幸田露伴

鵞鳥——- 幸田露伴

ガラーリ
 格子《こうし》の開《あ》く音がした。茶の間に居た細君《さいくん》は、誰《だれ》かしらんと思ったらしく、つと立上って物の隙《すき》からちょっと窺《うかが》ったが、それがいつも今頃《いまごろ》帰るはずの夫だったと解《わか》ると、すぐとそのままに出て、
「お帰りなさいまし。」
と、ぞんざいに挨拶《あいさつ》して迎《むか》えた。ぞんざいというと非難するように聞えるが、そうではない、シネクネと身体《からだ》にシナを付けて、語音に礼儀《れいぎ》の潤《うるお》いを持たせて、奥様《おくさま》らしく気取って挨拶するようなことはこの細君の大の不得手《ふえて》で、褒《ほ》めて云《い》えば真率《しんそつ》なのである。それもその道理で、夫は今でこそ若崎《わかざき》先生、とか何とか云われているものの、本《もと》は云わば職人で、その職人だった頃には一※[#小書き片仮名ト、1-6-81]通りでは無い貧苦《ひんく》と戦ってきた幾年《いくねん》の間《あいだ》を浮世《うきよ》とやり合って、よく搦手《からめて》を守りおおさせたいわゆるオカミサンであったのであるし、それに元来が古風実体《こふうじってい》な質《たち》で、身なり髪《かみ》かたちも余り気にせぬので、まだそれほどの年では無いが、もはや中婆《ちゅうば》ァさんに見えかかっている位である。
「ア、帰ったよ。」
と夫が優しく答えたことなどは、いつの日にも無いことではあったが、それでも夫は神経が敏《さと》くて、受けこたえにまめで、誰に対《むか》っても自然と愛想好《あいそよ》く、日々家へ帰って来る時立迎えると、こちらでもあちらを見る、あちらでもこちらを見る、イヤ、何も互《たがい》にワザと見るというのでも無いが、自然と相見るその時に、夫の眼《め》の中に和《やわ》らかな心、「お前も平安、おれも平安、お互に仕合《しあわ》せだナア」と、それほど立入った細かい筋路《すじみち》がある訳では無いが、何となく和楽《わらく》の満足を示すようなものが見える。その別に取立てて云うほどの何があるでも無い眼を見て、初めて夫がホントに帰って来たような気がし、そしてまた自分がこの人の家内《かない》であり、半身であると無意識的に感じると同時に、吾《わ》が身が夫の身のまわりに附《つ》いてまわって夫を扱《あつか》い、衣類を着換《きか》えさせてやったり、坐《ざ》を定めさせてやったり、何にかかにか自分の心を夫に添《そ》わせて働くようになる。それがこの数年の定跡《じょうせき》であった。
 ところが今日《きょう》はどういうものであろう。その一※[#小書き片仮名ト、1-6-81]眼が自分には全く与《あた》えられなかった。夫はまるで自分というものの居ることを忘れはてているよう、夫は夫、わたしはわたしで、別々の世界に居るもののように見えた。物は失われてから真の価《あたい》がわかる。今になって毎日毎日の何でも無かったその一※[#小書き片仮名ト、1-6-81]眼が貴《たっと》いものであったことが悟《さと》られた。と、いうように何も明白に順序立てて自然に感じられるわけでは無いが、何かしら物苦しい淋《さび》しい不安なものが自分に逼《せま》って来るのを妻は感じた。それは、いつもの通りに、古代の人のような帽子《ぼうし》――というよりは冠《かんむり》を脱《ぬ》ぎ、天神様《てんじんさま》のような服を着換えさせる間にも、いかにも不機嫌《ふきげん》のように、真面目《まじめ》ではあるが、勇《いさ》みの無い、沈《しず》んだ、沈んで行きつつあるような夫の様子《ようす》で、妻はそう感じたのであった。
 永年《ながねん》連添《つれそ》う間には、何家《どこ》でも夫婦《ふうふ》の間に晴天和風ばかりは無い。夫が妻に対して随分《ずいぶん》強い不満を抱《いだ》くことも有り、妻が夫に対して口惜《くや》しい厭《いや》な思《おもい》をすることもある。その最も甚《はなはだ》しい時に、自分は悪い癖《くせ》で、女だてらに、少しガサツなところの有る性分《しょうぶん》か知らぬが、ツイ荒《あら》い物言いもするが、夫はいよいよ怒《おこ》るとなると、勘高《かんだか》い声で人の胸にささるような口をきくのも止《や》めてしまって、黙《だま》って何も言わなくなり、こちらに対って眼は開《あ》いていても物を見ないかのようになる。それが今日《きょう》の今のような調子合《ちょうしあい》だ。妙《みょう》なところに夫は坐《すわ》り込《こ》んだ。細工場《さいくば》、それは土間になっているところと、居間とが続いている、その居間の端《はし》、一段低くなっている細工場を、横にしてそっちを見ながら坐ったのである。仕方がない、そこへ茶をもって行った。熱いもぬるいも知らぬような風に飲んだ。顔色《かおいろ》が冴《さ》えない、気が何かに粘《ねば》っている。自分に対して甚しく憎悪《ぞうお》でもしているかとちょっと感じたが、自分には何も心当りも無い。で、
「どうかなさいましたか。」
と訊《き》く。返辞が無い。
「気色《きしょく》が悪いのじゃなくて。」
とまた訊くと、うるさいと云わぬばかりに、
「何とも無い。」
 附《つ》き穂《ほ》が無いという返辞の仕方だ。何とも無いと云われても、どうも何か有るに違《ちが》い無い。内《うち》の人の身分が好《よ》くなり、交際《こうさい》が上って来るにつけ、わたしが足らぬ、つり合い足らぬと他の人達に思われ云われはせぬかという女気《おんなぎ》の案じがなくも無いので、自分の事かしらんとまたちょっと疑《うたぐ》ったが、どうもそうでも無いらしい。
 定《き》まって晩酌《ばんしゃく》を取るというのでもなく、もとより謹直《きんちょく》倹約《けんやく》の主人であり、自分も夫に酒を飲まれるようなことは嫌《きら》いなのではあるが、それでも少し飲むと賑《にぎ》やかに機嫌好くなって、罪も無く興じる主人である。そこで、
「晩には何か取りまして、ひさしぶりで一本あげましょうか。」
と云った。近来|大《おおい》に進歩して、細君はこの提議《ていぎ》をしたのである。ところが、
「なぜサ。」
と善良な夫は反問の言外に明らかにそんなことはせずとよいと否定《ひてい》してしまった。是非《ぜひ》も無い、簡素《かんそ》な晩食《ばんしょく》は平常《いつも》の通りに済《す》まされたが、主人の様子は平常《いつも》の通りでは無かった。激《げき》しているのでも無く、怖《おそ》れているのでも無いらしい。が、何かと談話《だんわ》をしてその糸口《いとぐち》を引出そうとしても、夫はうるさがるばかりであった。サア、まことの糟糠《そうこう》の妻たる夫思いの細君はついに堪《こら》えかねて、真正面から、
「あなたは今日はどうかなさったの。」
と逼《せま》って訊いた。
「どうもしない。」
「だって。……わたしの事?」
「ナーニ。」
「それならお勤先の事?」
「ウウ、マアそうサ。」
「マアそうサなんて、変な仰《おっしゃ》り様《よう》ネ。どういうこと?」
「…………」
「辞職?」
と聞いたのは、吾が夫と中村という人とは他の教官達とは全く出《で》が異《ちが》っていて、肌合《はだあい》の職人風のところが引装《ひきつくろ》わしてもどこかで出る、それは学校なんぞというものとは映《うつ》りの悪いことである。それを仲の好い二人《ふたり》が笑って話合っていた折々のあるのを知っていたからである。
「ナーニ。」
「免職《めんしょく》? 御《お》さとし免職ってことが有るってネ。もしか免職なんていうんなら、わたしゃ聴《き》きやしない。あなたなんか、ヤイヤイ云われて貰《もら》われたレッキとした堅気《かたぎ》のお嬢《じょう》さんみたようなもので、それを免職と云えば無理|離縁《りえん》のようなものですからネ。」
「誰も免職とも何とも云ってはいないよ。お先ッ走り! うるさいネ。」
「そんならどうしたの? 誰か高慢《こうまん》チキな意地悪と喧嘩《けんか》でもしたの。」
「イイヤ。」
「そんなら……」
「うるさいね。」
「だって……」
「うるさいッ。」
「オヤ、けんどんですネ、人が一生懸命《いっしょうけんめい》になって訊《き》いてるのに。何でそんなに沈んでいるのです?」
「別に沈んじゃいない。」
「イイエ、沈んでいます。かわいそうに。何でそんなに。」
「かわいそうに、は好かったネ、ハハハハ。」
「人をはぐらかすものじゃありませんよ。ホン気になっているものを。サ、なんで、そんなに……。なんでですよ。」
「ひとりでにカなア。」
「マア! 何も隠《かく》さなくったッていいじゃありませんか。どういう入《い》※[#小書き片仮名リ、1-6-91]訳《わけ》なんですか聴かせて下さい。実はコレコレとネ。女だって、わたしあ、あなたの忠臣《ちゅうしん》じゃありませんか。」
 忠臣という言葉は少し奇異《きい》に用いられたが、この人にしてはごもっともであった。実際この主人の忠臣であるに疑いない。しかし主人の耳にも浄瑠璃《じょうるり》なんどに出る忠臣という語に連関して聞えたか、
「話せッて云ったって、隠すのじゃ無いが、おんなわらべの知る事ならずサ。」
 浄瑠璃の行われる西の人だったから、主人は偶然《ぐうぜん》に用いた語り物の言葉を用いたのだが、同じく西の人で、これを知っていたところの真率で善良で忠誠な細君はカッとなって瞋《いか》った。が、直《じき》にまた悲痛な顔になって堪《こら》え涙《なみだ》をうるませた。自分の軽視されたということよりも、夫の胸の中《うち》に在るものが真に女わらべの知るには余るものであろうと感じて、なおさら心配に堪《た》えなくなったのである。
 格子戸は一つ格子戸である。しかし明ける音は人々で異る。夫の明けた音は細君の耳には必ず夫の明けた音と聞えて、百に一つも間違《まちが》うことは無い。それが今日は、夫の明けた音とは聞えず、ハテ誰が来たかというように聞えた。今その格子戸を明けるにつけて、細君はまた今更に物を思いながら外へ出た。まだ暮《く》れたばかりの初夏《しょか》の谷中《やなか》の風は上野つづきだけに涼《すず》しく心よかった。ごく懇意《こんい》でありまたごく近くである同じ谷中の夫の同僚《どうりょう》の中村の家を訪《と》い、その細君に立話しをして、中村に吾家《うち》へ遊びに来てもらうことを請《こ》うたのである。中村の細君は、何、あなた、ご心配になるようなことではございますまい、何でもかえってお喜びになるような事がお有りのはずに、チラと承りました、しかし宅《たく》は必ず伺《うかが》わせますよう致《いた》しましょう、と請合《うけあ》ってくれた。同じ立場に在る者は同じような感情を懐《いだ》いて互によく理解し合うものであるから、中村の細君が一も二も無く若崎の細君の云う通りになってくれたのでもあろうが、一つには平常《いつも》同じような身分の出というところからごくごく両家が心安くし合い、また一つには若崎が多くは常に中村の原型によってこれを鋳《い》ることをする芸術上の兄弟分《きょうだいぶん》のような関係から、自然と離《はな》れ難《がた》き仲になっていた故もあったろう。若崎の細君《さいくん》はいそいそとして帰った。

     

 顔も大きいが身体《からだ》も大きくゆったりとしている上に、職人上りとは誰にも見せぬふさふさとした頤鬚《あごひげ》上髭《うわひげ》頬髯《ほおひげ》を無遠慮《ぶえんりょ》に生《は》やしているので、なかなか立派に見える中村が、客座にどっしりと構えて鷹揚《おうよう》にまださほどは居ぬ蚊《か》を吾家《うち》から提《さ》げた大きな雅《が》な団扇《うちわ》で緩《ゆる》く払《はら》いながら、逼《せま》らぬ気味合《きみあい》で眼のまわりに皺《しわ》を湛《たた》えつつも、何か話すところは実に堂々として、どうしても兄分である。そしてまたこの家《や》の主人に対して先輩《せんぱい》たる情愛と貫禄《かんろく》とをもって臨んでいる綽々《しゃくしゃく》として余裕《よゆう》ある態度は、いかにもここの細君をしてその来訪を需《もと》めさせただけのことは有る。これに対座している主人は痩形《やせがた》小づくりというほどでも無いが対手《あいて》が対手だけに、まだ幅《はば》が足らぬように見える。しかしよしや大智深智《だいちしんち》でないまでも、相応に鋭《するど》い智慧《ちえ》才覚が、恐《おそ》ろしい負けぬ気を後盾《うしろだて》にしてまめに働き、どこかにコッツリとした、人には決して圧潰《おしつぶ》されぬもののあることを思わせる。
 客は無雑作《むぞうさ》に、
「奥さん。トいう訳だけで、ほかに何があったのでも無いのですから、まわり気《ぎ》の苦労はなさらないでいいのですヨ。おめでたいことじゃありませんかネ、ハハハ。」
と朗《ほがら》かに笑った。ここの細君は今はもう暗雲を一掃《いっそう》されてしまって、そこは女だ、ただもう喜びと安心とを心配の代りに得て、大風《たいふう》の吹《ふ》いた後の心持で、主客の間の茶盆《ちゃぼん》の位置をちょっと直しながら、軽く頭《かしら》を下げて、
「イエもう、業《わざ》の上の工夫《くふう》に惚《ほ》げていたと解りますれば何のこともございません。ホントにこの人は今までに随分こんなこともございましたッけ。」
と云った。客と主人との間の話で、今日学校で主人が校長から命ぜられた、それは一週間ばかり後に天子様が学校へご臨幸《りんこう》下さる、その折に主人が御前《ごぜん》で製作をしてご覧《らん》に入れるよう、そしてその製品を直《ただち》に、学校から献納《けんのう》し、お持帰りいただくということだったのが、解ったのであった。それで主人の真面目顔をしていたのは、その事に深く心を入れていたためで、別にほかに何があったのでもない、と自然に分明《ぶんみょう》したから、細君は憂《うれい》を転《てん》じて喜と為《な》し得た訳だったが、それも中村さんが、チョクに遊びに来られたお蔭《かげ》で分ったと、上機嫌になったのであった。
 女は上機嫌になると、とかくに下らない不必要なことを饒舌《しゃべ》り出して、それが自分の才能ででもあるような顔をするものだが、この細君は夫の厳《きび》しい教育を受けてか、その性分からか、幸《さいわい》にそういうことは無い人であった。純粋《じゅんすい》な感謝《かんしゃ》の念の籠《こも》ったおじぎを一つボクリとして引退《ひきさが》ってしまった。主人はもっと早く引退ってもよかったと思っていたらしく、客もまたあるいはそうなのか、細君が去ってしまうとかえって二人は解放されたような様子になった。
「君のところへ呼《よ》びに行きはしなかったかネ。もしそうだったら勘弁《かんべん》してくれたまえ。」
「ム。ハハハ。ナニ、ちょうど、話しに来ようと思っていたのサ。」
 主客の間にこんな挨拶が交されたが、客は大きな茶碗《ちゃわん》の番茶をいかにもゆっくりと飲乾《のみほ》す、その間主人の方を見ていたが、茶碗を下へ置くと、
「君は今日最初辞退をしたネ。」
と軽く話し出した。
「エエ。」
と主人は答えた。
「なぜネ。」
「なぜッて。イヤだったからです。」
「御前へ出るのにイヤってことはあるまい。」
 ホンの会話的の軽い非難だったが、答えは急遽《せわ》しかった。
「御前へ出るのにイヤの何のと、そんな勿体《もったい》ないことは夢にも思いません。だから校長に負けてしまいました。」
「ハハア、校長のいいつけがイヤだったのだネ。」
「そうです。だがもう私がすぐに負けてしまったのだから論はありません。」
「負けた負けたというのが変に聞えるよ。分らないネ。校長が別に無理なことを云ったとも私には思えないが。私も校長のいいつけで御前製作をして、面目《めんぼく》をほどこしたことのあるのは君も知っててくれるだろうに。」
と、少し面《おもて》をあげて鬚をしごいた。少し兄分|振《ぶ》っているようにも見えた。しかし若崎の何か勘ちがいをした考《かんがえ》を有《も》っているらしい蒙《もう》を啓《ひら》いてやろうというような心切《しんせつ》から出た言葉に添った態度だったので、いかにも教師くさくは見えたが、威張《いば》っているとは見えなかった。
 若崎は話しの流れ方の勢《いきおい》で何だか自分が自分を弁護《べんご》しなければならぬようになったのを感じたが、貧乏神《びんぼうがみ》に執念《しゅうね》く取憑《とりつ》かれたあげくが死神にまで憑かれたと自ら思ったほどに浮世の苦酸《くさん》を嘗《な》めた男であったから、そういう感じが起ると同時にドッコイと踏止《ふみとど》まることを知っているので、反撃的《はんげきてき》の言葉などを出すに至るべき無益と愚《ぐ》との一歩手前で自ら省みた。
「ヤ、あの鶏《にわとり》は実に見事に出来ましたネ。私もあの鶏のような作がきっと出来るというのなら、イヤも鉄砲《てっぽう》も有りはしなかったのですがネ。」
と謙遜《けんそん》の布袋《ぬのぶくろ》の中へ何もかも抛《ほう》り込んでしまう態度を取りにかかった。世の中は無事でさえあれば好《い》いというのなら、これでよかったのだ。しかし若崎のこの答は、どうしても、何か有るのを露《あら》わすまいとしているのであると感じられずにはいない。
「きっと出来るよ。君の腕《うで》だからナ。」
と軽い言葉だ。善意の奨励《しょうれい》だ。赤剥《あかむ》きに剥いて言えば、世間に善意の奨励ほどウソのものは無い。悪意の非難がウソなら、善意の奨励もウソである。真実は意の無いところに在る。若崎は徹底《てってい》してオダテとモッコには乗りたくないと平常《いつも》思っている。客のこの言葉を聞くとブルッとするほど厭《いや》だった。ウソにいじりまわされている芸術ほどケチなものは無いと思っているからである。で、思わず知らず鼻のさきで笑うような調子に、
「腕なんぞで、君、何が出来るかネ。僕等《ぼくら》よりズット偉《えら》い人だって、腕なんかがアテになるものじゃあるまい。」
と云った。何かが破裂《はれつ》したのだ。客はギクリとしたようだったが、さすがは老骨《ろうこつ》だ。禅宗《ぜんしゅう》の味噌《みそ》すり坊主《ぼうず》のいわゆる脊梁骨《せきりょうこつ》を提起《ていき》した姿勢《しせい》になって、
「そんな無茶なことを云い出しては人迷《ひとまよ》わせだヨ。腕で無くって何で芸術が出来る。まして君なぞ既《すで》にいい腕になっているのだもの、いよいよ腕を磨《みが》くべしだネ。」
 戦闘《せんとう》が開始されたようなものだ。
「イヤ腕を磨くべきはもとよりだが、腕で芸術が出来るものではない。芸術は出来るもので、こしらえるものでは無さそうだ。君の方ではこしらえとおせるかも知れないが、僕の方や窯業《ようぎょう》の方の、火の芸術にたずさわるものは、おのずと、芸術は出来るものであると信じがちだ。火のはたらきは神秘《しんぴ》霊奇《れいき》だ。その火のはたらきをくぐって僕等の芸術は出来る。それを何ということだ。鋳金《ちゅうきん》の工作|過程《かてい》を実地にご覧に入れ、そして最後には出来上ったものを美術として美術学校から献上《けんじょう》するという。そううまく行くべきものだか、どうだか。むかしも今も席画というがある、席画に美術を求めることの無理で愚《ぐ》なのは今は誰しも認《みと》めている。席上鋳金に美術を求める、そんな分らない校長ではないと思っていたが、校長には校長の考えもあろうし、鋳金はたとい蝋型《ろうがた》にせよ純粋美術とは云い難いが、また校長には把掖《はえき》誘導《ゆうどう》啓発《けいはつ》抜擢《ばってき》、あらゆる恩《おん》を受けているので、実はイヤだナアと思ったけれども枉《ま》げて従った。この心持がせめて君には分ってもらいたいのだが……」
と、中頃は余り言いすごしたと思ったので、末にはその意を濁《にご》してしまった。言ったとて今更どうなることでも無いので、図に乗って少し饒舌《しゃべ》り過ぎたと思ったのは疑いも無い。
 中村は少し凹《へこ》まされたかども有るが、この人は、「肉の多きや刃《やいば》その骨に及《およ》ばず」という身体《からだ》つきの徳《とく》を持っている、これもなかなかの功《こう》を経ているものなので、若崎の言葉の中心にはかまわずに、やはり先輩ぶりの態度を崩《くず》さず、
「それで家《うち》へ帰って不機嫌だったというのなら、君はまだ若過ぎるよ。議論みたようなことは、あれは新聞屋や雑誌屋《ざっしや》の手合にまかせておくサ。僕等は直接に芸術の中に居るのだから、塀《へい》の落書《らくがき》などに身を入れて見ることは無いよ。なるほど火の芸術と君は云うが、最後の鋳《い》るという一段だけが君の方は多いネ。ご覧に入れるには割が悪い。」
と打解けて同情し、場合によったら助言でも助勢でもしてやろうという様子だ。
「イヤ割が悪いどころでは無い、熔金《ゆ》を入れるその時に勝負が着くのだからネ。機嫌が甚《ひど》く悪いように見えたのは、どういうものだか、帰りの道で、吾家《うち》が見えるようになってフト気中《きあた》りがして、何だか今度の御前製作は見事に失敗するように思われ出して、それで一倍|鬱屈《うっくつ》したので。」
「気アタリという奴《やつ》は厭なものだネ。わたしも若い時分には時々そういうおぼえがあったが。ナーニ必ず中るとばかりでも無いものだよ。今度の仏像《ぶつぞう》は御首《みぐし》をしくじるなんと予感して大《おおき》にショゲていても、何のあやまちも無く仕上って、かえって褒《ほ》められたことなんぞもありました。そう気にすることも無いものサ。」
と云いかけて、ちょっと考え、
「いったい、何を作ろうと思いなすったのか、まだ未定なのですか。」
と改まったように尋《たず》ねた。
「それが奇妙《きみょう》で、学校の門を出るとすぐに題が心に浮んで、わずかの道の中ですっかり姿《すがた》が纏《まと》まりました。」
「何を……どんなものを。」
「鵞鳥《がちよう》を。二|羽《わ》の鵞鳥を。薄い平《ひら》めな土坡《どば》の上に、雄《おす》の方は高く首を昂《あ》げてい、雌《めす》はその雄に向って寄って行こうとするところです。無論小さく、写生風《しゃせいふう》に、鋳膚《いはだ》で十二分に味を見せて、そして、思いきり伸《の》ばした頸《くび》を、伸ばしきった姿の見ゆるように随分《ずいぶん》細く」
と話すのを、こっちも芸術家だ、眼をふさいで瞑想《めいそう》しながら聴いていると、ありありとその姿が前に在るように見えた。そしてまだ話をきかぬ雌までも浮いて見えたので、
「雌の方の頸はちょいと一※[#小書き片仮名ト、1-6-81]うねりしてネ、そして後足の爪《つめ》と踵《かかと》とに一※[#小書き片仮名ト、1-6-81]工夫がある。」
というと、不思議にも言い中《あ》てられたので、
「ハハハ、その通りその通り。」
と主人は爽《さわ》やかに笑った。が、その笑声の終らぬ中《うち》に、客はフト気中りがして、鵞鳥が鋳損《いそん》じられた場合を思った。デ、好い図ですネ、と既に言おうとしたのを呑《の》んでしまった。
 主人は、
「気中りがしてもしなくても構いませんが、ただ心配なのは御前ですからな。せっかくご天覧いただいているところで失敗しては堪《たま》りませんよ。と云って火のわざですから、失敗せぬよう理詰《りづ》めにはしますが、その時になって土を割ってみない中は何とも分りません。何だか御前で失敗するような気がすると、居ても立っても居られません。」
 中村は今|現《げん》に自分にも変な気がしたのであったから、主人に同情せずにはいられなくなった。なるほど火の芸術は! 一切《いっさい》芸術の極致《きょくち》は皆そうであろうが、明らかに火の芸術は腕ばかりではどうにもならぬ。そこへ天覧という大きなことがかぶさって来ては! そこへまた予感という妖《あや》しいことが湧上《わきあが》っては! 鳴呼《ああ》、若崎が苦しむのも無理は無い。と思った。が、この男はまだ芸術家になりきらぬ中、香具師《やし》一流の望《のぞみ》に任《まか》せて、安直に素張《すば》らしい大仏を造ったことがある。それも製作技術の智慧からではあるが、丸太《まるた》を組み、割竹《わりだけ》を編み、紙を貼《は》り、色を傅《つ》けて、インチキ大仏のその眼の孔《あな》から安房《あわ》上総《かずさ》まで見ゆるほどなのを江戸《えど》に作ったことがある。そういう質《たち》の智慧のある人であるから、今ここにおいて行詰まるような意気地無《いくじな》しではなかった。先輩として助言した。
「君、なるほど火の芸術は厄介《やっかい》だ。しかしここに道はある。どうです、鵞鳥だからむずかしいので。蟾蜍《ひきがえる》と改題してはどんなものでしょう。昔《むかし》から蟾蜍の鋳物は古い水滴《すいてき》などにもある。醜《みにく》いものだが、雅はあるものだ。あれなら熔金《ゆ》の断《き》れるおそれなどは少しも無くて済む。」
 好意からの助言には相違無いが、若崎は侮辱《ぶじょく》されたように感じでもしたか、
「いやですナア蟾蜍は。やっぱり鵞鳥で苦《くるし》みましょうヨ。」
と、悲しげにまた何だか怨《うら》みっぽく答えた。
「そんなに鵞鳥に貼《つ》くこともありますまい。」
「イヤ、君だってそうでしょうが、題は自然に出て来るもので、それと定《き》まったら、もうわたしには棄《す》てきれませぬ。逃《に》げ道のために蝦蟇《がま》の術をつかうなんていう、忍術《にんじゅつ》のようなことは私には出来ません。進み進んで、出来る、出来ない、成就《じょうじゅ》不成就の紙|一重《ひとえ》の危《あやう》い境《さかい》に臨んで奮《ふる》うのが芸術では無いでしょうか。」
「そりゃそういえば確にそうだが、忍術だって入※[#小書き片仮名ト、1-6-81]用のものだから世に伊賀流《いがりゅう》も甲賀流《こうがりゅう》もある。世間には忍術使いの美術家もなかなか多いよ。ハハハ。」
「御前製作ということでさえ無ければ、少しも屈托《くったく》は有りませんがナア。同じ火の芸術の人で陶工《とうこう》の愚斎《ぐさい》は、自分の作品を窯《かま》から取出す、火のための出来損じがもとより出来る、それは一々取っては抛《な》げ、取っては抛げ、大地へたたきつけて微塵《みじん》にしたと聞いています。いい心持の話じゃありませんか。」
「ムム、それで六兵衛《ろくべえ》一家《いっか》の基《もとい》を成したというが、あるいはマアお話じゃ無いかネ。」
「ところが御前で敲《たた》き毀《こわ》すようなものを作ってはなりませぬ、是非とも気の済《す》むようなものを作ってご覧をいただかねばなりませぬ。それが果して成るか成らぬか。そこに脊骨《せぼね》が絞《しぼ》られるような悩《なや》みが……」
「ト云うと天覧を仰《あお》ぐということが無理なことになるが、今更|野暮《やぼ》を云っても何の役にも立たぬ。悩むがよいサ。苦むがよいサ。」
と断崖《だんがい》から取って投げたように言って、中村は豪然《ごうぜん》として威張った。
 若崎は勃然《むっ》として、
「知れたことサ。」
と見かえした。身体中に神経がピンと緊《きび》しく張ったでもあるように思われて、円味《まるみ》のあるキンキン声はその音ででも有るかと聞えた。しかしまたたちまちグッタリ沈んだ態《てい》に反《かえ》って、
「火はナア、……火はナア……」
と独《ひと》り言《ご》った。スルト中村は背を円くし頭《かしら》を低くして近々と若崎に向い、声も優しく細くして、
「火の芸術、火の芸術と君は云うがネ。何の芸術にだって厄介なところはきっと有る。僕の木彫《もくちょう》だって難関は有る。せっかくだんだんと彫上《ほりあ》げて行って、も少しで仕上《しあげ》になるという時、木の事だから木理《もくめ》がある、その木理のところへ小刀《こがたな》の力が加わる。木理によって、薄《うす》いところはホロリと欠けぬとは定まらぬ。たとえば矮鶏《ちゃぼ》の尾羽《おは》の端《はし》が三|分《ぶ》五分欠けたら何となる、鶏冠《とさか》の蜂《みね》の二番目三番目が一分二分欠けたら何となる。もう繕《つくろ》いようもどうしようも無い、全く出来損じになる。材料も吟味《ぎんみ》し、木理も考え、小刀も利味《ききあじ》を善《よ》くし、力加減も気をつけ、何から何まで十二分に注意し、そして技《わざ》の限りを尽《つく》して作をしても、木の理《め》というものは一々に異《ちが》う、どんなところで思いのほかにホロリと欠けぬものでは無い。君の熔金《ゆ》の廻りがどんなところで足る足らぬが出来るのも同じことである。万一|異《い》なところから木理がハネて、釣合《つりあい》を失えば、全体が失敗になる。御前でそういうことがあれば、何とも仕様は無いのだ。自分の不面目はもとより、貴人のご不興も恐多いことでは無いか。」
 ここまで説かれて、若崎は言葉も出せなくなった。何の道にも苦《くるし》みはある。なるほど木理は意外の業《わざ》をする。それで古来木理の無いような、粘《ねば》りの多い材、白檀《びゃくだん》、赤檀《しゃくだん》の類を用いて彫刻《ちょうこく》するが、また特に杉檜《すぎひのき》の類、刀《とう》の進みの早いものを用いることもする。御前彫刻などには大抵《たいてい》刀の進み易《やす》いものを用いて短時間に功を挙《あ》げることとする。なるほど、火、火とのみ云って、火の芸術のみを難儀《なんぎ》のもののように思っていたのは浅はかであったと悟った。
「なるほど。何の道にも苦しい瀬戸《せと》はある。有難い。お蔭で世界を広くしました。」
と心からしみじみ礼を云って頭《かしら》を畳《たたみ》へすりつけた。中村も悦《よろこ》ばしげに謝意を受けた。
「ところで若崎さん、御前細工というものは、こういう難儀なものなのに相違無いが、木彫その他の道において、御前細工に不首尾のあったことはかつて無い。徳川《とくがわ》時代、諸大名《しょだいみょう》の御前で細工事《さいくごと》ご覧に入れた際、一度でも何の某《なにがし》があやまちをしてご不興を蒙《こうむ》ったなどということは聞いたことが無い。君はどう思う。わかりますか。」
 これには若崎はまた驚《おどろ》かされた。
「一度もあやまちは無かった!」
「さればサ。功名《こうみょう》手柄《てがら》をあらわして賞美を得た話は折々あるが、失敗した談はかつて無い。」
 自分は今天覧の場合の失敗を恐れて骨を削《けず》り腸《はらわた》を絞《しぼ》る思をしているのである。それに何と昔からさような場合に一度のあやまちも無かったとは。
「ムーッ。」
と若崎は深い深い考に落ちた。心は光りの飛ぶごとくにあらゆる道理の中を駈巡《かけめぐ》ったが、何をとらえることも出来無かった。ただわずかに人の真心――誠《まこと》というものの一切に超越《ちょうえつ》して霊力《れいりょく》あるものということを思い得て、
「一心の誠というものは、それほどまでに強いものでしょうかナア。」
と真顔になって尋ねた。中村はニヤリと笑った。
「誠はもとより尊《たっと》い。しかし準備もまた尊いよ。」
 若崎には解釈出来なかった。
「竜《りゅう》なら竜、虎《とら》なら虎の木彫をする。殿様《とのさま》御前《ごぜん》に出て、鋸《のこぎり》、手斧《ちょうな》、鑿《のみ》、小刀を使ってだんだんとその形を刻《きざ》み出《いだ》す。次第に形がおよそ分明になって来る。その間には失敗は無い。たとい有ったにしても、何とでも作意を用いて、失敗の痕《あと》を無くすことが出来る。時刻が相応に移る。いかに物好な殿にせよ長くご覧になっておらるる間には退屈《たいくつ》する。そこで鱗《うろこ》なら鱗、毛なら毛を彫って、同じような刀法を繰返《くりかえ》す頃になって、殿にご休息をなさるよう申す。殿は一度お入りになってお茶など召させらるる。準備が尊いのはここで。かねて十分に作りおいたる竜なら竜、虎なら虎をそこに置き、前の彫りかけを隠《かく》しおく。殿|復《ふたた》びお出ましの時には、小刀を取って、危気《あぶなげ》無きところを摩《な》ずるように削り、小々《しょうしょう》の刀屑《かたなくず》を出し、やがて成就の由《よし》を申し、近々ご覧に入るるのだ。何の思わぬあやまちなどが出来よう。ハハハ。すりかえの謀計《ぼうけい》である。君の鋳物などは最後は水桶《みずおけ》の中で型の泥《どろ》を割って像を出すのである。準備さえ水桶の中に致しておけば、容易に至難《しなん》の作品でも現わすことが出来る。もとより同人の同作、いつわり、贋物《がんぶつ》を現わすということでは無い。」
と低い声で細々《こまごま》と教えてくれた。若崎は唖然《あぜん》として驚いた。徳川期にはなるほどすべてこういう調子の事が行われたのだなと暁《さと》って、今更ながら世の清濁《せいだく》の上に思を馳《は》せて感悟《かんご》した。
「有難うございました。」
と慄《ふる》えた細い声で感謝した。
 その夜若崎は、「もう失敗しても悔《く》いない。おれは昔の怜悧者《りこうもの》ではない。おれは明治《めいじ》の人間だ。明治の天子様は、たとえ若崎が今度失敗しても、畢竟《ひっきょう》は認《みと》めて下さることを疑わない」と、安心《あんしん》立命《りつめい》の一境地に立って心中に叫んだ。

     ○

 天皇《てんのう》は学校に臨幸《りんこう》あらせられた。予定のごとく若崎の芸術をご覧あった。最後に至って若崎の鵞鳥は桶の水の中から現われた。残念にも雄の鵞鳥の頸は熔金《ゆ》のまわりが悪くて断《き》れていた。若崎は拝伏《はいふく》して泣いた。供奉《ぐぶ》諸官、及び学校諸員はもとより若崎のあの夜の心の叫《さけ》びを知ろうようは無かった。
 しかし、天恩|洪大《こうだい》で、かえって芸術の奥には幽眇《ゆうびょう》不測なものがあることをご諒知《りょうち》下された。正直な若崎はその後しばしば大なるご用命を蒙り、その道における名誉《めいよ》を馳《は》するを得た。
                       (昭和十四年十二月)

底本:「ちくま日本文学全集 幸田露伴」筑摩書房
   1992(平成4)年3月20日第1刷発行
底本の親本:「露伴全集」岩波書店
入力:林 幸雄
校正:門田裕志
2002年12月5日作成
2004年7月8日修正
青空文庫作成ファイル:
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幸田露伴

旅行の今昔—— 幸田露伴

  旅行に就いて何か経験上の談話をしろと仰《おっし》ゃるのですか。
 どう致しまして。碌に旅行という程の旅行を仕た事も無いのですもの、御談し仕度くっても是といって御談し申上げるような事も有りません。いくら経験だと申して、何処其処の山で道に迷ったとか、或は又何処其処の海岸で寄宿《のじゅく》をしたとかいうような談は、文章にでも書いて其の文章に詩的の香があったらば少しは面白いか知れませぬが、ただ御話し仕たって一向おかしくもない事になりますから申し上げられません。
 経験談の代りに「空想談」は何様です?。
 旅行も日本内地は最早何等の思慮分別をも要せぬほどに開けてまいりました。で、鉄道や汽船の勢力が如何なる海陬山村にも文明の威光を伝える為に、旅客は何の苦なしに懐手で家を飛出して、そして鼻歌で帰って来られるようになりました。其の代りに、つい二三十年前のような詩的の旅行は自然《おのず》と無くなったと申して宜しい、イヤ仕様といっても出来なくなったのであります。
 汽車の上り下りには赤帽が世話をする、車中では給仕が世話をする、食堂車がある、寝台車がある、宿屋の手代は停車場に出迎えて居る、と言ったような時世になったのですから、今の中等人士は昔時《むかし》の御大名同様に人の手から手へ渡って行って、ひどく大切《だいじ》にされまするので、山も坂も有ったものじゃあ有りません。特更《ことさら》あれは支那流というのですか病人流というのですか知りませんが、紳士淑女となると何事も自分では仕無いで、アゴ指図を極め込んで甚だ尊大に構えるのが当世ですネ。ですから左様いう人が旅行をするのは何の事は無い、「御茶壺」になって仕舞うようなものですテ。ハハハハ。「御茶壺」というのは、むかし将軍御用の御茶壺を江戸まで持って来る、其の茶壺は茶壺の事ですから眼も鼻も有りは仕ませんし手も脚も動かしは仕ませんが、それでも其の威勢は大したもので、「下に居ろ、下に居ろ」の格をやって東海道を江戸へ来たものだそうです。そこで古風の人がタマに当今の人に其の御茶壺の話を仕て聞かせると、誰も噴飯《ふきだ》して笑うので有りますが、当今の紳士の旅行の状態を見ると、余り贅沢過ぎて何の事は無い、つまり御茶壺になって歩いて居るのだ、と或人が評を仕ましたのを聞いて、甚だおかしいと思って居ります。面白いものです。金が有って地位が有って、さて威張って見ると「御茶壺」になるのですナ。
 で、其の御茶壺旅行の出来るようになったのは文明の庇陰《おかげ》なのですから、今後はもう「きりをの草鞋」「紺の甲掛け」「三度笠」「桐油合羽」「振り分けにして行李を肩に」なんていう蛮カラ的の事は要せぬようになりまして、男子でも鏡、コスメチック、頭髪《かみ》ブラッシに衣服《きもの》ブラシ、ステッキには金物の光り美しく、帽子には繊塵も無く、靴には狗《いぬ》の髭の影も映るというように、万事奇麗事で、ユラリユラリと優美都雅を極めた有様でもって旅行するようになるのですから、まして夫人方は「虫の垂れ衣《ぎぬ》」を被《かぶ》った大時代や、「あづまからげ」に草履ばき、「引裂き紙で後ぐくり」なんという古めかしい事は夢に見ようといっても見られなくなり行きまして、母が真中で子供を左右にした「三宝荒神」などは浮世絵で見るほかには絵に見る事も無くなりましょう。で、万事贅沢安楽に旅行の出来るようになった代りには、芭蕉翁や西行法師なんかも、停車場で見送りの人々や出迎えの人々に、芭蕉翁万歳というようなことを云われるような理屈になって仕舞って、「野を横に汽車引むけよ郭公」とも云われない始末で、旅行に興味を与える主なる部分の「野趣」というものは甚だ減殺されて来たようです。と云って風雅がって汽車の線路の傍をポクポク歩くなんぞという事は、ヒネクレ過ぎて狂気《きちがい》じみて居ますから、とても出来る事では有りません。して見ると、いくら野趣が減殺されようが何様しようが、今日は今日で、何も今を難じ古を尚ぶにも当らないから、矢張り文明の利益は使うだけ使った方が宜さそうな事です。
 だが、昔の俳人歌人の行脚といったようなことには、商買的の気味も有りましたろうが、其の中におのずから苦行的修練的の真面目な意味が何分か籠って居て、生やさしい戯談半分遊山半分ばかりでは出来無かった旅行なのでした。其の修業的旅行という事は、文明の威力で津々浦々山の奥谷の底までが開けた結果として、今日では先ず日本内地では殆ど成り立たない事になりました。修学旅行というが如きもなかなか修業的旅行とは云えません。すべてが発達し開明した結果、今日では日本内地の旅行は先ず昔の所謂「江の島鎌倉見物」「石尊参り」「伊勢詣」「大和めぐり」「箱根七湯めぐり」などという旅行と同様、即ち遊山旅と丁度同様になって居るかと思います。可愛い子に旅行をさせろなどという語がありますが、今日では内地の旅行はすべてが遊山旅行になって居ますから、可愛い子に旅をさせたところで何にもなりません。却って宿屋で酒を飲みおぼえたり女にからかったりする事を知り初める位が結局《おち》です。もし旅行を仕て真実に自然に接したり野趣の中に身を※[#「宀/眞」、第3水準1-47-57]《お》いたり、幾分かにしろ修業的に得益しようと思ったなら、普通の旅行をしても左程面白い事は有りますまい。悪くすると天晴な好い若い者が、愍むべし「お茶壺」になって、ただ彼方《あっち》から此方《こっち》へ渡って歩く事になります。今後はもう国外旅行が宜さそうですネ。

底本:「露伴全集 第29巻」岩波書店
   1954(昭和29)年12月4日発行
初出:「新聲」
   1906(明治39)年8月号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
入力:地田尚
校正:今井忠夫
2001年6月18日公開
2012年5月11日修正
青空文庫作成ファイル:
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幸田露伴

野道—— 幸田露伴

 流鶯《りゅうおう》啼破《ていは》す一簾《いちれん》の春。書斎に籠《こも》っていても春は分明《ぶんみょう》に人の心の扉《とびら》を排《ひら》いて入込《はいりこ》むほどになった。
 郵便脚夫《ゆうびんきゃくふ》にも燕《つばめ》や蝶《ちょう》に春の来ると同じく春は来たのであろう。郵便という声も陽気に軽やかに、幾個《いくつ》かの郵便物を投込んで、そしてひらりと燕がえしに身を翻《ひるが》えして去った。
 無事平和の春の日に友人の音信《おとずれ》を受取るということは、感じのよい事の一《いつ》である。たとえば、その書簡《てがみ》の封《ふう》を開くと、その中からは意外な悲しいことや煩《わずら》わしいことが現われようとも、それは第二段の事で、差当っては長閑《のどか》な日に友人の手紙、それが心境に投げられた恵光《けいこう》で無いことは無い。
 見るとその三四の郵便物の中の一番上になっている一封の文字は、先輩《せんぱい》の某氏《ぼうし》の筆《ふで》であることは明らかであった。そして名宛《なあて》の左側の、親展とか侍曹《じそう》とか至急とか書くべきところに、閑事《かんじ》という二字が記されてあった。閑事と表記してあるのは、急を要する用事でも何んでも無いから、忙《いそ》がしくなかったら披《ひら》いて読め、他《た》に心の惹《ひ》かれる事でもあったら後廻《あとまわ》しにしてよい、という注意である。ところがその閑事としてあったのが嬉《うれ》しくて、他の郵書よりはまず第一にそれを手にして開読した、さも大至急とでも注記してあったものを受取ったように。
 書中のおもむきは、過日|絮談《じょだん》の折にお話したごとく某々氏|等《ら》と瓢酒《ひょうしゅ》野蔬《やそ》で春郊《しゅんこう》漫歩《まんぽ》の半日を楽《たのし》もうと好晴の日に出掛《でか》ける、貴居《ききょ》はすでに都外故その節《せつ》お尋《たず》ねしてご誘引《ゆういん》する、ご同行あるならかの物二三枚をお忘れないように、呵々《かか》、というまでであった。
 おもしろい。自分はまだ知らないことだ。が、教えられていたから、妻に対《むか》って、オイ、二三枚でよいが杉《すぎ》の赤身《あかみ》の屋根板は無いか、と尋ねた。そんなものはございません、と云《い》ったが、少し考えてから、老婢《ろうひ》を近処《きんじょ》の知合《しりあい》の大工《だいく》さんのところへ遣《や》って、巧《うま》く祈《いの》り出して来た。滝割《たきわり》の片木《へぎ》で、杉の佳《よ》い香《か》が佳い色に含《ふく》まれていた。なるほどなるほどと自分は感心して、小短冊《こたんじゃく》位の大きさにそれを断《き》って、そして有合せの味噌《みそ》をその杓子《しゃくし》の背で五|厘《りん》か七厘ほど、一|分《ぶ》とはならぬ厚さに均《なら》して塗《ぬ》りつけた。妻と婢とは黙《だま》って笑って見ていた。今度からは汝達《おまえたち》にしてもらう、おぼえておけ、と云いながら、自分は味噌の方を火に向けて片木《へぎ》を火鉢《ひばち》の上に翳《かざ》した。なるほどなるほど、味噌は巧《うま》く板に馴染《なじ》んでいるから剥落《はくらく》もせず、よい工合に少し焦《こ》げて、人の※[#「飫」のへん+「巉」のつくり、398-6]意《さんい》を催《もよお》させる香気《こうき》を発する。同じようなのが二枚出来たところで、味噌の方を腹合せにしてちょっと紙に包《くる》んで、それでもう事は了《りょう》した。
 その翌日になった。照りはせぬけれども穏《おだ》やかな花ぐもりの好い暖い日であった。三先輩は打揃《うちそろ》って茅屋《ぼうおく》を訪《と》うてくれた。いずれも自分の親としてよい年輩の人々で、その中《うち》の一人は手製の東坡巾《とうばきん》といったようなものを冠《かぶ》って、鼠紬《ねずみつむぎ》の道行振《みちゆきぶり》を被《き》ているという打扮《いでたち》だから、誰《だれ》が見ても漢詩の一つも作る人である。他の二人も老人らしく似《に》つこらしい打扮だが、一人の濃《こ》い褐色《かっしょく》の土耳古帽子《トルコぼうし》に黒い絹《きぬ》の総糸《ふさいと》が長く垂《た》れているのはちょっと人目を側立《そばだ》たせたし、また他の一人の鍔無《つばな》しの平たい毛織帽子に、鼠甲斐絹《ねずみかいき》のパッチで尻端折《しりはしょり》、薄《うす》いノメリの駒下駄穿《こまげたば》きという姿《なり》も、妙な洒落《しゃれ》からであって、後輩の自分が枯草色《かれくさいろ》の半毛織の猟服《りょうふく》――その頃《ころ》銃猟《じゅうりょう》をしていたので――のポケットに肩《かた》から吊《つ》った二合瓶《にごうびん》を入れているのだけが、何だか野卑《やひ》のようで一群に掛離《かけはな》れ過ぎて見えた。
 庭口から直《ちょく》に縁側《えんがわ》の日当りに腰《こし》を卸《おろ》して五分ばかりの茶談の後、自分を促《うなが》して先輩等は立出でたのであった。自分の村人は自分に遇《あ》うと、興がる眼《め》をもって一行を見て笑いながら挨拶《あいさつ》した。自分は何となく少しテレた。けれども先輩達は長閑気《のんき》に元気に溌溂《はつらつ》と笑い興じて、田舎道《いなかみち》を市川の方へ行《ある》いた。
 菜《な》の花畠《はなばたけ》、麦《むぎ》の畠、そらまめの花、田境《たざかい》の榛《はん》の木を籠《こ》める遠霞《とおがすみ》、村の児《こ》の小鮒《こぶな》を逐廻《おいまわ》している溝川《みぞかわ》、竹籬《たけがき》、薮椿《やぶつばき》の落ちはららいでいる、小禽《ことり》のちらつく、何ということも無い田舎路ではあるが、ある点を見出しては、いいネエ、と先輩がいう。なるほど指摘《してき》されて見ると、呉春《ごしゅん》の小品でも見る位には思えるちょっとした美がある。小さな稲荷《いなり》のよろけ鳥居が薮げやきのもじゃもじゃの傍《そば》に見えるのをほめる。ほめられて見ると、なるほどちょっとおもしろくその丹《に》ぬりの色の古ぼけ加減が思われる。土橋《どばし》から少し離《はな》れて馬頭観音《ばとうかんのん》が有り無しの陽炎《かげろう》の中に立っている、里の子のわざくれだろう、蓮華草《れんげそう》の小束《こたば》がそこに抛《ほう》り出されている。いいという。なるはど悪くはない。今はじまったことでは無いが、自分は先輩のいかにも先輩だけあるのに感服させられて、ハイなるほどそうですネ、ハイなるほどそうですネ、と云っていると、東坡巾の先生は※[#「單+展」、第4水準2-4-51]然《てんぜん》として笑出して、君そんなに感服ばかりしていると、今に馬糞《まぐそ》の道傍《みちばた》に盛上《もりあ》がっているのまで春の景色《けいしょく》だなぞと褒《ほ》めさせられるよ、と戯《たわむ》れたので一同《みんな》哄然《どっ》と笑声《しょうせい》を挙《あ》げた。
 東坡巾先生は道行振の下から腰にしていた小さな瓢《ひさご》を取出した。一合少し位しか入らぬらしいが、いかにも上品な佳《よ》い瓢だった。そして底の縁《へり》に小孔《こあな》があって、それに細い組紐《くみひも》を通してある白い小玉盃《しょうぎょくはい》を取出して自ら楽しげに一盃《いっぱい》を仰《あお》いだ。そこは江戸川の西の土堤《どて》へ上《あが》り端《ばな》のところであった。堤《つつみ》の桜《さくら》わずか二三|株《しゅ》ほど眼界に入っていた。
 土耳古帽《トルコぼう》は堤畔《ていはん》の草に腰を下して休んだ。二合余も入りそうな瓢にスカリのかかっているのを傍に置き、袂《たもと》から白い巾《きれ》に包《くる》んだ赤楽《あからく》の馬上杯《ばじょうはい》を取出し、一度|拭《ぬぐ》ってから落ちついて独酌《どくしゃく》した。鼠股引《ねずみももひき》の先生は二ツ折にした手拭《てぬぐい》を草に布《し》いてその上へ腰を下して、銀の細箍《ほそたが》のかかっている杉の吸筒《すいづつ》の栓《せん》をさし直して、張紙《はりこ》の※[#「髟/休」、第3水準1-94-26]猪口《ぬりちょく》の中は総金箔《ひたはく》になっているのに一盃ついで、一ト口|呑《の》んだままなおそれを手にして四方《あたり》を眺《なが》めている。自分は人々に傚《なら》って、堤腹に脚《あし》を出しながら、帰路《かえり》には捨てるつもりで持って来た安い猪口に吾《わ》が酒を注《つ》いで呑んだ。
 見ると東坡巾先生は瓢も玉盃も腰にして了《しま》って、懐中《ふところ》の紙入から弾機《ばね》の無い西洋ナイフのような総真鍮製《そうしんちゅうせい》の物を取出して、刃《は》を引出して真直《まっすぐ》にして少し戻《もど》すと手丈夫《てじょうぶ》な真鍮の刀子《とうす》になった。それを手にして堤下《どてした》を少しうろついていたが、何か掘《ほ》っていると思うと、たちまちにして春の日に光る白い小さい球根を五つ六つ懐《ふところ》から出した半紙の上に載《の》せて戻《もど》って来た。ヤア、と云って皆は挨拶した。
 鼠股引氏は早速《さっそく》にその球《たま》を受取って、懐紙《かいし》で土を拭って、取出した小短冊形の杉板の焼味噌にそれを突掛《つっか》けて喫《た》べて、余りの半盃を嚥《の》んだ。土耳古帽氏も同じくそうした。東坡巾先生は味噌は携《たずさ》えていなくって、君がたんと持って来たろうと思っていたといって自分に出させた。果して自分が他に比すれば馬鹿《ばか》に大きな板を二枚持っていたので、人々に哄笑《こうしょう》された。自分も一|顆《か》の球を取って人々の為《な》すがごとくにした。球は野蒜《のびる》であった。焼味噌の塩味《しおみ》香気《こうき》と合《がっ》したその辛味《からみ》臭気《しゅうき》は酒を下《くだ》すにちょっとおもしろいおかしみがあった。
 真鍮刀は土耳古帽氏にわたされた。一同《みんな》はまたぶらぶらと笑語しながら堤上や堤下を歩いた。ふと土耳古帽氏は堤下の田の畔《くろ》へ立寄って何か採《と》った。皆々はそれを受けたが、もっさりした小さな草だった。東坡巾先生は叮嚀《ていねい》にその疎葉《そよう》を捨て、中心部の※[#「嫩の攵の代りに欠」、第4水準2-5-78]《わか》いところを揀《えら》んで少し喫《た》べた。自分はいきなり味噌をつけて喫べたが、微《すこ》しく甘《あま》いが褒《ほ》められないものだった。何です、これは、と変な顔をして自分が問うと、鼠股引氏が、薺《なずな》さ、ベンペン草も君はご存知ないのかエ、と意地の悪い云い方をした。エ、ぺンペン草で一盃《いっぱい》飲まされたのですか、と自分が思わず呆《あき》れて不興《ふきょう》して言うと、いいサ、粥《かゆ》じゃあ一番いきな色を見せるという憎《にく》くもないものだから、と股引氏はいよいよ人を茶《ちゃ》にしている。土耳古帽氏は復《ふたた》び畠の傍《そば》から何か採《と》って来て、自分の不興を埋合《うめあわ》せるつもりでもあるように、それならこれはどうです、と差出してくれた。それを見ると東坡巾先生は悲しむように妙《みょう》に笑ったが、まず自ら手を出して喫べたから、自分も安心して味噌を着けて試みたが、歯切れの好いのみで、可も不可も無い。よく視《み》るとハコべの※[#「嫩の攵の代りに欠」、第4水準2-5-78]《わか》いのだったので、ア、コリャ助からない、※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]《とり》じゃあ有るまいし、と手に残したのを抛捨《なげす》てると、一同《みんな》がハハハと笑った。
 土耳古帽氏が真鍮刀を鼠股引氏に渡すと、氏は直《ただち》にそれを予《よ》に逓与《わた》して、わたしはこれは要《い》らない、と云いながら、見つけたものが有るのか、ちょっと歩きぬけて、百姓家《ひゃくしょうや》の背戸《せど》の雑樹籬《ぞうきがき》のところへ行った。籬には蔓草《つるぐさ》が埒無《らちな》く纏《まと》いついていて、それに黄色い花がたくさん咲きかけていた。その花や莟《つぼみ》をチョイチョイ摘取《つみと》って、ふところの紙の上に盛溢《もりこぼ》れるほど持って来た。サア、味噌までにも及びません、と仲直り気味にまず予に薦《すす》めてくれた。花は唇形《しんけい》で、少し佳い香《かおり》がある。食べると甘い、忍冬花《すいかずら》であった。これに機嫌《きげん》を直して、楽しく一杯酒を賞《しょう》した。
 氏はまた蒲公英《たんぽぽ》少しと、蕗《ふき》の晩《おく》れ出《で》の芽《め》とを採ってくれた。双方《そうほう》共に苦いが、蕗の芽は特《こと》に苦い。しかしいずれもごく少許《しょうきょ》を味噌と共に味わえば、酒客好《しゅかくごの》みのものであった。
 困ったのは自分が何か採ろうと思っても自分の眼《め》に何も入らなかったことであった。まさかオンバコやスギ菜を取って食わせる訳にもゆかず、せめてスカンポか茅花《つばな》でも無いかと思っても見当らず、茗荷《みょうが》ぐらいは有りそうなものと思ってもそれも無し、山椒《さんしょ》でも有ったら木《こ》の芽《め》だけでもよいがと、苦《くるし》みながら四方《あたり》を見廻《みまわ》しても何も無かった。八重桜が時々見える。あの花に味噌を着けたら食えぬことは有るまい、最後はそれだ、と腹の中で定《き》めながら、なお四辺を見て行くと、百姓家の小汚《こぎたな》い孤屋《こおく》の背戸に椎《しい》の樹《き》まじりに粟《くり》だか何だか三四本|生《は》えてる樹蔭《こかげ》に、黄色い四|弁《べん》の花の咲いている、毛の生えた茎《くき》から、薄い軟《やわ》らかげな裏の白い、桑のような形に裂《き》れこみの大きい葉の出ているものがあった。何というものか知らないが、菜の類《たぐい》の花を着けているからその類のものだろうと、別に食べる気でも食べさせる気でも無かったが、真鍮刀でその一茎を切って手にして一行のところへ戻《もど》って来ると、鼠股引は目敏《めざと》くも、それは何です、と問うた。何だか知らないのであるがそう尋《たず》ねられると、自分が食べてさえ見せればよいような気になって、答えもせずに口のほとりへ持って行った。途端《とたん》に恐ろしい敏捷《すばや》さで東坡巾先生は突《つ》と出て自分の手からそれを打落《うちおと》して、やや慌《あわ》て気味《ぎみ》で、飛んでもない、そんなものを口にして成るものですか、と叱《しっ》するがごとくに制止した。自分は呆《あき》れて驚《おどろ》いた。
 先生の言《げん》によると、それはタムシ草と云って、その葉や茎から出る汁《しる》を塗《ぬ》れば疥癬《ひぜん》の虫さえ死んでしまうという毒草だそうで、食べるどころのものでは無い危いものだということであって、自分も全く驚いてしまった。こんな長閑気《のんき》な仙人《せんにん》じみた閑遊《かんゆう》の間にも、危険は伏在《ふくざい》しているものかと、今更ながら呆れざるを得なかった。
 ペンペン草の返礼にあれを喫《た》べさせられては、と土耳舌帽氏も恐れ入った。人々は大笑いに笑い、自分も笑ったが、自分の慙入《はじい》った感情は、洒々落々《しゃしゃらくらく》たる人々の間の事とて、やがて水と流され風と払《はら》われて何の痕《あと》も留《とど》めなくなった。
 その日はなお種々《いろいろ》のものを喫《きっ》したが、今|詳《くわ》しく思出すことは出来ない。その後のある日にもまた自分が有毒のものを採って叱《しか》られたことを記憶《きおく》しているが、三十余年前のかの晩春の一日《いちじつ》は霞《かすみ》の奥《おく》の花のように楽しい面白かった情景として、春ごとの頭に浮んで来る。
                          (昭和三年五月)

底本:「ちくま日本文学全集 幸田露伴」筑摩書房
   1992(平成4)年3月20日第1刷発行
底本の親本:「現代日本文学全集4」筑摩書房
※底本の「小書き片仮名ト」(JIS X 0213、1-6-81)、「一ト口|呑《の》んだ」(底本401頁-4行)は、「ト」に置き換えました。
入力:林 幸雄
校正:門田裕志
2002年12月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

幸田露伴

夜の隅田川—— 幸田露伴

 夜の隅田川の事を話せと云ったって、別に珍らしいことはない、唯闇黒というばかりだ。しかし千住から吾妻橋、厩橋、両国から大橋、永代と下って行くと仮定すると、随分夜中に川へ出て漁猟《りょう》をして居る人が沢山ある。尤も冬などは沢山は出て居ない、然し冬でも鮒、鯉などは捕《と》れる魚だから、働いて居るものもたまにはある。それは皆んな夜縄を置いて朝早く捕るのである。此の夜縄をやるのは矢張り東京のものもやるが、世帯船《しょたいぶね》というやつで、生活の道具を一切備えている、底の扁《ひら》たい、後先もない様な、見苦しい小船に乗って居る余所《よそ》の国のものがやるのが多い。川続きであるから多く利根の方から隅田川へ入り込んで来る、意外に遠い北や東の国のものである。春から秋へかけては総ての漁猟の季節であるから、猶更左様いう東京からは東北の地方のものが来て働いて居る。
 又其の上に海の方――羽田《はねだ》あたりからも隅田川へ入り込んで来て、鰻を捕って居るやつもある。羽田などの漁夫《りょうし》が東京の川へ来て居るというと、一寸聞くと合点がいかぬ人があるかも知れないが、それは実際の事で、船を見れば羽根田の方のは※[#「舟+首」、第4水準2-85-77]《みよし》の方が高くなって居るから一目で知れる。全体漁夫という者は、自分の漁場を大切にするから、他所へ出て利益があるという場合にはドシドシ他所へ出て往って漁をする。それは是非共漁の総ての関係からして、左様いうように仕なければ漁場が荒れて仕舞うので、年のいかないものや、働きの弱い年寄などは蹈切って他所へ出ることが出来ないから、自分の方の漁場だけで働いて居るが、腕骨の強い奴は何時でも他所へ出漁する。そういうわけで羽根田の漁夫も隅田川へ入り込んで来て捕って居るのだ。それも昼間は通船も多いし、漁も利かぬから夜縄で捕るのである。此等の船は隅田川へ入って来て、適宜の場所へ夜泊して仕事をして居る。斯ういうように遠くから出掛けて来るということは誠に結構なことで、これが益々盛になれば自然日本の漁夫も遠洋漁業などということになるので、詰り強い奴は遠洋へ出掛けてゆく、弱い奴は地方《ぢかた》近くに働いて居るという訳になるのだろう。
 縄の他に※[#「竹かんむり/奴」、第4水準2-83-37]《ど》を以って魚を捕ってるものもある。縄というのは長い縄へ短い糸の著いた鉤《はり》が著いたもので、此鉤というのは「ヒョットコ鉤」といって、絵に書いたヒョットコの口のようにオツに曲って居る鉤です。此鉤に種々の餌《えさ》を付けて置くので、其餌には蚯蚓や沙蚕《ごかい》も用いる、芋なども用いるが、其他に「ゴソッカイ」だの「エージンボー」だのという、陸《おか》にばかり居る人は名も知らないようなものがある。
 それから又釣をして居る人もある。季節にもよるが、鰻を釣るので「珠数子釣《じゅずごづ》り」というをやらかして居る。これは娯楽にやる人もあり、営業にやる人もある。珠数子釣りは鉤は無くて、餌を綰《わが》ねて輪を作る、それを鰻が呑み込んだのを※[#「てへん+黨」、第3水準1-85-7]網《たま》で掬って捕るという仕方なのだ。面白くないということはないが、さりながら娯楽の目的には、ちと叶わないようなものである。同理別法で櫂釣《かいづり》というのを仕て居る人もある、此の方が多く獲れる。鉤を用いて鰻の夜釣をして居る人もある。時節によって鱸を釣ろうというので、夕方から船宿で船を借りて、夜釣をして居る人がある。その方法は全く娯楽の目的で、従って無論多く捕れるという訳にはゆかぬ。
 大きな四ッ手網を枝川の口々へかけているものも可なり有る。これには商売人の方が九分であろう。雨の後などは随分やっているものだ。また春の未明には白魚すくいをやるものがある。これには商売人も素人もある。
 マア、夜間通船の目的でなくて隅田川へ出て働いて居るのは大抵こんなもので、勿論種々の船は潮《しお》の加減で絶えず往来《ゆきき》して居る。船の運動は人の力ばかりでやるよりは、汐の力を利用した方が可い、だから夜分も随分船のゆききはある。筏などは昼に比較して却って夜の方が流すに便りが可いから、これも随分下りて来る。往復の船は舷灯の青色と赤色との位置で、往来《ゆきき》が互に判るようにして漕いで居る。あかりをつけずに無法にやって来るものもないではない。俗にそれを「シンネコ」というが、実にシンネコでもって大きな船がニョッと横合から顔をつん出して来るやつには弱る、危険千万だ。併し如何に素人でも夜中に船を浮べているようなものは、多少自分から頼むところがあるものが多いので、大した過失《あやまち》もなくて済み勝である。
 人によると、隅田川も夜は淋しいだろうと云うが決してそうでない。陸の八百八街は夜中過ぎればそれこそ大層淋しいが、大川は通船の道路にもなって居る。漁士も出て居る、また闇の夜でも水の上は明るくて陽気なものであるから川は思ったよりも賑やかなものだ。新聞を見ても知れることで、身を投げても死損ねる、……却って助かる人の方が多い位に都の川というものは夜でも賑やかなものだ。尤も中川となると夜は淋しい、利根は猶お更のことだ。
 大川も吾妻橋の上流《かみ》は、春の夜なぞは実によろしい。しかし花があり月があっても、夜景を称する遊船などは無いではないが余り多くない。屋根船屋形船は宵の中のもので、しかも左様いう船でも仕立てようという人は春でも秋でも花でも月でもかまうことは無い、酒だ妓《おんな》だ花牌《はな》だ※[#「虍/丘」、第3水準1-91-45]栄《みえ》だと魂を使われて居る手合が多いのだから、大川の夜景などを賞しそうにも無い訳だ。まして川霧の下を筏の火が淡く燃えながら行く夜明方の空に、杜鵑が満川の詩思を叫んで去るという清絶爽絶の趣を賞することをやだ。

底本:「露伴全集 第29巻」岩波書店
   1954(昭和29)年12月4日第1刷発行
初出:「文藝界 夜の東京號」
   1902(明治35)年9月
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
「※[#二の字点、1-2-22]」は、「々」に書き替えました。
入力:地田尚
校正:富田倫生
2005年1月18日作成
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幸田露伴

名工出世譚—— 幸田露伴

   一

 時は明治四年、処は日本の中央、出船入船賑やかな大阪は高津のほとりに、釜貞と云へば土地で唯一軒の鉄瓶の仕上師として知られた家であつた。主人は京都の浄雪の門から出た昔気質の職人肌、頑固の看板と人から笑はれてゐた丁髷《ちよんまげ》を切りもやらぬ心掛が自然その技《わざ》の上にあらはれて、豪放無類の作りが名を得て、関東関西の取引の元締たる久宝寺町の井筒屋、浪花橋の釘吉《くぎよし》、松喜《まつき》、金弥などと云ふ名高い問屋筋の信用も厚く、註文引きも切らずと云つた状態であつた。九夏三伏の暑熱にも怯《め》げず土佐炭|紅※[#二の字点、1-2-22]《あか/\》と起して、今年十六の伜の長次と職人一人を相手として他念なく働いたお庇《かげ》で、生計も先づ裕《ゆた》かに折※[#二の字点、1-2-22]は魚屋の御用聞きなどを呼入れて、世話女房の酌で一杯やるといつた無事な日常《くらし》、世人も羨む位であつた。
 が、儘ならぬは浮世の常、この忠実な鉄瓶職人の家庭に思はぬ運命の暗影が射し始めた。それは、京都に名高い龍文堂といふ鉄瓶屋が時勢の変遷、世人の嗜好に敏なるところから在来の無地荒作りの鉄瓶に工夫を凝らして、華奢な仕上、唐草模様や、奇怪な岩組などといつた、型さま/″\の新品を製鋳して評判をとつたのが抑※[#二の字点、1-2-22]の初め、追ひ/\同職の誰彼もがそれを真似して益※[#二の字点、1-2-22]珍奇を競ひ立つたので、正直一|途《づ》、唯手堅い一方の釜貞は、時流に悠然として己が職分を守つてゐたが、水清ければ魚棲まず、孤高を衒《てら》ふ釜貞への註文は日に尠くなつてゆく所へ持つて来て、同じ土地の新八、太七と云ふ職人が考案した七彩浮ぶかと想はるゝやうな新鋳品が「虹蓋《にじぶた》」と名づけられて世間の評判を博するに至つたので、今迄釜貞の上顧客《じやうとくい》であつた数軒の問屋筋も商売大事さから一人減り二人減りして、何時しか釜貞の土間には炭火もとかく湿り勝ちで、結局仕事が無ければ貯蓄《たくはへ》のない職人のこととて米櫃の中も空であるのが多いやうな仕儀となつた。
 居喰《ゐぐひ》売喰《うりぐひ》の心細い生活がやがて窮迫を告げるに至つた。釜貞は無念の歯噛みと共に今は已むなく、我から問屋に足を運んで、せめて一つの仕事にでもといふのであつたが、彼の虹蓋さへ作つて呉れるなら二十が三十の仕事でも頼むとの口上に、頑固一徹の彼は火の如き憤怒と共に座を蹴つて帰宅した。

    二

 斯うして何の才覚もなくして我家へ帰る途中、釜貞の心中には時世へ対する呪詛に満ちてゐた。が、明日の糧《かて》にも気心を配る女房の顔を見れば、釜貞も人間、只暗澹として首を俯する他はなかつた。
 ふと土間を見ると、鎚を持つて何やら打つてゐた伜の長次が、親の憂を身に引取つたやうな眼付で、
「父さん、矢張り虹蓋の註文で腹をお立てになつて帰つたんですか!」
と尋ねるではないか。
「ウム、その通りだ。だが長次、お前も十七、虹蓋つくる奴等が手筋も大方知つてゐようが、世の中は千人寄つても盲ばかりの素人たち、見かけ倒しの品物でも異《ちが》つたものを嬉しがる馬鹿さ加減つたらねえ!」
 すると長次は、親の心子知らず、只目下の窮状を見るにつけて、父親の徒らなる憤慨に異見を挟みたくなつた。
「でも父さん、何も商売、お客様の喜ぶのが虹蓋なら、長年の経験で父さんにもその製法は判つてゐやうに、ひとつお気を入れ替へてそれを作つて問屋を奪《と》り返しては如何です。今日も御留守に米屋の親父《おやぢ》が来て蓄《たま》つた米代の催促をするやら、それに炭屋や質屋の……」
 云はせも果てず父親は、
「馬鹿! 手前《てめへ》までがそんな腐つた了簡で、歿《な》くなられた浄雪師匠に済まぬとは思はぬか。軽薄な細工物は云はば廃《すた》り易い流行物《はやりもの》、一流の操《みさを》を立てゝ己《おのれ》の分を守るのが名人気質だと云ふのが分らぬか、この不了簡者。米屋がどうの、炭屋がどうの――仮令《たとへ》餓ゑ死しようと、今更虹蓋つくるやうな卑劣《けち》な了簡を持つてたまるものか!」
と大喝するのを、蔭で女房は夫の日頃の気性を知つてゐるだけに只黙※[#二の字点、1-2-22]と涙を拭ふばかりである。
 かうして、背戸に泣く虫の音もいたく衰へた秋の夜長、親子三人枕を並べはしたが、思ひ/\の悲愁に満ちた不眠の幾夜、分けても釜貞にとつては辛い苦しい悪夢の夜が続くのであつた。

    

 貧すれば鈍するとか、分別も智慧もありながら、頑固な気性がつひした借金の負目《おひめ》となつて、釜貞は、一月二月と経つうちに、破れ障子破れ衾《ぶすま》の夜寒に思案もなく、有る程のものを悉く売り尽して露の命を細※[#二の字点、1-2-22]と繋いでゐたが、山と重なる諸方の支払も云訳《いひわけ》ばかりでは済まなくなつたので、万一にも此処ばかりは頼るまいと念じてゐた京都の親類を尋ねるため、川蒸気に乗つて出立した。
 久※[#二の字点、1-2-22]の訪問に手土産一つも調《ととの》ひかねて、きまり悪さに胸を掻きむしられる思ひで、霜の朝をその親類へと辿り着いた。と、何とはなく変つた家内の様子、奥の間より洩れて来る線香の香などにハッと驚きながらに通されると、未だ通知も届かぬ刻限なのにようこそ来た、実は母が八十の高齢で遂に昨日死んだとの悼《くや》み言《ごと》、釜貞は仏前へ差出す一物もなく、まして非常の際に無心に来たとも言はれもせず、茫然自失の体《てい》であつた。

    

 一方、釜貞の家では、倅の長次は朝起きると共に父親の居らぬを怪しみ母に仔細を問へば、斯※[#二の字点、1-2-22]《かく/\》の次第と涙の繰言《くりごと》に歯を喰ひしばつて口惜《くや》しがつたが、これもみな、新八、太七の類が為せし業《わざ》、ようし、斯うなつたら幼しと雖も我も釜貞の倅だ、虹蓋位の手口が判らずに措《お》くものかと、それから凡《あら》ゆる智慧と経験に照らして土間に転《ころが》つてゐた地金の屑をかき集め、灼《や》き、打ち、又焼き又叩き、虹蓋の秘伝を自ら編み出さうと夜の目も寝ずに苦心に苦心を重ねたが、どう工夫し、どう溶《と》かし合せても、似よりのものさへ出来ず、憔悴せんばかりに幾日を送るのであつた。
 釜貞は他《ひと》の不幸に際会して目的の無心も云へず、といふて明日の命を繋ぐ糧さへ無い我家を想ふと矢も楯もあらず、男を枉《ま》げ心を殺して幾許《いくばく》かの金を才覚して、大阪の家へ細※[#二の字点、1-2-22]と認めた手紙に添へて送つてやり、自分は他の職を見つけるべく尚京都の縁者の許に身を置くのであつた。
 長次はやがて思案の末、新八、太七の買《かひ》つけの薬舗《くすりや》に行つて薬を調べたりして腐心するのであつたが、一向その秘法も埒明かず、果ては病人のやうに幼な心を痛めるのを、母親はとかくに慰め訓へて無駄な労力を止めようとするのであつた。
 しかし長次も親譲りの負けぬ気性、湯加減を偸《ぬす》んで名刀の名を馳せし刀鍛治左文字の故事を学ぶの最後の智慧を以て、或日は薄暮、或日は暁暗、亦時として通りすがりの様を装《よそほ》つて、新八、太七の工場の前を窺つては中の様子にそれとなく注意を払ふのであつたが、却※[#二の字点、1-2-22]《なか/\》にその効もなく、そのまゝ日数を経て行つた。

    五

 一日《あるひ》、雪降り凜※[#二の字点、1-2-22]たる寒気の中を例の如く太七の家の前を通るうち、プッツと切れた下駄の鼻緒に転ぶ途端、無作法に笑ひこける太七の家の職人共に、何が可笑しいと詰り寄るうち、ふと一人の職人が細工場の戸を開けて外を窺つた。その瞬間であつた。一種の異臭の幽《かす》かに浮び出るを敏《さと》くも感覚した長次は、身体の痛みも口惜しさも忘れ、跣足《はだし》のまゝに我家へ一散走り、
「母さん、判りました、判りました。漸く虹蓋の秘法が判りました。鉄漿《おはぐろ》です、あ、あの苦い鉄漿だつたのです」
と、雪まぶれ泥まぶれの体を畳に擦りつけて、語気も乱れて埒なく云へば、母親は呆れて我子の顔を仰ぐの他なかつた。
 元来金属の細工には色を出すのに必ず鉄漿を用ゐるもので、釜の仕上師ならば何処の家にでもそれ/″\貯蓄があつて、殊に古いものを珍重するため、弟子は独立するときその師匠から幾許《いくら》か頒つて貰ひ、それをまた己が弟子に頒ち伝へるのが例で、中には百年余りの鉄漿を有つてゐる者さへある程で、もとより釜貞の家にも家伝の鉄漿がないではなかつたが、たゞそのありふれた鉄漿などが虹蓋の色だしに用ゐるものだとは、不幸年少の長次には考へ及ばなかつたのである。
 が、さて長次は、一度太七の家で嗅いだ鉄漿の臭にヒントを得て忽ちに利発の性は虹蓋の秘法を自知し、それからと云ふもの一心不乱、鍛へに鍛へた苦心の虹蓋は今迄の同職より一層鮮かな色を湛へたので、奪はれた顧客も難なく旧に復したのみか、家運頓に挙り、日に隆昌を追ふて、後には父親を迎へて目出度く家庭の和楽を悦び合ふ身となつた。

 この幼年の長次こそ、誰あらう今尚宮城前に威風颯爽たる馬上の勇姿を止める彼の楠公の銅像を鋳造した岡崎雪声氏ではあつた。

底本:「日本の名随筆39 藝」作品社
   1986(昭和61)年1月25日第1刷発行
   1991(平成3)年9月1日第8刷発行
底本の親本:「露伴全集 第三十巻」岩波書店
   1954(昭和29)年7月初版発行
入力:渡邉 つよし
校正:門田 裕志
2001年9月12日公開
2005年6月24日修正
青空文庫作成ファイル:
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幸田露伴

