね。何しろ僕の母は法華なものだから、これは曲げようにも曲らない。しかし、ただ一つ見どころがあるので、そこを何んとかうまく僕はしてみるつもりです。」
 矢代はこの宗教の違いのことだけは口には出すまいと思っていたのだったが、云うべきときには云って置くのも、後の邪魔を取り去る何事かになりそうに感じ、つい母の法華のことも云ったのだった。すると、籐椅子のきしむ音を立て急にまた千鶴子は悲しげに欄干の方へよりかかって下を見た。
「しかし、僕は失望はしていないのですよ。一度こういうことがあったので、――一寸お聞きなさいよ。あなたにだってこれは重要なことだから。」
「何んだかあたし、悲しいわ。あなたのお母さんに叱られた夢を見たこと思い出すの。――」
 千鶴子は手巾を出し眼をそっと拭いた。
「しかし、そんなことなど、一度や二度は必ずあると思うべきでしょう。あなたがカソリックで母が法華なら、反りを合そうたって、合すことの出来た人がありましたかね。だから、やってみるのも面白いでしょう。」
「やれないわ、あたしに――」千鶴子は手巾の中で呟いた。
「勇気がないんだなア、カソリックのくせに、僕のことを考えてみてくれたまえ。僕はカソリックと法華に挟まれて、君どころの騒ぎじゃないんだから。」
 二人はまた黙り込むと下を見た。下の路で橇の柄を握り力んでいた子供は、執拗くそれを動かすことをやめようとしなかった。餡パンを啣え口を空に向け、ふんぞり返った顔を充血させていたが、橇は微動もしなかった。すると、子供は手を放して後ろへ廻り今度は後から橇をうんうん云って押してみた。明らかに荷の勝ちすぎているのが、上から見るとすぐ分ることだったが、下からでは動きそうに見えるのかもしれぬと矢代は思い、自然に自分の今のことも思い合せてなお下を見つづけるのだった。
 そのうち子供は餡パンを一口食べてからまた思い切れずに前に廻った。そして、橇の柄にぶら下ると今度は自棄になって足を柄にひっかけ、逆さにぶらぶらしながら唱歌を唄いだした。千鶴子も矢代も思わず一緒に上から笑った。
「ああでなくちゃ駄目だ。あの子はきっと出世をするな。」
 と矢代は云った。
「ほんとにね。あんなになればいいわ。」
 千鶴子も幾らか機嫌が直ったらしかった。
「僕らのも動かす方法をさえ考えれば良いのだが。」
「じゃ、あたしどうすればいいとお思いになって。」
 千鶴子は欄干から身を起し生真面目に訊ねた。
「まア、餡パンを食ってみたり、押してみたり、唱歌を唄ってみたりしているうちに、時間が来ればあの橇の主が出て来て曳いて行きますよ。人の運命と云うものは、そんなものじゃないのかな。」
「じゃ、あたしたちの橇の主は誰かしら。」
 千鶴子は一寸あどけない表情になりあたりを探す風に見廻していたが、それも困惑した思いに衝きあたったらしく、また苦しげな元の顔に戻って来た。
「僕は一度あなたにお訊ねしたいと思っていたのですが、毎日お祈りをされるときに、あなたらの使われる誓詞があるでしょう。それを一つ僕に教えていただきたいのですよ。どう仰言るのです。」
 千鶴子としては答えがたいことかもしれぬと矢代は思い、穏やかな気持ちでそう訊ねても、こんなこととなると争われず密偵のようなさぐりを入れる感じで心が曇った。
「あたしのは学校で教わったころのままですわ。」
 と千鶴子もすぐ、矢代の質問の意味を感じて他所行きの顔になるのだった。
「どうもいけないな。こんなことは知って置く方が良いのか悪いのか、僕にはまだ判断が出来ないんだが、しかし、誰にしたところで、心の中でそっと唄う唱歌はあるんですからね。さっきのあの子供だって、最後はくたびれて歌を唄ったですよ。あれは、橇の主を知らずに呼んでいる声なんだもの。そんなものがあなたにだってあるでしょう。」
「でも、そんなこと、御存知でしよう。」
 千鶴子はますます不愉快そうだった。宗教の違いとなるとこんなにも争いがつづくものかと、今さら矢代は事の難しさに、安心の出来ぬいら立たしさを感じて下を見た。間もなく宿の廂の下から藁沓を穿いた橇の主が出て来ると、坂下の方へ炭俵をひいて下っていった。しかし、このときは、もう矢代は動き出した橇を眺めても興味が起らず沈むばかりだった。
「僕たちは人より一つ、余計なことで苦しまねばならぬとはいいことじゃないですよ。こんなことは始末につかないことだと分れば、その分ったことの範囲で何んとかしなくちゃ、僕はつまらぬと思うんだが。――何もあなたを嫌いで僕が虐めているわけじゃなし、――」
「あなたはあたしのそんな悲しみ、御存知ないんですもの。あなたのお母さんのことを思うと、きっと、あたし、叱られてばかりだと思えて、それが悲しいんですわ。あなたはお母さんの味方ばかりなさるの、定っているんだし――」
 千鶴子は矢代を正面からじっと見詰めて眼を放さなかった。彼の母に対する嫉妬のようにも見える強い千鶴子の眼差に、矢代は何か俄に返答を迫られているような怯みを覚えて身が緊った。
「しかし、どういうものか、女の人というものは、良い宗教でも邪宗にするくせがあるんじゃないかな。僕の母を見ていても、子供の僕でさえ困ることがあるんですよ。僕の父は家代代の真宗なんですがね。母ひとりは法華なんです。それというのは、母の実家が法華なものだから、小さいときから南無妙法蓮華経で育ったでしょう。ですから、僕の父の所へ来てからでも、南無阿弥陀仏ではどうしても有難さを呼び醒すことが出来ないらしいので、そこでひとりいつも苦しんだらしいのですよ。実際それは、真面目になればなるほど苦しいにちがいないんだし、そうかといって、良い加減に捨てても置けないことでもあるしして、やはり今でもそこに、何か、父との間でごたごたしているものがありますね。」
「じゃ、あなたはどちらですの。」
 と千鶴子はすかさず訊ねた。
「僕は古神道です。」と彼はここだけ小さな声で云ってから、
「しかし、これは宗教じゃないですよ。神道とも違います。」と云い直した。
「古神道って、何なのかしら、あたし初めて聞いたわ。」
 千鶴子は羞しそうにこれも小声で云うと、微笑を浮べたまま、遠い夕空を見上げていたが、それでもまだ容易に訝しさの去らぬ表情だった。山頂に漂っている明るさはもう空からかき消え、峡間には刻刻暗さが増して来た。そこへ槙三がのそり娯楽室から戻って来ると、氷柱の下った廊下が急に遽ただしくなった。そして、女中たちの火を運ぶ音や、膳を置く音がつづいてして、矢代たちのいる部屋にもその忙しさが廻って来た。
 食事がそれからすぐ始まった。千鶴子は女中代りに男たちの茶碗の世話をしながらも、まだ矢代に云われたことが頭に閊えているらしく、あまり話さなかった。矢代は槙三に多く話を向けるようにして、物理学に関する新しい話題を聞き出すように努めるのだった。
 槙三が物理学の一番困っている新しい仮説の創造ということについて述べ終ったときに、
「ね、槙さん、お話別だけど、あなた古神道って御存知。」
 と千鶴子は横から訊ねた。
「さっきもこの方ね、自分は古神道を信じているんだと仰言るのよ、そのくせ何んのことか仰言らないわ。あなただって知らないでしょう古神道って。」
 槙三はただ黙ってにやにや笑っているきりだった。
「いや、それや、これはむずかしくって、僕だってよく分りませんがね。まア、一切のものの対立ということを認めない、日本人本来の非常に平和な希いだと僕は思うんです。ですから、たとえばキリスト教や仏教のように、他の宗教を排斥するという風な偏見は少しもないのですよ。千鶴子さんなんかの中にもこの古神道は、無論流れているものです。つまり、あまり高級すぎて人には分らない点が、どうもいつも損ばかりして来たのですね。また一つはそこが良いのだけれども。」
 矢代はそう云いながらも、ふと来る途中雪の中で見た、玉の緒をつらねて飛び去った夢の千鶴子の姿を思い描いた。そして、あの千鶴子とこの千鶴子、と思い較べ、なおよく眼の前にいる彼女を更めて見直すのだった。
「じゃ、古神道って、カソリックも赦して下さるものなのね。」
 千鶴子はそれで初めて安心したと云いたげに眉を開いた。
「それは明治六年の三月十四日以来ですよ。僕はちょっと調べてみたんだが、その年には内閣の大臣が、家族の葬式をカソリックの式にして、外人の導師に随って公然と行っていますね。その日までは、カソリックのことを邪宗門といっていたのが、それからは逆に古神道が邪宗といわれる風が生じて来ているのです。それも日本の法律が神道ではなく、あくまで古神道を中心に創られているのにですよ。いつの間にやら万事すべてがあべこべなんだ。」
 槙三はやはりにやにや薄笑いを洩しながら御飯を食べていた。
「僕はそういう風なことに気がついたもんだから、せめて千鶴子さんのお祈りのときに云われる言葉だけでも、知って置きたいと思って、それで実は、さっきも、ああいう失礼なことをお訊ねしたんですよ。訊ねざるを得ないじゃないですか、僕とすれば。」
 矢代は食い物のこともうっかり忘れて云ったので、声も幾らか高かった。
「でも、あのときは無理だわ。あなたの仰言り方があんまり突然で、何んだかあたし、踏絵を命ぜられたみたいに思えたんですもの。」
「踏絵か、なるほどね。」と矢代は云った。
「あなたの身代りに、僕が踏絵をしようというときだったのに。――実際もし日本が徳川時代に、実権が幕府になかったなら、キリシタンの大虐殺はなかったですよ。もしあのとき明治のように、古神道が法律を動かす中心だったら、踏絵などという残酷なものはなかったと僕は思いますね。」
「じゃ、あなたのなさる古神道のお祈りっていうのは、どんなに仰言るの。」
「人のは知らないが、僕のはただイウエと発音するだけなんですがね、これを早くいうと、いわゆる気合みたいになって、エッと聞えるけれども、まアそれでも良いのです。あなたなんかのは長長と、他宗に聞かれちゃ困るようなことを、云わなくちゃならぬのでしょう。」
「イウエっていうのは、それはどういうことを意味するんですか。」と槙三は訊ねた。
「言霊ではイは過去の大神で、ウは現神でエは未来の神のことです。ですからこの三つを早く縮めて一口に、エッと声に出してお祈りするのですが、そうすると、日本人なら誰だって元気が満ちて来るでしょう。このイという字とウという字とを大昔は石にして、勿論古代文字ですが、どこの国へも一つずつ神社の御本体として祭らせたのですね。ところが、淫らな形をしているという理由で、淫祠だなどと云って、引っこ抜いてしまったのです。『イウ』という、この二つの言霊の根本を引っこ抜いたものだから、さあそれからは日本が大変だ。しかし、日本人は困り出すと、何んのことだか分らずとも、エッといって、元気になって何んだってやっちまう。これが生という愛情ですよ。僕のお祈りも、まア簡単に云えばそんなものですが、今度は一つあなたのお祈りを聞かして下さい。」
 と矢代は千鶴子を見て云った。千鶴子は何か云いかけようとして、やはり言葉を反らせた。
「あたしのは紙へ書いて、明日帰るときお渡ししましてよ。長いんですもの。でも、あなたの仰言ることだと、あたしにも古神道はあるんだと思って安心出来ましたわ。今夜はほんとに良いお話承って良かった。」
 千鶴子は気晴れのした手つきでお茶を淹れ、矢代の前に出した。しかし、槙三だけは食事が終ってからまだひとりにやにや笑ってばかりいた。
「しかし、さっき仰言ったようなことで、近代人が満足出来るものですかね。」
 暫くして、壁に靠れた槙三は茶を飲みつつ云った。
 矢代を揶揄する風ではなくとも、明かにどこか彼に失望を感じた正直な声だった。
「満足なんて幸福は近代人にはないのですよ。」と矢代は云った。「ギリシアの幾何学だって、イウエ、みたいな三つの辺からなる三角形が根本でしょう。言葉だって同じで、五十音のどんな音にしても、イウエの三つの母音にすべてが還って来るということを、日本の古代人は知っていたのですよ。それから数というものが考えられたことですね。ですから僕は、ギリシアの文明は三角形から発展したに反して、日本の文明は三音からだと思うようにも単純になってるんです。あなたも一つ、新しい物理学の仮説を創ろうと苦心されるなら、この音と形との原理を一つにして、時間というものの素質をもう一度、エッと云ってみて、考え直されることですね。そうすると近代人の満足というものが得られるかもしれませんよ。」
 矢代はもう半ば冗談のつもりで云って笑った。すると槙三は急にぴたりと微笑をとめて黙ってしまった。
「外国にも逆まんじがありますが、あの形は日本の言霊の原型図と似ていますよ。あれは日本では生命力というものの拡がりを幾何学化したものだということを、外国人は知っているのか知らぬのか、そこはまだ僕には分りませんが、恐らくは何かもっと違った理由があることでしょう。」
 槙三はこのときだけ「うむ」と低くひとり頷いた。しかし自分の護っている学問の世界だけは微動もさせまいとする薄笑いが、再び彼の唇から洩れて来た。

 次の朝矢代は小屋から温泉へ行った。千鶴子の部屋を覗いて見ると、槙三だけがまだよく眠っていたので起さず、彼は湯へ引き返した。濃霧がいつもの朝のように浴場に立ち籠めていて、昨日雪の中へマスクを捺しつけていた三人の婦人の声だけ、特別喧しく耳に聞えた。
 矢代は湯の中に千鶴子のいることを感じていた。昨日の朝はどういうものか浴場で顔を合したくはなかったのに、今朝は間もなく別れて千鶴子が帰るためもあって、その前に二人きりで話したく思い、絶えず彼は霧の底からあたりを見廻した。槙三から離れてただ二人きりになるためには、実際この朝の浴場のひとときより矢代には時間がなかった。それも昨夕計らず千鶴子から云い出した婚約のこともあるのに、まだこんな場所を撰ばねばならぬ二人だと思うと、矢代は外国の旅というものの、二人が会うためにはいかに広く特殊な世界だったかを思い、今さらに驚き振りかえってみるのだった。
 彼は浴場を一廻りしてみてから、隅の方で身体を流している婦人らしい人影の傍へ近よってみたが、身体の輪郭だけ朧ろに曇って見えるだけで、やはり誰が誰だかよく分らなかった。そのうち寒けを感じて来たのでまた湯に入ろうとしかけたとき、
「あら。」
 と千鶴子が不意に水面から顔を上げた。
「やあ、お早う。」矢代は全身鏡を受けたように感じて云った。
「いついらしたの。」
「今さきです。」
 二人は湯に浸ったまま朝日の射し込んで来る窓を見上げて暫く黙った。体で膨れた豊かな湯の連りに、乳色に染った眼界が雲間の朝の浴みかと見えた。少し離れた位置をとると、もう顔も見別けのつかないほど霧が舞い込み、ぶつかる湯の波紋が二人の顎の間できらきら光った。
「あれからよく眠れましたか。」と矢代は訊ねた。
「あれからお手紙書いたの。後でお渡ししますわ。」
「それはどうも――」
「なるだけあなたも早くお帰りになってね。」
 浴槽の縁へ溢れる湯の波が、朝の眼醒めのようにぴちゃぴちゃ元気よく鳴りつづけた。窓の上の長い氷柱の垂れ間に聳えた雪の山山を眺めていると、矢代は二人の結婚の前に邪魔している多くの事柄も、もう考えるのはいやだった。湯の温まりが全身に廻って来たとき、彼は窓の傍へ行って身体を冷やした。そのあたりだけは霧が届かず、見るまにガラスが体の温気を吸いとって曇っていった。どの樹も雪にしな垂れた峡間の冷たさが膝もとから刺し上って来た。
「東京へ着くのは幾時ごろです。」
 矢代はうっすらとぼけ霞んで見える千鶴子の方を向いて訊ねた。
「三時過ぎになりますかしら。」
 日の光りが霧を切り、縞になって湯の一角へ透っていた。その光りの筒を仰ぎながら体を捻じて、千鶴子は湯を肩からかけ流す昔を立てていた。乾いた蛇口の雫を待ちかねた水仙の花が、湯気に煙った千鶴子の肌の後から見えるのも、別れの前の矢代には忘れがたい一瞬の光りのようなものだった。

 東京へ帰る千鶴子らの汽車を送り出してから、矢代はひとり駅前の広場に立っていた。踏みつけられた固い雪に朝の日が射しているので、足もとの寒さにも拘らず肩は温かった。彼はすぐ山小屋へ引き返す気も起らず、何んとなく愉しいままに駅前の汁粉屋へ這入って火鉢に手を焙った。狭い家の中は日光に照り輝いた前後いちめんの雪で明るかった。彼は千鶴子のいるときよりも、むしろ今のひとりの方が延びやかに感じられ、汁粉を待つ間が、思いがけない幸福な時間になるのだった。
 千鶴子の渡していった手紙が、ときどき外套のポケットの中で重く手に触れたが、彼はその手紙のために紊される今の愉しみの方が惜しまれ開封しなかった。今としては、ただ双方に結婚の意志が失われずあると分っているだけでも、彼は充分に恵まれたこととしなければならず、その他のことではたとい不満なことが多かろうとも、結婚を急ぐことさえしなければやがて消えるべき不満だった。
 雪の中に蜜柑の皮の落ちているのを眺めながら、矢代は自分の母へ千鶴子のことを打ち明けることも考えた。しかし、それも彼女の母の気持ちの定らぬ限りまだ云い出すときでもなかった。もしそれを云い出したときの渋る自分の母の顔も想像出来た。殊に両家の財産や宗教や、血統などの違いを知った場合に起る母の足踏みを思うとき、
「さて、困ったね。」
 と思わず火鉢の上へ胸をのり傾けて呟いたが、それもさほど弱ったことでもなく、そんなに呟いてみただけのようなものである。
 雪に包まれた中で舌にのせる汁粉は美味だった。満目の白さが甘い液汁を包んだ塊のように見えて、日に解けとろりと崩れた部分の湿り工合まで、味わい深かった。
 駅からの帰りは橇にせず彼は歩いていった。靴の下で根雪の鳴るのもこの朝のは踏み応えのある音だった。辷らぬように彼は両手を大きく拡げ、鰐足になって、ゆっくり歩くうち妙におおらかな気持ちを覚え、枯松葉を焚く匂いがどこからか掠みとおって来ると、それがまた奥山の匂いとなり一層胸が緊った。
 街端れをすぎて影の消えた所へさしかかってからは、邪魔物もなく降り注ぐ光りでますます矢代は幸福を感じた。それは千鶴子とはも早や何んの関係もない、自然の法悦のようなものだった。
 谷を見降ろし山を見上げる眼に、波うつ雪の白さがうす紫に霞んで見え、足もとのあたりからぼっと金色の光彩の打ちあがって来る中に、自分の影だけ長く後に倒れかかっていた。足に気をつけて歩いているためか、間もなく脇下から汗が流れて来た。彼は休んで空を見上げると、実にふかぶかとして澄んだ空だった。またそのあたりが千鶴子を橇に乗せて来たとき、風の荒れ狂った場所でもあった。あの風に乗って狂いはためく羽音を立てて橇を襲った、例の夢中の千鶴子の飛び廻ったところもこのあたりだ。それに今は、澄み返った空にくらげの浮き漂うような安らかさで、また何ものか透明な流れるものの姿を感じ、矢代は、その諦めたようなひっそりした静けさにふと悲しみを覚えた。
 彼はあの夢の千鶴子が忘れられずいとおしかった。もし千鶴子と結婚が定まれば、もうあの夢とも最後かもしれぬ。そう思うと、見上げる空の色がいつもより遠ざかって深かった。
「いや、あれだけは幻影とは思えない。たしかにあれは本当だ。それだから別れがこんなに寂しいのだ。」
 矢代はそうひとりぼそぼそと呟きながら、光りに射し返った金色の波の上を鰐足でまた渡っていった。

 小屋へ帰ってから、矢代は千鶴子の手紙の封を切った。手紙には、彼の予想したこととはそんなに違わぬことが多かったが、その中に、彼女の母の奨める青年が早く返事をくれとしきりに迫って来ていることと、今一人別の青年と二方から押して来ている縁談に挟まれ、日夜苦しくなっている立場のことなど、精しく矢代に談そうと思って果せなかった残念さなど書いてあった。そして、終りの方に、
「でも、今夜はあたくし愉しゅうございましたわ。これで帰りましても、暫くは元気でいられることと思いますの。あなたのお気持ちお変りにならないこと存じました上は、どんな我慢もする決心でおります。ただ母のことだけは、あたくしの決心が固まれば固まるほど、暫くは母も意を和げてくれなさそうに思われますので、さぞあなたに御不快をお与えすることと存じまして、それだけは心配でございます。外国へまいりましたときは、帰れば母との約束のまま、母の奨める人とと、そんなに軽軽しく考えておりましたのに、こんなに自分も変ってしまいましたのは、どういう神さまのお気持ちでございましょうか。私の喜びも早すぎることだと思わせるようなことなどもう二度となさらないでいただきたいと念じます。」
 千鶴子の文面に表われた歎きや歓びは、まともに矢代にも響いて来てひと息に読み終えた。しかし、最後に約束のカソリックの誓詞が出て来たとき、急に矢代は胸を突き跳ねられたように感じて読み下すのが恐ろしくなって来た。やはり、こういうことは訊くものでもなく、読むものでもなかったと彼は初めて後悔した。
「ああ天地《あめつち》のもと、われら敬愛の心もて、御身の御座所《みくら》の前にかく平れ伏し、讃美の誠を捧げまつる。われら身をきよめ御身を敬いまつることを人に弘め、歓びに心とどろき、僕《しもべ》たる身を貴しと思い、御身を讃めたたえまつりて、その大いさを説き示し、み保護のもと歓び行いて、御宿りのいかばかり美しきかを人に教えまつらんことを希う。かくわれらあらん限り、御身のみ心をおのれとし、み栄を高くかかげて、異端者の悪しき思いやあまたの人の心なき業、また、そそっかしき心もて受けさせ給う侮辱《あなどり》をも、そそぎまつらんことを希う。」
 ここまで読んで来たとき、矢代はもう普段の気持ちではおれなかった。その中の非人間的な浄らかな呼び声の流れる中の、特に、異端者の悪しき思いをそそぎまつらんことを希うというところまで来ると、自分を突き伏せて来るように感じ思わず矢代も身構えた。今まで文面から受けた歓びも素直な歓びとはならず、むしろそこから歪みを帯びただけではなかった。固く重い鉄筋がずしりと落ち込んで来たような手のつけようもない異様な気味悪さで乗しかかって来るのだった。
 勿論、手紙の終りには、そういうことを勇気を出して正直に書いた自分に対して、気持ちを悪くしてくれぬようにとあったが、それでも矢代は身の沈む思いで寂しかった。これほど希いをかけて自分の愛して来たものが、こんな祈りを毎日していたのであろうか、またそのために身の慎しみを今まで千鶴子が支えつづけて来られたのだと思ってみても、矢代は苦しくなり、そぞろに怖れを感じた。しかし、もう彼はどうしようもなかった。
 その日は一日矢代は本が読めなくなった。夕暮になってから彼はランプのホヤを磨きにがかった。油煙で黒く煤けている部分に布を通し、呼吸をガラスにふきかけては拭くのだがその間も、曇りの消えて透明になってゆくホヤに窓際の雪が映って来ると、また彼は千鶴子の誓詞の言葉を思い出した。
「異端者。」
 何んとなく矢代はこう呟いて自分を省るのだった。それは「不徳漢」という一種の刻印を、誰からか無理に額に打ち込められたことと同じだった。今までにもこんな言葉はたびたび見た。しかし、今のように直接自分に向けて云われたことはまだなかった。彼は初めて異端者と呼ばれた無気味さが、胸に擬せられた刃となって消えなかった。彼はその光った尖を見詰めて脱さず、絶えず何ものかに立ち対う気持ちがつづいて夜になった。が、もし千鶴子と結婚すれば、いつもこんな刃と対う日日になるのだろうか。しかも、それが自分の先祖の城を滅ぼしたものだとは――。
 夜が深まって来ても矢代には笑うに笑えぬ重苦しさがつづいた。月の鋭く冴えた谷底の方で雪の崩れ落ちる音がしていた。矢代はストーブに薪を投げ込み、部屋をいつもより暖くして湯気を立て、陽気に気持ちを引立ててみることに努めてもみた。しかし、安土、桃山から五十年の間日本の多くの優れた頭を悩ませたその刃であった。また、明治から今まで七十年の間、同様に優れた人人の胸に突きつけられ、今もなおどちらを向こうとも面前に立ち顕れ、「不徳漢」と狙って来る精神の白刃であった。
 それも日本人のみならず、世界のどこの国の人間も、一度はそのような目に会わされ、また以後生れて来るどんなものも、おそらくこれからは避け得られそうにもない刃だった。
「異端者か。なるほど――」と矢代はまた呟いた。
 実際、この一ことの言葉を云われたために、どれだけ多くの人人がこれと闘い、自分の生命を奪われていったことだろうと矢代は思った。しかも、今やそれが矢代の意識《こころ》にも迫って来たのである。たとい千鶴子が直接彼に云わなくとも、何ものかが千鶴子を通し、指で彼をさし示して云ったのと同じだった。
 しかし、矢代はそういう場合に、その異端者である自分がいよいよ千鶴子と結婚するのだと思うと、差し向けられた刃より、むしろ、それに滅ぼされた自分の先祖たちが、自分の背後から立ち襲って来る呻きの方を強く感じた。腹背から受けたその差迫った険しいものの間で、矢代は、辛うじて呼吸をしている白白しい時間をつづけるばかりだった。
 丁度そうしている胸苦しい時だった。谷を下って行く貨物列車の音がして、それが消え去った夜空の静けさの中を、宿の方から鈍く重い鼓の音が弾んで来た。鼓は暫くは何気なくただ、「ぽん、ぽん、――ぽぽぽんぽん」とつづいていただけだったが、そのうちに腹に溜った悪液を押し出す作用をして、一音ごとに首が延び上り、軽くなる腹部とともに鼓の音も冴えて来た。
 前から矢代は楽器の中で鼓が特に好きだった。そのせいもあってこの音をきいている間、彼はどんなことも忘れて聴き惚れる癖があったが、折よく丁度こんなに聞えて来たその偶然が、何ものの仕業か矢代には嬉しかった。
 暫く鼓は打ちつづいて絶えなかった。遠い闇を貫いて腹を響かして来るその音はおそらく古代の遠くから伝わり流れて来て、まだそのまま途絶えぬ唯一の楽器の音にちがいないものだと思った。
「ぽん、ぽん、――ぽぽぽんぽん。」
 矢代は奇妙に気持ちが明るくなるのを感じた。たしかに今の矢代にとってそれは救いの音のような啓示のある打音だった。彼は戸を開けて外へ出てみたくなって靴を穿いた。
 雪の峰峰に抉られた空の底で月が鳴り出しそうに光っていた。矢代はふとチロルの山の上で、氷河に対い祈りを上げていた千鶴子のことを思い出した。あのときの千鶴子の祈りはああ、そうか、――矢代は白装束で跪いていたあのときの千鶴子の覚悟を今初めて感じたように思った。あのゲッセマネのキリストの祈りも知らず、自分は西洋を旅していたのだろうか。
 しかし、なお鼓の音は雪の中を響いて来て止まなかった。雪よりも氷の中の祈りを見よ、というように、――
「ぽん、ぽん、――ぽぽぽんぽん。」
 とつづく打音は、矢代にある勇気を起させて澄み透って来た。それは積み重った無数の死の中を透って来て蘇らせる音であった。キリストさえも蘇らせる音に聞えた。彼は坂路を頂きの方へ越して行ったがまだ踏まれぬ雪がますます深くなって来た。人家の灯はどこからも見えなかった。
 川は凍りつき氷の裂け目から流れ出ている水面だけ、僅に月に射し返って明るかった。水鳥が一羽ゆるい羽音をたてて飛んでいった。矢代は水面に明るく渦巻いている月の光りを眺めていると、どういうものか一度みそぎをしてから日本の中を歩きたい気持ちを強く感じた。もし千鶴子と結婚するなら自分はそれを済ませてからにしたいと思い、越後の国境いの高原の方へ出ていった。
 平坦になった路と並んで続いている瀬が、川床の石に捻じ曲り、綾を描いて潜り合う細流に月がますます冴え耀いた。

 矢代が東京へ戻ったときは、塵埃のかかる垣根から覗いた紅梅の蕾に粉雪が降っていた。樹の梢も薄紫の色を含み、早春の静かな歩みを知らせた照り翳りの日が多くなった。こういう日、塩野の写真展が資生堂の画廊で展かれることになった。矢代はバスの停留所まで出かけたとき、いつも見上げた欅は空から姿を亡くしていた。根元の太い切口が鮮やかな白さを残したまま、その周囲に広い空地が出来ていた。矢代は日光に満たされたあたりのさっぱりした表情を、移り変って来た新しい隣人を見る思いで覗いていたが、暫くはなじめぬながらも、最早や過ぎた日の歎きは彼には起って来なかった。
 資生堂へ行ったとき、ホールの受け付けの椅子の傍で矢代は塩野と会った。塩野はいつものときより少し興奮の面で近よって来て、
「長かったんだね、雪の中。――そうそう、さっきここに千鶴子さんいたんだが、お茶飲に隣りへ行ってるよ。行こうか。」
 と塩野の癖の無造作さで矢代を誘った。
「まあ、写真を見せて貰ってからにしよう。壮観だね。」
 矢代は壁面に並んだ数十枚のノートル・ダムの写真をひと渡り眺めた。見覚えの怪獣や尖塔、廻廊やステンドグラス、側壁やキリストの彫像など、大きく引き伸ばされた鮮明な姿で、一瞬カソリックの大本山の実物が矢代の頭の中に氾濫した。
 彼はベンチで混雑した気持ちを鎮めて順次に左の方から眺めていった。初めの間は気づかぬことだったが、間もなく額縁の中の尖塔の鋭い美しさから、再び危く胸を刺して来る刃を感じるのだった。彼はすぐ千鶴子と会うのだと思うと、今はそういう危い目も振り払って進んでいる自分だと思った。しかし、さまざまな思想の流れの中を突き抜けて来た強靭無類なもののその美しさも、こうして胸に受ける白刃の冷たさ鋭さと映るのが――この自然に対決を迫って来て熄まぬものは何んだろう。――
 明らかにただ美術として眺めていられぬものが、この科学寺のどの一枚の写真の陰影の中からも射していた。またそれは、幾度となく世界を覆していってまだ熄みそうにもない不思議なものだのに、それを思わぬ限りは、誰も彼もこの写真の前をただ過ぎぬけて通って行くだけだった。その無邪気さの中には、なお一層ぴちぴちと跳ね返った、哄笑するものの不思議な力が潜んでいるのだと、矢代は思った。それらの群衆の誰もは、皆ほとんど異端者ばかりだった。
「どうも写真というものは実物を考えさせて困るね。」
 矢代は狂人のようにノートル・ダムを撮りつづけた塩野の熱心な姿が泛んで来て、傍の塩野にまた云った。
「少しぼかしになってるが、やはり君は考えたなア。」
「うむ、少しぼかしてみたんだ。この程度にぼかしたいと思うそこんところが、どうも難しくってね。」
「そこのところか。なるほどね。」
 塩野というこの写真の達人の苦労が、カメラという科学の眼をぼかす苦しさに変ったこれが個展かと思うと、矢代には、また更まった意義深いものが生じて来て壁面を見直した。
 ホールに観覧人が増して来たがみな静かだった。何かしかし矢代には見ているうちに、考えきれないものばかりを見事な統一をもって緊めているのを感じ、優れた塩野の腕前も次第によく分って来るのだった。
「やはり君は東洋の名人だね。カソリックを少しぼかして見せなければやりきれないんだから、なかなか親切な人だ。どうも有り難う。」
 と矢代は礼をのべて笑った。
 窓から外を見ると、日を浴びた群衆の帯が建物の切れ目いっぱいに流れつづけていた。これも異端者ばかりだった。
 塩野は入って来る知人の応接に暇もなくあちらへ往ったり戻ったり絶えずした。
 寺院の写真のせいかみな誰も脱帽で、外套まで脱いだ観覧人の姿がホールを美しく浄めていた。
 そのとき矢代の肩に軽く手が触り、千鶴子が後から彼を呼びとめた。
「山ではありがとう。」
「やア、あのときはどうも――急に街の中へ出て来たので眩暈いがしましてね。由吉さん、どうしていられます。」
 矢代がこう云っているところへ、塩野はまた寄って来て、千鶴子の傍に立っている黒い洋装の美しい婦人を彼に紹介した。
「このかた田辺侯爵夫人です。」
 あまり不意のことで矢代は黙って会釈をした。夫人も同様に静かな会釈だったが、服装の趣味の良さはたしかにあまり見かけない人だった。襟飾のレースも小さく、細い優雅な長靴の斜めに切れ下った切り口との調和が、端正な姿をきっちりと纏めて狂いはなかった。どこか笏を持った推古朝の宮廷人を思わせる服装だった。
 矢代はこの夫人が自分たち二人の結婚を整えてくれる人の一人かと思うと、自然に謙遜になるのだった。
「あれからあなた、御病気はなさらなくって?」
 棕櫚竹の葉のなだれかかった窓際で、千鶴子は矢代に訊ねた。
「まだ一向にしそうもないですね。もう逃げてくれたのでしょう。槙三さん、また学校ですか。」
 と矢代は訊ね返した。東京へ戻ってから母に伝えた槙三の報告は恐らく芳しくないにちがいないのを、前から矢代は覚悟していたからだった。
「ええ、ありがとう、元気でいっておりますわ。」
 日の射しかかっている方へ踉めき出る煙草の煙りを眺めながら、千鶴子の顔は幾らか沈みかかったが、また支え直す笑顔も消えなかった。矢代は、槙三に山の湯の中で話したようなことを友人たちに云った結果は、丁度パリでの久慈とのようにいつの場合も悪かった。それを承知で槙三にも話したのは、一つはその避けられる悪結果を延ばすより、一時も早く通り過ごさせてしまいたかったからだったが、友人たちでさえ顔を顰めて攻撃する事柄を、撰りに撰って結婚の相手の兄に話さねばいられぬ苦痛も、しかし、まだまだこれで鎮まってはいないのだと思った。もしこの自分という日本人の本心をのべる心をさらけ出し、熄むに熄まれずうち明けて言葉を云えば、そして、もしそれを貫き通してゆきたい思いをこれ以上続けてゆけば、どの友人たちからも見捨てられるだけではなかった。千鶴子との結婚も砕いてしまう作用を強くして行くばかりの不幸の来ることも分っていた。何か自分の行く所すべて人人は飛び散っていなくなる火を、もう自分は抱き擁えてしまったのだろうか。――
 矢代は壁面のノートル・ダムの写真をまた眺めた。このカソリックの本山の写真の前では、これで千鶴子も、今の彼の姿を眺める気持ちも、常とは違うであろうと矢代は思った。しかし、それも秘かにそっと隠し、彼の苦しみを分け持とうと努めていてくれる千鶴子の優しさが、さきから矢代には分っていた。互いに慄える手を探り合って握りつつも、どこかに身の近づけぬもののある画廊ながら、矢代は、もしこれで千鶴子にいのちを失う踏絵のような場合が来れば、あの、細川ガラシヤの死の苦痛を軽めで死んだ小笠原少斎のように、自分もともに千鶴子と死ぬかもしれないと思った。
「このかた、田辺侯爵。」
 とまた暫くしてから塩野は矢代の傍へ来て云った。一度は会うことを約束されていた人が、いよいよ初めて顕れた緊張の仕方で矢代は礼をした。西洋での侯爵の日常をおよそ聞き知っている矢代だったが、想像とは違い侯爵は無表情なのどかな丸顔で、ポケットから手を出し黙って無造作な会釈をしただけだった。
 田辺侯爵にはどこといって目立った所はなかった。しかしやはりその無表情な、一見平凡に見えるところに、油断の出来ぬ人を素直に眺め感じる静物のような品と、城主の位とを具えていた。こういう垢脱けのした人物は一番恐るべき人で、また気兼ねのない伸びやかさを人に与えるものだった。
「どうも疲れた。いっぱいお茶を飲みたいが、一寸行くかな。」
 塩野は主人側の遠慮のある表情で、脱け出す機会を覗いながら、それでもまだ続いて顕れる知人の方へ忙しく歩を移すのだった。そのうち由吉が巨きな体でゆったりと階段の口へ立ち顕れた。不思議とぱっと光りを人中に放つ明るさを泛べた微笑で、由吉は侯爵の方へ歩んで来たが、二人は顔を見合せたまま挨拶もせず、いきなり冗談を軽く一口いってから写真を眺めた。彼だけはまだ外套も脱がず悠悠と煙草に火を点けると、首を緊めすぎた襟を弛める風に頭を廻して矢代に一寸笑った。見ていると、侯爵と由吉は実に呼吸の合った粋人同志だった。
「そうそう、今イスタンブールを廻っているよ。」とか、「グラスから手紙が来た。」とか、こういう会話のはしばしが、塩野を包んで一団の中から矢代の方へ聞えて来た。多分、外務省関係の知人たちと見えたが、またそれとは別の一団もあって、彼の血縁関係の人人らしく、この方は控え目な静粛さで隅の方に寄り塊ったままだった。
 塩野の両親は早く亡くなって今はいなかった。この孤児の彼を叔父が育て外国へまで遣っていたのだが、彼の叔父は一度国務大臣にもなったある有名な実業家で、今もなお塩野はこの家に起居していたから、恐らく親戚たちの一団もその叔父一家を中心にした集りにちがいなかった。実際この一堂の中を見廻していると人に愛せられる塩野の性質の自然に醸し出すなごやかさが溢れていた。
「このかた、パリでピアノをやってらした、藤尾みち子さんです。」
 と塩野はまた一人の婦人を矢代の傍へ来て紹介した。藤尾という婦人の服装は、これまたどういうものか、侯爵夫人と殆ど同一の服装だった。長靴の切れ目にぴんと生えた摘まみの羽根が、一人のときは面白い風情があったのに、二人並ぶと少し鬚のように目立ったおかしさに変って来たが、それでも他の集りとは一種違った偉観となって、場中に特殊な空気を添えていた。
 藤尾は侯爵夫人と交遊も深そうに見え、いつも二人が並んで話すので、自然に千鶴子は割られた形となって再び矢代と話す機会が多くなった。
「あなた、今日はどうなさるの。あたしたち今日は侯爵に御招待されてるんですけど、あなたもいらっしゃいません。」
 千鶴子は人目を避ける風に棕櫚竹の葉蔭で声をひそめ矢代に訊ねた。
「しかし、それは――」
 まだ誰からの音沙汰もないときに矢代も勝手な返事も出来かねた。
「いいんですのよ。あなたさえおよろしければ。」
「そういうわけにもいかないでしょう。」
「でも、御存知なの。行きましょうよ。」
 何かもう侯爵と千鶴子との間に打ち合せもあるのかと一寸矢代は考えたが、しかし、今日だけはやはりまだ早すぎる懸念もあって、彼は返事を云い渋った。千鶴子は急に視線を変えて塩野を見詰めていてから、彼と知人たちの会話の途切れる隙を見て傍へよっていった。何か云われたらしく塩野はすぐ頭を掻き掻き矢代の方へ歩いて来た。
「今日は上っているのですっかり忘れていた。今日ね、これがすんでから、侯爵の別邸へ招待を受けてるんだが、君も一緒に来てもらいたいって、侯爵から頼まれていたんだよ。どうも忘れていて失礼。僕のお祝いだそうだから枉げて出てくれないかなア。」
 塩野の祝賀会だとあれば矢代もむげに断れなかった。
「じゃ失礼して出席させていただこうか。」と矢代は答えた。
 観覧人の出て行く後から後から、また新しく人人が這人って来た。塩野の知人たちも同様帰った後、つづいて別の知人たちが階段を昇って来たが、その中に一人塩野の叔父の友人で、日本で屈指の富豪といわれている久木男爵の姿が見えた。この男爵は支店を海外に沢山持っている関係上ながく外国で暮した人だった。背はどちらかといえば小さくまた痩せていた。薄鼠色の洋服に鼻眼鏡に似た眼鏡のせいもあって、年よりはるかに若く見え元気だった。この人は田辺侯爵とも知人らしく彼を見つけるとすぐ歩みをよせて来て、
「どうも懐しいですね今日は。」
 と壁面の写真を眺めながら挨拶した。小柄ながらも、いたって無頓着そうな、飄飄とした味いのある顔だったが、ときどき異様に鋭い閃きを見せる眼つきも伴い、人を見抜く才能の豊かさが頷けた。すると、丁度その後を追うように昇って来たこれも小柄な老人が、いきなり男爵の後から両肩をぐっと掴んだ。そして、子供が戯れるような恰好で、後の男を見ようとして振り返る男爵の眼を避けつつ、右に左に身を翻してふざけ始めた。観衆は何事かと二人の様子を眺めていたが、老人はそれらの視線には一向頓着なく、なお真顔で執拗くふざけつづけていた。
「誰かな、む? 高橋君か。どうも巧妙に逃げるところを見ると、――北浜君らしいぞ。」
 踉めきながらそういう男爵の背広が、だんだん後へ脱げそうになって来ても、老人はまだ赦そうとしなかった。
「やア、君か。」
 とうとう見つかって男爵に云われたとき、初めて立ち上った老人は、今度はにこりともせず、
「今日は苦労をさせられた。今日中に五十万円集めよという命令さ。それで実は追っかけて来たんだけれども――ああ、くたびれた。」
 と云って両腕を曲げ後に反った。この間老人は少しの表情もなく、他人の方を一度も見ようとしなかった。矢代が後で塩野に老人のことを訊ねると、それは有名な船会社の社長の木山だということだった。一介の貧書生から実業界の大物に登り上り、一時は成金の代表者のように云われたことのある、この木山の力量の冴え方については、前からたびたび矢代も聞いて知っていた。が、よく見ていると、誰からも一度は軽蔑を買いそうなその貧しげな姿ながらも、とりわけ、動きのない一重瞼の薄さに、鋭敏俊慧な直感力が潜んでいると矢代は思った。
 会場の空気に疲れ、矢代がお茶を飲みたくなったころ、塩野の叔父が黒の背広で会場へ顕れた。内閣を引いたばかりのこの人には、矢代は今初めて会うのだったが、写真ではいつも見ていてすぐ分った。
 老人たちは矢代には分らぬ他人の話を、暫くより合ってしているだけで、あまり写真の方には気をつけて見ようともしなかった。
 塩野の叔父は意志の強そうな、やや金窪眼の老人とはいえ、声には張りが籠ってきんきんとよく響き、何より実行力の溢れたその確実そうな風貌には、世の荒波を押し渡って来てなお衰えぬ厚みがあった。殊に肩から胸へかけての手堅い力の盤踞した感じに、容易に内には籠りがたいまだ青年の名残りさえ感じられた。
 矢代は知人攻めに会っている塩野を待っていても、これではなかなか茶も飲めそうな様子もなくひとり下へ降りていった。出口のところで後から彼に追いついた千鶴子が、
「何んだか時間が半ぱね、夕御飯まで歩きましようか。」と誘った。
 矢代は暫く茶を附き合って貰いたいと云って、資生堂の喫茶部へ這入ろうとした。が、千鶴子は今さき這入ったばかりだからどこか別の所をと云ったので、二人は暫く群衆の流れの中に没し南の方へ歩いていった。
「御招待いらっしゃることになりまして。」と千鶴子は訊ねた。
「塩野君は出ろというので、そのつもりでいるんですが、大丈夫ですか。」
「大丈夫って?」
 千鶴子はまた別の自分たち二人の結婚のことを考えたらしく訊ね返した。
 矢代はそれには黙って答えず歩いていてから、
「今日あそこへ集った老人連、なかなか面白いですね。あれが明治、大正というものの代表者の一部の姿かと思って、僕は非常に面白かったですよ。あれが明治前だと、もう少し違っていたのだということも分って今日は愉しかった。この次は僕らのときだなア。」
 と、矢代はこう千鶴子に何げなく云ったものの、もうそれは誰か別人に云うようにひとり呟くようだった。
 新橋を渡ってから右に折れて、また二人は桜田本郷町を真直ぐに歩いていった。その通りは家具店が多く、椅子や卓子が店頭高く積っていた。退屈をしたときパリでよく、家具店をこうして千鶴子と一緒に見て廻った矢代は、そのときのことをふと思い泛べた。そして、今は自分たちの結婚生活の後に使う家具類を、自然に採択する注意もまた彼は怠らないのだった。
 ある店さきまで来たとき、矢代は美しい革製の揃いのソファを二つ見つけて中へ這入っていった。デザインも簡素で弱りのないひき緊ったところに、立ち去りがたいものがあった。
「いいなアこれは。」
 矢代が小首をかしげると千鶴子は傍から、
「綺麗ね。何んだか見たことのあるようなものだけど、あたしもこれが一番好きだわ。」と云った。
 彼はそのソファに腰を降ろしてみているうち、画廊で戯れたさきの木山老人の姿を想い出して傍の千鶴子を仰いだ。
「君もちょっと坐ってみてくれ給え。工合はどう。」
 空いた横の一つへ千鶴子も腰を降ろしてみたが、二人並んでそうして坐ってみると、極まり悪げに俯向いてくすっと笑った。そして、すぐまた急いで立ち上った。
「駄目駄目。」
 矢代は手を持ってもう一度引き据えてみようとしながらも、飛び離れて逃げる千鶴子の速さに手が届かず、自分も立った。彼は二つそのソファを届けさせることにしてから店を出た。しかし店を遠のくにしたがって、今さきにした戯れもまだ早すぎるのだと思った。うつ向いて歩く足もいつか忍耐に重くなり彼は黙り込んだ。千鶴子も何んとなく黙って歩いた。
 そうして暫く二人の靴音の喰い違ったり揃ったりするたびに、矢代の気持ちも浮き沈みして進んだが、また彼は雪の中で聞いた鼓の音を思い出した。それは前に前にと押し出す音のように、
「ぽん、ぽん、ぽぽぽん、ぽん。」
 と胸中で響き、靴音の響きともなり、巷のひびきを貫いて透って来る何ものかの打音ともなって、矢代もだんだん爽やかに首べが上って行くのだった。
「ぽん、ぽん、ぽぽぽん、ぽん。」
 いつ靴音が能舞台を踏みすすむ音のように変るか、彼は待った。

 田辺侯爵の別邸は霊南坂を登った裏の高台にあった。重い閂のかかった両扉の門柱の間から玉砂利が見えた。矢代が塩野と連れ立って門を這入ると、寒むげな唇の色で、肩を縮めて出て来た大男の玄関番が二人の名を訊ねた。緑青の噴き出た樋の傍に皮の爆ぜた松の幹が逞しく、厚い甍の反りの上に枯松葉を落していた。
 塩野はもう勝手を知っているらしく先に玄関を上った。花鳥を描いた衝立の後は暗かった。冷たく光った廊下を奥へ渡って行った右手の所に応接室があったが、そこには人の姿は見えず、ただ外套が幾つか置いてあるきりだった。
「君、よくここへ来るの。」
 と矢代は塩野の置く外套の傍へ自分のも揃えて訊ねた。
「ああ、ここは三度ほど。――こちらの方が気楽なものだから、あの侯爵はここの方が好きなんだよ。」
 と塩野は云いながらまた部屋を出て、なお廊下を奥の方へ幾つも曲った。背丈を同じにした南天の群生した中庭を渡り廊下が通っていた。実の赤くいちめんに揃った中を廊下が厳しく光り、そこを行く矢代の眼に、裏庭の広さを示す小松林の一端が、おおどかに曲った裾の美しい線を白い砂際によせていた。
 矢代は塩野を先にやらせて立ち停った。そして、暫く中庭の美しさを眺めていた。彼は敷きつめられた砂の白さと南天の実の赤さから、フロウレンスのある寺院の庭を思い出したからだった。その寺院の庭は、丁度こんな清潔の方形だったが、中央にただ一本の夾竹桃がぎっしり花を咲かせ、白い築地に囲まれた静寂な空間に艶麗な慎しさを与えていた。
 廊下の向うからもう由吉らの笑声が聞えて来た。夕暮の迫る砂の薄明りを眺めながら、矢代は、今夜の会は自分にとっては一つの査問会のようなものになるのだと思った。自分に関する千鶴子の兄の由吉と槙三の報告が、彼女の母へ届いている現在、新に侯爵のも加わってまた届けられるにちがいない以上は、やはり自分の運命を左右する一夜ともなるのだった。それも侯爵夫妻の一番知りたい自分たちのことは、千鶴子と自分との秘やかな交渉が、どの程度のところまで進んでいるものか見届けたいことだろうと思うと、二人の間が、すでに実際の結婚以上のものまで済んでいると見られていることも、十中の九までたしかな事だった。しかし、若い男女の二人が自由に外国を渡り歩いているときに生じる必然的なことが、果してそのまま当然に生じたかどうか、侯爵の方とて聞き糺して見ることも出来ず、また矢代にしてもそれだけは、こちらから示す明らかな表情もなし得べきことでもなかった。いま何か、矢代はふとそんな微妙なことで苦しさを感じたが、塩野の個展の祝賀会とはいえ、実は、侯爵や由吉たちが矢代と千鶴子から、そこの所も暗黙に聞き取りたい査問会の内容も含まれている夜会となることだけは、廊下の光りを踏みつつ彼も覚悟を決めるのだった。
「やあ、いらっしゃい。さきほどは失礼しました。」
 離れの洋館の中へ這入ったとき、田辺侯爵は資生堂の昼間の画廊のときとは違い、打ち解けた笑顔の挨拶だった。集りの中には由吉を初め、矢代の知らぬ人人も多かったが、婦人たちはまだ誰も姿を見せていなかった。
 洋館は古風ながらも、後から改造したと見えるコルビュジエ風な明るさがあった。麻布の方を一望に見降ろせる側一面に巨きなガラスを繞らせ、鼠の地色に目立たぬ赤の模様の入った絨毯が、部屋の調度や庭を害せず落ちつけた。黒塗の棚に初期李朝の秋草の壺が一つ置いてあって、壁額に嵌った十七世紀の銅版画と好個の対照をなし、高雅な趣味の滲み出ている部屋だった。
 ストーブの傍に集った人人の中では、スペインの内乱に関する談が続けられている最中だった。その中の一番最近にパリから帰って来たという若い外交官が、傍の佐佐という画家に突然云った。
「そら、あのクーポールにいたスペイン人のボーイね。よく僕らの傍へ来た男があるじゃないか。あれがね、新聞を見ていて僕に、もうこうしちゃいられない。自分の方は負けて来た、いよいよ自分も祖国へ帰って戦う、と決然として云ったよ。どうもあれは、反フランコ派の方らしいんだが、しかし、どっちにしたところで、僕はそのときのあのボーイの顔色には驚いたね。決死の色だったよ。」
 一同は暫く言葉がなかった。矢代は黙って聞きながら、クーポールにいたスペイン人の顔をあれこれと思い泛べるのだった。そして、もし自分の国がそんな状態になったなら、自分もやはり千鶴子のことなどもう考えてはいられなかろうと思った。パリにいる当時、たとい嘘だったとはいえ、日本と中国とが戦争状態に這入ったというニュースの大きく出たことがあったが、自分も帰って直ちに戦う覚悟をしたその日のことを思い出した。そして、そのとき第一に頭に泛べたことは、ある誰か詠人の分らぬ衆人の中にひそんだ歌だった。
「おん前に捧げまつらん馬曳きて峠を行けば月冴ゆるなり」
 矢代はこの歌が好きだった。もう何の飾りもなく心のままに歌い、胸中澄みわたっている人馬一体となった爽やかな調べの籠った素朴さがあった。それも古人の歌ではなく現代人の作であるところに、心を別け持ってくれている嬉しさを矢代は感じた。
「しかし、どうも中国も危くなっているね。スペインの内乱とは関係があるよ。」
 とこう云い出したのは由吉だった。
「それはある。他人事じゃなさそうだ。」
 と外交官の速水が、高い尖がった鼻を手巾で拭きながら云った。
「これで世界歴史を通じて調べたものの云うことだと、二年間の平和を得るためには、人間は二十四年間戦争をしていることになってるそうだよ。そうしてみると、平和というものは、実に宝だ。徳川時代は三百年の平和だが、そんなのは殆んどないといっていいんじゃないか。」
 会話の進むにつれて、矢代は、パリの真紀子の部屋で中国人の高有明と議論をしたある一夜のことを思い出していた。高は間もなく帰るころだと思うと、なおよく彼とも話してみたいいろいろなことが泛んで消えなかった。
 しかし、丁度、こういう緊張した話の盛り上って来ているところへ、廊下の方から久木男爵が、
「どうも遅くなりました。」
 と云って一同の方へ歩いて来た。
「今日のノートル・ダムのお写真は、あれは苦心をされたでしょうね。わたくしもあのお寺を写してみたことがありますがいつ見ても良いものは良いですね。」
 男爵にそう云われて、塩野は答え難そうに笑ったままだった。
「どうですか。写真の方でも外国人と日本人とは、見方がだいぶ違うでしょうね。」
 と男爵はまた鋭い質問を続けて塩野を見た。
「違いますね。一度フランスの専門家に、写したものを選んでみて貰ったことがありましたが、これが良いと云って抜き出してくれたものは、どれも向うで苦心をして撮ったものじゃないんですよ。日本でもいつでも撮れるものばかし抜いてくれるので、何んのために自分はフランスまで来たんだろうと、しばらく僕も苦しみました。」
 若い塩野はその当時の苦しみを今もなお続けているらしく彼には珍らしい暗い表情になってうつ向いた。
「いや、それは画家もそう云いますよ。フランスへ行くと、却って良い画が描けなくなると云ってた人がありましたよ。」
「人間もそうかもしれないぞ。」
 と由吉はパイプにきざみを詰め詰め云った。みなどっと笑い出した。
 その波立ちが、急に一同の表情の上に逆な明るさを与えて一層それから活き活きと談が弾むのだった。
「わたしも十六のときから二十六のときまでロンドンにおりましたが、どうも外国を知らぬ先代の方が、わたしより豪いようです。皆さん方はどうですか。」
 久木男爵のそう云って見廻す顔の中から、音楽家の遊部が、
「それはやはり、僕もそのようだなア。」
 と歎声を洩らして笑った。
 この遊部は資生堂の画廊へ昼間来ていた藤尾みち子と結婚して外国へ二人で行ったのだが、帰るとすぐ二人は別れてしまった。
 食事前のアッペリティフが皆の前に出たころ、婦人たちが遅れて這入って来た。千鶴子もそのとき藤尾と並び男の客たちから少し離れた椅子にかけた。
「久木さんお幾つですか。年より若くお見えじゃないですか。」
 と由吉が訊ねた。
「わたしは丁度赤い襯衣《シャツ》を着る年ですが、芸術が好きだから一向に年をとらんのですね。やはり芸術というものは、経済よりも良いものだということが、このごろやっと分って来ました。わたしは外国にいるころから、自分の代になったときの事を考えて、そっと自分の弟子たちに金を遣わせて将来に備えて置きましたが、自分の代になったとき、そのものらに仕事を全部まかせてしまったものですから、今は楽ですよ。午後の三時ごろまではまア、会社へ出ておりますが、後の時間はもう全部芸術に使っているのですがね。わたしは自分を実業家だなどとは思っちゃいないので、自分は何んだろうと考えると、やはりわたしは芸術家だと自分を思いますね。実業よりも芸術に専心しているときの方が、わたしの性分かもしれぬが、気持ちが美しくなって一番真面目になれますからね。」
 日本の実業家連中から親玉のように見られている久木男爵のひそかに洩らしたことが、そういうことを云いたかったのかと矢代は面白く思い、聞き捨てにならぬ美しい心の一面だと解した。画家の佐佐も傍で何か感動したものがあったと見え椅子の背の上で体を動かした。
「じゃ、作曲は今でも毎日されるんですか。」
 数学や作曲によく専心する久木男爵の噂話を、由吉も知っているらしくそう訊ねた。
「一日に少しはどんな日もやりますが、それよりも、やり出すと、どこかへ旅をして、一部屋へ一週間ばかりわたしは籠るのです。そのときは朝から人をよせつけません。やはり、そうしてじっと心が澄んで来ないと、雑事がちらっとでも頭に泛ぼうものなら、もう駄目です。良い音が出て来ませんね。」
 こういう事を云うときの久木男爵の眼は急に変り、澄み透った光を泛べた。気ままそうな小柄な身体の持ち扱いながらも、争われず芸術に錬えられたものに共通な誠実さが顕れた。
「しかし、あなたのような方だと、世間が誰も芸術家だと思わないですから、そこがお困りじゃありませんか。」
 と、田辺侯爵が半ばひやかし気味に云った。
「そうそう。わたしの悩みはそれなんですよ。どんな善い物を作っても、日本の人はわたしが作ったものだとは、思ってくれないのですから、これは残念です。一生懸命になっているものが、一つも真面目に相手にされないなんて、こんな悲しむべきことはありませんよ。」
 思いがけなく富貴の悲しみを聞きつけた思いで、矢代は久木男爵の孤独な顔を注意した。
「じゃ、まだわれわれの方があなたより幸福なわけですかね。」
 と音楽家の遊部がアッペリティフに顔を染めて笑った。
「いや、それは本当ですよ。わたしも日本人が相手にしてくれないので、仕様もなく、このごろはずっと外国で作品を発表しておりますが、外人はみな真面目に取り扱ってくれております。相当にこれでも認められているのですよ。」
 冗談らしく老人のそう云う笑いの蔭にも、いずれこの真実さえ皆から揉み消されるであろうと寂しむ響きが流れていた。
 半ば繰り上げられた部屋仕切りの天鵞絨の蔭からピアノの羽根が見えていて、その方から食器の音が聞えてきた。矢代は千鶴子の方にはあまり視線をむけないように気をつけた。そして、久木男爵の談を聞きながらも、さっきから一同とは違った、ある云いがたい、別な親しみと苦しみとを混じた気持ちを次第に強く覚えていた。それというのは矢代の父が青年時代のあるころ、先代の久木男爵の会社の社員だったことがあって、かすかながらも、記憶の底からそれが浮き沈みしつつ頭をあげて来たからだった。たしかに今はどちらも、全く別な二家の子供たちだとはいえ、一時は父も世話になったと思う子の矢代の気持ちは自ら違っていた。
 あらためて誰かに紹介でもされれば、ひと言それを述べ謝意を表したいと思ったが、しかし、こんなに上下の区別のない稀な会合の場合、むかしの主従関係を口にして空気を濁すということは、却って向うを苦しめることかもしれず、また傍に千鶴子のいるということが、なお矢代にそれを云わしめるのを妨げそうな気味もあった。
「新年になると、社長の久木さんが社員を集めて訓辞をされるんだが、一年にたった一ぺん、そのときだけ顔がみられるきりなんだからなア。」
 と、こういうことを洩らしていたある日の父のひと言が、どういうものかいまだに矢代の耳の底から脱けなかった。
 父はそのことを一年中の何よりの光栄に感じて云っていたのに、それに自分は、今は目前対等に久木男爵と会いながらも、父のその悦びを隠そうとしている時代の子供になったのだろうか。
 それを思うと、矢代は自分の黙りつづけているのが苦痛だった。しかし、この夜は彼も、男爵とのそんな些細なことで心を痛めていられるときではなかった。さきからも暗黙のうちに由吉と侯爵とから間断なくうけている査問の視線も、また軽からず身に感じた。それもこれも、すべてはただほんの暫く、自分が外国へ行っていたためばかりに起ったことだった。
 彼はそのようなことも知らずにいる千鶴子が、今は何より気の毒に思った。それも、自分がどんなに振り払おうと努めても、いつか身近によって来て去りそうにもない人だった。いったい、何ぜこの人は自分の傍へなど来るのだろう。
「あたしは日本へ帰っても変らないわ。変るのは、きっとあなたの方だわ。」
 こういうことをパリで別れる際、ただ一言云った千鶴子の勝ち気のためかあるいはカソリックの仕業であろうか、とにかく今の矢代にはこれだけが分らぬことの一つだった。
 庭の薄明りがまったく消えたころ、侯爵夫人が薄藤色の洋装でピアノの羽根の前を横切って顕れると、皆のものに会釈をして食堂の用意の出来たことを報らせた。一同は椅子から立って隣室を通りその向うの食堂へ這入っていった。
 食堂は料理の味を害せぬためであろう全面純白な装いの中に、壁だけ横に細い金線が入っていた。客たちは正客の塩野を先にし、自然に年寄りを高座へ押しすすめながら、それぞれ年に応じた席をとった。食事は洋食で間もなくスープが出たが、この夜のパンとスープの味は、たしかにどこか一流のコックの潜んでいることを報らせていた。客たちの誰もがみなそれを感じとった表情を一瞬泛べたが、誰もそれを口にせずゆるやかな雑談から始った。矢代はフランスで食べたパンの味とあまり違わぬパンを指でち切りながら、日本もこれだけの味を出すようになった技術にひそかに驚きを感じスープの皿を傾けるのだった。
「矢代さん、東野さんとお会いになりまして。」
 と侯爵夫人は穏やかな声ながらも、少し突然に聞える問いで矢代を見た。
「ええ、いつも御一緒でした。何んでもロンドンへいらしたらしい消息が知人からありましたが。」
 と、矢代は答えた。この夜これが矢代の云った最初の言葉だった。
「東野さんて、東野重造君のことですか。」
 と久木男爵が、これもこの夜初めて矢代の方を向いて訊ねた。
「そうです。」
 と矢代は一言答えただけだった。
「東野君とわたしは一度、横浜から大阪まで船で旅行したことがあるんですよ。そのときは四五日一緒でしたが、途中名古屋のゴルフリンクで、わたしはあの人にゴルフを教えたのですがね。そうですか。今ロンドンですか、あの人。」
 久木男爵は感慨のある微笑で矢代の顔をじろじろと見詰め始めた。
「僕たち若いものはよくあの人に叱られました。あの人は僕ら若いものの中心問題へ、いきなり飛び込んで、張り手を使ってひっ掻き廻す名人なものだから、東野さんに会った日は土俵から抛り出されたみたいになって、二三日僕らは眠れなくなるんですよ。」
 一同フォークの音の中で一緒に笑った。その笑声の鎮ったころ、久木男爵はまた興味ありげな表情で、矢代に訊ねた。
「あなたがたの年齢の人の中心問題は、今はどういうことにあるんですかね。わたしは注意してみてるんだが、まだ何んとなく要領を得ないのですよ。」
「それはいろいろややこしいことが、こんがらかっているので一口には云えないのですが、やはり、東洋の道徳と西洋の科学やキリスト教などとの、踏み込み合ってる足の問題が、中心のように思えますね。西洋が二十世紀だからといって、東洋もそうだとは限らないですから、そこを何んだって、西洋の論理で東洋が片づけられちゃ、僕等の国の美点は台無しですから、果してそんなに周章てて美点を台無しにすべきかどうかという、そこの疑問から今のすべての論争が発展したり、押し籠められたり、引き延ばされたりしている始末なんだろうと、僕は思うんです。さっきお隣りの部屋で皆さんの仰言っていられた、あんな問題も、やっぱりそれと同じことじゃないかと、僕は面白くお聞きしていましたのですが。」
 矢代は老人にもこのような問題には心を向けて貰いたく思い、少し出すぎた調子も和らげず強める風に云ってみた。
「つまり、じゃ、二十世紀の道徳と科学の問題というわけですね。」
 久木男爵は眼鏡を一寸取り脱し、一種異様に鋭く光る目の色で矢代の方へ体を傾けた。
「まあ、そうです。それが東洋人の僕らから見ると、十四五世紀の問題として映っているのかもしれないですから。そこが難しくて。」
 と矢代は答えた。
「じゃ、あなたがたは、科学と道徳とどちらが良いと思われるのですか。」
「そこが、僕等の論争の中心なんですが、僕は道徳だと思うのです。」
「僕は科学だと思うな。」
 と音楽家の遊部が横から云った。
「さあ、それはどうだか、――いや、それは難しくなって来ましたね。」
 と久木男爵は云い直してまた眼鏡を懸け首をかしげた。
「でも、それは道徳よ。」
 と突然藤尾みち子は別れた前の夫の遊部を見て云った。何かその声の中には遊部の無礼を憤る短く張った声が籠っていた。
 遊部夫妻の過去のいきさつを知っているものらは一瞬どっと笑い出した。矢代はこの一家庭もルネッサンスの中核体に触れ飛び散ったひと群だったのかと、初めて知って二人を顧みた。
 白い卓布の上に並んだ客たちの表情は、遊部とみち子のもつれかかった気持ちを享けて、暫くは両方に別れたままだった。そこへ女中が薄切りのスモーキングの鮭を持って顕れ、空いた皿と取り替えた。光沢のある越州の壺に似合った冬薔薇の華やいだ向うで由吉は無造作に鮭を食べたその途端、「あッ、これは見事だ。」と云って感嘆した。一同危く道徳派と科学派とに入り乱れて混乱に陥ち入りそうなところだったので、こういう由吉の嘆声は、思いがけない逆転を起して客たちの視線を皿の鮭の上によせ集めた。
「侯爵、今夜のコックはただ者じゃないですな。」
 由吉に云われて田辺侯爵はかすかに笑っただけだった。二人を見ていた矢代は、どことなく微妙な音を発した美しさを感じ気持良かった。由吉は鮭を食べ終ると手帳の紙片をひき裂き、コックに手渡す今夜の礼を書きかけたが、侯爵の方へ一寸延びて、「日本人?」と訊ねた。
「フランス人だ。郵船にいたんだがね。」
「そうだろうな。」
 由吉は日本語の礼を消してまたフランス語に書き変えるとその紙片をコックに渡して貰いたいと女中に頼んだ。一同だれも由吉に少し敗けた形で暫く黙った。しかし、臆面もなく客たちの前で、そんなことを敢てした由吉は少し照れたのであろう。
「どうもこんなことは面倒くさいが、して置くことはして置く方が良いからな。」ひとり弁解めいた笑顔になり「やはり僕も道徳派かな。」と呟いた。そこでまた一同の客は笑い出した。
「いやそれが科学派さ。」
 遊部が突然の笑いをふき消すように卓の上から由吉の方へ身を捻じ向けて云った。「美味いものを見つけて美味いと云うんだからね。そういう実験の徳というのは科学性だよ。そこを忘れて道徳も研究も、価値があるわけのものじゃないさ。」
「じゃ、君の夫婦別れの原因も、つまり科学性の徳といったわけだな。」と由吉は云って笑った。
 この巧妙な由吉の冗談は暫くまた笑いの波を食堂に響かせていたが、遊部に逃げられたみち子の表情だけ一隅で鋭く吹き尖って来るにつれ、一座はようやく事の重大さを感じて白み始めた。しかし、二人の過去のいきさつなど知らぬ老人の久木男爵だけは、底流している一座の苦さにはまだ気附かぬ様子で、却って、真面目な議論の対象をいつも揉み潰す由吉に多少反感を覚えたらしく、矢代の方を向き直った。
「あなたのさっき仰言ったそこのところ、何んでしたっけ――そら、西洋が二十世紀だからといって、東洋も二十世紀だとは限らないというのね。それは面白い御観察だと思ったのですが、そうすると、われわれの考えている科学というようなものは、二十世紀でもないのに、二十世紀の西洋人の考えることを、同じように考える誤りというか、危険というか、とにかく、そういう誤差を考えに入れるべきだと仰言るわけなんでしたね。そこで、道徳は科学より上だと仰言るのは、どういう風な論理があるんですか?」
「論理というようなものはないのですよ。」と矢代は云った。
「どうして?」
 矢代は少し詰って答えかねた。自分が謙遜して論理のあるべきところをさえ、無自覚にない風を装って示したと受け取られた危険を感じたからだった。彼は顔が充血して来るのを覚えながら、同時に意外に難しい大問題を繰り拡げてしまっている現状をも意識した。実際、世界でまだ誰もが片附けかねてよたよたしている難問のあいだに、どうして論理をそこから見附け出せるか矢代には分らなかった。しかし、それにしても、とにかくこれだけは誰もが一応渡らねばならぬ橋であることは事実だった。
「私は――実は、私もそこを一番知りたいのですよ。」
 こう矢代が云ったとき、不意に脱された拍子脱けの形で皆はしんと静まった。
「しかし、あなたはさっき、科学より道徳が上だと仰言ったではありませんか。」久木男爵は別に軽蔑した顔色ではなく、むしろ、矢代の苦渋を早や察した救助の穏かな笑顔だった。
「それはまア、そう私が思うのです。別に私は、弁解をするのじゃありませんが、論理はそこに成り立たないと思うからで、何も論理なんか成り立たなくたって、役に立つところだと見極めを付けたなら、科学のような人間の外部を調べる命令よりも、自分の心という内部の指針を示す道徳の方が上だと思ってしまっても、良いのじゃありませんかね。つまり、少し詭弁を云いますと、道徳が科学より上だと確信することが道徳だと思うのですが。」
「それはやっぱり、詭弁だなア。」と遊部が云った。
「いや、詭弁じゃないよそれは、事実さ。」と由吉が、このときは多少真面目な口吻で矢代を扶けて反駁した。
「しかし、君、道徳などというような概念に捉われずに、自然を研究してゆく科学の真の真面目さを、そういうのを道徳と見ずして、他にどんな道徳があるのかね。科学がすなわち道徳だよ。」
「そういうのは、それは非常に科学的だよ。」とまた由吉は混ぜ返した。何か彼はこの問題の落ちつかぬ性質を見抜き、さきから揉み消す運動を繰り返している自分の努力も知らぬ遊部に、幾らか腹立たしさを感じて来ている風だった。しかし、久木男爵はこの由吉の邪魔する態度に、また一方ますますいら立ちを感じるらしかった。
「どうもあなたも、東野君のように、議論を脱線させる名人らしい方ですね。私はしかし、科学のはしくれをやっているものですから、このお若い方たちの問題には非常に興味を感じるんですよ。私はいつも自分の工場の技師長たちには、君らは第六感を働かせないと不可ない、しかし、第六感だけでは駄目で、それを論理的に整理をしなければ不可ない、とこうまア訓辞を与えているんですが、科学と道徳ということはまだあまり云ったことはないので、甚だ私には面白いのです。どうです。それからのあなたのお説は?」と久木男爵は矢代の方に向き返ってなお彼の話を引き出そうと試みるのだった。老人というものはこんな議論に興味を覚えないのが通例であるのに、不思議と誰よりこの老人は熱心で真面目だった。矢代はこの夜は前から、科学とか道徳とか、とこんな形而上の問題から遠ざかっていたいが本心で、老人から問われるときにも、自然と話を丸く納め切り上げる工夫へ傾きつつ答えていたのだったが、それも次第にこのように追い詰められて来ては、身の動かぬ思いでもう苦しかった。
「私はパリにいたときも、友人と今夜のような問題で、いつも喧嘩ばかりしていたのですが、どうも日本へ帰ると、向うで血眼になって争っていたことも、だんだんつまらなく思えて来て、何んだか議論をするのが嫌になっているんです。何んと云いますか、皆さんどなたも御経験お有りの方ばかりのようですが、西洋へ一歩上陸すると、思いがけなく、これは戦場へ来たぞと思いますね。たしか私らにはあれはまだ見たこともない戦場でしたから、初めは何が敵だか分らぬながらも、とにかく、敵の真ッただ中にいるんだということだけははっきり感じますから、言葉を一つ違えると、味方も敵に見えてしまって、随分負傷をしたり、死んだりするでしょう。恐らく僕は無事に帰って来た人はいないんじゃないかと思うんですが、しかし、僕はやっと無難か、無能か、ともかく帰れたというのも、その原因は科学を自分が信用していなかったからだと、このごろになって思うんです。その代りに、僕は道徳だけに獅噛みついて、これさえあれば、後は何も人間には要らぬものだと思ったのです。それならその道徳とは何んだろうということですが、これは口に出して説明すると、必ず誰も失敗するものですから、云いたくとも僕にも云えないのですよ。僕は世の中の人間で道徳というものを間違えずに説明できた人は、まだ誰一人もいないのだと思うようにまでなっているのです。そのくせ、誰も彼も道徳だけは、道だ道だとばかりで、未知なことにして置きたいんじゃないかと思うんですが、甚だ僕の考えは極端なんですけれども、これはさっきも宇佐美さんの仰言ったように、それは事実だと思うんです。」
 矢代は定めし多くの異論が出ることだろうと予期しながら、もう裸体で人人の前へ飛び出すようにそう云ってしまった。遊部は矢代の云うのを聞きつつ、ときどきぴくぴくと眉を跳ねてはまた冷笑を洩して黙っていたが、やはり彼が真っ先に口を切った。
「しかし、科学を信用しないって、どういうものですかね。自然の合目的性を認めることが神を認める唯一の方法だと発見したのは、科学の何よりの信用し得べきところで、またそれが人間というものの価値の大きさを実証してみせてくれたんじゃありませんか。」
「僕は神というものは、そういう合目的なものだとは思えないのですよ。」と矢代は府向いたまま小さな声で云った。
「それなら何んです。」
 矢代は答えるのがもう辛かった。それは別に答えに窮したわけではなかったが、卓の一端には、自分の信じている神とは違う神を信仰している千鶴子や塩野たちのいるのを思うと、ただ黙って笑うより法がなかった。もしこれ以上に自分が言葉を云えば、二人のみならず、その他の客の首を絞めつけてゆくことになるかも知れない惧れを感じたからだったが、しかし、何故ともなく矢代はこのときから悲しみを感じて来た。矢代の返事を待っていた遊部は、いつまでも黙っている彼の躊躇に意外に早く勝ちすぎた遠慮のある思いで、ナイフを取り上げると端正に鮭の肉をすっと切った。そして、まだ惰力で少し云いつづけ、ピューリタニズムの精神とニュートンとの合致を説明してから、静に矢代に止めを刺すようにこう云った。
「僕はやはり科学の合目的性を信じるんですよ。世界の人間の一番共感出来ることといえば、いろいろな国の特殊性という変容したものの中から、普遍性を抽き出して、これを認め合うということよりないですからね。僕は神というものも、それよりもう感じることが出来なくなっているときなんだと思うんです。」
「君の苦心してやっているのは、音楽じゃなくって、音学という学ぶ方だね。」と由吉はそろそろまた冷やかし始めて笑った。
「それはそうだ。僕は音楽を勉強しにパリへいったんだよ。」
 遊部は突嗟にそう答えたものの、しかし、どこか由吉の鋭利なひと突きには応えるものがあったと見え、びくっとした戸迷うものの薄笑いを洩して肉を食べた。
「勉強しに、パリへ行ったものはごろごろしているが、遊びに行ったのは僕と侯爵とたった二人か。これや、ちょっと気味が悪いね。侯爵、何んとか一言いいなさいよ。あなただってロンドンじゃそう道徳派でもなかったんだからなア。」
 由吉は黙っている田辺侯爵の方を顧み、誰にも通じぬ笑顔でひとりからからと高く笑った。
「僕は道徳派さ。」と侯爵は一言云ったきりやはり黙って何も云わなかった。
 矢代は侯爵夫人の美しい顔色が幾らかさッと動くのを見ると、いつか見たことのある侯爵家の先祖の壮麗な城が一瞬光を揚げて頭に泛んだ。そのとき彼は一寸千鶴子の方を眺めてみたが、千鶴子はにこにこ笑った視線を彼に向けて黙っているきりだった。

 葡萄酒に赧らんだ顔が、白い卓布の上から鮮かに顕れて来たころ食事は終った。客たちは隣室へ移っていってそこでまた雑談が始った。矢代はひとり窓の傍に立ち室内の光りを避けて庭をよく見た。中庭からつづいて来ている小松林が中央の所で、島のように盛り上りを見せていて、その水際を洗うように、白砂が箒の波目を揃え入り組んだ柔い線をよせていた。松の先がどれも牡丹刈にされたところや、下の水際に掃きよせられた枯葉の納まりが、大徳寺内の孤蓬庵の系統を引いた庭に見え、矢代はこうしているときにも京都へ早く行きたくなる誘いを感じて来るのだった。
「綺麗なお庭ですことね。」
 と、千鶴子は矢代の横へ立って来て云った。
「御馳走を頂戴して、良い庭を見せてもらって、今夜はどうもありがとう。」
「このお二階に良い陶器が沢山あるんですの。あなた御覧になりたければ、お頼みしてみましてよ。」
「それは見たいなア。」と矢代は云った。そして、ガラスに反射した室内の光りを除けるため顔を窓に近づけ、軽く片手でカーテンの天鵞絨を片よせている千鶴子から、彼は初めて、我知らず闘っていた言葉の世界と放れた地道なぬくもりを感じて来た。それはもう物いわずとも通り共同の苦労にも似ている、ひと息ごとのあわれさのようなものだった。彼は暫く皆に背を向け千鶴子と並んで立っている間も、自分のいう真意の通じる範囲は、この広い世の中でただ千鶴子にだけかもしれないと思った。しかし、また彼は、さっき自分の云いたかったことを邪魔したものは、他ならぬこの千鶴子の神妙にひかえていた姿だったと思うと、見事に自分が遊部から最後の止めを刺されたのも、つまりは、千鶴子と自分のちぐはぐな信仰の揃わぬ結果からだったと思った。そうして、そんな不満足な寂しむ思いのつづくのも、まだ以後も同様に幾度かこうして繰り返されるにちがいない。
「ちょっと、矢代さん、こちらへいらっしゃいよ。そこへおかけなさい。」
 矢代が室内を振り向いたとき、よく変化する優しい笑顔で手招きして、こう云った人は久木男爵だった。自分のことをさきから気にかけていてくれた人は、他人の中ではやはりこの人だったのかと、たとい向うは知らずとも、まだ父から繋がる不思議な縁も感じられ、彼は男爵の方へよっていった。しかし、円陣を造って並んでいる皆のものから少し跳び出た所の椅子へふとかけたせいで、急に光りを四方から受け集めた気詰りを覚え、手持ち無沙汰な顔つきであたりを見廻しているだけだった。が、ふとその夜の査問の内容に気がつくと、矢代はいよいよ被告の席へ引き出された羽目となっている自分の現状に、迂濶に食堂で道徳のことなど饒舌って自己弁護に落ちた報いが、とうとうこのような結果になったと観念もするのだった。
 由吉と外交官の速水は傍で国際情勢の談をしていた。その会話の流れはときどき一同の間で、経済のことにも及ぶことがあっても、久木男爵だけは、自分の一番明るいその方の話には飽き飽きしていると見え一言も加わろうとしなかった。そして、その間斜めに体を崩し、天井を仰ぎつつ煙草をひとりぷかぷか喫して黙りつづけていたが、また矢代の方へのり出して来るとこう云った。
「あなたのさっきのお話、あれはなかなか面白かったですが、あの続きをも少ししてくれませんかね。わたしは近ごろそういう風な話からあんまり遠ざかっているので、こういう機会でもないとお話も出来ないのですよ。」
 矢代は特別なことを前から話したわけではない自分を思い出し自分の話のどこがこの老人の気に向いたのかと一寸考えるのだった。
「僕のお話ししましたことは、そう特殊なことじゃありませんでしたが、とにかく、僕らの時代のこととしてもそれ相当のやはり考え方があるものですから、ついそれを話したい対象を探すのですね。たとえば、僕は一寸ばかし海を越えて西洋を見て来たばかりに、日本をめぐっている海の水を見ると、どれもみな岸べに打ちつけて来ているキリスト教の波に見えるのです。実際、日本を一歩出ると、現在生きている文明の波というものは、キリスト教を中心とした大海の波ですから、これに対する態度を定めるだけでも、相当な覚悟なしにはいられないときになって来ておりましょう。そこへまた科学です。僕らは自分の国のことを外国のこととして、もうこれ以上は考えているわけにはいきませんですからね。」
 矢代はこう云ううちにも話していることが、久木男爵に向うより、ともすると後方で聞いているにちがいない千鶴子に意識が向いてゆくのを覚えるのだった。そして、それはまた同時に彼女を虐めることとはいえ、それ以上に苦しいことには、この夜はカソリックの大本山のノートル・ダムを写した塩野の写真展の祝賀会であってみれば、むしろ千鶴子より塩野の祝賀の宴を強く射る失礼な結果となっていることに気がついて不用意な失言を、そのまま続ける勇気が出ず突然彼は口を閉じた。久木男爵も敏感にそれと察したらしかった。
「やはりわれわれに難しいのは、科学のことだなア。」とひとり老人は呟いて、そして暫くしてからまた矢代に、「あなたはさっき自分らの考えている東洋と西洋とのことは、十四五世紀の問題として見ると、そんなにあの部屋で仰言ったが、あれはどういうことです。あれが一寸分らなかった。」
「そこが僕にも難しいのですが、しかし、こういう人がいるのです。それはラフカディオ・ヘルンというギリシア人で、明治も晩年の三十七八年ごろに、日本の現在を社会進化の状態として見ると、キリスト誕生前四五百年のころの西洋と同じだと云っているのです。ヘルンが死んでからおよそ四十年近くにもなっていますが、この間の日本の四十年は西洋の千年ぐらいの経過にあたっていると、僕はまア仮定して云ったのです。しかし、そうしてみても、僕らにとってはまだキリストは生れていないわけですよ。」
 一同は急に笑い出したがすぐまた一種くすぐったそうな薄笑いで黙った。
「しかし、キリスト教が現在日本にもあるというわけは、やはり生れているのも同じでしよう。」
 と、そう云ったのは遊部だった。しかし、速水は日ごろの自分の考えに何事か触れるものがあるらしく、
「それはただ過去のキリストの形骸を信じているからさ。むかし恋しい銀座の柳だ。」と彼は面白そうに笑い出した。
「キリストに過去とか未来とかはないだろう。そこがキリストの透明な豪さというものじゃないか。」
「いや、僕は革新派だからね。そうは思わないんだ。誰が何んと云おうと、革新派の主張だけは僕は変らん。」
 若い外交官であるだけに速水の言は、人人の蔑視を突き退け何か期するがようにひとり頷く強さがあった。一同のものはまた黙ったが、それぞれ裡に考え湧くものの続出して来た混乱のしるしのある沈黙だった。
「そこでヘルンのことに戻りますが、ヘルンというこの外国人は、ギリシアやローマの一番健康なころの精神が、地球上のどこに残っているかを自分は探し廻ったというのです。そして、どこからもその片鱗も夢みることさえ出来なくって、絶望の揚句ふらりと日本へやって来たところが、思いがけなく、ここがそれだと思ったというのです。そして、日本にそのまま居ついてしまったんですが、この夫人は、二百本持っているヘルンの煙管に、いちいち煙草をつめて喫わしてやって、最後の一本を喫い終ったころには、最初の一本にもうちゃんと、新しい煙草を詰めてやってあったというのです。まるで女神みたいなものですからね。まだそのころの日本の婦人はたいていは皆、そうだったらしいですよ。」
 矢代の云っている間にみんなの表情は、今まで見られなかった粛然としたものに変っていった。背も椅子から伸び眼光さえきらきらと耀き出して来たが、やはり誰も黙っていた。
「ところが面白いのは、ヘルンは外国人のくせに、キリシタンというカソリックが日本に入って来たことを非常に怨めしく思っているのですね。あんな極悪非道なものが、日本人に祖先崇拝をやめよと命令して進んで来たから、忽ち大虐殺にあった、あの虐殺は当然のことで、日本は立派だったと賞めてさえいるのです。僕は見方にもいろいろあるものだと思いましたね。」
 云い出してしまった勢いでつい矢代はここまで云うと、怒りを含んで蒼ざめた顔色がどこか一隅に二三さっと顕れたように感じたが、彼はもうその方を見なかった。その一つの中には千鶴子の顔も恐らく混っていたにちがいないと思われたが、しかし、外人でさえそんなに思うものもいたのだということだけは、誰も一度は知って置いても良いことだと彼は確信するのだった。
「そいつは面白いなア。」
 と、俄かに顔色をほころばせて、喜んだのは、さきからひとり黙っていた画家の佐佐だった。
「さア、侯爵、黙ってばかしいないで何んとか云いなさい。あなたんとこの先祖もキリシタンをやっつけた方だよ。」
 と由吉は田辺侯爵に押しつけるようににやにや笑って云った。
「僕んとこのは代代名君だったからな、そんな怪しいことはやらんさ。」と侯爵は鼻のあたりを撫で廻して云った。沈んだものらの顔色もこのときは一緒に笑い出した。
「しかし、カソリックの極悪非道というのは、それやヘルンはカソリックを知らないんだよ。いかに日本を愛するあまりに云ったことだとしても、西洋に秩序と忍耐と謙譲の徳とを与えている根源の精神を、極悪非道というのは、無智無羞の徒の云うことじゃないか。もし西洋にカソリックがなかったら、ヨーロッパ精神というものはもう闇同然だと思うね。」
 遊部は眉を顰め落ちつかなそうに云って矢代を見た。それはむしろ悲しそうなにがにがしい怒りを含んだ眼つきだった。
「しかし日本の一番の美点をむかしのギリシア同様の祖先崇拝だとヘルンが見てとった場合、それを止めよとカソリックが命じるなら、こ奴極悪非道な奴だと思ったのは当然だよ。」
 と佐佐は云った。佐佐の父はもう亡くなっていなかったが、生前は真宗の大黒柱と云われた仏教学者であった。漢学者の塩野の亡くなった父とは友人で、二人はまた絶えず生前仏教と儒教との立場の違いのために、論争ばかししてどちらも死んだということを矢代は塩野から聞いたことがあった。今もそのような関係が二人の子供の心の上にも連想を呼び覚したものと見え、佐佐がむくむく起き出して来たようにそう云うのとともに、カソリックの塩野の表情もそれにつれて変って来た。
「それは十六世紀のカソリックの政治が悪かったのだよ。あのころはスペインとポルトガルとの闘争時代だから、どっちも罪の擦りつけ合いをした結果が、悪宣伝の泥仕合になったのさ、何もカソリックそのものの精神は悪くはないよ。もし日本にカソリックがなかったら、外国との交際ということは、これからも絶対に不可能だからね。」
「それにしてもだ。祖先崇拝を悪いというカソリックの主意は、今も変らないね。日本の道徳の根源が祖先崇拝なら、これを認めぬという宗旨とは、必ずどこかで衝突せずにはおれないさ、カソリックは霊魂を認めるくせに、その国の祖先の霊魂を否定するというのは、僕には分らないのだ。仏教は仏を信じさせても、先祖を仏だとちゃんと認めているんだからね。」
「しかし、神に帰一する希いはカソリックだって同じだよ。神に二つはないんだから、それを仏だなどという怪しいものを持ち出して来て人の頭を紊したから、紊された人間の頭の恢復は遅くなるに定まっているじゃないか。」
 塩野のそういうのに、口重な佐佐は少し云い渋ってもどもどしたが、人より頭の鉢の大きく開いた強い眉の下で、眼だけ鋭く反抗している微笑を泛べて云った。
「仏教というものは、カソリックみたいにそう人に苦しみを強いるものじゃないのだからな。」
「まア、どちらも日本の神を信じたまえ。」
 と、速水は風邪ぎみか度度手巾を出し鼻をかんだ。
「しかし、日本のむかしのキリシタン宗はカソリックだといっても、あれは実は武士道精神だったのですね。迫害にあって死ぬことを名誉と思って、ぞくぞくと平気で死んでいったものだから、ローマの法王庁はそれを聞いて、そんなことは当時の外国の例にはないことだし、向うにセンセイションを起したらしいんですが、しかし、僕は、ヘルンという人は外国人だったから、危機に臨んだ際の日本人のそういう無私、滅私の祈りというものも、やはり外国流に解していたのじゃないかと思うのです。日本人ならははアやったなで、すぐ分りますからね。」
 矢代は偶然のことから一同に問題を投げかけてしまった責任の始末もつけたくて、そう云いつつも、ふとまた別の一つの思いが泛んで来たのでさらに云い加えるのだった。
「マリヤ観音というのが当時の九州にありますが、あの観音像は幕府の眼を昏ますためのマリヤ像か、それとも、マリヤ像を仏教の一種の観音像と見たものか、そこはどちらにしたところで、日本のカソリック信者自身、自分の宗旨の何ものであるのかよく知らなかったということになりますから、その直感をいっそのことも一つ前に遡ぼらせて、仏教渡来のときのことを想像しますと、あるいは観音像を天照大神像だと信じさせつつ、仏教徒が民衆の中へ入り込んだ時代もまた僕には考えられて来るんですよ。だいたい、信仰の根というものはみな一つにちがいないのですから、日本人の信仰ならどういう宗教であろうと、その中には大神からの古神道が流れていると思われるのです。僕はそんな風に思うと、やはりキリシタンの迫害の際にも、死を見ること帰するがごとく平然として死んでいった信徒たちも、武士道というよりむしろ古神道の精神の立派さじゃないかと思われるんですが、どうでしょうか。」
 云いかねていたことも矢代はそう云ってしまうと、この夜の査問に対する自分の答えも、これで先ず出来たとほッとした。またそれは思いがけなく千鶴子への答えにもなっていたので、反省すべき部分を残していると思われても、公衆の前では今のところこれ以上はやむを得ないと思った。
「あなたの道徳論も、それでまア、やっと分りましたな。」
 久木男爵は小首をかしげ眼鏡を脱した後で、客たちはみな遠方を見ている風な眼差のまま誰も黙り込んだ。しかし、遊部だけ一人何んとなく落ちつき悪そうに左右を見廻しているうち偶然にみち子と視線が会った。すると、急に照れた笑顔で、
「皆黙りこんでしまったなア。みっちゃん、その後丈夫かね。」とひょっこり訊ねた。
「ええ、お蔭さまで。あなたは?」と、みち子は意外に静かな声で懐しそうに肩を落し、そして伏眼でそっと遊部を見た。
「僕もまア、この通りですよ。」
「お痩せになったわね。」
「いったい、どっちも好きなくせに別れているとは、どういうことだ、え?」と突然由吉は二人の顔を見較べて訊ねた。
「誠実さがないからさ。」と遊部は軽く俯向いて一言いった。
「あってよ。」
 みち子も同様に軽く応酬したが、二人の搓りを前に戻そうとする風では少しもなかった。
「もっとやれやれ。」とまた由吉は面白そうに二人をあおり立てたので、論議とは違い室内は一層賑かな笑いに満ちて来た。
「どっちも誠実さが足りないぞ。」
 と塩野は、前から二人の間に挟まっていたあるもどかしさを吐き出したいらしく、彼もまた元気づいた声になった。
「とにかく、諸君に心配かけて相すまないが、どうもね――このマリヤ観音は、道徳というものを知らないのだよ。」
 遊部のそう云うのに由吉は隙を与えず、
「今ごろ道徳に負ける奴があるか。」と彼の顔を窺き込んだ。
「先日、あなたのあの人見てよ。」
 みち子はもう他のもののことなど見向きもせず、遊部だけそこにいるような和らかな眼で彼を見詰めた。
「見たか。どこで?」
「ある所よ。――でも、あなた本当にあの人好きなの。」
「いいね。誠実さがあるよ。」
「そうかしら。あたし、あんな人に感心するなんて、少しあなたどうかしてるんだと思ったわ。」
 と、みち子は顎を引き、遊部の胸のあたりに視線を落しながら、やや皮肉な微笑を洩して云った。
「そうじゃないよ。それや、そこは君には分んないさ。」
「でも、あたしの眼は間違っちゃいないわ。案外ねあなたも。」
 少し薄睨みでみち子がそう云うまで、傍にいたものらは、二人のすらすらと早く運ぶ会話に聞き惚れるようにしんと黙っていた。矢代もふとパリにいる久慈と真紀子の二人も今ごろは、眼の前の遊部とみち子のような話をしていそうに思えて、暫くは二重の興味で聞いていたが、遊部の会話がそこで途切れてしまうと、由吉は惜しそうに、「何んだ、それだけか、もっとやれやれ。」と遊部の片腕を掴んで引きよせようとしたので、そのまま話は一同の笑いの中に壊れてしまった。
「今夜はこの二人を帰らせないことにしようじゃないか。」と速水が云い出した。
「いや帰るよ帰るよ。」と遊部は真面目に狼狽の色を泛べて腕の時計を一寸見てから、隣室へ一人立って行くと、軽くシューマンの協奏曲らしいものを叩いてみていた。みち子も何かまだ云いたいことがあると見え遊部の後を追っていったが、間もなくピアノを聯弾する二人の間からひそひそした声が洩れて来た。
 矢代は今夜の侯爵邸の夜会の意味には、さまざまな好意が含まれていたのだと初めて悟るのだった。速水は、この次の集りを佐佐の画の個展のときと藤尾みち子の演奏会のときとにまたやることを提案した。誰もみなそれに賛成だった。矢代は豊かなこの夜の空気にまだ心残りを感じたが、初めての出席に千鶴子と同様長居するのも気がねせられたので、先に失礼する旨を述べて侯爵に挨拶した。すると、久木男爵も「それじゃ、わたしも」と云ってともに立った。遊部とみち子も隣室から出て来た。
「今夜は近ごろにない面白い夜でした。また今度もこの続きをひとつやって下さい。」
 あながちお愛想とは思えぬ上機嫌な気色でそう男爵は一同に頼んでから廊下の方へ出ていった。矢代も一瞬立ち停ったような千鶴子の大きな眼を掠めて見ながら、そのまま部屋を出ていった。
 門外の冷えつめた夜気の底から、道路工事の焔が塀に沿いタールの臭いを吹き流していた。久木男爵の自動車の扉が匂わしい銀鼠色のクションの模様を開いたとき、男爵は、矢代の帰る方向を訊ねてそこまで一緒に乗車をすすめた。集りの気分のまだ失せない無遠慮なまま、彼は同車させて貰って坂を下って来た。
「そのうちわたしは旅に出ますからね。そこへ今度は遊びにいらっしゃいよ。旅さきならあまりうるさくないですから。」
 男爵は矢代にそう云ってから、「来週はどうです。」と不意に訊ねた。今夜はこれで久木男爵とも会う最後かもしれないと思っていたときとて、矢代は、この男爵の不意打の誘いにはすぐには返事が云い遅れた。
「御都合が悪ければ、その次の週にしますか。その次なら良いでしょう。」
とまた男爵は黙っている彼に重ねて訊ねた。
「ええ。ありがとうございます。」
 と矢代はこのときも答え渋るのだった。彼は自分の父が先代の男爵家の社員だったことをまだ云いそびれていた苦しさが、再び蘇って来たための不決断だったが、なおこの男爵の親切さが旅先までも続けられることを思うと一層窮屈に閉じ込めてゆくにちがいない自分の気質を思い、矢代は落ちつきを失った。しかし、何ぜまたそんなこと一つを、男爵に云えないものかと思うもどかしさも苦しく責め上って来るにつれ「云ってはならぬ。それだけは今は云わぬが良い。」と囁く声にもまた締められて、彼は暫く車の速度も忘れていたほどだった。
「私はどうも不調法な性質なものですから、旅先だと却っていつも人に迷惑をかける始末になるんですよ。」
 こう云う矢代を男爵は彼の遠慮とのみ解して、それには特に触れようともしなかった。そして、「わたしは会社の仕事を、何も考えない時間がときどきほしいんですよ。それには旅をする以外にはありませんからね。」とぽつりと云った。
 それではやはり父のことなども、口にせず忍耐したことは良かったと矢代は思った。もし一口いえば、この夜の男爵との交情にも、二人の間に潜んで来る人知れぬ煩しさのために、何らかの変化を起すだけではなく、受けた好意を謝している折角の自分の気持ちさえ、そのため却って退け下すような仕儀ともなりかねない惧れを感じた。
「良いですね。ひとりいるのは――あの旅のホテルで朝起きて一人いるときの心持ちは、何んとも云えないですね。」
 とまた男爵は、日ごろの複雑な劇務のさまを思い描いた詠嘆の調子だった。金銭という奇怪なものに幾重にも包まれ育ったこの男爵の苦しさは、人間の価値決定の標準を何によるべきかと、日夜思案に耽り通して来た人にちがいない、重い滴りのような孤独な淋しい詠嘆だった。
「幾つ社長をしてらっしゃるんですか。」
「もう分らない。」
 と男爵は一言聞き取れぬほどな小声で云ったきり黙った。何かそれも口に出すさえ煩わしげな思いの群り襲う沁みに聞えて深かった。
 矢代は男爵と二人でクションの上に揺れながらも、この夜の男爵とのことを帰ってから、主人思いの明治の気風をまだ失わぬ父に話せば、どんなに父が喜ぶことだろうと思った。矢代はその喜ぶ父の心情を想像すると、今こうしてここで男爵と自分の並んでいることが、すでに孝行をしていることになっているのだと気がついて、思わぬ明るい気持ちの差し込むのを覚え久しぶり若若しい青年に立ち還って来るのだった。そして彼は父のその喜びの移り映じて来た自分の今の興奮の仕方を、これを僅かに自分から見つけた価値のように思われ、横の男爵にはそれも早や無い富貴の寂しさばかりが攻めよっているのかもしれぬと、男爵の日日の生活をあれこれと想像して、反対にますます自分の幸福を的確に感じとった。

 日曜で空の上の方には風があるらしかったが、庭の樹樹は静かだった。下枝の間を影のように鶯が移り渡っていた。植えてから五六年は実の成らなかった黐《もち》の樹に、赤い小粒の実が成り始めた年から、よく小禽類の来るようになったのも、今年はそれが目立って増えた。まだ笹鳴きの若い鶯ながらも、真近く見る姿は絶えず鋭く伸びたり膨れたりした。矢代は、午後からは長く忘れていた畑を打ってみようと思いながら、火鉢に片手を焙り、鉄瓶の鳴るのを聞いていると、ふとある貴重なものの過ぎ通っている静かさを覚えた。冬の日の障子の明るく冴えたその向うで、「ちッちッ」と鳴く鶯の声も、流れ移っていった旅の日の、空を仰いだときどきに感じた郷愁に見えたりした。
 暫くすると足音がして、母が矢代の部屋へお茶と菓子を持って這入って来た。午後ならばともかく午前中、厳格な母は矢代にこうしたことは、今までにあまりなかった。
「今日は良いお天気ですね。ひとつ今日は畑を打とうかと思ってるんですよ。」と矢代は母に云った。
「畑を? お珍しいことね。そんな手で出来ますか。」と母は笑った。
 窓の外を見上げ差し向いに坐っている二人の傍で、鉄瓶は湯気を上げて鳴り、なお鶯は枝から枝へ飛びわたって、今までひそかに矢代の待ち望んでいた梅の枝まで来た。
「昨夕のこと、お父さんにお話したの。そしたら、お父さんお喜びになってね。もうそれは、ほくほくしてらっしゃるの。」
 母もいつもとは違い子供のような言葉でそう云うのを、矢代はああ、あのことかと思った。あのことは昨夜帰ってから久木男爵と会った始終のことを、父には云わず母に矢代が話したのを、母はそのまま父に話したらしい。今から思うとそれは些細なことだったが、父にはやはり些細なことに響く筈もなく、家の空気が俄に大きく膨らみのぼった吉兆のように感じたにちがいない。それに妹の幸子も、いよいよ退院するという通知のあった二日後だった。
「久木さんは面白い人ですよ。世間の人の考えているより、僕はむしろも少し豪い人のように思いましたね。分りにくいのですよ。あの人の豪さは。」
 矢代はこう云っても、自分が男爵から享けた親切さを素として、好感を抱いた結果出た言葉だとは思えなかった。男爵の洒脱さの中には深さもあり、あの地位では持ちがたい謙虚さと、真面目さと、情熱とが細かく渦を巻いていたと思った。殊に何より矢代の心を明るくさせたのは、黙ろうとする自分をよく饒舌らせてくれたことだった。
「しかし、僕は困りましたよ。お父さんがむかし、久木さんの会社のお世話になったこと、どうしても云えなくってね。」
「あなた失礼なことしたんじゃないんでしょうね。お父さんそれを一番心配してらっしゃるの。」
「したかもしれないなア。」と矢代は云って笑った。
「お父さんは、耕一郎はときどき生意気なことを云うから、あ奴、また馬鹿なことを云いよったのじゃないかなアって、そうお云いよ。」
「しかし、あの男爵は、僕にぼろを出させて後悔をさせない人ですよ。そういう人はあまりいないですからね。それや僕だって、少しはいい気持ちになります.
「そんなことはあたしに云わずに、お父さんに云ってごらんなさいよ。」母は子の方へ一寸無意識に菓子を手でよせ、嬉しそうだった。
「おやじには駄目だ。僕が男爵と物を云ったことが、すでにもう無礼なことをしたと、思う人ですからね。僕がお礼を云い忘れたことなど話しちゃいけませんよ。ひどいお目玉だ。」
「それやいけませんね。そんなことなどしれちゃお父さん――」母は湯呑を上げ暫く子の顔を見守ったまま、どうしたことかふと黙った。
「この次お礼を云ったんじゃ、手遅れだし。どうしたのか昨夕は――まア、云わない方が、その場の礼儀にかなっているような気がしたものだから。」
 後悔というのでもなく、自分の失礼と感じたのでもない、しかし、黙っていたことが、今となっては気辛い味となって尾を曳いていることは確かだった。それも一つは、男爵が自分の気に入った人だからだと矢代の思ったのはまだしも良いとして、いつの間にか彼は、もし千鶴子との結婚の場合に、父や母が不承知のときを想像し、そのときには久木男爵に頼み両親を説き伏せて貰う虫の好い考えさえ、幽かに頭に忍び入って来るのだった。それはその可能性があるとしても、頼み込むべき筋合のものではなかったが、千鶴子が気に入りの侯爵夫人に、自身の方の両親を説きすすめて貰う努力をしているのが瞭かな現在、こちらもそれに相応した説得者として、ひそかに久木男爵を選び考えたのは、特に男爵に面倒をかけることでもなく、ただ一筆両親へ手紙を書いて貰えれば良かったからである。それにしても、もしそんなことでもすれば、父は分を知らぬ子の行いに、ますます怒ることなど矢代には眼に見えた。
 下枝を移っていく鶯を眺めながら、彼は、この上久木男爵に会って親しくなれば、頭に泛んだことも頼み込みかねない自分を知り、やはり男爵とはもう再び会うまいと決心するのだった。
「お父さんが久木さんの会社にいたのは、幾つぐらいのときだったんですか。」
「そうね、ちょうどあなたほどの年だったかしら。あなたの生れたときは、久木さんの会社にお勤めだったから、早いもんだわ、もう三十年以上になるんだね。お正月になると、社長の久木さんが社員の前へ出て御挨拶なさるだけで、一年に一ぺんお顔が見られたもんだそうですよ。それにあなたの昨夕のお話本当なら、それはお父さん、愕きなさるわ。」
 六十に近い年にしてはまだ頬の皺もあまり見えず、切れ長の眼に、髪も濃い母の顔を矢代は眺め、母に較べて老いこんだ父の白髪を眼に泛べた。
「しかし、お父さんも年をとられたと、つくづくこのごろ思うな。外国へ僕が行く前には、ああではなかったんだが。」
「一緒にいると分らないけど、そうでしょうね。そうそう、先日もね、お父さんあなたのお嫁さんのことも心配してらっしゃるの。いつになったら耕一郎から云い出すか待ってみてるんだが、お前にはまだ何も云い出さないかって。あなたも決めるものなら、そろそろ決めて早くはありませんよ。」
 嫁の話は母からは云い出さず、妹の幸子から、やがて切り出されることとのみ思っていたときとて、そんなに母から云い出されると、彼も自然に顔の熱てりを覚えた。それも自分の結婚の相手が千鶴子だと分れば、誰より反対しそうなものも、気性の強いこの母にちがいなかったが、言外に意もあるらしい今の母の話し振りでは、千鶴子のことも朧げながら早や察しているかと頷かれる節があった。
「細君のことは、まア、もう暫く待って下さい。」
 矢代は言葉を濁し、気軽く菓子を摘まんだ。そして、昨日千鶴子と虎の門で見立てたソファがもう着きそうなころだと思って時計を見た。

 まだ畑へ出るには早すぎる寒さだった。矢代は鍬を持って外へ出てみた。畝も消えて平べったくなった畑には、夏から抜き忘れたままの黍が数本立ち枯れて残っていた。萎びた葉をべたりと地につけている大根と一緒に、それらを引き抜いた後から彼は畑に鍬を入れていった。
 一打ちごとに足もとからむっと土の匂いが掠めのぼって来ると、彼はブロウニュの森で千鶴子と二人で草の中に伏し、土の香を嗅ぎつつともに日本を偲んだ日の、ある午後のひとときを思い出したりした。そして、日本へ帰れば何より先ず畑を耕したいと思ったりしたことも、今ごろ漸く実行し始めた彼だったが、「身土不二」という昔からある言葉の深い意味も、こうして打つ鍬の重さ、土の匂い、汗の香の中から味われて来る思いがした。
 しかし、彼は土を掘り起しているうちにも、この土地は地主から借りていてまだ自分の物ではないのだと思った。自分の手で耕すことの出来る範囲の狭さでも良い、若干の土地を握ってみたい欲望を彼は強く感じて来ると、それも父から貰った金銭で買い需めたくはなく、自分で得た金銭で需めねば、身土不二の意の深さもその根さえ識りがたいと思えて残念だった。そう思うと、外国で使った金銭の額でなら、今打つこの畑の広さも手に入る見込みがつき、今さら彼は、一打ちごとに失った額の重さが身に感じられて来るのだった。
 霜柱のため砂を浮き上げぼそついた土の表面が、彼の後から鮮やかな黒さを蘇らせて進んでゆく。ほんのりと温い土の香だった。矢代はこの畑に撒く肥料も、自分の家族の体中から出た物のみに限ってみたいと思った。そして、そこから生えた野菜でまた一家の身体を養うことを考え、土と血との循環も考慮に入れたかった。それにしても、なお彼に残念なことが一つだけ、頭の底から絶えず脱けず彼を追って来た。それは航海の船中で起ったある日の小事件だったが、丁度船がコロンボを出たころの夕食の後である。船客たちが集ってなごやかな雑談から無遠慮な談に移って来たとき、ある商務官が、弁護士を辞めて出て来たその隣りの青年に対い、
「君も西洋へ行くなら、自分の儲けた金で行くんだね。」
 と軽く冗談を云った。誰が見てもこの青年は金持の息子に見えていたので、云う方もただ気軽に云ったのだのに、その一口に忽ち青年の顔が蒼ざめたかと思うと、皆が驚くような大声で、
「馬鹿ッ。自分で金を儲けずに誰が来る。」
 と呶鳴りつけた。
 弁護士としてある事件を片付け二万円を手にし、その働きで来ている青年のことを矢代も知っていたが、しかし、それを知らずにふと口にした商務官の一言が、こんなに人を怒らしたのも、理由があった。神戸を船で発つまでは、船客たちの誰も、船に乗り得られた費用の出所が自力か否かを問わず、外国へ行くことに変りのない筈と乗り込む常のことも、さて船が進み始めてみると、まったく意外なことに、各自の自力で来ているか否かが、いつか暗黙のうちに、乗客の価値決定の標準に自らなっているものだった。随って矢代も、親から貰った金銭で旅人となり得た自分に絶えず弱点を感じ、苛責を覚えていた際だったので、このとき青年に洩した商務官の一言ほど、矢代の胸を激しく衝いた言はなかった。それはまた航海の途中のみとは限らず、外国を歩く旅路のどこまでも従き纏って来る無念さである。
「まア、そう怒るな。自分で儲けた金なら、許すとしよう。」
 と、商務官は即座に大きく出て笑ってのけたので、無事船中のその場は丸く鎮ったが、弁明の余地のない矢代に、却って痛さは一層響き残って消えなかった。
 今も彼は二畝もつづけて鍬を打ち降ろしていると、汗が額から頬を伝い、土の上に滴り落ちた。それもわが身の罪の流れ滴るのを眼にするように感じ、腕が痺れて来ても矢代は止めたくはなかった。久しく運動から遠ざかっていたので呼吸も切れ易かった。腰も懶るくなり、咽喉もとの唾も涸れて来た。しかし、そうしている時にも流れる汗が激しくなって来ると、彼は何か見栄に似たある虚栄心さえ次第に覚えて来るのだった。矢代は鍬の柄に肱をつき畑を見廻した。軽く跳び弾んで来る快感の中から、こういう見栄の混じて来るのはこれはどうしたことかと、やがて憂鬱になりのろのろと鍬を上げては降ろした。正義感もそれを感じれば感じるほど不正を覚えて来る畑打ちだった。
 矢代はこんな難しいものを畑から得ようとは思わなかったので、疲れのまま小川の縁の枯草の中で休んだ。日に解け湿った土から蕗が勁い芽を出し、傍の小石もその芽に押し動かされた様子が見えた。枯草の間を流れる水の面に温かそうな霞が漂い、冬もようやく去ろうとしている気配があたりの草叢から感じられた。

 この日の労働は彼の身に応えて全身に疲れが廻ったが、外国から帰って以来、矢代は初めて心に落ちつきを得たように思われた。夕食前風呂に這入ったときも、体を洗うのも大儀に感じたほどだったが、気持ちは常になく晴やかだった。
「今日みたいな気持ちの良い日は、僕は初めてだなア。」
 と風呂から出たとき、身体を拭き拭き矢代は母に云った。
「たまに働くとそういうものですよ。」食事の用意をしている母は笑った。
「土の匂いがいいんですね。」
 そう云いつつも、やはりそれは近ごろ初めてしてみた正直な働きのためだと矢代は思った。自然に対い恥じざる行いに少しばかり接近したのだと思ってそっと黙り、彼は新しい襯衣に着替えて帯を強く締めてみた。夜になってから気温が急に下り雪模様の冷えた空気が室内にも襲って来た。食事のときは、この夜は珍しく父の部屋で揃いの高膳だった。父は晩酌を矢代に奨め、
「どうだい、いっぱい。」
 と酌をしてくれた。父と一緒のときは矢代は自分の年も忘れ、十歳ほどの少年のような気持ちになり、いまだに成長した覚えのないのが不思議だったが、それが父から酌を享けると、突然に身丈の伸びた感じで気羞しく盃を出すのだった。いつもは父とあまり話さぬ癖の彼も、そうして三四杯父から続けられるにつれ、疲れに酒が加わって、何かと饒舌り出しそうな気色も動いて来たりした。
「久木さんはもうお幾つだ。」と父は自分も子に注がれたのを享けて訊ねた。
 今日の父の上機嫌は、母の話したことに原因しているのも矢代には分っていたが、どういうものか久木男爵のことだけは、直接父に話す気がまだ起って来なかった。
「赤い襯衣を着る年だとか、云ってられたようでしたが。」
 男爵の不在を好都合に迂濶に失礼な言葉使いをしては、父に叱られそうで彼も幾らか固くなって答えた。
「ふむ。」
 父は何か自分の年齢や、その他久木家の先代の年齢との開きなど考える風に暫く黙った。
「お父さんが久木さんのところに勤めていられるころは、主にどういうことをしてられたのです。」
「あのころはもうトンネルの設計をしていたよ。難工事で人が失敗すると、いつもその後をわしがやらされたもんだな。これでわしも、日本のトンネルの難工事というのは、随分仕上げて来ているんだぞ。福島から会津へぬけるトンネルがあるだろう。あれは難工事で、わしも初めてぶつかったものだから、あのころは夜もろくろく眠れなかった。それから難しかったのは、碓氷峠だ。あれは難しかった。その次は大津から山科へぬける疏水で、その次は宇治川の水電だったね。」
 父にも酒が少し廻って来たと見え、子の前でむかしを偲ぶ自慢もそろそろ出始めた。矢代はこのときを機会に父の自慢談をなおよく聞き出して置きたく思い、父の盃に酒を忘れずに注ぐのだった。
「久木さんとこの会社には、いつごろまででしたか。」
「碓氷トンネルを仕上げるまであそこで御厄介になった。どうもわしは短気者だったから、命令通りにしては仕事の進行は危いと分ったので、反対をしたのだ。ところが、会社の方はわしの云うのを取り上げてくれなかったものだから、とうとうトンネルは潰れた。それでまたわしが命ぜられて仕上げたのだが、それと一緒に会社も止めさせて貰った。」
 固そうな白い鬚に父の表情は隠されていたが、直接に見たこともない父の才腕も、微笑を含んだ眼もとに冴え光るものの走るのを眺め、あれが父の鍛錬の顕れであろうかと矢代には思われるばかりだった。
「一番の御自慢はどこですかね。やはり碓氷峠でしたか。」
「そうだなア。自慢の出来るのは碓氷峠と逢坂山だ。今の逢坂山はあれは誰がしても失敗したもんだが、とうとう最後にわしが仕上げた。今でも東海道線であそこを通るときは妙なものだ。眠っていてもぱッと眼が醒めるよ。自分の作ったものの腹の中へ転がり込むんだからな。東山の土が柔かくって、あんな柔かい土もないもんだ。」
 唇の色だけまだ赤く美しい、父の顔を見上げるときどき、ふと矢代には先祖の歴史と父の仕事との関連が泛んだり消えたりした。そして、今のうちに自分の知らぬ部分の家の歴史を聞いても置きたく思ったが、父の眼には、子とおよそ違う身を打ちつけて来た重なる山岳の重量が、過去の幻影となって襲って来ているにちがいない。実に健康な若若しい日の父の姿も、羨ましくその厚い両肩から感じられた。彼は千鶴子と自分との間にもし子供が生れたら何をその子供らがするものだろうかと、まだ父には告げぬ自分の嫁のことなども考えられたりした。
「お父さんの苦労がそう僕に分っちゃ、うっかり汽車にも乗れなくなりますね。困ったことだ。」と矢代は母を省みて笑った。
「お前は今日は、百姓したそうだね。」と突然父は訊ねた。
「どうも先祖のしたことも知らずにいちゃ、罰があたると思ったもんですから、一寸真似をしただけですよ。しかし、あれは気持ちの良いもんですね。こんなことも忘れていて、何を今まで考えていたんだろうと、今日は少少後悔しましたよ。それはそうと、僕の家の一番古い先祖の名は、分ってる範囲ではどういうところですか。」
「藤原基経だ。わしの親父は、子供のころそう云うていつも聞かしてくれたが、嘘か本当か知らないよ。」
 父の郷里から発行されている郡誌を読み、そこに書かれたこと以外にまだ家の歴史を知らなかった矢代には、基経というその名は初めて聞くことだったので、意外な無作法をしていたように改った気持ちになるのだった。
「藤原基経というと、時平の父のあの基経のことですか。最初の関白の。」
「それはどうだか分らないね。しかし、名前だけはそうだった。」と父はさも興味なさそうな声で答えた。
 しかし、矢代は二度と訊くこともない父の一言の答えのように思われなお胸にその名を呟いた。恐らく祖父も曾祖父も今自分が父からこうして無造作に話されたと同様、いつか機嫌の良いこんなある夜に聞かされたものだろう。そして、基経の名だけは、自分の後から来るものにも、家の続く限り記憶に繰り返され蘇ってゆく代りに、やがて、自分や父の名は忘れ去られるにちがいない。しかし、その中でも、父の残した逢坂山のトンネルだけは、以後これで、基経の名と共に子孫の頭の中から消え去ることはなかろうと思った。
 書院の外の梅の枝に軽く雪の鳴るのが聞えた。母は台所から銚子を持って来たときやはり雪だと二人に報らせた。
「わしの危かったときは、宇治川の水電だったな。あれを作るときには東洋一だというので元気も大いに出たが、そのときも反対派の技師とわしは喧嘩をして、じゃ、やるが良かろうと向うのままにしてみたら、とうとうそこから崩れた。そこで大ぶ生埋めにされたが、崩れはわしの足もとまで来て止った代りに、成田のお札が真っ二つに割れていたね。はッはッはッ。」
 父一代のほこりか顔は赧く熟し機嫌も一層良さそうだった。しかし、矢代は父から基経の名を聞いたときから、いつとは識れず暗鬱な情緒を次第に強く感じて来ていた。それも基経の子の時平が矢代のもっとも好きな菅原道真を太宰府に流した暗さだったが、些細なこととはいえ、矢代は幼少のころから、お前は天神さんの御命日に生れたのだと母から聞かされていたために、特に道真のことは矢代の気にかかった。母にせがみ梅を庭に他の樹より多く植えて貰ったのも、一つは道真の好きな梅が伝染ったからでもある。今、時平の父の名とともに泛ぶ庭の梅に、音たてて降る雪の冷たさも、彼の記憶のうすら寒さとなり、一抹の憂鬱さを沁み込ませて来るのだった。
「しかし、まさか先祖はあの時平の父の基経ではないだろう。」
 矢代は父が寝てしまってからも、自分の書斎でひとり呟き、基経、時平あたりの歴史書を急に開いてみたりした。すると関白基経の生んだ穏子から二人の天皇までお生れになっているのが分り、これは有り難いことだと、俄に彼は清水を含んだ思いに立ち返って、暗怪な時平に代り、その妹の穏子の方の身の上を想像しながら、夜更けまで藤原北家の流れの行方を尋ねていった。しかし、父の云った基経は、まさか穏子の方のあの親ではないだろうと、今度は前とは逆で、寂しく西海の波のまにまに漂っていった田舎藤氏の末を、長い旅の愁いのように崩れた郷里の城砦を渡る松風とともに眺めるのだった。
 彼は窓を開け雪の深さを覗いた。灯に射し照された梅は、明暗鮮やかな勁さで枝を雪中に差し交していた。その冴え静まった群落した枝を掠め、大粒の雪が夜ふけの物音のように降りつづけた。踊り狂う雪足の紊れながらも、幽かに梅の匂いも漂っている雪明りである。彼は日本の歴史の味わいに似たものをふと感じ、帰って来た郷のりりしい清爽さを身に沁み覚えて戸を閉めだ。彼は父の話した基経が何者であろうとももう同じことだと思った。

 寝床の中へ這入ってから、彼は間もなく自分の誕生日の来ることに気がついた。そして、去年のそのころは航海の途中で、船室の鉢の桃の芽が加わる南国の暑さに、いたずらに伸び繁っていった無聊さを思い出した。ピナン、コロンボ、アデンと進むその船の中では、千鶴子と久慈がいつも手を取り合わんばかりにして、甲板の影から影を愉しげに廻っていたものだったが、過ぎ去った日の悩ましさも消したくなって、矢代は、蒲団の中で寝返りうった。枕から耳が上ったふとその拍子に、幽かに何か呻き声に似たもの音が聞えて来た。それは父の寝室かららしく、暫く途絶えてはまたつづいたかと思うと、その後はしんと沈み、動悸だけ騒がしく響いてもう彼は眠れなかった。母は父の鼾声の高くなったこのごろ、眼が覚め易く別室で眠る習慣だったから、母にはまだ父の呻きも聞えていないかもしれないと思い、彼は起きて父の部屋の外の電気を点け、襖を細目に開けてみた。呻きらしいものもそのときはもう聞えなかったが、嗅ぎ覚えのない悪臭が部屋に籠っていたので、なお少し襖を開けて光りを中に入れてみた。すると、蒲団から乗り出た父の白髪が、あたりいちめんに流れている茶褐色の液体の中に俯向いたままじっとしていた。矢代はただ事ではない父の容体を感じ、
「お父さん、お父さん。」
 と耳もとでそう二言つづけて呼んでみた。しかし、色のない耳朶の裏が寂しく見えるだけで、もう父は返事をしなかった。彼は全身に滝の落ちかかって来るような重い戦慄を覚えた。そして、
「お父さん。」
 とまた大きく呼んだが、やはり同じだった。液は口から吐いたものと見えて畳の上に多量流れていた。素人目にも脳溢血の疑い確実だったので、彼は父の体を動かさないようにしてすぐ母を呼びに行こうと思って父の手頸を執ってみると、もう脈も響かず瞳孔も開いていた。万事駄目だとだけ直覚され、彼は膝をついたままそこから動けなかった。小机の上の置時計の針が丁度二時を指していた。父が寝室へ立っていったさい、襖に一寸手をかけた後姿を眼にしたのが、最後の父の姿だった。それまでどちらもその別れさえ知らずにいたのだと、ちらっと瞬間思ったばかりでぼんやり彼は端坐をつづけていた。
「どうしたんです。」
 母が暫くして入って来た。すると、急に何も云わなくなった母は何ぜだか勝手の方へまた戻った。矢代は父の亡骸から離れると、医者の来るまで父を動かさない様に母に頼み、云うべきことは今はそれだけにして外套を着て外へ出ていった。雪は路に降り積っていた。彼は歩きながらも、一大事が起っているのに何か間の抜けた気持ちで、身体の中に一つ大きな空洞の生じたのを感じ、まだ見たこともない冷え冷えとしたものが、徐徐にそこを満している緊張を覚えるばかりだった。
 足駄の歯の間に雪が溜り込んで膨れ、彼は片膝をついて一寸倒れた。急いだとてもう遅いと分っていてもやはり彼は急いで歩いた。すると、母が父の鼾の高さを嫌って別室で眠っていた習慣が、俄に腹立たしくなって来た。が、一人今ごろ周章《うろた》えている母の姿を思うとそれも気の毒になって来るのだった。
 二時を過ぎているのに病院の玄関にはまだ灯が点いていて、着替えてもいない医者がすぐ出て来た。そして、矢代の話す父の容態を良く聞きもしないうちに、
「今さきも同じ患者さんがあって、帰って来たばかりですよ。お天気が激変しましたからね。」
 と云うとまた医務室へ這入った。雪で自動車の動かぬ弁解も少しあったが、それでも医者は彼と一緒に雪の中を歩いて来てくれた。
 家では父の吐物がもう片付けられ、蒲団から乗り出した父の頭の下に別の蒲団も継ぎ足して敷いてあった。仏壇や神棚に灯明も上げられた明るく変った家の中で、母は覚悟あるらしいひき緊った顔に戻っていた。取り替えた着物もさっぱりとしていつもより母は若く美しかった。
 医者は矢代より先に玄関を上ると無造作に障子を開け、襖を開けて父の寝ている部屋を直感しているらしくどしどしと奥へ通った。そして、矢代が家を出るときと同じ様子で倒れている父の襟を大きく開き聴診器を胸にあてた。厚く逞しい父の胸部には起伏もなく色も早や幾らか変っていた。診察を終ってから、医者は傍に坐っている矢代と母の方に対い、
「御愁傷なことでございます。」
 と一言低く云った。医者の帰っていったその後から、矢代も何んとなくまた家を出た。
 門灯の光りのとどかぬ雪の上には、矢代と医者と二人の通った跡だけ窪んで見えた。その窪みの中へ足を入れて歩く間も、矢代はさまざまなことが頭に泛んでまた消えた。
 檜葉に積った雪がトンビの羽根に擦れこぼれていった。彼は雪の中を見廻し、あらためて父の死が本当のことかどうか験してみたくなったほど、どこか胸の中心が痺れ、そこだけ脱け落ちたようにしんと静かだった。
 しかし、いったい、これが死だろうか。
 あッという間にどこから躍り出て来たものか、とにかく、あたりの闇の中にそれがいたのだ。彼は暫く手応えのない問いをつづけつつ、医者と並んで歩いているうちに突然慄えが来て止まらなくなると、そこで医者と別れてひとり引き返した。いつかは一度来る恐るべきことにしても、しかし、それが今来たのだ。何か切迫したものがいよいよ虎口を開けて身近に詰めよっているのを彼は感じ、それと闘う準備に寸分隙も赦さぬ注意力で、心の鞘を払い落とし、抜き身をさげたような待機の心構えも自然と出てくるのだった。
 しかし、もう父はいないのだ。とまた彼は思った。時間がどこかで急に脱れ、勢いこんで自分の中へ流れ崩れて来るかと思われる。何ごとか壮大なものの傾き襲ってくる激しさも覚えて彼は空を仰いだ。そして、必ず昇天しているにちがいない父の魂の行方に対して祈った。顔に降りかかって来る雪の冷たさが、天に向う悲しみのように巻きのぼっては、また心に沁み落ちて来た。
「今夜はお天気が激変しましたからね。」
 歩きながら、そう云った医者の言葉をふと彼は思い出した。がまた、亡くなる前に久木男爵と会ったことを父に報らせて喜ばせたことも、争われず刺戟を父の血管に与えた一条件になっているとも思われた。彼は家の中へ這入ってから、火鉢に火を起している母の横へ坐り、何かするべきことを考えたが、特に何もするべきことも無いようだった。
「お父さんを寝せ変えましょうかね。」
 と、彼は母を驚かせぬように注意して云った。
「そうそう。」
 母と彼とは父の寝室へ入った。そして、牀の前へ新しく敷き変えた蒲団に、正しい姿勢で父を寝かせようとしたが、もう父の身体は板のようにぴんと足を張り、吊り伸びてこちこち鳴りそうに固かった。彼は父の胴の下へ手を廻して跼み込むと、顎が腹部へ触れたその途端、急に悲しさが込み上げて来て顔を父の腹に伏せたまま声を上げた。
「立派な顔になってらっしゃること。」
 母は微笑を含んでいる父の高い額を撫でながら一言いった。すると、彼はまた急に悲しさが引いてゆくのを覚え、腕に力を籠めて父を抱き上げた。
「でも、喜んで死なれたんだから、まだ良かったですよ。ほんとにあんなに喜んでね――」
 父を正座へ寝かせてからそう母は独り言をいって、子の矢代とは反対にどこか嬉しそうな表情だった。見たところ、少しも悲しそうでない母が矢代には分らなく、また物足りなかった。彼は火鉢を運んで来て、このまま父といつまでもこうしていたいと思った。一夜の看病も出来ずにしまった死の速さに、父の身体がどんなに変ってゆこうとも、激しくなお父のために疲れたかった。母は小箪笥から白い手巾を出して来て父の顔の上に拡げた。気のせいか、そのときから俄に母の腰が少し曲ったように見えた。そして、その老い込んだような姿でのろのろ部屋を出ていくのを見ると、矢代は、再び悲しさが込み上げて声を止めるのに困った。彼は自分の腕を横に噛み暫く声を殺してぶるぶる慄えつづけた。

 朝になってから矢代は少し眠った。そして、正午ごろ眼を覚したとき、妹の幸子の声がもう勝手の方から聞えて来た。矢代は叔母夫婦や従兄たちのより集っている奥の間へ出ていって、葬の日取りを皆で定めた。母は一日でも永く父を傍に置きたい口振りになろうとするのを、矢代は親戚たちの迷惑なことも考え、日を繰り早めてみるのだった。母も別に異議を挟まず、素直に彼の意見に従ったので、葬式は二日後になった。その後、婦人らの手で経帷子が忙しく縫われ始めた。
 夜になり棺が家へ届いてから皆で父の湯灌をした。素足に草履を穿き襷をかけた彼と、母と妹と、それに従弟も加わった皆の同じ様子は、雪の夜中どこかへ仇討に出かけて行くような勇ましい装束だった。それも緊張した表情を泛べているとはいえ、見馴れぬ異様さに、互に顔を見合せて一寸笑った。そして、それぞれ父の身体をアルコールで拭き浄めていくのだった。母と幸子は頭と胸を拭き矢代は胴と足へ廻った。
 父の身体にはもう薄紫の斑点が泛んでいて、筋肉を圧えてみる指先に弾力が感じられず、たしかにこれはも早や父ではない物体に変っていると、矢代は思った。
 拭き終ってから、皆で父を吊り上げて棺へ納めようとしたとき、背中が汗ばんだ温くもりで湿っているのに、死臭が幽かに鼻を打った。すると、胸の下へ手を入れていた幸子が突然父から手を放した。
「お父さんまだ温かいわ。もう一度お医者さんに診ていただこうじやありませんか。あたし死んだんだと、どうしても思えないわ。」
 強くそういう幸子に母も戸迷ったらしく、同様に手を放すと、
「そうだね。」と云ってぼんやりした。一瞬、争われぬ父の死に拘らず、誰も疑いを起した沈黙がつづいた。
「ね、そうしましようよ。こんなに温いの、死んでる筈ないじゃありませんか。」
 とまた幸子は片膝をついたまま皆の顔を見廻した。
「それや駄目だよ。さア入れよう。」と矢代はためらう皆を促して云った。
「だって、こんなに温いんですもの。あたし、このまま入れるのいやだわ。」
「いやもう間違いない。」
 矢代は介意わず父を抱き上げたので、また一同のものも彼に手伝って父を棺へ納めた。枕も紙製のが棺にあって、檜の白木が造花や経帷子の中から強く匂って来た。奥の牀へ横に長く納った棺側に大きな花環も並ぶと、それで次第に葬の形が整っていくのだった。見よ人これにて定まれり、と厳然と云い放っている棺であった。それが父から矢代の教った最後の訓戒であった。

 降りやんだ雪の中で、矢代の家の中はめまぐるしい多忙さだった。地方から出て来た親戚や父の友人、その他会社関係の悔み客との応接などと彼は眠る暇もなかったが、突然の父の死に見舞われた最初の打撃のためか、彼は、忙しさの中でも虚ろなものを抱きかかえて坐っているような思いがつづいた。殊に母が一層そうだった、妹の幸子は病後のことでもあったから、直接忙しさの中へ立ちよらせぬことにしていたとはいえ、それでも何にかにと母に代ってよく立ち働いた。
 葬儀は親戚の敏腕な若い銀行員を委員長に頼んであったので、万事矢代の知らぬ間に順調に進んでいった。勿論、式は父の宗旨の真宗にすることにしたが、彼は自分のときならこれも神式にしたいとひそかに思った。
「わたしはお宅の旦那と、門口でお昼にお目にかかって立噺したばかりですよ。それにその夜亡くなられたとは、もうびっくりして、世の中が恐ろしくなりました。」
 勝手口で母にそう云っている酒屋の主人の話も聞えるままに、矢代は告別式へ出る袴をひとり部屋で穿いていた。そこへ女中が悔状の郵便物を沢山揃えて小机の上に置いていった中に、一通千鶴子から来た見覚えの封筒が眼についた。彼はすぐそれを抜き出して懐中に了い込んだ。千鶴子にはまだ父の死を報らせてなかったのに、偶然にも手紙が告別式の前に届いて来たことは、内容はともかく、ともに彼女も父の葬儀に列ってくれる意志のように思われた。紋服の出入の激しい渦の中でも、矢代は何んとなく懐中に一点の温もりを感じ、消え残っている庭の雪を眺めて立っていた。もし父の死が今より遅く来たものなら、あるいは千鶴子も、自分の家の中心になって立ち働かねばいられぬときだった。それも、彼女のために先日買って届いて来たばかりのソファが、応接室で人知れず客を坐らせているだけの、今の勤めであった。
 彼には父だけは自慢で千鶴子にひと眼見て貰って置きたいと思った。
 間もなく寺から来た僧侶の誦経が始ったので、矢代は家の者や親戚たちと一緒に棺前に並んだ。誦経の声は渋い良い声だった。意味がよく分らなかったが、真宗の教祖の親鸞の思想は、前から彼は好きだった。
 よく晴れた暖い日で、いつも来る鶯がこの日も庭に来ていた。父のいた平安な日が今日も外には来ていたのだと、ふと彼は思った。
 それにも拘らず、起ることは起っている――そう思うと、その起って来た死も特別なことではなく、一日のうちにはどこかへ来ている親しむべき何ものかかもしれない、とそんなに思ったりして自分をなだめ、彼は勇気がまた出て来るのだった。
 告別式は二時ごろから始った。矢代は玄関前の喪主の位置に立って来る人人に挨拶した。参列の人人の自動車の黒い胴が、常緑樹に溜った雪の中から隠見した。焼香のつづく間も廂から落ちる雪解けの雫の音が絶えずしていて、庭の雪に照り返った日光をきつく受け、出て行く人人の面が誰のも明るく門から左右に別れていった。
 焼香の潮どきが一段落過ぎたと思われるころ、思いがけなく千鶴子が塩野と一緒に這入って来た。この日の千鶴子は珍らしく紋服で、白い襟もとの重ねがいつもより大人びて美しかった。帯の結びもすらりと伸びた姿勢をよく纏め、矢代は暫く別人を見るような動悸を感じて、進んで来る千鶴子を眺めていた。塩野は応対に馴れた眼で、あたりの人人を見ながらゆとりのある足つきだったが、その少し後から俯向いて来る千鶴子の裾の翻る白さが、身綺麗な貞淑さを感じさせ、見ている矢代の気持ちも冴え緊った。
 二人は矢代たちの前まで来ると立ち停った。そして、塩野は彼に黙って礼をすると、千鶴子は矢代の母に礼をしてから次ぎに意味もなく自然に彼と眼が合った。
「どうも有りがとう。」
 と矢代は少し前に動き低く二人に云った。幸子が眼ざとく彼の顔を窺うのを矢代は感じたが、母はまだ千鶴子を塩野の夫人と思う様子で鄭重に黙礼を返して、また続く次の客に眼を移していくのだった。
 塩野たちが焼香を済ませて出て来たとき、矢代は暫く休んでいって貰いたいと云って、その場はまだ喪主の位置を崩さず、門まで一応出てゆく彼女の後姿を見守りながら、ともすると葬式と結婚とが一時に襲って来たような混雑した気持ちを感じ、むしろ、今日はこのまま千鶴子に帰っていって貰った方が、しめやかな落ちつきを得たかもしれないと後悔さえするのだった。しかし、まだ向うの両親が二人の結婚を許さないとしても、千鶴子にだけ今も変らず結婚の意志があるものなら、ひそかに自分の父の骨だけなりと拾って貰いたい心も強く動いた。
 告別式が済むともうゆっくりしている暇もなく霊柩車が来た。
「さア、どうぞ。お棺に釘を打ちますから。」
 葬儀屋の若者が家族のものらを急がせて云った。棺を埋めた花の中で微笑している父の顔の傍へ、幸子はより縋るようにして泣いた。母も泣いた。若者は白木の蓋で差し覗く顔を追い払うように閉め出して金槌で蓋に釘を打ちつけた。間もなく、玄関から門の方へ運ばれていく棺に日の射しているのを眺めながら、矢代は去るもののこの遽しさだけはもう誰のものでもないと思った。
「じゃ、これから火葬場へ行かねばなりませんから。今日はこれで――」
 千鶴子に父の骨を拾って貰いたいと思っていたことも、さすがにそれだけは云いかねて、矢代は自動車に乗るときにそう塩野と千鶴子に待たせた詫びを云った。
「実に突然だね。お父さん御病気だったの。」と塩野は訊ねた。
「いや、君と侯爵邸で別れた次の日だ。脳溢血でね。医者はこの雪がいけなかったというのだが――」
 道の片蔭にまだ消え残っている雪を見降し、矢代は、いや、雪だけではない、柄になく自分が父を喜ばせた結果がこの死を導いた主な原因だと思えて疑えなかった。
 それも塩野の祝賀会へ出席した夜に起った、ある偶然な自分の喜びが父に伝ったことであった。しかも、塩野の祝賀会へ最初に矢代を誘ったものは、他ならぬ千鶴子だった。
「邪魔にならないようなら僕らお骨拾わせて貰っていいんだが、自動車空いてるかしら。」
 塩野は千鶴子の心中を察したものか、あるいは千鶴子から塩野に云い出してあったものか、そこは矢代にも分らなかったが、しかし、気を利かせてそう塩野の云ってくれたことは、何よりこのときの矢代には嬉しく、思わず顔にまでそれが顕われた。
「しかし、それは気の毒だなア。」
「自動車の席、一寸都合つけてくれないかね。」
 矢代は塩野へ感謝するしるしに軽く頭を下げてから、「どうぞ、どこへでも乗ってくれ給え。」と云って、自動車の傍へ二人を連れて歩みよった。母と妹が家に残っていていない今の場合、矢代も親戚たちのことは気にしていられず、喪主の立場から選択して、二人を自動車へ乗せると、このことが何より今日父に報告すべき大切な事実のように思われて来るのであった。
「でも、後の方たち乗れるかしら。わたしたちこんなところへ乗ったりして。」
 と千鶴子はまだ躊躇の様子で、動かぬ霊柩車の飾りの中を眺めて云った。委員長の川奈という青年は、親戚たちに振りあてる車の指図をし終えてから、最後に矢代の車へ乗り込んで来たが、意外な二人の客を見ると、一寸不審しそうな表情で会釈をしたまま黙っていた。
「やっとお蔭でこれですみました。」と矢代は委員長に礼を云った。
「いやア、どうも突然なものですからね、いろいろ行き届かぬことがありまして、失礼しました。」と川奈も淡白に笑い、窓ガラスに映った自分の髪の形を手で直した。
 霊柩車を先頭に間もなく三台の車がつづいて行った。行く途上も邪魔物に遮られて車は離れたり見えたりした。雑沓した街の中で再び父の棺を見あてたときは、矢代は、まだ父がこの世にいたように思われてほッと気易さを感じ、市中無事でいてくれた暫くの会う間を、まだこんなときにも喜ぶのだった。
 火葬場に同じような数台の霊柩車が停っていた。それらは街から蒐められて来たように無造作により固り、そのあたりだけ人が誰もいなかった。見事な紅梅の老木が花をつけて咲き誇っている下で、柩同士ひそひそ何ごとか囁き交しているような風情のその中へ、また矢代の父の柩も首を混えた。
 矢代たちは当てられた茶屋へ入って休むことにした。もうここでは先へ急ぐ何ごともなく終点の上で茶を飲む気楽さがあって、出る談も至極のどかなことばかりだった。矢代も皆に寛いで貰いたく沈まぬように心掛けて、自然と浮いた談を選ぶ風にした。
「前には、こういうところで暮す人も、よくいるものだと思ったもんだが、しかし、自分に直接の用が出来て見ると、なかなかここも結構なところだと思い直したね。現金なもんだ。」
 矢代が傍の塩野にそう云うのに、皆は声を上げて揃って笑った。
「何んでも焼くんだからな、それや、ここほど清潔なところはないわけだ。」と委員長の川奈も云って、さも感慨ありげにあたりを眺め直した。
 一段高くなっているこの部屋は日光室のように明るく、矢代は連夜の睡眠の不足と疲れで自然と睡けも出ようとした。廂から落ちる雪解けの雫の音を聞きつつ、金色の柩車を下に蒐めた紅梅の群を眺めていると、その一角だけ近よりがたい別世界の美しさを見る思いで、彼は暫く父の死を忘れ、ほうけたようにぼんやりするのだった。
 千鶴子はさきから塩野の横にかしこまって腰かけたまま黙っていた。矢代は親戚たちにまだ二人を紹介しないのも、千鶴子を塩野の夫人と思っているらしい一同のものに、今さら別な混乱した推測を与えたくはなかったからだったが、父の死を中心に蒐ったこの中では、二人だけ血のかからぬ他人であった。その悲しさの薄さはやむを得ないとしても、長い休息のその間を愉しそうにも出来ぬ二人の忍耐を思うと、喪主の疲れの鈍感さで、矢代もようやく二人が気の毒になって来た。そして、
「どうも今日は、すみませんね。」
 と、彼は突然千鶴子に対って云い遅れた礼をのべるのだった。
「いえ、あたしこそ――」
 千鶴子が一寸彼を見て俯向く風情に小声で云うのを、やはり、自分の悲しみを別け持つことに努めていてくれたものの一言だと、彼はたしかな喜びを覚え、懐中に潜めたまままだ封も切らぬ手紙のこともちらりと頭に泛べたりした。
 火葬の準備の出来た報せが来て一同は茶店を立った。竈場の周囲の常緑樹の葉の色が、ここのは特別に際立って鮮やかだった。柩を降ろした空の霊柩車が、日蔭に落ちている氷を踏み割って去っていった。その後からまた新しいのが入って来たりして、幾つもある同形の柩の中から、矢代は父のを見わけてその前に立つと、抱きかかえたときの重量が急に目前の閑寂な白い方形から射し返して、ずしりと引き込まれたように切なく胸が詰って来た。聞もなく、竈の観音開きになった鉄の戸が左右に開いて、そして、父の柩はそのまま狭い口へ詰め込まれた。ぴたりとまた戸が閉って鍵がかかったとき、天空高く放つ砲弾の装填を終えたように、
「どなたです。この鍵。」
 と竈場男は皆の方に鍵を出して訊ねた。そして、手を出した矢代に鍵を渡してから、すぐ火を入れに裏へ廻っていった。ここでもまた、底で動くものの総ては単調を極めたものだった。
 一同は再び広場へ散っていって、寛ぎを取り戻しに思い思いの方へ歩いた。それは各自がいつか前に身に覚えのある悲しみを追想しているようでもあれば、また俄に感じた自分の生を噛みしめ直して味わい愉しんでいるようにも見え、矢代もひとり柘植の緑の葉に見入った。小粒な固い葉の中から小さい新芽の出ている柔かさが、彼の視線を放さず美しかった。
「お父さんお幾つでしたの。」
 暫くして、千鶴子は彼の傍へ来て訊ねた。
「七十一でした。」と彼は答えた。
「まア、そう、今日お写真を拝んで、あたしもっと早く、お目にかかっとけば良かったと思いましたわ。」
「僕も残念なことをしたと思いましたね。父には一度会っといて貰いたかったんだが、――そうそう、今日お手紙いただいて、どうもありがとう。まだ急がしくって、拝見してないのですよ。」と矢代は柘植の新芽から眼を放して千鶴子を見た。
「こんなときさし上げて、いけなかったんじゃないかと心配だったの。あれもう御覧にならないで、破っといていただけませんかしら。」
 摘み取った柘植の葉を掌の上に乗せ、極まり悪げに身を左右に廻して、そういう千鶴子を矢代は何んとなく見て笑った。
「どうしてですか。」
「でも、何んだか変だわ。あなたのお悲しみのときなのに、あんなこと書いたりして。」
 どんなことかまだ彼には分らなかったが、しかし、どこまで落ち込んで行ったかもしれぬ今日の悲しみの途中で、それを、ふと支えてくれたのは、争われず千鶴子の手紙だったと彼は思った。それも、やがてはそこから再び転がり落ちてゆく自分の悲しみだと思えても、今はまだそれを支えてくれる力が手紙にはあった。
 そのうちに竈場の屋根の煙突から煙が昇り始めた。矢代の体も火が入ったように熱く感じた。
「お父さん死んだんだと、どうしても思えないわ。こんなに温いんですもの。」
 と幸子が云って、父を棺へ入れようとしなかったときの、あの張りのある反抗を彼は思い出すと、いま昇っている煙など妹に見せずにいて良かったと彼は思った。
 煙はだんだん濃くなって来た。すると、矢代の父の横の竈の観音開きになった長い合せ目から、縦に煙が滲み出て来て、天井を伝い広場の方へ乱れかかった。それは見ている間に猛烈な勢いの黒煙に変って来ると、苦しみ怒るもの狂おしい姿に見え、とめどもない凄じい黒さであたり一面に噴き靡いた。建物の周囲に並んでいる常緑樹類の中へも吹き籠った煙は、重なる葉の隙間からも滲み昇り、小枝を絶えず震わせつづけた。
「あの戸は悪くなってるんだね。」と誰かが気の抜けたことを云った。そんな定ったことよりも、皆の考えていたのは他の微妙なことであったから、今さら答えるものは誰もなかった。
 常緑樹の中に混っていた白い梅の花が、さも息苦しげに蕚から煙を吐いていた。
 竈場の者さえ扉の合せ目を直しに行くものもなく、捨てられたままだったが、やがて出るだけ出てしまったと見え、煙も噴き止んだ。その後、皆のものは今度は建物の竈へ廻された。煙で暴れた竈の組が骨を壺[#「壺」は底本では「壼」]に入れ納めたばかりのところだったので、まだ余燼のほとぼりでむっと顔が熱かった。そこへ手術台のような鉄板が引き出され、その上に父の骨がほのかな曙色を裡に湛えた燠の姿で並んで来た。彼はちょっと手で摘まみたくなったほど、それは燃え尽きる最後の透明な焔の美しさだったが、見るまにそれも素の入った白骨に変っていった。実に迅速な火の変化だった。
「では、どうぞ。」
 矢代は皆にお辞儀をして、竹の箸で先ず最初に咽喉仏を摘まんで壺に入れた。続いてそれぞれ一二箸ずつ適度に摘まんでくれたので、その暇に彼も自分の箸を目立たず千鶴子に渡すことが出来た。千鶴子は骨に頭を下げると、袂を片手で絞り上げ、緊張した眼もとで胸の部分の骨を摘まんだ。長い竹箸のかすかに慄えの見えるその先から、壺に落ちる骨のがさッと鳴るのを矢代は聴きとって、これで父だけは二人の結婚を許可されたと初めて思うのだった。
 骨壺を白木の箱に納めてから、一行は来たときの座席のまま自動車で帰った。もう夕暮が迫って来ていて、西の方の空がぱッと茜色に明るかった。その明るさの中で、骨箱を包んだ布が大きな傷口のような鮮やかさで彼の眼に沁みついた。彼の膝の上に乗せた骨箱が車の速度で胸に押しつけて来るのを感じ、その変った軽さになった父を思うと、また刻刻その布の白さに漂白されて変ってゆく自分を感じた。
 それは薄氷を踏むような薄寒い思いに似た、鋭く不安定なうつろな圧迫だった。
「突然ということは、突然に来たにしても、やはりそうじゃないものだなア。」
 と矢代は出し脱けに云ったが、これでは意味をなさぬと知り、またすぐ口を閉じて彼は空を見た。
「ふむ。思いあたることがあるの。」
 と塩野は訊ねた。
「あるね。」
 父を死なしたのは僕のせいかもしれぬのだ、と、危くそんなに云いかかったのも、やっと耐えて彼は黙りつづけた。そして、父の亡くなった夜、母と二人ぎりでいるとき、「お父さん、喜んで死んだんですもの。あんなに喜んでね。」とそう母の呟いた嬉しそうな表情を思い出し、突然躓きかかった痛みを胸に覚えて彼は思わず両手で骨箱を強く握った。彼は傍の千鶴子の体温を強いて腕に感じようと努めながら、この父に二人は許されたのだと思おうとしてみても、悲しさは夕暮の色とともにますます深まって来るばかりだった。何か車の揺れ進む速度につれ、千鶴子を置き去りにして、自分ひとりぐんぐん先へ先へと突き進んで行くような深まる寂しさだった。
「しかし、今日は来て下すって、たいへん有りがたかったですよ。助かった。」
 と矢代は暫くして急にまた二人に云った。胸に押しつけて来る父の骨箱を受けとめてくれているものが、懐中に隠して来た千鶴子の手紙だということも、今は彼には偶然な戯れごととは思えず、悲しさとはまた別に、自然に洩れ出たひと言の心からの礼でもあった。しかし、それは何んとなく悲鳴にも近い礼だった。

