湖光島影 琵琶湖めぐり—— 近松秋江

 比叡山《ひえいざん》延暦寺《えんりやくじ》の、今、私の坐つてゐる宿院の二階の座敷の東の窓の机に凭《よ》つて遠く眼を放つてゐると、老杉|蓊鬱《おううつ》たる尾峰の彼方に琵琶湖の水が古鏡の表の如く、五月雨|霽《ば》れの日を受けて白く光つてゐる。湖心の方へ往復する汽船が煙を吐いて靜かに滑つてゆくのも見える。帆船が動いてゐるのも見える。そのあたりは山の上から眺めても湖水が最も狹められてゐる處で、向ふ側から長く突き出して來てゐる遠洲は野洲《やす》川の吐け口になつてゐる。北方(西岸)から突き出てゐる所に人家が群つてゐて、空氣の澄明な日などには瓦甍《ぐわばう》粉壁が夕陽を浴びて白く反射してゐる。やがて日が比良《ひら》比叡の峰つゞきに沒して遠くの山下が野も里も一樣に薄暮の底に隱れてしまふと、その人家の群つてゐる處にぽつりぽつり明星のごとき燈火が山を蔽うた夜霧を透して瞬きはじめる。その賑やかな人家の群りが先頃から、京都の繁華を離れて此の無人聲の山の上の僧房生活をしてゐる者の胸には何となく懷しくて堪らない。人里の夜の燈火のむれがどんなに此の山の上からは心を惹くか知れない。そこは八景の一つに數へられてゐる堅田《かただ》の町であつた。堅田の町、秋ならば雁の降りる處。また浮御堂《うきみだう》の立つてゐるので知られてゐる名勝區である。叡山東麓の坂本からこの延暦寺の根本中堂《こんぽんちゆうだう》のあるところまで急阪二十五町の登路。坂本から堅田までは汀《なぎさ》づたひに二里弱離れてゐるから、私の凭つてゐる窓から燈火の見えてゐる處まで直徑どのくらゐあるか、私は兎に角、早く一度そちらに降りていつてみたくなつた。

 琵琶湖はまた鳰《にほ》の海ともいひ、その名の如く琵琶に似て、瀬田《せた》、膳所《ぜぜ》、大津などの湖尻から三里ばかり北に入つてゆく間は東西の幅も一里位のもので、それが野洲河口の長沙と堅田の岬端とで狹められてゐる邊は約半里くらゐのものかも知れぬ。それだけの間が恰も琵琶の轉軫《てんじん》の部分である。所謂近江八景は「比良《ひら》の暮雪」のほかは、多く湖南に屬する地點を撰んで名附けてあるが、今日の如く西洋文明の利器に涜《けが》されない時代には、その邊の風景も落着いてゐて一層雅趣が豐であつたかも知れぬ。その頃は唐崎《からさき》の松も千年の緑を誇つてゐたのであらう。膳所《ぜぜ》の城もその瓦甍影を水に※[#「酉+焦」、第4水準2-90-41]《ひた》してゐたであらう。粟津《あはづ》が原の習々たる青嵐も今日のごとく電車の響のためにその自然の諧音を亂されなかつたであらう。芭蕉は殊のほかこの湖國の風景を愛《め》でて、石山の奧には長く住んでゐたのであるが、翁の詠んだ句には湖水の深い處の句は、自分の寡聞のせゐか餘り知らない。多く湖南に屬する景物を吟じてゐる。
[#天から2字下げ]唐崎の松は花よりおぼろにて
 と大津にゐて詠んでゐる句を見ると、二百年前にはそれが實景であつたかも知れぬが、今はもう半ば枯れて空しく無慘な殘骸を湖畔に曝《さら》してゐる。それは樹齡の定命で自然にさうなつたものか、それならば止むを得ないが、汽船の煤煙で枯れたものとすれば惜しいものである。
 とにかく堅田《かただ》、野洲《やす》川河口の長沙以南の湖畔の景致は産業文明のために夥しく損傷されて、昔の詩人騷客を悦ばしめた風景の跡は徒に過去の夢となつてしまつてゐる。水も底が泥で汚く濁つてゐる。その代り轉軫の部分から胴の部分に入つて、堅田の鼻を一と※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りして遙に北に眼を放つと、水面忽ち濶《ひら》け雲煙蒼茫として際涯を知らない。