魔法修行者—— 幸田露伴

魔法。
 魔法とは、まあ何という笑《わら》わしい言葉であろう。
 しかし如何《いか》なる国の何時《いつ》の代にも、魔法というようなことは人の心の中に存在した。そしてあるいは今でも存在しているかも知れない。
 埃及《エジプト》、印度《いんど》、支那《しな》、阿剌比亜《アラビア》、波斯《ペルシャ》、皆魔法の問屋《といや》たる国※[#二の字点、1-2-22]だ。
 真面目に魔法を取扱って見たらば如何《いかが》であろう。それは人類学で取扱うべき箇条が多かろう。また宗教の一部分として取扱うべき廉《かど》も多いであろう。伝説研究の中《うち》に入れて取扱うべきものも多いだろう。文芸製作として、心理現象として、その他種※[#二の字点、1-2-22]の意味からして取扱うべきことも多いだろう。化学、天文学、医学、数学なども、その歴史の初頭においては魔法と関係を有しているといって宜しかろう。
 従って魔法を分類したならば、哲学くさい幽玄高遠なものから、手づまのような卑小|浅陋《せんろう》なものまで、何程《なにほど》の種類と段階とがあるか知れない。
 で、世界の魔法について語ったら、一《ひと》月や二《ふた》月で尽きるわけのものではない。例えば魔法の中で最も小さな一部の厭勝《まじない》の術の中の、そのまた小さな一部のマジックスクェアーの如きは、まことに言うに足らぬものである。それでさえ支那でも他の邦《くに》でも、それに病災を禳《はら》い除く力があると信じたり、あるいはまたこれを演繹して未来を知ることを得るとしたりしている。洛書《らくしょ》というものは最も簡単なマジックスクェアーである。それが聖典たる易《えき》に関している。九宮方位《きゅうきゅうほうい》の談《だん》、八門遁甲《はちもんとんこう》の説、三命《さんめい》の占《うらない》、九星《きゅうせい》の卜《ぼく》、皆それに続いている。それだけの談《はなし》さえもなかなか尽きるものではない。一より九に至るの数を九格正方内《きゅうかくせいほうない》に一つずつ置いて、縦線《じゅうせん》、横線《おうせん》、対角線、どう数えても十五になる。一より十六を正方格内に置いて縦線、横線、対角線、各隅《かくぐう》、随処四方角、皆三十四になる。二十五格内に同様に一より二十五までを置いて、六十五になる。三十六格内に三十六までの数を置いて、百十一になる。それ以上いくらでも出来ることである。が、その法を知らないで列《なら》べたのでは、一日かかっても少し多い根数《こんすう》になれば出来ない。古代の人が驚異したのに無理はないが、今日はバッチェット方法、ポイグナード方法、その他の方法を知れば、随分大きな魔方陣でも列べ得ること容易である。しかし魔方陣のことを談《かた》るだけでも、支那印度の古《いにしえ》より、その歴史その影響、今日の数学的解釈及び方法までを談れば、一巻の書を成しても足らぬであろう。極※[#二の字点、1-2-22]《ごくごく》小さな部分の中の小部分でもその通りだ。そういう訳だから、魔法の談《はなし》などといっても際限のないことである。
 我邦《わがくに》での魔法の歴史を一瞥して見よう。先ず上古において厭勝《まじない》の術があった。この「まじなう」という「まじ」という語は、世界において分布区域の甚《はなは》だ広い語で、我国においてもラテンやゼンドと連なっているのがおもしろい。禁厭《きんえん》をまじないやむると訓《よ》んでいるのは古いことだ。神代《じんだい》から存したのである。しかし神代のは、悪いこと兇なることを圧し禁《と》むるのであった。奈良朝になると、髪の毛を穢《きたな》い佐保川《さほがわ》の髑髏《どくろ》に入れて、「まじもの」せる不逞《ふてい》の者などあった。これは咒詛調伏《じゅそちょうぶく》で、厭魅《えんみ》である、悪い意味のものだ。当時既にそういう方術があったらしく、そういうことをする者もあったらしい。
 神おろし、神がかりの類は、これもけだし上古からあったろう。人皇《にんのう》十五、六代の頃に明らかに見える。が、紀記ともに其処《そこ》は仮託が多いと思われる。かみなびの神より板《いた》にする杉のおもひも過《すぎ》ず恋のしげきに、という万葉巻九の歌によっても知られるが、後にも「琴の板」というものが杉で造られてあって、神教《しんきょう》をこれによりて受けるべくしたものである。これらは魔法というべきではなく、神教を精誠《せいせい》によって仰ぐのであるから、魔法としては論ぜざるべきことである。仏教|巫徒《ふと》の「よりまし」「よりき」の事と少し似てはいるであろう。
 仏教が渡来するに及んで咒詛《じゅそ》の事など起ったろうが、仏教ぎらいの守屋《もりや》も「さま/″\のまじわざものをしき」と水鏡《みずかがみ》にはあるから、相手が外国流で己《おのれ》を衛《まも》り人を攻むれば、こちらも自国流の咒詛をしたのかも知れぬ。しかし水鏡は信憑すべき書ではない。
 役《えん》の小角《しょうかく》が出るに及んで、大分魔法使いらしい魔法使いが出て来たわけになる。葛城《かつらぎ》の神を駆使したり、前鬼《ぜんき》後鬼《ごき》を従えたり、伊豆の大島から富士へ飛んだり、末には母を銕鉢《てつばち》へ入れて外国へ行ったなどということであるが、余りあてになろう訳もない。小角は孔雀明王咒《くじゃくみょうおうじゅ》を持してそういうようになったというが、なるほど孔雀明王などのような豪気なものを祈って修法成就したら神変奇特も出来る訳か知らぬけれど、小角の時はまだ孔雀明王についての何もが唐《とう》で出ていなかったように思われる。ちょっと調べてもらいたい。
 白山《はくさん》の泰澄《たいちょう》や臥行者《がぎょうしゃ》も立派な魔法使らしい。海上の船から山中の庵《いおり》へ米苞《こめづと》が連続して空中を飛んで行ってしまったり、紫宸殿《ししいでん》を御手製《おてせい》地震でゆらゆらとさせて月卿雲客《げっけいうんかく》を驚かしたりなんどしたというのは活動写真映画として実に面白いが、元亨釈書《げんこうしゃくしょ》などに出て来る景気の好い訳《わけ》は、大衆文芸ではない大衆宗教で、ハハア、面白いと聞いて置くに適している。
 久米《くめ》の仙人に至って、映画もニコニコものを出すに至った。仙人は建築が上手で、弘法大師《こうぼうたいし》なども初《はじめ》は久米様のいた寺で勉強した位である、なかなかの魔法使いだったから、雲ぐらいには乗ったろうが、洗濯女の方が魔法が一段上だったので、負けて落第生となったなどは、愛嬌と涎《よだれ》と一緒に滴《したた》るばかりで実に好人物だ。
 奈良朝から平安朝、平安朝と来ては実に外美内醜の世であったから、魔法くさいことの行われるには最も適した時代であった。源氏物語は如何にまじないが一般的であったかを語っており、法力《ほうりき》が尊いものであるかを語っている。この時代の人※[#二の字点、1-2-22]は大概現世祈祷を事とする堕落僧の言を無批判に頂戴し、将門《まさかど》が乱を起しても護摩《ごま》を焚《た》いて祈り伏せるつもりでいた位であるし、感情の絃《いと》は蜘蛛《くも》の糸ほどに細くなっていたので、あらゆる妄信にへばりついて、そして虚礼と文飾と淫乱とに辛《から》くも活きていたのである。生霊《いきりょう》、死霊《しりょう》、のろい、陰陽師《おんようし》の術、巫覡《ふげき》の言、方位、祈祷、物の怪《け》、転生、邪魅《じゃみ》、因果、怪異、動物の超常力、何でも彼《か》でも低頭《ていとう》してこれを信じ、これを畏れ、あるいはこれに頼り、あるいはこれを利用していたのである。源氏以外の文学及びまた更に下っての今昔《こんじゃく》、宇治《うじ》、著聞集《ちょもんじゅう》等の雑書に就いて窺《うかが》ったら、如何にこの時代が、魔法ではなくとも少くとも魔法くさいことを信受していたかが知られる。今|一※[#二の字点、1-2-22]《いちいち》例を挙げていることも出来ないが、大概日本人の妄信はこの時代に※[#「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88]醸《うんじょう》し出されて近時にまで及んでいるのである。
 大体の談《はなし》は先ずこれまでにして置く。
 我国で魔法の類の称《しょう》を挙げて見よう。先ず魔法、それから妖術、幻術、げほう、狐つかい、飯綱《いづな》の法、荼吉尼《だきに》の法、忍術、合気《あいき》の術、キリシタンバテレンの法、口寄せ、識神《しきじん》をつかう。大概はこれらである。
 これらの中《うち》、キリシタンの法は、少しは奇異を見せたものかも知らぬが、今からいえば理解の及ばぬことに対する怖畏《ふい》よりの誇張であったろう。識神を使ったというのは阿倍晴明《あべせいめい》きりの談になっている。口寄せ、梓神子《あずさみこ》は古い我邦の神おろしの術が仏教の輪廻《りんね》説と混じて変形したものらしい。これは明治まで存し、今でも辺鄙《へんぴ》には密《ひそか》に存するかも知れぬが、営業的なものである。但しこれには「げほう」が連絡している。忍術というのは明治になっては魔法妖術という意味に用いられたが、これは戦乱の世に敵状を知るべく潜入密偵するの術で、少しは印《いん》を結び咒《じゅ》を持する真言宗様《しんごんしゅうよう》の事をも用いたにもせよ、兵家《へいか》の事であるのがその本来である。合気の術は剣客武芸者等の我が神威を以て敵の意気を摧《くじ》くので、鍛錬した我が気の冴《さえ》を微妙の機によって敵に徹するのである。正木《まさき》の気合《きあい》の談《はなし》を考えて、それが如何なるものかを猜《さい》することが出来る。魔法の類ではない。妖術幻術というはただ字面《じめん》の通りである。しかし支那流の妖術幻術、印度流の幻師の法を伝えた痕跡はむしろ少い。小角《しょうかく》や浄蔵《じょうぞう》などの奇蹟は妖術幻術の中には算《さん》していないで、神通道力というように取扱い来っている。小角は道士羽客《どうしうかく》の流にも大日本史などでは扱われているが、小角の事はすべて小角死して二百年ばかりになって聖宝《しょうぼう》が出た頃からいろいろ取囃《とりはや》されたもので、その間に二百年の空隙があるから、聖宝の偉大なことやその道としたところはおよそ認められるが、小角が如何なるものであったかは伝説化したるその人において認めるほかはないのである。聖宝は密教の人である。小角は道家ではない。勿論道家と仏家は互に相奪っているから、支那において既に混淆しており、従って日本においても修験道の所為《しょい》など道家くさいこともあり、仏家が「九字」をきるなど、道家の咒《じゅ》を用いたり、符※[#「竹かんむり/(金+碌のつくり)」、第3水準1-89-79]《ふろく》の類を用いたりしている。神仏混淆は日本で起り、道仏混淆は支那で起り、仏法|婆羅門《ばらもん》混淆は印度で起っている。何も不思議はない。ただここでは我邦でいう所の妖術幻術は別に支那印度などから伝えた一系統があるのではなくて、字面だけの事だというのである。
 さて「げほう」というのになる。これは眩法《げんほう》か、幻法か、外法《げほう》か、不明であるが、何にせよ「げほう」という語は中古以来行われて、今に存している。増鏡《ますかがみ》巻五に、太政大臣|藤原公相《ふじわらきみすけ》の頭が大きくて大でこで、げほう好みだったので、「げはふとかやまつるにかゝる生頭《なまこうべ》のいることにて、某《それがし》のひじりとかや、東山のほとりなりける人取りてけるとて、後《のち》に沙汰がましく聞えき」という事があって、まだしゃれ頭にならない生頭を取られたというのである。して見ればこの人の薨去《こうきょ》は文永四年で北条|時宗《ときむね》執権の頃であるから、その時分「げほう」と称する者があって、げほうといえば直《ただち》に世人がどういうものだと解することが出来るほど一般に知られていたのである。内典《ないてん》外典《げてん》というが如く、げほうは外法《げほう》で、外道《げどう》というが如く仏法でない法の義であろうか。何にせよ大変なことで、外法は魔法たること分明だ。その後になっても外法頭《げほうあたま》という語はあって、福禄寿《ふくろくじゅ》のような頭を、今でも多分京阪地方では外法頭というだろう、東京にも明治頃までは、下駄の形の称に外法というのがあった。竹斎《ちくさい》だか何だったか徳川初期の草子《そうし》にも外法あたまというはあり、「外法の下り坂」という奇抜な諺《ことわざ》もあるが、福禄寿のような頭では下り坂は妙に早かろう。
 流布本太平記巻三十六、細川|相模守清氏《さがみのかみきようじ》叛逆の事を記した段に、「外法成就の志一上人《しいつしょうにん》鎌倉より上《のぼ》つて」云※[#二の字点、1-2-22]とある。神田本同書には、「此《この》志一上人はもとより邪天道法成就の人なる上、近頃鎌倉にて諸人|奇特《きとく》の思《おもい》をなし、帰依《きえ》浅からざる上、畠山入道《はたけやまにゅうどう》諸事深く信仰|頼入《たのみい》りて、関東にても不思議ども現じける人なり」とある。清氏はこの志一を頼んで、※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼天《だぎにてん》に足利義詮《あしかがよしあきら》を祈殺《いのりころ》そうとの願状《がんじょう》を奉ったのである。さすれば「邪天道法成就」というのは、※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼天を祈る道法成就ということで、志一という僧はその法で「ふしぎども現じける」ものである。これで当時外法と呼んだものは※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼天法であることが知れる。けだし外法は平安朝頃から出て来たらしい。
 狐つかいは同じく※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼法であるか知れぬ。しかし狐を霊物とするのは支那にもあったことで、禹《う》が九尾《きゅうび》の狐を娶《めと》ったなどという馬鹿気たことも随分古くから語られたことであろうし、周易《しゅうえき》にも狐はまんざら凡獣でもないように扱われており、後には狐王廟《こおうびょう》なども所※[#二の字点、1-2-22]《ところどころ》にあり、狐媚狐惑《こびこわく》の談《だん》は雑書小説に煩らわしいほど見える。印度でも狐は仏典に多く見え、野干《ヤッカル》(狐とは少し異《ちが》おう)は何時《いつ》も狡智あるものとなっている。※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼天も狐に乗っているので、孔雀明王が孔雀の明王化、金翅鳥《きんしちょう》明王が金翅鳥の明王化である如く、※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼天も狐の天化であろう。我邦では狐は何でもなかったが、それでも景戒《けいかい》の霊異記《れいいき》などには、もはや霊異のものとされていたことが跡づけられる。狐は稲荷《いなり》の使わしめとなっているが、「使わしめ」というものはすべて初《はじめ》は「聯想《れんそう》」から生じた優美な感情の寓奇《ぐうき》であって、鳩は八幡《はちまん》の「はた」から、鹿は春日《かすが》の第一殿|鹿島《かしま》の神の神幸《みゆき》の時乗り玉《たま》いし「鹿」から、烏《からす》は熊野《くまの》に八咫烏《やたがらす》の縁で、猿は日吉山王《ひよしさんのう》の月行事の社《やしろ》猿田彦大神《さるだひこおおかみ》の「猿」の縁であるが如しと前人も説いているが、稲荷に狐は何の縁もない。ただ稲荷は保食神《うけもちのかみ》の腹中に稲生《いねな》りしよりの「いなり」で、御饌津神《みけつかみ》であるその御饌津より「けつね」即ち狐が持出されたまでで、大黒《だいこく》様(太名牟遅神《おおなむちのかみ》)に鼠よりも縁は遠い話である。けれども早くから稲荷に狐は神使《かみつかい》となっている。といってお稲荷様が狐つかいに関係のあろうようはないから、やはりこれは狐に乗っている※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼天の方から出たことで、※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼の法をつかう者即ち狐つかいである。※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼は保食神どころではない、本来|餓鬼《がき》のようなもので、死人の心を※[#「口+敢」、第3水準1-15-19]食《かんしょく》したがっている者なのであるが、他の大鬼神に敵《かな》わないので、六ヶ月前に人の死を知り、先取権を確立するものであり、なかなか御稲荷様のような福※[#二の字点、1-2-22]《ふくふく》しいものではないのである。※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼はまた阿修羅波子《アシュラバス》とも呼ばれて、その義は「飲血者」である。狐つかいの狐は人に禍《わざわい》や死を与える者とされている。して見れば※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼の狐で、お稲荷様の狐ではないはずである。大江匡房《おおえのまさふさ》が記している狐の大饗《だいきょう》の事は堀河天皇の康和三年である。牛骨などを饗《きょう》するのであったから、その頃から※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼の狐ということが人の思想にあったのではないかと思われるが、これは真の想像である。明らかに狐を使った者は、応永二十七年九月足利将軍|義持《よしもち》の医師の高天《こうてん》という者父子三人、将軍に狐を付けたこと露顕して、同十月|讃岐国《さぬきのくに》に流されたのが、年代記にまで出ている。やはり※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼法であったろうことは思遣《おもいや》られるが、他の者に祈られて狐が二匹室町御所から飛出《とびだ》したなどというところを見ると、将軍長病で治らなかった余りに、人に狐を憑《つ》けるなどという事が一般に信ぜられていたに乗じて、他の者から仕組まれて被《き》せられた冤罪《えんざい》だったかも知れない。が、何にしろ足利時代には一般にそういう魔法外法邪道の存することが認められていたに疑《うたがい》ない。世が余りに狐を大したものに思うところから、釣狐《つりぎつね》のような面白い狂言が出るに至った、とこういうように観察すると、釣狐も甚だ面白い。
 飯綱《いづな》の法というといよいよ魔法の本統大系《ほんとうだいけい》のように人に思われている。飯綱は元来山の名で、信州の北部、長野の北方、戸隠山《とがくしやま》につづいている相当の高山である。この山には古代の微生物の残骸が土のようになって、戸隠山へ寄った方に存する処《ところ》がある。天狗の麦飯《むぎめし》だの、餓鬼の麦飯だのといって、この山のみではない諸処にある。浅間山観測所附近にもある。北海道にもある、支那にもあるから太平広記《たいへいこうき》に出ている。これは元来が動物質だから食えるものである。で、飯綱は仮名ちがいの擬字《ぎじ》で、これがあるからの飯沙山《いいすなやま》である。そういうちょっと異なものがあったから、古く保食神即ち稲荷なども勧請《かんじょう》してあったかも知れぬ。ところが荼吉尼法は著聞集に、知定院殿《ちていいんでん》が大権坊《だいごんぼう》という奇験の僧によりて修したところ、夢中に狐の生尾《せいび》を得たり、なんどとある通り、古くから行われていたし、稲荷と荼吉尼は狐によって混雑してしまっていた。文徳実録《もんとくじつろく》に見える席田郡《むしろだごおり》の妖巫《ようふ》の、その霊|転行《てんこう》して心を※[#「口+敢」、第3水準1-15-19]《くら》い、一種|滋蔓《じまん》して、民《たみ》毒害を被る、というのも※[#「口+敢」、第3水準1-15-19]心の二字が※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼法の如く思えるところから考えると、なかなか古いもので、今昔物語に外術《げじゅつ》とあるものもやはり外法と同じく※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼法らしいから、随分と索隠行怪《さくいんこうかい》の徒には輾転《てんてん》伝受されていたのだろうと思われる。伝説に依ると、水内郡《みのちごおり》荻原《おぎわら》に、伊藤|豊前守忠縄《ぶぜんのかみただつな》というものがあって、後堀河天皇の天福元年(四条天皇の元年で、北条|泰時《やすとき》執権の時)にこの山へ上って穀食を絶ち、何の神か不明だがその神意を受けて祈願を凝《こ》らしたとある。穀食を絶っても食える土があったから辛防《しんぼう》出来たろう。それから遂に大自在力を得て、凡《およ》そ二百年余も生きた後、応永七年足利義持の時に死したということだ。これが飯綱の法のはじまりで、それからその子|盛縄《もりつな》も同じく法を得て奇験を現わし、飯綱の千日家《せんにちけ》というものは、この父子より成立ち、飯綱権現の別当ともいうべきものになったのであり、徳川初期には百石の御朱印を受けていたものである。
 今は飯綱《いいづな》神社で、式内《しきない》の水内郡《みのちぐん》の皇足穂命《すめたりほのみこと》神社である。昔は飯綱《いづな》大明神、または飯綱権現と称し、先ず密教修験的の霊区であった。他からは多くは※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼天を祭るとせられたが、山では勝軍地蔵《しょうぐんじぞう》を本宮とするとしていた。勝軍地蔵は日本製の地蔵で、身に甲冑を着け、軍馬に跨《またが》って、そして錫杖《しゃくじょう》と宝珠《ほうじゅ》とを持ち、後光輪《ごこうりん》を戴いているものである。如何にも日本武士的、鎌倉もしくは足利期的の仏であるが、地蔵十輪経《じぞうじゅうりんきょう》に、この菩薩はあるいは阿索洛《アシュラ》身を現わすとあるから、甲《かぶと》を被《こうむ》り馬に乗って、甘くない顔をしていられても不思議はないのである。山城《やましろ》の愛宕《あたご》権現も勝軍地蔵を奉じたところで、それにつづいて太郎坊大天狗などという恐ろしい者で名高い。勝軍地蔵はいつでも武運を守り、福徳を授けて下さるという信仰の対的《たいてき》である。明智光秀も信長を殺す前には愛宕へ詣《まい》って、そして「時は今|天《あめ》が下知る五月《さつき》かな」というを発句に連歌を奉っている位だ。飯綱山も愛宕山に負けはしない。武田信玄は飯綱山に祈願をさせている。上杉謙信がそれを見て嘲笑《あざわら》って、信玄、弓箭《ゆみや》では意をば得ぬより権現の力を藉《か》ろうとや、謙信が武勇優れるに似たり、と笑ったというが、どうして信玄は飯綱どころか、禅宗でも、天台宗でも、一向宗までも呑吐《どんと》して、諸国への使《つかい》は一向坊主にさせているところなど、また信玄一流の大きさで、飯綱の法を行《おこな》ったかどうか知らぬが、甲州|八代《やつしろ》郡|末木《すえき》村|慈眼寺《じげんじ》に、同寺から高野《こうや》へ送った武田家品物の目録書の稿の中に、飯縄本尊|并《ならび》に法次第一冊信玄公|御随身《みずいしん》とあることが甲斐国志《かいこくし》巻七十六に見えているから、飯綱の法も行ったか知れぬ。
 勝軍地蔵か※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼天か、飯綱の本体はいずれでも宜《よ》いが、※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]祇尼は古くからいい伝えていること、勝軍地蔵は新らしく出来たもの、だきには胎蔵界曼陀羅《たいぞうかいまんだら》の外金剛部院《げこんごうぶいん》の一尊であり、勝軍地蔵はただこれ地蔵の一変身である。大日経《だいにちきょう》巻第二に荼枳尼《だきに》は見えており、儀軌真言《ぎきしんごん》なども伝来の古いものである。もし密教の大道理からいえば、荼枳尼も大日、他の諸天も大日、玄奥《げんおう》秘密の意義理趣を談ずる上からは、甲乙の分け隔てはなくなる故にとかくを言うのも愚なことであるが、先ず荼枳尼として置こう。荼枳尼天の形相、真言等をここに記するも益無きことであるし、かつまた自分が飯綱二十法を心得ているわけでもないから、飯綱修法に関することは書かぬが、やはり他の天部《てんぶ》夜叉部《やしゃぶ》等の修法の如くに、相伝を得て、次第により如法《にょほう》に修するものであろう。東京近くでは武州|高雄山《たかおさん》からも、今は知らぬが以前は荼枳尼の影像を与えたものである。諸国に荼枳尼天を祭ったところは少からずあるが、今その法を修する者はあるまい。まして魔法の邪法のといわれるものであるから、真に修法《じゅほう》する者は全くあるまいが、修法の事は、その利益功能のある状態や理合《りごう》を語ろうとしても、全然そういうことを知らぬ人に理解せしむることは先ず不可能であるから、まして批評を交えてなど語れるものではない。管狐《くだぎつね》という鼠ほどの小さな狐を山より受取って来て、これを使うなどということは世俗のややもすれば伝えることであるが、自分は知らぬ。天狗も荼枳尼には連なることで、愛宕にも太郎坊があれば、飯綱にも天狗嶽という魔所があり、餓鬼曼陀羅《がきまんだら》のような荼枳尼曼陀羅には天狗もあり、また荼吉尼天その物を狐に乗っている天狗だと心得ている人もある。むかし僧正|遍照《へんじょう》は天狗を金網の中へ籠めて焼いて灰にしたというが、我らにはなかなかそのような道力はないから、平生いろいろな天狗に脅《おびやか》されて弱っている、俳句天狗や歌天狗、書天狗画天狗|浄瑠璃《じょうるり》天狗、その上に本物の天狗に出られて叱られでもしたら堪《たま》らないから筆を擱《お》く。
 我邦で魔法といえば先ず飯綱の法、荼吉尼の法ということになるが、それならどんな人が上に説いた人のほかに魔法を修したか。志一や高天は言うに足らない、山伏や坊さんは職分的であるから興味もない。誰かないか。魔法修行のアマチュアは。
 ある。先ず第一標本には細川|政元《まさもと》を出そう。
 彼《か》の応仁の大乱は人も知る通り細川|勝元《かつもと》と山名宗全《やまなそうぜん》とが天下を半分ずつに分けて取って争ったから起ったのだが、その勝元の子が即ち政元だ。家柄ではあり、親父の余威はあり、二度も京都|管領《かんりょう》になったその政元が魔法修行者だった。政元は生れない前から魔法に縁があったのだから仕方がない。はじめ勝元は彼《あれ》だけの地位に立っていても、不幸にして子がなかった。そこでその頃の人だから、神仏に祈願を籠めたのであるが、観音《かんのん》か何かに祈るというなら普門品《ふもんぼん》の誓《ちかい》によって好い子を授けられそうなところを、勝元は妙なところへ願を掛けた。何に掛けたか。武将だから毘沙門《びしゃもん》とか、八幡《はちまん》とかへ願えばまだしも宜《い》いものを、愛宕山大権現へ願った。勝元は宗全とは異って、人あたりの柔らかな、分別も道理はずれをせぬ、感情も細かに、智慧も行届く人であったが、さすがに大乱の片棒をかついだ人だけに、やはり※[#「酉+嚴」、142-5]《きぶ》いところがあったと見えて、愛宕山権現に願掛けした。愛宕山は七高山の一として修験の大修行場で、本尊は雷神《らいじん》にせよ素盞嗚尊《すさのおのみこと》にせよ破旡神《はむじん》にせよ、いずれも暴《あら》い神で、この頃は既に勝軍地蔵を本宮とし、奥の院は太郎坊、天狗様の拠所《よりどころ》であった。武家の尊崇によって愛宕は最も盛大な時であったろうが、こういう訳で生れた政元は、生れぬさきより恐ろしいものと因縁があったのである。
 政元は幼時からこの訳で愛宕を尊崇した。最も愛宕尊崇は一体の世の風であったろうが、自分の特別因縁で特別尊崇をした。数※[#二の字点、1-2-22]《しばしば》社参する中《うち》に、修験者らから神怪|幻詭《げんき》の偉い談《だん》などを聞かされて、身に浸みたのであろう、長ずるに及んで何不自由なき大名の身でありながら、葷腥《くんせい》を遠ざけて滋味《じみ》を食《くら》わず、身を持する謹厳で、超人間の境界を得たい望《のぞみ》に現世の欲楽を取ることを敢《あえ》てしなかった。ここは政元も偉かった。憾《うら》むらくは良い師を得なかったようである。婦人に接しない。これも差支《さしつかえ》ないことであった。自由の利く者は誰しも享楽主義になりたがるこの不穏な世に大自由の出来る身を以て、淫欲までを禁遏《きんあつ》したのは恐ろしい信仰心の凝固《こりかたま》りであった。そして畏るべき鉄のような厳冷な態度で修法をはじめた。勿論生やさしい料簡|方《がた》で出来る事ではない。
 政元は堅固に厳粛に月日を過した。二十歳、三十歳、四十近くなった。舟岡記《ふなおかき》にその有様を記してある。曰く、「京管領細川右京太夫政元は四十歳の比《ころ》まで女人禁制にて、魔法飯綱の法愛宕の法を行ひ、さながら出家の如く、山伏の如し、或時は経を読み、陀羅尼《だらに》をへんしければ、見る人身の毛もよだちける。されば御家《おいえ》相続の子無くして、御内《みうち》、外様《とざま》の面※[#二の字点、1-2-22]、色※[#二の字点、1-2-22]|諫《いさ》め申しける。」なるほどこういう状態では、当人は宜《よ》いが、周囲の者は畏れたろう。その冷い、しゃちこばった顔付が見えるようだ。
 で、諸大名ら人※[#二の字点、1-2-22]の執成《とりな》しで、将軍|義澄《よしずみ》の叔母の縁づいている太政大臣九条|政基《まさもと》の子を養子に貰って元服させ、将軍が烏帽子親《えぼしおや》になって、その名の一字を受けさせ、源九郎|澄之《すみゆき》とならせた。
 澄之は出た家も好し、上品の若者だったから、人※[#二の字点、1-2-22]も好い若君と喜び、丹波《たんば》の国をこの人に進ずることにしたので、澄之はそこで入都した。
 ところが政元は病気を時※[#二の字点、1-2-22]したので、この前の病気の時、政元一家の内※[#二の字点、1-2-22]《うちうち》の人※[#二の字点、1-2-22]だけで相談して、阿波《あわ》の守護細川|慈雲院《じうんいん》の孫、細川|讃岐守之勝《さぬきのかみゆきかつ》の子息が器量骨柄も宜しいというので、摂州《せっしゅう》の守護代|薬師寺与一《やくしじよいち》を使者にして養子にする契約をしたのであった。
 この養子に契約した者も将軍より一字を貰って、細川六郎|澄元《すみもと》と名乗った。つまり澄元の方は内※[#二の字点、1-2-22]の者が約束した養子で、澄之の方は立派な人※[#二の字点、1-2-22]の口入《くちいれ》で出来た養子であったのである。これには種※[#二の字点、1-2-22]の説があって、前後が上記と反対しているのもある。
 澄元契約に使者に行った細川の被官の薬師寺与一というのは、一文不通《いちもんふつう》の者であったが、天性正直で、弟の与二《よじ》とともに無双の勇者で、淀《よど》の城に住し、今までも度※[#二の字点、1-2-22]《たびたび》手柄を立てた者なので、細川一家では賞美していた男であった。澄元のあるところへ、澄之という者が太政大臣家から養子に来られたので、契約の使者になった薬師寺与一は阿波の細川家へ対して、また澄元に対して困った立場になった。そこで根が律義勇猛のみで、心は狭く分別は足らなかった与一は赫《かっ》としたのである。この頃主人政元はというと、段※[#二の字点、1-2-22]魔法に凝《こ》り募《つの》って、種※[#二の字点、1-2-22]の不思議を現わし、空中へ飛上ったり空中へ立ったりし、喜怒も常人とは異り、分らぬことなど言う折もあった。空中へ上《のぼ》るのは西洋の魔法使もする事で、それだけ永い間修業したのだから、その位の事は出来たことと見て置こう。感情が測られず、超常的言語など発するというのは、もともと普通凡庸の世界を出たいというので修業したのだから、修業を積めばそうなるのは当然の道理で、ここが慥《たしか》に魔法の有難いところである。政元からいえば、どうも変だ、少し怪しい、などといっている奴は、何時《いつ》までも雪を白い、烏を黒いと、退屈もせずに同じことを言っている扨※[#二の字点、1-2-22]《さてさて》下らない者どもだ、と見えたに疑《うたがい》ない。が、細川の被官どもは弱っている。そこで与一は赤沢宗益《あかざわそうえき》というものと相談して、この分では仕方がないから、高圧的|強請的《きょうせいてき》に、阿波の六郎澄元殿を取立てて家督にして終《しま》い、政元公を隠居にして魔法三昧でも何でもしてもらおう、と同盟し、与一はその主張を示して淀の城へ籠り、赤沢宗益は兵を率いて伏見《ふしみ》竹田口《たけだぐち》へ強請的に上って来た。
 与一の議に多数が同意するではなかった。澄之に意を寄せている者も多かった。何にしろ与一の仕方が少し突飛《とっぴ》だったから、それ下《しも》として上《かみ》を剋《こく》する与一を撃てということになった。与一の弟の与二は大将として淀の城を攻めさせられた。剛勇ではあり、多勢ではあり、案内は熟《よ》く知っていたので、忽《たちまち》に淀の城を攻落《せめおと》し、与二は兄を一元寺《いちげんじ》で詰腹《つめばら》切らせてしまった。その功で与二は兄の跡に代って守護代となった。
 阿波の六郎澄元は与一の方から何らかの使者を受取ったのであろう、悠然として上洛した。無人《ぶにん》では叶わぬところだから、六郎の父の讃岐守は、六郎に三好筑前守之長《みよしちくぜんのかみゆきなが》と高畠与三《たかばたけよぞう》の二人を付随《つけしたが》わせた。二人はいずれも武勇の士であった。
 与二は政元の下で先度の功に因りて大《おおい》に威を振《ふる》ったが、兄を討ったので世の用いも悪く、三好筑前守はまた六郎の補佐の臣として六郎の権威と利益とのためには与二の思うがままにもさせず振舞うので、与二は面白くなくなった。
 そこで与二は竹田源七《たけだげんしち》、香西又六《こうさいまたろく》などというものと相談して、兄と同じような路をあるこうとした。異なっているところは兄は六郎澄元を立てんとし、自分は源九郎澄之を立てんとするだけであった。とても彼のように魔法修行に凝って、ただ人ならず振舞いたまうようでは、長くこの世にはおわし果つまじきである、六郎殿に御世《みよ》を取られては三好に権を張り威を立てらるるばかりである、是非ないことであるから、政元公に生害《しょうがい》をすすめ、丹波の源九郎殿を以て管領家を相続させ、我※[#二の字点、1-2-22]が天下の権を取ろう、と一決した。
 永正《えいしょう》四年六月二十三日だ。政元はそのような事を被官どもが企てているとも知ろうようはない。今日も例の通り厳冷な顔をして魔法修行の日課を如法に果そうとするほかに何の念もない。しかし戦乱の世である。河内《かわち》の高屋《たかや》に叛《そむ》いているものがあるので、それに対して摂州衆、大和衆、それから前に与一に徒党したが降参したので免《ゆる》してやった赤沢宗益の弟|福王寺喜島《ふくおうじきじま》源左衛門和田源四郎を差向けてある。また丹波の謀叛対治のために赤沢宗益を指向《さしむ》けてある。それらの者はこの六月の末という暑気に重い甲冑を着て、矢叫《やさけび》、太刀音《たちおと》、陣鐘《じんがね》、太鼓の修羅《しゅら》の衢《ちまた》に汗を流し血を流して、追いつ返しつしているのであった。政元はそれらの上に念を馳せるでもない、ただもう行法が楽しいのである。碁を打つ者は五|目《もく》勝った十目勝ったというその時の心持を楽んで勝とうと思って打つには相違ないが、彼一石我一石を下《くだ》すその一石一石の間を楽む、イヤそのただ一石を下すその一石を下すのが楽しいのである。鷹を放つ者は鶴を獲たり鴻《こう》を獲たりして喜ぼうと思って郊外に出るのであるが、実は沼沢林藪《しょうたくりんそう》の間を徐《おもむ》ろに行くその一歩一歩が何ともいえず楽しく喜ばしくて、歩※[#二の字点、1-2-22]に喜びを味わっているのである。何事でも目的を達し意を遂げるのばかりを楽しいと思う中《うち》は、まだまだ里《さと》の料簡である、その道の山深く入った人の事ではない。当下《とうげ》に即ち了《りょう》するという境界に至って、一石を下す裏に一局の興はあり、一歩を移すところに一日の喜《よろこび》は溢れていると思うようになれば、勝って本《もと》より楽しく、負けてまた楽しく、禽《とり》を獲て本より楽しく、獲ずしてまた楽しいのである。そこで事相《じそう》の成不成、機縁の熟不熟は別として一切が成熟するのである。政元の魔法は成就したか否か知らず、永い月日を倦《う》まず怠らずに、今日も如法に本尊を安置し、法壇を厳飾し、先ず一身の垢《あか》を去り穢《けがれ》を除かんとして浴室に入った。三業純浄《さんごうじゅんじょう》は何の修法にも通有の事である。今は言葉をも発せず、言わんともせず、意を動かしもせず、動かそうともせず、安詳《あんしょう》に身を清くしていた。この間に日影の移る一寸一寸、一分一分、一厘一厘が、政元に取っては皆好ましい魔境の現前であったろう歟《か》、業通自在《ぎょうつうじざい》の世界であったろうか、それは傍《はた》からは解らぬが、何にせよ長い長い月日を倦まずに行じていた人だ、倦まぬだけのものを得ていなくては続かぬ訳だった。
 ※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]吉尼天は魔だ、仏《ぶつ》だ、魔でない、仏《ほとけ》でない。※[#「咤-宀」、第3水準1-14-85]吉尼天だ。人心を※[#「口+敢」、第3水準1-15-19]尽《かんじん》するものだ。心垢《しんく》を※[#「口+敢」、第3水準1-15-19]尽するものだ。政元はどういう修法をしたか、どういう境地にいたか、更に分らぬ。人はただその魔法を修したるを知るのみであった。
 政元は行水《ぎょうずい》を使った。あるべきはずの浴衣《よくい》はなかった。小姓の波※[#二の字点、1-2-22]伯部《ははかべ》は浴衣を取りに行った。月もない二十三日の夕風は颯《さっ》と起った。右筆《ゆうひつ》の戸倉二郎というものは突《つっ》と跳り込んだ。波※[#二の字点、1-2-22]伯部が帰って来た時、戸倉は血刀《ちがたな》を揮《ふる》って切付けた。身をかわして薄手だけで遁《のが》れた。
 翌日は戦《たたかい》だった。波※[#二の字点、1-2-22]伯部は戸倉を打って四十二歳で殺された主《しゅ》の仇を復《ふく》したが、管領の細川家はそれからは両派が打ちつ打たれつして、滅茶苦茶になった。
 政元は魔法を修していた長い間に何もしなかったのではない。ただ足利将軍の廃立をしたり、諸方の戦をしたりしていた。今は政元の伝を筆にしたのではない。
 政元より後に飯綱の法を修した人には面白い人がある。それは政元よりも遥《はるか》に立派な人である。
 関白、内大臣、藤原氏の氏《うじ》の長者、従《じゅ》一位、こういう人が飯綱の法を修したのである。太政大臣|公相《きみすけ》は外法のために生首《なまくび》を取られたが、この人は天文から文禄へかけての恐ろしい世に何の不幸にも遭わないで、無事に九十歳の長寿を得て、めでたく終ったのである。それは名高い関白|兼実《かねざね》の後の九条|植通《たねみち》、玖山公《きゅうざんこう》といわれた人である。
 植通公の若い時は天下乱麻の如くであった。知行も絶え絶えで、如何に高貴の身分家柄でも生活さえ困難であった。織田信長より前は、禁庭《きんてい》御所得はどの位であったと思う。或《ある》記によればおよそ三千石ほどだったというのである。如何に簡素清冷に御暮しになったとて、三千石ではどうなるものでもない。ましてお公卿《くげ》様などは、それはそれは甚だ窘乏《きんぼう》に陥っておられたものだろう。それでその頃は立派な家柄の人※[#二の字点、1-2-22]が、四方へ漂泊して、豪富の武家たちに身を寄せておられたことが、雑史野乗《ざっしやじょう》にややもすれば散見する。植通も泉州の堺、――これは富商のいた処である、あるいはまた西方諸国に流浪し、聟《むこ》の十川《そごう》(十川|一存《かずまさ》の一系だろうか)を見放つまいとして、※[#「てへん+晉」、第3水準1-84-87]紳《しんしん》の身ながらに笏《しゃく》や筆を擱《お》いて弓箭《ゆみや》鎗《やり》太刀《たち》を取って武勇の沙汰にも及んだということである。
 この人が弟子の長頭丸《ちょうずまる》に語った。自分は何事でも思立ったほどならば半途で止まずに、その極処まで究めようと心掛けた。自分は飯綱の法を修行したが、遂に成就したと思ったのは、何処《どこ》に身を置いて寝ても、寝たところの屋《や》の上に夜半頃になればきっと鴟《ふくろう》が来て鳴いたし、また路を行けば行く前には必ず旋風《つじかぜ》が起った。とこういうことを語ったという。鴟は天狗の化するものであるとされていたのである。前に挙げた僧正遍照も天狗の化した鴟を鉄網に籠めて焼いたのである。屋の上で鴟の鳴くのは飯綱の法成就の人に天狗が随身|伺候《しこう》するのである意味だ。旋風の起るのも、目に見えぬ眷属《けんぞく》が擁護して前駆《ぜんく》するからの意味である。飯綱の神は飛狐《ひこ》に騎《の》っている天狗である。
 こういう恐ろしい飯綱成就の人であった植通は、実際の世界においてもそれだけの事はあった人である。
 織田信長が今川を亡ぼし、佐※[#二の字点、1-2-22]木、浅井、朝倉をやりつけて、三好、松永の輩《はい》を料理し、上洛して、将軍を扶《たす》け、禁闕《きんけつ》に参った際は、天下皆鬼神の如くにこれを畏敬した。特《こと》に癇癖《かんぺき》荒気《あらき》の大将というので、月卿雲客も怖れかつ諂諛《てんゆ》して、あたかも古《いにしえ》の木曾|義仲《よしなか》の都入りに出逢ったようなさまであった。それだのに植通はその信長に対して、立ったままに面とむかって、「上総《かずさ》殿か、入洛《じゅらく》めでたし」といったきりで帰ってしまった。上総殿とは信長がただこれ上総介《かずさのすけ》であったからである。上総介では強かろうが偉かろうが、位官の高い九条植通の前では、そのくらいに扱われたとて仕方のない談《はなし》だ。植通は位官をはずかしめず、かつは名門の威を立てたのである。信長の事だから、是《かく》の如き挨拶で扱われては大むくれにむくれて、「九条殿はおれに礼をいわせに来られた」と腹を立って、ぶつついたということである。信長の方では、天下を掃清《そうせい》したのである、九条殿に礼をいわせる位の気でいたろう。が、これはさすがに飯綱の法の成就している人だけに、植通の方が天狗様のように鼻が高かった。公卿にも一人くらいはこういう毅然たる人があって宜《よ》かったのである。
 木下秀吉が明智を亡ぼし、信長の後を襲《つ》いで天下を処理した時の勢《いきおい》も万人の耳目を聳動《しょうどう》したものであった。秀吉は当時こういうことをいい出した。自分は天の冥加《みょうが》に叶って今かく貴《とうと》い身にはなったが、氏も素性もないものである、草刈りが成上ったものであるから、古《いにしえ》の鎌子《かまこ》の大臣《おとど》の御名《おんな》を縁《よすが》にして藤原氏になりたいものだ。というのは関白になろうの下ごころだった。すると秀吉のその時の素ばらしい威勢だったから、宜しゅうござろう、いと易《やす》い事だというので、近衛竜山公《このえりゅうざんこう》がその取計《とりはから》いをしようとした。その時にこの植通公が、「いや、いや、五|摂家《せっけ》に甲乙はないようなれど、氏の長者はわが家である、近衛殿の御儘《おんまま》にはなるべきでない」と咎《とが》めた。異論のあるのに無理を通すようなことは秀吉は敢《あえ》てせぬところである。しかも当時の博識で、人の尊む植通の言であったから、秀吉は徳善院玄以《とくぜんいんげんい》に命じて、九条近衛両家の議を大徳寺に聞かせた。両家は各※[#二の字点、1-2-22]固くその議を執ったが、植通の言の方が根拠があって強かった。そうするとさすがに秀吉だ、「さようにむずかしい藤原氏の蔓《つる》となり葉となろうよりも、ただ新しく今までになき氏《うじ》になろうまでじゃ」といった。そこで菊亭《きくてい》殿が姓氏録を検《あらた》めて、はじめて豊臣秀吉となった。
 これも植通は宜《よ》かった。信長秀吉の鼻の頭をちょっと弾いたところ、お公卿様にもこういう人の一人ぐらいあった方が慥《たしか》に好かった。秀吉が藤原氏にならなかったのも勿論好かった。このところ両天狗大出来大出来。
 秀吉は遂に関白になった。ついで秀次《ひでつぐ》も関白になった。飯綱成就の植通は毎※[#二の字点、1-2-22]言った。「関白になって、神罰を受けように」と言った。果して秀次関白が罪を得るに及んで、それに坐して近衛殿は九州の坊《ぼう》の津《つ》へ流され、菊亭殿は信濃へ流され、その女《むすめ》の一台《いちだい》殿は車にて渡された。恐ろしいことだ、飯綱成就の人の言葉には目に見えぬ権威があった。
 和歌は勿論堪能の人であった。連歌はさまで心を入れたでもなかろうが、それでも緒余《しょよ》としてその道を得ていた。法橋紹巴《ほっきょうしょうは》は当時の連歌の大宗匠であった。しかし長頭丸が植通公を訪《と》うた時、この頃何かの世間話があったかと尋ねられたのに答えて、「聚落《じゅらく》の安芸《あき》の毛利《もうり》殿の亭《ちん》にて連歌の折、庭の紅梅につけて、梅の花|神代《かみよ》もきかぬ色香かな、と紹巴法橋がいたされたのを人※[#二の字点、1-2-22]褒め申す」と答えたのにつけて、神代もきかぬとの業平《なりひら》の歌は、竜田川《たつたがわ》に水の紅《くれない》にくくることは奇特不思議の多い神代にも聞かずと精を入れたのであるのに、珍らしからぬ梅を取出して神代も聞かぬというべきいわれはない。昔伊勢の国で冬咲の桜を見て夢庵《むあん》が、冬咲くは神代も聞かぬ桜かな、と作ったのは、伊勢であったればこそで、かように本歌を取るが本意である、毛利|大膳《だいぜん》が神主《かんぬし》ではあるまいし、と笑ったということである。紹巴もこの人には敵《かな》わない。光秀は紹巴に「天《あめ》が下しる五月《さつき》哉《かな》」の「し」の字は「な」の字|歟《か》といわれたが、紹巴はまたこの公には敵わない。毛利が神主にもあらばこその一句は恐ろしい。
 紹巴は時※[#二の字点、1-2-22]この公を訪《と》うた。或時参って、紹巴が「近頃何を御覧なされまする」と問うた。すると、公は他に言葉もなくて徐《おもむ》ろに「源氏」とただ一言。紹巴がまた「めでたき歌書は何でござりましょうか」と問うた。答えは簡単だった。「源氏」。それきりだった。また紹巴が「誰か参りて御閑居を御慰め申しまするぞ」と問うた。公の返事は実に好かった。「源氏」。
 三度が三度同じ返答で、紹巴は「ウヘー」と引退《ひきさが》った。なるほどこの公の歩くさきには旋風《つじかぜ》が立っているばかりではなく、言葉の前にも旋風が立っていた。
 源氏物語にも言辞事物《げんじじぶつ》の注のほかに深き観念あるを説いて止観《しかん》の説という。この公の源語の注の孟津抄《もうしんしょう》は、法華経の釈に玄義、文句《もんぐ》とありて扨《さて》、止観十巻のあるが如く、源氏についての止観の意にて説かれたということである。非常な源氏の愛読者で、「これを見れば延喜《えんぎ》の御代《みよ》に住む心地する」といって、明暮《あけくれ》に源氏を見ていたというが、きまりきった源氏を六十年もそのように見ていて倦《う》まなかったところは、政元が二十年も飯綱修法を行じていたところと同じようでおもしろい。
 長頭丸が時※[#二の字点、1-2-22]|教《おしえ》を請うた頃は、公は京の東福寺《とうふくじ》の門前の乾亭院《かんていいん》という藪の中の朽ちかけた坊に物寂《ものさ》びた朝夕を送っていて、毎朝※[#二の字点、1-2-22]|輪袈裟《わげさ》を掛け、印を結び、行法怠らず、朝廷長久、天下太平、家門隆昌を祈って、それから食事の後には、ただもう机に※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]《よ》って源氏を読んでいたというが、如何にも寂びた、細※[#二の字点、1-2-22]とした、すっきりとした、塵雑《じんざつ》の気のない、平らな、落《おち》ついた、空室に日の光が白く射したような生活のさまが思われて、飯綱も成就したろうが、自己も成就した人と見える。天文から文禄の間の世に生きていて、しかも延喜の世に住んでいたところは、実に面白い。
 或時長頭丸即ち貞徳《ていとく》が公を訪《と》うた時、公は閑栖《かんせい》の韵事《いんじ》であるが、和《やわ》らかな日のさす庭に出て、唐松《からまつ》の実生《みばえ》を釣瓶《つるべ》に手ずから植えていた。五葉《ごよう》の松でもあればこそ、落葉松《からまつ》の実生など、余り佳いものでもないが、それを釣瓶なんどに植えて、しかもその小さな実生のどうなるのを何時《いつ》賞美しようというのであろう。しかしここが面白いのである、出来た人でなければ出来ない真の楽みを取っているところである。貞徳は公より遥《はるか》に年下である。我身の若さ、公の清らに老い痩枯《やせが》れたるさまの頼りなさ、それに実生の松の緑りもかすけき小ささ、わびきったる釣瓶なんどを用いていらるるはかなさ、それを思い、これを感じて、貞徳はおのずから優しい心を動かしたろう、どうぞこの松のせめて一、二尺になるまでも芽出度《めでたく》おわしませ、と「植ゑておく今日から松のみどりをも猶《なお》ながらへて君ぞ見るべき」と祝いて申上げると、「日のもとに住みわびつゝも有《あ》りふれば今日から松を植ゑてこそ見れ」と、ただ物をいうように公は答えた。
 その器《き》その徳その才があるのでなければどうすることも出来ない乱世に生れ合せた人の、八十ごろの齢《とし》で唐松の実生を植えているところ、日のもとの歌には堕涙《だるい》の音が聞える。飯綱修法成就の人もまた好いではないか。
                           (昭和三年四月)

底本:「幻談・観画談 他三篇」岩波文庫、岩波書店
   1990(平成2)年11月16日第1刷発行
   1994(平成6)年5月15日第6刷発行
底本の親本:「露伴全集 第十五巻」岩波書店
   1952(昭和27)年5月刊
入力:土屋隆
校正:オーシャンズ3
2007年11月26日作成
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幸田露伴

墨子—— 幸田露伴

 墨子は周秦の間に於て孔子老子の學派に對峙した鬱然たる一大學派の創始者である。
 墨子の學の大に一時に勢力のあつたことは孔子系の孟子荀子等が之を駁撃してゐるのでも明白で、輕視して置けぬほどに當世に威※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]を有したればこそ孟子荀子等がこれに對して筆舌を勞したのである。それのみならず人間の善惡を超越し是非を忘却するやうなことを理想としたかの如き莊周でさへも墨家に論及し、それから又手嚴しい法治論者の韓非までも墨家を儒家と列べて論じてゐる。此等の事實は皆墨子の學が少からざる力を當時に有してゐたことの傍證であつて、秦以後の書の孔叢子、淮南子、史記、漢書、七略等に見えてゐることと、その前の尸子、晏子春秋、呂覽等に散見してゐることとを除いても、墨子の本書に、墨子の弟子禽滑釐等三百餘人が墨子の道の爲に守禦の器を持して宋の爲に楚を防がんとしたことが、魯問篇に見えてゐるし、又墨子の弟子の公尚過といふものは越王に優遇され、越王は墨子を故の呉の地方五百里を以て封ぜんことを申出し、又楚の惠王、魯陽文君等は墨子を崇敬し、衞、宋、魯等の君も墨子を尊んだことは本書の各篇に見え、墨子の弟子は禽滑釐を首として、高石子、縣子碩、耕柱子、魏越、管黔敖、高孫子、治徒娯、跌鼻、曹公子、勝綽、彭輕生、孟山譽、王子閭等は皆墨子に道を學び、或は道を問うたものであることは本書に見え、漢書藝文志、呂覽等によれば、隨巣子、胡非子等は墨子の弟子で書を著はし、禽滑釐の弟子には許犯、索盧があり、許犯の弟子には田繋があり、胡非子の弟子には屈將子があり、其他、韓非子、莊子、呂覽等によれば、墨子の學系には、田※[#「にんべん+求」、第4水準2-1-50]子、相里勤、相夫子、※[#「登+おおざと」、第3水準1-92-80]陵子、苦獲、相里氏の弟子の五侯子、それから孟勝、田襄子、腹※[#「享+(廣-广)」、U+2A3C6、174-5]、徐弱、謝子、唐姑果等を指摘し得る。是の如くに墨子の弟子又は再傳三傳の弟子を二千年前の昔に指摘し得ることは、墨子の道の盛行したことを語るもので無くて何であらう。
 墨子を孔子と同列のやうに取扱つたのは、早く韓非子の時からで、韓非子顯學篇に、既に儒墨と併稱して、八儒三墨と其の流派を擧げてゐる。儒の至る所は孔丘なり、墨の至るところは墨※[#「櫂のつくり」、第3水準1-90-32]なり、と韓非子が言つてゐるのであるが、是の如く墨子を孔子と併べ稱したのは、墨子の道が孔子の道の如くに天下に顯然としてゐたからでもあるが、一つは又孔子の道が世を救ひ人を正しうするに在る如く、墨子の道もまた世を救ひ人を正しうするに在つて、聖賢を稱揚し、道徳と政治とに兼ね亙つてゐること、相似通ふところがあるからに本づいたのでも有つたらう。で、後に至つて韓退之の如きは孔墨を論じて、其道は相戻るほどの鴻溝大嶺が其間に存するのでは無いとして、余おもへらく辯は末學の各※[#二の字点、1-2-22]其師を售るを務むるの説に生ず、二師の道の本より然るに非ざる也、孔子は必ず墨子を用ゐ、墨子は必ず孔子を用ゐん、相用ゐざれば孔墨たるに足らず、とさへ言つてゐる。退之の此論は勿論割引しなければ通ぜぬ論であるが、先秦諸子の各※[#二の字点、1-2-22]一家の言をなしてゐる中で、墨子の教が孔子の教に近いことは、それは他の莊、列、韓非の輩の孔子に遠いのに比して、大に近く、まことに一脈相通ずるものがあることは爭へない。孔子の堯舜禹湯文武を稱するが如く、墨子も堯舜禹湯文武を稱し、聖王賢主の民を率ゐ躬を正しうしたところに準據してゐるのであつて、自分の小さな知識や感情から一家の言を成し、我より古を成さうとしてゐたのでは無いのである。理想に於ては孔子も墨子も治國平天下、民をして安穩幸福に生を遂げしめんとしたのである。
 さて墨子は何樣いふ人であつたかといふに、墨子の姓は墨、名は※[#「櫂のつくり」、第3水準1-90-32]であつて、魯の人であつた。宋の人といふ説も諸書にあるが、それは恐らくは墨子が宋の太夫となつたところから生じたことであらう。墨氏は孤竹君の後で、墨台氏といつたのが、改めて墨氏となつたのであるといふのが、姓氏學者の説である。姓氏學者の説は時に信ずべからざることがあるが、墨氏が墨台氏で孤竹君の後で有らうと有るまいと、いづれにしても墨子に取つては大したことで無いから論ずるに足らぬ。墨子の姓は※[#「櫂のつくり」、第3水準1-90-32]で名は烏といふ異説もあるが、それは周櫟園が書影に記してから人の談に上るやうになつたので、櫟園は好い人物であり、書影は面白い雜筆だけれど、其説は元の伊世珍の※[#「螂」の「虫」に代えて「女」、U+5ACF、175-13]※[#「女+鐶のつくり」、U+5B1B、175-13]記に賈子説林といふものを引いて記したのが原で、賈子説林なんといふ書は有無不明であり、恐らくは世珍の妄言、墨子の母が日中の赤烏が室に入るを夢みて驚き覺めて生れたから烏と名づけたなどといふことを作り出したのだらう、他の古書に見及ばぬことであるから、面白い説だとて信ずるには足らぬ、たゞ是れ茶話の料たるまでである。
 墨子の在世時代は、墨子に接觸してゐる人※[#二の字点、1-2-22]の上から推測考定して、周の定王頃に生れて、安王の廿四五年頃に死んだのであり、其壽は甚だ長く、八十餘歳、九十一二歳かであつたらうと考へられる。孔子の時に並ぶ、或は曰く其後に在りと、と史記は記してゐるが、史記の撰者は墨子が嫌ひであつたか何樣か知らぬが、墨子に對しては甚だ同情少く、墨子のために其傳を立つるに勞を吝んでゐる。後漢の張衡が、公輸班と墨※[#「櫂のつくり」、第3水準1-90-32]と並びに子思の時に當り、仲尼の後に出づ、と云つてゐるが、實に當を得てゐる。墨子は孔子に後るゝこと百年近く、孟子の師の頃で、丁度子思よりは二十幾歳の年下であつたらうと思はれる。秦火以後に諸子は復活したが墨子は其の學統さへ全く絶えて、終に晉の代の魯勝が出るまでは少くも墨子に左袒する氣味の人が無かつたのであるから、今更判然と考定する事の出來ぬのも自然の數である。墨子の如き儉を尚び民を愛する主張の學説が、長城を築き阿房を起した如き秦の政府に憎惡されたらうことは、儒教其他の學説よりも一層太甚しかつたらうことは想像に難くないことで、秦以後に復び其の學説が起つ能はざるまでに壓迫されて了つたこともおのづから想像するに難くないことであるから、漢に於て儒教が復興し得たにかゝはらず、墨家は殆んど撲倒されたまゝになり了つて、從つて墨子の事に就いては漢でも既に不明になつて了つたのであり、たま/\淮南子に其の少許の傳説、論衡に其の教説の批難が見える位で、墨子派の遺緒を紹ぐ者などは見出されないのであつた。史記の撰者父子はたま/\墨子を愛尚しなかつたのか否か不明であるけれども、孔子と併稱された墨子に對しては、餘りに其の筆墨を吝んでゐるが、それもたま/\既に當時に於て墨子の繼紹者が絶無であつたか、或は甚だ微力であつたかを語るものである。
 墨子の説は墨子の創唱になつたものか、或は古より其の一派傳統のあつたものか、これも論定されてゐないことである。然し漢書の藝文志に、墨家の首に尹佚二篇を擧げてゐる。尹佚は即ち史佚で、周の太史であり文王の時から成王康王の時に亙つた功臣である。此の史佚の書は漢の時に猶ほ遺つてゐたもので、其言が墨家に同じきものがあると認められたからこそ、墨家の首に置かれたのであらう。して見れば墨子の學は、尹佚の流を汲んだものであるとしてよい。古の史官といふものは、實に禮經を司どり國典を管し、其の學は皆傳統的に受授したものである。魯の惠公が郊廟の禮を天子に請うた時、桓王は史角をして魯に往かしめられた。惠公は史角を魯に止めた。此の史角の後が魯に在つた者に就いて墨子は學んだといふことが、呂氏春秋の當染篇に見えて居り、丁度孔子が老※[#「耳+冉の4画目左右に突き出る」、第4水準2-85-11]や孟蘇※[#「(止+(首/儿)+巳)/夂」、第4水準2-5-28]靖叔に學んだと同じやうな例に引いてある。して見れば墨子は史角の後の人に學んだのだが、史角は其名と事とによつて考へれば無論周の史官であり、そして恐らくは史佚の後であらうと推察される。で、墨子の學は史佚の系と見ても可なることになる。漢書に、墨家者流は蓋し清廟の守に出づ、茅屋采椽、是を以て儉を貴ぶ、三老五更を養ふ、是を以て兼愛す、選士大射す、是を以て賢を上《たふと》ぶ、宗祀嚴父す、是を以て鬼を右《たふと》ぶ、四時に順つて行ふ、是を以て命を非とす、孝を以て天下に視《しめ》す、是を以て同を上ぶ、と云つてゐるのは、墨子の書の篇中の主目に依つて言を爲してゐるやうで、少し不穩のところも有るやうだが、大體に於ては當つて居り、そして莊子の天下篇に、後世に侈らず、萬物に靡せず、數度に暉せず、繩墨を以て自づから矯め、而して世の急に備ふ、古の道術、是に在るものあり、墨※[#「櫂のつくり」、第3水準1-90-32]禽滑釐其風を聞いて之を説《よろこ》ぶ、と云つてゐるのと相應ずるところがある。漢書の各家學説に對する言は、凡べて之を官に淵源する者としてゐるので、儒家は司徒の官に出で、道家は史官に出で、法家は理官に出で、名家は禮官に出で、縱横家は行人の官に出でたとする類で、大體は然樣も言ひ得るのであるが、少し押付がましい傾向もある。名家が禮官に出でたと云つても、公孫龍や惠施の學が禮官とは餘り關係が薄いし、二氏の學はむしろ墨家の末流である。縱横家が行人の官に出たと云つても、蘇秦や張儀の辯が行人の官とは縁遠いものであるが如く、出たと云へば出たやうなものゝ、必ずしも其の正系本統では無い。墨家の學が清廟の守に出たといふのも極※[#二の字点、1-2-22]稀薄な意味で、其の流れの末だといふ位に取らねばならぬ。然し、各派の學説の源を説いて、古の道術是に在る者有りと莊子の説いたのと、九流皆官に出づると爲して漢書の説いたのとは、同じく誣ひざる者があつて、各家の説皆古に原づくところのあることを語つて居るのであるから、墨家者流も忽然として新説を立てたのでは無く、古に依り古より出でゝ説を爲したとして宜しい。清廟に事有るものは巫でなければ史である、史佚史角の流は成程其人であらうし、墨子が史角の後に學び、史佚が墨家に列せられてゐるところを見れば、今は史佚の書が亡びて何樣な言を爲したものか考知することが出來無いが、墨子の學も其邊から出て來たとして認むべきである。但し墨子が史佚史角の學系に出たにせよ、墨子が自家の力量識見を以て、これを墨※[#「櫂のつくり」、第3水準1-90-32]流に擴張し開展して、そして所謂墨家を成立たせたことは認めなければならぬ。墨子以前の墨家者流の撰述と認むべきものは、尹佚二篇のみで、墨子以外の墨家者流著述は皆墨子の弟子の手に成つたもののみであるから。
 墨子の書は漢の時に於て七十一篇存在したが、今に存してゐるのは五十三篇である。そして其書は漢や晉に於て他の諸子が既に注釋詮考され出したにかゝはらず、墨子のみは棄てゝ置かれたので、唐から宋へかけても、誰も注疏などした人が無く、長い歳月の間に於て、漢の王充が墨子を論駁し、晉の魯勝が墨辯注を著はし、唐で韓退之が評し、宋で黄東發が評した位の事であつた。魯勝の墨辯注は何樣なものであつたか、晉の時代は後世の史家等から餘り立派な時代で無いやうに云はれてゐるが、定論になつてゐてもそれは感心されぬ論で、支那の各時代中でも哲學がゝつた方面は進歩した時代であると云ひたい位である。魯勝は天文學的知識の有つた人で、自分の生命を賭けて其學問上の自説を主張したと云はれて居り、其の注した部分は墨子の書の中でも今猶ほ甚だ讀み難き部分であるから、其の泯びたことは惜むべきであるが是非が無い。陶淵明の文と僞傳されてゐるものに、墨家の人のことに筆の及んでゐるものがあるところを見ると、晉時代には墨子が少しは士人の談論に上つたのかも知れないが、文の記するところも何だか異樣である。同じ晉の代には彼の博學能文の葛洪の爲に墨子は仙人のやうにされてしまつて、墨子は變化の術や金丹の法を得た人となり、墨子五行記などといふ者が有つて、神通變化の術を説いてあると云はれ、漢の劉安が未だ僊去せざる時に其要を抄記した一卷が遺つてゐるなどと傳へられ、五代の唐の莊宗の時に魏州の妖人楊千郎といふものが墨子の術を知つてゐて、能く鬼神を使役し、丹砂水銀を化する事を爲すとて、莊宗の崇愛を得た事實が、五代史卷十四に見えるに至つてゐる。葛洪は面白い人だが、神仙傳を撰んで、多く神異の事を録したために斯樣いふ事が起つたので、又同人の著はした抱朴子及び金※[#「さんずい+(勹<一)」、U+6C4B、180-9]經にも墨子と仙道に關することを載せてゐる。葛洪が妄撰した談だか、當時然樣いふ傳説が有つて、葛洪が之を記したのか不明だが、晉以來墨子が其爲に道家と縁を結んで、後には莊宗の爲に殺されて了ふ楊千郎の事の如きも五代の時には起るに至つたのである。然し何が幸になるか知れないもので、墨子が道家に混入させられた爲に、道藏の中に墨子の佳本が收採されてゐて、その爲に今日墨子を讀む便宜を得るに至つたのである。道藏外の墨子は訛舛の實に甚だしくて讀み難いものであつたのである。晉より後に至つて、梁の陶弘景、これも大學者の詩人であるが、道家が其の本領で、此人も神仙傳に依つて言を爲したのであらうが、墨子が金丹を服して仙となつたと記してゐる。孫子も鬼谷子も韓非子も諸葛孔明も、道家は皆これを道家にして了ふのであるから、墨子が道家にされても不思議は無いが、一つは墨子の學には「實物を處理する」ところがあつて、それが口授親傳され、そして其實際知識の得了されたものが所謂「巨子」となつて其學の宗師となる不文律のやうなものが有つたのであるから、神仙家の假託の談の成立つべき祕密傳授の如き地が有つたからであるかも知れない。墨子の弟子の禽滑釐が日に焦げ黒み、手足胼胝して苦學したといふが如きも、たゞ室内に在つて道を聞き教を受けるのでは然樣いふことになる譯は無い、工學的の實際を敢てしたればこそ然樣なるのであつて、然樣して其學成就すれば「巨子」となるのである。墨者の巨子孟勝が死に臨んで巨子を田襄子に屬した談の如くに、巨子といふのは儒家に於ける碩儒といふやうなたゞの美稱の意味のみでは無い、一種の相傳的地位といふやうなものの附加されてゐる意味を有してゐるのである。斯樣いふところは神仙家金丹家臭いところが無いでも無いのである。そして墨者は死を以て其道と地位とに殉ずる意氣が甚だ強かつたもので、墨子の弟子禽滑釐等三百人は楚を敵として死なうとし、巨子孟勝が呉起の亂に死した時は弟子徐弱をはじめ八十五人が皆死んでゐる。で、莊子には「巨子を以て聖人と爲し、皆之が尸たらんことを願ふ」と記し、淮南子には「墨子の服役百八十人、皆火に赴き刀を踏み、死して踵を旋さゞらしむ可し」と記し、新語の思務篇に「墨子の門、勇士多し」と云つてゐる。此等の有樣を考へると、墨學傳授の有樣は儒家とは大分異つて居り、特に兵科の事の實際を墨子の書の記してゐるところに照し考へれば、墨子は非戰主義では有るけれども、非戰主義でも無抵抗主義では無くて、侵略者を沈默させる主義であるため防禦的兵科を實習實行することをしたもので、それ故に史記に「守禦を善くす」と云はれたのである。神仙家の中には今日の化學作業の如きことをした者もある。墨子の學にも理化學的作業のやうなことをした部面も或は有つたかも知れぬ。飛行機の孩子の如き木鳶を墨子の造つた傳説も有り、雲梯等の攻城器械を無功ならしむる各般の實際設備と、攻城に對する防禦施爲とを墨子が説いてゐるところを觀ると、墨子の學は心識的のみで無くて手腕的の方面も伴なつてゐたもので、その實際施設の方面には口授親接によつて傳へられたものも多かつたらう。墨子が神仙家の方へ引張り込まれたのも少しは理由が有つたかも知れない。韓非子さへ其の學の核心に老子風の人生觀が少し許り存したため道家に入れられた位であるから。
 唐宋元明の間には前に言つた通り墨子は講明さるゝことも無くて過ぎたが、此は一つは墨子が讀み難い文であり、古字が有つたり、寫誤や錯簡が有つたり、又意味の元來晦澁なところが有つたり、解し易い部分は讀んでも興味が少かつたりしたためで、墨説の興味少くて華やかで無いことは既に韓非子に、楚王と田鳩との問答に見えてゐる通りである。先秦諸子の中で、公平に評して、墨子は餘り高級の出來榮の文章では無い。特に他書には見えぬやうな詞づかひなどもある。然樣いふ譯で長く顧みられず、且又儒學の兩大家である孟子荀子には斥けられ異端邪説とされてゐたのであるから、骨を折つて讀まうといふものも無く、僅に茅鹿門に明の時に評された位であつた。ところが清朝になつて古を攻むることが行はれたに際し、畢※[#「さんずい+元」、第3水準1-86-54]、孫星衍、盧文※[#「弓+召」、U+5F28、183-3]が初に出で、汪中、王念孫、引之が次で出で、後に兪※[#「木+越」、第3水準1-86-11]、孫詒讓等が出づるに及んで、衆燭の光り漸くにして闇を破り明を發し、何樣やら斯樣やら讀めるやうになつたのである。それでも中※[#二の字点、1-2-22]以て十分とはいかぬし、隅から隅まで明晰に解し得るとはならぬのであり、解釋に日が暮れて、批判といふところまで手を着けてゐるものは未だ見當らぬのである。何にせよ二千年も棄てゝ置かれた舊籍で爛脱訛舛が多いのみならず、孔老の道、莊列の書、管晏の説とも異なる墨子は墨子だけの特立の學であるから、其の理路を考へるにも沈涵の日數を累ねなければならぬので、今でも明白に讀み得ぬところが殘されてゐる。畢※[#「さんずい+元」、第3水準1-86-54]は博學な人ではあるが、一番最初に讀墨に着手した人なので、隨分多くの讀み誤りをしてゐる位である。でも畢氏から讀墨の道が拓けて、其後王引之が特に詞辭の學を詳にしたので、墨子特有の「惟母」といふやうな稀有の言葉づかひも明らかにされ、念孫の讀書雜志は大に墨子の錯簡や古字を闡明し、兪※[#「木+越」、第3水準1-86-11]の諸子平議は時に鑿説と思はるゝのもあるが、是亦少からぬ發明をして居り、孫詒讓が間話を撰するに至つて、衆説を※[#「さんずい+(匚<隹)」、第4水準2-79-7]會し、精力を傾倒して、おほよそは後學をして、此の滿目棒蕪の古典を窺知するを得せしめたのである。が、猶ほ甚だ多く不明の處が遺されてゐることは否定することが出來ぬのである。
 さて墨子の思想や主張に就いて語らうとするに、墨子を覗ひ知るべきものは今存してゐる五十三篇のほかに正しい材料とすべきものは無い。墨子に就ては先秦諸子及び漢の時の諸書が言及してゐるものが無いではないが、それ等は餘り價値は無い。淮南子の要略に、墨子儒者の業を學び孔子の術を受くなどと云つてゐるが如きは取るに足らぬ妄言であり、同書主術に、孔墨皆先聖の術を脩め、六藝の論に通ず、と云つてゐるのも、孔墨を同視した言で、孔墨の道の相反すること多きことを無視してゐる妄言である。古書古人の言と雖も間違つてゐるものは間違つてゐるのである。古書古人の言もたゞ參考とすべきであつて、無批判に採用は出來ぬ。それよりも墨子の書が幾篇を亡つても今幸に五十三篇を存してゐるから、直ちに其の書に就いて其説を觀取する方が宜い。
 但し現存の墨子は墨子の躬づから撰したもののみでは無い。古書多くは皆然りであるが、墨子の書の大部分は墨子の手に成つたのでは無くて、墨子の弟子、或は墨子の弟子の禽滑釐の弟子、或は其弟子の弟子等の手に成つたものである。其の證據は現存の墨子所染篇の末のところに「禽子傳説の徒是なり」とある句があるが、禽滑釐は墨子の弟子であるのに、それを「子」といふ尊稱を以て名いつてゐるのは、禽子系の弟子の手に文が成つたからである。又尚賢篇の中篇に、「且つ尚賢を以て政の本と爲す者は、亦豈獨り子墨子の言のみならんや」と記してある。墨子が自づから子墨子といふ譯は無いから、文が墨子の弟子、又は孫弟子の手に成つた證である。かゝる證は他にも幾箇處もある。して見れば現存墨子の書は少くも全部墨子の親撰に出でたものでは無い。論語が有子の弟子、若くは其同列地位の人の手で成つた如くに、現存墨子は禽子の弟子、孫弟子、若くは墨門の門弟子輩の手に成つたことは猜知するに難くない。然し其等の人の手に成つたとしても、現存墨子の中に、墨子の言の載つてゐることは疑も無いから、墨子を窺はんとするには現存墨子に依るのが不當でも何でも無い。現存墨子の中で、經篇は墨子自撰であるといふ人もある。それも疑はしいことで無くも無い。が、何にせよ現存墨子を除いては墨子を知るべき材料は何も無い。墨家の書といふものは、漢書に六部の書名が見えるが、胡非子隨巣子等の文は意林や太平御覽や北堂書鈔等に散見するのみで全豹は覗へぬのであり、何樣しても現存墨子を研究の標的とするほかに道は無い。
 墨子の現存五十三篇は、自分をして評させれば、おのづからにして三部を爲してゐるのである。此事は前人にかゝる言を爲したものは無いが、精しく墨子を讀んだ人ならば自分の言を首肯して呉れるだらう。其の三部といふのは何樣いふのであるかといふと、甲部は、
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親士、脩身、所染、法儀、七患、辭過、三辯、尚賢上、同中、同下、尚同上、同中、同下、兼愛上、同中、同下、非攻上、同中、同下、節用上、同中、同下、(闕)節葬上、(闕)同中、(闕)同下、天志上、同中、同下、明鬼上、(闕)同中、(闕)同下、非樂上、同中、(闕)同下、(闕)非命上、同中、同下、非儒上、(闕)同下、大取、小取、耕柱、貴義、公孟、魯問、公輸、□□、(闕)
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の篇※[#二の字点、1-2-22]であつて、これは墨子の對世間言、顯説、一般の士君子に對しての教諭訓説である。乙部は、
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經上、經下、經説上、經説下、
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の四篇であつて、これは前の諸篇の對外の言説であるとは異つて、墨學の學徒内のものであり、學問的に純なる部分であり、理論的、又は理論の取扱ひ方、認定論決の確實性を成立たしむる道の如きものである。或は墨子の死後に韓非子莊子の敍してゐる如く、別墨といふ一派、南方に於て墨學から開展したる學徒のものかも知れない。畢※[#「さんずい+元」、第3水準1-86-54]はこれを墨※[#「櫂のつくり」、第3水準1-90-32]の自著と云つたが、それは「經」といふ字に眼を奪はれたまでの説であるらしく、甲部の所説とは大に樣子が異つてゐる。墨子の中で最も讀み難いのは此部分である。甲部に擧げたが、大取、小取等の篇は、甲部の多數とは樣子が異つてゐて、或は此乙部に聯屬したもののやうな氣もする。公孫龍等の學説は漢書藝文志の説によれば、禮官に出たのであるが、公孫龍、惠施等の學と此の乙部及び大取小取等の篇の言とは少しく通ずるものがある。墨子の學と惠施の説と通ずるところがあるといへば、人は大口を開いて笑ふであらうが、これは他日細心の人の研覈に委ねることとして、こゝではたゞこれだけのことを言つて置く。それから丙部は、
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備城門、備高臨、備鉤、(佚)備衝、(佚)備梯、備堙、(佚)備水、□□、(佚)□□、(佚)備突、備穴、備蛾傅、備※[#「車+賁」、U+8F52、186-14]※[#「車+慍のつくり」、第4水準2-89-67]、(佚)備軒車、(佚)□□、(佚)□□、(佚)□□、(佚)迎敵祠、旗幟、號令、襍守、
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の篇※[#二の字点、1-2-22]である。此中に篇名不明なのと、篇名あるも佚字を記したのは今は亡はれたもので、七十一篇の目に合せしむるために篇名不明のものまでを擧げて置いたのである。此部は事と法とに約して判すれば、事の部で、理論や主張が説かれてあるのでは無く、全く兵事を説いたもので、防禦對敵の施爲を傳授したものである。嚴格に云へば非戰主義では無くて、非侵略主義であるところの墨子の説を實際に成立たせようとすれば、敵が侵略行爲に出て來る以上は對抗撃攘の道を講ぜねば空言に終るから、それで是の如き兵備施爲をば教へたものである。此部は甲部には關係があるが、乙部とは殆んど別途異門である。三部中の「事」の部として特立してゐるものと云つても宜い。然し理の中に事を觀るべく、事の中に理を觀るべしであるから、此部を度外視する譯にもゆかぬし、此部の所説に考へ照らして墨家の意途を觀て取るべきところも有る。
 以上の三部の中で、所謂墨家の説として古來の人※[#二の字点、1-2-22]の論議したところは甲の部であり、しかも墨家の思想や主張は實に殆んど甲部に盡きて居ると云つても宜いのである。
 墨子の道とするところは孔子の道とするところとは何としても異なつてゐる。然し古より儒墨といひ、又は孔墨と併べ稱したのは何故であるか、それは淮南子が謂つた通り、兩者いづれも先聖の術を脩め古王の道に依つたからで、孔子とは其の執るところが異なつたとは云へ、墨子も亦孔子と同じく堯舜禹湯文武を稱したのである。墨子も亦孔子と同じく詩、書を稱したのである。墨子は、吾嘗つて百國の春秋を見るといひ、又其の藏書の甚だ多かつたことを本書に記されてゐる。墨子も實に孔子と同じく古を學び史に據りて、そして所信を立てゝ居るので、我流に一家の見を立てたのでは無い。但し孔子と異なるに至つたところは、孔子は周の人として特に周公を尊び、周初の文治を謳歌し、何とかして周初の郁※[#二の字点、1-2-22]乎として文なる哉の代に一世をして引戻らせたい意を有してゐたのに、墨子は孔子よりも後の世に出で、世は愈※[#二の字点、1-2-22]自利自恣の念のみ強くなつて、且又人情は浮薄で、目前主義、享樂主義、虚榮の是認、奢侈の衒耀、殘虐と騙詐、侵略と劫掠、あらゆる惡徳の日に盛んならんとする時に際會したので、中※[#二の字点、1-2-22]孔子のやうに手緩い態度や思想や感情を抱いてゐることが出來ず、そこで孔子と同じく古王の道に依り、同じく先聖の術を脩めたのではあり、同じく道徳の念の強い人ではあつたが、其の實際に施爲せんとするところは、おのづから孔子とは色彩をも樣式をも異にするを以て時を救ひ世を濟ふの法に於て是なりとするに至つたものと見える。孔子は周公が周國の成立つて國家の機運と人民の精神との將に新しい文化を成就せんとするに適した時代の施爲にかゝる周初の道徳や教法や禮樂や及び其の精神を、理想の標的として言を立て教を布かれたと見えるが、墨子は同じ先聖古王の中でも、最も國家危難の時に當つて非常の勤勞を以て世を治め時を濟つたところの夏王の禹の道法や精神を以て、此の時代に對するのをば最適と信じたと見える。禹は非常の大洪水で天下が滅茶※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]になつた時に當つて、あらゆる困難窮乏に堪へて、其の偉大であり寛厚であり、そして畏るべき勞苦を辭せぬ勇健なる精神を以て、亂れ潰えた乾坤を處理し、人民を救濟した聖主である。尋常一樣のことでは如何ともする能はざる時に於て、大わらはになつて働いて、大抵の事は顧みるに遑も無く、一生懸命に世の爲に民の爲に勞苦したのが大禹である。周公だとて吐哺握髮して、一寸の暇隙も無く天下の爲にされたには相違無いが、大禹の時は周公の時どころでは無かつた。濁流山谷を掩うて、國境も分らなくなれば道路も無くなり、何も彼も眼鼻のつかないやうになつたのであるから、大禹は吾家にも歸らぬこと何年、眞黒になつて日に焦げ、向ふ臑に毛も無くなるまで奔走馳驅して、そして辛くも政治の功を擧げたのである。墨子の時は、孔子の時よりも世の中が愈※[#二の字点、1-2-22]亂れ立つて、爲政者は暑威暴利を縱いまゝにし、人民は頽廢的氣象になつて、まことに惡い世になり下つて來た。それは宛然濁水に山川陵谷を呑み盡された禹の大洪水の時の如くであつたのである。墨子が古聖賢の道を學んで、堯舜より周公に至るまでの人※[#二の字点、1-2-22]を稱しながら、特に大禹を稱すること、孔子が古聖賢を稱しながら、特に周公を夢みるまでに渇仰した如くであるのは、一つは孔墨の個性の差によること勿論だが、又一つは時代の形勢の差にもよつて居たらう。周公の施爲は文明的であり、大禹は生やさしいことは顧みて居られぬ時に當つたのであるから應急的施爲の常として實質的に傾かざるを得なかつたらう。墨子はもう孔子の如く周公の世に與へた文明的形式及び其精神を採るに堪へぬ時に當つてゐると、自己の時代を考へたであらうか、或は又自己の性質上に根ざす思想の傾向から、古聖の中に於て周公よりも大禹に心を惹かれたであらうか、何にせよ孔子が周公を仰いだ如くに墨子は夏王を仰いだのである。夏王の精神も周公の精神も國家人民に對する點に於ては勿論大同であらうが、其の施爲に於ては小異、イヤ大分の差異の有らうことは分明である。で、孔子墨子の其時を救ふの精神の大處は餘り間隔は有るまいとしても、一方が周初の文明施爲を理想の標的とし、一方が大洪水氾濫の時の實質的施爲を取るといふことになつては、其間に大なる距離が生じて來る。そこで韓文公は儒墨の距離を餘り大きく見ないで、其の精神の上に於て相通ずるところ有る者と評した、それは好觀察では有るけれど、孔墨兩家の爭は秦以前において既に發生してゐる。孟子と荀子とは其人生の信仰、及び古聖賢に對する解釋に於て大に差が有るが、兩子とも墨家に對しては同じく儒家として非難の鋒矢を向けてゐる。これも亦おのづから已む能はざるの勢といふもので、儒家が墨家を難じ、墨家が儒家を難ずるのは、互に相非とせずんば各※[#二の字点、1-2-22]自づから是とせざるに近きものであるから致し方は無いのである。
 儒墨は洵に異なるところが有る。然し異なるところの存すると同樣に同じきところもある。其同じきところは何かと云へば第一精神である。兩者同じく國家の安康にして人民の生を樂まんことを欲してゐる。此第一精神においては差は無い。佛氏は國家の觀念に於て甚だ稀薄であり、老氏は佛氏ほどでは無いが、又やゝ稀薄である。莊列は原人生活を謳歌するかの如く見えて、是亦國家を重視することに於て儒墨とは餘程の距離が有る。楊朱の學に至つては甚だしい個人主義である。墨子は他の諸家の如くに國家に對して稀薄の思想を有し、又は之を輕視無視する如き非實際的理想的思想的のところは無い。此點は儒家と同じである。墨子は其時代に於て用ゐらるれば直ちに國家人民の爲に有利であると信ずる實行可能性を有する言を爲したのであつて、實際的であり、空言的で無いところを、其力強い存在の支持としてゐる。空言の徒らに高くして實際の伴なはぬのをば墨家は「蕩口」といつて甚だしく卑んでゐる。言論の空しく美にして實に益無きをも「文を以つて用を害する」として恐れてゐる。すべて「實」を重んずるのは墨家の信條である。直ちに依つて以て天下國家を濟ふべきものを眞の道としてゐる。此點に於ては孔子の學と其色彩こそ少し異なるものがあれ、性質と精神とに於て相通じ相同じきものがある。
 たゞ其の實行の形式、及び其の形式の内に存する精神に於て、儒墨は何樣しても一致する譯には行かぬものがある。賢士を重んじ、正しき行爲を重んじ、教育を重んじ、法儀を重んずる等の點に於ては、儒墨同一である。然も墨子の孔子と相異なる第一は、墨子が甚だしく質素簡易な生活状態をば人の正當な生活状態と認め、これに反するものをば一切の社會惡の生ずる根本と見做してゐるのに、孔子は同じく儉素を尊び奢侈を惡みながらも、相當な文化を取入れることは、人間の自然でもあり、社會を善美にする所以でもあると認めて居られ、從つて「禮樂」を重んぜらるゝのであるから、そこで自づから左右に分岐するに至るのである。墨子は甚だしく「用を節する」ことを大切なこととする。用を節せぬ故に節度無き生活と慾求が起る。節度無き生活と慾求が起る故に自己を愛して已まぬ結果として他を侵害することが生じる。それが即ち社會の紛亂の根原である、と説いて、特に「治者」「優者」の節用を強調する。堯が天子の尊きを以て、「土階三等、茅茨剪らず」などと言囃したのも墨子から出たことである。堯が果して天子の尊きを以て然樣いふ生活をしたか否やは不明であつて、堯の女の墓と考へらるゝところの古墳の發掘に於て多くの珠玉を見出したことによつて、宋の羅廬陵は古傳の堯の甚だしい質素の眞否を疑つてゐる。が、史實は兎に角に墨子の時に於て然樣いふ傳説が有り、そして墨子がそれを振かざして、當時の分國の諸侯等の奢侈を戒め簡素儉約を強調したのは、墨子に於ては至當の事と考へたからであつた。詮ずるところ例へば齊の賢相の晏平仲の如きは墨子の最も善しとした人で、同じ賢相でも管仲の如きは三歸反※[#「土へん+占」、U+576B、192-9]の事があるから、墨子からは感心せぬ側の人であつたらう。此點が儒家でも實際世間といふものに對して判釋力を有してゐる人※[#二の字点、1-2-22]には必ずしも是認されない一つである。荀卿の如きは、そんな消極的な、不景氣招致に適したやうなことは不可である、社會が蹙然として萎縮してしまふ、人の上たる者は美ならず飾らずんば民を一にするに足らない、面白いものをあてがひ、味よきものを與へ、天下人民をして愉悦踴躍して、業を勤め生を樂ましめるやうにと取計らふのが聖王の道である、と論難してゐる。雙方に相當の主張は有るが、攻掠侵伐の爭亂が不節用の奢侈、無節度の生活に本づく場合の多いことも疑ふことの出來ない道理で、墨子の時代の君民皆放縱であつたに對し、墨子が節用を強調したのも確に一面の眞理を含んでゐる。今日簡易生活を叫ぶもののあるやうな譯で、時代の大勢は反對な或者を産み出す、河水が強く流れ下る時は其岸邊には上へ向く流れが生ずるやうなもので、墨子は放縱の世に際しておのづから敢然として節用を主張したのである。
 節用の主張を一環の半圓とすると、他の半圓として相助けて一環を成すものに兼愛の主張がある。兼愛とは非個人主義である。墨子の考では個人主義は罪惡の根源である。子が父を愛せず、弟が兄を愛せず、吏が上を愛せず、君が臣を愛せず、賊が自己を愛して他人を害し、諸侯が各※[#二の字点、1-2-22]自國を愛して異國を愛せず、皆自己を本位として、無節度の生活をすれば、天下の爭亂の生ぜぬ理は無い。兼ねるといふのは自他を兼ねるのである。兼の反對は別である、別は私である、兼は公である。古來の聖王、禹も湯も文王武王も皆「兼」の道を以て道と爲したのである、絶對に自己を利し他を顧みぬ如き、「別」の道を取つたのではない、「私」を爲したのでは無い、そこで終に天下の安と民庶の福とを致すを得たのである。人の上たる者、治者たる者は、「兼」に因らずして何樣して民を率ゐ世を治むるを得よう。民も亦「兼」によらずして何樣して家を齊へ生を樂むことを得よう。我が人の親をも愛利し、人も亦我が親を愛利し、交※[#二の字点、1-2-22]兼ねるの道が立つに至つて眞の平和と幸福とが成立つのである。詩に謂はゆる、我に投ずるに桃を以てす、之に報ゆるに李を以てす、といふやうでなければ、人生は眞の幸福では無い、といふのが墨子の説で、「兼」の道は古聖王の取つたところの大道であると、古に徴して論證し、世間是の如くならざるべからずと、今に照して説諭し、反對側の個人主義を不幸への道であるとして、論談甚だ力めてゐる。墨子の此の主張が、多分を治者優者に對つて爲されてゐるのは特に有理であつて、其意は先づ人の上長たる者の「兼」を以て道とせんことを求め、そして此「兼」の道に民庶も從ふに至るによつて理想的幸福世界を現ぜんとするに在る。此主張はもとより史的の正確不正確を以て爭ふべきでも無く、又其主張の中に含まれてゐる意圖の善惡等を以て爭ふべきでも無く、自己を中心とする楊朱の刻薄な思想などより遙に立勝つてゐる博大な善良な立派なものである。然し人は如何にしても自己を中心としてゐるものであるといふ現在事實とは牴觸してゐる弱味が有ることは爭はれぬ。たゞ眞の人間の幸福といふものは「兼」の道によつてのみ得らるべきものであるとしたら、眞の幸福を得んとするのは是亦人の如何ともする能はざる本願であるから、自己中心といふ現在事實を漸※[#二の字点、1-2-22]と克服せんとするに力むべきであるとせねばならぬのであるから、墨説も人類の本願といふところに於て非常な強みを有つてゐるのである。然も此説もまた儒家とは容れぬところがある。儒家は勿論楊朱の如き自己中心主義では無いが、自他に於て程度の差を立つることを自然の状態でもあり道理の眞致でも有るとしてゐる。人の親を敬愛せぬことは無いが、吾が親を敬愛して然して後に人の親を敬愛し得ると爲してゐる。そこに差別があつて、その差別は自然であり道理であるとしてゐる。そこで孟子は墨子の道をば、「墨子の兼愛するは是れ父を無みする也、父を無みするは是れ禽獸なり」と酷論してゐるが、これは少し苛評である。孟子は墨子が爲政者治者等に對して「兼」の道を強調してゐるところを看過してゐる。孟子が「何ぞ必ずしも利をいはん」と云つて、人各※[#二の字点、1-2-22]自ら利せんとすれば社會は何樣にもならぬものである、と説いたところは、正に是れ墨子の兼愛の説の由つて出づるところである。今少し墨子の精神を看取して、そして徐ろに儒家の差別説が墨子の無差別説に優るあるところを説破しなければ、墨家をして首肯せしむるには至らぬと考へられる。
 節用は質素簡樸の原徳を保持する所以であり、質樸は勤勞と因果の好循環を爲す所以である。これに對して奢侈は人の原徳を喪失するに至らしむる所以であり、又奢侈は安逸遊惰と因果の醜循環を形づくるものである。善く勤勞に服すれば、※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76]食冷水も其の甘きこと精饌美※[#「酉+碌のつくり」、U+9181、195-9]の如く、草に睡り樹に枕するも其夢は安靜甘美であるべきである。そして好き睡眠と善き攝養とは、復び勇健爽快なる精神による確實重厚性の尊き勞作を甘なはしむるものである。これと同じ比例に遊惰なる生活は奢侈を要求し、奢侈は又人をして遊惰ならざる能はざらしむるものである。此の意味に於て、墨子は節度ある生活、質樸なる生活を強調すると同時に、「勤勞」といふことを極力強調し、これが世を濟ひ社會を拯ふ所以の道であるとする。彼の大洪水の時に當つて、大禹が水行陸行、奔走寧日無く、營※[#二の字点、1-2-22]孜※[#二の字点、1-2-22]として身を碎き心を勞したところは、殆ど其の形儀の標的であるとするのである。莊子をして、「禹親自に※[#「士/冖/石/木」、第4水準2-15-30]耜を操つて天下の川を鳩雜し、腓に※[#「月+拔のつくり」、U+80C8、196-1]無く、脛に毛無く、甚雨に沐し、疾風に櫛けづり、萬國を置く、禹は大聖也、而して形の天下に勞するや斯の如し、後世の墨者をして多く裘褐を以て衣と爲し、跂※[#「足へん+喬」、第3水準1-92-40]を以て服と爲し、日夜休まず、自ら苦むを以て極と爲し、曰く、此の如くなる能はずんば、禹の道に非ざるなり、墨と謂ふに足らずと」と云はせた通り、實に墨子の道は勤勞に服することを人たるものの道の根幹と認めてゐたのである。勞に服することは道であり善であり美であり幸福であり、これによつて世界は化醇し人間は至樂を得るとしたもので、墨家が向臑に毛の無くなるまで奔走勞作することを尊んだことは、楊朱が吾が脚の一毛を拔いて天下を利することになるとも其の一毛を拔くことを肯んじない利己主義と極端の對照を爲してゐるものである。此墨子の服勞を重んじたことは如何にも立派な精神から出てゐることであるが、一面には明らかに當時の君主も士人も民庶も衰世的の精神傾向を有して皆各※[#二の字点、1-2-22]巧慧狡猾と遊惰安逸と奢侈放肆と虚榮浮美とを以て生活を遂げんとしてゐた状態に切齒して反抗したるに出で、勤勞に服せずんば人世それ如何との感想から出發してゐることも看取されるのである。
 そこで墨子の政體に就ての觀察も是の如きの思想精神から來るために、精しく論ずる時は少し儒家の見とは異なるもののあることが見える。墨子の目に映じた天子といふものは天子の名はあつても、天若くは神の寵命を受けて此世に君臨する運命を負うてゐる天子では無い、神權説的の天子ではない。墨子の思想では、人各※[#二の字点、1-2-22]其義とするところのものを有すれば、一人一義、十人十義、百人百義、千人千義で、義の定まるところは無い。各※[#二の字点、1-2-22]皆其義を是として人の義を非とすれば、厚き者は鬪、薄き者は爭を生ずる。そこで「兼」といふことの大切なるが如くに「同」といふことが大切である。衆義を一にして、衆異を融冶し、賢者を選擇して立てゝ天子と爲すのであり、そして天子の是とするところは民必ず之を是とし、天子の非とするところは民必ず之を非とし、天子は又必ず天即ち「兼愛」の本體と一致すべきである、とするのである。墨子の天子は「賢者を選擇して立てゝ天子と爲す」といふのであるから、天子の根源は「大統領」と同じものである。これは支那上古の政史に於て、或は然樣であつたので、墨子の上古史解釋は間違つて居らぬかも知れぬ、又或は然樣では無かつたかも知れぬ、墨子の理想の影を以て上古を掩うたのかも知れぬ。いづれにしても此の一半は史的の事にかゝるが、墨子の解では「尚同一義」といふことが非常に大切なことで、そこで、尚同一義のために、天子の獨力が天下を治むるに足らぬから其下に三公を立てる、三公の下に諸侯を立てる、諸侯の次に卿と宰とを立てる、卿と宰とで未だ足らぬから、次に郷長・家君を置く、正長・里長等、墨學に於ては天子以下次第に、絲縷の紀あり、網罟の綱有るが如くに組織立つた職制を置いて、そして同じきを尚び義を一にするのである。墨説によれば諸侯等は富貴遊佚を謂れ無く得るものでは無くて、天子と人民との間に尚同一義の機關として、馳驅して以て上に告げ下に臨むところのものである。墨子の尚同一義の旨を詳しく察すると、墨子は君主は兵力徳力等を以て人民を克服して成立つたものとせずして、民意によつて其異を去り同に歸し爭を除き利を公にする爲に成立したものとする。つまり君主政體を解釋するに民主政體を以てせんとするが如くに見える。上古の支那の政治の實相は或は墨子の言の如くであつたかも知れぬが、それは暫く保留して置く問題として、夏・殷・周に至つては君主政體が確立してゐるのだから、周制を是とする儒家とは此點に於ても墨家は異説であるに相違無い。尚同の論は墨家の古を援き語を壯んにして極力主張するところであるが、儒家でさへ政治の妨害とした秦の時、是の如きの學説が秦の朝廷から酷烈に彈壓されたらうことは分明であるから、秦の後に墨學の全く絶滅した如き觀があるのも不思議では無い。
 墨子の政論は是の如くであるから、勢として人世の最上權力者の上に「天」といふ者を立てなければならぬ。そこで墨學では「天」といふものを立てる。「天」は「兼愛兼利」である。天意に順ふを「義政」と爲し、天意に反くものを「力政」とする。上は天に、中は鬼神に、下は人民に利するものを聖王と云ひ、然らざるものを暴王といふとする。「政」は「正」であるとする、「義」は「善政」であるとする。義は「天」より出づるとする。天子の貴き所以は「天の意」を奉ずる故であるとする。是に於て墨學は少し宗教じみる。天は民を愛する厚きものである、堯舜禹湯文武は天意を奉じたもので、それで天の賞を得たものであるとする。兼愛は「天志」である、獨り我が「天志」を以て儀法と爲すのみならず、先王の書、大夏の道に於て然るあるなり、と斷じ、天志は義の經也と斷じてゐる。天志を規矩として世に臨まんとしてゐる。上帝鬼神は天子より庶民の上に存してゐるものとする。帝と鬼は義の體であり、兼愛其物であるとしてゐる。こゝは大に基督教的信仰に近い。從つて天地間の現象は有意義のものであり、天の褒美、天の刑罰が存在してゐるものと認めてゐる。從つて祭祀は無意義のもので無いとしてゐる。此點は儒家にも通じ、支那上代より存してゐる上帝の思想にも淵源してゐる。が、然し墨家では隨つて「運命」を信ぜぬ。「運命」といふものは盲目的なものであるが、墨家では盲目的な運命を認めず、吉凶禍福窮通は皆意義あるものとして、偶然といふやうなものを認める如き生緩い考を有せず、天志に從へば必ず可であるとしてゐる。「非命」の論の立つ所以で、ここは又儒家と岐れる。儒家では不可測の「命」が有るとする、墨家ではそんな不明なものは無いとして、牢固なる信念に立ち、天志を奉じて努力勤勞すれば可なりとしてゐる。
 鬼神を信ずることは又墨子の勇氣ある行爲を取らしむる所以の一である。不幸にして又其論の三の二を失つてゐるが、墨家の鬼神といふものは猶ほ耶蘇教の天使といふが如きものである。「深溪博林幽澗無人の所有りと雖も、施行は以て正しうせざるべからず、鬼神ありて之を視る」となして居る。虞夏商周の聖王の天下を治むるに鬼神を先にする者は必ず鬼神を以て有りとするからであると爲し、而して人死して或は鬼神となり、天の化育を贊し施運を輔くるものと爲し、古傳説を援いて之を證し、古儀式を釋して之を通じ、鬼神のまざ/\と存することを説いてゐる。これは明らかに古來からの信仰に依つたもので、必ずしも墨子一家の言では有るまいが、此點に於ても儒家は墨家ほどに人の死後或は生けるが如くに存することなどを執しては居らぬ。儒家では死後の状態などを問題にすることを好まない。天神地祇人鬼の語は儒家にも存するが、墨家ほどには語らない。
 人の鬼となるものの有ることを信じてはゐるが喪葬に關しては墨家は儒家ほどに重視せぬ。これは節用と勤勞とを尊ぶより出たことで、厚葬久喪は財を靡し事を妨げ、國家人民をして窮乏に陷らしむるからで、桐棺三寸、衣裳三領が古聖王の葬埋の法であるとなし、死則ち既に以て葬る、生者必ずしも久哭する無かれ、そして人各※[#二の字点、1-2-22]其事に從へ、といふのが墨説である。墨説では、堯でも舜でも禹でも、あれほどの聖者でも皆薄葬である、今に當つて何ぞ厚葬を用ゐんといふのであるが、周の俗に至つては中※[#二の字点、1-2-22]鄭重な葬儀を用ゐたもので、今に至つて支那人は世界各國民中でも厚葬する國民である、墨子時代にも隨分家を敗り産を毀つほどに半分は虚榮的俗習的壓逼を感じながらも厚葬したものと見える。で、何事にも實際を重んずる墨子は其俗を改めて、そんな事は人世を利する所以で無いと爲し、且又三年の喪などといふのも其實は虚禮虚式になつてゐる世なのであるから、むしろ三月で澤山であるとなしたのである。事實に於て三年の喪などは眞に行はれては居ないのであるが、虚禮は二千年後の今日にも稀に行はれてゐるほどの支那であるから、墨子の厚葬久喪を非とした論は、裏面は兎に角に表面は歡迎されなかつた事であらう。音樂も亦墨家の勤儉主義からは弊多く利少きものとして斥けられた。葬を薄くし樂を非とするといふことは、儒家では最も大切にする禮樂を輕視するのであるから、此點は大に儒家に論難せられ、荀子なんどには手嚴しく非樂説を糺彈されてゐる。然し墨子の當時、良い樂は聲を潛めて、むしろ人の善良の精神を破壞し、頽廢的氣分を増長させるやうな靡曼の音樂が行はれて、淫蕩の風を煽るやうなもののみ多かつたから、激して非樂の論を發するに至つたものでも有らうし、又墨子の性癖が是の如くなるに至らしめたのでも有つたらう。薄葬は可否相半してゐる。陶淵明の如き温藉の人でも、「裸葬また何ぞ惡からん」と云つて居る位だから、墨子及び其徒にして薄葬を好み、又久喪を非とするならば其の所望に任せて宜しいが、之を人に強ひんとするに至つては餘り感心も出來ぬ。況んや非樂に於ては、其意は或は可にして、其言は或は時弊に當つたものにせよ、人情に遠い頑固論であり、之を人に強ひんとするは不通の説である。且又古聖が樂を重んぜぬなどと言つたのは明らかに古聖を誣ひたもので、荀子に駁倒されたのも是非ないことである。莊子が墨家を評して、「其の生けるや勤め、其の死するや薄く、生きて歌うたはず、死して服せられず、桐棺三寸にして而も槨無く、其道や大※[#「轂」の「車」に代えて「角」、第4水準2-88-48]、人をして憂ひしめ、人をして悲ましむ、其爲し難きを行ふや、其の以て聖人の道と爲す可からざるを恐れ、天下の心に反す、天下堪へずんば、墨子獨り能く任ふと雖も、天下を奈何にせん」と云つたは實に適評で、大※[#「轂」の「車」に代えて「角」、第4水準2-88-48]といふのは「うるほひの無い」といふことである。墨子の道は惡しからずと雖も、「うるほひの無い」ことは爭へない。貞しい説でも有り善い教へでも有らうが、一口に云へば野暮なことで、天下堪へず、墨子獨り能く任ふと雖も天下を如何にせん、と云つたのは流石に洒落者の巧みな論破ぶりである。
 經、及び經説は前に述べた如くに奇異にまで見えるものである。恐らくは「別墨」の言であらう。晉の魯勝の書でも存して居たらば少しは明らかに解し得ようが、數學の如く、論理學の如く、實に異なものである。列子の中、莊子の中、淮南子の中などに、これと相渉るものが少し存するが、宛として幾何學の出來ぬ學生が強ひて幾何學的論證をしてゐるのを聞くが如く、理屈めいて而もとりとめの無いやうなものである。惠施や公孫龍の學に近い、イヤ惠施や公孫龍の學が或はこれから※[#「糸+寅」、U+7E2F、202-8]出されたものかを疑ふ。考古の念の強いものに在つては、ゆつくりと研鑽したら或は面白いことを發見するか知れぬが、要するに墨學の主張を是の如き辯證法で裏づけたものか、或は墨學を爲す者が、一部面に於て是の如きことを學んだのか知らぬけれど、尚同・兼愛・節用・天志等の論とは交渉の濃厚で無いものであり、おのづから別部を爲してゐるものであり、且其の思想を抽出して語り難いものである。強ひて言へば※[#「石+徑のつくり」、U+785C、202-13]※[#二の字点、1-2-22]然として理を析ち事を究めんとするの言を累ねたもので、而も零細叢※[#「月+坐」、第4水準2-85-33]、一貫の脈絡無きに近きもので、たゞ其の勃※[#「穴かんむり/卒」、第4水準2-83-16]として※[#「儡のつくり/糸」、第3水準1-90-24]瓦結繩の辯を陳ぶるを看るのみである。
 墨子の兵科の教は當時に於ては實用に供せらるべきことで有つたから、重要の事で有つたらう。狗を用ゐて敵の近づくを知つたり、火を用ゐて敵の攻撃器具を燒いたり、空罌を地に埋めて共鳴槽の道理によつて敵が隧道を掘鑿して城に入らんとするのを早く悟つて之に應ずべき處置を取つたりすることなど、中※[#二の字点、1-2-22]感ずべきことを説いてゐる。然し墨子の學説には皆交渉の薄いことであるが、墨子が兼愛の主張からして、侵攻は墨子の非常に憎惡するところで、これに對してはたゞに之を非とするのみでは無く、實際の防禦に訴へて侵略攻撃し來る者を撃退せんことを平常時に於て攻究し置き、時に臨んでは其不法非道の攻撃者を粉碎せんことを期してゐる。これは明らかに當時に於て墨子一派が世に重視せられた一因を爲してゐたに違ひ無い。其の方法擧施は今日に於て取るところが有るべくも無いが、たゞ其中に於て驚くべきことがある。それは墨子が、籠城守禦の場合に於ては、女子老少をして其の兵務を執らしむること殆ど男子に異なる無からしむることで、而も女子老少と雖も兵務を執らしむる以上は軍律を以て是を律することである。大抵兵士の割合、丈夫十人、壯女二十人、老少十人といふことで、兵の一には女子の二、老少の一を用ゐる比例になつてゐる。籠城の場合だから是非無しとは言へ、女子と老少とを斟酌無く使はうとすることは流石に墨子である。女子も參政權など要求する道理が有るのだから、兵務に就かせらるべき權利の有ることは勿論であるから、これは明らかに墨子の最も進歩した思想に本づいた施爲である。大※[#「轂」の「車」に代えて「角」、第4水準2-88-48]にして、「うるほひの無い」どころでは無い、女子より音樂を取上げて、土畚を荷はせたりなんぞしようとしたのは、隨分手強い人である。此事は前人が墨子を論ずるに當つて誰も指摘して居らぬが、孫子が女兵を調練して軍律を用ゐんとした談と共に、周秦の間の世相に就いて或種の考を抱かせる。大體に於ての墨子の評は先づ莊子の評が當つてゐる。
                          (昭和四年七月)

底本:「露伴全集 第十八卷」岩波書店
   1949(昭和24)年10月10日発行
底本の親本:「岩波講座 世界思潮 第二册」岩波書店
   1929(昭和4)年7月発行
初出:「岩波講座 世界思潮 第二册」岩波書店
   1929(昭和4)年7月発行
入力:しだひろし
校正:大沢たかお
2011年1月7日作成
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幸田露伴