 夕食が済んでから会葬者たちは皆帰った。勝手元の方の手伝いなども後片付けを済ませて皆引き上げて行くと、家の中は初めてがらんとして、灯明の光りの似合う静な夜になった。矢代は疲れが一時に襲って来て身体を火鉢の傍で崩し、畳の目に視線を落とした。外国から帰った夜も、彼はここにこうして横になると、同じように畳の目を見詰め、身のあるか無きか分らぬような憂愁を感じたことを思い出したが、今もまたそれと似ている疲れだった。が、ふと彼は、自分の旅の総決算が、この突然な「父の死」というものになったのだと思った。父の自分に対する積りに積った心配が、喜びに変った刹那、忽ちこのような崩れとなって顕われた総決算だった。
 ――彼はそれをそう思いたくなくとも、否定出来がたいあるものが、否応なく彼にそんなに思わせて来るのだった。
「これでやっと、まア、すみました。」
 母は矢代の傍へ力なくよたよたした膝で出て来て呟いた。
「ほんとにあの川奈さん、よくやって下すったわ。」
 と幸子も母の後から出て来て云った。皆誰も疲れてしまって最後にほッと洩した言葉がそうだった。母は膝の上で丹念に会葬名簿を指で延ばしてから、それを額におし頂いた。
「あたしはこれから長生きをして、お父さんに見たもの皆報らせるんですよ。うんとあたしは、長生きしなくちゃ――」
 ぼそぼそと独り言のようにそう呟く母の顔は、このときもどういうものか愉しそうだった。頬はもの腰の弱りとは違い、まだ醒めぬ興奮で色艶もぼっと良かった。
「そうよ。それが一番いいわ。」と幸子も笑いながら母に云った。
 運命の描いた絶頂で戯れているような、母子二人の不思議なあきらめの良さに、これはもう、悲しみを越えた軽やかな美しさになっていると、矢代は今さら二人の顔をあらためて見るのだった。しかし、まだ彼自身はあきらめきれず、底冷えのした悲しさに手枕から頭も上らなかった。
 幸子は母と暫く会葬者たちの噂をしていてから、その途中で矢代の方を向いて訊ねた。
「兄さん告別式のとき玄関で一寸物を云った方があったでしょう。あの方どなた。若い女の方と一緒にいらした方よ。」
「あれはパリのときの友達だ。」
 矢代は今の塩野と千鶴子のことに関しては触れられたくはなかったので、一言答えただけで仰向きに長く伸びた。
「あの女の方は美しい方ね。でも、帯留が何んだか妙だったわ。」
「どんな方?」
 と母は訊ねた。
「ほら、兄さん、何んだか前へ動いて云ってた方があったじゃありませんか。モーニングだのにネクタイだけはぱッとハイカラな方よ。その方と御一緒の女のかた。」
 幸子は言外にも鋭い眼差で母を見詰めて云ったが、母は、ただ、「はア」と頼りなげな声を洩したのみだった。
「あの二人は火葬場まで行ってくれたんだよ。今度来たときはお礼を忘れないでくれないか。」
 仏前の蝋燭の明りが急に大きく揺れ出したので、芯を切りに立つついでに、矢代はそう云うと千鶴子の手紙のことも思い出し、自分の部屋へ入っていった。手紙の内容は別に取り立てたことではなく、侯爵邸の夜会で矢代と別れた後の模様が書いてある後で、今日は母が何んとなく自分に優しくしてくれるので嬉しくて、この手紙を書く気になったとだけあった。しかし、彼は「何んとなく今日は母が優しくしてくれるので」という簡単な文句が、温む水の霞んで来るような好い感じで読み終った。彼は記念のために、先夜読んだ藤原基経に関する史書の頁の部分へその手紙を挟んだ。
「寛平三年正月十三日、藤原基経歿す」
 とその頁には忌日もあった、新暦なら季節も丁度今ごろで父の忌日より十日先だと矢代は思い、なお基経のむすめの穏子の方の忌日も調べてみると、これも天暦八年、正月四日となっていた。
 これらの忌日の近さには別に意味があるわけでもなかったが、父の最後の夜に云った先祖の人物の名が、思いがけなくこの基経と同じだと思うと、ない意味もあるように矢代には思われてくるのだった。
 しかし、とにかくそうしている間も、彼は疲れでもう眼が閉じそうになったので、先日から敷き放しのままの寝床へ入った。そして、すぐ眠ると、また父の夢を起きていたときの続きのように見てばかりいた。死んでいる筈の父が、いつの間にか半身だけ起してあたりを見廻している夢だったが、寝かせても寝かせても、父の姿はいつの間にかまた半身を起していて、じっとどこか分らぬ方を眺めていた。
「お父さんどうしたんです。」
 と彼は夢の中で父に訊ねた。
 しかし、父はやはり何んの表情もない静かな顔のまま同じところを眺めつづけた。彼も父から手を放してその方を見てみたが、そこには何も見えずただあたりが真暗なばかりだった。そのうち彼は眼が醒めた。醒めてからもまだ暫くは静かなその父の姿が眼から離れなかった。
 それは父の一番穏かなときの美しい表情だったが、生前のときの顔ともまた違った品位の具った顔だった。

 雲行きの和かになった空に、辛夷の蕾が毛ばだった苞を裂いて揺れ始めた。空を白くぼッと染め春の支度に忙しそうな速さの風も、蕾のあたりは、一面匂い立つように霞んで過ぎた。先端を揃えたものの芽も一斉に揺れ騒いで、一日一日と空は明るく、降る雨もみずみずしい温みで肌を潤すようになった。
 矢代は東野が横浜へ着くという報せを千鶴子から受けたのは、このようなころであった。東野はどうしたものか真紀子と一緒で、またこの船には平尾男爵やその子たちも共に乗っているという、塩野からの葉書も届いた。
 船の着く日、矢代は正午から横浜まで出かけていった。この日は田辺侯爵邸で会った人たちもそれぞれ出かけていることと予想されたので、また賑やかな日となり帰りも遅くなることだろうと思ったが、船の出迎えは汽車とは違い、海風に吹かれる新鮮な魅力を覚えて朝から矢代は時の近づくのが待ち遠しかった。殊に父が亡くなってからまだ日も浅く、その間どこへも出かけず引籠りがちだったもの寂しさの、身に沈み入って来ているときだったので、一度海気にあたって、旅の日のうつろいに気持ちを転じるのも、元気を取り戻す法かとも思われた。父の四十九日が過ぎれば、長い期間休んでいた会社へも出てみるつもりであったが、このごろ知人から、ある大学の歴史の時間を受け持つことを奨められてもいた折のこととて、その方のことも応じてみる興味も起っていて、このままでは家にいがたい仕事への情熱も日に感じられる際だった。「遣唐使と日本に於ける近代精神の交渉」という評論の一部も、前に矢代は母校の教授に出してあり、幾らか好評を受けている話も聞かされていたから、なお励みも増して来ていたときの突然の父の死だった。この父の死は急速に矢代に生活のことを考えさせる原因となって、今も横浜まで行く電車の中でも、学校で歴史の時間を受け持ちながらする会社勤めについてまた彼は考えるのだった。彼の建築会社は叔父の会社だったから、休養中にも月給の給与はあり、他の社員との人事関係さえ考えて行動しておれば比較的勤めは苦痛なことではなく、むしろ、それが彼の自責となって成績を阻む病癌ともなりがちだった。
 横浜の埠頭へ着いたときは、塩野はもう臨海食堂の窓際のテーブルで食事をしながら、画家の佐佐と話をしていた。矢代は塩野を後から肩を打ち、会葬の礼をのべてから彼の傍へ腰を降ろした。
「ここはなかなか眺めは良いね。」
「良いだろう。だから僕は早く来たんだよ。船の着くのは二時だとさ。あの船がそうなんだが、伝染病が出たとかで、昨夜からあそこに碇泊したきりだ。」
 塩野の指差す沖を見ると、鉄壁のように並んだ幾つもの船舶の上から、一段高く白い頭を浮き上げた巨船が見えた。起重機や鉄板の間を幾百の鴎がしなやかに飛び流れていた。空が晴れているので波も蒼みを加え、照り返しの明るさに微笑が自然に泛んで来た。食堂は海中に突出した位置のため、船の食堂に出た航海の日の思い出を湧き立たせ、暫くの間も矢代は、もう忘れていた風景を限りなく思い出すのだった。
「ここなら二三時間待つのは愉しみだね。いろいろ君も、思い出すことがあるだろう。」
「もうたまらないんだよ。さきから。」
 画家の佐佐も無言だった。つづく波の拡がる末の方から、肌を洗うように襲って来る哀愁に矢代も暫く黙っていた。
「何んだろうね、この妙な寂しさみたいなものは。」
 見れば見るほど増して来る小舟の数を見詰めながら、矢代は云った。身動きして笑った佐佐の鋭い横顔に日が射し、鴎の描く白い速度に随って彼も視線を移していくばかりだった。鉛筆に似た、赤い灯台のある岬の先端を廻って入港して来る船、首の金具を鋭く耀かせて疾走する小蒸気、薄鼠色の船体を並べた外国船、浮標の間を巧みにあやつる櫓、荷上げ、荷卸しなど、窓の両側に映った船の景観は、矢代の通って来たどこの海路の港ともよく似ていた。
「皆さんはどなたも、もうお父さんがいらっしゃらないわけだなア。」
 と、矢代は、世放れのした海から父の死を感じ、ふと塩野と佐佐との身の上のことも思い出したりした。今目前の景色も、父のいたときに眺めたなら、あるいは感慨も今とは少し違うのではなかろうかと思ったからだった。
「そうだね、君もとうとう僕らの仲間入りしたわけだよ。」と塩野は云って笑った。
「どうも僕は、何んだか少し、勝手がいつもと違うように思えるんだが。」
 矢代はまたあたりの風景を眺めてみた。父のいるときには、自分の背後に父からの長い紐がついていて、そこから養分を吸い摂りつつ、それも知らずに迂濶に見ていた景色だった。それが今は、ぶつりと背後の紐は断ち切れて、眼に映る港の建物、船舶、街路の起伏に連る人家の隙間と、直接自分の根を張りわたらせる樹木のように、独立してゆくものの切迫した、初初しい悲しみを彼は覚えて来るのだった。それはまた静かな勇気でもあったが、絶えずうち上る波の光りにも、そのおのおののぴちぴち鳴り合う呼吸が感じられ、肌身に迫り透って来るのだった。
「僕はね、昨夜も叔父から結婚をすすめられたんだが、どうしようかと思ってね。それとはまた別に、外務省と連絡をつけて、海外版の写真雑誌を出すことにもなっているので、その方を先きにしてから結婚しようかと、昨夜から迷ってるんだよ。どうしたもんだろうね。」塩野は少し突然な調子で矢代に訊ねた。この人にもやはり生活の苦労は襲っているのだと矢代は思った。
「しかし、それはどっちを先にしたって良いのじゃないか。叔父さんのいる以上は。」
「ところが、叔父からはそういつまでも、金を貰っちゃいられないのだよ。」
「しかし、それにしてもさ。」
「ふむ――しかし、結婚するとしても、どうだろう、もう僕は中国と戦争が起りそうな気がするんだが。起らないかね。」
 パリにいるとき外務省にいた関係で、塩野は戦争に関しては以来誰より敏感だったのを矢代は思い出した。
「それは分らないが、よし起ったところで、結婚は結婚でまた別だよ。他の観念を混えてこの際、考えるべきじゃないだろう。特に結婚の場合だよ――」と矢代は云った。
「そうかな、結婚の場合は特に考えるべきじゃないかね。ね。佐佐?」と塩野は黙っている佐佐に対い、君にも今はそれがあるのだろうという意味を含めた笑顔だった。
「僕は今は、何より生活費の問題でね。絵はさっぱり描けなくなってるし、君よりは辛い立場だからな。」と佐佐は眼を細めて光る波を見つづけたままだった。
「しかし、結婚は永久の問題だからな。それをそうじやない問題と混同して考えちゃ、どっちも考えられなくなるじゃないか。」と矢代は千鶴子と自分の立場をも考え描き、自然に意見を出すのだった。
「人それぞれ違うんだね。しかし、僕はやっぱり考えさせられるんだ。僕は写真師だから、戦争が起れば誰よりも真っ先に、飛行機に乗るに定ってるんだよ。そしたら、お先きに失礼させて貰うんだからね。君らよりは切実なんだ。」
「不易流行ということが、日本にはむかしからあるんだから、まア、出来れば結婚もするさ。」
 矢代は無駄な塩野の結婚に対する躊躇を払い除けたくてそう云った。しかし、塩野にはまた少し違ってそれが響いたと見え、女性に淡白な若ものに見受ける、眼の間に海老のような皺を作って露わな皮肉を泛べると、突然、
「じゃ、君のはどうだ。」と矢代の顔を覗いて笑った。
 前から矢代は塩野の表情の中で、このような、こちらの思惑を断ち切って素通りしてゆくときの笑顔が、一番に頼りなかった。
「僕のはまた、夏炉冬扇で通用しないのさ。どうも困ったことだよ。」
「しかし宇佐美は君を賞めてるよ。ただね、あそこのお袋が妙な風な考えなんだね、それというのは、あのお袋は養子娘だから我が強くって、云い出したとなったら、もう他のことは、何もかも分らなくなるんだね。その点僕は君に同情してるんだよ。」
 宇佐美のことについては、前から一度も口にしなかった塩野であった。それを云い出したところに、塩野の言外の意味を感じ、矢代は、急に打ち込んで来たものの正体を知りたくて彼の眼を黙って見返した。
「宇佐美家のことは、どうも僕にもよく分らないし、君以外からは聞きようもないのだよ。」
 矢代は塩野から眼を灯台に放し、さみしく答えたものの、事実、自分は千鶴子の家のことに関しては、調査することもまだ進めず、またその用も感じたこともない自分だと思った。一つは怠慢とはいえ、それはむしろ、精しく知らぬ方が結果が良いと思っていたからでもある。千鶴子以外の他に誰かと結婚する意志でも起って来るようなときには、調査の上比較する必要も起るであろうが、そんな意志のない限り、知るより知らぬ方が便利でもあったし、知りたくとも耳を塞ぐ気持ちも良かった、またそれは、同時に自分の方についても同じだった。
「あの千鶴子さんはね、末っ子で、親からも兄弟からも可愛がられすぎるんだよ。そこがいつもすらすら通ることでも、結婚問題となると、反対にそれだけごつごつ難かしくなるんだね。何んでも侯爵夫人が間へ立っているとか僕は聞いたんだが、そういうことは、あそこのお袋は好きな人だよ。僕から見れば、今まで君が黙っているのはよく分るんだが、しかし、人には分らないからね。」
 矢代と千鶴子との間のことは、見て見ぬふりをしていた塩野も、それだけは遁さずに淡白さを装っていたのかと思うと、千鶴子の兄の由吉と彼との友情のふかさも矢代には考えられた。自分に向けられる友情よりも由吉への深さが考えられた。
「もう皆さんそろそろ顕われるところだろう。」
 矢代は千鶴子のこととなると話を反らして時計を見るのだった。

 歩廊に出迎えの人人の賑い始めたころになって、外交官の速水や、音楽家の遊部など、矢代の顔見知りの人たちもぽつぽつ集った。由吉と千鶴子の来たのもそれから間もなくだった。由吉は矢代を見つけると、この度びだけはいつもの磊落な風貌を生真面目に押し包んで悔みをのべた。
「もうしかし、あなたもまたお出かけになるころでしょう。」と矢代は由吉の外国行きの準備を訊ねてみた。
「もうマロニエも、蕾をつけ始めましたからね。」
 由吉はパイプを口から放して静に沖を見ながら、暫く微笑を湛えて黙っていた。マロニエが咲くという魅力は、一瞬、青春に翅を与えたような匂いを掠めて通り過ぎた。胸に息詰まるような甘さで迫る春の香だった。
「宇佐美、もう行くこと云うなよ。」と塩野も、噴きのぼって来るものの制しきれぬ興奮で顔が乱れた。
「なかなか鴎という奴は、なまめかしい容子をするもんだね。あの飛び立つところのしなやかさはどうだ。」と由吉は反転した他人事を呟き、顎を突き出し、ひとり悦に入っていたが、「あれか、男爵の船?」と、急にパイプで碇泊している一行の巨船を指差した。
 千鶴子は矢代の傍に椅子をかけると細い膝をよせ手袋を脱ぎながら、「お疲れにならない。」と低く小声で訊ねた。親しみの眼に見えて増して来た彼女の低声に、矢代も一言会葬の日の礼を云ったが、ふと、どうして自分があのヨーロッパを歩いていた間、この千鶴子と何事もなく過せたものだろうかと、我ながら俄にそんなことが理解しがたい頑なさに見えて来て、じろじろ驚きながら千鶴子の膝を見るのだった。それも、今ごろ突然そんな感じに襲われて来たということが、一層自分の憑かれていたものの激しさを今さらに感じられて、茫然とした思いでまた海を眺めた。
「ホテルはとってあるのかね。このまま東京へ帰るんじゃないだろう。」と遊部は由吉に訊ねた。
 平尾男爵は子供づれだから分らないが、長い外遊のものに即日の帰宅は無理だから、今夜はニュー・グランドになるだろうという一同の意見だった。歩廊には刻刻出迎えの群衆が増して来た。中に田辺侯爵夫妻の顔も揃って顕れると、由吉たちの周囲は船を待つ間のもどかしさが無くなり、歩廊の欄干の傍に出揃って沖の方を向いたまま、一同につきものの機智諧謔が流れ始めた。
「東野さんと真紀子さん、どうして一緒に帰る気になったのか、あなたは御存知ですか。分ったようで僕には分らないんだが、手紙には何も書いてなかった。」と矢代は傍の千鶴子に訊ねた。
「それは書いてないの。ただね、お話することいろいろあるんだけど、今は書く勇気がないって。そして、自分の旅は悲劇だったって、書いてあるだけなの。」
 階下から閃き出て来た黄いろな蝶が歩廊の柱の間を飛び廻っているのも、春の日射しを受けた海の色を鮮明に明るくした。帆を拡げかけた帆船が欄干の下を通って行く小ささを見降し、矢代は廊下の意外な高さに初めて気がつくのだった。
「しかし、悲劇にしても東野さんとは少し――取り合せが意外だったな。何かわけがあるんじゃないかな。」
「でも、帰るとなると、お連れをさがすもんじゃありません。」
「そういうことも考えられるが、あの真紀子さんという人は危いんだ。どうも危い。僕は一度オペラで懲りたことがある。」矢代には、平尾男爵と東野とがともに帰って来ることは想像出来ることだったが、真紀子が久慈と別れてひとり東野と同船だということが、やはり頷きがたいことの一つだった。勿論、久慈と真紀子の間が不和になったとの便りは、直接二人からの手紙によらずとも、千鶴子へ来るもので分っていた。しかし、その結果が東野と真紀子とともに帰る事情になったとは、そこに穏かでない空想が混って感じられた。およそ日本を出発の際持ち運んでいった道具や習慣はみな毀れ、人の性格まで一変させてしまう西洋の旅のことだったが、それにしても、表面放埒に見えつつ東野の底にいつも動かぬ慎しみだけは今も変ることはなかろうと思われても、それとてどのような変化があったか、これだけは人の想像の外だった。殊に真紀子の身の上は同情に値いすることが多かった。しかし、いずれにせよ、そういうことを一応空想の中に入れて考えても、外国にいるときの生活から推し測って、そのものの内地にいるときの生活は分り得られないことであった。またそれは彼女のみとは限らず、現に矢代は、あれほど親しかった久慈や東野の内地の生活もいまだに分らぬままに捨ててあった。それも一つは、まだ消え去らぬ西洋の幻覚の仕業とも解せられれば、個人に対する興味などおよそ物の数ではなくなっている、茫漠としたある観念に絶えず憑かれた、他の多くのものにも共通した旅愁ともいうべき旅人の特長だった。まったく事情の違う西洋という抽象の世界に急激に入り込んだものに突発して来る旅の錯乱に、批判の根拠の移動する不決断に伴って当然に起る、自己喪失の病いを植えつけられ、自分を蔑視する苦しさもあきらめに変えてしまう。そのような内地にあり得ぬ不具者となって帰朝して来るものの多い中でも、東野はまだ東洋人の精神を喪っていない方の一人だった。実際、西洋の旅は、東洋人にとっては難かしい狂いの連続といえばいえるものだと、矢代は、欄干に巻き結ばれた船のと纜《ともづな》に凭りかかって考えるのだった。そして、由吉や塩野らの一団の上を見廻しながら、これらの人人も何らかの病根を抱いてそれぞれ苦しんでいる一群れだが、果して存命のうちにその病いは取り去ることが出来るかどうか、疑わしいことだと思った。
「船がここの港のあの灯台のところまで入って来たときに、突然海中へ飛び込んで、自殺した婦人があったということを聞いたが、――それは外国へ行くときに、事務長からコロンボあたりで聞いたんですがね、どうもそのときには、よくその婦人の気持ちが分らなかったが、帰って来てみると、何んとなく僕には分って来ましたね。」
 と矢代は真紀子の今の身の上に通じるものもありそうに思えて千鶴子に云った。
「あそこで、まあ――」千鶴子も真紀子の船と灯台との間を眺めつづけていた。
「あたしはあそこを船が入って来るとき、何んだかしらわくわくして嬉しかったけど、これで反対の人もあるのね。そしたら、やはりそうかもしれないわ。」
「僕はシベリヤから満洲里へ入るときだったな。あのときは忘れられない興奮を感じた。生れて初めて清浄無垢な気持ちになったと思ったが、――」
 こう云いつつも矢代は、千鶴子の船がこの埠頭へ入って来るとき出迎えもしなかった自分の理由が、何か得手勝手なつまらぬ思惑のように思われて苦痛を覚えて来るのだった。そして、突然右隣りにいた画家の佐佐の方へ身を捻じ向けて訊ねた。
「あなたはどうでしたか、僕は、外国の旅というものは、自分の中にどういう不潔なものや病根があるのか、検出しに歩いているようなものだと思ったんですが、つまり何んというか、隅隅から自分を照し出してみる、まア、レントゲン反応で自分を検出しているみたいなものじゃないか、と感じたんだが。」
「あそこは石みたいなものだからなア。」と佐佐は、例の鋭い眼に一寸微笑を泛べたきりだった。
「それも外国の石でね。」
「僕は帰ってから蓮の画ばかり描いてるんですよ。」佐佐はそのとき急に黙って沖の方を指差した。
 沖に碇泊していた東野らの船が徐徐に動き出して来たのだった。港内でもっとも大きな船だったので、通路を邪魔している小舟らは逃げ走って路を開けた。その中をおおらかな速度で姿を顕して来る船首の風貌は、満場の注視を浴びるに適した偉容で、黒い船体に純白の明快な甲板は、帆に風を孕んだ宝船の近づくに似た、静静とした期待を人人に与えて美しかった。歩廊に溢れた出迎えの群衆は帽子を振るもの、手巾を靡かすものでどよめき返した。初めのうちは甲板に並んだ乗客らの顔も、ただ黒い一線となって映っているに過ぎなかったが、近づくに随って、巨大な建物の迫るようにあたりの空をぼっと暗くさせ、波を縮め、見事な長い船体を着実によせて来た。鉄板から滴るような潮の香が歩廊の方まで漂った。飛び散って逃げた小船もまた急いで近より、もう荷揚げの支度にとりかかるものもあった。甲板上の船客の顔を探すものも、目的物を見つけたものらは、再び顔を充血させて帽子を激しく振り廻した。どよめきが次第にあちこちから膨れ上って来るにつれ、船は歩廊の高さを遥かに抜いてぴたりと動き停った。纜を投げかけたり、船梯を懸けたりする多忙な中でも、出迎えのものらの熱情的な騒ぎは一層激しくなったが、それに引きかえ船上の客は、妙に冷く静り返っているように見えるのが、この日もこの埠頭の特長であった。
「いるいる。おーい。」
 と塩野はまっさきに平尾男爵の姿を甲板から見つけて呼んだ。間近いように見えていても、船上との間隔はかなり離れている上に、周囲のどよめきに船まで塩野の声はとどかなかった。男爵は外人たちと列んでいてもそれらを圧するほど体が大きくく、ゆったりと鷹揚な身振りで片手を上げたが、まだ一同を探しあてない様子だった。その横から、いつもの無表情な東野が唇を割り、日に焦げた色で、こちらを見ていた。真紀子の姿は初めは見えなかったが、暫くして、前髪を高く締め上げた色白の婦人が東野の肩に片手をかけて、ひょっこり男爵との間から顔を出した。それが真紀子だった。
 船は長途の航海をやっと終えたという風に、潮湿りの錆を滲ませた胴から水を吐いた。船と歩廊との間の梯子のあたりに、匂うような感動が伝わって遽しく往来がつづいていった。白い歯が間断なく洩れたり消えたりした。しかし、船が停ってから乗客の降りて来るまでが、これが面倒な時間がかりだった。
「僕もあなたのこうして帰られるとき、出迎えに来るんだったなア。しまった。」
 と矢代は千鶴子に云った。そして、また東野と真紀子の方に対って帽子を振った。千鶴子もそれには黙ってただ手巾を振っていたが、そのうち船中の人に自分を知らせたくて夢中に後方から押しつけて来る群衆に圧せられ、だんだん矢代の方へ押し竦められて来るのだった。しかし、それは二人にとって思いがけない仕合せなことだった。むしろ千鶴子は群衆の力を頼みとして、自分が前に船でこの港に入港して来るとき、出迎えの中に矢代の不在だった物足りなさを、今ここで取り戻そうとするような、無量の思いの噴出して来た機会とも見えたが、またそれは、たしかに千鶴子だけでなく、矢代にも同様の空想が暫くは消えない充実した一刻に変って来ていた。もう気羞しさもなく、躊躇もない、許された日の灯火の下でめぐり合った二人のように、物狂わしい幸福感で互に一層温められた。港港で浴びた潮の香の思い出さえ、時を得た花に似て二人の間に咲き揃って来るのだった。しかし、このような二人が、パリで別れて東西の帰路をそれぞれ辿って来て、そして、今この港の埠頭で初めて会うときが、丁度こんなであっただろうと思い合うことは、実際、どちらにも少し遅すぎて来たのだと矢代は気付くのだった。
「あたし、一寸お訊きしたいこと、頼まれてるんですよ。」
 と千鶴子は何か忘れていたことを思い出したらしく云ったが、すぐどういうものか、あまり近づきすぎている顔を背けて真っ赧になった。
「何んです。」
「でも、それは後からお訊きしますわ。」
 千鶴子はまた、船に対って手巾を振りつづけたが、そのときはもう下船準備の命令が出たものか、甲板の上ではそれぞれ乗客たちが後を見せて散って行くときであった。
 船客たちが梯子を降りて来ると、ホームの上に幾つも出迎えの人人の輪が出来た。挨拶をするにも握手を身につけた手振りでするものが多かったが、気羞しげに船客を取り巻いたまま無言で遠くから見ているものや、いきなり冗談を浴びせるものらの中で、真紀子もすぐ千鶴子に近よって来て、握手をした。しかし、東野は握手をせずに矢代の肩を両手でぐっと掴んでから、一つ大きく背中を叩いて笑ったきりで、すぐ千鶴子に対い、
「まだ覚えていてくれましたかね。」
 と軽くからかった。平尾男爵は堂堂とした体躯に幾らか疲れを見せた背を丸め、温和な口もとに挟んだ煙草に火も点けず、田辺侯爵と立話をしながらも、自分の乗り捨てた船をときどき眺めては別れを惜む風だった。あちらやこちらで、未知なものらの紹介や、挨拶がひときり済んだと思われる適当なころ合いに、
「さア、ここでこうしていても始らないから、ともかくホテルまで行こうじゃないかね。」
 と由吉は云って皆の先に立って歩き出した。人人の渦は崩れて彼の後から階段を降り始めたが、その途中でも、帰朝者から報道洩れのスペインの内乱に関する新しい話を、誰も一番に聞きたがった。平尾男爵はイギリスの新聞や噂から拾った各国の武器の注入状況とか、スペイン人自身の、二階と階下に別れた兄弟同士の銃で撃ち合う物凄い有様とかを、問われるままに語っていた。
「とにかく、あれは世界戦争の始まりだよ。もう戦争は起っている。対岸の火事じゃないよ。」
 こう横から一口云ったのは東野だった。そして、彼はその後の言葉を強い調子でまた云った。
「ヨーロッパももう底を突いた。今度こそはいよいよ東洋の海嘯《つなみ》だよ。僕らはうろうろしているときじゃない。」
 興奮の去りかねた言葉だと分っていても、一同は東野に語を継ぐことも出来ずばったり黙ってしまったまま、一種異様なショックでそれぞれ下のタクシに乗り込んだ。
「久慈はどうしました。無事ですか。」と矢代は東野の横に乗ってから訊ねた。
「ああ、あれはまだ子供で困ったものだ、パリで逍遙していたよ。」
 逍遙を子供の小さい用と訊いたものか塩野は突然おかしそうに笑い出した。東野はそれには少し困った表情になりかかったがすぐ加えた。
「しかし、僕はあの人ほどフランスを愛することの出来る人がいるんだと思うと、フランスが羨ましくなったね。僕はあの三分の一でも日本を愛してくれればなアと思ったが、愛というものは、こ奴はどうしょうもないものだ。そういうところがもしフランスにあるのなら、フランスだって少しは日本を愛してくれるだろうと、このごろ思い直しているんだが。――実際そうだよ。日本にラフカディオ・ヘルンがいたために、どんなに僕ら日本人はギリシア人に感謝したか思って見給え。」そして、東野は篠懸の街路樹の芽を噴き出している色を見ると、
「いいなア、僕も芽の出るころに帰って来たのか。いや、僕は忠義を竭すよ。誠忠――これ以外に僕らにはあり得ない。これは実に豊かなものだよ。ただ人はこれを間違えて、こせこせしたものだと思うようにさせる傾向のあるのは、もっとも慎しむべきことだね。とにかく、あのこせこせした日本精神だけは、一番激しい非日本精神だよ。」
 東野はそう云ってからも、またのべつ幕なしに饒舌りたいらしく、何か憑かれたように止めどもなく車中でひとり話すのだった。
「僕は外国を歩きながら、日本精神ということを絶えず考え通して来たがね、とどのつまりは、日本精神ということは、人を寛すということだと思ったね。それや怒るときは怒るがね、しかし、そこにまた何んというか、怒ってしまうと、ぱっと怒りを洗う精神が波うって来るそのおおらかな力だよ。それが日本精神さ。それが大和ごころという優雅な光りものだよ。もしそれが無ければ日本は闇だ。滅ぶ方がいい。諸君青年はこの美のために立てよ。ただそれだけがもう諸君の精神世界を美しくするのだ。そのどこにいったい嘘があるのか。」
 と東野は云うと眼に涙を泛べて矢代の膝を叩きつけた。矢代は強く打たれる膝もとから、自分が満洲里の国境を突切って入って来たときに感じた清純な心の呼び声を、今再び彼から聞きとるように感じ、
「やるよやるよ。」と答えて背を延ばした。そして、埠頭の歩廊で真紀子と東野の間に、忌わしい想像をめぐらせようとしていた自分に対して彼は恥じるのだった。なおまたたといそんなことがあったとしても、この今の彼の感動は、千鶴子と自分の結婚のときに仲人を東野に頼みたいと思わせて、他に適当な人は自分には見当らないとまで彼に思わせて来るのだった。
「僕が帰ってからあなたはパリで講演をされたそうですね。誰だか云ってたが、あ、そうだ君だったね。」と矢代は傍の塩野に訊ねた。
「講演か。あれは僕の一世一代の冷汗をかいた日だったよ。生きれば恥多しとつくづくあの日は思ったね。しかし、フランス人というものに、実はあの日初めて僕は感服したんだが、――」こういってからどういうものか東野はまた黙りこんだ。
 矢代は東野の感服したのはどういう点かと訊ねてみたが、そのときにはもう車はニュー・グランドの前まで来て停った。東野は一同の先に降りると、前の山下公園の方を一寸見てから、ホテルへ入らずつかつかと海際の公園の中へ入っていった。矢代も彼の後から追っていった。
「僕は外国へ行く前に、よくここのベンチへ坐って海の向うを見ながら、子供みたいに夢想に耽ったものだが、今度はどんなものか、そこの同じベンチへ坐って見てやろうと思ってね。」
 東野はそう云いつつ噴水のある傍を通り、芽の出た若芝の周囲を廻って、海岸よりのベンチの一つを選ぶと腰を降ろした。
「ここだよ。もう僕は前のようじゃないからね。何んと有りがたいことだろう。」
 両手を後頭部に廻し後へ反りつつ、東野は海を見て云った。少し老人じみて見える横顔の眼もとに細かい皺が出来ていたが、まだ眼底の光りは若若しく疲れてはいなかった。園内の立木が遠く離れていたので、かっと強い日光が額に射した足もとの海面で測量船が人もなく揺れている。その向うに陽を孕んだ帆船が風に逆らい、舷側に白い泡を長く立てていた。
「君、僕はいま非常に気持ちが良いのだよ。われながら興奮を感じるほど混りけがないように思うんだが、これがいつまでも続いてくれればね。君はどうだった?」と東野は急に矢代の眼の中を覗き込んで訊ねた。
「僕もそうだったなア。しかし、一度そういうことが有ったと思うことは、なかなかこれが、大切なんだと思ってるんです。今でも僕は国境を入ってきたときの感動を、これは自分の鍵だと思って大切にしていますよ。」
「そうだろうね。もしそれを疑っちゃ、――」東野は暫く黙った。
「しかし、その鍵を疑うものは実に多いね。そ奴を知性だと思わして元も子も無くさせる非文化的な病いが世界中に蔓延しているんだよ。何ものの仕業か知らないが、こ奴にかかっちゃ、今にもう僕らは戦争をさせられるよ。世界中がじくじく腐って来たのだ。」
 二人はもう黙ってしまった。遠くに見える東野の乗って来た船の周囲は、まだ荷揚げがつづいて忙しそうだった。二人は間もなくそれからホテルへ戻っていったが、東野は実家の方へ帰してある夫人や子供に、出迎え不用の電報を打ってあるので明日でもそちらへ行かねばならぬと話した。

 ニュー・グランドのロビーでは一団のものらは悉く揃って二人の来るのを待っていた。二人が見えると、白い葡萄酒が各自のコップに注がれて皆東野たちの無事帰朝を祝し合った。その後の一同はそれぞれ思いの残る場所場所の話で持ち切っている中でも、特にひそひそ声をひそめて訊ねたり、答えたりするようなことも多かった。由吉の身辺は絶えずそれらの話題で豊かだったが、しかし、真紀子だけは実家が横浜にある関係上、話の途中にも電話がしきりにかかって来て場を立ったので、その度びに顔の曇るのを眺めるのは気がかりなことだった。
「お忙しいんじゃない。お帰りになったら。」
 と見かねた千鶴子は真紀子にすすめても、真紀子は何か決するような表情でいちいち電話を処置していた。家に戻れば耐えられぬことの積み上って来る煩わしさから、一時でも遠ざかっていたい焦躁が、却ってこういう場合いつも彼女を活き活きさせて来るのは、まだパリ以来の真紀子の癖だと矢代は思った。家は明治の古い貿易商で、ウィーンに残っている彼女の別れて来た良人の早坂が養子であるうえに、真紀子もまた養子であるということ以外彼の知るところはなかったとはいえ、それだけでも家中の煩雑さを了解するに事欠かぬ事情が揃っていた。
「しかし、僕はアメリカの日本街というのを見て一寸驚いたね。何もあそこは大阪と変らないじゃないか。暖簾の懸った銭湯もあれば、床屋へ入れば、どんなに刈りまひょ。といきなり問われたりして、僕は郷愁を覚えたよ。」
 平尾男爵は突然こう云って笑ったので、皆誰も感合した笑いを洩すのだった。この男爵は田辺侯爵と同様に大名華族で、初めは社会学の研究にパリにいるうち、次第に農業経済の研究に入っていって、むかしの自分の領土の向上に関心を向けているこのごろだった。二人の令嬢の中の妹の方がパリで生れたためか、父男爵の後ろの方で今もフランス語で戯れ合っている幼い姉妹の姿を、極めて淑やかな大和絵風の夫人が自然に任せて眺めていた。透きとおる肌の白さのくち数の少い、高貴な夫人の容姿は、幾らか憂鬱なほど静かだったが、その隣りの外人に似た緊った輪郭の侯爵夫人とときどき慎しやかな低声で話しているのは、見ていても好個の対象で感じが良かった。
「そういえば、世界の都会のうちで、一番愉しそうににこにこして生活している所は、大阪だと僕は思ったが、あそこはまったく特殊国だね。」矢代は塩野にそう云うと、一団は時ならぬ真実を聞きつけたという風にどっと笑った。
「モスコーはどうだった。」と東野は矢代に訊ねた。この中のほとんど誰もが外国にいた者たちばかりだったが、モスコーを見たものはまだ矢代以外に一人もいなかったからである。
「あそこのことを話すのは、なかなか難しいですよ。僕は一度、モスコーの人間はどうしてあんなに憂鬱な顔をしているんだろうと、何んの気もなく話したことがあるんだが、そうしたところが、いきなり横から、こ奴はファッショだと、怒鳴られたことがあった。とにかく僕は、あの長いロシアの道中で、笑っている人間の顔を見た記憶がないのだけれども、あれは一つは国民性か、それとも他に原因があるのか今は疑問ですね。その疑問だけは本当なんだが。」
「しかし、そういう重大な疑問を、自国民にも話し得ないということは、そりゃ、世界の誰も彼もが戦戦兢兢として暮しているという証拠だね。とにかく、もう起るものは起っているよ。そして、救うものもこれでどこかに潜んでいるんだ。」と東野は云って窓から樹の間越しに海を見た。
「にこにこしている大阪か。救うのは。」と由吉は間を脱さずひやかしたので、また皆は一緒に笑い出した。
 このような真面目な話題や雑談がお茶どきから夕食前まで一同の間で続けられたが、時間はおどろくほど早く過ぎた。そして一同はロビーから六階の高い食堂へ移り変って、夕日に漲る海面を下にしたバルコオンで食事の支度を待つのだった。大きく拡がった海が刻刻に色を変えてゆく後から、追うように灯が港に点いていった。薄明りのころの横浜は遠い沖が瑠璃色に傾き、船の赤い横線が首環のように水面に眼立って来る。矢代はパリにいるとき、カルチエ・ラタンで久慈と食事中、傍にいたアンリエットが突然、匂いの強いセロリの茎をぽきりと折って、「ああ、横浜へ行きたい。」と嘆息を洩した夕暮どきを思い出したりした。そのときは、千鶴子が明日ロンドンから来るという日で、二人は彼女の宿の選定に悩んでいたときだったが――
 茂った帆檣の見える埠頭の方から汽笛が鳴った。バルコオンの欄干のところで、真紀子と千鶴子は皆から少し離れた位置に立ち、裾に微風のそよぐ忍び声で何事か話していた。二人の笑顔を海面からの反射が細かく浮き上げ、スカートのぴったりと締った物腰の揺れる、あたりの燃えるようなひとときだった。
 その横の空地を越した向うに、アンリエットが父と二人でいたという、廃館になったマッサアジュリーム会社の白壁が見えた。
 矢代は、そこの白壁に射し返った入日を受け、ペンキ塗の緑の鉄柵の影が折れ曲っているのを見ているうち、ふと急にうつろうものの寂しさを覚えて来るのだった。
「ああ、横浜へ行きたい。」
 と、そうアンリエットの洩した嘆息も、あの主の変った廃館を見たかったためだったのかと、彼は自分に会話を教えた教師の胸に今も失われぬその夢の巣を、彼女に代ってなおよく覗いた。入日の変化につれて、海草の広大な層がそこだけ見る間に黒く変っていった。残光の漂った水面を掠め汽笛がまた鳴りつづけた。そして、時計の歌の消え入るような余韻を腹に沁み透らせ、港はしだいに灯を明るくしていった。
「矢代さんにお話したいこと、それはいろいろあるの。いつかまた、ゆっくり落ちついたときにね。」
 と真紀子は食卓につく前に、あきらめに似た悲しさを含んだ声で、矢代の傍へ来て云った。
「どうぞ、是非来て下さい。」矢代は真紀子の不幸な旅を慰めるつもりで短く云ったのだったが、しかし、自分はこのような屈託のないことも、帰って以来千鶴子にまだ一度も云ったことはなかったと思った。

 一同が食堂のテーブルについたころ外はまったく暗かった。そこへ藤沢帰りの久木男爵から東野に電話がかかって来て、すぐこれから行くから待っていて貰いたいということだった。食事も半ばまで進んだとき、平尾男爵は、隣りにいる田辺侯爵に、
「どうだね、このごろ君の郷里の方の忙しさは。」と訊ねた。
「相変らずだ。」と答える侯爵は表面閑そうな声だったが、地もと県民の種種雑多な集りの会長を引受けている関係上、その仕事の多忙さは、産業や教育、工業や政治関係など、華族仲間の交際以外のことだけでも容易なことではないと矢代には分った。一見、閑そうに見えているものでも、どこかに必ず人知れぬ多忙さがあるものだが、それは、このごろの矢代のみならず、ここに集っている誰彼皆がそうだった。殊に侯爵は県民の育児と教育事業に熱心で、図書館の蔵書目録を充実させることには、直接の力を惜しまない風だった。全国でも侯爵の県下の図書の豊かさは、一般に鳴り響いていることだったが、育児事業の完備と育英奨励も、これまたともに有名だった。
「僕は船の中で東野君にもいろいろ話したんだが。」と男爵は侯爵の方にナイフを持ったまま傾いて云った。「田辺のように図書館を豊富にしたり、育英、育児に熱心になったりするのは、これは勿論大いに推賞すべきことだと思うんだが、僕は自分の研究の社会学をすすめていってみてだね、どうも、自分の郷里の県下を健全な方向に発展させるためには、先ず何より市町村の祭りを大切にして、これを奨励すべきが根本だと思って帰って来たんだよ。農業とか、芸術とか、その他の生産関係など、殊に工業にまでこれを及ぼすべきだと考えるんだが、まア、僕の考えは君の現実派に比べて理想派だけれども、理想派必ずしも非現実主義ではないので、むしろ、君より僕の方が現実主義だとも自慢し得るんだがね。しかし、それはさて措き、農業経済というような点から考えたって、日本内地の手の込んだ集約主義の農業の成功というやつは、やはり、町村の祭りが根本だということは、これは誰も異存なく認めなければならんのだから、いろいろ云われる例の、外地の大農主義というものにしてもだね、僕は自然にこれからその中へ介入して来る科学にまで、祭りを忘れしめぬように発展さすべきだと、こんな風に考えてみるんだよ。つまり、科学祭りというものをだね。」
 何を云い出すかと思っていた一同は、思いがけない男爵の話から、答える術もなく、軽い一種の失望を泛べた表情でにやにやしながら黙っていた。すると、千鶴子だけ一人、何か急に思い出した様子で、首を上げ、傍の矢代を意味ありげに見詰めたが、由吉が突然、「殿さまにはなりたいものだね。」と云ったので、その拍子にどっと上った一団の笑声に邪魔されてまた彼女もそのまま黙った。矢代は千鶴子の視線が忘れられず、それから続いて聞える談笑の底から、彼女の方へ身をよせかけて、
「何んです。」と低く訊ねた。
「お昼に船を待ってたとき、お訊きしたいことあるって、あたし云ったでしょう。あのことなの。」
 千鶴子がこう云っているときでも、あたりのものらはそれぞれ別のことを話し始めたので、幸いに二人の話は皆に分らずに終りそうだった。千鶴子の訊ねたいということは、なるほど彼女の思い出したのももっともなことで、兄の槙三から頼まれて来た用事だが、越後の山の湯にいるとき、矢代が槙三に話した幣帛の切り方に関することだった。それは一枚の白紙を無限にずるずると切り下げて垂らしていく幣帛を、宇宙の形と信じた太古の日本人そのままに、今もなおその幣帛の上に鏡をいただくように安置し、祠の本体と信じている心の美しさについてであったが、数学者の槙三には、矢代の話の中そこが一番の興味の中心だったと見えて、学校に行ってからそれを先輩たちに話したらしかった。ところが、一枚の白紙を無限に連続して切り下げる方法は、目下世界の数学界に於ける最大問題である集合論のうち、特にヒルベルトの位相幾何学の連続の問題と共通した難問の部分だとのことで、またこの解決はまだついていない、もっとも斬新な、数学界に於ける華形として登場して来た射影幾何の部門に属するため、矢代がその幣帛の研究方法をどこから得て来たのか、訊ねて来てくれるようとの槙三からの依頼だった。千鶴子はこんな難しい話を云いがたそうに矢代に話しているとき、
「一寸、そこのあなたたちのお話、聞き捨てにならないな、何んです。」
 と、今まで二人の話を聞いていなかった筈の男爵が、そう云って矢代の方に身を傾けよせて来た。がやがや話していた食卓の長い両側の列が、皆一斉に話をぴたりと停めると、千鶴子と矢代の方を振り向いた。槙三ら数学者たちといい、ここの外国帰りらといい矢代は、彼らの注目を受けるや、世界の全体が急にこちらを向き返って来たようで自然と緊張を覚え、ぼっと暖く光りのさしのぼって来るのを感じるのだった。
「あなたは帰ってくるなりお祭りの話なんかされるもんだから、つい僕も、いろいろ思いあたることが出来てきて、難しいことになったのですよ。」
 その場は矢代も平尾男爵にそう云ったまま笑った。
「何んだい君、今のその話は?」
 東野も千鶴子と矢代とのひそひそ話を、前から幾らか耳にしていたと見えて、そう訊ねた。しかし、矢代はそのときの東野のこちらを向いた眼が、実に静かな優しい色を泛べているので、男の眼もこんなに美しくなるものかと、暫くは見返しながら、
「いや別に、とり立てたことでもないのですよ。」と云って笑った。
「集合論のお話のようだったが、御幣が集合論と似てるんですって、そいつを一つ伺いたいな。」
 と、平尾男爵はまた二人の方へ乗り出す具合をやめなかった。
「ああ、あれか、あれはどうも。」
 由吉はもう弟の槙三から少しは聞いてあったものらしく、信用なりかねる話題を、むしろ矢代がさしひかえてくれるようにと思う表情で、ひとりフォークを動かした。
 矢代はそうでなくとも、もうこのことに関しては、今は話し出す興味が失せて来ていた。第一話はあまり突飛であったし、知的興味を覚えることではないばかりか、ここに集った人の心をかき乱す作用もしそうで、口もとに出かかろうとする声も、苦しく抑えにかかるのだった。
「僕は集合論なんて、よく知らないんですよ。ただね、いつか越後の山の湯へ行ったときに、由吉さんの弟さんと一緒だったのですが、そのとき一寸、本で読んだ幣帛の切り方を話したことがあるんです。そしたところが、この槙三という人は、数学が専門だものだから、専門的に話を聞かれたらしいのですよ。」
「そうだよ、そうだよ。専門的にあ奴は考えたのさ。」
 と由吉はまた云って、この話の長びくことを揉み消した。
「しかし、専門的ならなお面白いじゃないか。それを一つ聞こうじゃないか。」と男爵は容易に後へ引こうとしなかった。
 もうさきから、不愉快そうにいらいらしていた遊部は、冷笑を泛べた唇に脂肪をぎらぎらさせて、港の方から聞える汽笛の音に耳を傾けたり、這入ってくる外人の方を向いたりしていたが、侯爵邸のいつかの夜、矢代と論争めいたことになったときには、平尾男爵はその一座にはいなかったので、また五月蠅《うるさ》くなりそうな二人のことなど知らなかった。
「僕の大学時代の学友で、数学の専門家があったが、それがだんだん修業しているうちに、仙人になって来てね。断食なんか平気になったり、いつでも地獄や天国を見たり出来るようになった男があったよ。みそぎもよく一人でやっていたな。その男の云うことだと、断食なんて、何んでもないもんだそうだ。ただそれをやるときにだね、一大事をやるように人が思うが、そうするともう駄目だと云うのだ。そんなことを思ったりしちゃ、途中で死んだり病気したりすると云うのだ。いつも毎日やることを、今日もやるんだと思って、平然とやると、らくらくと出来るらしいんだが、それは僕にいろいろ暗示を与えてくれて良かったね。」
 平尾男爵のそう云うのを面白がったのは、誰よりも東野だった。
「地獄や天国が見えるのかね。それはいい。しかし、またどうしてそんな人間が、そのまま断ち切れて人に伝わらないのかね。後が続かなくちゃ勿体ないじゃないか。」
「何んでもそれは、そんな人間は素質が初めからあって、自分が知らなくても、ぽッとその者の頭の後に円光がさしているらしいんだよ。ここにいる者らは、まア皆落第だね。見たところ、誰も円光は見えないよ。」
 テーブルの周囲のものらは笑いながらそれぞれ各自の頭を見廻した。
「もしかしたら、幣帛だってそういう人が、何かの暗示で白紙を切ったのかもしれませんね。そうでなければ、そう長くただ一枚の紙がつづくものじゃないからな。」と、矢代は、このときはもう真面目な心にひびく声で、
「僕は数学というものは、そういうものだと思いますよ。これは無目的で、私心がないというその無目的な美しさが美しいんだと思う。」
 矢代はこう云って皿の車海老にレモンの露を滴した。しかし、それは侯爵邸で遊部との議論のさい、ニュートンとピューリタニズムの精神の一致を遊部に説かれて、彼から止どめを刺されたのと同じ手で、いま彼を自然に刺し返したことに気づいた。遊部もすぐそれを知ったらしく、卓上に垂れたミモザの花房の上からちらりと嘲笑を見せて云った。
「しかし、そういうことは偶然という、怪しいものだなア。殊に有史以前の大昔のものが、そんな巧緻な近代幾何と一致するなんて、僕らには想像出来ないことですよ。ただそれは空想というものに過ぎぬ、夢ですよ。」
「まア、そう思いたい軽信は、お互いにありますがね、しかし、そんならニュートンだって夢ですよ。けれども、ピューリタニズムがニュートンと一致したり、ガリレオやデカルトがカソリックと一致したりしているというような、そういう夢というものの美しさを人間が信じなければいられぬ以上、日本の御幣だって、何んらかの数学上の最高地点と一致してくれたって、良かろうじゃありませんか。御幣は数学なんだからな。」
 矢代は、見るまに変ってゆく遊部の馬鹿にした表情を見詰め、今夜はどのようなことがあっても敗北していられぬと、握るフォークとナイフも自然に固くなった。
「しかし、あなたは日本の太古にそんなことがあったなんて、本当に思われるんですか。」と遊部はまた真正面から矢代を見て訊ねた。その顔はもう怒ったように生真面目だった。矢代は、そういう遊部と対き合うと、まったく遊部のその正直さも無理ならぬことと急に思えて来るのだった。遊部とは限らず、矢代たちの時代に受けた教育では、ニュートンを信用するのは当然のことで、この遊部の思いを翻すことなど容易に出来ることではなかった。しかし、彼と同時代の青年の中にも、槙三のような、幣帛の姿から胸打つものを見た感動ある新鮮な能力も蘇っているのを思うことは、矢代にさらにまた別の感動を加えるのだった。それは驚くべきことと思い、見ている卓上の布の白さも心を休める美しさに見えて来た。
「まア、僕たちは一番正直に考えるべきところへ来てしまったのですよ。あなたも僕も、どういう巡り合せか、そうなって来たのだから、なるたけ僕らは感傷を避けて、古代文明の新しい数学に驚きましょう。実際、意志や感情じゃどうしようもない、美しい姿がある以上は。」
「じゃ、そのうち、僕も御幣を担がせて貰いましょう。」と遊部は静にいって、皿の上のマヨネーズを攪き廻した。
 矢代は遊部にこの場は先ず勝ったというものの、明らかに腹立ちを与えて負かした自分の説得の不足を残念に思った。それも終りに、そんな侮辱を含んだ口吻を吐かせたと思うと寂しかったが、しかし、今日の遊部との論争は侯爵邸の夜よりはまだ良かった。矢代が遊部を説得するに都合の良い何よりの強力な武器を、槙三から持ち運んで来てくれたのは、他でもない千鶴子だったからである。またこの日の千鶴子は侯爵邸の夜とは違い、矢代の信仰の対象に槙三が動かされて来たことを喜んでいる様子が顕れ出ていて、他人事ではなく彼女もまた嬉しそうだった。この千鶴子がともに信仰に近づいて来てくれた表情の明るさは、また矢代の明るさでもあり、そして、それこそ長らく彼の望んで熄まなかったものの一つだった。
「僕は君と一緒に帰って来て得をしたのは、何より俳句を勉強したことだったよ。」と平尾男爵は東野に云った。「あれはだいいち論争したくなくなって善いね。もし世界に俳句を拡めたら、世界は見違えるように美しくなるなアとそう思ったが、君、芭蕉の思想なんて、なかなかどうして、あれは孔子以上だぜ。静寂でいてそのくせ千変万化するところは、どこかベルグソンにも似ているし、御幣にも通じるし。」
「ところがまた、俳句界ほど論争の多いところは、世界に稀だよ。」
 東野の言にテーブルの周囲は一時にまた笑い崩れた。しかし、それは笑いとともに捨て流せぬ、俳句以外の重大なものに通じる心として矢代の胸に残って来るのだった。男爵も同時にそれを感じたらしく、ひとり大きく頷きながら云った。
「一番静かなものの中が、一番論争が激しいというのは、そりゃまた日本だね。」
「あれは論理と心理の極致に花を咲かせようとする念願なんだからね。つまり、やっぱり御幣をいただくための斎戒さ。不浄があってはならぬから論争する。しかし、それは何もわれわれの論争にしたって、日本人のする論争ならすべて、結局はみな斎戒だよ。戦争にしろ平和にしろ、よく考えてみると等しくみなこれ斎戒さ。それ以外にはないのだよ。悪だって善だって、漫才だって、玉乗りの果てに至るまで日本人はそうなんだから、まア、とにかく、僕らにしてもやっと御幣の傍へ帰りついたのだからね、お祭りぐらいはしたくなるよ。」
 東野はそう云ってからフォークに突き刺した海老の顔を、何ぜだかすぐ食べようとせず愛らしそうに暫くじっと眺めていた。
「この道や行く人なくて秋の暮だ。」と遊部は不興げにひとりにたにた笑った。
 東野は隣りのその遊部に何事か云いかけようとしたとき、エレベーターから顕れた久木男爵が、ボーイに案内されて彼の方へ近よって来た。
「わたしは郵船へ電話してみたところが、入港が遅れそうだというので、つい藤沢で閑をとりすぎました。しかし、多分こちらだろうと見当をつけてみたところが、やっぱり当った。まア、御無事で何よりでした。御苦労さま。」
 大実業家というよりも芸術家に見える、久木男爵はこう東野に挨拶をしてから、食卓の周囲の顔を見廻した。そして「やア、これはこれは、どなたもお揃いですね。」と云って、矢代にもへだてのとれた情愛の籠った眼を向けた。
 一同の話題はそれから再びなごやかな風に変って来た。食事も横浜の支社ですませて来たと云う久木男爵は、葡萄酒だけ少量唇につけ、黙っている婦人たちの方へ笑いを誘う軽い巧みな話題を向けるのだった。一番年長者だけに万遍なく食卓の両側に気をつけた細やかさで、この富豪の常の気苦労もよく感じられる自在な表情だった。
 しかし、矢代はもうこのときから、いつもの自分ではなくなるように思った。それは自然に父の死を思い出したからだったが、――父の死の直前、久木男爵に自分が会ったということが、父の死の原因になったと思っている矢先だった。またそれは男爵に悪意を持つことでもなく、むしろ善意に解した場合、一層その度を強める性質のことにも拘らず、何んとなく矢代は、眼前に当の男爵がいるだけで今までの彼ではなくなるのだった。
「久木さんはお幾つだ。」
 こう矢代に訊ねたときの父の嬉しそうな眼もと、彼に銚子をさし傾けてくれた謙虚な気持ちなど、思えば、そのときの父の代えがたい喜びであったものばかりが、今はそのまま喜びとしては彼に伝わらず、どう仕様もない一抹の悲しみの露となって滴り、漸次にじりじり胸中に拡って来るのだった。

 食事がすんでからそれぞれ、バルコオンよりの部屋へ移り椅子を変えた。矢代は久木男爵から離れた椅子をとると、港の方をひとり眺めた。彼の位置からは、平尾男爵の令嬢たちが、柔いフランス語で戯れている無邪気な肩のあたりから、灯台の鋭く明滅する光りが見えた。どこかフリジヤの花を思わせる少女たちの姿だった。光りの廻って来るのを待っているうち、矢代がパリへ着いて間もないころ料理店の一隅で、偶然この幼い子たちを見た記憶が蘇って来た。すると、またその光りの遅い廻転は、ふと父の骨が火になって出て来たときの、最初の鮮やかな色を思い出させた。それは繊細な花茎を連想した直後の彼の感傷とはいえ、父の死の光りの前の少女の姿は、一層活き活きと揺れたわむ呼吸に見えて美しかった。
「平尾さんのお嬢さんはパリでお生れになったのですか。」
 久木男爵も、二人の令嬢の自然なフランス語を耳に入れたらしくそう訊ねた。
「そうです。この下の方ですが、これで日本を今日初めて見るのですよ。いろいろ教えこむのにこれからまたひと苦労です。何しろパリじゃ、子供の遊戯に、恋人から手紙の来るのを待つ遊びがあるもんですから、見ていてときどきひやりとしますよ。」
 平尾男爵のそう云うのも待たず、皆の笑い出す声の中に沈まりながら、令嬢たちはまだ無心に話しつづけた。
「子供のことというと、僕も外国では自分の子供と同じ年恰好の子に会うと、いつも一緒に遊んで見ることにしたが、そこの国民の成長力を感じるには、それが何よりですね。」と東野は久木男爵に云った。
「そうそう、どこの国の子供も子供のときは、みな同じように可愛らしいが、大人となると、またどうしてあんなに違うもんだか、相当憎いのもおりますからね。いったい、子供と大人とどのあたりで違って来るものか、なかなか微妙な研究問題ですよ。これは、わたしもときどきこの年になって、自分もこれで憎い人間になっているのかもしれぬと、考え込んだりしますからね。」
 久木男爵のそう云うのを矢代は聞くともなく聞きつつ、思わず、自分にとっては事実そうだと忘れていた灯台の光りをまた見詰めた。しかし、怨もうにも怨めぬこの憎さは、天から転がり下った宿命の糸に見え、少女のか細い肩の間から徐ろに廻って来る光りの瞬きも、ますます父の最後の笑顔をほのかに浮き出す灯火のように、愁いを含んで射しこもって来るのだった。
「ね、ほんとにお父さん、あんなに喜んで死んだんですもの。」
 父の亡骸を抱いた矢代の傍で、そんなに喜んだ母の顔も彼の眼から離れなかった。しかし、それもこれも起ったすべてのことは誰も知らず、ただ彼の胸中で人知れず燃え上っては、やがて自分の死とともに消えてゆく喜び悲しみの焔であろう。
 矢代はつい湿って来た眼を人に見られたくはなかったので、室内から視線を外に反らせるように心がけた。そして、出来るなら自分ひとり音立てず、この場から脱けて帰りたいと思ったが、一同の話の続きがまだ切れず、その機会も容易に来なかった。そのうちに立って席を空けていた東野が戻って来ると、
「そうそう、久木さんにさきからお訊きしたいと思っていたのですが、矢代君の説によると、御幣と数学の集合論の中心部分が等しいというのですがね、久木さんは数学の御専門だから、その集合論の概念を一つと思っていたのですよ。」
 と、また矢代の名前を皆の面前へ引き摺り出した。
「はて、何んですかね、それは――」
 久木男爵は小首をかしげ、「矢代さん、矢代さん何んですそのあなたのお説というのは。」と今まで人の背後に隠れるように苦心していた彼の方を覗いて訊ねた。
「いや、僕もよく知らないんですよ。」と矢代は咄嵯に答えて笑った。一同のものの笑声に混り千鶴子も笑顔をちらりと彼の方に向けたが、急に千鶴子だけひとり愁いを顔に表わして矢代をじっと見詰めていた。
「あなたは今夜はまた馬鹿にお静かですね。さてはそこから船の灯を見て、思い出したのですか。」と久木男爵は云ったので笑いは一層高くなった。
 矢代は熱くほてって来る顔を皆から転じて船の灯火を見た。碇泊している東野らの船の、まだ灯を点けたまま埠頭に長く連っている明るさが、またも千鶴子と一緒に航海した港港の夜景を思い出させて来るのだった。
「面白うてやがて悲しき鵜舟かな。」
 いつも旅の思いにつれ口にのぼる芭蕉のそんな句も、ともに泛んで来たりしたが、千鶴子と彼に注がれた一同の視線はなお離れず窮屈だった。
「しかし、港の夜景というものは、実際物を思わせるものだよ。無理はないさ。フランスの名高い詩人だが、たしかヴァレリイだったと思うがね、人生のうちで愛人と二人で港港を船で這入って行くことほど幸福なことはないと云っているよ。何んでも、陸と海とが口をつけているのは港で、そこを二人で這入って行くのだからというのだね。」と東野は云って、海の方を見ながら、「青年はいいな、まだまだこれから幾らでも機会はあるんだからね。しかし、もう僕にはそれが何もない。今夜で了いだ。」
 思いがけない東野の悲痛なそのひと言に、皆は水を打たれたように急にしんと静かになった。
「しかし、始めあれば、また終りあり、といった形だな、あの船は。」と久木男爵は云ってまたすぐ一同を笑わせた。
「それが、つまり御老人の集合論ですかね。そこを一つ聞きたいものだな。」と由吉はすかさず久木男爵に応酬した。
「いや、冗談じゃない、そういうのが集合論ですよ。ラアデマッヘルという数学者でしたかね、その男の云うのには、一つの部屋に男という集合があり、また別に女という集合があってダンスをした、すると、二人の男女が手を繋いでみて、うまい具合に残りがなくなった場合には、一対一の対応が出来たということになって、男女の数は相等しいという、その証明の仕方が、つまり、集合論のそもそもの始めのような所ですからね。まア港を船で行くそれみたいなものかな。平面という一次元の世界では、人間の考え得られる数のすべてと、直線上の点のすべては一対一の対応が出来る。相等しい個数を持っているという、そこのところが、いわば集合論の口みたいなものですよ。」
「じゃ、僕のような独り者がぼんやり港の船を見ているという――こういうのは、その集合論の口へも入らぬというものですかね。」と由吉は、そろそろもう数学の世界から喰み出したい気骨を眉目に見せ始めて来るのだった。
「しかし、あなたのようなそういう独身の人の希望は、船舶を動かす動力になりますよ。その動力が物を連続させるという、つまり、平面に幅や厚さを与える二次元三次元の立体の世界を織り出してゆくのですからね。そこで前に戻りますが、その集合論の口のところの、一対一の対応の積を、2のX乗という代数の形で表現して見せたのがカントルという豪い数学者で、さアそれからは数学の世界は根柢からひっくり返って、大乱になって来たのですよ。港から港を船で、恋人と二人で航海するというような平面上の幸福は、むかしの夢で、平面も立体もないというような、おかしな世界が現れて来たりして、ややこしいことになったのです。そのカントルの集合論の発表は、西暦千八百七十七年というのですから、ひょっとすると、西洋も十九世紀の終りのそのころが、大乱の始めかもしれませんよ。数学の世界ほどこの世で、正直な告白をするものはありませんからね。」
「そうすると、その数学の大乱の結果と、幣帛の形というのは、どういうところに関係があるもんですか。」と、今まで黙っていた田辺侯爵も、だんだん興味の動いて来た様子で訊ねた。
「さア、それはわたしも初耳でしたね。しかし、そう云われてみると、なかなかこれは面白い、というより、強く胸を打って来るものがありますよ。たしかに――耶蘇の方の千八百七十七年は日本のいつごろでしたか。」と久木男爵は一同の顔を見廻した。
「明治十年ごろでしょう。」と矢代は答えた。そして、そう答えてしまうと同時に、その年の前後は日本にとっても重大な転換期だと思いあたり、光は東方よりという言葉も思い出すと、そのころより漸次に、光度を世界に増していった夜明けの日本の姿も彼は思い出されて来るのだった。
 久木男爵も考え込むときの例の癖を出して眼鏡を脱し、暫く鋭い表情のまま黙っていてからまた云った。
「ともかく、幣帛の形というのは幾何学として見ると、一枚の紙が連続的に、裏と表とを見せて無限に垂れているところに、現在の集合論との関係が成り立っているわけですから、鍵はどうもそこの連続の場所にあるらしいようですね。しかし、それはなかなか結構な問題ですよ。」
 久木男爵はそこまで云って一寸説明を止めたが、複雑な問題を手ごろなものに纏めたい工夫で、眼の光りがますますこのときから強くなるようだった。
「さきもお話した通り、愛人同士が手を繋ぐ、一対一の対応というのは平面上のことだったのですがね。これがいろいろに発展して、立体上にも同様に手を繋ぎ得る対応があると考えられるようになってからは、立体と平面との区別がっかない混乱を惹き起したのですが、その後になって今度は、ヒルベルトという大家が出て来たのですよ。この人は、平面とか立体とかの次元を比較するのに、前のカントルのように一対一の手を繋ぐ対応を考えるのを中止して、先ず平面と立体とが連続したものとして、つまり、陸と海とが口をつけた港港を行くように、そこの口をつけた連続ということを中心に、考えを発展させたのですね。そうすると、一枚の紙を無限に連続させて切るためには、どんな切り方をすれば良いかということが、一番の難しい、また新しい問題になって来たのですよ。要するにその切り方の形が幣帛と同じになって来ているところが、今仰言たようなことになっているんじゃないかと、こうまア私は思われますがね。しかし一寸不思議だな。数学者たちは宇宙の姿をメビウスの帯と称して、紙の形で描いておりますが、なるほどそのメビウスの帯は、幣帛に似ていますよ。わたしもなおよく研究してみますが、しかし――不思議な国だなア日本というのは。エジプトからかな。その御幣は。」
 頭を椅子につけ天井を見詰めてそう云う久木男爵は、もうこのときから一同とはまったく別の世界に入っているらしく、笑顔も消えた孤独な眼だけぱちぱち瞬いていた。
「しかし、そういうことになると、世界の人間どもに港から港へ旅をさす幸福を与えてやるのは、いよいよ御幣らしくもなって来たね。よほど話が整って来たよ。」
 由吉はパイプに火を入れて云ったが、もう今は彼について笑うものもなく、海からの夜風にガラスの冷えて来た部屋の中で、一枚の白紙に吸いよせられたように、一同は妙に静になってしまった。平尾男爵は手帳を出すと、「千八百七十七年と。カントルだね。」と呟いて記入した。そして「僕も帰り着いた夜、こういう風向きになろうとは思わなかったな。しかし、これで多少は僕の研究に方向がついて来たよ。東野君、君の専門の方はどうかね。その千八百七十七年前後のあたりは?」と訊ねた。
「そりゃ、勿論、立体も平面もこの世から姿をかき消した時代だよ。何しろ明治十年というと、西南戦争のときだからね。あのころは、隆盛の細君が香銭七百円もらって、突き返して人気が出るやら、吉原の女郎が洋装してみな並んでみたりするやら、そうかと思うと、そうそう、たしか、湯島に数学会社というのが出来た年だよ。会員が九十名だ。医学会社というのも出たね。何んでもやたらに、資本金七万円、五万円という会社が出始めたりしているよ。柳原愛子皇太子を分娩す、なんて新聞記事があの年に堂堂と出ていたのを、何んかで見たことがあるね。西郷隆盛の首がないので、大騒ぎしている記事と一緒だものだから、覚えているんだが、米が君、二銭五厘のときだ。それでも、日本の渥美半島の酒が、フランスから註文を受けたので、びっくりしたりしている。とにかく、三井が創立式を挙げた年で、軍艦が横須賀で初めて出来た年だ。」
 東野が声の調子がとれず、強くそう云っている途中でも、平尾男爵の令嬢たちはもう椅子の上で眠りかけていた。それまでそわそわと落ちつかなげにいた真紀子は機を見て立ち上ると、家がこの近くだから先に失礼したいと云って一同に挨拶した。すると、「それでは僕も」と云い出すものも多くなって、真紀子の挨拶をきっかけに急に遽しくそれぞれ椅子から立った。残るものらも下のロビーまで送りに皆と一緒にエレベーターの口まで行こうとしたとき、軽く後から矢代の肩を打つものがあった。見るとそれは久木男爵だった。
「君、今晩ここで泊ってらっしゃいよ。先日お約束の電報を上げようと思って、田辺さんにあなたのところを調べていただいたところが、御不幸があったということで、つい遠慮をしました。どうも御愁傷さまで。」
 と男爵は、もういつもの笑顔に戻り穏やかなお辞儀をした。
「有りがとうございます。」
 矢代は尋常にこのとき返礼だけは出来たが、それでもぼッと熱気に蒸されたような困迷を覚え、却って落ちつき払ったように身体がそこに突き立ったままだった。
「しかし、もうお暇も出来たでしょう。お父さまの御病気は?」とまた男爵は優しく訊ねた。
「脳溢血です。」
「ほう、それじゃお名残り惜しいですね。お幾つでした。」
「七十一です。」
「じゃ、わたしとあまり違いませんね。そろそろわたしにも廻って来ますかな。」
 気軽く笑いつつも微妙な変化を示す男爵の前にいると、矢代は、ふと自分の中に父もともにいるような重圧を感じ、生前男爵に抱いた父の気持ちがそのまま姿勢にまで加わろうとするのだった。彼の頭の高さも父から叱りつけられるようで、たしかに先日侯爵邸で会ったときとは、また別した渦巻きを体内に感じ、ともすると表情も固まろうとするのを、彼はようやく平素のままに心を支えて帰りを急いだ。
「今夜のお話はたいへん結構でした。もう少し精しくお訊きしたかったのですが、今日は友人が多いものですからこれで失礼します。」
 エレベーターの扉の中へ皆の這入るのを眺め、矢代も久木男爵にそう云って後から自分も入った。遊部や速水は侯爵夫妻の空いた自動車で帰ることにしたが、矢代は昼からの会合に人疲れを覚えたので乗り切れぬ自動車をやめて歩くことにした。しかし、急に由吉ひとりは平尾男爵らとホテルへ残ると云い出したため、千鶴子だけ先に帰ることになった。
「枕木さんからのお土産でもあるんでしょう。きっと。」
 宿泊する由吉の意存を千鶴子はそう云い当てて矢代と歩いた。他に塩野と佐佐もいた。みな疲れている様子で薄霧の降りた夜道を黙りつづけた。海からすぐの河口まで来たとき、誰からともなく橋の上で自然に足が停った。ほの白く煙っている潮の灯を見ているうち、佐佐が軽い吐息をついた。欄干の鉄の冷えているのがいつかまた旅の日の夜を思い出させて来るのだった。しかし、矢代はこの日、槙三から持って来てくれた千鶴子の報知のことを思うと、それが何よりも嬉しかった。海の開けている河口の霧も、末拡がりに開いた白い扇に見えて元気が出た。彼はこのような機会に、千鶴子の家へ結婚を申し込むべき形式の相談を二人でしたいと思ったが、傍にまだ人がいてそれも出来がたかった。橋の欄干から離れて歩いて行くときも、矢代は暫くそれを云い出す機を覗って緊張した。賑やかな通りに出てからも、傍を人の通り抜けようとするとき、身を除ける自分の肩が千鶴子に触れると、つい押し気味になって彼は千鶴子を道の片側によせていった。そして「今夜はお宅まで送らせて貰いますよ。」と云ってみた。
 まだ意味も分らぬ容子の千鶴子は、ちらっと彼を見て笑っただけだったが、そのとき烈しく片頬に灯を受けた靨の鮮やかさは、初めて船で見たときと同じ美しさだと矢代は思った。
「僕は二三日中に重要な手紙を上げたいんですが、そのときには、あなただけでも、うんと云って下さい。良ろしい?」
 千鶴子は返事をせずに軽く一寸頷いた。

 四人づれの矢代らは、省線を降りてから暗い道を幾つか曲って行くうち、もう来た方向も忘れるほどになった。道路の中央に椎の木が肌に飴を噴き流し一本立ちはだかっていた。穴のある節くれ立ったその幹の裂けた半面に、交番の灯が射していた。矢代はいつか秘かに来て見てここで車を降りたときの、見覚えのある樹と交番だと思った。
 近づいたとき彼は、馬の首を打つように懐しく椎の幹を叩きながら、
「もう遠くはないなア、これは見覚えのある樹だ。」とひとり呟いた。
 それは名木だった。高さは夜分で分らぬながら、見上げる枝は道いっぱいに拡っていて、四人づれの矢代らは両側に裂かれてそれぞれ通っていった。練塀を連ねた静かな小路に瓦がしっとり重く湿って見えるころだった。
「君来たことあるの、ここへ。」と塩野は不思議そうに訊ねた。
「一度通ったことがあるんだ。秋だったかね。」
 外国から帰った当夜、自宅へ戻るより先に、ここまで飛ぶように来たときの、あの思い上ったような寂しさや身の軽さを彼は思いあわせ、今夜の夜道はそのときとは違い、よほど踏み応えのあるたしかなものに見え、これからも幾度ここをこうして通ることだろうと考えたりした。しかし、そういえば、千鶴子と初めて船で会ったとき以来月日はまだ一年よりたたないのだと思った。ただの一年で見切れぬものを見、聞きなれぬものを聞き、行いきれぬものを行った結果が、この夜道を選んだのだとすると、間もなくこれから見える千鶴子の家の門口は、自分にとって地獄か天国か、どちらかの道の入口にちがいはないとも思った。
「今日は僕らは一日海を見て暮したが、何んでもない日じゃなかったね。僕は東野さんらの船の入港して来るのを見ているとき、旅立ってから一年もたったのだなアと思ったが、しかし、君、あの夢みたいな僕らの一年は、あれは非常な生活の実践だったどいうことが分ったね。みんな、あれは幻影じゃない、実践だったのさ。僕の死んだ父親だって、また君らのお父さんたちだって、生きているうちに一度はどうしても行ってみようと一生思い詰めて、とうとうそれも行われずに死んじまったことを、ともかく曲りなりにも、僕らは実践しちゃったんだからね。そしてどうだろう、何んのことはない、二代もかかって紙一枚の御幣に気がつくなんて――」
 矢代はその最後のところで云い辛くふと黙ると、「残りたる紙一枚や父の春」と、そんな句が口から自然に出た。ブロウニュの森で東野や久慈たちと句作をやって以来の彼の句だったが、よく意味の分らぬままにも暫くそれを呟きつつ彼は俯向いて歩いた。
 まだ棕櫚縄の結び目の新しい千鶴子の家の建仁寺垣が見えて来たとき、塩野は、「じゃ、ここで失礼しよう。さようなら。」と千鶴子に云った。
「どうもありがとう。でも、ちょっと休んでらっしゃらない。まだそんなに遅くはないんですもの。ね、お這入りになって――」
 千鶴子はいつも入りつけている塩野に云う無雑作な声だったが、入れば中にいる彼女の母に初めて会う矢代の困惑の様子を慮ったと見え、幾分ためらう色のひそむのもすぐ闇の中で矢代は感じた。
「どうしょう。休まして貰うか。」と塩野はまた矢代を見て訊ねた。
 今夜は千鶴子の家まで送ろうと、横浜でそう云い出したのは矢代自身だったが、それも中へ入るつもりの毫もなかったこととて彼は返事に窮し、「しかし、もう遅いからここでお別れにしよう。」と云って停った。
「でも、ちょっとお茶でもめし上ってらして――」
 と、今度は千鶴子は矢代にはっきりした笑顔で云った。このときは前のためらいも消えていて、いずれ来るものは来ると即座に決断した女性の大胆な変化が見えた。チロルで氷河を渡ろうとしたときも同じ落ちつきで、ぐんぐん彼を氷の中へ誘い込んだのも、ちょうどこんな千鶴子だった。
 しかし、いずれにしても、今この門を潜るのは少し無謀なことであった。思慮あれば避けるべき筈の場合だったが、門柱の横の潜戸の中へ消えた千鶴子の後から、何んの相談もなく続いて塩野も潜ると、矢代は自分ひとりそこから去るのも、むしろいかがわしい咎めを残すばかりに感じられ、特別な一大事の前後の処置とは思えぬ気軽さで彼も潜っていった。そして、底白い砂の拡がりを踏みつつ彼は、いちいち自分の微細な動作まで手にとるように分る緊張にも拘らず、どこかぶらりとした旅ものめいた暢気さもあって、まだ見ぬ千鶴子の母に会う興味さえ覚えて来るのだった。矢代を撥ねつづけていた母親だけに、彼は初めてその人に会うことに張り合う気もうすうすに感じ、大玄関の框の前でみなと一緒に靴を脱いだ。
 玄関から畳廊下を右の方へ行った突きあたりのスウィッチで、廊下より一段低めな応接室に灯が入った。隣室から離れた感じの厚壁に包まれた親しみある部屋の中を矢代は眺め、また庭を暫く眺めた。
「この画、佐佐んだが、この景色は君もたしかに見た筈だよ。」
 と塩野は暖炉棚の上に懸ったパリの風景画をさして云った。
 画はパンテオン附近の裏小路らしい風景だったが、崩れない確実な筆触の美しさは佐佐の頑固さと同時に、明澄な純粋さを保持しつづけようとして苦しんでいる、彼の性格もよく現した絵だった。
「とにかく色調に細やかな愛情が出ているところを見ると、どうも、自分の部屋から始終眺めた景色らしいな。」と矢代は絵に対ったまま云った。
 佐佐は「うむ」と口重い笑顔で頷いて、自作と再会した嬉しさを白い歯に見せ、椅子にかけてもまだ絵から視線を放そうとしなかった。部屋の隅にグランドピアノがあり、壁に添った棚には由吉の趣味と見える陶器が幾つも置いてあった。一つはアフリカの器らしい厚手の水指と、支那の慶磁の白い湯呑、それに日本物では紫野の茶碗、その横に朝鮮の鶏龍の蓋物の鉢が一つ。中でも鶏龍の別毛鉢が一番優れて美しかったが、それらの選択の仕方には、特に大物をさしひかえた凝り性の滋味な統一が伺えて愉しみぶかい選択だった。
 千鶴子がお茶とお菓子を持って来た。家人はもう寝たと見え庭に射し込む灯影がどの部屋からのもなく暗かった。千鶴子はまた引っ込んで出て来たときには、今度はチーズとビールを擁えて来た。
「矢代さんお初つに来てくだすったのに、何も今夜は見つかりませんのよ。御免なさい。」
 千鶴子のそう云うよりも、女中の手を煩さなかった心遣いが結構だったと矢代は思った。そして、隣室からへだたったこの部屋の潤いの籠った明るさは、久しぶりに千鶴子と二人で自分の部屋に帰ったときの、パリのある夜の寛ぎに似たものを思い出し、そのときの灯の匂いを嗅ぎ出すように首をのんびりと廻しあたりを見た。すると、朝からの休む暇もなかった気疲れも加わって、ふと彼は、こんなとき二人がもし結婚をすれば、もう今の匂やかなものの通う路は断ち消えて無くなりそうな恐れも覚えて来るのだった。
「今夜の東野さんは凄かったね。本当の平和はもう来るぞ。と云ったときの、あの人の顔ったら、なかったぜ。」と佐佐は云って生菓子を一つ摘まんだ。
「しかし、あの久木男爵も面白かったよ。御幣の形と射影幾何との説明を、港港を船で行くといったところなんて、ただの鼠の爺さんじゃ、ちょっと出来ない芸当だよ。僕はあのとき、つい悪いことを思い出してね、よっぽど云おうかなと思ったんだが、それも悪くてやめちゃった。あの爺さんには、パリで千鶴子さんと僕と大石とは困らせられたんだからなア。」と塩野は今ごろ急に意外なことを云い出して苦笑した。
「どうして。」千鶴子も矢代同様急には解せぬ面持ちで訊ねた。
「ほら、あのパリの大蔵大臣邸で夜会があったでしょうが。あのときには、僕ら、久木男爵とこの鮭の缶詰を輸出させるのに骨折った夜会だったのさ。フランスの法律を動かそうってんだから、何しろ相手は鉄壁の陣営だよ。それを二三日前から徹夜の作戦で、とうとう漕ぎつけたのは良いが、暫くはお蔭で神経衰弱さ。しかし、思い出すなア、あの夜の苦労は。」
 塩野の云うのを聞いているうち、矢代は千鶴子とチロルを早く切り上げてパリへ戻った原因の一つも、塩野からその夜会へ出席を急がれていた千鶴子の都合のためでもあったと思った。それにまた、彼の悩まされた書記官のピエールと千鶴子とのオペラでの一件のことにしても、同様に大臣邸のその夜会が始まりのようでもあったが、いずれもそれらの起りはみな、塩野の今の言葉で、初めて矢代にはよく頷けて来ることばかりだった。そして、
「何んだ、あれがね。」と彼も思わずそう云ったまま暫く塩野の顔から眼が放れなかったが、実際、自分にとっては重なる苦楽の集るところに、何も知らず男爵はいたものだと、むしろ今は、人には語れぬ鬼気こもる縁の深さにますます彼は愕くのみだった。
「あれがね、でもないよ。君は知らないからね。僕たちのあのときの苦労は。」と塩野は塩野で、またそのために思い起すことも多いらしかった。
「いや、君たちのお蔭で、僕も苦労をさせられる羽目になったのさ。」と矢代も今は負けずに云って笑った。そして、千鶴子に対い少し皮肉に出たくなって、
「その後ピエール氏から便りはありませんか。」と訊ねてみた。
「一度。」と千鶴子は肩を一寸すくめた表情で答えると、「お見せしてよ、後で。」と云って、ビールの栓を抜く手つきもいつもとは違い、争われぬなまめいた形になるのだった。何かそれは復讐めいた色艶にさえ矢代は感じ、一寸息苦しい思いになって俄に打ち返す言葉も出なかった。
「そうそう、ピエールさんといえば、たしかあの人、ひょっとすると日本へもう来るころかもしれないよ。日本へ行くほど愉しいことはないと、云ってたからね。あの人は日本を好きで仕様がないのだよ。」
 塩野はまだ矢代と千鶴子との間に今も生じている微妙な気持ちの反り合いには、少しも気付かぬ無頓着さで云うのだった。
「いや、もうあの人、来ない方がいいよ。」と矢代は、ひと息の苦しさも愉しみに擦りかえて千鶴子の顔を眺めた。
「そんなこと仰言らずに、めし上れ。」
 千鶴子は矢代のコップにビールを注いだが、こういうときのほんの少しの勝ち越しも、いつか男をたしなめる優雅な手つきにするすべさえ加わり、それも自分の見知らぬ夜会で養われて来たものかと、少し赧らんだ千鶴子の眼もとに泛んで来る微笑を、矢代は今さらにおどろき振り返った。
「じゃ、この一ぱいだけはピエール氏のために。後はもう駄目だ。」矢代は先ずこのとき一ぱい飲んで、塩野に対い、
「この千鶴子さんはね君、ピエール氏が非常に好きだったんだよ。君はいつも傍にいたくせに、写真なんて機械に気を取られて、知らないんだろう。」と云って笑った。
「ピエール氏が好きか、を好きか、どっちだ。」
「さア、それはこの人に聞かなくちゃ。」
「え、どっち千鶴子ちゃん。」と塩野は、またこのようなことに限っては稀な稚拙さで、顔を前に突き出して訊ねた。
「さア、どうかしら。」
 特に真面目に聞くべきことでも無論なく、今は過ぎ去ったこととして軽軽と取り扱う千鶴子の返事に、矢代は、この人の過去には自分との間に似た幾経過もあったこととも察せられて来るのだった。こんなことは、矢代の胸苦しさを一層ふかめそうな筈なのに、却ってそれが思いもうけぬ手柄のような感興を誘うのは、やはり千鶴子の人柄のせいだろうか、このようなことのある場合に、死を賭して操守を重んじた幾代ものカソリックの訓練の齎らす信用のせいだろうか。――矢代はいつもこれに似た疑問の起って来るときどき、思い出すことは、フロウレンスへ行ったときに見た山上のカソリックの聖堂の中だった。その日は日曜日で、洞穴に似たフィエゾレの内部には蝋燭が立て連ねられ、黒色に揃いの白襟の娘たちの一団が、高く捧げられた金色の十字架に対い合唱していた。陽の光りの射し込まぬ暗い堂内に鳴りこもったその合唱の力は、段段と響きとどろく強烈な楽器のようだった。その轟きは入口にふと立った矢代の胸に異様な圧力を加え、弾き返されるようにすぐまた彼は外へ出て来たが、そのとき眼に映った一瞬の聖衣の揃った見事さは、近代の混らぬ西洋の真の美しさを初めて見たと思わせた。矢代は千鶴子もあのときのフィエゾレの内部に連なるものの一人かと思うと、今もピエールのことなどで撃ち返す気もせず、むしろ、あの中世紀そのままの壮厳な古古しい金色の合唱が、人界を離れた別世界に見え、排他的な人を寛さぬその厳しさに、手の届かぬ怨めしげな気持ちさえ覚えて来るのだった。
「年をへし糸の紊れの苦しさにという、安倍貞任の歌があるが、あなたも、さアどうかしらなど云うところを見ると、貞任みたいになかなか歌が上手いなア。八幡太郎は矢で狙っても、歌が上手いといのちを救うんだからね。僕らは日本式に太郎でいこう。」
 と矢代はこう云って、千鶴子に弓弦をひき絞っているような様子の塩野を顧みて笑った。
「その方がピエール氏を喜ばすか。」と塩野も笑ってしまった。
 椅子の背にもたれたこんな寛いだ気分も、寝ていた人が起きて来たらしい廊下をわたる足音で緊った。もしかすればそれは千鶴子の母のかもしれないと矢代は気がかりだった。千鶴子が三人の客の名を告げてあるなら、彼女の母にしても出るべきかどうか迷うであろう場合だったが、こんな夜分の遅いときには、皆が帰った後から母に来客の名を報らす捌きも考えての上で、招じ入れたにちがいないとも思われた。しかし、それにしても、自分のこの家へ来るのはやはり少し早すぎたと矢代は思った。間もなく、今まで暗かった庭の芝生の一角に、応接室からの洩れ灯以外の別の光りが射し、一本立っている樅の太い幹が浮き出ていた。そして、襖を開けたてする音につづいて間もなくドアが開いた。
「やア、これは――遅くから失礼してるんですよ。」と塩野は頭髪を撫でつけ、千鶴子の母らしい人に立って云った。
「まア、わざわざ送っていただいたりしましてね。由吉が電話で今夜は帰れないって云って来たもんですから、そのつもりで早く寝みましたのよ。」
 塩野にゆっくりした口調でそういう千鶴子の母は、矢代の方を少しも見ようとしなかったが、それでも無意識にむじな菊の着物の襟を併せていた。千鶴子には似ない細い眼尻の下り気味のところや、下ぶくれの豊かな頬には、幾らか気ままな感じも含み、特に長めの睫毛の影には、裕福そうな落ちついた品もあった。どちらかといえば由吉に似ていたが、人を容易に受けつけそうもないおっとりした白味の多い眼は、家中で一番権威を具えた存在なことも、ひと眼で矢代には呑み込めた。千鶴子がすぐ次に矢代を母に紹介した。すると、千鶴子の母は笑顔を消し初めて矢代をじっと見詰めたまま、何も云わずにお辞儀をした。それは一寸恐わそうな怯えを帯んだ表情で、視線を下に落すと、あたりの床を見廻しながら、
「この子はわがままな子なもんですから、皆さんにいろいろ御迷惑おかけしたことだろうって、そう申しているんでございますよ。ほんとにこの子は。」
 笑いもせず襟を併せ併せいううちにも、徐徐に遅い微笑が泛んで来た。矢代はその笑顔を見て、初めて、これで心の通じる部分も必ずある人だと思った。
「小母さん、宇佐美の外国行きの用意はもう出来てるんですか。お急がしいでしょう。」と塩野は訊ねた。
「あの人はのんきなものだから、行くんだか行かないんだか、分らないんですのよ。先日も藤沢さんがいらして下すったんですが、あの方一緒につれて行けって仰言るのに、君なんか連れてったらおれの悪事が露顕するからいやだ、なんて申すんですよ。」
「藤沢が来ましたか。あれは今度、幹部になったなア。」
「そうですってね。あの方のお母さんとは父兄会でお会いしたきりなんですが、御病気ですって。」
 小さいときからの皆の交遊の深さも思われる塩野たちのなじみぶかい素ぶりだった。矢代はそういう話を物珍らしく聞いていたが、宇佐美家への自分の日の浅さもまた次第に感じ、これで千鶴子と自分との縁談が整うような日が来たら、塩野の立場も今の自分のような位置に変るのだと思った。そこに瞬時に巻き違う寂しさに似たものの淀みもたまって来るのだった。それにしても矢代は、これで自分が旅さきで千鶴子に汚点を滲ませていたなら、こうして彼女の母と会う苦しさも、今と別して心忌ましい夜となっていたにちがいないと思った。その点、まだ何事もなく旅中の友づれに変りのない現在の自分だったが、しかし、そう思うと、とやこうと気がねを組んで考える自分の憂鬱さが、急に明るみに照し出された汚点のように見えて来て、さすがに人の母たるものの貫禄は、このような微妙なところに射し出るものかと、矢代は、またもそんなところに感心されて来るのだった。
 塩野と千鶴子の母の間では、それからも暫く、由吉や塩野の小学時代の父兄会を中心にした親たちの話がつづいた。そのどの話もみな矢代の知らぬことばかりだったが、ある山科という人物の話になって来たとき、別に取り立てていうべき事でないにも拘らず、妙に塩野の受け答えが渋りがちにっかえ、ときどき矢代の方を向きかけようとしては、表情をもみ消す彼の気苦労の様子を見た。矢代も関りないことながら、ふと意味なく自分もともに浮き足立って来るもののあるのが怪しまれた。そして、何かそこに、千鶴子と自分との縁談の進行を妨げている介在物の臭いも幽かに起つのを感ずると、やむない宇佐美家の困惑の有りようも、それとなく伝えたい弁明の意を含むようにも受けとられ、無理ならぬ母の苦しい立場も、これで一つや二つではないのであろうと、話の間、矢代は二人の話から疑心をいだく自分の耳を遠ざけたくなり、ビールのコップに唇をつけるのだった。
「千鶴子さん、何か他になかったかしら、こんなチーズだけでしたの。」と千鶴子の母は娘を顧みて注意した。
「他にって、あったかしら、探して見ますわ。」
 千鶴子は母からのそんな注意に、何か思いがけない思慮を汲みとった身軽さで椅子を放れた。
「黴びてやしませんでしたかしら、何んだか、おかしな物を引っぱり出したりして。――あの子は自分の好きな物じゃないともう何も気がつかないんでございますよ。癖が悪うござんしてね。」と千鶴子の母は、もうこのときは知人の母の謙遜さが見えへだてもとれた眼差だった。
「そんなこと、もう御存知でしてよお母さん。」と千鶴子はドアの傍から云った。
「あら、まだあなた聞いていたの。」
「早くお美味しいもの、持って来なさい。」と塩野は無遠慮な冗談を大きくドアの方に対って云った。この塩野の大声は、それまで客間に滞りがちだった窮屈さを一気に揉みほごして成功した。
「食べ物のことで思い出しましたが、パリの罷業のときは千鶴子さんと二人で、コーヒー一ぱいを飲むのに、随分苦労をさせられたことがありました。どこの店も戸を閉めていて、飲みも食べも出来ないんですよ。お蔭で胃が少し良くなりましたが、一番ひどい目に会ったのは僕らのようです。」
 まったくこんな無意味なことを矢代が千鶴子の母に云うのにも、相当の骨折りだった。先ず何より意味など持たぬことをと思い、食物の話などを選んだのだったが、急に千鶴子の母は、
「胃がお悪いんですの。」
 とびくりとした表情でひとり笑わず、問い質すように矢代を見た。なるほど、これは不慮の失策だったと矢代は思った。
「悪いというほどもないのですが、向うで日本食を少し続けて食べたときは、誰でも胃が悪くなるんですよ。そのくせどういうものか、一週間に一度は食べないと、日本で米にあたって来ている中毒を急に脱いでは、体を壊すと、まアそんなことが云われているのですね。しかし、事実、米を食べた日は胃が重くなって、少し憂鬱に黙り込むようになるのは、僕だけじゃないようです。やはり、その土地のものを食べるというのが、一番人体にはいいようですね。」
 無理に弁明したのでもなく、しかし、幾らかは弁解をまぬかれない、板挟みに合った感じで、矢代は、ただの客とは違う自分の位置の難しさを一層感じ、やはりこのような息苦しさは生れて初めてのことだと思った。
「そんなことどなたかにもうかがったようでしたわ。西洋人が日本へ来て洋食をいただいてると、だんだん頭が悪くなるんだとか、その方のお話、なかなか面白いこと仰言ってらっしゃいましたですよ。はア、そんなものかしらと、あたし思いましたが、そうでございましょうねえ。それでその西洋人の方、日本食をこちらでいただくようにしたら、御自分がお国にいらっしゃったときのように、また頭がよくお癒りになったとかうかがいましたわ。」
 千鶴子の母にしても、同様今のような難場に立ち合ったことなど幾度もないことは、彼女のそういう話し方の間のろい調子にもよく出ていた。矢代はこれでどちらも自分の欠点を蔽いつつ、しかも、漸次小出しにまたそれを見せ合いながら進むまどろかしい均衡も、必要のある限り守り通し、続け通さねば、この結婚は成立おぼつかないのだと悟った。こちらだけ万事分ったような顔をするのは、折角の苦労も瓦解させる原因にもなりそうで、今は何事も知らぬ初客のように対応しているのが、この特殊な千鶴子の母との苦境を切り抜ける自然の力だと思うのだった。暫くして、千鶴子がアスパラガスやソーセージを持って客間に戻って来た。ビールなども、先ず彼女の母の前ではあまり飲まない努力もすべきだとは矢代に分っていたが、しかし、こんなに気苦労な場所では、無駄な警戒心を取り除いてくれるものこそ何よりの救いだった。
「お母さん、もうお寝みになって下さいよ。」と千鶴子は気を利かせて母に云った。
「じゃ、あたしお先に失礼させていただきまずから、どうぞ、お良ろしかったら、皆さんお泊りになっていらして下さいね。ね、あなた、そうお奨めして。」と千鶴子の母は娘に云って立ち上ると、それからまた、「矢代さん胃がお悪いんだそうですがら、ビールをあまりお奨めしちゃいけませんよ。」と附け加えた。千鶴子は出し抜けな母の注意が飲み込みかねたと見え、
「いいんですのよ、この方。」と一寸笑って云ったが、母が部屋から消えるとすぐ矢代に対い、
「あなた、あんなことお母さんに仰言ったの。胃がお悪いなんて。」と訊ねた。
「胃はやはり良くないからな僕は。ついうっかりしちゃったんですよ。ね、塩野君。今夜はもう失礼しようじゃないか。」と矢代は塩野に云って時計を見た。
「いいよ。これから帰るの遅いから、ここで泊めて貰おう。」と塩野はどういうものか強情に居直った。
「君は今夜はまた、あんまり面白がりすぎていけないね。僕は気が小さいんだからな。」
 矢代がそう云っているとき、廊下の外から千鶴子の母が急にまた、「千鶴子さん、千鶴子さん。」と二度ばかり呼ぶのが聞えた。千鶴子は聞き耳を立てるように表情を締め、「はい。」と云ってすぐ部屋から軽く出ていったが、その後で塩野は矢代の方へ傾きながら声を低め、
「大丈夫だ。お祝いしよう。」と云うと、かなり興奮の強い手もとでコップをかちりと矢代のに合せた。始終椅子ぶかくかけていた佐佐も背を起して来た。そして
「手術の立会いに立たされたみたいで、疲れたよ。」とにこにこして彼もコップを矢代に合せた。
「いつの間にやら僕は、君らに荒療治をされていたんだね。以後注意するよ。」矢代はそう云いつつも、たしかに今夜の塩野の果敢な行動は、サンゼリゼのときの彼の働きとも共通したものだと思い、あまりにも明快すぎる彼の援助には、眼に見えた効果のあったそれだけにまた不安も感じられた。しかし、千鶴子の母が見えなくなってからは、争われず緊張が解け、明日からまた旅をつづけるホテル住いのような気楽さに戻るのが、いつか身にしみついたものにまでなっているのかと、それもこういうときでなくては分らぬ自分を省みて怪しまれた。
「お母さん、何んだか嬉しそうなの。ぜひ皆さんに泊っていただくようにって、そんな命令ですのよ。どうぞ。」千鶴子は戻って来ると三人を等分に見て笑った。
「そう云われると、急に何んだか寂しくなったね、帰るか、え。」と塩野は佐佐を見た。
「僕は今夜はこの絵に会いに来たんだからね、もうこれで満足だよ。」佐佐はにやにやしながら壁の自分の風景画をまた眺めた。
 矢代は千鶴子の母がいろいろの意味で好意を自分に見せてくれたのも、知らぬ間に蔭で侯爵夫人や槙三などの努力に預ったことも多いと思われて、内心に感謝するのだった。しかし、こういう風に万事が自分と千鶴子に好都合になって来ていると分ると、それだけにまた、父の亡くなったことが思い出されて寂しさを感じて来た。
「僕はこのごろ何か重大なことを考えるときには、つい親父の死んだことも一緒に考えるような傾向になってね、どうも生なら生だけ考えるということは、不可能になって来たよ。親父を亡くした新米のせいかね。」
 矢代はこう云いつつも、灯の下で真近に見える千鶴子の組んだ膝のぴっちりくびれた部分が、いつもと違い切なく眼に泛んで放れなかった。彼は自分のこのような視線を欲望といえば欲望だと思ったが、しかし、父の死以来、悲しさが昂じて来ると、それにつれ千鶴子の体を眼に泛べて抑える習慣もついて来ていたのである。それというのも一つは、父の亡骸を抱いたときの死の臭いを思い出すと、ほとんど衝動のように別に思い出す言葉があって、それに抵抗したくなるある作用のためだったが、――すべてのことは、やがて死ぬべきものどもが真実だと思った名目にしかすぎぬ――このギリシア人の名高い言葉は、今の自分のために特に云われたことのようにさえ思われ、その物凄い意味とは反対に、彼に人の肉体への郷愁を感じさせる強いこのごろの原因でもあった。
「それじゃ、失礼しようか。」と佐佐は云って身を椅子から動かせた。すると、塩野も立った。
「あら、お泊りになって下さらないの皆さん。あたしはもう準備しておりますのよ。」と千鶴子は塩野と佐佐の両人に云った。
 今から帰るのは億劫な様子で暫く躊躇のままだったが、それもついに立ってしまった余勢でうやむやに三人は玄関へ押し出て行った。まだ電車があるのかどうかそれも瞭っきりしないながらも、ともかく夜道を駅の方へ歩いた。矢代は交番の前の椎の樹の傍まで来たとき、また幹をちょっと撫でて仰いでから、「何んだって、物というものは手で触ってみなくちゃ駄目だなア。」と呟いた。そして、ギリシア人の「やがて死すべきものどもが――」という言葉をまた幾度も胸中で云ってみているうちに、それとどこが似ているというわけでないに拘らず、幣帛のあの無限に連り、永遠にわたって沈黙している空間の深さを示す姿を思い出して来るのだった。しかし、なおよく考え込みつつ歩いていると、やはり幣帛の方は、そのような不要なことも人には囁きかけず、表と裏とを見せ、たらりと白く垂れ下っているばかりの静けさで、お前の持ちものをすべて生かせ、そして天に捧げよ、と彼の心に云いかけ、肚のあたりでしっとりと留まるのだった。それはまた自分ひとりにとってそうではなく、やがて死すべきものなら一度はそう思ってみてこそ、どこにも間違いのない唯一のものの姿の静けさだった。矢代は、道というものはそういうものから連って伸びつづいているものに思われ、現に自分の歩いているこの歩道も、その心に縛るものの一端だとさえ思われて来るのだった。

 矢代の父の四十九日も過ぎたそのころから桜が咲いた。分骨にした父の骨を九州の郷里の寺と京都の本願寺に納めたいという母の意に随い、矢代は西へ旅立つ日を待った。彼と一緒に母か妹かどちらか一人加わる筈のところも、予後の妹の疲れや千鶴子からの返事のことなども考え、特にその用もないことを矢代は主張してみたが、幸子はやはり行きたがった。
「京都までなら良いだろうが、しかし、九州までとなるとまだ危いよ。」
「じゃ京都まで。」
 と幸子は云った。そして、いつか病院へ見舞に行ったとき、京都の美しさもよく見るようにと奨めた彼の言葉を覚えていて、それを楯にしつこく彼を困らせた。表面派手に見えてよくおどける癖のある幸子は、父の遺品が出て来る度に声を上げて泣いた。また父の夢を見たと云っては泣いた。母からからかわれると、泣かない母を不思議だと云って無遠慮に腹を立てた。
「あたしはもう、悲しさがどうしても取れないわ。月日がたつと、あきらめられると人は云うけれど、あたしはそんなに思えない。毎日毎日だんだん淋しくなるばかりですもの。」とそう云って幸子は悄気るばかりだった。
「お前さんを連れてったら、逢坂山のトンネルを這入った途端、また泣かれるね。」
「それや泣いてよ。」
 矢代は初めは冗談のつもりでそんなに云ったのも、実際自分も、父の手がけたそのトンネルの中に這入れば何ごとか今から感慨が起って来そうだった。また京都の街を見降す位置にある本願寺の納骨堂に父の骨を納めることは、この街に電力を送っている宇治川の水電を成就させた父の心も安ませることだと思ったが、幸子には、その灯も涙の種になるのかもしれないと思ったりした。
 家の周囲には、桜の木が多いというわけではないのに、日ごろ無視されがちだった小木まで陸続と花を咲かせた。それは呼び合うように凄じい勢いで空を占めとり、一年の盛時の絶頂を極めほこる自然の華やかさで、庭の内外、小路の両側、土蔵の隙間に至るまで噴きわたった。いつも春の来るまでは、来ても例年の通りと思う期待で浮くだけの気持ちも、それがいよいよ桜のころに迫ってみると、思いの他ぱッと浮き騒ぐ鮮やかさに、これでは京都の街の騒騒しさも想像の外であろうと、宿をとるのも怪しまれ矢代は花どきを脱したくなった。
 ある日、矢代は社長の叔父の所へ、京都へ行くまでに片附けて置きたい相続のことで相談に出かけた。叔父は母方に当るので矢代の方の家事にはあまり干渉もしないとはいえ、会うと嫁の話を切り出すことが多く、矢代も緊急の用事の他は会わない方針でいたのだが、父の死後は株券や税金の取扱いにはこの叔父の智慧が何より役立った。叔父の貞吉は自分の娘たちの学友や知人の娘の写真などを矢代に見せて、彼の意見を覓《もと》めるのも、一つは矢代の母から頼まれているとも受けとれた。彼にしては叔父が自分の嫁に熱心になる以上に、妹の幸子の縁談に意を向けて貰いたく思うこのごろで、それとなく幸子の病いの全癒を報らせる方に話の傾きがちになるのには、叔父も不興げな様子だった。
「潮どきは脱すものじゃないぞ。嫁の顔は不味くとも、月日がたっといつの間にやら氏育ちが顔形に出てゆくからな。何より家柄の判っているものの方が安全なものだ。」
 叔父は矢代の意中を忖度したつもりで、結婚に気のりを見せぬ彼の胸中に針を打つのも忘れなかった。
 この日も叔父の貞吉は矢代所持の株券の相場や切替の話をすませてから、彼の母と叔父たち共通の実家にあたる、滝川家のことに自然に話が落ちていった。母の実家の方は士族の土地持ちで、株の他に小作人や山林も地方としては相当多い動産不動産の実状だったから、矢代や今の貞吉の家とは異り、受け継いだ財産を維持するだけで地方特有の煩雑な用務が積っていた。そこへ、後継の娘の養子が新時代と自称する青年で、家の実権が自分に移れば、財産を社会のために解放すると妻に云いきかせて驚かせているということも、貞吉と矢代との間の話題になった。
「これで新時代というものは、いつでも有るものだが、自分が新しいつもりでも、いつの間にやら古うなってしまうものだな。僕らでもむかしは新時代だったよ。」
 と貞吉叔父は笑った。頭髪の薄い円顔に小肥りな事業家肌のこの叔父にも、ひとむかし騒がれた鹿鳴館以来の開化文明の欧化思想に浸った形跡もあって、床には諭吉から直接に貰った独立自尊の軸物がよく懸っていた。貞吉などの民権自由の新時代が欧洲大戦の余波を受け大正の資本主義時代の膨脹期にさしかかって来たとき、それにつれて起った社会主義の騒然たる芽も伸び繁り、滝川家の養子らの頭もその声音の高さに嚥まれる時分となった。およそ親戚たちのどの家にもそれぞれに来るべき新時代の余波は何らかの形で及んでいたが、しかし、その底にはむかしから変らぬ自然の流れに似た太い情緒もまたともに流れていた。このような中で矢代は自分の親戚たちを見ていると、不思議とどの家の中の子女たちも、恋愛事件を起して家風の保った独特の静寂な情緒を乱したものは一人もいなかった。皆それぞれ誰も親の定めた嫁を貰い、その教えのままに嫁ぎ、そして何んの間違いもなく子女を育てて老年へと向っている。見わたして強いて異犯あるものと云えば、それは矢代ひとりらしかった。
「おや。」とそういう新鮮なおどろきで、突然矢代は自分と千鶴子との一点の異風に今さら振り返るのだった。実際このさきとも自分は親や親戚たちの誰の努力や奨めにも応じることなく、千鶴子との間をひとえに押し通してゆくことは定っていると矢代は思った。叔父の貞吉が滝川の養子のことを、新時代もいつの間にか古うなると云ったのも実は矢代のその汚点を黒黒と染めている一点に向けて云っても見たものにちがいないと思われた。元来から矢代は、自分に忠実であるという新時代の賞め言葉は嫌いだった。しかし、矢代の親戚のものらが誰も周囲に忠実で来たという美点の中で自分ひとりが自分に忠実に、自分の恋愛を押し貫いてゆこうとすることは、新時代の自己主義者のすることと見られても彼に弁明の言葉はない筈だった。よしたとい、それがむかしから変らぬ恋愛だから無理なしという理由は成り立ったところで、そこに一脈の不快さの残ることは認められた。やはり自分も自分の幸福を追い廻す考えで、ついに外国を渡っていたのかもしれぬ。――こう思うと矢代は、俄にこのときから笑いの去るのもまた覚えるのだった。
「僕はこれでも自分の仕事で、日本の地方という地方は残らず廻ってみたが、お蔭で自分の郷里というものの特質が、この年になってどうやら分って来たな。初めのうちは、姑息で因循なあの保守主義には溜らなかったが、いや、しかし、そういうたものでもないと思うようになったよ。どうもお国自慢になって、君には失礼だけれども、日本でむかしながらの気風を一番長持ちさせているのは、東北でも特に僕らの地方じゃないかと思うんだよ。そりゃ勿論、悪いものも持ってはいるがね。誠実質朴という点では、他のどこの国にも負けない頑固なものがあるよ。その代りに、一度悪事をすれば、後はどんなに良いことを山ほどしても、もう受けつけない。そこは君の郷里の九州地方とは違うんだよ。九州は、あそこは妙なところだ、いくら悪事をなそうとも過去を問わぬ。悪く云えば刹那主義だが、良く云えば濶達明朗というのかね。それだから大西郷なんて人が出たのだよ。僕は建築の仕事をしていてこう思うんだが、どうかね。君は外国へ行って来たから分るだろうが。」
 と貞吉は少し前へ乗り出す風に椅子から動くと、まだ青年の活溌さで、さも楽しげにひとり続けた。
「日本に外国からの良い文明が落ち込んで来て、今のような日本が出来上ったというのは、島国だという所もあろうが、一つは君、日本人の誠実さを知った外国人の豪い人物たちが、何んとかしてこの国のために自分を役立てようと思ったからじゃないかと、僕は思うんだ。悪い人間に誰も自分の知識やいのちを与えてやろうとは思うもんじゃないからね。」
「それは僕もそう思います。」と矢代は云った。そして、そこに気附いた叔父の眼を高く思うより今まで自分を眼中にしなかった叔父の態度が、こんなに変って来たのは珍らしい近ごろのことだと思った。それにしても矢代はまだ前からの不快さから脱せられず、ともすると遠慮に落ちる声も低くなりがちだった。
「僕は母が東北で父が九州ですから、あまり美点を持ちすぎて苦しいですよ。」
 笑いも出来ず矢代は呟くようにそうぼつりと云って、貞吉の前から起つ工夫をした。話の腰を折られて貞吉も笑いながら黙った。隣家の塀の上から桜の白く覗いているのを、二人は期せずしてどちらも眺めているとき、貞吉の次女が紅茶を持って這入って来た。この次女の忍にも縁談が持ち上っているのを矢代は聞いていたが、これで眼に触れる街街に満ちた娘たちのどんなものにも間断なく縁談が湧き上っているのだと思うと、急に平凡な日常のその平静さがただならぬ光景に見えて来るのだった。それは潮どきにさしかかり一人一人が裡に持ち含んでいた蕾の一時に開き初めた今の季節に似ている眺めだった。

 矢代は小石川の貞吉の家から帰るときすぐバスには乗らず桜の下を歩いた。下枝と梢の花間に灯火が射し込み、群がる花明りの長くつづいた夜道だった。枝も動かず額を染めるような明るさの下だったが、矢代の気持ちは沈んだ。先日千鶴子から来た手紙の内容にしても、彼女の母が矢代に会ってからは急に変り、このごろは何かというと彼のことを母から持ち出して話すようになって来たとも書いてあって、今は二人の結婚への予定は順調といっても良いときだのに、それに彼は、その喜びさえ気苦しい色に変えようとしている自分を感じ、いつもの夜とは花の眺めも違って見えた。
 しかし、矢代は、今のような気重さは、そう長くつづくものとは思えなかった。むしろ、ちかぢか機を見て自分の母に千鶴子のことを話し、二人の結婚の許可を得るときに、当然母の承諾を得られるものと一途に思い込んでいる自分の勝手な身構えが、気辛い重さに感じられているのだと思った。もし母が不承知の場合は、必然的に一層母を困らせてゆく予感を与えるのが、父の亡くなった直後であるだけに矢代には辛かった。それも母には千鶴子がカソリックだということだけは、秘め隠していなければならぬ気苦労が今からつき纏って離れなかった。
 実は彼は、母には父の納骨をすませた旅さきから手紙で結婚のことを云い出す考えでいたので、妹を一緒に京都へつれて行くこともひかえ、母の傍に残したくもあったのだが、この夜はそんなに旅さきまで策を用うるのが佗しく仰ぐ花明りも眩ゆかった。もう喜びが過ぎてしまった後のようにもの悲しさが脱けなかった。
 矢代が家に戻ったとき幸子は留守に来ていた書類を持って二階へ来た。
「はい。お手紙。」
 何かその妹の声に常の声よりわざとらしさが響いたので、矢代はすぐ千鶴子からのも中に混っているのを感じ、眼をその方へ向けなかった。
「お元気ないのね。叔父さん何んか仰言って。」幸子は下へ降りようとせず彼の傍へ坐り込んだまま顔を見ていた。
「どこの桜もよく咲いていたね。」と、彼はひと言いってからふと書類へ視線を落としたが、まだやはり手に取り上げようとしなかった。
「叔父さんはあたしも京都へ行くように仰言ったでしょう。」
「いや、そんな話はないよ。」
「嘘だわ。あたし電話で忍さんに、そうお願いしといたんですもの。お話あったにちがいないわ。」
 忍との間で、その点にも少し矢代は触れたと思ったが、それを妹に答えるには、まだ見ない眼前の書類の内容の方が重すぎた。千鶴子の手紙の返事が、自分の京都行きと一緒に千鶴子も由吉と出られそうな模様なら、今は幸子への自分の答えも幾ちか変るかもしれぬ不愉快さを彼は感じた。そればかりではない。彼の答えを待ち構えている幸子の眼もとに早や千鶴子の手紙の中を察した鋭さがあり、兄と自分の間を邪魔しているものへの、露き出した爪も見えた。
「今夜は叔父さんとの間で珍らしく文化論が出てね。あんなことを僕に云う人じゃなかったんだが、――これも桜のせいかな。」と矢代は云って笑った。
 しかし、そういえば、この花どきで誰も幾らかは変調を来たしているのに不思議はないと思った。幸子にしても同様だと思うと、彼はあらためて妹の顔や容子をじろじろ瞶め直し、「お茶、お茶、」と促して妹を下へ降ろそうとした。
「でも、お手紙早く御覧になってよ。あたし気がかりだわ。」幸子はまた書類を彼の方へ押し出すようにして催促した。
「手紙に関係はないだろう。」
「ですから、もし有れば困ると思ってよ。」
 あくまで無遠慮に押し詰めて来る幸子のしっこさに、矢代はいら立たしくなり、「お茶だよ。」とまた強く云ったが、我ながら急におかしくなってつい笑い出すと、
「見たければ手紙を見なさい。まだ僕は見ないじゃないか。」
 とそう云って、初めて彼は書類の封を妹の前で切っていった。
 予感のごとく中に千鶴子からのも混っていた。明日東野氏の家へ行くついでがあるので良ければ矢代にも来て貰いたいという意味であったが、用事はそれだけのことでも、千鶴子の母が前より一層彼にまた会いたいと云って困るとも書いてあって、そんなに急に変って来る婦人というものについても、ただ喜ぶばかりのことではすまされず、多少は眉の顰む不安も覚えた。
 幸子は矢代の穏やかでない様子を感じたものと見えて、後は何も云わずお茶を持って上って来るとすぐ下へ降りて近づいて来なかった。
 その夜彼は遅くまでひとり起きていた。千鶴子に手紙を書きかけてみたがそれも気乗りせず中途でやめ、写真帳の中から研究用に蒐集してある写真と地図とを覗いた。それらの写真は、かねて社長の貞吉から調査の命を受けていたものでもあり、かつまた、矢代自身の勉強にも欠くべからざる重要な種類の、わが国の上古のもっとも純粋健全な古建築を、漸次に装飾してゆく仏教様式の変化を示した神社の写真で、地図はそれらの山奥の存在地を示したものばかりだった。写真に顕れた神社の姿に、ほんの些細な様式が伺われるだけでも、そこには必ず襲って来ていた新時代がそれぞれにあった。そして、それに伴う闘争に継ぐ闘争の果の現実が、争われず今の自分の中にも確実に影響を与えているものであった。
 矢代はそれらの写真を見ているうちに、今の自分の生活に暗示となる精神を自然に拾い上げてゆくのだった。そして、写真の含む問題とは別して、新しい自分の時代の悩みとは何んであろうかと考えると、それは千鶴子のカソリックを法華の母に告げ報らせることを秘め隠そうとしていることだと思った。いずれは露れ出ることであるからは、最初に云っても良いとも思われたが、神仏混淆の権現造の建築に、さらにカソリックの尖塔を加える困難は、ただ建築様式として見た場合に於てさえ未曾有の苦心を要することであった。おそらく幾度となく兵火に焼き払われることだとしても、事実この世の日本に来ているものである以上は、工夫に工夫を重ねてこれをも日本化せしめて行く日のあることも、いつかは来るにちがいないのである。
 カソリックの建築のことは、直接彼の仕事に用はなかったが、矢代の勤めている貞吉の建築会社一つの整理部でも、建築の日本化問題は絶えず悩みの種で、また情熱の自然に対うもっともな意義ある研究点であった。飛鳥朝における支那朝鮮の建築そのままの直写時代から、奈良、平安前期に至るその消化時代をへて、宇治の平等院に示された平安後期の日本化の完成という順序は、これを短い時代の例としても、明治の初期から吹き流れて来た欧化主義の直写時代、大正の消化時代をへて、現在の日本化時代という、矢代らの呼吸している一期間に於てもそれは繰り返し行われて来た歴史である。またそれはただ単に建築の様相にとどまらず、精神の世界に於ても変りなかった。飛鳥朝から昭和の現代まで、およそどの短い時代の一断面を切り採って覗いてみても、そのうちのどれかに属した努力が払われ、それに苦しみ、産み繋いで来ているという経過の底にはまた、自然にそれをそのように導く別の力がなければならなかった。
「それだ、自分の知りたいと思うものは。」と矢代は思った。しかし、昨日今日の一日の彼の思いは、父の骨を中心にして、母、妹、叔父たちの巡り重なる中で、千鶴子を家へ引き入れる準備に費された心労だった。この千鶴子からは幾度となく逃げようと試みたり、放れる覚悟もしたりして来た筈だのに、ますます深まってゆくばかりの、意志も智慧も行いもすべて無力化させるもののあるのはこれは何んだろう。それにも拘らず一種異様な緊密した力が張りつつ、彼の心を捉えてどこかへ押し進めて行くもののあるのも、また認めねばならなかった。

 夜中に雨が降ったと見えて水溜りに桜の弁が浮いていた。矢代は洩れ陽を透かし楓の薄紅い爪を見上げた。柿の芽も縒りをほごした膨らみ柔く、彼は朝の食慾を急に覚えたが、父の死の前後まで朝夕来ていた鶯が姿を見せなくなったこのごろの朝は、庭の木の葉脈まで父の血管に似て見えた。庭をひと廻りしているうちに、ふと父の植えた白い牡丹が葩を散らせているのを見ると、突然の痛さに彼は眼を早めて、繁みを潜っていった。裏木戸を開けて、竹林の間の冷えた路を通る間も、牡丹の崩れた葩の白さがなお追いかけて来て放れなかった。陽の光りの鋭く竹の節に射しこもった縞が、泳ぐように波の変化を示していく中で、彼は煙草に火を点け、朽葉を冠った筍の高まりを探しつつ歩いた。
 矢代が竹林をぬけて広い道路へ出たとき、六十あまりの一徹そうな老人が、焚火をしている十七八の娘に道を訪ねていた。それに娘が何か答えると、老人は鰐足のままあたりを見廻した。そして、ひどく驚愕した頓狂な大声で、
「へえ、ここがそうかね、これがね。」
 と云って竹の杖でとんと地を打った。
「わしのここへ来たのは三十年前だったが、何んと変ったことだ。あんたら、そのときまだ生れてなかったぞ。」
 老人は今度は娘の顔を覗いて放そうとしなかった。そのときお前はどこにいたと問い質す風な鋭い老人の視線に、答えようもなく娘はただ、羞しそうに顔を赧らめているだけだった。これで三十年の星霜の変化を真面目に表情に顕せば、こうしてこちらのぼんやり見ている景色にも、あの老人の、只ごとではすまされぬ狂人めいた、昂ぶる様にもなるのだろうと矢代は思った。実際、三十年の年月の経過の後に、自分も再び外国へ行くようなことでもあれば、定めし思いの外の変化に眼をみ張ることと想像された。そして、そのころはもう自分に子供も生れているだろうと思うと、その子に対い、いまお前はどこにいる、と老人のように問い詰めたくもなって、午後から会う筈の千鶴子との会合も意味ふかく、おろそかには出来ぬ日常の二人の行いだと思われて来るのだった。
 午後から約束の時間に矢代は東野の宅へ出かけた。千鶴子の手紙では別別に行く客の先方に与える迷惑を考え、その近くにある松濤の公園で待ち合せてからにしたいとの事だったので、白い標示札を見つけて彼は中に這入った。公園は大名屋敷の名残りの小さな庭で、擂鉢型に傾きよった樹の底に、細長い人工を加えぬ沼があり、その周囲に雑草の乱れた小径が見えて、市中の公園には稀な都びた趣きの、人を待つにふさわしい目立たぬ場所だった。
 矢代は沼べりの木の長椅子に腰を降ろした。人が誰も見えず頭の上から芽を噴いた楓の枝が垂れていた。沼の水面いっぱいに密集した睡蓮の葉が浮いていて、中央に蘆の葉に埋った島が二つ見えている。矢代はその沼を見ているうち、どこかで見覚えのある親しみを感じ、ふと忘れていたパリのモネー館の楕円形の壁画を思い出した。それは周囲の壁面の全部に、沼に浮んだ睡蓮の画ばかり巻き連った部屋だったが、そのときは、日本のどこかで見た風景だと思っていたのに、それが反対に、パリのどこかで見たことのある景色だと思っている自分だった。あのときは千鶴子と二人で、食事も出来ぬ空腹をかかえ、苛立たしく睡蓮の部屋へ飛び込んだのだったが――
「ははア、あの部屋そっくりの実物がこんな所にあるなんて――」
 矢代はまったくおかしくなってこう呟いた。それも、そのときの千鶴子がすぐまたここへも来るのだと思うと、日本を好きで夢にも見たと云われているモネーの代表作の著想も、あるいは、今こうして見ているこの沼だと思っても、別に自分にとって不都合なことではないと、真面目に彼は考え込むのだった。実際もしモネーが云われるごとく、日本の睡蓮をいつも夢見たとするなら、今は亡いモネーの夢を身に灼きつけ、彼に代ってここまで秘かに運んで来たのかもしれぬ、とも思えたりした。
 間もなく千鶴子は裏門からいつもと違い和服姿で降りて来た。紫色のぱっちりした矢絣の膝のよく伸びた姿勢で、柘植の木の横から段を降りるのが沼の水面に映っていた。莟のまだ固い紫陽花の叢に指さきを触れ、小径を廻ってからよって来ると木椅子へ並んで腰かけた。
「このごろ外出はらくになりましたの。」千鶴子は額を一寸揉み彼を横眼で眺めた。いつの問にかひどく老成した風な、ゆったりとした微笑に矢代は気附き、千鶴子も長らくの気疲れがようやくほぐれて来たものと察せられた。彼は和服のよく似合うのを賞め、少し遅れて手紙の礼を述べてから、
「本当ですかね、お母さんのことなどあんなに都合よくいきましたか。」と訊ねてみた。
「あたしのお母さん、そういうところのある人なの。あなたにもお気の毒じゃないかしらと思うほどなの。それにおかしいんですのよ、あなたの胃の悪いことばかし気にして、じっと考え込んだりしているかと思うと、その次にはまた、矢代さん矢代さんって、云うんですもの。あたし、ひとりでいるときお腹の皮がよじれそうなことがありましてよ。でも、良かったわ。」
 千鶴子は終りだけそう小さく云って、沼の水面に眼を落とした。浮き上った小魚の空気を吸う口もとを中心に波紋が拡がり、それが絶えず続いて雨の降り込むような音を立てていた。
「しかし、そんなに信用されては、また困るなア。あなたも今からそう云っといて下さいよ。僕は事実、あなたの手柄になるような人物じゃないのだからな。」
「先日も面白かったわ。お母さんがあんまりあなたのことを云うものだから、由吉兄さんあの調子で、あなたのことを、どうもちと真面目すぎて、気苦労だねと云ったの。そしたらお母さん怒って、それはあなたが不真面目だからですよって、云い返すんですのよ。」
「いや、そこが僕の不幸なところでね、いつも僕は、人から買いかぶられるんですよ。こ奴だけはどう仕様もない悲劇なんだが、――」
 もう二人の結婚は定ったのも同様だと思う安心で、矢代はそういう軽い歎息を洩らした。喜びいさんでいるにも拘らず、ぐったり木椅子に倚りかかるのは、自分も著くべき所へ達した疲れのためかと、彼は対岸の芝生に生えた赤松の肌を眺めて思った。ひと叢の羊歯が沼に対ってたれ下っている水際に桜の弁が溜っていて、右方の繁みの隙から、裾に風を孕んだ鞦韆の高く跳ね上って来る脚が白く見えた。
「式の日はあなたの方で決めて下さる。」
 千鶴子は黙っている矢代に少し不服そうな和ぎで訊ねた。ここまで追いつまって来ていながらも、まだ一度も二人の結婚のことについて口に出したことのなかった自分が何ぜだか分らず、それも一足跳びに跳んで式の日を訊かれた今だったが、彼は、その千鶴子の突然のことさえ別に異様なことだとは思えなかった。
「いつがいいかな。」彼は呟くようにそう一言云っただけでまた沼を見るのだった。
「お宅の方の御不幸のことも考えなければいけないし、あたしには分らないわ。」
「それもあります。」
「じゃ、やっぱり秋ね。」
 矢代もそのころになるかと思われたので同意した。そして、その他に何か云わねばならぬ重要事項がひしめいているように思われるのに、一応隈なく探して見て後も、何もなく、その他はぼんやりとただ他人に任せて置くべきことばかりのように思われ、彼は沼の周囲の垂んだ鉄柵の鎖を眼で追いつつ、なお云うべきことを考えてみた。暫く二人の黙っている前で、鯉がぐるりと尾で泥を濁しあげては廻游して行く水面に、閑かに春の日が射していた。
「母もあなたのことはもう気附いている風なんだが、それも僕からあらためて云ってみて、それから東野さんに仲人を頼みたいと、こう考えてるんですがね。どうですか、ゆっくりしてるようだが、しかし考えてみると、まだあなたとお会いしてから一年よりたっていないんですからね。一年じゃ少し早すぎるとも云えるですよ。」
「でも、ゆっくりなさる理由は、お父さんの御不幸だけでしょう。」
 千鶴子は、矢代の浮き浮きとしない様子に物足りなさを覚えた視線で訊ねた。彼はそうだと答えた。そして、いま少し自分も浮き立つべきだと思ったが、蘆の嫩芽の微風にそよいでいる物静かな沼の光りに、我ながら憎くなるほど落ちつきが出てしまい、却って、千鶴子に対し気の毒な遠慮のある思いさえされて来るのだった。
「京都へはいつお発ちになって。」
「ちかぢか行くつもりです。」
「なるたけ早くお帰りになって下さいね。あたしもお邪魔でなければ、御一緒したいんだけど――お母さんきっといいって云うと思うの。でも、お宅の方の御都合もあるでしょうから、御遠慮さしていただいてもいいんですのよ。」
 千鶴子は足袋の筋目にパラソルの先をあてがい、前に蹲み込む姿勢で横の矢代の表情を窺うように云った。父の亡くなる前から一度京都へはともに行くのも、たしかに二人に勉強になることだという意味で、千鶴子たちに矢代は話したこともあったこととて、いま彼女からそう云われて返事に窮する筋合もなかったが、とにかく、この度びのは父の骨を携えての旅行であった。そのような常の約束とは性質の違う旅の日には、遊山のように浮き立って誘う気分にもなれず、無理にも随いたい意の彼女から出るまで、この返事は待つことにしたいとも考えられた。
「昨夜も実はそのことで、妹にぜひ連れて行けと駄駄をこねられましてね、京都までならともかく、九州の方へも行くとなると、僕も承諾しかねてるのです。」
「でも、お妹さんお伴したいと仰言るの、御無理もないわ。お連れして上げなさいよ。」
 千鶴子は矢代と幸子との間にあった昨夜の不明瞭な喰い違いの様子も敏感に察したらしく、場所には似合しからぬ唐突な笑顔だった。矢代は京都行きの決定についてはそのまま曖昧な気持ちを残し、それ以上はどちらへとも押し切ることを出来ぬこのような難渋も、以後家庭生活に這入れば山積して来るであろう重圧感を覚えたまま、さきから眺めつつつい忘れていた、千鶴子の清潔な白足袋の下の水面へ絶えずぶくぶく噴きのぼっているメタン瓦斯の泡沫を看守り、どのようなことも日の光りのもとで切り開かれぬことはあるまいと、彼の覚悟も自ら定って来るのだった。矢代は古沼の底に漸く足の届いた思いにもなり、「さア、行きますか。」と云って木椅子から立ち上った。そして、千鶴子にこの沼の睡蓮を見て何か思い起すことはないかと訊ねると、
「あッ、そうそう、あたしさきからあなたに云おうと思っていたところなの、ほら、ね、チュイレリイの――」
 と千鶴子は急に眼を耀かせて矢代を見た。
「モネー館。」
「そうそう、モネー館、あのときは蛙みたいに、まん中のベンチに坐って、二人でお腹を空かせていたの思い出すわ。ほんとにこんな所だったわ。」
 過ぎ去ったことでも思い起せば現実になる、という哲学の見本めいて、口にして二人で云うと、忽ちそれは真実の重みをもって顕れ、二人でその思い出を支えるように沼に密集した睡蓮の周囲を廻っていくのだった。矢代は、モネーの日本好きは狂人のようでいつも自邸を日本趣味で溢れさせていた話や、彼が見たくてやみがたかった日本の夢の中で静に死んだその生涯の代表的傑作が、自分らの見た睡蓮の沼だったことなどを話してみた。
「でも、あなたはあのとき、そんなこと仰言らなかったじゃありませんか。これは地獄の絵だなんて、そう仰言ったわ。」と千鶴子は多少からかい気味に笑った。
「あのときはコーヒー一杯も飲ましてくれないものだから、つい腹立ちまぎれに失礼なことを云ったのさ。しかし、これでモネーの天国だと信じたものが、あの睡蓮の絵にこもっていたのなら、たしかにあの日の地獄よりもこの古沼の方が天国かもしれないからな。」
 矢代はそう云いながらも赤松を渡る風の音を聞き、擂鉢形の底から空の明るい方を見上げると桜の葩がこぼれて来た。沼の小径から芝生の小高い上へ登り、そこでまた去りがたくなった二人は、どちらからともなく腰を降ろして睡蓮を眺めるのだった。
「ときどきこれからここへ来ましょうね。あたし気に入ったわ。こんなに静で、それに誰もいないんですもの。」
 手をついてそう云う千鶴子の指の間から芝生の新芽が伸び出ていて、手頸の初毛の上を匐って来る蟻の黒い蹌踉めきが、新婚に入ろうとしているものの生彩ある放心を感じさせた。矢代は刻刻に充実していく自分の喜びの常でないものを覚えたが、ふとそれがどういう訳ともなく哀感に変っていく細い流れの伴うのも感じ、蟻から下の睡蓮の方に眼を転じた。水すましの描いている波紋が沼に降り込む雨に似ていた。

 東野の家は公園から間もない高台にあった。壊れた門から玄関まで相当遠い前庭に雑草が茂っていて、その草の中に花飾の下った台石の高い柱廊が見えた。一瞥した家の様子は、東野の酔狂めいた風格のある部分をよく顕したものだった。千鶴子の話では、東野の夫人は歌人だが関西の財閥の出で、病身のためいつも夫人附きの須磨の別宅に寝んだきり東京へは殆ど出て来ないとのことで、三人の子供たちも二人は須磨、長男だけが乳母に育てられ父と共にいるということも、矢代は初めて聞かされた。また千鶴子がそんな東野の身の上を知ったのも、真紀子に話されたということを考えると、矢代は、帰ってからの東野や真紀子の二人の交際も、自分の想像外のところまで深まっていることとも推測された。東野は作家としては退潮期に入り華華しい活躍を停止していたとはいえ、ときどき人の意表に出る大胆な作風で、想像力を重んじるものたちからは愛敬され、科学主義の作家たちからは疎んぜられる傾向があって、漸次に今は和紙会社の副業の方に熱心になり始めているのも、一つは東野の癖の多い趣味性によるのかもしれず、また彼の外遊の目的も文学上のことより、寧ろ和紙の販路の拡張のためもあったかと解された。
 家の中は、呼鈴を押してみても暫らく静まり返っていて答えがなかった。千鶴子は裏庭へ廻ったり、雑草の中でひとり花を咲かせた美しい杏の樹を仰いだりしているとき、玄関が中から開いて東野の大きな顔だけ外を覗いた。
「どうもあなたらしいお宅ですね。すぐ分りますよ。」矢代は挨拶などこの東野にはする気にならず、始めから寛いだ気分で云った。
「荒涼としたもんだろう。僕も帰ってみて我ながら驚いたのさ。」
 そう云う東野の後から、二人は人気のない廊下を渡り、樹の多い母屋の方の中庭を越して離れになった中二階の居間へ通された。ここはまた広い庭に丈の高い芒ばかりが生い茂っているだけで、野末を見渡すような芝生の一隅にその離れの座敷が浮いていた。
「これでこの部屋は雨が降るといいんだよ。」と東野は案外気に入っているらしく、部屋の障子を開け放した。
 密閉されたガラスの棚には、大きな数十の古硯や古墨その他、古い文房具の犇めくように並んでいる中に混り、八大山人の対幅と、オートイユの競馬の版画が懸けてあって、扁額には「眉子山房」と鳴鶴風の意外に生真面目な字が読まれた。千鶴子は先ず硯の蒐集におどろいて棚に近よった。すると東野は自分の財産の主要なものは硯だけだと云って笑い、鳩首の彫刻のある蒼黒い硯を出して指先で撫でながら、これが眉子《びし》だと訓えた。そして、日本へ帰った以上は東洋文明を知るために、紙、筆墨、硯に対して一度思いを深めるべきでここにもつとも精緻な文化の華が潜んでいるとも語った。棚の上に直接見える古硯類には和硯が多かったが、品種は全国にわたっているのも東野の綜合的な性格がよく窺われるものだった。近江の虎斑、甲州の雨端、長崎の若田、福井の紅渓、駿河の馬蹄と、東野の短い説明の仕方も要領の良い飛躍で、目ぼしい品の前に来ると自分も見直すという風にひとり感嘆の声を上げ、
「どうです。君も少し勉強してお習字でもやり直してみませんか。」と彼は千鶴子に笑って云った。
「じゃ、真紀子さんもおやりになってらっしゃるの。」と千鶴子は訊ねた。
「早坂は僕の弟子になったんだからなア、あれには無理にもやらせるつもりだ。しかし、俳句は相当上って来たね。まだひどく性格が大正流に崩れておるのでね。それをこの硯で直してやるのですよ。」
 褐色の袖無しを着込んで机の前に坐った東野の眼が、底光りしながら開いた額の下で涼しい微笑を帯んでいた。矢代は眉子を棚から下して掌に乗せ、硯面の蚕に似た斑紋を透かして見て、東野の俳号も眉子というのかと訊ねた。
「まア、いつの間にかそんな風になったのだなア。僕は家内が勝子というものだから、初期の間は、例の見て来て勝つで、ラテン語でビシと洒落てみたのさ。ところが、だんだん硯の方が好きになってね。このごろじゃ、眉子は中国の硯だから、ひとつ日本名に改名して何んとか庵とでもしたいと思ってるところだよ。名は他人につけて貰うのが一番いいんだから、一つ考えといてくれ給え。」転調していく東野の冗談の中にも、彼の歴史の悲調な笑いが短く籠っていて矢代は面白く思った。
「でも、それじゃ奥さんにお気の毒だわ。」と千鶴子は一寸扁額を見上げて云った。
「ところが、家内はまた僕より墨の方が好きらしいのですね。相当に良墨を持っておるですよ。何んとかして盗んでやろうと隙を窺ってるんだが、こ奴だけはなかなか頑固に放さない。何しろ墨は硯と違って、触れると忽ちそれだけ減るでしょう。一度僕はこっそり家内秘蔵の明墨を、この眉子で擦ってみたが、いや、その手触りの良さといったら、ぴりぴりッと髄に電感が来たね。それで僕は下手な句を一句書いてみたが――」
「何んという句です。」と矢代は訊ねた。
「菜の花の茎めでたかれ実朝忌、というのだったかな。僕にしてはその句は、細みのよく出た句ですよ。俳句というのは、硯と墨とがぴたりと吸いつき合った触感の、あの柔い微妙な細みから、自然に滴り落ちた一滴の雫でなくては駄目なんだよ。ぽたりッという音がして、墨の匂いがぷんとしてね。」
 東野はそう云ったかと思うと、急にそのとき表情が変り、どうしたことかまったく不意に、
「君たち結婚式はいつですか。」と矢代に訊ねた。
 その質問があまりに突拍子で連絡がなかったため矢代もつい笑い出したまま答えなかった。
「しかし、君たち早かれ遅かれ結婚するんでしょう。そのとき僕はお祝いに、この眉子で詩を贈ろうかと思ってね。水は五十鈴川の取りよせたのがあるからそれで書く、墨は家内の例の明墨を選ぶ。」
 それは何より有り難いと思ったが、その途端に東野の今までの硯と墨との説明は、つまり二人の恋愛を意味していたのかと、矢代は初めて悟るのだった。一見こういう風な無意味なことも、いつか意味を持ち出して来ている東野の言動は、日常坐臥の生活そのものが芸と見え、それにはパリ以来久慈や矢代の絶えず悩まされたものだった。しかし、二人は彼に落されてみてから、結局その方が早道だったと気附いたことも再度ならずあった。今もやはりそうだった。
「実はそれでお願いがあるのですよ。」矢代は身動きしてなお前からの笑いをつづけた。すると、東野は矢代のその後の言葉を察したものか「ふむ」と云ったまま、どこか鳥のような両耳の部分で見ている風に、千鶴子と彼との中間の一点を見詰めていた。
「いずれ、もう一度あらためて伺いますが、どうもあなたから云われたんじゃ、少し芸がなさすぎるなア。」と矢代は傍の千鶴子を顧みて笑った。
「それはお芽出とう。しかし、僕の家内は寝ているから出られないよ。代りに早坂に出て貰うが、いいなら、おつとめ励むよ。」
 即座に応じてくれた東野に、「結構です、どうぞ。」と矢代は頭を下げたが、いつもこういう場合に自分の出遅れる性癖を見せつけられた思いも強く、暫くは自己嫌悪を覚えあたりがぼっと暗く狭ばまって来るようだった。その間にも東野は仲人のそんな勝手な申し分は、本人は良かろうとも、両家の両親の意志をも尊重すべきが至当と思うから、なおよくこの事は相談の結果を待とうと、親切な保留さえしてくれたりした。そして、最後にまたこうも云って笑った。
「とにかく、諸君は人に気骨を折らせるお二人だよ。それは定評だからね。諸君は知らないだろうが、君たちの立った後というものは、皆がよると触ると君らの噂やら、臆測やらで、議論百出するよ。ひどいのになると、日本へ帰ったら僕に、君らの結婚をぶち壊せ、その必要を認めないというのがいたね。意味が分るか君。」
「どうしてです。」と矢代は訊ねた。
「誰にもやれないことをやったからさ。君らが外国で結婚もせずに、そのまま西と東に別れて帰ったのを、久慈は面白い皮肉を云っていたよ。あの二人の馬鹿は、今ごろ地球を二人で締めつけているようなものだが、お蔭で俺まで苦しいと云ったね。」
「あの概念、何に知って。」と矢代も思わず云って苦笑を洩した。
「しかし、まア、誰でもやれることをやって苦しむよりも、やれないことをやって苦しむ方が、意義があるさ。」
 東野の低く沈んだ声に変ってそういうのを、このときは矢代も、自分のこととしてより東野自身のことを呟いたように受け取れた。そして、東野が立って部屋の外へ出ていっても、その後に残った彼の呟きの意味だけが尾を曳いて残り、そこに真紀子の姿の潜むのも感じられてからは、千鶴子とすぐには語れぬものもあって、この山房の午後の空気も暫時霽れ間を見せて来なかった。
 矢代は棚から活眼のある古硯を降ろして眺めた。端正な重みの石の冷たさが掌へ滲み停って来る底に、まだ落ちつかず紊れるものの陰影を感じ、彼はそれも背後にいる千鶴子の体への騒ぎだと気附くと、微塵のように光る硯面に点けた指紋の曇りの晴れて来るのを待ち眺めるのだった。そうして暫らく彼は動かずじっとしているうち、硯の放つ光沢の中からパリのオーグスト・コント通りの街区が泛んで来た。あの通り全体ちょうどこんなだったと思うと、千鶴子とパリで別れた最後の夜、雨の降る中をそこまで来て、ベンチへ倒れ込むように腰かけたときのことが思い出され、それも今はこうしてそのときの苦しげな姿を手にとり眺めている自分だと思った。硯から手を放し、彼は後にいる千鶴子を見た。手摺によせかけた体を曲げ、庭の芒を眺めている千鶴子のなまめかしい矢絣の紫が、今日は重い帯をつけ打てば鳴り出しそうに休んでいる。
「眉子山房も真紀子さんの弟子だと容易じゃないなア。」と矢代は云った。
「今日いらっしゃるかもしれないわ。今お電話のようでしたから。」
「しかし、それはいいとしても、あの二人の前で久慈のことを話していいかどうか、そこが難かしい。」
「でも、そんなこと――さきほどだって、東野さんから久慈さんのこと仰言ったんですもの、いいと思うわ。」と千鶴子は矢代を見上げた。
「それにしてもさ、真紀子さんの方は、そうでもなかろうからね。」
 もうなんの係りもないとはいえ、矢代はこう云うときでも、まだ千鶴子を知らぬ以前の、久慈と千鶴子の交渉の睦じさが眼から取り去ることが出来なかった。それも千鶴子の場合はともかくとして、真紀子と久慈との場合は結婚同様の二人の生活だった。今久慈を除いた後の四人が他人を混えず会うということは、矢代のみならず、それぞれにとっても未経験のことであった。各自の紊れ散る思いの面に浮ぶことは、移り変る旅の日の山川草木の姿といっても、揉み刺して来るものは人の姿にちがいなかった。しかし、振り返って見ても、よく千鶴子と自分はここまで来たものだと彼は思った。そして、久慈が二人のことを、「あの二人の馬鹿が、西と東に別れ地球を締めつけているようなものだ」といった戯れも、そう云われてみれば、二人の情念の伸び巻いて断ち切りがたかった当時の烈しい様も思い出され、二疋の蛇のような異様な姿として描かれて来るのだった。それも今はここで草叢を覗く二人であろうとは――そう思うと矢代は、自分の尾のどこかにまだ抜かぬ一本の剣が潜んでいるのも感じて来るのだった。しかしその剣はいつか一度は必ず噴き放って、焔の中を貫きぬけることもあるだろう。もしそれが宝剣だったら、天上へ届く鉄塔とならぬものとも限らない。――矢代は自分のこのような念願や空想は、世の中の男の誰もが不断に願ってやまぬ思想だったと思った。もしそれがなければ、身を灼く男の情念とは、何ものでもない腐肉の如きものだと思われるのであった。
「おろちだ俺は。」
 彼はそう思いながら草叢から眼を空に上げた。東野が抹茶を持って出て来たとき、高樹町の実家に帰っている真紀子が間もなく来ることを云って、今夜はみな揃って夕飯を共にしたいから時間があるかと訊ねた。
 矢代は礼を述べてから、さきに話に出た五十鈴川のお水を見せて貰いたいと頼んでみた。
「五十鈴川のは水質が最上だね。愛硯家はあの川裾の方の大寒中の水を汲んで硯にするのが例だが、僕のは菌のわかないようにカンフル注射をしてあるのだ。そうすると墨色もなかなか良い。」
 と云って、東野は棚から袱紗に包んだ古万古の壺を出した。矢代は抹茶を飲み終ってから卵形の壺を捧げるようにし、そして少し揺ってみると、たぶたぶとした水量の重みに脇下に爽やかな胴慄いを感じて頭を下げた。
「これもどうやら地球に見えて来た。」とひとり喜んで云っては、彼はまた子供のように水音を聞くのだった。
 なお東野は、硯水の質より墨色や発墨の美しさに相違の生じることを述べて、旅先きで蒐集して来た水の種類も、内地は勿論、外国のも歩いた先のを所持していることを話した。矢代はむかし幕府の将軍夫人が硯水を京都から取りよせる話を読んで、贅沢のたしなみ過ぎたるものと思っていたのも、事実いま東野の話で、日常の苦心の細やかさもそこまで深く分け入るものかと感服をあらたにした。
「それじゃ、筆と紙とならたいへんですのね。」千鶴子も同様に感動したらしかった。
「それはもう、これを云い出せばきりがない。筆だけでも幾千種あるか数知れないからな。僕は自分の好きなものを作らせるのだ。」と東野は云ってもう黙った。
 千鶴子は茶の稽古はあると見えて、袱紗捌きも目立たず終え、古万古の壺に頭を下げると揺ってみながら、
「早くこれで詩をいただきたいわ。」と小声で机の上へそっと静に壺を返した。
 東野は千鶴子のその様子を暫らく見ていてかすかに頷き、「それで良ろし」とどういうものかそう云うと、立って今度は金の星の模様の散っているガラス製の角壜を戸棚の奥から出して来た。そしてまた、
「これはヨルダン河の水ですがね、あそこへ行った知人が頒けてくれたものです。あなたはカソリックだと聞いていたからお見せしますよ。」
 と云って千鶴子の前に置いた。それは通常の透明な淡水とどこも違わぬ水だったが、彼にはキリストの体を拭き浄めた水に見え、思わずどきりとして胸騒ぎが昂まった。横に顕れた千鶴子の膝頸のかすかに揺れるのを一寸見ると、一種無気味な感動の捨て場のない落ちつきなさで、「ふうむ。」と彼はひと言洩らしたままだった。方解石の稜面を横ぎる光線のように水は角壜の半ごろの部分で空隙を支え、薄日のもとに静まり返っていた。千鶴子は壜を手に取ろうともせず、襟を締め直した顔いろも幾らか蒼くなり、背を後ろに丸く縮める風にしてなお水を瞶めつづけた。東野は二人の間に対峙し合う秘かなものには気附かぬらしい無造作な様子で、すぐ次に奥から半折を持って出て来ると、またそれを拡げて二人に見せた。中に書かれた文字は五字でどこの国の字か矢代には分らなかったが、東野のその無造作な動きに、ようやく彼の塊ったままの気持ちもほッとした。
「これはイスラエル語で、インマヌエルと読むのだがね、意は、神なんじと伴にありというのだよ。聖書を訳した人がこの水で書いて僕にくれたんだ。ちょっと西蔵《チベット》の字に似ていて面白いね。落款の印はこれはヨルダン河の石をそのとき欠いて彫ったものだ。裏に書いてある。」
 東野の云うままに裏の添書を見ると、西暦千九百二十年初秋、五十六歳の時ヨルダン河より自分汲み来れる水を用い、千九百三十一年、仲秋揮毫す。右肩印はエジプトのルクソルにて、左裾の印はシリヤのベエルウトにて、彫らしめしものなり、とあった。この事実を証明して見せてくれたことはなお具合が悪くまだかと矢代は思った。そして拷問攻めの道具のようにこんなに数数並べ立てる東野を見て、この人はも早千鶴子と自分の悩みある部分を見透していて、仲人をする以上二人の間の蟠りを、今の間に切開して置きたい暗黙の意志からだろうと、むしろ疑いさえ強く起って来るのだった。実際そう云えば、千鶴子が古万古の壺に礼をして捧げ持った後で、「それで良ろし」と低く頷いたのも、仲人として見るべきところを見届けた後に、役目を自覚したかった責任感からでもあろう。たしかに、二人の間で起るべき当然の悲劇は、蔽い隠そうともいつかは顕れることだった。その千鶴子と自分に、今のうち見るべきその心を正視する恐怖に耐え得せしめようと企てた東野の心底は、これを避けずしっかと感じるべきだと、矢代も肚を据え直した。それにしても、彼は東野の素知らぬ顔のまま不意にこちらを落すいつもの癖に、脅やかされたそれだけ反動もまた鎮りかねるのだった。それも矢代には分っていることだとしても、まだ内心胸を突かれておどおどしているに相違ない千鶴子が、少し彼には気の毒になって来た。しかし何はともあれこんな日に、偶然二人を攻める道具の揃った東野の宅へ来合せたということは、二人にとって幸運か不運かまだ彼には分らず、何かとしきりに云いたくなるのだった。「あなたもクリスチャンですか。」と矢代は、もう切開された傷口から古ガーゼを抜き出したくなって、こちらから訊ねた。
「いや」と東野は暫く黙っていたが、「これをくれた人の子供さんを一寸お世話したことがあってね、そのお礼だよこれは。」
「しかし、こういう、まアいわば結構な言葉を貰われてどうですかね、そのときの気持ちは。」と矢代は、千鶴子の悩みの整理も兼ねた逆襲の態勢も次第に加わって来るのだった。
「僕は別にどうとも思わなかったね。しかし、これを欲しいとこちらから望んだわけでもないときだったから、いよいよ僕にも来たかと観念したよ。そうだろう君。誰にだって一度は来るからな。そりゃ、ただ事ではないさ。しかし、来たものは何んとも仕様がない。これは意志でもなし精神でもない。霊魂だからね。有り難く僕はお受けしたさ。」
 東野の平然としてそういう胸の裏のどこかに、まだ矢代の手の届かぬものを彼は感じた。
「有り難くね。」
「うむ、――」と東野は頷いたまま黙って矢代を見ていてから、「だって君、これは日本人がそれだけ苦労したことだよ。その他のことじゃないよ。それだからこそ、われわれの神様だってそれをお認めになって、よしよしと優しく仰言って下すったというもんだろう。僕には、そういう他国の宗教精神というものは、それ以外に感じようがないのだよ。それ以外の感じようというものは、いくら上手く云えたところで、僕には嘘に見えるのだ。見えれば仕様があるまい。」
「じゃ、神なんじと伴にありと、いうのも、やはりその神さん、僕らの国の神さまだという意味にも、あなたにはなるんですね。」矢代はそう問いつつも顔の赧らんで来るのを覚えたが、そこが東野の芸の壊れどころだと思い彼の眼の中を瞶めていた。
「それはそうだよ。」と東野はここだけ妙に静かに答えた。そして、なお穏やかに角壜の中の水を見た。「しかし、そういうことを云うと、みな人は気に入らないんだよ。主観的だというのさ。しかし、客観的にどうなって見たところで、結局は同一性という主観的なものからは脱けられないよ。天上天下唯我独尊に落ちつくこと、そこが人間知識の相場市場だ。」そう云って東野は少し黙った。そして、また紙を巻きながら、「僕はこの水と字を貰ってからいつも考えたね。これはやはり日本の神さまも向うへも行っていらっしゃるということだと、大真面目で思ったんだがね。そうでなくちゃ、僕には世界というものを感じる感覚能力も無くなるんだからね。ところが向うのものはまた向うで、自分のところの神さまを同様に考えるだろう。そういう人間感覚の較べようの不可能な世界へ、科学がぬっと顕われて客観塔という同一性の抽象塔を建てたのさ。まア、建てられるだけは、建ててみるのも良いだろう。あれは人間が退屈したんだよ。賽の河原というところだね。」
「それじゃ、カンフル注射はせずとも良いでしょう。」と矢代は軽く笑って云った。が、ふと見たヨルダンの水はこのときはもう普通の水に見えて来て、よしッと矢代は思い、これでようやく一日の危機を脱したと思って喜んだ。ところが、彼の何気なく云ったその一言に、今度は東野の方が意外に正直な壊けを見せて、瞬間自分を取り鎮めようとする多忙な眼の光りで笑い出した。
「五十鈴川のこのお水へカンフル注射をするときは、実際僕も慎重に考えたよ。しかし、水というものは腐敗が速いからね、もし細菌をわかしちゃ、勿体ないし、そうかといって捨てちゃなお悪いし、そこで僕は科学的に考えたのさ。少しは自分の精神に苛責を加えてやらなくちゃ、素直な精神という奴は固定してしまう惧れがあるよ。要するに、急所を固定せしめないのが自分に対する戦闘だよ。」
 早や先廻りしてそう云う東野の弁明のしなやかさを、矢代は黙って記憶にとどめ賛同もしなかったが、彼の苦しみの存するところもまた感じて、急所は固定しかけているなと思った。すると、東野は突然自分の膝を軽く打つと、「あ、そう君に云うの忘れていた。」とそう云って、傍にいる千鶴子の耳を憚ることでもあるのか、そのまま云い出さず、古万古の袱紗の口を締めていた。矢代は度重なる東野の今日の不意撃ちにまた何を云い出すのかと重苦しい感じだったが、やはり彼の動き出す言葉を待つのだった。
「先日ニュー・グランドで、君たち帰った後からの話だがね。いろいろと諸君のこともまた出たのさ。そのとき最後に久木男爵が、君に自分の会社へ来てくれる意志があるか、どうか。一度訊ねてみてくれと僕に云うのだ。僕は君の会社向きでないことを云って、一応反対したんだがね。男爵の方はまた、考えがあると見えて、それだから君に入社して貰いたいというんだね。それなら話は分るが、その代りに高給を出してくれるか東野大学出身だからと、つい僕は冗談を云ったのだよ。そしたところが、即座にそれは僕に任すというのだ。僕にだよ。面白いじゃないか。」
 と東野は云ってにやにやしながら矢代の顔を窺った。
「それであなたは幾らくれるんですか。」
 他の会社へならともかく、聞いたときから久木会社へは勤める気持ちのさらに動かぬ事情もあり、矢代は給料のことなども冗談のつもりでそんなに露骨に訊ねられた。
「それで僕は、じゃ、無給にしようと答えたのさ。本当の話だよ。どうかね。」
 無茶な話とはいえ、考えればこれには含蓄ある展望も開けていた。しかし無給とあればともかく、考慮の外で断ることの出来ぬ人情の世界の相談になって来たと、矢代も難問に直面した思いになったが、どこまでが真面目な一点だかその朧ろなところが、彼の身をよろめかす温みでもあった。しかも東野の瞳の中には、こちらの結婚という急所を睥み据えた鋭い笑いの秘められているのも、返答を待つことの特別巧みな東野としては勿論、矢代の入社試験の問題をもともに投げ出しているにちがいなかった。
「とにかく急所を固定せしめないように、暫くその返事延ばさせてくれませんか。」と矢代は答えた。
「うむ、しかし、向うは大真面目だよ。」と東野はひと言洩すと、漸次机上の物を片附けていった。
 矢代は東野の立ち上った甚兵衛羽織の後姿を眺め、継ぎ継ぎと大小の礫を投げつけては姿を昏ます迅速なその手際に、ついこちらも自分を無くしてゆく疲れと寂しさとを感じ、またこれからの食事も共にしなければならぬ数時間の長さが、異常な忍耐に思われて来るのだった。
 夕暮が迫って母屋の方から東野の子供の声の聞えて来たころ、三人は家を出た。