 私は琵琶湖の奧の絶景を人から聞いてゐたのは長いことであつたが、いつかは行つてみたいと思つて氣にかゝりながら久しく果たすことが出來なかつた。先頃京都にゐる間にも三條大橋の京津《けいしん》電車の終點からゆけばわけないので、幾度か思ひ立ちながら毎時好機を逸してばかりゐた。すると、僧房の色彩の乏しい生活と、寂しい心を誘惑するやうな堅田の人家の群りと燈火とは遂に私をして、ある五月雨ばれの朝早く比叡山の上から二十五町の急阪を降つてゆかしめた。發着の時間がよく分つてゐなかつたので、比叡の辻の太湖汽船の乘降場までゆくと、八時半にそこに寄航する東※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りの船が二十分ばかり前に出たあとで、その船は煙を吐きながら堅田の沖を今滑つてゆくのが見える。私はぐるりと湖水を一とめぐりするつもりである。殊に東岸には奧の島があつて、そこには古い長命寺の寺があるので、かねてよりその寺に行つてみたいと思つてゐたから、どちらを先きにしてもよかつたのだ。私は折角二十五町、坂本の濱までは三十五六町の道を喘いで降りて來たのに、そんなわけで、殘念さうに遠くの水の上をゆく船の影を追うて眺めたが仕方がない。そこで通ひ船の船頭の教へるまゝに、その次に西※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りをゆく船は急行で、坂本港へは寄航しないので、堅田まで俥でいつて、其處から乘ることにした。なるべくならば少しの行程も水路をゆきたいのであるが、先頃來、山の上から眺めてゐる堅田の町に入つてみるのも旅の一興であると早速心を取り直して俥のある處までまた七八町の道を無駄足して下坂本の濱から俥に乘つた。比叡の峰つゞきの裾山が比良岳の方に向つて走つてゐる山麓の村里を過ぎ插秧《さふあう》のをはつたばかりの水田や青蘆の生ひ茂つた汀つたひの街道を走つていつた。俥の上から湖東の方を顧ると、此の春遊びにいつた三上山が平濶な野洲郡の碧落と緑樹と點綴せる上にくつきりと薄墨色に染まつて見えてゐる。衣川といふ昔は一萬石の城下で、北國街道の宿であつた村を越して村はづれを流れてゐる衣川といふ小川の土手を上つて橋を向ふに渡ると、堅田の人家は右手の湖の方に突出でた田甫《たんぼ》の彼方に見えた。大津を十時に發する船は十一時に堅田を發することになつてゐる。時計の針はもう十時五十分を示して、船は田甫の向ふの青蘆のうへに黒い煙突だけを見せて吾々の俥を追掛けるやうに水の上を滑つて進んでゐる。脚達者な車夫は、
「これに遲れたら、もうお金もらひまへん」と笑つて語りながら急速力で驅け出した。
「どうどす。浮御堂へ一寸寄つてお見やすか」と車夫は、そちらへゆく道と棧橋の方へとの岐小路の處で聲をかけたが、私は、京にゐる間から今まで幾度か行きそびれてゐるのに懲りて、直ぐ棧橋の方へ走らした。軒の低い呉服屋や荒物屋などの竝んだ商家の通りを過ぎて俥が棧橋の手前の切符賣場にやつと轅棒《かぢぼう》を下すと、ぽうと笛を吹いて汽船の姿が近くの水の上に見えた。
 浮御堂は、その棧橋を渡りながら右手の方の汀から架け出してあるのが見えてゐる。緑の濃い松が數株そのまはりの汀に立つてゐる。芭蕉は、
[#天から2字下げ]錠あけて月さし入れよ浮御堂
 と詠んでゐる。叡山|横川《よかは》の惠心僧都《ゑしんそうづ》の創建で海門山滿月寺といつてゐるのは、ふさはしい名である。中には千體阿彌陀佛を安置してある。やがて船が着いて私はやつと湖上に浮ぶことが出來た。前甲板に呉蓙《ござ》を敷いて天幕の張つてある處に座をとつて私はそこから四方を顧望してゐた。