平将門—— 幸田露伴

 千鍾《せんしよう》の酒も少く、一句の言も多いといふことがある。受授が情を異にし※[#「口+卒」、第3水準1-15-7]啄《そつたく》が機に違《たが》へば、何も彼《か》もおもしろく無くつて、其れも是もまづいことになる。だから大抵の事は黙つてゐるに越したことは無い、大抵の文は書かぬが優《まさ》つてゐる。また大抵の事は聴かぬがよい、大抵の書は読まぬがよい。何も申《さる》の歳だからとて、視ざる聴かざる言はざるを尚《たつと》ぶわけでは無いが、嚢《なう》を括《くゝ》れば咎《とが》無しといふのは古《いにしへ》からの通り文句である。酒を飲んで酒に飲まれるといふことを何処かの小父さんに教へられたことがあるが、書を読んで書に読まれるなどは、酒に飲まれたよりも詰らない話だ。人を飲むほどの酒はイヤにアルコホルの強い奴で、人を読むほどの書も性《たち》がよろしくないのだらう。そんなものを書いて貰はなくてもよいから、そんなものを読んでやらなくてもよい理屈で、「一枚ぬげば肩がはら無い」世をあつさりと春風の中で遊んで暮らせるものを、下らない文字といふものに交渉をもつて、書いたり読んだり読ませたり、挙句《あげく》の果には読まれたりして、それが人文進歩の道程の、何のとは、はてあり難いことではあるが、どうも大抵の書は読まぬがよい、大抵の文は書かぬがよい。酒をつくらず酒飲まずなら、「下戸やすらかに睡る春の夜」で、天下太平、愚痴無智の尼入道となつて、あかつきのむく起きに南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》でも吐出した方が洒落《しやれ》てゐるらしい。何かの因果で、宿債《しゆくさい》未《いま》だ了《れう》せずとやらでもある、か毛武《まうぶ》総常《そうじやう》の水の上に度※[#二の字点、1-2-22]遊んだ篷底《はうてい》の夢の余りによしなしごとを書きつけはしたが、もとより人を酔はさう意《こゝろ》も無い、書かずともと思つてゐるほどだから、読まずともとも思つてゐる。たゞ宿酔《しゆくすゐ》猶《なほ》残つて眼の中がむづゝく人もあらば、羅山が詩にした大河の水ほど淡いものだから、却《かへ》つて胃熱を洗ふぐらゐのことはあらうか。飲むも飲まぬも読むも読まぬも、人※[#二の字点、1-2-22]の勝手で、刀根《とね》の川波いつもさらつく同様、紙に鉛筆のあたり傍題《はうだい》。
 六人箱を枕の夢に、そも我こそは桓武《くわんむ》天皇の後胤《こういん》に鎮守府将軍|良将《よしまさ》が子、相馬の小次郎|将門《まさかど》なれ、承平天慶のむかしの恨《うら》み、利根の川水日夜に流れて滔※[#二の字点、1-2-22]《たう/\》汨※[#二の字点、1-2-22]《ゐつ/\》千古|経《ふ》れども未だ一念の痕《あと》を洗はねば、※[#「にんべん+爾」、第3水準1-14-45]《なんぢ》に欝懐の委曲を語りて、修羅《しゆら》の苦因を晴るけんとぞ思ふ、と大《おほ》ドロ/\で現はれ出た訳でも何でも無いが、一体将門は気の毒な人である。大日本史には叛臣伝に出されて、日本はじまつて以来の不埒者《ふらちもの》に扱はれてゐるが、ほんとに悪《にく》むべき窺※[#「穴かんむり/兪」、第4水準2-83-17]《きゆ》の心をいだいたものであらうか。それとも勢《いきほひ》に駆られ情に激して、水は静かなれども風之を狂はせば巨浪怒つて騰《あが》つて天を拍《う》つに至つたのだらうか。先づそこから出立して考へて見ることを敢《あへ》てしないで、いきなり幸島《さじま》の偽闕《ぎけつ》、平親王呼はり、といふところから不届至極のしれ者とされゝば、一言も無いには定まつて居るが、事跡からのみ論じて心理を問は無いのは、乾燥派史家の安全な遣り方であるにせよ、情無いことであつて、今日の裁判には少し潤《うるほ》ひがあつて宜い訳だ。そこで自然と古来の史書雑籍を読んで、それに読まれてしまつた人で無い者の間には、不服を称《とな》ふる者も出て来て、現に明治年間には大審院、控訴院、宮内省等に対して申理を求めんとした人さへあつたほどである。然無《さな》くても古より今に至るまで、関東諸国の民、あすこにも此所にも将門の霊を祀《まつ》つて、隠然として其の所謂《いはゆる》天位の覬覦《きゆ》者《しや》たる不届者に同情し、之を愛敬してゐることを事実に示してゐる。此等は抑※[#二の字点、1-2-22]《そも/\》何に胚胎《はいたい》してゐるのであらうか、又|抑《そも》何を語つてゐるのだらうか。たゞ其の驍勇《げうゆう》慓悍《へうかん》をしのぶためのみならば、然程《さほど》にはなるまいでは無いか。考へどころは十二分にある。
 心理から事跡を曲解するのは不都合であるが、事跡から心理を即断するのも不都合である。まして事跡から心理を即断して、そして事実を捏造《ねつざう》し出すに至つては、愈※[#二の字点、1-2-22]《いよ/\》以て不都合である。日本外史はおもしろい書であるが、それに拠《よ》ると、将門が在京の日に比叡《ひえい》の山頂に藤原|純友《すみとも》と共に立つて皇居を俯瞰《ふかん》して、我は王族なり、当《まさ》に天子となるべし、卿は藤原氏なり、関白となるべし、と約束したとある。これは神皇正統記やなぞに拠《よ》つたのであるが、これでは将門は飛んでも無い純粋の謀反人《むほんにん》で、其罪逃るゝよしも無い者である。然しさういふ事が有り得るものであらうか。楚《そ》の項羽《かうう》や漢の高祖が未だ事を挙げざる前、秦《しん》の始皇帝の行列を観て、項羽は取つて以て代るべしと言ひ、高祖は大丈夫|応《まさ》に是の如くなるべしと言つたといふ、其の史記の記事から化けて出たやうなことだ。二人の言ですら、性格描写として看《み》れば非常に巧妙であるが、事実としては、史記に酔はぬ限は受取れない。黄石公を実在の人として受取るほどに読まれてしまへば、二人の言を受取らうし、大鏡を信仰しきつて、正統記を有難がればそれまでだが、どうも史記の香がしてならない。丁度将門乱の時の朱雀帝頃は漢文学の研究の大に行はれた時で、天慶の二年十一月、天皇様が史記を左中弁藤原|在衡《ありひら》を侍読《じどく》として始めて読まれ、前帝|醍醐《だいご》天皇様は三善清行《みよしきよつら》を御相手に史記を読まれた事などがある。それは兎に角大日本史も山陽同様に此事を記してゐるが、大日本史の筆法は博《ひろ》く采《と》ることはこれ有り、精《くは》しく判ずることは未だしといふ遣り方である。で、織田|鷹洲《ようしう》などは頭から叡山※[#二の字点、1-2-22]上の談を受取らない。清宮秀堅《せいみやひでかた》も受取らない。秀堅は鷹洲《ようしう》のやうに将門に同情してゐる人では無くて、「平賊の事、言ふに足らざる也、彼や鴟梟《しけう》之性を以て、豕蛇《しい》の勢に乗じ、肆然《しぜん》として自から新皇と称し、偽都を建て、偽官を置き、狂妄《きやうまう》ほとんど桓玄司馬倫の為《ゐ》に類す、宜《うべ》なるかな踵《くびす》を回《かへ》さずして誅《ちゆう》に伏するや」と云つて居るほどである。然し下瞰京師のことに就ては、「将門はもと検非違使佐《けびゐしのすけ》たらんことを求めて得ず、憤を懐《いだ》いて郷に帰り、遂に禍を首《はじ》むるのみ、後に興世《おきよ》を得て始めて僣称《せんしよう》す。猶《なほ》源頼朝の蛭《ひる》が島《しま》に在りしや、僅《わづか》に伊豆一国の主たらんことを願ひしも、大江広元を得るに及びて始めて天下を攘《ぬす》みしが如き也、正統記大鏡等、蓋《けだ》し其跡に就いて而して之を拡張せる也、故に採《と》らず」と云つてゐる。此言は心裏《しんり》を想ひやつて意を立てゝゐるのだから、此も亦|中《あた》ると中らざるとは別であるが、而も正統記等が其跡に就いて拡張したのであらうといふことは、一箭双※[#「周+鳥」、第3水準1-94-62]鵬《いつせんさうてう》を貫いてゐる。宮本|仲笏《ちゆうこつ》は、扶桑略記に「純友|遙《はるか》に将門|謀反《むほん》之由をきゝて亦乱逆を企つ」とあるのに照らして見れば、是れ将門と相約せるにあらざること明らかなりと云つてゐる。純友の南海を乱したのが同時であつたので、如何《いか》にも将門純友が合謀したことは、たとへば後の石田三成と上杉景勝とが合謀した如くに見え、そこで天子関白の分ちどりといふ談も起つたのであらう。純友は伊予掾《いよのじよう》で、承平年中に南海道に群盗の起つた時、紀淑人《きのよしひと》が伊予守で之を追捕した其の事を助けてゐたが、其中に賊の余党を誘つて自分も賊をはじめたのである。将門の事とはおのづから別途に属するので、将門の方は私闘――即ち常陸大掾《ひたちだいじよう》国香や前《さきの》常陸大掾|源護《みなもとのまもる》一族と闘つたことから引つゞいて、終《つひ》に天慶二年に至つて始めて私闘から乱賊に変じたのである。其間に将門は一旦上京して上申し、私闘の罪を赦《ゆる》されたことがある位である、それは承平七年の四月七日である。さすれば純友と将門と合謀の事は無い。随《したが》つて叡山|瞰京《かんきやう》の事も、演劇的には有つた方が精彩があるかも知れないが、事実的には受取りかねるのである。そこで夙《つと》に覬覦《きゆ》の心を懐《いだ》いてゐたといふことは、面白さうではあるが、正統記に返還して宜《よ》いのである。正統記の作者は皇室尊崇の忠篤の念によつて彼の著述をしたのであるから、将門如きは出来るだけ筆墨の力によつて対治して置きたい余りに、深く事実を考ふるに及ばずして書いたのであらう。山陽外史に至つては多く意を経ないで筆にしたに過ぎない。
 将門が検非違使《けびゐし》の佐《すけ》たらんことを求めたといふことも、神皇正統記の記事からで、それは当時の武人としては有りさうな望である。然し検非違使でゞもあれば兎に角、検非違使の別当は参議以上であるから、無位無官の者が突然にそれを望むべくは無い。して見れば検非違使の佐か尉《じよう》かを望んだとして解すべきである。これならば釣合はぬことでは無い。其代りに将門の器量は大に小さくなることであつて、そんなケチな官を望む者が、純友と共に天子関白わけ取りを心がけるとなると、前後が余りに釣合はぬことになる。明末の李自成が落第に憤慨して流賊となつたやうなものであると、秀堅は論じてゐるが、それは少しをかしい。彼《かの》国の及第は大臣宰相にもなるの径路であるから、落第は非常の失望にもならうが、我邦で検非違使佐や尉になれたからとて、前途洋※[#二の字点、1-2-22]として春の如しといふ訳にはならない。随つて摂政忠平が省みなかつたために検非違使佐や尉になれ無いとて、謀反《むほん》をしようとまで憤怨する訳もない。此事は、よしやかゝる望を抱いたことが将門にあつたとしても、謀反といふこととは余りに懸離《かけはな》れて居て、提燈《ちやうちん》と釣鐘、釣合が取れ無さ過ぎる。鷹洲は此事を頭から受取らないが、鷹洲で無くても、警部長になれなかつたから謀反《むほん》をするに至つたなどといふのは、如何に関東武士の覇気《はき》勃※[#二の字点、1-2-22]《ぼつ/\》たるにせよ、信じ難いことである。で、正統記に読まれることは御免を蒙らう。随つて将門始末に読まれることも御免蒙らう。
 将門謀反の初発心《しよほつしん》の因由に関する記事は、皆受取れないが、一体当時の世態人情といふものは何様《どん》なであつたらう。大鏡で概略は覗へるが、世の中は先づ以て平和で、藤原氏繁盛の時、公卿は栄華に誇つて、武士は漸《やうや》く実力がありながら官位低く、屈して伸び得ず、藤原氏以外の者はたまたま菅公が暫時栄進された事はあつても遂に左遷を免れないで筑紫《つくし》に薨《こう》ぜられた。丁度公の薨ぜられた其年に将門は下総に勇ましい産声《うぶごえ》をあげたのである。抑《そも/\》醍醐帝頃は後世から云へばまことに平和の聖世であるが、また平安朝の形式成就の頂点のやうにも見えるが、然し実際は何に原因するかは知らず随分騒がしい事もあり、嶮《さが》しい人心の世でもあつたと覚えるのは、史上に盗の多いので気がつく。仏法は盛んであるが、迷信的で、僧侶は貴族側のもので平民側のものでは無かつた。上《かみ》に貴冑《きちう》の私曲が多かつたためでもあらうか、下には武士の私威を張ることも多かつた。公卿や嬪媛《ひんゑん》は詩歌管絃の文明にも酔つてゐたらうが、それらの犠牲となつて人民は可なり苦んでゐたらしい。要するに平安朝文明は貴族文明形式文明風流文明で、剛堅確実の立派なものと云はうよりは、繊細優麗のもので、漸※[#二の字点、1-2-22]《ぜん/\》と次の時代、即ち武士の時代に政権を推移せしむる準備として、月卿雲客が美女才媛等と、美しい衣《きぬ》を纏《まと》ひ美しい詞を使ひ、面白く、貴く、長閑《のどか》に、優しく、迷信的空想的詩歌的音楽的美術的女性的夢幻的享楽的虚栄的に、イソップ物語の蟋蟀《きりぎりす》のやうに、いつまでも草は常緑で世は温暖であると信じて、恋物語や節会《せちゑ》の噂で日を送つてゐる其の一方には、粗《あら》い衣を纏《まと》ひ※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76]《あら》い詞《ことば》を使ひ、面白くなく、鄙《いや》しく、行詰つた、凄《すさま》じい、これを絵画にして象徴的に現はせば餓鬼《がき》の草子の中の生物のやうな、或は小説雑話にして空想的に現はせば、酒呑童子《しゆてんどうじ》や鬼同丸《きどうまる》のやうなものもあつたのであらう。醍醐天皇の御代と云へば、古今集だの、延喜式だのの出来た時であるが、其御代の昌泰二年には、都で放火殺人が多くて、四衛府兵をして夜を警《いまし》めしめられ、其三年には上野《かうつけ》に群盗が起り、延喜元年には阪東諸国に盗起り、其三年には前安芸守《さきのあきのかみ》伴忠行は盗の為に殺され、其前後|博奕《ばくち》大に行はれて、五年には逮捕をせねばならぬやうになり、其冬十月には盗賊が飛騨守《ひだのかみ》の藤原|辰忠《ときたゞ》を殺し、六年には鈴鹿山に群盗あり、十五年には上野介《かうづけのすけ》藤原厚載も盗に殺され、十七年には朝に菊宴が開かれたが、世には群盗が充ち、十九年には前《さき》の武蔵の権介《ごんのすけ》源任《みなもとのたふ》が府舎を焼き官物を掠《かす》め、現任の武蔵守高向利春を襲つたりなんどするといふ有様であつた。幸に天皇様の御聖徳の深厚なのによつて、大なることには至らなかつたが、盗といふのは皆|一揆《いつき》や騒擾《さうぜう》の気味合の徒で、たゞの物取りといふのとは少し違ふのである。此様な不祥のある度に威を張るのは僧侶|巫覡《ふげき》で、扶桑略記《ふさうりやくき》だの、日本紀略だの、本朝世紀などを見れば、厭《いと》はしいほど現世利益を祈る祈祷が繰返されて、何程|厭《いと》はしい宗教状態であるかと思はせられる。既に将門の乱が起つた時でも、浄蔵が大威徳法で将門を詛《のろ》ひ、明達が四天王法で将門を調伏し、其他神社仏寺で祈立て責立てゝ、とう/\祈り伏せたといふ事になつてゐる。かういふ時代であるから、下では石清水八幡《いはしみづはちまん》の本宮の徒と山科《やましな》の八幡新宮の徒と大喧嘩をしたり、東西両京で陰陽の具までを刻絵《きざみゑ》した男女の神像を供養礼拝して、岐神(さいの神、今の道陸神《だうろくじん》ならん)と云つて騒いだり、下らない事をしてゐる。先祖ぼめ、故郷ぼめの心理で、今までの多くの人は平安朝文明は大層立派なもののやうに言做《いひな》してゐる者も多いことであるが、少し料簡《れうけん》のある者から睨《にら》んだら、平安朝は少くも政権を朝廷より幕府へ、公卿より武士へ推移せしむるに適した準備を、気長に根深く叮嚀に順序的に執行して居たのである。かういふ時代に将門も純友も生長したのである。純友が賊衆追捕に従事して、そして盗魁《たうくわい》となつたのも、盗賊になつた方が京官になるよりも、有理であり、真面目な生活であると思つたところより、乱暴をはじめて、後に従五位下を以て招安されたにもかゝはらず、猶《な》ほ伊予、讃岐、周防、土佐、筑前と南海、山陽、西海を狂ひまはつたのかも知れない。純友は部下の藤原恒利といふ頼み切つた奴に裏斬りをされて大敗した後ですら、余勇を鼓《こ》して一挙して太宰府《だざいふ》を陥《おとしい》れた。苟《いやしく》も太宰府と云へば西海の重鎮であるが、それですら実力はそんなものであつたのである。当時|崛強《くつきやう》の男で天下の実勢を洞察するの明のあつた者は、君臣の大義、順逆の至理を気にせぬ限り、何ぞ首を俯《ふ》して生白い公卿の下《もと》に付かうやと、勝手理屈で暴れさうな情態もあつたのである。
 将門は然しながら最初から乱賊叛臣の事を敢《あへ》てせんとしたのではない。身は帝系を出でゝ猶未《なほいま》だ遠からざるものであつた。おもふに皇を尊び公に殉《じゆん》ずる心の強い邦人の常情として、初めは尋常におとなしく日を送つて居たのだらう。将門の事を考ふるに当つて、先づ一寸其の家系と親族等を調べて見ると、ざつと是の如くなのである。桓武天皇様の御子に葛原《かづらはら》親王と申す一品《いつぽん》式部卿の宮がおはした。其の宮の御子に無位の高見王がおはす。高見王の御子|高望王《たかもちわう》が平の姓を賜はつたので、従五位下、常陸大掾《ひたちだいじよう》、上総介《かづさのすけ》等に任ぜられたと平氏系図に見えてゐる。桓武平氏が阪東に根を張り枝を連ねて大勢力を植《た》つるに至つたことは、此の高望王が上総介や常陸大掾になられたことから起るのである。高望王の御子が、国香、良兼、良将、良※[#「搖のつくり+系」、第3水準1-90-20]《よしより》、良広、良文、良持、良茂と数多くあつた。其中で国香は従五位上、常陸大掾、鎮守府将軍とある。此の国香本名|良望《よしもち》は蓋《けだ》し長子であつた。これは即ち高望王亡き後の一族の長者として、勢威を有してゐたに相違無い。良兼は陸奥《むつ》大掾、下総介《しもふさのすけ》、従五位上、常陸平氏の祖である。次に良将は鎮守府将軍、従四位下或は従五位下とある。将門は此の良将の子である。次に良※[#「搖のつくり+系」、第3水準1-90-20]《よしより》は上総介、従五位上とある。それから良広には官位が見えぬが、次に良文が従五位上で、村岡五郎と称した、此の良文の後に日本将軍と号した上総介忠常なども出たので、千葉だの、三浦だの、源平時代に光を放つた家※[#二の字点、1-2-22]の祖である。次に良持は下総介、従五位下、長田《をさだ》の祖である。次に良茂は常陸少掾《ひたちせうじよう》である。
 扨《さて》将門は良将の子であるが、長子かといふに然様《さう》では無い。大日本史は系図に拠《よ》つたと見えて第三子としてゐるが、第二子としてゐる人もある。長子将持、次子将弘、第三子将門、第四子将平、第五子将文、第六子将武、第七子将為と系図には見えるが、将門の兄将弘は将軍太郎と称したとある。将持の事は何も分らない。将弘が将軍太郎といひ、将門が相馬小次郎といひ、系図には見えぬが、千葉系図には将門の弟に御廚《みくりや》三郎将頼といふがあつて、其次が大葦原四郎といつた事を考へると、将門は次男かとも思はれる。よし三男であつたにしろ、将持といふものは蚤《はや》く消えてしまつて、次男の如き実際状態に於て生長したに相違無い。イヤそれどころでは無い、太郎将弘が早世したから、将門は実際良将の相続人として生長したのである。将門の母は犬養春枝の女《むすめ》である。此の犬養春枝は蓋《けだ》し万葉集に名の見えてゐる犬養|浄人《きよひと》の裔《すゑ》であらう。浄人は奈良朝に当つて、下総《しもふさ》少目《せうさくわん》を勤めた人であつて、浄人以来下総の相馬に居たのである。此相馬郡寺田村相馬総代八幡の地方一帯は多分犬養氏の蟠拠《ばんきよ》してゐたところで、将門が相馬小次郎と称したのは其の因縁《いんねん》に疑無い。寺田は取手駅と守谷との間で、守谷の飛地といふことであり、守谷が将門拠有の地であつたことは人の知るところである。将門は斯様《かう》いふ大家族の中に生れて来て、沢山の伯父や叔父を有ち、又伯父国香の子には貞盛、繁盛、兼任、伯父良兼の子には公雅《きんまさ》、公連《きんつら》、公元、叔父良広の子には経邦、叔父良文の子には忠輔、宗平、忠頼、叔父良持の子には致持《むねもち》、叔父良茂の子には良正、此等の沢山の従兄弟《いとこ》を有した訳である。
 此の中で生長した将門は不幸にして父の良将を亡《うしな》つた。将門が何歳の時であつたか不明だが、弟達の多いところを見ると、蓋《けだ》し十何歳であつたらしい。幼子のみ残つて、主人の亡くなつた家ほど難儀なものはない。母の里の犬養老人でも丈夫ならば、差詰め世話をやくところだが、それは存亡不明であるが、多分既に物故してゐたらしい年頃である。そこで一族の長として伯父の国香が世話をするか、次の伯父の良兼が将門等の家の事をきりもりしたことは自然の成行であつたらう。後に至つて将門が国香や良兼と仲好くないやうになつた原因は、蓋し此時の国香良兼等が伯父さん風を吹かせ過ぎたことや、将門等の幼少なのに乗じて私《わたくし》をしたことに本づくと想像しても余り間違ふまい。さて将門が漸《やうや》く加冠するやうになつてから京上りをして、太政大臣藤原忠平に仕へた。これは将門自分の意に出たか、それとも伯父等の指揮に出たか不明であるが、何にせよ遙※[#二の字点、1-2-22]と下総から都へ出て、都の手振りを学び、文武の道を修め、出世の手蔓《てづる》を得ようとしたことは明らかである。勿論将門のみでは無い、此頃の地方の名族の若者等は因縁によつて都の貴族に身を寄せ、そして世間をも見、要路の人※[#二の字点、1-2-22]に技倆骨柄《ぎりやうこつがら》を認めて貰ひ、自然と任官叙位の下地にした事は通例であつたと見える。現に国香の子の常平太貞盛もまた都上りをして、何人の奏薦によつたか、微官ではあるが左馬允《さまのすけ》となつてゐたのである。今日で云へば田舎の豪家の若者が従兄弟《いとこ》同士二人、共に大学に遊んで、卒業後東京の有力者間に交際を求め、出世の緒を得ようとしてゐるやうなものである。此処で考へらるゝことは、将門も鎮守府将軍の子であるから、まさかに後の世の曾我の兄弟のやうに貧窮して居たのではあるまいが、一方は親無しの、伯父の気息《いき》のかゝつてゐるために世に立つてゐる者であり、一方は一族の長者常陸大掾国香の総領として、常平太とさへ名乗つて、仕送りも豊かに受けてゐたものである貞盛の方が光つて居たらうといふことは、誰にも想像されることである。ところが異《をか》しいこともあればあるもので、将門の方で貞盛を悪く思ふとか悪く噂《うはさ》するとかならば、※[#「女+冒」、第4水準2-5-68]嫉猜忌《ばうしつさいき》の念、俗にいふ「やつかみ」で自然に然様《さう》いふ事も有りさうに思へるが、別に将門が貞盛を何様《どう》の斯様《かう》のしたといふことは無くて、却《かへ》つて貞盛の方で将門を悪く言つたことの有るといふ事実である。
 勿論事実といつたところで古事談に出て居るに過ぎない。古事談は顕兼《あきかね》の撰で、余り確実のものとも為しかねるが、大日本史も貞盛伝に之を引いてゐる。それは斯様《かう》である。将門の在京中に、貞盛が嘗《かつ》て式部卿|敦実《あつざね》親王のところに詣《いた》つた。丁度其時に将門もまた親王の御許《おんもと》へ伺候《しこう》して帰るところで、従兄弟同士はハタと御門で行逢ふた。彼方《かなた》がジロリと見れば、此方《こちら》もギロリと見て過ぎたのであらう。貞盛は親王様に御目にかゝつて、残念なることには今日郎等無くして将門を殺し得ざりし、郎等ありせば今日殺してまし、彼奴《きやつ》は天下に大事を引出すべき者なり、と申したといふ事である。これは甚だ不思議なことで、貞盛が呂公や許子の術を得て居たか何様かは知らないが、人相見でも無くて思ひ切つたことを貴人の前で言つたものである。此時は将門純友叡山で相談した後であるとでも云は無ければ理屈の立たぬことで、将門はまだ国へも帰らず刀も抜かず、謀反どころか喧嘩さへ始めぬ時である。それを突然に、郎等だにあらば打殺してましものをと言ふのは、余りに従兄弟同士として貴人の前に口外するには太甚《はなはだ》しいことである。親王様に貞盛がこれだけの事を申したとすれば、もう此時貞盛と将門とは心中に刃を研《と》ぎあつてゐたとしなければならぬ。未だ父の国香が殺された訳でも無し、将門が何を企てゝ居たにせよ、貞盛が牒者《てふじや》をして知つてゐるといふ訳も無いのに、たゞ悪い者でござる、御近づけなさらぬが宜しいとでも云ふのならば、後世の由井正雪熊沢蕃山出会の談のやうな事で、まだしも聞えてゐるが、打殺さぬが口惜しいとまで申したとは余り奇怪である。然すれば貞盛の家と将門とが、もう此時は火をすつた中であつて、貞盛が其事を知つてゐたために、行く/\は無事で済むまいとの予想から、そんな事を云つたものだと想像して始めて解釈のつく事である。こゝへ眼を着けて見ると、古事談の記事が事実であつたとすると、国香が将門に殺されぬ前に、国香の忰《せがれ》は将門を殺さうとしてゐたといふ事を認め、そして殺さぬを残念と思つたほどの葛藤《かつとう》が既に存在して居たと睨まねばならぬことになるのである。戯曲的の筋は夙《はや》く此の辺から始まつてゐるのである。
 将門は京に居て龍口の衛士になつたか知らぬが、系図に龍口の小次郎とも記してあるに拠《よ》れば、其のくらゐなものにはなつたのかも知れぬ。が、其の詮議は擱《お》いて、将門と貞盛の家とは、中睦《なかむつま》じく無くなつたには相違無い。それは今昔物語に見えてゐる如くに、将門の父の良将の遺産を将門が成長しても国香等が返さなかつたことで、此の様な事情は古も今もやゝもすれば起り易いことで、曾我の殺傷も此から起つてゐる。今昔物語が信じ難い書であることは無論だが、此の事実は有勝の事で、大日本史も将門始末も皆採つてゐる。将門在京中に既に此事があつて、貞盛と将門とは心中互におもしろく無く思つてゐたところから、貞盛の言も出たとすれば合点が出来るのである。
 今一つは将門と源護一族との間の事である。これは其原因が不明ではあるが、因縁《いんねん》のもつれであるだけは明白である。護は常陸の前《さき》の大掾《だいじよう》で、そのまゝ常陸の東石田に居たのである。東石田は筑波《つくば》の西に当るところで、国香もこれに居たのである。護は世系が明らかでないが、其の子の扶《たすく》、隆、繁と共に皆一字名であるところを見ると、嵯峨《さが》源氏でゞもあるらしく思はれる。何にせよ護も名家であつて、護の女を将門の伯父上総介良兼は妻にしてゐる。国香も亦其一人を嫁にして貞盛の妻にしてゐる。常陸六郎良正もまた其一人を妻にしてゐる。此の良正は系図では良茂の子になつてゐるが、おそらくは誤りで、国香の同胞で一番|季《すゑ》なのであらう。
 将門と護とは別に相敵視するに至る訳は無い筈であるが、此の護の一族と将門と私闘を起したのが最初で、将門の伯叔父の多いにかゝはらず、護の家と縁組をしてゐる国香の家、良兼の家、良正の家が特《こと》に将門を悪《にく》んで之を攻撃してゐるところを見ると、何でも源護の家を中心とし、之に関聯して紛糾《ふんきう》した事情が有つての大火事と考へられる。将門始末では、将門が護の女《むすめ》を得て妻としようとしたが護が与へなかつたので、将門が怒つたのが原因だと云つて居る。して見れば将門は恋の叶《かな》はぬ焦燥《せうさう》から、車を横に推出したことになる。さすれば良正か貞盛か二人の中の一人が、将門の望んだ女を得て妻としてしまつた為に起つた事のやうに思はれるが、如何《いか》に将門が乱暴者でも、人の妻になつてしまつた者を何としようといふこともあるまい。又それが遺恨の本になるといふことも、成程野暮な人の間に有り得るにしても、皆が一致して手甚《てひど》く将門を包囲攻撃するに至るのは、何だか逆なやうである。思ふ女をば奪はれ、そして其女の縁に連《つらな》る一族総体から、此の失恋漢、死んでしまへと攻立てられたといふのは、何と無く奇異な事態に思へる。又たとへ将門の方から手出しをしたにせよ、恋の叶はぬ忌※[#二の字点、1-2-22]しさから、其女の家をはじめ、其姉妹の夫たちの家まで、撫斬《なでぎ》りにしようといふのも何となく奇異に過ぎ酷毒に過ぎる。何にせよ決してたゞ一条《ひとすぢ》の事ではあるまい、可なり錯綜《さくそう》した事情が無ければならぬ。貞盛が将門を殺したがつた事も、恋の叶《かな》つた者の方が恋の叶はぬ者を生かして置いては寝覚が悪いために打殺すといふのでは、何様《どう》も情理が桂馬筋《けいますぢ》に働いて居るやうである。
 故蹟考ではかう考へてゐる。将門が迎へた妻は、源護の子の扶、隆、繁の中で、懸想《けさう》して之を得んとしたものであつた。然るに其の婦人は源家へ嫁すことをせずして相馬小次郎将門の妻となつた。そこで※[#「女+冒」、第4水準2-5-68]嫉《ばうしつ》の念禁じ難く、兄弟姉妹の縁に連なる良兼貞盛良正等の力を併《あは》せて将門を殺さうとし、一面国香良正等は之を好機とし、将門を滅して相馬の夥《おびただ》しい田産を押収せんとしたのである。と云つて居る。成程源家の子のために大勢が骨折つて貰ひ得て呉れようとした美人を貰ひ得損じて、面目を失はせられ、しかも日比《ひごろ》から彼が居らなくばと願つて居た将門に其の婦人を得られたとしては、要撃して恨《うらみ》を散じ利を得んとするといふことも出て来さうなことである。然しこれも確拠があつてでは無い想像らしい。たゞ其中の将門を滅せば田産押収の利のあるといふことは、拠《よ》るところの無い想像では無い。
 要するに委曲《ゐきよく》の事は徴知することが出来ない。耳目の及ぶところ之を知るに足らないから、安倍晴明なら識神を使つて委細を悟るのであるが、今何とも明解することは我等には不能だ。天慶年間、即ち将門死してから何程の間も無い頃に出来たといふ将門記の完本が有つたら訳も分かるのであらうが、今存するものは残闕《ざんけつ》であつて、生憎発端のところが無いのだから如何《いかん》とも致方は無い。然し試みに考へて見ると、将門が源家の女《むすめ》を得んとしたことから事が起つたのでは無いらしい、即ち将門始末の説は受取り兼ねるのであつて、むしろ将門の得た妻の事から私闘は起つたのらしい。何故《なぜ》といへば将門記の中の、将門が勝を得て良兼を囲んだところの条《くだり》の文に、「斯《かく》の如く将門思惟す、凡《およ》そ当夜の敵にあらずといへども(良兼は)脈を尋《たづ》ぬるに疎《うと》からず、氏を建つる骨肉なり、云はゆる夫婦は親しけれども而も瓦に等しく、親戚は疎くしても而も葦に喩《たと》ふ、若し終に(伯父を)殺害を致さば、物の譏《そし》り遠近《をちこち》に在らんか」とあつて、取籠めた伯父良兼を助けて逃れしめてやるところがある。その文気を考へると、妻の故の事を以て伯父を殺すに至るは愚なことであるといふのであるから、将門が妻となし得なかつた者から事が起つたのでは無くて、将門が妻となし得たものがあつてそれから伯父と弓箭《きゆうせん》をとつて相見《あいまみ》ゆるやうにもなつたのであるらしい。それから又同記に拠ると、将門を告訴したものは源護である。記に「然る間|前《さき》の大掾《だいじよう》源護の告状に依りて、件《くだん》の護並びに犯人平将門及び真樹《まき》等召進ずべきの由の官符、去る承平五年十二月二十九日符、同六年九月七日到来」とあるから、原告となつた者は護である。真樹は佗田《わびた》真樹で、国香の属僚中の錚※[#二の字点、1-2-22]《さうさう》たるものである。これに依つて考へれば、良正良兼は記の本文記事の通り、源家が敗戦したによつて婦の縁に引かれて戦を開いたのだが、最初はたゞ源護一家と将門との間に事は起つたのである。して見れば将門が妻としたものに関聯して源護及び其子等と将門とは闘ひはじめたのである。
 戯曲はこゝに何程でも書き出される。かつて同じ千葉県下に起つた事実で斯《か》ういふのがあつた。将門ほど強い男でも何でも無いが、可なりの田邑《でんいふ》を有してゐる片孤《へんこ》があつた。其の児の未《いま》だ成長せぬ間、親戚の或る者は其の田邑を自由にして居たが、其の児の成人したに至つて当然之を返附しなければならなくなつた。ところで其の親戚は自分の娘を其の男に娶《めと》らせて、自己は親として其の家に臨む可く計画した。娘は醜くも無く愚でもなかつたが、男は自己が拘束されるやうになることを厭ふ余りに其の娘を強く嫌つて、其の婚儀を勧めた一族達と烈しく衝突してしまつた。悲劇はそこから生じて男は放蕩者《はうたうもの》となり、家は乱脈となり、紛争は転輾《てんてん》増大して、終に可なりの旧家が村にも落着いて居られぬやうになつた。これを知つてゐる自分の眼からは、一齣《いつしやく》の曲が観えてならない。真に夢の如き想像ではあるが、国香と護とは同国の大掾であつて、二重にも三重にもの縁合となつて居り、居処も同じ地で、極めて親しかつたに違ひ無い。若し将門が護の女《むすめ》を欲したならば、国香は出来かぬる縁をも纏《まと》めようとしたことであらう。其の方が将門を我が意の下に置くに便宜ではないか。して見れば将門始末の記するが如きことは先づ起りさうもない。もし反対に、護の女を国香が口をきいて将門に娶《めと》らせようとして、そして将門が強く之を拒否した場合には、国香は源家に対しても、自己の企に於ても償《つぐな》ひ難き失敗をした訳になつて、貞盛や良兼や良正と共に非常な嫌な思ひをしたことであらうし、護や其子等は不面目を得て憤恨したであらう。将門の妻は如何なる人の女であつたか知らぬが、千葉系図や相馬系図を見れば、将門の子は良兌《よしなほ》、将国、景遠、千世丸等があり、又十二人の実子があつたなどと云ふ事も見えるから、桔梗《ききやう》の前の物語こそは、薬品の桔梗の上品が相馬から出たに本づく戯曲家の作意ではあらうが、妻妾《さいせう》共に存したことは言ふまでも無い。で、将門が源家の女を蔑視《べつし》して顧みず、他より妻を迎へたとすると、面目を重んずる此時代の事として、国香も護の子等も、殊に源家の者は黙つて居られないことになる。そこで談判論争の末は双方後へ退らぬことになり、武士の意気地上、護の子の扶、隆、繁の三人は将門を敵に取つて闘ふに至つたらうと想像しても非常な無理はあるまい。
 闘《たたかひ》は何にせよ将門が京より帰つて後数年にして発したので、其の場所は下総の結城郡と常陸の真壁郡の接壌地方であり、時は承平五年の二月である。どちらから戦《いくさ》をしかけたのだか明記はないが、源の扶、隆等が住地で起つたのでも無く、将門の田園所在地から起つたのでも無い。将門の方から攻掛けたやうに、歴史が書いてゐるのは確実で無い。将門と源氏等と、どちらが其の本領まで戦場から近いかと云へば、将門の方が近いくらゐである。相馬から出たなら遠いが、本郷や鎌庭からなら近いところから考へると、将門が結城あたりへ行かうとして出た途中を要撃したものらしい。左も無くては釣合が取れない。若し将門が攻めて行つたのを禦《ふせ》いだものとしては、子飼川を渉《わた》つたり鬼怒《きぬ》川《がは》を渡つたりして居て、地理上合点が行かぬ。将門記に其の闘の時の記事中見ゆる地名は、野本、大串、取木等で、皆常陸の下妻附近であるが、野本は下総の野爪、大串は真壁の大越、取木は取不原《とりふばら》の誤か、或は本木村といふのである。攻防いづれがいづれか不明だが、記には「爰《こゝ》に将門|罷《や》まんと欲すれども能はず、進まんと擬するに由無し、然して身を励まして勧拠し、刃を交へて合戦す」とあるに照らすと、何様も扶等が陣を張つて通路を截《き》つて戦を挑《いど》んだのである。此の闘は将門の勝利に帰し、扶等三人は打死した。将門は勝に乗じて猛烈に敵地を焼き立て、石田に及んだ。国香は既に老衰して居た事だらう、何故《なぜ》といへば、国香の弟の弟の第二子若くは第三子の将門が既に三十三歳なのであるから。国香は戦死したか、又焼立てられて自殺したか、後の書の記載は不詳である。双方の是非曲直は原因すら不明であるから今評論が出来ぬが、何にせよ源護の方でも鬱懐|已《や》む能《あた》はずして是《こゝ》に至つたのであらうし、将門の方でも刀を抜いて見れば修羅心|熾盛《しせい》になつて、遣りつけるだけは遣りつけたのだらう。然しこゝに注意しなければならぬのは、是はたゞ私闘であつて、謀反《むほん》をして国の治者たる大掾を殺したのではない事である。
 貞盛は国香の子として京に在つて此事を聞いて暇《いとま》を請《こ》うて帰郷した。記に此場合の貞盛の心を書いて、「貞盛|倩※[#二の字点、1-2-22]《つら/\》案内を検するに、およそ将門は本意の敵にあらず、これ源氏の縁坐也云※[#二の字点、1-2-22]。孀母《さうぼ》は堂に在り、子にあらずば誰か養はん、田地は数あり、我にあらずば誰か領せん、将門に睦《むつ》びて云※[#二の字点、1-2-22]、乃《すなは》ち対面せんと擬す」とある。国香死亡記事の本文は分らないが、此の文気を観ると、将門が国香を心底から殺さうとしたので無いことは、貞盛が自認してゐるので、源氏の縁坐で斯様《かやう》の事も出来たのであるから、無暗《むやみ》に将門を悪《にく》むべくも無い、一族の事であるから寧《むし》ろ和睦《わぼく》しよう、といふのである。前に云つた通り将門は自分を攻めに来た良兼を取囲んだ時もわざと逃がした人である、国香を強ひて殺さう訳は無い。貞盛の此の言を考へると、全く源氏と戦つたので、余波が国香に及んだのであらう。伯父殺しを心掛けて将門が攻寄せたものならば、貞盛に斯様《かう》いふ詞の出せる訳も無い。但し国香としては田邑《でんいふ》の事につきて将門に対して心弱いこともあつた歟《か》、さらずも居館を焼亡されて撃退することも得せぬ恥辱に堪へかねて死んだのであらうか。こゝにも戯曲的光景がいろ/\に描き出さるゝ余地がある。まして国香の郎党佗田真樹は弱い者では無い、後に至つて戦死して居る程の者であるから、将門の兵が競ひかゝつて国香を攻めたのならば、何等かの事蹟を生ずべき訳である。
 良正は高望王の庶子で、妻は護の女《むすめ》であつた。護は老いて三子を尽《こと/″\》く失つたのだから悲嘆に暮れたことは推測される。そこで父の歎《なげき》、弟の恨《うらみ》、良正の妻は夫に対して報復の一[#(ト)]合戦をすゝめたのも無理は無い。云はれて見れば後へは退けぬので、良正は軍兵を動かして水守《みづもり》から出立した。水守は筑波山《つくばさん》の南の北条の西である。兵は進んで下総堺の小貝川の川曲に来た。川曲は「かはわた」と訓《よ》んだのであらう、今の川又村の地で当時は川の東岸であつたらしい。一水を渡れば豊田郡で将門領である。貞盛が此時加担して居なかつたのであるのは注意すべきだ。将門の方でも、其義ならば伯父とは云へ一[#(ト)]塩つけてやれと云ふので出動した。時は其年の十月廿一日であつた。将門の軍は勝を得て、良正は散※[#二の字点、1-2-22]に打《うち》なされて退いた。此も私闘である。将門はまだ謀反はして居らぬ、勝つて本郷へ帰つた。
「負け碁《ご》は兎角あとをひく也」で、良正は独力の及ぶ可からざるを以て下総介良兼(或はいふ上総介)に助勢を頼んで将門に憂き目を見せようとした。良兼は護の縁につながつて居る者の中の長者であつた。良兼の妻も内から牝鶏《めんどり》のすゝめを試みた。雄鶏は終《つひ》に閧《とき》の声をつくつた。同六年六月二十六日、十二分に準備したる良兼は上総下総の兵を発して、上総の地で下総へ斗入《とにふ》してゐる武射《むさ》郡の径路から下総の香取郡の神崎《かうざき》へ押出した。神崎は滑川より下、佐原より上の利根川沿岸の地だ。それより大河を渡つて常陸の信太郡の江前の津へかゝつた。江前はえのさきで、今の江戸崎である。それから翌日、良正がゐる筑波の南の水守へ到着したといふ事だ。私闘は段※[#二の字点、1-2-22]と大きくなつた。関を打破つて通りこそせざれ、間道※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]を通つて、苟《いやしく》も何の介《すけ》といふ者が、官司の禁遏《きんあつ》を省みず武力で争はうといふのである。良正は喜んで迎へた。貞盛も参会した。良兼は貞盛に対《むか》つて、常平太何事ぞ我等と与にせざるや、財物を掠《かす》められ、家倉を焼かれ、親類を害せられて、穏便を旨《むね》とするは何ぞや、早※[#二の字点、1-2-22]合力して将門を討ち候へと、叔父|様顔《さんがほ》の道理らしく説いた。言はれて見れば其の通りであるから、貞盛も吾が女房の兄弟の仇、言はず語らずの父の讐《かたき》であるから、心得た、と言切つた。姉妹三人の夫たる叔父甥三人は、良兼を大将にして下野《しもつけ》を指して出発した。下野から南に下つて小次郎めを圧迫しようといふのだ。将門はこれを聞いて、御座んなれ二本棒ども、とでも思つたらう。財布の大きいものが、博奕はきつと勝つと定まつては居ないのだ。何程の事かあらん、一[#(ト)]当てあてゝやれと、此方《こちら》からも下野境まで兵を出したが、如何さま敵は大軍で、地も動き草も靡《なび》くばかりの勢堂※[#二の字点、1-2-22]と攻めて来た。良兼の軍は馬も肥え人も勇み、鎧《よろひ》の毛もあざやかに、旗指物もいさぎよく、弓矢、刀|薙刀《なぎなた》、いづれ美※[#二の字点、1-2-22]しく、掻楯《かいだて》ひし/\と垣の如く築《つ》き立てゝ、勢ひ猛に壮《さか》んに見えた。将門の軍は二度の戦に甲冑《かつちう》も摺《す》れ、兵具《ひやうぐ》も十二分ならず、人数も薄く寒げに見えた。譬《たと》へば敵の毛羽艶やかに峨冠《がくわん》紅に聳《そび》えたる鶏の如く、此方《こなた》は見苦しき羽抜鳥の肩そぼろに胸|露《あら》はに貧しげなるが如くであつたが、戦つて見ると羽ふくよかなる地鶏は生命知らずの軍鶏《しやも》の敵では無かつた。将門の手下の勇士等は忽《たちま》ちに風の木の葉と敵を打払つた。良兼の勢は先を争つて逃げる、将門は鞭を揚げ名を呼《よば》はつて勢に乗つて吶喊《とつかん》し駆け崩した。敵はきたなくも下野の府に閉塞されてしまつた。こゝで将門が刻毒に攻立てたら、或は良兼等を酷《ひど》いめにあはせ得たかも知らぬが、将門の性質の美の窺《うかゞひ》知らるゝところはここにあつて、妻の故を以て伯父を殺したと云はるゝを欲せぬために一方をゆるして其の逃ぐるに任《まか》せた。良兼等は危い生命を助かつて、辛《から》くも遁《のが》れ去つてしまつた。そこで将門は明かな勝利を得て、府の日記へ、下総介が無道に押寄せて合戦しかけた事と、これを追退けてしまつたことをば明白に記録して置いて、悠然と自領へ引取つた。火事は大分燃広がつた、私闘は余国までの騒ぎになつたが、しかもまだ私闘である、謀反《むほん》をしたのでは無かつた。これだけの大事になつたのであるから、四方隣国も皆手出しこそせざれ、目を側《そば》だてゝ注意したに相違ない。将門が国庁の記録に事実をとゞめ、四方に実際を知らしめたのは、為し得て男らしく立派に智慮もあり威勢もあることであつた。
 源護の方は事を起した最初より一度も好い目を見無かつた。痴者《ちしや》が衣服の焼け穴をいぢるやうに、猿が疵口《きずくち》を気にするやうに、段※[#二の字点、1-2-22]と悪いところを大きくして、散※[#二の字点、1-2-22]な事になつたが、いやに賢く狡滑《かうくわつ》なものは、自分の生命を抛出《なげだ》して闘ふといふことをせずに、いつも他の勢力や威力や道理らしいことやを味方にして敵を窘《くるし》めることに長《た》けたものだ。何様《どう》いふ告訴状を上《たてまつ》つたか知らぬが、多分自分が前の常陸大掾であつたことと、現常陸大掾であつた国香の死したことを利用して、将門が暴威に募り乱逆を敢《あへ》てしたことを申立てたに相違無く、そしてそれから後世の史をして将門常陸大掾国香を殺すと書かしめるに至らせたのであらう。去年十二月二十九日の符が、今年九月になつて、左近衛番長の正六位上|英保純行《あぼのすみゆき》、英保氏立、宇自加|支興《もちおき》等によつて齎《もた》らされ、下毛下総常陸等の諸国に朝命が示され、原告源護、被告将門、および国香の麾下《きか》の佗田真樹を召寄せらるゝ事になつた、そこで将門は其年十月十七日、急に上京して公庭に立つた。一部始終を申立てた。阪東訛《ばんどうなま》りの雑つた蛮音《ばんおん》で、三戦連勝の勢に乗じ、がん/\と遣付《やりつけ》たことであらう。もとより事実を陰蔽して白粉を傅《つ》けた談をするが如きことは敢《あへ》てし無かつたらう。箭《や》が来たから箭を酬《むく》いた、刀が加へられたから刀を加へた、弓箭《ゆみや》取る身の是非に及ばず合戦仕つて幸《さいはひ》に斬り勝ち申したでござる、と言つたに過ぎまい。勿論|私《わたくし》に兵仗《へいぢやう》を動かした責罰|譴誨《けんくわい》は受けたに相違あるまいが、事情が分明して見れば、重罪に問ふには足《た》ら無いことが認められたのに、かてゝ加へて皇室御慶事があつたので、何等罪せらるゝに至らず、承平七年四月七日一件落着して恩詔を拝した。検非違使《けびゐし》庁《ちやう》の推問に遇《あ》うて、そして将門の男らしいことや、勇威を振つたことは、却《かへ》つて都の評判となつて同情を得たことと見える。然し干戈《かんくわ》を動かしたことは、深く公より譴責《けんせき》されたに疑無い。で、同年五月十一日に京を辞して下総に帰つた。
 とは記に載つてゐるところだが、これは疑はしい。こゝに事実の前後錯誤と年月の間違があるらしい。将門は幾度も符を以て召喚されたが、最初一度は上洛し、後は上洛せずに、英保純行に委曲《ゐきよく》を告げたのである。将門はそれで宜《よ》いが、良兼等は其儘《そのまゝ》指を啣《くは》へて終ふ訳には、これも阪東武者の腹の虫が承知しない。甥《おひ》の小僧つ子に塩をつけられて、国香亡き後は一族の長者たる良兼ともある者が屈してしまふことは出来ない。護も貞盛も女達も瞋恚《しんい》の火を燃《もや》さない訳は無い。将門が都から帰つて来て流石《さすが》に謹慎して居る状《さま》を見るに及んで、怨を晴らし恥辱を雪《そゝ》ぐは此時と、良兼等は亦復《また/\》押寄せた。其年八月六日に下総境の例の小貝川の渡に良兼の軍は来た。今度は良兼もをかしな智慧《ちゑ》を出して、将門の父良将祖父高望王の像を陣頭に持出して、さあ箭《や》が放せるなら放して見よ、鉾先《ほこさき》が向けらるゝなら向けて見よと、取つて蒐《かゝ》つた。籠城でもした末に百計尽き力乏しくなつてならばいざ知らず、随分いやな事をしたものだが、如何《いか》に将門勇猛なりとも此には閉口した。「親の位牌《ゐはい》で頭こつつり」といふ演劇には、大概な暴れ者も恐れ入る格で、根が無茶苦茶な男では無い将門は神妙におとなしくして居た。おとなしくした方が何程腹の中は強いか知れないのだが、差当つて手が出せぬのを見ると、良兼の方は勝誇つた。豊田郡の栗栖院《くるすゐん》、常羽御厩《いくはのみうまや》や将門領地の民家などを焼払つて、其翌日さつと引揚げた。
 芝居で云へば性根場《しやうねば》といふところになつた。将門は一[#(ト)]塩つけられて怒気胸に充《み》ち塞《ふさ》がつたが、如何とも為《せ》ん方《かた》は無かつた。で、其月十七日になつて兵を集めて、大方郷《おほかたがう》堀越の渡に陣を構へ、敵を禦《ふせ》がうとした。大方郷は豊田郡大房村の地で、堀越は今水路が変つて渡頭《ととう》では無いが堀籠村といふところである。併《しか》し将門は前度とは異つて、手痛くは働か無かつた。記には、脚気を病んで居て、毎事|朦※[#二の字点、1-2-22]《もうもう》としてゐたといふが、そればかりが原因か、或は都での訓諭に恐懼《きようく》して、仮りにも尊族に対して私《わたくし》に兵具を動かすことは悪いと思つた、しほらしい勇士の一面の優美の感情から、吽《うん》と忍耐したのかも知れない。弱くない者には却《かへ》つて此様《かう》いふ調子はあるものである。で、はか/″\しい抵抗も何等|敢《あへ》てしなかつたから、良兼の軍は思ふが儘に乱暴した。前の恨を霽《は》らすは此時と、郡中を攻掠《こうりやく》し焚焼《ふんせう》して、随分|甚《ひど》い損害を与へた。将門は※[#「けものへん+爰」、第3水準1-87-78]島|郡《ぐん》の葦津江、今の蘆谷といふところに蟄伏《ちつぷく》したが、猶危険が身に逼《せま》るので、妻子を船に乗せて広河《ひろかは》の江に泛《うか》べ、おのれは要害のよい陸閉といふところに籠つた。広河の江といふのは飯沼《いひぬま》の事で、飯沼は今は甚《はなはだ》しく小さくなつてゐるが、それは徳川氏の時になつて、伊達弥《だてや》惣兵衛《そうべゑ》為永《ためなが》といふものが、享保年間に飯沼の水が利根川より高いこと一丈九尺、鬼怒川より高いこと横根口で六尺九寸、内守谷川|辰口《たつぐち》で一丈といふことを知つて、大工事を起して、水を落し、数千町歩の新田を造つたからである。陸閉といふ地は不明だが、蓋《けだ》し降間《ふるま》の誤写で、後の岡田郡|降間木《ふるまぎ》村の地だらうといふことである。降間木ももと降間木沼とかいふ沼があつたところである。さあ物語は一大関節にさしかゝつた。将門が斯様におとなしくして居て、むしろ敵を避け身を屈して居るやうになつたところで、良兼方の一分は立つたのだから、其儘に良兼方が凱歌を奏して退《ひ》いて終《しま》つたれば、或は和解の助言なども他から入つて、宜い程のところに双方|折合《をりあ》ふといふことも成立つたか知れないのである。ところが転石の山より下《くだ》るや其の勢《いきほひ》必ず加はる道理で、終《つひ》に良兼将門は両立す可からざる運命に到着した。それは将門が安穏を得させようとして跡を埋め身を隠させた其の愛妻を敵が発見したことであつた。どうも良兼方の憎悪は此の妻にかゝつて居たらしい。それ占《し》めたといふのであつたらう、忽ちに手対《てむか》ふ者を討殺《うちころ》し、七八|艘《さう》の船に積載した財貨三千余端を掠奪し、かよわい妻子を無漸《むざん》にも斬殺《きりころ》してしまつたのが、同月十九日の事であつた。元来火薬が無かつた訳では無いから、如何に一旦は神妙にしてゐても、此処《こゝ》に至つて爆発せずには居ない。後の世の頼朝が伊豆に潜《ひそ》んで居た時も、たゞおとなしく世を終つたかも知れないが、伊東入道に意中の女は引離され児は松川に投入れらるゝに及んで、ぶる/\と其の巨《おほ》きい頭を振つて牙《きば》を咬《か》んで怒り、せめては伊豆一国の主になつて此恨を晴らさうと奮ひ立つたとある。人間以上に心を置けば、恩愛に惹《ひ》かれて動転するのは弱くも浅くも甲斐《かひ》無くもあるが、人間としては恩愛の情の已《や》み難《がた》いのは無理も無いことである。如何《いか》に相馬小次郎が勇士でも心臓が筑波御影《つくばみかげ》で出来てゐる訳でもあるまいから、落さうと思つた妻子を殺されては、涙をこぼして口惜《くやし》がり、拳を握りつめて怒つたことであらう。これはまた暴れ出さずには居られない訳だ。しかしまだ私闘である、私闘の心が刻毒になつて来たのみである、謀反《むほん》をしようとは思つて居ないのである。
 記の此処《こゝ》の文が妙に拗《ねぢ》れて居るので、清宮秀堅は、将門の妻は殺されたのでは無くて上総《かづさ》に拘《とら》はれたので、九月十日になつて弟の謀《はかりごと》によつて逃帰つたといふ事に読んでゐる。然し文に「妻子同共討取」とあるから、何様《どう》も妻子は殺されたらしく、逃還《にげかへ》つたのは一緒に居《い》た妾であるらしい。が、「爰将門妻去夫留、忿怨不[#レ]少」「件妻背[#二]同気之中[#一]、迯[#二]帰於夫家[#一]」とあるところを見ると、妻が拘はれたやうでもある。「妾恒存[#二]真婦之心[#一]」「妾之舎弟等成[#レ]謀」とあるところを見ると、妾のやうでもある。妻妾二字、形相近いから何共|紛《まぎ》らはしいが、妻子同共討取の六字があるので、妻子は殺されたものと読んで居る人もある。どちらにしても強くは言張り難いが、「然而将門尚与[#二]伯父[#一]為[#二]宿世之讐[#一]」といふ句によつて、何にせよ此事が深い怨恨《ゑんこん》になつた事と見て差支《さしつかへ》は無い。しばらく妻子は殺されて、拘《とら》はれた妾は逃帰つた事と見て置く。
 此事あつてより将門は遺恨《ゐこん》已《や》み難《がた》くなつたであらう、今までは何時《いつ》も敵に寄せられてから戦つたのであるが、今度は我から軍を率《ひき》ゐて、良兼が常陸《ひたち》の真壁郡の服織《はつとり》、即ち今の筑波山の羽鳥に居たのを攻め立つた。良兼は筑波山に拠《よ》つたから羽鳥を焼払ひ、戦書を贈《おく》つて是非の一戦を遂《と》げようとしたが、良兼は陣を堅くして戦は無かつたので、将門は復讐的に散※[#二の字点、1-2-22]《さん/″\》敵地を荒して帰つた。斯様《かう》なれば互《たがひ》に怨恨《ゑんこん》は重《かさ》なるのみであるが、良兼の方は何様《どう》しても官職を帯びて居るので、官符は下《くだ》つて、将門を追捕すべき事になつた。良兼、護、今は父の後を襲ふた常陸大掾《ひたちのだいじよう》貞盛、良兼の子の公雅、公連、それから秦清文《はたきよぶみ》、此等が皆職を帯びて、武蔵、安房《あは》、上総、下総、常陸、下野諸国の武士を駆催《かりもよほ》して将門を取つて押へようとする。将門は将門で後へは引け無くなつたから勢威を張り味方を募《つの》つて対抗する。諸国の介《すけ》や守《かみ》や掾《じよう》やは、騒乱を鎮める為に戮力《りくりよく》せねばならぬのであるが、元来が私闘で、其の情実を考へれば、強《あなが》ち将門を片手落に対治すべき理があるやうにも思へぬから、官符があつても誰も好んで矢の飛び剣の舞ふ中へ出て来て危い目に逢はうとはしない。将門は一人で、官職といへば別に大したものを有してゐるのでも無い、たゞ伊勢太神宮の御屯倉《みやけ》を預かつて相馬|御厨《みくりや》の司《つかさ》であるに過ぎぬのであるに、父の余威を仮《か》るとは言へ、多勢の敵に対抗して居られるといふものは、勇悍《ゆうかん》である故のみでは無い、蓋《けだ》し人の同情を得てゐたからであつたらう。然無《さな》くば四方から圧逼《あつぱく》せられずには済まぬ訳である。
 良兼は何様《どう》かして勝を得ようとしても、尋常《じんじやう》の勝負では勝を取ることが難かつた。そこで便宜《べんぎ》を伺《うかゞ》ひ巧計を以て事を済《な》さうと考へた。怠《おこた》り無く偵察《ていさつ》してゐると、丁度将門の雑人《ざふにん》に支部《はせつかべ》子春丸といふものがあつて、常陸の石田の民家に恋中《こひなか》の女をもつて居るので、時※[#二の字点、1-2-22]其許へ通ふことを聞出した。そこで子春丸をつかまへて、絹を与へたり賞与を約束したりして、将門の営の勝手を案内させることにした。将門は此頃石井に居た。石井は「いはゐ」と読むので、今の岩井が即《すなは》ちそれだ。子春丸は恋と慾とに心を取られ、良兼の意に従つて、主人の営所の勝手を悉《こと/″\》く良兼の士に教へた。良兼はほくそ笑《ゑ》んで、手腕のある者八十余騎を択《えら》んで、ひそ/\と不意打をかける支度をさせた。十二月の十四日の夕に良兼の手の者は発して、首尾よく敵地に突入し、風の如くに進んで石井の営に斫入《きりい》つた。将門の士は十人にも足らなかつたが、敵が襲ふのを注進した者があつて、急に起つて防ぎ戦つた。将門も奮闘《ふんとう》した。良兼の上兵|多治良利《たぢのよしとし》は一挙に敵を屠《ほふ》らんと努力したが、運|拙《つたな》く射殺《いころ》されたので、寄手は却《かへ》つて散※[#二の字点、1-2-22]になつて、命を落す者四十余人、可なり手痛き戦はしたが、敵地に踏込むほどの強い武者共が随分巧みに、うま/\近づいたにもかゝはらず、此の突騎襲撃も成功しなかつた。双方が精鋭|驍勇《げうゆう》、死物狂ひを極《きは》め尽した活動写真的の此の華※[#二の字点、1-2-22]しい騎馬戦も、将門方の一騎士が結城寺の前で敵が不意打に来たなと悟つて、良兼方の騎士の後から尾行《びかう》して居て、鴨橋《かもはし》(今の結城《ゆふき》郡|新宿《しんじゆく》村のかま橋)から急に駈抜《かけぬ》けて注進したため、危くも将門は勝を得てしまつた。良兼は此の失敗に多く勇士を失ひ、気屈して、勢《いきほひ》衰へ、怏※[#二の字点、1-2-22]《あう/\》として楽まず、其後は何も仕出《しいだ》し得ず、翌年天慶二年の六月上旬病死して終《しま》つた。子春丸は事あらはれて、不意討の日から幾程も無く捕へられて殺されてしまつた。
 突騎襲撃の不成功に終つた翌年の春、良兼は手を出すことも出来無くなつてゐるし、貞盛も為すこと無く居ねばならぬので、かくては果てじと、貞盛は京|上《のぼ》りを企てた。都へ行つて将門の横暴を訴へ、天威を藉《か》りてこれを亡《ほろ》ぼさうといふのである。将門はこれを覚《さと》つて、貞盛に兎角《とかく》云ひこしらへさせては面倒であると、急に百余騎を率《ひき》ゐて追駈けた。二月の二十九日、山道を心がけた貞盛に、信濃《しなの》の小県《ちひさがた》の国分寺《こくぶじ》の辺で追ひついて戦つた。貞盛も思ひ設けぬでは無かつたから防ぎ箭《や》を射つた。貞盛方の佗田真樹は戦死し、将門方の文屋好立《ぶんやのよしたつ》は負傷したが助かつた。貞盛は辛《から》くも逃《のが》れて、遂《つひ》に京に到《いた》り、将門暴威を振ふの始終を申立てた。此歳五月改元、天慶元年となつて、其の六月、朝廷より将門を召すの符を得て常陸に帰り、常陸介藤原|維幾《これちか》の手から将門に渡した。将門は符を得ても命を奉じ無かつた。維幾は貞盛の叔母婿《をばむこ》であつた。
 貞盛が京上りをした翌天慶二年の事である。武蔵の国にも紛擾《ふんぜう》が生じた。これも当時の地方に於て綱紀の漸《やうや》く弛《ゆる》んだことを証拠立てるものであるが、それは武蔵権守興世王と、武蔵介経基と、足立郡司判官武芝とが葛藤《かつとう》を結んで解けぬことであつた。武芝は武蔵国造《むさしのくにのみやつこ》の後で、足立《あだち》埼玉《さいたま》二郡は国中で早く開けたところであり、それから漸く人烟《じんえん》多くなつて、奥羽への官道の多摩《たま》郡中の今の府中のあるところに庁が出来たのであるが、武芝は旧家であつて、累代の恩威を積んでゐたから、当時中※[#二の字点、1-2-22]勢力のあつたものであらう、そこへ新《あらた》に権守《ごんのかみ》になつた興世王と新に介《すけ》になつた経基とが来た。経基は清和源氏の祖で六孫王其人である。興世王とは如何なる人であるか、古より誰も余り言はぬが、既に王といはれて居り、又経基との地位の関係から考へて見ても、帝系に出でゝ二代目位か三代目位の人であらう。高望王が上総介、六孫王が武蔵介、およそかゝる身分の人※[#二の字点、1-2-22]がかゝる官に任ぜられたのは当時の習《ならひ》であるから、興世王も蓋《けだ》し然様《さう》いふ人と考へて失当《しつたう》でもあるまい。其頃桓武天皇様の御子|万多《まんた》親王の御子の正躬《まさみ》王の御後には、住世《すみよ》、基世《もとよ》、助世、尚世《ひさよ》、などいふ方※[#二の字点、1-2-22]があり、又正躬王御弟には保世《やすよ》、継世《つぐよ》、家世など皆世の字のついた方が沢山《たくさん》あり、又桓武天皇様の御子仲野親王の御子にも茂世、輔世《すけよ》、季世《すゑよ》など世のついた方※[#二の字点、1-2-22]が沢山に御在《おいで》であるところから推《お》して考へると、興世王は或は前掲二親王の中のいづれかの後であつたかとも思へるが、系譜で見出さぬ以上は妄測《まうそく》は力が無い。たゞ時代が丁度相応するので或はと思ふのである。日本外史や日本史で見ると、いきなり「兇険にして乱を好む」とあつて、何となく熊坂|長範《ちやうはん》か何ぞのやうに思へるが、何様《どう》いふものであらうか。扨《さて》此の興世王と経基とは、共に我《が》の強い勢《いきほひ》の猛《さか》しい人であつたと見え、前例では正任未だ到《いた》らざるの間は部に入る事を得ざるのであるのに、推《お》して部に入つて検視しようとした。武芝は年来公務に恪勤《かくきん》して上下《しやうか》の噂も好いものであつたが、前例を申して之を拒《こば》んだ。ところが、郡司の分際《ぶんざい》で無礼千万であると、兵力づくで強《し》ひて入部し、国内を凋弊《てうへい》し、人民を損耗《そんかう》せしめんとした。武芝は敵せないから逃げ匿《かく》れると、武芝の私物《しぶつ》まで検封してしまつた。で、武芝は返還を逼《せま》ると、却《かへ》つて干戈《かんくわ》の備《そなへ》をして頑《ぐわん》として聴かず、暴を以て傲つた。是によつて国書生等は不治悔過《ふぢくわいくわ》の一巻を作つて庁前に遺《のこ》し、興世王等を謗《そし》り、国郡に其非違を分明にしたから、武蔵一国は大に不穏を呈した。そして経基と興世王ともまた必らずしも睦《むつ》まじくは無く、様※[#二の字点、1-2-22]なことが隣国下総に聴えた。将門は国の守でも何でも無いが、今は勢威おのづから生じて、大親分のやうな調子で世に立つて居た。武蔵の騒がしいことを聞くと、武芝は近親では無いが、一つ扱つてやらう、といふ好意で郎等《らうどう》を率《したが》へて武蔵へ赴《おもむ》いた。武芝は喜んで本末を語り、将門と共に府に向つた。興世王と経基とは恰《あたか》も狭服山に在つたが、興世王だけは既《すで》に府に在《あ》るに会ひ、将門は興世王と武芝とを和解せしめ、府衙《ふが》で各※[#二の字点、1-2-22]数杯を傾けて居つたが、経基は未だ山北に在つた。其中武芝の従兵等は丁度経基の営所を囲んだやうになつた。経基は仲悪くして敵の如き思ひをなしてゐる武芝の従兵等が自分の営所を囲んだのを見て、たゞちに逃《のが》れ去つてしまつて、将門の言によりて武芝興世王等が和して自分一人を殺さうとするのであると合点した。そこで将門興世王を大《おほい》に恨んで、京に馳せ上つて、将門興世王謀反の企《くはだて》を致し居る由を太政官に訴へた。六孫王の言であるから忽ち信ぜられた。将門が兵を動かして威を奮つてゐることは、既に源護、平良兼、平貞盛等の訴《うつたへ》によりて、かねて知れて居るところへ、経基が此言によつて、今までのさま/″\の事は濃い陰影をなして、新らしい非常事態をクッキリと浮みあらはした。
 将門の方は和解の事|画餅《ぐわへい》に属して、おもしろくも無く石井に帰つたが、三月九日の経基の讒奏《ざんそう》は、自分に取つて一方《ひとかた》ならぬ運命の転換を齎《もた》らして居るとも知る由《よし》無くて居た。都ではかねてより阪東が騒がしかつた上に愈※[#二の字点、1-2-22]《いよ/\》謀反といふことであるから、容易ならぬ事と公卿《くぎやう》諸司の詮議に上つたことであらう。同月二十五日、太政大臣忠平から、中宮少《ちゆうぐうせう》進多治《しんたぢ》真人《まびと》助真《すけざね》に事の実否を挙ぐべき由の教書を寄せ、将門を責めた。将門も謀反とあつては驚いたことであらうが、たとひ驕倣《けうがう》にせよ実際まだ謀反をしたのでは無いから、常陸下総下毛武蔵上毛五箇国の解文《げもん》を取つて、謀反の事の無実の由を、五月二日を以て申出た。余国は知らず、常陸から此の解文は出しさうも無いことであつた。少くとも常陸では、将門謀反の由の言を幸ひとして、虚妄《きよまう》にせよ将門を誣《し》ひて陥《おとしい》れさうなところである。貞盛の姑夫《をばむこ》たる藤原維幾が、将門に好感情を有してゐる筈は無いが、まさか未《いま》だ嘗《かつ》て謀反もして居らぬ者に謀反の大罪を与へることは出来兼ねて解文を出したか、それとも短兵急に将門から攻められることを恐れて、責め逼《せま》らるゝまゝに已むを得ず出したか、一寸《ちよつと》奇異に思はれる。然し五箇国の解文が出て見れば、経基の言はあつても、差当り将門を責むべくも無く、実際また経基の言は未然を察して中《あた》つてゐるとは云へ、興世王武芝等の間の和解を勧《すゝ》めに来た者を、目前の形勢を自分が誤解して、盃中《はいちゆう》の蛇影に驚き、恨みを二人に含んで、誣《し》ひるに謀反を以てしたのではあるから、「虚言を心中に巧みにし」と将門記の文にある通りで、将門の罪せらる可《べ》き理拠は無い。又|若《も》し実際将門が謀反を敢《あへ》てしようとして居たならば、不軌《ふき》を図《はか》るほどの者が、打解けて語らつたことも無い興世王や経基の処へわざ/\出掛けて、半日|片時《へんし》の間に経基に見破らるべき間抜さをあらはす筈《はず》も無いから、此時は未だ叛を図《はか》つたとは云へない。むしろ種※[#二の字点、1-2-22]の事情が分つて見れば、東国に於ける将門の勢威を致した其の材幹力量は多とすべきであるから、是《かく》の如き才を草莱《さうらい》に埋めて置かないで、下総守になり鎮守府《ちんじゆふ》将軍になりして其父の後を襲《つ》がせ、朝廷の為に用を為させた方が、才に任じ能を挙ぐる所以《ゆゑん》の道である、それで或は将門を薦《すゝ》むる者もあり、或は将門の為に功果ある可きの由が廷に議せられたことも有つたか知れない、記に「諸国の告状に依り、将門の為に功果有るべきの由宮中に議せらるゝ」と記されて居るのも、虚妄《きよまう》で無くて、有り得べきことである。傭前介《びぜんのすけ》藤原|子高《たねたか》を殺し播磨介《はりまのすけ》島田|惟幹《これもと》を殺した後にさへ、純友は従五位を授けられんとしてゐる、其は天慶二年の事である。何にせよ善《よ》かれ悪《あし》かれ将門は経基の訴の後、大《おほい》なる問題、注意人物の雄《ゆう》として京師の人※[#二の字点、1-2-22]に認められたに疑無いから、経基の言は将門の運命に取つては一転換の機を為してゐるのである。
 良兼は今はもう将門の敵たるに堪へ無くなつて、此年六月上旬病死して居るのであるが、死前には病牀に臥《ふ》しながら鬚髪《しゆはつ》を除いて入道したといふから、是《これ》も亦《また》一可憐の好老爺だつたらうと思はれる。貞盛は良兼には死なれ、孤影蕭然《こえいせうぜん》、たゞ叔母婿《をばむこ》の維幾を頼みにして、将門の眼を忍び、常陸の彼方此方《かなたこなた》に憂《う》き月日を送つて居た。良兼が死んでは、下総一国は全く将門の旗下《はたした》になつた。
 興世王は経基が去つて後も武蔵に居たが、経基の奏によつておのづから上の御覚えは宜《よ》くなかつたことだらう、別に推問を受けた記事も見えぬが、新《あらた》に興世王の上に一官人が下つて来た。それは百済貞連《くだらさだつら》といふもので、目下の者とさへ睦《むつ》ぶことの出来なかつた興世王だから、どうして目上の者と親しむことが成らう、忽《たちま》ち衝突してしまつた。ところが貞連は意有つてか無心でか知らぬが、まるで興世王を相手にしないで、庁に坐位をも得せしめぬほどにした。上には上があり、強い者には強いものがぶつかる。興世王もこれには憤然《ふんぜん》とせざるを得なかつたが、根が負け嫌ひの、恐ろしいところの有る人とて、それなら汝《きさま》も勝手にしろ、乃公《おれ》も勝手にするといつた調子なのだらう、官も任地も有つたものでは無い、ぶらりと武蔵を出て下総へ遊びに来て、将門の許に「居てやるんだぞぐらゐな居候《ゐさふらふ》」になつた。「王の居候」だからおもしろい。「置候《おきさふらふ》」の相馬小次郎は我武者に強いばかりの男では無い、幼少から浮世の塩はたんと嘗《な》めて居る苦労人《くらうにん》だ。田原藤太に尋ねられた時の様子でも分るが、ようございますとも、いつまででも遊んでおいでなさい位の挨拶で快《こゝろよ》く置いた。誰にでも突掛《つゝか》かりたがる興世王も、大親分然たる小次郎の太ッ腹なところは性《しやう》に合つたと見えて、其儘《そのまゝ》遊んで居た。多分二人で地酒《ぢざけ》を大酒盃《おほさかづき》かなんかで飲んで、都出《みやこで》の興世王は、どうも酒だけは西が好い、いくら馬処《うまどころ》の相馬の酒だつて、頭の中でピン/\跳《は》ねるのはあやまる、将門、お前の顔は七ツに見えるぜ、なんのかのと管《くだ》でも巻いてゐたか何様《どう》か知らないが、細くない根性の者同士、喧嘩《けんくわ》もせずに暮して居た。
 大親分も好いが、縄張《なはばり》が広くなれば出入《でい》りも多くなる道理で、人に立てられゝば人の苦労も背負つてやらねばならない。こゝに常陸の国に藤原|玄明《はるあき》といふ者があつた。元来が此《これ》は是《こ》れ一個の魔君で、余り性《しやう》の良い者では無かつた。図太《づぶと》くて、いらひどくて、人をあやめることを何とも思はないで、公に背《そむ》くことを心持が好い位に心得て、やゝもすれば上には反抗して強がり、下には弱みに付入つて劫《おび》やかし、租税もくすねれば、押借りも為《し》ようといふ質《たち》で、丁度幕末の悪侍《わるざむらひ》といふのだが、度胸だけは吽《うん》と堪《こた》へたところのある始末にいかぬ奴だつた。善悪無差別の悪平等《あくびやうどう》の見地に立つて居るやうな男だが、それでも人の物を奪つて吾が妻子に呉れてやり、金持の懐中《ふところ》を絞《しぼ》つて手下には潤《うるほ》ひをつけてやるところが感心な位のものだつた。で、こくめいな長官藤原維幾は、玄明が私《わたくし》した官物を弁償せしめんが為に、度※[#二の字点、1-2-22]の移牒《いてふ》を送つたが、斯様《かう》いふ男だから、横道《わうだう》に構《かま》へ込んで出頭などはしない。末には維幾も勘忍し兼ねて、官符を発して召捕るよりほか無いとなつて其の手配をした。召捕られては敵《かな》はないから急に妻子を連れて、維幾と余り親しくは無い将門が丁度《ちやうど》隣国に居るを幸《さいはひ》に、下総の豊田、即ち将門の拠処に逃げ込んだが、行掛《ゆきが》けの駄賃にしたのだか初対面の手土産《てみやげ》にしたのだか、常陸の行方《なめかた》郡|河内《かはち》郡の両郡の不動倉の糒《ほしひ》などといふ平常は官でも手をつけてはならぬ筈のものを掻浚《かつさら》つて、常陸の国ばかりに日は照らぬと極《き》め込んだ。勿論これだけの事をしたのには、維幾との間に一[#(ト)]通りで無いいきさつが有つたからだらうが、何にせよ悪辣《あくらつ》な奴だ。維幾は怒つて下総の官員にも将門にも移牒《いてふ》して、玄明を捕へて引渡せと申送つた。ところが尋常一様の吏員の手におへるやうな玄明では無い。いつも逃亡致したといふ返辞のみが維幾の所へは来た。維幾も後には業《ごふ》を煮やして、下総へ潜《ひそ》かに踏込んで、玄明と一[#(ト)]合戦して取挫《とりひし》いで、叩き斫《き》るか生捕るかしてやらうと息巻いた。維幾も常陸介、子息為憲もきかぬ気の若者、官権実力共に有る男だ。斯様《かう》なつては玄明は維幾に敵することは出来無い。そこで眼も光り口も利《き》ける奴だから、将門よりほかに頼む人は無いと、将門の処《ところ》へ駈込んで、何様《どう》ぞ御助け下さいと、切《しき》りに将門を拝み倒した。元来親分気のある将門が、首を垂れ膝を折つて頼まれて見ると、余《あま》り香《かん》ばしくは無いと思ひながらも、仕方が無い、口をきいてやらう、といふことになつた。居候の興世王は面白づくに、親分、縋《すが》つて来る者を突出す訳にはいかねえぢや有りませんか位の事を云つたらう。で、玄明は気が強くなつた。将門は常陸《ひたち》は元《もと》から敵にした国ではあり、また維幾は貞盛の縁者ではあり、貞盛だつて今に維幾の裾《すそ》の蔭か袖《そで》の蔭に居るのであるから、うつかり常陸へは行かれない。興世王はじめ皆相談にあづかつたに相違ないが、好うございますは、事と品とによれば刃金《はがね》と鍔《つば》とが挨拶《あいさつ》を仕合ふばかりです、といふ者が多かつたのだらう、とう/\天慶二年十一月廿一日常陸の国へ相馬小次郎|郎党《らうだう》を率《ひき》ゐて押出した。興世王ばかりではあるまい、平常むだ飯を食つて居る者が、桃太郎のお供の猿や犬のやうな顔をして出掛けたに違無い。維幾の方でも知らぬ事は無い、十分に兵を用意した。将門は、件《くだん》の玄明下総に入つたる以上は下総に住せしめ、踏込んで追捕すること無きやうにありたいと申込んだ。維幾の方にも貞盛なり国香なりの一《いち》まきが居たらう。維幾は将門の申込に対して、折角の御申状《おんまをしじやう》ではあるが承引致し申さぬ、とかう仰せらるゝならば公の力、刀の上で此方心のまゝに致すまで、と刎付《はねつ》けた。然《さ》らば、然らば、を双方で言つて終《しま》つたから、論は無い、後は斫合《きりあ》ひだ。揉合《もみあ》ひ押合つた末は、玄明の手引《てびき》があるので将門の方が利を得た。大日本史や、記に「将門撃つて三千人を殺す」とあるのは大袈裟《おほげさ》過ぎるやうだが、敵将維幾を生捕《いけど》りにし、官の印鑰《いんやく》を奪ひ、財宝を多く奪ひ、営舎を焚《や》き、凱歌《がいか》を挙《あ》げて、二十九日に豊田郡の鎌輪《かまわ》、即ち今の鎌庭に帰つた。勢《いきほひ》といふ条、こゝに至つては既に遣《や》り過ぎた。大親分も宜《よ》いけれども、奉行《ぶぎやう》や代官を相手にして談判をした末、向ふが承知せぬのを、此奴《こやつ》めといふので生捕りにして、役宅《やくたく》を焚き、分捕りをして還《かへ》つたといふのでは、余り強過ぎる。
 玄明の事の起らぬ前、官符があるのであるから、将門が微力であるか維幾が猛威を有してゐるならば、将門は先づ維幾のために促《うなが》されて都へ出て、糺問《きうもん》されねばならぬ筈の身である。それが有つたからといふのも一つの事情か知らぬが、又貞盛縁類といふことも一ツの理由か知らぬが、又打つてかゝつて来たからといふのも一の所以《いはれ》か知らぬが、常陸介を生捕り国庁を荒し、掠奪焚焼《りやくだつふんせう》を敢てし、言はず語らず一国を掌握《しやうあく》したのは、相馬小次郎も図に乗つて暴《あば》れ過ぎた。裏面の情は問ふに及ばず、表面の事は乱賊の所行だ。大小は違ふが此類の事の諸国にあつたのは時代的の一現象であつたに疑無いけれど、これでは叛意が有る無いにかゝはらず、大盗の所為、又は暴挙といふべきものである。今で云へば県庁を襲撃し、県令を生擒《いけどり》し、国庫に入る可《べ》き財物を掠奪したのに当るから、心を天位に掛けぬまでも大罪に相違無い。将門は玄明、興世王なんどの遣口《やりくち》を大規模にしたのである。将門|猶未《なほいま》だ僣《せん》せずといへども、既《すで》に叛したのである。純友の暴発も蓋《けだ》し此様《かう》いふ調子なのであつたらう。延喜年間に盗の為に殺された前安芸守《さきのあきのかみ》伴光行、飛騨守《ひだのかみ》藤原辰忠、上野介《かうづけのすけ》藤原厚載、武蔵守《むさしのかみ》高向利春などいふものも、蓋《けだ》し維幾が生擒《いけどり》されたやうな状態であつたらう。孔孟《こうまう》の道は尊ばれたやうでも、実は文章詩賦が流行《はや》つたのみで、仏教は尊崇されたやうでも、実は現世|祈祷《きたう》のみ盛んで、事実に於て神祠巫覡《しんしふげき》の徒と妥協《だけふ》を遂げ、貴族に迎合《げいがふ》し、甚《はなはだ》しく平等の思想に欠け、人は恋愛の奴隷、虚栄の従僕となつて納まり返り、大臣からしてが賭《かけ》をして他《ひと》の妻を取るほど博奕《ばくち》思想は行はれ、官吏は唯《ただ》民に対する誅求《ちゆうきう》と上に対する阿諛《あゆ》とを事としてゐる、かゝる世の中に腕節《うでふし》の強い者の腕が鳴らずに居られよう歟《か》。此の世の中の表裏を看《み》て取つて、構ふものか、といふ腹になつて居る者は決して少くは無く、悪平等や撥無《はつむ》邪正の感情に不知不識《しらずしらず》陥《おちい》つて居た者も所在にあつたらう。将門が恰《あたか》も水滸伝《すゐこでん》中の豪傑が危い目に度※[#二の字点、1-2-22]|逢《あ》つて終《つひ》に官に抗し威を張るやうな徑路を取つたのも、考へれば考へどころはある。特《こと》に長い間引続いた私闘の敵方|荷担人《かたうど》の維幾が向ふへまはつて互に正面からぶつかつたのだから堪らない。此方が勝たなければ彼方が勝ち、彼方が負けなければ此方が負け、下手にまごつけば前の降間木につぐんだ時のやうな目に遇《あ》ふのだらう。玄明をかくまつた行懸《ゆきがゝ》りばかりでは無い、自分の頸《くび》にも縄の一端はかゝつてゐるものだから、向ふの頸にも縄の一端をかづかせて頸骨の強さくらべの頸引《くびひき》をして、そして敵をのめらせて敲《たゝ》きつけたのだ。常陸下総といへば人気はどちらも阪東|気質《かたぎ》で、山城大和のやうに柔らかなところでは無い。野山に生《は》へる杉の樹や松の樹までが、常陸ッ木下総ッ木といへば、大工《だいく》さんが今も顔をしかめる位で、後年の長脇差《ながわきざし》の侠客も大抵《たいてい》利根川沿岸で血の雨を降らせあつてゐるのだ。神道《しんだう》徳次は小貝川の傍《そば》、飯岡《いひをか》の助五郎、笹川の繁蔵、銚子《てうし》の五郎蔵と、数へ立つたら、指がくたびれる程だ。元来が斯様《かう》いふ土地なので、源平時分でも徳川時分でも変りは無いから、平安朝時代でも異《こと》なつては居ないらしい。現に将門の叔父の村岡五郎の孫の上総介忠常も、武蔵|押領使《あふりやうし》、日本将軍と威張り出して、長元年間には上総下総安房を切従へ、朝廷の兵を引受けて二年も戦ひ、これも叛臣伝中の人物となつてゐる。かういふ土地、かういふ時勢、かういふ思潮、かういふ内情、かういふ行懸《ゆきがゝり》り、興世王や玄明のやうなかういふ手下、とう/\火事は大きな風に煽《あふ》られて大きな燃えくさに甚《はなは》だしい焔《ほのほ》を揚《あ》げるに至つた。もういけない。将門は毒酒に酔つた。興世王は将門に対《むか》つて、一国を取るも罪は赦《ゆる》さるべくも無い、同じくば阪東を併《あは》せて取つて、世の気色を見んには如《し》かじと云ひ出すと、如何《いか》にも然様《さう》だ、と合点して終《しま》つた。興世王は実に好《い》い居候だ。親分をもり立てゝ大きくしようと心掛けたのだ。天井が高くなければ頭を聳《そび》えさせる訳には行かない。蔭で親分を悪く言ひながら、台所で偸《ぬす》み酒をするやうな居候とは少し違つて居た。併《しか》し此の居候のお蔭で将門は段※[#二の字点、1-2-22]罪を大きくした。興世王の言を聞くと、もとより焔硝《えんせう》は沢山《たくさん》に籠《こも》つて居た大筒《おほづゝ》だから、口火がついては容赦《ようしや》は無い。ウム、如何にも、いやしくも将門、刹帝利《さつていり》の苗裔《べうえい》三世の末葉である、事を挙《あ》ぐるもいはれ無しとはいふ可からず、いで先づ掌《たなそこ》に八箇国を握つて腰に万民を附けん、と大きく出た。かう出るだらうと思つて、そこで性に合つて居た興世王だから、イヨー親分、と喜んで働き出した。藤原の玄明や文室《ぶんや》の好立等のいきり立つたことも言ふ迄は無い。ソレッといふので下野国へと押出した。馬を駈けさせては馬場所《うまばしよ》の士《さむらひ》だ。将門が猛威を張つたのは、大小の差こそあれ大元《だいげん》が猛威を振《ふる》つたのと同じく騎隊を駆使したためで、古代に於ては汽車汽船自働車飛行機のある訳では無いから、驍勇な騎士を用ゐれば、其の速力や負担力《ふたんりよく》に於て歩兵に陪※[#「くさかんむり/徙」、第4水準2-86-65]《ばいし》するから、兵力は個数に於て少くて実量に於て多いことになる。下総は延喜式で左馬寮《さまれう》御牧貢馬地《みまきこうばち》として、信濃上野甲斐武蔵の下に在るやうに見えるが、兵部省《ひやうぶしやう》諸国馬牛|牧式《ぼくしき》を見ると、高津《たかつ》牧、大結牧、本島《もとじま》牧、長州牧など、沢山な牧《まき》があつて、兵部省へ貢馬《こうば》したものである。鎌倉時代足利時代から徳川時代へかけて、地勢上奥羽と同じく産馬地として鳴つて居る。特《こと》に将門は武人、此の牧場多き地に生長して居れば、十分に馬政にも注意し、騎隊の利をも用ゐるに怠らなかつたらう。
 天慶の二年十一月二十一日に常陸を打従へて、すぐ其の翌月の十一日出発した。馬は竜の如く、人は雲の如く、勇威|凛※[#二の字点、1-2-22]《りん/\》と取つてかゝつたので、下野の国司は辟易《へきえき》した。経基の奏の後、阪東諸国の守や介は新らしい人※[#二の字点、1-2-22]に換《か》へられたが、斯様《かう》いふ時になると新任者は勝手に不案内で、前任者は責任の解けたことであるから、いづれにしても不便不利であつて、下野の新司の藤原の公雅は抵抗し兼ねて印鑰《いんやく》を差出して降《くだ》つて終《しま》つた。前司の大中臣《おほなかとみ》全行《まさゆき》も敵対し無かつた。国司の館《やかた》も国府も悉《こと/″\》く虜掠《りよりやく》されて終ひ、公雅は涙顔天を仰ぐ能《あた》はず、すご/\と東山道を都へ逃れ去つた。同月十五日馬を進めて上野へ将門等は出た。介の藤原尚範も印鑰《いんやく》を奪はれて終つた。十九日国庁に入り、四門の陣を固めて、将門を首《はじ》め興世王、藤原玄茂等堂※[#二の字点、1-2-22]と居流れた。(玄茂も常陸の者である、蓋《けだ》し玄明の一族、或は玄茂即玄明であらう。)此時、此等の大変に感じて精神異常を起したものか、それとも玄明等|若《も》しくは何人かの使嗾《しそう》に出でたか知らぬが、一伎あらはれ出でゝ、神がゝりの状になり、八幡大菩薩《はちまんだいぼさつ》の使者と口走り、多勢の中で揚言して、八幡大菩薩、位《くらゐ》を蔭子《いんし》将門に授く、左大臣正二位菅原|道真朝臣《みちざねあそん》之を奉ず、と云つた。一軍は訳も無く忻喜雀躍《きんきじやくやく》した。興世王や玄茂等は将門を勧めた。将門は遂に神旨を戴いた。四陣上下、挙《こぞ》つて将門を拝して、歓呼の声は天地を動かした。
 此の仕掛花火《しかけはなび》は唯[#「唯」はママ]が製造したか知らぬが、蓋し興世玄明の輩《やから》だらう。理屈は兎《と》もあれ景気の好い面白い花火が揚《あが》れば群衆は喝采《かつさい》するものである。群衆心理なぞと近頃しかつめらしく言ふが、人は時の拍子にかゝると途方も無いことを共感協行するものである。昔はそれを通り魔の所為だの天狗《てんぐ》の所為だのと言つたものである。群衆といふことは一体鰯だの椋鳥《むくどり》だの鴉《からす》だの鰊《にしん》だのの如きものの好んで為すところで、群衆に依《よ》つて自族を支へるが、個体となつては余りに弱小なものの取る道である。人間に在つても、立教者は孤独で信教者は群集、勇者は独往し怯者《けふしや》は同行する、創作者は独自で模倣者《もはうしや》は群集、智者は寥※[#二の字点、1-2-22]《れう/\》、愚者は多※[#二の字点、1-2-22]であつて、群衆して居るといへば既《すで》にそれは弱小|蠢愚《しゆんぐ》の者なる事を現はして居る位のものである。群衆心理は即《すなは》ち衆愚心理なのであるから、皆自から主たる能《あた》はざるほどの者共が、相率《あひひき》ゐて下らぬ事を信じたり、下らぬ事を怒つたり悲しんだり喜んだり、下らぬ行動を敢《あへ》てしたりしても何も異とするには足らない。魚は先頭魚の後へついて行き、鳥は先発鳥の後へつくものである。群衆は感の一致から妄従妄動するもので、浅野|内匠頭《たくみのかみ》の家は潰《つぶ》され城は召上げられると聞いた時、一二が籠城して戦死しようと云へば、皆争つて籠城戦死しようとしたのが即ち群衆心理である。其実は主家の為に忠に死するに至つた者は終《つひ》に何程も有りはし無かつた。感の一致が月日の立つと共に破れると、御金配分を受けて何処《どこ》かへ行つてしまふのが却《かへ》つて本態だつたのである。そこで衆愚心理を見破つて、これを正しく用ゐるのが良い政治家や軍人で、これを吾が都合上に用ゐるのが奸雄《かんゆう》や煽動家《せんどうか》である。八幡大菩薩《はちまんだいぼさつ》の御託宣は群衆を動かした。群衆は無茶に歓《よろこ》んだ。将門は新皇と祭り上げられた。通り魔の所為だ、天狗の所為だ。衆愚心理は巨浪を※[#「けものへん+爰」、第3水準1-87-78]島《ゑんたう》に持上げてしまつた。将門は毒酒を甘しとして其の第二盃を仰いでしまつた。
 道真公が此処《こゝ》へ陪賓《ばいひん》として引張り出されたのも面白い。公の貶謫《へんたく》と死とは余ほど当時の人心に響を与へてゐたに疑無い。現に栄えてゐる藤原氏の反対側の公の亡霊の威を藉《か》りたなどは一寸《ちよつと》をかしい。たゞ将門が菅公|薨去《こうきよ》の年に生れたといふ因縁で、持出したのでもあるまい。本来託宜といふことは僧道|巫覡《ふげき》の徒の常套で、有り難過ぎて勿体無いことであるが、迷信流行の当時には託宣は笑ふ可《べ》きことでは無かつたのである。現に将門を滅ぼす祈祷《きたう》をした叡山《えいざん》の明達《めいたつ》阿闍梨《あじやり》の如きも、松尾明神の託宣に、明達は阿倍仲丸の生れがはりであるとあつたといふことが扶桑略記《ふさうりやくき》に見えてゐるが、これなぞは随分|変挺《へんてこ》な御託宣だ。宇佐八幡の御託宣は名高いが、あれは別として、一体神がゝり御託宣の事は日本に古伝のあることであつて、当時の人は多く信じてゐたのである。此の八幡託宣は一場の喜劇の如くで、其の脚色者も想像すれば想像されることではあるが、或は又別に作者があつたのでは無く、偶然に起つたことかも知れない。古より東国には未だ曾《かつ》て無い大動揺が火の如くに起つて、瞬《またゝ》く間に無位無官の相馬小次郎が下総常陸上野下野を席捲《せきけん》したのだから、感じ易い人の心が激動して、発狂状態になり、斯様《かやう》なことを口走つたかとも思はれる。然《しか》らずば、一時の賞賜《しやうし》を得ようとして、斯様なことを妄言《まうげん》するに至つたのかも知れない。
 田原藤太が将門を訪ふた談《はなし》は、此の前後の事であらう。秀郷《ひでさと》は下野掾《しもつけのじよう》で、六位に過ぎぬ。左大臣|魚名《うをな》の後で、地方に蟠踞《ばんきよ》して威望を有して居たらうが、これもたゞの人ではない。何事の罪を犯したか知らぬが、延喜十六年八月十二日に配流《はいる》されたとある。同時に罪を得たものは、同国人で同姓の兼有《かねあり》、高郷《たかさと》、興貞《おきさだ》等十八人とあるから、何か可なりの事件に本《もと》づいたに相違無い。日本紀略にも罪状は出て居らぬが、都まで通つた悪事でもあり、人数も多いから、いづれ党を組み力を戮《あは》せて為《し》た事だらう。何にしても前科者だ、一筋《ひとすぢ》で行く男では無い。将門を訪ふた談《はなし》は、時代ちがひの吾妻鏡《あづまかゞみ》の治承四年九月十九日の条に、昔話として出て居るので、「藤原秀郷、偽《いつ》はりて門客に列す可《べ》きの由《よし》を称し、彼の陣に入るの処、将門喜悦の余り、梳《くし》けづるところの髪を肆《をは》らず、即ち烏帽子に引入れて之に謁《えつ》す。秀郷其の軽忽なるを見、誅罰《ちゆうばつ》す可《べ》きの趣《おもむき》を存じ退出し、本意の如く其首を獲たり云※[#二の字点、1-2-22]」といふので、源平盛衰記には、「将門と同意して朝家を傾け奉り、日本国を同心に知らんと思ひて、行向ひて角《かく》といふ」と巻二十二に書き出して、世に伝へたる髪の事、飯粒の事を書いて居る。盛衰記に書いてある通りならば、秀郷は随分|怪《け》しからぬ料簡方《れうけんかた》の男で、興世王の事を為《な》さずして終つたが、興世王の心を懐《いだ》いてゐた人だと思はれる。斎藤竹堂が論じた如く、秀郷の事跡を観《み》れば朝敵を対治したので立派であるが、其の心術を考へれば悪《にく》むべきところのあるものである。然し源平盛衰記の文を証にしたり、日本外史を引いて論じられては、是非も共に皆非であつて、田原藤太も迷惑だらう。吾妻鏡は「偽はりて称す云※[#二の字点、1-2-22]」と記し、大日本史は「秀郷陽に之に応じ、其の営に造《いた》りて謁を通ず」と記してゐる。此の意味で云へば、将門の勢《いきほひ》が浩大《かうだい》で、独力之を支ふることが出来無かつたから、下野掾の身ではあるが、尺蠖《せきくわく》の一時を屈して、差当つての難を免れ、後の便宜にもとの意で将門の許《もと》を訪《と》ふたといふのであるから、咎《とが》むべきでは無い。竹堂の論もむだ言である。が、盛衰記の記事が真相を得て居るのだらうか、大日本史の記事の方が真相を得て居るだらうか。秀郷の後の千晴《ちはる》は、安和年中、橘《たちばなの》繁延《しげのぶ》僧|連茂《れんも》と廃立を謀《はか》るに坐して隠岐に流されたし、秀郷自身も前に何かの罪を犯してゐるし、時代の風気をも考へ合せて見ると、或は盛衰記の記事、竹堂の論の方が当つて居るかと思へる。然し確証の無いことを深刻に論ずるのは感心出来無いことだ、憚《はゞか》るべきことだ、田原藤太を強《し》ひて、何方《どちら》へ賭《か》けようかと考へた博奕《ばくち》打《うち》にするには当らない。
 将門に逐《お》ひ立てられた官人連は都へ上る、諸国よりは櫛《くし》の歯をひくが如く注進がある。京師では驚愕《きやうがく》と憂慮と、応変の処置の手配《てくばり》とに沸立《わきた》つた。東国では貞盛等は潜伏し、維幾は二十九日以来鎌輪に幽囚された。
 将門は旧恩ある太政大臣忠平へ書状を発した。其書は満腔《まんかう》の欝気《うつき》を伸《の》べ、思ふ存分のことを書いて居るが、静かに味はつて見ると、強い言の中に柔らかな情があり、穏やかに委曲《ゐきよく》を尽してゐる中に手強いところがあつて中※[#二の字点、1-2-22]面白い。
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将門|謹《つゝし》み言《まを》す。貴誨《きくわい》を蒙《かうむ》らずして、星霜多く改まる、渇望の至り、造次《ざうじ》に何《いか》でか言《まを》さん。伏して高察を賜はらば、恩幸なり恩幸なり。」然れば先年源[#(ノ)]護等の愁状に依りて将門を召さる。官符をかしこみ、※[#「公/心」、第3水準1-84-41]然《しようぜん》として道に上り、祗候《しこう》するの間、仰せ奉りて云はく、将門之事、既に恩沢に霑《うるほ》ひぬ。仍《よ》つて早く返し遣《や》る者なりとなれば、旧堵《きうと》に帰着し、兵事を忘却し、弓弦を綬《ゆる》くして安居しぬ。」然る間に前《さきの》下総国介平良兼、数千の兵を起し、将門を襲ひ攻む。将門背走相防ぐ能《あた》はざるの間、良兼の為に人物を殺損奪掠《さつそんだつりやく》せらるゝの由《よし》は、具《つぶ》さに下総国の解文《げもん》に注し、官に言上《ごんじやう》しぬ、爰《こゝ》に朝家諸国に勢《せい》を合して良兼等を追捕す可きの官符を下され了《をは》んぬ。而《しか》るに更に将門等を召すの使を給はる、然るに心安からざるに依りて、遂に道に上らず、官使英保純行に付いて、由を具《ぐ》して言上し了んぬ。未だ報裁を蒙《かうむ》らず、欝包《うつはう》の際、今年の夏、同じく平貞盛、将門を召すの官符を奉じて常陸国に到《いた》りぬ。仍《よ》つて国内|頻《しき》りに将門に牒述《てふじゆつ》す。件《くだん》の貞盛は、追捕を免れて跼蹐《きよくせき》として道に上れる者也、公家は須《すべか》らく捕へて其の由を糺《たゞ》さるべきに、而もかへつて理を得るの官符を給はるとは、是尤も矯飾《けうしよく》せらるゝ也。」又|右少弁《うせうべん》源相職朝臣《みなもとすけときのあそん》仰せの旨を引いて書状を送れり、詞に云はく、武蔵介経基の告状により、定めて将門を推問すべきの後符あり了んぬと。」詔使到来を待つの比《ころ》ほひ、常陸介《ひたちのすけ》藤原維幾|朝臣《あそん》の息男為憲、偏《ひとへ》に公威を仮りて、ただ寃枉《ゑんわう》を好む。爰《こゝ》に将門の従兵藤原玄明の愁訴により、将門其事を聞かんが為に彼国に発向せり。而るに為憲と貞盛等と心を同じうし、三千余の精兵を率ゐて、恣《ほしいまゝ》に兵庫の器仗戎具《きぢやうじゆうぐ》並びに楯《たて》等を出して戦を挑《いど》む。是《こゝ》に於て将門士卒を励まし意気を起し、為憲の軍兵を討伏せ了んぬ。時に州を領するの間滅亡する者其数|幾許《いくばく》なるを知らず、況《いは》んや存命の黎庶《れいしよ》は、尽《こと/″\》く将門の為に虜獲せらるゝ也。」介の維幾、息男為憲を教へずして、兵乱に及ばしめしの由《よし》は、伏して過状を弁じ了《をは》んぬ。将門本意にあらずと雖《いへど》も、一国を討滅しぬれば、罪科軽からず、百県に及ぶべし。之によりて朝議を候《うかゞ》ふの間、しばらく坂東の諸国を虜掠《りよりやく》し了んぬ。」伏して昭穆《せうぼく》を案ずるに、将門は已に栢原《かしはばら》帝王五代之孫なり、たとひ永く半国を領するとも、豈《あに》非運と謂《い》はんや。昔兵威を振《ふる》ひて天下を取る者は、皆史書に見るところ也。将門天の与ふるところ既《すで》に武芸に在り、等輩を思惟するに誰か将門に比《およ》ばんや。而るに公家褒賞の由|无《な》く、屡《しば/″\》譴責《けんせき》の符を下さるゝは、身を省みるに恥多し、面目何ぞ施さん。推して之を察したまはば、甚だ以て幸《さいはひ》なり。」抑《そも/\》将門少年の日、名簿を太政大殿に奉じ、数十年にして今に至りぬ。相国摂政《しやうこくせつしよう》の世に意《おも》はざりき此事を挙げんとは。歎念の至り、言ふに勝《た》ゆ可《べ》からず。将門傾国の謀《はかりごと》を萌《きざ》すと雖《いへども》、何ぞ旧主を忘れんや。貴閣且つ之を察するを賜はらば甚だ幸なり。一を以て万を貫《つらぬ》く。将門謹言。
   天慶二年十二月十五
      謹※[#二の字点、1-2-22]上 太政大殿少将閣賀恩下
[#ここで字下げ終わり]
 此状で見ると将門が申訳《まをしわけ》の為に京に上つた後、郷に還《かへ》つておとなしくしてゐた様子は、「兵事を忘却し、弓弦を綬《ゆる》くして安居す」といふ語に明らかに見《あら》はれてゐる。そこを突然に良兼に襲はれて酷《ひど》い目に遇《あ》つたことも事実だ。で、其時に将門は正式の訴状を出して其事を告げたから、朝廷からは良兼を追捕すべきの符が下つたのだ。然《しか》るに将門は公《おほやけ》の手の廻るのを待たずに、良兼に復讐戦《ふくしゆうせん》を試みたのか、或は良兼は常陸国から正式に解文を出して弁解したため追捕の事が已《や》んだのを見て、勘忍《かんにん》ならずと常陸《ひたち》へ押寄せたのであつたらう。其時良兼が応じ戦は無いで筑波山《つくばさん》へ籠つたのは、丁度将門が前に良兼に襲はれた時応戦し無かつたやうなもので、公辺に対して自分を理に敵を非に置かうとしたのであつた。将門は腹立紛《はらたちまぎ》れに乱暴して帰つたから、今度は常陸方から解文《げぶん》を上して将門を訴へた。で、将門の方へ官符が来て召問はるべきことになつたのだ。事情が紛糾《ふんきう》して分らないから、官使純行等三人は其時東国へ下向したのである。将門は弁解した、上京はしなかつた。そこへ又後から貞盛は将門の横暴を直訴《ぢきそ》して頂戴した将門追捕の官符を持つて帰つて来たのである。これで極《きは》めて鮮《あざ》やかに前後の事情は分る。貞盛は将門追捕の符を持つて帰つたが、将門の方から云へば貞盛は良兼追捕の符の下つた時、良兼同罪であつて同じく配符の廻つて居た者だから、追捕を逃れ上京した時、公《おほやけ》に於て取押へて糺問《きうもん》さるべき者であるにかゝはらず、其者に取つて理屈の好い将門追捕の符を下さるゝとは怪《け》しからぬ矯飾《けうしよく》であると突撥《つつぱ》ねてゐるのである。こゝまでは将門の言ふところに点頭の出来る情状と理路とがある。玄明の事に就ては少し無理があり、信じ難い情状がある。玄明を従兵といふのが奇異だ。行方河内両郡の食糧を奪つたものを執《とら》へんとするものを、寃枉《ゑんわう》を好むとは云ひ難い。為憲貞盛合体して兵を動かしたといふのは、蓋《けだ》し事実であらうが、要するに維幾と対談に出かけたところからは、将門のむしやくしや腹の決裂である。此書の末の方には憤怨|恨※[#「りっしんべん+非」、第4水準2-12-50]《こんひ》と自暴の気味とがあるが、然し天位を何様《どう》しようの何のといふそんな気味は少しも無い。むしろ、乱暴はしましたが同情なすつても宜《よ》いではありませんか、あなたには御気の毒だが、男児として仕方が無いぢやありませんか、といふ調子で、将門が我武者一方で無いことを現はしてゐて愛す可《べ》きである。
 将門は厭《いや》な浮世絵に描かれた如き我武者一方の男では無い。将門の弟の将平は将門よりも又やさしい。将門が新皇と立てられるのを諫《いさ》めて、帝王の業は智慧《ちゑ》力量の致すべきでは無い、蒼天《さうてん》もし与《く》みせずんば智力また何をか為《な》さん、と云つたとある。至言である。好人である。斯様《かう》いふ弟が有つては、日本ではだめだが国柄によつては将門も真実の天子となれたかも知れない。弓削道鏡《ゆげのだうきやう》の一類には玄賓僧都《げんぴんそうづ》があり、清盛の子に重盛があり、将門の弟に将平の有つたのは何といふ面白い造物の脚色だらう。何様《どう》も戯曲には真の歴史は無いが、歴史には却《かへ》つて好い戯曲がある。将門の家隷《けらい》の伊和員経《いわのかずつね》といふ者も、物静かに将門を諫めたといふ。然し将門は将平を迂誕《うたん》だといひ、員経を心無き者だといつて容れなかつた由だが、火事もこゝまで燃えほこつては、救はんとするも焦頭爛頭《せうとうらんとう》あるのみだ。「とゞの詰りは真白《まつしろ》な灰」になつて何も浮世の埒《らち》が明くのである。「上戸《じやうこ》も死ねば下戸も死ぬ風邪《かぜ》」で、毒酒の美《うま》さに跡引上戸となつた将門も大酔淋漓《たいすゐりんり》で島広山《しまひろやま》に打倒れゝば、「番茶に笑《ゑ》んで世を軽う視る」といつた調子の洒落《しや》れた将平も何様《どう》なつたか分らない。四角な蟹《かに》、円い蟹、「生きて居る間のおの/\の形《なり》」を果敢《はか》なく浪の来ぬ間の沙《すな》に痕《あと》つけたまでだ。
 将平員経のみではあるまい、群衆心理に摂収されない者は、或は口に出して諫《いさ》め、或は心に秘めて非としたらうが、興世王や玄茂が事を用ゐて、除目《ぢもく》が行はれた。将門の弟の将頼は下野守に、上野守に常羽御厩別当多治経明を、常陸守に藤原玄茂を、上総守に興世王を、安房守に文室好立を、相模守に平将文を、伊豆守に平将武を、下総守に平将為を、それ/″\の受領が定められた。毒酒の宴は愈※[#二の字点、1-2-22]はづんで来た。下総の亭南《ていなみ》、今の岡田の国生《くにふ》村あたりが都になる訳で、今の葛飾《かつしか》の柳橋か否か疑はしいが※[#「木+義」、第3水準1-86-23]橋《ふなばし》といふところを京の山崎に擬《なぞ》らへ、相馬の大井津、今の大井村を京の大津に比し、こゝに新都が阪東に出来ることになつたから、景気の好いことは夥《おびたゞ》しい。浮浪人や配流人、なま学者や落魄公卿《らくはくくげ》、いろ/\の奴が大臣にされたり、参議にされたり、雑穀屋の主人が大納言金時などと納まりかへれば、掃除屋が右大弁|汲安《くみやす》などと威張り出す、出入の大工が木工頭《もくのかみ》、お針の亭主が縫殿頭《ぬひのかみ》、山井庸仙《やまゐようせん》老が典薬頭、売卜の岩洲友当《いはずともあて》が陰陽《おんやう》博士《はかせ》になるといふ騒ぎ、たゞ暦日博士だけにはなれる者が無かつたと、京童《きやうわらべ》が云つたらしい珍談が残つてゐる。
 上総安房は早くも将門に降つたらう。武蔵相模は新皇親征とあつて、馬蹄|戞※[#二の字点、1-2-22]《かつ/\》大軍南に向つて発した。武蔵も論無く、相模も論無く降伏したらしく別に抵抗をした者の談《はなし》も残つて居ない。諸国が弱い者ばかりといふ訳ではあるまいが、一つには官の平生の処置に悦服《えつぷく》して居なかつたといふ事情があつて、むしろ民庶は何様《どん》な新政が頭上《づじやう》に輝くかと思つたために、将門の方が勝つて見たら何様《どう》だらうぐらゐに心を持つてゐたのであらう。それで上野下野武蔵相模たちまちにして旧官は逐落《おひおと》され、新軍は勢《いきほひ》を得たのかと想像される。相模よりさきへは行かなかつたらしいが、これは古の事で上野は碓氷《うすひ》、相模は箱根|足柄《あしがら》が自然の境をなしてゐて、将門の方も先づそこらまで片づけて置けば一段落といふ訳だつたからだらう。相州|秦野《はたの》あたりに、将門が都しようかとしたといふ伝説の残つてゐるのも、将門軍がしばらくの間彷徨したり駐屯したりしてゐた為に生じたことであらう。燎原《れうげん》の勢《いきほひ》、八ヶ国は瞬間にして馬蹄《ばてい》の下になつてしまつた。実際平安朝は表面は衣冠束帯|華奢《くわしや》風流で文明くさかつたが、伊勢物語や源氏物語が裏面をあらはしてゐる通り、十二|単衣《ひとへ》でぞべら/\した女どもと、恋歌《こひか》や遊芸に身の膏《あぶら》を燃して居た雲雀骨《ひばりぼね》の弱公卿《よわくげ》共との天下であつて、日本各時代の中でも余り宜《よろ》しく無く、美なること冠玉の如くにして中|空《むな》しきのみの世であり、やゝもすれば暗黒時代のやうに外面のみを見て評する人の多い鎌倉時代などよりも、中味は充実してゐない危い代であつたのは、将門ばかりでは無い純友などにも脆《もろ》く西部を突崩されて居るのを見ても分る。元の忽必然《クビライ》が少し早く生れて、平安朝に来襲したならば、相模太郎になつて西天を睥睨《へいげい》してウムと堪《こら》へたものは公卿どもには無くつて、却《かへ》つて相馬小次郎将門だつたかも知れはし無い。「荒|壁《つと》に蔦のはじめや飾り縄」で、延喜式の出来た時は頼朝が頤《あご》で六十余州を指揮《しき》する種子《たね》がもう播《ま》かれてあつたとも云へるし、源氏物語を読んでは大江広元が生まれない遥《はるか》に前に、気運の既《すで》に京畿《けいき》に衰えてゐることを悟つた者が有つたかも知れないとも云へる。忠常の叛、前九年、後三年の乱は、何故に起つた。直接には直接の理由が有らうが、間接には粉面|涅歯《でつし》の公卿共がイソップ物語の屋根の上の羊みたやうにして居たからだ。奥州藤原家が何時《いつ》の間にか、「だんまり虫が壁を透《とほ》す」格で大きなものになつてゐたのも、何を語つてゐるかと云へば、「都のうつけ郭公《ほとゝぎす》待つ」其間におとなしくどし/\と鋤鍬《すきくは》を動かして居たからだ。天下枢機の地に立つ者が平安朝ほど惰弱|苟安《こうあん》で下らない事をしてゐたことは無い位だ。だから将門が火の手をあげると、八箇国はべた/\となつて、京では七|斛余《こくよ》の芥子《けし》を調伏祈祷の護摩《ごま》に焚《た》いて、将門の頓死屯滅《とんしとんめつ》を祈らせたと云伝《いひつた》へられて居る。八箇国を一月ばかりに切従へられて、七|斛《こく》の芥子を一七日に焚いたなぞは、帯紐の緩《ゆる》み加減も随分|太甚《はなはだ》しい。
 相模から帰つた将門は、天慶三年の正月中旬、敵の残党が潜んでゐる虞《おそれ》のある常陸へと出馬して鎮圧に力《つと》めた。丁度都では此時参議|右衛門督《うゑもんのかみ》藤原忠文を征東大将軍として、東征せしむることになつた。忠文は当時唯一の将材だつたので、後に純友征伐にも此人が挙げられて居る。忠文は命を受けた時、方《まさ》に食事をしてゐたが、命を聞くと即時に箸《はし》を投じて起つて、節刀《せつたう》を受くるに及んで家に帰らずに発したといふ。生《なま》ぬるい人のみ多かつた当時には立派な人だつた。しかし戦ふに及ばぬ間に将門が亡びたので賞に及ばなかつたのを恨んで、拳《こぶし》を握つて爪が手の甲にとほり、怨言を発して小野宮《をののみや》大臣を詛《のろ》つたといふところなどは余り小さい。将門が常陸へ入ると那珂久慈《なかくじ》両郡の藤原氏どもは御馳走をして、へいこらへいこらをきめた。そこで貞盛為憲等の在処《ありか》を申せと責めたが、貞盛為憲等は此等の藤原氏どもに捕へられるほど間抜《まぬけ》でも弱虫でも無かつた。其中将門軍の多治経明等の手で、貞盛の妻と源扶の妻を吉田郡の蒜間江《ひるまえ》で捕へた。蒜間江は今の茨城郡の涸沼《ひぬ》である。
 前には将門の妻が執《とら》へられ、今は貞盛の妻が執《とら》へられた。時計の針は十二時を指したかと思ふと六時を指すのだ。女等は衣類まで剥取《はぎと》られて、みじめな態《さま》になつたが、この事を聞いた将門は良兼とは異つた性格をあらはした。流浪《るらう》の女人を本属にかへすは法式の恒例であると、相馬小次郎は法律に通じ、思ひやりに富んで居た。衣|一襲《ひとかさね》を与へて放ち還《かへ》らしめ、且《か》つ一首の歌を詠じた。よそにても風のたよりに我ぞ問ふ枝離れたる花のやどりを、といふのである。貞盛の妻は恩を喜んで、よそにても花の匂《にほひ》の散り来れば吾が身わびしとおもほえぬかな、と返歌した。歌を詠《よ》みかけられて返しをせぬと、七生|唖《おし》にでもなるやうに思つてゐたらしい当時の人のことで此の返しはあつたのだらう。此歌此事を引掛けて、源護の家と将門との争闘の因縁《いんねん》にでもこじつけると、古い浄瑠璃作者が喉《のど》を鳴らしさうな材料になる。扶の妻も歌を詠んだ。流石《さすが》に平安朝の匂のする談で、吹きすさぶ風の中にも春の日は花の匂のほのかなるかな、とでも云ひたい。清宮秀堅がこゝに心をとめて、「将門は凶暴といへども草賊と異なるものあり、良兼を放てる也、父祖の像を観て走れる也、貞盛扶の妻を辱《はづ》かしめざる也」と云つて居るが、実に其の通りである。将門は時代が遠く事実が詳しく知れぬから、元亀天正あたりの人のやうに細かい想像をつけることは叶《かな》はぬが、何様《どう》も李自成やなんぞのやうなものでは無い。やはり日本人だから日本人だ。興世王や玄明を相手に大酒を飲んで、酔払つて管《くだ》さへ巻かなかつたらば、氏《うぢ》は異ふが鎮西《ちんぜい》八郎|為朝《ためとも》のやうな人と後の者から愛慕されただらうと思はれる。
 戯曲はこゝにまた一場ある。貞盛の妻は放されて何様《どう》したらう。およそ情のある男女の間といふものは、不思議に離れてもまた合ふもので、虫が知らせるといふものか何《ど》うか分らぬが、「慮《おも》つて而して知るにあらず、感じて而して然るなり」で、動物でも何でも牝牡《ひんぼ》雌雄が引分けられてもいつか互《たがひ》に尋ねあてゝ一所《いつしよ》になる。銀杏《いてふ》の樹の雄樹と雌樹とが、五里六里離れて居てもやはり実を結ぶ。漢の高祖の若い時、あちこちと逃惑つて山の中などに隠れて居ても、妻の呂氏がいつでも尋ねあてた。それは高祖の居るところに雲気が立つて居たからだといふが、いくら卜者《ぼくしや》の娘だつて、こけの烏のやうに雲ばかりを当にしたでは無からう。あれ程の真黒焦の焼餅やきな位だから、吾が夫のことでヒステリーのやうになると、忽ちサイコメトリー的、千里眼になつて、「吾が行へを寝《い》ぬ夢に見る」で、あり/\と分つて後追駈けたものであらうかも知れぬ。貞盛の妻もこゝでは憂き艱難しても夫にめぐり遇《あ》ひたいところだ。やうやくめぐり遇つたとするとハッとばかりに取縋《とりすが》る、流石《さすが》の常平太も女房の肩へ手をかけてホロリとするところだ。そこで女房が敵陣の模様を語る。柔らかいしつとりとした情合の中から、希望の火が燃え出して、扨《さて》は敵陣手薄なりとや、いで此機をはづさず討取りくれん、と勇気身に溢《あふ》れて常平太貞盛が突立上《つゝたちあが》る、チョン、チョ/\/\/\と幕が引けるところで、一寸おもしろい。が、何の書にもかういふところは出て居ない。
 然し実際に貞盛は将門の兵の寡《すくな》いことをば、何様《どう》して知つたか知り得たのである。将門精兵八千と伝へられてゐるが、此時は諸国へ兵を分けて出したので、旗本は甚《はなは》だ手薄だつた。貞盛はかねて糸を引き謀《はかりごと》を通じあつてゐた秀郷《ひでさと》と、四千余人を率ゐて猛然と起つた。二月一日矢合せになつた。将門の兵は千人に満たなかつたが、副将軍春茂(春茂は玄茂か)陣頭経明|遂高《かつたか》、いづれも剛勇を以て誇つてゐる者どもで、秀郷等を見ると将門にも告げずに、それ駈散らせと打つて蒐《かゝ》つた。秀郷、貞盛、為憲は兵を三手《みて》に分つて巧みに包囲した。玄明等大敗して、下野下総|界《ざかひ》より退《ひ》いた。勝に乗じて秀郷の兵は未申《ひつじさる》ばかりに川口村に襲ひかゝつた。川口村は水口村《みづくちむら》の誤《あやまり》で下総の岡田郡である。将門はこゝで自から奮戦したが、官と賊との名は異なり、多と寡《くわ》との勢《いきほひ》は競《きそ》は無いで退いた。秀郷貞盛は息をつかせず攻め立てた。勝てば助勢は出て来る、負ければ怯気《おぢけ》はつく。将門の軍は日に衰へた。秀郷の兵は下総の堺、即ち今の境町まで十三日には取詰めた。敵を客戦の地に置いて疲れさせ、吾が兵の他から帰り来るを待たうと、将門は見兵《けんぺい》四百を率ゐて、例の飯沼のほとり、地勢の錯綜《さくそう》したところに隠れた。秀郷等は偽宮を焼立てゝ敵の威を削り気を挫《くじ》いた。十四日将門は※[#「けものへん+爰」、第3水準1-87-78]島郡の北山に遁《のが》れて、疾《と》く吾が軍来れと待ち望んで居た。大軍が帰つて来ては堪らぬから、秀郷貞盛は必死に戦った。此の日南風急暴に吹いて、両軍共に楯《たて》をつくことも出来ず、皆ばら/\と吹倒されてしまつた。人※[#二の字点、1-2-22]面※[#二の字点、1-2-22]相望むやうになつた。修羅心《しゆらしん》は互に頂上に達した。牙を咬《か》み眼を瞋《いか》らして、鎬《しのぎ》を削り鍔《つば》を割つて争つた。こゝで勝たずに日がたてば、秀郷等は却《かへ》つて危ふくなるのであるから、死身になつて堪へ堪へたが、風は猛烈で眼もあけられなかつたため、秀郷の軍は終《つひ》に利を失つた。戦の潮合《しほあひ》を心得た将門は、轡《くつわ》を聯《つら》ね馬を飛ばして突撃した。下野勢は散※[#二の字点、1-2-22]に駈散《けち》らされて遁迷ひ、余るところは屈竟《くつきやう》の者のみの三百余人となった。此時天意かいざ知らず、二月の南風であつたから風は変じて、急に北へとまはつた。今度は下野軍が風の利を得た。死生勝負此の一転瞬の間ぞ、と秀郷貞盛は大童《おほわらは》になつて闘つた。将門も馬を乗走らせて進み戦つたが、たま/\どつと吹く風に馬が駭《おどろ》いて立つた途端、猛風を負つて飛んで来た箭《や》は、はつたとばかりに将門の右の額に立つた。憐れむべし剛勇みづから恃《たの》める相馬小次郎将門も、こゝに至つて時節到来して、一期三十八歳、一燈|忽《たちま》ち滅《き》えて五彩皆空しといふことになつた。
 本幹|已《すで》に倒れて、枝葉|全《まつた》からず、将門の弟の将頼と藤原玄茂とは其歳相模国で斬《き》られ、興世王は上総へ行つて居たが左中弁将末に殺され、遂高玄明は常陸で殺されてしまひ、弟将武は甲斐《かひ》の山中で殺された。
 将門の女《むすめ》で地蔵尼《ぢざうに》といふのは、地蔵|菩薩《ぼさつ》を篤信したと、元亨釈書《げんかうしやくしよ》に見えてゐる。六道|能化《のうげ》の主を頼みて、父の苦患《くげん》を助け、身の悲哀を忘れ、要因によつて、却《かへ》つて勝道を成さんとしたのであると考へれば、まことに哀れの人である。信田《しのだ》の二郎|将国《まさくに》といふのは将門の子であると伝へられて、系図にも見えてゐるが、此の人の事が伝説的になつたのを足利期に語りものにしたのであらうか、まことにあはれな「信田《しのだ》」といふものがある。しかし直接に将門の子とはして無い、たゞ相馬殿の後としてある。そして二郎とは無くて小太郎とあるが、まことに古樸《こぼく》の味のあるもので、想ふに足利末期から徳川初期までの多くの人※[#二の字点、1-2-22]の涙をしぼつたものであらう。信田の三郎|先生《せんじやう》義広も常陸の信田に縁のある人ではあるが、それは又おのづから別で、将門の後の信田との関係はない。義広は源氏で、頼朝の伯父である。
 将門には余程京都でも驚きおびえたものと見える。将門死して二十一年の村上天皇天徳四年に、右大将藤原朝臣が奏して云はく、近日人※[#二の字点、1-2-22]故平将門の男《なん》の京に入ることを曰《い》ふと。そこで右衛門督朝忠に勅して、検非違使をして捜《さが》し求めしめ、又延光をして満仲《みつなか》、義忠、春実《はるざね》等をして同じく伺《うかが》ひ求めしむといふことが、扶桑略記の巻二十六に出てゐる。馬鹿※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]《ばか/\》しいことだが、此の様な事もあつたかと思ふと、何程都の人※[#二の字点、1-2-22]が将門に魘《おび》えたかといふことが窺知《うかゞひし》られる。菅公に魘《おび》え、将門に魘え、天神、明神は沢山に世に祀《まつ》られてゐる。此中に考ふべきことが有るのではあるまいか。こんな事は余談だ、余り言はずとも「春は紺より水浅黄よし」だ。
                           (大正九年四月)