 夕食は東野の行きつけの相鴨を食べさす店だった。上げ潮の隅田川の水に灯の映って見える玄関の軒灯をくぐり、二階へ昇って行くと真紀子はもう先に来ていた。彼女は東野とはつねに会っているらしく、二人の間で何の挨拶もなかった。矢代はパリでは真紀子と宿が同じのせいもあって、会うとやはり懐しかった。それでも東野と並んでいる彼女の背後に久慈の姿が絶えず纏いついて放れず、話すにしても、真紀子との間に久慈がいてこそ感情の連絡も維持された習慣も、急にそれが東野に移っている変化は何かにつけ当分具合も悪かった。またそれに気附いている真紀子も、いつもと違った遠慮がちで、話も双方ともに滑らかに辷らなかった。
 すきやきの鍋を、真紀子と東野、そして、千鶴子と矢代と二つに頒けた。鍋がそれぞれ熱くなり油の面にしみ崩れて来たころ、東野はセーヌ河の岸にあった有名な鴨店の鴨と食べ較べてみて欲しい、ここのは勝るとも決して劣っていない味だと云って、誰より先きに一人喜んだ。一同が黙っていると、鴨の食べ方を説明して、みなのはなっていないと非難しつつ、おろしに入れる醤油の差し方、手ごろな柔かさの味加減をいちいち細かく看守っていて指図した。東野の訓えるままにして食べたものは、なるほどどの肉も味が数倍上等だった。
「これで少し、もう季節が過ぎているからね。ほんとに、一月二月のを食べさせて上げたいのだが。」
 東野は自分の作のように残念がりつつも、鍋の下の炭加減にまで注意しつづけ、他のものがいかがわしい肉を摘まむと、それを箸から抛り落し、「これこれ、」と云っては別な適当のを指し替えた。
「驚いたな。来つけたのは古いのですか。」
 と矢代は感服して訊ねた。来つけてから十年になること、そして、この家のどの古い女中も肉の択び方、炭加減、大根おろしの量の盛り方などは、自分よりも下手だと云って、特に、この店の良心的な野菜類の選定の厳格さを賞した。葱は上州から、人参は京都、海苔は大森、椎茸は伊豆、と一流品の出所まで精しく話した後、ここの鴨だけは芸術品になっているとまで、ついにそのあたりから東野の説明も少少うるさくなって来た。
「しかし、君、日本の芸術家の中で、第一番は農夫だと僕は思うがね。」
 とこう東野が続けて突然に云ったときは、いつもの癖とはいえ、もう厳密科学の真理の表現が逆説とならざるを得ぬ状態に似ていて、何か切っ羽詰った苦しさが裡に巻き溢れているように矢代には感じられた。
「あの手で真紀子さん、俳句の方も叱られているころでしょう。」と矢代は笑った。
「そうなの、先生はあたしの句賞めてくだすったこと、たった一度だけ。それもあたしの一番いやな句ですのよ。」
 矢代から東野へ瞬間流眄を向けそう云う真紀子の笑顔を見て、矢代は、まだ東野に対して弟子とまでは云いがたいなと思った。
「真紀子君のあのときのあの句は良いよ。待つ朝の鏡にうつす青落葉――そういうんだがね。いいだろう君、ルクサンブールの朝がよく出ているよ。それも一寸自棄ぱちな静かな凄さが潜んでいてね。」
 東野の説明を俟つまでもなく、その句の「鏡にうつす」という自動的な表現で、久慈と別れる朝の真紀子の覚悟が、青葉を繊手で※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]ぎ落とすように鮮に出ている句だと矢代は感じた。そして、なおそのころの真紀子たちの心境の移り動きも知りたくなって、いま少しその他の句を披講して貰いたいと頼んでみた。
「まだいろいろあったね。荷造りのくずれ痛める冬の旅――これもまア、見られる。」
「それは先生に直していただいたの。」と真紀子は云ったが、そう云い終ると一寸首を竦めて俯向いた。
「いまの句は句以外に、久慈と僕との間のことで面白い意味があるのだよ。これは話さぬと実は味も少いのだが。」
 一つ話してみるかと東野は相談を真紀子にしかける風に彼女を見てから、久慈が真紀子と別れるとき東野の宿へ来た日の挿話について語った。それによると、パリを発つ東野のことを聞いて来た久慈が、真紀子も一緒に連れて帰ってくれと彼に頼み、そして云うには、もう自分と真紀子とは別れること以外どう仕様もない事情にまで来た。原因についてもこれも判然としないが、前から東野に真紀子が俳句を見て貰いたい意志のあるのを幸いにして、今日は押しかけて来たのだから、自分は真紀子をよく荷造りした手荷物にするから迷惑でも、これを日本まで持って帰って貰いたいと云ったという。その荷造り君が出来るかと東野が訊き返すと、それは大丈夫自信があるという答えに対し、東野はまた、それでは今から少し袋の一角を切り取って置いてくれるように、そこから俳句を御馳走して健康の恢復に努めてみようと、そういう二人の単純な冗談がもととなって、意外にもそれが事実化して来たのだとの旅先に有りがちな挿話だった。
「しかし、そのエピソードは句の美しさを殺して駄目だな。」と矢代は云った。
 東野は黙っていた。彼にしてはむしろ句の善悪よりも、前からの真紀子との間の自分の立場を明瞭に語りたい意の動きで、彼女の作句の中からそれに適当したものを択んだにちがいないことは分っていたが、それでも矢代は愉快ではなかった。殊に久慈のそのときの軽軽しい諧謔が、旅先とはいえ眼について、傍にいた真紀子の洋装まで品下った皺の潜むように見え、初めの悽艶な句にまで挿話の汚紋が滲みのぼって来る曇りを覚えた。
「大西洋でクイン・メリーの揺れたときの句だったが、冬薔薇の芯すら落すローリング――そういうのもあったよ。あのときの船の揺れば、相当だったね君。」と東野はこのとき真紀子に、珍しく当時の船室を追想する耀いた眼差に変って云った。
「ほんと、あのときはあたし、もう死ぬんじゃないかしらと思ったわ。あんなに揺れたこと初めて。」
 真紀子も表情を眼に籠め、傍の千鶴子に対って云った。しかし、その豪華な船室の揺らめく句は、東野と真紀子の航海の愉しいさまを髣髴させているばかりではなく、その夜の二人の危ささえよく顕した艶麗な作だと矢代は思った。それにひき換え、シベリヤの荒涼たる中を流れて行った当時の自分の一人旅の寂しさを、今さらに矢代は感じ俯向いた。
 東野と真紀子の方の鳥鍋は火も強く、ローリング激しい船室の句の出たころから、次第に活き活きと愉しげに変っていった中でも、千鶴子はどういうものか一人黙りつづけて沈んだ。矢代はときどき千鶴子を見たが、千鶴子はその度びに視線を彼から反らして悄気て来た。
 矢代は、東野と真紀子との間を知りたく追い廻していた自分の眼に、ぱっと投げかけた東野の老練大胆な句の選択の仕方には、千鶴子や自分の若さに対して復讐めく興味の潜みも覚えたが、それが直接こちらへも、響き傾いて来る波の高さだとは予期しなかっただけに佗しかった。それも相手の二人は、別の鍋に揃って対い、エピキュリヤンの鍛錬に打ち向ってゆく覚悟歴然としつつある際だったので、こちらの鍋もストイシズムで立ち向いたい戦闘心の秘かに燃えかかろうとする矢さき、千鶴子に沈み込まれては、炭火も崩れるようで鍋を覗くのも自然に滅入った。
「蝶二つ一途に飛ばん波もがな――これはボストンでの作だったかな。勢いあまって悲しさ優れりというところだ。」
 となお東野は続けた。もう何気なく云っているのではなかった。瞭らかに、いずれ矢代たちの若さには負けるのだと云いたげな、無遠慮な彼の戯れも籠った放胆が見えて、矢代は、この仲人の寂しさも急に人事ではなく思われて来るのだった。が、それも口誦んでいるうちに、ふとどこか沈んだこちら二人の今の身を引立てる祝詞とも合せ考えられて来るところに、この句の不思議な作用があった。そして、この場合はそれが後者だと思えて来る度がいよいよ強まって来たとき、
「頂戴しました。有りがとう。」
 と矢代はそうひょっこりと東野に云った。
「いや――」と東野はさすがに嬉しそうな顔に変った。しかし、婦人たちは矢代の挨拶を真紀子たち双蝶のボストンに於ける睦しさの返礼と解したと見えて、急に笑い出した。矢代もそう受けとられても無理なく当然のときとて、一緒に笑った。
「こちらの鍋はいっこうに元気がないな。火を一つ掻き立てて見てくれ給え。」と矢代は鍋の耳を両箸で持ち上げて千鶴子に催促した。千鶴子は矢代に気附かれた具合の悪さで首を曲げ、燠の灰を払い落して立てよせながらも、やはり虚ろなように元気が乏しかった。矢代は彼女の元気のない手もとを見ていて、原因は真紀子の美しい俳句からではなく、むしろ東野の家を出る前から続いているように感じら打て来ると、それなら眉子山房のあのヨルダン河の水を見た以来の苦しさの名残りだと気がつき、そういうものならこれは一日や二日では癒らぬものだと、彼も同時に山房の水の寒けが再び襲って来るのだった。
「蝶二つ一途に飛ばん波もがな、――いいなア」と彼は蟠って来た思いを吹き消すようにそう云って、自分たちの飛び立つ海の明るさ波の広さを眼に泛べ、傍の千鶴子にもともに並び立って飛ぶ翅の用意を命じたくなった。間もなく千鶴子も彼の喜びを察したものと見えて居ずまいを正した。そのうち鍋もまた次第によく煮えて来た。矢代は千鶴子が強いて居ずまいを正したのではないことを心ひそかに希った。そして、早く一切の濁りを二人の間から取り払いたい気持ちでいっぱいになるのだった。

 花の散った後の桜は葉の貧しさが急に目立った。薄紅い萼に鬚のようにのび残った雌蕋に、日の射しているのも、花あとの疲れがほの見え佗しい春の深まりになって来た。通りすがりの御用聞きが懐から目薬を出して、一寸眼に薬を落して去って行く後姿を矢代は眺め、やがて葉桜に変ろうとする前の葉越しの季節は、いいがたい寂さの含みあるものだと思った。
 彼は千鶴子との結婚のことを母に云い出すのを、寝る前の静かな時を選びたいと思い、この日は朝から夜の来るのを待っていたのだったが、日の落ちそうに傾いて来た今となっても、さてそれを云い出すときのことを思うと、不思議なほど羞かしさを感じてつい怯んだ。ほんの一言で良さそうに思えるその瞬間が、どうしてこんなに羞しく感じるものか、彼はわれながら意気地のなさに呆れ、夕暮の迫って来た自宅の傍の小路をひとり廻り歩いてみた。心の落ちつきを計ってみたり、新芽をち切り歯で咬み砕いたりしながら、同じ道を幾度も歩いては、千鶴子もこのような気羞しさを押し切っていったものだろうかと、今さら女性の勇敢さに彼は感心するのだった。そのうち、桜の葩のあたりの路上を白く浮き染めている所まで来たとき、
「ほうッ。」
 と、彼は初めてそう呟いて立ち停った。透明な薄明の迫って来る冷たい底から、眼に沁みこもる葩の白さに彼は急に結婚のことも忘れた。それは世にも見事な、思いがけない美しい世界だった。まだ人にも踏まれていない、点点とした鹿の子斑な路の上は、埃もなく少し湿り気を帯びた柔かさで、見れば見るほど、いちめん葩を滲ませていた。
「これはどうだ。縁起がいいぞ。」と彼はまた呟いた。薄雪のように鮮やかな路はまだどこまでも続いていた。下から射す明るさに眼も落ちそうになり、定めようのない焦点の散乱した思いで矢代は坂を下っていった。坂の下に川があり、そこも桜の吹きこぼれた草の間を水が流れていた。巻き下って来る厚い泡の中には、桜を集めた塊りが浮んでいて、瀬の落ち込む水流に撥ねられ、花の団塊は熄む間もなくぐるぐる白い圏を描いていた。
 矢代は木橋の袂によって水面を見降しているとき、三十を二つ三つ過ぎた主婦が、片手に重い包みを携げ、片方で生れて日数のたたぬ赤ん坊を抱いて通っていった。着ぶくれた赤ん坊は母親の両腕から爆けそうにかさ張っていて、厚ぼったい綿入れのおくるみの襟が歩く度びに拡がった。別に取り立てた光景ではなかったが、見ていると、唇のようなその厚い友禅のおくるみが拡がるので、母親の眼が邪魔され、彼女は立ち停ると襟を口で啣え引きよせてはまた歩いた。その様子は、餌を啄んで来た親鳥が子鳥に物をふくませている必死の籠った恰好に見えて、矢代は暫くその母親の姿から眼が放せなかった。
 いつもの時ならともかく、夜になれば千鶴子のことを母に云い出そうと決めていたときだけに、親鳥のその姿は、自分の知らぬ部分の母の労苦に見えて胸を衝くものがあった。しかし、今彼は、そのような光景から特殊な意義を見つけたい気持にはならなかった。むしろ、今は自分もまだおくるみの中にいる児と別に違わぬように思われて、駄駄をもこねかねない自分になりそうな気もされると、いつまでたっても、子は子のようなことより考えられぬものだと思うばかりだった。理窟だけは一通り云うことが出来ても、母にはもう言葉など一切無用のものに見えて胸も透り、感謝の念も昂まって来るのだった。森の梢に風が立った。そして、夕日が校舎のガラスを射ながら沈んでゆくのを見おさめてから、矢代は家の方へ引き返した。出て来るときは、気重く充実した気持ちで坂を下ったのも、帰りはもう一度少年のころの駄駄を繰り返すような気軽さで家へも這入れた。家では夕食の用意が出来ていた。
 食事をすませてから湯に入り、お茶どきに母の呼ぶ習慣の時間の来るのを書斎で待っている間も、彼は、初めに母に云い出す言葉を一寸考えてみた。しかし、ひとり考えた通りの切り出し方は出来そうにも思えず、そのときの成りゆきに任せ自然に唇が動くままにしたいと思って彼は気を沈めるのだった。
 間もなく階下から母と幸子の話し声が聞えて来た。話は猫を病的に愛する癖のある隣家のことで、話のひまひまに幸子の笑い声が暢気に高くつづいていた。婦人ばかりの隣家には猫が五疋もいて、中の一疋がこの朝死に、この葬いに幸子がいって悔みに花束を出すと、声を揃えて一家が泣いたという有様を、妹は口真似、手真似までしているらしくおどけた笑い声だった。
 あの快活な笑い声へ、ぱしゃッと水を浴せるように、いま結婚の話を持ち出すことを考えると、矢代は二階から降りて行くのもまた怯むのだった。しかし、こういうことでは、いつまでたっても決しかねるばかりだと思い、ちょうど折よく怯んだのを幸いに、その自分の弱味を摘まみ出し前へひき据える気持ちで、彼は自分から階下へ降りていった。何んとなく猫を一疋摘まみ下げている風で、笑いのまだ消えない二人の傍へ彼は静に坐ってから、お茶を母に先ず頼んだ。
「いまお呼びしようかと思ってたところよ。」
 と幸子は母に代り、急須に茶を淹れながら云った。
「兄さん聞いてらっしたんでしょう。猫のお葬式よ。人間とちっとも変らないの。お隣り。」と幸子は肩を竦めそこだけ声を低めて、またくっくっとおかしそうに笑った。
「でも、それだけにしときなされば、御功徳になるものですよ。そんなに出来るものじゃありませんよ。お優しい方だからね。」と母は笑いを停めて云った。
「でも、猫であれだけ悲しんで泣くのなら、人間が死んだらどうなさるかしら。あれ以上は悲しめないわ。まア、みいちゃん、こんなになって、って、おんおんお泣きになるんですもの、あたし御挨拶のしょうがなくて、弱ったわ。御飯もその日は誰もお上りにならないんですって。お線香上げて、お華を上げて、お坊さんまで来たりして。」
「これこれ。」と母は幸子の声の上るのをたしなめた。
 たとい猫の葬いであろうと、父の死後まだ日数もたたぬのに、そういうことを口にする幸子の鈍感さが矢代には面白くなかった。そのくせ誰より父の死を悲しんで泣く幸子だのに、明るいときにはそれも気附かず矢鱈と浮き上っているのが不審だった。母が菓子を持って来て二人の前へ置いた。矢代は黙って茶を飲みながら、幸子の話の落ちつくのを待っていたが、幸子はそれからそれへと独り喋りつづけた。友達のこととか親戚のこと、隣家の女中の噂などと、人を笑わすことの巧みな幸子の話を聞きつつも、矢代は、この妹のいる前ではやはり今夜も駄目だとあきらめようとするのだった。
 そのうち話も衰えて来て皆が黙り込んだとき、幸子は急にじろじろ兄を見始めた。そして、眼を異様に耀かせ気味悪そうに机の上から肱を脱すと、身を彼から除ける風に引いて、
「どうしたの、兄さん。」と訊ねた。
 いつもなら少し変ったことのある場合すぐ勘づく妹にしては、今夜は遅すぎた方だったが、それでも、早や気づかれたかと思い矢代は動悸が早く打った。
「先日の叔父さんの話ですがね。出しぬけに失礼ですが。」
 矢代は妹には云わず母に対ってそう云いかけると一寸黙った。母は「ふむ。」とかすかに云っただけで、じっと俯向いたまま澄んだ表情に変った。
「式はいつでも良いのですが、僕の結婚のことは、僕に任せていただけませんでしょうか。」
 矢代はこれだけ云ったとき、ふと後はもう云わずとも良いような気持ちがした。彼は織部の湯呑の碧い口を、つよく拭くように撫でている自分の指さきを見ながら、何か煮えるように熱くなった身の裡で溶け崩れてゆく別の悲しみを感じた。しかし、一切がこれで済んだ、そう思うだけでも彼はその後の母の答えをもう待っていなかった。
「あなたの好きな人なら、それで良いでしょう。」
 母は前からこんなときの答えを定めていたらしい低い声で云ってから、眼をぱちぱちさせ、まだそのままの表情で畳の上を瞶めていた。彼はそれだけで身体が底から温まるように感じた。飛び立つような興奮も覚えた。
「どうも有りがとうございました。」矢代は湯呑みを放してお辞儀を深く丁寧に一度した。
「詳しいことはいずれお話しますが、外国で知り合になった人だものですから。――お父さんの骨も拾ってくれた人です。」そう彼が云うと、「ふむ。」と母は急に口もとに少し笑みを泛べて頷いた。
「どうもすみません。」
 彼はこのときは謝罪の気持ちがいっぱいになってまた頭を下げた。そして、すぐ立って、その足で別室の仏壇の前へ行き、そこで父を頭に泛べて礼をした。少し遅れて後から仏壇へ来た母と擦れ違いに、彼は二階へ上ろうとすると、踏む段ごとに、母と何かが断ち切れたように感じられて涙が出て来た。もう一度前に戻りたい気持ちを見捨て流れに身を任すような切なさで、声を抑えて彼は泣いた。
 彼は二階で独り坐っていても母との別れの恐しさがまだ続いた。そんなに自分を引きよせていく見えぬ千鶴子がこのときは憎憎しく、成就した結婚の形のすっきりと整っていったのに反して、首垂れるようなふかぶかとした寂しさを覚えて来るのだった。

 二三日の間、矢代は母から結婚の承諾を得たことについては、千鶴子に手紙を書かなかった。前にも千鶴子には、母の承諾を得ることの難事ではない理由を、彼も公言したことがあって、その自信に間違いなく事情は進展して来たのだが、しかし、それはあくまで自分の方の内実を一応確かめておいたまでのことだった。まだ千鶴子の家の方の確かな内諾もないときに、ひとり急いでは、失敗のときの自分の責め苦を引き受ける心算でいても、そのため母にまで与える苦痛を思い、矢代は手綱をひき緊めてかかりたかった。相手は千鶴子ではなく彼女の母である。いつどのような理由でぐるりと変るかもしれない不安な部分が、まだ相当に色濃く矢代には映っていた。もし千鶴子に手紙を書くとしたら、先ず慶びとともに何よりその不安さを無遠慮に書きたかった。
 しかし、ここに一つ彼に手紙を書き渋らすことが起って来ていた。それはやはり一応懸念のことで、千鶴子がカソリックだということだった。今さら彼女がカソリックだという理由で結婚をためらっているのではなかった。自分も日本人であるからは、今はそのような他国の宗教のことなど躊躇することもなく、這入って来たものである以上素直に自分の中なるものの一つとして、これを眺め、改め直してもみたい興味もつよく、その勇気もまた感じた。しかし、もし千鶴子が何かの弾みにカソリックの宗麟に滅ぼされた矢代家の特殊な歴史を知り、反対に母が千鶴子のそのカソリックを知ったときの、ある恐慌を予想すると、今からそれを告げ知らせて置くべきか否かに躊躇せざるを得なかった。たといそれは杞憂にしかすぎぬとしても、もし今かりにその事実を明瞭に話すとすると、この結婚は纏るよりも崩れる可能性の方が強かった。
 矢代は、結婚という神聖なものの際に、そんな破談となるべき性質の介在するのを承知で、千鶴子と母との両方にその部分を隠匿して置く自分の不潔さが赦しがたかった。彼は母からの許可をそのまま千鶴子に書きかけてみても、いつもペンを投げ出させるのはその感情だった。自分の得た生の預り知らぬ遠いむかしに起ったことが、今ごろになりむくむく起き上って来て手紙を書きかける彼の腕をぴたりと抑えるのである。彼はそれを何か先祖の霊が二人に故障を起さしめない警告のためか、それともこの結婚は頷きがたいという意味かと、そんなことまで考えてはまたペンを持ちかけたが、やはり駄目だった。それも、妄想を押し沈めれば沈めるほど、遠くから瞶めている一条の透明な眼が冴え迫って来るのだった。
「嘘をいって見よ、砕いてみせるぞ。」
 と眼は云いかけて来る。
「しかし、真実さえも私はまだ書きませぬ。ましてや嘘など申そうとは。」
 と彼は答える。しかし、こういうことを答えるときでも、彼を瞶めている遠方のその眼の在りかは、矢代の家の城の滅んだ年ごろの遠さからではないように思われた。それはなおはるかに遠くからで、彼の記憶に溜った歴史の外遠くから射し透って来ている霊に似た、光りか波か分りがたい、時そのもののような澄み徹った静寂な眼であった。父の葬をすませた夜夢に見た父が、寝せても寝せても半身を起して来て、じっとどこかを瞶めていた遠方も、やはり今彼に顕われて来ている眼の方向と同じように思われるのであった。すべて物事の起るということは、そういう遠方のところから射し起って来ると思う近ごろの彼には、何か判断を要する切羽つまった場合に、彼の視線の自然に対う方向もまたそちらだった。それはこの世の外であったが、またこの世の中にあった。随って、このような眼を感じるときの矢代には、千鶴子のカソリックも母の仏教もともに彼から意味を失い、溶け混じた空なるものに見える習慣だった。
 矢代は千鶴子に出す手紙には、自分のそのように見えて来ている空というものの考えも、よく彼女に分る風に書き込んでみたかった。
「こちらで起ったことは、みんな間違いだなんて、そんなこと、――あなたがいつもそんなことを思ってらしたのが、何んだかしら、いやアな気持ちよ。」
 パリで別れる際にそう千鶴子の云った言葉に対して、矢代が返事を与えねばならぬのも、彼はこの手紙の中で書くことが適当だと思った。すべて外国で起ったことの締め括りは、自分の国に戻りついてからにしたいと思ったあのときのことなど、それもやはり帰って来てみて間違いではなかったと今彼は思うのであった。
 矢代は結局千鶴子に手紙を書いた。それには、さまざまな自分の考えを述べた中に、キリストのようには自分のいのちを怨みに思ってはならぬということ、そして、もしキリストが日本に生れていたなら、もっとも科学的に考えた場合、高山彦九郎の位置にいたと思うということを忘れずに附けてから、最後にこう書いた。
「僕は自分の家の悲劇に関しましては、初めはあなたに云いたくはないと思いました。しかし、あなたも一度は僕とともに、カソリックの用いた大砲に滅ぼされた僕の先祖の城を見て下さる日のあることを想像し、そのときのあなたの悲しみ――あなたの子供の先祖の荒廃した城あとを、御覧になる日のことを思い描き、やはりこれだけは隠すべきことではないと決心いたしました。よしたといこのことが、どんなにあなたの胸を衝く結果になったとしましても――一度は正視すべき要のあるひそやかな惧れを、今のうちにあなたと共に切開して置きたいと思います。しかし、僕としましては、このカソリックに感謝すべきことが少くありません。第一に、僕の先祖の城が、日本で最初に用いられた大砲のために滅ぼされてみたということです。この犠牲は、他のいかなることよりも、なくてはならぬ重大必要な犠牲でした。今はも早や、どの人人の脳中からも消え去ってしまっている貧寒な犠牲でありますが、しかし、これほど近代の日本にとって緊要な犠牲があったでしょうか。火薬の爆発力を初めて感じた瞬間の壊滅の中には、世界を変形しゆく何ものか見えざる意志の秘密を、誰より先に感知した叫びが籠っていた筈です。この最初に大音響の発声された地が、僕の家の城砦だったという偶然は、これを僕はただの偶然事として見るほど、先祖を侮辱する気持ちにはなれぬのです。これを子孫が栄光と感じるのは、敗北を喜ぶ僕の感情とも見えますが、しかし、僕らの国の中で起った敗北は、すべて敗北にはならず、散華に変じるという奕奕たるわが国の特殊性を感じましたのは、何んといっても、僕の外国旅行の賜物だったと思います。そして、このようなことをもし負け惜しみとあなたが解されますなら、僕には、自分の国の美しさが分らなくなるのです。またあなたと結ばれようとする僕たち現在の運命の慶びも。――僕は一日も早く、もう姿を消しかけている僕の家の城砦にあなたとともに登り、雑草の中に伏して、あのパリの杜の中でのように土の匂いを嗅いでみたいと思います。」
 千鶴子に与える恐怖を和げる気持ちも手伝ったとはいえ、矢代は、そのために偽りなく大胆になり得られたことを今は喜び、幾度も読返してその手紙を出すことにした。

 千鶴子からの手紙は一週間も隔いて届いた。それは矢代が予想した慶びよりも、むしろ煩悶し、恐怖した心情のさまの露わに窺える手紙だった。彼の手紙を見た暫くは、自分にこの結婚の資格のないことを初めて自覚した苦しみが述べてあり、今もそれが取りきれず、矢代の慶びに応じて結婚すれば、このさきとも、何事か恐怖すべき事柄の起りそうな予感におびえ、夜もよく熟睡しかねる日日がつづいたと書いてあった。
「あたくしは慶んでよいのでしょうか、悲しんで良いのでしょうか。自分の信じた人のお家が、撰りに撰って、そのような、夢にも思わなかったカソリックの犠牲になられたお家だとは、何んというあたくしの不幸でございましょう。お手紙を拝見いたしました初めは、恐ろしくて、身体が飛びちってしまいそうでした。それでも幸いなことに、あたくしはまだあなたの御想像なさいますように、信仰深いものではございませんでした。ただあたくしの過去が過去で、何も識りませず、習慣のまま、今のような心もちをつづけてまいっただけのあたくしでございました。あなたの仰言いますように、自分のいのちを怨みに思ってはならぬということも、よくよく考えてみましたが、このようなあたくしの苦しいことも、怨みに思ってはならぬのでございましょうか。それとも、あたくしのこんな考えなどは、ひねくれた心の苦しみと申すものだろうかとも、考えたりいたします。お慶びしなければなりませぬときに、何んという悲しいお手紙になったのでしょう。あたくしは書いたり、破ったりいたしましたが、幾度書きましても、涙が出て来てなりませんでした。外国から帰りましてから、いろいろお訓えしていただいたりしたことも、まだ身につかないのかとお怒りになることと存じますが、ぼんやりもののあたくしながらも、お訓え下さったこといつとなく、考え込んだりして来ておりましたのが、今となって、あれもこれもと、一時に思いあたり、吹き襲ってまいりますので、お心のほどのお優しさ偲ばれ、なお悲しくなってまいります。みんなあなたのお家の方方のお許しや、あたくしの家のものの、許しのありました嬉しさに包まれながら、あたくし一人、なおこのような心暗さになりましたこと、何卒お赦し下さいませ。それにつきましても、結婚のことは、あたくしのこんな心ぐらさのままではと思い、拭き清められます日までお待ち下さいますことの我ままお願いいたしたく存じます。
[#地から2字上げ]千鶴子
  耕一郎さま

 矢代は千鶴子の手紙を読み終ってから、この手紙の返事は時間を遅らせず、すぐ出さねばいられぬ焦躁を感じた。穴の中へひとり落ち込み、藻掻き苦しむ様にも見え、何かの弾みで間違いを起しやすい、取り返しのつかぬ危険も千鶴子に迫っているように感じられた。同時にまたそれは、自分にも連り迫っていることだった。しかし、焦ればこれは、鎮めようもなく騒ぎたつ心の煙りに似ていて、ふと彼は満洲里の国境にさしかかって来たときに、覚えたと同様のいら立たしさが、再び蘇って来るのだった。
 折よく丁度このときはまだ午前中だった。矢代は窓を開けて欄干の傍へ立った。井戸の傍で洗濯をしている女中の丸まった背と、日光の射した石鹸の泡立つ盥の中の手の赤味が健康な感じがした。見降している間も、冬を越した霜焼のようやく癒えたその手の、しゃきしゃきと動くのが、微妙に明るい暗示を誘い、何かしら彼はあれだなとすぐ思った。すると、今まで読んだキリストに関する書物の全部が一斉に頭に噴きのぼって来て、彼は書斎の棚の中から即座に眼についた一冊を躊躇することなく抜き出し、どこということも定めず、指でぱっと披いて、このときも最初に眼を牽き込んだそこを見た。
「我が好むは憫みなり、犠牲に非ず。」
 それは旧約ホゼア書の六ノ六からの抜文の部分だった。彼はまた別の頁を批判をせずに披くと、「決定的の御召」という小見出しで、
「人我に来りて、其父母、妻子、兄弟、姉妹、己が生命までも憎むに非ざれば、我弟子たること能わず。」
 こういうルカ十四ノ二十五、二十六、という異常な激しさに満ちた言葉の部分が出て来た。矢代はこのとき、我という一字はキリスト自身の意味ではなく、神という意味だと直覚した。この「我」をもしキリスト自身という意味に世の宗教家たちの云うごとく誤解すれば、地球上に悲劇を撒き散らして歩くようなものだと思った。しかし、その事実が西洋というものの今の苦痛で、やがて世界の苦痛に変ろうとしている部分であり、それは偽のない誤りの根元のような気がされた。
「ああ、これは世界中の大問題だ。」
 矢代はいきなり大きすぎる問題にぶち当った思いで、手放しのままこう歎息した。しかし、自分にとっては、それは今や身にさし迫って来ている、緊急必死の処理を要する危うさだった。そして、それはまた実際に、日本の中だけを想い見ても、この一寸の誤りのため、天正十年から寛永九年にかけての四十年間、幾万人の日本人が殺戮されて来たことだろう。しかも、なおそれがそのまま続いて平然と流れている形だった。
「我が好むは憫みなり、犠牲に非ず。」
 これほど深い思いやりの籠った優美な言葉をいうものが、どうして「我」をこの場合に、キリスト自身の意味として、そんなに人を殺していく発音に昂めさせることだろうか。
 矢代はまたさっき見降した女中の手の赤味を思い出した。手を使え、正しく使え、日に輝いた無数の泡の中で、そのときどきに随って手を動かせ。不浄なものを洗い浄めよ。
 こういう日光の中の訓えが、今矢代に降りかかって来ているように考えられた。彼は暗怪な僧侶どもの手の中から千鶴子を救い出したくてならなかった。彼は鱗を逆立てるように獲物を見据えているうちに、自分の体中に含められている剣が、次第にせり上り、口から噴き出てゆきそうな身顫いを感じるのだった。

「僕はこの手紙をこうして書いておりますが、あなたの悲しげな顔が泛びます。今僕は、眼に見えた物象の中で、直接これがこの瞬間の、僕の神だなと感じたものは、太陽の光でした。そして、これ以上の真実はこの瞬間にはありません。またこの光は、僕にとりまして、たしかに僕の光です。僕がここにこうしていて、他のどこにもいないのですから、僕もあなたとは光のために、いろいろと楽しい生活をさせて貰いました。何んと楽しいことが多かったか今にして思います。僕は古代人のように、自分のおん神に感謝します。こう云いますと、お前は世界の光を知らぬのだと笑う顔も、必ずあります。ところが、どこの世界へ行きましても、僕らにふりかかって来た光は、僕らという物があって、そして光るのでした。これはあなたと僕の重要な実験済みのことでした。これを感じることもなく、光こそは世界のどこのものでもない共通のものだと思うのは、これほど正しく見える幻影がありましょうか。自分のいない所の光などを、光と思い得られる激しい幻影というものは、西洋には誰にも古来からあるものです。そして、皆そのままに信じ消えうせてしまいました。いったい、この美しい魔法の種は何んでしょうか。――僕は一見誰が見ても愚かな詭弁だと思われそうな、こんなことなどを書くに就きましても、前には、光の原理や色彩というような、光そのものの中に七色があるというニュートンの抽象的な光や、いや、光は、光あるものに出あって光るというゲーテとの、難かしい例の二人の論争的研究や、ギリシア以来のそれらに関する、歴史的研究などというものも、ともに多少は眼を通してから後の、この手紙です。光に関しましては、僕は、ゲーテ派ですが、光を道義と感じる僕らの国の人とは、よほど変った虚無的な、これなら消える筈だと思われる節節多く参考になりました。あなたも少しはそれらも読んでみて下さい。そうしますと、この奇怪な僕の論証も、詭弁の様相をなしつつ、どことなく愛情ある囁きに似た、人間的な一条の真面目な行為の光だということを発見して下さるにちがいないと思います。実際、光に関しましては、むかしからいろいろな学者が自分を瞞著して、沢山な犠牲者を出して来ました。僕はそれが口惜しくて、誰がいったい、僕のこの人間的な物思いを打ち壊くことが出来るかと、じっと見ていたい不遜さえ感じるほどです。福音伝でもこう云います。
『我が好むは憫みなり、犠牲に非ず。』
 この言葉は正しい。これを取り巻く悪僧どもが、この真実の憫みを一千年も犠牲にして来ました。あなたも一日も早く、自分の真の光を信じて下さい。幻影の犠牲になどなってはなりませぬ。僕らの中には、光るものもあればこそ、天上から射す光をも受け眺め得られる、おおみたから、という言葉さえ使用されているのです。この冒しがたい、どっしりとした、どこかゲーテに似ている僕らの光の御旨あるところを感じて下さい。そうしますと、それぞれの他国にも、色彩の差はありながら、光るものがあるということも鮮明に浮き上って参ります。これが平和の基本でありましょう。
『すべての邦をしてその所を得せしめよ。』
 これは僕らの国のすべての光を集めた父祖の言葉です。何んという細やかで、壮麗な、浸透無端な、光の根元を中に抱いた超越力のある言葉でしょうか。それも太古のむかしから連り、今も変りありません。この現実性をかねた抽象性とも申すべき、これ以上に人の心身ともに救う平安な言葉というものは、ありますまい。この千差万態の変化を許容されつつ、その中に流れた、純粋現象の絶えざる回帰を本願とせられた理想に勝って光る理想が、ありましょうか。もっとも健康な理想のみが不滅であるということは、どこから見ても、一貫した現象世界の根本法則でありましょう。これは疑い得ないことです。繰り返して申しますが、自分の光を浄く信じればこそ、他の国の光をも完全に認め得られるということを強く信じて下さい。これを傲慢になることだと思うような、女女しい思いは夢夢なさらぬように、僕は僕たち日本人ほど他の国国に愛情を瀝いで来た人種もまた少いと思い、ひそかにそれを美徳と思うものであります。それは瞭らかに歴史に出ている、偽りのない純粋無垢な愛情です。それあればこそ、他国の滅びゆくのもまた僕らの国の父祖は、何人よりもお歎きになりました。そして、あなたはその深いみやびやかな御心の一端を、識らずに受け継がれたお使者の一人です。僕はあなたを攻撃などする積りで毫もこの手紙を書いているのではありません。静にお読み下さらんことを。
 蝶二つ飛びたつさまの光かな
[#地から2字上げ]矢代
  千鶴子様

 矢代はひと息に手紙を書きすすめた。ともすると、千鶴子に宛てて書いているのも危うく忘れそうなまま、書き終ると気持ちも楽になったが、疲れも同時に覚えた。これでもし千鶴子のどんな感情も動かせない始末になれば、そのときはどうすべきか、その後の、自分の方の態度も決定しなければならなかった。またこれは、受けとった千鶴子を前より一層、追い詰めることになりそうな部分のひそむ手紙であるだけに、ひと息にいうことも、なお恐怖を与える種子ともなりかねなかった。しかし、今はもう躊躇すべきときではなかった。大事のときには抱いている袋の口も解くべきだと思い、彼はその手紙を速達で出すことにした。
 千鶴子からは二日目に返事が来た。内容は矢代の手紙に自分として異を樹てるところはどこにもないのみではなく、幾回も繰り返して読み、訓えられたことも少くなかった旨を感謝してあった。殊に手紙の中で、自分らがみやびやかなお心の一端を担うお使者だというところで、はっと眼が醒めたような思いのしたこと、そして、そんな大切なことを今まで誰からも訓えられなかったことを残念に思い、自分はそのお使者にさえなり得られるものでないことをも初めて気づいたと謙遜してもあって、全体は平凡ながら、素直なこころ持ちのよく出たものだった。
 矢代は自分の手紙に対し、反抗しようとさえ思えば限りもなく出来る部分の多いときに拘らず、そこを終始緘黙していてくれた千鶴子に、遠く共に海を渡って来たものの親しみを一層つよく感じた。もし千鶴子が日本を少しも出ず今のままにいる婦人であったなら、あるいは、二人の間はこのまま事断れていたことかもしれぬとも思われた。その点、帰って以来、会うごとに少しずつ暗示を与え、なだめすかし、見て来たものの相違を揉み込むことに努めた自分の忍耐も、ようやく芽をふいて来たと思って彼は喜んだ。

 矢代と千鶴子が東野の宅へ行ってからは、東野は千鶴子の兄の由吉としばしば会った様子だった。その度びに、自然に矢代と千鶴子の縁談も、勝手にこの二人の粋人の手の中で進められた。その間には、真紀子や塩野もともに加わっていることも想像されたが、一方その勢いに巻きこまれて、塩野の縁談まで一緒に押し進められている形勢があった。
 結納品のことなどは、矢代は母と相談の結果、東野に一任することとした。千鶴子の家の方も同様の意向で、日を決めて、東野は両家へ出かけて来ることにもなった。
 嫩葉はよくほぐれて伸びて来ていた。矢代は千鶴子に手紙を出してから、暫くの問を隔いたある日の午後、彼女と、また松濤の公園で東野の宅へ行く前に待ち合せた。二人が公園の木椅子に並んだとき、暫らくはどちらも手紙の内容に関しては触れようとしなかった。睡蓮の新芽がまだ巻葉のまま水面に突き立っている他は、園内の木の葉は黄色を滲ませて美しかった。幾らか面窶れを見せた千鶴子の頬の細さが、日ごろよりも鹿に似て見える唇に、薄紅をつけているのも、木の葉の裏まですき透った日射しに湿れて映え鮮やかだった。
「眠れないって、まだですか。」
 矢代は千鶴子の手紙の中の不眠のことを思い出し、それもそうあろうかと、むしろその方が彼女の篤実ささえそこに感じて同情した。
「このごろはいいんですの。」
 胸の底ふかくからようやく出て来たような、ぼんやりした千鶴子の声だった。そのうち、手紙から受けた痛みの脱落してゆくものに代り、何か、再び満ちゆく明るいものもあろう、という意味のことを矢代は云いたかったが、今はなおそのまま、自然な心の姿にしておきたく思った。時計を見ると時間はまだ早かった。東野と一緒に三越へ行って、結納の品を三人で整えるこの日の訪問だったので、今から彼の宅へ上り込むよりも少しここで時間を費したかった。もともと三越へ品定めに出かけることを云い出したのは真紀子にちがいなかったから、東野邸へは、真紀子は誰より早く来ていそうにも想像された。
「しばらく見ぬ間に、この五月というのは、自然の変化が素晴しく迅いなア。」
 滑らかな榎の肌から噴き湧くように、点点とした新芽は鮫小紋に似ていた。気体の含んだ水気が嫩葉の裏にまでしみこもっていて、しなやかな葉脈が葉の重さを耐え支え、静謐な湿りの重なりあう隙間にまで、日の光が充ち跳ね返っていた。矢代はそこから矢のように沼の水面へ射し透っている光の縞を眺め、ふとむかしのある時代を思い出すのだった。それは奈良朝から平安前期へかけてのころだったが、そのときも、日の光はこんなに縞を作り、嫩葉の色もこのように柔かだったにちがいないと思った。そして、唐から帰って来た留学生たちの多くも、結婚の際に、ちょうど今の自分のように、いにしえを想い、今を憶いし、追い迫って来る仏の思想から※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]れ脱する労苦も繰り返し、妻となる婦人を仏の手から奪い取ろうとしたことだろう。
「僕はいま自分の部屋を直させているんですがね。この大工の細君は、とよといってずっと前に僕んとこにいた女中なんですよ。郷里が僕の母と同じなものだから、何かというと、今も僕んところへ来てくれるんだが、このとよが昨日も来て、僕たち大笑いしちゃった。」
 矢代はこう云ってからとよの話を少ししてみた。矢代の母が雨もれのする家の壊れた部分を直したく、ある日とよの主人を手紙で呼んだ。手紙の着いたその日は折悪くとよの子供が自動車に撥ね飛ばされて即死した日だった。それにも拘らず母へ返事をその日に書いてくれたりしたとよの律義なことを云って、こういうことが外国から帰って以来、つよく印象に残るようになったと彼は話した。それも特に傑出した婦人ではなく、日ごろも凡婦で無教養だが、結婚してから良人が字を習わせてくれたことが何よりとよには有り難いと見え、来る度びに矢代の前で良人を他人のように賞め、感謝した。このとよがまだ結婚もせず、読み書きの出来ない日のころ、あるとき矢代の妹の幸子に手紙の代筆を頼んだことがあった。それは矢代たち一家のものには分らぬ郷里の男へ出す手紙だったので、幸子は代筆するにも困った。一二行気候の挨拶を書いてから、「何んと書くの。」ととよに訊ねると、とよは顔も赧らめずにペンを動かそうとする幸子の上へ、肥った熱い身を冠せるように乗りだした。そして、臆する様子もなくいきなり、
「夢のかけはし霞みにちどり思いかなわぬ身なれども――」
 と、こんな調子ですらすら云い出した。それも大真面目で、男に捧げるあらん限りの愛情のその烈しさに、もう幸子は笑ころげ、とうとう手紙は駄目になった。
 この話を矢代がここまで千鶴子にすると、千鶴子も腰を前に折り曲げて笑った。
「しかし、今はもう、とよもなかなか字が上手になりましたよ。もっとも、そのときの愛人は今の主人かどうかは疑問だが、あれほど細君から感謝され通している主人というものも、僕はまだ見たことがないなア。賞めるわ賞めるわ。またこの大工は、嘘というものが云えない人物でね。」
 矢代は、このような原始的な、いのちの歓びに溢れた夫婦の美しさを、いつの間にかもっとも低級と思いがちになっている一般の判断がおぞましくて云ったのだが、しかし、そんな自分の意見は、この場合まだ二人には棘となって立ち云い出しがたかった。
 千鶴子は笑いとまってからも思い出してからまたくつくつ笑った。それも暫くしてから、先日矢代に出した自分の手紙のことも同時に思い泛べたと見え、
「もうあなたには、これからお手紙あげないことにしますわ。」とそう云って軽く吐息をついた。
「何も今からそう謙遜したものでもないでしょう。とよの手紙のような文章は、僕等の時代のものには、誰も書けないんだからなア。実際、個性というようなものが、明治の中期から日本に這入って来て、だんだん人間が機械になって来たので、夢のかけ橋かすみに千鳥なんて、そういう風なものをみんな消してしまった。しかし、とよがまたどこで、そんな文句を覚えたもんだか。大宮人の感懐が、一番山の奥の田舎者にしみ込んで残っていたんだから、凄いですよ。ね。」
 僕らは負けた、という意味をこめ矢代は千鶴子を顧みて笑った。沼の小径に円く並んだ紫陽花の莟がほんのり色をつけていて、躑躅も朱色を水際に映している。矢代は対岸のなまめいた赤松の肌を見上げながら、この公園がまだ大名屋敷だったそのころのことを思い描いた。そして、蒔絵の文箱を持った奥女中が矢立に帯を結び、水際の睡蓮の傍でそっと蓋を抜いてみている、その手紙の中の文章を想像した。それはおそらく、とよの手紙のように韻をふくんだ、鳴り出すような人間味豊かな手紙だったにちがいないと思った。それに今はどうだろう、自分にしても婚約のあいだの千鶴子に示す手紙に、光線の原理など書かねばいられぬ時代になっているのだった。そう思うと、とよの手紙に笑い転げたと同様に、自分の手紙にもそれ以上のおかしなものもあるのだろう。しかし、そのためようやく二人の離れようとする危機を先ず一応は喰いとめ得たのであれば、もう情熱の美しさだけでは人心を捉え得ぬ、非人間的な、多くの希望が人を寸断しかかっているのだとも思った。そして、みな人はそれぞれ何らかの意味で科学的になって行く。
「この公園をこうして見ていても、これからの世の中は、人間的なものと、非人間的なものとの和解になってゆくんだということが、つくづく感じられるなア。今日は結納の品定めに行くんだけれども、僕とあなたも、その放れた二つのものを一つに結びつけて行くようにしたいものだが、――夢のかけ橋だ。思いかなわぬ身なれども、という憂愁は、もう誰にでもある。」
 矢代は傍に千鶴子のいることも、このときはもう忘れふとそう云って笑った。そして、千鶴子の片腕を一寸自分の腕へ組みとってみて、ぴたぴたと彼女の手の甲を片手で叩いた。いつかピエールがそこへ接吻したことがあるというその手の甲だった。千鶴子の靨もいつもより動かず、
「でもあたし何んだかしら、まだ恐いの。ほんとにいいのかしらと思うの。」
 白足袋の下で舞いつづけている一匹の水すましの波紋を眺め、そういう声もうつろに響いた。
「どういうところが恐いのです。」
「何ぜだか分らないのよ。でも、恐いわやっぱり。」
「とよのようには、いかないものかな。」
 矢代は何気なくそう云ったものの、しかし、今の場合に恐いという千鶴子の感情は、間違いのない正直なことだと思った。今の彼女には、恐くないより恐れるのも美しいことだった。またそうであってこそ、彼には頼りになり得られる清純なものも感じられた。
「あたし、そのおとよさんという方に、一度会ってみたいわ。」
「結婚式には来るなと云っても、飛んで来ますよ。」
「あなたは本当は、おとよさんのようなそんな方、お好きなのね。」
 千鶴子はパラソルの柄を頬にあてがい、愁い気に矢代を盗み見て云った。
「好きとか嫌いとかいうものじゃないですよ。とよのような人物が、日本というものの底にいっぱいいるんですからね。そんな律義な、誠実な大群が、島いっぱいに詰っているんだと思うと、その上に桜の花が散って来れば、もう文句はないじゃないですか。女の人はどこの国の人よりも貞淑で、美人だし、食物は沢山だし、景色は美しいし、退屈しない程度に四季の変化は充分だし。何を男は苦しんでるんだか、分らないな僕には。」矢代は今日は、こうして先日以来の千鶴子に与えた悲しみを少しでも慰めたくて、いつもよりよく饒舌る努力も怠らないのであった。また今日の自分のいうことも、みな一種の歌に似ており、どことなくとよの手紙の文章とそんなに違わぬ内容に自然になって来るのも、このような特別の日だからかもしれぬと思ったりした。
 二人は木椅子から立って芝生の丘の方へ行くと、制服の学生がひとり裏門から入って来た。その学生はいつも坐るらしい陽あたりの好い場所まで来て、うすい芝生の葉の上へ肱をつき原書を披いた。矢代は自分の学生のころを久しぶりに思い出した。そして、緑色の芝生の中で光る金色の背文字と白い頁を見て、あそこは自分も前に通って来た青春の日の駅だったと思った。

 矢代は千鶴子と一緒に、東野や真紀子と室町へ出かけたのは二時を少し廻っていた。三越の呉服部で、結納の品を四人の意見で矢代のは袴にし、千鶴子のは紋服に定めた。それから暫く場内を廻ってから四人は外へ出て、上野博物館へ行った。これも四人は西洋のデパートや博物館と、日本のものとを較べてみたい気持ちに動かされたからだったが、三越の大きさや美しさは、決して負けをとらぬというのが、四人の一致した観察だった。殊に買物の際の勘定の迅さにいたっては世界一だと、東野は賞めた。中でも食堂の女ボーイの暗算の速度と正確さは無類であった。
「しかし、そこに油断のならぬものもあるね。」と東野は自動車の中で一寸首をひねり、そして、考えながら云った。「ね君、暗算が迅いということは、頭が良いというより、勘だからな。それだけ間違いを起しやすいという危険でもあるだろう。フランスなんか、勘定はいちいちお客の前で、紙を出して、寄せ算をやってみてから、それから答えを云って、お釣をくれるね。その釣りも、間違いをやっても損を少なくするために必ず小さい銭から先に出すが、日本のは反対か、あるいは一緒だ。」
「引き算は殊に外人は遅いようだね。」と矢代も思い出して云った。
「そうだ。あれは引き算を暗算でするのは、出来ないんじゃないかと思わずほど、のろのろしてるね、しかし、それというのも、誰もいちいち紙で書いて、答えを出す練習をしつけているからだよ。つまり、暗算という算術は上手だが、それだけ紙を基本とする代数がみな上手だということだ。そういうことは云い換えてみると、国民一般の頭が、もう算術という現実の世界と直接に動く平面的なものから離れて、代数という立体的な、抽象の世界で生活をしているという証明になるんだからね。これでなかなか、西洋と東洋というものは、開きが大きいよ。この開きを日本がどうするか、というのが今後の世界だ。間違いない。」
 東野のそう云うのに、矢代は頷きながら、今日の東野は正確に一点から着実に話を拡げて来たものだと思った。そして、どういうことともなく、彼はいつもの日より槙三に会ってみたくなるのだった。
「東洋といえば、僕らは先ず中国のことを考えるが、これで外国人が東洋といっても、何も中国とは限らないでしょう。ギリシアだって、エジプトだって彼らから見れば、東洋に見えるらしいんだから、そこが僕らと大ぶ違いますね。」と、矢代は云った。
「そうだ。ギリシアも東洋風に外人には見えている。西洋文明の根本のギリシアがあんな風に見えてるんだと、僕らもこれで一寸考え直さなくちゃ、分らなくなることが多いよね。ゲーテの全作品が、全体を通じてどことなく東洋へ傾いていると、そんなにヴァレリイは云ってるよ。そしてね。それが面白いんだが、かくのごとく東洋を好きだということは、こんな西洋的なことがあろうか、と結んでいるところがあった。うまいね、なかなか。その筆法を用いると、僕らが西洋を好きだということは、これほど東洋的なことがあろうか、と、そう云わなくちゃならん。どうかね。しかし、君、これは本当のことだよ。」
「なるほど、それは素晴しい表現ですね。」と矢代は感心して云った。
「そうだよ。実に立派だ。」
「平和というものは、そういう表現力にひそんだ力にあるなア。」
「僕らはそういう心を拾い上げて、機会あるごとに、それを巧みに云いふらさなくちゃならん務めもこれであるんだが、とんと皆は、忘れてしまうんだよ。僕は近近一度、中国へ行こうかと思っているんだ。小学時代からの友人が中国へ行っていてね、蒋介石に好かれているんだが、この男が来い来いと云って聞かないんだよ。」
「あなたの中国行きは、硯を探しに行くんですか。」と矢代は訊ねた。
「いや、そういうこともあるけれども、しかし、これで中国という国は、そこは日本と違って、文学者を非常に信用してくれるところだよ。文学者だけは、謀略をしないと信じ切っている。そういう伝統がむかしからあるのだね。他のもののいうことは、直覚的に、少し割引きして話を聞いているところも、文学者にはそうじやない。小谷もむかしは文学青年だったものだから、多分ひとつはその誠実さがまだ残っていて、そこが蒋介石の気に入ったところかもしれないね。」
 車が上野の杜の中へ這入っていったところで四人は降りたが、降りてもまだ東野は話しつづけた。彼は外国から帰って以来、日に日に中国への関心が前より一層強くなって来ていることを云って、とにかく、僕らの注目すべきところは、今はヨーロッパではなく中国だとのべてから、また彼はこうも云った。
「中国はフランスと非常に似ているだろう。ね、パリなんて、あれは君、中国じゃないか。しかし、僕はフランスより中国の方が、文明の度は少し高かったと思うんだよ。何ぜかというと、フランスという国は、見れば分る幾何学の国だ。実にはっきりしていて合理的だ。幾何学を数に代えたのが代数だから、つまり、さっきも云ったとおり代数の国だといってもいいさ。しかし、中国はそうじゃない。あれは妙な変数みたいなものだよ。」
 屋根越しに不忍池が拡がり、折れた古い蓮の中から若茎の立っているのもよく見えた。矢代は椎の大木の嫩葉に日の射しているのを仰いでいると、博物館の中へ入るのが惜しまれて足も鈍った。
「しかし、中国と危くなって来たというのは、事実だろうな。これでフランスの共産党があんなに勢いを得て来た以上は、世界の均衡は破れたも同じだから、破れ口は西安で、蒋介石の頭へのぼって来たのかもしれないね。」
 東野は矢代のそう云うのも、もう聞いていない様子でひとり足早やに先に歩いた。
「けれども君、そんなことは、僕らがいかに心配したって駄目なことだよ。」と東野は云って、また矢代をぐんぐん押しつけるように寄って来た。「僕らにとって究極の大切なことは、ソビエットみたいに人間に科学性を与えることよりも、中国みたいに想像力を人間に与えることだよ。人間の精神を知らすことさ。互にどこも科学ばかりが発達して、相手の精神を知らずにいちゃ、人と人との間の政治は悪くなるばかりじゃないか。そんなら悲劇は増すばかりだ。科学じゃ、精神は分るものじゃないからね。僕らがこうして博物館へ行くのも、つまりは、精神を知りに行くということだよ。人間が人間の良さを知りに行くというもんだろ。僕はこれを云うと、人から袋叩きにされるんだが、――君、僕は外国から帰ってから評判がひどく悪くなってね、手も足も出ないのさ。しかし、一人ぐらいは僕のようなことをいうものもいなきゃ、その国は駄目になるよ。国だけじゃない、世界もだ。」
 分りきったことながらも、東野の云うことには、帰朝後に生じて来た彼の新しい苦しみが滲んでいて、矢代も黙って彼に頷くのであった。文字を書くことを専門としているものは、東野のみならず、結局は何らかの意味で、世界の誰も彼もひそかにパリと闘っているらしい風だった。

 上野の博物館が石造の建築に変ってから、矢代たち誰も中へ入るのは初めてであった。一見したとき、矢代は、パリのモンマルトルの丘上を仰いだ瞬間に眼に映ったサクレクールの寺を思い出した。そして、も早や、博物館の屋根にまでカソリックは来ていたのかと思った。荘重で古典的な偉容を具えた明るさであった。異国の街街を歩いているとき、先ず初めに旅人は、そこの博物館を観て、その国のおよその文明を一瞥のうちに感じとるのが便法である。この自然な見方に応じるためにも、この博物館は相当の品位を保っていたが、この日の陳列品にはそれにふさわしい目立ったものはあまりなかった。ようやく光琳のあやめ扉風と、友松の干網の図が光っているだけだったが、しかし、この二つはともに優れたものだった。その他陶器には宋窯の滋州壺と、李朝の青磁が麗しく、日本物では織部の鉢に一つ、それから楽の長次郎が一個というところだった。
「この絵、モネーがいれば見せてやりたいね。」
 と矢代は光琳のあやめ図の前で、傍へ来た千鶴子に云って、モネーの睡蓮の図と思い較べた。東野も光琳には満足した微笑を泛べて動かなかった。
「しかし、この友松も良いよ。ピカソならきっと光琳よりも、この友松を採るね。」と東野は、後ろの反対の壁にある干網の雄勁な屏風絵の方を振り返った。
 二つを比較するのに身体を逆に動かさねばならぬのが、印象を壊して落ちつかなかったが、それぞれもっとも単純化を狙った二つの絵の新鮮な美しさは、観るもの二人をして争わしめるだけの力があり、その前から去りがたかった。
「諸君はどっちかな。御婦人がたは。」と東野はベンチへ反り気味に婦人たちの顔を見上げた。真紀子は、
「あたしはこちら。」と友松を指差した。
 千鶴子は黙っていた。矢代は光琳のあやめ図の形象が図案化しているにも拘らず、遠近のはっきり出ている写真以上の高い象徴性から、元禄という文明のなみなみならぬ高さを感じて嬉しかった。これこそ不滅のものだと自覚した。悠悠たる作者の精神がそこにあった。その光琳の絵は装飾にちがいなかったが、装飾という儚ないものの中から、生命の高潮した姿を捉え、そこにまさに固ろうとした刹那の美の崇高な輝きを見てとって、儼としてその危険な一線に踏み停ってみたところに、日本のある優美な精神の限界を見た思いがした。
「この光琳は活眼ではないが、涙眼ですよ。人は活眼の方が良いというけれども、しかし、涙眼もこうなると、もう涙にうるんで人には分らないな。」と矢代は、人があたりにいないのを幸い、東野にだけ聞えるように云った。
「活眼はこの友松だよ。」と東野は云った。
「これはまだ象眼を脱けたばかりだ。」と矢代は一寸云い返した。
「いや、これを象眼と見るのは、君の眼が光琳の涙にうるんでいるからさ。たしかにこの友松も素晴しいよ。第一、これは非常に純粋だ。」
 海岸に網が干してあって、その上から帆のかからぬ柱が二三本見えるだけの、簡単な、直線の部分ばかりで構成された白描風の屏風絵だった。
「しかし、これは十の字を描いて、これこそ一番純粋な絵だという、例の、そら、モンドリアンだ。誰にでも純粋に見えるところを、純粋にして見せただけの工夫でしょう。」と矢代はまだ東野に譲らなかった。
「しかし、この時代にこれだけの絵画理論を結晶させて見せただけでも、ピカソだよ。しかも、あの網目の直線と柱の交錯を見なさい。それに一寸、松の枝ぶりの柔い線を配してある結構なんて、ちゃんと伝統も失っちゃいない。これが活眼というものだよ。実にはっきりと、美しさというものの本質を見極めているのじゃないか。」東野の振り仰いでそう云うのを、少し真紀子に味方をし始めて動いてきたなと、矢代は思った。
「もっとも、僕はこの干網に失礼はしたくはないが、こうして、傍に光琳のあやめにいられちゃね。」
「光琳のは有るべき難しい肉を払い落しているよ。同じ肉を落すなら、初めから網や柱を選ぶ方が、徹底している。頭のいい絵さこれは。」
「まア、どっちも人間が一人もいないから、美しくなったのだなア。」矢代は、ともかく云わせて貰っただけの有りがたさを絵から感じ、ベンチを立った。
「うむ、それそれ。」と東野も烈しくもならず、気に入った笑顔で矢代の肩を優しく叩いた。「これはどっちも、描き良いのだよ。僕等は物云っては腐っちまう、人間のことばかり書かなきゃならんのだからね。」
「いや、腐るもの、それが良いのだ。」
 矢代はそう云いながら、ほの暗い仏像の並んだ次の部屋へ這入っていった。ここではもう争うものは一つもなかった。群った男体女体の美しい仏たちの前を通り、曲った胴の剥げ落ちた胡粉や、ちらりと唇に残った紅の艶から、矢代は、やがては腐るもののおびただしい視線を吸いとって来た年月の、ある恐怖を誘う云いがたく静かな水水しさを感じるばかりだった。
 博物館から四人が出て来たときは、まだ門前の椎の嫩葉に光が射していて、芝生の色の明るい方へ自然に足が動いた。東野は夕暮から出席すべき会があるというので、そこで別れて地下鉄の方へ真紀子と降りていった。矢代は千鶴子と陽のよく射した茶店を選んで赤い毛氈の床几に休んだ。どちらも疲れて黙っていた。そして、茶と鶯餅とを貰ってからそこに二人で並んでいると、矢代は何か急に老人じみた感じを覚え、またそれが却って一種ほがらかな、ゆったりとした気分になるのだった。
「ね、君、ちょっとお爺いさんお婆アさんになったみたいで、いいな。」
 言葉もなくぼんやりと額に手を翳し、芝生を見ていた千鶴子はふふと笑った。
「芝生まで何んだか明るく見えるもの。」
「ほんとにね、お仏さんを沢山見たからだわ。」
「博物館を出て来ると、誰も少しは浦島太郎になるのかね。」
 矢代はかるく鶯餅に手を触れてみて、こういう微妙な触感のものなど外国には一つもなかったと思い、めでたい感じで摘まんでから指先の粉を擦り落した。尖塔に似た博物館の屋根がはっきりと白く浮いていた。それはこうして離れて見れば見るほど、争われずカソリックから影響を受けた建築に見えた。
「ね、あの屋根、サクレクールそっくりでしよう。」と矢代は粉のついた指で尖塔を指した。
「そうね。一番似てるわ。」
「僕らの外国へ行く前にはあれはなかったんだが、こうしていつの間にやら、みんな集って来るんだなア。」
 彼は尖塔を眺めているうちに、ふと傍に並んでいる千鶴子が松濤の木椅子の上で洩した言葉を思い出した。
「君はさっき松濤で、何んだかしら恐いと仰言ったが、別に恐れる要はないですよ。あのようにだんだんなっていって、中にはお仏さんもちゃんと並ばれるようになるんだもの。何んでもないさ。」
 しかし、千鶴子はやはり黙っていた。矢代は鶯餅をまた一つ摘まむと、仏像の唇に滲んだ艶も指さきにつくように覚えお茶を飲んだ。緋色の毛氈の反射が赤赤と顔を染めるようだった。そして、自分の花嫁はまだ何かを少し愁いながらも見事にその上に坐っているのだった。

 九時の夜行で矢代は九州へ発った。
 千鶴子の家との結納もすませた四日目で、駅へは母と幸子とが送りに来た。あれほど一緒に行きたいと云った幸子も、このときは、一言もそれを云い出さずに留守居を我慢したのも、行くさきに千鶴子兄弟のいることを察した兄への同情であった。矢代は京都へは九州からの帰りに寄りたかったが、間もなく欧洲へ出発するという由吉の京都勉強のため、彼と一緒に千鶴子と槙三とが昨日東京を発って、途中伊勢の山田で一泊している筈だった。自然に四人は京都で落ち合う順序になっていたが、それも矢代から云い出したことではなく、出発まであまり日数のない由吉から云い始めたこととて、矢代ひとり日を狂わすことは出来なかった。また京都へは、由吉一行のみならず、塩野や佐佐、その他須磨の夫人のもとへ行く東野も、前後して来る模様もあった。
「あなたのお手紙のことなど、兄にも話しましたら、兄も心配そうに考えておりましたが、それでは僕と一足さきに、山田へお参りに行こうよと、そんなに云ってくれました。」
 と、千鶴子の手紙にもあって、矢代は、磊落な由吉に似ず適当なその注意に、自分が三人より日を遅らせて行くことも、これで有意義になったと思った。
 父の骨を小さく分骨にした二つの箱はスーツの中に入ったので、これを寝台の頭の傍へ置いてから彼はホームへまた降りた。母とは別に話すこともなかった。ただ彼は、いま少し母と妹との京都行きを自分からすすめるべきであったかと思われたのも、それを強く主張出来がたかった事情に対して、なおまだこのときも気弱く感じるのであった。母としても、良人の死のために結婚の日取りの延びた子の矢代を気の毒がり、こうしてひとり彼に良人を頼んだ配慮のあったことは、黙って並んでいる間も母子二人の胸に通って来た。おそらく母も、良人の骨を見送りに来ているとはいえ、一つは、子の新婚の初旅に出ようとする祝いをかねた心もあろうことなど、傍の幸子をひき据えて黙らせていることにも顕れて、常の旅とは違い、矢代は気まりも悪く寂しくも感じた。
「それから九州のお寺の方にも宜敷くね。」
 母は思い出したという風に、ぽつりと矢代に云っただけだった。彼は頷いた。そして、外国から帰った夜、ここへこうして彼の降りたとき以来、初めて母と並んでいるこのホームだと思うと、そのとき母の前に立っていた父が、自分を見つけて「あッ」と小さく唇を開けた瞬間の顔が眼に映った。人の散って行くホームに残った黒い鉄柱の足影が、過ぎゆくものの落した姿のようにさみしく朧ろに霞んだ。ホームの屋根の間に満ちた薄霧の中に光線の川が流れていた。その下で、箒を持って動く駅員の姿が、漂うひとときの哀愁を掃き集めているようで彼の眼に沁みて来た。
「じゃ、ちょっと行って来ます。」矢代はベルの鳴り出したとき母を見た。
「お頼みしましたよ。気をつけてね。」
 母の後ろで笑っていた幸子の顔が泣き出しそうに緊った。矢代は踏段に足をかけたまま二人から遠ざかっていった。寝台に戻ってから車内の鎮まるまで、彼は上衣も脱がず暫く長くなっていた。頭の傍のスーツの中の父と、先日東野の持って来てくれた結納の金糸銀糸の鶴亀が、辷って行く車の方向に多忙な犇めく混雑を感じさせたが、間もなくそれも、トンネルを脱け出る空を見る思いで、次第に明るく展けてゆくのだった。
 箱根をぬけ沼津へかかったころから彼は眠くなった。しかし、彼はうつらうつらと眠りながらもまだ何かしきりに考えている自分を感じた。明朝は早く眼を醒さねば困る。夜の明けるのは琵琶湖の見え始めるころだとすると、少くとも石山あたりで起きていなければ、すぐ逢坂山にさしかかる。父の成就させたそのトンネルだけは、どうしても父の骨に見せねばならぬ。――こんなことを考え考え彼は眠っているのだった。ときどきはっきりと眼が醒めることもあったが、車内を見るとまだやはり夜中だったりした。一度眼が醒めると、寝つくのがまたなかなか厄介で、出発前に気にかかっていたことなど、あれこれと思い出したりした。
「まア、君もお金が沢山あったところで、結婚すれば、遊んで暮すということはしない方がいいですよ。だから、君、久木会社へ入社しなさい。席だけ入れておけば、後は僕が何んとかする。」
 結納を携えて東野が来てくれたとき、親切にこう彼に云ってくれたことなど、矢代は眠つかれぬままその処理について考えた。このことは彼にはかなり重要な問題で、考え始めると眼が冴えてゆくばかりだった。
「僕にはお金などありませんよ。ですが、久木さんの会社へ勤めるといっても、僕などあそこの会社にとっちゃ、ただ邪魔するばかりで、不用な人物になるのが落ちですからね。それじゃ、気の毒でしよう。」
 と、矢代は有耶無耶にそのとき答えたが、いつもの癖で、東野は彼の思惑など頓着せず、まア、入れ入れという鷹揚さで、勝手に矢代の入社を定めてしまったらしかった。矢代も拒絶するとなると父と、久木氏の関係を話さねばならず、また話したとてそのような矢代の特殊な困惑など他人に通じさせることは無理にちがいない種類のことだった。久木氏のことで死を導いた父のこの骨箱だとしても、それが誰があり得べきことだと思うだろうか。
「何も勤めるといっても、毎日出勤する必要はないのだよ。君は今の仕事をそのまま続けていて、少しも差しつかえはないのだし、またそれには君が入用な人物だというのだからね。」
 そういう東野の話しぶりでは、久木会社というような特殊に尨大な会社では、その中にまた自ら社長専用の小さな特殊世界というものがあるらしく、そこでは会社の用務に不向なものばかりを集めた研究生を必要とするのだとのことだった。それも久木氏個人の趣味と見え他の会社には存在しない、無用の用を弁じる性格らしく社長と社員との関係さえもない。随って矢代の入社も今は他のことは考えず、東野個人の顔を立てれば良いという簡単な処理で決定する風なものだったが、それにしても、絶えず父の死の記憶の蘇って来る久木会社へひたることは、人には語れぬ苦痛の焔を背中に燃しつづけるようなものであった。しかし、それもこれも、今は仲人の東野の気苦労な裁量で、定ったと同様な状態になってしまっていた。
 草津の駅を越したころ矢代はもう眼を醒した。すぐ石山にかかると、湖の上に曙色がさして来て、比叡の頂が薄靄の中に染って見えた。彼は洗面を急いですませてからまた寝台に戻り、人に見られぬようにカーテンを締め降ろして、スーツから父の骨を出した。大津の街は湖に包まれ夜明けの白い湯気を立てていた。矢代は半身を起したまま、白布の骨箱の一つを両手に捧げるようにした。湖の色が山際に傾きよったと見るまに、流れ込む水のように轟きをたてて、車窓は逢坂山のトンネルに入っていった。矢代は臭気の籠った煙のまい込む生温さに、のしかかって来ている山梁の部厚さを覚えた。またそれが、父の骨骼のようにも感じられると、骨箱の角を握る手も、ぽッと明りの点いた一点の音を捧げているようだった。
 父の微笑していた顔があたりの闇の中に大きく浮んだ。それは額縁の中の父のようでもあれば、夢に見た動かぬ父の顔にも似ていた。駈け通って行く車内の流れが、ここだけは父のその顔を中心にいま風を切っているのだった。矢代は白布に押しつまって来る時の迅さを感じ、父の仕事のすべても、こうして自分を運ぶものに変えられているのが、暫くは何んとも奇妙な有り難さとなり、湖の水色も巻きこめた澄み細まった気持ちともなって、空明りの射して来るまで彼は呼吸を忍ばせた。間もなく、山科の平野は雲に蔽われた牛尾山の裾から開けて来た。彼は水車の雫の飛び散る川添いの垣根に、赭茶けて崩れた泰山木の大きな弁を眼にすると、父の骨箱をスーツに入れた。
 昨夜は雨と見えて京都の街の瓦はまだ濡れていた。矢代が京都ホテルに着いてから名簿を見ると、千鶴子たち一行はもう着いていた。矢代は朝も早すぎたので誰にも会わず、すぐ自分の部屋で湯に入った。そして、少し寝不足を補ってから十時ごろまた起きた。出来れば彼は午前中に納骨を済ませたいと思った。
 矢代が下のロビーへ降りて行ったとき由吉と千鶴子、槙三の三人は茶を飲んでいた。退屈そうにパイプを啣えている旅馴れた由吉の傍で、下唇の赧い槙三は、制服のまま人の好い微笑を泛べて黙っていた。千鶴子はエレベーターを出て来た矢代を見かけると、小腰を浮かせ片手を上げて笑った。矢代は寝不足の恢復で卓上の紅茶の湯気が新鮮に見え、折よく霽れて来たことを口にするのも実感が籠った。彼は槙三と会うのが久しぶりで特に彼の微笑した眼差が懐しかった。昨日は伊勢から長谷寺へより、奈良から夜遅くこのホテルへ着いたことなども、彼の話から推測するのだった。
「どこがお好きでした。」と矢代は槙三に訊ねた。
「伊勢でしたね。タウトを読んだせいか、内宮は立派だと思いました。」
 黙っているくせに、話すとはきはき発音する槙三の態度を、いつものように矢代は好もしく感じた。殊に数学を専門にする槙三のような学生が、大廟に参拝して来て感動を顕わすのを見るのは、杉の葉の匂いに拭き洗われて来た体を見るようで、一層この午前が爽やかだった。紅茶の間、今日の行くべき所を四人で相談した。由吉は案内役の知人が正午前に来ると云うので、昼食時の落ち合う場所を定め、矢代はそれまでに西大谷の納骨をすませる予定を話すと、千鶴子も一緒にそちらへ廻りたい旨申し出てくれた。槙三は午前中は博物館を見たいと云うことだった。自然、矢代、千鶴子、槙三の三人が同じ方向になった。
 由吉と別れて三人が自動車に乗ってから、骨箱を膝にした矢代の両側で、暫く千鶴子たち兄妹は黙っていた。矢代は三人が結納のためいつか親戚になっている真新しい今日の事実も、ふと思うと、まだ嘘のような物足りぬ感じだった。しかし、この前こうして三人で会ったときより、親しさの濃度は争いがたく深まっているのも、却って、槙三を見る矢代の胸に遠慮の増す思いもつよくなり、彼はそれを素知らぬ風に装うにもとかく羞う気持ちさえ感じるのだった。実際、何かしら変っている一同の沈黙だった。
「いつか千鶴子さんからうかがったこと、ついそのままになって失礼しました。どうも僕には、あの集合論のことは難しくって――」
 矢代は横浜で東野らの船の入港を待つ間に聞いた、千鶴子が槙三から依頼されたという幣帛の切り方と集合論の相似の件につき、そのまま返事を遅らせていた自分の無沙汰を思い出して詫びたのだった。
「ああ、あれですか。」
 槙三も思い出したらしく笑った。
「ああいうことは、僕は、ただの暗示があるということだけでも良いと思うのですがね。馬鹿らしいと思えば、もう何もかも馬鹿らしくなる種類のことなんだからなア。」
 骨を抱いた身で、もう今は云うまいと努力しながらも、返事を遅らせた責任上、矢代はそれだけ云って今日は終りにしたかった。
「しかし、あのことは僕らにとっては、ただの偶然事だということだけでも、一つの点になるのです。何ぜかと云いますとね。」
 と槙三は矢代の方に向き変って来ると、曖昧さを赦さぬ青年らしい活き活きした眼もとで云った。
「僕の今、一番に困っていることは、数学の公理というものは、どこを信じていいかということなんですよ。例えば、平面上の三角形の内角の和は二直角なりという公理と、球面上の同じ三魚形の和はそうではないといった公理とか、また、二つの平行線は相交らぬという公理が、無限の向うでは相交る公理になるとか、そういう風な数学上の根本の公理が、一つが正しければ他は不正だという風に、公理ではなくなって来ている場合のことに関して来ると、非常にもう困るのです。そうすると、やはりどうしても、僕はもう信仰を持たなくちゃおれないのですよ。僕は一番単純な公理を信仰しようと決心しました。それは伊勢でですが。」
 単刀直入といいたい明快さで、槙三はそう真理の問題に関して云った。矢代は膝の上の骨箱のことも忘れた。まことに一つの公理が二つになるという単一性の分裂に際して、その一方を決意しなければおられぬ数学者の行動には、今まで矢代の聞かない新鮮なものがあった。思考というものを心情にまで高めなければ、生の意義はない、と悟ったパスカルに似ている。
 またそれは数学のみに関したことではない、万事精神の世界に共通した真理の分裂に関する、今日の日本人の決定的な問題にも迫っていた。
「虚無的になれば、どんなに深かろうと結局は、どこまで行っても虚無的だろうからな。しかし、それはあなただけのことじゃないですよ。」
「そうです。それは虚無的になれば、どんなに深かろうと、何もないということですよ。」槙三はわが意を得たと云いたげに眼を光らせた。
「それで僕も、あなたが幣帛の切り方に注意されたのがよく分りましたね。しかし、むつかしいなそれは。」
 矢代はこう云いながらも、この槙三という兄を持ったカソリックの千鶴子が、傍にいて、これで初めて何か得たにちがいないと思い、また異う一方の部分を喜ぶのだった。
「幣帛が集合論に似ているということは、僕にはただ偶然だっていいのですよ。それで先日もお訊きしたかったのですが、今の数学は集合論につきるといってもいいのです。それも、この集合論の公理は逆説が逆説を生んで、真理が何んともならなくなって来てるんです。またその逆説がどこで停止するかも分らない有様なんですからね。実際、数学もこうなっちゃ、僕らはどこに信頼すべきか分りませんから、僕は苦しくってたまらなかったんですが、もう僕も覚悟を定めました。それでなければ、僕には自由な零というものが分らない。」
 悲槍に静まって行く槙三の面にも、乗り出て行くものの微笑がおだやかに漂って澄んでいた。疑うならば、公理を信じることを誓う場所を、どこにしようとも同じである。しかし、それを信じるからには伊勢にしたいと願った槙三の意気には、数学よりも幣帛に思いを込める祈りの高まりが感じられ、パスカルのように以後この青年に対う困難な勉学の場所も、矢代には推察された。それはもっとも攻撃に満ちた困難な道のうちの、また特別に難事な場所であった。矢代は、そこでまた微笑をつづけて行くであろう槙三を想像することは、何より今日の心愉しい、みやびやかなことだと思った。その平和なみやびやかさが良いのだと思った。
 西大谷で矢代と千鶴子は車から降り槙三と別れた。蓮池に懸った石橋を渡って納骨堂の石段を登って行くときも、矢代は稀に見る槙三の端麗な精神について千鶴子に賞讃した。千鶴子も槙三を認められたことが嬉しいと見えて、一家中でも彼がもっとも義理人情に厚い人物だと云って、家庭内における槙三のおだやかなことや、孝行者で不平不満を少しも云わぬ性癖のことなどを話した。
「そういうのこそ、知性のある日本人というのだなア。」
 矢代は広広とした横幅の石段の磨滅した傾斜の部分を選びながら呟いた。敷石の隙間に幼い草の芽が見えていて、日光が二人の影を鮮やかに段ごとに倒し、石の肌まで暖かそうな景色だった。
 矢代は寺務所で父の戒名を書きつけ骨箱を渡してから、本殿の方へ廻された。本殿と一番奥の霊屋との間の庭は、一町四方の緩い傾斜を見せた正方形で、真白な砂を敷きつめた単調さの中央に、正しく帯のように霊屋の正面まで石畳が延びていた。仏具のない寝殿造りの神社に似た霊屋は、照り輝く砂の白さに調和した破風の反りを波うたせ麗しかった。まったくここだけは、平安朝の姿をひそかに残した閑寂な明るさに満ちていた。庭の背後の杜の中から鶯の声も聞えた。
「ここはこれから、ときどき来たくなる所だな。」
 平坦な砂の中に立って矢代は、邪魔するものの何もない空を仰いだ。空を真近く呼びよせた砂の白さの中では、千鶴子のぴったり詰まった黒い服色は、光を吸いこみ、ネットの紅の一点がなまめかしい匂いを放つようだった。
「お父さん、あそこへお入りになるのね。」
 千鶴子は霊屋の方に向いたまま、うらうらとした光に眼を細めて云った。「お父さん」と何げなく云った千鶴子のその呼び方に、矢代は一瞬、ま近に迫って囁くような新しい呼吸の温もりを感じた。それは何んとなく、運命というものの顔を不意に見たようで、もう一度見たいと希っても、再びは見られぬ初初しい温もりに似たものだった。
「あそこは霊屋だから、先ずあそこだろうが、地下室が素晴しく広いらしいんですよ。」
「でも、ここなら京都へ来るたびに、お詣り出来ていいわ。来ましようよね、ときどき。」
 本堂の方から誦経の声が聞えて来た。多分父の骨に上げていてくれる経にちがいなかった。二人は本堂へ引き返してみると、如来の立像図の周囲に烈しく後光の射した掛軸が垂れていて、その前の三宝の上に父の骨箱の白布が小さく見えた。矢代たちは僧侶の後に坐って誦経のすむのを待つのだったが、待つ間彼は掛軸を見ていると、金色の後光の放射がつよい線で出来ていて、軸からはみ出しあたりを突き射すような勢いこもった漲りを感じた。その中央の如来像も素足を踏み出すように宙に浮き霊屋の方へ人を誘う眼差しつよく、颯爽とした凄しさがあった。そして、もうこのあたりは悲しさは影もなく、見るもの一切が明るくのどかだった。誰もここでは、これで先ず安心と思うように出来ている空気に、矢代は感服し、自分も何に安心したのかきょろきょろ周囲の様子を見廻すのだった。
 誦経がすんでから、父の骨は三宝に載せられたまま、僧侶の手に運ばれてすぐ霊屋の石畳の方へ渡って行った。黄色な袈裟懸の袖の動くその方へ、矢代と千鶴子も急いで靴を履きついて行った。しかし、父の骨は、
「お前たちまだ来るな。」
 という風な、突きとばす迅い足もとで、素気なく石畳の上を渡り、霊屋の中へ消えて行くのだった。矢代はもう追っつけず唖然として遠くから三宝の上の白さを望みながらも、それでもまだ霊屋へ急いだ。
「迅い足だなア仏さんは。おどろいた。」
 人気のないひっそりとした霊屋の前で、矢代は賽銭箱に銀貨を落し、お辞儀の暇も急がしい気持ちにされるのが不服だった。父の骨は一番上段の扉を押し開いて見えなくなった。危く矢代はそれも見脱しかけ、やっと眼で父を追い送ってから、虚ろなまま立っていると、早くもそこへ空になった三宝を捧げた僧侶が戻って来た。そして二人の前を顔も見ず、すたすた行き捨てて石畳の上を渡っていった。
「なるほどなア。」
 と、矢代は思いあたる所があってこう呟いた。
 ここでは生きた人間のことなど憂うるのが愚かなことだ。見捨てられて行くのこそ逆に生への歓びと感じるべき筈の所だと思い、彼は爽爽しい思いを恢復してみて、もう一度賽銭を投げ直した。壁のない堂内の、透けた閑寂さの中に立った柱の細みも、背後の森の青さに射し洗われ板間に映るように美しかった。吹きぬけの向うで、杉の巨木の肌に流れた樹脂の艶が自然の潤いに見え、万事ここではこうして仏から放れた清潔さを保っているのが、自然に僧侶の心さえ変形させているのだろうか、神官に似たあんなに無表情な沈黙に僧を還らせるのも、ふとこぼれた人間の情かもしれない。
「これで僕も安心した。」
 と矢代は今度は、物足りた気持ちで、日の射す砂の方へ向き変った。霊屋の前から離れて行く二人の靴音が、石畳の上に響くのも、このときは生きているものの権威さえ覚えしめ自分の耳にはっきりと聞えた。渡殿の廊下をくぐり、また街の方へ向って勾配のある坂を下るときも、思わず胸を反りたくなる晴れやかな一望の眺めだった。
「あたし、お伊勢さんへお詣りして、良うござんしたわ。鶏もいるんですのね。あそこには。」
 石段を降るとき、ハンドバッグをかかえ込み、黒の手袋をはめながらそう云う千鶴子の自然さが、矢代には、もう諛いも含まぬ声に聞えて頷いた。前から彼は、階段を下るときの、千鶴子の膝の伸び降りて来る表情が、好きだったが、今もその膝が眼につくと、翌日また別れてひとり旅だつ自分の九州行きが怪しまれ、今夜東京から集って来る塩野たちの賑やかさを脱すのも、約束甲斐のない無聊なことと思われるのであった。
「京都を見るのは早くて三日はかかるだろうが、明日からはまた賑やかなことだな。」
「お発ちは明日ね。」
「朝発つと、次の日の今ごろは、お寺詣りをしているころでしょう。」
「もう一日お延ばしにはなれませんのね。」
 あらかじめ寺への通知もしてあることとて、それは出来ないと彼は答えた。そして、千鶴子と二人ぎり会っていられるときの間も、後一時間あまりの昼食までかと思うと、矢代は並んで降りて行く石段の美しい広さも、短かく惜しまれて急がなかった。巻藁の筒から滑らかな赤松の枝が延びていた。築地の間を下から拡りよって来る池の蓮の葉の群がりが、役目をすませた自分を待ち受けてくれているように、姿を崩さぬ慎しやかな丸みに見えて至極のどかな感興が湧いて来た。
「九州行きも、何んなら、あなたを誘惑して行くべきなんだが、まア、この度びは遠慮をした方が良さそうだな。」
 と彼は太鼓橋の欄干に膝をつけて笑った。
「あたしはお伴してもいいんですのよ。でも、何んだか皆さんいらっしゃるし、それに、あなたのお宅の方にいけないと思うの。どうかしら。」
 千鶴子のそう云いかねているのとは反対に、矢代の場合は、二人の結婚を許可してくれた千鶴子の兄たちへの礼儀も忘るべからざる今の心得だった。しかし、伴に行きたい気持ちの匂い出るのもまたやむを得ず、結局は一人で行くことに落ちつくのも瞭らかだのに、暫くは微妙に押しあい跳ねあうよじれも、無駄につづく今の沈黙の始末だった。
「どうなすって。あなたが良いと仰言れば、あたし、そうするんだけれど。」
 千鶴子も橋の反り上った石から動かず、笑顔の消えた迫り気味の表情で彼に訊ねた。
「いや、やはり一人にしましよう。」と彼は答えた。
「そうね。」
 千鶴子は短く安心したひと言で決したようだったが、まだ何か、思いの残る風情で水面に動く鯉の輪を見降ろした。矢代はともかく昼食に落ち合う一休庵のある方へ車を探した。二人は丸山下で降りてから公園の中へ入っていった。夜桜はもう葉桜となって無数の糸を垂らしていた。姿の良いその幹を右に眺めながら、また少し登って池を越え山手へかかってから、二人は自然に道の細まる方へと足が動くのだった。

 夜になって塩野と佐佐が東京から着いた。その後一時間を隔いて東野がまた来た。矢代は始めは皆から離れひとり出発するのをさみしく感じたが、落ちついて旧蹟を観るのは、やはり一人か二人の方が良いと思い、また父の骨を持った身で皆の歓びの中に混じるのは気もひけることとて、予定を変更して滞まる気にはならず、翌朝そのまま出かけることに決めた。
「とにかく、出来るだけ早く納骨をすませてから、また来るよ。僕のは葬式の延長だからね。」
 こう彼はひき留める塩野たちに苦しく云ってはその場を切りぬけた。夜も皆の行き先きの料亭から、塩野と槙三、千鶴子と彼の四人だけ先に早くホテルへ帰った。東京でもすでに海外版の写真で活動を始めていた塩野は、明日からの京都の旧蹟を撮ることに、今から愉しみぶかい興奮を示して絶えず活溌に話したが、矢代だけは明日の別れもあり、また皆のものを京都へひき出したこの度びの責任の回避も覚えて、とかく沈みがちに気重くなるのだった。ホテルの自室へ戻ってからも、翌朝の出発を今夜の夜行にすれば九州からの戻りも一日早くなり、それなら帰途京都へ着くときもまだ一行に会われそうな余裕もありそうだったので、ためしに一応駅へ寝台の問合せを頼んでみた。すると寝台も一人ならまだ工面が出来るとのことだった。時間を見ると、その列車は後二十分より間がなかった。二十分では躊躇もされたが、それはまだ遅すぎるわけでもない間に合う時間だった。
 彼は荷物をあわただしくまとめてみて、千鶴子の部屋へだけ行ってみた。
「僕ね、このすぐの夜行にしましたよ。皆さんに黙って行きますから、あなたから宜敷く――」
 帽子を手にした矢代を見ると千鶴子は、不審しそうに黙って立ち上った。
「これで行くと一日早く戻れますからね、それだとまたここで落ち合えますよ。じゃ。」
 矢代は答えも待たず部屋を出た。彼の後から廊下を随いて来た千鶴子にエレベーターの口で彼は手をさし出した。力も緊って来ない弛んだ千鶴子の手をまた彼は振った。
「僕もびっくりしてるんですが、とにかく、寝台があるというもんだから、逃せない。あなたはゆっくりしていて下さい。」
「じゃ、電報下さいね。」
 千鶴子も初めて納得したらしく彼と並んで階下へ降りて来た。駅から遅く一人で戻るものの気苦労も際し、見送るという千鶴子を無理に回転戸のガラスの前で止めたまま、ひとり矢代は駅の方へ車を走らせた。
 夜行にはまだ五分も間があった。躊躇することなくば急場の無理も調子よく行くものだと、ほッとした気持ちで、彼はすぐまた旅臭い寝台でひとり寝る準備にとりかかるのだった。このような急がしさも幾回もやったものだったが――彼はヨーロッパの見知らぬ山中での不意の乗り替えや、出発の際の危い佗びしさを思い出したりした。そして、落ちつくと初めてまた彼は旅への郷愁をつよく覚え、身にせまりよって来る空や水の、拡り流れてゆくさまを胸痛く惜しんで眠りがたかった。
 次の日の朝眼を醒すともう関門海峡にかかっていた。矢代は海峡を渡り門司から裏九州の方へ支線を廻って行って、父の郷里の駅へ着いたのは、正午を少し過ぎたころだった。そこから再び一時間もバスに乗り、終点で停ってから、また約半路ほども歩かねばならなかった。前に彼の来たのは少年のころであったから、行く路傍もうろ覚えの程度でときどき目的の村と寺の名を尋ねた。海から続いて来ている川添いの土手には、背の高い芒がのび茂っていて眼路を遮った。桑畑や麦畑の間から山が見えて来たとき、矢代は鋤を肩にして通りかかった四十年配の農夫に、
「城山というのはどの山ですか。」
 と訊ねてみた。低い幾つもの峯が平野の方へ延びて出ている中央の、一番高まった峰をさして農夫はあれだと答えた。寺へ着いてから村人たちの出て来てくれた後では、彼の想い描いていた場所をひとり静かに歩いてみることも出来そうになく、まだ知られぬ今の間に、彼は先祖の呼吸し、眺め暮して滅び散った館の跡を見て置きたいつもりであった。田の中の路の四つ辻の所に石地蔵があって、その傍に駄菓子屋が一軒見えた。矢代はそこで駄菓子とサイダーを買ってから、荷物のスーツを一時預かって貰うことにして、父の小さな骨箱だけを携げ山路を登っていった。
 城山は馬蹄形の山容で、部厚い肩から両腕を前に延ばしたその真ん中の、首の位置にあたる場所に、谷から突っ立った高い平面を支えている石垣が望まれた。そして、遥かに右の後方には、突けばぽきりと折れそうな鋭い山が薄紫の頭を出していて、右手に廻った一帯の山脈は、屏風に似た岩石の成層で、角を明るく日光の中に照り出していた。
 路はしだいに細まり険しくなった。矢代は汗をかきかき雑草を靴で踏み跨いで歩いた。屈曲して行く路の角角で下を見ると、青い実をつけた蔓草の中から海が見えたりした。柏や小松以外は灌木が多く山路は明るかった。矢代はいつか読んだある歌を思い出した。それは誰の歌だったかもう忘れたが、やはり父を亡くした人の歌で、いつか自分にもこのようなときが一度来るなと思い、そのときのことを想像して和歌の雑誌の中から、その一首だけを覚え込んだものである。多分作者は地方の無名の人だろう。
「葬路の山草茂み行きなづみ骨箱の軽さに哭かんとするも」
 彼はこれを繰返し手にした骨箱を一寸振ってみながら、今自分にもそれが来ているのだと思った。
「山草茂み行きなづみ――」
 実際それは丁度この歌の通りで、この文句をどこかに覚え込んでいたためばかりに、自然にこのようなことをしてみたかったのかもしれなかった。しかし、彼の父の墓場がまだどこだか分らず、それまで父と一緒に、先祖の憩う姿を彼は見て置きたかったまでにすぎなかった。
 草の中に石垣が多くなった。そして、山の上近くかかったとき、枯松葉にまみれた巨石があたりに散乱している平坦な場所に出た。彼は薄青い乾いた苔のへばっている石の面へ鼻をつけたり、爪で掻いてみたりした。羊歯や蔦蔓の間から風化した切石が頭を擡げていた。肩の部分にあたる山梁を廻ると、小高い頭の位置の所に黒松が群がり茂っていて、梢をかすかに松籟の渡るのが聞えた。谷から迫りのぼって来ている石垣も崩れ曲み、今も石垣とは見えずゆるみ拡った隙間に朽葉や土が詰っていた。
 矢代は頂きの石の上に腰を降ろして休んだ。黒松の幹の間から海の見えるのが、ここに棲ったものの今もなおする呼吸のように和いだ色だった。葛の葉や群る笹の起伏する上から遠ざかったむかしのころの面影を想像してみても、たしかにここには、父に繋がるもののかつて刻んだ労苦の痕跡が感じられた。彼は骨箱を松の枝にかけて暫く耳をすませてみた。しかし、今の矢代に通い匂って来るものは、峯から峯をわたって来る松風の音ばかりだった。それはもうむかしの響き轟いた矢筒の音でもなければ、叫び斃れるものの声でもなく、肋骨の間を音もなく吹きぬけて行くような、冴えとおったうす寒い、人里はなれた光年の啾啾とした私語であった。
 矢代は城砦にあたる外廓の一つ向うに見える翼形の峯を瞶めた。そこは、陣形として山容を眺めているうちにも、自然に彼の視線を牽きよせる高みの場所だったからであるが、何ぜともなく彼はそこを中心に、攻め襲って来たカソリックの大友の軍勢を想像するのだった。その軍勢は裾の薄氷のような白い塩田の方から進んで来て、黄褐色の大軍のざわめきとなり、泡だちあがって城を包囲し、外廓の一翼のあの峯を占め取ると、そこへ日本で初めて使う大砲の筒口を据えつけた。そして、新鮮な一弾の谺するたびに、崩れ落ちる白壁の舞い立った場所は、おそらく自分のいるこのあたりの平坦な一角だったにちがいないと思った。雪崩のごとく逃げ迷うもの、飛び散るもの、刺し違えて斃れるもの、それらの乱れ叫ぶひまひまにも、そのとき、この松風の音だけはここで続いていたことだろう。
「あたし恐いわ。何ぜかしら恐いわ。」
 矢代がこの城の終末の歴史を告げた直後、こう千鶴子の云った愁いげな松濤の木椅子の上での言葉を、今も彼は思い出したりした。しかし、千鶴子の恐れているものも、この松風の音にひそんだ年月の声のようなものだろう。そして、遠くあのヨーロッパから押しうつって来たカソリックの波路も、この城を滅ぼし落したその筒口も、すべては今そこに見える日の射した海の色の上に浮んで来たものであろう。
 枝に吊った骨箱の白布が、黒松に浸み入った山気をひとり吸いとって寂然と静かなのが、見ている矢代の眼に痛く刺さって来た。彼はまたそのあたりを歩いてみた。石垣の隙から蜥蝪が一疋逃げ出すと、それも意味ありげで彼は立ち停って眺めた。

 山路を下る矢代の足首に草の実が附着して来た。灌木の葉越しに見えた海も消え代りにまばらな人家の障子が浮き出て来た。はっきりした鮮かさで、山影の薄日を吸った純白なその障子の糊あとを芯に、平行して来る田畑の線は見事だった。垂直に立ち揃った森の幹が、磨き減った胴緊りに細まり、何事か祈りのこもったような谷間の中の路である。
 矢代は苗の鋭く伸びた明晰な山峡のその路を、父の骨箱をさげ辿って行くうち寺へ着いた。二十数年にもなろうか、この寺の門は彼の見覚えのあるものだった。甍もゆるんだ傾きで、風雨に洗われた柱の木理も枯れ渋った隙を見せ、山道の嫩葉に触れた門から中の方に、白藤の風に靡くのが一本、静に過ぎる晩春の呼吸をしていた。
「まア、ようお帰り下さいました。さアさアどうぞ。」
 見たこともない寺の主婦は、気軽く彼を方丈へ上げた。矢代は寺への挨拶というものをこれまでにまだ経験したことのない旅客だと自分を思った。
「もっとお早うにお着きになることと思うてましたが、――まア、こんなむさ苦しいところで。」
 帰るべきものが帰って来たという鄭重さの籠った寺の主婦に対い、まだ矢代は、携えて来た父の骨箱の背後に隠れるような、なじみの移らぬお辞儀で、日に灼けた畳の膨みや仏壇のある本堂への通路を見た。
「どうもながらく父もわたしも、御無沙汰いたしておりまして相すみません。」
 父子二代がかりの彼の挨拶も、寺の主婦の円い笑顔を通して、本堂の仏壇へ云い詫びる気持ちの方が強かった。またさらにその仏壇の奥ふかく連った今さき降りて来たばかりの背後の城山に対って、頭を下げたい思いも深まって来るのだった。寺は裏の城山がカソリックのフランシスコ宗麟に踏み滅ぼされたのと一緒に、焼き払われ、時を見て再び建った諸寺のうち、今も残っている唯一の古寺であった。
「和尚さん今日は御在宅でしようか。」
 矢代の問いかける間もなく、急に表情を沈めた主婦は、揃えた手もとへ視線を落した。
「それが今日は命日でございまして、――あの去年主人が亡くなったんでございますよ。それでお客が今、奥に来ていて下さいますので、ごたごたいたしておりまして。」
「御命日ですか、今日は。」
 ここの和尚も矢代は見たことがなかった。主のない寺へあらためて挨拶するのにも、日の射している座敷の隅隅から、彼は自然にまだ見ぬその人を感じたい注意になった。客を両手にひかえた多忙な主婦は、中腰に奥の間へ消えたその後から、まだ中学を出たばかりの青年が一人出て来た。黒い僧服の下からきりりと締った白衣の裾の見える姿で悧発な眼鼻立ちも美しかったが、矢代への挨拶も固苦しく、押し黙ったままひょこりとお辞儀をするだけだった。
「この子が今の代になりましたので、どうぞ宜敷くお願いいたします。」
 黙り通している子の傍から母親は紹介をかね、そう云い添えて、矢代をまた奥の間へ導かせた。
 先客は二人でいずれも僧服を纏っていた。躑躅の花の攻めよせ合った奥庭を背にして、一人は肥満し他の方は小柄の大小二人、僧属に共通の眼の鋭い客である。それも揃って禅行の姿勢を崩さず、黙然として暫く矢代を瞶め笑顔一つをするでもなかった。寺の主婦は二人の客を先代の友人だと紹介したが、それでも黙り通している窮屈さに、ひとり気をかねて砕けた主婦と対して、矢代は車中や東京の話をするのみだった。卓上には饂飩の小鍋を中に銚子が一二本乗っていて、彼の猪口が一つ加えられたところから察しても、今日のささやかな御馳走の後だと分った。
「皆さんときどきお参りに帰って下さるんですよ。去年も朝鮮から来て下さいました。」
 と主婦は、彼の親戚たちの帰郷のおりおりの様子を矢代に報らせた。故郷を散り出ていった矢代一族の帰る家は、今はこの見知らぬ人の棲む菩提寺だけになったのかと、矢代は一族の宿命にひそむ旅人の性格に、鞭うたれる痛みも感じ首垂れるものが加わった。連る僧たちの気詰りな沈黙も、遂に彼を打つ鞭の音に鳴り代って静静として来るうち、矢代はふと卓上の鍋の饂飩の底から、中に鋭く溌ね混った小鯛の骨を見つけた。すると、僧形に囲まれ沈んだ魚骨の白いその崩れが、しだいにそこからなごやかな命日の息を蘇らせて、不思議と一座が暖かな日ざしに変るのを彼は覚え、また仏壇の方へと心が向いてゆくのだった。
「ここのお寺は、たいへん古いお寺だとか父から聞かされていましたが、建ってからよほどになるのでしょうね。」
 と彼は右側の客僧の一人に訊ねた。
「三百五十年です。」
 座の端からこの寺の若い和尚が、中学生らしい声で初めて答えたが、それも亡父から聞き伝えたままの素直な響きで、同じく父を亡くしたばかりの矢代には悲しく聞えた。
「じゃ、相当に古いですね。」
 弛みの出た木組ながら、この下で棲んだ僧たちも幾代も変ったことだろうと彼は思った。旅をしつづけていたものらは、矢代一族のものだけではないのであった。この座に並んだ僧たちそれぞれも、家を出て、これで釈尊の故郷を胸に描き、寺から寺へと流れわたっていた旅人一属にちがいなかった。そう想えば、旅人の集りに似た宿所となった一間とはいえ、も早や互いに惻隠の情さえ通わぬのはただ想うふるさとの相違するものあるばかりかもしれなかった。
 矢代は自分の妻となるカソリックの千鶴子の念うふるさとはエルサレムだとふと思うと、一瞬胸ふさがる寂しさに襲われたが、そこを知らぬ彼には、前に並んだ僧たちの念い描くふるさとの、釈尊の歯を埋めたと云われるセイロン島の樹陰が不意に泛んだ。むらがり立った緑樹の驟雨にうたれて雫する下に、黄色な僧服の隠見した島で、霽れ間に空に立のぼった夕茜のひとときの麗しさ、紫金色のむら雲舞い立つその凄じい見事さにあッと愕き仰ぐ幻に似た荘厳幽麗な天上の色、今も彼には忘れがたかった。
「それでは、お詣りさせて貰います。」
 法要に来ている客への接待を、そのまま和尚につづけてもらい、折を見て矢代ひとり廊下をわたっていった。この寺の本堂も、山村でよく見る山寺と違わなかったが、ここに寺のあるからは、矢代の父祖たち滅亡のさい、城とともにいのちを捨てた者ら最後の場所かとも想像された。高縁の端に立って見渡す一塊の山野の眺めは、鏝で塗りあげたような水田の枠の連った山峡の風景とはいえ、嫩葉の伸びた草叢の襞に入り籠って来たものの品種は、セイロンからの仏の流れだけではなかった。南蛮と直接貿易をしたフランシスコ宗麟が、初めて日本に大砲を陸揚げして、彼の先祖の城を滅ぼした西の浦の入江も、すぐ真近の海べだった。この宗麟や千鶴子の信じたカソリックのふるさとの、フィエゾレ聳える西方の国国も、矢代は見て来た。
「およそ惟んみるに、生きとし生けるもの、尽くみな己れ己れの志を遂げんことを歎くなり。秋の鹿の笛によって猟人の為にその身を過ち、夏の虫の灯火に赴いて空しく命を失うも、この故ならずや。人倫もなお此のごとし。さればゼススのコンパニヤたち故郷を出でて茫茫たる海に浮かみ、雲の波、煙の浪を凌ぎ今この日域に来って貴き御法を弘め、迷える人を導きて直なる道に引入れんとする事も、心の願いを達せんがためなり。――」
 いつか読んだ信者に法を説いたキリシタンの僧たちの、ここに入り込んだ初めに語ったこんな言葉も、仏教より転じた仏僧の翻訳語から弘まっていたのだった。
「みなそれぞれ旅をしているのだ。すべてのものは旅のものだ。」
 凡庸な感傷も胸を透って、庭の中央に枝を拡げた一本の銀杏の樹を見上げ、矢代はそれも同様に支那から流れ来たものだと思った。隋の霊帝の弟がこの地へ渡って、さらに一派が三浦半島に移り棲んだという記録も彼は読んだことがある。しかし、渦巻き変り、入り変りしたこれらのものの残した苦しい愛海の呼吸は、みな今見るままのこれだろうか。しかし、何はともあれ、自分はこの風景の中から出たのだった。廻り巡って見て来た地表のすべての眺めの中、この一点を坤軸として選み落された自分だった。
「ああ、どうして俺は、このパリへ生れて来なかったんだろう。」
 と、そうモンパルナスで歎息した久慈の声を聞き、その背後から、矢代は突然に突きかかってゆきたい腹立たしさを覚えたことのあったのも今思えばこの眼前の景色のためかもしれなかった。それにしても、何んと念うことの多く、することの出来がたかった世界だったことだろう。矢代は絞りよせられる思い余った忽忽とほおけた放心の底から、父を埋める墓場を探しもとめた。

 寺からの報せが届いたと見え一人二人と村人たちが来てくれた。それぞれ木綿の匂う挨拶を矢代は受けている間も、見る人ごとに顔を知らぬもどかしい感じがつづいた。
「わたしは信常さんの友達でして、ここのお寺でな、よう相撲をとりました。」
 父の名を出してこういう老人や、父とともに来たころの矢代の幼少の姿を覚えているという老婆や、彼の父と同年で、二人で青年時代に稽古した浄瑠璃を、今夜矢代に聴かせたいという人もいた。みな彼の傍へ擦りよる風にして、鼻さきに顔を近づけ物いう癖があった。また僧侶たちとは違い、どの顔も潤みを含んだ微笑をたたえていて、懐中へそっと流しこむ囁くような温情に、旅では見られぬ膨れ実った果実を盛られたようで、矢代は暫く顔の入り変るごとに挨拶に困った。しかし、あの谷この谷から集り出てくれた見知らぬこれらの人人の眼に、自分の幼い姿が刻まれていたのだと、そう思うと、野山の色が指さきに迫りよる瑞瑞しさを覚え、さし覗く顔の皺を、田畑を支え保っていてくれた台座の勁い蓮弁を見るように、黙って彼は見るのだった。
「耕一郎さん、あんたさんはわたしを覚えておいでなさりますかな。わたしはな、それ、あんたさんのお祖母さんからお針を教わりました、おかねでございまして、それ、あそこの土手で、こうしてあんたさんを抱いて歩きましたぞ。おお、もうお忘でしたかいのう。」
 手真似までして、浄瑠璃口調の失せぬ老婆に出られたとき、まだ今ものり附いていそうな自分の体温に触れる思いで、彼はどきりとした。覚えのないその枯れた肩口を撫で擦ってみたくなった。あたりに彼の体の破片が、散り蠢いている風な一室になって来てからは寺の人は遠のいて来なくなったが、村人たちは彼の周囲でまた親戚たちの話をし始めるのだった。
 矢代はこの話をされると気が詰った。父の納骨に親戚たちを呼びよせることはさして苦労ではなかったのを、それもせず急に出て来たのは、仕事を措いて出て来るもの達への遠慮のみならず、彼の見知らぬ親戚の多数と顔を合せる気苦労もあり、また他に口にはしがたい理由も少しはあった。一つは帰途に千鶴子と京都で落ち合う予定もその中の重要なことだったが、これで、さて親戚たちを集めたとなると、自ら別に矢おもてに立つ親戚もあった。矢代の父の血族の中、もっともこの村から離れることの不都合な叔父一家が、叔父の死後家を他人に貸し、遠く他郷へ出ていることから疎遠になっているのも、表面立たぬそれだけに、各家の者からは自然非難の眼を向けられずにいない態だった。なお他にも特別思案にあまることが多多あって、このたび矢代の母の出渋った大きな理由も、彼女自ら語らぬながら、想像すれば彼にも出来ないことではなかった。それはこの郷里の叔父の家の所有権で、今は借家となっている家が、名儀は叔父の長男になっているとはいえ、前には矢代の父のものであった。永らく村長をこの村の役場で勤めていた叔父の体面上、父は名儀を叔父のものとして家を無代で貸してあったそのままの折、その当の叔父が死に、矢代の父も亡くなった。このような父の美徳の後、矢代の母が出て来て骨を据え、忘れた記憶を揺り動かせば、親戚間の紛糾は火の手をあげて来る惧れもあった。
 父の死の直後、矢代は新しく自分のものになりそうな郷里の家の処理について、考えないわけではなかったが、他のこととは異りこの一事に関しては母の黙している限り、彼から表情を閃かすことは仕にくいことだった。また、母が先だって彼を動かし、父の納骨を好機に家の所有を瞭らかにすることを命じても、あるいは彼から母に反対したかもしれなかった。勿論、自分の善人を意識にしたい矜りあってのためでもなく、むしろその反対の狡智にも似た、後ろめく覚えのする彼自身にも説明しがたい感情で、強いて云えば、無責任にただぼんやりとしていたいそれだけのことと云っても良かった。郷里も知らず父の代から不在の自分が、旅の半ばで引きかえし、故郷に無理を起すのは、却って所有の思いを失うにちかく、家そのものを失っても、思いを心にとどめて行く旅の途上は、振り返る家の景色も艶を失うことがない。人の家は、それぞれこうして心の奥底ふかく一つずつ持たれて来たのは、絶ゆることのない誰もの旅の姿だったと、矢代はそう思い、村びとたちの話を聞くのだった。
「お墓のあるのは、これで、どちらの方ですか。」
 矢代は墓地のないこの寺の境内が訝しく訊ねた。
「あんたさんところのお墓はな、そら、あそこに見える山ですが。」
 傍の浄瑠璃口調の老婆が門の前方、真直ぐに見える丘を指で差した。さきから矢代はその丘をときどき見ていた。小松林のおだやかな丘の麓に見える一軒の人家が、記憶の底に残っている彼の家らしい位置だったからである。
「そうすると、あの麓の家が、僕のいた家らしいですね。すっかり御無沙汰していたものだから、夢の中のような気がしましてね。」
「あれまア、ひどいこと云いなさるわ。御自分のいられた家もお忘れで、他愛もない。」
 老婆もおどろいたと見えて、ちょっと矢代の膝を打つ手真似をしてから優しく口に手をあてた。いったいこの地方は浄瑠璃の染み入った土地とは聞いていたが、それにしてもこんなに若やいだ身ぶりの老婆の肩から自然に出たのは、幼少に自分を抱いた記憶のためかと、矢代は何ぜともなく嬉しかった。
「あんたさんのいなさった家は、今は田になっておりますぞ。」
 と、父と相撲をとったという老人が不意に云った。
「いやいや、あれはな、この人の祖父さんの家じゃ、この人は知りなさるまいよ。」
 こう云い出したのは父と浄瑠璃を習ったという老人で、矢代はその祖父の家というのもかすかに覚えていた。祖父は矢代の生れた日に亡くなり、その家にいた祖母だけは彼はまだ記憶していたが、その二つの家の一つを売り父の家へ叔父一家の移り棲んだ顛末を瞭らかにすることは、若い矢代に不向きと気附いた様子も見え、浄瑠璃の老婆は怜悧にすぐ話を外に反らすのだった。
「あんたさん、これからたまには、お帰りなさるもんですぞ。なア、あんたさん、ここはな、あんたさんとは切っても切れぬところじゃによって、お墓もここへ建てなされや。これなア、もうし。覚えていなされや。」
 ふと他から何か云いよって来た老人も二人あって、一時にその方へも向きかからねばならぬ矢代の膝を老婆はまたしつこく打った。この故郷の九州の地よりも、母の実家の東北地方の人のいぶきをよく浴びて来た矢代は、見たところ、父の里と母の里とはひどくまた違ったものだと思った。家督をつぐ相談に母方の叔父の貞吉の所へ矢代が行ったとき、貞吉は彼に、
「とにかくあの九州という所は妙なところだ。僕らの東北地方はたった一度悪事をすると、後は山ほど良いことをしても、もう受けつけないが、そこへ行くと、九州は過去を問わぬ。あれだから大西郷なんて人物が出たのだね。」
 と、多少は矢代の肩身に幅を与えるつもりかこう云ったことなど、彼は今あらたに思い出された。過去を問わぬ。なるほど、ここは郷里も知らずに帰って来た自分に、今もこのように、手厚い呼吸を吹きかけて来てやまぬもののあるのを見ても、宗麟のむかしも同様ヨーロッパから「雲の波、煙の浪を凌ぎ、今この日域に来って貴き御法を弘む。」という風なカソリックの天国の福音を仏者の声音で吹き靡かせば、過去など論なく言葉のあやに随い、頭の芯も拍子をとって踊り出す情熱的な舞いごころも、どこより烈しかったことだろうと推測されて来るのだった。

 本堂で若い和尚の経があって、それから矢代は村びとたちにつれられ墓場のある山の方へ案内された。田の中の細い路を行く途中に、また一人中年の農家の者が一行の群れに混った。この人は矢代の方へ進み出ると、低い腰で遅参を詫びたが、矢代はこの人も知らなかった。浄瑠璃の老婆は傍から、
「この人は、そら、あそこに見えるあんたさんのいられたお家の人ですよ。」と、矢代に訓えた。
「ああ、あなたでしたか。みなが御厄介になっておりまして。」
 矢代は突然胸を衝かれて引き下る感じになり、あらためてその農夫の顔を瞶めた。身の緊った、天候の変化に敏感そうな細面の眼差の底に、技師のような綿密繊細な涼しげなものを含んでいた。矢代は農夫も変ったと思うよりも、この人ならいつまでも家を貸したい家主の気持ちの先ず起るのを覚え、前方の山麓に見える自分の家に眼を移した。
 山を断り崩した赧土を背に、屋根の瓦の縦に長い側面をこちらに見せた二階家である。それは立派な家とは云いかねるものだったが、まだ誰も、あれを自分の物だと知っていてくれるもののないのが心寒く、その隙間に通うひそやかな風の中から、そっと瞶める彼の視線にも力が籠った。周囲のものが急に消え散った思いのする、明るい空洞の中の自分の家は、矢代の視線に堪え得ぬような風情でじっとこちらを見ていた。矢代は胸の動悸が昂まり鳴った。足も自然に早くなり躓きかけようとしたが、それでもまだ彼は瞶めつづけた。傷んだ物小屋の羽目板には、新しく繃帯ですぐ手当をしてやりたかった。土質の酸に沁み込まれた皹《あかぎれ》やひびが眼についた。実際、彼の家も何かと絶えず闘っていた様子ながらも、蔵や母屋の膝から上は、まだ健康そうな色艶を失っていなかった。父より永く生き、子の矢代より長命しそうな巌乗な肩には、その後も引き受けてくれそうな緊った木理の眼さえ彼は感じた。
 坂を登りつめた上は、家の中庭になっていた。矢代は父の骨を胸の方に廻し替えて、竃の光った間口の方へ向け中庭を通っていった。近づいた家の間口が拡がるように見え、そして、中から我さきにと這い出て来る薄暗みの気配を彼は眼で制しながら、
「黙って、黙って。」
 と、何ぜだかそう云いたくなった。半ば閉った蚕室の雨戸に日が射していて、桐の花が高い梢の頂きで孤独な少い筒を立てていた。明るい空に沁み入りそうな淡い紫の弁をふと見上げたとき、思わず彼は悲しさが胸に溢れて涙が出て来た。
 中庭を脱けた裏から栗の木の多い山路にかかった。嫩葉色の顔にちらつく登り路を暫く行くと、右手に一部平坦な部分が見えて、そこに大小百基あまりより塊った墓があった。
「ここのお墓は、これ皆あなたさんところのばかりですよ。」
 と、先頭に停った老人が矢代に告げた。他家の墓の一つも混らぬ墓地というものを見るのは、初めてだったので、そう云われると彼もうろたえを覚え、先ずどの墓を主にして拝んだものか見当もつかず、
「祖父さんのはどれでしょうか。」
 と若い和尚に訊ねてみた。和尚は墓地の一番端にある一つを指した。今まで父以外に、一族の中では、祖父がもっとも親しく権威あるものと思われていたのも、亡くなった先祖たちの中では、末座にかしこまっていたのだと彼は知って、亡きものの特別な順列の厳しさだけは、生あるものいかんとも狂わしがたい自然の命令だと思った。彼は父の骨も石の出来るまで祖父の前の片端へ置いてもらいたいと頼んだが、こんなことは母からも聞かされず出て来て見て気づいたことの一つなのは、やはり母は争われず、自分と違う他郷のものだったと、今さら彼は思うのだった。
 納骨の場を掘ってくれている間に、矢代は墓石の間を廻り碑面を読んでみた。絡りこもった野茨の蔓が白い小花をつけて石を抱き、嫩葉の重なり茂ったその裏から、滴りを含んだ石の刻みがつぎつぎに露われた。みな古い時代のもので矢代の知らぬ先祖たちばかりだったが、いずれも氏名は矢代と同じで、また碑面の姓のどれにも藤原と経の三字が共通に使用されているのも、これも彼の初めて知ったことの一つだった。
 栗の木の多いのに松の花粉が流れて来た。谷間の窪みに満ち溜った花粉の一端が、黄色な霧のように墓地の上を越し、山の斜面に沿いなだれたまま動かなかった。
 老人の群がら燻り出した線香の煙が栗の幹のまわりで輪を解いていた。矢代は父の骨を箱ごと掘られた穴の底に入れた。白木の上へ振りかける初めの土の冷たさは、父の額へ落す宝のような重みで、暫く湿った斑点を彼は貴く見ていたが、傍から老人たちの手伝ってくれる迅さに、見る間に沈んでゆく箱に対いただ彼は土のままの手を合せた。それから順次に視線を墓地の各碑面の上に巡らせてゆくのにも、宜敷く新参の父を依頼する意をこめ礼拝していくのだった。
 やがて戒名の白木も建ったその前で誦経も終ると、一同は墓地を下った。
「あんたさん、お嫁さんはまだおもらいでないのですか。」
 浄瑠璃の老婆は突然後から矢代に訊ねた。
「まだ、独りですが――」
 彼はそう答えるにも、結納をすませて京都に待たせてある千鶴子のことをいま嫁と呼ぶべきかどうかあやふやな感じがした。それにしても、故郷に戻った刺戟のためか今まで千鶴子のことを忘れていた自分を思い出し、久しぶりに純粋な感動にひたれた一日を有りがたいと思った。一番人間臭の強いところだのに、それが却って人の姿を消し、こうして自然の風物が生き物に見えて来るのも、彼には不思議な故郷の気持ちだった。樹の芽草の葉も人の骨片から総立ち上った無数の指先のように見えるのだった。
「わたしはまたあんたさんが、もう繁子さんと結婚なされて、お子供衆もあることと思うとりましたが。」
 と老婆は意外なことを云い出した。繁子というのは彼の親戚の娘で、両家の親の間にそんな話も交えられたことなど、幼少のころのかすかな記憶の泡となって泛んで来たりした。しかし、この老人たちは矢代一家に関して、彼自身のまだ知らぬ数数のことを嗅ぎ知っている人人ばかりであろうと思われると、彼の帰郷は、見渡すこの谷間に絡りついた宿縁の根へ相当の風を吹き立てているのだとも想像されたりした。
 日の傾き始めた西の空を背に、城山の頂きが鮮明に黝づく色を泛べていた。一行の降りる坂路は入日に射られ、眼の縮む明るさだった。
 矢代は千鶴子に帰る時間の電報を打つ約束を思い出し時計を見ると、少し急がなければ汽車には間に合いかねる心配も生じて来た。先頭の鋤の柄に巻いた奉書紙が蜜柑の葉の下を沈んで行くのが見え、そして、一行が矢代の家の前まで来たとき、家人は彼に茶を飲みによるようと奨めた。矢代は休息の間から忍びこむ不要な胸騒ぎを惧れて、葬帰りを口実に辞退した。家人は彼のためらいを察したものか強いてとは云わず、矢代の去り行くままに委せて彼に別れの挨拶をした。矢代は中庭をよぎり、蔵の戸にかかった鍵の歪みを最後の一瞥に残したまま、家の前から去ろうとしたときである。何か一瞬悲しい声のざわめきをあげて、後に姿を消した家から、
「薄情者ッ。」
 と、一声浴びた思いがした。彼ひとりの心情の寒さとはいえ、耳を蔽い胸を抑える気持ちで石垣の裾の坂路を下ると、彼はもう一度後ろを振り返って見直した。勿論、家は見たままの静かな姿で、入日を受けた明るい壁際に高高と桐の花を咲かせていた。それでも、まだ矢代の荷物ある寺の方へと足が早まろうとするのだった。
 母と別れて東京を発つときも、京都で先に待たせてあった千鶴子のことで、とかくに騒ぐ思いをし、今また郷里のわが家との別れにも、同じく京都で待つ彼女のために不義理を残して行くわが身を省み、矢代は、羞入る肩の竦みますます寒かった。寺の門を潜ってから洗う手も、自然に千鶴子を浄め落す丹念な水使いになろうとした。座敷へ上って居残った老人たちと茶を喫むときも、彼は頼んであった車の来るのを脱し、この夜はここで泊って行こうかとも考えたが、この日を一日遅らすことは、京都で落ち合う筈の千鶴子たち一行との約束も脱すことだった。それを脱し遅らせたとてどんなことともなる慣れはないとしても、約束は約束で、先方の行動に計画のつかぬことも多数起るかと思われた。
 這入って来た車夫が戸口から矢代を呼んだのは、それから二十分もたっていなかった。今夜は寺で彼が泊ることとのみ思っていたらしい老人たちは、矢代の立ち去る礼をしたとき、予想のごとく暫く意外な表情で物いいかねた様子が見えた。
「もう早やお帰りですか。お泊りもなさらずに。」
 浄瑠璃の老婆の矢代を瞶め問い質す強い口調には、まことに少し身勝手な覚えも、まだ消えぬ折とて、彼には火の刺さる厳しさだった。
「御親切はありがたいのですが、京都で友人が待っていてくれるものですから、遅らすと少し工合の悪いこともございますので。」
「それでも、たまたまお帰りなされたのに、そんなみずくさいこと申されて――」
「お蔭で都合よく用事もすませてもらいましたし、それに時間もどうやら間に合いますので。」
 車夫を待たせた気忙しさに寺への謝礼と、村人たちへの礼心を白紙に包む多忙なためもあって、矢代は調子の合わぬまごまごした挨拶をなおするのだった。
「御先祖さんのおられるところで、一晩もお泊りなさらんのですかのう。」
 黙っている老人連の中からまだ老婆だけは心外の意を露わに向けたてかけて来たが、好意を毒舌にして見せる手際も温く、矢代は、答えかねた窮地の底から、ひそかに門の前の車夫に援助を需む有様だった。そして、ようやく、老人たちに背を向けスーツを引きよせると、まだ何か云いかける老婆の方へ向き返って、
「今度はまア、お赦しを願います、この次は家内をつれて来ますから、そのときはゆっくりお礼に上ります。」
 と云って笑った。門前まで皆に送られた所で、車に乗ってから、矢代は梶棒の上るまで焔の中から救い上げてくれる手を見るように車夫の動作が待ち遠しく思われた。間もなく車が走り出した。そして、一同を後にひとり山を見上げたとき、彼は初めて、やはりここでも自分は終始旅の客だったと思った。自分にとって故郷はもう東京以外にはなく、そこへ向ってこれで刻刻近づき得られている自分だと思った。日暮の冷たさを含んだ風が山蔭から頬をかすめて来た。苗代の整った峡間の障子が、土臭を吸いとった高雅な風貌に見え、彼はこのときほど障子の白さに心牽かれたことはまだなかった。
「秋十年却つて江戸をさす故郷」
 江戸をたって、故郷の伊賀へ帰ろうとしたときに深川で作ったと云われる芭蕉のこんな句を、ふと矢代は思い出したりした。十年も江戸にいると、芭蕉の眼にも逆に江戸が故郷に見えて来たのであろう。と、そう思うと、矢代は異国にいたときに、これでこの地に棲みつけば、そこを故郷と思う人もさぞ多くなることだろうと考えたことも、今また不意に泛んで来たりした。しかし、家を一歩外に出たもので、胸奥に絶えず描きもとめているふるさと、今身を置く郷との間に心を漂わせぬものは、恐らく誰一人もいなかったことだろう。してみれば、その者にとって衣食住は仮の世界、さまよう自分の旅ごころこそ実の世界、と念うもの佗びた心情もあの草の中の障子の白さの中には棲んでしまっていると思った。そのほの白さは、胸奥ふかく沈めた旅の愁いの灯火の色だった。
 山の裾が平野の中へ消えて来て、葉さきを曲げた芒の向うに、入日をうけた海が大きく空に残照をあげていた。暮れかたむいて来る芒の中の野路には人影もなかった。
 矢代は細い村道の集りよった辻まで出たとき、そこから後を振り返って見た。通って来た自分の家のある村は、はるか後方に退って見えなかったが、城山の峯だけ一つ疎らな人家の屋根の上からまだこちらを向いて立っていた。脇息のように二軒の屋根を両肱の下に置き、やや身を傾けさし覗いている様子であった。偶然の好位置から振り向いたといえ、沢山並んだ他の峯峯のどこも姿を消している中から、ただ一つ覗いていてくれたその様子に、彼ははッとして襟を正し、「おい、一寸」と車夫を呼びとめた。上り気味な片肩の表情には、永い退屈さもやっと通りぬけたと云いたげな寛ぎがあり、文句なく、遠い先祖が起き上り黙って彼を見送っていてくれた姿に感じた。
「どうも、すみません。今日だけは赦して下さい。」
 矢代は帽子をとって軽く頭を下げてから、また車を降り、山の方へ向き変って鄭重に礼をし直した。
 夕焼の拡りを半面に受け、老人らしく眩しそうに身をひねってはいるが、立てば背丈も相当に高そうな頭の部分に、黒松が繁っていた。見れば見るほど、それは狩衣を着た姿だった。両脇から頂上の砦へのぼっている山襞は袖付の裂け目に似ていた。何の邪魔物もない空の中で、おだやかな、物分りの良い、やさしい微笑さえ矢代は、その狩衣から感じた。じっと動かずいながらも、首だけゆるく廻すように感じるのも、すべてこちらがそう思うからにちがいないに拘らず、それでも、なお彼はその顔と、活き活き話も出来るように思った。
「さア、もうお前は行きなさい。」
 とそういう風にも顎が動く。
「そこにそうしていて下されば、僕たちも安心です。」と矢代は云った。
「うむ。」
「もう皆、お分りでしょうから、お話もいたしません。どうぞお大事に。」
「うむ。」
 矢代はこみ上って来る感動に堪えかねて、とうとう泣いた。涙が出て来てとまらなかった。若い車夫は前掛けの毛布を肩にかけたまま、極まり悪げに彼から顔を背けて待っていたが、矢代は介意《かま》わずなおいろいろ山の話をつづけたくなり、そのまま去って行く気持ちもなくなるのを感じた。そして、どうして今の今までこの姿を忘れていた自分だったのかと、急に過ぎた日のすべてが空虚な日日のように思われて来るのだった。それは実に間のぬけた、迂濶な生活のように思われて残念だった。
「ともかく、まア、行きなさい。どこにいようと同じだよ。」
 と狩衣姿が云う。
「それはそうだとしても、他に面白いことといって、ありません。」
「そういうたものでもないさ。」
 山は黙ってそのときちょっと京都の空の方を見たように思った。矢代は、その山のいつも見て暮していたのは、やはり先祖の故郷のあるその視線の方向だったのかと思い、つい自分も見た。
「俺はここで死んだが、なに、これは一寸、休ませてもらっただけだったよ。」
 こういうようにも見える山は、少し多弁になりかかろうとして、にこにこッとすると、またどういうものか口を閉じ、
「さア、もう行きなさい。」
 と顎で彼を押す風だった。
 矢代はまだ去りがたく足も鈍ったまま車に乗った。日はもう没していて、揺れ変って来た芒の葉の向うから生温い夜風が吹いていた。そして、蛙の鳴く声が次第に高く路の両側から起って来て、そこをすたすた急いで走る車夫の足音も冴えて来たが、まだ彼は帽子をとり車の上から振り返っては幾度もお辞儀をしつづけた。

 その夜、京都へ向う夜行にやっと矢代は間に合った。来るときもそうだったが、帰るときも危いところを狂いなかったそれだけにまた、彼は充実したものを持ち過ぎて来たようで、寝台のない車中では容易に眠られそうにもなかった。そして、京都で千鶴子と会ったとき、郷里の模様を多少は変形させて話さねばならぬ面倒さについても考えたりするのだった。もし千鶴子に、心中去来した郷里の思いをそのまま話す場合、結納まですませたときとしても、この結婚は愉快さを失うものを含んでいたからだった。実際、まだ二人の間には、踏み心地に形のつかぬもどかしいもののつき纏う感じがあった。二人の周囲の誰も結婚を赦しているときに、このたびは矢代自身の裡から膨脹する不安を覚えて、それを今ごろ揉み消すことに気を使う夜汽車だった。
 こんな不安の原因は、矢代の見て来た先祖の城を滅ぼしたものが宗麟で、彼の信じたカソリックを、千鶴子もともに信仰しているという、ただ単なるそのような遠い過去の敵意の仕業では、無論なかった。先祖のそんな悲劇に関しては、怖るべきはその偶然だけであって、それも二人の間で整理をつけてしまっている筈だった。
 しかし、それでも、二人の間にはまだそれから迯れきれぬものが残っていた。何か漠然とした、明瞭でない不安が新しい芽をふき彼の中で伸びていた。それも、いよいよ結婚する二人だと思うと、そのため一層強まって来る不安な芽だった。
 矢代はそういう邪魔な感情を剔り捨てたくとも、手もとに用を達する刀のない気持ちがつづいた。強いて需めると、それはただもう結婚するより仕様がなく、今まで二人の目的としていたものを早く使ってしまいたい。そんな朧ろな、流れの末の分らぬそれは不安心だった。
「あたし、何んだかしら怖いわ。何ぜだか分らないの。」
 結納の品定めの日、松濤の木椅子の上でふと洩らしたこのような千鶴子の吐息を思い出し、今も耳近く聞えるように彼が思うのも、千鶴子がどんな意味か分らず洩らした歎息であっただけに、今の自分を考え合せるとはっきりして彼も怖くなった。
「この次は家内をつれて来ますから、そのときはゆっくりとお礼に上りますよ。」
 と、彼は昼間そう老婆に云って、ようやく脱け出て来た自分の別れの挨拶を思っても、この次千鶴子をつれて行き、二人であの山を眺めて立ったとき、車夫に扶けられたきょうの脱出の程度で、果して二人の苦しさは済むことだろうか。あの山を眺めて涙の出て来たときも、もうここから動きたくはないと思った気持ちの中には、たしかに、京都にいる千鶴子のことを、一つは頭に泛べたそのためもあったようだった。
「しかし、過去は問わぬ、それが伝統じゃないか。自分も過去を問われず戻って来られた今じゃないか。」
 とまた彼は溌ね起るように思ってみた。しかし、そう思う後から、彼はまた自分の家の紋章が二つ巴で、顔をよせ合せた睦じそうな形に拘らず、尾だけ撥ね合っているのが、不思議と何事かを予見している風にも見えて寝苦しかった。考えつめて行けば行くほど、も早や考えとは思えぬ妄想の中で呻くような、こんな夜となって来ると、ひたすら彼はもう眠ることだけに意力を使いたくなり、周囲で眠っている人人の顔を見廻した。どの顔もそれぞれ過去を持ち、そして、それを問わず明日を信じて旅をしている顔ばかりだった。
 翌朝、三日も寝不足のつづいた頭で起きたとき、昨夜の不安定は奥へひそみ、代りに、疲れが髄から染み出て来て、走り去る窓の景色もただ眠けを誘うばかりだった。すると、瓦の波の光を噴いた沿線の街の中から、遠霞んだ城の頭が美しい姿を顕して来た。この城は来るとき、夜中の寝台のため矢代の見忘れたもので、田辺侯爵家の城だった。
 いま遠望する白壁の層層と高い天主閣の品位ある姿は、郷里で彼の見て来た狩衣姿の自分の家の荒城とは、およそ違った栄え極めた眺めだった。田辺侯爵夫妻と船を伴にして帰った関係上、千鶴子は自分との結婚に反対する母の意を翻えしめる援助を、侯爵夫妻に頼んだことも思い出されて、矢代には懐しかった。
 混雑した人中に羞しく身を没するようにして、彼は感謝をこめ、窓から美しい天守を眺めている間にも、自然に彼は自分の凭りかかっている窓の悲劇と、眼に映じたこの城の今もなお華麗な活動をつづけている姿とを合せ考え、かげろう立つ空の青みの中に交る興亡二つの運命の描いた線の擦れ違う哀愁を身に感じた。そして、侯爵の家に招待されたこの冬、集った客たちと一緒に一夜を過したそのとき、図らずも彼が好遇された久木男爵との一件を父が知り、翌日、父の急死したことをもまた同時に彼は思い出したりした。
「そうだ、あの次の日だった。父の死んだのは。」
 彼はおどろいてまた振り仰ぎ、その父の骨を納めに来たこのたびの自分の旅も、やはりこの城とは離せぬものだと思った。自分の知らぬ結ばれたもの、それは必ずこの地上にはあると彼は思い、盛衰興亡とは廻された番の勤めのことだと感じて、彼は、栄え実った田辺家の盛んな姿に恵まれた幸運の徳を賞めたたえたくなるのだった。

 午後の三時ごろ矢代は京都ホテルへ着いた。彼はすぐ千鶴子の部屋を尋ねようかと思い、一ぷく煙草を喫い終るまで椅子から動かなかった。まだ耳底から汽車の動の鳴りやまぬ体をそうしてみていて、すぐ千鶴子に会わねばいられぬものかどうか、彼はしばらく自分を沈めていたかった。
 屋根瓦ばかり並んだ窓の外で、本能寺の樹木の方へ乱れ飛ぶ雀の羽が光って見える。乾いた空の色だった。彼はいつ結婚しても良い自分ら二人の身の上になっているこの際、今夜ここで泊ればそれも早や定ることだと思った。結婚を延ばすか否かは、まったく自分の一存で決定出来る今の場合、まだ車中の妄想に動かされているのは、愚かなこと以上実は無責任も甚だしい行為というべきだった。
 矢代はしかし、心のおもむくからには行くまで自然に行かしめよとも思った。今のような不安定な気持ちは、も早や愛情のあるや否やなどといった感傷事ではなかった。自分か千鶴子のどちらか一人死に生きする、その一つを選ばねばならぬときに似た、張りつめた先端にいるようだった。彼は他人の誰にとってもそうではないことが、自分ひとりにとって、なおざりにしがたい傷創になろうとしているこの旅行の行程に、喜ばれぬ無意味ささえ覚えたが、とにかく、いまは何より先ず湯に入ってから夕食まで眠ることにして、隣室の千鶴子たち誰にも到着を報せずに寝た。疲れが烈しく眠れそうにないのも、やはり幾らかは眠っていたと見えて、一時間あまりしてから彼はドアの開く音に眼を醒した。暗くなっている部屋の中にうす白く動く姿を認めたとき、朧ろながらも千鶴子だと彼はすぐ思った。眠けのとれない眼が、寝台の傍に立っている胴のあたりを見たまま、早くもひび割れてゆくように和らぎ通うものを感じて来るのだった。
「もう幾時ごろですか。」と出しぬけに矢代は訊ねた。
「お帰りなさい。」
 びっくりしたらしく、急にスイッチを入れる音がして、つづいて壁際から振り返った千鶴子の笑顔が泛き上った。
「お食事ですの。皆さん下でお待ちでしてよ。いかが。」
 しばらく見なかったのが不思議なように思われる、間近い笑顔で、薄化粧の匂うあたりに沁み崩れてくるふくらぎを感じ、矢代は、眠る前まで考えていたこととはおよそ違う親しさに、忽ち取り抑えられた自分が腹立たしいほどだった。起き上り、千鶴子に背を向けて洗面をする間も、彼はひとり思い屈して来た車中の様子を、不問に揉み消したくなり気づかせたくはなかった。顔を拭う間も鏡の面から千鶴子を見て、二人の破談のときを考えた自分を思い出し、そのような不確実なものもまだ眼を醒して来るこれからかもしれないと、そう思うと、信仰の違いとは、これは人のいのちの違い以上に根ふかく、遠く、見えない彼方の黄泉《よみ》から吹き流れて来る霧の、茫茫たる渦巻かとも思われたりした。
「京都はどうでした。」食堂へ出る仕度をしながら彼は何げなく訊ねた。
「いろんな所、観せていただきましたわ。何んだか頭がもう、ぼうッとして、――あなたはお郷里のほう、いかがでしたの。」
 上衣を背後から着せかけていう千鶴子に、彼は帰途を急ぎすぎた不面目をまだ告げられず、寝台の取れなかった車中の疲れを洩すばかりにした。部屋から出てエレベーターの中でも、彼は千鶴子に触れる身体を慎しみがちになり離れるのだった。この妙に牽きつけるものの中に衝くものの混る気具合も、郷里へ行くまではふかくは覚えないものだったが、それも支え押そうとする気力をなおつづける頑固ささえ覚えて彼は下へ沈んでいった。階下へ降りてまた地下の食堂へ行く間も、矢代は自分の感情を秘めかくす気苦労と一緒に、邪心をなくする道の踏み場を、苦しく石階の一歩ごとに感じ探そうとするのだった。
「やア、顕れたぞ。」
 食堂では、槙三、由吉、佐佐の三人に混ったテーブルの白布の上から、塩野の明るく伸び開いた地蔵眉が快活に、矢代に向って手を上げた。誰もみな疲労の色が顔に出ていたが、彼の留守の間に京都から得た収穫の豊かさを語っている共通の笑顔で、その中に席につく自分の色だけ孤独に沈みかかるのが、まだ彼には重くいびつな感じだった。塩野は目立つ白い歯で矢代の不在をしきりに残念がった。
「いや、君、イタリア・ルネッサンスに劣らない見事な片鱗があるね。ばらばら散ってるんだよ京都は――」と塩野は云った。
「片鱗どころじゃないよ。ずらりと並んだ体系さ。」と佐佐は不平そうに笑った。
「仏閣庭園はさることながら、祇園と島原、僕は、あんなところは世界にないと思ったね。一力、すみ屋なんて、醤油で煮しめたみたいな艶が、底光りにびかびかしてるよ。」
 由吉の洒落れてそういうのに矢代は、自分のこの度びの旅から拾って来た美しさは、山中の農家で見た障子の白さだったと思った。田辺侯爵家の城の美しさも忘れがたいものだと思い、一同に対って、京都旧跡の廻り方は玄人の行き方と素人のとに分れているらしいが、諸君らのはどちらを選んだのかと質ねてみた。みなは即答できず、にやにやしながら顔を見合せていてから、佐佐は半玄だと云い、塩野は、いや、一力まで侵入したのだから純然たる玄人の廻り方だと主張した。しかし、素人玄人に拘らず、京都研究をふかめる量につれて、そのものの文明観の質も変化していくものだという、一般研究家の言を矢代も疑わなかったので、食卓に並んだ今みる一行の変化ある様子や、殊に、伊勢、奈良を廻って来た千鶴子に与えた古都の影響を察するとき、矢代は、ともに自分も豊かさが増し、明るさの加わるのを覚えた。
 嵯峨一帯の寺寺から、修学院、大徳寺境内、西本願寺の飛雲閣、それから醍醐寺までとのびた巡拝の径路に、三日にしては少し多すぎるほどだったが、それらのうち矢代の記憶にある道条を想像しても、郷里への旅で得て来た自分の変化に劣らず、彼らは彼らで、また自ら異った感得興奮を顕わすさまも了解できるのであった。
「何んだか、僕ひとり落第したみたいで、さみしいね。」
 矢代はさきからの自分の身勝手な冷たさをようやく後悔し、頑くなな心の崩れていく咽喉にスープを流した。

