岡本かの子

岡本かの子

桜——岡本かの子

桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命《いのち》をかけてわが眺《なが》めたり さくら花《ばな》咲きに咲きたり諸立《もろだ》ちの棕梠《しゆろ》春光《しゆんくわう》にかがやくかたへ この山の樹樹《きぎ》のことごと芽ぐみたり桜のつぼみ稍《やや》ややに...
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高原の太陽—–岡本かの子

「素焼の壺と素焼の壺とただ並んでるようなあっさりして嫌味のない男女の交際というものはないでしょうか」と青年は云った。  本郷帝国大学の裏門を出て根津|権現《ごんげん》の境内《けいだい》まで、いくつも曲りながら傾斜になって降りる邸町の段階の途...
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鯉魚—–岡本かの子

一  京都の嵐山《あらしやま》の前を流れる大堰川《おおいがわ》には、雅《みや》びた渡月橋《とげつきょう》が架《かか》っています。その橋の東詰《ひがしづめ》に臨川寺《りんせんじ》という寺があります。夢窓国師《むそうこくし》が中興の開山で、開山...
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五月の朝の花—–岡本かの子

ものものしい桜が散った。  だだっぴろく……うんと手足を空に延ばした春の桜が、しゃんら、しゃらしゃらとどこかへ飛んで行ってしまった。  空がからっと一たん明るくなった。  しんとした淋しさだ。  だが、すこし我慢してじっと、その空を仰いでい...
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呼ばれし乙女—–岡本かの子

師の家を出てから、弟子の慶四郎は伊豆箱根あたりを彷徨《うろつ》いているという噂《うわさ》であった。  一ヶ月ばかり経つと、ある夜突然師の妹娘へ電報をよこした。 「ハコネ、ユモト、タマヤ、デビョウキ、アスアサキテクレ」  受取って玄関で開いた...
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現代若き女性気質集—— 岡本かの子

これは現代の若き女性気質の描写《びょうしゃ》であり、諷刺《ふうし》であり、概観《がいかん》であり、逆説である。長所もあれば短所もある。読む人その心して取捨《しゅしゃ》よろしきに従い給《たま》え。  ○彼女はじっとして居《い》られなくなった。...
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健康三題—– 岡本かの子

はつ湯  男の方は、今いう必要も無いから別問題として、一体私は女に好かれる素質を持って居た。  それも妙な意味の好かれ方でなく、ただ何となく好感が持てるという極めてあっさりしたものらしかった。だから、離れ座敷の娘が私に親しみ度《た》い素振り...
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決闘場—– 岡本かの子

ロンドンの北隅ケンウッドの森には墨色で十数丈のシナの樹や、銀色の楡《にれ》の大樹が逞《たく》ましい幹から複雑な枝葉を大空に向けて爆裂させ、押し拡げして、澄み渡った中天の空気へ鮮やかな濃緑色を浮游させて居る。立ち並ぶそれらの大樹の根本を塞《ふ...
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兄妹—– 岡本かの子

――二十余年前の春  兄は第一高等学校の制帽をかぶっていた。上質の久留米絣《くるめがすり》の羽織と着物がきちんと揃っていた。妹は紫矢絣の着物に、藤紫の被布《ひふ》を着ていた。  三月の末、雲雀《ひばり》が野の彼処に声を落し、太陽が赫《あか》...
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愚なる(?!)母の散文詩—— 岡本かの子

わたしは今、お化粧をせつせとして居ます。  けふは恋人のためにではありません。  あたしの息子太郎のためにです。  わたしの太郎は十四になりました。  そして、自分の女性に対する美の認識についてそろそろ云々するやうになりました。  太郎の為...
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愚かな男の話—– 岡本かの子

「或る田舎に二人の農夫があった。両方共農作自慢の男であった。或る時、二人は自慢の鼻突き合せて喋《しゃ》べり争った末、それでは実際の成績の上で証拠を見せ合おうという事になった。それには互に甘蔗《かんしょ》を栽培して、どっちが甘いのが出来るか、...
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金魚撩乱—– 岡本かの子

今日も復一はようやく変色し始めた仔魚《しぎょ》を一|匹《ぴき》二|匹《ひき》と皿《さら》に掬《すく》い上げ、熱心に拡大鏡で眺《なが》めていたが、今年もまた失敗か――今年もまた望み通りの金魚はついに出来そうもない。そう呟《つぶや》いて復一は皿...
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気の毒な奥様—— 岡本かの子

或る大きな都会の娯楽街《アミューズメントセンター》に屹立《きつりつ》している映画殿堂では、夜の部がもうとっくに始まって、満員の観客の前に華やかなラヴ・シーンが映し出されていました。正面玄関の上り口では、やっと閑散の身になった案内係の少女達が...
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汗 ——岡本かの子

――お金が汗をかいたわ。」  河内屋の娘の浦子はさういつて松崎の前に掌《てのひら》を開いて見せた。ローマを取巻く丘のやうに程のよい高さで盛り上る肉付きのまん中に一円銀貨の片面が少し曇つて濡《ぬ》れてゐた。  浦子はこどものときにひどい脳膜炎...
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褐色の求道—– 岡本かの子

独逸《ドイツ》に在る唯一の仏教の寺だという仏陀寺《ブッダハウス》へ私は伯林《ベルリン》遊学中三度訪ねた。一九三一年の事である。  寺は伯林から汽車で一時間ほどで行けるフロウナウという町に在った。噂ほどにもない小さな建物で、町|外《はず》れの...
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街頭 (巴里のある夕)——- 岡本かの子

二列に並んで百貨店ギャラレ・ラファイエットのある町の一席を群集は取巻いた。中には雨傘の用意までして来た郊外の人もある。人形が人間らしく動く飾物を見ようとするのだ。  百貨店の大きな出庇《でびさし》の亀甲形《きっこうがた》の裏から金色の光線が...
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快走—– 岡本かの子

中の間で道子は弟の準二の正月着物を縫《ぬ》い終って、今度は兄の陸郎の分を縫いかけていた。 「それおやじのかい」  離れから廊下を歩いて来た陸郎は、通りすがりにちらと横目に見て訊《き》いた。 「兄さんのよ。これから兄さんも会社以外はなるべく和...
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過去世—– 岡本かの子

池は雨中の夕陽の加減で、水銀のやうに縁だけ盛り上つて光つた。池の胴を挟んでゐる杉木立と青|蘆《あし》の洲《す》とは、両脇から錆《さ》び込む腐蝕《ふしょく》のやうに黝《くろず》んで来た。  窓外のかういふ風景を背景にして、室内の食卓の世話をし...
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花は勁し—– 岡本かの子

青みどろを溜めた大硝子箱の澱んだ水が、鉛色に曇つて来た。いままで絢爛に泳いでゐた二つのキヤリコの金魚が、気圧の重さのけはひ[#「けはひ」に傍点]をうけて、並んで沈むと、態と揃へたやうに二つの顔をこちらへ向けた。うしろは青みどろの混沌に暈けて...
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河明り—– 岡本かの子

私が、いま書き続けている物語の中の主要人物の娘の性格に、何か物足りないものがあるので、これはいっそのこと環境を移して、雰囲気でも変えたらと思いつくと、大川の満《み》ち干《ひ》の潮がひたひたと窓近く感じられる河沿いの家を、私の心は頻《しき》り...