 今朝山を下りて來る時分には、どうかと氣遣つた天氣は次第に晴れて大空の大半を掩《おほ》つてゐた雲は追々に散らけ、梅雨上りの夏の來たことを思はせる暑い日が赫々と前甲板の上を蔽ふたテントの上に照りつけた。雲が刻々に消散して頭の眞上にあたる蒼空が次第に天上の領域を擴げてゆくと共に、水の面も船の進行につれて蒼茫として濶けて來た。日は水を照らし、水は光を反射して輝き、水と天と合して渾然たる一大碧瑠璃の世界を現出し、船はその中を、北から吹いてくる習々たる微風に逆つて靜に滑つてゆくのである。湖水では北風が吹くと晴としてゐる。昨日一日山の上で濛々として咫尺《しせき》を辨ぜぬ淫雨に降り籠められ、今朝は夙《つと》に起きいでゝ二十五町の急阪を驅けるがごとく急ぎ下り、勝手の分らぬ船の乘降に、さらでだに疲れたる頭を無益に惱ましたるそのうへに尚二百里[#「二百里」はママ]の間、いぶせき田舍の泥濘路《ぬかるみみち》を俥に搖られて、ほと/\探勝に伴ふ體苦心苦の辛さを味はひ、強《したた》か幻滅の悲しさを感じてゐたのが、眼の前に開けた美しい湖山の大觀のために、今までの憂苦は全く忘れられて、私の心は嬉々として眼の覺めたごとき悦びに滿ち、或は左舷に立つて眺め、或は右舷に凭つて遠く瞳を放ち、片時も眼を休ませないで、飽くことを知らず刻々に移り變る山の影水の光に見惚れてゐた。ここまで來ると比良比叡の峰つゞきが、適度の距離を置いて一とまとめに雙眸に入つて來た。上空から次第に拭ひ去られた雲は僅かに比叡と比良の頂に白紗を纏ふたごとく殘つてゐたが、正午ごろになつて太陽の光が一層強くなつてくると、やがて比叡の頭にも雲は消えてなくなり、船の北進するにつれて山の影は次第に淡く南に殘り、清楚な夏の姿は、さながら薄化粧を施したやうに緑の上を白く霞に包まれてゐる。
 船が堅田を出て初めての寄航地である南濱に寄つて、そこから再び沖に出ると比叡の山影はいよ/\淡く、逢坂《あふさか》山からずつと左に湖南の方に連なつてゐる山脈《やまなみ》とともに段々と遠く水の彼方に薄れていつた。そして左舷には、蜒蜿として湖西の天を蔽ふて聳えてゐる比良岳がその雄大なる山容の全幅を雙眸の中に展開して來た。雨後の翠巒《すゐらん》は一際鮮かで、注意してよく見てゐると、峰は大きく二つに分れてその二つがまた處々深い溪によつて幾つかの峰に分れてゐる。雲は山の面から去つてしまつたが、一番高い主峰だけには綿を千切つたやうな灰白色の雲が頂にかかつたまゝ何時までも動かうともしない。それが如何にも主峰は主峰だけの威嚴を示してゐるかのやうで雲に隱れた部分は距離が遠いせゐか清楚な夏の色も暗緑色に掻き曇つて恐しさうな感情を與へてゐる。雄松崎《をまつざき》の白沙青松は、主峰が大きな溪によつて二つに分れてゐる處から流れ落ちて來る急角度の傾斜を成した比良川の溪流が直ちに湖水に迫つて汀に土砂を押流したところに出來てゐる。山は攝津の六甲山などと、同じやうに花崗岩質の山と思はれて、船の上からも白い砂の盛れ上つてゐる溪流の水路が明かに見えてゐる。比良岳はその高標の割に何となく雄偉の感じに富んだ山である。一つは山の處々に薙の多いのが、何となく慘憺として悲壯な感じを起さしめるのかも知れぬ。肉が少く骨の太いやうな山である。それでも山下の村々はこの靜かな山の裾に平和に棲息してゐると思はれて眼の醒めるやうな山麓の青草と緑樹に埋れて汀を綴つて人家が斷續してゐる。雄松崎は近江舞子の名、遊覽者の眼を欺かず、洗つたやうな清い汀に靜かな小波が寄せてゐる。まだ樹齡のさまで古くなささうな、すんなりとした松林が白砂の上に遠くつゞいてゐる。
 其處から西北にあたる比良の北岳の中腹の岩に深く刻まれた皺があつて、飛瀑が懸つてゐるのが白く見えてゐる。楊梅の瀑といはれてゐる。船の上からそこまで直徑にしても一里以上はあるだらうが、それでも可なり大きく見えてゐるところを思ふと、なか/\高い瀧らしい。
 船は長い間比良岳を仰望しながら走航をつゞけてゐた。更に右舷の方に眸を轉ずると、此の時、湖東の奧の島の三つに整つた山の影はもう稍東南の方に退いて、その前に横はつてゐる沖の島の翠微が赭土色の斷崖面をいつまでも眼印のやうに此方に向けてゐる。
 湖面は東北に向つて、愈※[#二の字点、1-2-22]遠く濶け、※[#「水/(水+水)」、第3水準1-86-86]漫《べうまん》たる水は海の如く蒼茫として窮まるところは空と水と遂に一つに融けてその他には何物も認められない。やゝあつて多景島と白石島とが遠く水の上に微かな姿を現はしてきた。