 食事がすんでから暫くして、一行は案内役の越尾から招待をうけていて、ある旗亭へ出かけることになっていた。誘われるまま矢代も出席することにした。鴨川の流れの傍で、二階の広間に通されたときには、うつろう川水に胸が冷やされ、連日の疲労がふたたび流れ出てきたようだった。
 真正面に東山の連りが見え、右手の膨らんだ峯の部分が、間もなく昇る月の在りかを示していて、下から射しあがった光のなかに雲の断片が浮いていた。川に向いた縁先の籐椅子に矢代はかけると、父の納骨を尽くすませた気安さに、初めてネクタイを解きほどいたくつろぎを覚え、思うさま山、川、雲を見あげた。両足も欄干の横桟にかけのばし、両手も首の後ろで組んだ反り身になって見上げる山は、たっぷりとした檜舞台にいるような、鷹揚で豊かな眺めだった。欲をいえば、彼はいま暫く誰からも放れてここにこうしてひとりいたかった。近くの人声も遠くから聞えて来るようで、ぼんやりしたひとときの休息だったが、すぐ欄干に手をかけ、傍へ来た千鶴子は、
「東野さんの奥さん、お悪いらしいんですのよ。」
 とさし覗くように低く云った。さきから東野の姿の見えないのもそういう理由かと彼は思った。前から東野夫人の危険な状態を聞き知っていた矢代には、「悪いらしい」も絶望の意でひびき、山の端の明るみが一層冴えせまって眼に映った。
「じゃ、駄目だな。奥さん。」
「何んですか、昨日あわてて須磨へお帰りになりましたの。」
 沢山寺を見て廻った直後のことなのでひとしお東野の感慨が生き、山の姿も、仏像の寝姿のように矢代には見えて来るのだった。
 ぼッと滲みでたほの明るい、月出の空の真下がちょうど西大谷だった。先日、矢代が分骨にして父を納めたのはそこで、自然に彼の眼もそこから動かなかった。今こちらから見ると、空のそのほの明るさが、下に隠れた父の胸から揺れのぼって来るようで、月の出るのが待ちどおしかったが、仲人の東野の周囲で起っている崩れ傾くひびきを思うと、婚姻の夜を迎えようとしている矢代には、それも、ひと鞭あてて駈け去る日ごろの東野の厳しさに似て見えて、しんと胸にあたる痛さだった。
 間もなく久慈が帰ってくるだろう。また真紀子の先夫の早坂も帰るだろう。そうすれば真紀子と久慈と早坂との交渉に、さらに東野の加わってくることも想像にかたくはない折から、東野夫人の容態の悪化であった。
「真紀子さん、苦労だなア。」
 今にも出そうで出ない月を見ながら、矢代のこう呟いているとき、部屋の中では、由吉や塩野たちが、見て来た寺の疑問の点について、それぞれ案内役の越尾に対い質問に熱心であった。やはり誰も問題にする龍安寺の石庭に関することが多く、越尾は、近代庭園の専門家がひそかにその庭の石の間隔を計ってみたこと、そして、縦横寸分の狂いなく近代庭園法の数学に合致していたと告白したことや、初のころ石庭に糸桜が一本植っていたのに、庭に一本の樹は滅亡の家相だという理由で切られたことなど、矢代に初耳のこと多く、低声に語るのが廊下にまで聞えた。
「しかし、とにかく、日本の庭園としては、あの庭は絶頂を極めたもので、あれ以後の庭はみな下り坂ですからね。絶頂というものの観念は、やはり僕らには分りませんよ。何しろ、京都文明の頂上が、あの石だといってもいいんですから。」
 案内役はこう云って、謙遜に自分の見方にもピリオッドを打つことを忘れなかった。矢代には月よりその石の話が面白くなった。
「石が絶頂なら造作はない。ひとつ極めようじゃないか。」
 と、由吉は云って皆をまた笑わせたりした。
 白砂を敷きつめた六十坪ほどの長方形の中に、十五ばかりの石を浮かせただけの龍安寺の庭を、矢代も二度ほど見たことがあった。寺の方丈の縁先ともいっていい曲り角の一隅のその庭には、一本の樹木もなく薄茶の塀をめぐらせてあるだけだったが、庭の外部に茂った鉾杉の見事な葉が重くたぶさのように垂れ下り、庭内の砂の白さがくっきりと際立って鮮やかだった。黄色い蝶が一ぴき砂の上を飛びたわむれていて、閑寂な姿の奔放自在に翻る春の日の一刻を、彼は手にとるように感じたことがあった。今も矢代はその光景を思い出し、絶頂は厳しく意味の滲みを拭きとった単調な姿をしているものだと思った。庭の作者は吉野朝時代の夢窓国師だといわれていることや、仏教もこの国師を頂点として堕落期に入ったことなどを思い合せ、龍安寺の石庭は、極めて暗示に富んだ文明の表情だと考えたりした。
「あの庭を島の浮んだ海だと云ったり、親子の虎が通る様子だと云ったり、いろいろ聞くが、僕はただ石の数だと思ってシャッタを切ったね。」
 塩野の無造作にそういうのを矢代は面白いと思って笑った。
「それでいいんでしょう。とにかく、夢を無くした数学が、逆に一番夢を人間に与えるようなものじゃないでしょうか。」
 と、越尾は、浅黒い顔にも美術史に捉われぬ、含蓄のある微笑を洩して塩野を見た。
「これで日本人にも、ああいう石から出て来た数学の伝統といった風なものは、あるんだろうね。それでなければ、これだけの都が、千年も仏教に苦しんだ意味がないよ。ただの石じゃね。」由吉は真顔を大きく上げて一寸矢代の方を見ると、急に、「あ、そうそう、この話はこの先生に聞いたんだが。」と云って槙三の方を照れた顎でさし、「何んとかいう数学者だったなあれは、クロネッカァといったっけ、この人の数学に、青春の夢という名高い定理があるんだそうだ。何んでもそれは、眠っているとき夢の中で考えついた定理で、起きてから、も一度その定理を証明しようと思ったところが、どうしても出来ないんだそうだ。夢の中で完全に出来たものが、起きて出来ないなんて口惜しいもんだから、今度は弟子の優秀なのを皆集めてやらしてみても、誰にも出来ないんだね。そうすると、それを日本の高木貞治、――あの数学の博士がわけもなく証明してのけたというんだよ。」
 日本人の能力のなかにも、そういう数学的に卓越した遺伝が蓄積されているということを、龍安寺の石庭からの暗示として、由吉は云いたかったものだろうが、それとは別に、矢代は、自分が去年千鶴子と結婚した夢を見た日のことをふと思い出すのだった。そしてその夢の事実になろうとしている時が刻刻にせまっていることも身に感じ、ふと山を仰ぐと、月が東山のふくれた腰の部分に頭を出した。顔を揃えた河原の石がそれぞれまるく静に水中に浸っていて、月の光に綾目を乱した川水が、ひたひた部屋の中までさし拡って来るようだった。
「外人の青春の夢を、日本人が解いたというのは、なかなか暗示的でいいね。」
 と佐佐は嬉しそうに河原の方を見た。矢代は月を仰ぎながら、京都文明の永い歴史の中に顕れた多くの月も、今みるこの山のそこから、こうして出たものだろうと思い、庭に石を置くときも、夢窓国師は自分の名の含む想いとして、一度は月を考慮に描いたことだろうと推察した。
「数学の専門家はどうですか、龍安寺の庭について、別の意見があるでしょう。」
 矢代は今まで黙って隅で笑っていた槙三に訊ねてみた。実は、さきから矢代はその機会をひそかに待っていたのだった。槙三は彼から訊ねられると、いつもの明瞭な口調で躊躇の風もなくすぐ答えた。
「僕はああいう、はっきりした簡素な庭を見せられますと、自分は日ごろ迷っていた問題に、直面した感じになるのですよ。それはですね、人間の考えというものは、煎じ詰めると、AでなければBで、その二つのどちらかの中へ入りましょう、それはどんな人間の、どんな考えでもですが、――御存じでしょうが、数学ではこれを、排中律と呼んでこの定律を認めておりますけれども、あの石の庭を作った人の頭も、そんな排中律と同様な形而上の世界と、形而下の世界との境界に、石の碑を記念としてうち樹てたかったんじゃないかと、ふとそんなことを考えてみたのですよ。」
 そこまで槙三が云ったとき、廊下の方から舞妓が三人入って来て、揃って畳に両手をつき正しい挨拶をした。髪に挿した簪のびらびらが、月を映して揺れなびき烈しい眩ゆさで光りつづけた。一同の者らは一寸その方を向いたが、槙三の話はもう皆の頭の深部へ突き刺さっていたらしく、誰の表情も崩れようとしなかった。
「そのお説は、世の中で一番難しい問題じゃないですか。まさか、あの庭の石にそんなものまであるとは思えないけれども、新説としては、たしかに今までにないものですね。」
 と越尾は、今まで一度も存在さえ考えなかった彼の方へ向きかかって、若い槙三の顔を注意し始めたようだった。
「僕のはただ数学上のこととして云ったのですが、数学では、どうしてもAはBとは違うので、同じではあり得ないのです。しかし、あの庭の石が、京都文明の絶頂を示すものなら、勿論、この排中律という認識上の頂きの苦悶が何らかの形で、石の根に埋められていなければならぬものだと、僕は思うのです。もしそうでなかったら、そこに含まれた文明というものは、頂上でも何んでもない、ただの南洋土人の玩弄する、石と変りないと思いますね。」
 和いだ云い方ながらも、槙三の言は鋭く越尾の史観を刺していた。
「どうも困ったね、話がAとBとに分れて来たぞ。」
 と由吉は後ろへ反って、ひとり、舞妓の並んだ顔を無遠慮にじろじろ見較べた。
「しかし、龍安寺が禅寺だといったところで、そのころ、近代数学がそんな発達をしていたとは思えないんだから、やはり、も少し違う石でしょう。あのころは、石を生きものと見たのですからね。」こう云ってから越尾は、「これは僕のは、Bかな。」と由吉を見て笑い返した。
「俺はAでもなけりゃ、Bでもないね。そんなの、一つぐらいあったって、良かりそうなもんじゃないか。ないのかい。」と由吉は槙三に対って訊ねた。
「それは同じ問題で、Aの公理も正しければ、Bの公理も正しいということは、たしかにあるのですよ。例えば、御存じの二つの平行線は相交らぬという公理も、無限の彼方ではその平行線は相交るという公理だとか、または、平面上の三角形の内角の和は二直角なりという公理も、球面上ではそうではない、といった風な公理になるとか、とにかく、どっちも正しくて、間違いだとは誰も云い得ないことですよ。しかし、AとBとは違うという、この排中律の定律に従いますと、数学とは限らず、僕らや皆さんのどんな考えにしてもですね、正しいと考えられていることが、厳密に考えれば、どちらか一方が不正になるという定律にまでなるのですから、――ともかく、数学で一番難しいのはそれなんです。つまり。論理的にはどっちも正しいに拘らず、一方が必ず間違いだという論法になると、世の中の一切のことも同様二つに別れて相争うにちがいないのです。これはどう仕様もありませんね。」
 一同黙って言葉を発しなかった。屏風の金色を映した舞妓の管だけ、ひとり、さざめく水のようにひらひら黒髪の中で揺れていた。
 それは絶えまなく繊細にゆらめきつづけ、囁き交している部屋のひそやかな呼吸にも似て見えた。
「夢窓国師は吉野方と高氏と、両方から来いと引っ張り廻されたんだから、龍安寺の石も、そんな定律の苦しみをひそめているかもしれないなア。」
 と矢代は部屋の中へ這入って来つつ云った。そう云いながらも、彼は自分と千鶴子の間に横たわっている宗教の相違や、パリ以来、久慈と衝突しつづけた文明観の解釈の相違についてなど、いびつな心の違いとなってまた泥んで来たりした。
「しかし、槙三君のようなことが、実際上の数学で正しいとなると、一寸こ奴、困ったことになるね。」と塩野は頭を自棄に掻きあげた。「Aから見ればBが不正で、Bから見ればAが不正なら、世の中で正しいことって何一つも無くなるわけじゃないか。ね。」
「ですから、僕は排中律の定律というものは、必ずどこかに間違いがあると思うのです。もっとも、この定律を認めない数学者もおりますが、理論的にこれを認めないとするには、これは非常に厄介なことで、今のところ殆ど不可能といっていいのですよ。けれども、今までの人智というものが、ここで停頓しているからには、何か人間は、大混乱に落ち入る準備をしているようなものじゃないか、といった風な危惧を感じるのです。それは、そうならざるを得ないんですからね。」
 槙三のそういう後ろの隅の方で、舞妓たちはより固ったまま指を折り、ひそひそ何か話していた。暖かった部屋の空気が川水に冷えた風に変り、三味線の低い音を流して来る。その対岸の柳の葉の間を灯をつけた電車が辷っていった。
「おい、ひとつ踊を見せてくれ。」
 と、由吉は、弟の槙三が一同を場に似合わぬ理窟ばった苦しみに、引き摺りこんだ責任を感じたらしく、突然そう云って舞妓たちの首を覗きこんだ。彼の一言でぱッと座敷の頭は皆あがり、舞妓たちはそれぞれ別れて席についた。浮き立ち上った、大幅の紅い襟の間に挟まった槙三は、とり残された形で、珍らしそうに舞妓の頭を眺めていた。中央から裂けた長い帯を揺り揺り、千鶴子の傍へ立って来た舞妓が、月を仰いでまた指を折った。
「あら、秀菊さん、そんなええ所で作らはる、狡やなア。」
 新しく縁へ出て来た妓が、同様にまた並ぶと、「東山、東山、」と呟きながら、これも指を折り始めた。何をするのかと矢代が、その鶴千代という妓に訊ねると、このごろは誰も俳句の勉強を命じられているのだとのことだった。
「みんな俳句作るのか、そいつは油断がならぬぞ。」
 由吉も背を延ばして山を仰いだ。正面に月をうけて立った舞妓たちの簪のびらびらが、せせらぐ川波の中で揺れていてまだ宵らしくつづいた川向うの灯が、橋を渡る夥しい人の足を浮きあがらせて賑かだった。
「向う見て寝たる月夜の東山。」と秀菊が云って笑った。
「けったいな俳句やなア。蒲団きてやわ。」と傍の鶴千代が肩をつついた。
「そうかて、顔隠してやすやないの。」
 欄干にふれてだらりと垂れた二本の帯の長い裾が、しなやかに打ち合ったり戯れたりした。川水が胴の間を満たし、洗い清める流れで遠くまで月に踊っていた。白牡丹と藤の花のおもい簪に、菊模様の襟を高く立てた、仙鶴という舞妓が槙三の傍にひとり残っていて、舞扇を襟から抜きとり、
「こないだ先生がね、夜桜の句お作りなさいとお云いやしたの、そしたら秀菊さんね、夜桜や隣りの人にあいにけりって、そんな句お作りやしたの、俳句かしらそれ。」
 と槙三に訊ねた。部屋の中が一層陽気に笑い出した。仙鶴の話が無邪気だったばかりでなく、舞妓の質問に当惑した槙三の真面目くさった顔が、皆の注目をひくのだった。老妓が来てから座敷は踊になったが、鶴千代と二人で踊る秀菊の指先は、ませた表情をこめてよく反った。鶴千代の方は努力を下に隠した素直さで、客には紊れぬ習い締った眼もとだった。鼓の音に乗り、鳥の子の襖を背に淀みなく廻っている金扇の流れを見ていても、矢代には、ともすると、それがAとBとの定律の舞いのように見えたりした。表と裏とに重なったり、放れたり、屈伸する二人の運動のすべての美しさが、老妓の唄う一本の呼吸から繰り出されている調和も、この夜の座敷には殊に暗示が深かった。舞がすんで二人の頭がぴたりと下に沈んだとき、矢代は何か得た思いがして拍手を送った。たしかに舞そのものよりも暗示につよく撃たれた喜びを感じ、自分の興奮が気持ちよかった。
「京都はいいなア。」
 宿へ帰る自動車の中で、矢代は、九州からの車中の重苦しさも溶け気軽くなって、こう傍の千鶴子に云った。
「これで争いというものも、やはり一つの調和なんだなア。」
 傍の槙三には矢代の呟きも響いたらしく、
「うむ。」と頷いた。そして、
「そうですよ。ただ僕らにはそれが分らぬだけらしいですね。」と附加してから、東京へ帰れば友人に数学の天才が一人いるから、一度その人物を連れて訪ねたいということを話した。
 宿では矢代は千鶴子の部屋で、共通の知人たちをさがして二人で寄せ書きした。書きながら彼は調子の上ってゆく自分を抑えかねた。非常に嬉しいときに書く文章だと思うと、自然にあてつけがましくなりそうなのも用心した。しかし、二人で何もせずただ卓子に対きあってペンを走らせているだけだのに、寒風の通りすぎた充実した部屋の中にいるように感じられるのは、あながち、二人が結婚の準備をまったく今は終ったからだとも思えなかった。また、旗亭で京都の舞いを見た興奮からでもなく、一つは、頭の芯にこびりついていた長い間の疑問の解けた気分によること多大だとも思った。実際それらの幾つもの理由が一時により集り、彼はいつとはなく愉快になっている自分を感じた。
「とにかく、まアいいから、早くお前はお帰りなさい。」
 昨日、九州の村道で故郷の山が、彼に京都の方を顎でさし、そう云ったように思われたあのときの感動など、彼はふと思い出したが、別に愚なことだとは思えなかった。なるほど、あの山の表情はこのようなときのためだったのかと、むしろ逆に感じをふかめるばかりだった。
 千鶴子の久慈へあてて書いた短い文章にも喜びが出ていて矢代は嬉しかった。
「四五日前から、奈良、京都を兄たちと廻りました。私のまだ知らなかったいろいろなこと初めて勉強しましたが、私のためにたいへん遅すぎなかったことをたいへん有り難いことと思いました。兄は間もなく出発します。多分来月あたりは、あなたとそちらでお会いすることと存じます。」
 こう書いた終りへ、自分の名をいつものようにせず、矢代千鶴子としてあるのに彼は気付いた。突然異様なものを見たように矢代はそこを見詰め、黙ってまたその後から自分もペンを使おうとしたが、相手が久慈だと思うと、矢代千鶴子という署名は大胆にすぎる面映ゆさで文章も詰るのだった。
「昨日ね、僕は田舎でお嫁さんはまだかと訊かれて弱った。君のことを云うには早すぎるし、否定するには遅すぎるし、というところでしてね。」
「それも早すぎるんじゃありません。」
 彼の結婚の躊躇を突くような千鶴子の視線に、矢代は返答を鈍らせながらも、無造作に今までの姓を書き代える婦人の諦めの良さに感服して、暫く忽然と生じた新しいその名の感じをまた眺めた。
「今ごろこんな名にして、君いいの。」
「でも、式を待ったりしていては、きりがないと思いましたの。いつのことだか分らないんですもの。それに、あなたお郷里へお帰りになって、もしかしたら、また急に妙なこと仰言るんじゃないかと思ったりして、――そうじゃありません。」
 疑う様子を露わには出さずとも、積極的に押し出て来た千鶴子の強さには、何ごとか自分自身の内部の変化や覚悟をも彼に知らせたいようだった。矢代は千鶴子のその変化を感じたくて正面から瞳の中を見た。千鶴子は一寸視線を伏せたがすぐまた臆する風もなく彼を見返した。
「君の困っていることも分るんだが、――しかし、これはたしかに僕にはありがたいですよ。これで無事だ。」
 こう云っているとき、急に矢代は喜びよりもむしろ、ある不思議な悲しさを瞬間感じてペンをそこに投げ出した。何が悲しいのかそれは自分にもよく分らぬものだったが、千鶴子が自分の過去を自分の手で断ち切った切なさがうつり、それをそのようにせしめたものが、自分の方にあるのを感じた悲しさにちがいなかった。また、これでもし自分が千鶴子の場合だったらどうしただろうかと、そう思うと、どんなに相手を愛している場合でも、もし自分だったら、――矢代はそこをもう考えることが出来なかった。それは恐しいことを予想せしめてきりのないことだった。そしで、おそらくそのときには、自分ならむしろ死を選ぶかもしれない信仰上の破滅だった。たしかに根を切りとられた切っ羽つまった苦しさが、突如胸のどこかに撃ち返って来て彼は涙がこぼれた。
「自分はこの女性をとうとう責め殺した。」
 矢代はまたそう思うと、一層涙がとまらなそうになり、ついバスルームの中へ這入っていって、そこで手を水で冷やして出て来てから窓際へ立った。本能寺の上に出ている星が一つ強い光を放っていた。彼はその星を見ているうち気持が透明に冷え落ちていくのを感じた。力が急に無くなっていくようだった。何か寥しい、あきらめに似た、今までまだ感じたこともないさめ果てた空しい気持だった。
「あそこの家のすぐ裏に、本能寺があるんですよ。」
 窓へ片肩をよせ、無意味に矢代は斜め左方を指差しつつも、どこかへ一人でたち去って行くような、もの寥しさをますます感じた。それはまったく予期しない寂寥だった。
「どこ。」
 窓際へよって来ても、理解しかねた千鶴子はきょとんとして、別に寺を見たい様子もなく、会館からはね出てくる人の流れを眺め、今夜は東京から来た音楽家の演奏会があったその崩れだと告げた。矢代は結婚のことはもう考えたくはなかった。それにしても自分の心が自分の手でも掴まれぬ怨めしさは、今に限らぬことだったが、二人の間から擦りぬけては流れ出ていくこの仕業は、何ものの誘いであろうかと矢代は星から眼が離れなかった。
「明日はもう帰らなきゃいけないでしょう。」
「ええ。でも、私はいつでもいいんですの。」
「見残した庭も沢山あるんだが、――」
 今の自分は寺の庭も見たくはないと思った。一本の笛の音が澄み透って来るような空の眺めだった。千鶴子は上唇に細かい汗を浮かし、何か云いながら、ときどき身体を廻し、落ちつかなげに下の通りを見降ろしたり、腕の時計を覗いて見たりした。その様子は窓際で戯れている蝶に似た身軽さで、どこか断ち切られたもののひらひら舞う姿に見え、矢代には悲しかった。
 しかし、考えれば、何んという喜びだろうか、とまた彼は思い直すのだった。希ってもないときが来たのに、それにどう仕様もないあわれなものの打ちよせて来た感じに受けとっている自分を思うと、実際、あの夜席のときの舞妓のごとく、今は金扇をひろげてひとさし彼も舞いたくなってくるのだった。
「人間五十年、化転の内をくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり――」
 桶狭間の決戦にのぞみ信長の舞った敦盛の謡いが、本能寺を見ている矢代の口にも自然にのぼって来て、躊躇するものの轡すべてを彼は切り落そうとし、馬鞍を叩く手つきで窓枠の縁を打った。

 京都から帰って来ても、矢代はまだそのまま旅先の姿勢を変えなかった。どこからか号令の下ってくるのを待っているような気持ちの姿勢で、そうして父の遺品の中に坐ってみているのも、家が父から自分に移り代ってくる、生涯に二度とない大切な時だからだと思った。このような時は周囲からとやかく自分に触られるのが彼には辛かった。青葉がおもい重なりを見せた中から、朴の葉だけ水中の羽根のように端正な姿を保っているのが、朝起きた矢代を何より慰めてくれたりした。こんな日のある朝である。前から矢代の家の茶の間と風呂場の角に柱があって、そこに一分ばかりの小さな穴があいていた。その穴から白蟻が噴きでて来た。ぶよぶよした半透明の翅のある蟻で、初めは数十疋のものがしだいに数を増し数千疋の大群となったかと思うと見るまに一面煙のように溢れ、あたりの壁や柱に附着した。
 今まで彼はこのような事は一度も見たことがなかった。うす靄の軽くかかった好天の日で、日に透けると白蟻の翅は美しく薄緑に光った。まだ生れて以来使ってみたことのない翅と見え、蟻はそのままねばりついたような翅のよじれを解きほごす準備にかかっているらしかった。
 動き廻るわけでもなく、じっと附着して自分の位置を守り、整えた翅をただかすかにふるわせてみているだけである。
 別に大事件というわけではないが、家という建物自体に起った出来事としては、この蟻の大群は近来稀な現象といってよかった。
「これはどうだろう。この部屋全部壊して、一度建てかえなくちゃ、――いつの間にやら土台に巣があったんだなア。」と矢代は洗面に降りるとき立って母に云った。
「もう、はたいても、はたいても、幾らでも出てくるんですよ。」
 あまりの見事さにしばらくは珍らしく、眺めていたい気持ちで母もそのまま蟻を捨てて置いた。すると、半時間もしたころ、蟻の大群の一角が舐めたように縮小していた。そして、全体が光線の射す廂の方へじりじり移動しつつ、直接日光をうけた柱の角までくると、そこからそれぞれ、空へむかって飛びたった。小粒で数万の大勢ながらも、初めから秩序整然としていて、誰か号令するもののあるような風韻ある動きで間もなく、あたりには一疋の姿も見えなくなった。
 白蟻のこんな活動については矢代は前にも、幾度か本でも読んだことがある。しかし、この虫類のしなやかな本能の世界が整然と群団をつらぬき、統一を紊さず地中から空色で生れでて来て、そして、またたく間に空の青さの中にかき消えた姿は、眼のあたり、ぽとりと一滴の神水を落されたまぼろしに似ていた。ここでも何ごとか旅立ちがなされていたのだった。
 彼は蟻の立った柱を叩いてみた。中に空洞のあるらしい乾いた音を聞きながら、彼は自分と千鶴子との結婚も、こうして巣だってゆこうとしている旅立ちに似ているとも思った。
「この家の土台を変えなくちゃ――」
 と、また矢代は柱の下の黝ずんだ台木に指を触れて云った。

 家を改造するにあたり、大工をとよの主人の清三郎に彼は依頼することにした。風呂場や茶の間を建て直す清三郎の姿が、毎日蒲田の方から顕れて来るようになったのは、梅雨も半ば過ぎていて、熟した梅の実が朴の葉を擦り落ちるころだった。清三郎は長めの顔で丈も高く、腹掛けの背の十字の紺も洗濯が利いていた。物数少く実直で、選択する木材も見積りを厭わず丹念なのもとよに似ていた。とよがまだ矢代の家の女中をしているとき、愛人に出す手紙の代筆を幸子に頼んで、熱しふるえながら、
「夢のかけ橋かすみに千鳥、想いかなわぬ身なれども――」
 と、こう云い出したとよの様子を思い、そのときの相手がこの清三郎の姿かと考えると、雨に濡れた彼の背の十文字が、矢代にはおかしい封印の手紙に見えた。
 家の改造が進捗している間、矢代の友人たちの間にも変化があった。須磨で療養中の東野夫人が亡くなった。由吉が再度の渡欧に旅立っていったのにひきかえて、久慈からはジュネーブにいる書記官の大石と一緒に日本へ帰るという手紙が届いたりした。また、塩野の縁談が急にまとまったことや、槙三が航空会社へ勤めることに定ったことなどもその一つであろう。矢代も久木男爵の会社へ一週に二日通い、小父の会社へは以前のごとく通勤し、ある大学の講師も、週二時間ばかり出席をひき受けたり、ようやく彼の身辺も多忙になった。
 梅雨明けもまぢかく、軽雷のとどろくころになりながら、幾日もの蒸し気で汗が出た。ある日矢代は、久木会社の文化部で催された会合へ出ようとしている午後のこと、北京の郊外で、中国兵と対立していた日本軍の一隊が、中国軍の発砲に対してついに応えたという号外を見た。記事はごく簡単なものだったが、含まれた意味に群がる嶮しさ只ならぬ空気が満ちていた。
 通りを歩いている人人の表情も、言葉少く俯向きがちのものが多かった。鋪道に撒かれた打水の飛沫が、剣尖のように色濃い鋭さを描いて足もとに迫り、歩きつつ矢代は、首筋にねばりつく汗を幾度も拭き拭きした。会場の支那料理店の日本間には、社から招待した先客多数が集っていた。それぞれ顎を胸に埋める風にし、壁にもたれた背も、動きが見られず息苦しそうだった。
「暑いね。」
 たまにこういうものがいても、誰も黙って顔を見交そうとしなかった。
「大変なことになったもんだね。」
 と矢代は同僚の一人に云った。
「一大事だ。」
 同僚は眼鏡をせり上げたが、すぐ内から引き摺りこみあうものがあって、どちらもそれ以上の言葉を発しなかった。陶器の塀に包まれた庭に、露を噴いた若竹が節青く際立たせ、その向うに夕闇が降りて来た。脂肪でぎらついている顔の間を、湯気を立てた料理の鉢が廻って来たとき、矢代にはそれがまだ昨日とつづいている日常の水脈のように親しく見え、懐旧の情をさえ覚えた。実際、もう昨日までの一切の話題は、どこか古びた形骸に見える今宵だった。随ってこの日の会合の議題となるべき、
「東西両洋のヒューマニズムの相違について」
 というテーマも、一同の胸中から散り落ちた無力なものに思われた。政治や経済や、思想や、その他文化百般の問題までが、華北で火を噴き始めた一角に集中された形で、各自の想像力がそこを中心に爆け飛び、とどまるところを知らぬ思いのまま、鶏や、豚や、家鴨の肉を盛った皿の上へ、自然に顔も俯向くのであった。
「もうこれで、平和は終ったよ。」
 床の青柿の実を背に憂愁を瞼にたたえた哲学者の一人が、皿から顔を上げて云った。
「どうもそうらしい。」
 その傍の文学者がそう云った途端に、突然、司会者が、機を掴んだらしく温厚な口調で発言した。
「それでは皆さん、これから始めます。本日は意外な興奮というより、形勢ただならぬ重大な日となりまして、座談の内容も苦しい色を帯びるかと思われますが、片づけて置くべきことは、今のうちに片づけねばならぬと思いますので、元気一番、御意見をお洩し願います。」
「今日はもう止めよう。」と云うものがあった。半畳ではなく、今さらヒューマニズムという抽象的な議題には感興を覚えない、一同の意識を代表した声かと見えた。
「一切のことは、どうでもいいよ。それより軍備の充実、経済力の拡張だ。」
 ぴしりと、ひびき強く、一人のそういう文明評論家があった。皆これには笑い出した。が、その笑いを吸い取ってゆく明快な判断には、大正の末以来、観念に悩まされた一同の過去に対する潔癖な逆襲がひそんでいた。それは人間の逆襲というよりも、好機を見つけて狙い定め、急襲して来た現実の胴震いのような厳しさだった。
 戦争はもう起っているよ、本当の平和は戦争だ。と、アメリカを廻って来た東野が、入港して来て横浜へ降りるなり、スペイン反乱の有様をそう云った日のことなど、矢代は思い出したりした。塩野と街を歩いていた去年の晩秋、西安で蒋介石が誘拐されたということを聞いたときふと自分の運命に影響を及ぼしそうな突風を身に感じたことも、さらにまた彼は思い出すのだった。一ヵ所の戦争はそこだけで鎮る筈もない。地表を蔽った武器の爆薬の堵列した進行のさま、鉄、石炭、石油の獲得、も早や後へは退けぬ、せり合う戦備の雲行き烈しい各国の目まぐるしさも、矢代は見てきた。パリでは、一時日華の戦争いよいよ開始という大見出しの記事さえ掲げられ、行き交う人人の眼を奪った日のことも、実は、今日の予震のようなものかもしれなかった。そのころは、ジュネーブ聯盟の破滅を中心に、暗雲ますます色濃く垂れさがるばかり、と憂えた朝野の声声の末端、犇めき擦れあう思想の火の手も、危機のふかまり進む車輪のごとく音響を立てていた。視れば、ヨーロッパのどこも発火点で充ちていた。怨恨つみあがり、鬱情す走る十重、二十重の心根の複雑さを、機械の食い破ってゆく日が来たようであった。民族も宗教も、政治も経済も、文明も思想も、ばりばりと歯車の歯の中にめり崩れて行きそうだった。
「西洋と東洋のヒューマニズムの相違について」
 この夜、このような議題が一同の間で発案されたことも、無理からぬ時だったが、しかし、今は火の手は東洋の面面へも迫って来たのである。他人事ではないときに、他人事を憂えるに似た観念の弱さを感じる反撥も手伝い、これを自分の強さに変じる作用あってこそと覚悟する、別の気力も、またそのうち一同の中から燃えて来た。
「戦争は何も、地震のように突然起って来た偶然のことじゃない、拡って来た人事で必然だ。そんなら、ヒューマニズムにつながる根本のものじゃないか。文化人として、今こそやらずにどうする。」
 こういう文学者も一人出て来た。
「しかし、ヒューマニズムは、ルネッサンスの人本主義から出て来ているものだからね。それからやるとなると大変だよ。」
 何も云いたがろうとしない哲学者は、そう云ってまた黙った。
「解釈はどうだっていいよ。ヒューマニズムの心情だ。われわれの心だ。心をそのまま抛ったらかして、狼狽えるわけにはいくまいじゃないか。」
「戦争が起れば、誰も彼も自分の意志ばかりで物を云おうとするからね、意志ばかりで云っちゃ、戦争は負けだよ。冷然とした判断力が何よりだ。」
 と、このとき横からこう云い出したのは、隅の壁にもたれかかり、今まで黙っていた科学者だった。
「意志で云わなくちゃ、何んで云うのだ。」
 憂いを共にしている一団ながらも、その中から急に寛いだ笑いが立った。
「おい速記たのむよ。座談会そこから始める。」と司会者はまた機を捉えて催促した。
 しかし、速記が始まると、さすがに誰も開こうとするものがなく、そこから再び会は頓挫した。矢代はこの頓挫でほっとした。何を云おうと今は無駄だと思ったからだった。出て来る料理につれてしばらく雑談がまだつづいたが、そのうちにこの夜は騒ぎもなく早い散会になった。大玄関から闇の中へ散り出ていく肩口も、平和な日の会合はこれで最後だと思う、名残り惜しげな姿もあり、出る膿なら踏み潰せ、と云いたげな軒昂な肩も見えた。しかし、どのようなことがあろうと、今日はふたたび昨日には戻らぬ訣別の面影ただよう背に、それぞれ灯火をうけた恭倹な帰りとなって散り行くのだった。

 燃えるようなカンナの花茎に黒くまつわりのぼる蟻が見られた。真夏が烈しい暑さで迫って来ても、戦いはやはりつづいた。それは締めくくろうとする緊張した力の闇から、めり出す風にのび拡がり、やがて動員令が出た。新しく編成された軍隊の動きが活溌になっていくにつれて、炎天に振られる旗の数が街から街へ急激に増して来た。わけても赤十字の動きが鮮やかに眼につくようになってからは、山野から出発していく馬の嘶きが次第に高くなって来た。
 陣太鼓の遠くから鳴りとどろいて来るようなこんな暑さに拘らず、それでも、久しく平和に馴れた人人の表情には、まだ調子の揃わぬものがあるようだった。戦争というには厳しさが足りず、事変というには底鳴り異様なうちに、今度は上海の周囲に火が飛んだ。久慈が印度洋廻りで東京へ帰って来たのは、丁度こういうときであった。彼は東京の知人たち誰にも到着を報ぜず瓢然と戻って来たのである。
 矢代が久慈の帰ったことを聞いたのは塩野からで、塩野は大石から聞いたという。誰にも報ぜず、人に会うことをも避けている久慈のその気持ちも、矢代は察することが出来たが、介意わず彼を引き出すようにしなければ、久慈に限りそのまま老い崩れてしまいそうな懸念もあって、すぐ矢代は彼に速達を出した。多摩川の傍だと聞いていた彼の家へ直接出かけて行っても良いとはいえ、それにはこちらの想像する以上に困ったこともあるかも知れず、先ず今は速達だけにしたのである。それに対してしばらく返事のなかったとき、ある日矢代の留守に久慈が訪ねて来たと、妹の幸子が告げて云った。
「妙な方だわあの人。一度さようならと仰言って外へ出てから、また戻っていらして、今度上海へ行くことになりましたから、そう仰言って下さいって。」
「何も妙なことないね。」
「それが、どことなくおかしいのよ。そうね。」
 幸子は表現に詰ったもどかしげな表情で、
「何んといったらいいんでしょう。ハイカラなくせに、ちょっと図図しいの。でも、これはひどく云ってみてのことだわ。」
 矢代には久慈の変化の仕方がそれで分ったようだった。いきなり相手の中へ踏みこむ癖も、多少は前から久慈にあったところへ、人を瞶める眼に、調節を忘れた異国風が出たのであろう。しかし、あれほど争いつづけた彼が訪ねて来てくれたことは、二人の争いが互に無意味に終らず、また無事落ち合えた思いで矢代は喜びを感じるのだった。思ってみても、久慈とは自分は事ごとに争ったものだと、矢代はその夜また考え直した。それは熱病のようにどちらにも襲いかかり、争いすなわち生活のようなものだった。二人にとってもしあの争いがなかったら、生活の香のする活き活きしたものは、あの旅では得られなかったかもしれない。異国での二人の奇怪な修業だった。矢代はすぐ懐しさに久慈に手紙を書いた。

「旅先で僕らのしばしば語り合ったように、とうとう戦争が起って来た。あれはラスパイユのホテルだったか君と高有明君と、僕らで論じ明した一夜のことなど、今はそのままになろうとしている。
 実際、僕と君との果しなかった争いを思い出すと、みなこの戦争の際の準備だったようで、僕には多少気味が悪いのだ。それも無意識の僕らの準備だったことを思えば、あれもこれも、みな神さまが下さったものだろう。僕はこのごろ幾らか神がかりになっているので、人がかりには倦怠を感じて仕様のない状態だ。千鶴子さんとの結婚のことなどにしても同様で、この点、僕らの結婚を早めることは両人にとりあながち幸福とは限らず、むしろその反対の結果を来す惧れなしとせぬところもあって、実はいまだに停頓している意気地なさでもある。女のことを考える暇があるなら、神さまのことを考えろ、と云ったフロオベルの剣先も、彼の故郷のルーアンを訪ねたころから折折に泛ぶ僕の物思いとはいえ、千鶴子さんの念じる神、君の信じる神、僕の拝する神など、――神に二つはない筈だのに、それを思うほど、どうしてこんなに狂ってくるものだろうか。平行線は相交らぬものでも、無限の後方では相交るというものを、――僕らは、まだ交る無限のその部分にはいない下根凡愚かもしれぬ。ともあれ、水落ちれば石あらわれ、人間それぞれ自分の神のおん名を呼びたたえ、祈りつづけねばならぬだろう。ましてや戦争ともなれば――君の信じる科学の神も、あるいは、平行線の交るそんな部分をいつの日か、お示しになることだろう。
 君は忘れたかもしれないが、パリで僕らが、日華の戦争起る、という記事に欺かれた日、僕は君にドームで、ある無名歌人の歌を詠んだことがある。――大神にささげまつらん馬ひきて峠をゆけば月冴ゆるなり――そういう歌だが、僕はあのとき何ぜか涙が出て仕方がなかった。それに今日このごろ、いよいよ歌が事実になって来てみると、も早や涙も出ない有様だ。もう僕らも凡愚ながら無限の彼方にいるのかもしれない。あの無名歌人のように。」
 矢代の手紙に対し折返して久慈からの返事が届いた。それにはまだ簡単に、自分の歓迎会をしてくれる塩野の厚意も断っていることや、帰って来た目的は母へ安心を与える結婚のためだけで、それをすませばすぐパリへ戻る仕事の待っていることと、上海へ行くのもその仕事の一つで高有明も共同出資者の一人だということなど誌してあった。そして、終りにあたり、千鶴子となお結婚を渋っている矢代の態度を、どういうものだか、蹴散らすように攻めていて、了解に苦しむというよりは、むしろ手探りようもない青春の消えさった手紙だった。
「君と千鶴子さんとのことなど塩野からもきいたが、もう僕には君の愁毒は分らない。君たち二人には、僕のなすべき範囲以上のことを僕はしたので、君の平行線も考えている暇がない。冗談ではない、目下僕は忙しく、少しの暇を見て僕は僕で孝行もっぱら結婚を急いでいる。それにしても、僕は千鶴子さんを君に紹介した責任もこのごろ感じ、柄になくその責めを負うつもりも出て来ている。君のは愛ではない。大愛でもない拷問だ。やはり、君より僕の方がどことなく適任者だったのだ。前にものべた通り、今は僕は勤労派だ。何より実行第一、仕事第一、他の事は僕には退屈で、こんなことを云う始末以外にはない殺風景な僕になっているが、とにかく、僕は一ヵ月より日本にはいられない。その間僕の馳け足一切に関しては、むかしの縁で不問に願いたい。いろいろ失礼することと思うが、そんな次第不悪お願いまで早々。」

 言葉をそのままには受けとりがたいとはいえ、ぴしゃぴしゃ平手で叩き落してくる、久慈の文面を見ても、同情されるより矢代は気持ちよかった。しかし、読み返しているうち少からず腹も立って来る手紙だった。どんな仕事か分らぬながら、自分の多忙さを楯に姿を匿そうとする態度には、新帰朝者に見受ける見栄すらも感じられた。殊に千鶴子との間を難じるあたりの書き方には想像に絶したものもあって、自他の間をひき歪めて悔いない強さもちらりと顔を出していた。けれども、一つは結婚の話であり、結婚となれば他人の事ではなく、このように他人を叩いて廻る作法も出がちなものだと矢代は思った。また今はのっぴきならぬ戦争の際でもあった。未婚者の考えはどこでどのように変るか外からは分るものではなく、矢代自身にしても、戦争が始ってからは、覚悟のこととはいえ、いつ応召するか分らぬ身であれば、残るものの身の上も考慮に入れて物いう風になって来ていた。それも矢代のように、結婚を他の理由で延ばしていることが明瞭な場合でさえ、立つもの、残るものと考えると、延ばしている理由が戦争と一つにならざるを得なかった。久慈も何かこの間必ず原因のあるに相違なかったが、それにつけても思い出すのは、いつか塩野が横浜の埠頭で、小父から持ち出された縁談の処置に苦しんださまを矢代に話したときの事である。塩野のは、やがて起りそうな戦争を前にしては、結婚の意志あるなしに拘らず、一応ためらう良心の置きどころの苦しみであったが、今は予想ではなかった。現に戦争の起っているときであれば、誰しもこの事から超然とはしがたい悩みふかまる内心の問題であり、おそらく久慈も立ち騒ぐ周囲のものらの言動にことよせつつ、蔽いきれぬ彼の悩みも、文面多忙な匂いに変りむら立っているのかとも矢代は想像した。
 それにしても、矢代は自分と千鶴子との間に関することには他から触れられたくなかった。このような際の結婚の問題は、平和な日の結婚の内容に傘かむって来る自分の気持ちがうるさいばかりでなく、さらに相手にも同様に増して来るその傘を、払い除ける手間ひまの煩わしさに加えて、要らざるこちらの腹さえさぐられる不愉快さも量を増し、ために日ごろの良質のものまで姿をかき消す惧れもあった。千鶴子の場合にしても、矢代は、今まで結婚を延ばしている身でありながら、戦争となるや突然急ぎ出す挙に出れば、自分の身勝手ひややかにすぎ、それでなくとも延びている二人の間を、一層ひき延ばそうとする美しからざる不自由さも生じて来るのだった。これは思いがけないことだった。今さらにたじろぐ要なくとも、この微妙な一点で足踏みすべらせば、万事を瓦解に導く悲喜劇そちこちに見られるように、千鶴子の母にも、戦争が与えている動揺のきざしなしとは思えぬあたりの空気を、塩野は久慈に何んと洩したものか、そこにも矢代には計りかねるところがあった。
「君より僕の方がどことなく適任者は、うまいなア。」
 と矢代は久慈の手紙を前にしてひそかに苦笑した。ラスパイユの祭の夜、檻の中の電気自動車の遊び場で、千鶴子の胴に狙いを定め、得意な薄笑いで突撃して来た久慈の剽悍な眉もちらりと泛んだ。ピラミッドの穴の中を昇る暗中、喘ぎ喘ぎ鉄桟を切なく攀る千鶴子の手を、しっかり支え引き上げていた久慈の姿も泛んだりした。久慈の責任というのも、当時のその姿を彼も思い泛べての意であろうかと、矢代は遽に虚を衝かれたように手紙を畳み、マッチを擦った。

 久慈の手紙を見てから三日後、東野の講演会が日比谷であるので、同夜久慈や大石の歓迎を兼ねて集りたいと、塩野から矢代に云って来た。矢代は千鶴子と会う打合せもすませ、その日の夕食前に公園へ行ってみると、聴衆の列は乾いた広場にもう長くつづいていた。東野の新アジヤという演題は外交関係の講演者の名の多い、終りの方に見られた。日ごろの東野には似合わしからぬ演題であるだけに、彼を知るものにとっては、何か期待を持たせる題でもあった。
「奥さんを亡くして、新アジヤというのは、何か意味があるのだろうな。」
 矢代は千鶴子に会ったとき、尾を曲げた聴衆の列を眺めてふと悲しい気持ちに誘われた。西日のまだ高く雲を灼いている残光に染って、薄水色の服色に包まれた千鶴子の頬は明るく輝くようだった。篠懸の幹の下を池の方へ廻っていく半面の影は、いつもになく沈みがちだった。日ぐらしの声の鋭くひびきわたる樹の枝ぶりを仰ぐ眼もとにも、気分を引き立てようと努めるときの固い表情もあって、苦労のある一夜になりそうだなと矢代は思った。
「久慈から手紙を貰ったきりで、まだ僕は会わないんだが、あなたもでしょう。」
「昨日塩野さんといらして下さいましたの。」
 ためらいもあって、その返事を避けたいらしい弾みのない詰った千鶴子の声が、矢代には気がかりだった。
 あるいは、――とつい疑いも出て来る彼女のその返事に、矢代はそこから入り込めない遠慮を感じ、路の岐れて行くのもこういうときには意味が出て、自然な方法を取り失う窮窟さも彼は覚えるのだった。久慈のことである。こちらが結納をすましてある間ということに、却って彼の申込みを早めたかもしれない疑惑が胸を掠め、その予感の純不純を暫く彼はたしかめながら歩いた。
「変りましたか、久慈は?」
「そうね、あたしは別に、そんな御様子感じなかったんだけど、でも、塩野さんは君も変ったなアて、そう云ってらしたわ。」
 自分の不在の場所で千鶴子に久慈がどう云おうと、も早や危惧の念を抱く間でないに拘らず、やはりそれを知ろうとする質問に矢代は馳られ、久しぶりに感じる悩ましさが、雲を映した池の水面に黒黒と映るようだった。
 蝋色の子蜂の群が柔い脚を紫陽花の乱れた弁にかけ、溶け崩れそうに蠢めいているのも、花底に流れた秋立つ気配で、彼は自分の結婚日を早く定めねばならぬとも考えたりした。
「久慈は細君を貰いに帰って来たんだそうだが、そんなことはあなたに云いませんでしたか。」
「そのことなの。昨夜もそれで塩野さんといろんなお話の末に久慈さんね、真紀子さんと会わせるようなら明日は出ないって。でも、塩野さんはああいう方でしょう。ですから、もう一度真紀子さんと君結婚し直せって、仰言るし、――これで、今夜もし真紀子さんいらっしゃれば、どうなることかしら。」
「真紀子さんなら来るかもしれないなア。それや来るね。」
 しかし、矢代は自分たちのことより他人の身の上を心配する、そのようなもどかしさも、今なお単刀直入に切り出したくはなく、当分はこうしている以外に月日はたたぬのだと思った。そして、それはどういう理由からでもない。これで良いのだった。一番適当な方法を講じて進んでいる以上、現在の成り行きを変えるのも愚かな考えで、その決断も不用だった。次第に押しよせて来る外界の波を避けようとすることが、下らぬ躊躇に見え、自分の目差す針路だけは他人のものではないと思われた。

 剪裁されたばかりの青枝を跨ぎ、寛ぎの出て来る小丘を降りてからもう病葉の散る橡の樹の下へ出ると「新アジヤ」という東野の演題がまた矢代に泛んで来た。夫人を亡くした東野の針路も、定めしその題の示すところに苦心の光鋩を集めたものだろうと察せられたが、東野のみならず、今は人人の念じるところ、それぞれ違った角度からとはいえ、新アジヤに対い沸沸と湧くもののようやく底から逆巻き返して来ている物音が、公園の長蛇の列からも感じられた。
 しかし、矢代は、自分ならむしろ新世界としたがった。東野と大きさを較べるわけではなく、一分の小さな柱の穴から、空の光を望み噴き立ちのぼった、白蟻の群のように秩序ある、繊細柔軟な想いにも似ており、またそれは、いま見た蝋色の子蜂の透明な脚先が、弁にかかったひとときの花底に流れる、いのちのような真新しさであり、新秋のみのりにも通じる敬虔な祈りのようなもの。
 ――彼の希っているのは、そんな新世界の芳情ある題であった。

 日も落ちてから矢代らは、あまり日比谷とへだたらぬ懐石店へ集った。世話係の塩野はもう見えていて、東野の講演の番までそこで夕食を摂り、その後、田辺侯爵の別邸まで皆で行くことになっていた。青い実を垂らした藤棚をくぐって、矢代たちと前後して来た大石につぎ、佐佐や遊部、それから平尾男爵、速水、などの顔まで揃った。皆より少し遅れて来た久慈は、肩幅のある薄羅紗の夏服に、ブルターニュの農民用の紺木綿のワイシャツへ、毛糸の編タイをし、矢代の知っている久慈とはまるで変った服装で、やや長めの髪を撫で上げた、一見未来派の彫刻家か建築家に見える様子だった。太巻の蘆の素簾の巻き上った廊下から矢代を見つけた久慈はすぐ寄って来て、
「どうだ。」
 と一言、膝長く、日に灼けた顔立ちを近づけた。はるかにへだたった遠い海をおし縮めて、よりかかって来たような水色の、漠漠とした空気が一瞬飛び散り、しんと二人で静まり込んだ形だった。
「また行くとは、どういうものだ。」
「うむ。」
 久慈はただ無意味に呟いただけで、ゴールドフレークの蓋をあけ矢代にさし出した。呼吸も聞きとれそうな一本の煙草を抜きとるのも、指さきに、血の滴りつく思いで、矢代は懐しかった。
「海は暴れたか。」
「いや。」
「病気はすんだの。」
「まだだね。」
 夕闇の降りた胸の間で、久慈はダンヒルの点火器の頭をぼっと燃やし、また矢代にさし向けた。そして、庭前の緑の葉を潜り流れている水の涼しさを眺めたとき、さもうるさげに視線を反らし、始末に困った佗びしげな薄笑いで一寸あたりを見ると、こちらを見てる千鶴子と眼が合った。
 矢代は戦友の匂いをひと嗅ぎしてみるように、煙草の煙を咽喉へ落そうとして、何ぜともなく、ふともうこの男は死んで帰って来たのかもしれないと思った。何を云おうと無駄かもしれないと思った。
「スペインへは行かなかったんだなア。」
「傍まで行ったんだが、折れてカンヌからグラスへ出てみた。あそこはコティの薔薇畠があってね、紹介状を出したら、社長の細君が案内してくれたよ。」
 云いたいことのおしむらがって来る庭前の涼しさだったのに、叩けど響かぬ空廻りの感じで、矢代は心労と懐しさの手捌きに疲れを覚えた。
「細君は見つかりそうかね。」
 他意あってのためではなく、コティの社長の細君という連想の弾みで、矢代はふとそう訊ねてみたものの、同時に意味もこもり、我ながら羞恥も顔にのぼった。
「いや、まだだ。」
 と、久慈は急に明るく眉を開いて笑った。固い殻がぱっちり音立てて裂けたような笑顔だった。この久慈の美しい笑顔にあうと、いつも矢代は無造作に倒される自分を感じたものだったが、今も変らず、彼はまた、千鶴子とのいきさつなど忽ち遠のいて見えなくなる、恐るべき男の笑顔を感じて気持ち良かった。しかし、こうなると、互いに溶けあう親しさの募りにまかせ、人には云えぬ毒舌も熾んになる癖が出て、捻じあい、絡まり、啀みあい、果てしもなく争った外国での二人であった。つまり、矢代と久慈との二人の方が、千鶴子と矢代や、真紀子や久慈より、はるかに深い夫婦だったといって良い。その片割れの一人も先ず無事ここに帰って来て、笑顔を初めて矢代の前に見せたのが、今だった。

 打水で湿した平目の石に夕闇が降りていた。上衣を脱いだ客たちの集りから洩れた灯明りに、紫陽花の一株がぼっと白くにじみ出ている。初秋の夜もこの料亭の庭ではまだ暑かったが、藤棚に下った実の青さが、それぞれの客に何か物を想わせる涼しさを誘った。それは人の忘れていたもので、沈黙の間、久慈もふと立ってその実に触れたくなった青さだった。
 最後の客の東野が真紀子をつれて顕れたのはそのころである。彼は廊下の端から、久慈の方を一寸見てから、大跨につかつかっと近よって来ると、
「どうだ。」
 と、一言どさりと真向いに坐った。二人はどちらも眼を脱さず、じっとしたまま、笑いもしなければ口も動かそうとしなかった。何かの仕合いのように東野の幽かに微笑を含んだ眼もとが、暫くは、脱そうとする久慈の視線をぴたぴたと抑えて追っていく。視ているものらは息詰る瞬間の切迫さで皆黙った。
「うむ?」
 と東野は、誘いの水を向ける無意味な声を出した。
「何んですか。」と久慈も同じく無意味な微笑で訊ねた。
「御機嫌はどうかね。」
「いいですよ。」
「それにしてもだね。君に返す荷物があるんだから、一言、帰った挨拶があって、然るべきだろう。重かった荷物だぞ。」
 真紀子が出席するようなら、今夜の会へは欠席すると断ってまで出て来た久慈である。それも久慈と大石の帰朝歓迎会のこの席へ、東野につれられて来た真紀子であった。東野の重い荷物というのも真紀子を意味することなど、久慈のみならず他の客の誰にも通じることだった。
 婦人席には千鶴子を初め、田辺侯爵夫人、藤尾みち子など四五人の見える中に混って、真紀子は千鶴子とさきから話していたが、ときどき久慈の方へ視線を向ける面差しには、悪びれた風もなかった。むしろ懐しげな、追想に光りを上げた断面のような、照り映えた鮮やかさで久慈を見た。東野は振り返ってその真紀子を手招きした。どうなるものかと見ていた一同の疑惑ある視線の中を、手招きに応じ真紀子は気遅れもせず立って来た。
「挨拶、挨拶。」
 東野に云われた真紀子は、ちょっと詰った表情で肩を竦めてから、嬌態を整え直すと意外に緊った生真面目な顔で、
「お帰りなさい。」と久慈に云った。
「やア、しばらく。」
 久慈も別に不愉快そうでもなかった。開いた眉の間で二人が何か一言ものいいかけたそのとき、突然拍手が部屋の一隅から起った。すると、つづいて起った拍手に部屋はどよめき立った。突き崩された二人は見合せた顔の遣り場もなく、真紀子はすぐ自分の席へ逃げ戻った。料理が出て来た。銚子を配るもの、皿を並べるもの、大鉢を擁えたもの、それらのごたごたと立ち動く気分に巻き込められた一端から、世話役の塩野は久慈と大石の無事帰朝を慶ぶ歓迎の挨拶をのべた。祝杯があがると寛いだ歓談が始まった。
 渋色に塗った低めの長い食卓には、鉢から移された前菜の、生海胆、琵琶湖産の源五郎鮒の卵巣、日向産の生椎茸の油煮、熊の掌の煮付に添えたひじき、鴨のロース、仙台産の味噌で包んだ京の人蔘、など、これらが織部の小皿に並んでいる。手釣りの黒鯛を沖で叩いて締めた刺身、つづいて丸い伊豆石を敷いた大鉢の中には鮎が見えた。しかし、一同の客たちには、これらの懐石料理は一向に興味をそそらないようだった。談は千鶴子の兄の由吉の噂を中心にして拡がった。今ごろはロンドンへ着いたばかりであろうとか、枕木嬢とその許婚の伯爵との間に挟まれた由吉の軽妙な態度とか、それらの談を笑わせながらするのは、肥満した体に似合う薄めの縞のワイシャツを着た平尾男爵であった。若手の外交官の間でもっともフランス語に熟達している噂の高い速水は、クレギイ会談の通訳の労もとったりしたにも拘らず、スイスへ転任して以来の大石の書記官ぶりを聞くよりも、彼から山登りの談を聞きたがった。大石はパリで久慈や矢代が見たとき、誰より眼光鋭く神経質に痩せていたのも、今は見違えるように肥っていて、絶えずにこにこ笑っていた。パリの上流のサロンを落す名人だったこの大石ほど風貌の急変した人はなく、またこの人物ほどどこの婦人からも好かれたものも少なかったが、彼はいつもあまり喋らなかった。
「いったい、この懐石料理というのは、どういう意味だい。名前だよ。」
 と突然、音楽家の遊部が云った。誰も一寸談をやめたが、彼に答えたものは一人もなかった。
「それや、河原の石を集めて、漁ったばかりの魚を焼いて、そこで食うのが一番だということさ。」
 と東野は云った。
「じゃ、野蛮人の名残りだな。」
「しかし、盆栽みたいに陶器で包んで丸薬にしたんだからね。ここまで来るのも、相当永い旅をしているよ。」
「こういうものを食っちゃ、これや、戦争には負けだ。」と、遊部は源五郎鮒の卵巣を箸で突っついて、一口舐めた。
「誰もしかし、良い潮どきに帰って来たよ。これからはどこの国の歴史も、見知らぬところを旅するんだからね。僕らはまアやっと間にあって、先ず何よりそれが良かった。君もだ。」と東野は隣席の久慈の盃に酒を瀝いだ。そして、また、
「僕はパリじゃ、君にぽんぽん当り散らして失礼したが、もうあんなことはやらないよ。当時は実際失礼した。随分僕らは苦しかったり、愉しかったり、しかし、考えてみると、何んだかよく分らないね。君もだろ。」
「うむ。」と久慈も頷いて東野に盃を返した。
「それで良いのだよ。分ったら嘘だ。事物の自然化だとか、科学化だとか、そんなことを云ってる暇に僕らの生命力は、誰やらじゃないが、榴散弾みたいに進んでゆく。二度と同じことを繰り返さないよ。新しくなるばかしだ。西洋が良いの、東洋が良いのといったところで。おい、君、僕は近ごろ女房を亡くしてね、このごろじゃ、空というものの美しさが初めて分って来たのだよ。人生五十年、空の美しさだけがやっと分った、後は空空漠漠、――」
「今夜の日比谷の講演は、それをやりなさいよ。」と久慈は途中で東野に云った。
「いや、まだ考えちゃいない。それより、僕は君に賞めてもらいたいことがあるんだよ。僕は君から預って来たものを、破損もせずちゃんと日本まで持って帰って来たんだからね。君はそんなもの、もう忘れたというかもしれないが、それは僕の知ったことじゃないさ。しかし、君との約束を重んじたことだけは、忘れないでくれたまえ、それでいいだろう。人生で必要なものはそれだけだ。」
 ここに集っているものの中で、夫婦別れをしたものは、久慈と真紀子とだけではなかった。遊部と藤尾みち子も前には夫婦だった。千鶴子と矢代もこれから式を上げようとしている間であり、塩野や佐佐も同様に進んでいたが、妻を亡くしたものは東野一人だったので、このときの東野の感想は、一同の頭に冷水を浴びせたような刺戟があった。
「待てよ。僕も女房に死なれた後のことは、まだ考えてみたことはなかったなア。」
 と平尾男爵はしばらく遅れて云ってから、箸を持ったまま天井を仰いだ。東野は講演の時間が迫って来たからと云って、料理の途中ひとり先に席を立って出ていった。
 久慈は真紀子とパリで別れるとき、特に別れ話を二人でしたわけではなく、また二人は争ったわけでもなかった。東野の帰るという報せで偶然の便船を得た思いが、どちらにもしたというだけだった。二人の共同生活は、外国にいるかぎりのこととしたいと云った真紀子の言を、承認し合っていた結着が、まだそのままの折のこの会合なだけである。しかし、実際の生活はもうはるか以前のパリ当時に破れていた。それ以後二人は文通もなく、帰国してからも久慈は二たび真紀子と会おうとも思わなかった。が、いま会ってみると、後悔もしなければ、真紀子を惧れる要もなく、千鶴子と並んでいる彼女の姿を眺めていても、かつての共同の生活が、自分とは関係のない、別個の異国に於ける誰かの生活の絵を見るように、泛き上って来る愉しさが強かった。おそらく真紀子にしても、同様に前の二人の生活を撫でさすって眺めているに相違あるまい。その互いに思い泛べた絵の方へ二人は近より、懐しく何かを云おうとしても、も早や、二人で作った絵の原型は、手も届かぬ遠景となって流れているのである。

 会がすんで小憩後、一同は招待を受けている田辺侯爵の別邸で、東野の講演放送を聴くこととして、それぞれ自動車道まで出た。車を道で探すときも、久慈と真紀子、矢代と千鶴子の四人は、一塊りとなって流れて来るタクシを待った。旅先でいつもそうしていた四人の習慣が、並んだ篠懸の街路樹にこもった闇の中で、つい今も、そのときのように自然に出るのだった。車に乗りこんでからも、灯火の色に浮き漂った日の追憶が、四人の身体を寄り合せて黙らせた。掠めすぎる樹の幹や、石垣の根が、胸を刺しとおる記号のように色めき立って走った。
「お変りありませんでした。」
 と真紀子は、今ごろ不意に久慈に訊ねた。
「ありがとう。」
 傍に真紀子のいることに気づいた久慈は、押し詰まって来ている彼女の肩の匂いをふと嗅いで云った。
 間もなく、田辺侯爵邸の大きな門柱が顕れ、分乗して来た塩野たちの自動車も門に着いた。太い松の幹の傍に大桶を置いた玄関を這入り、飛び立つ鵜図を画いた衝立を廻って、次の室へ持物を置いた皆の後から、久慈はまた冷えた長い廊下を幾つも渡った。花が実に変ったばかりの南天の林に、灯籠の灯のさした庭が見えた。細い赤松の幹を揃えたその対うが街の谷らしかった。遠く灯の散ったその谷間に霧がかかり、あたりは薄明りの下に沈んだ港のような和かな色を見せていた。
 離れの洋館に這入ると、皆はそこですぐ椅子に掛けようともせず、浅黄の絨氈の上をぶらぶらしながら、廊下からの談をそれぞれ続けた。
 壁額にはマチスの近作がかかっていた。それと対応された黒塗の棚の陶器も、潤んだ光沢の宋窯の黒柿の壺だった。卵色の地に、とろりと溶け流れるような濡羽色の壺肌の前で、真紀子は久慈に、平尾男爵と帰って来た航海の日の様子を話したりした。マチスの裸女の背を取り包んだ、棕櫚の葉に似たタロカイヤの強い緑青色を見上げている平尾男爵は、その絵を田辺侯爵に買わせたときの思出を遊部に語りながらも、ときどき自分の名を発音する真紀子の方を振り返った。そして、ともに当時の海上の旅を想う風だった。
「そうそう、相当にこの人の俳句も上手いのがあった。クイン・メリーで君にあてつけた句も、僕はちらちら散見させて貰ったがね。」と男爵は久慈に云ったりした。
「東野さんの先生なら、それや伸びるだろう。」
 皮肉のつもりはさらになく、そう久慈が云ったのに、真紀子の唇の黒子がぴりりと動いたようだった。
「それはお厳しいの、先生は――それに帰ってからもね。君のようなものは、硯でごしごし磨かなくちゃ、って仰言って、お習字までさせられるんですのよ。」
 東野とのその後の潔癖な事情を、暗に久慈に匂わせるような真紀子の云いぶりも、も早やそのようなことをする必要のない場合だったが、久慈はそれを、東野に愛情を瀝いでいる真紀子の安らかさの結果だと感じた。またもしもそれを良いことに、うっかりと、パリでの二人の生活の縒りを戻そうと、一歩を踏み出そうものなら、忽ち体をかわして跳び退く用意さえ真紀子の方にある、滑らかな、辷り廻ってゆく心も感じられ、彼は彼で、なおつづく空しかった旅ごころにすべて身を任そうとするのだった。
「早坂さんからその後、何か便りがありましたか。一度パリの僕の宿へ訪ねて来られたことがあったが、――別に、君に関する話には触れなかったようだったなア。」
 突然真紀子の前夫のことをそんなに云い出した久慈に、一寸真紀子はなまめいた眼差で笑った。
「便りなんか出来る人じゃないんだけど、――でも、どうしたんでしょうね。あの人、あなたの所へお伺いするなんて、分らないわ。」
 訝しげな頬笑みを戸外にあげまた久慈を見上げる真紀子の迅い表情が、過去の谷間をくぐる風のように複雑な美しい閃めきを見せていた。
「とりとめのない話だったが、東野さんと一緒にあなたが帰ったことを云ったら、安心したらしくってね、それや良かったって、ひと言だ。――僕はドームでお茶を飲んで別れたが。――」
「あの人、あなたの所へ伺っただけでも、大出来だわ。丈夫でした。」
 久慈は頷いて、そして、真紀子に報告すべき早坂のことについて、まだ何か残っていないかと一応考えた。早坂から冷淡な憂き目にあい、それに同情した自分の腕の中へ、ウィーンから漂って来た真紀子を、また東野へ送り届けた過ぎた日の、さざめくような迅速な時の割れ目から、久慈は乱れ崩れて来るマロニエの花の色彩もともに噴きのぼって来るのだった。
 しかし、自分は真紀子を果して愛していたのだろうか。――愛していたのは、むしろ千鶴子の方だったと彼は思った。それも、そんなことに初めは気附かずに、次第に真紀子が彼に近づいて来れば来るほど、鮮明に矢代の方へ傾いて行く千鶴子を眺め、彼は失ってゆくもののさみしさを味った。そして、間もなく彼は、真紀子も千鶴子も忘れてしまったのである。しかし、日本へ帰って、最初に思い出したのは、やはり千鶴子のことだった。何ごとのためにか、すべてを欺いていたのも、日を経るにつれ剥ぎ落ちて、その下から顕れて来るのは、白いレースの襟に泛ぶ千鶴子の眼だった。自分の愛していることを自分で気づかぬなんて――
 パリにいるときも、じッとそうして一点をよく彼は瞶めたが、またいつもの癖が出て、それはそれとして慰められる他の多くのことを知りもし、工夫もした。
「君のは愛ではない。大愛でもない拷問だ。」
 いまだに千鶴子との結婚を延ばしている矢代にあて、そう書いた久慈も、実は、自分の気持ちをついに顕わすことをさしひかえた自身の、偽りつづけた工夫かもしれなかった。しかし、さて帰ってから母の奨めに随い、結婚しなければならぬとなると思い泛んで来たのは、千鶴子のことであった。特に烈しい愛情もなく誰かと生活することは、もう久慈は馴れていた。おそらく、また見も知らぬものと結婚してしまいそうだったが、それにしても、この真紀子はまだ自分と生活する意志があるのだろうか。
 カットグラスの大鉢に盛りあがった見事な葡萄の房の対うで、千鶴子は傍にいる田辺侯爵夫人と話していた。久慈は時を刻むように隠顕する千鶴子の靨を見ながら、矢代をまだ知らぬころの千鶴子と、ペナンの沖に灯を連ねて碇泊していた自分の船へ、飛沫を浴びて帰ったときの彼女の靨を思い出した。また、アデンの崩れた城壁の下の、焦げ石の間で、ジャスミンの花を見つけて香を嗅いだときの靨、沈んで行く太陽にむかって、スエズから真一文字に引かれた沙漠の中の道を、疾走する風に吹かれて振り向いた靨、渦巻く迅い海流の水面に初めて顕われて来たシシリイの古都を、二人で展望したときの靨など、――それら数数の千鶴子の靨は、みな久慈のみ知っており矢代の知らぬものだった。
「さア、南京まで攻め込むつもりかな。それとも上海に百哩半径の円を描いて休戦するか。」
 と、大石とそんな話をしている矢代の周囲では、塩野と速水とが、中国へ送り込む各国の武器会社の模様を語っていた。田辺侯爵は最近手に入れた陶器が得意な品と見えて、平尾男爵ににこにこした笑顔で、
「実は今夜は、君にそれを一つと思ってね。」
 田辺侯爵のそう云い終らぬうちに、平尾男爵はそれには返事をせず、いきなりぐっと後ろの遊部の肩をこちらに廻した。
「おい、買い込んだらしいんだよ。二階だろう。」
 煙草を灰皿の上へにじり消した男爵は、もう階段を遊部と一緒に登って行った。何事かと話をやめた皆のものも、その後から蹤いていったが、塩野だけは一寸引き返してラジオのスウィッチを切り替えた、東野の放送の時間が近づいて来ていたのだった。
 緑青をふいた殷の鋳銅器を置いた階段を登った所に、唐代の黄土の人形が並んでいた。龍門の石仏の首が二箇、正面の棚に白く泛き上った傍で、白磁の大壺の胴が室内を和らげ、分担した光沢の度合で、鉢や皿類が、昇って来た人の脚音をそれぞれじっと聞くようだった。高麗の水差、鶏龍の蓋物、万暦の皿、粉挽の鉢、と、ここのはすべて、人が器物を観賞するという配列ではなく、器物がその前に立った人物の価値を見届けるという風だった。
「どれだ、買われたの。」
 と、遊部はあちこちの棚を覗き廻ってから訊ねた。平尾男爵は、笑いつづけて黙っている侯爵の傍から、大明嘉靖の冷たい抜きあがった白さ鮮やかな鉢の傍へ寄っていくと、
「これだろう。え。」と云って振り返った。
 侯爵はやはり黙って答えなかった。殿様芸らしい穏やかな微笑だった。この微笑は近づく多くの人を選択し、洗煉して、一羽ずつ空へ放っていく鳥飼いの役目をしている錬磨機のようなものであった。
「初めて観るの多いね。」
 そういう塩野の周囲で、揺れうごく婦人たちの香料の匂いがした。久慈は、眼前の古代が急に断ち切れたり、継がったりするのを覚えた。その匂いにまぎれ入り、彼は自然に千鶴子の後を逐うのだった。豊満な姿で、ふっくりと胴を張った赤絵の壺や鉢が、婚期に逼った娘の色艶に見えて、それを見立てる自分の眼も、母から出される娘の写真を、あれこれ眺める今日このごろの感興に似たものを感じた。柿渋、李朝の秋草、越州、黒高麗、天龍の青磁、など、殊に一際目立って華手な、女王の品位を放つ万暦の鉢があった。金魚に似た魚の乱舞している図柄で、見ていても胸のわくわくして来る美しさであった。すると、その横にまた一層秀韻を湛えたたけ高い、すっきりとした宋の梅瓶が一つあった。久慈はその前に立った。卵色の肌に黒褐色の優雅な線で描かれた牡丹の葉が、唐草模様に似たしなやかな軽快さで、高風あたりの塵を払うと云いたいその姿をひと目見たとき、久慈は、これは千鶴子に似ているなと思った。
「これはどうだ。百済観音だね。」
 と、久慈は矢代の耳に口を近よせて云った。
「ふむ。」矢代もひと言頷いたまま、肩を彼と並べて眺めた。
 女のことを考える暇があるなら、神さまのことを考えろと、そう書いて来た矢代の手紙に対する、密かな反撃のひと突きで、久慈は多少小気味良い皮肉を洩したつもりだったが、まだ矢代に通じさすには少し唐突だった。
「え、似てるだろう?」
「うむ。」矢代はおぼろな声を出した。
「雲が棚曳き降りて来るようだね。」
「何んだい、それや?」
「平行線の交るところさ。」
 幾らかぼっと赧らみのぼった矢代の顔を見て、久慈は、手応えとは反対に、一種ひやりと薄冷たい悲しみのさし通るのを感じた。彼は先へ歩を移し、後は馳け降りる勢いで室内を見てから、一隅に露出された南京染付の水鉢に片肱をかけて休んだ。
「新秩序と題しまして、東野速雄氏の講演でございます。」
 とラジオが階下から聞えて来た。

「いよいよ世の中はめまぐるしくなって来ました。日日の生活が、ある一つの目的に向って締め上って来ているようであります。しかし、生活というものには、いつの時でも幾らか適度の憂いがなければ、その国民を健全に導くことが出来ません。これから私のいたします講演は、その皆さんの、憂いについてであります。」
 階段の折目に並んだ殷の鋳銅の間で、東野の声がぴんぴんと響いた。
「人はそれぞれ憂いを持って生きております。善人なおもて往生すとか、貧しきものは幸なりとか、色即是空とか、あるいはまた、われ徳を好むこと、色を好むがごときものを見ざるなりとか、これらの有名な言葉は、人間の中のもっとも優れた天才たちが叫んだ、憂いであります。勿論、皆さんにも、必ず憂いがあるにちがいありません。」
 久慈はその東野の講演がうるさかった。身にひえ込んで来る鉢の孤独な感触が、ざわざわと掻き立てられるようで、鉢から肱を放し、また宋の梅瓶の傍へ近よった。一同のものも、それぞれ自分の好む陶器の前に立ち停ったまま、静にしていた。久慈は講演をなるたけ聞くまいと努めた。しかし、東野の話の魅力は、断線を厭わぬ独断の危さにあるので、思わずひやひやさせられているうちに、いつの間にか前の独断を破壊する抜文が入れ替り、新しい力で人を乗せて動いて行くのである。聞くまいとしても、ちくちく刺されて人は聞かざるを得なかった。ときにはパスカルが出たかと思うと、天心が顔を出した。ロッシュフコウの格言が顕われたかと思うと、尊徳の歌が引っ張り出されたりした。その間を自在に縫いつづけて、秩序を形造る共通の確率をたぐってゆく労苦は、たしかに東野の憂いにちがいなかったが、料亭で空の美しさを語った彼の真の憂悶は、一向に顔を出しそうな気配もなかった。
 久慈は講演に少少退屈した。そして、真紀子の態度にいつか注視しているのだった。万暦の大鉢の前で真紀子は伏眼のまま、長い瞼毛に心配そうな陰影を湛えて東野の講演を聴いていた。やや俯向き加減のなだらかな上体が、腹部のふくらみに集まり、うっすらと腰部の窪みを描いて両脚に下っていく真紀子の線を見ながら、久慈は、ふと自分を愛撫してくれた真紀子の情愛のふかさを思い出した。あの線、この色と、泛んで来るなやましい姿態の数数の閃めき、飛びうつる表情の流れが、今、ぴったりと金魚の乱れる大鉢の胴の前に静止している慎ましやかさ、――それも、みな東野への愛情に変っているのだ、自分のものだったそれらのもの皆が、いつの間にか東野にささげる供物になり変ろうとしている刹那だった。
「このように憂いの種類には、大小さまざまなものがあります。しかし、どのように云いましょうとも、最も小さな、それ故に最も重要な憂いは、何んと云いましても、現在では原子核の作用に関する憂いであります。」
 何を云い出すのかな、と久慈はまた東野の講演の方に耳をひかれた。
「御承知のように、物の本質をなすこの微粒子の中心には、刎ねつけあう電気の争いと、磁力の牽きあう愛情とがあります。しかし、何ゆえにその二つのものが、一つのものの中にあるかという憂いの根幹の詮索に、地球上の全物理学者の関心が高まりました際になって、突如として、このたびの戦争が起って参りました。そして、その憂いの根本も分らなくなったのであります。再び空空漠漠――この漠漠たる空の中に、私らは立って、何を念じ、何を呼び起そうとすべきでありましょうか。秩序であります。この秩序を求めてやまない私らの心は、ただ坐して得られるものではありません。忽然念起――忽然として念じ起たねばなりません。文学も、哲学も、宗教も、新しい愛情さへも、発足点をここに念じて、出発すべきであります。」
 日比谷からは拍手があがった。真紀子も愁眉を開いた。
「何やらうまいこと云ったね。」
 と平尾男爵は傍の矢代を見返って云った。室内のものらはみな笑った。下の部屋の方へ降りていくものらの中からも、階段を踏み下りながら、「忽然念起」と呟く声が聞えた。それは冷かしのようでもあれば、真面目なようでもあった。久慈は、公衆に対って云っている東野の声の中心が、意識の底でこの部屋を対象に放っている声だと思った。そう思うと、同時にそれは妻を失った東野の真紀子に送っている艶文のようにも聞えて来るのだった。それも過たず矢は的に命中していた。

底本:「旅愁 上」「旅愁 下」講談社文芸文庫、講談社
   1998(平成10)年11月10日第1刷(上)
   1998(平成10)年12月10日第1刷(下)
底本の親本:「旅愁」改造社
   1950(昭和25)年11月初版発行
入力:kompass
校正:松永正敏
2001年9月13日公開
2007年9月1日修正
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横光利一

洋灯—–横光利一

このごろ停電する夜の暗さをかこっている私に知人がランプを持って来てくれた。高さ一尺あまりの小さな置きランプである。私はそれを手にとって眺めていると、冷え凍っている私の胸の底から、ほとほとと音立てて燃えてくるものがあった。久しくそれは聞いたこともなかったものだというよりも、もう二度とそんな気持を覚えそうもない、夕ごころに似た優しい情感で、温まっては滴り落ちる雫《しず》くのような音である。初めて私がランプを見たのは、六つの時、雪の降る夜、紫色の縮緬《ちりめん》のお高祖頭巾《こそずきん》を冠《かぶ》った母につれられて、東京から伊賀の山中の柘植《つげ》という田舎町へ帰ったときであった。そこは伯母の家で、竹筒を立てた先端に、ニッケル製の油壺《あぶらつぼ》を置いたランプが数台部屋の隅に並べてあった。その下で、紫や紅の縮緬の袱紗《ふくさ》を帯から三角形に垂らした娘たちが、敷居や畳の条目《すじめ》を見詰めながら、濃茶《こいちゃ》の泡の耀《かがや》いている大きな鉢を私の前に運んで来てくれた。これらの娘たちは、伯母の所へ茶や縫物や生花を習いに来ている町の娘たちで二三十人もいた。二階の大きな部屋に並んだ針箱が、どれも朱色の塗で、鳥のように擡《もた》げたそれらの頭に針がぶつぶつ刺さっているのが気味悪かった。
 生花の日は花や実をつけた灌木《かんぼく》の枝で家の中が繁《しげ》った。縫台の上の竹筒に挿した枝に対《むか》い、それを断《き》り落す木鋏《きばさみ》の鳴る音が一日していた。
 ある日、こういう所へ東京から私の父が帰って来た。父は夜になると火薬をケースに詰めて弾倉を作った。そして、翌朝早くそれを腹に巻きつけ、猟銃を肩に出ていった。帰りは雉子《きじ》が二三羽いつも父の腰から垂れていた。
 少いときでも、ぐったり首垂れた鳩や山鳥が瞼《まぶた》を白く瞑《つむ》っていた。父が猟に出かける日の前夜は、定《きま》って母は父に小言をいった。
「もう殺生だけはやめて下さいよ。この子が生れたら、おやめになると、あれほど固く仰言《おっしゃ》ったのに、それにまた――」
 母が父と争うのは父が猟に出かけるときだけで、その間に坐《すわ》っていた私はあるとき、
「喧嘩《けんか》もうやめて。」
 と云うと、急に父と母が笑い出したことがある。しかし、父の猟癖は止まらなかった。一度、私は猟銃姿の父の後からついていったことがあった。川を渡ったり、杉の密集している急な崖《がけ》をよじ登ったりして、父の発砲する音を聞いていたが、氷の張りつめた小川を跳び越すとき、私は足を踏み辷《すべ》らして、氷の中へ落ち込み、父から襟首を持って引き上げられた。それから二度と父はもう私をつれて行ってはくれなかった。
 父がまた旅に立ってしばらくしたある日、私は母につれられ隣村へ行った。沢山な人が私のいったその家に集っていて、大皿や鉢に、牛蒡《ごぼう》や人参《にんじん》や、鱈や、里芋などの煮つめたものが盛ってある間を、大きな肩の老人が担がれたまま、箱の中へ傾けて入れられるところだった。それが母の父の死の姿だった。また、人の死の姿を私の見たのはそれが初めだった。日が明るかった。そしてその村からの帰りに道路の水溜《みずたま》りのいびつに歪《ゆが》んでいる上を、ぽいッと跳び越した瞬間の、その村の明るい春泥の色を、私は祖父の大きな肩の傾きと一緒に今も覚えている。祖父の死んだこの家は、私の母や伯母の生れた家で、母の妹が養子をとっていたものであった。
 伯母の家に半年もいてから、私と母と姉とは汽車に乗り琵琶湖《びわこ》の見える街へ着いた。そこに父は新しく私たちの棲《す》む家を作って待っていてくれた。そこが大津であった。私は初めてここの小学校へ入学した。湖を渡る蒸気船が学校のすぐ横の桟橋から朝夕出ていったり、這入《はい》って来たりするたびに、汽笛が鳴った。ここの学校に私は一ヶ月もいると、すぐ同じ街の西の端にある学校へ変った。家がまた新しく変ったからであるが、この第二の学校のすぐ横には疏水《そすい》が流れていて、京都から登って来たり下ったりする舟が集ると、朱色の関門の扉が水を止めたり吐いたりした。このころ、この街にある聯隊《れんたい》の入口をめがけて旗や提灯《ちょうちん》の列が日夜激しくつめよせた。日露戦争がしだいに高潮して来ていたのである。疏水の両側の角刈にされた枳殻《からたち》の厚い垣には、黄色な実が成ってその実をもぎ取る手に棘《とげ》が刺さった。枳殻のまばらな裾《すそ》から帆をあげた舟の出入する運河の河口が見えたりした。そしてその方向から朝日が昇って来ては帆を染めると、喇叭《らっぱ》のひびきが聞えて来た。私はこの街が好きであった。しかし私はこの大津の街にもしばらくよりいられなかった。再び私は母と姉と三人で母の里の柘植《つげ》へ移らねばならなかった。父が遠方の異国の京城《けいじょう》へ行くことになったからである。小学の一年で三度も学校を変えさせられた私は、今度はもとの伯母の家からではなく、祖父の大きな肩の見えた家から学校へ通った。
 私はこの家で農家の生活というものを初めて知ったのだった。それは私の家の生活とは何ごとも違っていた。どちらを向いても、高い山山ばかりに囲まれた盆地の山ひだの間から、蛙の声の立ちまよっている村里で、石油の釣りランプがどこの家の中にも一つずつ下っていた。牛がまた人と一つの家の中に棲んでいた。
 私がランプの下の生活をしたのは、このときから三年の間である。私はこの間に、まだ見たこともない大きな石臼《いしうす》の廻《まわ》るあいだから、豆が黄色な粉になって噴きこぼれて来るのや、透明な虫が、真白な瓢形《ひさごがた》の繭《まゆ》をいっぱい藁《わら》の枝に産み作ることや、夜になると牛に穿《は》かす草履《ぞうり》をせっせと人人が編むことなどを知った。また、藪《やぶ》の中の黄楊《つげ》の木の胯《また》に頬白《ほおじろ》の巣があって、幾つそこに縞《しま》の入った卵があるとか、合歓《ねむ》の花の咲く川端の窪《くぼ》んだ穴に、何寸ほどの鯰《なまず》と鰻がいるとか、どこの桑の実には蟻がたかってどこの実よりも甘味《あま》いとか、どこの藪の幾本目の竹の節と、またそこから幾本目の竹の節とが寸法が揃《そろ》っているとか、いつの間にか、そんなことにまで私は睨《にら》みをきかすようになったりした。
 しかしこうしている間にも、私らは祖父の家から独立した別の家に棲んでいて、村村に散っている親戚《しんせき》たちの顔を私はみな覚えた。母は五人姉妹の下から二番目で、四人もあるその伯母たちの子供らが、これがまたそれぞれ沢山いた。一番上の大伯母は、この村から三里も離れた城のある上野という町にいたが、どういうものだか、この美しい伯母にだけは、親戚たちの誰もが頭が上らなかった。色が白くふっくらとした落ちつきをもっていて、才智が大きな眼もとに溢《あふ》れていた。またこの大伯母はいつも黙って人の話を聞いているだけで、何か一言いうと、それで忽《たちま》ち親戚間のごたごたが解決した。ときどき実家のあるこの村へ来ても、どこの家へも行かずに私の家へ来て泊っていったが、ある日伯母は東京へ行って来たといって私に絵本を一冊土産にくれた。それは東京の名所を描いた絵本だった。そのころは、私はもう私のいた筈《はず》の東京を忘れていて、私の一番行きたいところは、湖の見える大津と大伯母のいる上野の町とであった。この伯母には子供が五人もいた。遊女街の中央でただ一軒伯母の家だけ製糸をしていたので、私は周囲にひしめき並んだ色街の子供たちとも、いつのまにか遊ぶようになったりした。
 二番目の伯母は、私たちのいた同じ村の西方にあって、魚屋をしていた。この伯母一家だけはどの親戚たちからも嫌われていた。大伯母などは一度もここへは寄りつかなかったが私の母だけこことも仲良く交際していた。むかしはここは貧乏で、猫撫《ねこな》で声のこの伯母は実家の祖父の家から、許可なく魚屋へ逃げるように嫁いだのだということだったが、このころは祖父の家より物持ちになっていた。この伯母の主人はいつもにこにこした眼尻《めじり》で私を愛してくれた。私は祖父の家の後を継いでいる養子よりも、この魚屋の主人の方が好きだった。
「おう、利よ、来たかや。」
 こんな優しい声で小父がいうと、けちんぼだといわれている伯母が拾銭丸《じっせんだま》をひねった紙包を私の手に握らせた。ここには大きな二人の姉弟があったが、この二人も私を誰よりも愛してくれた。
 三番目の伯母は、私たちが東京から来たとき厄介になった伯母である。この伯母は気象が男のようにさっぱりしていた。この伯母の主人は近江《おうみ》の国に寺を持っている住職で、一人息子もまた別に寺を持っていた。伯母は家の中の拭《ふ》き掃除《そうじ》をするとき、お茶や生花の師匠のくせに一糸も纏《まと》わぬ裸体でよく掃除をした。ある時弟子の家の者が歳暮の餅《もち》を持ってがらりと玄関の戸を開けて這入って来た時、伯母は、ちょうどそこの縁側を裸体で拭いていた。私ははらはらしてどうするかと見ていると、
「これはまア、とんだ失礼をいたしまして、」
 と、伯母は、ただ一寸《ちょっと》雑巾《ぞうきん》で前を隠したまま、鄭重《ていちょう》なお辞儀をしたきり、少しも悪びれた様子を示さなかった。またこの伯母は、主人がたまに帰って来てもがみがみ叱《しか》りつけてばかりいた。主人の僧侶《そうりょ》は、どんな手ひどいことを伯母から云われても、表情を怒らしたことがなかった。
「お光《みつ》、お前はそんなこと云うけれども、まアまア、」
 といつも云うだけで、どういう心の習練か恐るべき寛容さを持ちつづけて崩さなかった。
 四番目の叔母は私の母とは一つ違いの妹だった。でっぷりよく肥えた顔にいちめん雀斑《そばかす》が出来ていて鼻の孔《あな》が大きく拡《ひろ》がり、揃ったことのない前褄《まえづま》からいつも膝頭《ひざがしら》が露出していた。声がまた大きなバスで、人を見ると鼻の横を痒《か》き痒《か》き、細い眼でいつも又この人は笑ってばかりいたが、この叔母ほど村で好かれていた女の人もあるまいと思われた。自分の持ち物も、くれと人から云われると、何一つ惜しまなかった。子供たちを叱るにも響きわたるような大声だったが、それでも笑って叱っていた。

底本:「昭和文学全集 第5巻」小学館
   1986(昭和61)年12月1日初版第1刷発行
底本の親本:「定本横光利一全集」河出書房新社
   1981(昭和56)年6月~
入力:阿部良子
校正:松永正敏
2002年5月7日作成
2012年7月3日修正
青空文庫作成ファイル:
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横光利一

――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)—–横光利一

 八月――日
 駈けて来る足駄《あしだ》の音が庭石に躓《つまず》いて一度よろけた。すると、柿の木の下へ顕れた義弟が真っ赤な顔で、「休戦休戦。」という。借り物らしい足駄でまたそこで躓いた。躓きながら、「ポツダム宣言全部承認。」という。
「ほんとかな。」
「ほんと。今ラヂオがそう云った。」
 私はどうと倒れたように片手を畳につき、庭の斜面を見ていた。なだれ下った夏菊の懸崖が焔《ほのお》の色で燃えている。その背後の山が無言のどよめきを上げ、今にも崩れかかって来そうな西日の底で、幾つもの火の丸が狂めき返っている。
「とにかく、こんなときは山へでも行きましょうよ。」
「いや、今日はもう……」
 義弟の足駄の音が去っていってから、私は柱に背を凭《もた》せかけ膝を組んで庭を見つづけた。敗けた。――いや、見なければ分らない。しかし、何処を見るのだ。この村はむかしの古戦場の跡でそれだけだ。野山に汎濫した西日の総勢が、右往左往によじれあい流れの末を知らぬようだ。

 八月――日
 柱時計を捲く音、ぱしゃッと水音がする。見ると、池へ垂れ下っている菊の弁を、四五疋の鯉が口をよせ、跳ねあがって喰っている。茎のひょろ長い白い干瓢《かんぴょう》の花がゆれている。私はこの花が好きだ。眼はいつもここで停ると心は休まる。敗戦の憂きめをじっと、このか細い花茎だけが支えてくれているようだ。私にとって、今はその他の何ものでもないただ一本の白い花。それもその茎のうす青い、今にも消え入りそうな長細い部分がだ。――風はもう秋風だ。

 八月――日
 小牛が病気になって草を喰べないので、この家のものは心配でたまらぬらしい。黒豆を薬湯で煮て飲まそうとしているが、今日は山羊も凋《しお》れて悲しげである。めい、もう、と互いに鳴き合い、一方が庭へ出されると残った方が暴れ出したほどの仲良さだったのも、孰方《いずれ》もしょんぼりとしている。しかし、山羊と小牛だけではない。見るもの一切がしょんぼりとしているようだ。汽車通学をしている私の次男の中学一年生が帰って来て、
「校長さんがみなを集めて今日ね、君たちは可哀そうで可哀そうでたまらない、と云ったよ。涙をぽろぽろ流していたよ。」という。
「汽車の中はどうだった?」
「どこでも喧嘩ばかりしていたよ。大人って喧嘩するもんだね。どうしてだろう。」
 私が山中の峠を歩いていたときも、自転車を草の中に伏せた男が、ひとり弁当を食べながら、一兵まで、一兵まで……とそんなことを云っていたが、傍を通る私に咬《か》みつきそうな眼を向けた。そして、がちゃりとアルミの蓋を合せて立ち上ると、またひらりと自転車に乗ってどっかへ去っていく。

 十七歳のときここの家から峠を越して海浜の村へ嫁入した老婆、利枝が来て、生家の棟を見上げている。今年七十歳だが、古戦場の残す匂いのような、稀に見る美しい老婆で笑う口もとから洩れる歯が、ある感動を吸いよせ視線をそらすことが出来ない。私はこの老婆の微笑を見ると、ふッと吹かれて飛ぶ塵あとの、あの一点の清潔な明るさを感じる。沖縄戦で末子が潜水艦に乗りくみ戦死したばかりである。もし婦人というものに老醜なく、すべてがこのようになるものなら、人生はしばらく狂言を変えることだろうと思う。そのような顔だ。とにかく、今まで私の一度も見たことのない老婆の種類だ。漁師村の何んでもない、白髪をたばねた、わごわごした腰の、拭き掃除ばかしして来た老婆だのに、――あちらを歩き、こちらを歩きしながら、幼児の思い出を辿《たど》る風な面差しで、棟を見上げ見降ろし、倦怠を感じる様子もない。その最後の生の眺めのごとき曲った後姿に、しきりに蝉の声が降って来る。庭の古い石の上を白い蝶の飛びたわむれている午後の日ざし、――昼顔の伸び悪い垣の愁い。

 この村は平野をへだてた東羽黒と対立し、伽藍堂塔三十五堂立ち並んだ西羽黒のむかしの跡だが、当時の殷盛《いんせい》をうかべた地表のさまは、背後の山の姿や、山裾の流れの落ち消えた田の中に、点点と島のように泛《う》き残っている丘陵の高まりで窺われる。浮雲のただよう下、崩れた土から喰み出ている石塊のおもむき蒼樸たる古情、小川の縁の石垣ふかく、光陰のしめり刻んだなめらかさ、今も掘り出される矢の根石など、東羽黒に追い詰められて滅亡した僧兵らの辷《すべ》り下り、走り上った山路も、峠を一つ登れば下は海だ。朴の葉や、柏の葉、杉、栗、楢、の雑木林にとり包まれた、下へ下へと平野の中へ低まっていく山懐の村である。義経が京の白河から平泉へ落ちて行く途中も、多分ここを通って、一夜をここの山堂の中で眠ったことだろう。峠の中に今も弁慶の泉というのもある。

 この村の人で、私の職業を誰一人知っているもののないのが気楽である。私にここの室を世話してくれた人も知らなければ、またこの家のものも私については何も知らない。通りすがりに、ただふらりと来た私は偶然一室を借りられたそれだけの縁で、とにかくここをしばらく仮の棲家《すみか》とすることが出来たのは幸いである。一人の知人もなく、親類もない周囲とまったく交渉の糸の断たれた生活は、戦時の物資不足の折、危険不便は多いにちがいないが、これも振りあてられ追い詰められた最後の地であれば、自分にとっては何処よりも貴重な地だ。今はその他にどこにもないと思い、私は家族四人のものをひきつれて、この山中の農家の六畳の一室へ移ることにしたのである。すると、移って三日目に終戦になった。荷物の片づけさえもまだしてないときだ。
 参右衛門(仮名)のこの家は、農家としては大きな家だ。炉間が十畳、次ぎは十二畳、その奥は十畳、その一番奥は六畳、この部屋が私の家族の室であるが、畳もなく電灯もない。炉間から背後の一列の部屋は、ここの家族たち四人の寝室で、私は覗《のぞ》いたことはないが、多分、十二畳と八畳の二室であろう。それから玄関横に六畳の別室があり、ここは出征中の長男の嫁の部屋になっている。勝手の板の間が二十畳ほど。すべてどの部屋にも壁がなく、柾目の通った杉戸でしきり、全体の感じは鎌倉時代そのままといって良い。私のいる奥の室には縁があって、前には孟宗竹《もうそうちく》の生えた石組の庭が泉水に対《むか》ってなだれ下っている。私の部屋代については、参右衛門は一向に云おうとしないので、これには私たちも困った。何回私は部屋代を定めてくれと頼んでも、
「おれは金ほしくて貸したのではないからのう。ただでも良い。その代り、おれは貧乏だぜ、米のことと、野菜と、塩、醤油、味噌、このことだけは、一切云わないで貰いたい。それだけは、おれの家は知らん。お前たちにあげられるものは、薪と柴だけだ。これなら幾らでもあるで心配はさせん。」
 参右衛門の云い方は、見ず知らずの者にははっきりしている。彼の家の横の空地、三間をへだてた路傍に、別家の久左衛門の家がある。このあばらやのような別家が、私たちに、ここの本家の参右衛門の一室を世話してくれた農家だが、これも通りすがりの私らに対しては、何んらそれ以上のするべき責任もない。しかし、部屋を世話したからは、困らせるようなことをおれはせん、と、久左衛門が、ふと小さな声でひと言云ったのを私の妻は覚えていた。
「そんなこと云ったのかい。」と私は笑った。
「ええ、ちょっと云ったわ。」
「じゃ、そのちょっとが、ここへ僕らをひきつけたわけだな。聞きぞこないじゃないのか。」
「でも、たしかに一寸《ちょっと》いったようよ。」
「ふむ。」
 ふむ、と私の云ったのは、そんな赤の他人の呟いたひと言に、今の私たち全部を支えている心が、どこかの一点で頼っているのかもしれないと、ふと私は考えたからである。たしかに、もし久左衛門の家が傍になかったら、私らの生活の手段を何らかの方法で私は変えねばならぬにちがいない。野菜、米、味噌、醤油、塩、これら必需品を求める手がかりは、皆目まだ眼鼻も立っていない。しかし、今は、私は八方手をつくして、部屋の借り得られる村村を探し、その尽《ことごと》くに失敗した後、ようやく独力で探しあてた一室である。必需品のことなど考えられない場合だった。移って来た夕方、薄暗くなって来ると、妻は部屋の隅のまだ解かない荷物にもたれかかって泣いていた。
「どうするんでしょうね。これから。」
「どうするって。当分こうしているわけさ。」
「そんなことで良いのかしら。」
「暗くなって来たからそんなことを考えるんだよ。明日の朝になれば何もかも分る。まア、明日の朝まで辛抱することだ。」
「あたし、帰りたい。」そして、また妻は泣いた。
「明日のことは思い煩うことなかれ、ってことあるじゃないか。」
「あなたはただそうじっとしてらっしゃればいいから、そんなこと仰言るのよ。今あたし、お勝手もとへ行ってみたら、真っ暗で、何一つ見えやしないんですもの。水一つ汲もうにも手さぐりで、やっと分ったほどですのよ。毎日毎日こんなんじゃ、あたし、どうしたら良いかしら。」
 十室ちかくある家全体で、小さな電灯がただ一つよりない。それも炉間にぶら下ったまま光は私らの部屋までは届かない。電気屋を呼ぼうにも、参右衛門の家が長く電気代滞納のため、もう来てくれないという。
「六畳一室に四人暮しで、電灯がないとすると、相当困るね。」
 しかし、私にはまた別の考えが泛んでいた。まったく私には一新した生活で、私一人にとっては自然に襲って来た新しさだ。何より好都合と思うべきことばかりだが、それだけは口外すべからざる個人的興味のこと。私はただ黙って皆を引摺《ひきず》ってゆけば良いのだ。
「東京にいたときのことを思いなさい。あれよりはまだましだ。」と私は云った。
「でも、あのときは、もう死ぬんだと思っていたんですもの。何んだって辛抱出来たわ。」
「それもそうだ。」
 ここなら先ず安心だと思ったから一層不安が増して来たという理由は、たしかに今の私たちにはあった。死ぬ覚悟というものは、そのときよりも、後で分ることの方が多いということも、たびたび今までに感じていたことだのに、それが再びここまで来てまた明瞭になったのは、よほど私たちの気持ちも不安のなくなった証拠である。
「あのときは、おかしかったね。お前の病気の夜さ。」と私は云った。
「そうそう。あのときは、おかしかったわ。」と妻も思わず顔を上げて笑った。
 厳寒の空襲のあったある夜、私と妻とはどちらも病気で、別別の部屋に寝たきり起きられず、子供たち二人を外の防空壕へ入れて置いた夜のことである。私は四十度も熱のある妻の傍へ、私の部屋から見舞いに出て傍についていたが、照明弾の落ちて来る耀《かがや》きで、ぱッと部屋の明るくなるたびに、私は座蒲団を頭からひっ冠り、寝ている妻の裾へひれ伏した。すると、家の中の私たちのことが心配になったと見え、次男の方がのこのこ壕から出て来て、雨戸の外から恐わそうな声で、「お母アさん。」とひと声呼んだ。
 あまり真近い声だったので、「こらッ。危いッ。」と座蒲団の下から私が叱りつけた。子供は壕の中へまた這入ったらしかったが、続いて落ちて来る照明弾の音響で、またのこのこ出て来ると、
「お母アさん。」
「こらッ。来るなッ。」
 呶鳴《どな》るたびに雨戸の外から足音は遠のいたが、いよいよ今夜は無事ではすむまいと私は思った。私は一週間ほど前から心臓が悪く、二階|梯子《ばしご》も昇れない苦しみのつづいていた折で、妻など抱いては壕へ這入れず、今夜空襲があれば、宿運そのまま二人は吹き飛ばされようと思っていたその夜である。私は少しふざけたくなった。
「もう駄目かもしれんぞ。云っとくことはないかい。」私は子供の足音が消えると訊《たず》ねた。
「あるわ。」
「云いなさい。」
「でも、もう云わない。」
 爆発する音響がだんだん身近く迫って来る様子の底だった。
「それなら、よしッ。」
 と、私は照明弾の明るさで、最後の妻の顔をひと眼見て置こうと思い、次ぎの爆発するのを待って起き上った。
「お母さん。」また声がする。
「出て来ちゃ、いかん。大丈夫だよ。」
 私は大きな声で云いながらも、あの壕の中の二人さえ助かれば、後は、――と思った。すると、また一弾、ガラスが皺《しわ》を立てて揺れ動く音がした。
「後はどうにかなるさ。」
「そうね。」
 水腫《みずば》れのように熱し、ふくれて見える妻のそういう貌《かお》が、空の耀きでちらッと見えた。心配そうというよりも、どこかへ突き刺さったままさ迷うような視線である。今ごろここで妻がおかしかったと云うのは、そのとき妻の見た私の座蒲団姿のことを云うのだが、私のおかしかったというのは、危険の迫るたびに、のこのこ壕の中から出て来た子供のことである。私はその危険だった夜から四日目の夜、妻と子供を無理矢理に東北へ疎開させ、私一人が残っていた。私の心臓はまだ怪しいときだったが、傍に妻子にいられる心配よりも、一人身の空襲下の起居の方が安らかさを取り戻すに都合は良く、食物の困難なら、庭の野草の緑の見える限りさほどのことではあるまいと思い、居残りを決行したのだ。私はまだ雨戸を開ける力もなかったから、寝床から出て、飯を炊き、煮えて来るとまた匐《は》い込む。ぼんやり坐ったり、寝たり起きたり、そんなことをしている一週間ほどたったとき、折よく強制疎開で立ちのく友人が来てくれた。今度は二人の男の生活が始まった。自分の家もいずれは焼けるにちがいないから、私はせめてその焼けるところを見届けて見たかった。疎開をするならそれから後にしても良い。焼けた後では何の役にも立つまいが、それにしても、長らく自分を守ってくれた家である。つい家情も出て来て動く気もなく、私が飯を炊き、友人は味噌汁と茶碗という番で、互いに上手な方をひき受けて生活をしてみると、これはまたのどかで、朝起きて茶を飲む二人の一時間ほど楽しいときは、またと得られそうもない幸福を感じる時間になった。しかし、そんなことを云っても妻には分ろう筈もない。

「とにかく、自分の家が焼けなかったということは、何より結構じゃないか。あの大きな東京は、もうないのだからね。お前は見ていないから、知らないのだよ。」と私は云った。
「そうね、あたし、知らないんだわ。それだからね。ぶつぶついうの。」
 妻はさしうつ向き、よく考えこむ眼つきである。

 そういえば、この村の人たちも空襲の恐怖や戦火の惨状というものについては、無感動というよりも、全然知らない。このことに関して共通の想いを忍ばせるスタンダアドとなるべき一点がないということは、今は異国人も同様の際だった。たしかに、知らせようにも方法のない村民たちと物をいうにも、も早や、どうでも良いことばかりの心の部分で、話さねばならぬ忍耐が必要だ。この判然と分れた心の距離、胸中はっきり引かれた境界線というものは、こちらには分っているだけで、向うには分らない。人情、非人情というような、人間的なものではなく、ふかい谷間のような、不通線だ。農民のみとは限らず、一般人の間にも生じているこの不通線は、焼けたもの、焼け残り、出征者や、居残り組、疎開者や受入れ家族、など幾多の間に生じている無感動さの錯綜、重複、混乱が、ひん曲り、捻じあい、噛みつきあって、喚《わめ》きちらしているのが現在だ。呶鳴ったかと思うと、笑ったり、ぺこぺこお辞儀したかと思うと、ふん反り返り、泣き出したかと思うと、鼻唄で闊歩する。信頼をしあうにも、寸断された心の砕片を手に受けて、これがおのれの心かと思うと、ぱッと捨てる。このようなとき、道念というようなものは、先ず自分自身に立腹すること以外手がかりはないものだ。腹立ちまぎれにうっかり呶鳴ると、他人に怒る。何の関係もないものに。――実際、人の心は今は他人に怒っているのではない。誰も彼もほおけた不通線に怒っているのだ。まったくこれは新しい、生れたばかりのものである。間もなくこれは絶望に変るだろう。次ぎには希望に。

 八月――日
 南瓜《かぼちゃ》の尻から滴り落ちる雨の雫。雨を含んだ孟宗竹のしなやかさ。白瓜のすんなり垂れた肌ざわり。瞬間から瞬間へと濃度を変える峯のオレンヂ色。その上にはっきり顕れた虹の明るさ。乳色に流れる霧の中にほの見える竹林。

 八月――日
 ここへ移ってから一番自分を悩ますものは蚤《のみ》だ。昼間も食事をしている唇へまで跳びこんで来る。大げさにいえば、顔を撫でると、ぼろぼろと指間からこぼれ落ちそうな気配で、眉毛にも跳びかかる。まして夜など眠れたものではない。どたんばたんと、あちらでもこちらでも足音がする。
「これなら、空襲の方がまだましだ。」と先ず、私は悲鳴をあげた。
「ほんとにどうでしょう。いることいること。」
「しかし、これだけ人間を苦しめる奴がいるに拘らず、誰も蚤を問題にしたものがいないというのは、何んということだろう。おれはまだ蚤の評論というのを見たことがないね。」
 妻は私の云うことなど聞えない。八方へぴょんぴょん跳ぶ蚤を追っかけて夢中である。これは夜中の光景だが、これから毎夜つづくこの苦痛を考えると、他の重要なことなどすべて空しく飛び散るから不思議だ。そこがまた、おかしいのかもしれぬ。しかし、これほど苦痛なことが、おかしいとは、またどうしたことだろう。この蚤に悩まされている最中の自分と妻は、厳粛この上もない苦痛の極点で、歎声さえ発しているに拘らず、おかしいとは、何たる不真面目な客観性が自分たちの中にあるのだろう。笑いの哲学とは、流石《さすが》に軽妙|洒脱《しゃだつ》なべルグソンの着想だ。こうでなくては哲学は意味をなさぬ。ここを忘れて人間性を云云《うんぬん》したところで、――しかし、おかしい。

 八月――日
 翌朝、私は参右衛門と対い合って炉に坐った。そして、その巨きな平然とした体躯を眺めた。いったい、この人物は、蚤について一言も発せぬが、果して何の痛痒《つうよう》も感じないのだろうか。もしそれなら、この人物は自分たちには不思議な存在だと思った。雲集して来る蚤の真っただ中へ、どたりと身を横たえて鼾声《かんせい》をあげている肉体。思ってみても痛快だが、しかし蚤にも狂わぬ神経で、精神を支えている調法さというものは、――子供のときから幾多の訓練をへたとはいえ、――それなればこそ、私らの苦痛がも早や何の問題でもない地点にいられる軍隊のような健康さに、私らはいったい何をいうべきか。たしかに、誰もは私らの方を不健康というだろう。しかし、果してそこに間違いはないか。その健康そうに見える陰から覗いた衰弱の徴候に。――これは蚤だけに関したことではない。人人のおそれ戦《おの》のく対象物の相違が、こんなに違ったまま世の中が廻っていて、――プロペラの廻転を停めるように、私は一度、ぴたりと停った世の中というものを見てみたい。これだけはまだ誰一人も見たことのないものだが。

 私は農村というものを映す高速度の映写機を、一度ためしに使ってみたい。完全な廻転に用する歯車は完全な円形では駄目だという法則がある。高速度映写機もその学理を応用している。AはBと相等しく、BはCと相等しい場合に、AはCと相等し、という数学上の定理が、今はそうではなく、AとCとは等しからず、という、新しい数法が生じて来たそうだ。これを半順序概念というそうだが、他の何事よりもこれは大革命の端緒となるもの――としても、それはさて置き等しきものは何もないというこの美しさ。おそらくどこの農村も、農村の存するところすべてが異っていることだろうが、高速度機もこうなると必要だ。一疋の蚤も、半順序概念のAとして、この農村を計量する何ものか、私の円形ならざる歯車の一つにならば幸いだ。

 八月――日
 夜の明けない前に草刈りに出ていった娘たちが、山から帰って来る。自分の背丈の二倍もある高さの草束を背負う姿は青草の底から顔を出した家畜に似ている。それが二人三人と続いて山路を降りて来ると、小山が揺れ動いて来るようだ。そんなことなど忘れてから、ふとまた視線がそちらへ向くたびに、おや、風かなと思う。よく見ると、また続いて降りて来る娘たちの草の山だ。
「日が射して来てから家を出るのは、もう仕事じゃないのう。」と、久左衛門が云った。
「おれは人の二人前は、いつのときでも働いた。前には村で一番の貧乏だったが、今では先から五番になった。」
「この村の人は、女の方がずっとよく働きますね。」
「ははははは、そういえば、そうかのう。」と、この老人は笑ってから、一寸このとき考え込んだ。
 六十八歳の老人が、今まで一度も、そんなことを考えてみたこともなかったということ。――やはり、人は自分のことを一番に考えて、それから答えるのだ。しかし、私もまた迂闊《うかつ》なことを訊ねたものだ。村で働きがないと云われることは、都会のものが感じるよりも、幾そう倍の侮辱になる、という衝撃については、甚だ残念ながら手落ちはこちらだ。ははははと笑った老人の初めの笑声は、ただの笑いではあるまい。おそらく六十八年の歳月の笑いであろう。
 私はこの久左衛門という特殊な老農に注意を向けた。何ぜかというと、この平野は陸羽百三十二号という米を作る本場であること。この米は一般から日本で最上とされているのに、この平野の中でも、特にこの村の米は平野のものから美味だといわれていること、ところが、久左衛門の家の米は、この村の中でも一番美味であるということなどを考えると、――彼は日本一の米作りの名人ということになりそうだ。まだ誰も、そんなことを云ったのではない。しかし、押しせばめて来てみると、他に適当な論法のない限りは、そう思ってみる方が、私だけには興味がある。たしかに、同じ注意を向けてみるなら、ひそかに私はそう思うことにしてみたい。
「おれは小さいときから算術が好きでのう。」
 と久左衛門は云った。「今の若いもののやることを見ていても、おれよりは下手だのう。おれは算術より他に、頼りになるものは、ないように思うて来たが、やっぱりあれより無いものだ。」
 またこの老人はこうも云った。
「みんな人が働くのは、子供のためだの。おれもそうだった。」
 禿《は》げた頭の鉢は大きく開き、耳の後ろから眼尻にかけて貫通した流弾の疵痕《きずあと》が残っている。二十二のとき日露の役に出征し、旅順でうけた負傷の疵だが、このときの恩給が唯一の資本となり、峠を越した漁村の利枝の家へ、縄と筵《むしろ》を売りに通った極貧の暮しも、以来|鰻《うなぎ》のぼりに上騰した。彼の妻のお弓は利枝の妹で、本家の参右衛門の母の妹にもなる。久左衛門は隣村から養子に来たとはいえ、前から本家とは親戚で遠慮の不要な間柄だ。
「この村は二十八軒あるが、参右衛門の家は一番の大元だ。前には財産も一番だったが、今はその反対だのう。みなあれが飲んだのだ。はははは。」久左衛門はそう云ってから私に声をひそめて、「あんたに一言いうて置かねばならぬことがあるが、一つだけ気をつけておくれんか。あの参右衛門は人の良い男だが、飲んだら駄目だから、そのときはそっと座を脱して隠れて下され。あれはひどい酒乱でのう。おれは殴られた殴られた。もういくら殴られたかしれん。おれはじっと我慢をし通して来たが、あの大男の力持ちに殴られちゃ、敵《かな》うもんじゃない。恐しい力持ちじゃ。」
 参右衛門は四十八だ。巨漢である。いつも炉端に寝そべっていて働かないが、無精鬚《ぶしょうひげ》がのびて来ると、堂堂たる総大将の風貌であたりを不平そうに眺めている。剃刀《かみそり》をあてると、青い剃りあとに酒乱の痕跡の泛び出た美男になる。農夫とは思われぬ伊達《だて》な顎《あご》や口元が、若若しい精気に満ち、およそ田畑とは縁遠い、ぬらりとした気詰りで、半被《はっぴ》を肩に朝湯にでも行きそうだ。
「おれは金はない。金はないが、あんなものは入らん。食えれば良いでのう。こうしておっても食ってゆかれる。どうじゃ、あんたはそう思わんか。」
 と、参右衛門は云ったことがある。初めは冗談かと私は思って黙っていると、意外に真面目な眼差しで彼は問いつめ、じっと視線を放そうとしなかった。
「実は僕もその方でね。」と私は苦笑した。
 参右衛門は酒代で財を潰《つぶ》した自分自身の過去に、少しも後悔していなかった。彼は思うことを実行してみたのである。そして、来るべきことに突きあたったその底から、鋭い表情を上げているのだ。しかし、久左衛門は彼とは反対だった。あるとき、彼は私に、
「何というても金がなければ駄目なもんだ。」とひと言|洩《もら》したことがある。これも自分の思うことを実行してみて、結果はそのままに現れて来たのだ。
 この久左衛門と参右衛門が、まったく地位の転倒した別家と本家の関係にあり、それも三間の空地をへだてた隣家で、酒を飲み交している場では、定めし酒乱の殴打はなみなみならぬ響きが籠っていたことだろう。
「おれと参右衛門と仲が悪うなると、村のものは喜ぶ。仲が戻ると、いやそうな顔をする。この頃は参右衛門も、おれのいう通りになるので、村のものには面白うないのじゃ。はははは。」と久左衛門は眼尻を細めて笑った。一度も激したことのないような笑顔である。

 八月――日
 雨過山房の午後――鎌|研《と》ぐ姿、その蓑《みの》からたれた雨の雫。縄なう機械の踏み動く音、庭石の苔の間を流れる雨の細流。空が徐徐に霽《は》れるに随い、竹林の雫の中から蝉の声が聞えて来る。群り飛びまう蝿の渦巻――

 この二十八戸の村から十七人出征している。そのうち二人だけが帰って来た。先日、湯の浜へ行ったときのことだが、汽車から降りて来て、今しも故郷へ入って行こうとしている復員の兵士が二人、電車の昇降口で話していた。どちらも勇敢そうな、逞《たくま》しい身体で、見ていても気持ちの良くなる青年である。
「あーあ、半年おれは、ぐっすり寝たいな。」と一人が、電車の継目の欄干にもたれ、顔に真正面からかッと日を浴びて云った。
「弾の下くぐることなら、あんなことは平気だが、眠いのはのう。」と背の高い美男子の一人が云った。
 そこへその兵士の故郷の知人らしい老人が乗って来た。顔が合うと、美男の兵の方が、
「敗残兵が帰って来たア。」
 と、いきなり云って笑った。老人は、「わッはッはッ。」と笑ってから、肩を一つぽんと叩いた。それでおしまいだった。日本人らしい笑いだ。
 電車が稲の花の中を走り出し、次ぎの停留所まで来たとき、またその兵士の知人らしい、美しい若い婦人が、小さな子供をつれて乗り込んで来た。
「あら、お久しぶりですのう。」と婦人は、にこにこして嬉しそうに兵士に云った。その笑顔のどこかに、むかしの恋人にちかい俤《おもかげ》すらあった。
「敗残兵が帰って来たア。」
 と、また兵士は同じことを繰り返して笑った。すると、今までにこにこしていた婦人は、急に笑顔を消し、俯向《うつむ》いたまま、
「どうしようもありませんでのう。」
 と、悲しそうに云ったきり、もう顔を上げようとしなかった。兵士の方も的を射すぎた不手際な苦しさで、眼をぱちぱちさせて外《そ》っぽを向いたまま、これも何も云わなかった。
 三度目の停留所まで来たとき、そこでもこの兵士の知合いが乗り込んで来たが、このとき兵士は、
「やア、お暑う。」と云って、軽く頭を下げたきりだった。
 横にいた別の兵士はどこまでも黙黙として一語も発せず、笑いもしなかったが、彼の降りる停留所まで来たとき、ぎっしり詰った重い軍袋を足で蹴りつけ、プラットへ突き落した。日に耀いた鳥海山が美しく裾を海の方へ曳いている。稲の花の満ちている出羽の平野も、このような会話を聞いたことは、おそらく一度もなかったことだろう。
 
 私は海際にあるその電車の終点の湯の浜で兵士と一緒に降りた。袋を背負い、人のいない砂丘を越して自分の家の方へ消えて行く兵士の後姿を見ながら、私もまた一人で、その丘を登った。浜茄子《はまなす》の花の濃い紅色が、海の碧さを背景に点点と咲いている。腰を降して私は膝を組んだ。ここは私が妻と結婚したその夏、二人で来た同じ砂丘で、そのときは電車はなかったが、こうしてここで浜茄子の花も見た。それから二十年の年月紅色の花にうつろう愁いは、今もまだ私に残っているが、もうむかしのようなものではない。私は砂丘の向うにある兵士の家を想像し、その入口へ這人って行くときに、最初にいう彼の言葉も分っている。すべてが私らと無関係なことではない。私は人のいない大衆浴場へそれから行って服を脱ぎ、木目のとび出た板にお尻をつけた。風呂へ入るにも、私は汽車に乗り、またそれから電車でここまで来て、そして、ようやく一風呂浴びられるのだが、私にとって、今はこの痛い木目の板へ坐るのが、一週一度の何よりの楽しみだ。ぽちゃぽちゃ一人でやっていると、心はなまけた潤おいに満たされ、空腹も忘れてしまう。何とかして煙草を一本吸いたいと思うが、山から採って来たいたどりばかりで、これで二週間目だ。ふと、家の参右衛門のなまけ癖が、廂《ひさし》からの日ざしを受けたお臍《へそ》のあたりにへこんで見えて、垢を擦る。しかし、敗戦の日の私の物思いは、こんなことでは片附きそうもない。私は、今は何も云いたくはない。
 この浴場の屋根の上に露台がある。そこから右の砂丘の向うに、煙筒のかすかに並んだ岬の見えるのが、最上川の河口である。そこが酒田だ。捕虜収容所もあの煙筒の下の方にある。終戦の前日まで、そこで捕虜を使っていた日通のある人が云ったこと――
「軍人という奴は、どいつもこ奴も、無頼漢ばかりだ。」
 またか、と初めは思って、私にこの話をした青年は、聞くのを躊躇《ちゅうちょ》したそうだ。この青年も復員軍人だ。
「捕虜に食わせる食い物なんて、あれや無茶だ。人の食う物じゃない。気の毒で気の毒で、もう見ちゃおれん。」と、日通は云った。
 軍人を攻撃するのは田舎でも流行だが、これは少し流行から脱れた権幕である。罵倒も飛び脱れた大声だと、反感を忘れ、どういうものかふと人はまた耳を傾ける。
 この日通の人の使っている下働きの荷車曳きに、この地方特有の敦樸《とんぼく》な者がいた。この若ものは仕事からの帰途、毎夜一緒に働いている捕虜をこっそり自分の家へ連れ込んで、食べたいだけ物を食べさせてやっていた。そのうち若ものは出征した。ところが、出征すると間もなく終戦になったので、今度は捕虜との位置が逆になった。自由な身になった捕虜は、若ものが今日帰るか明日帰るかと、毎日ひとり停車場まで出迎えにいっていた。そのところへ、ある日ひょっこり汽車から降りて来た復員姿の若者を見つけると、「おう、」と進み二人は思わず手を握った。聞いていて私は涙が出た。
 アメリカの飛行機は、まだ酒田の上空まで飛んで来て、下にいる捕虜たちに食物を落している。私はこれらの飛行機もここの露台から眺めたことがあるが、家を突き抜いた食物で圧死した捕虜もある。例の捕虜は自分へ落ちて来た分の食物を、若ものの家へ運んでは食べよ食べよといって、承知しないということだ。以上の話には感想は不要だが、ここには、そのままに捨て置きがたい、見事な光をあげているものが沢山ある。それとは違う別のイギリス兵の捕虜の一人も、本国へ帰るとき、
「酒田へはもう一度、必ず来る。」
 と、そう一言いって帰ったそうである。

 八月――日
 別家の久左衛門の主婦は今日はめっきり心配顔だ。長女が樺太に嫁いでいる折、引上げ家族を乗せた船を、国籍不明の潜水艦が撃沈したという噂が拡がって来たからだが、本家の参右衛門の家の長男も樺太にいる。両家の今日の憂鬱さはひとしおふかい。
「もう朝飯も食べられない。今日は堪忍しておくれのう。愛想の悪いのは、お前さんたち悪う思うてじゃないでのう。」
 畠の中の茄子《なす》、唐黍《とうもろこし》、南瓜の実にとり包まれた別家の主婦は、そう云って跼《かが》み込んだ。背中に射した日光が秋の色で、浮雲がゆるく沼の上に流れている。一日一日と頭を垂れていく稲の穂。初めの颱風も無事にのがれた稲の波は後続する花房を満たして重い。栗のいがの柔かさ――

 参右衛門の細君の清江は、これはまたいつも黙っていて、心配を顕さない。樺太へ出征している長男が、帰れるものやら、奥の陸地へ連れて行かれたものやら、噂は二つで、頭も二つの間に挟まれ※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]《もが》いてはいるのだが。
「いや、きっと帰れるさ。相手はソビエットだもんのう。おれたち貧乏人の忰《せがれ》を、殺すなんてことはせんもんだ。」
 と、参右衛門は云う。彼も一度は樺太へ出稼ぎに行って、石炭を掘ったこともあり、そこの景色は直ちに泛んで来る様子だ。久左衛門の主婦のお弓は、ひき吊ったような顔で本家へ来て、共通の憂鬱さを吐きまぎらせる。
「本人が帰って、門口へ立って見てからでないと、何んにも分ったことではないのう。」
 と清江は一言小声で洩しただけである。この婦人は、働くこと以外に夢を持たぬ堅実さで、私は来たその当夜、一瞥して感服したが、それは以後ずっと続いている。人の噂を聞き集めてみても、この清江のことを賞讃しないものはない。参右衛門はまことに妻運の良い男というべきだ。この点私は彼によほど負けている。
「どうもここの細君みたいな婦人は、一寸、見たことないね。それに顔立だって、よく見てみなさい。紋服でも着せて出そうものなら、東京のどこの式場へ出したって、じっと底光りして来るよ。」と私は妻に云った。
「そうね、あたしもそう思うわ。」
「ここにいる機会に、お前も少し勉強をするんだね。お前なんか、僕のあら探しで一生を費しちゃったんだが、そんなことせんもんだ。」と、私も田舎言葉になったりする。
「ほんと、あたしあなたのあらばかしより見えないんですもの。あなたは、あらばかしの人だわ。良いとこあるのかしら。」この批評家はうす笑いをもらしている。
「おれはこのごろ、人生はこういうものかと、少しばかり分って来たような気がするんだがね。辛いぞなかなか人生は――おれは毎日毎日、批評家からやっつけられ、右からも、左からもやっつけられ、内からは、またお前から毎日毎日だ。おれの身体は、穴だらけで、満足なところは、いったいどこにあるんだろうと思う。まったくだよ。人の非難するところを全部おれは、受け入れる性質だからね。こいつを全部受け入れて見なさい。おれは零以下の人間だ。そのくせ人は、おれにまだ何か書け書けだ。どういうことだろうこれは。どっかに一つ、良いところがなくちゃならんじゃないか。」
 私は少し感傷的になったのが、それが悲しかった。
「どっかしら。――ないわね。」と妻は黙っていてから云った。
「いや、一つだけある。」
「どういうとこ?」
「おれは、人に感心する性質だよ。おれは自分が悪いと思えばこそ人に感心するのだ。これが風雅というものさ。芭蕉さんのとは少しばかり違う。僕のはね。」
「芭蕉さんのはどういうの?」
「あの風雅は、まだ花や鳥に慰められている無事なところがあってね。そこが繁栄する理由だよ。芭蕉さん、きっと自分のそこがいやだったんじゃないかなア。あの人は伊賀の柘植《つげ》の人だから、おれと同じ村だ。それだから、おれにはあの人の心持ちがよく分る。小林秀雄はそこを知ってるもんだから、おれに芭蕉論をやれやれと、奨めるのさ。」
「小林さんが?」妻は顔を上げた。
「うむ。しかし、小林の方が芭蕉さんより一寸ばかし進歩しているね。おれの見たところではだ。」
「…………」
「それはそうと、小林はいつかお前を賞めてたことがあるよ。君の細君はいいね、ぼッとしていて、阿呆みたいでって。」
「まア、失礼ね。」妻は赧い顔をした。
「しかし、阿呆なところを賞められるようじゃなくちゃ、女は駄目なもんだよ。賢いところなら誰だって賞める。そんなのは、賞める方も賞められる方もまだまだ駄目だ。おれにしたってだ。」
 妻は笑いが止まらなくなった様子でくすくす俯向いて笑っている。しかし、私の方はそれどころではない。非常な難問が増して来た。もう妻なんかに介意《かま》ってはおれぬ。今しばらくは斬り捨てだ。

 一万米の高空でする戦闘と、地上百米の低空でする戦闘の相違について――これは飛行機のことではない。各人、だれでも一日に一度は必ずしなければならぬ平和裡の戦闘だ。妻と、友人と、親戚と、知人と、未知の人間と、その他、一瞥の瞬間に擦れちがって去りゆくものと。また自分と。戦法は先ず度を合して照準を定めることだが、照準器はめちゃくちゃだ。度が合ったときのその嬉しさ、そこからのみ愛情は通じるのだ。

 ある日のことを私は思い出す。それは晴れた冬の日のこと、渋谷の帝都線のプラットで群衆と一緒に電車を待っているとき、空襲のサイレンが鳴った。間もなく、 B29一機が頭上に顕れた。高射砲が鳴り出した。ぱッと一発、翼すれすれの高度で弾が開いた。すると、私の横にいた見知らぬ青年が、
「あッ、いい高度だな。」とひと声もらした。
 話はそれだけのことだが、そのひと声が、晴れた空と調和をもった、一種奇妙な美しさをもっていた。敵愾心《てきがいしん》もなく、戦闘心もない、粋な観賞精神が、思わず弾と一緒に開いた響きである。私はこの世界を上げての戦争はもう戦争ではないと思った。批評精神が高度の空中で、淡淡と死闘を演じているだけだ。地上の公衆と心の繋がりは断たれている。それにも拘らず、観衆は連絡もなく不意にころころ死んでゆく今日明日。たしかに死ぬことだけは戦争だが、しかし、戦争の中核をなすものは、何といっても敵愾心だ。いったい、今度の長い戦争中で、敵と呼ぶべきものに対して敵愾心を抱いていたものは誰があっただろうか。事、この度の戦争に関する限り、この中核を見ずして、他のいかなることにペンを用いようとも無駄である。
 愛国心は誰にもあり、敵愾心は誰にもないという長い戦争。そして、自分の身体をこの二つの心のどちらかへ組み入れねば生きられぬという場合、人は必ず何ものかに希願をこめていただろう。何ものにこめたかそれだけは人にも分らず、自分も知らぬ秘密のものだ。しかし、人は身の安全のためにそうしたのではない。たとえそれは間違ったものに祈ったとしても、そこに間違いなどという不潔なものなど、も早や介在なし得ない心でしたのである。それは狐にしようと狸にしようと、それ以外には無いのだから通すところのものはどうでも良い、有るものを通して天上のものへしていたのにちがいないのだ。ここに何ものも無い筈はない。
 おそらく以後進駐軍が何をどのようにしようとも、日本人は柔順にこれにつき随ってゆくことだろう。思い残すことのない静かな心で、次ぎの何かを待っている。それが罰であろうと何んであろうと、まだ見たこともないものに胸とどろかせ、自分の運命をさえ忘れている。この強い日本を負かしたものは、いったい、いかなるやつかと。これを汚なさ、無気力さというわけにはいかぬ。道義地に落ちたりというべきものでもない。しかし、戦争で過誤を重ね、戦後は戦後でまた重ねる、そういう重たい真ん中を何ものかが通っていくのもまた事実だ。それは分らぬものだが、たしかに誰もの胸中を透っていく明るさは、敗戦してみて分った意想外な驚愕であろう。それにしても人の後から考えたことすべて間違いだと思う苦しさからは、まだ容易に脱けきれるものでもない。

 防空壕に溜った枯葉の上へ、降り込む氷雨のかさかさ鳴る音を聞きながら、私は杜甫を一つ最後に読もうと思って持ち込んだこともある今年の冬だ。しかし、今は、戦争は停止している。私のここで見たものは一人の白痴だ。

 この白痴は参右衛門の次男である。先ずその日その日が食べられるというだけの、貧農のこの家の生活を支えているのは、二十三歳になるこの白痴だ。名は天作、彼は朝早く半里もある駅の傍の白土工場へ通い、百円の賃金を貰っている。参右衛門の怠けていられるのもこのためだ。天作は身体が父に似ていて巨漢である。無口で柔順で、稀な孝行もので、良く働き、何の不快さもない静な性質だ。およそ他人に害を与えない人物でこれほど神に近いものはないだろう。彼の仕事も三人力で、山から白土を掘り出すのだが、この土は武田製薬の胃薬の原料になるものだ。戦時中も今と同様に働き通したが、天作の掘り出した白土は、どれほど多くの人の胃袋へ入ったことだろう。あの酒を吸収して酔漢をなくするノルモザンがこの白土だ。天作は白痴のため戦争など知らない。自分の得た賃金を参右衛門の酒代にすっかり出し、代りに彼から煙草を四五本ケースへ入れて貰うと、ほくほくする。たまの休日には庭の草ひき、草刈り、庭掃除で、小牛と山羊をひっ張り廻して遊ぶのが何より愉しみなようである。弟の十二になるのが何か悪さをすると、天作のしたことにして知らぬふりだ。そして、代りに天作が参右衛門から叱られる。私は五時に起きるがときどき同じ白土工場へ出ている隣家の少年が、
「天作どーん。」
 と垣根の外から誘う声がする。すると、
「おう。」
 と、応える天作の元気な声は、一日一度の発声のようで朝霧をついて来る。何の不平もない幸福そうな、実に穏かな天作のその眼を見るのは、また私には愉しみだ。これは地べたの上を匐《は》い廻っている人間の中、もっとも怨恨のない一生活だ。他は悉《ことごと》くといってもいい、誰かに、どこかで恨みの片影を持って生活しているときに、上空では自己を忘れた精密な死闘を演じ、下のここでは、戦争を忘れた平和な胃薬掘りの一白痴図が潜んでいたのだ。
 飛騨地方では白痴が生れると、神さまが生れたといって尊崇するということだが、そういう地方も一つは在って良いものだ。

 九月――日
 別家、久左衛門の家には、機械工として熟練抜群の次男が工場解散となって都会から帰って遊んでいる。年は本家の白痴と同年だ。白痴の天作が一家の生計を支えた中心であるときに、別家では反対であるということが、二家の間に少し均衡を失いかけて見える。久左衛門の次男は、十三のとき以来ひとり都会に出ていたので、農事を今からすることは不可能だ。長男がこの弟の無職を憂い顔で、砂利を積んだ牛車を運び、駅からの真直ぐな路を往ったり来たりしている。麻疹で亡くした子供の初盆をすませたばかりの頬に、鬚がのびている。若い嫁は柔順に壁土を足でこね、ひたひたと鳴るその足音の冷やかさに驟雨が襲って来る。虫の声声が昂まる。

 参右衛門の広い家には誰も人がいない。薪のくすぶっている炉の傍に、薬湯がかかっていて、蝿が荒筵の条目《すじめ》を斜めに匐っているばかりだ。梨の炉縁の焼け焦げた窪みに、湯呑が一つ傾いたまま置いてある。よく洗濯された、継ぎ剥ぎだらけの紺の上衣が、手擦れで光った厚い戸にかかり、電灯がかすかに風に揺れている。槽に蔭干しされた種子類が格子の傍に並べてあって、水壺の明り取りから柿の生ま生ましい青色が、べっとりした絵具色で鮮明に滲み出ている。蝿の飛びまう羽音。馬鈴薯の転がった板の間の笹目から喰み出した夏菜類の瑞瑞しい葉脈――雨が霽れたり降ったりしている。

 寺の和尚、菅井胡堂氏がおはぎを持って来てくれた。私の部屋――この参右衛門の奥の一室は和尚が少童のころまだこの家の豪勢なときに誦経に来て以来五十年ぶりらしく、庭を眺め、「ほほう。」という。
 すると、突然、泉水の上に突き出た竿の先に、眼の高さでただ一つぶら下った剽軽《ひょうきん》な南瓜を見て、
「はッはッははッ。」と哄笑した。
 胡堂氏の話によると、村には二つとない、見事だったこの庭の良石と植木は、隣村の何兵衛に瞞《だま》され尽《ことごと》く持ち去られたとのことである。今、壊されたその跡に、ぶらりと垂れた南瓜の表情は、和尚には、何事か自然のユーモアとなって実り下った、真の笑いだったにちがいない。私はこういう笑いを聞いたのは初めてだ。ナンセンスの高級さ、ふかさは、このような孤独な南瓜のぶらりと下ったお尻の大きさをいうのだろう。これはまた、徳川夢声の、芸に似ている。まことに夢声の芸の酒脱さは、破れた日本の滴りのようなものである。

 九月――日
 初めて西瓜《すいか》を割る。今年は例年よりも二十日気候が遅れているとのことだ。久左衛門は、毎朝九時ごろになると必ず私に会いにやって来る。何の用もない、ただ遊びに来るだけだ。私は東京にいても、この朝の時間を潰されることほど苦しいことはない。それもこの老人が現れると、定《きま》って十二時まで動かない。私は一番自分にとって苦痛なことを、ここでは忍耐しているのだ。私は人が朝来たときは、その日一日死んだつもりになるのが習慣だったが、ここではそれが毎日だ。そこで、このごろ私は講習会に出席したつもりになって、この老人から農業について学ぶことにした。それにしても、これから以後ここにいる限り、この教授の出席が毎日続くのかと思うと溜息が出る。
「お困りなら今勉強中だといって、お断りしなさいよ。」と、妻は私のひそかな溜息を見て云った。
「僕は気が弱いんだね。どうも、それだけは云いかねるよ。あのにこにこした顔を見ちゃ、ひとつこの爺さんに殺されてやれ、と思うから不思議だ。お前断ってくれ。」
「じゃ、今度見えたら云いますわ。」
「しかし、一寸待ってくれ。あの爺さんの云うことは、こっそりノートをとって置きたくなることもあるんだが、ノートをその場でとると、こっちの職業がすぐ分っちまうからね。そいつが困るんだよ。細かい数字のことになると、どうも僕は忘れてばかりだ。」
「でも、そんなに面白ければ、お会いになってもいいじゃありませんか。」
「しかし、夜はこの部屋へは電気が来ないし、眠るとなると、この蚤で眠れたもんじゃない。朝になると、昼まであの爺さんが動かぬし、やっと午後から昼寝の時間を見つけると、これは眠っているんだから、おれの時間じゃない。おれは、もう生死不明だ。生きているなと思うときは、朝起きて、茄子の漬物の色を見た瞬間だけだね。あのときは、はッとなるよ。」
「ほんとに蚤には、あたしも困ったわ。一日だけでいいから、どっか蚤のいない所で眠ってみたいわ。」
 こんな会話を二人でひそひそ洩しているときでも、私たちには今一つ、別の不安が泌み込んで来ていた。それは四月に疎開してきた妻が、僅《わず》かよりない私たちの銀行の預金帳を、銀行焼失のためこちらで他の東京の銀行へ移管させたのが、四月以来いまだに東京から返送して来ないことだった。四月から九月まで、一銭の金銭も取れぬということと、それがまだいつまで続くか不明の故に、一家四人をひきつれて所持金なしの旅の空は、乞食同様で、考えたら最後ぞっと寒気がする。私の持って来た金銭がも早やいくばくもない折だ。この蚤から逃れる方法は、今のところ見当がつきかねる。誰も同様に困っているときとて、他人から借りる工夫もなりかねるこの不安さに対しては、援けなど求めようがない。赤の他人ばかりの中の、その日、その日の雨多いこのごろだ。

 九月――日
 米の配給日――この日は心が明るくなる筈だのに、私ら一家は反対だ。配給所まで一里あって、そこを二斗の米を背負って来ることは不可能である。人夫を頼もうにも、暇のあるものは一人もない手不足だ。駅まで半道、それからまた半道、長男と妻と二人で行く。その留守に私は道元の「心不可得」の部を読む。岩波版の衛藤氏編中のものだが、この衛藤氏は新潟在に疎開中で、そこからときおり夫人が菅井和尚の寺まで見えるとのことだ。道元集も、私が和尚から貰ったもので、和尚も著者から貰ったもの。
「奥さんが先日も来られて、一度でいいから、白い御飯をお腹いっぱい食べてみたいと私に云われましたよ。あの日本一の豪い仏教学者を食うに困らせるとは、何という仏教界の恥だろう。」と、菅井和尚は私に憤慨を洩したことがある。私の妻は蚤に、この夫人は米に悩まされている最中だ。
 私は道元禅書の中からノートヘ「夏臘《げろう》」という二字を書き写した。叢林に夏安居して修業したる年数をいう、と末尾に註釈がある。他に、
 奇拝――(弟子の三拝九拝に対して師の一拝の挨拶)有漏《うろう》――(煩悩のこと)器界――(世界のこと)秋方――(西の方)
 私は以上の五つを書き抜いてみて、次の随筆集の題を選びたく、思い迷っているとそこへまた久左衛門が現れた。私は本を伏せまた二人で庭の竹林に対《むか》い、しばらく黙って竹の節を眺めていた。「夏臘」という字と、「有漏」という字が、節の間を往ったり来たりする。そのうち、だんだん、「有漏」の方が面白く押して来たので、ひそかに舌の端に乗せてみながら、私は久左衛門の顔を見た。
「和尚さんのことで、一寸。」と久左衛門がいう。
 今日は菅井和尚の使いで来たのだ。この久左衛門は前から、和尚の寺の釈迦堂へ遠近から来る参拝人に、本堂の横の小舎で汁と笹巻ちまきを売っていた。それが資本となり彼が財を成した原因である。それ故和尚にだけは久左衛門も頭が上らない。その和尚が私の所へ、おはぎを携げて遊びに見えてからは、久左衛門も幾らか私への待遇が変って来て、今までは崩した膝を両手で組んでいたのも、このごろは、揃えた膝の上へ両手を乗せるまでになって来た。これは釈迦堂のお蔭である。そういえば、この菅井和尚の寺の釈迦堂からは、私たち一家は思わぬ手びきを受けている。私の妻がまだ一度も行ったことのないこの村の釈迦堂へ、実家のある街から汽車に乗り、参拝に来て、久左衛門の小舎の笹巻を買ったついでに、このあたりに部屋を貸す農家はないものかとふと訊ねたのが、私にこの六畳を与えられた初めだ。私は今も山を廻った所にある釈迦堂の上を通る度に、「よく見よこの村を」と、そっと囁《ささや》かれているように思うのだが、一つはそのためもあって、早く東京へ戻ろうという気持ちは起って来ない。
「和尚さんはのう、あなたの家をこの村へ建てようじゃないかと、おれに云わしゃるのじゃがのう。どっか気に入った場所を探して、そういうて下され。そうしたら、村のものらでそこへ建てますでのう。」
 甚だ話が突然なので私は答えに窮した。しかし、それだけでもう充分結構なことだ、深謝して辞退したきこと、久左衛門にいう。しかし、この村には眺望絶佳の場所が一つある。そこが眼から放れない。その一点、不思議な光を放っている一点の場所が、前から私を牽きつけている。
 それは私の部屋から背後の山へ登ること十分、鞍乗りと呼ぶ場所だ。そこは丁度馬の背に跨《また》がった感じの眺望で、右手に平野を越して出羽三山、羽黒、湯殿、月山が笠形に連なり、前方に鳥海山が聳えている。そして左手の真下にある海が、ふかく喰い入った峡谷に見える三角形の楔姿で、両翼に張った草原から成る断崖の間から覗いている。この海のこちらを覗いた表情が特に私の心を牽くのだが、――千二百年ほどの前、大きな仏像の首がただ一つ、うきうきと漂い流れ、この覗いた海岸へ着いた。それに高さ一丈ほどの釈迦仏として体をつけたのが始まりとなり、以来この西目の村の釈迦堂に納ったのみならず、汽車で遠近から参拝の絶えぬ仏となった。どこかビルマ系の風貌だが、この仏を信仰するものは米に困らぬという伝説があって、平和なときには毎日堂いっぱいの参拝人だとのことである。米作りの名人久左衛門の小舎の笹巻の味もこの仏像の余光を受けて繁昌した。それもこれも、すべてはこの海の表情の中に包み秘められている絶景だ。羽前水沢駅で降りて半里、私はここの鞍乗りの一箇所へ、炉のある部屋をひとつ自費で建てたくもなって来た。

 九月――日
 妻に部屋を建てる話をすると、私よりも乗り気である。しかし、ここでは、大工の賃金を米で支払わねばならぬとのことだ。それならも早や部屋も半ば断念した。野菜もこの村は自家の用を足すだけより作っていない。米作専門の農家ばかりで野菜を買うにはひと苦労である。魚は山越しの海から売りに来るが、米欲しさの漁夫たちの事故、先ず農家へ米と交換で売り、残りを私たちに持って来る。
 ある朝、私が縁側で蚤を取っていると、裏からいきなり這入って来た農婦が、何やら意味の通じぬことを私に喋ったことがある。妻に翻訳させると、子供を白土工場へ入社させたいので、その履歴書を私に書いてくれという意味だった。その場で書いてやった返礼に、米一升をどさりと縁側に抛《ほう》り出して農婦は帰っていったが、私の文筆が生活の資に役立ったのはこれが初めてだ。朝早く隣りから天作を誘う少年は私の書いた履歴書の主である。その声が寝床へ聞えると私も起きるようになった。またそこから野菜も頒けて貰えるようになったりした。米も無くなれば一升や二升はただでやるという。この農婦のことを宗左衛門のあばというが、金を出すから米を売って貰いたいと妻が頼むと、手を横に振り振り、
「金は要らん要らん。米はやるやる。」
 と、あばは云う。話のあまり良すぎることは、こちらもそれに乗るわけにもいかないだけ、この福運はこれで断ち消えになったも同様である。
「困ったわね。ああ云われちゃ、お米も買えないわ。」と妻は歎いた。
 しかし、人の懐勘定をするように先ずあそこには米があるのだと、ちらりと覗いたことになって、ますます私は自分の文筆の力を妻に誇って笑った。
「でも、履歴書ならあたしだって書けるわ。」と妻は無念そうだ。
「しかし、何んだかあの男は字が書けそうな人だと、僕のことを睨《にら》んだのだよ。あのあばは。睨ませたのはこの僕だ。これで小説を書くなんてことを知られちゃ、もう米も貰えないがね。」
「そうしたら、どうすればいいでしょう。お金も銀行から、いつ来るか分らないし、着物だって無くなって来たし、あたし困ったわ。」
「金が無くなれば川端に電報を打ってやる。まだあるだろう。」
 妻はほッとしたようだ。