底本:「筑摩現代文学大系3 幸田露伴 樋口一葉集」筑摩書房
   1978(昭和53)年1月15日初版第1刷発行
   1984(昭和59)年10月1日初版第3刷発行
入力:志田火路司
校正:林 幸雄
2002年1月25日公開
2004年3月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

幸田露伴

風流仏—– 幸田露伴

 発端《ほったん》 如是我聞《にょぜがもん》

      上 一向《いっこう》専念の修業|幾年《いくねん》

 三尊《さんぞん》四天王十二童子十六|羅漢《らかん》さては五百羅漢、までを胸中に蔵《おさ》めて鉈《なた》小刀《こがたな》に彫り浮かべる腕前に、運慶《うんけい》も知《し》らぬ人《ひと》は讃歎《さんだん》すれども鳥仏師《とりぶっし》知る身の心|耻《はず》かしく、其道《そのみち》に志す事《こと》深きにつけておのが業《わざ》の足らざるを恨み、爰《ここ》日本美術国に生れながら今の世に飛騨《ひだ》の工匠《たくみ》なしと云《い》わせん事残念なり、珠運《しゅうん》命の有らん限りは及ばぬ力の及ぶ丈《た》ケを尽してせめては我が好《すき》の心に満足さすべく、且《かつ》は石膏《せっこう》細工の鼻高き唐人《とうじん》めに下目《しため》で見られし鬱憤《うっぷん》の幾分を晴《は》らすべしと、可愛《かわい》や一向専念の誓を嵯峨《さが》の釈迦《しゃか》に立《たて》し男、齢《とし》は何歳《いくつ》ぞ二十一の春|是《これ》より風は嵐山《らんざん》の霞《かすみ》をなぐって腸《はらわた》断つ俳諧師《はいかいし》が、蝶《ちょう》になれ/\と祈る落花のおもしろきをも眺《なが》むる事なくて、見ぬ天竺《てんじく》の何の花、彫りかけて永き日の入相《いりあい》の鐘にかなしむ程|凝《こ》り固《かたま》っては、白雨《ゆうだち》三条四条の塵埃《ほこり》を洗って小石の面《おもて》はまだ乾かぬに、空さりげなく澄める月の影宿す清水《しみず》に、瓜《うり》浸して食いつゝ歯牙香《しがこう》と詩人の洒落《しゃれ》る川原の夕涼み快きをも余所《よそ》になし、徒《いたず》らに垣《かき》をからみし夕顔の暮れ残るを見ながら白檀《びゃくだん》の切り屑《くず》蚊遣《かや》りに焼《た》きて是も余徳とあり難《がた》かるこそおかしけれ。顔の色を林間の紅葉《もみじ》に争いて酒に暖めらるゝ風流の仲間にも入《い》らず、硝子《ガラス》越しの雪見に昆布《こんぶ》を蒲団《ふとん》にしての湯豆腐を粋《すい》がる徒党にも加わらねば、まして島原《しまばら》祇園《ぎおん》の艶色《えんしょく》には横眼《よこめ》遣《つか》い一《ひ》トつせず、おのが手作りの弁天様に涎《よだれ》流して余念なく惚《ほ》れ込み、琴《こと》三味線《しゃみせん》のあじな小歌《こうた》は聞《きき》もせねど、夢の中《うち》には緊那羅神《きんならじん》の声を耳にするまでの熱心、あわれ毘首竭摩《びしゅかつま》の魂魄《こんぱく》も乗り移らでやあるべき。かくて三年《みとせ》ばかり浮世を驀直《まっすぐ》に渡り行《ゆか》れければ、勤むるに追付く悪魔は無き道理、殊さら幼少より備《そなわ》っての稟賦《うまれつき》、雪をまろめて達摩《だるま》を作《つく》り大根を斬《き》りて鷽《うそどり》の形を写しゝにさえ、屡《しばしば》人を驚かせしに、修業の功を積《つみ》し上、憤発《ふんぱつ》の勇を加えしなれば冴《さえ》し腕は愈々《いよいよ》冴《さ》え鋭き刀《とう》は愈《いよいよ》鋭く、七歳の初発心《しょほっしん》二十四の暁に成道《じょうどう》して師匠も是《これ》までなりと許すに珠運は忽《たちま》ち思い立ち独身者《ひとりもの》の気楽さ親譲りの家財を売ってのけ、いざや奈良鎌倉日光に昔の工匠《たくみ》が跡|訪《と》わんと少し許《ばかり》の道具を肩にし、草鞋《わらじ》の紐《ひも》の結いなれで度々解くるを笑われながら、物のあわれも是よりぞ知る旅。

      下 苦労は知らず勉強の徳

 汽車もある世に、さりとては修業する身の痛ましや、菅笠《すげがさ》は街道の埃《ほこり》に赤うなって肌着《はだぎ》に風呂場《ふろば》の虱《しらみ》を避け得ず、春の日永き畷《なわて》に疲れては蝶《ちょう》うら/\と飛ぶに翼|羨《うらや》ましく、秋の夜は淋《さび》しき床に寝覚《ねざ》めて、隣りの歯ぎしみに魂を驚かす。旅路のなさけなき事、風吹き荒《すさ》み熱砂顔にぶつかる時|眼《め》を閉《ふさ》ぎてあゆめば、邪見《じゃけん》の喇叭《らっぱ》気《き》を注《つ》けろがら/\の馬車に胆《きも》ちゞみあがり、雨降り切《しき》りては新道《しんどう》のさくれ石足を噛《か》むに生爪《なまづめ》を剥《はが》し悩むを胴慾《どうよく》の車夫法外の価《ね》を貪《むさぼ》り、尚《なお》も並木で五割|酒銭《さかて》は天下の法だとゆする、仇《あだ》もなさけも一日限りの、人情は薄き掛け蒲団《ぶとん》に襟首《えりくび》さむく、待遇《もてなし》は冷《ひややか》な平《ひら》の内《うち》に蒟蒻《こんにゃく》黒し。珠運《しゅうん》素《もと》より貧《まずし》きには馴《な》れても、加茂川《かもがわ》の水柔らかなる所に生長《おいたち》て初《はじめ》て野越え山越えのつらきを覚えし草枕《くさまくら》、露に湿《しめ》りて心細き夢おぼつかなくも馴れし都の空を遶《めぐ》るに無残や郭公《ほととぎす》待《まち》もせぬ耳に眠りを切って破《や》れ戸《ど》の罅隙《すきま》に、我は顔《がお》の明星光りきらめくうら悲しさ、或《ある》は柳散り桐《きり》落《おち》て無常身に染《しみ》る野寺の鐘、つく/″\命は森林《もり》を縫う稲妻のいと続き難き者と観ずるに付《つけ》ても志願を遂ぐる道遠しと意馬《いば》に鞭《むち》打ち励ましつ、漸《ようや》く東海道の名刹《めいさつ》古社に神像木仏|梁《はり》欄間《らんま》の彫りまで見巡《みめぐ》りて鎌倉東京日光も見たり、是より最後の楽《たのしみ》は奈良じゃと急ぎ登り行く碓氷峠《うすいとうげ》の冬|最中《もなか》、雪たけありて裾《すそ》寒き浅間《あさま》下ろしの烈《はげ》しきにめげず臆《おく》せず、名に高き和田《わだ》塩尻《しおじり》を藁沓《わらぐつ》の底に踏み蹂《にじ》り、木曾路《きそじ》に入りて日照山《ひでりやま》桟橋《かけはし》寝覚《ねざめ》後になし須原《すはら》の宿《しゅく》に着《つき》にけり。
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    第一 如是相《にょぜそう》

      書けぬ所が美しさの第一義諦《だいいちぎたい》

 名物に甘《うま》き物ありて、空腹《すきはら》に須原《すはら》のとろゝ汁殊の外《ほか》妙なるに飯《めし》幾杯か滑り込ませたる身体《からだ》を此尽《このまま》寝さするも毒とは思えど為《す》る事なく、道中日記|注《つ》け終《しま》いて、のつそつしながら煤《すす》びたる行燈《あんどん》の横手の楽落《らくがき》を読《よめ》ば山梨県士族|山本勘介《やまもとかんすけ》大江山《おおえやま》退治の際一泊と禿筆《ちびふで》の跡《あと》、さては英雄殿もひとり旅の退屈に閉口しての御《おん》わざくれ、おかしき計《ばか》りかあわれに覚えて初対面から膝《ひざ》をくずして語る炬燵《こたつ》に相《あい》宿《やど》の友もなき珠運《しゅうん》、微《かすか》なる埋火《うずみび》に脚を※[#「火+共」、第3水準1-87-42]《あぶ》り、つくねんとして櫓《やぐら》の上に首|投《なげ》かけ、うつら/\となる所へ此方《こなた》をさして来る足音、しとやかなるは踵《かかと》に亀裂《ひび》きらせしさき程の下女にあらず。御免なされと襖《ふすま》越しのやさしき声に胸ときめき、為《し》かけた欠伸《あくび》を半分|噛《か》みて何とも知れぬ返辞をすれば、唐紙《からかみ》する/\と開き丁寧《ていねい》に辞義《じぎ》して、冬の日の木曾路《きそじ》嘸《さぞ》や御疲《おつかれ》に御座りましょうが御覧下され是《これ》は当所の名誉|花漬《はなづけ》今年の夏のあつさをも越して今降る雪の真最中《まっさいちゅう》、色もあせずに居《お》りまする梅桃桜のあだくらべ、御意に入りましたら蔭膳《かげぜん》を信濃《しなの》へ向《む》けて人知らぬ寒さを知られし都の御方《おかた》へ御土産《おみやげ》にと心憎き愛嬌《あいきょう》言葉|商買《しょうばい》の艶《つや》とてなまめかしく売物に香《か》を添ゆる口のきゝぶりに利発あらわれ、世馴《よな》れて渋らず、さりとて軽佻《かるはずみ》にもなきとりなし、持ち来《きた》りし包《つつみ》静《しずか》にひらきて二箱三箱差し出《いだ》す手《て》つきしおらしさに、花は余所《よそ》になりてうつゝなく覗《のぞ》き込む此方《こなた》の眼《め》を避けて背向《そむ》くる顔、折から透間《すきま》洩《も》る風《かぜ》に燈火《ともしび》動き明らかには見えざるにさえ隠れ難き美しさ。我《が》折《お》れ深山《みやま》に是《これ》は何物。
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    第二 如是体《にょぜたい》

      粋《すい》の羯羅藍《かららん》と実《じつ》の阿羅藍《あららん》

 見て面白き世の中に聞《きい》て悲しき人の上あり。昔は此《この》京《きょう》にして此|妓《こ》ありと評判は八坂《やさか》の塔より高く其《その》名は音羽《おとわ》の滝より響きし室香《むろか》と云《い》える芸子《げいこ》ありしが、さる程に地主権現《じしゅごんげん》の花の色|盛者《しょうじゃ》必衰の理《ことわり》をのがれず、梅岡《うめおか》何某《なにがし》と呼ばれし中国浪人のきりゝとして男らしきに契《ちぎり》を込め、浅からぬ中となりしより他《よそ》の恋をば贔負《ひいき》にする客もなく、線香の煙り絶々《たえだえ》になるにつけても、よしやわざくれ身は朝顔のと短き命、捨撥《すてばち》にしてからは恐ろしき者にいうなる新徴組《しんちょうぐみ》何の怖《こわ》い事なく三筋《みすじ》取っても一筋心《ひとすじごころ》に君さま大事と、時を憚《はばか》り世を忍ぶ男を隠匿《かくまい》し半年あまり、苦労の中にも助《たすく》る神の結び玉《たま》いし縁なれや嬉しき情《なさけ》の胤《たね》を宿して帯の祝い芽出度《めでたく》舒《の》びし眉間《みけん》に忽《たちま》ち皺《しわ》の浪《なみ》立《たち》て騒がしき鳥羽《とば》伏見《ふしみ》の戦争。さても方様《かたさま》の憎い程な気強さ、爰《ここ》なり丈夫《おとこ》の志を遂《と》ぐるはと一《ひ》ト群《むれ》の同志《どうし》を率いて官軍に加わらんとし玉うを止《とど》むるにはあらねど生死《しょうじ》争う修羅《しゅら》の巷《ちまた》に踏《ふみ》入《い》りて、雲のあなたの吾妻里《あづまじ》、空寒き奥州《おうしゅう》にまで帰る事は云《い》わずに旅立《たびだち》玉う離別《わかれ》には、是《これ》を出世の御発途《おんかどいで》と義理で暁《さと》して雄々《おお》しき詞《ことば》を、口に云わする心が真情《まこと》か、狭き女の胸に余りて案じ過《すご》せば潤《うる》む眼《め》の、涙が無理かと、粋《すい》ほど迷う道多くて自分ながら思い分たず、うろ/\する内《うち》日は消《たち》て愈※[#二の字点、1-2-22]《いよいよ》となり、義経袴《よしつねばかま》に男山《おとこやま》八幡《はちまん》の守りくけ込んで愚《おろか》なと笑《わらい》片頬《かたほ》に叱《しか》られし昨日《きのう》の声はまだ耳に残るに、今、今の御姿《おすがた》はもう一里先か、エヽせめては一日路《いちにちじ》程も見透《みとお》したきを役|立《たた》ぬ此眼の腹|立《だた》しやと門辺《かどべ》に伸び上《あが》りての甲斐《かい》なき繰言《くりごと》それも尤《もっとも》なりき。一《ひ》ト月過ぎ二《ふ》タ月|過《すぎ》ても此《この》恨《うらみ》綿々《めんめん》ろう/\として、筑紫琴《つくしごと》習う隣家《となり》の妓《こ》がうたう唱歌も我に引き較《くら》べて絶ゆる事なく悲しきを、コロリン、チャンと済《すま》して貰《もら》い度《た》しと無慈悲の借金取めが朝に晩にの掛合《かけあい》、返答も力|無《な》や男松《おまつ》を離れし姫蔦《ひめづた》の、斯《こう》も世の風に嬲《なぶ》らるゝ者《もの》かと俯《うつむ》きて、横眼に交張《まぜば》りの、袋戸《ふくろど》に広重《ひろしげ》が絵見ながら、悔《くや》しいにつけゆかしさ忍ばれ、方様《かたさま》早う帰って下されと独言《ひとりごと》口を洩《も》るれば、利足《りそく》も払わず帰れとはよく云えた事と吠付《ほえつか》れ。アヽ大きな声して下さるな、あなたにも似合わぬと云いさして、御腹《おなか》には大事の/\我子《わがこ》ではない顔見ぬ先からいとしゅうてならぬ方様《かたさま》の紀念《かたみ》、唐土《もろこし》には胎教という事さえありてゆるがせならぬ者と或夜《あるよ》の物語りに聞しに此ありさまの口惜《くちおし》と腸《はらわた》を断つ苦しさ。天女も五衰《ごすい》ぞかし、玳瑁《たいまい》の櫛《くし》、真珠の根掛《ねがけ》いつか無くなりては華鬘《けまん》の美しかりける俤《おもかげ》とどまらず、身だしなみ懶《ものう》くて、光ると云われし色艶《いろつや》屈托《くったく》に曇り、好みの衣裳《いしょう》数々彼に取られ是《これ》に易《か》えては、着古しの平常衣《ふだんぎ》一つ、何の焼《たき》かけの霊香《れいきょう》薫ずべきか、泣き寄りの親身《しんみ》に一人の弟《おとと》は、有っても無きに劣《おと》る賭博《ばくち》好き酒好き、落魄《おちぶれ》て相談相手になるべきならねば頼むは親切な雇婆《やといばば》計《ばか》り、あじきなく暮らす中《うち》月|満《みち》て産声《うぶごえ》美《うるわ》しく玉のような女の子、辰《たつ》と名|付《づけ》られしはあの花漬《はなづけ》売りなりと、是《これ》も昔は伊勢《いせ》参宮の御利益《ごりやく》に粋《すい》という事覚えられしらしき宿屋の親爺《おやじ》が物語に珠運も木像ならず、涙|掃《はら》って其後《そののち》を問えば、御待《おまち》なされ、話しの調子に乗って居る内、炉の火が淋《さみ》しゅうなりました。
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    第三 如是性《にょぜしょう》

      上 母は嵐《あらし》に香《か》の迸《はし》る梅

 山家《やまが》の御馳走《ごちそう》は何処《いずく》も豆腐|湯波《ゆば》干鮭《からざけ》計《ばか》りなるが今宵《こよい》はあなたが態々《わざわざ》茶の間に御出掛《おでかけ》にて開化の若い方には珍らしく此《この》兀爺《はげじい》の話を冒頭《あたま》から潰《つぶ》さずに御聞《おきき》なさるが快ければ、夜長の折柄《おりから》お辰《たつ》の物語を御馳走に饒舌《しゃべり》りましょう、残念なは去年ならばもう少し面白くあわれに申し上《あげ》て軽薄《けいはく》な京の人イヤ是《これ》は失礼、やさしい京の御方《おかた》の涙を木曾《きそ》に落さ落《おと》させよう者を惜しい事には前歯一本欠けた所《とこ》から風が洩《も》れて此春以来|御文章《おふみさま》を読《よむ》も下手になったと、菩提所《ぼだいしょ》の和尚《おしょう》様に云《い》われた程なれば、ウガチとかコガシとか申す者は空抜《うろぬき》にしてと断りながら、青内寺《せいないじ》煙草《たばこ》二三服|馬士《まご》張《ば》りの煙管《きせる》にてスパリ/\と長閑《のどか》に吸い無遠慮に榾《ほだ》さし焼《く》べて舞い立つ灰の雪袴《ゆきんばかま》に落ち来《きた》るをぽんと擲《はた》きつ、どうも私幼少から読本《よみほん》を好きました故《ゆえ》か、斯《こう》いう話を致しますると図に乗っておかしな調子になるそうで、人我《にんが》の差別《しゃべつ》も分り憎くなると孫共《まごども》に毎度笑われまするが御聞《おきき》づらくも癖ならば癖ぞと御免《おゆるし》なされ。さてもそののち室香《むろか》はお辰を可愛《かわゆ》しと思うより、情《じょう》には鋭き女の勇気をふり起して昔取ったる三味《しゃみ》の撥《ばち》、再び握っても色里の往来して白痴《こけ》の大尽、生《なま》な通人《つうじん》めらが間《あい》の周旋《とりもち》、浮《うか》れ車座のまわりをよくする油さし商売は嫌《いや》なりと、此度《このたび》は象牙《ぞうげ》を柊《ひいらぎ》に易《か》えて児供《こども》を相手の音曲《おんぎょく》指南《しなん》、芸は素《もと》より鍛錬を積《つみ》たり、品行《みもち》は淫《みだら》ならず、且《かつ》は我子《わがこ》を育てんという気の張《はり》あればおのずから弟子にも親切あつく良い御師匠《おししょう》様と世に用いられて爰《ここ》に生計《くらし》の糸道も明き細いながら炊煙《けむり》絶《たえ》せず安らかに日は送れど、稽古《けいこ》する小娘が調子外れの金切声《かなきりごえ》今も昔わーワッとお辰のなき立つ事の屡《しばしば》なるに胸苦しく、苦労ある身の乳も不足なれば思い切って近き所へ里子にやり必死となりて稼《かせ》ぐありさま余所《よそ》の眼《め》さえ是《これ》を見て感心なと泣きぬ。それにつれなきは方様《かたさま》の其後《そののち》何の便《たより》もなく、手紙出そうにも当所《あてどころ》分らず、まさかに親子|笈《おい》づるかけて順礼にも出られねば逢《あ》う事は夢に計《ばか》り、覚めて考うれば口をきかれなかったはもしや流丸《それだま》にでも中《あた》られて亡くなられたか、茶絶《ちゃだち》塩絶《しおだち》きっとして祈るを御存知ない筈《はず》も無かろうに、神様も恋しらずならあり難くなしと愚痴と一所《いっしょ》にこぼるゝ涙流れて止《とどま》らぬ月日をいつも/\憂いに明《あか》し恨《うらみ》に暮らして我《わが》齢《とし》の寄るは知ねども、早い者お辰はちょろ/\歩行《あるき》、折ふしは里親と共に来てまわらぬ舌に菓子ねだる口元、いとしや方様に生き写しと抱き寄せて放し難く、遂《つい》に三歳《みっつ》の秋より引き取って膝下《ひざもと》に育《そだつ》れば、少しは紛《まぎ》れて貧家に温《ぬく》き太陽《ひ》のあたる如《ごと》く淋《さび》しき中にも貴き笑《わらい》の唇に動きしが、さりとては此子《このこ》の愛らしきを見様《みよう》とも仕玉《したま》わざるか帰家《かえら》れざるつれなさ、子供心にも親は恋しければこそ、父様《ととさま》御帰りになった時は斯《こう》して為《す》る者ぞと教えし御辞誼《おじぎ》の仕様《しよう》能《よ》く覚えて、起居《たちい》動作《ふるまい》のしとやかさ、能《よ》く仕付《しつけ》たと誉《ほめ》らるゝ日を待《まち》て居るに、何処《どこ》の竜宮《りゅうぐう》へ行かれて乙姫《おとひめ》の傍《そば》にでも居《お》らるゝ事ぞと、少しは邪推の悋気《りんき》萌《きざ》すも我を忘れられしより子を忘れられし所には起る事、正しき女にも切なき情《じょう》なるに、天道怪しくも是《これ》を恵まず。運は賽《さい》の眼の出所《でどころ》分らぬ者にてお辰の叔父《おじ》ぶんなげの七《しち》と諢名《あだな》取りし蕩楽者《どうらくもの》、男は好《よ》けれど根性図太く誰《たれ》にも彼にも疎《うと》まれて大の字に寝たとて一坪には足らぬ小さき身を、広き都に置きかね漂泊《ただよい》あるきの渡り大工、段々と美濃路《みのじ》を歴《へ》て信濃《しなの》に来《きた》り、折しも須原《すはら》の長者何がしの隠居所作る手伝い柱を削れ羽目板を付《つけ》ろと棟梁《とうりょう》の差図《さしず》には従えど、墨縄《すみなわ》の直《すぐ》なには傚《なら》わぬ横道《おうどう》、お吉《きち》様と呼ばせらるゝ秘蔵の嬢様にやさしげな濡《ぬれ》を仕掛け、鉋屑《かんなくず》に墨さし思《おもい》を云《い》わせでもしたるか、とう/\そゝのかしてとんでもなき穴掘り仕事、それも縁なら是非なしと愛に暗《くら》んで男の性質も見《み》分《わけ》ぬ長者のえせ粋《すい》三国一の狼婿《おおかみむこ》、取って安堵《あんど》したと知らぬが仏様に其年《そのとし》なられし跡は、山林|家《いえ》蔵《くら》椽《えん》の下の糠味噌瓶《ぬかみそがめ》まで譲り受けて村|中《じゅう》寄り合いの席に肩《かた》ぎしつかせての正坐《しょうざ》、片腹痛き世や。あわれ室香《むろか》はむら雲迷い野分《のわけ》吹く頃《ころ》、少しの風邪に冒されてより枕《まくら》あがらず、秋の夜|冷《ひややか》に虫の音遠ざかり行くも観念の友となって独り寝覚《ねざめ》の床淋しく、自ら露霜のやがて消《きえ》ぬべきを悟り、お辰|素性《すじょう》のあらまし慄《ふる》う筆のにじむ墨に覚束《おぼつか》なく認《したた》めて守り袋に父が書き捨《すて》の短冊《たんざく》一《ひ》トひらと共に蔵《おさ》めやりて、明日をもしれぬ我《わ》がなき後頼りなき此子《このこ》、如何《いか》なる境界に落《おつ》るとも加茂《かも》の明神も御憐愍《ごれんみん》あれ、其人《そのひと》命あらば巡《めぐ》り合《あわ》せ玉いて、芸子《げいこ》も女なりやさしき心入れ嬉《うれ》しかりきと、方様の一言《ひとこと》を草葉の蔭《かげ》に聞《きか》せ玉えと、遙拝《ようはい》して閉じたる眼をひらけば、燈火《ともしび》僅《わずか》に蛍《ほたる》の如く、弱き光りの下《もと》に何の夢見て居るか罪のなき寝顔、せめてもう十《とお》計りも大きゅうして銀杏《いちょう》髷《まげ》結わしてから死にたしと袖《そで》を噛《か》みて忍び泣く時お辰|魘《おそ》われてアッと声立て、母様《かかさま》痛いよ/\坊《ぼう》の父様《ととさま》はまだ帰《か》えらないかえ、源《げん》ちゃんが打《ぶ》つから痛いよ、父《とと》の無いのは犬の子だってぶつから痛いよ。オヽ道理《もっとも》じゃと抱き寄すれば其《その》儘《まま》すや/\と睡《ねむ》るいじらしさ、アヽ死なれぬ身の疾病《やまい》、是《これ》ほどなさけなき者あろうか。

      下 子は岩蔭《いわかげ》に咽《むせ》ぶ清水《しみず》よ

 格子戸《こうしど》がら/\とあけて閉《しめ》る音は静《しずか》なり。七蔵《しちぞう》衣装《いしょう》立派に着飾りて顔付高慢くさく、無沙汰《ぶさた》謝《わび》るにはあらで誇り気《げ》に今の身となりし本末を語り、女房《にょうぼう》に都見物|致《いた》させかた/″\御近付《おちかづき》に連《つれ》て参ったと鷹風《おおふう》なる言葉の尾につきて、下ぐる頭《かしら》低くしとやかに。妾《わたくし》めは吉《きち》と申す不束《ふつつか》な田舎者、仕合《しあわ》せに御縁の端に続《つな》がりました上は何卒《なにとぞ》末長く御眼《おめ》かけられて御不勝《ごふしょう》ながら真実《しんみ》の妹とも思《おぼ》しめされて下さりませと、演《のぶ》る口上に樸厚《すなお》なる山家《やまが》育ちのたのもしき所見えて室香《むろか》嬉敷《うれしく》、重き頭《かしら》をあげてよき程に挨拶《あいさつ》すれば、女心の柔《やわらか》なる情《なさけ》ふかく。姉様《あねさま》の是《これ》ほどの御病気、殊更《ことさら》御幼少《おちいさい》のもあるを他人任せにして置きまして祇園《ぎおん》清水《きよみず》金銀閣見たりとて何の面白かるべき、妾《わたし》は是《これ》より御傍《おそば》さらず[#「ず」は底本では「す」]御看病致しましょと云《い》えば七蔵|顔《つら》膨《ふく》らかし、腹の中《うち》には余計なと思い乍《なが》ら、ならぬとも云い難く、それならば家も狭しおれ丈《だ》ケは旅宿に帰るべしといって其《その》晩は夜食の膳《ぜん》の上、一酌《いっしゃく》の酔《よい》に浮《うか》れてそゞろあるき、鼻歌に酒の香《か》を吐き、川風寒き千鳥足、乱れてぽんと町か川端《かわばた》あたりに止《とど》まりし事あさまし。室香はお吉に逢《あ》いてより三日目、我子《わがこ》を委《ゆだ》ぬる処《ところ》を得て気も休まり、爰《ここ》ぞ天の恵み、臨終|正念《しょうねん》たがわず、安《やすら》かなる大往生、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》は嬌喉《きょうこう》に粋《すい》の果《はて》を送り三重《さんじゅう》、鳥部野《とりべの》一片の烟《けむり》となって御法《みのり》の風に舞い扇、極楽に歌舞の女菩薩《にょぼさつ》一員《いちにん》増したる事疑いなしと様子知りたる和尚様《おしょうさま》随喜の涙を落《おと》されし。お吉|其儘《そのまま》あるべきにあらねば雇い婆《ばば》には銭《かね》やって暇《ひま》取らせ、色々|片付《かたづく》るとて持仏棚《じぶつだな》の奥に一つの包物《つつみもの》あるを、不思議と開き見れば様々の貨幣《かね》合せて百円足らず、是はと驚きて能々《よくよく》見るに、我身《わがみ》万一の時お辰《たつ》引き取って玉《たま》わる方へせめてもの心許《こころばか》りに細き暮らしの中《うち》より一銭二銭積み置きて是をまいらするなりと包み紙に筆の跡、読みさして身の毛立つ程悲しく、是までに思い込まれし子を育てずに置《おか》れべきかと、遂《つい》に五歳《いつつ》のお辰をつれて夫と共に須原《すはら》に戻《もど》りけるが、因果は壺皿《つぼざら》の縁《ふち》のまわり、七蔵本性をあらわして不足なき身に長半をあらそえば段々悪徒の食物《くいもの》となりて痩《や》せる身代の行末《ゆくすえ》を気遣《きづか》い、女房うるさく異見《いけん》すれば、何の女の知らぬ事、ぴんからきりまで心得て穴熊《あなぐま》毛綱《けづな》の手品《てづま》にかゝる我ならねば負くる計《ばか》りの者にはあらずと駈出《かけだし》して三日帰らず、四日帰らず、或《あるい》は松本善光寺又は飯田《いいだ》高遠《たかとお》あたりの賭場《とば》あるき、負《まく》れば尚《なお》も盗賊《どろぼう》に追い銭の愚を尽し、勝てば飯盛《めしもり》に祝い酒のあぶく銭《ぜに》を費す、此癖《このくせ》止めて止まらぬ春駒《はるごま》の足掻《あがき》早く、坂道を飛び下《おり》るより迅《すみやか》に、親譲りの山も林もなくなりかゝってお吉心配に病死せしより、齢《とし》は僅《わずか》に十《とお》の冬、お辰浮世の悲《かなし》みを知りそめ叔父《おじ》の帰宅《かえ》らぬを困り途方《とほう》に暮れ居たるに、近所の人々、彼奴《きゃつ》め長久保《ながくぼ》のあやしき女の許《もと》に居続《いつづけ》して妻の最期《さいご》を余所《よそ》に見る事憎しとてお辰をあわれみ助け葬式《ともらい》済《すま》したるが、七蔵|此後《こののち》愈《いよいよ》身持《みもち》放埒《ほうらつ》となり、村内の心ある者には爪《つま》はじきせらるゝをもかまわず遂《つい》に須原の長者の家敷《やしき》も、空《むな》しく庭|中《うち》の石燈籠《いしどうろう》に美しき苔《こけ》を添えて人手に渡し、長屋門のうしろに大木の樅《もみ》の梢《こずえ》吹く風の音ばかり、今の耳にも替《かわ》らずして、直《すぐ》其傍《そのそば》なる荒屋《あばらや》に住《すま》いぬるが、さても下駄《げた》の歯《は》と人の気風は一度ゆがみて一代なおらぬもの、何一《ひ》トつ満足なる者なき中にも盃《さかずき》のみ欠かけず、柴木《しばき》へし折って箸《はし》にしながら象牙《ぞうげ》の骰子《さい》に誇るこそ愚《おろか》なれ。かゝる叔父を持つ身の当惑、御嶽《おんたけ》の雪の肌《はだ》清らかに、石楠《しゃくなげ》の花の顔|気高《けだか》く生れ付《つい》てもお辰を嫁にせんという者、七蔵と云う名を聞《きい》ては山抜け雪流《なだれ》より恐ろしくおぞ毛ふるって思い止《とま》れば、二十《はたち》を越《こ》して痛ましや生娘《きむすめ》、昼は賃仕事に肩の張るを休むる間なく、夜は宿中《しゅくじゅう》の旅籠屋《はたごや》廻《まわ》りて、元は穢多《えた》かも知れぬ客達《きゃくだち》にまで嬲《なぶ》られながらの花漬売《はなづけうり》、帰途《かえり》は一日の苦労の塊《かたま》り銅貨|幾箇《いくつ》を酒に易《か》えて、御淋《おさび》しゅう御座りましたろう、御不自由で御座りましたろうと機嫌《きげん》取りどり笑顔《えがお》してまめやかに仕うるにさえ時々は無理難題、先度《せんど》も上田《うえだ》の娼妓《じょうろ》になれと云い掛《かかり》しよし。さりとては胴慾《どうよく》な男め、生餌《いきえ》食う鷹《たか》さえ暖《ぬく》め鳥は許す者を。
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    第四 如是因《にょぜいん》

      上 忘られぬのが根本《こんぽん》の情《じょう》

 珠運《しゅうん》は種々《さまざま》の人のありさま何と悟るべき者とも知らず、世のあわれ今宵《こよい》覚えて屋《や》の角に鳴る山風寒さ一段身に染《し》み、胸痛きまでの悲しさ我事《わがこと》のように鼻詰らせながら亭主に礼|云《い》いておのが部屋《へや》に戻《もど》れば、忽《たちまち》気が注《つく》は床の間に二タ箱買ったる花漬《はなづけ》、衣《きぬ》脱ぎかえて転《ころ》りと横になり、夜着《よぎ》引きかぶればあり/\と浮ぶお辰《たつ》の姿、首さし出《いだ》して眼《め》をひらけば花漬、閉《とず》ればおもかげ、是《これ》はどうじゃと呆《あき》れてまた候《ぞろ》眼をあけば花漬、アヽ是を見ればこそ浮世話も思いの種となって寝られざれ、明日は馬籠峠《まごめとうげ》越えて中津川《なかつがわ》迄《まで》行かんとするに、能《よ》く休までは叶《かな》わじと行燈《あんどん》吹き消し意《い》を静むるに、又しても其《その》美形、エヽ馬鹿《ばか》なと活《かっ》と見ひらき天井を睨《にら》む眼に、此《この》度《たび》は花漬なけれど、闇《やみ》はあやなしあやにくに梅の花の香《かおり》は箱を洩《も》れてする/\と枕《まくら》に通えば、何となくときめく心を種として咲《さき》も咲《さき》たり、桃の媚《こび》桜の色、さては薄荷《はっか》菊の花まで今|真盛《まっさか》りなるに、蜜《みつ》を吸わんと飛び来《きた》る蜂《はち》の羽音どこやらに聞ゆる如《ごと》く、耳さえいらぬ事に迷っては愚《おろか》なりと瞼《まぶた》堅《かた》く閉《と》じ、掻巻《かいまき》頭《こうべ》を蔽《おお》うに、さりとては怪《け》しからず麗《うるわ》しき幻《まぼろし》の花輪の中に愛矯《あいきょう》を湛《たた》えたるお辰、気高き計《ばか》りか後光|朦朧《もうろう》とさして白衣《びゃくえ》の観音、古人にも是《これ》程の彫《ほり》なしと好《すき》な道に慌惚《うっとり》となる時、物の響《ひびき》は冴《さ》ゆる冬の夜、台所に荒れ鼠《ねずみ》の騒ぎ、憎し、寝られぬ。

      下 思いやるより増長の愛

 裏付股引《うらつきももひき》に足を包みて頭巾《ずきん》深々とかつぎ、然《しか》も下には帽子かぶり、二重とんびの扣釼《ぼたん》惣掛《そうがけ》になし其上《そのうえ》首筋胴の周囲《まわり》、手拭《てぬぐい》にて動《ゆる》がぬ様《よう》縛り、鹿《しか》の皮の袴《はかま》に脚半《きゃはん》油断なく、足袋二枚はきて藁沓《わらぐつ》の爪《つま》先に唐辛子《とうがらし》三四本足を焼《やか》ぬ為《ため》押し入れ、毛皮の手甲《てっこう》して若《もし》もの時の助けに足橇《かんじき》まで脊中《せなか》に用意、充分してさえ此《この》大吹雪、容易の事にあらず、吼立《ほえたつ》る天津風《あまつかぜ》、山山鳴動して峰の雪、梢《こずえ》の雪、谷の雪、一斉に舞立つ折は一寸先見え難く、瞬間《またたくま》に路《みち》を埋《うず》め、脛《はぎ》を埋《うず》め、鼻の孔《あな》まで粉雪吹込んで水に溺《おぼ》れしよりまだ/\苦し、ましてや准備《ようい》おろかなる都の御《お》客様なんぞ命|惜《おし》くば御逗留《ごとうりゅう》なされと朴訥《ぼくとつ》は仁に近き親切。なるほど話し聞《きい》てさえ恐ろしければ珠運《しゅうん》別段急ぐ旅にもあらず。されば今日|丈《だけ》の厄介《やっかい》になりましょうと尻《しり》を炬燵《こたつ》に居《すえ》て、退屈を輪に吹く煙草《たばこ》のけぶり、ぼんやりとして其辺《そこら》見回せば端なく眼《め》につく柘植《つげ》のさし櫛《ぐし》。さては花漬売《はなづけうり》が心づかず落し行《ゆき》しかと手に取るとたん、早《は》や其人《そのひと》床《ゆか》しく、昨夕《ゆうべ》の亭主が物語今更のように、思い出されて、叔父《おじ》の憎きにつけ世のうらめしきに付け、何となく唯《ただ》お辰《たつ》可愛《かわい》く、おれが仏なら、七蔵《しちぞう》頓死《とんし》さして行衛《ゆくえ》しれぬ親にはめぐりあわせ、宮内省《くないしょう》よりは貞順善行の緑綬《りょくじゅ》紅綬紫綬、あり丈《たけ》の褒章《ほうしょう》頂かせ、小説家には其《その》あわれおもしろく書かせ、祐信《すけのぶ》長春《ちょうしゅん》等《ら》を呼び生《いか》して美しさ充分に写させ、そして日本一|大々尽《だいだいじん》の嫁にして、あの雑綴《つぎつぎ》の木綿着を綾羅《りょうら》錦繍《きんしゅう》に易《か》え、油気少きそゝけ髪に極《ごく》上々|正真伽羅栴檀《しょうじんきゃらせんだん》の油|付《つけ》させ、握飯《にぎりめし》ほどな珊瑚珠《さんごじゅ》に鉄火箸《かなひばし》ほどな黄金脚《きんあし》すげてさゝしてやりたいものを神通《じんつう》なき身の是非もなし、家財|売《うっ》て退《の》けて懐中にはまだ三百両|余《よ》あれど是《これ》は我身《わがみ》を立《たつ》る基《もと》、道中にも片足満足な草鞋《わらじ》は捨《すて》ぬくらい倹約《つましく》して居るに、絹絞《きぬしぼり》の半掛《はんがけ》一《ひ》トつたりとも空《あだ》に恵む事難し、さりながらあまりの慕わしさ、忘られぬ殊勝さ、かゝる善女《ぜんにょ》に結縁《けちえん》の良き方便もがな、噫《ああ》思い付《つい》たりと小行李《こごうり》とく/\小刀《こがたな》取出し小さき砥石《といし》に鋒尖《きっさき》鋭く礪《と》ぎ上げ、頓《やが》て櫛《くし》の棟《むね》に何やら一日掛りに彫り付《つけ》、紙に包んでお辰|来《きた》らばどの様な顔するかと待ちかけしは、恋は知らずの粋様《すいさま》め、おかしき所業《しょぎょう》あてが外れて其晩吹雪|尚《なお》やまず、女の何としてあるかるべきや。されば流れざるに水の溜《たま》る如《ごと》く、逢《あ》わざるに思《おもい》は積りて愈《いよいよ》なつかしく、我は薄暗き部屋の中《うち》、煤《すす》びたれども天井の下、赤くはなりてもまだ破《や》れぬ畳の上に坐《ざ》し、去歳《こぞ》の春すが漏《もり》したるか怪しき汚染《しみ》は滝の糸を乱して画襖《えぶすま》の李白《りはく》の頭《かしら》に濺《そそ》げど、たて付《つけ》よければ身の毛|立《たつ》程の寒さを透間《すきま》に喞《かこ》ちもせず、兎《と》も角《かく》も安楽にして居るにさえ、うら寂しく自《おのずから》悲《かなしみ》を知るに、ふびんや少女《おとめ》の、あばら屋といえば天井も無《な》かるべく、屋根裏は柴《しば》焼《た》く煙りに塗られてあやしげに黒く光り、火口《ほくち》の如き煤は高山《こうざん》の樹《き》にかゝれる猿尾枷《さるおがせ》のようにさがりたる下に、あのしなやかなる黒髪|引詰《ひきつめ》に結うて、腸《はらわた》見えたるぼろ畳の上に、香露《こうろ》凝《こ》る半《なかば》に璧《たま》尚《なお》※[#「車+(而/大)」、第3水準1-92-46]《やわらか》な細軟《きゃしゃ》な身体《からだ》を厭《いと》いもせず、なよやかにおとなしく坐《すわ》りて居《い》る事か、人情なしの七蔵め、多分《おおかた》小鼻怒らし大胡坐《おおあぐら》かきて炉の傍《はた》に、アヽ、憎さげの顔見ゆる様な、藍格子《あいごうし》の大どてら着て、充分酒にも暖《あたたま》りながら分《ぶん》を知らねばまだ足らず、炉の隅《すみ》に転げて居る白鳥《はくちょう》徳利《どくり》の寐姿|忌※[#二の字点、1-2-22]《いまいま》しそうに睨《ね》めたる眼《め》をジロリと注ぎ、裁縫《しごと》に急がしき手を止《とめ》さして無理な吩附《いいつけ》、跡引き上戸の言葉は針、とが/\しきに胸を痛めて答うるお辰は薄着の寒さに慄《ふる》う歟《か》唇《くちびる》、それに用捨《ようしゃ》もあらき風、邪見に吹くを何防ぐべき骨|露《あらわ》れし壁|一重《ひとえ》、たるみの出来たる筵《むしろ》屏風《びょうぶ》、あるに甲斐《かい》なく世を経《ふ》れば貧には運も七分《しちぶ》凍《こお》りて三分《さんぶ》の未練を命に生《いき》るか、噫《ああ》と計《ばか》りに夢現《ゆめうつつ》分《わか》たず珠運は歎《たん》ずる時、雨戸に雪の音さら/\として、火は消《きえ》ざる炬燵《こたつ》に足の先|冷《つめた》かりき。
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    第五 如是作《にょぜさ》

      上 我を忘れて而生其心《にしょうごしん》

 よしや脊《せ》に暖《あたたか》ならずとも旭日《あさひ》きら/\とさしのぼりて山々の峰の雪に移りたる景色、眼《め》も眩《くら》む許《ばか》りの美しさ、物腥《ものぐさ》き西洋の塵《ちり》も此処《ここ》までは飛《とん》で来ず、清浄《しょうじょう》潔白|実《げ》に頼母敷《たのもしき》岐蘇路《きそじ》、日本国の古風残りて軒近く鳴く小鳥の声、是《これ》も神代を其儘《そのまま》と詰《つま》らぬ者《もの》をも面白く感ずるは、昨宵《ゆうべ》の嵐《あらし》去りて跡なく、雲の切れ目の所所、青空見ゆるに人の心の悠々とせし故なるべし。珠運《しゅうん》梅干渋茶に夢を拭《ぬぐ》い、朝|飯《はん》[#「飯」は底本では「飲」]平常《ふだん》より甘《うま》く食いて泥《どろ》を踏まぬ雪沓《ゆきぐつ》軽《かろ》く、飄々《ひょうひょう》と立出《たちいで》しが、折角|吾《わが》志《こころざし》を彫りし櫛《くし》与えざるも残念、家は宿の爺《おやじ》に聞《きき》て街道の傍《かたえ》を僅《わずか》折り曲りたる所と知れば、立ち寄りて窓からでも投込まんと段々行くに、果《はた》せる哉《かな》縦《もみ》の木高く聳《そび》えて外囲い大きく如何《いか》にも須原《すはら》の長者が昔の住居《すまい》と思わるゝ立派なる家の横手に、此頃《このごろ》の風吹き曲《ゆが》めたる荒屋《あばらや》あり。近付くまゝに中《うち》の様子を伺えば、寥然《ひっそり》として人のありとも想《おも》われず、是は不思議とやぶれ戸に耳を付《つけ》て聞けば竊々《ひそひそ》と※[#「口+耳」、第3水準1-14-94]《ささ》やくような音、愈《いよいよ》あやしく尚《なお》耳を澄《すま》せば啜《すす》り泣《なき》する女の声なり。さては邪見な七蔵《しちぞう》め、何事したるかと彼此《あちこち》さがして大きなる節《ふし》の抜けたる所より覗《のぞ》けば、鬼か、悪魔か、言語同断、当世の摩利《まり》夫人とさえ此《この》珠運が尊く思いし女を、取って抑えて何者の仕業ぞ、酷《むご》らしき縄からげ、後《うしろ》の柱のそげ多きに手荒く縛《くく》し付け、薄汚なき手拭《てぬぐい》無遠慮に丹花《たんか》の唇を掩《おお》いし心無さ、元結《もとゆい》空にはじけて涙の雨の玉を貫く柳の髪|恨《うらみ》は長く垂れて顔にかゝり、衣《きぬ》引まくれ胸あらわに、膚《はだえ》は春の曙《あけぼの》の雪今や消《きえ》入らん計《ばか》り、見るから忽《たちま》ち肉動き肝《きも》躍って分別思案あらばこそ、雨戸|蹴《け》ひらき飛込《とびこん》で、人間の手の四五本なき事もどかしと急燥《いらつ》まで忙《いそがわ》しく、手拭を棄《す》て、縄を解き、懐中《ふところ》より櫛《くし》取り出《いだ》して乱れ髪|梳《す》けと渡しながら冷え凍《こお》りたる肢体《からだ》を痛ましく、思わず緊接《しっかり》抱《いだ》き寄せて、嘸《さぞ》や柱に脊中がと片手に摩《な》で擦《さ》するを、女あきれて兎角《とかく》の詞《ことば》はなく、ジッと此方《こなた》の顔を見つめらるゝにきまり悪くなって一《ひ》ト足離れ退《の》くとたん、其辺《そこら》の畳雪だらけにせし我沓《わがくつ》にハッと気が注《つ》き、訳《わけ》も分らず其《その》まゝ外へ逃げ出し、三間ばかり夢中に走れば雪に滑りてよろ/\/\、あわや膝《ひざ》突かんとしてドッコイ、是は仕《し》たり、蝙蝠傘《こうもりがさ》手荷物忘れたかと跡《あと》もどりする時、お辰《たつ》門口に来《きた》り袖《そで》を捉《とら》えて引くにふり切れず、今更余計な仕業したりと悔むにもあらず、恐るゝにもあらねど、一生に覚《おぼえ》なき異な心持するにうろつきて、土間に落散る木屑《きくず》なんぞの詰《つま》らぬ者に眼を注ぎ上《あが》り端《はな》に腰かければ、しとやかに下げたる頭《かしら》よくも挙げ得ず。あなたは亀屋《かめや》に御出《おいで》なされた御客様わたくしの難儀を見かねて御救《おすくい》下されたは真《まこと》にあり難けれど、到底《とても》遁《のが》れぬ不仕合《ふしあわせ》と身をあきらめては断念《あきらめ》なかった先程までの愚《おろか》が却《かえ》って口惜《くちおしゅ》う御座りまする、訳《わけ》も申さず斯《こ》う申しては定めて道理の分らぬ奴《やつ》めと御軽侮《おさげすみ》も耻《はずか》しゅうはござりまするし、御慈悲深ければこそ縄まで解《とい》て下さった方に御礼も能《よく》は致さず、無理な願《ねがい》を申すも真《まこと》に苦しゅうは御座りまするが、どうぞわたくしめを元の通りお縛りなされて下さりませと案の外《ほか》の言葉に珠運驚き、是《これ》は/\とんでもなき事、色々入り込んだ訳もあろうがさりとては強面《つれなき》御頼《おたの》み、縛った奴《やつ》を打《ぶ》てとでも云《い》うのならば痩腕《やせうで》に豆|計《ばかり》の力瘤《ちからこぶ》も出しましょうが、いとしゅうていとしゅうて、一日二晩|絶間《たえま》なく感心しつめて天晴《あっぱれ》菩薩《ぼさつ》と信仰して居る御前様《おまえさま》を、縛ることは赤旃檀《しゃくせんだん》に飴細工《あめざいく》の刀で彫《ほり》をするよりまだ難し、一昨日《おととい》の晩忘れて行かれたそれ/\その櫛を見ても合点《がてん》なされ、一体は亀屋の亭主に御前の身の上あらまし聞《きき》て、失礼ながら愍然《かわいそう》な事や、私《わたし》が神か仏ならば、斯《こう》もしてあげたい彼《ああ》もしてやり度《たい》と思いましたが、それも出来ねばせめては心計《こころばかり》、一日肩を凝らして漸《ようや》く其彫《そのほり》をしたも、若《もし》や御髪《おぐし》にさして下さらば一生に又なき名誉、嬉《うれ》しい事と態々《わざわざ》持参して来て見れば他《よそ》にならぬ今のありさま、出過《ですぎ》たかは知りませぬが堪忍がならで縄も手拭も取りましたが、悪いとあらば何とでも謝罪《あやま》りましょ。元の通りに縛れとはなさけなし、鬼と見て我を御頼《おたのみ》か、金輪《こんりん》奈落《ならく》其様《そのよう》な義は御免|蒙《こうむ》ると、心清き男の強く云うをお辰聞ながら、櫛を手にして見れば、ても美しく彫《ほり》に彫《ほっ》たり、厚《あつさ》は僅《わずか》に一分《いちぶ》に足らず、幅は漸《ようや》く二分|計《ばか》り、長さも左《さ》のみならざる棟《むね》に、一重の梅や八重桜、桃はまだしも、菊の花、薄荷《はっか》の花の眼《め》も及ばぬまで濃《こまか》きを浮き彫にして香《にお》う計《ばか》り、そも此人《このひと》は如何《いか》なればかゝる細工をする者ぞと思うに連れて瞳《ひとみ》は通い、竊《ひそか》に様子を伺えば、色黒からず、口元ゆるまず、眉《まゆ》濃からずして末|秀《ひい》で、眼に一点の濁りなきのみか、形状《かたち》の外《ほか》におのずから賎《いや》しからぬ様|露《あらわ》れて、其《その》親切なる言葉、そもや女子《おなご》の嬉《うれ》しからぬ事か。

      中 仁《なさけ》はあつき心念《しんねん》口演《くえん》

 身を断念《あきらめ》てはあきらめざりしを口惜《くちおし》とは云《い》わるれど、笑い顔してあきらめる者世にあるまじく、大抵《たいてい》は奥歯|噛《か》みしめて思い切る事ぞかし、到底《とても》遁《のが》れぬ不仕合《ふしあわせ》と一概に悟られしはあまり浮世を恨みすぎた云い分、道理には合《あ》っても人情には外《はず》れた言葉が御前《おまえ》のその美しい唇《くちびる》から出るも、思えば苦しい仔細《しさい》があってと察しては御前の心も大方は見えていじらしく、エヽ腹立《はらだた》しい三世相《さんぜそう》、何の因果を誰《たれ》が作って、花に蜘蛛《くも》の巣お前に七蔵《しちぞう》の縁じゃやらと、天燈様《てんとうさま》まで憎うてならぬ此《この》珠運《しゅうん》、相談の敵手《あいて》にもなるまいが痒《かゆ》い脊中《せなか》は孫の手に頼めじゃ、なよなよとした其肢体《そのからだ》を縛ってと云うのでない注文ならば天窓《あたま》を破《わ》って工夫も仕様《しよう》が一体まあどうした訳《わけ》か、強《しい》て聞《きく》でも無《なけ》れど此儘《このまま》別れては何とやら仏作って魂入れずと云う様な者、話してよき事ならば聞《きい》た上でどうなりと有丈《あるたけ》の力喜んで尽しましょうと云《いわ》れてお辰《たつ》は、叔父《おじ》にさえあさましき難題《なんだい》云い掛《かけ》らるゝ世の中に赤の他人で是《これ》ほどの仁《なさけ》、胸に堪《こた》えてぞっとする程|嬉《うれ》し悲しく、咽《む》せ返りながら、吃《きっ》と思いかえして、段々の御親切有り難《がとう》は御座りまするが妾《わたくし》身の上話しは申し上ませぬ、否《いい》や申さぬではござりませぬが申されぬつらさを御《お》察し下され、眼上《めうえ》と折り合《あわ》ねば懲《こ》らしめられた計《ばかり》の事、諄々《くどくど》と黒暗《くらやみ》の耻《はじ》を申《もうし》てあなたの様な情《なさけ》知りの御方に浅墓《あさはか》な心入《こころいれ》と愛想《あいそ》つかさるゝもおそろし、さりとて夢さら御厚意|蔑《ないがしろ》にするにはあらず、やさしき御言葉は骨に鏤《きざ》んで七生忘れませぬ、女子《おなご》の世に生れし甲斐《かい》今日知りて此《この》嬉しさ果敢《はか》なや終り初物《はつもの》、あなたは旅の御客、逢《あう》も別れも旭日《あさひ》があの木梢《こずえ》離れぬ内、せめては御荷物なりとかつぎて三戸野《みどの》馬籠《まごめ》あたりまで御肩を休ませ申したけれどそれも叶《かな》わず、斯《こう》云う中《うち》にも叔父様帰られては面倒《めんどう》、どの様な事申さるゝか知れませぬ程にすげなく申すも御身《おんみ》の為《ため》、御迷惑かけては済《すみ》ませぬ故どうか御帰りなされて下さりませ、エヽ千日も万日も止めたき願望《ねがい》ありながら、と跡《あと》の一句は口に洩《も》れず、薄紅《うすくれない》となって顔に露《あらわ》るゝ可愛《かわゆ》さ、珠運の身《み》になってどうふりすてらるべき。仮令《たとい》叔父様が何と云わりょうが下世話にも云う乗りかゝった船、此儘《このまま》左様ならと指を※[#「口+敢」、第3水準1-15-19]《くわ》えて退《の》くはなんぼ上方産《かみがたうまれ》の胆玉《きもだま》なしでも仕憎《しにく》い事、殊更|最前《さいぜん》も云うた通りぞっこん善女《ぜんにょ》と感じて居る御前《おまえ》の憂目《うきめ》を余所《よそ》にするは一寸の虫にも五分の意地が承知せぬ、御前の云わぬ訳も先後《あとさき》を考えて大方は分って居るから兎《と》も角《かく》も私の云事《いうこと》に付《つい》たがよい、悪気でするではなし、私の詞《ことば》を立《たて》て呉《く》れても女のすたるでもあるまい、斯《こう》しましょ、是《これ》からあの正直|律義《りちぎ》は口つきにも聞ゆる亀屋《かめや》の亭主に御前を預けて、金も少しは入るだろうがそれも私がどうなりとして埒《らち》を明《あけ》ましょう、親類でも無い他人づらが要《い》らぬ差出《さしで》た才覚と思わるゝか知らぬが、妹《いもと》という者|持《もっ》ても見たらば斯《こう》も可愛い者であろうかと迷う程いとしゅうてならぬ御前が、眼《め》に見えた艱難《かんなん》の淵《ふち》に沈むを見ては居られぬ、何私が善根|為《し》たがる慾《よく》じゃと笑うて気を大きく持《もつ》がよい、さあ御出《おいで》と取る手、振り払わば今川流、握り占《しめ》なば西洋流か、お辰はどちらにもあらざりし無学の所、無類|珍重《ちんちょう》嬉しかりしと珠運後に語りけるが、それも其時《そのとき》は嘘《うそ》なりしなるべし。

      下 弱《よわき》に施《ほどこ》すに能以無畏《のういむい》

 コレ吉兵衛《きちべえ》、御《お》談義流の御説諭をおれに聞かせるでもなかろう、御気の毒だが道理と命と二つならべてぶんなげの七《しち》様、昔は密男《まおとこ》拐帯《かどわかし》も仕《し》てのけたが、穏当《おとなしく》なって姪子《めいっこ》を売るのではない養女だか妾《めかけ》だか知らぬが百両で縁を切《きっ》で呉《く》れろという人に遣《や》る計《ばかり》の事、それをお辰《たつ》が間夫《まぶ》でもあるか、小間癪《こましゃく》れて先の知れぬ所へ行《ゆく》は否《いや》だと吼顔《ほえづら》かいて逃《にげ》でも仕そうな様子だから、買手の所へ行く間|一寸《ちょっと》縛って置《おい》たのだ、珠運《しゅうん》とかいう二才野郎がどういう続きで何の故障《こしょう》。七《しち》、七、静《しずか》にしろ、一体貴様が分らぬわ、貴様の姪だが貴様と違って宿中《しゅくじゅう》での誉者《ほまれもの》、妙齢《としごろ》になっても白粉《おしろい》一《ひ》トつ付《つけ》ず、盆正月にもあらゝ木の下駄《げた》一足新規に買おうでもないあのお辰、叔父なればとて常不断|能《よく》も貴様の無理を忍んで居る事ぞと見る人は皆、歯切《はぎしり》を貴様に噛《か》んで涙をお辰に飜《こぼ》すは、姑《しゅうと》に凍飯《こおりめし》[#「飯」は底本では「飲」]食わするような冷い心の嫁も、お辰の話|聞《きい》ては急に角《つの》を折ってやさしく夜長の御慰みに玉子湯でもして上《あげ》ましょうかと老人《としより》の機嫌《きげん》を取る気になるぞ、それを先度《せんど》も上田の女衒《ぜげん》に渡そうとした人非人《にんぴにん》め、百両の金が何で要《い》るか知らぬがあれ程の悌順《やさしい》女を金に易《かえ》らるゝ者と思うて居る貴様の心がさもしい、珠運という御客様の仁情《なさけ》が半分汲《く》めたならそんな事|云《い》わずに有難涙《ありがたなみだ》に咽《むせ》びそうな者。オイ、亀屋《かめや》の旦那《だんな》、おれとお吉《きち》と婚礼の媒妁役《なこうどやく》して呉れたを恩に着せるか知らぬが貴様々々は廃《よし》て下され、七七四十九が六十になってもあなたの御厄介《ごやっかい》になろうとは申《もうし》ませぬ、お辰は私の姪、あなたの娘ではなしさ、きり/\此処《ここ》へ御出《おだし》なされ、七が眼尻《めじり》が上《あが》らぬうち温直《すなお》になされた方が御為《おため》かと存じます、それともあなたは珠運とかいう奴《やつ》に頼まれて口をきく計《ばか》りじゃ、おれは当人じゃ無《なけ》れば取計いかねると仰《おっし》ゃるならば其男《そのおとこ》に逢いましょ。オヽ其男御眼にかゝろうと珠運|立出《たちいで》、つく/″\見れば鼻筋通りて眼つきりゝしく、腮《あぎと》張りて一ト癖|確《たしか》にある悪物《しれもの》、膝《ひざ》すり寄せて肩怒らし、珠運とか云う小二才はおのれだな生《なま》弱々しい顔をして能《よく》もお辰を拐帯《かどわか》した、若いには似ぬ感心な腕《うで》、併《しか》し若いの、闘鶏《しゃも》の前では地鶏《じどり》はひるむわ、身の分限を知《しっ》たなら尻尾《しりお》をさげて四の五のなしにお辰を渡して降参しろ。四の五のなしとは結構な仰《おお》せ、私も手短く申しましょうならお辰様を売《うら》せたくなければ御相談。ふざけた囈語《ねごと》は置《おい》てくれ。コレ七、静《しずか》に聞け、どうか売らずと済む工夫をと云うをも待たず。全体|小癪《こしゃく》な旅烏《たびがらす》と振りあぐる拳《こぶし》。アレと走り出《いず》るお辰、吉兵衛も共に止《とめ》ながら、七蔵、七蔵、さてもそなたは智慧《ちえ》の無い男、無理に売《うら》ずとも相談のつきそうな者を。フ相談|付《つか》ぬは知れた事、百両出すなら呉れてもやろうがとお辰を捉《とら》え立上《たちあが》る裙《すそ》を抑え、吉兵衛の云う事をまあ下に居てよく聞け、人の身を売買《うりかい》するというは今日《こんにち》の理に外れた事、娼妓《じょうろ》にするか妾に出すか知らぬが。エヽ喧擾《やかま》しいわ、老耄《おいぼれ》、何にして食おうがおれの勝手、殊更内金二十両まで取って使って仕舞《しま》った、変改《へんがい》はとても出来ぬ大きに御世話、御茶でもあがれとあくまで罵《ののし》り小兎《こうさぎ》攫《つか》む鷲《わし》の眼《まな》ざし恐ろしく、亀屋の亭主も是《これ》までと口を噤《つぐ》むありさま珠運|口惜《くちおし》く、見ればお辰はよりどころなき朝顔の嵐《あらし》に逢《あ》いて露|脆《もろ》く、此方《こなた》に向いて言葉はなく深く礼して叔父に付添《つきそい》立出《たちいず》る二タ足《あし》三足め、又|後《うしろ》ふり向きし其《その》あわれさ、八幡《はちまん》命かけて堪忍ならずと珠運七と呼留《よびと》め、百両物の見事に投出して、亭主お辰の驚《おどろく》にも関《かま》わず、手続《てつづき》油断なく此《この》悪人と善女《ぜんにょ》の縁を切りてめでたし/\、まずは亀屋の養女分となしぬ。
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    第六 如是縁《にょぜえん》

      上 種子《たね》一粒《いちりゅう》が雨露《うろ》に養わる

 自分|妾狂《めかけぐるい》しながら息子《むすこ》の傾城買《けいせいがい》を責《せむ》る人心、あさましき中にも道理ありて、七《しち》の所業|誰《たれ》憎まぬ者なければ、酒|呑《のん》で居ても彼奴《きゃつ》娘の血を吮《す》うて居るわと蔭言《かげごと》され、流石《さすが》の奸物《かんぶつ》も此処《ここ》面白からず、荒屋《あばらや》一《ひ》トつ遺《のこ》して米塩《こめしお》買懸《かいがか》りの云訳《いいわけ》を家主《いえぬし》亀屋《かめや》に迷惑がらせ何処《どこ》ともなく去りける。珠運《しゅうん》も思い掛《がけ》なく色々の始末に七日余り逗留《とうりゅう》して、馴染《なじむ》につけ亭主《ていしゅ》頼もしく、お辰《たつ》可愛《かわゆ》く、囲炉裏《いろり》の傍《はた》に極楽国、迦陵頻伽《かりょうびんが》の笑声《わらいごえ》睦《むつま》じければ客あしらいされざるも却《かえっ》て気楽に、鯛《たい》は無《なく》とも玉味噌《たまみそ》の豆腐汁、心|協《あ》う同志《どし》安らかに団坐《まどい》して食う甘《うま》さ、或《あるい》は山茶《やまちゃ》も一時《いっとき》の出花《でばな》に、長き夜の徒然《つれづれ》を慰めて囲い栗《ぐり》の、皮|剥《むい》てやる一顆《いっか》のなさけ、嬉気《うれしげ》に賞翫《しょうがん》しながら彼も剥《む》きたるを我に呉《く》るゝおかしさ。実《げ》に山里も人情の暖《あたたか》さありてこそ住《すめ》ば都に劣らざれ。さりながら指折り数うれば最早《もはや》幾日か過《すぎ》ぬ、奈良という事|臆《おも》い起しては空《むな》しく遊び居《お》るべきにあらずとある日支度整え勘定促し立出《たちいで》んというに亭主《ていしゅ》呆《あき》れて、是《これ》は是は、婚礼も済《すま》ぬに。ハテ誰が婚礼。知れた事お辰が。誰と。冗談は置玉《おきたま》え。あなたならで誰とゝ云《いわ》れてカッと赤面し、乾きたる舌早く、御亭主こそ冗談は置玉《おきたま》え、私約束したる覚《おぼえ》なし。イヤ怪《け》しからぬ野暮《やぼ》を云《いわ》るゝは都の御方《おかた》にも似ぬ、今時の若者《わかいもの》がそれではならぬ、さりとては百両|投出《なげだし》て七蔵にグッとも云《い》わせなかった捌《さば》き方と違っておぼこな事、それは誰しも耻《はず》かしければ其様《そのよう》にまぎらす者なれど、何も紛《まぎら》すにも及ばず[#「ず」は底本では「す」]、爺《じじ》が身に覚あってチャンと心得てあなたの思わく図星の外れぬ様致せばおとなしく御《お》待《まち》なされと何やら独呑込《ひとりのみこみ》の様子、合点《がてん》ならねば、是是《これこれ》御亭主、勘違い致さるゝな、お辰様をいとしいとこそ思いたれ女房に為様《しよう》なぞとは一厘《いちりん》も思わず、忍びかねて難義を助《たすけ》たる計《ばかり》の事、旅の者に女房授けられては甚《はなは》だ迷惑。ハハハヽア、何の迷惑、器量美しく学問|音曲《おんぎょく》のたしなみ無《なく》とも縫針《ぬいはり》暗からず、女の道自然と弁《わきま》えておとなしく、殿御《とのご》を大事にする事|請合《うけあい》のお辰を迷惑とは、両柱《ふたはしら》の御神以来|図《ず》ない議論、それは表面《うわべ》、真《まこと》を云えば御前の所行《しょぎょう》も曰《いわ》くあってと察したは年の功、チョン髷《まげ》を付《つけ》て居ても粋《すい》じゃ、実《まこと》はおれもお前のお辰に惚《ほれ》たも善《よ》く惚た、お辰が御前に惚たも善く惚たと当世の惚様《ほれよう》の上手なに感心して居るから、媼《ばば》とも相談して支度出来次第婚礼さする積《つもり》じゃ、コレ珠運年寄の云う事と牛の鞦《しりがい》外れそうで外れぬ者じゃ、お辰を女房にもってから奈良へでも京へでも連立《つれだっ》て行きゃれ、おれも昔は脇差《わきざし》に好《このみ》をして、媼も鏡を懐中してあるいた頃《ころ》、一世一代の贅沢《ぜいたく》に義仲寺《ぎちゅうじ》をかけて六条様参り一所《いっしょ》にしたが、旅ほど嚊《かか》が可愛《かわゆ》うておもしろい事はないぞ、いまだに其頃《そのころ》を夢に見て後での話しに、此《この》間も嫗《ばば》に真夜中|頃《ごろ》入歯を飛出さして笑ったぞ、コレ珠運、オイ是は仕《し》たり、孫でも無かったにと罪のなき笑い顔して奇麗なる天窓《あたま》つるりとなでし。

   中 実生《みしょう》二葉《ふたば》は土塊《つちくれ》を抽《ぬ》く

 我今まで恋と云《い》う事|為《し》たる覚《おぼえ》なし。勢州《せいしゅう》四日市にて見たる美人三日|眼前《めさき》にちらつきたるが其《それ》は額に黒痣《ほくろ》ありてその位置《ところ》に白毫《びゃくごう》を付《つけ》なばと考えしなり。東京|天王寺《てんのうじ》にて菊の花片手に墓参りせし艶女《えんじょ》、一週間思い詰《つめ》しが是《これ》も其《その》指つきを吉祥菓《きっしょうか》持《もた》せ玉《たも》う鬼子母神《きしぼじん》に写してはと工夫せしなり。お辰《たつ》を愛《めで》しは修業の足しにとにはあらざれど、之《これ》を妻に妾《めかけ》に情婦《いろ》になどせんと思いしにはあらず、強《し》いて云わば唯《ただ》何となく愛《めで》し勢《いきおい》に乗りて百両は与《あたえ》しのみ、潔白の我《わが》心中を忖《はか》る事出来ぬ爺《じい》めが要《いら》ざる粋立《すいだて》馬鹿《ばか》々々し、一生に一つ珠運《しゅうん》が作意の新仏体を刻まんとする程の願望《のぞみ》ある身の、何として今から妻など持《もつ》べき、殊にお辰は叔父《おじ》さえなくば大尽《だいじん》にも望まれて有福《ゆうふく》に世を送るべし、人は人、我は我の思わくありと決定《けつじょう》し、置手紙にお辰|宛《あ》て少許《すこしばかり》の恩を伽《かせ》に御身《おんみ》を娶《めと》らんなどする賎《いや》しき心は露持たぬ由を認《したた》め、跡は野となれ山路にかゝりてテク/\歩行《あるき》。さても変物、此《この》男木作りかと譏《そし》る者は肉団《にくだん》奴才《どさい》、御釈迦様《おしゃかさま》が女房|捨《すて》て山籠《やまごもり》せられしは、耆婆《きば》も匕《さじ》を投《なげ》た癩病《らいびょう》、接吻《くちづけ》の唇《くちびる》ポロリと落《おち》しに愛想《あいそ》尽《つか》してならんなど疑う儕輩《やから》なるべし、あゝら尊し、尊し、銀の猫《ねこ》捨《すて》た所が西行《さいぎょう》なりと喜んで誉《ほ》むる輩《ともがら》是も却《かえっ》て雪のふる日の寒いのに気が付《つか》ぬ詮義《せんぎ》ならん。人間元より変な者、目盲《めしい》てから其《その》昔拝んだ旭日《あさひ》の美しきを悟り、巴里《パリー》に住んでから沢庵《たくあん》の味を知るよし。珠運は立鳥《たつとり》の跡ふりむかず、一里あるいた頃《ころ》不図《ふと》思い出し、二里あるいた頃珠運様と呼ぶ声、まさしく其人《そのひと》と後《うしろ》見れば何もなし、三里あるいた頃、もしえと袂《たもと》取る様子、慥《たしか》にお辰と見れば又人も居《お》らず、四里あるき、五里六里行き、段々遠くなるに連れて迷う事多く、遂《つい》には其顔見たくなりて寧《いっそ》帰ろうかと一《ひ》ト足|後《あと》へ、ドッコイと一二|町《ちょう》進む内、むか/\と其声|聞度《ききたく》て身体《からだ》の向《むき》を思わずくるりと易《かゆ》る途端|道傍《みちばた》の石地蔵を見て奈良よ/\誤ったりと一町たらずあるく向《むこう》より来る夫婦|連《づれ》の、何事か面白相に語らい行くに我もお辰と会話《はなし》仕度《したく》なって心なく一間《いっけん》許《ばか》り戻《もど》りしを、愚《おろか》なりと悟って半町歩めば我しらず迷《まよい》に三間もどり、十足《とあし》あるけば四足《よあし》戻りて、果《はて》は片足進みて片足戻る程のおかしさ、自分ながら訳も分らず、名物|栗《くり》の強飯《こわめし》売《うる》家《いえ》の牀几《しょうぎ》に腰|打掛《うちかけ》てまず/\と案じ始めけるが、箒木《ははきぎ》は山の中にも胸の中にも、有無分明《うむぶんみょう》に定まらず、此処《ここ》言文一致家に頼みたし。