 多景島は青螺《せいら》の如く淡く霞み、沖の白石は丁度帆船が二つ三つ一と處にかたまつてゐるやうに見えてゐる。その向うの方にぎざぎざとして入江の影ともつかず、人家の群りともつかず障子に映る影繪のやうに、たゞ輪廓のみ續いてゐるのは彦根から長濱の方であらう。地平線の上は水に煙つてゐて、はつきりとした物が見えないが、その上の方に遠く青空を支へて湖東から湖北の天を繞らしてゐる山の容《すがた》が逶※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1-92-52]《ゐい》として連なつてゐるのが次第に明かに認められてきた。遠く北國の方から來て、北美濃と東淺井郡との境を長城の如く堅めてゐる山脈は北の方に抽《ぬき》んでゝ高く、深い巒《らん》氣を付けてゐるのが金糞ヶ岳といふのであらう。それより山勢大いなる波濤の如く南に走つて伊吹《いぶき》山に到つて強く支へられてゐる。伊吹山は北背に其等の山脈の餘波を堰き止めようとして山容やゝ崩れてゐるが、西南に面した部分は急に鮮やかな傾線を引いて、さながら東國と西國との通路を守るものゝごとく、關ヶ原と思ふあたりの狹隘を俯瞰して峙つてゐる形勢が明かに看取される。東海道を往復する毎に、いつも私の強い興味を惹く山であるが、今日は雨後の澄明な空氣の中に夢の如く淡く薄紫の霞を罩《こ》めて靜かに立つてゐる。比良岳の主峰と同じやうに、その頂にも一團の雲がかゝつて、それが何時までも消えようとしない。頂點がどこまで空に達してゐるか分らない。そこに何だか犯し難い神祕を藏してゐるやうで、高山の威重を示してゐる。傷ましいやうな大きな薙のあるのも見えてゐる。西軍の主將石田三成が戰に破れて、あの山の中の洞窟に潛んでゐたといふのは極めてふさはしいといふ一種の悲壯な感じを表はしてゐる。伊吹山の南の方は暫く山脈が斷絶し、更に關ヶ原低地のある南方に至つて再びもく/\と天に支へるやうに隆起してゐる一團の山塊が古の不破の關を固めてゐた靈仙山である。伊吹山や靈仙山や其等の山々が皆昔時の東山道《とうさんだう》の通路を阨してゐたといふことは一望して明かに肯かれる。琵琶湖は是等の湖東の國境に連なる山脈の眺望と、比良岳の翠巒を仰ぐことがなかつたならば、湖水の風景はどんなに平凡なものであつたか知れない。是等の山々をパノラマの如く雙眸に收めてゐることは、琵琶湖をして恰も中禪寺湖や葦の湖などのごとき、高山の中腹に湛へてゐる火山湖の趣きを成さしめてゐる。それと共に湖水を取り卷いてゐる四圍の地が古來人文の中心に近く、また湖東の地が屡※[#二の字点、1-2-22]戰國時代に在つて英雄の爭覇戰の行はれた史蹟に富んでゐるので、自然がたゞ單純な山河としてゞなく豐かな歴史的の感興を以て裏付けられてゐる。
 私は右舷の欄干に凭《もた》れて伊吹山の頂にかゝる雲と、その傷ましい薙の跡とをやゝ暫らく見つめてゐた。船はその間にも進航をつゞけて、白鬚明神の社のある明神岬を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐた。明神岬は比良岳の餘脈が比良の北岳から二つに分れて、一つはそのまゝに北に走り一つは本來の比良山脈と殆ど直角を成して湖岸に迫り山崖が汀に突出してゐる處がそれである。そこまで來るともう今まで長い間見て來た比良岳も斜に後に退いて、綿帽子を着けたやうな主峰のみが嚴かに聳えてゐるのが遠く眺められるばかりである。明神岬の鼻を一寸※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ると大溝の町が水に臨んで立つてゐる。そこから琵琶湖の岸に沿ふて近江國の西北端になつてゐる高島郡の平野が安曇《あど》川を挾んで濶けてゐる。近江聖人の邸址で知られた青柳村の藤樹書院も大溝の港から半道ばかり北に行つた處に在る。明神岬の鬱蒼たる森に至つて盡きてゐる比良の支脈を後にしてから船はやゝ山の眺望から遠ざかつて安曇川の河口に擴がつてゐる平洲を左舷に見て進んでゆくが、それでも比良岳がそのまゝ一直線に北に向つて伸びて出來てゐる蛇谷峰、阿彌陀山などの相應な高度を示してゐる山巒が安曇川流域の平野の果てに屏立して左舷の遠望に景致を添へてゐる。それは丁度二時頃の日盛りで強い日光に照りつけられてゐる其等の山巒には多量の雨氣を含んだ薄墨色の水蒸氣が纏うて眼を威脅するやうに險しい表情をしてゐる。