 この村に困ったことが起っている。去年、米の供出の場合、村割当量が個人割当に変ったとき、供出せられるだけすべし、すれば一日四合分配給すると命ぜられたことがある。皆そのつもりになって、どこの村より真先にある限り完納した。ところが、四合どころか全然配給なしになった。結果は米を作らせられただけで自身たち食う米がなくなり、そのため村全体でない家を救いあうという始末だ、そして、今はその余力の続き得る限界まで来かかった米不足の声声が、満ちて来ている。ただ望むは秋の新米の生れることばかりで、「勝つために」という標語を掲げて瞞着した供出振りに対し、名誉を得たのは、ただ一人供出係りの実行組合長だけだという実感で、非難をその名誉に向けて放っている。非難の的の組合長は、参右衛門の妻の実家だ。またこの組合長は村で五位の、久左衛門と税金が同額で、何にかにつけ敵に廻って来ていた折の今年になり、ついに久左衛門から抜かれて来た。
「おれは何もかも知っとる。」と久左衛門は私に云った。「あの組合長の兵衛門は、駐在所へおれのことを、密告してのう。寺で笹巻売るというて、おれは駐在所へ呼びつけられた。おれは寺で笹巻売っても良いというから、完納してから売っていたのじゃ。はい、売りました、とおれは云うと、駐在所はのう、おれに同情してくれて、そんなこと今ごろするな、誰が報らせに来たか、お前には分っとるだろう、と云わしゃるから、はい、分っとります、とおれは云うた。はははは――密告したのじゃ。おれは、村のもののしていることを、何もかも知っとるでのう。おれだけが知っとるのじゃ。おれは、村の精米所の台帳を預っておるので、それを別に細かにみんな書き写して持っとる。どこにどれだけ米があるか、ないか、どこが無いような顔して匿しとるか、みんな知っとるのは、おれ一人じゃ、はははは――おれはいつでも黙って、知らぬ顔を通して来ているが、神も仏もあるものじゃ。それでおれは、みんながおれの悪口をいうと、いつか分る、おれが死んだら何もかも分る、そう云うて他は一切云わぬのじゃ。はははは。」
 久左衛門は笑ってからまた後で、
「神も仏もあるものじゃ。」と繰り返した。そして、顔を上げると、「おれは嫌われておるのでのう。おれの悪口ばかりみなは云うが、おれのことを分るときがきっと来る。おれは、何もかも細かに書いて仕舞っとる。」
 この老人の長所は何より自信のあることだ。

 九月――日
 夜の明けない前に、清江の刈って来た真直ぐな萱の束を、小牛と小山羊が喰っている。強烈な匂いを放った刈草の解けた束に朝日が射し込み、獣の口の中へ、鋭くめり入る折れた葉の青さ。云いがたい新鮮さで歯を洗う草の露。――堆肥の上から湯気が立ち、その間から見える穂を垂れた稲の大群の見事さ。家の周囲をめぐっている水音。青柿の葉裏にちらちら揺れる水面の照り返し。台所には、里芋の葉で一ぴきの赤えいが伏せてある。

 霽れたかと思うと海の方から降って来る。蓑《みの》を着て庭掃除をしている農婦。あなごやえいの籠を背負い、栗の木のある峠を降りてくる漁婦の姿。これらが雨の中で、米と交換の売買をしている魚籠を、一人二人と集り覗く農婦の輪。もうどこも米がなくなって来ているので、がっかりした漁婦は私たちの縁側へ廻って来て、最後に魚籠をひろげた。
「銭でもええわのう。糸があれば、なおええが。」と悲しそうな声で漁婦はいう。
 私たちは、あなごや赤えいを買い入れ、それを持って汽車で鶴岡の街まで出て、そこの親戚から交換で青物を貰って来るのだ。ここでは村と街とが反対の土産物だが、それほど金銭では野菜の入手が困難だ。米は勿論、味噌も醤油も金銭では買えない。それにも拘らず、ほそぼそながら一家四人が野菜を喰べていられるというのは、不意に近所から貰ったり、清江が知っていて、そっと私たちにくれるからである。妻は毎日あちらに礼をいい、こちらに礼をのべ、ひそかに私が聞いていると、一日中礼ばかり云っている。あんなに礼ばかり云っていては、心の在りかが無くなって、却って自分を苦しめることになるだろう。実際、物乞いのようにただ乞わないだけのことで、事実は貰った物で食っている生活である。人の親切は有難いが、これが続けばそれを予想し、心は腐ってくるものだ。
「ほんとにお金で買えれば、どんなに良いかしら。あたし、お礼をいうのにもう疲れたわ。」と、ある日も妻は私に歎息した。
 物をくれるのに別に人情を押しつけて来るのではない。ただ自然な美しさでくれるのだが、それなればこそ一層私たちは困るのだ。一度頭を昂然とあげて歩きたい。
「困るようなことはさせんでのう。」
 と、このように呟いた久左衛門の言は、今やまったく反対の意味で嘘になって来たわけだ。思いが現実から放れる喜びというものは、たしかに人にはあるものだ。恩を忘れる喜びを人に与えたものこそ、真に恩を与えたものの美しさだろう。間もなく私は東京へ戻り、忘恩の徒となり、そしてますます彼らに感謝することだろう。

 農家のものの働きを知るためには、ある特定の人物を定め、これにもっぱら視線を集中して見る方が良いように思う。私は清江の行動に気をつけているのだが、この婦人は一日中、休む暇もなく動いている。今は収穫前の農閑期だのに、清江はもう冬の準備の漬物に手をかけたり、醤油を作る用意の大豆を大鍋で煎《い》ったり、そうかと思うと草刈り、畠に肥料をやり、広い家中の拭き掃除をし、食事の用意、一家のものの溜った洗濯物、それに夜は遅くまで修繕物だ。自分の髪を梳《す》くのは夜中の三時半ごろで、それを終ると、竈《かまど》に焚きつけ、朝食の仕度、見ていると眠る暇は三時間か多くて四時間である。驚くべき労働だ。
「少し遊びなさいよ。」
 と私は冗談を云って茶を出すことがあるが、茶は嫌いだと清江はいう。農家のものの働きに今さら感心することが、おかしいことだと人はいう。定ったことだからだ。しかし、定ったことに感心し直さないようなら定ったことは腐る。よく働くことを当然だと思う心が非常な残酷心だと思い直さねば、生というものは感じることは出来ない。都会が農村から復讐を受けているといわれる現在、善いことは復讐を感じたその心の動揺であろう。不安、動揺、混乱は、まだ失われぬ都会人の初初しい徳義心の顕れだ。それにしても、私は眠い。蚤のために私は一日三時間より眠っていない。

 私たちペンを持つものの労働は遊ぶ形の労働だが、人はいまだにこれを労働と思わない。まことに遊ぶ形の労働なくして抽象はどこから起り得られるだろう。また、その抽象なくして、どこに近代の自由は育つ技術を得ることが出来るだろうか。私は感歎すべき農家の労働にときどき自分の労働を対立させて考えてみることがあるが、いや、自分の労働は彼らに負けてはいないと思うこともたまにはある。

 朝鮮のある作家に、ある日、文学の極北の観念として、私はマラルメの詩論の感想を洩したことがある。独立問題の喧しくなって来ていた折のことだ。
「マラルメは、たとえ全人類が滅んでもこの詩ただ一行残れば、人類は生きた甲斐がある、とそうひそかに思っていたそうですよ。それが象徴主義の立ち姿なんですからね、もし芸術を人間のそんな象徴と解したときに、君にとって独立ということは、あれははっきり政治ということになるでしょう。」
 朝鮮の作家は眼を耀かせて黙っていた。しかし、この作家はもう朝鮮へ去っている。

 日本の全部をあげて汗水たらして働いているのも、いつの日か、誰か一人の詩人に、ほんの一行の生きたしるしを書かしめるためかもしれない、と思うことは誤りだろうか。
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淡海のみゆふなみちどりながなけば心もしぬにいにしへ思ほゆ(人麿)
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 何と美しい一行の詩だろう。これを越した詩はかつて一行でもあっただろうか。たとえこのまま国が滅ぼうとも、これで生きた証拠になったと思われるものは、この他に何があるだろう。これに並ぶものに、
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荒海や佐渡によこたふ天の川(芭蕉)
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 今やこの詩は実にさみしく美しい。去年までとはこれ程も美しく違うものかと私は思う。

 こういうときふと自分のことを思うと、他人を見てどんなに感動しているときであろうとも、直ちに私は悲しみに襲われる。文士に憑きもののこの悲しさは、どんな山中にいようとも、どれほど人から物を貰おうとも、慰められることはさらにない。さみしさ、まさり来るばかりでただ日を送っているのみだ。何だか私には突き刺さっているものがある。
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愁ひつつ丘にのぼれば花茨(蕪村)
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 と誰も口誦むのは理由がある。この句は人と共に滅ぶものだ。耕し、愛し、眠り、食らうものらと共に滅んでゆくものでは、まだ美しさ以外のものではない。人の姿などかき消えた世界で、次ぎに来るものに異様な光りを放って謎を示す爪跡のような象徴を、がんと一つ残すもの。それはまだまだ日本には出ていない。人のいた限り、古代文字というものはどこかに少しはあったにちがいなかろうが。

 しかし、私は米のことを書こう。滅ぼうとしてもまだここに人人が喰い下ってやまぬ米のことを。どんなに人人が自身に嫌悪を感じようとも、まだ眼を放さず見詰めている米のことを。これは農村のことではない。谷から、川から、山襞《やまひだ》から、鬼気立ちのぼっている焔のことだ。私は地獄谷を書きたい。今ほどの地獄はまたとないときに、その焔の色も色別せず米を逐う人人の姿は、たしかに人が焔だからだ。自身の中から燃えるものの無くなるまで、火は火を映しあうだろう。

 九月――日
 雨だ。こんな日の雨天は、稲の花が結実しようとしている刻刻のころだから、朝夕が涼しく、日中がかッと暑くなくてはならぬものだ、と久左衛門が私にいう。もし今日のように雨天なら、実の粒が小さくて、一升五万粒を良とすべきところも、七万粒なくては一升にならぬ。これは不作だと。

 一粒の米を地に播くと三百粒の実をつける。一升五万粒を得るためには、百六十六粒の種子が必要となるわけだが、一反で二石の収穫を普通とするここでは、供出量を一反につき二石と命ぜられたとのことである。それなら来年度の種子米さえないわけだ。しかしながら、二石とり得られるのはすべての家からではない。一反につき一石七八斗の家が多い。良くて二石二三斗。それだと供出をするのに、どうしても無い家はある家から、不足の分二三斗を借りねばならず、そうして完納をすませた結果は、良くとれた家の米を無くしてしまい、現在のこの村の悲鳴となって来たのである。その上に約束の配給がないとすれば、日日自分の喰う米を借り歩くのも、どこから借りるかが問題だ。ところが、人手があって勉強をしたものの家は、二石五六斗も採れたのが中にはある。この家だけが供出もすませ、人にも貸し、なお二三斗を残して自分の生活を楽にしたのだが、今はこれをさえ人人は狙い始めた。この狙われているのが、別家の久左衛門だ。本家の参右衛門の方は借り歩き組の代表格で、貧農派はここの炉端を集会所にしている関係上、不平はいつもこの炉端の火の色を中心に起っている。
「もうじきに共産主義になるそうじや、そうなれば面白いぞ。」
 と、こういう声もときどき、誰か分らぬながら、この火の傍から聞えて来る。

 久左衛門の家へ集るものは、自作組で上流派だ。この家は酒の配給所をもかねているから、集る炉の中の火の色も、燃え方が参右衛門の家のとは違っている。ここは酒あり米ありの城砦だ。今は久左衛門の物小舎は、この上流組からも狙われているのである。酔い声が少しでもここから洩れて来ると、どこの炉端の鼻もすぐその方へひん曲る。
「ふん、どこへ匿してあるのかの。」
 と、参右衛門の方の集りは、いら立たしげだ。私はよく雨天のこんな所を目撃したが、そのときの男たちの眼の色は、米のときとは少し違って狂的だ。
「あの調子だと、朝から続けて飲んどるのう。」と一人がいう。黙り込んで聴き耳を立てていてから、また一人が、「ようあるこったのう。」とぶつりという。
 もううずうずしている別の一人が、自棄《やけ》に茶ばかり飲んでいる傍で、参右衛門は、煙管を炉縁へ叩きつけてばかりいる。酔い声が少し高まって聞えると、彼の顔は苦味走って青くなり、額の下で吊り上った眼尻にやにが溜る。不機嫌なときの参右衛門ほど露骨に不満を泛べる我ままな顔は少いであろう。しかし、これが一旦和らぐと、子供も匐いよりそうな温和な顔に変って来る。鬼瓦と仏顔が一つの相の中で揉みあっている彼の表情の底には、貞任や、山伏や、親王や、山賊やが雑然とあぐらをかいて鎮座した、西羽黒権現の何ものかを残している。ここは古戦場だが、彼の表情も、争われず霊魂入り交った古戦場だ。

 九月――日
 十米の眼前に雨が降りつつもこちらは照り輝いている空。山から幕のように張り辷って来る驟雨。稲の穂の波波うち伏した幾段階。――釣の一団が竿を揃え、山越えに行く足なみ。その尖がった竿の先がぶるぶる震えつつ日にあたっている。白く粉をふいた青竹の節節の間を、ゆれ過ぎてゆく釣竿の一団の中に、私の子供も一人混っている。この子はいま釣に夢中だが、ほとんど釣れたことがないに拘らず、餌の海老ばかり買っては盗られている。魚が盗るのか、人が盗るのか、答えはいたって不明瞭なので、ある夜、私はこれを煮て食べてみると、これは磯の魚よりはるかに美味だった。以来ときどき盗人になるのはこの私だ。野菜が少なかろうと、海で山越しの魚がなかろうと、もう恐るるに足りない。実際、これさえあれば――私は全くこんなことに興奮するほど、日日の生活が不安だったのだろうか。しかし、たしかに、釣餌の小海老を発見してからは私は勇気が出て来た。手で受ける半透明の海老一寸のこの長さは、焔を鎮める小仏に似て見える。何と私はこのごろ汎神論的に物が仏と映るのだろう。日本の思想はいつもここで停止して来たようだ。

 今、この村にとってもっとも必要なものはだい一に米、以外には塩と布切れだ。清江が今朝早くから家を出たまま、一度も姿を見せぬのは、隣村の早米の田を持つある家へ、稲刈に行っているからだと、妻は云った。
「もう稲刈か。」と私はおどろいて訊ねた。
 参右衛門たちには食べる米がないので、自分の家の収穫時まで喰いつなぐ米を、早米の田を持つ家の稲を刈り、そしてそこから借りるのだとの事である。なるほど、そういう自由な借米法があれば、周章《あわ》てずともすむわけだと思った。無理な供出の不足を補うために、こうして他人の田の厄介になりつつある農家は非常に多いそうだが、それはとにかく、今年の米は早くも田から出て来たのだ。敗戦の底から地のいのちの早や噴き湧いて来ている目前の田畑が、無言のどよめきを揚げ、互いに呼びあうように見える。まだ去年までなかったものが生れているのだ。のっそりと※[#「口+愛」、第3水準1-15-23]《おくび》をしたり、眼をぱちくりさせたり、鬣《たてがみ》を振ってみたり、――それにもう刈りとられて仕舞うその早さ。あくなき人の残酷さ。
 
 参右衛門は脚に瘍が出来て一晩眠れずに苦しみ通し、今日は遠方まで医者通いだ。久左衛門は、茄子畑へ明礬《みょうばん》を撒けば来年も連作が出来るので、茄子にしようか、馬鈴薯にしようかと朝から迷っている風だ。
 この夜、砂糖二十匁ずつ配給。夕方の六時から十一時まで、皆を並ばせた前で、計ってみたり減らしてみたり、最後に五百匁が足りなくなると、また皆のを取り上げ、計り換えて減らしたり。村へ甘さ一滴落ちて来るとこんなものだ。

 九月――日
 馬の足跡にしみ込んだ雨水に浮雲の映っている泥路、この泥路を一里、大豆の配給を受けに妻と私と二人で行く。配給所へ着いてもまだ肝心の豆が着いていない。群衆は居眠りして待っている。すると、そのとき野末の遠い泥濘の真ん中で、大豆を積んで来た牛車が立往生して動かないのが見えた。「あれだあれだ。」という声声にみな眼を醒して望む。しかし牛は突いても打っても動く様子がない。しびれを切らした群衆は、牛が動いては停るたびに、いら立ち騒ぎ、手んでに牛をぶっ叩く真似をする。牛車はちょっと動いたかと思うと、またすぐ停る。「えーい、もう、腹が立つう。」と叫ぶ農婦があった。「歯がいいッ。」と、足をばたばたさせるもんぺがある。自転車で飛び出すもの。空腹で帰って行くもの。皆ぷんぷん膨れ返って待っている中を、牛はのたりのたりと、至極ゆっくり動いてくる。前後待つこと三時間、ようやく私と妻は五升の豆を袋に入れ、また一里の泥路を帰って来た。この路は眼を遮ぎるもののない真直ぐな路のため、歩けど歩けど縮らぬ。十時に家を出て帰り着いたのが三時半だ。昨日夕食を摂ってからまだ私は何も食べていない空腹に、ひどく砂の混った屑豆は怨めしい。それに、もう虫の奴がさきに半分も喰ってしまっている。

 久左衛門の長男の嫁は無口でよく働く。昨旦二里ほどある実家の秋祭に帰ったが、一晩宿りで百合根、もち米、あずき、あられ、とち餅、白餅などを背負いこんで戻って来ると、こっそり裏口から持って来てくれた。妻はほくほくして礼を云うついでに、紙包を渡そうとしたが、どうしても受けとらない。黙って跣足で来て、どさりと縁側へ転がして、また黙ってすたすた帰っていった。いつも頬がぼっと赭く、円顔で、吉祥天のような胸のふくらみ、瑞瑞しい新鮮な足首だ。
 参右衛門の家の長男の嫁は、良人が出征のため夜だけは寝に来るが、昼間は朝から実家へ帰りきりである。清江が嫁の実家へ行ってみると、誰もいない家の中で、嫁ひとり腹痛で七転八倒している最中だとの事である。嫁競争、息子競争の本家、別家を通じて、今のところ第一等を占めつづけているのは白痴の天作であろう。

 九月――日
 青柿いよいよ膨れてくる。雨滴に打たれて絶えず葉を震わせている羊歯《しだ》。水かさを増した川で鮒釣りする蓑姿。山鳩のホーホーと鳴く声。板の間に転っている茄子に映った昼間の電灯。森の中から荷馬車で帰ってゆく疎開者の荷が見える。雨の庭石の上を飛ぶ蛙。鯉が背を半ばもっこり水面から擡《もた》げたまま、雨の波紋の中を泳ぎ廻っている――
 千年の古さを保った貴品ある面面の石塊。どの屋根の上にも五つ六つの千木を打ち違え、それを泛き上らせた霧雨がぼけ靡《なび》いて竹林に籠っている。木を挽く音。

 九月――日
 雨はやまない。この雨で稲は打撃だ。ここで一時間でも良いさっと照らないと、稲は実にならず、茎ばかり肥る憂いあり。困ったことだという憂色が全村に満ちている。
 主婦の清江は板の間の入口で、明るみの方を向いて坐り、田螺《たにし》を針でほぜくっている。参右衛門は朝から憂鬱そうに寝室に入って寝てしまう。山鳩のホッホー、ホッホーと鳴く声に、牛がまた丁度、空襲のサイレンと同じ高まりで鳴きつづける。
 午後――雨に濡れた青紫蘇をいっぱいに積み上げた中で、清江はその葉を一枚ずつむしりとる。芳香があたりに漂っていて、窓から射すうす明りに葉は濡れ光っている。紫蘇の青さが雨滴を板の間にしみ拡げてゆく夕暮、雨蛙が鳴き、笊《ざる》につもった紫蘇の実の重い湿りにあたりが洗われ、匂いつつ夜になる。ホッホー、ホッホーと、山鳩のまだ鳴く雨だ。穏かでない、重苦しい夜の雨――

 九月――日
 どこの農家もますます米が無くなって来た様子だ。馬鈴薯と南瓜で食べつなぐ家が多くなる。こんなとき芋を売る家は、米があるからだとすぐ分る。去年の供出に際して、持っているのに無い顔を装ったものの、露われてゆくのも今だ。米が無いということは、一種の誇りになり変って来ているのも今だ、各自の米を借り歩く不平貌に、ある物まで伏せてみせねばならぬ、急がわしげな歩調の悩みもある。明らかに有ることの分っている家へ集まる恨みから、超然とはしがたい苦しさや、いや、たしかに自分の家だけは無いという堅苦しい表情など、それらが雨の中をさ迷い歩く暇の間も、村の共同精米所だけは、どこにどれだけあるか、無いかを睥《にら》んだ静けさで、ひっそりと戸を閉めつづけている無気味さだ。

 九月――日
 早朝の空を見上げ、雲間から晴れの徴候を見てとると、いつも黙っている清江もひと声、
「もやもやしてるのう。天気だ。」
 と云う。しかし、それも間もなくかき曇って来る。
 二三日前からの悪天とともに続いて来ている不平が、村をかく苦しみに落した実行組合長の兵衛門に対い、集中して来た。参右衛門の家の炉端に集った貧農組も、口口に彼に悪態をついている。清江の実家の攻撃されているこの苦境を切り抜けようとする参右衛門の苦策は、誰より先に、自分自身が彼を攻撃することだ。妻と村とに絞めつけられた脂肪が、赭黒く顔に滲み出し、髭も伸び放題だ。
「もう死ぬ。もう死ぬ。」
 そんな声も、米の無い借り歩き組の主婦の口から洩れて来る。久左衛門の門口や裏口は、こんな主婦たちに攻められ通しだが、今はもう誇張ではない、雨の中の呻《うめ》きになった「もう死ぬ。」だ。

 夜中から暴風になる気配がつよく、ざわめく空の怪しげな生ぬるさ、べとついた夜風が部屋の底を匐っている。眠ってしまって誰もいない炉灰の中から、埋めてある薪がまたゆらゆらとひとり燃え始めた。起きているのはその焔ばかりだ。広い仏壇の間では、宵に清江の摘み終えた紫蘇の葉が、縮れた窪みにまだ水気を溜めて青青と匂っている。
 私は眠れぬので幾度も起きて雨雲を見た。ますます暗くなるばかりの雲の迅さ、黒い速度のような鈍い唸《うな》りをあげて通る風に背を向け、炉端にひとり坐っていると、いつか読んだ、「生《な》まのままの真は、偽《に》せよりも偽せだ。」というヴァレリイの言葉がふと泛んで来た。何という激しい爆裂弾だろうか。いよいよ来るぞと私は思った。何が来るのか分らぬながら、とにかく来ると思って、焔を見ながら坐っていた。

 生まのままの真は偽せよりも偽せだ。(ヴァレリイ)――この言葉はたしかに高級な真実である。しかし、この高級さに達するためには、どれほど多くの嘘を僕らは云い、また、多くの人の真実らしいその嘘を、真実と思わねばならぬか計り知れぬ。それにしても、ヴァレリイは死んだと聞く。真偽は分らぬが、風の便りだ。嘘だと良いが。

 九月――日
 暴風で竹林が叫び、杉木立が風穴をほって捻じまがっている。山肌が裏葉をひんめくらせて右に左に揺れ動き、密雲の垂れ込んだ平野の稲は最後の叫びをあげている。頭が重く痛い。牛のもうもう鳴きつづけているのが警笛のようだ。炉の中では、焚火が灰の上を匐い廻って鍋が煮えない。開けた雨戸をまた閉める音。喚《わめ》き狂う風で、雨も吹っち切れて戸にあたらない。
 農村だのにどこもかしこも米がなくなっていて、もう死ぬ、もう死ぬと、露骨にそういう声声の聞えているところへこの雨だ。私のいる家の亭主は長男の嫁の家へ米借りに出かけて行く。労働の出来ないこんな悪日を利用して、主婦の清江は味噌取りに駅まで行き、一日がかりでその傍の、仏の口というものを聞きに行く。春秋二度、毎年ある巫女から、自分の思いためらう心配事について聞き質しに行くのだ。この清江の心ひそかな心配事というのは、およそ私に想像はついているが、帰ればそっと妻に訊《き》かせてみたい。私には清江も云わないだろうから。

 他人の心の奥底の心配ごとをこっそり覗きたいと思う悪心は、この主婦の清江に限って私は働かせてみたいのだ。この主婦の思い願うものは驚くほど質実単純なことにちがいないのだが、その心の底から、私は鎌倉時代の女性の心をまともに感じてみたいのだ。ここはすべてが鎌倉時代とは変っていない。風俗、習慣、制度、言語、建築、等等さえも――ただ変っているのは、精米所と電灯があるぐらいのことだろう。今どきにしてはまことに珍らしい村だ。
 暴風が鎮って来ると、真っ先に活動し始めたのは蝉だ。それがまだ羽根の具合が悪いのかぴたりと停ると、別のがずっと高い旋律で鳴き出した。そのうち、あちこちからまた蝉の声が満ちて来て、すっかり風雨もやんだ。池は濁っていて鯉が水面に浮いている。しかし、それもしばらくだ。午後からの暴風は、東京地方から富山県下を廻り、日本海に添ってこの庄内地方へも廻って来たと、ラヂオは報じている。

 屋根の煙抜きの吹き飛ぶ家。電線がふっ切れ、立木が根から抜け倒れる。乱舞する木の葉、枝ごとち切れ飛ぶ青柿。真垣は捻じ倒され、ごうごうと鳴りつづける森林。実をつけた桐が倒れる。池の水面は青落葉でいっぱいになって、鯉も見えない。

 いよいよ今年は不作だ。この決定的な暴風の中でまた米の問題が色濃くなる。朝から米を借り歩いている農夫らが、私のいる参右衛門の炉端へ、木の葉のように落ち溜って来る。雨戸を閉じきったうす暗い部屋の中で、また毎日のようにいつもの不平をぶつぶつと呟きつづける。どこそこは米が有るのに、無いような顔をして借り歩いているとか、いや、あそこは事実ないと弁解してやるもの。しかし、あ奴は米がないと云ってるくせに、豆の配給となると、米より豆の方が良いといって、第一番に跳んで行くではないかと怪しむもの。いや、あそこへ米を借りに行ったら、兄だのに二升の米さえ弟に渡さなかったという。それで参右衛門は気の毒がって、自分がいま嫁の実家から借りて来たばかりの一斗分を、二升それに貸してやる。
「このごろのようなことは、この村始まってからないことじゃ、良い語り草になるじゃろう。」と一人がいう。
 雨戸や板戸へ敲《たた》きつけられる木の枝。樹木のめりめり倒れる音。鳴きつづける山鳩の憂鬱な声。右往左往して揺れ暴れる稲の穂波。割れ裂けるガラス窓。水面の青葉をひっ冠ったまま跳ね上る鯉。

 そこへ私にここ参右衛門の一室を世話してくれた別家の久左衛門が這入ってくる。この老人の完納者は、朝から米を借りにくるものらを断りつづけ、疲れはてた様子で、いつもより早口になっている。声も高い。
「死ぬ、死ぬ、いうて、朝からもう、来るわ来るわ。米を貸してやるのは人情だ。けれども、毎年貸してばかりで、借りる方は、借りるのを当然だと思うて有難がりもしやしない。今年も貸してやるとなると、借りたものが助かって、貸したものが死ぬじゃないか。死ぬなら共倒れになりたいものじゃ。借りたものだけ助かって、おれだけ死ぬのはおれはいやだ。」
「それはそうだのう。」と一人がぼんやりした声でいう。
「もうこうなれば、誰も米がないということにするより仕様がない。あれがある、これがないといっていたんでは、始まらないじゃないか。あっちから貸せ、こっちから貸せでは、もうおれの米だって、いくらもないわ。新米が出たら返すというが、古米を貸して新米で返されたんじゃ、一升五合と一升二合との替えことで、話にもなるまい。古米は古米で返して貰わねば、ま尺に合わぬわ。」
 なるほど、新米一升と古米一升では、炊き増えする古米を貸したものの方が、はるかに損をするということ。これは私には分らなかった。外から観ていただけでは分らぬ多くのことが、山積している日日だ。
「だいいち、実行組合長がこんなことは分っていた筈だろ。」
 と参右衛門がいう。この組合長は彼の妻の実家だ。妻の清江を守る意味でも、参右衛門から先だって大きな声で攻めねばならぬ義理があるのだ。
「組合長が米を出せ出せというて、みんな出させたからには、責任を負う覚悟があっていうべきだ。それに自分が借りられると、米がないから出せぬというのは、実行が伴なわぬじゃないか。自分の食うべきものまでやってこそ、人にも出せといえるのだ。自分だけが損をせず、村に完納させた名誉だけを取ろうとするのは、虫が良すぎるというものだ。誰もこの村で食えないものは、一人もなかった。」
「そうだ、そんな貧乏なものはいなかった。」とまた一人がいう。
「それならば、自分だけ損をしないように工夫するのは不法というものじゃ。人に損をさすなら、自分もそれだけ損するが良いのじゃ。」
 そこへ、主婦の清江が仏の口を聞きに行って帰って来る。また実家の組合長が矢の表面に立たされていると感じたか、炉の傍へは近よらない。

 農家のものらは、少ない言葉で抜きさしならぬ理窟をいう。自分の領分以外は世界のない綿密さだ。遠い過去からの集団の結集した総能力の中へ埋没した訓練で、自分の手がけた土地の実状に関しては、厳密な設定と等しい計算力を持っている。この頭の良さは、小さな米粒の点と、田の線からなる幾何学とをせずにはいられぬ代代の習慣により、自然に研ぎ磨かれて来ているためであろう。農家を愚鈍と思うものは、ここの言葉の不必要さを知らずに愚鈍としてすます、習慣の誤りだ。空想が少しもなく、天候の示す方向に対して実証を重んじ、土壌の化学と種子の選定以外にはあまり表情を動かさない着実さが、心理の隅隅にまで行きわたっている。まことに言葉以上の記号で生活している最上級の音楽形式がここにある。これを泥臭とばかりに見ていた自然主義は、自身の眼が根柢に於てあまりに自然主義だったというべきだ。

 都会人は農家をけちんぼだと、誰も云って来た習慣があるが、それも誤りだ。都会人の握って来た一銭と、農家のものの握った一銭とは、金銭の通用額は同じだとしても、質が違っている。ここのは真実を実証した肉体の機械のごとき一銭で、投機心から得た混濁したものは何もない。おそらく、都会人の一円と農家の一銭とを同額としてみて、初めて、ようやぐ金銭に対する心遣いに均衡ある判断が下せるかもしれない。農家にとって、金銭は天候の甘露であり、幾何学の重みであり、筋肉に咲いた花であり、祭壇に飾る神聖な象徴物であろう。あるいは、神かもしれない。これを粗末に扱えるものではなく、けちんぼにならざるを得ぬ崇高なものをここに見ぬ限り、農村論は実際は不可能だ。

 本家の参右衛門の妻の清江が、別家の久左衛門をひそかに攻撃する理由は、百姓のくせに笹巻などを売って商売をするから悪いという。商売して金銭を貯めるなら誰でも溜める。それで威張られては農村のしきたりを紊《みだ》すだけだと、暗に憤りを私の妻にほのめかすことがある。また、清江の実家の組合長がみなの攻撃を受けているのに対しても、みなが組合長になれなれというからなったので、厭だというのを無理にしたのだと弁護する。しかし、今は、村のものは、誰かを攻撃していなければ、じっとしていられないときである。これはどこでも同じであろう。正、不正などということではない。夫婦喧嘩一つでさえも、眼に見えたほんの些細な、悪結果の一つ手前の原因だけを追窮して、事足れりとするものだ。やっつけられる番のものは、現在では、人の気持ちをそれだけ救っていることになっているのだ。私は組合長の人柄について知るところは少しもないが、おそらく悪い人ではないだろう。あるいは、この村では一番豪い人物かもしれないと想像されるふしも感じる。一度調査してみよう。

 仏の口を聞きに行った清江の心中というのを妻に聞かせた。清江の長男のこと、音信のまったくない樺太に出征中の長男は、八月に負傷して今病院に入院中だが、十月になれば帰って来るという。次ぎに、先日預り主に返した小牛の病気について、――この小牛は糞が牛らしくなく固くて、胃腸が駄目だという。このようなことを巫女の口を通した言葉として清江が言うとき、それを傍で聞いている末の子供の十二になるのが、恐がって、ぴったり清江の膝に喰っついたまま離れない。電灯の消えた部屋は真暗で、炉の火だけ明明と揺れている。

 九月――日
 暴風はすんだ。稲は倒れてしまったが、雨が風に吹き込んでいたために、穂に重みが加わり、頭をふかく垂れ下げて互いに刺さり込みあったその結果、実が風に擦り落されずに済んだ。これが風だけだと擦れあい激しく、実が地に落ちてしまって去年のようになるという。しかし、稲の代りに野菜類の実がやられた。稲さえ無事なら先ず今年の米は不作としても、危機だけは切りぬけられたというものだ。

 暴風の後は上天気だ。米のない連中は早稲の刈り入れにかかっている。すでに刈り入れをすませてあった早稲の分は、充分だったといわれなくとも、何とか米にはなる程度に乾いている。少しの量だが、新米の出るまでの喰いつなぎには役立つほどだ。これで村から、死ぬ死ぬという声だけは聞かずともすむ。
「去年よりはまだましだ、去年は風ばかしだったでのう。」
 と、空を見上げ田を眺めて洩す明るい笑顔が見える。次ぎの雨の来ない今のうちに刈り取らねば――
「ああ、今年は早稲の勝ちだ。暴風にあわずにすんだのは早稲だけだ。」
 とそういうものもある。解除の軍隊の眠むそうな顔いっぱい満たした汽車が、ひれ伏した稲穂の中を通ってゆく。

 紫苑の花、暴風で吹きち切れた柿の葉の間から、実が眼立って顕れてくる。つらなる山脈のうす水色の美しさ。
「農業の労働はたいへんな労働だが、始終やっているものには、そう特にむずかしいものではないのう。そんでも、やったことのないものには、これは、とても出来ることではないね。」と久左衛門がいう。
 一冊の本さえ満足にある家は少ない。読みたいと思うよりも、そんな興味を感じる閑はないのだ。そのくせ細かい話も、話し方ではよく通じる。私はあるとき、これで村に一台新しい農具の機械が必要だという場合、どんなことに使う機械が一番必要かと訊ねたことがあるが、すると六十八にもなるこの無学な久左衛門は、
「それは検討せねばならぬことだのう。」
 と、言って暫く考え込んだ。検討という言葉は、辞苑を引いても書いてない新しい言葉だ。またこの老農は、社会上の出来事にもなかなか興味をもっていて、あるとき、
「おれは幾ら聞いても分らんことが一つあるが、労農党と社会党ということだ。あれだけは、どこがどう違うのか、さっぱり分らん。」と云ったことがある。私もこの二つの違いを説明するのに骨折れた。

 このあたりの農夫は、自分たちを労働者だとは思ってはいない。むしろ、米を製造する製作者で、家主という大将だと思っている。それは小作人でもそうだ。ただ村には共有の山林があって、先祖伝来のこれが財産だが、共同の山林であるから、その所有権を有っている先祖伝来派は利益の別け前に預るが、分家だけは除外されて来ているために、村内の同じ株内でも、母屋と分家との二派の対立が生じている。殊に村外から入って来た別家の久左衛門などは、この限りに非ずである。分家派たちは、村の共同事業のすべてには同じように金を出させられ、山林からの収入の恩恵だけは別というのが、話が分らぬという不平がある。実行組合長は、この点に対しても、別家派の久左衛門と対立し、先祖伝来派の旗頭で、随って本家の参右衛門と共通の権威を主張して譲らない。久左衛門が、田畑や山林で頭を抑えて来るこの強敵に対して、力を養うためには、も早や金銭という現金の所有でたち対う以外に法もない。そこを清江のように、久左衛門の商才を攻撃するのは、やはり伝来派の嫉妬と見ても良いわけで、ここにも、新興勢力の擡頭を抑える無言の蔑視が、労農という神聖な姿を通してさえ流れている。

 一つの大事件がある。この村にとってのことだが、そうとばかりはいえないことだ。この村の釈迦堂に戒壇院という一室がある。これは近年建ったこの寺の別室で、檀家七十家の位牌ばかり並べる室だ。建築費は当然村から出したが、費用は一様ではない。そのため、各家の木牌を安置する場所を定めるのに、先祖の古い順序に随うというわけにはいかなくなった。意見は、各家の出費の額に応じて順位を定めねば落ちつかなくなり、入札式を採用して、各自の献納額を紙に書かせ、他人には分らぬよう厳封のまま納めることにした。村にとっては非常な大事件だ。先祖の位置が金銭で決定されることであるから、ひそかに、出すべき基底の額を相談し合う寄りあいが、あちこちで行われた。このときも久左衛門は、後のもつれを明察して、誰より真先きに、一人勝手に百円を納めた。村の一同は、まだごてごてと一円から十円の間を、上ったり下ったりしているときである。いずれにしても、久左衛門には先祖がなく、自分が新しい先祖になる場合だ。どこの先祖をも追い越して、新興の意気を見せねば、生きて来た自分の努力の甲斐がない。
 蓋を開けた結果は、久左衛門が断然一等になっていた。生きながら彼はいま戒壇院を睥睨《へいげい》しているわけである。ここのこの木牌室ほど県下で立派なものはないということだが、私も一度見た。金色|燦爛《さんらん》たる部屋である。

 私のいる家の参右衛門は、本来ならば戒壇院の最高段に位置する家柄である。しかし、彼一代に酒癖のため貧農になり下った結果は、まんまと別家の久左衛門に位置をとって替られ、危く死者の位置まで落しかけたが、村の一同の納金五円が普通のところを、彼は十円出すと云い張り、ようやく中壇で踏みとまらせた。
「いや早や、あのときは大騒動だったのう。」
 と参右衛門が私に云ったりした。
 農家がせっせと汗水たらして働き通す生涯の労働の大部分は、戒壇院の位牌の位置を現在のまま維持するためか、もしくは、自分の代に前より一段とも上にあげたいがためといって良い。仏の前で、先祖の位置を辱しめるということは、この山川の恵みを落すことになるという、伝来の観念は、農家の根柢から脱けるものではない。無限の労働力は、遠く死者から吹きのぼって来ている力で、これを断ち切ると、みな彼らは新しい先祖となり、都会工場の労働者になることだろう。神仏はもう彼らから逃げ、頭を占めていくものは唯物論の体系となって、再び農村の戒壇院へ逆流し、これを破壊していく。単純のことであるだけに複雑な難問、これ以上のことは今の問題中めったにあるまい。

 日本の労働力には、周知のごとく仏から動いて来る労働力と、科学から揺れて来るものとの二種類が、歴史と自然の関係のように攻め合っている。フランス革命が祭壇から神を引き摺り落して、代りにデカルトの知性を祭壇に祭りあげたことから端を発したような、何かそれに似たものが、こんな所にも這入っている。工場で働いたものらは、農業に従事することはもう出来ない歎きが、この村のどこの隅にもあって、久左衛門の次男の二十三歳になる優秀工なども、農事を手伝おうと努めているとはいえ、力はあり余っているに拘らず、気息|奄奄《えんえん》と動いている。知性と感性の相対は知識階級の個人の中のみに限ったことではなく、今やわが国の山川の襞の中にもふかく浸み込みつつある状態だ。ここでも、デカルトとパスカルの抗争したものが、異形のまま、片鱗人知れず音を立てている。

 集団労働というものがあって、各学校の生徒の団体が、田植、稲刈に農家の田畠の中へ這入っていく。たしかに、このため農家の労働力は援助されてはいるが、これは農村機械化の初めである。もし誰か、ふと頭を上げて考えれば、もう戒壇院に火の燃え移っていることを見るだろう。しかし、それぞれ人間は年をとっていく。誰も若さをそのまま持ちつづけていることは出来ない。とすれば、米を喰いつづけて生きた標印《しるし》を、木牌一つに残したく思う祈願は人人から消えぬだろう。人に生きた標印をただ一つ許すことぐらいの寛大さは、いかなる非情な主知主義者といえども持ち合せているにちがいないその感情――感情をパスカルは神の恩寵物だという。そして、知性よりもこれを上段に置くのであってみれば、人に死のある限りはこの感情も消え失せまい。生ある限り知は消えぬごとくにだ。しかし、これらはすべて自分の緊急な問題に還って来るところ、農村の問題であるよりも個性の中の設問だろう。

 私は毎日、農村研究をしているのだが、実は、私の目的はやはり人間研究をしているのだ。毎日毎日よく働く農夫に混り、働いても見ずして、農民研究は不可能である。私が働かないという弱点をもって眺め暮していることは、しかし、一つの大きな良い結果を私に齎《もたら》している。それは私はこのため農民を尊敬しているということだ。この尊敬を自分から失わない工夫をするには、先ず彼らと共に働かない方が良い。正当な批判というものはあり得ないというある種の公理が、公理らしくもある以上、これもそれ故に間違っているかもしれないが、一応先ずそれはそれとしてみても、比較的正しさに近づく方法としてでも、傍観の徳ということは有り得るのである。何も傍観することを徳として、自分の味方たらしめようとするわけではない。しかし、人の労働する真ん中で、一人遊んでいる心というものは、誰からも攻撃せられるにちがいない立場であるだけに、少しでも味方を得たいものである。いったい、誰を味方に引き入れれば良いのであろうと考えると、やはり自分よりないものだ。そこで私は自分を私の味方とする。私はこれがいつでも嫌いなのだが、嫌いな奴まで手馴《てな》ずける工夫だって、これで容易ならざる努力がいるのである。傍観の苦しさには、働いているものには分ろう筈がない徳義心がここに必要で、私の愉しみはここから何か少しずつ芽の出てくるのを感じ、それの伸びるのを育て眺める愉しみだ。それにしても、眼に見える現象界のことなど、米を喰いあったり、引っ張ったりすることなどには、もう幾らか私も退屈した。これを疎かにする次第ではないが、ときどきうんざりするのは、これはどうした性癖の理由だろう。

 九月――日
 見ていると、農村は何もかもが習慣で動いている。考えることも、働くことも、人の悪口をいうことも。何か一つは習慣ならざることはないものかと見ているが、いまだに一つも私は発見することが出来ない。ただ一つ、米の値が十円に騰って来たこと、これには誰も驚愕置くところを知らずという表情だ。二十銭だったものが十円になったということは、も早や想像を絶したことなのだ。しかし、これも、やがて習慣になるだろう。これが習慣になれば、他の一切の現象界の習慣は顛覆《てんぷく》していく。あるいは、農民の心の中の習慣は、これで何もかも顛覆しているのかもしれない。物の値段が百五十倍も騰って来ていて、心の値段がむかしの二十銭で踏みとまっていられるという強さは、人には赦されているかどうか。何ぜかというと、人にはそんな習慣がないからだ。

 まことに考えるということは面白い。毎日毎日しているに拘らず、一つ習慣を破った出来事に突きあたると、忽《たちま》ち混乱する考えというもの――習慣になった考えで、習慣ならざることについて考える狼狽さ、これが今の私や人人に起っていて、そのまま有耶無耶に捨て去り、またどこかへかき消えていこうとしている現在というもの。なかなか答案は難儀になった。百五十倍の難儀さだが、しかし、まアせいぜい二十倍ぐらいの難儀さとしてすませて置きたい頭の性格。――しかも、事実は百五十倍の複雑さで展開しているという場合に、人人はいったいいかなることを仕様というのだろうか。

 とにかく、人が休息したくてたまらぬときに、そこを見込んで働きたくて仕方のないのがいることも事実である。東京からの通信では、米一升が六十円になったという。誰がどこで幾らで売ったか、いつ、どこへ、幾らで買いに来たか、という噂について、日夜耳を聳立《そばだ》てている農民に、こんな東京の話は聞かされたものではない。十円でびっくりしているものらに、六十円の真相を告げては、――それも、ただほんの噂だけで米の値がそれだけ跳ねあがる喜びに、呆然としているときだ。どこでも、人の集りの中では、話はひそひそ話ばかりである。私らの足音がすると、ぴたりと話は停り炉の火ばかりめらめら燃えている。草の中に跼み込み、何か呟きあっている二人ものがあるかと思うと、汚ならしい笑顔で、薄黄色い歯を出して外っ方を向く。

 稲刈りが始まったので、村の農家から狙われていた別家久左衛門の米倉も、ようやく視線を解かれた形だが、ほっとする暇もなく、今度は野菜専門に作っていた遠方の村の親戚から狙われ出した。暴風で野菜がことごとく※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《も》ぎ落された親戚たちは、米と交換する材料が無くなって来たのである。それに、復員で若ものの帰って来た漁村の利枝(久左衛門の義姉)の家が、米不足を来している。彼女にとっては妹の、この久左衛門の米倉を見詰めない筈はない。おまけに、私もここの米倉には一方ならぬ魅力を感じているのだ。私の攻め道具は衣類だが、利枝の家は魚でだ。またこの村一番の大地主の弥兵衛の家が、金はいくらでも出すから米をくれ、と久左衛門に云って来ている。
「はははは、おれんちに、物があるのは、金が欲しゅうないからじゃ。」
 と、久左衛門は頭の良いことを云って私を笑わせた。頭の使い方を知っている老人だ。

 九月――日
 焼け出されて新潟の水原在の実家に疎開していた石塚友二君から葉書が来る。発信地は福島の郡山からだが、川端康成から鎌倉文庫へ入社の奨めをうけ、目前明らむ思いで今汽車に乗っているところとある。胸に灯火をかかげ、鎌倉へ向って進行していく夜汽車が眼に泛ぶ。だんだん灯の点いていく希望ほど美しいものはない。暗黒の運命の底にも駅駅があり、そこを通過して縫いすすむ夜汽車の窓よ。元気を失うことなかれ。

 どんなことが世の中に起ろうとも、例えば、現在のように世界がひっくり返ろうと、何の痛痒も感じない人物がいるものだ。農家の中には、ときどきそのようなものもある。まるで働く場所そのものの田畑以外は、世界は彼らにとって幽霊のようなものだ。いや、むしろ、日本が敗けたがために彼らは儲けているという苦しみと喜び。しかし、それとはまったく別に、敗戦を喜ぶ苦痛もあるにはある。そして、それらの心が喜びを抱いて現れて来つつあるということの苦しい裏には、人間よりも、人類を愛することだと思い得られる、ある不可思議な未来に対する論法をひっ下げていることだ。今のところ土産はまだ論法であって、人間ではない。世界をあげての人間性の復活に際して、人間性を消滅させたこの人類論法の袋の中から、まだ幾多の土産物が続続とくり拡げられてくることだろう。それが善いか悪しいかは、残念なことにまだ私には分らない。ただ私に分ることは、何となく残念なことだけだ。

 九月――日
 現在のわが国の文学者は、自分の心のどの部分で外界と繋がっているのであろうかということ。自分らは日本人なりという定義と、自分らは東洋人なりという定義と、自分らは世界人なりという定義と、自分らは敗戦国なりという定義と、これらの四種の定義が出されている。そして、その中の一つを選定してそれぞれ幾何学をしなければならぬという場合が起れば、文学者の心はどの定義を選ぶかという問題だ。

 勿論、文学は幾何学ではない。それなら、定義は無限に初めへ逆のぼって、文学とは定義そのものだと云わねばなるまい。「ポツダム宣言を承諾す。」という厳然明白な定義。この定義一つで日本全員の生命は救われたのだ。それぞれの幾何学は、ここから無数に展開して、われわれは民主主義国民なりという命題の証明にかからねばならぬとすれば、この際、証明するとは、その命題の意味する実行にかかることか、それとも、すでに国民の中に有るものを探求して明示することか、という二通の論証方法があるわけだが、しかし、それはともかく、人間は生活せねばならぬという条件の上で、これを開明する必要に迫られるとなると、過去や未来を考えても駄目だ。一応は現在を考えてみるということ、いつも生活の実質は現在にあるのだから、何よりも今を見ることが一番だ。今は、農民と労働者は王侯のごときものである。これに対して頭の上るものはない。すでに現在がかくのごとく民主主義に徹底しているときはまたとなかったが、ただ今は、これに統一を与える精神がないだけだ。みな誰も一番探しているものは、米と精神だのに、これを紊《みだ》しているのは金である。しかし、不思議なことに、米というものは、少し手に入ると、忽ち人はこれを忘れてしまうのが習慣だ。有っても無くてもどうでも良いものの一つの中で、長らく人間にとって一番どうでも良かったものは、米と神とだ。云い換えるなら、物と精神の二つの代表である。この二つを忘れて人間はどうなるか、というところまで来てみて、やっと米だけ、物だけが眼についた。今度は何んだって物さえあれば、追っかけ引っかけするうちに、物はなくなる。次ぎには精神。しかし、これだけはどこにあるのか今もって分らない。分らなくなると、一つの顔を悪いという。誰も彼もその一つの顔で血刀を拭こうとする。

 九月――日
 稲刈りがすすんでいる。海浜の村から老婆の利枝がやって来る。沖縄で戦死した末子の霊を呼び出してもらいに、例の仏の口を聞きに来たのだが、ついでに、妹の久左衛門の妻に米の相談にも来たのである。空の雲行を見上げながら、姉妹揃って仏の口のいる駅の方へ出かけて行く姿が見える。姉は七十、妹は六十一だ。妹の方は死んだ孫に会いたくて出かけて行くのだが、初盆以来、初めて孫に会えるのでいそいそとしている。秋空はよく晴れ、稲の穂が路の両側へ伏しなびき、遠山の重なる線がいのち毛で描かれた波のようだ。生きながら霊魂の歩くには適した美しい黄金色の耀く路一本を、間もなく自分が死ねば、こうして子供らも会いに来てくれるにちがいないと信じきった二人の姿だ。秋風が吹く。

 私は沼の周囲の路をひとり歩いてみる。今朝鶴岡まで早く出て行った妻が帰って来るところだ。汽車が遠くの稲の中を通り過ぎてから三十分もたっている。とすると、あの汽車に相違ない。半里もある駅からの野路を、向うから黒い一点の影がただ一つ動いて来る。多分あれだろうと見ながら距離を縮めて行くうち、向うもそうだろうと思う風で近よって来る。見わたす広い平野の中で、自分に食わせる食物をせっせと探してくれている一人の人間が、あれかと思う。無能な自分と一緒に生活したのが彼女の運のつきだ。向うも一人、こちらも一人でだんだん照れた表情がはっきりして来たとき、ちょうど木橋の上でばったり会った。
「そうだと思ったわ。ふふふ。」
 風呂敷の端から南瓜の肌をはみ出させて妻が笑う。川の水が二人の足下を流れている。二十年も前のある日、まだ結婚もしていなかったときのこと、こんなことが一度あったようにふと思ったが、どちらも焔に追いまくられ、もうひどく疲れている二人になった。

 九月――日
 燐光のように鋭く黄色に光る黒猫の眼。人のいない部屋の蝿の群り飛ぶ中でひっそりと鳴る柱時計。翳《かげ》ったり射したりする日光。格子の間から並べた南瓜の朱に射しこむ光線。風がぴたりと停まるたびに、炉にかかった薬鑵が妙に鳴り出しては沸いてくる。

 村では、ある家の稲の早い田を共同で借り、稲刈を共同でして、自分の田の稲刈までの食い量に当てるため、今日からそこでとれた米の精米にかかっている。連日の雨で膝まで泥に没する稲刈だが、夜など精米所の電光の下では、凛凛たる物具つけた武士のように勇みたった農夫らの勢揃いだ。どっかへ夜討ちに出かける前刻のような凄じい沈黙で並んでいる。一年一度の最高潮に達した緊張にちがいない。実に美しい姿で、一ぷくの煙草を美味そうに夜気の中へ吐き流している若ものの姿も見えた。

 十月――日
 農家の竈《かまど》にはどこのも少し新米が入った。これは炊き増えしないためでもあって、四人で一日二升五合で足りていた参右衛門の家では、新米になった今日から四升を少し超過して、まだ不足だとの事だ。
 朝夕はうす寒く、火鉢に炭火が要るようになったが、この村には薪ばかりで炭がどこにもなく、消炭ばかりだ。

 新米のみずみずしい重さ、しっとりと手に受けたときの湿り具合、蝋色のほの明るい光沢の底からぼっと曙がさして来る。たしかに新米のこの匂いには抒情がある。無限の歴史のうなりが波の音のように掌の上に乗りうつって来て、私は感傷的になるのだが。
「ああ、もう日本の米には生命力がなくなった。こん度の戦争は敗けだ。」
 と、そんなに呟いた玄米研究家が一人あった。日華事変の戦争の最中に、そんな予言をして山中へ隠れてしまった人だ。私はいまその人のことをふと思い出した。人間の天才は二十五で、誰も天才としての生命力は消えてしまうものだといわれている。米にもこれに似た天才力はあるのかもしれない。曙色をしている米の天才は消え失せたかもしれないが、努力の天才ということもまだ残っている。天才とは何ものでもない、愚者を建造してその中に棲むだけだと云った人もある。米もどうやら愚者を建造して来たばかりに近い悲しみをひそめている。そういえば涙の形をしているのも、いまは皮肉なことではない実相のようだ。
「今年の新米は、おれには嬉しいのか悲しいのか分らないね。これ見なさい。」
 私は傍へ来た妻に云って掌の上の新米を出した。
「でも、美しいわ、きらきらしていること、ほら、こんなにきらきらと。」
「もうこれで、生命力はないというのだからね。日本の米は。」
「桜沢さんね、あの方、どうしてらっしやるかしら。あたしもう一度お会いしてみたいわ。」
 妻は桜沢如一氏の愛読者で、一度講演も聴きに行ったこともあって、日本の敗北を予言したその人の存在が、今ごろ興味を呼び起して来たらしい様子である。私のところへ来る青年の中にも二人ばかり、桜沢氏のもとへ出入りしていたものもあったが、ある日、太平洋戦争になったころその中の一人のA君が来て云うには、
「今度の戦争はどうしても敗ける、米に出ていると、桜沢氏がいうのですよ。大変だと思って、私はもう蒼くなってしまった。どうしたら良いでしょう。本当でしょうかね。」
 私は答えなかった。米から判断した思想というものは窺い知れざる奥ぶかく物凄いものがある。幾千年も食いつづけて来た物の中から、未来の姿の何らかを読みとどけることも出来ぬ眼力というのは、何かもう不足なもののあることぐらい気が附くべきときだ。と、私は自分のことを思って黙っていた。しかし、気がついたところで仕方がない。後の祭りだ。
「勝とうと思うな。負けないように気をつけよ。」と云ったのは兼好法師だが、これは五百年も前のことだ。それにしても、このAという青年は、それ以来住所不定となって全国をふらふらさ迷うようになり、ときどき意外なところがら風のような葉書をぽつりとくれるようになったりした。

 外国から帰って来たとき、下関から上陸して、ずっと本州を汽車で縦断し、東京から上越線で新潟県を通過して、山形県の庄内平野へ這入って来たが、初めて私は、ああここが一番日本らしい風景だと思ったことがある。見渡して一望、稲ばかり植ったところは、ここ以外にどこにもなかったからだった。その他の土地の田畑には、稲田は広くつづいても中に種種雑多なものが眼についたが、穂波を揃えた稲ばかりというところはここだけだった。この平野の、羽前水沢駅という札の立った最初の寒駅に汽車が停車したとき、私は涙が流れんばかりに稲の穂波の美しさに感激して深呼吸をしたのを覚えている。ところが、私は今そこにいるのだ。あのときは何の縁もないところのこととて、よもやここに自分が身を沈めようとは思わなかったのに、まったく十年の後に行くところのなくなった私は、偶然こんなところへ吹きよせられようとは、これが私にとっての戦争の結果だった。そして、私は初めてここで新米を手に受けてみて、米はどこに沢山あろうともこれに代るものは、世界広しといえどもどこにもないのだと思った。
「もう生命力がないのかね、これが。――そんな馬鹿な。」
 つい私もそう云わざるを得なくなって、何となく立ち外へ出た。外では稲刈のまっ最中だ。精米所の開け放された戸口からは粉が吹き散って白くあたりの樹の幹で廻っている。

 十月――日
 ここから三里ばかり離れた京田という村で、代用教員をしている私の長男は、正教員が復員で帰って来たので解雇された。生徒たちは別れに、
「先生、東京へ帰るのか。もうちっといてくれエ。ぼた餅やるよう。」と云ったという。
 十九で人生の悲しさを知った長男は、鼻緒を切らした足駄で、真暗な泥路を夜遅く帰って来てから、初めて月給を貰い、すぐ馘《くび》になった渋い辛さの表現の仕様がないらしい。
「悲しいかい。やっぱり。」と私は訊ねて笑った。
「そうだね、生徒と別れるのは、何んだか悲しいなア。教員室はいやだけど。」
「ちょっと、月給袋を見せた。」
 羞《はずか》しがって隠していた状袋を私は開くと、巻いた袋の重い底がずるずる下へ垂れてきて、中からしかつめらしい紙幣が出て来た。七十円ばかり入っている。
「沢山あるんだね。なかなか。」
「そう、宿直手当もあるんだよ。月給だけだと三十五円だけど。」
 私は自分がある大学の教師をしていたとき、月給四十二円を貰った最初の日の貴重な瞬間のことを思い出した。あのときは、月給というものは金銭ではないと思ったが、長男の月給はなおさらだ。
「一回月給を貰って、忽ち馘とは、これはまた無常迅速なものだね。しかし、おれのときよりお前の方が多いから、豪いもんだ。」
 私は嬉しくなったので妻に参右衛門の仏壇へ状袋を上げてくれと頼んだ。
「あたしもそう思っていたんですのよ。でも、ここのは他家のお仏壇でしょう。かまわないかしら。」
「どこでも同じさ。」
 私はやはり死んだ父に最初の子供の月給は見せたくて、こんなときは誰もするようなことを、争われず自分もするものだなと思った。そのくせ自分が最初に貰ったときは、家に仏壇もあるのに帰途忽ち使ってしまったが、子供の月給となると、そうも簡単になりかねて、眼の向くところほくほくして来るのは、何とも知れぬ動物くさい喜びで気羞しいのは、これはまたどうしたことだろうか。
「お前は夜おそく毎日帰って来たからな。あの長い真暗な泥路よく帰れたもんだ。」
 私はそんなことは云わないが、どうも内心絶えずそう云っているようで、ふとまた自分の父のことも思い出したりした。私の父も表面さも冷淡くさく何事も色に出したことはなかったが、私の二十五歳のとき、「南北」という作品を私が初めて「人間」へ出してもらって父に送ってみると、京城でそれを読んだ父は、嬉しさのあまりその晩脳溢血でころりと死んだ。私の「南北」は発表後さんざんな悪評で、一度でぺちゃんと私は叩き落された。以来私にとって「人間」は人生喜劇の道場となり、いまだにここは鬼門だが、鬼こそ仏と思うようになったのは、それから二十年も後のことである。歳月のままの表情というものは涙でもなければ笑いでもない。
「お前その月給何に使うんだい。」と私は子供に訊ねた。
「僕これで東京へ帰るんだよ。早く帰って、ピアノ弾きたいなア。いいでしょう、さきに帰ったって。」
「うむ。」
「この間お小遣いもらったの、十円だけ返しとこうか。」
 何を云い出すやら。私はぽかんとして見ていると、
「だって僕、早く返しとかないと、使っちまうよ、一枚だけね。」
「まアまア、大変なことになったわね。」と妻は傍で聞きながらそう云って、仏壇からまた降ろして来た袋を子供に渡した。
「はい。十円。」
 子供は一枚出して私にくれてから、また残りを大切そうに服のボタンの間に押し込んだが、受けとってはみたものの、失敗った、私は一度も父へはそんなことをした覚えのないのが、今さら突然に悲しくなった。私の子供は何も知らずに今こんなことを私の前でしているのだが、知らずにしているということが、一番したことになっているのだ。私のは知りもしなければ、為もしなかった。これが一層痛く胸を打って来て、こ奴はおれよりも見どころのある奴だと私は思った。実際、私は論にもならぬことに感服しているらしい。とはいえ、父、子、孫、という三代には、自らそれ相当の行為の転調というものがあるものだ。人は三代より直接見ることは出来ないばかりか、それも五十にならねば分らぬことがいろいろある。年寄りじみたことながらも、これで年代の相違ということは年とともに私には面白くなって来る。
「ああ早く、ピアノ弾きたいなア。」
 と子供はそんなことを仰向きに倒れてまだ云っている。
「明日東京へ行ったらいい。」
「ほんと。嬉しいなア。ああ嬉し。」子供は蒲団を頭からひっ冠り、すぐまたぬッと頭を出すと、
「お母アさん、パパ東京へ明日行けって、いい、行っても?」まるでまだ子供だ。
 私の十九のときは、私もその年初めて東京へ出て来たのだが、父にはそれまでひと言も行きたい学校さえ話さず、父からも聞きもしなかった。そして出発の前の日母に、明日東京へ行きます、とただそれだけ私は云っただけで、何の反対もされず京都の山科から行李を一つ持って出てしまった。思うに私の父は私よりはるかに良い父であったばかりか、私の子供も子としての私よりは、子供らしい点では優っているように思う。

 十月――日
 足さきが冷えてくる。栗のいがはまだ柔かい。雨に濡れた薪の燃え悪《にく》く鍋の煮えの遅い日だ。野路の中の立話にも自家の田の出来の悪さを吹聴し合う嘘も混っていて、正直さは天候の加減で少しずつ違ってくるようだ。今日などこの雨だと架に掛った稲が腐ってくるおそれもある。照るかと思うと驟雨、激しく変る光と影。一分ごとに照ったり曇ったりで、蝿だけおびただしく群れている。

 しかし、ここに村民に嘘をつかしめるもので、天候にことよせしめる別のものがひそんでいる。元来からそんなに嘘をつかぬ人人が、嘘の表情をたたえるのだから、至って下手で、同情せざるを得ない原因というのは、いつもはもうある筈の米の供出量の割当の決定が、今年はいまだにないことだ。その無気味な沈黙に疑いの影が濃厚になり、防禦のまずい身ぶりがこのようになっている。とにかく、この村はどの村よりも真正直に第一番に立派な完納をして来たため、他の村村よりも米が無くなり大騒動をしている村だ。今年こそは何としても嘘をつかなければ、と思うのこそ当然な感情というべきだ。実際、私の見たところでは、この村はよほど稀な良い村で、善良という点では第一等の村にちがいないと思われるが、それでも幾らかの濁りのあるのを思うと、他の村落のことはおよそ想像してそんなに誤りはないだろう。私は日本でもっとも誇りとなるものの一つは農民だと思っているが、もしこれが悪くなればもう日本は駄目だといっても良い。
「不作不作というが、そんなに不作ですかね。どうもおかしいところがあると思うが。」と私は久左衛門に訊ねてみた。
「そうだのう。このへんはそんなでもないのう。」と彼は小さな声で云う。「新聞が不作不作と書きたてるので、米が騰る。黙っておれば良いのにのう。」
「しかし、村にとってはその方が良いわけだな、僕らには困るが。」
「はははは、それはそうじゃ。」
 こんな露骨な話の出来るようになったのは、一つは久左衛門がいつも、私に、高い米を買わぬが良い、無くなれば何とかするというからだ。何とかされるのだと思うと油断をして、それならさっそく米を分けてくれとはいえぬもので、いまだに私らはそれも云えずに困っている。疎開者が地方を乱す原因だということは事実である。こっそり米を買い込む算段ならすれば出来るが、私も内心この村の批評をしたい食指いまだに失うことが出来ないので、批評をするからは、やはり少しは欲を抑える忍耐が必要になって力が要る。なかなかこれは疲れるが、私もまた作家の端くれであってみれば、験しに一度はどんと当ってみるつもりの用意も失っていないくせに、そこにはそこがあり、人の思うようには愚かなことを愚には思えぬ苦心がぬけきれないのである。別に善人ぶるわけではない。おそらく、僕らの多くの友人たちも、そこここでこんな苦労は必ずひそかに舐《な》めさせられていることにちがいあるまい。
「神も仏もあるものじゃ。」
 こんなことを久左衛門が口癖のように私にいうのも、やはりいつも気にかかるのは、神や仏のことからなのだろう。米はやる米はやるといいながら、一度もくれず、その後で、「神や仏は気持ちじゃ、人の気持ちというものじゃ。」とこうもいったりする。
 おそらく今ほど人人は神仏のことについて考えているときはないだろうが、神を気持ちといったのは、私も自然な説教を聴くようで彼から米を貰うよりはどことなく気持ちも良かった。
「もう僕はあなたから米はもらいたくはない。」とひそかに心中で私は云っている。皮肉ではない。私が彼に米をやりたくなって来るのだから。

 十月――日
 透明な光線の中を風が騒ぐ。眉へ突きあたる蝿のかたまり。樹の幹を辷り降りてくる蛇の首。畑にのびて来た白菜。はげしく群れ飛ぶ赤蜻蛉《あかとんぼ》の水平動。集り散っていった食卓の菜類の中でまだ青紫蘇だけが変らず出てくる。
 稲刈――このごろの稲刈は中手だ。この中手は先日の暴風にあって実りが悪い。稲の穂の垂れ曲った方向に風が吹かず、逆に吹きつけられたそのために、茎から折れ、以後の天候の良さも結実には役立つこと少い。全国的な不作と判明する。供出の命令がいまだに方向さえ明さずじっと沈黙している無気味さ。これに随って農家もしだいに沈黙を守って来た睨み合い、この間で、温泉場からの闇買いがどんな値で忍びよるか。触覚は繊細な震動をつづけている。表面鈍感さを装っているとはいえ、内外刻刻の多忙な変化に応じ、ひそかに沈黙のまま色を変えてゆきつつもあるようだ。

 滅多に人のことを賞めないこの村で、誰からも賞められているものは、私のいる家の参右衛門の妻女の清江と、別家の久左衛門の長男の嫁とである。この二人は、私も見るたびに賞めてやりたくなって、妻と二人きりのときは、こっそりこの二人のことをどちらからともなく賞めている。清江は稲刈からちょっと帰って来るとその暇を見て、自分の長男の嫁の新しい藁蒲団《わらぶとん》を作りかえてやっている。実に手早い。
「おれの嫁のときは、姑から随分大切にされたでのう、自分の嫁も大切にせんとすまんでのう。」とこういう。
 嫁にも嫁の伝統があるものだ。妻は私の傍へ来て、
「あたしもお姑さんがほしかったわ。」と、神妙な顔で云った。
 どういう了簡か私も笑い出した。「まア、そしたら三日だね。」
「そうかしら。でも、あたしはそしたら、こんなに我ままにならなかったと思うわ。」
「嫁の苦労なんて、人生で一番つらいことの一つだよ。最たるものかもしれないね。」
「いえ、あたしはやってみせる。」
 私は唖然として妻の顔をみていた。しかし、姑がなくて倖せだったと云われるよりもまだましだ。辛抱出来るかな、出来ないね、とまた私は思った。
「しかし、あれを辛抱し通せるような人なら、女としてはまア八十点だ。」
「でも、そんなことぐらい……」
「お前は亭主を尻にしく傾向があるから、ひょっとすると出来るかもしれないなア。しかし、男にとって何が辛いと云って、阿母《おふくろ》と細君とに啀《いが》み合われるほど辛いことはないものだ。あれは鋸の歯の間で寝ているようなものだよ。お前の苦労なんてものは、僕が毎日傍にいることぐらいなもんじゃないか。」
「ほんと、あたしはあなたがどこかへお勤めしていて下されば、どんなにいいかしらと思うわ。もう毎日毎日、傍にいられる苦労には、あたし、それを思うと、もうぞっとしてくるの。疲れるのよそれはそれは。」妻のいつもの歎きが始まったのだ。
 ここから見える隣家の宗左衛門のあばの家では、長男が結婚した翌日出征して、嫁が義母と一緒に今もいるが、夫婦はただの一日一緒にいたきりである。私の妻も同時にそれを思い出したと見えて、
「あそこでは、たった一日よ御一緒。どうでしょう。」と一寸首を縮めて私を見た。
 私は戦争中のある日、銀座のある洋食店で夕食を摂ろうとして、料理の出るまで一人ぼんやり壁を見ていたひとときの事をふと思い出した。壁にはミレーの晩鐘の版画がかかっていた。私は日ごろからこのバルビゾン派の画類には一度も感動を覚えたことがなかったに拘らず、野末の向うに見える寺院の尖塔を背景に、黙祷をささげている若い夫婦の農衣姿の慎しやかな美しさに、突然われを忘れた感動を覚えたことがあった。私は自分の生活して来た記憶の絵の中から、これと似たことがどこにあったかと考えてみたが、暫くは、容易に私には泛ばなかった。しかし、何ぜまたこれほどの簡単な幸福と清浄さが私にも人にも得られないのだろうか。何の特殊な難しさでもないものをと私はそのとき考え込んだ。良い宗教がないからか。自分らそれぞれの不心得のためからか。それとも世の中というものの成立が悪いからというべきか。おそらくそんなことではないだろう。いま、一寸首を縮めて私を見た妻の眼差は、実は、そういう幸福に似たものではなかったろうか。
 人は幸福の海の上に浮いている舟のようで、腹だけ水につけ、頭を水から上げているから、無常の風に面を打たれて漂うのかもしれないと思った。

 十月――日
 別家の久左衛門の長男の嫁は、四つになる一粒種の男の子をこの五月に亡くして以来、次ぎがまだ産れそうな気配がないので、もう爺さん夫婦から睨まれている。いつ離縁になるか分らぬ不安ながらも、このごろは嫁もよほど覚悟が定って来たらしい働きぶりだ。ところが、本家のここの参右衛門の家では、樺太出征中の長男の帰りがいまだに分らぬので、嫁は実家へ帰りきりである。夜だけ寝にここへ戻って来るときの、その嫁の大切にされることは女王のごときものだが、いつ嫁に去られるものか気配も相当に不安な模様に、参右衛門夫婦のひそひそ話もいつもここへ落ちて来る。静な気立の良い嫁であっても、まだ実家の云うままに動く娘のままで、村で二番の裕福なその家から、一番の貧農のこの家の嫁になっている現在の情況から想像すると、参右衛門の不在の長男は稀に見る立派な青年らしい。「あそこの長男は豪い。あんなの一人もいない。」と村のものらはいう。
 応召の際、父に頼んで、毎夜その日の支出費だけ必ずつけてくれと、云い残しただけだとの事である。酒で家を潰した父に対する釘としては、もっとも確実な打ち方だ。
 青柿が枝のまま風に騒いでいる。夕映えの流れた平野の上を走る雲足に木立が冷たい。濡れた青草を積み、農具の光ったリヤカーを引いて戻って来た久左衛門の長男の嫁は、川の流の傍で私に丁寧なお辞儀をした。健康に赤らんだ円い顔で、黙って立って礼をする夕暮どきの透明さ。私も思わずミレーになったような清浄な気持ちを覚え、彼女の幸福ならんことを願って礼をした。やはり晩鐘の美しさは誰にも一日に一度は来ているのだ。

 久左衛門の家へ入ると、彼は風呂から出たばかりで、ふんわりと丹前をかけ炉の前に坐っている。支那の学者のような穏かな顔になったり、厳しいリアリストの眼になったりする彼の表情を見ながら、この久左衛門は、六十八で、今一生のうち一番幸福の絶頂にいるのではないかと私は思った。不足なものは何一つない。子供たちの誰もが出征せず、持ち物の値は騰るのみだ。極貧からとにかく現金の所有にかけては村一番になっている。村の秘密を知っているものも彼ただ一人だ。経済のことに関する限り、彼を除いて村には知力を働かせるものもない。すること為すこと当っていって、他人が馬鹿に見えて仕方のない落ちつきで、じろりじろりと嫁を睨んでいれば良いだけだ。肩から引っかけた丹前の裾の、富士形になだれたのどかな様子が今の彼には似合っている。
「明日から大工が廂《ひさし》を上げに来るのでのう。工賃を米でくれというので、それじゃ、どっちも丸公にしょうというたばかりじゃ。はははは。米を持ってると、何んでも公正価でいけるでのう。」
 私は三間とはへだたぬ久左衛門のこの炉端へ、殆ど来ないので、少からず彼には不服のようだった。彼から私は今いる部屋を世話せられ、私係りは久左衛門だと村のものから思われているのに拘らず、その私が遠ざかっているのだから、彼とて少しは不機嫌にならざるを得なかろう。村のものらの久左衛門に向っている烈しい悪口が、私の耳へも届いていると思っていることには間違いなくとも、そんなことはどうでも良い。私には、道路の傍の彼のこの炉端は人の集りが多いので、自然に足が動かぬだけである。それも集るものに村の有力者が多いので、なおさら私の足は重くなる。
「久左衛門さんにお米のこと頼んでみて下さらない。もううちには無いんですもの。」
 妻は私の出がけにそんなことまで耳打ちしたが、米のことなど私は彼には云いたくない。いや、何一つ久左衛門には私は頼まぬつもりだ。また今までとても、まだ私からは物資のことなど彼に相談した覚えはない。
「お前んとこ、ここの村へ闇左衛門の世話で来たのかの。」
 と、こんなことを、ある日近所の娘が妻に訊ねたこともある。久左衛門のことを、闇左衛門と云ったりしたことなどから察しても、おそらく私たちまで怪しげな眼で見られているのかもしれないが、まだ私は特に彼から不愉快な思いをさせられたこともないので、彼を信用するしないは後のことだ。けれども、ここへ来てから一ヵ月、日をへるに随って彼の悪い噂ばかりを耳にする。善いことなど一度も聞いたことはない。農夫にしては稀に鋭い頭脳で、着眼の非凡さは、およそ他の者など絶えず蹌踉《よろ》めかせられて来つづけたことも、想像してあまりある。しかし、そんなことも知れたものだ。
「旅愁って、何のことですかの。」
 と、久左衛門は急にまたそんなことを私に訊ねた。昨夜、私の旅愁が放送せられたそのことを云うのだろうが、ラヂオはこの家だけにあって私は聞いてない。私が黙っていると、また久左衛門は、
「物語、横光利一としてあった。第二放送というのはどうしたら聞けるのか知らんので。」という。
 私は自分の職業を知られたくはなく隠すように努めているが、ときどきこのようなのっぴきならぬ眼にあわされる。あるときも、厠の箱に投げこまれている古新聞に私の作の大きな活字が眼につき引き破ったことがある。ここでの事ではなく別にあるとき、大阪市中での出来事もふとまた私は思い出したりした。それは堂島の橋の手前で、朝日の前あたりだったが、私が歩いていると、前を大きな箱を積んだリヤカーが走り脱けた。その途端、電車の前部に突きあたり、箱ごと眼の前でリヤカーがぶっ倒れた。あッと思うその瞬間、箱の中から、横光利一集と書いた書籍ばかりが散乱して、電車がごとごとその上を辷っていくのを見たときの呆然とした自分。また汽車の中で空席を見つけたとき、前にいる客が私の著作集を傍目もふらず読んでいる最中だったりしたときのことなど、こういうときの作者の感情は、得意というより悲惨に近いものがある。何ぜだろうか。私は久左衛門の所からも、その夕何の要領も得ず帰って来た。
「どうでしたお米。」と妻は笑顔でよって来て訊ねた。
「米のことは、おれは知らん。気持ちじゃ。」
「そうだと思ったわ。」妻はがっかりした風で、もうあきれたらしい。こういうことのみならず、私はどこか阿呆なところがあって、戦争中はひどく皆を困らせたが、見ていると、私の妻もまたそうだ。
「お前がいえば良いだろう。そんな米のことは、女のすべきことじゃないか。」
「お米のことは、男のするべきことですよ。どこだってそうだわ。」
「そんな男ろくな奴か。」
「だって、Sさんのようなお豪い方でも、自転車でいらしたというじゃありませんか。」
 云うかもしれないな、と私の思っていたことをまたうまく云い出したものだと、私も弱った。S氏は文壇の老大家で私の尊敬している作家だが、その人が知人の若いM君の所へ自転車で米借りに乗りつけられたというリュック姿のことを、M君から聞いた折、私はその直截的な行為に自分を顧みて感服したことがあった。
「闇左衛門とM君とは違うからな。」と私は苦しく云った。
「どうしましょう、ほんとうにもうないわ。」
 米櫃《こめびつ》の蓋をとって枡《ます》で計ってみている妻の手つきがかたかた寒い音を立てている。私は一日に四杯、他のものは十杯ずつ三人、併せて一升と少しで足りるのに、私のいる家の参右衛門の所では同数の家族だのに四升でまだ足りぬ。私はいつか一日四杯だと話すと、「ふうッ。」と呼吸を吐いた参右衛門、じろじろ私の顔を眺めていてから、「人じゃないの。」と云ったことがある。
 ところが二三日前の朝のことだが、どんぶり鉢が炉端で転がる激しい音を立てたことがある。同時に、
「二升|米《まい》食うやつあるか。」と参右衛門は呶鳴《どな》りつけた。
 訳を訊くと、次男の二十三になる白痴の天作が、新米に代った日、思わず二升ひとりで食べたということだった。運悪くその前夜久左衛門が来て、大阪の商人で一俵千円で村の米を買ったという話のあった折だった。五円が村の相場となっているときの千円の値は、驚倒すべき事件で、そのときから米価は鰻のぼりに騰って来たが、まだ東京の値など村のものには話せない。

 十月――日
 出払って誰も人のいない家の中に、拭き磨かれた板の間が黒く光っていて、そこを山羊がことこと爪音を立てて歩いている。追おうかと思ったが私はやめて見ていた。純白の毛が広い板の間の光沢に泛き出し、貴族の館のような品位であたりが貴重な彫刻を見るようだ。蚤と蝿とに苦しめられている時の私には、思わぬひっそりとした朝の一刻の独居だ。誰か歯形を白くつけたままの柿の実が樹に成っている。山腹の木の葉が紅葉しかけている。私は炉に火を焚きつけて湯をかけた。
 そこへ、白痴の天作がひとり早く白土工場から帰って来た。天作と二人きりになるのは私には初めてだ。炉端に坐らせ、私は彼に茶を出した。
「どうです。」
「うむ。」と天作は云ったままごくりと一口に飲んだ。胸からはだけ出た逞しい筋肉だ。
「どうです。」とまたもう一杯。
 それも忽ちひと舐めだ。どこか薄笑いの漂ったいつもの顔で、多少は照れるのか横を向き、あぐらをかいている。人から茶など出されたことは二十三歳初めてと見えて、さらに一杯注ぐと、「もうええ。」と云った。
「工場は休み。」
「うむ、硫酸がない云うてたの。」
 これでは、人の云うほど天作は白痴ではなさそうだが、一日に二升を食べる彼を思うと、「人ではないの。」とつい私も云いたくなった。一日四杯と、二升とこっそり対《む》き合っているこの朝の景色は、至極のどかだ。格子から見える山の上に一本高く楢の木が見えていて、そこへ群落して来た鶸《ひわ》が澄んだ空に点点と留っている。天作はいつもする癖が出て敷居を枕に横になった。足の裏が私の方を向いているので、
[#ここから2字下げ]
足のうら黒き農夫を見てをれば流れ行く雲日を洩しけり
[#ここで字下げ終わり]
 そんな短歌が一つ出来た。私には初めての歌である。

 一つの家に二家族が棲んでいると、何とかして一人きりになるときばかりを探すものだが、稀に落ちて来るそんな好運なときに限って、これはまた必ず久左衛門がのっそりとやって来る。彼に来られるのはこのごろ一種の恐怖になっている。しかし彼の機嫌をそこねたなら私はもうこの好きな村にはいられそうもない。それかといって、他に行ったところで、私のような労働力のない人間は、行くところすべてを苦しめるだけなので、人人にとって私は非常な荷厄介な人物だ。家人にとっても米一つ買えない主人というものは、どういうものかおよそ私には想像がついている。私の誇り得られることといえば、ただ僅に一日四杯より食べぬということだ。このため私に配給される分の二合一勺の中、五勺ぐらいは誰か他のものの分になっており、これだけはどこへ行こうとも私は人人に恵んでいるわけだが、それも習慣になると何の効きめもない。私は駅まで半里の道を歩くとき、両側の波うつ稲の穂を眺め、外国から帰ったときここで胸うち上って来た感動を思い出して、この道は、今さら額に汗せぬものに与えられた厳しい罰を感じる道になったと思った。

 今も私は久左衛門の来ない間にと、家をぬけ出て、醤油をとりに駅の方へ、またいつものその道を歩いた。半里、平面ばかりで家一つない真一文字の道だ。どういうものか、真っ直ぐな道というものは、物を考えるより仕様のない退屈なものである。私はこの道でどれほど色んなことを考えたか知れない。またこの村の人たちが意外に頭の良いのは、自然にこの道で日ごろの考えを整えさせているからではあるまいか、とも思ったりする。
「神や仏はあるものじゃ。」
 こんなことを久左衛門が云ったりすることも、この長い道が訓えたからではあるまいか。私も人から受けた恩のことを考えたり、友人の有難さや、人生の厳しさや、夫婦の愛や、子供の教育や、神のことなぞ、次ぎから次ぎと考えつづけて停めることの出来なかったのもここで、妻や子供がよく、
「あの道はたまらないわ。長くって。」
 と云ったり、「そうだねえ。」と子供が云ったりするのも、何か矢っ張り各自に考えさせられているのである。ここを一度通って来ると、昨日の自分はもう今日の自分ではなくなっていて、その日はその日なりに人は文学をして来るのだ。そして、ふと頭を道から上げたとき、遠空に連った山脈の何と威厳をもった美しさか。
「ああ、あの山山は。」と、トルストイがコーカサスの山脈を見て、こう感歎したのは、平坦な草原ばかりを見ていたモスコウ人のせいだけではないだろう。
「汝自身を知れ。」とデルフォイの神殿に銘された文字が哲学の発生なら、私らのここの山山には何があるのか。「人間であるということは何を意味するのか。」
 雲の映った泥濘の中の水溜りを跳び跳び、ソクラテス以来のこの課題に悩まされた多くの哲学者たちの答案の結果が、ついに原子爆弾という天蓋垂れた下の人間の表情となって来た現在。このギリシャ以来の精神の連続と、私という人間と、どこにいったい関係があったのかと私は考えた。何にもない。かの山山は、物部、蘇我二族の殺戮《さつりく》しあう血族の祈りだけだった。神は一度も通った様子のない憂鬱な山脈のところどころの窪みに、仏が巣をちょぴりと結んだだけではなかったか。そして、私はまだ絶望さえしていない。
 広い平野の稲の中から突然フランス語に似た発音で、
「ダダ、どこへ行く。」
 と、呼ぶ声が聞えた。見ると、宗左衛門のあばだ。くるくるした、いつもの驚いたような眼が私の方を見て懐しそうに笑っている。円顔の嫁も手甲を額にあてて一緒だ。
 うす紫の鳥海山を背にし、あばは光った鎌の刃で駅の方をさした。
「あっちか。」
「そうだ。」と私は頷《うなず》いた。この村で向うから話しかけてくる人は、この五十すぎの農婦だけだ。この寡婦は変人で嫌いなものには傍にいても言葉一つかけないそうだが、蝗《いなご》の飛ぶ中から呼ばれる気持ちは、日を仰ぐように明るく爽爽しい。しばらくは、後から稲の穂波がまだ囁《ささや》きかけ追っかけて来るような余韻を吹かせてくる。

 十月――日
 寝ながらあちこちで話す村人の会話を聞いていると、このあたりの発音は、ますますフランス語に似て聞える。この谷間だけかもしれないが、意味が分らぬからフランスの田舎にいるようで、私はうっとりと寝床の中で聴き惚れている。私の妻に云わせると、この村の言葉はこの国でも特殊な発音だとのことだが、まことにリズミカルで柔かい。起き出して夢破れるのはいやだから、なるべく、このような朝は朝寝をして、ここだけめぐる山懐にフランスが落ち溜っている愉しみで、じっと耳を澄ませている。人人の中でも宗左衛門のあばと参右衛門の発音が、一番フランス語に近い。
 妻は真暗なうち一番の汽車で鶴岡へ出かけて行っていない。今日は煙草をどうかして手に入れたいと思い、私も鶴岡の多介屋へひとつ行って、本物の煙草を一ぷく喫ってみたくて堪らなくなると、跳び起きた。三番は十一時だ。

 三時ごろ多介屋本店へ着いた。主人の佐々木君が不在である。しばらく主人の帰りを店さきに腰かけて待っていると、入れ代り立ち代り本買いの客が来る。沢山なその中に混って一人、いつ来たのか、うすい丹前を着た、すらりと蒼い浪人風の品のある男が立って棚の本を眺めている。横から見ると、どう見てもA君だが、Aがまさかこんな鶴岡あたりに今ごろ来ている筈もないので、どうしているか今ごろは、定めし国の敗れたことを歎き悲しんでいることだろう。そう思っていると、やはりA君だった。彼は私を見つけて愕《おどろ》いたらしかったが、前からこういうときでも少しも表情に顕れない彼だった。すッと進んで来ていう。彼はある種の武術の習練者である。
「お元気で何よりでした。」
「ああ、実に珍らしいところで会ったもんだ。どうしました?」
 一ヵ月前から来ていること、ここで新妻を貰ったこと、沢山あった東京の彼の持ち家が全部焼けたことなどA君は語ったが、いつか私に話した米の生命力の予言の的中したことだけは一言も云わなかった。私もまた云うのは不快だった。
「またどうして、今日は?」とA君は訊ねた。私は長く切れていた煙草のことや、今いる山里のことなど云って笑った。
「ほおう。」
 終戦前まで半年ばかり彼が兵営にいたこともまた私は知ったが、敗戦のことに関しては、Aはやはり話を触れようとしなかった。実際、予言というものは的中するとひどく価値が薄れるもので、あんなことなど信じて何になったのかと、今さらどちらも思いあう味けなさだ。何ともならぬことを信じてさ迷っていた間Aは何をしていたのだろうか。
「私のやっている術には、天上派と堕落派と二つがむかしからありましてね。」
 と、彼はいつか、日本最古の武道だといわれる、相手に触れずに敵を倒すその術について私に語ったことがある。それによると、天上派は女人を一切身の傍へ近づけず、滝に打たれ霞を呼吸して山中で技を磨くのに対し、堕落派の方は女から女を渡り歩いて技を磨くのだとの事で、またこの二つは決して仕合をしないということ、それ故にどちらが優っているかいまだに誰にも分っていないということなど語ったが、このときもAは自分がどちらに属しているか一切云わなかったようだった。またこの術を研究し始めてからの彼は、それまで夢中になって読んでいたヴァレリイのことについても、ぱったり口にしなくなったばかりか、ひどく人間が真面目になり、私の応接室用の煙草を三本吸うと、その日帰ってから別に三本持って返しにわざわざ来たりした。おそらく彼は天上派だったのであろう。
「しかし、天上派も堕落派もどちらも決して使ってはならぬという封じ手が一つあるのです。相手の背のある部分を軽くぽんと叩く手ですがね。これをやると、やられたものは何時間か後で、ぱったり死んでしまうのです。」
 そうも云ってからAはまた、ある堕落派の天才で一人、大阪で誰からとも分らず斬り殺されたもののあったことを話した。それは非常な天才で、それが人から斬られるということは習練者ら一同の理解し兼ねることだったが、あるとき謎が解けた。その男は満洲を渡っているとき、人知れず苦力《クーリー》の背に封じ手を使ってみて、後からひそかに蹤《つ》いて行くと、やはりぱったりと仆《たお》れたまま死んだという。
「リアリストの最期か。」
 と、そのとき二人は笑ったことがある。国にも思想にも文学にも、封じ手はあるものだと、いま私はそんなことを思っている。

 十月――日
 三日間家をあけていた。村へ帰ったときは相当に疲れが出て、痔病がひどく悪くなったが、この洞窟のような奥まった六畳の部屋も体を崩すには足る。薄煙りが炉の方から流れて来ているのもわが家らしい。私は妻をからかいたくなる話を一つ溜めて戻って来ているので、それを一つと思うと自然ににやにやなって来た。話の材料というのはただの笑話にすぎぬものだが、もしかしたら、私が誰かに冗戯《ふざ》けられていることかもしれない廻転の深さも含んでいる。
 一昨日鶴岡の多介屋で一泊している折のこと、さて今朝は帰ろうと思って腰を上げかけると、S市から二人の有望な大地主の青年が嫁見立に来る。間もなく来ることだろうから、私にもその見立てに参加して意見をきかせてくれと頼まれた。待っていると正午ごろ来た。二人とも、見るからに一鞭あてて今や疾走しそうな溌剌《はつらつ》たる騎手のごとき軽快な青年だ。この嫁になるものは仕合せだと私は思った。一人は兵隊から帰ったばかりで眼が明るく大きな体をのびのびとさせている。それが花婿だ。他の一人は眉目きらめき立った才能の溢れた豊かな青年でこれは助手役に来たらしい。どちらも私の見知らぬ人のこととて私はただ黙って傍で話を聞いていると、候補者となっている娘が選定の結果二人となり、そのどちらと先に会うべきかが苦心の模様で、先方の家庭の事情や娘の素質をあれこれと話し合っている。ところが、幸運な花嫁になろうとしている娘の方は、どうも私とどこかで縁のありそうな気配が立ち籠って来始め、思わず私も他人事ならず胸のときめきを覚えるようになった。そのときのことを私は同じく鶴岡育ちの妻に話して云った。
「おい、その嫁になる娘の一人というのは、誰だと思う。例の、そら、お前の結婚する筈になっていた船問屋の、あの人物の娘だ。僕は知らぬ素振りでいたがね。」
 妻はさも無関心らしく、「あら、そう。」と云う。これも知らぬ素ぶりだ。しかし、私には、もし私がその船問屋だったら、ほんの些細なことからそうならなかったまでのことなのだが、自分の娘が第一候補の矢を立てられているのと同じ場であった。興味の起らぬ筈はない、私の妻がかつてはその船問屋から第一候補の矢を立てられて逃げたのである。そして、今、私はその男の娘を見立てようとしている稀な情景だ。
「まア、あの娘なら満点だ。親父はちょっと自慢しいで何んだが、娘はなかなか立派だ。」
 と、こんな話を中に立った多介屋主人が一昨日青年に話していたのを思い出し、私はそれもその通りに妻に話してみた。
「そう、あの人の娘さんならいい人ですよ。それは良い児だということですわ。」
 妻はそう云ってからそのとき、ふと声を落して黙った。自分の子供の、その娘のようには自慢になりそうにもないことを思い出したらしい、悲しげなその様子を見て、急に私はもう話をそれ以上つづける勇気を失った。女の幸不幸の大部分は子供にあることぐらい、もう知りすぎている二人だった。寝てからも、しかし、私は一昨日の結婚談がうまく整ってくれることをひそかに希望した。
 罪滅ぼしの気持ちも多分にある。私はついに候補者のだれとも会わずに帰って来たのだが、その日、それから青年たちを混え、男ばかり五人で田川温泉へ行って一泊した。帰りはいつまで待っても自動車が来なかったのでやむなく、炭輸送車の真黒な箱へ乗せてもらったが、炭の中で揺れている花婿を見て、私は、
「ああ、花咲けり。」と思った。私から刻刻過ぎゆくものをこのときほどまだつよく感じたことはない。がたりとメートル器の針の揺れ動くのを見る思いで、黒い輸送車の中の、丁度私の眼の高さにある青年の胸の釦《ボタン》を満開の花弁のように瑞瑞しく眺めていた。

 しかし、この炭箱の中で私は負けてばかりもいられなかった。私にも、田川温泉の思い出には少しは匂やかな秘めごともあるにはある。それもこの青年のような年のころで、まだ私が妻と結婚し立ての春のこと、――私は初めて妻の実家へ来て、妻の父から仕事場には鹿のいる田川温泉が良かろうということになり、ここで中央公論へ出す「笑った皇后」という作を書いていた。ネロ皇帝の妻のことを書いているのだが、そのときにも、実家からときどき妻は鹿のいる私の宿へ会いに来だ。ある日、妻の見えない日で、私がただ一人男の湯舟にひたっていると、隣りの女の湯舟にも誰か来て、これもただ一人で湯の音を立てていた。初めは気附かずに私は、ネロが友人オソーの妻を口説く科白を考えながら、少し滑稽にしないとネロの性格がよく出ないので、「お前の足は、お前の足は。」と、そんな文句を呟いているときである。私の足のあたりで湯がしきりに揺れ動くのを感じた。ふと下を見ると、ここの湯舟は隣室とのへだてが板壁だけで、下の湯水は一つに続いて断ってなく、午さがりの光線の射し込んだ透明な湯の底から、隣室の女の足のくの字に揺れる白い綾を見た。実に美しい。顔や姿がまったく見えずに、伸びたり縮んだりする足だけ見える湯の妖艶さは、遠い記憶の底から、揺らめきのぼって来る貴重な断片の翻える羽毛のような官能的な柔軟さに溢れている。これはここの湯舟だけであろうか。ネロに攻められ、侍女と二人で湯に浸りつつペトロニユスの死んでゆくときのあのローマも、このような湯の中の美しさはなかったであろうと感慨も豊かになり、私はなお女の足を見ながら、時間は相当前からつづいていたのだからもっと早くから眺めていれば良かったと残念に思っていた。
「あなた、お分りになって。」
 そのとき突然、隣室からそう呼んだ。声はたしかに妻のようだった。どうもおかしい。私はしばらく黙っていてから「お前かい。」と訊ねてみた。
「ええ。そう。」と妻は壁の向うで答えた。
「何んだ、いつ来た。」
「さっき、一時のバスで。お待ちしてましたのよ。」
「ふむ、もう少し脚を見せなさい。」
「いや。」と云って、妻はすぐ脚をひっ込めた。
「お前の脚は、夜の鹿のようにすらりとしている。」と、とうとうネロにこんな形容詞を私は云わせて了う始末になったが、このとき湯の底で覗いた透明な脚の白さは、二十年なお私の眼底に残っている鹿の斑のような哀感ある花である。恐らく私の前の青年も第一候補と整えばこうしてここへ再び来ることだろうが、もう今はどの浴槽もローマの湯のように文明になっている。

 夜、家人がみな寝てしまったころ、長男がひょっこり東京から帰って来た。自家の畑で採れたさつま芋をリュックに一杯つめていて、ひどく疲れている様子だ。今年初めて採れた畑の芋なので私は袋の口を開け、芋の頭を一寸撫でてから寝た。
「どうだった東京。」妻は起きてきて子供に訊ねた。
「面白いよ、ジープがぶうぶう通っている。」
「餓え死にしてる人、沢山いて?」
「そうだね。僕、朝からピアノばかり弾いていて外へなんか出なかったから、分らない。」
「つまらないこと、東京のお話たったそれだけね。」
 私と妻は、東京から来た客ということだけで、子供まで別人になったように見ている人間に、いつの間にかなっている。そろそろ私一人だけでも帰ろうと思う。ただ私としては収穫時を見終ってしまいたいと思うだけだが、村人の親切さに対してこれ以上、観るという心でいることに耐えられそうにもない。

 十月――日
 ときどき我ながらいやな気持ちが起って来る。私が疎開者同様のくせにどこか疎開者らしくない気持ちの起ることだ。事実、私はまだ東京の所帯主でここでは私の妻が所帯主になっている。妻と子供が疎開者で私だけはそうではなく、研究心をもって来ていることが、一つの義務だと思うある観想の仕わざのためだ。これでも初めに比べればよほど私も謙遜になっているのを感じるが、妻がこの村に対して感謝しきっている心とは、まだよほど私の方は好ましからざるものがあるようだ。
 五月二十四日の空襲のときは群長として役目をすませ、私でも町会から十円の賞を貰って東京を立った。立つときも留守居のHとIとに依頼し、炭焼を研究して来たいと思うがすぐ帰ると云って出て来たので、私には疎開者だと思う気持ちはいまだにない。それが悪く邪魔をしている。倦くまで研究心を失いたくはないと思う虚剛と、人間らしからざる観察者の気持ちを伏せ折りたくもあって、個人の中のこの政治は甚だ調和を失って醜い。私はまだ文学に勝ってはいないのだ。先ず第一にこれに打ち勝つことが肝要かと思う。

 十月――日
 雨がよく降るようになった。昨日も今日も大雨だ。ラヂオでは全国的な雨で汽車も停った報道が各線に見られるようだ。実のない稲、腐る稲、流される稲、砂をかむってとれぬ稲――米は不作どころではないかもしれぬという予想が、どこの農家にも拡がった。これでは、ここでとれた僅かな米も、どのような運命にあわされるか知れたものではないという恐怖も一緒になった。
 雑草の中の水音が高い。竹林の先端が重く垂れ、その滴りの下で鯉が白い髭をぴんと上げて泳いでいる。

 人が集るときは、必ず実行組合長兵衛門の悪口を云う。いつものことだが、このごろは特にそれが激しくなって来た。攻撃の仕方は千篇一律、よくあのように同じことを繰返し云えるものだと思うほどで、そのねばりっ気が恐ろしい。ねっちねちと、ぶつぶつと、官能さえ昏ますようだ。
「米を出せ出せと云って、皆出させ、村の者の喰う米をみなとり上げて置いて、名誉を一人で独占した。」とこういう。
 これは一種の合唱にまでなっており、慰めでもあり、病的な愚痴の吐きどころだが、雨が降ると、かく愚痴が困苦の思い出とも変るらしい。ところが、この実行組合長兵衛門の母親という人は、こっそり私のところへ野菜をくれる。参右衛門の妻女の清江が、私たちの困っていることを自分の実家のこととて話したらしい。いつかここから味噌漬も貰ったことがある。その漬物の美味だったこと、私はこのような漬物を食べたことはまだなかった。村民総がかりの悪口の中から掘りあてた、見事な宝玉を味わう思いで私はこれを口中に入れ愉しんだ。
 味噌と大根との本来の味が、互いに不純物を排除しあい、そのどちらでもない純粋な化合物となって、半透明な琅※[「王+干」、第3水準1-87-83]《ろうかん》色に、およそ味という味のうち、最も高度な結晶を示している天来の妙味、絶妙ともいうべきその一片を口にしたとき、塩辛さの極点滲じむがごとき甘さとなっているその香味は、古代密祖に接しているような快感を感じたが、誰か人間も人漬けの結果、このような見事な化合物となっている人物はないものかと、私はしばらく考えにふけった。大根だってこれだけの味を出せるものなら、人は容易に死にきれたものではない。それとも、そんな人間を味い得る人間がいないのかもしれぬ。

「兵衛門のことを人はみな悪口ばかりいうが、あの人だって、組合長になりたくないというのを、皆が引っ張り出して、ならせたのだからのう。」
 と、清江は私の妻に、自分の実家をこっそり弁明した。
「いやだいやだ云うのに、無理矢理にならせての、――お上のいう通りにしたのが悪いのなら、どうしようもないだろうに。」
 私はこの兵衛門を一度だけ見たことがある。四十過ぎの、愁いのあるひき緊った美男で、格子の外からちらりと眼に映ったばかりの感じでは、運の悪そうな人である。
 この村の近くの村に、供出係りで、供出量が不足し責任を感じ自殺したものが一人いる。長い戦争中、このような責任観念のつよかった供出係りは全国に一人もなかったことは、これは東京の新聞も報じて有名なことだが、私のいるこの村も、それと似たところもある、どこの村より真っ先かけの立派な完納ぶりが、敗戦の結果、今になった米不足で、組合長だけ攻撃されて来たのである。
「あなたはどこにいらっしゃる。」
 と私は鶴岡の街で人からよく訊ねられるが、西目だと答えると、ああ、あの村は良い村だと誰もいう。

 十月――日
 葱《ねぎ》の白根の冴え揃った朝の雨。ミルク色に立ちこめた雨の中から、組み合った糸杉の群りすすんで来るような朝の雨だ。峠を越えて魚売りの娘の降りて来る赤襷《あかだすき》。その素足、――参右衛門の炉端へ人が集っている。どうやらこのごろになって、村民は私をも隣組の一員として取扱ってくれるようになって来た。私も観察を止めよう。またそれも出来そうになって来ている。組長がこの集りの炉端へ役場からの報告を持って来て、云うには、――
 国旗は命じたときでなければ出してはならぬ、道路は左側通行の厳守、十四歳以下の子に牛馬を曳かしてはならぬ、武器刀剣ことごとく提出すべし、以上、進駐軍からの命令だとの事だ。そして、組長は、
「これに違犯すれば、どう罰を食うか分らんぞよ。」という。
「そうか、そんなら、こうはしてはおれん。」
 さっそく参右衛門は立ち上り、竹筒から、竿《さお》に縛りつけたままの国旗の小さいのをとり脱した。それから床間にかかった武運長久の掛軸も脱して巻いてしまう。
「やアやア、ひどいことになったわい。天子さまの写真だけは、良かろうのう。」
 と、鴨居の上の御真影を見上げていて、これだけは脱そうとしなかった。
「ああ、負けた負けた。」と、一人がいう。
「供出のさせ方が、おれらを瞞したから負けたのだ。」とまた別の一人。
「米をおれらに作らせて、作ったものが、自分の米も食えずに死にかけて、そのよなことがあるもんか。今年は何んというても、出すものか。おれは出さぬ。」と、また一人。
「おれも出さぬ。また瞞されて、出させた奴が名誉をもろうてさ。そのよな馬鹿な。」
「そんだそんだ、そのよなことを通して、今年の米を何というて出させるつもりか、聞いてやろ。」
 敗戦の直接の影響が、こうしてこの村へ入って来たこれが初めてだ。それから暫く人人の話は、この山形県下へ顕れた聯合軍の噂に花が咲いたが、どういうものか、それら持ちよりの噂はどれも良い方面のことが多い。私は悪い方面のことを一つもまだ聞かないが、日本でもっとも両者の間の善く廻っているのは、この山形県下だということも、警察の人から聞いたことがある。

 十月――日
 百合根の味噌汁がつづいて美味い。しかし、今日もまた大雨だ。昨日まで天候の模様を見ていた農家のものらも、もう躊躇の余地はない。今は人より稲を救わねばならぬ。
 そこへ米の供出方法が定められた。農家の議論はまた昂って来たようだ。去年は、定められた供出量の努力に対して、それを保証する意味の保証金が農家に下った。それが今年は、農家の努力に対してではなく、生産量に対して生産奨励金が下るという。どこがそれでは違うかというと、今年の供出量は去年のようには一定せず、生産量に従って定められるという寸法に変化して来たのである。これは去年に比較して不明なところがあるだけに、含んだ凄味が物をいっていて、睨みの幅が大きく深さがあった。一見、供出するものに同情ある様子ながらも、悪狡《わるずる》く逃げるものは逃がして置き、その後で絞め上げて見せようという肚《はら》も見え、なかなか油断のならぬ方法である。

「はい、はい、云うて置くのだな。何んでもかまわぬ。そして、出さなけれやそれで良い。」と、一人いうものがあった。
「生産額に従ってというんだの。個人割当なら話は分るが、村全体の生産額に従うなら、そんなら、真ん中のものの生産額に従うより仕様がないじゃないか。」と一人がいう。
「じゃ、真ん中以下のものは、また喰えなくなるぞ。同じことじゃ。」と、貧農らしい一人が云う。
「何しろ、去年の保証金も奨励金も、まだどっちも貰っちゃおらんじゃないか。政府は出したというし、おれたちは貰っちゃおらぬし、取り上げるだけは取り上げといて、くれるものは一つもくれぬのに、もう、今年の新米のさいそくとは、あんまり無茶じゃのう。なっちゃおらん。ほっとけほっとけ。」
 そういうものらの云い方を綜合してみていて、私も少し去年から今年への推移が分って面白かった。すると、その横のものは、
「生れただけの米は、どう隠そうたって、隠せるものじゃないさ。ぴっちり分る。分る以上は、出してしまって、後の分は村内じゃ、どう闇をしょうが、しまいが、かまわぬということにすれば良かろう。」
 こう云ったものは、おそらく私のような農家に関係のないものが傍で話を聞いていたからだろう。もしこれで私がこんな炉端にいなければ、どのような話がひそひそ進められたか甚だ私は気の毒な思いがする。どちらか云うと、私はいつも彼らの味方をしているので、悪いことも良いように解釈をしている傾きもあり、心覚えも要心しいしいというところがある。冷たい心で歴史を書くのが正しいか、愛情で歴史を見るのが正しいかはいつの場合もむつかしいことの根本だが、実相を危くして物的真実を追求するという手は、私はいつも嫌いだ。これは真実から遠のくことだ。

 十月――日
 はじけたあけびの実の口から落ちてくる雫。風に揺れた栗の下枝の間を、胸をはだけ雨に打たせて駈廻っている子供たち。磯釣の餌にする海老を手に入れた喜びで、眼を耀かせ、青竹の長さをくらべては栗の実を叩き落す子供たち。海から襲って来る密雲が低く垂れて霽れ間も見えない。加わって来る寒気つよく、稲刈に出ていたものらも午後にはどこも帰って来たが、参右衛門の妻女の清江だけは帰らない。黄ばんだ糸杉の下枝が濡れた屋根を包んでいる。森に雨が煙りこみ、つけ放したままの電灯にたかった蝿もじっと動かない。

 暮れ方になってから清江が帰って来た。薙刀《なぎなた》でも使って来たように白鉢巻をしている。が、それも取ろうとせず、蓑を脱いで、びしょ濡れになった袖を戸口で絞り水をきっている。雨の中の稲刈で、腹帯まで水が沁みとおったらしい。覚えのない冷えた指を撫で撫で、上から脱いだ仕事着を一枚ずつ炉の上の棚へかけていく。
「こんな寒い稲刈は初めてだよ、ほら――」
 子の前へ清江はかじかんだ手を見せてそう云うが、今日は、若いときの美しさも想像出来るなごやかな眼差で、いつもより嬉しそうだ。清江の後から主人の参右衛門も濡れて帰って来た。田へは殆ど出ない彼だが、何ぜだか彼も今日はにこにこ笑って這入って来る。
「芽出たいぞ、今日はうちの稲の中に鳥が巣をくっていた。卵もあったぞ。」
 稲の中に鳥が巣を作ると家運の興隆するきっかけを意味して、このあたりの農家では羨望され、餅を搗《つ》いて祝うものだとの事だ。夜も参右衛門は来るものににこにこして炉端で鳥の巣の話をした。
「御苦労が報われたんでしょう。」と私の妻は云った。
「そうだと良いがの。」
「あなたの御苦労じゃありませんよ。小母さんのよ。」
「おれは苦労をかけた方かな。」
 何を云われても参右衛門は嬉しそうだった。清江はぼろぼろに歪んだ編笠の破れ目に青笹の葉をあて、繕いながら、
「まだ指さきがしびれての。真直ぐにのびないんだよ。こんなだ、ほら。」
 炉の方へ足を向けて寝ていた清江の末の子が、薪の火の舌が廻って来るたびに、眠っていてもぴりぴり足を縮めている。上機嫌のこんな一家の夜は近来ない。思わず私もその炉の傍で夜ふかしする。

 十月――日
 降ったりやんだりしている天気だ。風も出て来た。およそこれほど悪天の続くところはあるものだろうか。ほんの二三分間密雲が破れて日が照ったかと思うと、また雨になり風になる。激しい変化ながら、海の方にある山が次第に明るみを加えて来た。
「こんな雨の多い秋はないもんだのう。」と久左衛門は来て云う。
 顔を雨に濡らした子供たちは、山の樹に絡まったあけびの実を懐いっぱい詰め込んで来て、ごろごろッと炉の傍へ投げ出した。そして、味噌を中につめ、油を皮に塗って火で焼いて、うめいぞ、これはという。どこの農家も人が出払っている留守の炉に、火だけは燃えている。猫が背を丸めた閑散な午後になったと思っていると、また強くなった風に木の葉が飛び廻り、色づき始めた柿の実が葉の吹っ切れた枝から、目立って顕れて来る。見定めなき一日の天候。

 この夜、自分らの田を全部刈り上げた参右衛門夫妻が、鳥の巣をもって帰って来て仏壇にそなえた。穂のついたままの新藁が、納豆の包みのようにふくれた中に三つ小さな卵がある。久しく見えなかった空に星が出ている。騒がしく鳴る竹林の風の音を聞きつつ、参右衛門と清江は、明日から稲刈の手伝いに出て行くさきの相談をした。主人の方は長男の嫁の実家へ、清江の方は、自分の実家の組合長の家の田へと。いつもよりこの夜二人は早く寝室へ這入っていった。むかしは人から手伝って貰わなければ刈れなかった彼らの広い稲刈だったのに、今はその反対で、鳥の巣の夢を抱いたようなさみしさがしっとり夜をこめている。何となく、しんと淋しい夜だ。

 十月――日
 久しぶりの好天だ。風がまだ残っているので、高い梢の桐の実が真っさきに乾いていく。野葡萄の汁が瓶の中で酒の匂いをたてている。酢を作る青柿の皮が樽につめられた。納豆の粘液をためす火箸が藁の中へ刺さり、天井の明り口は煙を吸い上げ、塗戸の杉の目が炉の焔の色を映して明るい。

 私は妻と二人で裏の山へ柴刈りに出かけた。二人の目的は十二三分で登れる鞍乗りの峠まで行くことだが、この峠までの坂は息苦しい。焚木を拾い拾い登ると一歩ごとに、平野は眼の下に稀に見る美しい全貌を顕して来る。私は煙草用のいたどりを採りに一人でよくここへは来たものだが、妻は初めて登るので、なるたけ柴より景色を見せてやりたい希望を持って来ているのに、この女人はどういうものかまた柴ばかり探している。そのうち私は少し腹が立って来た。
「たまに来たんじゃないか。もっと景色を見なさい景色を。」
「だって、もう見たんですもの。」
「これだけの景色は、そうざらに有るもんじゃないよ。絶景といってもいい。」
「絶景だ絶景だと仰言るもんだから、どんなにいいかしらと思っていたわ。こんなの、山と田ばかしじゃありませんか。」
 しかし、景色というものはそういうものかもしれないと私は思った。どこが良いのかと考え出したが最後、どのような景色だってもう駄目なものである。
「お前は小さいときからこのへんの山の景色に見馴れているから、珍らしくないのだよ。他国人の僕がお前の国の景色に感心してやってるのに、心の分らない女だなア。柴より頭だ。」
「いいえ、あたしは柴柴。」
 自分の一生は何んだかふとこれに似たことばかしのような気がして来たが、しかし、私はこれで良いのだと思った。谷間いっぱいに生えているいたどりはもう黄色く枯れかかっている。私は随分これで煙草の代用として助かったのだが、今のうち採って置かぬと用にはならぬかもしれない。峠まで登ったところで、下に秋の冴えた海が見えて来た。馬の背に跨がった感じのこの鞍乗峠はいつ見ても眺望は優れている。私はもう夫婦喧嘩はやめにした。ほとんど垂直になだれ下った草原の断崖に挟まれた海面は、今日は穏かだ。右手の平野を越して、羽黒、湯殿、月山、三山の重なりを見ていると、それと自然に対抗したくなって来る鞍乗り心地で、むかしこの地を本陣とした西羽黒の対立心が、向うの東羽黒に敗れ、滅亡の因を作ったことも頷《うなず》かれる眺望である。前方の鳥海山も今日は見事な晴れ姿だ。
「海がこうして見えて来ないと、あたしにはいい景色には見えないんですもの。ここだといいわ。ほんと、素晴しいわ。」
「今ごろ云ったってもう駄目だ。」
 柴を背におい、鞍乗の尾根路を左に登りながら、妻はここの海の見える所へ家を一つ建てたいとまた云い出した。しかし、ここでは水を下から運ばねばなるまい。海からの風も激しくあたることを予想しなければならぬ。
「僕はここから海までの草原の傾斜を牧場にすれば、いい牧場になると思うが、と話したことがあるんだ。そうしたら、菅井の和尚さん、専門家がいつか来たときも、ここは牧場としては理想的だといったそうだ。」
 自慢の形になったが、その実、チロルの草原でこのような所に鈴を首につけた牛がひとり歩いていたのを思い出し、牧場の専門家も同様な所を見て来たのであろうと私は思ったりした。
「やっぱりここは絶景だよ。こういうのを絶景といわずに、いい景色はないものだ。」
 私はもう柴など拾いたくはなく、縄を腰にくくりつけたまま灌木の間をぶらぶらした。鮮紅の茨の実が滴り落ちた秘玉のようで、秋の空がその実の上であくまで碧く澄んでいる。もしこれで右手の入りこんだ平野が海だったら天の橋立という感じになるここの尾根だ。しかし、海であるより平野のこの方が変化があって私には好ましい。

 今から十七八年も前のある夏、ここから一里ほど左方の由良という漁村へ海水浴に来て、私は機械という作をそこで書き上げたことがある。先日も由良はここから近いと聞いてなつかしくなり、峠越えに出かけてみた。終戦後二日目、私も元気がなく思い出を辿るばかりだったが、私の借りていた二階の部屋を下の路から見上げると、その窓から見知らぬ疎開者の女が一人、これも頬杖ついたまま行くさき分らぬ思案貌で私を見降ろしていた。十八年前の家主の和田牛之助は死んでいて、そのときは、私は中へも入らずそのまま夕暮の漁村を素通りして来た。私のいまいる家の参右衛門の所で生れた老婆の利枝は、この由良へ嫁入って来ているので、その日私は利枝の家で魚の御馳走になったりした。
「由良の婆さん、来るといいね。」
「もうそろそろ、いらっしゃるころよ。」
 と妻はいう。この老婆の利枝は私も妻も好きで、子供たちも老婆の声がすると、「そら来た。」と跳び出て行くほどだが、私が牛之助の二階にいたあの当時同じ浪を見ながら、老婆は何をしていたものだろう。私と妻はむかしの夏の海水浴の日のことを今日も柴を探しながら灌木の間で話した。紅《くれない》の茨の実はそっと耳を立てているようだ。ぴっちり詰った海水着の水に浸る音を聞く風なその眼差し。――ああ、こ奴――
 柴は相当に出来たので暫く二人は海を見ていてから、山を降りることにした。
「よっこらしょ。」と、妻は云って柴を背中に舁《か》いだ。どういうものか柴を背負うと急に自分の年を思い出す。どっちも姿を見合いながら、
「もう駄目らしいぞ。お前もおれも、爺さん婆さんになったもんだ。」と私たちは笑い合った。
「しっかりしましょうよ。元気を出して下さいね。」
「いや、もうおれは諦めた。」
「でも、もう一度若くなるのは、あたしいやだわ。あんなこと、もうこれで沢山沢山。」
 栃の実の降っている谷間を見降ろしながら、坂はだだ下りの笑いで一気に終りになってしまった。

 十月――日
 晴れたかと思うとこの日も驟雨だ。遠山に包まれた平野の架《はさ》の棒に刺さった稲束が、捧げつつをした数十万の勢揃いで、見渡すかぎり溢れた大軍のその中に降り込む驟雨。くっきり完壁の半円を描いた虹に収穫を飾られた大空の美しさ。本家の参右衛門の家では、夕暮から餅搗《もちつ》きをやり出した。例の鳥の巣の祝いである。大力の天作が搗くのでたちまち一臼が出来上り、私たちも鳥の巣餅を食べる。さみしい希望――

 十月――日
 山頂に一本高く見える楢の木に、日ごとに多く日本海の方から鶸《ひわ》の群が渡って来て止る。谷間の樹の根に溜り込んだ栗の実。一雨ごとに落ちた胡桃が籠に積ったまま触れるもののない板の間で、魚の匂いを嗅ぎ廻っている黒猫。花序を白ませた紫苑の丈が垣根に添い崩れて来る。

 別家、久左衛門の家の末娘のせつに縁談が起った。それがどちらも好調の様子で、仏の口という例の巫女からもこれは良縁と折紙がついて、彼の家はこのごろとみに色めき立っている。婿は新庄在の青年で牧場の種馬つけとかいう。大兵肥満の厚い唇の、この青年は、もう遠い新庄から汽車で来ており、久左衛門の家から一向に帰って行く様子もない。どちらも初めて見合いしてから日数もたたず、まだ結婚の決定さえ見ぬ今のうちから泊り込んでいる。一種不思議な縁談の進行だ。
「おせっちゃんは、この村一番の美人だと云うことですよ。」
 と妻はあるとき私に云った。この末娘のせつは、由良の利枝の末の子と結婚する筈だったのに、それが沖縄戦で戦死して、これも日のたたぬ躊躇の折、責任を感じた利枝は自らすすんでこの新庄の婿との間を取りもった。せつは十九、ものに動じぬませた美しさのある娘で、父親に似ていてどこか冷たいリアリストの眼で、唇が赭く柔順だ。
「あの久左衛門の家は、いまに罰があたるのう。」
 とは、村のものの云うことだが、理由は寺で参詣人に物を売って儲けたからだそうである。

 十一月――日
 今日は豪雨になった。橋は腹まで水に浸り、田も水底に見えず道路だけ、橋のように長く水上に浮いている。色を増した紅葉の間から、鮮やかな曲りで瑠璃色のあけびの実が垂れ、小豆の粒の艶麗な光沢と、毛ばだった牛蒡《ごぼう》の種とが板の間に並ぶ。口を開いた無花果《いちじく》畑の方向から山鳩の湿った声が、ホッホー、ホッホーとする。

 十一月――日
 茗荷《みょうが》のうす紅い芽に日が射している。雨は過ぎたらしい。

 久左衛門の家へ由良から利枝が出て来た。せつの結婚の日が定ったからであるが、新しい婿を自分が取りもったとはいえ、戦死の子と結ばるべき縁だったせつ子であれば、浮き足だった喜びに満ちている久左衛門の家には居づらいらしく、暇を見ては生家の参右衛門の炉端へ来て、愚痴をこぼしている。ところが、嫁入道具を見せる習慣があると見えて、私の妻も久左衛門の家から呼ばれて行くと、今度は、せつの姉が参右衛門の炉端へそっと脱け出て来て、これが自分の嫁入の際の無一物だった貧しさをこぼし、妹の豪華さを羨望して泣いている。
「なかなかお調度立派でしたよ。だけど、あちらはにこにこだし、こちらはめそめそだし、今日はあたしまで急がしいこと。」
 妻はそう云いながら私のいる部屋へ来てから、突然、
「馬の種つけ係りって、何のことですか。」と訊ねた。
 なるほど、そういう職業は知らないかもしれない。しかし、私は口に出して説明する気は起らなかった。この年になっても妻と話せぬことは、ときどきこれであるものだと思った。妻も私が黙っているので察したらしく、すぐ別のことを云う。
「あそこの家のことだと、どうしてみなが、あんなに悪口を云うんでしょうね。お婿さんになる人もさんざんよ。唇がでれりと下っているだとか、むっつりふくれ返って、言葉一つ云やしないとか、相撲取みたいだとかって。それにまた、大地主だっていうふれ込みだのに、蔵がないんだそうですよ。蔵のない地主ってあるものかどうか、というので、ぼそぼそ皆の人悪口いうんですの。」
「云ったところで、もう遅いだろ。あの久左衛門にぬかりはあるものか。」

 そういえば、これで三日も久左衛門と私は会っていない。午前中は必ずやって来て、彼に午前の時間をつぶされる苦しさから、やっと逃れた好日だのに、どういうものか、この爺さんの顔が見えなくなるとやはり私は淋しくなる。私にとっては、この久左衛門という老人はこの村で唯一の話の通じる人物になっているのだ。いつの間にか、私は私流の話の通じ口を一つだけこの村に掘りあてて、そこから毎日話の水を流し込んでいたようなものだったが、――おそらく、彼が私の時間を邪魔していたのではなく私が彼の時間を奪うようにしていたのかも分らない。
「あなたと話してると、どういうもんか面白うて面白うて――」
 と、そんなにふと久左衛門は呟いたこともある。米のこともいまだ私の方から依頼したことのないのも、一つはあまり毎日二人で話しすぎた結果であろう。私は彼に会うと、何の意もなく自然に話は私の見て来た他県のあれこれに関することになるのだが、私はもうこれで、いつの間にか、全国で行かない県はないまでになっている。自然にその地方の食物ならおよそどこのも見逃さずに食べて来てみた。話につれてその地の景色も眼に泛ぶが、ここの鞍乗りからの平野や海の眺め、米の美味さ、鯛と小鰈《こがれい》の味の好さは、ここならではと思われるものがあっていつも話はそこで停り、久左衛門の自信を強める結果になっているのだ。
「東京へは日露戦争のとき、出征するので一度通ったきりだ。」
 とこういう久左衛門には、私のする東京の話も興味をひくのも尤《もっと》もなことにちがいない。中でも東条英機という人の話は、私と町会が同じだと知ってからは、ひどくこの老人の興味をそそった風である。
「あの人は家を建てたとかで、一時はここでも悪ういわれたもんだがのう。」
「その家が実はおかしいことがあった。」
 と、私もつい云わずも良いことを思い出し話してしまったことがある。私は外国から帰った直後のこと、何とかしてじかに一度土地というものへの愛情を感じて見たくなり、少し自分で持ってみたいと思ったことがあって、義弟のいる玉川附近を二人で歩き廻ったある日のこと、むかしの神社の跡で八幡山という小高い丘の前へ立った。
「いいな、ここは。」と私は云った。
 私はそこを買いたかった。赤松が沢山生えている傾斜地で、手ごろなここの空地は日をよく浴び草も柔かった。
「いいけれども、この赤松で首吊りがあったのですよ。」と義弟は一本の枝ぶりの良い松をさして云った。
 ふと文句なく私は不快になった。
「じゃ、駄目だ。」
 しかし、惜しい傾斜の中ごろのところで、その一本の赤松だけ不相応に延び下った枝で体を傾け、滑かな肌に日をよく浴びて美しかった。それから一二年の後再びその小丘の前に立ってみると、そこだけ縄張りのしてある中に、東条英機建築敷地という立札が建ててあった。いやな所を買ったものだ、僕さえ止めたところだのにと思っていると、間もなくそのあたりは美しく切り開かれ、眼醒めるばかりの広闊な場所に変っていた。
「ところが、どういうものか、結果はこんな風になってしまって、もし僕がそのときあそこを買って置いたら。」
 私が笑うと久左衛門は、「ほう、ほう。」と鳥の啼くような声を出してから、
「首吊りはのう。」と云って黙った。
「二代目はピストルだが、やはり、首のところだ。」
 しかし、久左衛門には話はそこで止めねばならぬ不便もあった。何ぜかというと、彼は人の云うように、寺で物を売って儲けた人だからである。どうでも良いようなものの、それはやはり、どことなく云い難いものがあった。つまりはそこが彼の不幸な部分というべきものだろう。やはり、このような保守的な、限りもない習慣ばかりの村では、悲劇の種類も自ら違って来るのだ。そこがいつも話していてむつかしいところである。

 十一月――日
 稲刈はまだ終ってはいない。悪天の連続でどの田の進行も遅遅としている。私は農家の収穫を見おさめれば東京へ帰ろうと思っているが、雁が空を渡っていく夕暮どきなど、むかしこの出羽に流された人人も恐らくこのような気持ちだったであろうと思われて、東京の空が千里の遠きに見え、帰心しきりに起ることがある。しかし、妻は反対で、このままここで埋もれてもいい、どこへも行きたくないという。
「しかし、いつまでもここにいたって仕方がなかろう。」
「じゃ、あなたはそんなにお帰りになりたいんですか。」
「特に帰りたいというわけでもないが、僕はここの冬は知らないからね。」
 冬のことに話が落ちると妻も黙る。出羽で育った妻の実家の一族も遠い時代は京から来ている模様なので、冬の来るたびに夫婦の間で繰り返されたこんな言葉も、終生つづいたことだろう。また東京の冬は一年のうちでも一番良く、雨も風も少くて光線はうらうらとして柔かい。冬の東京を思うと私はもうたまらなく懐しいが、こんなとき久左衛門はやってくると、一丈もつもるここの吹雪のことを云ってから、
「ここの鱈《たら》は美味い。ここの冬の鱈は格別じゃ。」
 と、ただ一つだけ良いことを云っては、食い物でつい私の決心を鈍らせる。私はまた寒鱈が至って好きだ。それも良いなア、とふと思ったりする。
 こんな気がふと起るとなかなか後が厄介だが、半道の長い駅までの吹雪の中を一番の汽車に間に合せて、それから三駅鶴岡まで通う中学一年の私の子供のことを思えば、私より一層この冬は子供にとっては難事なことだ。
「ここにいるのは、幾らいてもらっても良いでのう。」と、久左衛門は私に云うが、参右衛門はそうすると、
「いられんと思うの。初めてのものには、冬は無理じゃ。」という。

 一つの家に他家族との雑居は、どこまでこちらが他の方を邪魔しているのか程度が分らず、その不分明な心の領域がときどき権利を主張してみて暗影を投げる。影は事の大小に拘らず心中の投影であるから、互いの表情に生じる無理が傷をつけあう。しかし、こういうことはここの農家ではあまり生じない。参右衛門の無作法さや我ままは怠け方同様に傍若無人で立派である。

 十一月――日
 自分はいったいいつまで続く自分だろうか、よくも自分であることに退屈せぬものだ、と私はあきれる。外では、ひと雨ごとに葉を落していく山の木。茂みは隙間をひろげて紅葉を増し山は明るい。部屋に並べてある種子箱で、小豆が臙脂《えんじ》色のなまめかしい光沢を放っている。毛ば立った皮からむき出た牛蒡《ごぼう》の種の表面には、蒔絵に似た模様が巧緻な雲形の線を入れ、蝋燭豆のとろりと白い肌の傍に、隠元《いんげん》が黒黒とした光沢で並んでいる。しかし、これらももう私の憂鬱な眼には、ただ時の経過を静に支えていてくれる河床の石のように見える。
 赤欅の娘が秋雨の降りこむ紅葉の山越え、魚を売りに来る。海の色の乗り越えて来るような迅さで、鰈《かれい》や烏賊《いか》、えい、ほっけを入れた笊籠はどこの家の板の間にも転がり、白菜の見事な葉脈の高く積っているあたりから、刈上げ餅を搗く杵音がぼたん、ぼたん、と聞える。白む大根の冴えた山肌、濡れた樹の幹――

 由良の老婆の利枝は稲刈に出払っている久左衛門の家の食事万端を一人でしており、
「もう由良へ帰らずに、うちの嫁になってくれんかの。」と調法がられている。
 久左衛門家のせつは婿の田舎へ母につれられて二泊して帰って来ても、また婿も一緒である。二人は結婚式も済まさぬのに寝室を一つにしているらしい。のんきな皆の中で、これには利枝だけがいらいらして、参右衛門の炉端へ逃げて来てはこう歎息する。
「おれらの嫁のときは、羞しくて婿と口もきけなかったのに、あの子は何という子だろうのう。ぺちゃくちゃ婿と喋ったり、今ごろから二人で一緒に散歩したり、部屋も閉め切って、一日二人が中から出て来やしない。式もあげずに何をしてるものだかのう。」
 戦死した自分の子の幻影が泛ぶのであろうか。老婆は一晩愚痴をこぼしづめだ。そのため参右衛門の妻女はいつまでも眠れないで弱りきり、今度は私の妻に睡眠の不足を訴えるが、新婚の夢の描く波紋はどうやら私の胸まで来てやっと止ったようである。私にはも早やそんなことは無用のようだ。

 十一月――日
 来る日も来る日も同じことを繰り返している農業という労働。しかし、仔細に見ていると少しずつ労働の種類は変化している。もう忘れた日にして置いた働きが芽を伸ばし、日日結果となって直接あらわれて来ているものを採り入れ、次ぎの仕度の準備であったり、仕事にリズムがあって倦怠を感じる暇もない。他に娯楽といっては何もなさそうだが、そんなものは祭だけで充分忍耐の出来ることにちがいない。特に都会化さえしなければ農業自身の働きの中に娯楽性がひそんでいそうである。

 私は東京から一冊の本も、一枚の原稿用紙も持って来ていない。職業上の必需品を携帯しなかったのは、どれほど職業から隔離され得られるものか験しても見たかったのだが、ときどき子供の鞄の中から活字類の紙片が見つかると、水を飲むように私は引き摺り出して読んだりする。中に抽象的な文章があったりすると急に頭は眠けから醒めて、生甲斐を感じて来る。も早や私には観念的な言葉は薬物に変っているらしく、周囲を取り包む労働の世界は夢、幻のように見えたりする。どういうものか。生物は自己の群から脱れると死滅していくという法則は私にも確実に作用し始めているのであろう。――こういうときには、私は振り落されそうな混雑した汽車に乗り鶴岡の街まで出て行くのだ。私の労働は汽車の昇降口で右を向いたり左に廻されたり、捻じ廻されることであって、これは相当に私には愉しみだ。

 私は昨夜鶴岡の多介屋で一泊させて貰ったが、そのとき主人の佐々木氏が岸田劉生の果物図の軸物を懸けてくれた。淡彩の墨絵だが、しばらく芸術品から遠ざかっていた近ごろの生活中、一点ぽとりと滴り落ちて来た天の美禄を承けた気持ちで、日ごろ眼にする山川は私の眼から消え失せた。美を感じる歓びの能力が知性の根源だという新しい説には、私は賛成するものだ。旧哲学の顛覆していく場所もここからだろう。

 帰って来て見ると、由良の老婆の利枝は、久左衛門の台所から、妹が宝のように隠してあった三年|諸味《もろみ》の味噌を持ち出して、参右衛門の台所へ、どさりと置いた。そして、食べよ食べよと云いながら、
「あの婆アは慾ふかだでのう。こうして盗ってやらねば、くれたりするもんか。」
 この三年諸味は清江が欲しくて、久左衛門の妻女に幾度頼んでもくれようとしなかったものである。また夕暮になってから、利枝は駈け込んで来て、
「あの婿は、おれを飯炊き婆と思うてるんだよ。挨拶一つもしてくれやしない。一口ぐらい物いうてくれて良さそうなものじゃないか。」
 こうも云っては暴れている。ひどく悲しいらしい。

 十一月――日
 雨は降りつづく。刈上げをすませた農家も雨で取り入れが出来ない。このため収穫時のさ中に意外な閑がどの家にも生じて来たので、農事の他の仕事、街へ出て行ったり、実家へ戻ったり、遠い田舎の親戚間との往復など、どこの炉端もそんな出入が頻繁になって来た。このような人の交流が旺んになると、より合う話はまた自然に物の値段の噂話となり、それだけ値の低い村の物価が揺れのぼっていく結果となるのみだ。
 酒一升を三十円で買いとった疎開者らが、それを都会へ持ち運んで三百円で売っているという話、米一升を十円で買い集めては、それを七十円で売り捌《さば》いている疎開者の話、うっかり図にのって米を買い集められた人の好い村では、そのため米が無くなり逆に疎開者から高値の米を買わされているという滑稽な話など、そんな山奥生活の話も聞えて来てどの炉端も哄笑が起っている。
「都会のものはどれほど金を持ってるものやら、もう分らない。幾らでも持ってるもんだ。」
 と、こういう村のものらの結論は今はどこでもらしく、私などの所持金もうすうす皆は見当をつけているのであろうが、中に一軒、疎開者を置いているある農家のもので、うちの疎開者は少しもうちから物を買ってくれたことがないと云ってこぼしているのもある。私としては、他で金を落すものならこの村で落して行きたいと思っているのだが、買いたいと思うと、「おれんとこは商売はしたことがないでのう。」と、暗に私係りの久左衛門に当ったことを云ったりする。

 十一月――日
 川端康成から三千円送ってくれた。鎌倉文庫の「紋章」の前金だが、一度も催促したこともないのに、見当をつけたようにぴたりと好都合な送金で感謝した。これでひと先ず帰り仕度は出来たとはいえ、終戦以来最初の入金のためか、再び活動をし始めた文壇の最初の一息のようで、貴重な感じがする。

 立ちこもった霧雨の中から糸杉、槙の葉、栗の枝が影絵のように浮き出ている。参右衛門の家では今日は刈上げ餅を夕方から搗き始めた。夜のお祝いに私たち一家のものも隣室の仏壇の間で御馳走になった。中央の大鍋いっぱいにとろりと溶け崩れた小豆餅、中鍋には、白い澄し餅がいっぱい。そして、楕円形の見事な大櫃には盛り上った白飯が置かれ、それを包んで並んだ膳には、主人の参右衛門がこの日磯釣りして来たあぶらこ[#「あぶらこ」に傍点]という魚が盛ってある。主人の横に、まだ復員しない長男の蔭膳が置かれてあって、これとその嫁の膳と並んで二つだけ高膳である。
 私ら一家疎開者の客には、粒粒辛苦一年の結実ならざるなき膳部が尽く光り耀くごとき思いがした。厚い鉄鍋で時間をかけて煮た汁や餅は実に美味だ。あぶらこ[#「あぶらこ」に傍点]という魚は長さ四五寸の小さなものだが、このあたりではこの魚を非常に珍重する。なまずを淡泊にした細かい味のものだ。
 その他、醤油も味噌も、そば、納豆、菜類、これらは皆、ここの清江一人の労働で作ったもので、「雨の日も風の日も」と、人の謡うのも道理だと思った。由良の老婆もこの夜は私の前の膳について神妙に食べている。参右衛門はどこで手に入れたものだか珍らしく私に一献酒を注いでくれた。久しぶりの酒である。いつも祭日より帰って来ない参右衛門の末娘のゆきも来ている。この村の一番の大地主の所へ奉公している十七の娘だが、長男の嫁と二人並ぶと仏間も艶めき、その傍ら忽ち平げていく天作の手つきも鮮やかだ。初めはどうしてこれだけの餅と飯と汁とを食べるだろうと思っていると、見る間に八方から延び出る手で減っていくその迅さ、私の食慾などというものは生存の価値なきがごときものだ。やはり私は見るために生れて来た人間だとつくづくと思った。

 十一月――日
 澄み重なった山脈のその重なりの間に浮いた白雲。刈田の上を群れわたっていく渡鳥。谷間で栃の実がひそかに降っている。
 久左衛門は田の中でまだ稲刈をしている若者を見ながらいう。
「おれの若いときは一時間に二百五十束もしたもんだ。ところが、今の若いものは、よく出来るもんでも百二十束だのう。ほら、あの通り、掴んで刈った束の置き方も知らんのじゃ。掴んで切りとったのをすぐ横に置く。あれは縦に置かぬと駄目なものじゃて。」
「あなたの田はまだ刈り上らないんですか。」と私は訊ねた。
「今年は三週間も遅れている。稲が乾かぬのじゃ。奥手はこれからだのう。」
 少し日の目を見ると架《はさ》の稲を一枚ずつ裏返して干している。田の稲を刈っても米になるまでには三週間もかかるというとき、早米の収穫でようやく補給をつけていた農家も、稲の乾きの遅さでまた食糧を借り歩くようになり、久左衛門の家の貯蔵米がまたしても人人から狙われて来たということだ。一度退散した久左衛門の気苦労は再び増して来始めた風である。
「ないのも困るが、有るのも困ったものじゃ。」と彼はとうとうそんな音をあげた。
 由良の老婆の利枝はまだ久左衛門の所から帰らないが、今日も参右衛門の炉端へ駈けこんで来て、
「とうとう婆アと喧嘩してやった。姉妹だというのに、もう米も貸してくれやせんわ。剛っ腹だぜ、そら、持って来てやった、食べよ食べよ。」
 と云いながら、前垂の下から野菜や芋の煮つけを出す。清江は笑っているだけだ。由良の漁場では東京の網元が焼失してしまっており、網の修繕が出来ず、油も高くて来ないところへ、復員の子が一人増し、米は何としても久左衛門の家から都合をつけずにはいられない。せつ子の結婚式用の魚を揃える約束で今から米を催促している老婆の苦労は、こうして朝毎の姉妹喧嘩となって、台所をばたばたと活気づけるのだが、この利枝は来るたびにまた板の間を、拭く癖がある。
「ここはおれの生れた家だでのう。こうしてふき掃除して美しゅうして置かんと、来た気がせんわ。」
 別に私たちへの当てつけではない。私の部屋の縁先まで拭きつづけてくれては、一寸休むと庭の竹林を眺めている。
「むかしは美しかったがのう、ここの庭は。それにもう石も樹も、ありゃしない。」
 この老婆は立てつづけにべらべらと無邪気に喋り散らすかと思うと、すぐ炉端でい眠っている。七十年間、一里半向うの漁村とこの村との間より往き来をせず、その二村のことなら何事も知っていて、人が聞こうと聞くまいと、のべつ幕なしに話すので、およそのこと、誰が誰から幾ら儲けたとか、誰が誰を口説いて嫁にしたとか、狐が誰にひっついたとか、――私の子供までが知ってしまう。清江はにこにこして聞いているが、
「あれで家へ帰れば、嫁に虐められるのだがのう。」と私の妻にそっという。
 しかし、いつ見てもこの由良の老婆は美しい。私にもしこんな老婆が一人あったなら良かっただろうと思う。いっか一度、参右衛門たちの集っているところで、「あのお婆さんは美しい人だなア。」と、ふと私が洩すと、一同急に眼を見張って私の方を見た。そして、意外なことを云うものだと不思議そうに黙ったことがあるが、漁村の白毛の老婆の美醜などいままで誰も気にとめたことはなかったのだろう。この老婆のいるために、私にはこの村や山川がどれほど引き立ち、農家の藁屋根や田畑が精彩を放って見えているか知れない。そういえば、参右衛門の怠けぶりもまたそうだ。彼が徹底した怠けものであるところが、何となくこの村に滑稽でゆとりのある、落ちついた風味を与えている。配給物の抽籤のとき彼はいつも一等を引きあてるが、どういうものか、それがまた人人の笑いを波立てる。

 夜になると、炉端で清江が畑から切って来た砂糖黍《さとうきび》の茎を叩いている。この寒国でも今年から砂糖黍を植え始め、自家製の砂糖を作るのだが、それも今夜が初めてで炉端もために賑やかだ。一尺ほどの長さに切った茎を大きな俎《まないた》の上で叩き潰しては、大鍋の中へ投げ入れ投げ入れして、
「ほう、これや甘い。なるほど、これなら砂糖になるかもしれないや。」
 太股をはじけ出した参右衛門は、糖黍の青茎を噛《かじ》ってみてはふッふ、ふッふと笑っている。少し鍋が煮えて来ると、蓋を取ってみて、汁を一寸指につけては、
「ほう、甘い甘い。今にのう、ぼた餅につけて、うんと美味いの食べさせてやるぞ。」
 と、私の子供らにいう。子供らは面白がって庖丁ですぽりすぽりと糖黍を切り落していく。参右衛門は杓子《しゃくし》で攪《か》き廻しているうち、鍋の汁は次第にとろりとした飴色の粘液に変って来る。
「ほう、これは美味い。砂糖だ。」
 相好を崩してそういう参右衛門の髭面へ、鍋炭が二本灼痕のように長くついていて、味噌や醤油を作る夜とはだいぶ様子が違っている。大人に見えるのは清江一人だ。

 十一月――日
 路の両側から露れて来た茨の実。回復して来た空に高く耀く柿の実。紅葉の中から飛び立つ雉子の空谷にひびき透る羽音。農家はこうしてまた急がしくなって来たようだ。朝霧の中で揺れている馬の鬣《たてがみ》。霜の降り始めた路の上で鳴りきしむ轍《わだち》の音――

 一俵千五百円で二十五俵を都合をつけてくれという闇師が、先日からこの村へ潜入して来ている。東京までトラックで運ぶということ、そんなことは出来るものではないという結論で、これは纏《まとま》らなかった様子だが、そのときから米の値は一躍騰った 一升が四十円ほどになって来たのだ。東京からの通信では六十円から七十円になっている。一升五円以上の値で売るものなどこの村にはないのうと、そう久左衛門の云っていたのは夏のことだ。それが二十円になったときには村のものらは眼を見張ったものだが、今は誰もが、暴れ放された駻馬《かんば》を見るように田の面を見ているばかりである。
「これじゃ、この冬は餓え死するものは多いのう。」
 と、久左衛門は気の毒そうにいう。
「もうこんなになっちゃ、東京へ帰って隣組の人達と一緒に、餓え死する方がよござんすわ。帰りましょうよ。」
 と、妻は私にそっという。帰る決心のついたことは良いことだ。この夜、妻は衣類を巻いて隣家の宗左衛門のあばの家へ裏からこっそり出ていった。そして、戻って来てから、
「宗左衛門の婆さん、宗左衛門の婆さん。」と嬉しそうに呟いている。話はこうだ。妻が一俵四百円で米を売ってはくれまいかと頼むと、この寡婦は眼を丸くぱちぱちさせていてから、暫くして、
「罰があたる、罰があたる。」とそう二言いって顔を横に振ったそうだ。「そんな高い金では売られない。供出すると六十円だぞ。それに四百円――罰があたる、罰があたる。」とまた云った。
「それだって、お米が買えなけれやあたしたち、餓え死するわ。売って下さいよ、四百円でね。」
「売られん売られん。この間も常会で、二百円までなら闇じゃないということになったでのう。おれは闇は大嫌いだ。百五十円なら一俵だけだと、何とかなるが。」
「でもそれじゃあんまりだわ。じゃ、三百円。」と妻は云った。
 横から、東京へ嫁入して手伝いに戻っている娘が聞いていて、妻の持って来た衣類を見ると、「欲しいのう。おれの着物にしてくれ。」と云い出した。そこで話は、米は売らぬが足らぬ前だけ少しずつならやるという相談になったらしい。
「今どきこんな人もいるのかしらと思ったわ。あたし、帰りに二度も転んで、ああ痛ッ、ここ打って――ああ痛ッ。」
 妻は横に身体を崩し今ごろ腰を撫でている。上には上があり、下には下があるものだと私は思った。

 十一月――日
 山峡から山の頂へかけて一段と色を増して来た紅葉。ゆるぎ出て来たように山肌に幕を張りめぐらせた紅葉は、人のいない静かな祭典を見るようだ。鮮やかなその紅葉の中に日が射したり、驟雨が降りこんだりする間も、葉を払い落した柿の枝に実があかあかと照り映え、稲がその下で米に変っていく晩秋。朝夕の冷たさの中から咲き出して来た菊。どの家の仏間にも新藁の俵が匂いを放っていて、炉端の集団は活き活きした全盛の呼吸を満たして来る。

 参右衛門の仏間の十畳も、新藁でしっかり胴を縛った米俵が重重しく床板を曲らせて積み上り、先ず主婦の清江の労苦も報われた見事な一年の収穫だ。確実に手に取り上げてみた事実の集積で、心身の潔まるような新しい匂いが部屋に籠っている。明るい。――しかし、まだ出征している清江の長男は帰って来ない。遠山にもう雪がかかっているのに。

 銀杏の実が降って来る。唐芋という里芋と同じ芋は、ここでは泥田の中で作っているが、清江はこれを掘りに朝からもう泥の中へ浸ってがぼがぼ攪き廻している。私は感動より恐怖を覚えた。もうこの婦人は労働マニアになっているのではあるまいか。

 私は沼の周囲の路をまた一人で歩いてみる。この路は平坦で人のいたことは一度もない。垂れ下った栗の林に包まれ落葉が積っているので、つい私はここへ来て一人になる。そうすると、いつも定って私の胃には酸が下って来て腹痛になり、木の切株に休みながら沼に密集した菱の実を見降ろしてじっとしている。自然に埋没してしまう自分の頭が堪らない陰鬱さで動かず、振り立てようにもどうともならぬ無感動な気持ちで、湮滅《いんめつ》していった西羽黒の堂塔の跡を眺め廻しているだけだ。
 人間全体に目的なんてない。――私は突然そんなことを思う。それなら手段もないのだ。生を愉しむべきだと思っても酸が下って来ては死が内部から近づいて来ているようなものである。びいどろ色をした、葛餅《くずもち》色の重なった山脈の頂に日が射していて、そこだけほの明るく神のいたまうような気配すらあるが、私の胃の襞に酸が下って来て停らない。眼に映る山襞が胃の内部にまで縛りつづいて来ているように見える、ある何かの紐帯《ちゅうたい》を感じる刻刻の呼吸で、山波の襞も浸蝕されつつあるように痛んで来る。切断されようとしている神――木の雫に濡れた落葉の路の上で栗のいがが湿っている。沼岸の雑草の中を匐い歩く一疋の山羊だけ、動き停らない。縛られた綱の張り切った半径で円を描きながら、めいめい鳴き叫び草を蹴っている山羊の白さは、遠山の雪のひっ切れた藻掻《もが》き苦しむ純白の一塊に見えて、動かぬ沼の水面はますます鮮かな静けさを増して来る夕暮どき――

 十一月――日
 余目から最上川に添って新庄まで行く。最上川の紅葉はつきる所がない。万灯の列の中を過ぎ行くように明るい。傍に南鮮から引き上げて来たばかりの三人の婦人が語っている哀れな話も、紅葉の色に照り映って哀音には響かず、汽車は混雑しながらいよいよ錦繍《きんしゅう》の美に映えてすすむ。妻の亡父がこのあたりの汽車から見える滝のあたりに、自分の山のあることを話していたのを私は思い出し、注意して見ているうち、対岸の断崖から紅葉の裏を突き通して流れ落ちている滝が見えた。ここだなと思う。
「現金なものですね。毎日したしく話していた朝鮮人も、その日からぱったり私らと話さなくなったんですよ。お金も家も何もかも奪られてしまうし。」と一人がいう。
「あたしはそうじゃなかった。あなたここで朝鮮人になってしまいなさいって、そういってくれるんです。なってやろうかなと、あたしは思った。今さら郷里へ帰ったってねえ。」
 こういう声を後にして三時に新庄へ着いた。醤油醸造家の井上松太郎氏の邸宅へ向う。この夜ここで催される座談会に私は出席するためである。