     下 若木《わかき》三寸で螻《けら》蟻《あり》に害《そこの》う

 世の中に病《やまい》ちょう者なかりせば男心のやさしかるまじ。髭先《ひげさき》のはねあがりたる当世才子、高慢の鼻をつまみ眼鏡《めがね》ゆゝしく、父母干渉の弊害を説《とき》まくりて御異見の口に封蝋《ふうろう》付玉《つけたま》いしを一日粗造のブランディに腸|加答児《カタル》起して閉口|頓首《とんしゅ》の折柄、昔風の思い付、気に入らぬか知らぬが片栗湯《かたくりゆ》こしらえた、食《たべ》て見る気はないかと厚き介抱《かいほう》有難く、へこたれたる腹にお母《ふくろ》の愛情を呑《のん》で知り、是《これ》より三十銭の安西洋料理食う時もケーク丈《だけ》はポッケットに入れて土産《みやげ》となす様になる者ぞ、ゆめ/\美妙なる天の配剤に不足|云《い》うべからずと或人《あるひと》仰せられしは尤《もっとも》なりけり。珠運《しゅうん》馬籠《まごめ》に寒あたりして熱となり旅路の心細く二日|計《ばか》り苦《くるし》む所へ吉兵衛とお辰《たつ》尋ね来《きた》り様々の骨折り、病のよき汐《しお》を見計らいて駕籠《かご》安泰に亀屋《かめや》へ引取り、夜の間も寐ずに美人の看病、藪《やぶ》医者の薬も瑠璃光薬師《るりこうやくし》より尊き善女《ぜんにょ》の手に持たせ玉える茶碗《ちゃわん》にて呑《の》まさるれば何|利《きか》ざるべき、追々《おいおい》快方に赴き、初めてお辰は我身の為《ため》にあらゆる神々に色々の禁物《たちもの》までして平癒せしめ玉えと祷《いの》りし事まで知りて涙|湧《わ》く程|嬉《うれ》しく、一《ひ》ト月あまりに衰《おとろえ》こそしたれ、床を離れて其《その》祝義《しゅうぎ》済みし後、珠運思い切ってお辰の手を取り一間《ひとま》の中《うち》に入り何事をか長らく語らいけん、出《いず》る時女の耳の根《ね》紅《あか》かりし。其翌日男|真面目《まじめ》に媒妁《なこうど》を頼めば吉兵衛笑って牛の鞦《しりがい》と老人《としより》の云う事どうじゃ/\と云さして、元より其《その》支度《したく》大方は出来たり、善は急いで今宵《こよい》にすべし、不思議の因縁でおれの養女分にして嫁|入《いら》すればおれも一トつの善《よ》い功徳をする事ぞとホク/\喜び、忽《たちま》ち下女下男に、ソレ膳《ぜん》を出せ椀《わん》を出せ、アノ銚子《ちょうし》を出せ、なんだ貴様は蝶《ちょう》の折り様《よう》を知らぬかと甥子《おいご》まで叱《しか》り飛《とば》して騒ぐは田舎|気質《かたぎ》の義に進む所なり、かゝる中へ一人の男|来《きた》りてお辰様にと手紙を渡すを見ると斉《ひとし》くお辰あわただしく其男に連立《つれだち》て一寸《ちょっと》と出《いで》しが其まゝもどらず、晩方になりて時刻も来《きた》るに吉兵衛|焦躁《いらっ》て八方を駈廻《かけめぐ》り探索すれば同業の方《かた》に止《とま》り居し若き男と共に立去りしよし。牛の鞦《しりがい》爰《ここ》に外れてモウともギュウとも云うべき言葉なく、何と珠運に云い訳せん、さりとて猥褻《みだら》なる行《おこない》はお辰に限りて無《なか》りし者をと蜘手《くもで》に思い屈する時、先程の男|来《きた》りて再《また》渡す包物《つつみもの》、開《ひらき》て見れば、一筆啓上|仕《つかまつり》候《そうろう》未《いま》だ御意《ぎょい》を得ず候《そうら》え共お辰様身の上につき御|厚情《こうせい》相掛《あいかけ》られし事承り及びあり難く奉存候《ぞんじたてまつりそうろう》さて今日貴殿|御計《おんはからい》にてお辰婚姻取結ばせられ候由|驚入申《おどろきいりもうし》候|仔細《しさい》之《これ》あり御辰様儀婚姻には私|方《かた》故障御座候故従来の御礼|旁《かたがた》罷《まか》り出て相止申《あいとめもうす》べくとも存《ぞんい》候え共《ども》如何《いか》にも場合切迫致し居《お》り且《かつ》はお辰様心底によりては私一存にも参り難《がたく》候|様《よう》の義に至り候ては迷惑に付《つき》甚《はなは》だ唐突不敬なれども実はお辰様を賺《すか》し申し此《この》婚姻|相延《あいのべ》申候よう決行致し候|尚《なお》又《また》近日参上|仕《つかまつ》り入り込《こみ》たる御話し委細|申上《もうしあぐ》べく心得に候え共《ども》差当り先日七蔵に渡され候金百円及び御礼の印までに金百円進上しおき候|間《あいだ》御受納下され度《たく》候|不悉《ふしつ》 亀屋吉兵衛様へ岩沼子爵|家従《けらい》田原栄作《たはらえいさく》とありて末書に珠運様とやらにも此旨《このむね》御|鶴声《かくせい》相伝《あいつたえ》られたく候と筆を止《とど》めたるに加えて二百円何だ紙なり。
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    第七 如是報《にょぜほう》

     我は飛《とび》来《き》ぬ他化自在天宮《たけじざいてんぐう》に

 オヽお辰《たつ》かと抱き付かれたる御方《おかた》、見れば髯《ひげ》うるわしく面《おもて》清く衣裳《いしょう》立派なる人。ハテ何処《どこ》にてか会いたる様《よう》なと思いながら身を縮まして恐々《おそるおそる》振り仰ぐ顔に落来《おちく》る其《その》人の涙の熱さ、骨に徹して、アヽ五日前一生の晴の化粧と鏡に向うた折会うたる我に少しも違わず扨《さて》は父様《ととさま》かと早く悟りてすがる少女《おとめ》の利発さ、是《これ》にも室香《むろか》が名残の風情《ふぜい》忍ばれて心強き子爵も、二十年のむかし、御機嫌《ごきげん》よろしゅうと言葉|後《じり》力なく送られし時、跡ふりむきて今|一言《ひとこと》交《かわ》したかりしを邪見に唇|囓切《かみしめ》て女々《めめ》しからぬ風《ふり》誰《たが》為《ため》にか粧《よそお》い、急がでもよき足わざと早めながら、後《うしろ》見られぬ眼《め》を恨《うら》みし別離《わかれ》の様まで胸に浮《うか》びて切《せつ》なく、娘、ゆるしてくれ、今までそなたに苦労させたは我《わが》誤り、もう是からは花も売《うら》せぬ、襤褸《つづれ》も着せぬ、荒き風を其《その》身体《からだ》にもあてさせぬ、定めしおれの所業《しわざ》をば不審もして居たろうがまあ聞け、手前の母に別れてから二三日の間実は張り詰《つめ》た心も恋には緩《ゆる》んで、夜深《よふか》に一人月を詠《なが》めては人しらぬ露|窄《せま》き袖《そで》にあまる陣頭の淋《さび》しさ、又は総軍の鹿島立《かしまだち》に馬蹄《ばてい》の音高く朝霧を蹴《け》って勇ましく進むにも刀の鐺《こじり》引《ひ》かるゝように心たゆたいしが、一封の手簡《てがみ》書く間もなきいそがしき中、次第に去る者の疎《うと》くなりしも情合《じょうあい》の薄いからではなし、軍事の烈《はげ》しさ江戸に乗り込んで足溜《あしだま》りもせず、奥州《おうしゅう》まで直押《ひたおし》に推す程の勢《いきおい》、自然と焔硝《えんしょう》の煙に馴《なれ》ては白粉《おしろい》の薫《かお》り思い出《いだ》さず喇叭《らっぱ》の響に夢を破れば吾妹子《わぎもこ》が寝くたれ髪の婀娜《あだ》めくも眼前《めさき》にちらつく暇《いとま》なく、恋も命も共に忘れて敗軍の無念には励《はげ》み、凱歌《かちどき》の鋭気には乗じ、明《あけ》ても暮《くれ》ても肘《ひじ》を擦《さす》り肝《きも》を焦がし、饑《うえ》ては敵の肉に食《くら》い、渇しては敵の血を飲まんとするまで修羅《しゅら》の巷《ちまた》に阿修羅《あしゅら》となって働けば、功名|一《ひ》トつあらわれ二ツあらわれて総督の御覚《おんおぼ》えめでたく追々《おいおい》の出世、一方の指揮となれば其任|愈《いよいよ》重く、必死に勤めけるが仕合《しあわせ》に弾丸《たま》をも受けず皆々|凱陣《がいじん》の暁、其方《そのほう》器量学問見所あり、何某《なにがし》大使に従って外国に行き何々の制度|能々《よくよく》取調べ帰朝せば重く挙《あげ》用《もちい》らるべしとの事、室香に約束は違《たが》えど大丈夫青雲の志|此時《このとき》伸《のぶ》べしと殊に血気の雀躍《こおどり》して喜び、米国より欧州に前後七年の長逗留《ながとうりゅう》、アヽ今頃《いまごろ》は如何《どう》して居おるか、生れた子は女か、男か、知らぬ顔に、知られぬ顔、早く頬摺《ほおずり》して膝《ひざ》の上に乗せ取り、護謨《ゴム》人形空気鉄砲珍らしき手玩具《おもちゃ》数々の家苞《いえづと》に遣《や》って、喜ぶ様子見たき者と足をつま立《だ》て三階四階の高楼《たかどの》より日本の方角|徒《いたず》らに眺《ながめ》しも度々なりしが、岩沼卿《いわぬまきょう》と呼《よば》せらるる尊《たっと》き御身分の御方《おんかた》、是も御用にて欧州に御滞在中、数ならぬ我を見たて御子《おんこ》なき家の跡目に坐《すわ》れとのあり難き仰せ、再三|辞《いな》みたれど許されねば辞《いなみ》兼《かね》て承知し、共々|嬉《うれ》しく帰朝して我は軽《かろ》からぬ役を拝命する計《ばかり》か、終《つい》に姓を冒して人に尊まるゝに付《つい》てもそなたが母の室香が情《なさけ》何忘るべき、家来に吩附《いいつけ》て段々|糺《ただ》せば、果敢《はか》なや我と楽《たのしみ》は分《わ》けで、彼岸《かのきし》の人と聞くつらさ、何年の苦労一トつは国の為《ため》なれど、一トつは色紙《しきし》のあたった小袖《こそで》着て、塗《ぬり》の剥《はげ》た大小さした見所もなき我を思い込んで女の捨難《すてがた》き外見《みえ》を捨て、譏《そしり》を関《かま》わず危《あやう》きを厭《いと》わず、世を忍ぶ身を隠匿《かくまい》呉《く》れたる志、七生忘れられず、官軍に馳《はせ》参《さん》ぜんと、決心した我すら曇り声に云《い》い出《いだ》せし時も、愛情の涙は瞼《まぶた》に溢《あふ》れながら義理の詞《ことば》正しく、予《かね》ての御本望|妾《わたくし》めまで嬉《うれしゅ》う存じますと、無理な笑顔《えがお》も道理なれ明日知らぬ命の男、それを尚《なお》も大事にして余りに御髪《おぐし》のと髯《ひげ》月代《さかやき》人手にさせず、後《うしろ》に廻《まわ》りて元結《もとゆい》も〆力《しめちから》なき悲しさを奥歯に噛《か》んできり/\と見苦しからず結うて呉れたる計《ばかり》か、おのが頭《かしら》にさしたる金簪《きんかんざし》まで引抜き温《ぬく》みを添えて売ってのみ、我身のまわり調度にして玉《たま》わりし大事の/\女房に満足させて、昔の憂《う》きを楽《たのしみ》に語りたさの為《ため》なりしに、情無《なさけなく》も死なれては、花園《はなぞの》に牡丹《ぼたん》広々と麗《うるわ》しき眺望《ながめ》も、細口の花瓶に唯《ただ》二三輪の菊古流しおらしく彼が生《いけ》たるを賞《ほ》め、賞《ほめ》られて二人《ふたり》の微笑《ほほえみ》四畳半に籠《こも》りし時程は、今つくねんと影法師相手に独《ひとり》見る事の面白からず、栄華を誰《たれ》と共に、世も是迄《これまで》と思い切って後妻《のちぞい》を貰《もら》いもせず、さるにても其子|何処《どこ》ぞと種々《さまざま》尋ねたれど漸《ようや》くそなたを里に取りたる事ある嫗《ばば》より、信濃《しなの》の方へ行かれたという噂《うわさ》なりしと聞出《ききいだ》したる計《ばか》り、其筋の人に頼んでも何故《なにゆえ》か分らず、我《われ》外《ほか》に子なければ年老《としおい》る丈《だ》け愈《いよいよ》恋しく信州にのみ三人も家従《けらい》をやって捜《さが》させたるに、辛《から》くも田原が探し出《いだ》して七蔵《しちぞう》という悪者よりそなた貰《もら》い受けんとしたるに、如何《どう》いう訳か邪魔|入《いり》て間もなくそなたは珠運《しゅうん》とか云う詰《つま》らぬ男に、身を救われたる義理づくやら亀屋《かめや》の亭主の圧制やら、急に婚礼するというに、一旦《いったん》帰京《かえっ》て二度目にまた丁度《ちょうど》行き着《つき》たる田原が聞《きい》て狼狽《ろうばい》し、吾《わが》書捨《かきすて》て室香に紀念《かたみ》と遺《のこ》せし歌、多分そなたが知《しっ》て居るならんと手紙の末に書《かき》し頓智《とんち》に釣《つ》り出《いだ》し、それから無理に訳も聞かせず此処《ここ》まで連《つれ》て来たなれば定めし驚いたでもあろうが少しも恐るゝ事はなし、亀屋の方は又々田原をやって始末する程に是からは岩沼子爵の立派な娘、行儀学問も追々覚えさして天晴《あっぱれ》の婿《むこ》取り、初孫《ういまご》の顔でも見たら夢の中《うち》にそなたの母に逢《あ》っても云訳《いいわけ》があると今からもう嬉《うれし》くてならぬ、それにしても髪とりあげさせ、衣裳《いしょう》着かゆさすれば、先刻《さっき》内々戸の透《すき》から見たとは違って、是程までに美しいそなたを、今まで木綿|布子《ぬのこ》着せて置《おい》た親の耻《はずか》しさ、小間物屋も呼《よば》せたれば追付《おっつけ》来《くる》であろう、櫛《くし》簪《かんざし》何なりと好《すき》なのを取れ、着物も越後屋《えちごや》に望《のぞみ》次第|云付《いいつけ》さするから遠慮なくお霜《しも》を使《つか》え、あれはそなたの腰元だから先刻《さっき》の様《よう》に丁寧《ていねい》に辞義なんぞせずとよい、芝屋や名所も追々に見せましょ。舞踏会《ぶとうかい》や音楽会へも少し都風《みやこふう》が分って来たら連《つれ》て行《ゆき》ましょ。書物は読《よめ》るかえ、消息往来|庭訓《ていきん》までは習ったか、アヽ嬉しいぞ好々《よしよし》、学問も良い師匠を付《つけ》てさせようと、慈愛は尽《つき》ぬ長物語り、扨《さて》こそ珠運が望み通り、此《この》女菩薩《にょぼさつ》果報めでたくなり玉いしが、さりとては結構づくめ、是は何とした者。
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    第八 如是力《にょぜりき》

    上 楞厳呪文《りょうごんじゅもん》の功も見えぬ愛慾《あいよく》

 古風作者《こふうさくしゃ》の書《かき》そうな話し、味噌越《みそこし》提げて買物あるきせしあのお辰《たつ》が雲の上人《うえびと》岩沼《いわぬま》子爵《ししゃく》様《さま》の愛娘《まなむすめ》と聞《きい》て吉兵衛仰天し、扨《さて》こそ神も仏も御座る世じゃ、因果|覿面《てきめん》地ならしのよい所に蘿蔔《だいこ》は太りて、身持《みもち》のよい者に運の実がなる程理に叶《かなっ》た幸福と無上に有難がり嬉《うれ》しがり、一も二もなく田原の云事《いうこと》承知して、おのが勧めて婚姻さし懸《かけ》たは忘れたように何とも云わず物思わしげなる珠運《しゅうん》の腹《はら》聞《きか》ずとも知れてると万端|埒《らち》明け、貧女を令嬢といわるゝように取計《とりはから》いたる後、先日の百両|突戻《つきもど》して、吾《われ》当世の道理は知《しら》ねど此様《このよう》な気に入らぬ金受取る事|大嫌《だいきらい》なり、珠運様への百両は慥《たしか》に返したれど其人《そのひと》に礼もせぬ子爵から此《この》親爺《おやじ》が大枚《たいまい》の礼|貰《もらう》は煎豆《いりまめ》をまばらの歯で喰《く》えと云わるゝより有難迷惑、御返し申《もうし》ますと率直に云えば、否《いや》それは悪い合点《がてん》、一酷《いっこく》にそう云われずと子爵からの御志、是非|御取置《おとりおき》下され、珠運様には別に御礼を申《もうし》ますが姿の見えぬは御|立《たち》なされたか、ナニ奥の坐敷《ざしき》に。左様《さよう》なら一寸《ちょっと》と革嚢《カバン》さげて行《ゆき》かゝれば亭主《ていしゅ》案内するを堅く無用と止めながら御免なされと唐襖《からかみ》開きて初対面の挨拶《あいさつ》了《おわ》りお辰素性のあらまし岩沼子爵の昔今を語り、先頃《さきごろ》よりの礼厚く演《のべ》て子爵より礼の餽《おく》り物数々、金子《きんす》二百円、代筆ならぬ謝状、お辰が手紙を置列《おきなら》べてひたすら低頭平身すれば珠運少しむっとなり、文《ふみ》丈《だ》ケ受取りて其他には手も付《つけ》ず、先日の百両まで其処《そこ》に投出し顔しかめて。御持帰《おもちかえ》り下さい、面白からぬ御所置、珠運の為《し》た事を利を取ろう為《ため》の商法と思われてか片腹痛し、些許《ちとばかり》の尽力したるも岩沼令嬢の為にはあらず、お辰いとしと思うてばかりの事、夫《それ》より段々|馴染《なじむ》につけ、縁あればこそ力にもなりなられて互《たがい》に嬉敷《うれしく》心底打明け荷物の多きさえ厭《いと》う旅路の空に婚礼までして女房に持とうという間際になりて突然《だしぬけ》に引攫《ひきさら》い人の恋を夢にして貘《ばく》に食《くわ》せよという様《よう》な情《なさけ》なきなされ方、是はまあどうした訳と二三日は気抜《きぬけ》する程恨めしくは存じたれど、只今《ただいま》承れば御親子《ごしんし》の間柄、大切の娘御を私風情の賎《いやし》き者に嫁入《よめいら》してはと御家従《ごけらい》のあなたが御心配なすッて連《つれ》て行《ゆか》れたも御道理、決して私めが僣上《せんじょう》に岩沼子爵の御令嬢をどうのこうのとは申《もうし》ませぬから、金円品物は吃度《きっと》御持帰り下され、併《しか》しまざ/\と夫婦約束までしたあの花漬売《はなづけうり》は、心さえ変らねばどうしても女房に持つ覚悟、十二月に御嶽《おんたけ》の雪は消ゆる事もあれ此念《このおもい》は消《きえ》じ、アヽ否《いや》なのは岩沼令嬢、恋しいは花漬売と果《はて》は取乱《とりみだ》して男の述懐《じゅっかい》。爰《ここ》ぞ肝要、御主人の仰せ受《うけ》て来た所なり。よしや此恋|諏訪《すわ》の湖《うみ》の氷より堅くとも春風のぼや/\と説きやわらげ、凝りたる思《おもい》を水に流さし、後々の故障なき様にせではと田原は笑顔《えがお》あやしく作り上唇《うわくちびる》屡《しば》甞《なめ》ながら、それは一々至極の御道理、さりとて人間を二つにする事も出来ず、お辰様が再度《また》花漬売にならるゝ瀬も無《なか》るべければ、詰りあなたの無理な御望《おのぞみ》と云者《いうもの》、あなたも否《いや》なのは岩沼令嬢と仰せられて見ると、まさか推して子爵の婿になろうとの思召《おぼしめし》でも御座るまいが、夫婦約束までなさったとて婚礼の済《すみ》たるでもなし、お辰様も今の所ではあなたを恋しがって居らるゝ様子なれど、思想の発達せぬ生《なま》若い者の感情、追付《おっつけ》変って来るには相違ないと殿様の仰せ、行末は似つかわしい御縁を求めて何《いず》れかの貴族の若公《わかぎみ》を納《いれ》らるゝ御積り、是《これ》も人の親の心になって御考《おかんがえ》なされて見たら無理では無いと利発のあなたにはよく御了解《おわかり》で御座りましょう、箇様《かよう》申せばあなたとお辰様の情交《あいなか》を割《さ》く様にも聞えましょうが、花漬売としてこそあなたも約束をなされたれ、詰る所成就|覚束《おぼつか》なき因縁、男らしゅう思い切られたが双方《そのほう》の御為《おため》かと存じます、併《しか》しお辰様には大恩あるあなたを子爵も何でおろそかに思われましょう、されば是等《これら》の餽物《おくりもの》親御からなさるゝは至当の事、受取らぬと仰《おっしゃ》ったとて此儘《このまま》にはならず、どうか条理の立様《たつよう》御分別なされて、枉《まげ》ても枉《まげ》ても、御受納と舌《した》小賢《こざか》しく云迯《いいにげ》に東京へ帰ったやら、其後|音沙汰《おとさた》なし。さても浮世や、猛《たけ》き虎《とら》も樹《き》の上の猿《さる》には侮られて位置の懸隔を恨むらん、吾《われ》肩書に官爵あらば、あの田原の額に畳の跡深々と付《つけ》さし、恐惶謹言《きょうこうきんげん》させて子爵には一目置《いちもくおい》た挨拶《あいさつ》させ差詰《さしづめ》聟殿《むこどの》と大切がられべきを、四民同等の今日とて地下《じげ》と雲上《うんじょう》の等差《ちがい》口惜し、珠運を易《やす》く見積って何百円にもあれ何万円にもあれ札《さつ》で唇にかすがい膏打《こううつ》ような処置、遺恨千万、さりながら正四位《しょうしい》何の某《なにがし》とあって仏師彫刻師を聟《むこ》には為《し》たがらぬも無理ならぬ人情、是非もなけれど抑々《そもそも》仏師は光孝《こうこう》天皇|是忠《これただ》の親王等の系に出《いで》て定朝《じょうちょう》初めて綱位《こうい》を受《う》け、中々《なかなか》賎《いやし》まるべき者にあらず、西洋にては声なき詩の色あるを絵と云い、景なき絵の魂|凝《こり》しを彫像と云う程|尊《たっと》む技を為《な》す吾《われ》、ミチエルアンジロにもやはか劣るべき、仮令《たとい》令嬢の夫たるとも何の不都合あるべきとは云え、蝸牛《ででむし》の角立《つのだて》て何の益なし、残念や無念やと癇癪《かんしゃく》の牙《きば》は噛《か》めども食付《くいつく》所なければ、尚《なお》一段の憤悶《ふんもん》を増して、果《はて》は腑甲斐《ふがい》なき此身|惜《おし》からずエヽ木曾川の逆巻《さかまく》水に命を洗ってお辰見ざりし前に生れかわりたしと血相|変《かわ》る夜半《よわ》もありし。

    下 化城諭品《けじょうゆぼん》の諫《いさめ》も聴《きか》ぬ執着《しゅうじゃく》

 痩《やせ》たりや/\、病気|揚句《あげく》を恋に責《せめ》られ、悲《かなしみ》に絞られて、此身細々と心|引立《ひきたた》ず、浮藻《うきも》足をからむ泥沼《どろぬま》の深水《ふかみ》にはまり、又は露多き苔道《こけみち》をあゆむに山蛭《やまびる》ひいやりと襟《えり》に落《おつ》るなど怪しき夢|計《ばかり》見て覚際《さめぎわ》胸あしく、日の光さえ此頃《このごろ》は薄うなったかと疑うまで天地を我につれなき者の様《よう》恨む珠運《しゅうん》、旅路にかりそめの長居《ながい》、最早《もはや》三月《みつき》近くなるにも心|付《つか》ねば、まして奈良[#「良」は底本では「見」]へと日課十里の行脚《あんぎゃ》どころか家内《やうち》をあるく勇気さえなく、昼は転寝《うたたね》勝《がち》に時々|怪《け》しからぬ囈語《うわごと》しながら、人の顔見ては戯談《じょうだん》一《ひ》トつ云わず、にやりともせず、世は漸《ようや》く春めきて青空を渡る風|長閑《のどか》に、樹々《きぎ》の梢《こずえ》雪の衣脱ぎ捨て、家々の垂氷《たるひ》いつの間にか失《う》せ、軒伝う雫《しずく》絶間《たえま》なく白い者|班《まばら》に消えて、南向《みなみむき》の藁《わら》屋根は去年《こぞ》の顔を今年初めて露《あらわ》せば、霞《かす》む眼《め》の老《おい》も、やれ懐かしかったと喜び、水は温《ぬる》み下草は萌《も》えた、鷹《たか》はまだ出ぬか、雉子《きじ》はどうだと、終《つい》に若鮎《わかあゆ》の噂《うわさ》にまで先走りて若い者は駒《こま》と共に元気|付《づき》て来る中に、さりとてはあるまじき鬱《ふさ》ぎ様《よう》。此《この》跡ががらりと早変りして、さても/\和御寮《わごりょ》は踊る振《ふり》が見たいか、踊る振が見たくば、木曾路に御座れのなど狂乱の大陽気《おおようき》にでも成《なら》れまい者でもなしと亀屋《かめや》の爺《おやじ》心配し、泣くな泣きゃるな浮世は車、大八の片輪《かたわ》田の中に踏込んだ様《よう》にじっとして、くよ/\して居るよりは外をあるいて見たら又どんな女に廻《めぐ》り合《あう》かもしれぬ、目印の柳の下で平常《ふだん》魚は釣《つ》れぬ代り、思いよらぬ蛤《はまぐり》の吸物から真珠を拾い出すと云う諺《ことわざ》があるわ、腹を広く持て、コレ若いの、恋は他《ほか》にもある者を、と詞《ことば》おかしく、兀頭《はげあたま》の脳漿《のうみそ》から天保度《てんぽうど》の浮気論主意書《うわきろんしゅいがき》という所を引抽《ひきぬ》き、黴《かび》の生《はえ》た駄洒落《だじゃれ》を熨斗《のし》に添《そえ》て度々進呈すれど少しも取り容《い》れず、随分面白く異見を饒舌《しゃべ》っても、却《かえ》って珠運が溜息《ためいき》の合《あい》の手の如《ごと》くなり、是では行かぬと本調子整々堂々、真面目《まじめ》に理屈《りくつ》しんなり諄々《くどくど》と説諭すれば、不思議やさしも温順《おとなし》き人、何にじれてか大薩摩《おおざつま》ばりばりと語気|烈《はげ》しく、要《い》らざる御心配無用なりうるさしと一トまくりにやりつけられ敗走せしが、関《かま》わず置《おけ》ば当世|時花《はや》らぬ恋の病になるは必定、如何《どう》にかして助けてやりたいが、ハテ難物じゃ、それとも寧《いっそ》、経帷子《きょうかたびら》で吾家《わがや》を出立《しゅったつ》するようにならぬ内|追払《おっぱら》おうか、さりとては忍び難し、なまじお辰と婚姻を勧めなかったら兎《と》も角《かく》も、我口《わがくち》から事|仕出《しいだ》した上は我《わが》分別で結局《つまり》を付《つけ》ねば吉兵衛も男ならずと工夫したるはめでたき気象《きしょう》ぞかし。年《とし》は老《と》るべきもの流石《さすが》古兵《ふるつわもの》の斥候《ものみ》虚実の見所誤らず畢竟《ひっきょう》手に仕業《しわざ》なければこそ余計な心が働きて苦《くるし》む者なるべしと考えつき、或日《あるひ》珠運に向って、此日本一果報男め、聞玉《ききたま》え我昨夜の夢に、金襖《きんぶすま》立派なる御殿の中《うち》、眼《め》もあやなる美しき衣裳《いしょう》着たる御姫様床の間に向って何やらせらるゝ其《その》鬢付《びんつき》襟足《えりあし》のしおらしさ、後《うしろ》からかぶりついてやりたき程、もう二十年若くば唯《ただ》は置《おけ》ぬ品物めと腰は曲っても色に忍び足、そろ/\と伺いより椽側《えんがわ》に片手つきてそっと横顔拝めば、驚《おどろい》たりお辰、花漬売に百倍の奇麗をなして、殊更|憂《うれい》を含む工合《ぐあい》凄味《すごみ》あるに総毛立《そうけだち》ながら尚《なお》能《よ》くそこら見廻《みまわ》せば、床に掛《かけ》られたる一軸|誰《たれ》あろうおまえの姿絵|故《ゆえ》少し妬《ねた》くなって一念の無明《むみょう》萌《きざ》す途端、椽の下から顕《あらわ》れ出《いで》たる八百八狐《はっぴゃくやぎつね》付添《つきそい》て己[#「己」は底本では「已」]《おれ》の踵《かかと》を覗《ねら》うから、此奴《こやつ》たまらぬと迯出《にげだ》す後《うしろ》から諏訪法性《すわほっしょう》の冑《かぶと》だか、粟《あわ》八升も入る紙袋《かんぶくろ》だかをスポリと被《かぶ》せられ、方角さらに分らねば頻《しきり》と眼玉を溌々《ぱちぱち》したらば、夜具の袖《そで》に首を突込《つっこ》んで居たりけりさ、今の世の勝頼《かつより》さま、チト御驕《おおご》りなされ、アハヽヽと笑い転《ころ》げて其儘《そのまま》坐敷《ざしき》をすべり出《いで》しが、跡は却《かえっ》て弥《いや》寂《さび》しく、今の話にいとゞ恋しさまさりて、其事《そのこと》彼事《かのこと》寂然《じゃくねん》と柱に※[#「憑」の「心」に代えて「几」、第4水準2-3-20]《もた》れながら思ううち、瞼《まぶた》自然とふさぐ時あり/\とお辰の姿、やれまてと手を伸《のば》して裙《すそ》捉《とら》えんとするを、果敢《はか》なや、幻の空に消えて遺《のこ》るは恨《うらみ》許《ばか》り、爰《ここ》にせめては其|面影《おもかげ》現《うつつ》に止《とど》めんと思いたち、亀屋の亭主《ていしゅ》に心|添《そえ》られたるとは知らで自《みずから》善事《よきこと》考え出《いだ》せし様《よう》に吉兵衛に相談すれば、さて無理ならぬ望み、閑静なる一間《ひとま》欲《ほ》しとならばお辰|住居《すまい》たる家|尚《なお》能《よか》らん、畳さえ敷けば細工部屋にして精々《せいぜい》一ト月位|住《すま》うには不足なかるべし、ナニ話に来るは謝絶《ことわる》と云わるゝか、それも承知しました、それならば食事を賄《まかな》うより外に人を通わせぬよう致しますか、然《しか》し余り牢住居《ろうずまい》の様《よう》ではないか、ムヽ勝手とならば仕方がない、新聞|丈《だ》けは節々《せつせつ》上《あげ》ましょう、ハテ要《い》らぬとは悪い合点《がてん》、気の尽《つき》た折は是非世間の面白|可笑《おかし》いありさまを見るがよいと、万事親切に世話して、珠運が笑《えま》し気《げ》に恋人の住《すみ》し跡に移るを満足せしが、困りしは立像刻む程の大きなる良《よき》木なく百方|索《さが》したれど見当らねば厚き檜《ひのき》の大きなる古板を与えぬ。
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    第九 如是果《にょぜか》

 上 既《すで》に仏体《ぶったい》を作りて未得《みとく》安心《あんしん》

 勇猛《ゆうみょう》精進潔斎怠らず、南無帰命頂礼《なむきみょうちょうらい》と真心を凝《こら》し肝胆《かんたん》を砕きて三拝|一鑿《いっさく》九拝一刀、刻み出《いだ》せし木像あり難や三十二|相《そう》円満の当体《とうたい》即仏《そくぶつ》、御利益《ごりやく》疑《うたがい》なしと腥《なまぐさ》き和尚様《おしょうさま》語られしが、さりとは浅い詮索《せんさく》、優鈿《うでん》大王《だいおう》とか饂飩《うどん》大王《だいおう》とやらに頼まれての仕事《しわざ》、仏師もやり損じては大変と額に汗流れ、眼中に木片《ききれ》の飛込《とびこむ》も構わず、恐れ惶《かしこ》みてこそ作りたれ、恭敬三昧《きょうけいざんまい》の嬉《うれし》き者ならぬは、御本尊様の前の朝暮《ちょうぼ》の看経《かんきん》には草臥《くたびれ》を喞《かこ》たれながら、大黒《だいこく》の傍《そば》に下らぬ雑談《ぞうだん》には夜の更《ふく》るをも厭《いと》い玉わざるにても知るべしと、評せしは両親を寺参りさせおき、鬼の留守に洗濯する命じゃ、石鹸《シャボン》玉|泡沫《ほうまつ》夢幻《むげん》の世に楽を為《せ》では損と帳場の金を攫《つか》み出して御歯涅《おはぐろ》溝《どぶ》の水と流す息子なりしとかや。珠運《しゅうん》は段々と平面板《ひらいた》に彫浮《ほりうか》べるお辰《たつ》の像、元より誰《たれ》に頼まれしにもあらねば細工料取らんとにもあらず、唯《ただ》恋しさに余りての業、一刀《いっとう》削《けずり》ては暫《しばら》く茫然《ぼうぜん》と眼《め》を瞑《ふさ》げば花漬《はなづけ》めせと矯音《きょうおん》を洩《もら》す口元の愛らしき工合《ぐあい》、オヽそれ/\と影を促《とら》えて再《また》一《ひ》ト刀《かたな》、一ト鑿《のみ》突いては跡ずさりして眺《なが》めながら、幾日の恩愛|扶《たす》けられたり扶けたり、熱に汗蒸れ垢《あか》臭き身体《からだ》を嫌《いや》な様子なく柔《やさ》しき手して介抱し呉《くれ》たる嬉しさ今は風前の雲と消えて、思《おもい》は徒《いたずら》に都の空に馳《は》する事悲しく、なまじ最初お辰の難を助けて此家《このいえ》を出し其折《そのおり》、留《とど》められたる袖《そで》思い切《きっ》て振払いしならばかくまでの切なる苦《くるしみ》とはなるまじき者をと、恋しを恨む恋の愚痴、吾《われ》から吾を弁《わきま》え難く、恍惚《うっとり》とする所へ著《あらわ》るゝお辰の姿、眉付《まゆつき》媚《なまめ》かしく生々《いきいき》として睛《ひとみ》、何の情《じょう》を含みてか吾《わが》与《あた》えし櫛《くし》にジッと見とれ居る美しさ、アヽ此処《ここ》なりと幻像《まぼろし》を写して再《また》一鑿《ひとのみ》、漸《ようや》く二十日を越えて最初の意匠誤らず、花漬売の時の襤褸《つづれ》をも著《き》せねば子爵令嬢の錦をも着せず、梅桃桜菊色々の花綴衣《はなつづりぎぬ》麗しく引纏《ひきまとわ》せたる全身像|惚《ほれ》た眼からは観音の化身《けしん》かとも見れば誰《たれ》に遠慮なく後光輪《ごこう》まで付《つけ》て、天女の如《ごと》く見事に出来上り、吾《われ》ながら満足して眷々《ほれぼれ》とながめ暮《くら》せしが、其夜の夢に逢瀬《おうせ》平常《いつも》より嬉しく、胸あり丈《た》ケの口説《くぜつ》濃《こまやか》に、恋|知《しら》ざりし珠運を煩悩《ぼんのう》の深水《ふかみ》へ導きし笑窪《えくぼ》憎しと云えば、可愛《かわゆ》がられて喜ぶは浅し、方様《かたさま》に口惜しい程憎まれてこそ誓文《せいもん》移り気ならぬ真実を命|打込《うちこ》んで御見せ申《もうし》たけれ。扨《さて》は迷惑、一生|可愛《かわゆ》がって居様《いよう》と思う男に。アレ嘘《うそ》、後先|揃《そろ》わぬ御言葉、どうでも殿御は口上手と、締りなく睨《にら》んで打《ぶ》つ真似にちょいとあぐる、繊麗《きゃしゃ》な手首|緊《しっか》りと捉《とらえ》て柔《やわらか》に握りながら。打《ぶた》るゝ程憎まれてこそ誓文《せいもん》命|掛《かけ》て移り気ならぬ真実をと早速の鸚鵡《おうむ》返し、流石《さすが》は可笑《おか》しくお辰笑いかけて、身を縮め声低く、此《この》手を。離さぬが悪いか。ハイ。これは/\く大きに失礼と其儘《そのまま》離してひぞる真面目《まじめ》顔を、心配相に横から覗《のぞ》き込めば見られてすまし難《がた》く其眼を邪見に蓋《ふた》せんとする平手、それを握りて、離さぬが悪いかと男詞《おとこことば》、後《あと》は協音《きょうおん》の笑《わらい》計《ばか》り残る睦《むつま》じき中に、娘々《むすめむすめ》と子爵の※[#「金+肅」、第3水準1-93-39]声《さびごえ》。目《め》覚《さむ》れば昨宵《ゆうべ》明放《あけはな》した窓を掠《かす》めて飛ぶ烏《からす》、憎や彼奴《あれめ》が鳴いたのかと腹立《はらだた》しさに振向く途端、彫像のお辰夢中の人には遙《はるか》劣りて身を掩《おお》う数々の花うるさく、何処《どこ》の唐草《からくさ》の精霊《ばけもの》かと嫌《いや》になったる心には悪口も浮《うか》み来《きた》るに、今は何を着すべしとも思い出《いだ》せず工夫錬り練り刀を礪《と》ぎぬ。

   下 堅く妄想《もうそう》を捏《でつ》して自覚|妙諦《みょうたい》

 腕を隠せし花一輪削り二輪削り、自己《おの》が意匠の飾《かざり》を捨て人の天真の美を露《あら》わさんと勤めたる甲斐《かい》ありて、なまじ着せたる花衣|脱《ぬが》するだけ面白し。終《つい》に肩のあたり頸筋《くびすじ》のあたり、梅も桜も此《この》君の肉付《にくづき》の美しきを蔽《おお》いて誇るべき程の美しさあるべきやと截《た》ち落《おと》し切り落し、むっちりとして愛らしき乳首、是《これ》を隠す菊の花、香も無き癖《くせ》に小癪《こしゃく》なりきと刀|急《せわ》しく是も取って払い、可笑《おかし》や珠運《しゅうん》自ら為《し》たる業《わざ》をお辰《たつ》の仇《あだ》が為《し》たる事の様《よう》に憎み今刻み出《いだ》す裸体《はだかみ》も想像の一塊《いっかい》なるを実在《まこと》の様に思えば、愈々《いよいよ》昨日は愚《おろか》なり玉の上に泥絵具《どろえのぐ》彩りしと何が何やら独り後悔|慚愧《ざんき》して、聖書の中へ山水天狗楽書《やまみずてんぐらくがき》したる児童が日曜の朝|字消護謨《じけしゴム》に気をあせる如《ごと》く、周章|狼狽《ろうばい》一生懸命|刀《とう》は手を離れず、手は刀を離さず、必死と成《なっ》て夢我《むが》夢中、きらめく刃《やいば》は金剛石の燈下に転《まろ》ぶ光きら/\截切《たちき》る音は空《そら》駈《かく》る矢羽《やばね》の風を剪《き》る如く、一足|退《すさ》って配合《つりあい》を見《み》糺《ただ》す時は琴《こと》の糸断えて余韵《よいん》のある如く、意《こころ》糾々《きゅうきゅう》気|昂々《こうこう》、抑《そ》も幾年の学びたる力一杯鍛いたる腕一杯の経験|修錬《しゅれん》、渦《うず》まき起って沸々《ふつふつ》と、今|拳頭《けんとう》に迸《ほとばし》り、倦《うむ》も疲《つかれ》も忘れ果て、心は冴《さえ》に冴《さえ》渡る不乱不動の精進波羅密《しょうじんはらみつ》、骨をも休めず筋をも緩めず、湧《わ》くや額に玉の汗、去りも敢《あえ》ざる不退転、耳に世界の音も無《なく》、腹に饑《うえ》をも補わず自然《おのず》と不惜身命《ふじゃくしんみょう》の大勇猛《だいゆうみょう》には無礙《むげ》無所畏《むしょい》、切屑《きりくず》払う熱き息、吹き掛け吹込《ふっこ》む一念の誠を注ぐ眼の光り、凄《すさ》まじきまで凝り詰むれば、爰《ここ》に仮相《けそう》の花衣《はなごろも》、幻翳《げんえい》空華《くうげ》解脱《げだつ》して深入《じんにゅう》無際《むさい》成就《じょうじゅ》一切《いっさい》、荘厳《しょうごん》端麗あり難き実相|美妙《みみょう》の風流仏《ふうりゅうぶつ》仰ぎて珠運はよろ/\と幾足うしろへ後退《あとずさ》り、ドッカと坐《ざ》して飛散りし花を捻《ひね》りつ微笑《びしょう》せるを、寸善尺魔《すんぜんしゃくま》の三界《さんがい》は猶如《ゆうにょ》火宅《かたく》や。珠運さま珠運さまと呼声《よびごえ》戸口にせわし。
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    第十 如是本末究竟等《にょぜほんまつくきょうとう》

      上 迷迷迷《めいめいめい》、迷《まよい》は唯識所変《ゆいしきしょへん》ゆえ凡《ぼん》

 下碑《げじょ》が是非|御来臨《おいで》なされというに盗まれべき者なき破屋《あばらや》の気楽さ、其儘《そのまま》亀屋《かめや》へ行けば吉兵衛|待兼顔《まちかねがお》に挨拶して奥の一間へ導き、扨《さて》珠運《しゅうん》様、あなたの逗留《とうりゅう》も既に長い事、あれ程|有《あり》し雪も大抵は消《きえ》て仕舞《しまい》ました、此頃《このごろ》の天気の快《よ》さ、旅路もさのみ苦しゅうはなし其道《そのみち》勉強の為《ため》に諸国|行脚《あんぎゃ》なさるゝ身で、今の時候にくすぶりて計《ばか》り居らるるは損という者、それもこれも承知せぬでは無《なか》ろうが若い人の癖とてあのお辰《たつ》に心を奪《うばわ》れ、然《しか》も取残された恨《うらみ》はなく、その木像まで刻むと云《いう》は恋に親切で世間に疎《うと》い唐土《もろこし》の天子様が反魂香《はんごんこう》焼《たか》れた様《よう》な白痴《たわけ》と悪口を叩《たた》くはおまえの為を思うから、実はお辰めに逢《あ》わぬ昔と諦《あき》らめて奈良へ修業に行《いっ》て、天晴《あっぱれ》名人となられ、仮初《かりそめ》ながら知合《しりあい》となった爺《じい》の耳へもあなたの良《よい》評判を聞せて貰《もら》い度《た》い、然し何もあなたを追立《おいたて》る訳ではないが、昨日もチラリト窓から覗《のぞ》けば像も見事に出来た様子、此《この》上長く此地に居《いら》れても詰りあなたの徳にもならずと、お辰憎くなるに付《つけ》てお前|可愛《かわゆ》く、真から底から正直におまえ、ドッコイあなたの行末にも良様《よいよう》昨夕《ゆうべ》聢《しか》と考えて見たが、何《どう》でも詰らぬ恋を商買《しょうばい》道具の一刀に斬《きっ》て捨《すて》、横道入らずに奈良へでも西洋へでも行《ゆか》れた方が良い、婚礼なぞ勧めたは爺が一生の誤り、外に悪い事|仕《し》た覚《おぼえ》はないが、是《これ》が罪になって地獄の鉄札《てっさつ》にでも書《かか》れはせぬかと、今朝《けさ》も仏様に朝茶|上《あげ》る時|懺悔《ざんげ》しましたから、爺が勧めて爺が廃《よ》せというは黐竿《もちざお》握らせて殺生《せっしょう》を禁ずる様《よう》な者で真に云憎《いいにく》き意見なれど、此《ここ》を我慢して謝罪《わび》がてら正直にお辰めを思い切れと云う事、今度こそはまちがった理屈ではないが、人間は活物《いきもの》杓子定規《しゃくしじょうぎ》の理屈で平押《ひらおし》には行《ゆか》ず、人情とか何とか中々むずかしい者があって、遠くも無い寺|参《まいり》して御先祖様の墓に樒《しきみ》一束|手向《たむく》る易《やす》さより孫娘に友禅《ゆうぜん》を買《かっ》て着《きせ》る苦しい方が却《かえっ》て仕易《しやす》いから不思議だ、損徳を算盤《そろばん》ではじき出したら、珠運が一身|二一添作《にいちてんさく》の五も六もなく出立《しゅったつ》が徳と極るであろうが、人情の秤目《はかりめ》に懸《かけ》ては、魂の分銅《ふんどう》次第、三五《さんご》が十八にもなりて揚屋酒《あげやざけ》一猪口《ひとちょく》が弗箱《ドルばこ》より重く、色には目なし無二|無三《むざん》、身代《しんだい》の釣合《つりあい》滅茶苦茶《めちゃくちゃ》にする男も世に多いわ、おまえの、イヤ、あなたの迷《まよい》も矢張《やっぱり》人情、そこであなたの合点《がてん》の行様《ゆくよう》、年の功という眼鏡《めがね》をかけてよく/\曲者《くせもの》の恋の正体を見届た所を話しまして、お辰めを思い切《きら》せましょう。先《まず》第一に何を可愛《かわゆ》がって誰《たれ》を慕《した》うのやら、調べて見ると余程おかしな者、爺の考《かんがえ》では恐らく女に溺《おぼ》れる男も男に眩《くら》[#「眩」は底本では「呟」]む女もなし、皆々手製の影法師に惚《ほれ》るらしい、普通《なみなみ》の人の恋の初幕《しょまく》、梅花の匂《におい》ぷんとしたに振向《ふりむけ》ば柳のとりなり玉の顔、さても美人と感心した所では西行《さいぎょう》も凡夫《ぼんぷ》も変《かわり》はなけれど、白痴《こけ》は其女の影を自分の睛《ひとみ》の底に仕舞込《しまいこん》で忘れず、それから因縁あれば両三度も落合い挨拶《あいさつ》の一つも云わるゝより影法師殿段々堅くなって、愛敬詞《あいきょうことば》を執着《しゅうじゃく》の耳の奥で繰り返し玉い、尚《なお》因縁深ければ戯談《じょうだん》のやりとり親切の受授《うけさずけ》男は一寸《ちょっと》行《ゆく》にも新著百種の一冊も土産《みやげ》にやれば女は、夏の夕陽《ゆうひ》の憎や烈《はげ》しくて御暑う御座りましたろと、岐阜団扇《ぎふうちわ》に風を送り氷水に手拭《てぬぐい》を絞り呉《く》れるまでになってはあり難さ嬉《うれ》しさ御馳走《ごちそう》の瓜《うり》と共に甘《うま》い事胃の腑《ふ》に染渡《しみわた》り、さあ堪《たま》らぬ影法師殿むく/\と魂入り、働き出し玉う御容貌《ごきりょう》は百三十二|相《そう》も揃《そろ》い御声《おんこえ》は鶯《うぐいす》に美音錠《びおんじょう》飲ましたよりまだ清く、御心《ごしん》もじ広大|無暗《むやみ》に拙者《せっしゃ》を可愛《かわゆ》がって下さる結構|尽《づく》め故《ゆえ》堪忍ならずと、車を横に押し親父《おやじ》を勘当しても女房に持つ覚悟|極《き》めて目出度《めでたく》婚礼して見ると自分の妄像《もうぞう》ほど真物《ほんもの》は面白からず、領脚《えりあし》が坊主《ぼうず》で、乳の下に焼芋の焦《こげ》た様《よう》の痣《あざ》あらわれ、然も紙屑屋《かみくずや》とさもしき議論致されては意気な声も聞《きき》たくなく、印付《しるしつき》の花合《はなあわ》せ負《まけ》ても平気なるには寛容《おおよう》なる御心《おこころ》却《かえ》って迷惑、どうして此様《このよう》な雌《めす》を配偶《つれあい》にしたかと後悔するが天下半分の大切《おおぎり》、真実《まこと》を云《いえ》ば一尺の尺度《ものさし》が二尺の影となって映る通り、自分の心という燈《ともしび》から、さほどにもなき女の影を天人じゃと思いなして、恋も恨《うらみ》もあるもの、お辰めとても其如《そのごと》く、おまえの心から製《こしら》えた影法師におまえが惚《ほ》れて居る計《ばか》り、お辰の像に後光まで付《つけ》た所では、天晴《あっぱれ》女菩薩《にょぼさつ》とも信仰して居らるゝか知らねど、影法師じゃ/\、お辰めはそんな気高く優美な女ならずと、此爺《このじい》も今日悟って憎くなった迷うな/\、爰《ここ》にある新聞を読《よ》め、と初《はじめ》は手丁寧後は粗放《そほう》の詞《ことば》づかい、散々にこなされて。おのれ爺《じじい》め、えせ物知《ものしり》の恋の講釈、いとし女房をお辰めお辰めと呼捨《よびすて》片腹痛しと睨《にら》みながら、其事《そのこと》の返辞はせず、昨日頼み置《おき》し胡粉《ごふん》出来て居るかと刷毛《はけ》諸共《もろとも》に引※[#「怨」の「心」に代えて「手」、第4水準2-13-4]《ひきもぐ》ように受取り、新聞懐中して止むるをきかず突《つ》と立《たっ》て畳ざわりあらく、馴《なれ》し破屋《あばらや》に駈戻《かけもど》りぬるが、優然として長閑《のどか》に立《たて》る風流仏《ふうりゅうぶつ》見るより怒《いかり》も収り、何はさておき色合程よく仮に塗上《ぬりあげ》て、柱にもたれ安坐《あんざ》して暫《しばら》く眺《なが》めたるこそ愚《おろか》なれ。吉兵衛の詞《ことば》気になりて開く新聞、岩沼令嬢と業平侯爵《なりひらこうしゃく》と題せる所をふと読下せば、深山《みやま》の美玉都門《びぎょくともん》に入《いっ》てより三千の※[#「石+武」、第4水準2-82-42]※[#「石+夫、第4水準2-82-31]《ぶふ》に顔色なからしめたる評判|嘖々《さくさく》たりし当代の佳人岩沼令嬢には幾多の公子豪商熱血を頭脳に潮《ちょう》して其《その》一顰一笑《いっぴんいっしょう》を得んと欲《ほっ》せしが預《かね》て今業平《いまなりひら》と世評ある某侯爵は終《つい》に子爵の許諾《ゆるし》を経て近々結婚せらるゝよし侯爵は英敏閑雅今業平の称|空《むな》しからざる好男子なるは人の知所《しるところ》なれば令嬢の艶福《えんぷく》多い哉《かな》侯爵の艶福も亦《また》多い哉《かな》艶福万歳|羨望《せんぼう》の到《いたり》に勝《たえ》ず、と見る/\面色赤くなり青くなり新聞紙|引裂《ひきさき》捨《す》て何処《いづく》ともなく打付《うちつけ》たり。

      下 恋恋恋《れんれんれん》、恋《こい》は金剛不壊《こんごうふえ》なるが聖《せい》

 虚言《うそ》という者|誰《たれ》吐《つき》そめて正直は馬鹿《ばか》の如《ごと》く、真実は間抜《まぬけ》の様《よう》に扱わるゝ事あさましき世ぞかし。男女《なんにょ》の間変らじと一言《ひとこと》交《かわ》せば一生変るまじきは素《もと》よりなるを、小賢《こさか》しき祈誓三昧《きしょうさんまい》、誠少き命毛《いのちげ》に情《なさけ》は薄き墨含ませて、文句を飾り色めかす腹の中《うち》慨《なげ》かわしと昔の人の云《いい》たるが、夫《それ》も牛王《ごおう》を血に汚《けが》し神を証人とせしはまだゆかしき所ありしに、近来は熊野《くまの》を茶にして罰《ばち》を恐れず、金銀を命と大切《だいじ》にして、一《ひとつ》金《きん》千両|也《なり》右借用仕候段実正《みぎしゃくようつかまつりそうろうだんじっしょう》なりと本式の証文|遣《や》り置き、変心の暁は是《これ》が口を利《きき》て必ず取立《とりたて》らるべしと汚き小判《こばん》を枷《かせ》に約束を堅《かた》めけると、或書《あるしょ》に見えしが、是《これ》も烏賊《いか》の墨で文字書き、亀《かめ》の尿《いばり》を印肉に仕懸《しかく》るなど巧《たく》み出《いだ》すより廃《すた》れて、当時は手早く女は男の公債証書を吾名《わがな》にして取り置《おき》、男は女の親を人質《ひとじち》にして僕使《めしつか》うよし。亭主《ていしゅ》持《もつ》なら理学士、文学士|潰《つぶし》が利く、女房|持《も》たば音楽師、画工《えかき》、産婆三割徳ぞ、ならば美人局《つつもたせ》、げうち、板の間|※[#「てへん+(上/下)、第3水準1-84-76]《かせ》ぎ等の業《わざ》出来て然《しか》も英仏の語に長じ、交際上手でエンゲージに詫付《かこつけ》華族の若様のゴールの指輪一日に五六位《いつつむつくらい》取る程の者望むような世界なれば、汝《なんじ》珠運《しゅうん》能々《よくよく》用心して人に欺《あざむ》かれぬ様《よう》すべしと師匠教訓されしを、何の悪口なと冷笑《あざわらい》しが、なる程、我《われ》正直に過《すぎ》て愚《おろか》なりし、お辰《たつ》を女菩薩《にょぼさつ》と思いしは第一の過《あやま》り、折疵《おれきず》を隠して刀には樋《ひ》を彫るものあり、根性が腐って虚言《うそ》美しく、田原が持《もっ》て来た手紙にも、御《おん》なつかしさ少時《しばし》も忘れず何《いず》れ近き中《うち》父様《ととさま》に申し上《あげ》やがて朝夕《ちょうせき》御前様《おまえさま》御傍《おそば》に居《お》らるゝよう神かけて祈り居《お》りなどと我を嬉《うれ》しがらせし事憎し憎しと、怨《うらみ》の眼尻《まなじり》鋭く、柱にもたれて身は力なく下《さげ》たる頭《かしら》少し上《あげ》ながら睨《にら》むに、浮世のいざこざ知らぬ顔の彫像|寛々《かんかん》として大空に月の澄《すめ》る如《ごと》く佇《たたず》む気高さ、見るから我胸の疑惑|耻《はずか》しく、ホッと息|吐《つ》き、アヽ誤《あやま》てり、是程の麗わしきお辰、何とてさもしき心もつべき、去《さり》し日|亀屋《かめや》の奥|坐敷《ざしき》に一生の大事と我も彼も浮《うき》たる言葉なく、互《たがい》に飾らず疑わず固めし約束、仮令《たとい》天《あま》飛ぶ雷が今|落《おち》ればとて二人が中は引裂《ひきさか》れじと契りし者を、よしや子爵の威権烈しく他《あだ》し聟《むこ》がね定むるとも、我の命は彼にまかせお辰が命は珠運|貰《もら》いたれば、何《ど》の命|何《ど》の身体《からだ》あって侯爵に添うべきや、然《しか》も其時、身を我に投懸《なげかけ》て、艶《つや》やかなる前髪|惜気《おしげ》もなく我膝《わがひざ》に押付《おしつけ》、動気《どうき》可愛《かわゆ》らしく泣き俯《ふ》しながら、拙《つたな》き妾《わたくし》めを思い込まれて其程《それほど》までになさけ厚き仰せ、冥加《みょうが》にあまりてありがたしとも嬉しとも此《この》喜び申すべき詞《ことば》知らぬ愚《おろか》の口惜し、忘れもせざる何日《いつ》ぞやの朝、見所もなき櫛《くし》に数々の花|彫付《ほりつけ》て賜《たま》わりし折より、柔《やさ》しき御心ゆかしく思い初《そめ》、御小刀《おこがたな》の跡|匂《にお》う梅桜、花弁《はなびら》一片《ひとひら》も欠《かか》せじと大事にして、昼は御恩賜《おんめぐみ》頭《かしら》に挿《さ》しかざせば我為《わがため》の玉の冠、かりそめの立居《たちい》にも意《き》を注《つけ》て落《おち》るを厭《いと》い、夜は針箱の底深く蔵《おさ》めて枕《まくら》近く置《おき》ながら幾度《いくたび》か又|開《あけ》て見て漸《ようや》く睡《ねむ》る事、何の為とは妾《わたくし》も知らず、殊更其日|叔父《おじ》の非道《ひどう》、勿体《もったい》なき悪口|計《ばか》り、是も妾《わたくし》め故《ゆえ》思わぬ不快を耳に入れ玉うと一一《いちいち》胸先《むなさき》に痛く、さし詰《つむ》る癪《しゃく》押《おさ》えて御顔|打守《うちまもり》しに、暢《のび》やかなる御気象、咎《とが》め立《だて》もし玉わざるのみか何の苦もなくさらりと埒《らち》あき、重々の御恩|荷《にの》うて余る甲斐《かい》なき身、せめて肩|揉《も》め脚|擦《さす》れとでも僕使《つかい》玉わばまだしも、却《かえっ》て口きゝ玉うにも物柔かく、御手水《おちょうず》の温湯《ぬるゆ》椽側《えんがわ》に持《もっ》て参り、楊枝《ようじ》の房少しむしりて塩|一小皿《ひとこざら》と共に塗盆《ぬりぼん》に載《の》せ出《いだ》す僅計《わずかばかり》の事をさえ、我|夙起《はやおき》の癖故に汝《そなた》までを夙起《はやおき》さして尚《なお》寒き朝風につれなく袖《そで》をなぶらする痛わしさと人を護《かば》う御言葉、真《しん》ぞ人間五十年君に任せて露|惜《おし》からず、真実《まこと》あり丈《たけ》智慧《ちえ》ありたけ尽《つく》して御恩を報ぜんとするに付《つけ》て慕わしさも一入《ひとしお》まさり、心という者一つ新《あらた》に添《そう》たる様《よう》に、今迄《いままで》は関《かま》わざりし形容《なりふり》、いつか繕う気になって、髪の結様《ゆいよう》どうしたら誉《ほめ》らりょうかと鏡に対《むか》って小声に問い、或夜《あるばん》の湯上《ゆあが》り、耻《はずか》しながらソッと薄化粧《うすげしょう》して怖怖《こわごわ》坐敷《ざしき》に出《いで》しが、笑《わらい》片頬《かたほ》に見られし御|眼元《めもと》何やら存《あ》るように覚えて、人知らずカッと上気せしも、単《ひとえ》に身嗜《みだしなみ》計《ばかり》にはあらず、勿体《もったい》なけれど内内《ないない》は可愛《かわゆ》がられても見たき願い、悟ってか吉兵衛様の貴下《あなた》との問答、婚礼せよせぬとの争い、不図《ふと》立聞《たちぎき》して魂魄《たましい》ゆら/\と足|定《さだま》らず、其儘《そのまま》其処《そこ》を逃出《にげいだ》し人なき柴部屋《しばべや》に夢の如《ごと》く入《いる》と等しく、せぐりくる涙、あなた程の方の女房とは我身《わがみ》の為《ため》を思われてながら吉兵衛様の無礼過《なめすぎ》た言葉恨めしく、水仕女《みずしめ》なりともして一生|御傍《おそば》に居られさいすれば願望《のぞみ》は足る者を余計な世話、我からでも言わせたるように聞取《ききと》られて疎《うと》まれなば取り返しのならぬ暁《あかつき》、辰は何になって何に終るべきと悲《かなし》み、珠運様も珠運様、余りにすげなき御言葉、小児《こども》の捉《とっ》た小雀《こすずめ》を放して遣《や》った位に辰を思わるゝか知らねどと泣きしが、貴下《あなた》はそれより黙言《だんまり》で亀屋を御立《おたち》なされしに、十日も苅《か》り溜《ため》し草を一日に焼《やい》たような心地して、尼にでもなるより外なき身の行末を歎《なげき》しに、馬籠《まごめ》に御病気と聞く途端、アッと驚く傍《かたわら》に愚《おろか》な心からは看病するを嬉《うれし》く、御介抱|申《もうし》たる甲斐《かい》ありて今日の御|床上《とこあげ》、芽出度《めでたい》は芽出度《めでたけ》れど又もや此儘《このまま》御立《おたち》かと先刻《さっき》も台所で思い屈して居たるに、吉兵衛様御内儀が、珠運様との縁|続《つ》ぎ度《たく》ば其人様の髪一筋知れぬように抜《ぬい》て、おまえの髪と確《しっか》り結び合《あわ》せ※[#「口+急」、224-9]※[#「口+急」、224-9]《きゅうきゅう》如律令《にょりつりょう》と唱《とな》えて谷川に流し捨《すて》るがよいとの事、憎や老嫗《としより》の癖に我を嬲《なぶ》らるゝとは知《しり》ながら、貴君《あなた》の御足《おんあし》を止度《とめた》さ故に良事《よいこと》教《おし》られしよう覚《おぼえ》て馬鹿気《ばかげ》たる呪《まじない》も、試《やっ》て見ようかとも惑う程小さき胸の苦《くるし》く、捨《すて》らるゝは此身の不束《ふつつか》故か、此心の浅き故かと独り悔《くや》しゅう悩んで居《お》りましたに、あり難き今の仰せ、神様も御照覧あれ、辰めが一生はあなたにと熱き涙|吾《わが》衣物《きもの》を透《とお》せしは、そもや、嘘《うそ》なるべきか、新聞こそ当《あて》にならぬ者なれ、其《それ》を真《まこと》にして信《まこと》ある女房を疑いしは、我ながらあさましとは思うものゝ形なき事を記すべしとも思えず、見れば業平侯爵とやら、位|貴《たっと》く、姿うるわしく、才いみじきよし、エヽ妬《ねた》ましや、我《われ》位なく、姿美しからず、才もまた鈍ければ、較《くらべ》られては敵手《あいて》にあらず。扨《さて》こそ子爵が詞通《ことばどお》り、思想も発達せぬ生《なま》若い者の感情、都風の軽薄に流れて変りしに相違なきかと頻《しきり》に迷い沈みけるが思いかねてや一声|烈《はげ》しく、今ぞ知《しっ》たり移ろい易《やす》き女心、我を侯爵に見替《みかえ》て、汝《おのれ》一人の栄華を誇《ほこ》る、情《なさけ》なき仰せ、此《この》辰が。
 アッと驚き振仰向《ふりあおむけ》ば、折柄《おりから》日は傾きかゝって夕栄《ゆうばえ》の空のみ外に明るく屋《や》の内|静《しずか》に、淋し気に立つ彫像|計《ばか》り。さりとては忌々《いまいま》し、一心乱れてあれかこれかの二途《ふたみち》に別れ、お辰が声を耳に聞《きき》しか、吉兵衛の意見ひし/\と中《あた》りて残念や、妄想《もうぞう》の影法師に馬鹿にされ、有《あり》もせぬ声まで聞し愚《おろか》さ、箇程《かほど》までに迷わせたるお辰め、汝《おのれ》も浮世の潮に漂う浮萍《うきくさ》のような定《さだめ》なき女と知らで天上の菩薩《ぼさつ》と誤り、勿体《もったい》なき光輪《ごこう》まで付《つけ》たる事口惜し、何処《いずこ》の業平《なりひら》なり癩病《なりんぼ》なり、勝手に縁組、勝手に楽《たのし》め。あまりの御言葉、定めなきとはあなたの御心。あら不思議、慥《たしか》に其《その》声、是もまだ醒《さめ》ぬ無明《むみょう》の夢かと眼《め》を擦《こす》って見れば、しょんぼりとせし像、耳を澄《すま》せば予《かね》て知る樅《もみ》の木の蔭《かげ》あたりに子供の集りて鞠《まり》つくか、風の持来《もてく》る数え唄《うた》、
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一寸《ちょと》百|突《つい》て渡《わた》いた受取《うけと》った/\一つでは乳首|啣《くわ》えて二つでは乳首|離《はな》いて三つでは親の寝間を離れて四つにはより糸《こ》より初《そ》め五《いつつ》では糸をとりそめ六つでころ機織《はたおり》そめて――
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と苦労知らぬ高調子、無心の口々|長閑《のどか》に、拍子取り連《つれ》て、歌は人の作ながら声は天の籟《おと》美しく、慾《よく》は百ついて帰そうより他なく、恨《うらみ》はつき損ねた時罪も報《むくい》も共に忘れて、恋と無常はまだ無き世界の、楽しさ羨《うらやま》しく、噫《ああ》無心こそ尊《たっと》けれ、昔は我も何しら糸の清きばかりの一筋なりしに、果敢《はか》なくも嬉しいと云う事身に染初《しみそめ》しより、やがて辛苦の結ぼれ解《とけ》ぬ濡苧《ぬれお》の縺《もつれ》の物思い、其色《そのいろ》嫌よと、眼《め》を瞑《ふさ》げば生憎《あいにく》にお辰の面影あり/\と、涙さしぐみて、分疏《いいわけ》したき風情、何処《どこ》に憎い所なし。なる程定めなきとはあなたの御心、新聞一枚に堅き約束を反故《ほご》となして怒り玉うかと喞《かこ》たれて見れば無理ならねど、子爵の許《もと》に行《ゆき》てより手紙は僅《わずか》に田原が一度|持《もっ》て来《きた》りし計《ばか》り、此方《こなた》から遣《や》りし度々の消息、初《はじめ》は親子再会の祝《いわい》、中頃は振残《ふりのこ》されし喞言《かこちごと》、人には聞《きか》せ難《がた》きほど耻《はずか》しい文段《もんだん》までも、筆とれば其人の耳に付《つけ》て話しする様《よう》な心地して我しらず愚《おろか》にも、独居《ひとりい》の恨《うらみ》を数うる夜半《よわ》の鐘はつらからで、朧気《おぼろげ》ながら逢瀬《おうせ》うれしき通路《かよいじ》を堰《せ》く鶏《とり》めを夢の名残の本意《ほい》なさに憎らしゅう存じ候《そろ》など書《かい》てまだ足らず、再書《かえすがき》濃々《こまごま》と、色好み深き都の若佼《わこうど》を幾人《いくたり》か迷わせ玉うらん御標致《ごきりょう》の美しさ、却《かえ》って心配の種子《たね》にて我をも其等《それら》の浮《うき》たる人々と同じ様《よう》に思《おぼ》し出《いず》らんかと案《あん》じ候《そうろう》ては実《げ》に/\頼み薄く口惜《くちおし》ゅう覚えて、あわれ歳月《としつき》の早く立《たて》かし、御《おん》おもかげの変りたる時にこそ浅墓《あさはか》ならぬ我《わが》恋のかわらぬ者なるを顕《あらわ》したけれと、無理なる願《ねがい》をも神前に歎《なげ》き聞《きこ》え候《そろ》と、愚痴の数々まで記して丈夫そうな状袋を択《えら》み、封じ目油断なく、幾度か打《うち》かえし/\見て、印紙正しく張り付《つけ》、漸く差し出《いだ》したるに受取《うけとっ》たと計《ばかり》の返辞もよこさず、今日は明日はと待つ郵便の空頼《そらだのめ》なる不実の仕方、それは他《あだ》し婿がね取らせんとて父上の皆|為《な》されし事。又しても妄想《もうぞう》が我を裏切《うらぎり》して迷わする声憎しと、頭《かしら》を上《あぐ》れば風流仏悟り済《すま》した顔、外には
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清水《きよみず》の三本柳の一羽の雀《すずめ》が鷹《たか》に取られたチチャポン/\一寸《ちょっと》百ついて渡いた渡いた
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の他音もなし、愈々《いよいよ》影法師の仕業に定まったるか、エヽ腹立《はらだた》し、我|最早《もはや》すっきりと思い断ちて煩悩《ぼんのう》愛執《あいしゅう》一切|棄《すつ》べしと、胸には決定《けつじょう》しながら、尚《なお》一分《いちぶん》の未練残りて可愛《かわゆ》ければこそ睨《にら》みつむる彫像、此時《このとき》雲収り、日は没《い》りて東窓の部屋の中《うち》やゝ暗く、都《すべ》ての物薄墨色になって、暮残りたるお辰白き肌|浮出《うきいず》る如く、活々《いきいき》とした姿、朧《おぼろ》月夜に真《まこと》の人を見る様《よう》に、呼ばゞ答もなすべきありさま、我《わが》作りたる者なれど飽《あく》まで溺《おぼ》れ切《きっ》たる珠運ゾッと総身の毛も立《たち》て呼吸《いき》をも忘れ居たりしが、猛然として思い飜《かえ》せば、凝《こっ》たる瞳《ひとみ》キラリと動く機会《はずみ》に面色|忽《たちま》ち変り、エイ這顔《しゃっつら》の美しさに迷う物かは、針ほども心に面白き所あらば命さえ呉《くれ》てやる珠運も、何の操なきおのれに未練残すべき、其《その》生白《なましら》けたる素首《そっくび》見《みる》も穢《けがら》わしと身動きあらく後向《うしろむき》になれば、よゝと泣声して、それまでに疑われ疎《うと》まれたる身の生甲斐《いきがい》なし、とてもの事|方様《かたさま》の手に惜《おし》からぬ命|捨《すて》たしと云《いう》は、正しく木像なり、あゝら怪しや、扨《さて》は一念の恋を凝《こら》して、作り出《いだ》せしお辰の像に、我魂の入《いり》たるか、よしや我身の妄執《もうしゅう》の憑《の》り移りたる者にもせよ、今は恩愛|切《きっ》て捨《すて》、迷わぬ初《はじめ》に立帰《たちかえ》る珠運に妨《さまたげ》なす妖怪《ようかい》、いでいで仏師が腕の冴《さえ》、恋も未練も段々《きだきだ》に切捨《きりすて》くれんと突立《つったち》て、右の手高く振上《ふりあげ》し鉈《なた》には鉄をも砕くべきが気高く仁《やさ》しき情《なさけ》溢《あふ》るる計《ばかり》に湛《たた》ゆる姿、さても水々として柔かそうな裸身《はだかみ》、斬《き》らば熱血も迸《ほとばし》りなんを、どうまあ邪見に鬼々《おにおに》しく刃《やいば》の酷《むご》くあてらるべき、恨《うらみ》も憎《にくみ》も火上の氷、思わず珠運は鉈《なた》取落《とりおと》して、恋の叶わず思《おもい》の切れぬを流石《さすが》男の男泣き、一声|呑《のん》で身をもがき、其儘《そのまま》ドウと臥《ふ》す途端、ガタリと何かの倒るゝ音して天より出《いで》しか地より湧《わき》しか、玉の腕《かいな》は温く我|頸筋《くびすじ》にからまりて、雲の鬢《びん》の毛|匂《にお》やかに頬《ほほ》を摩《なで》るをハット驚き、急《せわ》しく見れば、有《あり》し昔に其儘《そのまま》の。お辰かと珠運も抱《だき》しめて額《ひたい》に唇。彫像が動いたのやら、女が来たのやら、問《とわ》ば拙《つたな》く語らば遅し。玄《げん》の又《また》玄《げん》摩訶不思議《まかふしぎ》。

    団円 諸法実相

      帰依仏《きえぶつ》の御利益《ごりやく》眼前にあり

 恋に必ず、必ず、感応《かんのう》ありて、一念の誠|御心《みこころ》に協《かな》い、珠運《しゅうん》は自《おの》が帰依仏《きえぶつ》の来迎《らいごう》に辱《かたじけ》なくも拯《すく》いとられて、お辰《たつ》と共に手を携え肩を駢《なら》べ優々と雲の上に行《ゆき》し後《あと》には白薔薇《ホワイトローズ》香《におい》薫《くん》じて吉兵衛《きちべえ》を初め一村の老幼|芽出度《めでたし》とさゞめく声は天鼓を撃つ如《ごと》く、七蔵《しちぞう》がゆがみたる耳を貫けば是《これ》も我慢の角《つの》を落《おと》して黒山《こくざん》の鬼窟《きくつ》を出《いで》、発心《ほっしん》勇ましく田原と共に左右の御前立《おんまえだち》となりぬ。
 其後《そののち》光輪《ごこう》美《うるわ》しく白雲に駕《のっ》て所々《しょしょ》に見ゆる者あり。或《ある》紳士の拝まれたるは天鷲絨《ビロウド》の洋服|裳《すそ》長く着玉いて駄鳥《だちょう》の羽宝冠に鮮《あざやか》なりしに、某《なにがし》貴族の見られしは白|襟《えり》を召《めし》て錦の御帯《おんおび》金色《こんじき》赫奕《かくえく》たりしとかや。夫《それ》に引変え破《やぶれ》褞袍《おんぼう》着て藁草履《わらぞうり》はき腰に利鎌《とがま》さしたるを農夫は拝み、阿波縮《あわちぢみ》の浴衣《ゆかた》、綿八反《めんはったん》の帯、洋銀の簪《かんざし》位《ぐらい》の御姿を見しは小商人《こあきんど》にて、風寒き北海道にては、鰊《にしん》の鱗《うろこ》怪しく光るどんざ布子《ぬのこ》、浪《なみ》さやぐ佐渡《さど》には、色も定かならぬさき織を着て漁師共の眼《め》にあらわれ玉いけるが業平侯爵《なりひらこうしゃく》も程《ほど》経て踵《かかと》小さき靴をはき、派手なリボンの飾りまばゆき服を召されたるに値偶《ちぐう》せられけるよし。是《これ》皆|一切経《いっさいきょう》にもなき一体の風流仏、珠運が刻みたると同じ者の千差万別の化身《けしん》にして少しも相違なければ、拝みし者|誰《たれ》も彼も一代の守本尊《まもりほんぞん》となし、信仰|篤《あつ》き時は子孫|繁昌《はんじょう》家内|和睦《わぼく》、御利益《ごりやく》疑《うたがい》なく仮令《たとい》少々御本尊様を恨めしき様《よう》に思う事ありとも珠運の如くそれを火上の氷となす者には素《もと》より持前《もちまえ》の仏性《ほとけしょう》を出《いだ》し玉いて愛護の御誓願《ごせいがん》空《むな》しからず、若《もし》又《また》過《あやま》ってマホメット宗《しゅう》モルモン宗《しゅう》なぞの木偶《もくぐう》土像などに近づく時は現当二世《げんとうにせ》の御罰《おんばち》あらたかにして光輪《ごこう》を火輪《かりん》となし一家《いっけ》をも魂魂《こんぱく》をも焼滅《やきほろぼ》し玉うとかや。あなかしこ穴《あな》賢《かしこ》。

底本:「日本の文学3 五重塔・運命」ほるぷ出版
   1985(昭和60)年2月1日初版第1刷発行
底本の親本:「風流仏」吉岡書籍店
   1889(明治22)年9月発行
入力:kompass
校正:今井忠夫
2003年12月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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幸田露伴

貧乏—— 幸田露伴

   その一

「アア詰《つま》らねえ、こう何もかもぐりはまになった日にゃあ、おれほどのものでもどうもならねえッ。いめえましい、酒でも喫《くら》ってやれか。オイ、おとま、一|升《しょう》ばかり取って来な。コウト、もう煮奴《にやっこ》も悪くねえ時候だ、刷毛《はけ》ついでに豆腐《とうふ》でもたんと買え、田圃《たんぼ》の朝というつもりで堪忍《かんにん》をしておいてやらあ。ナンデエ、そんな面《つら》あすることはねえ、女《おんな》ッ振《ぷり》が下がらあな。
「おふざけでないよ、寝《ね》ているかとおもえば眼《め》が覚《さ》めていて、出しぬけに床《とこ》ん中からお酒を買えたあ何の事《こっ》たえ。そして何時だと思っておいでだ、もう九時だよ、日があたってるのに寝ているものがあるもんかね。チョッ不景気な、病人くさいよ、眼がさめたら飛び起きるがいいわさ。ヨウ、起きておしまいてえば。
「厭《や》あだあ、母《かあ》ちゃん、お眼覚《めざ》が無いじゃあ坊《ぼう》は厭あだあ。アハハハハ。
「ツ、いい虫だっちゃあない、呆《あき》れっちまうよ。さあさあお起《おき》ッたらお起きナ、起きないと転がし出すよ。
と夜具を奪《と》りにかかる女房《にょうぼう》は、身幹《せい》の少し高過ぎると、眼の廻《まわ》りの薄黒《うすぐろ》く顔の色一体に冴《さ》えぬとは難なれど、面長《おもなが》にて眼鼻立《めはなだち》あしからず、粧《つく》り立てなば粋《いき》に見ゆべき三十前のまんざらでなき女なり。
 今まで機嫌《きげん》よかりし亭主《ていしゅ》は忽然《こつぜん》として腹立声に、
「よせエ、この阿魔《あま》あ、おれが勝手だい。
と云《い》いながら裾《すそ》の方《かた》に立寄れる女を蹴《け》つけんと、掻巻《かいまき》ながらに足をばたばたさす。女房は驚《おどろ》きてソッとそのまま立離《たちはな》れながら、
「オヤおっかない狂人《きちがい》だ。
と別に腹も立てず、少し物を考う。
「あたりめえよ、狂人にでもならなくって詰るもんか。アハハハハ、銭《ぜに》が無い時あ狂人が洒落《しゃれ》てらあナ。
「お銭《あし》が有ったらエ。
「フン、有情漢《いろおとこ》よ、オイ悪かあ無かったろう。
「いやだネ知らないよ。
「コン畜生《ちくしょう》め、惚《ほ》れやがった癖《くせ》に、フフフフフ。
「お前少しどうかおしかえ、変だよ。
「何が。
「調子が。
「飛んだお師匠様《ししょうさん》だ、笑わせやがる。ハハハハ、まあ、いいから買って来な、一人飲みあしめえし。
「だって、無いものを。
「何だと。
「貸はしないし、ちっとも無いんだものを。
「智慧《ちえ》がか。
「いいえさ。
「べらぼうめえ、無《ね》えものは無えやナ、おれの脱穀《ぬけがら》を持って行きゃ五六十銭は遣《よこ》すだろう。
「ホホホホ、いい気ぜんだよ、それでいつまでも潜《もぐ》っているのかい。
「ハハハハ、お手の筋だ。
「だって、後《あと》はどうするエ。一張羅《いっちょうら》を無くしては仕様がないじゃあないか、エ、後ですぐ困るじゃ無いか。
「案じなさんな、銭があらあ。
「妙《みょう》だねえ、無いから帯や衣類《きもの》を飲もうというのに、その後になって何が有るエ。
「しみッたれるなイ、裸百貫《はだかひゃっかん》男|一匹《いっぴき》だ。
「ホホホホホ、大きな声をお出しでない、隣家《おとなり》の児《こ》が起きると内儀《おかみさん》の内職の邪魔《じゃま》になるわネ。そんならいいよ買って来るから。
と女房は台所へ出て、まだ新しい味噌漉《みそこし》を手にし、外へ出でんとす。
「オイオイ此品《これ》でも持って行かねえでどうするつもりだ。
と呼びかけて亭主のいうに、ちょっと振《ふ》りかえって嬉《うれ》しそうに莞爾《にっこり》笑い、
「いいよ、黙《だま》って待っておいで。
 たちまち姿《すがた》は見えずなって、四五|軒《けん》先の鍛冶屋《かじや》が鎚《つち》の音ばかりトンケンコン、トンケンコンと残る。亭主はちょっと考えしが、
「ハテナ、近所の奴《やつ》に貸た銭でもあるかしらん。知人《なじみ》も無さそうだし、貸す風でもねえが。
と独語《ひとりご》つところへ、うッそりと来かかる四十ばかりの男、薄汚《うすぎたな》い衣服《なり》、髪垢《ふけ》だらけの頭したるが、裏口から覗《のぞ》きこみながら、異《おつ》に潰《つぶ》れた声で呼《よ》ぶ。
「大将、風邪《かぜ》でも引かしッたか。
 両手で頬杖《ほおづえ》しながら匍匐臥《はらばいね》にまだ臥《ふし》たる主人《あるじ》、懶惰《ぶしょう》にも眼ばかり動かして一《ひ》ト眼《め》見しが、身体《からだ》はなお毫《すこし》も動かさず、
「日瓢《にっぴょう》さんか、ナニ風邪じゃあねえ、フテ寝というのよ。まあ上るがいい。
とは云いたれど上りてもらいたくも無さそうな顔なり。
「ハハハ、運を寝て待つつもりかネ、上ってもご馳走《ちそう》は無さそうだ。
「違《ちげ》えねえ、煙草《たばこ》の火ぐらいなもんだ。
「ハハハ、これではお互《たがい》に浮ばれない。時に明日《あす》の晩からは柳原《やなぎはら》の例のところに○州屋《まるしゅうや》の乾分《こぶん》の、ええと、誰《だれ》とやらの手で始まるそうだ、菓子屋の源《げん》に昨日《きのう》そう聞いたが一緒《いっしょ》に行きなさらぬか。
「往《い》かれたら往こうわ、ムムそれを云いに来たのか。
「そうさ、お互に少し中《あた》り屋《や》さんにならねばならん。
「誰だってそうおもわねえものは無《ね》えんだ、御祖師様《おそしさま》でも頼みなせえ。
「からかいなさるな、罰《ばち》が当っているほうだ。
「ハハハ、からかいなさんなと云ってもらいてえ、どうも言語《ものいい》の叮嚀《ていねい》な中《うち》がいい。
「ガリスの果《はて》と知れるかノ。
「オヤ、気障《きざ》な言語《ふちょう》を知ってるな、大笑いだ。しかし、知れるかノというノの字で打壊《ぶちこわ》しだあナ、チョタのガリスのおん果《はて》とは誰が眼にも見えなくってどうするものか。
「チョタとは何だ、田舎漢《いなかもの》のことかネ。
「ムム。
「忌々《いまいま》しい、そう思わるるが厭《いや》だによって、大分気をつけているが地金《じがね》はとかく出たがるものだナ。
「ハハハ、厭だによってか、ソレそれがもういけねえ、ハハハ詰らねえ色気《いろけ》を出したもんだ。
「イヤ居《お》れば居るだけ笑われる、明日《あす》来てみよう、行かれたら一緒に行きなさい。
と立帰り行くを見送って、
「おえねえ頓痴奇《とんちき》だ、坊主《ぼうず》ッ返《けえ》りの田舎漢《いなかもの》の癖に相場《そうば》も天賽《てんさい》も気が強《つえ》え、あれでもやっぱり取られるつもりじゃあねえ中《うち》が可笑《おかし》い。ハハハ、いい業《ごう》ざらしだ。
と一人《ひとり》笑うところへ、女房おとまぶらりッと帰り来る。見れば酒も持たず豆腐も持たず。
「オイどうしたんだ。
「どうもしないよ。
 やはり寝ながらじろりッと見て、
「気のぬけたラムネのように異《おつ》うすますナ、出て行った用はどうしたんだ。
「アイ忘れたよ。
「ふざけやがるなこの婆《ばばあ》。
「邪見《じゃけん》な口のききようだねえ、阿魔だのコン畜生だの婆だのと、れっきとした内室《おかみさん》をつかめえてお慮外《りょがい》だよ、兀《はげ》ちょろ爺《じじい》の蹙足爺《いざりじじい》め。
と少し甘《あま》えて言う。男は年も三十一二、頭髪《かみ》は漆《うるし》のごとく真黒《まっくろ》にて、いやらしく手を入れ油をつけなどしたるにはあらで、短めに苅《か》りたるままなるが人に優《すぐ》れて見|好《よ》きなり。されば兀ちょろ爺と罵《ののし》りたるはわざとになるべく、蹙足爺《いざりじじい》とはいつまでも起き出でぬ故なるべし。男は罵られても激《はげ》しくは怒《おこ》らず、かえって茶にした風にて、
「やかましいやい、ほんとに酒はどうしたんでエ。
「こうしてから飲むがいいサ。
と突然《だしぬけ》に夜具を引剥《ひつぱ》ぐ。夫婦《ふうふ》の間とはいえ男はさすが狼狙《うろた》えて、女房の笑うに我からも噴飯《ふきだし》ながら衣類《きもの》を着る時、酒屋の丁稚《でっち》、
「ヘイお内室《かみさん》ここへ置きます、お豆腐は流しへ置きますよ。
と徳利《とくり》と味噌漉を置いて行くは、此家《ここ》の内儀《かみさん》にいいつけられたるなるべし。
「さあ、お前はお湯《ぶう》へいっておいでよ、その間にチャンとしておくから。
 手拭《てぬぐい》と二銭銅貨を男に渡す。片手には今手拭を取った次手《ついで》に取った帚《ほうき》をもう持っている。
「ありがてえ、昔時《むかし》からテキパキした奴《やつ》だったッケ、イヨ嚊大明神《かかあだいみょうじん》。
と小声で囃《はや》して後《あと》でチョイと舌を出す。
「シトヲ、馬鹿《ばか》にするにも程《ほど》があるよ。
 大明神|眉《まゆ》を皺《しわ》めてちょいと睨《にら》んで、思い切って強《ひど》く帚で足を薙《な》ぎたまう。
「こんべらぼうめ。
 男は笑って呵《しか》りながら出で行く。