 竹生島《ちくぶしま》は大分遠くから見えてゐたが、その邊まで來ると、一層明かに青い水の上に浮んでゐるのが見えて來た。伊吹山、金糞ヶ岳、それから若狹、越前の國境に繞らしてゐる蜒蜿とした連山も段々明かに認められて來た。賤《しづ》ヶ岳、淺井長政の居城とした小谷山なども指ざされた。そして伊吹山は恰も其等の盟主であるかの如く、頂點のところに白い横雲が捺塗《なす》つたやうにやつぱり引懸つてゐる。天に支へるやうな巨大な體に溢れるほどの感情を表はしながら何といふ強い沈默であらう。頂の雲は今にも動きさうな形をして流れてゐながら、雲も山もそれを見てゐる人間の眼を焦らすかのやうに、彼等は動いたり口を利いたりすることを忘れたのかといひたいほど沈滯してゐる。
 饗庭野《あへばの》の陸軍演習地のあるので賑はうてゐる今津の町は、水の上からも、陸軍の白いバラック屋根が多くあるので遠くからそれと知れてゐる。船はそこを最後の歸航地として棧橋を離れると、今まで北に向つてゐた進路を轉じて稍※[#二の字点、1-2-22]北に振つた、東に向つて進んだ。竹生島は船首に當つて段々近寄つて來た。その時分にはもう乘客は殆ど何處の船室にも、甲板にもゐなくなつて、或は私一人であつたかも知れぬ。やがて竹生島の棧橋に上陸したのは午後三時であつた。堅田からそれまで四時間の間飽くことを知らぬ美しい山水を眺めつゞけにして來たのであるが、丁度活動寫眞などを餘り熱心に見てゐると、後で頭痛がしたり精神が疲勞したりすると同じやうに、知らぬ間にひどく神經を使つたと思はれて、さうなくてさへ先達つて京都にゐて二度ばかり劇しい腦貧血を惱んだ後なので、竹生島の棧橋に上陸するとともに頻りに生欠伸が連發して頭が痛み、何とも云へない不快な心持ちになつて來た。その晩は竹生島の寺に一泊するつもりであつたので、ともかく寺務所の一室に通されて暫らく休息した上で、觀音堂や都久夫須麻《つくぶすま》神社などを一順參拜した。いづれも太閤の桃山御殿の一部を移したものとかで、壯麗なる蒔繪の天井や柱が年を經て剥落してゐる。すこし良くなつたと思つた心持がまた前に倍して惡くなつてきたので、觀るのはいい加減にしてまた寺務所の一室に戻つて來て外套にくるまつたまゝ仰けに寢てゐた。頭は壓し潰されるやうに痛む。胸は嘔氣を催ほして少しでも頭を動かすことが出來ぬ。氣も遠くなるやうな心持になつてゐた。そして若し此のまゝ腦溢血にでもなつて死んだらどうなるだらうなどといふやうな雜念が湧いて起つた。それでそこにゐた所化に事由を話し、別棟の寢處に移つてその晩は夕飯も食はず風呂にも入らず、呻吟しながら寢てゐた。それでも一と寢入りして九時頃に眼を覺ますと、頭もやゝ輕く、氣分も大分快くなつてゐた。それで安心して此度寢なほすと、翌朝まで一と寢りに熟睡することが出來た。

 湖の西岸は汽船の往復も一日に數囘あるが、湖東の方はずつと汽車が通じてゐるので、從つて船の便は少く、大津と竹生島との間は東廻は一日の往復一廻るづゝしかない。琵琶湖の一番奧になつてゐる、もう餘呉《よご》の湖《うみ》に近い鹽津をまだ闇いうちに出帆した船が竹生島に朝の五時三十分に寄航するのである。歸航はぜひとも湖東を廻つて來ようと志してゐたので五時半の船に乘り遲れたら、また一日竹生島に逗留しなければならぬ。寺男は氣を利かして寢室を覗いて、どうするかと注意してくれたが、強ひて起きられさうだつたけれど、折角まだ二三時間は眠れさうなので、此の快よい睡眠は何物にも代へがたく、私は蒲團の中から聲を出してもう一日延ばすことにした。