 井上氏の庭は数千坪の見事なもので、廊下でつながった別棟の数軒に囲まれた広い庭の中央に、大きな池があり、根元から五つに岐れた榧《かや》の大木が枝を張っている。島にかかった俎形の石橋が美しく、左端の池辺にのぞんだ私たちに当てられた部屋には日光室もある。小雨が降って来て、濡れた落葉の漂う庭の向うからショパンの練習曲が聞えて来る。疎開して来ている大審院の検事総長の部屋のピアノだとのことだ。落葉の静かな池辺によく似合った曲で、晩秋の東京の美しさがこういう所へ移って来ているのを感じた。
 夕食に最上川で獲れた鮭が出る。見事な味で、その他、鮪、豆腐、なめこ、黄菊、天麩羅《てんぷら》、生菓子、いくら等。
 座談会に集った人たちは二三十人で、私は昨夜考えて来た田園都市と文化人と題し、重苦しいテーマ二十ばかりを出して概略を述べてみた。
「私たちの階級では、諦めということが何よりの訓練とされておりまして。」と、こう云った婦人が一人あった。私の階級とはどのような階級か私には分らなかったが、人人が帰った後でその婦人は、この地方の旧大名の夫人だと判明した。その後で、またこの地方の大地主三人がしきりに小作人問題で討論していた。ここの地主階級では諦めの訓練が不足しているようだと、ふとそんなことを私は思った。
 鶴岡から私を案内して来てくれた佐々木剋嘉君とここで一泊して、翌日二人は四時の列車で帰る。余目まで来たとき、大きな五升入の醤油樽を背負っている佐々木君が、
「これをどうして水沢まで持って帰られますか。」と訊ねた。
「その樽は私のですか。」
「そうです。井上君があなたにと云ってお土産にくれたものですよ。」
 重い醤油を始終背負ってくれながら、長い間今まで黙っていてくれた佐々木君に私は恐縮した。この夜は、鶴岡の同君の所で厄介になり、二度の恐縮である。

 十一月――日
 一年を通じて十一月の路ほど悪い路はないと、私のいる村では云うが、まったくこの月の路は路ではない。参右衛門は山へ自然薯《じねんじょ》を掘りに行く。彼のする仕事の中でこれほど愉しみなことはないそうだ。私の妻は腹痛で寝ており、参右衛門の妻はまた泥田の中で唐芋を掻き廻している。冬越しをするには無くてはならぬ食料だ。空気は冷えて来て濡れた山肌に大根の白さが冴え静まり、揺り動かすように落葉だけ散って来る。

 佐々木君の所から支那哲学の書を買って来たのを読み終ったが、少しも要領を得ない。孔子の次ぎの時代にギリシャのソフィストに似た一群の隠者たちの思想に、私のまだ知らなかったものが多かった。文明を支えていたこれらの名も知れぬ高度の知性は、その高級さのために滅んでいき、吾吾に残されて来たものは概念の強い平凡な骨だけだということ。しかし、この骨を叩いてみて肉の音を知るには、よほどの年月を必要とすることだろう。先日、佐藤正彰君が東京から見えた折の話だが、同君の父君は漢学の大家の正範氏で先年七十幾歳で亡くなった学者――この学者は専門七十年の漢学の末、説文と称する文字の起源を調べる学問に達して亡くなられたが、これはまだ殆ど誰も手をつけたことのない学問の部とされている。
「あなたの専門のフランス語も七十年もかかりますか。」と私は訊ねてみた。
「それや、かかるでしょう。」
「じゃ、文学は一番かからないというわけになりそうだが、かかるかな。」
「それや、かかる。」
「じゃ、まだ僕は二十年だ。」
 よろし、もう二十年、と、こんなところでどちらも笑ってから、その後で久左衛門に会ったとき、農家の仕事のうちで何が一番難しいかと私が訊ねると、
「種を選ぶことだの。」と即座に答えた。
 どの田畑にどの種を選んで播くかということの難しさは、六十八歳になった達人久左衛門も、これだけはまだ分らぬとの事だ。おそらく一生かかっても分りそうにもないという。私らも連作してはならぬ茄子だったり、トマトだったりしているのであろうが、誰も訓えてくれるものではない。自分を工夫するとはどうすることか、それさえ誰も云ったものはない。いや、自分がトマトか南瓜かそれも分らぬ。七十年、百年たっても――。ただ一生の間にちらりと蝶の来てくれること、そればかり待っているのだ。支那の隠者たちは空しく死んでいったのであろうか。篆刻《てんこく》の美は、死の海に泛んだ生の美の象徴ではなかったか。

 十一月――日
 農家はどこも三日間刈り取り祭だ。盆、正月以外ではこれが最も大きな祝い日である。隣組のどの家からも餅を貰う。夕刻六畳の私の部屋は並んだ餅で半分点点と白くなった。家家に随って餅には個性がある。見ていると篆刻のようで、家の盛衰も餅の円形に顕れている。これはどこ、それはあそこ、と私は想像で当てるとほとんど的中したが、現在というものが餅に姿を顕しているのも、手で作った円形という最も簡単で、難しい威厳あるものを無意識で作ったからであろうと思う。祈りは餅に出るものだ。

 昼食を私一人が久左衛門の家で御馳走になる。せつの新婿も一緒だが、この婿は終始少しも喋らず無愛相な顔で、ぺろぺろと食い、最後に一言だけ、突然、
「嫁をもらうまでは、おれは女を、買った買った。」と妙なことを云った。
 そして、「おい、おせつ、火つけてくれ。」と云ったかと思うと、部屋の一隅に二間ほど離れているせつの所へ、一本煙草を投げつけた。別に怪しむものもない。愛情を示した見栄のこの荒荒しい挙動がも早や普通のこととなっている二人の生活だ。それも種馬つけという天然の破壊を行う作業が、また二人の間でも物柔かな紐帯で行われている日日を、ふと私も普通の生活のように思い込み一緒に箸を動かしているのである。
 すると、夕食には、私は参右衛門のところから呼ばれて、いつもの仏間で馳走になった。このときには、私の前に、特攻隊から帰還して来たばかりで、いま一台で飛び立つ間際に終戦になったという青年が、客となって来ていた。これは生命の破壊を事もなげに、一瞬の間にやり終る訓練に身を捧げた若ものである。
「ああ、もう、助かったのか死んだのか、分らん分らん。」
 とそんなことを云いつつ、実に暢気《のんき》に、傍にいる父から酒を注がれている。先日から煮溜めた砂糖黍の液汁に浸した小豆餅が、大鍋の中で溶けているのももう忘れ、私の妻は、特攻隊員だと聞かされてからは、突然戦争が眼前に展開されているのを見るように、表情が変った。そして、
「死ぬこと恐くありませんでした。」
 と、恐わ恐わ訊ねた。
「あんなこと、何んでもない。分らんのだもの。」
 こういう青年の傍でも、どういうものか、私はまた全く普通のことのように思いつつ箸を動かしているのである。恐るべき速度で何事か皆かき消えて進んでいるのだった。速度の方が恐ろしい、茫然としたこの痴漢のような自分の中で、何が行われているのか私ももう知らない。特攻隊は鼻謡を唄いながら、ケースをポケットから出し、抜き取った煙草を一本ぽんと叩いて、今夜これから寺で芝居をして来るのだと云っている。異常なことが日常のありふれた事に尽く見えてしまっている今日この頃の心情は、われも人も同様に沸騰した新しさだ。私は自分がどれほど新しくなっているのかそれさえも分らぬが、これを表現する言葉は誰にもない。おそらく、誰も自身の心情を表現し得るということはもう出来ないのにちがいない。すべてを普通のこととしてしまう本能の自然さといえども、今までは、そこにまだ連絡した心理があった。しかし、今はそれもない。人生にはいつも幕間が用意されているものだが、この幕間は人のものか神のものか分らぬながらも、どこかの一ヵ所だけ森閑とした部分がある。そこでひそひそ声がしているようだが、おそらく、それは人の声ではないのだろう。

 そら芝居が始まった、と云って、子供らは釈迦堂の方へ駈け出ていく。特攻隊も出ていった。その後で、参右衛門と青年の父親とがなお二人で飲み続け、舌の廻りも怪しくなって来るのを私は隣室で聞いていると、いつまでも絡み合っていてきりがない。参右衛門は濁酒を作ってくれと頼まれて、お礼をすると云われたのが気に喰わぬ、水臭いと云って怒っている。それをまた特攻隊の親父が弁解する。この二人の酔漢の芝居が止み間もないその中に、寺の芝居は済んで特攻隊が戻って来たが、参右衛門ら仏間の「水臭さ」劇は止まる様子もない。とうとう一時だ。そして、最後の二人の科白は――
「もうじき、共産主義になるそうじゃ、面白いのう。あはははは――」
「とにこうに、おれは、礼をされて作るとあれば、いやじゃ、そんなのは、おれは――」
「共産主義になったところで、おれらには、何もないでのう。あはははは。」
「とにこうに――」
「あはははは、おれは、酔っぱらう奴は大嫌いじゃ。」
「いや、礼をされて――」
 と、このような調子である。冗漫さというものも度を越すと面白い。これで人生は退屈しないのだ。間もなく、一人がその場へ眠ると、次ぎも眠った。私は眼が冴えいよいよ蚤との苦闘はこれから始まるところだが、この百ヵ日にあまる無益な苦しみは、想像を絶して苦しい私の劇だ。私は、今は蚤のことあるばかりで退屈をしない模様である。

 十一月――日
 祝いがつづいた二日目、隣家の宗左衛門のあばは、軒の葱《ねぎ》をひき抜きながら、
「あーあ、退屈だのう。」
 とそう呟くのが、私の立っている縁側まで聞えた。二日目にこの寡婦は、もう遊ぶことに退屈しているのだ。この家の裏の家では、今日は、私のいる隣組の娘たち全部と、若い嫁たちが集って、持ちよりの品で一日自由に食べくらし、遊び暮す。当番に当っているその家から、賑かに出入する娘らの声がよく聞える。娘たちの娯楽といえばたったそれだけだそうだが、他人目から見ればつまらなそうな遊びながらも、本人にしてみればおそらくこれほど愉快な娯楽はあるまい。厳しい老人たちの眼から離れ、ぺちゃくちゃ喋る話の中には、この村一の美人といわれるせつの新婿の職業は、異様な花を咲かせてさざめき返っていることだろう。

 菅井和尚が見えた。この釈迦堂の和尚が見えると、いつも参右衛門は家の中から姿を消す。おかしいほど彼には和尚が苦手らしく、小学校の生徒が先生の姿を見て逃げ出す足と同様にすごく迅い。私はこの和尚から机を貸してもらい、おはぎを貰い、柿を貰い、馬鈴薯《ばれいしょ》を貰った。僧侶くさみの少しもない闊達な老人で、ここから十里あまりへだてた温海という温泉場では、この和尚のことを、ああ、あの名僧かと人はいう。ところが、私の今いるここの村では、僧侶臭のないところが有難味がないと見えて、悪くは云わぬが、にやにやと笑うだけだ。従僕に英雄なしというゲーテの言葉ならずとも、傍にいるものには、いかなる傑物も凡人に見える作用をここでもしている。一里ごとに変っている和尚の自由な行動に対する世間の批評は、円周の外波の響ほど真実であるか。人は死ねば、その彼の伝うる響は、距離とは違い、時とともにまた異なるだろうが、結局、人の存在価値は、傍にいても分らなければ、外にいても分らない。時たってもまた同様だ。小空、中空、大空、空空、無空、というような言葉は、徹底するとついに天上天下唯我独存、(尊ではない)存すというところに落ちつくのも、菅井和尚の釈迦堂の釈尊の首一個の存在がよく語っているようだ。そういえば、釈迦が天上天下唯我独尊と唇から発した日は、十二月八日だった。太平洋戦争も同一の日だが、まもなくその日はやって来る。

 十一月――日
 預金帳が無事に着いた。四月から半年以上も行衛不明で、東京の銀行の方を調べて貰うと、銀行の女事務員が今まで握り潰していたということが判明した。何事にも腹を立てないということは、要するに堕落しているのだ。しかし、どこへも私は怒りようがない。せめて家族の者を温泉へでもつれて行ってやりたくなって、急にこの日の土曜を利用し温海へ行くことにした。次男の方がまだ学校から戻らず、やむなく三時まで待ったがそれでも来ない。長男に、それでは明日後から次男をつれて来るように※[#「口+云」、第3水準1-14-87]咐《いいつ》け、私は妻と二人で先きに立つことにした。
「何んだか、子供から逃げて行くようですわね。」
 と妻はしょんぼりしていう。
「たまにはいいだろう。温泉行きも十年ぶりだからね。しかし、宿屋はやっているかどうだか分らないから、それが少少心配だ。」
 駅まで泥路を跳び跳び行くのにも二人は何となく気も軽くなったが、降ったりやんだりしている雨の中で、開業不明の行く先きの宿を思うと少し無謀だったかと思う。それでも子供たちから逃げて行く感情は、妙に捨てがたい新鮮なものがある。
「今日は悪る親だねどっちも。」
「そうね。何だか、おかしいわ。」
 金錆汁の流れ出た駅までの泥路も、二人で逃げるのだと思うとそんなに遠くはないものだ。醤油と味噌と米とを下げているのに、それもそんなに重くはない。
「残った二人は、鬼のいない間の洗濯で、今夜はさぞ凱歌をあげることだろうな。」
「そうよ、嬉しくってたまらないでしょうきっと。」
 上り汽車はすぐ来たが非常な混雑だった。そこへ無理に捻じこむように妻を乗せ、遅れて私が乗ろうとすると、中から私の脇腹を擦りぬけて一人跳び出て来た小僧がいる。見ると次男だった。背後から肩をぴしゃりと一つ打って、
「おいおい。」
 跳び降りた次男は振り向いたが、そのときもう発車し始めた。
「おい。明日来るんだよ。」と私は云った。
 温海行をまだ知らぬ次男は何のことか分らぬらしくプラットに突き立ったままこちらを見ている。混雑と汽車の音で聞えぬらしい。顔が蒼くなっている。
「来るんだよ明日。」
 またそう云っても一層子供には聞えぬ風で、汽車は離れていった。

 温海へ着いたのは五時すぎだった。バスはどれも満員でやっと来たのは故障だ。雨の中をまた二人で歩いて滝の屋まで行った。もう真暗だった。この宿屋は戦前私たちは毎夏来たのだがそれから十年もたっている。私はこの温泉が好きで何度も書いたことがあるのに一度も名を入れたことがない。戦争で定めし荒れたことだろうと思っていたが、今さきまで海軍の傷病兵の宿舎にあてられて満員だったのが、今朝から開放されて空だということであった。部屋も川添いの良い部屋があてられた。
「あなたさん方が初めてのお客さんですよ。運の良いお方です。」
 と、主婦は云う。この主婦とも十年も見ないが一向に年とった模様はない。ともかく良かった。疲労でぐったりした上に空腹で動けない。薬品の匂いがぷんとするのでよく見ると看護婦部屋だったらしい。婦人の好きそうな覚悟を定めた和歌二三首が短冊で壁に貼ってある。妻がすぐ湯舟へ降りて行った間、服を脱ぐのも面倒でひとり火鉢に手を焙《あぶ》っていると、そこへもう電話があった。座談会をこれからすぐやるので是非出てくれとの文化部からの交渉である。宿へ坐ってからまだ十分もたっていないのに忽ちこれだ。佐々木邦氏が見えているので是非とのことだが、この今の場合のおつき合いは苦しく、夫婦揃って初めての夕食さえ出来ない歎息が出る。そこへ文化部の人が直接来てまた督促が始まった。「鶏を潰したのですよ。それを御馳走しますから――もう間もなく煮えるころでしょう。ひとつ今夜は、思うこと云いたいこと、何んだって云える時代になりましたから、云いたい会というのですよ。」
「云いたいことが、あんまり云えて、何も云えないでしょう。」
 と私は苦笑した。結局、この人にその場から引き立てられ連行された。湯から上って来た妻はぼんやりと見ているだけだ。今日の昼間、子供がプラットで私を見てぼんやり立っていたのと同じ表情だ。

 この座談会ほど馬鹿げた座談会に会ったのは初めてだが、それが一種の面白さだったというべきものも、またあった。
「今夜は鴨が来ましてね、急に夕暮から一羽の鴨がやって来て――」
 文化部の人の紹介の後、私は広間の寒い一隅に坐らせられ、この町のある医者の科学談を聴衆と一緒に聴かされつづけただけである。
「先日も岩波茂雄君が東京から私のところへ来ましたが、君のその話は面白いから、是非書けとすすめてくれました。」と医者は名調子で聴衆に対い、自分の原稿を立って読み上げる。およそ一時間、でっぷり太った栄養の良い赭顔で、朗朗たる弁舌の科学談だ。酔っている。とにかく人は今は酔いたいらしい。酔えるものなら何んであろうと介意《かま》ってはいられぬときかもしれない。
「浜の真砂は尽きるとも、真理の真砂は尽きぬであろうと云ったニュートンの偉大さ。あのニュートンは――」
 百人ばかりの聴衆は私と佐々木氏とに気の毒そうに黙り、しょぼしょぼ俯向いているだけだ。私はいつかこの医者が、盲腸患者の腹を切開したとき、鋏を腹の中へ置き忘れたまま縫い上げて、また周章てて腹を破ったが死んだという話を思い出した。これはこの地方で有名な逸話である。浜の真砂とひとしい多くの追憶の中に一粒の毒石があるなら、真砂の浜は血で染っている筈だろうが、科学上の磊落《らいらく》な過失というものは、東洋人、殊に日本人は滑稽な偶然事として赦す寛大さを持って生れているのかもしれない。この医者は流行している。
 会が終ってから、私を連行して来た人は私にこう云った。
「東北人というものは、どうしてこう馬鹿なんだろうか思いますよ。だって、東条、米内、小磯と三代も、一番馬鹿な、誰もひき受け手のないときに担がれて、まんまとその手に乗せられて総理大臣になる阿呆さ加減というものは、あったもんじゃありませんよ。みなあれは東北人だ。」
 私はまたそれとは別のことを考えていた。誰も逃げ廻るところを引き受けた誠実さを認めずに、他のどこをあの人人から認めようとするのかと。しかし、これは今後の問題でむずかしくなることの一つである。誰からも一大危機と分っているとき、逃げ廻る狡猾さと坐り込む諦念と。危機でなくともこれは毎日人には来ていることだ。今夜も私は襲われて鴨にされ、こうして十年目に巡って来た一刻の夫婦の夕さえ失った。宿へ帰ったときは妻はもう寝ていたが起きて来た。
「どうでした。今夜のここのお料理は、それはおいしかったですよ。」
「僕の方は、あの有名な医者が出てひとり演説だ。おれはあの人の科学談を拝聴しに行っただけだよ。」
 あの医者といえばもう分る。
「ああ、あの人ね、あの人ならそうでしょう。鶴岡にむかしいた人ですの。ほら、お腹の中へ、鋏を置き忘れたという人。」
 妻もすぐ思い出したと見え、そう云ってくつくつ笑った。妙な人気である。しかし、宿へ帰ってこうして落ちついてみると、不思議な面白さが湧いて来るのを覚え、後が愉快だった。実に田舎らしい頓間な空気の中に溶けこんだ、あの医者の粗忽な逸話の醸す酔いのためかもしれない。

 十一月――日
 子供たちは正午ごろどやどやと部屋へ這入って来た。すると、もう服を脱ぎにかかって湯へ飛び込む。先ず一ぷく、などということのないのが、ぴちぴち跳ねる鱗の周囲にいるように感じて、私の一ぷくが一層休息らしく思われて来る。久左衛門の妻女が持たせてくれたという食用の黄菊の花を沢山袋につめて来たので、温泉の湯口の熱湯で茄でて食べる。妻は番頭が持って来た新九谷の茶器の湯呑が気に入ったといっては、それを眺めてばかりいる。
「あたし、このお茶碗を見にだけでも、もう一度ここへ来たいわ。いいこと。ほら。」
 久しぶりに美に接した慶びでためつすがめつしているが、私は火鉢の炭火の消える方が気にかかった。昨夜文化部からお礼に届けてくれた酒一升も、もう酒を飲まなくなっている私には興少く、誰かこの酒と煙草とを交換してくれる客はないものかと、番頭に訊ね廻らせてみたが駄目だった。ここでは酒よりも煙草の方が少いと見える。午後から冷えて来て寒い。

 十一月――日
 朝の十一時のバスで帰ることにした。妻はまだ宿の湯呑茶碗と別れることを惜しがって、立ちかねているのが、おかしくあわれだ。
「こっそり一つ譲ってくれないものかしら、東京にだって、こんなのないわ。」
 掌の上へ載せてみては、買えるものなら幾ら高価でもいいと呟いている。
「譲ってくれないなら、一つだけこっそり貰って帰ろうかしら。」
「おいおい、盗るなよ。」
「まさか。」
 ふざけて、そんなことを云ってみたりまでしているが、私にはそれほど魅力もない茶碗だ。妻はやっと部屋の隅へ五つ揃えて茶碗を片づけてから、
「さア、行きましょう。」と云って立った。
 バスの待っている方へ歩きながら、私は、まだそれほど一つの茶器に執心する感動を失ってはいない妻から、ある新鮮な興味を覚えて、妻とは別の感動に揺られていた。私はまだ長い疎開生活中それほど執心したものは一つもなく、僅に村里の人人の心だけ持ち去りたい自分だと思った。しかし、これで私は、今まで会って来た多くの人人の心をどれほど身に持ち廻っているかしれないと思った。自分という一個の人間は、あるいは、そういうものかもしれないのである。自分というものは一つもなく、人の心ばかりを持ち溜めて歩いている一個の袋かもしれない。私の死ぬときは、そういう意味では人人の心も死ぬときだと、そんなことを思ったりしてバスに揺られていた。このバスはひどく揺れた。一番奥まった座席にいるので押し詰った人の塊りで外が見えず、身をひねってちらりと見ると、外では、高い断崖の真下で、浪の打ちよせている白い皺に日が耀いていた。屈曲し、弾みがあり、転転としていく自分らのバスは、相当に危険な崖の上を風に吹かれて蹌踉《よろ》めいているらしい。
 水沢で降りたのが二時である。小川の流れている泥路に立って、そこで四人が握り弁当を食べることにした。指の股につく飯粒を舐めて、一家をひき連れた漂泊の一生をつづけているような、行く手の長い泥路を思うと、ここで荷を軽くして置く必要があったからだった。
 どの田の稲も刈られている。見渡す平野の真正面、一里の向うに私たちの今いる姿の良い山が見える。そこまで一文字の泥路を歩くのだが、三日も見ないとやはりもう懐しくなっている荒倉山である。位のある良い山の姿だと思った。

 十一月――日
 朝起きて炉の前に坐った。ふといつも眼のいく山の上に一本あった楢《なら》の樹が截られてない。百円で売れたのだという。もう渡り鳥の留るのも見られなくなることだろう。

 夕暮から薄雪が降って来る。洗いあげた大根の輪に包まれた清江がまだ水の傍に跼んでいる。どの家も大根の白さの中に立った壮観で、冬はいよいよこの山里に来始めたようだ。背をよせる柱の冷たさ。二股大根の岐れ目に泌みこむ夕暮どきの裾寒さ。

 十一月――日
 見知らぬ十八九の青年が来たので、留守をしている私が出た。身だしなみの良い、眼が丸く活き活きした青年だ。私は用を察し奥から借用の洋傘を持って来てみた。
「これでしょう、家のものがお借りしたの。どうも、どうも。」
 先日、駅から雨の中を傘なしで妻と子供が帰って来たとき、後から来た見たこともない青年が、絹張りの上等の洋傘を渡した。そして、さして行けといってきかないので借りて来たが、名をいくら訊ねても隣村のものだというだけで云わない。傘は自分の方から取りに行くといって私たちの住所だけ訊ねたということだった。今どき知らぬ他人に名も告げず、上等の洋傘など貸せるものではない。この青年の眼には、そんな危険を逡巡することなくする立派な緊張があって、美しく澄んでいる。私から傘を突き出された青年は、「そうです。」と云っただけで、名を訊ねても答える様子もなく、ようやく、「松浦正吉です。」と低い声で云うと、礼など受けつけず、すぐ姿が見えなくなった。文明を支えている青年というべきだ。間もなく東京へ帰ろうとしている私には何よりの土産である。私がもしこの青年に会わなかったなら、東北に来ていて、まだ東北の青年らしい青年の一人にも会わなかったことになる。健康な精神で、一人突き立つ青年があれば、百人の堕落に休息を与えることが出来るものだ。

 夜から雪が積った。

 十一月――日
 鳥海山も月山も真白である。東北に雪の降るのを見るのは私にはこれが初めてだ。もう長靴がなくては生活が出来ない。午後、菅井和尚が見え、釈迦堂で農会の人たちと座談会をしたいから出席せよとの事だ。私は承諾してから松浦正吉君について和尚に訊ねた。正吉青年は横浜の工場から帰国後、村の因循姑息な風習を見て慨歎し、何とか青年の力で村を溌剌たらしめたいと念じている一人だとの事だが、どこから手をつけて良いのか企画の端緒が見つからない。和尚も青年たちの情熱には大いに賛成らしく、このままあの青年たちを腐らせたくはないという。
 和尚の帰ったあとで、参右衛門は、青年たちの新しい意気についてこういう。
「あんな、十九や二十のあんちゃんら、何にやったて、駄目なもんだ。ふん。」
 これは五十歳前後の年齢線のいうことだが、村では、五十歳の壮年でも実権は彼らにはなく、先ず六十歳から七十歳の老人連で、それも村一番の地主の弥兵衛の家の、八十になる長老一人にあるらしい。
「あの人がうんと云わねば、何一つ出来やしない。他のものらは、一升でも二升でも、ただ余けいに取ろうと思うてるだけなもんだ。その他のことは、何にも分りやせん。」
 落葉の降り溜るように、それはそのようになってきたものがあったからだろう。その他のことを要求するには、正吉青年のようにするだけのことをしていこうとしなければならぬ。私の妻に洋傘を貸したのもその発心の顕れであろうが、たしかに日常時のこのような些細なことから初めて落葉は燃え、土壌は肥料を増していくのだ。

 長老のこの弥兵衛の家の中は混乱している。妻女は後妻だが、私のところへこの婦人は魚を売りに来ることがある。前には由良の利枝と同村で料亭の酌婦をしていたのを、長老の漁色の網にひき上げられて坐ってみたものの、一家の経済の実権は六十過ぎの先妻の息子にあるから、こうして由良から魚を取りよせひそかに売り貯えているらしい。一見しても、格式ある立派な老杉が周囲をめぐっていて、神宮のような建物の長老らしい家である。そこから隠れて魚を売りに出て来る後妻の、でっぷりと肥えた皮膚の下に、むかしの生活の澱《よど》んだ憂鬱な下半白の眼は、幸福ではなさそうだ。長老はまた後妻の代りのも一人立てている風評も、杉木立の隙から私らの耳にもれて来ている。参右衛門の末の娘はこの家に奉公しているが、前には、弥兵衛と同格の名門であった彼のこの没落には、人の同情を誘ういたましいものはない。むしろ、人を失笑せしめる明朗なものがあって、そこが参右衛門の味ある人柄というべきところだろう。
「何んという阿呆かのう参右衛門は。遊んでばかりいて、飲んだくれて、家をこんなに潰してしもて。」
 叔母にあたる久左衛門の妻女のお弓がこういうのも、言葉の裏の対象には、いつも弥兵衛の家が隠れている。祭日には参右衛門の末の娘はここから自分の家へ帰って来る。そして、餅など食べているのを私はよく見るが、今夜は家で泊って行きたいと娘が云うときも、
「お前は奉公してるんだからのう。やっぱり、大屋さんへ帰って寝るもんだ。良いか、今夜は帰れよ。」
 と、参右衛門はこう静に娘をさとしている。娘は泣き顔で戻って行くが、負けん気の参右衛門も、このようなときは、さすがに声は低く娘に詫びを云うように悄気ている。殊に、後三四日もすれば、別家の久左衛門の十九のせつ女の結婚式が迫っているからには、十七の自分の娘の身の上も、そろそろ考えてやらねばなるまい。私は出来る限り、同じ金銭を落すものなら、ここの家へ落して帰りたいと思っているのだが、
「おれは金はいらん、あんなものは――」
 と、久左衛門への対抗か、むかしの旦那風の名残りは、手出しの仕様もない。実際、金を少しは欲しがってくれる人間もいてくれねば、不便なことが多くて困るものだ。私たちはこの参右衛門の家にいて、まだここから一升の米さえ買っていない。無論、貰ったこともない。

 十一月――日
 突然のことだが、意外なことが起って来た。東京から農具を買い集めに来た見知らぬ一人の男が、参右衛門の所へ薪買いに来て、東京へ貨車を買切りで帰るのだが、荷の噸《トン》数が不足して貨車が出ない。誰か帰る者の荷物を貸す世話をして貰いたいというのだ。そこで私たちにその荷の相談があった。その客というのは、私も知らないばかりか参右衛門も知らない。まったく知らないその男の荷として、私の荷物を送る冒険譚になって来たのだ。しかし、このような雪ぶかい中から私らが動き出すためには、こんな唐突なことでもない限り容易に腰は上りそうもない。先ずその客という人間にひと眼あい、私は人相で決めたいのだが、荷を積み込む日は後三日の中だという。

 しかし、私にはまた妙な癖があって、人の運命というものは人から動いて来るものだと思えないところがいつもあるのだ。もう、そろそろ帰らねばならぬときだと思っているときに、まったく偶然こんな好都合な話が持ち上って来たということは、人よりもその機縁の方を信じる癖で、私はもう客の人相よりそれ以前の事の起りの方に重きを置いて考えている。これは、ひょっとすると荷を動かしてしまいそうだという気がする。何ものにも捉われぬ判断力というものは有り得るものかどうか。私は自分の癖に捉われている。これは生理作用だ。
「その薪買いの客という男を、お前は見たのか。」と私は妻に訊ねた。
「一寸見ましたわ。」
「信用は出来そうか。」
「そうね。悪い人ではなさそうでしたね。でも、何んだか、そわそわばかりしていて、ちっとも落ちつきがないんですのよ。何んだってあんなに、そわそわばかりしてるんでしょうかしら。それが分らないんですの。」
「じゃ、人は善さそうなんだね。」
「ええ。そんな変なことしそうな人じゃありませんでしたわ。」
 よし、会おう。明日もう一度来るという。そろそろ荷物の整理をし始めるよう私は妻に頼んだ。このような渡りに船のことを、むかしは仏が来たと人人は思ったものだが、そう思えば、明日この人に会うのが私には楽しみだ。私もこの地のようにだんだん鎌倉時代に戻っているのであろう。

 十一月――日
 十時に例の客が蓑を着て来た。私のこの仏は、三十過ぎのビリケン頭をした、眼の細く吊り上っている、気の弱そうな正直くさい童顔の男であった。大きな軍靴を穿いているところを見ると復員らしい。円顔で、おとなしい口もとが少し出ていて、疑いを抱かぬまめまめしい身動きは、なるほど、こんな仏像は奈良や京都の寺でよく私は見たことがある。炉に対いあっている間も、私に見詰められるのが辛そうな様子で、絶えず横を向いて話している。
「これから東京への土産に荷車を買いに行くんですよ。それから羽黒へ行って、帰ってから大山へ廻って――何が何んだかもう分らない、急がしくって――」
 こういうことを云うときも、そわそわし、ひょこひょこしつづけている。客の今日一日に歩き廻る円囲を頭に泛べてみても十五里ほどの円だ。私はこの人を仏だと思ってみていることが、何んだか非常に面白くなって来たようだ。
「一日で出来るのですか、そんなこと。」と私は訊ねた。
「この間まで兵隊へ行ってたものだから、まア、こんなことはね。東京へ帰って百姓をしなくちゃならんものだから、農具を買い集めているんですよ。なかなか無くってね、それに有っても高いことをいう。」
 とにかく、生れはこの近村で自分は養子であること、養父が火燧崎に来ているから、一度荷物の相談をその人としてくれと客は私にいう。菅井和尚から貰った小豆餅《あずきもち》を出すと、喜んですぐ食べた。積みこむ荷の整理から買い集めまで一切この人一人でやるらしく、瞬時の暇もないらしい多忙さは気の毒なほどである。
「私は荷と一緒に東京へ帰りますが、またすぐ、もう一ぺん引き返して来るんですよ。」と客はいう。
 この混雑の列車の中を、帰るだけが私にやっとだが、この人は、私のやろうとすることの十数倍のことをやろうとしている。帰って行くときのこの客の後姿を見ていると、横っちょに引っかけた蓑が飛ぶような迅さだ。あれなら十五里は今日中にやれそうだと思った。

 私は小一里もある野路を火燧崎まで出かけた。山裾の入り組みが田の中へ複雑な線で入り浸っている。行く路はそれに随い海岸のように曲りうねっていて、霙《みぞれ》の降っているその突端の岬に見える所が火燧崎だ。このあたりは古戦場だから多分ここから火を打ちかけたものだろう。家の一軒もない泥田の中に、ぼつりと一つ農家があり、それが温泉宿で、一ヵ月も水を変えない沸し湯のどろどろした汚れ湯が神経痛によいという。泥のような中から裸体の農婦の背中や腰が白い肌を見せている。そこの勝手元に私の訪ねる人は、どてらを着て炉の前に坐った六十過ぎの男であった。眼のぎろりと大きい、養子とは反対の太っ腹なむっつりした男で、垢と泥とでどす黒く見える懐の中から、すっきりとした外国製の煙草を一本抜き出した。悪く見ると山賊の親分で、善く見ると大道具の親方という風貌だが、向うも相手を誤ったと思ったらしく、不機嫌な様子で押し黙っている。背景の宿が宿で、私はまだこんな温泉宿というものを見たことがない。泥宿めいた混雑の中にこうしている男が、私の荷主になるのかと思うと、少し私も躊躇した。誤れば私の財産の半分はこれで失うのだ。
「荷物が東京へ着いてから、私の家まで運送するのが面倒で、それに困っているのですがね、運送屋をお世話願えませんか。」と私は云ってみた。
「ええ、しましょう。」と、一言ぼつりという。
 それだけだ。一つ東京の住所をここへ書いて貰いたいと私は云って手帖を出した。男は鉛筆を受けとりすらすらと名と住所とを書きつけた。意外に良い字だ。悪い男はこのような字を書けるものではない。私は多少それで、この男は見かけによらぬ善良な人物だと信用する気になった。
 貨車賃を等分にし、駅までの運搬その他、必要事項を定めるときにも、
「貨車賃は要りませんよ。どうせ、わたしの方は送るついでですから。」とそう男がいう。
 炉の中で枯松葉が良い匂いを立てている。その匂いがまた善かった。私は帰ろうとして立ちかけると、
「米は?」と男は訊ねた。
「米は入れてないですよ。」
「どうして?」いぶかしそうにまた訊ねる。
「買う暇もなし、何とかなるでしょう。」
 男は前にいる宿の主人と顔を見合せて黙っていた。貨車に荷を積み込むときや、着いてからまた荷別けのとき、その他私らの立会いでするべきことも、皆私はしないつもりであるから、荷の目標《めじる》しをしておかなければならぬ。
「荷の着くころ私は東京へ行ってるつもりですが、ひと先ずあなたのお宅へ私のも預けてもらえませんか。それでないと、東京の方の運搬事情は、終戦後どうなっているか、さっぱり僕には分りませんからね。」
「そうしときましょう。」
 これも不安なほど簡単だ。とにかく向うにとってはどうでも良いことばかりだが、私にとっては運命のある部分を賭けたようなものである。乗ったが最後ひき摺られ通しは私の方だ。しかし、人の人相は戦争でみな悪くなっているので私は字の方を信用する。これなら私はあまり今まで間違ったことはない。

 薄雪が沼の上に降ってくる。私は自分の荷物を失うまいとして、人を仏と見ようとしている自分の利己心について、沼の傍の路上を歩きながら、ときには利己心も良いものだと思った。もし私にこんな利己心がなかったら、一生、人をただの人間とばかり思いつづけたかもしれない。それにしても、人間を人間と思うことは誰に教わったことだろう。そして、これがそもそも一番の幻影ではないのか。自分というものが幻影で満ちているときに。まことに、我あるに非らざれど、という馬祖はもうこれから脱け出ている。しかし、私はこの幻影を信じる。二者選一の場合に於ても、つねに私は自分の排する方に心をひかれる小説家だった。たしかに私は賢者ではない。万法明らかに私の中にも棲みたまう筈だのに、私は愚者にちかい。
 断《き》り通しの赭土の傍に立って私は火燧崎の方を振り返ってみた。僧兵の殺戮し合った場所は、あのあたりから、このあたりにかけてであろうが、念念刻刻死に迫る泥中の思いにも薄雪はこうして降っていたことだろう――

 十一月――日
 荷は十一包みも出来あがった。参右衛門が縛りあげてくれたものだが、日ごろの習練が効きすぎどれも米俵のようになる。
「じゃ、あたしたちも、いよいよ帰るのね。」
 妻は荷を見ながら名残り惜しげだ。喜んでいるのは子供らだけである。私もさみしい気持ちでがらんと空いて来た部屋の中を見廻した。鯉もふかく水中に沈んでいる。
「毎年いくら飼っても盗まれるんだが、今年はお前さんたちがここにいるので、鯉も盗まれずにすんだのう。」
 と参右衛門は云って喜んだ。彼は私の注文した薪を取りに山へ清江と二人で出かけて行く。東京の留守宅から手紙が来た。食い物の入手の困難なこと、強盗がさかんに出るので帰ることを見合すようにと書いてある。もう遅い。しかし、妻はその手紙を見て急に恐怖を覚えて来たらしい。
「いやね。東京強盗ばかりですって。」
「しかし、もう駄目だ。」
「火燧崎の人、どんな人でしたの。大丈夫かしら。」
 東京から来ているということで、火燧崎まで強盗に見え出して来るのも、今は輸送の安全率が皆目私らには見当がつかぬからだ。現に預金帳の握り潰しで半年以上も苦しめられた直後である。その無政府状態の真っただ中へ、見も知らぬ人の荷物として投げ出すこれら私の荷の行衛については、考え出せばきりなく不安だ。一点たりとも安心出来る部分はどこにもない。しかし、疑心群れ襲って来る怪雲のごとき底から、じっと澄み冴えて来るのは正しい彼の書体であった。それだけは、打ち消しがたくしっかと何かを支えている。篆刻のごとき美しさだ。あれが生の象徴だ。私は東洋を信じる。日本を信じる。人みな美し、とそう思った。
「大丈夫だよ。この荷物は無事に着く。」と私は云った。
「そうかしら、でも、一つ無くしてももう買えないものばかしですのよ。」
「いや、大丈夫だ。」

 久左衛門が来た。そして妻にこう云う。
「せつの結婚式が明日なもので、急がしゅうて来れなんだが、何んでも、お前さんたち知らぬものに荷物を頼んだいうことだでのう。心配で見に来た。そんなことはせん方がええぞ。せっかく今までおれはお世話して来て無事だったのに、今になって危いことがあっては、おれも困るでのう。」
 とにかく、急なことで一言の相談もせず荷を造ったことは、重重失礼したと妻は詫びを云った。私はまた彼にそんなことを云い出せば、せっかくの参右衛門の好意をもみ消しそうで、この二人の間に挟まれての行動は、目立たぬところでうるさいことの多かったのも、今までから度度感じていた。
「うまくいけば良いがのう。おれも知らん人間だぜ。大切な品物は出さん方がええ。参右衛門も知らん男だというから、どうしたことでそんなことするものかと思うて、それが心配での――」
 たしかに久左衛門のいうことは道理である。このこととは限らず、私たちを彼はひどく愛してくれており、特に私に示してくれた彼の愛情にはなみならぬものがある。

 人を見ると、直ちに自分の利益になる人間かどうかを直覚して、それから人を世話するのが久左衛門の悪癖だと、隣人からそんな批評を浴びせられているのも私は知らぬこともない。参右衛門が私たちに冷淡な様子を示すのも、久左衛門への礼儀もあるであろうが、反感もこれでないとは限らない。しかし、人を見て、打算に終る人物としてみても、久左衛門は少し私は違っていると思っている。彼の打算は彼自身の生活の律法で、その神聖さを彼とて容易に犯すことは出来ぬ。しかし、久左衛門にとっては愛情はまた律法とは自ら別物に感じているところがある。用談の際の駈け引き、応対の寛容、瞬時に損得を見極めたリズムある美しい要点の受け応え、不鮮明な認識の流れはそのまま横に流して朦朧たらしめる訥弁《とつべん》で、適度の要領ある次ぎの展開の緒を掴む鋭敏な探索力など、彼の政治力は数字と離れて成り立たないものだ。それも緩急自在な芸術性さえ備えている。その稀な計算力の才腕には、たしかに天才的なところがあって、周囲のものにはただ打算に見えるだけの抜きん出た悲劇性さえ持っている。
「おれの悪口をみなは云うが、おれが死ねば何もかも分る。」
 こう久左衛門が云うところを見ても、彼なら、分るようにしてあるにちがいあるまい。彼は、この村で農業というものにうち勝った唯一の人物だ。その上、私に神のことさえ口走ったのは打算でいう必要などどこにもない。まさか神まで私に売ろうとは彼とて思ってはいなかろう。
「神は気持ちじゃ、人の気持ちというものじゃ。」
 六十八年伝統との苦闘の後、ついに掴んだ久左衛門の本当の財宝はそういうものであったのだ。後はただ死ねばもう彼は良いのだ。

 十一月――日
 雪が舞っている。私の荷の出る時間が迫って来た。結婚式のある久左衛門の裏口から出て来た参右衛門は、袴をつけたまま、荷物を荷馬車の上に舁《かつ》ぎこんだ。馬子が手綱で一つひっ叩くと、鬣《たてがみ》を振り上げた馬は躍り上り、車が動いていった。私の荷は薄雪の中に見えなくなった。人より荷の方がつよく生きぬいて来たように見えるのは、どうしたことだろう。私は雪の中に立って轍の音の遠ざかるのを淋しく聞きながら、家の中へ這入った。

 せつの式は新庄の婿の家で挙げられている。久左衛門の宅では留守式で、清江や私の妻は手伝いに行ききりだったが、夜になって、祝いが崩れ、乱酔した参右衛門の声が炉端から聞えて来た。妻や子供たちは恐れをなして早くから寝た。酒乱癖の彼の酔った夜は、清江はあたりの物をすべて取り片附けて傍へは近よらない。鉄瓶《てつびん》、薬鑵《やかん》、どんぶり鉢、何んでも手あたり次第に清江に投げつけ、「出て行け、帰れ。」といいつづける参右衛門の口癖も、今夜は結婚式で上機嫌に歌を謡っている。袴をつけた大きな顔をにこにこさせ、暫く皆を笑わせてはいるが、後はどうなるものか分らない。
「参右衛門が酔ったら、そっと座を脱して下されや。恐ろしい力持ちじゃ。おれはあれから殴られた殴られた。」
 と、こう私に注意した久左衛門のこともある。子供たちが参右衛門の下手な歌を面白がってときどき蒲団から頭を上げるが、
「そうら、来るわ。」と妻に云われると、ぺたりとまたすっ込む。
 しかし、隣家が結婚式だと思うと、誰でも自分らのそのときの事を思い出す。おそらく参右衛門の酔いにも、清江の幻影が泛んだり消えたりしていることだろう。二人は同級生で、卒業式の写真の中に一緒に二人の写っていたのを私も見た。
「これ、こ奴がおれの女房になろうとは、思わんだのう。それに、こ奴が――」
 そう云っては幾度も突ッついた跡が、写真の清江の顔にぶつぶつとついている。家を飲み潰し、妻子を残して樺太へ出稼ぎに十年、浮き上ろうにもすでに遅い、五十に手の届いた私と同年の参右衛門の幻影は、節の脱れた鴨緑江節に変っている
「朝鮮とオ、支那とさかいの、あの、鴨緑江オ――おい、おいお前もやれよ。やれってば――」
 足をばたつかせて清江にいう参右衛門も、ここの炉端で一人児として生れ、旅をして、またもとの生れた炉端で前後不覚に謡っている。暴れようと投げようと、人の知ったことではない。どう藻掻こうと鍋炭のかなしさは取れぬのだ。外では雪が降っている。
 深夜になってから参右衛門は寝室へ這入った。そこは私の寝ている部屋と杉戸一枚へだてているだけで一層私に近くなった。彼の足の先は私の頭のところにありそうだが、寝てくれて静まったと思うと、またすぐ彼は歌を謡い出した。それも炉端のときと同じ歌のくり返しで私は眠れないが、同年のおもいは年月の深みに手をさし入れているようで、彼の脈の温くみが私にも伝わって来る。
「もっとやれ、いいぞ。」と私は云っている。
 自分らの青春の夢は、明治と昭和に挟み打ちに合った大正で、以後通用しそうなときはもうないのだ。
「朝鮮とオ、支那の……流す筏《いかだ》は……おい、お前やれよ、おい、やれってば。」
 呂律《ろれつ》の怪しい歌を一寸やめては、参右衛門は清江の枕を揺り動かすようだ。それが二三度つづいたときだった。
「おおばこ来たかやと……
 たんぼのはんずれまで、出てみたば……」
 清江の歌が聞えて来た。彼女の眼のような、ふかい穏かに澄んだ声である。それも、もう羞しそうではなかった。参右衛門は、よもや清江が歌うまいと思っていたらしく、この予期に反した妻の歌には虚を衝かれた形で、暫くは彼も音無しくしていた。が、「うまい、うまい、うまい。」と、急に途中で云って彼は手を叩いた。しかし、もう清江は、そんなことなどどうでも良いという風に、
「おばこ来もせず、用のない、
 たんばこ売りなど、ふれて来る。」
 おそらく清江の歌など聞いたのは参右衛門も、初めてなのではあるまいかと、私は思った。およそ歌など謡いそうに思えぬ清江である。清江が謡いやめると参右衛門は自分も一寸後から真似て謡ってみたが、これはダミ声でとても聞けたものではなかった。彼はまたすぐ清江にやれやれと迫った。すると、また清江は謡った。
 夜半のしんとした冷気にふさわしい、透明な、品のある歌声だった。調子にも狂いが少しもなかった。静かだが底張りのある、おばこ節であった。それも初めは、良人を慰めるつもりだったのも、いつか、若い日の自分の姿を思い描く哀調を、つと立たしめた、臆する色のない、澄み冴えた歌声に変った。私は聞いていて、自分と参右衛門と落伍しているのに代って、清江がひとりきりりと立ち、自分らの時代を見事に背負った舞い姿で、押しよせる若さの群れにうち対《むか》ってくれているように思われた。
「うまい、うまい、うまい、うまいぞオ。」
 と、参右衛門は喜んでまた手を叩いたが、暗闇で打ち合わす手は半分脱れていた。しかし、そうなると、謡い終った清江を参右衛門はもう赦しそうになかった。清江は彼にせがまれてまた謡った。
「朝鮮とオ、支那とさかいの、あの、鴨緑江オ――」
 鴨緑江節となっては、参右衛門ももう我慢が出来なくなったらしく、「流す筏は……」その後を今度は夫婦揃ってやり始めた。私もひどく愉快になった。そして、もうこのまま一緒にこの良い夜を明そうと思い、隣室で寝ながら二人の歌を愉しく聞いた。若さがしだいに蘇って来るようだった。

 十二月――日
 雪が積っていてまだ歇《や》まなかった。私は筧《かけひ》の水で顔を洗い終ってからも昨夜のことを思うと、石に垂れた氷柱の根の太さが気持ち良かった。久しく崩れていた元気も沸いて来た。今日の午後から農会の人たちと釈迦堂であうことになっていたのが、それが先日から気がすすまずいやだったのも、よし会おうと乗り出る気にもなったりした。
 私は三ヵ月ぶりに手鏡を前に剃刀をあててみた。刃のあとから芽の出て来る姿勢で、雪にしだれた孟宗竹のふかぶかした庭に対い、私はネクタイの若やいだのを締めてみた。
「いつまでも、こうはしちゃおれぬからね。」
 ふと私は意味の分らぬことを妻に口走った。先からの私の素ぶりで妻は何か察したようだった。
「そうですよ。まだお若いんですもの。そのネクタイはあたしも好きですわ。」
「これか。」
 これはハンガリヤで一人の踊子、イレエネといったが、その娘からいま妻が洩したのと同じような口ぶりで、賞められたことのあるネクタイだった。あのダニューブの夜は愉しく私はイレエネから、手を取られて習ったハンガリヤの踊りの足踏みをつま先に感じ、攻め襲って来るような雪の若い群れを見渡しながら、用意はこちらも出来ている自信で私は穏かになった。そして、いよいよ自分の出番になったと思った。一陣は参右衛門で昨夜は失敗、次ぎが清江でこれは立派な成績、その次ぎが私のこれからだった。眼ざす私の舞台は漠として分らなかったが、それは今日の農会の人の集りのようでもあれば、強盗横行の東京のようでもあり、そのどちらでもない、荒れ狂った濁流の世の若さが、今見る雪の飛び交うさまに見えたりしているようでもあった。

 午後家を出てから長靴で、雪を踏むときも、つねになく私は元気であった。釈迦堂まで行く参道の両側の杉が太く雪の中に幹を連ねて昇っている。石畳のゆるい傾斜の途中に山門が一つあって、左手に谷のように低まった平野が雪で掩《おお》われている。いま私の会おうとしている人たちは、この広い平野全面の村村に設計を与え、実行に押しすすめ、危機に応じる対策を練り、土地と人との生活の一切に号令を下している本部である。私と何の関係もない人人であるが、私はこの健康な人人の意志の片鱗をただ一言覗けば良い。この人たちの私に需めるものは、おそらく批評であろう。それらの人人の失望することは疑いないが、私にはただ利益あるのみであった。

 集りは本堂の北端にある和尚の書院だ。清潔な趣味に禅宗の和尚の人柄が匂い出ていて抹香《まっこう》臭なく、紫檀《したん》の棚の光沢が畳の条目と正しく調和している。正面の床間の一端に、学生服の美しい鋭敏な青年の写真が懸けてある。私はそれを振り仰いで伊藤博文に似た貌の和尚に訊ねると、長男で電信員として台湾へ出征中、死亡の疑い濃くなって来ているとの事である。すでに私は大きな悲劇の座敷の中央にいつの間にか坐っていたのだ。
「しかし、台湾なら、まだ……」
 と、私が云いかけると、
「いや、途中の船でやられたらしいのです。調べて貰いましたがね、もう駄目なようでした。」
 朝からの若やいだ私の気持ちが急にぺたんと折れ崩れて坐った。背面の山のなだれが背に冷え込むのを覚え、襲って来ている若い時代が傷つき仆《たお》れた荒涼とした原野の若木に見えて来た。今さらここで何の批評の口を切ろうとするのだろう。私はもう昨日の深夜、雪を掘り起した底かち格調ある歌を聞いてしまっている。あれが時を忘れた深夜の清江の祈りではなかったか。
 谷間から暗く夕暮れが来て人も揃った。私の横に村長、その横が前村長、順次に左右へ農会の技師、みなで十人ばかりの人たちだが、寒さは寺の畳の冷えからではなさそうだった。公益を重んじて来た老人たちの眼の冴え光っている慎しさに、しばらく部屋が鳴りをひそめ焙《あぶ》る手さきだけ温かい。そのうち膳部が出た。一番悲しみの深い菅井和尚が一番暢気な笑いを立てて、適当な話を出しているが、地平より高く巻き返して来ている災厄の津浪を望んで、目下の方寸誰が何を云えようか。も早や一座の人人は、何もかも知りきっているその後の会話で、今夜は私を慰めてやろうという好意ある会合と分った。
 清酒が温まる程度に出て、刺身、いくら、鳥雑煮、しるこ、等、禅堂の曇らぬ美しい椀と箸の食事となって、切り口を揃えた菜の青いひたし物が雪の夜の歯を清めた。私は本当にこの食事に感謝した。感謝のしるしに何か、と思うと、何もないかなしさに瞬間襲われたが、また胸中駈けめぐって見ても何もない。ほッとそのとき出て来たのが、
「昨夜は面白かったですよ。深夜にね。」
 という醜態になった。ところが、この参右衛門夫婦の短い昨夜の饗宴の話は、ひどく皆を慶ばせた。特に老人たちは一層慶びにほころび、和尚はたいへんな感動の仕方で、
「それは珍らしいお話だ。ふむ、それは良いところを御覧になりましたね、ふーむ。」
 と云うと、それから話に花が咲き始め、座は急に賑かになっていった。

 これらの雑談の中で、いつも黙っていた一人の農業技師だけは笑わなかった。参右衛門夫婦の話は、老人でなければ興趣の薄らぐ種類にちがいないが、若いこの技師の胸中で鳴りつづけていたものは、他にあった。この人は一言何かぼつりと口を開くと、同じことばかりを繰り返した。
「目下農家に行わせることは、ただ一つ、三度の米の食事を二度にして、中の一度だけ何か米より美味いものを作らせ、これを代用にする、そして、一食分だけの米を増やすことですが。」
 技師にとっては、平野を隅から隅まで点検してみた結果の行い得られる緊急の処置は、これだけらしい口調だ。おそらくそうだろう。
「しかし、米に代る美味いものというと―――」
「まア、麦でしょうが。」
「しかし、それは米には敵わぬでしょう。」
「そうだと困るのですが。しかし、まア、それよりありませんから。」
「しかし、現在の状態で、麦にしたって、これより以上の収穫を上げるということは、出来るものでしょうかね。」
「出来ませんね。ですから、一ヵ村につき五町歩平均に新しく開墾させる計画をしております。そして、そこへ麦を植えさせます――」
「五町歩ならどこも可能なわけですか。」
「それは出来ます。」
 具体的な実行案が出来ている以上は、もう中心の話題はこれで済んだことになる。その他の話題は――鹿爪らしく切り出せば、土地整理問題、耕作地の半分は地主の所有地であるこの村の小作状況、それに起って来る経済の問題。そして、これらが日本経済の枠の中から商工業に引摺られ当然に転換せられる世界経済の波の中での浮き沈み、ということなど、予想はどこまでも切りがない。しかし、私の云う可からざることで、ひそかに知りたいと思うことは、まだ生じていない農民組合の卵のことであった。いずれこの村にもそれはちかく発生して来ることだけは確実だ。この組合を作る卵の敵とするところのものは、当然地主の多い今夜のここの集りとなることも必然的なことであろう。それならいったい、それはこの平野の中のどのあたりから発生して来るものだろうか。卵はいつでも自分が卵であることを知らずにいるものだが、おそらく、それはあの傘を私らに貸してくれた、正吉青年たちの集りではなかろうか。いずれにしても、農会が開墾に着手するのもその組合のまだ発生しない今のうちである。
「あなたはこの村を御覧になって、どういうことをお感じになりましたか。」
 いよいよ来た私への最初の老人の質問だった。直せば直る水質の悪さ、絶景を放置してある道路の悪さ、牧畜への無関心さ、など幾らか私にも感想はあった。
「しかし、今は細かいことは、申し上げられないですね。何ぜかと云いますと、私は農業にくらいばかりじゃなく、現在の農業は素人眼にも、抜き差しならぬ集約状態の飽和点に達しているように見受けられるものですから、一ヵ所を改革すれば、全面的に微妙な変化を及ぼしていくのじゃありませんか。しかし、現状のままのとき先ず最初に用いる農具として新しい機械が一つ入用という場合、これはいずれ必ず起ってくる問題でしょうが、ここではどのような機械なものでしょうかね。」
 答えはなかった。私の質問は少し難問すぎるきらいはある。しかし、どんな政府が出現して、どのような革命が来ようとも、遅かれ早かれこの問題だけはさし迫って来ることだ。
「三食を二食にして、中の一食だけ米を抜く、その代りにいま何を作るかということで――」
 と、農業技師はまた云った。これが出ると尤もすぎて話はそこで停止する。実際、今はこの技師の云うこと以外、無益なことばかりだからだ。
「私は役場のものですが、私は文化を農村へ注入したいのですよ。それにはどういうことが良いと思われますか。」と、一人の若い剽悍《ひょうかん》な人が訊ねた。
「それは私からもお訊ねしたいことですが、文化の中のどういうことを、ここの人人が一番求めているのか、それも僕の知って置きたいことの一つです。実は何もそんなものを、欲しいとは思っちゃいないのかも知れないのだし、入らざるものを注入して、やたらに都会化させるということは考えねばならぬと思うのです。いったい、欲しがっているのですか村の人人は。私のいる隣家のお神さんは、休日が二日つづいたら、あーあ、退屈だのうと、独り言いってたですよ。」
「私の文化を注入したいという意味は、つまり、人が団扇《うちわ》を使っているときに、それはただ暑いから使っているんじゃなくて、それは一種の風流なことだと思わせたい、いかにも心に余裕のある、ゆったりしたことだと思わせたい、そういった風な意味なんですよ。」
 なるほど、その表現の仕方は、郷土を愛しているものでなくては云えない深さから出て来ているものだと私は感心した。
「とにかく、それにしても、労働時間が長すぎて、過労している風ですね。働きすぎるんじゃないですか。」
 こう云いながらも、私はわが国の農業は労働教という一つの宗教だと思った。そしてこの神は米だ。西洋の農業は遊牧教ともいうべきもので、この神はあるいは音楽かもしれないと思ったが、それだけは大胆にすぎ私は口へ出すのをさしひかえた。
「アメリカの農業専門家が日本の農業の視察に来たときの感想は、こんなの、これは農業じゃない園芸だといったそうですよ。一本一本手で草をひいてるのを見ちゃ、笑わざるを得ないでしょうからね。アメリカの俘虜に名古屋の一番大きな工場を見せたら、これは工業じゃない手工業だと云ったともいいます。しかし、そういう外国と日本との違いは、農業と工業とに限っちゃいない、何んだってそうです。芝居と演劇との違いだとか、文芸と文学との違いだとか、軍隊にしたって、日本のはあれは宗教でしょう。官吏だって学者だって、美術だって、どういうものか日本のはみな宗教の形をとって、より固ってしまう癖がありますね。戦争に敗けた原因の一つもたしかに、こんな癖が結ぼれあって、各宗派が戦い合った結果かもしれませんよ。敵は自分の中だったのです。」
 私はこう云ってから一寸日本の左翼も宗派の形をとって進行していると思った。科学も文学もまたそうだ。そして、自分はどうだろうか。――
「僕らにしてもそうですが、しかし、宗教の形をとって進んでいることの良い点だってありましょう。宗教なら各団体の理想は何んと云おうと、人を救うということが目的ですから、どんな悪い団体にしたって、根柢にはその理想が何らかの形で流れていると、僕はそんな風に思うんです。ですから今は、道徳が失われたのではなくって、本当の徳念をより建てようとしている姿の混乱だと僕は見ています。実際、皆は苦しみましたからね。」
 ふとそのとき、ここは禅寺だと私は思った。禅では殺すことだって救うことではなかったか。自分を木石と見て殺し、習錬する法ではなかっただろうか。そして、日常人と人とが接した場合、日本人の肉体からどんなに沢山の火花がこの禅の形で飛び散ったことかと思った。またそれは無意識の習慣にまでなっている根の深さを思うと、日本人の不可解さはそこにもあると思わざるを得なかった。皆が黙ってしまったとき、
「参右衛門のお神さん、歌を謡ったのは面白いなア、ふーむ、面白いお話だなア。」
 と、和尚はまたそう云って腕を組んで感心した。私はこの和尚はやはりこれは一種の名僧だと思った。

 私一人は今夜の客であったから、皆より一人さきに座を立って帰った。太い杉の参道はまったくの無灯で長かった。柄の折れた洋傘を杖に、寸余も見えない石畳を探り探り降りて行く私の靴音だけが頼りだった。谷間の雪が幹の切れ目からときどき白く見えていた。
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木人夜穿靴去
石女暁冠帽帰
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 こつこつ鳴る靴音から指月禅師のそんな詩句が泥んで来る。夜の靴というこの詩の題も、木石になった人間の孤独な音の美しさを漂わせていて私は好きであった。石畳が村道に変ってからも灯はどこにも見えなかった。雪明りで道は幾らか朧《おぼろ》ろになったが、踏み砕ける雪の下から水が足首まで滲み上り、ごぼごぼ鳴った。

 十二月――日
 廂の日に耀いた氷柱から雫が垂れている。峠をくだって来る雪路に魚売り娘の来るのが見えると、迅い速度でたちまち私のいる縁側へ現れ籠をどさりと降ろした。妻が今夜東京へ発つ長男に持たせるために魚を買っているところへ、火燧崎が来て荷を無事に発送させたと報告した。その荷を逐うようにして午後四時長男が出発する。駅まで送っていった妻が帰って来てから、「もう大変な混雑ですよ。四時のならあなたお一人では帰れませんわ。」という。
 私の出発は荷の着くころを狙って行くのだが、私は朝の一番にするつもりだ。その汽車だと駅前のどこかで前晩から泊っていなければ、駅までの夜の泥路は通れない。

 夜はまた雪が降って来る。半分に荷の減った部屋の中では、子供の寝床も一つ無くなり隙間が一層拡がった。

 十二月――日
 雪が解けて来た。傾いた村道に水が流れ底から小石がむき出ている。五六日は東京へ帰る準備で私は日を費していたが、さて身を起して出発しようとすると、意外なふかさで自分の根の土に張っているのを感じた。おそらく私はもう一度この村へ来ることはあるまい。そう思うと、石の間を流れる細流の曲りも靴を洗ってくれているようだ。
 私は手荷物を用意してから、竹林の孟宗の節を眺め、降りて来る薄闇の中の山を見ていた。炉端から柴を折る音がしている。どういうものか私は庭の鯉が見たくなって覗くと、夕暮れの石垣の根に鯉は沈んでいてよく見えない。
「久左衛門さんがもうお見えになりましたよ。」と妻が云った。
 黒い釣鐘マントを着た久左衛門が庭に立っていて、もう私の荷物を下げていた。私は炉端へ行って参右衛門夫妻に別れの挨拶をした。参右衛門の丸い膝頭が白くはみ出ている前で、礼をする私の眼から涙が出て来た。炉の煙が低く匐《はらば》い流れている筵《むしろ》へ清江も並んでいる。
「一週間もすれば家内らも立ちましょうから、それまで宜敷く願います。」
 出立といっても、今夜は、久左衛門が取って置いてくれた駅前の蕎麦《そば》屋で私は泊ることになっていて時間を気にする要もなかったが、待っていてくれる久左衛門に私もゆっくりは出来なかった。それに間もなく夜路は見えなくなる。
 私は宗左衛門のあばにも挨拶に廻った。脚絆をつけた嫁が出て来たが、あばは留守だった。外へ出てから久左衛門の長男の所へ私は挨拶にまた行った。由良の老婆も裏口へ出ていた。私が別家の長男に表口から挨拶をしようとすると、裏口に私が皆と一緒にいると思ったらしい長男は裏へ廻った。外で見ている長男の嫁や老婆が表だ表だというと、今度は表へ廻ったらしい。しかし、そのときには私は裏口へ長男の廻っている様子を察してまた裏へ廻っていた。見ているものらには両方が分るので鼬鼠《いたち》ごっこの二人を見て、あはあは笑いながら表だ裏だという。どちらが裏か表か分らず二人はますます困るばかりだった。
 久左衛門は駅までのいつもの路を選ばず、山添いに釈迦堂の方の路を選んで歩いた。少し遠いが路はその方が良いそうだ。天作が毎朝暗いうちから白土を掘り出しに通う路で、また由良から老婆が通って来る路でもある。釈迦堂の下まで来たとき、久左衛門に下で待っていてもらって私一人釈迦堂へ参拝した。堂までの参道を登る石畳は長いが、この良い村を暫くの間私に与えられた好運を私は感謝したかった。
 湿った杉枝の落ちている石畳に靴が鳴り谷間に響いた。もうあたりが暗く、正面の堂の閉った扉が隙間を一寸ほど開けている。観音開きになった扉の厚い合せ目に下から手をかけて引いてみるのに、中から鍵が降りていてかたかた隙間が鳴るだけだった。私は閉ったままの扉の外から拝した。そして、少し戻って来たとき、今どき山中の怪しげな私の靴音を聞いたものか、方丈の戸が開いて間へ和尚の半身が顕れた。
「どなたです。」
 もう傍へよらねば分らぬ暗さの中で、私は黙って和尚の方へ近よって行った。
「ああ、あなたでしたか。どうぞどうぞ。」
 愕いている和尚に、私は立ったままそこで別れの礼をのべて、下で人を待たせてある理由を云ってすぐ引き返した。山際に残った雪が杉の幹の間から白く見えている。その下の村道に、両足をきちんと揃えた久左衛門が前の姿勢を崩さずに立っていた。
 うねうねした泥路を二人が行くうちまったく周囲は見えなくなって来た。彼は馬の蹄の跡を踏むようにして泥を渡って行った。どれも同じように見える刈田ばかり続いた闇夜の底を一本細い路が真直ぐに延びていて、その中ごろまで来たとき、久左衛門はぴたりと立ち停って田を見ていた。
「ここが自宅《うち》の田だ。」という。
「この真暗な中でよく分りますね。」とそう私が云うと、刈り株の切り口で分るものだという。
 久左衛門の妻女が三人田へ児を産み落して死なしたということをふと私は思い出した。中の一人はここの田かも知れない素ぶりで、彼は、闇夜のそこからじっと暫く足を動かそうとしなかった。
「これで、今年の米が出来上るのは、正月を越すのう。」と久左衛門は云う。
 駅までは遠かった。蕎麦屋の清潔でよく拭かれた二階へ上ったときは、夕食ごろをもうよほど過ぎていた。ここでも床の間に戦死した長男の写真が大きな額に懸けてある。その下で二人は火鉢に対き合って夕飯を待ったが、私の行く家家に戦争の災厄の降り下っている点点とした傷痕が眼について、この平野も収穫をすませたといえ、今は痕だらけの刈田となって横たわっているのみだと思った。そう思うと、窓硝子の向うに迫っている闇が大幅の寒さで身にこたえた。
 食事には酒も出た。久左衛門は酔いが少し廻って来ると聞きとり難い口調で、何かひとりぼつぼつこぼしている。
「おれはのう、殴られた殴られた。もうあの参右衛門から、幾ら殴られたかしれん。」二度と私と会うこともなかろうと察しているらしい彼は、過去の忍耐のすべてを呟いてしまいたい口ごもりである。「お前さんも、あの男の傍じゃ気苦労で辛かったでしょうのう。それでも、あの男は人は好い。おれがあの男の別家のくせに、金を儲けたというては、おれを殴るのじゃが、あれは良い男じゃ。」
 久左衛門はこう云ってから今度は、自分の死なした初孫がどんなに利巧だったかということをくどくこぼし始めた。やはり、彼の一番の悲しさは孫を失ったことらしい。次ぎには、私の時間をいつも奪って邪魔したことを謝罪した。
「あんたとお話してると、面白うて面白うて、何んぼう邪魔しようまいと思うてひかえても、面白うてのう、行かずにいると淋しゅうなるのじゃ。おれは、あんな面白いお話は聞いたことがない。」
 彼から一番困らされたことは、たしかに私の方が悪いことを私は認めている。他人の時間を奪う盗人がこの世にいない限り、自分の空間は廻らぬのだ。これについては、私はもっと後で考えることとして彼に酒を注ぎ注ぎお礼を云った。
 十時すぎに二人は寝床を二つ造って貰って寝た。手織木綿の固い雪国の蒲団で重く私は一枚だけはねて寝たが、久左衛門は横になるともう眠っていた。私はいつまでも眠れなかった。駅を通る貨物が来ては去り来ては去っていく。明日一日中私は汽車の中で、夜十二時に上野へ着くとすると、朝までそこで夜明しだ。そして、私が自宅の門へ這入って行くのは十二月八日だった。
 眠れないので私はときどき電気をつけて久左衛門の顔を覗いた。彼は寝息も立てずによく眠っている。見るたびに真直ぐに仰向いた正しい姿勢で、少し開いた口もとの微笑が、「おれは働いた働いた。」といっている。土台の骨が笑っている寝顔だ。戒壇院の最上段から見降している久左衛門の位牌は、こうして寝ている銃貫創の跡つけた彼の額の上に置かれることも、そう遠い日のことではないだろう。そして、私は二度とこの顔を見ることも、おそらくもうあるまい。夜汽車が木枯の中を通って行く。

底本:「夜の靴・微笑」講談社文芸文庫、講談社
   1995(平成7)年1月10日第1刷発行
底本の親本:「定本横光利一全集 第十一巻」河出書房新社
   1982(昭和57)年5月
入力者:kompass
校正:松永正敏
2003年6月12日作成
2005年12月10日修正
青空文庫作成ファイル:
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横光利一

黙示のページ—–横光利一

終始末期を連続しつつ、愚な時計の振り子の如く反動するものは文化である。かの聖典黙示の頁に埋れたまま、なお黙々とせる四騎手はいずこにいるか。貧、富、男、女、層々とした世紀の頁の上で、その前奏に於て号々し、その急速に於て驀激し、その伴奏に於てなお且つ奔闘し続ける、黙示の四騎士はこれである。もしも黙示の彼らが、かかる現前の諸相であると仮定したなら、彼らの中の勝者はいずれであるか。曾て敗北せる者は貧であった。女性であった。今やその隠忍から擡頭せるものは彼らである。勝利の盃盤は特権の簒奪者たる富と男子の掌中から傾いた。しかし吾々は、肉迫せる彼ら二騎手の手から武器を見た。彼らの憎悪と怨恨と反逆とは、征服者の予想を以て雀躍する。軈て自由と平等とはその名の如く美しく咲くであろう。その尽きざる快楽の欣求を秘めた肺腑を持って咲くであろう。四騎手は血に濡れた武器を隠して笑うであろう。しかし我々は、彼らの手からその武器を奪う大いなる酒神の姿を何処で見たか。再び、彼らはその平和の殿堂で、その胎んだ醜き伝統の種子のために開戦するであろう。彼らの武器は、彼らのとるべき戦法は、彼らの戦闘の造った文化のために益々巧妙になるであろう。益々複雑になるであろう。益々無数の火花を放って分裂するであろう。かかる世紀の波の上に、終にまた我々の文学も分裂した。
 明日の我々の文学は、明らかに表現の誇張へ向って進展するに相違ない。まだ時代は曾てその本望として、誇張の文学を要求したことがない。そうして、今や最も時代の要求すべきものは、誇張である。脅迫である。熱情である。嘘である。何故なら、これらは分裂を統率する最も壮大な音律であるからだ。何物よりも真実を高く捧げてはならない。時代は最早やあまり真実に食傷した。かくして、自然主義は苦き真実の過食のために、其尨大な姿を地に倒した。嘘ほど美味なものはなくなった。嘘を蹴落す存在から、もし文学が嘘を加護する守神となって現れたとき、かの大いなる酒神は世紀の祭殿に輝き出すであろう。嘘とは恐喝の声である。貧、富、男、女、四騎手の雑兵となって渦巻く人類からその毒牙を奪う叱咤である。愛である。かかる愛の爆発力は同じき理想の旗のもとに、最早や現実の実相を突破し蹂躙するであろう。最早懐疑と凝視と涕涙と懐古とは赦されぬであろう。その各自の熱情に従って、その美しき叡智と純情とに従って、もしも其爆発力の表現手段が分裂したとしたならば、それは明日の文学の祝福すべき一大文運であらねばならぬ。そうして、明日の文学は分裂するであろう。大いなる酒神は、かの愚な時計の振り子の如く終始末期を連続しつつ反動する文化を、美しく平和の歴史の殿堂に奉納するであろう。今や明日の文学は、その終局の統率的使命を以て、健康に剛健に、朗々として政治を併呑しなければならない。黙示の頁を剥奪すべき勇敢なる人々は、大いなる突喊《とっかん》の声を持たねばならぬ。

底本:「日本の名随筆 別巻100 聖書」作品社
   1999(平成11)年6月25日第1刷発行
底本の親本:「定本 横光利一全集 第一四巻」河出書房新社
   1982(昭和57)年12月
入力:加藤恭子
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年5月3日作成
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横光利一

盲腸—–横光利一

Fは口から血を吐いた。Mは盲腸炎で腹を切つた。Hは鼻毛を抜いた痕から丹毒に浸入された。此の三つの報告を、彼は同時に耳に入れると、痔が突発して血を流した。彼は三つの不幸の輪の中で血を流しながら頭を上げると、さてどつちへ行かうかとうろうろした。
「やられた。しかし、」とFから第二の報告が舞ひ込んだ。
「顔が二倍になつた。」とHから。
「もう駄目だ。」とMから来た。
 ――俺は下から――と彼は云つた。
 彼はもうどつちへも行くまいと決心した。死ぬ者を見るより見ない方が記憶に良い。彼は三点の黒い不幸の真中《まんなか》を、円タクに乗つて、ひとり明るい中心を狙ふやうにぐるぐると廻り出した。血は振り廻されるやうに流れて来た。
 ――俺は下から、
 ――俺は下から、
 下から不幸が流れ出す故に、頭の上の明るい幸福を追つ馳けるのだ――だが、廻れば廻るほど、彼に付着して来たものは借金だつた。――幸福とは何物だ?――推進機から血を流して借金を追ひ廻す――その結果が一層不幸であると分つてゐても、明るい空《から》を追つかけ廻したそのことだけでも幸福だ。――それが喜ばしい生活なら、下から不幸が流れ出して了ふまで、幸福な頭の方へ馳け廻らう。――死ねば不幸はなくなるだらう。――死なねば、幸はなくなるまい。――四人の中で死んだ者が幸福だ。――誰がその富籤《とみくじ》を引き当てるか。――彼は競争する選手のやうに、円タクに乗つて飛んでゐた。
 と、Mが死んだ。
 彼は廻り続けた円タクの最後の線をひつ張つてMの病室へ飛び込んだ。が、Mの病室は空虚《から》だつた。医者が出て来て彼に云つた。
「今日、退院なさいました。」
「どこへ行つたのです?」
「さア、それは分りません。」
 ――それや、さうだ。
 ――だが身体の中で何の必要もない盲腸で殺《や》られると云ふことは?
 ――身体の中に、誰でも一つ、幸福を抱いてゐると云ふことになつて来る。
 彼は円タクに乗つて、盲腸のやうな身体をホテルに着けた。ホテルのボーイは彼に云つた。
「もう部屋は一つもございません。」
 その次のホテルも彼に云つた。
「もう部屋は一つもございません。」
 ――死を幸福だと思ふものに、ホテルは部屋を借す必要は少しもない。
 彼はまたぶらりと円タクの中へ飛び込んだ。
「どこへ参りませう。」と運転手は彼に訊いた。
「どこへでもやつてくれ。」
 円タクは走り出した。彼は運転手の後から声をかけた。
「明るい街を通つてくれ、明るい街を。暗い街を通つたら金は出さぬぞ。」
 ――盲腸が円タクの中で叫んでゐる。
 彼はにやりと笑ひ出した。
 ――此の盲腸は、今度は誰を殺すのだらう。
 ――だが、身体の中に、誰でも一つの盲腸を持つてゐると云ふことは?
 彼は街路を、血管の中の虫のやうに馳け廻つた。だが、此の盲腸はどこへ行くと云ふのだらう。

底本:「定本横光利一全集 第二巻」河出書房新社
   1981(昭和56)年8月31日初版発行
底本の親本:「文藝時代」
   1927(昭和2)年4月1日発行、第4巻第4号
初出:「文藝時代」
   1927(昭和2)年4月1日発行、第4巻第4号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、旧字、旧仮名の底本の表記を、新字旧仮名にあらためました。
入力:高寺康仁
校正:松永正敏
2001年12月11日公開
青空文庫作成ファイル:
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横光利一

無常の風—–横光利一

 幼い頃、「無常の風が吹いて来ると人が死ぬ」と母は云つた。それから私は風が吹く度に無常の風ではないかと恐れ出した。私の家からは葬式が長い間出なかつた。それに、近頃になつて無常の風が私の家の中を吹き始めた。先づ、父が吹かれて死んだ。すると、母が死んだ。私は字が読める頃になると「無常」の風とは「無情」の風にちがひないと思ひ出した。所が「無情」は「無常」だと分ると、無常とは梵語で輪廻の意味だと云ふことも知り始めた。すればいづれ仏教の迷信的な説話にすぎないと高を括つて納まり出したのもその頃だ。その平安な期間が十年も続いて来た。もう私は無常の風が梵語であらうがなからうが全く恐くはなくなつてゐた。すると、父が急に骨になつた。それから私は母を引きとつて郊外に住まつてゐた。母は隣家の主婦と垣根越しに新しい友情を結び出した。暇さへあれば彼女は額に手をあてて樹の間から故郷の方を眺めてゐた。ある日、母は「アツ」と云つたまま死んでしまつた。一ヶ月たつた。隣家の主婦はもう垣根の傍に立たなくなつた。すると、彼女の家の人が来て、「母は今朝、アツと云ふと鍋を下げたまま死にました。」と云つた。全く私の母と隣家の母とは同じ死に様をしたのである。それから私はまた無常の風が気になり出した。確かにある。無常の風に吹きつけられると人の血管が破れるのにちがひないと思つた。私は中学時代から地貌と云ふことに興味を持つてゐた。私は旅行をするといつもその土地の岩質に眼をつけた。河原を歩いても砂礫の質の相違によつて河の支流の拡がりを感じるのが面白かつた。しかし今は地貌の隆起に心がひかれる。隆起の相違によつて気流に変化があるのは当然だからである。此の気流と生活と云ふことは余程親密な相関性を持つてゐる。殊に人間の運命とは特にいちじるしい関係があると私は思ふやうになつて来た。人間の意志は気流の為に屈折する。意志は直線形に進行する性情があるが、途中で方向を変化さすのは気流の力が多大である。この法則は私の独断だとは思はない。アメリカの或る地方では東風が吹くと殺人犯が激増するといふ。フエリオの犯罪学には殺人者が殺人をする際、気流の温度の相違によつて忽ち狂人に変化し、殺人が不可能となつて逃亡する実例を上げてある。私の家でも窓の相違で部屋の空気の中に一定の通路が生じ、通路を外れた箇所で碁を打つと後が長く続かずに直ぐ頭が疲れて来る。だが通路の中で碁を打つと客観性が無くなつて喧嘩碁ばかり打ち始める。その代りに頭がいつまでも続いて行く。家相学では家の東南に桃の木があると淫風が吹くと書いてあるが、淫風は風の吹く所には起らない風である。風の吹きまくる所で性慾は起りはしない。それはともかくとして無常の風は日本の地貌ではどのあたりから吹いて来る風かと考へると、もうここからは独断にならざるを得なくなる。とにかく乾燥した風だ。乾燥した風は窒素の加減で霊魂が放散し易いものらしい。塩分を含んだ風の中では人はさう容易く死ぬものではないと見える。それに乾燥した風は太陽のコロナと多大の関係を持つてゐる。コロナがまた太陽の黒点と著しい関係を持つてゐる。私は社会主義の布衍される地域がまた此の風の密度によつて非常に相違して行くものといつも思ふ。此の主義は風のやうに地貌とまた密接な関係を持つてゐる。地貌の運動作用、特に準平原の輪廻作用を思ふと私は社会主義者にならざるを得なくなる。ボルシエビイキの現状を見てゐても伊太利及び日本、英国、独逸の社会現象を見てゐてもその作用は地質学の造山運動と殆ど異る所がない。私は小説を書く男であるが小説の中で人間の運命を発展さす場合、いつも此の風と光線とが気にかかる。確に此の風と光線とは人間の意志と感情の発生及び発展に重大な必然的影響があると思ふ。此の風と光線とエヂプト、アツシリア、ペルー、印度、支那の文化の発達とを関連させて考へて見た場合、誰とてひそかな私のこのあられもない独断の楽しみを嗤ひはすまい。

底本:「日本の名随筆37 風」作品社
   1985(昭和60)年11月25日第1刷発行
底本の親本:「定本・横光利一全集 第一三巻」河出書房新社
   1982(昭和57)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2005年5月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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横光利一

夢もろもろ—–横光利一

    

 私の父は死んだ。二年になる。
 それに、まだ私は父の夢を見たことがない。

    良い夢

 夢は夢らしくない夢がよい。人生は夢らしくない。それがよい。

    性欲の夢

 トルストイがゴルキーに君はどんな恐ろしい夢を見たかと質問した。
「長靴がひとり雪の中をごそごそと歩いていた。」とゴルキーが答えた。
「うむ、それは性欲から来ているね。」と、いきなりトルストイは解答を与えた。
 何ぜか、これは少し興味がある。

    恐い夢

 私は歯の抜ける夢をしばしば見る。音もなくごそりと一つの歯が抜ける。すると二つが抜ける。三つが抜けたと思わないのに、不思議に皆抜けているのである。赤い歯茎だけが尽く歯を落して了って、私の顔であるにも拘らずその歯を落した私の顔が私にからかって来るのである。

    夢の解答

 私は今年初めて伯父に逢った。伯父は七十である。どう云う話のことからか話が夢のことに落ちて行った。そのとき伯父は七十の年でこう云った。
「夢と云うものは気にするものではない。長い間夢も見て来たが皆出鱈目だ。」

    たまらぬ夢

 ある小説に、妻が他の男と夢の中でけしからぬ悦び事をしているにちがいないと思って悩む男のことが書いてあった。男はそれを、
「たまらぬことだ。」と云っていた。
 なるほど、これはたまらぬことだ。手のつけようがないではないか。そう云う妻の行為に対する処罰の方法は! それは空を見ることだ。空を見ると、夜なれば星と月。星と月とを見ていれば、総てが夢だと思うだろう。空は無いもの。夢は空と同じ質のものに相違ない。

    夢の定義

 生理学の夢の定義は、夢とは催眠中の記憶が現識《げんしき》の中に呼び起されたものだと云う。してみれば、夢の中の妻の行為は良人にとっては重大なことである。

    夢の効果

 愛人を喜ばすには、
「私は昨夜あなたの夢を見ましたよ。」と云うが良い。
 なお喜んで貰うためには、
「私はこれからあなたの夢を毎夜見ようと思います。」と云うが良い。
 またもし彼女と争うた場合には、
「ああ、私は今夜あなたと争った夢を見なければなりません。」と云えば良い。
 そうしてもしも、彼女が君を裏切ったときが来たならば、いとも悲しく細々と、
「私は毎夜あなたの夢をひとり見て楽しむことといたしましょう。」と云い給え。
 またもし君が彼女を裏切った日が来たならば、
「私はあなたの夢となって生涯お怨みいたします。」と云われなければ君は不徳な男である。

    痛快な夢

 私は喧嘩をした。負けた。蹴り落された。どこへともなく素張らしい勢いで落ち込んで行く。ハッと思うと、私の身体はまん円い物の上へどしゃりッと落《おっこ》ったのだ。はてな―ふわふわする。何ァんだ。他愛もない地球であった。私は地球を胸に抱きかかえて大笑いをしているのである。

    まごついた夢

 歩こうとするのに足がどちらへでも折れるではないか、……………

    面白くない夢

 金を拾った夢。……………

    笑われた子

 これは夢を題材にした私の創作の中の一つである。ある子供の両親がその子を何に仕立てていってよいものかと毎夜相談をしている。そう云うある夜、子は夢を見た。野の中で大きな顔に笑われる夢である。翌朝眼が醒めてから子はその夢の中の顔をどうかして彫刻したくなって来た。そこで二ヶ月もかかって漸く彫刻仕上げたとき、父親に見つけられて了った。父は子の造ったその仮面を見ると実に感心をしたのである。
「これはよく出来とる。」
 そこで、子は下駄屋にされて了った。これは夢が運命を支配した話。

    佐藤春夫の頭

 私は或る夜佐藤春夫の頭を夢に見た。頭だけが暗い空中に浮いているのである。顔をどうかして見ようと思うのに少しも見えない。その癖顔は何物にも邪魔されてはいないのだ。頭だけが大きく浮き上り、頂上がひどく突角《とが》って髪が疎らで頭の地が赤味を帯んでいるのである。実物の春夫氏の頭はよく見て知っているにも拘らず、実物とは全く変っている夢の中のその無気味な頭を、誰だかこれが春夫氏の頭だ頭だとしきりに説明をするのである。誰が説明をしているのかと思うと誰もいないのだ。

    見ない夢

 友人で文学をやっているものがいた。その男の告白によると、
「僕は夢と云うものをまだ生れてから見たことがない。」と云う。
 私にはそれが嘘だとより思えなかった。が、彼はどうかして一生に一度夢と云うものを見たいとしきりに云った。私はこれが「夢を見たことのない男」だと思うと、おかしくなった。そう云う種類の男に逢ったことがないからだ。その癖、彼の作品の中には夢と云う字があったのだ。もっともその頃は夢と云う字を用いなければ文学だと思わない頃ではあった。しかしそれにしても、夢を見たことがないと云う男のことを聞いた例があるかしら。未だに疑わざるを得ないのだ。

    夢の色

 夢の色とはどう云う色か。夢では色彩を見ないと云うことが夢の特色ではないか。

    夢の研究家

 私の友人で夢の研究家があった。夢ばかりを分析していた。逢うと夢の話をしていた。すると、死んで了った。

    夢の話

 夢の話と云うものは、一人がすると、他の者が必ずしたくなる。すると、前に話した者は必ず退屈し出すのだ。何ぜかと云えば、それは夢にすぎないからだ。

底本:「日本の名随筆14 夢」作品社
   1984(昭和59)年1月25日第1刷発行
   1985(昭和60)年3月30日第2刷発行
底本の親本:「横光利一全集 第一四巻」河出書房新社
   1982(昭和57)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2008年1月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

横光利一

父—–横光利一

 雨が降りさうである。庭の桜の花が少し凋れて見えた。父は夕飯を済ませると両手を頭の下へ敷いて、仰向に長くなつて空を見てゐた。その傍で十九になる子と母とがまだ御飯を食べてゐる。
「踊を見に行かうか三人で。」と出しぬけに父は云つた。
「踊つて何処にありますの。」と母は訊き返した。
「都踊さ、入場券を貰ふて来てあるのやが、今夜で終ひやつたな。」
 母は黙つてゐた。
「これから行かうか、お前等見たことがなからうが。」
「私らそんなもの見たうない、それだけ早やう寝る方がええわ。」
「光、お前行かんか。」
 父は子の顔を見た。子は父の笑顔からある底意を感じたので、直ぐ眼を外らすと、
「どうでも宜しい。」と答へた。
 併し子はまだ遊興を知らなかつたし都踊も見たことがないので綺麗な祇園の芸妓が踊るのだと思ふと、実は行きたかつたのだが、父や母と一緒に見に行つてからの窮屈さが眼についた。
「行くなら早い方がええし。」と又父は云つた。
「行きたうないわな、光。」と母は横から口を入れた。
 子は真面目な顔をして、「うむ」と低く答へると母の方へ茶碗を差し出した。が、もう食べるのでなかつたのに、と気が付いたが又思ひ切つて箸をとつた。
「光ひとりで行つて来い。」と父は言つた。すると、
「あんた一人でお行きなはれ。」と直ぐ母は父に言つた。
 父は又笑顔を空に向けた。それぎり三人は黙つて了つた。
 子は御飯を済ますと縁側へ出て、両手を首の後で組んで庭の敷石の上をぼんやり見詰めてゐた。両足がしつかりと身体を支へて呉れてゐないやうに思はれた。
 鶏小舎の縄を巻きつけた丸梯子の中程を、雌鶏が一羽静に昇つてゆく。そのとき石敷の上に二つ三つ斑点が急に浮かんだ。雨だなと子は思つた。母は元気の良い声で
「そうら降つて来た」と云つて笑つた。
 父も笑つた。そして
「なアに止むさ。光ひとりで行つて来んか、あんな札を遊ばしておいても仕様がないし。」
 子は父のさう言ふ言葉の底意に懐しさを感じて来た。
「光らあんな所へ行き度うはないわなア光?」と、母は云つた。
 子はそれに答へずに直ぐ二階へ昇らうとして父の前を通ると、父は体を少し起した。
「よ光、一人で見て来いや。もう今夜で終ひやぞ。」
「もう雨が降るしよしませう。」
 子はさう云つて二階へ来ると窓の敷居に腰をかけた。下腹から力が脱けてゐた。
 空はそれなり雨を落とさずに何時の間にか薄明かるくなって来た。その下に東山がある。その向ふに京都の街がある。
 二十分程して、他所行きの着物を着た母が腰帯のまま二階へ来た。行くんだなと子は思ふと、気が浮いて、
「何処へ行くの?」と訊いた。
 母は黙つて押入を開けると、下唇を咬んで蒲団の載つてゐるまま長持の蓋を上げた。
「行くの?」と子は又聞いた。
 母は黒く光つた丸帯を出して、
「お父さんつて雨が降つてるのに、」と呟くと、子の顔を一目も見ずに下へ降りて行つて、階段の中程の所から
「用意お仕や。」と強く云つた。
 子は腹を立てた。「行くものか。」と思つた。
 暫くしてから、母は帯をしめて又二階へ来た。
「まだ用意おしやないの。」
「行きたかないよ。」
 母は黙つて子の顔を眺めてゐた。
「お母さんとお父さんと行くといい、俺は留守をしてゐるよ。」
「今頃そんなことを言うて……」
「やめだつてば。」
「可笑しい子。」
 母は薄笑をし乍ら押入から子の着物と帯とを出した。子は東山の輪郭に沿うて幾度も自分の顋を動かしてゐた。
「早やう。」と母は云つた。
 子は母の出して呉れた着物を一寸見て又眼を東山に向けた。母はそのまま立つて子の顔を見てゐたが「可笑しい子やないか、」と呟くと下へ降りて行つた。
 子はソツと着物を弄つてみた。が、下へ降りた時母の手前を考へて呼ばれる迄着返ずにゐてやらうと思つた。すると直下から母が呼んだ。子は強ひて落ちつくために返事をせずに又敷居へ腰を据ゑた。下から声がする。
「お父さんが待つてゐやはるのえ。」
 子は父を思ふとそのまゝの容子《なり》で下へ降りた。
「まだ着返てやないの、」と母は顔を顰めた。
「これでいいよ。」
「ああそれで好えとも。」さう云つて父は煙草入に敷島を詰めた。
 子は父の前では拗ねる気がしなかつた。三人は外へ出た。
 母が空を見上げて「降るに定つてるのに、」と云ふと、父は、
「何アに。」と云つて停留所の方へ歩いた。
 祇園へ着いた時にはもう真暗であつた。歌舞練場と書かれた門の中へ父は這入つていつた。そこに踊がある。二人はその後に従いた。踊のひときりがまだついてゐなかつたので三人は光つた広い板間の控へに坐つて次のを待つた。
 子は父が莨を口に銜へたのを見ると自分のマツチでそれに火を点けた。が、父に媚びてゐる自分の気待を両親に見ぬかれてゐるやうな気がしたので、父の莨入から自分も一本ぬきとつてすつた。
 周囲に群衆がつまつてゐるためか三人は黙つてゐた。間もなく踊のきり[#「きり」に傍点]がついた。群衆は控へから桟敷の方へ動いて行つた。
 三人が土間の中程へ場をとつた時、母は父と子の間へ二人より少し退き加減に坐つた。
 幕が上ると同時に左手の雛壇から鼓の音がして、両側の花路から背の順に並んだ踊子の群が駆けるやうに足波揃へて進んで来た。夫々手に花開いた桜の枝を持つてゐる。最初には踊子らの顔が、どれも同じやうに綺麗に見えた。
 母は不意に子の肩を叩くと後を向いて囁いた。
「光、それそれ、あの西洋人の顔をお見いな、面白さうな顔をしてゐる。」
 子は舞台の反対の桟敷に居る二三の外国人の顔を見た。が、別に彼等の顔から母の云ふ程な表情を感じなかつた。で、又急いで踊子達の顔に見入らうとした時、ふと自分の眼を後へ向けささうと努める母の気持ちを意識した。
「なアをかしい顔をしてゐるやらう。日本人は奇妙な踊をするもんやと思うて見てゐるのやらうな。」
 子はただ「ふむ、ふむ」と答へておいた。が、母が正面に向き返るまで自分からさきに舞台の方を見ることが出来なかつた。
「あれきつと自分の国へ帰つてから、日本で面白いものを見て来たつて云ふのやな。」
 さう云つてから母は漸く踊子の方を向いた。子はまだ故意に後を向いてゐた。が、見るものが無かつたので、その時間を利用して群る人々の顔の中から目立つた綺麗な顔を模索した。
 一度舞台から消えた踊子の群は再び手拭を持つて、ゆるゆると踊り乍ら両側の花道から現はれた。
 すると母は子の方へ顔を寄せて又囁いた。
「あの子お見、可愛らしいことなア、人形さんのやうや。」
 子は母が胸の上で指差してゐる踊子に見当をつけてよく見ると、最後から二番目のまだ小さい杓子顔の雛妓《おしやく》であつた。子はその顔から何処か良い所を捜さうとつとめてみた。そして時々眠さうな眼をすることが可愛いと強ひて思つた。
「後から二番目?」
「そやそや、可愛らしいやろ」
「うむ。」と子は言つて見付けておいた美しいいま一人の踊子を見ようとしたが、母の看視を思ふと図太くその方許りを見続けることが出来なくなつた。彼は母に知れるやうにあちらこちらに眼を置き変へた。そして、右手の雛壇の隅で長唄を謡つてゐる年増の醜い女を見あてたとき、ここならよからうと思つて、眼の置き場をそれに定めた。直ぐ首条に疲れを感じたが耐へてゐた。彼の横に彼の年頃の学生が一人自由に踊を眺めてゐる。彼は羨しく思つた。
 父は初から絶えず舞台の方を向いてゐた。子は父を有りがたく思つた。
 間もなく踊は済んだ。まだ早かつたので電車通りに出てから三人は街を見て歩いた。子は下駄を引摺るやうにして黙つて親等の後に従いた。歩き乍ら、恋人を抱いた時の自分の姿を思ひ浮べた。今母の眼の前で、傍を通る少女を一人一人攫へてキツスしてやらうかと考へた。
「もうし、光がね万年筆が欲しいんですつて。」と母は不意に良人に云つた。
「入りませんよ。」と子は強く云つて母を睥んだ。
 父は黙つてゐた。
 母は子の方を振り向いて、
「お前欲しいつて云うてたやないの。」と笑ひながら云つた。
「そんなこと云はない。」
 が、実は言つたと子は思つた。
 ある文房具店の前まで来た時、父は黙つてその中へ這入つていつた。子は万年筆を手にとつてゐる父を見ると、急に父が恐ろしくなつて来た。

底本:「定本横光利一全集 第一巻」河出書房新社
   1981(昭和56)年6月30日初版発行
底本の親本:「御身」金星堂
   1924(大正13)年5月20日発行
初出:「時事新報」
   1921(大正10)年1月5日
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、旧字、旧仮名の底本の表記を、新字旧仮名にあらためました。
入力:高寺康仁
校正:松永正敏
2001年12月10日公開
2003年6月1日修正
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横光利一

琵琶湖—–横光利一

 思ひ出といふものは、誰しも一番夏の思ひ出が多いであらうと思ふ。私は二十歳前後には、夏になると、近江の大津に帰つた。殊に小学校時代には我が家が大津の湖の岸辺にあつたので、琵琶湖の夏の景色は脳中から去り難い。今も東海道を汽車で通る度に、大津の街へさしかかると、ひとりでゐても胸がわくわくとして、窓からのぞく顔に微笑が自然と浮かんで来る。こんなひそかな喜びといふものは、誰にもあると見えて、ある夏のこと、私の二十一二のころ大津から東京へ行くときに、二十二三の美しい婦人が私の前の席に乗つたことがあつた。私は東京近く来るまで、その婦人と一言も言葉も交へなければ、顔も見合したこともなく坐つて一夜を明したが、大森まで汽車が来かかつたとき、突然その婦人は私に、「あそこに見える家に、あたしをりますの。」と一言いつて笑つた。私は返事も出来ずに窓から指差された家を見たきりで、黙つてそのまま別れてしまつたが、それとは違つてまたもう一度、それに以寄つた目にあつた。これも私の二十二三のときの夏のことで、九州へ行つたときであるが、汽車が熊本へ這入《はい》り、球磨《くま》川の急流に沿つて沢山のトンネルを抜けては出、抜けては出てゐる最中である。私の前に老人の男が一人高い鼾《いびき》をかいて横になつてゐた。そのときには、私たちの車内に私と老人とただ二人きりで、他にも誰もゐなかつたが、汽車が断崖にさしかかつてしばらくたつてから、河をへだてた対岸の絶壁の中腹に、一軒ぽつりと家が見えた。すると、その老人は急にむくりと起き上ると、「あれはわしの女房の里や。」と一言いつて、またころりと寝てしまつた。
 これらの話はささいなことながら、いつまでも忘れずに、生涯微笑ましい記憶となつて、何か書かうとするときや、世間話をするときなどに、第一番に浮き上つて来るものであるが、この老人の心理や前の婦人の気持ちに似た喜ばしさは、東海道では大津より以外は私には起らない。大津へ来かかると、私も傍にゐる見知らぬ人にでも、ここは私の小さいときにゐたところでと、思はずいひたくて堪らぬ気持に誘惑される。大津の美しさは、たまに大津へ行つたものでも感じるのであらうか。去年初めて関西へ連れて来た私の家内は、京都大阪奈良と諸所を歩いてから大津へ来ると、一番関西で好きな所は大津だと私に洩した。家内と大津へ行つたときには早春であつたが、夏の大津の美しさは、またはるかに早春とは違つてゐる。「唐崎の松は花より朧《おぼろ》にて」といふ芭蕉の句は、非常な駄作だといふ俳人逹の意見が多いが、膳所《ぜぜ》や石場あたりから、始終対岸の唐崎の松を見つけてゐる者でなければ、この句の美しさは分り難いと思ふ。
 夏前になると今年はどこへ行くかといふ質問を毎年受ける。しかし、私は田舎の夏よりも都会の夏の方が好きである。一夏を都会で過ごすと、その一年を物足らなく誰も思ふらしいが、私はさうではない。夏の美しさや楽しさは、昼よりも夜であるから、田舎にゐては、夜が来ると早くから寝なければならぬので、夏の過ぎることばかりが待ち遠しい。しかし、都会にゐると、もう、秋が来るのかと、過ぎ行く夏が惜しまれる。殊に私は夏が一番仕事が出来るので、旅をしては一年の働く時機を見失ふ。人は一年の終りになると、それぞれ自分の好きな来年の季節を待つものだが、私は何となく夏を待つ。夏は過ぎ去つた楽しい過去に火が点いたやうで、去年の夏も今年の夏も区別がなくなり、少年の日が幻のやうに浮き上つて来るのである。舟に灯籠をかかげ、湖の上を対岸の唐崎まで渡つて行く夜の景色は、私の生活を築いてゐる記憶の中では、非常に重要な記憶である。ひどく苦痛なことに悩まされてゐるときに、何か楽しいことはないかと、いろいろ思ひ浮べる想像の中で、何が中心をなして展開していくかと考へると、私にとつては、不思議に夜の湖の上を渡つて行つた少年の日の単純な記憶である。これはどういふ理由かよくは分らないが、油のやうにゆるやかに揺れる暗い波の上に、点々と映じてゐる街の灯の遠ざかる美しさや、冷えた湖を渡る涼風に、瓜や茄子を流しながら、遠く比叡の山腹に光つてゐる灯火をめがけて、幾艘もの灯籠《とうろう》舟のさざめき渡る夜の祭の楽しさは、暗夜行路ともいふべき人の世の運命を、漠然と感じる象徴の楽しさなのであらう。象徴といふものは、過去の記憶の中で一番に強い整理力を持つてゐる場面から感じるものだが、してみると、私には夜の琵琶湖を渡る祭がそれなのである。このときには、小さな汽船の欄干の上に、鈴のやうに下つた色とりどりの提灯の影から、汗ばんでならぶ顔の群が、いつぱいの笑顔の群となり、幾艘ものそれらの汽船の、追ひつ追はれつするたびに、近づく欄干はどよめき立つて、舟ばた目がけて茄子や瓜を投げつけ合ふ。舟が唐崎まで着くと、人々はそこで降りて、今はなくなつた老松の枝の下を繞《めぐ》り歩いてから、また汽船に乗つて帰つて来る。日は忘れたが、何んでもそれは盆の日ではなからうか。大津の北端に尾花川といふ所がある。ここは野菜の産地で、畑から這ひ下りた大きな南瓜が、蔓をつけたまま湖の波の上に浮いてゐた。この剽軽《ひようきん》な南瓜は、どういふものか夏になると、必ず私の頭に浮んで来る。尾花川の街へ入る所に疏水の河口がある。ここから運河が山に入るまでの両側は、枳殻《からたち》が連つてゐるので、秋になると、黄色な実が匂を強く放つて私たちを喜ばせた。運河の山に入る上は三井寺であるが、ここ境内一帯は、また椎の実で溢れたものだ。去年の私は久しぶりに行つてみたが、このあたりだけは、むかしも今も変つてゐない。明治初年の空気のまだそのままに残つてゐる市街は、恐らく関西では大津であり、大津のうちでは疏水の付近だけであらう。
 私の友人の永井龍男君は江戸つ子で三十近くまで東京から外へ出たこととてない人であるが、この人が初めて関西へ来て、奈良京都大阪と廻つたことがあつた。常人以上に勘のよく利く永井君のことなので、私は彼が帰つてから、関西の印象を話すのを楽しみにして待つてゐると、帰つて来て云ふには、自分は関西を諸々方々廻つてみたけれども、人の云ふほどにはどこにも感心出来なかつたが、ただ一ヶ所近江の坂本といふ所が好きであつたといふ。坂本のどこが好きかと、訊ねると、日枝神社の境内にかかつてゐる石の橋だ。あれにはまことに感心したといふので、それでは大津へ行つたかと訊くと、そこへは行かなかつたといふ。坂本で感心をするなら大津の疏水から三井寺へ行くべきであると私は云つたのだが、奥の院の夏の土の色の美しさと静けさは、あまり人々の知らないことだと思ふ。あそこの土の色の美しさには、むかしの都の色が残つてゐる。すべて一度前に、極度に繁栄した土地には、どことなく人の足で踏み馴らされた脂肪のやうな、なごやかな色が漂つてゐるものだが、私の見た土では、神奈川の金沢とか、鎌倉とかには、衰へ切つてしまつてゐるとはいへ、幕府のあつた殷盛《いんせい》な表情が、石垣や樹の切株や、道路の平担な自然さに今も明瞭に現はれてゐる。東北では松島瑞巌寺、それから岩手の平泉。これらはみな大津の奥の院の土の色と似たところがある。この奥の院をなほ奥深くどこまでも行くと、京都へ脱ける間道のあるのは、ほとんど土地の人さへ知らないことだが、ここをほじくれば、一層珍しいさまざまなところがあるに相違ないと私は思つてゐる。私はそこの道も通つたことがあるが、道の両側は、ほとんど貝塚ばかりと思へる山々の重複であつた。
 青年時代に読んだ田山花袋の紀行文の中に、琵琶湖の色は年々歳々死んで行くやうに見えるが、あれはたしかに死につつあるに相違ない、といふやうなことが書いてあつたのを覚えてゐる。私はそれを読んで、さすが文人の眼は光つてゐると、その当時感服したことがあつた。今も琵琶湖の傍を汽車で通る度毎に、花袋の言葉を思ひ出して、一層その感を深くするのだが、私にもこの湖は見る度に、沼のやうにだんだん生色を無くしていくのを感じる。大津の街は湖に面した所は、静かで人通りも少く、湖に遠ざかるに従つて賑やかになつてゐるが、あれを見ると湖の空気といふものは、そこの住む人々の心から活気を奪ふのであらう。近江商人といふものは、自国では繁栄せずに、他国へ出て成功するのが特長であるのも、いろいろな原因もあるであらうが、一つは湿気を帯《はら》んだ湖の空気に、身も心も胆汁質に仕上げられ、怒りを感ぜず、隠忍自重の風が自然と積上つて来てゐるためかもしれぬ。この観察は勿論|滑稽《こつけい》なところがあるが、絶えず飽和してゐる気圧の中に住つてゐる住民の心理は、乾燥した空気の中にゐる住民よりも、忍耐心の強くなる事は事実である。
 いつたい胆汁質といふものは、胆汁質それ自身では成功はし難く、他人の褌《ふんどし》で相撲をとつて初めて役に立ち易いもので、腹黒とか陰険だとかいはれるのも、自然と他を利用するやうに出来上がつてゐるからである。私は去年大津の街を歩いてゐて、ぶくぶく膨れてゐる人の多いのに、今さら驚いたのであるが、大津地方の人は、物事にあまり感動を現はさない。むしろ他人には冷胆なところがあるやうに思ふのは、私だけではないだらう。

底本:「心にふるさとがある3 心に遊び 湖をめぐる」作品社
   1998(平成10)年4月25日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2006年12月30日作成
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横光利一

微笑—–横光利一

 次の日曜には甲斐《かい》へ行こう。新緑はそれは美しい。そんな会話が擦れ違う声の中からふと聞えた。そうだ。もう新緑になっていると梶《かじ》は思った。季節を忘れるなどということは、ここしばらくの彼には無いことだった。昨夜もラジオを聞いていると、街の探訪放送で、脳病院から精神病患者との一問一答が聞えて来た。そして、終りに精神科の医者の記者に云うには、
「まア、こんな患者は、今は珍らしいことではありません。人間が十人集れば、一人ぐらいは、狂人が混じっていると思っても、宜《よろ》しいでしょう。」
「そうすると、今の日本には、少しおかしいのが、五百万人ぐらいはいると思っても、さしつかえありませんね、あはははははは――」
 笑う声が薄気味わるく夜の灯火の底でゆらめいていた。五百万人の狂人の群れが、あるいは今一斉にこうして笑っているのかしれない。尋常ではない声だった。
「あははははは……」
 長く尾をひくこの笑い声を、梶は自分もしばらく胸中にえがいてみていた。すると、しだいにあはははがげらげらに変って来て、人間の声ではもうなかった。何ものか人間の中に混じっている声だった。
 自分を狂人と思うことは、なかなか人にはこれは難しいことである。そうではないと思うよりは、難しいことであると梶は思った。それにしても、いまも梶には分らぬことが一つあった。人間は誰でも少しは狂人を自分の中に持っているものだという名言は、忘れられないことの一つだが、中でもこれは、かき消えていく多くの記憶の中で、ますます鮮明に膨れあがって来る一種異様な記憶であった。
 それも新緑の噴き出て来た晩春のある日のことだ。
「色紙を一枚あなたに書いてほしいという青年がいるんですが、よろしければ、一つ――」
 知人の高田が梶の所へ来て、よく云われるそんな注文を梶に出した。別に稀《まれ》な出来事ではなかったが、このときに限って、いつもと違う特別な興味を覚えて梶は筆を執った。それというのも、まだ知らぬその青年について、高田の説明が意外な興味を呼び起させるものだったからである。青年は栖方《せいほう》といって俳号を用いている。栖方は俳人の高田の弟子で、まだ二十一歳になる帝大の学生であった。専攻は数学で、異常な数学の天才だという説明もあり、現在は横須賀の海軍へ研究生として引き抜かれて詰めているという。
「もう周囲が海軍の軍人と憲兵ばかりで、息が出来ないらしいのですよ。だもんだから、こっそり脱け出して遊びに来るにも、俳号で来るので、本名は誰にもいえないのです。まア、斎藤といっておきますが、これも仮名ですから、そのおつもりで。」
 高田はそう梶に云ってから、この栖方は、特種な武器の発明を三種類も完成させ、いま最後の一つの、これさえ出来れば、勝利は絶対的確実だといわれる作品の仕上げにかかっている、とも云ったりした。このような話の真実性は、感覚の特殊に鋭敏な高田としても確証の仕様もない、ただの噂《うわさ》の程度を正直に梶《かじ》に伝えているだけであることは分っていた。しかし、戦局は全面的に日本の敗色に傾いている空襲直前の、新緑のころである。噂にしても、誰も明るい噂に餓《う》えかつえているときだった。細やかな人情家の高田のひき緊《しま》った喜びは、勿論《もちろん》梶をも揺り動かした。
「どんな武器ですかね。」
「さア、それは大変なものらしいのですが、二三日したらお宅へ本人が伺うといってましたから、そのときでも訊《き》いて下さい。」
「何んだろう。噂の原子爆弾というやつかな。」
「そうでもないらしいです。何んでも、凄《すご》い光線らしい話でしたよ。よく私も知りませんが、――」
 負け傾いて来ている大斜面を、再びぐっと刎《は》ね起き返すある一つの見えない力、というものが、もしあるのなら誰しも欲しかった。しかし、そういう物の一つも見えない水平線の彼方に、ぽっと射《さ》し露《あら》われて来た一縷《いちる》の光線に似たうす光が、あるいはそれかとも梶は思った。それは夢のような幻影としても、負け苦しむ幻影より喜び勝ちたい幻影の方が強力に梶を支配していた。祖国ギリシャの敗戦のとき、シラクサの城壁に迫るローマの大艦隊を、錨《いかり》で釣り上げ投げつける起重機や、敵船体を焼きつける鏡の発明に夢中になったアルキメデスの姿を梶はその青年|栖方《せいほう》の姿に似せて空想した。
「それにはまた、物凄い青年が出てきたものだなア。」と梶は云って感嘆した。
「それも可愛いところのある人ですよ。発明は夜中にするらしくて、大きな音を立てるものだから、どこの下宿屋からも抛《ほう》り出されましてね。今度の下宿には娘がいるから、今度だけは良さそうだ、なんて云ってました。学位論文も通ったらしいです。」
「じゃ、二十一歳の博士か。そんな若い博士は初めてでしょう。」
「そんなことも云ってました。通った論文も、アインシュタインの相対性原理の間違いを指摘したものだと云ってましたがね。」
 異才の弟子の能力に高田も謙遜《けんそん》した表情で、誇張を避けようと努めている苦心を梶は感じ、先《ま》ずそこに信用が置かれた気持良い一日となって来た。
「ときどきはそんな話もなくては困るね。もう悪いことばかりだからなア。たった一日でも良いから、頭の晴れた日が欲しいものだ。」
 梶の幻影は疑いなくそのような気持から忍び込み、拡《ひろが》り始めたようだった。とにかく、祖国を敗亡から救うかもしれない一人の巨人が、いま、梶の身辺にうろうろし始めたということは、彼の生涯の大事件だと思えば思えた。それも、今の高田の話そのものだけを事実としてみれば、希望と幻影は同じものだった。
「しかし、そんな青年が今ごろ僕の色紙を欲しがるなんて、おかしいね。そんなものじゃないだろう。」
 と梶は云った。そして、そう思いもした。
「けれども、何といっても、まだ小供《こども》ですよ。あなたの色紙を貰ってくれというのは、何んでも数学をやる友人の中に、あなたの家の標札を盗んで持ってるものがいるので、よし、おれは色紙を貰って見せると、ついそう云ってしまったらしいのです。」
 梶は十年も前、自宅の標札をかけてもかけても脱《はず》されたころの日のことを思い出した。長くて標札は三日と保《も》たなかった。その日のうちに取られたのも二三あった。郵便配達からは小言の食いづめにあった。それからは固く釘《くぎ》で打ちつけたが、それでも門標はすぐ剥《は》がされた。この小事件は当時梶一家の神経を悩ましていた。それだけ、今ごろ標札のかわりに色紙を欲しがる青年の戯れに実感がこもり、梶には、他人事《ひとごと》ではない直接的な繋《つな》がりを身に感じた。当時の悩みの種が意外なところへ落ちていて、いつの間にかそこで葉を伸ばしていたのである。彼は一日も早く栖方に会ってみたくなった。おそるべき青年たちの一塊をさし覗《のぞ》いて、彼らの悩み、――それもみな数学者のさなぎが羽根を伸ばすに必要な、何か食い散らす葉の一枚となっていた自分の標札を思うと、さなぎの顔の悩みを見たかった。そして、梶自身の愁いの色をそれと比べて見ることは、失われた門標の、彼を映し返してみせてくれる偶然の意義でもあった。

 ある日の午後、梶の家の門から玄関までの石畳が靴を響かせて来た。石に鳴る靴音の加減で、梶は来る人の用件のおよその判定をつける癖があった。石は意志を現す、とそんな冗談をいうほどまでに、彼は、長年の生活のうちこの石からさまざまな音響の種類を教えられたが、これはまことに恐るべき石畳の神秘な能力だと思うようになって来たのも最近のことである。何かそこには電磁作用が行われるものらしい石の鳴り方は、その日は、一種異様な響きを梶に伝えた。ひどく格調のある正確なひびきであった。それは二人づれの音響であったが、四つの足音の響き具合はぴたりと合い、乱れた不安や懐疑の重さ、孤独な低迷のさまなどいつも聞きつける足音とは違っている。全身に溢《あふ》れた力が漲《みなぎ》りつつ、頂点で廻転《かいてん》している透明なひびきであった。
 梶は立った。が、またすぐ坐《すわ》り直し、玄関の戸を開け加減の音を聞いていた。この戸の音と足音と一致していないときは、梶は自分から出て行かない習慣があったからである。間もなく戸が開けられた。
「御免下さい。」
 初めから声まで今日の客は、すべて一貫したリズムがあった。梶が出て行ってみると、そこに高田が立っていて、そしてその後に帝大の学帽を冠《かぶ》った青年が、これも高田と似た微笑を二つ重ねて立っていた。
「どうぞ。」
 とうとう門標が戻って来た。どこを今までうろつき廻《まわ》って来たものやら、と、梶は応接室である懐しい明るさに満たされた気持で、青年と対《むか》いあった。高田は梶に栖方の名を云って初対面の紹介をした。
 学帽を脱いだ栖方はまだ少年の面影をもっていた。街街の一隅を馳《か》け廻っている、いくら悪戯《いたずら》をしても叱《しか》れない墨を顔につけた腕白な少年がいるものだが、栖方はそんな少年の姿をしている。郊外電車の改札口で、乗客をほったらかし、鋏《はさみ》をかちかち鳴らしながら同僚を追っ馳け廻している切符きり、と云った青年であった。
「お話をきくと毎日が大変らしいようですね。」
 先ずそんなことから梶は云った。栖方は黙ったまま笑った。ぱッと音立てて朝開く花の割れ咲くような笑顔だった。赤児が初めて笑い出す靨《えくぼ》のような、消えやすい笑いだ。この少年が博士になったとは、どう思ってみても梶には頷《うなず》けないことだったが、笑顔に顕《あらわ》れてかき消える瞬間の美しさは、その他の疑いなどどうでも良くなる、真似手《まねて》のない無邪気な笑顔だった。梶は学問上の彼の苦しみや発明の辛苦の工程など、栖方から訊き出す気持はなくなった。また、そんなことは訊《たず》ねても梶には分りそうにも思えなかった。
「お郷里《くに》はどちらです。」
「A県です。」
 ぱっと笑う。
「僕の家内もそちらには近い方ですよ。」
「どちらです。」と栖方は訊ねた。
 T市だと梶が答えると、それではY温泉の松屋を知っているかとまた栖方は訊ねた。知っているばかりではない。その宿屋は梶たち一家が行く度によく泊った宿であった。それを云うと、栖方は、
「あれは小父の家です。」
 と云って、またぱッと笑った。茶を煎《い》れて来た梶《かじ》の妻は、栖方《せいほう》の小父の松屋の話が出てからは忽《たちま》ち二人は特別に親しくなった。その地方の細かい双方《そうほう》の話題が暫《しばら》く高田と梶とを捨てて賑《にぎ》やかになっていくうちに、とうとう栖方は自分のことを、田舎言葉まる出しで、「おれのう。」と梶の妻に云い出したりした。
「もうすぐ空襲が始るそうですが、恐《こわ》いですわね。」と梶の妻が云うと、「一機も入れない」と栖方は云ってまたぱッと笑った。このような談笑の話と、先日高田が来たときの話とを綜合《そうごう》してみた彼の経歴は、二十一歳の青年にしては複雑であった。中学は首席で柔道は初段、数学の検定を四年のときにとった彼は、すぐまた一高の理科に入学した。二年のとき数学上の意見の違いで教師と争い退校させられてから、徴用でラバァウルの方へやられた。そして、ふたたび帰って帝大に入学したが、その入学には彼の才能を惜しんだある有力者の力が働いていたようだった。この間、栖方の家庭上にはこの若者を悩ましている一つの悲劇があった。それは、母の実家が代代の勤皇家であるところへ、父が左翼で獄に入ったため、籍もろとも実家の方が栖方母子二人を奪い返してしまったことである。父母の別れていることは絶ちがたい栖方のひそかな悩みであった。しかし、梶はこの栖方の家庭上の悩みには話題を触れさせたくはなかった。勤皇と左翼の争いは、日本の中心問題で、触れれば、忽ち物狂わしい渦巻に巻き襲われるからである。それは数学の排中律に似た解決困難な問題だった。栖方は、その中心の渦中に身をひそめて呼吸をして来たのであってみれば、父と母との争いのどちらに想《おも》いをめぐらせるべきか、という相反する父母二つの思想体系にもみぬかれた、彼の若若しい精神の苦しみは、想像にかたくない。同一の問題に真理が二つあり、一方を真理とすれば他の方が怪しく崩れ、二つを同時に真理とすれば、同時に二つが嘘《うそ》となる。そして、この二つの中間の真理というものはあり得ないという数学上の排中律の苦しみは、栖方にとっては、父と母と子との間の問題に変っていた。
 しかし、勤皇と左翼のことは別にしても、人の頭をつらぬく排中律の含んだこの確率だけは、ただ単に栖方一人にとっての問題でもない。実は、地上で争うものの、誰の頭上にも降りかかって来ている精神に関した問題であった。これから頭を反らし、そ知らぬ表情をとることは、要するに、それはすべてが偽せものたるべき素質をもつことを証明しているがごときものだった。実に静静とした美しさで、そして、いつの間にかすべてをずり落して去っていく、恐るべき魔のような難題中のこの難題を、梶とて今、この若い栖方の頭に詰めより打ち降ろすことは忍びなかった。いや、梶自身としてみても自分の頭を打ち割ることだ。いや、世界もまた――しかし、現に世界はあるのだ。そして、争っているのだった。真理はどこかになければならぬ筈《はず》にもかかわらず、争いだけが真理の相貌《そうぼう》を呈しているという解きがたい謎《なぞ》の中で、訓練をもった暴力が、ただその訓練のために輝きを放って白熱している。
「いったい、それは、眼にするすべてが幽霊だということか。――手に触れる感覚までも、これは幽霊ではないとどうしてそれを証明することが出来るのだ。」
 ときには、斬《き》り落された首が、ただそのまま引っ付いているだけで、知らずに動いている人間のような、こんな怪しげな幻影も、梶には泛《うか》んで来ることがあったりした。われ有るに非《あら》ざれど、この痛みどこより来るか。古人の悩んだこんな悩ましさも、十数年来まだ梶から取り去られていなかった。そして、戦争が敗北に終わろうと、勝利になろうと、同様に続いて変らぬ排中律の生みつづけていく難問たることに変りはない。
「あなたの光線は、威力はどれほどのものですか。」
 梶が栖方に訊《たず》ねてみようかと思ったのも、何かこのとき、ふと気かがりなことがあって、思いとまった。
「ドイツの使い始めたV一号というのも、初めは少年が発明したとかいうことですね。何んでも僕の聞いたところでは、世界の数学界の実力は、年齢が二十歳から二十三四歳までの青年が握っていて、それも、半年ごとに中心の実力が次ぎのものに変っていく、という話を、ある数学者から聞いたことがありますが、日本の数学も、実際はそんなところにありますかね。どうです。」
 君自身がいまそれか、と暗に訊ねたつもりの梶の質問に、栖方は、ぱッと開く微笑で黙って答えただけだった。梶はまたすぐ、新武器のことについて訊《き》きたい誘惑を感じたが、国家の秘密に栖方を誘いこみ、口を割らせて彼を危険にさらすことは、飽《あ》くまで避けて通らねばならぬ。狭い間道をくぐる思いで、梶は質問の口を探しつづけた。
「俳句は古くからですか。」
 これなら無事だ、と思われる安全な道が、突然二人の前に開けて来た。
「いえ、最近です。」
「好きなんですね。」
「おれのう、頭の休まる法はないものかと、いつも考えていたときですが、高田さんの俳句をある雑誌で見つけて、さっそく入門したのです。もう僕を助けてくれているのは、俳句だけです。他のことは、何をしても苦しめるばかりですね。もう、ほッとして。」
 青葉に射《さ》し込もっている光を見ながら、安らかに笑っている栖方の前で、梶は、もうこの青年に重要なことは何に一つ訊けないのだと思った。有象無象《うぞうむぞう》の大群衆を生かすか殺すか彼一人の頭にかかっている。これは眼前の事実であろうか、夢であろうか。とにかく、事はあまりに重大すぎて想像に伴なう実感が梶には起らなかった。
「しかし、君がそうして自由に外出できるところを見ると、まだ看視はそれほど厳しくないのですね。」と梶は訊ねた。
「厳しいですよ。俳句のことで出るというときだけ、許可してくれるのです。下宿屋全部の部屋が憲兵ばかりで、ぐるりと僕一人の部屋を取り包んでいるものですから、勝手なことの出来るのは、俳句だけです。もう堪《たま》らない。今日も憲兵がついて来たのですが、句会があるからと云って、品川で撒《ま》いちゃいました。」
 帰ってから憲兵への口実となる色紙の必要なことも、それで分った。梶は、自分の色紙が栖方の危険を救うだけ、自分へ疑惑のかかるのも感じたが、門標につながる縁もあって彼は栖方に色紙を書いた。
「科学上のことはよく僕には分らなくて、残念だが、今は秘密の奪い合いだから、君も相当に危いですね、気をつけなくちゃ。」
「そうです。先日も優秀な技師がピストルでやられました。それは優秀な人でしたがね。一度横須賀に来てみて下さい。僕らの工場をお見せしますから。」
「いや、そんな所を見せて貰っても、僕には分らないし、知らない方がいいですよ。あなたにこれでお訊ねしたいことが沢山あるが、もう全部やめです。それより、アインシュタインの間違いって、それは何んですか。」
「あれは仮設が間違っているのですよ。仮設から仮設へ渡っているのがアインシュタインの原理ですから、最初の仮設を叩《たた》いてみたら、他がみな弛《ゆる》んでしまって――」
 空中楼閣を描く夢はアインシュタインとて持ったであろうが、いまそれが、この栖方の検閲にあって礎石を覆えされているとは、これもあまりに大事件である。梶にはも早や話が続かなかった。栖方を狂人と見るには、まだ栖方の応答のどこ一つにも狂いはなかった。
「君の数学は独創ばかりのような感じがするが、君は零《ゼロ》の観念をどんな風に思うんです。君の数学では。僕は零《ゼロ》が肝心だと思うんだが、どうですか。」
「そこですよ。」栖方《せいほう》はひどく乗り出す風に早口になって笑った。「おれのは、みんなそこからです。誰一人分ってくれない。この間も、それで喧嘩《けんか》をしたのですが、日本の軍艦も船も、みな間違っているのです。船体の計算に誤算があるので、おれはそれを直してみたのですが、おれの云うようにすれば、六ノット速力が迅《はや》くなる、そういくら云っても、誰も聞いてはくれないのですよ。あの船体の曲り具合のところです。そこの零の置きどころが間違っているのです。」
 誰も判定のつきかねる所で、栖方はただ一人孤独な闘いをつづけているようだった。殊に、零点の置きどころを改革するというような、いわば、既成の仮設や単一性を抹殺《まっさつ》していく無謀さには、今さら誰も応じるわけにはいくまいと思われる。しかし、すでに、それだけでも栖方の発想には天才の資格があった。二十一歳の青年で、零の置きどころに意識をさし入れたということは、あらゆる既成の観念に疑問を抱いた証拠であった。おそらく、彼を認めるものはいなかろうと梶《かじ》は思った。
「通ることがありますか。あなたの主張は。」と梶は訊《たず》ねた。
「なかなか通りませんね。それでも、船のことはとうとう勝って通りました。学者はみんな僕をやっつけるんだけれども、おれは、証明してみせて云うんですから、仕方がないでしょう。これからの船は速度が迅くなりますよ。」
 どうでも良いことばかり雲集している世の中で、これだけはと思う一点を、射《さ》し動かして進行している鋭い頭脳の前で、大人たちの営営とした間抜けた無駄骨折りが、山のように梶には見えた。
「いっぺん工場を見に来てください。御案内しますから。面白いですよ。俳句の先生が来たんだからといえば、許可してくれます。」栖方は、梶が武器に関する質問をしないのが不服らしく、梶の黙っている表情に注意して云った。
「いや、それだけは見たくないなア。」と梶は答えを渋った。
 栖方は一層不満らしく黙っていた。前後を通じて栖方が梶に不満な表情を示したのは、このときだけだった。
「そんなところを見せてもらっても、僕には何の益にもならんからね。見たって分らないんだもの。」
 これは少し残酷だと梶は思いもした。しかし、梶には、物の根柢《こんてい》を動かしつづけている栖方の世界に対する、云いがたい苦痛を感じたからである。この梶の一瞬の感情には、喜怒哀楽のすべてが籠《こも》っていたようだった。便便として為すところなき梶自身の無力さに対する嫌悪や、栖方の世界に刃向う敵意や、殺人機の製造を目撃する淋しさや、勝利への予想に興奮する疲労や、――いや、見ないに越したことはない、と梶は思った。そして、栖方の云うままには動けぬ自分の嫉妬《しっと》が淋しかった。何となく、梶は栖方の努力のすべてを否定している自分の態度が淋しかった。
「君、排中律をどう思いますかね、僕の仕事で、いまこれが一番問題なんだが。」
 梶は、問うまいと思っていたことも、ついこんなに、話題を外《そ》らせたくなって彼を見た。すると、栖方は「あッ、」と小声の叫びをあげて、前方の棚の上に廻転《かいてん》している扇風機を指差した。
「零点五だッ。」
 閃《ひら》めくような栖方の答えは、勿論《もちろん》、このとき梶には分らなかった。しかし、梶は、訊《き》き返すことはしなかった。その瞬間の栖方の動作は、たしかに何かに驚きを感じたらしかったが、そっとそのまま梶は栖方をそこに沈めて置きたかった。
「あの扇風機の中心は零でしょう。中の羽根は廻《まわ》っていて見えませんが、ちょっと眼を脱《はず》して見た瞬間だけ、ちらりと見えますね。あの零から、見えるところまでの距離の率ですよ。」
 間髪を入れぬ栖方の説明は、梶の質問の壺《つぼ》には落ち込んでは来なかったが、いきなり、廻転している眼前の扇風機をひっ掴《つか》んで、投げつけたようなこの栖方の早業には、梶も身を翻す術《すべ》がなかった。
「その手で君は発明をするんだな。」
「おれのう、街を歩いていると、石に躓《つまず》いてぶっ倒れたんです。そしたら、横を通っていた電車の下っ腹から、火の噴いてるのが見えたんですよ。それから、家へ帰って、ラジオを点《つ》けようと思って、スイッチをひねったところが、ぼッと鳴って、そのまま何の音も聞えないんです。それで、電車の火と、ラジオのぼッといっただけの音とを結びつけてみて、考え出したのですよ。それが僕の光線です。」
 この発想も非凡だった。しかし、梶はそこで、急いで栖方の口を絞《し》めさせたかった。それ以上の発言は栖方の生命にかかわることである。青年は危険の限界を知らぬものだ。栖方も梶の知らぬところで、その限界を踏みぬいている様子があったが、注意するには早や遅すぎる疑いも梶には起った。
「倒れたのが発想か。倒れなかったら、何にもないわけだな。」
 これもすべてが零からだと梶は思って云った。彼は栖方が気の毒で堪《たま》らなかった。

 その日から梶は栖方の光線が気にかかった。それにしても、彼の云ったことが事実だとすれば、栖方の生命は風前の灯火《ともしび》だと梶は思った。いったい、どこか一つとして危険でないところがあるだろうか。梶はそんなに反対の安全率の面から探してみた。絶えず隙間《すきま》を狙《ねら》う兇器の群れや、嫉視《しっし》中傷《ちゅうしょう》の起す焔《ほのお》は何を謀《たくら》むか知れたものでもない。もし戦争が敗《ま》けたとすれば、その日のうちに銃殺されることも必定である。もし勝ったとしても、用がすめば、そんな危険な人物を人は生かして置くものだろうか。いや、危い。と梶はまた思った。この危険から身を防ぐためには――梶はその方法をも考えてみたが、すべての人間を善人と解さぬ限り、何もなかった。
 しかし、このような暗澹《あんたん》とした空気に拘《かかわ》らず、栖方の笑顔を思い出すと、光がぽッと射し展《ひら》いているようで明るかった。彼の表情のどこ一点にも愁いの影はなかった。何ものか見えないものに守護されている貴《とお》とさが溢《あふ》れていた。
 ある日、また栖方は高田と一緒に梶の家へ訪ねて来た。この日は白い海軍中尉の服装で短剣をつけている彼の姿は、前より幾らか大人に見えたが、それでも中尉の肩章はまだ栖方に似合ってはいなかった。
「君はいままで、危いことが度度あったでしょう。例えば、今思ってもぞっとするというようなことで、運よく生命が助かったというようなことですがね。」と、梶は、あの思惑から話半ばに栖方に訊ねてみた。
「それはもう、随分ありました。最初に海軍の研究所へ連れられて来たその日にも、ありました。」
 栖方はそう答えてその日のことを手短に話した。研究所へ着くなり栖方は新しい戦闘機の試験飛行に乗せられ、急直下するその途中で、機の性能計算を命ぜられたことがあった。すると、急にそのとき腹痛が起り、どうしても今日だけは赦《ゆる》して貰いたいと栖方は歎願《たんがん》した。軍では時日を変更することは出来ない。そこで、その日は栖方を除いたものだけで試験飛行を実行した。見ていると、大空から急降下爆撃で垂直に下って来た新飛行機は、栖方の眼前で、空中分解をし、ずぼりと海中へ突き込んだそのまま、尽《ことごと》く死んでしまった。
 また別の話で、ラバァウルへ行く飛行中、操縦席からサンドウィッチを差し出してくれたときのこと、栖方は身を斜めに傾けて手を延ばしたその瞬間、敵弾が飛んで来た。そして、彼に的《あた》らず、後ろのものが胸を撃ち貫かれて即死した。
 また別の第三の偶然事、これは一番|栖方《せいほう》らしく梶《かじ》には興味があったが、――少年の日のこと、まだ栖方は小学校の生徒で、朝学校へ行く途中、その日は母が栖方と一緒であった。雪のふかく降りつもっている路《みち》を歩いているとき、一羽の小鳥が飛んで来て彼の周囲を舞い歩いた。少年の栖方はそれが面白かった。両手で小鳥を掴《つか》もうとして追っかける度に、小鳥は身を翻して、いつまでも飛び廻《まわ》った。
「おれのう、もう掴まるか、もう掴まるかと思って、両手で鳥を抑《おさ》えると、ひょいひょいと、うまい具合に鳥は逃げるんです。それで、とうとう学校が遅れて、着いてみたら、大雪を冠《かぶ》ったおれの教室は、雪崩でぺちゃんこに潰《つぶ》れて、中の生徒はみな死んでいました。もう少し僕が早かったら、僕も一緒でした。」
 栖方は後で母にその小鳥の話をすると、そんな鳥なんかどこにもいなかったと母は云ったそうである。梶は訊《き》いていて、この栖方の最後の話はたとい作り話としても、すっきり抜けあがった佳作だと思った。
「鳥飛んで鳥に似たり、という詩が道元《どうげん》にあるが、君の話も道元に似てますね。」
 梶は安心した気持でそんな冗談を云ったりした。西日の射《さ》しこみ始めた窓の外で、一枚の木製の簾《すだれ》が垂れていた。栖方はそれを見ながら、
「先日お宅から帰ってから、どうしても眠れないのですよ。あの簾が眼について。」と云って、なお彼は窓の外を見つづけた。「僕はあの簾の横板が幾つあったか忘れたので、それを思い出そうとしても、幾ら考えても分らないのですよ。もう気が狂いそうになりましたが、とうとう分った。やっぱり合ってた。二十二枚だ。」栖方は嬉《うれ》しそうに笑顔だった。
「そんなことに気がつき出しちゃ、そりゃ、たまらないなア。」一人いるときの栖方の苦痛は、もう自分には分らぬものだと梶は思って云った。
「夢の中で数学の問題を解くというようなことは、よくあるんでしょうね。先日もクロネッカァという数学者が夢の中で考えついたという、青春の論理とかいう定理の話を聞いたが、――」
「もうしょっちゅうです。この間も朝起きてみたら、机の上にむつかしい計算がいっぱい書いてあるので、下宿の婆さんにこれだれが書いたんだと訊いたら、あなたが夕べ書いてたじゃありませんかというんです。僕はちっとも知らないんですがね。」
「じゃ、気狂い扱いにされるでしょう。」
「どうも、そう思ってるらしいですよ。」栖方はまた眼を上げて、ぱッと笑った。
 それでは今日は栖方の休日にしようと云うことになって、それから梶たち三人は句を作った。青葉の色のにじむ方に顔を向けた栖方は、「わが影を逐《お》いゆく鳥や山ななめ」という幾何学的な無季の句をすぐ作った。そして葉山の山の斜面に鳥の迫っていった四月の嘱目《しょくもく》だと説明した。高田の鋭く光る眼差《まなざし》が、この日も弟子を前へ押し出す謙抑《けんよく》な態度で、句会の場数を踏んだ彼の心遣《こころづか》いもよくうかがわれた。
「三たび茶を戴《いただ》く菊の薫《かお》りかな」
 高田の作ったこの句も、客人の古風に昂《たか》まる感情を締め抑えた清秀な気分があった。梶は佳《よ》い日の午後だと喜んだ。出て来た梶の妻も食べ物の無くなった日の詫《わ》びを云ってから、胡瓜《きゅうり》もみを出した。栖方は、梶の妻と地方の言葉で話すのが、何より慰まる風らしかった。そして、さっそく色紙へ、
「方言のなまりなつかし胡瓜もみ」という句を書きつけたりした。

 栖方たちが帰っていってから十数日たったある日、また高田ひとりが梶のところへ来た。この日の高田は凋《しお》れていた。そして、梶に、昨日《きのう》憲兵が来ていうには、栖方は発狂しているから彼の云いふらして歩くこと一切を信用しないでくれと、そんな注意を与えて帰ったということだった。
「それで、栖方の歩いたところへは、皆にそう云うよう、という話でしたから、お宅へもちょっとそのことをお伝えしたいと思いましてね。」
 一撃を喰《くら》った感じで梶は高田と一緒にしばらく沈んだ。みな栖方の云ったことは嘘《うそ》だったのだろうか。それとも、――彼を狂人にして置かねばならぬ憲兵たちの作略の苦心は、栖方のためかもしれないとも思った。
「君、あの青年を僕らも狂人としておこうじゃないですか。その方が本人のためにはいい。」と梶は云った。
「そうですね。」高田は垂れ下っていくような元気の失《う》せた声を出した。
「そうしとこう。その方がいいよ。」
 高田は栖方を紹介した責任を感じて詫びる風に、梶について掲っては来なかった。梶も、ともすると沈もうとする自分が怪しまれて来るのだった。
「だって君、あの青年は狂人に見えるよ。またそうかも知れないが、とにかく、もし狂人に見えなかったなら、栖方君は危いよ。あるいはそう見えるように、僕ならするかもしれないね。君だってそうでしょう。」
「そうですね。でも、何んだか、みなあれは、科学者の夢なんじゃないかと思いますよ。」高田はあくまで喜ぶ様子もなく、その日は一日重く黙り通した。
 高田が帰ってからも、梶は、今まで事実無根のことを信じていたのは、高田を信用していた結果多大だと思ったが、それにしても、梶、高田、憲兵たち、それぞれ三様の姿態で栖方を見ているのは、三つの零《ゼロ》の置きどころを違《たが》えている観察のようだった。
 一切が空虚だった。そう思うと、俄《にわか》に、そのように見えて来る空《むな》しかった一ヶ月の緊張の溶け崩れた気怠《けだ》るさで、いつか彼は空を見上げていた。
 残念でもあり、ほっとした安心もあり、辷《すべ》り落ちていく暗さもあった。明日からまたこうして頼りもない日を迎えねばならぬ――しかし、ふと、どうしてこんなとき人は空を見上げるものだろうか、と梶は思った。それは生理的に実に自然に空を見上げているのだった。円い、何もない、ふかぶかとした空を。――

 高田の来た日から二日目に、栖方から梶へ手紙が来た。それには、ただ今天皇陛下から拝謁《はいえつ》の御沙汰《ごさた》があって参内《さんだい》して来ましたばかりです。涙が流れて私は何も申し上げられませんでしたが、私に代って東大総長がみなお答えして下さいました。近日中御報告に是非御伺いしたいと思っております。とそれだけ書いてあった。栖方のことは当分忘れていたいと思っていた折、梶は多少この栖方の手紙に後ろへ戻る煩わしさを感じ、忙しそうな彼の字体を眺めていた。すると、その翌日栖方は一人で梶の所へ来た。
「参内したんですか。」
「ええ、何もお答え出来ないんですよ。言葉が出て来ないのです。一度僕の傍まで来られて、それから自分のお席へ戻られましたが、足数だけ算《かぞ》えていますと、十一歩でした。五メータです。そうすると、みすが下りまして、その対《むこ》うから御質問になるのです。」
 ぱッといつもの美しい微笑が開いた。この栖方の無邪気な微笑にあうと、梶は他の一切のことなどどうでも良くなるのだった。栖方の行為や仕事や、また、彼が狂人であろうと偽せものであろうと、そんなことより、栖方の頬《ほお》に泛《うか》ぶ次の微笑を梶は待ちのぞむ気持で話をすすめた。何よりその微笑だけを見たかった。
「陛下は君の名を何とお呼びになるの。」
「中尉は、と仰言《おっしゃ》いましたよ。それからおって沙汰《さた》する、と最後に仰言《おっしゃ》いました。おれのう、もう頭がぼッとして来て、気狂いになるんじゃないかと思いましたよ。どうも、あれからちょっとおかしいですよ。」
 栖方《せいほう》は眼をぱちぱちさせ、云うことを聞かなくなった自分の頭を撫《な》でながら、不思議そうに云った。
「それはお芽出《めで》たいことだったな。用心をしないと、気狂いになるかもしれないね。」
 梶《かじ》はそう云う自分が栖方を狂人と思って話しているのかどうか、それがどうにも分らなかった。すべて真実だと思えば真実であった。嘘《うそ》だと思えばまた尽《ことごと》く嘘に見えた。そして、この怪しむべきことが何の怪しむべきことでもない、さっぱりしたこの場のただ一つの真実だった。排中律のまっただ中に泛《うか》んだ、ただ一つの直感の真実は、こうしていま梶に見事な実例を示してくれていて、「さア、どうだ、どうだ。返答しろ。」と梶に迫って来ているようなものだった。それにも拘《かかわ》らず、まだ梶は黙っているのである。「見たままのことさ、おれは微笑を信じるだけだ。」と、こう梶は不精に答えてみたものの、何ものにか、巧みに転がされころころ翻弄《ほんろう》されているのも同様だった。
「今日お伺いしたのは、一度|御馳走《ごちそう》したいのですよ。一緒にこれから行ってくれませんか。自動車を渋谷の駅に待たせてあるのです。」と、栖方は云った。
「今ごろ御馳走を食べさすようなところ、あるんですか。」
「水交社《すいこうしゃ》です。」
「なるほど、君は海軍だったんですね。」と、梶は、今日は学生服ではない栖方の開襟服の肩章を見て笑った。
「今日はおれ、大尉の肩章をつけてるけれど、本当はもう少佐なんですよ。あんまり若く見えるので、下げてるんです。」
 少年に見える栖方のまだ肩章の星数を喜ぶ様子が、不自然ではなかった。それにしても、この少年が祖国の危急を救う唯一の人物だとは、――実際、今さし迫っている戦局を有利に導くものがありとすれば、栖方の武器以外にありそうに思えないときだった。しかし、それにしても、この栖方が――幾度も感じた疑問がまた一寸《ちょっと》梶に起ったが、何一つ梶は栖方の云う事件の事実を見たわけではない。また調べる方法とてもない夢だ。彼のいう水交社への出入も栖方一人の夢かどうか、ふと梶はこのとき身を起す気持になった。
「君という人は不思議な人だな。初めに君の来たときには、何んだか跫音《あしおと》が普通の客とどこか違っていたように思ったんだが。――」と梶は呟《つぶや》くように云った。
「あ、あのときは、おれ、駅からお宅の玄関まで足数を計って来たのですよ。六百五十二歩。」栖方はすぐ答えた。
 なるほど、彼の正確な足音の謎《なぞ》はそれで分った、と梶は思った。梶は栖方の故郷をA県のみを知っていて、その県のどこかは知らなかったが、初め来たとき梶は栖方に、君の生家の近くに平田篤胤《ひらたあつたね》の生家がありそうな気がするが、と一言|訊《き》くと、このときも「百メータ、」と明瞭《めいりょう》にすぐ答えた。また、海軍との関係の成立した日の腹痛の翌日、新飛行機の性能実験をやらされたとき、栖方は、垂直に落下して来る機体の中で、そのときでなければ出来ない計算を四度び繰り返した話もした。そして、尾翼に欠点のあることを発見して、「よくなりますよ。あの飛行機は。」と云ったりしたが、氾濫《はんらん》しつつ彼の頭に襲いかかって来る数式の運動に停止を与えることが出来ないなら、栖方の頭も狂わざるを得ないであろうと梶は思った。
 正確だから狂うのだ、という逆説は、彼にはたしかに通用する近代の見事な美しさをも語っている。
「君はきょうは、水交社から来たんですか。憲兵はついて来ていないの。」と梶は栖方に家を出る前|訊《たず》ねてみた。
「きょうは父島から帰ったばかりですよ。その足で来たのです。」
 栖方の発音では父島が千島《ちしま》と聞えるので、千島へどうしてと梶が訊ね返すと、チチジマと栖方は云い直した。
「実験をすませて来たのですよ。成功しました。一番早く死ぬのは猫ですね。あれはもう、一寸光線をあてると、ころりと逝《ゆ》く。その次が犬です。猿はどういうものか少し時間をとりますね。」
 と栖方は低く笑いながら、額に日灼《ひや》けの条《すじ》の入った頭を痒《か》いた。狂人の寝言のように無雑作《むぞうさ》にそう云うのも、よく聞きわけて見ると、恐るべき光線の秘密を呟いているのだった。
「僕は動物の心臓というものに興味が出て来ましたよ。どうも、いろいろ心臓に種類があるような気がして来て、これを皆|験《しら》べたら面白いだろうなアと思いました。」
 栖方の武器は、事実それなら進行しているのだろうか、と梶は思った。しかし、何ぜだか梶は、ここまで彼と親しくなって来ていても、それが事実かどうかを栖方に訊き返す気はしなかった。あまりに面倒で起っている事件は異様すぎて、却《かえ》って梶に迫力を与えない。のみならず、どこかで栖方をまだ狂人と思っているところがあって、何を云っても彼を許しておけるのだった。
「父島まではどれほどかかるのです。」
「二時間です。あそこの電力は弱いから、実験は思うようには出来ないんですよ。それでも、一万フィートぐらいまでなら、効力がありますね。初めは海中では駄目だろうと思っていたんですが、海水は塩だから、空気中より海中の方が、効力のあることが分りましたよ。」
「へえ、一万フィートなら相当なものだな。うまくゆきますか、飛行機だと落ちますね。」
「落ちました。初め操縦士と合図しといて落下傘で飛び降りてから、その後の空虚《から》の飛行機へ光線をあてたのです。うまくゆきましたよ。操縦士と夕べは握手して、ウィスキイを二人で飲みました。愉快でしたよそのときは。」
 自信に満ちた栖方の笑顔は、日常眼にする群衆の憂鬱《ゆううつ》な顔とはおよそかけ放れて晴れていた。
「潜水艦にもかけてみましたが、これは、うっかりして、後尾へ当っちゃったものだから、浮きあがる筈《はず》のやつが、いつまでも浮かないんですよ。気の毒なことをした。でも、まア、仕様がない、国のためだから、我慢をしてもらわなきゃア。」
 ちょっと栖方は悲しげな表情になったが、それも忽《たちま》ち晴れあがった。
「日本の潜水艦?」と梶は驚いて訊ねた。
「そうです。いやだったなア、あのときは。もう実験はこりごりだと思いましたね。あれだからいやになる。」
 異様な事件が不思議と真実の相をおびて梶に迫って来始めた。では、みな事実か。この青年の口走っていることは――
「しかし、そんな武器を悪人に持たした日には、事だなア。」と梶は思わず呟いた。
「そうですよ。監理が大変です。」
「人類が滅んじまうよ。」
「その武器を積んだ船が六ぱいあれば、ロンドンの敵前上陸が出来ますよ。アメリカなら、この月末にだって上陸は出来ますね。」
 もう冗談事ではなかった。どこからどこまで充実した話か依然疑問は残りながらも、一言ごとに栖方の云い方は、空虚なものを充填《じゅうてん》しつつ淡淡とすすんでいる。梶は自分が驚いているのかどうか、も早やそれも分らなかった。しかし、どうしてこんな場合に、不意に悪人のことを自分は考えたのだろうか。たしかに、事は戦争の勝ち敗《ま》けのことだけでは済みそうにないと梶は思った。勿論《もちろん》、彼は自分が国を愛していることは疑わなかった。負けることを望むなどとは考えることさえ出来ないことだった。勝ってもらいたかった。しかし、勝っている間は、こんなに勝ちつづけて良いものだろうかという愁いがあった。それが敗《ま》け色がつづいて襲って来てみると、愁いどころの騒ぎでは納まらなかった。戦争というものの善悪《ぜんあく》如何《いかん》にかかわらず祖国の滅亡することは耐えられることではなかった。そこへ出現して来た栖方《せいほう》の新武器は、聞いただけでも胸の躍ることである。それに何故また自分はその武器を手にした悪人のことなど考えるのだろうか。ひやりと一抹《いちまつ》の不安を覚えるのはどうしたことだろうか。――梶は自分の心中に起って来たこの二つの真実のどちらに自分の本心があるものか、暫《しばら》くじっと自分を見るのだった。ここにも排中律の詰めよって来る悩ましさがうすうすともみ起って心を刺して来るのだった。先日までは、まだ栖方の新武器が夢だと思っていた先日まで、栖方の生命の安危が心配だったのに、それが事実に近づいて来てみると、彼のことなども早やどうでも良くなって、悪魔の所在を嗅《か》ぎつけようとしている自分だということは、――悪魔、たしかにいるのだこ奴は、と梶《かじ》は思った。
「その君の武器は、善人に手渡さなきゃア、国は滅ぶね。もし悪人に渡した日には、そりゃ、敗けだ。」と、何ぜともなく梶は呟《つぶや》いて立ち上った。神います、と彼は文句なくそう思ったのである。