   その二

 浴後《ゆあがり》の顔色|冴々《さえざえ》しく、どこに貧乏の苦があるかという容態《ありさま》にて男は帰り来る。一体|苦《にが》み走《ばし》りて眼尻《めじり》にたるみ無く、一の字口の少し大《おおき》なるもきっと締《しま》りたるにかえって男らしく、娘にはいかがなれど浮世《うきよ》の鹹味《からみ》を嘗《な》めて来た女には好《す》かるべきところある肌合《はだあい》なリ。あたりを片付け鉄瓶《てつびん》に湯も沸《たぎ》らせ、火鉢《ひばち》も拭いてしまいたる女房おとま、片膝《かたひざ》立てながら疎《あら》い歯の黄楊《つげ》の櫛《くし》で邪見《じゃけん》に頸足《えりあし》のそそけを掻《か》き憮《な》でている。両袖《りょうそで》まくれてさすがに肉付《にくづき》の悪からぬ二の腕《うで》まで見ゆ。髪はこの手合《てあい》にお定《さだ》まりのようなお手製の櫛巻なれど、身だしなみを捨てぬに、小官吏《こやくにん》の細君《さいくん》などが四銭の丸髷《まるまげ》を二十日《はつか》も保《も》たせたるよりは遥《はるか》に見よげなるも、どこかに一時は磨《みが》き立《たて》たる光の残れるが助《たすけ》をなせるなるべし。亭主の帰り来りしを見て急に立上り、
「さあ、ここへおいで。
と坐《ざ》を与《あた》う。男は無言で坐り込み、筒湯呑《つつゆのみ》に湯をついで一杯《いっぱい》飲む。夜食膳《やしょくぜん》と云いならわした卑《いや》しい式《かた》の膳が出て来る。上には飯茶碗《めしぢゃわん》が二つ、箸箱《はしばこ》は一つ、猪口が《ちょく》が二ツと香《こう》のもの鉢《ばち》は一ツと置ならべられたり。片口は無いと見えて山形に五の字の描《か》かれた一升徳利《いっしょうどくり》は火鉢の横に侍坐《じざ》せしめられ、駕籠屋《かごや》の腕と云っては時代|違《ちが》いの見立となれど、文身《ほりもの》の様に雲竜《うんりゅう》などの模様《もよう》がつぶつぶで記された型絵の燗徳利《かんどくり》は女の左の手に、いずれ内部《なか》は磁器《せともの》ぐすりのかかっていようという薄鍋《うすなべ》が脆《もろ》げな鉄線耳《はりがねみみ》を右の手につままれて出で来る。この段取の間、男は背後《うしろ》の戸棚《とだな》に※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]《よ》りながらぽかりぽかり煙草《たばこ》をふかしながら、腮《あご》のあたりの飛毛《とびげ》を人さし指の先へちょと灰《はい》をつけては、いたずら半分に抜《ぬ》いている。女が鉄瓶を小さい方の五徳《ごとく》へ移せば男は酒を燗徳利に移す、女が鉄瓶の蓋《ふた》を取る、ぐいと雲竜を沈《しず》ませる、危《あやう》く鉄瓶の口へ顔を出した湯が跳《おど》り出しもし得ず引退《ひっこ》んだり出たりしている間《ま》に鍋は火にかけられる。
「下の抽斗《ひきだし》に鰹節《かつぶし》があるから。
と女は云いながら立って台所へ出でしが、つと外へ行く。
「チョツ、削《か》けといやあがるのか。
と不足らしい顔つきして女を見送りしが、何が眼につきしや急にショゲて黙然《だんまり》になって抽斗を開《あ》け、小刀《こがたな》と鰹節《ふし》とを取り出したる男は、鰹節《ふし》の亀節《かめぶし》という小《ちさ》きものなるを見て、
「ケチびんなものを買っときあがる。
と独言《ひとりごと》しつつそこらを見廻して、やがて膳の縁《ふち》へ鰹節《ふし》をあてがって削く。
 女はたちまち帰り来りしが、前掛《まえかけ》の下より現われて膳に上《のぼ》せし小鉢《こばち》には蜜漬《みつづけ》の辣薑《らっきょう》少し盛《も》られて、その臭気《におい》烈《はげ》しく立《た》ち渡《わた》れり。男はこれに構わず、膳の上に散りし削《かい》たる鰹節を鍋の中《うち》に摘《つま》み込《こ》んで猪口《ちょく》を手にす。注《つ》ぐ、呑《の》む。
「いいかエ。
「素敵だッ、やんねえ。
 女も手酌《てじゃく》で、きゅうと遣《や》って、その後徳利を膳に置く。男は愉快気《ゆかいげ》に重ねて、
「ああ、いい酒だ、サルチルサンで甘《あめ》え瓶《びん》づめとは訳が違う。
「ほめてでももらわなくちゃあ埋《うま》らないヨ、五十五銭というんだもの。
「何でも高くなりやあがる、ありがてえ世界《せけえ》だ、月に百両じゃあ食えねえようになるんでなくッちゃあ面白くねえ。
「そりゃあどういう理屈《りくつ》だネ。
「一揆《いっき》がはじまりゃあ占《し》めたもんだ。
「下らないことをお言いで無い、そうすりゃあ汝《おまえ》はどうするというんだエ。
「構うことあ無えやナ、岩崎《いわさき》でも三井《みつい》でも敲《たた》き毀《こわ》して酒の下物《さかな》にしてくれらあ。
「酔《よ》いもしない中からひどい管《くだ》だねエ、バアジンへ押込んで煙草三本拾う方じゃあ無いかエ、ホホホホ。
「馬鹿あ吐《ぬ》かせ、三銭の恨《うらみ》で執念《しゅうねん》をひく亡者《もうじゃ》の女房《かかあ》じゃあ汝《てめえ》だってちと役不足だろうじゃあ無《ね》えか、ハハハハ。
「そうさネエ、まあ朝酒は呑ましてやられないネ。
「ハハハ、いいことを云やあがる、そう云わずとも恩には被《き》らあナ。
「何をエ。
「今飲んでる酒をヨ。
「なぜサ。
「なぜでもいいわい、ただ美味《うめ》えということよ。
「オヤ、おハムキかエ、馬鹿らしい。
「そうじゃあ無《ね》えが忘れねえと云うんだい、こう煎《せん》じつめた揚句《あげく》に汝《てめえ》の身の皮を飲んでるのだもの。
「弱いことをお云いだねエ、がらに無いヨ。
「だってこうなってからというものア運とは云いながら為《す》ることも為ることもどじを踏《ふ》んで、旨《うめ》え酒一つ飲ませようじゃあ無し面白い目一つ見せようじゃあ無し、おまけに先月あらいざらい何もかも無くしてしまってからあ、寒蛬《こおろぎ》の悪く啼《な》きやあがるのに、よじりもじりのその絞衣《しぼり》一つにしたッ放《ぱな》しで、小遣銭《こづけえぜに》も置いて行かずに昨夜《ゆうべ》まで六日《むいか》七日《なのか》帰りゃあせず、売るものが留守《るす》に在《あ》ろうはずは無し、どうしているか知らねえが、それでも帰るに若干銭《なにがし》か握《つか》んで家《うち》へ入《へ》えるならまだしもというところを、銭に縁のあるものア欠片《かけら》も持たず空腹《すきっぱら》アかかえて、オイ飯を食わしてくれろッてえんで帰っての今朝《けさ》、自暴《やけ》に一杯《いっぺえ》引掛《ひっか》けようと云やあ、大方|男児《おとこ》は外へも出るに風帯《ふうてえ》が無くっちゃあと云うところからのことでもあろうが、プッツリとばかりも文句無しで自己《おの》が締めた帯を外《はず》して来ての正宗《まさむね》にゃあ、さすがのおれも刳《えぐ》られたア。今ちょいと外面《おもて》へ汝《てめえ》が立って出て行った背影《うしろかげ》をふと見りゃあ、暴《あば》れた生活《くらし》をしているたア誰《た》が眼にも見えてた繻子《しゅす》の帯、燧寸《マッチ》の箱のようなこんな家に居るにゃあ似合わねえが過日《こねえだ》まで贅《ぜい》をやってた名残《なごり》を見せて、今の今まで締めてたのが無くなっている背《うしろ》つきの淋《さみ》しさが、厭《いや》あに眼に浸《し》みて、馬鹿馬鹿しいがホロリッとなったア。世帯《しょたい》もこれで幾度《いくたび》か持っては毀《こわ》し持っては毀し、女房《かかあ》も七度《ななたび》持って七度出したが、こんな酒はまだ呑まなかった。
「何だネエ汝《おまえ》は、朝ッぱらから老実《じみ》ッくさいことをお言いだネ。
「ハハハ、そうよ、異《おつ》に後生気《ごしょうぎ》になったもんだ。寿命《じゅみょう》が尽《つ》きる前にゃあ気が弱くなるというが、我《おら》アひょっとすると死際《しにぎわ》が近くなったかしらん。これで死んだ日にゃあいい意気地無《いくじな》しだ。
「縁起《えんぎ》の悪いことお云いでないよ、面白くもない。そんなことを云っているより勢いよくサッと飲んで、そしていい考案《かんがえ》でも出してくれなくちゃあ困るよ。
「いいサ、飲むことはこの通りお達者だ、案じなさんな。児を棄《す》てる日になりゃア金の茶釜《ちゃがま》も出て来るてえのが天運だ、大丈夫《だいじょうぶ》、銭が無くって滅入《めい》ってしまうような伯父《おじ》さんじゃあねえわ。
「じゃあ何《なん》かいい見込《みこみ》でも立ってるのかエ。
「ナアニ、ちっとも立ってねえのヨ。
「どうしたらそういい気になっていられるだろうネ。仕様が無いネエ、どうかしておくれで無くっちゃあわたしももうしようもようも有りゃあしないヨ。
「ナアニ、いよいよ仕様が無けりゃあ、またちょいと書く法もあらア。
「どうおしなのだエ。
「強盗《ごうとう》と出かけるんだ。
「智慧《ちえ》が無いねエ、ホホホホ。詰らない洒落《しゃれ》ばかり云わずと真実《ほんと》にサ。
「真実《ほんと》に遣付《やっつ》けようかと思ってるんだ。オイ、三年の恋《こい》も醒《さ》めるかナッ、ハハハ。
「冗談《じょうだん》を云わずと真誠《ほんと》に、これから前《さき》をどうするんだか談《はな》して安心さしておくれなネエ。茶かされるナア腹が立つよ、ひとが心配しているのに。
「心配は廃《よ》しゃアナ。心配てえものは智慧袋《ちえぶくろ》の縮《ちぢ》み目の皺《しわ》だとヨ、何にもなりゃあしねえわ。
「だって女の気じゃあいくらわたしが気さくもんでも、食べるもん無し売るもんなしとなるのが眼に見えてちゃあ心配せずにゃあいられないやネ。
「ご道理《もっとも》千万《せんばん》に違《ちげ》えねえ、これから売るものア汝《てめえ》の身体《からだ》より他にゃあ無《ね》えんだ。おれの身体でも売れるといいんだが、野郎と来ちゃあ政府《おかみ》へでも売りつけるより仕様がねえ、ところでおれ様と来ちゃあ政府《おかみ》でも買い切れめえじゃあねえか。川岸《かし》女郎《じょろう》になる気で台湾《たいわん》へ行くのアいいけれど、前借《ぜんしゃく》で若干銭《なにがし》か取れるというような洒落た訳にゃあ行かずヨ、どうも我ながら愛想《あいそ》の尽きる仕義だ。
「そんな事をいってどうするんだエ。
「どうするッてどうもなりゃあしねえ、裸体《はだか》になって寝ているばかりヨ。塵挨《ほこり》が積《たか》る時分にゃあ掘出し気《ぎ》のある半可通《はんかつう》が、時代のついてるところが有り難《がて》えなんてえんで買って行くか知れねえ、ハハハ。白丁《はくちょう》奴《め》軽くなったナ。
「ほんとに人を馬鹿にしてるね。わたしを何だとおもっておいでのだエ、こっちは馬鹿なら馬鹿なりに気を揉《も》んでるのに、何もかも茶にして済《す》ましているたあ余《あんま》り人を袖《そで》にするというものじゃあ無いかエ。
と少しつんとして、じれったそうにグイと飲む。酒の廻りしため面《おもて》に紅色《くれない》さしたるが、一体|醜《みにく》からぬ上|年齢《としばえ》も葉桜《はざくら》の匂《におい》無くなりしというまでならねば、女振り十段も先刻《さき》より上りて婀娜《あだ》ッぽいいい年増《としま》なり。
「そう悪く取っちゃあいけねエ。そんなら実《ほん》の事を云おうか、実《じつ》はナ。
「アアどうするッてエの。
「実はナ。ほんとうの事を云やあ、ナ。
「アアどうするッてエのだッていうのにサ。
「エエ糞《くそ》ッ、忌々《いめえま》しいが云ってしまおう。実は過日《こねえだ》家《うち》を出てから、もうとても今じゃあ真当《ほんと》の事ア遣《やっ》てる間《ま》がねえから汝《てめえ》に算段させたんで、合百《ごうひゃく》も遣りゃあ天骰子《てんさい》もやる、花も引きゃあ樗蒲一《ちょぼいち》もやる、抜目《ぬけめ》なくチーハも買う富籤《とみ》も買う。遣らねえものは燧木《マッチ》の賭博《かけ》で椋鳥《むくどり》を引っかける事ばかり。その中《うち》にゃあ勝ちもした負けもした、いい時ゃ三百四百も握《にぎ》ったが半日たあ続かねえでトドのつまりが、残ったものア空財布《からさいふ》の中に富籤《とみ》の札《ふだ》一枚《いちめえ》だ。こいつあ明日《あした》になりゃあ勝負がつくのだ、どうせ無益《むだ》にゃあ極《きま》ってるが明日《あした》行って見ねえ中は楽みがある、これよりほかに当《あて》は無えんだ。オイ軽蔑《さげすむ》めえぜ、馬鹿なものを買ったのも詮《せん》じつめりゃあ、相場をするのと差《ちげえ》はねえのだ、当らねえには極《き》まらねえわサ。もうこうなっちゃあ智慧も何も、有ったところで役に立たねえ、有体《ありてい》に白状すりゃこんなもんだ。
 女房《にょうぼ》は眉《まゆ》を皺《しわ》めながら、
「それもそうだろうが汝《おまい》そうして当らない時はどうするつもりだエ。
「ハハハ、どうもならねえそう聞かれちゃあ。生きてる中はどうかこうか食わずにゃあいねえものだ、構うものかイ。だから裸で寝ていようというんだ。愛想《あいそ》が尽きたか、可愛想《かわいそう》な。厭気《いやき》がさしたらこの野郎に早く見切をつけやあナ、惜いもんだが別れてやらあ。汝《てめえ》が未来《このさき》に持っている果報の邪魔《じゃま》はおれはしねえ、辛《つら》いと汝が《てめえ》がおもうなら辛いつきあいはさせたくねえから。
とさすが快活《きさく》な男も少し鼻声になりながらなお酔《よい》に紛《まぎ》らして勢《いきおい》よく云う。味わえば情も薄からぬ言葉なり。女は物も云わず、修行《しゅぎょう》を積んだものか泣きもせず、ジロリと男を見たるばかり、怒った様子にもあらず、ただ真面目《まじめ》になりたるのみ。
 男なお語をつづけて、
「それともこう云っちゃあ少しウヌだが、貧《ひん》すりゃ鈍《どん》になったように自分でせえおもうこのおれを捨ててくれねえけりゃア、真《ほん》の事《こっ》たあ、明日の富に当らねえが最期《さいご》おらあ強盗になろうとももうこれからア栄華《えいが》をさせらあ。チイッと覚悟《かくご》をし直してこれからの世を渡《わた》って行きゃあ、二度と汝《てめえ》に銭金の苦労はさせねえ。まだこの世界《せけえ》は金銭《かね》が落ちてる、大層くさくどこへ行っても金金と吐《ぬか》しゃあがってピリついてるが、おれの眼で見りゃあ狗《いん》の屎《くそ》より金はたくさんにころがってらア。ただ狗《いん》の屎を拾う気になって手を出しゃあ攫取《つかみど》りだ、真《ほん》の事《こっ》たあ、馬鹿な世界だ。
「訳が解《わか》らないよ汝《おまえ》の云うことア、やっぱり強盗におなりだというのかエ。
「馬鹿ア云え、強盗になりゃアどうなるとおもう。
「赤い衣服《きもの》を着る結局《おち》が汝《おまえ》のトドの望なのかエ、お茶人過ぎるじゃあ無いか。
「赤い衣服《きもの》ア善人《ぜんにん》だから被《き》せられるんだ。そんなケチなのとアちと違うんだが、おれが強盗になりゃ汝《てめえ》はどうする。
「厭だよ、そんな下らないことを云っては、お隣家《となり》だって聞いてるヨ。
「隣家で聞いたって巡査《じゅんさ》が聞いたって、談話《はなし》だイ、構うもんか、オイどうする。
「おふざけで無いよ馬鹿馬鹿しい。
と今は一切受付けぬ語気。男はこの様子を見て四方《あたり》をきっと見廻《みま》わしながら、火鉢越に女の顔近く我顔を出して、極めて低き声ひそひそと、
「そんなら汝《てめえ》、おれが一昨日《おととい》盗賊《ぬすみ》をして来たんならどうするつもりだ。
と四隣《あたり》へ気を兼ねながら耳語《ささや》き告ぐ。さすがの女ギョッとして身を退《ひ》きしが、四隣を見まわしてさて男の面をジッと見、その様子をつくづく見る眼に涙《なみだ》をにじませて、恐る恐る顔を男の顔へ近々と付けて、いよいよ小声に、
「金《きん》さん汝《おまい》情無い、わたしにそんなことを聞かなくちゃアならない事をしておくれかエ。エ、エ、エ。
「ム、ム、マアいいやナ、してもしねえでも。ただ汝《てめえ》の返辞が聞きてえのだ。
「どうしても汝《おまい》聞きたいのかエ。
 女の唇《くちびる》は堅《かた》く結ばれ、その眼は重々しく静かに据《すわ》り、その姿勢《なり》はきっと正され、その面は深く沈める必死の勇気に満《みた》されたり。男は萎《しお》れきったる様子になりて、
「マア、聞きてえとおもってもらおう。おらあ汝《おめえ》の運は汝に任《まか》せてえ、おらが横車を云おう気は持たねえ、正直に隠《かく》さず云ってくれ。
 女はグイとまた仰飲《あお》って、冷然として云い放った。
「何が何でもわたしゃアいいよ、首になっても列《なら》ぼうわね。
 面は火のように、眼は耀《かがや》くように見えながら涙はぽろりと膝《ひざ》に落ちたり。男は臂《ひじ》を伸《のば》してその頸《くび》にかけ、我を忘れたるごとく抱《いだ》き締《し》めつ、
「ムム、ありがてえ、アッハハハハ、ナニ、冗談《じょうだん》だあナ。べらぼうめえ、貧乏したって誰《だれ》が馬鹿なことをしてなるものか。ああ明日の富籤《とみ》に当りてえナ、千両取れりゃあ気息《いき》がつけらあ。エエ酒が無《ね》えか、さあ今度アこれを売って来い。構うもんかイ、構うもんかイ、当らあ当らあきっと当らあ。
とヒラリと素裸《すはだか》になって、寝衣《ねまき》に着かえてしまって、

  やぼならこうした うきめはせまじ、

と無間《むげん》の鐘《かね》のめりやすを、どこで聞きかじってか中音に唸《うな》り出す。
                         (明治三十年十月)

底本:「ちくま日本文学全集 幸田露伴」筑摩書房
   1992(平成4)年3月20日第1刷発行
底本の親本:「現代日本文学全集4」筑摩書房
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
※底本の次の個所(頁-行)の「小書き片仮名ト」(JIS X 0213、1-6-81)は「ト」に置き換えました。コウト(27-5) 一ト眼(31-9)
※閉じ括弧は無しはすべて、底本通り。
入力:林 幸雄
校正:門田裕志
2002年12月5日作成
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幸田露伴

馬琴の小説とその当時の実社会 ——幸田露伴

 皆さん。浅学不才な私如き者が、皆さんから一場の講演をせよとの御求めを受けましたのは、実に私の光栄とするところでござります。しかし私は至って無器用な者でありまして、有益でもあり、かつ興味もあるというような、気のきいた事を提出致しまして、そして皆さんの思召《おぼしめし》に酬《むく》いる、というような巧なる事はうまく出来ませぬので、已むを得ず自分の方の圃《はたけ》のものをば、取り繕《つくろ》いもしませんで無造作に持出しまして、そして御免を蒙るという事に致すことにしました。ちょうど温かい心もちが無いのではありませんが、機転のきかない妻君が、たまたまの御客様に何か薦《すす》めたい献《たてまつ》りたいと思っても、工合よく思い当るものが無いので、仕方なしに裏庭の圃のジャガイモを塩ゆでにして、そして御菓子にして出しました、といったような格でありまして、まことに智恵の無い御はずかしい事でありますが、御勘弁を願います。
 さてその智恵の無い談話の題目は「曲亭馬琴の小説とその当時の実社会」というのでございます。題の付けようが少し拙《まず》いか知れませんが、私の申し上げてみようというのは、その当時、即ち馬琴が生存して居た時代との関係が、どんな工合であろうかという点にあるのでございます。ただしかように申しますと、非常に広い問題になりまして、どうも一席の御話には尽す事が出来ないのでござりまする。馬琴が用いましたその小説中の言語と、当時の実際の言語とも一つの重要な関係点でありますれば、馬琴の描きました小説中の風俗習慣や儀式作法と、当時の実際の風俗習慣や儀式作法との関係も、また重要の一カ条でございますし、馬琴の小説中にあらわれて居りまする宗教上の信仰や俗間の普通思想と、当時の実際の士民男女の信仰や思想との関係もまた重要の一条件でございまする。その他曰く何、曰く何と相接触して居る関係点は非常に沢山あることでござりまするから、それらをいちいち遺漏無く申上げる事は甚だ困難の事で、かつまた一席の御話には不適当な事でございますから、ただ今はただ馬琴の小説中に現われて居りまする人物と当時の実社会の人物という一条について、御話を試みようと存じます。小説と社会との重要な関係点は、幾干《いくつ》も幾干も有るのでございまするが、小説中の人物と実社会の人物との関係と申す事は、取り分け重要であり、かつまた切実な点であることは申すまでもない事だと存じまするのでございます。
 馬琴という人は、或る種類の人、ひと口に申しますれば通人《つうじん》がったり大人物がったりする人々には、余り賞されないのみならず、あるいはクサされる傾きさえある人でありますが、先ず日本の文学史上にはどうしても最高の地位を占めて居る人でございまして、十二分に尊敬すべき人だとは、十目十指の認めて居るところでございます。なるほど酸《す》いも甘いも咬《か》み分けたというような肌合の人には、馬琴の小説は野暮《やぼ》くさいでもありましょうし、また清い水も濁った水も併せて飲むというような大腹中《ふとっぱら》の人には、馬琴の小説はイヤに偏屈で、隅から隅まで尺度《ものさし》を当ててタチモノ庖丁《ぼうちょう》で裁ちきったようなのが面白くなくも見えましょうが、それはそれとして置いて、馬琴の大手腕大精力と、それから強烈な自己の道義心と混淆化合してしまった芸術上の意見、即ち勧善懲悪という事を主義にして数十年間を努力した芸術的良心の熱烈であった事は、どうしても人をして尊敬讃嘆の念を発せしめずには居らしめないだけの大文豪であります。かくの如き馬琴が書きましたるところの著述は、些細なものまでを勘定すれば百部二百部ではきかぬのでありますが、その中で髄脳であり延髄であり脊髄であるところの著述は、皆当時の実社会に対して直接な関係は有して居りませぬので、皆異なった時代――足利時代とか鎌倉時代とか大内氏頃とか、最も近くても数十年前の時代を舞台にして描いて居るのであります。ですから馬琴の小説中の人物は、無論直接には当時の実社会の人物とは関係が無いのでございます。もっとも馬琴も至って年の若かった頃は、直接に実社会の人物を描いて居りまして、いわゆる「洒落本《しゃれぼん》」という、小説にもならぬ位の程度のものを作って居ります。『猫じやらし』という一巻ものなどは即ちそれで、読んでみますると、本所《ほんじょ》辺の賤しい笑を売る婦人の上を描こうと試みて居るのでございます。しかしそれらは素《もと》より馬琴のためにこれを語るさえ余り気の毒な位の、至って些細な、下らぬものでありまして、名誉心と道義心との非常に強かった馬琴は、晩年に至りまして、これらの下らぬ類の著作を自分が試みたといわれるのを遺憾に思って、自らその書をもとめては焼き棄てたといい伝えられて居る程でございます。馬琴と相前後して居る作者には、山東京伝《さんとうきょうでん》であれ、式亭三馬《しきていさんば》であれ、十返舎一九《じっぺんしゃいっく》であれ、為永春水《ためながしゅんすい》であれ、直接に当時の実社会を描き写して居るものが沢山ありますが、馬琴においては、三勝《さんかつ》・半七《はんしち》を描きましてもお染《そめ》・久松《ひさまつ》を描きましても、それをかなり隔たった時にして書きまして、すべてに、これは過ぎた昔の事であるという過去と名のついた薄い白いレースか、薄青い紗のきれのようなものを被《か》けて置いて、それを通して読者に種々なる相を示して居るのでございます。御覧なさいまし、『八犬伝』は結城《ゆうき》合戦に筆を起して居ますから足利氏の中葉からです、『弓張月』は保元からですから源平時代、『朝夷巡島記《あさいなしまめぐりのき》』は鎌倉時代、『美少年録』は戦国時代です。『夢想兵衛胡蝶物語《むそうびょうえこちょうものがたり》』などは、その主人公こそは当時の人ですが、これはまたその描いてある世界がすべて非現実世界ですから、やはり直接には当時の実社会と交渉がきれて居りますのです。
 それで馬琴のその「過去と名のついたレース」を通して読者に種々の事相を示した小説を読んでみますと、その小説の中の柱たり棟《むなぎ》たる人物は、あるいは「親孝行」という美徳を人に擬《なぞら》えて現わしたようなものであったり、あるいは「忠義」という事を人にして現わしたようなものであったり、あるいは強くて情深くて侠気《おとこぎ》があって、美男で智恵があって、学問があって、先見の明があって、そして神明の加護があって、危険の時にはきっと助かるというようなものであったり、美女で智慮が深くて、武芸が出来て、名家の系統で、心術が端正で、というようなものであったりするので、当時の実社会のどこをさがしてもなかなか居りませぬ人物です。当時どころではありません。明治の聖代の今日だって、犬塚信乃《いぬつかしの》だの犬飼現八《いぬかいげんはち》だの、八郎御曹司為朝《はちろうおんぞうしためとも》だの朝比奈三郎《あさいなさぶろう》だの、白縫姫《しらぬいひめ》だの楠《くすのき》こまひめだののような人は、どうも見当りません。まして火の中へ隠れてしまう魔法を知って居る犬山道節《いぬやまどうせつ》だの、他人の愛情や勇力を受けついでくれる寧王女《ねいおうにょ》のようなそんな人は、どう致しまして有るわけのものではありません。それでは馬琴が描いた小説中の人物は当時の実社会とはまるで交渉が無いかというと、前々から申しました通り、直接には殆ど関係が無いのでありますが、決して実社会と没交渉無関係ではありませんように考えられます。
 それならどういう風に関係が有ったろうかといいますと、便宜上その答案を三つに分けて申しますが、馬琴の小説中の人物は大別すれば三種類あるのでして、第一には前に申しました一篇の主人公や副主人公やその他にせよ、とにかくに篇中の柱たり棟たる役目を背負って居る「善良の人物」であります。第二には、梟悪《きょうあく》・奸悪等の「邪悪の人物」であります。『弓張月』で申しますれば曚雲《もううん》だの利勇《りゆう》だの、『八犬伝』で申しますれば蟇田素藤《ひきたもとふじ》だの山下|定包《さだかね》だの馬加大記《まくわりだいき》だのであります。第三には「端役《はやく》の人物」で、大善でもない、大悪でもない、いわゆる平凡の人物でありますが、これらの三種の人物中、第一類の善良なる人物は、疑いも無く作者たる馬琴および当時の実社会の善良なる人物の胸中の人物であります。もとより人の胸中の人物でありますから、その通りの人物は実世界において居なかったには相違ありません。しかしながら人の胸中の人物というものは、胸中の人物として別に自《おのずか》ら成り立って居るものでありまして、胸中の人物であるから世に全く無いものであるという訳にはまいりません。仏教徒は仏教徒の胸中の人物がございます、基督《キリスト》教徒は基督教徒の胸中の人物がございます、インデヤンにはインデヤンの胸中の人物がございます、鎌倉武士は鎌倉武士で胸中の人物があります。いわゆる「人の胸中の人物」は、「時代」により「処」によっていろいろに異なって居ります。そのいろいろに異なって居る所以《ゆえん》は、即ち「時代」により「処」によりて「人の胸中の人物」が生れたり活きたり死んだりする所以で、人の胸中の人物もあたかも実の人であるかの如くであるのであります。馬琴時代の「人の胸中の人物」は、紫式部時代の「人の胸中の人物」とは全然別なのでありまして、そして即ち馬琴時代にはその当時の人々の胸中に活きて居ったのであります。それを捉えて馬琴は描写したのであります。即ち馬琴の書いた第一種類の人物は当時の実世界には居らぬこと勿論であるが、当時の実社会の人々の胸中に居たところの人物なのであって、他の時代や他の土地の人々の胸中の人物を描いたのでは無い。ですから決して当時の実社会と没交渉や無関係な訳では無くて、そして、それであったればこそ、当時の実社会の人間を沢山に吸引して読者としたのであるのです。
 馬琴時代を歴史の眼を仮《か》りて観察しますれば、儒教即ち孔孟の教えは社会に大勢力を持って居りましたのです。で、八犬士でも為朝でも朝比奈でも皆儒教の色を帯びて居ります。仏教の三世因果《さんぜいんが》の教えも社会に深く浸潤して居りました。で、八犬士でも為朝でも朝比奈でも因縁因果の法を信じて居ります。神仙妖魅霊異の事も半信半疑ながらにむしろ信じられて居りました。で、八犬士でも為朝でもそれらを否定せぬ様子を現わして居ります。武術や膂力《りょりょく》の尊崇された時代であります。で、八犬士や為朝は無論それら武徳の権化《ごんげ》のようになって居ります。これらの点をなお多く精密に数えて、そして綜合して一考しまする時は、なるほど馬琴の書いたようなヒーローやヒロインは当時の実社会には居らぬに違い無いが、しかし馬琴の書いたヒーローやヒロインは当時の実社会の人々の胸中に存在して居たもので、決して無茶苦茶に馬琴が捏造したものでもよそから借りて来たものでも無いという事は分明《ふんみょう》であります。そして馬琴の小説はその点でも、当時の実社会と相離れ得ぬ強い関係交渉を持って居ると申す事が出来ると存じます。
 翻って第三の平凡人物即ち「端役の人物」を観ますと、ここに面白い現象が認められます。例を申しましょうなら、端役の人物の事ゆえ『八犬伝』を御覧の方でも御忘れでしょうが、小文吾《こぶんご》が牛の闘を見に行きました時の伴《とも》をしました磯九郎《いそくろう》という男だの、角太郎が妻の雛衣《ひなきぬ》の投身《みなげ》せんとしたのを助けたる氷六《ひょうろく》だの、棄児《すてご》をした現八の父の糠助《ぬかすけ》だの、浜路《はまじ》の縁談を取持った軍木五倍二《ぬるでごばいじ》だの、押かけ聟の簸上宮六《ひかみきゅうろく》だの、浜路の父|蟇六《ひきろく》だの母の亀篠《かめささ》だの、数え立てますれば『八犬伝』一部中にもどの位居るか知れませぬが、これらの人物は他の人物と共にやはり例の過去というレースのかなたに居る人物であるにかかわらず、即ち馬琴の生存して居る当時の実社会とは遥かに隔たって居る時代の人物であるにかかわらず、その実はその当時の実社会の人物なのであります。言い換えますれば馬琴が作中のこれらの第三類の人物は大抵その当時に存在して居るところの人物なのであります。たとえば磯九郎という男は、勇者の随伴《とも》をして牛の闘を見にまいりますと、ふと恐ろしい強い牛が暴れ出しまして、人々がこれを取り押えることが出来ぬという場合、牛に向って来られたので是非なく勇者たる小文吾がその牛を取り挫《ひし》いで抑えつけます。そこで人々は恩を謝し徳をたたえて小文吾を饗応します。すると磯九郎は自分が大手柄でも仕《し》たように威張り散らして、頭を振り立てて種々の事を饒舌《しゃべ》り、終に酒に酔って管《くだ》を巻き大気焔を吐き、挙句には小文吾が辞退して取らぬ謝礼の十|貫文《かんもん》を独り合点で受け取って、いささか膂力のあるのを自慢に酔に乗じてその重いのを担ぎ出し、月夜に酔が醒め身が疲れて終に難にあうというのですが、いかにも下らない人間の下らなさ加減がさも有りそうに書けております。これは馬琴が人々の胸中から取り出し来った人物ではありません。けだし当時の実社会に生存して居たものを取り来ってその材料に使ったのであります。というものは、この磯九郎のような人間、――勿論すっかり同じであるというのではありませんが、殆どこの磯九郎のような人間は、常に当時の実社会と密接せんことを望みつつ著述に従事したところの式亭三馬の、その写実的の筆に酔客の馬鹿げた一痴態として上《のぼ》って居るのを見ても分ることで、そしてまた今日といえども実際私どもの目撃して居る人物中に、磯九郎如きものを見出すことの難《かた》くないことに徴《ちょう》しても明らかであります。ただ馬琴はかような人間を端役として使い、三馬やなぞは端役とせずに使うの差があるまでです。馬琴の小説中の端役の人間は、実に馬琴の同時代もしくは前後の、他の作者の作中には重要の位置を占める人物となって現われて居るのを見出すに難くありません。も一歩進めていって見れば、京伝や三馬や一九や春水は、常に馬琴が端役として冷遇した人物、即ちわずかに刷毛《はけ》ついでに書きなぐったような人物を叮嚀に取扱って、御客様にも本尊様にもして、そして一篇なり一部なりを成して居る傾きがあります。磯九郎ばかりではありません、例に挙げたから申しますが、身の苦しさに棄児をした糠助なんぞでも、他の作者ならばそれだけを主題にしても一部を為《な》すのであります。少しく小説の数をかけて読んだお方が、ちょっと瞑目して回想なさったらば、馬琴前後および近時の写実的傾向を帯びた小説等の主人公や副主人公や、事件の首脳なんどが、いかに多く馬琴の著《あら》わした小説中の枝葉の部分に見出さるるかという点には必ず御心づきになる事であろうと信じます。
『八犬伝』の中の左母二郎《さもじろう》などという男は、凡庸人物というよりもやや奸悪の方の人物でありますが、まさに馬琴の同時代に沢山生存して居たところの人物でありまして、それらの一種の色男がり、器用がり、人の機嫌を取ることが上手で、そして腹の中は不親切で、正直質朴な人を侮蔑して、自分は変な一種の高慢を有して居る人物を、馬琴がその照魔鏡に照して写し出したのであります。何故と申しますまでもありません、馬琴の前後の小説、――いわゆる当時の実社会をそのまま描写することを主とした、小説ともいえぬほど低微なものでありますが、それらの小説は描写が実社会の急所にあたってること、即ちウガチということを主として居るものであります。そのウガチを主な目的として居るところの著作数種を瞥見《べっけん》しますれば、左母二郎のような人間がしばしば描かれて居るのを発見するに難くないのでありますから、左母二郎のような型の人物の当時に少なくなかった事はおのずから分明であります。ただ馬琴は左母二郎の軽薄|※[#「にんべん+鐶のつくり」、356-6]巧《けんこう》で宜しくない者であることを示して居るに反して、他の片々たる作者輩は左母二郎を、意気で野暮でなくって、物がわかった、芸のある、婦人に愛さるべき資格を有して居る、宜しいものとして描いて居るのです。彼の芝居で演じます『籠《かご》つるべ』の主人公の佐野治郎左衛門《さのじろうざえもん》なぞという人物は、ちょうどこの左母二郎の正反対の人物に描いてありまして、正直な、無意気な、生野暮な男なのであります。しかるにその脚本にはその田舎くさい、正直なのを同情するよりは、嘲笑する気味がありありと現われて居ます。時代の風潮は左母二郎のようなのを愛して居るのであります。また、谷峨《こくが》という作者の書いたものや、振鷺亭《しんろてい》などという人の書いたものを見ますれば、左母二郎くさい、イヤな男が、むしろ讃称され敬愛される的となって篇中に現われて居るのを発見するのでありまして、谷峨の描きました五郎などという男を、引き伸ばしの写真機械にかけますれば、左母二郎になってしまわずには居ないような気が致します。
 さて第二類の「悪の方の人物」はと申しますと、これはどうも実際社会に現存して居る人物の悪者を極端まで誇張して書いたような形跡があります。まさかに馬琴の書きましたほどの悪人が、その当時に存して居ったとは思えませぬが、さればとてそれは全く馬琴の空想ばかりで捏造したものではありません。ここに至りますと、半分は実社会の人物を種として、半分はそれに馬琴の該博な智識――おもに歴史から得来《えきた》った智識の衣を着せて、極端に誇張し、引き伸ばして、そして作り出したように考えられます。つまり悪の人物は、前に申しました第一第三の種類の人物の中間的に作り出されるかと思われますのです。ですからこれまた無論実社会と無関係没交渉では無いのであります。
 これはひとり馬琴に限って論ずる訳ではありませんが、すべて仮作物語の作者と実社会との関係を観察しますと、極端に異なった類例が二種あるのであります。一つはその仮作物語と実社会と並行線なのであります。他の一つはその仮作物語と実社会と直角的に交叉線《こうさせん》をなして居る、――物語そのものは垂直線をなして居るのであります。並行線をなして居るのは、作者の思想や感情や趣味が当時の実社会と同じであるところより生じ、交叉線をなすのは作者の思想感情趣味が当時の実社会と異なるところより生ずるのであります。京伝だの三馬だの一九だのという人々は即ち並行線的作者で、その思想も感情も趣味も当時の衆俗と殆ど同じなのであり、したがってその著作は実社会をそっくり写したような訳合《わけあい》になるのです。馬琴に至りますと、杉や檜《ひのき》が天をむいて立つように、地平線とは直角をなして、即ち衆俗を抽《ぬき》んでて挺然《ていぜん》として自《みずか》ら立って居りますので、その著述は実社会と決して没交渉でも無関係でもありませんが、しかし並行はして居りませぬのです。時代の風潮は遊廓で優待されるのを無上の栄誉と心得て居る、そこで京伝らもやはり同じ感情を有して居る、そこで京伝らの著述を見れば天明《てんめい》前後の社会の堕落さ加減は明らかに写って居ますが、時代はなお徳川氏を謳歌して居るのであります。しかし馬琴は心中に将軍政治を悦んでは居りませんでした。誰が馬琴の『侠客伝』などを当時の実社会の反映だとはいい得ましょう? 馬琴以外の作者は実に時代と並行線を描いて居ましたが、馬琴は実に時代と直角的に交叉して居たのであります。時代の流れと共に流れ漂って居た人で無かったのであります。自分は自分の感情思想趣味があって、そしてその自分の感情思想趣味を以て実社会を批判して書いたのであるという事を認めなければならんのであります。
 下手《へた》の長談義で余り長くなりますから、これまでに致して置きます。                      (明治四十一年四月)

底本:「南総里見八犬伝 (十)」岩波文庫、岩波書店
   1990(平成2)年7月16日第1刷発行
底本の親本:「露伴全集 第十五巻」岩波書店
   1952(昭和27)年
入力:しだひろし
校正:オーシャンズ3
2007年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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幸田露伴

二日物語—– 幸田露伴

    此一日

      其一

 観見世間是滅法《くわんけんせけんぜめつぽふ》、欲求無尽涅槃処《よくぐむじんねはんしよ》、怨親已作平等心《をんしんいさびやうどうしん》、世間不行慾等事《せけんふぎやうよくとうじ》、随依山林及樹下《ずゐえさんりんきふじゆげ》、或復塚間露地居《わくぶくちようかんろちきよ》、捨於一切諸有為《しやおいつさいしようゐ》、諦観真如乞食活《たいくわんしんによこつじきくわつ》、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。実《げ》に往時《いにしへ》はおろかなりけり。つく/″\静かに思惟《しゆゐ》すれば、我|憲清《のりきよ》と呼ばれし頃は、力を文武の道に労《つか》らし命を寵辱の岐《ちまた》に懸け、密《ひそ》かに自ら我をば負《たの》み、老病死苦の免《ゆる》さぬ身をもて貪瞋痴毒《とんじんちどく》の業《ごふ》をつくり、私邸に起臥しては朝暮|衣食《いゝし》の獄に繋がれ、禁庭に出入しては年月名利の坑《あな》に墜ち、小川の水の流るゝ如くに妄想の漣波《さゞなみ》絶ゆる間《ひま》なく、枯野の萱の燃ゆらむやうに煩悩の火※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《ほのほ》時あつて閃めき、意馬は常に六塵の境に馳せて心猿|動《やゝ》もすれば十悪の枝に移らんとし、危くもまた浅ましく、昨日見し人今日は亡き世を夢と見る/\果敢なくも猶驚かで、鶯の霞にむせぶ明ぼのの声は大乗妙典《だいじようめうてん》の御名を呼べども、羝羊《ていやう》の暗昧《あんまい》無智の耳うとくて無明の眠りを破りもせず、吹きわたる嵐の音は松にありて、空をさまよふ浮雲に磨かれ出づる秋の夜の月の光をあはれ宿す、荒野の裾のむら薄の露の白珠あへなくも、末葉元葉を分けて行く風に砕けてはら/\と散るは真《まこと》に即無常、金口説偈《きんくせげ》の姿なれども、※[#「目+(黒の旧字/土)」、117-上-19]※[#「塞」の「土」に代えて「目」、117-上-19]《ぼくそく》として視る無き瞎驢《くわつろ》の何を悟らむ由もなく、いたづらに御祓《みそぎ》済《すま》してとり流す幣《ぬさ》もろともに夏を送り、窓おとづるゝ初時雨に冬を迎へて世を経しが、物に定まれる性なし、人いづくんぞ常に悪《あし》からむ、縁に遇へば則ち庸愚《ようぐ》も大道を庶幾《しょき》し、教に順ずるときんば凡夫も賢聖に斉しからむことを思ふと、高野大師の宣ひしも嬉しや。一歳《ひととせ》法勝寺御幸の節、郎等一人六条の判官《はうぐわん》が手のものに搦められしを、厭離《おんり》の牙種《げしゆ》、欣求《ごんぐ》の胞葉《はうえふ》として、大治二年の十月十一日拙き和歌の御感に預り、忝なくも勅禄には朝日丸の御佩刀《おんはかせ》をたまはり、女院の御方よりは十五重りたる紅の御衣を賜はり、身に余りある面目を施せしも、畏くはあれど心それらに留まらず、ひたすら世路を出でゝ菩提に入り敷華成果《ふげじやうくわ》の暁を望まむと、遂に其月十五夜の、玉兎《つき》も仏国西方に傾く頃を南無仏南無仏、恩愛永離《おんないえいり》の時こそ来つれと、髻《もとゞり》斬つて持仏堂《ぢぶつ》に投げこみ、露憎からぬ妻をも捨て、いとをしみたる幼きものをも歯を切《くひしば》つて振り捨てつ、弦を離れし箭《や》の如く嵯峨《さが》の奥へと走りつき、ありしに代へて心安き一鉢三衣《いつぱつさんえ》の身となりし以来《このかた》、花を採り水を掬《むす》むでは聊か大恩教主の御前に一念の至誠を供《くう》じ、案を払ひ香を拈《ひね》つては謹んで無量義経の其中に両眼の熱光を注ぎ、兀坐寂寞《こつざじやくまく》たる或夜は、灯火《ともしび》のかゝげ力も無くなりて熄《と》まる光りを待つ我身と観じ、徐歩《じよほ》逍遥《せうえう》せる或時は、蜘蛛《さゝがに》の糸につらぬく露の珠を懸けて飾れる人の世と悟りて、ます/\勤行怠らず、三懺の涙に六度の船を浮めて、五力の帆を揚げ二障の波を凌がむとし、山林に身を苦しめ雲水に魂をあくがれさせては、墨染の麻の袂に春霞よし野の山の花の香を留め、雲湧き出づる那智の高嶺の滝の飛沫《しぶき》に網代小笠《あじろをがさ》の塵垢《ぢんく》を濯《そゝ》ぎ、住吉の松が根洗ふ浪の音、難波江の蘆の枯葉をわたる風をも皆|御法《みのり》説く声ぞと聞き、浮世をよそに振りすてゝ越えし鈴鹿や神路山、かたじけなさに涙こぼれつ、行へも知れず消え失する富士の煙《けぶ》りに思ひを擬《よそ》へ、鴫立沢《しぎたつさは》の夕暮に※[#「筑」の「凡」に代えて「卩」、第3水準1-89-60]《つゑ》を停《とゞ》めて一人歎き、一人さまよふ武蔵野に千草の露を踏みしだき、果白河の関越えて幾干《いくそ》の山河隔たりし都の方をしのぶの里、おもはくの橋わたり過ぎ、嵐烈しく雪散る日辿り着きたる平泉、汀《みぎは》凍《こほ》れる衣川を衣手寒く眺めやり、出羽にいでゝ多喜の山に薄紅《うすくれなゐ》の花を愛《め》で、象潟《きさかた》の雨に打たれ木曾の空翠《くうすゐ》に咽んで、漸く花洛《みやこ》に帰り来たれば、是や見し往時《むかし》住みにし跡ならむ蓬が露に月の隠るゝ有為転変の有様は、色即空《しきそくくう》の道理《ことわり》を示し、亡きあとにおもかげをのみ遺し置きて我が朋友《ともどち》はいづち行きけむ無常迅速の為体《ていたらく》は、水漂草の譬喩《たとへ》に異ならず、いよ/\心を励まして、遼遠《はるか》なる巌の間《はざま》に独り居て人め思はず物おもはゞやと、数旬《しばらく》北山の庵に行ひすませし後、飄然と身を起し、加茂明神に御暇《おいとま》告《まを》して仁安三年秋の初め、塩屋の薄煙りは松を縫ふて緩くたなびき、小舟の白帆は霧にかくれて静に去るおもしろの須磨明石を経て、行く/\歌枕さぐり見つゝ図らずも此所|讚岐《さぬき》の国|真尾林《まをばやし》には来りしが、此所は大日流布《だいにちるふ》の大師の生れさせ給ひたる地にも近く、何と無く心とゞまりて如斯《かく》草庵を引きむすび、称名《しようみやう》の声の裏《うち》には散乱の意を摂し、禅那《ぜんな》の行の暇《ひま》には吟咏のおもひに耽り悠※[#二の字点、1-2-22]自ら楽むに、有がたや三世諸仏のおぼしめしにも叶ひしか、凡念日※[#二の字点、1-2-22]に薄ぎて中懐淡きこと水を湛へたるに同じく、罪障刻※[#二の字点、1-2-22]に銷《せう》して両肩《りやうけん》軽きこと風を担ふが如くになりしを覚ゆ。おもへば往事は皆非なり、今はた更に何をか求めん。奢を恣《ほしいま》まにせば熊掌《ゆうしやう》の炙りものも食《くら》ふに美味《よきあぢ》ならじ、足るに任すれば鳥足《てうそく》の繕したるも纏ふに佳衣《よききぬ》なり、ましてや蘿《つた》のからめる窓をも捨てゞ月我を吊《とむら》ひ、松たてる軒に来つては風我に戯る、ゆかしき方もある住居なり、南無仏南無仏、あはれよき庵、あはれよき松。

 久に経てわが後の世をとへよ松あとしのぶべき人も無き身ぞ

       其二

 真清水の世に出づべしともおもはねば見る眼寒げにすむ我を、慰め顔の一つ松よ。汝は三冬《さんとう》にも其色を変へねば我も一条《ひとすぢ》に此心を移さず。なむぢ嵐に揺いでは翠光を机上の黄巻《くわうくわん》に飛ばせば、我また風に托して香烟を木末《こずゑ》の幽花にたなびかす。そも/\我と汝とは往時《むかし》如何なる契りありけむ、かく相互に睦ぶこと是も他生の縁なるべし。草木国土|悉皆成仏《しつかいじやうぶつ》と聞くときは猶行末も頼みあるに、我は汝を友とせん。菩提樹神のむかしは知らねど、腕を組み言葉を交へずとも、松心あらば汝も我を友と見よ。僧青松の蔭に睡れば松老僧の頂を摩す、僧と松とは相応《ふさは》しゝ。我は汝を捨つるなからん。

 此所をまた我すみ憂くてうかれなば松はひとりにならんとすらん

 あら、心も無く軒端《のきば》の松を寂《さび》しき庵の友として眺めしほどに、憶ひぞ出でし松山の、浪の景色はさもあらばあれ、世の潮泡《しほなわ》の跡方なく成りまし玉ひし新院の御事胸に浮び来りて、あらぬさまにならせられ仁和寺《にんなじ》の北の院におはしましける時、ひそかに参りて畏くも御髪《みぐし》落させられたる御姿を、なく/\おぼろげながらに拝みたてまつりし其夜の月のいと明く、影もかはらで空に澄みたる情無かりし風情さへ、今|眼前《まのあたり》に見ゆるがごとし。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。実《げ》に人界《にんがい》不定《ふぢやう》のならひ、是非も無き御事とは申せ、想ひ奉《まつ》るもいとかしこし。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏阿弥陀仏。おもへば不思議や、長寛二年の秋八月廿四日は果敢なくも志渡《しど》にて崩《かく》れさせ玉ひし日と承はれば、月こそ異《かは》れ明日は恰も其日なり。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。いで御陵《みさゝき》のありと聞く白峯といふに明日は着き、御墓《おんしるし》の草をもはらひ、心の及ばむほどの御手向《おんたむ》けをもたてまつりて、いさゝか後世御安楽の御祈りをもつかまつるべきか。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

       其三

 頃は十月の末、ところは荒凉たる境なれば、見渡す限りの景色いともの淋しく、冬枯れ野辺を吹きすさむ風|蕭※[#二の字点、1-2-22]《せう/\》と衣裾《もすそ》にあたり、落葉は辿る径を埋めて踏む足ごとにかさこそと、小語《さゝや》くごとき声を発する中を※[#「足へん+禹」、第3水準1-92-38]※[#二の字点、1-2-22]然《くゝぜん》として歩む西行。衆聖中尊《しゆじやうちゆうそん》、世間之父《せけんしふ》、一切衆生《いつさいしゆじやう》、皆是吾子《かいぜごし》、深着世楽《しんぢやくせらく》、無有慧心《むうゑしん》、などと譬喩品《ひゆぼん》の偈《げ》を口の中にふつ/\と唱へ/\、従ふ影を友として漸やく山にさしかゝり、次第/\に分け登れば、力なき日はいつしか光り薄れて時雨空の雲の往来《ゆきき》定めなく、後山《こうざん》晴るゝ歟《か》と見れば前山忽まちに曇り、嵐に駆《か》られ霧に遮《さ》へられて、九折《つゞら》なる岨《そば》を伝ひ、過ぎ来し方さへ失ふ頃、前途《ゆくて》の路もおぼつかなきまで黒みわたれる森に入るに、樅《もみ》柏《かしは》の大樹《おほき》は枝を交はし葉を重ねて、杖持てる我が手首《たなくび》をも青むるばかり茂り合ひ、梢に懸れる松蘿《さるをがせ》は※[#「髟/參」、第4水準2-93-26]※[#二の字点、1-2-22]《さん/\》として静かに垂れ、雨降るとしは無けれども空翠凝つて葉末より滴る露の冷やかに、衣の袖も立ち迷へる水気に湿りて濡れたるごとし。音にきゝたる児《ちご》が岳《たけ》とは今白雲に蝕まれ居る峨※[#二の字点、1-2-22]《がゞ》と聳えし彼《あの》峯ならめ、さては此あたりにこそ御墓《みしるし》はあるべけれと、ひそかに心を配る折しも、見る/\千仭《せんじん》の谷底より霧漠※[#二の字点、1-2-22]と湧き上り、風に乱れて渦巻き立ち、崩るゝ雲と相応じて、忽ち大地に白布を引きはへたる如く立籠むれば、呼吸するさへに心ぐるしく、四方《あたり》を視るに霧の隔てゝ天地《あめつち》はたゞ白きのみ、我が足すらも定かに見えず。何と思ひも分け得ざる間に、雲霧|自然《おのづ》と消え行けば、岩角の苔、樹の姿、ありしに変らで眼《まなこ》に遮るものもなく、たゞ冬の日の暮れやすく彼方の峯に既《はや》没《い》りて、梟の羽※[#「睹のつくり/栩のつくり」、第4水準2-84-93]《はばたき》し初め、空やゝ暗くなりしばかりなり。木立わづかに間《ひま》ある方の明るさをたよりて、御陵《みさゝぎ》尋ねまゐらする心のせわしく、荊棘《いばら》を厭はでかつ進むに、そも/\これをば、清凉紫宸《せいりやうししん》の玉台に四海の君とかしづかれおはしませし我国の帝の御墓ぞとは、かりそめにも申得たてまつらるべきや、わづかに土を盛り上げたるが上に麁末《そまつ》なる石を三重に畳みなしたるあり。それさへ狐兎《こと》の踰《こ》ゆるに任せ草莱《さうらい》の埋むるに任せたる事、勿体なしとも悲しとも、申すも畏し憚りありと、心も忽ち掻き暗まされて、夢とも現《うつゝ》とも此処を何処とも今を何時とも分きがたくなり、御墓の前に平伏《ひれふ》して円顱《ゑんろ》を地に埋め、声も得立てず咽《むせ》び入りぬ。

       其四

 実《げ》にも頼まれぬ世の果敢《はか》なさ、時運は禁腋《きんえき》をも犯し宿業は玉体にも添ひたてまつること、まことに免れぬ道理《ことわり》とは申せ、九重の雲深く金殿玉楼の中にかしづかれおはしませし御身の、一坏《いつぱい》の土あさましく頑石叢棘《ぐわんせきさうきよく》の下《もと》に神隠れさせ玉ひて、飛鳥《ひてう》音《ね》を遺し麋鹿《びろく》痕《あと》を印する他には誰一人問ひまゐらするものもなき、かゝる辺土の山間《やまあひ》に物さびしく眠らせらるゝ御いたはしさ。ありし往時《そのかみ》、玉の御座《みくら》に大政《おほまつりごと》おごそかにきこしめさせ玉ひし頃は、三公九|卿《けい》首《かうべ》を俛《た》れ百官諸司袂をつらねて恐れかしこみ、弓箭《きうぜん》の武夫《つはもの》伎能の士、あらそつて君がため心を傾ぶけ操を励まし、幸に慈愍《じみん》の御まなじりにもかゝり聊か勧賞の御言葉にもあづからむには、火をも踏み水にも没《い》り、生命を塵芥《ぢんかい》よりも軽く捨てむと競ひあへりしも、今かくなり玉ひては皆対岸の人|異舟《いしう》の客《かく》となりて、半巻の経を誦し一句の偈《げ》をすゝめたてまつる者だになし。世情は常に眼前に着《ぢやく》して走り天理は多く背後に見《あら》はれ来るものなれば、千鐘の禄も仙化《せんげ》の後には匹夫の情をだに致さする能はず、狗馬《くば》たちまちに恩を忘るゝとも固《もと》より憎むに足らず、三春の花も凋落の夕には芬芳《ふんばう》の香り早く失せて、※[#「虫+夾」、第3水準1-91-54]蝶《けふてふ》漸く情疎《じやうそ》なるもまた恨むに詮なし。恐れ多けれども一天万乗の君なりとて欲界の網羅を脱し得玉はねば、如是《かく》なり玉ふこと如是なり玉ふべき筈あり、憎まむ世も無く恨まむ天もあるべからず。おもんみれば、赫※[#二の字点、1-2-22]たる大日輪は螻蟻《ろうぎ》の穴にも光を惜まず、美女の面《おもて》にも熱を減ぜず、茫※[#二の字点、1-2-22]たる大劫運《だいごふうん》は茅茨《ばうし》の屋よりも笑声を奪はず、天子眼中にも紅涙を餽《おく》る、尽大地《じんだいち》の苦、尽大地の楽、没際涯《ぼつさいがい》の劫風《ごふふう》滾※[#二の字点、1-2-22]《こん/\》たり、何とりいでゝ歎き喞たむ。さはさりながら現土には無上の尊き御身をもて、よしなき事をおぼしたゝれし一念の御迷ひより、幾干《いくそ》の罪業《つみ》を作り玉ひし上、浪煙る海原越えて浜千鳥あとは都へ通へども、身は松山に音をのみぞなく/\孤灯に夜雨を聴き寒衾《かんきん》旧時を夢みつゝ、遂に空くなり玉ひし御事、あまりと申せば御傷《おんいたは》しく、後の世のほども推し奉るにいと恐ろしゝ。いざや終夜《よもすがら》供養したてまつらむと、御墓《みしるし》より少し引きさがりたるところの平《ひら》めなる石の上に端然《たんねん》と坐をしめて、いと静かにぞ誦しいだす。妙法蓮華経提婆達多品《めうほふれんげきやうだいばだつたぼん》第十二。爾時仏告諸菩薩及天人四衆《にじぶつかうしよぼさつきふてんにんししゆ》、吾於過去無量劫中《ごおくわこむりやうごふちゆう》、求法華経無有懈倦《ぐほけきやうむうげけん》、於多劫中常作国王《おたごふちゆうじやうさこくわう》、発願求於無上菩提《ほつぐわんぐおむじやうぼだい》、心不退転《しんふたいてん》、為欲満足六波羅密《ゐよくまんぞくろくはらみつ》、勤行布施《ごんぎやうふせ》、心無悋惜《しんむりんじやく》、象馬七珍国城妻子奴婢僕従《ざうめしつちんこくじやうさいしぬびぼくじゆう》、頭目身肉手足不惜躯命《づもくしんにくしゆそくふじやくくみやう》、……
 日は全く没《い》りしほどに山深き夜のさま常ならず、天かくすまで茂れる森の間に微なる風の渡ればや、樹端《こずゑ》の小枝《さえだ》音もせず動きて、黒きが中に見え隠れする星の折ふしきら/\と鋭き光りを落すのみにて、月はいまだ出でず。ふけ行くまゝに霜冴えて石床《せきしやう》いよ/\冷やかに、万籟《ばんらい》死して落葉さへ動かねば、自然《おのづ》と神《しん》清《す》み魂魄《たましひ》も氷るが如き心地して何とはなしに物凄まじく、尚御経を細※[#二の字点、1-2-22]と誦しつゞくるに、声はあやなき闇に迷ひて消ゆるが如く存《あ》るが如く、空にかくれてまたふたゝび空より幽に出で来るごときを、吾が声とも他《ひと》の声ともおぼつかなく聴きつゝ、濁劫悪世中《ぢよくごふあくせちゆう》、多有諸恐怖《たうしよきようふ》、悪鬼入其身《あくきにふごしん》、罵詈毀辱我《ばりきじよくが》、と今しも勧持品《くわんぢぼん》の偈《げ》を称ふる時、夢にもあらず我が声の響きにもあらで、正しく円位※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]と呼ぶ声あり。

       其五

 西行かすかに眼《まなこ》を転じて、声する方の闇を覗《うかゞ》へば、ぬば玉の黒きが中を朽木のやうなる光り有てる霧とも雲とも分かざるものの仄白く立ちまよへる上に、其|様《さま》異《こと》なる人の丈いと高く痩せ衰へて凄まじく骨立ちたるが、此方に向ひて蕭然《せうぜん》と佇《たゝず》めり。素より生死の際に工夫修行をつみたる僧なれば恐ろしとも見ず、円位と呼ばれしは抑《そも》何人にておはすや、と尋ぬれば、嬉しくも詣で来つるものよ、我を誰とは尋ねずもあれ、末葉吹く嵐の風のはげしさに園生の竹の露こぼれける露の身ぞ、よく訪《と》ひつるよ、と聞え玉ふ。あら情無や勿体なしや、さては院の御霊《みたま》の猶此|土《ど》をば捨てさせ玉はで、妄執の闇に漂泊《さすら》ひあくがれ、こゝにあらはれ玉ひし歟、あら悲しや、と地に伏して西行涙をとゞめあへず。
 さりとてはいかに迷はせ玉ふや、濁穢《ぢよくゑ》の世をば厭ひ捨て玉ひつることの尊くも有難くおぼえて、いさゝか随縁法施《ずゐえんほふせ》したてまつりしに、六慾の巷にふたゝび現形《げんぎやう》し玉ふは、いとかしこくも口惜き御心に侍り、仮現《けげん》の此|界《さかひ》にてこそ聖慮安らけからぬ節もおはしつれ、不堅如聚沫《ふけんによじゆまつ》の御身を地水火風にかへし玉ひつる上は、旋転如車輪《せんでんによしやりん》の御心にも和合動転を貪り玉はで、隔生即忘《かくしやうそくまう》、焚塵即浄《ふんぢんそくじやう》、無垢の本土に返らせ玉はむこそ願はまほしけれ、頓《やが》ては迂僧も肉壊骨散《にくゑこつさん》の暁を期し、弘誓《ぐぜい》の仏願を頼りて彼岸にわたりつき、楽しく御傍に参りつかふまつるべし、迷はせ玉ふな迷はせ玉ふな、唯何事も夢まぼろし、世に時めきて栄ゆるも虚空に躍る水珠の、日光により七彩を暫く放つに異ならず、身を狭められ悶ゆるも闇夜を辿る稚児《をさなご》の、樹影を認めて百鬼来たりと急に叫ぶが如くなれば、得意も非なり失意も非なり、歓ぶさへも空《あだ》なれば如何で何事の実在《まこと》ならんとぞ承はりおよぶ、無有寃親想《むうをんしんさう》、永脱諸悪趣《えいだつしよあくしゆ》、所詮は御心を刹那にひるがへして、常生適悦心《じやうしやうてきえつしん》、受楽無窮極《じゆらくむきゆうきよく》、法味を永遠に楽ませ玉へ、と思入つて諫めたてまつれば、院の御霊は雲間に響く御声してから/\と異様《ことやう》に笑はせ玉ひ、おろかや解脱の法を説くとも、仏も今は朕《わ》が敵《あだ》なり、涅槃《ねはん》も無漏《むろ》も肯《うけが》はじ、徃時《むかし》は人朕が光明《ひかり》を奪ひて、朕《われ》を泥犂《ないり》の闇に陥しぬ、今は朕人を涙に沈ましめて、朕が冷笑《あざわらひ》の一[#(ト)]声の響の下に葬らんとす、おもひ観よ汝、漸く見ゆる世の乱は誰が為すこととぞ汝はおもふ、沢の蛍は天に舞ひ、闇裏《やみ》の念《おもひ》は世に燃ゆるぞよ、朕は闇に動きて闇に行ひ、闇に笑つて闇に憩《やすら》ふ下津岩根の常闇《とこやみ》の国の大王《おほぎみ》なり、正法《しやうぼふ》の水有らん限は魔道の波もいつか絶ゆべき、仏に五百の弟子あらば朕《われ》にも六天八部の属あり、三世の諸仏菩薩の輩《ともがら》、何の力か世にあるべき、たゞ徒に人の舌より人の耳へと飛び移り、またいたづらに耳より舌へと現はれ出でゝ遊行するのみ、朕が眷属の闇きより闇きに伝ひ行く悪鬼は、人の肺腑に潜み入り、人の心肝骨髄《しんかんこつずゐ》に咬《く》ひ入つて絶えず血にぞ飽く、視よ見よ魔界の通力もて毒火を彼が胸に煽り、紅炎《ぐえん》を此《これ》が眼より迸《はし》らせ、弱きには怨恨《うらみ》を抱かしめ強きには瞋《いか》りを発《おこ》さしめ、やがて東に西に黒雲狂ひ立つ世とならしめて、北に南に真鉄《まがね》の光の煌《きら》めき交《ちが》ふ時を来し、憎しとおもふ人※[#二の字点、1-2-22]に朕が辛かりしほどを見するまで、朝家に酷《むご》く祟《たゝり》をなして天が下をば掻き乱さむ、と御勢ひ凛※[#二の字点、1-2-22]しく誥《つ》げたまふにぞ、西行あまりの御あさましさに、滝と流るゝ熱き涙をきつと抑へて、恐る惶《おそ》るいさゝか首《かうべ》を擡《もた》げゝる。

       其六

 こは口惜くも正《まさ》なきことを承はるものかな、御言葉もどかんは恐れ多けれど、方外の身なれば憚り無く申し聞えんも聊か罪浅う思し召されつべくやと、遮つて存じ寄りのほどを言《まを》し試み申すべし、御憤はまことにさる事ながら、若人|瞋《いか》り打たずんば何を以てか忍辱《にんにく》を修めんとも承はり伝へぬ、畏れながら、ながらへて終に住むべき都も無ければ憂き折節に遇ひたまひたるを、世中《よのなか》そむかせたまふ御便宜《おんたより》として、いよ/\法海の深みへ渓河《たにがは》の浅きに騒ぐ御心を注がせたまひ、彼岸の遠きへ此|土《ど》の汀去りかぬる御迷を船出せさせ玉ひて、玉をつらぬる樹《こ》の下に花降り敷かむ時に逢はむを待ちおはす由承はりし頃は、寂然《じやくねん》、俊成《としなり》などとも御志の有り難さを申し交して如何ばかりか欣ばしく存じまゐらせしに、御|納経《なふきやう》の御望み叶はせられざりしより、竹の梢に中つて流《そ》るゝ金弾の如くに御志あらぬ方へと走り玉ひ、鳴門の潮の逆風《さかかぜ》に怒つて天に滔《はびこ》るやう凄じき御祈願立てさせ玉ひしと仄に伝へ承はり侍りしが、冀《ねが》はくは其事の虚《いつはり》妄にてあれかしと日比《ひごろ》念じまゐらせし甲斐も無う、さては真に猶此|裟婆界《しやばかい》に妄執をとゞめ、彼《かの》兜卒天《とそつてん》に浄楽は得ず御坐《おはし》ますや、訝《いぶか》しくも御意《みこゝろ》の然《さ》ばかり何に留まるらん、月すめば谷にぞ雲は沈むめる、嶺吹き払ふ風に敷かれてたゞ御※[#「匈/(胃-田)」、121-上-27]《おんむね》の月|明《あか》からんには、浮き雲いかに厚う鎖すとも氷輪無為の天《そら》の半に懸り御坐《おは》して、而も清光|湛寂《たんじやく》の潭《ふち》の底に徹することのあるべきものを、雲憎しとのみおぼさんは、そも如何にぞや、降《くだ》れば雨となり、蒸せば霞となり、凝れば雪ともなる雲の、指して言ふべき自性も無きに、まして夏の日の峯と峙《そばだ》ち秋の夕の鱗とつらなり、或《ある》は蝶と飛び猪《ゐのこ》と奔りて緩くも急《はや》くも空行くが、おのれから為す業ならばこそ、皆風のさすことなるを何取り出でゝ憎むに足るべき、夫|尺蠖《せきくわく》は伸びて而も還《また》屈《かゞ》み、車輪は仰いで而も亦|低《た》る、射る弓の力窮まり尽くれば、飛ぶ矢の勢変り易《かは》りて、空向ける鏃も地に立つに至らんとす、此故に欲界の六天、天高けれども報尽きては宝殿|忽地《たちまち》に崩れ、魔王の十善、善|大《おほい》なればとて果《くわ》窮まれば業苦早くも逼る、人間五十年の石火の如くなるのみならず天上幾万歳も電光に等しかるべし、御怨恨《おんうらみ》も復《かへ》し玉ふべからむ、御忿恚《おんいきどほり》も晴らさせ玉ふべからん、さて其暁は如何にして御坐《おは》さんとか思す、一旦出離の道には入らせたまひたれど断縛の劒を手にし玉はず、流転の途は厭はせられたりしも人我《にんが》の空をば肯《うけが》ひは為玉はざりしや、何とて幺微《いさゝか》の御事に忌はしくも自ら躓かせたまひて、法《のり》の便りの牛車を棄て、罪の齎らす火輪にも駕《が》さんとは思したまふ、生空《しやうくう》を唯薀《ゆゐうん》に遮し、我倒《がたう》を幻炎に譬ふれば、我が瞋《いか》るなる我や夫《それ》いづくにか有る、瞋るが我とおぼすか我が瞋るとおぼすか、思ひと思ひ、言ふと言ふ万端《よろづ》のこと皆|真実《まこと》なりや、訝《いぶ》かれば訝かしく、疑へば疑はしきものとこそ覚え侍れ、笑ひも恨みも、はた歓びも悲みも、夕に来ては旦《あした》に去る旅路の人の野中なる孤屋《ひとつや》に暫時《しばし》宿るに似て、我とぞ仮に名を称《よ》ぶなるものの中をば過ぐるのみ、いづれか畢竟《つひ》の主人《あるじ》なるべき、客《かく》を留めて吾が主と仰ぎ、賊を認めて吾が子となす、其悔無くばあるべからず、恐れ多けれど聡明|匹儔《たぐひ》無く渡らせたまふに、凡庸も企図せざるの事を敢て為玉ひて、千人の生命を断たんと瞋恚《じんゐ》の刀を提《ひつさ》げし央掘魔《あうくつま》が所行《ふるまひ》にも似たらんことを学ばせらるゝは、一婦の毒咒《どくじゆ》に動かされて総持の才を無にせんとせし阿難陀《あなんだ》が過失《あやまち》にも同じかるべき御迷ひ、御傷《おんいた》はしくもまた口惜く、云ひ甲斐無くも過《あやま》たせたまふものかな、烈日が前の片時雨、聖智が中《うち》の御一失、疾《と》く/\御心を翻《ひるが》へしたまひて、三趣に沈淪し四生に※[#「足へん+令」、122-上-1]※[#「足へん+屏」、122-上-1]《れいへい》するの醜さを出で、一乗に帰依し三昧に入得《につとく》するの正きに仗《よ》り御坐しませ、宿福広大にして前業《ぜんごふ》殊勝に渡らせたまふ御身なれば、一念※[#二の字点、1-2-22]頭の転じたまふを限に弾指《たんし》転※[#「目+旬」、第3水準1-88-80]《てんけん》の間も無く、神通の宝輅《はうらく》に召し虚空を凌いで速かに飛び、真如の浄域に到り、光明を発して長《とこし》へに熾《さかん》に御坐しまさんこと、などか疑ひの侍るべき、仏魔は一紙、凡聖《ぼんじやう》は不二、煩悩即菩提《ぼんなうそくぼだい》、忍土即浄土《にんどそくじやうど》、一珠わづかに授受し了れば八歳の竜女当下《りゆうによたうか》に成仏すと承はる、五障女人《ごしやうによにん》の法器にあらぬにだに猶彼が如し、まして十善天子の利根に御坐すに、いかで正覚を成し玉はざらん、御経には成等正覚《じやうとうしやうがく》、広度衆生《くわうどしゆじやう》、皆因提婆達多善知識故《かいいんだいばだつたぜんちしきご》と説かれ侍るを、誰憎しとか思す、恐れ多けれど、そもや誰人憎しとか思す、怨敵まことは道の師なり、怨敵まことは道の師なり、眼《まなこ》をあげて大千三千世界を観るに、我が皇《きみ》の怨敵たらんもの、いづくにか将《はた》侍るべき、まこと我が皇の御敵《おんあだ》たらんものの侍らば、痩せたる老法師の力|乏《とも》しくは侍れども、御力を用ゐさせ玉ふまでもなく、大聖威怒王《だいしやうゐぬわう》が折伏《しやくぶく》の御劒をも借り奉り、迦楼羅《かるら》の烈炎の御猛威《おんみやうゐ》にも頼《よ》り奉りて、直に我が皇の御敵を粉にも灰にも摧《くだ》き棄て申すべし、さりながら皇の御敵の何処《いづく》の涯にもあらばこそ、巴豆《はづ》といひ附子《ぶし》といふも皆是薬、障礙《しやうげ》の悪神《あくじん》毘那耶迦《びなやか》も本地は即《すなはち》毘盧沙那如来《びるしやなによらい》、此故に耆婆《きば》眼《まなこ》を開けば尽大地の草木、保命《ほうみやう》の霊薬ならぬも無く、仏陀《ぶつだ》教を垂るれば遍虚空《へんこくう》の鬼刹《きせつ》、護法の善神ならぬも無しと申す、御敵やそも那処《いづく》にかある、詮ずるところ怨親の二つながら空華の仮相、喜怒もろともに幻翳《げんねい》の妄現《まうげん》、雪と見て影に桜の乱るれば花のかさ被《き》る春の夜の月が、まことの月にもあらず、水無くて凍りぞしたる勝間田の池あらたむる秋の夜の月が、まことの月にもあらじ、世間一切の種※[#二の字点、1-2-22]の相は、まことは戯論《げろん》の名目のみ、真如の法海より一瓢の量を分ち取りて、我執の寒風に吹き結ばせし氷を我ぞと着すれば、熱湯は即仇たるべく、実相の金山《こんざん》より半畚《はんぽん》の資を齎し来りて、愛慾の毒火に鋳成《いな》せし鼠を己なりと思はんには、猫像《めうざう》或は敵《かたき》たるベけれど、本来氷も湯も隔なき水、鼠も猫も異ならぬ金なる時んば、仮相の互に亡び妄現の共に滅するをも待たずして、当体即空《たうたいそくくう》、当事即了《たうじそくりやう》、廓然《くわくねん》として、天に際涯《はて》無く、峯の木枯、海の音、川遠白く山青し、何をか瞋《いか》り何にか迷はせたまふ、疾《と》く、疾く、曲路の邪業《じやごふ》を捨て正道の大心を発し玉へ、と我知らず地を撃つて諫め奉れば、院の御亡霊《みたま》は、山壑《さんがく》もたぢろき木石も震ふまでに凄《すさまじ》くも打笑はせ玉ひて、おろかなり円位、仏が好ましきものにもあらばこそ、魔か厭はしきものにもあらばこそ、安楽も望むに足らず、苦患《くげん》も避くるに足らず、何を憚りてか自ら意《こゝろ》を抑へ情《おもひ》を屈めん、妄執と笑はば笑へ、妄執を生命として朕《われ》は活き、煩悩と云はば云へ、煩悩を筋骨として朕は立つ、おろかや汝、四弘誓願《しぐせいぐわん》は菩薩の妄執、五時説教は仏陀の煩悩、法蔵が妄執四十八願、観音が煩悩三十三|身《じん》、三世十方|恒河沙数《がうがしやすう》の諸仏菩薩に妄執煩悩無きものやある、妄執煩悩無きものやある、何ぞ瞿曇《ぐどん》が舌長《したなが》なる四十余年の託言《かごと》繰言《くりごと》、我尊しの冗語《じようご》漫語《まんご》、我をば瞞《あざむ》き果《おほ》すに足らんや、恨みは恨み、讐《あだ》は讐、復《かへ》さでは我あるべきか、今は一切世間の法、まつた一切世間の相、森羅万象人畜草木《しんらばんしやうにんちくさうもく》、悉皆《しつかい》朕《わがみ》の敵《あだ》なれば打壊《うちくづ》さでは已むまじきぞ、心に染まぬ大千世界、見よ/\、火前の片羽となり風裏の繊塵《せんぢん》と為して呉れむ、仏に六種の神通あれば朕に千般の業通あり、ありとあらゆる有情含識《うじやうがんしき》皆朕が魔界に引き入れて朕が眷属となし果つべし、汝が述べたるところの如きは円顱の愚物が常套の談、醜し、醜し、将《もち》帰り去れ、※[#「けものへん+胡」、122-下-21]※[#「けものへん+孫」、122-下-21]《こそん》が瞋《いかり》を賺《す》かす胡餅《こべい》の一片、朕を欺かんとや、迂なり迂なり、想ひ見よ、そのかみ朕此讃岐の涯に来て、沈み果てぬる破舟《やれぶね》の我にもあらず歳月《としつき》を、空しく杉の板葺の霰に悲しき夜を泣きて、風につれなき日を送り、心くだくる荒磯の浪の響に霜の朝、独り寐覚めし凄じさ、思ひも積る片里の雪に灯火《ともし》の瞬く宵、たゞ我が影の情無く古びし障子に浸み入るを見つめし折の味気無さ、如何ばかりなりしと汝思ふや、歌の林に人の心の花香をも尋ね、詞の泉に物のあはれの深き浅きをも汲みて分くる、敷嶋の道の契りも薄からず結びし汝なれば、厳しく吹きし初秋の嵐の風に世を落ちて、日影傾く西山の山の幾重の外にさすらひ、初雁音《はつかりがね》も言づてぬ南の海の海遥なる離れ嶋根に身を佗びて、捨てぬ光は月のみの水より寒く庇廂《ひさし》洩る住家に在りし我が情懐《おもひ》は、推しても大概《およそ》知れよかし、されば徃時《むかし》は朕とても人をば責めず身を責めて、仏に誓ひ世に誓ひ、おのれが業をあさましく拙かりしと悔い歎きて、心の水の浅ければ胸の蓮葉《はちすば》いつしかと開けんことは難けれど、辿る/\も闇き世を出づべき道に入らんとて、天《そら》へと伸ぶる呉竹の直なる願を独り立て、他《あだ》し望みは思ひ絶つ其麻衣ひきまとひ、供ふる華に置く露の露散る暁《あした》、焼《た》く香の煙の煙立つ夕を疾《とく》も来れと待つ間、一字三礼妙典書写の功を積みしに、思ひ出づるも腹立たしや、たゞに朕が現世の事を破りしのみならず、また未来世の道をも妨ぐる人の振舞、善悪も邪正もこれ迄なりと入つたる此道、得たる此果、今は金輪崩るるとも、銕囲《てつゐ》劈裂《つんざ》け破るゝとも、思ふ事果さでは得こそ止まじ、真夏の午《ひる》の日輪を我が眼の中に圧し入れらるゝは能く忍ぶべし、胸の恨を棄てなんことは忍ぶべからず、平等の見は我が敵なり、差別の観は朕が宗なり、仏陀は智なり朕は情なり、智水千頃の池を湛へば情火万丈の※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《ほのほ》を拳げん、抜苦与楽《ばつくよらく》の法|可笑《をかし》や、滅理絶義の道こゝに在り、朕が一脚の踏むところは、柳紅に花緑に、朕が一指のそれと指すところは、烏も白く鷺も黒し、天死せしむべく地舞はしむべく、日月暗からしむべく江海涸れしむべし、頑石笑つて且歌ひ、枯草花さいて、しかも芬《かを》る、獅子は美人が膝下に馴れ大蛇は小児の坐前に戯る、朔風暖かにして絳雪《かうせつ》香しく、瓦礫《ぐわれき》光輝を放つて盲井醇醴《まうせいじゆんれい》を噴き、胡蝶声あつて夜深く相思の吟をなす、聾者《ろうしや》能く聞き瞽者《こしや》能く見る、劒戟も折つて食《くら》ふべく鼎钁《ていくわく》も就いて浴すべし、世界はほと/\朕がまゝなり、黄身《わうしん》の匹夫、碧眼の胡児《こじ》、烏滸《をこ》の者ども朕を如何にか為し得べき、心とゞめてよく見よや、見よ、やがて此世は修羅道《しゆらだう》となり朕が眷属となるべきぞ、あら心地快や、と笑ひたまふ御声ばかりは耳に残りて、放たせ玉ふ赤光の谷※[#二の字点、1-2-22]山※[#二の字点、1-2-22]に映りあひ、天地忽ち紅色《くれなゐ》になるかと見る間に失せ玉ひぬ。
 西行はつと我に復りて、思へば夢か、夢にはあらず。おのれは猶かつ提婆品《だいばぼん》を繰りかへし/\読み居たるか、其読続き我が口頭に今も途絶えず上り来れり。[#地から2字上げ](明治二十五年五月「国会」)

     彼一日

       其一

 頼み難きは我が心なり、事あれば忽に移り、事無きもまた動かんとす。生じ易きは魔の縁なり、念《おもひ》を放《ほしいまゝ》にすれば直に発《おこ》り、念を正しうするも猶起らんとす。此故に心は大海の浪と揺《ゆら》ぎて定まる時無く、縁は荒野の草と萠えて尽くる期《ご》あらねば、たま/\大勇猛の意気を鼓して不退転の果報を得んとするものも、今日の縁にひかれて旧年の心を失ふ輩は、可惜《あたら》舟を出して彼岸に到り得ず、憂くも道に迷ひて穢土《ゑど》に復還るに至る。されば心を収むるは霊地に身を※[#「宀/眞」、第3水準1-47-57]《お》くより好きは無く、縁を遮るは浄業《じやうごふ》に思を傾くるを最も勝れたりとなす。木片の薬師、銅塊《どうくわい》の弥陀《みだ》は、皆これ我が心を呼ぶの設け、崇《あが》め尊まぬは烏滸《をこ》なるべく、高野の蘭若《らんにや》、比叡《ひえ》の仏刹《ぶつさつ》、いづれか道の念を励まさゞらむ、参り詣《いた》らざるは愚魯《おろか》なるべし。古の人の、麻の袂を山おろしの風に翻し、法衣《ころも》の裾を野路の露に染めつゝ、東西に流浪し南北に行きかひて、幾干《いくそ》の坂に谷に走り疲れながら猶辛しともせざるものは、心を霊地の霊気に涵《ひた》し念を浄業の浄味に育みて、正覚の暁を期すればなり。鏡に対《むか》ひては髪の乱れたるを愧《は》ぢ、金《こがね》を懐にすれば慾の亢《たかぶ》るを致す習ひ、善くも悪くも其境に因り其機に随ひて凡夫の思惟《しゆゐ》は転ずるなれば、たゞ後の世を思ふものは眼に仏菩薩の尊容を仰ぎ、口に経陀羅尼《きやうだらに》の法文を誦《じゆ》して、夢にも現にも市※[#「廛+おおざと」、第3水準1-92-84]《してん》栄花《えいぐわ》の巷に立入ること無く、朝も夕も山林|閑寂《かんじやく》の郷に行ひ済ましてあるべきなり。首《かうべ》を回らせば徃時をかしや、世の春秋に交はりて花には喜び月には悲み、由無き七情の徃来に泣きみ笑ひみ過ごしゝが、思ひたちぬる墨染の衣を纏ひしより今は既《はや》、指を※[#「てへん+婁」、123-下-27]《かゞな》ふれば十《と》あまり三歳《みとせ》に及びて秋も暮れたり。修行の年も漸く積もりぬ、身もまた初老に近づきぬ。流石心も澄み渡りて乱るゝことも少くなり、旧縁は漸く去り尽して胸に纏《まつ》はる雲も無し。忽然《こつねん》として其初一人来りし此裟婆に、今は孑然《げつぜん》として一人立つ。待つは機の熟して果《このみ》の落つる我が命終《みやうじゆう》の時のみなり。あら快《こゝろよ》の今の身よ、氷雨降るとも雪降るとも、憂を知らぬ雲の外に嘯《うそぶ》き立てる心地して、浮世の人の厭ふ冬さへ却つてなか/\をかしと見る、此の我が思ひの長閑さは空飛ぶ禽もたゞならず。されど禅悦《ぜんえつ》に着《ぢやく》するも亦是修道の過失《あやまち》と聞けば、ひとり一室に籠り居て驕慢の念を萠さんよりは、歩《あゆみ》を処※[#二の字点、1-2-22]の霊地に運びて寺※[#二の字点、1-2-22]の御仏をも拝み奉り、勝縁《しようえん》を結びて魔縁を斥け、仏事に勤めて俗事に遠ざからんかた賢かるべしとて、そこに一日、かしこに二日と、此御仏彼御仏の別ちも無くそれ/\の御堂を拝み巡りては、或《ある》は祈願を籠めて参籠の誠を致し、或は和歌を奉りて讃歎の意を表し来りけるが、仏天の御思召にも協ひけん聊か冥加も有りとおぼしく、幸に道心のほかの他心《あだしごゝろ》も起さず勝縁を妨ぐる魔縁にも遇はで、終に今日に及ぶを得たり。既徃の誠に欣ぶべきに将来の猶頼まゝほしく、長谷の御寺の観世音菩薩の御前に今宵は心ゆくほど法施《ほふせ》をも奉らんと立出でたるが、夜※[#二の字点、1-2-22]に霜は募りて樹※[#二の字点、1-2-22]に紅は増す神無月《かんなづき》の空のやゝ寒く、夕日力無く舂《うすつ》きて、晩《おく》れし百舌の声のみ残る、暮方のあはれさの身に浸むことかな。見れば路の辺の草のいろ/\、其とも分かず皆いづれも同じやうに枯れ果てゝ崩折《くづほ》れ偃《ふ》せり。珍らしからぬ冬野のさま、取り出でゝ云ふべくはあらねども、折からの我が懐《おもひ》に合ふところあり。情《こゝろ》を結び詞《ことば》を束ねて、歌とも成らば成して見ん、おゝそれよ、さま/″\に花咲きたりと見し野辺のおなじ色にも霜がれにけり。嗚呼我人とも終には如是《かく》、男女美醜の別《わかち》も無く同じ色にと霜枯れんに、何の翡翠の髪の状《さま》、花の笑ひの顔《かんばせ》か有らん。まして夢を彩る五欲の歓楽《たのしみ》、幻を織る四季の遊娯《あそび》、いづれか虚妄《いつはり》ならざらん。たゞ勤むべきは菩提の道、南無仏、南無仏、と観じ捨てゝ、西行独り路を急ぎぬ。

       其二

 弓張月の漸う光りて、入相《いりあひ》の鐘の音も収まる頃、西行は長谷寺《はせでら》に着きけるが、問ひ驚かすべき法《のり》の友の無きにはあらねど問ひも寄らで、観音堂に参り上りぬ。さなきだに梢透きたる樹※[#二の字点、1-2-22]を嬲《なぶ》りて夜の嵐の誘へば、はら/\と散る紅葉なんどの空に狂ひて吹き入れられつ、法衣《ころも》の袖にかゝるもあはれに、又仏前の御灯明《みあかし》の目瞬《めはじき》しつゝ万般《よろづ》のものの黒み渡れるが中に、いと幽なる光を放つも趣きあり。法華経の品《ほん》第二十五を声低う誦するに、何となく平時《つね》よりは心も締まりて身に浸みわたる思ひの為れば、猶誠を籠めて誦し行くに天も静けく地も静けく、人も全く静まりたる、時といひ、処といひ相応して、我耳に入るは我声ながら、若くは随喜仏法の鬼神なんどの、声を和《あは》せて共に誦する歟《か》と疑はるゝまで、上無く殊勝に聞こえわたりぬ。特《こと》に参りたる甲斐はありけり、菩薩も定めしかゝる折のかゝる所作《しよさ》をば善哉《よし》として必ず納受《なふじゆ》し玉ふなるべし、今宵の心の澄み切りたる此の清《すゞ》しさを何に比へん、あまりに有り難くも尊く覚ゆれば、今宵は夜すがら此御堂の片隅になり趺坐《ふざ》なして、暁天《あかつき》がたに猶一[#(ト)]度誦経しまゐらせて、扨其後香華をも浄水をも供じて罷らめと、西行やがて三拝して御仏の御前を少し退《すさ》り、影暗き一[#(ト)]隅に身を捩ぢ据ゑ、凍れる水か枯れし木の、動きもせねば音も立てず、寂然《じやくねん》として坐し居たり。
 夜は沈※[#二の字点、1-2-22]と漸く更けて、風も睡れる如くになりぬ。右左に並びて立ちたりける御灯明《みあかし》は一つ消え、また一つ消えぬ。今はたゞいと高き吊灯籠の、光り朦朧として力無きが、夢の如くに残れるのみ。此寺《こゝ》の僧どもは寒気《さむさ》に怯ぢて所化寮《しよけれう》に炉をや囲みてあるらん、影だに終に見するもの無し。云ふべきかたも無く静なれば、日比《ひごろ》焼きたる余気なるべし今薫ゆるとにはあらぬ香の、有るか無きかに自然《おのづから》※[#「鈞のつくり」、第3水準1-14-75]ひを流すも最《いと》能《よ》く知らる。かゝる折から何者にや、此方を指して来る跫音す。御仏に仕ふる此寺《こゝ》のものゝ、灯燭《とうしよく》を続ぎまゐらせんとて来つるにやと打見るに、御堂の外は月の光り白※[#二の字点、1-2-22]として霜の置けるが如くに見ゆるが中を、寒さに堪へでや頭《かしら》には何やらん打被《うちかつ》ぎたれど、正しく僧形したるが歩み寄るさまなり。心を留むるとにはあらざれど、何としも無く猶見てあるに、やがて月の及ばぬ闇の方に身を入れたれば定かには知れぬながら、此御堂に打向ひて一度は先《まづ》拝み奉り、さて静※[#二の字点、1-2-22]と上り来りぬ。御堂は狭からぬに灯《ひ》は蛍ほどなり、灯の高さは高し、互の程は隔たりたり、此方を彼方は有りとも知らず、彼方を此方は能くも見得ねば、西行は只我と同じき心の人も亦有りけるよと思ふのみにて打過ぎたり。
 彼方は固より闇の中に人あることを知らざれば、何に心を置くべくも無く、御仏の前に進み出でつ、最《いと》謹《つゝし》ましげに危坐《かしこま》りて、数度《あまたゝび》合掌礼拝《がつしやうらいはい》なし、一心の誠を致すと見ゆ。同じ菩提の道の友なり、其|心操《こゝろばへ》の浅間ならぬも夜深の参詣に測り得たり。衣の色さへ弁《わか》ち得ざれば面《おもて》は況して見るべくも無けれど、浄土の同行の人なるものを、呼びかけて語らばや、名も問はばやと西行は胸に思ひけるが、卒爾に言《ものい》はんは悪《あし》かるべし、祈願の終つて後にこそと心を控へて伺ふに、彼方は珠数を取り出して、さや/\とばかり擦り初《そ》めたり。針の落つる音も聞くべきまで物静かなる夜の御堂の真中に在りて、水精《すゐしやう》の珠数を擦る音の亮《さや》かなる響きいと冴えて神※[#二の字点、1-2-22]し。御経は心に誦するとおぼしく、万籟《ばんらい》絶えたるに珠の音のみをたゞ緩やかに緩やかに響かす。其声或は明らかに或は幽に、或は高く或は低く、寐覚の枕の半は夢に霰の音を聞くが如く、朝霧晴れぬ池の面《おも》に※[#「くさかんむり/函」、第3水準1-91-2]※[#「くさかんむり/陷のつくり」、第4水準2-86-33]《かんたん》の急に開くを聞くが如く、小川の水の濁り咽ぶか雨の紫竹の友擦れ歟、山吹※[#「鈞のつくり」、第3水準1-14-75]ふ山川の蛙鳴くかと過たれて、一声※[#二の字点、1-2-22]中に万法あり、皆与実相《かいよじつさう》不相違背《ふさうゐはい》と、いとをかしくも聞きなさるれば、西行感に入つて在りけるが、期したるほどの事は仕果てゝや其人数珠を収めて御仏をば礼拝すること数度《あまたゝび》しつ、やをら身を起して退《まか》らんとす。菩提の善友、浄土の同行、契を此土に結ばんには今こそ言葉をかくべけれと、思ひ入て擦る数珠《ずゞ》の音の声すみておぼえずたまる我涙かな、と歌の調は好かれ悪かれ、西行|急《にはか》に読みかくれば、彼方は初めて人あるを知り、思ひがけぬに驚きしが、何と仰られしぞ、今一度と、心を圧《おし》鎮《しづ》めて問ひ返す。聞き兼ねけんと猜《すゐ》するまゝ、思ひ入りて擦る数珠の音の声澄みて、と復《ふたゝ》び言へば後は言はせず、君にて御坐せしよ、こはいかに、と涙《なんだ》に顫ふおろ/\声、言葉の文もしどろもどろに、身を投げ伏して取りつきたるは、声音に紛ふかたも無き其昔《そのかみ》偕老同穴の契り深かりし我が妻なり。厭いて別れし仲ならず、子まで生《な》したる語らひなれば、流石男も心動くに、況して女は胸逼りて、語らんとするに言葉を知らず、巌《いは》に依りたる幽蘭の媚《なまめ》かねども離れ難く、たゞ露けくぞ見えたりける。
 西行きつと心を張り、徐《しづか》に女の手を払ひて、御仏の御前に乱《らう》がはしや、これは世を捨てたる痩法師なり、捉へて何をか歎き玉ふ、心を安らかにして語り玉へ、昔は昔、今は今、繰言な露宣ひそ、何事も御仏を頼み玉へ、心留むべき世も侍らず、と諭せば女は涙にて、さては猶我を世に立交らひて月日経るものと思したまふや、灯火暗うはあれどおほよそは姿形をも猜《すゐ》し玉へ、君の保延に家を出でゝ道に入り玉ひしより、宵の鐘暁の鳥も聞くに悲く、春の花秋の月も眺むるに懶くて、片親無き児の智慧敏きを見るにつけ胸を痛め心を傷ましめしが、所詮は甲斐無き嗟歎《なげき》せんより今生は擱《さしお》き後世をこそ助からめと、娘を九条の叔母に頼みて君の御跡を追ひまゐらせ、同じ御仏の道に入り、高野の麓の天野といふに日比《ひごろ》行ひ居り侍《はべ》るなり、扨も君を放ち遣りまゐらせて御心のまゝに家を出づるを得さしめ奉りし徃時《そのかみ》より、我が子を人に預けて世を捨てたる今に至るまで、いづれか世の常としては悲しきことの限りならざらん、別れまゐらせし歳は我が齢、僅に二十歳《はたち》を越えつるのみ、また幼児《いとけなき》を離せしときは其《そ》が六歳《むつつ》と申す愛度無《あどな》き折なり、老いて夫を先立つるにも泣きて泣き足る例《ためし》は聞かず、物言はぬ嬰児《みづこ》を失ひても心狂ふは母の情、それを行末長き齢に、君とは故も無くて別れまゐらせ、可愛き盛りに幼児《をさなき》を見棄てつる悲しさは如何ばかりと覚す、されど斯ばかりの悲しさをも、女の胸に堪へ堪へて鬼女蛇神のやうに過ぎ来つるは、我が悲みを悲とせで偏に君が歓喜《よろこび》を我が歓喜とすればなるを、別れまゐらせしより十余年の今になりて繰言も云ふもののやう思はれまゐらせたる拙さ情無さ、君は我がための知識となり玉ひぬれば、恨み侍らざるばかりか却て悦びこそ仕奉れ、彼世にてもあれ君に遇ひまゐらせなば君の家を出で玉ひし後の我が上をも語りまゐらせて、能くぞ浮世を思ひ切りぬるとの御言葉をも得んとこそ日比は思ひ設け居たれ、別れたてまつりし時は今生に御言葉を玉はらんことも復有るまじと思ひたりしに、夢路にも似たる今宵の逢瀬、幾年《いくとせ》の心あつかひも聊か本意《ほい》ある心地して嬉しくこそ、と細※[#二の字点、1-2-22]《こま/\》と述ぶ。折から灯籠の中の灯《ひ》の、香油は今や尽きに尽きて、やがて熄《き》ゆべき一[#(ト)]明り、ぱつと光を発すれば、朧気ながら互に見る雑彩《いろ》無き仏衣《ぶつえ》に裹《つゝ》まれて蕭然《せうぜん》として坐せる姿、修行に窶《やつ》れ老いたる面ざし、有りし花やかさは影も無し。
 これが徃時《むかし》の、妻か、夫か、心根可愛や、懐かしやと、我を忘れて近寄る時、忽然《たちまち》ふつと灯は滅して一念|未生《みしやう》の元の闇に還れば、西行坐を正うして、能くこそ思ひ切り玉ひたれ、入道の縁は無量にして順逆正傍《じゆんぎやくしやうばう》のいろ/\あれど、たゞ徃生を遂ぐるを尊ぶ、徃時《むかし》は世間の契を籠め今は出世間の交りを結ぶ、御身は我がための菩提の善友、浄土の同行なり悦ばしや、たゞし然《さ》までに浮世をば思ひ切りたる身としては、懐旧の情はさることながら余りに涙の遣る瀬無くて、我を恨むかとも見えし故、先刻《さき》のやうには云ひつるなり、既に世の塵に立交らで法の門《かど》に足踏しぬる上は、然ばかり心を悩ますべき事も実《まこと》は無き筈ならずや、と最《いと》物優しく尋ね問ふ。
 慰められては又更に涙脆きも女の習ひ、御疑ひ誠に其|理由《ゆゑ》あり、もとより御恨めしう思ひまゐらする節もなし、御懐しうは覚え侍れど、それに然《さ》ばかりは泣くべくも無し、御声を聞きまゐらすると斉しく、胸に湛へに湛へし涙の一時に迸り出でしがため御疑を得たりしなり、其|所以《いはれ》は他ならぬ娘の上、深く御仏の教に達して宿命《しゆくみやう》業報を知るほどならば、是《こ》も亦煩ひとするに足らずと悟りてもあるべけれど然は成らで、ほと/\頭の髪の燃え胸の血の凍るやうに明暮悩むを、君は心強くましますとも何と聞き玉ふらん、聞き玉へ、娘は九条の叔母が許《もと》に、養ひ娘といふことにて叔母の望むまゝに与へしが、叔母には真《まこと》の娘もあり、母の口よりは如何なれど年齢こそ互に同じほどなれ、眉目容姿《みめかたち》より手書き文読む事に至るまで、甚《いた》く我が娘は叔母の娘に勝りたれば、叔母も日頃は養ひ娘の賢き可愛《いとし》さと、生《うみ》の女《むすめ》の自然《おのづから》なる可愛《いとし》さとに孰れ優り劣り無く育てけるが、今年は二人ともに十六になりぬ、髪の艶、肌の光り、人の※[#「女+瑁のつくり」、第4水準2-5-68]《そね》み心を惹くほどに我子は美しければ、叔母も生《おふ》したてたるを自《おの》が誇りにして、せめて四位の少将以上ならでは得こそ嫁《あは》すまじきなど云ひ罵り、おのが真の女をば却つて心にも懸け居ざるさまにもてあつかひ居たりしが、右の大臣の御子|某《それ》の少将の、図らずも我が女をば垣間見玉ひて懸想し玉ひしより事起りて、叔母の心いと頑兇《かたくな》になり日に/\口喧《くちかしがま》しう嘲《あざ》み罵り、或時は正なくも打ち擲き、密に調伏の法をさへ由無き人して行せたるよしなり、某の少将と云へるは才賢く心性《こゝろざま》誠ありて優しく、特《こと》に玉を展べたる様の美しき人なれば、自己が生の女の婿がねにと叔母の思ひつきぬるも然ることながら、其望みの思ふがまゝにならで、飾り立てたる我が女には眼も少将の遣り玉はざるが口惜しとて、養ひ娘を悪くもてあつかふ愚さ酷さ、昔時《むかし》の優しかりしとは別のやうなる人となりて、奴婢《ぬび》の見る眼もいぶせきまでの振舞を為る折多しと聞く、既に御仏の道に入りたまひたれば我には今は子ならずと君は仰すべけれど、其君が子はいと美しう才もかしこく生れつきて、しかも美しく才かしこくして位高き際の人に思はれながら、心の底には其人を思はぬにしもあらざるに、養はれたる恩義の桎梏《かせ》に情《こゝろ》を枉《ま》げて自ら苦み、猶其上に道理無き呵責《かしやく》を受くる憫然《あはれさ》を君は何とか見そなはす、棄恩《きおん》入無為《にふむゐ》の偈《げ》を唱へて親無し子無しの桑門《さうもん》に入りたる上は是非無けれども、知つては魂魄《たましひ》を煎らるゝ思ひに夜毎の夢も安からず、いと恐れあることながら此頃の乱れに乱れし心からは、御仏の御教も余りに人の世を外《そ》れたる、酷き掟なりと聊かは御恨み申すこともあるほど、子といひながら子と云へねば、親にはあれど親ならぬ、世の外の人、内の人、知らぬ顔して過すをば、一旦仏門に入りしものゝ行儀とするも理無《わりな》しや、春は大路の雨に狂ひ小橋の陰に翻る彼の燕だに、児を思ふては日に百千度《もゝちたび》巣に出入りす、秋の霜夜の冷えまさりて草野の荒れ行く頃といへば、彼の兎すら自己が毛を咬みて※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77]りて綿として、風に当てじと手を愛《いとほ》しむ、それには異《かは》りて我※[#二の字点、1-2-22]の、纔に一人の子を持ちて人となるまで育てもせず、児童《こども》の間《なか》の遊びにも片親無きは肩|窄《すぼ》る其の憂き思を四歳《よつ》より為せ、六歳《むつ》といふには継《まゝ》しき親を頭に戴く悲みを為せ、雲の蒸す夏、雪の散る冬、暑さも寒さも問ひ尋ねず、山に花ある春の曙、月に興ある秋の夜も、世にある人の姫|等《たち》の笑み楽しむには似もつかず、味気無う日を送らせぬる其さへ既に情無く親甲斐の無きことなれば、同じほどなる年頃の他家《よそ》の姫なんどを見るにつけ、嗚呼我が子はと思ひ出でゝ、木の片、竹の端くれと成り極めたる尼の身の我が身の上は露思はねど、かゝる父を持ち母を持ちたる吾が子の果報の拙さを可哀《あはれ》と思はぬことも無し、況して此頃の噂を聞き又余所ながら視もすれば、心に春の風渡りて若木の花の笑まんとする恋の山路に悩める娘の、女の身には生命なる生くる死ぬるの岐れにも差し掛りたる態なる上、生みの子の愛に迷ひ入りたる頑凶《かたくな》の老婆《ばゞ》に責められて朝夕を経る胸の中、父上|御坐《おは》さば母在らばと、親を慕ひて血を絞る涙に暮るゝ時もある体《てい》、親の心の迷はずてやは、打捨て置かば女は必ず彼方此方の悲さに身を淵河にも沈めやせん、然無くも逼る憂さ辛さに終には病みて倒れやせん、御仏の道に入りたれば名の上の縁《えにし》は絶えたれど、血の聯続《つらなり》は絶えぬ間《なか》、親なり、子なり、脈絡《すぢ》は牽《ひ》く、忘るゝ暇もあらばこそ、昼は心を澄まして御仏に事《つか》へまつれど、夜の夢は女《むすめ》のことならぬ折も無し、若し其儘に擱《さしお》いて哀しき終を余所※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]しく見ねばならずと定まらば、仏に仕ふる自分《みづから》は禽にも獣にも慚しや、たとへば来ん世には金《こがね》の光を身より放つとも嬉しからじ、思へば御仏に事ふるは本は身を助からんの心のみにて、子にも妻にもいと酷き鬼のやうなることなりけり、爽快《いさぎよき》には似たれども自己《おのれ》一人を蓮葉《はちすば》の清きに置かん其為に、人の憂きめに眼も遣らず人の辛きに耳も仮さず、世を捨てたればと一[#(ト)]口に、此世の人のさま/″\を、何ともならばなれがしに斥け捨つるは卑しきやうなり、何とて尼にはなりたりけん、如何にもして女と共に経るべかりしに、鈍《おぞ》くも自ら過ちけるよ、今は後世《ごせ》安楽も左のみ望まじ、火※[#「火+亢」、第4水準2-79-62]《くわかう》に墜つるも何かあらん、俗に還りて女を叔母より取り返さんと、思ひしことも一度二度ならずありたりき、然れども流石|年来《としごろ》頼める御仏に離れまゐらせんことも影護《うしろめた》くて、心と心との争ひに何となすべき道も知らず、幼きより頼みまゐらせたる此地《こゝ》の御仏に七夜参の祈願を籠めしも、女の上の安かれとおもふ為ばかり、恰も今宵満願の折から図らず御眼にかゝりて、胸には此事あり此|念《おもひ》あるに、情無かりし君が徃時《むかし》の家を出でたまひし時の御光景《おんありさま》まで一[#(ト)]時に眼に浮み来りしかば、思へば女が四歳《よつ》の年、振分髪の童姿、罪も報も無き顔に愛度《あど》なき笑みの色を浮めて、父上※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]と慕ひ寄りつゝ縋りまゐらせたるを御心強くも、椽より下へと荒らかに※[#「足へん+易」、第4水準2-89-38]落《けおと》し玉ひし其時が、女の憂目の見初《みはじめ》なりしと、思ふにつけても悲さに恨めしささへ添ふ心地、御なつかしさも取り交ぜて文《あや》も分かたずなりし涙の抑へ難かりしは此故なり、と細※[#二の字点、1-2-22]《こま/\》と語れば西行も数度《あまたゝび》眼を押しぬぐひしが、声を和らげていと静に、云ひたまふところ皆其理あり、たゞし女の上の事は未だ知らずに御在《おはす》と見えたり、此の五日ほど前の事なり、我みづから女を説き諭して、既に火宅《くわたく》の門を出でゝ法苑の内に入らしめ終んぬ、聊か聞くところありしかば、眼前の※[#「二点しんにょう+屯」、第4水準2-89-80]※[#「二点しんにょう+亶」、第4水準2-90-2]《ちゆんてん》を縁として身後の安楽を願はせんと、たゞ一度会ひて言《ものい》ひしに、親|羞《はづか》しき利根のものにて、宿智にやあらん其言ふところ自ら道に協へる節あり、父上既に世を逃れ玉ひぬ、おのれも御後に従はんとこそ思へ、世に百歳《もゝとせ》の夫婦《めをと》も無し、なにぞ一期の恩愛を説かん、たとひ思ふこと叶ひ、望むこと足りぬとも、※[#「女+瑁のつくり」、第4水準2-5-68]《そね》みを蒙り羨を惹きて在らんは拙るべし、もとより女の事なれば世に栄えん願ひも左までは深からず、親の御在さねば身を重んずる念《おもひ》もやゝ薄し、あながち御仏を頼みまゐらせて浄土に生れんとにはあらねど、如何なる山の奥にもありて草の庵の其内に、荊棘《おどろ》を簪《かざし》とし粟稗《あはひえ》を炊ぎてなりと、たゞ心|清《すゞ》しく月日経ばやなどと思ひたることは幾度と無く侍り、睦《むつ》ぶべき兄弟《はらから》も無し、語らふべき朋友《とも》も持たず、何に心の残り留まるところも無し、養はれ侍りし恩恵《みめぐみ》に答へまゐらすること無きは聊か口惜けれど、大叔母君の現世安穏後生善処《げんぜあんのんごしやうぜんしよ》と必ず日※[#二の字点、1-2-22]に祈りて酬ひまゐらせん、又情ある人のたゞ一人侍りしが、何と申し交したることも無ければ別れ/\になるとも怪《け》しうはあらず、雲は旧《もと》に依つて白く山は旧に依つて青からんのみなり、全く世をば思ひ切り侍りぬ、とく導師となりて剃度せしめ玉へと、雄※[#二の字点、1-2-22]しくも云ひ出でたれば、其心根の麗せきに愛でゝ、我また雄※[#二の字点、1-2-22]しくも丈なる烏羽玉《うばたま》の髪を落して色ある衣《きぬ》を脱ぎ棄てさせ、四弘誓願《しぐせいぐわん》を唱へしめぬ、や、何と仕玉へる、泣き玉ふか、涙を流し玉ふか、無理ならず、菩提の善友よ、泣き玉ふ歟、嬉しさにこそ泣き玉ふならめ、浄土の同行よ、落涙あるか、定めし感涙にこそ御坐すらめ、おゝ、余りの有難さに自分《おのれ》もまた涙聊か誘はれぬ、さて美しき姫は亡せ果てたり、美しき尼君は生《な》り出で玉ひぬ、青※[#二の字点、1-2-22]としたる寒げの頭《かしら》、鼠色《ねずみ》の法衣《ころも》、小き数珠《ずゞ》、殊勝なること申すばかり無し、高野の別所に在る由の菩提の友を訪《とぶら》はんとて飄然として立出で玉ひぬ、其後の事は知るよし無し、燕の忙《せは》しく飛ぶ、兎の自ら剥ぐ、親は皆自ら苦む習なれば子を思はざる人のあらんや、但し欲楽の満足を与へ栄華の十分を享けしむるは、木葉《このは》を与へて児の啼きを賺《す》かす其にも増して愚のことなり、世を捨つる人がまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ、たゞ幾重にも御仏を頼み玉へ、心留むべき世も侍らず、南無仏※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]、と云ひ切りて口を結びて復言はず。月はやがて没《い》るべく西に廻りて、御堂に射し入る其光り水かとばかり冷かに、端然として合掌せる二人の姿を浮ぶが如くに御堂の闇の中に照し出しぬ。