 午前十時三十分には西まはりをして大津の方に歸つてゆく船があるので、その時はいつそ昨日と同じ風景を眺めて歸らうか、二日續いても三日とは受け合はれない梅雨半ばの此の頃の天候は明日になつてまたどう變るかも知れないとさまざまに迷つてみたが、まゝよ、雨が降らば降れ、雨も又奇なりと思ひあきらめて、遂々その一日は竹生島に逗まることにして、それより舟を雇うて島の周圍を一とまはりしてみる。謠曲の「竹生島」に、

  緑樹影沈んで魚木に登る景色あり、月海上に浮んでは兎も浪を走るか、

 面白の景色や

 といつてゐるのは實景である。島の周圍は全部岩石を築き上げてそれに生ひ茂つた眞青な苔や一つ葉、擬寶珠など名の知れぬ無數の草がその上に生ひ被さつてゐる。その上に又緑の木々が蓊鬱として繁茂し、瑠璃を碎いて溶かしたやうな美しい眞青の水に暗緑色の影を※[#「酉+焦」、第4水準2-90-41]《ひた》してゐる。深い水の底を鯉や鮒などが泳いでゐるのが、よく透いて見える。頭を上げて岩上を見ると上には驚くほど無數の種類の草木が足を踏み入れる隙もないまでに雜然と密生してゐて、中に櫻、椿、藤、楓などの四季々々を飾る樹木が案外に多い。椿は殊に島の蔭に面した、凄いほど青い水が岩を浸す《ひた》してゐる處に濃緑色の影を翳《かざ》してゐる。舟夫はその椿が眞赤な花を付ける時分や藤の花が長い薄紫の房を水に映す頃の島の美しさを語つた。私にもその時分の美しさがよく想像せられた。琵琶湖もそこまで來ると、若狹、越前の國境に連なつてゐる山脈の餘脈が直ちに湖岸に迫つてゐて、廣い水は其等の斷崖によつて圍《かこま》れてゐるので、中禪寺湖や葦の湖などの火山湖と少しも異らない感じを與へてゐる。
 その日は一日さうして孤島に逗《とど》まつて私は又しても退屈さうに湖上を遠く眺めて早く夜が明けて明日になることを思つた。辨天の祠前の舞臺に上つて東の方を見ると、沖は灰色に掻曇つて伊吹山も、たゞ山の輪畫ばかりが幽かに見えてゐる。明日は雨らしい空模樣で、島の根を洗ふ波の音が夕刻に近づくに從つて大きくなつて來たやうである。

 頭の調子がどう狂つたか、昨夜は一寸も眠られなかつたので、夜の明けるのを待ちかねて起きいで、體を拭いて衣服を更《あらた》め、五時半に發する汽船をもう五時頃から棧橋の處に降りて行つて待つてゐた。沖は曇つてゐるが、切符を賣つてゐる老人に今日の天氣はどうかと訊くと、「天氣になりますやろ」といふ。雨が降つたら潮が多少荒れるばかりぢやない。坂本から二十五町の杉林の下を叡山まで登つてゆくのが難儀である。昨夜は眠られぬまゝにそんなことばかり氣にかゝつてゐたが、老水夫の經驗によつてその點は安心らしい。やがてブウと汽笛が島の蔭で鳴つて鹽津から出て來た船が着いた。客は私一人かと思つて通ひ船に乘り込んでゐると、寺の高い石段を寶巖寺の老僧が新發意《しんぼち》などに扶けられて、杖を突いて急いで降りて來られる。舟夫に老僧が何處かへゆかれるかと訊くと、何處かへゆかれると答へたが、言葉がよく分らなかつたので、何處へゆくのだらうと思つてゐるうちに老僧はそこに渡した歩板をわたつて舟に入つて來られた。十四五歳の新發意が千代田袋に菓子折くらゐの小さい包みを持ちそへて附いてゐる。私は好い鹽梅に老僧に會ふことが出來た。二晩厄介になつたお禮もいひ、話しに七十幾歳の高齡で、竹生島に小僧さんの時分からずつと定住してゐられるのだといふ。花は咲き鳥は歌ふことがあつても嘗て女人を解せず、葷酒《くんしゆ》を知らず、春風秋雨八十年の生涯を此の江湖の水によつて遠く俗界と絶ち、たゞ一と筋に佛に近よることを勤めて老の到るのを忘れてゐられるのである。それは昨日ほかの者から噂にきいていた。
 老僧は通ひ船に乘り込んだはずみに私の方に近づいて來られたので、私は會釋をしつゝ、
「いろ/\お世話になりました……」
 とお禮を述べると、老僧もそれと同時に、女の樣な柔和な笑顏をこちらに向けて、