 栖方と梶とは外へ出た。西日の射《さ》す退《ひ》けどきの渋谷のプラットは、車内から流れ出る客と乗り込む客とで渦巻いていた。その群衆の中に混って、乗るでもない、降りもしない一人の背高い、蒼《あお》ざめた帝大の角帽姿の青年が梶の眼にとまった。憂愁を湛《たた》えた清らかな眼差《まなざし》は、細く耀《かがや》きを帯びて空中を見ていたが、栖方を見ると、つと美しい視線をさけて外方《そっぽ》を向いたまま動かなかった。
「あそこに帝大の生徒がいるでしょう。」
 と栖方は梶に云った。
「ふむ。いる。」
「あれは僕の同僚ですよ。やはり海軍詰めですがね。」
 群衆の流れのままに二人は、海軍と理科との二つの襟章をつけたその青年の方へ近づいた。
「あッ、黙っているな。敵愾心《てきがいしん》を感じたかな。」と栖方は云うと、横を向いた青年の背後を、これもそのまま梶と一緒に過ぎていった。
「もう僕は、憎まれる憎まれる。誰も分ってくれやしない。」と栖方はまた呟いたが、歩調は一層|活溌《かっぱつ》に戞戞《かつかつ》と響いた。並んだ梶は栖方の歩調に染ってリズミカルになりながら、割れているのは群衆だけではないと思った。日本で最も優秀な実験室の中核が割れているのだ。
 栖方が待たせてあると云った自動車は、渋谷の広場にはいなかった。そこで二人は都電で六本木まで行くことにしたが、栖方は、自動車の番号を梶に告げ、街中で見かけたときはその番号を呼び停《と》めていつでも乗ってくれと云ったりした。電車の中でも栖方は、二十一歳の自分が三十過ぎの下僚を呼びつけにする苦痛を語ってから、こうも云った。
「僕がいま一番尊敬しているのは、僕の使っている三十五の伊豆《いず》という下級職工ですよ。これを叱《しか》るのは、僕には一番|辛《つら》いことですが、影では、どうか何を云っても赦《ゆる》して貰いたい、工場の中だから、君を呼び捨てにしないと他のものが、云うことを聞いてはくれない、国のためだと思って、当分は赦してほしいと頼んであるんです。これは豪《えら》い男ですよ。人格も立派です。そこへいくと、僕なんか、伊豆を呼び捨てに出来たもんじゃありませんがね。」
 この栖方のどこが狂人なのだろうか、と梶はまた思った。二十一歳で博士になり、少佐の資格で、齢上《としうえ》の沢山な下僚を呼び捨てに手足のごとく使い、日本人として最高の栄誉を受けようとしている青年の挙動は、栖方を見遁《みのが》して他に例のあったためしはない。それなら、これからゆく先の長い年月、栖方は今あるよりもただ下るばかりである。何という不幸なことだろう、梶はこの美しい笑顔をする青年が気の毒でならなかった。
 六本木で二人は降りた。橡《とち》の木の並んだ狸穴《まみあな》の通りを歩いたとき、夕暮のせまった街に人影はなかった。そこを坂下からこちらへ十人ばかりの陸軍の兵隊が、重い鉄材を積んだ車を曳《ひ》いて登って来ると、栖方の大尉の襟章を見て、隊長の下士が敬礼ッと号令した。ぴたッと停《とま》った一隊に答礼する栖方の挙手は、隙《すき》なくしっかり板についたものだった。軍隊内の栖方の姿を梶は初めて見たと思った。
「もう君には、学生臭はなくなりましたね。」と梶は云った。
「僕は海軍より陸軍の方が好きですよ。海軍は階級制度がだらしなくって、その点陸軍の方がはっきりしていますからね。僕はいま陸軍から引っ張りに来ているんですが、海軍が許さないのです。」
 水交社《すいこうしゃ》が見えて来た。この海軍将校の集会所へ這入《はい》るのは、梶には初めてであった。どこの煙筒からも煙の出ないころだったが、ここの高い煙筒だけ一本|濛濛《もうもう》と煙を噴き上げていた。携帯品預所の台の上へ短剣を脱《はず》して出した栖方は、剣の柄のところに菊の紋の彫られていることを梶に云って、
「これ僕んじゃないのですが、恩賜の軍刀ですよ。他人のを借りて来たんです。もうじき、僕も貰うもんですから。」
 子供らしくそう云いながら、室の入口へ案内した。そこには佐官以上の室の標札が懸っていた。油の磨きで黒黒とした光沢のある革張りのソファや椅子《いす》の中で、大尉の栖方は若若しいというより、少年に見える不似合な童顔をにこにこさせ、梶に慰めを与えようとして骨折っているらしかった。食事のときも、集っている将校たちのどの顔も沈鬱《ちんうつ》な表情だったが、栖方だけ一人|活《い》き活《い》きとし笑顔で、肱《ひじ》を高くビールの壜《びん》を梶のコップに傾けた。フライやサラダの皿が出たとき、
「そんな君の尉官の襟章で、ここにいてもいいのですか。」と梶は訊《たず》ねてみた。
「みなここの人は僕のことを知ってますよ。」
 栖方は悪びれずに答えた。そのとき、また一人の佐官が梶の傍へ来て坐《すわ》った。そして、栖方に挨拶《あいさつ》して黙黙とフォークを持ったが、この佐官もひどくこの夕は沈んでいた。もう海軍力はどこの海面のも全滅している噂《うわさ》の拡《ひろ》がっているときだった。レイテ戦は総敗北、海軍の大本山、戦艦大和も撃沈された風説が流れていた。
 珍らしいパン附の食事を終ってから、梶と栖方は、中庭の広い芝生へ降りて東郷神社と小額のある祠《ほこら》の前の芝生へ横になった。中庭から見た水交社は七階の完備したホテルに見えた。二人の横たわっている前方の夕空にソビエットの大使館が高さを水交社と競っていた。東郷|小祠《しょうし》の背後の方へ、折れ曲っている広い特別室に灯が入った。栖方は黄楊《つげ》の葉の隙から見える後のその室を指して、
「あれは少将以上の食堂ですが、何か会議があるらしいですよ。」と説明した。大きな建物全体の中でその一室だけ煌煌《こうこう》と明るかった。爽《さわ》やかな白いテーブルクロスの間を白い夏服の将官たちが入口から流れ込んで来た。梶は、敗戦の将たちの灯火を受けた胸の流れが、漣《さざなみ》のような忙しい白さで着席していく姿と、自分の横の芝生にいま寝そべって、半身を捻《ね》じ曲げたまま灯の中をさし覗《のぞ》いている栖方を見比べ、大厦《たいか》の崩れんとするとき、人皆この一木に頼るばかりであろうかと、あたりの風景を疑った。一人の明※[#「析/日」、第3水準1-85-31]判断《めいせきはんだん》のない狂いというものの持つ恐怖は、も早や日常茶飯事の平静ささえ伴なっている静かな夕暮だった。
「ここへ来る人間は、みなあの部屋へ這入《はい》りたいのだろうが、今夜のあの灯の下には哀愁があるね。前にはソビエットが見ているし。」
「僕は、本当は小説を書いてみたいんですよ。帝大新聞に一つ出したことがあるんですが、相対性原理を叩《たた》いてみた小説で、傘屋の娘というです。」
 どういう栖方《せいほう》の空想からか、突然、栖方は手枕《てまくら》をして梶《かじ》の方を向き返って云った。
「ふむ。」梶はまことに意外であった。
「長篇《ちょうへん》なんですよ。数学の教授たちは面白い面白いと云ってくれましたが、僕はこれから、数学を小説のようにして書いてみたいんです。あなたの書かれた旅愁というの、四度読みましたが、あそこに出て来る数学のことは面白かったなア。」
 考えれば、寝ても立ってもおられぬときだのに、大厦《たいか》を支える一木が小説のことをいうのである。遽《あわただ》しい将官たちの往《ゆ》き来《き》とソビエットに挟まれた夕闇《ゆうやみ》の底に横たわりながら、ここにも不可解な新時代はもう来ているのかしれぬと梶は思った。
「それより、君の光線の色はどんな色です。」と梶は話を反らせて訊《たず》ねた。
「僕の光線は昼間は見えないけども、夜だと周囲がぽッと青くて、中が黄色い普通の光です。空に上ったら見ていて下さい。」
「あそこでやっている今夜の会議も、君の光の会議かもしれないな。どうもそれより仕様がない。」
 暗くなってから二人は帰り仕度をした。携帯品預所で栖方は、受け取った短剣を腰に吊《つ》りつつ梶に、「僕は功一級を貰うかもしれませんよ。」と云って、元気よく上着を捲《ま》くし上げた。
 外へ出て真ッ暗な六本木の方へ、歩いていくときだった。また栖方は梶に擦りよって来ると、突然声をひそめ、今まで抑《おさ》えていたことを急に吐き出すように、
「巡洋艦四|隻《せき》と、駆逐艦四隻を沈めましたよ。光線をあてて、僕は時計をじっと計っていたら、四分間だった。たちまちでしたよ。」
 あたりには誰もいなかった。暗中|匕首《あいくち》を探ぐってぐっと横腹を突くように、栖方は腰のズボンの時計を素早く計る手つきを示して梶に云った。
「しかし、それなら発表するでしょう。」
「そりゃ、しませんよ。すぐ敵に分ってしまう。」
「それにしても――」
 二人はまた黙って歩きつづけた。緊迫した石垣の冷たさが籠《こ》み冴《さ》えて透《とお》った。暗い狸穴《まみあな》の街路は静な登り坂になっていて、ひびき返る靴音だけ聞きつつ梶は、先日から驚かされた頂点は今夜だったと思った。そして、栖方の云うことを嘘《うそ》として退けてしまうには、あまりに無力な自分を感じてさみしかった。いや、それより、自分の中から剥《は》げ落ちようとしている栖方の幻影を、むしろ支えようとしているいまの自分の好意の原因は、みな一重に栖方の微笑に牽引《けんいん》されていたからだと思った。彼はそれが口惜しく、ひと思いに彼を狂人として払い落してしまいたかった。梶は冷然としていく自分に妙に不安な戦慄《せんりつ》を覚え、黒黒とした樹立《こだち》の沈黙に身をよせかけていくように歩いた。
「僕はね、先生。」とまた暫《しばら》くして、栖方は梶に擦りよって来て云った。「いま僕は一つ、悩んでいることがあるんですよ。」
「何んです。」
「僕は今まで一度も、死ぬということを恐《こわ》いと思ったことはなかったんですが、どういうものだが、先日から死ぬことが恐くなって来たんです。」
 栖方の本心が眼覚《めざ》めて来ている。梶はそう思って、「ふむ」と云った。
「何ぜでしょうかね。僕はもうちょっと生きていたいのですよ。僕はこのごろ、それで眠れないのです。」
 深部の人間が揺れ動いて来ている声である。気附いたなと梶は思った。そして、耳をよせて次の栖方の言葉を待つのだった。また二人は黙って暫く歩いた。
「僕はもう、誰かにすがりつきたくって、仕様がない。誰もないのです。」
 今まで無邪気に天空で戯れていた少年が人のいない周囲を見廻《みまわ》し、ふと下を覗《のぞ》いたときの、泣きだしそうな孤独な恐怖が洩《も》れていた。
「そうだろうな。」
 答えようのない自分がうすら悲しく、梶は、街路樹の幹の皮の厚さを見過してただ歩くばかりだった。彼は早く灯火の見える辻《つじ》へ出たかった。丁度、そうして夕暮れ鉄材を積んだ一隊の兵士と出会った場所まで来たとき、溌剌《はつらつ》としていた昼間の栖方を思い出し、やっと梶は云った。
「しかし、君、そういうところから人間の生活は始まるのだから、あなたもそろそろ始まって来たのですよ。何んでもないのだ、それは。」
「そうでしょうか。」
「誰にもすがれないところへ君は出たのさ。零《ゼロ》を見たんですよ。この通りは狸穴といって、狸《たぬき》ばかり棲《す》んでいたらしいんだが、それがいつの間にか、人間も棲むようになって、この通りですからね。僕らの一生もいろんなところを通らねばならんですよ。これだけはどう仕様もない。まァ、いつも人は、始まり始まりといって、太鼓でも叩《たた》いて行くのだな。死ぬときだって、僕らはそう為《し》ようじゃないですか。」
「そうだな。」
 漸《よう》やく泣き停ったような栖方の正しい靴音が、また梶に聞えて来た。六本木の停留所の灯が二人の前へさして来て、その下に塊《かたま》っている二三の人影の中へ二人は立つと、電車が間もなく坂を昇って来た。

 秋風がたって九月ちかくなったころ、高田が梶の所へ来た。栖方の学位論文通過の祝賀会を明日催したいから、梶に是非出席してほしい、場所は横須賀で少し遠方だが、栖方から是非とも梶だけは連れて来て貰いたいと依頼されたということで、会を句会にしたいという。句会の祝賀会なら出席することにして、梶は高田の誘いに出て来る明日を待った。
「どういう人が今日は出るのです。」
 と、梶は次の日、横須賀行の列車の中で高田に訊ねた。大尉級の海軍の将校数名と俳句に興味を持つ人たちばかりで、山の上にある飛行機製作技師の自宅で催すのだと、高田の答えであった。
「この技師は俳句も上手《うま》いが、優秀な豪《えら》い技師ですよ。僕と俳句友達ですから、遠慮の要《い》らない間柄なんです。」と高田は附加して云った。
「しかし、憲兵に来られちゃね。」
「さァ、しかし、そこは句会ですから、何とかうまくやるでしょう。」
 途中の間も、梶と高田は栖方が狂人か否かの疑問については、どちらからも触れなかった。それにしても、栖方を狂人だと判定して梶に云った高田が、その栖方の祝賀会に、梶を軍港まで引き摺《ず》り出そうとするのである。技師の宅は駅からも遠かった。海の見える山の登りも急な傾きで、高い石段の幾曲りに梶は呼吸がきれぎれであった。葛《くず》の花のなだれ下った斜面から水が洩れていて、低まっていく日の満ちた谷間の底を、日ぐらしの声がつらぬき透っていた。
 頂上まで来たとき、青い橙《だいだい》の実に埋った家の門を這入《はい》った。そこが技師の自宅で句会はもう始っていた。床前に坐《すわ》らせられた正客の栖方の頭の上に、学位論文通過祝賀俳句会と書かれて、その日の兼題も並び、二十人ばかりの一座は声もなく句作の最中であった。梶と高田は曲縁の一端のところですぐ兼題の葛の花の作句に取りかかった。梶は膝《ひざ》の上に手帖を開いたまま、中の座敷の方に背を向け、柱にもたれていた。枝をしなわせた橙の実の触れあう青さが、梶の疲労を吸いとるようであった。まだ明るく海の反射をあげている夕空に、日ぐらしの声が絶えず響き透っていた。
「これは僕の兄でして。今日、出て来てくれたのです。」
 栖方は後方から小声で梶に紹介した。東北なまりで、礼をのべる小柄な栖方の兄の頭の上の竹筒から、葛《くず》の花が垂れていた。句会に興味のなさそうなその兄は、間もなく、汽車の時間が切れるからと挨拶《あいさつ》をして、誰より先に出ていった。
「橙《たう》青き丘の別れや葛の花」
 梶《かじ》はすぐ初めの一句を手帖に書きつけた。蝉《せみ》の声はまだ降るようであった。ふと梶は、すべてを疑うなら、この栖方《せいほう》の学位論文通過もまた疑うべきことのように思われた。それら栖方のしていることごとが、単に栖方個人の夢遊中の幻影としてのみの事実で、真実でないかもしれない。いわば、その零《ゼロ》のごとき空虚な事実を信じて誰も集り祝っているこの山上の小会は、いまこうして花のような美しさとなり咲いているのかもしれない。そう思っても、梶は不満でもなければ、むなしい感じも起らなかった。
「日ぐらしや主客に見えし葛の花」と、また梶は一句書きつけた紙片を盆に投げた。
 日が落ちて部屋の灯が庭に射《さ》すころ、会の一人が隣席のものと囁《ささや》き交しながら、庭のま垣の外を見詰めていた。垣裾《かきすそ》へ忍びよる憲兵の足音を聞きつけたからだった。主宰者が憲兵を中へ招じ入れたものか、どうしたものかと栖方に相談した。
「いや、入れちゃ不可《いか》ん。癖になる。」
 床前に端座した栖方は、いつもの彼には見られぬ上官らしい威厳で首を横に振った。断乎《だんこ》とした彼の即決で、句会はそのまま続行された。高田の披講で一座の作句が読みあげられていくに随《したが》い、梶と高田の二作がしばらく高点を競りあいつつ、しだいにまた高田が乗り越えて会は終った。丘を下っていくものが半数で、栖方と親しい後の半数の残った者の夕食となったが、忍び足の憲兵はまだ垣の外を廻《まわ》っていた。酒が出て座がくつろぎかかったころ、栖方は梶に、
「この人はいつかお話した伊豆《いず》さんです。僕の一番お世話になっている人です。」
 と紹介した。
 労働服の無口で堅固な伊豆に梶は礼をのべる気持になった。栖方は酒を注《つ》ぐ手伝いの知人の娘に軽い冗談を云ったとき、親しい応酬をしながらも、娘は二十一歳の博士の栖方の前では顔を赧《あか》らめ、立居に落ち付きを無くしていた。いつも両腕を組んだ主宰者の技師は、静かな額に徳望のある気品を湛《たた》えていて、ひとり和やかに沈む癖があった。
 東京からの客は少量の酒でも廻りが早かった。額の染った高田は仰向きに倒れて空を仰いだときだった。灯をつけた低空飛行の水上機が一機、丘すれすれに爆音をたてて舞って来た。
「おい、栖方の光線、あいつなら落せるかい。」と高田は手枕《てまくら》のまま栖方の方を見て云った。一瞬どよめいていた座はしんと静まった。と、高田ははッと我に返って起きあがった。そして、厳しく自分を叱責《しっせき》する眼付きで端座し、間髪を入れぬ迅《はや》さで再び静まりを逆転させた。見ていて梶は、鮮かな高田の手腕に必死の作業があったと思った。襯衣《シャツ》一枚の栖方はたちまち躍るように愉《たの》しげだった。
 その夜は梶と高田と栖方の三人が技師の家の二階で泊った。高田が梶の右手に寝て、栖方が左手で、すぐ眠りに落ちた二人の間に挟まれた梶は、寝就《ねつ》きが悪く遅くまで醒《さ》めていた。上半身を裸体にした栖方は蒲団《ふとん》を掛けていなかった。上蒲団の一枚を四つに折って顔の上に乗せたまま、両手で抱きかかえているので、彼の寝姿は座蒲団を四五枚顔の上に積み重ねているように見えて滑稽《こっけい》だった。どういう夢を見ているものだろうかと、夜中ときどき梶は栖方を覗《のぞ》きこんだ。ゆるい呼吸の起伏をつづけている臍《へそ》の周囲のうすい脂肪に、鈍く電灯の光が射していた。蒲団で栖方の顔が隠れているので、首なしのようにみえる若い胴の上からその臍が、
「僕、死ぬのが何んだか恐《こわ》くなりました。」と梶に呟《つぶや》くふうだった。梶は栖方の臍も見たと思って眠りについた。

 梶と栖方はその後一度も会っていない。その秋から激しくなった空襲の折も、梶は東京から一歩も出ず空を見ていたが、栖方の光線はついに現れた様子がなかった。梶は高田とよく会うたびに栖方のことを訊《たず》ねても、家が焼け棲家《すみか》のなくなった高田は、栖方についてはもう興味の失《う》せた答えをするだけで、何も知らなかった。ただ一度、栖方と別れて一ヶ月もしたとき、句会の日の技師から高田にあてて、栖方は襟章の星を一つ附加していた理由を罪として、軍の刑務所へ入れられてしまったという報告のあったことと、空襲中、技師は結婚し、その翌日急病で死亡したという二つの話を、梶は高田から聞いただけである。栖方と同じ所に勤務していた技師に死なれては、高田もそこから栖方のことを聞く以外に、方法のなかったそれまでの道は断ちきれたわけであった。随《したが》って梶もまたなかった。
 戦争は終った。栖方は死んでいるにちがいないと梶は思った。どんな死に方か、とにかく彼はもうこの世にはいないと思われた。ある日、梶は東北の疎開先にいる妻と山中の村で新聞を読んでいるとき、技術院総裁談として、わが国にも新武器として殺人光線が完成されようとしていたこと、その威力は三千メートルにまで達することが出来たが、発明者の一青年は敗戦の報を聞くと同時に、口惜しさのあまり発狂死亡したという短文が掲載されていた。疑いもなく栖方のことだと梶は思った。
「栖方死んだぞ。」
 梶はそう一言妻に伝って新聞を手渡した。一面に詰った黒い活字の中から、青い焔《ほのお》の光線が一条ぶつと噴きあがり、ばらばらッと砕け散って無くなるのを見るような迅さで、梶の感情も華ひらいたかと思うと間もなく静かになっていった。みな零になったと梶は思った。
「あら、これは栖方さんだわ。とうとう亡くなったのね。一機も入れないって、あたしに云ってらしたのに。ほんとに、敗《ま》けたと聞いて、くらくらッとしたんだわ。どうでしょう。」
 妻のそういう傍で、梶は、栖方の発狂はもうすでにあのときから始っていたのだと思われた。彼の云ったりしたりしたことは、あることは事実、あることは夢だったのだと思った。そして、梶は自分も少しは彼に伝染して、発狂のきざしがあったのかもしれないと疑われた。梶は玉手箱の蓋《ふた》を取った浦島のように、呆《ほう》ッと立つ白煙を見る思いで暫《しばら》く空を見あげていた。技師も死に、栖方も死んだいま見る空に彼ら二人と別れた横須賀の最後の日が映じて来る。技師の家で一泊した翌朝、梶は栖方と技師と高田と四人で丘を降りていったとき、海面に碇泊《ていはく》していた潜水艦に直撃を与える練習機を見降ろしながら、技師が、
「僕のは幾ら作っても作っても、落される方だが、栖方のは落とす方だからな、僕らは敵《かな》いませんよ。」
 悄然《しょうぜん》として呟く紺背広《こんせびろ》の技師の一歩前で、これはまた溌剌《はつらつ》とした栖方の坂路を降りていく鰐足《わにあし》が、ゆるんだ小田原提灯《おだわらぢょうちん》の巻ゲートル姿で泛《うか》んで来る。それから三笠艦を見物して、横須賀の駅で別れるとき、
「では、もう僕はお眼にかかれないと思いますから、お元気で。」
 はっきりした眼付きで、栖方はそう云いながら、梶に強く敬礼した。どういう意味か、梶は別れて歩くうち、ふと栖方のある覚悟が背に沁《し》み伝わりさみしさを感じて来たが、――
 疎開先から東京へ戻って来て梶は急に病気になった。ときどき彼を見舞いに来る高田と会ったとき、梶は栖方のことを云い出してみたりしたが、高田は死児の齢《よわい》を算《かぞ》えるつまらなさで、ただ曖昧《あいまい》な笑いをもらすのみだった。
「けれども、君、あの栖方の微笑だけは、美しかったよ。あれにあうと、誰でも僕らはやられるよ。あれだけは――」
 微笑というものは人の心を殺す光線だという意味も、梶は含めて云ってみたのだった。それにしても、何よりも美しかった栖方《せいほう》のあの初春のような微笑を思い出すと、見上げている空から落ちて来るものを待つ心が自ら定って来るのが、梶《かじ》には不思議なことだった。それはいまの世の人たれもが待ち望む一つの明※[#「析/日」、第3水準1-85-31]判断《めいせきはんだん》に似た希望であった。それにも拘《かかわ》らず、冷笑するがごとく世界はますます二つに分れて押しあう排中律のさ中にあって漂いゆくばかりである。梶は、廻転《かいてん》している扇風機の羽根を指差しぱッと明るく笑った栖方が、今もまだ人人に云いつづけているように思われる。
「ほら、羽根から視線を脱《はず》した瞬間、廻《まわ》っていることが分るでしょう。僕もいま飛び出したばかりですよ。ほら。」

底本:「昭和文学全集 第5巻」小学館
   1986(昭和61)年12月1日初版第1刷発行
底本の親本:「定本横光利一全集」河出書房新社
   1981(昭和56)年~
入力:阿部良子
校正:松永正敏
2003年6月12日作成
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横光利一

碑文—–横光利一

雨は降り続いた。併し、ヘルモン山上のガルタンの市民は、誰もが何日太陽を眺め得るであらうかと云ふ予想は勿論、何日から此の雨が降り始めたか、それすら今は完全に思ひ出すことも出来なくなつた。人々の胃には水が溜つた。さうして、婦女達の乳房はだんだん青く脹らみ、赤子や子供は水を飲まされた怒りのために母親の乳首を噛んだ。
 最早や人々は空を見飽きた。高窓から首を差し出して空を仰いでゐるのを見ると、通行人は腹立たしさに歩道の上で嘲弄した。
「ああ、高窓からガルタンの太陽が現れた。」
 忽ち怒つた顔が高窓から椅子や器物を歩道の上へ投げつけた。続いて礫が高窓を狙つて飛び込んだ。が、またそれは忽ちの間に鎮ると、後悔の標に、彼らの蒼ざめた顔が高窓の上と下とでげら/\と笑ひ合つた。
 日に日に酒甕を冠つて横たはつてゐる酔漢が、歩道や廻廊や石階の上に増して来た。
「ガルタンの空は旱魃である。」
「ガルタンの市民は、レバノンの戍楼《やぐら》のごとく干されるであらう。」
 彼らは瞞着した皮肉を浮べながら、酒舖から酒舖へ蹣跚として蹌踉めいていつた。が、彼らの頭は夜が来ると一様に冴え渡つた。時々深夜に狂つた管絃楽が突発した。すると、忽ち城市の方々からは、乱雑な舞踏が一斉に爆けた鋼螺《バネ》線のやうに噴出した。不眠に懊む者達は寝台の上から飛び降りた。さうして、彼らは何時の間にか、見ず知らずの者達と一つの集団を作りながら、歩道や廻廊の上を暴徒《モツブ》のやうに躍り廻つてゐる自分を知つた。が立ち停つて顔を見合せた瞬間、彼らは不可解な憎悪を感じて互に侮蔑の視線を投げ合ふと又躍つた。
 併し、雨はへルモンの山に降り続いた。
「吾らの市民よ、ガルタンに危機が来た。へルモンの山に危機が来た。」
 大道の四つ角で、片腕に酒甕を抱いたまゝ掌を振つて群衆に叫ぶ志士が現れた。すると、直ちに聴衆はなくなつて群衆は尽くその場で志士となつて拳を振つた。
「吾らの市民よ、ガルタンに危機が来た。ヘルモンの山に危機が来た。」
 彼らは直ぐさま酒甕へその唇をあてながら、酒舖や劇場へ雪崩れ込むと、魚のやうにべた/\と大理石や白檀の上へ酔ひ潰れて又叫んだ。
 けれども、雨は降り続いた。日に日に市民の死者が急激に増加した。それら死者の顔は老若男女に拘らず、皆一様に老耄の相に変つてゐて、歯は揺るぎ、窪んだ肉の影には岩のやうに疥癬の巣を張らせ、さうして、彼らの頭髪は引けば茄だつた芋毛のやうにぼく/\と※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77、198-1]れて来た。
 或る日、ガルタンの哲学者らは尽く市の会堂に聚められると、此の未曾有の大降雨の原因と、それに応ずる救済方法に関して執政官の面前で論争させられた。或る哲学者はガルタンがヘルモン山上に位置するを以つてと云ひ、或る者は新生の惑星が城市の上空を飛遊しつつあるが故と論じ、またある者は、数千年に一度飛翔し来る雲の大塊が、今やその動力を失つて彷徨しつゝあるを以つてと結論した。併し、此れらの様々の言葉は、夫々皆降雨に応ずる救済方法に関しては忘却の態度を装つた。が、中の一人は口を開いた。
「ヘルモンの山を下りよ。ガルタンの市民はカイザリアへ逃げよ。」
「空は続いてゐる。」と一人は云つた。
「ガルタンを捨てて、ボルペレオンへ行け。」
「見よ、ヘルモンを下る大道は瀑布である。」
「ガルタンを守れ。雲は空の如く大きくはない。」
「日々に隙間を拡げるガルタンの穀庫は七つである。」
 会堂は静まつた。滔々として山から落ちる瀑布の音は高まつた。その時、立ち上つた哲学者は名高い醜男のカンナであつた。
「ガルタンの哲学者らよ、卿等は賢明の武器を捨てゝ、卿等の祖父と父と妻とを吾に告げよ。卿等の子と孫とをガルタンに捜せ。嗚呼ガルタンの道念は、地に倒れたソロモンの旗の如く穢された。ガルタンの哲学者らよ、卿等は碧玉を飾つた裸形の首と、杯盤の香りを忘れて空を見よ。大いなる神は怒つた。ガルタンの市民は、マハナイムの祭りに焼かれた犠牲のごとくヘルモンの山上に載るであらう。嗚呼ガルタンの哲学者らよ。卿等は額に服罪の水を受けてガルタンを神に返せ。今や吾がガルタンの上には、滅亡と共に神の浄き恵与物が自殺となつて下つてゐる。」
 会堂に並んだ哲学者達の面色は蒼然として変つて来た。会合の詳細な報告は直ちにガルタンの城市に拡つた。
「大いなる神は怒つた。ガルタンは絶滅するであらう。」
 恐怖の波が人々の胸から胸を揺るいでいつた。ガルタンの大路小路では、叩かれたやうに乱舞が止まつて祈りの声が空に上つた。その昔美しい妻を奪はれた独身者のカンナは、その夜、竊に階上の観台からガルタンの城市を見下した。
「ガルタンよ、爾は爾の醜き慣習のために滅落するであらう。嗚呼ガルタンよ。滅亡せよ。今や爾は吾のためにバタラビンの池のごとく亡びるときが来た。」
 彼は醜い顔に市民に放つ復讐の微笑を浮べながら、酒を呷つて首筋の動脈を切断した。併し、彼はふと傍に立つてゐる飲み干した酒甕に気がつくと、その日会堂を震はせた自分の堂々たる雄弁と、酒甕と、自分の死体とを思ひ比べて物語つてゐる市民の言葉が浮んで来た。
「賢者は死んだ。賢者は自殺を怖れて美酒を飲んだ。賢者の言葉はエルサレムの卜者のやうに嘘言である。」
 彼は酒甕を抱いて立ち上つた。そして、蹌踉として円柱を辿りながら部屋の中を廻り始めたが、四方の壁となつて積み上げられた哲学書の山々は、到る所でその偽善を湛へた酒甕の隠匿所になることを許さなかつた。が、最後に彼は庭園の池の底を胸に描いた。彼は衣の裾から滴る血の一線を床石の上に引きながら、長く緩慢に池の方へうねつてゐる石階を下つていつた。と、途中で彼の膝はがくりと前に折れた。彼は酒甕を抱いたまま、崩れた切石の隙から延び上つてゐる草の上へ転がつた。彼は起き上らうとして手に触れた立物に身を支へると、それは軟な一握の草だつた。彼は再び転がつた。が、彼の優れた智謀は咄嗟の間、彼の動脈の切断口を酒甕の口に着けしめた。間もなく、血は、ガルタンのために受けた不幸な彼の生涯を、その酒甕の中に盛り始めた。
「ガルタンよ、吾に倣へ。ガルタンよ、滅ベ。」
 血は刻々に酒甕の底から、彼の確信ある復讐の微笑をその表面に映しながら浮き上つた。それと同時に、恰もそれに伴奏するかのやうにガルタンの祈りの声は、断滅しながら黒まつて長く続いた葡萄園の上から流れて来た。
「ガルタンよ、吾に倣へ。ガルタンよ、滅ベ。」カンナの頭は酒甕の口から切石の上へ辷つて落ちた。酒甕は顛覆した。血は彼の全身に降りかゝると、酒の香りを上げつゝ段階を一つ一つと下つて池の方へ流れていつた。
「聡明な賢者は死んだ。ガルタンに下つた福音は自殺である。」
 翌日から市民の間に自殺が流行し始めた。初め彼らの多くは、穢れたガルタンの慣習に怨恨を持つ失恋者や疾病者や不具者であつた。が、彼らを先駆に立てて、その後日を追つて益々健全な市民の多くが自殺した。さうして最早や彼らの首の動脈は、僅か一片の嘲笑と冷顔とで購ひ得るにいたつたが、しかし、彼らはその生の終末に臨んで、各々廻廊の壁に市民の罪業の数々を刻みつけた。彼らの懺悔の心は、彼らの過去の悪業を刻み、彼らの怨恨は、生き残る市民の秘めた悪徳を彼らに刻ませた。このため、日ならずして城市の壁は、穢れたガルタンの罪跡を曝露した石碑となつて雨に打たれた。人々は壁から壁へと押し流れて、日々に現れる新らしい壁の文字を読み渡つた。
「あゝ、爾は吾に石を背負せた銀子をもつて、イスラエルの女の首に手を巻いた。」
「あゝ、爾は吾が妻の腹に爾の子を落して逃亡した。」
「爾はシユラミの婦女のために、吾の娘を葡萄のごとく圧し潰した。」
「爾は一片の番紅花《サフラン》を得んとして、シオンの商人に身を投げた。」
「爾はアマナの山の牝鹿のごとく、八十人の男子に吾の眼を盗んで爾の胸の香物を嗅がしめた。」
「あゝ婚姻の夜の爾の唇は、廻り遶つた杯盤のやうに穢れてゐた。」
 ガルタンの城市では、このときから自殺の流行が衰へ始めると、それに代つて遽に殺人が流行した。怨恨者の復讐の剣は赤錆のまま、破廉を秘めた市民の胸へ公然と突き刺された。それに和してガルタンの賤民達は、一斉に歓楽の簒奪者として貴族や富豪を殺戮した。悲鳴と叫喚が幾日も続いていつた。廃れた花園や路傍の丈延びた草叢の中には、到る所男女の死体が、酒盃のやうな開いた傷口に雨を湛へて横たはつてゐた。併し、雨はます/\降り続いた。ガルタンの殺戮は次第にその勢ひを弱めていつた。が、それにひきかヘ、市民の肉体は日に日に激しい性の衝動を高め始めると、終にガルタンの城市はヘルモンの山上で、声を潜めた一大売淫所と変つて来た。彼らの中の薄弱な肉体は、横たはつたまゝに死へ落ちた。併し、空は彼らの頭の上で、夜を胎んだ雲のやうに層々として暗みを増した。さうして、今やガルタンの市民は、過去の一切の記憶を忘却し、眠りに落ちる青白い獣であるかのやうに、たゞ呆然と生きてゐるにすぎなかつた。
 ガルタンの中央のガンタアルの大路では、二人の市民が雨に打たれたまゝ、凡ゆる刺戟に麻痺した鈍感な眼をして立つてゐた。すると、突然一人の頭の中ヘカンナの予言が浮び上つた。彼の垂れ下つた両手は遽にぶる/\と慄へて来た。
「吾らは絶滅するであらう。」
 彼の叫びを聞くと同時に、他の一人の眼は急に光りを発して拡がつた。
「何に故か!」
「吾らは絶滅するであらう!」
「何に故か!」
 二人は肩を掴み合つた。さうして、仇敵のやうに相手の眼の中を覗き込むと、無言のまま激しくその肩を揺り合つた。と、二人は相手かまはず過去の鬱積した憤怒を一時に爆発させて、互に掴んだ肩を突き放した。
「涜神者!」
「姦淫者!」
「簒奪者!」
「欺瞞者!」
 二人は餓ゑた白痴のやうに顔を振りながら、大道を彷徨ひ歩いてまた往き合ふ人々を罵つた。
「ガルタンを滅亡せしめたのは爾である。ガルタンを吾に返せ。」
「爾のためにガルタンは滅亡した。ガルタンを吾に返せ。」
 大路の人々は立ち所に酒甕で二人を打つた。が、二人は酒甕の破片を全身に突き立てたまゝ、尚知らざるごとく人々の間を吠え狂ふと、その声を聞きつけた者達は、一斉に忘却してゐたガルタンの記憶を投げつけられて戦慄した。と、忽ち彼らは二人に感染した狂人のやうに怒り出すと、また相手かまはず往き合ふ人々を打ち叩いて罵り合つた。
「ガルタンを滅亡せしめたのは爾である。ガルタンを吾に返せ。爾のためにガルタンは滅亡した。ガルタンを吾に返せ。」
 大路の上を車輪や礫が酒甕の破片と共に飛び廻つた。が、更に怒の群れは死骸や蠢動する負傷者を蹂躙して、ドアーや窓から四方の屋内に闖入した。そこでは楽器や倒れた彫像や寝台や敷石が、飛び散る血潮のために見る/\新鮮に塗り変へられた。さうして、この狂つた憤怒の集団は、絶望に煽られたガルタンの恐怖の上を、不規則な雲のやうな形を描きつゝ、壁を突き破り石塀を乗り越えて火を待つ油のやうに益々四方へ追ひ拡がつた。それはその狂気の行く先き先きに、恰も無数の怨恨が声を潜めて地に鬱伏してゐたかのやうであつた。それは夜となく昼となく中間を空虚にして続いていつた。併し、この狂暴の最後に残つた勇者らは、その体躯を打ち衝る目あての物が、たゞ堅牢な石壁や石柱や樹木となつてゐるのに気付いたとき、彼らは蹌踉めきながら半眼を開いたまゝ、唖者のやうに黙つて終日同じ所を歩き廻つた。が、彼らの中の多くの者は、石柱や石塀に突き衝つて倒れると最早再びとは起き上つて来なかつた。ヘルモンの山上から流れる雨水は、血の瀑布となつてガルタンの渓谷の方へ落ちていつた。ガルタンの城市では、壊れた楽器や酒甕が僅に生き残つた二人の市民の足の裏で、時々その破片を鳴らせるにすぎなくなつた。が、その時その最後の二人の者は、廻廊の端で突き衝つた。二人は幽かに呻きを漏らすと抱き合つた。彼らの歯は咬み合ふやうに暫く空虚を咬んで慄へてゐた。さうして、二人の身体は互に暖まりを感じ始めると、彼らは抱き合つたまゝ眠りに落ちて横に倒れた。
 かくしてガルタンは永久に沈黙した。高い空宙からガルタンの城市を見下すと、人々の行跡を刻んだ壁の周囲に、点々としてゐる市民の死骸は丁度黴のやうに青白く見えてゐた。併し雨は依然としてへルモンの山に降り続いた。

底本:「定本横光利一全集 第一巻」河出書房新社
   1981(昭和56)年6月30日初版発行
底本の親本:「日輪」春陽堂
   1924(大正13)年5月18日発行
初出:「新思潮」
   1923(大正12)年7月10日発行、第6次の2第1号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、旧字、旧仮名の底本の表記を、新字旧仮名にあらためました。
※くの字点は、底本のママとしました。
入力:高寺康仁
校正:松永正敏
2001年12月11日公開
2003年6月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

横光利一

比叡《ひえい》——横光利一

 結婚してから八年にもなるのに、京都へ行くというのは定雄夫妻にとって毎年の希望であった。今までにも二人は度度《たびたび》行きたかったのであるが、夫妻の仕事が喰《く》い違ったり、子供に手数がかかったりして、一家引きつれての関西行の機会はなかなか来なかった。それが京都の義兄から今年こそは父の十三回忌をやりたいから是非来るようにと云って来たので、他のことは後へ押しやっていよいよ三月下旬に京へ立った。定雄は妻の千枝子が東京以西は初めてなので、定雄の幼年期を過した土地を見せておくのも良かろうと思い、一つは今年小学校へ初めて上る長男の清に、父の初めて上った小学校を見せてやりたくもあったので、一人でときどき来ている京阪の土地にもかかわらず、この度は案内役のこととて気骨も折れた。
 定雄夫妻は宿を定雄の姉の家にした。翌日は姉の子供の娘一人と定雄の子供の長男次男と、それに定雄夫妻に姉、総勢六人で父母の骨を納めてある大谷《おおたに》の納骨堂へ参った。すでに父母は死んでいるとはいえ、定雄は子供を見せに堂へ行くのは初めてのこととて反《そ》りを打った石橋を渡る襟首《えりくび》に吹きつける風も穏やかに感ぜられた。彼はまだ二つによりならぬ次男の方をかかえて、もう盛りをすぎた紅梅を仰ぎながら石段を登った。清より一年上の姉の娘の敏子と清とは、もう高い石段を真っ先に馳《か》け登ってしまって見えなくなった。定雄は石段を登る苦しさに身体がよほど弱って来ているのを感じた。彼はその途中で、今年次ぎ次ぎに死んでいった沢山の自分の友人のことを思いながら、ふと、自分が死んでも子供たちはこうして来るであろうと思ったり、そのときは自分はどんな思いで堂の中から覗《のぞ》くものであろうかと思ったり、世の常の堂へ参る善男善女の胸に浮ぶ考えとどこも違わぬ空想の浮ぶのに、しばらくは閉口しながら子供らの後を追っていった。しかし定雄は千枝子や姉を見ると、彼女らは一向父母の骨の前に出る感慨もなさそうに、あたりの風景を賞しながら楽しげに話しているのを見ると、それではこの中で一番に古風なのは自分であろうかと思ったりした。そのくせ京都へは幾度も一人で来ていながら、まだ彼は一度も墓参をしなかったのである。
 先きに行った子供らは定雄らがまだ石段を登り切らないうちに、もう上の境内を追っかけ合いをして来た足で、また石段を降りて来ると、今度は母親たちの裾《すそ》の周囲をきゃっきゃっと声を立てて追っ馳け合った。
「静になさい静に、また咳《せき》が出ますよ」と姉は敏子を叱《しか》った。
 しかし、子供たちは初めて会った従姉弟《いとこ》同士なので、親たちの声を耳にも入れずまたすぐ階段を馳け上っていった。
 一同|揃《そろ》って上に登り、納骨堂へ参拝して、それからいよいよ本堂で経を上げて貰《もら》わねばならぬのであるが、誦経《ずきょう》の支度のできるまで六人は庭向の部屋に入れられた。そこは日の目のさしたこともなかろうと思われるような、陰気な冷い部屋、畳は板のように緊《しま》って固く、天井は高かった。しかし、周囲の厚い金泥の襖《ふすま》は永徳《えいとく》風の絢爛《けんらん》な花鳥で息苦しさを感じるほどであった。定雄は部屋の一隅に二枚に畳んで立ててある古い屏風《びょうぶ》の絵が眼につくと、もう子供たちのことも忘れて眺《なが》め入った。葉の落ち尽した池辺の林のところどころに、木蓮《もくれん》らしい白い花が夢のように浮き上っていて、その下の水際《みずぎわ》から一羽の鷺《さぎ》が今しも飛び立とうとしているところであるが、朧《おぼ》ろな花や林にひきかえてその鷺一匹の生動の気力は、驚くばかりに俊慧《しゅんけい》な感じがした。定雄はこれは宗達《そうたつ》ではないかと思ってしばらく眼を放さずにいると、いつの間にか茶が出ていた。子供らは砂糖のついた煎餅《せんべい》を音無《おとな》しく食べていたが、定雄の末の二つになる子だけは、細く割りちらけて散乱している菓子の破片の中で、泳ぐように腹這《はらば》いになり、顔から両手にかけて菓子のかけらだらけにしたまま、定雄の見ている屏風を足でぴんぴん勢い良く蹴《け》りつけた。
「こりゃこりゃ」
 定雄は次男の足の届かぬように屏風を遠のけると、また倦《あ》かず眺めていた。しかし、火鉢《ひばち》に火のあるのに、ひどくそこは寒かった。これではまた皆|風邪《かぜ》にやられるどころか、定雄自身もう続けさまに嚔《くさめ》が出て来た。そのうちにようやく経の用意も出来たので本堂へ案内されたが、来てみると、ここは一層寒いうえに、勿論《もちろん》火鉢も座蒲団《ざぶとん》もなかった。定雄の横へ敏子、清と並んで、定雄の姉が彼の次男を抱いている傍へ千枝子が坐った。見渡したところ異常はなかったが、姉に抱かれている次男の突き出している足に、靴がまだそのままになっていた。しかし、次男の靴はまだ下へも降ろしたこともなく、足袋《たび》代りの靴と云えないものでもなかったので、定雄は注意もせずに黙って僧侶の出て来る方を眺めていると、姉はそれを見つけたらしい。
「あら、慶ちゃん、豪《えら》そうに靴を履《は》いたままやがな。これゃどもならん」
と云って、笑いながら慶次の靴をとろうとした。
「良い良い」と定雄は云った。
「そうやな、愛嬌《あいきょう》があってこれもお祖父《じい》さん、見たいやろ」
 姉の言葉に慶次の靴を脱《ぬ》がそうとした千枝子もそのままにした。清と敏子とは仏壇の方を一度も見ずに、まだ石段からのふざけ合いをつづけながら、肩をつぼめて「くっくっ」と笑い声を忍ばせて坐っていた。
 誦経が始ると一同は黙って経の終るのを待っていたが、後から吹きつけて来る風の寒さに、定雄は長い経の早く縮《ちぢま》ることばかりを願ってやまなかった。しかし、もしこれが父の回忌ではなくって他人のだったら、こんな願いも起さずにいるだろうと思うと、いつまでも甘えかかることの出来るのは、やはり父だと、生前の父の姿があらためて頭に描き出されて来るのだった。彼は父が好きであったので、父に死に別れてからは年毎に一層父に逢《あ》いたいと思う心が募った。父は定雄の二十五歳のときに京城《けいじょう》で脳溢血《のういっけつ》のために斃《たお》れたので、定雄は父の死に目にも逢っていなかった。父が死んでから十年目に、彼は先輩や知人たちと飛行機で京城まで飛んだことがあったが、そのときも機が京城の空へさしかかると、まだそのあたりの空気の中に、父がうろうろさ迷っているように思われて、涙が浮き上って来たのを彼は思い出した。
 ようやく長い誦経がすんで、一同は広い高縁に立つと、陽《ひ》のさしかかって来た市街が一望の中に見渡された。
「さアさア、これで役目もすみましたよ」
 そういう姉の後から、千枝子もショールを拡げながら、「ほんとに、これで晴晴しましたわ」と云って高縁の段を降りた。
 後はもう定雄は家内一同をつれて、勝手にどこへでも行けば良かった。
 次ぎの日から彼は子供を姉に預け、千枝子と二人で大阪と奈良へ行った。それをすますと見残した京都の名所を廻って、最後に比叡山越しに大津に出てみようと定雄は思った。大津は彼が最初に学校へ行った土地でもあり、殊《こと》に六年を卒業するときに植えた小さな自分の桜が二十年の間に、どれほど大きくなっているか見たかった。
 比叡登りの日には、毎日歩き廻ったため定雄も千枝子も相当に疲れていたが、次男を姉の家に残して清をつれ、ケーブルで山に登った。定雄は比叡山へは小学校のときに大津から二度登った記憶があるが、京都からは初めてであった。千枝子はケーブルが動き出すと、気持ちが悪いと云って顔を少しも上げなかった。しかし、登るにつれて霞《かすみ》の中に沈んでいく京の街の瓦《かわら》は美しいと定雄は思った。
「見なさい。飛行機に乗ると丁度こんなだ」と定雄は清の肩を掴《つか》まえて云った。
 終点で降りてから頂上へ出る道が二つに別れていたので、定雄は先きに立って広場の中を突きぬけて行くと、道は林の中へ這入《はい》ってしまってだんだんと下りになった。
「こりゃおかしい。間違ったぞ」
 定雄は道を訊《き》き正そうにも通行人がいないのでまた後へ引き返した。千枝子は常常から京大阪ならどこでも知っている顔つきの定雄の失敗に、
「だから、豪そうな顔はするもんじゃありませんわ」と云ってやりこめた。
 雪解けでびしょびしょの道をようやくもとへ戻ると、一組の他の人達と一緒になったのでその後から定雄たちもついていった。細い山道は陽のあった所を解け崩《くず》しながらも、山陰は残雪で踏む度に草履が鳴った。千枝子はときどき立ち停って、まだ雪を冠《かぶ》っている丹波《たんば》から摂津へかけて延びている山山の峰を見渡しながら、
「おお綺麗《きれい》だ綺麗だ」と感歎しつづけた。
 七八町も歩くと、また針金に吊《つ》るされた乗物で谷を渡らねばならなかったが、これはケーブルよりも一層乗り工合が飛行機に似ていた。
「この方が飛行機に似ているよ」
「これなら気持ちがいいけど、ケーブルは何んだかいやだわ」
 そう云う千枝子に抱きかかえられている清は、
「ほらほら、また来た」と突然叫んで前方を指差した。
 見ると向うから新しく仕立てて来た車が、こちらを向って浮いて来た。皆がしばらく口をぼんやり開《あ》けてその車の方を面白そうに眺めていた。するとその途端に、中継の柱のところで、急にごとりと車体が一度ずり下った。一同は息の根をとめて互に顔を見合したが、中継の柱が行きすぎた車の後方に見えると、初めて納得したらしくまた急に声を上げて、あれだあれだと云って笑い出した。しかし、そのときにはもう新しく前方から来た車は、皆のびっくりしている顔の前を行き過ぎていたので、双方の車は安心のあとの陽気な気持ちで、互に手拭《てぬぐい》を振り合って一層前よりはしゃいだ。
 車を降りて初めて地を踏んだとき、清は大きな声で、
「恐《こわ》かったね、さっき、ごとりっていうんだもの。僕、落っこちたかと思った」と千枝子に云った。
 すると、車を降りてからもうずっと前方を歩いている人人まで、振り返ってまたどっと笑い出した。
 頂上の根本中堂《こんぽんちゅうどう》まではまだ十八町もあるというので、駕籠《かご》をどうかと定雄は思ったが、千枝子は歩きたいと云った。駕籠かきはしきりに雪解の道の悪さを説明しながら三人の後を追って来てやめなかった。しかし、定雄も千枝子も相手にせず歩いて行くと、なるほど雪は草履を埋めるほどの深さでどこまでも延びていた。
「どうだ、乗るか」とまた定雄は後を振り返った。
「歩きましょうよ。こんなときでも歩かなければ、何しに来たのか分らないわ」と千枝子は云った。
 定雄には、道はどこまでも平坦なことは分っていたが、清も弱るし、濡《ぬ》れた草履の冷たさは後で困ると思ったので、
「乗ろうじゃないか。気持ちが悪いよ」とまたすすめた。
「あたしは乗らないわ、だって登りがもうないんでしょう」と千枝子はまだ頑強《がんきょう》に一人先に立って雪の中を歩いていった。
「それじゃ、困ったって知らないぞ」と定雄は云うと尻《しり》を端折《はしょ》った。
 道は暗い杉の密林の中をどこまでもつづいた。千枝子と定雄は中に清を挟《はさ》んで、固そうな雪の上を選びながら渡っていった。ひやりと肌寒い空気の頬《ほお》にあたって来る中で、鶯《うぐいす》がしきりに羽音を立てて鳴いていた。定雄は歩きながらも、伝教大師《でんぎょうだいし》が都に近いこの地に本拠を定めて高野山の弘法《こうぼう》と対立したのは、伝教の負けだとふと思った。これでは京にあまり近すぎるので、善《よ》かれ悪《あ》しかれ、京都の影響が響きすぎて困るにちがいないのである。そこへいくと弘法の方が一段上の戦略家だと思った。定雄は高野山も知っていたが、あの地を選んだ弘法の眼力は千年の末を見つめていたように思われた。もし伝教に自身の能力に頼るよりも、自然に頼る精神の方が勝《すぐ》れていたなら、少くともここより比良《ひら》を越して、越前の境に根本中堂を置くべきであったと考えた。もしそうするなら、京からは琵琶湖《びわこ》の舟楫《しゅうしゅう》と陸路の便とを兼ね備えた上に、背後の敵の三井寺《みいでら》も眼中に入れる要はないのであった――。
 こういうような夢想に耽《ふけ》って歩いている定雄の頭の上では、また一層鶯の鳴き声が旺《さか》んになって来た。しかし、定雄はそれにはあまり気附かなかった。彼は自身に頼る伝教の小乗的な行動が、いま現に、まだどこまで続くか全く分らぬ雪の中を、駕籠を捨てて徒歩で歩き抜こうとしている妻の千枝子と同様だと思った。それなら今の自分は弘法の方であろうか。こう思うと、定雄はまた弘法の大乗的な大きさについて考えた。出来得る限り自然の力を利用して、京都の政府と耐久力の一点で戦ったのであった。つまり、いまの定雄について考えるなら、駕籠を利用して行く先の不明な雪路を渡ろうというのである。弘法は政府と高野山との間に無理が出来ると行方《ゆくえ》をくらまし、問題が解決するとまた出て来た。そうして生涯安穏に世を送った弘法は、この叡山から京都の頭上を自身の学力と人格とで絶えず圧しつけた伝教の無謀さに比べて、政府という自然力よりも恐るべきこの世の最上の強権を操縦する術策を心得ていたのである。定雄は最上の強権を考えずして行う行為を、身を捨てた大乗の精神とは考えない性質であった。なぜかというなら、もし自我を押しすすめて行く伝教の行いを持続させていくなら、彼の死後につづく行者の苦慮は、必然的に天台一派に流れる底力を崩壊させていくのと等しいからである。
 現に定雄は、千枝子と自分との間に挟まれて、不機嫌《ふきげん》そうにとぼとぼ歩いている子の清の足つきを見ていると、いつまで二人の歩みにつづいて来られるものかと、絶えず不安を感じてならなかった。そのうちにしつこく従《つ》いて来た駕籠かきは、いつの間にかいなくなっていたが、それに代って、清の足つきを見ていた婆さんがまだついて来て、子供を坂本|降《くだ》りのケーブルの所まで負わせてもらいたいと云って来た。
「どうする。清だけ負《おぶ》ってもらわないか」と定雄はまた云った。
「いいわ。歩けるわね」と千枝子は後ろの清を振り返った。
「それでも、まだまだ遠いどすえ。こんなお子さんで歩けやしまへんが、安う負けときますわ」と婆さんは云いながら、今度は清と定雄の間へ割り込んで来た。
「でも、この子は足が強いんですから、もういいんですの」
「負ってもらえ負ってもらえ」と定雄は云った。
「だって、もうすぐなんでしょう」と千枝子は婆さんに訊《たず》ねた。
「まだまだありますえ。安うお負けしときますがな。二十銭でいきますわ。どうせ帰りますのやで、一つ負わしておくんなはれ」
 あくまで擦《す》りよって歩いて来る婆さんに、千枝子も根負けがしたらしく、
「清ちゃん、どうする。おんぶして貰う?」と訊ねた。
「僕、歩く」と清は云って婆さんから身を放した。
 こんなときには、長く一人児だった清はいつも母親の方の味方をするに定《きま》っていた。
「あなた坂本まで帰るんですの」と千枝子は婆さんに訊ねた。
「ええ、そうです。毎日通ってますのや」
「おんぶして貰う人ありまして、こんなとこ?」
「このごろはあんまりおへんどすな。毎日手ぶらどすえ」と婆さんは云ったが、もう清を負うのは断念したらしく、旅の道連れという顔つきで千枝子と暢気《のんき》に並んで歩き出した。
 定雄は傾きかかった気持ちもようやく均衡の取れて来るのを感じた。しかし、清は母と父とが自分のことで先から険悪になりかかっているのを感じているので、定雄が傍へ近づくとすぐ千枝子の身近へひっついて歩いた。定雄はこれから次ぎのケーブルまでこの婆さんがついて来るのだと思うと、気持ちを直してくれた婆さんであるにもかかわらず、先のいらだたしさがいつまた絡《から》みついて来るか知れない不安さを感じたので、今度は一番先頭に立って歩いていった。彼は歩きながらも、いま一人ここを歩いていたのでは今以上の満足を感じないであろうと思った。彼は幾度も京からこの道を通ったにちがいない伝教が、このあたりで、どんな満足を感じようとしたのかと、ふと雪路を歩いて浮ぶ彼の孤独な心理について考えてみた。伝教とて一山をここに置く以上は、衆生《しゅじょう》済度の念願もこのあたりの淋《さび》しさの中では、凡夫の心頭を去来する雑念とさして違う筈《はず》はあるまいと思われた。しかし、そのとき、定雄の頭の中には、京都を見降ろし、一方に琵琶湖の景勝を見降ろすこの山上を選んだ伝教の満足が急に分ったように思われた。それにひきかえて、今の自分の満足は、ただ何事も考えない放心の境に入るだけの満足で良いのであるが、それを容易に出来ぬ自分を感じると、一時も早く雪路を抜けて湖の見える山面へ廻りたかった。
 間もなく、今まで暗かった道は急に開けて来て、日光の明るくさしている広場へ出た。そこは根本中堂のある一山の中心地帯になっていたが、広場から幾らか窪《くぼ》みの中にある中堂の廂《ひさし》からは、雪解の滴《したた》りが雨のように流れ下っていた。
「やっと来たぞ」定雄は後ろの千枝子と清の方を振り返った。
 中堂の前まで行くには草履では行けそうもないので、三人はすぐ広場の端に立って下を見降ろした。早春の平野に包まれた湖が太陽に輝きながら、眼下に広広と横《よこたわ》っていた。
「まア大きいわね。わたし、琵琶湖ってこんなに大きいもんだとは思わなかったわ。まア、まア」と千枝子は云った。
 定雄も久しく見なかった琵琶湖を眺めていたが、少年期にここから見た琵琶湖よりも、色彩が淡く衰えているように感じられた。殊に一目でそれと知れた唐崎《からさき》の松も、今は全く枯れ果ててどこが唐崎だか分らなかった。しかし、京都の近郊として一山を開くには、いかにもここは理想的な地だと思った。ただ難点はあまりにここは理想的でありすぎた。もしこういう場所を占有したなら、周囲から集る羨望《せんぼう》嫉視《しっし》の鎮《しずま》る時機がないのである。定雄はこの地を得られた伝教の地位と権威の高さを今さらに感じたが、絶えず京都と琵琶湖を眼下に踏みつけて生活した心理は、伝教以後の僧侶の粗暴な行為となって専横を行ったことなど、容易に想像出来るのであった。これをぶち砕くためには、信長のようなヨーロッパの思想の根源である耶蘇《やそ》教の信者でなければ、出来|難《にく》いにちがいない。定雄は神仏の安置所がこのような高位置にあるのはそれを守護する僧侶の心をかき乱す作用を与えるばかりで、却って衆生を救い難きに導くだけだと思われた。それに比べて親鸞の低きについて街へ根を降ろし、町家の中へ流れ込んだリアリスティックな精神は、すべて、重心は下へ下へと降すべしと説いた老子《ろうし》の精神と似通っているところがあるように思われた。
 しかし、それにしても、定雄は琵琶湖を脚下に見降ろしても、まだ容易に放心は得られそうにもなかった。伝教とて、時の政府を動かすことに夢中になる以上に、所詮《しょせん》は放心を得んとして中心をこの山上に置いたにちがいないであろうが、それなら、それは完全な誤りであったのだ。定雄は根本中堂が広場より低い窪地《くぼち》の中に建てられて、眼下の眺望《ちょうぼう》を利《き》かなくさせて誤魔化してあるのも、苦慮の一策から出たのであろうと思ったが、すでに、中堂そのものが山上にあるという浪漫主義的な欠点は、一派の繁栄に当然の悪影響を与えているのである。
 定雄は清と千枝子をつれて、いくらか下り加減になって道をまた歩いた。ここは京向きの道より雪も消えて明るいためでもあろう。鶯の鳴き声は前より一段と賑《にぎ》やかになって来た。彼は途中、青いペンキを塗った鶯の声を真似《まね》る竹笛を売っていたので、それを買って一つ自分が持ち、二つを清にやった。その小さな笛は、尻を圧《おさ》える指さきの加減一つで、いろいろな鶯の鳴き声を出すことが出来た。定雄は清に一声吹いてみせると、もう疲れで膨《ふく》れていた清も急ににこつき出して自分も吹いた。歩く後から迫って来るのか、鶯の声は湧《わ》き上るように頭の上でしつづけた。
 定雄は吹く度にだんだん上達する笛の面白さにしばらく楽んで歩いていると、清も両手の笛を替る替る吹き変えては、木の梢《こずえ》から辷《すべ》り流れる日光の斑点《はんてん》に顔を染めながら、のろのろとやって来た。
「まるで子供二人つれて来たみたいだわ。早くいらっしゃいよ」
 千枝子は清の来るのを待って云った。清は母親に云われる度に二人の方へ急いで馳《か》けて来たが、またすぐ立ち停った。道が樹のない崖際《がけぎわ》につづいて鶯の声もしなくなると、今度は清と定雄とが前と後とで竹笛を鳴き交《かわ》せて鶯の真似をして歩いた。そのうちに清もいつの間にか上手になって、
「ケキョ、ケキョ、ホーケッキョ」
とそんな風なところまで漕《こ》ぎつけるようになって来た。
「あ奴《いつ》の鶯はまだ子供だね。俺のは親鳥だぞ。お前も一つやってみないか」
 定雄は笑いながら千枝子にそう云って、
「ホー、ホケキョ、ホー、ホケキョ」とやるのであった。
 千枝子は相手にしなかったが、崖を曲るたびに現れる湖を見ては、手を額にあてながら楽しそうに立ち停って眺めていた。
 間もなく三人はケーブルまで着いたが、まだ下る時間まで少しあったので、深い谷間に突き出た峰の頭を切り開いた展望場の突端へ行って、そこのベンチに休んだ。定雄は榧《かや》の密林の生え上って来ている鋭い梢の間から湖を見ていたが、ベンチの上に足を組むと仰向きに長くなった。彼は疲労で背中がべったりと板にへばりついたように感じた。すると、だんだん板に吸われていく疲労の快感に心は初めて空虚になった。彼はもう傍《そば》にいる子のことも妻のことも考えなかった。そうして眼を一点の曇りもない空の中に放ってぼんやりしていると、ふと自分が今死ねば大往生が出来そうな気がして来た。もう望みは自分には何もないと彼は思った。いや、枕が一つ欲しいと思ったが、それもなくとも別にたいしたことでもなかった。
 千枝子も疲れたのか黙って動かなかったが、清だけはまだ、「ホー、ケッキョ、ケッキョ」と根よくくり返して笛を吹いた。
 定雄はしばらく寝たまま日光にあたっていたが、もう間もなく発車の時刻になれば、今の無上の瞬間もたちまち過去の夢となるのだと思った。そのとき、急に彼の頭の中に、子のない自分の友人たちの顔が浮んで来た。すると、それは有り得べからざる奇妙な出来事のような気がして来て、どうして子のないのに日々を忍耐していくことが出来るのかと、無我夢中に暴れ廻った延暦寺《えんりゃくじ》の僧侶達の顔と一緒になって、しばらくは友人たちの顔が彼の脳中を去らなかった。しかし、これとて、ないものはないもので、有るものの煩悩《ぼんのう》のいやらしさをおかしく眺めて暮し終るのであろうと思い直し、ふとまた定雄は天上の澄み渡った中心に眼を向けた。
「神神よ照覧あれ、われここに子を持てり」
 彼は俎《まないた》の上に大の字になって横《よこたわ》ったように、ベンチの上にのびのびと横っていた。彼は伝教のことなどもう今はどうでもよかった。しかし、時間は意外に早くたったと見えて、うつらうつら睡気《ねむけ》がさして来かかったとき、
「もう切符を切っていましてよ。早く行かないと遅れますわ」突然千枝子が云った。
「発車か、何んでも来い」と定雄は不貞不貞《ふてぶて》しい気になって起き上った。彼は坂道を駅の方へ馳け登って行く千枝子と清の背中を眺めながら、後から一人遅れて歩いていった。
 定雄が車に乗るとすぐケーブルのベルが鳴った。つづいて車は湖の中へ刺さり込むように三人を乗せて真直ぐに辷っていった。
「ホー、ケキョケキョ、ホー、ケキョケキョ」と清は窓にしがみついたまままだ笛を吹きつづけていた。

底本:「機械・春は馬車に乗って」新潮文庫、新潮社
   1969(昭和44)年8月20日初版発行
   1995(平成7)年4月10日34刷
入力:MAMI
校正:松永正敏
2000年10月7日公開
青空文庫作成ファイル:
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横光利一

犯罪——横光利一

 私は寂しくなつて茫然と空でも見詰めてゐる時には、よく無意識に彼女の啼声を口笛で真似てゐた。すると下の鳥籠の中から彼女のふけり声が楽しく聞えて来る。で、私もつい面白くなつてそれに応へたり誘つたりする。其中に面倒臭くなると彼女を放つたらかしておいた。が、彼女は猶も懸命にふけり続けた。凝乎とそれを聞いてゐると可哀相になつて来るので、又知らず/\に相手になつてやつたりした。今も私は彼女を呼びかけた。が、もう彼女が居ないのだと気付いて堪まらなく淋しくなつた。私は裏の山を凝乎と見た。
 それは好く晴れた暖かい日であつた。私は前からゐた囮の目白を入れた籠と、新しい籠と、細い女竹に黐を塗つたのを二三本とを用意して山へ行つた。山には椿の花が沢山咲いてゐた。私は鬱然と茂つたある一本の椿の枝へ囮の籠を掛けて、上へ用意の女竹を交叉した。それからずつと離れた木蔭へ隠れて口笛を吹くと囮も切に彼方で真似た。然れ共中々彼女はやつて来なかつた。私は終ひには何もかも悉皆忘れて了つて、背負つてゐる弟の由を径傍へ下して寝転び乍ら椿の花を裂いては中の蜜を啜り始めた。由も食物と思つたのかして、私の捨てた啜りさがしの花を、口のあたりへにじり付けたので、低い鼻面を真黄にさしてゐた。夕暮近くなつて全く思ひもかけなかつた時、突然目白の金切声が聞えた。私は周章て走つて行つて見ると、未だ雛上りの若々しい彼女が、両翅にベツトリ黐を引付けて、熊笹の中でバタ/\やつてゐた。私が彼女を拾い上げた時、彼女は切と悲しさうに啼き立てた。私は誇つてやる人がゐないので由の前へ出した。「鳥、鳥」と弟は嬉しさうに手を振つたかと思ふとギユツと彼女の首を握つた。私は急いで奪ひ返して見ると、死んでゐなかつたので、柔かく由の頭を張つた。「阿呆やなお前は」
 彼女はそれから数日と云ふもの、私の心尽しの摺餌を余り口にしなかつた。それ所か傍へ寄つても激しく鳴いて、狭い籠の中を縦横に飛び廻つた。が、二月程経つた頃にはもう私に馴れて了つて、手をさし入れても静かにしてゐた。彼女はその一夏を古い囮から唄を習ふのに暮した。
 二年程経つた。そして彼女も私も由も皆共に老いた。此夏になつて私が都から帰つて見ると、古い方の籠が空虚の儘物置の隅に置かれてあつた。酷く蜘蛛の巣がかかつてゐた。そして家の中には、めつきり老練さを増した彼女の謡ひ声と、私の一番末の弟となつて何処からか出て来た新しい人間の泣き声とが賑つてゐた。私は時々、末の弟が泣き出すと、彼女を棚から下して彼の眼の前へさし出した。「バーア、廣ちやんこれ何あに」すると廣は泣き止んで、額を籠の格子にピツタリ付けた。彼女は落ち付いて止木の上をアチコチ[#「アチコチ」に傍点]に飛んだ。が、廣の眼を運ぶより早いので、彼は反対の方許りを見た。其処へ由がやつて来ると、廣の頭をポンポン叩いて云つた。「廣ちや。是れトート。トートなあ」
 或日私は彼女に餌を与らうとした時、その翅の極めて小さいのに気が付いた。其時不意に私の頭の中へドストエフスキーが現れた。彼は悲痛な顔をしてゐた。頬をげつそり落して、蒼白い額を獄砦の円木の隙間へ押しあてて、若芽の燃え出た黄緑色の草原のずつとかなたから漂うて来るキルギスの娘の唄に耳を傾けてゐた。――私の眼は熱くなつて、彼女の姿がボヤケて二重に見えた。
「逃がしてやらう」私は籠の格子戸を開けた。然れ共彼女は容易に出なかつた。で、反対の方を叩くと漸つと出て、庭の上をピヨンピヨン飛んで、植木鉢の楓の下を出たり入つたりしてゐた。私は傍へ行つてシツシヨと追つてみたが、彼女は一尺も高く飛び続けることが出来なかつた。(俺は神に対する犯罪を背負つた)と私は思つた。そして今逃がすのは逃さないよりも悪いと知つたので、籠を傍へ突き付けてやると、彼女は直ぐ飛び入つて餌を啄んだ。
 二三日前から彼女は夜の真暗な時になつて囀り出した。私は彼女の死を其時薄々乍らも直覚した。
 今朝はいつもよりも寒かつた。
「ちよつとまあ敏来てお見。目白が面白い事をしてるえ」と母が下から云つた。私はハツとした。で、急いで下りて見ると、彼女は白い環の中の眼をパチパチやつて、間を置いては身を慄はせてゐた。と、首を縮めて動かなくなつたと思ふと、眼を開けた儘止木の上から落つこちた。
「アツ死んだ!」と母は云つた。
 彼女は小さい両足を真直に尾の方へ引き延ばして、溜つた昨日の糞の上へ、白い腹を仰向きにして横になつてゐた。それが彼女の死の姿であつた。私は彼女の死骸を、初めて捕つた時のやうに掌へ乗せてみると、首がガクリと下つて延びた。私はその儘彼女と空虚の籠とを交り番こに眺めてゐた。と、軽い恐怖がサツと胸を走つた。「死によつた!」と長らくしてから私は呟いた。

底本:「定本横光利一全集 第一巻」河出書房新社
   1981(昭和56)年6月30日初版発行
底本の親本:「萬朝報」萬朝報社
   1917(大正6)年10月29日
初出:「萬朝報」萬朝報社
   1917(大正6)年10月29日
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、旧字、旧仮名の底本の表記を、新字旧仮名にあらためました。
※底本は総ルビでしたが、ルビは削除しました。
※くの字点は、底本のママとしました。
入力:高寺康仁
校正:松永正敏
2001年12月11日公開
2003年6月1日修正
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横光利一

日輪—–横光利一

     序章

 乙女《おとめ》たちの一団は水甕《みずがめ》を頭に載《の》せて、小丘《こやま》の中腹にある泉の傍から、唄《うた》いながら合歓木《ねむ》の林の中に隠れて行った。後の泉を包んだ岩の上には、まだ凋《しお》れぬ太藺《ふとい》の花が、水甕の破片とともに踏みにじられて残っていた。そうして西に傾きかかった太陽は、この小丘の裾《すそ》遠く拡《ひろが》った有明《ありあけ》の入江の上に、長く曲折しつつ※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55]《はる》か水平線の両端に消え入る白い砂丘の上に今は力なくその光を投げていた。乙女たちの合唱は華《はな》やかな酒楽《さかほがい》の歌に変って来た。そうして、林をぬけると再び、人家を包む円《まろ》やかな濃緑色の団塊となった森の中に吸われて行った。眼界の風物、何一つとして動くものは見えなかった。
 そのとき、今まで、泉の上の小丘を蔽《おお》って静まっていた萱《かや》の穂波の一点が二つに割れてざわめいた。すると、割れ目は数羽《すうわ》の雉子《きじ》と隼《はやぶさ》とを飛び立たせつつ、次第に泉の方へ真直ぐに延びて来た。そうして、間もなく、泉の水面に映っている白茅《ちがや》の一列が裂かれたとき、そこには弦《つる》の切れた短弓を握った一人の若者が立っていた。彼の大きく窪《くぼ》んだ眼窩《がんか》や、その突起した顋《あご》や、その影のように暗鬱な顔の色には、道に迷うた者の極度の疲労と饑餓《きが》の苦痛が現れていた。彼は這《は》いながら岩の上に降りて来ると、弓杖《ゆんづえ》ついて崩《くず》れた角髪《みずら》をかき上げながら、渦巻《うずま》く蔓《つる》の刺青《ほりもの》を描いた唇を泉につけた。彼の首から垂れ下った一連の白瑪瑙《しろめのう》の勾玉《まがたま》は、音も立てず水に浸《ひた》って、静かに藻《も》を食う魚のように光っていた。

       一

 太陽は入江の水平線へ朱《しゅ》の一点となって没していった。不弥《うみ》の宮《みや》の高殿《たかどの》では、垂木《たるき》の木舞《こまい》に吊《つ》り下《さ》げられた鳥籠《とりかご》の中で、樫鳥《かけす》が習い覚えた卑弥呼《ひみこ》の名を一声呼んで眠りに落ちた。磯《いそ》からは、満潮のさざめき寄せる波の音が刻々に高まりながら、浜藻《はまも》の匂《にお》いを籠《こ》めた微風に送られて響《ひび》いて来た。卑弥呼は薄桃色の染衣《しめごろも》に身を包んで、やがて彼女の良人《おっと》となるべき卑狗《ひこ》の大兄《おおえ》と向い合いながら、鹿の毛皮の上で管玉《くだだま》と勾玉とを撰《え》り分《わ》けていた。卑狗の大兄は、砂浜に輝き始めた漁夫の松明《たいまつ》の明りを振り向いて眺めていた。
「見よ、大兄、爾《なんじ》の勾玉は玄猪《いのこ》の爪《つめ》のように穢《けが》れている。」と、卑弥呼はいって、大兄の勾玉を彼の方へ差し示した。
「やめよ、爾の管玉は病める蚕《かいこ》のように曇っている。」
 卑弥呼のめでたきまでに玲瓏《れいろう》とした顔は、暫《しばら》く大兄を睥《にら》んで黙っていた。
「大兄、以後我は玉の代りに真砂《まさご》を爾に見せるであろう。」
「爾の玉は爾の小指のように穢れている。」と、大兄はいうと、その皮肉な微笑を浮べた顔を、再び砂浜の松明の方へ振り向けた。「見よ、松明は輝き出した。」
「此処《ここ》を去れ。此処は爾のごとき男の入るべき処《ところ》ではない。」
「我は帰るであろう。我は爾の管玉を奪えば爾を置いて帰るであろう。」
「我の玉は、爾に穢されたわが身のように穢れている。行け。」
「待て、爾の玉は爾の霊《たましい》よりも光っている。玉を与えよ。爾は玉を与えると我にいった。」
「行け。」
 卑狗の大兄は笑いながら、自分の勾玉をさらさらと小壺に入れて立ち上った。
「今宵《こよい》は何処《いずこ》で逢《あ》おう?」
「行け。」
「丸屋《まろや》で待とう。」
「行け。」
 大兄は遣戸《やりど》の外へ出て行った。卑弥呼は残った管玉を引きたれた裳裾《もすそ》の端で掃《は》き散《ち》らしながら、彼の方へ走り寄った。
「大兄、我は高倉の傍で爾を待とう。」
「我はひとり月を待とう。今宵の月は満月である。」
「待て、大兄、我は爾に玉を与えよう。」
「爾の玉は、我に穢された爾のように穢れている。」
 大兄の哄笑《こうしょう》は忍竹《しのぶ》を連ねた瑞籬《みずがき》の横で起ると、夕闇《ゆうやみ》の微風に揺れている柏《かしわ》の※[#「木+長」、第4水準2-14-94]《ほこだち》の傍まで続いていった。卑弥呼は染衣《しめごろも》の袖《そで》を噛《か》みながら、遠く松の茂みの中へ消えて行く大兄の姿を見詰めていた。

       二

 夜は暗かった。卑弥呼は鹿の毛皮に身を包んで宮殿からぬけ出ると、高倉の藁戸《わらど》に添って大兄を待った。栗鼠《りす》は頭の上で、栗の梢《こずえ》の枝を撓《たわ》めて音を立てた。
「大兄。」
 野兎《のうさぎ》は※[#「くさかんむり/冏」、182-14]麻《いちび》の茂みの中で、昼に狙《ねら》われた青鷹《あおたか》の夢を見た。そうして、飛《と》び跳《は》ねると※[#「くさかんむり/冏」、182-14]麻の幹に突きあたりながら、零余子《むかご》の葉叢《はむら》の中に馳《か》け込《こ》んだ。
「大兄。」
 梟《ふくろう》は木※[#「木+患」、第3水準1-86-5]樹《もくろじゅ》の梢を降りて来た。そして、嫁菜《よめな》を踏みながら群《むらが》る※[#「くさかんむり/意」、第3水準1-91-30]苡《くさだま》の下を潜《くぐ》って青蛙《あおがえる》に飛びついた。
「大兄。」
 しかし、卑狗の大兄はまだ来なかった。卑弥呼は藁戸の下へ蹲踞《うずくま》ると、ひとり菘《すずな》を引いては投げ引いては投げた。月は高倉の千木《ちぎ》を浮かべて現れた。森の柏の静まった葉波は一斉に濡れた銀の鱗《うろこ》のように輝き出した。そのとき、軽い口笛が草玉の茂みの上から聞えて来た。卑弥呼は藁戸から身を起すと、草玉の穂波の上に半身を浮かべて立っている卑狗の大兄の方へ歩いていった。
「大兄、大兄。」彼女は鹿の毛皮を後《うし》ろに跳ねて彼の方へ近か寄った。「夜は間もなく明けるであろう。」
 しかし、大兄は輝く月から眼を放さずに立っていた。
「大兄よ、我は管玉を持って来た。爾は受けよ。」と卑弥呼はいって管玉を大兄の前に差し出した。
「爾は何故《なにゆえ》にここへ来た? 我はひとり月を眺めにここへ来た。」
「我は爾に玉を与えにここへ来た。受けよ、我は玉を与えると爾にいった。」
 大兄は卑弥呼の管玉を攫《つか》んでとった。
「我は爾に逢《あ》わんがためにここへ来た。爾は我に玉を与えにここへ来た。爾は帰れ。」と大兄はいって再び空の月へ眼を向けた。
 卑弥呼は黙って草玉の実をしごき取ると大兄の横顔へ投げつけた。大兄は笑いながら急に卑弥呼の方へ振り向いた。そうして、彼女の肩へ両手をかけて抱き寄せようとすると、彼女は大兄の胸を突いて身を放した。
「我は帰るであろう。我は爾に玉を与えた。我は帰るであろう。」
「よし、爾は帰れ、爾は帰れ。」と、大兄はいいながら、彼女の振り放そうとする両手を持った。そうして、彼女を引き寄せた。
「放せ、放せ。」
「帰れ、帰れ。」
 大兄は藻掻《もが》く卑弥呼を横に軽々と抱き上げると、どっと草玉の中へ身を落した。さらさらと揺《ゆら》めいた草玉は、その実《み》を擦《す》って二人の上で鳴っていた。
「卑弥呼、見よ、爾は彼方《かなた》の月のように美《うるわ》しい。」
 彼女は大兄の腕の中に抱かれたまま、今は静《しずか》に眼を瞑《と》じて彼の胸の上へ頬《ほお》をつけた。
「卑弥呼、もし爾が我の子を産めば姫を産め。我は爾のごとき姫を欲する。もし爾が彦《ひこ》を産めば、我のごとき彦を産め。我は爾を愛している。爾は我を愛するか。」
 しかし、卑弥呼は大兄を見上げて黙ったまま片手で彼の頬を撫《な》でていた。
「ああ、爾は月のように黙っている。冷たき月は欠けるであろう。爾は帰れ。」
 大兄は卑弥呼を揺って睥《にら》まえた。が彼女は微笑しながら静に大兄の顔を見上て黙っていた。
「帰れ、帰れ。」
と大兄はいいつつ彼女を抱いた両腕に力を籠《こ》めた。卑弥呼は大兄の首へ手を巻いた。そうして、二人は黙っていた。月は青い光りを二人の上に投げながら、彼方の森からだんだん高く昇っていった。そのとき、一人の痩《や》せた若者が、生薑《しょうが》を噛みつつ木※[#「木+患」、第3水準1-86-5]樹《もくろじゅ》の下へ現れた。彼は破れた軽い麻鞋《おぐつ》を、水に浸った俵《たわら》のように重々しく運びながら、次第に草玉の茂みの方へ近か寄って来た。卑狗《ひこ》の大兄は足音を聞くと立ち上った。
「爾は誰か?」
 若者は立停ると、生薑を投げ捨てた手で剣《つるぎ》の頭椎《かぶつち》を握って黙っていた。
「爾は誰か。」と再び大兄はいった。
「我は路に迷える者。」
「爾は何処《いずこ》の者か。」
「我は旅の者、我に糧《かて》を与えよ。我は爾に剣と勾玉とを与えるであろう。」
 大兄は卑弥呼の方へ振り向いて彼女にいった。
「爾の早き夜は不吉である。」
「大兄、旅の者に食を与えよ。」
「爾は彼を伴《とも》のうて食を与えよ。」
「良きか、旅の者は病者のように痩せている。」
 大兄は黙って若者の顔を眺めた。
「大兄、爾はここにいて我を待て、我は彼を贄殿《にえどの》へ伴なおう。」卑弥呼は毛皮を被《かぶ》って若者の方を振り向いた。「我に従って爾は来《きた》れ。我は爾に食を与えよう。」
「卑弥呼、我は最早《もは》や月を見た。我はひとりで帰るであろう。」大兄は彼女を睥んでいった。
「待て、大兄、我は直ちに帰るであろう。」
「行け。」
「大兄よ。爾は我に代って彼を伴なえ、我は此処で爾を待とう。」
「行け、行け、我は爾を待っている。」
「良きか。」
「良し。」
「来れ。」と卑弥呼は若者に再びいった。
 若者は、月の光りに咲き出た夜の花のような卑弥呼の姿を、茫然《ぼうぜん》として眺めていた。彼女は大兄に微笑を与えると、先に立って宮殿の身屋《むや》の方へ歩いていった。若者は漸く麻鞋《おぐつ》を動かした。そうして、彼女の影を踏みながらその後から従った。大兄の顔は顰《ゆが》んで来た。彼は小石を拾うと森の中へ投げ込んだ。森は数枚の柏の葉から月光を払い落して呟《つぶや》いた。

       三

 身屋《むや》の贄殿《にえどの》の二つの隅《すみ》には松明が燃えていた。一人の膳夫《かしわで》は松明の焔《ほのお》の上で、鹿の骨を焙《あぶ》りながら明日の運命を占っていた。彼の恐怖を浮べた赧《あか》い横顔は、立ち昇る煙を見詰めながらだんだんと悦《よろこ》びの色に破れて来た。そのとき、入口の戸が押し開けられて、後に一人の若者を従えた王女卑弥呼が這入《はい》って来た。膳夫は振り向くと、火のついた鹿の骨を握ったまま真菰《まこも》の上に跪拝《ひざまず》いた。卑弥呼は後の若者を指差して膳夫にいった。
「彼は路に迷える旅の者。彼に爾は食を与えよ。彼のために爾は臥所《ふしど》を作れ。」
「酒は?」
「与えよ。」
「粟《あわ》は?」
「与えよ。」
 彼女は若者の方を振り向いて彼にいった。
「我は爾を残して行くであろう。爾は爾の欲する物を彼に命じよ。」
 卑弥呼は臂《ひじ》に飾った釧《くしろ》の碧玉《へきぎょく》を松明に輝かせながら、再び戸の外へ出て行った。若者は真菰《まこも》の下に突き立ったまま、その落ち窪んだ眼を光らせて卑弥呼の去った戸の外を見つめていた。
「旅の者よ。」と、膳夫の声が横でした。
 若者は膳夫の顔へ眼を向けた。そうして、彼の指差している下を見た。そこには、海水を湛《たた》えた※[#「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72]《もい》の中に海螺《つび》と山蛤《やまがえる》が浸してあった。
「かの女《おんな》は何者か。」
「この宮の姫、卑弥呼という。」
 膳夫は彼の傍から隣室の方へ下がっていった。やがて、数種の行器《ほかい》が若者の前に運ばれた。その中には、野老《ところ》と蘿蔔《すずしろ》と朱実《あけみ》と粟とがはいっていた。※[#「木+怱」、第3水準1-85-87]《たら》の木の心から製した※[#「酉+璃のつくり」、第4水準2-90-40]《もそろ》の酒は、その傍の酒瓮《みわ》の中で、薫《かん》ばしい香気を立ててまだ波々と揺《ゆら》いでいた。若者は片手で粟を摘《つま》むと、「卑弥呼。」と一言呟いた。
 そのとき、君長《ひとこのかみ》の面前から下がって来た一人の宿禰《すくね》が、八尋殿《やつひろでん》を通って贄殿の方へ来た。彼は痼疾《こしつ》の中風症に震える老躯《ろうく》を数人の使部《しぶ》に護《まも》られて、若者の傍まで来ると立ち停った。
「爾は何処の者か。」
 宿禰の垂れ下った白い眉毛《まゆげ》は、若者を見詰めている眼の上で慄《ふる》えていた。
「我は路に迷える旅の者。」
「爾の額《ひたい》の刺青《ほりもの》は※[#「王+夬」、第3水準1-87-87]《けつ》である。爾は奴国《なこく》の者であろう。」
「否《いや》。」
「爾の顎《あご》の刺青は月である。爾は奴国の貴族であろう。」
「否。」
「爾の唇の刺青は蔓《つる》である。爾は奴国の王子であろう。」
「否、我は路に迷える旅の者。」
「やめよ。爾の祖父は不弥《うみ》の王母《おうぼ》を掠奪《りゃくだつ》した。爾の父は不弥の霊床《たまどこ》に火を放った。彼を殺せ。」
 宿禰の茨《いばら》の根で作った杖《つえ》は若者の方へ差し向けられた。忽《たちま》ち、使部《しぶ》たちの剣は輝いた。若者は突っ立ち上ると、掴《つか》んだ粟を真先に肉迫する使部の面部へ投げつけた。剣を抜いた。と見る間に、使部の片手は剣を握ったまま胴を放れて酒の中へ落ち込んだ。使部たちは立ち停った。若者は飛《と》び退くと、杉戸を背にして突き立った。彼を目がけて※[#「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72]《もい》が飛んだ。行器《ほかい》が飛んだ。覆《くつがえ》った酒瓮《みわ》から酒が流れた。そうして、海螺《つび》や朱実《あけみ》が立ち籠めた酒気の中を杉戸に当って散乱すると、再び数本の剣は一斉に若者の胸を狙って進んで来た。身屋《むや》の外では法螺《ほら》が鳴った。若者は剣を舞わせて使部たちの剣の中へ馳《か》け込《こ》んだ。そうして、その背後で痼疾に震えている宿禰の上へ飛びかかると、彼を真菰の上へ押しつけた。使部たちの剣は再び彼に襲って来た。彼は宿禰の胸へその剣の尖《さき》をさし向けると彼らにいった。
「我を殺せ、我の剣も動くであろう。」
 使部たちは若者を包んだまま動くことが出来なかった。宿禰は若者の膝《ひざ》の下で、なおその老躯を震わせながら彼らにいった。
「我を捨てよ。彼を刺せ。不弥のために奴国の王子を刺し殺せ。」
 しかし、使部たちの剣は振り上ったままに下らなかった。法螺はただ一つますます高く月の下を鳴り続けた。銅鑼《どら》が鳴った。兵士《つわもの》たちの銅鉾《どうぼこ》を叩いて馳せ寄る響が、武器庫《ぶきぐら》の方へ押し寄せ、更に贄殿《にえどの》へ向って雪崩《なだ》れて来た。
「奴国の者が宮に這入った。」
「姫を奪いに。」
「鏡を掠《と》りに。」
 騒ぎは人々の口から耳へ、耳から口へと静まった身屋《むや》を包んで波紋のように拡った。やがて贄殿の内外は、兵士たちの鉾尖《ほこさき》のために明るくなった。
「奴国の者は何処へ行った。」
「奴国の者を外へ出せ。」
 贄殿の入口は動乱する兵士たちの肩口で押し破られた。そのとき、彼らの間を分けて、一人卑弥呼が進んで来た。兵士たちは争って彼女の前に道を開いた。彼女は贄殿の中へ這入ると、使部たちの剣に包まれた若者の姿を眼にとめた。
「待て、彼は道に迷いし旅の者。」
「彼は奴国の王子である。」
「彼は我の伴ないし者。」
「彼の祖父は不弥の王母を掠奪した。」
「剣を下げよ。」
「彼の父は不弥の神庫《ほくら》に火を放った。」
 卑弥呼は使部たちの剣の下を通って若者の傍に出た。
「我は爾に食を与えた。爾は爾の国へ直ちに帰れ。」
 若者は踏み敷いた宿禰を捨てて剣を投げた。そうして、卑弥呼の前に跪拝《ひざまず》くと、彼は崩れた角髪《みずら》の下から眼を光らせて彼女にいった。
「姫よ、我を爾の傍におけ、我は爾の下僕《しもべ》になろう。」
「爾は帰れ。」
「姫よ、我は爾に我の骨を捧げよう。」
「去れ。」
「姫よ。」
「彼を出せ。」
 使部たちは剣を下げて若者の腕を握った。そうして、彼を戸外の月の光りの下へ引き出すと、若者は彼らを突き伏せて再び贄殿の中へ馳け込んだ。
「姫よ。」
「去れ。」
「姫よ。」
「去れ。」
「爾は我の命を奪うであろう。」
 忽ち、兵士たちの鉾尖は、勾玉《まがたま》の垂れた若者の胸へ向って押し寄せた。若者は鉾尖の映った銀色の眼で卑弥呼を見詰めながら、再び戸外へ退《しりぞ》けられた。そうして、彼は数人の兵士に守られつつ、月の光りに静まった萩《はぎ》と紫苑《しおん》の花壇を通り、紫竹《しちく》の茂った玉垣の間を白洲《しらす》へぬけて、磯まで来ると、兵士たちの嘲笑とともに※[#「革+堂」、第3水準1-93-80]《ど》ッと浜藻の上へ投げ出された。一連の波が襲って来た。そうして、彼の頭の上を乗り越えて消えて行くと、彼は漸《ようや》く半身を起して宮殿の方を見続けた。

       四

「王子は帰った。」
「呪禁師《じゅこんし》の言はあたった。」
「峠《とうげ》を越えて。」
「矛木《ほこぎ》のように痩せて帰った。」
 奴国《なこく》の宮は、山の麓《ふもと》の篠屋《しのや》の中から騒ぎ始めた。そうして、この騒ぎは宮を横切って、宮殿の中へ這入《はい》って行くと、夜になって、神庫《ほくら》の前の庭園で盛大な饗宴となって変って来た。
 松明《たいまつ》を咬《か》んだ火串《ほぐし》は円形にその草野を包んで立てられた。集った宮人《みやびと》たちには、鹿の肉片と、松葉で造った麁酒《そしゅ》や※[#「酉+璃のつくり」、第4水準2-90-40]《もそろ》の酒が配《くば》られ、大夫《たいぶ》や使部《しぶ》には、和稲《にぎしね》から作った諸白酒《もろはくざけ》が与えられた。そうして、宮の婦人たちは彼らの前で、まだ花咲かぬ忍冬《すいかずら》を頭に巻いた鈿女《うずめ》となって、酒楽《さかほがい》の唄《うた》を謡《うた》いながら踊り始めた。数人の若者からなる楽人は、槽《おけ》や土器《かわらけ》を叩きつつ二絃《にげん》の琴《きん》に調子を打った。
 肥《こ》え太《ふと》った奴国の宮の君長《ひとこのかみ》は、童男と三人の宿禰《すくね》とを従えて櫓《やぐら》の下で、痩せ細った王子の長羅《ながら》と並んでいた。長羅は過ぎた狩猟の日、行衛《ゆくえ》不明となって奴国の宮を騒がせた。彼は十数日の間深い山々を廻っていた。そうして、彼は不弥《うみ》へ出た。かつてあの不弥の宮で生命を断たれようとした若者は彼であった。
「長羅よ、見よ、奴国の女は美しい。」と君長はいって踊る婦女たちを指差した。「我は爾《なんじ》に妻を与えよう。爾は爾の好む女を捜せ。」
 長羅の父の君長は、妃《きさき》を失って以来、饗宴を催すことが最大の慰藉《いしゃ》であった。何《な》ぜなら、それは彼の面前で踊る婦女たちの間から、彼は彼の欲する淫蕩《いんとう》な一夜の肉体を選択するに自由であったから。そうして、彼は、回を重ねるに従って常に一夜の肉体を捜し得た。今また彼は、櫓の下から二人の婦女に眼をつけた。
「見よ、長羅、彼方《かなた》の女の踊りは美事であろう。」
 長羅の細まった憂鬱な眼は、踊りを外《はず》れて森の方を眺めていた。君長は空虚《から》の酒盃《さかずき》を持ったまま、忙しそうに踊りの中へ眼を走らせながら、再び一人の婦人を指差していった。
「彼方の女は子を産む猪《いのしし》のように太っている。見よ、長羅、彼方の女は子を胎《はら》んだ冬の狐のように太っている。」
 饗宴は酒甕《みわ》から酒の減るにつれて乱れて来た。鹿は酔《よ》い潰《つぶ》れた若者たちの間を漫歩しながら酢漿草《かたばみそう》の葉を食べた。やがて、一団の若者たちは裸体となって、榊《さかき》の枝を振りながら婦人たちの踊の中へ流れ込んだ。このとき、人波の中から、絶えず櫓の上の長羅の顔を見詰めている女が二人あった。一人は踊の中で、君長の視線の的となっていた濃艶な若い大夫の妻であった。一人は松明の明りの下で、兄の訶和郎《かわろ》と並んで立っている兵部《ひょうぶ》の宿禰の娘、香取《かとり》であった。彼女は奴国の宮の乙女《おとめ》たちの中では、その美しい気品の高さにおいて嶄然《ざんぜん》として優れていた。
「ああ長羅、見よ、彼方に爾の妻がいる。」と、君長はいって長羅の肩を叩きながら、香取の方を指差した。
 香取の気高き顔は松明の下で、淡紅《うすくれない》の朝顔のように赧《あか》らんで俯向《うつむ》いた。
「王子よ、我の酒盞《うくは》を爾は受けよ。」と、兵部の宿禰は傍からいって、馬爪《ばづ》で作った酒盞を長羅の方へ差し延べた。何ぜなら、彼の胸中に長く潜《ひそ》まっていた最大の希望は、今|漸《ようや》く君長の唇から流れ出たのであったから。
 しかし、長羅の頭首《こうべ》は重く黙って横に振られた。彼の眼の向けられた彼方では、松明の一塊が火串《ほぐし》の藤蔓《ふじかずら》を焼き切って、赤々と草の上へ崩れ落ちた。一疋の鹿は飛び上った。そうして、踊の中へ角を傾けて馳け込んだ。
「父よ、我は臥所《ふしど》を欲する。我を赦《ゆる》せ。」
 長羅は一人立ち上って櫓を降りた。彼は人波《ひとなみ》の後をぬけ、神庫の前を通って暗い櫟《いちい》の下まで来かかった。そのとき、踊りの群《むれ》から脱《ぬ》け出《だ》した一人の女が、彼の後から馳《か》けて来た。彼女は大夫の若い妻であった。
「待て、王子よ。」と彼女はいった。
 長羅は立ち停って後を向いた。
「我は爾の帰るを、月と星とに祈っていた。」
 長羅は黙って再び母屋《もや》の方へ歩いていった。
「待て、王子よ、我は夜の来る度に爾の夢を見た。」
 しかし、長羅の足はとまらなかった。
「ああ、王子よ。爾は我に言葉をかけよ。爾はわれを森へ伴なえ。我は我の祈りのために、再び爾を櫓の上で見た。」
 そのとき、二人の後から一人の足音が馳けて来た。それは女の良人の痩せ細った若い大夫であった。彼は蒼《あお》ざめた顔をして慄《ふる》えながら長羅にいった。
「王子よ、女は我の妻である。願くば妻を斬《き》れ。」
 長羅は黙って母屋の踏段に足をかけた。大夫の妻は長羅の腕を握ってひきとめた。
「王子よ、我を伴なえ、我は今宵《こよい》とともに死ぬるであろう。」
 大夫は妻の首を掴《つか》んで引き戻そうとした。
「爾は我を欺《あざむ》いた。爾は狂った。」
「放せ、我は爾の妻ではない。」
「ああ、妻よ、爾は我を欺いた。」
 大夫は妻の髪を掴んで引き伏せようとしたときに、再び新しい一人の足音が、蹌踉《よろ》めきながら三人の方へ馳けて来た。それは酒盞《うくは》を片手に持った長羅の父の君長であった。彼は踏《ふ》み辷《すべ》ると土を片頬に塗りつけて起き上った。
「女よ、我は爾を捜していた。爾の踊りは何者よりも美事であった。来《きた》れ、我は今宵爾に奴国の宮を与えよう。」
 君長は女の腕を握って踏段を昇っていった。大夫は女の後から馳け登ると、再び妻の手を持った。
「王よ、女は我の妻である。妻を赦《ゆる》せ。」
「爾の妻か。良し。」
 君長は女を放して剣《つるぎ》を抜いた。大夫の首は地に落ちた。続いて胴が高縁《たかえん》に倒れると、杉菜《すぎな》の中に静まっている自分の首を覗《のぞ》いて動かなかった。
「来れ。」と君長は女にいってその手を持った。
「王子よ、王子よ、我を救え。」
「来れ。」
 女は君長を突き跳ねた。君長は大夫の胴の上へ仰向きに倒れると、露わな二本の足を空間に跳ねながら起き上った。彼は酒気を吐きつつその剣を振り上げた。
「王子よ、王子よ。」
 女は呼びながら長羅の胸へ身を投げかけた。が、長羅の身体は立木のように堅かった。剣は降りた。女の肩は二つに裂けると、良人の胴を叩いて転がった。
「長羅よ、酒楽《さかほがい》は彼方である。朝はまだ来ぬ。行け、女は彼方で待っている。」
 君長は剣を下げたまま松明の輝いた草野の方へ、再び蹌踉《よろ》めきながら第二の女を捜しに行った。
 長羅は突き立ったまま二つの死体を眺めていた。そうして、彼は西の方を眺めると、
「卑弥呼《ひみこ》。」と一言《ひとこと》呟いた。

       

 奴国《なこく》の宮の鹿と馬とはだんだんと肥《こ》えて来た。しかし、長羅《ながら》の頬は日々に落ち込んだ。彼は夜が明けると、櫓《やぐら》の上へ昇って不弥《うみ》の国の山を見た。夜が昇ると頭首《こうべ》を垂れた。そうして、彼の唇からは、微笑と言葉が流れた星のように消えて行った。彼のこの憂鬱に最も愁傷した者は、彼を愛する叔父《おじ》の祭司の宿禰《すくね》と、香取を愛する兵部《ひょうぶ》の宿禰の二人であった。ある日、祭司の宿禰は、長羅の行衛不明となったとき彼の行衛を占《うらな》わせた咒禁師《じゅこんし》を再び呼んで、長羅の病を占わせた。広間の中央には忍冬《すいかずら》の模様を描いた大きな薫炉《くんろ》が据《す》えられた。その中の、菱殻《ひしがら》の焼粉《やきこ》の黄色い灰の上では、桜の枝と鹿の肩骨とが積み上げられて燃え上った。咒禁師はその立《た》ち籠《こ》めた煙の中で、片手に玉串《たまぐし》を上げ、片手に抜き放った剣《つるぎ》を持って舞を舞った。そうして、彼は薫炉の上で波紋を描く煙の文《あや》を見詰めながら、今や巫祝《かんなぎ》の言葉を伝えようとした時、突然、長羅は彼の傍へ飛鳥のように馳けて来た。彼は咒禁師の剣を奪いとると、再び萩《はぎ》の咲き乱れた庭園の中へ馳け降りた。そうして、彼は蟇《がま》に戯《たわむ》れかかっている一疋の牝鹿《めじか》を見とめると、一撃のもとにその首を斬り落して咒禁師の方を振り向いた。
「来《きた》れ。」
 呆然《ぼうぜん》としていた咒禁師は、慄《ふる》えながら長羅の傍へ近寄って来た。
「我の望は西にある。いかが。」
「ああ、王子よ。」と、咒禁師はいうと、彼の慄える唇は紫の色に変って来た。
 長羅は血の滴《したた》る剣を彼の胸さきへ差し向けた。
「いえ、我の望は西にある。良きか。」
「良し。」
「良きか。」
「良し。」というと、咒禁師は仰向きに嫁菜《よめな》の上へ覆《くつがえ》った。
 長羅は剣をひっ下げたまま、蒸被《むしぶすま》を押し開けて、八尋殿《やつひろでん》の君長《ひとこのかみ》の前へ馳けていった。そこでは、君長は、二人の童男に鹿の毛皮を着せて、交尾の真似をさせていた。
「父よ、我に兵を与えよ。」
「長羅、爾《なんじ》の顔は瓜《うり》のように青ざめている。爾は猪と鶴とを食《くら》え。」
「父よ、我に兵を与えよ。」
「聞け、長羅、猪は爾は頬を脹らせるであろう。鶴は爾の顔を朱《あけ》に染めるであろう。爾の母は我に猪と鶴とを食わしめた。」
「父よ、我は不弥《うみ》を攻める。我に爾は兵を与えよ。」
「不弥は海の国、爾は塩を奪うか。」
「奪う。」
「不弥は玉の国、爾は玉を奪うか。」
「奪う。」
「不弥は美女の国、爾は美女を奪うて帰れ。」
「我は奪う、父よ、我は奪う。」
「行け。」
「ああ、父よ、我は爾に不弥の宝を持ち帰るであろう。」
 長羅は君長《ひとこのかみ》の前を下ると、兵部の宿禰を呼んで、直ちに兵を召集することを彼に命じた。しかし、兵部の宿禰は、この突然の出兵が、娘、香取の上に何事か悲しむべき結果を齎《もたら》すであろうことを洞察した。
「王子よ、爾は一戦にして勝たんことを欲するか。」
「我は欲す。」
「然《しか》らば、爾は我が言葉に従って時を待て。」
「爾は老者、時は壮者にとりては無用である。」
「やめよ。我の言葉は、爾の希望のごとく重いであろう。」
 長羅は唇を咬《か》み締《し》めて宿禰を見詰めていた。宿禰は吐息を吐いて長羅の前から立ち去った。

       

 奴国《なこく》の宮からは、面部の※[#「王+夬」、第3水準1-87-87]形《けっけい》の刺青《ほりもの》を塗《ぬ》り潰《つぶ》された五人の使部《しぶ》が、偵察兵となって不弥《うみ》の国へ発せられた。そうして、森からは弓材になる檀《まゆみ》や槻《つき》や梓《あずさ》が切り出され、鹿矢《ししや》の骨片の矢の根は征矢《そや》の雁股《かりまた》になった矢鏃《やじり》ととり変えられた。猪の脂《あぶら》と松脂《まつやに》とを煮溜めた薬煉《くすね》は弓弦《ゆづる》を強めるために新らしく武器庫《ぶきぐら》の前で製せられた。兵士《つわもの》たちは、この常とは変って悠々閑々《ゆうゆうかんかん》とした戦いの準備を心竊《こころひそか》に嗤《わら》っていた。しかし、彼らの一人として、娘を憶《おも》う兵部《ひょうぶ》の宿禰《すくね》の計画を洞察し得た者は、誰もなかった。
 偵察兵の帰りを待つ長羅《ながら》の顔は、興奮と熱意のために、再び以前のように男々《おお》しく逞《たくま》しく輝き出した。彼は終日武器庫の前の広場で、馬を走らせながら剣《つるぎ》を振り、敵陣めがけて突入する有様を真似ていた。しかし、卑弥呼《ひみこ》を奪う日が、なお依然として判明せぬ焦燥さに耐え得ることが出来なくなると、彼は一人国境の方へ偵察兵を迎いに馬を走らせた。
 或《あ》る日、長羅は国境の方から帰って来ると、泉の傍に立っていた兵部の宿禰の子の訶和郎《かわろ》が彼の方へ進んで来た。彼は長羅の馬の拡った鼻孔を指差して彼にいった。
「王子よ、爾《なんじ》は爾の馬に水を飲ましめよ。爾の馬の呼吸は切れている。」
 長羅は彼に従って馬から降りた。そのとき、一人の乙女《おとめ》が垂れ下った柳の糸の中から、慄《ふる》える両腕に水甕《みずがめ》を持って現れた。それは兵部の宿禰の命を受けた訶和郎の妹の香取《かとり》であった。彼女は美しく装いを凝《こら》した淡竹色《うすたけいろ》の裳裾《もすそ》を曳《ひ》きながら、泉の傍へ近寄って水を汲んだ。彼女の肩から辷《すべ》り落《お》ちた一束の黒髪は、差し延べた白い片腕に絡《から》まりながら、太陽の光りを受けた明るい泉の水面へ拡った。長羅は馬の手綱《たづな》を握ったまま彼女の姿を眺めていた。彼女は汲み上げた水壺の水を長羅の馬の前へ静《しずか》に置くと、赧《あか》らめた顔を俯向《うつむ》けて、垂れ下った柳の糸を胸の上で結び始めた。
 やがて、馬は水甕の中から頭を上げた。
「奴国の宮で、もっとも美しき者は爾である。」と長羅はいうと、馬の上へ飛び乗った。
 香取の一層赧らんだ気高《けだか》い顔は柳の糸で隠された。馬は再び王宮の方へ馳《か》けて行った。
 しかし、長羅は武器庫の前まで来たときに、三人の兵士が水壺の中へ毒空木《どくうつぎ》の汁を搾《しぼ》っているのを眼にとめた。
「爾の汁は?」と長羅は馬の上から彼らに訊《き》いた。
「矢鏃《やじり》に塗って、不弥《うみ》の者を我らは攻《せ》める。」と彼らの一人は彼に答えた。
 長羅の眼には、その矢を受けて倒れている卑弥呼の姿が浮び上った。彼は鞭《むち》を振り上げて馬の上から飛び降りた。兵士たちは跪拝《ひざまず》いた。
「王子よ、赦《ゆる》せ、我らの毒は、直ちに一人を殺すであろう。」と一人はいった。
 長羅は毒壺を足で蹴った。泡を立てた緑色の汁は、倒れた壺から草の中へ滲《し》み流《なが》れた。
「王子よ、赦せ、我らに命じた者は宿禰である。」と、一人はいった。
 忽《たちま》ち毒汁の泡の上には、無数の山蟻《やまあり》の死骸が浮き上った。

       

 不弥《うみ》の国から一人の偵察兵が奴国《なこく》の宮へ帰って来た。彼は、韓土《かんど》から新羅《しらぎ》の船が、宝鐸《ほうたく》と銅剣とを載せて不弥の宮へ来ることを報告した。長羅《ながら》は直ちに出兵の準備を兵部《ひょうぶ》の宿禰《すくね》に促した。しかし、宿禰の頭は重々しく横に振られた。
「爾は奴国の弓弦《ゆづる》の弱むを欲するか。」と、長羅はいって詰め寄った。
「待て、帰った偵察兵は一人である。」
 長羅は沈黙した。そうして、彼は、嘆息する宿禰の頭の上で、不弥の方を仰いで嘆息した。
 六日目に第二の偵察兵が帰って来た。彼は、不弥の君長《ひとこのかみ》が投馬《ずま》の国境へ狩猟に出ることを報告した。
 長羅は再び兵部の宿禰に出兵を迫っていった。
「宿禰よ、機会は我らの上に来た。爾は最早や口を閉じよ。」
「待て。」
「爾は武器庫《ぶきぐら》の扉を開け。」
「待て、王子よ。」
「宿禰、爾の我に教うる戦法は?」
「王子よ、狩猟の日は危険である。」
「やめよ。」
「狩猟の日の警戒は数倍する。」
「やめよ。」
「王子よ、爾の必勝の日は他日にある。」
「爾は必勝を敵に与うることを欲するか。」
「敵に与うるものは剣《つるぎ》。」
「爾は我の敗北を願う者。」
「我は爾を愛す。」
 長羅は鹿の御席《みまし》の毛皮を宿禰に投げつけて立ち去った。
 宿禰はその日、漸《ようや》く投げ槍と楯《たて》との準備を兵士《つわもの》たちに命令した。
 四日がたった。そうして、第三の偵察兵が奴国の宮へ帰って来た。彼は、不弥の宮では、王女|卑弥呼《ひみこ》の婚姻が数日の中《うち》に行われることを報告した。長羅の顔は、見る見る中に蒼《あお》ざめた。
「宿禰、銅鑼《どら》を鳴らせ、法螺《ほら》を吹け、爾は直ちに武器庫の扉を開け。」
「王子よ。我らの聞いた三つの報導は違っている。」
 長羅は無言のまま宿禰を睥《にら》んで突き立った。
「王子よ、二つの報告は残っている。」
 長羅の唇と両手は慄えて来た。
「待て、王子よ、長き時日は、重き宝を齎《もたら》すであろう。」
 長羅の剣は宿禰の上で閃《ひらめ》いた。宿禰の肩は耳と一緒に二つに裂けた。
 間もなく、兵士を召集する法螺と銅鑼が奴国の宮に鳴り響いた。兵士たちは八方から武器庫へ押し寄せて来た。彼らの中には、弓と剣と楯とを持った訶和郎《かわろ》の姿も混っていた。彼は、この不意の召集の理由を父に訊《き》き正《ただ》さんがために、ひとり王宮の中へ這入《はい》っていった。しかし、寂寞《せきばく》とした広間の中で彼の見たものは、御席《みまし》の上に血に塗《まみ》れて倒れている父の一つの死骸であった。
「ああ、父よ。」
 彼は楯と弓とを投げ捨てて父の傍へ馳《か》け寄《よ》った。彼は父の死の理由の総《すべ》てを識《し》った。彼は血潮の中に落ちている父の耳を見た。
「ああ、父よ、我は復讐するであろう。」
 彼は父の死体を抱き上げようとした。と、父の片腕は衣の袖《そで》の中から転がり落ちた。
「待て、父よ、我は爾に代って復讐するであろう。」
 訶和郎は血の滴《したた》る父の死体を背負うと、馳《は》せ違《ちが》う兵士たちの間をぬけて、ひとり家の方へ帰って来た。
 やがて、太陽は落ちかかった。そうして、長羅を先駆に立てた奴国の軍隊は、兵部の宿禰の家の前を通って不弥の方へ進軍した。訶和郎の血走った眼と、香取の泣き濡れた眼とは、泉の傍から、森林の濃緑色の団塊に切られながら、長く霜のように輝いて動いて行く兵士たちの鉾先《ほこさき》を見詰めていた。

       

 不弥《うみ》の宮には、王女|卑弥呼《ひみこ》の婚姻の夜が来た。卑弥呼は寝殿の居室で、三人の侍女を使いながら式場に出るべき装いを整えていた。彼女は斎杭《いくい》に懸った鏡の前で、兎の背骨を焼いた粉末を顔に塗ると、その上から辰砂《しんしゃ》の粉を両頬に掃《は》き流《なが》した。彼女の頭髪には、山鳥の保呂羽《ほろば》を雪のように降り積もらせた冠《かんむり》の上から、韓土《かんど》の瑪瑙《めのう》と翡翠《ひすい》を連ねた玉鬘《たまかずら》が懸かっていた。侍女の一人は白色の絹布を卑弥呼の肩に着せかけていった。
「空の下で、最も美しき者は我の姫。」
 侍女の一人は卑弥呼の胸へ琅※[#「王+干」、第3水準1-87-83]《ろうかん》の勾玉《まがたま》を垂れ下げていった。
「地の上の日輪《にちりん》は我の姫。」
 橘《たちばな》と榊《さかき》の植《うわ》った庭園の白洲《しらす》を包んで、篝火《かがりび》が赤々と燃え上ると、不弥の宮人たちは各々手に数枚の柏《かしわ》の葉を持って白洲の中へ集って来た。やがて、琴と笛と法螺《ほら》とが緩《ゆる》やかに王宮の※[#「木+長」、第4水準2-14-94]《ほこだち》の方から響いて来た。十人の大夫《だいぶ》が手火《たび》をかかげて白洲の方へ進んで来た。続いて、幢《はたぼこ》を持った三人の宿禰《すくね》が進んで来た。それに続いて、剣を抜いた君長《ひとこのかみ》が、鏡を抱いた王妃《おうひ》が、そうして、卑弥呼は、管玉《くだだま》をかけ連ねた瓊矛《ぬぼこ》を持った卑狗《ひこ》の大兄《おおえ》と並んで、白い孔雀《くじゃく》のように進んで来た。宮人たちは歓呼の声を上げながら、二人を目がけて柏の葉を投げた。白洲の中央では、王妃のかけた真澄鏡《ますみかがみ》が、石の男根に吊《つ》り下《さ》がった幣《ぬさ》の下で、松明《たいまつ》の焔《ほのお》を映して朱の満月のように輝いた。その後の四段に分れた白木の棚の上には、野の青物《あおもの》が一段に、山の果実と鳥類とが二段目に、鮠《はえ》や鰍《かじか》や鯉《こい》や鯰《なまず》の川の物が三段に、そうして、海の魚と草とは四段の段に並べられた。奏楽が起り、奏楽がやんだ。君長は鏡の前で、剣を空に指差していった。
「ああ無窮なる天上の神々よ、われらの祖先よ、二人を守れ。ああ広大なる海の神々よ、地の神々よ、二人を守れ、ああ爾《なんじ》ら忠良なる不弥の宮の臣民よ、二人を守れ、不弥の宮は、爾らの守護の下に、明日の日輪のごとく栄えるであろう。」
 周囲の宮人たちの手が白い波のように揺れると、再び一斉に柏の葉が投げられた。卑弥呼と卑狗の大兄は王宮の人々に包まれて、奏楽に送られながら、白洲を埋めた青い柏の葉の上を寝殿の方へ返っていった。群衆は歓《よろこ》びの声を上げつつ彼らの後に動揺《どよ》めいた。手火《たび》や松明《たいまつ》が入り乱れた。そうして、王宮からは、※[#「酉+璃のつくり」、第4水準2-90-40]《もそろ》や諸白酒《もろはくざけ》が鹿や猪の肉片と一緒に運ばれると、白洲の中央では、※[#「くさかんむり/意」、第3水準1-91-30]苡《くさだま》の実を髪飾りとなした鈿女《うずめ》らが山韮《やまにら》を振りながら、酒楽《さかほがい》の唄《うた》を謡《うた》い上げて踊り始めた。やがて、酒宴と舞踏は深まった。威勢良き群衆は合唱から叫喚《きょうかん》へ変って来た。そうして、夜の深むにつれて、彼らの騒ぎは叫喚から呻吟《しんぎん》へと落ちて来ると、次第に光りを失う篝火と一緒に、不弥の宮の群衆は、間もなく暁の星の下で呟《つぶや》く巨大な獣《けもの》のように見えて来た。
 そのとき、突然|武器庫《ぶきぐら》から火が上った。と、同時に森の中からは、一斉に鬨《とき》の声が群衆めがけて押し寄せた。それに応じて磯《いそ》からは、長羅《ながら》を先駆に立てた一団が、花壇を突き破って宮殿の方へ突撃した。不弥の宮の群衆は、再び宵《よい》のように騒ぎ立った。松明は消えかかったまま酒盞《うくは》や祝瓮《ふくべ》と一緒に飛び廻った。そうして、投げ槍の飛《と》び交《か》う下で、鉾《ほこ》や剣が撒《ま》かれた氷のように輝くと、人々の身体は手足を飛ばして間断なく地に倒れた。
 長羅はひとり転がる人波を蹴散らして宮殿の中へ近づくと、贄殿《にえどの》の戸を突き破って寝殿の方へ馳《か》け込《こ》んだ。広間の蒸被《むしぶすま》を押し開けた。八尋殿《やつひろでん》を横切った。そうして、奥深い一室の布被《ぬのぶすま》を引きあけると、そこには、白い羽毛の蒲団《ふとん》に被《おお》われた卑弥呼が、卑狗の大兄の腕の中で眠っていた。
「卑弥呼。」長羅は入口に突き立った。
「卑弥呼。」
 卑狗の大兄と卑弥呼とは、巣を乱された鳥のように跳ね起きた。
「去れ。」と叫ぶと、大兄は斎杭《いくい》に懸った鹿の角を長羅に向って投げつけた。
 長羅は剣の尖《さき》で鹿の角を跳ねのけると、卑弥呼を見詰めたまま、飛びかかる虎のように小腰《こごし》を蹲《かが》めて忍び寄った。
「去れ、去れ。」
 長羅に向って鏡が飛んだ。玉が飛んだ。しかし、彼は無言のまま卑弥呼の方へ近か寄った。大兄は卑弥呼を後《うしろ》に守って彼の前に立《た》ち塞《ふさ》がった。
「爾は何故にここへ来た。」
 と、大兄はいうと、彼の胸には長羅の剣が刺さっていた。彼は叫びを上げると、その剣を握って後へ反《そ》った。
「ああ、大兄。」
 卑弥呼は良人《おっと》を抱きかかえた。大兄の胸からは、血が赤い花のように噴《ふ》き出《だ》した。長羅は卑弥呼の肩に手をかけた。
「卑弥呼。」
「ああ、大兄。」
 卑狗の身体は卑弥呼の腕の中へ崩れかかって息が絶えた。
「我は爾を奪いに不弥へ来た。卑弥呼、我とともに爾は奴国《なこく》へ来《きた》れ。」
 長羅は卑弥呼を抱き寄せようとした。
「大兄、大兄。」と彼女はいいながら、卑狗の大兄を抱いたまま床の上へ泣き崩れた。
 そのとき、奴国の兵士《つわもの》たちは血に濡れた剣を下げて、長羅の方へ乱入して来ると口々に叫び合った。
「我は王を殺した。」
「我は王妃を刺した。」
「不弥の鏡を我は奪った。」
「我は宝剣と玉を掠《と》った。」
 長羅は卑弥呼を床の上から抱き上げた。
「我は爾を奪う。」
 彼は卑狗の大兄を卑弥呼の腕から踏み放すと、再び宮殿を突きぬけて広場の方へ馳け出した。卑弥呼は長羅の腕の中から、小枝を払った※[#「木+長」、第4水準2-14-94]《ほこだち》の枝に、上顎《うわあご》をかけられた父と母との死体が魚のように下っているのを眼にとめた。
「ああ、我を刺せ。」
 焔《ほのお》の家となった武器庫は、転っている死体の上へ轟然たる響を立てて崩れ落ちた。長羅は卑弥呼を抱きかかえたまま、ひらりと馬の上へ飛び乗った。
「去れ。」
 彼は馬の腹をひと蹴り蹴った。馬は石のように転っている人々の頭を蹴散して、森の方へ馳け出した。それに続いて、血に塗られた奴国の兵の鉾尖《ほこさき》が、最初の朝日の光りを受けてきらめきながら、森の方へ揺れて来た。
「卑弥呼。」と長羅はいった。
「ああ、我を刺せ。」
 彼女は馬の背の上で昏倒《こんとう》した。
「卑弥呼。」
 馬は走った。葎《むぐら》と薊《あざみ》の花を踏みにじって奴国の方へ馳けていった。
「卑弥呼。」
「卑弥呼。」

       

 遠く人馬の騒擾《そうじょう》が闇の中から聞えて来た。訶和郎《かわろ》と香取《かとり》は戸外に立って峠《とうげ》を見ると、松明《たいまつ》の輝きが、河に流れた月のように長くちらちらとゆらめいて宮の方へ流れて来た。それは不弥《うみ》の国から引き上げて来た奴国《なこく》の兵士《つわもの》たちの明りであった。訶和郎と香取は忍竹《しのぶ》を連ねた簀垣《すがき》の中に身を潜《ひそ》めて、彼らの近づくのを待っていた。
 やがて、兵士たちのざわめきが次第に二人の方へ近寄って来ると、その先達《せんだち》の松明の後から、馬の上で一人の動かぬ美女を抱きかかえた長羅《ながら》の姿が眼についた。訶和郎は剣を抜いて飛び出ようとした。
「待て、兄よ。」と香取はいって、訶和郎の腕を後へ引いた。
 先達の松明は簀垣の前へ来かかった。美女の片頬は、松明の光りを受けて病める鶴のように長羅の胸の上に垂れていた。
 訶和郎は剣《つるぎ》を握ったまま長羅の顔から美女の顔へ眼を流した。すると、憤怒《ふんぬ》に燃えていた彼の顔は、次第に火を見る嬰児《えいじ》の顔のように弛《ゆる》んで来て口を解いた。そうして、彼の厚い二つの唇は、兵士たちの最後の者が、跛足《びっこ》を引いて朱実《あけみ》を食べながら、宮殿の方へ去って行っても開いていた。しかし、間もなく、兵士たちの松明が、宮殿の草野の上で円《まる》く火の小山を築きながら燃え上ると、訶和郎の唇は引きしまり、再び彼の両手は剣を持った。
「待て、兄よ。」
 物に怯《おび》えたように、香取の体は軽く揺れた。しかし、訶和郎の姿は闇の中を夜蜘蛛《よぐも》のように宮殿の方へ馳け出した。
「ああ、兄よ。」と香取はいうと、彼女の悲歎の額《ひたい》は重く数本の忍竹へ傾きかかり、そうして、再び地の上へ崩れ伏した。

       

 訶和郎《かわろ》は兵士《つわもの》たちの間を脱けると、宮殿の母屋《もや》の中へ這入《はい》っていった。そうして、広間の裏へ廻って尾花《おばな》で編んだ玉簾《たますだれ》の隙間《すきま》から中を覗《のぞ》いた。
 広間の中では、君長《ひとこのかみ》は二人の宿禰《すくね》と、数人の童男と使部《しぶ》とを傍に従えて、前方の蒸被《むしぶすま》の方を眺めていた。数箇の燈油の皿に燃えている燈火は、一様に君長の方へ揺れていた。暫《しばら》くして、そこへ、数人の兵士たちを従えて現れたのは長羅《ながら》であった。
「父よ、我は勝った。我は不弥《うみ》の宮の南北から襲め寄せた。」と長羅はいった。
「美女は何処《いずこ》か。」
「父よ。我は不弥の宮に立てる生き物を残さなかった。我は王を殺した、王妃《おうひ》を刺した。」
「美女をとったか。」
「美女をとった。そうして、宝剣と鏡をとった。我の奪った宝剣を爾《なんじ》は受けよ。」
「美女は何処か。不弥の美女は潮の匂いがするであろう。」
 長羅は兵士たちの持って来た剣と、苧《からむし》の袋の中からとり出した鏡と琅※[#「王+干」、第3水準1-87-83]《ろうかん》の勾玉《まがたま》とを父の前に並べていった。
「父よ。爾は爾の好む宝を選べ。宝剣は韓土の鉄。奴国《なこく》の武器庫《ぶきぐら》を飾るであろう。」
「長羅よ。我は爾の殊勲に爾の好む宝剣を与えるであろう。我に美女を見せよ。不弥の美女は何処にいるか。」
 君長は御席《みまし》の上から立ち上った。長羅は一人の兵士に命じて言った。
「連れよ。」
 卑弥呼は後に剣を抜いた数人の兵士に守られて、広間の中へ連れられた。君長は卑弥呼を見ると、獣慾に声を失った笑顔の中から今や手を延《のば》さんと思われるばかりに、その肥《こ》えた体躯《たいく》を揺り動かして彼女にいった。
「不弥の女よ。爾は奴国を好むか。我とともに、奴国の宮にとどまれ。我は爾に爾の好む何物をも与えるであろう。爾は亥猪《いのこ》を好むか。奴国の亥猪は不弥の鹿より脂《あぶら》を持つであろう。不弥の女よ。我を見よ。我は王妃を持たぬ。爾は我の王妃になれ。我は爾の好む蛙《かえる》と鯉《こい》とを与えるであろう。我は加羅《から》の翡翠《ひすい》を持っている。」
「奴国の王よ、我を殺せ。」
「不弥の女よ。我の傍に来れ。爾は奴国の誰よりも美しい。爾は鐶《たまき》を好むか。我の妻は黄金の鐶を残して死んだ。爾は鐶を爾の指に嵌《は》めてみよ。来たれ。」
「奴国の王よ。我を不弥に返せ。」
「不弥の女よ。爾は奴国の宮を好むであろう。我とともにいよ。奴国の月は田鶴《たず》のように冠物《かぶりもの》を冠っている。爾は奴国の月を眺めて、我とともに山蟹《やまがに》と雁《かり》とを食《くら》え。奴国の山蟹は赤い卵を胎《はら》んでいる。爾は赤い卵を食え。山蟹の卵は爾の腹から我の強き男子《おのこ》を産ますであろう。来たれ。我は爾のごとき美しき女を見たことがない。来たれ。我とともに我の室《へや》へ来りて、酒盞《うくは》を干せ。」
 君長は刈薦《かりごも》の上に萎《しお》れている卑弥呼の手をとった。長羅の顔は刺青《ほりもの》を浮かべて蒼白《あおじろ》く変って来た。
「父よ、何処へ行くか。」
「酒宴の用意は宜《よろし》きか。長羅よ。爾の持ち帰った不弥の宝は美事である。」
「父よ。」
「長羅よ。我は爾のために新らしき母を与えるであろう。爾は臥所《ふしど》へ這入って、戦いの疲れを憩《いこ》え。」
「父よ。」長羅は君長の腕から卑弥呼を奪って突き立った。「不弥の女は我の妻。我は妻を捜しに不弥へ行った。」
「長羅、爾は我を欺《あざむ》いた。不弥の女よ。我に来れ。我は爾を嫁《めと》りに長羅を遣《や》った。」
「父よ。」
「不弥の女よ。我とともに来れ。我は爾を奴国の何物よりも愛《め》でるであろう。」
 君長は卑弥呼の手を引きながら長羅を突いた。長羅は剣を抜くと、君長の頭に斬りつけた。君長は燈油の皿を覆《くつがえ》して勾玉の上へ転がった。殿中は君長の周囲から騒ぎ立った。
 政司《さいし》の宿禰は立ち上ると剣を抜いて、長羅の前に出た。
「爾は王を殺害した。」
 長羅は宿禰を睥《にら》んで肉迫した。忽《たちま》ち広間の中の人々は、宿禰と長羅の二派に分れて争った。見る間に手と足と、角髪《みずら》を解いた数個の首とが斬《き》り落《おと》された。燈油の皿は投げられた。そうして、室の中は暗くなると、跳ね上げられた鹿の毛皮は、閃めく剣の刃さきの上を踊りながら放埒《ほうらつ》に飛び廻った。
 卑弥呼は蒸被《むしぶすま》を手探りながら闇にまぎれて、尾花の玉簾《たますだれ》を押し分けた。その時、玉簾の後《うしろ》に今まで身を潜めていた訶和郎《かわろ》は、八尋殿《やつひろでん》の廻廊から洩れくる松明の光に照《てら》されて、突然に浮き出た不弥の女の顔を目にとめた。
「姫よ、待て。」
 と訶和郎はいうと、広間の中へ飛び込もうとしていたその身を屈して彼女を横に抱き上げた。そうして、彼は宮殿の庭に飛び下り、厩《うまや》の前へ馳《か》けて行くと、卑弥呼の耳に口を寄せて囁《ささや》いた。
「姫よ、我と共に奴国を逃げよ。王子の長羅は、我と爾の敵である。爾を奪わば彼は我を殺すであろう。」
 一頭の栗毛《くりげ》に鞭《むち》が上った。馬は闇から闇へ二人を乗せて、奴国の宮を蹴り捨てた。
 長羅は蒸被の前へ追いつめた宿禰の肩を斬り下げた。そうして、剣を引くと、「卑弥呼、卑弥呼。」と呼びながら、部屋の中を馳け廻り、布被《ぬのぶすま》を引き開けた。玉簾を跳ね上げた。庭園へ飛び下りて、萩《はぎ》の葉叢《はむら》を薙《な》ぎ倒《たお》しつつ広場の方へ馳けて来た。
「不弥の女は何処へ行った。捜せ。不弥の女を捕えたものは宿禰にするぞ。」
 再び庭に積まれた松明の小山は、馳け集った兵士たちの鉾尖に突き刺されて崩された。そうして、奴国の宮を、吹かれた火の子のように八方へ飛び散ると、次第に疎《まばら》に拡りながら動揺《どよ》めいた。

       十一

 訶和郎《かわろ》の馬は狭ばまった谷間の中へ踏み這入った。前には直立した岩壁から逆様に楠《くす》の森が下っていた。訶和郎は馬から卑弥呼を降して彼女にいった。
「馬は進まず。姫よ、爾《なんじ》は我とともに今宵《こよい》をすごせ。」
「追い手は如何《いかん》。」
「良し、姫よ。我は奴国《なこく》の宿禰《すくね》の子。我の父は長羅のために殺された。爾を奪う兵士《つわもの》を奴国の宮に滞《とど》めて殺された。長羅は我の敵である。もし爾が不弥の国になかりせば、我の父は我とともに今宵を送る。爾は我の敵である。」
「我の良人《おっと》は長羅の剣《つるぎ》に殺された。」
「我は知らず。」
「我の父は長羅の兵士に殺された。」
「我は知らず。」
「我の母は長羅のために殺された。」
「やめよ、我は爾の敵ではない。爾は我の敵である。不弥《うみ》の女。我は爾を奪う。我は長羅に復讐のため、我は爾に復讐のため、我は爾を奪う。」
「待て。我の復讐は残っている。」
「不弥の女。」
「待て。」
「不弥の女。我の願いを容れよ。然《しか》らずば、我は爾を刺すであろう。」
「我の良人は我を残して死んだ。我の父と母とは、我のために殺された。ひとり残っている者は我である。刺せ。」
「不弥の女。」
「刺せ。」
「我に爾があらざれば、我は死するであろう。我の妻になれ。我とともに生きよ。我に再び奴国の宮へ帰れと爾はいうな。我を待つ物は剣であろう。」
「待て。我の復讐は残っている。」
「我は復讐するであろう。我は爾に代って、父に代って復讐するであろう。」
「するか。」
「我は復讐する。我は長羅を殺す。」
「するか。」
「我は爾の夫に代って、爾の父と母に代って復讐する。」
「するか。」
「我は爾を不弥と奴国の王妃にする。」
 その夜二人は婚姻した。頭の上には、蘭《らん》を飾った藤蔓《ふじづる》と、数条の蔦《つた》とが欅《けやき》の枝から垂れ下っていた。二人の臥床は羊歯《しだ》と韮《にら》と刈萱《かるかや》とであった。そうして卑弥呼《ひみこ》は、再び新らしい良人《おっと》の腕の中に身を横たえた。訶和郎《かわろ》は馬から鹿の毛皮で造られた馬氈《ばせん》を降《おろ》して、その妻の背にかけた。月は昇った。訶和郎は奴国の追い手を警戒するために、剣を抜いたまま眠らなかった。※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2-94-68]鼠《むささび》は楠《くす》の穴から出てくると、ひとり枝々の間を飛び渡った。月の映る度《たび》ごとに、※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2-94-68]鼠の眼は青く光って輝いた。そうして訶和郎の二つの眼と剣の刃は、山韮と刈萱の中で輝いた。
 その時、突然、卑弥呼は身を顫《ふる》わせて訶和郎の腕の中で泣き出した。

       十二

 その夜から、奴国《なこく》の野心ある多くの兵士《つわもの》たちは、不弥《うみ》の女を捜すために宮を発った。彼らの中に荒甲《あらこ》という一人の兵士があった。彼の額《ひたい》から片頬《かたほお》にかけて、田虫《たむし》が根強く巣を張っていたために、彼の※[#「王+夬」、第3水準1-87-87]形《けっけい》の刺青《ほりもの》は、奴国の誰よりも淡かった。彼は卑弥呼《ひみこ》が遁走《とんそう》した三日目の真昼に、森を脱け出た河原の岸で、馬の嘶《いなな》きを聞きつけた。彼は芒《すすき》を分けてその方へ近づくと、馬の傍で、足を洗っている不弥の女の姿が見えた。荒甲は背を延ばして馳け寄ろうとした時に、兎と沙魚《はぜ》とを携《さ》げた訶和郎が芒の中から現れた。
「ああ、爾《なんじ》は荒甲、不弥の女を爾は見たか。」
 荒甲は黙って不弥の女の姿を指さした。訶和郎は荒甲の首に手をかけた。と、荒甲の身体は、飛び散る沙魚と兎とともに、芒の中に転がされた。訶和郎は石塊を抱き上げると、起き上ろうとする荒甲の頭を目蒐《めが》けて投げつけた。荒甲の田虫は眼球と一緒に飛び散った。そうして、芒の茎にたかると、濡れた鶏頭《とさか》のようにひらひらとゆらめいた。訶和郎は死体になった荒甲の胴を一蹴りに蹴ると、追手《おって》の跫音《あしおと》を聞くために、地にひれ伏して苔《こけ》の上に耳をつけた。彼は妻の傍にかけていった。
「奴国の追手が近づいた。乗れ。」
 馬は卑弥呼と訶和郎を乗せて瀬を渡った。数羽の山鴨《やまがも》と雀《すずめ》の群れが柳の中から飛び立った。前には白雲を棚曳《たなび》かせた連山が真菰《まこも》と芒の穂の上に連っていた。
「かの山々は。」
「不弥の山。」
「追手は不弥へ廻るであろう。」
「廻るであろう。」
 卑弥呼は訶和郎と共に不弥に残った兵士たちを集めて奴国へ征《せ》め入《い》る計画を立てていた。しかし、二人を乗せた馬の頭は進むに従い、不弥を外《はず》れて耶馬台《やまと》の方へ進んでいった。秋の光りは訶和郎の背中に廻った衣の結び目を中心として、羽毛の畑のような芒の穂波の上に明るく降り注いだ。そうして、微風が吹くと、一様に背を曲げる芒の上から、首を振りつつ進む馬の姿が一段と空に高まった。空では鷸子《つぶり》と鳶《とび》とが円《まる》く空中の持ち場を守って飛んでいた。

       十三

 その夜二人は数里の森と、二つの峰とを越して小山の原に到着した。そこには椎《しい》と蜜柑《みかん》が茂っていた。猿は二人の頭の上を枝から枝へ飛び渡った。訶和郎《かわろ》は野犬と狼《おおかみ》とを防ぐために、榾柮《ほだ》を焚《た》いた。彼らは、数日来の経験から、追手の眼より野獣の牙《きば》を恐れねばならなかった。卑弥呼《ひみこ》はひとり訶和郎に添って身を横たえながら目覚めていた。なぜなら、その夜は彼女の夜警の番であったから。夜は更《ふ》けた。彼女は椎の梢《こずえ》の上に、群《むらが》った笹葉《ささば》の上に、そうして、静《しずか》な暗闇に垂れ下った藤蔓《ふじづる》の隙々《すきずき》に、亡き卑狗《ひこ》の大兄《おおえ》の姿を見た。
 卑狗の大兄の幻が彼女の眼から消えてゆくと、彼女は涙に濡れながら、再び燃え尽きる榾柮の上へ新らしく枯枝を盛り上げた。猿の群れは梢を下りて焚火の周囲に集ってきた。そうして、彼女が枯枝を火に差《さ》し燻《く》べるごとに、彼らも彼女を真似て差し燻べた。
 榾柮の次第に尽きかけた頃、山麓の闇の中から、突然に地を踏み鳴らす軍勢の響が聞えて来た。卑弥呼は傍の訶和郎を呼び起した。
「奴国の追手が近づいた、逃げよ。」
 訶和郎は飛び起ると足で焚火《たきび》を踏み消した。再び兵士たちの鯨波《とき》の声が張り上った。二人は馬に飛び乗ると、立木に突きあたりつつ小山の頂上へ馳け登った。すると、芒《すすき》の原に掩《おお》われた小山の背面からは、一斉に枯木の林が動揺《どよ》めきながら二人の方へ進んで来た。それは牡鹿《おじか》の群だった。馬は散乱する鹿の中を突き破って馳け下った。と、原の裾《すそ》から白茅《ちがや》を踏んで一団の兵士が現れた。彼らは一列に並んだまま、裾から二人の方へ締め上げる袋の紐《ひも》のように進んで来た。訶和郎は再び鹿の後から頂上へ馳け戻った。その時、椎《しい》と蜜柑《みかん》の原の中から、再び新らしい鹿の群が頂へ向って押《お》し襲《よ》せて来た。そうして、訶和郎の馬を混えた牡鹿の群の中へ突入して来ると、鹿の団塊は更に大きく混乱しながら、吹き上げる黒い泡のように頂上で動揺《どよ》めいた。しかし、間もなく、渦巻く彼らの団塊は、細長く山の側面に川波のように流れていった。と行手の裾に、兵士たちの松明《たいまつ》が点々と輝き出した。そうして、それらの松明は、見る間に一列の弧線を描いて拡がると、忽《たちま》ち全山の裾を円形に取り包んで縮まって来た。鹿の流れは訶和郎の馬を浮べて逆上した。再び彼らの団塊は、小山の頂で踏み合い乗り合いつつ沸騰した。松明を映した鹿の眼は、明滅しながら弾動する無数の玉のように輝いた。その時、一つの法螺《ほら》が松明の中で鳴り渡った。兵士たちの収縮する松明の環《わ》は停止した。それと同時に、芒の原の空中からは一斉に矢の根が鳴った。鹿の群れは悲鳴を上げて散乱した。訶和郎の馬は跳ね上った。と、訶和郎は卑弥呼を抱いたまま草の上に転落した。しかし、彼は窪地の中に這《は》い降《お》りると、彼女の楯《たて》のようにひれ伏して矢を防いだ。矢に射られた鹿の群れは、原の上を狂い廻って地に倒れた。忽ち窪地の底で抱き合う二人の背の上へ、鹿の塊《かたま》りがひき続いて落ち込むと、間もなく、雑然として盛り上った彼らは、突き合い蹴り合いつつ次第に静《しずか》に死んでいった。そうして、彼らの傷口から迸《ほとばし》る血潮は、石垣の隙間を漏れる泉のように滾々《こんこん》として流れ始めると、二人の体を染めながら、窪地の底の蘚苔《こけ》の中まで滲み込んでいった。

       十四

 訶和郎《かわろ》と卑弥呼《ひみこ》を包んだ兵士《つわもの》たちは、君長《ひとこのかみ》に率いられて、遠巻きに鹿の群れを巻き包んで来た耶馬台《やまと》の国の兵士であった。彼らは小山の頂上で狂乱する鹿の群れの鎮《しずま》るのを見ると、松明《たいまつ》の持ち手の後から頂きへ馳《か》け登《のぼ》った。明るく輝き出した頂は、散乱した動かぬ鹿の野原であった。やがて、兵士たちは松明の周囲へ尽《ことごと》く集って来ると、それぞれ一疋《いっぴき》の鹿を引《ひ》き摺《ず》って再び山の麓の方へ降りていった。その時、頂上の窪地の傍で群《むらが》った一団の兵士たちが、血に染った訶和郎と卑弥呼を包んで喧騒した。二人を見られぬ人たちは、遠く人垣の外で口々にいい合った。
「鹿の中から美女と美男が湧《わ》いて出た。」
「赤い美女が鹿の腹から湧いて出た。」
「鹿の美女は人間の美女よりも美しい。」
 やがて、兵士たちの集団は、訶和郎と卑弥呼を包んだまま、彼らの君長の反耶《はんや》の方へ進んでいった。
「王よ。」と兵士たちの一人は跪拝《ひざまず》いて反耶にいった。「鹿の中から若い男女が現れた。彼らを撃つか。」
 君長の反耶は、傍の兵士の持った松明をとると、頭上に高くかざして二人の姿を眺めていた。
「我らは遠く山を越えて来《きた》れる不弥《うみ》の者。我らを放せ。」と訶和郎はいった。反耶の視線は訶和郎から卑弥呼の方へ流された。
「爾《なんじ》は不弥の国の旅人か。」
「然《しか》り、我らは不弥へ帰る旅の者。我らを赦《ゆる》せ。」と卑弥呼はいった。
「耶馬台の宮はかの山の下。爾らは我の宮を通って旅に行け。」
「赦せ。われらの路は爾の宮より外《はず》れている。われらは明日の旅を急ぐ者。」
 反耶は松明を投げ捨てて、兵士たちの方へ向き返った。
「行け。」
 兵士たちは王の言葉を口々にいい伝えて動揺《どよ》めき立った。再び小山の頂では地を辷《す》べる鹿の死骸の音がした。その時、突然、卑弥呼の頭に浮んだものは、彼女自身の類い稀なる美しき姿であった。彼女は耶馬台の君長を味方にして、直ちに奴国《なこく》へ攻め入る計画を胸に描いた。
「待て、王よ。」と卑弥呼はいうと、並んだ蕾《つぼみ》のような歯を見せて、耶馬台の君長に微笑を投げた。「爾はわれらを爾の宮に伴なうか。われらは爾の宮を通るであろう。」
「ああ、不弥の女。爾らは我の宮を通って不弥へ帰れ。」
「卑弥呼。」と訶和郎はいった。
「待て、爾はわれに従って耶馬台を通れ。」卑弥呼は訶和郎の腕に手をかけた。
「卑弥呼、われらの路は外れて来た。耶馬台を廻れば、われらの望みも廻るであろう。」
「廻るであろう。」
「われらの望みは急いでいる。」
「訶和郎よ。耶馬台の宮は、不弥の宮より奴国へ近い。」
「不弥へ急げ。」
「耶馬台へ廻れ。」
「卑弥呼。」
 訶和郎は、眼を怒らせて、卑弥呼の腕を突き払った。その時、今まで反耶の横に立って、卑弥呼の顔を見続けていた彼の弟の片眼の反絵《はんえ》は、小脇に抱いた法螺貝《ほらがい》を訶和郎の眉間《みけん》に投げつけた。訶和郎は蹌踉《よろ》めきながら剣の頭椎《かぶつき》に手をかけた。反絵の身体は訶和郎の胸に飛びかかった。訶和郎は地に倒れると、荊《いばら》を※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《むし》って反絵の顔へ投げつけた。一人の兵士は鹿の死骸で訶和郎を打った。続いて数人の兵士たちの松明は、跳ね上ろうとする訶和郎の胸の上へ投げつけられた。火は胸の上で蹴られた花のように飛び散った。
「彼を縛《しば》れ。」と反絵はいった。
 数人の兵士たちは、藤蔓《ふじづる》を持って一時に訶和郎の上へ押しかむさった。
「王よ、彼を赦せ、彼はわれの夫《つま》、彼を赦せ。」卑弥呼は王の傍へ馳け寄った。反絵は藤蔓で巻かれた訶和郎の身体を一本の蜜柑の枝へ吊《つ》り下《さ》げた。卑弥呼は王の傍から訶和郎の下へ馳け寄った。
「彼を赦せ、彼は我の夫、彼を赦せ。」
 反絵は卑弥呼を抱きとめると、兵士たちの方を振り返って彼らにいった。
「不弥の女を連れよ。山を下れ。」
 一団の兵士は卑弥呼の傍へ押し寄せて来た。と、見る間に、彼女の身体は数人の兵士たちの頭の上へ浮き上り、跳ねながら、蜜柑の枝の下から裾の方へ下っていった。
 訶和郎は垂れ下ったまま蜜柑の枝に足を突っ張って、遠くへ荷負《にな》われてゆく卑弥呼の姿を睥《にら》んでいた。兵士たちの松明は、谷間から煙のように流れて来た夜霧の中を揺れていった。
「妻を返せ。妻を返せ。」
 蜜柑の枝は、訶和郎の唇から柘榴《ざくろ》の粒果《つぶ》のような血が滴《したた》る度ごとに、遠ざかる松明の光りの方へ揺らめいた。その時、兵士たちの群から放れて、ひとり山腹へ引き返して来た武将があった。それはかの君長《ひとこのかみ》の弟の反絵であった。彼は芒《すすき》の中に立《た》ち停《どま》ると、片眼で山上に揺られている一本の蜜柑の枝を狙《ねら》って矢を引いた。蜜柑の枝は、一段と闇の中で激しく揺れた。訶和郎の首は、猟人の獲物《えもの》のように矢の刺った胸の上へ垂れ下った。間もなく、濃霧は松明の光りをその中にぼかしながら、倒れた芒の原の上から静にだんだんと訶和郎の周囲へ流れて来た。