                 (明治三十四年一月「文芸倶楽部」)

底本:「日本現代文學全集 6 幸田露伴集」講談社
   1963(昭和38)年1月19日初版第1刷
   1980(昭和55)年5月26日増補改訂版第1刷
初出:「國會」
   1892(明治25)年5月
   「文藝倶樂部」
   1901(明治34)年1月
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記を新字、旧仮名にあらためました。
※「御陵《みさゝぎ》」と「御陵《みさゝき》」の混在は底本通りにしました。
入力:kompass
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年3月1日作成
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幸田露伴

突貫紀行——- 幸田露伴

 身には疾《やまい》あり、胸には愁《うれい》あり、悪因縁《あくいんねん》は逐《お》えども去らず、未来に楽しき到着点《とうちゃくてん》の認めらるるなく、目前に痛き刺激物《しげきぶつ》あり、慾《よく》あれども銭なく、望みあれども縁《えん》遠し、よし突貫してこの逆境を出《い》でむと決したり。五六枚の衣を売り、一|行李《こうり》の書を典し、我を愛する人二三にのみ別《わかれ》をつげて忽然《こつぜん》出発す。時まさに明治二十年八月二十五日午前九時なり。桃内《ももない》を過ぐる頃《ころ》、馬上にて、
  

  きていたるものまで脱《ぬ》いで売りはてぬ いで試みむはだか道中

 小樽《おたる》に名高きキトに宿りて、夜涼《やりょう》に乗じ市街を散歩するに、七夕祭《たなばたまつり》とやらにて人々おのおの自己《おの》が故郷の風《ふう》に従い、さまざまの形なしたる大行燈《おおあんどう》小行燈に火を点じ歌い囃《はや》して巷閭《こうりょ》を引廻《ひきま》わせり。町幅一杯《まちはばいっぱい》ともいうべき竜宮城《りゅうぐうじょう》に擬《ぎ》したる大燈籠《おおどうろう》の中に幾《いく》十の火を点ぜるものなど、火光美しく透《す》きて殊《こと》に目ざましく鮮《あざ》やかなりし。
 二十六日、枝幸丸《えさしまる》というに乗りて薄暮《はくぼ》岩内港《いわないみなと》に着きぬ。この港はかつて騎馬《きば》にて一遊せし地なれば、我が思う人はありやなしや、我が面を知れる人もあるなれど、海上|煙《けむ》り罩《こ》めて浪《なみ》もおだやかならず、夜の闇《くら》きもたよりあしければ、船に留《とど》まることとして上陸せず。都鳥に似たる「ごめ」という水禽《みずとり》のみ、黒み行く浪の上に暮《く》れ残りて白く見ゆるに、都鳥も忍《しの》ばしく、父母すみたもう方、ふりすてて来し方もさすがに思わざるにはあらず。海気は衣を撲《う》って眠《ねむ》り美ならず、夢魂《むこん》半夜|誰《た》が家をか遶《めぐ》りき。
 二十七日正午、舟《ふね》岩内を発し、午後五時|寿都《すっつ》という港に着きぬ。此地《ここ》はこのあたりにての泊舟《はくしゅう》の地なれど、地形|妙《みょう》ならず、市街も物淋《ものさび》しく見ゆ。また夜泊《やはく》す。
 二十七日の夜ともいうべき二十八日の夙《はや》くに出港せしが、浪風あらく雲乱れて、後には雨さえ加わりたり。福山すなわち松前《まつまえ》と往時《むかし》は云《い》いし城下に暫時《ざんじ》碇泊《ていはく》しけるに、北海道には珍《めず》らしくもさすがは旧城下だけありて白壁《しらかべ》づくりの家など眸《め》に入る。此地には長寿《ちょうじゅ》の人|他処《よそ》に比べて多く、女も此地生れなるは品よくして色|麗《うる》わしく、心ざま言葉つきも優しき方なるが多きよし、気候水土の美なればなるべし。上陸して逍遥《しょうよう》したきは山々なれど雨に妨《さまた》げられて舟を出でず。やがてまた吹き来し強き順風に乗じて船此地を発し、暮るる頃|函館《はこだて》に着き、直《ただ》ちに上陸してこの港のキトに宿りぬ。建築《けんちく》半ばなれども室広く器物清くして待遇《たいぐう》あしからず、いと心地よし。
 二十九日、市中を散歩するにわずか二年余見ざりしうちに、著しく家列《いえなら》びもよく道路も美しくなり、大町末広町なんどおさおさ東京にも劣《おと》るべからず。公園のみは寒気強きところなれば樹木の勢いもよからで、山水の眺《なが》めはありながら何となく飽《あ》かぬ心地すれど、一切の便利は備わりありて商家の繁盛《はんじょう》云《い》うばかり無し。客窓の徒然《つれづれ》を慰《なぐさ》むるよすがにもと眼にあたりしままジグビー、グランドを、文魁堂《ぶんかいどう》とやら云える舗《みせ》にて購《こ》うて帰りぬ。午後、我がせし狼藉《ろうぜき》の行為《こうい》のため、憚《はばか》る筋の人に捕《とら》えられてさまざまに説諭《せつゆ》を加えられたり。されどもいささか思い定むるよし心中にあれば頑《がん》として屈《くっ》せず、他の好意をば無になして辞して帰るやいなや、直ちに三里ほど隔《へだ》たれる湯の川温泉というに到《いた》り、しこうして封書《ふうしょ》を友人に送り、此地に来れる由《よし》を報じおきぬ。罪あらば罪を得ん、人間の加え得る罪は何かあらん。事を決する元来|癰《よう》を截《き》るがごとし、多少の痛苦は忍ぶべきのみ。此地の温泉は今春以来かく大きなる旅館なども設けらるるようなりしにて、箱館《はこだて》と相関聯《あいかんれん》して今後とも盛衰《せいすい》すべき好位置に在り。眺望《ちょうぼう》のこれと指して云うべきも無けれど、かの市より此地まであるいは海浜《かいひん》に沿《そ》いあるいは田圃《たんぼ》を過ぐる路《みち》の興も無きにはあらず、空気|殊《こと》に良好なる心地して自然と愉快《ゆかい》を感ず。林長館といえるに宿りしが客あしらいも軽薄《けいはく》ならで、いと頼《たの》もしく思いたり。
 三十日、清閑《せいかん》独り書を読む。
 三十一日、微雨《びう》、いよいよ読書に妙《みょう》なり。
 九月一日、館主と共に近き海岸に到りて鰮魚《いわし》を漁する態を観《み》る。海浜に浜小屋《はまごや》というもの、東京の長家《ながや》めきて一列に建てられたるを初めて見たり。
 二日、無事。
 三日、午後箱館に至りキトに一宿す。
 四日、初めて耕海入道と号する紀州の人と知る。齢《よわい》は五十を超《こ》えたるなるべけれど矍鑠《かくしゃく》としてほとんと伏波将軍《ふくはしょうぐん》の気概《きがい》あり、これより千島《ちしま》に行かんとなり。
 五日、いったん湯の川に帰り、引かえしてまた函館に至り仮寓《かぐう》を定めぬ。
 六日、無事。
 七日、静坐《せいざ》読書。
 八日、おなじく。
 九日、市中を散歩して此地には居るまじきはずの男に行き逢《あ》いたり。何とて父母を捨て流浪《るろう》せりやと問えば、情婦のためなりと答う。帰後|独坐感慨《どくざかんがい》これを久《ひさし》うす。
 十日、東京に帰らんと欲すること急なり。されど船にて直航せんには嚢中《のうちゅう》足らずして興|薄《うす》く、陸にて行かば苦《くるし》み多からんが興はあるべし。嚢中不足は同じ事なれど、仙台《せんだい》にはその人無くば已《や》まむ在らば我が金を得べき理《ことわり》ある筋あり、かつはいささかにても見聞を広くし経験を得んには陸行にしくなし。ついに決断して青森行きの船出づるに投じ、突然《とつぜん》此地を後になしぬ。別《わかれ》を訣《つ》げなば妨《さまた》げ多からむを慮《おもんぱか》り、ただわずかに一書を友人に遺《のこ》せるのみ。
 十一日午前七時青森に着き、田中|某《ぼう》を訪《と》う。この行|風雅《ふうが》のためにもあらざれば吟哦《ぎんが》に首をひねる事もなく、追手を避《さ》けて逃《に》ぐるにもあらざれば駛急《しきゅう》と足をひきずるのくるしみもなし。さればまことに弥次郎兵衛《やじろべえ》の一本立の旅行にて、二本の足をうごかし、三本たらぬ智恵《ちえ》の毛を見聞を広くなすことの功徳《くどく》にて補わむとする、ふざけたことなり。
 十二日午前、田中某に一宴《いちえん》を餞《せん》せらるるまま、うごきもえせず飲み耽《ふけ》り、ひるいい終わりてたちいでぬ。安方町《やすかたまち》に善知鳥《うとう》のむかしを忍び、外の浜に南兵衛のおもかげを思う。浅虫というところまで村々|皆《みな》磯辺《いそべ》にて、松風《まつかぜ》の音、岸波の響《ひびき》のみなり。海の中に「ついたて」めきたる巌《いわお》あり、その外しるすべきことなし。小湊《こみなと》にてやどりぬ。このあたりあさのとりいれにて、いそがしぶる乙女《おとめ》のなまじいに紅染《べにぞめ》のゆもじしたるもおかしきに、いとかわゆき小女のかね黒々と染《そめ》ぬるものおおきも、むかしかたぎの残れるなるべしとおぼしくて奇《き》なり。見るものきくもの味《あじわ》う者ふるるもの、みないぶせし。笥《け》にもるいいを椎《しい》の葉のなぞと上品の洒落《しゃれ》など云うところにあらず。浅虫にいでゆあるよしなれど、みちなかなればいらずありき、途中《とちゅう》帽子《ぼうし》を失いたれど購《あがな》うべき余裕《よゆう》なければ、洋服には「うつり」あしけれど手拭《てぬぐい》にて頬冠《ほおかぶ》りしけるに、犬の吠《ほ》ゆること甚《はなはだ》しければ自ら無冠《むかん》の太夫《たゆう》と洒落ぬ。旅宿《やど》は三浦屋《みうらや》と云うに定めけるに、衾《ふすま》は堅《かた》くして肌《はだ》に妙ならず、戸は風|漏《も》りて夢《ゆめ》さめやすし。こし方行末おもい続けてうつらうつらと一夜をあかしぬ。
 十三日、明けて糠《ぬか》くさき飯ろくにも喰《く》わず、脚半《きゃはん》はきて走り出づ。清水川という村よりまたまた野辺地《のべち》まで海岸なり、野辺地の本町《ほんまち》といえるは、御影石《みかげいし》にやあらん幅《はば》三尺ばかりなるを三四丁の間|敷《し》き連ねたるは、いかなる心か知らねど立派なり。戸数は九百ばかりなり。とある家に入りて昼餉《ひるげ》たべけるに羹《あつもの》の内に蕈《きのこ》あり。椎茸《しいたけ》に似て香《かおり》なく色薄し。されど味のわろからぬまま喰《く》い尽《つく》しけるに、半里ほど歩むとやがて腹痛むこと大方ならず、涙《なみだ》を浮《うか》べて道ばたの草を蓐《しとね》にすれど、路上|坐禅《ざぜん》を学ぶにもあらず、かえって跋提河《ばだいが》の釈迦《しゃか》にちかし。一時《ひととき》ばかりにして人より宝丹《ほうたん》を貰《もら》い受けて心地ようやくたしかになりぬ。おそろしくして駄洒落《だじゃれ》もなく七戸《しちのへ》に腰折《こしお》れてやどりけるに、行燈《あんどう》の油は山中なるに魚油にやあらむ臭《くさ》かりける。ことさら雨ふりいでて、秋の夜の旅のあわれもいやまさりければ、


   さらぬだに物思う秋の夜を長み いねがてに聞く雨の音かな

 食うものいとおかしく、山中なるに魚のなますは蕈のためしもあれば懼《おそ》れて手もつけず、椀《わん》の中のどじょうの五分切りもかたはら痛きに、とうふのかたさは芋《いも》よりとはあまりになさけなかりければ、


   塩辛《しおから》き浮世のさまか七《しち》の戸《へ》の
     ほそきどじょうの五分切りの汁《しる》

 十四日、朝早く立《たち》て行く間なく雨しとしとふりいでぬ。きぬぎぬならばやらずの雨とも云うべきに、旅には憂《う》きことのかぎりなり。三本木もゆめ路にすぎて、五戸《ごのへ》にて昼飯す。この辺牛馬殊に多し。名物なれど喰うこともならず、みやげにもならず、うれしからぬものなりと思いながら、三の戸まで何ほどの里程《みちのり》かと問いしに、三里と答えければ、いでや一走りといきせき立《たっ》て進むに、峠《とうげ》一つありて登ることやや長けれども尽《つ》きず、雨はいよいよ強く面をあげがたく、足に出来たる「まめ」ついにやぶれて脚《あし》折るるになんなんたり。並木《なみき》の松もここには始皇をなぐさめえずして、ひとりだちの椎はいたずらに藤房《ふじふさ》のかなしみに似たり。隧道《トンネル》に一やすみす。この時またみちのりを問うに、さきの答は五十町一里なりけり。とかくして涙ながら三戸につきぬ。床《とこ》の間《ま》に刀掛《かたなかけ》を置けるは何のためなるにや、家づくりいとふるびて興あり。この日はじめて鮭《さけ》を食うにその味美なり。
 十五日、朝、雨気ありたれども思いきりて出づ。三の戸、金田一、福岡《ふくおか》と来りしが、昨日《きのう》は昼餉《ひるげ》たべはぐりてくるしみければ今日はむすび二ツもらい来つ、いで食わんとするに臨み玉子うる家あり。価を問えば六|厘《りん》と云う。三つばかり買いてなお進み行くに、路傍《ろぼう》に清水いづるところあり。椀《わん》さえ添えたるに、こしかけもあり。草を茵《しとね》とし石を卓《たく》として、谿流《けいりゅう》の※[#「榮」の「木」に代えて「糸」、第3水準1-90-16、90-2]回《えいかい》せる、雲烟《うんえん》の変化するを見ながら食うもよし、かつ価も廉《れん》にして妙なりなぞとよろこびながら、仰《あお》いで口中に卵を受くるに、臭《におい》鼻を突《つ》き味舌を刺《さ》す。驚《おどろ》きて吐《は》き出すに腐《くさ》れたるなり。嗽《くちそそ》ぎて嗽げども胸わろし。この度は水の椀にとりて見るにまたおなじ、次もおなじ。これにて二銭種なしとぞなりける。腹はたてども飯ばかり喰いぬ。


   鳥目《ちょうもく》を種なしにした残念さ
     うっかり買《かっ》たくされ卵子《たまご》に
   やす玉子きみもみだれてながるめり
     知りなば惜《お》しき銭をすてむや

 これより行く手に名高き浪打峠《なみうちとうげ》にかかる。末の松山を此地という説もあり。いずれに行くとも三十里余りを経《へ》ずば海に遇《あ》うことはなり難かるべし。但《ただ》し貝の化石は湯田というところよりいづるよしにて処々《ところどころ》に売る家あり、なかなか価安からず。かくてすすむほどに山路に入りこみて、鬱蒼《うっそう》たる樹、潺湲《せんかん》たる水のほか人にもあわず、しばらく道に坐《ざ》して人の来るを待ち、一ノ戸[#「一ノ戸」の「ノ」は小書き]まで何ほどあるやと問うに、十五里ばかりと答う。駭然《がいぜん》として夢か覚《うつつ》か狐子《こし》に騙《へん》せらるるなからむやと思えども、なお勇気を奮《ふる》いてすすむに、答えし男急に呼《よ》びとめて、いずかたへ行くやと云う。不思議に思いて、一の戸に行くなりと生《なま》いらえするに、彼《かれ》笑って、ああおのし、まようて損したり、福岡の橋を渡《わた》らねばならずと云う。余ここにおいていよいよ落胆《らくたん》せり。されどそのままあるべきにもあらず、日も高ければいそぎて行くに、二時《ふたとき》ばかりにして一の戸駅と云える標杭《しるしぐい》にあいぬ。またまたあやしむこと限りなし。ふたたび貝石うる家の前に出《い》で、価を問うにいと高ければ、いまいましさのあまり、この蛤《はまぐり》一升|天保《てんぽう》くらいならば一|石《こく》も買うべけれと云えば、亭主《ていしゅ》それは食わむとにやと問う。元よりなりと答う。煮《に》るかと云うに、いや生《なま》こそ殊《こと》にうましなぞと口より出まかせに饒舌《しゃべ》りちらせば、亭主、さらば一升まいらせむ、食いたまえと云う。その面《つら》つきいと真面目《まじめ》なれば逃げんとしたれども、ふと思い付きて、まず殻《から》をとりてたまわれと答えける。亭主|噴飯《ふきだ》して、さてさておかしきことを云う人よと云う。おかしさはこれのみならず、余は今日二時間ばかりにて十五里歩みぬ、またおかしからずやと云えば、亭主、否々、吾等《われら》は老《おい》たれども二時間に三十里はあゆむべしと云う。だんだん聞くに六町一里にて大笑いとなりぬ。昼めし過ぎて小繋《こつなぎ》まではもくらもくらと足引の山路いとなぐさめ難く、暮れてあやしき家にやどりぬ。きのこずくめの膳部《ぜんぶ》にてことごとく閉口す。
 十六日、朝いと早く暗き内に出で、沼宮内《ぬまくない》もつつと抜けて、一里ばかりにて足をいため、一寸余りの長さの「まめ」三個できければ、歩みにくきことこの上なけれど、休みもせず、ついに渋民《しぶたみ》の九丁ほど手前にて水飲み飯したため、涙ぐみて渋民に入りぬ。盛岡《もりおか》まで二十銭という車夫あり、北海道の馬より三倍安し。ついにのりて盛岡につきぬ。久しぶりにて女子らしき女子をみる。一体土地の風俗温和にていやしからず。中学は東京の大学に似たれど、警察署は耶蘇《やそ》天主堂に似たり。ともかくも青森よりは遥《はるか》によろしく、戸数も多かるべし。肴町《さかなまち》十三日町|賑《にぎわ》い盛《さかん》なり、八幡《はちまん》の祭礼とかにて殊更《ことさら》なれば、見物したけれど足の痛さに是非《ぜひ》もなし。この日岩手富士を見る、また北上川の源に沼宮内より逢《あ》う、共に奥州《おうしゅう》にての名勝なり。
 十七日、朝早く起き出でたるに足|傷《いた》みて立つこと叶《かな》わず、心を決して車に乗じて馳《は》せたり。郡山《こおりやま》、好地《こうち》、花巻、黒沢尻《くろさわじり》、金が崎、水沢、前沢を歴《へ》てようやく一ノ関に着す。この日行程二十四里なり。大町なんど相応の賑いなり。
 十八日、朝霧《あさぎり》いと深し。未明|狐禅寺《こぜんじ》に到り、岩手丸にて北上《きたかみ》を下る。両岸景色おもしろし。いわゆる一山|飛《とん》で一山来るとも云うべき景にて、眼|忙《いそが》しく心ひまなく、句も詩もなきも口惜《くちお》しく、淀《よど》の川下りの弥次よりは遥かに劣れるも、さすがに弥次よりは高き情をもてる故なるべしとは負惜《まけおし》みなり。登米《とよま》を過ぐる頃、女の児《こ》餅《もち》をうりに来る。いくらぞと問えば三文と答う。三毛かと問えばはいと云い、三厘かといえばまたはいと云う。なおくどく問えば怫然《ふつぜん》として、面ふくらかして去る。しばらくして石の巻に着す。それより運河に添うて野蒜《のびる》に向いぬ。足はまた腫《は》れ上りて、ひとあしごとに剣をふむごとし。苦しさ耐《た》えがたけれど、銭はなくなる道なお遠し、勤《ごん》という修行、忍《にん》と云う観念はこの時の入用なりと、歯を切《くいしば》ってすすむに、やがて草鞋《わらじ》のそこ抜けぬ。小石原にていよいよ堪《た》え難きに、雨降り来り日暮るるになんなんたり。やむをえず負える靴《くつ》をとりおろして穿《うが》ち歩むに、一ツ家のわらじさげたるを見当り、うれしやと立寄り一ツ求めて十銭札を与うるに取らず、通用は近日に廃《はい》せらるる者ゆえ厭《いと》い嫌《きら》いて、この村にては通用ならぬよしの断りも無理ならねど、事情の困難を話してたのむに、いじわる婆《ばばあ》めさらに聞き入れず。なくなく買わずにまた五六町すぎて、さても旅は悲しき者とおもいしりぬ。鴻雁《こうがん》翔天《しょうてん》の翼《つばさ》あれども栩々《くく》の捷《しょう》なく、丈夫《じょうふ》千里の才あって里閭《りりょ》に栄|少《すくな》し、十銭時にあわず銅貨にいやしめらるなぞと、むずかしき愚痴《ぐち》の出所はこんな者とお気が付かれたり。ようやくある家にて草鞋を買いえて勇を奮《ふる》い、八時半頃|野蒜《のびる》につきぬ。白魚の子の吸物《すいもの》いとうまし、海の景色も珍《めず》らし。
 十九日、夜来の大雨ようよう勢衰《いきおいおとろ》えたるに、今日は待ちに待ちたる松島見んとて勇気も日頃にましぬ。いでやと毛布《ケット》深くかぶりて、えいさえいさと高城にさしかかれば早や海原《うなばら》も見ゆるに、ひた走りして、ついに五大堂|瑞岩寺《ずいがんじ》渡月橋《とげつきょう》等うちめぐりぬ。乗合い船にのらんとするに、あやにくに客一人もなし。ぜひなく財布《さいふ》のそこをはたきて船を雇《やと》えば、ひきちがえて客一人あり、いまいましきことかぎりなし。されどおもしろき景色にめでて煩悩《ぼんのう》も軽きはいとよし。松島の景といえばただただ、松しまやああまつしまやまつしまやと古人もいいしのみとかや、一ツ一ツやがてくれけり千松島とつらねし技倆《ぎりょう》にては知らぬこと、われわれにては鉛筆《えんぴつ》の一ダース二ダースつかいてもこの景色をいい尽し得べしともおもえず。東西南北、前後左右、あるいは大あるいは小、高きあり、ひくきあり、みの亀《がめ》の尾《お》ひきたるごとき者、臥《ふ》したる牛の首あげたるごとき者あり、月島星島|桂島《かつらじま》、踞《きょ》せるがごときが布袋島《ほていじま》なら立てるごときは毘沙門島《びしゃもんじま》にや、勝手に舟子《かこ》が云いちらす名も相応に多かるべし。松吟庵《しょうぎんあん》は閑《かん》にして俳士《はいし》髭《ひげ》を撚《ひね》るところ、五大堂は寂《さ》びて禅僧《ぜんそう》尻《しり》をすゆるによし。いわんやまたこの時金風|淅々《せきせき》として天に亮々《りょうりょう》たる琴声《きんせい》を聞き、細雨|霏々《ひひ》として袂《たもと》に滴々《てきてき》たる翠露《すいろ》のかかるをや。過《すぐ》る者は送るがごとく、来《きた》るものは迎《むか》うるに似たり。赤き岸、白き渚《なぎさ》あれば、黒き岩、黄なる崖《がけ》あり。子美太白《しびたいはく》の才、東坡柳州《とうばりゅうしゅう》の筆にあらずはいかむかこの光景を捕捉《ほそく》しえん。さてそれより塩竈《しおがま》神社にもうでて、もうこの碑《ひ》、壺《つぼ》の碑《いしぶみ》前を過ぎ、芭蕉《ばしょう》の辻《つじ》につき、青葉の名城は日暮れたれば明日の見物となすべきつもりにて、知る人の許《もと》に行きける。しおがまにてただの一銭となりければ、そを神にたてまつりて、


  からからとからき浮世《うきよ》の塩釜《しおがま》で
     せんじつめたりふところの中

 はらの町にて、


  宮城野《みやぎの》の萩《はぎ》の餅《もち》さえくえぬ身の
     はらのへるのを何と仙台

 二十日、朝、曇《くも》り。午前九時知る人をたずねしに、言葉の聞きちがえにて、いと知れにくかりければ、


  いそがずはまちがえまじを旅人の
     あとよりわかる路次のむだ道

 二十一日、この日もまた我が得べき筋の金を得ず、今しばらく待ちてよとの事に逗留《とうりゅう》と決しける。
 二十二日、同じく閑窓《かんそう》読書の他なし。
 二十三日、同じく。
 二十四日、同じく。
 二十五日、朝、基督《キリスト》教会堂に行きて説教をきく。仏教もこの教も人の口より聞けば有難《ありがた》からずと思いぬ。
 二十六日、いかがなしけん頭痛|烈《はげ》しくしていかんともしがたし。
 二十七日、同じく頭痛す。
 二十八日、少許《すこし》の金と福島までの馬車券とを得ければ、因循《いんじゅん》日を費さんよりは苦しくとも出発せんと馬車にて仙台を立ち、日なお暮れざるに福島に着きぬ。途中白石の町は往時《むかし》民家の二階立てを禁じありしとかにて、うち見たるところ今なお巍然《ぎぜん》たる家無し。片倉小十郎は面白き制を布《し》きしものかな。福島にて問い質《ただ》すに、郡山より東京までは鉄路|既《すで》に通じて汽車の往復ある由《よし》なり。その乗券の価を問うにほとんど嚢中有るところと相同じければ、今宵《こよい》この地に宿りて汽車賃を食い込み、明日また歩み明後日また歩み、いつまでも順送りに汽車へ乗れぬ身とならんよりは、苦しくとも夜を罩《こ》めて郡山まで歩み、明日の朝一番にて東京に到らん方極めて妙《みょう》なり、身には邪熱《じゃねつ》あり足はなお痛めど、夜行をとらでは以後の苦みいよいよもって大ならむと、ついに草鞋穿《わらじば》きとなりて歩み出しぬ。二本松に至れば、はや夜半ちかくして、市は祭礼のよしにて賑やかなれど、我が心の淋《さび》しさ云うばかりなし。市を出はずるる頃より月明らかに前途《ゆくて》を照しくるれど、同伴者《つれ》も無くてただ一人、町にて買いたる餅《もち》を食いながら行く心の中いと悲しく、銭あらば銭あらばと思いつつようよう進むに、足の疲れはいよいよ甚しく、時には犬に取り巻かれ人に誰何《すいか》せられて、辛《から》くも払暁《あけがた》郡山に達しけるが、二本松郡山の間にては幾度《いくど》か憩《いこ》いけるに、初めは路の傍《かたわら》の草あるところに腰《こし》を休めなどせしも、次には路央《みちなか》に蝙蝠傘《こうもりがさ》を投じてその上に腰を休むるようになり、ついには大の字をなして天を仰ぎつつ地上に身を横たえ、額を照らす月光に浴して、他年のたれ死をする時あらば大抵《たいてい》かかる光景ならんと、悲しき想像なんどを起すようなりぬ。
 二十九日、汽車の中に困悶《こんもん》して僅《わず》かに睡《ねむ》り、午後東京に辛《から》くも着きぬ。久しく見ざれば停車場より我が家までの間の景色さえ変りて、愴然《そうぜん》たる感いと深く、父上母上の我が思いなしにやいたく老いたまいたる、祖母上《ばばうえ》のこの四五日前より中風とやらに罹《かか》りたまえりとて、身動きも得《え》したまわず病蓐《びょうじょく》の上に苦しみいたまえるには、いよいよ心も心ならず驚《おどろ》き悲しみ、弟妹等の生長せるばかりにはやや嬉《うれ》しき心地すれど、いたずらに齢《よわい》のみ長じてよからぬことのみし出《いだ》したる我が、今もなお往時《むかし》ながらの阿蒙《あもう》なるに慚愧《ざんき》の情身を責《せ》むれば、他を見るにつけこれにすら悲しさ増して言葉も出でず。
                          (明治二十年八月)

底本:ちくま日本文学全集『幸田露伴』 筑摩書房
   1992(平成4)年3月20日第一刷
親本:「ちくま文学の森」筑摩書房
入力:真先芳秋
校正:丹羽倫子
1998年9月16日公開
2003年11月25日修正
青空文庫作成ファイル:
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幸田露伴

努力論—— 幸田露伴

自序

 努力は一である。併し之を察すれば、おのづからにして二種あるを觀る。一は直接の努力で、他の一は間接の努力である。間接の努力は準備の努力で、基礎となり源泉となるものである。直接の努力は當面の努力で、盡心竭力の時のそれである。人はやゝもすれば努力の無效に終ることを訴へて嗟歎するもある。然れど努力は功の有と無とによつて、之を敢てすべきや否やを判ずべきでは無い。努力といふことが人の進んで止むことを知らぬ性の本然であるから努力す可きなのである。そして若干の努力が若干の果を生ずべき理は、おのづからにして存して居るのである。ただ時あつて努力の生ずる果が佳良ならざることもある。それは努力の方向が惡いからであるか、然らざれば間接の努力が缺けて、直接の努力のみが用ひらるゝ爲である。無理な願望《ぐわんまう》に努力するのは努力の方向の惡いので、無理ならぬ願望に努力して、そして甲斐の無いのは、間接の努力が缺けて居るからだらう。瓜の蔓に茄子を求むるが如きは、努力の方向が誤つて居るので、詩歌の美妙なものを得んとして、徒らに篇を連ね句を累ぬるが如きは、間接の努力が缺けて居るのである。誤つた方向の努力を爲すことは寧ろ少いが、間接の努力を缺くことは多い。詩歌の如きは當面の努力のみで佳なるものを得べくは無い。不勉強が佳なる詩歌を得る因《ちなみ》にはならぬが、たゞ當面の勉強のみに因つて佳なる詩歌が得らるゝものでは無い。朝より暮に至るまで、紙に臨み筆を執つたからとて、字や句の百千萬をば連ね得はするだらうが、それで詩歌の逸品は出來ぬ。此意に於て勉強努力は甚だ價が低い。で、努力を喜ばず、勉強を斥ける人もある。特に藝術の上に於ては自然の生成を尚び、努力を排する者も多い。それも有理の説である。努力萬能なりとは斷じ得ぬ。印度の古傳の如く、技藝天即ち藝術の神は六欲の圓滿を得た者の美睡の頭腦中よりおのづからにして生《な》り出づる者であるかも知れぬ。當面の努力のみで、必らず努力の好果が得らるゝならば、下手の横好といふ諺は世に存せぬであらう。併しそれにしても其は努力の排斥すべき所以にはならないで、卻つて間接の努力を要求する所以になつてゐる。努力無效果の事實は、藝術の源泉となり基礎となる準備の努力、即ち自性の醇化、世相の眞解、感興の旺溢、製作の自在、それ等のものを致すの道を講ずることが重要であるといふことを、徒らに紙に臨み筆を執るのみの直接努力を敢てしてゐるものに明示して居るのである。努力はよしや其の效果が無いにせよ、人の性の本然が、人の生命ある間は、おのづからにして人の敢へてせんとするものである。厭ふことは出來ぬものである。
併し努力を喜ばぬ傾の人に存することを否定することは出來ぬ。將に睡らんとする人と漸く死せんとする人とは、直接の努力をも間接の努力をも喜ばぬ。それは燃ゆべき石炭が無くなつて、火が※[#「火+稻のつくり」、第4水準2-79-88]を擧げることを辭退して居るのである。
努力は好い。併し人が努力するといふことは、人としては猶不純である。自己に服せざるものが何處かに存するのを感じて居て、そして鐡鞭を以て之を威壓しながら事に從うて居るの景象がある。
努力して居る、若くは努力せんとして居る、といふことを忘れて居て、そして我が爲せることがおのづからなる努力であつて欲しい。さう有つたらそれは努力の眞諦であり、醍醐味である。
此の册の中、運命と人力と、自己革新論、幸福三説、修學の四標的、凡庸の資質と卓絶の事功と、接物宜從厚、四季と一身と、疾病説、以上數篇は明治四十三年より四十四年に於て成功雜誌の上に、着手の處、努力の堆積二篇は同じ頃の他の雜誌に、靜光動光は四十一年成功雜誌に、進潮退潮、説氣山下語は此の書の刊に際して草したのである。努力に關することが多いから、此の書を努力論と名づけた。
努力して努力する、それは眞のよいものでは無い。努力を忘れて努力する、それが眞の好いものである。併し其の境《さかひ》に至るには愛か捨《しや》かを體得せねばならぬ、然らざれば三|阿僧《あそう》祗劫《ぎごふ》の間なりとも努力せねばならぬ。愛の道、捨の道を此の册には説いて居らぬ、よつて猶且努力論と題してゐる。

壬子(大正元年)の夏著者識

運命と人力と

 世に所謂運命といふが如きもの無ければ則ち已む、若し眞に所謂運命といふが如きこれ有りとすれば、必らずや個人、若くは團體、若くは國家、若くは世界、即ち運命の支配を受くべきものと、之を支配するところの運命との間に、何等かの關係の締結約束され居るものが無くてはならぬ。勿論古よりの英雄豪傑には、「我は運命に支配せらるゝを好まず、我自ら運命を支配すべきのみ」といふが如き、熱烈|鷙悍《しかん》の感情意氣を有したものの存することは爭はれぬ事實で、彼の『天子は命《めい》を造る、命を言ふ可からず』と喝破した言の如きも、「天子といふものは人間に於ける大權の所有者で、造物者の絶對權を有するが如くに命を造るべきものである、それが命の我に利せざるを歎じたりなんどするといふが如き薄弱なことの有る可きものでは無い」と英雄的に道ひ放したものである。如何にも面白い言《ことば》であつて、凡そ英雄的性格を有して居る人には、常に是の如き意氣感情が多少存在して居るものと云つても宜い位であつて、そして又是の如き激烈勇猛の意氣感情を抱いて居るものは、即ち英雄的性格の人物である一徴、と云つても差支ない位である。運命が善いの惡いのと云つて、女々しい泣事を列べつゝ、他人の同情を買はんとするが如き形迹を示す者は、庸劣|凡下《ぼんげ》の徒の事である。苟も英雄の氣象あり、豪傑の骨頭あるものは、『大丈夫命を造るべし、命を言ふべからず』と豪語して、自ら大斧を揮ひ、巨鑿を使つて、我が運命を刻み出して然る可きなのである。徒らに賣卜者、觀相者、推命者流の言の如き、『運命前定説』の捕虜となつて、そして好運の我に與《く》みせざるを歎ずるといふが如きことは爲すべからざる筈である。
およそ世の中に、運命が自己の生誕の日の十干十二支や、九宮二十八宿やなんぞによつて前定して居るものと信じたり、又は自己の有して居る骨格や血色やなんぞに因つて前定して居るものと信じて、そして自己の好運ならざるを歎ずる者ほど、悲しむ可き不幸の人は無い。何故となれば、其の如き薄弱貧小な意氣や感情や思想は、直に是れ否運を招き致し、好運を疎隔するに相當するところのもので有るからである。生れた年月や、おのづからなる面貌やが、眞に其人の運命に關するか關せぬかは別問題としても、然樣《さう》いふことに頭を惱ましたり心を苦しめたりするといふことが、既に餘り感心せぬことである。
荀子に非相の篇が有つて、相貌と運命との關せざることを説いて居るのは二千餘年の昔である。論衡に命虚《めいきよ》の論があつて、生れた年月と運命との相關せざることを言つて居るのは漢の時である。よしや其等の論議が眞を得て居ないで、相貌は實に運命に關し、生年月日は實に運命に關するにしたところで、彼の因襲的從順的な支那人の間にさへ、然樣《さう》いふところの、運命の前定といふが如き思想に屈服せぬ思想を抱いたものが、遠い古から存したことを思ふと、甚だ頼もしい氣がすると同時に、それだのに今の人にして猶且運命前定論に屈伏するが如き情無い思想を抱いて居るものも有るかと思つては、歎息せざるを得ない譯なのである。
實に荀子の言つた通り、相貌は肖て心志は肖ざるものもあり、王充の言つた通り、同時に埋殺された趙の降卒何十萬が、皆同じ生年月を有した譯でも無からうが、其等の事は姑らく論外として置いて、兎に角運命前定論などには屈伏し難いのが、人の本然の感情であるといふことは爭はれない。吾人は或は運命に支配されて居るもので有らう、併し運命に支配さるゝよりは運命を支配したいといふのが吾人の欺かざる欲望であり感情である。然らば則ち何を顧みて自ら卑うし自ら小にせんやである。直に進んで自ら運命を造る可きのみである。是の如き氣象を英雄的氣象といひ、是の如きの氣象を有して、終にこれを事實になし得るものを英雄といふのである。
若し運命といふものが無いならば、人の未來はすべて數學的に測知し得べきもので、三々が九となり、五々が二十五となるが如く、明白に今日の行爲をもつて明日の結果を知り得べきである。併し人事は複雜で、世相は紛糾して居るから、容易に同一行爲が同一結果に到達するとは云へぬ。そこで何人の頭にも運命といふやうなものが、朧氣に意識されて、そして其の運命なるものが、偉大の力を以て吾人を支配するかのやうに思はれるのである。某《ぼう》は運命の寵兒であつて、某は運命の虐待を被つて居るやうに見えるといふことがある。自己一身にしても或時は運命の順潮に舟を行《や》つて快を得、或時は運命の逆風に帆を下して踟※[#「足へん+厨」、第3水準1-92-39]するやうに見えるといふことがある。そこで『運命』『運命』といふ語は、容易ならぬ權威のある語として、吾人の耳に響き、胸に徹するのである。
但し聰明な觀察者となり得ぬまでも、注意深き觀察者となつて、世間の實際を見渡したならば、吾人は忽ちにして一の大なる急所を見出すことが出來るで有らう。それは世上の成功者は、皆自己の意志や、智慮や、勤勉や、仁徳の力によつて自己の好結果を收め得たことを信じて居り、そして失敗者は皆自己の罪では無いが、運命の然らしめたが爲に失敗の苦境に陷つたことを歎じて居るといふ事實である。即ち成功者は自己の力として運命を解釋し、失敗者は運命の力として自己を解釋して居るのである。
此の兩個の相反對して居る見解は、其の何《ど》の一方が正しくて、何の一方が正しからざるかは知らぬが、互に自ら欺いて居る見解で無いには相違無い。成功者には自己の力が大に見え、失敗者には運命の力が大に見えるに相違無い。
是の如き事實は、抑※[#二の字点、1-2-22]何を語つて居るので有らうか。蓋し此の兩樣の見解は、皆いづれも其の一半は眞なのであつて、兩樣の見解を併合する時は、全部の眞《まこと》となるのでは無からうか。即ち運命といふものも存在して居つて、そして人間を幸不幸にして居るに相違無いが、個人の力といふものも存在して居つて、そして又人間を幸不幸にして居るに相違無いといふことに歸着するのである。たゞ其の間に於て成功者は運命の側を忘れ、失敗者は個人の力の側を忘れ、各※[#二の字点、1-2-22]一方に偏した觀察をなして居るのである。
川を挾んで同じ樣の農村がある。左岸の農夫も菽《まめ》を種ゑ、右岸の農夫も菽を作つた。然るに秋水大に漲つて左岸の堤防は決潰し、左岸の堤防の決潰した爲に右岸の堤防は決潰を免れたといふ事實が有る。此時に於て、左岸の農夫は運命の我に與《く》みせざるを歎じ、右岸の農夫は自己の熱汗の粒々辛苦の結果の收穫を得たことを悦んだとすれば、其の兩者はいづれも欺かざる、又誤まらざる、眞事實と眞感想とを語つて居るのである。其の相反して居るの故を以て左岸の者の言と、右岸の者の言との、那《ど》の一方かが、虚僞で有り誤謬で有るといふことは言へぬのである。そして天運も實に有り、人力も實に有ることを否む譯には行かぬ。たゞ左岸の者は、人力を遺《わす》れて運命を言ひ、右岸の者は運命を遺れて人力を言つて居るに過ぎずして、その人力や運命は、川の左右を以て扁行扁廢して居るのでは無いことも明白である。
扨既に運命といふものが有つて、冥々に流行するといふ以上は、運命流行の原則を知つて、そして好運を招致し、否運を拒斥したいと云ふのは、誰しもの抱くべき思念である。そこで此の至當な欲望に乘じて、推命者だの、觀相者だの、卜筮者だのが起つて、神祕的の言説を弄するのであるが、神祕的のことは姑らく擱いて論ずまい。吾人は飽までも理智の燭を執つて、冥々を照らす可きである。こゝに於て理智は吾人に何を教へるで有らう。
理智は吾人に教へて曰く、運命流行の原則は、運命其物のみ之を知る。たゞ運命と人力との關係に至つては我能く之を知ると。
運命とは何である。時計の針の進行が即ち運命である。一時の次に二時が來り、二時の次に三時が來り、四時五時六時となり、七時八時九時十時となり、是の如くにして一日去り、一日來り、一月去り、一月來り、春去り、夏來り、秋去り、冬來り、年去り、年來り、人生れ、人死し、地球成り、地球壞れる、其が即ち運命である。世界や國家や團體や個人に取つての好運否運といふが如きは、實は運命の一小斷片であつて、そしてそれに對して人間の私の評價を附したるに過ぎぬのである。併し既に好運と目すべきものを見、否運と目すべきものあるを覺ゆる以上は、其の好運を招き致し、否運を拒斥したいのは當然の欲望である。で、若し運命を牽き動かす可き線條があるならば、人力を以て其の幸運を牽き來り招き致しさへすれば宜いのである。即ち人力と好運とを結び付けたいので、人力と否運とを結び付けたくないのである。それが萬人の欺かざる欲望である。
注意深き觀察者となつて世上を見渡すことは、最良の教を得る道である。失敗者を觀、成功者を觀、幸福者を觀、不幸者を見、而して或者が如何なる線綫を手にして好運を牽き出し、或者が如何なる線綫を手にして否運を牽き出したかを觀る時は、吾人は明かに一大教訓を得る。これは即ち好運を牽き出し得べき線は、之を牽く者の掌《たなごゝろ》を流血淋漓たらしめ、否運を牽き出すべき線は、滑膩油澤《かつじいうたく》なる柔軟のものであるといふ事實である。即ち好運を牽き出す人は常に自己を責め、自己の掌より紅血を滴らし、而して堪へ難き痛楚を忍びて、其の線を牽き動かしつゝ、終に重大なる體躯の好運の神を招き致すのである。何事によらず自己を責むるの精神に富み、一切の過失や、齟齬や、不足や、不妙や、あらゆる拙なること、愚なること、好からぬことの原因を自己一個に歸して、決して部下を責めず、朋友を責めず、他人を咎めず、運命を咎め怨まず、たゞ/\吾が掌の皮薄く、吾が腕の力足らずして、好運を招き致す能はずとなし、非常の痛楚を忍びつゝ、努力して事に從ふものは、世上の成功者に於て必らず認め得るの事例である。蓋し自ら責むるといふ事ほど、有力に自己の缺陷を補ひ行くことは無く、自己の缺陷を補ひ行くことほど、自己をして成功者の資格を得せしむるものの無いのは明白な道理である。又自ら責むるといふことほど、有力に他の同情を惹くことは無く、他の同情を惹くことほど、自己の事業を成功に近づけることは無いのも明白な道理である。
前に擧げた左岸の農夫が菽《まめ》を植ゑて收穫を得ざりし場合に、其の農夫にして運命を怨み咎むるよりも、自ら責むるの念が強く、是我が智足らず、豫想密ならずして是の如きに至れるのみ、來歳は菽をば高地に播種し、低地には高黍《たかきび》を作るべきのみ、といふ樣に損害の痛楚を忍びて次年の計を善くしたならば、幸運は終に來らぬとは限るまい。すべて古來の偉人傑士の傳記を繙いて見たならば、何人も其の人々が必らず自ら責むるの人であつて、人を責め他を怨むやうな人で無い事を見出すで有らうし、それから又飜つて各種不祥の事を惹起した人の經歴を考へ檢《しら》べたならば、必らず其の人々が自己を責むるの念に乏しくて、他を責め人を怨む心の強い人である事を見出すで有らう。否運を牽き出す人は常に自己を責めないで他人を責め怨むものである、そして柔順な手當りの好い線を手にして、自己の掌を痛むる程の事をもせず、容易に輕くして且つ醜なる否運の神を牽き出し來るのである。
自己の掌より紅血を滴らすか、滑澤柔軟のもののみを握るか、此の二つは、明らかに人力と運命との關係の好否を語る所の目安である。運命のいづれかを招致せんとするものは、思を致すべきである。
[#改丁]

着手の處

 着手の處の不明な教は、如何に崇高な教でも、莊嚴な教でも、或は正大圓滿な教でも、教へらるゝ者に取つては、差當り困卻を免れぬ譯である。本來を云へば、教には着手の處の不明なものなぞが有る可き譯は無い。しかし吾人は實際其の旨意が甚だ高遠であることを感ずるが、それと同時に、漠として着手の處を見出し難いものに遭遇することが少く無い。それも歳月が立つて見ると、實は教其の物が漠として着手の處を認めしめないのではなくて、自分が或程度に達して居なかつた其の爲に、着手の處を見出し得なかつたのだと悟《さと》るので有るが、それは兎に角に、やゝもすると着手の處を知り得ない教に遭遇する事のあるといふ事は、誰しも實驗する事實で有るらしい。戲談ならば、論理的遊戲とも云ふべき謎のやうな教も宜いが、實際の利益を得ようといふ意で教を請ふのに、さて着手の處の分らぬ教を得たのでは實に弱る譯である。そこで問ふ者は籠耳《かごみゝ》になつて仕舞つて、教へは聞いたには違ひ無いが何らの益をも得ずに終るといふ事も少く無い。それは聞く人にも聞かせる人にも、不本意千萬なるに相違無い。教といふものも、兎もすれば一場の座談になる傾向が有りは仕ないか。そして又所謂「籠耳」で終る傾向が有りは仕まいかと危まれるけれども、若し左樣《さう》で有つたならば、それは聽者にも談者にも、着手の處といふことが強く印記されて居なかつた爲として、省みなければならないので、教其の物に就て是非をす可きではないのであらう。
着手の處、着手の處と尋ねなければならぬ。播種《はしゆ》耕耘《かううん》の事を學ぶとしても、經營建築の事を學ぶとしても、操舟航海の事を學ぶとしても、軍旅行陣の事を學ぶとしても、畫を學ぶとしても、書を學ぶとしても、着手の處、着手の處と逼《せ》り詰めて學ぶので無くては、百日過ぎてもまだ講堂の内に入らぬので有る、一年經つても實踐の域に進まぬので有る。何樣《どう》して心會《しんゑ》體得のなんのといふ境地に到り得るもので有らう。何でも彼でも着手の處を適切に知り得て、そしてそこに力を用ひ功を積んで、そしてそこから段々と進み得べきでは有るまいか。さて其樣《さう》ならば着手の處は何《ど》の樣なところで有らうか。それは蓋し學ぶところのもの如何によつて違ふで有らうから、今直に之を掲げ示す事は出來ぬが、一般の修養の上からならば、教ふる者に於ては敢て示せぬでは無からう。けれども着手の處、着手の處と逼《せ》り詰めて、人々各自が其の志す所の道程に於て或點を認め出した方が妙味が有るで有らう。

自己の革新

 歳といふものは何處に首が有り尾が有るといふ可き筈の者では無いが、古俳人の所謂「定め無き世の定め哉」であつて、おのづからにして人間には大晦日も有れば元日も有り、終に大晦日は尾の如く、元日は首《かしら》の如く思はるゝに至つて居るので有る。扨そこで既に頭が有り尾が有るといふことになると、歳の尾たる大晦日には一年の總勘定を行つて見、歳の首には將來の計畫をも行《や》つて見たくなるのが人の常情で有る。歳末の感慨やら、年頭の希望やらは、此の人情からして生じて來るので、誰しも然樣《さう》自分の思つたやうに物事の運べて居るものは鮮《すくな》いのであるから、歳末には日月の逝き易くして、流水奔馬の如くなるを今更ながら感歎し、そして又宿志の蹉※[#「足へん+它」、第3水準1-92-33]として所思の成就せざるを恨み歎くのが常で有り、それから又年首には、屠蘇の盃を手にし、雜※[#「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52]の膳に對《むか》ふに及んで、今年こそはと自ら祝福して、前途に十二分の希望と計畫とを懸けて、奮然として振ふのが常で有るのである。歳に首《かしら》があり尾が有るべき理は無いなどと、愚にも付かぬ理窟などを考へて居るものは一人だつて有りは仕ない。大抵の人は歳末には感慨嗟歎し、年頭には奮起祝福するのが常で有る。實に人情自然、然樣有るべき理なので有る、當然なので有る。大人小人、俊傑平凡の別無く、蓋し皆然樣いふ感情を懷くので有るから、即ちそれは正當の感情なのである。
是の如き感情の發動が正當で有るとすれば、吾人は其の歳末の嗟歎をば本年度に於ては除き去り、そして其の年頭の希望をば本年度に於ては實現したいと考ふることが、第二に起つて來るところの意思であつて、其の意思は本より正當にして、且美なる意思なのである。
有體を云へば、誰しも皆毎年々々に是の如き感情を懷き、是の如き意思を起し、そして又毎年々々嗟歎したり、發憤したりして居るのである。で、脚の立場を動かして、暫らく自己といふものに同情せぬ自己になつて客觀して見れば、年々歳々假定的の歳末年頭に於て、某甲《なにがし》なる一の拙き俳優が同じやうな筋書によつて、同じやうな思入れを、同じやうな舞臺の、同じやうな状態の、同じやうな機會に於て演じて居るのに過ぎぬのを認めない譯には行かないから、笑ひ出し度くもなり、馬鹿々々しいといふやうな考も起らずには居ない。が、併し此の考は自己に取つては決して良い考では無くつて、如何に達觀して悟《さと》つたやうな事を思つたからとて、そんなら明日から世外の人となれるかと云ふに、然樣《さう》はなれぬといふのなら、矢張り正直に筋書に從つて、同じ感慨、同じ希望、同じ思入れを爲《し》た方が宜いのである。すると、努力すべきは、たゞ來るべき歳末又は年頭に於ては、今迄とは些し違つた役廻りを受取つて、少しは氣※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]を吐き、溜飮を下げるやうなことを演ぜんとして、其の注文の通り貫けるやうにとすべき一事である。即ち某甲《なにがし》といふ自己を『新』にすべきのみなのである。例に依つて例の如き某甲では宜《い》けないから、例の某甲よりは優れた某甲に自己を改造すべきよりほかに正當な道は無いのである。
けれども其は知れ切つた事である。誰も皆『新しい自己』を造りたい爲に腐心して居るので有るが、其の新しい自己が造れぬので、歳末年頭の嗟歎や祝福を繰返すのである。と、いふ評言《ことば》は其處此處から出るに相違無い。如何にも自他共に實際は然樣《さう》で有らう。併し新しい自己が造れぬと定まつて居るのでは無いから、多くの人が新しい自己を造らんとして努力しても造れぬからと云つて、都《す》べての人が新しい自己を造り得ぬとは限らぬ。イヤ爲す有る人が隨分去年の自己と異なつた今年の自己を造り、或は一昨年の自己と違つた今年の自己を造つて、年末の嗟歎の代りに凱歌を擧げて、竊に歡呼の聲を洩して居るのも世の中には少からず有らう。して見れば若し新しい好い自己を造り得なかつたとあれば、其は新しい好い自己を造り得ない道理が有つてでは無くて、新しい好い自己を造るに適しない事を爲して歳月を送つたからだと云つて宜しいのである。即ち新しい自己を造るべき道を考へて之を實行することが粗漏で有つたために、新しい自己が造れなかつたといふ事は明らかなので有る。
同じ貨幣は同じ時に於ては同じ價値を有する道理で有る。若しも去年や一昨年と同一の自己で有るならば、自己が受取るべき運命も同一なるべき筈で有る。即ち新しい自己が造り成されぬ以上は、新しい運命が獲得される譯は無い。同一の自己は同一の状態を繰り返すだらう。そして其樣な事を幾度と無く繰り返す中に、時計のゼンマイは漸く弛んで、其の人の活力は漸く少くなり、終に幸福を得ざるのみならず、幸福を得べき豫想さへ爲し能はざるに至つて仕舞ふのであらう。で有るから大悟して幸不幸を雙忘して仕舞ひ得れば兎も角も、普通の處から立論すれば、在來年々に不滿足を感じて、嗟歎したり祝福したりして居るやうなものならば、是非共振ひ立つて自己を新《あらた》にして、そして新なる運命の下に新しい境遇を迎へねばならぬので有る。で、それなれば何樣《どう》して自己を新にしようかといふのが、是當面の緊急問題である。
此の問題は一つ勘査して見たい問題で有る。第一何によつて自己を新《あらた》にしたもので有らうか、といふ事が先決せられねばならぬ。即ち自己によつて自己を新にするか、他によつて自己を新にするか、といふ事で有る。こゝに自然の一塊石が有ると假定する。此の一塊石は或形状或性質を有して長い年月の間同一の運命を繰返して居たものとする。此の石に新しい運命を得させようとするには、此の石を新にすれば自ら成立つので有る。即ち他力を以て、或は其の凸凹を有用的にし、或は其の表面を裝飾的にすれば、其の石は建築用、或は器財用として用ひらるゝに至るので有らう。此は他によつて自己を新にして、そして自ら新しい運命を致したのである。又こゝに一醫學生が有つて、數年開業試驗に應じて、數年間同一の運命を繰返して居たものとする。此の醫學生が一朝にして同じ貨幣は同じ價値を有するものだといふことを悟り、發憤勉勵して、研鑚甚だ力めた末に試驗及第して開業するを得たものとすれば、それは自己によつて自己を新にしたので有る。
此の例のやうに、自己を新《あらた》にするにも、他によるのと、自らするのとの二ツの道が有る。他力を仰いで、自己の運命をも、自己其物をも新にした人も、決して世に少くは無い。立派な人や、賢い人や、勢力者や、黽勉家や、それらの他人に身を寄せ心を託して、そして其の人の一部分のやうになつて、其の人の爲に働くのは、即ち自己のために働くのと同じで有ると感じて居て、其の人と共に發達し、進歩して行き、詰り其の人の運命の分前を取つて自己も前路を得て行くといふのも世間に在ることで有つて、決して慚づ可き事でも厭ふ可きことでも無い。矢張《やツぱり》一の立派な事なのである。往々世に見える例で有るが、然程《さほど》能力の有つた人とも見え無かつた人が、或他の人に隨身して數年を經たかと思ふ中に、意外に其の人が能力の有る人になつて頭角を出して來る、といふのが有る。で近づいて其の人を觀ると既に舊阿蒙では無くて、其の人物も實際に價値を増して居つて、目下の好運を負うて居るのも成程不思議は無い、と思はれるやうになつて居るのがある。其は即ち其の初め、或人に身を寄せた時からして、他《ひと》によつて新しい自己を造り出し始めたので、そして新しい自己が出來上つた頃、新しい運命を獲得したのである。此の他力によつて新しい自己を造るといふ道の最も重要な點は、自分は自分の身を寄せて居るところの人の一部分同樣であるといふ感じを常に存する事なので有つて、決して自己の生賢《なまさか》しい智慧やなんぞを出したり、自己の爲に小利益を私しせんとする意を起したりなんぞしてはならぬのである。
他人によつて自己を新《あらた》になさうとしたらば、昨日の自己は捨てて仕舞はねばならぬのである。他人によつて新しい自己を造らうと思ひながら、矢張り自己は昨日の自己同樣の感情や習慣を保存して、内々一家の見識なぞを立てて居たいと思ふならば、それは當面の矛盾であるからして、何等の益を生じないばかりで無く、卻つて相互に無益の煩勞を起す基である。それほど自己に執着して居る位に、自己を好い物に思つて居るならば、他人に寄る事も要らないから自己で獨立して居て、そして在來の自己通りの状態や運命を持續して、自ら可なりとして居るが宜いのである。新しい自己を造る要も無いやうなものである。樹であるならば撓めることも出來るが、化石で有つては撓めることは出來ない。化石的自己を有して居る人も世には少く無い。若し化石的自己を有して居る人ならば、他力を頼んでも他力の益を蒙る事は蓋し少いで有らう。藤であるならば竹に交つても眞直にはなるまいが、蓬であるならば麻に交れば直《すぐ》になる。世には蓬的《よもぎてき》自己《じこ》を有して居る人も少くは無い、若し蓬的自己を有して居る人ならば、自己を沒卻して仕舞つて、自己より卓絶した人、即ち自己が然樣《さう》有り度いと望むやうな人に隨從して、其の人の立派な運命の圈中に於て自己の運命を見出すのも、見苦しい事では無いのみならず、合理的な賢良な事である。古來の良臣といふのには蓋し此の類の人が有るので有らう。これは他力によつて自己を新《あらた》にする方の談《はなし》である。
他力によつて自己を新《あらた》にするのには、何より先に自己を他力の中に沒卻しなければならぬのである。丁度淨土門の信者が他力本願に頼る以上は憖じ小才覺や、えせ物識《ものしり》を棄てて仕舞はねばならぬやうなものである。併し世には又|何樣《どう》しても自己を沒卻することの出來ぬ人もある。然樣《さう》いふ人は自ら新しい自己を造らんと努力せねばならぬのである。他力に頼るのは易行道《いぎやうだう》であつて、此は頗る難行道《なんぎやうだう》である。何故難行道で有るかと云ふに、今までの自己が宜しくないから、新しい自己を造らうといふのであるのに、其造らうといふものが矢張り自己なので有るからである。之を罵り嘲つて見るならば、恰も自己の脚の力によつて自己を空中に騰らしめんとするが如きもので有つて、殆ど不可能であると云ひたい。であるから成程世間の多數の人が毎年々々嗟歎したり祝福したりして、新しい自己を造らうと思ひ※[#「(屮/師のへん+辛)/子」、第4水準2-5-90]《た》ちながら、新しい自己を造り得ないで、又年々歳々同じ事を繰り返す譯である。けれども一轉語を下して見ようならば、『自己ならずして抑※[#二の字点、1-2-22]誰が某甲《なにがし》を新にせんや』で有る。
眞實の事を云へば、我流で碁が強くなる事は甚だ望の少い事で、卓絶した棊客に頼つて學んだ方が速に上達すると同じく、世間で自力のみで新しい自己を造つて年々歳々に進歩して行く人は非常に少く、矢張り他力に頼つて、そして進歩して行く人の方が多いので有る。が、自ら新しい自己を造らんとすることは實に高尚偉大な事業で有つて、假令《たとひ》其の結果は甚だ振はざるにせよ、男らしい立派な仕事たるを失はぬのである。況んや百川《ひやくせん》海《うみ》を學んで海《うみ》に至るであるからして、其の志さへ失はないで、一蹶しても二躓しても、三顛四倒しても、起上り/\して敢て進んだならば、鈍駑も奮迅すれば豈寸進無からんやである。であるからして、必らずや一年は一年に、一月は一月に、好處に到達するに疑は無いのである。自ら新にするといふことは、換言すれば詰り個々の理想を實現せんとする努力であるから、豈其の人の爲とのみ云はんやで、然樣《さう》いふ貴い努力が積累ねらるればこそ世が進歩するのであるから、實に世間全體に取つても甚だ尚ぶべく嘉《よみ》す可き事なのである。みづから新しくせんとする人が少くなれば、國は老境に入つたのである。現状に滿足するといふ事は、進歩の杜絶といふ事を意味する。現状に不滿で、未來に懸望して、そして自ら新にせんとするの意志が強烈で有れば、即ちそれが其の人の生命の存する所以なのである。他力に頼つて自己を新《あらた》にしようとするにしても、信といふものは自己に由つて存するのであるから、即ち他力に頼る中に、自力の働が有る。自力に依つて自己を新にせんとするにしても、自照の智慧は實に外圍からの賜物で有るから、自力に依る中に他力の働が有る。自力他力と云つて、強ひて嚴正には差別する事も難い位のものである。併し他力に頼る上は自己を沒卻するので有るから、舟に乘り車に乘つたやうなもので、大に易い氣味が有るが、自ら新《あらた》にせんとする以上は、自家の手脚を以て把握し歩行しなければならぬのだから、當面に直に考量作爲を要するので有るが、扨|何樣《どう》したらば自ら新にする事が出來よう。
假定するのでは無い、蓋し大抵の人の實際が斯樣なので有る。「某甲《なにがし》當年何十何歳、自ら顧みるに從來の自己は自己の豫期したりし所に負《そむ》くこと大にして、而して今日に及べり、既往は是非に及ばず、今後は奮つて自ら新にし、自己をして善美のものたらしめ、從つて自己の目的希望をして遂げしめ、福徳圓滿、自己の理想境に到達するを期せん。」といふやうな事を思つて居るのが普通善良の人の懸直無しの所で、此より下つた人は自ら新にするの工夫も爲さず、運命だけが新規上等のものになつて現前せんことを望んで居る位のもので有らうから、其は論ずるに足らぬとして擱いて、其なら差當り何樣して自ら新しい自己を造らうとしたら宜いかが喫緊な研究問題なのである。そして其の着手着意の處を知り得て過たずに、實作實效の境に處し得て錯《あや》まらざらんことを人も我も欲するのである。
自ら新にする第一の工夫は、新にせねばならぬと信ずるところの舊いものを一刀の下に斬つて捨てて、餘※[#「(屮/師のへん+辛)/子」、第4水準2-5-90]《よげつ》を存せしめざることである。雜草が今まで茂つてのみ居た圃《はたけ》を、これではならぬから新に良好な菜蔬を仕立てようとする場合であれば、それは即ち矢張り敢て新にするので有つて、若し其の地が新にされ了れば、多少はあれ菜蔬が出來る時が來て、即ち從來とは異つた運命が獲得される譯なのである。然れば其は雜草を棄てて菜蔬にせねばならぬと信ずるのであるから、第一に先づ新にせねばならぬ舊いもの、即ち雜草を根きり葉きり、耘《くさぎ》り去つて仕舞はねばならぬものである。舊いものは敵である。自分の地に生じて居たものでも、何でも古いものは敵である。雜草を耘り去つて仕舞はねば、新しく菜蔬は播き付けられぬのである。そこで此の道理に照らせば自然分明であるが、今までの自分の心術でも行爲でも、苟も自ら新にせんと思ふ以上は、其の新にせねばならぬと信ずるところの舊いものを、大刀一揮で、英斷を振つて斫り倒して仕舞はねばならぬものである。例へば今まで做し來つたところの事は、習慣でも思想でも何でも一寸棄て難いものであるが、今までの何某《なにがし》で無い何某にならうといふ以上は、今までの習慣でも思想でも何でも惡い舊いものは總べて棄てなければならぬ。併し然樣《さう》なると未練や何ぞが出て棄てられぬものである。妙な辯護説などを妙なところから考へ出して棄てぬものである。だが、古い齒を拔き去ることに於て遲疑しては、新しい齒の爲にならぬ、草莱を去らねば嘉禾は出來ぬのである。去年の自己は自己の敵であると位に考へねばならぬのである。何を斬つて棄てなければならぬかは人々によつて異なつて居るだらうが、人々皆自ら能く知つて居るだらう。
具象的に語れば斯樣で有る。從來不健康で有つた人ならば、不健康は一切の不妙の事の因《もと》で有るから、自ら新《あらた》にして健康體にならねばならぬと思ふのである。さて然樣《さう》思うたらば、自己の肉體に對する從來の自己の扱ひ方を一應糾して見て、先づ其の弊の顯著なる箇條を斬つて棄てて斥けて仕舞はねばならぬ。そして其の點に於て努力して新にせねばならぬ。例を擧げよう。從來貪食家で胃病勝であつたらば、貪食といふ事を斬つて棄てねばならぬ、節食せねばならぬ。貪食の爲に辯護して、貪食でも運動を多くしたら宜からうなぞと云ふのは宜く無い。雜草を拔かずとも肥料をさへ多く與へたら菜蔬が生長する餘地は有るだらう、といふやうな理窟は、理窟としては或を成立つで有らうけれども、要するに中正の説では無い。從來と同樣な身的行爲を保つて居れば、從來と同樣な身的状態を得るのは當然の事である。從來と異なつた身的状態を得度いとならば、從來做し來つた身的行爲を讎的のやうにして斬つて棄てて仕舞ふが宜い。從來と反對な結果が得たくば、從來と反對な原因を播くが宜い。貪食を爲しては胃病を患ひ、藥力を假りて病を癒しては、復《また》貪食して病みつゝ、永く自己の胃弱を歎じて恨むが如き人も世には甚だ少くは無い。昨日の自己をさへ斬つて棄てれば、明日の自己に胃病は無いのである。貪食と健胃劑とは雜草同士の搦み合なのである。二者共に耘《くさぎ》り去つて仕舞へば、健康體の精力は自然と得られるのである。胃病を歎じて居る人々を觀るに、多くは貪食家か、亂食家か、間食家か、大酒家か、異食家か、呆坐家で、そして自己の眞の病原たる惡習慣に對して賢く辯護することは、雜草を拔かずとも雜草が吸收するよりは猶多くの肥料を與へたら菜蔬の生育に差支は無からうと云ふやうな理論家に酷肖して居るのである。苟も自ら新にせんとするものは昨日の自己に媚びてはならぬのである。一刀の下に賊を斬つて仕舞はねばならぬのである。何をするにも差當つて健康は保ち得るやうにせねば、一切瓦解する虞が有るから、從來が不健康なら發憤して賊を馘《き》るのが何より大切だ。親讓りで體質の弱い人は實に氣の毒で有るが、それでもすべて從來做し來つた事で惡いと認めた事はずん/\と斬り棄てて行つたら、終に或は從來に異なつた健康體となり得ぬとも限らぬのである。再び言ふ。新しくせねばならぬと思ふところの舊いものは、未練氣なく斥けて仕舞はねばならぬのである。
不健康の人が衞生に苦勞する餘り、アレコレ云つて下らないことに齷齪として居るのは抑※[#二の字点、1-2-22]間違切つた談《はなし》で、齒磨、石鹸の瑣事まで神經を惱まして居たり、玩弄物のやうな、若くは間食が變形した樣な藥などを、嘗めたり噛つたりして居るが如き事に心を使つて居るのは、それが先づ第一に非衞生的の頂上で、それよりも酒を廢すとか、煙草を廢すとか、不規則生活を改めるとかした方が、何程早く健康を招き致すか知れたものでは無い。若し從來不健康の爲に甚だしく不利を蒙つて居ると思ふ人が有つたなら、是非共其の人は自ら新にして健康を招致せねばならぬのだが、扨眞誠に自ら新にしようと思つたなら、昨日までの自己の身體取扱方を斷然と改めねばならぬのである。今日以後も昨日以前同樣の取扱方を吾が身に加へて居て、而して明日からは往日と異なつた結果を得ようといふ其樣《そん》な得手勝手な注文は成り立つ道理が無い。胃病に就いて云へば、若し間食家だつたなら間食を斬つて棄てるがよい。大酒家だつたなら徳利と絶交するがよい。亂食家だつたならムラ食を改めるがよい。異食家だつたなら奇異なものを食はぬがよい。呆坐家だつたら、座蒲團を棄てて仕舞つて、火鉢を打碎いて、戸外に運動する習慣を得るが宜い。湯茶を無暗に飮む習慣が有つたなら、急須や茶碗を抛り出して仕舞ふが好い。喫煙家だつたら煙草を棄てて仕舞ふが宜い。自己の生活状態を新にすれば自己の身體状態は必らず變易せずには居ない。激變を與へるのだから、身心共に樂では無いに相違無いが、これが出來ぬなら矢張永久に、昨年の如く、一昨年の如く、一昨々年の如く、同じ胃病に惱んで青い顏をして居るが宜いので、そして胃病宗の歸依者となつて、遂に胃病の爲めに獻身的生涯を送るが宜いのだから、歎息して不足などを云はぬが宜いのである。右が嫌なら左に行け、左が嫌なら右に行けである。良醫の判斷に從ひ、自己の生活状態を新にして、それで胃病が治《ち》せぬなら、それは既に活力が消耗してゐる證據で有るから致方は無いが、大抵の人は活力消耗して病癒ゆる能はざる場合に立つて居るのでは無くて、自己の生活状態を新にせぬが爲に、即ち昨日までの自己身體取扱方に未練を殘して居る爲に、矢張り昨日通りの運命に付き纒はれて苦んで居るので有る。例に依つて例の如き舊い運命に生捕られたくないならば、舊い状態を改むるに若くは無いのである。
胃病のみでは無い。※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76]食《そしよく》を常にして諸病に犯され易い薄弱體を有して苦んで居る人も有る。刺激物を取り過ぎて、心|舍《いへ》に安んぜざる悵※[#「りっしんべん+中」、第3水準1-84-40]悸懼の状に捉へられて困つて居る人も有る。夜業を廢さないで眼を病んで弱つて居るものも有る。最も甚しい愚なのに至つては、唐辛《たうがらし》を嗜食して痔に苦んで居るなどと云ふ滑稽なのも有る。生活に逐はれて坐業をのみ執り居る爲に、運動不足で、筋肉弛緩を致し、所謂羸弱になつて悄然としてゐる、同情すべきものもある。父母の爲に惡體質を賦與されて、其が原因で常に藥餌と親む可き状を有してゐる、最も悲むべきものも有る。が、要するに從來の自己に不滿を感ずるならば、從來の自己状態を改めて仕舞ふのが宜いので有る。ところが昨日の自己も矢張り可愛いもので有つて、「酒は我が身體を惡くし居るな」とは知りつゝも「酒を棄てる事は出來無い」なんぞと云ふのが人の常で有る。兎角に理窟を付けて昨日の自己を保護辯護しつゝ、扨其の結果だけは昨日より好いものを得たいと望むのが人情で有るから、恕すべきでは有るが、それを恕するとすれば、數理上矢張り自己は新にならぬのであるから何にもならない。是非英斷を施さねばならぬのである、身體が弱くては一切不幸の根が斷れず、一切幸福の泉が涸れ勝であるから、苟も自ら新にしようと思つたならば、痛苦を忍んで不健康を致す昨日の自己の舊い惡習と戰つて之に克ち、之を滅し、之を殲《つく》して仕舞はねばならぬのである。
併し身體が弱くても事が成せぬのでは無い。身が弱くても意が強ければ、一日の身あれば一日の事は成せるので有る。が若し身體を弱くする原因が何で有るかを知悉しながらも、之を改むることが出來ぬやうに意が弱くて、そして身が弱くては、氣の毒ながら其人は自ら新にする事が出來難いのであつて、從來通りの状態を超脱する事は出來ぬのである。それではならぬ。宜しく發憤して自ら新にすべしである。

惜福の説(幸福三説第一)

 船を出して風に遇ふのに何の不思議は無い。水上は廣闊、風はおのづからにして有るべき理である。併し其の風にして我が行かんと欲する方向に同じき時は、我は之を順風と稱して、其の福利を蒙るを得るを悦び、又我が方向に逆行して吹く時は、我は之を逆風と稱して、其の不利を蒙るを悲み、又全くの順風にもあらず、全くの逆風にもあらざる横風に遇ふ時は、帆を繰り舵を使ふの技術と、吾が舟の有せる形状との優劣善惡によつて、程度の差はあるが之を利用するを得るのである故に、餘り多くの風の利不利を口にせず、我が福無福をも談《かた》らぬのが常である。
是の如き場合に於て風には本來福と定まり福ならずと定まつて居ることも無いのであるから、同一の南風が北行する舟には福となり南行する舟には福ならぬものとなるのである。順風を悦ぶ人の遇つて居る風は、即ち逆風を悲む人の遇つて居る風なのである。福ならずとせらるゝ風は即ち福なりとせらるゝ風なのである。して見れば福を享くるも福を享けぬも同じ風に遇つて居るのであるから、福を享けた舟が善い故福を享けたといふ事も無く、福を享けぬ舟が惡い故福を享けぬといふことも無く、所謂|運《まは》り合せといふもので有つて、福無福に就ては何等の校量計較によつて福を享け致すべきところも無いやうなものである。
併しながら福無福を偶然の運《めぐ》り合せであるとするのは、風に本來福も無福も無いといふ理や、甲の福とする風は即ち乙の無福とする風と同一の風であるからといふ理が有ればとて、それは聊か速斷過ぎるのである。如何となれば風は豫測し難いものには相違無いが、又全く豫測することは出來ないものとも限られては居ないのであるから、舟を出さんとするに臨みて、十二分の思議測量して我に取つて福利なる風を得べき見込を得たる後、初めて海に出づるに於ては、十の七八は福を享け無福を避け得る筈である故に、福に遇ひ無福に遇ふを以て偶然の廻り合せのみに歸すといふことは、正當の解釋とは認められない理である。
人の社會に在つて遭遇する事象は百端千緒であるが、一般俗衆がやゝもすれば發する言語の『福』といふものは、社會の海上に於て、無形の風力によつて容易に好位置に達し、又は權勢を得、富を得たるが如き場合を指すので、彼は福を得たといふものは、即ち富貴利達、若くは富貴利達の斷片的なるものを得たといふのである。
福を得んとする希望は決して最も立派なる希望では無い。世には福を得んとする希望よりも猶幾層か上層に位する立派な希望がある。併し上乘の根器ならざるものに在つては、福を得んとするも決して無理ならぬことで、しかも亦敢て強ちに之を批難排撃すべき事でも無い。福を得んとするの極、所謂淫祠邪神に事ふるをも辭せずして、白蛇に媚び、妖狐に諂ふ如きに至つては、其の醜陋なること當り難きものであるが、滔々たる世上幾多の人が、或は心を苦め、或は身を苦め、營々孜々として勉め勤めてゐるのも、皆多くは福を得んが爲なのであると思へば、福に就て言を爲すも亦徒爾ではあるまい。
太上は徳を立て、其の次は功を立て、又其次は言を立つるとある。およそ此等の人々に在つては、禍福吉凶の如きは抑※[#二の字点、1-2-22]末なるのみで、餘り深く立入つて論究思索する價も無いことで有らう。若し又單に福を得んことにのみ腐心して之を思ふに至らば、蓋し其の弊や救ひ難きものあらんで、論究思索も、單に、「如何にして福を得べきや」といふことのみに止まつたらば、或は人間の大道を離れて邪路曲徑に入るの虞が有らう。本來から言へば、事に處し物に接するに於て吾人は須らく『當不當』を思ふべきで、『福無福』の如きは論ぜずして可なる譯であるが、こゝに幸福の説をなすものは、愚意所謂落草の談をなして人をして道に進ましめんとするに他ならぬのである。甚しく正邪を語れば人をして狷介偏狹ならしむるの傾がある。多く禍福を談《かた》れば人をして卑小ならしむるの傾がある。言をなすも實に難い哉であるが、讀む人予が意を會して言を忘れて可なりである。
幸福不幸福といふものも風の順逆と同樣に、畢竟《つまり》は主觀の判斷によるのであるから、定體は無い。併し先づ大概は世人の幸福とし不幸とするものも定まつて一致して居るのである。で、其の幸福に遇ふ人、及び幸福を得る人と然らざる人とを觀察して見ると、其の間に希微の妙消息が有るやうである。第一に幸福に遇ふ人を觀ると、多くは『惜福』の工夫のある人であつて、然らざる否運の人を觀ると、十の八九までは、少しも惜福の工夫の無い人である。福を惜む人が必らずしも福に遇ふとは限るまいが、何樣《どう》も惜福の工夫と福との間には關係の除き去る可からざるものが有るに相違ない。
惜福とは何樣《どう》いふものかといふと、福を使ひ盡し取り盡して終《しま》はぬをいふのである。たとへば掌中に百金を有するとして、之を浪費に使ひ盡して半文錢も無きに至るがごときは、惜福の工夫の無いのである。正當に使用するほかには敢て使用せずして、之を妄擲浪費せざるは惜福である。吾が慈母よりして新たに贈られたる衣服ありと假定すれば、其の美麗にして輕暖なるを悦びて、舊衣猶ほ未だ敝《やぶ》れざるに之を着用して、舊衣をば行李中に押まろめたるまゝ、黴と垢とに汚さしめ、新衣をば早くも着崩して、折目も見えざるに至らしむるが如きは、惜福の工夫の無いのである。慈母の厚恩を感謝して新衣をば浪《みだ》りに着用せず、舊衣猶未だ敝れざる間は、舊衣を平常の服とし、新衣を冠婚喪祭の如き式張りたる日に際して用ふるが如くする時は、舊衣も舊衣として其の功を終へ、新衣も新衣として其の功を爲し、他人に對しても清潔謹嚴にして敬意を失はず、自己も諺に所謂『褻《け》にも晴にも』たゞ一衣なる寒酸の態を免るゝを得るのである。是の如くするを福を惜むといふのである。
樹の實でも花でも、十二分に實らせ、十二分に花咲かす時は、收穫も多く美觀でもあるに相違無い。併しそれは福を惜まぬので、二十輪の花の蕾を、七八輪も十餘輪も摘み去つて終ひ、百顆の果實を未だ實らざるに先立つて數十顆を摘み去るが如きは惜福である。花實を十二分ならしむれば樹は疲れて終ふ。七八分ならしむれば花も大に實も豐に出來て、そして樹も疲れぬ故、來年も花が咲き實が成るのである。
『好運は七度人を訪ふ』といふ意の諺が有るが、如何なる人物でも周圍の事情が其の人を幸にすることに際會することは有るものである。其の時に當つて出來る限り好運の調子に乘つて終ふのは福を惜まぬのである。控へ目にして自ら抑制するのは惜福である。畢竟福を取り盡して終はぬが惜福であり、又使ひ盡して終はぬが惜福である。十萬圓の親の遺産を自己が長子たるの故を以て盡く取つて終つて、弟妹親戚にも分たぬのは、惜福の工夫に缺けて居るので、其の幾分をば弟妹親戚等に分ち與ふるとすれば、自己が享けて取るべき福を惜み愛《いつくし》みて、之を存※[#「澑のつくり」、第4水準2-81-31]して置く意味に當る。これを惜福の工夫といふ。即ち自己の福を取り盡さぬのである。他人が自己に對して大に信用を置いて呉れて、十萬圓位ならば無擔保無利息でも貸與して呉れようといふ時、悦んで其の十萬圓を借りるのに毫も不都合は無い。しかし其は惜福の工夫に於ては缺けて居るのであつて、十萬圓の幾分を借りるとか、乃至は或擔保を提供して借りるとか、正當の利子を拂ふとかするのが、自己の福をば惜む意味になる。即ち自在に十萬圓を使用し得るといふ自己の福を使ひ盡さずに、幾分を存※[#「澑のつくり」、第4水準2-81-31]して置く、それを惜福の工夫といふものである。儉約や吝嗇を、惜福と解してはならぬ、すべて享受し得べきところの福佑を取り盡さず使ひ盡さずして、之を天と云はうか將來といはうか、いづれにしても冥々たり茫々たる運命に預け置き積み置くを福を惜むといふのである。
是の如きは當時の人の視て以て迂闊なり愚魯なりとすることでも有らうし、又自己を矯め飾り性情を僞はり瞞くことともするで有らうが、眞に迂闊なりや愚魯なりやは、人の言語判斷よりも世の實際が判斷するのに任せた方が宜しい。又聖賢の如き粹美の稟賦を以つて生れて來ぬものは、自然に任せ天成に委ねてはならぬ。曲竹は多く※[#「隱/木」、第4水準2-15-79]括《のだめ》を施さねばならぬ。撓め正さずして宜いのは、唯眞直な竹のみである。粗木は多く※[#「髟/休」、第3水準1-94-26]漆《きうしつ》塗染《とせん》するによつて用をなす。其儘で好いのは、唯緻密堅美な良材のみである。馬鹿々々しい誇大妄想を抱いて居るもので無い以上は、自己をみづから矯め、みづから治めるのを誰か是ならずとするものが有らうか。
それらの論は姑らく之を他日に讓りて擱き、兎に角上述したる如き惜福の工夫を積んでゐる人が、不思議にまた福に遇ふものであり、惜福の工夫に缺けて居る人は不思議に福に遇はぬものであることは、面白い世間の實際の現象である。試みに世の福人と呼ばるゝ富豪等に就て、惜福の工夫を積んで居る人が多いか、惜福の工夫を積まぬ人が多いかと糾して見れば、何人も忽にして多數の富豪が惜福を解する人であることを認めるで有らう。飜つて又世の才幹力量はありながら、しかも猶一起一倒、世路に沈淪して薄幸無福の人たるを免れぬものを見たならば、其の人の多くは惜福の工夫に缺けて居るのを見出すで有らう。
同じ事例はまた之を古來の有名なる福人の傳記に於て容易に檢出することを得る。福分の大なることは平清盛の如きは少い。併し惜福の工夫には缺けて、病中に憤死し、家滅び族|夷《たひら》げられたのは、人の知つてゐることである。木曾義仲は平氏を逐ひ落した大功が有つた。併し惜福の工夫には缺けて、旭將軍の光は忽ちに消え去つた。源義經もまた平氏討滅の大功が有つた。惜い哉、朝廷の御覺目出度きに乘じて、私に受領したために兄の忌むところとなつて終を全くしなかつた。頼朝の猜忌は到底避け難きところでは有つたらうが、義經に惜福の工夫の缺けたのも確に不幸の一因となつたのである。東照公は太閤秀吉に比して、器略に於ては或は一二段下つて居たかも知らぬが、併し惜福の工夫に於ては數段も優つて居た。腫物の膿を拭つた一片紙をも棄てなかつたのは公である。聚樂《じゆらく》の第《だい》に榮華を誇つた太閤に比して、如何に福を惜まれたか知る可きである。而して又一片の故紙をも棄てざるところより、莫大の大金を子孫に殘し※[#「澑のつくり」、第4水準2-81-31]めて、徳川氏初期數代を築き固むるの用とせられたに徴しても、如何に惜福に力められしかを知るべきである。當時の諸侯は皆馬上叱咤號呼の雄にして、悍※[#「敖/馬」、U+9A41、53-6]《かんがう》激烈《げきれつ》の人であつたが、いづれも惜福の工夫などには疎くて、みな多くは勝手元の不如意を來し、度支《たくし》紊亂《ぶんらん》、自ら支ゆる能はざるに至つて、威衰へ家傾き、甚だしきは身を失ひ封を褫《うば》はるゝに及び、然らざるも尾を垂《た》れ首を俛《た》れて制を受くるに至つたのが多いのである。三井家や住友家や、其の他の舊家、酒田の本間氏の如きも、連綿として永續せるものは、之を糾すに皆善く福を惜めるによつて福竭きず、福竭きざる間に、又|新《あらた》に福に遇ひて之を得るに及べるのである。外國の富豪の如きも、其の確固なるものは、皆之を質すに惜福の工夫に富んでゐるのである。
梁肉を貪り喰ひ、酒緑燈紅の間に狂呼して、千金一擲、大醉淋漓せずんば已まざるが如きは、豪快といへば豪快に似たれども、實は監獄署より放免せられたる卑漢が、渇し切つたる娑婆の風味に遇ひたるが如く、十二分に歡を※[#「磬」の「石」に代えて「缶」、第4水準2-84-70]《つく》せば歡を※[#「磬」の「石」に代えて「缶」、第4水準2-84-70]すだけ、其の状寧ろ憫む可く悲しむ可くして、寒酸の氣こそ餘り有れ、重厚のところは更に無いのである。器小にして意急なるものは、餘裕有る能はざる道理であるから、福を惜むことの出來ないのは即ち器小意急の輩で、福を惜むことの出來るのは即ち器大に意寛なるものである。新《あらた》に監獄を出たるものが一醉飽を欲するは人の免れぬ情であらうが、名門鉅族の人は、美酒佳肴前に陳《つら》なるも、然《さ》のみ何とも思はざるが如くである。此の點より觀れば、能く福を惜み得るに於ては其の人既に福人なのであるから、再三再四福に遇ふに至るも、怪むべきでは無いのである。試に世上を觀るに、張三李四の輩、たま/\福に遇ふことは無きにあらざるも、其一遭遇するや、新に監獄を出でし者の醉飽に急なるが如く、餓狗の肉に遇へるが如く、猛火の毛を燎《や》くが如く、直に其の福を取り盡し使ひ盡さずんば已まないのである。そこで土耳古人の過ぎたる後には地皆赤すといふが如く、福も亦一粒の種子だに無きやうにされ了るのであるから、急には再び福の生じ來らぬやうになるも、不思議は無いのである。
魚は數萬個の卵を産するものであるが、それでさへ惜魚の工夫が無くて酷漁すれば遠からずして滅し盡すものである。まして人一代に僅に七度來るといふ好運の齎らすところの福の如きが、惜福の工夫無くして、福神を酷待虐遇するが如き人に遇つて、何ぞ滅跡亡影せざらんやである。禽は禽を愛惜する家の庭に集り、草は草を除き殘す家の庭に茂るのである。福もまた之を取り盡さず使ひ盡さざる人の手に來るのである。世上滔々福を得んと欲するの人のみであるが、能く福を惜む者が若干人か有らう。福に遇へば皆是新出獄者の態をなす者のみである。たま/\福を取り盡さざるものあれば、之を使ひ盡すの人であり、又福を使ひ盡さざるの人であれば、之を取り盡すの人であつて、眞に福を惜む者は殆ど少い。世に福者の少いのも無理の無いことである。
個人が惜福の工夫を缺いて不利を享くる理は、團體若くは國家に於ても同樣で無ければならぬ。水産業は何樣《どう》である。貴重海獸の漁獲のみに力めて、保護に力めなかつた結果は、我が邦沿海に、臘虎《らつこ》膃肭臍《おつとせい》の乏少を來したでは無いか。即ち惜福の工夫無きために福を竭して終つたのである。蒸氣力トラウル漁獲に力めた結果、歐洲、特に英國に於ては海底魚の乏少を致して、終に該トラウル船を遙に日本などに賣卻するを利益とするに至つたのも、即ち福を竭して不利を招いたのである。山林も同樣である。山林濫伐を敢てして福を惜まなかつた結果は、禿山渇水を到處《いたるところ》に造り出して、土地の氣候を惡くし、天候を不調にし、一朝豪雨あるに至れば、山潰え水漲りて、不測の害を世間に貽《おく》るに至るではないか。樹を伐れば利益は有るに相違無からうが、所謂惜福の工夫を國家が積んだならば、山林も永く榮茂するで有らう。魚を獲れば利益が有るには相違無からう、が、これも國家が福を惜んだならば、水産も永く繁殖することで有らう。山林に輪伐法あり、擢伐法あり、水産に劃地法あり、限季法あり、養殖法あり、漁法制度ありて、此等の事を遂行し、國福を惜めば、國は福國となる理なのである。
軍事も同樣である。將強く兵勇なるに誇つて、武を用ひる上に於て愛惜する所が無ければ、終には破敗を招くのである。軍隊の強勇なるは一大福である。併し此の福を惜む工夫が無ければ、武を黷《けが》すに至る。武田勝頼は弱將や愚將ではなかつた。たゞ惜福の工夫に缺けて、福を竭し禍を致したのである。長篠の一戰は、實に福を惜まざるも亦甚しいものであつて、馬場山縣を首《はじめ》とし、勇將忠士は皆其の戰に死した爲、武田氏の武威は其後|復《また》振はなくなつたのである。將士忠勇にして武威烈々たるのは一大福であるが、之を惜まざれば、福の終に去ることは、黄金を惜まざれば、黄金の終に去ると同じ事である。那破崙《なぽれおん》は曠世の英雄である。武略|天縱《てんしよう》、實に當り難きの人であつたが、矢張り惜福の工夫には乏しかつたので、魯國への長驅に武運の福は盡き去つて終つた觀がある。我が邦は陸海軍の精鋭をもつて、宇内の強國を驚かして居る。併しこれとても惜福の工夫を缺いたならば、水産山林と同樣の状態に陷るべきは明瞭である。雄將忠卒も數限りは有り、金穀船馬も無限に生ずるものでは無い。まして軍隊の精神は麪麭《パン》を燔《や》くやうに急造し得るものでは無い。陸海軍の精鋭は我が邦の大幸福であるが、之を愛惜するの工夫を缺いたならば寒心すべきものがある。福を使ひ盡し取り盡すといふことは忌む可きであつて、惜福の工夫は國家に取つても大切である。
何故に惜福者はまた福に遇ひ、不惜福者は漸くにして福に遇はざるに至るで有らうか。此はたゞ事實として吾人の世上に於て認むることで、其の眞理の鍵は吾人の掌中に所有されて居らぬ。併し強ひて試に之を解して見れば、惜福者は人に愛好され信憑さるべきもので有つて、不惜福者は人に憎惡され危惧さるべきものであるから、惜福者が數※[#二の字点、1-2-22]《しば/\》福運の來訪を受け、不惜福者が終に漸く福運の來訪を受けざるに至るも、自ら然るべき道理である。前に擧げた慈母より新衣を贈られたる場合の如き、惜福者の擧動は慥に婦人の愛好を惹き、其の母をして、吾が兒の吾が與へしところのものを重んずる是の如きか、と怡悦滿足の情を動かさしむべきであるが、之に反して不惜福者の、亂暴に新衣を着崩し、舊衣を押丸めたるを見る時は、如何に慈愛深き母なればとて、慈愛こそは此が爲に減ずる如きことも無かるべけれども、嗚呼吾が與へしものを草率に取扱ふこと何ぞ甚しきやと、歎ずるに至るべきは明白である。人は感情の爲に動くものであるから、滿足怡悦すれば、再び復《また》新衣を造り與へんとするに至るべきも、聊かなりとも悦ばしからず感ずるに於ては、再び新衣を造り與へんとするに際しても、或は時遲く、或は物|粗《そ》なるに至るべき勢が幾分かある。慈母ならば而も甚しき差は無かるべけれど、繼母なんどならば、不惜福者に對しては厭惡の念を發して、或は故に再び之を與ふるに及ばざるやも知る可からずである。無擔保を以て資を借りるが如きも然りで、惜福者が利子を提供し、擔保を提供し、或は額面を減少して借りるが如きは、其の出資者の信憑を強くする所以の道であるから、其の後|復《また》再び借用を申込むも、直に承諾さるべき事態で、融通の一路は優に存するのであるが、不惜福者の擧動は、たとひ當面の出資者に於ては何等の厭ふべき點無しと認むるにせよ、出資者の家眷、乃至友人、婢僕等よりは危惧の眼《まなこ》を以て見らるべきものであるから、何時かは其等の人々の口より種々の言語が放たれて、そして終には出資者よりも危惧され、融通の一路は障礙物によつて埋めらるゝに至るのである。是の如き二の事例は實に瑣細の事であるが、萬事此の樣な道理が、暗々の中、冥々の間に行はれて、惜福者は數々《しば/\》福運の來訪を受け、不惜福者は漸く終に福運の來訪を受けざるに至るのであらう。
[#改丁]