「ゆきとゞきませんで、さぞ御不自由でお困りでございましたでせう」
 と、聲も女のやうに優しい寂のある聲である。觀音さまには男相と女相とあり、或ひは男とも女とも區別のつかぬ御顏をして居られるのであるが、老僧こそ風光明媚なるこの竹生島觀世音の化身ではあるまいかと思はれて、顏容といひ音聲といひ、體まで小さく痩枯れて女と見まがふ柔和な方である。中古の黒絽の道服に絹紬の着物の質素な裝をした老僧は杖をついて舟の中に向ふをむいて立つてゐられる。
 やがて汽船の傍に漕ぎ寄せて老僧は雛僧《こぞう》さんに扶けられて船に乘り移り、私もそのあとから續いて乘つた。雛僧さんが手荷物を老僧に渡して歸つてゆくと、一等室には老僧と私と二人きりである。老僧は行儀よく端の方に腰を掛けて、兩手を膝に載せてをられる。どこまでゆくのであらう。あまり遠くへゆくのでもなささうだと思ひながら、
「どちらへおいでになります?」
「私は早崎まで、すぐこの先の地方《ぢかた》です。」
「あゝ左樣ですか、御老體にもかゝはらず、お達者で御結構です。お幾つにおなりになります。」
「今年七十七になります。」
「あゝ左樣ですか、私の老母は當年七十八歳になりますが、先年竹生島へ參詣いたしましたことを話して居りましたので、湖水の風景を觀かた/″\是非私も參詣したいと思つて居りましたが、今囘漸く宿望を遂げました。誠に聞くに優る美しい景色の處で。」
「あゝ左樣で、その頃は今より又一層交通なども不便であつたでせう。」
 老僧は柔和な口元に優しい微笑を浮べながら語る。世間のさういふ老僧などに屡※[#二の字点、1-2-22]見る對手を見下したやうな尊大な口の利《き》きやうや、僧侶に共通の俗人を諭すやうな言葉尻の臭味もない。そこへ船童が茶を入れてきた。老僧はそれを見ると、船童に、
「私は白湯《さゆ》にしてもらふ。この方はお茶にして、……此の方はお茶にして。」
 さういつて、二度目の、此の方はお茶にしてといふのを稍※[#二の字点、1-2-22]語勢を強めていはれた。ボーイはその通りに老僧には白湯を汲んで薦め、私の方へは茶を煎れて出した。すると、老僧はその茶碗を手にとつて底に一滴も殘さぬやうに仰向いて茶碗を啜り、空になつた茶碗を靜《そつ》と茶托の上に伏せて置かれた。人は平素の行儀を一朝にして改むることは出來ない。書生流の私は茶碗を半分だけ飮み殘した。老僧に眞似てそれを伏せることもならず、そのまゝ茶托とともに卓の上に突出して置いた。舟車の中では大抵の人は通常の家に在るよりも一層行儀を忘れて顧みないものだが、老僧には少しもさういふ風は見えぬ。その時もし私がゐなくなつて老僧が一人きりであつてもその通りに恭謙であつたにちがひない。一椀の食一滴の水も佛恩であるから、これを粗末にしてはならないといふ訓條を恪守《かくしゆ》して、それが今は習ひ性となつてゐるのであらうと思はれた。そのうちにもう船は向岸に近づいたと思はれて船長が入つて來て老僧に挨拶をしていつた。私も起つて老僧にお別れの辭儀をして頭を上げてみると老僧はまだ/\圓い頭を兩|掌《て》に載せて卓の上に額づいてゐられる。私は詮方《せんかた》なくもう一遍額を下げた。船童は手荷物を持つて老僧の先きに立つて案内する。私もあとから送つて出た。
 舷側には一二人の乘客を乘せた通ひ船が近づいて來た。老僧は船長や船童に扶けられて通ひ船に乘り移り、蓙《ござ》の上にきちんと坐られた。そして舷側を離れるとともに恰も佛の前に稽首《ぬかづ》くやうに、三度ばかり鄭寧に頭を下げて謝意を表せられた。恐らく此の時の老僧の心には船長やボーイその他の見送つてゐる者が佛の使者として考へられたのであらう。老僧の心眼には一切の有情無情が佛の一部として映つてゐるのであらう。