       十五

 耶馬台《やまと》の兵士《つわもの》たちが彼らの宮へ帰ったとき、卑弥呼《ひみこ》はひとり捕虜の宿舎にあてられる石窖《いしぐら》の中に入れられた。それは幸運な他国の旅人に与えられる耶馬台の国の習慣の一つであった。彼女の石窖は奥深い石灰洞から成っていた。数本の鍾乳石《しょうにゅうせき》の柱は、襞打《ひだう》つ高い天井の岩壁から下っていた。そうして、僅《わず》かに開けられた正方形の石の入口には、太い欅《けやき》の格子《こうし》が降《おろ》され、その前には、背中と胸とに無数の細い蜥蜴《とかげ》の絵でもって、大きな一つの蜥蜴を刺青《ほりもの》した一人の奴隷がつけられていた。彼の頭は嫁菜《よめな》の汁で染められた藍色《あいいろ》の苧《からむし》の布《きれ》を巻きつけ、腰には継ぎ合した鼬《いたち》の皮が纏《まと》われていた。
 卑弥呼は兵士たちに押し込められたまま乾草の上へ顔を伏せて倒れていた。夜は更《ふ》けた。兵士たちのさざめく声は、彼らの疲労と睡《ねむ》けのために耶馬台の宮から鎮《しず》まった。そうして、森からは霧を透《とお》して梟《ふくろう》と狐の声が石窖の中へ聞えて来た。かつて、卑弥呼が森の中で卑狗《ひこ》の大兄《おおえ》の腕に抱かれて梟の声を真似《まね》たのは、過ぎた平和な日の一夜であった。かつて、彼女が訶和郎《かわろ》の腕の中で狐の声を聞いたのは、過ぎた数日前の夜であった。
「ああ、訶和郎よ、もし我が爾《なんじ》に従って不弥《うみ》へ廻れば、我は今爾とともにいるのであろう。ああ、訶和郎よ、我を赦《ゆる》せ。我は卑狗を愛している。爾は我のために傷ついた。」
 卑弥呼は頭を上げて格子の外を見た。外では、弓を首によせかけた奴隷が、消えかかった篝火《かがりび》の傍で乾草の上に両手をついて、石窖の中を覗《のぞ》いていた。彼女は格子の傍へ近か寄った。そして、奴隷の臆病な犬のような二つの細い眼に嫣然《えんぜん》と微笑を投げて、彼にいった。
「来《きた》れ。」
 奴隷は眼脂《めやに》に塊《かたま》った逆睫《さかまつげ》をしばたたくと、大きく口を開いて背を延ばした。弓は彼の肩から辷《すべ》り落《お》ちた。
「爾は鹿狩りの夜を見たか。」
「見た。」
「爾は我の横に立てる男を見たか。」
「見た。」
 卑弥呼は首から勾玉《まがたま》を脱《はず》すと、彼の膝《ひざ》の上へ投げていった。
「爾は彼を見た山へ行け。爾は彼を伴なえ。爾は玉をかけて山へ行け。我は爾にその玉を与えよう。」
 奴隷は彼女の勾玉を拾って首へかけた。勾玉は彼の胸の上で、青い蜥蜴《とかげ》の刺青《ほりもの》を叩《たた》いて音を立てた。彼は加わった胸の重みを愛玩するかのように、ひとり微笑を洩《もら》しながら玉を撫《な》でた。
「夜は間もなく明けるであろう、行け。」と卑弥呼はいった。
 奴隷は立ち上った。そうして、胸を圧《おさ》えると彼の姿は夜霧の中に消えていった。しかし、間もなく、彼の足音に代って石を打つ木靴《きぐつ》の音が聞えて来た。卑弥呼は再び格子の外を見ると、そこには霧の中にひとり王の反耶《はんや》が立っていた。
「不弥の女、爾は何故に眠らぬか、我は耶馬台の国王の反耶である。」と君長《ひとこのかみ》は卑弥呼にいった。
「王よ、耶馬台の石窖は我の宮ではない。」
「爾に石窖を与えた者は我ではない。石窖は旅人の宿、もし爾を傷つけるなら、我は我の部屋を爾のために与えよう。」
「王よ、爾は何故に我が傍に我の夫《つま》を置くことを赦さぬか。」
「爾と爾の夫とを裂いた者は我ではない。」
「爾は我の夫を呼べ。夜が明ければ、我は不弥へ帰るであろう。」
「爾の行く日に我は爾に馬を与えよう。爾は爾の好む日まで耶馬台の宮にいよ。」
「王よ、爾は何故に我の滞《とどま》ることを欲するか。」
「一日滞る爾の姿は、一日耶馬台の宮を美しくするであろう。」
「王よ、我の夫を呼べ。我は彼とともに滞まろう。」
「夜が明ければ、我は爾に爾の夫と、部屋とを与えよう。」
 反耶の木靴の音は暫《しばら》く格子の前で廻っていた。そうして、彼の姿は夜霧の中へ消えていった。洞内の一隅ではひとすじの水の滴《したた》りが静かに岩を叩いていた。

       十六

 反絵《はんえ》は鹿狩りの疲労と酒とのために、計画していた卑弥呼の傍へ行くべき時を寝過した。そうして、彼が眼醒《めざ》めたときは、耶馬台《やまと》の宮は、朝日を含んだ金色《こんじき》の霧の底に沈んでいた。彼は松明《たいまつ》の炭を踏みながら、霧を浮かべた園《その》の中で、堤《つつみ》のように積み上げられた鹿の死骸の中を通っていった。彼の眠りの足らぬ足は、鹿の堤から流れ出ている血の上で辷《すべ》った。遠くの麻の葉叢《はむら》の上を、野牛の群れが黒い背だけを見せて森の方へ動いていった。するとその最後の牛の背が、遽《にわか》に歩を早めて馳け出したとき、刺青《ほりもの》のために青まった一人の奴隷の半身が、赤く血に染った一人の身体を背負って、だんだんと麻の葉叢の上に高まって来た。そうして、反絵が園を斜めに横切って、卑弥呼の石窖《いしぐら》を眺めて立った時、奴隷の蜥蜴《とかげ》は一層曲りながら、石窖へ通る岩の上を歩いていった。奴隷を睥《にら》んだ反絵の片眼は強く反《そ》りを打った鼻柱の横で輝いた。
「ああ、訶和郎《かわろ》よ。」と石窖の中から卑弥呼の声が聞えて来た。
 奴隷は背負った赤い死体の胸を石窖の格子に立てかけて、倒れぬように死体の背を押しつけた。格子の隙《すき》から卑弥呼の白い両手が延び出ると、垂れた訶和郎の首を立て直していった。
「ああ爾《なんじ》は死んだ。爾は復讐を残して死んだ。爾は我のために殺された。」
 奴隷は死体の背から手を放した。彼は歓喜の微笑をもらしながら、首の勾玉を両手で揉《も》んだ。訶和郎の死体は格子を撫《な》でて地に倒れた。
 反絵は毛の生えた逞《たくま》しいその臑《すね》で霧を揺るがしながら石窖の前へ馳けて来た。
 訶和郎を抱き上げようとして身を蹲《かが》めた奴隷は、足音を聞いて背後を向くと、反絵の唇からむき出た白い歯並《はなみ》が怒気を含んで迫って来た。奴隷は吹かれたように一飛び横へ飛びのいた。
「女はわれに玉を与えた。玉は我の玉である。」
 彼は胸の勾玉を圧えながら、櫟《いちい》と檜《ひのき》の間に張り詰った蜘蛛《くも》の網を突き破って森の中へ馳け込んだ。
 反絵は石窖の前まで来ると格子を握って中を覗《のぞ》いた。
 卑弥呼は格子に区切られたまま倒れた訶和郎の前に坐っていた。
「旅の女よ。」と反絵はいってその額《ひたい》を格子につけた。
 卑弥呼は訶和郎を指差しながら、反絵を睥んでいった。
「爾の獲物《えもの》はこれである。」
「やめよ。我は爾と共に山を下った。」
「爾の矢は我の夫《つま》の胸に刺さっている。」
「我は爾の傍に従っていた。」
「爾の弓弦《ゆづる》は爾の手に従った。」
「爾の夫を狙った者は奴隷である。」
「奴隷はわれに従った。」
 反絵は奴隷の置き忘れた弓と矢を拾うと、破れた蜘蛛の巣を潜《くぐ》って森の中へ馳け込んだ。しかし、彼の片眼に映ったものは、霧の中に包まれた老杉と踏《ふ》み蹂《にじ》られた羊歯《しだ》の一条の路とであった。彼はその路を辿《たど》りながら森の奥深く進んでいった。しかし、彼の片眼に映ったものは、茂みの隙間から射し込んだ朝日の縞《しま》を切って飛び立つ雉子《きじ》と、霧の底でうごめく野牛の朧《おぼ》ろに黒い背であった。そうして、露はただ反絵の堅い角髪《みずら》を打った。が、路は一本の太い榧《かや》の木の前で止っていた。彼は立ち停って森の中を見廻した。頭の上から露の滴《したた》りが一層激しく落ちて来た。反絵はふと上を仰《あお》ぐと、榧の梢《こずえ》の股の間に、奴隷の蜥蜴《とかげ》の刺青《ほりもの》が青い瘤《こぶ》のように見えていた。反絵は蜥蜴を狙《ねら》って矢を引いた。すると、奴隷の身体は円《まる》くなって枝にあたりながら、熟した果実のように落ちて来た。反絵は、舌を出して俯伏《うつぶ》せに倒れている奴隷の方へ近よった。その時、奴隷の頭髪からはずれかかった一連の勾玉が、へし折れた羊歯の青い葉の上で、露に濡れて光っているのが眼についた。彼はそれをはずして自分の首へかけ垂らした。

       十七

 霧はだんだんと薄らいで来た。そうして、森や草叢《くさむら》の木立《こだち》の姿が、朝日の底から鮮《あざや》かに浮き出して来るに従って、煙の立ち昇る篠屋《しのや》からは木を打つ音やさざめく人声が聞えて来た。しかし、石窖《いしぐら》の中では、卑弥呼《ひみこ》は、格子を隔てて、倒れている訶和郎《かわろ》の姿を見詰めていた。数日の間に第一の良人《おっと》を刺され、第二の良人を撃《う》たれた彼女の悲しみは、最早《もは》や彼女の涙を誘《さそ》わなかった。彼女は乾草の上へ倒れては起き上り、起きては眼の前の訶和郎の死体を眺めてみた。しかし、角髪《みずら》を解いて血に染っている訶和郎の姿は依然、格子の外に倒れていた。そうして、再び彼女は倒れると、胸に剣《つるぎ》を刺された卑狗《ひこ》の姿が、乾草の匂いの中から浮んで来た。彼女はただ茫然《ぼうぜん》として輝く空にだんだんと溶け込む霧の世界を見詰めていた。すると、今まで彼女の胸に溢れていた悲しみは、突然|憤怒《ふんぬ》となって爆発した。それは地上の特権であった暴虐な男性の腕力に刃向う彼女の反逆であり怨恨であった。彼女の眼は次第に激しく波動する両肩の起伏につれて、益々冷たく空の一点に食い入った。ふとその時、草叢《くさむら》の葉波が描いた地平の上から立昇っている一条の煙が彼女の眼の一角に映り始めた。それは薄れゆく霧を突き破って真直ぐに立ち昇り、渦巻《うずま》きながら円を開いて拡げた翼《つばさ》のようにだんだんと空を領している煙であった。彼女は立ち上った。そうして、格子を掴《つか》むと高らかに煙に向って呼びかけた。
「ああ、大神はわれの手に触れた。われは大空に昇るであろう。地上の王よ。我れを見よ。我は爾《なんじ》らの上に日輪の如く輝くであろう。」
 石窖《いしぐら》の格子の隙から現れた卑弥呼の微笑の中には、最早や、卑狗も訶和郎も消えていた。そうして、彼らに代ってその微笑の中に潜《ひそ》んだものは、ただ怨恨を含めた惨忍な征服慾の光りであった。

       十八

 耶馬台《やまと》の宮の若者たちは、眼を醒《さ》ますと噂《うわさ》に聴いた鹿の美女を見ようとして宮殿の花園へ押しよせて来た。彼らの或《ある》者は彼女に食わすがために、鹿の好む大バコや、百合根《ゆりね》を持っていた。しかし、彼らの誰もが鹿の美女を捜し出すことが出来なくなると、やがて庭園に積まれた鹿の死体が彼らの手によって崩し出された。その時、君長《ひとこのかみ》反耶《はんや》の命を受けた一人の使部《しぶ》は厳かな容姿を真直ぐに前方へ向けながら、彼らの傍を通り抜けて石窖《いしぐら》の方へ下っていった。若者たちの幾らかは直ちに彼の後から従った。使部は石窖の前まで来るとその閂《かんぬき》をとり脱《はず》し、欅《けやき》の格子《こうし》を上に開いて跪拝《ひざまず》いた。
「王は爾《なんじ》を待っている。」
 間もなく若者たちは、暗い石窖の中から現れた卑弥呼《ひみこ》の姿を見ると、斉《ひと》しく足を停めて首を延ばした。彼女は入口に倒れている訶和郎《かわろ》を抱き上げるとそこから動こうともしなかった。
「王は爾を待っている。」と、再び使部は彼女にいった。
 卑弥呼は訶和郎の胸から顔を上げて使部を見た。
「爾は王の前へ彼を伴なえ。」
「王は爾を伴えと我にいった。」
「王は彼を伴うを我に赦《ゆる》した。連れよ。」
 使部は訶和郎の死体を背に負って引き返した。卑弥呼は乱れた髪と衣に、乾草の屑《くず》をたからせて使部の後から石の坂道を登っていった。若者たちは左右に路を開いて彼女の顔を覗《のぞ》いていた。そうして、彼女の姿が彼らの前を通り抜けて、高い麻の葉波の中に消えようとしたとき、初めて彼らの曲った腰は静《しずか》に彼女の方へ動き出した。彼らの肩は狭い路の上で突《つ》き衝《あた》った。が、百合根を持った一人の若者は後の方で口を開いた。
「鹿の美女は森にいる。森へ行け。」
 若者たちは再び彼の方を振り向くと、石窖の前から彼に従って森の中へ馳け込んだ。

       十九

 卑弥呼《ひみこ》の足音が高縁《たかえん》の板をきしめて響いて来た。君長《ひとこのかみ》の反耶《はんや》は、竹の遣戸《やりど》を童男に開かせた。薄紅《うすくれない》に染った萩《はぎ》の花壇の上には、霧の中で数羽の鶴が舞っていた。そうして、朝日を背負った一つの峰は、花壇の上で絶えず紫色の煙を吐いていた。
 やがて、卑弥呼は使部の後から現れた。君長は立ち上って彼女にいった。
「旅の女よ。爾《なんじ》は爾の好む部屋へ行け。我は爾のためにその部屋を飾るであろう。」
「王よ。」使部は跪拝《ひざまず》いた膝の上へ訶和郎《かわろ》を乗せていった。「われは女の言葉に従って若い死体を伴のうた。」
「旅の女よ。爾の衣は鹿の血のために穢《けが》れている。爾は新らしき耶馬台《やまと》の衣を手に通せ。」
「王よ、若い死体は石窖《いしぐら》の前に倒れていた。」
「捨てよ、爾に命じたものは死体ではない。」
「王よ、若い死体はわれの夫《つま》の死体である。」と卑弥呼はいった。
 反耶の赤い唇は微動しながら喜びの皺《しわ》をその両端に深めていった。
「ああ、爾はわれのために爾の夫を死体となした。着よ、われの爾に与えたる衣はわれの心のように整うている。」
 王は隅《すみ》にひかえていた一人の童男を振り返った。童男は両手に桃色の絹を捧げたまま卑弥呼の前へ進んで来た。
「王よ。」と使部は訶和郎を抱き上げていった。「若い死体を何処《いずこ》へ置くか。」
「旅の女よ、爾は爾の夫を何処へ置くか。」
 その時、急に高縁の踏板が、馳け寄る荒々しい響を立てて振動した。人々は入口の空間に眼を向けると、そこへ怒った反絵《はんえ》が馳《か》け込《こ》んで来た。
「兄よ、旅の女が逃げ失せた。石窖の口が開いていた。」
「王よ。我は夫の死体を欲する者に与えるであろう。」と卑弥呼はいった。そうして、使部の膝から訶和郎の死体を抱きとると、入口に立《た》ち塞《ふさが》った反絵の胸へ押しつけた。
 反絵は崩れた訶和郎の角髪《みずら》を除《の》けると片眼を出して彼女にいった。
「われは爾に代って奴隷を撃った。爾の夫を射殺した奴隷を撃った。」
「やめよ。夫の死体を欲した者は爾である。」と、卑弥呼はいった。
「旅の女よ、森へ行け、奴隷の胸には我の矢が刺さっている。」
 卑弥呼は反絵の片眼の方へ背を向けた。そうして、腰を縛《しば》った古い衣の紐《ひも》を取り、その脇に廻った結び目を解きほどくと、彼女の衣は、葉を取られた桃のような裸体を浮かべて、彼女の滑《なめら》かな肩から毛皮の上へ辷《すべ》り落《お》ちた。
 反耶の大きく開かれた二つの眼には、童男の捧げた衣の方へ、静かに動く円い彼女の腰の曲線が、霧を透《とお》した朝日の光りを区切ったために、七色の虹となって浮き立ちながら花壇の上で羽叩《はばた》く鶴の胸毛をだんだんにその横から現してゆくのが映っていた。そうして、反絵の動かぬ一つの眼には、彼女の乳房《ちぶさ》の高まりが、反耶の銅の剣《つるぎ》に戯れる鳩《はと》の頭のように微動するのが映っていた。卑弥呼は裸体を巻き変えた新しい衣の一端で、童男の捧げた指先を払いながら部屋の中を見廻した。
「王よ。この部屋をわれに与えよ。われは此処《ここ》に停《とど》まろう。」
 彼女は静に反耶の傍へ近寄った。そうして、背に廻ろうとする衣の二つの端を王に示しながら、彼の胸へ身を寄せかけて微笑を投げた。
「王よ、われは耶馬台の衣を好む。爾はわれのために爾の与えた衣を結べ。」
 反耶は卑弥呼を見詰めながら、その衣の端を手にとった。悦《よろこ》びに声を潜《ひそ》めた彼の顔は、髯《ひげ》の中で彼女の衣の射る絹の光を受けて薄紅に栄《は》えていた。部屋の中で訶和郎の死体が反絵の腕を辷《すべ》って倒れる音がした。反絵の指は垂下った両手の先で、頭を擡《もた》げる十疋《じっぴき》の蚕《かいこ》のように動き出すと、彼の身体は胸毛に荒々しい呼吸を示しながら次第に卑弥呼の方へ傾いていった。
 反耶は衣を結んだ両手を後から卑弥呼の肩へ廻そうとした。と、彼女は急に妖艶な微笑を両頬《りょうほお》に揺るがしながら、彼の腕の中から身を翻《ひるがえ》して踊り出した。そうして、今や卑弥呼を目がけて飛びかかろうとしている反絵の方へ馳け寄ると、彼の剛《つよ》い首へ両手を巻いた。
「ああ、爾は我のために我の夫を撃ちとめた。我を我の好む耶馬台の宮にとどめしめた者は爾である。」
「旅の女よ。我は爾の夫を撃った。我は爾の勾玉《まがたま》を奪った奴隷を撃った。我は爾を傷つける何者をも撃つであろう。」
 反絵の太い眉毛は潰《つぶ》れた瞼《まぶた》を吊り上げて柔和な形を描いて来た。しかし反耶の空虚に拡がった両腕は次第に下へ垂れ落ると、反耶は剣を握って床を突きながら使部にいった。
「若い死体を外へ出せ。宿禰《すくね》を連れよ。鹿の死体の皮を剥《は》げと彼にいえ。」
 使部は床の上から訶和郎の死体を抱き上げようとした。卑弥呼は反絵の胸から放れると、急に使部から訶和郎を抱きとって毛皮の上へ泣き崩れた。
「ああ、訶和郎、爾は不弥《うみ》へ帰れと我にいった。我は耶馬台の宮にとどまった。そうしてああ爾は我のために殺された。」
 反絵は首から奴隷の勾玉を取りはずして卑弥呼の傍へ近寄って来た。
「旅の女よ。我は奴隷の奪った勾玉を爾に返す。」
「旅の女よ。立て。われは爾の夫を阿久那《あくな》の山へ葬ろう。」と使部はいって訶和郎の死体を抱きとった。
「王よ。我を不弥へ返せ、爾の馬を我に与えよ。我は不弥の山へ我の夫を葬ろう。」
「爾の夫は死体である。」
「朝が来た、爾が我を不弥へ帰すを約したのは夕べである。馬を与えよ。」
「何故に爾は帰る。」
「爾は何故に我をとめるか。」
「我は爾を欲す。」
 卑弥呼の顔は再び生々とした微笑のために輝き出した。そうして、彼女は反耶の肩に両手をかけると彼にいった。
「ああ、われを爾の宮にとどめよ、われの夫は死体である。」
「旅の女、われは爾を欲す。」と反絵はいって彼女の方へ迫って来た。
 卑弥呼は反耶に与えた顔の微笑を再び反絵に向けると彼にいった。
「我は不弥へ帰らず。われは爾らと共に耶馬台の宮にとどまるであろう。爾はわれのために、我に眠りを与えよと王に願え。我は数夜の眠りを馬の上に眠っていた。」
「兄よ。この部屋を去れ。」と反絵はいった。
「爾の獲物は死体である。爾は獲物を持って部屋を去れ。」と反耶はいった。
 卑弥呼は二人に挾まれながら反耶の肩を柔く入口の方へ押していった。
「王よ。我に眠りを与えよ。眼が醒めなば我は爾を呼ぶであろう。」
「不弥の女、われも呼べ。兄が爾を愛するよりも我は爾を愛す。」
 反絵は肩を立てて王を睨《にら》むと部屋の外へ出て行った。
「女よ眠れ、爾の眼が醒めなば、われは爾のためにこの部屋を飾らそう。」
 反耶の卑弥呼に囁《ささや》いた声に交って、部屋の外からは、高く反絵の銅鑼《どら》のような声が響いて来た。
「兄よ、部屋を出よ。我は爾よりも先に出た。不弥の女よ、兄を出せ。」
 反耶は眉間《みけん》に皺を落して入口の方へ歩いて行った。童男は彼の後から従った。使部は最後に訶和郎の死体を抱いて出ようとすると、卑弥呼は彼の腕から訶和郎を奪って荒々しく竹の遣戸を後から閉めた。
「ああ、訶和郎、われを赦せ。われは爾の復讐をするであろう。」
 彼女は床の上に坐って、歯を咬《か》みしめた訶和郎の顔に自分の頬をすり寄せた。しかし、その冷い死体の触感は、やがて卑狗《ひこ》の大兄《おおえ》の頬となって彼女の頬に伝わった。彼女の顔は流れる涙のために光って来た。
「ああ、大兄よ。爾は爾の腕の中に我を雌雉子《めきじ》の如く抱きしめた。爾はわれをわれが爾を愛するごとく愛していた。ああ大兄、爾は何処《いずこ》へ行った。返れ。」
 彼女は両手で頭をかかえると立ち上った。
「大兄、大兄、我は爾の復讐をするであろう。」
 彼女はよろめきながら部屋の中を歩き出した。脱ぎ捨てた彼女の古い衣は彼女の片足に纏《まつわ》りついた。そうして、彼女の足が厚い御席《みまし》の継ぎ目に入ると、彼女は足をとられてどっと倒れた。

       二十

 反絵《はんえ》は閉された卑弥呼《ひみこ》の部屋の前に、番犬のように蹲《かが》んでいた。前方の広場では、兵士《つわもの》たちが歌いながら鹿の毛皮を剥《は》いでいた。彼らの剣《つるぎ》は猥褻《わいせつ》なかけ声と一緒に鹿の腹部に突き刺さると、忽《たちま》ち鹿は三人からなる一組の兵士の手によって裸体にされた。間もなく今まで積まれてあった鹿の小山の褐色の色が、麻の葉叢《はむら》の上からだんだんに減ってくると、それにひきかえて、珊瑚色《さんごいろ》の鹿の小山が新しく晴れ渡った空の中に高まってきた。手の休まった兵士たちは、血の流れた草の上で角力《すもう》をとった。神庫《ほくら》の裏の篠屋《しのや》では、狩猟を終った饗宴《きょうえん》の準備のために、速成の鹿の漬物《つけもの》が作られていた。兵士たちは広場から運んだ裸体の鹿を、地中に埋まった大甕《おおがめ》の中へ塩塊《えんかい》と一緒に投げ込むと彼らはその上で枯葉を焚《た》いた。その横では、不足な酒を作るがために、兵士たちは森から摘《つ》みとってきた黒松葉を圧搾《あっさく》して汁を作っていた。ここでは、その仕事の効果が最も直接に彼ら自身の口を喜ばすがために、歌う彼らの声も、いずれの仲間たちの歌より一段と威勢があった。
 反絵は時々戸の隙間から中を覗《のぞ》いた。薄暗い部屋の中からは、一条の寝息が絶えず幽《かす》かに聞えていた。彼は顔を顰《しか》めて部屋の前を往《ゆ》き来《き》した。しかし、兵士たちの広場でさざめく声が一層|賑《にぎ》わしくなってくると、彼は高い欄干《らんかん》から飛び下りてその方へ馳《か》けて行った。今や麻の草場の中では、角力の一団が最も人々を集めていた。反絵は彼らの中へ割り込むと今まで勝ち続けていた一人の兵士の前に突きたった。
「来《きた》れ。」と彼は叫んでその兵士の股《また》へ片手をかけた。兵士の体躯は、反絵の胸の上で足を跳ねながら浮き上った。と、反絵は彼の身体を倒れた草の上へ投げて大手を上げた。
「我を倒した者に剣をやろう。来れ。」
 その時反絵の眼には、白鷺《しらさぎ》の羽根束を擁《かか》えた反耶《はんや》の二人の使部《しぶ》が、積まれた裸体の鹿の間を通って卑弥呼の部屋の方へ歩いて行くのが見えた。反絵の拡げた両手は、だんだんと下へ下った。
「よし、我は爾《なんじ》に勝とう。」と一人がいった。それは反絵に倒された兵士の真油《まゆ》であった。彼は立ち上ると、血のついた角髪《みずら》で反絵の腹をめがけて突進した。
「放せ、放せ。」と反絵はいった。が、彼の身体は曲った真油の背の上で舟のように反《そ》っていた。と、次の瞬間、彼は踏《ふ》み蹂《にじ》られた草の緑が眼につくと、反耶に微笑《ほほえ》む不弥《うみ》の女の顔を浮べて逆様《さかさま》に墜落《ついらく》した。
「我に剣を与えよ。我は勝った、我は爾に勝った。」
 ひとり空の中で喜ぶ真油の顔が高く笑った。反絵は怒りのバネに跳ね起されると、波立つ真油の腹を蹴り上げた。真油は叫びを上げて顛倒《てんとう》した。それと同時に、反絵は卑弥呼の部屋の方を振り返ると、遣戸《やりど》の中へ消えようとしている使部の黄色い背中が、動揺《どよ》めく兵士たちの頭の上から見えていた。
「真油は死んだ。」
「真油は蹴られた。」
「真油の腹は破れている。」
 広場では兵士たちの歌がやまった。あちらこちらの草叢《くさむら》の中から兵士たちは動かぬ真油を中心に馳け寄って来た。しかし、反絵は彼らとは反対に広場の外へ、鹿の死体を飛び越え、馳け寄る兵士たちを突き飛ばし、麻の葉叢の中を一文字に使部たちの方へ突進した。
 遣戸の中では、卑弥呼の眠りに気使いながら、二人の使部は、白鷺の尾羽根を周囲の壁となった円木《まろき》の隙に刺していた。
 反絵は部屋の中へ飛び込むと、一人の使部の首を攫《つか》んで床の上へ投げつけた。使部の腕からはかかえた白鷺の尾羽根が飛び散った。
「我を赦《ゆる》せ。王は部屋を飾れとわれに命じた。」転りながら叫ぶ使部の上で、白鷺の羽毛が、叩かれた花園の花瓣のようにひらひらと舞っていた。反絵は拳《こぶし》を振りながら使部の腰を蹴って叫んだ。
「部屋を出よ、部屋を出よ、部屋を出よ。」
 二人の使部は直ちに遣戸の方へ逃げ出した。その時彼らに代って、両手に竜胆《りんどう》と萩《はぎ》とをかかえた他の二人の使部が這入《はい》って来た。反絵は二人の傍へ近寄った。そうして、その一人の腕から萩の一束を奪い取ると、彼の額《ひたい》を打ち続けてまた叫んだ。
「部屋を出よ、部屋を出よ、部屋を出よ。」
「大兄《おおえ》、我は王の言葉に従った。」
「去れ。」
「大兄、我は王のために鞭打《むちう》たれるであろう。」
「行け。」
 二人の使部は出て行った。が、彼らに続いてまた直ぐに二人の使部が、鹿の角を肩に背負って這入って来た。反絵は散乱した羽毛と萩の花の中に突き立って卑弥呼の寝顔を眺めていた。彼は物音を聞きつけて振り返ると、床へ投げ出された鹿の角の一枝を、肩にひっかけたまま逃げる使部の姿が、遣戸の方へ馳けて行くのが眼についた。反絵は捨てられた白鷺の尾羽根と竜胆の花束とを拾うと使部たちに代って円木の隙に刺していった。彼は時々手を休めて卑弥呼の顔を眺めてみた。しかし、その度《たび》に、細く眼を見開いて彼の後姿を眺めていた卑弥呼の瞼《まぶた》は、再び眠りのさまを装《よそお》った。
「不弥の女。」と反絵はその野蛮な顔に媚びの微笑を浮べて彼女を呼んだ。
「不弥の女。見よ、我は爾の部屋を飾っている。不弥の女。起きよ。我は爾の部屋を飾っている。」
 卑弥呼の眠りは続いていた。そうして、反絵のとり残された媚の微笑は、ひとりだんだんと淋しい影の中へ消えていった。彼は卑弥呼の頭の傍へ近寄って片膝つくと、両手で彼女の蒼白《あおじろ》い頬《ほお》を撫《なで》てみた。彼の胸は迫る呼吸のために次第に波動を高めて来ると彼の手にたかっていた一片の萩の花瓣も、手の甲と一緒に彼女の頬の上で慄《ふる》えていた。
「不弥の女。不弥の女。」と彼は叫んだ。が、彼の胸の高まりは突然に性の衝動となって変化した。彼の赤い唇はひらいて来た。彼の片眼は蒼《あお》みを帯びて光って来た。そうして、彼女の頬を撫でていた両手が動きとまると、彼の体躯《たいく》は漸次に卑弥呼の胸の方へ延びて来た。しかし、その時、怨恨を含んだ歯を現して、鹿の毛皮から彼の方を眺めている訶和郎《かわろ》の死体の顔が眼についた。反絵の慾情に燃えた片眼は、忽ち恐怖の光を発して拡がった。が、次の瞬間、挑《いど》みかかる激情の光に急変すると、彼は立ち上って訶和郎の死体を毛皮のままに抱きかかえた。彼は荒々しく遣戸の外へ出ていった。そうして、広場を横切り、森を斜めに切って、急に開けた断崖の傍まで来ると、抱えた訶和郎の死体をその上から投げ込んだ。訶和郎の死体は、眼下に潜んだ縹緲《ひょうびょう》とした森林の波頭の上で、数回の大円を描きながら、太陽の光にきらきらと輝きつつ沈黙した緑の中へ落下した。

       二十一

 夜が深まると、再び濃霧が森林や谷間から狩猟の後の饗宴に浮れている耶馬台《やまと》の宮へ押し寄せて来た。場庭《ばにわ》の草園では、霧の中で焚火《たきび》が火の子を爆《はじ》いて燃えていた。その周囲で宮の婦女たちは、赤と虎斑《とらふ》に染った衣を巻いて、若い男に囲まれながら踊っていた。踊り疲れた若者たちは、なおも歌いながら草叢《くさむら》の中に並んだ酒甕《みわ》の傍へ集って来た。彼らの中の或者たちは、それぞれ自分の愛する女の手をとって、焚火の光りのとどかぬ森の中へ消えていった。王の反耶《はんや》は大夫《だいぶ》たちの歓心に強いられた酒のために、だんだんと酔いが廻った。彼は卑弥呼《ひみこ》の部屋の装飾を命じた五人の使部《しぶ》に、王命の違反者として体刑を宣告した。五人の使部は、武装した兵士《つわもの》たちの囲みの中で、王の口から体刑停止の命令の下るまで鞭打《むちう》たれた。彼らの背中の上で、竹の根鞭の鳴るのとともに、酒楽《さかほがい》の歌は草園の焚火の傍でますます乱雑に高まった。そうして、遠い国境の一つの峰から立ち昇っている噴火の柱は、霧の深むにつれて次第にその色を鈍い銅色に変えて来ると、違反者の背中は破れ始めて血が流れた。彼らは地にひれ伏して草を引《ひ》き※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77]《むし》りながら悲鳴を上げた。反耶は悶転《もんてん》する彼らを見ると、卑弥呼にその体刑を見せんがために彼女の部屋の方へ歩いていった。何《な》ぜなら、もし彼女が耶馬台の宮にいなかったなら、反耶にとってこの体刑は無用であったから。しかし、反耶が卑弥呼の部屋の遣戸《やりど》を押したとき、毛皮を身に纏《まと》って横わっている不弥《うみ》の女の傍に、一人の男が蹲《かが》んでいた。それは彼の弟の反絵であった。
「不弥の女、我と共に来《きた》れ。我は爾《なんじ》のために我の命に反《そむ》いた使部を罰している。われは彼らに爾の部屋を飾れと命じた。」
「彼らを赦せ。」と卑弥呼はいって身を起した。
「反絵、爾はこの部屋を出でよ。酒宴の踊りは彼方《かなた》である。」と反耶はいって反絵の方を振り向いた。
「兄よ、爾の后《きさき》は爾と共に踊りを見んとして待っていた。」
「不弥の女、来れ。われは爾を呼びに来た。爾の部屋を飾り忘れた使部の背中は、鞭のために破れて来た。」
「彼らを赦せ。」と卑弥呼はいった。
「よし、我は兄に代って彼らを赦すであろう。」と反絵はいって遣戸の方へ出ようとすると、反耶は彼の前へ立《た》ち塞《ふさが》った。
「待て、彼らを罰したのはわれである。」
 反絵は兄の手を払って遣戸の方へ行きかけた。反耶は卑弥呼の傍へ近寄った。そうして彼女の腕に手をかけると彼女にいった。
「不弥の女よ。酒宴の準備は整《ととの》うた。爾はわれと共に酒宴に出よ。」
「兄よ。不弥の女と行くものは我である。」と反絵はいって遣戸の傍から反耶の方を振り返った。
「行け、使部の罪を赦すのは爾である。」
「不弥の女、我と共に酒宴に出よ。」反絵は再び卑弥呼の傍へ戻って来た。
「王よ、我を酒宴に伴うことをやめよ。爾は我と共に我の部屋にとどまれ。」
 卑弥呼は反耶の手を取ってその傍に坐らせた。
「不弥の女、不弥の女。」
 反絵は卑弥呼を睨《にら》んで慄《ふる》えていた。「爾は我と共に部屋を出よ。」
 彼は彼女の腕を掴《つか》むと部屋の外へ出ようとした。
 反耶は立ち上って曳《ひ》かれる彼女の手を持って引きとめた。
「不弥の女、行くことをやめよ。我とともにいよ。我は爾の傍に残るであろう。」
 反絵は反耶の胸へ飛びかかろうとした。そのとき、卑弥呼は傾く反絵の体躯をその柔き掌《てのひら》で制しながら反耶にいった。
「王よ、使部の傍へわれを伴え、我は彼らを赦すであろう。」
 彼女は一人先に立って遣戸の外へ出て行った。反絵と反耶は彼女の後から馳け出した。しかし、彼らが庭園の傍まで来かかったとき、五人の使部は、最早や死体となって土に咬《か》みついたまま横たわっていた。兵士たちは王の姿を見ると、打ち疲れた腕に一段と力を籠《こ》めて、再び意気揚々としてその死体に鞭を振り下げた。
「鞭を止めよ。」と、反耶はいった。
「王よ、使部は死んでいる。」と一人の兵士は彼にいった。卑弥呼は振り向いて反絵の胸を指差した。
「彼らを殺した者は爾である。」
 反絵は言葉を失った唖者《あしゃ》のように、ただその口を動かしながら卑弥呼の顔を見守っていた。
「来れ。」
 と反耶は卑弥呼にいった。そうして、卑弥呼の手をとると、彼は彼女を酒宴の広間の方へ導いていった。
「待て、不弥の女、待て。」と反絵は叫びながら二人の後を追いかけた。

       二十二

 卑弥呼《ひみこ》は竹皮を編んで敷きつめた酒宴の広間へ通された。松明《たいまつ》の光に照された緑の柏《かしわ》の葉の上には、山椒《さんしょう》の汁で洗われた山蛤《やまがえる》と、山蟹《やまがに》と、生薑《しょうが》と鯉《こい》と酸漿《ほおずき》と、まだ色づかぬ※[#「けものへん+爾」、第4水準2-80-52]猴桃《しらくち》の実とが並んでいた。そうして、蓋《ふた》のとられた行器《ほかい》の中には、新鮮な杉菜《すぎな》に抱かれた鹿や猪の肉の香物《こうのもの》が高々と盛られてあった。その傍の素焼の大きな酒瓮《みわ》の中では、和稲《にぎしね》製の諸白酒《もろはくざけ》が高い香を松明の光の中に漂《ただよ》わせていた。最早《もは》や酔の廻った好色の一人の宿禰は、再び座についた王の後で、侍女の乳房の重みを計りながら笑っていた。卑弥呼は盃《さかずき》をとりあげた王に、柄杓《ひしゃく》をもって酒を注ごうとすると、そこへ荒々しく馳けて来たのは反絵であった。彼は王の盃を奪いとると卑弥呼にいった。
「不弥の女、使部を殺した者は兄である。爾《なんじ》はわれに酒を与えよ。」
「待て、王は爾の兄である。盃を王に返せ。」と卑弥呼はいって、彼女は差し出している反絵の手から、柔《やわらか》にその盃を取り戻した。「王よ、我を耶馬台にとどめた者は爾である。今日より爾は爾の傍に我を置くか。」
「ああ、不弥の女。」と反耶はいって、彼女の方へ手を延ばした。
「王よ。爾は不弥の国の王女を見たか。」
「盃をわれに与えよ。」
「王よ。我は不弥の国の王女である。我の玉を爾は受けよ。」
 卑弥呼は首から勾玉《まがたま》をとり脱《はず》すと、瞠若《どうじゃく》として彼女の顔を眺めている反耶の首に垂れ下げた。
「王よ。我は我の夫と奴国《なこく》の国を廻って来た。奴国の王子は不弥の国を亡した。爾は我を愛するか。我は不弥の王女卑弥呼という。」
「ああ、卑弥呼、我は爾を愛す。」
「爾は奴国を愛するか。」
「我は爾の国を愛す。」
「ああ、爾は不弥の国を愛するか。もし爾が不弥の国を愛すれば、我に耶馬台の兵を借せ。奴国は不弥の国の敵である。我の父と母とは奴国の王子に殺された。我の国は亡びている。爾は我のために、奴国を攻めよ。」
「卑弥呼。」と横から反絵はいった。そうして、突き立ったまま彼女の前へその顔を近づけた。
「我は奴国を攻める。我は兄が爾を愛するよりも爾を愛す。」
「ああ、爾は我のために奴国を撃《う》つか。坐れ、我は爾に酒を与えよう。」
 卑弥呼は王に向けていたにこやかな微笑を急に反絵に向けると、その手をとって坐らせた。反耶の顔は、喜びに輝き出した反絵の顔にひきかえて顰《ゆが》んで来た。
「卑弥呼、耶馬台の兵は、われの兵である。反絵は我の一人の兵である。」と反耶はいった。
 反絵の顔は勃然《ぼつぜん》として朱《しゅ》を浮べると、彼の拳《こぶし》は反耶の角髪《みずら》を打って鳴っていた。反耶は頭をかかえて倒れながら宿禰を呼んだ。
「反絵を縛《しば》れ。宿禰、反絵を殺せ。」
 しかし、一座の者は酔っていた。反絵はなおも反耶の上に飛びかかろうとして片膝を立てたとき、卑弥呼は反耶と反絵の間へ割り込んで、倒れた反耶をひき起した。反耶は手に持った酒盃を反絵の額へ投げつけた。
「去れ。去れ。」
 反絵は再び反耶の方へ飛びかかろうとした。卑弥呼は彼の怒った肩に手をかけた。そうして、転っている酒盃を彼の手に握らせて彼女はいった。
「やめよ、爾はわれの酒盃をとれ。われに耶馬台の歌をきかしめよ。われは不弥の歌を爾のために歌うであろう。」
「卑弥呼。われは耶馬台の兵を動かすであろう。耶馬台の兵は、兄の命よりわれの力を恐れている。」
「爾の力は強きこと不弥の牡牛《おうし》のようである。われは爾のごとき強き男を見たことがない。」と卑弥呼はいって反絵の酒盃に酒を注《そそ》いだ。
 反絵の顔は、太陽の光りを受けた童顔のように柔《やわら》ぐと、彼は酒盃から酒を滴《したた》らしながら勢いよく飲み干した。しかし、卑弥呼は、彼女の傍で反絵を睨《にら》みながら唇を噛み締めている反耶の顔を見た。彼女は再び柄杓《ひしゃく》の酒を傍の酒盃に満して彼の方へ差し出した。そうして、彼女は左右の二人の酒盃の干される度に、にこやかな微笑を配りながらその柄杓を廻していった。間もなく、反絵の片眼は赤銅《しゃくどう》のような顔の中で、一つ朦朧《もうろう》と濁って来た。そうして、王の顔は渋りながら眠りに落ちる犬のように傾き始めると、やがて彼は卑弥呼の膝の上へ首を垂れた。卑弥呼は今はただ反絵の眠入《ねい》るのを待っていた。反絵は行器《ほかい》の中から鹿の肉塊を攫《つか》み出すと、それを両手で振り廻して唄《うた》を歌った。卑弥呼は彼の手をとって膝の上へ引き寄せた。
 外の草園では焚火の光りが薄れて来た。草叢のあちこちからは酔漢の呻《うめ》きが漏れていた。そうして、次第に酒宴の騒ぎが宮殿の内外から鎮《しずま》って来ると、やがて、卑弥呼の膝を枕に転々としていた反絵も眠りに落ちた。卑弥呼は部屋の中を見廻した。しかし、一人として彼女のますます冴《さ》え渡《わた》ったその朗《ほがらか》な眼を見詰めている者は誰もなかった。ただ酒気と鼾声《かんせい》とが乱れた食器の方々から流れていた。彼女は鹿の肉塊を冠《かぶ》って眠っている反絵の顔を見詰めていた。今や彼女には、訶和郎《かわろ》のために復讐する時が来た。剣《つるぎ》は反絵の腰に敷かれてあった。そうして彼女の第二の夫《つま》を殺害した者は彼女の膝の上に眠っていた。しかし、反絵のその逞《たくま》しい両肩の肉塊と、その狂暴な力の溢れた顎《あご》とに代って、奴国に攻め入る者は、彼の他の何者が何処《いずこ》の国にあるであろう。やがて、彼のために長羅《ながら》の首は落ちるであろう。やがて、彼女は不弥と奴国と耶馬台の国の三国に君臨するであろう。そうして、もしその時が来たならば、彼女は更に三つの力を以て、久しく攻伐し合った暴虐な諸国の王をその足下に蹂躙《じゅうりん》するときが来るであろう。彼女の澄み渡った瞳《ひとみ》の底から再び浮び始めた残虐な微笑は、静まった夜の中をひとり毒汁のように流れていた。
「ああ、地上の王よ、我を見よ。我は爾らの上に日輪の如く輝くであろう。」
 彼女は膝の上から反絵と反耶の頭を降ろして、静《しずか》に彼女の部屋へ帰って来た。しかし、彼女はひとりになると、またも毎夜のように、幻《まぼろし》の中で卑狗《ひこ》の大兄《おおえ》の匂を嗅《か》いだ。彼は彼女を見詰めて微笑《ほほえ》むと、立ちすくむ小鳥のような彼女の傍へ大手を拡げて近寄って来た。
「卑弥呼。卑弥呼。」
 彼女は卑狗の囁《ささやき》を聞きながら、卑狗の波打つ胸の力を感じると、崩れる花束のように彼の胸の中へ身を投げた。
「ああ、大兄、大兄、爾は何処へ行った。」
 彼女の身体は毛皮の上に倒れていた。しかし、その時、またも彼女の怨恨は、涙の底から急に浮び上った仇敵《きゅうてき》の長羅に向って猛然と勃発した。最早や彼女は、その胸に沸騰する狂おしい復讐の一念を圧伏していることが出来なくなった。
「大兄を返せ、大兄を返せ。」
 彼女は立ち上った。そうして、きりきりと歯をきしませながら、円木《まろき》の隙に刺された白鷺の尾羽根を次ぎ次ぎに引き脱いては捨てていった。しかし、再び彼女は彼女を呼ぶ卑狗の大兄の声を聞きつけた。彼女の身体は呆然《ぼうぜん》と石像のように立ち停り、風に吹かれた衣のように円木の壁にしなだれかかると、再び抜き捨てられた白鷺の尾羽根の上へどっと倒れた。
「ああ、大兄、大兄、爾は我を残して何処《いずこ》へ行った。何処へ行った。」

       二十三

 反耶《はんや》は夜中眼が醒《さ》めると、傍から不弥《うみ》の女が消えていた。そうして、彼の見たものは自分の片手に握られた乾いた一つの酒盃と、肉塊を冠って寝ている反絵の口を開いた顎《あご》とであった。
「不弥の女、不弥の女。」
 彼は立ち上って卑弥呼の部屋へ行こうとしたとき、反絵の足に蹉《つまず》いて前にのめった。しかし、彼の足は急いでいた。彼は蹌踉《よろ》めきながら、彼女の部屋の方へ近づくと、その遣戸《やりど》を押して中に這入《はい》った。
「不弥の女。不弥の女。」
 卑弥呼《ひみこ》は白鷺の散乱した羽毛の上に倒れたまま動かなかった。
 反耶は卑弥呼の傍へ近寄った。そうして、片膝をつきながら彼女の背中に手をあてて囁《ささや》いた。
「起きよ、不弥の女、我は爾の傍へ来た。」
 卑弥呼は反耶の力に従って静かに仰向《あおむけ》に返ると、涙に濡れた頬に白い羽毛をたからせたまま彼を見た。
「爾《なんじ》は何故に我を残してひとり去った。」と反耶はいった。
 卑弥呼は黙って慾情に慄《ふる》える反耶の顔を眺め続けた。
「不弥の女。我は爾を愛す。」
 反耶は唇を慄わせて卑弥呼の胸を抱きかかえた。卑弥呼は石のように冷然として耶馬台《やまと》の王に身をまかせた。
 そのとき、部屋の外から重い跫音《あしおと》が響いて来た。そうして、彼女の部屋の遣戸が急に開くと、そこへ現れたのは反絵《はんえ》であった。彼は二人の姿を見ると突き立った。が、忽《たちま》ち彼の下顎は狂暴な嫉妬《しっと》のために戦慄した。彼は歯をむき出して無言のまま猛然と反耶の方へ迫って来た。
「去れ。去れ。」と反耶はいって卑弥呼の傍から立ち上った。
 反絵は、恐怖の色を浮かべて逃げようとする反耶の身体を抱きかかえると、彼を円木《まろき》の壁へ投げつけた。反耶の頭は逆様《さかさま》に床を叩いて転落した。反絵は腰の剣《つるぎ》をひき抜いた。そうして、露わな剣を跳《は》ねている兄の脇腹へ突き刺した。反耶は呻《うめ》きながら刺された剣を握って立ち上ろうとした。が、反絵は再び彼の胸を斬《き》り下《さ》げた。反耶は卑弥呼の方へ腹這《はらば》うと、彼女の片足を攫《つか》んで絶息した。しかし卑弥呼は横たわったまま身動きもせず、彼女の足を握っている王の指先を眺めていた。反絵はまた陽《ひ》に逢《あ》わぬ影のように青黒くなって反耶の傍に突き立っていた。やがて、反絵の手から剣が落ちた。静かな部屋の中で、床に刺って横に倒れる剣の音が一度した。
「卑弥呼、我は兄を殺した。爾《なんじ》は我の妻になれ。」
 反絵は卑弥呼の傍へ蹲《かが》むと、荒い呼吸を彼女の顔に吐きかけて、彼女の腰と肩とに手をかけた。しかし、卑弥呼は黙然として反耶の死体を眺めていた。
「卑弥呼、我は奴国《なこく》を攻める。我は爾を愛す、我は爾を欲す。卑弥呼、我の妻になれ。」
 彼女の頬《ほお》に付いていた白い羽毛の一端が、反絵の呼吸のために揺れていた。反絵はなおも腕に力を籠《こ》めて彼女の上に身を蹲めた。
「卑弥呼、卑弥呼。」
 彼は彼女を呼びながら彼女の胸を抱こうとした。彼女は曲げた片肱《かたひじ》で反絵の胸を押しのけると静にいった。
「待て。」
「爾は兄に身を与えた。」
「待て。」
「我は兄を殺した。」
「待て。」
「我は爾を欲す。」
「奴国の滅びたのは今ではない。」
 反絵の顔は勃発する衝動を叩《たた》かれた苦悩のために歪《ゆが》んで来た。そうして、彼の片眼は、暫時《ざんじ》の焦燥に揺られながらも次第に獣的な決意を閃《ひらめ》かせて卑弥呼の顔を覗《のぞ》き始めると、彼女は飛び立つ鳥のように身を跳ねて、足元に落ちていた反絵の剣を拾って身構えた。
「卑弥呼。」
「部屋を去れ。」
「我は爾を愛す。」
「奴国を攻めよ。」
「我は攻める。剣を放せ。」
「奴国の王子を長羅《ながら》という。彼を撃て。」
「我は撃つ。爾は我の妻になれ。」
「長羅を撃てば、我は爾の妻になる。部屋を去れ。」
「卑弥呼。」
「去れ。奴国の滅びたのは今ではない。」
 反絵は彼の片眼に怨恨《えんこん》を流して卑弥呼を眺めていた。しかし、間もなく、戦いに疲れた獣のように彼は足を鈍らせて部屋の外へ出ていった。卑弥呼は再び床の上へ俯伏《うつぶ》せに身を崩した。彼女は彼女自身の身の穢《けが》れを思い浮べると、彼女を取巻く卑狗《ひこ》の大兄《おおえ》の霊魂が今は次第に彼女の身辺から遠のいて行くのを感じて来た。彼女の身体は恐怖と悔恨とのために顫《ふる》えて来た。
「ああ、大兄、我を赦《ゆる》せ、我を赦せ、我のために爾は返れ。」
 彼女は剣を握ったまま泣き伏していたとき、部屋の外からは、突然喜びに溢れた威勢よき反絵の声が聞えて来た。
「卑弥呼、我は奴国を攻める。我は奴国を砂のように崩すであろう。」

       二十四

 耶馬台《やまと》の宮では、一人として王を殺害した反絵に向って逆《さから》うものはなかった。何故なら、耶馬台の宮の人々には、彼の狂暴な熱情と力とは、前から、国境に立ち昇る夜の噴火の柱と等しい恐怖となって映っていたのであったから。しかし、君長《ひとこのかみ》の葬礼は宮人《みやびと》たちの手によって、小山の頂きで行われた。二人の宿禰《すくね》と九人の大夫《だいぶ》に代った十一の埴輪《はにわ》が、王の柩《ひつぎ》と一緒に埋められた。そうして、王妃と、王の三頭の乗馬と、三人の童男とは、殉死者として首から上を空間に擡《もた》げたままその山に埋められた。貞淑な王妃を除いた他の殉死者の悲痛な叫喚は、終日終夜、秋風のままに宮のうえを吹き流れた。そうして、次第に彼らの叫喚が弱まると一緒に、その下の耶馬台の宮では、着々として戦《たたかい》の準備が整《ととの》うていった。先ず兵士《つわもの》たちは周囲の森から野牛の群れを狩り集めることを命ぜられると、次に数千の投げ槍と楯《たて》と矢とを造るかたわら、弓材となる梓《あずさ》や檀《まゆみ》を弓矯《ゆみため》に懸《か》けねばならなかった。反絵は日々兵士たちの間を馳け廻っていた。しかし、彼の卑弥呼を得んとする慾望はますます彼を焦燥せしめ、それに従い彼の狂暴も日に日にその度を強めていった。彼は戦々兢々《せんせんきょうきょう》として馳け違いながら立ち働く兵士たちの間から、暇ある度に卑弥呼の部屋へ戻って来た。彼は彼女に迫って訴えた。しかし、卑弥呼の手には絶えず抜かれた一本の剣《つるぎ》が握られていた。そうして、彼女の答えは定《きま》っていた。
「待て、奴国《なこく》の滅びたのは今ではない。」
 反絵はその度に無言のまま戸外へ馳け出すと、必ず彼の剣は一人の兵士を傷つけた。

       二十五

 奴国《なこく》の宮では、長羅《ながら》は卑弥呼《ひみこ》を失って以来、一つの部屋に横たわったまま起きなかった。彼は彼女を探索に出かけた兵士《つわもの》たちの帰りを待った。しかし、帰った彼らの誰もは弓と矢を捨てると黙って農夫の姿に変っていた。長羅は童男の運ぶ食物にも殆《ほとん》ど手を触れようともしなくなった。そればかりでなく、最早《もは》や彼を助ける一人残った祭司の宿禰《すくね》にさえも、彼は言葉を交えようとしなかった。そうして、彼の長躯《ちょうく》は、不弥《うみ》を追われて帰ったときの彼のごとく、再び矛木《ほこぎ》のようにだんだんと痩《や》せていった。彼の病原を洞察した宿禰は、蚯蚓《みみず》と、酢漿草《かたばみそう》と、童女の経水《けいすい》とを混ぜ合せた液汁を長羅に飲ませるために苦心した。しかし長羅はそれさえも飲もうとはしなかった。そこで、宿禰は奴国の宮の乙女《おとめ》たちの中から、優れた美しい乙女を選抜して、長羅の部屋へ導き入れることを計画した。しかし、第一日に選ばれた乙女と次の乙女の美しさは、長羅の引き締った唇の一端さえも動かすことが出来なかった。宿禰は憂慮に悩んだ顔をして、自ら美しい乙女を捜し出さんがため、奴国の宮の隅々《すみずみ》を廻り始めた。その噂《うわさ》を聞き伝えた奴国の宮の娘を持った母親たちは、己《おのれ》の娘に華《はな》やかな装《よそお》いをこらさせ、髪を飾らせて戸の外に立たせ始めた。そうして、彼女自身は己の娘を凌駕《りょうが》する美しい娘たちを見たときにはそれらの娘たちの古い悪行を、通る宿禰の後から大声で饒舌《しゃべ》っていった。こうして、第三に選ばれた美しい乙女は、娘を持つ奴国の宮の母親たちのまだ誰もが予想さえもしなかった訶和郎《かわろ》の妹の香取《かとり》であった。しかし、己の娘の栄誉を彼女のために奪われた母親たちの誰一人として、香取の美貌と行跡について難ずるものは見あたらなかった。何《な》ぜなら、香取の父は長羅に殺された宿禰であったから。彼女は父の惨死に次いで、兄の逃亡の後は、ただ一人訶和郎の帰国するのを待っていた。彼女にとって、父を殺した長羅は、彼女の心の敵とはならなかった。彼女の敵は、彼女がひとり胸底深く秘め隠していた愛する王子長羅を奪った不弥《うみ》の女の卑弥呼《ひみこ》であった。そうして、彼女の父を殺した者も、彼女にとっては、彼女を愛する王子長羅をして彼女の父を殺さしめた不弥の女の卑弥呼であった。選ばれた日のその翌朝、香取は宮殿から送られた牛車《ぎっしゃ》に乗って登殿した。彼女は宿禰が彼女を選んだその理由と、彼女に与えられた重大な責任とを、他に選ばれた乙女たちの誰よりも深く重く感じていた。彼女は藤色の衣を纏《まと》い、首からは翡翠《ひすい》の勾玉《まがたま》をかけ垂し、その頭には瑪瑙《めのう》をつらねた玉鬘《たまかずら》をかけて、両肱《りょうひじ》には磨かれた鷹《たか》の嘴《くちばし》で造られた一対の釧《くしろ》を付けていた。そうして、彼女の右手の指に嵌《はま》っている五つの鐶《たまき》は、亡き母の片身として、彼女の愛翫《あいがん》し続けて来た黄金の鐶であった。彼女は牛車から降りると、一人の童男に共《とも》なわれて宿禰の部屋へ這入《はい》っていった。宿禰は暫《しばら》く彼女の姿を眺めていた。そうして、彼はひとり得意な微笑をもらしながら、長羅の部屋の方を指差して彼女にいった。
「行け。」
 香取は命ぜられるままに長羅の部屋の杉戸の方へ歩いていった。彼女の足は戸の前まで来ると立《た》ち悚《すく》んだ。
「行け。」と再び後《うし》ろで宿禰の声がした。
 彼女は杉戸に手をかけた。しかし、もし彼女が不弥の女に負けたなら、そうして、彼女が、もし奴国の女を穢《けが》したときは?
「行け。」と宿禰の声がした。
 彼女の胸は激しい呼吸のために波立った。が、それと同時に彼女の唇は決意にひき締って慄《ふる》えて来た。彼女は手に力を籠《こ》めながら静《しずか》に杉戸を開いてみた。彼女の長く心に秘めていた愛人は、毛皮の上に横わって眠っていた。しかし、彼女の頭に映っていたかつての彼の男々《おお》しく美しかったあの顔は、今は拡まった窪《くぼ》みの底に眼を沈ませ、髯《ひげ》は突起した顋《おとがい》を蔽《おお》って縮まり、そうして、彼の両頬は餓えた鹿のように細まって落ちていた。
「王子、王子。」
 彼女は跪拝《ひざまず》いて小声で長羅を呼んだ。彼女の声はその気高き容色の上に赧《あか》らんだ。しかし、長羅は依然として彼女の前で眠っていた。彼女は再び膝を長羅の方へ進めて行った。
「王子よ、王子よ。」
 すると、突然長羅の半身は起き上った。彼は爛々《らんらん》と眼を輝かせて、暫く部屋の隅々を眺めていた。そうして、漸《ようや》く跪拝いている香取の上に眼を注ぐと、彼の熱情に輝いたその眼は、急に光りを失って細まり、彼の身体は再び力なく毛皮の上に横たわって眼を閉じた。香取の顔色は蒼然《そうぜん》として変って来た。彼女は身を床の上に俯伏《うつぶ》せた。が、再び弾《はじ》かれたように頭を上げると、その蒼《あお》ざめた頬に涙を流しながら、声を慄《ふる》わせて長羅にいった。
「王子よ、王子よ、我は爾《なんじ》を愛していた。王子よ、王子よ、我は爾を愛していた。」
 彼女は不意に言葉を切ると、身体を整えて端坐した。そうして、頭から静かに、玉鬘《たまかずら》を取りはずし、首から勾玉をとりはずすと、長羅の眼を閉じた顔を従容《しょうよう》として見詰めていた。すると、彼女の唇の両端から血がたらたらと流れて来た。彼女の蒼ざめた顔色は、一層その色が蒼ざめて落つき出した。彼女の身体は端坐したまま床の上に傾くと、最早《もは》や再びとは起き上って来なかった。こうして、兵部《ひょうぶ》の宿禰の娘は死んだ。彼女は舌を咬《か》み切《き》って自殺した。しかし、横たわっている長羅の身体は身動きもしなかった。

 香取の死の原因を知らなかった奴国の宮の人々は、一斉に彼女の行為を賞讃した。そうして、長羅を戴く奴国の乙女たちは、奴国の女の名誉のために、不弥《うみ》の女から王子の心を奪い返せと叫び始めた。第四の乙女が香取の次ぎに選ばれて再び立った。人々は斉しく彼女の美しさの効果の上に注目した。すると、俄然《がぜん》として彼女は香取のように自殺した。何《な》ぜなら香取を賞讃した人々の言葉は、あまりに荘厳であったから。しかし、また第五の乙女が宿禰のために選ばれた。人々の彼女に注目する仕方は変って来た。けれども、彼女の運命も第四の乙女のそれと等しく不吉な慣例を造らなければならないのは当然のことであった。こうして、奴国の宮からは日々に美しい乙女が減りそうになって来た。娘を持った奴国の宮の母親たちは急に己の娘の美しい装いをはぎとって、農衣に着せ変えると、宿禰の眼から家の奥深くへ隠し始めた。しかし宿禰はひとり、ますます憂慮に顰《ゆが》んだ暗鬱な顔をして、その眼を光らせながら宮の隅々をさ迷うていた。第六番目の乙女が選ばれて立った。人々は恐怖を以て彼女の身の上を気遣《きづか》った。その夜、彼らは乙女の自殺の報《し》らせを聞く前に、神庫《ほくら》の前で宿禰が何者かに暗殺されたという報導を耳にした。しかし、長羅の横たわった身体は殆ど空虚に等しくなった王宮の中で、死人のように動かなかった。
 或る日、一人の若者が、王宮の門前の榧《かや》の※[#「木+長」、第4水準2-14-94]《ほこだち》を見ると、疲れ切った体をその中へ馳け込ませてひとり叫んだ。
「不弥《うみ》の女を我は見た。不弥の女を我は見た。」
 若者の声に応じて出て来る者は誰もなかった。彼は高縁《たかえん》に差し込んだ太陽の光りを浴びて眠っている童男の傍を通りながら、王宮の奥深くへだんだんと這入《はい》っていった。
「不弥の女を我は見た。不弥の女は耶馬台《やまと》にいる。」
 長羅は若者の声を聞くと、矢の音を聞いた猪のように身を起した。彼の顔は赧《あか》らんだ。
「這入れ、這入れ。」しかし、彼の声はかすれていた。若者の呼び声は、長羅の部屋の前を通り越して、八尋殿《やつひろでん》へ突きあたり、そうして、再び彼の方へ戻って来た。長羅は蹌踉《よろ》めきながら杉戸の方へ近寄った。
「這入れ、這入れ。」
 若者は杉戸を開けると彼を見た。
「王子よ、不弥の女を我は見た。」
「よし、水を与えよ。」
 若者は馳《か》けて行き、馳けて帰った。
「不弥の女は耶馬台にいる。」
 長羅は※[#「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72]《もい》の水を飲み干した。
「爾《なんじ》は見たか。」
「我は見た、我は耶馬台の宮へ忍び入った。」
「不弥の女は何処《いずこ》にいた。」
「不弥の女を我は見た。不弥の女は耶馬台の宮の王妃《おうひ》になった。」
 長羅は激怒に圧伏されたかのように、ただ黙って慄《ふる》えながら床の上の剣《つるぎ》を指差していた。
「王子よ、耶馬台の王は戦いの準備をなした。」
「剣を拾え。」
 若者は剣を長羅に与えると再びいった。
「王子よ、耶馬台の王は、奴国の宮を攻めるであろう。」
「耶馬台を攻めよ。兵を集めよ。我は爾を宿禰にする。」
 若者は喜びに眉毛《まゆげ》を吊り上げて黙っていた。
「不弥の女を奪え。耶馬台を攻めよ。兵を集めよ。」
 若者は※[#「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72]《もい》を蹴って部屋の外へ馳け出した。間もなく、法螺《ほら》が神庫《ほくら》の前で高く鳴った。それに応じて、銅鑼《どら》が宮の方々から鳴り出した。

       二十六

 耶馬台《やまと》の宮では、反絵《はんえ》の狂暴はその度を越えて募《つの》って来た。それにひきかえ、兵士《つわもの》たちの間では、卑弥呼《ひみこ》を尊崇する熱度が戦いの準備の整って行くに従って高まって来た。何《な》ぜなら、いまだかつて何者も制御し得なかった反絵の狂暴を、ただ一睨《いちげい》の視線の下に圧伏さし得た者は、不弥《うみ》の女であったから。そうして、彼女のために、反絵の剣の下からその生命を救われた数多くの者たちは彼らであった。彼らは彼らの出征の結果については必勝を期していた。何ぜなら、いまだ何者も制御し得なかった耶馬台の国の大なる恐怖を、ただ一睨の下に圧伏さし得る不弥の女を持つものは彼らの軍であったから。反絵の出した三人の偵察兵は帰って来た。彼らは、奴国の王子が卑弥呼を奪いに耶馬台の宮へ攻め寄せるという報導を齎《もたら》した。反絵と等しく怒った者は耶馬台の宮の兵たちであった。その翌朝、進軍の命令が彼らの上に下された。一団の先頭には騎馬に跨《またが》った反絵が立った。その後からは、盾《たて》の上で輝いた数百本の鋒尖《ほこさき》を従えた卑弥呼が、六人の兵士に担《かつ》がれた乗物に乗って出陣した。彼女は、長羅を身辺に引き寄せる手段として、胄《かぶと》の上から人目を奪う紅《くれない》の染衣《しめごろも》を纏《まと》っていた。一団の殿《しんがり》には背に投げ槍と食糧とを荷《にな》いつけられた数十疋の野牛の群が連《つらな》った。彼らは弓と矢の林に包まれて、燃え立った櫨《はぜ》の紅葉の森の中を奴国の方へ進んでいった。そうして、この蜒々《えんえん》とした武装の行列は、三つの山を昇り、四つの谷に降り、野を越え、森をつききって行ったその日の中に、二人の奴国の偵察兵を捕えて首斬《くびき》った。二日目の夕暮れ、彼らはある水の涸《か》れた広い河の岸へ到着した。

       二十七

 不弥《うみ》を一挙に蹂躙《じゅうりん》して以来、まだ日のたたぬ奴国の宮では、兵士《つわもの》たちは最早や戦争の準備をする必要がなかった。神庫《ほくら》の中の鋒《ほこ》も剣《つるぎ》も新らしく光っていた。そうして、彼らの弓弦《ゆづる》は張られたままにまだ一矢の音をも立ててはいなかった。しかし、王子長羅の肉体は弱っていた。彼は焦燥しながら鶴《つる》と鶏《にわとり》と山蟹《やまがに》の卵を食べ続けるかたわら、その苛立《いらだ》つ感情の制御しきれぬ時になると、必要なき偵察兵を矢継早《やつぎば》やに耶馬台《やまと》へ向けた。そうして、彼は兵士たちに逢《あ》うごとに、その輝いた眼を狂人のように山の彼方《かなた》へ向けて、彼らにいった。
「不弥の女を奪え。奪った者を宿禰にする。」
 彼の言葉を聞いた兵士たちは互にその顔を見合せて黙っていた。しかし、それと同時に彼らの野心は、その沈黙の中で互に彼らを敵となして睨《にら》み合《あわ》せた。
 数日の後、長羅の顔は蒼白《あおじろ》く痩《や》せたままに輝き出した。そうして、逞《たく》ましく前に蹲《かが》んだ彼の長躯は、駿馬《しゅんめ》のように兵士たちの間を馳け廻っていた。出陣の用意は整った。長羅の正しく突《と》がった鼻と、馬の鼻とは真直に耶馬台を睨んで進んでいった。数千の兵士たちは、互に敵となって塊《かたま》った大集団を作りながら、声を潜《ひそ》めて彼の後から従った。長羅の馬は耶馬台へ近か寄るに従って、次第にひとり兵士たちから放れて前へ急いだ。このため兵士たちは休息することを忘れねばならなかった。しかし、彼らはその熱情を異にする長羅の後に続くことは不可能なことであった。そうして、二日がたった。兵士たちは、ある河岸へ到着したときは、最早《もはや》前進することも出来なかった。彼らはその日、まだ太陽の輝いている中《うち》から河原の芒《すすき》の中で夜営の準備にとりかかった。
 遠い国境の山の峯が一つ高々と煙を吐いていた。太陽は桃色に変って落ち始めた。そのとき、遽《にわか》に対岸の芒の原がざわめき立った。そうして、一斉に水禽《みずどり》の群れが列を乱して空高く舞い上ると、間もなく、数千の鋒尖が芒の穂の中で輝き出した。
「耶馬台の兵が押し寄せた。」
「耶馬台の兵が攻め寄せた。」
 奴国《なこく》の兵士たちは動乱した。しかし、彼らは休息を忘れて歩行し続けた疲労のために、かえって直ちにその動乱を整えて、再び落ちつきを奪回することに容易であった。彼らは応戦の第一の手段として、鋒や剣やその他|総《すべ》ての武器を芒の中に伏せて鎮《しず》まった。何《な》ぜなら、彼らは奴国の兵の最も特長とする戦法は夜襲であることを知っていた。数名の斥候《せっこう》が川上と川下から派出された。長羅は一人高く馬上に跨って対岸を見詰めていた。川には浅瀬が中央にただ一線流れていた。そうして、その浅瀬の両側には広い砂地が続いていた。
 夜は次第に降りて来た。対岸の芒の波は、今は朧《おぼ》ろに背後の山の下で煙って見えた。その時、突然対岸からは銅鑼《どら》がなった、すると、尾に火をつけられた一団の野牛の群れが、雲のように棚曳《たなび》いた対岸の芒の波を蹴破って、奴国の陣地へ突進して来た。奴国の兵は野牛の一団が真近まで迫ったときに、一斉に彼らの群へ向って矢を放った。牛の群は鳴き声を上げて突き立つと、逆に耶馬台の陣地の方へ猛然と押し返した。奴国の兵は牛の後から対岸に向って押し寄せようとした。しかし、長羅は彼らの前を一直線に馬を走らせてその前進を食いとめた。と、斉《ひと》しく野牛の群は、対岸から放たれ出した矢のために、再び逆流して奴国の方へ向って来た。それと同時に鯨波《とき》の声が対岸から湧き上ると、野牛の群れの両翼となって、投げ槍の密集団が、砂地を蹴って両方から襲って来た。奴国の兵は直ちに川岸に添って長く延びた。そうして、その敵の密集団に向って一斉に矢を放つと、再び密集団は彼らの陣営へ引き返した。野牛の群は狂いながらひとり奴国の兵の断ち切れた中央を突きぬけて、遠く後方の森の中へ馳け過ぎた。
 夜は全く降りていた。国境の噴火の煙は火の柱となって空中に立っていた。奴国の兵の夜襲の時は迫って来た。しかし、彼らの疲労は一段と増していた。彼らは敵の陣地の鎮まると一緒に芒の中に腰を下して休息した。長羅は彼らの疲労の状態に気がつくと、その計画していた夜襲を断念しなければならなかった。けれども、奴国の軍は次に来るべき肉迫戦のときまでに、敵の陣営から矢をなくしておかねばならなかった。それには夜の闇が必要であった。彼らは疲労の休まる間もなく、声を潜めて川原の中央まで進んで出ると、盾《たて》を塀のように横につらねて身を隠した。そうして、彼らは一斉に足を踏みたたき、鯨波《とき》の声を張り上げて肉迫する気勢を敵に知らしめた。対岸からは矢が雨のように飛んで来て盾にあたった。彼らは引きかえすとまた進み、退《しりぞ》いては再び喊声《かんせい》を張り上げた。そうして、時刻を隔《お》いてこの数度の牽制《けんせい》を繰り返している中《うち》に、最早対岸からは矢が飛ばなくなって来た。しかし、彼らに代って敵からの牽制が激しくなった。初め奴国の兵は敵の喊声が肉迫する度に、恐怖のために思わず彼らに向って矢を放った。けれども、それが数度続くと、彼らは敵軍の夜襲も所詮自国の牽制と等しかったことに気付いて矢を惜しんだ。夜はだんだんと更《ふ》けていった。眠ったように沈黙し合った両軍からは、盛に斥候が派せられた。川上と川下の砂地や芒の中では小さな斥候戦が方々で行われた。こうして、夜は両軍の上から明けていった。朝日は奴国の陣地の後方から昇り初めた。耶馬台の国の国境から立ち昇る噴火の柱は再び煙の柱に変って来た。そうして、両軍の間には、血の染《にじ》んだ砂の上に、矢の刺った屍《しかばね》や牛の死骸が朝日を受けて点々として横たわっていた。そのとき、耶馬台の軍はまばらに一列に横隊を造って、静々と屍を踏みながら進んで来た。彼らの連なった楯の上からは油を滲《にじ》ませた茅花《つばな》の火口《ほぐち》が鋒尖につきささられて燃えていた。彼らは奴国の陣営真近く迫ったときに、各々その鋒尖の火口を芒の中へ投げ込んだ。奴国の兵は直ちに足で落ち来る火口を踏みつけた。しかし、彼らの頭の上からは、続いて無数の投げ槍と礫《つぶて》が落ちて来た。それに和して、耶馬台の軍の喊声《かんせい》が、地を踏み鳴らす跫音《あしおと》と一緒に湧き上った。消え残った火口《ほぐち》の焔《ほのお》は芒の原に燃え移った。奴国の陣営は竹の爆《はじ》ける爆音を交えて濛々《もうもう》と白い煙を空に巻き上げた。長羅は全軍を森の傍まで退却させた。そうして、兵を三団に分けると、最も精鋭な一団を自分と共に森へ残し、他の二団をして、立ち昇る白煙に隠れて川上と川下に別れさせた。分れた二団の軍兵は鋒と剣を持って、砂地の上の耶馬台の軍を両方から一時にどっと挾撃した。白煙の中へ矢を放っていた耶馬台の軍は散乱しながら対岸の陣地の中へ引き返した。奴国の二団は川の中央で一つに合すると、大集団となって逃げる敵軍の後から追撃した。そうして、今や彼らは敵の陣営へ殺倒しようとしたときに、新たなる耶馬台の軍が、奴国の密集団を中に挾んで芒の中から現れた。彼らは奴国の密集団と同じく鋒と剣を持って、喊声を上げつつ堂々と二方から押し寄せて来た。長羅は自国の軍が敵軍に包まれたのを見てとると、残った一団を引きつれて斜に火の消えた芒の原を突き破って現れた。耶馬台の軍は彼の新らしき一軍を見ると、奴国の密集団を包んだまま急に進行を停止した。長羅は自分の後ろに一団を張って敵の大団に対峙しながら動かなかった。その時、対岸の芒の中から、逃げ込んだ耶馬台の兵の一団が、再び勢いを盛り返して進んで来た。と、三方から包まれた奴国の密集団は渦巻《うずま》きながら、耶馬台の軍の右翼となった大団の中へ殺倒した。それと同時に、かの芒の中から押し返した敵の一団は、投げ槍を霜のように輝かせて動乱する奴軍の中へ突入した。忽《たちま》ち、動揺《どよ》めく人波の点々が、倒れ、跳ね、躍《おど》り、渦巻くそれらの頭上で無数の白い閃光《せんこう》が明滅した。と、やがて、その殺戮《さつりく》し合う人の団塊は叫喚しながら紅《くれない》となって、延び、縮み、揺れ合いつつ次第に小さく擦《す》り減《へ》って行くと、遽《にわか》に長羅の動かぬ一団の方へ潮《うしお》のように崩れて来た。それに和して、今まで彼と対峙《たいじ》して止どまっていた耶馬台の左翼の軍勢も、一時に鯨波《とき》の声を張り上げて彼の方へ押し寄せた。長羅の一団は彼を捨てて崩れて来た。長羅は一人馬上に踏みとまって、「返せ、返せ。」と叫び続けた。
 その時、放してあった一人の奴国の斥候が彼の傍へ馳け寄って来ると、手を喇叭《らっぱ》のように口にあてて彼に叫んだ。
「不弥《うみ》の女を我は見た。見よ、不弥の女は赤い衣を纏《まと》っている。」
 長羅は彼の指差す方を振り向いた。そこには、肉迫して来る刃《やいば》の潮の後方に、紅の一点が静々《しずしず》と赤い帆のように彼の方へ進んでいた。長羅はひらりと馬首を敵軍の方へ振り向けた。馬の腹をひと蹴り蹴った。と、彼は無言のままその紅の一点を目がけて、押し寄せる敵軍の中へただ一騎|驀進《ばくしん》した。鋒《ほこ》の雨が彼の頭上を飛び廻った。彼は楯《たて》を差し出し、片手の剣《つるぎ》を振り廻して飛び来る鋒を斬《き》り払《はら》った。無数の顔と剣が彼の周囲へ波打ち寄せた。彼の馬は飛び上り、跳ね上って、その人波の上を起伏しながら前へ前へと突き進んだ。長羅の剣は馬の上で風車のように廻転した。腕が飛び、剣が飛んだ。ばたばたと人は倒れた。と、急に人波は彼の前で二つに割れた。
「卑弥呼。」長羅の馬は突進した。そのとき、片眼の武将を乗せた黒い一騎が砂地を蹴って彼の前へ馳けて来た。
「聞け、我は耶馬台の王の反絵《はんえ》である。」
 長羅の馬は突き立った。そうして、反絵の馬を横に流すと、円を描いて担《かつ》がれた高座《たかざ》の上の卑弥呼の方へ突進した。
 卑弥呼の高座は、彼の馬首を脱しながら反絵の後へ廻っていった。長羅は輝いた眼を卑弥呼に向けた。
「卑弥呼。」
 彼は馬を蹴ろうとすると、再び反絵の馬は疾風のように馳《か》けて来た。と、長羅は突然馬首を返すと、反絵の馬に向って突撃した。二頭の馬は嘶《いなな》きながら突き立った。楯が空中へ跳ね上った。再び馬は頭を合せて落ち込んだ。と、反絵の剣は長羅の腹へ突き刺さった。同時に、長羅の剣は反絵の肩を斬り下げた。長羅の長躯は反絵の上に躍り上った。二人の身体は逆様《さかさま》に馬の上から墜落すると、抱き合ったまま砂地の上を転った。蹴り合い、踏み合う彼らの足尖《あしさき》から、砂が跳ね上った。草葉が飛んだ。そうして、反絵の血走った片眼は、引《ひ》っ掴《つか》まれた頭髪に吊り上げられたまま、長羅の額を中心に上になり、下になった。二つの口は噛《か》み合った。乱れた彼らの頭髪は絡《から》まった鳥のようにぱさぱさと地を打った。
 卑弥呼の高座は二人の方へ近か寄って来ると降された。しかし、耶馬台の兵士の中で、彼らの反絵を助けようとするものは誰もなかった。何《な》ぜなら、耶馬台の恐怖を失って、幸福を増し得る者は彼らであったから。彼らは卑弥呼と一緒に剣を握ったまま、血砂にまみれて呻《うめ》きながら転々する二人の身体を見詰めていた。彼らの顔は、一様に、彼らの美しき不弥の女を守り得る力を、彼女に示さんとする努力のために緊《ひ》き締《しま》っていた。しかし、間もなく彼らの前で、長羅と反絵の塊《かたま》りは、卑弥呼の二人の良人《おっと》の仇敵は、戦いながら次第にその力を弱めていった。そうして、反絵の片眼は瞑《つ》むられたまま砂の中にめり込むと、二人は長く重なったまま動かなかった。卑弥呼はひとり彼らの方へ近かづいた。そのとき、長羅は反絵の胸を踏みつけて、突然地から湧き出たように起き上った。彼は血の滴《したた》る頭髪を振り乱して、柔《やわらか》に微笑しながらその蒼《あお》ざめた顔を彼女の方へ振り向けた。
「卑弥呼。」
 彼女は立ち停ると剣を上げて身構えた。兵士たちは長羅の方へ肉迫した。
「待て。」と彼女は彼らにいった。
「卑弥呼、我は爾《なんじ》を迎えにここへ来た。」
 長羅は腹に反絵の剣を突き通したまま、両腕を拡げて彼女の方へ歩もうとした。しかし、彼の身体は左右に二足三足|蹌踉《よろ》めくと、滴る血の重みに倒れるかのようにばったりと地に倒れた。彼は再び起き上った。
「卑弥呼、爾は我と共に奴国へ帰れ。我は爾を待っていた。」
「爾は我の夫《つま》の大兄《おおえ》を刺した。」
「我は刺した。」
「爾は我の父と母とを刺した。」
「我は刺した。」
「爾は我の国を滅ぼした。」
「我は滅ぼした。」
 長羅は再び蹌踉めきながら彼女の方へ歩みよった。と、またも彼の身体はどっと倒れた。振り上げた卑弥呼の剣は下がって来た。長羅はなおも起き上ろうとした。しかし、彼の胸は地に刺された人のように地を放れると地についた。そうして、彼は漸《ようや》く砂の上から額を上げると彼女の方へ手を延ばした。
「卑弥呼、我は爾を奪わんために、我の国を滅ぼした。我は爾を奪わんために我の父を刺した、宿禰を刺した。爾は返れ。」
 長羅の蒼ざめた額は地に垂れた。
「卑弥呼、卑弥呼。」
 彼は恰《あたか》も砂に呟《つぶや》くごとく彼女を呼ぶと、彼の瞼《まぶた》は閉じられた。卑弥呼の身体は顫《ふる》えて来た。彼女の剣は地に落ちた。
「大兄よ、大兄よ、我を赦せ。彼を刺せと爾はいうな。」
 卑弥呼は頭をかかえると剣の上へ泣き崩れた。
「大兄よ、大兄よ、我を赦せ。我は爾のために長羅を撃った。我は爾のために復讐した。ああ、長羅よ長羅よ、我を赦せ。爾は我のために殺された。」
 長羅と反絵と卑弥呼を残して、彼方《かなた》の森の中では、奴国の兵を追いながら、奴国の方へ押し寄せて行く耶馬台の軍の鯨波《とき》の声が一段と空に上った。

底本:「日輪・春は馬車に乗って 他八篇」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年8月17日第1刷発行
底本の親本:「日輪」春陽堂
   1924(大正13)年5月18日
初出:「新小説」
   1923(大正12)年5月号
入力:土屋隆
校正:鈴木厚司
2009年5月13日作成
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横光利一

南北—–横光利一

 村では秋の収穫時が済んだ。夏から延ばされていた消防慰労会が、寺の本堂で催された。漸《ようや》く一座に酒が廻った。
 その時、突然一枚の唐紙《からかみ》が激しい音を立てて、内側へ倒れて来た。それと同時に、秋三と勘次の塊りは組み合ったまま本堂の中へ転り込んだ。一座の者は膝を立てた。
 暫くすると、人々に腕を持たれた秋三は勘次を睥《にら》み乍ら、裸体の肩口を押し出して、
「放せ、放せ。」と叫んでいた。
 勘次はただ黙って突き立ったまま、ひた押しに秋三の方へ進もうとした。
「今日という今日は、承知せんぞ!」
「何にッ!」
 二人は羽がい締めにされた闘鶏のように、また人々の腕の中で怒り立った。
「放してくれ、此奴《こいつ》逝《い》わさにゃ、腹の虫が納るかい。」
「泣きやがるな!」
「何にッ!」
 秋三は人々を振り切った。そして、勘次の胸をめがけて突きかかると、二人はまた一つの塊りになって畳の上へぶっ倒れた。酒が流れた。唐の芋が転がった。
「抛《ほう》り出せ。」
「なぐれ。」
「やれやれ。」
 騒ぎの中に二人の塊りは腰高障子を蹴|脱《はず》した。と、再びそこから高縁の上へ転がると、間もなく裸体の四つの足が、空間を蹴りつけ裏庭の赤万両の上へ落ち込んだ。葛《くず》と銀杏《いちょう》の小鉢が蹴り倒された。勘次は飛び起きた。そして、裏庭を突き切って墓場の方へ馳《か》け出すと、秋三は胸を拡げてその後から追っ馳けた。

 本堂の若者達は二人の姿が見えなくなると、彼らの争いの原因について語合いながらまた乱れた配膳を整えて飲み始めた。併《しか》し、彼らの話は、唐紙の倒れた形容と、秋三の方が勝味であったと云うこと以外に少しも一致しなかった。が、この二人の争いは、彼らにとって眼新しいものではないらしかった。彼らの話に拠ると、二人の家は村の南北に建っていて、二人の母は姉妹で、勘次の母は姉であるにも拘らず、秋三の家から勘次の父の家へ嫁いだものであった。けれども此の南北二家は親戚関係の成り立った当夜から、既に絶縁同様になっていた。と云うのは、秋三の祖父が、血統の不浄な貧しい勘次の父の請いを拒絶した所、勘次の母は自ら応じてその家へ走ったことから始まった。祖父の死後秋三の父は莫大な家産を蕩尽して出奔した。それに引き換え、勘次の父は村会を圧する程隆盛になって来た。そこで勘次の父は秋三の家が没落して他人手に渡ろうとした時、復讐と恩酬《おんしゅう》とを籠めたあらゆる意味において、「今だ!」と思った。そして、妻が反対したのに拘らず、彼は妻の実家を立て直して翌年死んだ。以後勘次の家は何事につけても秋三の家の上に立った。で、何物にも屈伏することを好まない青年の自尊心を感じることの出来る者達程、此の日の二人の乱闘の原因も、所詮酒の上の、「箸で突いた」程度のことから始まったと自然な洞察を下して、また酒盃をとり上げた。
 併し此の噂は村の幾宵《いくよさ》を騒がせた。そして、軈《やが》て来る冬の仕事の手始めとして、先ず柴山の選定に村人達が悩み始める頃迄続いていった。

 まだ夕暮には時があった。秋三は山から下ろして来た椚《くぬぎ》の柴を、出逢う人々に自慢した。
 そして、家に着くと、戸口の処に身体の衰えた男の乞食が、一人彼に背を見せて蹲《しゃが》んでいた。
「今日は忙しいのでのう、また来やれ。」
 彼が柴を担《かつ》いだまま中へ這入ろうとすると、
「秋か?」と乞食は云った。
 秋三は乞食から呼び捨てにされる覚えがなかった。
「手前、俺を知っているのか?」
「知るも知らんもあるものか。汝《われ》大きゅうなったやないか。」
 秋三は暫く乞食の顔を眺めていた。すると、乞食は焦点の三に分った眼差しで秋三を斜めに見上げながら、
「俺は安次や。心臓をやられてさ。うん、ひどい目にあった。」と彼から云った。
 秋三は自分の子供時代に見た村相撲の場景を真先に思い浮かべた。それは、負けても賞金の貰える勝負に限って、すがめ[#「すがめ」に傍点]の男が幾度となく相手|関《かま》わず飛び出して忽ち誰にも棹《さお》のように倒されながら、なお真面目にまたすがめ[#「すがめ」に傍点]をしながら土俵を下って来る処であった。彼は安次だ。安次は両親と僅に残された家産を失くすると、間もなく軽蔑された身体を村から消した。最早やそれから九年も経った。が、今、また秋三は彼を見たのであった。
「ほんに、お前安次やったのう。なんと汚い身体になったもんやないか。触ったら苔《こけ》がめくれて来うが?」
「お母《かあ》を呼んでくれんか?」
「今日はおらんぞ。お前これから何処へ行くつもりや?」
 秋三は柴を下ろしながらそう云うと安次の傍へ蹲んだ。
「何処って、俺に行くところがありゃ結構やさ。」
「帰って来たんか?」
「帰ったんや。医者がお前、保《も》たん云いさらしてのう。心臓や。」
「心臓か、えろう上品や病やのう。」
「うむ、もう念仏や。お母はおらんか。」
「お母に何ぞ用があるのか?」
「お前とこで世話になろうと思うているがの、一つ頼んでくれんかなア?」
「お前、俺とこへ来たのか?」
「うむ、医者めが、もたん云いさらしてさ。」
「それで俺とこへ転げ込んだのやな?」
「お前、酒桶からまくれ落って、土台もうわやや。お母に頼んでくれよ。おらんのか?」
「好え加減にしとけ。」
 秋三は立ち上った。
「おい、頼む頼む。お母に一寸云うてくれったら。」
 秋三はそのまま黙って柴を担ごうとすると、
「お前とこ、俺とこの母屋《おもや》やないか、頼むで置かしてくれよ。」と安次は云った。
「俺とこが母屋や?」
「そうとも、誰なと聞いてみい。」
「縁起《げん》たれの悪いこと云うてくれるな。手前とこは谷川って云うやら。俺とこは山本や。」
 その時、秋三はふと勘次の家と安次の家とは同姓で、その二家以外に村には谷川と名附けられる姓の一軒もないのに気がついた。してみれば、今安次を勘次の家へ、株内と云う口実で連れていったとしたならば? 勘次の母の吝嗇《りんしょく》加減を知っていればそれだけ、秋三には彼女の狼狽《うろた》える様子が眼に見えた。それは彼にとって確に愉快な遊戯であった。
 と、忽ち、秋三は安次を世話する種々な煩雑さから迯《のが》れようとしていた今迄の気持がなくなって、ただ、勘次の家を一日でも苦しめてみることに興味を持った。
「おい、南の勘とこへ行かんか。あいつはお前とこの株内や。」
「肴《さかな》屋か。あんなけちんぼは、俺とこの株内やないぞ。」
「そうかて谷川って云うのは、あの家一軒ばち有るか。お前とこの株内や。」
「だいたいあの家、俺は好かんのや。」
「贅沢ぬかしてよ。俺が連れてってやるぞ。立て立て。」
「あっこはとても駄目って。」
「あくもあかんもあるもんか。手前、あっこへのたり込むのが当り前じゃ。」
「あかん、あかん。」と云って安次は頭の横で泳ぐように両手を振った。
「ぐずぐずぬかすな!」
 秋三が安次の首筋を持って引き立てると、安次は胸を突き出して、「アッ、アッ。」と苦しそうな声を立てた。
「早よ歩けさ。厄介な餓鬼やのう!」
「腹へって腹へって、お前、負うてくれんか!」
「うす汚い! 手前のようなやつ、負えるかい。」
 安次は片手で胸を圧えて、裂けた三尺のひと端を長く腰から垂らしたまま曳かれていった。痩せた片肩がひどく怒って見えるのは、子供の頃彼の家が、まだ此の村で安泰であった時と同じであった。そして、まだ変らぬものは、彼の姿を浮かばせている行く手に固まった安泰な山々の姿であった。

 西風が吹いて来た。勘次は桑の根株を割って風呂場の下を焚きつけた。煙は風呂場の下から逆に勘次の眼を攻めて、内庭へ舞い込むと、上り框《かまち》から表の方を眺めている勘次の母におそいかかった。と、彼女は、天井に沿っている店の缶詰棚へ乱れかかる煙の下から、
「宝船じゃ、宝船じゃ。」と云いながら秋三が一人の乞食を連れて這入って来るのが眼に留まった。
「やかまし、何じゃ。」と彼女は云った。
「伯母やん、結構なもんが着いたぞ、喜びやれ。」
 勘次の母は店の間へ出て行って乞食の顔を見た。
「まア珍しい、安次やないか!」
「安次も提灯もあったもんか、えらい高次じゃ。」
 秋三は店の間をぐるりと見廻した。が、勘次に逢うのが不快であった。彼はそのまま、帰ろうと思って敷居の外へ出かけると、
「秋公|帰《い》ぬのか?」と安次が訊いた。
「もう好えやろが。」
「云うてくれ、云うてくれ。」
「云うてくれって、お前宝船やないか、ゆっくりそこへ坐っとりゃ好えのじゃ。」
「こらこら、俺も行くぞ。」
「阿呆ぬかせ! 伯母やん、此奴どっこも行くとこが無うて困っとるのやが、ちょっとの間、世話してやっとくれ。」
「そんなこと云うて来てお前。」
 と勘次の母が顔を曇らせて云いかけると、安次は行司が軍扇を引くときのような恰好で、
「心臓や、医者がお前、もう持たんと云いさらしてさ。」
「どうしてまたそんなになったんやぞ?」
「酒桶から落ってのう。亀山で奉公して十五円貰うてたのやが、どだい、こうなったらもうわやや。医者が持たん云いさらしてさ、往生したわ。」
「ふむ、それは気の毒なことやなア、長いこと見んで、私ゃもうすっかり見忘れて了うたわ。何年程になるなア?」
「九年や。」
「もうそんなになるかいな、幾つやな、そうすると四十?」
「四十二や。」
「四十二か。まあ厄年やして。」
「厄年や、あかん、今年やなんでも厄介にならんならん。」
「そうか、四十二か、まアそこへ掛けやえせ。そして、亀山で酒屋へ這入ってたのかな?」
「酒屋や、十五円貰うてたのやが、お前、どっと酒桶へまくれ込んでさ。医者がお前もう持たんと云いさらしてのう。心臓や、えらいことやったわ。」
 秋三は勘次の姿が裏の水壺の傍で揺れたのを見ると、黙って少し足音を忍ばせる気持で外へ出た。が、勘次を恐れている自分に気附いたとき、彼は一寸舌を出して笑ったが、そのまま北の方へ歩いていった。
 勘次は裏庭から店の間へ来ると、南天の蔭に背中を見せて帰って行く秋三の姿が眼についた。
「今来たのは秋公か?」
「お前、秋が安次を連れて来てくれたんやがな。」
 安次は急に庭から立ち上ると、
「秋公、こら、秋公。」と大声で呼び出した。
 勘次は秋三に逢いたくはなかった。
「安次か、えらく年寄ったやないか。」と彼は安次の呼び声を遮《さえぎ》った。
「うん、こう鼻たれるようになったらもうあかん。帰れたもんやないけれどさ。とうとうやられてのう。心臓や。お前医者めが持たん云いさらしてのう。どうもこうもあったもんやない。このざまやさ。」
「どうした?」
「酒桶からまくれてお前、ここやられてのう。」安次は胸を押えてみせた。
「ふむ、よう死なんでこっちゃして?」
「死にゃお前結構やが、運の悪い時ゃ悪いもんで、傷ひとつしやへんのや。親方に金出さそうと思うたかて、勝手の病気やぬかしてさ。鐚銭《びたせん》一文出しやがらんでお前、代りに暇出しやがって。」
「そうか、道理で顔が青いって。」
「そうやろが。」
「そしてこれから何処行きや?」
「何処って、俺に行くとこあるものか。母屋に厄介になろうと思うて帰って来たのやが、秋公がお前、南の家は株内やぬかして、引っ張って来よったのや、ほんまに済まんこっちゃ。」
「秋が連れて来たんか?」
「うん、秋がお前、株内はここだけや云いよってさ。」
「母屋へ行け母屋へ。かまうか、俺がつれてってやろ。あいつ、ほんまに猾《ずる》い奴や!」
「お前頼んでくれんか?」
「ええとも、あの餓鬼ったら、仕様のない奴や。」
「そうしてくれのう。土産も何もあらへんけど、二円五十銭持ってるのやが、どうにかならんかのう?」
「要るもんか。」
「要らんか、頼むぜ。」
「行こ行こ。」
「ちょっと待ってくれ、お霜さん、飯ないかなア、腹へって、腹へって。」
「飯か? 今頃お前、夕飯前でこれから焚くとこやがな。」
「ちょびっとでも好《え》えがな。」
「じゃ見て来てやるわ。」
 お霜は台所へ這入った。勘次は表へ出て北の方を眺めてみたが、秋三の姿は竹藪の向うに消えていた。彼は又秋三とひと争いをしなければならぬと思った。そして、胸の中で、自分は安次を引取ることに異議を立てるのではなく、秋三の狡猾《こうかつ》さに立腹しているのだと理窟も一度立ててみた。が、事実は秋三や母のお霜がしたように、病人の乞食を食客に置く間の様々な不愉快さと、経費とを一瞬の間に計算した。
 お霜は麦粉に茶を混ぜて安次に出した。
「飯はちょっともないのやわ、こんなもんでも好けりゃ食べやいせ。」
「そうかな、大きに大きに。」
「塩が足らんだら云いや。」
「結構結構。」
 安次は茶碗からすが[#「すが」に傍点]眼を出して口を動かした。
「こりゃええ、麦粉かな?」
「こりゃ麦や、塩加減はええか?」
「上加減や、こりゃうまい、お霜さん、わしは酒加減はよう味《み》るぞな、一時亀山でや、わしがおらんと倉が持ていでのう。」
 勘次は安次を待つのが五月蠅《うるさ》かった。ひとり出かけて行って秋三の狡さを詰《なじ》ろうかとも思ったが、それは矢張り自分にとって不得策だと考えつくと、今更安次を連れて来てにじり附けた秋三の抜け目のない遣方に、又腹立たしくなって来た。
 安次は食べ終ると暫く缶詰棚を眺めながら、
「しび[#「しび」に傍点]は美味《うま》いもんや。」とひとり言を云った。
 煙は又風呂場の方から巻き込んで来た。お霜は洗濯竿の脱《はず》れた音を聞きつけて立ち上った。
「お霜さん。煙草一ぷく吸わしてくれんかな。」
「安次、行くぞ。」勘次は云った。
「お前ひとりで行って来てくれんかよ。」
「お前、行かにゃ何んにもならんが。」
「もうお前、ひ怠《だ》るてひ怠るて歩けるか。」
「たったそこまでやないか、向うまで行ったら締めたもんや。お前図々しい構えてりゃことがあるかい。」
「堪《こら》えてくれ。もうもうお前、今夜あたりでも参るかもしれんのじゃ。」
「そんなことを云うてらち[#「らち」に傍点]があくか。」
「こらかなわんのう。」
「行こって、行こって、悪るうなりゃ俺が引き受けてやろぞ。」
「もうお前。」
「行こ行こ、何んじゃ!」
 勘次は安次の手首をとった。安次は両足を菱張りに曲げて立ち上った。

 秋三は麦の種播きに出掛けようと思っていた。が、勘次が安次を間もなく連れて来るにちがいなかろうと思われるとそう遠くへ行く気にもなれなかった。で、彼は軒で薪を割りながら暇々に家の中の人声に気をつけた。
 よく肥えた秋三の母のお留は古着物を背負って、村々を廻って帰って来た。
「今日は馬が狸橋から落ちよってさ。」
 彼女は人の見えない内庭へ這入って大声でそう云うと、荷を縁に下ろして顔を撫でた。が、便所へ行く筈だったと気が附くと、裾を捲って裏口へ行きかけたが、台所の土瓶が眼につくと、また咽喉が渇いているのに気がついた。彼女は土瓶を冠《かぶ》って湯を飲んだ。そこへ勘次が安次を連れて這入って来た。
「秋公いるかな?」
「お前今日な、馬が狸橋の上から落ちよってさ、そりゃ豪《えら》いこっちゃぞな。」とお留は云った。
「秋公はな! 今俺とこへ来よったんやが。」
「知らんぞな。わしゃ今帰ったばっかりやが。お前、馬が横倒しにどぶんと水の中へはまりよったら見い、馬ったら豪《えら》いものや。くれんといっぺんに起き返りよるな。ありゃ! 何んじゃ、お前安次やして!」
「さっき来たんやが、お前いやせんだ。」
 安次は怒《いか》った肩を撫でながら縁に腰を下ろした。
「どうしてるのや?」
「どうって見た通りのざまや。」
「そうか。安次か。長いこと何処へ言ってたんや!」
「亀山や。」
「亀山か、近いところにいたんやして、お前何んじゃぞ、それ痩せて! 死神に憑《つ》かれたみたいやないか。」
「あかん。」
「あかんって、どうしたんやぞ。」
「医者がもうお前、持たん云いさらしてさ、心臓や。どだいわや[#「わや」に傍点]や。」
「心臓や、それは困ったことやないか。まア待っとくれ。」
 お留は周章《あわ》てて厠《かわや》へ行った。そして、戻るとき戸棚の抽出しから白紙を出して、一円包んで出て来ると安次に黙って握らせた。
「あかんのや、あかんのや、もうそんなことして貰うたて。」と安次は云って押し返した。
 しかし、お留は無理に紙幣を握らせた。「薬飲んでるのか?」
「いいや、此の頃はもう飲みとうない。」
「叔母やん、秋がさっき来てな、安次を俺とこへ置いとけって云うのやが、俺とこは困るぜ。」と勘次はきり出した。
「何んやぞ? わし一寸も知らんが。」
「秋公はひどい奴や、こんな病人を俺とこへ無理に引っ張って来てさ。」
「そうかな、あいつ何処へ行っとるのやろ。」
「ほんとにあいつは酷《ひど》い奴やぞ、わざわざ母屋へ頼って来てるのに、俺とこへ連れて来て、何ぼ何でもあんまりや!」
「わしとこにいりゃええわして。」
「阿呆ぬかせ!」と秋三は裏口から叫んで這入って来た。
「秋公、お前、ひどすぎるやないか。」と勘次は云った。
「何がひどい。手前とこは株内や、株内が引きとるのに何の不足がある。」
「お前こそ母屋やないか。母屋のなりして、株内へ廻すってことがあるかい。」
「母屋や、阿呆たれよ、どこがどう母屋や。それを検べてから云うて来い。」
「安次が母屋母屋云うてりゃ、それで分ってるこっちゃ。何も母屋やないもの頼って来る理窟があるか。」
「そんなもの、何代前の母屋かしれたもんか。俺とこが母屋やったら、何処でも母屋や。こんな死にぞこないの、油虫みたいな奴は、どこへへたばりさらすか知れるかい。」
「もう止さえせ。昼日中喧嘩して!」とお留は口を入れた。
「お母ア、黙っとりゃええんじゃ。」
「秋公頼むわ。どこへでもええで寝さしてくれよ。」と安次は云った。
「ぬかしてよ。汝《われ》や汝で、何ぜ俺とこを母屋やなんてたれるのや。どこで聞いて来た。他家《ひと》んとこへ来るなら来るで、ちゃんとして来い。」
「そんなに大っきな声出さんでも、ええわして。」とお留は云った。
「いいや、声ででも嚇《おど》しつけんと、こんな奴、何さらすかしれん。」
「阿呆なこと云うてんと、置いといてやらえな。」
「こんな奴置く位なら、石の頭巾冠ってる方が、ましじゃ。」
 勘次は今が引き時だと思った。そして、そのまま黙って帰りかけると、秋三は彼を呼びとめた。
「勘公、此奴をどうするつもりや。」
「どうするって、こちゃ知らんわ。」
「知らん! もういっぺん云うてみよ。」
「こちゃ知らんてことよ。」
 勘次は後も見ずに帰っていった。秋三は勘次の後を追い馳けようとして二三歩進んだが、又引き返すと、縁へごろりと横になっている安次の襟を持ってひき起した。
「寝さらして、こら!」
「もう勘忍してくれ。」
「勘忍も糸瓜《へちま》もあるかえ。南へ行きやがれ南へ。」
「もうお前、へたばるが。」
「立てったら、立ちさらせ。」
 安次は蹲んだまま怒った片肩をなお張り上げて、戸口までずるずる引き摺られた。
「そんなことせんと、ここで休ましといてやらえな。」とお留は云った。
「何アに此の餓鬼、贋病《にせびょう》使うてくさるのや、あっこまで歩けんことあるものか。」
「痛いが、痛いが、痛いたら!」と安次は云った。
「やかましい、歩け歩け!」
 秋三は忙しそうに安次を曳いて、勘次を見守りながらまた南の方へ下って行った。
 お留は安次に渡した一円の紙幣が庭に落ちているのを見ると、走って行って渡そうかと思ったが、しかしそれでは却《かえ》って追い出すようでいけないし、
「まア好えわア。」と彼女は呟いた。
 それより此の次もう一円増してやる方が、息子の無情な仕打ちを差し引いて功徳《くどく》になるように思われた。彼女は台所へ戻ると又土瓶を冠って湯を飲んだ。

 勘次は後から追って来る秋三の視線を強く背中に感じ出した。足がだんだんと早くなった。それに何ぜだか後を見ていることが出来なかった。竹藪を廻ると急に彼は駈け出したが、結局このままでは自分から折れない限り、二人の間でいつまでも安次を送り合わねばならぬと考えついた時には、もう彼の足は鈍っていた。そして今逆に先手を打って、安次を秋三から心良く寛大に引き取ってやったとしたならば、自分の富の権威を一倍敵に感ぜしめもし、彼の背徳を良心に責めしめもする良策になりはしないか、と考えついた時には、早や彼は家に帰って風呂の湯加減をみる為に、一寸手さきを湯の中につけていた。が、更に又彼は自分の愛人の姿を思い浮べて考えた。もしそうして彼女が自分の博愛を聞き知ったとしたならば? それは確に幸福な婚姻の日を、早めるに役立つことになるだろう。
 秋三は着いた。不足な賃銀を握った馬丁のように荒々しく安次を曳いて、
「勘次、勘次。」と呼びながら這入って来た。勘次は黙って出迎えた。
「これ勘公、逃げさらすなよ。」
「遠いところを済まんのう、何んべんも。」
 秋三は急に静な微笑を浮べた勘次のその出方が腑に落ちかねた。
「安次、手前ここに構えとれよ。今度俺とこへ来さらしたら、殴打《どや》しまくるぞ。」
 安次は戸口へ蹲んだまま俯向いて、
「もうどうなとしてくれ。」と小声で云った。
「当分ここにおったらええが、その中に良うなろうぜ。」
 そう勘次が静に云うと、安次は急に元気な声で早口に、
「すまんこっちゃ、すまんこっちゃ。」
 と云いながら続けさまに叩頭《こうとう》した。勘次は落ちつけば落ちつく程、胸の底が爽やかに揺れて来た。が、秋三は勘次の気持を見破ると、盛り上って来た怒りが急に折れて侮辱の念に変って来た。と同時に安次の弱さに腹の底から憎悪を感じると、彼の掌はいきなり叩頭している安次の片頬をぴしゃりと打った。
「しっかり、養生しやれ。」
 秋三は嘲弄した微笑を勘次に投げた。
「ええか、頼んだぞ。」と彼は云うと、威勢好く表へ立った。
 勘次は秋三の微笑から冷たい風のような寒さを感じた。彼は暫く庭の上を見詰めたまま動けなかった。
「すまんこっちゃわ、えらい厄介かけてのう、大きに大きに。」
 勘次も安次に叩頭されればされる程、不思議に安次を軽蔑したくなって来た。彼は黙って裏の井戸傍へ立って来た。が、秋三の冷たい微笑を思い出すと身体が竦《すく》んで固まった。彼は秋三に追いついて力限り打ち※[#「足へん+倍のつくり」、第3水準1-92-37]《の》めしてしまいたかった。恋人との婚姻もこのまま永久に引き延ばしていたかった。そして、安次を最も残忍な方法で放逐《ほうちく》して了ったならば、彼は秋三の嘲笑を一瞬にして見返すことが出来るように思われた。

 安次は股引の紐を結びながら裏口へ出て来ると、水溜の傍の台石に腰を下ろした。彼は遠い物音を聞くように少し首を延ばして、癖ついた幽《かす》かな笑いを脣に浮かべながら水菜畑を眺めていた。数羽の鶏の群れが藁小屋を廻って、梨の木の下から一羽ずつ静に彼の方へ寄って来た。
「好えチャボや。」と安次は呟いて鶏の群れを眺めていた。
 お霜は遅れた一羽の鶏を片足で追いつつ大根を抱えて藁小屋の裏から現れた。
「また来たんか?」
「また厄介になったんや、すまんが頼むぞな。ええチャボやな。こいつなら大分大っきな卵を産みよるやろ?」
「勘はな?」
「さア、今そこにうろうろしていらったが。」
 安次は三尺の中から丸めた紙幣をとり出した。
「お霜さん。これ持っててくれんかな。二円五十銭あるのやが、何ぞの足しに、ならんかな。」
「そんなにたんと預かっておいて、お前使うて了うたらどうするぞ。」と、お霜は笑って云った。
「何アに使うて貰うたら結構や。持っててお呉れ、使い残りで悪いけど、それだけばち[#「ばち」に傍点]有りゃせんのや。」
「まアお前持ってやいな。お霜さんが安次の金とったなんて云われると、こちゃ困るわ。」
 お霜は家の中へ這入って大根を切った。安次はまた三尺の中へ紙幣を巻くと、
「トトトトトト。」
 と呼びながら鶏の方へ手を延ばした。どこかで土を掘り返す鋤《すき》の音がした。菜園の上からは白い一条の煙が立ち昇っていて、ゆるく西の方へ靡《なび》いていた。
 勘次は叺《かます》を抱えて蔵の中から出て来ると、誰にも相手にされず、台石の上でひとりぼんやりしている安次の姿が眼についた。それは弱々しいとり残された者の感じで不意に彼の心に迫って来た。と勘次は急に今までと全く違った愛情を安次に対して感じ出した。
「安次、今晩は御馳走を食わそうか、よう?」
「いいや、もう結構や。」
「風呂が沸いてるぞ、お前這入らんか?」
「あかんのじゃ、あいつに這入ると、やられるんじゃ。」
「そうかて、いつまでも這入らずにいられまいが。」
「何アに、もうお前かれこれ二タ月這入らんが。」
「二タ月よ?」
 安次はまた三尺から紙幣を出すと近寄って来た勘次にそれを差し出した。
「お前これ持ってくれんかのう。二円五十銭あるのやが、何んぞの足しになるやろぜ。」
「自分で持ってりゃええやないか。」
「こんなもの、五月蠅《うるそ》うてしょうがないが。」
 勘次は安次の※[#「言+稻のつくり」、第4水準2-88-72]《へつら》う容子を見るとまた不快になった。そのまま内庭へ這入って行って叺を下ろすと、流し元にいたお霜が嶮しい顔をして彼の傍へ寄って来た。
「お前まアどうするつもりや、あんな者連れ込んで来てさ。」
「抛っておいたらええが。」
「抛っておけって、たちまちお前どこへ置くぞ。汚い! わしは知らんぞな。お前勝手に世話しやいせ。」
「ええが。」
「ええがも無いやないか。お前たちまちどこへ寝せるつもりや。食わす位ならまだ我慢もしよが、どんと寝附かれて動きもこじりも出来んようになったらどうするぞ!」
「抛っといたらええってば。」
「抛っといてそれで済むもんならええわさ。それより、お前どこで寝せるぞ、奥の間か?」
「小屋へ置いときゃええ。」
「たあいもないお前、あんとこで死なれてみい。五月になったら蚕さん夜養《よがい》せんならんのに誰が恐《こわ》うて行くもんがあるぞ。お前の阿呆にもあきれるわ。」
「秋が連れて来たんやないか、秋に怒ったらええ。」
「秋ってあの餓鬼、どうも仕方のない奴や。ひとん所の恩も知りさらさんとからに、ひとん処へあんな者引っ張って来やがってな、私《わし》今晩喧嘩しまくってやらんならん!」お霜は呟きながらまた大根を切った。
「米を何んぼ出しとこう?」
「連れて来るものがないと、終いにゃあんな乞食の病人引っ張って来さらして!」
「米をよ。」
「一斗でええ。」とお霜はわが子に怒鳴り出した。

 夜、お霜が秋三の家へ安次を連れて行くと云い出したとき、勘次は秋三の前でいかにも寛大に安次を引き取った自分の態度を思い出した。これは困った。しかし、安次を拒んでいるのは自分ではないと思うと気が休まった。それに母親ひとりでとても秋三を説き伏せ終おせるものではないのを知ると、結局また安次は自分の家に落ちつくにちがいないと考えた。でお霜が出掛けてゆくことには、余り親子争いをしたくなかった彼は、外見、自分も母親同様の考えだと云うことを、ただ彼女だけに知らせるために黙っていた。が、安次を連れて行くことには反対した。けれども、自分のその気持を秋三に知らさない限り、自分の骨折りが何の役に立つだろう。そう思うと彼には秋三の罵倒が眼に見えた。が、また自分に安次を引き受ける気持のある以上、敵の罵倒に反抗し得るだけの力は、自然出て来るであろうと思われた。

 秋三の母はひと笊《ざる》豆をむき終えた。そこへ姉のお霜は黙って一人這入って来た。
「姉やんか。丁度ええわ。あのな、生繻子《きじゅす》の丸帯が出たのやが、そりゃ安いのや、買わいせな。」とお留は云った。
「それよりお前とこの秋って、どうも仕様のない奴やぞ。株内やぬかしてからに、わしとこへお前、安次みたいな者引っ張って来さらしてさ。お前とこが困るなら、わしとこかて同じこっちゃ。」
「秋ゃいくら云うても聞きゃせんのやして。あんな者の云うこと生《しょう》しやいすな。」
「そうかて連れて来られたもの、黙っていられるかいな。」
「うちへ連れて来やいせ。何処かて同じこっちゃがな。なア姉やん、中古でな、ほんまに持って来いやが見せようか。織留のとこに一寸した汚点《しみ》があるのやが、二円五十銭にしとくわな。」
「要らん要らん。銭がないわ。」
「直ぐ売れてしまうで今やなきゃあかんぞな。銭なんていつでもええわ。上村の三造さんの嫁さんに頼まれてるのやで、姉やんが要らんだら持っていくけど。」
「わしらそんな良《え》えのしたかて、何処へも見せに行くところがないわ。」
「そんなこと云うてたら、裸体でいようかしらず、まアいっぺん見てみやいせ。」
 お留が奥の間へ立っていった後へ、秋三は牛の雑炊《ぞうすい》をさげて表の方から帰って来た。
「秋よ、お前もお前やないか、とうとうわしとこへ安次をにじりつけてさ。」と、お霜は云った。
 秋三はお霜の来た用事を悟ると痛快な気持が胸に拡った。彼はにやにやしながら云った。
「にじりつけるか。勘が引受けよったのやないか。勘に訊《き》いてみい、勘に。」
「連れて来んもの、誰が引受けるぞ。」
「そりゃお前、お前とこが株内やで俺が連れて行くのはあたり前の話や。」
「お前株内や株内や云うけど、苗字《みょうじ》が一緒やで株内やと定ってまいが、それに自分勝手に私とこへ連れて来て、たちまちわしとこが迷惑するやないか。」
「定ってら、あんな物に迷惑せんとこって、あるもんか。」
「そんならなぜわし所へ連れて来た?」
「伯母やんみたいなしぶったれ[#「しぶったれ」に傍点]や、あんな奴の世話、いっぺん位しといてもええぞ。」
「お前って、※[#「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52]ても焼いても食えん奴やぞ! 業《ごう》ざらし。」
「また喧嘩《けんか》してるわ。もう止さえせ。」とお留は、帯を持って出て来て云った。
「こんなしぶったれ婆と、誰が喧嘩するか。」と秋三は笑って見せた。
「お前、黙っていやいて云うのにな!」
「こいつ、どうしたらええ奴やろ!」とお霜は秋三を睥《にら》んで云った。
「姉やん見やいせ。良え光沢《つや》やろが。汚点《しみ》が惜しいことにちょっと附いてるのでな。」
 お霜は差し出された丸帯を見向きもせず、
「いまに思いしらせてやるわ、覚えてよ。」とまた云った。
 秋三は「帰《い》ね帰ね」と云うとそのまま奥庭の方へ行きかけた。
「何を云うのや! 姉やん、あんな奴に相手にならんと、まア一寸此の帯を見やいせな。」
「そんなもの、どうでもええわ。それよか、安次のことをきりつけんと私《わし》とこが困るわ。」
「安次ならうちへ連れて来てたもれ。なア、手にとって見てみやえな。中古でも夜さりゃと新に買うたように見えようがな。」
「そんなら安次を連れて来るぜ。帯は後でゆっくり見せて貰うわ。」
「あかんぞ、あかんぞ!」と秋三は叫ぶと、奥庭から柄杓《ひしゃく》を持って走って来た。
「うちへ置いといてやってもええわして。」とお留は云った。
「あかん。」
「そんなこと云うてたら、仕方あらへんやないか。」
「あかん、あかん。」
「おかしい子やな。あんな死にかけてる者、何処へ行くところがあるぞ、可哀想に。」
「あんな腐った鰯《いわし》みたいな奴と一緒にいたら、虫が湧くわ。」
「そんな無茶苦茶云うてんと。」
「あかんったらあかん。南のが引き取りゃそれでええんじゃ。」
「お前とこ虫が湧きゃ、わしとこでも虫が湧くわ。」とお霜は云った。
「勘が引受けよったんや。不足があるなら何処へでも抛り出しゃええ。俺とこはもう関係があるもんか。」
「勘が引受けたって、勘はお前、お前が無理に連れて来たで、置いたまでのことやないか。」
「どう云うたかよう勘にきいて来い。」
「勘は知らんと云うとったが。」
「知らん? よしッ、そんなら勘を呼んで来い。殴打《どや》しまくってやるぞ。」
「秋よ、もう黙っていやいせ!」とお留は叱った。
「いいや、勘の餓鬼、豪そうな顔して引受けさらしたくせに、そんなほざいたことをぬかしてるなら、こちにも考えがあるわ。」
「ひちくどい! もうええわして。」
「云うとこまで云わにゃことが分るかい。勘を呼んで来い、勘を。」
「姉やん、もうこうなったら本当にきりがないでな。姉やんとこ今晩ひと晩、安次を置いといてやっとくれ。」
「そんな鳥黐《とりもち》桶へ足突っこむようなこと、わしらかなわんわ。」とお霜は云った。
「ひと晩でええわ。そしたら明日どこぞへ小屋建てよう、清溝《しみぞ》の柿の木の横へでも、藁でちょっと建てりゃわけやないわして、半日《ひんなか》で建つがな。」
「それでもお前、十五六円やそこらかかろがな?」
「その位はそりゃかかるわさ。そやけど瓦のかけらでもあろまいし、藁ばっかしで建てたら後が何なと間に合うがな、なア、そうしようまいか?」
「藁かて二三十束も要るやないか。」
「そんなもの、高が知れてるわして。あんな安次みたいな者を世話しといたら、功徳になるぞな。」
「ひんなかで建つやろか?」
「そればっかしにかかりゃ半日《ひんなか》で建つやろまいか。皆で建てよまいか。そしたら私ゃお粥《かゆ》位毎日運んでやるし、姉やんとこ抛っときゃええわ。」
「そうしようか、藁三十束で足るかお前?」
「足るとも。三畳敷位の小っちゃいのでけっこうやさ。それで安次も一生落ちつけるのや、有難いもんやないか。」
「あんな奴、抛っとけ。」秋三は笑いながら云った。
「阿呆ばっかし云うて!」とお留は叱った。
「あんな碌《ろく》でもない奴は、人目につかん処で死にさらしゃええんじゃ。」
「お前はよっぽど罰あたりやぞ!」
「俺が罰あたりなら、南の伯母やんら、とっくの昔罰あたって死んでら。のう伯母やん?」
「あれ見やえ!」とお留は云って姉を見た。
 お霜は何か考えているらしく黙っていたが、
「お前、小屋建てるなら組で建てて貰うまいか?」と云い出した。
「組が建ててくれりゃ結構やけどなア。」
「そりゃ建てるわさ。いっぺん組長さんに相談してみよまいか?」
「どうなと勝手にせ!」と秋三は云って又奥庭の方へ這入って行った。
「そんなことしてると、またごてごて長びくでな。」とお留は云った。
「そうかてお前、実の所は組が引きとらんならんのやして、お前とこが母屋や云うたて、そんなこと昔から云うてるだけで、何も特別と安次とこと交際してたわけでもなしさ。うちかて株内や云うたてはっきりしたことって何一つないのやし、組が引取らんならんのや。なアそうやろう? その間、わし処に安次を置いとくわ。」
「そんねにうまい工合にいくやろか?」
「まア事は何でもあたってみよや。組長さんに相談してみよにさ。」
「そうしてみるか?」
「なア? わし、これから行って来るわ、事は何んでも当って見よや。何も母屋や株内や云うたかて名だけや。わし一寸これから行って来うぞ。」
 お霜は外へ出ていった。
「しぶったれ!」と秋三は奥庭から叫んだ。しかし、勘次と反馳《はんち》してゆくお霜の出方がますます彼を喜ばしめた。
「こりゃ面白い、こりゃ面白い。」と、秋三は膝を叩いて喜び出した。
 お留は丸帯の汚点をランプの下に晒《さら》してみた。小指の爪で一寸擦ると、
「こりゃ姉やんに持って来いやがなア。」と云いながらまた奥の間へ這入っていった。

 安次の小屋が組から建てられることに定ったと知ったとき、勘次は母親をその夜秋三の家へ送ったことを後悔した。しかし、今はもうその方が何方《どちら》にとっても得策であるに拘らず、強《し》いてそれを打ち壊してまでも自分は自分の博愛を秋三に示さねばならないか? いやそれよりも、一体秋三とは何者か? そう思うと、彼は今一段自分の狡猾さを増して、自分から明らかに堂々と以後一家で負う可き一切の煩雑さを、秋三に尽く背負わして了ったならば、その鮮かな謀叛《むほん》の手腕が、いかに辛辣《しんらつ》に秋三の胸を突き刺すであろうと思われた。
 彼は初めて秋三に復讐し終えたような快活な気持になった。

十一

 一週間の後、小さな藁小屋が掘割の傍に建てられた。そこは秋三の家に属している空地であった。
 その日最早や安次は自由に歩くことも出来なくなっていた。彼は勘次の家の小屋から戸板に吊られて新しい小屋まで運ばれた。
 勘次は自分の手から全く安次が離れていったのだと思うと、今迄の安次に向っていた自分の態度は、尽く秋三に動かされていた自分の頭の所作事であったと気が附いた。けれども別に何の悔い心も起らなかった。ただ彼は自分の博愛心を恋人に知らす機会を失つたことを少なからず後悔した後で、それほどまでも秋三に踊らせられた自分の小心が腹立たしくなって来た。が、曽て敵の面前で踊った彼の寛大なあのひと踊りの姿は、一体彼の心の何処へ封じ込まねばならないのか? 彼は次第に不機嫌になって来た。
「厄介者が行ってくれたんで、晴々するわ。あんな者にいられると、こちまで病気つくがな。」
 お霜は安次の立った後の掃除をしながらそう勘次に云った。勘次は何ぜだか母親に突きかかっていきたくなったが黙っていた。
「それでもお前のお蔭でみやいせ、蒲団三枚も損したわ。あの蒲団かて手織やが、まだそんねに着やせんのやぞ。お前ら碌なことしやせんのや。」
「好きで誰が連れて来る!」と息子は強く云った。お霜は何ぜ息子が怒り出したのかを疑いながら、
「お前が要らんことせなんだら誰が来るぞ!」と云い返した。
「済んでから、ごてごて云うな!」
「云う云う。お前の阿呆にもあきれるわ。」
「勝手に饒舌《しゃべ》ってよ!」
「要らんことばっかしてな。お前ら自家《うち》の財産減らすことより考えやせんのや。」
「安次の一疋やそこら何んじゃ。それに組へのこのこ出かけていって恰好の悪いこと知らんのか!」
「何を云うのや、お前!」
 お霜は勘次をじっと見た。
「しぶったれ!」勘次は小屋の外へ出ていった。
 お霜は何ぜ勘次が怒るのか全く分らなかった。が、自分の吝嗇の一事として、曽て勘次を想わない念から出たことがあっただろうか? 彼女は追っ馳けていって自分の悩ましさを尽く勘次に投げかけてやりたくなった。すると涙が溢れて来た。

十二

 お霜が安次の小屋へ行ってみたとき、もう組の人達は帰っていた。
「厄介ばっかしかけて、ほんまにすまんこっちゃ。」
 安次はお霜を見ると弱々しい声で云った。お霜は彼の声からいかにも有難そうな気持を感じると初めて愉快になって来た。
「きょうは天気がよいで気持好かろが、ここにいたらお前、ええ隠居さんやがな。」
 彼女は貸した安次の着ている蒲団を一寸見た。そして彼が死んでからまだ役に立つかどうかと考えたが、彼女の気持が良ければ良いだけ、安次を世話した自分の徳が、死んだ良人の「あの世の苦しさ」まで滅ぼすように思われてありがたくなって来た。彼女は入口の筵戸《むしろど》を捲き上げた。陽の光りは新しい小屋いっぱいに流れ込んだ。病人の頬や眼窩《がんか》や咽喉の窪みに深い影が落ちて鎮まった。お霜は床に腰を下ろすと、うっとりしながら眼の前に拡っている茶の木畑のよく刈り摘まれた円い波々を眺めていた。小屋の裏手の深い掘割の底を流れる水の音がした。石橋を渡る駄馬の蹄の音もした。そして、満腹の雀は弛《たる》んだ電線の上で、無用な囀《さえず》りを続けながらも尚おいよいよ脹《ふく》れて落ちついた。
「姉さん、すまんな、今お医者さんとこへ行って来たんやわ。もう来てくれやっしゃるやろ。」
 暫くしてお霜はお留に呼び醒まされて彼女を見た。
「どうや、一寸はええか?」とお留は安次を覗いて訊いた。
「すまんこっちゃ、皆に厄介かけるなア。」
 お霜は妹にそう云っている安次の声からも感謝の気持を見出した。そして、自分が預る「仏の利生《りしょう》」を、それだけ妹の方に分けられはすまいかと、今さら不安な気持が起って来ると、自分よりも先に医者を迎えに行ったお留の仕打ちに微かな嫉妬を感じて来た。
「何ぞ欲しいものはないか?」とお霜は安次に訊いた。
「結構や。」
「お前この間、銭持ってたの、どうしたぞ。それだけ欲しいもんでも買う方が好かろが?」
「火ん中へ燻《く》べて了うた。」
「燻べた!」
「邪魔になって仕様がない。」
「たあいもない。どうや、あんな物燻べて何んにもならんやないか!」
「もう半分気が触れてるのやぞ。」とお留は云った。
 二人は暫く安次の痩せ衰えた顔を黙って眺めていた。すると、どちらも同じように、病人が最早や自分達と余程離れた不思議な遠い世界にいることを感じて恐ろしくなって来た。が直ぐその後で、お霜は病人が紙幣を自分に預ってくれと頼んだとき、預っておけば好かったと思って後悔した。だが、お留は、安次に与えようとしてまだそのままにしておいた金包のことを思い出すと、今まで忘れていたのは結局自分に仏様がそれだけ授けて下さったのだと思って喜んだ。

十三

 霜が降りた。夜が明け初めると間もなくその日は晴れ渡るであろう。山々の枯れた姿の上には緑色の霞が流れていた。いつもの雀は早くから安次の新しい小屋の藁条《わらすじ》を抜きとっては巣に帰った。が、一疋の空腹な雀は、小屋の前に降りると小刻みに霜を蹴りつつ、垂れ下った筵戸の隙間から小屋の中へ這入っていった。
 中では、安次が蒲団から紫色の斑紋を浮かばせた怒《いか》った肩をそり出したまま、左右に延ばした両手の指を、縊《くび》られた鶴の爪のように鋭く曲げて冷たくなっていた。が、雀は一粒の餌さえも見附けることが出来なかった。で、小屋の中を小声で囀りながら一廻りすると外へ出て来て、また茶畑の方へ霜を蹴り蹴りぴょんぴょんと飛んでいった。

十四

 野路では霜柱が崩れ始めた。お霜は粥を入れた小鉢を抱えたまま、
「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ。安次が死んどる。熱いお粥食わそう思って持っててやったのに、死んどるわア。」と叫びながら、秋三の家の裏口から馳け込んだ。
 お霜の叫びに納戸からお留が出て来た。秋三は藁小屋から飛び出て来た。そして二人が安次の小屋へ馳けて行くと、お霜はそのまま自分の家へ馳けて帰って勘次に云った。
「お前えらいこっちゃ。安次が死によった。折角お粥持っててやったのに、冷とうなって死んどるのやして。」
「死によったか!」
「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ。」
 お霜は小鉢を台所へ置くと、さて何をして好いものかと迷ったが、別に大事な出来事が起ったのでもなく、ただ自分ひとりが勝手に狼狽《うろた》えているのだと気が附いた。が、その狼狽えたどこかには、常より却って晴やかな気持が流れていたことには彼女とても気附かなかった。

十五

 勘次とお霜は直ぐ又安次の小屋へ行った。勘次は初め秋三と顔を合すのが不快さに行きたくはなかったが、それは却って秋三を恐れているようでいけないし、とうとう何時の間に決心したのか自分ながら分らずに、ただ母親に曳かれる気持で小屋へ来た。
「おい、喜びやれ、往生しよったぞ。」
 秋三は勘次を見るなり皮肉な微笑を浮かべて云った。
 勘次は彼の微笑から曽て覚えた嘲弄を感じると、憤りが胸に込み上げた。が、それを見抜かれるのが不快であった。彼は入口に下っていた筵戸を引きちぎって、
「こんな邪魔物は要らんやろが。」とごまかした。
「伯母やんに訊いてみよ、神棚へでも吊らっしゃろで。」
 勘次は秋三を一寸|睥《にら》んだが、また黙って霜解けの湿った路の上へ筵を敷いて上から踏んだ。
「さアお前らぼんやりしてんと、どうするのや?」とお霜は云った。
「和尚さん呼んで来うまいか。」とお留は云った。
「それよか何より棺桶や。棺桶どうする?」と秋三は云い出した。
「うちのお父つぁんの死んだときは棺桶やったが、あれでもお前、八円したぞな。」とお霜は云った。
「六分板やろが。あれならその位かかるわさ。杉の四分板やったら五円位で出来るやろ。」とお留は云った。
「大分苦しみよったらしいな。」
 勘次は安次の紫色に変っている指さきを弄びながらそう云うと、
「苦しかったやろまいか。可哀想に、水いっぱい飲ましてくれる者がありゃせんしさ。」とお留が云った。
「やっぱり極道すると、碌な死にざま出来やせんなア。」とお霜は云った。
「棺桶どうする。」と秋三はまた云い出した。
「箱棺で好かろが。あれなら三円位で出来るしな。」
「寝棺はどうや、もっと安かろが?」
「寝棺は高い高い。どんねに安うても十両はかかる。」
「そうか。そんなら箱棺の口や。どうや伯母やん。ひとつ奮発してくれんか?」
「伯母やん。伯母やんって、損のいくことやったら、何んでもわしににじりつけるのやな。わしとこはもう、蒲団出したやないか。お前とこしてやれ。」
「そうかて、本当に勘が何もかも引き受けよったんやないか。そのくせ組へにじりつけて了うてさ。棺桶ぐらいしてもええぞ。」
「うちのがしたらええわして。」とお留は秋三をたしなめた。
「俺がする。」と勘次は云った。
「それみよ。」と秋三は煽《おだ》てて云って、勘次の額に現れ始めた怒りの条を見れば見る程、ますます軽快に皮肉の言葉が流れそうに思われた。
「勘よ、うちにビール箱が沢山あったやろが、あれで作ったらどうやろな?」とお霜は云い出した。
 秋三はにやにや笑いながら、
「そいつは好え。あれなら八分板や、あんなもんでして貰うたら、それこそ極楽へ行きよるに定ってる。やっぱり伯母やんやなけりゃ、ええ考えが出て来んわ。」
「なア、あれはほんとに好かろが、三つ位で出来るやろ。」
「二つでええとも。あれでして貰うたら、安次もなかなか腐らへんわ。そりゃ結構や。」とお留は云った。
「勘よ。お前これから帰《い》んで、一寸|拵《こしら》えて来てくれんか。」
 勘次は黙って帰って来た。母親が煽動に乗せられているのを思うと、別に大工の手にかけて棺を造ろうかと思った。が、しかし一々秋三に反抗するのもあまり大人気ないように思われた。が、何かにつけて自分の弱味――安次を組の手に押し附けたと云う此の弱味、それは自分の知らないことだと彼一人拒否したとて免れないその点に、――絶えず触れて出ようとする秋三の態度には我慢がしきれなかった。彼は棚からビール箱を下ろすと、一枚一枚釘打で板を放した。放しながら、秋三を叩いている所を想像すると、尚お彼の力は加わった。
「此の餓鬼! 此の餓鬼! 此の餓鬼!」
 彼は釘打を振り上げては打ち下ろした。すると、自分が棺を造っているのだと云うことも忘れて了って、だんだん加わって来る気持良い興奮の中に、間もなく彼は三つの箱をばらばらの板切れにして了った。そして、一時間の後には旭《あさひ》の紋の浮き上った四角い大きな箱棺が安次の小屋へ運ばれていた。

十六

「こりゃ上等や。こんなんなら俺でも這入りたいが。どうや伯母やん、一寸這入ってみやえ。」と秋三はお霜に云って、勘次の造って来た箱棺を叩いてみた。
「冗談云わんと、早よ安次を入れてたもれ。」とお霜は云った。
「こんな汚い奴、俺ゃ知らんぞ。」
「何でも知らん知らんと云うてよ。」
 お霜は安次の蒲団を捲って、「早う。」と秋三を促した。
「おい、掻き込もうやないか、汚い。」
 秋三は勘次にそう云って棺を横に倒すと安次の死体の傍へ近寄せた。
 二人は安次の身体を転がしながら、棺の中へ掻き寄せようとした。が、張り切った死人の手足が縁に閊《つか》えて嵌《はま》らなかった。秋三は堅い柴を折るように、膝頭で安次の手足の関節をへし折った。そして、棺を立てると身体はごそりと音を立てて横さまに底へ辷《すべ》った。
 秋三は棺を一人で吊り上げてみた。
「此奴、軽石みたいな奴や。」
「そやそや、お前今頃から棺桶の中へ入れたらあかんがな。お医者さんの診断書貰うて、役場へ死亡届出さにゃ叱られるわして。」とお留は云った。
「そんなら、もういっぺん打ちやけるか?」
 秋三はお霜を眺めてそう訊くと、お霜は安次の着ていた蒲団を摘まみ上げて眺めた。
「そんな汚い物、焼いて了え。」と秋三は云った。
「よう云うてくれるな。これでもお前、洗濯してちゃんとしたら、結構間に合うわ。」
「まだそれでも、着て寝よう思うてるのやな。」
「きまってるわ。」
「しぶったれ!」
「何がしぶったれや!」
「まアまア伯母やんみたいなしぶったれて、あったもんやないわ。」
 すると、お霜はいつになく厳しい眼付で秋三を睥みながら腰を延ばした。
「よう云うな! 汝《われ》や自分の棟の下で飯が食っていけるのは、誰のお蔭やと思うてる。此のしぶったれの伯母が有ってこそやぞ。それも知りさらさんとからに、渋ったれ渋ったれって一寸は人の恩も考えてから云いや!」
「ぬかしてよ! 俺とこが恩受けてるのは、手前とこの親父にじゃ。」
「わしがいなんだら、誰がお前らに恩を施すぞ!」
「恩恩って、大っきな声でぬかすな! 手前とこが有るばっかしで、俺とこまで穢《けが》しやがって、そんな恩施しなら、いつなと持っていけ!」
 勘次は怒りのために慄《ふる》え出した。と、彼は黙って秋三の顔を横から殴打《う》った。秋三は蹌踉《よろ》めいた。が、背面の藁戸を掴んで踏み停ると、
「何さらす。」と叫んで振り返った。
 再び勘次は横さまに拳《こぶし》を振った。秋三は飛びかかった。と忽ち二人は襟を握って、無数の釘を打ち込むように打ち合った。ばたりと止めて組み合った。母親達は叫びを上げた。彼女達は、夫々自分の息子を引き放そうとした。が、二人の塊りは無言のまま微かな唸りを吐きつつ突き立って、鈍い振子のように暫く左右に揺れていた。
「此の餓鬼めッ。」
「くそったれッ。」
 勘次の身体は秋三を抱きながら、どっと後の棺を倒して蒲団の上へ顛覆《てんぷく》した。安次の半身は棺から俯伏に飛び出した。四つの足は跳ね合った。安次の死体は二人に蹴りつけられる度毎に、へし折れた両手を振って身を踊らせた。と、間もなく、二人は爆《は》ぜた栗のように飛び上った。血が二人の鼻から流れて来た。
「エーイくそッ。」
「何にをッ。」
 二人は再び一つに組みついた。と、また二人は安次の上へどっと倒れると、血に濡れながら死体の上で蹴り合い出した。
[#地から1字上げ](大正十年)

底本:「日本文學全集 29 横光利一集」新潮社
   1961(昭和36)年2月20日
   1966(昭和41)年12月30日15刷
初出:「人間」
   1921(大正10)年2月
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
入力:ウィルキンス賢侍
校正:米田
2012年1月4日作成
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横光利一

頭ならびに腹——横光利一

真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。
 とにかく、かう云ふ現象の中で、その詰み込まれた列車の乗客中に一人の横着さうな子僧が混つてゐた。彼はいかにも一人前の顔をして一席を占めると、手拭で鉢巻をし始めた。それから、窓枠を両手で叩きながら大声で唄ひ出した。
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「うちの嬶ア
 福ぢやア
 ヨイヨイ、
 福は福ぢやが、
 お多福ぢや
 ヨイヨイ。」
[#ここで字下げ終わり]
 人々は笑ひ出した。しかし、彼の歌ふ様子には周囲の人々の顔色には少しも頓着せぬ熱心さが大胆不敵に籠つてゐた。
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「寒い寒いと
 云たとて寒い。
 何が寒かろ。
 やれ寒い。
 ヨイヨイ。」
[#ここで字下げ終わり]
 彼は頭を振り出した。声はだんだんと大きくなつた。彼のその意気込みから察すると、恐らく目的地まで到着するその間に、自分の知つてゐる限りの唄を唄ひ尽さうとしてゐるかのやうであつた。歌は次ぎ次ぎにと彼の口から休みなく変へられていつた。やがて、周囲の人々は今は早やその傍若無人な子僧の歌を誰も相手にしなくなつて来た。さうして、車内は再びどこも退窟と眠気のために疲れていつた。
 そのとき、突然列車は停車した。暫く車内の人々は黙つてゐた。と、俄に彼等は騒ぎ立つた。
「どうした!」
「何んだ!」
「何処だ!」
「衝突か!」
 人々の手から新聞紙が滑り落ちた。無数の頭が位置を乱して動揺めき出した。
「どこだ!」
「何んだ!」
「どこだ!」
 動かぬ列車の横腹には、野の中に名も知れぬ寒駅がぼんやりと横たはつてゐた。勿論、其処は止るべからざる所である。暫くすると一人の車掌が各車の口に現れた。
「皆さん、此の列車はもうここより進みません。」
 人々は息を抜かれたやうに黙つてゐた。
「H、K間の線路に故障が起りました。」
「車掌!」
「どうしたツ。」
「皆さん、この列車はもうここより進みません。」
「金を返せツ。」
「H、K間の線路に故障が起りました。」
「通過はいつだ?」
「皆さん、此の列車はもうここより進みません。」
 車掌は人形のやうに各室を平然として通り抜けた。人々は車掌を送つてプラツトホームへ溢れ出た。彼等は駅員の姿と見ると、忽ちそれを巻き包んで押し襲せた。数箇の集団が声をあげてあちらこちらに渦巻いた。しかし、駅員らの誰もが、彼らの続出する質問に一人として答へ得るものがなかつた。ただ彼らの答へはかうであつた。
「電線さへ不通です。」
 一切が不明であつた。そこで、彼ら集団の最後の不平はいかに一切が不明であるとは云へ、故障線の恢復する可き時間の予測さへ推断し得ぬと云ふ道断さは不埒である、と迫り出した。けれ共一切は不明であつた。いかんともすることが出来なかつた。従つて、一切の者は不運であつた。さうして、この運命観が宙に迷つた人々の頭の中を流れ出すと、彼等集団は初めて波のやうに崩れ出した。喧騒は呟きとなつた。苦笑となつた。間もなく彼らは呆然となつて了つた。しかし、彼らの賃金の返済されるのは定つてゐた。畢竟彼らの一様に受ける損失は半日の空費であつた。尚ほ引き返す半日を合せて一日の空費となつた。そこで、此の方針を失つた集団の各自とる可き方法は、時間と金銭との目算の上自然三つに分かれねばならなかつた。一つはその当地で宿泊するか、一つはその車内で開通を待つか、他は出発点へ引き返すべきかいづれであるか。やがて、荷物は各車の入口から降ろされ出した。人波はプラツトから野の中へ拡り出した。動かぬ者は酒を飲んだ。菓子を食べた。女達はただ人々の顔色をぼんやりと眺めてゐた。
 所がかの子僧の歌は、空虚になつた列車の中からまたまた勢ひ好く聞え出した。
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「何んぢや
 此の野郎
 柳の毛虫
 払ひ落せば
 またたかる、
 チヨイチヨイ。」
[#ここで字下げ終わり]
 彼はその眼前の椿事は物ともせず、恰も窓から覗いた空の雲の塊りに噛みつくやうに、口をぱくぱくやりながら。その時である。崩れ出した人波の中へ大きな一つの卓子が運ばれた。そこで三人の駅員は次のやうな報告をし始めた。
「皆さん。お急ぎの方はここへ切符をお出し下さい。S駅まで引き返す列車が参ります。お急ぎのお方はその列車でS駅からT線を迂廻して下さい。」
 さて、切符を出すものは? 群衆は鳴りをひそめて互に人々の顔を窺ひ出した。何ぜなら、故障線の列車はいつ動き出すか分らなかつた。従つて迂廻線の列車とどちらが早く目的地に到着するか分らなかつた。
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さて?
さて?
さて?
[#ここで字下げ終わり]
 一人の乗客は切符を持つて卓子の前へ動き出した。駅員はその男の切符に検印を済ますと更に群衆の顔を見た。が、卓子を巻き包んでそれを見守つてゐる群衆の頭は動かなかつた。

 さて?
 さて?
 さて?

 暫くすると、また一人じくじくと動き出した。だが、群衆の頭は依然として動かなかつた。そのとき、彼らの中に全身の感覚を張り詰めさせて今迄の様子を眺めてゐた肥大な一人の紳士が混つてゐた。彼の腹は巨万の富と一世の自信とを抱蔵してゐるかのごとく素晴らしく大きく前に突き出てゐて、一条の金の鎖が腹の下から祭壇の幢幡のやうに光つてゐた。
 彼はその不可思議な魅力を持つた腹を揺り動かしながら群衆の前へ出た。さうして彼は切符を卓子の上へ差し出しながらにやにや無気味な薄笑ひを洩して云つた。
「これや、こつちの方が人気があるわい。」
 すると、今迄静つてゐた群衆の頭は、俄に卓子をめがけて旋風のやうに揺らぎ出した。卓子が傾いた。「押すな! 押すな!」無数の腕が曲つた林のやうに。尽くの頭は太つた腹に巻き込まれて盛り上つた。
 軈て、迂廻線へ戻る列車の到着したのはそれから間もなくのことであつた。群衆はその新しい列車の中へ殺到した。満載された人の頭が太つた腹を包んで発車した。跡には、踏み蹂じられた果実の皮が。風は野の中から寒駅の柱をそよそよとかすめてゐた。
 すると、空虚になつて停つてゐる急行列車の窓からひよつこりと鉢巻頭が現れた。それは一人取り残されたかの子僧であつた。彼はいつの間にか静まり返つて閑々としてゐるプラツトを見ると、
「おッ。」と云つた。
 しかし、彼は直ぐまた頭を振り出した。
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「汽車は、
 出るでん出るえ、
 煙は、のん残るえ、
 残る煙は
 しやん癪の種
 癪の種。」
[#ここで字下げ終わり]
 歌は瓢々として続いて行つた。振られる鉢巻の下では、白と黒との眼玉が振り子のやうに。
 それから暫くしたときであつた。一人の駅員が線路を飛び越えて最初の確実な報告を齎した。
「皆さん、H、K間の土砂崩壊の故障線は開通いたしました。皆さん、H、K間の……」
 しかし、乗客の頭はただ一つ鉢巻の頭であつた。しかし、急行列車は烏合の乗合馬車のやうに停車してゐることは出来なかつた。車掌の笛は鳴り響いた。列車は目的地へ向つて空虚のまま全速力で馳け出した。
 子僧は? 意気揚々と窓枠を叩きながら。一人白と黒との眼玉を振り子のやうに振りながら。

 「ア――
  梅よ、
  桜よ、
  牡丹よ、
  桃よ、
  さうは
  一人で
  持ち切れぬ
  ヨイヨイ。」

底本:「定本横光利一全集 第一巻」河出書房新社
   1981(昭和56)年6月30日初版発行
底本の親本:「無禮な街」文藝日本社
   1924(大正13)年5月20日発行
初出:「文藝時代 第1巻第1号」
   1924(大正13)年10月1日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、旧字、旧仮名の底本の表記を、新字旧仮名にあらためました。
入力:高寺康仁
校正:松永正敏
2001年12月10日公開
2006年5月19日修正
青空文庫作成ファイル:
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横光利一

冬の女——横光利一

 女が一人|籬《まがき》を越してぼんやりと隣家の庭を眺めてゐる。庭には数輪の寒菊が地の上を這ひながら乱れてゐた。掃き寄せられた朽葉の下からは煙が空に昇つてゐる。
「何を考へていらつしやるんです。」と彼女に一言訊ねてみるが良い。
 彼女は袖口を胸に重ねて、
「秋の歌。」
 もし彼女がそのやうに答へたなら止《と》めねばならぬ。静に彼女の手を曳いて、
「あなたは春の来るのを考へねばなりません。家へ帰つてお茶でもお煎れになつてはどうですか。春の着物の御用意はいかゞです。湯のしん/\と沸き立つた銅壷の傍で縫物をして下さい。あなたの良人は間もなく手先を赤くして帰つて来るでせう。それまであなたは過ぎ去つた秋の物思ひに耽つてはいけません。秋には幸福がありません。さア家の中へ這入らうではありませんか。もし炭箱へ手を入れることがお嫌ひなら手袋を借しませう。水は冷めたくとも間もなく帰る良人の手先を考へておやりなさい。花々はまだ花屋の窓の中で凋んではをりません。暖炉の上の花瓶から埃りをとつて先づ一輪の水仙を差し給へ。縁の上では暖く日光が猫を眠らせ、小犬は明るい自分の影に戯れてゐる筈です。だが、あなたはあの山茶花を見てはなりません。あの花はあれは淋しい。物置の影で黙然と咲きながら散つて行きます。あなたは快活に白い息をお吐きなさい。あの散り行く花弁に驚いて飛び立つ鳥のやうに。眼をくる/\むいて白い大根《だいこ》をかゝヘて勝手元でお笑ひなさい。良人の持つて帰つた包からはあなたの新らしいシヨールが飛び出るでせう。しかし、春は間もなく来るのです。手水鉢の柄杓の周囲で蜜蜂の羽音が聞えます。村から街へ登る車の数が日増しに増して参ります。百舌は遠い国へ帰つて行き、枯枝からは芽が生々と噴き出します。あなたは、愛人の手をとつて郊外を漫歩する二人の若い人達を見るでせう。そのときあなたは良人の手をとつて、『まア、春が来ましたわ。ね、ね。』と云ひ給へ。だが、あなたの良人のスプリングコートは黴の匂ひがしてゐてはいけません。」

底本:「定本横光利一全集 第二巻」河出書房新社
   1981(昭和56)年8月31日初版発行
底本の親本:「改造」
   1924(大正13)年12月1日発行、第6巻第12号
初出:「改造」
   1924(大正13)年12月1日発行、第6巻第12号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、旧字、旧仮名の底本の表記を、新字旧仮名にあらためました。
※くの字点と踊り字「ゞ」は、底本のママとしました。
入力:高寺康仁
校正:松永正敏
2001年12月11日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。