 分福の説(幸福三説第二) 

 福を惜むといふことの重んずべきと同樣に、福を分つといふことも亦甚だ重んずべきことである。惜福は自己一身にかゝることで、聊か消極的の傾があるが、分福は他人の身上《みのうへ》にもかゝることで、おのづから積極的の觀がある。正しく論じたらば、惜福が必らずしも消極的ならず、分福が必らずしも積極的では有るまいが、自然《おのづ》と惜福と分福とは相對的に消極積極の觀をなして居る。惜福は既に前に説いた如くである。
分福とは何樣《どう》いふことであるかといふに、自己の得るところの福を他人に分ち與ふるをいふのである。たとへば自己が大なる西瓜を得たとすると、其の全顆を食し盡すべくも無かつた時、其の幾分を殘し※[#「澑のつくり」、第4水準2-81-31]むるのは惜福である。其の幾分を他人に分ち與へて自己と共に其の美を味はふの幸を得せしむるのは分福である。惜福の工夫を爲し得る場合と然らざる場合とに論無く、すべて自己の享受し得た幸福の幾分を割《さ》いて、之を他人に頒ち與へ、他人をして自己と同樣の幸福をば、少分にもせよ享受するを得せしむるのは分福といふのである。惜福は自己の福を取り盡さず用ひ盡さざるをいひ、分福は自己の福を他人に分ち加ふるを言ふので、二者は實に相異なり、又互に表裏をなして居るのである。惜福は自ら抑損するので、分福は他に頒與するところあるのであるから、彼は消極的、此は積極的なのである。
若したゞ一時の論や眼前の觀から言へば、惜福は自己の幸福を十分に獲得捕捉せずして、其の幾分を冥々茫々として測る可からざるところの未來若くは運命といふが如きものに委ねて、預け置き積み置くを云ひ、分福は亦自己の幸福を十分に使用享受せずして、其の幾分を直に他人に頒ち與ふるをいふのであるから、自己の幸福を自己が十分に享受し使用せぬところは二者全く相同じであつて、そして雙方共に自己に取つては、差當り利益を減損し、不利益を受けて居るやうなものである。併し惜福といふことが間接に大利益をなして、能く福を惜むものをして福運の來訪に接せしむるが如く、分福といふことも亦間接に其の福を分つところの人をして福運の來訪に接すること多からしむるのは世の實例の示して居ることである。
世には大なる福分を有しながら慳貪《けんどん》鄙吝《ひりん》の性癖のために、少しも分福の行爲に出でないで、憂は他人に分つとも、好い事は一人で占めようといふが如き人物もある。俚諺に所謂『雪隱《せつちん》で饅頭を食ふ』やうな卑劣なる行爲を敢てして、而して心竊かに之を智なりとして居るものも隨分有るのである。如何にも單に現在のみより立言したらば、福を他人に頒つよりは、福を獨占した方が、自己の享受し得る福の量は多いに相違無い。併し福を自己一個のみにて享受しようといふ情意、即ち福を專らにしようといふ情意は、實に狹小で鄙吝で、何とも云へぬ情無い物淋しい情意では無いか。言を換ふれば「福らしくも無く福を享くる」といふことになるではないか。一瓶の佳酒が有ると假定する。之を自己一人にて飮み盡せば、醉を得るに足り、他人と共に之を飮めば、自他共に醉を得るに足らずといふ場合に際して、自己一人にて之を飮み盡して、同座又は同寓の人に頒ち與へざるのは、福を專らにするのである。自分の酒量には些《ちと》過ぐる程なるにも關らず、之を飮み盡して終ふのは、福を惜まぬのである。他人と共に之を飮めば、只僅に口に麹香《きくかう》を※[#「澑のつくり」、第4水準2-81-31]むるのみなるにも關らず、自己のみにて之を飮むには堪へずして、他人と共に之を飮むといふのは福を分つのである。福を惜まぬ者の卑しい事は既に説いた通りで、實に新に監獄署より放免されたるものの如き状は、寧ろ哀む可く愍む可きものである。
福を分たぬものの卑吝の情状は抑※[#二の字点、1-2-22]何樣《どう》である。是亦餓狗の其の友に讓る能はざるが如くで有つて、實に『人類も亦一動物である』といふことを證據立てて居ると云へば其れ迄で有るところの情無い景色では無いか。餓狗の其の友に讓らざるのは、畜生の已むを得ざるところで有るが、苟も人として畜生と多く異ならざるの情状を做すのは、實に情無い談《はなし》である。よしや生物學者から言つたらば、人類もまた一動物であつて、脚走羽飛するところのものと多く異なる無きが實際で有るにせよ、少くとも動物中の最高級の者に屬する以上は、他の動物等の追隨企及し能はざる樣な、高尚都雅なる情状、即ち情を矯めて義に近づき、己を克して禮に復るやうな、崇美なところが無ければならぬのである。然らざれば人と他の動物とは何の區別するところも無くなるのである。己を抑へて人に讓る、是の如きは他の動物に殆ど無きところで、人にのみ有り得るところである。物に足らざるも心に足りて、慾に充たざるも情に充ちて甘んずる、是の如きは動物に無くして人にのみ有り得るところである。凡そ是の如きの情状を做し得てこそ、人も聊か他《ほか》の動物の上に立ち得るのであれ、然《さ》なくば那處《どこ》に人の動物たらざるところを見んやである。
一瓶の酒、我を醉はしむるに足らざるも人に其の味《あぢはひ》を分ち、半鼎の肉、我を飽かしむるに足らざるも人に其の臠《れん》を薦むる、是の如き分福の擧動は、實に人の餓狗たらず、貪狼たらざるところを現はすのであつて、啻に幸福を得るの道として論ずべき一箇條と云はんよりは、人としての高貴の情懷の發現といふ可きである。此の類の高貴の情懷の發現が有つてこそ、吾人の社會が「野獸や山禽の社會」と※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55]《はる》かに距つた上級のものとなるのであつて、かゝる情懷の發現が其の人に「超物的の高尚な幸福」を與ふるは言ふ迄も無く、そして亦他人には、物質的の幸福と、心靈的の幸福とを與ふるものなので有つて、即ち是の如き行爲は人類の社會を高尚にし、善良にし、愉快にするの重要な一原子たるのである。
一瓶の酒、半鼎の肉、之を頒つも頒たざるも、固より些細の事である。併し其の一瓶の酒を頒ち與へられ、半鼎の肉を頒ち與へられた人は、之によつて非常に甘美なる感情を惹起《ひきおこ》されるのであつて、其の感情の衝動された結果として生ずる影響は、決して些細なものでは無い。甚大甚深のものなのである。古の名將の傳記を繙いたならば、士卒に福を分ち惠を贈らんが爲に、古名將等が如何に臨機の處置を取つたかが窺はれるのであるが、之に反して愚將弱卒等は毎《つね》に分福の工夫に缺けた鄙吝の行爲を做すものである。酒少く人多き時に、酒を河水に投じて衆と共に飮んだ將があるが、是の如きは所謂分福の一事を極端に遂行したのであつて、流水に酒を委したとて、誰をも醉はすに足らないのは、知れ切つた事であるが、それでも猶且自己一人にて福を專にするに忍びないで、之を他人に頒たうとする情懷は、實に仁慈寛洪の徳に富んでゐるものである。されば其時に當つて、流水を掬して之を飮んだ者は、もとより酒には醉ふ可くもないのでは有るが、而も其の不可言の恩愛には醉はざるを得ないのである。是の如く下を愛する將に對しては、下も亦身を獻じて其用を爲さんとするのである。凡そ人の上となりて衆を帥《ひき》ゐるものは、必らず分福の工夫に於て徹底するところ有るもので無ければならぬ。禽は蔭深き枝に宿り、人は慈愛深きところに依るものである。慈愛深きものの發現は、たゞ二途あるのみで、其の一は人の爲に其の憂を分つて之を除くのであり、他の一は人の爲に我が福を分つて之を與ふるのである。憂を分つことは今姑らく擱いて言はず。福を分つの心は實に春風の和らぎ、春日の暖かなるが如きものであるから、人苟くも眞に福を分つの心を抱けば、其の分つところの福は、實際尠少にして言ふに足らざるにせよ、其の福を享受したる人は、非常に好感情を抱くものであることは、譬へば春風は和らぐと雖も、物を長ずるの力は南薫に如かず、春日は暖かなりと雖も、物を※[#「火+共」、第3水準1-87-42]《あぶ》るの能は夏日に如かざるが如きであるに關らず、猶春風春日は人をして無限の懷かしさを感ぜしむるやうなものである。故に分福の工夫に缺けて居るものは、おのづから寂寞蕭散の光景あるを免れざるに反し、分福の事を敢てするものは、自ら其の人の周圍に和氣祥光の氤※[#「气<慍のつくり」、第3水準1-86-48]《いんうん》搖曳するが如きを感じて、衆人が心を之に歸するに至るのである。
惜福の工夫と分福の工夫とを兼ね能くするに至つては、其の人實に既に福人たりと云ふ可きであるが、世の實際を觀るに、能く福を惜むの人は、多くは福を分たず、能く福を分つの人は、多くは能く福を惜まざるの傾があるのは、歎ず可く惜むべきである。福を惜むの工夫をも做さざるの人は、人の下として人に愛重さるべき人で無く、福を分つの工夫に乏しき人は人の上《かみ》として歸依《きえ》信頼さる可き人でない。人苟くも人の下として漸くに身を立てんとしたならば、必ず福を惜まねばならぬ。福を惜まざれば、福の積もり累なるところ無くして、其の人は長く無福の境界に居らねばならぬのである。福を分たざれば、其の人は長く唯自己一個の手脚を以て福を獲得するのみの小境界に止まり、他人の手脚よりは、何等の福祉をも得ざるに終るべき理が有るのである。
我能く人に福を分てば、人も亦我に福を與ふべく、たとひ人能く我に福を與へざるまでも、人皆心|私《ひそ》かに我をして福あらしめんことを祷るものである。こゝに一商店の主人ありと假定するに、其の主人の商利を得るや、必ずこれを使用人等に頒つとすれば、使用人等は、主人の福利を得るは、即ち自己等の福利を得ることとなるを以て、勉勵して業務に順ひ、力めて主人をして利を得せしめんとすべきは、論無きことである。之に反して、主人若し商利を得るも、唯自己の懷中をのみ膨大せしめて、使用人等に對して、何等分福の擧に出でずとすれば、其の使用人等は、勞力相當の報酬を得るの約あるを以て、何等不平不滿を抱かざるにせよ、主人の利不利は自己に痛痒少きをもつて、おのづからにして福利を得しめんとするの念淡く、終に主人をして福利を得るの事實と機會とを逸去せしむること多きに至るべき勢が生ずるのである。契約や、權利義務の觀念や、法律や、道徳や、種々の鎖鏈※[#「金+皎のつくり」、第3水準1-93-13]釘が、此の人世に存在するものであるから、假令分福の缺けた人でも、急に不利益の境遇に陷るといふ事は無いが、要するに分福の缺けた人は、自己の手脚をのみ頼まねばならぬ情状を有して居ると云つても宜いから、從つて他人の力によつて福を得ることは少いとせねばならぬのが、世の實際の示して居る現證である。
抑※[#二の字点、1-2-22]力は衆の力を併せた力より多い力は無く、智は人の智を使ふより大なる智は無いでは無いか。高山大澤の飛禽走獸は、一人の手脚の力、之を得るには足らぬのである。大事大業大功大利が、如何にして限り有る一人の心計|身作《しんさ》の力で能く成し得るもので有らうか。此故に大なる福を得んとするものは、必ず能く人に福を分つて、自ら獨り福を專にせず、衆人をして我が福を得んことを希はしむるのである。即ち我が福を分つて衆人に與へ、而して衆人の力に依つて得たる福を、我が福とするのである。分福の工夫の缺けたる人の如きは、いまだ大なる福を致すには足らざるものである。
惜福の工夫十分なる人が、福運の來訪を受くること多きは、實際の事實で有つて、遠く史上の古人に就て之を檢覈《けんかく》するを須《もち》ひず、近く吾人の目睹耳聞するところの今人に就て之を考査すれば、直に明瞭なることであるが、分福の工夫十分なる人が、好運の來訪を受くること多きも、亦明白なる事實である。殊に其の人未だ發達せざる中に、惜福の工夫さへあれば、其の人は漸次に福を積み得るものであるが、其の人漸く發達して、地平線上に出づるに及んでは、惜福の工夫のみでは大を成さぬ、必らずや分福の工夫を要するのである。商業者としては、店員や使用人や關係者や取引者に對して、常に自己の福分を頒ち與ふるの覺悟と行爲とを有する時は、自然と此等の人々は、其主人の爲に福運の來り到らんことを望むのであるから、人望の歸するところは天意これに傾く道理で、其の人は必らず福運の來到を受くるに至るのである。農業者としても其の如くで、小作人に對し、肥料商に對し、種苗供給者に對し、常に福を頒たんとするが如き温なる感情を有する時は、小作人の耕耘も、懇切精到になるから、其の農事も十分に出來、肥料商も粗惡な品質のものを供給せぬから、其の效果も十分に擧がり、種苗供給者も良好なる種子や苗を供給するから、收穫も多いやうになる道理である。
凡べて人世の事は時計の振子の如きもので有つて、右へ動かした丈は左へ動くものであり、左へ動いた丈は右に動くもので有る。天道は復《かへ》すことを好むといふが、實に其通りで、我より福を分ち與ふれば、人も亦我に福を分ち與ふるものである。工業でも政治でも何でも一切同じ事である。故に何によらず分福の工夫に疎にして人の上に立つことは甚だ難いのである。
東照公は惜福の工夫に於ては豐太閤に勝つて居られたが、分福の工夫に於いては太閤の方が勝れて居た。太閤の功を收むる事早くて、東照公の功を收むる事遲かつたのは、決してたゞ一二の理由に本づくのでは無いが、太閤の分福の工夫の甚だ到つて居た事も、慥に其の一理由である。東照公は自己の臣下に對しては、多く知行を與へられなかつた人である。徳川氏譜第恩顧の者は、多くは大録を與へられなかつた。之に反して、太閤は實に氣持好く其の臣下に大祿厚俸を與へた人である。此點に於て太閤は實に古今獨歩の觀がある。加藤や福島や前田や蒲生や、或は初より臣下であり、或は半途より旗下に屬したものにも、惜氣なく福を分ち惠を施したのは、太閤の一大美處であつて、一勇の夫も何十萬石を與へられたのであつた。則ち豐公が幸福を得さへすれば、臣下も亦必ず其の福の配分に與かるを得たのであり、主公をして一國を切取らしむれば、臣下も亦一郡或は一城を得るといふのであつた。臣下たり旗下たるもの如何んぞ主君の爲に鷹犬の勞を致して、血戰死鬪せざらんやである。是の如きは即ち太閤の早く天下を得た所以の一理由で無ければならぬ。
蒲生の如きは、大器雄畧ある士には相違無かつた。併し之を會津に封ずるに當つて、忽として百萬石を與へたのである。蒲生氏郷が、底の心の知れない伊達政宗と徳川家康との間に介在して、豐公の爲に大丈夫的苦慮健鬪を敢てしたのも、決して偶然では無いのである。北條氏を滅するや、豐公の徳川氏に與へたものは實に關八州であつた。徳川氏たるもの、焉んぞ豐臣氏に對して異圖を抱くを得んやである。太閤かつて宴安の席上にて、「天下の大小名、予に對して異志を抱くものあるべき筈無し、如何となれば、如何にしても予の如き好き主人は、世に二ツある可くも無ければなり。」と云つたといふことがある。實に太閤の其の言は、如何に當時に於て、太閤が福を分つて惜まざる天下第一の人で有つたかといふ事を語つて居るものである。
氏郷の傳を讀めば、當時の英雄等會合の席上に於て、太閤萬一の事あらば誰か天下の主たるもので有らう、と云ふ問に對して、蒲生氏郷が前田の老父《おやぢ》であると云つた。そこで前田殿を除いては、といふ再度の質問が起つて、それに答へては乃公《おれ》がと云つた。そこで又氏郷の眼中に徳川氏無きを訝つて、徳川殿はといふ質問が起つた。それに答へて彼の銀の鯰の※[#「灰/皿」、第3水準1-88-74]《かぶと》の主は笑ひながら、「徳川の如き人に物を呉れ惜むものが何を仕出かし得ようや。」と云つたといふ事が載つて居る。氏郷の心中には常に徳川公を何とか思つて居たらしいのであるから、此は一時の豪語でも有らうし、又其の事實も必らずしも信憑すべからざるものであるが、併しながら氏郷の語は、慥かに徳川公の短處に中つて居て、東照公の横ツ腹に匕首《あひくち》を加へたものである。
實に其の言の如く、徳川公は其の臣下に大祿厚俸を與へなかつた人で、其の遺制は近代に及び、維新前に至つて、徳川氏の譜第大名が、皆小祿薄俸の徒であつたため、眞に徳川氏の爲に力を致さんとするものの力は微に勢は弱くして、終に關ヶ原の一戰の敗者たる毛利島津等の外樣大名の爲に壓迫されたのである。太閤は惜福の工夫に於て缺くる所があつた代りに、分福の工夫に於て十二分であり、東照公は惜福の工夫に於て勝れて居た代りに、分福の工夫に於ては、やゝ不十分であつた。
平清盛は隨分短處の多い人であつた。併し分福の工夫に於ては、實に十二分の人であつて、一族一門に福を分つて惜まないこと、清盛の如き人は、日本史上に少い。清盛に反して、頼朝は實に福を分たぬ人で有つて、佐々木の功を賞した時は、日本半國を與ふべしなどと云ひながら、其後之を與へなかつたので佐々木は佛門に入つたのである。弟の義經、範頼にも碌に福を分たぬのみならず、卻つて禍《わざはひ》を贈つたのである。頼朝の家の爲に死力を出す人は少く、平家に忠臣の多かつたのも、偶然では無い。奈破崙《なぽれおん》も亦能く福を分つた人である。其の一族及び旗下臣下等の、奈翁の爲に巨福を得たものは何程あるか知れぬ。一敗の後、再び歐土に旗を樹てた時、殆んど復暴風浪を卷くの勢を爲したのも無理は無いのである。足利尊氏は缺點少からざる將軍であるが、其の福を分つに於て、天下の同情を得て、新田楠の如き智勇拔羣の人をも壓倒したのである。今の世に於て、千萬人中、誰か能く福を惜み、誰か能く福を分つものぞ。人試みに指を屈して之を數へて、其の功を成すことの大小を考へて見たならば興味が有らう。實に福は惜まざるべからずであつて、又福は分たざるべからずである。
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 植福の説(幸福三説第三) 

 人皆有福の羨む可きを知つて、更に大に羨む可きもののあるのを知らない。人皆惜福の敢てす可きを知つて、更に大に敢てす可きもののあるのを知らない。人皆分福の學ぶ可きを知つて、更に大に學ぶ可きもののあるのを知らない。有福は羨む可からざるにあらず、しかも福を有するといふのは、放たれたる箭の天に向つて上る間の状態の如きものであつて、力盡くる時は下り落つるを免れざると均しく、福を致したる所以の力が盡きる時は、直に福を失ふのである。惜福は敢てすべからざるにあらず、而も福を惜むといふは、爐中の炭火を妄《みだり》に暴露せざるが如きものであつて、たとひ之を惜むこと至極するにせよ、新《あらた》に炭を加ふる有るにあらざれば、別に其の火勢火力の増殖する次第でも無い。分福の學ぶ可からざる事でないのは勿論である。しかも福を分つといふのは、紅熟せる美果を人と共に食ふが如きもので、食ひ了れば即ち空しいのである。人悦び我悦べば、其の時に於て一應は加減乘除が行はれて仕舞つた譯なのであつて、要は人の悦びを得たところが、我のみの悦びを得たのに比して優つて居るに止まるのである。有福、惜福、分福、いづれも皆好い事であるが、其等に優つて卓越してゐる好い事は植福といふ事である。
植福とは何であるかといふに、我が力や情や智を以て、人世に吉慶幸福となるべき物質や、清趣や、智識を寄與する事をいふのである。即ち人世の慶福を増進長育するところの行爲を植福といふのである。かくの如き行爲の尊む可きものであることは、常識ある者のおのづからにして理解して居ることであるが、遼豕《れうし》の謗《そしり》を忘れて試みに之を説いて見よう。
予は單に植福と云つたが、植福の一の行爲は、自ら二重の意義を有し、二重の結果を生ずる。何を二重の意義、二重の結果といふかと云ふに、植福の一の行爲は、自己の福を植うることであると同時に、社會の福を植うることに當るから之を二重の意義を有するといひ、他日自己をして其の福を收穫せしむると同時に、社會をして同じく之を收穫せしむる事になるから、之を二重の結果を生ずると云ふのである。
今こゝに最も瑣細にして最も淺近な一例を示さうならば、人ありて其の庭上に一の大なる林檎の樹を有するとすれば、其の林檎が年々に花さき、年々に實りて、甘美清快なる味を供することは、慥に其の人をして幸福を感ぜしむるに相違無い。で、それは其の人が幸福を有するのであつて、即ち有福である。其の林檎の果實を浪《みだ》りに多産ならしめないで、樹の堅實と健全繁榮とを保たしむるのは、即ち惜福である。豐大甘美な果實の出來たところで、自己のみが之を專にしないで親近朋友に頒つのは分福である。有福といふことには善も惡も無く可も否も無いが、惜福分福は皆嘉尚す可きことである。
此等の事は既に説いたところであるが、扨植福といふのは何樣《どう》いふことかと云ふと、新に林檎の種子《たね》を播きて之を成木せしめんとするのが、植福である。同じ苗木を植付けて成木せしめんとするのが植福である。又惡木に良樹の穗を接ぎて、美果を實らしめんとするのも植福である。※[#「虫+冴のつくり」、第4水準2-87-34]蠧《がと》の害に遇つて枯死に垂《なんな》んたる樹が有るとすれば、之を藥療して復活蘇生せしむるのも亦植福である。凡そ天地の生生化育の作用を贊《たす》け、又は人畜の福利を増進するに適當するの事を爲すのが即ち植福である。
一株の林檎の樹といふ勿れ、一株の樹もまた數顆數十顆、乃至數百顆の實を結ぶのであつて、其の一顆よりは又數株乃至數十株の樹を生じ、果と樹は相交互循環しては、無量無邊の發生と産出とを爲すものである。故に一株の樹を植うる其事は甚だ微少瑣細であるけれども、其の事の中に包含されて居る將來は、甚だ久遠洪大なもので、其の久遠洪大の結果は、實に人の心念の機微に繋《かゝ》つて居るものであつて、一心一念の善良なる働は、何程の福を將來に生ずるかも知れぬのである。一株の果樹は霜虐雪壓に堪へさへすれば、必ずや、或時間に於て無より有を生じ、地の水と天の光とを結んで、甘美芳香の果實を生じ出す。既に果實が生ずれば、必らずや之を味はふ人をして幸福を感ぜしむるので有つて、主人自ら之を味はふにせよ、主人の親近朋友が之を味はふにせよ、又は主人に賣卻せられて、或他の人が之を味はふにせよ、何人かが造物主の人間に贈るところの福惠を享受して、滿足|怡悦《いえつ》の情を湛ふるに相違無い。されば一株の樹を培養成長せしむるといふことは、瑣事には相違無いが、自己に取りても他人に取りても幸福利益の源頭となることである故に、之を福を植うると云つて誤は無いのである。
凡そ是の如く幸福利益の源頭となることを爲すをば植福といふのであるが、此の植福の精神や作業によつて世界は何程進歩するか知れず、又何程幸福となるかも知れないのである。若し人類にして植福の精神や作業が無いならば、人類は假令《たとひ》勇猛なるも、數千年の古より、今猶獅子熊の如き野獸と相伍して居なければなるまい。假令智慧あるも、今猶猿猴猩々の類と林を分ちて相棲まねばなるまい。假令社會組織を爲すの性あるも今猶蜂や蟻と其の生活を同じうせねばなるまい。幸にして吾人は數千年の昔時の祖先よりして、植福の精神に富み、植福の作業に服し從つた爲、一時代は一時代より幸福が増進し、祖先以來の勇氣によつて建設せられたる人類の權利は、他動物に卓絶し、祖先以來の智識を堆積し得て生じたる人類の便利は、他動物の到底及ばざる者となり、祖先以來の社會組織の經驗を累ね來つて、他動物には到底見る能はざるの複雜にして巧妙なる社會組織を有するに至つたのである。
農業は植福の精神や作業を體現したかの觀あるものであるが、實に其の種を播き、秧《なへ》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《さしはさ》むの勞苦は、福神の權《かり》に化して人と現はれて、其の福の道を傳へんが爲に勞作する、と云つても宜い程のものである。工業も商業も亦然りで、苟も眞に自己の將來の幸福、又は他人の幸福の源頭となるものである以上は、之に從事する人は皆福を植うるの人である。
世に福を有せんことを希ふ人は甚だ多い。しかし福を有する人は少い。福を得て福を惜むことを知る人は少い。福を惜むことを知つても福を分つことを知る人は少い。福を分つことを知つても福を植うることを知る人は少い。蓋し稻を得んとすれば、稻を植うるに若くは無い。葡萄を得んとすれば、葡萄を植うるに若くは無い。此の道理を以て、福を得んとすれば福を植うるに若くは無い。しかるに人多くは福を植うるを以て迂闊の事として顧みない傾があるのは甚だ遺憾の事である。
樹を植うるを例としたから、復《ふたゝ》び其の例に就いて言はうならば、既に一度樹を植ゑたる以上、必ず其の樹は其の人又は他人乃至國家に對して與ふるところが無くて已むものでは無いから、此の位植福の事例として明白な好き説明を爲すものは無い。即ち植ゑられたる福は、時々刻々に生長し、分々寸々に伸展して、少しも止むこと無く、天運星移と共に進み/\て、何時と無く増大し、何時と無く結果を擧ぐるものである。杉や松の大木は天を摩するものもある。併し其の種子《たね》は二指を以て撮みて餘り有るものである。植福の結果は非常に大なるものである。併し其の植ゑられたる福は甚だ微細なるものでも、不思議は無いのである。
渇したる人に一杯の水を與ふる位の事は、如何なる微力の人でも爲すことを得ることである。飢ゑたる人に一飯を振舞ふ位の事は、貧者も亦之を能くするを得る事である。併し世には是の如き微細なる事は抑※[#二の字点、1-2-22]又何を値せんやと思ひ做して、之を爲さぬ人がある。但し其は明らかに誤りであつて、一撮《ひとつかみ》に餘りある微少の種子《たね》より、摩天の大樹の生ずることを解したならば、其の瑣細なことも亦必らずしも瑣細なことで終るとは限らぬことを解するに足るであらう。自己が幸福を得ようと思つて他人に福惠を與ふるのは、善美を盡したものでは無いけれども、福は植ゑざる可からず、と覺悟して、植福の事に從ふのは、福を植ゑざるに勝ること、萬々である。一盞の水、一碗の飯、渇者飢者に取つては、抑※[#二の字点、1-2-22]何程か幸福を感ずることであらう。
此の如きは福を植うるに於て最も末端の事では有るが、しかも亦決して小事では無い。人の飢渇に忍びざるの心よりして人の飢渇を救ふのは、即ち人の禽獸と異なる所以のものを發揮したので、是の如き人類の情懷の積り累なりて、人類の社會は今日の如く成立つて居るのである。他の疲憊困苦に乘じて、之を搏噬《はくぜい》するが如きは、野獸の所爲で有つて、是の如きの心を有せる野獸は、今猶野獸の生活を續けて居るのである。故に人の飢渇に同情するとせぬとの如きは、其の事小なるが如くなれども、野獸の社會とは異なる人類の今日の社會の出現するとせぬとに關する、と言つても可なる程、大なる徑庭の生ずるところの「幾微」の樞機がこれに存して居るのである。思はざる可けんやである。
今日の吾人は古代に比し、若くは原人に比して大なる幸福を有して居る。これは皆前人の植福の結果である。即ち好き林檎の樹を有して居るものは、好き林檎の樹を植ゑた人の惠を荷うて居るのである。既に前人の植福の庇陰に依る、吾人も亦植福の事をなして子孫に貽らざる可からずである。眞の文明といふことは、凡て或人々が福を植ゑた結果なのである。災禍といふことは、凡て或人々が福を※[#「爿+戈」、第4水準2-12-83]殘《しやうざん》した結果なのである。吾人は必ずしも自己の將來の福利に就いて判斷を下して、而して後に植福の工夫をなさずとも宜い。吾人は吾人が野獸たるを甘んぜざる、即ち野獸たる能はざる立場よりして福を植ゑたい。徳を積むのは人類の今日の幸福の源泉になつて居る。眞智識を積むのも亦人類の今日の幸福の源泉になつて居る。徳を積み智を積むことは、即ち大なる植福をうる所以であつて、樹を植ゑて福惠を來者に貽《おく》る如き比では無い。植福なる哉、植福なる哉、植福の工夫を能くするに於て始めて人は價値ありと云ふ可しである。
有福は祖先の庇陰に寄るので、尊む可きところは無い。惜福の工夫あるに至つて、人やゝ尚ぶ可しである。分福の工夫を能くするに至つて、人愈※[#二の字点、1-2-22]尚ぶ可しである。能く福を植うるに至つて、人眞に敬愛すべき人たりと云ふ可しである。福を有する人は或は福を失ふことあらん。福を惜む人は蓋し福を保つを得ん。能く福を分つ人は蓋し福を致すを得ん。福を植うる人に至つては即ち福を造るのである。植福なる哉。植福なる哉。
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努力の堆積

 人間の所爲を種々に分類すれば、隨分多數に分類し得る。そして其の所爲の價値に幾干と無い階級も有らうが、努力といふことは確に其の高貴なる部分に屬するものである。頃者《このごろ》世に行はれて居る言葉に奮鬪と云ふ言葉があつて、努力と稍や近似の意味を表はして居るが、これは假想の敵がある樣な場合に適當するもので、努力は我が敵の有無に拘らず、自己の最良を盡して而して或事に勉勵する意味で、奮鬪と云ふ言葉が有する感情意義よりは、高大で、中正で、明白で、人間の眞面目な意義を發揮して居る。元來一切の世界の文明は、此の努力の二字に根ざして其處から芽を發し、枝をつけ、葉を生じ、花を開くのであると云はねばならぬ。
併し努力に比して、丁度其の相手の如く見ゆるものがある。其れは好んで爲すことである。好んで爲すと云ふ事である。努力は厭な事をも忍んで爲し、苦しい思ひにも堪へて、而して勞に服し事に當ると云ふ意味である。が、嗜好と云ふ場合には、苦しい事も打ち忘れ、厭ふと云ふ感情も全く無くて、即ち意志と感情とが竝行線的、若しくは同一線的に働いて居る場合を云ふのである。努力は其れと稍や違つた意味を有し、意志と感情とが相《あひ》忤《ご》し戻つて居る場合でも、意識の火を燃え立たせて、感情の水に負けぬやうに爲し、そして熱して/\已まぬのを云ふのである。
或人が或事に從來し、而して其の人が我知らず自己の全力を其處に沒して事に當ると云ふ場合、其れは努力と云ふよりは好んで爲すと云つた方が適當である。其處で、世界の文明は、努力から生じて居る歟、好んで之れを爲す處から生じて居る歟と云へば、努力から生じて居る如く見える場合も、嗜好から生じて居るが如く見える場合もある。例へば文明の恩人、即ち各時代の俊秀なる人物が、或事業の爲に働いて、其の徳澤を後世に遺した場合を考へて見るに、努力の結果の如く見ゆる場合もあり、又、好んで爲した結果の如く見ゆる場合もある。これは人々の觀察、解釋、批評の仕方に因つて何方《どちら》にも取れる。が正當に之れを解釋して見たならば、好んで爲す場合にも、努力が伴はぬ時は其の進行は廢絶せざるを得ない。然らずとするも其の結果の偉大を期する事は出來ない。パリツシーの陶器製造に於けるも、コロンブスの新地發見に於けるも、皆さうである。如何に好んで爲すと云つても、例へば有福の人が園藝に從事する場合に就いても或時は確に其れは苦痛を感ぜしめよう。則ち酷寒酷暑に於ける從事、或は蟲害其の他に就ての繁雜なる手數、緻密なる觀察、時間的不規律な勞働に服するなどの種々の場合に、努力によらなければ、中途にして歇むの状態に立ち至ることもまゝある道理で、換言すれば好んで爲すと云つても、其の間に好まざる事情が生ずるのは人生に有り勝な事實である。其の好ましからぬ場合が生じた時に、自己の感情に打ち克ち、其の目的の遂行を專らにするのが、即ち努力である。
人生の事と云ふものは、座敷で道中雙六をして、花の都に到達する如きものではない。眞實《ほんとう》の旅行にして見れば、旅行を好むにして見ても、尚且つ風雪の惱みあり、峻坂嶮路の艱あり、或時は磯路に阻まれ、或時は九折《つゞらをり》の山逕に、白雲を分け、青苔に滑る等、種々なる艱苦を忍ばねばならぬ。即ち其處に明らかに努力を要する。若し一路坦々砥の如く、而も春風に吹かれ、良馬に跨つて旅行するならば、努力は無い樣なものの、全部の旅行がさうばかりは行かぬ。如何に財に富み、地位に於いて高くとも、天の時、地の状態等に因つて、相當の困苦艱難に遭遇するのは、旅行の免れない處である。
されば如何に之れを好む力が猛烈で、而して之を爲すの才能が卓越して居ても、徹頭徹尾、好適の感情を以て、或事業を遂行する事は、殆ど人生の實際にはあり得ない。種々なる障礙、或は蹉躓の伴ふ事は、已むを得ない事實である。而して其れを押し切つて進むのは其の人の努力に俟つより他はない。周公、孔子の如き聖人、ナポレオン、アレキサンドルの如き英雄、或はニユートン、コペルニカスの如き學者であらうとも、皆其の努力に因つて其の事業に光彩を添へ、黽勉《びんべん》に因つて大成して居る事實は、爰に呶々する迄もないことである。まして才乏しく、徳低き者にありては、努力は唯一の味方であると斷言して可いのである。恰も財力乏しく、地位亦低きの旅行者が、馬にも乘れず、車にも乘れず、只管《ひたすら》雙脚の力を頼むより他に山河跋渉の道なきと同樣である。
併し、俊秀な人の仕業を見ると、時には此の努力なくして出來た如く見ゆる場合もあるが、其れは皮相の觀察で、馬に乘つても雪の日は寒く、車に乘つても荒れたる驛路では難儀をする。如何に大才厚徳の士であつても、矢張り必ず安逸好適の状態のみを以て終始する事は出來ない。況や千里の駿馬は自らにして駑馬よりは多くを行き、大才厚徳の士は常人よりは人世の旅行を多くして、常人の到達し得ざる處に到達せんとするもの故、其の遭遇する各種の不快、不安、障礙蹉躓は、隨つて多いのであるから、其努力が常人を越えて居るのは云ふ迄もない。文明の恩人の傳記を繙き見るに、誰か努力の痕を留めない者があらう。殊に各種の發明者、若くは新説の唱道者、眞理の發見者等は、皆此の努力に因つて其の一代の事業を築き上げて居ると云はねばならぬ。東洋流の傳記や歴史で見ると、英才頓悟、若くは生れながらに智勇兼ね備はつて居たと云つたやうなものがあつて、俊秀な人は何事も容易に爲し得たかの如く書いてあるが、其れは寧ろ事實の眞を得ないものだと云はねばならぬ。又、縱《よ》しんば英才の人が容易に或事を爲し得たとするも、其の英才は何れから來たか。これは其の人の系統上の前代の人々の『努力の堆積』が其の人の血液の中に宿つて、而して其の人が英才たる事を得たのである。
天才と云ふ言葉は、動もすると努力に因らずして得たる智識才能を指《ゆびさ》すが如く解釋されてゐるのが、世俗の常になつて居る。が、其れは皮相の見たるを免れない。所謂天才なるものは、其の系統上に於ける先人の努力の堆積が然らしめた結果と見るのが至當である。美しい斑紋を持ち若しくは稀有なる畸形をなした萬年青《おもと》が生ずると數寄者は非常なる價値を認めるが、併し其の萬年青なるものを熟※[#二の字点、1-2-22]《つく/″\》研究して見ると、決して偶然に生じたものではなく、矢張り其系統の中に其の高貴なる所以の原因を有つて居た事を發見する。草木にして然り、況や人間の稀有なる尊いものが忽然として生れる筈は無いのである。
盲人の指の感覺は其の文字を讀み得ざる紙幣に對しても、猶眞贋を辨別し得る程に鋭敏になつて居る。併し其の感覺力は偶然に得たものではなく、其の盲目の不便より生ずる缺陷を補はんとする努力の結果として、其の指頭の神經細胞の配布を緻密ならしめたので、換言すれば單に其の感覺が鋭敏なるのみではなく、解剖上に於ける神經分布の細密を來し、而して後に鋭敏なる感覺力を有するに至つたのである。則ち『機能』が卓越するといふばかりでなく、其の『器質』に變化を生じて、而して常人に卓越したものとなつたのである。是れ畢竟努力の絶えざる堆積は、旋《やが》て物質上にも變化を與ふる例證として認識するに足るではないか。
此の理に據つて歸納すれば、俊秀なる人の如きも、偶然に發した天賦の才能の所有者と云はんよりは、俊秀なる器質の遺傳、即ち不斷の努力の堆積の相續者、若くは煥發者と云ふ方が適當である。如斯《かくのごとき》の説は、或は英雄聖賢の人に對して、其の徳を減ずるが如くにも聞えるが、實は然うでない。努力は人生の最大最善なる尊いもので、英雄聖賢は、其の不斷に努めた堆積の結果だといふのだから、愈※[#二の字点、1-2-22]英雄聖賢の光輝を揚ぐる所以だと思ふ。
野蠻人が算數に疎いと云ふのも、つまり算數に對する努力が、まだ堆積して居らぬからで、即ち代々の努力を基本として居らぬ者が、忽然として高等の數理を解釋し得よう道理がないから、そこで數學の高尚なる域に到達し難いと云ふ證例である。吾人は動もすると努力せずして或事を成さんとするが如き考へを持つが、其れは間違ひ切つた話で、努力より他に吾人の未來を善くするものはなく、努力より他に吾人の過去を美しくしたものはない。努力は即ち生活の充實である。努力は即ち各人自己の發展である。努力は即ち生の意義である。
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修學の四標的

 射を學ぶには的が無くてはならぬ、舟を行《や》るにも的が無くてはならぬ。路を取るにも的が無くてはならぬ。人の學を修め身を治むるにも亦的が無くてはならぬ。隨つて普通教育、即ち人々個々の世に立ち功を成す所以の基礎を與ふるところの教育にも、亦的が無くてはならぬ。又隨つて其の教育を受くるものに在つても、亦的とするところが無くてはならぬ。的無くして射を學べば、射の藝は空しきものになる。的無くして舟を行れば、舟は漂蕩して其の達するところを知らざることとなる。的無くして路を取れば、日暮れて驛《うまや》を得ず、身飢ゑて食を得ざることとなる。人にして的とするもの無ければ、歸するところ造糞機たるに止まらんのみである。教育にして的無く、教育を受くるものにして的とすべきところを知らざれば、讀書《どくしよ》※[#「にんべん+占」、第4水準2-1-36]畢《てんひつ》は、畢竟蚊虻の鼓翼に異ならず、雪案螢燈の苦學も、枉げて心を勞し身を疲らすに過ぎざるものであらう。然らば即ち基礎教育の的とすべきは、何樣《どう》いふもので有らうか。又其の教育を受くるものの的として、眼《まなこ》を着け心を注ぐべきは、何樣いふところで有る可きであらうか。
現今の教育は其の完全|周浹《しうせふ》なることに於て、前代の比す可きでは無い程度に發達して居る。其の善美精細なることに於いても、往時の及ぶべきにあらざる程度に進歩して居る。必ずしも智育に偏しては居ない。必ずしも徳育を缺いては居ない。必ずしも體育を懈つては居ない。教育家が十二分に教育方針を研究して、十二分に教育設備を圓滿になさんとして、努力して居る結果、殆ど容喙すべき餘地の無いまでに、一切は整頓して居るのが、現今の状態であるから、其の點に就ては、猶缺陷も有らうけれども、多く言はざるも可なりである。たゞ教育の標的が、最簡最明に擧示されて居らぬ。教育を受けるものも、明白に其の標的を自意識に上せて居らぬ如く見ゆるのは遺憾である。で、今其の點に就て少しく語らんと欲するのである。
もつとも教育の標的と云つても教育の精神と云つても宜しい教育勅語は、炳焉として吾人の頭上に明示されて居る。之を熟讀し爛讀して服膺すれば、萬事おのづから足るのであつて、別に更に予の如きものの絮説を要せぬのである。しかし予が別に言をなすものは、予の一片の婆心、已む能はざるに出づるのみであつて、固より勅語の外に別主張をなし、異意見を立つるが如き狂妄なことを敢てするのでは無く、ひそかに自ら我が言の必ず勅語と其の歸を同じうして違はざらんことを信じて居るのである。
予が教育及び教育を受くるもの若くは獨學師無くして自ら教ふるものの爲に、其の標的とせんことを奬むるものは僅に四箇の義である。標的たゞ四、其の題を稱ふれば、一口氣にして餘りあり、しかも其の義理、其の意味、其の情趣、其の應用に於けるや、滾々として盡きず、汪々として溢れんと欲するものがある。願はくは予は天下爲すあらんとするの人と共に、之を口稱心念して遺《わす》れざらんとするのである。
如何なるか是れ四箇の標的。一に曰く、正なり。二に曰く、大なり。三に曰く、精なり。四に曰く、深なり。此の四は是れ學を修め、身を立て、功を成し、徳に進まんとするものの、眼必ず之に注ぎ心必ず之を念ひ、身必ず之に殉《したが》はねばならぬところのものである。之を標的として進まば、時に小蹉躓あらんも、終に必ず大に伸達するを得べきは疑ふべくも無い。
正、大、精、深。是の如きは陳套である。今更點出して指示されずとも、我既に之を知れりと云ふ人も有らう。如何にも陳套である。新奇のことでは無い。併し修學進徳の標的としては、是の如く適切なものは無い。陳の故を以て斥け、新の故を以て迎ふるは、輕薄の才子と、淫奔の女子との所爲である。日照月曜は其久しきを以て人これに頼り、山峙河流は其常あるを以て人これに依り、三三が九、二五十の理は其の恆なるを以て人之を爭はぬのである。所謂大道理なるものは、其の行はるゝこと變ぜず、其の存すること誣ひ難きを以て、人之に信頼し、人之に依歸するのである。即ち愈※[#二の字点、1-2-22]久しくして、愈※[#二の字点、1-2-22]信ずべきを見、愈※[#二の字点、1-2-22]古くして、愈※[#二の字点、1-2-22]依るべきを見るのである。彼の毒菌の※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、87-11]《しふ》に生じ、冷※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]の朽《くちき》に燃ゆるが如き、※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2-1-57]生忽滅して、常無きものは、其の愈※[#二の字点、1-2-22]新にして愈※[#二の字点、1-2-22]取るに足らず、愈※[#二の字点、1-2-22]奇にして、愈※[#二の字点、1-2-22]道《い》ふに値せざるを見るのである。教育を受くるもの、若くは自ら教ふるもの等に對つて、新奇の題目を拈出し來つて其の視聽を驚かすが如きは、或は歡迎を受けるかも知れぬが其の實は事に益なきのみである。正、大、精、深の四標的、取り出し來つて奇無しと雖も、決して其の陳套の故を以て之を斥くべきでは無い。況んや又日月は舊しと雖も、實に朝暮に新しく、山河は老いたりと雖も、實に春秋に鮮《あざら》けく、三三が九、二五十の理は珍らしからずと雖も、實に算數の術日に新に開くるも、畢竟此の外に出でざるに於けるをや。之を思へば、此等皆愈※[#二の字点、1-2-22]古くして愈※[#二の字点、1-2-22]新《あらた》に、愈※[#二の字点、1-2-22]易にして愈※[#二の字点、1-2-22]奇なのである。正、大、精、深の四箇の事の如き、之を味へば味ひて窮り無く、之を取れば取つて竭きざるの妙が有る。如何ぞ之を新奇ならずとせんやである。
正とは中である。邪僻偏頗、詭※[#「言+皮」、U+8A56、88-4]傾側ならざるを言ふのである。學をなすに當つて、人に勝らんことを欲するの情の強きは、惡きことでは無い。しかし人に勝らんことを欲するの情強きものはやゝもすれば中正を失ふの傾きがある。人の知らざるを知り得、人の思はざるに思ひ到り、人の爲さざるを爲し了せんとする傾が生じて、知らず識らず中正公明のところを逸し、小徑邪路に落在せんとするの状をなすに至るものである。力めて之を避けて、自ら正しくせんとせざる時は、後に至つて非常の損失を招く。僻書を讀むのも、正を失つて居るのである。奇説に從はんとするのも、正を失つて居る。尋常普通の事は、都て之を面白しとせずして、怪詭稀有の事のみを面白しとするのも、正を失つて居るのである。たとへば飮食の事は、先づ善く其の飯を不硬不軟に作り得るを力むべきである。燕窩《えんくわ》鯊翅《しやし》の珍は、其の後に至つて之を烹※[#「敖/火」、U+24385、88-12]《ほうがう》すべきである。然るに只管珍饌異味を搜求して調理せんとし卻て日常の飯を作《な》すこと甚だ疎なるを致すが如きは、正しきを失つて居るのである。學をなすも亦然りで、學問の道もおのづから大門があり、正道があつて、師は之を教へ、世は之を示し、先づ坦々蕩々たる大道路を行かしめて、而して後人々の志すところに到らしめんとして居るのである。然るに好んで私見を立て、小智に任じ、傍門小徑を望んで走るのは、其の意蓋し惡むべからずと雖も、其の終や蓋し善からざるに至るのである。近來人皆勝つことを好むの心|亢《たかぶ》り、好んで詭※[#「言+皮」、U+8A56、89-1]の説を聽き、古往今來、萬人の行きて過たず、萬々人の行きて過たざるの大道路を迂なりとし、奮力向前して、荊棘滿眼、磊石填路の小徑を突破せんとするが如き傾がある。其の意氣は愛す可きも、其の中正を失へるは嘉《よみ》す可からざる事である。學やや成つて後に、然樣《さう》いふ路を取るならば、或は其の人の考次第で宜いかも知らぬが、それですら正を失はざらんとするの心が其の人に無くてはならぬのである。況んや書を讀んで未だ萬卷に達せず、識いまだ古今を照らすに及ばざる程の力量分際を以て、正を失はざらんとするの心甚だ乏しく、奇を追はんとするの念|轉《うたゝ》盛んにして、たま/\片々たる新聞雜誌等の一時の論、矯激の言等に動かされ、好んで傍門小徑に走らんとするのは、甚だ危いことである。呉々も正を失はざらんとし、自ら正しくせんとするの念を抱いて學に從はねばならぬ。
大は人皆之を好む。多く言ふを須ひぬ。今の人殊に大を好む。愈※[#二の字点、1-2-22]多く言ふを須ひぬ。然れども世或は時に自ら小にして得たりとするものあり。撼む可し善良謹直の青年の一派に、特に自ら小にするもの多きを。一二例を擧げんか、彼等の或者は曰く、予才拙學陋なり、たゞたま/\俳諧を好み、闌更に私淑す、願はくは一生を犧牲にして、闌更を研究せんと。或者は曰く、予詩文算數法醫工技、皆之を能くせず、たゞ心ひそかに庶物を蒐集するを悦ぶ。マツチの貼紙《ペーパ》を集むる既に一年、約三五千枚を得たり。異日積集大成して、天下に誇らんと欲すと。是の如きの類、或は學者の如く、或は好事家の如く、或は畸人の如きものが甚だ少くない。別に又一派の青年が有つて、甚だ小さなことを思つて居る。或は曰く、予は大望無し、學成りて口を糊し、二萬圓を積むを得ば足れりと。或は曰く、予父祖の餘惠に依り、家に負郭の田數頃、公債若干圓あり、今學に從ふと雖も、學成るも用ひるところ無し、たゞ吾が好むところの書を讀み、畫を觀、費さず、得ず、一生を中人生活に送らんのみと。是の如きの類、或は卑陋の人の如く、或は達識の人の如きものも、亦甚だ少くない。此等は皆強て咎む可きでは無い。闌更を研究するも可、マツチのペーパを蒐むるも可、身を低くして財を積むも可、徒坐して徒死するも、犯罪をするに比して不可は無い。されども學を修むるの時に當つて、是の如くにして我が學ぶところを限り、毫も自ら大にせんとするの念無きは、甚だ不可である。苟も學に從ふ以上は常に自ら自己を大くしようと思はねばならぬ。浪りに大望野心を懷くべきを勸むるのでは無い。闌更の研究、マツチのペーパの蒐集を廢せよといふのでは無い。たゞ是の如きことは、學成り年やゝ長《た》けて後、之を爲すも可なりである。學に從つて居る中は、力めて限界を擴大し、心境を開拓し、智を廣くし、識を多くし、自ら自己を大になさんことを欲せなければならぬ。
七歳八歳の時に、努力して僅に擡《あ》ぐるを得たる塊石も、年長じ身大なるに至つては、容易に之を擡ぐるを得るものである。七歳八歳の我が、十五歳二十歳の我に及ばざりしは、明白である。此故に青年修學時代の我が、他日壯歳にして、學やゝ成れる頃の我に及ばざるも亦明白である。然らば今の我を以て、後の我を律せんよりは、今はたゞ當面の事に勉め、學んで而して習はんのみで、何を苦んで自ら小にし、自ら卑しくし、自ら劃り、自ら狹くするを要せんやである。修學の道最も自ら小にするを忌む、自尊自大も、亦忌むべきこと勿論であるが、大ならんことを欲し、自ら大にすることを力めるは最も大切なことである。人學べば則ち漸く大、學ばざれば則ち永く小なのであるから、換言すれば學問は人をして大ならしむる所以だと云つても宜い位である。決して自ら劃つて小にしてはならぬ。自ら自己をば眞に大ならしめんとして力めねばならぬ。
大には廣の意味を含んで居る。今や世界の知識は、相混淆し相流注して、一大盤渦を成して居るのである。此時に當つて、學を修むるものは、特に廣大を期せねばならぬ。眼も大ならねばならぬ。膽も大ならねばならぬ。馬を萬仭の峯頭に立てて、眼に八荒を見渡すの氣概が無くてはならぬ。大千世界を見ること、掌中の菴羅果《あんらくわ》の如くすといふ程の意氣が無くてはならぬ。一卷の蠧書《としよ》に眼睛を瞎卻《かつきやく》されて、白首皓髯、猶机を離れずといふやうではならぬ。これも亦須らく大の一字を念じて、然樣《さやう》な境界を脱し得なければならぬのである。
精の一語は之に反對する粗の一語に對照して、明らかに解し知るべきである。卑俗の語のゾンザイと云ふは精ならざるを指して言ふので、精は即ちゾンザイならざるものをいふのである。物の緻密を缺き、琢磨を缺き、選擇おろそかに、結構行き屆かざる類は、即ち粗である。米の精白ならず、良美ならず、食ひて味佳ならず、糟糠いたづらに多きが如きは、即ち粗である。之に反して物の實質の善く緻密にして、琢磨も十分に、選擇も非ならず、結構も行屆きて居る類は即ち精である。米の糟糠全く去り除かれ、良美にして精白、玉のごとく、水晶の如く、味ひて其の味も佳なるものは、即ち精である。精の一字を與へて之を評すべき机ありと假定すれば、其の机は必ずや之に對する人をして滿足を感ぜしむるのみならず、又必ずや長く保存され、長く使用に堪へ得るものたるに相違無い。如何となれば、其の材の選擇に、十分の注意が拂はれて居るならば、乾※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、92-2]《けんしふ》に遇ひて、忽ち反つたり裂けたり歪んだり縮んだりするやうなことも無からうし、結構に十分の注意が拂はれて居るならば、少々位の撞突衝撃を受けても、忽ちにして脚が脱したり、前板や向板が逸《はづ》れて、バラ/\に解體して仕舞ふやうな事も無からうし、又實質が緻密であるならば、鬆疎のもののやうに脆弱でも有るまいから、自然と傷つき損ずる事も少なかろうし、琢磨が十分ならば、外觀も人の愛好珍重を買ふに足りるだけの事は有らうから、乃ち長く使用さるゝに堪へ、長く保存さるゝに至り、そして人をして恆に滿足を感ぜしむる丈のことは、おのづからにして其處に存在するで有らう。米も亦然りで、若し精の一語を以て評すべきやうの米ならば、米としては十分なる價値を有して居るもので有らう。これに反して粗の一語を以て評すべきやうの机あらば、其の机は之に對する人をして、不滿足を感ぜしめ、不快を覺えしむるのみならず、幾日月の使用にも堪へずして、破損して廢物となるに至るであらう。如何となれば材料實質が惡くて、結構も親切ならず、琢磨も行屆かぬものならば、誰しも之を取扱ふに愛惜の情も薄らぐで有らうし、物それ自身も、少々の撞突衝撃にあつても直に損ずるで有らうから、さういふ運命を現ずるも必然の勢である。米もまた然りで、其の粗なるものは、卻つて他の賤しい穀物の精なるものには劣る位である。何によらず精粗の差たるや實に大なりである。學問の道にも、精粗の二つがある。勿論其の精を尚ぶのである。其の大ザツパで、ゾンザイであるのをば、斥けねばならぬのである。
併し机や米に對しては、誰しも精の一語を下して其の製作を評されたり、其の物を評されたりするやうなものを可とするが、學問に於ては時に異議あることを免れない。と云ふものは古からの大人や偉才が、時に精と云ふことには反するやうな學問の仕方を爲したかの如く見ゆることが有るので、後の疎懶の徒が、やゝもすれば之に藉口して、豪傑ぶつたことを敢て放言して憚らぬところより、おのづからにして精を尚ばぬ一流を生じて居るからである。併しながら其主張は、誤解から來て居るものが多い。
精を尚ぶことをせぬ徒の、やゝもすれば口にすることは、句讀訓詁の學なぞは、乃公《おれ》は敢てせぬといふのが一つである。成程句讀訓詁の學は、學問の最大要用なことでは無いに相違無いけれども、古の人が句讀訓詁の學をなすことを欲しなかつた點に就ては、其の志の高くして大なるところに倣ふべきで有つて、其の語があるから句讀訓詁なぞは何樣《どう》でもよいと思ふのは間違ひである。句讀訓詁の學をなして、たゞ句讀訓詁に通ずるを以て足れりとし、句讀訓詁の師たるに甘んずるやうなる學問の仕方を爲したなら、其は非で有らう。併し句讀訓詁を全然顧みないでは、何を以て書を讀みて之を解し悟るを得んやである。句讀訓詁に沒頭して仕舞ふのは、勿論非である。句讀訓詁なぞは、と豪語してゾンザイな學風を身に浸みさせて仕舞ふのも決して宜しくはない。字以て文を載せ、文以て意を傳ふる以上は、全く句讀訓詁に通ぜずして、抑※[#二の字点、1-2-22]亦何を學ぶを得んやである。文辭に通ぜざるは弊を受くる所以である。徂徠先生の如き豪傑の資を以て、猶且つ文辭に呶々するものは、實に已むを得ざるものが有るからである。
假に句讀訓詁を事とせざるは可なりとするも、書を讀んで句讀訓詁を顧みざるが如き習慣を身に帶ぶるに及んでは、何事を爲すにも、粗笨にして脱漏多く、違算失計、甚だ多きを致すを免れざるものである。事を做すに當つて、違算失計多きを惡まざるの人は、世に存せずと雖も、習癖既に成れば、之を脱するは甚だ難きものである。句讀訓詁を事とせざるは或は可なるも、事を做すに精緻を缺いて、而も之を意とせざるの習を身に積むは、百弊あつて一利無きことである。況んや學問日に精緻を加ふるは、今日の大勢である。似而非豪傑流の習慣は、決して身に積まざるやうにと心掛けねばならぬ。句讀訓詁を事とせよといふのでは無いが、學をなすには精を尚ばねばならぬといふのである。
學問精密なることを尚ばぬ徒の、やゝもすれば據りどころとするのに、諸葛孔明が讀書たゞ其の大畧を領した、といふことも亦其の一つである。陶淵明が讀書甚だ解するを求めずと云つたと云ふのも、亦其の一つである。淵明は名家の後であつて、そして如何とも爲し難き世に生れた人である。其の人一生を詩酒に終つて仕舞つたのである。情意甚だ高しと雖も、其の幽致は、直に取つて以て庸常の人の規矩とし難きものがある。まして不求甚解とは、粗漏空疎で可いと云つたのでは無い。甚解と云ふことが不妙なのである。それで甚解を求めざるのである。學問讀書、細心精緻を缺いて可なりとしたのでは無い。孔明の大畧を領すといふのも、領すといふところに妙味があるのである。何樣《どう》して孔明の如き人が、※[#「囗<勿」、U+56EB、94-16]※[#「囗<侖」、U+5707、94-16]《こつりん》※[#「にんべん+龍」、U+5131、94-16]※[#「にんべん+同」、第3水準1-14-23]《ろうどう》の學をなすものでは無い。孔明といふ人は、身漸く衰へ、食大に減じた時に當つても、猶自ら吏事を執つた位の人で、盲判を捺すやうな宰相では無かつた。それで敵の司馬仲達をして、『事多く食少し、それ豈久しからんや』と其の死を豫想せしめた程に、事を做す精密周到で、勞苦を辭さなかつた英俊の士である。其の孔明が書を讀み學を治むるに當つて、ゾンザイな事などを敢てしたと思うては大なる誤謬である。庸人の書を讀むや、多くは枝葉瑣末の事を記得して、卻つて其の大處を遺《わす》るゝのである。孔明に至つては、その大畧を領得したのである。淵明や孔明の傳に是の如きあるを引き來つて、學を爲す精ならざるも可なるかの如くに謂ふものは、すなはち其の人既に讀書不精の過に落在してゐるのである。精は修學の一大標的とせねばならぬ。
殊に近時は人の心甚だ忙しく、學を修むるにも事を做すにも、人たゞ其の速ならんことを力めて、其の精ならんことを期せぬ傾がある。これもまた世運時習の然らしむるところであつて、直ちに個人を責むることは出來ないのである。併し不精といふことは、事の如何にかゝはらず、甚だ好ましからぬことである。箭を造る精ならずんば、何ぞ能く中るを得んやである。源爲朝|養由基《やういうき》をして射らしむるも、※[#「竹かんむり/幹」、第3水準1-89-75]《やがら》直からず、羽整はずんば、馬を射るもまた中らざらんとするのは、睹易き道理である。學問精ならざる時は、人をあやまるのみである。
『一事が萬事』といふ俗諺の教ふる如く、學を修むるものにして、苟も學の精なるを力めざるが如くんば、其の人萬事の觀察施設、皆精ならずして、世に立ち事に處するに當つても、自ら過を招き失を致すこと、蓋し多々ならんのみである。
之に反して、學問其の精ならんことを力むるに於ては、萬事に心を用ひる。また自ら精なるを得て知らず識らずの間に、多く智を得、多く事を解するに至り、世に立ち事に處するに當つても、おのづから過を招き失を致すこと、蓋し少かるを得べきである。フアラデーの電氣諸則を發見せるも、ニユートンの引力を發見せるも、世の※[#「耳+貴」、第4水準2-85-14]々《くわい/\》者《しや》流《りう》は、之を偶然に歸するが、實は精の功これをして然るを得せしめたので、學に精に、思に精に、何事にもゾンザイならず、等閑《なほざり》ならざる習慣の、其の人の身に存し居りたればこそ、是の如き有益の大發見をもなし出したるなれ、と云ふのが適當である。ニユートンの如きは、現に自ら『不斷の精思の餘に之を得たり』と云つて居るでは無いか。およそ世界の文明史上の光輝は、皆精の一字の變形ならざるもの無し、と云つても宜い位である。
深は大とは其のおもむきが異なつて居るが、これもまた修學の標的とせねばならぬものである。たゞ大なるを努めて、深きを勉めなければ、淺薄となる嫌がある。たゞ精なるを勉めて、深きを勉めなければ、澁滯拘泥のおそれがある。たゞ正なるを努めて、深なるを勉めなければ、迂闊にして奇奧なるところ無きに至る。井を鑿る能く深ければ、水を得ざること無く、學を做す能く深ければ、功を得ざることは無い。學を做す偏狹固陋なるも病であるが、學を做す博大にして淺薄なるも、また病である。たゞ憾むべきは其の大を勉むる人は、多くは其の深きを得るに至らざることである。
しかし人力はもとより限有るものであり、學海は※[#「水/(水+水)」、第3水準1-86-86]茫《べうばう》として、廣闊無涯のものであるから、百般の學科、悉く能く深きに達するといふ譯に行かぬのは無論である。故に、深を標的とする場合は、自ら限られたる場合で無ければならぬ。一切の學科に於て、皆其の學の深からんことを欲すれば、萬能力を有せざる以上は、其の人の神疲れ精竭きて、困悶斃死を免れざらんとするのが數理である。深は此の故に其の專攻部面にのみ之を求むべきである。濫りに深を求むれば、狂を發し病を得るに至るのである。
たゞ人々天分に厚薄があり、資質に強弱は有るけれども、既に其の心を寄せ念を繋《か》くるところを定めた以上は、其の深きを勉めなければ、井を鑿して水を得るに至らず、いたづらに空坎《くうかん》を爲す譯である。甚だ好ましからぬことであると云はなければならぬ。何處までも深く/\力め學ばねばならぬのである。天分薄く、資質弱く、力能く巨井を鑿つに堪へざるものは、初めより巨井を鑿せんとせずして、小井を鑿せんことをおもふやうに、即ち初めより部面廣大なる學をなさずして、一小分科を收むるが可い。分薄く質弱しと雖も、一小科を收むれば、深を勉めて已まざるや、能く其の深きを致し得て、而して終に功あるを得べき數理である。たとへば純粹哲學を學得せんとするや、其の力を用ひる甚だ洪大ならざるを得ざるも、某哲學者を擇んで其の哲學を攻究せんとすれば、部面おのづからにして其の深きを致し易きが如き理である。美術史を攻《をさ》むるを一生の事とすれば、其の深きを致さんこと甚だ易からざるも、一探幽、一雪舟、一北齋を攻究せんとすれば、質弱く分薄きものも、亦或は能く他人の遽に企及し易からざる深度の研究を爲し得べきやうの數理である。此故に深の一標に對しては人々個々によりて豫め考へねばならぬ。が、要するに修學の道、其のやゝ普通學を了せんとするに際しては、深の一標に看到つて、そして豫め自ら選擇するところが無ければならぬ。而して學問世界、事業世界のいづれに從ふにしても、深の一字を眼中に置かねばならぬことは、苟も或事に從ふものの皆忘れてはならぬところである。
以上述べたところは何の奇も無いことであるが、眼に正、大、精、深、此の四標的を見て學に從はば、其の人蓋し大過無きを得んとは、予の確信して疑はぬところである。
[#改丁]

凡庸の資質と卓絶せる事功

 何事に依らず、人の或る時間を埋めて行くには、心の中にせよ、或は掌《て》の上にせよ、何ものかを持つてゐなければ居られぬ。丸で空虚でゐることは、出來得るかも知れぬが、先づ普通の人々としては爲し得られない。さらば心の中、或は掌の上に、何物かを持つてゐる事が常住であるならば、其の持つてゐるものの善いものでありたいことは言ふまでもない。
所謂志を立つると云ふことは、或るものに向つて心の方向を確定する意味で、云ひ換ふれば、心の把持するところのものを定める譯なのだ。それであるから、心の執る處のものを最も善いものにしなければならぬのは、自然の道理である。隨つて志を立つるには固からんことを欲する前に、先づ高からんことを欲するのが必要で、扨志立つて後は其固からんことを必要とする。
然らば志を立つるに最高であればよいかと云ふに、固より然樣《さう》である。併し萬人が萬人同一の志であるといふ事は有り得ない理だ。各人の性格に基づいて、其の人が善しとする處に、心を向けて行くべきなのである。政治上の最高地位を得て、最大功徳を世に立てようとか、或は宗教上道徳上の最上階級に到達して、最大恩惠を世に與へようとか、更に又文教美術の最靈の境涯に到達して、其の徳澤を世に與へようとか、それ等は何れも最高の階級に屬するもので方面は其れ/″\變つても立派なことは同一であるが、方向を異にするのは各人の性格から根ざして來るのである。そこで或る性格の人は同じ最上最高のところに志を立つるにしても、或事には適當し、或事には適當せぬといふことがある。即ち性格が其の志に適應しなければ駄目である。
是等は最も卓絶した人に就て云ふので、普通の人は、又性格其者が最上最善には有り得ない。甲乙丙丁種々あるけれども、第一級性格の人もあれば、第二級性格の人もあり、又第三級の性格を持つてゐる人もある。元來人の性格はさう云ふやうに段階を區別することは出來ないものである。が、肉體にも或る人は五尺六寸のものもあり、或は五尺三寸のものもあり、又五尺のものも多くある。斯く肉體の身長《みのたけ》も、種々階級があるが如くに、性格といふものも、自らにして非常に高い人もある、中位の人もあり、更に低い人もある。そこで第一級の性格のものは、第二級の性格のものの志望するやうな事は自ら志望せず、第二級の性格のものは、第三級の性格の者の志望するやうな事は自然に望まぬ。其れは社會實際の状態であつて、各人の性格に基づくのだから致し方がない。譬へば是《こゝ》に美術家があると假定して見ると、古往今來盡未來の第一位の人たらんとするものもあり、古の人に比して、誰位になり得れば、滿足と思ふものもあり、それよりも低き古人を眼中に置いて、それ位が滿足であると思ふものもある。又更に低きになると唯一時代に稱賛を博して、生活状態の不滿さへなければ、其れで滿足とするものもある。斯く人々の身長の高さに種々あるが如くに、人々の志望の度合も、性格に相應して自ら高低が現はれて來る。
中には又非常に謙遜の美徳を其の性質に具へて居るが爲めに、自己の志望よりも自己の實質の方が卓越して居る位の人もある。さう云ふ人は先づ稀有のことであつて、事實に例證して云つて見れば、南宋の岳飛は、歴史上の關羽、張飛と肩を竝べれば滿足であると信じた。併し岳飛の爲した事は、關羽張飛と肩を竝べるどころではない。寧ろ關張よりも偉い位である。又三國の時の孔明は、管仲樂毅などの人々を自分の心の標的としてゐた。けれども孔明の人品事業は、決して管仲樂毅の下には居ない。斯く二人の如き謙遜の美はしい性質を有した人は、暫く除外例として、多くの人々は尺を得んとして寸を得、寸を得んとして其の半ばにだも達せずして終る。それ故志は性格に應じて、出來得るだけ高からんことを欲する。大なる志望を懷いても、三十四十五十と、追々年を取るに隨つて遂には陋巷に朽ち果てて終るのが常であるから、人は假初にも高い志望を懷かねばならぬ。
一生を委ぬる事業は、暫くさし措いても、日常些細のことでも矢張同一である。娯樂でも何でも心の中掌《て》の上に持つてゐるものは、願くは最高最善のものでありたい。或る人は盆栽を買つても安いものを買ひ、鳥を飼つてもイヤなものを飼ひ、園藝をしても拙劣《まづい》ものを作り、其の他謠曲にしても、和歌にしても、又三味線にしても、種々の娯樂を取るに、いづれも最低最下のところで終る人がある。又或る性格の人は、種々の樂しみの中で、「盆栽は好むが他は好まぬ。盆栽でも草の類は澤山あるが、己れは草は措いて木を愛する。又木にも色々あるけれども、己は柘榴を愛玩する。其の代り柘榴に於ては、誰よりも深く玩賞し、且つ柘榴に關する智識と栽培經驗とを、誰よりも深く博く有して、而して誰よりも善いのを育てよう」とするものがある。些細のことであるが、柘榴に於ては天下一にならんことを欲して、最高級に志望を立てるものがある。さういふ人が若し他の娯樂に心を移したなら善い結果を得られぬが、是の如くにして變ぜざれば第一になることは出來ないまでも、其の人甚だしい鈍物ならざる以上、柘榴に於ては決して平凡の地位に終らない。柘榴の盆栽つくりに於ては他人をして比肩し得難きを感ぜしむるまでの高度の手腕を、其の人は持ち得られるに至る。それは最高に志望を置いた結果で、凡庸の人でも、最狹の範圍に最高の處を求むるならば、その人は蓋し比較的に成功し易い。
近頃或る人が蚯蚓の生殖作用を研究して、專門家に利益を與へたといふ事が新聞に見えて居た。是は誠に興味ある事例で、蚯蚓の如き詰らぬものにしても、其の小さい範圍に長年月の間心を費せば、其の人は別に卓越した動物學者でないにも拘はらず、卓越した學者にすら利益を與へ得ると云ふことに到達し、永い間の經驗の結果は世の學界に或るものを寄與貢獻したと云ふことになつたのである。實に面白いことでは無いか。
人々の身長《みのたけ》の高さは大凡定つてゐるのであるから、無暗に最大範圍に於ける最高級に達することを欲せず、比較的狹い範圍内に於て志を立てて最高位を得んことを欲したならば、平凡の人でも知らず識らず世に對して深大なる貢獻をなし得るであらう。何をしても人はよい。一生瓜を作つても馬の蹄鐵を造つても、又一生杉箸を削つて暮しても差支ない。何に依らず其のことが最善に到達したなら、その人も幸福であるし、又世にも幾干かの貢獻を殘す。徒らに第二第三級の性格であることをも顧みずして、第一級の志望を懷かうよりも、各自の性格に適應するものの最高級を志望したならば、其の人は必らず其の人としての最高才能を發揮して、大なり小なり世の中に貢獻し得るであらう。
 

接物に接する宜しく厚きに從ふべし

 物に接する宜しく厚きに從ふべしといふのは黄山谷の詩の句である。人は心を存する須らく温なるべきである。
人の性情も多種である。人の境遇も多樣である。其の多樣の性情が、多樣の境遇に會ふのであるから、人の一時の思想や言説や行爲も亦實に千態萬状であつて、本人と雖も豫想し逆賭する能はざるものが有るのは、聖賢にあらざるより以上は免れざるところである。それであるから人の一時の所思や所言や所爲を捉へて、其の人全體なるかの如くに論議し評隲《ひやうしつ》するのは、本より其の當を得たことでは無い。併し是を是とし非を非とすることを不當だとすべき理由は、亦復《また》更に之無かるべきところのことに屬する。故に是を是とし非を非とするのも亦實は閑事で、物言へば脣寒し秋の風であるといふ一見解は姑く擱きて取らずとして、差支は無いが、こゝに當面の是を是とせずして非とし、非を非とせずして是とするが如きが有つたならば如何であらう。其の人の性情境遇が然らしめたることにせよ、之を可なりとすることは斷じて出來ないのである。況んや其の性情拗戻辛辣にして、自ら轗軻蹉躓、百事不如意の境遇を招致し、而して不平鬱勃、渇虎餓狼の如き状に在るものの、詭激側仄の感情より生じたる論議評隲に於てをやである。其の齒牙にかくるに足らざるは勿論である。隨つて之を酷排峻斥せざる可からざるも亦勿論である。性癖は如何とも爲し難いにせよ、人は成るべく『やはらかみ』と『あたゝかみ』とを有したいものである。假にも助長の作用を爲して、剋殺の作用を爲したく無いものである。
近く譬喩《たとへ》を設けて之を説かうか。人は皆容易に予の意を領得するで有らう。助長とは讀んで字の如しで助け長ずるのである。剋殺は剋し殺すのである。茲に一の牽牛花《あさがほ》の苗が地を抽いたと假定すると、之に適度の量の不寒不熱の水を與へ、或は淤泥、或は腐魚、或は糠秕、或は燐酸石灰等の肥料を與へ、其の蔓をして依つて以て纒繞せしむ可き竹條葭幹等を與へて之を扶殖して地に偃《ふ》すこと無からしめ、丁寧に其の蠹※[#「虫+冴のつくり」、第4水準2-87-34]《とが》を去るが如きは、即ち助長である。故無くして其の芽を摘み去り、其の葉を※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77]り取り、其の幹莖を蹂躪して地に委せしめ、瓦礫を投與して傷夷せしむるが如きは、剋殺である。牛馬犬豚の如きものに對しても、之を愛育し長成せしむるは助長である。草木禽獸に對してのみならず、一机一碗一匣一劔に對しても、助長剋殺の作用は有るのであつて、之を撫摩愛玩すれば、桑の机なら、其の机は漸くにして桑の特質たる褐色の美澤を増進し來つて、最初のたゞ淡黄色たりし時よりは其の優麗を加ふるものであり、樂燒の碗ならば、其の碗は漸くにして粗鬆のところも手に觸れて不快の感を起さしめざるを致し、黒漆の匣ならば、其の匣は漸くにして漆の愛す可からざる異臭も亡せ浮光も去り、賞す可き古色を帶ぶるに至り、劔は又其の拂拭を懈らざれば、其の利を加へざるまでも、其の鋭を保つて、※[#「金+肅」、第3水準1-93-39]花《しうくわ》の慘を受くるに至らざるものである。凡そ是の如きは皆助長の作用である。之に反して机をば汚して拭はず。或は刀※[#「金+纔のつくり」、第3水準1-93-44]し錐穿して之を傷つけて顧みず、碗には垢膩《こうじ》滓渣《さいさ》を附して洗はず、或は之を衝撃して、玉瑕氷裂の醜を與へ、匣をば毀損し、劔をば銹花滿面ならしむるが如きは、剋殺の作用である。古人の妙墨蹟好畫幅等に對しても亦然りで、片紙斷簡を將に廢せんとするに拯《すく》ひて、之を新裝し再蘇せしむるが如きは助長であり、心無く塵埃堆裏に抛置し、鼠牙《そが》※[#「虫+主」、U+86C0、107-3]殘《しゆざん》の禍を蒙らしめ、雨淋火爛の難を受けしむるが如きは剋殺である。
上擧の例に照らせば、不言の裏に予が意は自ら明らかであるが、之はまさに一切の美なるもの用有るものに對しては助長の念を懷くべく、決して剋殺の事をなすべからざるものである。助長を意とする人の周圍には、花は美しく笑ふべく、鳥は高らかに歌ふべく、羊は肥え馬は逞しかるべく、器物什具は優麗雅潔の觀を呈すべき情勢が有るが、之に反して剋殺を忌まざる人の周圍には、花も萎み枯れ、鳥も來り啼かず、羊痩せ馬衰へ、鼎は脚を折りて倒れ、弓は膠を脱して裂け、缺脣の罌《あう》、沒耳の鐺《たう》、雜然紛然として亂堆歪列すべき情勢がある。
人の性情は多種であるからして、自ら無意識的に剋殺の作用を敢てして憚からざるもの有り、而して人未だ必らずしも狂妄放漫の人ならざるも有るのであるが、其は蓋し幼時の庭訓之をして然らしめたもので、其の習慣其の人を累するには足らざるにせよ、其の習慣が決して其の人を幸福にするとは云ふべからざるものである。世にはまた一種拗戻偏僻の性質よりして、好んで剋殺の作用をなし、朱を名畫に加へ、指を寶器に彈ずるが如きことを敢てして、而も意氣は昂々、眼角は稜々、以て自ら傲《おご》るものも有るが、此等は眞に妄人癡物といふべきものである。何等の自ら益するところも無きのみならず、實に人を傷つけ世を害するものであつて、是の如き人に因つて吾人は如何に多大の損害を被つて居るか知れぬのである。雪舟は唯一人であり、乾山は只一人であるが、雪舟の畫を破り棄つる人乾山の皿を毀損する人は、何十人何百人何千人なりとも有り得る數理で有るから、剋殺を憚からぬ人ほど實に無價値なるものは世に無いのである。哲學的に論じたならば、剋殺も亦造化の一作用であるから、剋殺を敢てして憚からざる人も、亦造化の作用を助けて居るには相違無い。是の如きの人有つて、來者の爲に路を開くのであると論ずれば、論じ得られないのでは無いが、それは超人的の論議であつて、實際の社會とは懸絶して居るのである。美なるもの、用あるものを毀傷殘害するよりほかに能力無き人ほど憫むべく哀むべき人は復無いのである。人|應《まさ》に助長を意とすべし、剋殺を憚からざる勿れである。
以上は動植器物に對しての言であるが、予の言はんとする本意は庶物に對してでは無い。實に人の惡しからざる思想や言語や行爲に對して、妄りに剋殺的の思想や言語や行爲をなさずして、助長を意とせざる可からずと思ふからである。
こゝに人ありて或一事を爲さんことを欲すと假定せんに、其の事にして若くは不良なり、若くは兇惡なり、若くは狂妄なりとすれば則ち已む、苟も然らざる以上は、之を助長して其の志を成し其の功を遂げしむるも亦可ならずやである。たとひ我之を助長するを好まざるまでも、何で傍より之を剋殺して、其の志の成らず其の功を遂げざるを望むが如き擧に出づるを要せんやである。然るに世おのづから矯激詭異の思想を懷き、言語を弄し、行爲を敢てする一種の人ありて、是を是とし非を非とする以上に、不是を是とし、不非を非とし、以て快を一事に縱にするが如き擧に出づるものがあるは悲しむべきことである。人或は是の如きものは世に存する無しと云ふで有らうが、實際は動植器物に對しても助長を意とせず、剋殺を憚からざる人の少くないやうに、人の善や人の美に對しても、之を助け、之を濟さうとするものは、比較的に少く、之を毀損し之を傷害しようとするものは決して少く無い。
過日の事であつたが、予は山の手の名を知らざる一小坂路に於いて、移居の荷物を運搬する一車の、積荷重くして人力足らず、加ふるに、道路澁惡にして上るを難んずるを目撃した。時に坂下より相伴なひ來りし二人の學生の、其の一人は之を見るに忍びずして、進んで車後より力を假して之を推したるが爲に、車は辛うじて上らんとして動いたのである。然るに他の一人は聲高く之を冷罵して、「止めい、陰徳家よ」と叫んだので、車を推した學生は手を離して駈け拔けて仕舞つて、既に車より前に進んで居た冷罵者に追ひ及んで、前の如く相竝んで坂を上つたのである。車夫は忽然として助力者を失つた爲に、急に後へ引戻され、事態甚だ危險の觀を呈したが、幸に後より來りし二人が有つて、突差に力を假した爲に事無きを得た。併し予は坂上より差掛つて此の状を見て、思はず膽を冷し心を寒うしたのであつた。
此の事は眞に一瑣事で語るを値しないので有るが、此に類した事情は世に甚だ少く無いのである。一青年が力を假し車を推したのは、所謂惻隱の心とでも云はうか、仁恕の心とでも云はうか、何にせよ或心の發動現象で有つて、儒家者流に之を賞美するには値せずとするも、其の行爲たるや決して不良でも無く、兇惡でも無い。予をして言はしむれば、他の一青年が其の心の發動に對して剋殺的の言語を出すには及ばぬことである。否、むしろ助長的の意義ある言語を出して其の心の發動を遂げしめても可であり、又其の學生も協力して勞を分ちて不可無きことと思ふ。然るに冷罵を加へて、※[#「にんべん+(人がしら/小)」、U+4F31、110-3]《なんぢ》何ぞ自ら欺くやと云はぬばかりに刺笑したるが爲に、一青年の心は牽牛花《あさがほ》の苗の只一足に蹂躪されたるが如く、忽然として其の力を失ひ、突如として車を捨てて走るに至つたのである。之を目にしたる予は、後に至りて之を思ひ之を味はひて、一種愴然たる感を得た。吾人も亦時に彼の冷罵を加へたる青年の如き擧動を無意識の間に爲すことが無いには限らぬ。そして其の爲に自他に取りて何等の幸福をも來さずして、卻つて幾干かの不幸福を自他に貽《おく》りて居ることが無いには限らぬと思はずには居られ無かつた。
動植器物の愛すべく用ふべきに對して、毀損剋殺を敢てしてはならぬことは自明の道理である。人の善を成し美を濟《な》すことに於ても、亦助長的態度に出でねばならぬことも自明の道理である。他人の宗教を奉ぜんとするに會へば、之を嘲笑するは科學を悦ぶものの免れざるところであり、他人の科學を尊信するを見れば、之を罵詈するは宗教を悦ぶものの免れざるところである。併し人の性情は多種であり、人の境遇は多樣である。自己の是とするところのみを是とせば、天下は是ならざるものの多きに堪へざらんとするのである。故に苟も不良で無く、凶惡で無く、狂妄で無い限りは、人の思想や言説や行爲に對しては、苟も剋殺的で無く、助長的で有つて然る可きである。況んや多く剋殺的なるは、其の人の性情の拗戻偏僻なると、境遇の不滿なるとに基因する傾向の、實際世界に於て甚だ明白に認識せらるゝあるをや、と云ふも蓋し大なる誤謬では無いのである。
[#改丁]

四季と一身と(其一)

 人は其の内よりして之をいふときは、天地をも籠蓋し、古今をも包括してゐるものである。天地は廣大であるが、人の心の中のものに過ぎぬ。古今は悠久であるが、やはり人の心の中に存するものである。人の心は一切を容れて餘りあるものである。人ほど大なるものは無いのである。
併し其の外よりして之をいふときは、人の天地の間に在るのは、大海の一滴の如く、大沙漠の一砂粒の如きものであり、又人の古今の間に在るのは、大空の一塵の如く、大河の一|浮※[#「さんずい+區」、第3水準1-87-4]《ふおう》の如きものである。人は空間と時間との中の一の幺微《えうび》なるものに過ぎぬのである。
其の内よりしていふことは今姑らく擱くとして、其の外よりしていふ方に就いて言を爲さうならば、人既に空間及び時間中に包有せらるゝ一|幺微《えうび》の物たる以上は、我を包有するところの空間、及び時間の、大なる威力、及び勢力の爲に支配さるゝを免るゝことは出來ないので、即ち其の測る可からざる大威力大勢力の左右するところとなつて居るのである。
日本に生れたものは、おのづからにして日本語を用ひ、日本人の性情を有し、日本人の習慣に從つて居るのが事實である。魯西亞に生れたものは、おのづからにして魯西亞語を用ひ、魯西亞人の性情を有し、魯西亞人の習慣に從つて居るのが事實である。此等は明らかに人の空間の威勢に左右されて居ることを語つて居るのである。
空間の人に對することは姑く擱いて談ぜぬとする。
時間の人に對して其の威勢を加へて居ることも甚だ大なるものである。鎌倉期の人は、おのづからにして鎌倉期の言語風俗習慣を有し、又同じ期の思想や感情を有して居り、奈良朝時代の人は、おのづからにして奈良朝時代の言語風俗習慣を有し、又同じ期の思想や感情を有して居たのである。人々個々の遺傳や特質によつて、差異あるは勿論であるが、時代の威力勢力が、あらゆる人々に或色を與へて居るといふことは、誰しも認め得る事實である。是の如くなる一時期一時代といふ稍長い時間の勢力威力が人に及ぼすことは、これも今説かんとする點では無い故に姑く擱くとして、こゝに言はんとするところは、一年四季の人に及ぼす威力と勢力と、且つ人の其の威力勢力に對して如何に答應し、如何に之を利用すべきかといふことである。
年の四季が人の一身に及ぼすところの有るのは、大なる空間や、長い時間が其の威力勢力を人に加被すると同じ道理である。一時代は一時代で、其の勢威を有して居り、十年二十年は十年二十年で、其の勢威を有して居る。それと同樣に一年は短い時間では有るけれども、猶且一年だけの勢威を有して、そして其の勢力を人の上に加へるのである。猶一層詳言すれば、春は春の勢威を有して、之を人の上に加へ、夏は夏の勢威を有して、之を人の上に加へ、秋は秋、冬は冬の勢力威力を有して、之を人に加へて居るのである。
人間と季節との關係は、古來の感覺鋭敏なる詩人歌客等の十二分に之を認めて居るところの事に屬する。予が一々例證を擧ぐる迄も無く、苟くも詩歌を解する能力を有して居るものは、若し春の詩歌を讀んだならば、明らかに其の春の詩歌の中に、春の勢力威力が、如何に人間に加被したかといふことを現はした辭句を、容易に見出し得るで有らう。秋の詩歌を味はつたならば、明らかに其の詩歌の中に、秋の勢力威力が、人間に加被したことを現はした辭句を、容易に見出し得るで有らう。古來の四季の詩歌は、換言して見れば、殆んど皆四季の勢力威力が人間に加被する状態を吟詠してあるのが、即ち四季の詩歌である、と云つても宜しい位である。
詩歌以外に於ても、遠い古よりして、四季の人間に及ぼすところのものを道破して居るものは決して少く無い。其の斷片零句を拾つて、此の事を證據立てるとしたならば、人文あるより以來の多くの文字は、皆取つて以て此の事の證左とすべきもので有らう。若しそれ比較して、詳密に且つ適切に、かゝる事を説いたものを求めたならば經書を外にした古いものには『呂覽《りよらん》』などは最も詳しく説いて居るものとして認めることが出來るであらう。
古代の人の思想には、天時が人事に關係が有るばかりで無く、人事が天時にも關係影響するものとして、考へて居たのであることは、呂覽《りよらん》が極めて明白にあらはして居る。いやそれどころでは無い。殷湯が自ら責めた語などを見ても、天と人とは甚だ緊密に相關して居るものと、古人の認めて居た事が窺はれる。此等の事を考證するのが本意では無いから、今は論ぜぬが、かゝる事例や證左は、苟も少しく古を知るものの之を引擧するを難しとせぬところである。
古は古である。多く言ふを値せぬとしても宜しい。直に今の吾人の上に就て、吾人の實際に感じ、眞箇に知るところを基として語らう。吾人の目が睹、心が知るところに就て言をなして見ようか。吾人は矢張り、四季の吾人に及ぼす影響の少からぬことを認めぬ譯にはならぬのである。
鑛物界には生理が有るか無いか知らぬが、先づ常識の考へ得るところでは、生理は無いやうで、其の在るところは物理のみのやうである。植物界には心理は有るか無いか不明であるが、其の存するところは生理と物理とで、常識の判斷によれば、心理は無いやうである。舍利が子を産むの、柘榴石が生長するの、黄玉が漸く老いて其の色を失ふのといふことは、事實が有るにしても、それは物理の然らしむるので、生理の所攝の事では無いやうである。阿迦佗樹が感覺があるの、フライトラツプが自ら食物を取るの、含羞草《おじぎさう》が感情的に動くの、或植物は漸々《おひ/\》に自己の所在地を變更して、歩行するが如き觀をなすのと云つたところで、それは物理生理の然らしむるので、心理の然らしむるのでは無いやうである。人と動物とに至つては、物理生理心理を具有して居るのである。
で、鑛物界の物すら、四季の影響を受けて居る。即ち鑛物體の罅隙に在る水分は、冬の寒威に遇つて氷となつて膨張し、春の暖氣に會して融消して去るために、崩壞碎解の作用が行はれるのである。或は又夏の烈日や霖雨が、酸化作用を促して、秋の暴風や嚴霜が、力學的熱學的に働く爲に、斷えず變化が起されてゐるのである。それから又植物は、鑛物に比しては、愈※[#二の字点、1-2-22]多く四季の影響を受けて居る。太陽の光線の量が異なり、熱が異なる、其等の事情の爲に、物理の作用を受けるは勿論の事、植物自身が生理作用を有して居るだけに、物理作用が生理作用に影響して、生理状態が季節と共に變化遷移し、そして其の繁榮、若くは衰枯の始終を遂げるのである。春に華さき、夏に茂り、秋に實り、冬に眠るのは、樹木の多數が現はすところの四季の影響である。春生じ、夏長じ、秋自ら後に傳はるの子を遺し、冬自ら生活の閉止を現はすのが、穀※[#「くさかんむり/(瓜+瓜)」、第4水準2-86-59]《こくら》の多數が示すところの、四季の影響である。かゝる自然の有樣は、一切の人の認め識つて居るところで、そして自然の情勢を利用して、春は播種して之を生ぜしめ、夏は耕耘糞培して、其の長育を助け、秋は刈穫して、其の功を收めるのである。
これが穀※[#「くさかんむり/(瓜+瓜)」、第4水準2-86-59]に對するの概しての道である。又春には華を求め、夏には葉を取り、秋には實を收め、幾春秋を經たる後には材を取るのである。これが樹木に對して無理の無い處理の大概の道である。人は植物と四季との關係を明白に知つて居る。そして其の智識により、巧みに其の關係を利用する。それと同樣に、家畜家禽其他の動物等に對しても、四季が家畜其の他動物等に及ぼす關係を明知して、そして其の關係を利用するに拙くない。蜂より蜜を收め、蠶より繭を收め、※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]より卵を收め、家畜より其の仔を收むるにも、皆季節によりて之を得ることを知つて居る。狂妄の人にあらざるよりは、季節が與へぬものを得ようとはせぬのである。
此等の道理に照らして考へたならば、内省の力を有して居る人類は、自己が四季の作用を如何に被つて居るかを觀察して、そして其の四季との關係を洞視し其の關係状態に順應して自ら處したが宜しい、といふことに心づかねばならぬ筈である。
たゞ人類は他の動物よりは確に卓絶した有力の心理を有して居る。其の心理が有力であるだけそれだけ、四季の支配を受くることが、他の動物ほど著明で無くて、心理の力でのみ動作して居るやうに見えるものである。動物は下等になれば下等になるだけそれだけ、心理の力が弱くて、そして心理の力が弱ければ弱いだけ著明に、四季の支配を受けて居ることを現はして居る。狗や馬の如き高等動物は隨分心理で行動する。海鼠《なまこ》や蛞蝓《なめくぢ》は、矢張り心理で行動することも有るのでは有らうが、殆んど生理でのみ行動して居るやうで、心理で行動して居るところは吾人の眼には上らぬと云つても可なる位である。心理で行動することの多いものの行動は、其の一點頭一投足も、亦皆其の動物自身の意志感情からして、點頭し投足するやうに見えて、自然が之をして然らしめたやうには見えぬのである。特に人類は自意識が旺盛であるから、自己の行動はすべて自己が之を爲すやうに感じて居て、自然が之を爲さしめて居るところが有るやうに、感ぜぬのが常である。そこで人類は四季が人類に及ぼす影響を的確に知つて、そして自ら之を利用するとか、之に順應するとかいふところまでには至つて居らぬやうに見える。若し植物や家畜に於て、四季の作用することが、甚大甚深であり、且つ其の作