 船はさうして老僧を通ひ船に移すと直ぐまたけたゝましい推進機の音に水を蹴つて進航を始めた。甲板に上つて見てゐると、朝霧の中から漸く眼の覺めかゝつてきた水の上にどこからともなく薄い日影がさして湖の上が次第に白く輝いて來た。老僧の圓い顏が一つその中に見えて通ひ船は段々向ふに遠ざかつてゆく。早崎に續く地方の寺や人家の屋根が緑の樹々と點綴して汀の青蘆の彼方に遠く廣がつてゐる。先刻竹生島の棧橋で老人のいつたとほり、天氣は確かに晴れであるらしく東の方が倍々明るくなつて東北の方の山脈が霧の奧から雄大なる姿をすこしづゝ露はしてきた。金糞ヶ岳、伊吹山も深い雲霧の後方にまだ夢みてゐるやうな淡い影だけ見せてゐる。老僧はと水の上を見ると白い水煙の彼方にやつぱり圓顱《えんろ》の姿が小さく見えてゐたが、そのうち舟の影と共に霧の中に消えてしまつた。竹生島も、もうずつと西北の水の向ふに影が薄れてしまつた。
 昨夜の代りに今のうちに少し寢て置かうと思つて一旦船室に入つて來たが、やつぱり甲板の眺望が氣にかゝつて眠られさうにないのでまた起きて出て見る。その間に船は姉川の河口を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて南濱といふところに寄つて、そこからは乘客がどやどや甲板に上つて來た。賤ヶ岳の方も今朝は船尾の方にそれと認められる。小谷川も朝靄の中に朝日を浴びてゐる。長濱に着いた時はまだ七時で貨物の積み下しに出帆までには三十分ばかりの時間があるといふので、その間を利用して長濱の町の瞥見に上陸してみる。肥料にする干魚の臭や繭の市場の臭ひのする中に商賣に拔目のなささうな町の人間はもう夙に起き出でて、その日の業務に就いてゐる。天氣は本當に晴れ上つて暑さが劇しくなつて來た。
 長濱を出てから昨日は遠くに見た靈仙山が今日は長濱から彦根につゞく坂田郡の平野の彼方に天を衝いて盛り上つてゐるのが見える。彦根の城閣も朝霧の中に朦朧とした輪廓を見せて來た。その少し左の方に佐和《さわ》山の城址も見えてゐる。
 今まで忘れてゐた右舷の方の湖上に眼を放つと、多景《たけ》島がやゝ近くに岩の上に立つてゐる堂塔の形を見せてゐる。沖の白石はその眞西にあたつて、今日も白帆を集めたやうに水の上に浮いてゐる。今日は一昨日に倍して湖の上が一層和やかで、平滑な水の面は油を流したやうにのんびりとして沖の方はたゞ縹渺と白く煙つてゐる。天氣が好いと見たか湖西の方の水面には幾つも帆舟がかゝつてゐる。船が彦根を出るとボーイに誂らへて置いた辨當が出來たので、それを甲板に持つてこさせて湖上を展望しながら食べる。そこから奧の島の伊崎不動のあたりまでは三四十分ばかりの間左舷の風景が稍※[#二の字点、1-2-22]單調なので、今のうちに少し微睡をとつて頭を休めておいて、奧の島が近づいて來た時分に起きようと思つて室に入つてシャツと股引ばかりになつて長く寢そべつてゐると、相客は一人もゐないで、いゝ心地にづる/\とまどろむことが出來た。そして眼を覺して舷窓から水の上を覗くと、いつの間にか伊崎の不動は後の方に退いて船は沖の島の東端を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]はつて早や奧の島との湖峽にさしかゝらうとしてゐる處である。此の邊を見ずしては大變だと、慌てゝ甲板に立ち出ると、左舷には文人畫に見るやうな奧の島の明媚な山水が眼の前に展開してゐるところである。それとともに右舷の方を顧望すると、比良岳は縹渺たる水の果てに一昨日見た時よりも今日は一層壯美な姿をして聳えて見える。

底本:「現代日本紀行文学全集 西日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
底本の親本:「旅こそよけれ」冨山房
   1939(昭和14)年7月発行
※巻末に1919(大正8)年7月記と記載有り。
入力:林 幸雄
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月9日作成
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